シルヴィーとブルーノ
ルイス・キャロル/柳瀬尚紀 訳
もくじ
序
第一章 パン減らせ! 税ふやせ!
第二章 無名の女友達
第三章 誕生日の贈り物
第四章 狡猾なる細工
第五章 乞食の王宮
第六章 魔法のロケット
第七章 男爵特使
第八章 ライオンに乗って
第九章 道化師と熊
第十章 別乃教授
第十一章 ピーターとポール
第十二章 音楽庭師
第十三章 ドッグランド訪問
第十四章 妖精シルヴィー
第十五章 ブルーノの復讐
第十六章 伸縮自在の鰐
第十七章 三匹の穴熊
第十八章 へんてこ通り四十番地
第十九章 幻核のつくり方
第二十章 得やすければ失いやすし
第二十一章 象牙の扉を通って
第二十二章 線路を横切って
第二十三章 異刻式懐中時計
第二十四章 蛙の誕生会
第二十五章 東方へ目をむけて
訳註
文庫版あとがき
[#改ページ]
シルヴィーとブルーノ
SYLVIE & BRUNO
[#改ページ]
Is all our Life, then, but a dream
Seen faintly in the golden gleam
Athwart Time's dark resistless stream ?
Bowed to the earth with bitter woe,
Or laughing at some raree-show,
We flutter idly to and fro.
Man's little Day in haste we spend,
And, from its merry noontide, send
No glance to meet the silent end.
[#改ページ]
あらゆるわれらの人生は,すると夢にすぎないか
一条の金色《こんじき》の光の中にかすかに見えるのみか
残忍な時の暗流をよぎって
暴虐なる憂いに頭《こうべ》をたれ,あるいは
浮かれ気分で覗き眼鏡に笑いはしゃぎ
漫然とわれらうろつくのみ
慌しく人の短き日を過ごし
いとも陽気な真昼から,われら
ざわめきの絶える終わりを一瞥《いちべつ》もせず
[#改ページ]
[#ここから5字下げ]
原詩は acrostic(名《な》ぞうた)になっている。正確には double acrostic、つまり各行の最初の文字を順にならべると Isa Bowman、各連の最初の三文字をあわせても Isa Bowman となる。(訳詩では各行の冒頭をア・イ・ザ/ボ・ウ・マン/ア・イ・ザとした。)アイザ・ボウマンはキャロルの晩年における最も重要な「幼き友」であり、早くから女優として舞台に立った。一八八七年九月、五十五歳のキャロルは、ロンドンの舞台で端役を演じた十三歳の彼女を見初め[#「見初め」に傍点]、以後ふたりの親交がはじまる。しかし一八九五年、たぶん彼女が婚約をキャロルに告げて以来、キャロルは二度と彼女に会わなかった。アイザ・ボウマンには『ルイス・キャロルの物語』(一八九九)というメモワールがある。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
序
第二十五章にある、一世代前の子供たちが過ごしたような日曜日の場面は、とある幼い友がわたしにしてくれた話と、とあるご婦人の友から受けとった手紙とを、文字通り引用したものである。
「妖精シルヴィー」と「ブルーノの復讐」と題する章は、一八六七年、故ギャティー夫人の依頼で当時夫人が編集していた「ジュディー伯母さんの雑誌」に書いたささやかなおとぎ話を、少し手を加えて、焼き直した。
それをもっと長い物語の核にしてみようという着想が最初に浮かんだのは、確か一八七四年のことだった。歳月のすぎゆくなかで、わたしは折にふれ、ふと心に浮かぶ実にさまざまな半端な思いつきや会話の断片を書きとめておいた――どういうわけか、それは一瞬不意にやってくるので、その時その場で記録するか、忘却にゆだねてしまうかしかなかった。ときには、そうした気ままな思考の閃きの源をつきとめることもできるだろう――読みかけの本がきっかけになるとか、友人がたまたま口にした言葉が「火打金」となって、自分の精神の「火打石」が発火するとか――しかしまた、無から出し抜けに[#「出し抜けに」に傍点]起こるという、それなりの発生の仕方もある――あのどうにも非論理的な現象、「原因なき結果」の例である。たとえば「スナーク狩り」の最後の一行がそれで、(「芝居」一八八七年四月号ですでに述べたように)ひとりで散歩していたときに突如として頭に閃いたのだ。また、夢[#「夢」に傍点]のなかに現われた断章もそうで、先立つ原因は何ひとつたどることができない。この本にはそうした夢暗示の例が少なくともふたつある――ひとつは第七章の奥方の台詞《せりふ》「そういうことってよく遺伝するものよ、おまんじゅう好きなのが遺伝するのと同じで」であり、もうひとつは第二十二章でエリック・リンドンが人夫をしたいなどと洒落《しやれ》をいうくだりである。
こうしてついにわたしは著しく嵩《かさ》の多い厖大な学紊《ぶんがく》――どうか読者諸氏にはこの表記をお許し願いたい――を掌中におさめるにいたった。あとはただ、一貫した糸にそれを撚《よ》りあわせ、わたしの書きたい作品を構成していけばよかった。だがしかし! この作業は最初、まったく望みなきものに思われて、わたしはいまだかつてなかったほど明確に「混沌」という言葉の意味を思い知らされた。そうした中途半端な断片を区分けして、それがどんな類いの物語になるかを充分見究めることができるまで、十年ないしそれ以上かかったはずだ。というのもその物語は出来事から発展するのでなければならず、出来事が物語から発展してはならなかったからだ。
こんなことを語っているのは独りよがりからではなく、一冊の本の「創生」のそうした細目に興味を覚える読者もいるだろうと本気で思うからだ。本とは出来あがると実に単純で直線的なものにみえるので、手紙を書くみたいに書き出しから始まり、むすびで終わるといったふうに、一ページ一ページまっしぐらに書かれたと想像されがちなのだ。
なるほどそういう方式で物語を書くのも可能ではある。そして、こういって虚栄にならなければ、わたし自身にもそれはできる――ほかの奴隷たちがしているように、「わたしの仕事を果たし」、そしてわたしの「積木細工の物語」をつくりうる一定の時間内に一定量の虚構《フイクシヨン》を生産させられるという不運な立場(本当に不運な立場だ)に、かりにわたしが置かれたならばである。ひとつだけ、ともかくそんなふうに生み出された物語について保証できることはある――それがまったく陳腐であり、なんら新しい趣向をふくまず、おまけに読むのも退屈きわまりないということだ。
この類いの文学には「埋草」という実に恰好の名称がついている――うまく定義すると「誰にでも書けて、誰にも読めないしろもの」となろう。この本がそうした文章をまったくふくんでいないとは、あえて公言しない。ときには、挿絵を適当な場所にもってくるために、一ページに二、三行補足する必要もあった。しかし正直にいえるが、どうしてもやむをえない以上に書き入れることはしなかった。
読者諸氏は、適当な一節のなかにふくまれている「埋草」の部分を見破って楽しんでみてはいかがだろう。「断片《スリツプ》」をページにととのえていくうちに、この本では第三章にあたる部分が三行足りないことに気づいた。わたしはその不足分を、そこここに言葉を書き入れるのではなくて、三行つづけて書き込むことによって補《おぎな》った。さて、読者諸氏はどれがその三行かおわかりだろうか。
もっと厄介な問題《パズル》は――厄介なほうがお望みなら――庭師の歌に関してだが、どの個所において(かりにそういう個所があれば)詩が前後の本文にふさわしいように書かれたか、そしてどの個所において(かりにそういう個所があれば)本文が詩にふさわしいように書かれたか、それを断定することだろう。
おそらくすべての文学において最も困難なこと――少なくともわたしにとってはそうで、意気込んで努力しても達成できず、おのずとやってくるときに捕えるしかない――それは独創的な[#「独創的な」に傍点]ものを書くことだ。そしてたぶん最も容易なのは、ひとたび独創性の基本線が打ち出されるや、それに追従していき、同じ調子のものをどんどん書くことだ。『不思議の国のアリス』が独創的な[#「独創的な」に傍点]物語であったかどうかはわからない――少なくともわたしはあれを書くにあたって、意識的な[#「意識的な」に傍点]模倣者ではなかった――しかしあれが世に出て以来、十指に余るまったく同一の様式《パタン》の物語本が出現したのは事実である。わたしがおずおずと探った道――「かの静かなる大海原にはじめてはいりし」は自分なのだと信じつつ――は、いまや踏みならされた公道である。道端の花は残らず踏みにじられ、土ぼこりとなってしまった。わたしがあの様式《スタイル》をもう一度試みるのは、わざわいを招くようなものだ。
それゆえに『シルヴィーとブルーノ』では――どれほど成功したかはともかく――さらに新たな道を打ち出そうと努めた。良かれ悪しかれ、それがわたしにできる最善のことだ。これを書いたのは金銭のためでも名声のためでもなく、わたしの愛する子供たちに、幼年の日々そのものである無邪気な戯れのひとときにふさわしいような思いつきを提供してみたかったからだ。それにまた、子供たちのみならずおとなにも、人生のもっと厳粛な旋律《カデンツア》とかならずしも調和しないことはない思いつきを、わたしが心からそう願っている思いつきを、伝えたかったからだ。
読者諸氏がまだしばらく辛抱してくださるなら、わたしはこの機会を捕えて――こんなに大勢の友人たちに一度に話しかける機会は、たぶんこれが最後だろうから――わたしの心に浮かんだ考えで、こんな本が書かれたら望ましいのだが、といったことを書きとめておきたい――わたし自身がおおいに試みてみたいのだが、やりとげる時間も力もなさそうだ――たとえわたしが自分に課した仕事をなしとげられなくとも(歳月はまたたいへんな速さで過ぎ去っていく)、誰かの手でそれが受け継がれることを期待しつつ。
まず、子供の聖書である。これに欠かせないものはただ、子供が読むのにふさわしいように注意ぶかく選んだ断章と、それに絵である。わたしの採りたい選択原則のひとつは、宗教は愛の啓示として子供に提示すべきだということだ――罪と罰の物語を持ち出して幼い心を傷つけたり惑わしたりする必要はない。(この原則に基づいて、たとえばノアの洪水の物語をわたしは省きたい。)絵を入れることはさして困難ではないだろう。なにも新しい絵は必要ない。すばらしい絵がすでに何百と存在しているし、その版権はとうの昔に切れているのだから、それらをうまく複製する亜鉛凸版写真術、あるいは似たような方法を用いればよい。その本は手頃な大きさで――きれいで魅力的な装丁――くっきりと読みやすい活字――そしてとりわけ絵また絵と、絵をふんだんに入れたい。
第二に聖書からの抜萃――個々の節《テクスト》ではなく、それぞれ十ないし二十の詩句から成る断章――を暗記用に集めた本だ。こういった断章は、読書が不可能でないにしろ困難であるようなさまざまの折に、ひとりで反復し熟考するのに重宝する。たとえば寝つかれない夜――汽車旅の途中――ひとり散策するとき――年老いて視力が衰えたとき、または全然みえなくなったとき――そしてなかんずく重宝するのは、病の床で読書も何もできず、退屈な沈黙の時間を長いこと横になったまま過ごさねばならないときだ。そのようなとき、ダビデの歓喜の声「みことばの滋味《あじわい》はわが|※[#「月+咢」、unicode816d]《あぎ》にあまきこといかばかりぞや、蜜のわが口に甘きにまされり」の真理は、なんと身にしみることだろう。
個別の節《テクスト》ではなく「断章」といったのは、わたしたちが個別の節《テクスト》を回想する[#「回想する」に傍点]すべをもたないからである。記憶には関連性[#「関連性」に傍点]を要するのに、それでは関連性がひとつもない。百の節《テクスト》を記憶にとどめていても、随意に思い出せるのはせいぜい数節どまりだ――それもまったくの偶然である。これに反して、章の一部を暗記して自分のものにしてしまえば、章全体が思い起こせる。話の筋道はつながっているからだ。
第三に聖書以外の書物から、散文、韻文、双方の断章を集めたものだ。いわゆる「霊感なき」文学(わたしにいわせれば誤用である。シェイクスピアが霊感を受けなかったというのなら、霊感を受けた人間はいないと思ってもよい)には、百度にもおよぶ熟考にさらされてもなおかつ持ちこたえるものがそう多くはあるまい。にもかかわらず、そのような断章は存在する――記憶にとどめおく分はたっぷりあるだろう。
これら二種類の本――暗記のための神聖な断章と世俗的な断章――は、たんに暇な時間をつぶすだけのほかにも、よい使い道があるだろう。さまざまな心配ごと、悩みごと、無慈悲な考え、けがれた考えを遠ざけるのに役立つ。あの実に興味ぶかい本『ロバートソンのコリント人への書簡講義』「講義四十九」の一節を引き、わたしよりうまい言葉でこういっておこう。「もし人が、たいていは間歇的にやってくる邪《よこし》まな願いやけがれた心像《イメジ》に取り憑かれたら、聖書の断章を、あるいは最良の韻文作家、散文作家の断章を暗記させるべし。落ち着かぬ夜に寝つかれぬとき、あるいは絶望的空想や陰鬱で自滅的な思いにおそわれたとき、繰り返し唱える守りの文句としてそれらを心のなかに貯えさせるべし。命の園への道がいっそうけがれた足跡で踏みにじられることのないよう、何にでも立ちむかうその者の剣とすべし」
第四に、少女むきの「シェイクスピア」である。すなわち、(かりに)十歳から十七歳の少女が精読するのにふさわしくないものをすべて削除した版だ。十歳以下の子供は、あの最大の詩人を理解したり味わったりすることはあるまい。そして少女時代を終えた者は、削除されていようといまいと、好きな版で読ませてかまわないだろう。しかしその中間の年頃の数多い子供たちが、ふさわしい版がないために大いなる喜びから締め出されているのは残念に思われる。バウドラー版、チェインバーズ版、ブランドラム版、それにカンデルの「閨房《ブドワール》」シェイクスピア、いずれもその必要性にかなうとは思えない。「削除」が満足のゆくものではないのだ。バウドラー版はなかでも驚きである。通読し、彼が残しているものを考えると、いったい何を削ったのかと唖然としてしまう。敬いの念や品位を保つためにふさわしくないものを一切容赦なく削除するほかに、わたしなら、むずかしすぎたり幼い読者に面白くなさそうなものをみな省くことにしたい。こうして出来た本が少々断片的になっても、詩を愛好するイギリスの少女すべてにとって真の宝物となるだろう。
この物語でわたしがとった新方針――子供たちに喜んでもらえそうなナンセンスとともに、人生のもっと厳粛な思考を導入したこと――を誰かに詫びる必要があるとすれば、それは楽しみやくつろぎの時間にはそうした思考を完全に遠ざける「術」を身につけた人に対してである。その人にとって、そのような混合はきっと無分別で不快だと思われよう。そしてそうした「術」が存在する[#「存在する」に傍点]ことを、わたしはあげつらいはしない。若さ、健康、それに豊かな富がそろっていれば、雑《まじ》りけのない陽気の人生を長年にわたって送ることも確かに可能なようだ――どんなにはなやいだ団欒《だんらん》、どんなににぎやかな宴《うたげ》の最中であれ、いつなんどきわれわれが直面しないともかぎらないひとつの厳粛な事実を除けばである。深刻な思考を受け入れたり、礼拝に参列したり、祈りを捧げたり、聖書を読んだりする時間を自分で決めておくのも結構だ。そういう事柄をすべて、あのけっしてやってきそうもない「都合のよい時期」に延期することもできる。しかしこのページを読み終えないうちにやってくるかもしれない告示に応ぜざるをえない必然性は、一瞬たりとも延期することができない。「今宵《こよい》なんじの霊魂《たましい》とらるべし」
この冷酷な可能性がこのいまもつきまとうという観念は、あらゆる時代において(原注)、人々が払いのけようと努めてきた夢魔である。歴史の研究家にとって、この影のごとき敵に対して用いられたさまざまな武器ほど興味ぶかい研究課題はほとんどあるまい。なかでもいちばん哀れなのは、墓のかなたに存在[#「存在」に傍点]を、しかも絶滅よりはるかにおぞましい存在を見た者たちの思いである――かすんでいて、つかみどころがなく、ほとんど目に見えない妖怪で、果てしない時代を通じ、影の世界にあって何もすることなく、何も望むことなく、何も愛することなく漂いさまよう存在を! あのにこやかな「陽気者《ボン・ヴイヴアン》」ホラティウスのなかに、ものさびしい言葉がひとつあって、その純然たる悲しみは胸に訴える。それはよく知られた一節の「追放」という言葉である。
[#ここから2字下げ]
我々すべての者は同じ場所へと追いやらる
我々すべての者の籤《くじ》は振らる
[#ここから3字下げ]
遅かれ早かれ壺から出づるために
且つ我々を永遠の追放へと小舟に載せんがために。
[#ここで字下げ終わり]
然り、彼にとってこのいまの人生は――あらゆる疲労、あらゆる悲しみがあるにもかかわらず――価値ある唯一の人生であった。それ以外はすべて「追放」なのだった。そのような信条をもつ者が笑っていられたなどとは、信じがたいことではあるまいか。
そして今日、多くの人々はホラティウスが想像したよりはるかに現実的な死後の存在を信じていながら、それを人生のすべての喜びからの「追放」の類いとみなし、そこでホラティウスの主義をとり入れ、「食べよ、飲めよ、明日は知れぬわが身」といっている。
われわれは芝居のような娯楽に出かける――「われわれ」というのは、わたし自身も本当によい芝居が見られるとあれば、かならずいくからだ――そして生きて帰宅しないかもしれないという思いを、できることなら腕の長さ分だけ遠ざける。にもかかわらず――こんなくどくどしい序文に辛抱づよくついてきてくれた親愛なる友よ――それが自分の番でないなどと、どうしてわかろうか――歓楽が最高潮に達したとき、最後の危機を告げるさし込むような激痛、もしくは致命的な眩暈《めまい》におそわれる――心配そうな友人たちがかがみ込んで見守っているのをぼんやりと不思議に思う――彼らの困惑したひそひそ話が聞こえる――たぶん自分もふるえる唇で「重いのか?」と問いかけ、「そうだ、最期が近い」といわれる(そして、ああ、その言葉が発せられたとき、人生すべてがどんなに違ってみえることか!)――こういったことが今夜にも自分にふりかからないと、どうしてわかるだろうか。
これを知りつつも、あえて自分にこういいきかせるのだろうか。「はん、たぶんこれは不道徳な芝居だ。設定がちょいと『危なかしい』、会話がちょいときつすぎる、『所作』がちょいと思わせぶりだ。良心がまったくとがめないとはいわない。しかしものは気が利いている、今度だけはみなくては。身を引きしめるのは明日からにしよう」明日が[#「明日が」に傍点]、明日が[#「明日が」に傍点]、そのまた明日が[#「そのまた明日が」に傍点]!
[#ここから2字下げ]
「希望を抱きて罪を犯し、罪を犯しつついう、
『神の裁きは罪にもあわれみをくだす!』
その者は神の御霊《みたま》にそむいて偽る、
凌辱にて慈悲をさえぎり、挑み、そして落つ、
苦しみの軸を空しくまわる
焼かれたる蠅のごとく、
そして盲《めしい》となり忘れられ、堕落から堕落へと
跛行《はこう》し這いまわり、その運命をたどる」
[#ここで字下げ終わり]
ここで一休みしていわせてもらうと、死の可能性というものをこのように考えるなら――それを冷静に悟り、しっかりとみつめるなら――娯楽の場へ出かけることの是非を知る最善の試金石になるだろうと、わたしは信じている。急死が劇場での出来事だと想像したとき、とりわけぞっとした気分になるとすれば、劇場は他人にとっては無害であろうと、自分にとっては有害なのだと思ってまちがいない。出かけることでたいへんな危険を招くことになると思ってまちがいないのだ。最も安全な道は、われわれがとても死ねたものではない場に身をさらさないことである。
しかし、人生の真の目的が何かをひとたび悟るなら――それは快楽でもなく、知識でもなく、「気高き心の最後の弱み」名声ですらない――それは人格の成長であり、より高く、より気高く、より純粋な規範へと向上すること、まったき人間[#「人間」に傍点]の形成である――そしてさらに、このことが現に進行し、いつまでも(疑いなく)つづいていくことを意識するかぎり、死はわれわれにとってなんら恐怖ではない。それは影でなく光である。終わりでなく、始まりなのだ。
釈明の必要のある件がもうひとつあるようだ――イギリス人の「スポーツ」熱をまるで好意なしに扱ったことである。「スポーツ」はむろん過去において、また今日でも、何らかの形で、大胆さや危険の際の沈着を学ぶ絶好の修養となっている。わたしは純正な[#「純正な」に傍点]「スポーツ」になら全く好意をもたないわけではない。肉体を酷使し、生命を危険にさらして「人食い」虎を狩る男の勇気には、心から敬服できる。岸に打ちあげられた怪物を追撃し、一騎打ちの戦いを挑む華々しい興奮に雀躍とする男にも、心から好感をもてる。しかし危険もなく安閑としていられるのに、身を守るすべのない生き物に激しい恐怖やむごい死をもたらすことに快楽を見出しうる狩猟家に対し、わたしは深い疑念と悲しみを抱かざるをえない。その狩猟家が普遍の愛の信仰を人々に説く誓いをした者であれば、疑念と悲しみはいっそう深まる。もしそれが「優しくかよわき」者であるなら、その名が愛の象徴として使われ――「汝の我をいつくしめる愛は尋常《よのつね》ならず、婦《おんな》の愛にも勝りたり」――この世の使命が苦しみや悲しみにあるすべてのものを助け、慰めることであるはずの者であるなら、疑念と悲しみはこのうえなく深まるのだ。
[#ここから2字下げ]
「さらば、さらば、だがこのことを汝《なんじ》に告ぐ
婚礼の客たる汝に。
善く祈る者は善く愛す
人も鳥も獣《けもの》をも。
いと善く祈るはいと善く愛す
大なるものも小なるものをも。
われらを愛するゆかしき神が
すべてをつくり愛すれば」
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ]
(原注)[#「(原注)」はゴシック体]ここまで書き終えたそのとき、扉がノックされて一通の電報が届き、親友の急死を知らされた。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第一章 パン減らせ! 税ふやせ!
――するともう一度どっと歓声がわきあがり、とびきり興奮していたひとりの男が帽子を空中高く放りあげ(ぼくにわかったかぎりでは)こう叫んだのだった。「副総督閣下に万歳だ!」ひとり残らず歓声をあげたものの、それが副総督のためなのか、そうでないのかは、判然としなかった。「パン!」と叫ぶ者も、「税!」と叫ぶ者もいたが、自分たちのほんとうの要求が何かは誰ひとりわかっていない様子だった。
この一部始終をぼくは総督の朝食の間《ま》の開け放たれた窓から、長官の肩ごしに見物していた。長官は歓声がわきあがった瞬間、これを待っていたとばかりにさっと立ちあがり、広場がいちばんよく見おろせる窓へ突進していた。
「いったいどういうことだ」と長官は繰り返しつぶやきながら両手を後ろに組み、ガウンをなびかせてせわしく部屋を歩きまわった。「あんな大歓声は聞いたことがないて――朝のこんな時刻に。おまけに一斉にやりおって! きみ、まったく見事なものじゃないかね!」
ぼくは控えめに、ぼくの耳にはみんな別々のことを叫んでいるように聞こえると返答したが、長官は片時もぼくの申し立てに耳をかそうとしなかった。「みんなで同じ文句を叫んでおるぞ、きみ!」と長官はいった。それから窓の外へぐいと身を乗り出すと、すぐ下に立っていたひとりの男にそっと声をかけた。「あの調子でいけ、いいな。総督はもうじきくる。行進の合図だ!」これをすっかりぼくの耳に聞かせるつもりでなかったのは明らかだが、ぼくの顎《あご》が長官の肩にのっかからんばかりになっているのを思えば、聞かないわけにはいかなかった。
「行進」ははなはだ珍妙な光景だった。ふたりずつ歩むばらばらの行列が広場のむこう端からはじまり、不規則なジグザグを描いて、風にさからって進む帆船さながら左右に激しく針路を転じつつ、王宮のほうへと前進してきた――だから行列の先頭がひとつの針路の先端にくると、前の針路の先端よりもぼくらから遠ざかることがしばしばだった。
しかし、一切が指図のもとに運ばれているのは間違いなかった。長官がしきりと小声で何かいっていた窓下の男から一同が目を離さないことに、ぼくは気付いたのだ。男は片手に帽子を、もう一方の手に緑の小旗をもっていた。男が旗をふるたびに行列はすこしばかり前進し、旗をおろすと横這いしつつこきざみに遠ざかった。そして男が帽子をふるごとに、一斉に声もかれよと歓声をあげるのだった。「万歳!」ひょいひょい上下する帽子にあわせて注意ぶかく間合いをとりながら、ひとり残らず叫んだ。「万歳! しーん! けーん! ぽー! 減らせ! パン! ふやせ! 税!」
(画像省略)
「よしよし、うまいぞ!」と長官がささやいた。「合図するまで、ちと休憩させておけ。総督はまだじゃ」ところがこのとき、広間の大扉がさっと開いた。長官はやましさにぎくりとしながら、閣下を迎えるべくくるりとむきをかえた。それがなんとブルーノだったので、彼は救われた思いでほっと息をついた。
「おはよう!」その小さな子はふだんと変わりないそぶりで長官と召使たちにむかっていった。「シルヴィーどこかちってる? ぼく、シルヴィーさがちてるんだ」
「総督閣下とごいっしょかと存じます、ッ下!」と長官はふかぶかと頭を下げて答えた。もちろんこの称号を(いうまでもなくおわかりのように、これは「殿下」を一音半に縮めたものにほかならなかった)父親がアウトランドの総督にすぎない子供に使うのは、多少ばかばかしいことだった。とはいえフェアリーランドの宮廷に数年をすごし、そこで三音を一音半で発声するという不可能にちかい技を身につけた男のことだから、そこは大目に見てやらねばならない。
ところがこの一礼はブルーノの肩すかしをくった。「発音不能単独促音」の早業がものの見事になしとげられようとしたとき、ブルーノはもう部屋を飛び出していたのだ。
ちょうどそのとき、遠くで一声、「長官の演説だ!」という叫びが聞こえた。「よろしい、諸君!」長官は途方もなく機敏に応じた。「それではひとつ!」ここで、さきほどから卵とシェリーで風変わりな飲物をあわただしくこしらえていた給仕が、それを大きな盆にのせてうやうやしく差しだした。長官はきどってそれをとりあげ、思案ぶかげに飲みほすと、空のグラスを置きながらご満悦な給仕にお情けに微笑し、それからはじめた。ぼくのおぼえているかぎり、長官はこう演説した。
「えへん、えへん、えへん! 不遇の同胞たちよ、いや同胞たる不遇者たちよ――」(「悪態をついてはなりませんぞ!」窓下の男が低くいった。「不具者[#「不具者」に傍点]といってはおらん」と長官は弁明した。)「ご承知のごとく、わたくしはつねづね諸君に共《きよう》――」(「い粛、い粛!」群衆が大声で叫び、演説者のかぼそいきいきい声はかき消されてしまうほどだった。)「――わたくしはつねづね共――」長官は繰り返した。(「そんなに競競《きようきよう》せんことです」と窓下の男がいった。「せ精薄にみえますぞ!」そしてこの間じゅう、「い粛、い粛!」という叫びは雷のように広場にとどろきわたっていた。)「で、わたくしはつねづね共感[#「共感」に傍点]をおぼえるのであります!」長官は静粛になるやすかさず声をはりあげた。「しかしながら諸君の真の友は副総督閣下であります! 日夜、副総督閣下の思いは諸君の不正に――正義というべきか――すなわち諸君の不正――いやつまり正義――」(「いいかげんにおやめください!」窓下の男が声を荒立てた。「台無しになりますぞ、長官!」)このとき副総督がはいってきた。さもしい狡猾な顔つきのやせた男で、肌は黄緑色だった。彼はどこかに猛犬がひそんではいまいかとでもいうように、疑いぶかくまわりをうかがいながら、そろりそろりと足をはこんできた。「ブラボー!」彼は長官の背中をたたいて叫んだ。「申し分ない演説だったぞ。きみは生まれながらの雄弁家だ!」
「いや、とんでもない」と長官はつつましやかに目を伏せて答えた。「雄弁家とて生まれなくては[#「生まれなくては」に傍点]」副総督は考えこむように顎《あご》をさすった。「なるほど、それはそうだ」と彼は認めた。「そういうふうに考えたことはなかったわい。それにしてもうまいものだった。ちょっと耳をかしてくれ」
会話のつづきはひそひそ声で進められた。あとは聞きとれなくなったので、ぼくはブルーノのところへいくことにした。
この少年は廊下に立ちどまって、お仕着せを着た男に話しかけられていた。前に立ちはだかっているその男は魚のひれみたいに両手を前にたらし、並みはずれの敬意から、からだをふたつ折りにせんばかりだった。「閣下は」と敬意あふるる男はいっていた。「書斎においででございます、ッ下!」(これは長官ほど見事な発音ではなかった。)ブルーノがそのほうへ小走りに駈けだしたので、ぼくもついていくのがよいと思った。
総督は厳粛でありながらたいへん柔和な顔立ちをした、風格のある長身の人物で、書類がいっぱいひろげられた書き物机にむかって腰をおろし、これまでぼくのめぐりあったなかでも最も愛らしく美しい少女を膝にのせていた。少女は四つ五つ年上のようだったが、ばら色の頬やきらきらする瞳、それにふさふさした金髪の巻き毛はブルーノそっくりだった。少女のひたむきな笑顔が父親の顔を見あげた。ほほえましい光景だった。ふたつの顔が――人生の春の顔と晩秋の顔が――互いの愛情をこめて見つめあっていた。
「そう、おまえはあの方に会ったことはない」と老人が話していた。「会えなかったのだ、長いこといらっしゃらなかったからね――おまえが生まれる前から、病気を治すためにあちこち旅をしておられたのだよ、シルヴィー」
このときブルーノが総督のもう一方の膝によじのぼったので、かなり込み入った恰好でキスの雨が降る結果となった。
「ゆうべ戻ってこられたばかりでね」キスが一段落すると総督はいった。「シルヴィーの誕生日に間に合うようにと、最後の千マイル以上をまっしぐらにやってこられた。だがとても早起きだから、きっともう図書室におられるだろう。いっしょにおいで、会ってみよう。小さな子にはいつも優しくしてくれる。きっと好きになれる」
「別乃《べつの》教授もきたの」ブルーノがおそるおそるきいた。
「そう、いっしょにお着きだ。別乃教授は――まあ、あまり好きになれんかもしれんな。ちょっと夢多い[#「夢多い」に傍点]おひとでな」
「シルヴィーこそもうすこし夢多いといいのになあ」ブルーノがいった。
「それ、どういうこと、ブルーノ?」シルヴィーはいった。
ブルーノはかまわず父親にいった。「お姉ちゃんはね、できない[#「できない」に傍点]っていうの。でもぼく思うんだ、できない[#「できない」に傍点]んじゃないんだ、したくない[#「したくない」に傍点]んだもん」
「シルヴィーは夢を見ることができないというのかね!」わけがわからない総督がいった。
「そうさ、そういうんだよ」とブルーノはいいはなった。「ぼくが『勉強やめようよ』っていうと、お姉ちゃんがね、『まあ、もうやめるなんて夢にも思われないわ[#「夢にも思われないわ」に傍点]』っていうんだ」
「この子ったら、いつもお勉強やめたがってしようがないんですもの」とシルヴィーが説明した。「はじめてから五分でなのよ」
「一日五分の勉強とは!」と総督がいった。「その調子では何も覚えたくないのかな、おまえ」
「シルヴィーとおんなじこといってる」とブルーノがいい返した。「お姉ちゃんたらさ、ぼくが覚えたくない[#「覚えたくない」に傍点]んだっていうの。だからぼく、何回もシルヴィーにいうんだ、覚えられない[#「覚えられない」に傍点]んだって。お姉ちゃん何ていったと思う。『られない[#「られない」に傍点]んじゃない、たくない[#「たくない」に傍点]でしょ』っていうの」
「教授に会いにいこうかな」と総督はこれ以上の言い合いを上手にそらした。子供たちが総督の膝からおりると、それぞれに手をとりあった幸せな三人組は図書室へとむかった――ぼくもあとについていった。このときまでにぼくは、宮廷の誰ひとりとして(しばし長官は別として)まるでぼくの姿を見ることができないのだという結論に達していた。
「教授はどこがお悪いの」とシルヴィーが、反対側で飛んだり跳ねたりしてはしゃいでいるブルーノにお手本を示そうと、ちょっぴりとりすまして歩きながら尋ねた。
「悪かったのは――もう良くなられたはずだが――腰が痛くて、リューマチ、そんなふうなものだ。しばらくご自分で治しにでかけてらっしゃってな。なにしろ立派なお医者さんだから。まったく、三つ新しい病気を発明[#「発明」に傍点]なさったし、それに鎖骨を折る新しい方法もだよ」
「すばらしいやり方?」ブルーノがきいた。「うむ、そうともいえんが」と総督がいっているうちに、ぼくらは図書室にきていた。
「ほら、教授がおられるよ。おはよう、教授! 旅のお疲れはとれましたでしょうな」
陽気な顔つきの太った小男が花柄のガウンをまとい、両脇に大きな本をかかえ、部屋の奥から小走りにやってきて、子供たちにはすこしも気をとめずそのまま通りすぎようとした。「三巻をさがしておるのです」と教授はいった。「見かけませんでしたかな」
「子供たちと会ってくださらんか、教授」そういって総督は教授の肩をつかみ、くるりとまわして子供たちとむきあわせた。
教授はむりに笑顔をつくった。それから一、二分、大きな眼鏡ごしに黙って子供たちを見つめた。
やっと教授はブルーノに話しかけた。「ゆうべはぐっすり眠ったかね」
ブルーノはきょとんとした。「そんなの、わかんないさ」とブルーノが答えた。「眠ったら、ぐっすりかどうかなんてわかんないもの」
今度は教授のほうがきょとんとした。教授は眼鏡をはずし、ハンカチでこすった。それからもう一度子供たちを見つめた。そして今度は総督のほうへむきなおった。「お子さんたちは何でものみこんでくれますかな」と教授は尋ねた。
「だめだよ、ぼくたち」とブルーノがいった。この質問にはうまく返答できると思ったのだ。
教授は悲しそうに首をふった。「では半分ものみこんでくれないのかな」
「どうちてぼくたち何でも半分のみこむの」とブルーノがいった。「そんなことちたらさ、お腹《なか》こわしちゃうよ!」
(画像省略)
だが教授はこのときもう子供たちには無頓着で、また総督にむかって話していた。「よいお知らせがございます」と彼はきりだした。「晴雨計が動きだしまして――」
「ほう、どちらのほうへ」と総督はいって――子供たちにいいそえた。「わしは気にしておらんのだがね。ただ教授は、あれが天気に影響すると考えておられる。すばらしく賢いおひとだろう。ときどき、別乃教授にしかわからぬことをおっしゃる。ときどき、誰にもわからぬこともおっしゃる。どちらのほうへ、教授? 上ですかな、下ですかな」
「それがどちらでもないのでして」と教授はおもむろに手を打っていった。「横に動いておりましてな――わたし流にいうなら」
「ということは、どんな天気になるのですか」と総督はいった。「ふたりともお聞き。聞いておいて損はない」
「水平天気にございます」と教授はいって、まっすぐ扉のほうへむかったが、あやうくブルーノに衝突しそうになった。ブルーノはとっさに身をかわした。
「学がおありだろう」といって、総督は驚嘆のまなざしで教授のあとを追った。「まったくもって秀《ひい》でたおひとだ」
「でも、ぼくを轢《ひ》いてくことないよ」とブルーノがいった。
教授はすぐに引き返してきた。ガウンをフロックコートに着がえ、なんとも奇妙な恰好の長靴をはいていた。そのてっぺんが開いた傘になっているのだ。「お目にかけようと思いましてな」と彼はいった。「これこそ水平天気専用の長靴ですわい」
(画像省略)
「しかし膝のまわりに傘をさすのは何のためで?」
「ふつうの[#「ふつうの」に傍点]雨には」と教授は一歩譲った。「たいして役には立ちません。しかし万一、水平に[#「水平に」に傍点]雨が降ったなら、こいつは重宝ですぞ――まったく重宝しますぞ!」
「教授を朝食の間にお連れしなさい」と総督がいった。「それから、わしを待たなくていいと皆にいっておくれ。ちょっとお仕事があって、朝は早くにすませてしまったからね」子供たちは何年も前から知り合いであるかのように打ちとけて教授の手をとると、せきたてるようにして出ていった。ぼくはうやうやしくあとに従った。
[#改ページ]
第二章 無名の女友達
ぼくらが朝食の間《ま》にはいっていくと、教授がしゃべっていた。「――それで、あの方はおひとりで早くに朝食を召しあがったそうで、お待ちにならないようにとのご意向でした。こちらへ、奥さま」彼はもう一度繰り返した。「こちらへどうぞ!」それからはなはだ馬鹿丁寧な(とぼくには思われた)物腰で、ぼくのいる車室の扉をさっと開けて案内した。「お若く麗しきご婦人!」ぼくはいくぶん苦々しくつぶやいた。「なるほどこれが第一巻の幕開けというわけか。この女性がヒロインだな。そしてこのぼくは、この女性の運命の展開に必要とあれば登場するだけのその他大勢のひとりで、最後の出番は幸せなふたりを教会の外で出迎えるときだ!」
「さようでございます、淑女さま、フェイフィールドでお乗り換えです」というのがつづいて聞こえてきた言葉だった。(ふん、へつらいやの車掌め!)「つぎのつぎの駅でございます」そして扉が閉まって、ご婦人が席におさまると、エンジンの単調な鼓動は(汽車がなにやら巨大な怪物で、まさしくその血液の循環が感じとれるといった気分にさせながら)ふたたびぼくらが疾走中であることを伝えた。「鼻の恰好は申し分なかった」とぼくは思わずつぶやいた。「はしばみ色の瞳、それに唇――」するとここで思いついた。「ご婦人」が本当はどんな顔つきなのか自分で見きわめるほうが、あれこれ臆測するよりずっと満足がゆくだろう、と。
ぼくは慎重に見まわした。すると――期待がまるで外れた。顔をつつんでいるベールが濃いものだから、ぼくに見えるものといえば明るい瞳の輝きと、器量よしの卵型の顔かもしれず[#「かもしれず」に傍点]、しかしまた不幸にも同等に不器量であるかもしれない顔の、ぼんやりした輪郭だけだった。ぼくはもう一度目を閉じてひとりごちた。「――テレパシーの実験にはまたとない機会だ! 彼女の顔つきを考え出して[#「考え出して」に傍点]、あとでその肖像を原物とつきくらべるとしよう」
もっともぼくとしては、きっとアイネイアスだってうらやましく思ったくらいに、あれこれと「わが敏速なる心をめぐらせた」のだったが、最初はその努力もいっこうに実をむすばなかった。おぼろに見える卵型は依然としていまいましいほどに空白のままで、まるでなにか数学の図表のように、鼻と口の代用となってくれそうな焦点すらないただの楕円形だった。それでも次第に、ある程度の思考の集中によって、ベールを考え剥ぐ[#「考え剥ぐ」に傍点]ことができ、そうして謎の顔を一瞥できるという確信がわいてきた――その顔に関してふたつの疑問、「美人だろうか」「不美人だろうか」という疑問が、ぼくの心のなかで美しい均衡をなしてなおも宙吊りになっていた。
成功は部分的で――かつ断片的――それでもひとつの成果はあった。時折、不意に光がきらめいて、ベールがかき消えるようだった。けれどもしかとその顔立ちをとらえる間もなく、またもや真暗闇になるのだった。そんな一瞥のたびに、顔はだんだんと子供っぽく、あどけなく変わっていくようだった。そしてついにぼくがベールを完全に考え剥いでしまうと[#「考え剥いでしまうと」に傍点]、それはまごうかたなく幼いシルヴィーの愛らしい顔だった!
「するとシルヴィーの夢を見ていたのか」とぼくはひとりごちた。「それならこれが現実だ。それとも現実にシルヴィーといっしょだったのか、それならこっちが夢だ。人生そのものが夢なのだろうか?」
退屈しのぎにぼくは、ロンドンのわが家から北海岸の見知らぬ漁師町への、この突然の汽車旅を思いたたせた手紙をとりだして、あらためて読み返した。
親愛なる友へ
幾年ぶりかで再会できるのは、あなたと同様、ぼくには非常に嬉しいことです。それに、むろんぼくは自分の医術のかぎりをあなたにつくすつもりでいます。ただ、ご承知のように、同業者仲間の不文律を犯すわけにはいきません。そこで、あなたはすでにロンドンのさる一流の医師の手にゆだねられているのですが、かの医師とぼくが張り合うとしても、それはまったくの衒《てら》いでしかないのです。(心臓を患っておられると彼がいうことに、ぼくとて異論はありません。あなたの症状はすべてその徴候を示しております。)とにかく、医者としての権限で、ぼくはひとつ事をすませました――あなたの寝室を一階に確保しておいたので、階段を昇り降りなさる必要はありません。
お手紙どおり、金曜日の最終列車でご到着のこととお待ちしております。では、それまでぼくは、あのなつかしい歌の一節を口ずさむことにします。「ああ、金曜日の夜に! 待ちどおしきは金曜日!」
[#地付き]敬具
アーサー・フォレスター
[#ここで字下げ終わり]
追伸、あなたは運命を信じますか?
この追伸に、ぼくはひどくめんくらった。「あの男はなにしろ分別があるから」とぼくは思った。「運命論者になったわけではあるまい。それにしても、どういうつもりなのだろう」そうして手紙を折りたたんで、しまいこみながら、ぼくはうかつにもその文句をおうむ返しに口にしてしまった。「あなたは運命を信じますか?」
美しき匿名婦人が出し抜けの問いかけにさっと顔をむけた。「いいえ、信じません」と彼女はほほ笑んだ。「あなたは?」
「わたしは――わたしは、お尋ねするつもりじゃなかったのです」思いがけない形で会話がはじまったことに少々うろたえて、ぼくは口ごもった。
ご婦人のほほ笑みが笑い声に変わった――軽蔑の笑いではなく、まるで屈託のない子供の笑いだった。「そうでしたの」と彼女はいった。「では、あなた方お医者さまのおっしゃる『無意識的脳作用』とでもいうものかしら?」
「医者だなんて、とんでもない」とぼくは答えた。「そんなふうに見えますかな。またどうしてそんなことを」
彼女はぼくの読みかけていた本を指さした。それは『心臓の諸疾患』という書名がはっきり見える具合においてあった。
「別に医者でなくとも」とぼくはいった。「医学書に興味をもつこともあります。別の読者層もありますし、そちらのほうがもっと強く関心を――」
「患者さんということね」と彼女は口をはさんだが、そっといたわるような表情がその顔に新たな優しさを添えた。「でも」と、痛ましい話題なら避けなければという心遣いを明らかに示しつつ、「どちらでなくても学問書に興味をもつことはありますものね。学問がたくさん含まれているのはどちらだとお考えになって、本かしら、精神かしら?」
「女性にしてはなかなか深みのある質問だ」とぼくは男のもって生まれたうぬぼれで、女の知恵などそもそも浅はかだと思いながらひとりごちた。そしてちょっと考えてから返答した。「生きている人間の精神という意味でしたら、決めがたいでしょうな。すでに書かれていながら、生きている人が読んだことのない学問も実に多いですし、それに、考え出されながら、まだ書かれていない学問も多くあります。しかし全人類をいうなら、精神の勝ちでしょうね。本として残っているものは、例外なしにかつては誰かの精神のなかに存在したはずですから」
「ちょっとした代数の定理みたいじゃなくて?」とご婦人はいった。(「このうえ代数か!」ぼくはますます驚いた。)「つまり思想を因数と考えるとしますと、あらゆる精神の最小公倍数はあらゆる本のそれをも含むといえませんこと。逆ではないにしてもよ」
「確かにいえますね」とぼくはその喩えが気に入って応じた。「それにたいそうすばらしいことになりそうだ」とぼくは、話しかけるというよりむしろ声を出して夢見心地に考えるといったふうにつづけた。「その法則《ルール》を本に適用できればです。そう、最小公倍数を見つけるとき、冪《べき》のいちばん高い数のある項を除いて、数がでてくると消去してしまいますね。そんなふうに、記録された思想を残らず消すんです、それがもっとも強烈に表現されている文章のほかは」
ご婦人はほがらかに笑った。「白紙に返ってしまう本もでてきそう」と彼女はいった。
「でしょうな。たいていの図書館は嵩《かさ》がぐんと減ります。でも、質の点ではずっとよくなるはずですがね」
「いつ、そうなるかしら?」彼女が乗り出すように尋ねた。「あたしの生きているうちに見込みがありそうなら、本を読むのはやめにして、それを待つことにしますけれど」
「さあ、あと千年かそこらというところかな――」
「じゃ、待ってもむだね」とご婦人はいった。「掛けましょう。アグガギちゃん、いい子だからそばへいらっしゃい」
「わしのそばはいかんぞ」副総督がどなった。「このちびはかならずコーヒーをひっくり返す!」
ぼくはすぐに察した。(おそらく読者もおわかりになったろう。ぼくみたいに結論を引きだすのがとりわけお得意ならばだが、)かのご婦人は副総督の奥方で、アグガギ(シルヴィーと同じ年頃で、賞をとった豚みたいな表情の、みにくく太った男の子)はその息子なのだ。シルヴィーにブルーノ、それに長官とで、七人の一行になったわけだ。
「して、実際に毎朝、飛び込み風呂にはいったのかね」副総督が教授と会話をつづけているらしい様子でいった。「沿道の小さな宿ででも?」
「ええ、もちろん、もちろんですとも!」教授は陽気な顔をほころばせて答えた。「こういうことです。実のところ、流体力学のきわめて単純な問題でしてな。(これは水と力の結合ということです。)飛び込み風呂にはいる場合、しかも(わたしくらいに)力の強い男がそれに飛び込むとすれば、この科学の申し分ない実例となります。お断りしておきますが」と教授は伏目がちに声を落としてつづけた。「とくべつに力の強い男でなくてはならんのです。背丈のほぼ二倍、床から飛びあがれなくてはなりません。そして飛びあがってから徐々に、半回転して逆さに飛び込むのです」
「そりゃ、男でなく蚤でなくちゃならん!」と副総督が叫んだ。
「お言葉を返すようですが」と教授はいった。「このいささか特殊な風呂は蚤にはむきませんのでして。こうしましょう」と彼は器用にナフキンを花綵《はなづな》状にたたみながらつづけた。「現代の必需品と称してよいもの――活動的旅人の携帯風呂とはこんな恰好になります。なんなら略していってもよろしい」と、長官を見ながら、「活人携槽ですな」
(画像省略)
長官は一同が自分を注目しているのに気づいてひどくまごつき、恥ずかしげに小声でいうのがやっとだった。「まったくそうだ」
「この飛び込み風呂の一大利点は」と教授がつづけた。「水がわずか半ガロンで足りるということで――」
「それは飛び込み風呂とはいえんな」副総督が口をはさんだ。「その活動的旅人とやらが潜るのでなければ」
「それが潜るのでしてな」と老人は穏やかに応じた。「活人が携槽を釘に掛けます――こんなふうに。それから水差しの水をこのなかに空けます――空《から》の水差しを袋の下に置いて――空中に飛びあがり――頭を下にして袋のなかに降下します――水は活人のまわりぐるりと、袋のてっぺんまで上昇します――さて、いかがかな!」と彼は意気揚々としめくくった。「活人は大西洋を一、二マイル潜ったかのごとく、はるか水の下というわけです!」
「すると溺れてしまうだろう、まあ、四分もたてば――」
「いや、断じて!」教授は誇らしげな笑みをたたえて答えた。「ほぼ一分後に、携槽の下端の栓をそっとひねります、すると――水は残らず水差しのなかへ戻る――さて、いかがかな」
「だが、いったいどうやって袋の外に出るんだね?」
「そこなんでして」と教授がいった。「この発明のいちばんのミソは。携槽の内部は上までずっと、親指をかける蛇腹《じやばら》になっております。ですから階段を昇るようなものでしてな、ただそれほど楽ではないでしょうが。それで活人が袋から這いあがってくると、頭以外はまちがいなくどちらかの方向へぐらりと倒れますわい――重力の法則がそれを証明していますからな。そこでふたたび床の上というわけです」
「ちょいと打ち身をせんかな」
「ええ、まあ少々は。しかし飛び込み風呂にはいった[#「飛び込み風呂にはいった」に傍点]、それが偉大なことです」
「たいしたものだ! 信じられんほどだ!」副総督が小声でいった。教授はそれを賛辞と受けとり、満足げな笑みを浮かべて会釈した。
「まるで信じられませんこと!」とご婦人がつけ加えた――明らかにもっと感嘆してみせたつもりだった。教授は会釈したが、今度はにっこりしなかった。
「断言できますが」と彼は真剣になっていった。「あの風呂がつくられてさえいたら[#「あの風呂がつくられてさえいたら」に傍点]、わしは毎朝使ったのです。確かに注文はした――それはわしにもはっきりしておる――ただひとつ不確かなのは、あの男がそれをつくりあげたのだったかどうか。そこのところがなかなか思い出せなくて、何年もたっていますからな――」
このとき扉がゆっくりときしみながら開きかけた。するとシルヴィーとブルーノが飛びあがるようにして、聞きなれた足音を迎えに駈けていった。
[#改ページ]
第三章 誕生日の贈り物
「兄がくるぞ!」副総督は警告するように低い声でいった。「しゃべっていいぞ、早いとこやるんだ!」
この指示が長官にむけられたのは明らかで、長官はアルファベットを反復する子供のように、甲高い一本調子で即座に応じた。「さきほど申しあげましたように、副総督閣下、この不吉なる動向は――」
「まだ早い!」と一方がさえぎった。小声でおさまらなかったくらい、たいへんな興奮のしようだった。「兄の耳にとどいておらん。やりなおしだ!」
「申しあげましたように」と従順な長官は唱えた。「この不吉なる動向は、すでに革命の嵩《かさ》を帯びております!」
「それで、その革命の嵩はどれくらいのものかね?」この声は柔和でまろやかだった。シルヴィーと手をつないで、意気揚々たるブルーノを肩にのせて、ちょうどこのとき部屋にはいってきた長身の威厳ある老人の顔は実に気高く優しかったので、とくにやましからぬ者ならすくみあがることはなかったはずだ。ところが長官はにわかに顔色を変え、かろうじてこういう文句を発した。「嵩と申しますのは――閣ッ――閣下、わたくしにも――わたくしといたしましても――よくわからぬのであります!」
「なに、長さと幅と厚さのことだ、そういえばよいのかな」そして老人はいくぶんあわれむように笑みを浮かべた。
長官はやっと気をとりなおすと、開け放たれた窓を指さした。「激昂せる民衆の叫びを閣下がしばしお聞きくださるなら――」(「激昂せる民衆の!」と副総督が声を大きく繰り返した。長官のほうはふがいなくもおじけづいて、蚊の鳴くような声になっていたからだ。)「――彼らの要望がご理解いただけます」
ちょうどそのとき、かすれて混乱した叫びが部屋のなかへ押しよせてきたが、はっきり聞きとれる言葉はこれだけだった。「減らせ――パン――ふやせ――税!」老人はおおらかに笑った。「何をいったい――」と老人がいいかけたが、長官は聞いていなかった。「なにかの手違いだ!」と彼はつぶやき、あわてて窓へかけよったが、すぐにほっとした様子で戻ってきた。「さあ、お聞きねがいます!」と彼は大仰に片手をあげて叫んだ。すると今度はかなりはっきりと、時計のカチカチいう音のように規則正しく、言葉がとどいてきた。「ふやせ――パン――減らせ――税!」
「ふやせ、パン!」総督が驚いておうむ返しにいった。「はて、新規の官営パン工場をつい先週もうけたばかりだがな。いまの欠乏期には原価でパンを売るよう、命じておいたはずだ。このうえ何を要求しておるのだ」
「パン工場は閉鎖しております、ッ下!」と長官がそれまでよりは一段と大きな、はっきりした声でいった。少なくともこの場で提出すべき証拠をにぎっているという意識から、彼は大胆になっていた。そして彼は総督に何通かの書類を手渡した。数冊の開いた帳簿といっしょに脇机の上に用意しておいたのだ。
「ふむ、ふむ、なるほど」総督はさりげない様子でそれに目を通しながらつぶやいた。「命令を弟が取り消しておいて、それをわしがしたことになっておるわい。なかなか手際いいやり口だ。見事なものじゃ!」と彼は声を大きくしていいそえた。「わしの署名がしてある、ということは責任はわしにある。それにしても『減らせ、税』とは、どうしたことだ。どういうふうに減らせというのだ。一月《ひとつき》前に最後の税も廃止したのだが」
「それが復活しましたので、ッ下、それも、ッ下ご自身のご命令によりまして」そしてさらに別の書類が閲覧をたまわるべく差し出された。
総督はそれにひととおり目を通しながら、開いた帳簿を前にして計算に没頭している副総督をちらりちらりとうかがった。しかしこう繰り返しただけだった。「よろしい、わしがしたことにしよう」
「それで民衆の申しますには」と長官はおどおどしつつ先をつづけた――大臣というよりも、むしろ有罪の確定したこそ泥のようだった。「副総督の廃止によって政治の改革を行ない――つまり」総督の驚いた顔つきを見て、彼はいそいで言葉をついだ。「副総督という官職を廃止しまして、現職者に対し、総督閣下がお留守の場合はつねに次《じ》総督として執務をとる権限を与える――それがこの漫然たる不満を残らず鎮めることになるだろう、と。つまり」と彼は手にした紙切れをちらりと見ていいそえた。「この蔓延したる[#「蔓延したる」に傍点]不満を残らずです」
「十五年間も」と低いけれどもかなり耳ざわりな声がはいってきた。「夫は副総督を務めてきたのよ。長すぎるわ。ほんとうに長すぎる!」奥方はいつだって大柄な人だった。それがいまみたいに顔をしかめて腕を組むと、ますます巨大に見えて、干草の大きな山が癇癪でも起こしたさまを想像してみたくなるほどだった。
「じ[#「じ」に傍点]になって名を挙げてくれるんだわ!」と奥方はつづけていった。愚かなことに、自分の言葉の二重の意味がわからなかったのだ。「夫のようなじ[#「じ」に傍点]は、アウトランドにはずっと長いこといなかったんですもの」
「妹として、きみはどの道を勧めるかね?」と総督が穏やかに尋ねた。
奥方は地団駄を踏んだ、これは威厳がなかった。そして鼻をならした。これは品がなかった。「冗談じゃないわ!」彼女は声荒くいった。
「弟に相談しようか」と総督はいった。「弟はおるか!」
「――それに七で、百九十四、つまり十六シリング二ペンスだ」と副総督が答えていた。「二を残して、十六を繰り上げる」
長官は感心しきって、両手両眉をあげた。「実務に長けたおひとだ!」彼はつぶやいた。
「わしの書斎でちょいと話をせんかな?」と総督は声を大きくしていった。副総督は機敏に立ちあがり、ふたりはいっしょに部屋を出ていった。
奥方が教授のほうをむくと、彼はコーヒー沸しの蓋をとって、懐中温度計でその温度を計測中だった。「教授!」と彼女が出し抜けに大声をあげたものだから、椅子で眠っていたアグガギまでも高いびきを中止して片目を開いた。教授は温度計をすばやくポケットにしまい込み、両手の指を組み合わせ、柔順な笑顔を見せて首をかたむけた。
「朝食の前に息子を教えていらしたのでしょうね?」と奥方は高飛車にいった。「あの子の才能にはうたれませんこと?」
「はあ、まったくもって仰せのとおりで、奥方さま」と教授があわてて答えたが、無意識に耳をさすっていて、なにか痛々しい思い出が心に浮かんだ様子だった。「ご子息さまには実に感服いたしました、はい」
「とても可愛げがあるの」と奥方は声を大きくした。「いびきだって、ほかの子より音色がいいのよ!」
もしそのとおりならば、と教授は考えているようだった、ほかの子供のいびきは耐えられないほどおぞましいにちがいない。しかし彼は周到な人物だったから、何も口に出さなかった。
「それに利口なの」と奥方はつづけた。「あなたの講義をこれほど楽しめる子なんていなくてよ――ところで、講義の時間はもうお決めになって? ぜんぜんなさらないじゃありませんか、約束したのは何年も前よ、まだあなたが――」
「ええ、ええ、奥さま、存じております。まあ来週の火曜日にでも――それともつぎの木曜日に――」
「たいへん結構よ」と奥方は愛想よくいった。「もちろん、別乃教授にも講義をさせてあげるおつもりね?」
「そのつもりはないのでして、奥さま」と教授はやや躊躇していった。「あの男はいつも聴衆に背をむけて立ちましてね。朗読[#「朗読」に傍点]にはたいへんいいのですが、講義[#「講義」に傍点]には――」
「おっしゃるとおりね」と奥方がいった。「それに、考えてみると、講義はひとつ以上してもらう時間はほとんどありませんもの。かえってうまくいくわ、まず晩餐会と仮装舞踏会を催すことにすれば――」
「そうですとも!」教授は熱を込めて大声でいった。
「わたしはきりぎりす[#「きりぎりす」に傍点]の仮装でいきます」と奥方が静かにつづけた。「教授、あなたはどんな仮装でいらっしゃるの?」
教授は弱々しく笑った。「わたしの仮装は、そうですな、そう――早々に[#「早々に」に傍点]うかがいますわい、奥さま」
「扉がぜんぶ開く前にはいってはいけませんことよ」と奥方がいった。
「それはできませんな」と教授がいった。「ちょっと失礼。本日はシルヴィーお嬢さまのお誕生日なので、実はわたくし――」そして彼は駈けだしていった。
ブルーノはポケットを探りはじめていたが、そうしているうちにだんだん悲しげな顔つきになった。それから彼は親指を口にくわえ、しばらく考えこんだ。それからそっと部屋を抜け出していった。
ブルーノが出ていくかいかないうちに、教授が息を切らせて戻ってきた。「誕生日おめでとう、お嬢ちゃん」出迎えに駈けよった笑顔の少女に彼はいった。「誕生日の贈り物を受けてくださいな。古物の針刺しですがね。ほんの四ペンス半のものでして」
「ありがとう、とってもきれい!」そしてシルヴィーはこの老人に心のこもったキスを返した。
「それに針のほうは無料《ただ》で手に入れましたし」と教授は上機嫌でいいそえた。「十五本もあって、曲っているのは一本だけですぞ」
「曲ってるのは鉤針にするわ」とシルヴィーがいった。「ブルーノをつかまえるのにね、勉強から逃げ出すとき」
「ぼくの贈り物、当てられっこないだろ」とアグガギがいった。食卓からバター皿をもってきて、いじけた横目をつかって彼女の後ろに立っていたのだ。
「ええ、当てられなくてよ」とシルヴィーが目をあげずにいった。彼女はまだ教授の針刺しに見とれていた。
「これだぞ!」と得意になって叫ぶと、この性悪な子供はバター皿を彼女めがけてひっくり返した。それから自分の機転に得意満面として、喝采を求めてまわりをみまわした。
服のバターをふり落としながら、シルヴィーは顔を真赤にした。それでも唇を固くむすんだまま窓辺へ歩みよると、外を眺めて気持を落ち着けようとしていた。
アグガギの勝利は束の間だった。副総督がちょうどよいときに戻ってきていて、いとしいわが子の悪ふざけを目撃したのだった。そしてつぎの瞬間、見事に横つらをぴしゃりとやられたので、彼の喜びの薄笑いは痛みの泣き声に変わってしまった。
「可哀想に!」太腕に息子をだきすくめて母親が叫んだ。「ただのいたずらでぶたれたのね、ほら、いい子ちゃん」
「無料《ただ》ではないぞ!」怒れる父親がどなった。「わかっとるのか、奥方、このわしが家計の支払いをしとるのじゃ、決まった年額からな。すっかりむだになったあのバターの損害は、わしにふりかかってくるのだ。聞いとるのか、奥方!」
「お黙りあそばせ」奥方はいとも静かに――ほとんどささやくように口を開いた。しかしその顔つきには夫を黙らせてしまうものがあった。「ほんの冗談だったのじゃありませんこと? それもずいぶん気のきいた冗談! シルヴィーのほかは誰も好きじゃないってつもりでしたのよ。なのに、お世辞に嬉しがるどころか、あの意地悪な子ったら、ぷんぷん怒っていってしまって」
副総督は話題を変えるのが実に手際よかった。彼は窓辺に歩みよった。「なあ、おまえ」と彼はいった。「下にいるあれは豚かね、おまえの花壇のなかを嗅ぎまわっておるやつだが」
「豚ですって!」けたたましい声をあげた奥方は狂ったように窓に駈けより、みずから確かめようと夫を押しのけんばかりにした。「誰の豚なの? どうしてはいり込んだの? あの間抜けの庭師はどこへいったの?」
このときブルーノが引き返してきて、(注意をひこうとあらんかぎりの声で泣きわめいていた)アグガギのそばを、あたかもそうしたことに馴れっこになっているように通りすぎ、シルヴィーのもとへ駈けていって思いきり抱きついた。「ぼくのおもちゃ戸棚にいってきたの」と彼はたいへん悲しそうな顔でいった。「お姉ちゃんの贈り物になんかいいもんないかと思ったの。なんにもないんだ。みんなこわれてるんだ、ぜんぶさ。お金ものこってないんだもん、誕生日の贈り物お姉ちゃんに買うのにさ。だから、これっか[#「これっか」に傍点]あげられない」(「これっか」とは大真面目で抱きつくことと、キスがひとつだった。)
「まあ、ありがとう!」とシルヴィーが叫んだ。「あなたの贈り物がいちばん好きよ」(しかしもしそうなら、どうして彼女はそれをすばやく返したのだろう?)
副閣下がふりむいて、ひょろ長い両手でふたりの子供の頭をなでた。「むこうへいっておいで、いい子だから」と彼はいった。「お仕事の話があるからね」
シルヴィーとブルーノは手をつないで歩いていった。けれども扉のところでシルヴィーは引き返してきて、おずおずとアグガギのそばへいった。「バターのこと、気にしてなくてよ」と彼女はいった。「それに――あの子が冷たくしてごめんなさいね」そして彼女はこの小さなあばれん坊と握手しようとした。だがアグガギはいっそう大声で泣きだすばかりで、仲直りしようとしなかった。シルヴィーはため息をついて部屋を出ていった。
副総督は泣きやまぬ息子を腹立たしげににらみつけた。「出ていくんだ、おまえ!」と彼は思いきり声を張りあげた。妻のほうは相変わらず窓から身を乗り出して、「あの豚って、見えないわ。どこなの?」と繰り返していた。
「右のほうへいった――ほら、ちょっと左だ」と副総督がいった。しかし彼は窓に背をむけていて、アグガギと扉とを指さしながら、巧妙にうなずいたり目くばせしたりして長官に合図を送っていた。
長官はやっとその意味がのみ込めて、つかつか歩いていくと、あのおかしな子供の耳をつかまえた――つぎの瞬間、彼とアグガギとが部屋から出ていって、その背後で扉が閉められた。ところがその寸前、突きさすような叫びが部屋中にとどろいて、甘い母親の耳にとどいてしまった。
「何、いまの恐ろしい音?」と彼女は鋭く尋ね、ぎくりとした夫のほうへふりむいた。
「ハイエナかな――それともなにか」と副総督は答え、それがいつも出没するかのように天井をぼんやりと見あげた。「さあ、仕事だ。総督がやってくる」そして彼は床に落ちていた一枚の原稿を拾いあげたのだが、ぼくはこういう文句を読みとった。「然るべく取り行なわれる選挙後、上述のシビメットおよびその妃タビカットが随意に占有すべき皇帝の――」ここで、後ろぐらい顔つきで彼がそれを握りつぶしてしまった。
[#改ページ]
第四章 狡猾なる細工
ちょうどこのとき総督がはいってきた。そしてそのすぐあとから長官が、少々顔を赤らめ息を切らして、頭からずり落ちかげんだったらしい鬘《かつら》を整えつつやってきた。
「でもわたしの可愛いちびちゃんはどこ?」帳簿や巻き物や請求書などに占領された小さな脇机をかこんで四人が腰をおろすと、奥方は尋ねた。
「いましがた出ていきおった――長官といっしょに」副総督はそっけなく説明した。
「まあ」といって、奥方は当の高官におしとやかにほほ笑みかけた。「長官は子供たちの扱いがほんとうに手際よくて[#「手際よくて」に傍点]おいでね。アグガギちゃんの耳にそんなに早くいうことをきかせる[#「いうことをきかせる」に傍点]ことのできる人なんて、ほかにいるかしら」愚かきわまりない女にしては、この奥方のせりふは妙に意味のこもったものだったが、本人はまるでそれに気づいていなかった。
長官は会釈をしたものの、ひどくきまり悪げな様子だった。「総督のお話があったようですが」明らかに話題を変えたい口ぶりで彼はいった。
だが奥方はとどまるところを知らなかった。「あの子はお利口さんよ」彼女は熱を込めてつづけた。「でも長官のように引きたてて[#「引きたてて」に傍点]くださる方が必要だわね」
長官は唇をかみ、黙っていた。奥方は愚かなようだが、今度ばかりはいったことを心得ていて、自分を種にあてつけをしているのだと、彼は明らかに懸念したのだった。その心配は無用だった。その言葉にどんな偶然の意味があるにせよ、奥方には何の意図もなかった。
「すっかり決まったな」総督は前置きの手間をはぶいて告げた。「副総督の職は廃止して、わしの留守のときはいつでも弟が次総督として動くことになった。そこで、わしはこれからしばらく外国へいく。弟にはすぐにも新しい職務についてもらおう」
「ではやはり、じ[#「じ」に傍点]が本当になるのね?」と奥方が尋ねた。
「そうらしい」総督はほほ笑みながら答えた。
奥方はたいそうご満悦の態で手をたたこうとした。ところがその音ときたら、まるで二枚の羽根ぶとんをたたきあわせたようなものだった。「夫がじ[#「じ」に傍点]になれば、百人分のじ[#「じ」に傍点]をもったも同然よ」
「静かにせんか!」副総督が叫んだ。
「そんなに驚くことかしら」と奥方がいくぶんとげとげしくいった。「ご自分の女房が真実を話すのが」
「いや、ぜんぜん驚くべきことじゃない」と夫君《ふくん》は気づかわしげにとりなした。「おまえのいうことで、驚くべきことなど何もない」
奥方はその言葉を笑って受けいれ、そしてつづけた。「それで、わたしはじ[#「じ」に傍点]総督夫人なのね」
「その称号を使いたいのならな」と総督はいった。「だが『閣下』のほうが呼びかけにはふさわしかろう。『閣下』も『閣下夫人』も、ともにわしのつくった憲章を守ってくれるものと信じておる。目下いちばん気にしておる規定はこれだ」と彼は大きな羊皮紙の巻き物を開いて、その規定を読みあげた。「『一《ひとつ》われらは貧しき者に情《なさけ》をかけること』長官が文句を選んでくれたのだが」そのすぐれた官吏をちらりと見やって、総督はいいそえた。「この『一《ひとつ》』という言葉には、なにか法律上のふかい意味合いがあるのかね」
「むろんですとも」長官は口にペンをくわえたまま、できるだけ明瞭に返答した。彼はそわそわと、ほかの数本の巻き物を巻いたりひろげたり、また総督から受けとったばかりの巻き物を置くための場所をこしらえていた。
「ここにあるのは草稿にすぎません」と彼は説明した。「そしてわたくしが最終的な訂正をほどこしますと――」とさまざまな羊皮紙を騒々しくかきわけて「――うっかり落とした読点を一つ二つくわえますと――」彼はここでペンを手にし、巻き物のあちらこちらへと、訂正個所の上に吸取紙をひろげつつせわしく動きまわった。「あとは署名をいただくばかりでして」
「読みあげるべきじゃないの、まず」奥方がいった。
「要らん、要らん!」副総督と長官がひどくむきになって、同時に声を張りあげた。
「要らんじゃろ」総督もおだやかに同意した。「夫君《ふくん》とわしとで目を通してある。この規定によれば、彼が総督の全権限を行使すること、そしてその職務にともなう年収の管理は、わしが戻るまで、あるいはそれがかなわぬときはブルーノが成年に達するまで、自由にしてよいとある。さらに、彼は総督権や未決済の公費、ならびに彼の管理下で手をつけずに保管されるはずの宝庫の宝物を、のちのち、わしかブルーノに、そのときの事情しだいで譲渡すること、となっておる」
この間じゅう、副総督は長官の手をかりて右から左へといそがしく書類を移しつつ、署名すべき個所を総督に指し示していた。それから自分も署名し、さらに奥方と長官も証人として名をつらねた。
「別れは簡単にすますがいちばんじゃ」と総督はいった。「旅仕度はすべてととのっておる。子供たちが見送ってくれると下で待っておる頃だ」彼は奥方におもむろに接吻し、弟と長官とは握手を交わして部屋を出ていった。
残った三人は、馬車の音がして総督の耳にとどかないとわかるまで沈黙していた。それから、ぼくの驚いたことに、彼らは押えきれない笑いをどっと響かせた。
「愉快、ああ、愉快!」長官が叫んだ。そして次総督と手をとりあい、狂ったように部屋中を跳ねまわった。奥方はおしとやかなことに跳ねまわりはしなかったが、馬がいななくように笑って、頭上でハンカチを振りまわした。彼女のごく限られた理解力ではっきりしていたのは、なにかたいへん巧みなことがなされたということだけで、それがどういうことなのかはまだ知らなかった。
(画像省略)
「総督がいってしまったら、全部話してくれるといったじゃないの」自分の話を聞いてもらえるようになるや、すぐに彼女はいった。
「では教えてやろうか、タビー」夫君はきどって答えると、吸取紙をとりのけ、二枚並んだ羊皮紙をみせた。「これは総督が読んだが署名しなかったものだ、そしてこっちは署名したが読まなかったものだ。ほら、全部隠しておいたのだ、署名する個所以外は――」
「ほんと、ほんと」奥方は気負いこんで口をはさみ、二枚の憲章をつきくらべはじめた。
「『一《ひとつ》彼は総督の不在中、総督の権限を行使すること』あら、これが変わっているわ。『人民により、その職務に選出されたる場合、皇帝の称号を得、終身絶対統治者となること』ですって。まあ、では皇帝なの、あなた?」
「いや、まだだ」次総督は答えた。「この書類をひとにみせてはならんぞ、いまのところは。すべて頃合が肝心だ」
奥方はうなずいて読みつづけた。「『一《ひとつ》われらは貧しき者に情をかけること』まあ、これはすっかり省かれているわ」
「当り前だ」と夫君はいった。「わしらが賤民どもにかかわりあっておれるか」
「すてき」と奥方はきっぱりいうと、さらに先を読んだ。「『一《ひとつ》宝庫の宝物は完全無欠のまま保管されること』あら、『次総督の自由裁量にまかされること』と変えてあるわ。まあ、シビー、うまいこと! 宝石が全部だなんて! すぐにとりにいって、着《つ》けてもよくて?」
「いや、いまはいかん」夫君は落ち着きなく答えた。「人民の気運がまだ熟しきっておらん。むろん、すぐに四頭立て馬車は手配するつもりだ。そして無事に選挙が実施されたあかつきには、わしはただちに皇帝を名乗る。だが総督が生きとると知っているかぎり、連中は宝石を使うことなど許しはしまい。総督が死んだという知らせを流さなくてはならん。ちょっとした細工が――」
「細工ですって!」嬉々とした夫人は手をたたいて叫んだ。「細工物って大好き! たまらなくおもしろいわ!」
次総督と長官は一、二度、目くばせを交わした。「細工に隆々[#「隆々」に傍点]となっておられますな」狡猾な長官はささやいた。「少しも害にはなりませんが」
「で、いつ細工は――」
「しいっ」夫君があわててとめた。ちょうどそのとき扉が開いて、シルヴィーとブルーノが愛らしく腕をからませてはいってきた――ブルーノは姉の肩に顔を伏せて泣きじゃくり、シルヴィーは落ち着いて静かにしていたが、涙がいくすじも頬をつたっていた。
「そんなに泣くんじゃないぞ」と次総督がきびしくいったが、泣いている子供たちには何のききめもなかった。「ちょっとなだめてやってくれ」彼は奥方をうながした。
「お菓子をあげる」と奥方は一大決心するようにひとりごちると、部屋を歩いていって戸棚を開き、プラムケーキを二切れもってすぐに戻ってきた。「おあがり、泣くんじゃないの」というのが奥方の短くそっけない命令だった。かわいそうな子供たちは並んで腰をおろしたが、食べる気持になれないふうだった。
またもや扉が開いた――というより裂けた。今度はアグガギが「あの老いぼれ乞食がまたきたぞ!」と叫びながら、乱暴に部屋に飛びこんできたのだ。
「食べ物はやるなよ――」次総督が口をひらいたが、長官がさえぎった。「大丈夫です」彼は低い声でいった。「召使たちに申しつけてありますから」
「すぐこの下にいるぞ」窓際にいたアグガギが、そういって中庭を見おろした。
「どこなの、ちびちゃん」と甘い母親は小さな怪物の首にさっと両腕をまわしていった。ぼくらは皆(事の次第に気づいていないシルヴィーとブルーノを除いて)、彼女のあとについて窓辺へいった。年老いた乞食は飢えた目でぼくらを見あげた。「パンを少々おめぐみを、閣下」と彼は哀願した。立派な老人だったが、哀れなくらいに病んで弱っている様子だった。「パンを少々、お願いです」と彼は繰り返した。「ほんの少しパンと水を!」
「ほら、水だ、これを飲め!」アグガギがどなって、老人の頭上に水差しの水をあびせた。
「でかしたぞ、ぼうず!」次総督が叫んだ。「あの手の連中を片づけるにはいちばんだ」
「お利口さん!」閣下夫人も調子を合わせた。「元気があること」
「棒でもくらわせろ!」ぼろぼろの上着にかかった水をふりはらって、乞食がもう一度柔和な目で見あげたとき、次総督が叫んだ。
「真赤に焼けた火かき棒をくらわせるのがいいわ!」奥方がまたも調子を合わせた。
手近に真赤に焼けた火かき棒はあるはずもなかったが、それでも棒は何本かすぐさま出てきて、険悪な顔が哀れな老浮浪者をとりかこんだ。
老人は穏やかな毅然たる物腰で、手をふって彼らを追いはらった。「わしのもろい骨を折ることはない」と彼はいった。「もう立ち去るところじゃ。ひとかけらのパンも要らん!」
「かわいそうに、かわいそうなおじいさん」ぼくのかたわらで半分泣きじゃくりながら、可愛い声がいった。ブルーノが窓辺に立っていて、自分のプラムケーキを投げてやろうとしていたのだ。けれどもシルヴィーがそれを押しとどめた。
「ぼくのケーキあげるんだい!」ブルーノが叫んで、シルヴィーの腕からのがれようと懸命になっていた。
「ええ、ええ、いいわ」とシルヴィーがやさしくいった。「でも投げたりしちゃだめ。もういないでしょ、ね? 追いかけましょう」そして乞食にすっかり心を奪われているほかの者たちにさとられずに、シルヴィーはブルーノを部屋の外へ連れていった。
陰謀者たちは席に戻ると、窓際に立ったままのアグガギに聞かれぬように、ひそひそと話をつづけた。
「ところで、ブルーノが総督のあとを継ぐことですけれど」と奥方はいった。「それは新しい憲章ではどうなっているの」
長官はほくそ笑んだ。「同じです、一語一句。ただひとつだけ例外が、奥さま、『ブルーノ』のかわりに、わたくしは勝手ながら――」と彼は声を落としてささやいた。「『アグガギ』といれておきました」
「アグガギだって!」ぼくはもはや堪えきれぬ憤りを爆発させて叫んだ。その一言でさえ、口にするには桁はずれな努力を要したようだが、いったん叫びが発せられるや、たちまちすべての努力が停止した。一陣の風がその情景をすっかり吹き消して、ぼくは車室で、むかい側のご婦人を見つめながら、きちんとすわっているのだった。彼女はすでにベールをかきあげていて、さもおもしろいといった表情でぼくを見ていた。
[#改ページ]
第五章 乞食の王宮
目覚めながらにぼくが何かいったということ、それは確かだと思った。ぼくといっしょの旅人の驚いた顔つきが充分な証拠にならないまでも、ぼくの耳にはまだ、押し殺したようなかすれ声の叫びが響いていた。だが、どう謝ったらよいのだろう。
「びっくりなさらなかったでしょうね」ぼくはしどろもどろにやっといった。「何といったのか、まるでわからんのです。夢を見ていたもので」
「『アグガギだって!』とおっしゃいましたわ」と若いご婦人は答えた。精一杯まじめな顔つきをしようとしているのに、唇のほうはこきざみに曲線を描いて、いまにも笑いだしそうだった。「少なくとも――おっしゃったのではなくって――お叫びになりましてよ」
「たいへん失礼を」とだけはいえたものの、ぼくははなはだばつの悪い、どうしようもない気持になった。「シルヴィーの目をしているぞ」すっかり目が覚めたものかどうか、なおも半信半疑で、ぼくはひとり思った。「無邪気に驚いてみせるあの愛らしい表情だって、まるでシルヴィーそのままだ。でもシルヴィーは、こんな落ち着いてしっかりした口元をしていない――それに空ろな悲しみをたたえるあの夢見るような眼差《まなざ》しも、遠い昔になにかふかい悲しみに出会ったことのあるような――」そんな空想が押し寄せてきて、ご婦人のつぎの言葉をあやうく聞きそこねるところだった。
「『三文小説』を手にしていらしたのなら」と彼女はつづけた。「幽霊ものとか――ダイナマイト――それとも真夜中の殺人とか――それならわかりますけれど。悪夢にうなされでもしなくては、三文の値打ちもありませんものね。でも、ほんと――医学論文だけですのね――」そして彼女はからかうように可憐な肩をすくめ、ぼくが眠ってしまうときに読みかけていた本にちらりと目をやった。
彼女の人なつこさと屈託のなさに、ぼくはしばしめんくらった。だがこの子には――というのは彼女はまるで子供といってよかった――厚かましさとか出すぎた感じというのがひとかけらもなかった。やっと二十歳になったくらいだな、とぼくは見当をつけた――この世の風習や慣習――なんなら蛮行といってもかまわない――に染まっていない天使の化身か何かの無垢《むく》と天真爛漫、それだけだった。「まさしくこんなふうに」とぼくは思いをはせた。「シルヴィーもふるまったり、しゃべったりするだろう、あと十年もすれば」
「すると、幽霊はお好きじゃないのですな」とぼくはきりだした。「身の毛もよだつってしろものじゃないと」
「そうですのよ」ご婦人は相槌《あいづち》を打った。「おきまりの鉄道幽霊って――ふつうの汽車旅用の読み物の幽霊ですけど――とってもつまらないものばかり。アレクサンダー・セルカークじゃないけれど、『彼らのふがいなさには唖然とする』っていいたいくらい。おまけに真夜中の殺人なんて、けっしてしませんでしょ。自分の命を守るために『血の海を転がりまわる』こともできやしませんのよ」
「『血の海を転がりまわる』とはなかなか表現豊かな文句ですな、まったく。それはどんな流体ででも可能でしょうか」
「そうはいきませんわ」とご婦人は即座に返答した――とうの昔に考えておいたといわんばかりだった。「何かどろどろしたものじゃないといけませんの。たとえばブレッドソースでなら、転げまわれなくもありませんわね。白いから幽霊にはずっとぴったり、転げまわりたいというなら」
「その本には身の毛もよだつ本物の幽霊が出てくるのですな」とぼくは探りを入れた。
「あら、おわかりになって!」彼女は愛くるしいほど無邪気に叫ぶと、ぼくの手にその本をのせた。思いがけず彼女の研究の種をいいあてたという「不気味」な偶然の一致に、(すぐれた幽霊小説が与えるような)実に快い戦慄を感じつつ、ぼくは夢中でそれを開いた。
それは家庭料理の本で、開いたのはなんと「ブレッドソース」の項目だった。
おそらくぼくは、ぽかんとした顔つきで本を返したのだろう。ご婦人はぼくのまごつくのをみて、おかしそうに笑った。「近頃の幽霊なんかよりずっとわくわくさせてくれますわ。ところで先月、幽霊が出ましたのよ――本物の――つまり超自然界の幽霊じゃなくて――雑誌のですけれど。それがぜんぜん味気ない[#「味気ない」に傍点]幽霊。鼠一匹おどかすこともしなかったでしょうね。椅子を勧める気にもなれないような幽霊!」
「七十年の人生と禿《はげ》と眼鏡には、結局それなりの利点はあるものだ」とぼくはひとりごちた。おそろしく間をおいたあげくに、やっとぽつりぽつりと口をきく内気な若者と乙女にかわって、ここではまるで永年の知り合いみたいに老人と子供が語らいあっている。「ではあなたは」とぼくは声に出してつづけた。「ときには幽霊に椅子を勧めるのもいいと思うのですか。といっても、そんな先例がありますかな。たとえばシェイクスピア――あれには幽霊がずいぶん出てきますが――シェイクスピアは『幽霊に椅子を譲る』なんてト書を入れてましたかな」
ご婦人はしばらく考えあぐんでいるふうだった。やがて手を打たんばかりに、「ええ、ええ、ありましてよ」と彼女は叫んだ。「『休め、休め、心かき乱されたる亡霊よ!』とハムレットにいわせていますもの」
「それで、それは安楽椅子のことですか」
「アメリカの揺り椅子かしら――」
「フェイフィールド乗換駅です、お嬢さま、エルヴェストン行きにお乗り換えでございます」車掌が車室の扉をさっと開いて案内した。それからまもなく、ぼくらは手荷物に取り囲まれてプラットホームに降りていた。
この乗換駅で待つ乗客のための設備は、ごく粗末なものだった――木の長椅子がぽつんとひとつあるきりで、それもどうやら三人掛けだった。これすらすでに一部は、野良着姿の高齢の老人に占領されていた。老人は肩をまるめて頭を垂れ、両手で杖の柄をにぎりしめ、待ちくたびれた様子のしわだらけの顔をそれにもたせかけていた。
「さあ、退《の》いてくれ!」駅長がみすぼらしい老人に乱暴にいった。「退いてくれ、高貴な方々に席をあけてさしあげるのだ。こちらでございます、お嬢さま」と彼は打って変わった調子でつけ加えた。「お嬢さまが席に着かれますと、列車はまもなくまいります」駅長がぺこぺこした態度をとるのは、荷物の山にそれと読める上書きがあったからにちがいない。それは持主が「レディー・ミュリエル・オーム、フェイフィールド乗換駅経由、エルヴェストン行き」であることを示していた。
ぼくは老人がゆっくりと立ちあがり、二、三歩たどたどしくプラットホームを歩くのを見守っていたが、そのときこんな詩句が口にのぼってきた。
[#ここから2字下げ]
麻布の寝椅子より身を起こす修道士
よろよろと立ちあがるこわばった手足
長き歳月の霜をおきたる
薄き髪とただよう顎鬚。
[#ここで字下げ終わり]
しかしご婦人はこの小さな出来事にほとんど気づかなかった。ふるえながら杖に寄りすがっている「追放されたる男」をちらりと見てから、彼女はぼくのほうにむきなおった。「これはアメリカの揺り椅子じゃありませんわね、どう見たって。でも、いっていいかしら」ぼくに席をあけようと、からだを少しずらせながら、「よろしいかしら、ハムレット流に『休め、休め――』」彼女は急に鈴の音のような笑い声をあげてやめてしまった。
「『心かき乱されたる亡霊よ!』」かわってぼくがせりふをむすんだ。「なるほど、これはまさしく汽車で旅する者のことをいっている。そしてここに実例が」といいかけたとき、ちっぽけな普通列車がホームにはいってきて、赤帽たちが忙しそうに車室の扉を開けてまわった――そのひとりがみすぼらしい老人を三等車に乗せてやり、もうひとりはへつらいながらご婦人とぼくを一等車に案内した。
(画像省略)
彼女は赤帽についていく前に立ちどまり、もうひとりの乗客の成り行きを見守った。「お年寄りなのにかわいそう」と彼女はいった。「ずいぶんお加減悪そう。あんなふうに追いたててしまって、いけないこと。ほんとうにお気の毒に――」このとき、この言葉はぼくにむけられたのではなくて、彼女が思わず考え事を口に出したのだとわかった。ぼくは二、三歩わきへ寄って、彼女を待ってからつづいて客車にはいり、そこで話の先をつづけた。「シェイクスピアは汽車旅をしたことがあるはずですね、かりに夢のなかでにしても。『心かき乱されたる亡霊よ』とは実に名文句じゃありませんか」
「『心かき乱されたる』というのは、きっと」と彼女はいった。「鉄道特有の人騒がせなパンフレットのことをいっているのですね。蒸気がほかに何ひとつしなかったとしても、少なくともイギリス文学のまったくの新種をひとつふやしましたわ」
「まったくそのとおり」とぼくは共鳴した。
「あらゆる医学書の真の源は――それにあらゆる料理の本の――」
「いえ、いえ」と彼女が楽しげに口をはさんだ。「あたしたちの読み物のことをいったんじゃありませんの。あたくしたちは変わりものですもの。そうじゃなくてパンフレット――ちょっぴりぞくぞくする空想物語《ロマンス》、十五ページで殺人があって、四十ページで結婚式――たしかにこれは蒸気のおかげじゃありませんこと?」
「すると電気の力で旅行することになれば――あなたのお説を進展させていただくと――パンフレットは一枚刷になって、殺人と結婚式が同じページに出てきますな」
「ダーウィン並みの進展ですこと!」とご婦人はたいそう熱を込めて叫んだ。「ただ、彼の学説をあべこべにしていますわ。鼠を象に進化させるのじゃなくって、象を鼠に進化させようとなさって!」しかしここでトンネルに突入したので、ぼくは後ろにもたれかかってしばし目をつむり、つい先刻の夢の出来事を思い起こそうとした。
「ぼくの見たのは――」ぼくは眠気まじりでつぶやいた。するとその文句はどうしても変化して、「おまえの見たのは――彼の見たのは――」となっていき、それから突然、歌になった。
[#ここから2字下げ]
やつの見たのは一頭の巨象
そやつは横笛吹いていた、
思ったものの、も一度見れば
なんとそやつは女房の手紙。
「やれやれわかった」やつがいう、
「これぞ人生の辛さかな」
[#ここで字下げ終わり]
こんな気違いじみた歌を歌うとは、なんと気違いじみた人間だ! 庭師のようだが――熊手をふりかざしている様子では、なるほど狂っている、いよいよ狂っている、ときどき狂ったように踊りだす――どうしようもなく狂っている、最後の個所は金切り声を張りあげた。
象の足をしているというのが、それまでのところ彼の特徴になっていた。しかし、あとは骨と皮だった。そして全身に逆立っているばらばらの藁《わら》の束は、彼にはもともと藁が詰め込まれていて、それがほぼそっくりそのままはみ出てきたことを思わせた。
シルヴィーとブルーノは一番目の歌が終わるまで、じっと待っていた。それからシルヴィーだけが進み出て(ブルーノは急にしりごみした)、そしておずおずと「あの、あたしシルヴィーです」と自己紹介した。
「それで、あっちは何じゃ」庭師がいった。
「何のこと?」まわりを見ながらシルヴィーがいった。「ああ、あれ、ブルーノ。弟なの」
「きのうも弟だったかね」と庭師がきいた。
(画像省略)
「もち、そうだったい!」と叫んだブルーノは、だんだんそばによってきていた。自分がそっちのけにされて話がつづけられるのが、気に入らなかったのだ。
「ほう、そうか」庭師はうめくようにいった。「ここでは実によくものが変わる。も一度見ると、間違いなく別物になっておる。だが、わしは義務を果たすぞ。ちゅうじつ[#「ちゅうじつ」に傍点]に五時には起きる――」
「ぼくだったら」とブルーノがいった。「朝早くから、虫実[#「虫実」に傍点]になるなんてしないな。実さいの虫になんかなりたくないもん」と彼はそっとシルヴィーにささやいた。
「でも、朝ぐずぐずするのはいけないわ、ブルーノ」とシルヴィーがいった。「よくって、虫をつかまえるのは早起き鳥よ」
「好きならいいさ」とブルーノが小さなあくびをしながらいった。「ぼく、虫食べるの好きじゃないや。ちっとも。ぼく、いつも早起き鳥がつかまえてくれるまでベッドにいるんだ」
「理屈をこねるような顔はしておらんがな」と庭師は声をあげた。
これにはブルーノが名答を返した。「理屈いうのに顔はいらないもん――口だけだもんね」
シルヴィーが気をきかせて話題を変えた。「まあ、こんなにたくさんお花を植えてくださったのね」と彼女はいった。「とてもすてきなお庭になったこと。ずっとここに住んでいたいくらい」
「冬の夜には――」と庭師がはじめた。
「あら、あたし何しにここへきたのか忘れていたわ」シルヴィーが口をはさんだ。「道に出していただけません? かわいそうなお年寄りの乞食が、いまいったばかりなの――とってもおなかすかしてるのよ――だからブルーノがお菓子をあげたいって」
「そりゃ、わしの首が飛びかねんぞ」庭師はぶつぶついい、ポケットから鍵をとり出して庭塀の扉を開けはじめた。
「首って飛ぶの?」ブルーノが無邪気にきいた。
だが庭師はにっこりしてみせただけだった。「内緒だよ」彼はいった。「いいね、すぐ戻っておいで!」と彼は、子供たちが道に出るとき後ろから声をかけた。ぼくがつづいて出るのとほとんど同時に、彼は扉を閉めてしまった。
ぼくらが道を急ぐと、ほどなく四分の一マイルばかり前方に老乞食の姿がみえた。すると子供たちは彼に追いつこうと、すぐさま駈けだした。軽やかに速やかに、彼らは地をすべるようにいったのだが、どうしてそんなにらくらくとぼくが彼らについていかれるのか、それはまったくわからなかった。だがほかのときほど、ぼくはこの未解決の問題にわずらわされはしなかった。まだまだ気を配るべきことがたくさんあった。
老いた乞食はよほど耳が遠かったにちがいない。ブルーノがしきりに叫ぶのにいっこうに無頓着で、彼は疲れたようにとぼとぼ歩きつづけ、子供たちが追い越してケーキを差し出すと、やっとそこで立ちどまった。かわいそうに幼な子はすっかり息を切らせ、「お菓子をあげる」とだけいった――つい先ほどの閣下夫人のように陰鬱な決心をしていったのではなく、「大なるものも小なるものもすべて」を愛する目で老人の顔をじっと見あげ、心やさしく子供らしいはにかみを見せていった。
老人はそれをつかみとると、飢えた野獣のようにがつがつとむさぼり、幼い恵みの主には一言の感謝の言葉もいわなかった――ただ「もっとくれ、もっとだ」とうなって、半ばおびえた子供たちをにらみつけるのだった。
「もうないの」シルヴィーが目に涙を浮かべていった。「あたしのは食べてしまったの。あんなふうに追いたててしまって、いけないこと。ほんとうにお気の毒に――」
ぼくはあとの文句を聞きそこねた。ひどく驚いた拍子に、ミュリエル・オーム嬢のことをまた思い出してしまったのだ。彼女はついいましがた、このシルヴィーの言葉そのままを口にした――そう、まさしくシルヴィーの声で、それにシルヴィーのやさしく訴えるような目をして!
「ついておいで」という声がつぎに聞こえ、老人がぼろぼろの服には似つかわしからぬ威厳をただよわせ、茂みのむこうで手をふっていた。茂みは道端にあったが、それがにわかに地に沈みはじめた。ほかのときなら、ぼくもわが目を疑うか、少なくとも多少の驚きを覚えたことだろう。ところがこの不思議な光景を目のあたりにして、つぎには何が起こるのかという強い好奇心に全身が吸い込まれるようだった。
茂みがすっぽりと沈んで見えなくなると、大理石の階段が現われ、それは下の暗闇へとつづいていた。老人が先に立ち、ぼくらはわくわくしてついていった。
階段ははじめとても暗くて、手をつないで案内人のあとを手探りで進む子供たちの姿がやっと見えるだけだった。しかし刻一刻と、なにやら不思議な輝きがして明るくなっていった。どこにもランプは点《とも》っていないので、その光るものは空中に浮かんでいるらしかった。そしてようやく平らな床にたどり着くと、ぼくらのいる部屋はまるで真昼のような明るさだった。
部屋は八面になっていて、角ごとに絹の織物が巻きついているほっそりした柱が立っていた。柱と柱の間の壁は六、七フィートの高さまで蔓草《つるくさ》にびっしりとおおわれ、そこから熟れた果物や色あざやかな花々が葉をおおい隠すほどたくさん垂れさがっていた。たまたまほかの場所にいたのなら、ぼくは果物と花とがいっしょに育っているのを不思議に思ったことだろう。ここでは、ぼくのいままで見たこともない果物や花々になにより驚いた。さらに上を見ると、どの壁にも色付きガラスの丸窓があった。そして一面に宝石をちりばめてあるらしいアーチ状の屋根が、全体をおおっていた。
これに劣らぬ驚きの念で、ぼくはあちこちとふりむいて、いったいどういうふうにしてはいり込んだものかと考えた。扉はひとつもないし、おまけに壁という壁は、美しい蔓草にこんもりとおおわれていたからだ。
「さあ、もう大丈夫だからね」と老人がいい、シルヴィーの肩に手をかけると、かがみこんでキスしようとした。シルヴィーはぎくりとした様子で、あわてて身を引いた。ところがつぎの瞬間、「まあ、お父さま!」と喜びの声をあげ、その腕のなかへ飛びこんでいった。
「お父さま! お父さま!」ブルーノも繰り返した。そして幸せな子供たちが抱きすくめられ接吻されている間、ぼくはただ目をこすりこすり、「すると、あのぼろ服はどこへ消え失せたのだろう」とつぶやくばかりだった。というのも、老人はいまや宝石や金色の刺繍に光り輝く王衣をまとい、頭には金の冠をつけているのだった。
[#改ページ]
第六章 魔法のロケット
「ここはどこ、お父さま」シルヴィーは老人の首に両腕をしっかりとからませ、ばら色の頬を愛らしく老人の頬にすりよせて小声でいった。
「エルフランドにきたんだ。フェアリーランドにある国のひとつだ」
「でも、エルフランドはアウトランドからずっと遠くのはずよ。なのに、ほんのちょっぴりしかきていないわ」
「王道をきたのだよ、シルヴィー。その道は王家の者だけが通ることができる。わしがエルフランドの王になってからは、おまえたちも王家の者なのでな――もうかれこれ一月《ひとつき》になるな。わしを新しい王にするという招待が確実に届くようにと、先方は大使をふたり送ってよこした。ひとりは王子だった。王子だから王道を通って、わしにしか見られんようにしてやってこれた。もうひとりは男爵だった。男爵だから民道をいかねばならん。まだ着いてもおるまい」
「じゃ、あたしたち、どのくらいきたのかしら」シルヴィーが尋ねた。
「ちょうど一千マイルじゃ。庭師があの扉を開けてくれたときから」
「一千マイルも!」ブルーノが繰り返した。「じゃ、ひとつ食べていい?」
「マイルを食べるって、いたずらっ子が」
「ちがう」ブルーノはいった。「ぼく、あそこの果物をひとつ食べてもいいってきいたんだよ」
「いいとも」父親はいった。「そうしたら快楽がいかなるものかわかるだろう――快楽、われらみな狂おしく捜し求め、憂いに沈みて味わう」
ブルーノは一目散に壁に駈けよると、バナナのような形なのに、いちごの色をした果物をひとつもぎとった。
彼は晴れやかな顔つきで食べはじめたが、その顔はしだいにくもって、食べおわるころにはまったくぽかんとなってしまった。
「ぜんぜん味がしないや」彼は訴えた。「おくちゅのなか、くちゅともしない! これ――あのむずかしい言葉なんだっけ、シルヴィー」
「幻核《げんかく》よ」シルヴィーはおもおもしく答えた。「あの実《み》は全部そんなふうなの、お父さま」
「おまえたちには[#「おまえたちには」に傍点]そうなのだよ。ふたりともエルフランドの人間ではないから――いまのところは。だがこのわし[#「わし」に傍点]にとってはあの実は本物なのじゃ」
ブルーノは怪訝な顔をした。「ちがうのを食べてみようっと」というと、彼は王の膝から飛びおりた。「きれいな縞のあるのがあるよ、まるで虹みたいだ」そして彼は走り去った。
一方、フェアリー国王とシルヴィーはなにやら語り合っていたが、小声だったのでぼくには聞きとれなかった。そこでぼくはブルーノのあとを追った。彼は味のするのを見つけようと空しい望みをいだいて、ほかの実をあれこれもぎ取っては食べていた。ぼくもいくつかもぎ取ろうとした――ところが空気をつかむようだったから、じきにその試みはあきらめて、ぼくはシルヴィーのところへ戻った。
「これをよくごらん、シルヴィー」老人がいっていた。「気に入ったかね」
「とってもきれい!」シルヴィーは喜んで声をあげた。「ブルーノ、きてごらん」そして彼女は、ブルーノが光を透かしてみえるように、ハート型のロケットを高々と上にあげた。明らかに一個の原石から加工されたもので、濃い青色をしていて、細い金の鎖がついていた。
「すっごくきれいだね」ブルーノはまじめになっていうと、そこに刻んである言葉を一字一字読みはじめた。「皆――シルヴィーを――愛す」彼はやっとのことで読みあげた。「もち、そうさ」と彼は大きな声でいって、彼女の首に抱きついた。「誰だってシルヴィーを愛すもの」
「だがいちばん愛しているのはわしらだ、そうじゃないか、ブルーノ」と年老いた王はロケットを手にとっていった。「さてシルヴィー、これをごらん」彼が掌にのせてみせたのは、青いのと同じ形で、同じように細い金の鎖のついた深紅のロケットだった。
「ずっとずっときれい!」シルヴィーは思わず両手を胸に押しあてて叫んだ。「みて、ブルーノ!」
(画像省略)
「これにも言葉があるよ」ブルーノはいった。「シルヴィーは――皆を――愛す」
「さあ違いがわかるかね」老人はいった。「違う色に違う言葉じゃ。ひとつお選び。どちらでも好きなほうをあげよう」
シルヴィーは考えぶかげにほほ笑みを浮かべて、両方の言葉を繰り返しつぶやいていたが、やがて心をきめた。「愛されるって、とてもすてき」彼女はいった。「でも人を愛するのはもっとすてきだわ。赤いほうをいただいていい、お父さま?」
老人は何もいわなかった。けれどもかがみこんで彼女の額に長いいつくしみのキスをしたとき、目に涙をいっぱいためているのが見てとれた。それから彼は鎖をはずして、どのようにして首にかけるのか、そして服の襟元にどのように隠すのかを教えた。「いつも身につけておくのだよ、いいね」彼はそっといった。「ほかの者に見せるものではない。扱いかたは覚えておくね」
「ええ、覚えておきます」とシルヴィーはいった。
「さあ、おまえたち、戻る時間じゃ。さもないとおまえたちのいないのがわかって、あの庭師に迷惑がかかろう」
いったいぼくらはどうやってまた戻るのか、という驚きの念がふたたび頭をもたげた――子供たちがいくところへはどこへでも、ぼくもいくのが当り前になっていたからだ――だが子供たちの心には疑いの影がちっともかすめはしないようだった。ふたりは老人に抱きついてキスをし、「さようなら、大好きなお父さま」と何度もささやいていた。するとそのとき、にわかに真夜中の暗闇が迫ってくる気配がし、その闇を通して、奇妙な狂ったような歌声が耳ざわりにひびいてきた――
[#ここから2字下げ]
やつの見たのはバッファロー
マントルピースの上にいた、
思ったものの、も一度見れば
やつの妹子《いもご》の亭主の姪。
「出ていかにゃ」とやつがいう、
「おいらはお巡り呼んでくる」
[#ここで字下げ終わり]
(画像省略)
「そいつがわしでして」ぼくらが道に立って待っていると男は半開きの扉からぼくらを見ていった。「それにあっしもそうしたかったくらいでした――大根が蓮根でないくらいに間違いないこってす――あの女が出ていかなかったのなら。ところがあっしはいつでも負目《おいめえ》には弱いときてる」
「負目って、どんな目?」とブルーノがいった。
「なに、甥・姪のことじゃ、ちろんな」と庭師は答えた。「はいりたきゃ、もうはいってよござんすよ」
そういいながら彼が扉をさっと開けると、ぼくらは外に出ていて、客車の薄暗がりのなかからエルヴェストン駅のまばゆく輝くプラットホームへ急に移ったので、少し目がくらみ、ぼうっとなった(少なくともぼくはそう感じた)。
立派なお仕着せを着た従僕が前に進みでて、うやうやしく帽子に手をやった。「馬車がきております、お嬢さま」と彼はいって、彼女のもっていた肩掛けや手荷物を受けとった。そしてミュリエル嬢はぼくと握手をし、愛想よくほほ笑みながら「おやすみなさい」と別れをつげて男のあとに従った。
荷物のおろされている手荷物車のところにおもむくのは、なにかしら空虚で寂しい気持がした。そして荷物をあとから送るように手配してから、ぼくは歩いてアーサーの宿にむかった。だが、旧友の心のこもったもてなしと、彼が通してくれた小さな居間の心地よい暖さと陽気な明るさに、ほどなくぼくの寂しい気分は消えうせた。
「ごらんのように狭いけれど、ぼくらふたりには充分です。さあ、この安楽椅子にかけて、もう一度顔を見せてください。なるほど、少しお疲れのようですね」そして彼は医師としての真剣な表情になった。「処方をいいましょう。まず新鮮な空気、充分量。社交の気晴らし、できるだけ多くのことをなす。宴、一日三回」
「しかし、ドクター」ぼくは異議をはさんだ。「一日三回の社交なんてありっこないさ」
「それしかご存知ないようですが」と若い医師は陽気に答えた。「午後三時、家でテニス。午後五時、家で茶会。午後八時、家で音楽会(エルヴェストンでは晩餐会はありません)。十時に馬車。いかがです?」
とても結構に思えると、ぼくは認めざるをえなかった。「それにぼくはご婦人の社会とも少しはつき合いがあってね」とぼくはいいそえた。「そのひとりと同じ客車に乗りあわせたのだよ」
「どんな人でした? たぶん誰だかわかると思いますが」
「名前はミュリエル・オーム嬢。どんなふうだったかというと――そうね、たいへん美人だと思うね。知っているのかい」
「ええ――よく知っています」生真面目な医師は少し顔を赤らめていった。「そう、おっしゃるとおり、美しい人です」
「ぼくはすっかり彼女のとりこになってしまってね」とぼくはいたずらっぽくつづけた。「さっきの話の――」
「そろそろ夕食にしましょう」女中《メイド》が盆をもってはいってきたので、アーサーはほっとしたように話をさえぎった。それからというもの、夜がすっかりふけるまで、彼はミュリエル嬢の話題に戻そうとするぼくの試みにまるで乗ってこようとしなかった。それからぼくらがすわったまま暖炉の火をみつめ、会話もいつしか滞りがちになったとき、アーサーはにわかに告白をはじめた。
「彼女のことを話すつもりはなかったんです」と(まるでこの世には「彼女」しか存在してないかのように、名前もいわずに)彼はいった。「彼女のことをもっとよく知ってもらって、あなたなりの意見をもっていただくまでは。ところが、どういうわけか不意を打たれてしまって。ほかの人にはひと言も漏らしていないんです。しかしあなたになら秘密を打ち明けられます。そう、あなたが冗談のおつもりでいわれたこと、それがぼくには本当なのです」
「まったくの冗談さ、安心したまえ」ぼくは真顔でいった。「ねえ、きみ、ぼくは彼女の三倍の年《とし》だよ。だがきみの選んだ人なら、ぼくは申し分ないと思う、つまり、きっと気立てがよくって、それに――」
「――それにやさしくて」とアーサーがつづけた。「純真で、献身的で、そして誠実で、そのうえ――」彼はあわてて口をつぐんだ。まるでそれほど神聖で大切な問題をこれ以上話すと、何をいってしまうかわからぬといわんばかりだった。沈黙がつづいた。そこでぼくは安楽椅子に背をもたせ、アーサーと愛するご婦人の、またふたりを待ちうけているすべての安らぎと幸福との、明るく美しい空想に心を満たしながらまどろんだ。
ぼくは、ふたりが自分たちの美しい庭園の、木々がおりなすアーチの下を、むつまじく名残りおしげに歩み、そして短い散歩から戻ったところを忠実な庭師が迎えている光景を心に描いた。
たいそうやさしい主人と奥さまのお帰りに、庭師が喜びに満ちあふれているのは、なるほど不自然ならざることだった――それにしてもなんとふたりは子供っぽかったことだろう。ぼくはシルヴィーとブルーノかと思ったほどだ――そして庭師がおよそでたらめな踊りと気違いじみた歌で、その喜びをあらわすとはなんとも不自然であった。
[#ここから2字下げ]
やつの見たのはガラガラ蛇
ちんぷんかんぷん問いかける、
思ったものの、も一度見れば
今度の週のど真中。
「惜しいことに」とやつがいう、
「そやつはしゃべってくれんわい」
[#ここで字下げ終わり]
――次総督と「奥方」がぼくのすぐわきに立って、手紙を開いて言い合いをしているのはいよいよもって不自然だった。その手紙は、二、三ヤード離れておとなしくひかえている教授が、いましがた次総督に手渡したものだった。
「あのふたりのガキさえいなかったら」庭師の歌を熱心に聞きいっているシルヴィーとブルーノを残忍な目つきで見やりながら、次総督がつぶやくのをぼくは耳にした。「厄介なことはあるまい」
「手紙のそこのところをもう一度読んでくださいな」奥方はいった。そして次総督は読みあげた――
「――でありますので、エルフランド国議会の満場一致の票決により推挙されたる貴殿が、つつがなく王位をご承諾されんことを、われわれは嘆願するものであります。なお貴殿のご子息――当方に入手せる報告によれば、賢く、聡明で、美しくあらせられる――ブルーノ殿を法定相続人として斟酌されますようご承認ねがう次第です」
「で、厄介なことって何ですの」奥方はいった。
「なに、わからんのか。これを持参した大使がまだこの家に待機しておるのだぞ。やつはシルヴィーとブルーノを見かけるにちがいない。それからアグガギを見て、そして『賢く、聡明で、美しくあらせられる』のくだりを思い出したら、むろん大使は――」
「どこかにアグガギよりいい子がいるとでもいうんですか!」奥方は憤慨して口をはさんだ。「もっと物分かりのいい子や、もっと可愛い子が」
次総督はそれにそっけなく応じた。「そう鵞鳥鵞鳥《ガチヨガチヨ》するな! わしらのただひとつの勝算は、あのふたりのガキを目にふれんようにすることだ。おまえがそれを首尾よくやりおおせたら、あとのことはわしに任せておけばよい。わしが大使にアグガギが利口だとか何とかの手本だと信じこませよう」
「むろん名前もブルーノと変えなければなりませんわね」奥方はいった。
次総督は顎をさすった。「ふん! いや」と彼は思案げに答えた。「その必要はあるまい。あれはまったくの馬鹿だからの、答えもようできまいて」
「馬鹿ですって、とんでもない!」奥方は声をあげた。「わたしと同じように利口だわ」
「まったくだ、おまえ」次総督はなだめるようにいった。「そうだ、ほんとうに」
奥方は静まった。「さあ、大使を迎えにまいりましょう」と彼女はいって、教授を手招いた。「どのお部屋でお待ちなの」彼女は尋ねた。
「図書室でございます、奥さま」
「して、あの男の名前は何といったかね」次総督がいった。
教授は手にしていた名刺に目をやった。「肥多二心《こえたふたごころ》男爵です」
「なんでそんなおかしな名乗りできたのかしら」奥方がいった。
「旅行中、うまく乗りかえられなかったのでしょう」教授はおだやかに答えた。「荷物がございましたから」
「あなたが会ってお相手をして」と奥方は次総督にいった。「わたしは子供たちのほうをひきうけるわ」
[#改ページ]
第七章 男爵特使
ぼくは次総督についていこうとしたが、ふと思いなおし、奥方がどんなふうに子供たちを遠ざけるのか見とどけようと、彼女のあとを追った。
彼女はシルヴィーの手をとりながら、もう一方の手でこのうえなく優しい母親のような仕草でブルーノの髪をかきなでていた。子供たちはふたりともめんくらい、半ばおびえているふうだった。
「ねえ、あなたたち」彼女がいっていた。「ちょっとした計画があるのよ。こんなにすてきな夕方でしょ、だから教授が森の奥までお散歩に連れていってくださるんですって。バスケットにおいしいものを詰めてもたせてあげる、川のほとりでピクニックができてよ」
ブルーノは躍りあがって手をたたいた。「それはすごいや!」と彼は叫んだ。「ねえ、シルヴィー?」
シルヴィーは驚きの色をいささか残していたものの、キスの拾好に唇を突き出した。「とってもうれしいわ」彼女は真顔でいった。
奥方は顔をそむけ、だだっ広い顔一面に湖のさざ波のごとくひろがった、露骨な勝ち誇った笑いを隠そうとした。「馬鹿な子たち!」彼女はそうつぶやくと、邸のほうへからだを運んでいった。ぼくもつづいてはいった。
「まったくそのとおりです、閣下」図書室にはいっていくと、男爵がしゃべっていた。「歩兵隊はすべてわたしの指揮下にありました」彼はふり返って奥方に然るべき挨拶をした。
「戦《いくさ》の英雄ね?」奥方がいった。太った小男は愛想笑いを浮かべた。「まあ、そんなところでして」ひかえめに目を伏せて、彼は答えた。「わたしの祖先はみな戦の天才として鳴らしたものです」
奥方はしとやかにほほ笑んだ。「そういうことってよく遺伝するものよ」と彼女は一言した。「おまんじゅう好きなのが遺伝するのと同じで」
男爵は少し気をそこねたふうだったが、次総督が巧みに話題を転じた。「すぐに食事がととのいますから」と彼はいった。「肥多《こえた》閣下、来賓室のほうへご案内させていただきましょうか」
「それは、それは」男爵はしきりにうなずいた。「ご馳走を待たせてはいけませんな」そして彼は次総督のあとからころげんばかりに部屋を出ていった。
(画像省略)
彼がすぐにまた舞い戻ってきたので、次総督は奥方にこれだけ説明するのがやっとだった。「まんじゅうが好きとかいうのはまずかったぞ。片目の半分で見たってわかりそうなものだ」彼はつけ加えた。「大の好物だってことは。なにが戦《いくさ》の天才だ、ほう!」
「ご馳走はまだで?」急ぎ足で部屋にはいってくるなり男爵は尋ねた。
「もうすぐです」次総督は答えた。「まあ、庭でも一巡りしましょうか。さきほどのお話ですが」三人で邸を出ると彼はつづけた。「歩兵隊の指揮をおとりになったときのあの大きな戦の――」
「そうそう」男爵がいった。「お話ししたように、敵の勢力はわれわれをはるかに上まわっておったのです。しかしわたしは部下を行進させ、まっただなかに――何だ、あれは?」戦《いくさ》の英雄は動揺した叫びをあげると、次総督の後ろに隠れた。妙な男が鋤《すき》をふりまわしながら、彼らの行手に乱暴に飛び出してきたのだ。
「なあに、庭師ですよ」次総督は勇気づけるような調子で答えた。「危険はありません、大丈夫。お聞きください、歌っておりますわい。やつの大の楽しみでしてな」
そしてまた、あの金切り声の調子っぱずれの歌がはじまった。
[#ここから2字下げ]
やつの見たのは銀行のだんな
バスから降りるとこだった、
思ったものの、も一度見れば
なんとそやつは河馬だった。
「こいつが寝泊り、大飯食らや」とやつがいう、
「わしらは何にもありつけぬ」
[#ここで字下げ終わり]
鋤を放り投げるや、彼はいきなり狂ったようにジグを踊りだし、指を鳴らしながら何度も何度も繰り返した。
[#ここから2字下げ]
「わしらは何にもありつけぬ」
「わしらは何にもありつけぬ」
[#ここで字下げ終わり]
またもや男爵はいささか機嫌をそこねた様子だったが、次総督があわてて、この歌は男爵への当てこすりではなく、実際、何の意味もないのだととりなした。「いまの歌は何のつもりでもなかったんだろう?」彼は庭師にむかっていった。歌い終えた庭師は一本足でバランスをとりながら、口をぽかんとあけたまま彼らを見つめた。
「何のつもりもねえです」庭師はいった。するとこのとき、折よくアグガギがやってきて会話を一転させた。
「息子をお引き合わせしましょう」と次総督はいい、それから先はささやき声で、「こんなにいい子で賢い子はふたりといません。息子の賢さの一端をお目にかけましょう。ほかの子が知らんことでも、何でも知っとります。それに弓、釣、絵、音楽、どれをとってもあれの腕前ときたら――いや、閣下ご自身の判断を仰ぎましょう。あそこに的《まと》がみえますな? あれを息子に矢で射させましょう。さあ、おまえ」と声を高めて彼はつづけた。「肥多《こえた》閣下がおまえの弓の腕前をごらんになりたいそうだ。殿下の弓矢をもってこい!」
アグガギはたいそうふくれっ面で弓矢を受け取ると、射る構えをした。矢が弓を離れたとたんに、次総督が思いきり男爵の爪先を踏んだので、彼は痛さに悲鳴をあげた。
「いやはやとんだ失礼を!」彼は叫んだ。「興奮のあまり足がもつれまして。どうです、見事に命中ですぞ」
男爵はびっくり仰天して目を凝らした。「弓の構えがああぎこちなくては、まさか命中するはずはないが」と彼はつぶやいた。だが、疑う余地はなかった。矢はまぎれもなく的の真中に突き刺さっていた。
「近くに湖があります」次総督はつづけた。「殿下の釣竿をもってこい!」そしてアグガギはしぶしぶ釣竿をもち、擬餌針を水中に放り投げ、糸を垂らした。
「腕に甲虫《かぶとむし》が!」と叫ぶなり奥方があわれな男爵の腕をつまみあげた。ザリガニ十匹がいちどにくらいついたとしても、これほどすさまじくはなかったろう。「こういうのは毒がありますのよ」と彼女は説明した。「でも、なんて残念なこと! 魚を釣りあげるところを見逃してしまわれて」
一匹の途方もなく大きな鱈《たら》が釣針をくわえ、ぴくりとも動かず土手に横たわっていた。
「たしか、鱈は」と男爵は口ごもった。「海水魚だとばかり思っておりましたが」
「この国ではちがうのです」次総督がいった。「はいりましょうか。道々、息子に何かきいてみてください――何なりとお好きなことを」そしてふくれっ面の少年は男爵と並んで歩くようにと、手荒く前へ押し出された。
「殿下、教えていただけますかな」男爵は用心ぶかくきりだした。「七掛ける九はいくつ?」
「左に曲って!」と次総督が叫び、道を教えようと、あたふた前に進みでた――あまりあわてたために、彼は不運な客と衝突し、客はどしんとうつぶせに倒れた。
「あら、ごめんなさい」奥方は叫んで、夫とともに彼を助け起こした。「お倒れになったとき、息子は六十三といったところでしたわ」
男爵は何もいわなかった。彼は埃《ほこり》まみれになって、心身ともに傷だらけの態《てい》らしかった。しかしながら邸にはいって、ていねいにブラシをかけてやると、状況はちょっぴりよくなったようだった。
やがて食事が出され、新たな料理が運ばれるごとに男爵の機嫌はなおっていくようだった。しかしアグガギの賢さをどうにか彼の口からいわせようとするあの手この手も、うまく効を奏さなかった。そのうちに興味の中心たる当の子供はすでに部屋を抜け出て、小さなバスケットを手に芝生をうろつきまわり、それに何匹も蛙を詰めこんでいるのが開け放たれた窓から見えた。
「あのように博物学がとても好きな子ですの」と甘い母親がいった。「さあ、お聞かせくださいまし、男爵。あの子をどうお思いになって?」
「ごく率直に申しあげて」慎重な男爵はいった。「もう少々証拠が欲しいですな。さきほどいっておられたご子息の腕前を――」
「音楽の?」次総督がいった。「それはもう、まさに神童でしてな。あれのピアノをお聞かせしましょう」と彼は窓際へいった。「アグ――息子のことです。ちょっとはいっておいで、音楽の先生もお連れするんだ。息子の楽譜をめくってもらわにゃならんので」彼は弁解がましくいいそえた。
アグガギはバスケットを蛙でいっぱいにしてしまったので、言いつけにさからいもせず、ほどなく険しい顔つきの小柄な男を従えて部屋にはいってきた。男は次総督に伺いをたてた。「曲は何にいたしましょう?」
「殿下がうっとり弾くソナタだ」次総督がいった。
「殿下はお弾きになれませ――」と音楽教師がいいかけたが、次総督にぴしゃりと止められた。
「静粛にしたまえ、先生! いって殿下の楽譜をめくってくれ。なあ、おまえ」(次総督夫人にむかって)「先生にどうするのか教えてあげたら? ところで男爵、わが邸の実に興味ぶかい地図をお目にかけたいのですがな――アウトランドやフェアリーランドなどのでして」
奥方が音楽教師に事をいいくるめて戻ってきたときには、地図はすでに吊り下げられていて、男爵は、こっちの場所を指さしてはあっちの地名を大声でがなりたてる次総督のやりくちに、すっかりこんぐらかっていた。
仲間に加わった奥方までがあちこち指さしては、そのたびにちがう地名をわめくので、ますますひどくなるばかりだった。ついにたまりかねた男爵は自分で場所を指さし、弱々しくこう尋ねた。「あの大きな黄色く塗られたのがフェアリーランドですかな」
「ええ、あれがフェアリーランドです」と次総督がいった。「におわしておいたほうがよいぞ」奥方にむかって彼はささやいた。「明日帰るように。鮫みたいに食いおって。わしがいっても、効き目はなかろう」
奥方はその趣旨をのみこみ、早速きわめて巧妙かつ微妙な謎をかけた。「フェアリーランドへの帰り道って、とっても近いのね。明日の朝お発ちになれば、ほんの一週間であちらへお着きになるわ」
男爵は信じられないという顔つきをした。「くるのにまる一月《ひとつき》かかったのですが」彼はいった。
「でもお帰りはずっと短くてすみますわ」
男爵が助けを求めるように次総督をみると、彼はすかさず相槌を打った。「一度こちらへお越しになられるのにかかった日数なら、五回お帰りになれます――明朝お発ちになればですが」
この間中、ソナタは部屋いっぱいに響きわたっていた。その曲がすばらしく上手に奏《かな》でられていることを、男爵は認めないわけにはいかなかった。彼は幼き演奏家をなんとか一目見ようとしたが、うまくいかなかった。もう少しでその姿がとらえられそうになるたびに、かならず次総督か奥方のどちらかが立ちふさがり、地図のどこか新たな場所を指さしながら、新たな地名をわめきたて、彼をつんぼにしてしまうのだった。
彼はついにあきらめて、あわただしくおやすみをいい、部屋を出ていった。すると、もてなし役の夫妻は勝ち誇った目配せをかわした。
「上首尾だ!」次総督が叫んだ。「うまくいったぞ。だが階段でどしんどしんやっとるあの音は、いったい何だ?」彼は扉を半開きにして外をうかがうと、うろたえた声でつづけた。「男爵の荷物が運びおろされとる!」
「それに馬車のごろごろいうあの音は何?」奥方が叫んだ。彼女は窓のカーテンごしにのぞき見た。「男爵の馬車がやってくるわ」彼女はうなり声をあげた。
このとき扉が開いた。肉づきのいい、怒り狂った顔がのぞいた。激情にかすれた声がとどろいた。「部屋じゅう蛙だらけですぞ――おいとまします!」それから扉がまた閉まった。
優雅なソナタはいまなお部屋いっぱいに響きわたっていた。けれどもその調べを奏《かな》でていたのはアーサーの絶妙な指さばきで、その不滅の「悲愴ソナタ」の優しい旋律はぼくの魂を心底からゆさぶった。そして疲れてはいたが幸せな旅人は、最後の響きがかき消えてから、やっと「おやすみ」といって、たいそう必要としていた眠りをとりにいった。
[#改ページ]
第八章 ライオンに乗って
翌日は、ぼくの新しい滞留先でくつろいだり、アーサーの案内で近くをぶらぶら歩いてエルヴェストンとそこの住民のおよその感じをつかまえてみようとしているうちに、かなり快適に時がすぎていった。五時になるとアーサーは――今度はもじもじすることもなく――いっしょに「館」へいこうとぼくを誘った。夏の間中そこに滞在しているエインズリー伯爵と近づきになり、令嬢のミュリエル嬢と再会してみたらどうかというのだ。
ぼくは第一印象で、その上品で威厳があり、しかもにこやかな年輩者にすっかり好感をもった。「思いがけないことで、とっても嬉しいですわ」といいながら、ぼくに挨拶したときの令嬢の顔に浮かんだ嬉々とした表情は、永年の失敗や落胆の繰り返しや、世の荒波にもまれたあとも、なおいくばくか残っていたぼく個人の虚栄心を、おおいに喜ばせてくれた。
しかし、アーサーに挨拶する彼女の様子に、たんなる友人としての好意以上の、もっと深い感情のあらわれがあるのにぼくは気づき、ほのぼのとした気分になった――もっともこれは察するところ、ほとんど毎日のことらしかった――伯爵とぼくが折々にしか加わらないふたりの会話には、ごく親しい友人同士の間にだけ見られる気楽さと、のびのびした雰囲気が感じとれた。そしてふたりが知り合ってからの期間は、もう峠を越して秋にさしかかっているこの夏の期間より久しくないことを知って、ぼくは「恋」、まさしく恋のみがこの現象を説明できるのだとうなずけた。
「さぞ都合がよいことでしょうね」とミュリエル嬢が笑いながらいった。わざわざ伯爵のところまでお茶を運ぶのはぼくがひきうけようといったからだ。「もしティーカップに重さというものがまったくなかったら。それならレディーといえども、ときには短い距離ならお茶を運ぶことを許されるかもしれませんわ」
「こんな状況がたやすく想像できます」とアーサーがいった。「個別にみればそのもの自体の通常の重さはあるけれども、おのおの相対的には重さがかならずしもない、という状況ですね」
「何か無茶な逆説じゃないかな」と伯爵がいった。「どんな具合になるのかね。まるきり見当がつかん」
「そうですね。ちょうどこの家が、このままの状態で、ある惑星から数兆マイル離れた空間に置かれたと仮定します。そしてそのまわりには障害物が何ひとつないとします。当然、この家はその惑星にむかって落下しますね」
伯爵はうなずいた。「当然だ――数百年かかるにしても」
「それで五時のお茶は、その間にもずっとございますのね?」ミュリエル嬢はいった。
「そうさ、ほかのことだってね」とアーサーはいった。「そこの住民はそれぞれの一生を送って成長し、死んでいく。けれども家は依然として落ちて、落ちて、落ちつづけていきます。さて、物体の相対的重力のことにうつります。何であれ、それが落下しようとしないかぎり、また落下が妨げられないかぎり、重さはありえませんね。皆さん、この点はお認めになりますね」
ぼくたちは皆、それを認めた。
「ではここで、かりにぼくがこの本を取って、腕を伸ばして支えるとすれば、当然、その重さを感じます。これは落下しようとしているのに、ぼくがそれを妨げているからです。そして、手を放せば、本は床に落ちる。けれども、もしもぼくたちが皆いっしょに落下しているのならば、本だけが早く落下しようとするはずはありませんね。というのは、もしぼくが手をはなせば、本は落下するしかない。そして、ぼくの手もまた落下していく――同じ速度で――だから本は手から離れようがない。離れるということは、その競争で手に先んずることになりますからね。それで本は落下する床に追いつけっこないのです」
「よくわかりますわ」とミュリエル嬢がいった。「でも、そんなこと考えると目がまわりそう。まさか、あたしたちに目をまわさせるおつもり?」
「もっとおもしろいことも考えられますな」とぼくが口をはさんだ。「その家が下から太紐でしっかりゆわえつけられていて、惑星にいる誰かが下へ引っぱっているとします。するとむろん、家だけがその自然の落下速度より早く落ちることになる。ところが家具は――われわれのからだといっしょに――もとの速度で落下する、したがって置き去りにされるでしょうね」
「実際、わしらは天井にぶちあたってしまうだろう」と伯爵がいった。「その結果、間違いなく脳震盪だな」
「それを避けるために」とアーサーがいった。「家具を床に固定して、ぼくらを家具にゆわえつけたらどうですか。それなら五時のお茶も安心して飲めますね」
「ひとつ難点がございましてよ」ミュリエル嬢がほがらかに口をはさんだ。「カップは手にもって落ちていけますけど、でも、中味のお茶はいったいどうなりますの」
「中味は忘れていたな」とアーサーが白状した。「間違いなく天井にぶつかってしまう――途中で飲みほしてもらわなくちゃ!」
「ということでナンセンスはひとまずこのくらいにして」と伯爵がいった。「こちらの紳士から、偉大なる世界、ロンドンのニュースをお聞かせ願いますかな」
これでぼくが、今度はごくありきたりの調子になった会話に誘いこまれた。しばらくしてアーサーが暇乞いの意を示した。そしてぼくらは夕方の涼気のなかを浜辺のほうへとぶらぶら歩き、さきほどの愉快な語らいを楽しんだように、海のささやきと遠くの漁師の歌声しか聞こえてこない静けさを満喫した。
ぼくらは岩かげに腰をおろした。そばの小さな水たまりには動物や植物、それに植虫類――たしかそんな名の生物がずいぶんたくさんいて、それを見るのに心を奪われてしまった。だから、アーサーがそろそろ帰ろうかといいだしたとき、しばらく眺めてゆっくりしたいから、ひとりでここに残っていたいといったほどだった。
漁師の歌声は、小舟が浜辺にはいってくるともっと近くになり、ずっとはっきりしてきた。そして足元の小世界がさらに強烈にぼくの好奇心をかきたてなかったなら、ぼくは魚の積み荷が陸上げされるのを見物しに降りていくところだった。
水たまりの端から端へ目まぐるしく動きまわっていた六匹の老いた蟹に、ぼくはとりわけ惹きつけられた。その目つきはうつろで、動きはむやみと乱暴で、それがいやおうなしに、シルヴィーとブルーノの味方をしたあの庭師のことを思い出させた。さらに、じっと見つめていると、彼の気違いじみたあの歌の結びの文句が聞こえてきた。
それから静まり返ったところへ、シルヴィーの可愛らしい声が飛びこんできた。「道に出していただけない?」
「なに、あの年寄り乞食をまた追いかける?」庭師は甲高い声をあげ、そして歌いはじめた。
[#ここから2字下げ]
やつの見たのはカンガルー
コーヒー挽《ひ》きをまわし挽く、
思ったものの、も一度見れば
何とそやつは野菜の丸薬。
「こいつを呑みこみゃ」やつがいう、
「わたしゃたちまち風邪をひく!」
[#ここで字下げ終わり]
「あたしたち、あの人に何も呑みこんでもらうんじゃないの」とシルヴィーが説明した。「あの人、おなかはすいてないのよ。でも、あの人に会いたいの。だから庭師さん、なんなら――」
「いいとも」庭師はすぐさま応じた。「わしゃ、いつでも軟[#「軟」に傍点]だ。けっしてお堅くはせん。そら!」そして彼は勢いよく扉を開き、ぼくらをほこりっぽい道にだしてくれた。
茂みにつづく道はじきに見つかった。茂みはとても不思議なふうに地面に沈んでいた。このときシルヴィーが隠し場所からあの魔法のロケットをとりだして、考えぶかげに裏表をかえしていたが、とうとう困りきった様子でブルーノに助けを求めた。「これ、どうするのだったかしら、ブルーノ。すっかりわからなくなってしまったわ」
「キスするの!」これは迷ったり困ったりするとき、きまってでてくるブルーノの妙案だった。シルヴィーはキスしてみたが、効果はあらわれなかった。
「逆にこすったら」とはブルーノのつぎなる提案だった。
「どっちが逆なのかしら」シルヴィーはしごくもっともなことを尋ねた。はっきりしているのは両方とも試すことだった。
左から右にこするのは何の効きめもなかった。
(画像省略)
右から左へ――「あ、やめて、シルヴィー!」ブルーノが突如、驚きの声をあげた。「いったいどうなるの?」
というのは、すぐそばの丘の何本もの木が、おごそかに行列をなしてゆっくりと上へ登っていくところだった。また一方、たったいままでぼくらの足元を流れていた小さな静かな小川が、まことに驚くべき具合に、盛りあがり、泡をふき、しゅうしゅういい、さらにはごぼごぼ音をたてはじめたのだ。
「ちがうふうにこすって!」ブルーノが叫んだ。「上と下をやって! 早く!」
これは名案だった。上と下が効いたのだ。そしてあちこちで精神異常のきざしを見せていた風景は、いつもの正常な冷静さに戻った――例外は一匹の黄褐色の小鼠で、これが小さなライオンのように尾を振りまわしながら、道をあちこち狂ったように走っていた。
「ついていきましょう」シルヴィーがいった。そしてこれも名案だった。鼠はすぐに規則正しいゆるやかな歩みになったので、ぼくらもらくらくと足並みをそろえることができたのだ。ただひとつ、ぼくの気がかりだった現象といえば、ぼくらがつけていったその小さな動物が、急速にどんどん大きくなってきたことだった。それは刻一刻と、本物のライオンに似てきた。
まもなく変身が完了した。堂々たる一頭のライオンが、ぼくらの追いつくのをじっと待っていた。子供たちは少しも恐れる様子もなく、シェトランド種の小馬をあつかうように、なでたりさすったりした。
「乗っけてよ!」とブルーノが叫んだ。するとつぎの瞬間、シルヴィーはそのおとなしいけだものの大きな背に彼を抱きあげてやると、自分もその後ろにぴったりとまたがった。ブルーノはその小さな両手いっぱいにたてがみをつかみ、この新種の馬を御するまねをした。
「はいはい、どうどう」というだけで口頭の命令としては充分だったようだ。ライオンはすぐさまゆるやかに走りだし、まもなくぼくらは森の奥深くにきていた。「ぼくら」というのも、このぼくが子供たちといっしょにいったのは確かなのだから――もっとも、小走りのライオンにぼくがどうしてついていけたものかは、どうにも説明できない。とにかく、逃げていくひとりの乞食男に偶然出会ったとき、確かにぼくは一行のひとりだったのだ。その男の足元にライオンはうやうやしく敬意を表わし、同時にシルヴィーとブルーノがその背を降りるや、父親の腕のなかに飛びこんでいった。
(画像省略)
「ますます悪くなる一方じゃ!」と老人は、子供たちが大使の訪問についての何やら混乱した報告を終えたとき、夢見るようにひとりごちた。子供たちは大使に会ったことがなかったので、その説明はむろんおおむね噂ばかりを寄せ集めたものだった。「ますます悪くなる一方じゃ! それが彼らの運命なのだ。わしにはわかるが、変えることはできん。さもしくずるがしこい男の身勝手――野心的で愚かな女の身勝手――性根悪くて可愛げのない子供の身勝手――すべてひとつの方向へ傾く、ますます悪いほうへ! だから、なあ、おまえたち、しばらくは堪えてもらわねばな。だが、最悪の事態になったら、わしのところにくるがよい。いまのところ、わしはなにもしてやれぬが――」
土を片手いっぱいに集め、それを空中に撒き散らすと、彼はゆっくりとそしておごそかに、何かまじないのような文句を唱えた。子供たちは威厳に打たれたように黙って見つめていた――
[#ここから2字下げ]
「たくらみ、野心に、悪意まで、
道理の夜に押しつぶせ、
弱きが力を奪うまで、
暗きが光に変わるまで、
悪しきが正義に戻るまで!」
[#ここで字下げ終わり]
土ぼこりが、まるで生き物のように空中に舞いあがり、つぎからつぎへと変わっていく奇妙な形をつくっていった。
「字になった! 言葉になった!」ブルーノは半ばおびえてシルヴィーにしがみつきながらささやいた。「でも、ぼく、わかることできないんだ[#「できないんだ」に傍点]。読んで、シルヴィー!」
「読んでみるわ」シルヴィーは落ち着いて答えた。「ちょっと待ってね――あの言葉が見えたら――」
「わたしゃたちまち風邪をひく!」調子っぱずれの声がぼくらの耳に甲高く響いた。
[#ここから2字下げ]
「こいつを呑みこみゃ」やつがいう、
「わたしゃたちまち風邪をひく!」
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第九章 道化師と熊
そう、ぼくらはふたたび庭にいた。そしてあのすさまじい調子っぱずれの声からのがれるために、大急ぎで家のなかへ駈け込むと、そこは図書室だった――アグガギが泣きじゃくり、教授が途方にくれた態でそばに立っていて、そして奥方が両腕で息子の首を抱きしめ、何度も何度も繰り返していた。「それで、いやなお勉強をさせられたの? よしよし、いい子ちゃんね」
「いったい何の騒ぎだ」次総督が部屋にはいってくるなり、荒々しく尋ねた。「おまけにこんなところに帽子掛けを置いたりして」そして彼は、部屋の真中に立っていたブルーノの頭に帽子をのせた。帽子は肩までさがってきて、まるで大きなろうそく消しが小さなろうそくにすっぽりかぶさったみたいになったが、ブルーノはにわかに一変した場面に驚いたあまり、それを払いのけようともしなかった。
教授はおだやかに、殿下はお勉強なさりたくないと仰せでございましたと説明した。
「すぐに勉強にとりかかれ、このチビめが!」次総督は雷声をとどろかせた。「これをくらえ!」大きな平手打ちを顔面にくらい、不運な教授が部屋の向う側までよろめいた。
「ひっ、げっ、あたたた!」とどもりながら、あわれな年寄りは気も失わんばかりで奥方の足元にくずれおちた。
「ひげを当るんですか? いいですとも、やりましょう!」そう答えた奥方は彼を椅子の上にひきずりあげ、その首に椅子の背のカバーを巻きつけた。「かみそりはどこ?」
一方、次総督はアグガギをつかまえ、手にした傘で彼を打ちすえていた。「床のこのゆるんだ釘を放っておいたのは誰だ!」と彼はどなった。「打ちこめ、わかったか! 打ちこめ」一撃、また一撃が、もがくアグガギにおそいかかるものだから、彼は床にはいつくばって泣きわめいた。
それからその父親は進行中の「ひげそり」の場に顔をむけて、いきなり大声で笑った。「こりゃ、すまん。こらえられん!」笑いがおさまると彼はいった。「たいしたとんまだ、おまえは! キスしておくれ」
そして彼が恐れおののく教授の首に抱きついたので、教授はけたたましい悲鳴をあげた。だが彼が脅迫めいたキスをされたかどうか、ぼくは見ないでしまった。というのは、このときすでにろうそく消しから抜け出していたブルーノが猛然と部屋を飛び出し、シルヴィーもそのあとを追っていったからだ。そしてぼくも、こんな狂った連中のなかに取り残されてはたまらないと思って、急いであとを追った。
「お父さまのところにいかなくちゃ!」庭をふたりで走りながら、シルヴィーが息を切らしていった。「きっと、これが最悪の事態なんだわ。庭師に頼んでもう一度出してもらうの」
「でもずっと歩いてなんかいけないよ」ブルーノは泣き声でいった。「四頭立て馬車があったらいいのに、叔父さんみたいに!」
(画像省略)
すると、甲高い気違いじみた調子で、あの聞きなれた声が鳴りひびいた。
[#ここから2字下げ]
やつの見たのは四頭立て馬車
寝床のわきで待っていた、
思ったものの、も一度見れば
何とそやつは首なし熊だ。
「あわれ、おろかよ」やつがいう、
「餌もらおうと待っておる!」
[#ここで字下げ終わり]
「いや、二度は出してあげられん」子供たちが口をきかないうちに、庭師がいった。「この前出してあげたもんで、次総督閣下に叱られましたぞ。だからあっちへいってくだされ」そして子供たちに背をむけると、彼は砂利道の真中を狂ったように掘りはじめ、何度も繰り返し歌った。
[#ここから2字下げ]
「あわれ、おろかよ」やつがいう、
「餌もらおうと待っておる!」
[#ここで字下げ終わり]
それでも歌いはじめたときの甲高い金切り声よりは、ずっと歌らしい調子になっていた。
その歌声は刻一刻、朗々と豊かになってきた。リフレインにはほかの男たちの声も加わった。そしてまもなく、小舟が岸に触れたらしいどさっという鈍い音と、男たちがそれを引きずりあげるときの小石のきしむ音が聞こえてきた。ぼくは元気を出して、小舟を引き上げる彼らに手をかしたが、すぐには立ち去らないで、骨折って得られたおびただしい種類の「深海の宝物」が陸上げされるのを見守っていた。
やがて家にたどり着いたときには、疲れと眠気がでてきて、ふたたび安楽椅子に身を沈めてほっとした。一方アーサーは、医者として、何も口にしていないぼくをそのまま眠らせるわけにはいかないと、親切にも菓子とワインをとりに戸棚へと歩いていった。
それにしても、あの戸棚のきしんだことといったら! それを幾度も開《あ》け閉《た》てし、その前を落ち着きなく歩きまわり、悲劇の女王さながらひとりごとをつぶやいているのは、アーサーであるはずがない!
そう、それは女の声だった。それにその姿も――戸棚の扉に半分隠れているが――大柄で、ゆるやかな衣装をまとった女の姿だった。家の女主人だろうか。扉が開き、見知らぬ男が部屋にはいってきた。
「あのとんまは何をしてるんだ?」男は戸口で、あっけにとられて足をとめ、ひとりごちた。
こんなぶしつけな呼び方をされたその婦人は、彼の妻だった。彼女は戸棚をひとつ開け放し、彼に背をむけて棚板の上の一枚の茶色の紙をなでつけながら、ひとりつぶやいていた。「うまい、うまい。上首尾ね、うまくいったわ!」
愛する夫は爪先立ちで彼女の後ろに忍び寄り、ぽんとその頭をたたいた。「ぐう!」彼はふざけて彼女の耳元で叫んだ。「わしが『ぐう』の音も出せない男だなんてもういうまいな」
奥方は両手をもみ絞った。「しまった、見つかった」と彼女はうめいた。「でも、おや――味方だわ。漏らさないで、あなた。機が熟すのを待つのよ」
「漏らすなって、何をだ?」夫は茶色の紙をひっぱり出しながら、ききとがめた。「何を隠しているんだ、おまえ。わしに見せなさい」
奥方は目を伏せて、蚊の鳴くような声で話しだした。「からかっちゃいやよ、ベンジャミン」彼女は嘆願した。「これは――これは――わからない? 短剣なの!」
「で、何に使うんだね」と閣下は鼻であしらった。「民衆には彼が死んだと思わせておけばよい。殺すまでもないのだ。それにブリキではないか!」彼はどなりながら、あなどるように親指に刃《やいば》を巻いてみせた。「ところで奥方、説明してくれないかね。まず、なぜわしをベンジャミンと呼ぶ?」
「それは細工に欠かせないのよ、あなた。ぜひとも偽名を名のらなくちゃ――」
「ああ、偽名かね。ほほう。さてつぎだ、この短剣はなんで手に入れた? さあ、逃げ口上はいかんぞ。ごまかそうたって、むりだ」
「わたし、これ――これ――これを――」と口ごもりながら、みすかされた陰謀者は、鏡の前で練習していた暗殺者の表情を浮かべようと懸命になった。「これを――」
「なんで手に入れた、奥方!」
「実は、十八ペンスで手に入れたのよ、あなた! ほんとにそれで手に入れたの、誓っても――」
「誓うとか名誉とかいわんでもいい!」片一方の陰謀者がうなり声をあげた。「いいか、その金の半分にもならん、まるっきり」
「わたしの誕生日に」奥方は猫なで声でしめくくった。「短剣が要るでしょ。それは欠かせない――」
「細工の話はやめろ!」短剣を戸棚のなかに放りこみ、夫が荒々しくさえぎった。「細工をやりとげる仕方となると、おまえはまるで小娘も同然だ。いいか、まず最初は変装することだ。さあ、これを見ろ!」
そしてむりからぬ得意顔で、彼は鈴のついた帽子をかぶり、ついで道化師の衣装をすっかり身につけると、彼女に片目をつぶって見せ、頬に舌をつき出した。「さまになるだろ、これで?」彼は尋ねた。
奥方の目はすっかり陰謀者の熱をおびて輝いた。「まさにそのものよ!」彼女は手を打って叫んだ。「あなたって、申し分ない道化だわ!」
道化はあいまいな笑いを浮かべた。そうあからさまにいわれると、ほめられたのやらどうなのやらこんぐらかってしまった。「お道化《どけ》てるってことだろ? そのつもりだったのだが。ところで、おまえの変装は何だと思うかね?」そこで彼は、有頂天の奥方が見守るなかで包みをひろげはじめた。
「まあ、きれいだこと!」ようやく衣装がとりだされると、彼女は声をあげた。「なんてすばらしい変装! エスキモーの農婦ね!」
「エスキモーの農婦だって、まさか!」相手はうなり声をあげた。「さあ、着てごらん。鏡にうつして見なさい。そら、熊だ、おまえの目は節穴かね?」彼は突然口をつぐんだ。荒々しい声が部屋中にひびいたからだ。
[#ここから2字下げ]
思ったものの、も一度見れば
何とそやつは首なし熊だ。
[#ここで字下げ終わり]
なんのことはない、それは庭師で、開け放した窓の下で歌っているのだった。次総督は話の先をつづける前に、そっと窓に忍び寄ると、音をたてずに閉めた。「そう、おまえ、熊だ。だが首なしでは困る。おまえが熊で、わしが熊使いだ。わしらのことを見破るやつがいたら、たいした眼力の持ち主だ、それならやむをえん」
「わたし、歩き方を少し練習しなくちゃ」熊の口の奥から目をのぞかせて奥方はいった。「はじめは人間ぽくなってもしかたないでしょ。それであなた、もちろん『おいで、おくま!』っておっしゃってね」
「ああ、いいとも」と答えた熊使いは、熊の首輪にぶらさがっている鎖を片手でつかみ、一方の手で小さな笞をならした。「さあ、踊るような恰好をして部屋をひとまわりしてごらん。うまい、おまえ、うまいぞ。おいで、おくま! おいで、こらっ!」
最後の言葉は、ちょうど部屋にはいってきたアグガギにむけて発せられた。彼は両手をひろげ、目も口もぱちくり開いて、愚かな驚愕の標本そのものになって立ちすくんでいた。「ああ、ああ!」と彼はあえぐのがやっとだった。
熊使いは熊の首輪を調節しているようにみせかけ、それを好機にアグガギに聞かれずに耳うちした。「しまった、わしの失策だ! 扉に鍵をかけるのを忘れておった。あれに勘づかれたら計画は台無しだ。もうちょいと、そのままつづけろ。獰猛《どうもう》にな!」それから力いっぱい後ろに引っぱるふうにみせながら、彼はおびえている男の子にむかって熊をけしかけた。奥方は、あっぱれな冷静さで、自分では確かに獰猛なうなり声を発しているつもりでつづけた。もっともそれは猫のごろごろいう声に近かった。アグガギは大あわてで後ずさりに部屋を出ていったので、靴ふきマットにけつまずき、そして勢いよくころぶ音が外で聞こえた――彼を溺愛する母親でさえ、このときの興奮状態では見すごしてしまった出来事だった。
次総督は扉を閉め、かんぬきをかけた。「変装をとけ!」と彼は息をはずませた。「一刻の猶予もならん。あれは教授を連れてくるにきまっとる、やつまでだますことはできんぞ!」それからまたたく間に、変装用衣装が戸棚のなかにしまいこまれ、扉のかんぬきがはずされて、ふたりの陰謀者たちはむつまじげに寄りそって長椅子におさまり、次総督がテーブルから急いでわしづかみにした本を種に熱心に議論をはじめた。それはアウトランドの首都人名住所録だった。
扉がそろりそろりと用心ぶかく開けられ、教授がなかをのぞきこみ、アグガギの間抜けな顔がその後ろにちらりとみえた。
「これはみごとに並んでおるな」と次総督が話に熱中していた。「どうだね、おまえ、ウエスト街に曲るまで、グリーン街には家が十五軒ある」
「十五軒も! まさか!」と奥方は答えた。「十四軒だと思っていたわ」ふたりはこの興味ぶかい問題にたいそうご執心だったので、アグガギの手をひいた教授がすぐ目の前にやってくるまで、顔をあげもしなかった。
ふたりが近寄ってきたのに先に気づいたのは奥方だった。「おや、教授のお越しね」彼女はできるだけ物柔らかな調子で口を開いた。「それにわたしの大切な坊やも。お勉強は終わったの?」
「妙なことが起こりました!」教授はふるえ声できりだした。「得意肥満殿下は」(これはたくさんあるアグガギの肩書きのひとつだった)「たったいま、まさしくこちらのお部屋で、踊る熊と宮廷道化師をごらんになったと申されます」
次総督夫妻はつとめてほがらかに首をふった。
「この部屋ではないはずよ、坊や!」甘い母親はいった。「わたしたちはここにかれこれ一時間以上も坐っていたのよ、こうして――」とここで彼女は膝の上にのっている本を指し、「――この――首都人名住所録を読みながら」
「脈をみせてごらん、ぼうず!」気づかいをみせた父親がいった。「さあ、舌を出して。ははん、やはりそうだ。熱っぽいわい、教授、それで悪い夢を見たようだ。すぐに寝かせて熱さましをやってくれんか」
「夢なんかくそも見てねえぞ!」得意肥満殿下は教授が連れていこうとすると抗議した。
「言葉づかいが悪いですな、先生」父親はややきつい口調でいった。「そういうちょいとしたことをよろしく頼みますよ、教授、熱がさがりしだい。ああ、ついでながら、教授!」(教授はすぐれた生徒を扉口に待たせて、おとなしく戻ってきた。)「噂が流れておるんだが、つまり人民が選挙をしたいと――実は――おわかりだろう、つまりその――」
「まさか別の教授を!」あわれな年寄りはおののき声をあげた。
「いや、とんでもない!」次総督は強くいった。「ただ、皇帝をひとりな」
「皇帝を!」仰天した教授は叫び、驚きの衝撃で頭がこなごなにくだけると思ってか、両手で頭をかかえこんだ。「総督が何と――」
「あら、総督こそ、新しい皇帝にきっとおなりになるのよ」と奥方がとりなした。「どこにそれ以上の人物があって? 万が一――」彼女は夫をちらりと見やった。
「さよう、どこにも!」教授はその暗示にまるで気づかず、力強く答えた。
次総督が話の本筋に戻った。「わしがいまの件にふれたのは、教授、選挙の際、選挙委員長の役を引き受けてもらいたいと思ってな。そうすれば箔《はく》がつこうし――こそこそやっとるなどと疑惑ももたれまい――」
「お引き受けいたしかねます、閣下」年寄りは口ごもった。「総督が何と――」
「なるほど、なるほど」次総督が口をはさんだ。「宮廷教授としてのきみの立場がまずくなる。もっともだ。さて、さて! では選挙はきみの圏外で行なうとしよう」
「そのほうがよろしいでしょう、わたくしの権内[#「権内」に傍点]で行なわれますより!」教授は何をいっているのかわかっていないように、うろたえた様子でつぶやいた。「寝床、と閣下はおっしゃられましたな、それに熱さましと」そして彼は仏頂面のアグガギが待っているほうへ、夢見るような足取りで戻っていった。
ぼくはふたりにつづいて部屋を出て廊下を進んでいったが、その間中ずっと、教授はおぼつかない記憶力を助けるつもりか、「ネ、ネ、ネ、寝床、熱さまし、念入り言葉づかい」とつぶやいていた。角を曲ったとき、いきなりシルヴィーとブルーノに出くわしたので、びっくりした教授はでぶでぶ生徒の手を放してしまった。生徒はたちまち一目散に逃げ出した。
[#改ページ]
第十章 別乃《べつの》教授
「捜していたんです」たいそうほっとした調子でシルヴィーが叫んだ。「ぜひお願いをきいて、とっても大切なこと!」
「何ごとかね」アグガギに対するのとは打って変わって、顔をほころばせた教授は尋ねた。
「あたしたちのかわりに、庭師にお話ししていただきたいの」とシルヴィーはいって、ブルーノといっしょに老人の手をとると広間へ連れてはいった。
「すごく意地悪なんだ」とブルーノが悲しげにつけ加えた。「お父さまがもういないから、みんな、しゅごく意地悪するの。ライオンのほうがずっといいや」
「だが説明してくれぬことには」と興味をそそられた教授はいった。「どちらがライオンで、どちらが庭師なのか。そういうふたつの動物をいっしょくたにせんのが肝心なのじゃ。おまけにこの場合はそうなりやすい――両方とも口があるから――」
「先生はいつもふたつの動物をいっちょくたにするの?」
「ちょくちょくな」教授は率直に認めた。「そう、たとえば、兎小屋と大時計があるじゃろ」と教授は指さした。「あのふたつには少々とまどう――両方とも扉があるから。で、つい昨日も――考えられるかね――時計にレタスをやり、兎を巻こうとした」
「巻いたら、兎は鳴った?」ブルーノがいった。
教授は頭上で両手を組み、うなった。「鳴ったかって? なったらしいの。なんと、いなくなった[#「なった」に傍点]のだよ。しかし、どこへいってしまったか――それがわからん。手はつくしたのだが――大きな辞典の『兎』の項をぜんぶ読んだ――おはいり!」
「仕立屋でございます、先生。勘定書をもってまいりました」扉の外でおとなしい声がした。
「ああ、なに、あの男の用件などすぐ片づけるから」と教授は子供たちにいった。「ちょっと待っていてくれぬかな。今年はいくらかね、きみ」そういっているうちに、仕立屋がはいってきた。
「はい、前々から毎年倍になってきております」仕立屋はやや無愛想に返事をした。「そこで、そろそろお支払いいただきたいと存じます。二千ポンドです、はい」
「ほう、そんなものかね」教授は無頓着にいって、少なくともその程度の額はいつももち歩いているといわんばかりに、ポケットを探った。「だがどうかね、もう一年待って、四千ポンドにしては。ぐんと金持ちになれるじゃないかね。なんなら、王になれんともかぎらんぞ」
「さあ、どんなものか、王になる気はありませんから」男は考えこんでいった。「ですがずいぶんべらぼうな金額にはなりそうですね。では、待つことにいたし――」
「そうこなくては!」教授がいった。「きみは物わかりがよろしい。それでは、ごきげんよう」
「あの四千ポンド、払わなければならないのでしょう」集金人が立ち去って扉が閉まると、シルヴィーがきいた。
「とんでもない」教授は力をこめて答えた。「死ぬまであの男は倍にふやしつづけるじゃろうて。一年余計に待って金を倍にするのは、いつだって得だからね。さて、どうしようというのかね、きみたち。別乃教授のところへ連れていってあげようか。訪ねていくには頃合だが」と彼は時計に目をやりながらひとりごちた。「あの男はたいてい、ちょいとひと息つく――十四分半ばかり――だいたいいまごろ」
ブルーノは教授の向う側に立っているシルヴィーのところへ急いでまわっていくと、さっと彼女と手をつないだ。「いってみたいけど」と少年は心を決めかねるようにいった。「ただ、みんないっしょがいいや。用心するのがいちばんでしょ」
「おや、シルヴィーみたいな話しぶりだ」と教授が叫んだ。
「そうだね」ブルーノはずいぶん控え目な返事をした。「ぼくはシルヴィーじゃないってこと、すっかり忘れててちゃった。あの人がちょぴっとこわいみたいだったんだもん」
教授は陽気に笑った。「なあに、とてもおとなしい人だよ」と彼はいった。「けっして噛みつきなどしない。ただ、少し――ほんの少し夢多いがね」彼はブルーノのもう一方の手をとると、子供たちを連れて長い廊下をいった。それはぼくが前に気がつかなかった廊下だった――こんなことはべつに驚くことでもなかった。その不思議な宮殿で、ぼくはしょっちゅう新しい部屋や廊下に出くわして、二度と同じところにいきあたるためしはなかった。
廊下のはずれにさしかかると、教授は立ちどまった。「この部屋じゃ」と彼はいい、頑丈な壁を指さした。
「そんなの、通り抜けられないよ!」とブルーノが叫んだ。
シルヴィーは壁がどこかで開かないかと丹念に調べ終わるまで、何もいわないでいた。それから、彼女は楽しそうに笑った。「からかってらっしゃるのね、先生ったら」と彼女はいった。「ここには扉がありませんもの」
「部屋にはいる扉はない」と教授はいった。「よじ登って、窓からはいるのだよ」
そこでぼくらは庭へいって、まもなく別乃教授の部屋の窓を見つけた。それは一階の窓で、おあつらえむきに開いたままだった。教授はまず子供たちふたりを抱きあげてなかへいれ、それから彼とぼくがつづいてはいりこんだ。
別乃教授はテーブルにむかって腰をおろし、大きな本を開いてその上にうつぶしていた。彼はその本を抱きかかえたまま、高いびきをかいていた。「いつもああして本を読むのじゃ」と教授がいった。「本がとくにおもしろいとなると。そんなときはなかなか気づいてもらえんこともあってな」
いまがその気づいてもらえないときのようだった。教授は一、二度彼を起こし、激しくゆすぶったけれども、手を放すやいなや、かならず本に戻ってしまい、ぐうぐういびきをかいて、その本がこの上なくおもしろいことを示すのだった。
「なんとも夢多い男だ」教授は声をあげた。「かくべつおもしろいところにさしかかったにちがいない」そして彼はずっと「ほい! ほい!」と叫びながら、別乃教授の背をめったやたらと突ついた。「こんな夢多いなんて、まったく驚きじゃろ?」と彼はブルーノにいった。
「いつもあんなに眠いんなら」とブルーノがいった。「ちろん、夢多いんだね」
「はて、どうしたらよいものか」と教授はいった。「まさしく本に没頭[#「没頭」に傍点]しておる」
「本を閉めたら?」ブルーノが案を出した。
「なるほど」と喜んだ教授が叫んだ。「それならうまくゆくわい」そして彼が素早く本を閉じたので、本のあいだに別乃教授の鼻がはさまって、ぐいとしめつけた。
別乃教授はひょいと立ちあがると、本を部屋のすみへもっていき、書棚のもとの場所へ戻した。「十八時間と四十五分読みふけっておった」と彼はいった。「さて、十四分半休むとしよう。講義の支度はととのったのかね」
「ええ、ほとんど」教授はつつましく答えた。「ひとつふたつ、ご意見をうかがいたいのです――少しばかり面倒があるようなので――」
「それに晩餐会がどうの、とか」
「そう、そうでした。当然、晩餐会が最初になります。みんな腹ぺこでは、理論科学を楽しむどころではありませんからな。そのあと、仮装舞踏会です。まあ、余興がどっさりありますな」
(画像省略)
「舞踏会はどのあたりになるのかね」と別乃教授がいった。
「晩餐会のはじめのほうがよかろうと思います――それでみんな、打ちとけましょうし」
「ふむ、結構な順序だ。まず顔合わせ、つぎに食べ合わせ、つぎに衣装合わせ――なにせ、きみの講義ならまちがいなく意匠に富んでおろうから」と別乃教授はいったが、この間中ずっとぼくらに背をむけ、本を一冊ずつ取り出しては逆《さか》さにすることに余念がなかった。黒板を乗せた台がかたわらにあって、一冊ひっくり返すごとに、彼はチョークで黒板に印《しるし》をつけた。
「それから『豚の尾話《おはなし》』につきまして――ご好意をもって、やってくださるということでしたが――」教授は考え考え、顎《あご》をさすりながらつづけた。「晩餐会の尾っぽにするのがよいと思います。それなら一同落ち着いてきけましょう」
「あれを歌おうかね」悦にいってほほ笑み、別乃教授が尋ねた。
「できましたら」教授は慎重に返答した。
「どれ、ためしてみよう」ピアノにむかって腰をおろしながら、別乃教授がいった。「まあいちおう、変イではじまるとしようかね」そして彼はその音をたたいた。「ラ、ラ、ラ! これで一オクターブと狂っていない」彼はもう一度その音をたたき、かたわらのブルーノに話しかけた。「わしはこんなふうに歌ったかね、坊や?」
「ちがったよ」ブルーノはたいそうきっぱり答えた。「もっとあひるみたいだった」
「ひとつの音だと、そんなふうになりやすい」と別乃教授はため息まじりにいった。「一節全部をやってみよう。
[#ここから2字下げ]
豚が一匹ぽつねんと
こわれたポンプのかたわらで
夜昼とわずうめき声
石をも動かすその姿
蹄《ひづめ》をよじって、うめき声
ぴょんと跳ぶことできぬゆえ。
[#ここで字下げ終わり]
曲になっておるだろう、教授?」終わると彼はきいた。
教授はちょっと考えこんだ。「はあ」ようやく彼はいった。「ほかと同じ音もありますし、違うのもありますが――曲とはいいがたいようで」
「ちょいとひとりでやってみよう」と別乃教授はいった。そして彼はあちこちと鍵盤を打っては、怒った青蠅みたいに、ひとりで歌いだした。
「このかたの歌いぶりはどうだね」教授はそっと子供たちに尋ねた。
「とてもうっとり[#「うっとり」に傍点]とはいえないわ」シルヴィーがためらいがちにいった。
「とっても極端にがっくり[#「がっくり」に傍点]だ」ブルーノがためらいなしにいった。
「すべて極端はよくない」教授はたいへん真面目にいった。「たとえば、節酒は中庸にしておくなら、実に結構。だがそれも極端になると、もろもろ差障りがでてくる」
「もろもろ差障りとは何だろう」という疑問がぼくの頭に浮かんだ――すると、いつものとおり、ブルーノがぼくにかわって尋ねた。
「物差触《ものさしさわ》りって、何なの?」
「ふむ、ひとつにはこうじゃ」教授がいった。「酒に酔っているときは(これはひとつの極端じゃがね)、ひとつのものもふたつに見える。ところが、極端に酒を飲まないと(これはもうひとつの極端だ)、ふたつのものをひとつに見てしまう。いずれにしても不都合に変わりはない」
「『ふちゅごう』って、どんなこと?」ブルーノはシルヴィーにささやいた。
「『好都合』と『不都合』の違いのいちばんよくわかる例がある」とその質問を耳にはさんだ別乃教授がいった。「そのふたつの言葉のはいった詩を考えてみたまえ――こんな――」
狼狽した様子で、教授が両手で耳をふさいだ。「この男に詩をはじめさせたが最後」と彼はシルヴィーにいった。「二度とやめようとせん。絶対にやめん!」
「前も、詩をはじめて二度とやめなかったの」彼女が尋ねた。
「三遍じゃ」教授がいった。
ブルーノは爪先立って、唇をシルヴィーの耳元へもっていった。「三篇の詩がどうしたの」彼は耳打ちした。「いまから全部いうところ?」
「しいっ!」とシルヴィーはいった。「別乃教授がお話しなさるのよ」
「ごく手早くやりましょう」別乃教授が伏目がちに、物憂い声でつぶやいた。これは、ほほ笑みを消すのを忘れていたその表情と、奇妙な対照をなした。(「あれがほほ笑みなんていえなくてよ」あとになってシルヴィーがいった。「あのかたのお口は、ああいう形にできていたみたい」)
「では、やってもらいましょう」と教授がいった。「しようがないものはしようがない」
「覚えておきなさいね」シルヴィーがブルーノに小声でいった。「怪我をしたときのとってもいい規則よ」
「それに、ぼくが騒ぐときにもとてもいい規則だね!」おませな少年がいった。「だからお姉ちゃんも、覚えておいて」
「それ、どういうこと」とシルヴィーはいってしかめ面をしようとしたが、これは彼女の上手にできることではなかった。
「しょっちゅう、いつもさ」とブルーノがいった。「お姉ちゃん、ぼくにいうでしょ。『もっと静かにしようがあるでしょ、ブルーノ』って。だから、ぼくは『しようがない』っていうんだ。『しようがある』なんて規則は、ぜんぜんないのさ。なのにお姉ちゃんたら、ぼくを信じないんだ」
「あなたを信じられる人がいるみたいなことをいうのね、いたずらっ子ちゃん」とシルヴィーがいった。言葉こそきつかったけれども、もし罪人に本当に罪の意識を感じさせたいと願うなら、頬に唇を近づけすぎないようにして判決を宣言すべきだ、というのがぼくの考えだ。というのは、判決の最後のキスは、どんなに偶然であっても、おそろしく効果を弱めるものだから。
[#改ページ]
第十一章 ピーターとポール
「さきほど申しておったように」と別乃教授がふたたび口をひらいた。「どんな詩でもよく考えてみるなら、たとえば――こんな言葉の、
[#ここから2字下げ]
「ピーターまるで無一文」高潔ポールがいったもの、
「わしはいつでもあれの友、
与える財産とぼしいけれど
ともかく貸してはやれるわい。
冷たいご時勢貪欲ばかり、欲得ずくでもないかぎり
善をなす者いやしまい。
ところがわしはやつの難儀がようわかる、
だから貸そう、五〇ポンド、ピーターに」
きいてピーター大喜び
友のなんたる気前よさ!
心浮き浮き証書に署名
金は返済いたします。
ポールがいわく、「几帳面が何よりじゃ
日付をきめるが最善じゃ、
学ある友の知恵かりて
五月四日の正午ときめた」
(画像省略)
「だがもう四月」とはピーター、
「思うに四月の一日だ。
五週ばかりはすぐにたつ、
まばたきするまもありゃしない!
投機するのに一年ほしい
売り買いしたり、商《あきな》いしたり――」
するとポール、「日付は変更できまいて、
五月四日にゃ払わにゃいかん」
「やれやれ」といってピーターため息まじり、
「現金もらってひきあげよう、
株式会社を設立し、
まともに小金をかせぐとしよう」
答えてポール、「つれなくする気はないけれど
金はもちろん貸すけれど、
あいにくここの一、二週
どうにも都合がつかんのだ」
かくて毎週欠かさずに、あわれピーターやってきて、
重い足取り引き返す、
もらう返事はいつでも同じ
「今日は都合がつかんのだ」
四月の雨もいまや涸《か》れ
みじかい五週はもうじきすぎる、
それでも返事は相変わらずで
「どうにも都合がつかんのだ」
四日になるとお堅いポール
友の弁護士ともなって
正午かっきり姿をみせて、
「なにはさておきやってきた、
事をすますにゃ早いが肝心」
あわれピーター失意におののき
はげしく垂れ髪かきむしる、
たちまち彼の黄色い髪が
床一面に舞いおちる。
(画像省略)
弁護士先生かたわらに立ち、
にわかに女々《めめ》しき憐れみおぼえ、
涙のしずくがその目に浮かぶ、
証書片手にもったまま。
けれどもさすがに法律魂
いつもの力をとりもどし、
「法律は」とのたまわく、「支配のかなわぬものなのだ、
返済せぬなら法手続きをふまねばならぬ」
加えてポール、「わしとて実に遺憾のかぎり、
ここへきた日のあの運命の朝!
気をとりなおせ、ピーターよ、
禿げて豊かになるじゃなし。
巻き毛をかくもひきちぎり
難儀が和らぐものかいな。
耐えてくれんか、この不運、
わしの心痛つのるばかり」
「わしとてむろん」と答えるピーター、
「かの気高き心に要らぬ痛みを加えるつもりはないが、
それにつけてもお堅いことだ。
これが友誼の業なのか?
借りぬものを返すのが
いかに法の定めとて、
かくたる事の運びよう
まったくもって不都合千万」
「このご時勢の誰かのごとく
高潔魂わしにはないが」
(ポールいささか恥じいって
顔赤らめて目を伏せる。)
「この借金は一切合財のみこんで
わしの人生、うれいの人生」
「いやいや、ピーター」ポールが答える、
「運命に悪態ついてはならんのだ」
「おまえさんとて飲み食いするには困っておらん、
世間で信用もされておる、
それに床屋じゃ、わしの思うに、
髯《ひげ》の手入れもおこたらん。
気高い心にいたらぬまでも、さほどまでにいたらぬまでも、
誠意の道は簡単至極、
いかに都合がつかんとて」
「なるほど」と答えてピーター、「わしは生きておる、
世間に体裁たもっとる、
週に一度はどうにかこうにか
髯にオイルとカールをさせる。
ところが資産ははなはだわずか、
とぼしい収入足がでて、
資本に穴をあけるとなれば、
こいつはどうにも都合が悪い」
「しかし借金返してくれい」篤実ポールの高い声。
「紳士ピーター、借金返せ、
おまえさんの資産とやらが
のみつくされてもかまいはしない。
すでに遅れは一時間、
けれどもここは寛容がいちばん、
わしとて苦しい――だがそれはよし、
利子はまるきりなしとしよう」
「なんたる温情! なんと寛大!」あわれピーター声あげる。
「それでも売らねばなるまいて、わしの大事なよそゆき鬘《かつら》
自慢の種のネクタイピン、
グランドピアノ――それに豚」
ほどなく財産羽根はえて
日毎に宝が去りゆきて
彼がため息つくうちに
ますます都合が悪くなる。
数週間が数か月、数か月が数か年、
ピーターやせこけ骨と皮、
涙流して一度はいった、
「忘れていまいな、わがポール、あの約束の貸しのこと!」
ポール答えて、「貸せるときにはもちろん貸そう、
あり金そっくり貸すつもり、
ああ、ピーター、おまえはなんと果報者、
おまえの運がねたましい、
「察しのとおり、わしは元気にやっとるが、
心はめったに晴れやらぬ、
夕餉《ゆうげ》の鈴の音きくときも
昔のような浮かれ気分になれぬわい。
ところがいまのおまえときたら、子供みたいに跳ねまわり、
ほっそり軽やかその姿
さように達者な食欲ならば、
夕餉の鈴は歓喜の調べ」
するとピーター、「わしもよくよくわかっとる、
わしの暮らしは幸せだ、
だがしかし、喜んで手放すわけにもいくまいて、
わしの楽しみあれこれと、
おまえさんのいう達者な食欲
わしには飢えの猛き歯牙、
夕餉の卓に何もなく
鈴の響きは憂いの音。
「案山子《かかし》すら貰ってくれまいこの上着、
めったに見られぬこの長靴《ブーツ》、
ああ、ポール、たった一枚五ポンド紙幣
あればわしは立ち直れるに!」
答えてポール、「驚きいった次第だわい、
かような口ぶり聞いとると
まるきりわかっておらんじゃないか、
すっかりとおまえのものにした至福のかずかず。
(画像省略)
おまえさんは食いすぎの心配まるでなく、
ぼろをまとってうっとり絵のよう、
知るまいが、財布には
いつも頭痛がつきまとう。
それにおまえにゃ時間がたっぷり、
取り柄のなかでも最高の、満足|培《つちか》う時間がたっぷり、
それにはいまの境遇が
申し分なく都合いい」
答えてピーター、「おまえさんのような男の深み
わしには測りかねるけど、
それでもおまえの性格に
ひとつふたつの矛盾が見える。
約束事のほうはといえば
長い年月猶予の様子、
なのにずいぶんお堅いことに
証文たずさえやってきた!」
「自分の銭《ぜに》を手放すときは」とポール、
「一にも二にも周到が肝心、
勘定書のこととなれば、まさしくおまえのいうように、
わしはお堅い一点張り。
借金の催足するのは当然なれど、
貸す金もっているにしろ、
選ぶことは許されにゃならぬ、
都合いいよな頃合を!」
たまたまある日ピーターが
いつもの食事、強《こわ》パンかじっているときに、
ポールがあたふたやってきて
友情こめて手をにぎり、
「わかっていたんだ」と彼がいう、「おまえのつましい暮らしぶり、
それゆえに見知らぬ面々引き入れて
おまえの誇りを傷つけまいと、
弁護士は外で待ってもらっとる。
「きっと覚えているだろが、
おまえの富がはじめて去りゆき、
貧しき者と人があざけり笑ったときも、
わしは断じてわがピーターにそんな扱いしなかった。
なけなしのもの一切合財うしなって
おまえが蔑《さげす》まれてしまったときも、
わしがいかに優しく憐れんでいたか
思い出せと頼むまでもあるまいて。
「おまけにわしが惜しまなかった助言だが、
知恵と機知とに満ちあふれ
すべて無料《ただ》で与えたものだ、むろんわしは
代金とってもよかったろうに。
だがしかし口に出してはいうまいて、
語れば数多《あまた》のわしの行ない、
なぜなら自慢というやつは
わしのとりわけ嫌うもの。
(画像省略)
「わしのなしたる善意のかずかず
その総額のなんと大きく見えることよ、
幼少の半ば忘れた年月以来
四月一日のあの貸しにいたるまで!
あの五〇ポンド! おまえにゃ想像つくまいが、
わしのわずかな貯えをぐんと涸らしてくれたのだ。
けれどもここの胸の内、もひとつ心がはいっとる、
そこでおまえにもう五〇ポンド、ぽんと貸してやるつもり!」
「そいつはいかん」ピーターの穏やかな答え、
感謝の涙に頬がすっかり濡れている、
「わしはよくよく覚えとる、
去りし日々のおまえの奉仕、
そのうえに、またまた新たなご尽力、こいつはなるほど
まったくもって厚意のつもりにちがいない、
とはいえやはり、それに甘えることだけは
どうにも都合がつかんのだ!」
[#ここで字下げ終わり]
「『都合がいい』と『都合がつかん』の違いがいかなるものか、一目瞭然じゃろうが、坊やもよくわかったね」シルヴィーのかたわらで床にすわりこんでいるブルーノを見やりながら、彼はいいそえた。
「うん」ブルーノは実におとなしくいった。こんな短い返事はまるで彼らしくなかった。だがちょうどそのとき、彼はどうやら少々くたびれているふうだった。事実、彼はそういうと、シルヴィーの膝の上に這いあがって、彼女の肩に頭をもたせかけた。「ずいぶん長っぽい詩だったなあ」と彼はつぶやいた。
[#改ページ]
第十二章 音楽庭師
別乃教授はいくぶん気づかわしげにブルーノを見つめた。「小さいほうの子はひとりでに[#「ひとりでに」に傍点]寝かせてやるのがよろしい」と彼は威厳を見せていった。
「なぜひとりでに[#「ひとりでに」に傍点]ですか?」教授が尋ねた。
「ふたりでには[#「ふたりでには」に傍点]寝られぬからだ」と別乃教授はいった。
教授はぽんと手を打った。「すばらしいおひとじゃろ」彼はシルヴィーにいった。「こう素早く、わけを思いつくひとはあるまいて。ふむ、むろんふたりでには[#「ふたりでには」に傍点]できない。ふたつに割ったら、あの子は怪我してしまうわい」
この言葉で、ブルーノは急にすっかり目が覚めた。「ぼく割られたくないよ」彼は断固としていった。
「図でならばうまくいく」別乃教授がいった。「いま書いてみせよう。ただチョークがちょっと丸いな」
「気をつけて」彼が不器用にチョークを削りはじめると、シルヴィーは心配して声をあげた。「そんなふうにナイフをもったら、指を落としてしまうわ」
「もし落としたらぼくにくれるね」ブルーノは考えながらいった。
「こうなる」といって、別乃教授は黒板に急いで長い線を引くと、「イ」と「ロ」の文字を両端に、「ハ」を真中に書いた。「では説明しよう。イとロの真中をハで割るとすると――」
「欠けちゃったったさ」とブルーノがきっぱりいった。
別乃教授はぎくりとした。「欠けるって、何が?」
「もちろん歯がさ」ブルーノがいった。「だってイとロの真中は戸《ト》でしょ。戸を歯で割ったら歯がばらばらさ」
ここで教授が口をはさんだ。明らかに、別乃教授は混乱のあまり図解をつづけられなくなったのだ。
「さきほどあの子が怪我をすると申したのは、神経作用のことでして――」
にわかに別乃教授の顔が明るくなった。「神経作用は」と彼は熱っぽくはじめた。「人によっては妙に緩慢なものだ。かつて、わしの友人に、真赤に焼けた火かき棒でやけどをさせても、それを感ずるのに何年もかかる男がおった!」
「それじゃ、その人をつねっただけだったら?」とシルヴィーが質問をした。
「むろんもっともっと長くかかるだろう。実際、その男自身がはたして感ずるかどうかも怪しいものだ。孫の代までかかるだろう」
「ぼく、つねられたおじいさんの孫になりたくないや。ミスター・サーは?」とブルーノがささやきかけた。「幸せになりたいと思ってるときに、ちょうどくるかもしれないでしょ」
それはなるほど困ったことだ、とぼくは思った。ブルーノがそんなふうに突然ぼくの姿を見つけるのはいつものことだった。「だけどいつも幸せになりたいとは思ってないだろう、ブルーノ?」
「いつもじゃないさ」とブルーノは思案ぶかげにいった。「ときどき、幸せすぎるとき、少し不幸せになりたいと思うんだ。それでぼくがちょっとシルヴィーにそういうでしょ、そうしたらシルヴィーったら、ぼくにお勉強をさせるの。それでうまくいくんだ」
「きみが勉強好きでないのは残念だな」とぼくはいった。「シルヴィーを見倣《みなら》ってごらん。あの子はいつも、たっぷり一日中いそがしくしてる」
「うん、ぼくもそうさ」とブルーノがいった。
「いいえ、ちがうわ」シルヴィーが訂正した。「あなたって、ちょっぴり一日中いそがしいのよ」
「ねえ、どうちがうの」とブルーノが尋ねた。「ミスター・サー、一日はたっぷりと同じくらいちょっぴりじゃないかな? だって、おんなじ長さじゃない?」
その問題をこういう見方で考えたことがなかったので、ぼくはふたりに、教授にきいてみたらどうかといった。そこで早速、彼らは年老いた友人のところへ話しに駈けていった。教授は眼鏡を拭くのをやめて考えた。「いいかね」と彼は間をおいていった。「一日はそれと同じ長さのなにとも同じ長さなのだよ」そして彼はいつ終わるともしれない眼鏡拭きにふたたびとりかかった。
子供たちはゆっくりと、首をひねりながら彼の回答を伝えに戻ってきた。「あの先生、賢くなくて?」とシルヴィーは恐る恐る小声で尋ねた。「もしあたしがあれくらい賢かったら、たっぷり一日中頭が痛いわ。きっと、そう」
「誰かと話をしているようだね――ここにおらんが」といって教授は子供たちのほうへふり返った。「誰かね?」
ブルーノは困ったという顔つきになった。「ここにきてない人と話したりしないよ」と彼は答えた。「お行儀よくないもの。その人と話をするには、くるまで待たなくちゃいけないでしょ」
教授はぼくのほうをしきりに見るのだが、視線は突き抜けて、ぼくの姿は見えないらしかった。「すると、誰と話しているのかね」彼はいった。「ここには誰もおらん、別乃教授のほかは――おや、おらんぞ」と彼は大声をあげて、独楽《こま》のようにくるくるとまわった。「子供たち、捜すのを手伝っておくれ。急いで。またも行方がしれん!」
子供たちはすぐ立ちあがった。
「どこを捜そうかしら」シルヴィーがいった。
「どこでもかまわん!」と興奮した教授が叫んだ。「とにかく急ぐんだ」そして椅子をもちあげたり振ったりしては、部屋中を駈けずりまわった。
ブルーノも書棚からたいそう小さな本を取りだして開くと、教授をまねて振った。「ここじゃないよ」彼はいった。
「そんなところにいるはずないでしょ、ブルーノ」シルヴィーは憤然としていった。
「いるはずないさ」ブルーノがいった。「はいっても、ぼくがゆすって落としちゃったもの」
「前にもいなくなったことあるのかしら」暖炉の前の敷物をもちあげて、下をのぞきこみながらシルヴィーがきいた。
「前に一度」教授がいった。「一度あの男は森で迷ってしまって――」
「それで、さまようこともできなくなったの」ブルーノがいった。「どうして叫ばなかったのかな。きっと声が聞こえたのに。だってそんなに遠くにいけるはずないもの」
「叫んでみよう」教授はいった。
「何て叫ぼうかしら」シルヴィーがいった。
「考え直してみると、叫ぶのはやめるがいい」教授が答えた。「次総督がきみたちの声をききつけるかもしれん。あの男はおそろしくきびしくなっておるから」
この言葉であわれな子供たちは、この年老いた友のもとへやってくることになった困ったいきさつを思いだした。ブルーノは床にすわりこんで泣きだした。「すごく意地悪なんだ」と彼は泣きじゃくった。「それにアグガギがぼくのおもちゃ取っても叱られないんだ。食べるものもひどいや」
「今日の夕食は何がでたのかね」と教授がいった。
「死んだからすがちょっぴりだけ」とブルーノは悲しそうな返事をした。
「みやまがらすのパイのことをいってるの」シルヴィーが教えた。
「死んだからすだったよ」とブルーノはいいはった。「それから、アップル・プディングと――でも、それはアグガギが全部食べちゃった――だからぼく、パン一切れしか食べてないや。それにオレンジが食べたいっていったんだ――だけどだめだったの」そして幼な子はシルヴィーの膝に顔をうずめた。彼女はやさしくその髪をなでながら、こういった。「ほんとうなのよ、先生。あの人たち、ブルーノちゃんをそれはひどく扱うの。あたしにもあまり優しくしてくれないけど」と、それはさほどたいしたことではないように、小声でいいそえた。
教授は大きな赤い絹のハンカチを取りだして目頭をぬぐった。「力になれるとよいのだが」と彼はいった。「しかし何をしてあげようかな」
「あたしたち、フェアリーランド――お父さまがいらっしゃったところ――へいく道はとってもよく知ってるの」とシルヴィーはいった。「庭師に外に出してもらうだけでいいの」
「扉を開けてもらえないのかね」と教授がいった。
「わたしたちにはだめですって」シルヴィーがいった。「でも、先生ならきっと大丈夫。いっしょに頼んでいただきたいの、教授!」
「すぐにもいってあげよう」と教授がいった。
ブルーノは起きあがって、涙をぬぐった。「あのひと親切でしょ、ミスター・サー」
「ほんとだね」とぼくはいった。しかし教授はぼくの言葉にまったく気づかなかった。彼は長い房のついた、きれいな帽子をかぶると、部屋の隅の傘立てから別乃教授のステッキを一本選びだした。「太いステッキを手にもつと立派にみえるものだ」と彼はつぶやいた。「おいで、子供たち」そして彼らはそろって庭へ出ていった。
「わしがまず声をかけよう」と教授は歩きながら説明した。「お天気について二言三言ね。それから別乃教授のことをきいてみよう。こいつは一石二鳥だな。第一に会話の口開《くちあけ》に(まず口を開けなくてはワイン一本飲めやしない)、そして第二に、もし別乃教授を見かけたというのなら、そっちを捜せようし、見てないというなら、捜さないまでだ」
途中ぼくらは、大使がきていた折にアグガギが射るように命じられた的の前を通った。
「ごらん」といって、教授は金的の真中の穴を指さした。「デブガギ殿下は一矢射ただけで、見事ここにはまった[#「はまった」に傍点]のだ」
ブルーノはその穴をしげしげと見た。「そこにはまる[#「はまる」に傍点]わけないよ」と彼はぼくにささやいた。「でぶっちょすぎるもの」
庭師はたやすく見つかった。数本の木に隠れていたが、彼のあの耳ざわりな声が道案内してくれた。そして近づくにつれ、歌詞がしだいにはっきり聞きとれた――
[#ここから2字下げ]
やつの見たのはあほうどり
ランプのまわりを飛んでいた、
思ったものの、も一度見れば
なんとそやつは一文《いちもん》切手。
「早くお帰り」やつがいう、
「夜はひどく湿《じめ》つくに」
[#ここで字下げ終わり]
(画像省略)
「風邪ひくのが心配なのかな」とブルーノがいった。
「もしもひどく湿ついたら」とシルヴィーがいった。「何かにくっついてしまうでしょ」
「何にしたって、その何かは郵便屋さんにもっていかれるさ」とブルーノはおもしろがって声をあげた。「牛だったらどうなるかな。くっつくほうは、こわくないかなあ」
「で、この両方のことがやつに起こったのじゃな」と教授がいった。「歌が愉快なのはそのためだ」
「あの人は、きっと変わった生活をしてきたのね」とシルヴィーがいった。
「きみのいうとおりだ」教授は嬉々として賛成した。
「もちろん、お姉ちゃんのいうとおりさ」とブルーノが叫んだ。
こうするうちにぼくらは、一本足で立って空《から》っぽの如雨露《じょうろ》でせっせと花壇に水を撒いている庭師のところへきていた。
「お水がぜんぜんはいってないよ」彼の袖をひっぱって注意を引きながら、ブルーノが教えた。
「このほうが軽い」庭師はいった。「水がいっぱいはいってたんじゃあ、腕が痛くなっちまう」そして彼は、ひとり静かに歌いながら仕事をつづけた。
[#ここから2字下げ]
「夜はひどく湿つくに」
[#ここで字下げ終わり]
「土からものを掘り出していて――たぶん、時々やっていると思うが」と教授は大声できりだした。「ものを山盛りに積んでいて――たびたびやっているにちがいない。そしてものを蹴散らしていて――それはちっともやめないようだが、ひょっとしてわたしにいくぶん似ていて異なるもうひとりの教授を見かけなかったかね?」
「いいや!」庭師が大声をあげた。あまり大声で乱暴だったので、ぼくらはあわてて飛び退いた。「そんなものはなかったね」
「もっと穏やかな話題にしよう」と教授は子供たちに静かにいった。「きみたちの頼みという――」
「あの人に頼んだのは、お庭の扉から出してもらうことなの」シルヴィーはいった。「でもだめなの。けれど、先生ならきっと大丈夫」
教授はたいへん慎《つつ》ましく丁重に、その依頼をきりだした。
「あんたなら出てかまいませんよ」庭師がいった。「ですが、子供らのために扉をあけてやるわけにゃいきません。あっしが規則を守らんと思いますかね。一シリング六ペンスもらったって」
教授は周到に二シリング取り出した。
「よござんす」と庭師は声をあげ、如雨露を花壇のむこうへ投げだすと、鍵束を取り出した――大きいのがひとつと小さいのがたくさんあった。
「ねえ、教授」シルヴィーがささやいた。「あの人、あたしたちのためには扉を開ける必要がないのよ。あたしたち、先生といっしょに出られるんですもの」
「なるほど」教授は感謝して答え、硬貨をポケットへ戻した。「二シリング助かったわい」そして扉が開いたらいっしょに出られるようにと、子供たちの手をとった。けれども、庭師は何度も何度も根気よく小さい鍵を残らず試すのだが、いっこうに開きそうもなかった。
とうとう教授が、物柔らかに提案した。「大きいのを試してはどうかね。これまでのわしの経験では、扉に合った鍵のほうがずっと具合よく開きますぞ」
その大きな鍵は、たった一度試しただけでうまくいった。庭師は扉を開けると、金を受け取ろうと手を差しだした。
教授は首をふった。「きみは規則に従ってしているのだ」と彼は説明した。「わしのために扉を開けるのはね。で、開いたから法に従って出るとしよう――三平方に従って」
庭師はぽかんとして、ぼくらを外に出した。しかしぼくらの後ろで扉が閉まると、彼が思いにふけってひとりで歌うのが聞こえた。
[#ここから2字下げ]
やつが見たのはお庭の扉
鍵で開いたとこだった、
思ったものの、も一度見れば
そやつは定理の三平方。
「何が何やらちんぷんかんぷん」やつがいう、
「そのことだけは確かだわい」
[#ここで字下げ終わり]
「わしはもう帰ろう」数ヤード歩いたとき、教授がいった。「ここでは本が読めんわい。わしの本はすべて家にあるから」
しかし子供たちはまだしっかり彼の手をにぎっていた。「どうかいっしょにきて!」目に涙をためてシルヴィーが頼んだ。
「さて、さて」人の好い老人はいった。「いつの日か、あとから追いかけよう。だが戻らねばならぬ、いまはね。読点のところでやめてきたから、あの文がどういうふうに終わるか知らないととても困るのでな。それにきみらは最初ドッグランドを通らなければならん。わしはいつも犬に少しばかり弱いのだよ。だが新しい発明ができあがりしだい、すぐにいけるだろう――自分のからだを支える発明なんだがね。もう少し計算しなくてはならん」
「ご自分を支えるのはとても大変なのでしょうね」とシルヴィーが尋ねた。
「ふむ、いや。いいかね、支えることによってどんなに疲れようと、支えられることによって疲れはしない。ごきげんよう、子供たち。ごきげんよう、サー」と彼はつけくわえてぼくをひどく驚かせ、ぼくの手を親しみをこめてにぎりしめた。
「ごきげんよう、教授」とぼくは答えたが、ぼくの声は不思議に遠くで響いていて、子供たちはぼくらの別れの挨拶に少しも気づかなかった。明らかにふたりは、ぼくを見てもいなかったし、ぼくの声を聞いてもいなかった。愛らしく腕をからませながら、彼らは元気よく歩いていった。
[#改ページ]
第十三章 ドッグランド訪問
「お家《うち》があるわ、ずっとむこうの左よ」ぼくには五十マイルも歩いたように思われたとき、シルヴィーがいった。「一晩泊めていただけるか、頼んでみましょう」
「とっても軽適《けいてき》なお家みたいだね」その家へ通じる道へでると、ブルーノがいった。「犬たちがやさしくしてくれるといいな。ぼく、くたくたで、おなかぺこぺこさ」
深紅の首輪で正装したマスチフ犬が一頭、小銃をかついで歩哨のように入口の前を行き来していた。子供たちの姿を見るとぎくりとして、小銃をまっすぐブルーノにむけたまま近づいてきた。ブルーノはじっとおとなしく立っていたが、それでも歩哨がいかめしくふたりのまわりを何度もまわっては前後左右から眺めまわすあいだ、青くなってシルヴィーの手にしっかりつかまっていた。
「ウーブー、フー、ブーフーヤー!」やっと犬はうなり声をあげた。「ウーバー、ヤーワー、ウーブー! バウ、ワーバー、ウーブーヤー? バウ、ウォウ?」きびしい調子でブルーノに尋ねたのだ。
むろんブルーノにはいともたやすく理解できた。妖精は皆、ドッギーが――つまり犬語が――わかるのだ。しかしきみにははじめは少々むずかしいだろうから、ぼくが通訳してあげるのがよさそうだ。「人間だ、こりゃ驚いた。迷い人間がふたりとはな。おまえたち、所属は何犬なのだ。何の用だ」
「ぼくたち犬には属さないんだよ」とブルーノが犬語でいいかけた。(「人は犬に属したりなんかしないよね」彼はシルヴィーにささやいた。)
しかしシルヴィーがいそいでそれを押しとどめた。マスチフ犬のご機嫌をそこねてはいけないと思ったのだ。「おねがい、食べるものがすこしほしいの、それから一晩泊めていただけて――お家《うち》に空いているところがあったら」彼女はおずおずとつけくわえた。シルヴィーはとてもきれいに犬語を話した。だがきみには通訳してあげるほうがよいだろう。
「なに、お家だと!」と歩哨がうなった。「いままで宮殿を見たことがないのか。ついてこい。おまえたちをどうするかは、陛下がお決めになられる」
ふたりがそのあとについて、ホールを抜け、長い廊下を通ってきらびやかな大広間にはいると、そこにはありとあらゆる種類や大きさの犬たちがずらり勢ぞろいしていた。堂々たる警察犬が二頭、王冠を戴いた犬の両側にかしこまって姿勢を正していた。ブルドッグが二、三頭――察するところ王の護衛が――ぶきみに押し黙って控えていた。事実、それと聞きとれるのは二匹の小さな犬の声だけで、これは長椅子にのっかって、まるで喧嘩ごしに活発な議論をかわしていた。
「侍女に侍従、それといろんな宮内官たちだ」となかへ通しながら、ぼくらの案内役はぶっきらぼうにいった。廷臣たちはこのぼく[#「ぼく」に傍点]にはまるで見向きもしないで、シルヴィーとブルーノをじろじろいぶかしげに見つめ、なにやらあれこれささやきあっていた。そのひとつだけははっきり聞きとれた――ずるがしこい顔つきのダックスフントが仲間にいったのだ――「バー、ウー、ワーヤー、フーバー、ウーブー、ハーバア?」(「あの人間娘はけっこう器量がいいじゃないか」)
新参者を大広間の真中においたまま、歩哨はずっと奥の扉にすすんでいった。扉には文字が浮き彫りにされていて、犬語でこうあった。「犬王室――扉掻《とびらかき》、咆哮《ほうこう》」
扉掻と咆哮をする前に、歩哨は子供たちをふりかえっていった。「おまえたちの名前を頂戴したい」
「あげられないよ」とブルーノが叫んでシルヴィーをひっぱって扉から逃げ出そうとした。「ぼくら名前がいるもん。いこう、シルヴィー、いこうったら!」
「おばかさんね」シルヴィーはぴしゃりとたしなめ、犬語でふたりの名前をつげた。
すると歩哨が猛然と扉を引っ掻き、そして一声吠えたので、ブルーノは頭から足先までふるえあがってしまった。
「フーヤー、ワー」なかから太い声がした。(犬語の「はいれ」なのだ。)
「王陛下ご自身であらせられる」とマスチフ犬が畏れ多いという口ぶりでささやいた。「かつらをとって、うやうやしく御前足《おんまえあし》の元《もと》に置くのだ」(ぼくらなら「御前《ごぜん》の足元《あしもと》に」とでもいおうか。)
(画像省略)
はずれる鬘《かつら》がないのでその作法にかなうことができないと、シルヴィーがなるたけおだやかに説明しようとした矢先、犬王室の扉が開いて巨大なニューファウンドランド犬が首を出した。「バウ、ウォウ?」彼はまずこう尋ねた。
「陛下よりお言葉をたまわるときは」と歩哨があわててブルーノに耳打ちした。「耳をぴんと立てるのだ」
ブルーノはけげんな顔をしてシルヴィーを見た。「したくないよ、おねがい」と彼はいった。「痛くなっちゃうもん」
「痛くなどなるもんか!」と少々憤慨ぎみに歩哨がいった。「ほら、こうだ」そして彼は両耳を二本の鉄道信号のようにぴんと立てた。
シルヴィーはそっとわけを説明した。「あたしたち、できないんです」と彼女は小声でいった。「ほんとうにごめんなさいね、でもあたしたちの耳にはないんです、ちゃんとした――」犬語で「装置」といいたかったのに、その言葉が出てこなくて、「蒸気機関」しか思い浮かばなかった。
歩哨はシルヴィーの説明をそのまま王に伝えた。
「蒸気機関がなくて耳をぴんと立てられぬとな」と陛下は叫んだ。「さぞかし珍妙な生き物だろう。一目見ておかにゃならん」そして犬王室から現われると、子供たちのところへおごそかに歩みよった。
居並ぶ一同が仰天したことに――ふるえあがったといわないまでも――シルヴィーはまぎれもなく陛下の頭をなでまわし、ブルーノのほうは両方の長い耳をつかまえて顎の下でむすぶまねをしたのだった。
歩哨がうなり声をあげた。美しいグレイハウンド犬が――侍女犬の一匹らしかったが――卒倒してしまった。ほかの廷臣たちは後ずさりし、その巨大なニューファウンドランド犬が厚かましいよそ者たちに飛びかかって手足を八つ裂きにできるようにと、ひろく場所をあけた。
だが――彼はそうしなかった。それどころか、陛下はなんと笑顔を見せた――もっとも犬が笑顔になれる程度までだが――おまけに陛下は尾をふったのだ(廷臣の犬たちは目を疑ったものの、やはり間違いなかった)。
「ヤー! フー、ハーウォー!」(つまり「こりゃ、なんてことだ!」)と一同がこぞって叫んだ。
陛下がまわりをにらみつけて軽く一吠えすると、たちまち静かになった。「余の友を正餐の間《ま》にお連れせい」と彼が「余の友」をことさら強調していったので、数頭の犬はたわいなくも仰むけにころがって、ブルーノの足をぺろぺろなめはじめた。
行列ができたが、ぼくは正餐の間《ま》の扉口までついていくのがやっとだった。なかで吠える犬たちの騒ぎがすさまじかったからだ。そこでぼくは、眠ってしまった様子の王のかたわらに腰をおろして待っていた。やがて子供たちがおやすみをいいに戻ってくると、陛下は起きあがってからだをぶるるとふるわせた。
「床に就く時間じゃな」と彼は眠たげなあくびをした。「接待の者がそのほうたちを部屋に案内するはずじゃ」と彼はかたわらのシルヴィーとブルーノにいいそえた。「明かりをもて!」そして威厳にみちた風格で、彼はふたりの接吻を受けようと前足を差し出した。
けれども子供たちは、明らかに宮廷作法にあまり馴れていなかった。シルヴィーはその大きな前足をなでただけだった。ブルーノはそれを抱きしめた。作法の先生《マスター》はあっけにとられた。
この間に、立派なお仕着せを着た給仕犬が火をともしたろうそくをもって駈けあがってきた。ところが彼らがろうそくをテーブルに置くが早いか、ほかの給仕犬がもっていってしまうので、ぼくの分は一本もなさそうだった。もっとも先生《マスター》は肘でぼくをつつきながら、こう繰り返していたのだった。「ここで眠ってもらっちゃ、困ります。ベッドじゃありませんよ、ほら」
懸命に努力して、ぼくはやっとこういえた。「うん、わかってる。肘掛け椅子だろ」
「まあ、うたたねぐらいならいいでしょう」というと、先生《マスター》は立ち去った。ぼくには彼の言葉がほとんど聞こえなかった。それもそのはず、彼はぼくの立っている桟橋から数マイル離れた船のへりにもたれているのだった。船は水平線のかなたに消え、そしてぼくはふたたび肘掛け椅子に沈みこんだ。
つぎにぼくの覚えているのは朝だった。朝食がすんだところだった。シルヴィーがブルーノを高い椅子からかかえおろしてやりながら、とても愛想よい笑みを浮かべてふたりを見つめているスパニエル犬に話しかけていた。「ええ、ごちそうさま。とってもおいしくいただいたわ。ね、ブルーノ?」
「骨がずいぶんたくさんはいってい――」ブルーノがいいかけたが、シルヴィーは眉をひそめてみせ、唇に指をあてた。というのも、このとき、ひどくいかめしい役犬、咆哮長がこの旅人たちを待って控えていたからだ。彼の役目は、まず別れの挨拶をするためにふたりを王のもとへ連れていき、それからドッグランドの国境まで送りとどけることだった。大きなニューファウンドランド犬はふたりをたいそうきさくに迎えた。ところが「お別れじゃ」とはいわないで、みずからふたりを見送ると申し渡したものだから、咆哮長は仰天して三度獰猛なうなり声を発した。
「はなはだ異例なごふるまいですぞ、陛下!」と咆哮長は叫んだが、ないがしろにされた悲痛に息の根もとまらんばかりだった。というのも彼はこのときのためにと、総猫皮の最上の礼服を着てきたのだ。
「余が送る」王衣を脇に置き、王冠を小さな冠にとりかえながら、陛下はおだやかに、だが断固として繰り返した。「そのほうは残ってよろしい」
「おもしろかったね」聞こえないところまでくると、ブルーノがシルヴィーにささやいた。「すっごく怒ってたもん!」そして彼は見送りの王をなでたばかりか、嬉しさあまってその首にぎゅっと抱きついた。
陛下は静かに尾をふった。「まったくほっとするわい」と王はいった。「たまにあの宮殿を抜け出すとな。実を申せば、皇室の犬の生活は退屈なものじゃ。すまんが」(とシルヴィーにむかって、低い声で少々はにかみながら、きまり悪げに)「すまんが、余が取ってこられるように、あの棒きれをちょいと投げてもらえんじゃろうか」
シルヴィーは驚きのあまり、一瞬何もできなかった。王が棒きれを追いかけるなんて、そんな突飛なことはありっこなかった。しかしブルーノのほうはその場に動じなかった。「よし、いいかい。取っておいで、わんわんちゃん!」と大喜びで叫ぶと、彼は棒きれを灌木の茂みのむこうへ放り投げた。つぎの瞬間、ドッグランドの君主は灌木を飛びこえ、棒きれを口にくわえると、そのまま全速力で子供たちのもとへ戻ってきた。ブルーノは一大決意でそれを受けとった。「ちんちん!」と彼がいうと、陛下はちんちんをした。「お手!」とシルヴィーが命令すると、陛下は前足を差し出した。ようするに、旅人たちをドッグランドの国境まで見送るという厳粛な儀式は、長々しいにぎやかな戯《たわむ》れごととなってしまったのだ。
「しかし務めは務めじゃ」ようやく犬王がいった。「わしも務めに戻らにゃならん。これ以上先へはいかれぬわい」と彼は、鎖で首にさげた犬時計を見ながらつけ加えた。「たとえ猫が出てきおっても」
ふたりは愛情をこめて陛下に別れを告げ、ゆっくり歩きだした。
「可愛らしいわんわんだったなあ」とブルーノが叫んだ。「遠くにいかなくちゃならないの、シルヴィー? ぼく、くたびれちゃった」
「そんなに遠くなくってよ」とシルヴィーがやさしく答えた。「あの光ってるものが見えるでしょ、林のむこうにね? きっとフェアリーランドの門よ。あれはぜんぶ黄金なの――お父さまがそうおっしゃったもの――だからきらきら、とってもきらきら」と彼女はうっとりと話しつづけた。
「まぶしいや」といってブルーノは小さな片手をかざしたが、もう一方の手でシルヴィーの手にしっかりとしがみついていて、彼女の奇妙な様子に半ばおびえているふうだった。
というのも、その女の子はまるで眠ったまま歩いているように先へ進んでいき、大きな目ではるかかなたを見つめ、強い歓喜に胸をどきどきさせながら息をはずませているのだった。なにか不思議な光が心に閃いて、ぼくは、この可愛らしい幼い友(ぼくはそんなふうに彼女のことを思うのが好きだった)に一大変化が起こりつつあること、そして彼女がたんなるアウトランドの小妖精《スプライト》の状態から本物の妖精《フエアリー》へと移り変わりつつあるのを知った。
ブルーノには変化があとから現われた。けれども黄金の門へたどりつくまでには、ふたりともすっかり変わってしまった。この門を通ってぼくがふたりのあとについていくのはできそうになかった。ぼくはただ外に立ち、なかへ消えていくふたりの可愛い子供たちを最後に一目見ることしかできなかった。そして黄金の門はずしーんと閉まった。
そして、そんなずしーんという音が! 「戸棚らしい閉まり方はけっしてしないんですよ」とアーサーが説明した。「蝶番《ちようつがい》がおかしいもので。でも、お菓子とワインはありますよ。うたたねもなさったことですし。だから、ほんとうにベッドで眠っていただかなくちゃ。ほかのことは一切だめです。処方の先生《マスター》、アーサー・フォレスターが断言いたします」
このときには、ぼくはまたすっかり目が覚めていた。「まだいいじゃないか」とぼくはいった。「ほんと、いまは眠くなくてね。まだ真夜中でもないし」
「それじゃ、もうひとつお話ししたいことがあったんです」彼の処方になる夕食を出しながら、アーサーは気持のほぐれた口調でいった。「ただ、とても眠そうなので、今夜はよそうと思っていました」
ぼくらはほとんど黙りこくったまま、深夜の食事をとった。旧友になにかただならぬ苛立ちが感じとれたからだ。
「今夜はどんな天気かな」と、彼はしばし話題を変えたいらしく、立ちあがって窓のカーテンを開けた。ぼくも窓辺にいって、並んで黙って外を眺めた。
「最初にお話ししたときは――」と長い気まずい沈黙のあとでアーサーが口を開いた。「つまりぼくが最初に彼女の話をしたとき――もっとも、きっかけをつくったのはあなたでしたが――ぼくの社会的地位からいって、彼女を遠くから崇めるほかなかったのです。それで、いろんな心づもりをすっかり変えて、最終的にはこの地を去って、どこか二度と彼女に会う機会のないところへ落ち着くことにしていました。それが人生でぼくのたったひとつ残された道だと思われたのです」
「はたして賢明だったろうか」とぼくはいった。「まるきり希望をなくしてしまうなんて」
「なくすような希望はもともとなかったのですよ」とアーサーはきっぱり答えたものの、真夜中の空を仰ぎ見るその目には涙が光っていた。空にはぽつんと寂しげな星、あの燦然《さんぜん》たるヴェガ星が、流れる雲の切れ目からときおり気まぐれに煌々《こうこう》と輝いた。「ぼくには彼女があの星のようでした――輝かしく、美しく、清らかで、だが手のとどかない、手のとどかないものでした」
彼がふたたびカーテンを引き、ぼくらは暖炉のそばのもとの場所へ戻った。
「ぼくがお話しするつもりだったのは、こういうことです」と彼はつづけた。「今夜、弁護士から聞いたのです。ことこまかに説明できませんが、ようするにぼくの財産が思ったよりずっと多くて、ぼくはいかなる女性《レデイー》であろうと、たとえその人に持参金がないにしても、結婚を申し込んで厚かましくない立場にある(ないしはじきにそうなる)ということです。彼女のほうには何もなさそうです、伯爵は豊かじゃないはずですし。しかしぼくは、健康が衰えたって、ふたりに充分なだけはもっています」
「きみの結婚生活は万万歳じゃないか」とぼくは叫んだ。「明日、伯爵に話すのかね?」
「まだしばらくは」とアーサーはいった。「あの人はとても好意的ですが、それ以上のものとも思えませんしね、いまのところは。それに、その――ミュリエル嬢なんですが、ぼくに対する気持がどうにも読みとれないのです。愛情があるとしても、それを隠しているんです。いや、待ってみなくちゃ、待ってみなくちゃ」
ぼくはわが友にそれ以上の助言を押しつける気にならなかった。本人の判断のほうが、ぼくよりよほど真剣で思慮ぶかいと思ったのだ。そしてすでに彼の思い、否、彼の人生そのものをのみこんでしまった問題にはそれっきりふれないまま、ぼくらはそれぞれ床に就いた。
翌朝、今度はぼくの弁護士から手紙があって、重要な用件につき町へ戻ってほしいといってきた。
[#改ページ]
第十四章 妖精シルヴィー
まる一月《ひとつき》、ロンドンへ戻ることになったその用件のために、ぼくはそこに留めおかれた。それにもかかわらず、仕事を放りだしてもう一度エルヴェストンを訪れる気になったのは、ただただわが主治医の熱心な勧めのおかげだった。
アーサーはその一月《ひとつき》の間に、一、二度手紙をくれたが、どの手紙もミュリエル嬢のことには一言もふれていなかった。それなのに、ぼくは彼の沈黙から凶兆を読みとることをしなかった。恋する男の当然の行動に思われたからだ。恋する男というのは、胸の内で「彼女はぼくのもの!」と歌っているときでさえ、文字にしたためた手紙の冷たい語句で幸福を描くことを恐れ、自分の口からじかに話せるときまで待つものだ。「そう」とぼくは思った。「彼自身の口から勝利の歌を聞かされるのだろう」
到着したその晩、ぼくらはほかの話題がたくさんあったし、そのうえ旅の疲れもあって、その幸福な秘めごとにはふれないまま、ぼくは早めに床に就いた。しかし翌日、昼食の終わりかけたテーブルでとりとめなく話しているとき、ぼくは思いきってそのとっておきの質問を口にした。「ところで、きみ、ミュリエル嬢のことをさっぱり話してくれないじゃないか――それに、めでたい日がいつなのかも」
「めでたい日は」とアーサーは意外にもあらたまった顔つきでいった。「まだいつのことかはっきりしません。ぼくらは知りあわなければ――というより、彼女がぼくのことをもっとよく知る必要があるのです。ぼくのほうは、彼女の優しい性質をこれまでに充分知りつくしていますからね。でも、ぼくの愛がむくいられるとわかるまでは、いいだせなくって」
「長く待ちすぎてはいかんよ」とぼくは陽気にいった。「弱気が美女を得たためしなし!」
「『弱気』かもしれません。でも実際、まだいいだせないんです」
「しかしその間にも」とぼくは乗り出した。「きみは思いもよらぬ危険を冒しているかもしれない。別の誰かが――」
「いや」とアーサーはきっぱりいった。「あの人は純真だ、それは確かです。といっても、ぼくよりよい男を愛すなら、それでいいんです。彼女の幸せをだめにする気はありません。秘めごとはぼくとともに滅ぶまでです。しかし彼女はぼくのはじめての――たったひとりの恋人です!」
「それはたいそうご立派な気持だが」とぼくはいった。「現実的じゃない。きみらしくないな。
[#ここから2字下げ]
宿命を恐れすぎるか、さもなくば
取り柄がないと思う者、
勝利を得るか、一切合財うしなうか
試してみることしない者」
[#ここで字下げ終わり]
「ほかの人がいるかなんて、まさかきかれませんよ」と彼は熱っぽくいった。「もしいたら、胸がはりさけてしまう」
「といって、きかずにおくのが賢明かな? たったひとつの『もし』のために、きみの人生をむだにしちゃいかん」
「どうしてもいいだせないんです」
「このぼくが、かわりにきいてあげてもいい」とぼくは永年の付き合いから気軽にいった。
「いえ、だめです」彼は痛ましい顔つきで答えた。「お願いですから、何もいわないでください。そっとしておいてください」
「ご随意に」とぼくはいった。そしていまのところはそれ以上いわぬが最善だと判断した。「だが今晩」とぼくは思った。「伯爵を訪れてみよう。どんな形勢なのかわかるかもしれない、一言たりと話さなくとも」
たいへん暑い午後だった――散歩するにも何をするにも暑すぎた――さもなければ、それは起こらなかったにちがいない。
まず最初にぼくは知りたいのだけれど――この本を読んでいるよい子よ――なぜ妖精だけがいつもぼくらに義務をはたすようにと教えたり、悪いことをするとお説教したりするのだろう、そしてぼくらが妖精たちに何も教えないのはどうしてだろう? 妖精たちは欲ばりじゃない、わがままでもない、気むずかしくもない、ずるくもない、なんてはいえないだろ。なぜって、それではナンセンスじゃないか。ところで、きみは妖精たちもたまには少しお説教されたり、叱られたりしたほうがいいと思わないかい?
実際、そうしてみたってかまわないと思うよ。できることなら妖精をつかまえて、どこか隅っこに立たせ、一日二日パンと水しか与えないでみたら、ずいぶん性格がよくなると――つまりなにはともあれ、自惚れが少しはとれるだろうと、ぼくは確信しているくらいだ。
さてつぎの問題は、妖精を見つけるにはいつが最適かということだ。ぼくは、それをきみにすっかり教えてあげられるよ。
まず第一の規則だが、とても暑い日でなくてはならない――それは文句なしと思ってくれなくちゃね。そしてほんのちょっと眠くなければならない――でも目を開けていられないくらい眠くてはだめだ、いいね。さて、それからきみはちょっとばかり感じなくてはならない――あの「妖気《ようき》」という気分を――スコットランドでは「妖氛《ようふん》」というのだが、そのほうがきれいな言葉かな。きみにその意味がわからないとしても、うまく説明してあげられないな。妖精に出会うときまで我慢してくれたまえ、そのとききっとわかるはずだ。
それから最後の規則は、こおろぎが鳴いていないことだ。それもここで説明していられないから、いまはそのまま信用してくれたまえ。
そこで、それが全部いっしょに起こったとき、きみは妖精に出会ういい機会に恵まれる――少なくとも条件がそろわなかったときより、はるかに運がいいわけだ。
森のなかの原っぱをぶらぶらと歩いていくと、大きなかぶと虫が仰向けになってもがいているのがまず目にとまった。ぼくはその気の毒な虫を起こしてやろうと、片膝をついた。ことによっては、昆虫がどうしてほしいのか、まるで見当のつかない場合もあるね。たとえばぼくが蛾だとしたら、ろうそくから遠ざけてもらうのがよいか、それとも一直線に飛びこませてもらって火傷をするのがよいか、まったく決めかねるだろう――あるいはまた蜘蛛《くも》だとしたら、糸を払われ、はえを逃がされたら、喜ぶかどうかはわからない――しかしぼくがかぶと虫で、仰向けにころがっていたら、いつだって喜んで助け起こしてもらうにちがいない。
だからいまいったように、片膝をついて、かぶと虫を起こしてやるために小枝を差しのべようとしたそのとき、ぼくはあるものを見て、あわてて手を引っこめ息を殺した。音をたてて、その小さな子がおびえて逃げてはいけないと思ったのだ。
その女の子はたやすくおびえそうな子だったわけではない。とても気立てがよくて、優しそうな子だったから、自分に危害を加える人間がいようとは考えてもみなかったろう。背丈はほんの数インチで、しかも緑色の服を着ていたから、長く伸びた草むらのなかでは、実際その子に気がつかなかったくらいだ。そのうえこの女の子はきゃしゃで、しとやかだったから、花々のひとつかと見まちがえるほど、その場にしっくりおさまっているようだった。そうそう、それにその子には羽根などなかった(羽根のある妖精などいるはずがない)、そしてふさふさした長い金髪と、大きくてひたむきな茶色の瞳をしていた。ではこれから、その子がどんな子だったか、それをできるだけ話してあげよう。
シルヴィー(あとからぼくは彼女の名を知った)は、かぶと虫を助け起こそうと、ちょうどぼくのしていたように膝をついていた。けれどもその子がかぶと虫を起きあがらせるには、小枝だけでは足りなかった。重たい虫を両腕でころがすのがやっとだった。そしてその間ずっと、彼女はころんだ子供に乳母がするように、半ば叱り、半ばあやしながら話しかけていた。
「まあ、まあ、そんなに泣くことないでしょ。まだ死にはしないわ――そうだとしたら泣けやしないわ、ね、だから泣いちゃいけないってことになっているのよ、いい子だから。またどうしてひっくり返ったりしたの。でもどうしてだったか、あたしにはちゃんとわかってよ――きかなくてもね――いつものように、顎《あご》を突きだしてお砂場を歩いてたんでしょ。あんなふうにしてお砂場を歩きまわったら、ひっくり返るのはあたりまえじゃないの。気をつけるのよ」
かぶと虫はなにやらつぶやいたが、それは「ぼく、気をつけたよ」といったように聞こえた。するとシルヴィーはまたつづけた。
「でも気をつけなかったのね。きっとそう。あなたはいつだって顎をあげて歩くんだから――それはうぬぼれやさんですもの。ほら、今度は何本、足が折れているか見せてちょうだい。あら、ぜんぜん折れてないわ、ほんとに。でも足が六本もあって何の役に立つの、ねえ、ころんだときただバタバタするだけじゃ。足は歩くためにあるのよ。まだ羽根をひろげてはだめ、もう少しいいたいことがあってよ。あのきんぽうげの陰に住んでいる蛙さんのところへいって――よろしくって伝えてちょうだい――シルヴィーがよろしくいってたって――あなた『よろしく』っていえて?」
(画像省略)
かぶと虫は試して、どうやらうまくいったらしい。
「ええ、それでいいわ。そして昨日《きのう》あたしが渡したあの軟膏を、少し分けてくれるようにいいなさい。そして塗ってもらったほうがよくってよ。手がとても冷たいけれど、気にしてはだめよ」
かぶと虫はこの思いつきにぞっとしてみせたにちがいない。というのも、シルヴィーがさらに大真面目な口調でつづけたからだ。「さあ、蛙さんに塗ってもらうにはお偉様すぎるみたいに、そんな気むずかしがらなくていいの。かえって感謝しなくちゃいけないでしょ。蟾蜍《ひきがえる》さんのほかに誰もしてくれなかったら、それでもよくって?」
やや間があって、それからシルヴィーはいい足した。「さあ、おいき。いいかぶと虫さんでいるのよ。顎を突き出してばかりいないのよ」するとこのとき、ぶんぶん、ひゅうひゅういう音と、しきりにばたばたする音の演奏みたいなものがはじまった。それはかぶと虫が飛び立とうと決心したものの、どっちへいこうかと決めかねているときに聞かせるような音だった。ついに乱れたジグザグをいくつか描くと、首尾よく飛びあがって、ぼくの顔めがけて一直線にむかってきた。そしてぼくが驚きからさめたときには、小さな妖精の姿はもうなかった。
ぼくはその小さな女の子を四方八方捜しまわったが、何の跡かたもなかった――そしてぼくの「妖氛《ようふん》」はすっかり消えさり、こおろぎがまた楽しげに鳴いていた――それでぼくは彼女がほんとうにいってしまったのだと知った。
さあこのへんで、こおろぎの規則について話をしてあげられそうだ。こおろぎは妖精が近くにくると、きまって鳴くのをやめる――妖精は彼らにとって女王みたいなものだからだろうね――ともかく妖精はこおろぎよりずっと偉い――だからきみが歩いていて、こおろぎが急に鳴きやんだときはいつでも、彼らが妖精の姿を見たのだと思って大丈夫だ。
きみにもわかるだろうが、ぼくはとてもがっかりして歩きつづけた。それでもこう考えて自分を慰めた。「これまでのところは、とてもすばらしい午後だった。あたりに気を配ってこのまま静かに歩いていくとしよう。そうすれば、どこかで別の妖精に出くわさないともかぎらない」
こうしてあたりをうかがっていると、ぼくはたまたま葉の丸まった一本の草に気づいた。葉の何枚かの真中には、妙な小穴があいているのだ。「ああ、葉切り蜂だな」ぼくはふとつぶやいた――なにせぼくは博物学に詳しいからね(たとえば、こねこ[#「こねこ」に傍点]とひよこ[#「ひよこ」に傍点]ならいつだって一目で見わけがつくよ)――そして通り過ぎようとしたとき、不意にある考えが閃いて、ぼくはかがみこむと、その葉を注意ぶかく調べた。
すると嬉しさのあまり、かすかな震えがからだを走った――というのも、その穴はすべて文字になるように並べられていたからだ。三枚並んでいる葉には、フとGとルが刻まれていて、なおもしばらく捜すともう二枚あった。それは、ーとノだった。
そしてそのとき、にわかに内部の光がぱっと閃いて、ほとんど忘れ去っていたぼくの人生の一部――エルヴェストンにむかう途中で経験したあの奇妙な幻覚――を照らしだすように思われた。ぼくは嬉しさにわくわくしながら考えた。「この幻覚はぼくの目覚めているときの人生とつながる運命にあるのだ!」
いまや「妖氛」がよみがえってきていた。そしてこおろぎの鳴いていないことにもふと気づいたので、ぼくはすぐ近くに「ブルーノ」がかならずいるはずだと思った。
案の定、彼はいた――あまりそばにいたので、彼の姿に気づかないであやうく踏みつけてしまうところだった。妖精を踏みつけることができるなんていつも考えていたら、それは恐ろしいことだ――ぼく自身の考えでは、妖精はなにか鬼火の類いのものだ、踏みつけることなどできっこない。
誰でもいいから、きみの知っている小さな男の子を思い出してごらん、ばら色の頬に大きな黒い瞳、そして金髪の巻き毛の男の子だ。それからコーヒーカップにらくらくとおさまるくらいに、その子を小さくしてみるのだ。そうしたらその子がどんなふうな子だったか、だいたい思い浮かべられるだろう。
「なんて名前、ぼうや?」とぼくはできるだけ優しく声をかけた。ところで、どうしてぼくらはいつも子供に最初に名前をきくのだろう? 名前が子供たちをいくらか大きくするとでも思うからだろうか? きみは大のおとなに名前をきこうと思ったことなんかないだろ、ね? でも、それはともかく、ぼくは彼の名前をぜひともきかなくちゃと思ったのさ。それで、その子がぼくのきくのに返事をしてくれないので、もう一度少し声を大きくしてきいてみた。「なんて名前、きみ?」
「きみこそなんて名前?」彼は目をあげずにいった。
ぼくはぼくの名前をおだやかに告げた。というのも怒るには、その子は幼すぎたのだ。
「なんとかの公爵?」といって、ちらりとぼくを見やると、その子は手を休めもしなかった。
「公爵なんかじゃないよ」とぼくはいったが、それを白状するのはいささかきまり悪かった。
「ふたりぶんの公爵ぐらいに大きいね」と小さな子はいった。「じゃあ、なんとか卿なの?」
「いや」といって、ぼくはますますきまり悪くなった。「ぼくには何の称号もないのさ」
その妖精は、それならばわざわざ話しかけることもないと思っているようだった。黙って穴を掘りつづけ、花をめちゃめちゃにむしる手を休めないのだ。
しばらくして、ぼくはもう一度試した。「どうぞ、きみの名前を教えてください」
「ブルーノだよ」と小さな子はすぐさま答えた。「どうちてさっき『どうぞ』っていわなかったの」
「まるで保育園で教えられたことみたいだ」とぼくは考え、長い歳月(いっておけば、ほぼ百年)をさかのぼって、ぼくが小さな子供だった頃を思い出した。そしてここでふと思いついて、彼にこう尋ねた。「きみは子供たちにいい子にしなさいって教える妖精なの?」
「そう、ぼくたちときどきそうしなくちゃならないんだ」とブルーノはいった。「でもすごく面倒なの、それは」こういって彼は三色すみれをふたつにちぎり、めちゃめちゃに踏みつけた。
「そこで何をしてるの、ブルーノ?」とぼくはいった。
「シルヴィーのお庭こわしてるんだ」ブルーノはまずそれだけ答えた。ところが花々をずたずたにむしりつづけながら、こうつぶやいた。
「意地悪のこんこんちき――今朝、ぼくを遊びにいかせなかった――勉強が先だなんていって――勉強か、ふーん! 困らせてやるからな、でも」
「おやおや、ブルーノ、それはいけない」とぼくは声をあげた。「それじゃ復讐じゃないか。復讐はね、悪いことで、残酷で、危ないことなんだよ」
「深《ふか》=流《りゆう》?」ブルーノがいった。「変な言葉だなあ。遠くにいきすぎて、深いとこにはまっちまったら、溺れっちまうから、それで残酷で危ないっていうんでしょ」
「いや、深=流じゃないよ」とぼくは説明した。「復讐」(ぼくはこの言葉をたいそうゆっくりいってみせた。)それにしてもブルーノの説明はどちらの言葉にもうまくあっていると、ぼくは思わずにいられなかった。
「ふーん」とブルーノはいって、大きく目を見ひらいたが、その言葉を繰り返してみようとはしなかった。
「さあ、発音してごらん、ブルーノ」ぼくは愉快になっていった。「復=讐、復=讐」
だがブルーノは小さな頭をつんとあげただけで、できないといった。口の恰好がそんな言葉にむいていないというのだ。そしてぼくが笑うほど、その子は拗《す》ねるばかりだった。
「じゃ、気にすることないさ、ちびくん」とぼくはいった。「その仕事、手伝おうか?」
「うん、おねがい」ブルーノはかなり機嫌をなおしていった。「お姉ちゃんを困らすのに、こんなのよりもっといいことないかなあ。おじちゃんは知らないんだよ、お姉ちゃんを怒らせるの、すごくむずかしいんだから」
「ね、お聞きよ、ブルーノ。とってもすばらしい復讐を教えてあげよう」
「うんと困らちてしまうこと?」彼が目を輝かせてきいた。
「うんと困らせてしまうことさ。まず、お庭の雑草を全部むしってしまおう。ほら、この隅っこにいっぱいあるだろ――お花がすっかり隠れてるよ」
「でも、そんなんじゃ困らないよ」とブルーノがいった。
「そのあとで」とぼくはその言葉にかまわずつづけた。「ここのいちばん上の花壇にお水をまこう――ここまでだ。ごらん、すっかり乾いて埃《ほこり》っぽくなってるだろ」
ブルーノはもの問いたげにぼくを見たが、今度は何もいわなかった。
「それから」とぼくはつづけた。「道をちょっと掃いたほうがいいね。それにあの伸びたいらくさは切ってしまおう――お庭に近すぎるから、とっても邪魔に――」
「何いってるの」我慢できなくなってブルーノが口をはさんだ。「そんなんじゃ、お姉ちゃんちっとも困りゃしないよ」
「そうかな?」とぼくはさりげなくいった。「さて、そのあと、この色のついた小石を入れたらどうだろう――いろんな花ごとに仕切りをつくるためさ、そうしたら、ずいぶんきれいになるな」
ブルーノはくるりとふり返って、あらためてぼくを見た。やがて瞳に妙な小さい輝きを見せて、すっかり考えを改めたような口調でいった。「すごくいいや――二列に並べようよ――赤いのは赤いのでいっしょ、白いのは白いのでいっしょに」
「それはうまいぞ」とぼくはいった。「それはそうと――シルヴィーはどんなお花がいちばん好きかな」
ブルーノは返事をする前に親指をくわえ、ちょっと考えねばならなかった。「すみれ」とようやく彼はいった。
「小川のそばにきれいなすみれの花壇が――」
「そうだ、あれを取ってこようよ!」とブルーノが叫んで、軽やかに飛びはねた。「さあ、ぼくの手につかまって。連れていってあげる。あのへんは草がとっても深いんだ」
大のおとなに話しているのを彼がまるで忘れていたから、ぼくは思わず吹きだした。「いや、まだまだ、ブルーノ」とぼくはいった。「何をはじめにするのがいいか、考えなくちゃ。ぼくらのすることはいっぱいあるだろ」
「うん、考えよう」といって、ブルーノはまた親指をくわえ、二十日鼠の死骸の上に腰をおろした。
「どうしてそんな二十日鼠をとっておくんだい」とぼくはいった。「埋めてやるか、あの小川に放ってやるかしたらいいのに」
「だって、これで測るんだもん」とブルーノが叫んだ。「これがいなくちゃ、どうやってお庭つくるの? どの花壇も三匹半の長さで、二匹の幅にするんだよ」
その使い方をぼくに見せようと尻尾をつかんで引きずりだしたので、ぼくはブルーノを押しとどめた。庭をつくらぬうちに、「妖氛《ようふん》」が消えてしまわないかと心配になったのだ。そうなったら、ブルーノにもシルヴィーにも二度と会えなくなるだろう。「いちばんいい方法は、きみが花壇の雑草をむしって、そのあいだぼくがこの小石を選り分けて、道に印をつける準備をすることだと思うな」
「それがいいや」とブルーノが叫んだ。「そしたらぼく、お仕事しているあいだ、毛虫のお話ししてあげる」
「よし、毛虫のお話をきこう」とぼくはいい、小石をぜんぶ山積みにし、色分けをしはじめた。
するとブルーノはまるで独り言をいうように、小さな声で早口にはじめた。「昨日《きのう》ぼく二匹のちいちゃい毛虫を見たの、森にはいったすぐんとこの小川のそばにすわってたときね。二匹とも緑色で、目は黄色くて、ぼくのことに気がつかないんだ。そしてね、一匹は蛾の羽根を運んでた――おっきくて茶色の蛾の羽根さ、からからに乾いて、毛がついてるんだ。だから食べるためじゃなかったんだろうな――きっと冬の外套にするつもりだったんだよね?」
「きっとね」とぼくはいった。ブルーノがおしまいの言葉を質問みたいにねじあげて、返事を求めてぼくを見たからだ。
その一言でその子は満足し、上機嫌で先をつづけた。「それでね、だからその毛虫はもう一匹の毛虫に蛾の羽根を見せたくなかったんだ――だから左側の足でそれを運んで、反対側の足で歩くよりしようがなかったのさ。もちろん、ころんじゃったよ、そのあと」
「何のあと?」実のところ、たいして身を入れてきいていなかったから、ぼくは終わりの文句をとらえていった。
「ころんじゃったんだよ」ブルーノが大真面目で繰り返した。「毛虫のころぶところ、おじちゃんがいっぺんでも見たことあれば、大変なことだってわかるのにな。そしたらそんなふうに、にやにや笑ってなんかいられるもんか――ぼく、もう話してあげないから!」
「ごめんごめん、ブルーノ、にやにやするつもりなんかなかったさ。ほら、もうすっかり真面目だろ」
しかしブルーノは腕組みをするばかりで、それからこういった。「話しかけないで。おじちゃんの片っぽうの目にきらきらするものが見える――お月さまそっくりだ」
「どうしてぼくがお月さまみたいなの、ブルーノ」とぼくが尋ねた。
「顔がお月さまみたいに大きくてまんまるだもん」ブルーノはぼくの顔をつくづくと見つめながら答えた。「あんまりぴかぴかじゃないけど――でも、もっときれいだね」
これには思わず口もとがゆるんだ。「おじさんはね、ときどきこの顔を洗うんだよ、ブルーノ。お月さまはそんなことしないだろ」
「ううん、しないことないもん」とブルーノが叫んだ。それから身を乗り出し、もったいぶったささやき声でつづけた。「お月さまの顔は毎晩どんどん汚れていって、端から端まで真黒になってしまうの。そしてぜんぶ汚れてしまったら――そしたら」(彼はしゃべりながら自分のばら色の両頬に片手を走らせた)「それから顔を洗うの」
「それでもとどおり、すっかりきれいになるんだね?」
「すぐにじゃないんだよ」とブルーノがいった。「ずいぶん教えなくちゃならないんだなあ。少しずつ洗うんだよ――ただね、反対の端からはじめるの」
このときにはブルーノは腕組みしたまま、二十日鼠の死骸に腰かけて休んでいたから、草むしりのほうはちっとも進まなかった。そこでぼくはこういわねばならなかった。「仕事が先で、遊びはあとまわしだ。あの花壇が仕上がるまで、もうおしゃべりはやめだよ」
[#改ページ]
第十五章 ブルーノの復讐
それからしばらく、ぼくらは黙っていた。その間ぼくは、小石を色分けしたり、ブルーノ流の庭づくりを愉快にながめていた。それはぼくにとって実に目新しい方法だった。彼は草をむしる前にかならず花壇をいちいち測るのだ。まるで草をとったら花壇が縮むとでも思っているようだった。そして一度、それが彼の思惑よりも長くなると、小さなこぶしで二十日鼠をこつんとたたきながら、大声をあげた。「そらみろ。まただめじゃないか。ぼくがいってるのに、どうしてしっぽをまっちゅぐしてないんだ」
「ねえ、いいことあるよ」ふたりで精出していると、ブルーノがちょっとささやくようにいった。「妖精って、好きでしょ?」
「ああ」ぼくはいった。「むろん好きだよ。でなければここへはこなかったろう。どこか妖精のいないところへいったさ」
ブルーノはあきれたというふうに笑った。「ふん、空気のないところへいくっていうのと同じだよ――空気がきらいならさ」
これは少々のみこみにくい理屈だった。ぼくは話題を変えた。「きみはぼくがはじめて会ったといっていい妖精だ。ぼくのほかにも人間を見たことあるかい?」
「たくさんね」とブルーノがいった。「道を歩いてるとき、見るのさ」
「だけどきみの姿は、その人たちには見えないだろ。よく踏みつぶされないね」
「踏めっこないんだ」ブルーノはぼくが何もわからないのをおもしろがっていった。「ほら、おじさんが歩いてるとして、ここを――こう――」(地面に小さな印《しるし》をつけて)「それから妖精が――ぼくだよ――こっちを歩いてる。そのときおじさんの片足はここで、もう片足はこっち、だから妖精を踏まないの」
これは説明としては上出来でも、ぼくには納得いかなかった。「なぜぼくの片足は妖精の上じゃいけない?」ぼくはたずねた。
「なぜって、知らないな」考えこむような口ぶりで幼な子がいった。「でも、どうしてもできないってことは知ってる。妖精の頭の上を歩いた人間なんかひとりもいないもん。ねえ、そんなに妖精が好きなら、いいことあるよ。妖精の王さまの夕食会に招待してあげる。召使頭を知ってるんだ」
この思いつきにぼくは思わず笑ってしまった。「召使がお客を招待するかい?」ぼくはきいた。
「ううん、お客になるんじゃないよ」ブルーノがいった。「お給仕するのさ。おじさんって、そういうこと好きでしょ。お皿なんかを配るの」
「さあね、でもテーブルにつくほどよくはないな」
「あたりまえだよ」ブルーノはぼくの無知を憐れむような口ぶりでいった。「だけど、なんとか卿でもないのに、席に坐ろうなんてむりでしょ」
ぼくはなるべく穏やかに、当てにはしないが、ただぼくが夕食会にでかける楽しみは、実のところそれ以外にない、といった。するとブルーノは頭をつんとあげ、だいぶご機嫌ななめな口ぶりで、好きなようにしてよ――どうしてもいきたいといっている人はたくさんいる、といった。
「きみはいったことあるの、ブルーノ」
「先週一度、おまねきを受けたよ」ブルーノはたいそう真顔でいった。「スープ皿を洗いに――ううん、チーズ皿さ――すごくすてきだったよ。ぼく、お給仕したの。ひとつしか間違わなかったよ」
「何をやったんだい」ぼくはいった。「おしえてくれたっていいだろ?」
「牛肉を切るのに鋏《はさみ》をもってっただけさ」ブルーノはさらりといってのけた。「でも、いちばんすてきだったのは、ぼくが王さまにりんご酒をおもちしたことだよ」
「そいつはすてきだ!」ぼくは唇をかみ、吹き出しそうになるのをこらえていった。
「でしょう?」ブルーノは大真面目だった。「みんながそんな名誉を受けたわけじゃないんだ」
このことからぼくは、世間で「名誉」と称するさまざまの奇妙な事柄を考えはじめたが、結局そうしたものは、ブルーノが王にりんご酒をもっていって感じた名誉にまさるものではないのだ。
ブルーノに突然声をかけられなければ、ぼくはいつまでこんなふうに夢想しつづけたろう。「ああ、早くきて!」彼はおそろしく興奮した叫び声をあげた。「そっちの角《つの》、もって! もうおさえてられないよ!」
彼は大きなかたつむりと死物狂いの格闘をしていた。片方の角《つの》にしがみつき、葉の上に引きずりあげようと、小さな背骨を折らんばかりにしていた。
こんなことをつづけさせては、花壇づくりどころではないと見てとって、ぼくはそっとかたつむりをさらって彼の手のとどかない土手の上に置いた。「かたつむり狩りはおあずけだよ、ブルーノ」とぼくはいった。「ほんとうにつかまえたいならね。でもつかまえて何になるかな」
「狐をつかまえてなんになるの?」ブルーノがいった。「おとなは狐狩りするじゃない」
「おとな」の狐狩りはよくて彼のかたつむり狩りはいけないという、なにか気のきいた理由を思案してみたが、何もひらめかなかった。それで仕方なくぼくはこういった。「そう、どっちも同じだ。ひとつぼくも、いつかかたつむり狩りにいってみるかな」
「そんなに頭悪くないと思うけどな」とブルーノがいった。「かたつむり狩りにひとつで[#「ひとつで」に傍点]いくなんて。誰か片方の角《つの》をもってくれなきゃ、かたつむりはうまくつかまらないよ」
「もちろんひとりじゃいかないさ」ぼくは真面目くさって返事をした。「ところで狩りをするにはああいうのがいちばんいいかな、それとも殻のないのはどう?」
「だめだめ、ぼくたち、殻のないのはつかまえないんだ」それを考えて、ブルーノは少し身ぶるいした。「いつも気むずかしいんだ、すごく。それからね、ひっくり返したって、とってもねばねばするしさ」
このころには、花壇は九分どおりできあがった。ぼくはすみれを何本かとってきた。するとその最後の一本を植える手伝いをしていたブルーノが、急に手をやすめていった。「ぼく、くたびれた」
「じゃあ、休んだら」とぼくはいった。「あとはひとりでうまくやるよ」
ブルーノに二度の勧めはいらなかった。彼はすぐに、二十日鼠の死骸を長椅子みたいにしはじめた。「歌を歌ってあげるよ」鼠をころがしながら彼がいった。
「いいね」とぼくはいった。「歌は大好きさ」
「なんの歌がいい?」とブルーノはいって、ぼくがよく見える位置に二十日鼠を引きずってきた。「『りん、りん、りん』がいちばんいいよ」
こうきっぱりいわれては、さからいようがなかった。それでも少しの間、ぼくは考えるそぶりをし、それからいった。「うん、『りん、りん、りん』がいちばんいいね」
「音楽のよくわかる証拠だな」満足した顔つきでブルーノはいった。「つりがね水仙はいくつにする?」そして彼は親指をくわえ、ぼくといっしょに思案した。
(画像省略)
すぐ手のとどくところに、つりがね水仙が一房しかなかったので、ぼくはもっともらしく、今回は一房にしようといい、それを摘みとって彼に渡した。ブルーノは楽器の調子をみる演奏家のように、一、二度指先を花の上下に走らせ、そのたびに、実に甘く可愛らしい、りん、りんという音色を奏でた。ぼくは花の音楽などいままで聞いたことがなかった――「妖氛《ようふん》」にならなければ、聞けないのだろう――それがどんなふうだったか、ただ千マイルもかなたの鐘の響きのように聞こえたとしか説明のしようがない。花の調子に満足すると、彼は死んだ二十日鼠の上に腰をおろし(実際、ほかの場所では居心地が悪いらしい)、それから楽しげにきらきら輝く目でぼくをみあげて歌いだした。ところで、これは少々風変わりな曲だった。きみも自分で歌ってみたいだろうから、ここへ楽譜を書いておこう。
(画像省略)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから2字下げ]
起きよ! 日暮れて
ふくろうがほー、ほー、ほー
目覚めよ! 湖に
小人《こびと》の笛ピーララ
妖精の王むかえ
歌おう
[#ここで字下げ終わり]
曲に合わせてつりがね水仙のチャイムを鳴らしながら、彼は最初の四行を元気よく、陽気に歌った。が、あとの二行はごくゆるやかに、やさしく歌って、花は前後にふっただけだった。それから彼は歌をやめて説明をはじめた。「妖精の王さまはオベロンていうの、湖のむこうに住んでるんだ――それで時々、小舟にのっていらっしゃるの――そうするとみんなでお迎えにいってね――この歌を歌うんだよ」
「すると、きみもいっしょにお食事するのかい?」ぼくはいたずらっぽくいった。
「しゃべっちゃだめ」ブルーノがすかさずいった。「それじゃ歌えないじゃない」
ぼくはもうしゃべらないといった。
「ぼくだって歌ってるときはおしゃべりしないよ」彼はたいそう真顔でつづけた。「だからおじさんもいけないんだ」それから彼は、ふたたびつりがね水仙を鳴らしながら歌った。
[#ここから2字下げ]
聞けよ! あまねく
しのびくる調べ
谷間に妖精の鐘
楽しく、りん、りん、りん
妖精の王むかえ
鳴らそう
ごらんよ! 梢《こずえ》に
きらめく明かり
あれはほたるの灯《ひ》
ご馳走を照らす
妖精の王むかえ
揺らそう
急げよ! おいしい
ご馳走が待ってる
糖蜜たっぷり――
[#ここで字下げ終わり]
「しっ、ブルーノ」ぼくはそっと小声でおしえた。「お姉さんがくる」
ブルーノは歌をやめ、それから深い茂みのなかをゆっくり進んでくる彼女めがけ、突如、仔牛のごとく飛び出しながらこう叫んだ。「あっち見て! あっち見て!」
「どっちなの?」彼女はちょっとおびえた声できき返し、危険な場所を確かめようと、ぐるっとあたりを見まわした。
「あっち!」とブルーノはいって、用心ぶかく彼女の顔を森のほうへ向けた。「さあ、後ろへさがって――そっと歩くの――こわがらないで、つまずかないから」
ところがそうはいっても、シルヴィーはつまずいてしまった。実際、大あわてのブルーノが木切れや小石だらけの道を歩かせたので、その子がころばずにいられたのは本当に不思議なくらいだった。だが彼は無我夢中で、そんなことは考えてもいなかった。
花壇全体が一目で見わたせるように、彼女を案内するいちばんいい場所を、ぼくは黙ってブルーノに指さした。そこは、じゃがいもくらいの高さに盛りあがっていた。そしてふたりが登ってしまうと、ぼくはシルヴィーに見つからないように木陰にかくれた。
ブルーノが得意になって、「もう見ていいよ!」と叫ぶのが聞こえ、つづいて手をたたく音がしたが、それはブルーノがたたいたのだった。シルヴィーは何もいわなかった――ただ両手を組み、じっと眺めているばかりなので、彼女の気に入らなかったのかと、ぼくは少々不安になった。
ブルーノも心配そうに彼女を見つめていた。やがて彼女が下へ飛びおりて、小さな歩道を行ったり来たりしはじめると、彼はそろりそろりとそのあとをついてまわった。自分が何もいわないうちに、シルヴィーが独り合点しないかと明らかに気が気でなかったのだ。そしてついに、彼女は大きく息を吸い、判決を下した――早口のささやき声で、文法にはおかまいなしに――「なんてきれいなの、いまの前まで見たこともないわ」このときの小人《こびと》くんの喜びようといったら、まるでイギリスじゅうの判事、陪審員にそろって申し渡されたようだった。
「それで、ほんとうにぜんぶひとりでしたの、ブルーノ」シルヴィーがいった。「あたしのために?」
「ちょっぴり手伝ってもらったけど」彼女の驚きぶりに嬉しそうに笑って、ブルーノがいった。「お昼からずっとかかったよ――お姉ちゃんが気に入ると思ってさ――」するとこのとき、その子の唇がひくひくとふるえ、いきなりわっと泣きながらシルヴィーに駈けよると、ぎゅっと彼女の首に抱きついて肩に顔をうずめた。
「まあ、どうしたの」こうささやいたシルヴィーの声もかすかにふるえていた。それから彼の顔を起こし、キスしようとした。
だがブルーノは、泣きじゃくりながら彼女にしがみつくばかりで、すっかり打ち明けるまではどうにもなだめようがなかった。「ぼく、しようとしたの――お姉ちゃんのお庭こわしちゃおうって――はじめは――でも、だめなの――だめなの――」このときまた涙がこみあげて、あとの文句がそれに溺れてしまった。やっと言葉が口をついた。「ぼく好きだったよ――お花植えるのが――お姉ちゃんのために、シルヴィー――あんな楽しかったことないんだ」そしてばら色の小さな顔が、ようやくキスをもらおうと仰向いたが、実のところ涙でぐっしょり濡れていた。
シルヴィーもこのときには泣いていて、ただ、「ブルーノ、いい子ね」「あたしもこんなに楽しかったことなくてよ」というのがやっとだった。けれども、こんなに楽しかったことない、このふたりの子供が、なぜそろって泣いているのか、ぼくには謎だった。
ぼくもたいそう楽しい気分だった。とはいえむろん泣きはしなかった。「おとな」はけっして泣いたりしない――そういうことはみな妖精たちにまかせよう。ただちょうどこのとき、雨が降っていたにちがいない。というのも、ぼくの頬に一、二滴しずくを見つけたからだ。
そのあとふたりは花から花へ、もう一度花壇をひとめぐりした。まるでふたりでひとつの長いセンテンスを綴っているように、読点のかわりに何度もキスをし、終止符にはしっかりと抱きあって、そのひとめぐりが終わった。
「あれね、ぼくの深=流だったの、シルヴィー」ブルーノが真面目くさってきりだした。
シルヴィーが晴れやかに笑った。「いったいなんのこと?」彼女はいった。そしてふさふさした金髪を両手で後ろにかき流し、大きな涙のしずくのまだきらめく瞳を踊らせながら彼を見た。
ブルーノは大きく息を吸い、一大努力をしようと口恰好をととのえた。「こうだよ、復=讐」彼がいった。
「ね、わくったでしょ」ついにその言葉が正しくいえたことに、彼はうらやましいくらい幸せな、誇らしい顔をした。どうやらシルヴィーはぜんぜん「わくらなかった」らしい。が、彼女はわかったような様子で、彼の両頬に軽いキスをした。
それからふたりは腕を組み、歩きながらささやいたり笑ったりして、仲よくいっしょにきんぽうげのなかに歩み去り、哀れなぼくを一度しかふり返ってくれなかった。そう、一度、ふたりの姿を見失う直前に、ブルーノは顔を半分こちらにむけて肩ごしにうなずいてみせ、ちょっと生意気なさよならをした。そしてぼくの骨折りにたいするねぎらいはこれだけだった。ふたりを見た最後はこうだ――シルヴィーがブルーノの首に両腕をまわし、かがみこんで、すかすように耳元にささやいていた。「ねえ、ブルーノ、さっきのむずかしい言葉、すっかり忘れてしまったわ。もう一度いって。さあ! これっきり一度でいいのよ」
だがブルーノは二度といおうとしなかった。
[#改ページ]
第十六章 伸縮自在の鰐
驚異――神秘――それがぼくの人生からしばし消え失せてしまっていた。そして月並みが君臨した。ぼくは伯爵の邸へと行先を転じた。ちょうど五時の「魅惑の時刻」で、そろそろお茶の用意がととのい、くつろいだ世間話でもはじまる頃だった。
ミュリエル嬢とその父親はたいへんに暖かく迎えてくれた。彼らはぼくたちが上流社会の客間で出会う人種とは別だった――おきまりの温和という素通しのきかない仮面の下にともすれば持ち合わせているような感情をひた隠しにする人々とはちがうのだった。「鉄仮面」とは、なるほどあの時代には珍しくもあり驚きでもあった。当節のロンドンでは、誰もふり返りはしまい。そう、このふたりこそ本当の[#「本当の」に傍点]人だった。このふたりが嬉しい顔つきをしたら、それはそのまま嬉しいということだった。だから、ミュリエル嬢が明るい笑顔で「またお会いできてとても嬉しいですわ!」といったとき、ぼくにはそれが真実だとわかっていた。
それでもぼくは、恋煩いの青年医師のいいつけ――ぼくにすれば馬鹿げていると思ったものの――にあえてそむくことはせず、彼のことをほのめかすことすらしないでおいた。そして彼らがピクニックの計画をことこまかに聞かせてくれて、それにぼくを誘ってくれてから、やっとミュリエル嬢が、ふと思いついたとばかりにいいだした。「そうそう、よろしかったら、ぜひフォレスター先生をお連れくださいね。田舎の一日はきっとあの方のためになります。勉強ばかりなさって――」
「彼の読む本、女の本音」という文句の引用がぼくの「口まで出かかった」ものの、すんでのところで押しとどめた――通りを横切ろうとして、危うく辻馬車に轢《ひ》かれそうになった、そんな気分だった。
「――それにあの方、いつもひとりぽっちでばかりいますもの」と裏の意味を勘ぐる余地もないほど優しい真剣な様子で、彼女はつづけた。「どうぞお連れくださいな。日をお忘れになっては困りますわ、来週の火曜日。馬車でご案内できましてよ。汽車でいくなんて惜しいですもの――道をいくほうが景色はずっときれい。それに宅の幌なし馬車はちょうど四人乗りです」
「ええ、なんとしてでも連れてきますよ」とぼくは自信たっぷりにいって――こう考えた。「思いとどまらせるほうが、よほど説得にてこずるだろう」
ピクニックは十日後の予定だった。アーサーはぼくのもたらした招待にはすぐさま応じたが、しかしそれまでの間に伯爵と令嬢を訪ねていくのは――ぼくといっしょであろうとなかろうと――どうしても気乗りがしないと、何をいってみてもききいれなかった。いく気になれない、「たびたび訪問して煙たがられる」のではないか、彼はそういうのだった。先方に「顔を出しすぎている」というわけだ。そしてついに遠出の日がやってくると、彼は子供のように神経をたかぶらせ落ち着かなくなってしまったので、ぼくはべつべつに邸へいく手はずをととのえるのがいちばんだと考えた――ぼくの思惑は、彼より少し遅れて到着し、彼に出会いを成功させる時間を与えることだった。
そういう目的で、ぼくは館《やかた》(伯爵の邸をぼくらはそう呼んだ)までわざわざかなり遠回りをしていった。「これでちょっぴり道に迷いでもしたら」とぼくは内心思った。「それこそ申し分ないんだが」
これは思ったよりも首尾よく、しかもすぐに実現してしまった。森を抜けるその道は、前にエルヴェストンを訪れた折、何度もひとりでぶらついていたので馴染みぶかかった。それがどうしてこうも突然、しかもまるっきり迷ってしまえたものか――いくらぼくがアーサーとその愛《いと》しのご婦人のことを考えるのに夢中で、ほかに気を配っていなかったにせよ――不思議であった。「それにしても、この開けた場所は」とぼくはひとりごちた。「はっきり思い出せないが、なにやら覚えがある――まさしくあの妖精の子供たちに出会った場所だ! しかし蛇がいないといいがな」横倒しの木に腰掛けて、ぼくはつい声に出していった。「まったく蛇ってやつは好きになれん――それにブルーノだって好きじゃなかろう」
「ええ、好きじゃないのよ」とぼくのかたわらで取りすました小さな声がした。「あの子、こわがりはしないの。でも好きではないわ。あれはくねくねしすぎるんですって」
(画像省略)
この小さなふたり組の美しさを描写しようにも、ぼくには言葉が浮かばない――倒れた木の幹の上のひとかたまりの苔に寝ころんだその姿に、ぼくはじっと見とれた。シルヴィーは片肘を苔にうずめ、ばら色の片頬をてのひらにのせて横たわっていて、ブルーノは彼女の膝を枕に、その足元にのびのびと横になっていた。
「くねくねしすぎる?」こんな急場にぼくはそれしかいえなかった。
「ぼく、気むずかしくないよ」ブルーノがさらりといった。「でも、まっすぐな動物がいちばん好きさ――」
「だって、犬がしっぽをくねくねするときは好きじゃないの」とシルヴィーが口をはさんだ。「ね、そうでしょ、ブルーノ」
「だけど犬にはもっとあるもんね、ミスター・サー」ブルーノはぼくに訴えた。「おじちゃんだって、頭としっぽちかない犬だったらほしくないだろ?」
そんな類いの犬ではつまらないだろうと、ぼくは同意した。
「そんな犬はいないもの」シルヴィーが考えぶかげにいった。
「でもいるかもしれないよ」とブルーノが叫んだ。「教授が縮めてくれればさ」
「縮めるって?」とぼくはいった。「そいつは初耳だ。どういうふうにするの?」
「奇妙な機械をおもちになって――」とシルヴィーが説明しはじめた。
「すっごく奇妙な機械なんだ」そんなふうに自分の口からこの話を取りあげられるのが気に入らなくて、ブルーノが割り込んだ。「それで入れるでしょ――なんかちらをさ――片っぽにね――そしてハンドルをまわすんだ――するともう片っぽから出てきて、ね、とっても短いんだ」
「短いったらないの!」シルヴィーも口をそろえた。
「それである日――アウトランドにいたときだよ――フェアリーランドにくる前さ――ぼくとシルヴィーが大きな鰐を連れてったの。そしたら教授が縮めてくれたんだ。そしたらすごくおかしな恰好になったなあ。でね、そいつったら、ぐるぐるまわり見てさ、『わしの残りはどこへいっちまった』っていうんだ。それから目が悲しそうになって――」
「両方の目じゃないわ」とシルヴィーが口をはさんだ。
「もちろんだい」と小さな子はいった。「残りがどこへいったか見えなかった目だけさ。でもどこだか見えたほうの目は――」
「鰐はどれくらい短くなったの?」話が少々こみいってきたのでぼくは尋ねた。
「つかまえたときの半分の、もうその半分に短くなったよ――これくらい」といって、ブルーノは両腕をいっぱいにひろげた。
これがどれくらいになるものかと考えてみたが、ぼくには見当がつきかねた。これを読んでいるよい子よ、どうか教えてくれたまえ。
「でも、気の毒な鰐くんをそんなに短いままにしておかなかったろうね」
「うん、そうさ。シルヴィーとぼくとで連れて帰ってから、ずっと伸ばしてあげたよ――ずっと――どのくらいだっけ、シルヴィー?」
「二倍半と、もうちょっぴりね」とシルヴィーがいった。
「それだと前より気に入らないんじゃないかな」
「ううん、だって気に入ったんだ!」ブルーノが気負っていった。「新しいしっぽに得意になってたもん。あんなに得意になった鰐なんていなかったさ。そうさ、あいつはぐるっとまわって、しっぽの上を歩いて、背中を通って、ずっと頭までいけたんだからね」
「そんなずっとなんかじゃないでしょ」とシルヴィーがいった。「できっこなかったわ」
「ふん、でもやったの、一回ね!」とブルーノが意気揚々と叫んだ。「お姉ちゃんは見てなかったんだ――でも、ぼくはちゃんと見たの。そろっそろっと歩いたよ、自分のこと目を覚まさせちゃいけないってね、だってあいつったら眠ってるつもりだったもん。それで前足をふたつともしっぽにのっけたの。そして歩いてさ、ずっと背中を歩いたんだ。そして歩いてさ、おでこの上を歩いたんだ。そしてちょっぴり歩いたらお鼻にきたよ。ほらね!」
(画像省略)
これはさっきの謎よりいっそうひどくなった。よい子よ、どうかもう一度助けておくれ。
「自分のおでこを伝って歩かない鰐がいなくなくないなんて信じられない!」とシルヴィーが叫んだ。このやりとりに興奮したあまり、否定詞の数をおさえきれなくなったのだ。
「どうしてそうしたのか、理由も知らないくせにさ」ブルーノがつんとしていい返した。「すっごくいい理由があったんだから。あいつがいうのをちゃんと聞いたんだ。『わしがわしのおでこの上を歩いちゃならんかな?』ってさ。だからもちろん歩いたんだよ」
「それがいい理由なら、ブルーノ」とぼくはいった。「きみがあの木に登っちゃならんかな?」
「いいよ、すぐね」とブルーノはいった。「お話がすんだら。ひとりが木に登っていて、もうひとりが登らないんじゃ、ふたりたちがいっちょに軽適《けいてき》にお話しできないでしょ」
たとえ「ふたりたち」双方が登るにしても、木登りの最中の会話はまず「軽適」とはいくまいと思われたが、ブルーノの理論に対抗するのは明らかに危かしかった。そこでこの質問はやめにして、ものを引き伸ばす機械の説明を求めるのが最善だとぼくは考えた。
今度はブルーノも思案にくれて、シルヴィーにそれを譲った。「しわ伸ばし機みたいなのよ」と彼女がいった。「ものを入れると、それがしめつかれて――」
「しめつけたられるだよ!」ブルーノが口をはさんだ。
「ええ、そう」シルヴィーはこの訂正を受け入れたが、繰り返しいってみようとはしなかった。明らかに彼女にははじめての言葉だった。「ものが――そういうふうになって――そして出てくると、それはもう、長いったらないの」
「一度ね」とブルーノがまた口を開いた。「シルヴィーとぼくがこしらえたったの――」
「こしらえた!」シルヴィーがそっといった。
「うん、ぼくたち童謡をこしらえたったの。それを教授がもっと長く伸《の》してくれたんだ。こんなのだったよ。『ちっちゃな男がおりました、ちっちゃな鉄砲をもっていた、それから弾《たま》は――』」
「あとは知ってるよ」とぼくは口をはさんだ。「でも長いってきみはいうね――つまり、それがしわ伸ばし機からどういうふうに出てきたかってことなんだが」
「教授に歌ってもらいましょうよ」とシルヴィーがいった。「口でいったら台無しですもの」
「教授に会ってみたいな」とぼくはいった。「そしてみんなを連れていって、ぼくの友達に会わせたいな、このすぐ近くに住んでいるんだ。きてくれる?」
「教授はいかないっていうわ」とシルヴィーがいった。「とてもはにかみやさんなの。でも、あたしたちはとってもいきたいな。ただ、この大きさのままでいかないほうがいいでしょ」
この難題はすでにぼくの心に浮かんでいた。こんなに小さな友人たちを社交界に紹介するとなれば、たぶんちょっぴり厄介なことになりそうだと思っていたのだ。「きみたち、どれくらいの大きさになるの」とぼくは尋ねた。
「あたしたち、そうね――ふつうの子供くらいがよさそう」とシルヴィーが思案ぶかげに答えた。「その大きさになるならいちばん簡単ですもの」
「今日こられるかな」とぼくはいって、「それならピクニックにいっしょにいけるぞ」と思った。
シルヴィーはちょっと考えた。「今日はだめ」と彼女は答えた。「いろんな用意ができてないもの。いけるのは――来週の火曜日よ、もしよかったら。さあ、ほんとにブルーノ、もういってお勉強しなくちゃね」
「『ほんとにブルーノ』っていわないといいのになあ」とこの小さな子は唇をとがらせて申し立てたが、それがいっそう可愛らしかった。「いつだって、そのあとにさ、なんかいやなことあるんだもんな。だからあんまり意地悪すると、キスしてあげないんだ」
「あら、なのにいまキスしてくれたじゃない!」とシルヴィーが楽しげで得意そうに声をあげた。
「それじゃ、ぼく、取り消しキス[#「取り消しキス」に傍点]するよ」そして彼はこの新しい、といってさほど苦痛でもなさそうな作戦のために、彼女の首に両腕でさっと抱きついた。
「まるでキスと同じじゃない」唇が自由になって話せるようになると、すぐにシルヴィーがいった。
「なんにもわかんないんだなあ。ただのぶつけっこ!」とブルーノは強がりをいって、すたすた歩きだした。
シルヴィーが笑顔でぼくにふり返った。「火曜日にいっていいかしら」と彼女はいった。
「いいとも」とぼくはいった。「つぎの火曜日にしよう。それで教授はいまどこにいるの。いっしょにフェアリーランドへきたのかい」
「いいえ」とシルヴィーはいった。「でも、いつの日か会いにくるからって約束してくださったわ。講義の準備をなさっているの。だから家にいなくちゃならないって」
「家に?」彼女が何といったかよくわからないままに、ぼくは夢見心地でいった。
「はい、さようで。伯爵さまとミュリエルさまはご在宅でございます。さあ、どうぞこちらのほうへ」
[#改ページ]
第十七章 三匹の穴熊
いっそう夢見心地になって、有無をいわせぬこの声に連れられて部屋へはいると、そこに伯爵と令嬢、そしてアーサーが坐っていた。「あら、やっとお越しですのね」とミュリエル嬢が、おどけて叱るような口調でいった。
「遅くなってしまって」とぼくは口ごもった。もっとも、遅くなったわけが何であったか説明することになったら、まごついてしまっただろう。あれこれきかれなかったのは幸いだった。
馬車がおもてにまわされ、ピクニックのために皆の持ちよった品々を詰めたバスケットがとどこおりなく積み込まれると、ぼくらは出発した。
ぼくが会話を運んでいく必要はまったくなかった。ミュリエル嬢とアーサーとは見るからに、あのいちばん楽しい間柄にあった。そういう間柄にあっては、つぎつぎと浮かぶ考えが唇にのぼってくるとき、「これは適当ではないだろう――これは怒らせはしないだろうか――これは深刻すぎるだろう――これは不真面目ではないだろうか」などと懸念して、それをいちいちとどめようとすることも要らないのだ。旧知のごとくにすっかり打ちとけあって、ふたりの語らいはさざなみを立てた。
「ピクニックはやめにして、別の方角へいくのはどうかしら?」とミュリエル嬢が出し抜けに提案した。「四人いるんですもの、充分じゃなくて? 食べるものならバスケットに――」
「どうかしら? これぞまさしくご婦人の論法だな」とアーサーが笑った。「ご婦人は挙証責任《オヌス・プロバンデイ》――立証の義務――がどちらの側にあるか、ぜんぜんわからないんだから」
「男の方はいつでもわかっていらっしゃるの」とミュリエル嬢が、おしとやかな従順さを可愛らしく気取って尋ねた。
「ひとり例外があるね――ぼくの思いつくただひとりなんだが――ウォッツ師さ、彼はこんなわけのわからない問いを発している。
[#ここから2字下げ]
『どうしてわたしが隣人の意志にそむき
その持てるものを奪ったりしようか?』
[#ここで字下げ終わり]
これが正直の論証だなんて。『盗む理由がわからないからこそ、わたしは正直である』というのが彼の立場らしい。すると盗人の答えだって当然、完璧《かんぺき》だし文句のつけようもないわけだ。『わたしが隣人の持てるものを奪うのは、それをわがものとしたいからだ。そして、そのことを隣人に納得させる機会がないゆえに、わたしは隣人の意志にそむいて奪うのだ』」
「もうひとつ例外があるのだがね」とぼくがいった。「今日、聞いたばかりの論証でね――ご婦人からではないが。『わしがわしのおでこの上を歩いちゃならんかな?』」
「考えるにはとっても風変わりな問題!」といって、ミュリエル嬢があふれんばかりの笑みをたたえた瞳をぼくにむけた。「どなたがそんな問題を提出なさったのかしら。それでその方、ご自分のおでこの上を歩きまして?」
「さて、誰がいったのだったか」とぼくは口ごもった。「どこで聞いたのやらも思い出せなくて」
「どなたにしろ、ピクニックでお会いしたいものですわ」とミュリエル嬢がいった。「『絵のような廃墟じゃありませんこと?』とか、『紅葉がきれいですね?』なんてきかれるよりずっと愉快。今日の午後には、そんなふたつの質問に少なくとも十遍は答えなくてはなりませんもの」
「そこが社交のつらいところさ」とアーサーがいった。「そんなことをひっきりなしにいわないで、自然の美しさを楽しませてくれないものかな。どうして人生をひとつの長い教理問答にしてしまうのだろう」
「画廊でも同じように始末が悪くてな」と伯爵が口を開いた。「この五月に、とある自惚れた若い画家と王立美術院へいってきたのだが、その男にはいやはや参ってしまった。勝手に絵の批評をするのはかまわんのだが、こっちもそれに同意せにゃならん――さもなくばその意見をあげつらうことになる、そうなるとますますかなわん」
「あら捜しの批評だったでしょうね、もちろん」とアーサーがいった。
「『もちろん』とはどういうことかね」
「つまり、自惚れた男が絵をほめちぎるなんてことはありませんよね? そういう男が(注目されないことのつぎに)恐れているのは、誤謬に陥りやすいと証明されることです。絵をほめちぎったが最後、誤謬不可能たる性格は危っかしくなりますからね。かりに人物画で、それを思いきって『よく描けている』と評する。それを誰かが測って、どこか比率が八分の一インチ狂っているのを見つける。すると批評家としてはお払い箱ですよ。『よく描けているといったね』と友人たちに皮肉たっぷりに問い質されて、うなだれて赤面するのがおちです。それではまずい。ただひとつ安全な道は、誰かが『よく描けている』といったら、肩をすくめてみせることです。『よく描けている?』と考えぶかげに繰り返す。『よく描けている? ふふーん』これが偉大な批評家になる流儀ですね」
こうして浮き浮きと談笑しながら、美しい景色のなかを何マイルか楽しく馬車を走らせて、やがてぼくらは集合場所――城跡――に到着した。ピクニックの一行のほかの人たちはすでに集まっていた。一、二時間ほど廃墟のあたりをぶらついたあと、誰いうともなくいくつかの適当なグループにまとまって、古城一帯が見わたせる丘の中腹に腰をおろした。
つづいて訪れた束の間の沈黙を素早く占領した――というか、もっと正確には監禁してしまったのは、ひとつの声だった。その声はあまりになめらかで、単調で、朗々としていたので、ほかのどんな会話も締め出されてしまい、しかもなんらかの非常手段でも講じないかぎり、いつ終わるともしれない講演を聞かされる羽目に陥るのではなかろうかと、一同をぞっとさせた。
この講演者はがっしりした体格の男で、その大きい平べったい青白い顔は、北は頭髪が、東と西は頬ひげが、南は顎ひげがもじゃもじゃと境界線をなしていた――全体が白いもののまじった褐色のごわごわした毛で一様に後光を形づくっているのだ。顔つきときたらまるきり表情に欠けているものだから、ぼくは――思わず悪夢にとりつかれたように――自分にいいきかせざるをえなかった。「あれは鉛筆の下書きにすぎん、仕上げがまだなんだ!」おまけに彼はひとつものをいい終えるたびに、突然にたっと笑ってみせ、その笑いがあのだだっぴろい無表情の顔にさざなみのごとくひろがって、たちまち消え失せ、あとには確固たるいかめしさが残るのだった。だからぼくはこうつぶやかざるをえなかった。「あの男じゃないんだ、誰か別の男が笑ったんだ!」
「おわかりかな?」(これがこの厄介者がものをいいだすときの決まり文句だった)「おわかりかな、廃墟のいちばんてっぺんのあの壊れたアーチが澄みきった空にそびえておる。まさしくぴったりの位置じゃ、大きさがまたぴったりだ。ほんの少し多くても、ほんのわずか少なくても、すべてが完全にそこなわれる!」
「なんと天才的な建築家だ」とアーサーが、ミュリエル嬢とぼくにしか聞こえないようにいった。「死後数世紀たって廃墟となったとき、自分の作品が申し分ない効果をもたらすよう見越していたんだから」
「それから、おわかりかな、あの木々が丘をくだるあたりだが」(腕をひと振りし、自分がこの景観を配置したとばかりにもったいぶって指し示しつつ)「川から立ちのぼる靄《もや》が、芸術的効果のために朦朧《もうろう》たるものがなくてはならんあの間隔を、まさしくぴったりと満たしておる。こっちの前景では、二、三、鮮明なタッチがなかなかいい。しかし靄のない背景では! 実に野蛮だ! そう、朦朧たるものがなくてはならん!」
雄弁家がそんな文句を発しながら鋭くぼくを見るので、ぼくは何かしら答えないわけにもいかず、ぼく自身はそれがなくてはならんとは思わないし――それに、はっきり見えたほうが楽しめる、というようなことをつぶやいた。
「そのとおり!」偉大なる男はぴしゃりとぼくをさえぎった。「あなたの見解からいえば、なるほどそういうことになる。しかし芸術に心ある者にとっては、そうした見解は馬鹿げておりますぞ。自然は自然です。芸術は別物です。自然は世界をあるがままに見せる。だが芸術は――古代ローマ作家のいうように――芸術は、そう――文句をど忘れしましたが――」
「芸術は自然を隠すものなり」アーサーが当意即妙に口をはさんだ。
「そのとおり!」雄弁家がほっとした様子で応じた。「これはどうも! 芸術は自然を隠すものなり――いや、ちょいとちがうが」そしてしばし平穏な時が流れ、雄弁家は額にしわを寄せて、この引用句について考え込んだ。ありがたい一時《いつとき》が訪れたが、その静寂にまた別の声が割ってはいった。
「ほんとうにすてきな旧跡ですこと!」と叫んだのは精神の行進の権化のごとき、眼鏡をかけた若いご婦人で、まさしく独創的な発言をきいてもらえる打ってつけの相手としてミュリエル嬢を見やった。「それにあの木々の紅葉、ほれぼれしませんこと? わたくし、強烈に感じ入ってしまいますわ」
ミュリエル嬢はそらきたとばかりに、ちらりとぼくを見た。しかし感心するほど大真面目になって応じた。「ええ、ほんとう、ほんとうですわ! そうですとも!」
「それに不思議じゃありませんこと」と若いご婦人はにわかに感傷から科学へ移行した。「いくつかの有色光線が網膜上におよぼす刺激が、こんなえもいわれぬ喜びを与えてくれるなんて」
「生理学を学ばれたのですね、すると」と、ひとりの青年医師が礼儀正しく尋ねた。
「あら、そうですのよ。あれは魅力ある学問じゃありませんこと?」
アーサーがちょっとほほ笑んだ。「矛盾じゃありませんかな」と彼がつづけた。「網膜上にむすばれる像がさかさまになるというのは」
「それがわかりませんの」と彼女は率直に認めた。「なぜものがさかさまに見えないんでしょう」
「お聞きになっていませんか、脳もまたさかさまであるという説がありますが」
「いいえ! とっても美的な事実ですこと! でも、どういうふうに証明されていまして?」
「こうです」とアーサーは、十人の教授をひとまとめにしたような威厳をもって応じた。「われわれが脳の上部と称しているものは、実際には脳の底部なのですな。そして底部と称しているものが、実際には上部なのです。たんに命名法の問題です」
命名法が明々白々に問題を片付けた。「まあ、なんて楽しいこと!」女流科学者は熱っぽく叫んだ。「そんなえもいわれぬ理論をどうして教えてくださらなかったのか、生理学の先生に問い質してみますわ」
「問い質す現場になんとか居合わせたいものですね」とアーサーがぼくにささやいた。そのときミュリエル嬢から合図があって、ぼくらはバスケットの勢ぞろいした場所へむかい、そこでこの日のもっと肝心な仕事にとりかかった。
ピクニックに給仕の召使を連れていくという昨今の蛮行(双方の気まずさを保証し、どちらの利益も保証しないというふうに、ふたつの結構な事柄を兼ねそなえている)が、この片田舎にはまだおよんでいなかったので、みんなが自分で自分に「給仕」した――そしてもちろん、ご婦人たちにありとあらゆる「舌にも喉にも快きもの」がゆきわたるまで、紳士諸君は席につくことすらしなかった。それからぼくはなにやら固形のもの一皿となにやら液体のはいったグラスをとって、ミュリエル嬢のとなりに席を見つけた。
そこは空けてあった――明らかに、特別の客アーサーのために。ところが彼はしりごみしてしまって、さきほどの眼鏡の若いご婦人のとなりにおさまっていた。彼女の甲高く耳ざわりな声は「人間は特性のかたまりですわ」「客観は主観をとおしてのみ到達できるのです」といった険しい文句を、すでに一同に投げかけていた。アーサーは勇敢にもそれに耐えていた。しかし何人かの顔には当惑の色が浮かんだので、ぼくはそろそろ形而上学をはなれた話題にしてよい頃合だと考えた。
「わたしの子供の頃は」とぼくはきりだした。「天気が悪くて戸外でピクニックができないと、特別なピクニックを許されましてね、おおいに楽しかったものですよ。テーブルクロスをテーブルの下に敷くのですな、上じゃなくて。それを囲んで床に坐るんですな。あのなんとも落ち着かない正餐が、正式の流儀よりずっと楽しかったものですよ」
「そうでしょうね」とミュリエル嬢が答えた。「しつけのよい子って、規則どおりのことを何より嫌いますもの。ほんとうに腕白な子でもギリシア語の文法が大好きになるんじゃないかしら――逆立ちをして覚えることにしてあげれば。それに、そのカーペット=ディナーなら、ピクニックにつきもののことが確かにひとつなくなりますわ、あたくしにはいちばんいやなことが」
「雨の可能性ですかな?」とぼくがいった。
「いえ、可能性――というより確実性――食べ物といっしょに生き物が出てくるという。蜘蛛なんて、それこそぞっとしますの。それが父ときたら、あの気持をぜんぜんわかってくれませんの――ね、お父さま?」このとき伯爵がこれをききつけて、ふりむいたところだった。
「おのおのに悩みあり、すべて人なり」生来のものらしい甘く悲しげな口調で彼が答えた。「おのおのに虫が好かぬものあり」
「でも父の嫌いなもの、当てられっこありませんのよ」とミュリエル嬢はいって、ぼくの耳には音楽のように聞こえた可憐な銀の鈴の音のような笑い声をあげた。
ぼくは不可能なことを企てるのはやめにした。
「蛇が好きじゃないんです」と彼女は聞こえよがしにいった。「ね、これこそおかしな毛嫌いじゃありません? 蛇みたいに可愛くって、人なつこくって、まといついてくるくらい情のふかい生き物が嫌いだなんて!」
「蛇が好きじゃないって?」とぼくは叫んだ。「そんなことがありえますかな」
「ええ、好きじゃないんですって」と彼女は愛嬌たっぷりに重大めかして繰り返した。「恐がりはしないんですのよ。でも好きじゃないの。あれはくねくねしすぎるんですって」
ぼくは顔に出す以上に、もっと驚いた。あの小さな森の妖精からつい先刻聞いたばかりの文句そのままがこんなふうにひびいて、なにやら不気味な気がしたので、ぼくは一大努力をしてさりげなくこういうのがやっとだった。「そういう気持の悪い話はよしましょう。なにか歌っていただけませんか、ミュリエルさん。楽譜なしでも歌えることは知っていますよ」
「知っている歌といったら――楽譜なしでは――救いがたいほど感傷的なものばかりですわ。涙のご用意はよろしいかしら」
「いいとも! いいわ!」と四方から声があがると、ミュリエル嬢は――三、四回|請《こ》われるまでは辞退するのが礼儀上必要だと考えたり、うろ覚えだからとか声が出ないからとか、そのほかいろいろと歌わずにすむ理由をつくろう女性の歌い手とはちがって――すぐに歌いはじめた――
(画像省略)
[#ここから1字下げ]
「穴熊三匹、苔むす石にどっかりと
[#ここから3字下げ]
こんもり暗い道のそば、
[#ここから2字下げ]
みなそれぞれに君主を気取り
[#ここから3字下げ]
どっかりあぐらをかいたまま――
[#ここから2字下げ]
老いた父さん、ひとりでしょんぼり
[#ここから3字下げ]
それでもどっかと動かない。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから1字下げ]
「にしん三匹あたりをぶらぶら
[#ここから3字下げ]
苔むす王座にごいっしょしたい、
[#ここから2字下げ]
それがおのおの歌いだす
[#ここから3字下げ]
甘い生活見つけたわ、
[#ここから2字下げ]
かくてぎしぎしあやふや声で
[#ここから3字下げ]
べちゃくちゃべちゃくちゃ鳴きやまぬ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから1字下げ]
「母さんにしん、しょっぱい波にのっかって
[#ここから3字下げ]
いない娘《こ》むなしく捜してた、
[#ここから2字下げ]
父さん穴熊、心痛めて穴のなか
[#ここから3字下げ]
金切り声を張りあげて『帰っておくれ、
[#ここから4字下げ]
息子たち!
[#ここから2字下げ]
いい子にしてれば、あんパンやろう、
[#ここから3字下げ]
あんパン、あんパン、あんパンやろう』
[#ここで字下げ終わり]
(画像省略)
[#ここから1字下げ]
「『息子さんらはどこかへいっちまったかね』
[#ここから4字下げ]
母さんにしんがいったもの、
[#ここから2字下げ]
『うちの娘っ子たちもやはりそう、あたしの寝てるそのまにね』
[#ここから2字下げ]
穴熊いうに『おかみさん、まったくあんたのいうとおり、
[#ここから3字下げ]
家にいればいいものを』
[#ここから2字下げ]
かようにあわれな二親《ふたおや》は話して時をまぎらわせ
[#ここから3字下げ]
涙、涙、涙にくれた」
[#ここで字下げ終わり]
ここでブルーノが出し抜けに口をはさんだ。「にしんの歌はべちゅの曲がいいよ、シルヴィー」と彼はいった。「それに、ぼく歌えないもん――お姉ちゃんが弾いてくれないとさ」
すぐにシルヴィーは、たまたま一本のデイジーの前にはえていた小さな茸《きのこ》に腰かけて、まるでデイジーがこの世でいちばんありふれた楽器であるかのように、その花びらをオルガンの鍵盤みたいに弾きはじめた。それはなんとも楽しい小さな音楽だった。小さな小さな音楽だった。
ブルーノは首をかしげて、その旋律をつかまえるまでしばらく神妙に聴き入った。それから甘ったるく子供っぽい声がもう一度ひびいた――
[#ここから1字下げ]
「ああ、愛《いと》しき夢よりなお愛《いと》し
[#ここから2字下げ]
美しとおぼしきものより美しい!
宴にすごすばら色の時
円舞のうちに飲み歌おう!
[#ここから4字下げ]
祝福されん
のびやか人生――
[#ここから2字下げ]
イプウェルギス・プディンを食べつくし
飲むは神秘のアッジグーム!
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから1字下げ]
「さてもし別の日、別の時
[#ここから2字下げ]
別なる綿毛、別なる花にかこまれて
こんなふうにいわれたら――
[#ここから2字下げ]
『望みのものをなんなりと、汝のものとしてやろう』
[#ここから4字下げ]
ああ、そのときこそ
わが人生――
[#ここから2字下げ]
イプウェルギス・プディンを食べつくし
飲むは神秘のアッジグーム!」
[#ここで字下げ終わり]
(画像省略)
「もう弾かなくていいよ、シルヴィー。合奏《あいそう》がないったって、ぼく、べちゅの調子がとれるんだ」
「『伴奏がなくたって』のつもりなのよ」とシルヴィーがささやいて、ぼくの戸惑った顔にほほ笑みかけた。そして彼女はオルガンの音栓《ストツプ》を閉じるそぶりをした。
[#ここから1字下げ]
「穴熊三匹、魚と話すは気に召さぬ
[#ここから3字下げ]
にしんの歌におぼれはしない
[#ここから2字下げ]
そんな名前のご馳走なんぞ
[#ここから3字下げ]
お目にかかったこともなし
[#ここから2字下げ]
『ならば、おお、やつらのしっぽを挟んでしまえ』
[#ここから4字下げ]
(これが彼らのしたいこと)
[#ここから2字下げ]
『火箸《ひばし》で、そうだ、火箸だ、火箸!』」
[#ここで字下げ終わり]
ブルーノが空中に指で括弧のしるしをしてみせたことをいっておかなくてはならない。ぼくにはそれが実にうまい方法だと思われた。知ってのとおり、それを表わす音[#「音」に傍点]はない――疑問文の場合と同じことだ。
かりに友人に「きみは今日は元気」といったとして、相手に質問をしているのだとわからせたいとするなら、空中に指で「?」と書いてみせるほど簡単なことはありうるだろうか。相手はたちどころに了解するだろう。
[#ここから1字下げ]
「『この魚《うお》たちの母さんは』最年長がため息ついて、
[#ここから3字下げ]
『海のなかではあるまいか』
[#ここから2字下げ]
『ほんとに魚だ』答えた二番目、
[#ここから3字下げ]
『それに家出をしてきたな』
[#ここから2字下げ]
『いけない魚だ』末の穴熊声あげる、
[#ここから3字下げ]
『のこのこ、のこのこ、ほら、のこのこ』
[#ここから2字下げ]
「やさしく穴熊、浜辺へ小走り――
[#ここから3字下げ]
入江を縁どる砂の浜、
[#ここから2字下げ]
おのおの口には生きにしん
[#ここから3字下げ]
かの二親《ふたおや》は陽気になって、
[#ここから2字下げ]
海鳴り越えて声高らかに
[#ここから3字下げ]
『万歳、万歳、万歳だ!』」
[#ここで字下げ終わり]
「それでみんな無事におうちへ帰ったのさ」ぼくが何かいうかとちょっと待ってから、ブルーノはいった。明らかに、何かいってくれるべきものと思っていたのだ。だからぼくは、歌が終わるときの社交上のきまりのようなものがあったらよいのにと思わざるをえなかった――つまり歌い手みずからが然るべきことをいって、それを聴き手にまかさないのだ。かりにうら若きご婦人が、シェリーの妙《たえ》なる抒情詩「われは汝《なれ》の夢より目覚める」を声ふるわせて(「ぎしぎしあやふや声で」)歌っているとする。こちらが「いやあ、お見事、お見事!」といわなくてはならないのでなく、あの熱烈な言葉「おお、汝にそを抱かしめよ、さもなくばそはついに砕けん」がまだこちらの耳にひびいているうちに、その若きご婦人みずからが手袋をはめながらこういったほうがどれほどよいだろう――「でも彼女はそうしませんでしたのよ。だからついに砕けてしまいましたの」
「ほら、やっぱり!」突然ガチャンとグラスの砕ける音にぼくがはっとわれに返ると、彼女が静かにいった。「いまずっと傾《かし》げてらして、シャンペンをすっかりこぼしておしまいでしたもの。眠っていらっしゃったのかしら。あたくしの歌がそんなに催眠効果があって、申し訳ありませんこと!」
[#改ページ]
第十八章 へんてこ通り四十番地
ミュリエル嬢が話し手だった。そしてしばらくの間、それだけがぼくにはっきりとわかる事実だった。しかし彼女がどうしてそこにいたのか――そしてこのぼくもどうしてそこにいたのか――またシャンペン・グラスがどうしてそこにあるのか――すべて疑問だらけで、ぼくは黙ってよく考え、もう少しはっきりと事情がのみこめるまで、どんなことも口にしないほうがよいと思った。
「まず事実を集積する、しかるのちに理論を組みたてる」これこそ真の科学的方法だ、とぼくは信じている。ぼくは居ずまいを正すと、目をこすり、事実を集めはじめた。
草におおわれた滑らかな斜面があって、その頂上は半ば蔦《つた》に埋もれた古色蒼然たる廃墟と境をなし、裾は弓なりになった木々を透かして見える小川と境をなしている――十数人の華やかに着飾った人々が、あちらこちらにささやかな一団をつくって坐っている――蓋《ふた》の開いたバスケットがいくつか――そしてピクニックの残り物――こんなところが科学的研究者によって集められた事実だった。さてそこで、いかほど奥深く遠大な理論を彼は組みたてるのだろうか。研究者は過《あやま》ちに気づいた。まだある! 事実がひとつ見落とされていた。ほかの人々が全員、ふたりか三人でかたまっていたのに、アーサーはたったひとりだった。舌という舌がぜんぶ動いているのに、彼のは静かだった。顔という顔がすべて楽しげだったが、彼のは憂鬱そうで元気がなかった。これこそまさにひとつの事実だ。即刻、理論を組みたてねばならないと研究者は思った。
ちょうどミュリエル嬢が立ちあがって、座を離れたところだった。アーサーの意気消沈の原因はそれではなかろうか。理論は作業仮説の体面にまでは達していない。明らかにもっと多くの事実が必要だった。
研究者はもう一度あたりを見まわした。今度は当惑するほどおびただしい事実が集まったので、理論はそのなかに紛れ込んでしまった。というのはミュリエル嬢が、遠方にやっと認められる見知らぬ紳士を迎えにいってしまい、そしていま、その男と戻ってくるところだったからだ。ふたりともまるで長い間別れていた旧友のごとく、しきりに嬉しそうに話していた。それから彼女は、座から座へと新来の主役を紹介してまわった。若くて長身でおまけに美男の彼は、軍人らしいきりりとした姿勢と落ち着いた足どりで、優雅に彼女のかたわらでふるまっていた。まことに理論は、アーサーにとっては雲行きのあやしいものとなった。ぼくと目があうと、アーサーはそばへやってきた。
「なかなかの美男だね」ぼくはいった。
「ぞっとするほど美男ですよ」とアーサーはつぶやき、それから自分の毒舌に苦笑した。「あなたにしか聞かれなくてよかったですが」
「ドクター・フォレスター」ちょうどぼくらと合流したミュリエル嬢がいった。「ご紹介しますわ、従兄のエリック・リンドンです――キャプテン・リンドンというべきかしら」
アーサーは不機嫌をたちどころに、そして完璧にはらいのけると、立ちあがって若い軍人に握手をもとめた。「おうわさはかねがね」と彼はいった。「レディー・ミュリエルの従兄さんとお知り合いになれるとは光栄のかぎりです」
「ええ、それだけがぼくの取り柄なんです、いまのところ」エリック(ぼくらは彼をすぐにそう呼んだ)は魅力のあるほほ笑みを浮かべた。「それがはたして」とミュリエル嬢を見やりながら彼はいった。「善行章ものになるのかどうなのか。でもまずはプラスになります」
「父にお会いになって、エリック」ミュリエル嬢がいった。「廃墟のあたりを散歩しているはずよ」そしてふたりは歩いていった。
憂鬱な表情がアーサーの顔に戻ってきた。そしてぼくには見てとれたが、彼が形而上学者きどりの若いご婦人のかたわらに坐って途切れた議論をつづけたのは、思いを紛らすためにほかならなかった。
「ハーバート・スペンサーといえば」彼は口をひらいた。「一定一連の同種から、不定矛盾した異種への退化の過程として自然をとらえることに、あなたは本当に論理上の支障を感じないのですか」
スペンサーの言葉から、彼が独創的な混乱を導きだしたので、ぼくは愉快に思ったが、できるだけ真面目な顔をしていた。
「物理的な支障はありませんわ」そのご婦人は自信ありげにいった。「でも、わたくし論理学はたいして勉強しておりませんの。その支障とやらを教えてくださいませんこと?」
「つまり」とアーサーはいった。「それを自明の理として受けいれますか。たとえば『同一のものより大きいものは、たがいに大きいよりも大きい』ということと同じくらい明白でしょうか」
「わたくしの考えでは」彼女は控え目に答えた。「それは完全に明らかだと思います。わたくしは直観で両方の真理をつかみますの。でもほかの方は必要かもしれませんわね、あの論理的な――あの専門用語、なんでしたかしら」
「完璧な論証のためには」とアーサーは感心するくらいおごそかに語りはじめた。「ふたつの浅女《せんによ》観念を必要とし――」
「それですわ!」と彼女が口をはさんだ。「いま、あの言葉を思い出しました。そして生じるものは――」
「戯論《けろん》です」とアーサーはいった。
「そう、かしら?」彼女は疑わしげにいった。「わたくし、よく覚えていないようね。でも、その論法全体をなんといいますの」
「辟易《へきえき》論法です」
「ああ、そう。思い出しました。でも、あなたのおっしゃった数学の公理を証明するのに、わたくしには辟易論法は要りませんの」
「『すべての角度は等しい』ということを証明するにも、でしょうね?」
「むろんですとも。それほど単純な真理は誰しも当然のことと見なします」
ここでぼくは思いきって言葉をさしはさみ、彼女にクリームいちごの皿をすすめた。彼女が手の内を見透かしはしまいかと、ぼくは実際はらはらしていた。そして気づかれないように、この似非《えせ》哲学者はどうにもしようがないというふうに首をふってみせた。同様にアーサーも彼女に気づかれずに、「この女性を相手にほかに何がいえよう」とばかりにちょっと肩をすくめ、両手を広げてみせ、そして「退化説」やらなにやら好きなようにいちごを論ずる彼女を残して、その場を離れた。
この頃にはすでに、浮かれ気分の人々をそれぞれの家に送りとどける馬車が、城の外に集まりはじめていた。そして――ミュリエル嬢の従兄がぼくらの一行に加わっていたものだから――四人しか乗れない馬車で、どうやってエルヴェストンまで五人を運ぶかという問題を、ともかくも解決しなければならなかった。
ちょうどこのときミュリエル嬢とそぞろ歩きをしていた晴れがましきエリック・リンドンが、歩いて帰るという意思表示をするならば、まちがいなくすぐにもその問題を解決できたかもしれなかった。だがそういう解決の可能性は、これっぽっちもなさそうだった。
つぎにいちばんよい方法は、どうやらこのぼくが歩いて帰ることだった。そしてぼくは、これをすぐに提案した。
「本当にかまわんのですか」伯爵がいった。「馬車には全員乗りきれんだろう。かといって、エリックに早いとこ従妹《いとこ》と別れろともいいかねますしな」
「かまわないどころか」とぼくはいった。「むしろそうしたいのですよ。この美しい旧跡を写生する時間もできますからね」
「ぼくもお伴しましょう」突然アーサーがいった。そして、ぼくが驚いた顔つきをしたらしく、それに答えて彼は小声でいった。「本当にそうしたいんです。馬車ではよけい者[#「よけい者」に傍点]になりますから」
「ではわしも歩くとしよう」と伯爵がいった。「おまえはエリックに送ってもらえばよいじゃろ」と伯爵は、ちょうど口を開きかけたところへやってきたミュリエル嬢にいいそえた。
「ケルベロスみたいに楽しくしてくれなくちゃいやよ――『三人の紳士を合わせた一人』ですもの――」とミュリエル嬢は同伴者にいった。「すばらしい軍功になることよ」
「決死的行動ってわけですか」大尉は控え目にいった。
「ほんとにお世辞がおじょうず!」美しい従妹はほほ笑んだ。「ごきげんよう、お三方《さんかた》――いえ、三人の脱走兵さん」そして若いふたりは馬車に乗りこみ、去っていった。
「写生はどのくらいかかりますか」アーサーがいった。
「さあね」とぼくはいった。「一時間ほどほしいね。ぼくにかまわず先に帰ったほうがよくないかね。ぼくは汽車で帰る。一時間ほどあとに一本あるということだ」
「まあそれがよさそうですな」と伯爵がいった。「駅も近いことですし」
そういうわけで、ぼくは気ままにふるまうことができた。そしてじきに、とある木の根もとに居心地のよい場所を見つけ、そこから廃墟がよく眺められた。
「ひどく眠たい日だ」とぼくはひとりごち、ぼんやりと白いページを捜してスケッチブックをめくっていた。「おや、いまごろ一マイルも先にいかれたと思いましたが」驚いたことに、徒歩のふたりがまた戻ってきたのだ。
「お教えしようと戻ってきました」とアーサーがいった。「汽車は十分おきに出ています――」
「まさかそんな!」とぼくはいった。「ロンドンの地下鉄じゃあるまいし」
「そのロンドンの地下鉄ですよ」と伯爵が強調した。「ここはまだケンジントンですよ」
「どうして目をとじたまま話すのですか」とアーサーがいった。「起きてください」
「暑さのせいで眠くなったらしくて」あまり確かではなかったが、もっともなことをしゃべっているつもりで、ぼくはいった。「もう目が覚めたかな?」
「そうではありませんぞ」と伯爵が裁判官のようにいった。「きみはどう思うかね、ドクター。片目しか開いておらんが」
「それにすごくいびきをかいているよ」とブルーノが叫んだ。「ねえ、起きてったら、おじちゃん」そして彼とシルヴィーは、頭と首がつながっていることなど、まるでおかまいなしに、その重たい頭を左右にゆすりはじめた。
とうとう教授は目を開け、坐りなおすと、たいそううろたえた目をしばたいてぼくらを見た。「ご面倒ですがお教えねがえませんかな」と教授は、いつもの古風な礼儀正しさでぼくに話しかけた。「わしらはいま、どのあたりにおるのでしょうか――わしらは誰なのですか、このわしをはじめとして」
ぼくは子供たちからはじめるのが最善だと考えた。「この子はシルヴィーです、教授、そしてこっちがブルーノ」
「おお、そうじゃった。このふたりならよく知っておるわい」と老人はつぶやいた。「わしがはなはだ気になるのは、わし自身のことでしてな。それにどうやってここにきたのかということも、ついでにお話しねがえんでしょうか」
「ぼくのほうでも、もっと面倒な問題が浮かんできました」とぼくは思いきっていった。「つまり、どうやってあなたがお戻りになるかということです」
「まったく、まったく」教授は答えた。「それは問題じゃ、確かに。自分にかかわりのない問題として見るなら、きわめて愉快じゃ。自伝の一部として見るとなれば、これはもう、まったくもって厄介じゃ」彼はうなったが、すぐににこりと笑ってつけ加えた。「わし自身はといえば――さっきおっしゃったようだが、わしは――」
「おじちゃんは教授さ!」とブルーノが彼の耳もとで叫んだ。「そんなことちらなかったの。アウトランドからきたんじゃないか。ここからそりゃあ遠いんだから」
教授は少年のように軽やかにはね起きた。「では一刻も猶予はできん」彼は心配そうに叫んだ。「両手に水のはいっている(らしい)バケツを持った正直な百姓にちょっと尋ねてみよう。教えてくれるとよいのだが。正直者のお百姓さん!」彼はさらに大声でつづけた。「アウトランドへゆく道を教えてくれませんかね」
正直農夫はおとなしい笑みを浮かべてふりむいた。「んやあ?」というのが彼の返事だった。
「アウトランドへ――いく――道――です」教授は繰り返した。
正直農夫はバケツを降ろして少々考えた。「ああ、わかんねえ――」
「いっておくが」と教授は急いで言葉をはさんだ。「きみのいうことは、どれもきみに不利な証言になりますぞ」
正直農夫はすぐにまたバケツを手に取った。「じゃあ、なんもいんめえ」彼は元気よく答えると、たいへんな早足で去っていった。
子供たちは、たちまちのうちに消え去る姿を悲しそうに見送った。「なんとまあ早いことだ」教授はためいきをついていった。「だがあれはいうべきことだった。わしはイギリス法を学んだからの。しかし、あそこにやってくるつぎなる男にきいてみるとしよう。正直でもないし、百姓でもなさそうだ――しかしそのどちらも、きわめて重要とも思えんわい」
それはなんと、かの晴れがましきエリック・リンドンだった。どうやらミュリエル嬢を家に送りとどける大任を果たし、いま戸外の道をひとり葉巻をくゆらせながら、のんびりと散歩しているところだった。
「おそれいりますが、アウトランドへいくいちばんの近道を教えていただけませんかな」外見こそ奇人だが、教授はうわべの扮装で隠しおおせない本性において、申し分ない紳士だった。
そして、そのような紳士として、エリック・リンドンは即座に彼に応じた。彼は葉巻を口からはなすと、丁寧に灰をふるい落とし、しばらく考えた。「ついぞ聞いたことのない名ですね」と彼はいった。「お役に立てそうもありません」
「フェアリーランドからそう遠くはないのですが」と教授がほのめかした。
エリック・リンドンの眉はそれを聞くとかすかにあがり、礼儀正しく抑えようとした笑いが端整な顔にちらっと浮かんだ。「冗談を飛ばして」と彼はひとりごちた。「だが何とも愉快な長老だ」それから彼は子供たちのほうをむいた。「きみたちにはわからないの、おちびちゃん?」彼はたちまちふたりの心をとらえそうな優しい調子でいった。「これ、きっと全部知っているね。
[#ここから2字下げ]
『バビロンまで何マイル?
六十と十マイル。
ろうそく照らしていけるかな?
もちろん、それに戻ってこられる』」
[#ここで字下げ終わり]
驚いたことに、古くからの友達にするように、ブルーノは彼のところに駈けより、空《あ》いていた彼の手につかまると、両手でぶらさがった。すると、この長身で威厳ある将校は道の真中に立ち、落ち着きはらって小さな子を前後にゆり動かした。シルヴィーのほうは、その子を押してやろうと待ちかまえていた。まるでふたりのお遊び用に,本物のぶらんこが忽然と現われたようだった。
「ぼくたちバビロンにいきたいんじゃないよ」とブルーノが揺れながらいった。
「それにろうそくなんか照らさなくていいわ。真昼間ですもの」とシルヴィーもいって、力まかせにぶらんこを押したので、その仕掛け全部があやうく倒れるところだった。
このときまでにはっきりわかったのだが、エリック・リンドンはぼくの存在にまったく気づいていなかった。教授や子供たちすら、ぼくの姿を見失ったようだった。そしてぼくは一座の真中に、まるで幽霊のように皆と無関係に、見てはいるのに見られることなく立っていた。
「じつに完璧な等時じゃわい!」教授は夢中で叫んだ。彼は手に懐中時計をとり、注意ぶかくブルーノの振動数をかぞえていた。「振子のように正確に時を刻んでおる」
「しかし規則正しい振子は」柔和な若き軍人は、ブルーノのしっかりつかんだ両手を注意ぶかくはなしていった。「永遠の喜びではありませんよ。さあ、ひとあそびで充分、おちびちゃん。こんど会うときは別のことをしようね。その間にきみはこのおじちゃんをお連れしたほうがいいよ、へんてこ通りへ、番地は――」
「ぼくたちで見つける!」ブルーノは意気込んで叫ぶと、シルヴィーとふたりで教授をひきずるようにして連れていった。
「いろいろお世話になりました!」教授は肩ごしにふり返っていった。
「どういたしまして」将校は別れの挨拶に帽子をあげて返事をした。
「何番地でしたかなあ」教授は遠くから叫んだ。
将校は両手を拡声器のように口にあて、「四十《しじゆう》番地です」と甲高い声で叫んだ。「ともかくしじゅう[#「しじゅう」に傍点]番地は変わらん」彼は自分にいいきかせた。「変わった世界だ、実際、変わった世界だ」彼はもう一服、葉巻に火をつけ、宿にむかってぶらぶらと歩きだした。
「いい晩ですね」といって、ぼくは前を通った彼と並んで歩いた。
「まったくですな」と彼はいった。「どこからいらっしゃったんです、降ってわいたようですね」
「ご一緒しましょう」とぼくはいい、それ以上の説明は必要なさそうだった。
「葉巻はいかがです」
「いやどうも。たばこはやらんもので」
「この近くに精神病院はありますか」
「知りませんな」
「あるのかと思いましてね。たったいま、狂人に出会いました。年配のあんな変人、はじめてですよ」
そんなふうに親しく話しながら、ぼくらは帰途についた。そして彼の宿の前で、「おやすみ」の挨拶をかわした。
ひとりきりになると、また「妖氛《ようふん》」がぼくを襲い、見ると四十番地の戸口に、ぼくのよく知っている三人が立っていた。
「それじゃ、おうちをまちがえたの」ブルーノがいっていた。
「いやいや、確かにこの家ですぞ」教授はほがらかに答えた。「だが通りが間違っておる。わしらが間違えたのは、その点じゃ。いちばんよい考えは、いまから――」
それで終わりだった。通りには誰もいなかった。ぼくのまわりには月並みな生活があり、「妖氛」は消えていた。
[#改ページ]
第十九章 幻核のつくり方
その週はそれ以上「館《やかた》」と交際のないままに過ぎていった。「たびたび訪問して煙たがられる」というアーサーの懸念が、はっきり見てとれたからだ。しかし日曜の朝、そろって教会にでかけるとき、健康がすぐれないという伯爵の容態をうかがいに立ち寄ってみようとアーサーが提案したので、ぼくは喜んで賛成した。
庭を散歩していたエリックが、病人は、まだミュリエル嬢に付き添われて床についているが、元気でいると教えてくれた。
「教会へいっしょにいかがです?」ぼくは誘った。
「はあ、せっかくですが」彼は礼儀正しく答えた。「あそこは――あまり――性に合わないもので。結構なところですがね――貧しい人にとっては。ぼくも故郷《くに》にいるときならいきますよ、ただ良い模範を示すためにね。でもここではぼくを知っている人もいませんから、説教はご免こうむろうと思います。田舎の説教師というのはたいてい退屈ですからね」
アーサーは、声が聞こえないところにくるまで黙っていた。それからほとんど聞きとれないくらいの声でつぶやいた。「二、三人わが名によりて集まる所には、我もその中《うち》に在るなり」
「そのとおり」とぼくは同意した。「そういう信念があってこそ教会へいくわけだ」
「だからあの男もいきさえすれば」と彼はつづけた。(ぼくらの考えはぴったり同じ道を走っていたので、会話はともすれば省略されがちだった。)「『われは聖徒の交《まじ》わりを信ず』と唱えるでしょうに」
だがこのときにはすでに、ぼくらはその小さな教会に着いていて、おもに漁師とその家族から成るかなりの礼拝者の列がなかへとつづいているところだった。
その礼拝式は、当節の審美的宗教家――いや宗教的審美家、どちらだったろう?――にいわせたら、きっと粗末で寒々しいものだっただろう。ところがぼくのように、自称「カトリック」の教区牧師のもとに果てしなく発展するロンドンの一教会から参列した者にとっては、それはいいようもなく新鮮だった。
会衆の賛美の眼差しが注がれるなかを、笑いをこらえながら、わざとらしく行進する気取った少年聖歌隊はいなかった。その式では、そこここにうまく配置された数人の美声の持主によって歌が調子はずれにならぬよう導かれるほかは、会衆の受けもつ役割が会衆自身によって、何の助けも借りずに行なわれた。
聖書と典礼に含まれている高尚な楽曲が、ぜんまい仕掛けのお話し人形が話すように、まったく無表情に吟唱されて、台無しになるということもなかった。
祈りの言葉はまさしく祈られ、福音の日課はまさしく朗読され――しかも何よりよいことに――説教はまぎれもなく語られた。ぼくは教会をあとにしながら、ヤコブが「眠りから目覚めた」ときにいった言葉をくり返しつぶやいていた。「『誠にエホバ此処《このところ》にいます。此処|是即《これすなわ》ち神の殿《いえ》の外ならず是《これ》天の門なり』」
「そうです」とアーサーはぼくの考えに応ずるようにいった。「あの『高教会派』の礼拝式ときたら、純然たる形式主義になる一方です。みんながますます『行事』と見なすようになって、フランス式にただ『列席』するだけです。それに、あの少年たちにとってはとりわけ好ましくありませんね。おとぎ芝居の妖精に扮しているときのほうが、よほどのびのびとしています。仰々しい衣装、それにおおげさな入場と退場、しかもいつも目立っているのだから、虚栄心にむしばまれないほうが不思議ですよ、騒々しい小さな洒落者が!」
帰りにぼくらが館の前を通ると、伯爵とミュリエル嬢が庭に出て坐っていた。エリックは散歩に出かけていた。
ぼくらは仲間入りし、話は「利己主義」という題の、いま聞いてきたばかりの説教のことになった。
「説教もずいぶん変わりましたね」とアーサーがいった。「『神の御心《みこころ》に従わんために、かつまた永遠の幸福を得んがために、人に善を施すこと』が徳であると、ペイリーがまったく利己的な定義をくだしてからというもの」
ミュリエル嬢はけげんそうに彼を見た。だが彼女は、ぼくが長い年月かかって学んだこと、つまりアーサーの深遠な思想を誘い出すには、同意も反対もせずに、ただ聞くだけでいいということを直観的に悟っていたようだった。
「当時は」と彼はつづけた。「利己主義の大波が人々の思考に押しよせていました。善悪がどうしたものか損得に姿を変え、また宗教も一種の商業的な取引きになっていた。わが国の説教師たちがより高尚な人生観をとりはじめているのは、感謝していいでしょうね」
「だがそれは聖書でくり返し説かれていなかったかな」とぼくは思いきって尋ねた。
「聖書全体にはないですね」とアーサーはいった。「旧約聖書には、なるほど賞罰が人に行動を促す動機としてたえずあらわれています。そういった教えは子供には最適です。おそらくイスラエル人は精神的にまったく子供だったのでしょう。われわれは子供たちをそういうふうに導く、最初は。しかしできるだけ早いうちに、彼らが生まれつきもっている善悪の観念に訴える。そしてその段階が無事に過ぎたら、あらゆるもののうちでもっとも高尚な動機、すなわち最高善としての神に類似したい、さらには一致したいという願望に訴えます。これが『地に汝《なんじ》の生命の長からんためなり』ではじまり、『汝らの天の父の全《まつた》きが如く、汝らも全かれ』で終わる聖書全体としての教えだと思います」
ぼくらはしばし沈黙し、それからアーサーはほかの話題の口火を切った。「ところで、聖歌の歌詞を見てください。徹頭徹尾、利己主義に毒されています。最近の聖歌ほど堕落している作品は、ほかにありませんね」
ぼくはその一節を引用した。
[#ここから2字下げ]
「主に託すものはみな、
千の値で報われん、
さればいさみて主に捧げん、
よろずの与え主に」
[#ここで字下げ終わり]
「そうです」と彼は厭《いと》わしげにいった。「典型的な一節ですね。ついこのあいだ聞いた慈善の説教なんて、まさにその伝《でん》でした。慈善の寄付が尊いという理由をたくさん並べあげておいて、説教師はこうしめくくったのです。『そうして寄付されるすべてのものに対して、皆さんはその千倍も報いられることでしょう』ああ、献身とは何かをよく知っている人々、寛容と勇気を感謝できる人々にむかって述べるには、実にさもしい動機じゃありませんか。それにまた原罪の話とは!」彼は辛辣さを増してつづけた。「一世紀ものあいだ、宗教を商業的投機として説教されてきてもなお、われわれが神を信じているという事実、それ以上にこの国民にそなわっているはずの原善[#「原善」に傍点]を立証するものがあるでしょうか」
「それほど長くつづかなかったはずですわ」ミュリエル嬢が物思いにふけるようにいった。「もし反対派が実際に沈黙――フランス人のいう議会終結《ラ・クロテユール》――の状態に置かれていなかったのならね。きっとどんな講演会場でも、個人的な集いでも、そんな説教はたちまちやじり倒されてしまったのじゃありません?」
「そのとおりですね」アーサーはいった。「それに『教会での口論』が正当化されるのを見たいわけではありませんが、説教師たちが途方もない特権をほしいままにしているとはいえますね――その価値もないのに、はなはだしく濫用して。われわれはそのひとりを説教壇につかせ、こういっているのも同然ですよ。『さあ、そこに立ってわれわれに三十分間話してください。一言だって差出口はいたしません。あなたのやりたいようにやってください』そしてそのお返しにわれわれは何をもらいます? 薄っぺらなむだ話です。これが夕食会の席であろうものなら、『この男は人のことを白痴あつかいするのか』とかんぐるところですよ」
エリックが散歩から戻ってきたために、勢いにのっていたアーサーの雄弁は中断され、そしてしばらくありきたりの話をしてからぼくらは暇乞いをした。ミュリエル嬢は門までぼくらを送ってくれた。「いろいろ考えさせていただきましたわ」彼女は真顔でいうと、アーサーに手を差しのべた。「お寄りくださってとても嬉しかったです」彼女のその言葉は、彼の疲れた青白い顔に晴ればれとした喜びの色をもたらした。
その火曜日、アーサーは散歩にでる気分ではなさそうだったので、ぼくはひとりで遠出した。彼が一日中、本に没頭してしまわないよう、お茶の時間の頃、館《やかた》で落ち合う約束をしておいた。散歩から帰る途中、ちょうど午後の汽車が見えてきたときに駅を通りかかったので、ホームにはいってくるのを見ようと、ぼくはゆっくり階段をおりていった。だがぼくのひまな好奇心を満足させるものは何もなかった。やがて汽車が空《から》になり、ホームにも人影がなくなって、五時までに館《やかた》に着くつもりならそろそろそちらへ足をむける頃だと思った。
ホームの端にさしかかると、そこから上の世界に通じる急勾配で不規則な木の階段があって、そこにふたりの乗客が立っていた。いまの列車で到着したにちがいなかったが、妙なことに、降りた人影がまばらだったにもかかわらず、ぼくはそのふたりをまったく見かけた覚えがなかった。それは若い女性と小さな女の子だった。前者は外見から察するかぎり、その子供のお守役か保母兼家庭教師といったふうで、一方子供のほうは服装はもちろんのこと、その上品な顔立ちから、連れよりも上流の階級に属していることがはっきりとうかがわれた。
子供の顔は上品ではあったが、同時に疲れていて悲しげで、ひどい病《やまい》と苦しみをいとしくけなげに耐えていることを物語っていた(というか、ぼくにはそう読みとれるような気がした)。彼女は小さな松葉杖にすがって歩いていた。そしてときどきたたずみながら、彼女は長くつづく階段を思い悩むように見あげ、登っていくつらさに耐える勇気がふるい起こるのを待っている様子だった。
世間には、生理学者のいう反射作用(これは反省なき[#「なき」に傍点]言動なのだから、「森」の語源を「光をもらさぬところ」というのと同じだ)によって、無意識のうちに――何かしたり――何かしゃべってしまうことがある。目のなかに何か飛びこんでくるようなとき、まぶたを閉じるのはその作用の一例だし、「お嬢さんを階段の上までお連れしましょうか?」ということも別の一例だった。手をかそうという考えが浮かんで、それから[#「それから」に傍点]ぼくは話しかけたのではない。その役を買って出そうだとぼくが最初に感じたのは、自分の声が響き、その申し出がすでに相手に伝わったときだった。お守役はためらうように、託された子供からぼくへと目を移し、さらにまた子供へと目をやった。「そうしていただく?」と彼女は子供に尋ねた。だが子供の心にはそんなためらいはよぎらないようだった。彼女は抱きあげてもらおうと喜んで両腕を差しだした。「おねがい」とその子は一言いって、疲れた小さな顔にほのかなほほ笑みがちらっと浮かんだ。ぼくが細心の注意を払って抱きあげると、小さな腕はすぐに信頼しきったように、ぼくの首にしっかりとまわされた。
彼女はたいそう軽かった――事実、あまり軽かったので、両腕に抱いて登ったほうが抱かないで登るより楽だ、などというばかげた考えが浮かんだほどだった。そうして轍《わだち》と石ころ――足の不自由な子供には恐ろしい障害物――だらけの道路まで登りきったとき、でこぼこ道とその優しい小さなお荷物とを心のなかでむすびつけて考える前に、ぼくは「このでこぼこ道もお連れしたほうがいいですね」といってしまっていた。「まあ、それまでご迷惑かけられませんわ!」とお守役が叫んだ。「平らなところはちゃんと歩けますもの」だがぼくの首にまわされていた腕は、その申し出にごくわずかながらもさらにしがみついてきたので、ぼくはこういった。「重くないんですよ、ほんとうに。もう少し先までお連れしましょう。わたしも同じ方角ですから」
お守役はそれきり何もいわなかった。そうしてつぎに声をかけてきたのは、はだしでぼろをまとった小さな男の子だった。ほうきを肩に道を横切ってくると、その子はぼくらの目の前で乾ききった道路を掃くまねをした。「半ペニおくれよ」小さないたずら小僧は、汚れた顔で精一杯愛想笑いしてねだった。
「その子に半ペニあげないで!」ぼくの腕のなかの小さな貴婦人がいった。言葉こそ厳しかったが、口調は優しさそのものだった。「なまけ屋さんなの」そして彼女がたてた鈴の音のように愛くるしい笑い声は、ぼくがシルヴィー以外の口からけっして聞いたことのないものだった。驚いたことに、なにか微妙な感応がふたりの間にあるかのように、その男の子も声をあわせて笑い、道路を走って生垣の隙間へ姿を消してしまった。
だが彼はすぐに戻ってきた。ほうきはもたず、かわりにどこから採ってきたのか、繊細な花を一束もってきた。「花買っておくれ、花買っておくれよ。たった半ペニだよ」その子は一人前の乞食のように、哀愁を帯びたものうげな調子で歌った。
「買ってはだめ!」足元のぼろをまとった子供を、奇妙にも優しい思いやりがこもった、気高くよそよそしい眼差しで見おろしながら、王女さまは命令した。
だが今度はぼくは謀叛を起こし、王女の命令を無視した。あれほど美しく、まるで見たこともない形の花は、小さな少女のいいつけがいかに厳然たろうともあきらめるわけにはいかなかった。ぼくはその花束を買った。すると男の子は半ペニー銅貨を口に放りこみ、人間の口が貯金箱として使うのに適しているかどうか確かめるように、とんぼ返りした。
刻一刻とつのる驚異の念で、ぼくは花をひっくり返しては、ひとつひとつ調べてみた。以前に見た覚えのあるものは、ただの一本もなかった。とうとうぼくはお守役をふり返った。「こういう花はこのあたりで自然に咲くのですか。見たこともない――」ところが言葉は唇で消えてしまった。お守役の姿はかき消えていた!
「よかったら、もうおろしてちょうだい」シルヴィーがそっといった。
(画像省略)
ぼくは無言のうちにそうすると、ただ「これは夢なのだろうか」と自分に問いかけるだけだった。シルヴィーとブルーノがぼくをはさんで両側を歩き、子供らしいひたむきな信頼感でぼくの両手にしがみついていたからだった。
「このまえ会ったときより、大きくなったね」ぼくは話しかけた。「もう一度紹介しあったほうがいいね。きみたちには、ぼくのまだ知らないところがたくさんあるもの」
「よくってよ」シルヴィーは楽しげに答えた。「この子はブルーノ。簡単なの。名前がたったひとつですもの」
「もうひとつ名前あるよ!」ブルーノは女流司会者を不満げに見やって、不平をのべた。「『殿《エスクワイア》』だよ」
「あら、そうだった。忘れていたわ」シルヴィーはいった。「ブルーノ――殿《エスクワイア》」
「それで、このぼくを迎えにここへきたの」ぼくは尋ねた。
「火曜日にきますって、いったでしょう」とシルヴィーが説明した。「あたしたち、ふつうの子供としてちょうどいい大きさかしら」
「子供としてはちょうどいい大きさだ」とぼくは答えた。(心のなかで「どう見てもふつうの子供ではないが」とつけ加えながら。)「でも、あのお守役はどうなったのかな?」
「あれ消えたったの」ブルーノは真顔で答えた。
「するとあれは固体じゃなかったのかな、シルヴィーやきみみたいな」
(画像省略)
「そう。あれは触《さわ》れなかったの。ぶつかっても通り抜けちゃうよ」
「わかっちゃうかなと思ったのよ、一度だけ」とシルヴィーがいった。「ブルーノがうっかりあれを電柱にぶつけてしまったの。そしたらあれはふたつに分れてしまったわ。でもおじさまは反対のほうをむいていたの」
ぼくは実に惜しいことをしたと思った。お守役が「ふたつに分れる」というような光景を目撃するのは、生涯に二度とあるものではない。
「シルヴィーかもしれないって、いつわかった?」ブルーノが尋ねた。
「シルヴィーになるまでわからなかったよ」とぼくはいった。「それにしても、どうやってお守役を間に合わせたのかい」
「ブルーノが間に合わせたの」シルヴィーがいった。「幻核《げんかく》っていうのよ」
「それでどうやってその幻核をつくったの、ブルーノ」
「教授がおちえてくれたんだ」ブルーノはいった。「はじめに空気をいっぱい吸いこんで――」
「まあ、ブルーノったら!」シルヴィーが口をはさんだ。「しゃべっちゃいけないって、教授がおっしゃったでしょう」
「でも、子守の声は誰がやったの?」ぼくは尋ねた。
「まあ、それまでご迷惑かけられませんわ。平らなところはちゃんと歩けますもの」
ぼくが右に左にふりむいて、四方八方その声を捜したので、ブルーノは朗らかな笑い声をたてた。「それはぼくでちた!」と彼は自分の声で、楽しそうに打ち明けた。
「なるほど平地ではかついであげなくてよかったんだね」とぼくはいった。「ぼくを平気でかついだんだから」
このときまでにぼくらは館《やかた》の近くまできていた。「友だちの家だが、きみたちもきて、みんなといっしょにお茶をいただくかい?」
ブルーノは小躍りして喜び、そしてシルヴィーがいった。「ええ、ぜひ。お茶をいただきたいでしょ、ブルーノ? この子、ずっとお茶をいただいていないの」と彼女は説明した。「ふたりでアウトランドを出てから」
「だって、あのときのお茶おいしくなかったもん」ブルーノがいった。「すっごくうすかったんだ!」
[#改ページ]
第二十章 得やすければ失いやすし
迎えに出たミュリエル嬢の笑顔は、ぼくの新しい連れを見たときの驚きを隠しきれなかった。
ぼくは型どおりにふたりを紹介した。「シルヴィーです、ミュリエルさん。そしてこちらがブルーノ」
「苗字はなんて?」彼女はおもしろそうに目を輝かせて尋ねた。
「それが」とぼくは真面目な顔でいった。「苗字はないのですよ」
彼女は笑いだしたが、明らかにぼくが冗談をいったと思っているようだった。それからかがみこんで子供たちにキスをした――この挨拶をブルーノはしぶしぶ受け入れ、シルヴィーはおまけをつけて返した。
彼女とアーサー(ぼくより先に着いていた)が、子供たちにお茶とお菓子を出している間、ぼくは伯爵を話相手にしようとしたが、彼はそわそわして上の空といった態で、さっぱり話ははかどらなかった。とうとう出し抜けの質問をして、伯爵は落ち着かない原因をもらした。「お持ちになっておられるその花束、拝見できますかな」
「どうぞ、どうぞ」といって、ぼくは花束を手渡した。植物学が彼のお気に入りの学問だとわかったし、ぼくにとってもこの花はまったく見たことのない、不思議なものだったから、植物学者がどういうか、はなはだ興味ぶかかった。
花は彼の動揺を少しも鎮めはしなかった。それどころか彼は、花を検《あらた》めているうちに刻一刻と興奮してきた。「これは中央インド産ですな」と彼はいって、花を何本か選りわけた。「かの地でも珍種ですぞ、わたしは世界広しといえどもあの地方でしか見たことがない。こちらの二本はメキシコ産――この一本は――」(彼はあわただしく立ちあがると、もっと明るいところで調べようと窓際までもっていったが、興奮は極に達し、額まで赤味がさしてきた。)「――ほぼ間違いなかろうが――インド植物図鑑がここにあるから――」彼は書棚から一冊の本を取り出し、ふるえる指先でページをめくった。「そう、この絵と比べてごらんなさい。瓜ふたつですぞ! これはユーパス樹の花で、ふつうは森の奥でしか育ちません。おまけに摘み取るとたちまち枯れて、森の出口まで色や形をとどめることはありますまい。ところがこれは見事に咲いておる。いったいどこで手に入れられたのです」彼は息もつかず、勢い込んで尋ねた。
ぼくがシルヴィーに目をやると、彼女は真剣な顔つきで黙って唇に指をあて、それからブルーノについてくるようにと合図をし、庭に飛び出していった。それでぼくは、ふたりの重要証人がにわかに消えてしまった被告の立場に立たされた。「この花は差し上げましょう」いかにしてこの難局を切り抜けたものかと、まったく思案にくれながら、ぼくはやっとのことで、しどろもどろにいった。「あなたのほうがお詳しいのですから」
「ありがたく頂戴します。だがまだ返事をうかがっていない――」と伯爵がいいかけたが、エリック・リンドンの到着で話はそのままになり、ぼくはほっとした。
しかしこの新顔がアーサーには歓迎できぬ相手であることが、はっきり見てとれた。彼の顔がくもった。彼は一座から少し身をひくと、それ以上話に加わらなかった。そしてもっぱらミュリエル嬢と快活な従兄の間で会話がかわされ、話題の中心はロンドンから到着したばかりの新曲のことだった。
「ちょっとこれをやってごらん!」彼はいった。「すぐ歌えそうな曲だし、歌詞はこの場にぴったりなんだ」
「するとこうかしら、
[#ここから2字下げ]
五時のお茶よ!
いつまでもあなたに
愛を誓わん
五時のお茶よ!」
[#ここで字下げ終わり]
ピアノにむかって、思いつくままにいくつか和音を軽くたたくと、ミュリエル嬢は笑った。
「ちょっと違うな。『いつまでもあなたに愛を誓わん』、こんな感じだろうな。不幸な恋人たちでね。男は海を渡っていき、女は悲しみにくれる、というわけさ」
「ほんと、ぴったりだこと!」彼が歌詞を前に置くと、彼女はからかうように応じた。「するとわたしが悲しみにくれるわけね。どなたのことをかしら」
彼女は一、二度旋律を通して弾いた、最初は速く、最後にはゆっくりと。それからまるでその曲にずっと以前から親しんでいたかのように、いとも優雅に、らくらくとその歌全部を披露した――
[#ここから2字下げ]
軽やかに船から降りる若者の
[#ここから3字下げ]
みなぎる凜々しい誇らしさ、
[#ここから2字下げ]
娘にキスし手を取れど、
[#ここから3字下げ]
それでも娘はつれないそぶり。
[#ここから2字下げ]
「この人とっても浮気者」沈む娘の恋心、
[#ここから3字下げ]
「伊達男の浮気者
[#ここから2字下げ]
哀れで初《うぶ》なこのわたし――思ってくれることかしら――
[#ここから3字下げ]
遠く離れているときに!」
[#ここから2字下げ]
「いとしのおまえにこの真珠
[#ここから3字下げ]
海を越えてもってきた。
[#ここから2字下げ]
船乗りと契《ちぎり》をむすぶいとしい娘
[#ここから3字下げ]
それにしっくりこの真珠!」
[#ここから2字下げ]
真珠をかたく抱きしめる娘の瞳輝いて、
[#ここから3字下げ]
高鳴る胸のときめきに
[#ここから2字下げ]
「わたしを思ってくれていた――
[#ここから3字下げ]
遠く離れていたときも!」
[#ここから2字下げ]
船は西へと帆を上げる。
[#ここから3字下げ]
海鳥《うみどり》いまは飛びたって
[#ここから2字下げ]
重い痛みが胸ふさぎ、
[#ここから3字下げ]
つのる寂しさ、やるせなさ。
[#ここから2字下げ]
それでも娘は笑みたたえ、
[#ここから3字下げ]
笑みにまぎらせ思うよう
[#ここから2字下げ]
「きっと思ってくれるはず――
[#ここから3字下げ]
遠く離れているときも!」
[#ここから2字下げ]
「隔てる海原広くとも
[#ここから3字下げ]
熱き命は寄りそって、
[#ここから2字下げ]
真《まこと》の心は離れない――
[#ここから3字下げ]
愛を誓ったふたつの心。
[#ここから2字下げ]
信じてやまん、海のあの人、
[#ここから3字下げ]
いついつまでも永遠《とこしえ》に、
[#ここから2字下げ]
わたしを思ってくれるはず――
[#ここから3字下げ]
遠く離れているときも!」
[#ここで字下げ終わり]
若いキャプテンが軽々しく愛を口にしたときアーサーの顔に浮かんだ不快の表情は、歌の進行につれて消えてゆき、それからはいかにも楽しげに聴き入っていた。しかしエリックが取りすまして「『軍人のあなた』としてもこの曲にぴったりじゃないかな」と評すると、彼の顔はまたくもった。
「まあ、ほんとう!」ミュリエル嬢は陽気にいった。「兵隊さん、船乗りさん、鋳掛屋さん、仕立屋さん、ぴったりの言葉がたくさんあるわ。『鋳掛屋さんのあなた』がいちばんよさそう、どうかしら」
わが友をこれ以上苦しめたくなかったので、ぼくは帰ろうと立ちあがった。ちょうどそのとき、伯爵があの花について格別厄介な質問をまた持ち出した。
「あなたはまだ何も――」
「いえ、もう充分にお茶をいただきました」ぼくはあわてて話をそらした。「さて、もうほんとうに失礼しなくては。おやすみなさい、ミュリエルさん」ぼくらは別れを告げ、伯爵がまだ夢中で謎の花束を検《あらた》めているうちにそっと抜け出した。
ミュリエル嬢が戸口まで送ってくれた。「父には何よりの贈物ですわ」彼女は真心こめていった。「あのとおり、植物学を心底愛していますの。わたくしには理論なんて何もわからないのですけれど、押し葉標本だけは整理しています。吸取紙を何枚も使って、しおれないうちに、父のああした新しい宝物を乾かしますの」
「そんなことしてもむださ!」庭でぼくらを待っていたブルーノがいった。
「どうして」とぼくはきいた。「花はあげなくてはならなかっただろ、いろいろきかれちゃ困るからね」
「ええ、仕方がないわ」とシルヴィーがいった。「でも、お花がなくなったのを知ったら、悲しがるでしょうね」
「なくなるって、どういうふうに」
「さあ、どういうふうにでしょう。でも、なくなるの。あの花束、ただの幻核《げんかく》なんですもの。ブルーノがこしらえたのよ」
このおしまいの文句はささやき声になった。明らかにアーサーに聞かれたくなかったのだ。しかしその危険はなさそうだった。彼は子供たちにほとんど気づかぬ様子で、黙りこくってぼんやりと歩きつづけていた。やがて森の入口でふたりが急にさよならをいって走り去ったとき、彼は白昼夢から覚めたようになった。
花束はシルヴィーの予言どおり消え失せた。一日、二日たってアーサーとぼくがもう一度館を訪れると、伯爵と令嬢が女中頭といっしょに庭に出て、客間の窓の留金《とめがね》を調べているところだった。
「査問会を開いておりますの」ぼくらを出迎えながらミュリエル嬢がいった。「わたくしたち、おふたりが事前従犯として、あの花についてご存知のこと一切を陳述なさることを承認します」
「事前従犯はいかなる質問にも答えることを拒否いたします」とぼくが重々しく答えた。「かつ、その抗弁を保留するものであります」
「では共犯証言をどうぞ。件《くだん》の花は昨夜のうちに消失しました」彼女はアーサーのほうをむいてつづけた。「邸の者が誰も手を触れなかったのは確かですの。きっと何者かが窓から侵入して――」
「だが留金のいじられた形跡はない」伯爵がいった。
「きっとお食事中のことですわ、お嬢さま」女中がいった。
「それだ!」伯爵がいった。「盗人は、あなたが花をもっていらっしゃったのを見ていたにちがいない」とぼくのほうへむきなおり、「それから、あれをもたずに帰られたことも知っていた。おまけに、あれのたいへんな値打ちも知っていた――まったく値のつけようのないものを!」と伯爵はにわかに興奮して大声をあげた。
「それに、あれをどうして手に入れられたのか話してくださらなかったわ」ミュリエル嬢がいった。
「そのうち」とぼくは口ごもった。「お話しできそうです。いまはご勘弁ねがえませんかな」
伯爵はがっかりした様子だったが、それでも穏やかにいった。「結構です、きかないことにしましょう」
「でもわたくしたち、あなたをとっても悪い共犯証人と見なします」四阿《あずまや》にはいると、ミュリエル嬢はおどけていいそえた。「あなたを共犯者と宣告いたします。よって独房監禁を申し渡しますわ。お食事はパンよ、それに――バター。お砂糖はご入用?」
「それにしてもほんとに気がもめること」と、「舌にも喉にも快きもの」がひととおりゆきわたったところで、ミュリエル嬢はつづけた。「こんな辺鄙なところで泥棒にはいられるなんて。あの花が食用だったのなら、ぜんぜん別の姿の泥棒ということも考えられますけれど――」
「ということは、不可解な消失についての、あの一般的な解釈のことかな、つまり『猫の仕業』だと」アーサーがいった。
「ええ」彼女は答えた。「泥棒がすべからく同じ形なら好都合ね。四本足だったり、二本足だったりして、とってもまぎらわしいこと」
「興味ぶかい問題が浮かびますね、目的論の――つまり目的原因の学問の」とアーサーは、いぶかしげなミュリエル嬢の顔つきにむかっていいそえた。
「目的原因って?」
「そう、いうならば――一連の関連した出来事の最後のものさ――それぞれがつぎの出来事の原因となっていき――そのために最初の出来事が起こるわけだ」
「でも最後の出来事っていうのは、実際には最初のものの結果[#「結果」に傍点]じゃなくて? なのにそれを最初のものの原因[#「原因」に傍点]とおっしゃるなんて!」
アーサーはしばし思案した。「なるほど、いささか言葉が混乱している」と彼はいった。「こうではどうだろう。最後の出来事は最初のものの結果だ。だが、その最後のものの必然性[#「必然性」に傍点]は最初の出来事の必然性[#「必然性」に傍点]の原因であると」
「すっきりしたみたい」ミュリエル嬢がいった。「では、その問題を聞かせて」
「たんにこういうことです。(おおざっぱにいって)それぞれ異なる大きさの生物がその固有の形をもっている、ということからできた配列には、どんな目的を想像しうるか。たとえば人類はあるひとつの形をしている――二本足です。ライオンから鼠にいたる別の仲間《グループ》は四本足です。さらに一、二段階くだると六本脚の昆虫がいます――六脚虫《ヘクタポツド》――美しい名称じゃないですか。しかしぼくらのいう意味での美しさは、くだるにつれて次第に失われる。つまり生物は次第に――神の創造物はどんなものでも『醜い』とはいいたくないな――次第に異様を呈してくる。それから顕微鏡を使ってさらに数段さがると、極微動物がいます。恐ろしいほど不恰好で、これまた恐ろしいほどたくさんの足を持っている」
「ほかの配列は」と伯爵がいった。「同形の繰り返しによる一連の漸次弱小《デミユニエンド》だろう。単調なのは我慢するとして、そのやり方ではどうなるかな。まず人類とその必要とする生き物からはじめよう――たとえば、馬、牛、羊、それに犬だ――蛙や蜘蛛《くも》は必要とはいえんな、ミュリエル」
ミュリエル嬢が身ぶるいするのがわかった。明らかにこれは苦手な話題だった。「そんなもの、いなくてすみます」彼女は真面目な顔でいった。
「さて、そこで第二の人種だ、身長は半ヤードで――」
「――ふつうの人間では味わえないすばらしいものがひとつ楽しめますね」アーサーが口をはさんだ。
「何かね」伯爵がいった。
「むろん雄大な景観ですよ。ぼくにとっての山の雄大さというものは、かならずやぼくに比例した大きさによるものですから。山の高さを二倍にすれば、むろん雄大さも倍になります。ぼくの身長を半分にすれば、同じ効果がえられますよ」
「幸いなるかな、幸いなるかな、幸いなるかな、小さき者よ!」ミュリエル嬢がうっとりとつぶやいた。「小さきもののみ、小さきもののみ、小さきもののみ、大なるものは楽しむなり!」
「さて、先をつづけてよいかな」と伯爵がいった。「第三の人種は五インチの高さ。第四の人種は一インチの高さ――」
「その人たち、きっとふつうの牛肉や羊の肉は食べられないんじゃなくて?」ミュリエル嬢が口をはさんだ。
「なるほど、うっかりしておった。それぞれの人種はそれなりの牛や羊が要るわけだ」
「それに草木の類も」とぼくがつけ足した。「一インチの牛には、はるか頭上をそよぐ草は食べられんでしょう」
「もっともですな。いわば牧草地のなかの牧草地が必要ですわい。ふつうの草原は一インチの牛には青々した棕櫚《しゆろ》の森になるだろうし、その長い茎一本一本の根元にぐるりと、顕微鏡でしか見えんような草のちっぽけなじゅうたんが広がる。そう、この案は結構うまくいきそうですな。それに、われわれ以下の各種族と交流するのも、さぞ愉快でしょうな。一インチ族のブルドッグなぞさぞかし愛嬌がありますぞ。ミュリエルでも逃げ出しはしまい」
「同じように一連の漸次強大《クレツセンド》もあったほうがよくなくて?」とミュリエル嬢がいった。「百ヤードののっぽさんになってごらんなさい。象は文鎮《ぶんちん》がわり、鰐は鋏《はさみ》だわ」
「で、大小各種族にも互いに交流させるのですか」とぼくは尋ねた。「たとえばですが、戦争をしたり、協定をむすんだりするものですかね」
「戦争はいかん。拳骨《げんこつ》の一撃で一国そっくり破壊できるとしたら、同等の条件で戦争はできまい。とはいえ、精神のみの衝突をひきおこしながら、われわれの理想郷ではどんなことでも起こりうる――というのも、むろん身体の大小にかかわりなく、すべてのものに精神力を認めなくてはなりませんから。おそらく背の低い種族になればなるほど、ますます知的発達の度合が大きくなるというのが、公平なきまりというものでしょうな」
「ということは」とミュリエル嬢がいった。「その一寸法師さんたちがあたしと議論するってこと?」
「そうとも、そうとも」と伯爵はいった。「議論というものの論理力は、発言する人間の大小によるものではないわい」
彼女はすねたように頭をつんと上げた。「わたくし、六インチ以下の人とはどなたとも議論しませんことよ」と彼女は声高にいった。「働いてもらいますわ」
「何をさせて?」このナンセンスを一部始終にこやかに聞いていたアーサーがいった。
「刺繍よ」すかさず彼女は答えた。「きっとすてきな刺繍ができてよ」
「ところがかりにお粗末な出来だとしても」とぼくはいった。「そのことを議論することはできませんな。理由はともかく、できないと思いますね」
「理由は」とミュリエル嬢がいった。「そこまで人間の品位を犠牲にできないからです」
「むろんできやしない」とアーサーが相槌を打った。「じゃがいもと議論するようなものです。それではまるで――古い洒落で恐縮だけれど――品種にかかわりますよ」
「そうかな」とぼくはいった。「せっかくの洒落だが、ぼくにはあまり合点がいかない」
「では、それが理由でないなら」ミュリエル嬢がいった。「ほかにどんな理由が考えられます」
この質問の意味をぼくは懸命に理解しようとしたが、やかましい蜂のうなり声がぼくの心を掻き乱し、しかもうまく考えがまとまらぬうちに、あらゆる思考を停止させ眠りにつかせてしまいそうなけだるい気配が、あたりにただよってきた。それでぼくはやっとのことでこういった。「じゃがいもの重さ次第ですよ」
この言葉は期待したほど気がきいているとは思えなかった。だがミュリエル嬢はまともに受け取ったようだ。「その場合――」と彼女はきりだしたが、突然はっとしてふりむき耳をすました。「聞こえませんか?」と彼女はいった。「あの子が泣いているの。いってあげなくちゃ、ともかく」
それからぼくはひとりごちた。「なんとも奇妙だ! ぼくと話していたのはミュリエル嬢だと思いこんでいたが。では、ずっとシルヴィーだったのか!」そしてぼくはもう一度、一大努力をしてなんとか意味のあることをいおうとした。「じゃがいものことかな?」
[#改ページ]
第二十一章 象牙の扉を通って
「わからないわ」とシルヴィーがいった。「しいっ! 考えなくちゃ。ひとりでもちゃんとあの子のところへいけてよ。でも、ごいっしょしていただきたいの」
「いっしょにいかせてくれるね」ぼくは頼んだ。「きみくらい速く歩ける、きっとね」
シルヴィーは愉快そうに笑った。「まあ、おかしい」彼女は声をあげた。「一歩も歩けっこないでしょ。すっかり仰向けに寝ているんですもの。そんなことがわからなくて」
「きみと同じように歩けるさ」とぼくは念を押した。そして二、三歩、歩こうとした。ところが地面はぼくが歩くのとまったく同じ速さで後ろへ滑っていくので、少しも前へ進めないのだ。シルヴィーがまた笑った。
「ほら、いったとおり。歩いているみたいに足をばたばたさせて、どんなにおかしな恰好か、想像できて! ちょっと待ってね。どうしたらいいか、教授にうかがいましょう」そして彼女は書斎の扉をノックした。
扉が開いて教授が顔を出した。「いま聞こえたあの泣き声は何かな」と彼は尋ねた。「人間動物かね?」
「男の子よ」シルヴィーはいった。
「その子をいじめておったのじゃろ」
「いいえ、そんなことしません」シルヴィーは大真面目に返答した。「あたし、あの子はぜったいにいじめません」
「ふむ、別乃教授にきかねば」彼が書斎の奥にひっこむと、ささやく声が聞こえた。「小さな人間動物――いじめなかったと申しておるが――男の子なる種類だそうで――」
「どの男の子かきいてみることだ」新たな声がいった。教授がまた出てきた。
「いじめなかったというのはどの男の子のことかな?」
シルヴィーは目をぱちくりさせてぼくを見た。「まあ、先生ったら!」彼女がそう叫んで、キスしようと爪先立つと、教授は真面目くさって身をかがめ、その挨拶を受けた。「なんてあたしを困らせるの! ええ、いじめなかった男の子なら幾人もいてよ」
教授は友のもとへ引き返した。すると今度はその声がこういった。「その子たちをここへ連れてくるようにいってくれたまえ――ひとり残らず」
「できっこないわ、するつもりもなくてよ!」彼がふたたび姿を現わすや、シルヴィーは叫んだ。「泣いてるのはブルーノ、あたしの弟よ。おねがい、あたしたちふたりともいきたいの。この人は歩けないんです。この人はね――この人は夢を見ているの」(この言葉は、ぼくの気持を傷つけまいと小声だった。)「象牙の扉を通らせて!」
「きいてこよう」といって、教授はふたたび姿を消した。すぐに彼は戻ってきた。「よいそうだ。わしについてくるといい、爪先で歩いてな」
そのときぼくは爪先で歩くどころではなかった。シルヴィーについて書斎にはいろうとしたが、足を伸ばしてやっと床にふれるのさえ、容易なわざではなかった。
教授はぼくらの先に立って、象牙の扉の鍵を開けた。一瞬ちらりと、こちらに背をむけ、坐って読書をしている別乃教授をぼくは見る間があって、それから教授がぼくらを扉の外へと送り出し、後ろで鍵をかけた。ブルーノが顔を両手にうずめ、泣きじゃくりながら立っていた。
「どうしたの」シルヴィーが彼の頭を両腕に抱いていった。
「とってもちどく痛くしちゃったの」とあわれな坊やはすすりあげた。
「まあ、かわいそう。どうしてそんなに痛くできて?」
「もちろんできたさ!」ブルーノの泣きべそ顔が笑った。「お姉ちゃんばっかり何でもできるって思うの?」
事態はすっかり明るくなった。いまやブルーノが議論をはじめたのだ。「さあ、ぜんぶ話してごらん」とぼくはいった。
「足がすべって、足の頭に――」ブルーノがしゃべりだした。
「足に頭なんてないでしょ」シルヴィーが口をはさんだが、まるでむだだった。
(画像省略)
「土手ですべってころろんじゃったの。そして石につままずいたんだ。そして石が足を痛くしたったの。そして蜂を踏んじゃったったの。そして蜂がぼくの指を刺したったんだ!」あわれなブルーノはまたすすりあげた。災難を洗いざらい並べてみると、たまらない気持になったのだ。「わざと踏んだったんじゃないこと、蜂のやつわかってたくせに」しめくくりに彼はつけ足した。
「いけない蜂だね」とぼくは大袈裟にいってみせ、シルヴィーは傷ついた英雄の涙がすっかりかわくまで抱きしめてキスをした。
「指、もうぜんぜん無痛さ」ブルーノがいった。「どうちて石なんかあるのかな。ミスター・サー、知ってる?」
「そういうものも、何かの役に立っているんだよ」とぼくはいった。「何のためかぼくらにわからなくてもね。じゃ、たんぽぽは何のためにあるの」
「たんぽこ?」とブルーノはいった。「だって、とってもきれいだもん! 石はきれいじゃないよ、ちっとも。たんぽこが欲しい、ミスター・サー?」
「ブルーノ!」シルヴィーが小声でたしなめた。「『ミスター』と『サー』は両方いっしょに使わないのよ、教えてあげたでしょ!」
「男の人のこと話すときは『ミスター』をつけて、男の人に話しかけるときは『サー』をつけるんだって、教えてくれたじゃない」
「でも両方いっしょには使わないの」
「ふうん、でもぼくは両方いっちょに使うんだ、やかまちやさん」ブルーノは得意然として叫んだ。「ぼく、紳士のことを話して――紳士に話しかけたんだ。だからもちろん『ミスター・サー』といったんだ」
「それでいいよ、ブルーノ」ぼくはいった。
「もちろんいいさ!」ブルーノがいった。「シルヴィーはちっともわかんないんだから」
「こんな生意気な子、見たことないわ!」といって、シルヴィーはきらきらする瞳がかくれるくらい眉をひそめた。
「こんなわからずや見たことない」ブルーノがやり返した。「早くたんぽこ摘みにいこう。それくらいがお姉ちゃんにはぴったりだもんね」と聞こえよがしのささやき声で彼はぼくにつけ加えた。
「でも、なぜ『たんぽこ』っていうの、ブルーノ。たんぽぽ[#「たんぽぽ」に傍点]が正しい言葉だよ」
「そんなふうに跳ねまわるからなの」シルヴィーが笑っていった。
「うん、そうさ」ブルーノもうなずいた。「シルヴィーが言葉を教えてくれるでしょ、それからぼく跳ねまわると、頭のなかで揺すられて――みんな泡《あわ》ぽこになっちゃうの」
ぼくはこの説明にすっかり感心してみせた。「それで結局、きみはたんぽこを摘んできてくれないの」
「もちろんいくよ」ブルーノは元気よくいった。「さあいこう、シルヴィー」そして幸せな子供たちはまるで仔鹿のように敏捷に、軽やかに、芝生を跳ねるように駈け去った。
「では、アウトランドへの帰り道は見つからなかったのですか」とぼくは教授に尋ねた。
「いや、むろん見つけました」彼が答えた。「『へんてこ通り』へはいかなかったが、わしは別の道を見つけましてな。それ以来、もう何度か往復もしました。選挙にはわしも新通貨条例の起草者として出席せねばならなかった。皇帝はご親切にその栄誉をわしに[#「わしに」に傍点]と仰せられてな。『いかなる事態になろうと』、(皇帝の演説は一字一句記憶しておりましてな)『万一、総督の生きていることが判明したとしても、通貨の改革は教授[#「教授」に傍点]の計らいであり、わし[#「わし」に傍点]の計らいではないという証言をきみ[#「きみ」に傍点]にしてもらおう』あれほど光栄に浴したことはなかったわい」涙が彼の頬をつたったところを見れば、これはまったくの快い思い出ではなさそうだった。
「総督は亡くなられたことに?」
「さよう、そういうことだ。ですが、よろしいかな、このわしは信じちゃおらん。証拠がはなはだ頼りない――たんなる噂だ。踊り熊を連れた旅回りの道化師が(ある日、王宮にはいりこんできましてな)フェアリーランドからきたとかいって、総督はかの地で亡くなられたなどと吹聴しておった。わしとしては次総督にその男を審問していただきたかったが、まったく間の悪いことに、道化師がやってくるとかならず、閣下も奥方も外出しておられる。そう、総督は亡くなられたらしい」そしてなおも涙が老人の頬を濡らした。
「で、その新通貨条例というのは?」
教授の顔はふたたび輝いた。「きっかけは皇帝なのです」と彼はいった。「アウトランドの人民をひとり残らず二倍に豊かにしたいとご所望になられた――新政府の人気とりのためですな。ただ国庫にはそれだけの財源がなかった。そこでわしが進言申し上げた、アウトランドの硬貨と紙幣、その両方の価値を二倍にすればできないことではないと。それがいちばん手っ取り早い。こんなことを考えついた者がおりますかな。それにあの万民の喜びといったらなかった。店は朝から晩まで大繁盛。みんな、あれこれ買いこんで」
「それでその光栄はどんなふうに?」
不意に憂鬱な影が教授の陽気な顔をおおった。「選挙のあと、家に帰る途中のことだ」彼は悲しそうに答えた。「好意のつもりだったのだ――だがわしには少しも嬉しくなかった。わしをぐるりと取り巻いて旗を振ったのです。おかげでわしは盲も同じでした。そしてつんぼになりそうなくらい鐘を鳴らしおった。おまけに往来を花で埋めつくされ、道に迷ってしまったのだ」そしてあわれな老人は大きなため息をもらした。
「アウトランドまでどのくらいありますか」ぼくは話題を変えようと尋ねた。
「ほぼ五日の旅程でしょうな。だが戻らにゃならない――ときには。宮廷教授としての役目がら、いつもアグガギ皇子に付き添っておらねばならぬ。ほんの一時間そばを離れようものなら、皇后はそれはひどいご立腹で」
「とはいっても、こちらへこられるたびに、少なくとも十日はお留守になりますね」
「とんでもない、それ以上ですわい」と教授は叫んだ。「二週間のときもある。しかしむろん出発したときの正確な時刻を控えておきますからな、それで出仕《しゆつし》時刻をきっかりその時刻に戻すことができる」
「失礼ながら」とぼくはいった。「おっしゃることがのみこめませんな」
教授は黙ってポケットから、六本か八本も針のある正方形の金時計を取り出し、ぼくに差し出して見せた。「これは」と彼はきりだした。「異刻式懐中時計《アウトランデイツシユ・ウオツチ》でして――」
「ほほう、なるほど」
「――特殊な性能、つまり時計が時間に従うのではなく、時間が時計に従う。おわかりいただけましたかな」
「いえ、さっぱり」とぼくはいった。
「説明しましょう。放っておくかぎり、時計は本来の進み方をする。時間はそこに何の影響も与えない」
「そういう時計なら知っています」とぼくはいった。
「むろん通常の速度で進むのです。ただ時間が時計に従わなくてはならない。それでわしが針を動かせば、わしは時間を変えることになる。針を先に、本当の時間より先に進めることは不可能です。しかし、一か月ほど後戻りさせることはできる――それが限界だが。そこで出来事を何度でも再現できる――経験が示唆する改訂をいかようにも加えて」
「なんて重宝な時計だ」とぼくは思った。「実生活の上で。不注意な言葉は取り消せるし――むこうみずな振舞も贖える。ひとつやって見せてくれませんか」
「よろしい!」気のいい教授はいった。「この針をここまで戻すと」と位置を指さして、「歴史は十五分さかのぼる」
彼がそういいつつ針をまわすのを、ぼくはわくわくして見守った。
「とってもちどく痛くしちゃったの!」
甲高く、出し抜けにこの言葉が耳元にひびいた。ぼくはわれにもなく仰天して声の主を捜してふり返った。
そう! ブルーノが、ちょうど十五分前にぼくが見たときのように、頬に涙を流しながら立っていた。そしてシルヴィーが彼の頭を両腕に抱いていた。
可愛い坊やを二度も同じ災難にあわせたくはなかったので、ぼくはあわてて針を元の位置に戻すよう教授に頼んだ。たちまち、またシルヴィーとブルーノはかき消え、遠くの方で「たんぽこ」を摘むふたりの姿が見えるだけだった。
「驚きました、実に」ぼくは叫んだ。
「もうひとつ性能があってな、もっともっと驚きですぞ」と教授がいった。「この小さなポッチがありますな。『逆ポッチ』と称するのです。ここを押せば、一時間先の出来事が逆の順序で起こる。いまは試さんでください。二、三日時計をお貸ししよう。ご自分で実験して楽しむとよい」
「これはありがたい」ぼくは懐中時計を受け取っていった。「大切に扱います――おや、子供たちが戻ってきました!」
「たんぽこ、六つしか見つかんないの」とブルーノはいって、それをぼくの両手に差し入れた。「だってシルヴィーが戻る時間だっていうんだもん。それから、大きな木いちごをあげるね。ふたつしかなかったんだ!」
「ありがとう、おいしそうだ」とぼくはいった。「もうひとつはきみが食べたんだね、ブルーノ」
「ううん」ブルーノはぽつんといった。「きれいなたんぽこでしょ、ミスター・サー」
「うん、きれいだ。でもなぜそんなふうに足を引きずってるの、坊や」
「足、また痛くなったの!」ブルーノは悲しそうに答えた。そして地面に坐りこんで、さすりはじめた。
教授が彼の頭を両手にはさみこんだ――ぼくの知るかぎり、そういう振舞は心の動揺のしるしだった。「少し休むといい」彼はいった。「そうすればずっとよくなるか――あるいはずっと悪くなる。薬を持ち合わせておればな。わしは宮廷医でして」と彼はぼくにそっといいそえた。
「あたし、木いちごとってきてあげようかな」シルヴィーが彼の頭を両腕に抱きながらささやいた。そして頬をつたい落ちる涙をキスでぬぐってやった。
ブルーノの顔がたちまち輝いた。「うん、そうして!」彼は叫んだ。「木いちご食べたら、足なんか痛くなくなるさ――二つか三つ――六つか七つか――」
シルヴィーが急いで立ちあがった。「いったほうがよさそう」彼女はぼくにそっといった。「二桁の数にならないうちに」
「いっしょにいって手伝おう」とぼくはいった。「きみよりも高いところまで手が届くからね」
「ええ、おねがい」といって、シルヴィーはその手をぼくにあずけ、そしてぼくらはいっしょに出かけた。
「ブルーノって、木いちごが大好きなの」木いちごのありそうな高い生垣に沿ってゆっくり歩きながら、彼女がいった。「でも、とっても優しい子、たったひとつの木いちごをあたしにくれたの」
「えっ、すると食べたのはきみだったの。ブルーノはいいたくなさそうだったね」
「ええ、見てたわ」とシルヴィーはいった。「あの子はいつも誉められるのが嫌いなの。でもあたしにくれたのよ、ほんとうは。あたしはそれよりもあの子に――あら、あれ何かしら?」彼女はちょっとおびえて、ぼくの手にしがみついた。ちょうど森の入口に、足を突き出して横たわっている一匹の兎が目にはいったのだ。
「兎だよ。眠ってるんじゃないかな」
「いいえ、眠ってるんじゃないわ」とシルヴィーはいって、確かめようとこわごわ近寄っていった。「目が開いてる。では――では――」彼女の声は急にすくんだように低くなった。「死んでるの、そうなの?」
「ああ、すっかり冷たくなってる」かがんで検《あらた》めるとぼくはいった。「かわいそうに。死ぬまで狩りたてられたんだろう。きのう猟犬がうろついていた。でもさわった跡はない。たぶん別の獲物を見つけて、これは怖ろしさと疲れで死ぬにまかせたのだ」
「狩りたてられて死んだの?」シルヴィーはたいそうゆっくり、悲しそうに繰り返した。「狩りは遊びでするものでしょ――ゲームみたいに。ブルーノもあたしもかたつむり狩りをするの。でもつかまえても、けっして傷つけたりしないわ」
「優しい天使よ!」とぼくは思った。「きみの無垢な心にどうしたらスポーツというものがわかってもらえるだろう」ぼくらは手をつないで息絶えた兎を見おろしながら立っていた。そして彼女に理解できるような言葉でぼくは説明してみた。「ライオンや虎がとても獰猛なけものだってこと、わかるね?」シルヴィーはうなずいた。「だから国によっては人がそれを殺さなくてはならない、自分たちの命を守るために」
「ええ」シルヴィーはいった。「けものがもしあたしを襲ったりすれば、ブルーノだって殺すと思うわ――あの子にできればだけれど」
「そう、だからそういう人たち――猟師――はそれを楽しむようになる。走ったり、戦ったり、どなったり、危険な目にあったりするのを」
「ええ」シルヴィーはいった。「ブルーノも危ないことが大好きよ」
「ところがこの国には野性のライオンや虎はいないだろう。だからほかの動物を狩るんだ」彼女が納得して、これ以上質問しないようにとぼくは願ったが、それはむりだった。
「狐を狩るのね」シルヴィーは考えこむようにいった。「そしてやはり殺すんでしょう。狐はとても獰猛ですもの。きっと嫌われ者なのね。兎は獰猛かしら?」
「いいや」ぼくはいった。「兎は可愛くて、おとなしい臆病な動物だ――仔羊みたいにおとなしい」
「でも兎が好きなら、なぜ――なぜ――」彼女の声はふるえ、愛らしい瞳に涙があふれた。
「好きじゃないんだね、きっと」
「子供はみんな好きよ」シルヴィーはいった。「女の人はみんな好きよ」
「女の人でも兎狩りにいくことはあるよ」
シルヴィーは身ぶるいした。「ああ、いいえ、女の人はしないわ」彼女はむきになっていった。「ミュリエルさんはけっしてしないわ」
「そうだね、あの人はけっしてしない――でも、きみはこういうものを見てはいけない。さあ、捜しにいこう――」
だがシルヴィーはまだ動こうとしなかった。頭をたれ、両手を合わせたままで、彼女はかすれた沈んだ口調で最後の質問をした。「神さまは兎を愛してらっしゃるかしら?」
「そうさ」とぼくはいった。「むろん愛しておられる。神さまはあらゆる生き物を愛しておられる。罪ぶかい人間でさえね。罪など犯せない動物はなおさらだよ」
「『罪』って何のことかしら」シルヴィーはいった。しかしぼくはあえて説明しなかった。
「さあ、お嬢ちゃん」とぼくは彼女を促した。「かわいそうな兎にさよならをいって、木いちごを捜しにいこうね」
「さようなら、かわいそうな兎さん!」シルヴィーは素直に繰り返したが、立ち去ろうとするとき肩ごしにそれを眺めやった。ここで、いっぺんに彼女の自制心がくずれた。ぼくの手をふりほどくと、息絶えた兎の倒れているところに駈け戻り、幼い子供とは思えないほどに嘆き悲しんで、そのかたわらにうつ伏した。
「ああ、かわいそう、かわいそう!」彼女は泣きじゃくりながら何度も繰り返した。「あなたの生涯を美しくとの神さまの御心《みこころ》だったのに」
顔をうつむけたまま、時折小さな片手を伸ばしてあわれな動かぬものをかきなでてやり、また両手に顔をうずめ、まるで心臓がはり裂けんばかりに泣きじゃくった。
彼女が実際どうかなってしまうのではないかと、ぼくは思った。しかし泣きたいだけ泣かせて、最初の鋭い悲しみをぬぐい去るのが最善だとぼくは考えた。そして数分後、すすり泣きは次第におさまり、シルヴィーは立ちあがって静かにぼくを見た。頬にはまだ涙がつたわっていた。
ぼくはすぐには何もいってやることができなかった。ただ悲しみの場を離れようと、彼女に手を差しのべただけだった。
「ええ、いまいきます」と彼女はいった。そっとひざまずき、兎のなきがらにキスをしてから、彼女は立ちあがってぼくの手を取り、そしてぼくらは黙って歩いていった。
子供の悲しみは激しいが短い。少したつと、もういつもと変わりない声で彼女はいった。「あら、止まって、止まって! ほら、きれいな木いちごよ」
ぼくらは両手いっぱいに果物をかかえ、教授とブルーノがぼくらの帰りを待ちわびながら腰をおろしている土手へと大急ぎで引き返した。
ぼくらの声がまだむこうまで聞こえないうちに、シルヴィーは念を押した。「兎のこと、ブルーノには内緒よ」彼女はいった。
「それはいいけれど。でもどうして?」
涙がふたたびその愛らしい瞳にきらめき、つと顔をそらした彼女の返事は、はっきりと聞きとれなかった。「あの子は――あの子はやさしい動物が大好きなの。だからあの子が――とてもかわいそうで。悲しませたくないんです」
「ではきみの悲しみは重要ではないんだね、優しい、おもいやりのあるお嬢ちゃん!」とぼくは思った。しかしそれきり言葉をかわさずぼくらはようやく友人のところへ着いた。そしてブルーノは、ぼくらの持参したご馳走にすっかり心を奪われ、シルヴィーのふつうでない、沈んだ態度に少しも気づかなかった。
「だいぶ遅刻したのでは、教授?」ぼくはいった。
「ええ、そのとおり」教授がいった。「みなさんにもう一度象牙の扉を通っていただかねばなりません。もう時間いっぱい過ごしてしまったのです」
「もうちょっといらしてはいけません?」シルヴィーがいった。
「あと一分!」ブルーノがつけ加えた。
しかし教授は譲らなかった。「通るだけでも大特典なのです」彼はいった。「さあ、急がねば」そしてぼくらがおとなしく彼について象牙の扉口までいくと、彼は大きくそれを開いて、まずぼくに通るように合図をした。
「きみもくるんだろう?」ぼくはシルヴィーにいった。
「ええ」彼女はいった。「でも通ってしまえば、あたしたちの姿は見えなくなってよ」
「でも、むこうできみたちを待っていれば?」ぼくは敷居をまたぎながら尋ねた。
「その場合」とシルヴィーはいった。「じゃがいもがあなたの目方を尋ねるのはもっともなことですわ。十五ストーン以下の者とは誰とも議論をしない実に立派な玉子形のじゃがいもが目に浮かぶよう」
たいそう骨折って、ぼくは思考の本筋を取り戻した。「ぼくらはすうっと横道《ナンセンス》にそれてしまうね」とぼくはいった。
[#改ページ]
第二十二章 線路を横切って
「それじゃ、すうっと、もとへ戻りませんこと」とミュリエル嬢がいった。「お茶をもう一杯いかが? これなら常道《コモンセンス》ですわね?」
「するとあの不思議な冒険の一切は」とぼくは考えた。「ミュリエル嬢の言葉のなかの読点ただ一個の時間内におさまっていたわけだ。文法学者が『ひとつと数えて』という、たった一個の読点に!」(ぼくがいねむりをはじめた時刻きっかりに、教授が親切にも時計の針を戻しておいてくれたにちがいないとぼくは思った。)
数分後、ぼくらが邸をあとにしたとき、アーサーがまっさきに切りだした言葉は確かに妙なものだった。「あそこにはちょうど二十分いました」と彼はいった。「そしてぼくはあなたとミュリエル嬢が話しているのを聞いていただけです。しかし、どういうわけか、このぼくが彼女を相手に少なくとも一時間話していたような気がして」
そうだったのだ、まさしく。ただ時間が、彼のいうぼくとミュリエル嬢ふたりきりの会話の始まりに戻されていたので、すべてが、無といわないまでも忘却にゆだねられてしまったのだ。しかしぼくは、分別があるという自分に対する評価を大切にするあまり、事の次第をあえて説明しないでおいた。
どういう理由か、そのとき察することはできなかったが、アーサーは帰路、いつになく沈んで黙りこくっていた。エリック・リンドンは四、五日ロンドンにいっていて不在なのだから、彼に関係あることではないはずだと、ぼくは思った。アーサーはミュリエル嬢をほとんど「独《ひと》り占め」しているのだから――ぼくもふたりの語らいを聞くのは実に愉快で、自分から話題を持ち出して邪魔するつもりはなかったし――理論的にはおおいに晴れやかになって、人生に満ち足りているべきだ。「何か悪い知らせでも聞いたのかな」とぼくは考えた。すると、まるでぼくの心を読みとったかのように、彼は口を開いた。
「彼が最終列車でくるんです」話し始めるというより、話しつづけるといった調子で彼がいった。
「キャプテン・リンドンのことかね」
「ええ――キャプテン・リンドンです」とアーサーはいった。「ぼくが『彼』といったのは、ぼくらが彼のことを話していたような気がしたからです。伯爵の話ですと、今夜くるそうです。明日が彼の待っていた昇進の辞令の知らせがある日だというのに。伯爵が考えているように、もしそのことが本当に気がかりなら、なぜもう一日残って結果を聞こうとしないのでしょうね」
「あとから電報を打ってもらうこともできる」ぼくはいった。「しかし悪い結果になるかもしれないときに逃げ出すのは、どうも軍人らしくないね」
「彼はなかなかいい男です」とアーサーはいった。「でも正直なところ、彼に辞令がおりて、同時に出発命令も出てしまえば、ぼくにとっては嬉しい知らせです。ぼくは彼の幸運を祈ります――ひとつだけは別ですが。おやすみなさい」(すでにこのとき、ぼくらは家に着いていた。)「今夜はお相手できそうもありません――ひとりにさせてください」
翌日も似たような調子だった。アーサーは社交が億劫《おつくう》だというので、午後の散歩にぼくはひとりで出かけなければならなかった。駅に通ずる道を歩いて、「館《やかた》」からの道と交わる地点にくると、同じ目的地にむかっているらしい友人たちが遠くに見えたので、ぼくは足をとめた。
「ご一緒しませんか」伯爵、ミュリエル嬢、それにキャプテン・リンドンと挨拶をかわすと、伯爵がいった。「この落ち着かない青年が電報を待っているもので、それを受けとりに駅にいくところなのです」
「そういうことでしたら、落ち着かない娘もおりましてよ」とミュリエル嬢がいいそえた。
「それはいうまでもあるまい」と父親はいった。「女はいつも落ち着かん」
「人の素質のうちで最良のものを寛大に評価する点では」と令嬢が愛らしくいった。「父親に勝る者はおりませんわ、ねえ、エリック?」
「従兄がはいってないな」エリックはいった。それから会話は自然に二組の対話へとわかれていき、若いふたりが先をいき、ふたりの老人がゆったりした足どりであとにつづいた。
「ところで小さな友人たちにまた会えるのはいつになりますかな」と伯爵がいった。「妙に人をひきつける子供たちですね」
「連れてこられるときは、喜んでそうしましょう」とぼくはいった。「ところが、わたし自身、いつまたあの子たちに会えるのかわからないもので」
「尋問するつもりではありませんが」と伯爵はいった。「ミュリエルがただただ好奇心にとらえられているとお伝えしても、さしつかえありますまい。わたしどもはこのあたりの人々をたいてい知っております。そして娘はいったいどこの家にあの子たちが泊っているものかと、いたずらに思いを馳せておりましてな」
「いつかはご令嬢の期待にそえると思いますが、いまのところは――」
「いや、結構。娘にも辛抱ということをさせませんとな。忍耐力を養うのにまたとない機会だと、いって聞かせています。だが娘は少しもそういった見方をせんのですよ。おや、あの子たちがおりますぞ!」
確かにそうだった。彼らは階段の上で(明らかにぼくらを)待っていた。ミュリエル嬢と従兄は気づかずに通りすぎていたから、ほんのいましがたそこに登ったにちがいなかった。ぼくらの姿を見ると、ブルーノは駈けよってきて、折りたたみナイフの柄を大得意で見せた――刃はとれていて、道端で拾ったものだった。
「それを何に使うつもりなの、ブルーノ」ぼくは尋ねた。
「わかんない」ブルーノは無頓着に答えた。「考えとく」
「子供の最初の人生観は」と伯爵は独得の優しい翳りのある笑みをたたえていった。「人生が動産集めについやされる期間だというものですな。その見解が成長するにつれて変わっていきますが」そして彼はシルヴィーに手をさしのべた。シルヴィーは少しはにかんでぼくのそばに寄りそっていた。
だがその温和な老人は、人間の子であれ妖精の子であれ、そう長くはにかんでいられる相手ではなかった。シルヴィーはじきにぼくの手を放して彼と手をつないだ――ブルーノだけは忠実に最初の友のところに残った。先のふたりがちょうど駅に着いたとき、ぼくらは追いつき、ミュリエル嬢もエリックも古い知り合いのように子供たちを迎えた――エリックは「それできみは結局、ろうそく明かりでバビロンに着いたの」といいながら。
「うん、そしてまた戻ってきたの」とブルーノは声高らかにいった。
ミュリエル嬢はすっかり驚いてふたりを見くらべた。「まあ、あなたはこの子たちを知ってらしたの、エリック」と彼女はいった。
「この謎は日ごと深くなりますのね」
「では第三幕あたりにちがいない」とエリックがいった。「第五幕までに謎が解けると思ってはいないだろうね」
「でも、ずいぶん長い劇ですこと」訴えるような答えだった。「もう五幕にきているはずですわ」
「第三幕さ、断じて」と若い軍人は容赦なくいった。「舞台は鉄道のプラットホーム。消灯。王子(むろん変装)および忠実なる従者の登場。こちらが王子です――」(ブルーノの手をとって)「そしてその忠実なる従者はぼくです。王子様、つぎなるご命令は何でございましょう」そこで彼は、戸惑っている小さな友人に、いかにも宮廷ふうに深々とおじぎをした。
「従者じゃないよ」とブルーノが偉ぶっていった。「貧士《ひんし》じゃないか」
「いいえ、従者でございます、王子様」エリックはうやうやしくつづけた。「王子様にわたくしのさまざまな境遇をお話し申し上げましょう――過去、現在、そして未来の」
「はじめは何だったの」ブルーノは冗談に乗りはじめて尋ねた。「くつみがき?」
「もっと低いものでございます、王子様。ずっと昔、わたくしは奴隷として自らをさしだしました――『腹心の奴隷』として、そんな名前でしたね?」彼はミュリエル嬢のほうに顔をむけて相槌を求めた。
だがミュリエル嬢には聞こえなかった。手袋の具合がおかしくなって、彼女はそのほうにすっかり気をとられていた。
「そのお仕事もらえたの?」ブルーノはいった。
「悲しいことに、王子様、だめでした。そこでわたくしは――待者《ウエイター》になるよりほかなくて、ここ数年来つづけております――そうですよね?」彼はもう一度ミュリエル嬢をちらりと見やった。
「シルヴィー、手袋のボタンをはめるの手伝ってちょうだいな」ミュリエル嬢は急いでかがみ込みながらささやいていたので、この問いかけも聞きそびれた。
「それからつぎは何になるの?」ブルーノがいった。
「わたくしのつぎの地位は、人夫がよろしいかと存じます。そしてそのあとは――」
「子供をそうからかってはいけませんことよ」ミュリエル嬢が言葉をさしはさんだ。「何てたあいのないお話」
「――そのあとは」エリックはさらにつづけた。「主人になりたいと存じます。それは――第四幕!」彼はにわかに口調を変えて叫んだ。「照明。赤。緑。遠くに汽車の音。客車登場」
つぎの瞬間、プラットホームに汽車がすべり込んできて、切符売場や待合室から乗客の流れがはじまった。
「実際の生活を芝居に仕立ててみたことがおありですか」と伯爵がいった。「ちょいと試されるといい。わたしはよくそんなふうにして楽しんでおりましてな。このプラットホームを舞台だとします。両側に恰好な登場口と退場口がありますね。背景は申し分なし。本物の機関車《エンジン》が作動しておる。この雑踏と通行人、これはそうとう念入りな稽古をつんでおりますぞ。実に自然にふるまっているじゃありませんか。観衆のほうには目もくれないで。そのうえ、どの構図もまったく新鮮です。ごらんなさい。同じものはふたつとない」
ぼくもすぐさまこの観点に立って眺めて見ると、まさしく見事なものだった。赤帽が荷物を積み上げた手押し車を押して通りすぎていくのですら、実に真に迫っていて、拍手を送りたくなるくらいだった。赤帽のあとには、真赤に顔をほてらせたご機嫌ななめの母親が、泣き叫ぶふたりの子供の手をひっぱってつづき、後方の誰かにこうせきたてていた。「ジョン、早く!」ジョン登場、柔和で物静か、大荷物をもたされる。彼の後ろからもおどおどした幼い子守が、これまた泣きわめいている太った赤ん坊を抱きかかえて従った。子供たちはこぞって泣き叫んだ。
「すばらしい脇役だ」と老人の傍白がはいった。「あの子守の恐怖の表情に気づかれましたか。まさに完璧でしたな」
「まったく新しい鉱脈を掘り当てられましたね」とぼくはいった。「われわれ多くの者にとって、人生とその楽しみはほとんど掘りつくされてしまった鉱山のように思えます」
「掘りつくされたなんて」と伯爵は叫んだ。「真の劇的直観を有する者なら誰でも、終わったのは序幕だけだと考えます。ほんとうの見せ場はこれからはじまるのです。劇場にいって、十シリング払って特等席に陣取りますね、だがそれだけ払って何が得られます? おそらく数人の農民の会話でしょう――農民の服装を戯画化しすぎるのが不自然で――無理にこしらえた動作や表情はなお不自然で――気楽に陽気に語ろうとあせるのは不自然きわまりない。それより三等客車の座席に坐ってみなさることですな、そうすれば同じ会話が生のままで[#「生のままで」に傍点]聞けるのですぞ。席は最前列――眺めをさえぎるオーケストラはなし――料金も要らんのです」
「そういえば」とエリックがいった。「電報を受け取るのも料金は要りませんね。きているかどうかきいてみましょうか」そして彼とミュリエル嬢は電報局のほうへ歩いていった。
「シェイクスピアもこのことが念頭にあったのでしょうか」とぼくはいった。「『全世界がひとつの舞台』と書いたときに」
老人は大きく息をついた。「そして事実そのとおりです」と彼はいった。「お好きなように見つめることですな。人生とは実際、ひとつの芝居です。アンコールのほとんどない芝居――それに花束贈呈はなしです」と彼は夢心地にいいそえた。「われわれは人生の半分を、残りの半分でなしたことを悔やむことで過ごしてしまう」
「ところで人生を楽しむ秘訣は」彼はいつもの明るい調子をとり戻してつづけた。「それは本気さですな」
「しかし当節の審美的感覚のとはちがうでしょう。パンチ誌で若い婦人が『あなた本気ですの?』と会話のはじめにいうような」
「もちろん、ちがいますとも」伯爵は答えた。「わたしが申し上げるのは、思考の密度――注意力の集中のことです。充分注意を払わないことによって、われわれは人生で得られるかもしれない快楽の半分を失っているのです。何でもお好きな例をひとつとり上げてごらんなさい。その快楽がどんなささいなことでもかまいません――原則は同じです。たとえば、AとBが図書館の貸出し本で同じ二流小説を読んでいるとしましょう。Aは、おそらくその物語の面白味のすべてがかかっている登場人物の関係を、まるで無視します。風景描写やつまらなそうな節はどれも『飛ばし読み』するのです。自分が読んでいる個所にほとんど精神を集中させていない。彼はほかにすることを見出す決断力に欠けるというだけで――何時間も前に本を閉じてしまうべきだったのに――読みつづける。そうして『完』にたどりついたときには、すっかり疲れ果てて意気消沈しています。Bは読書に全精神を傾けます――『なすに足ることなら立派になすだけの価値がある』という信念のもとに。彼はその系図を把握します。風景について読みながら、自分の『心の目』にその絵を思い浮かべる。なかんずくよいことに、まだ興味が最高潮にあるうちに、どこか章の終わりで断固として本を閉じ、別の問題にとりかかる。だからつぎに一時間ほどその本を読むことにしたときには、空腹の男が食事の席につくようなものです。そして本を読み終えると、『よみがえりたる巨人』さながら、日々の仕事に戻っていきます」
「しかし、それが全然くだらんもの――注意を払っても報いられないものだとしたら?」
「では、そんな本だとしましょう」と伯爵はいった。「大丈夫、わたしの理論はその場合にも当てはまります。Aはそれがくだらんものだと気づかないまま、自分は楽しんでいるのだと思い込もうとして、最後までだらだら読んでいく。Bは十ページばかり読んだところで静かに本を閉じ、図書館へ出向いてもっとましな本と取り替えるわけです。まだもうひとつ、人生の楽しみを増すための持論がありましてね――それは、もううんざりなさったのでなければですが。わたしのことをなんと口数の多い老人かと呆れておいででしょう」
「いいえ、とんでもない」とぼくは真顔でいった。実際ぼくは、優しい物悲しさを帯びたあの上品な声にたやすく飽きる者はいやしまいという気がしたのだ。
「それはですね、快楽は素早く、そして苦痛はゆっくりと受け入れるようにするということです」
「それはまたどうしてですか。わたしならその逆を考えますが」
「人為的苦痛――どんなにささいなことでもよろしいが――それをゆっくりと受け入れることによって、その結果、本物の苦痛に襲われたとき、いかに熾烈であろうと、ただそれがふつうの速度で過ぎるにまかせておけばよいのです。そうすれば一瞬のうちに過ぎてしまいます」
「なるほど」とぼくはいった。「だがしかし快楽のほうは?」
「ええ、素早く受け入れることによって、人生をいっそう豊かにすることができます。あなたがひとつのオペラを聴いて味わうのに三時間半かかりますね。かりにわたしがそれを半時間で受け入れられて、しかも楽しめるとしましょう。ほら、あなたがひとつ鑑賞している間に、わたしは七つのオペラを楽しめるわけです」
「そんなオペラを演奏することができるオーケストラがあればの話ですね」とぼくはいった。「まず、そんなオーケストラを見つけないことには」
老人は顔をほころばせた。「わたしはある曲を聴いたのです」彼はいった。「けっして短い曲ではありませんでしたが――始めから終わりまで、変奏もみな含めて三秒間で演奏されましてな」
「いつ? それにどうやって?」ぼくは意気込んで尋ねたが、内心また夢を見ているのではないかと思った。
「小さなオルゴールが奏でたのです」彼は静かに答えた。「ねじを巻き終わったあと、時間調節装置か何かが故障したらしく、いまいったように、ほぼ三秒で回ってしまいました。だが、その旋律のすべてを奏でたことは確かです」
「その曲を楽しまれたのですか」反対尋問をする法廷弁護士なみの厳しさでぼくは尋ねた。
「ところが、全然」彼は率直に告白した。「しかしですな、あの種の音楽に慣れておりませんでしたから」
「あなたの方法をぜひ試してみたいですね」とぼくはいったが、ちょうどそのとき、たまたまシルヴィーとブルーノがぼくらのところへ駈けよってきたので、子供たちに伯爵のお相手をまかせ、ぼくは人物や情景を即興劇のなかに組み入れて、自分で心ゆくまで楽しみながら、プラットホームをゆっくり歩いていった。「おやおや、きみたちはもう伯爵からお役ご免にされたのかね?」子供たちが前を駈け抜けたので、ぼくはいった。
「いいえ」シルヴィーはたいそう力をいれて答えた。「夕刊をご覧になりたいんですって。だからブルーノがかわいい新聞配達になるところよ」
「配達料はたっぷりもらわなくちゃ」ぼくはふたりの後ろ姿に声をかけた。
プラットホームをひき返してくると、ぼくはシルヴィーひとりにいきあった。
「おや、シルヴィー」ぼくはいった。「かわいい新聞配達はどこにいったの、夕刊が買えなかったのかな」
「向う側の売場まで買いにいったの」とシルヴィーはいった。「線路を渡ってもってくるところよ――あら、ブルーノ、橋を渡らなくてはだめ!」遠くで急行列車が地響きをたてているのが、もう聞こえていたのだ。不意に恐怖の色が彼女の顔にみなぎった。「ああ、あの子が線路でころんだ!」彼女は叫び声をあげると、ぼくがとっさにひき止めようとするよりもす早くぼくの脇を駈けぬけてしまった。
だが喘息気味の老駅長が、たまたまぼくのすぐ後ろにいた。気の毒にもたいして役立たずの老人だったが、このときばかりは大手柄をたてた。そしてぼくがふりむくよりさきに、彼はその子を両腕に抱きとめ、彼女が間違いなく死ぬところを救ったのだ。ぼくはこの光景を緊張して見守っていたので、明るいグレーの服を着た人物が飛ぶように走り出すのがほとんど目にはいらなかった。プラットホームの後方から身を躍らせたその人影は、つぎの瞬間には線路に降り立っていた。このような恐怖の刹那に感じられたかぎり、彼が急行列車に轢かれないうちに線路を渡ってブルーノを抱きあげるには、まず十秒しかなかった。彼がそれをなしとげたかどうか推定するのは不可能だった。つぎにわかったことは、急行列車がすでに通過しており、生であれ死であれ、すべては終わったということだった。舞いあがった砂ぼこりが消え去り、ふたたび線路が見えるようになったとき、ぼくらは感謝にあふれる心で、子供とその命の恩人が無事なのを見とどけた。
「大丈夫!」エリックは線路をふたたび横切りながら、元気よくぼくらに声をかけた。「けがはなかったし、ただ怯えているだけです」
彼はその小さな子供をかかえあげてミュリエル嬢の腕に預け、何事もなかったかのように快活にプラットホームにあがった。だが顔色は生気のないほど青ざめていて、気絶するのではないかと恐れたぼくがあわてて差し出した腕に、重くもたれかかってきた。「ただ――ちょっとだけ、坐ります――」と彼は夢うつつにいった。「シルヴィーはどこです」
シルヴィーは彼のところに飛んでくると、その首に抱きついて心臓がはりさけんばかりに泣きじゃくった。「そんなに泣かないで、いい子だから」何ともいえない表情を両眼にたたえてエリックはつぶやいた。「さあ、もう泣くのはむだだろ。でもきみはあやうくむだに命を落とすところだったなあ」
「ブルーノのためならむだじゃないもの」幼い乙女は涙ながらにいった。「あの子もあたしのためなら、同じことをしてくれたわ。そうね、ブルーノ?」
「もちろん、したさ!」きまり悪げにまわりを見まわしながら、ブルーノがいった。
ミュリエル嬢は彼を両腕から降ろしながら、黙ってキスをした。それからシルヴィーに手招きして彼と手をつながせ、伯爵が坐っているところへふたりで戻っていくよう合図した。「伝えてね」彼女はふるえる唇でささやいた。「伝えて――何でもなかったって」それから彼女はその日の英雄のほうにむき直った。「だめかと思ったわ」と彼女はいった。「ほんと、無事なのね! どんなにあぶなかったかご存知でしたの」
「ちょうど間に合うと思ってね」とエリックはこともなげにいった。「軍人は命を賭けることを鍛えなくては。ぼくはもう大丈夫。電報局にまたいこうか。もう届いているのではないかな」
伯爵と子供たちがいるところにぼくも加わったが、みんなほとんど押し黙ったまま――というのは誰も話しかける気分になれなかったし、ブルーノはシルヴィーの膝の上で眠りかけていたので――ふたりが戻ってくるのを待っていた。電報は届いていなかった。
「わたしは子供たちとそのへんをぶらついてきます」ぼくらが少々余計者であるような気がしてぼくはいった。「また夜分にでもお寄りしてみます」
「あたしたち、もう森に帰らなくちゃ」ぼくらの声が聞かれないところにくるや、シルヴィーがいった。「これ以上長くこの大きさのままでいられないの」
「すると今度会うとき、きみたちはまたとっても小さな妖精になっているのかな」
「ええ」とシルヴィーがいった。「でもまたいつかふつうの子供に戻るわ――できれば。ブルーノがぜひもう一度、ミュリエルさんにお会いしたいっていうの」
「あのひと、すっごく優しいんだ」ブルーノがいった。
「ぼくも喜んでまた連れていってあげよう」とぼくはいった。「教授の懐中時計をきみたちに返しておいたほうがよくないかな。妖精になったら、大きすぎて持てなくなるよ」
ブルーノは愉快そうに笑った。彼が体験した恐怖の出来事からすっかり回復したのを見て、ぼくは嬉しかった。「ううん、大きすぎないの」と彼はいった。「ぼくたちが小さくなれば、それも小さくなるんだもん」
「そうしてそれはそのまますぐに教授の手許に戻っていくわ」とシルヴィーがつけ加えた。「そしたらおじさまはもうお使いになれなくなってよ。だからいまのうちにできるだけ試してみたら。お日様が沈んだら、あたしたち小さくなるの。さようなら」
「さようなら」ブルーノが叫んだ。けれどもその声ははるかかなたで響いていて、あたりを見まわすと、子供たちの姿はふたりとも消えていた。
「そうだ。日が沈むまであとたった二時間だ」ぼくはそぞろ歩きしながらいった。「この時間を最大限に利用しなくては」
[#改ページ]
第二十三章 異刻式懐中時計《アウトランデイツシ・ウオツチ》
ぼくがその小さな町にはいると、漁師のおかみさんふたりがあの「けっして最後にならない」最後の言葉をかわしているのに出くわした。それでぼくは、魔法の時計の実験に、この小場面の終わるのを待ってからそれを「再現する」ことを思いついた。
「そんじゃ、おやすみな! んで、マーサから便りさきたら、忘れんとおらに知らしてくれや」
「んだ、忘れんちゃ。それにあの娘にむかんようなら、帰ってくりゃええって。んじゃ、おやすみ!」
ゆきずりの見物人なら、「これで会話は終わる」と思ったろう。そう思っては見込みはずれなのだ。
「ああ、娘さん気に入るってば。あそこの人たちゃ、辛く当ったりしねえ、大丈夫だって。みんなそれはええお人じゃ。おやすみな!」
「うん、そうなんだ。おやすみ!」
「おやすみな! 便りさきたら、知らしてくれや」
「うん、ちゃんと知らせっからな。んじゃ、おやすみ!」
そしてやっとふたりは別れた。そのままふたりが二十ヤードほど離れるのを待って、ぼくは時計を一分戻した。驚くほど素早い変わりようだった。ふたりの姿が一瞬にもとの位置へ戻った。
「――むかんようなら、帰ってくりゃええって。んじゃ、おやすみ!」一方が話していた。そうして会話ぜんぶが繰り返され、やがてふたりが二度目に別れると、ぼくはふたりをそのまま思い思いの方向へ去らせ、そして町をぶらぶら歩いていった。
「それにしてもこの魔力のほんとうの効果は」とぼくは思った。「禍《わざわい》や災難、事故などを取り消すことだろう――」まもなく魔法時計のこの特性も試してみる機会が訪れた。というのは、そう思ったやさきに、想像していたその事故が起こったのだ。エルヴェストンの「婦人帽子店」の店先に、ボール紙の包装箱を積んだ荷馬車がとまっていて、御者がそれをひとつずつ店のなかへ運び入れていた。箱のひとつが道路にころがった。が、男はすぐまた戻ってくるので、拾いにゆくまでもなかった。ところがそのとき、自転車に乗った若者が通りの角《かど》からいきなり曲がってきた。そして箱を避けようとした拍子に自転車もろとも倒れるや、荷馬車の車輪にさかさまに叩きつけられた。御者が助けに飛び出してきた。そして彼とぼくとで不運な自転車の男を抱きかかえ、店の奥へ運びこんだ。頭が切れて、血が流れていた。それに片方の膝頭をひどく痛めたらしい。そこでこの地の唯一の外科診療所へすぐに運ぼうということに、即座に話が決まった。ぼくは積荷をおろす手伝いをし、そこへ怪我人がよりかかる枕を並べた。御者が御者台にのぼり、外科診療所へむかおうというとき、はじめてぼくは、こういった災難一切を取り消す不思議な力を自分がもっていることを思い出した。
「さあ、ぼくの出番だぞ」時計の針を戻しながら、ぼくはひとりごちた。そしてころがり落ちた包装箱にぼくがはじめて気づいたあの危うい一瞬へ、すべてのものが立ち返ったのを見ても、今度はほとんど驚かなかった。
すぐさまぼくは道路に飛び出して箱を拾い、荷馬車に戻した。つぎの瞬間、角を曲ってきた自転車は何の邪魔も障害もない荷馬車のそばを通りすぎ、たちまち土煙をあげながら遠くへ消えた。
「ありがたい魔力だ」とぼくは思った。「たいへんな人間の苦しみをぼくは――救っただけでなく、現に一掃したではないか!」そして人為的善に得々としながら、ぼくは荷馬車の荷おろしを眺めていた。ただ、針を巻き戻した時間きっかりにもう一度なったとき、どうなるのか見とどけたかったので、魔法の時計はまだ掌にのせておいた。
結果は、もしぼくが慎重に事を考えていたら、予測できたはずだった。時計の針が目盛に触れるや、荷馬車が――とうに走り去り、すでに通りの半ばに達していたそれが、ふたたび戸口に舞い戻り、いましも走り出さんとし、一方――ああ、悲しいかな、世界救済の黄金の夢がわが夢想をくらませてしまったのだ――傷ついた若者はまた枕の山にもたれ、その青ざめた顔に、苦痛をじっとこらえたようないかめしい筋《すじ》を浮かべていた。
「ああ、いまいましい魔法時計だ!」その小さな町を通り抜け、宿へ通ずる海辺への道を歩きながら、ぼくはひとりごちた。「できると思った善は夢のようにかき消える。悩み多いこの世の禍のみが、永遠に変わらぬ現実とは!」
さてこれからぼくは、世にも不思議な、ある経験を書くつもりだ。だがそれを語る前に、ぼくの物語のこの部分を信じなければならないと思ってくれるかもしれない一切の負担から、辛抱強いわが読者を解放するのが当然というものだろう。正直いって、このぼくにしろこの目でしかと見たのでなければ、きっと信じなかったろう。だから、その類いのことをたぶんまるで目にしたことのない読者に、とても信じてもらえるとは思わない。
ぼくはとある小ぎれいな、こぢんまりした別荘の前を通りかかった。それは敷地内の道からかなり奥まったところに建っていて、正面には華やかな花壇があった――蔓草《つるくさ》が壁いっぱいにはい、弓形の張り出し窓のあたりに花綵《はなづな》状に垂れ――芝生にはしまい忘れた安楽椅子と、そのかたわらに新聞が放ってあり――その前で「うずくまった」小さな狆《ちん》が、命をかけても宝物を守ろうと構えていた――そして誘うように半ば開いている玄関の扉。「いまだ」とぼくは思った。「魔法時計の逆作用を実験してみよう」ぼくは「逆ポッチ」を押し、なかへはいった。他人の家へ見知らぬ男がはいりこんだら、さぞ驚くだろう――たぶん立腹し、件の闖入者は邪険に叩き出されかねない。ところがここにかぎって、そんなことは断じて起こりえないと、ぼくにはわかっていた。自然の成行き――まずぼくのことはまるで頭になく、つぎに足音を聞き、顔をあげ、ぼくを見る。それから何の用件かと不審に思う――この順序が時計の作用で逆になるはずだ。まず最初にぼくが何者か不審に思い、つぎにぼくを見て、下をむき、それきりぼくのことは一切考えない。そこで邪険に叩き出されるという一件だが、それはこの場合かならず最初に起きるものだ。「だから、いったんはいりこめれば」とぼくはひとりごちた。「叩き出される危険をまぬがれるはずだ」
ぼくが通るとき、狆は警戒のつもりでさっと身を起こした。だが、彼が守っている宝物にぼくが目をくれないので、抗議の一吠えもせずぼくをやり過ごした。「おれの命をとるやつは」彼は喉を鳴らしてひとりごとをいってるようだった。「紙屑をとるようなもの。だが『デイリー・テレグラフ』をとるやつは――」しかしぼくはこの恐ろしい不慮の出来事には面とむかわずにおいた。
客間の一団は――むろん呼び鈴も鳴らさず、ぼくの近づくなんの前触れもせず、ぼくはまっすぐなかへはいった――四人の笑い興じる健康そうな女の子たちで、年は十四歳から十歳くらい、それがみな戸口のほうへむかってくるようだった(実は彼女たちは後ろむきで歩いていたのだ)。一方、縫物を膝にのせ、暖炉のそばに坐った母親が、ぼくがその部屋にはいると、ちょうどこういっていた。「さあ、あなたたち、お散歩の支度をなさい」
まったく意外なことに――というのもぼくは時計の働きにまだ不慣れだった――四人の可愛い顔から(ブラウニングのいうように)「ほほ笑みすべて消え」、子供たちはみな縫物を片づけ、そして腰をおろした。ぼくも静かに椅子を引き、坐って彼女たちを眺めたが、ぼくの姿に誰も気づかなかった。
縫物が広げられ、取り掛かる用意がすっかりできたところで、母親がいった。「さあ、やっと仕上りましたよ! もうやめていいわ、あなたたち」ところが子供たちはこの言葉にまるで無頓着で、その反対に、一斉に縫いはじめた――ぼくが一度も見たことのない作業をそういってよいなら。子供たちは縫物に付いた糸の短いほうを、めいめい針に通した。糸は後ろに針を引きずりながら、見えない力に引っぱられてたちまち布を突き抜けた。幼いお針子の指先が素早くそれを向う側で捕えたが、つぎの瞬間にはまた指を離れていた。こうしてその作業は、作業自体をたえまなく取り消していき、きれいに縫った可愛いドレスか何かをたえまなくバラバラにしていった。時折、もとに戻った糸がもつれるほど長くなると、子供たちのひとりが手を休め、それを糸巻きに巻きつけてから別の短い糸でやりなおすのだった。
ついに縫物がバラバラにほどかれ、片づけられると、婦人は「まだいけません。縫物を仕上げるのが先ですよ」と、ちぐはぐなことをいいながら、後ろむきで隣りの部屋へはいっていった。そのあと、「あら、お母さま、お散歩にとってもいいお天気よ」と叫びながら、子供たちが母親について後ろむきにスキップするのを見ても、ぼくはもう驚かなかった。
食堂のテーブルには、汚れた取り皿と空《から》の大皿しかのっていなかった。だが一座のものは――子供たち同様に上品で血色のよいひとりの紳士が加わって――たいへん満足した様子で坐っていた。
さくらんぼを食べながら、時折その種《たね》を用心ぶかく口から皿へ移す人々ならご存知だろう。まあ、そんなふうなことがこの迷界の――「冥界の」といおうか?――饗宴の間、終始つづいた。空のフォークが口に運ばれる。フォークはそこできれいに切られた一片の羊の肉を受け、それをす早く皿へ運ぶ。皿の上で、肉片はすでにそこにある羊の肉とたちまち一体になる。やがてぜんぶそろった肉片と二個のポテトを盛られた皿が、一家の主に手渡されると、彼は肉片は骨つきの肉塊に、ポテトは大皿に静かに戻した。
彼らの会話は、会話になっていたにせよ、彼ら一流の食事の仕方以上にこんぐらかっていた。それはまず末娘が出し抜けに、怒ったふうもなく、いちばん上の姉にむかって話しかけたことからはじまった。「あら、お姉さまったら、ひどい嘘つき」と彼女はいった。
姉からしっぺ返しがあるぞ、とぼくは思った。ところがそうではなく、彼女は笑いながら父親にむかい、はなはだ大きな、聞こえよがしのささやき声でいった。「お嫁さんになることよ」
父親は狂人のものとしか思われぬ会話に一役果たそうとこう答えた。「お父さんにそっといってごらん」
だが、娘は小声にならなかった(この子たちはいわれたとおりのことを、けっしてしなかった)。彼女は大きな声でいった。「もちろんそうだわ! ドーリーがなんになりたいか、みんな知っててよ」
すると末娘のドーリーが肩をすぼめ、可愛らしくすねてみせていった。「まあ、お父さま、からかわないで! あたし、誰の花嫁付添人にもなりたくありませんからね」
「それで、ドーリーが四人目になるんだね」父親のとんちんかんな返事だった。
このとき三番目が割りこんだ。「あら、決まってるの、お母さま、ほんと、嘘じゃないわ! メアリーがすっかり教えてくれたの。四週目の火曜日ですって――それで花嫁付添人になるために、三人の従妹《いとこ》がくるんですって――それで――」
「彼女なら忘れたりしないわ、ミニー」母親が笑いながら応じた。「そろそろ決めたらいいのに、あのおふたり。婚約期間が長いのはよくないわね」
そしてミニーが会話を――支離滅裂な一連の文句をそう呼んでよければ――こうしめくくった。「ねえ、聞いて! 今朝シーダズさんの家の前を通ったら、ちょうどメアリー・タヴナントさんが門のところにいらして、さよならをいっていたわ、あの男の人に――お名前、何ていったかしら。もちろんあたしたち、見ないふりしてた」
この頃にはもうどうしようもなく頭が混乱してしまい、ぼくは聞くのをあきらめ、食事が台所に運ばれるのについていった。
だがこの摩訶不思議な冒険談が、どうしても信じられないといううるさ型の読者に、こんな話は余計だろうか。どのように羊の肉が鉄串にのせられ、おもむろに生肉に戻されたか――どのようにじゃがいもがその皮をまとい、庭師に渡され、埋められたか――羊の肉がやっと生肉に戻ったとき、どのように、赤熱の炎から徐々に弱火に変わった火が不意に消え、かろうじてその寸前、料理番が最後のゆらぎをマッチの先に捕えたか――またどのように、羊の肉を鉄串からおろした女中が、それを外へ運び出し(もちろん後ろむきで)、道を(これまた後ろむきで)やってくる肉屋を出迎えたか。
この不思議な冒険のことをぼくが考えれば考えるほど、謎はますますどうしようもなくもつれてきた。だから道でアーサーに出会い、電報の内容を聞きに館までいっしょにいってもらえたのは、心からの救いだった。道々、駅で起こったことを彼に話してきかせたが、その先の冒険のこととなると、いまのところ何もいわずにおくのがよいとぼくは思った。
ぼくらがはいっていくと、伯爵はひとりきりで坐っていた。「これはようこそ、話相手がほしいところでした」と彼はいった。「ミュリエルはもう休みました――あの恐ろしい光景がよほどこたえたのでしょう――それにエリックは荷物をまとめにホテルへいってましてな、朝早い汽車でロンドンに発ちますのじゃ」
「では、電報が届いたのですね」ぼくはいった。
「お聞きじゃなかったですか。ああ、うっかりしておった。あなたが駅を立ち去られたあと届いたのです。ええ、そうなんです、エリックは昇進の辞令を受けました。で、ミュリエルとのことがまとまったので、早速、取りかからねばならない用事が町にありましてな」
「まとまったって、何がです」アーサーの望みが砕かれたという思いが頭に浮かび、ぼくは重苦しい気持で尋ねた。「おふたりが婚約されたということですか」
「婚約はしておったのです――ある意味で――ここ二年」老人は穏やかに答えた。「こういうことです、わしはあの男と約束をしておったのです。しっかりと安定した人生の針路が決まり次第、わしも同意すると。生きる目的もなく――命をかけるものとてない男に娘を嫁がせるのでは、安心できませんからな」
「おふたりの幸せを祈ります」奇妙な声がした。声の主は確かに部屋のなかだったが、ただ扉の開く音は聞こえなかった。ぼくは少し驚いてあたりを見まわした。伯爵もやはり驚いたようだった。「誰かね」と彼は叫んだ。
「ぼくですよ」とアーサーが、憔悴した顔に、人生の光明を不意に失ったような眼差しで、ぼくらを見ていた。「あなたにも、おめでとうといわせてください」彼は悲しげに伯爵を見て、いましがたぼくらをひどく驚かせたあの空ろな口調でつけ加えた。
「ありがとう」老人は短く、心をこめていった。
そのあと沈黙がつづいた。アーサーのひとりになりたい気持を察して、ぼくは腰をあげ、温和な主《あるじ》に「おやすみ」をいった。アーサーは彼の手をとったが、何もいわなかった。それどころか、ぼくらが帰途についてから、家にはいり、寝室のろうそくに明かりを点すまで、とうとう一言も口をきかなかった。それから彼は、ぼくにというより、自分にいいきかせるようにいった。「『心の苦しみは心みずから知る』いままでこの言葉を理解していなかったのだ」
それから実に物憂い数日が過ぎた。ぼくはひとりでまた館を訪ねる気になれなかったし、ましてアーサーにいっしょにいこうといってみる気は起こらなかった。「時」――われわれのどんなにつらい悲しみも優しく癒してくれるもの――が、彼にははじめての、人生をくじくような失意の打撃から彼を立ち直らせるまで、そっとしておくほうがよさそうだった。
しかしながら、仕事でぼくはまもなく町へいかねばならなくなった。それでやむなく、しばらく彼のもとを離れねばならない旨をアーサーに告げた。「しかし、一月《ひとつき》でまた戻れるだろう」とぼくはいいそえた。「できれば、いまはここにいたい。きみがひとりきりになるのはよくないからね」
「ええ、ここではそう長く孤独と向きあっていられません」とアーサーはいった。「でも、ぼくのことはご心配なく。以前から話のあったインドでの仕事を引き受けることにしました。むこうで、何か生きがいが見つかるでしょう。いまは何も目にはいらないのです。『わが命を高価なる神の賜物として、悪と禍より守り、失うこともさしていとわず』」
「そうだとも」ぼくはいった。「きみと同名の人物は同じくらい大きな打撃に堪《た》え、生き抜いたんだ」
「ぼくよりはるかに辛いものを」とアーサーがいった。「彼の愛した女は不実でした。ぼくの思い出にあのようなかげりはありません、ぼくと――」彼はその名はいわずに、急いで先をつづけた。「でも、あなたは戻ってこられますね」
「そう、じきに戻ってくるよ」
「そうしてください」アーサーがいった。「そして手紙で友達のことを知らせてください。落ち着き次第、住所をお知らせしますから」
[#改ページ]
第二十四章 蛙の誕生会
わが妖精の友がはじめて現実の子供の姿で現われた日からちょうど一週間目に、ぼくは彼らにもう一度会いたいと思いながら、森のなかへお別れの散歩としゃれこんだ。なめらかな芝生の上に身を伸ばしただけで、ぼくはたちまち「妖氛《ようふん》」におそわれた。
「お耳をうんと低くしてよ」ブルーノがいった。「内緒のお話があるの。蛙の誕生会なんだ――そしてね、ぼくたち、赤ちゃんをなくしちゃったの」
「何の赤ちゃんを?」この込み入った話にかなりうろたえて、ぼくは尋ねた。
「女王さまの赤ちゃんさ、ちろん」とブルーノはいった。「タイテイニャさまの赤ちゃん。だからぼくたちすっごく困ってるの。シルヴィーが、お姉ちゃんが――それは困ってるんだ」
「お姉ちゃんはどのくらい困ってるの?」ぼくは茶目気をおこして尋ねた。
「四分の三ヤード」ブルーノはとりすまして答えた。「そしてぼくは少しだけ困ってるの」笑顔になっているのを見せまいと目をつぶりながら、彼はつけたした。
「それで、その赤ちゃんのためにきみたちは何をしているの?」
「うん、兵隊さんがみんなで捜してるんだ――上や下や――あっちこっち」
「兵隊さんが?」とぼくは叫んだ。
「そうさ、ちろん」とブルーノはいった。「戦争しないとき、兵隊さんはどんなちっちゃな雑用でもするんだよ」
王家の赤ん坊を捜すのが「ちっちゃな雑用」だという考えに、ぼくはおかしくなった。「でもどうして赤ちゃんをなくすようなことになったのかな」とぼくは尋ねた。
「あたしたち、お花のなかに入れたの」話に加わったばかりのシルヴィーが、目に涙をためて説明した。「だけどどのお花だったか思い出せないの」
「姉さんはぼくらたちがお花のなかに入れたっていうんだ」ブルーノが口をはさんだ。「ぼくだけが罰を受けないようにって。でもそこに赤ちゃんを置いたの、ほんとはぼくなの。シルヴィーはたんぽこを摘んでたんだもん」
「『ぼくらたちがお花に入れた』とはいわないのよ」シルヴィーが大真面目で注意した。
「じゃ、あたしらたち、ね」とブルーノがいった。「ぼくそんなややこしい言葉、ぜんぜん覚えられないや」
「捜すのを手伝おう」とぼくはいった。そこでシルヴィーとぼくは花々のなかを一本残らず捜してまわる「発見の旅」にでたが、赤ん坊はどこにも見当らなかった。
「ブルーノはどうしたかな?」ひととおりまわったあと、ぼくはいった。
「あそこの溝にいるわ」とシルヴィーがいった。「蛙の子を遊ばせてるの」
蛙の子をどうやって遊ばせるのかたいそう知りたい気になったので、ぼくは四つん這いになってブルーノを捜した。ものの一分も捜すと、溝の縁に腰かけ、小さな蛙のそばでなにやら浮かぬ顔をしているブルーノが見つかった。
「うまくいってるかい、ブルーノ?」見あげた彼にうなずきながらぼくはいった。
「もう遊ばせられないの」ブルーノはとても悲しそうに答えた。「だってつぎに何をしたいかいってくれないんだもん。ぼく、この子にアオウキグサや――生きているトビケラの子やなんかを教えてやったのに――なんにもいってくれないんだ。何が――したい――の」彼は蛙の耳もとで声をはりあげた。だがその小さな生き物はじっとしゃがみこんだまま、知らん顔をしていた。「耳が悪いんだ、きっと」ため息をついてむき直るとブルーノはいった。「今度は劇場の用意をしなくちゃ」
「誰がお客さんなの?」
「蛙だけさ」とブルーノはいった。「でもみんなまだきてないや。追い立てなくちゃならないんだ、羊みたいに」
「こうしたら早そうだな」とぼくは提案した。「ぼくとシルヴィーがまわって蛙たちを追い立てるから、その間にきみは劇場の用意をしたら」
「いい考えだね」とブルーノが叫んだ。「でもシルヴィーはどこ?」
「ここよ」土手の端からのぞきながら、シルヴィーはいった。「二匹の蛙さんが駈けっこするのを見ていたの」
「どっちが勝った?」ブルーノは勢いこんで尋ねた。
シルヴィーは当惑した。「この子って、こんなむずかしい質問をよくするのよ」彼女はぼくに打ち明けた。
「それで劇場では何がはじまるの」とぼくは尋ねた。
「はじめに誕生日のご馳走を食べるの」とシルヴィーがいった。「それからブルーノがシェイクスピアをちょっぴりずつやるの。そのあとお話を聞かせてあげるんですって」
「蛙くんたちにはご馳走がいちばんだろうね。そうじゃない?」
「それがご馳走を食べてくれる蛙さんは、いつもほんとに少ないの。みんなお口をそれはしっかりむすんだままなのよ。そうしたほうがいいのかもしれないけれど」と彼女はいいそえた。「だってブルーノが自分でお料理したがるんですもの。とってもへんてこにつくるのよ。さあ、みんなはいったわね。頭をちゃんとしたむきに揃えるから、ちょっと手伝ってくださる」
ぼくらはほどなくこの作業をやってのけた。もっとも蛙のほうはずいぶん不満げな鳴き声をあげつづけていた。
「みんな何ていっているのかな」ぼくはシルヴィーに尋ねた。
「『フォーク! フォーク!』っていっているのよ。とってもおばかさんね。あなたたち、フォークはないんですよ!」彼女はいくぶんきつい口調でいった。「ご馳走がほしかったらお口を開ければいいの、そしたらブルーノがお口に入れてくれるわ」
このときブルーノが、料理人であることを示すための小さな白い前掛けをして、ひどくへんてこなスープがなみなみとはいった深皿を運んできた。ぼくは、蛙たちのあいだを彼が動きまわるのを注意ぶかく見ていた。だが、もらうつもりで口を開けたのは一匹もいなかった――ただ幼い一匹が、それもぼくは偶然だと思うのだが、欠伸《あくび》をした。ところがブルーノはすかさずその口に大匙一杯のスープを流しこんだので、かわいそうに小さな蛙はすこしのあいだ激しく咳きこんだ。
そこでシルヴィーとぼくはそのスープをふたりで分けあい、おいしく飲むふりをしなければならなかった。それは実際ひどく奇妙に調理されていたからだ。
ぼくはそれを(ブルーノにいわせると「シルヴィー風夏むきスープ」を)スプーンに一杯思いきって飲んだだけだった。そして正直なところ、全然おいしくなかった。あれほどたくさんの客がそろって口をかたくむすんでいたのも驚くに足らなかった。
「このスープ、何でつくったの、ブルーノ」口元までスプーンを運んだシルヴィーはそういって、顔をしかめていた。
そのブルーノの答えはいともそっけなかった。「いろんなものちょっぴりずつ」
催し物はシルヴィーがいった「シェイクスピアのちょっぴりずつ」で一段落することになっていた。それはシルヴィーが蛙たちの頭を舞台にむけさせるのにおおわらわになるから、ブルーノがひとりで演じるのだ。そのあとでブルーノが素顔で登場し、自作の物語を聞かせる段取りだった。
「その物語には教訓があるのかな?」ブルーノが最初の「ちょっぴり」の衣裳をつけに生垣のむこうにいっているとき、ぼくはシルヴィーに尋ねた。
「あるともいえるの」シルヴィーはあやふやに答えた。「たいがい教訓はあるのよ、ただあの子はそれを早く出しすぎてしまうの」
「それでシェイクスピアのちょっぴりずつは、ぜんぶ台詞《せりふ》でやるのかな」
「いいえ、動作だけでするの」とシルヴィーはいった。「文句はほとんど知らないんですもの。何の衣裳なのかあたしが見て、どの登場人物か蛙さんに教えなくちゃならないの。いつもとてもせっかちに当てっこするのよ。みんなで『何だ、何だ』っていっているのが聞こえない?」なるほど彼らはそういっていた。シルヴィーが説明してくれるまでは、ただの鳴き声にしか聞こえなかったが、いまやぼくにもかなりはっきりと「なあんだ、なあんだ」と聞きとれた。
「それにしても、どうして見る前から当てっこしたがるんだろうね」
「わからないわ」シルヴィーはいった。「でもいつもそうなの。ときどきこの日の何週間も何週間も前からそういいだすのよ」
(だから、蛙がとりわけ物憂げに鳴いているのを聞いたら、ブルーノ演ずるつぎなるシェイクスピアの「ちょっぴり」を彼らが当てっこしていると思ってまちがいない。これは面白いじゃないか。)
しかしながら当てっこの合唱は、ブルーノが舞台裏からいきなり走り出て、列を整えなおそうと蛙たちのあいだに飛びおりたので、ぴたりと中断した。
というのもいちばん年寄りで太った蛙――これは舞台が見えるようにきちんと並べられていなかったので、何がはじまっているのかわかっていなかった――が騒ぎだし、五、六匹の蛙をひっくり返し、そしてほかの何匹かの頭を舞台と逆の方向にむけてしまったのだ。そしてブルーノにいわせると、誰も見てくれないとき(彼はぼくのことを数にもいれてくれなかった)シェイクスピアの「ちょっぴり」を演ずるのは、まったくむだなのだった。そこで彼は、ちょうどカップのなかのお茶をかきまぜるように、棒で蛙の群れをかきまわしはじめ、ついにはほとんどの蛙の大きな間の抜けた目玉の、少なくともどちらか一方を舞台にむけさせた。
「この二匹のあいだにきて坐ってよ、シルヴィー」ブルーノはもてあましていった。「鼻をおんなじ方向にむけて並べたんだよ、何度も何度も、だけどこの二匹すぐけんかするんだ」
そこでシルヴィーが「仲裁役」としておさまり、ブルーノはふたたび最初の「ちょっぴり」の衣裳をつけに舞台裏に姿を消した。
「ハムレットよ!」ぼくのよく知っている澄んだかわいい声が突然宣言した。蛙の鳴き声は一瞬のうちにぴたりと止み、そしてぼくも舞台に目をむけた。シェイクスピアの生んだもっとも偉大な人物のふるまいをブルーノがどう解釈するか、多少興味をそそられたのだ。
このすぐれた演出者の手になるハムレットは、短い黒のマント(彼はまるで歯痛にひどく苦しんでいるように、それでおもに顔をくるんでいた)をつけ、そしてかなり外輪《そとわ》に歩いた。「生きるか死ぬか」とハムレットは陽気な調子でいって、それから何度もとんぼ返りをし、マントがその演技の最中に落っこちてしまった。
ぼくは少々がっかりした。その役柄に対するブルーノの見方には威厳が欠けていた。「もっと台詞《せりふ》をいわないのかな」ぼくはシルヴィーに小声でいった。
「いわないらしいわ」シルヴィーは小声で答えた。「文句がわからなくなると、たいていとんぼ返りをするんです」
その間にブルーノが舞台から姿を消したので、その疑問は解決した。すると蛙たちはたちまちつぎの登場人物の名前を催促しはじめた。
「すぐにわかってよ」とシルヴィーはいって、舞台に背をむけながら争っていた二、三匹の幼い蛙を整列させた。「マクベスだわ!」ブルーノがふたたび現われると、シルヴィーはつけくわえた。
マクベスは一方の肩からもう一方のわきの下にかけて何かを巻きつけていたが、これはスコットランドの肩掛けのつもりらしかった。彼はとげを一本手にし、それを少々こわがっているように腕を伸ばせるだけ伸ばしていた。「これは短剣なるか?」マクベスはいささか戸惑いげに問いかけた。とたんに蛙たちのあいだから「とげ! とげ!」という合唱が起こった(このときまでにはぼくも蛙たちの鳴き声が聞きわけられるようになっていた)。
(画像省略)
「あれは短剣です!」シルヴィーがきっぱりとした口調で宣言した。「おだまりなさい!」すると鳴き声はたちまち止んだ。
私生活におけるマクベスにとんぼ返りをするような奇癖があったと、シェイクスピアはぼくの知るかぎりいっていない。だがブルーノはそれをこの人物の欠くべからざる一端だと考えているらしく、宙返りを繰り返すうちに舞台から消えていった。しかしまもなく彼は一房の羊毛(たぶん迷子の羊がとげにこすりつけたもの)を顎の下にはさんで再登場した。それは彼の足元に届くほどの見事なあごひげとなっていた。
「シャイロックよ!」シルヴィーが宣言した。「ちがうわ、ごめんなさい」彼女はあわてて訂正した。「リア王だわ。王冠が見えなかったの」(ブルーノは、たんぽぽの真中をくりぬいて頭がはいるようにした、たいそう気の利いた王冠をこしらえていて、これが彼にぴったりお似合だった。)
リア王は両腕を組み(いまにも落ちそうなあごひげをおさえるためだ)、そして穏やかな説明口調でいった。「さよう、申し分のない国王じゃ」それから一息ついて、いかにしたらこれを充分証明できるかと考えているようだった。ここでぼくは、シェイクスピアの批評家のひとりとしてブルーノにできるかぎりの敬意を表しつつ、かの詩人は三大悲劇の主人公をその個人的習癖において妙な具合に一致させるつもりはなかったという見解を述べなくてはならない。のみならず、シェイクスピアがとんぼ返りの才能を王の家系の証拠として認めただろうとも思わない。ところが、そのリア王は深く考えこんだあと、王たることを立証するほかの論証を思いつかなかったようだ。そして、これがシェイクスピアの「ちょっぴりずつ」の最後とばかり(「三つ以上はけっしてしないのよ」とシルヴィーが小声で説明した)、ブルーノはかなり長い宙返りの連続を観客に披露してからようやく退場した。あとに残った蛙たちはうっとりとして、声をあわせて「もっと! もっと!」と叫んでいたが、これはどうやら彼ら流のアンコールの要求らしかった。しかしブルーノは、物語を語る時間になるまで、二度と姿を現わそうとしなかった。
彼がやっと素顔で現われたとき、その態度が著しくちがっているのにぼくは気づいた。彼はもう宙返りはしなかった。ハムレットやリア王のようなつまらない人物にとってなら、とんぼ返りがふさわしい習癖であっても、ブルーノ本人には、それほどまでに威厳をそこねることはあってはならない、というのが彼の持論であることは疑いなかった。とはいえ、なんの扮装もせずにたったひとり舞台に立っているのが落ち着かないというのも、これまた確かだった。「一匹の二十日鼠がいました――」と何度か話しはじめたにもかかわらず、彼は物語を語るのにもっと快適な場所はないかというように、上下に、四方八方に、目をきょろきょろさせていた。舞台の片隅に、いくぶん舞台を覆うような恰好で一本の背の高いジギタリスが生えていたが、それが夕方のそよ風にかすかにあちらこちらへゆれ動き、ちょうど講演者の望む道具立てになっているようだった。いったん場所を決めてしまうと、一、二秒とかからず彼は小リスのように茎をかけ登り、ジギタリスの花がいちばんたくさんついている、てっぺんのたわんだ部分にまたがった。そこからならかなりの高さから観客を見おろせるので、気おくれもすっかり消え、そして彼は楽しそうに物語をはじめた。
「あるとき、一匹の二十日鼠と鰐《わに》と人間と山羊とライオンがいました」これほどにぎやかに、そしてどやどやとあわただしく「登場人物」が話にころがりこんできたのを、ぼくは聞いたことがなかった。ぼくはいささかあっけにとられた。シルヴィーですら一瞬息をのみ、催し物に飽きていたらしい三匹の蛙が溝に飛びこむのを止めようともしなかった。
「――そして二十日鼠は靴を片方見つけました。そしてそれが鼠取りだと思いました。だからそれはなかに飛びこんで、ずっとそこにはいったきりでした」
「どうして鼠ははいったきりだったの」とシルヴィーがいった。彼女の役目はギリシア劇の合唱団のそれと似たようなものだった。彼女は講演者を励まし、的を得た質問をあびせて話をうまく引き出さねばならなかった。
「だって、もう出られないって思ったんだもん」とブルーノが説明した。「利口な二十日鼠だったの。罠からは出られないって知ってたんだ」
「でもどうしてわざわざなかにはいったの」とシルヴィーはいった。
「――そして二十日鼠は跳ねまちた、そして跳ねまちた」ブルーノは質問を無視して先をつづけた。「そしてとうとうまた外に出ました。そしてその靴の印を見ました。そしたらそこには人の名前がついていました。だからそれが自分の靴でないとわかりました」
「はじめは自分のだと思ってたの?」とシルヴィーがいった。
「どうしてさ、鼠取りだと思いましたっていったじゃない」と憤慨した講演者が答えた。「ねえ、ミスター・サー、シルヴィーがちゃんと聞くようにしてよ」シルヴィーは黙ってしまい、そして全身を耳にした。事実、彼女とぼくがいまではおもな観客だった。蛙たちはどんどん跳ねていってしまい、ほんの少ししか残っていなかったのだ。
「だから二十日鼠は人間にその靴をあげました。そして人間はすっごく喜びました。だってその人間は靴を片方しかもっていなくて、片足でまってたのです」
ここでぼくが問いかけてみた。「まってたって、片足で待って[#「待って」に傍点]たの、それとも舞って[#「舞って」に傍点]たのかな?」
「りょうぽう」とブルーノはいった。「そして人間は山羊をその袋から出しました」(「その袋のことはまだ聞いてないよ」とぼくがいった。「それにもう聞くこともないよ」とブルーノがいった。)「そして人間は山羊にいいました、『わしが戻ってくるまでこの辺を歩いていなさい』そして人間はいきました。そして深い穴にころがり落ちました。そして山羊はぐるぐる歩きまわりました。そして山羊は木の下にきました。そして尻尾をふりまちた。そして木を見あげました。そして悲しいちっちゃな歌を歌いました。聞いたこともない悲しいちっちゃな歌でした」
「それ、歌えるかい、ブルーノ」ぼくは尋ねた。
「うん、歌えるよ」ブルーノはすぐに答えた。「でも歌わない。シルヴィーが泣きだすから――」
「泣くもんですか」シルヴィーがおおいに憤慨して口をはさんだ。「山羊はそれをぜんぜん歌わなかったんだわ、きっと」
「歌ったんだ、でも」とブルーノはいった。「ちゃんとすっかし歌ったったんだ。長いおひげといっしょに歌ってるの、ぼく見たったんだもん」
「おひげといっしょに歌うわけにはいかないよ」この子を少し困らせてやろうと思って、ぼくはいった。「おひげは声ではないからね」
「そう、なら、おじさんはシルヴィーといっしょに歩くことはできないよ」ブルーノは勝ち誇って叫んだ。「シルヴィーは足じゃないもん」
ぼくはシルヴィーに見ならって、しばらく黙っていたほうがよさそうだと思った。ブルーノはとてもぼくらの手に負えなかった。
「そして山羊は歌をぜんぶ歌ったっちゃったとき、走っていきました――人間を捜しに出かけたの。そして鰐がそのあとについていきました――噛みつくためにだよ。そして二十日鼠が鰐のあとからついていきました」
「鰐は走らなかったの?」シルヴィーが尋ねた。彼女はぼくに同意を求めた。「鰐って走るわね?」
ぼくは「這う」がふさわしい言葉だろうといった。
「鰐は走ってなかった」とブルーノはいった。「それに這ってもいませんでした。鰐は旅行かばんみたいに押しわけへしわけして動いていました。そして鰐はあごを空高くもちあげていました――」
(画像省略)
「どうして鰐はそんなことしたの?」シルヴィーはいった。
「だって痛い歯が一本もなかったんだよ」ブルーノはいった。「ぼくがしぇつめいしなくちゃ、お姉ちゃんはなんにもわからないの? だって歯が痛かったらさ、ちろん頭をさげてるでしょう――こんなふうに――それにあったかい毛布をたくさん巻きつけていたさ!」
「毛布をもっていたらの話ね」とシルヴィーが口をいれた。
「ちろん毛布をもっていたさ」弟はやりかえした。「お姉ちゃんたら、鰐が毛布なしで出かけると思ってるの? そして鰐は眉毛をよせてしかめ面をしました。そして山羊はその眉毛をすっごくこわがりました」
「眉毛なんてちっともこわくないわ」シルヴィーが声をあげた。
「きっとこわくなるよ、もし眉毛が鰐にくっついていたら、この眉毛みたいにね。だから人間は跳ねまちた、そして跳ねまちた、そして、とうとうその穴から飛び出してしまいました」
シルヴィーはまたも息をのんだ。主人公たちが出てくるたびにこう目まぐるしく肩すかしをくらっては、彼女も唖然としたのだった。
「そして人間は走っていきました――山羊を捜すためにね。そして人間はライオンがぶうぶういっているのを聞きました――」
「ライオンはぶうぶういわないわ」シルヴィーがいった。
「このライオンはいったんだ」とブルーノはいった。「そしてその口は大きな戸棚みたいでした。だから口のなかにはすきまがたくさんありました。そしてライオンは人間のあとを追っかけたったのです――食べるためにだよ。そして二十日鼠はライオンを追っかけたったのです」
「だけど二十日鼠は鰐のあとを追っていたんだろう」とぼくはいった。「両方を追いかけてはいけないよ」
ブルーノはまばらな観客を見て溜め息をついたが、我慢づよく説明した。「りょうぽうを追っかけたったの。だって二匹とも同じ方向だったんだもん。そして二十日鼠は最初に鰐をつかまえました。それからライオンはつかまえられませんでした。二十日鼠が鰐をつかまえたとき、何をしたと思う――ポケットにやっとこをもってたんだよ」
「わからないわ」とシルヴィーがいった。
「誰にもわかりっこないさ!」ブルーノは有頂天で叫んだ。「鰐の歯をひっこぬいたのさ」
「どの歯を?」今度はぼくがきいた。
それでもブルーノを困らせることはできなかった。「山羊にかみつこうとしていた歯だよ、ちろん」
「それだけでは安心できなかったはずだな」とぼくは主張した。「歯を残らずぬいてしまわなかったら」
ブルーノはほがらかに笑い、そして前後に身をゆすりながら、半ば歌うようにいった。「ちゃんとね――ぬきました――歯をぜんぶ!」
「どうして鰐は歯が全部ぬかれるまで待っていたのかしら」シルヴィーがいった。
「待たなきゃなんなかったの」とブルーノは答えた。
ぼくがもうひとつ質問をした。「しかし『わしが戻ってくるまでここで待っていてもいい』っていった人間はどうなってたのかな」
「人間は『てもいい』っていわなかったよ」ブルーノは説明した。「その人は『なさい』っていったんだ。ちょうどシルヴィーがぼくに『十二時までお勉強しなさい』っていうみたいにさ。ああ」と彼は小さな溜め息をついていいそえた。「シルヴィーが『お勉強してもいいわ』っていうといいんだけどな」
これは厄介な問題になったと、シルヴィーは思ったらしい。彼女は物語のほうへ話を戻した。「でも人間はどうなったの」
「うん、ライオンが人間に飛びかかっていったったの。だけどすごくゆっくりだった。ライオンは三週間も空中にいました――」
「人間はそのあいだずっとライオンを待っていたのかい」ぼくはいった。
「もち、待つわけないよ」とブルーノは答え、ジギタリスの茎を頭からすべりおりた。物語は明らかに終わりに近づいていたのだ。「ライオンがやってくるあいだに、人間はおうちを売りました。そして荷物をまとめました。そして人間はほかの町にいって、そこに住みました。だからライオンはちがう人間を食べました」
これは明らかに教訓だった。そこでシルヴィーは蛙たちに最後の伝達をした。「物語はおしまい。そしてここから学びとれるものが何かは」と彼女はぼくにそっとつけ加えた。「あたしもほんとにわからないの」
ぼく自身もあまりはっきりしないので、何も意見はいわないでおいた。だが蛙たちは教訓があろうとなかろうと、すっかり満足した様子をみせ、ただ「いこう! いこう!」としわがれ声の合唱をしながら、ぴょんぴょん去っていった。
[#改ページ]
第二十五章 東方へ目をむけて
「ちょうど一週間になるね」それから三日後、ぼくはアーサーにいった。「ミュリエル嬢の婚約のことを聞いてから。とにかくぼくは一度訪れて、お祝いをいわなくてはと思う。きみもいっしょにいかないかね」
苦痛の色が彼の顔に浮かんだ。「お発ちになるのはいつでしたか」と彼は尋ねた。
「月曜日の始発だが」
「それじゃ――ええ、おともしましょう。ぼくがいかないのも変だし、それに友達らしくないですから。でもまだ金曜日です。日曜の午後まで待ってください。それまでにはもっと元気を出しますから」
頬をつたう涙を半ば恥じているように片手で目を覆いながら、彼はもう一方の手をぼくに差し出した。握りしめると、その手はふるえていた。
ぼくは慰めの言葉をいくつか思い浮かべてみた。だがどれもつまらなくて空々しく思えたので、口には出さずにおいた。「おやすみ」とだけ、ぼくはいった。
「おやすみなさい」と彼は答えた。その口調には、彼が人生をほとんど台無しにしてしまった大いなる悲しみと闘い、またそれを乗りこえるにちがいないとぼくに思わせるだけの雄々しさがあった――しかも、一度死んだ自分を踏み台にして、いっそう高いところできっと立ちあがることだろう。
日曜日の午後出かけるとき、ぼくは、婚約が発表された翌日に町へ帰ってしまったエリックと館《やかた》で顔を合わせることはないと思ってほっとした。彼が居合わせていたら、心を奪われた女性と対面し、その場にふさわしい祝福の言葉を静かに述べていたアーサーの落ち着き――不自然なくらいの落ち着き――は、かき乱されなかったともかぎらない。
ミュリエル嬢は幸せにまぶしいほど輝いていた。光りかがやくその笑顔に悲しみなどはいりこむ余地はなかった。アーサーでさえもそれにつりこまれ、彼女が「今日は安息日ですのに、花に水をやっておりますのよ」というと、それに答えた彼の声はいつもの明るい響きをほとんど取り戻していた。「安息日でも、慈愛ぶかい仕事は許されますよ。しかし今日は安息日とはいいませんね。安息日はもうないことになっています」
「土曜日でないことは存じておりますわ」とミュリエル嬢は答えた。「でも日曜日はよく『キリスト教徒の安息日』といわれていませんこと?」
「それは、ぼくの思うに、七日のうちの一日は休息の日とすべきだという、ユダヤ教の慣例の精神を認めるところからきていますね。しかしキリスト教徒は十戒の第四の掟に文字どおり従うことはない、というのがぼくの持論です」
「ではわたくしたちが日曜日を遵奉するのは何をよりどころにしておりますの?」
「まず第一に、神が創造の業《わざ》を終えて休まれた七日目が『聖別された』という事実があります。有神論者としてのわれわれは、それを守らねばなりません。第二に、『主の日』はキリスト教の慣例であるという事実があります。キリスト教徒としてのわれわれは、それを守らねばなりません」
「そうしますと、あなたが実行していらっしゃる宗規は――?」
「まず、有神論者として、何か特別な仕方でその日を神聖にしておき、無理のない範囲で安息の日にすること。第二に、キリスト教徒としての教会の礼拝に参列することですね」
「それから遊びについては?」
「そうですね。あらゆる種類の仕事と同様、週日において罪のないものなら、日曜日にも、その日の日課を妨げないかぎり、罪のないものだと思います」
「では日曜日に子供たちが遊んでもよいというお考えなのね?」
「もちろんです。じっとしていられない子供たちにとって、退屈な日にしてしまうことはありませんよ」
「そんな手紙がありましたわ」とミュリエル嬢がいった。「古いお友達からのもので、幼い頃の日曜日の過ごし方が書いてありますの。取ってまいります」
「ぼくも何年か前に、そういった話を直接口から聞いたことがあります」彼女が席をはずしているとき、アーサーはいった。「小さな少女でしたが。彼女が悲しそうに『日曜日にはわたしお人形さんと遊んではいけないの。日曜日には砂浜を走ってはいけないの。日曜日にはお庭を掘ってはいけないの!』というのを聞いて、ひどく胸にこたえましたよ。かわいそうに! 彼女には日曜日が嫌いになる理由が実にたくさんあったのです」
「これがその手紙です」戻ってくるとミュリエル嬢はいった。「一部分をお聞かせしますわ」
「子供の頃、日曜日の朝にまず目を覚ますと、少なくとも金曜日からはじまっていた憂鬱な予感は極度に張りつめていました。わたしにはこれから起こることがわかっていました、そして口には出さなくとも、願いは『これが夜だったらいいのに!』ということでした。それは安息の日ではなく、聖句の日であり、(ウォッツの)公会問答の日であり、また改宗した宣誓者や、信心ぶかい小間使、救われた罪人たちの教訓的な死などについての小冊子の日でした。
「早朝には起床し、家での祈祷がある場合は八時まで聖歌と聖書の一部を暗記させられ、それから朝食でしたが、すでに耐えてきた精進と、それにつづく恐ろしい一日のために、楽しく食べられるどころではありません。
「九時には日曜学校です。村の子供たちと同じ組に入れられて、わたしは憤慨すると同時に、何か間違いをして彼らより下になりはしないかと心配したものです。
「教会の礼拝式はまぎれもなくシンの荒野でした。わたしはその荒野をさまよいつつ、四角い家族席の裏張りや幼い弟たちのせかせかした態度、それに月曜日には記憶をたどって、冗漫でまとまりがなく何の典拠もない即席の説教をメモにまとめなくてはならない、そしてその出来いかんで運命が定まるという恐怖、そうしたことにわたしの思考の幕屋を張りめぐらしたのです。
「そのあと一時に冷たい食事(使用人たちは仕事が休みです)、二時から四時までまた日曜学校、六時に夕べの祈祷です。この間の休憩時間は、死海のように不毛な書物や説教を読むことで、いつもの罪深さを軽くする努力をしなければならなかったので、おそらく最も大きな試練の時でした。そんな日でも、ずっと先にただひとつばら色の時がありました。それはどんなに早くきても早すぎることのない『就寝の時間』でした」
「そうした教えも確かに善意からきているのですが」とアーサーがいった。「しかしそれではその被害者の多くが礼拝式をすっかり敬遠してしまったにちがいありませんね」
「わたくしも今朝は敬遠しましたの」彼女が改まった口調でいった。「エリックに手紙を書かなければならなかったんです。彼がお祈りについていったことを、あなたにお話ししても、気に――お気になさいませんかしら? いままでわたくし、あんなふうに考えたことなかったもので」
「どんなふうに?」アーサーはいった。
「それは、自然はすべて定められた、規則的な法則に従っている――科学はそれを証明した。だから神に何かしてほしいと願うことは(精神的な恵みを祈ることはもちろん別にして)、奇跡を期待することである。だからそんなことをする権利はわたしたちにはないということですの。彼がいったようにうまくいえませんでしたけれど、それがその話の結論ですの。だからわたくし混乱してしまって。これに対してあなたはどうお考えになるか、ぜひお聞かせくださいな」
「リンドン大尉への異議をぼくはもちだしません」アーサーはおもおもしく答えた。「ことに彼がここにいないのですから。でも、あなたへの異議なら」(彼の声は無意識のうちに優しくなった)「ぼくはお話ししますよ」
「わたくしの問題ですの」彼女は気づかわしげにいった。
「それではまずこうお尋ねしましょう。『なぜあなたは精神的な祝福を別になさったのですか?』あなたの心も自然の一部ではありませんか?」
「ええ、でもそこに自由意志がはいりますわ――わたくしはあれやこれや選択できます。そして神はわたくしの選択に影響を与えられますわ」
「それではあなたは運命論者ではありませんね?」
「ええ、ちがいますとも!」彼女は熱をこめて叫んだ。
「ああ、よかった!」アーサーはひとりごとをいったが、たいそう低くつぶやいたのでぼくにしか聞こえなかった。「では、ぼくがこのお茶のカップを自由選択の動作によって動かすことができる、とあなたは認めますね?」言葉どおりにその動作をしながら、「こちらへもあちらへも?」
「ええ、認めますわ」
「それでは、その結果がどこまでその定められた法則によって生じるか見てみましょう。このカップが動くのは、ぼくの手によってある物理的な力が加えられるからです。ぼくの手で動くのは、ある力が――電気でも磁気でも『神経の力』であるなら何でもよいのですが――ぼくの脳によって手に加えられるからです。脳のなかに貯えられているこの神経の力は、科学が完全であったなら、血液によって脳に供給される化学的な力であり、究極的にはぼくが食べる食物と吸いこむ空気に由来しているというふうにたどっていけるかもしれません」
「でもそれは宿命主義になりませんかしら? 自由意志はどこにありますの?」
「神経の選択のなかです」とアーサーは答えた。「脳の神経の力はひとつの神経に伝わっていくのと同じように自然に、別の神経を伝わっていくでしょう。どの神経にその力を運ばせるかを決めるのに、われわれは定められた自然の法則以上の何かを必要とします。この『何か』が自由意志なのです」
彼女の目がきらめいた。「よくわかりましたわ!」彼女は声を高めた。「人間の自由意志は定められた法則のひとつの例外ですのね。エリックも何かそのようなことを話してましたわ。だから彼は、人間の意志に感化を与えることによってのみ神は自然を支配できる、といったのですわ。ですからわたくしたちが『われらの日用の糧《かて》を今日も与えたまえ』と祈るのは道理にかなっているのですわね。というのも糧を生みだす原因の多くは人の支配下にあるんですもの。でも雨や晴天を祈るのは道理をわきまえないことですわ、ちょうど――」彼女は何か不敬なことをいうのを恐れるかのように口をつぐんだ。
感動にふるえるのを抑えた低い声で、また死を目前に控えた人の荘重な口調で、アーサーはおもむろに答えた。「『非難する者、全能者と争わんとするや?』『真夜中の光の中でわいた群』であるわれわれが、自然力を――自然界の取るに足らない分際にすぎないわれわれが――その自然力をあれこれ指図する能力があるかと思いこんで、その底しれぬ傲慢さとおろかな見栄から、日の老いたる者の権能を否定しようというのですか? わが創造主に『ここまで、ここを越ゆべからず。創りたもうたが、統治されたもうな』というのですか?」
ミュリエル嬢は両手に顔をうずめ、面《おもて》をあげなかった。彼女はただ「ありがとう、ありがとう!」と何度も何度もつぶやいた。
ぼくらは腰をあげた。アーサーは明らかにやっとのことで、こういった。「もう一言。あなたがもし祈りの力をお知りになりたいのなら――人間が必要とするどんなことでも、あらゆることでも――試みてごらんなさい。『求めよ、さらば与えられん』ぼくは――試してみました。神は祈りに答えたもうことがわかりました」
帰り道は、ほとんど宿に着く頃までぼくらは無言だった。ようやくアーサーがつぶやいた――それはぼく自身の思いのこだまといってもよかった――「『妻よ、いかで夫を救い得るや否や知らん?』」
この話題はそれきりになった。ぼくらが腰をおろして話しこむうちに、ふたりいっしょに過ごす最後の夜は知らぬ間に刻一刻とふけていった。インドのこと、これからの新しい生活、しようとしている仕事など、彼はおおいに語ってくれた。そして彼の寛大な心は高邁《こうまい》な野心に満ちあふれ、空しい後悔や身勝手なぐちがはいり込む余地などなかった。
「おや、もうじき朝ですね」ようやくアーサーが立ちあがり、先になって二階へむかった。「そろそろ陽が昇ってきます。ここで最後の夜をお休みになるのをわきまえもせずにお邪魔してしまって、でもお許しいただけますね。はやばやと『おやすみ』をいう気にはとてもなれなかったものですから。それにもう一度会っていただけるか、ぼくの消息を聞いていただけるか、わかりませんし」
「きみの消息はかならず聞かせてもらうよ」とぼくは暖かく答え、そしてあの風変わりな詩「ウェアリング」のむすびを引用した――
[#ここから7字下げ]
「おお、星はけっして
[#ここから2字下げ]
ここに落ちず、かなたに昇りたり。
東方をみよ、あまねく新しく幾千とあり。
ヴィシュヌの地で何の化身に?」
[#ここで字下げ終わり]
「ええ、東方に目をむけよ!」アーサーは力強く答え、海と東方の水平線の眺めがすばらしい階段の窓のところで立ちどまった。「西は悲しみや嘆き、過去の過《あやま》ちや愚行、過ぎし日のしおれた希望や実らなかった愛がことごとく葬られるにふさわしい墓だ! 東からは新たな勇気、新たな野心、新たな希望、新たな生命、新たな愛がやってくる! 東方に目をむけよ! そう、東方に目をむけよ!」
彼の最後の言葉は、部屋へはいってもしばしぼくの耳元に響いていた。窓のカーテンを開くと、ちょうど太陽が大海の牢から燦然《さんぜん》と立ち現われ、新しい一日の輝きに世界をつつむところだった。
「彼のため、ぼくのため、そしてわれわれすべてのためにかくあらんことを!」とぼくは瞑想した。「悪しきもの、命なきもの、望みなきものすべて、過ぎ去りし夜とともに消えゆかん! 善きもの、生けるもの、希望に満ちたるものすべて、暁とともに昇りゆかん!
「夜とともに消えゆくものは、冷たい霧、有毒な湿気、重苦しい影、物悲しい疾風、それにふくろうの陰気な鳴き声。暁とともに昇りゆくものは、矢のごとく走る光、健全な朝のそよ風、明かるむ生命のぬくもり、それに狂おしいひばりのさえずり! 東方に目をむけよ!
「夜とともに消えゆくものは、無知の雲、前途を遮る罪の影、そして悲哀の無言の涙。暁とともに高く高く永遠《とこしえ》に昇りゆくものは、知識の輝かしい曙光、清純なるものの優しい息吹、そして万物の歓喜の鼓動! 東方に目をむけよ。
「夜とともに消えゆくものは、死せる愛の思い出、くじかれた希望のしおれた葉、そして魂の最良の力をむしばむ女々しい後悔や怏々《おうおう》たる悔恨。昇り、広がり、命ある奔流のごとく上へ上へとうねるのは、雄々しい決意、不屈の意志、それに天にむけられた信仰の眼差し――『それ信仰は望むところを確信し、見ぬものを真実《まこと》とするなり』
「東方に目をむけよ! そう、東方に目をむけよ!」
[#改ページ]
訳註
序
*紊学《ぶんがく》[#「*紊学《ぶんがく》」はゴシック体] 原語は litterature、つまり litter(散乱物)と literature(文学)を合成したもの、キャロルお得意の鞄語(portmanteau word)です。ちなみに『フィネガンズ・ウェイク』のジェイムズ・ジョイスは手紙(letter)の意味もこめて litter と書いていますし、現代フランス作家クロード・モーリアックは「非文学」とも受け取れるような表題の L'alittrature contemporaine という本を書いています。
*かの静かなる……[#「*かの静かなる……」はゴシック体] イギリスの詩人、S・T・コールリッジ(一七七二―一八三四)の『老水夫行』第二曲からの引用。
*みことばの滋味《あじわい》は……[#「*みことばの滋味《あじわい》は……」はゴシック体] 旧約聖書詩篇第一一九篇一〇三節。
*『ロバートソンのコリント人への書簡講義』[#「*『ロバートソンのコリント人への書簡講義』」はゴシック体] イギリスの神学者、F・W・ロバートソン(一八一六―五三)の著述。
*今宵《こよい》なんじの……[#「*今宵《こよい》なんじの……」はゴシック体] ルカ伝第一二章二〇節。
*ホラティウス[#「*ホラティウス」はゴシック体] ローマの詩人(前六五―前八)。引用の詩句は『歌章』第三巻より。
*明日が[#「*明日が」はゴシック体]、…… あまりにも有名なマクベスのせりふ。
*気高き心の……[#「*気高き心の……」はゴシック体] イギリスの詩人、ジョン・ミルトン(一六〇八―七四)の詩「リシダス」からの引用。
*汝の我を……[#「*汝の我を……」はゴシック体] 旧約聖書サムエル後書第一章二六節。
*さらば、さらば、……[#「*さらば、さらば、……」はゴシック体] 『老水夫行』第七曲からの引用。
第一章
*ッ下![#「*ッ下!」はゴシック体] 長官は合計五音節になる Your Royal Highness を y'reince と単音節に短縮して発音します。y'reince なんて、むろん発音できっこありません。「ッ下」を発音できる読者もいないでしょうね――夢のなかでなら、ともかく。
*不具者[#「*不具者」はゴシック体]といってはおらん 長官が「不遇の同胞たち」(fellow-sufferers)といったり、「同胞たる不遇者たち」(suffering fellows)といったりするので、窓下の男は「あれこれ呼び名を使ってはなりません」(Don't call 'em names !)とささやきます。「あれこれの名で呼ぶ」という英語の言い回しは「悪態をつく」の意。わしは fellows といったのだ、felons(重罪人)といったのではないぞ、と長官は弁明しています。
*い粛、い粛![#「*い粛、い粛!」はゴシック体] あまりの騒がしさに、「聞け、聞け!」(Hear, hear !)の叫びの h がかき消され 'Ear, 'ear ! になっています。「聞」の門がふっとんで「耳」だけ残ったみたいです。その h を窓下の男がごていねいに拾って、hidiot(正しくは idiot)といっています。つまり、「静粛」の「せ」がくっついて「せ精薄」になりました。
*そんなに競競せんことです[#「*そんなに競競せんことです」はゴシック体] 長官はとにかく「共感する」(sympathize)という一語をいいたいのに、後ろ半分がかき消されて sympa-(共)しか聞き取れません。そこで窓下の男は Don't simper quite so much !「そんなに嬌[#「嬌」に傍点]笑ばかりみせちゃいけませんぞ」といったのです。
*別乃《べつの》教授[#「*別乃《べつの》教授」はゴシック体] The Other Professor ――「もうひとりの教授」というよりは「別乃」というれっきとした姓をもっているようです。
*そんなの、わかんないさ……[#「*そんなの、わかんないさ……」はゴシック体] 教授は "I hope you have had a good night, my child ?" 「ゆうべはぐっすり眠ったかね」といったのですが、ブルーノはそれを「きみはひとつのよい夜をもったね」という厳密な意味にとって、「ぼくのもった夜はせんせいのもった夜と同じさ、だってきのうから夜はひとつ[#「ひとつ」に傍点]きりしかないもん」と迷答を出しています。原文の冠詞 a がミソで、かんしんするのですが、しかしこの作品の翻訳ではときどき鉗子《かんし》を使って原文を手術しなくてはなりません。訳者はそうした翻訳の仕方をする自分を諌止《かんし》しません。
*だめだよ、ぼくたち……[#「*だめだよ、ぼくたち……」はゴシック体] 教授は総督に "Are they bound ?" 「お子さんたちは(お父上に)よくなついていますか?」ときいたのです。ブルーノはその bound を「縛られている」の意味にとって、「ぼくたち縛られてなんかいないや。囚人じゃあるまいし」と答えています。ここでもまた、そういう原文に縛られて[#「縛られて」に傍点]いては、とても翻訳できません。どうかそのへんをのみこんで[#「のみこんで」に傍点]ください。
*でも、ぼくを轢《ひ》いてくことないよ[#「*でも、ぼくを轢《ひ》いてくことないよ」はゴシック体] 総督が教授のことを "Positively he runs over with learning !" 「まったくもって秀《ひい》でたおひとだ」と感嘆したのに対し、ブルーノは "But he needn't run over me !" と憤慨しています。
第二章
*わが敏速なる……[#「*わが敏速なる……」はゴシック体] イギリスの詩人、アルフレッド・テニソン(一八〇九―九二)の『国王牧歌』「アーサー王の死」にある言葉。ひきつづいて、今度はぼくの若い友人アーサーの手紙が引用されるわけです。なおキャロルはテニソンを尊敬し、愛読し、一八五七年に知己となりました。
*アグガギ[#「*アグガギ」はゴシック体] Uggug ――なんともガグぜんとするくらいみにくい(ugly)名です。発音はアガッグでしょうが、和名はアグガギじゃなくちゃ、と夢のなかでブルーノが訳者に教えてくれました。
第三章
*次《じ》総督[#「*次《じ》総督」はゴシック体] 副総督(Sub-Warden)は次総督(Vice-Warden)となるわけですが、奥方はそれを省略して九行目で Vice とだけいっています。これだと「悪徳(総督)」の意味になってしまいます。なにせ日本語には Vice のようなうまい字[#「字」に傍点]がなくて苦労しました。どうぞ語勘弁[#「語勘弁」に傍点]を。
*蔓延したる[#「*蔓延したる」はゴシック体]不満 長官は「渦巻いている不満」(seething discontent)というべきを、seedling discontent(苗木程度の不満)といい、あわてて訂正したわけです。「漫然」と「蔓延」では万年分の差がありますから。
*わたしの仮装は、そうですな、そう――早々に[#「*わたしの仮装は、そうですな、そう――早々に」はゴシック体]うかがいますわい でぶでぶの奥方がやせやせのきりぎりす[#「きりぎりす」に傍点]の仮装でいく(I shall come as a Grass-hopper)といい、"What shall you come as, Professor ?" ときいています。教授の答えは "I shall come as - as early as I can, my Lady !" つまり as がミソで、なんかと味《あず》なまねをして功を奏[#「奏」に傍点]しようと思ったのですが……。
*無料《ただ》ではないぞ![#「*無料《ただ》ではないぞ!」はゴシック体] 奥方が「何もしないのに(ぶたれたのね)」という意味で for nothing という言い回しを使ったのに対し、次総督は「無料で」の意に解したのです。
第四章
*長官は子供たちの扱いがほんとうに手際よくて[#「*長官は子供たちの扱いがほんとうに手際よくて」はゴシック体]…… 前章の終わりで長官はアグガギの「耳をつかまえた」(took. . . by the ear)のですが、それをご存知ない奥方は、長官の子供の扱い方がほれぼれする(taking way)と感心しているわけです。
*アグガギちゃんの耳に……いうことをきかせる[#「*アグガギちゃんの耳に……いうことをきかせる」はゴシック体] 奥方は「傾聴させる」の意味でgain the ear といっているのですが、長官は文字どおり「耳を|つかむ《ゲイン》」実力行使にでたのです。
*引きたてて[#「*引きたてて」はゴシック体]…… 奥方は「長所を発揮させる」の意で draw him[Uggug]out といっていますが、長官は実は彼を引きずり出したのです。
*タビー[#「*タビー」はゴシック体] Tabby――前章の最後にある陰謀の書類にちらりとみえた「タビカット」(Tabikat)がこの奥方の本名らしいので、これはその愛称。しかし愛称というよりは蔑称の類いで、tabby とはおしゃべりな意地悪女の意。アグババとか、グジャベリーとか、そんな感じのいい名をどなたか考えてくれませんか?
*細工に隆々[#「*細工に隆々」はゴシック体]と…… 長官は "Let her conspire to her heart's content !"「奥方にも満足のゆくだけ協力していただきましょう」といっています。conspire には「陰謀を企てる」の意味もこめられて、一種の語呂合わせ。あの大柄な奥方が陰謀(細工)にすっかり興奮しているのですから、細工は流々ならぬ、「細工に隆々」となっているわけです。
第五章
*アレクサンダー・セルカーク[#「*アレクサンダー・セルカーク」はゴシック体] ロビンソン・クルーソーのモデルとなったといわれるスコットランドの船乗り(一六七六―一七二一)。
*休め、休め、……[#「*休め、休め、……」はゴシック体] 『ハムレット』一幕五場にある有名なせりふ。
*虫実[#「*虫実」はゴシック体]に…… 庭師は "I gets up wriggle-early at five ――" つまり「規則正しく」(regularly)というべきを、wriggle-early「ちゅうじつに」なんていっています。(wriggle は、みみずみたいな虫などがもぞもぞ動くの意。ついでながら一人称に三単現の s をつけたりもしています。)そこでブルーノがぼくだったら朝早くからもぞもぞ動かないや、といっています。
第六章
*幻核《げんかく》[#「*幻核《げんかく》」はゴシック体] Phlizz ――OEDの補遺にも載せられて、"In Lewis Carroll's book Sylvie and Bruno, a fruit or flower that has no real substance ; hence, allusively, anything without meaning or value, a mere name" と説明され、例文がふたつ引かれています。「幻核」のほうは、たぶん日本語の辞書にはまだ[#「まだ」に傍点]載せられていないでしょう。
*負目《おいめえ》[#「*負目《おいめえ》」はゴシック体] 原文では庭師が両親(parents)のことを pay-rints と発音し、その意味をブルーノに問われて、"Them as pay rint for me, a course !"「お家賃《やちん》を払ってくれるのが親だ、ちろん」(rint は rent のことでしょう)と答えています。
*そう鵞鳥鵞鳥《ガチヨガチヨ》するな![#「*そう鵞鳥鵞鳥《ガチヨガチヨ》するな!」はゴシック体] 原文は "Don't you be a great blethering goose !" 鵞鳥(goose)とは間抜けの意で、「そんな大ばかなことをぺらぺらしゃべるな」ということです。第九章の訳註を参照してください。
*肥多二心《こえたふたごころ》男爵[#「*肥多二心《こえたふたごころ》男爵」はゴシック体] 原語は His Adiposity the Baron Doppelgeist。
第八章
*わしゃ、いつでも軟[#「*わしゃ、いつでも軟」はゴシック体]だ シルヴィーが "So will you please ――"「なんなら――」といいかけたのに対し、庭師は "I always please." と答えています。
第九章
*ひげを当るんですか?[#「*ひげを当るんですか?」はゴシック体] 原文では、教授が "Save me !" と叫んだのを、奥方が "Shave me ?" と聞き違えています。
*わしが『ぐう』の音も……[#「*わしが『ぐう』の音も……」はゴシック体] 原文の "ca'n't say ‘boh' to a goose"「鵞鳥にブーともいえない」とは「たいへん臆病だ」という英語特有の言い回し。次総督がさきほど奥方を鵞鳥呼ばわりしただけに、この表現が生きてくるのです。
*実は、十八ペンスで……[#「*実は、十八ペンスで……」はゴシック体] 「なんの目的で」という意味で次総督は "what. . . for ?" ときいたのですが、奥方はその for を文法でいう交換の用法に使って金額を答えたのです。
*別の教授[#「*別の教授」はゴシック体] ここでは another professor、つまり別乃教授ではなくて、教授のかわりとなるべき別の教授のことです。
*わたくしの権内[#「*わたくしの権内」はゴシック体]で…… 次総督が「選挙はきみなしで(without you)行なおう」といったのに対して、教授は「わたしの権限内で(within me)行なうよりはよろしいでしょう」と答えています。
*ネ、ネ、ネ、寝床、熱さまし、念入り言葉づかい[#「*ネ、ネ、ネ、寝床、熱さまし、念入り言葉づかい」はゴシック体] 原文は "C, C, C, : Couch, Cooling-Draught, Correct-Grammar" 順に寝床、すずしい風、正確文法。訳語はネで練《ね》ってみました。
第十章
*まず顔合わせ、つぎに食べ合わせ……[#「*まず顔合わせ、つぎに食べ合わせ……」はゴシック体] このせりふはつぎの原文とつき合わせていただき、一緒にみていただきましょう。"First the Meeting : then the Eating : then the Treating ―― for I'm sure any Lecture you give us will be a treat !"
*豚の尾話《おはなし》[#「*豚の尾話《おはなし》」はゴシック体] Pig-Tale. 尾っぽ(tail)とお話(tale)の語呂合わせは『アリス』の読者ならご存知のはず。
*物差触《ものさしさわ》り[#「*物差触《ものさしさわ》り」はゴシック体] 教授が「もろもろ差障り」などとむずかしいことをいったので、ブルーノが「物差触《ものさしさわ》り」と聞き違えたわけです。原文は前者が disadvantages、後者が lizard bandages(蜥蜴《とかげ》包帯)。
第十一章
*ずいぶん長っぽい詩だったなあ[#「*ずいぶん長っぽい詩だったなあ」はゴシック体] what a many verses it was ! こうしたブルーノ独特の文法違反はしょっちゅうです。どこかの国の英語の先生たちがシンコクに悩んだり怒ったり呆れたりするようなミステイクを、彼は平気でおかします。 I の be 動詞が am でなく is だったり、不規則動詞の過去形にまた -ed をくっつけたり……。とくに第二十四章のブルーノのおしゃべりの個所は彼の[#「彼の」に傍点]ミステイクで、印刷屋さんのミスプリントではありません。
第十二章
*ふたりでには[#「*ふたりでには」はゴシック体]…… うとうとしかけたブルーノをみて、別乃教授が "The smaller animal ought to go to bed at once"「その小さい子はすぐ[#「すぐ」に傍点]寝かせてやるのがよろしい」というと、教授に "why at once ?" ときかれ、そこで "Because he ca'n't go at twice" と答えています。これを教授がふたりに分割できないという意味に受け取り、その説明を別乃教授がすることになります。
*だってイとロの真中は戸《ト》でしょ……[#「*だってイとロの真中は戸《ト》でしょ……」はゴシック体] このあたり、原文では、別乃教授が線分ABをC点で二分する例を図解しようとし、するとブルーノが "It would be drownded"「溺れちゃったったさ」といいます。理由は「丸花《まるはな》蜂」(bumble-bee)が「海に沈む」(sink down in the sea)からです。つまりブルーノにとって AB は a bee、C は sea なのです。ちなみにフランス語訳では線分ABをO点で二分することにして、つぎのように訳しています。―― Eh bien l'abb, videmment ! dit Bruno. Et les deux morceaux tomberont dans l'eau ! つまり大修道院長(abb)が水(eau)のなかに落っこちるというわけです。
*それで、さまようことも……[#「*それで、さまようことも……」はゴシック体] 教授が「道に迷った」という意味で lost himself というと、ブルーノは「彼自身をなくした」と解釈し、「彼ち身をまた見つけられなかったの」(couldn't he find his-self again ?)と尋ねています。
第十三章
*軽適《けいてき》な[#「*軽適《けいてき》な」はゴシック体] 「快適な」(comfortable)といってるつもりが、comfable になっています。
*あげられないよ[#「*あげられないよ」はゴシック体] "Give me your names"「名前をいえ」と歩哨がいったのを、ブルーノは名前を取りあげられると思ったのです。
*御前足《おんまえあし》の元《もと》に……御前《ごぜん》の足元《あしもと》に[#「*御前足《おんまえあし》の元《もと》に……御前《ごぜん》の足元《あしもと》に」はゴシック体] 前者は at his paws、後者は at his feet。犬の前足なら paws、人間ならば feet です。
*作法の先生《マスター》[#「*作法の先生《マスター》」はゴシック体] Master of Ceremonies はふつうなら式部官と訳されますが、この Master が蝶番の役目をしていて、第十三章の「処方の先生《マスター》、アーサー・フォレスター」("Arthur Forester, M. D.[=Medicinae Doctor]")とむすびついています。
第十四章
*「妖気《ようき》」……「妖氛《ようふん》」[#「*「妖気《ようき》」……「妖氛《ようふん》」」はゴシック体] 原語は前者が "fairysh"、後者が "eerie"、字面や意味や音が、似ているような似ていないような具合です。「妖氛」は夏目漱石先生が「坑夫」のなかで使っているのを頂戴しました。
*フ…G…ル…ー…ノ[#「*フ…※…ル…ー…ノ」はゴシック体] 順に B, R, U, N, O です。
*深《ふか》=流《りゆう》[#「*深《ふか》=流《りゆう》」はゴシック体] 復讐(revenge)を発音できないブルーノが river-edge(川=端)といっているのです。
第十五章
*かたつむり狩りにひとつで[#「*かたつむり狩りにひとつで」はゴシック体]いくなんて むろん、「ひとつぼくも……」なんて言い方を、ブルーノは容赦しないのです。原文ではぼくが "I'll go snail-hunting myself some day" といったのに対し、彼は "I should think oo wouldn't be so silly as go snail-hunting by oorself" といっています。
*楽譜[#「*楽譜」はゴシック体] 『もつれっ話』にある「チェルシー甘パン」という曲も何ともいわれぬ妙曲ですが、この曲も実にすばらしいのです。ぜひピアノか何かで弾いて歌ってみてください。歌詞もメロディーにあわせて訳してありますから。
第十七章
*ウォッツ師[#「*ウォッツ師」はゴシック体] イギリスの神学者、賛美歌作者アイザック・ウォッツ(一六七四―一七四八)。
*芸術は自然を隠すものなり[#「*芸術は自然を隠すものなり」はゴシック体] 「芸術は芸術を隠すことなり」(ars est celare artem)というラテン語の文句をもじって、"Ars est celare Naturam" といっているのです。
*精神の行進[#「*精神の行進」はゴシック体] イギリスの小説家、トマス・ラヴ・ピーコック(一七八五―一八六六)の『クロチェット城』第十七章に、つぎのようなくだりがあります。「精神の行進――こいつが真夜中にわしの奥の間のよろい戸を抜けて侵入してきて、わしの銀のスプーンをみんなもってまた出ていった。調べに呼んだ警察がいうには、わしの邸は実に科学的原理に基づいて破られたそうだ」
*命名法が明々白々に問題を片付けた[#「*命名法が明々白々に問題を片付けた」はゴシック体] 原文では、「〔命名法(nomenclature)という〕この最後の多音節語が問題を片付けた」
*人間は特性のかたまり……[#「*人間は特性のかたまり……」はゴシック体] 正しくは「人間は矛盾のかたまりである」これはチャールズ・ケイレブ・コルトン(一七八〇?―一八三二)の言葉。
*おのおのに悩みあり、すべて人なり[#「*おのおのに悩みあり、すべて人なり」はゴシック体] イギリスの詩人、トマス・グレイ(一七一六―七一)「イートン校遠望の頌」からの引用。
*合奏《あいそう》[#「*合奏《あいそう》」はゴシック体] 「伴奏」(accompaniment)のつもりで、a compliment(愛想)といったわけです。
*シェリー[#「*シェリー」はゴシック体] イギリスの詩人、P・B・シェリー(一七九二―一八二二)。「われは汝《なれ》の夢より……」は「インディアン・セレネイド」の冒頭の行《ライン》、「おお、汝にそを……」は同じ詩の最後の二行。(しかし最終行はキャロルの原文では Oh, press it to thine own, or it will break at last ! だが、正しくは Oh ! press it to thine own again, /Where it will break at last.)
第十八章
*浅女《せんによ》観念[#「*浅女《せんによ》観念」はゴシック体] 論理学上、正しくはふたつの前提(premises)が必要なのですが、それをアーサーはふたりの取りすましたお嬢さん(prim Misses)といっています。訳語としては先入観念のもじりですが……。
*戯論《けろん》[#「*戯論《けろん》」はゴシック体] 同様に正しいのは結論(conclusion)ですが、Delusion(妄想)だといってあざむいているのです。
*辟易《へきえき》論法[#「*辟易《へきえき》論法」はゴシック体] これまた演繹法(syllogism)が正しく、それを Sillygism といってからかっています。この造語は愚者論法くらいの意味になります。
*ケルベロス[#「*ケルベロス」はゴシック体] ギリシア神話の地獄の門の番犬。
*バビロンまで……[#「*バビロンまで……」はゴシック体] わりによく知られている nursery rhyme。
*ともかくしじゅう[#「*ともかくしじゅう」はゴシック体]番地は変わらん むろん、上の「四十《しじゆう》番地」との語呂あそび。原文では "Forty !" と "And not piano, by any means !" つまり forty ―― forte(フォルテ)― not piano(ピアノではなく)というわけです。
第十九章
*二、三人わが名によりて……[#「*二、三人わが名によりて……」はゴシック体] マタイ伝第一八章二〇節。
*誠にエホバ此処《このところ》に……[#「*誠にエホバ此処《このところ》に……」はゴシック体] 創世記第二八章一六―一七節。
*ペイリー[#「*ペイリー」はゴシック体] ウィリアム・ペイリー(一七四三―一八〇五)。イギリスの倫理学者、宗教家。
*地に汝《なんじ》の生命の……[#「*地に汝《なんじ》の生命の……」はゴシック体] 英国国教会祈祷書より。
*汝らの天の父の……[#「*汝らの天の父の……」はゴシック体] マタイ伝第五章四八節。
*「森」の語源を……[#「*「森」の語源を……」はゴシック体] ラテン語の文句 lucus a non lucendo に言及しています。これはローマの修辞学者クインティリアヌス(三五頃―九五頃)が唱えた語源説で、「森」(lucus)の語源は「輝かない」(non lucere)だとするもの。実は森が光を外へもらさないのではなく、外の光が森へはもれてこないのですから、矛盾しているわけです。
*なるほど平地では……[#「*なるほど平地では……」はゴシック体] flat という言葉の語呂あそびで、平地(flat)で女の子をかついであげたぼくは、うまうまとかつがれたとんま[#「とんま」に傍点](flat)だったわけです。
第二十章
*兵隊さん、船乗りさん……[#「*兵隊さん、船乗りさん……」はゴシック体] Nursery rhyme のひとつにこんなのがあります。"Tinker, Tailor, Soldier, Sailor, Rich man, Poor man, Beggarman, Thief." チェリーの種やチョッキのボタンやデイジーの花びらをこれで数えていって、数え終わった言葉が将来の夫になるといった女の子の遊びです。
*幸いなるかな……[#「*幸いなるかな……」はゴシック体] イギリスの詩人、劇作家、批評家、ジョン・ドライデン(一六三一―一七〇〇)の『アレクサンダーの饗宴』にあるつぎの有名な言葉をもじったものです。"Happy, happy, happy pair ! /None but the brave, /None but the brave, /None but the brave deserves the fair."
*品種にかかわりますよ[#「*品種にかかわりますよ」はゴシック体] 原語 infra dig はラテン語 infra dignitatem(品位にかかわる)ですが、英語で dig は「掘る」ですから、ここでは「いも掘り以下」の意味にもなります。この場合もそうですが、この小説の翻訳で訳者は国語辞典を根掘り葉掘り調べて訳語を掘り当てようと泥まみれになりました。
第二十一章
*異刻式懐中時計《アウトランデイツシユ・ウオツチ》[#「*異刻式懐中時計《アウトランデイツシユ・ウオツチ》」はゴシック体] Outlandish Watch ――アウトランド(外国《そとぐに》)の時計ですので、当然 outlandish(異国ふう、奇怪な)時計です。
第二十二章
*人夫[#「*人夫」はゴシック体] 原語は Groom、この英語は「馬丁」と「花婿」の意味があって、エリックはブルーノに対しては前者の、ミュリエルに対しては後者の意味でこの言葉を使っているわけです。つまりふつうの意味の「人夫」に「人の夫」という意味をこめた訳語なのですが……。
*全世界がひとつの舞台[#「*全世界がひとつの舞台」はゴシック体] シェイクスピア『お気に召すまま』二幕七場、ジェイクイズのせりふ。
*よみがえりたる巨人[#「*よみがえりたる巨人」はゴシック体] 英国国教会祈祷書より。
第二十三章
*心の苦しみは……[#「*心の苦しみは……」はゴシック体] 旧約聖書箴言第一四章一〇節。
*わが命を高価なる……[#「*わが命を高価なる……」はゴシック体] テニソン『国王牧歌』「ギニヴィア」より。
*きみと同名の人物[#「*きみと同名の人物」はゴシック体] もちろんアーサー王のことです。
第二十四章
*まってたって、片足で待って[#「*まってたって、片足で待って」はゴシック体]たの、それとも…… ブルーノが hopping といったので、ぼくは ‘hopping' か ‘hoping' か確かめているわけです。前者なら hop(跳ぶ)、後者なら hope(期待する)。ちなみにDon't Stoping Here なんて標識があったら、そこへかまわず駐車することです。そこで採掘(stope)さえしなければいいのですから。
第二十五章
*シンの荒野[#「*シンの荒野」はゴシック体] 出エジプト記第一七章一節。
*非難する者……[#「*非難する者……」はゴシック体] ヨブ記第四〇章二節。
*日の老いたる者[#「*日の老いたる者」はゴシック体] ダニエル書第七章九節。
*求めよ、さらば与えられん[#「*求めよ、さらば与えられん」はゴシック体] マタイ伝第七章七節。
*妻よ、いかで夫を……[#「*妻よ、いかで夫を……」はゴシック体] コリント前書第七章一六節。
*「ウェアリング」[#「*「ウェアリング」」はゴシック体] イギリスの詩人、ロバート・ブラウニング(一八一二―八九)が、イギリスを去ってニュージーランドに移住した友人をしのんで書いた詩。引用されているのはその詩の最後の四行。
*それ信仰は……[#「*それ信仰は……」はゴシック体] ヘブル書第一一章一節。
[#改ページ]
文庫版あとがき
本書は LEWIS CARROLL : SYLVIE AND BRUNO(1889)の全訳である。もとは、一九七六年、れんが書房新社から世に出て、幸いに多くの読者の歓迎を得た。しかしまだ駆け出し翻訳者だった頃の産物で、今回「ちくま文庫」に収められるのを機に読み直すと生硬な個所も目につき、あちこち手を入れた。ブルーノ流「ちょっぴり」ばかりよくなったかと思う。
百年も前に書かれ、しかも倫理の色濃いこの「紊学《ぶんがく》」作品は、随所に新鮮な発想をちりばめて、われわれをナンセンスの笑いへ解き放す。読み返しながら、訳者はそのことに改めて驚く。
ついでながら、訳者のまったく個人的な驚きをひとつ記したい。最初の訳註でジェイム
ズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』に言及していることだ。実は、現在、訳者はその『フィネガンズ・ウェイク』という途方もなく巨大で途方もなく精巧な「紊学」作品の全訳作業に没頭しているところなのである。それもまた、この作品の方々に仕掛けられている蝶番のひとつだろうか。一種の「妖氛《ようふん》」にとらわれたような気分になる。
なお、テクストは、Modern Library 版を使用し、FANNY DELEUZE による仏訳 Sylvie et Bruno(Editions du Seuil, 1972)を参照した。
一九八七年二月
[#地付き]柳瀬尚紀
[#改ページ]
ルイス・キャロル(Lewis Carroll)
一八三二−一八九八 本名Charles Lutwidge Dodgson.イギリスの童話作家、数学者。オックスフォード大学卒。翌年二十三歳で同大学数学講師に。いつも羞いをもち、生涯独身を通した。世界中の子供たちと大人を楽しませた『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』は、古典学者リデルの娘アリス(Alice)を喜ばせるために書いたものである。
柳瀬尚紀(やなせ・なおき)
一九四三年、根室に生まれる。早稲田大学大学院博士課程修了。英文学者。主な訳書に、ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』をはじめ、ボルヘス『幻獣辞典』『怪奇譚集』(晶文社)、エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』(新潮社)などがある。
この作品は一九七六年七月、れんが書房新社より刊行され、一九八七年五月、ちくま文庫に収録された。