TITLE : 不思議の国のアリス
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目 次
1 兎《うさぎ》の穴《あな》に落《お》ちる
2 涙《なみだ》の水たまり
3 コーカス・レースと長いお話
4 兎《うさぎ》はビルを送《おく》りこむ
5 イモムシの忠《ちゆう》告《こく》
6 豚《ぶた》とこしょう
7 気ちがいお茶会
8 女王のクローケー・グラウンド
9 亀《かめ》まがいの物《もの》語《がたり》
10 海老《えび》のスクェア・ダンス
11 だれがパイを盗《ぬす》んだか?
12 アリスの証《しよう》言《げん》
あとがき
1 兎《うさぎ》の穴《あな》に落《お》ちる
アリスは、土手の上で、お姉《ねえ》さんのそばにすわっているのが、とても退《たい》屈《くつ》になってきました。おまけに、何もすることがないのです。一、二度《ど》、お姉《ねえ》さんの読んでいる本をのぞいてみたけれど、その本には、絵もなければ会《かい》話《わ》もありません。「へんなの」とアリスは考えました。「絵もお話もない本なんて、なんの役《やく》にもたちはしないわ」
そこでアリスは心の中で、できるだけ考えようとしました――というのは、その日はとても暑《あつ》かったので、ねむくて頭がぼんやりしがちだったのです――菊《きく》の花で首《くび》飾《かざ》りをつくればおもしろいだろうけれど、わざわざ立ち上がって菊《きく》をつむだけの価《か》値《ち》はあるだろうか? と、そのとき、一匹《ぴき》の赤い目をした白《しろ》兎《うさぎ》が、すぐそばを走っていきました。
それは、と《ヽ》く《ヽ》に《ヽ》おどろくほどのことではありませんでした。それにアリスは、その兎《うさぎ》が「やれ、やれ、おそくなっちゃうぞ!」とひとりごとをいったのも、そ《ヽ》れ《ヽ》ほ《ヽ》ど《ヽ》不《ふ》思《し》議《ぎ》とは思いませんでした。(もっとも、あとでそのことを考えたときは、おかしいと思わなければならなかったのだ、と思いましたが、そのときは、ごく普《ふ》通《つう》のことのように感《かん》じたのです)けれども、その兎《うさぎ》が、目の前でチ《ヽ》ョ《ヽ》ッ《ヽ》キ《ヽ》の《ヽ》ポ《ヽ》ケ《ヽ》ッ《ヽ》ト《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》時《ヽ》計《ヽ》を《ヽ》取《ヽ》り《ヽ》だ《ヽ》し《ヽ》、時間をたしかめて、また先を急《いそ》ぐのを見たときには、さすがのアリスも思わず立ち上がっていました。なぜといって、チョッキを着《き》ていたり、そのポケットから時計を取《と》りだしたりする兎《うさぎ》は、まだ見たことがないのに気がついたからです。たちまち燃《も》えるような好《こう》奇《き》心《しん》にかられたアリスは、野《の》原《はら》の中を、兎《うさぎ》を追《お》いかけて走りだし、ようやくのことで、兎《うさぎ》が、垣《かき》根《ね》の下の、大きな兎《うさぎ》穴《あな》にとびこむところを見るのに間にあいました。
つぎの瞬《しゆん》間《かん》、アリスもその穴《あな》にとびこんでいました。どうやってそこから出るのかなどということは、これっぽっちも考えませんでした。
兎《うさぎ》穴《あな》はしばらくのあいだ、トンネルのようにまっすぐつづいていて、とつぜんがくんと下《くだ》り坂《ざか》になりました。それがあまり急《きゆう》だったので、止まろうと考えるひまもなく、アリスは、深《ふか》い深《ふか》い井《い》戸《ど》のようなところへ、ぐんぐんと落《お》ちこんでいました。
井《い》戸《ど》がほんとうにとても深《ふか》かったのか、それとも落《お》ちかたがひどくゆっくりしていたのか、落《お》ちていく途《と》中《ちゆう》で、まわりを見まわしたり、これからどうなるのかと考えたりする時間は十分ありました。まず、下を見おろして、どこへ行くのかたしかめようとしましたが、暗《くら》くて何も見えません。つぎに井《い》戸《ど》のまわりの壁《かべ》を見ると、そこは戸《と》棚《だな》や本《ほん》棚《だな》がいっぱいでした。ところどころに、地《ち》図《ず》や絵が釘《くぎ》にかかっていました。アリスは通りすぎながら、棚《たな》の一つから壺《つぼ》をとりました。それには『オレンジ・マーマレード』というラベルが貼《は》ってあったのです。けれども、それはからっぽで、アリスはがっかりしました。それでも、壺《つぼ》を下に落《お》とすと、下にいるだれかに当《あ》たって死んだりするといけない、と思ったので、落《お》ちながら、戸《と》棚《だな》の一つの上に、ようやくのことで載《の》せました。
「さあて」とアリスは胸《むね》の中でいいました。「これだけ落《お》ちたんだから、今《こん》度《ど》は階《かい》段《だん》から転《ころ》がり落《お》ちたって平《へい》気《き》だわ。家に帰ったら、みんなわたしが、すごく勇《ゆう》気《き》があるってびっくりするだろうな! そうよ! 家の屋《や》根《ね》から落《お》ちたって、ひとことも痛《いた》いなんていわないにきまってるわ!」(これは、たしかにそのとおりでしょう、屋《や》根《ね》から落《お》ちたのでは、口もきけません)
下へ――下へ――下へ。いったい、どこまで落《お》ちたら止まるのか。「もう、何キロぐらい落《お》ちてきたかしら?」と、アリスは口に出していいました。「もう地《ち》球《きゆう》のまん中あたりまで来たにちがいないわ。ええと、そうすると、六〇〇〇キロ以《い》上《じよう》も来たことになるわね」(アリスは学校の授《じゆ》業《ぎよう》のとき、こういったことをたくさん勉《べん》強《きよう》してきました。だから、その知《ち》識《しき》をひけらかすには、聞いている人がだれもいないのだから、あまりよい機《き》会《かい》とはいえなかったけれども、習《なら》ったことを何《なん》度《ど》も声にだしていってみることは、いい復《ふく》習《しゆう》になると思ったのです)「そうだわ、たしかそのくらいの距《きよ》離《り》だわ。でも、緯《い》度《ど》と経《けい》度《ど》とは、どのくらいなのかしら?」じつはアリスには、緯《い》度《ど》も経《けい》度《ど》も、なんのことかさっぱりわからなかったのですが、いかにもりっぱそうなことばなので、使《つか》ってみたのです)
やがて、アリスはまたしゃべりはじめました。「このまま落《お》ちていくと、地《ち》球《きゆう》をつき抜《ぬ》けてしまうんじゃないかしら! 頭を下にして歩いている人たちのところへ飛《と》びだしたら、おかしいだろうな! 対情地人《アンチパシーズ》とかいうんだわ」(このときにはアリスは、だれもまわりに聞《き》いている人がいなくてよかった、と思いました。どうも、正しいことばのような気がしなかったからです。注《ちゆう》――そのとおり。ほんとうは antipodes 対《アン》蹠《チポ》地《ーズ》、またはそこに住《す》む人間が正しいのです)「でもそこの国の名《な》前《まえ》ぐらいは聞かなければいけないわね。ここはニュージーランドでしょうか、それともオーストラリアでしょうか、すみませんが教えてくださいませんか?」アリスはしゃべりながらおじぎをしようとしました――でも、考えてみてください、空中を落《お》ちながらおじぎをするかっこうを! あなたはできると思いますか? 「きっとそんなことを聞くなんて、無《む》知《ち》な女の子だと思われるにきまっているわ。そうよ、そんなことを聞いちゃぜったいだめだわ。たぶん、どこかに書いてあるから、それを見ればいいんだわ」
下へ――下へ――下へ。ほかに何もすることがないので、アリスはまたすぐにしゃべりだしました。「ダイナが今夜、とてもさびしがるわ――わたしがいないから!」(ダイナというのは飼《かい》猫《ねこ》です)「お茶の時間に、ミルクをやるのを家のひとが忘《わす》れなければいいけど。ああ、ダイナ! おまえも、わたしといっしょに来ればよかったのに! 空中には鼠《ねずみ》はいないでしょうけど、蝙蝠《こうもり》ならつかまえられるかもしれないわ。蝙蝠《こうもり》は鼠《ねずみ》によく似《に》ているでしょ。でも、猫《ねこ》は蝙蝠《こうもり》を食べるかな?」このあたりで、アリスはとても眠《ねむ》くなってきました。それでも、夢《ゆめ》の中でいうみたいに、アリスはいいつづけました。「猫《ねこ》は蝙蝠《こうもり》を食べるかな? 猫《ねこ》は蝙蝠《こうもり》を食べるかな?」時にはまちがって「蝙蝠《こうもり》は猫を食べるかな?」といいました。というのはアリスには、どちらの疑《ぎ》問《もん》にも答《こた》えられなかったから、どっちにだっておなじことだったのです。そのうち自分がだんだん眠《ねむ》りこんでいくのを、アリスは感《かん》じました。そして、ちょうど、夢《ゆめ》の中で、ダイナと手をつなぎ、歩きながら、「ねえダイナ、本《ほん》当《とう》のことをいって。おまえは蝙蝠《こうもり》を食べたことがあるの?」と、こう熱《ねつ》心《しん》に聞きはじめたとたんでした。いきなり、どしん、ずしーんとばかり、小《こ》枝《えだ》と枯《かれ》葉《は》の山の上に落《お》ちたのです。これで墜《つい》落《らく》は終《お》わりでした。
アリスはかすり傷《きず》ひとつ負《お》わず、すぐに立ちあがりました。上を見あげましたが、頭上はまっくらでした。前を見ると、また長い通《つう》路《ろ》があって、さっきの白《しろ》兎《うさぎ》がまだ先を急《いそ》いでいるのが見えました。ぐずぐずしているひまはありません。アリスは風のように走りだしました。そして、ちょうど、兎《うさぎ》が角《かど》を曲《ま》がりながら、「なんてことだ、よわったな! どんどん遅《おそ》くなっちまう!」といっているのが聞こえました。その角《かど》を曲《ま》がったときには、すぐ後ろまで来ていたはずだったのに、見ると兎《うさぎ》の姿《すがた》はもうどこにもありません。気がつくとそこは、天《てん》井《じよう》の低《ひく》い長い広間で、天《てん》井《じよう》から下がった一列《れつ》のランプで照《て》らされていました。
広間のぐるりにはドアがありましたが、みんな鍵《かぎ》がかかっていました。アリスはそのドアを、あっちこっちと、みんなためしてみましたが、やがて、悲《かな》しげにまんなかへ引き返《かえ》して来たときには、いったいどうしたら外へ出られるのかしら、と考えていました。
とつぜんアリスは、かたいガラスばかりでできた、小さな三《さん》本《ぼん》脚《あし》のテーブルにぶつかりました。上にはちっぽけな黄《おう》金《ごん》の鍵《かぎ》が一つきりで、それ以《い》外《がい》には何も載《の》っていません。アリスははじめ、これは、広間のドアのどれかの鍵《かぎ》かもしれない、と思いました。けれども、錠《じよう》が大きすぎるのか、それとも鍵《かぎ》が小さすぎるのか、それはどっちにしても、どのドアもあきませんでした。けれども、二回めにまわって歩いていたときアリスは、前のときには気がつかなかった低《ひく》いカーテンの前に出ました。そして、その後ろに、高さ四〇センチくらいの小さなドアがありました。アリスがその小さな黄《おう》金《ごん》の鍵《かぎ》を錠《じよう》に入れてためしてみると――なんと、嬉《うれ》しいことに、ぴったりと合ったではありませんか!
あけてみると、そこから、鼠《ねずみ》穴《あな》とたいして変《か》わらないくらいの小さな通《つう》路《ろ》がつづいていました。ひざまずいてのぞいてみると、通《つう》路《ろ》の先には、見たこともないほどきれいな庭《てい》園《えん》が見えました。アリスは、どんなに、この暗《くら》い広間を抜《ぬ》けだして、その色とりどりの花の咲《さ》き乱《みだ》れる花《か》壇《だん》や、涼《すず》しげな泉《いずみ》のあたりを歩きたかったかわかりません。でも、戸《と》口《ぐち》から頭をだすこともできないのです。「それに、たとえ頭は出せたって」とアリスは思いました。「肩《かた》が抜《ぬ》けないんじゃ、なんの役《やく》にもたたないわ。ああ、このからだが望《ぼう》遠《えん》鏡《きよう》みたいにちぢめられたらいいのに!はじめさえわかったら、きっとやれると思うんだけどなあ!」わかるでしょう……こんなことを考えたのは、このところ、あんまりおかしなことばかり起《お》こったものだから、ほんとうにできないことなんかないように、アリスには思えてきたのです。
小さいドアのそばで、ぼんやりしていても何にもなりそうもないので、アリスはテーブルのところへもどってきました。心の中では、鍵《かぎ》がもう一つ見つかるか、人間のからだを望《ぼう》遠《えん》鏡《きよう》みたいにちぢめる方《ほう》法《ほう》を書いた本でも見つかればいいな、と思っていました。ところが今《こん》度《ど》はそこに、小さなびんが一つ載《の》っていました。(「こんなもの、たしかさっきはなかったわ」とアリスはいいました)そして、びんの首《くび》には、大《おお》文《も》字《じ》で「私を飲《の》んで」ときれいな字《じ》体《たい》で印《いん》刷《さつ》した紙の札《ふだ》がくくりつけてありました。「私を飲《の》んで」なんていうのはいいけれども、利《り》口《こう》なアリスは、うかうかとそんなことばに従《したが》う気はありませんでした。「だめだめ、まずしらべてみなければ」とアリスはいいました。「『毒《どく》薬《やく》』と書いてあるかどうかみなければ」というのはアリスは、いままで、おもしろい童《どう》話《わ》の中で、火傷《やけど》をしたり、獣《けもの》にくわれたり、そのほかひどいめにあったりした子どもたちの話をいくつも読んだことがあったからです。それもみんな、その子どもたちが、友《とも》だちが教えてくれた単《たん》純《じゆん》な規《き》則《そく》――たとえば、真《ま》っ赤《か》に焼《や》けた火かき棒《ぼう》をあまり長いあいだ持《も》っていると火傷《やけど》するとか、ナイフで深《ふか》く指《ゆび》を切ると、たいていの場合は血《ち》が出るといったことを忘《わす》れたからでした。そしてアリスは、『毒《どく》薬《やく》』と書いたびんのなかみをあまりたくさん飲《の》むと、遅《おそ》かれ早かれ、具《ぐ》合《あい》がわるくなるにきまっている、ということを忘《わす》れていなかったのです。
けれども、そのびんには『毒《どく》薬《やく》』とは書いてありませんでした。そこでアリスは、ちょっぴり味《あじ》わってみました。すばらしい味《あじ》がしました。(じっさいそれは、桜《さくら》んぼ入りのパイとプリンとパイナップルと七《しち》面《めん》鳥《ちよう》の焼《やき》肉《にく》とタッフィーとトーストをまぜたような味《あじ》がしたのです)それでたちまち、ごくごくと飲《の》みほしてしまいました。
*
「変《へん》な気《き》持《もち》!」と、アリスはいいました。「きっと、望《ぼう》遠《えん》鏡《きよう》みたいにからんだがちぢんでいくんだわ」
じっさい、そのとおりでした、アリスはもう二五センチくらいしかなくなっていました。アリスの顔は嬉《うれ》しさにほころびました。この大きさなら、小さなドアを抜《ぬ》けてあの美《うつく》しい庭《てい》園《えん》に入って行くのにちょうどいいのです。でもまずはもう少し待《ま》って、もっとちぢむかどうか見ることにしました。そのことが、ちょっと心《しん》配《ぱい》になったのです。「だって、ことによったら」とアリスはひとりごとをいいました。「ロウソクが燃《も》えつきるみたいに、なくなってしまうかもしれないじゃない。そうしたらわたし、どうなるのかしら?」そしてアリスは、ロウソクが吹《ふ》き消《け》されたあとロウソクの炎《ほのお》がどんなふうに見えるかを、想《そう》像《ぞう》してみようとしました。アリスには、そんなものを見た覚《おぼ》えがなかったからです。
しばらくたって、もう何も起《お》こらないことがわかったので、すぐにその庭《てい》園《えん》に入って行こうと決《けつ》心《しん》しました。ところが、何ということでしょう! アリスはドアのところまで行ってはじめて、あの小さな黄《おう》金《ごん》の鍵《かぎ》を忘《わす》れていたことに気がついたのです。そして、鍵《かぎ》を取《と》りにテーブルへもどって行ってみると、ぜんぜん手がとどかないではありませんか。ガラス越《ご》しに鍵《かぎ》ははっきり見えました。そこでテーブルの脚《あし》の一本につかまって一《いつ》生《しよう》懸《けん》命《めい》よじ登《のぼ》ろうとしましたが、つるつるすべってとてもだめです。さんざんやってみて、とうとう疲《つか》れきってしまい、小さなアリスはそこにすわりこんでおいおいと泣《な》きだしました。
「さあさあ、そんなに泣《な》いてたってしょうがないじゃないの!」やがてアリスはきびしい口《く》調《ちよう》で自分にいいきかせました。「いますぐ泣《な》くのはおやめなさい!」アリスはよく、こうして自分にりっぱな忠《ちゆう》告《こく》をしましたし、(もっともめったにそれに従《したが》ったことはありませんでしたが)時にはとてもきびしく叱《しか》りつけて、目に涙《なみだ》を浮《う》かべたことさえありました。一度《ど》などは自分自《じ》身《しん》を相《あい》手《て》にしてやったクローケーのゲームで、自分をだましたというので、自分の耳をぶとうとしたことさえあったくらいです。このおかしな子は、一《ひと》人《り》で二人《ふたり》のまねをするのがとても好《す》きだったのです。「でも今は役《やく》にはたたないわ」とかわいそうなアリスは考えました。「一《ひと》人《り》で二人《ふたり》のまねをしたってしょうがない! だって、わたしはもう、ちゃんとした一人前の人間の大きさもないんだもの!」
そのうちアリスの目は、テーブルの下にあった小さなガラスの箱《はこ》にとまりました。それを開《あ》けてみると、そこにはとても小さなケーキが入っていました。そのケーキの上には「私を食べて」という文《も》字《じ》が、乾《ほし》ブドウできれいに書いてありました。「そうね、食べてみようかしら」とアリスはいいました。「そして大きくなれれば鍵《かぎ》が手にとどくし、もっと小さくなればドアの下からくぐって行けるわ。どっちにしたってあのお庭《にわ》に入って行ける。どっちだってかまわないわ!」
アリスはちょっと食べてみて心《しん》配《ぱい》そうにひとりごとをいいました。「どっちかしら? どっちかしら?」といいながら手を頭のてっぺんに載《の》せて大きくなるのか小さくなるのか調《しら》べようとしましたが、驚《おどろ》いたことに、いつまでたっても同じ大きさなのです。もちろん、ふつうケーキを食べるときには、たいていこうなるものなのですが、変《か》わったことばかり起《お》こるのにすっかりなれてしまったものだから、あたりまえのことがあたりまえに起《お》こると、なんともばかばかしく、退《たい》屈《くつ》な気がしてしかたがなかったのです。
そこでアリスは精《せい》をだし、たちまちのうちにすっかり食べてしまいました。
2 涙《なみだ》の水たまり
「変《へん》てこりんなの、おかしいの!」と、アリスは叫《さけ》びました。(あんまりびっくりしたので、すぐには上《じよう》品《ひん》なことばづかいをするのを思いつかなかったのです)「今《こん》度《ど》はこの世《よ》で一番大きな望《ぼう》遠《えん》鏡《きよう》みたいにどんどんのびて行くわ。さよなら、足さん!」(なぜかというと、足もとを見おろしたら、足がずうっと遠くへ行ってしまって、ほとんど見えないくらいになっていたからです)「かわいそうなわたしの足たち! これからは、だれがおまえたちに靴《くつ》下《した》や靴《くつ》をはかせてくれるのかしらね? わたしにはもうできないわ。おまえたちの世《せ》話《わ》を焼《や》きたくても、こんなに遠く離《はな》れてしまってはとてもむりよ。これからは、自分でなんとか考えなきゃね……でも、足たちには、親《しん》切《せつ》にしておかなきゃいけないわ」とアリスは考えました。「でないと、わたしの行きたいところへ歩いていってくれなくなるわ! そうね……わたし、毎《まい》年《とし》クリスマスには、新しいブーツをプレゼントしよう」
アリスは、どうやってプレゼントしたらいいかをひとりで考えつづけました。「メッセンジャーに持《も》たしてやらなきゃならないわね」と考えましたが「でも、自分の足にプレゼントを贈《おく》るなんて、さぞおかしいでしょうね! それに、宛《あて》名《な》がばかげてるわ。
灰《はい》止《ど》め町 絨《じゆう》毯《たん》街《がい》
アリスの右《みぎ》足《あし》様《さま》
(アリスより愛《あい》をこめて)
「あーあ、なんてばかなことをしゃべってるのかしら、わたしって」
こういったとたんに、頭が広間の天《てん》井《じよう》にぶつかりました。アリスはそのとき、もう三メートル近くの大女になっていたのです。それで、すぐに黄《おう》金《ごん》の小さな鍵《かぎ》をとると、大いそぎで、庭《てい》園《えん》に通ずるドアのところへ行きました。
でも、かわいそうに! アリスにとっては、床《ゆか》に寝《ね》そべり、片《かた》目《め》で庭《てい》園《えん》をのぞきこむのが精《せい》いっぱいで、通り抜《ぬ》けることなんか、とてもできない相《そう》談《だん》でした。アリスは、床《ゆか》にすわって、またおいおいと泣《な》きだしました。
「あんたったら、少しは恥《は》ずかしいと思いなさい」とアリスはいいました。「そんなに大きななりをして」(たしかに、それはいえました)「そんなふうに泣《な》いてばかりいるなんて。さあ、たったいま泣《な》きやんで!」でも、アリスは泣《な》きつづけ、何十リットルもの涙《なみだ》を流《なが》したので、しまいには、深《ふか》さ一〇センチ、広間の半《はん》分《ぶん》ぐらいにも達《たつ》する大きな涙《なみだ》の水たまりができました。
すこしたってから、遠くでかすかにぱたぱたという足音が聞こえたので、アリスはあわてて目をふき、何が来たのか見てみました。白《しろ》兎《うさぎ》が帰ってくるところでした。りっぱな服《ふく》装《そう》をして、片《かた》手《て》にはキッドの皮《かわ》手《て》袋《ぶくろ》を持《も》ち、もう一方の手には大きな扇《おうぎ》を持《も》っています。白《しろ》兎《うさぎ》は大いそぎでぴょんぴょんとんで来ながら、「ああ! 公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》が! 公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》が! こんなにお待《ま》たせしたんでは、さぞかしお腹《はら》立《だ》ちのことだろうな!」といいました。アリスはもう必《ひつ》死《し》で、だれにだって助《たす》けを求《もと》める心《しん》境《きよう》になっていたので、近《ちか》寄《よ》って来た白《しろ》兎《うさぎ》に向《む》かい、「あの、すみませんが――」と、低《ひく》い、おずおずした声で話しかけました。白《しろ》兎《うさぎ》はびくっとして、白のキッドの手《て》袋《ぶくろ》と扇《おうぎ》をその場にばったり落《お》とし、猛《もう》烈《れつ》ないきおいで暗《くら》闇《やみ》の中へ逃《に》げこみました。
アリスは扇《おうぎ》と手《て》袋《ぶくろ》とを拾《ひろ》いあげましたが、広間がとてもあつかったので、しゃべりつづけながら、扇《おうぎ》で自分をあおぎつづけました。「やれやれ! 今日はまた、どうしてこう何もかもおかしいんでしょう! 昨日《きのう》まではちっとも変《か》わったことはなかったのよ。ということは、夜のうちにわたしが変《か》わってしまったのかしら? ちょっと待《ま》ってよ……わたしは今朝《けさ》おきたとき、昨日《きのう》とおなじだったかな? そういえば、すこし変《か》わってたような気もするけれど。でも、もしわたしが昨日《きのう》とおなじわたしでないとすると、問《もん》題《だい》だわ。わたしはいったいだれだろう? ああ、これはじつにむずかしい大《だい》問《もん》題《だい》だわ!」アリスは自分とおない年の子どもたちを一人《ひとり》一人《ひとり》思いだして、自分がそのうちのだれかに変《か》わったのではないかと、と考えてみました。
「エイダじゃないことはたしかだわ」とアリスはいいました。「エイダの髪《かみ》はあんなに長い巻《まき》毛《げ》だけど、わたしのはぜんぜん巻《まき》毛《げ》じゃないもの。それに、メーベルでもあるはずはないわ。だって、わたしは何でも知ってるのに、あの子は……まったく、あの子は何にも知らないんだから! おまけに、あの子はあの子で、わたしはわたしだし――ああ、いやんなっちゃう、何もかもこんがらがってきたわ! わたしが前におぼえていたことを、今も知っているかどうか、試《ため》してみようかしら。ええと、四五‐一二、四六‐一三、四七‐あら、あら! これじゃいつまでたっても二〇にならないわ。でも九九の表《ひよう》なんか意《い》味《み》ないわ。地《ち》理《り》をやってみよう。ロンドンはパリの首《しゆ》都《と》である。そしてパリはローマの首《しゆ》都《と》で、ローマは――だめだ、みんなまちがってるにきまってる! わたし、メーベルに変《か》わっちゃったにちがいないわ! そうだ、『すてきな小《こ》鰐《わに》――』を暗《あん》誦《しよう》してみよう」そして、いつも勉《べん》強《きよう》をするときのように両《りよう》手《て》を膝《ひざ》の上で交《こう》差《さ》させると、暗《あん》誦《しよう》をはじめました。でも声はしわがれておかしな調《ちよう》子《し》にひびき、歌の文《もん》句《く》も、いつもの通りではありませんでした。
すてきな小《こ》鰐《わに》は 元《げん》気《き》者《もの》
今日も尾《し》っぽを 光らせて
ナイルの河《か》水《すい》 ざあざあと
黄《き》金《ん》の鱗《うろこ》にかけている
小《こ》鰐《わに》は笑《わら》うよ 楽しげに
ひろげる爪《つめ》も 恰《かつ》好《こう》よく
にこにこ品《ひん》よく口あけて
小魚たちを ぱくぱくり!
「たしかにこの文《もん》句《く》はおかしいわ」というと、かわいそうなアリスは涙《なみだ》をいっぱい目に浮《う》かべてまたつづけました。「わたし、やっぱりメーベルになってしまったんだわ。そして、あのきたならしい家に住《す》んで、玩具《おもちや》なんかもろくになし、その上、山ほど勉《べん》強《きよう》しなくちゃならないんだわ! いいえ、わたし、決《けつ》心《しん》したわ。もしメーベルになったんなら、ずっとここにいることにするわ! みんなが頭を突《つ》っこんで、『さあ、あがっていらっしゃいよ!』といったってむだよ。わたしは上を見あげていってやるわ。『それじゃ、わたしはだれなのよ? まずそれを教えて。そして、わたしがその人を気に入ったらあがっていくけど、もし気に入らなかったら、だれかほかの人になるまで、ずっとここにこうしているわ』って。でも……ああ、いやだ!」アリスは、いきなり、わあわあと泣《な》きだしながら叫《さけ》びました。「ほんとに、だれか、下をのぞきこんでくれないかしら! こんなところで、ひとりぽっちでいるのは、つくづくあきあきしてしまったわ!」
こういって、ふと自分の手を見たときアリスは、びっくりしました。しゃべっているうちに、白《しろ》兎《うさぎ》のキッドの手《て》袋《ぶくろ》の片《かた》方《ほう》を手にはめていたのです。「どうしてこんなことができたのかしら?」と、アリスは考えました。「わたし、また小さくなりはじめたにちがいないわ」そして立ち上がってテーブルのところへ行き寸《すん》法《ぽう》をはかってみると、できるだけ正《せい》確《かく》な目《め》分《ぶん》量《りよう》で、約《やく》六〇センチくらいになっていて、まだどんどんちぢんでいるのがわかりました。アリスはすぐに、それが、手に持《も》っていた扇《おうぎ》のせいであることを知りました。それで、あわてて扇《おうぎ》をほうりだして、あぶなく、ちぢんでなくなってしまうのをまぬがれました。
「あぶないところだったわ!」このとつぜんの変《へん》身《しん》に、ひどくびくついてはいたものの、まだなくなってしまわなかったのにほっとしながら、アリスはいいました。「今《こん》度《ど》こそ、お庭《にわ》に行きましょう!」そして、フルスピードで小さなドアまでもどりましたが、なんということでしょう! 小さなドアはまた閉《し》まっていて、小さな黄《おう》金《ごん》の鍵《かぎ》は前のとおりガラスのテーブルの上に載《の》っているのです。「ますますこまったことになったわ」と、かわいそうにアリスは考えました。「今まで、こんなに小さくなったことはないんだから。まったく、こんなに! ほんとうにひどいことになったわ!」
こんなことをいっているうち、アリスは足を滑《すべ》らせ、あっという間もなく、ざぶん! 塩《しよ》っぱい水たまりの中へ、首までつかってしまったのです。アリスははじめ、なにかのひょうしで海へ落《お》ちたのだと思いました。そして「それなら、列《れつ》車《しや》で帰れるわ」とひとりごとをいいました。(アリスは生まれてからたった一度《ど》だけ海《かい》岸《がん》へ行ったことがありました。それで、イギリスの海《かい》岸《がん》には、どこへ行っても海《ベー》水《ミン》浴《グマ》機《シン》(車《しや》輪《りん》のついた更《こう》衣《い》室《しつ》。イギリスの海水浴《よく》場《じよう》の名《めい》物《ぶつ》)が海の中にたくさんおいてあり、子どもたちが木の鍬《くわ》で砂《すな》を掘《ほ》っていて――それに宿《やど》屋《や》がずらりと並《なら》んで、その後ろには鉄《てつ》道《どう》の駅《えき》があるものだと思いこんでいたのです)ところがやがて、そうではなく、背《せ》が三メートルもあったとき流《なが》した涙《なみだ》のたまった水の中に落《お》ちこんだのだということがわかってきました。
「あんなに泣《な》かなければよかったわ!」アリスは、泳《およ》ぎまわって出口を探《さが》しながらいいました。「今になって、そのばちが当《あ》たったんだわ――自分の涙《なみだ》の中で溺《おぼ》れ死《し》ぬなんて! ほんとにおかしな話! でも、おかしいといえば、今日は何もかも変《へん》なことばかり」
と、ちょうどそのとき、水たまりの中の、ちょっと離《はな》れたところで、何かがぱしゃっと音をたてるのが聞こえたので、たしかめようとそっちへ泳《およ》いで行きました。最《さい》初《しよ》アリスはそれを、海象《せいうち》か河馬《かば》にちがいないと思いましたが、すぐ自分がうんと小さくなっていたのを思いだしました。間もなく、それは、自分とおなじように足を滑《すべ》らせて落《お》ちこんだ、ただの鼠《ねずみ》だということがわかりました。
「この鼠《ねずみ》に話しかけてみて――」と、アリスは考えました。「何か役《やく》にたつかしら? この穴《あな》の中では何もかもが風《ふう》変《が》わりだから、きっとこの鼠《ねずみ》も口がきけるんだわ。いずれにしろ、話しかけてみて損《そん》はないわ」そう思ったのでやってみました。「おお鼠《ねずみ》よ、おまえはこの水たまりから出る出口を知っているかい? わたしここで泳《およ》ぎまわっているのにあきてしまったのよ、おお鼠《ねずみ》よ!」(アリスはこれが鼠《ねずみ》に話しかける場合の正しい口のききかたにちがいないと思ったのです。もちろん今までそんな経《けい》験《けん》は一度《ど》もなかったけれど、前に、兄《にい》さんのラテン語《ご》の文《ぶん》法《ぽう》の本をのぞいたとき「鼠は――鼠《ねずみ》の――鼠《ねずみ》に――鼠《ねずみ》を――おお鼠《ねずみ》よ!」と書いてあったのを思いだしたのです)すると鼠《ねずみ》はアリスを物《もの》問《と》いたげに見《み》返《かえ》しました。そして、その小さな目の片《かた》方《ほう》でちらとウインクしたように見えましたが、何もいいませんでした。
「たぶん英《えい》語《ご》がわからないんだわ」とアリスは考えました。「きっとフランスの鼠《ねずみ》なのよ。ウィリアム征《せい》服《ふく》王《おう》といっしょに渡《わた》ってきたんだわ」(アリスの歴《れき》史《し》の知《ち》識《しき》を総《そう》動《どう》員《いん》しても、その事《じ》件《けん》がどれほど昔《むかし》に起《お》こったことなのか、ぜんぜんわからなかったのです)そこでアリスはまたいいだしました。「私《ウ》の《・》猫《エ》は《・》ど《マ》こ《・》に《シ》い《ヤ》る《ツ》の《ト》?」これは、アリスのフランス語《ご》の教《きよう》科《か》書《しよ》の一番最《さい》初《しよ》に出てくる文《もん》句《く》でした。すると鼠《ねずみ》はいきなり水の中からとび上がり、こわさに全《ぜん》身《しん》をぶるぶるふるわせたようでした。「あら、ごめんなさい!」アリスはいそいで叫《さけ》びました。鼠《ねずみ》の気を悪《わる》くしてはいけない、と思ったのです。「わたし、あなたが猫《ねこ》を嫌《きら》いだったのをすっかり忘《わす》れていたわ」
「猫《ねこ》が嫌《きら》いだって!」と鼠《ねずみ》が、かん高い、かっかした声でいいました。「あんたがわたしだったら、猫《ねこ》が好《す》きになれるかね?」
「そうね、たぶんなれないわ」とアリスはなだめるようにいいました。「怒《おこ》らないで。でもうちの猫《ねこ》のダイナを見せてあげたいわ。ダイナを見さえすれば、きっと猫《ねこ》が気にいるようになるわよ。それはほんとにかわいい、おとなしい猫《ねこ》なのよ」アリスは半《なか》ばひとりごとのように、池《いけ》の中をゆるゆる泳《およ》ぎまわりながらいいました。「暖《だん》炉《ろ》のそばにすわってそれは上《じよう》品《ひん》にのどをごろごろいわせたり、足をなめたり顔を洗《あら》ったりするのよ――それに、抱《だ》いたり撫《な》でたりしてやると、とっても柔《やわ》らかくて気《き》持《もち》がいいし――鼠《ねずみ》をとることときたらすごくうまくて――あら、ごめんなさい!」アリスはまた叫《さけ》びました。今《こん》度《ど》は鼠《ねずみ》は全《ぜん》身《しん》の毛を逆《さか》立《だ》てていました。今《こん》度《ど》こそ本《ほん》当《とう》に怒《おこ》ったにちがいない、とアリスは思いました。「あなたがいやなら、わたしたち、ダイナの話はもうしないほうがいいわね」
「わたしたちだって!」と鼠《ねずみ》は叫《さけ》びました。尻《し》っぽの先まで震《ふる》えていました。「まるで私が好《この》んで話をしたみたいないい方はよしてくれ! 私の種《しゆ》族《ぞく》は、昔《むかし》から猫《ねこ》が嫌《きら》いなんだ――あのいやらしい、下《げ》品《ひん》な、下《げ》劣《れつ》な動《どう》物《ぶつ》めが! その名《な》前《まえ》を、二度《ど》と私に聞かさないでくれ!」
「わかったわ、ほんとうよ!」とアリスはいって、大《おお》急《いそ》ぎで話《わ》題《だい》を変《か》えました。「あなたは――あなたは、犬は好き?」鼠《ねずみ》が何も答《こた》えないので、アリスは熱《ねつ》心《しん》に先をつづけました。「うちの近くに、それは可《か》愛《わい》い小犬がいるのよ、あなたに見せてあげたいわ! 目のぱっちりしたちっちゃなテリヤで、それは長い茶色の巻《まき》毛《げ》をしてるのよ! ものを投《な》げれば飛《と》んで行って持《も》ってくるし、ちゃんとすわってお預《あず》けもするし、そのほかまだまだいろんなことを――わたし、その半《はん》分《ぶん》も思いだせないわ――するのよ。その犬はある農《のう》家《か》の犬なんだけど、その家の人は、それは利《り》口《こう》で、百ポンドもの値《ね》打《う》ちがあるといっていたわ! 鼠《ねずみ》なんか一匹《ぴき》のこらずやっつけてしまうっていうことだし……あら、あら!」アリスは申《もう》しわけなさそうに叫《さけ》びました。「わたし、また怒《おこ》らせてしまったかしら?」というのは、鼠《ねずみ》は力いっぱい泳《およ》ぎだして、どんどん向《む》こうへ行ってしまったからです。水たまりの中は、すごく波《なみ》立《だ》ちました。
そこでアリスは後ろからやさしく声をかけました。「鼠《ねずみ》さん、もどってきてよ。いやならば、もう猫《ねこ》の話も犬の話もしないから!」これを聞くと、鼠《ねずみ》はくるりと振《ふ》りかえり、ゆっくりとこっちへ泳《およ》ぎ返《かえ》ってきました。その顔はまっさおでした。(怒《おこ》ったせいだわ、とアリスは思いました)鼠《ねずみ》は低《ひく》い、震《ふる》える声でいいました。「とにかく岸《きし》にあがろう。私の話を聞かせるよ。そうすれば、なぜ私が猫《ねこ》や犬を嫌《きら》うのかわかるから」
たしかに、もうそうしてもいい頃《ころ》合《あい》でした。というのは、水たまりは、あとから落《お》ちてきた小鳥や動《どう》物《ぶつ》たちですごく混《こ》みあってきたからです。なかにはアヒルやドードー鳥(飛べない巨鳥。今は絶滅した)や、オウムや鷲《わし》の子や、そのほかいろんな奇《き》妙《みよう》な動《どう》物《ぶつ》がいました。アリスが先頭に立ち、みんなはあとにつづいて岸《きし》へ泳《およ》いで行きました。
3 コーカス・レースと長いお話
岸《きし》に集《あつ》まってきたのは、まったくおかしな連《れん》中《ちゆう》でした。びしょぬれの羽《はね》を引きずった鳥たちや、毛がぺったりからだにくっついた獣《けもの》たちや――それが、みんなずぶぬれで、不《ふ》機《き》嫌《げん》そうな顔をして、いかにも気《き》持《もち》悪《わる》そうにしているのです。
まず問《もん》題《だい》なのは、いうまでもなく、どうしてからだを乾《かわ》かすかということでした。みんなでそのことを相《そう》談《だん》しましたが、数分ののちにはアリスは、ごくあたりまえのようにみんなと打《う》ちとけて話をしていました。まるで、幼《おさ》ななじみ同《どう》士《し》みたいでした。じっさいアリスはオウムと大《だい》議《ぎ》論《ろん》をやったくらいで、オウムは最《さい》後《ご》にはふくれてしまい、「わしのほうがあんたより年上なんだから、わしのほうが物《もの》知《し》りなんだ」といってききませんでした。アリスも負《ま》けてはいず、それでは年はいくつか、それを聞かないうちはなっとくできないといいました。でもオウムが、なぜかどうしても年をいおうとしないので、ぜんぜんラチがあきません。
とうとうしまいに、みんなの中で一番発《はつ》言《げん》権《けん》を持《も》っているように見える鼠《ねずみ》が大声でいいました。「みんな、席《せき》について、私のいうことを聞いてくれ! 私がたちどころに諸《しよ》君《くん》を乾《かわ》かしてやるから!」みんなはすぐに、鼠《ねずみ》をまん中にして輪《わ》になってすわりました。アリスは鼠《ねずみ》を熱《ねつ》っぽい目つきで見つめました。早くからだを乾《かわ》かさないと、ひどい風《か》邪《ぜ》を引いてしまうにちがいないと思ったからです。
「えへん!」と鼠《ねずみ》がもったいぶっていいました。「よろしいか? これは私の知っている一番ドライな(乾《かわ》いた)話ですよ。諸《しよ》君《くん》、どうか静《せい》粛《しゆく》におねがいします! 『法《ほう》王《おう》によりその大《たい》義《ぎ》を認《みと》められたるウィリアム征《せい》服《ふく》王《おう》は、間もなくイギリス軍《ぐん》を従《したが》えたり。そもそもイギリス人は、近年奪《だつ》略《りやく》と征《せい》服《ふく》になれ、指《し》導《どう》者《しや》を欠《か》きたればなり。かくてマーシアおよびノーサンバーランドの領《りよう》主《しゆ》エドウィンおよびモーカルは――』」
「ううっ」と、オウムが身《み》震《ぶる》いしながらうなりました。
「なんですと?」と、鼠《ねずみ》が眉《まゆ》をしかめながらもばかていねいにいいました。「何かいわれましたか?」
「私は何も!」と、オウムはあわてて答えます。
「何かいわれたようだったがな」と鼠《ねずみ》。「でも先をつづけましょう。『マーシアとノーサンバーランドの伯《はく》爵《しやく》エドウィンとモーカルは王の旗《き》下《か》に従《したが》うことを宣《せん》言《げん》せり。愛《あい》国《こく》者《しや》として知られたるカンタベリーの大《だい》僧《そう》正《じよう》スタイガンドすらそを賢《けん》明《めい》なりと見て――』」
「何を見たって?」と、アヒルがいいました。
「それをですよ」と鼠《ねずみ》は腹《はら》立《だ》たしげにいいます。「それが何かは、もちろんあんたにもわかるでしょう」
「私が何かを見た場合には、もちろん『それ』が何かはわかりますさ」とアヒルは答えました。「たいていの場合、カエルかウジムシだからね、問《もん》題《だい》は、大《だい》僧《そう》正《じよう》が見たものは何かということですよ」
鼠《ねずみ》はこの質《しつ》問《もん》に目もくれず、いそいで先をつづけました。「『――エドガー・アスリングとともにウィリアムを迎《むか》え、王《おう》冠《かん》をささげたり。ウィリアムの行《こう》動《どう》は、はじめ穏《おだ》やかなりしかど、部《ぶ》下《か》のノルマン人らの傲《ごう》慢《まん》は――』さあ、どんなふうかね、あんた?」鼠《ねずみ》はアリスを振《ふ》りむいてことばをつづけました。
「前とおなじびしょびしょよ」とアリスは、さも憂《ゆう》鬱《うつ》そうな口《く》調《ちよう》で答えます。「わたしはちっとも乾《かわ》かないわ」
「それならば――」と、ドードー鳥がおごそかな様《よう》子《す》で立ちあがるといいました。「私はこの会《かい》議《ぎ》を解《かい》散《さん》し、ただちにより効《こう》果《か》的《てき》な方《ほう》策《さく》を採《さい》用《よう》することを提《てい》案《あん》します」
「英《えい》語《ご》でしゃべれ!」と、鷲《わし》の子がいいました。「そんなこむずかしいことばは半《はん》分《ぶん》も意《い》味《み》がわからないぞ。それに、あんたにだって、わかってるとは思えないな!」そういうと鷲《わし》の子は首を下げて笑《わら》いをかくしました。ほかの鳥たちのなかには、くすくすと口に出して笑《わら》ったものもありました。
「私のいおうとしたのはだ」と、ドードー鳥はむっとした口《く》調《ちよう》でいい返します。「われわれがからだを乾《かわ》かす最《さい》良《りよう》の策《さく》は、コーカス・レースだということだ」
「コーカス・レースってなあに?」とアリスはききました。べつだん、それほど知りたかったわけではないのですが、ドードー鳥が、だれかが質《しつ》問《もん》するはずだというように間を置《お》いたのに、だれも何もきこうとしないようだからです。
「いや、やってみるのが何よりの説《せつ》明《めい》になるんだ」とドードー鳥はいいました。(みなさんも、いつか冬の日などにやってみたいと思うかもしれないから、ドードー鳥がどうやったかをここで説《せつ》明《めい》しておきましょう)
ドードー鳥はまず、レースのためのコース線《せん》をまるく書きました。(正《せい》確《かく》な円でなくてもいいのだとドードー鳥はいいました)そして、一同は、そのコースのあちこちに位《い》置《ち》を定《さだ》めました。「一、二、三、ゴー!」というような出《しゆつ》発《ぱつ》の合《あい》図《ず》もなく、みんな、好《す》きなときに走りだして、好《す》きなときにやめればいいのです。だから、レースがいつ終《お》わったのか知るのは、必《かなら》ずしもやさしくありません。とにかくみんなが三〇分も走って、すっかり乾《かわ》いた頃《ころ》に、ドードー鳥がとつぜん「競《きよう》走《そう》おわり!」と大声でどなりました。一同は輪《わ》になって集《あつ》まると、息《いき》をはあはあ切らせながらききました。「でも、だれが勝《か》ったんだ?」
この質《しつ》問《もん》に、ドードー鳥は、長いこと考えてからでなければ答えることができず、額《ひたい》に一本指《ゆび》を当ててしばらくのあいだ黙《だま》っていました。(絵でよくみるシェークスピアのかっこうのようにです)ほかのものも、黙《だま》りこんで待《ま》っていました。やがてドードー鳥は口を開《ひら》きました。「みんな勝《か》ったんだ。だから、みんなが賞《しよう》品《ひん》をもらわなきゃならない」
「でも、だれがその賞《しよう》品《ひん》をくれるんだ?」とみんながいっせいにききました。
「そりゃ、もちろんこの子だよ」と、ドードー鳥はいいながら、一本指《ゆび》でアリスを指《ゆび》さしました。すると一同は、たちまちアリスのまわりを取《と》り囲《かこ》んで、大声で「賞《しよう》品《ひん》をくれ!賞《しよう》品《ひん》を!」とわめきたてました。
アリスはどうしていいかわからずに、必《ひつ》死《し》でポケットに手を突《つ》っこみ、ボンボンの箱《はこ》を引っぱりだして(幸《さいわ》いに、塩《しお》水《みず》はなかまで浸《し》み通っていませんでした)賞《しよう》品《ひん》としてみんなに配《くば》りました。ちょうど、みんなに一つずつ当たるだけありました。
「でもあの子だって賞《しよう》品《ひん》をもらわなきゃ、なあ」と鼠《ねずみ》がいいました。
「もちろんだ」とドードー鳥がまた口《く》調《ちよう》も厳《げん》粛《しゆく》に答えます。「ほかに、あんたのポケットには何が入っている?」と、アリスに向《む》きなおってつづけました。
「ゆびぬきだけよ」と、アリスは悲《かな》しげに答えます。
「こちらに渡《わた》して」と、ドードー鳥。
それから、一同は、もう一度《ど》アリスのまわりに輪《わ》をつくって集《あつ》まりました。そしてドードー鳥が、おごそかにこういいながらゆびぬきを贈《ぞう》呈《てい》したのです。「われわれはこの優《ゆう》美《び》なるゆびぬきを、あなたが受《じゆ》領《りよう》されることを心から願《ねが》うものであります」この短《みじか》いスピーチが終《お》わるとみんなはいっせいに拍《はく》手《しゆ》しました。
アリスは何もかもばかばかしくてしようがありませんでしたが、みんながあんまり真《ま》面《じ》目《め》くさっているので、笑《わら》いとばすこともできません。そして、何もいうことが思いつけなかったので、ただぺこりとおじぎをすると、できるだけ厳《げん》粛《しゆく》に見えるように努《つと》めながら、ゆびぬきを受《う》け取《と》りました。
つぎはボンボンを食べることになりました。これは、ちょっとした騒《さわ》ぎでした。大きな鳥からは少なすぎて味《あじ》もわからないと文《もん》句《く》が出たし、小さな鳥は咽《の》喉《ど》を詰《つ》まらせて、背《せ》中《なか》をたたいてやらなければなりませんでした。それでも、とにかく食べ終《お》わってしまうと、みんなはまた輪《わ》になってすわり、鼠《ねずみ》にもっと話をしてくれとせがみました。
「あなたは自分の身《み》の上《うえ》話をしてくれると約《やく》束《そく》したわ」とアリスはいいました。「なぜあなたが――ね《ヽ》の字とい《ヽ》の字を嫌《きら》いになったか、その事《じ》情《じよう》を話してくれるって」名前をいえばまた怒《おこ》りだすのではないかと、恐《おそ》る恐《おそ》る、小さな声でいったのです。
「私の身《み》の上《うえ》話は長い悲《かな》しい話《テール》です」と鼠《ねずみ》はアリスの方に向《む》きなおり、ため息《いき》をつきながらいいました。
「もちろん長い尾《テール》にはちがいないでしょうけど」と、鼠《ねずみ》の尾《お》っぽを不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに見ながらアリスはいいました。「でも、悲《かな》しいというのはどういうわけ?」そして、鼠《ねずみ》が話しているあいだ、ずっと、変《へん》だ変《へん》だと思いつづけていたので、アリスには鼠《ねずみ》の話が、こんなふうに聞こえていました。
こわい犬めが
家の中
鼠《ねずみ》に出くわし
いったとさ
「ちょっと警《けい》察《さつ》まで
来てもらおう
お前に
罰《ばつ》を与《あた》えて
くれる
いいや、文《もん》句《く》は
いわせない
どうでも裁《さい》判《ばん》
しなけりゃ
ならぬ
なにしろ
今朝は退《たい》屈《くつ》で
することがなくて
困《こま》ってるんだ」
鼠《ねずみ》は犬に
いいました
「犬のだんなに申《もう》しあげますが
判《はん》事《じ》も陪《ばい》審《しん》も
ない裁《さい》判《ばん》なんて
やるだけ
無《む》駄《だ》というもの
でしょう
「わしが一《ひと》人《り》で
みんなやる」
ずる賢《がしこ》い犬は
いいました。
「判《はん》事《じ》もわし
陪《ばい》審《しん》もわし
検《けん》事《じ》もぜんぶ
わしがやって
どうでもおまえを
死《し》刑《けい》にしてやる」
「あんたは注《ちゆう》意《い》して聞いていないな!」と、鼠《ねずみ》がアリスにことばも荒《あら》くいいました。「いったい何を考えてるんだ!」
「ごめんなさい」アリスは恐《おそ》れ入っていいました。「もう五番めの結び《ノツト》まできたんでしたね?」
「結び《ノツト》じゃない!」と、鼠《ねずみ》は語《ご》気《き》荒《あら》く、怒《ど》気《き》ものすごくいいました。
「結《ノ》び《ツ》め《ト》ですって!」と、いつでも人の役《やく》にたちたいと思っているアリスは、叫《さけ》びながら、まわりを一心に見まわしました。「わたしが手《て》伝《つだ》って、ほどいてあげるわ!」
「だれがそんなことするもんか」と鼠《ねずみ》が立ち上がって歩きだしながらいいました。「そんなくだらんことをいって、あんたは私をばかにしてるんだ!」
「そんなつもりじゃないわ!」とアリスは弁《べん》解《かい》しました。「でも、あなたは、すぐ怒《おこ》るんですもの!」
鼠《ねずみ》は答えのかわりに呻《うな》っただけでした。
「お願《ねが》いだから、もどってきて、お話をつづけてちょうだい!」と、アリスは後ろから大声でいいました。すると、ほかの者《もの》も、みんな声を合わせて叫《さけ》びました。「そうよ、お願《ねが》いよ!」でも鼠《ねずみ》は頑《がん》固《こ》に首《くび》を振《ふ》りつづけ、さらに少し足を早めて行ってしまいました。
「もどってくれなかったのは残《ざん》念《ねん》だな!」鼠《ねずみ》の姿《すがた》が見えなくなるやいなや、オウムがため息《いき》をついていいました。すると年《とし》寄《よ》りの蟹《かに》がすかさずこの機《き》会《かい》を捉《とら》えて、娘《むすめ》の蟹《かに》にいいました。「ねえ、娘《むすめ》や、これをいい教《きよう》訓《くん》にして、けっして腹《はら》をたてるのはおやめよ」
「よけいなことをいうもんじゃないわ、母さん」と娘《むすめ》の蟹《かに》がぴしゃっといいました。「母さんのおしゃべりには、牡《か》蠣《き》だって癇《かん》癪《しやく》を起《お》こしてしまうわ」
「うちのダイナがここにいればいいのに。ほんとよ!」とアリスは口に出していいましたが、とくにだれかが話しかけたわけではありませんでした。「ダイナがいれば、すぐ連《つ》れて帰ってくれるのに!」
「それで、そのダイナというのはだれなんです、口をはさんで申《もう》しわけないが」と、オウムがいいました。
アリスはこれに勢《いきお》いこんで答えました。かわいいペットのこととなると、いつもすぐ夢《む》中《ちゆう》になるのです。「ダイナはうちの猫《ねこ》よ。ダイナは鼠《ねずみ》とりの名人なの。それは、想《そう》像《ぞう》もできないほどよ。それに、小鳥を追《お》いかけるところを見せてあげたいわ! ほんとよ、ちっちゃな小鳥なんか、見つけたと思ったらもう食べてしまうんだから!」
この演《えん》説《ぜつ》は一同のあいだに大《たい》変《へん》な騒《さわ》ぎをひき起《お》こしました。小鳥たちのなかには、あわてて逃《に》げだしたものもいます。一匹《ぴき》の年《とし》寄《よ》りのカササギは自分のからだを羽《はね》で念《ねん》入《い》りに包《つつ》んで、いいました。「もうほんとうに家へ帰らなきゃ。夜の空気はわしの咽《の》喉《ど》によくないからな!」そして、カナリヤは、震《ふる》える声で子どもたちに向《む》かって叫《さけ》びました。「さあ、行きましょう、子どもたち! もう寝《ね》る時間よ!」こうして、ありとあらゆる口《こう》実《じつ》をつくって、みんな立ち去《さ》ってしまい、アリスはたちまちひとりぽっちになりました。
「わたし、ダイナのことなんか、いわなければよかったんだわ」アリスは憂《ゆう》鬱《うつ》そうな口《く》調《ちよう》で、ひとりごとをいいました。「ここじゃ、だれもダイナのことを好《す》いてくれないけど、ほんとは、世《せ》界《かい》一《いち》の猫《ねこ》なんだわ! かわいいダイナ! わたし、おまえにまた会えるのかしら?」そこまでいうと、かわいそうにアリスはまた泣《な》きだしました。とても淋《さび》しく、すっかり元気がなくなってしまったからです。でもしばらくすると、アリスはまた、遠くの方でぱたぱたと駆《か》ける足音を耳にし、勢《いきお》いよく顔をあげました。心の中で、鼠《ねずみ》が思いなおして話をしに帰って来てくれたのだと思ったのです。
4 兎《うさぎ》はビルを送《おく》りこむ
それは例《れい》の白《しろ》兎《うさぎ》で、ゆっくり小《こ》走《ばし》りに駆《か》けながら、まわりを心《しん》配《ぱい》そうに見まわしています。どうやら、何かなくしたようすです。そして、ぶつぶつとつぶやいているのが聞こえました。「ああ、公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》が! 公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》が! まったく困《こま》ったことになったぞ。弱《よわ》ったことになったぞ。これじゃ、死《し》刑《けい》はまちがいない。白イタチが白イタチなのとおなじぐらいまちがいないぞ! いったい、どこに落《お》としたんだろう?」アリスはすぐに、白《しろ》兎《うさぎ》の探《さが》しているのが例《れい》の扇《おうぎ》とキッドの手《て》袋《ぶくろ》だということに気がつきました。それでお人《ひと》好《よ》しにも自分もさっそく探《さが》しはじめましたが、それはどこにも見《み》当《あ》たりません――なにしろ、水たまりの中で泳《およ》いでいたとき以《い》来《らい》、何もかもがすっかり変《か》わってしまっていて、あの大広間も、ガラスのテーブルも、小さなドアも、みんなあとかたなく消《き》えてしまっていたのです。
兎《うさぎ》はたちまちアリスに気がつきました。そして、なおも探《さが》しまわっているアリスを、怒《おこ》って大声でどなりつけました。「なんだ、メアリ・アン、こんなところで何をしているんだい? 今すぐ大《おお》急《いそ》ぎで家へ帰って、手《て》袋《ぶくろ》と扇《おうぎ》を持《も》ってきてくれ。さあ、ぐずぐずするな!」アリスは、あんまりおどろいたので、白《しろ》兎《うさぎ》の人ちがいを説《せつ》明《めい》することも忘《わす》れ、指《ゆび》さされた方《ほう》角《がく》へふっ飛《と》んで行きました。
「わたしのことを、自分の家の女中とまちがえたんだわ」と、アリスは走りながらひとりごとをいいました。「わたしがだれかを知ったらさぞびっくりするでしょうね。でも、扇《おうぎ》と手《て》袋《ぶくろ》とは持《も》って行ってやったほうがいいわ――もし見つかればの話だけれど」こういっているあいだに、しゃれた小さな家の前に来ていました。家の玄《げん》関《かん》には『ホワイト・ラビット(白《しろ》兎《うさぎ》)』という名前を彫《ほ》った、ぴかぴか光る真《しん》鍮《ちゆう》の標《ひよう》札《さつ》が出ていました。アリスはノックもせずに中へ入ると大《おお》急《いそ》ぎで二階《かい》へ上がりました。ほんもののメアリ・アンに見つかって、扇《おうぎ》と手《て》袋《ぶくろ》を見つけ出さないうちに家から追《お》いだされては大《たい》変《へん》だと思ったからです。
「おかしなものだわ」と、アリスはひとりごとをいいました。「兎《うさぎ》のお使《つか》いをするなんて!このつぎは、ダイナがわたしをお使《つか》いに出すかもしれないわ!」そして、もしそんなことになったら、どうなるだろうと空《くう》想《そう》をめぐらしはじめました。「『アリスさん、すぐいらっしゃい。散《さん》歩《ぽ》のお支《し》度《たく》をするんですよ!』『ええ、ばあや、すぐ行くわ! でも、わたし、ダイナが帰ってくるまで、この鼠《ねずみ》穴《あな》の番をして、鼠《ねずみ》が逃《に》げださないように見《み》張《は》っていなきゃいけないのよ』――でも、こんなふうに猫《ねこ》が人間に命《めい》令《れい》するようになったら」と、アリスは考えつづけました。「うちじゃ、ダイナを置《お》いておいてはくれないだろうな」
こんなことを考えているうちに、アリスは小ぢんまりした部《へ》屋《や》に入りこんでいました。窓《まど》際《ぎわ》にテーブルがあり、その上に(思ったとおり)扇《おうぎ》が一つと、小さな白いキッドの手《て》袋《ぶくろ》が二、三組置《お》いてありました。そして、その扇《おうぎ》と手《て》袋《ぶくろ》を一組とり、いま部《へ》屋《や》を出ようとしたとき、アリスの視《し》線《せん》は、鏡《かがみ》のそばに置《お》いてある小さなびんに落《お》ちました。今《こん》度《ど》は、『私《わたし》を飲《の》んで!』という文《もん》句《く》を書いた札《ふだ》はついていませんでしたが、それでもアリスは、コルクの栓《せん》を取《と》ると、口にあてていました。「何かお《ヽ》も《ヽ》し《ヽ》ろ《ヽ》い《ヽ》こ《ヽ》と《ヽ》が必《かなら》ず起《お》こるわ」とひとりごとをいいました。「わたしが何か食べたり飲《の》んだりすると、いつも何か起《お》こるんだから。このびんでは何が起《お》こるか、試《ため》してみよう。また大きくしてくれるといいんだがな。ちっぽけな小《こ》人《びと》でいるのには、つくづくあきあきしちゃったもの!」
それが、思ったとおりになったのです。それも、アリスが思ったよりずっと早く。びんのなかみを、半《はん》分《ぶん》も飲《の》まないうちに、頭が天《てん》井《じよう》につっかえるのがわかり、首《くび》の骨《ほね》が折《お》れないようにするために、首《くび》をまげなければなりませんでした。アリスはあわててびんを下に置《お》き、ひとりごとをいいました。「もう十分だわ――これ以《い》上《じよう》大きくならなければいいけど。でもそうじゃなさそう――もうドアのところでつっかえて外へ出られなくなってるわ。ほんとに、あんなに飲《の》まなければよかった!」
やれやれ、です。でも、もうあとの祭《まつ》りでした。アリスはなおもぐんぐん大きくなって、たちまち床《ゆか》にひざまずかなければならなくなりました。一分もたつとその余《よ》裕《ゆう》さえなくなりました。アリスは苦《く》心《しん》して片《かた》方《ほう》の肘《ひじ》をドアに押《お》しつけ、片《かた》方《ほう》の腕《うで》を首《くび》にまいて、横《よこ》になろうとやってみました。それでもまだ大きくなっていくので、いよいよ最《さい》後《ご》の手《しゆ》段《だん》として、片《かた》腕《うで》を窓《まど》から突《つ》きだし、片《かた》脚《あし》を煙《えん》突《とつ》の中に突《つ》っこみました。そして「さあ、もうこれ以《い》上《じよう》は何が起《お》きてもどうしようもないわ。いったいわたし、どうなるのかしら?」とひとりごとをいいました。
アリスにとって幸《さいわ》いなことに、魔《ま》法《ほう》の小びんの力はそこまでで、大きくなるのはようやく止まりました。でもその、何とも居《い》心《ごこ》地《ち》の悪《わる》いこと。しかも、部《へ》屋《や》から出る方《ほう》法《ほう》は、とてもありそうにないのですから、アリスが情《なさ》けなく思ったのも無《む》理《り》はありません。
「家にいたほうがずっと楽《たの》しかったわ」と、哀《あわ》れなアリスは考えました。「何かといえば大きくなったり、小さくなったりもしないし、鼠《ねずみ》や兎《うさぎ》にこき使《つか》われることもないし。あんな兎《うさぎ》穴《あな》におっこちなければよかったとさえ思うけど……でも、でも……ここの生《せい》活《かつ》って、ほんとにおかしいことばかりだわ! いったい、わたしはどうなっちゃったのかしらね! 前にお伽《とぎ》噺《ばなし》を読んだときは、こんなことは起《お》きっこないと思ってたけど、いまは自分がそのお伽《とぎ》噺《ばなし》の中にいるんだわ! わたしの身《み》の上《うえ》話の本がなきゃおかしいわ。ぜったいおかしいわよ! わたしが大人《おとな》になったら一冊《さつ》書こう――でも、今だって、もう大きくなってるんだわ」アリスは悲《かな》しげにつけ加《くわ》えました。「少なくとも、こ《ヽ》こ《ヽ》ではもうこれ以《い》上《じよう》大きくなりようはないわ」
「だけど……」とアリスはふと思いました。「わたし、今よりも年を取《と》らないのかしら? これは、ちょっと楽しいわね。そうすれば、ぜったいお婆《ばあ》さんになることはないんだから。だけど……そうすると、いつまでも勉《べん》強《きよう》しなきゃならないことになる。ああ、わたし、そんなの嫌《いや》だわ!」
「なにばかなこといってるの、アリス!」とアリスは自分で返《へん》事《じ》をしました。「こんなところで、どうやって勉《べん》強《きよう》なんかできるのよ。ここは、あんただけでもいっぱいで、教《きよう》科《か》書《しよ》を置《お》く場《ば》所《しよ》なんかぜんぜんないじゃないの!」
こうやって、アリスは、一人《ひとり》二《ふた》役《やく》をやって、両《りよう》方《ほう》の会《かい》話《わ》をやってのけていました。でも、二、三分たったとき、外に人声がしたので、話しやめて耳をすませました。
「メアリ・アン! メアリ・アン!」と、その声は叫《さけ》んでいました。「いますぐ私の手《て》袋《ぶくろ》を取《と》っておいで!」つづいて、階《かい》段《だん》を、ぱたぱたと小さな足音が行きました。アリスは兎《うさぎ》が自分を探《さが》しに来たのを知りました。そして、ぞっとして身《み》震《ぶる》いすると、家ごとがたがたゆれました。アリスは自分が兎《うさぎ》より千《せん》倍《ばい》も大きくなっていて、こわがることなんかまるでないということを、すっかり忘《わす》れていたのです。
間もなく兎《うさぎ》はドアのところまで来て、あけようとしました。でも、ドアは内《うち》側《がわ》にあくのに、アリスの肘《ひじ》が突《つ》っぱっているので、その試《こころ》みは失《しつ》敗《ぱい》に終《お》わりました。兎《うさぎ》がひとりごとをいうのが、アリスの耳に聞こえました。「裏《うら》へまわって窓《まど》から入ろう」
「そうはいかないわよ!」アリスは考えて、兎《うさぎ》がちょうど窓《まど》の下へまわった物《もの》音《おと》がするまで待《ま》ち、いきなり手をひろげて、空中をつかみました。何もつかめませんでしたが、小さな悲《ひ》鳴《めい》と墜《つい》落《らく》の物《もの》音《おと》が聞こえました。ついでガラスの割《わ》れる音が。それからすると、兎《うさぎ》がきゅうりのかこい畑《ばたけ》か何か、そんなものの中へ落《お》ちこんだらしい、とアリスは思いました。
つづいて、怒《おこ》った声が聞こえました――兎《うさぎ》の声です――「パット、おいパット! どこにいるんだ?」すると、まだ聞いたことのない声が答えました。「へーい、ここですよ! りんごを掘《ほ》ってるんでさ、だんな!」
「りんごを掘《ほ》っているだと、ばかが!」と兎《うさぎ》が怒《おこ》った声でいいました。「こっちだ! ここへ来て、私をここから出してくれ!」(ここでまたガラスの割《わ》れる音)
「ところでパット、窓《まど》のところにあるのは、ありゃ何だい?」
「もち、ありゃ腕《うで》でさあ、だんな!」(パットは腕《うで》を『うでえ』と発音しました)
「腕《うで》だって、このばかが! あんなでかい腕《うで》があってたまるか。みろ、窓《まど》いっぱいじゃないか!」
「そりゃいっぱいですけどさ、でもありゃやっぱり腕《うで》でさあ」
「とにかく、あんなものはここにはいらない。行って取《と》っぱらってしまえ!」
それから長い静《せい》寂《じやく》がありました。アリスには時々つぎのような囁《ささや》き声が聞こえただけでした。
「だってだんな、おれはそんなことはごめんですよ、とんでもねえ!」――「私《わたくし》のいうとおりにするんだ、この臆《おく》病《びよう》者《もの》が!」そしてとうとうアリスはもう一度《ど》手をひろげ、また空中をつかみました。すると今《こん》度《ど》は、小さな叫《さけ》び声が二回して、またガラスの割《わ》れる音が起《お》きました。「きゅうりのかこい畑《ばたけ》が、ずいぶんたくさんあるらしいわ!」とアリスは思いました。「今《こん》度《ど》は、あの二人《ふたり》、どうするかしら? わたしを窓《まど》から引っ張《ぱ》り出そうというんなら、ぜひそう願《ねが》いたいものだわ! こんなところにこれ以《い》上《じよう》入っているなんて、もうまっぴらだもの!」
アリスはしばらく待《ま》ちましたが、何も聞こえません。ところがやがて、小さな荷《に》車《ぐるま》のがらがらという車《しや》輪《りん》の音と、かなりの人数の人声が、何やらがやがやしゃべるのが聞こえてきました。こんなことばが聞きとれました。「もう一つのはしごはどこだ?――いや、おれは一つしか持《も》ってこなかった。ビルがもう一つ持《も》ってたよ――ビル! 行って持《も》ってこい――ここだ、ここの角《かど》にかけるんだ――いやちがう、まず二つをつなげるんだ――一つじゃ半《はん》分《ぶん》もとどかないから――そうだ、それでいい。しちめんどうなことはいうなよ――おいビル、このロープをしっかりおさえてろ!――屋《や》根《ね》はもつかな?――そこのゆるんだスレートに気をつけろよ――うわっ、落ちてきた! 下のもの、頭に気をつけろ!」(がちゃんと大きな音)「だれがやったんだ?――ビルだろう、きっと。煙《えん》突《とつ》から降《お》りるのはだれがやる?――うんにゃ、私はだめだよ――おまえやれ!――それじゃ私もいやだよ――ビルしか降《お》りるものはいないな――おい、ビル! 親《おや》方《かた》が、おまえに煙《えん》突《とつ》から降《お》りろといってるぞ!」
「あら、それじゃビルが煙《えん》突《とつ》を降《お》りることになったんだわ」と、アリスはひとりごとをいいました。「ひどいわ、なんでもかでも、みんなビルに押《お》しつけるらしいわね! わたしなら、ビルの立《たち》場《ば》にはぜったいなりたくないな。この暖《だん》炉《ろ》はとてもせまいけど、少しなら蹴《け》とばせそうね」
アリスは脚《あし》をできるだけ煙《えん》突《とつ》から引っこめて、何か小さな動《どう》物《ぶつ》が(どんな動《どう》物《ぶつ》かはわかりませんでした)すぐ上の煙《えん》突《とつ》の中をごそごそがさがさとひっ掻《か》いたりうごめいたりしはじめるまで待《ま》ちました。そして「ははあ、これがビルだな」とひとりごとをいいながら、えいっとばかりに蹴《け》とばしたのです。それから、あとはどうなるかとようすをうかがいました。
最《さい》初《しよ》に聞こえてきたのは、大ぜいの「あっ、ビルが飛《と》んでいくぞ!」という叫《さけ》び声でした。つづいて、兎《うさぎ》だけの声が「受《う》けとめろ! 垣《かき》根《ね》のそばのもの!」と叫《さけ》びました。それから静《しず》かになったと思うと、またいろんな声がいっせいに「頭を持《も》ちあげろ――ブランディだ!――咽《の》喉《ど》が詰《つ》まっちゃうじゃないか! どうだい、気分は? いったい、どうしたというんだ? さあ、わけを話せ!」といいだしました。
ややあって、かぼそい小さなきいきい声がしました。(「これがビルだわ」とアリスは思いました)「それが、ぼくにもわからないんだ――もうたくさんだよ、気分はよくなった――でも、あんまりびっくりしちまって、とても話はできないよ。とにかく、何かが、まるでびっくり箱《ばこ》のように飛《と》びだしてきたかと思うと、ぼくは宇《う》宙《ちゆう》ロケットみたいに吹《ふ》っ飛《と》んでいたんだ!」
「いや、まったくそのとおりだったよ、おまえ!」と、一同がいいます。
「家を焼《や》いちまわなきゃだめだ!」と、兎《うさぎ》の声がいいました。そこでアリスは、ありったけの大声をあげて、「そんなことをしたら、ダイナをけしかけるから!」と叫《さけ》びました。
そのとたんに、死《し》のような沈《ちん》黙《もく》がひろがります。アリスはひとり考えました。「今《こん》度《ど》はどうするつもりかしら? すこし頭があれば、屋《や》根《ね》をはがすところだわ」一分か二分たつと外の連《れん》中《ちゆう》はまたざわざわと動《うご》きはじめました。兎《うさぎ》が「手はじめに、手車いっぱいでいいだろう」というのが聞こえました。
「手車いっぱいの何だろう?」とアリスは考えました。でも、考えているひまはあまりありませんでした。つぎの瞬《しゆん》間《かん》、小石の雨がばらばらと窓《まど》にあたり、いくつかはアリスの顔にぶつかったのです。「やめさせてやる!」とアリスは思って大声でどなりました。「そんなこと、二度《ど》としないほうがいいわよ!」するとまたしても、外はひっそりと静《しず》まりかえりました。
アリスはおどろきました。小石は、床《ゆか》に落《お》ちると、みんな小さなお菓《か》子《し》になっていたのです。そのとたん、すばらしい考えが、頭にひらめきました。「このお菓《か》子《し》を一つ食べてみよう。そうしたら、きっとからだの大きさが変《か》わるんだわ。大きくなることはとてもできそうにないから、きっと小さくなるにちがいないわ」
そこでお菓《か》子《し》を一つ口に入れると、ありがたいことに、たちまちからだがちぢみはじめるのがわかりました。ドアを通り抜《ぬ》けられるくらい小さくなるのを待《ま》ちかまえていて、アリスは家を飛《と》びだしました。すると外には、大《たい》変《へん》な数の小さな動《どう》物《ぶつ》や小鳥たちが待《ま》っていました。気の毒《どく》なトカゲのビルはまん中にいて、二匹《ひき》のモルモットに支《ささ》えられ、何かびんから飲《の》ましてもらっていました。みんな、アリスが姿《すがた》を現《あら》わしたとたんにわっとばかりに押《お》しかけてきましたが、アリスのほうも、一《いつ》生《しよう》懸《けん》命《めい》逃《に》げだして、たちまち、こんもりした森の中にもぐりこむことができました。
「いちばん先《さき》にすることは」とアリスは、森の中をさまよい歩きながらひとりごとをいいました。「わたしの本《ほん》当《とう》の大きさにもどることだわ。そして二番めには、あのきれいなお庭《にわ》に行く道を見つけること。それがなによりのプランだわ」
それはたしかにすばらしい計画のようでした。単《たん》純《じゆん》でしかも明《めい》快《かい》にととのった計画でした。ただ、困《こま》ったことには、それをどう実《じつ》行《こう》するかがさっぱりわからないのです。それで弱ったなと思いながら木と木の間をのぞきまわっていると、いきなり頭のすぐ上でするどい犬のほえ声がしたので、大あわてにあわててそっちを見あげました。おそろしく大きな子犬が、大きなまんまるい目でアリスを見おろしています。そして、おそるおそる片《かた》足《あし》をのばし、さわろうとします。「かわいい子!」とアリスはご機《き》嫌《げん》をとる口《く》調《ちよう》でいうと、子犬に向《む》かって一《いつ》生《しよう》懸《けん》命《めい》に口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》こうとしました。でも、その一方で、もしかして子犬がおなかをすかしていたら、と考えると、こわくてこわくてたまらなかったのです。もしそうなら、いくらご機《き》嫌《げん》をとったって、子犬はアリスを取《と》って食べてしまわないともかぎらないのですから。
自分で何をしているのか気がつかないうちに、アリスは小《こ》枝《えだ》のきれはしを拾《ひろ》って、子犬に差《さ》しだしました。すると小犬はたちまち嬉《うれ》しそうにわわんとほえて、四つ足で空中にとび上がり、小《こ》枝《えだ》に飛《と》びかかって、それをくわえてふりまわすまねをしました。アリスは踏《ふ》みつぶされないように、体をかわして大きなアザミの後ろに隠《かく》れました。そして反《はん》対《たい》側《がわ》から姿《すがた》を現《あら》わした瞬《しゆん》間《かん》に、子犬は枝《えだ》をめがけて突《つ》っ込《こ》んできて、あまりあわててそれを取《と》ろうとしたためひっくりかえりました。アリスは、まるで馬《ば》車《しや》馬《うま》とふざけているようなものだ、と思いました。いつ踏《ふ》みつぶされるかわかったものではない、とはらはらしながら、もう一度《ど》アザミのまわりをまわりました。子犬は小《こ》枝《えだ》に向《む》かって短《みじか》い突《とつ》撃《げき》を何《なん》度《ど》もくり返《かえ》し、そのたびに、ほんのちょっと前《ぜん》進《しん》しては大げさに後《こう》退《たい》して、そのあいだじゅう、しわがれたような声でほえつづけました。しかし、やがて、ずっと離《はな》れたところで地《じ》面《めん》にすわりこむと、口から舌《した》をだらりと出し、大きな目を半《なか》ば閉《と》じて、はあはあ喘《あえ》ぎはじめました。
アリスにとって、逃《に》げだす絶《ぜつ》好《こう》のチャンスでした。そこですぐに飛《と》びだすと、走りだして、くたくたに疲《つか》れ、息《いき》が切れるまで走りつづけました。そのときには、子犬のなき声もはるか遠く、かすかになっていました。
「それにしても、とってもかわいい子犬だったわ!」とアリスは、キンポウゲによりかかってからだをやすめ、葉《は》でからだをあおぎながらいいました。「わたし、あの子犬に、いろんな芸《げい》を教えてやりたかったわ――もし――もしわたしがちゃんとした大きさだったら! あら、あら、わたし、もとの大きさにもどらなければならないということを、あぶなく忘《わす》れるところだった。さあてと――どうやったら、大きくなれるかしら? 何かを食べるか飲《の》むかすればいいにちがいないと思うんだけれど……問《もん》題《だい》はその何かだわ。さあ何だろう?」
たしかに、何かというのは大《だい》問《もん》題《だい》でした。アリスはまわりの花や草の葉《は》をぐるりと見まわしましたが、こ《ヽ》の《ヽ》さ《ヽ》い《ヽ》飲《の》むか食べるかするべきものらしいものは、さっぱり見《み》当《あ》たりません。すぐそばに大きな――アリスのからだと同じくらいの大きさのキノコが生《は》えていました。その下を見、両《りよう》側《がわ》を見、後ろを見たとき、アリスの胸《むね》に、上には何があるのか見てみたいという気《き》持《もち》がひらめきました。
アリスは爪《つま》先《さき》立ちになり、キノコのふち越《ご》しにのぞきました。するとすぐ目の前にいた、大きな青いイモムシの目とばったり目が合いました。イモムシは腕《うで》組《ぐ》みをし、長い水ギセルをのんびりとすいながらすわっていて、アリスにも、ほかのものにも、まるで注《ちゆう》意《い》を払《はら》おうとしませんでした。
5 イモムシの忠《ちゆう》告《こく》
イモムシとアリスとは、しばらくのあいだ黙《だま》ってお互《たが》いを見つめあっていました。ややあってイモムシが、口から水ギセルをとり、だるそうな、眠《ねむ》そうな声でアリスに話しかけました。
「おまえさんはだれだい?」と、イモムシがいいました。
これは、話のきっかけとしては、あまりいい兆《きざ》しではありません。アリスは、すこし恥《は》ずかしそうに答えました。「わたし……わたし、いまのところ、よくわからないんです――今朝《けさ》目が覚《さ》めたときだれだったかということなら、わかっているんですけど、でも、それから何回も何回も変《か》わっちゃったらしいものですから」
「いったいそれはどういうことだ?」とイモムシが、ことばするどくいいました。「はっきりわかるように説《せつ》明《めい》せんかい!」
「それが、自分でも説《せつ》明《めい》できないのです。すみませんけど」とアリス。「なぜって、おわかりでしょう、わたし、わたしじゃないものですから」
「わからんね」とイモムシがいいます。
「これ以《い》上《じよう》はっきりとはいえそうもないんでございます」とアリスはますますていねいなことばづかいで答えました。「だって、だいいち、わたし自《じ》身《しん》が何が何だかわからないんですもの。それに、一日のうちにあんなに何回も大きくなったり小さくなったりしたんじゃ、こんぐらかってしまいます」
「そんなことはない」とイモムシがいいます。
「いいえ、あなたはまだ知らないだけなんです」とアリス。「でも、そのうちサナギになり――あなたがいつかなるんですよ――そのあと蝶《ちよう》になったときには、きっと、何だか変《へん》だな、と思うはずです」
「そんなこと、思いはせん」とイモムシ。
「それは、あ《ヽ》な《ヽ》た《ヽ》の気《き》持《もち》はちがうかもしれません」とアリスはいいました。「でも、わ《ヽ》た《ヽ》し《ヽ》だったら、おかしな気《き》持《もち》になると思います」
「おまえだったらだと!」とイモムシはさも軽《けい》蔑《べつ》したようにいいました。「だったら、おまえはだれなんだ?」
これで、話はまた振《ふ》り出しにもどってしまいました。アリスはイモムシがあんまりぶっきらぼうないい方ばかりするので、すこし腹《はら》が立ってきました。それで、き《ヽ》っ《ヽ》として見せ、おもおもしい口《く》調《ちよう》でいいました。「あなたのほうが先に名《な》乗《の》るべきだと思います」
「なぜだ?」とイモムシがいいました。
これまた、むずかしい問《もん》題《だい》でした。アリスには、何もこれといった理《り》由《ゆう》が思いつけなかったし、イモムシが恐《おそ》ろしく不《ふ》愉《ゆ》快《かい》そうなようすに見えたので、くるりと身《み》をひるがえすと、行ってしまおうとしました。
「もどってこい!」とイモムシが、アリスを後ろから呼《よ》びとめました。「おまえに、たいせつな話がある!」
これは、かなりおもしろくなりそうでした。アリスは振《ふ》りかえって、もどって行きました。
「癇《かん》癪《しやく》を起《お》こすものではない」と、イモムシはいいます。
「それだけなの?」アリスは、こみ上げてきた怒《いか》りを、精《せい》いっぱいに抑《おさ》えながらいいました。
「ちがう」とイモムシ。
アリスは待《ま》ってもいいだろう、と考えました。どうせすることはないのだし、それに、イモムシは何か聞くだけの値《ね》打《う》ちのあることをいうかもしれません。しばらくのあいだイモムシは何もいわずに煙草《たばこ》をぷかぷかとふかしていましたが、やがて腕《うで》組《ぐ》みをほどくと、口から水ギセルを取《と》っていいました。「つまりおまえは、変《か》わったというのだね?」
「そうじゃないかと思うんです」と、アリスはいいました。「前におぼえていたことが思いだせないし――それに、十分間も、同じ大きさでいることがないんですから!」
「どんなことが思いだせないんだ?」と、イモムシ。
「あのう……わたし、『すてきな小《こ》鰐《わに》』を暗《あん》誦《しよう》しようとしたんですけど、口に出すと、みんなちがった文《もん》句《く》になるんです!」アリスは、ひどく憂《ゆう》鬱《うつ》そうな声でいいました。
「『ウィリアム父《とう》さん、年とった』(もと歌はサウジーの教訓歌)をやってみろ」と、イモムシがいいました。アリスは両《りよう》手《て》を組んではじめました。
父さん、あんたももう年だ
髪《かみ》も真《ま》っ白《しろ》 それなのに
しょっちゅう逆《さか》立《だ》ちやっている
ちっとは年を考えな
ウィリアム父さん息子《むすこ》にいった
若《わか》い時分にゃ 頭脳《あたま》に悪《わる》いと
思って大《だい》事《じ》をとってたが、
頭脳《あたま》のないことわかった今は
なんの心《しん》配《ぱい》あるものか
何《なん》度《ど》もいったが、年も年、
おまけにでっぷり太《たい》鼓《こ》腹《ばら》、
なのに戸《と》口《ぐち》で宙《ちゆう》返《がえ》り
いったい、それはなんのため?
ウィリアム父さん 白《しら》髪《が》頭《あたま》をふって
若《わか》い時分にゃ この膏《こう》薬《やく》で
手足をしなやかにしたもんさ
一《ひと》箱《はこ》二シルだ 買わないか
父さん年だよ、歯《は》も弱くなった
あぶら身《み》よりかたくちゃ噛《か》めまいに
ガチョウを骨《ほね》ごと、くちばしまでぺろり
教えてくれよ、その秘《ひ》訣《けつ》
若《わか》い時分に 法《ほう》律《りつ》やった
家へ帰れば女《によう》房《ぼう》と口《こう》論《ろん》
それで訓《くん》練《れん》行きとどき 顎《あご》も歯《は》も
いまでも達《たつ》者《しや》
父さん年とった 昔《むかし》より
目も悪《わる》くなったにちがいないのに
それでも鼻《はな》でウナギの曲《きよく》芸《げい》
なんであんなにうまいんだ?
おとなしく答えていればつけあがりやがる
生《なま》意《い》気《き》いうなと 父さん怒《おこ》る
そんなばか話にゃ もうつきあえぬ
とっとと消《き》えなきゃ 蹴《け》落《お》とすぞ!
「文《もん》句《く》がちがっとる」とイモムシがいいました。
「少しちがってるでしょうね」とアリスはおそるおそる「ことばがいくらか入れ変《か》わってますね」
「始《はじ》めから終《お》わりまでちがっとる」と、イモムシは断《だん》言《げん》しました。また何《なん》分《ぷん》か、沈《ちん》黙《もく》がつづきました。
先に口を開《ひら》いたのはイモムシのほうでした。「どのくらいの大きさになりたいんだ?」とイモムシはききました。
「大きさには、とやかくいいません」アリスは急《いそ》いで答えました。「でも、あんまりしょっちゅう大きさが変《か》わるのは、あなただっていやでしょう?」
「わしは知らん」イモムシが答えます。
アリスは何もいいませんでした。いままでこんなにいちいち反《はん》対《たい》されたことはなかったので、だんだん癇《かん》癪《しやく》が起《お》こってきそうになっていたのです。
「いまは満《まん》足《ぞく》なのか?」と、イモムシがいいました。
「そうですね、もしできましたら、もうちょっと大きくなりたいと思うのですけど」とアリスはいいました。「八センチでは、いくらなんでも、あまりちびっちゃいので」
「いや、まったく申《もう》しぶんのない大きさだ!」
と、イモムシが怒《おこ》ったようにいいながら、すっくと立ち上がりました。(イモムシはちょうど八センチきっかりでした)
「でも、わたしこの大きさに馴《な》れていないんですもの!」アリスは哀《あわ》れな口《く》調《ちよう》で訴《うつた》えました。そして、心の中で「この虫が、こんなに怒《おこ》りっぽくなければいいのに!」と考えていました。
「そのうち馴《な》れる」とイモムシはいって、水ギセルを口にくわえ、またぷかりぷかりとやりはじめました。
今《こん》度《ど》はアリスはイモムシが自分からしゃべりだすまでじっと辛《しん》抱《ぼう》して待《ま》ちました。一分か二分たつと、イモムシは口から水ギセルを取《と》り、一、二度《ど》あくびをして、ぶるんと身《み》震《ぶる》いしました。それから、キノコから降《お》りて、ゆっくりと草むらの中に這《は》いずりこみながら、行きがけに、「片《かた》側《がわ》なら大きくなるし、反《はん》対《たい》側《がわ》なら小さくなる」とだけいいました。
「片《かた》側《がわ》って、何の? 反《はん》対《たい》側《がわ》って何の?」とアリスはひとり考えました。
「キノコのだ」とイモムシは、まるでアリスが声に出してきいたみたいに答えました。そして、つぎの瞬《しゆん》間《かん》には、もう見えなくなっていました。
アリスはしばらくのあいだキノコをながめて、どっち側《がわ》がどっち側《がわ》かを決《き》めようと考えていました。でもキノコは完《かん》全《ぜん》にまんまるなので、これは大《たい》変《へん》な難《なん》問《もん》でした。けれども、やがてアリスは両《りよう》方《ほう》の腕《うで》をキノコの周《まわ》りにいっぱいにのばして、両《りよう》手《て》で端《はし》の方を少しずつちぎりました。
「さて、どっちがどっちだろう?」アリスはひとりごとをいいながら、まず右手のをちょっぴりかじってようすをみました。とたんに、アリスは顎《あご》の下をがんとなぐられたみたいな気がしました。顎《あご》が足にぶつかったのです。
アリスは、このあまりの急《きゆう》変《へん》に心の底《そこ》から震《ふる》えあがりましたが、そのうちにもすごい勢《いきお》いで縮《ちぢ》んでいくので、 ぐずぐずしているひまはない、 と思って、 すぐに反《はん》対《たい》側《がわ》のを少し食べはじめました。顎《あご》が足にぴったりくっつくぐらいになっているので、口を開《ひら》く余《よ》裕《ゆう》がほとんどありません。でもとうとう何とかやってのけ、左手のほうのをほんのすこし飲《の》みこむことができました。
*
「さあ、やっと頭が自《じ》由《ゆう》になったわ!」とアリスは嬉《うれ》しそうにいいました。が、それも、一《いつ》瞬《しゆん》のこと、自分の肩《かた》がどこにも見えないのに気がつくと、たちまちおどろきの口《く》調《ちよう》に変《か》わってしまいました。下を見おろすと、目に見えるのは、どこまでも途《と》方《ほう》もなく長い長い首で、それは、はるか下にひろがる青《あお》葉《ば》の海《うな》原《ばら》の中から、抜《ぬ》けでた茎《くき》のように見えました。
「あの緑《みどり》色《いろ》のものはいったい何なのかしら?」とアリスはいいました。「それに、わたしの肩《かた》はどこへ行ってしまったのだろう? おまけにかわいそうなわたしの手、どうしておまえは見えないの?」アリスはしゃべりながら手を振《ふ》りましたが、はるか遠くの青《あお》葉《ば》の中がすこしざわめくばかりで、まるきり何の手ごたえもないみたいでした。
両《りよう》手《て》を頭まで持《も》ちあげることが、とてもできそうになかったので、そのかわりに頭のほうを手のところまで持《も》っていこうとしました。すると嬉《うれ》しいことに、首はまるで蛇《へび》のようにどっちに向《む》かってもらくに曲《ま》げられます。アリスは首を、優《ゆう》雅《が》なジグザグ型《がた》に曲《ま》げて、青《あお》葉《ば》の中に突《つ》っこもうとしました――この青《あお》葉《ば》は、アリスがさっきまでうろついていた樹《じゆ》木《もく》の梢《こずえ》であることがわかりました――そのときです。いきなり、するどいひゅっという音がしたので、あわてて首を引っ込《こ》めました。一羽《わ》の大きな鳩《はと》が、アリスの顔めがけて飛《と》んできて、翼《つばさ》で乱《らん》暴《ぼう》に彼《かの》女《じよ》をたたいたのです。
「この蛇《へび》め!」と、鳩《はと》は金《かな》切《き》り声をあげました。
「わたし、蛇《へび》じゃないわ!」とアリスは、腹《はら》を立てていいました。「ほっといてよ!」
「いいえ、蛇《へび》よ。何《なん》度《ど》でもいうよ!」と、鳩《はと》はくり返《かえ》しましたが、今《こん》度《ど》はおし殺《ころ》したような口《く》調《ちよう》でした。そして、泣《な》き声になって、つけ加《くわ》えました。「ありとあらゆることをやってみたんだ、それなのに、どうしてもうまくいかない!」
「何のことをいっているのか、さっぱりわからないわ」とアリス。
「木の根《ね》もためしてみたし、土手にも垣《かき》根《ね》にも巣《す》をつくってみた」と鳩《はと》はアリスのいうことにはかまわずつづけました。「でもあの蛇《へび》のやつめは! まったく、あいつらは満《まん》足《ぞく》するということがないんだわ!」
アリスはますます面《めん》くらいましたが、鳩《はと》がしゃべり終《お》わるまではそれ以《い》上《じよう》何をいっても無《む》駄《だ》だと考えました。
「卵《たまご》をかえすだけじゃ苦《く》労《ろう》が足りないとでもいうみたいに」と、鳩《はと》はさらにつづけます。「夜も昼《ひる》もなしに蛇《へび》を見《み》張《は》ってなきゃならないんだわ! ええ、わたしゃもう三週《しゆう》間《かん》も、一《いつ》睡《すい》もしていないんだ!」
「それはお困《こま》りでしょうね、同《どう》情《じよう》するわ」とアリスはいいました。ようやく、鳩《はと》のいう意《い》味《み》がわかってきたのです。
「そして、ようやく、森でいちばん高い木を見つけたと思ったら――」と、鳩《はと》は金《かな》切《き》り声をはりあげてつづけました。「これでようやく蛇《へび》のことを心《しん》配《ぱい》せずにすむと思ったら、今《こん》度《ど》は空からにょろにょろおりてくるんだからね! ああ、蛇《へび》のやつったら!」
「でも、わたしは蛇《へび》じゃないんだってば!」とアリスはいいました。「わたしはあの……わたしは……」
「ふん! さあおいい、あんたは何なの?」鳩《はと》がいいました。「いくら嘘《うそ》をつこうとしたって、ちゃんとわかるんだから!」
「わたしは……わたしは女の子だわ」とアリスはなんとなくあやふやな口《く》調《ちよう》でいいました。その日、何回もいろいろ変《か》わったのを思いだしたからでした。
「もっともらしいことをいって!」と鳩《はと》は腹《はら》の底《そこ》から軽《けい》蔑《べつ》したような調《ちよう》子《し》でいいました。「あたしは、今までずいぶんたくさんの女の子を見てきたけど、そんな変《へん》な首をした女の子なんて、一度《ど》もお目にかかったことがないわ! だめ、だめ、あんたは蛇《へび》よ。いくらごまかしたって無《む》駄《だ》よ。そのうちには、卵《たまご》なんか食べたこともないといいだすんだろうけどね」
「もちろん、卵《たまご》は食べたことあるわ」と、正《しよう》直《じき》者《もの》のアリスはいいました。「でも、女の子だって、蛇《へび》とおなじように、卵《たまご》ぐらい食べるわよ」
「そうは思わないね」と鳩《はと》がいいます。「でももしそうなら、女の子も蛇《へび》のなかまだということになるわ、あたしにいわせれば」
これは、アリスにとっては、まったく初《はつ》耳《みみ》の考え方だったので、たっぷり一分か二分のあいだ黙《だま》って考えこみました。鳩《はと》はそのあいだにまたしゃべるきっかけをつかみました。「あんたは卵《たまご》を探《さが》してるんだ、それぐらいわかっているわ。それさえわかれば、あんたが女の子だろうと蛇《へび》だろうと、どっちだっていいのさ」
「わたしには、どっちだってよくはないわ」とアリスがあわてていいました。「でもとにかく、わたしは卵《たまご》を探《さが》してたんじゃない。探《さが》してたにしたって、鳩《はと》の卵《たまご》はほしくないわ。なまは嫌《きら》いだし」
「それじゃ行っちゃってよ!」と、鳩《はと》は巣《す》に舞《ま》いおりて来ながら、ふくれっつらでいいました。アリスは木のあいだに精《せい》いっぱいうずくまりました。というのも、首が枝《えだ》にひっかかって、しょっちゅうそれをはずさなければならなかったからです。そうこうしているうちに、アリスは、両《りよう》手《て》にまだキノコのかけらを持《も》っていたことを思いだして、用心しいしい、こっちをちょっとかじったり、あっちをちょっとかじったりしました。そして、時には大きくなり、また時には小さくなりしながら、とうとう最《さい》後《ご》に、あたりまえの背《せ》の高さにもどることに成《せい》功《こう》したのです。
あたりまえの背《せ》の高さになったのは、ずいぶん久《ひさ》しぶりのことだったので、最《さい》初《しよ》のうちはひどく変《へん》な感《かん》じがしましたが、二、三分たつと馴《な》れました。そこで、いつものように、ひとりごとをはじめました。「さあて、これで計画の半《はん》分《ぶん》は完《かん》成《せい》したわ! まったく、こうしょっちゅう変《か》わっていては、頭がおかしくなってしまう。一分先はどうなるのか、自分にもさっぱりわからないんだから! それでもようやくあたりまえの大きさにもどれたんだから、つぎは、あのきれいなお庭《にわ》に入って行くことだけど――いったいどうしたらいいのかしら?」こういったとき、アリスはいきなり開《ひら》けた所《ところ》に出てきました。そこには、一メートル二〇センチばかりの高さの家が建《た》っていました。「あそこにどんな人が住《す》んでいるのか知らないけれど」とアリスは考えました。「いまの大きさでは、とてもなかには入れない。冗《じよう》談《だん》じゃない、みんなおどろいて腰《こし》を抜《ぬ》かしてしまうわ!」そこで、アリスは、右手のキノコを、ほんの少しかじりはじめ、背《せ》が二〇センチばかりになるまでは、その家に近づこうとしませんでした。
6 豚《ぶた》とこしょう
一、二分のあいだ、アリスはその家をながめながら、どうしたものかと迷《まよ》っていました。すると、とつぜん、制《せい》服《ふく》を着《き》た召《めし》使《つか》いが森の中から走りだして来て(召《めし》使《つか》いだと思ったのは、その男が制《せい》服《ふく》を着《き》ていたからです。顔だけ見たのなら、魚だと思ったでしょう)拳《げん》骨《こつ》で家の玄《げん》関《かん》をどんどんとたたきました。玄《げん》関《かん》のドアをあけたのは、やはり制《せい》服《ふく》を着《き》たべつの召《めし》使《つか》いで、これはまんまるい顔に、蛙《かえる》みたいな大きな目玉をしていました。召《めし》使《つか》いは二人《ふたり》とも、頭の髪《かみ》をカールさせ、髪《かみ》粉《こ》をふりかけているのにアリスは気がつきました。いったいこれはどういうことなのだろうと、不《ふ》思《し》議《ぎ》に思ったアリスは、森からすこししのび出て、耳をすましました。
魚の顔の召《めし》使《つか》いは、わきの下から自分の背《せ》の高さほどもある大きな手紙を取《と》りだして、それを相《あい》手《て》の召《めし》使《つか》いに渡《わた》しながら、声もおごそかにこういいました。「公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》へ、女王様より、クローケーへのご招《しよう》待《たい》状《じよう》でございます」すると蛙《かえる》の顔の召《めし》使《つか》いは、同じようなしかつめらしい口《く》調《ちよう》で、ただことばの順《じゆん》序《じよ》を少し変《か》えて、くり返《かえ》しました。「女王様より、公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》へ、クローケーへのご招《しよう》待《たい》状《じよう》でございますな」
そして二人《ふたり》は同時に頭をひくくさげたので、頭のちぢれ毛がもつれあいました。
アリスはこれがおかしくて大《おお》笑《わら》いしてしまいましたが、聞きつけられては大《たい》変《へん》と、森の中へ逃《に》げこまなければなりませんでした。そしてまた顔をのぞかせたときには、魚の召《めし》使《つか》いの姿《すがた》はもうなく、もう一《ひと》人《り》の方はドアのそばの地《じ》面《めん》にぺったりすわりこんで、ぼんやりと空を見あげていました。
アリスはおずおずとドアのところへ進《すす》んで、ノックしました。
「ノックなんかしたって無《む》駄《だ》だよ」と召《めし》使《つか》いがいいました。「それには二つのわけがある。一つはわしがおまえさんと同じ側《がわ》にいるからで、二つには家の中では大《だい》騒《そう》動《どう》の真《まつ》最《さい》中《ちゆう》だから、だれにも聞こえっこないからさ」たしかに、なかでは、とんでもない大きな音がしていました――絶《た》え間なくどなる声やくしゃみの音、それに時々がっちゃーんという、お皿《さら》かどびんが粉《こな》みじんに割《わ》れるような音がするのです。
「それじゃお願《ねが》い」とアリスはいいました。「わたし、どうしたら入れてもらえるの?」
「もしわしらがドアのこっち側《がわ》とあっち側《がわ》にいるのであれば」と召《めし》使《つか》いはアリスのいうことなどおかまいなくつづけました。「ノックするのもいいかもしれない。たとえば、おまえさんが内《うち》側《がわ》にいるんなら、ドアをたたけば、わしが外へ出してやれるわけだ」召《めし》使《つか》いは、しゃべっているあいだも、ずっと空をむいていました。アリスはずいぶん失《しつ》礼《れい》だわと思いました。「でも、どうしようもないのかもしれないわ」とひとりごとをいいました。「目があんなに頭のてっぺん近くについているんだから。でもとにかく、質《しつ》問《もん》に答えてくれたっていいはずよ。どうしたら入れてもらえるの?」アリスは最《さい》後《ご》の質《しつ》問《もん》を、口にだしてくり返《かえ》しました。
「わしはここにすわってる」と召《めし》使《つか》いはいいました。「明日までは――」
その瞬《しゆん》間《かん》、家のドアがあいて、大きなお皿《さら》が召《めし》使《つか》いの頭をめがけてひゅーっと飛《と》んできました。お皿《さら》は召《めし》使《つか》いの鼻《はな》をかすめて、後ろの木の一本にあたり、こっぱみじんになりました。
「――でなきゃそのあくる日ぐらいまでは」召《めし》使《つか》いは同じ口《く》調《ちよう》でつづけました。まるで、何《なに》事《ごと》もなかったようなぐあいでした。
「どうしたら入れるのよ?」アリスはもう一度《ど》、前より大きな声で聞きました。
「おまえさんは入るのかい?」と召《めし》使《つか》い。「まずそれから決《き》めなくちゃね」
それは、そうに決《き》まっています。でもアリスは、そんなことをいわれるのはおもしろくありませんでした。「まったくひどい話だわ」と彼《かの》女《じよ》はひとり心につぶやきました。「この動《どう》物《ぶつ》たちの、ひねくれたもののいい方は! きちがいになってしまいそうだわ!」
召《めし》使《つか》いはこれを、自分のことばを、いい方を変《か》えてくり返《かえ》すのにいいチャンスだと思ったようでした。「わしはここにすわってる。つづけたり、やめたり、来る日も、また来る日もな」
「でも、わたしはどうしたらいいの?」とアリスはいいました。
「おまえさんのかってさ」と召《めし》使《つか》いはいって、口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》きはじめました。
「こんなやつに話したってむだだわ!」とアリスはやけになっていいました。「まるっきりばかだもの!」そして、ドアをあけて、中に入りました。
ドアをあけると、そこは大きなキッチンで、端《はし》から端《はし》まで煙《けむり》だらけでした。公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》はまん中の三《さん》本《ぼん》脚《あし》の椅《い》子《す》に腰《こし》かけて、赤んぼうをあやしていました。コックは火の上に身《み》を乗《の》りだして、スープがいっぱい入っているらしい大なべをかきまわしています。
「あのスープには、こしょうが入りすぎているんだわ!」と、アリスは一《いつ》生《しよう》懸《けん》命《めい》いいました。くしゃみが出てしかたがなかったのです。
たしかに、こしょうは、空気中にはありすぎました。公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》さえ時々くしゃみをしています。そして赤んぼうはといえば、くしゃみと泣《な》きわめくのを、ひっきりなしにくり返《かえ》しています。キッチンの中で、くしゃみをしていないのはコックと、炉《ろ》辺《ばた》にすわって、耳まで裂《さ》けるほど大口をあいてにやにや笑《わら》いをしている猫《ねこ》だけでした。
「おそれいりますが――」とアリスは、おずおずとことばをかけました。というのは、自分のほうから口をきくのが礼《れい》儀《ぎ》正しいことなのかどうか、自《じ》信《しん》がなかったからでした。「あなたの猫《ねこ》は、どうしてあんなに笑《わら》っているのですか?」
「チェシャ猫《ねこ》なのよ。だから笑《わら》うの。この豚《ぶた》!」
公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》が最《さい》後《ご》のことばをいきなりものすごい勢《いきお》いでいったので、アリスは文《も》字《じ》どおりとび上がりました。でもすぐに、それは赤んぼうに向《む》かっていわれたので、自分にではないことがわかったので、勇《ゆう》気《き》をふるって、もう一度《ど》ききました。
「わたし、チェシャ猫《ねこ》が必《かなら》ず笑《わら》うものだとは知りませんでした。というよりも、猫《ねこ》が笑《わら》えるとは思ってもみませんでした」
「猫《ねこ》はみんな笑《わら》えます」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》。「たいていの猫《ねこ》は笑《わら》いますよ」
「わたくしは、笑《わら》える猫《ねこ》なんか知りませんけれど」アリスは、話ができるようになったのを、とても嬉《うれ》しく思いながら、うんとていねいなことばづかいでいいました。
「あなたは物《もの》を知らないのです」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》がいいました。「それはまちがいありません」
アリスは公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》のこのいい方が気にくわなかったので、話《わ》題《だい》を変《か》えたほうがいいなと思いました。そして、何か話《わ》題《だい》をきめようとしていると、コックがスープのなべを火からおろし、手のとどくところにあるものを、手あたりしだいに公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》と赤んぼうに向《む》かって投《な》げつけはじめたのです。まず火ばしが飛《と》んできました。つづいて、ソースなべや、金《きん》属《ぞく》の皿《さら》、陶《とう》器《き》の皿《さら》が雨のように降《ふ》ってきます。公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》は、平《へい》気《き》な顔で、あたっても知らん顔をしています。赤んぼうは前からすごい大声で泣《な》きわめいているので、ぶつかって痛《いた》かったのかどうか、とてもわかりませんでした。
「まあ、お願《ねが》い、そんなことしないで!」とアリスはこわさのあまりとび上がったりしゃがんだりしながら叫《さけ》びました。「ああ、赤ちゃんの大切なお鼻《はな》がとれちゃうわ!」恐《おそ》ろしく大きなソースなべが赤んぼうの鼻《はな》すれすれのところを飛《と》んで、もうすこしでさらって行きかけたのです。
「世《せ》間《けん》の人がみんなよけいなお節《せつ》介《かい》をしなければ」と、公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》がしわがれたうなるような声でいいました。「世《よ》の中は、ずっと早く動《うご》いていくはずなのに」
「それは世《よ》の中のためにはなりませんよ」とアリスがいいました。自分の知《ち》識《しき》をちょっぴり見せびらかす機《き》会《かい》が見つかって、嬉《うれ》しくなったのです。「だって考えてごらんなさい、そんなことをすれば、昼と夜とが大《たい》変《へん》なことになりますわ! だって、地《ち》球《きゆう》は、その自転軸《アクシス》のまわりをまわるのに、二十四時間かかるけど――」
「斧《アツクス》といえば――」と、公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》がいいました。「あの子の首をちょん切って!」
アリスはコックを心《しん》配《ぱい》そうに見やりました。コックが本《ほん》気《き》で命《めい》令《れい》に従《したが》うかどうか気になったからです。でもコックはせわしげにスープをかきまわしていて、聞いていないようすだったので、アリスは先をつづけました。「二十四時間だったと思うけど……それとも、十二時間かしら? わたし……」
「うるさいよ!」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》はいいました。「私《わたし》は数字にはがまんがならないんだから」そういって、また赤んぼうをあやしはじめながら、子《こ》守《もり》歌《うた》らしいものを歌いだしました。そして一節《せつ》おわるたびに、赤んぼうを、乱《らん》暴《ぼう》にゆすぶるのです。
かわいいぼうやは叱《しか》りつけ
くしゃみをしたらひっぱたけ
ひとが嫌《いや》がるのを知っていて
困《こま》らせようとするのだから
合《がつ》唱《しよう》
(コックと赤んぼうが声をあわせて)
「わあ! わあ! わあ!」
公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》は、二番を歌いながら、赤んぼうを乱《らん》暴《ぼう》に投《な》げあげたり受《う》けとめたりしたので、かわいそうに赤んぼうは、はげしく泣《な》きわめき、そのためアリスは、歌《か》詞《し》がほとんど聞きとれませんでした。
かわいいぼうやにゃ きびしくします
くしゃみをすれば なぐります
こしょうは いつでも 好《す》きなだけ
たっぷり味《あじ》わえるものだから
合《がつ》唱《しよう》
「わあ! わあ! わあ!」
「そら! お望《のぞ》みなら、すこしあやしてごらん!」公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》はいうと、同時に赤んぼうをアリスにほうりました。「私は女王様とクローケーをする用《よう》意《い》をしに行かなきゃ」そして、さっさと部《へ》屋《や》を出て行きました。コックは出て行く公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》の後ろからフライパンを投《な》げつけましたが、ねらいはわずかにはずれました。
アリスは赤んぼうをあぶないところで受《う》けとめました。変《へん》なかっこうをした赤ちゃんで手足を四方につきだすので、とても抱《だ》きにくいのです。「まるでひとでみたいだわ」とアリスは思いました。アリスが受《う》けとめたとき、ちいさな赤んぼうは蒸《じよう》気《き》エンジンのようにすごい勢《いきお》いで鼻《はな》をならし、からだを二つ折《お》りにしたり、またふんぞり返《かえ》ったりしていました。それで、最《さい》初《しよ》の一、二分のあいだは、つかまえているのが精《せい》いっぱいでした。
正しいあやし方がわかるとすぐに(それは結《むす》び目《め》をつくるようにねじって、ほどけないように右の耳と左《ひだり》脚《あし》とをぎゅっとおさえつけているのでした)アリスは赤んぼうを外に連《つ》れだしました。「もしわたしがいっしょに連《つ》れていかなければ」とアリスは考えました。「あの人たちは、一日か二日もしないうちに、必《かなら》ずこの子を殺《ころ》してしまうわ。とすれば、置《お》いてくるのは人《ひと》殺《ごろ》しみたいなものじゃない?」最《さい》後《ご》のことばを声にだしていうと、小さな赤んぼうはぶうぶうとうなって返《へん》事《じ》をしました。(このときにはもうくしゃみはとまっていました)「ぶうぶういわないの」とアリスはいいました。「そんなもののいい方はしちゃいけないのよ」
赤んぼうがまたぶうぶううなったので、アリスはどうしたのだろうと思って、その顔を心《しん》配《ぱい》そうにのぞきこみました。すると――疑《うたが》う余《よ》地《ち》はありません、赤んぼうは、ほんものの鼻《はな》より、ずっと動《どう》物《ぶつ》の鼻《はな》ににた、ひどいししっぱなをしていました。おまけに、その目は、赤んぼうにしてはあまりにも小さすぎます。そんなこんなで、アリスは、この赤んぼうの顔つきが気に入りませんでした。「でも、きっと泣《な》いていたからだわ」と彼《かの》女《じよ》は考えて、涙《なみだ》が出ているかどうかたしかめようと、その目をもう一度《ど》のぞきこみました。
でも、涙《なみだ》は一《いつ》滴《てき》も出ていませんでした。「もしこのまま豚《ぶた》に変《か》わるんなら」と、アリスは真《しん》剣《けん》な顔でいいました。「もうわたし、あなたなんか相《あい》手《て》にしないからね、わかった!」赤んぼうはまたすすり泣《な》きしました。(それともぶうぶういったのか、どっちか区《く》別《べつ》できませんでした)二人《ふたり》はそれからしばらく、黙《だま》って進《すす》みました。
アリスは心の中で考えはじめました。「ところで、家へ帰ったら、この子をどうしたらいいかしら?」ちょうどそのとき赤んぼうがまた、すごくはげしくうなったので、はっとして顔をのぞきこみました。今《こん》度《ど》こそいよいよ疑《うたが》いようもありませんでした――それは正《しよう》真《しん》正《しよう》銘《めい》の豚《ぶた》でした。アリスは、これ以《い》上《じよう》こんなものを運《はこ》んでいるのはあんまりばかげている、と思いました。
そこで小《こ》豚《ぶた》を地《じ》面《めん》に降《お》ろすと、それはとことこと、静《しず》かに森の中へ入って行きます。アリスは心からほっとしました。「人間として育《そだ》っていったら」とアリスはひとりごとをいいました。「きっと、すごくみっともない子になったにちがいないわ。でも豚《ぶた》としてはハンサムだと思うわ」そして、自分の知っているほかの子どもたちで、豚《ぶた》になったほうがいいかもしれないもののことを考え、ちょうど「もし変《へん》身《しん》の術《じゆつ》をちゃんと知っている人がいたら――」といいかけたとき、チェシャ猫《ねこ》が、ほんの二、三メートル先の木の枝《えだ》にすわっているのを見つけて、ぎょっとしました。
猫《ねこ》はアリスを見てにやりと笑《わら》っただけでした。性《せい》質《しつ》のよさそうな猫《ねこ》に見えました。でも、すごく長い爪《つめ》と、ものすごくたくさんの歯《は》を持《も》っているので、ちゃんと敬《けい》意《い》を表《ひよう》したほうがいい、と考えました。
「チェシャ猫《ねこ》ちゃん」と、アリスはちょっとおずおずした口《く》調《ちよう》でいいました。というのは、その呼《よ》び方を気に入ってくれるかどうか、ぜんぜん自《じ》信《しん》がなかったからです。それでも、猫《ねこ》は前より大きな口をあけて笑《わら》っただけでした。「しめた、まずここまでは喜《よろこ》んでるわ」とアリスは考え、先をつづけました。「ねえ、教えてくださらない、ここからどっちへ行ったらいいのかしら?」
「それは、あんたがどこへ行きたいかによってちがうさ」と猫《ねこ》がいいました。
「わたしは、どこでもかまいません」とアリス。
「それじゃ、どっちへ行ったって、かまわないだろう」と猫《ねこ》がいいます。
「――ど《ヽ》こ《ヽ》か《ヽ》へ《ヽ》出さえすればね」とアリスは説《せつ》明《めい》のためにつけ加《くわ》えました。
「そりゃ、もちろん出るにきまってる」と猫《ねこ》はいいました。「どこまでも歩《ある》いていけばね!」
アリスは、これはもっともだ、と思ったので、もう一つ質《しつ》問《もん》しました。「このへんには、どんな人が住《す》んでいるんですか?」
「こっちの方には」と猫《ねこ》は右《みぎ》脚《あし》をふりまわして「帽《ぼう》子《し》屋《や》が住《す》んでいる。それからこっちの方には」といっても、もう一方の脚《あし》をふり「三月兎《うさぎ》が住《す》んでいるよ。どっちでも訪《たず》ねてごらん。両《りよう》方《ほう》とも気ちがいだから」
「でも、わたし、気ちがいのところなんかには行きたくないわ」と、アリスがいいました。
「だってそれはしかたがないさ」と猫《ねこ》はいいました。「ここに住《す》んでるものはみんな気ちがいなんだから。おれも気ちがいだし、あんたも気ちがいさ」
「どうして、わたしが気ちがいだなんていうんです?」と、アリスがいいました。
「そうにきまってるさ」と猫《ねこ》。「でなきゃ、ここへ来たりしなかったろうからな」
アリスは、そんな理《り》くつはぜんぜんないと思いましたが、ことばをつづけました。「それじゃあなたが気ちがいだということはどうしてわかるんですか?」
「まず第《だい》一《いち》にだ」と猫《ねこ》がいいました。「犬は気ちがいじゃない。これは認《みと》めるかい?」
「まあそうでしょうね」とアリス。
「よろしい」と猫《ねこ》はつづけます。「犬は怒《おこ》るとうなり、嬉《うれ》しいときには尾《お》を振《ふ》るだろう。ところが、おれは嬉《うれ》しいときにうなって、腹《はら》がたつと尾《お》を振《ふ》る。だから、おれは気ちがいなんだ」
「それは咽《の》喉《ど》を鳴《な》らしてるんで、うなってるんじゃないでしょう」と、アリスがいいました。
「何とでもかってにいうがいいさ」と猫《ねこ》。「今日、女王様とクローケーをやるかい?」
「それは、とってもしたいと思いますけど」とアリス。「でもわたし、まだご招《しよう》待《たい》を受《う》けてないんです」
「じゃ、そこで会おう」と猫《ねこ》はいって、消《き》えてしまいました。
これには、アリスは大しておどろきませんでした。おかしなことの起《お》こるのに、もうすっかり馴《な》れてきたからです。アリスが、いままで猫《ねこ》のいたところをながめていると、猫《ねこ》はとつぜんまた姿《すがた》を現《あら》わしました。
「ところで、あの赤んぼうはどうなった?」と猫《ねこ》がききました。「きくのを忘《わす》れるところだった」
「豚《ピツグ》になってしまいました」とアリスは、猫《ねこ》がごくありふれた帰って来かたをしたように、落《お》ち着《つ》いていいました。
「そうだろうと思った」と猫《ねこ》はいって、また消《き》えました。
アリスは、猫《ねこ》がもう一度《ど》現《あら》われないかと半《なか》ば期《き》待《たい》しながらもう少し待《ま》ちましたが、もう現《あら》われませんでした。一分か二分すると、三月兎《うさぎ》が住《す》んでいるといわれた方《ほう》角《がく》に向《む》かって歩きだしました。「帽《ぼう》子《し》屋《や》には会ったことがあるけれど」とアリスはひとりごとをいいました。「三月兎《うさぎ》のほうがずっとおもしろそうだし、それに今は五月だから、そんなにめちゃめちゃに狂《くる》ってもいないでしょう――少なくとも三月頃《ごろ》ほどではないと思うわ」こういってふと見あげると、そこの木の枝《えだ》に、れいの猫《ねこ》がまた現《あら》われてすわっていました。
「さっきは豚《ピツグ》といったのかい、それとも無花果《フイツグ》といったのかい?」と猫《ねこ》はいいました。
「豚《ピツグ》といいました」とアリスは答えました。「お願《ねが》いですから、そんなに急《きゆう》に、消《き》えたり出たりしないでいただけません? めがまわりそうになるわ」
「わかったよ」と猫《ねこ》はいいました。そして、今《こん》度《ど》はひどくゆっくり消《き》えていきました。はじめは尻《しつ》尾《ぽ》の先から消《き》え、最《さい》後《ご》はにやにや笑《わら》いする顔でしたが、それは、ほかの部《ぶ》分《ぶん》がすっかり消《き》えてしまってからも、しばらくのあいだ消《き》えずに残《のこ》っていました。
「なんてことなの! にやにや笑《わら》わない猫《ねこ》は何《なん》度《ど》も見たことはあるけど――」と、アリスは思いました。「猫《ねこ》なしのにやにや笑《わら》いなんて知らなかったわ! まったく、こんなおかしなことは、生まれてはじめてだわ!」
それほど遠くまで行かないうちに、三月兎《うさぎ》の家が見えてきました。それは、いかにも兎《うさぎ》の家らしく見えました。というのは、煙《えん》突《とつ》は耳のかっこうをしているし、屋《や》根《ね》は毛《もう》布《ふ》でふいてあったからです。それは、すごく大きな家だったので、アリスはそのまま近づいて行く気がしませんでした。そこで、左手のキノコのはじをもう少しかじって、六〇センチほどの背《せ》の高さにしました。それでも、家に近づいて行ったときは、かなりおそるおそるで、こんなひとりごとをいいました。「やっぱり、すごく狂《くる》っているかもしれないわ! こっちじゃなくて、帽《ぼう》子《し》屋《や》に会いに行ったほうがよかったような気がしてきたわ!」
7 気ちがいお茶会
家の前の樹《き》の下にテーブルが置《お》いてあって、三月兎《うさぎ》と帽《ぼう》子《し》屋《や》とが、お茶を飲《の》んでいました。そのあいだにヤマネ(ねむり鼠《ドーマウス》ともいう)がすわっていて、ぐっすり眠《ねむ》りこんでいました。ほかの二人《ふたり》はそのヤマネをクッションがわりにして、その上に肘《ひじ》をつき、頭《あたま》越《ご》しに話をしていました。「ヤマネはずいぶんきゅうくつだろうな」とアリスは思いました。「でも、ああして眠《ねむ》っているんだから、気にならないのかな」
大きなテーブルだったのに、三人は一か所にごちゃごちゃとかたまっていました。アリスが来るのを見ると「席《せき》はないよ! 席《せき》はないよ!」と叫《さけ》びました。
「いくらでもあるじゃないの!」アリスはむっとしていうと、テーブルの一方の端《はし》にあった肘《ひじ》かけ椅《い》子《す》にすわりました。
「ワインを飲《の》むかね?」と、三月兎《うさぎ》が、いかにもすすめたそうな顔でいいました。
アリスはテーブルをぐるりと見わたしましたが、お茶《ヽ》しかありません。「ワインなんかないじゃない?」と、いいました。
「そんなものはないさ」と三月兎《うさぎ》が答えました。
「ないものをすすめるなんて、ずいぶん礼《れい》儀《ぎ》知らずじゃないの」と、アリスはむっとした口《く》調《ちよう》でいいました。
「招《しよう》待《たい》もされないのに、すわりこむなんて、ずいぶん礼《れい》儀《ぎ》知らずじゃないか」と三月兎《うさぎ》がいいました。
「あなたのテーブルだとは知らなかったわ」とアリス。「三人にしては、ずいぶんたくさんの用《よう》意《い》がしてあるじゃない」
「あんたの髪《かみ》は刈《か》らなきゃいかんな」と帽《ぼう》子《し》屋《や》がいいました。帽《ぼう》子《し》屋《や》は、ながいこと、非《ひ》常《じよう》な好《こう》奇《き》心《しん》をこめてアリスを見ていたのですが、これが、はじめていったことばでした。
「人のことはとやかくいわないものよ」とアリスはかなり手きびしくいいました。「ずいぶん失《しつ》礼《れい》だわ」
帽《ぼう》子《し》屋《や》はこれを聞くと大きく目を見はりました。でも、ただ「大《レ》が《イ》ら《ヴ》す《ン》が机《つくえ》に似《に》ているのはなぜか?」といっただけでした。
「さあ、おもしろくなってきそうよ!」と、アリスは考えました。「なぞなぞを始《はじ》めたのは嬉《うれ》しいわ――その問《もん》題《だい》なら、わたしにも答えられそうだわ」アリスは、声に出していいました。
「つまり、これに答えられるというのかね?」と、三月兎《うさぎ》がいいました。
「そのとおりよ」とアリス。
「それじゃいってみるんだな」と三月兎《うさぎ》がつづけます。
「いうわよ」アリスは急《いそ》いで答えました。「少なくとも……少なくとも私は考えてるとおりのことをいうのよ――それはおなじものでしょう」
「ちっともおなじじゃない!」と、帽《ぼう》子《し》屋《や》がいいました。「それじゃなにかい、あんたは、『私は食べるものが見える』というのは、『私は見えるものを食べる』というのとおなじことだというのかい?」
「おまえさんは――」と、三月兎《うさぎ》が横《よこ》からいいました。「『私は手に入るものが好《す》きだ』というのと『私は好《す》きなものを手に入れる』というのとおなじだというのか?」
「あんたはこういうのかい?」と、ヤマネが寝《ね》言《ごと》のようにいいました。「私は眠《ねむ》っているとき息《いき》をする』というのと、『息《いき》をしているとき寝《ね》る』というのとおなじだって!」
「おまえにとっちゃおなじことさ」と帽《ぼう》子《し》屋《や》がいいました。そこで、会話はとぎれ、一同は一分ほど黙《だま》りこみました。そのあいだアリスは大がらすと机《つくえ》について、思いだせることを残《のこ》らず思いだしてみましたが、たいしたことは思いだせませんでした。
帽《ぼう》子《し》屋《や》が、最《さい》初《しよ》に沈《ちん》黙《もく》をやぶりました。「いまは月の何日だい?」と、アリスに向《む》かっていったのです。彼《かれ》はポケットから時《と》計《けい》を取《と》りだして、心《しん》配《ぱい》そうにながめ、時々ふってみたり、耳にあててみたりしました。
アリスはちょっと考えてからいいました。「四日よ」
「二日くるっている!」といって、帽《ぼう》子《し》屋《や》がため息《いき》をつきました。「だから、あんたのバターは機《き》械《かい》にはあわないといったんだ!」彼《かれ》は、三月兎《うさぎ》を怒《おこ》ったように見やりながらつけ加《くわ》えました。
「いちばん上《じよう》等《とう》のバターだったんだ」と三月兎《うさぎ》がおとなしく答えました。
「ああ、だけど、きっとパンくずがまじったにちがいない」と帽《ぼう》子《し》屋《や》がこぼしました。「パンナイフで入れたのがいけないんだよ」
三月兎《うさぎ》は時《と》計《けい》を手に取《と》って、陰《いん》気《き》な顔でながめました。そして、自分のお茶のカップにじゃぶんとつけ、またながめました。しかしけっきょく、最《さい》初《しよ》のことばをくり返《かえ》すしかありませんでした。「あれは最《さい》高《こう》のバターだったんだがなあ」
アリスは三月兎《うさぎ》の肩《かた》越《ご》しに、それを珍《めずら》しそうにながめていました。「なんておかしな時《と》計《けい》なの!」といいました。「これ、何日かはわかるけど、何時かはわからないじゃないの!」
「なぜそれがいけないんだ?」と帽《ぼう》子《し》屋《や》がつぶやくようにいいました。「あんたの時《と》計《けい》は、年がわかるのかい?」
「もちろん、そうじゃないわ」とアリスは待《ま》っていましたとばかりいい返《かえ》しました。「でもそれは、時間が、ずいぶん長いあいだ、同じ年にとまっているからよ」
「それなら、ぼくの場合もそうだ」と帽《ぼう》子《し》屋《や》はいいました。
アリスはひどく面《めん》くらいました。帽《ぼう》子《し》屋《や》のことばは、まるで意《い》味《み》がないように聞こえたのですが、それでも、それはちゃんとしたことばにはちがいありません。「わたしには、あなたのいう意《い》味《み》がわかりません」と、アリスはできるだけていねいにいいました。
「ヤマネはまた眠《ねむ》りこんじゃった」と、帽《ぼう》子《し》屋《や》はいって、あついお茶を少しその鼻《はな》面《づら》にかけました。
ヤマネはじれったそうに首を振《ふ》りましたが、目もあけようともせず「そうとも、そうとも。いまぼくも、そういおうと思っていたところなんだ」といいました。
「あのなぞなぞの答えはわかったかい?」と帽《ぼう》子《し》屋《や》がまたアリスの方を向《む》いていいました。
「いいえ。降《こう》参《さん》するわ」とアリスは答えました。「答えは?」
「ぼくにはまるきりわからんよ」と帽《ぼう》子《し》屋《や》がいいます。
「おれもだ」と三月兎《うさぎ》もいいました。
アリスはうんざりしてため息《いき》をつきました。「あなた方、もう少しましな時間の過《す》ごしかたをしたら? 答えもないなぞなぞなんかして時間をつぶしているよりは」
「あんたが私くらい『時間《タイム》』のことを知ってるなら」と帽《ぼう》子《し》屋《や》がいいました。「『時間《タイム》』をつ《ヽ》ぶ《ヽ》す《ヽ》なんていいかたはしないものだよ。『時間《タイム》』は人《ヒ》間《ム》だよ」
「あなたのいう意《い》味《み》がわからないわ」とアリスはいいました。
「もちろん、わからないさ!」と帽《ぼう》子《し》屋《や》は、さも軽《けい》蔑《べつ》したように頭をそっくりかえらせていいました。「あんたは、『時間《タイム》』に話しかけたことさえないにちがいないんだ!」
「そりゃ、ないと思うわ」と、アリスは用心深《ぶか》く答えました。「でも、音楽をならうときには、拍子《タイム》を打《う》たなくちゃならないということは知ってるわ」
「ああ、それでわかった」と帽《ぼう》子《し》屋《や》はいいました。「『時間』は、ぶたれるのがいやなんだよ。いいかい、『時間』とは、なかよくやってさえいれば、時《と》計《けい》に対《たい》するたいていの頼《たの》みはかなえてくれるんだ。たとえば、いまが朝の九時で、ちょうど勉《べん》強《きよう》を始《はじ》める時間だとしてみようか。そのとき、『時間』に、ほんのちょいと耳うちしさえすれば、まばたきひとつするうちに時《と》計《けい》はぐるりとまわる! 一時半《はん》の昼食の時間になっているというぐあいだよ」(「そうだったらありがたいがね」と三月兎《うさぎ》がひそひそひとりごとをいいました)
「そうならすてきね、ほんとうに」とアリスは考え深《ぶか》い顔になって、「でもそれじゃ……おなかがすいていないんじゃないの?」
「そりゃ、最《さい》初《しよ》のうちはそうかもしれない」と帽《ぼう》子《し》屋《や》がいいました。「でも、いくらでも好《す》きなだけのあいだ、一時半《はん》にしておくことができるんだよ」
「あなたはそうしているの?」とアリスはききました。
帽《ぼう》子《し》屋《や》は悲《かな》しげに首を振《ふ》りました。「それがだめなんだ」と彼《かれ》は答えました。「去《きよ》年《ねん》の三月、喧《けん》嘩《か》をしちまった――あいつが気ちがいになるちょっと前にね」(スプーンで三月兎《うさぎ》を指《さ》しながら)「ハートの女王がもよおされた大《だい》演《えん》奏《そう》会《かい》のときだった。ぼくは、
『きらきら 光れ 小さな蝙蝠《こうもり》
おまえのねらいは 何だろう』
を歌わなければならなかった。この歌は、知っているだろう?」
「よく似《に》たのは、聞いたことがあるわ」とアリスはいいました。(有名な「きらきら星よ」の替え歌)
「こんなふうにつづくんだよ、いいかい」と、帽《ぼう》子《し》屋《や》は先をつづけます。
『世《せ》界《かい》の空を 高く飛《と》ぶ
お空の中のお盆《ぼん》のように
きらきら、きらきら――』」
そこまで来ると、ヤマネが身《み》震《ぶる》いして、眠《ねむ》りながら歌いはじめました。「きらきら、きらきら、きらきら――」どこまでいってもとまらないので、つねってとめさせなければなりませんでした。
「ところが、ぼくが一番を歌い終《お》わるか終《お》わらないかのうちに――」と、帽《ぼう》子《し》屋《や》はいいました。
「女王がいきなりどなりだしたんだ。『あの者は時間《タイム》をつ《キ》ぶ《ル》している! 首を切れ!』とね」
「そんな、野《や》蛮《ばん》な!」と、アリスは叫《さけ》びました。
「そして、それ以《い》来《らい》――」と、帽《ぼう》子《し》屋《や》は悲《かな》しげな口《く》調《ちよう》でつづけました。「時間は、ぼくが頼《たの》むことを何ひとつやってくれようとしないんだ! 今では、いつでも六時なんだよ」
とたんに、アリスの脳《のう》裡《り》に、ぱっと何かがひらめきました。「そのせいで、ここに、こんなにたくさんお茶の道《どう》具《ぐ》が出してあるのね?」とききました。
「ああ、そうなんだ」と帽《ぼう》子《し》屋《や》は深《ふか》いため息《いき》とともにいいます。「いつでもお茶の時間なんで、合《あい》間《ま》にコップや何かを洗《あら》うひまがないんだよ」
「それで、ぐるぐるテーブルのまわりをまわってるわけ?」とアリス。
「そのとおりさ」と帽《ぼう》子《し》屋《や》。「だって、道《どう》具《ぐ》はみんな使《つか》ってしまったからね」
「でも、また始《はじ》めのところへもどってきたらどうするんですか?」とアリスは勇《ゆう》気《き》を出してきいてみました。
「そろそろ話《わ》題《だい》を変《か》えないか」と、三月兎《うさぎ》があくびをしながら口をはさみました。「この話にはあきがきたよ。おれは、このおじょうさんに話をしてもらいたいね」
「わたし、悪《わる》いけど、何もお話は知らないわ」とアリスは、この提《てい》案《あん》にびっくりして、いいました。
「それじゃヤマネにさせよう!」と、二人《ふたり》は叫《さけ》びました。「目を覚《さ》ませ、ヤマネ!」そして二人《ふたり》は、両《りよう》側《がわ》から、同時にヤマネをつねりました。
ヤマネはのろのろと目をあけました。「ぼくは寝《ね》てなんかいなかったよ」と彼《かれ》は、しわがれた、よわよわしい声でいいました。「きみたちのしゃべっていたことは、一《ひと》言《こと》ももらさず聞いていたよ」
「話をしろよ!」と、三月兎《うさぎ》がいいました。
「そうよ、お話をしてちょうだい!」と、アリスもせがみました。
「それも、早いところ頼《たの》むよ」と、帽《ぼう》子《し》屋《や》がつけ加《くわ》えました。「でないと、話が終《お》わらないうちに、おまえはまた眠《ねむ》りこんでしまう」
「むかしむかし、小さな三人の姉《し》妹《まい》がいました――」と、ヤマネは、ものすごい早さで話しはじめました。「姉《し》妹《まい》の名前は、エルシーとレーシーとティリーでした。三人は、ある井《い》戸《ど》の底《そこ》に住《す》んでいました――」
「何を食べて暮《く》らしていたの?」とアリスはいいました。どんなときでも、飲《の》んだり食べたりすることには、非《ひ》常《じよう》な興《きよう》味《み》を持《も》っていたからです。
「糖《とう》蜜《みつ》を食べて暮《く》らしていました」と、ヤマネは、一、二分考えてからいいました。
「そんなことはないはずよ」とアリスは穏《おだ》やかに注《ちゆう》意《い》しました。「だって、そんなものを食べたら病《びよう》気《き》になってしまうもの」
「病《びよう》気《き》だったのです」と、ヤマネはいいました。「とても重《おも》い病《びよう》気《き》でした」
アリスは、そんな風《ふう》変《が》わりな暮《く》らしとは、いったいどんなものだろう、と想《そう》像《ぞう》してみようとしましたが、さっぱり見当もつかなかったので、またことばをつづけました。「でも、どうしてその姉《し》妹《まい》は井《い》戸《ど》の底《そこ》なんかに住《す》んでいたの?」
「もっとお茶を飲《の》みなよ」と、三月兎《うさぎ》がアリスにひどく熱《ねつ》心《しん》にすすめました。
「わたしはまだ何も飲《の》んでいないわ」とアリスはかっとした口《く》調《ちよう》でいいました。「だから、もっとは飲《の》めないわよ」
「あんたのいうのは、もっと少なくは飲《の》めないという意《い》味《み》だろう」と、帽《ぼう》子《し》屋《や》がいいました。「ゼロよりもっと多く飲《の》むのは、わけないじゃないか」
「あなたの意《い》見《けん》なんか、だれもきいていないわ」とアリスはいいました。
「そうら。ひとのことをとやかくいってるのはだれだ?」と、帽《ぼう》子《し》屋《や》が、勝《か》ち誇《ほこ》ったようにいいました。
アリスは、これに何と答えていいかさっぱりわからなかったので、自分でお茶を少しつぎ、バタつきパンを取《と》ると、ヤマネに向《む》きなおって、さっきの質《しつ》問《もん》をくり返《かえ》しました。「その姉《し》妹《まい》は、どうして井《い》戸《ど》の底《そこ》で暮《く》らしていたの?」
ヤマネはまた、一、二分かけて考えてから、いいました。「それは糖《とう》蜜《みつ》の井《い》戸《ど》だったのです」
「そんなもの、ありゃしないわよ!」アリスは怒《おこ》りだしました。でも帽《ぼう》子《し》屋《や》と三月兎《うさぎ》とが「しーっ、しーっ!」といってとめました。ヤマネはふくれて「行《ぎよう》儀《ぎ》よく聞いていられないんだったら、この話の後は、自分ですればいいだろう」
「いいえ、どうぞ、先をつづけてちょうだい!」アリスはうんと下《した》手《て》に出ていいました。「もう二度《ど》とお話のじゃまはしないわ。たぶん、そんなのもあるかもしれないわ」
「そんなのとは何だい!」と、ヤマネが腹《はら》立《だ》たしげにいいました。けれども、先をつづけることは承《しよう》知《ち》しました。「それで、この三人の姉《し》妹《まい》は――みんな絵《ド》を《ロ》描《ー》くのをならっていましたので――」
「その人たちは、何の絵《ド》を《ロ》描《ー》いていたの?」と、アリスは、前の約《やく》束《そく》をすっかり忘《わす》れて、いいました。
「糖《とう》蜜《みつ》を汲《ド》ん《ロ》で《ー》いたのさ」と、ヤマネは、今《こん》度《ど》は何も考えずにいいました。
「きれいなカップがほしい」と、帽《ぼう》子《し》屋《や》がことばをはさみました。「一つずつ席《せき》を移《うつ》ろうじゃないか」
帽《ぼう》子《し》屋《や》はそういいながらもう席《せき》を移《うつ》っていました。ヤマネがそのあとにつづき、三月兎《うさぎ》がヤマネの席《せき》に、そしてアリスが、不《ふ》承《しよう》不《ぶ》承《しよう》、三月兎《うさぎ》の席《せき》につきました。帽《ぼう》子《し》屋《や》一人《ひとり》だけが、この引《ひつ》越《こ》しで得《とく》をしました。アリスは三月兎《うさぎ》が金《きん》属《ぞく》皿《ざら》の中へミルク入れを引っくり返《かえ》したあとに移《うつ》ったので、前よりずっと損《そん》をしました。
アリスはヤマネを二度《ど》と怒《おこ》らせたくなかったので、用心しいしい、いいはじめました。「でも、どうもわからないわ。その姉《し》妹《まい》はどこから糖《とう》蜜《みつ》を汲《ド》ん《ロ》で《ー》いたの?」
「水の井《い》戸《ど》からは水が汲《ド》め《ロ》る《ー》」と、帽《ぼう》子《し》屋《や》がいいました。「それなら、糖《とう》蜜《みつ》の井《い》戸《ど》から糖《とう》蜜《みつ》を汲む《ドロー》ことぐらいできると思うがね――え、そうだろう、おばかさん?」
「だけど、姉《し》妹《まい》は井戸の中《イン・ザ・ウエル》にいたのよ」と、アリスは、最《さい》後《ご》のことばには気がつかないふりをして、ヤマネにいいました。
「もちろん、そうだよ」と、ヤマネ。「ず《ウ》っ《エ》と《ル》深《・》く《イ》ね《ン》」
この返《へん》事《じ》は、あわれなアリスをすっかり混《こん》乱《らん》させてしまったので、アリスはそれからしばらく、口をはさまずにヤマネがしゃべるにまかせていました。
「姉《し》妹《まい》は絵を描《か》くのをならっていました」ヤマネはあくびをしたり、目をこすったりしながら先をつづけました。眠《ねむ》くてしかたがなくなってきたのです。「そして、いろいろなものを描《か》きました――Mの字で始《はじ》まるものは、みんなです」
「なぜMの字のものなの?」と、アリスがいいました。
「かまわないじゃないか!」と、三月兎《うさぎ》がいいました。
アリスは黙《だま》りました。
この頃《ころ》にはヤマネはもう目を閉《と》じて、居《い》眠《ねむ》りしかけていましたが、帽《ぼう》子《し》屋《や》につねられたので、ちいさな悲《ひ》鳴《めい》をあげて目を覚《さ》まし、また先をつづけました。「――mの字で始《はじ》まるもの、たとえば鼠《ねずみ》とり(mouthtrap)月(moon)記《き》憶《おく》(memory)それからまあまあ(muchness)などです――ほら、よく物《もの》事《ごと》が似《に》たり寄《よ》ったり(much of the much)なんていうだろう?――まあまあの絵なんていうのは、見たことがあるかい?」
「それはその、そう聞かれてみれば――」と、アリスは、すっかり頭が混《こん》乱《らん》してしまって、いいました。「そんなもの見たことは――」
「それじゃ、あんたにはしゃべる資《し》格《かく》はない」と帽《ぼう》子《し》屋《や》がいいました。
この無《ぶ》作《さ》法《ほう》ないい方には、もうアリスもがまんできませんでした。それで、すっかり愛《あい》想《そ》をつかして立ち上がると、その場を去《さ》りました。ヤマネはたちまち眠《ねむ》りこみ、ほかの二人《ふたり》は、どっちも、アリスが出て行くのを、少しも気にするふうはありませんでした。それでもアリスは、呼《よ》び止めてくれるのではないかと半《なか》ば期《き》待《たい》しながら、一、二度《ど》後《うし》ろを振《ふ》り返《かえ》りました。最《さい》後《ご》に振《ふ》り返《かえ》ったときは、二人《ふたり》がヤマネをお茶のポットの中に押《お》し込《こ》もうとしているのが見えました。
「とにかく、あんなところには、二《に》度《ど》と行かないから!」と、アリスは森の中をあてどなく歩きながらいいました。
「あんなばかげたお茶の会に出たのは、生まれてはじめてだわ!」
ちょうどこういったとき、アリスは一本の樹《き》に、中に通ずるドアがついているのに気がつきました。「これはおかしいわ!」とアリスは思いました。「でも今日は、何もかもおかしいんだから。すぐ入って行ってもかまわないと思うわ」そして、中へ入りました。
アリスは、またまた大きな広間にいました。そして、ちいさなガラスのテーブルのすぐそばに来ていました。「さあ、今《こん》度《ど》は、うまくやろう」アリスはひとりごとをいうと、まず手はじめに、ちいさな黄《おう》金《ごん》の鍵《かぎ》をとり、庭《てい》園《えん》に通ずるドアをあけました。それから、キノコを少しずつかじりはじめ(まだ少しポケットにしまっておいたのです)やがて三〇センチくらいになりました。そして――とうとう、あの美《うつく》しいお庭《にわ》の、色とりどりの花《か》壇《だん》や冷《つめ》たい泉《いずみ》の間に出たのです。
8 女王のクローケー・グラウンド
お庭《にわ》の入口近くに、大きなバラの樹《き》がありました。咲《さ》いているバラは白バラでしたが、それを、三人の庭《にわ》師《し》が、せわしげに赤く塗《ぬ》っていました。アリスは、おかしなことをするものだと思ったものだから、近くへ寄《よ》って三人のすることを見《み》守《まも》りました。ちょうど庭《にわ》師《し》たちのところへ来たとき、その一《ひと》人《り》がこんなことをいっているのが耳に入りました。「おい、気をつけろ、五! そんなふうに、おれにペンキをはねとばすなよ!」
「しかたがないんだ」と、五がふくれっつらでいいました。「七がおれの肘《ひじ》をつきやがったんだ」
これを聞いて、七が顔をあげました。「そうだともよ、五! いつだって、自分の悪《わる》いのを、ひとのせいにするんだから!」
「おまえ、しゃべらないほうが身《み》のためだぜ」と五がいいました。「きのう、女王様が、おまえは首をはねられるだけのことをした、といったのをおれは聞いているんだよ」
「なんて罪《つみ》でだ?」と、最《さい》初《しよ》にしゃべった庭《にわ》師《し》がききました。
「おまえの知ったことじゃないよ、二!」と、七がいいました。
「いいや、あいつにも関《かん》係《けい》あるさ」と五がいいます。「聞かせてやろう――こいつは、コックのところに、タマネギのかわりにチューリップの球《きゆう》根《こん》を持《も》っていったんだ。そのためだよ」
七がはけをほうりだして「いくらなんでもそんなひどいことを――」といいかけたとき、彼《かれ》の目は偶《ぐう》然《ぜん》こっちを見ているアリスの上に落《お》ち、急《きゆう》に黙《だま》りこみました。ほかのものも、あたりを見まわし、みんな、ひくく頭を下げました。
「すみませんが、教えていただけませんか」とアリスが、ちょっとおずおずしながら、いいました。「あなたたちは、なぜこのバラにペンキを塗《ぬ》っているんですか?」
五と七は何もいわずに、二を見つめました。二は低《ひく》い声でいいはじめました。「なに、それはね、おじょうさん、実《じつ》際《さい》のところ、ここには赤バラの樹《き》が植《う》わってなけりゃならなかったんだが、おれたちが間《ま》違《ちが》って白バラの樹《き》を植《う》えてしまったんだ。それで、もし女王様に見つかったら、おれたちはみんな首をはねられなきゃならないんだ。だからだよ、おじょうさん、みんなで一《いつ》所《しよ》懸《けん》命《めい》、女王様のいらっしゃる前に――」ここまでいったとき、庭《にわ》のむこうを心《しん》配《ぱい》そうに見《み》渡《わた》していた五が、いきなり「女王様だ! 女王様だぞ!」と叫《さけ》びました。同時に三人の庭《にわ》師《し》は、うつ伏《ぶ》せになって、地《じ》面《めん》にはいつくばりました。そこへ、大《おお》勢《ぜい》の足音がしました。アリスは、女王を見ようと、くるりと振《ふ》り返《かえ》りました。
最《さい》初《しよ》に十人の棒《クラブ》を持《も》った兵《へい》士《し》たちがやって来ました。この兵《へい》士《し》たちは、三人の庭《にわ》師《し》とおなじ、長方形で平べったい形をしていて、手足は端《はし》のほうについていました。つぎは十人の廷《てい》臣《しん》です。全《ぜん》身《しん》ダイヤモンドで飾《かざ》りたて、兵《へい》士《し》たちとおなじように、二人《ふたり》ずつ並《なら》んで歩いて来ました。そのあとからは、王家の子どもたちがやって来ました。かわいい子どもたちは十人、みな二人《ふたり》ずつ組になって、手をつなぎ、楽しげにはねたり跳《と》んだりして来ます。みんな、ハートの飾《かざ》りをつけていました。そのつぎにはお客《きやく》さんたち――たいていは王様や女王でしたが、そのなかにアリスは白《しろ》兎《うさぎ》がいるのを見つけました。白《しろ》兎《うさぎ》は早口の神《しん》経《けい》質《しつ》そうな口《く》調《ちよう》でしゃべっていて、いわれたことには何でもにこにこうなずきながら、アリスには気もつかずに通りすぎて行きました。そのあとに、ハートのジャックが、王様の冠《かんむり》を真《ま》っ赤《か》なビロードのクッションの上に載《の》せてささげながらつづいていました。そして、この大《だい》行《ぎよう》列《れつ》の一番あとから、ハートの王様と女王とがやってきました。
アリスは、自分も三人の庭《にわ》師《し》たちのように地《じ》面《めん》に這《は》いつくばって頭を下げるべきかどうかといくらか迷《まよ》いましたが、行《ぎよう》列《れつ》のときそんな規《き》則《そく》があるなどということは、聞いた覚《おぼ》えがありませんでした。「おまけに、それじゃせっかくの行《ぎよう》列《れつ》が何にもならなくなるわ」と彼《かの》女《じよ》は考えました。「みんなが平《へい》伏《ふく》していて、行《ぎよう》列《れつ》を見られないんじゃ」それでアリスはそのままそこに立って待《ま》ちました。
行《ぎよう》列《れつ》がアリスの前にさしかかると、みんな立ち止まってアリスを見ました。女王が、きびしい口《く》調《ちよう》で「何《なに》者《もの》か?」といいました。女王様はハートのジャックに向《む》かっていわれたのですが、ジャックはただ頭を下げ、微《ほほ》笑《えみ》で答えただけでした。
「愚《おろ》か者《もの》めが!」と女王はいって、じれったそうに頭をふりたてました。そして、アリスに向《む》きなおると、ことばをつづけました。「そちの名は何という?」
「恐《おそ》れながら陛《へい》下《か》、わたくしはアリスと申《もう》します」とアリスはうやうやしくいいましたが、心の中では「なによ、たかが一《ひと》組《くみ》のカードじゃないの。こわがることなんかないんだわ!」と思っていました。
「して、あの者《もの》たちは何《なに》者《もの》か?」と女王は、バラの樹《き》のまわりで平《へい》伏《ふく》している三人の庭《にわ》師《し》の方を指《ゆび》さしていいました。というのも、顔を伏《ふ》せて這《は》いつくばっていると、背《せ》中《なか》の模《も》様《よう》はその一《ひと》組《くみ》のだれとでもみんな同じなので、女王には、庭《にわ》師《し》だか兵《へい》士《し》だか、廷《てい》臣《しん》だか自分の子どもたちの三人だか、ぜんぜん見分けがつかなかったのです。
「そんなこと、知りません」アリスは、自分の勇《ゆう》気《き》にびっくりしながらも、いいました。「わたしの知ったことじゃありませんから」
女王はたちまち真《ま》っ赤《か》になって怒《おこ》りだしました。そして、しばらくのあいだ、野《や》獣《じゆう》のような目でアリスを睨《にら》みつけていましたが、「この者《もの》の首を切れ! 早く切れ!」と金《かな》切《き》り声で叫《さけ》びはじめました。
「ばかいうもんじゃないわ!」アリスが、すごい大声できっぱりというと、女王はぴたりと黙《だま》りこみました。
王様が、女王の腕《うで》に手をかけて、おずおずといいました。「大目にみてやるがよい、何といってもまだ子どもなのだ!」
女王は腹《はら》立《だ》たしげに王様から顔をそらすと、ジャックの方を向《む》いていいました。「あの者《もの》たちを引っくり返《かえ》せ!」
ジャックは片《かた》足《あし》で、用心ぶかくそうしました。「立て!」と女王がするどい大声で命《めい》ずると、三人の庭《にわ》師《し》はすぐさまぴょこんと立ち上がり、王様や、女王や、王子たちや、ほかの人たちに誰《だれ》彼《かれ》となくぺこぺこおじぎをしはじめました。
「おやめ、そんなことは!」と女王が叫《さけ》びました。「目がまわってしまう」それからバラの樹《き》の方に向《む》きなおって、ことばをつづけました。「おまえたちは、ここで何をしていたのじゃ?」
「恐《おそ》れながら、陛《へい》下《か》」と、二が片《かた》膝《ひざ》をついてうやうやしくいいました。「わたくしどもは、誠《せい》心《しん》こめて――」
「よし、わかったぞ」それまでに、バラの樹《き》を調《しら》べた女王はいいました。「この者《もの》どもの首をはねよ!」そして、行《ぎよう》列《れつ》は進《すす》んで行きました。兵《へい》士《し》が三人、かわいそうな庭《にわ》師《し》たちを処《しよ》刑《けい》するために残《のこ》りました。庭《にわ》師《し》たちは、アリスのところへ走って行って、助《たす》けてくれと頼《たの》みました。
「あなたたちの首は、切らせないわ」アリスはそういうと、三人を、すぐ近くに立ててあった大きな花の鉢《はち》の中に入れました。三人の兵《へい》士《し》たちは、一分か二分、庭《にわ》師《し》たちを求《もと》めてそのあたりをうろつきまわりましたが、やがて静《しず》かに、ほかの者《もの》たちの後を追《お》って行《こう》進《しん》して行きました。
「あの者《もの》どもの首をはねたか?」と、女王が叫《さけ》びました。
「首はなくなってしまいました、陛《へい》下《か》」と、兵《へい》士《し》が、叫《さけ》び返《かえ》しました。
「よろしい!」と女王は叫《さけ》びました。「おまえはクローケーができるか?」
兵《へい》士《し》たちは黙《だま》ってアリスを見やりました。その質《しつ》問《もん》は、明らかに、アリスに向《む》けられたものだったからです。
「はい!」と、アリスは叫《さけ》びました。
「それでは、来るがよい」と女王が大声でわめきました。それでアリスは行《ぎよう》列《れつ》に加《くわ》わりましたが、そうしながらも、これから何が起《お》こるのかと考えていました。
「今日は――その、すばらしいよい天気ですな!」おずおずとした声が、すぐ横《よこ》からしました。アリスは白《しろ》兎《うさぎ》の横《よこ》を歩いていたのでした。そして、白《しろ》兎《うさぎ》が、アリスの顔を、心《しん》配《ぱい》そうにのぞきこんでいたのです。
「ええ、とても」とアリスはいいました。「公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》はどこなの?」
「しーっ、しーっ!」兎《うさぎ》は低《ひく》い、あわてた調《ちよう》子《し》でいいました。そういいながらも、肩《かた》越《ご》しに後ろを、心《しん》配《ぱい》そうに振《ふ》り返《かえ》ってみました。それから爪《つま》先《さき》立ちになって、背《せ》のびし、口をアリスの耳もとに近づけて囁《ささや》きました。「死《し》刑《けい》の宣《せん》告《こく》を受《う》けたのです」
「何の罪《つみ》で?」とアリス。
「何てかわいそう、といいましたか?」と兎《うさぎ》がききました。
「いいえ、いわないわ」とアリス。「わたしはちっともかわいそうとは思わないもの。わたしは『何の罪《つみ》で』といったのよ」
「女王様の耳をなぐったのです」――兎《うさぎ》が話しはじめました。アリスは思わずきゃっきゃっと笑《わら》いだしてしまいました。「静《しず》かに!」と兎《うさぎ》はびっくりしていいました。「女王様に聞かれてしまうじゃありませんか! じつは、だいぶ遅《ち》刻《こく》したので、それで女王様が……」
「位《い》置《ち》について!」と、女王が雷《かみなり》のような声で叫《さけ》びました。みんなは、いっせいに、四方八方に走りだし、お互《たが》いにぶつかりあいました。それでも、一分か二分たつと、みんなそれぞれの位《い》置《ち》に落《お》ち着《つ》き、ゲームが始《はじ》まりました。
こんなおかしなクローケー・グラウンドを見るのは、生まれて初《はじ》めてだと、アリスは思いました。いたるところ、畦《あぜ》や畝《うね》だらけなのです。クローケー・ボールは生きたハリネズミだし、木づちは生きた紅《べに》鶴《づる》だし、おまけに兵《へい》士《し》たちは、からだを二つ折《お》りにし両《りよう》手《て》と両《りよう》足《あし》を地《じ》面《めん》につけて、アーチをつくらなければならないのです。
まずアリスがひどくむずかしいと思ったのは紅《べに》鶴《づる》の扱《あつか》い方でした。足をだらんと下げさせておいて、胴《どう》のところを小《こ》脇《わき》にかかえこむところまでは、なんの造《ぞう》作《さ》もなく、上《じよう》手《ず》にやってのけたのですが、その首をうまくまっすぐにのばして、頭でハリネズミを一《いち》撃《げき》しようとすると、きまって、くるりと首を曲《ま》げて、いかにも困《こま》ったような顔つきでアリスを見あげるので、おかしくて、つい吹《ふ》きだしてしまわないわけにいかなかったのです。それに、紅《べに》鶴《づる》の首をまた下げさせてもう一度《ど》打《う》とうとすると、こんどはハリネズミが、まるめていたからだをのばして、ごそごそ這《は》って逃《に》げようとしているので、すごくじれったくなりました。そのうえ、アリスがハリネズミを打《う》とうとする先には、必《かなら》ず畦《あぜ》や畝《うね》があるし、からだを二つに折《お》った兵《へい》士《し》たちは、しょっちゅう起《お》き上がってはグラウンドのほかの場《ば》所《しよ》に歩いて行くしというわけで、アリスもすぐに、これは非《ひ》常《じよう》にむずかしいゲームだという結《けつ》論《ろん》に達《たつ》しました。
それに、ゲームのメンバーたちは、順《じゆん》番《ばん》を待《ま》とうともせず、みんな一度《ど》にプレーをはじめるので、しょっちゅう喧《けん》嘩《か》ばかり起《お》き、ハリネズミを争《あらそ》っています、それで女王はたちまちのうちに癇《かん》癪《しやく》を起《お》こし、地《じ》面《めん》をどすんどすんと蹴《け》っては、「あの男の首を切れ!」とか「あの女の首を切れ!」とか、もう一分置《お》きぐらいにわめき散《ち》らすのです。
アリスは、とても落《お》ち着《つ》かない気分になってきました。もちろん、まだ女王と口《くち》喧《げん》嘩《か》はしていませんでしたが、いつそうなるかわかったものではない、と思ったのです。「もしそうなったら」と彼《かの》女《じよ》は思いました。「わたしはどうなるのだろう? ここでは、みんな、人の首を切るのが大《だい》好《す》きなんだから。ほんとうに、まだ一《ひと》人《り》でも生き残《のこ》っているのが不《ふ》思《し》議《ぎ》なぐらいだわ!」
アリスは、何とか逃《に》げだす方《ほう》法《ほう》はないかとあたりを見まわしました。そして、見とがめられずにこの場を抜《ぬ》けだすことはできないものかと考えていると、空中に、おかしなものが現《あら》われたのに気がつきました。はじめそれはアリスをひどくまごつかせましたが、一、二分見つめているうちに、それがにやにや笑《わら》いであることがわかってきました。それでアリスは、「チェシャ猫《ねこ》だわ。これで、話相《あい》手《て》ができそうね」とひとりごとをいいました。
「どんなぐあいだね?」と猫《ねこ》は、しゃべれるだけ口が現《あら》われると同時にいいました。
アリスは目が現《あら》われるまで待《ま》ってから、頷《うなず》きました。「話しかけてもだめだわ」と彼《かの》女《じよ》は考えました。「耳が出てくるまでは。せめて、片《かた》方《ほう》だけでもね」もう一分待《ま》つと、頭全《ぜん》体《たい》が現《あら》われたので、アリスは紅《べに》鶴《づる》を置《お》き、ゲームの説《せつ》明《めい》をしはじめました。話を聞いてくれる相《あい》手《て》ができたのが、とても嬉《うれ》しかったのです。猫《ねこ》は、これだけ見えれば十分だと思ったらしく、それ以《い》上《じよう》は姿《すがた》を現《あら》わしませんでした。
「みんな、ちっともフェア・プレーをしないのよ」と、アリスは、いかにも不《ふ》満《まん》だという口《く》調《ちよう》でいいはじめました。「それに、みんな大《おお》喧《げん》嘩《か》ばかりしているので、自分のしゃべっていることも聞こえないのよ。それにとくにルールもないらしいの。あったにしても、少なくとも、だれもそれに従《したが》おうとしていないわ。みんな生きものばかりだから、何もかもごっちゃになっちゃって、どうにもこうにもならないのよ。たとえば、わたしがつぎにハリネズミをくぐらさなければならないアーチは、グラウンドの向《む》こう端《はし》を歩きまわっているし――いまわたしは、女王のハリネズミにわたしのをぶつけなきゃならないんだけど、そのハリネズミは、わたしのハリネズミが向《む》かって行くのを見ると、逃《に》げて行ってしまうというありさまなんだから!」
「女王は気に入ったかね?」と、猫《ねこ》が小声でいいました。
「ぜんぜん」とアリスはいいました。「あのひとはもう、それはそれは――」といいかけたとき、女王がすぐ後ろにいて、聞き耳を立てているのに気がつきました。そこで、ことばをつづけました。「お上《じよう》手《ず》で、勝《か》つに決《き》まっているから、ゲームをつづけたって、意《い》味《み》ないわ」
女王はにっこり笑《わら》って、通りすぎました。
「おまえはだれに話しているのだ?」と王様がアリスのところへ来ていいました。そして、猫《ねこ》の頭を、ひどくもの珍《めずら》しそうに見やりました。
「わたくしのお友だちです――チェシャ猫《ねこ》なのです」と、アリスはいいました。「ご紹《しよう》介《かい》させていただきます」
「どうも気に入らない顔つきだな」と王様がいいました。「だがしかし、望《のぞ》みとあれば、わしの手にキスしてもよい」
「願《ねが》いさげだね」と猫《ねこ》がいいました。
「生《なま》意《い》気《き》なことをいうでない」と王様。「それに、そんなふうにわしを見るな!」王様は、そういいながら、アリスの後ろに隠《かく》れました。
「猫《ねこ》でも王を見ることはできる」とアリスがいいました。「わたし、何かの本で読んだわ。どの本か覚《おぼ》えていないけど」
「とにかく、これは取《と》り除《のぞ》かなければならん」と王様がきっぱりとした口《く》調《ちよう》でいいました。そして、ちょうど通りかかった女王を呼《よ》びました。「奥《おく》や! この猫《ねこ》を、取《と》り除《のぞ》かせてくれるとよいのだがな!」
女王は事《こと》の大小に限《かぎ》らず、どんな問《もん》題《だい》でも、たった一つの解《かい》決《けつ》法《ほう》しか持《も》っていません。「その者《もの》の首をはねよ!」と、こっちも見ずにいいました。
「わしが自分で処《しよ》刑《けい》人《にん》をつれてこよう」と王様は意《い》気《き》込《ご》んでいうと、いそいで行ってしまいました。
アリスは、遠くの方で女王が怒《いか》りの声を張《は》りあげるのを聞いて、ゲームにもどってどうなったかを見てみよう、と思いました。それまでに、もう三人も、自分の順《じゆん》番《ばん》を忘《わす》れたというので女王から死《し》刑《けい》を宣《せん》告《こく》されるのが聞こえていました。ゲームがすっかり混《こん》乱《らん》していて、自分の番かどうかさえわからないので、このなりゆきは気に入りませんでした。それで、自分のハリネズミを探《さが》しに行きました。
アリスのハリネズミは、ほかのハリネズミと取《と》っ組みあいの大《おお》喧《げん》嘩《か》をしていました。これは、一方のハリネズミで、もう一方のハリネズミを打《う》つ絶《ぜつ》好《こう》のチャンスのように見えました。ただ困《こま》ったことには、アリスの紅《べに》鶴《づる》が、庭《にわ》の反《はん》対《たい》側《がわ》の端《はし》の方へ行っていたことで、紅《べに》鶴《づる》は、木に飛《と》び上がろうと、へっぴり腰《ごし》でしきりにばたばたやっていました。
アリスがようやく紅《べに》鶴《づる》をつかまえてもどって来たときには、喧《けん》嘩《か》はもうとうに終《お》わって、ハリネズミは両《りよう》方《ほう》ともいなくなっていました。「でも、たいしたことじゃないわ」とアリスは考えました。「こっち側《がわ》のグラウンドからアーチがみんないなくなってしまったもの」それで、紅《べに》鶴《づる》がまた逃《に》げださないように小《こ》脇《わき》にかかえこむと、友だちともう少し話をしようともどって行きました。
チェシャ猫《ねこ》のところへもどったとき、アリスは、そのまわりに大《おお》勢《ぜい》の人たちが集《あつ》まっているのを見てびっくりしました。死《し》刑《けい》執《しつ》行《こう》人《にん》と王様と女王のあいだで、大《だい》議《ぎ》論《ろん》が起《お》こっていました。三人はいっしょにしゃべりまくり、ほかのものは黙《だま》りこんで、ひどく居《い》心《ごこ》地《ち》が悪《わる》そうにしていました。
アリスがその場に姿《すがた》を現《あら》わすと、三人はめいめい、問《もん》題《だい》を解《かい》決《けつ》してくれといってアリスにせがみました。三人は自分の主《しゆ》張《ちよう》をアリスに向《む》かってくり返《かえ》しましたが、みんなが同時にしゃべりまくるので、アリスには、それぞれが何をいっているのか聞きとるのにひどく苦《く》労《ろう》しました。
死《し》刑《けい》執《しつ》行《こう》人《にん》のいいぶんはこうでした。つまり、切りはなそうにも、切りはなすからだのついていない首を切ることはできない、というのです。そんなことは、まだ一度《ど》もやったことはないし、この年になって、そんなことをするつもりもない、というわけでした。
王様の主《しゆ》張《ちよう》は、首のあるものならば、何であろうと首をはねられないはずはない、そんなばかなことはいってはいけない、というのでした。
女王のいうのは、五分以《い》内《ない》にこの問《もん》題《だい》を何とかしなければ、誰《だれ》彼《かれ》の区《く》別《べつ》なく、みんな首を切ってしまう、ということでした。(この最《さい》後《ご》のことばで、一同はそれほど真《しん》剣《けん》な、心《しん》配《ぱい》そうな顔になっていたのです)
アリスは、ほかに何ともいいようがないので「この猫《ねこ》は公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》のものだから、夫《ふ》人《じん》に聞いたほうがいいんじゃありませんか」といいました。
「彼《かの》女《じよ》はいま牢《ろう》獄《ごく》じゃ」と女王が死《し》刑《けい》執《しつ》行《こう》人《にん》に向《む》かっていいました。「ここへ連《つ》れてまいれ」そこで、死《し》刑《けい》執《しつ》行《こう》人《にん》は、弓《ゆみ》をはずれた矢《や》のように、飛《と》んで行きました。
死《し》刑《けい》執《しつ》行《こう》人《にん》が行ったとたんに、猫《ねこ》の首はうすれはじめました。そして、公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》を連《つ》れて死《し》刑《けい》執《しつ》行《こう》人《にん》がもどってきたときには、完《かん》全《ぜん》に消《き》えてしまっていました。王様と死《し》刑《けい》執《しつ》行《こう》人《にん》とは気ちがいのようになってそのあたりを走りまわって探《さが》しはじめましたが、ほかのものはゲームにもどって行きました。
9 亀《かめ》まがいの物語
「あなたとまた会えて、私《わたくし》がどんなに嬉《うれ》しいか、とてもわかりはしないでしょうね」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》はいって、腕《うで》をアリスの腕《うで》にからむと、いっしょに歩きだしました。
アリスは公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》がすごい上《じよう》機《き》嫌《げん》なので、とても嬉《うれ》しくなり、前にキッチンで会ったとき、あんなに荒《あら》っぽかったのは、たぶんこしょうのせいだったのだ、と考えました。「わたしが公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》になったら」とアリスは胸《むね》の中でいいました。(あんまり希《き》望《ぼう》はありそうもありませんでしたが)「うちのキッチンにはこしょうは置《お》かないようにしよう。こしょう抜《ぬ》きでは、スープがあんまりおいしくないでしょうけど……でもきっと、人がすぐ癇《かん》癪《しやく》を起《お》こすのは、こしょうのせいなんだわ」アリスは新しい規《き》則《そく》を発《はつ》見《けん》したのがとても嬉《うれ》しくて、どんどん先をつづけました。「気むずかしく意《い》地《じ》悪《わる》にするのは酸《す》っぱい酢《す》のせいだし――むごたらしくするのは苦《にが》いカミツレ草のせい、それから――子どもの性《せい》質《しつ》をよくするのは砂《さ》糖《とう》菓《が》子《し》や何かそういったもののせいね。ああ、みんなにこれがわかりさえしたらねえ……そうすれば、お菓《か》子《し》をケチケチしたりはしなくなるのに――」
アリスはすっかり公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》のことを忘《わす》れていたので、夫《ふ》人《じん》の声が耳もとのすぐ近くでしたときには、びっくりしてとび上がりそうになりました。「あなたは何か考えているのね、だから口をきくのを忘《わす》れているんだわ。私はいますぐそのことについての教えを思いだせないけれど、すぐに思いだしますよ」
「教えはないんじゃないかしら」とアリスは勇《ゆう》気《き》をふるっていいました。
「ちぇっ、ちぇっ、子どもねえ」と、公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》はいいました。「なんにでも、見つける力さえあれば、教えはあるものよ」そういいながら夫《ふ》人《じん》は、アリスのそばに、ぐっと身《み》をすり寄《せ》せました。
アリスは公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》にそんなにぴったりくっつかれるのは好《す》きになれませんでした。第《だい》一《いち》に、公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》はとても醜《みに》くかったし、第《だい》二には夫《ふ》人《じん》の背《せ》の高さが、アリスの肩《かた》に顎《あご》を載《の》せるのにちょうどだったからで……おまけに、その顎《あご》が、何とも気《き》持《もち》のわるいとがり顎《あご》だったのです。それでも、アリスは無《ぶ》作《さ》法《ほう》にしたくなかったので、できるかぎりがまんしていました。
「ゲームはいくらか順《じゆん》調《ちよう》にいきだしたようですね」とアリスは、会《かい》話《わ》をつづけるために話しだしました。
「そのようね」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》はいいました。「その教えはね――『愛《あい》なり、愛《あい》こそ世《せ》界《かい》を動《うご》かす』というのだよ」
「だれかがいってました」とアリスが囁《ささや》きました。「それぞれが、よけいなお節《せつ》介《かい》をしなければうまくいって」
「そうだね! だいたい、似《に》たような意《い》味《み》だよ」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》はそのとがった顎《あご》をアリスの肩《かた》に埋《う》めるようにしながらいいました。「その教えはね――『意《い》味《み》に気をつけよ、さすれば音は自《おの》ずからきまる』というのだよ」
「何にでも教えをくっつけるのが好《す》きなんだわ!」とアリスは胸《むね》の中でいいました。
「あなたは、きっと、なぜ私があなたの腰《こし》に手をまわさないのかと不《ふ》思《し》議《ぎ》に思っているわね」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》は、ちょっと中休みをしてからいいました。「その理《り》由《ゆう》はね、あなたの紅《べに》鶴《づる》が癇《かん》癪《しやく》を起《お》こすかもしれないからよ。ちょっと実《じつ》験《けん》をしてみようかね?」
「かみつくかもしれませんよ」とアリスは用《よう》心《じん》深《ぶか》く答えました。そんな実《じつ》験《けん》は、ちっともしてもらいたくなかったからです。
「そのとおりです」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》はいいました。「紅《べに》鶴《づる》もからしもぴりりとくる。このことの教えは――『鳥は群《む》れをなす』というのよ」
「でも、からしは鳥じゃないですけど」とアリスがいいました。
「またもご名答」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》がいいました。「あなたは、じつにはっきりと物《もの》をいうわ」
「あれは鉱《こう》物《ぶつ》だと思います」とアリス。
「もちろんそうよ」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》。彼《かの》女《じよ》は、アリスのいうことには、何でもすぐ賛《さん》成《せい》するようでした。「この近くに、大きなからしの鉱山《マイン》があるのよ。そして、このことの教えはね――鉱山《マイン》多《おお》ければ、他山《ユアズ》少なし』というの」(私のもの(マイン)とあなたのもの(ユアズ)の語呂あわせ)
「あら、そうだったわ!」と、アリスは、夫《ふ》人《じん》の終《お》わりのほうのことばを聞かずに、いいました。「あれは植《しよく》物《ぶつ》よ。植《しよく》物《ぶつ》らしくないけれど、そうなんだわ」
「まったくあなたのいうとおりよ」と、公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》はいいました。「そして、そのことの教えはね――『汝《なんじ》の見えたいと思うものであれ』というのよ。もっと簡《かん》単《たん》ないい方をしたければ、『汝《なんじ》がありしもの、またはありしやもしれざりしものは、他《た》人《にん》には、汝《なんじ》のありたるものが、彼《かれ》らにはさにはあらずと見えしものにほかならずと見えしやもしれざるものにほかならずと汝《なんじ》自《じ》身《しん》において考うることなかれ』というのよ」
「もしそれを紙に書いてくださったら――」とアリスはおそろしくていねいにいいました。「もっとよくわかるでしょうけど。でも、口でいわれたのでは、とてもついてはいけませんわ」
「何でもないのよ、このくらい。いおうと思えば、もっともっといえるのよ」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》は得《とく》意《い》げにいいました。
「いいえ、それ以《い》上《じよう》長くいうために苦《く》労《ろう》なさるなんて、おやめになって」とアリスはいいました。
「苦《く》労《ろう》なんて、何をいうのよ!」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》がいいました。「いままでいったことは、みんなプレゼントとしてあなたにあげるわ」
「つまらないプレゼント!」と、アリスは思いました。「誕《たん》生《じよう》日《び》のプレゼントが、こんなつまらないものじゃなくて助《たす》かったわ!」でもさすがに、これは口に出してはいいませんでした。
「また考えているのね?」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》が、また小さな顎《あご》を食いこませながら、ききました。
「わたしだって考える権《けん》利《り》はあるわ」とアリスはきつい口《く》調《ちよう》でいいました。すこしじれったくなってきたのです。
「その権《けん》利《り》は――」と公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》がいいました。
「豚《ぶた》に空を飛《と》ぶ権《けん》利《り》があるていどのものね。このことの教えは――」
でもそのとき、アリスはひどくおどろきました。公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》の声が、大《だい》好《す》きな教えということばをいっている最《さい》中《ちゆう》に急《きゆう》に小さくなり、アリスの腕《うで》にからんでいた腕《うで》が、ぶるぶるとふるえはじめたからです。アリスが見上げると、目の前に女王が、腕《うで》組《ぐ》みをし、雷《らい》雲《うん》のようなしかめ面《つら》をして、つっ立っていました。
「これは女王様、よいお天気でございます」と、公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》は低《ひく》い、弱々しい声でいいはじめました。
「いいかい、あとで不《ふ》平《へい》のないように、警《けい》告《こく》をしておくよ」と女王は、しゃべりながら、地《じ》面《めん》を踏《ふ》みならしました。「おまえか、おまえの首か、どっちかが消《き》えてなくなるのよ――いまのこの瞬《しゆん》間《かん》に! さあ、どちらか、お選《えら》び!」
公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》は選《えら》びました。そして、たちまち消《き》えてなくなりました。
「それではゲームをつづけよう」女王はアリスにいいました。アリスはこわくて一《ひと》言《こと》も口をきけず、そろそろと女王についてクローケー・グラウンドにもどって行きました。
ほかのお客《きやく》たちは、女王の留《る》守《す》をいいことに、日《ひ》陰《かげ》で休んでいました。けれども、女王がやってくるのを見たとたんに、みんなあわててゲームにもどりました。女王はただ、ちょっとでも遅《おく》れたら、生命《いのち》がなくなるぞといっただけでした。
ゲームをやっているあいだじゅう、女王は、ほかのメンバーと喧《けん》嘩《か》ばかりしていて、そのたびに、「あの男の首を切れ!」とか「この女の首をはねよ!」とかいっていました。死《し》刑《けい》を宣《せん》告《こく》されたものは兵《へい》士《し》たちに監《かん》禁《きん》されましたが、そうするためには、その兵《へい》士《し》たちはアーチになるのをやめなければならないわけだから、三十分もするうちには、アーチは一つもなくなり、メンバーも、王様と女王とアリスを除《のぞ》いてみんな監《かん》禁《きん》され、死《し》刑《けい》をいいわたされました。
すると女王は、息《いき》を切らしてゲームをやめ、アリスに向《む》かっていいました。「おまえは亀《かめ》まがいを見たことがあるかい?」
「いいえ」とアリスは答えました。「亀《かめ》まがいなんて、どんなものかも存《ぞん》じません」
「亀《かめ》まがいのスープをつくる材《ざい》料《りよう》だよ」と女王がいいました。
「見たことも、聞いたこともありません」とアリス。
「それじゃ来るがよい」と女王。「亀《かめ》まがいに身《みの》上《うえ》話《ばなし》をさせてあげよう」
二人《ふたり》が連《つ》れだって歩きだしたとき、アリスは、王様がひくい声でそこにいたみんなに「おまえたちはみな許《ゆる》す」というのを聞きました。「まあ、よかったわ!」と、アリスは胸《むね》の中でいいました。彼《かの》女《じよ》は、女王があまりたくさんの死《し》刑《けい》をいいわたしたことで、とても胸《むね》を痛《いた》めていたのです。
やがて二人《ふたり》は日《ひ》向《なた》でぐっすりと寝《ね》込《こ》んでいるグリフォンのところへ来ました。(もしグリフォンというのがどんなものか知らなければ、挿《さし》絵《え》をごらんなさい)「起《お》きよ、この怠《なま》けものめ!」と女王がいいました。「そして、このおじょうさんを亀《かめ》まがいのところへ連《つ》れて行って、身《みの》上《うえ》話《ばなし》をお聞かせするのだ。わたしはもどって、命《めい》令《れい》した死《し》刑《けい》の監《かん》督《とく》をしなければならぬ」そういって、女王はアリスをグリフォンと二人《ふたり》きりにして立ち去《さ》りました。アリスは、この動《どう》物《ぶつ》の顔つきがとても好《す》きにはなれませんでしたが、考えてみると、これといっしょにいるのも、野《や》蕃《ばん》な女王のあとについていくのも、似《に》たようなものだったので、じっと待《ま》つことにしました。
グリフォンは起《お》き上がって目をこすりました。そして、女王の姿《すがた》が見えなくなるまでじっと見ていましたが、それからくすくす笑《わら》いだしました。「おかしな話だ!」と、グリフォンは、半《なか》ばひとりごと、半《なか》ばアリスに向《む》かっていいました。
「何がそんなにおかしいの?」とアリスはいいました。
「女王がさ」とグリフォンがいいます。「みんな、ただの空《くう》想《そう》なんだよ、あれは。ぜったいだれも死《し》刑《けい》になんかはしないんだ。来いよ!」
「ここでは、だれもが『来い、来い』というんだわ」とアリスは、グリフォンのあとからのろのろついて行きながら思いました。「わたし、こんなに命《めい》令《れい》ばかりされたのは、生まれてはじめてだわ。ほんとよ!」
それほど遠くまで行かないうちに、ずっとむこうに亀《かめ》まがいの姿《すがた》が見えました。亀《かめ》まがいは、岩《いわ》棚《だな》の上にひとりきりで悲《かな》しげにすわっていました。そして、近づいて行くと、まるで胸《むね》もはり裂《さ》けるばかりに大きなため息《いき》をつくのが聞こえました。アリスは、とても亀《かめ》まがいが気の毒《どく》になりました。「どうして、あんなに悲《かな》しんでいるの?」と、アリスがグリフォンに聞くと、グリフォンは、前とほとんど同じ調《ちよう》子《し》で「ただの空《くう》想《そう》なんだよ、あれは。何も悲《かな》しいことなんかありゃしないんだ。さあ来いよ!」
そうして、亀《かめ》まがいのところまで行くと、相《あい》手《て》は、涙《なみだ》のいっぱいたまった大きな目で二人《ふたり》を見ましたが、何もいいませんでした。
「このおじょうさんがな」とグリフォンがいいました。「おまえの身《みの》上《うえ》話《ばなし》が聞きたいそうだ」
「お話ししましょう」と亀《かめ》まがいは深《ふか》い、ひびくような口《く》調《ちよう》でいいました。「二人《ふたり》ともおすわりなさい。私が話し終《お》わるまで、一《ひと》言《こと》もしゃべっちゃだめですよ」
そこでみんなすわりましたが、何分かのあいだ、だれも何もいいませんでした。アリスは心の中で「話を始《はじ》めなければ、終《お》わりっこないのに」と思いましたが、辛《しん》抱《ぼう》強く待《ま》ちました。「昔《むかし》はね」と亀《かめ》もどきはようやく、深《ふか》いため息《いき》とともにいいました。「私も、ほんとうの亀《かめ》だったんだ」
これだけいうと、また長い沈《ちん》黙《もく》がつづきました。時《とき》折《お》り沈《ちん》黙《もく》を破《やぶ》るのは、グリフォンのひやっくるう! という叫《さけ》びと、亀《かめ》もどきのひっきりなしに洩《も》らす重《おも》苦《くる》しいすすり泣《な》きだけでした。アリスは、もう少しで立ち上がって「ありがとう、とてもおもしろいお話だったわ」といおうかと思いましたが、まだ何かもう少しはあるにちがいないと考えたので、じっとして何もいわずにすわっていました。
「私たちの子どものときは」と亀《かめ》もどきがようやくのことでことばを進《すす》めました。前よりは落《お》ち着《つ》いていましたが、まだ時々すすり泣《な》きがまじっていました。「海の中の学校へ行ったもんだ。先生は年とった海《ター》亀《トル》だったが――私たちは陸《トー》亀《トイス》と呼《よ》んでいたっけ――」
「なぜ、陸《トー》亀《トイス》じゃないのに陸《トー》亀《トイス》なんて呼《よ》んだの?」と、アリスがききました。
「そりゃ、先生が勉《べん》強《きよう》を教えて《トートアス》くれたからそう呼《よ》んだんだよ」と、亀《かめ》もどきは、腹《はら》立《だ》たしげにいいました。「まったく、おまえさんは鈍《にぶ》いなあ!」(tortoise(陸亀)とtaught us(われわれに教えた)の語呂あわせのしゃれ)
「そんなわかりきったことを質《しつ》問《もん》するなんて、恥《は》ずかしくないか」と、グリフォンがつけ加《くわ》えました。そして、二人《ふたり》とも黙《だま》ってすわったままじろじろとアリスを見たので、かわいそうにアリスは、穴《あな》があったら入りたいくらい恥《は》ずかしい思いをしました。またしばらくたって、グリフォンが亀《かめ》まがいにいいました。「先へ進《すす》めよ、きょうだい! こんなことで、一日がかりはいやだぜ!」それで亀《かめ》まがいは、こんな話をしはじめました。
「そうだ、私たちは海の学校に通ったんだ――たぶんお前さんは信《しん》じやしないだろうが……」
「わたしはそんなこと、ひとこともいわないわ!」と、アリスがさえぎっていいました。
「いいや、いったよ」と亀《かめ》まがいがいいました。
「だまれ!」とグリフォンが、アリスに、また口を開くひまも与《あた》えずいいました。亀《かめ》まがいは先をつづけました。
「私たちは最《さい》高《こう》の教育を受《う》けた――じっさい、毎日学校へ通ったんだからな」
「わたしだって、毎日学校へ通っていたわ」とアリスはいいました。「そんなことで、なにもそんなに得《とく》意《い》がることはないわよ」
「課《か》外《がい》もか?」と亀《かめ》まがいは、ちょっと心《しん》配《ぱい》そうにききました。
「ええ」とアリス。「フランス語と音楽をならったわ」
「それから洗《せん》濯《たく》は?」と、亀《かめ》まがいがいいます。
「そんなもの、ないわ!」と、アリスが、むっとしていいました。
「やはりね! それじゃ、おまえさんの学校はほんとうにいい学校じゃなかったんだ」と、亀《かめ》まがいは、ひどくほっとしたような調《ちよう》子《し》でいいました。「そこへいくと、うちの学校じゃ、勘《かん》定《じよう》書《がき》の最《さい》後《ご》のところにちゃんと『フランス語、音楽、および洗《せん》濯《たく》――別《べつ》会《かい》計《けい》』と書いてあったよ」
「その必《ひつ》要《よう》は、たいしてなかったはずね」とアリスがいいました。「海の中に住《す》んでいたんじゃ」
「私は金がなくて、それはならえなかったんだ」と、亀《かめ》まがいはため息《いき》をつきながらいいました。「正《せい》課《か》だけしか取《と》らなかった」
「正《せい》課《か》ではどんなことをやったの?」と、アリス。
「まずよろめき方《リーリング》にもだえ方《ライジング》はもちろんやった」と亀《かめ》もどきが答えます。「それから、算数の四つの部《ぶ》門《もん》――野《アン》心《ビシ》算《ヨン》、失意算《デイストラクシヨン》、台《アグリフ》無《イケーシ》算《ヨン》、嘲笑算《デリジヨン》などがあったよ」(reelingはreading(読み方)writhingは writing(書き方)ambition は addition(足し算)distraction は subtraction(引き算)ugliflication は multiplication(掛け算)derision は division(割り算)のそれぞれもじり)
「わたし、『台《アグリフ》無《イケーシ》算《ヨン》』なんて聞いたことないわ」とアリスが思いきっていいました。「それはいったい何なの?」
グリフォンはおどろいて両《りよう》の前足をあげました。「台《アグリフ》無《イケーシ》算《ヨン》を聞いたこともないだって!」と叫《さけ》びます。「だって、お前さん、美《ビユー》化《テイ》算《フアイ》が何かは知ってるだろう?」
「ええ……」とアリスは、心もとなげな返《へん》事《じ》をしました。「それはその……つまり……何かを……きれいにすることでしょう」
「わかってるじゃないか」と、グリフォンがつづけました。「それで、台《アグリフ》無《イケーシ》算《ヨン》が何かがわからなきゃ、ほんとにばかだぜ」
アリスは、そのことについて、これ以《い》上《じよう》質《しつ》問《もん》する勇《ゆう》気《き》がふるい起《お》こせそうになかったので、亀《かめ》まがいの方を振《ふ》りむいて、いいました。「そのほか、どんなことを習《なら》ったの?」
「そうだね、秘《ミス》密《テリー》があったな」と亀《かめ》もどきはひれで課《か》目《もく》を数えながら答えました。「古代秘密と現代秘密だ。それに海《シー》理《オグラフ》学《イー》。それから、の《ド》ろ《ロ》の《ー》ろ《リ》臥《ン》法《グ》もあった。の《ド》ろ《ロ》の《ー》ろ《リ》臥《ン》法《グ》の先生は年《とし》寄《よ》りのあなごで、週《しゆう》に一度《ど》ずつ来たよ。のろのろ臥《ドローリング》と、のびのび臥《ストレツチング》とと《フエ》《イン》ぐ《テイ》《ング》ろ《・イ》《ン・》臥《コイル》を教えにね」(mystery は history(歴史)seaography は geography(地理)drawling は drawing(絵画)stretchingは sketching(スケッチ)faint in coil(とぐろを巻いて気絶する)は paint in oil(油絵)のもじり)
「それはどんなものなの?」とアリスがききました。
「ああ、私には、ちょっとやっては見せられないんだ」と、亀《かめ》まがいはいいました。「私はからだがかたいから、それにグリフォンは習《なら》ってないし」
「時間がなかったんだ」とグリフォンはいいました。「でも、おれは古《こ》典《てん》は習《なら》ったぜ。古《こ》典《てん》の先生は、年《とし》寄《よ》りの蟹《かに》だったよ。そうとも」
「私はその先生には習《なら》わなかった」と亀《かめ》もどきはため息《いき》をつきながらいいました。「笑い方《ラフイング》と悲《グ》し《リ》み《ー》方《フ》とを教えていたっていう話だけど」(laughing は Latin(ラテン語)griefは Greek(ギリシャ語)のもじり)「そうだったよ、そうだった」とグリフォンが自分もため息《いき》をついていいました。そして、二人《ふたり》とも、手で顔をおおいました。
「それで、一日に何時間くらい授《じゆ》業《ぎよう》があったの?」とアリスは、話《わ》題《だい》を変《か》えようと、いそいでききました。
「最《さい》初《しよ》の日は一〇時間さ」と亀《かめ》まがいがいいました。「つぎの日は九時間、つぎの日はもう一時間少なくなる、というぐあいさ」
「おかしな時《じ》間《かん》表《ひよう》なのね!」と、アリスが叫《さけ》びました。
「だからこそ、勉《べん》強《きよう》をレッスンというんじゃないか」と、グリフォンがいいました。「一日ごとに少なく《レツスン》なっていくというわけさ」(lesson(授業)とlessen(少なくする)とのもじり)
これは、アリスにとっては、まったく初《はつ》耳《みみ》のアイデアでした。それで、そのことについてしばらく考えてから、つぎの質《しつ》問《もん》に移《うつ》りました。「すると、十一日めは休みになるわけなの?」
「もちろんそうだったよ」と、亀《かめ》もどきがいいました。
「それじゃ、十二日めはどうしたの?」と、アリスが身《み》を乗《の》りだしてききました。
「もう勉《べん》強《きよう》の話はたくさんだ」とグリフォンがきっぱりした口《く》調《ちよう》で遮《さえぎ》りました。「今《こん》度《ど》は、ゲームの話をしてやれよ」
10 海老《えび》のスクェア・ダンス
亀《かめ》まがいは太いため息《いき》をついて、一方のひれの裏《うら》を目にあてました。アリスを見つめて、しゃべりだそうとしましたが、一分か二分のあいだ、すすり泣《な》きで息《いき》がつまって声がでませんでした。「のどに骨《ほね》をたてたのと同じなんだ」とグリフォンがいって、亀《かめ》まがいのからだをゆすぶったり、背《せ》中《なか》をたたいたりしはじめました。亀《かめ》まがいはようやく声が出るようになり、両《りよう》の頬《ほお》に涙《なみだ》をぼろぼろと流《なが》しながらも、話の先をつづけました。
「あんたは海の中であまり暮《く》らしたことはないだろう」(「ないわ」とアリスはいいました)「それに、たぶん海老《えび》に紹《しよう》介《かい》されたこともないだろうな」(アリスはまた口を開いて「一度《ど》食べたことは――」といおうとして、あわてて口をおさえ「ないわ、もちろん」といいました)「だから、あんたには、海老《えび》のスクェア・ダンスがどんなにすばらしいものか、ぜんぜんわかりはしないんだ!」
「そりゃ、わからないわ」とアリスはいいました。「それ、どんなダンスなの?」
「そりゃあんた」と、グリフォンがいいました。「まず、海《かい》岸《がん》にそって一列《れつ》に並《なら》んで――」
「二列《れつ》だよ」と、亀《かめ》まがいがいいました。「海豹《あざらし》や、亀《かめ》や、鮭《さけ》や、そのほかいろんな連《れん》中《ちゆう》でね。それで、じゃまな海月《くらげ》のやつをすっかりどけてしまうと――」
「ところがそれが、いつも、けっこう時間がかかるんだ」と、グリフォンが口をはさみました。
「――まず二歩前に――」
「それぞれ、海老《えび》をパートナーにしてな!」と、グリフォンが叫《さけ》びます。
「もちろんだよ」と、亀《かめ》まがいがいいました。「二歩進《すす》んで、それぞれ組になって――」
「――そして、海老《えび》をとりかえて、また同じ順《じゆん》序《じよ》でもとへもどるんだ」と、グリフォンがつづけました。
「それから、つまり」と亀《かめ》まがいがあとをつづけて「ほうりだすんだ、あの――」
「海老《えび》をさ!」グリフォンが大声で叫《さけ》ぶと空中にとびあがりました。
「――海の、できるだけ遠くへほうって――」
「あとから泳《およ》いで追《お》いかけるんだ!」とグリフォンが金《かな》切《きり》声《ごえ》をあげました。
「海の中で宙《ちゆう》返《がえ》りを一回《かい》!」と、亀《かめ》まがいがめちゃめちゃにはねまわりながら叫《さけ》びました。
「も一度海老《えび》をとりかえて!」と、グリフォンが精《せい》いっぱいの声を張《は》りあげてどなります。
「また岸《きし》へもどってきて――そして、ここまでが一くぎりだよ」亀《かめ》まがいが急《きゆう》に声を落《お》としていいました。それまで、まるで狂《くる》ったようにとんだりはねたりしつづけだった二匹《ひき》は、またひどくおとなしく、悲《かな》しげにそこにすわりこんで、アリスを見ました。
「さぞ、すてきなダンスなんでしょうね」とアリスはおずおずいいました。
「ちょっとばかし、見てみるかい?」と、亀《かめ》まがいがいいました。
「それは、とっても見たいけど」とアリス。
「よし、一番だけやってみようや!」と、亀《かめ》まがいが、グリフォンに向《む》かっていいました。「海老《えび》なしだってやればやれるよ。どっちが歌う?」
「そりゃ、あんたが歌えよ」と、グリフォンがいいました。「おれは文《もん》句《く》を忘《わす》れちまった」
こうして、二匹《ひき》は、しぐさもおごそかにアリスのまわりをぐるぐる回《まわ》りながら踊《おど》りはじめましたが、しょっちゅう、アリスに近《ちか》寄《よ》りすぎて、そのたびに足を踏《ふ》んづけました。二匹《ひき》は前《まえ》肢《あし》を振《ふ》って拍《ひよう》子《し》を取《と》り、亀《かめ》まがいは、つぎのような歌を、さも悲《かな》しげに、ゆっくりした調《ちよう》子《し》で歌いました。
鱈《たら》が蝸牛《かたつむり》にいいました
「もすこし早く歩いてくれよ。
海豚《いるか》が後から押《お》してきて
尾《し》っぽを踏《ふ》んで困《こま》るんだ。
見てみろ、海老《えび》さん亀《かめ》さんたちは
みんなまじめにすすんでるじゃないか!
みんな浜《はま》辺《べ》で待《ま》ってるよ
あんたもどうだいなかま入り?
来るか、来ないか、なかま入り?
来るか、来ないか、なかま入り?
そのおもしろさといったらば
とても想《そう》像《ぞう》できないよ
つかまえられて海老《えび》もろともに
はるかな沖《おき》へざんぶりと
ほうりこまれるおもしろさ!」
けれども蝸牛《かたつむり》はいいました
「とっても、とっても遠すぎる」
そして横《よこ》目《め》で鱈《たら》を見て、
ご親切はうれしいけれど、
ダンスはけっこうといいました
行かない、行けない、そのダンス
行かない、行けない、そのダンス
「遠くったっていいじゃないか」
うろこの友だちいいました。
「むこう側《がわ》には、むこうの岸《きし》が
ちゃんと待《ま》ってる理《り》屈《くつ》じゃないか
イギリス遠くはなれれば
それだけフランス近くなる。
青くなることあるものか
どうだい、あんたも、なかま入り
来るか、来ないか、なかま入り
来るか、来ないか、なかま入り?」
「ありがとう、見ててほんとうにおもしろいダンスね」とアリスはいいました、じつは、ようやく終《お》わってくれたので、心の中でほっとしていたのです。「それに、あの鱈《たら》のおかしな歌だって、わたしだいすきよ」
「そうだ、鱈《たら》といえば――」と、亀《かめ》まがいがいいました。「あいつらは――あんたは、もちろん、見たことはあるね?」
「あるわ」とアリスはいいました。「鱈《たら》なら、しょっちゅうお目にかかったわ、お食……」そこで、あわててことばをのみこみました。
「おしょくってどこだか知らないが」と、亀《かめ》まがいはいいました。「でも、そんなにしょっちゅう会っていたんなら、もちろん、どんなかっこうをしてるかは知ってるな?」
「知ってると思うわ」アリスは、注《ちゆう》意《い》ぶかく答えました。「口の中に尾《お》を入れてて、からだじゅうパンくずだらけだわ」
「パンくずのことはまちがいだね」と亀《かめ》もどきがいいました。「パンくずは、海の中では、みんな洗《あら》い流《なが》されてしまうから。でも、たしかに鱈《たら》は尾《お》っぽを口の中に入れている。そのわけは――」――そこまでいって、亀《かめ》まがいはあくびをすると、目をつぶりました。「そのわけや何やかやを話してやってくれ」と、彼《かれ》はグリフォンに向《む》かっていいました。
「そのわけは」とグリフォンがいいました。「鱈《たら》はよく海老《えび》とダンスに行きたがるからだ。するとやつらは、海にほうりだされる。すると、遠くまで落《お》ちなければならん。そこで、やつらは、尾《お》っぽをしっかり口にくわえた。そこで、二度《ど》と、尾《し》っぽを出せなくなってしまった。そういうわけさ」
「ありがとう」とアリスはいいました。「とってもおもしろいわ。わたし、鱈《たら》のことを、いままでこんなにたくさんは知らなかったわ」
「よければ、もっと教えてやるよ」とグリフォンはいいました。「あんたは、なぜあいつが鱈《ホワイテイング》というか知ってるかい?」
「そんなこと、考えてみたこともなかったわ。なぜなの?」
「あいつは、長靴《ブーツ》や短《シユ》靴《ーズ》をみがくからさ」とグリフォンは、いかめしい顔で答えました。
アリスはあっけにとられました。「長靴《ブーツ》や短《シユ》靴《ーズ》を磨《みが》くんですって!」不《ふ》思《し》議《ぎ》でしょうがないという調《ちよう》子《し》で、くり返《かえ》しました。
「なんだい、それじゃ、おまえさんの靴《くつ》は何で磨《みが》くんだい?」と、グリフォンがいいました。「つまり、何で、そんなにぴかぴかに光らしてるんだってことさ!」
アリスは自分の靴《くつ》を見おろして、よく考えてから答えました。「わたしのは、靴《ブラ》ず《ツキ》み《ング》で磨《みが》くと思うわ」
「海の中の長靴《ブーツ》や短《シユ》靴《ーズ》は」とグリフォンは、太い声でつづけました。「靴おしろい《ホワイテイング》でやるんだよ。これでわかったろう」(whitingには鱈と白靴ずみの両方の意味がある)「で、その靴《くつ》は何でできているの?」アリスは、好《こう》奇《き》心《しん》をむきだしにした口《く》調《ちよう》でききました。
「もちろん平目《ソール》やうなぎ《イール》でさ」と、グリフォンは、ちょっといらいらしたように答えました。「こんなことくらい、どんな小《こ》海老《えび》だって知ってるぞ」(sole には靴底の意味があり eel(うなぎ)は heel(踵)に引っかけたギャグ)
「もしわたしが鱈《たら》だったら」と、アリスは、まだ歌の文《もん》句《く》のことを考えながらいいました。「海豚《いるか》にこういってやるのにな。『どいてちょうだい、あんたなんかには用はないわ!』って」
「海豚《いるか》は鱈《たら》についている義《ぎ》務《む》があったんだ」と、亀《かめ》まがいがいいました。「賢《かしこ》い魚だったら、海豚《いるか》なしにはどこにもぜったい行きやしないよ」
「ほんとにそうなの?」とアリスは、心からびっくりした口《く》調《ちよう》でいいました。
「そりゃそうだよ!」と亀《かめ》まがい。「だって、いいかい、もし魚が私のところへやって来て、旅《りよ》行《こう》に行くといったとすれば、私は必ず『何のいるか《ポーパス》で?』と聞くだろうじゃないか」
「それ、『何の用《パー》事《ポス》で』のことじゃないの?」とアリスは聞きました。(porpoise(いるか)とpurpose(目的)とかけことば)
「私のいうことに間《ま》違《ちが》いない」と、亀《かめ》まがいは腹《はら》立《だ》たしげに答えました。するとグリフォンがつけ足しました。「よし、今《こん》度《ど》はおまえさんの冒《ぼう》険《けん》談《だん》を聞こうじゃないか」
「今朝《けさ》始《はじ》まったばかりの冒《ぼう》険《けん》の話なら、できるわ」とアリスは、ちょっとひるみながらもいいました。「でも、きのうのことになったらもうだめ。そのときは、わたしは別《べつ》人《じん》だったんだから」
「くわしく説《せつ》明《めい》しなさい」と亀《かめ》まがいがいいました。
「いや、いかん! まず冒《ぼう》険《けん》談《だん》だ」と、グリフォンが、じれったそうにいいました。「説《せつ》明《めい》というやつは、ひどく時間がかかるからいかん」
そこでアリスは、二匹《ひき》に、白《しろ》兎《うさぎ》をはじめて見かけた時からの冒《ぼう》険《けん》談《だん》を話しはじめました。はじめのうち、アリスはちょっとびくびくしました。というのは、二匹《ひき》の動《どう》物《ぶつ》が、両《りよう》がわから、あんまり近くへ寄《よ》ってきて、目も口もおそろしく大きくあけていたので、気《き》持《もち》が悪《わる》かったのです。でも、話すうちに、だんだん勇《ゆう》気《き》が出てきました。聞きては、声ひとつ立てず、しんとして話に聞き入っていましたが、アリスがイモムシに向《む》かって『父さん、あんたももう年だ』の歌を歌おうとしたら、文《もん》句《く》がみんなちがってしまった、というところにくると、亀《かめ》まがいが長いため息《いき》をついて「そいつはほんとにおかしいね」といいました。
「なにもかも、おかしいの、おかしくないのって」と、グリフォンがいいました。
「みんなちがった文《もん》句《く》になったんだって!」と亀《かめ》まがいが、考え深《ぶか》げにいいました。「ここで何か暗《あん》誦《しよう》してみてもらいたいものだな。暗《あん》誦《しよう》しろといってくれ」亀《かめ》まがいはグリフォンを見ていいました。グリフォンがいえば、アリスがいうことを聞くと思っているみたいでした。
「立って『これぞまさしく怠《なま》け者《もの》の声』を暗《あん》誦《しよう》しな」とグリフォンがいいました。
「動《どう》物《ぶつ》のくせに、ひとに命《めい》令《れい》したり、レッスンさせたりよくできるわ!」と、アリスは思いました。「こんなことなら、学校へ行ってるほうがよっぽどましだわ!」そうは思ったけれども、やっぱり立ち上がって暗《あん》誦《しよう》をはじめました。でも、頭の中は海老《えび》のスクェア・ダンスのことでいっぱいだったので、自分が何をいっているのか、ほとんど気がつきませんでした。暗《あん》誦《しよう》した文《もん》句《く》は、ほんとうに妙《みよう》ちきりんなものでした。
「これぞまさしく海老《えび》の声、海老《えび》めはたし
かにこういった
『おまえはおれ様《さま》を焼《や》きすぎた、髪《かみ》に砂《さ》糖《とう》
をまぶさにゃならん』
あひるはまぶたでやるけれど
海老《えび》はお鼻《はな》でやってのける
ベルトとボタンをととのえて
気《き》取《ど》ってガニ股《また》に歩いてみせる」
「砂《すな》浜《はま》すっかり乾《かわ》いていれば
ひばりみたいに陽《よう》気《き》になって
鱶《ふか》なぞ何だといばっているが
潮《しお》が満《み》ちてきて、鱶《ふか》がやってくりゃ
声はおどおど、ぶるぶるふるえ」
「そいつは、おれが子どものとき暗《あん》誦《しよう》したのとずいぶんちがうな」とグリフォンがいいました。
「私は聞いたことはないが」と亀《かめ》まがいもいいます。「それにしても、変《か》わったくだらない文《もん》句《く》だな」
アリスは何もいわずにまたすわって、両《りよう》手《て》で顔をおおいながら、これから先、またあたりまえの事《こと》が起《お》きることはあるのかしら、と思っていました。
「私は、説《せつ》明《めい》してもらいたいね」と、亀《かめ》まがいがいいました。
「この子には説《せつ》明《めい》できやしないよ」とグリフォンが急《いそ》いでいいました。「つぎの文《もん》句《く》をやんなよ」
「でも、外《そと》股《また》に歩くというところがわからない」と、亀《かめ》まがいが頑《がん》張《ば》りました。「いったいぜんたい、どうやって鼻《はな》で歩くことができるんだね?」
「それは、ダンスの最《さい》初《しよ》の姿《し》勢《せい》よ」とアリスはいいましたが、何もかもが、すっかりこんぐらがってしまったので、話《わ》題《だい》を変《か》えたくてしかたがありませんでした。
「つぎの文《もん》句《く》をおやりってば」と、グリフォンがじれったそうにくり返《かえ》しました。「最《さい》初《しよ》の文《もん》句《く》は『庭《にわ》を通って』ではじまるんだ」
アリスは命《めい》令《れい》にそむく勇《ゆう》気《き》もなかったので、きっとまた何もかもちがってしまうにきまっていると思いながらも、ふるえる声でつづけました。
庭《にわ》を通って片《かた》目《め》で見れば
梟《ふくろう》と豹《ひよう》がパイ分けていた
豹《ひよう》の分け前、皮《かわ》と肉《にく》と肉《し》汁《る》
梟《ふくろう》の分け前、お皿《さら》だけ
「パイがなくなりゃ、ついでのことに
梟《ふくろう》はスプーンをポケットに
豹《ひよう》は文《もん》句《く》とナイフとフォーク
さて、ご馳《ち》走《そう》のそのあとは――」
「こんなくだらないものを暗《あん》誦《しよう》して何になるんだ」と、亀《かめ》まがいがさえぎりました。「暗《あん》誦《しよう》しながら、説《せつ》明《めい》してくれなきゃどうしようもない。とにかく、こんなでたらめは、聞いたこともないよ!」
「よし、おまえさん、やめてもいいよ」とグリフォンがいいました。アリスは喜《よろこ》んでそれに従《したが》いました。
「海老《えび》のスクェア・ダンスの二番《ばん》をやろうか?」と、グリフォンがつづけました。「それとも、亀《かめ》まがいに、何か歌を歌ってもらいたいか?」
「ああ、それは歌のほうがいいわ。亀《かめ》まがいさんがご迷《めい》惑《わく》でなければ」と、アリスは答えましたが、あまり乗《の》り出していったので、グリフォンはつむじを曲《ま》げたらしく、むっとした声で「ふん! 趣《しゆ》味《み》の悪《わる》いことだよ! おい、『亀《かめ》のスープ』の歌を歌ってやれよ」
亀《かめ》まがいは大きなため息《いき》をつき、時々すすり泣《な》きで声をつまらせながらも、こんな歌を歌いました。
濃《こ》くて緑《みどり》のうまそうなスープ
熱《あつ》いお鉢《はち》で待《ま》っている
こんなご馳《ち》走《そう》、嫌《きら》いなやつはいない
夕《ゆう》食《しよく》のスープ、うまそうなスープ!
夕《ゆう》食《しよく》のスープ、うまそうなスープ!
すてーきな、スーウープ!
すてーきな スーウープ!
ゆーうーしょくのスーウープ
うまそな すてきなスープ!
うまそうなスープ! 魚なんかめ《ヽ》じゃない
肉《にく》も、野《や》菜《さい》も、知ったこっちゃない
すてきなスープの二ペンス分のためなら
何を捨《す》てても惜《お》しくはない
すてきなスープの一ペニー分のためなら
すてーきな スーウープ!
すてーきな スーウープ!
ゆーうーしょくの スーウープ!
うまそな すてきなスープ!
「もう一度《ど》、コーラス!」とグリフォンが叫《さけ》び、亀《かめ》まがいがそれをくり返《かえ》しはじめたとき、遠くの方から「裁《さい》判《ばん》が始《はじ》まるぞ!」という叫《さけ》び声が聞こえました。
「来いよ!」とグリフォンが叫《さけ》んで、歌が終《お》わるのも待《ま》たず、アリスの手をつかんで駆《か》けだしました。
「何の裁《さい》判《ばん》なの?」とアリスは、息《いき》を切らして走りながらききましたが、グリフォンは「来るんだ!」と答えるだけで、いっそう足をはやめます。そのあいだも、後ろから吹《ふ》く微《そよ》風《かぜ》が、だんだんかすかになるあのもの悲《がな》しい歌声を、運《はこ》んできました。
ゆーうーしょくの スーウープ
うまそな すてきなスープ!
11 だれがパイを盗《ぬす》んだか?
アリスたちがついたときには、ハートの王様と女王とは、もう玉《ぎよく》座《ざ》につかれ、そのまわりに大《おお》勢《ぜい》の群《ぐん》衆《しゆう》が集《あつ》まっていました――トランプの札《ふだ》たちはもちろん、小鳥や獣《けもの》たちもみんないました。その前でジャックが鎖《くさり》につながれていて、両《りよう》がわに兵《へい》士《し》が一《ひと》人《り》ずつついて護《ご》衛《えい》していました。王様のそばにはあの白《しろ》兎《うさぎ》が片《かた》手《て》にラッパ、片《かた》手《て》に羊《よう》皮《ひ》紙《し》の巻《まき》ものを持《も》って立っていました。法《ほう》廷《てい》のちょうどまん中にはテーブルがあり、その上には、パイを盛《も》った大きなお皿《さら》が載《の》っていました。それは、とてもおいしそうに見えたので、アリスは見ただけでおなかがすいてきました。「裁《さい》判《ばん》なんか早くやってしまって、早くご馳《ち》走《そう》をくばってくれればいいのに!」と彼《かの》女《じよ》は思いました。でも、そんなことになりそうなようすはぜんぜんないので、時間つぶしに、まわりを見まわしはじめました。
アリスはこれまで裁《さい》判《ばん》には一度《ど》も行ったことはありませんでしたが、本では読《よ》んだことがあったので、そこにいるたいていのものの名前はわかりました。彼《かの》女《じよ》はうれしくなりました。「あれが判《はん》事《じ》だわ」とアリスは胸《むね》の中でいいました。「大きなかつらをかぶってるもの」
ところで、その判《はん》事《じ》というのは王様でした。かつらの上から王《おう》冠《かん》をかぶっているので、ひどくぐあいが悪《わる》そうだし、もちろん、ちっとも似《に》合《あ》いませんでした。
「それから、あれが陪《ばい》審《しん》席《せき》だわ」とアリスは思いました。「そしてあの十二人の生《せい》物《ぶつ》は――」(アリスが〈生《せい》物《ぶつ》〉といわなければならなかったわけは、そのうちに、動《どう》物《ぶつ》もいれば、小鳥もいたからなのです)「たぶん、あれは陪審員《ジユアラー》よ」アリスは、この最《さい》後《ご》のことばを二、三度《ど》くり返《かえ》していってみました。ちょっと得《とく》意《い》だったからです。というのは、アリスくらいの年《とし》頃《ごろ》の女の子で、このことばの意《い》味《み》を知っているものは、ほとんどいなかったにちがいないからです。でも、「陪審がかり《ジユアリーメン》」といったって、けっこう通用したのですが。
十二人の陪審員《ジユアラー》は、みんな、すごくいそがしそうに、石《せき》板《ばん》に何か書いていました。「あれ、何をしているのかしら?」とアリスは、グリフォンに囁《ささや》きました。「裁《さい》判《ばん》がはじまらなければ、何も書くことはないはずなのに」
「みんなの名前を書いているんだよ」とグリフォンが囁《ささや》き返《かえ》しました。「裁《さい》判《ばん》が終《お》わらないうちに忘《わす》れてしまうとこまるから」
「ばかみたい!」と、アリスは腹《はら》が立って大声でいいかけて、あわててやめました。白《しろ》兎《うさぎ》が「法《ほう》廷《てい》のなかは静《せい》粛《しゆく》に!」と叫《さけ》んだからです。王様は、めがねをはずして、だれがおしゃべりをしたのかと、心《しん》配《ぱい》そうにあたりを見まわしました。
アリスには、まるで陪審員《ジユアラー》たちの背《せ》中《なか》ごしにのぞいて見たように、みんなが石《せき》板《ばん》に「ばかみたい!」と書いているのが見えました。そのうちの一《ひと》人《り》が「ばか」の書き方がわからなくて、隣《とな》りの人に教えてもらったのさえわかりました。「裁《さい》判《ばん》が終《お》わらないうちに、あの石《せき》板《ばん》は、きっとごちゃごちゃになってしまうわ!」とアリスは思いました。
陪審員《ジユアラー》の一《ひと》人《り》が、きいきい音をたてる石《せき》筆《ひつ》を持《も》っていました。アリスは、これにはとてもがまんできなかったので、法《ほう》廷《てい》をまわって行ってその陪審員《ジユアラー》の後ろに行き、すぐに、すきを見つけてその石《せき》筆《ひつ》を取《と》ってしまいました。それがあんまり早かったものだから、かわいそうなその陪審員《ジユアラー》(それは、トカゲのビルでした)は、いったい石《せき》筆《ひつ》がどうしてなくなったのか、さっぱりわけがわかりませんでした。それで、あたりを探《さが》しまわったあげく、その日は指《ゆび》で書かなければなりませんでした。でも、これはほとんど役《やく》にたちませんでした。指《ゆび》では石《せき》板《ばん》に何もあとがつかなかったからです。
「伝《でん》令《れい》がかり、告《こく》訴《そ》状《じよう》を読みあげよ!」と、王様がいいました。
これを合《あい》図《ず》に、白《しろ》兎《うさぎ》はラッパを三度《ど》吹《ふ》き鳴らし、羊《よう》皮《ひ》紙《し》の巻《まき》ものをひらいて、つぎのようなことばを読みあげました。
「ハートの女王様 パイをつくった
夏の日いっぱい精《せい》だして
ハートのジャックが パイ盗《ぬす》み
みんなどこかへ持《も》っていった」
「評《ひよう》決《けつ》を考えよ」と、王様が陪審員《ジユアラー》に向《む》かっていいました。
「まだです! まだです!」と、白《しろ》兎《うさぎ》があわててさえぎりました。「その前に、まだまだたくさんすることがあります!」
「最《さい》初《しよ》の証《しよう》人《にん》を呼《よ》べ」と、王様がいいました。白《しろ》兎《うさぎ》はラッパを三度《ど》吹《ふ》き鳴らし「最《さい》初《しよ》の証《しよう》人《にん》!」と叫《さけ》びました。
最《さい》初《しよ》の証《しよう》人《にん》は帽《ぼう》子《し》屋《や》でした。帽《ぼう》子《し》屋《や》はお茶の茶《ちや》碗《わん》を片《かた》手《て》に、バタつきパンを片《かた》手《て》に進《すす》み出てきました。「陛《へい》下《か》」と帽《ぼう》子《し》屋《や》はいいはじめました。「このようなものを持《じ》参《さん》して、まことに申《もう》しわけありませんが、お呼《よ》びを受《う》けましたとき、まだお茶がすんでおりませんでしたので」
「すましておくべきだったのだ」と王様はいいました。「いつ始《はじ》めたのだ?」
帽《ぼう》子《し》屋《や》は、あとからヤマネと腕《うで》を組んで入って来た三月兎《うさぎ》を見やりました。「三月十四日であったと記《き》憶《おく》しております」
「十五日だよ」と、三月兎《うさぎ》がいいました。
「十六日さ」と、ヤマネがつけ加《くわ》えます。
「書きとめておけ」と、王様は、陪審員《ジユアラー》に向《む》かっていい、陪審員《ジユアラー》たちは、三つの日《ひ》付《づけ》を石《せき》板《ばん》にいそがしく書きこみ、みんな加《くわ》えて、その答えをシリングとペンスに換《かん》算《さん》しました。
「おまえの帽《ぼう》子《し》をぬげ」と王様が、帽《ぼう》子《し》屋《や》にいいました。
「これは私のではありません」と帽《ぼう》子《し》屋《や》がいいました。
「盗《ぬす》んだのだな!」と王様は叫《さけ》んで、陪審員《ジユアラー》の方を振《ふ》りむきました。陪審員《ジユアラー》たちは、いそいでこの事《じ》実《じつ》をメモしました。
「私は、売るために帽《ぼう》子《し》を持《も》っているのです」と帽《ぼう》子《し》屋《や》は説《せつ》明《めい》をはじめました。「自分のは一つも持《も》っておりません。私は帽《ぼう》子《し》屋《や》でございますから」
そのとき、女王がめがねをかけ、帽《ぼう》子《し》屋《や》をするどく見つめたので、帽《ぼう》子《し》屋《や》はまっさおになり、もじもじとからだをくねらせました。
「証《しよう》拠《こ》を見せよ」と王様がいいました。「それに、そうびくびくするな。でないと、この場でおまえを死《し》刑《けい》にするぞ」
これは、少しも証《しよう》人《にん》を力づけることにはなりませんでした。彼《かれ》はたえず足を踏《ふ》みかえ、心《しん》配《ぱい》そうに女王を見ていましたが、あがってしまったため、バタつきパンのかわりに茶《ちや》碗《わん》を大きくかみとってしまいました。
ちょうどその瞬《しゆん》間《かん》、アリスは何だかひどく妙《みよう》な気《き》持《もち》がしはじめました。何が何だかわからずに、おかしいおかしいと思っているうち、ようやく正《しよう》体《たい》がわかってきました。また大きくなりかけていたのです。アリスははじめ、立ち上がって法《ほう》廷《てい》を出ようと思いました。でも、すぐに思いなおし、いられる余《よ》裕《ゆう》があるかぎりは、そこにいようと決《けつ》心《しん》しました。
「そんなにぎゅうぎゅう押《お》さないでくれないか」と、すぐ隣《とな》りにすわっていたヤマネがいいました。「これじゃ、息《いき》もできやしない」
「しかたがないのよ」とアリスは、できるだけ穏《おだ》やかにいいました。「わたし、大きくなっているの」
「ここでは大きくなる権《けん》利《り》はないよ」とヤマネはいいました。
「ばかなこといわないで」とアリスはさっきより大《だい》胆《たん》になっていいました。「あなただって、大人《おとな》になっていくじゃないの」
「そうだよ。でもぼくはふつうのスピードで成《せい》長《ちよう》してる」とヤマネはいいました。「そんな、ばかみたいなスピードじゃなくてね」そして、すごく不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに立ち上がると、法《ほう》廷《てい》の反《はん》対《たい》がわの方へ行ってしまいました。
こうしているあいだにも、女王は帽《ぼう》子《し》屋《や》をずっとにらみつけていましたが、ちょうどヤマネが法《ほう》廷《てい》を横《よこ》切《ぎ》ったとき、廷《てい》吏《り》の一《ひと》人《り》に「この前の演《えん》奏《そう》会《かい》の歌手のリストを持《も》っておいで!」といいつけました。これを聞いて、あわれな帽《ぼう》子《し》屋《や》はふるえだしましたが、それがあまり激《はげ》しかったので、靴《くつ》が両《りよう》方《ほう》ともぬげてしまいました。
「証《しよう》拠《こ》を見せよ」と王様が、腹《はら》立《だ》たしげにいいました。「でないと、死《し》刑《けい》にするぞ。びくびくしようが、しまいが」
「私は、かわいそうな男でございます、陛《へい》下《か》」と帽《ぼう》子《し》屋《や》はふるえる声でいいました。「それに、まだお茶も始《はじ》めたばかりでございますし――一週《しゆう》間《かん》にもなりません――バタつきパンはどんどん薄《うす》くなる一方ですし、お茶《テイー》はきらきら――」
「何がきらきらだと?」と、王様がいいました。
「そもそものはじめは、お茶《テイー》なんでございます」と帽《ぼう》子《し》屋《や》は答えます。
「き《トウ》ら《イン》き《クリ》ら《ング》がティーではじまるのはきまっておる!」(twinkling の tとteaとの語呂あわせ)と、王様はことばするどくいいました。「おまえは、わたしをばか者《もの》とでも思うのか。先をつづけろ!」
「私は、あわれな者《もの》でございます」と帽《ぼう》子《し》屋《や》はつづけました。「それに、たいていのものが、それ以《い》後《ご》はきらきらしはじめまして――ただ、三月兎《うさぎ》の申《もう》しますことには――」
「わたしはいわないぞ!」と三月兎《うさぎ》が、大あわてでさえぎりました。
「いったとも!」と帽《ぼう》子《し》屋《や》。
「わたしはそれを否《ひ》定《てい》する!」と三月兎《うさぎ》。
「彼《かれ》はそれを否《ひ》定《てい》する」と王様がいいました。
「その部《ぶ》分《ぶん》は削《さく》除《じよ》しろ」
「ええと、とにかく、ヤマネが申《もう》しますには――」帽《ぼう》子《し》屋《や》はそういいかけて、ヤマネもそれを否《ひ》定《てい》するかどうかと恐《おそ》れながらぐるりと後ろを振《ふ》りかえりましたが、ヤマネは何も否《ひ》定《てい》はしませんでした。ぐっすり眠《ねむ》りこんでいたからです。
「そのあと」と、帽《ぼう》子《し》屋《や》は先をつづけました。
「私はバタつきパンをもう少し切り――」
「だが、ヤマネは何といったんだ?」と、陪審員《ジユアラー》の一《ひと》人《り》が質《しつ》問《もん》しました。
「それは思いだせません」と帽《ぼう》子《し》屋《や》。
「思いださねばならぬ」と王様が注《ちゆう》意《い》しました。「でないと、おまえは死《し》刑《けい》だぞ」
あわれな帽《ぼう》子《し》屋《や》は、茶《ちや》碗《わん》とバタつきパンをばったり落《お》とし、片《かた》膝《ひざ》をつくと、いいはじめました。
「私はあわれな男でございます、陛《へい》下《か》――」
「おまえはじつにあわれなおしゃべりだ」と王様はいいました。
そのとき、一匹《ぴき》のモルモットが拍《はく》手《しゆ》して、たちまち廷《てい》吏《り》たちに制《ヽ》圧《ヽ》されました。(これは、ちょっとかたいことばなので、どんなふうにしたのか、ここで説《せつ》明《めい》しておきましょう。廷《てい》吏《り》たちは、口のところをひもで結《むす》んである大きなカンバス・バッグを持《も》っていたのです。この中へ、モルモットを頭から先になげこむと、その上にすわりこんだのです)
「わたし、見ておいてよかったわ」とアリスは考えました。「よく新聞で、裁《さい》判《ばん》が終《お》わったときに『拍《はく》手《しゆ》しようとしたものがあったが、廷《てい》吏《り》の手によってただちに制《せい》圧《あつ》された』と書いてあるのを読んだことがあったけど、いままで、何のことだかさっぱりわからなかったんだもの」
「おまえが知っているのがそれだけならば、もうさがってよろしい」と、王様がつづけました。
「これ以《い》上《じよう》はさがれません」と帽《ぼう》子《し》屋《や》が答えました。「私はごらんのように床《ゆか》にいますので」
「それなら、すわったらよかろう」と王様は答えました。
ここで、またもう一匹《ぴき》のモルモットが拍《はく》手《しゆ》して、制《せい》圧《あつ》されました。
「やれやれ、これでモルモットはかたづいたわ」とアリスは思いました。「これからは、もっとすらすら進《すす》むでしょう」
「私は、お茶をすませてしまいたいのですが」と、帽《ぼう》子《し》屋《や》が、女王の方を心《しん》配《ぱい》そうに見やりながらいいました。女王は、歌手のリストを読んでいました。
「行ってよろしい」と王様がいいました。帽《ぼう》子《し》屋《や》は、靴《くつ》もはかずに、大あわてで法《ほう》廷《てい》を出て行きました。
「外へ出たら、首をはねてしまえ」と、女王が廷《てい》吏《り》の一《ひと》人《り》に命《めい》じました。しかし帽《ぼう》子《し》屋《や》は廷《てい》吏《り》がドアのところへ行きつくまでに、姿《すがた》を消してしまいました。
「つぎの証《しよう》人《にん》を呼《よ》べ!」と王様がいいました。
つぎの証《しよう》人《にん》は公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》の料《りよう》理《り》人《にん》でした。料《りよう》理《り》人《にん》はこしょう入れを手に持《も》っていました。でもアリスには、彼《かの》女《じよ》が法《ほう》廷《てい》に入ってくる前から、だれだかわかっていました。戸《と》口《ぐち》あたりにいた人たちが、いっせいにくしゃみをはじめたからでした。
「申《もう》し立てをのべよ」と、王様がいいました。
「いやだよ」と、料《りよう》理《り》女《おんな》はいいました。
王様は白《しろ》兎《うさぎ》を心《しん》配《ぱい》そうな目で見ました。すると白《しろ》兎《うさぎ》は、ひくい声で「この証《しよう》人《にん》には、陛《へい》下《か》が反《はん》対《たい》尋《じん》問《もん》をなさらなければなりません」といいました。
「うむ、どうしてもしなければならぬのならやろう」王様はゆううつそうなようすでそういうと、腕《うで》組《ぐみ》をし、料《りよう》理《り》女《おんな》を、両《りよう》目《め》がとびだすほどににらみつけていましたが、やがて太い声でいいました。「パイは何でできておるか?」
「こしょうよ、たいていはね」と料《りよう》理《り》女《おんな》は答えました。
「シロップだ」と、その後ろから、眠《ねむ》そうな声がいいました。
「そのヤマネを引きたてよ!」と、女王が、金《かな》切《きり》声《ごえ》をあげました。「そのヤマネの首をはねよ! そのヤマネを法《ほう》廷《てい》から引きずりだせ! とりおさえよ! つねり殺《ころ》せ! ひげをむしってしまえ!」
それからちょっとのあいだ、ヤマネを追《お》いだすのに、法《ほう》廷《てい》じゅうが大さわぎしました。そしてさわぎのおさまったときには、料《りよう》理《り》女《おんな》の姿《すがた》は見あたりませんでした。
「かまわん!」と、王様が、ほっとしたような調《ちよう》子《し》でいいました。「つぎの証《しよう》人《にん》を呼《よ》べ」そして、声をひくくすると、女王に向《む》かって、つけ加《くわ》えました。「たのむよ、おまえ、今《こん》度《ど》の証《しよう》人《にん》は、おまえが反《はん》対《たい》尋《じん》問《もん》をしてくれ。まったく、頭がいたくなるんだ!」
アリスは、白《しろ》兎《うさぎ》がリストをごそごそやるのを見《み》守《まも》っていました。つぎの証《しよう》人《にん》がいったいだれなのか、すごく好《こう》奇《き》心《しん》が湧《わ》いていたのです。「だってまだ、ろくな証《しよう》拠《こ》があがっていないんだもの」と、アリスはひとりごとをいいました。だから、思ってもみてください――白《しろ》兎《うさぎ》が、甲《かん》高《だか》いほそい声を精《せい》いっぱい張《は》りあげて「アリス!」と名前を読みあげたときのおどろきを!
12 アリスの証《しよう》言《げん》
「はい!」とアリスは叫《さけ》びましたが、とっさのことだったので、その最《さい》後《ご》の五、六分のあいだに、自分がどれだけ大きくなっていたかを、すっかり忘《わす》れてしまいました。そして、あまりあわててとび上がったので、スカートのすそで陪《ばい》審《しん》席《せき》をひっくり返《かえ》し、陪審員《ジユアラー》たちを、下の群《ぐん》衆《しゆう》の頭の上にほうりだしてしまったのです。みんなが四つんばいにひっくり返《かえ》ったようすから、アリスは、先《せん》週《しゆう》うっかりしてひっくり返《かえ》した金《きん》魚《ぎよ》鉢《ばち》のことを、ありありと思いだしました。
「あら、まあ、ごめんなさい!」アリスはおそろしくてあわてて叫《さけ》ぶと、できるだけ手早く、みんなを拾《ひろ》いあげました。というのは、あの金《きん》魚《ぎよ》鉢《ばち》の事《じ》件《けん》が、まだ頭の中にこびりついていたので、すぐに拾《ひろ》って陪《ばい》審《しん》席《せき》にもどしてやらなければ死《し》んでしまうような気がしたからでした。
「陪審員《ジユアラー》が全《ぜん》員《いん》もとの席《せき》にもどるまでは――」と王《おう》様《さま》が、おそろしくいかめしい声でいいました。「裁《さい》判《ばん》は、続《ぞつ》行《こう》不《ふ》可《か》能《のう》である。全《ぜん》員《いん》だぞ」王様は、アリスをきつい目でにらみながら、力をこめてくり返《かえ》しました。
アリスは陪《ばい》審《しん》席《せき》を見て、あんまりあわててやったために、トカゲをさかさまに席《せき》に入れてしまったのに気がつきました。かわいそうに、チビトカゲは、ぜんぜん身《み》動《うご》きができず、ゆううつそうに尾《お》を振《ふ》りまわしていました。アリスはトカゲを取《と》りだして、ちゃんと入れ直《なお》しました。「たいして重《じゆう》要《よう》なことじゃないのに」と彼《かの》女《じよ》はひとりごとをいいました。「どっちが上になってたって、裁《さい》判《ばん》には、それほど役《やく》にはたちゃしないわ」
ひっくり返《かえ》されたショックからどうにか立ち直《なお》り、石《せき》板《ばん》や石《せき》筆《ひつ》が拾《ひろ》い集《あつ》められてそれぞれに返《かえ》されると、陪審員《ジユアラー》たちはすぐに、いまの事《じ》件《けん》のいきさつを、せっせと書きとめはじめました。ただトカゲだけは例《れい》外《がい》で、あまりおどろいたため、何をする気にもなれないらしく、口をぽかんとあけ、法《ほう》廷《てい》の天《てん》井《じよう》をながめてばかりいました。
「お前はこの事《じ》件《けん》について、何か知っているか?」と、王様がアリスに聞きました。
「何にも知りません」と、アリスはいいました。
「まったく何にもか?」と、王様はなおも聞きます。
「まったく何にもです」とアリスは答えました。
「これはすこぶる重《じゆう》要《よう》である」と王様は、陪《ばい》審《しん》席《せき》を振《ふ》り返《かえ》っていいました。
陪審員《ジユアラー》たちが、これを石《せき》板《ばん》に書きはじめたとたんに、白《しろ》兎《うさぎ》がさえぎっていいました。「もちろん陛《へい》下《か》は、まったく重《じゆう》要《よう》でない、というおつもりだったのですね」彼《かれ》は、いかにもうやうやしくいいましたが、しゃべりながら、王様に向《む》かって、さかんに顔をしかめてみせていました。
「もちろん、重《じゆう》要《よう》でない、という意《い》味《み》である」王様はいそいでいいましたが、つづいて、ひとりごとのように「重《じゆう》要《よう》である――重《じゆう》要《よう》でない――である――でない」と、どっちのことばがひびきがいいかためすように、つぶやきました。
陪審員《ジユアラー》の中には「重《じゆう》要《よう》である」と書いたものもいるし「重《じゆう》要《よう》でない」と書いたものもいました。アリスは、陪審員《ジユアラー》たちの石《せき》板《ばん》をのぞいて見られるほど近くにいたから、これがみんな見えました。「でも、そんなこと、どうでもいいわ」と、アリスはひとり考えました。
そのとたん、王様が「静《せい》粛《しゆく》に!」とどなりました。そして、さっきから、何かしきりに書きこんでいたノートを読みあげました。「規《き》則《そく》第《だい》四十二条《じよう》、身《み》の丈《たけ》一マイル以《い》上《じよう》のものは、すベて法《ほう》廷《てい》を立ち去《さ》るべし」
みんなが、アリスを見つめました。
「わたしは一マイルもないわ」とアリスはいいました。
「あるぞ」と王様もいいました。
「何よ、どっちみち、わたしは出て行かないわよ」と、アリスがいいました。「それに、そんな規《き》則《そく》なんてないわ。いま作ったばかりなんだもの」
「いや、このノートの中の一番古い規《き》則《そく》である」と王様。
「それなら、規《き》則《そく》第《だい》一条《じよう》のはずだわ」とアリスがいうと、王様は青くなり、いそいでノートを閉《と》じました。そして陪審員《ジユアラー》に向《む》かい、ひくい震《ふる》え声で、「評《ひよう》決《けつ》を用《よう》意《い》せよ」といいました。
「恐《おそ》れながら、まだ提《てい》出《しゆつ》する証《しよう》拠《こ》がございます、陛《へい》下《か》」と、白《しろ》兎《うさぎ》がいって、大いそぎにいそいでとび上がりました。「ただいま、この紙《し》片《へん》がみつかりました」
「何と書いてある?」と、女王がいいました。
「まだ開いてみておりません」と、白《しろ》兎《うさぎ》はいいました。「ですがこれは、手紙――囚《しゆう》人《じん》からだれかへ宛《あ》てた手紙らしゅうございます」
「そんなことはきまっているだろう」と王様がいいました。「だれにも宛《あ》てないで手紙を書くやつはいない。そんなことがあれば、ふつうではない」
「だれ宛《あ》てになっているんです?」と、陪審員《ジユアラー》の一《ひと》人《り》がききます。
「ところが、だれ宛《あ》てでもないんだ」と白《しろ》兎《うさぎ》がいいました。「じっさい、外《そと》側《がわ》には何も書いてないんだ」彼《かれ》はしゃべりながら紙をひろげて、ことばを継《つ》ぎました。「やっぱり、これは手紙じゃない。詩《し》が書いてあるだけだ」
「それは、囚《しゆう》人《じん》の筆《ひつ》跡《せき》ですか?」と、もう一《ひと》人《り》の陪審員《ジユアラー》がききました。
「いや、そうじゃない」と白《しろ》兎《うさぎ》。「そして、そこが一番不《ふ》思《し》議《ぎ》なところなんだ」(陪審員《ジユアラー》たちはみんなけげんそうな顔をしました)
「では囚《しゆう》人《じん》は、だれかの筆《ひつ》跡《せき》をまねて書いたにちがいない」と王様がいいました。(陪審員《ジユアラー》たちの顔がぱっと明るくなりました)
「恐《おそ》れながら、陛《へい》下《か》」とジャックがいいました。「私は書きませんでした。私が書いたと証《しよう》明《めい》もできません。最《さい》後《ご》に署《しよ》名《めい》がありません」
「おまえが署《しよ》名《めい》しなかったとすると」と王様はいいました。「いっそう立場が悪《わる》くなるだけだぞ。おまえは、はじめから、何か悪《あく》事《じ》をたくらんでいたのだ。でなければ、正《しよう》直《じき》な人間らしく、ちゃんと署《しよ》名《めい》をしたはずだ」
これを聞いて、いっせいに拍《はく》手《しゆ》が湧《わ》きました。この日王様がはじめていった、気のきいたことばだったからです。
「それで彼《かれ》の有《ゆう》罪《ざい》はきまった」と、女王がいいました。
「なんにもきまってやしないわ!」アリスが叫《さけ》びました。「だって、中に何が書いてあるのかも知らないんじゃないの!」
「読みあげよ」と王様がいいました。
白《しろ》兎《うさぎ》はめがねをかけました。「どこから始《はじ》めましょうか、陛《へい》下《か》?」
「初《はじ》めから始《はじ》めよ」と王様が、重《おも》々《おも》しい口《く》調《ちよう》でいいました。「最《さい》後《ご》にいたるまで読み進《すす》み、しかるのちやめよ」
白《しろ》兎《うさぎ》がつぎの詩《し》を読みあげるあいだ、法《ほう》廷《てい》内《ない》には死《し》のような沈《ちん》黙《もく》がながれていました。
彼《かれ》らの話では、きみが彼《かの》女《じよ》のところへ行って
ぼくのことを彼《かれ》に話したという
彼《かの》女《じよ》はぼくを推《すい》せんしてくれたが
ぼくには泳《およ》ぎができないといったという
彼《かれ》は彼《かれ》らにぼくは行かなかったと伝《つた》えた
(それはぼくらも知っている)
もしも彼《かの》女《じよ》がむりおししたら、
きみはいったいどうなるだろう?
ぼくは彼《かの》女《じよ》に一つやり、彼《かれ》らは彼《かれ》に二つやった
きみはぼくらに三つ以《い》上《じよう》くれた
彼《かれ》らはみんな、彼《かれ》のところからきみのところへもどった
もっとも、前には、彼《かれ》らはみんなぼくのもの
もし万《まん》が一ぼくか彼《かの》女《じよ》が
この事《じ》件《けん》に巻《ま》きこまれたとしたら、
昔《むかし》のままのぼくらに
彼《かれ》らを解《かい》放《ほう》するのはきみの役《やく》目《め》だと彼《かれ》はいう
ぼくの考えはこうなのだ
彼《かれ》と、ぼくら自《じ》身《しん》と、それとのあいだの
邪《じや》魔《ま》ものになったのはきみだったのだ
(彼《かの》女《じよ》が癇《フイ》癪《ツト》起《お》こさぬうちは)
彼《かれ》に知らすな、彼《かの》女《じよ》が彼《かれ》らを一番好《す》きだったことは
なぜならこれは、ぜったいの秘《ひ》密《みつ》
ほかのだれにも知らせてはならぬ
ぼくときみとの二人《ふたり》の秘《ひ》密《みつ》
「これこそ今まで聞いたなかで、最《もつと》も重《じゆう》要《よう》な秘《ひ》密《みつ》だぞ」と、王様は、両《りよう》手《て》をこすりあわせながらいいました。「今こそ、陪審員《ジユアラー》たちに――」
「もし、陪審員《ジユアラー》のうちの一《ひと》人《り》でも、この詩《し》の意《い》味《み》が説《せつ》明《めい》できたら」と、アリスはいいました。(この二、三分のあいだにすごく大きくなったので、王様のことばをさえぎるのなんか、すこしもこわくなくなったのです)「わたし、六ペンスあげてもいいわ。わたしは、この詩《し》には、これっぱかりの意《い》味《み》もないと思うわ」
陪審員《ジユアラー》たちは、みんな、石《せき》板《ばん》に「彼《かの》女《じよ》はこの詩《し》にはこれっぱかりの意《い》味《み》もないと思う」と書きとめましたが、だれ一《ひと》人《り》として、その詩《し》の意《い》味《み》を説《せつ》明《めい》しようとするものはいませんでした。
「これに何の意《い》味《み》もないのなら」と王様がいいました。「面《めん》倒《どう》がなくなって大助かりだ。そうだろう、意《い》味《み》を探《さが》す必《ひつ》要《よう》がないのだから。しかし、わからんな」王様は、詩《し》を膝《ひざ》の上にひろげて、片《かた》目《め》でそれを見やりながら、つづけました。「わしには、やはり、何か意《い》味《み》があるように思えるがな。『ぼくには泳《およ》ぎができないといったという』とあるな――おまえは泳《およ》ぎができないのか?」王様は、ジャックを振《ふ》り返《かえ》っていいました。
ジャックは悲《かな》しげにかぶりを振《ふ》りました。「そんなふうに見えますか?」と彼《かれ》はいいました。(もちろん、泳《およ》ぎはできませんでした。全《ぜん》身《しん》ボール紙でできているのですから)
「ここまではこれでよし」と王様はいいました。そして、詩《し》をくり返《かえ》しぶつぶつ口ずさんでいましたが、「『それはぼくらもよく知っている』とある――これはもちろん陪審員《ジユアラー》のことだな――『もしも彼《かの》女《じよ》がむりおししたら』か――これは女王のことにちがいない。――『きみはいったいどうなるだろう?』――いや、まったくだ!――『ぼくは彼《かの》女《じよ》に一つやり、彼《かれ》らは彼《かれ》に二つやった』とある――おお、これは、やつめがパイを分けてやったということにちがいないぞ――」
「でも、その先には『彼《かれ》らはみんな、彼《かれ》のところからきみのところへもどった』と書いてあるわ」とアリスがいいました。
「そうとも、そこにあるではないか!」王様は勝《か》ち誇《ほこ》ったようにいって、テーブルの上を指《ゆび》さしました。「これほど明《めい》白《はく》なことはない。しかもそのあとにこうある――『彼《かの》女《じよ》が癇《フイ》癪《ツト》起《お》こさぬうちは』と。そなたは癇《フイ》癪《ツト》など、起《お》こしたことはないだろう?」王様は女王にいいました。
「あるもんですか!」女王は、憤《ふん》然《ぜん》としていうと、インクスタンドをトカゲに投《な》げつけました。(かわいそうなビルは、一《いつ》本《ぽん》指《ゆび》ではちっともあとがつかないものだから、石《せき》板《ばん》に書くのをやめていましたが、いまや、顔をしたたり落《お》ちるインクを使《つか》って、インクのつづくかぎり、あわただしく書きはじめました。
「では、ここの文《もん》句《く》は、そなたには当《フ》て《イ》は《ツ》ま《ト》らないな」といって王様は、微《ほほ》笑《えみ》を浮《う》かべながら法《ほう》廷《てい》じゅうを見まわしました。法《ほう》廷《てい》じゅうは、しんと静《しず》まりかえりました。(fitには癇癪、発作の意味と、当てはまる、似合うの意味とがある)
「これは洒《しや》落《れ》だ!」王様が、むかっとしてつけ加《くわ》えると、みんないっせいに笑《わら》いました。「陪審員《ジユアラー》は評《ひよう》決《けつ》を用《よう》意《い》せよ」と王様がいいましたが、この日これで二〇回めぐらいでした。
「だめよ、だめ!」と女王がいいました。「判《はん》決《けつ》が先、評《ひよう》決《けつ》はそのあと!」
「なんてばかばかしいこというの!」とアリスが大声でいいました。「判《はん》決《けつ》のほうを先にするなんて!」
「黙《だま》っておれ!」と女王は、むらさき色になっていいました。
「黙《だま》らないわ!」とアリス。
「あの娘《むすめ》の首をはねよ!」と女王が、精《せい》いっぱいの大声をあげてどなりましたが、だれも動《うご》こうとはしませんでした。
「だれがあんたたちのことなんか気にするもんですか」とアリスはいいました。(そのときにはもう、もとの大きさにもどっていたのです)「あんたなんか、ただの一《ひと》組《くみ》のトランプじゃないの!」
そういったとたん、トランプたちは、いっせいに空に舞《ま》い上がり、アリスの上にひらひらと落《お》ちてきました。アリスはこわいのと腹《はら》が立つのとで、小さな悲《ひ》鳴《めい》をあげ、トランプをはらいのけようとしました。そして――土手の上で、お姉《ねえ》さんの膝《ひざ》に頭をのせて寝《ね》ていた自分に気がつきました。お姉《ねえ》さんは、木からアリスの顔に落《お》ちてきた木の葉《は》を、やさしくはらいのけていたのです。
「起《お》きなさい、アリス!」お姉《ねえ》さんはいいました。「ほんとうに、よく眠《ねむ》ったわねえ!」
「ああ、わたし、とってもおかしな夢《ゆめ》を見たわ!」アリスはそういって、お姉《ねえ》さんに、思いだせるだけ精《せい》いっぱい、いまあなたがたが読んだ、彼《かの》女《じよ》の不《ふ》思《し》議《ぎ》な冒《ぼう》険《けん》の話をして聞かせたのです。アリスが話し終《お》わると、お姉《ねえ》さんは彼《かの》女《じよ》にキスしていいました。「ほんとに不《ふ》思《し》議《ぎ》な夢《ゆめ》だったわね、でももういそいでお茶に行きなさい。もうおそくなってるわ」そこでアリスは立ち上がり、駆《か》けだしましたが、駆《か》けながらも、なんて不《ふ》思《し》議《ぎ》な夢《ゆめ》だったのかしらと思っていました。そう思っても、たしかにもっともではありました。
※
でも、お姉《ねえ》さんは、アリスが行ったときのまま、じっとすわって頭を手にもたせかけ、沈《しず》んでいく夕《ゆう》日《ひ》をながめながら、妹《いもうと》のアリスのこと、そしてアリスの不《ふ》思《し》議《ぎ》な冒《ぼう》険《けん》のことを考えていました。そのうち、自分も、夢《ゆめ》を見ているような気《き》持《もち》になってきたのです。お姉《ねえ》さんの夢《ゆめ》は、こんなものでした――。
まず、お姉《ねえ》さんは、妹《いもうと》のアリス自《じ》身《しん》のことを夢《ゆめ》に見ました。ちいさな両《りよう》手《て》を、自分の膝《ひざ》の上でしっかり握《にぎ》りしめ、輝《かがや》くような熱《ねつ》のこもった目で、じっと自分の目を見あげるアリスが、またそこにいました。お姉《ねえ》さんには、アリスの声の調《ちよう》子《し》までが聞こえ、ともすれば目に入りそうになるほつれ毛をはらいのけるために、頭をかるく振《ふ》る、そのおかしなしぐさまでが目に見えるようでした。そして、なお耳をすまして聞いていると――聞いていると思っていると、周《しゆう》囲《い》いったいが、幼《おさな》い妹《いもうと》の夢《ゆめ》に出てきたおかしな動《どう》物《ぶつ》たちで生き生きと活《かつ》気《き》づいてきたのです。
背《せ》の高い雑《ざつ》草《そう》が、足もとでさらさらと音を立てたのは、白《しろ》兎《うさぎ》が大いそぎで通って行ったのでした――おびえたネズミが、近くの水たまりの中を、水をはねとばして進《すす》んで行きました――三月兎《うさぎ》とその友だちが、終《お》わることのない食《しよく》事《じ》をともにしているときの、茶《ちや》碗《わん》のかちゃかちゃ鳴る音が聞こえました。女王が、不《ふ》運《うん》な客《きやく》たちを死《し》刑《けい》にしろと命《めい》ずる甲《かん》高《だか》い声が聞こえました。――公《こう》爵《しやく》夫《ふ》人《じん》の膝《ひざ》に抱《だ》かれた豚《ぶた》の赤ちゃんがくしゃみをし、陶《とう》器《き》の皿《さら》や金《きん》属《ぞく》の皿《さら》がそのまわりでがちゃんがちゃんとこわれていました――グリフォンのするどい叫《さけ》び声や、トカゲの使《つか》う石《せき》筆《ひつ》が立てるきいきいいう音や、取《と》りおさえられたモルモットの、苦《くる》しげな息《いき》のつまる音などが、再《ふたた》びあたりの空気を満《み》たし、遠くから聞こえるあわれな亀《かめ》まがいのすすり泣《な》きとまじりあいました。
こうして、お姉《ねえ》さんは、目を閉《と》じたまますわりながら、なかば、不《ふ》思《し》議《ぎ》の国の中にいるような気になっていました。もちろん、目をあけさえすれば、すべてが退《たい》屈《くつ》な現《げん》実《じつ》に変《か》わってしまうことはよく知っていたのです――草は風に吹《ふ》かれてそよいだだけだし、水たまりは、葦《あし》がゆれ動《うご》くのにつれて、水音をたてているのだし――茶《ちや》碗《わん》のかちゃかちゃいう音は、からころと鳴る羊《ひつじ》の鈴《すず》の音に、女王の甲《かん》高《だか》い叫《さけ》び声は羊《ひつじ》飼《か》いの少年の声に変《か》わるのです――そして赤ちゃんのくしゃみや、グリフォンの叫《さけ》び声や、その他《た》もろもろの奇《き》妙《みよう》な音も、いそがしい農《のう》家《か》から聞こえてくるいろんな音のまじりあったものに変《か》わってしまう――そして、遠くでないている牛の声が、亀《かめ》まがいの重《おも》苦《くる》しいすすり泣《な》きにとって変《か》わるのです。
最《さい》後《ご》に、お姉《ねえ》さんは、このおなじ小さな妹《いもうと》が、やがていつの日にか、一人前の女になったところを想《そう》像《ぞう》してみました。アリスは、だんだん成《せい》熟《じゆく》していくでしょうが、それでも少女時《じ》代《だい》の素《そ》朴《ぼく》で優《やさ》しい心を失《うしな》わず、ほかの小さな子どもたちをまわりに集《あつ》めては、いろいろな不《ふ》思《し》議《ぎ》なお話をして――おそらくは、はるか昔《むかし》の不《ふ》思《し》議《ぎ》の国の夢《ゆめ》の話もしてやって、子どもたちの目を輝《かがや》かせるだろう。そして、子どもたちの素《そ》朴《ぼく》な悲《かな》しみをよくわかってやり、子どもたちの素《そ》朴《ぼく》な喜《よろこ》びに共に喜《よろこ》びを見いだし、自分自《じ》身《しん》の少女時《じ》代《だい》と、幸《こう》福《ふく》だった夏の日々を思いだすだろう――お姉《ねえ》さんは、そんなことを空《くう》想《そう》したのでした。
あとがき
本書は、ルイス・キャロル Lewis Carroll の不《ふ》朽《きゆう》の名作童《どう》話《わ》『不《ふ》思《し》議《ぎ》の国のアリス』メAlice in Wonderlandモ の全《ぜん》訳《やく》です。
この作《さく》品《ひん》が、イギリス児《じ》童《どう》文学の最《さい》高《こう》の古《こ》典《てん》であるばかりでなく、世《せ》界《かい》の童《どう》話《わ》文学に、H・C・アンデルセンに優《まさ》るとも劣《おと》らない大きな影《えい》響《きよう》を与《あた》えた重《じゆう》要《よう》な作《さく》品《ひん》であることは、いまさらいうまでもないでしょう。とくにイギリスでは、それまでの主《しゆ》流《りゆう》だった、教《きよう》訓《くん》臭《しゆう》のつよい、おしつけがましい道《どう》徳《とく》物《もの》語《がたり》風《ふう》の児《じ》童《どう》読《よみ》物《もの》が、『不《ふ》思《し》議《ぎ》の国のアリス』の出《しゆつ》現《げん》によって排《はい》除《じよ》され、その途《と》方《ほう》もないナンセンスと、自《じ》由《ゆう》奔《ほん》放《ぽう》な空《くう》想《そう》と、日《にち》常《じよう》生《せい》活《かつ》に結《むす》びついた言《げん》語《ご》ゲームの面《おも》白《しろ》さとが、全《まつた》く新しい方《ほう》向《こう》を、児《じ》童《どう》文学の中に育《はぐく》んだといわれます。
じっさい、現《げん》代《だい》の児《じ》童《どう》文学で、ごくあたりまえなものとされる自《じ》由《ゆう》でたくましい空《くう》想《そう》や笑《わら》い、ユーモア、どんちゃん騒《さわ》ぎなどを、最《さい》初《しよ》に文《ぶん》学《がく》的《てき》に結《けつ》実《じつ》させ、のちの作《さつ》家《か》たちに、自《みずか》らの想《そう》像《ぞう》力《りよく》に対《たい》する自《じ》信《しん》を持《も》たせたのは、ルイス・キャロルのこの作《さく》品《ひん》だといっても、決《けつ》していいすぎではないはずです。
この作《さく》品《ひん》の、英《えい》語《ご》国《こく》民《みん》への滲《しん》透《とう》ぶりも特《とく》別《べつ》です。アリスをはじめ、気ちがい帽子屋《マツド・ハツター》、三月兎《うさぎ》、グリフォン、チェシャ猫《ねこ》などの登《とう》場《じよう》人《じん》物《ぶつ》や、彼《かれ》らの言《こと》葉《ば》は、英《えい》語《ご》の日《にち》常《じよう》語《ご》の表《ひよう》現《げん》のなかに、数多く取《と》り入れられていますし、それらを題《だい》材《ざい》にして書かれた小《しよう》説《せつ》も数多くあります。おそらく、その親《しん》近《きん》性《せい》は、シェークスピアの諸《しよ》作《さく》品《ひん》や、マザー・グースの童《どう》謡《よう》に次《つ》ぐとさえいえるでしょう。
もちろん、この作《さく》品《ひん》は、たんに児《じ》童《どう》文学の名作であるだけでなく、近《きん》代《だい》的《てき》なファンタジーの傑《けつ》作《さく》――あるいは、むしろ逆《ぎやく》に、きわめて現《げん》代《だい》的《てき》で、グロテスクなまでの人間心理の深《しん》奥《おう》をのぞかせるナンセンス文学としても、高く評《ひよう》価《か》されています。
私《わたくし》など、ある意《い》味《み》では、そうした奇《き》怪《かい》なイマジネーションの結《けつ》果《か》としての、この作《さく》品《ひん》に興《きよう》味《み》があります。その六十余《よ》年《ねん》の生《しよう》涯《がい》の大《たい》半《はん》を、保《ほ》守《しゆ》的《てき》で規《き》則《そく》づくめのオックスフォード大学の学《がく》寮《りよう》の中で暮《くら》した数《すう》学《がく》者《しや》だった彼《かれ》。自分の生《せい》活《かつ》の、毎《まい》日《にち》の行《こう》動《どう》まですべてこまかいスケジュール通りにし、日《につ》記《き》には友人知人の名前を列《れつ》挙《きよ》し、手紙には残《のこ》らずナンバーをふり、出《しゆつ》版《ぱん》社《しや》に対《たい》して自分のところへ送《おく》る小《こ》包《づつみ》の紐《ひも》の結《むす》び方までことこまかに指《し》示《じ》しないではいられなかった病《びよう》的《てき》な奇《き》人《じん》ぶり。一生を独《どく》身《しん》で過《すご》したばかりでなく、女《じよ》性《せい》への関《かん》心《しん》は十歳《さい》以《い》下《か》の少女に限《かぎ》られていたという、偏《へん》執《しゆう》狂《きよう》的《てき》性《せい》格《かく》をうかがわせるその傾《けい》向《こう》。そうした性《せい》格《かく》と生《せい》活《かつ》のいったいどこから、このような空《くう》想《そう》が湧《わ》いて出たかと考えると、興《きよう》味《み》はつきません。
(この作《さく》品《ひん》を書くきっかけになったアリス・リデルに、ルイス・キャロルは結《けつ》婚《こん》を申《もう》しこんでいます。アリスが十三歳《さい》、キャロルが三十歳《さい》の年です。この求《きゆう》婚《こん》は、アリスの両《りよう》親《しん》によって拒《きよ》否《ひ》されたばかりか、彼《かれ》らは、アリスに宛《あ》てたキャロルのおびただしかったであろう一《いつ》切《さい》の手《て》紙《がみ》類《るい》をすべて焼《しよう》却《きやく》しています。もちろん、このスキャンダラスな話が世《せ》間《けん》に出ることを恐《おそ》れたためです。)
キャロルはまた、ひどく内《うち》気《き》で、人前に出るとどもる癖《くせ》がありましたが、少女たちの前では、その苦《くる》しみから解《かい》放《ほう》されることができたと伝《つた》えられています。彼《かれ》の内《ない》心《しん》の葛《かつ》藤《とう》こそ、この芸《げい》術《じゆつ》的《てき》な想《そう》像《ぞう》力《りよく》の原《げん》動《どう》力《りよく》だったのかもしれません。
ルイス・キャロルが、本名をチャールズ・ラトウィッジ・ドジスン Charles Lutwidge Dodg-sonといい、オックスフォード大学の数学と論《ろん》理《り》学《がく》の教《きよう》授《じゆ》であったことは、すでに誰《だれ》でもよく知っているでしょうが、いちおう、簡《かん》単《たん》にその経《けい》歴《れき》に触《ふ》れておきます。
チャールズは、一八三二年一月二十七日、イギリスのチェシャ州ウォリントンの近《きん》郊《こう》デアスベリーで生まれています。十一人兄《きよう》弟《だい》の長男でした。父はその教《きよう》区《く》の牧《ぼく》師《し》で、のちにヨークシャー州《しゆう》リッチモンドの副《ふく》監《かん》督《とく》にまでなった人でした。
チャールズは、このリッチモンドのグラマー・スクールとラグビー校で勉《べん》強《きよう》したのちオックスフォード大学に入り、数学では首《しゆ》席《せき》、学《がく》位《い》試《し》験《けん》では二位《い》という好《こう》成《せい》績《せき》で卒《そつ》業《ぎよう》しました。卒《そつ》業《ぎよう》後《ご》は、オックスフォード大学のクライスト・チャーチ・カレッジの教《きよう》授《じゆ》となり、一生を独《どく》身《しん》のまま、学《がく》寮《りよう》内《ない》で過《す》ごしました。
専《せん》門《もん》は数学でしたが、若《わか》いうちから、文学に対《たい》する関《かん》心《しん》はつよく、二十二歳《さい》の頃《ころ》には、学《がく》内《ない》誌《し》に最《さい》初《しよ》の詩《し》を発《はつ》表《ぴよう》しています。その後〈トレイン〉〈コミック・タイムズ〉〈ホワイトビー・ガゼット〉などの雑《ざつ》誌《し》に詩《し》を書くようになりました。
ルイス・キャロルというペンネームは、すでにこの頃《ころ》から、使《つか》われています。
このペンネームの由《ゆ》来《らい》については、もう、たいていの人が知っているでしょう。本名のチャールズ・ラトウィッジ Charles Lutwidge をラテン語化してカロルス・ルドヴィクスCarolus Ludovicus とし、これをひっくりかえして、さらに英《えい》語《ご》読《よ》みになおし、ルイス・キャロルという名前をつくりあげたのです。一八六一年に書いた「バラの小道」という長《ちよう》詩《し》も、この名前で発《はつ》表《ぴよう》しています。
本書『不《ふ》思《し》議《ぎ》の国のアリス』メAlice in Wonderlandモ を発《はつ》表《ぴよう》したのは一八六五年のことですがこれが書かれた経《けい》緯《い》も、もうすでにあまりに有《ゆう》名《めい》です。
彼《かれ》は一八六二年の夏、友人のロビンソン・ダックワースと、クライスト学《がく》寮《りよう》の学《がく》寮《りよう》長《ちよう》リデル博《はか》士《せ》の三人の小さな娘《むすめ》たちをつれて、テームズ川にピクニックに出かけ、そのとき、幼《おさ》ない姉《し》妹《まい》――とくに、その頃《ころ》九つだったまん中の娘《むすめ》アリスにせがまれて、即《そつ》興《きよう》的《てき》に『アリスの地下の冒《ぼう》険《けん》』という話をつくり、話してきかせました。それが、この、世《せ》界《かい》文学に不《ふ》朽《きゆう》の名を残《のこ》す童《どう》話《わ》のもととなったのです。
アリスにたのまれて、ルイス・キャロルは、その話を文《ぶん》章《しよう》に書くことを約《やく》束《そく》します。そしてけっきょく、約《やく》半年がかりで、手書きのさし絵三十七枚《まい》を入れた物《もの》語《がたり》『アリスの地下の冒《ぼう》険《けん》』を完《かん》成《せい》し、アリス・リデルに贈《おく》りました。いまの『不《ふ》思《し》議《ぎ》の国のアリス』の約《やく》半分の長さで、末《まつ》尾《び》にはアリスの写《しや》真《しん》が飾《かざ》ってありました。ルイス・キャロルは、初《しよ》期《き》の湿《しつ》板《ばん》写《しや》真《しん》の熱《ねつ》心《しん》なパイオニアの一《ひと》人《り》で、当《とう》代《だい》一の写《しや》真《しん》家《か》でもあったのです。
これが、友人で、当《とう》時《じ》ベッドフォード大学の講《こう》師《し》をしていた著《ちよ》名《めい》な童《どう》話《わ》作家ジョージ・マクドナルドの目にとまりました。彼《かれ》はこの作《さく》品《ひん》を激《げき》賞《しよう》し、ほかのものにも読ませた上、出《しゆつ》版《ぱん》をすすめました。その頃《ころ》さし絵画《が》家《か》として評《ひよう》判《ばん》の高かったジョン・テニエルも非《ひ》常《じよう》に気に入って、さし絵を書くことを承《しよう》知《ち》し、マクミラン社が、出《しゆつ》版《ぱん》を引き受《う》けました。ルイス・キャロルは原《げん》稿《こう》に何《なん》度《ど》も手を加《くわ》え、その結《けつ》果《か》、一八六五年にできあがったのが、現《げん》在《ざい》のかたちの『不《ふ》思《し》議《ぎ》の国のアリス』で、題《だい》名《めい》もこのとき変《か》えられました。
ただし、この初《しよ》版《はん》は、印《いん》刷《さつ》がよくないというのでテニエルが出《しゆつ》版《ぱん》に反《はん》対《たい》し、けっきょく全《ぜん》部《ぶ》回《かい》収《しゆう》して慈《じ》善《ぜん》団《だん》体《たい》に寄《き》付《ふ》するという一《いち》幕《まく》がありましたが、新《しん》版《ぱん》は翌《よく》一八六六年に完《かん》成《せい》し世《よ》の中に出ました。
人気は、爆《ばく》発《はつ》的《てき》でした。子《こ》供《ども》のための雑《ざつ》誌《し》はこぞって好《こう》意《い》的《てき》な書《しよ》評《ひよう》をのせ、新しいファンタジーの出《しゆつ》現《げん》として、熱《ねつ》狂《きよう》的《てき》に支《し》持《じ》されました。ルイス・キャロル自《じ》身《しん》は、この本の成《せい》功《こう》を危《あやぶ》んでいたのですが、売行きはよく、童《どう》話《わ》作《さつ》家《か》としてのルイス・キャロルの名は、世《せ》界《かい》中《じゆう》に知れわたりました。彼《かれ》はこの本を、ヴィクトリア女王と皇《こう》女《じよ》ビアトリスに献《けん》呈《てい》しましたが、感《かん》激《げき》した女王から、ぜひつぎの本も送《おく》ってくれといわれた、といいます。そこで彼《かれ》はその年出した『行《ぎよう》列《れつ》式《しき》の要《よう》諦《てい》』という新しい数学の専《せん》門《もん》書《しよ》を贈《おく》った――というエピソードが伝《つた》わっていますが、キャロル自《じ》身《しん》はのちに、この噂《うわさ》を極《きよく》力《りよく》否《ひ》定《てい》しています。
こののち、キャロルは、しばらくのあいだ、短《たん》編《ぺん》小《しよう》説《せつ》や詩《し》集《しゆう》を出《しゆつ》版《ぱん》していましたが、一八七二年、再《ふたた》びアリスを主《しゆ》人《じん》公《こう》にした、すぐれた童《どう》話《わ》を発《はつ》表《ぴよう》します。それが、『鏡《かがみ》の国のアリス』メThrough The Looking Glass, and What Alice Found Thereモ です。
この作《さく》品《ひん》も、『不《ふ》思《し》議《ぎ》の国のアリス』以《い》上《じよう》にすばらしい成《せい》功《こう》を収《おさ》めました。この頃《ころ》にはもう、ルイス・キャロルの名とアリスとは、子《こ》供《ども》たちの世《せ》界《かい》で、あまりにも有《ゆう》名《めい》な存《そん》在《ざい》になっていたからでしょう。じっさい、十九世《せい》紀《き》末《まつ》〈ペル・メル・ギャゼット〉が、十歳《さい》の子《こ》供《ども》のための理《り》想《そう》的《てき》な本ベスト二〇という人気投《とう》票《ひよう》をしたところ、『不《ふ》思《し》議《ぎ》の国のアリス』は第《だい》一位《い》、『鏡《かがみ》の国のアリス』は第《だい》十一位《い》に入って、その人気の高さを証《しよう》明《めい》したといわれます。
ルイス・キャロルは、この二冊《さつ》のほかにも一八七六年には『スナーク狩《が》り』メThe Hunting of The Snarkモ というナンセンス長《ちよう》詩《し》を、一八八五年には『もつれた話』メA Tangled Taleモ という数学をわかりやすく理《り》解《かい》させるため童《どう》話《わ》のかたちにした短《たん》編《ぺん》集《しゆう》を、一八八九年には『シルヴィーとブルーノー』メSylvie and Brunoモ 一八九三年には『続《ぞく》シルヴィーとブルーノー』メSylvie and Bruno Concludedモ などを書いています。もちろん、本《ほん》職《しよく》の数学や論《ろん》理《り》学《がく》の方では、もっと数多くの本を出していますが、彼《かれ》自《じ》身《しん》が、ルイス・キャロルと、チャールズ・ラトウィッジ・ドジスンとは別《べつ》人《じん》だと世《よ》の中に思わせようと努《つと》めてきたせいもあり、今では、「アリス」の生みの親《おや》ルイス・キャロルとしてしか、記《き》憶《おく》されていないといっていいでしょう。
ルイス・キャロルは、一八九八年、ふとした風《か》邪《ぜ》がもとで気《き》管《かん》支《し》炎《えん》を併《へい》発《はつ》し、そのまま、六十六年の生《しよう》涯《がい》を閉《と》じました。
この作《さく》品《ひん》には、いうまでもなく、過《か》去《こ》に何《なん》種《しゆ》類《るい》かの翻《ほん》訳《やく》があり、とくに故《こ》岩《いわ》崎《さき》民《たみ》平《へい》氏《し》のそれは、優《すぐ》れた労《ろう》作《さく》です。英《えい》文《ぶん》学《がく》者《しや》でもなく、どちらかといえばオーソドックスな児《じ》童《どう》文《ぶん》学《がく》者《しや》でもない私が、新たに翻《ほん》訳《やく》を試《こころ》みるのは場《ば》違《ちが》いだったかもしれません。にもかかわらず、敢《あえ》てこの、かなり面《めん》倒《どう》な翻《ほん》訳《やく》に取《と》り組《く》んだ理《り》由《ゆう》は、ただ一つです。翻《ほん》訳《やく》というものには、一《いつ》定《てい》の寿《じゆ》命《みよう》があると信《しん》じているからです。
ある時《じ》代《だい》に翻《ほん》訳《やく》されたものは、一《いつ》定《てい》の年《ねん》代《だい》を経《へ》ると、新しい世《せ》代《だい》には、通用しにくくなる。それが翻《ほん》訳《やく》された世《せ》代《だい》を、翻《ほん》訳《やく》そのものが反《はん》映《えい》するからで、翻《ほん》訳《やく》の良《りよう》否《ひ》とはかかわりなく、つぎの世《せ》代《だい》の読《どく》者《しや》には読みにくくなる。読みにくさは、原作の価《か》値《ち》を伝《つた》えにくくする。従《したが》って、文学作《さく》品《ひん》の翻《ほん》訳《やく》は、一《いつ》種《しゆ》の新《しん》陳《ちん》代《たい》謝《しや》を必《ひつ》要《よう》とする。
私がこの翻《ほん》訳《やく》を引き受《う》けた理《り》由《ゆう》は、私にとってこの作《さく》品《ひん》が年来の愛《あい》読《どく》書《しよ》であり翻《ほん》訳《やく》家《か》としてつねづね誘《ゆう》惑《わく》を感《かん》じていた本だったという理《り》由《ゆう》を別《べつ》にすれば、右にのべたことにつきます。私は、新しい世《せ》代《だい》が、時《じ》代《だい》のずれによる抵《てい》抗《こう》を感《かん》ずることなくこの本を読めるようにと、それをできるだけ心がけました。そのため、従《じゆう》来《らい》の優《すぐ》れた翻《ほん》訳《やく》の優《すぐ》れた箇《か》処《しよ》は遠《えん》慮《りよ》なく取《と》り入れさせてもらう一方、私の判《はん》断《だん》で変《か》える必《ひつ》要《よう》を認《みと》めた箇《か》処《しよ》はこれまた遠《えん》慮《りよ》なく変《へん》更《こう》しました。たとえば、繁《はん》雑《ざつ》な注《ちゆう》を、すべてカットしたのも、読みやすくするためです。
最《さい》後《ご》になりましたが、私にこの仕《し》事《ごと》への挑《ちよう》戦《せん》の機《き》会《かい》を与《あた》えて下さった角川書店角川春樹氏および編《へん》集《しゆう》部《ぶ》市田富喜子氏にあつく御《お》礼《れい》を述《の》べます。
一九七五年七月
訳 者
不《ふ》思《し》議《ぎ》の国《くに》のアリス
ルイス・キャロル
福《ふく》島《しま》正《まさ》実《み》=訳
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平成12年12月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
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本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『不思議の国のアリス』昭和50年8月30日初版刊行
平成5年6月20日46版刊行