ルイス・キャロル/多田幸蔵訳
鏡の国のアリス
目 次
序詩
はじめに
第一章 鏡の中の家
第二章 生きた花の園
第三章 鏡の国の昆虫たち
第四章 トウィードルダムとトウィードルディー
第五章 羊毛と水
第六章 ハンプティ・ダンプティ
第七章 ライオンと一角獣
第八章 そりゃ拙者が発明
第九章 アリス女王
第十章 ゆさぶり
第十一章 目ざめ
第十二章 だれの夢だったかしら?
解説
序詩
真澄《ますみ》の額《ひたい》、
おどろきの夢みる瞳《ひとみ》持った子よ!
「時」足早く、われときみ
よし半生をへだてても、
愛の贈物《たまもの》、この物語
きっと微笑で受けてくれよう。
きみの輝く顔《かんばせ》を、見ぬこと久しく
銀《しろがね》の笑いも聞かず、時久しい
きみの若い未来の生活《なか》に
わたしを入れる場はないだろう……
でもなおわたしのお伽《とぎ》の話
聞いてくれればそれで満足。
夏の太陽《ひ》のきらめく昔、
そこに生まれたこの物語……
漕《こ》ぐ手に合わした素朴な鐘《チャイム》……
こだまはいまも胸奥《むね》に生きつつ、
うらやむ歳月《とき》は「忘れよ」と
しつこく言いはするけれど。
いやな命令《しらせ》を詰めこんだ、
こわいお声がその寝床《とこ》に
いやがる乙女《きみ》を呼ぶ前に、
さあ来てお聞き、人はみな
年はとってもむずがる童児、
寝る時間《とき》近しと知るときに。
外には霜と目くらむ雪と、
気まぐれに吹く気違いの暴風《かぜ》……
内には赤々燃ゆる炉火、
子供時代の歓楽の巣。
魔法のことばがしっかと捉《とら》え、
荒ぶる風も気にはなるまい。
影のようにも溜息《ためいき》が
過ぎた「幸福の夏の日」と、
消えた真夏の光輝《かがやき》を……
恋しと話中《なか》に震えていようと……
ふたりの物語《はなし》の愉《たの》しみに、
毒もつ息を浴びせはすまい。
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はじめに
鏡の国の登場人物とその行動は、チェスの駒《こま》に振りわけられており、アリスが白の女王《クイーン》の歩《ふ》となって、二の目から出発し、十一手目で赤の女王を取って勝つまでが物語になっているわけです。原書の巻頭に掲げてある、人物表と十一手をそれぞれの話に直すと次のようになります。
〈登場人物〉
〈白〉
(駒)        (歩)
トウィードルディー……ひな菊
一角獣……………………ヘイア
羊…………………………牡蠣
白の女王…………………リリー
白の王……………………子鹿
老人………………………牡蠣
白の騎士…………………ハッタ
トウィードルダム………ひな菊
〈赤〉
(歩)        (駒)
ひな菊……………………ハンプティ・ダンプティ
使者………………………大工
牡蠣………………………せいうち
鬼ゆり……………………赤の女王
バラ………………………赤の王
牡蠣………………………からす
蛙…………………………赤の騎士
ひな菊……………………ライオン
〔アリスが白の歩となり、十一手で勝つまで〕(下の英字は本文に照合)
一 アリス、赤の女王に会う(A)
二 アリス、汽車で三の目から四の目に進む(トウィ  ードル兄弟に会う)(B)(C)
三 アリス、白の女王(ショールを持った)に会う   (D)
四 アリス、五の目に進む(店、川、店)(E)
五 アリス、六の目に進む(ハンプティ・ダンプティ  に会う)(F)
六 アリス、七の目(森)に進む(G)
七 白のナイト、赤のナイトを取る(H)
八 アリス、八の目に進む(王冠を載く)(I)
九 アリス、女王となる(J)
十 アリス、城将(カースル)で守る(ご馳走の場面)(K)
十一 アリス、赤の女王を取ってチェスに勝つ(L)
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第一章 鏡の中の家
ひとつのことは確かでした。子猫の白は、それとはなんの関係もなかったということ……みんな子猫の黒のせいだったということです。だって、白はずっと十五分間ばかり、親猫に顔を洗ってもらって(それも割とよくがまんして)いたし、とてもいたずらに加われるはずもなかったからです。
ダイナが子猫たちの顔を洗うのはこんなやりかたでした。まず、子猫の耳を片手でおさえつけ、つぎに、別の手で、子猫の顔を、鼻から始めて、さかさまに、残らずこすりまわすのです。で、ちょうどいまも、さっき言ったように、白を相手にさかんにそうしていたのです。白のほうは、じいっと横になって、のどをゴロゴロならそうとしていました……きっと、みんな自分のためにしてくれてるのだと感じていたのです。
でも、黒のほうはお昼すぎに片づいていたので、アリスが大きな肘《ひじ》掛けいすのすみっこに丸くなってすわり、半分はひとりごとを言い、半分はいねむりをしてる間に、アリスが巻きかけてた毛糸玉をおもちゃにして、さんざんはねまわっていましたが、あっちこっちところがしたあげく、玉はすっかりほどけてしまったのです。そこで、玉は結び目とほつれがいっぱいできて、炉《ろ》の前の敷物にひろがり、子猫はそのまんなかで自分のしっぽを追いまわしていました。
「まあ、いけない、いけない子ね!」アリスは叫ぶと、いきなり子猫をつかみあげ、ちょとキスしてやり、叱られてるのだ、ということをわからせてやりました。
「ほんとに、ダイナはおまえにもっといいお行儀を教えてるべきだったのよ! そうよ、ダイナ、教えてやるべきだったのよ!」
アリスはとがめるように親猫を見つめながら、できるかぎりふきげんな声で言い足しました……それから、子猫と毛糸をいっしょに持つと、肘掛けいすによじのぼり、また玉を巻き始めました。
でも、お仕事のほうは、あんまりはかどりません。なにしろ、始終、子猫に話しかけたり、ひとりごとを言ったりして、おしゃべりしてたからです。キティは、アリスのひざの上にすましこんですわり、糸玉がどんどん巻かれてるのをじっとみつめてるふりをしながら、ときどき片手を出してそっと玉にふれていました。まるでお手伝いできたらうれしいんだけど、といった様子です。
「キティ、あしたはなんの日だか知ってて?」アリスは言いだしました。「わたしといっしょに窓にあがってたら、言い当てたでしょうね……ただ、ダイナにきれいきれいをしてもらってたから、できなかったのね。わたし、男の子たちが、かがり火の小枝集めをしてるの見てたのよ……たっくさん小枝がいるのよ、キティ! ただとっても寒くなって、雪がどんどん降るもんだから、小枝集めをやめなきゃならなかったの。でも、いいのよ、キティ、あしたはいっしょにかがり火見物に行ましょうね」
ここでアリスは毛糸を二、三回、子猫の首にまきつけて、どんな具合かちょいと見てみました。これがもとで玉の奪いっこになり、玉は床の上にころがり落ち、またも何ヤードも何ヤードもほどけてしまいました。
「おわかりなの、キティ、わたしとっても怒ってるのよ」アリスは、ふたりがもう一度ゆったりいすに腰をおちつけると、すぐに言いつづけました、「おまえの≪おいた≫をみつけたときには、わたしよっぽど窓をあけて、おまえを雪のなかへほうり出すとこだったのよ! そうされても仕方なかったのよ。おいたのかわいこちゃん! なにか言い訳することあって? もうじゃましちゃだめよ!」
指を一本立てながら、アリスは言いつづけました。「おまえのおいたをみんな言ってあげるわ。一番目は、けさダイナが顔を洗ってくれてたとき、おまえは二度キーキー泣いたでしょ。だめよ、泣かないって言っても。キティ、わたし、ちゃんと聞いたのよ! えっ、なんて言ってるの?」(子猫がものを言ってるつもりなのです)「おかあさんの手がおめめにはいったって? そりゃあ、おまえがわるいのよ、おめめをあいたままにしてるんだもの……しっかりつむってたら、そんなことにはならなかったでしょうよ。さあ、もうこれ以上言い訳するのはよして、しっかりお聞きなさい! 二番目は、わたしがミルク皿《ざら》をスノードロップの前においたら、おまえあれの尾っぽを引っぱったでしょ! なんですって、のどがかわいてたんですって? スノードロップだって、のどがかわいてたのじゃなくって? さあ三番目よ。わたしが見てない間に、おまえ毛糸をすっかりほどいちゃったわね! キティ、それでおいたが三つよ。まだどれも罰《ばっ》してないわ。よくって、おまえの罰はみんな、こんどの水曜日のためにちゃんとためてあるのよ……でも、わたしの罰がみんなためてあったとしたらどうしようかしら?」
子猫よりももっと自分に話しかけながら、アリスはつづけました。
「一年の終わりにはどうされるかしら。その日が来たら、牢屋にやられるかもしれないわ。それとも……罰ごとに食事ぬきだったとしたら、それだとみじめなその日になったら、一度に五十回も食事ぬきでがまんしなければならないでしょう! いいわ、そんなことかまわないわ! そんなに食べるよりか食べないですませるほうがずっといいもの!
キティ、窓ガラスに雪のあたる音が聞こえる? とってもいい、やわらかな音だわねえ! まるでだれか、外側を窓いっぱいキスしてるみたいだわねえ。雪は木や野原が大好きだから、あんなにやさしくキスするのかしら? それから白い掛けぶとんでぬくぬくと包んであげるのね。『おやすみ、かわいい子たち、夏がまた来るまで』そう言ってるのかもしれないわね。そして、夏におめめをさましたら、ねえキティ、みんな緑のおべべを着て踊りまわるのよ……風が吹くたびにね……ああ、とてもきれいだわ!」
アリスはそう叫ぶと、毛糸玉を落として手をたたきました。
「ほんとにそうだといいのにねえ! 秋になって木の葉が黄ばんで来ると、たしかに森は眠たそうに見えるわ。キティ、おまえチェスができて? まあ、笑わないで、わたし、まじめに聞いてるのよ。だって、いまさっき、わたしたちがチェスをやってたら、おまえわかってるみたいな顔して見てたでしょ。わたしが『王手《チェック》!』って言ったら、おまえはゴロゴロってのどをならしたわ! そう、あれはうまい王手だったのよ、キティ、あのいやな騎士《ナイト》(桂馬)が、わたしの駒《こま》の間にもぐりこんで来さえしなかったら、わたしほんとに勝ってたかも知れなくってよ。ねえ、キティ、ふたりでまねして……」
アリスが、お得意の「ふたりでまねして」という文句で切り出すおきまりごとの半分でもお話できたらと思うくらいです。つい前の日にも、アリスはお姉さまと長いこと議論をしたばかりで……それもみんな、アリスが「ふたりでまねして、王さまたちと女王さまたちになりましょうよ」と切り出したからです。お姉さまときたら、とてもきちょうめん好きなので、そんなことできっこない、だって自分たちはふたりきりしかいないんだから、と論じたのです。で、アリスは、とうとうこう言わなければならなくなりました。
「それなら、お姉さまがそのうちのひとりになればいい、残りはみんなわたしがやるわ」
いつだったか、不意に年寄りのばあやの耳にこう叫んで、ほんとにたまげさしたものでした、「ばあや! ふたりでまねして、わたしが腹ぺこのハイエナ、ばあやが骨になるのよ!」
でも、これではアリスが子猫にした話からそれてしまいます。「ふたりでまねして、おまえが赤の女王になるのよ、キティ! いいわね、おまえ、きちんとすわって腕をお組みだと、女王さまそっくりだと思うわ。さあ、やってみてごらん、いい子だから!」
そう言うと、アリスは赤の女王をテーブルの上から取り、まねのお手本に、それを子猫のまえに立ててやりました。だけど、それはうまくいきませんでした。子猫がちゃんと腕を組もうとしなかったのが主な理由だ、とアリスは言いました。それで、子猫を罰してやるために、鏡に向かって持ちあげ、さもすねたところが見えるようにしてやったのです。
「……すぐにおとなにしないと、鏡のおうちに投げこみますよ。よくって?」
こうアリスはつけ加えました。
「さあ、キティ、わたしの言うことをよく聞いて、そんなにおしゃべりさえしなければ、わたし、鏡のおうちのこと、知ってるかぎり話してあげてよ。はじめに、鏡越しに見えるお部屋があるでしょ……うちの客間とすっかり同じで、品物だけがあべこべになってるわね。いすに上がると、みんな見えるわ……炉の真うしろだけ、ちょっぴりのぞいて、みんな、ほんとに、そのちょっぴりのところが見れたらねえ!
冬には火がはいってるのかどうか知りたいものだわ。お部屋の火から煙が出て、あちらのお部屋にも煙がたたないと、火があるってわからないの……それだって見せかけだけ、火があるように思わせるだけかもしれないわ。さて、ご本はちょっとわたしたちのご本に似てるわね。ただ字があべこべになってるのよ。なぜそれがわかるかっていうと、鏡に向かって自分の本を一冊かざすとあちらのお部屋でも一冊かざすからなのよ。
キティ、鏡のおうちに住んでみるのはどう? そこではミルクをくれるかしら? ひょっとすると鏡の国のミルクは飲めないかもしれないわ……あら、キティ、こんどは廊下《ろうか》に来たわ。客間のドアを広くあけておくと、鏡のおうちの廊下がほんのちょっぴり見えるわ。そして、見えるかぎりでは、おうちの廊下にとても似てるの。でも、ずっと向こうは、まるきりちがうかもしれないわ。ねえ、鏡のおうちにはいれたら、どんなにすてきでしょうね! きっと、すごくきれいなものがあってよ! キティ、ふたりでまねして、なんとかそこにはいりこむ方法があることにしましょう。鏡がガーゼみたいにすっかりやわらかになって、通りぬけられるということにしましょう。あら、鏡が≪もや≫みたいになるわ、ほんとうよ! 楽に通りぬけられそうよ……」
こう言っている間、アリスは炉棚《ろだな》に上がっていました。どうやって上がったのかわかりかねたのですが。そして確かに鏡は、ちょうどキラキラ光る銀色の≪もや≫みたいに溶《と》けだしていました。
あっというまにアリスは鏡を通りぬけ、鏡の部屋にひらりととび降りていました。まずアリスがしたことは、炉に火があるかどうかを確かめることでしたが、ついさっきあとにして来た火におとらず、そこにほんものの火が明るく燃えさかってるので、すっかりうれしくなりました。
「じゃ、もとのお部屋と同じにここでも暖かいんだわ」とアリスは思いました、「ほんとうは、もっと暖かいんだわ。叱ってわたしを火のそばから追い立てる人はいないでしょうからね。わたしが鏡を通りぬけるのを見ても、わたしに近づけないとしたら、まあ、なんておもしろいことでしょう!」
それからアリスはあたりを見まわしはじめましたが、気がつくと、もとの部屋から見えたものは、しごくあたりまえのおもしろくもないものだったけど、ほかはみんな、途方もなく風《ふう》変わりなものだったことです。たとえば、炉の火のとなりの壁に掛かった絵は、どれもこれも生きてるようだったし、炉棚の上の時計までが(鏡の中では、その裏側が見えるだけということはご存知のとおりです)ちっちゃな老人の顔をしていて、にやにやアリスに笑いかけました。
「このお部屋は、あちらのお部屋みたいにはきちんとしておかないんだわ」とアリスはチェスの駒がいくつか炉の燃えがらの中に落ちてるのを見て、心につぶやきました。だけど、つぎの瞬間、「あら」という小さいおどろきの声を立てると、四つんばいになって、駒を見つめていました。駒は、なんと、ふたつずつになって歩きまわってるのです!
「ここに赤の王さまと赤の女王さまとがいるわ」
アリスは、(駒をおどろかさないようにと、小声で)言いました、「シャベルのへりには白の王さまと白の女王さまがすわってるわ……ここには|カースル(城将)が腕を組み合って歩いてるわ……わたしの声は聞こえないんだと思うわ」と、かがんで頭を近よせながら、アリスはつづけました、「わたしが見えないことも、まあ確かだわ。なんだか、わたし、ほかに見えなくなってるみたいだわ……」
このとき、アリスのうしろのテーブルの上で何やらきいきい言いだし、アリスがふりむいてみると、ちょうど白の歩《ふ》がひとつころんで足をばたばたさせはじめたところでした。この次には何が起こるのかと、アリスはいっしんに見つめました。
「わたしの子供の声だ!」と白の女王さまは、王さまのそばを駆けぬけながら、どなりましたが、あまりの激しさに王さまを燃えがらの中へとひっくり返してしまったほどでした。「かわいいリリー! わたしのやんごとなき子猫よ!」と言うと、炉格子《ろごうし》の側面を狂ったようによじのぼり始めました。
「やんごとなきとは笑止千万!」と王さまは、ころんでけがした鼻をこすりながら、言いました。女王さまをおこられる権利が王さまには少しばかりあったのです。頭から足まで灰まみれになられたんですから。
アリスはなんとか手伝いしたくてなりませんでした。かわいそうに子猫のリリーは、泣き叫んで、いまにも発作《ほっさ》を起こしそうだったので、アリスはあわてて女王さまをつまみ上げると、テーブルの上に、やかましいちっちゃな娘と並べて置いてやりました。
女王さまは、はあはあ言ってすわりました。空中をさっとばかり駆けぬけたので、すっかり息切れしてしまい、一、二分のあいだはことばも出ず、子猫のリリーをだきしめるばかりです。すこうし息がつけるようになると、すぐさま、灰の中にむっつりすわってる白の王さまにこう大声で呼びかけました。
「火山にご注意なさい!」
「なんという火山じゃ?」と王さまは言って、気づかわしげに炉火の中を見上げましたが、まるでそこが火山がいちばんみつかりそうなところだとでも思った様子です。
「わたしを……吹き……上げましたの」と女王さまは、まだすこうし息を切らして、あえぎあえぎ言いました。「ご注意なさってお上がりなさいな……いつもの道を……吹き上げられなさるなよ!」
アリスは白の王さまが横棒から横棒へと、のろのろ苦労してのぼっていくのを見つめていましたが、とうとう、こう言いました。
「まあ、その調子だと、テーブルに着くのに何時間も何時間もかかるでしょう。手伝ってあげたほうがずっといいようね」
しかし王さまは、この問いをちっとも気にしないのです。王さまにはアリスの声が聞こえもしなければ、姿が見えもしなかったことは、まったく明らかだったからです。そこでアリスは、王さまをそうっとつまみ上げ、息が切れないようにと、女王さまを持ち上げたときよりもゆっくりと持ち上げました。でも、テーブルの上におろさないうちに、アリスはちょっと灰をはらってやったがよかろう、と思いました。それほど王さまは灰だらけになっていました。
あとでのアリスの話では、王さまが目に見えない手で空中にぶらんこにされ、ほこりをはらってもらっているとわかったときにしたその顔つきときたら、生まれてから一度も見たことのないものだったそうです。王さまは、あんまりたまげてしまって叫ぶこともできず目と口だけはますます大きく、まんまるくなったので、アリスは吹き出して手がふるえ、あやうく王さまを床に落っことしそうなほどでした。
「まあ、お願いだからそんな顔しないでちょうだい!」
王さまに聞こえないことなどすっかり忘れて、アリスは大声で言いました、「あなたったらとってもおかしくって、持ってられないくらいよ! お口だってそんなに大きくあけておかないで! 灰がみんなはいってしまうわ。そら、もうすっかりきれいになったわ!」と、王さまの髪をなでつけ、テーブルの女王さまのそばにおろしてやりながら、アリスは言いました。
王さまは、たちまち、ぺたんとあおむけに倒れ、びくとも動きません。アリスは自分のしたことにちょっとおどろき、部屋をぐるぐる歩きまわって、王さまにぶっかける水がないかとさがしました。
だけど、見つかったのは、ひと瓶《びん》のインキだけ、それを持ってもどって来ると、王さまは息をふきかえし、女王さまとおびえた声でひそひそ話し合っていました。……とても低い声なので、アリスにはふたりが何を言ってるのかほとんど聞きとれませんでした。
王さまはこう言ってました、「まことだぞよ、お后《きさき》、わしはほおひげの先の先まで冷たくなってしもうたのじゃ!」
それに答えて、女王は「ほおひげなぞちっともおありなさいません」
「あのときのこわさといったら」と王さまはつづけました、「けっしてけっして忘れはすまいぞ!」
「やっぱりお忘れになりますわ」と女王さまは言いました、「メモにしておおきになりませぬと」
王さまがポケットから、すごく大きなメモ帳をとり出して書き始めるのを、アリスはたいへん興味ぶかく見ていました。とつぜんある考えが浮かんできたので、アリスは王さまの肩よりすこし上に出ている鉛筆の端をつかむと、王さまに代わって書き始めました。
かわいそうに、王さまは面《めん》くらって情けなさそうな顔つきになると、無言のまま、しばらく鉛筆をはなすまいと頑張りました。が、アリスのほうが強すぎたので、とうとう、あえぎあえぎこう言ました、「后《きさき》や、わしには、ぜひ、もっとほそい鉛筆が入用じゃ。これはちっとも言うことを聞きおらん。わしが思わぬことばかり書きおるのじゃ……」
「どんなことでございますか?」女王さまは、手帳に目を走らせながら言いました。(手帳にはアリスが『白の王さまは火かき棒をすべり降りる。不安定はなはだし』と書いていたのです)
「そのメモはあなたのお気持ちとは違っておりますわ!」
本が一冊、アリスの近く、テーブルの上にのっていました。アリスがすわったまま、白の王さまを見つめながら、(というのは、アリスはまだ王さまのことが心配で、また気を失なったら、インキをぶっかけようと用意していたからです)ページをめくって、自分に読めるところがどこかないかとさがしていました。「……だって、みんなわたしの知らないことばで書いてあるんだもの」アリスはこうひとりごとを言いました。
何のことかとしばらくアリスは思案しましたが、やっとうまい考えが浮かびました。「なによ、これ、鏡の国のご本だもの! 鏡にかざしたら、字はみんなちゃんともとにもどるんだわ」
アリスが読んだ詩はこういうのでした。
ジャバウォッキのうた
あぶりのときぞ トーブぬらやか
まはるかのなかを ぐわりきりさす、
すべてほそれな ぼろとりのなれ、
やからのあぶた ほえずりにけり。
「ジャバウォックに気をつけよ、吾子《あこ》!
かみつくあごに、ひっかくつめ!
ジャブジャブ鳥に気をつけて
バンダスナッチの怒りをさけよ!」
ぎらつく剣を 手にひさしくも、
たずねもとめし仇敵《きゅうてき》ぞこれ……
ぽんぽん木《ぼく》のかたえに憩《いこ》い、
しばし思いにたたずみにけり。
とがる思いにたたずみおれば、
ジャバウォックは燃ゆるまなこに、
ふかき森ぬけ身もかろやかに、
飛びくるうちもぶるるとうなる!
一、二! 一、二! ぐさりやぐさり
骨も通れと鋭刃《とじん》きりこむ!
死体はあとに首だけ取って
意気揚々とかけもどる。
「ジャバウォックのいのち取りしや?
いざわが腕に、ほおえむわが子!
よきかなこの日! キャルウ! キャレイ!」
よろこびあふれてふっふと笑う。
あぶりのときぞ トーヴぬらやか
まはるかのなかを ぐわりきりさす、
すべてほそれな ぼろとりのむれ、
やからのあぶた ほえずりにけり。
「とてもすてきな詩らしいわ」読み終わるとアリスは言いました、「でも、どうもわかりにくいわ!」(まるっきりわからないなんて、アリスは自分でも認めたくなかったのです)「何かしら、いろんな考えで頭がいっぱいになるみたいね……ただ、なんだかはっきりわからないわ! けど、だれかが何かを殺したんだわ、とにかくそのことははっきりしてるわ……」
「あら大変!」とアリスは突然飛び上がりながら考えました、「急がないと、このおうちのあとのところがどんなか、見終わらないうちに、鏡をぬけて帰らなければならなくなるでしょう! まず庭をひと目見ましょう!」
たちまち部屋からとび出し、階段を駆け降りました……いや、少なくとも、駆けたというのは正確ではありません。すばやくするすると階段を降りる新しい発明だったと、アリスはひとりごとを言いました。手すりに指先をちょっとのせておくだけで、足は階段にふれもせずに、静かにふわりふわりと降りて行きました。つぎには広間をふわりと抜け、ドアわきの柱をつかまえなかったら、同じ具合にまっすぐドアから外に出てしまうところでした。あんまり空中をふわふわ泳いだので、アリスはすこし目がまわりかけていました。だから、またふつうに歩けるのに気がつくと、ほっとうれしくなりました。
第二章 生きた花の園
「あの岡のてっぺんに行けたら、きっと庭がずっとよく見えるわ」とアリスはつぶやきました。「この道があそこにまっすぐ行ってるんだわ……少なくとも、いいえ、行ってないわ……」(道を二、三ヤード進み、何度か急な角を曲がってから言いました)「でも、おしまいには行きつくんでょう。まあ、なんて変てこに曲がってるんでしょう! 道というより、栓《せん》ぬきに似てるわ! ええと、ここを曲がると岡に行くんだと思うわ……いいえ、行ってないわ! まっすぐおうちにもどってしまうんだわ! それなら、あちらに行ってみましょう」
アリスはそうしました。あっちこっちさまよい、つぎつぎに曲がり目をためしてみましたが、どうやっても、きまって家にもどってしまうのです。実際、一度は、前より少し急に角を曲がってみると、あっというまに家にぶつかってしまいました。
「文句をいっても仕方ないわ」とアリスは家を見上げ、家が自分と議論してるつもりで、言いました。「まだ家には入らないことよ。だって、また鏡をぬけて……もとのお部屋に帰って……そしたらわたしの冒険はすっかりおしまいになってしまうもの!」
そこで、思いきって家に背を向け、アリスは岡に行きつくまでまっすぐ歩きつづけようと決心して、またもや小道を降りて行きました。二、三分は、なにもかもうまく行きました。そこで、アリスは「こんどは、ほんとにやれそうだわ」と言いかけていました。
そのとき、道は急に曲がって、(あとでアリスがそのときの様子をこう言いましたが)身をふるわし、たちまち、アリスはドアから自分がほんとうにはいっているのでした。
「まあ、ひどいわ!」とアリスは叫びました。「こんなにじゃまするおうち、見たことないわ! まったくよ!」
そうは言っても、岡はすぐ目の前にあるのです。ですから、もういちど出直すほかありません。こんどは、大きな花壇《かだん》に出くわしました。ひな菊のふちどりがあって、まんなかには柳《やなぎ》の木が一本はえています。
「あら、鬼《おに》ゆりさん」とアリスは風情《ふぜい》よく風にゆれている鬼ゆりに話しかけながら、言いました。「あなたにお口がきけるといいのにねえ!」
「きけるともさ」と鬼ゆりが言いました、「口をきく値打ちのある人がいればな」
びっくりして、ちょっとのあいだアリスは口もきけませんでした。息も止まってしまうほどだったのです。鬼ゆりはただゆれつづけてるだけだったので、やっとアリスはまた物を言いましたが、おっかなびっくりの声で……ほとんどささやくみたいに、「ここのお花、みんなお話できるの?」
「おまえさんと同じくらいにはな」と鬼ゆりは言いました。「それにずっと大きい声でだ」
「わたしたちから口をきくのは無作法でしょ」と、バラが言いました。「あなたがいつ口をきくかって、わたしほんとに思ってたのよ! で、わたしひとりごとを言ったの、『この子の顔には、すこうしは物わかりのいいとこがある、りこうな顔ってとこじゃないけど!』ってね。でも、いい色だわ、それだけでも大したものよ」
「色のことはどうだっていい」と鬼ゆりはひとこと言いました。「あの子の花弁《かべん》が、もちっとまくれあがってさえしてたら、文句ないんだがね」
アリスはかれこれ言われるのはいやだったので、質問を始めました。
「あなたたち、だれも世話してくれなくて、こんなおそとに植えられてて、こわくなることあるんじゃなくって?」
「まんなかに木があるでしょ」とバラが言いました。「あの木の役目なのよ、ほかになんの用があって?」
「でも危険なことが起きたら、木に何ができるんでしょう?」とアリスはたずねました。
「ほえられるわ」とバラが言いました。
「バウワウって言うわ」とひな菊が叫びました。「だから枝のことバウ〔犬のほえるのも、枝も英語では「バウ」と同じ発音になることにひっかけた〕っていうのよ!」
「そんなこと知らなかったの?」と別のひな菊が叫びました。ここでみんながいっせいに叫びだし、あたりはちっちゃな叫び声ですっかりいっぱいになったみたいでした。
「みんなお黙り!」と鬼ゆりは、はげしく左右に身をゆすり、興奮でふるえながら叫びました。「おれがつかまえられんことを知ってるんだ!」アリスのほうにぶるぶるふるえる頭をむけながら、あえぎながら言いました。「でなきゃ、あんなまね、できるもんか!」
「気にしないで!」とアリスはなだめるように言って、また騒ぎはじめていたひな菊のほうに身をかがめると、小声で言いました、「黙らないと、摘み取ってしまってよ!」
たちまちしーんと静まり、ピンク色のひな菊の中には、真っ青になったものもありました。
「それでよし!」と鬼ゆりは言いました。「ひな菊がいちばんよくない。ひとりが口をきくと、みんないっせいにやり出すんだ。あの調子でしゃべりたてるのを聞くだけでも、こっちはしぼみそうになっちまう!」
「どうしてみなさんは、そんなにじょうずにお話ができるの?」と、お世辞を言って相手のごきげんをなおそうと、アリスは言いました。「わたし、これまでたくさん花園を見たけど、お話できる花なんてひとつだってなかったわ」
「手をおろして地面をさわってみな」と鬼ゆりが言いました、「そしたらなぜだかわかるさ」
アリスはそうしてみました。
「とてもかたいわ」とアリス。「でも、それとどんな関係があるのか、わからないわ」
「たいていの庭ではね」と鬼ゆりが言いました、「花壇をやわらかにしすぎるんだ……だから花がいつも眠ってるんだ」
これはしごくもっともに思われました。で、アリスはわけがわかってすっかり満足でした。
「そのこと、以前、考えたこともなかったわ!」アリスは言いました。
「わたしの意見だけどさ、あんたはちっとも考えたりしないんだ」とバラはすこしきびしい口調で言いました。
「こんなとんまな顔の人、これまで見たことないわ」とすみれが言いました。あんまりだしぬけだったので、アリスはびっくり、とびあがりそうなほどでした。だって、それまでまるっきり何も言わなかったからです。
「あご叩《たた》くな!」と鬼ゆりがどなりました。「まるで人を見たことでもあるみたいによ! 葉っぱの下に首をつっこんで、いびきのかきっぱなし、だからつぼみと同じで、世間で起こってることなぞ、てんで知りもせんくせしおって!」
「庭には、わたしのほかにまだ人がいるの?」とアリスはバラが言った最後の文句を気にしないほうがいいと思って、言いました。
「庭には、あんたみたいに動きまわれる花がもうひとつあるのさ」とバラが言いました。「あんたがどうしてそうできるか不思議だけどさ……」(「おまえはいつも不思議がってばかりいやがる」と鬼ゆりが言いました)「でも、その花はあんたよりか毛深いよ」
「わたしに似てるの?」とアリスは勢いこんでたずねました。「庭のどこかにもうひとり女の子がいるのだ!」という考えが胸をよぎったからです。
「そうだわ、あの子、あんたみたいにおかしな格好してるわ」とバラが言いました。「でも、もっと赤くって……それに花弁はもっと短いみたいよ」
「花弁はつまっててさ、ダリヤみたいだ」と鬼ゆりが言いました、「おまえのみたいにちらかってないよ」
「でも、それはあんたのせいじゃないわ」とバラはやさしく言いそえました。「あんたはしおれかかってるのよ……だから、花弁が少しだらしなくなったって仕方ないわ」
アリスにはこういう考えはちっとも気にいりませんでした。で、話題をかえるために、「その女《こ》、こっちに来ないかしら?」とたずねました。
「たぶん、すぐ会えるでしょ」とバラは言いました。「あれ、とてもとげの多い種類なのよ」
「そのとげ、どこにあるの?」とちょっと好奇心をそそられて、アリスはたずねました。
「そりゃ、もちろん、頭のまわりよ」バラが答えました。「あんたにはないので、わたし不思議に思ってたところよ。あるのがおきまりだって思ってたからね」
「来た来た!」と飛燕草《ひえんそう》が叫びました。「砂利《じゃり》道づたいに、どしん、どしんと足音がするよ!」
アリスが急いで見まわすと、赤の女王さまでした。
「ずいぶん大きくなったわ!」まっさきに出たアリスのことばです。そのとおりでした。はじめて灰の中の女王さまを見たときは、やっと三インチの身の丈《たけ》しかなかったのが……いまはどうでしょう、アリスよりも頭半分だけ大きいのです。(A)
「ああなるのは空気がいいせいだよ」とバラが言いました。「ここは不思議なくらい空気がいいからね」
「お目見えしに行こうかしら」とアリスは言いました。花たちも、じゅうぶんおもしろくはあったけれど、ほんものの女王さまとお話するほうが、ずっとすばらしいと思ったからです。
「とてもお目にかかれやしないわ」とバラが言いました。「あべこべに歩いて行ったがいいわよ」
あほうなこと言ってるとアリスは思ったので、何も言わずに、すぐ赤の女王のほうに歩き出しました。おどろいたことに、たちまち女王さまの姿を見失い、アリスはまたも表のドアからはいりかけているのでした。
ちょいとむっとしながら、アリスは引き返しました。くまなく女王をさがしもとめたあげく(やっと、遠くはなれたところに見つけ出しはしたのですが)、こんどは方向《むき》をかえて歩いてみようと思いました。
みごとに成功しました。一分も歩かないうちに、ばったり赤の女王さまと向かいあい、ずうっと目ざしていたあの岡まで、まん前にあるのです。
「どこからおいでじゃ?」と赤の女王さまが言いました。「そしてどこにお行きじゃ。顔をお上げ。きちんと口をおきき。指いじりばかりしていてはなりませんぞ」
アリスはさしずを残らずまもり、自分の道がわからなくなった〔アリスは「道に迷った」と言ったのに、女王は英語の「自分の道を失う」と文字どおりに受け取っている〕ことをできるかぎり説明しました。
「自分の道とはどういうことじゃな」女王が言いました。「このあたりの道は、みんな、わたしのものじゃ……だが、どうしてこんなところにやって来たのじゃな」女王は口調をやわらげて言い足しました。
「言うことを考えてる間に、おじぎをするのじゃ。時間の節約じゃ」
そうかしらと、ちょっとアリスは思いましたが、女王さまがおそれ多くて、信じないわけにはいきませんでした。「家に帰ったらやってみるわ」とアリスは心につぶやきました。「こんど夕ご飯《はん》に少しおくれたら」
「さあ、返事をする時じゃ」と女王が、時計を見ながら言いました。「ものを言うときは、もうすこうし口を大きくお開け。そしてかならず『陛下《へいか》』と言うのじゃ」
「陛下、わたしはただ、お庭がどんなか見たかったばかりでございます……」
「よろしい」と女王はアリスの頭をなでながら言いましたが、なでられても、アリスは少しもうれしくありませんでした。「おまえが庭とお言いならば、わたしもこれまで庭はたくさん見ておる。それに比べれば、この庭なぞは荒れ野も同然じゃ」
アリスはその点を議論する気にはとてもなれませんでした。で、こうつづけました。
「……それから、わたしあの岡のてっぺんまで行く道をみつけようと思いました」
「岡とお言いならば」と女王がさえぎって言いました。「おまえにたくさん岡を見せてやれもするが、それに比べれば、あの岡なぞは谷だと思うじゃろう」
「いいえ、そんなことはありません」とうとう、びっくりしたあまり、アリスは女王に反対してしまいました。「岡が谷になれっこありませんわ。そんなこと、ばからしいことですわ……」
赤の女王さまは頭《かぶり》をふりました。「ばからしいことだと言いたければ言ってもよい」と女王は言いました。「ばからしいことはこれまでにも聞いておる。それに比べれば、これなど、かしこいことにかけては字引も同じじゃ!」
アリスは、もう一度おじぎをしました。女王さまの口ぶりから、すこし怒ってられるのだと思ったからです。それから、ふたりは黙ったまま、あの小さな岡のてっぺんまで歩きつづけました。
しばらく、アリスは無言で立ったまま、四方八方、その土地を見まわしました。……それはとても変わった土地でした。ちっちゃな川が、たくさん、端から端にまっすぐ流れていて、その間の地面は、たくさんのちっちゃな緑の生垣《いけがき》で正方形に仕切られているのです。そして、その生垣は小川から小川までのびているのでした。
「まるで、おおきな将棋盤《チェス・ボード》みたいに仕切ってあるんだわ!」とうとうアリスは言いました。「どこかにチェスの駒が動きまわっているはずだわ……そら、いたわ!」とアリスはうれしそうにつづけました。しゃべりながら、興奮でアリスの胸は早く打ちだしました。「いまチェスの大勝負をやってるんだわ……世界をあげてよ……これが仮に世界だとしたらだけど。まあ、なんておもしろいんでしょう! わたしも加わりたいわ! 加わりさえできたら、歩《ほ》だってかまわないわ……もちろん、いちばんなりたいのは女王だけど」
こう言いながら、少しばかりおずおずと、ほんものの女王をちらっと見やりました。でも、相手は、ただ愉快そうににっこりして、「それはわけないこと。よければ白の女王の歩におなり。リリーは幼なすぎて遊べないからね。まず二の目におはいり。八の目までとどいたら、女王になれるのじゃ……」〔最初の一手では、一目か二目、指し手が好きな方を選べるが、それからは一目しか前進できない。八の目に入ると、指し手の考えで、女王、ルック、ビショップ、ナイトのどれかに変わることができるが、駒の中で最も働きのある女王に変わるのがふつう〕
ちょうどこのとき、どうしたことか、ふたりは駆け出しました。
あとになって、思いかえしてみても、どうして駆け出したのか、アリスにはまるでわかりませんでした。覚えていたことといったら、ただ、ふたりが手を取りあって走っていたこと、そして女王があんまり早く走るので、アリスはついて行くのが精いっぱいだったことでした。
それでも、女王は「もっと早く、もっと早く!」と叫びつづけていました。でも、アリスは、それ以上早くは走れないと思いました。息を切らしていて、そうは言えませんでしたけれど。
いちばん変だったことは、まわりの木なんぞがちっともその位置を変えなかったことです。どんなに早く走っても、何ひとつ通り越すものがないみたいでした。「みんな、わたしたちといっしょに動くのかしら?」と、当惑しきってアリスは考えました。
女王はアリスの考えを察したもようでした。なぜって、「もっと早く! 口をきこうとしないで!」と叫んだからです。
そんなことしようとアリスが考えたわけではないのです。二度と口がきけないだろうと思ったくらい、いよいよ息切れがはげしくなってたからです。それでも、女王は、「もっと早く! もっと早く!」と叫んで、アリスを引っぱって行くのです。
「もうそろそろ着きますか?」とあえぎあえぎアリスはやっとたずねました。
「そろそろ着きますかって!」女王はそうくり返しました。「いやさ、もう十分もまえに通り越したよ! もっと早く!」
しばらくは黙って走りつづけました。風はアリスの耳にひゅうひゅうと鳴り、髪の毛も吹きちぎれそうだと思うほどです。
「そら! そら!」と女王は叫びました。「もっと早く! もっと早く!」
あんまり早く走ったので、おしまいには、地面にほとんど足がつかず、空中をすべりぬけて行く心地でした。アリスがへとへとになりかけたちょうど矢先《やさき》、突然ふたりは止まりました。そして、アリスは息を切らし、目がまわって、地面にすわりこんでしまいました。
女王はアリスをささえて木にもたせかけてやり、「さあ、少し休んでもよい」とやさしく言いました。
アリスはたまげてあたりを見まわしました。「あら、わたしたち、ずっとこの木の下にいたのね、きっと。何もかにも、そっくりもとのままだもの!」
「もちろん、そうじゃ」と女王は言いました。「おまえはどうお望みなのじゃ?」
「あのう、わたしたちのお国では」とアリスは、まだ少しあえぎながら言いました。「たいていどこかほかの所に行きつくでしょう……わたしたちのように、長い間、どんどん駆けてたら」
「のろい国じゃ!」と女王は言いました。「ところで、おわかりかな、同じ場所にいるためには、精いっぱい走ることが必要なのじゃ。どこかよその場所に行きたければ、少なくともその二倍の早さで走らなければならぬのじゃ!」
「そんなにしたくはありませんわ!」アリスは言いました。「わたし、喜んでここにいますわ……ただ、わたし、とても暑くてのどがかわいてるんです!」
「ほしいものはわかっているぞえ!」女王は、ポケットから小さな箱を取り出しながら、やさしげに言いました。「ビスケットはどうじゃな?」
アリスはちっともほしいものではなかったけれど、「いりません」と言うのは失礼だと思いました。
で、ビスケットを受け取り、なんとか食べました。からからに乾いているのです。生まれてからこんなにのどがつまるような目にあったことはなかった、とアリスは思いました。
「おまえがおやつを取ってる間に」と女王が言いました。「わたしはちょっと寸法を測ってみよう」
女王はポケットからインチの目盛りのあるリボンを取り出すと、地面の長さを測ったり、あっこっちに小さな杭《くい》を差しこみはじめました。
「二ヤードの端で」と女王は、その距離を示す杭を差しこみながら、言いました。「おまえの行く方向を教えてやろうぞ……もうひとつビスケットはどうじゃな?」
「いいえ、けっこうです」とアリスは言いました。「ひとつで、ほんとにじゅうぶんです!」
「のどがかわくのは、よくなったであろうな?」と女王は言いました。
アリスはどう返答していいかわかりませんでしたが、さいわい、女王は返事を待たずに言いつづけました。「三ヤードの端で、おまえの行く方向をくり返してやろうぞ……忘れると困るからのう。四ヤードの端で、お別れじゃ。五ヤードの端で、わたしは行くぞよ!」
この時までに、女王は杭をみんな差しこんでいました。アリスは女王が木まで引き返し、それからゆっくりと杭の列にそって歩きだすのを、大変興味ぶかく見ていました。二ヤード杭のところで、女王はふりかえると、「歩《ふ》は最初の一手で、ふた目進むのじゃ。で、三の目を大急ぎで通りぬけるのじゃ……まあ、鉄道でな……するとたちまち四の目にはいる。ところで、その目はトウィードルダムとトウィードルディーのものじゃ……五の目はおおかた水……六の目はハンプティ・ダンプティのもの……じゃが、おまえは申すことはないのか?」(B)
「わたし……わたし……ちょうど……言わなくてはならないってことがわからなかったんです」とアリスはどもりながら言いました。
「こう申すべきじゃったのじゃ」
女王は重々しくおとがめの口調でつづけられました。「『万事お教えくださいまして、まことにありがとうございます』とな……が、そう申したことにして……七の目は全部が森じゃ……だが、騎士のひとりが道案内をしてくれよう……八の目では、わたしたちはいっしょに女王になるのじゃ。そしたら、ご馳走ずくめ、おもしろずくめじゃ!」
アリスは立ち上がっておじぎをし、また腰をおろしました。
次の杭のところで、女王はふたたびふり返りましたが、こんどはこう言いました。「物の名を英語で思いつかないときは、フランス語でお言い……歩くときは爪先を外に向けるのじゃ……自分の名を忘れまいぞ!」
こんどは、アリスがおじぎをするのを待ちもしないで、女王は次の杭まで歩いて行きました。そこでちょっとの間ふり返って「さらばじゃ」と言うと、最後の杭へと急いで行きした。
どうしてそうなったのか、アリスにはまるでわかりませんでしたが、ちょうど最後の杭にやってたとき、女王はいなくなってしまいました。空中に消えたのか、すばやく森へ駆けこんだのか(「女王さまはとても早く走れるんだもの!」とアリスは思いました)、考えようがありませんでしたが、事実女王はいなくなってしまいました。そして、アリスは、自分が歩だということ、やがて動きだす時間だということ、が思い出されてきました。
第三章 鏡の国の昆虫たち
もちろん、まずしなければならないことは、これから旅行する国を大仕掛《おおじか》けに調べることでした。「何やらまるで地理のお勉強みたいだわ」とアリスは、もう少し先まで見えるかしらと、爪先立ちになりながら、そう思いました。「主要な川は……まったくなし。主要な山脈は……いまわたしが立ってるのがひとつだけ。でも名前はなさそうだわ。主要な町は……あら、あそこで蜜をこしらえてる生きものたちは何かしら? 蜜蜂のはずはないし……一マイルもはなれて蜜蜂を見た人なんかありっこないもの……」
しばらく黙ってアリスは立ったまま、花のあいだを忙しく動きまわり、口を突っこんでいるのをひとつ見つめていました。「ふつうの蜜蜂そっくりだわ」とアリスは思いました。
ところが、ふつうの蜜蜂なんかではありませんでした。実は、象だったのです……そのことはアリスにはすぐにわかったのですが、最初そう思ったときには、息ができないくらいでした。
次には「なんて大きな花だこと!」と思いました。「なにやら屋根を取ってしまい茎《くき》をつけた、いなか家《や》みたい……きっと蜜をたくさんつくるんだわ。降りて行こうかしら……いいえ、いまはよしましょう」
岡を駆け降りかけて、立ちどまり、そんなに突然しりごみした言い訳をさがそうとして言いつづけました。「花のあいだに降りて行っても、払いのける長い枝を持たないで行くのはまずいわ……花がお散歩いかがでした、とたずねたらおもしろいでしょうね。わたしこう言ってやるわ、『あら、けっこうよかったわ……(ここでいつもの癖で、ちょいと頭をつんとふりました)ただ、えらくほこりっぽくて、暑くて、そのうえ象がとてもうるさいのよ!』」
「わたし向こう側に降りて行くわ」とアリスはちょっと間をおいてから、言いました。「あとで象のところに行けるかもしれないし。それに、わたし、とても三の目にはいりたいんだもの!」
で、こう言い訳すると、アリスは岡を駆け降り、六つの小川のうち最初のを飛び越えました。
*   *   *
「切符、お見せください!」窓から首を突っこんで、車掌《しゃしょう》が言いました。たちまち、みんなが切符を差し出していました。人間と同じくらいの背丈で、車いっぱいにあふれているようでした。
「こら、こら! ちび、切符を見せるんだ!」
怒ったように車掌はアリスを見つめながら、言いつづけました。すると、たくさんの声がいっせいに、(「歌の混声合唱《コーラス》みたいだわ」とアリスは思いましたが)こう言うのでした。
「車掌を待たせるんじゃないよ、ちび! だってさ、車掌の時間は、一分で一千ポンドの値打ちがあるんだぞ!」
「わたし、持ってないんですけど」とアリスはびっくりした口調で言いました、「わたしが出発したとこには切符売り場はなかったんですもの」
と、またしても、声のコーラスがつづきました。「あの子が出て来たところには、切符売り場の余地がなかったんだ。そこの土地は、一インチで一千ポンドもするんだ!」
「言い訳するんじゃない」と車掌は言いました。「おまえは機関士から買うべきだったんだ」と、またしてもコーラスがつづけました。「機関車を動かしてる男のことさ。そうだ、煙だけでもひと吹き一千ポンドはするんだ!」
アリスは心ひそかに思いました。「じゃ、物を言っても仕方ないわ」
こんどは、アリスが口に出して言わなかったので、声は加わりませんでした、が、アリスがたまげたことに、みんなはコーラスで考えたのです(コーラスで考えるってどんな意味か、みなさんおわかりだといいんですが……というのは、ほんとうの話、わたくしにはわからないからです)「ぜんぜん何も言わないがいい。ことばは、一語一千ポンドもするんだぞ!」
「わたし、今夜は一千ポンドの夢を見ることよ、きっとそうだわ!」アリスは思いました。
その間じゅう、車掌はアリスを見つめていました。最初は望遠鏡で、次には顕微鏡《けんびきょう》で、また次にはオペラグラスを使ってなのです。とうとう車掌は、「おまえは反対方向に乗ってるんだ」と言うと、窓をぴしゃっとしめ、行ってしまいました。(C)
「こんな幼い子供は」とアリスの向かい側に腰かけていた紳士(白い紙の服を着ていました)が言いました、「自分の行ってる方向はわかってなくちゃならんよ。たとえ、自分の名は知らなくってもさ!」
白服の紳士の隣にすわった山羊《やぎ》は、口をとじ、こうどなりました。
「この子は切符売り場までの道はわかっていなくちゃならん。たとえ、|ABC《いろは》は知らなくってもさ!」
山羊《やぎ》の隣には、かぶと虫が腰かけていました(車いっぱい変わった客が乗り合わせていたものです)が、順番に口をきくのがきまりだったようで、こうつづけました。「この子は手荷物として、もどらなきゃならんだろう!」
かぶと虫の向こうには、だれがすわってるのかアリスには見えませんでしたが、しゃがれ声がつづいてこう言いました。「機関車を取り替えろ……」そこで息がつまり、やめなければなりませんでした。
「馬の声のようだわ」とアリスはひそかに思いました。すると、えらく小さな声が、すぐ耳もとで、言いました。「あんたね、それでしゃれが言えるよ……馬としゃがれ声〔馬(horse)としゃがれ声の(hoarse)とは発音が同じなので、ここの句がある〕とでね」
すると、遠くで、とてもやさしい声が「『少女、取扱注意』と荷札をつけなくてはいけないね……」と言いました。
そのあとから、ほかの声が(「この車には、なんてたくさんの人がいるんでしょう」と、アリスは思いました)つづけてこう言いました。「この子は郵便で送るべきだ。なにしろ頭《ヘッド》〔ヘッドには「郵便切手」の意味もある〕がついてるからな……」とか「この子は電報文で送るべきだ……」とか「あとの道のりは自分で汽車を引っぱるべきだ……」とか、いろいろです。だが、白い紙の服を着た例の紳士は、前かがみになって、アリスの耳にこうささやきました。
「みんなの言うことなんぞ気にすることはないよ。汽車が止まるたびに、帰りの切符をもらうんだね」
「そんなことしません!」とアリスはいささかじれったくなって言いました。「わたし、この汽車旅行のお客なんかではないわ……ついさっきまで森の中にいたの……わたし、できれば森に帰りたいのよ!」
「それでしゃれが言えるよ」とアリスの耳もとで小さな声が言いました。「できれば≪もりかえしたい≫とかなんとかね」
「あんまりからかわないで」アリスは、その声の出もとを見つけようと見まわしましたが、むだでした。「そんなにしゃれを言ってもらいたいんなら、なぜ自分で言わないの?」
小さな声は深い溜息をつきました。とっても不幸なことがはっきりわかりました。で、アリスは何か慰めのことばを言ってやりたかったほどでした。
「ほかの人と同じように、溜息《ためいき》するだけならいいのに!」アリスはそう思いました。
ところがこの溜息ときたら、不思議なくらい細い溜息で、すぐ耳もとでなかったら、まったくアリスには聞こえなかったでしょう。つまるところ、耳がとてもくすぐったくて、その小さな生きものが不幸だなんてことが、アリスにはまったく考えられなかったのです。
「君はぼくの友だちだよね」と小さな声はつづけて言いました、「親愛なる友、古い友。ぼくは昆虫だけど、君はぼくを傷《いた》めたりはしないよね」
「どんな昆虫なの?」とアリスは少し心配げにたずねました。アリスがほんとうに知りたかったのは、その虫が刺《さ》すのか刺さないのかということでしたが、それをたずねるのはどうも失礼ではないかしらとアリスは思いました。
「じゃ、君知らないの……」と小さな声は言いかけましたが、そのとき機関車のピーッという甲高《かんだか》い汽笛《きてき》の音に、かき消されてしまいました。
で、みんなびっくりして飛び上がりましたが、アリスもそのひとりでした。
馬は、窓から首を突き出しましたが、そうっと引っこめると、「なあんだ、たかが小川を飛び越えるだけのことさ」と言いました。このことばに、みんな満足したようでした。もっとも、アリスだけは汽車が飛び越えるなんてことを考えると、少し心配でした。
「でも、それで四の目にはいれるんだもの、悪くはないわ!」とアリスはそうひとりごとを言いました。次の瞬間、アリスは汽車がまっすぐ空中に飛び上がるのを感じました。で、こわさのあまり、すぐ手近にあったものをつかもうとしましたが、それはさっきの山羊先生のおひげでした。
*   *   *
でも、そのおひげはアリスが手をふれると、消えてしまうように思われました。そして、アリスは、気がついてみると、静かに木の下にすわっているのでした……また例の蚊《か》(それがさっきからアリスが話し相手にしていた虫だったんです)は、アリスの頭の真上にある小枝で、からだのつりあいを取りながら、自分の羽根でアリスをあおいでいました。たしかに、とっても大きな蚊でした。「ひよこぐらいはあるわ」とアリスは思いました。でも、長いこと話し合っていたあとなので、こわい気持ちにはなれませんでした。
「……じゃ、君はどんな虫でも好きだっていうわけではないんだね?」まるで何事もなかったように、落ち着いた口ぶりで蚊はつづけました。
「お話できるなら好きよ」アリスは言いました。「わたしのいたところでは、お話できる虫なんてひとつもいなかったわ」
「君のいたところでは、どんな虫に≪めぐまれて≫るのかい?」蚊がたずねました。
「虫はちっとも≪めぐみ≫じゃないわ」アリスは説明しました。「だって、わたし虫がこわいほうなのよ……少なくとも大きい種類のは。でも、名前はいくつか言えてよ」
「むろん、名を言えば返事するだろう?」くったくなく蚊は言いました。
「そんなことするの知らなかったわ」
「名を言われても返事しないんなら」蚊は言いました。「名があったって、なんになるんだい?」
「虫にとってなんにもならないわ」とアリスは言いました。「でも、名前をつける人たちには役に立つと思うわ。でなかったら、いったい、物に名がどうしてついてるんでしょう?」
「わからんね」と蚊は答えました。「向こうの森の中では、どれも名前なんぞついてないよ……まあ、とにかく、君の知ってる虫の名をあげてみなよ。そら、早く」
「そうね、馬ばえがいるわ」とアリスは、名前を指でかぞえながら、言いはじめました。
「よし、じゃ」と蚊は言いました。「あの潅木《かんぼく》のまんなかあたりに、そらごらん、揺り木馬《もくば》がいるだろ。ぜんぶ木でできてて、身を揺すぶって枝から枝へと動きまわるんだよ」
「何を食べて生きてるの?」と、たいそう興味をそそられて、アリスはたずねました。
「木の汁と≪おがくず≫だよ」蚊が言いました。「さあ名前をあげてごらん」
アリスはたいそうおもしろそうに揺り木馬を見つめました。そして、きっと塗《ぬ》り替えたばかりなのにちがいないと思いました。なにしろ、とてもぴかぴかねばねばしていたからです。さらにアリスはつづけました。
「それから、とんぼがいるわ」
「頭の上の枝を見てごらん」と蚊が言いました。「干しぶどうの火とんぼがいるだろ。からだはプディング、羽根はひいらぎの葉、頭はブランディの中で燃えてる干しぶどうでできてるんだ」
「そして何を食べるの?」とアリスは、前のようにたずねました。
「フルーメンティとミンス・パイさ」蚊は答えました。「巣はクリスマスの贈り物の中に作るのさ」
「それから、|ちょうちょう《バタフライ》がいるわ」とアリスはつづけましたが、それは頭の燃えてる虫をとくと見て、心ひそかに「虫がろうそくの火の中に飛びこみたがるのは、そのためかしら……だって干しぶどうの火とんぼになりたがるんだもの」と考えてからのことでした。
「君の足元にはってるのが」と蚊は言いました(アリスはちょっとびっくりして足を引っこめました)「≪バタ≫つきパン≪フライ≫さ。羽根は薄切りのバタつきパン、からだはパンの皮、頭は≪角砂糖≫だ」
「それ、何が食べものなの?」
「クリーム入りの簿いお茶だよ」
もうひとつむずかしい問題が頭にわいてきました。「それが、もし見つからなかったらどうなの?」アリスがたずねました。
「むろん、死ぬだろうよ」
「でも、そんなこと、しょっちゅうあるにちがいないわ」アリスは考えぶかく言いました。
「いつものことさ」蚊が言いました。
そう聞くとアリスはしばらく黙って考えていました。蚊はその間、アリスの頭のまわりをぶんぶん飛びまわっては楽しんでいました。やっと止まると「君は自分の名前をなくしたくはないだろうね?」と言いました。
「むろん、そうよ」アリスはちょっと心配そうに言いました。
「だが、どうかな」蚊はむとんちゃくな調子でつづけました。「名なしで家に帰れたら、どんなに便利だか考えてごらん! たとえば、家庭教師の女の先生が、君を勉強に呼びたいとしたらさ、『こちらにおいでなさい……』って言うだろうよ。そこで言いやめなきゃならんだろう。だってさ、呼ぼうにも呼ぶ名がないからね。むろん、君は行くにはおよばないのさ」
「そうはいかなくてよ、きっと」とアリスは言いました。「先生はそんなことでお勉強を許そうなんて思うことないわ。わたしの名前を思い出せなかったら、召使いたちがいうように『|お嬢さま《ミス》』って呼ぶでしょうよ」
「そこじゃて、『|お嬢さま《ミス》』と言って、それっきりなら」蚊が言いました。「もちろん、君は勉強をミスるってわけさ。これはしゃれだよ。君に言ってほしかったな」
「なぜわたしに言ってほしかったの?」アリスはたずねました。「それ、つまらないしゃれだわ」
蚊は深い溜息をついただけでしたが、同時に大粒の涙がふたつ、蚊のほおをころがり落ちました。
「しゃれなんか言っちゃいけないわ」アリスは言いました。「そんなに悲しくなるんだったら」
すると、あの悲しげな小さい溜息が、もう一度聞こえました。こんどは、かわいそうに、蚊は自分の溜息でほんとうに消えてしまったようでした。というのは、アリスが見上げると、小枝には何も見えなかったからです。アリスは、あんまり長いことじっとすわっていたので、すっかり寒気《さむけ》がしていました。で、立ち上がるとどんどん先へ歩いて行きました。
すぐに、広々とした野原にやってきました。向こう側に森があります。それはさっきの森よりもずっと暗く見えました。
アリスは、そこにはいって行くのが少しこわくなりました。でも、考え直して、進んで行くことに決めました。「だって、引きかえすことなんか絶対いやだもの」アリスは心中ひそかに考えました。それに、これだけが八の目に行く道だったのです。
「物に名前がない森というのは」アリスは考えぶかくひとりごとを言いました。「きっとこれにちがいないわ。中へはいったら、わたしの名前はどうなるのかしら? 名前は絶対なくしたくないわ……だってまた別の名前をつけられるもの。それはきっといやな名前でしょうよ。でもそうなったら、おもしろいことは、わたしの元の名前をつけた動物をさがすことだわ! そら、犬が迷子《まいご》になったときの広告と同じだわ……『ダッシュと呼べば答えます。なお真ちゅう製の首輪をつけています』……出合うものには何にでも、どれかが返事をするまで『アリス』って呼んでみたらどうかしら? ただ、おりこうさんなら、答えやしないでしょうね」
こうしてアリスはぶらぶら歩いて行ってるうちに、その森につきました。いかにも涼しげで陰《かげ》ぶかい様子でした。「まあ、とにかく、これで大助かりだわ」と木陰に足をふみいれながら、アリスは言いました。「あんなに暑かったあとで、はいるのは……はいるのは……なんの中にはいるのかしら?」
うまくことばが思い出せなくてちょっとびっくりしながら、アリスはつづけました。「わたしがはいるつもりなのは……下……下……これの下なんだわ!」と片手を木の幹につけました。「この木はなんていうのかしら……名前はないのよ……そうだわ、きっとないんだわ!」
黙ったままでしばらく立っていました。それから、また急にしゃべりだしました。「じゃ、やっぱり、ほんとうにそうなったんだわ! ところで、わたしはだれ? できたら思い出してやるわ! きっとそうしてやるわ!」でも、そう決心しても、たいして役に立ちませんでした。さんざん考えあぐねたあげく、言えたのは、ただ「リ……リの字で始まることは、わかってるわ!」ということだけでした。
ちょうどそのとき、子鹿がいっぴきぶらぶらとそばにやってきました。大きなやさしい目でアリスを見つめましたが、ちっともおどろいた様子はないのです。
「おいで! おいで!」アリスは、手を差し出してなでようとしながら、言いました。少しうしろにいざっただけで、子鹿は、またアリスをじっとみつめるのでした。
「君はなんていう名なの?」と、ついに子鹿が言いました。とてもやさしい美しい声でした!
「それがわかっていたらねえ!」アリスは思いました。「たったいまは、なんでもないの」悲しげにアリスは答えました。
「もう一度考えてごらん、名なしはこまるでしょう」と小鹿が言いました。
アリスは考えましたが、何も思い出しません。「お願い、あんたはなんていう名なの?」アリスはおずおずと言いました。「そしたらわたしが思い出すのに少しは役に立つかもしれないわ」
「もう少し向こうに行ったら教えてあげるよ」子鹿は言いました。「ここでは思い出せないんだよ」
そこで、ふたりはいっしょに森の中を歩いて行きました。アリスは、子鹿のやわらかい首を、愛情こめて両腕で抱きしめたまま、やがて別の広々とした野原にやってきました。ここで、子鹿はとつぜん空中に飛び上がると、身をゆすってアリスの腕からのがれました。
「ぼくは子鹿だ!」と喜びの叫びをあげ、「おやおや! 君は人間の子だね!」と言いました。急におどろきの色が美しい茶色の目に浮かんでき、あっという間に、全速力で飛んで行ってしまいました。
アリスはあとを見送っていましたが、こう突然に、かわいい小さな道づれをなくしたのがくやしくて、いまにも泣きだしそうでした。
「でも、やっと自分の名前がわかったわ」とアリスは言いました。「まあ、これでよかったわ。アリス……アリス……二度と忘れないことよ。ところで、この道しるべのどれに従ったらいいのかしら?」
むずかしい疑問ではありませんでした。森には一本の道しかなく、そのふたつの道しるべはふたつとも、その道をさしていたからです。「道がふたつに分かれて、道しるべが別々の方向をさしているときは、わたしが決めるわ」アリスはそう考えました。
でも、そういうことは起こりそうにはありませんでした。どんどん、長い道をアリスは歩きつづけました。でも、道が分かれているところには、どこにも、きっと同じ方向を示している道しるべがふたつあって、ひとつは『トウィードルダムの家へ』もうひとつは『トウィードルディーの家へ』と書いてありました。
「これはきっと」とアリスはついに言いました。「ふたりとも同じおうちに住んでるんだわ! どうして今まで思いつかなかったのかしら……でも、そこにぐずぐずしておれないわ。ちょっと声をかけて『こんにちは』って言って、森から出る道のことを聞くだけにするわ。暗くならないうちに、八の目につきさえしたらいいんだけどなあ!」
そこで、ひとりごとを言いながら歩きつづけましたが、ついに急な角を曲がると、アリスはふたりの太った小男にばったり出くわしました。あんまり突然だったので、アリスは思わずとびすさりました。でも、すぐに我《われ》に返ると、これがきっとあの人たちだな、と思いました。
第四章 トウィードルダムとトウィードルディー
ふたりは一本の木の下に立ち、お互い相手の首に片腕をまきつけていました。アリスはどっちがどっちなのか、すぐにわかりました。そのはずです。ひとりのほうはえりに「ダム」、もうひとりは「ディー」とししゅうしてあったからです。
「どちらも『トウィードル』とえりのうしろにまわると書いてあるんだわ」アリスはそうつぶやきました。
ふたりともあんまりじっと立ってたので、アリスはふたりが生きてることをすっかり忘れてしまったくらいでした。で、アリスは、「トウィードル」ということばがふたりのえりのうしろに書いてあるかどうか見ようと、ちょうどうしろにまわっていたときです、「ダム」としるしのついたほうが立てた声でびっくりしました。
「わしらを蝋《ろう》人形だと思うとるのなら」とその男は言いました。「料金を払ってもらわんと困るよ。蝋人形はただで見るために作られちゃおらんのじゃから。とんでもない!」
「その反対に」と「ディー」としるしのついたほうのがつけ加えました。「わしらが生きとると思うんなら、君は口をきくのが当然じゃよ」
「ほんとにすみません」それだけしかアリスには言えませんでした。だって、あの古い歌の文句が、時計のカチカチみたいにアリスの頭に鳴りどおしで、思わず大声に出して言ってしまいそうだったからです。
「トウィードルダムにトウィードルディー
戦いやろうと話がついた、
前者、後者に言ったが起こり
おいらの新調の≪がらがら≫こわした。
ちょうど飛びきた巨大なからす
タールの桶《おけ》も黒さ顔負け、
ふたりの勇士、いやぶったまげ
けろりけんかは知らん顔」
〔古い童謡。「トウィードルダムとトウィードルディー」は「似たり寄ったり、うりふたつ」の意味の成句となっている〕
「君の考えてることわかってるぞ」トウィードルダムが言いました。「だがそうじゃない、とんでもない」
「その反対に」トウィードルダムがつづけました。「もしそうならば、そうなのかもしれん。仮にそうなら、そうなるだろう。だが、そうじゃないから、そうではないのだ。それが理屈だ」
「わたし考えてましたの」アリスはたいそうていねいに言いました。「この森を出るのはどれがいちばんいい道かって。とても暗くなってるでしょ。教えてくださいませんか?」
しかし、太った小男たちは、お互い顔を見合わせて、にやにやするだけでした。
まるで一組の大きな生徒のように見えるので、アリスは、トウィードルダムを指さして、こう言わずにはおれませんでした、「一番目の生徒!」
「とんでもない!」トウィードルダムは、威勢《いせい》よく叫びました。そして、また、ぱちんとばかり口を閉じてしまいました。
「次の生徒!」アリスは、トウィードルディーのほうに移りながら、言いました。トウィードルィーは、きっと「その反対に!」とどなるだけだろうとアリスは思いましたが、はたしてそのとおりでした。
「やりだしが間違ったぞ!」トウィードルダムはどなりました。「人をたずねて第一番にやることは、『こんにちは』と言って、握手をするんだよ!」と言うや、ふたりの兄弟は、互いに抱き合い、アリスと握手しようと、あいたほうの手を差し出しました。
アリスは、どちらかと先に握手するのがいやでした。残ったほうの気持ちをわるくしたくなかったからです。で、この難儀《なんぎ》を切り抜けるいちばんの方法として、アリスは一度に両方の手を握りました。たちまち、三人は輪をつくってぐるぐる踊っていました。(あとになって思い出したのですが)こうするのが、いたってあたりまえなことに思われました。で、アリスは音楽が聞こえてもおどろきもしませんでした。
音楽は、みんなが下で踊ってたその木から起こって来るようでした。が、それは(アリスにわかったかぎりでは)ヴァイオリンと弓のように、枝と枝が互いにこすり合って立てているのでした。
「でも、たしかにおもしろかったわ。(あとで、このことを全部、お姉さまに話してあげたときに、アリスは言いました)わたし、いつのまにか『桑《くわ》の木まわって、そらぐるり』って歌ってたのよ。いつ歌いだしたのかわからないけど、ずっとずっと前から歌ってたような気がしたわ!」
ほかのふたりの踊り手たちは、太っちょだったので、すぐに息切れしてしまいました。「いっぺん踊るのに四回まわればじゅうぶんだ」
トウィードルダムが、あえぎながらそう言うと、踊り出したときと同じように突然踊りをやめてしまいました。同時に音楽もとまりました。
そこで、ふたりはアリスの手をはなし、ちょっとの間、アリスを見つめていました。アリスは、いましがたまで踊っていた人たちを相手に話の始めようがわからず、少しきまりのわるい思いをしました。
「いまごろ『こんにちは』って言うの、何にもならないし」アリスはつぶやきました。「どうやら、そんなこと通りこして親しくなったみたいだわ!」
「あんまり疲れなかったでしょうね」やっとアリスは言いました。
「とんでもない。ま、ご心配ありがとうよ」トウィードルダムが言いました。
「まことにもってかたじけない!」トウィードルディーが付け足しました。「君、詩が好きかい?」
「そうね、かなりには……詩にもよりますけど」アリスは自信なげに言いました。「森を出るのはどの道か、教えてくださいませんか?」
「何を暗唱してやったものかね?」トウィードルディーは、大きなまじめくさった目をして、トウィードルダムをふりかえり、アリスの質問は気にもしないで、こう言いました。
「『せいうちと大工』がいちばん長いやつだよ」トウィードルダムは弟を愛情たっぷりに抱きしめながら、答えました。
トウィードルディーはさっそく始めました。
「お日さまきらきら……」
ここで、アリスは思いきって口を入れました。
「とても長いのでしたら」と、できるかぎりていねいに言いました。「先に教えてくださいませんか、どの道が……」
トウィードルディーはやさしくほおえみ、ふたたび始めました。
「お日さまきらきら海の上
力のかぎり照っていた、
ベストつくして大波を
すべすべぴかぴかせんものと……
これはけったい、一日の
頃《ころ》も頃とて真夜中に。
月さまむっつり照っていた、
一日すんでなおそこに
お日さま顔出すことはない……
さよう思ったお月さま、
『なんと失礼』月さま言った
『人のたのしみつぶしてさ!』
海はしっとり、濡《ぬ》れに濡れ
砂はからから、乾《かわ》きに乾く。
雲ひとかけら見えぬのは
空には雲がないからだ、
頭上飛び行く鳥もなし……
飛ぶ鳥ひとつないゆえに。
せいうち、大工とつれだって
近いところを歩いてた、
こんなにどっさり砂を見て
あら痛ましいその泣きよう、
『これさえさっぱり片づけば
そりゃすてきだ』と、共に言う。
『むすめ七人、柄《え》ぞうきん七つ
半年かけて掃《は》いたとしたら
君どう思うかい』と、せいうち問うた
『みんなでさっぱり片づくと?』
『そいつはどうかな』大工は言って
こぼす涙のひとしずく。
『牡蠣《かき》君、頼みだ、いっしょに歩《ゆ》こう!』
せいうち、けんめい、頼んで言った。
『楽しい散歩、楽しい話
しょっぱい浜辺をぶらつきながら、
四匹《よんひき》こえては始末にこまる
ひとつひとつに手をかすために』
いちばん年長《とし》の牡蠣《かき》、せいうちを
見たがだんまり返事せず、
いちばん年長《とし》の牡蠣、まばたいて
重い頭をふっただけ……
その牡蠣|床《とこ》をはなれるなどは
のぞまぬことと言ったわけ。
けれど四匹《しひき》の若い牡蠣
そいつはうまいと急《いそ》ぎくる、
上衣《うわぎ》ははらい洗面すませ
くつはさっぱりきれいに仕上げ……
これはけったい、そのゆえは
牡蠣にゃ足などさらにない
さらに四匹《よんひき》あと追いかけた
つづいてまたも四匹と、
ついにぞくぞくやって来た
またきた、またきた、そらまった……
泡だつ波をぴょんぴょんくぐり
岸をめがけてよいこらのぼる。
せいうち大工とつれだって
歩きつづけた一里そこいら
やがてほどよい高さの岩に
腰おちつけてひとやすみ、
子牡蠣はみんな歩みを止めて
一列なして番待った。
『時こそよけれ』とせいうち言った、
『いろんなことを語ろうよ、
くつだの……船だの……封蝋《ふうろう》だの……
まったキャベツに……王さまと……
なんとて海がにえかえり……
豚につばさがあるやなし』
『ちょっくら待って』と牡蠣どもわめく
『ぼくたちおしゃべりするまえに、
だってさ、なかには息切らし
そろってぼくらは太っちょだ!』
『ゆっくりするさ』と言ったは大工。
一同たんとお礼をのべた。
『パン一本』と、せいうち言った
『まずはわしらがほしいもの、
それにこしょうと酢《す》がつけば
上々吉《じょうじょうきち》というところ……
用意できたら、かわいい牡蠣よ
さあさ、ぱくつく段としょう』
『ぱくつかれるのはごめんだよ!』
ちょっぴり青ざめ、牡蠣ども言った、
『あんなにやさしくしてくれて、
いまさらそれじゃ、因果《いんが》な話!』
『すてきな夜だね』とせいうち言った
『いいながめとは思わんか?』
『君たちほんとによく来てくれた!
みんなとっても結構《けっこう》だ!』
大工が言ったは、ただ次のこと
『もうひときれだ、切ってくれ。
そんなにつんぼでなきゃいいに……
いままで二度も頼んだに!』
『恥ずかしいなあ』と、せいうち言った、
『こんなに遠くつれ出して
あんなにせかせか駆けさして
こんな≪ぺてん≫にかけるとは!
大工が言ったは、ただ次のこと
『バターの塗りが厚すぎる!』
『涙が出るよ』とせいうち言った。
『しんから君らに同情するぜ』
すすり泣き泣き涙とともに
選び出したはどでかいやつら、
かくしのハンカチ手にもって
目にはあてたがあふるる涙。
『ああ、牡蠣どもよ』大工は言った
『おまえら楽しく駆けて来た!
こんどはちょこちょこ帰ろうか?』
けれども答えはついぞなし……
そりゃけったい、と言えはせぬ
ふたりでどれも食っちゃった」
「わたし、せいうちがいちばん好きだわ」アリスは言いました、「かわいそうな牡蠣を少しは不憫《ふびん》と思ってるんですもの」
「だがさ、あいつは大工より余計に食ったんだぜ」トウィードルディーは言いました。「そら、ハンカチでかくしてたろ、だから、大工にはあいつがいくら取ったか、かぞえられなかったのさ。とんでもないよ」
「恥ずかしいやり方だわ!」アリスはふんがいして言いました。「なら、大工がいちばん好きだわ……せいうちほど食べてないんなら」
「だけど、大工はつかめるだけたくさん食べたんだぜ」トウィードルダムが言いました。これには弱りました。間をおいて、アリスは言い始めました。「そうだわ! ふたりともとてもいやらしい人物だわ……」
ここで、ちょっとびっくりして言いやめました。近くの森で、大きな機関車のしゅっしゅっという音らしいものを耳にしたからです。機関車よりは何か野獣のようだとアリスは思ったのですが。
「このあたりには、ライオンか虎《とら》がいるんですの?」こわごわアリスは聞きました。
「なあに、赤の王さまがいびきをかいてるのさ」トウィードルディーが言いました。
「見に行ってごらんよ!」兄弟は叫びました。めいめいアリスの手を取ると、王さまが眠っているところへ案内しました。
「美しいながめじゃないか?」トウィードルディーが言いました。
アリスは正直なところ、美しいとは言えませんでした。王さまは、房《ふさ》つきの赤い丈の高い寝帽《ナイトキャップ》をかぶり、えびのようにからだを丸めて、だらしのないかたまりになり、大いびきをかいていました……トウィードルダムの言い草だと「いびきで頭がちぎれんばかり」でした。
「しめった草の上に寝てて、かぜを引かれないかしら?」アリスは、たいそう考えぶかい少女でしたから、こう言いました。
「いま夢を見てるところさ」トウィードルディーが言いました、「なんの夢だと思うかい?」
「そんなこと、だれにもわからないわ」
「おや、君の夢だぞ!」トウィードルディーは、勝ちほこったように手をたたきながら叫びました。「王さまが君の夢を見るのをやめたら、君はどこにいると思うね?」
「むろんいまいるところよ」アリスは言いました。
「なに、いるもんか!」トウィードルディーは、何をばかなという調子で言い返しました。「君はどこにもいはしないさ。だって、君は王さまの夢の中のものにすぎないんだぜ!」
「そこの王さまが目をさましたら」トウィードルダムが言い返しました、「君は消えちゃうんだよ……ぱっ!……と、ろうそくさながらさ!」
「わたし消えなくてよ!」
アリスは怒って叫びました。「それに、わたしが王さまの夢の中のものでしかないのなら、あなたたちはどうなの、知りたいものだわ」
「ご同様」と、トウィードルダム。
「ご同様、ご同様」と、トウィードルディーが叫びました。
あんまり大声で叫んだので、アリスは「しっ! そんなに騒いじゃ王様が起きられますよ!」と言わずにはおれませんでした。
「なに、王様が起きるなどと君が言ったって、なんにもならんよ」トウィードルダムは言いました、「君は王さまの夢の中のものでしかないんだからな。君は現にいるんじゃないこと、自分でよくわかってるだろ」
「わたし現にいるのよ!」と言うと、アリスは泣きだしてしまいました。
「泣いたって、いっそういることには少しもならないよ」トウィードルディーが言いました、「泣くこた何もないさ」
「わたしほんとにいるんじゃなかったら」アリスは言いました……なにもかもとてもばかばかしく思われたので、涙のひまからなかば笑いながら……「泣くことだってできないはずよ」
「君、まさか、その涙が、現にある涙だと思いやしないだろうね?」トウィードルダムは、たいそう軽蔑《けいべつ》をこめた口調でさえぎりました。
「この人たち、わけもないことをしゃべってるんだわ」アリスはひそかに考えました。「だから、そんなことで泣くなんてばからしいことだわ」
そこで、アリスは涙をはらいのけ、精いっぱい、陽気につづけました、「とにかく、わたし森から出るほうがいいんです。だってどんどん暗くなってるでしょ。雨、降ってくるでしょうか?」
トウィードルダムは、自分と弟の頭上に大きなこうもり傘をひろげ、その中を見上げました。「いや、降らんと思うよ。少なくとも……この下はね、とんでもない」と言いました。
「でも、外側は降るかもしれないわね?」
「かもな……降りたきゃね」トウィードルディーは言いました。「こっちは異議なしだ。それと反対に」
「身勝手な人たちね!」アリスは思いました。
「さようなら」と言って、別れようとしていますと、とたんに、トウィードルダムがこうもり傘の下から飛びだして来て、アリスの手首をつかみまた。
「あれが見えるかい?」はげしい怒りにつまりそうな声で言いましたが、目はたちまち大きく黄色くなり、ぶるぶる震える指で、木の下にころがっている小さな白いものをさしたのです。
「ただの≪がらがら≫ですわ」その小さな白いものを注意してよく見てから、アリスは言いました。
「がらがら蛇《へび》ではなくってよ」相手がおびえてるのだと思ったので、急いでアリスは言い足しまた。「ただの古い≪がらがら≫よ……すっかり古びてこわれてるわ」
「それはわかってたんだ!」トウィードルダムは、はげしく地団太《じだんだ》ふみ、髪をかきむしり始めるのでした。「もちろん、こわれてるんだ!」ここでトウィードルディーを見つめましたが、相手はすぐさま地面にすわりこみ、こうもり傘の下に身をかくそうとしました。
アリスは、トウィードルダムの腕に自分の片手を置くと、なだめるように、「お古の≪がらがら≫なんかで、そんなに怒らなくてもいいでしょ」
「お古なんかじゃないんだ!」トウィードルダムは、ますますたけりたってわめきました。
「新品なんだぞ……きのう買ったんだ……おれのすてきな、新品の≪がらがら≫だ!」声は高調して、まったくの絶叫です。
その間じゅう、トウィードルディーは、自分を中にいれたまんま、けんめいにこうもり傘をたたもうとしていました。それがあまりに変わったしぐさだったので、アリスは、注意をすっかり、怒っている兄からそらされたほどでした。
でも、弟のほうはうまくいかず、ついには横ざまに倒れてしまい、傘にくるまり、首だけつき出していました。横たわったまま、口とどんぐり目をあけたり閉じたり、「何よりずっと魚に似てるわ」とアリスは思ったことでした。
「もちろん、戦いをやるのは賛成だな?」トウィードルダムは前より落ちついた口調で言いました。
「まあね」傘からはいだしながら、相手はふくれっつらの返事です。「ただ、あの子にわれわれの身支度を手伝ってもらわなきゃ」
で、兄弟は手を取り合って森の中へと立ち去り、すぐまた腕いっぱいに物を持ってもどってきました……長まくら、毛布、じゅうたん、テーブル掛け、皿ぶた、石炭入れなどです。
「君はピンで留めたり、ひもを結んだりするのじょうずだろうね?」トウィードルダムが言いました。「こいつらみんな、なんとか身につけなくちゃならんのだ」
アリスはあとになって言ったことですが、生まれてからそのときまで、なんにせよこんな大騒ぎをするのを見たこともありませんでした……ふたりが騒ぎまわった様子……からだにつけたたくさんのもの……ひもを結んだり、ボタンをかけてやったり手間のかかったこと……「支度ができると、ふたりとも、ほんとに古着の束《たば》みたいになるわ!」
アリスは、トウィードルディーの首に、本人の言う「首を切られない用心」の長まくらをつけてやりながら、こうひそかに思ったことでした。
「わかっとるな」えらく勿体《もったい》ぶった調子で、彼は言い足しました、「戦《いくさ》で身にふりかかるもっとも重大なことのひとつは……首をかき切られることじゃ」
アリスは吹き出してしまいました。でも相手の気持ちを害してはいけないと思って、なんとか咳《せき》ばらいにごまかしました。
「真っ青な顔をしとるかね?」トウィードルダムは、かぶとのひもを結んでもらいにやって来ながら、問いました(もっともご本人はかぶとと言いましたが、ずっとシチューなべに似ていました)。
「まあ……そうね……少しだけど」アリスはやさしく答えました。
「ふだんは、おれ、すこぶる勇敢なんだ」低い声で彼はつづけました、「ただ、きょうは頭痛がするんでね」
「おれは歯痛なんだ!」先のことばを耳にはさんだトウィードルディーが言いました、「こっちのほうがずっとひどいんだぞ!」
「それならきょうは戦わないほうがいいわね」アリスは、仲直りのいい機会だと思って言いました。
「われわれは少しは戦わなきゃならん。長く続けたくはないがね」トウィードルダムは言いました。「ところでいま何時だ?」
トウィードルディーは時計を見て、「四時半だ」と言いました。
「六時まで戦おう。それから晩めしだ」トウィードルダムが言いました。
「よろしい」やや悲しげに相手は言いました、「この娘《こ》が見ていてくれる……ただ、あんまり近よらんがいい」こう言い足しました、「おれはたいてい、見えるものはなんでも打ちすえるからな……ほんとに激昂《げきこう》してくるとね」
「おれも、手あたりしだい打ちのめすんだ」トウィードルダムが叫びました、「見えようが見えまいがかまいはせん!」
アリスは笑いだしました。「きっと何度も木を打つんでしょうね」
トウィードルダムは、わが意を得たというように微笑をもらすと、あたりを見まわしました。
「戦いがすんだころには」と、彼は言いました、「あたり一面遠くまで、立ってる木は一本もないじゃろうて!」
「それがみんな≪がらがら≫ひとつが原因《もと》なのね!」アリスは、そんなつまらないもののことで戦うなんて、少しは恥ずかしいとふたりに思ってもらいたくて、言いました。
「新品でなかったら」トウィードルダムが言いました、「そんなにかまいはしなかったんだ」
「あの大きなからすが来てくれるといいのになあ!」アリスは思いました。
「剣は一振《ひとふり》しかないんだ」トウィードルダムが弟に言いました、「だがおまえは傘を使えばいい……鋭《とが》ってるのはまったく同じだ。ただ早く始めなきゃ。この上もなく暗くなってくるぞ」
「いやもっと暗くなるぞ」とトウィードルディー。
にわかに暗くなってきたので、きっと雷雨なんだとアリスは思いました。
「なんて厚い黒雲だこと!」アリスは言いました。「それに足の早いこと! きっと翼《つばさ》があるんだわ!」
「からすだ!」トウィードルダムはびっくりして、金切り声で叫びました。
ふたりの兄弟は一目散《いちもくさん》に逃げ出して、あっという間に見えなくなりました。
アリスは、少しばかり森の中へ駆けこむと、大きな木の下で立ち止まりました。
「ここなら、わたしつかまりっこないわ」とアリスは思いました、「あんなに大きいんだもの、木の間に割り込めっこないわ。でも、あんなに羽ばたきしないといいんだけど……森じゅうほんとに大嵐が起きるわ……そら、だれかのショールが吹きとばされてるわ!」
第五章 羊毛と水
そう言いながら、アリスはショールをつかみ、あたりを見まわして持ち主をさがしました。次の瞬間、白の女王が、飛んでるみたいに両手を大きくひろげ、はげしい勢いで森を駆け抜けて来ました。アリスは、ショールを手に、うやうやしく出迎えました。(D)
「ちょうど途中に居あわせて、ほんとによろしうございましたわ」アリスは、手伝ってショールをかけてあげながら、言いました。
白の女王は、頼りなくおびえた風《ふう》でアリスを見ただけでした。そして、何やら小声でひとりごとを言いつづけていましたが、それは「バタつきパン、バタつきパン」というように聞こえました。で、アリスは話をするのだったら、自分のほうからうまくやらなければいけないと思いました。
そこで、少しびくびくしながら切り出しました、「白の女王さまにお≪|聞《き》かせ≫いたしているのでしょうか?」
「うむ、さようじゃ、おまえが≪|着《き》かせ≫ると呼ぶならばの」女王さまは言いました。「わたしの考えはまるきり違うのじゃが」
アリスは、話のしょっぱなから議論しても始まらないと思いました。で、微笑をうかべると言いました。「陛下が正しい始めかたをお教えくださりさえいたしましたら、できるかぎりそのとおりにいたします」
「そうしてなんぞちっともほしくはない!」女王さまはうめくように言いました。「この二時間というもの、わたしはずっと自分で≪着かせて≫いたのじゃ」
だれかほかの人に着せてもらってたら、ずっとよかったのに、とアリスには思われました。女王さまは、おそろしくだらしない様子だったのです。「ひとつ残らずねじれてるんだわ」アリスはひそかに思いました。
「それに、からだじゅうピンなんだもの! ショールを直しておあげしてもよろしいでしょうか?」
アリスは大声でつけ加えました。
「ショールがどうなってるのか、わたしにはわからない!」女王は悲しげな声で言いました。「きげんがわるいんだろう。あっちこっちとピンで留《と》めてみたが、どうしてもきげんが直りおらぬのじゃ!」
「一方だけピンで留めても、まっすぐにはなりませんわ」アリスは、静かに直してあげながら、言いました。「あらまあ、お髪《ぐし》がひどい格好ですわ!」
「ヘアブラシがからまってしまったのじゃ!」女王は溜息ついて言いました。「それに、きのう、櫛《くし》をなくしてしまったのじゃ」
アリスは、注意してブラシをはずし、精いっぱい髪を直してあげました。
「さあ、だいぶよくなりました!」アリスは、おおかたのピンをつけ替えると、言いました。「でも、ほんとに、侍女《じじょ》をお付けにならなければいけませんわ!」
「喜んでおまえを侍女にしようぞ!」女王は言いました。「一週二ペンス、一日おきにジャムをあげる」
「わたしを雇《やと》って下さい、というのじゃありませんわ……それにジャムは好きじゃありませんの」
そう言いながら、思わずアリスは吹き出さずにはおれませんでした。
「たいそうよいジャムだぞよ」女王は言いました。
「でも、とにかくきょうは、ちっともほしくはないんです」
「たとえほしくっても、きょうのジャムはあげられぬのじゃ」女王は言いました。「規則はこうじゃ、あすのジャム、きのうのジャムはあるがけっしてきょうのジャムはないのじゃ」
「ときどきは、きっときょうのジャムになるわけよ」アリスは反対しました。
「いや、そうはなれっこないのじゃ」女王は言いました。「一日おきのジャムなんじゃ。きょうは一日おきの日ではないじゃろうが」
「おっしゃることがわかりませんわ」アリスは言いました。「おそろしく頭をこんがらがせますもの!」
「あともどりして生きておるせいじゃ」女王はやさしく言いました。「はじめは、いつでも、目がまわるものじゃ……」
「あともどりして生きるんですって!」アリスは、たまげて聞き返しました。「そんなこと初めて聞きましたわ」
「……しかし、それにはひとつ、たいへん得《とく》な点があるのじゃ。記憶力がふたつの方向に働くということじゃ」
「わたしのは片方だけにしか働きませんわ」アリスは言いました。「起こらないさきに思い出すことできませんもの」
「うしろにしか働かない記憶力は貧弱なものじゃ」女王は言いました。
「どんなことを一番よく思い出しますの?」アリスは思いきってたずねました。
「そうじゃの、再来週《さらいしゅう》に起こったことかいの?」
女王はむとんちゃくな調子で答えました。
「たとえばじゃ」女王は指に大きなこうやくを一枚はりつけながら、つづけました、「王さまの使者がいるのじゃ。罰《ばつ》を受けて、いま、牢屋《ろうや》にいれられている。裁判は来週の水曜日までは始まりもせぬのじゃ。むろん、罪を犯すのは一番あとに起こることじゃ」
「もしもその罪を犯さなかったら?」アリスはたずねました。
「ますますいいことではないかの?」女王は、細長いきれで、こうやくを指にまきつけながら、言いました。アリスは、たしかにそうだと思いました。
「むろん、ますますいいことでしょうね」アリスは言いました。「でも、その人が罰をうけるのは『ますますいいこと』じゃありませんわ」
「とにかく、おまえ、そこが間違いじゃ」女王は言いました。「おまえ罰を受けたことがおありかい?」
「悪いことをしたときだけですわ」アリスは言いました。
「それで、おまえ、ますますよくなったのじゃよ!」女王は勝ちほこったように言いました。
「ええ、でも、わたし罰を受けることを先にしたんですもの」アリスは言いました、「そこが大違いですわ」
「じゃが、先にそれをしてなかったならば」女王は言いました、「ますますよかったじゃろう。ずっと、ずっと、ずっとな!」
女王の声は「ずっと」と言うたびに、次第に高まっていき、おしまいにはすっかりキーキー声になってしまいました。
アリスが「どこかに考え違いが……」と言いかけたとたんに、女王が大きな金切り声で叫びはじめたので、アリスは言いさしたままでやめなければなりませんでした。
「おお! おお! おお!」女王は大声あげると、片手をふりまわしましたが、まるでその手をふりちぎってしまいたいとでもいうような勢いでした。「指から血が出た! おお! おお! おお! おお!」
女王の金切り声は、さながら蒸気機関車の汽笛《きてき》そっくりなので、アリスは両手を耳にあてがわなればならないほどでした。
「どうしたの?」アリスは、自分の声が聞こえそうになるとすぐに、「指を突いたんですの?」と言いました。
「まだ突いてはおらぬ」女王は言いました。「じゃが、いまに突くのじゃ……おお、おお、おお」
「いつ突くおつもりなの?」アリスは、吹き出したくてならなくなりながら、こうたずねました。
「こんどまたショールを留めるときじゃ」
お気の毒に、女王はうめくように言いました。「ブローチがすぐにはずれる。おお、おお!」
そう言ったときブローチがぱっと開き、女王は狂ったようにつかみかかり、ふたたび留めようとしました。
「用心なさって!」アリスは叫びました。「すっかり曲がったまんま持ってますわ!」
アリスはブローチをつかもうとしましたが、間に合いません。留め針がすべって、女王は指をさされたのです。
「これで血の出たわけがわかったじゃろうな」女王は、にこにこしながら、アリスに言いました。「ここでは、なんでもこんな具合に起こるんじゃ、おわかりかな」
「でも、なぜもう叫ばないんですの?」アリスは、すぐにも両手を耳にもって行けるようにかまえて、たずねました。
「そりゃあね、叫ぶのはもうすっかりすましたからじゃ」女王は言いました。「もういっぺんくり返したって、何になるというんじゃね?」
このころには明るくなりかけていました。
「あのからすが、きっと飛んでってしまったんだわ」アリスは言いました。「いなくなって、ほんとによかったわ。夜になってるのだとわたし思ったわ」
「わたしも、なんとかしてよかったと思いたいくらいじゃ!」女王は言いました。「ただ、そういう規則を思い出せぬのじゃ。おまえはこの森に住んで、好きな時によかったと思えるのじゃから、さぞかし幸せじゃろうな!」
「ここがこんなに寂しくさえなければねえ!」アリスは滅《め》入った声で言いました。自分のひとりぼっちなのを思うと、大粒の涙がふたつ、アリスのほおをころげ落ちました。
「おお、そんなこと言うもんじゃない!」絶望に手をふりしぼりながら、女王は叫びました。「おまえ、自分がどんなにえらい娘であるかを考えてごらん。きょうはどんなにはるばるやって来たかって考えてごらん。いま何時か考えてごらん。なんでもいいから考えてごらん。泣くのだけはおよし!」
これにはアリスも、泣いてるさなかなのに、笑いださずにはおれませんでした。「女王さまは、ものを考えて、泣かないでいらっしゃるの?」アリスはたずねました。
「そうするのじゃ」女王はきっぱりと言いました。「だれにも一度にふたつのことはできないものじゃ。まず、そなたの年を考えることにしよう……そなた、いくつじゃ?」
「はっきりとでは、七つと六か月です」
「『はっくっきり』などと言うにはおよばぬ」女王は言いました。「そんなこと言わずとも信じられるぞよ。こんどは、そなたに何か信じられるものをあげようぞ。わたしはちょうど、百一年と五か月と一日なんじゃ」
「とっても信じられませんわ!」アリスは言いました。
「信じられぬとな?」あわれむような調子で女王は言いました。「もう一度やってごらん。深く息を吸って、目をつむるんじゃ」
アリスは笑い出しました。「やってもむだですわ」彼女は言いました。「あり得ないことなんか信じられませんわ」
「たぶん、練習不足のせいじゃ」女王は言いました。「わたしがそなたの年ごろには、毎朝いつも三十分間けいこをしたものじゃ。そうじゃ、ときどきは朝飯前に、あり得ないことを六つも信じたものじゃ。そら、またショールがとんで行くぞよ!」
女王がそう言ったとき、ブローチがはずれ、突然、さっと風がひと吹きして、女王のショールを小川の向こうへと吹き飛ばしました。女王はまたもや両手をひろげ、飛ぶようにしてそのあとを追っかけて行きました。こんどは、女王は自分でうまくつかまえました。
「つかまえたぞよ!」女王は勝ちほこって叫びました。「さあ、こんどは、わたしがひとりで留《と》め直してみせるぞよ!」
「では、指はもうお治りになりましたの?」アリスは、女王のあとから小川を渡りながら、たいそう丁重《ていちょう》に言いました。
*   *   *
「ああ、ずっとよくなったぞよ!」
女王は叫びましたが、その声は次第に高くなり、おしまいにはキーキー声になりました。「ずっとよくじゃ! ずっとよくじゃ! ずうーっとめえーったく!」おしまいのことばは長い鳴き声になって、羊そっくりだったので、アリスはほんとにたまげてしまいました。
女王を見ますと、女王はからだがにわかに毛にくるまってしまったみたいでした。
アリスは目をこすって見直しました。いったい何がおこったのか、アリスには、とんとわからないのです。
わたし、お店にいるのかしら? あれ、ほんとに……ほんとに羊なのかしら、勘定台《カウンター》の向こうに腰かけてるのは? どう目をこすって見ても、それ以上は何もわからないのです。アリスは、小さな暗い店にいて、勘定台に両ひじついてもたれていました。(E)
そして、自分とさし向かいには、年をとった羊が肘《ひじ》掛椅子《かけいす》にかけて、編物をしていました。そして、時々やめては、大きなめがね越しにアリスを見つめました。
「何がご入用かね?」とうとう、羊は編物をやめて、ちょっと見上げながら、言いました。
「まだ、よくわからないんですの」アリスはたいそうおとなしく言いました。「わたし、できたら、最初にわたしのまわりをすっかり見たいんです」
「したけりゃ、前も、両側も見れるよ」羊が言いました、「だが、まわりをすっかりとは見れないよ……頭のうしろに目があれば別だけどね」
でも、そんな目は、あいにくアリスにはついてませんでした。
で、アリスはぐるっとふりむき、棚に近づいてそれを見つめることで満足しました。
店はあらゆる種類の珍しいものでいっぱいなようでした……なかでもいちばん変だったのは、何がのってるのか見わけようと、棚をじっと見つめると、その棚がきまっていつも空《から》っぽなのです。それもまわりの棚は、これ以上はだめなくらいに、いっぱい物がつまっているのに、です。
「ここでは品物が動きまわるんだわ!」アリスは大きな光るものを一分間ほど追いまわしたけれど、むだだったので、とうとう、こう悲しげに言いました。
その光るものは、時には人形のようだったり、時にはお針箱みたいだったりするのに、アリスが見ている棚の上隣の棚にいつものっかっているのでした。
「この品物がいちばん癪《しゃく》にさわるわ……でも、いいわね……」アリスは、突然ある考えが浮かんだので、言いました。「わたし、一番上の棚まで追いつめてやるから。そしたら困って、天井《てんじょう》から抜けてかなきゃならなくなるでしょうよ!」
だが、この計略まで失敗しました。その「品物」は、すっかり慣れっこになってるみたいに、いとも悠々《ゆうゆう》と天井を抜けて行ってしまいました。
「あんたは子供かい? それとも駒《こま》かい?」羊は、いま一対《いっつい》の編棒《あみぼう》を取りあげながら、言いました。「そうぐるぐるまわられちゃ、わたしゃ、じきに目がまわっちまうよ」
羊は、いまでは一度に十四組もの編棒を使っていました。アリスはとてもびっくりして、羊を見ないではいられませんでした。
「あんなにたくさんで、どうして編めるのかしら?」アリスは面くらってしまって、思いました。「あの人、どんどんやまあらしに似てくるわ!」
「あんたは舟が漕《こ》げるかい?」羊は、ひと組の編棒をアリスに手渡しながらたずねました。
「ええ、少しは……でも陸ではだめ……それに編棒でも……」
アリスがそう言いかけたとき、突然、編物が手の中でオールに変わり、ふたりはいつの間《ま》にやら小舟にのって、両岸の間をすべるように進んでいました。で、アリスはけんめいに漕《こ》ぐよりほかありませんでした。
「フェザー!」
羊は叫ぶと、また新しいひと組の編棒を取りあげました。返事がいることばのようでもなかったので、アリスはせっせと漕ぎつづけました。
水には、何だか、とても変なところがあるみたいだと、アリスは思いました。それは、ときどき、オールが水にしっかりはまりこんでしまい、なかなか水からはなれようとしないからでした。
「フェザー! フェザー!」また羊は叫び、また余計に編棒を取りました。「あんたはすぐに、かにをつかんでしまうよ」
「かわいい子がに」アリスは思いました。「それだといいわ」
「『フェザーに』って言うのが聞こえなかったんかい?」羊は怒って叫び、ひと束《たば》も編棒を取りあげました。
「よく聞こえたわ」アリスは言いました、「なんども言ったでしょ……しかも大声でね。かにはどこにいるんですの?」
「むろん、水の中にさ!」羊はそう言うと、手がふさがっていたので、編棒をいくつか髪にさしました、「ほら、フェザーだよ」
「なぜ、そんなに何度も『フェザー』って言うの?」アリスは、おしまいには、少しいらいらしてたずねました。「わたし鳥じゃないわ!」〔「フェザー」は「鳥の羽根」の意味もあるから〕
「鳥だよ、あんたは」羊は言いました。「小さいがちょうだよ」〔「がちょう」には「まぬけ」の意味がある〕
これにはアリスもちょっと腹が立ちました。
で、一、二分の間、話がとだえました。
一方、ボートは静かにすべりつづけ、あるときは雑草のしげみにはいり(すると、オールが、前よりひどくしっかりと水にはまりこみました)、またあるときは木陰にはいりましたが、いつも同じ高い川岸が、しかめっ面《つら》をしたみたいにふたりの頭上にあるのでした。
「あら、おねがい! いいにおいする燈心《とうしん》草があるわ!」アリスは、突然うれしさで有頂点になって叫びました。「ほんとにあるのよ! とってもきれいなのが!」
「それのことで『おねがい』なんて、わたしに言うことはないよ」羊は、編物から顔もあげずに、言いました。「わたしがそこに置いたわけじゃなし、それに、持って行くつもりでもないからさ」
「ええ、でも、わたしは……おねがい、休んで、摘《つ》んでもいいですかって、つもりだったの」アリスは言い訳しました。「ボートをちょっと止めても、おばさんがかまわなかったらね」
「わたしに止めようがあるかい?」羊は言いました、「おまえさんが漕ぎやめれば、ボートはひとりでに止まるさ」
そこで、ボートは流れ下りるままに任せられ、揺らいでいる燈心草の間へとゆるやかにすべり込んで行きました。それから注意して小さな袖《そで》をまくりあげ、小さな腕をずっと深く、ひじまで突っこんで燈心草をつかまえ、そして折り取るのでした。
で、しばらく、アリスは羊のことも編物のこともみんな忘れて、ボートの縁《ふち》から身を乗り出し、もつれた髪の先だけ水にひたし……一心に目をかがやかせて、かわいらしい、においのいい燈心草の束を次々にとらえようとしました。
「ボートがひっくり返りさえしなきゃいいわ!」
アリスはつぶやきました。「あら、あれ美しいわ! でも手がとどきそうにないわ」たしかにちょっとじれったいことでしたが(まるでわざとしてるみたいだ、とアリスは思いました)、ボートがそばをすべって行くとき、どうやら美しい燈心草をたくさん摘み取ったのに、いつでももっと美しいのがあって手がとどかないのでした。
「いちばんきれいなのは、いつも先のほうにあるのね!」
アリスはとうとうそう言うと、燈心草が、きまって遠くに生えているのに溜息つきました。そして、ほおをほてらし、髪と手からぽたぽたしずくをたらしながら、もとの位置にはいもどり、新たに見つけた宝物をそろえ始めました。
燈心草が、摘んだ瞬間から、しおれてかおりも美しさもなくなりだしたことなど、そのときのアリスは少しもかまいはしなかったのです。ほんもののにおいの燈心草でも、もつのはほんの束《つか》の間ことなのです……いわんや、これは夢の燈心草でしたから、アリスの足もとに重なったまま、ほとんど雪のように解《と》けていってしまうのでした……けれどもアリスはそれにも気づかないくらいでした。ほかにもいろいろ変てこなことがたくさんあって、アリスの頭を占めていたからです。
それからふたりがいくらも先へ行かないうちに、オールのひとつの水かきが水にしっかとはまりこんでしまい、いっかな抜けようとしない(と、アリスはあとでそのときのことを説明したのでした)ので、おしまいには、オールの柄《え》があごの下にぶつかり、かわいそうにアリスがつづけざまに、「あら、あら、あら!」と叫んだのに、たちまち座席から掃《は》い落とされて、どさりと燈心草の山の中へ倒れてしまいました。
でも、ちっともけがはなく、またすぐ起きあがりました。羊はその間じゅう、何くわぬ顔をして編物をつづけていました。やっぱりボートの中にいるんだわ、とほっとして元の場所にアリスがもどったとき、羊は「どえらいかにをつかまえたもんだよ!」〔つまり「オールをひどくこぎそこねた」という英語の慣用句を字義どおりに受け取ったわけ〕と言いました。
「そうだったの? わからなかったわ」
アリスは、用心しいしいボートの縁から暗い水をのぞきこみながら、言いました。「かにをはなさなかったでしょうね……わたし、小さいかにをおうちへ持って帰りたいわ!」
けれども、羊はばかにしたように笑っただけで、相変わらず編物をつづけました。
「ここにはかにがたくさんいますの?」アリスが言いました。
「かにだってなんだって、みんなそろっているよ」羊は言いました。「より取り自由だよ。どれかにきめればいいのさ。ところで、おまえさん、何が買いたいのかね?」
「買うんですって?」アリスはそう問い返しましたが、それはびっくりしたのとこわかったのと半分半分の調子でした……それは、オールも、ボートも、川も、みんな一瞬に消えてしまい、アリスは元どおり、あの小さい暗いお店にいたからです。
「あのう、卵をひとつ下さいな」アリスはおずおずと言いました。「おいくらですの?」
「一つ五ペンスと一ファージング……二つで二ペンスだよ」羊が答えました。
「では、二つのほうが、一つより安いんですの?」アリスは、さいふを取り出しながら、おどろいた調子で言いました。
「ただ、二つ買ったら二つとも食べなきゃならないんだよ」羊は言いました。
「それなら、わたし一ついただくわ」アリスは、お金を勘定台《カウンター》の上に置きながら、言いました。「ちっともおいしくないかもしれないわ」と思ったからです。
羊は金を受け取り、箱にしまいこみました。
それからこう言いました。「わたしは品物をお客さんの手に渡すことはけっしてしないんだよ……それはよくないよ……自分で品物をお取りな」そう言いながら、羊は店の向こうの端へ歩んで行き、卵をまっすぐ棚の上に立てました。
「どうしてよくないのかしら?」アリスはテーブルだのいすだのの間を手さぐりで進みながら、考えました。店はその端がとても暗かったのです。
「卵は、わたしが近づくほど遠ざかるみたいだわ。はてな、これ、いすかしら? おやまあ、これ枝がついているわ! こんなところに木が生えてるなんて、変だわねえ! それから、ほんとにここに小川もあるわ! まあ、こんなおかしなお店って、これまで見たことなかったわ!」
*   *   *
アリスは、一歩ごとに不思議に思いながら進みつづけました。アリスが近づくと何もかもが木に変わってしまったからです。で、卵もそうなるだろう、と思いました。
第六章 ハンプティ・ダンプティ
ところが、卵はだんだん大きくなり、ますます人間に似てきただけでした。アリスが二、三ヤードのところまで来ると、卵には目も鼻も口もあるのがわかりました。近づいてみると、それはほかでもなくハンプティ・ダンプティ(ずんぐりむっくり)ご本人だとはっきりわかりました。(F)
「きっとあの人だわ!」アリスはつぶやきました。「名前が顔じゅういっぱい書いてあるのと同じくらいに、わたし確信があるわ!」
そのでっかい顔の上なら、百ぺんだってたやすく名前が書けたでしょう。ハンプティ・ダンプティは高い壁のてっぺんに、トルコ人のように両脚を組んで腰かけていました……あんまりせまい壁なので、アリスはよくつり合いがとれるものだわ、と思ったくらいです……そして、目は反対のほうにじっとそそがれていて、アリスのことなどちっとも気にもとめないので、きっと詰《つ》めものの人形だとアリスは思いました。
「でも、ほんとに卵そっくりだわ!」アリスは大声で言い、相手をつかまえようと両手をかまえていました。いつ落っこちるかと思ったからです。
「ほんとに癪《しゃく》にさわる」ハンプティ・ダンプティは、しばらく黙っていたあとで言いましたが、言いながら目はアリスからそむけているのです、「卵だと呼ばれるなんて……ほんとに!」
「わたし、あなたが卵のようにお見えになるって言っただけですわ」アリスはことばやわらかに説明しました、「卵にも、とてもきれいなのがあるでしょ」アリスは自分のことばをお世辞に変えようとして、そう言い足しました。
ハンプティ・ダンプティは、相変わらずアリスから目をそらせながら言いました、「人間にも赤ん坊みたいにもののわからぬ連中がおるもんだ!」
これには、アリスもどう答えていいかわかりませんでした。
まるっきり話なんかじゃないわ、アリスは思いました。だって自分に向かってはひとことも言わないんだもの。実際のところ、彼のおしまいの文句は、明らかに木に向かって話しかけられたものでしたから……で、アリスはそこに立ったまま小声で暗唱してみました。
「ハンプティ・ダンプティ、塀《へい》の上、
ハンプティ・ダンプティ、どっしんこ。
王さまの馬と兵隊みんなでも
ハンプティ・ダンプティをもとの場所には返せない。
おしまいの行《ぎょう》は長すぎて、詩にならないわ」
アリスは、ハンプティ・ダンプティに聞こえることも忘れて、大声を出して言ってしまいました。
「そこに突っ立って、ぺちゃくちゃそうひとりごとを言うんじゃない」ハンプティ・ダンプティは、はじめてアリスを見ながら言いました、「おまえの名前と用事を言ってみな」
「わたしの名前はアリスですけど……」
「まぬけな名前だ!」ハンプティ・ダンプティは、じれったそうにさえぎりました、「それはどんな意味なんだい?」
「名前は意味がなくてはいけませんの?」アリスはあやしんでたずねました。
「むろん、そうだ」ハンプティ・ダンプティは、ちょいと笑って言いました。「おれの名前は、おれの形を意味してるんだ……それに、すてきないい形だろ。おまえみたいな名前だと、どんな形だっていいかもしれんて」
「どうして、こんなおそとに、ひとりぼっちで腰かけてるの?」アリスは、議論をくり返したくなかったので、言いました。
「そりゃあね、だれもおれといっしょにいないからさ!」ハンプティ・ダンプティは叫びました、「そんなことにわしが答えられんとでも思ったのかい? もうひとつ聞きな」
「地面におりてたほうが安全だとは思わなくって?」アリスは、それがまたひとつ謎をかけるみたいなものだなどとは思いもせず、ただ、やさしい気持ちからこの奇妙な人のことが心配になって言いつづけました。
「その塀、とっても狭いんじゃなくって!」
「なんてばかやさしい謎を、おまえは聞くんだい!」ハンプティ・ダンプティはうなって言いました。「むろん、おれはそうは思わんよ! 仮に、おれが落っこちるとしたって……そんなことはありっこないがね……が、まあ、仮に落っこちるとしたらだ……」
ここで、彼はくちびるをすぼめ、さもしかつめらしくえらそうな顔をしましたので、アリスはつい笑い出さずにはいられませんでした。
「仮におれが落っこちたらだ」彼はつづけました、「王さまがおれに約束なされたのだぞ……ああ、青くなってもいいぞ! おれがそう言うなんて思いもよらなかったろう? 王さまがおれに約束なされたのだぞ……ご自身のお口からだぞ……そのう……そのう……」
「王さまのお馬と兵隊を残らずつかわされるって、でしょう」アリスは口ばさみましたが、これはいささか考えが足りませんでした。
「こりゃ、まったくよくないことだぞ!」ハンプティ・ダンプティは、突然怒り出しながら、叫びました。「おまえは戸口で聞き耳を立ててたんだな……木にかくれたり……煙突にもぐったりして……でなきゃ、わかるはずがあるもんか!」
「そんなことしませんわ、ほんとうよ!」アリスはごくおだやかに言いました、「それ、ご本にあるのよ」
「ああ、なるほど! 本にはそんなこと書くかもしれんて」ハンプティ・ダンプティはおだやかな調子で言いました。「つまり、そいつがいわゆる英国史ってやつだろ。ところで、おれの顔をよっく見てみな! おれ、王さまに口をきいた人間なんだぞ、このおれはな。またとこんな人間にはお目にかかれはせんぞ。が、おれが威張ってない証拠に、握手さしてやってもいいぞ!」
そう言うと、ほとんど耳から耳までさけるように、にたにた笑い、身を乗り出し(そうしながらあやうく塀から落っこちそうになりましたが)、アリスに手を差し出しました。アリスは、その手を取りながら、ちょっと心配そうに相手を見つめました。
「もっと笑ったら、あの人、口の端が頭のうしろでくっつくかもしれないわ」と、アリスは思いました。「そしたらこの人の頭、どうなるのかしら! とれてしまうかもしれないわ!」
「さよう、王さまの馬がみんな、兵隊がみんなだ」とハンプティ・ダンプティはつづけました。「みんなして、すぐにおれを拾い上げてくれるだろう、きっとな! だが、この話は、進み方がすこし早すぎるな。前の前の文句に戻ることにしようぜ」
「わたし、よくは思い出せませんけど」アリスはたいへんていねいに言いました。
「その場合は、やり直しすればいい」ハンプティ・ダンプティは言いました、「こんどはおれが話題をえらぶ番だ」(「この人、まるでゲームみたいに言うんだわ!」とアリスは思いました)「そら、こっちから聞くぜ。おまえはいくつだって、言ったっけな?」
アリスはちょっと計算して「七歳と六か月です」と言いました。
「違っとる!」ハンプティ・ダンプティは勝ちほこって叫びました。「おまえ、ひとことだって、そんなこと言いやしなかったぞ!」
「わたし『おまえはいくつか』っておっしゃったと思ったんです」アリスは弁解しました。
「そういうつもりだったら、そう言っとったろう」ハンプティ・ダンプティは言いました。
アリスは議論をくり返したくなかったので、黙っていました。
「七歳と六か月だと!」ハンプティ・ダンプティは、考えこむふうに言いました。「落ち着きのわるい年ごろじゃな。おれに言わしてもらえば、『七歳でやめとけ』と言っとっただろうな……だが、もう間に合わんわい」
「大きくなることで、意見なんかたずねませんわ」アリスはふんがいして言いました。
「誇り高いってわけかい?」相手は聞きました。
アリスはこう言われると、いっそう怒りたくなりました。「わたし、≪ひと≫は大きくならないではおれないって言うつもりだったのよ」アリスは言いました。
「≪ひと≫りは、まあ、できまいね」ハンプティ・ダンプティは言いました、「でも≪ふた≫りならできるさ。ほどよく助けてもらえば、七歳でやめられとったかもしれんさ」
「まあ、きれいなベルトをつけてるのね!」アリスはとつぜん言いました、(「年の問題はもうたくさん」とアリスは思いました。それに、ほんとに、かわりばんこで話題をえらぶのだとしたら、こんどはアリスの番でした)「少なくとも」アリスは考え直して訂正しました、「きれいなネクタイ、と言えばよかったんでしょ……いいえ、ベルトのつもりで……あら、ごめんなさい!」アリスはあわてて言い足しました。ハンプティ・ダンプティが、すっかり怒った顔をしたからです。で、アリスはその話題をえらばなければよかったと考えはじめました。「ただ、わたし」アリスはひそかに思いました、「どれが首で、どれが腰だかわかってたら、いいんだけど!」
明らかにハンプティ・ダンプティはえらく怒っていました。一、二分の間はなにも言いませんでしたが、こんど口をきいたときには、太くて低いうなり声でした。
「まことにもって……癪《しゃく》にさわる……ことだ」とうとう彼は言いました、「ネクタイとベルトの区別がつかんなんて!」
「わたしほんとに何も知らないんです」アリスがたいへんへりくだった調子で言ったので、ハンプティ・ダンプティの気持ちもやわらぎました。
「これはネクタイさ、それにおまえの言うとおり、きれいなネクタイだ。白の王さまと女王さまからのいただきものだ。そら、見てみな!」
「ほんとですの?」やっぱり、うまい話題をえらんだことがわかって、アリスはすっかりうれしくなりました。
「おふたりがおれに下さったんだ」ハンプティ・ダンプティは、ひざを重ね合わせ、それを抱いた両手を握り合わせ、考えこむような調子で言いました。「……非誕生日のプレゼントにな」
「すみません」アリスは、とまどった様子で、言いました。
「おれは怒っていやせん」と、ハンプティ・ダンプティ。
「わたし、非誕生日のプレゼントって何か、おたずねするつもりでしたの」
「むろん、誕生日でないときにもらうプレゼントだよ」
アリスはちょっと考えて「わたし誕生日のプレゼントがいちばん好きよ」と、とうとう言いました。
「おまえは、自分で言っとることがわかっとらん!」ハンプティ・ダンプティはどなりました。
「一年は何日ある?」
「三百六十五日です」アリスは言いました。
「それで誕生日は何日ある?」
「一日です」
「で、三百六十五から一を取ると、残りは?」
「もちろん、三百六十四です」
ハンプティ・ダンプティは疑わしそうな顔をしました。「それを紙の上で計算してほしいね」
アリスは手帳を取り出しながら、微笑をおさえることができませんでした。そして、彼の代わりに計算してやりました。
三六五−一=三六四
ハンプティ・ダンプティは手帳を取ると、念を入れて見つめました。「間違いなくやれてるようだが……」彼は言い始めました。
「さかさまに持ってるわよ!」アリスはさえぎりました。
「なるほど、そうだったな!」
アリスはそれをまわしてやると、ハンプティ・ダンプティはにぎやかな調子で言いました、
「ちょっとおかしいと思ったよ。さっきも言ってたように、間違いなくやれてるようだな……いますぐじゃ、徹底《てってい》的にしらべるひまはないがね……これで、おまえが非誕生日のプレゼントをもらう日が、三百六十四日あることが証明されとるわけだ……」
「確かにそうね」アリスは言いました。
「誕生日のプレゼントをもらう日は、ただの一日だぞ。こいつはおまえに名誉だぞ!」
「≪名誉≫って、なんのことなの?」アリスは言いました。
ハンプティ・ダンプティは軽べつするように笑いました。「むろん、おまえなんぞにわかりっこないさ……わしが教えてやるまではな。おれの言う意味はな、≪うまい、圧倒的議論≫ということさ」
「でも、≪名誉≫は≪うまい圧倒的議論≫という意味にはならないわ」アリスは反対しました。
「おれがことばを使う場合にはな」ハンプティ・ダンプティは、いささか人を小ばかにした調子で言いました。「おれが表したいと思うものをぴたっと意味するんだ……以上でも以下でもないんだ」
「問題は」アリスは言いました、「ことばに、そんなにいろいろなことを意味させられるかどうか、ってことですわ」
「問題は」ハンプティ・ダンプティは言いました、「どっちが主人か、ということだ……それだけさ」
アリスは、すっかりまごついてしまって、何も言えませんでした。
で、しばらくすると、ハンプティ・ダンプティはまた言い始めました。
「ことばってやつには気性があるんだ……なかにはね、とりわけ動詞はな。こいつがいちばん高慢ちきなんだ……形容詞は何とでもできるが、動詞はそうはいかん……だが、おれにはみんな使いこなせるんだ! 不透視《ふとうし》性だ! とまあ、言いたいね」
「すみませんけど、どういう意味か教えてくださいますか?」アリスは言いました。
「やっと、もののわかる子供らしい口をきいたな」ハンプティ・ダンプティは、とってもうれしそうな顔つきをして言いました、
「わしが『不透視性』って言うのはな、さっきの話題はもうたくさんだということだ、それで、次には何をやるつもりか言ったらいいだろうってことだ。おまえ、これからさき一生ここにとどまってるつもりじゃないだろう」
「ひとつのことばに、ずいぶんたくさんのことを意味させるんですね」アリスは考えぶかい調子で言いました。
「こんな具合に、ことばにうんと仕事をさせるときには」ハンプティ・ダンプティは言いました。「いつでも、おれ、特別手当を払うんだ」
「まあ!」アリスは言いました。すっかりまごついてしまって二の句が出なかったのです。
「そう、土曜日の夜にでも、やつらがおれのまわりに集まってくるのを見せてやりたいね」ハンプティ・ダンプティは、勿体《もったい》ぶって頭を左右に振りながら、言いつづけました、「給料をもらいにだがね」(アリスは、給料は何をやるのか、とたずねる勇気がありませんでした。ですから、みなさんにお教えできないのはおわかりでしょう)
「あなたはことばの意味の説明が、とってもおじょうずなようですのね」アリスは言いました。「どうぞ『ジャバウォッキ』って詩の意味を教えてくださいませんか?」
「それを聞こうじゃないか?」ハンプティ・ダンプティは言いました。「おれは、これまでに作られたどんな詩でも……それにこれまでにまだ作られてない、たくさんの詩でも、説明できるんだぞ」
これはとても頼もしそうでした。で、アリスは初めの一節を暗唱しました。
「あぶりのときぞ トーヴぬらやか
まはるかのなかを ぐわりきりさす、
すべてほそれな ぼろとりのむれ、
やからのあぶた ほえずりにけり。
「初めはそれでじゅうぶんだ」ハンプティ・ダンプティがさえぎりました、「むずかしいことばがうんとあるな。『あぶりのとき』ってのは、午後四時のことだ……夕食のあぶり物を始める時刻だからな」
「それでよくわかるわ」アリスは言いました、では、『ぬらやか』とは?」
「そうだな。『ぬらやか』ってのは『しなやか』で『ぬらぬら』していることだ。『しなやか』ってのは、『活発な』と同じだ。まあ、旅行かばんみたいなものさ……ふたつの意味が、ひとつの単語の中に詰め込んであるもんだ」
「それでわかりましたわ」アリスは思いふけるように言いました、「では、『トーヴ』は?」
「うん、『トーヴ』ってのは、あなぐまに似たもんだ……とかげみたいなとこもあるし……栓《せん》抜きにも似たもんだ」
「きっと、ずいぶん変わった様子の動物なのね」
「そうさ」ハンプティ・ダンプティは言いました、「それに巣は日時計の下に作るし……またチーズを食べものにしてるんだ」
「それから『ぐわり』と『きりさす』とは何のことですの?」
「『ぐわり』とは回転儀《ジャイロスコープ》みたいにぐるぐるまわること。『きりさす』とは、きりみたいに穴をあけることだ」
「『まはるか』は日時計のまわりの芝生のことでしょう?」アリスはわれながら頭のいいのにびっくりしながら、言いました。
「むろん、そうさ。『まはるか』っていうのは、≪まえ≫にも≪ま≫うしろにも≪はるか≫に広がってるからさ……」
「まよこにも≪はるか≫にでしょ」アリスはつけ加えました。
「まさしくそうだ。さて、そこで『ほそれな』とは『ほそくて』と『あわれな』ということだ(これもかばん語だぜ)。それから『ぼろとり』は、やせこけた、みすぼらしい鳥で、羽根がまわりじゅうに突き出てるやつで……生きた長柄《ながえ》ぞうきんみたいなもんだ」
「それから『やからのあぶた』は?」アリスは言いました。「すみません、たいへんご迷惑かけて」
「そうさな、『あぶた』ってのは一種のあおいぶたのことだ。だが、『やから』のほうは、わしにもよくわからんな。『家から』をちぢめたんだろう……道に迷ったという意味でね」
「それから、『ほえずりにけり』ってなんですの?」
「そうだな、『ほえずる』ってのは、『ほえる』と『さえずる』の間で、まんなかにくしゃみがはさまったようなもんさ。だが、おまえもその声を聞くだろうよ……向こうの森の中でね……一度聞いたら、もうけっこうですって代物《しろもの》さ。だれだい、こんなむずかしいものをおまえに聞かせてたのは?」
「ご本で読んだのよ」アリスは言いました。「でも、それよりずっとやさしい詩も聞かせてもらいましたの……その人、トウィードルディーだったと思うわ」
「詩のことなら」ハンプティ・ダンプティは、その大きな手の片方を差しのべながら言いました。「暗唱という段になりゃ、おれ、どいつにも負けやせんね……」
「あら、暗唱する段にならなくってもいいわ!」アリスは、あわてて言いました。始めてもらいたくないと思ったからです。
「これから暗唱する一篇はな」彼はアリスのことばなんぞ気にもとめずに、つづけました。「まったくおまえの楽しみに書かれたもんだ」
アリスは、もしそうなら、ほんとうに聞くべきだと思いました。そこで腰をおろして、「ありがとう」と少し悲しげに言いました。
「冬来たりて、野原|真白《ましろ》きとき、
われはうたう、君がためこの歌を……
ただ歌いはせんがね」と彼は説明がわりにつけ加えました。
「わたしの見るところでも、歌いはなさらないわ」アリスは言いました。
「おれが歌ってるか、歌ってないか、おまえに見ることができるんだったら、おまえはふつうよりか目が鋭いんだな」ハンプティ・ダンプティは、きびしい口調で言いました。アリスはことばが出ませんでした。
「春来たりて、森青むとき
わが思うこと、君に告げん」
「どうもありがとう」アリスは言いました。
「夏来たりて、日長きとき、
君にわからむ歌のこころ
秋来たりて、木の葉黄ばめば
筆取りて、そを書きつけよ」
「そんなに長いこと覚えていたら、そうするわ」アリスは言いました。
「そんなこと、くどくど言うには及ばん」ハンプティ・ダンプティは言いました、「ばかな文句で、おれは腹が立ってしまうんだ」
「おれが魚《さかな》にことづけて
『これが所望』と言ったらば、
海の小さな、魚ども
すぐに返事をくれおった。
魚は返事にこう言うた
『そりゃできませぬ、だんなさま』」
「わたし、よくわかりませんわ」アリスは言いました。
「先へ行けば、もっとやさしくなるよ」ハンプティ・ダンプティが答えました。
かさねて使いに言わせたは
『いうこと聞くがよかろうぞ』
にやにや、魚の答えらく
『おや、ごきげんのわるいこと!』
一度ばかりか二度言った
忠告なれど聞く耳もたぬ。
でかいやかんの新品取った
これぞ仕事にうってつけ。
心臓どきどき鳴らしつつ
やかんいっぱい井戸水入れた。
だれやらおれに来ていった
『魚はねどこ、やすんでる』
言ってやったよ、はっきりと
『それじゃ、もいちど起っこしな』
大声あげてはっきりと
そいつの耳にどなったぜ」
ハンプティ・ダンプティの声は、この詩を暗唱しながら、ほとんどキーキー声に高まって行きました。アリスは身ぶるいして、思いました、「わたし、何をもらったって、この人の使いにはならなかったわ!」
「そいつはがんこで威張ってて、
『そうどなるには及ばない!』
「いばってがんこなそいつが言った、
『行って起こそう、もしかして……』
「たなから栓抜きおれは取り
自分で起こしに出て行った。
かぎのかかったドア見るや
引っぱり、押しやり、たたいて、けった。
ドア締まったと見たときに
ハンドルまわそとしてみたが……
長いこととぎれました。
「それでおしまいですの?」アリスはおずおずたずねました。
「おしまいだ」ハンプティ・ダンプティは言いました、「さようなら」
ちょっとだしぬけだ、とアリスは思いました。でも、立ち去るようにと、そうはっきりほのめかされたのに、居つづけるのは失礼だと思いました。
で、アリスは立ち上がると片手を差し出しました。「さようなら、こんど会うまで!」アリスはできるだけ元気よく言いました。
「また会ったって、二度とおまえだとわかりっこないさ」ハンプティ・ダンプティは不満そうな調子で言い、指を一本つき出してアリスに握手させました。「おまえは全然ほかの人間と同じだからな」
「ふつう、人は顔で見分けるんだけど」アリスは考えぶかい口調で言いました。
「そこだよ、おれが文句を言いたいのは」ハンプティ・ダンプティが言いました。「おまえの顔は、だれのとも同じだ……目はふたつだし……(親指で、宙にその場所を示しながら)まんなかに鼻、下に口。いつでもおんなじだ。たとえば、鼻のどっちか同じ側に目がふたつあるか……口がてっぺんについてるかすれば……少しは目印になろうってもんだ」
「それでは見苦しいでしょうよ」アリスは反対しました。だが、ハンプティ・ダンプティは目をとじて、「まあ、やってみるんだな」と言っただけでした。
相手がまた口をきくかと、アリスはしばらく待っていましたが、目もあけず、アリスにもはや目をとめようともしません。で、アリスは、もう一度「さようなら!」と言いましたが、返事がないので、静かにそこを立ち去りました。でも、歩みながら、アリスはこうつぶやかずにはいられませんでした。「これまで会った、どんなおもしろくもない……(こんな長いことばを口にするのがとても気に入ってたので、アリスは二度まで大声でくり返しました)……すべての『おもしろくもない』人のうちで……」アリスはこのことばを言い終えませんでした。ちょうどこの瞬間に、すごい物音が森の端から端をゆすぶったからです。
第七章 ライオンと一角獣
次の瞬間、兵士たちが森を走り抜けて走って来ました。初めは二人、三人と組になり、次には十人、二十人といっしょになり、おしまいには、森じゅういっぱいになるくらいに大勢になってやって来ました。アリスは踏みつけられないようにと、木の陰にかくれて、みんなが通り過ぎるのを見つめました。
生まれてからそれまで、アリスはこんなに足もとのたよりない兵隊を見たことはないわ、と思いました。兵士たちは、のべつ何かかにかにつまづくのでした。ひとりが倒れると、きまってまた何人かが、その上に折りかさなって倒れ、そのため地面は、すぐに小さな人山でおおわれてしまいました。
こんどは騎兵がやって来ました。足が四本なので、歩兵よりか少々ましでしたが、それでも時々つまずきました。で、馬がつまずくたびに、乗り手が即座に落っこちるのがおきまりになっているようでした。混乱は刻々にひどくなりましたので、アリスは森を出て広々とした場所に来るとほっとしました。(G)
そこでは、白の王さまが地面にすわって、せっせと手帳に書きこんでいました。
「わしはみなをつかわしたぞ!」王さまは、アリスを見ると、よろこばしげに叫びました。「森をぬけて来るとき、兵士に出くわしたかね?」
「ええ、会いましたわ」アリスは言いました、「二、三千人くらいだったかしら」
「四千二百七人、それが正確な人数じゃ」王さまは手帳を見ながら言いました。「騎兵は全部つかわせなかったよ。ふたりがゲームに必要だったからのう。それからふたりの使者もつかわさなかったよ。ふたりとも町に出かけているのでな。道をずっと見て、どっちが見えるか教えておくれ」
「道に見えるものは、だれもいませんわ」アリスは言いました。
「そういう目を持ちたいものじゃ」王さまは、いらいらした調子で言いました。「だれもいないものが見えるとは! しかも、そんな遠くからな! ところが、わしは、この明るさでも、ほんとにいる人間が見えるくらいが関の山じゃ!」
こんなことを言われても、アリスには全然わかりませんでした。アリスは相変わらず、片手を目にかざしながら、一心に道のほうを見やっていたからです。
「あら、だれか見えますわ!」アリスはついに叫びました。「でも、とてものろのろとやって来るわ……それに、なんて変てこな格好をするんでしょう!」(それは、使者がやって来ながら、大きな手を扇子のようにからだの両側にひろげて、ぴょんぴょん上下にはねたり、うなぎのようにのたくったりしていたからです)
「ちっとも変ではないぞ」王さまは言いました。「アングロ・サクソン人の使者なんじゃからのう……で、あれがアングロ・サクソン式態度というものじゃ。うれしい時だけああするのじゃ。人呼んでヘイアというやつじや」(王さまはその名を市長《メイア》と同|韻《いん》に発音しました)
「わたしはハ行であの子が好きよ」〔原文では、ハ行は「H」の字で、となっている。ヴィクトリア朝に流行したことば遊び。日本式に作り出してみると、「わたしはアの字であの子が好きよ」「だってあの子は≪あ≫いくるしい」とか「わたしはアの字であの子がきらい」「だってあの子は≪あ≫つかましい」などとなるわけ〕アリスはとうとうはじめました。
「だって、あの子は 幸福《ハッピイ》だもの。
わたしはハ行であの子がきらいよ。
だって、あの子は≪ひ≫どいもの。
わたしはあの子を≪ハ≫ム・サンドと
≪ほ≫し草で育てたの。
名前は≪ヘ≫イアで、住んでる所は……」
「住んでる所は岡(≪ヒ≫ル)の上」王さまは、アリスがハ行で始まる町の名をさがしあぐねている間に、ゲームに加わってることなぞ少しも考えずに、こうあっさりと答えてしまいました。「いまひとりの使者は≪ハ≫ッタという名じゃ。使者はふたり入用なんじゃ、来るのと行くのとな。ひとりは来るほう、ひとりは行くほうじゃ」
「もいちど、おっしゃっていただきたいんですけど」アリスが言いました。
「いただきたがるのは下品なことじゃ」王さまが言いました。
「わたし、ただおっしゃることがわかりません、って言うつもりでしたの。どうしてひとりは来るほう、ひとりは行くほうなんですの?」
「だから言っておるじゃろう」王さまはいらだたしげに、くり返しました。「ふたりが入用なんじゃ……取って来たり、持って行ったりするためじゃ。ひとりは持って来るため、ひとりは持って行くためじゃ」
このとき、使者が到着しました。えらく息切れがしていて、ひとこともものが言えません。ただ両手を振りまわし、お気の毒に、王さまに向かって、それはそれはひどいしかめっ面をするばかりでした。
「このお嬢さんは、ハ行でおまえが好きだとよ」王さまは、使者の注意をご自身からそらそうと、アリスを紹介して、そう言いました。……でも、むだでした……アングロ・サクソン式態度は刻一刻といよいよ風変わりになるばかり、大きな目玉はむやみときょろきょろするのです。
「おどろき入ったやつじゃ!」王さまは言いました。「気が遠くなりそうじゃ……わしにハム・サンドイッチをくれ!」
それを聞くと、例の使者は、アリスにはとてもおかしかったのですが、首にかけた袋を開け、サンドイッチをひとつ王さまに手渡しました、すると王さまはそれをがつがつとお食べになりました。
「もうひとつ!」王さまが言いました。
「もう干《ほ》し草しか残ってはおりません」使者は、袋の中をのぞきこみながら、言いました。
「では干し草を」王さまは、声もほそぼそと言いました。
アリスは、干し草で王さまがまたずっと元気にもどられたのを見て安心しました。
「気が遠くなったら、干し草を食べるにこしたものはない」むしゃむしゃ食べつづけながら、王さまはアリスに言いました。
「冷たい水を浴びせるほうがいいと思いますわ」アリスは提案しました、「……それとも、サル・ヴォラチルのほうがね」
「もっといいものがないとは、わしは言わなかったぞ」王さまは答えました。「同じようなものはないと言ったのじゃ」
そうじゃないわ、とはアリスには言えませんでした。
「道ではだれを追い越したかの?」王さまは、もっと干し草をくれと、使者に手を差し出しながら、言いつづけました。
「≪だれもない≫です」使者は言いました。
「そのとおりじゃ」王さまは言いました。「このお嬢さんもその男を見たのじゃ。だから、むろん、おまえよりものろのろ歩くのは、『だれもない』〔王さまは使者が用いた nobody(だれも〜ない)を人名として受け取っている〕んじゃ」
「わたしはいつも全力をつくしています」使者は、むっとした調子で言いました。「確かに、わたしより早く歩けるものは≪だれもない≫です」
「そんなはずはない」王さまは言いました。「でなければ、あいつがまっさきにここについているはずじゃ。だが、息がつけるようになったようじゃから、町で起こったことを話すがよい」
「小声でささやきましょう」使者は、両手をらっぱの形にして口に当て、身をかがめて王さまの耳に近づきながら言いました。これはアリスには残念でした。アリスもその話が聞きたかったからです。だが、小声で言うかわりに、使者は声をかぎりに「またおっぱじめたぞ!」と叫びました。
「それがささやきか!」気の毒にも、王さまは飛び上がり、からだをうちふるわしながら、叫びました。「二度とそんなまねをしてみよ、そなたをバタ焼きにさしてやるぞ! まるで地震みたいに、わしの頭をすみからすみまで通り抜けおったぞ!」
「それは、よっぽどちっちゃな地震でしょうね」とアリスは思いました。「だれがまたおっぱじめたの?」思い切ってたずねました。
「そりゃ、もちろん、ライオンと一角獣さ」王さまは言いました。
「王冠を取りっこしてなの?」
「そうだとも!」王さまは言いました。「それに、いっとうおもしろいのは、いつもこのわしの王冠が目あてなのじゃ。ひと走り、行って見ようではないか」
そこで三人は駆け出しましたが、アリスは走りながら、古い歌の文句をひとりで暗唱しました。
「ライオン、一角獣、王冠目当てに戦った、
ライオン、町じゅう一角獣を負《まあ》かした。
白パンくれたり、黒パンくれたり、
|干しぶどう菓子《プラム・ケーキ》くれたり、町の人、
太鼓《たいこ》鳴らして追《お》ん出した」
「その……勝ったほうは……王冠をもらうの?」アリスは、駆けて息を切らしていましたから、精いっぱい、こうたずねました。
「おやおや、めっそうな!」王さまは言いました。「なんてことを考えるのじゃ!」
「あのう、お情けですから……」アリスは、また少し駆けたあと、あえぎあえぎ言いました。「……一分間とめて……息をつがせてください」
「わしは情けはふかいのじゃ」王さまは言いました。「ただ力が足りんのじゃよ。のう、一分間とて、ものすごく早く過ぎて行くものじゃ。一分間をとめようなどとは、バンダスナッチをとめようとするのもおなじじゃ」
アリスは息が切れて、話すどころではありませんでした。そこで、三人は無言のまま走りつづけると、やがて大きな人だかりが見えました。そのまんなかで、ライオンと一角獣が戦っているのでした。ともに雲のようなほこりに包まれて、最初、アリスはどちらがどちらか見分けがつかないくらいでした。が、やがて、一角獣のほうは角でやっと見分けがつきました。
三人は、もうひとりの使者のハッタが、片手に一杯のお茶、片手にバタつきパンをひと切れもって、戦いを見まもっているすぐ近くに陣どりました。
「あいつ、牢《ろう》から出たばかりなんだ。それに牢に入れられたときに午後のお茶をすましてなかったんだ」ヘイアはアリスにささやきました。「牢屋では、牡蠣《かき》の殻《から》しかくれないんだ……だから、あいつ腹ぺこで、のどがからからなんだ。ああ、君、どうだね?」こう言いつづけながら、片腕を愛情たっぷり、ハッタの首にまわしました。
ハッタはふり返ってうなずき、つづけてバタつきパンをぱくついていました。
「牢屋では楽しかったかい?」ヘイアが言いました。
ハッタはもう一度ふりむきましたが、こんどは涙がひと粒ふた粒、ほおをこぼれ落ちました。でも、ひとことも言おうとはしませんでした。
「口がきけんのか!」ヘイアはじれったそうに叫びました。でもハッタはむしゃむしゃ食べつづけるだけ、お茶をもう少し飲みました。
「口をきけ、いやなのか!」王は叫びました。「戦いはどうなっておるのじゃ?」
ハッタは死にものぐるいになって、バタつきパンの大切りを飲みこみました。「うまくやっております」息の詰まりそうな声でハッタは言いました。「どちらも八十七回ほど倒れました」
「では、すぐに白パンと黒パンを持って来るんでしょう?」アリスは思いきってたずねました。
「そろそろ持って来るころだ」ハッタは言いました。「おれの食べてるのもそのパンのひと切れさ」
ちょうど戦いは中休みで、ライオンと一角獣は、腰をおろして、はあはあ言っていました。王さまのほうは、「十分間のおやつ時間!」と呼ばわりました。
ヘイアとハッタはすぐに仕事にとりかかり、白パンと黒パンをのせた丸いお盆を持ちまわりました。アリスは、ひと切れとって味見をしましたが、それはからからに乾いていました。
「きょうはもう戦うことはあるまい」王さまはハッタに言いました。「行って太鼓《たいこ》に始めろと言え」
そこで、ハッタはばったのように、とびはねながら行きました。
一、二分の間、アリスは黙って、ハッタを見送っていました。とつぜん、明るい顔になって、「あれ! あれをごらん!」と、熱心に指さしながら叫びました。「白の女王さまが野原を駆けて行くわ! 向こうの森から飛び出して来たわ……女王さまってとても早く駆けられるのね!」
「きっと、敵が追っかけてるにちがいない」王さまは、ふりむきもしないで言いました。「あの森は敵でいっぱいなんじゃ」
「でも、王さまは駆けて行ってお助けになりませんの?」アリスは、王さまがあんまり平気なのでたいそうおどろいて、たずねました。
「無用じゃ! 無用じゃ!」と、王さま。「あれは走るのがおそろしく早いからのう。バンダスナッチをつかまえようとするのも同じじゃ! だが、おまえがのぞみとあれば、あれのことを書きしるしてもよいぞ……あれはいとしいやつじゃからのう」王さまは手帳をあけながら、やさしく言いました。「≪やつ≫は漢字でどう書くのじゃ?」〔「やつ」つまり、creature は creeture と書くのかとたずねているわけ〕
ちょうどこの時、一角獣が、両手をポケットに突っ込んだまま、そばを通りすぎました。「こんどはこっちの勝ちだろ?」一角獣は、通りすがりに、ちらと王さまを見ながら、言いました。
「ちょっぴり……ちょっぴりはな」王さまは、やや心配げに答えました。「角《つの》で突きさしたのはよろしくないぞ」
「傷つけはしませんや」一角獣はのんきそうに答えました。そう言ってるうちに、ひょっくりアリスに目がとまりました。すぐにふり向くと、しばらくアリスを見つめましたが、その様子ときたら胸くそが悪くてたまらんというところでした。
「こ、こりゃーなんだい?」とうとう、かれは言いました。
「これは子供さ!」ヘイアは、勢いこんで、そう答えると、紹介しようと、アリスの前に歩み出ました。アングロ・サクソン式態度で、両手を広げてアリスのほうに差し出し、「きょう見つけたばかりさ。実物大で二倍もありのままだ!」
「おれはいつも、子供ってやつはおとぎ話の化け物だと思っていたよ」一角獣が言いました。「生きてるのかい?」
「物も言えるんだ」ヘイアはしかつめらしく言いました。
一角獣は夢みるようにアリスを見て、「おい、物を言ってみな」と言いました。
アリスはこう言いはじめたとき、くちびるが丸まって笑い口になるのをどうしようもありませんでした。「よくって、わたしだって、一角獣はおとぎ話の化け物だと、いつも思っていたのよ。生きてるのなんか見たこともなかったわ!」
「じゃ、お互い実際に見たんだから」一角獣が言いました、「おまえがおれの存在を信じるなら、おれもおまえの存在を信じてやるよ。そう約束するかい?」
「いいわ、よかったら」アリスは言いました。
一角獣は、アリスから王さまのほうを向くと言いました。「さあ、|干しぶどう菓子《プラム・ケーキ》を引っぱり出しな、おやじさん! おまえの黒パンはごめんだよ!」
「いいよ……いいよ!」王さまはつぶやいて、ヘイアを手まねきしました。「袋をあけろ!」と小声で言いました。「早く! そっちのじゃない……そっちは干し草でいっぱいだ!」
ヘイアは袋の中から大きな菓子をひとつ取り出すと、それをアリスに渡して持たせ、そうしながら皿と肉切りナイフを取り出しました。みんなどうして袋から出るのか、そのわけがアリスには見当もつきません。まるで手品みたいだ、と思いました。
こうしているうちに、ライオンもみんなに加わりました。たいそうつかれて眠たそうで、目は半分がた閉じていました。「こりゃなんだ!」ライオンは細目でものうげにアリスを見ながら、大鐘を鳴らすような太い、うつろな声で言いました。
「ああ、こんどは何だね?」一角獣はせき込むように叫びました。「おまえにわかるもんか! おれだってわからんかったんだ」
ライオンはものうげにアリスを見つめました。「おまえは動物かい……植物かい……それとも鉱物かい?」と一語ごとにあくびをしながら言いました。
「おとぎ話の化け物さ!」一角獣は、アリスが答えるひまもなく、叫びました。
「それじゃ、|干しぶどう菓子《プラム・ケーキ》をまわしな、化け物!」ライオンは、横になり、あごを前足にのせながら言いました。「すわりな、ふたりとも(これは王さまと一角獣に向かってなのです)。菓子は公平にわけるんだぞ!」
王さまは二匹の大きな動物にはさまれてすわらなければならず、確かにたいそう居心地がわるそうでした。でも、ほかに場所がなかったのです。
「さあ、王冠の大|争奪戦《そうだつせん》がやれるぞ!」一角獣は、ずるそうに王冠を見上げながら、言いました。気の毒にも王さまは、ひどい震えが出て、王冠を頭からふり落としそうなありさまでした。
「おれの楽勝だろうよ」ライオンが言いました。
「そいつはどうかな」一角獣が言いました。
「なに、おれはおまえを町じゅう、打ち負かしたんだぞ! へなちょこめ!」ライオンは、怒って答えると、なかば立ち上がりました。
ここで王さまが、けんかをとめようと中に入りましたが、びくびくもので、その声はぶるぶるふるえていました。
「町じゅうだとな?」王さまは言いました。「それは相当な道のりじゃ。あの古橋を通ってか、それとも市場を通ってかな? 古橋のところでは、一番よいながめが得られるのじゃ」
「おれは知らん」ライオンはまた横になりながら、うなって言いました。「ほこりがもうもうとしとって何も見えやしなかったんだ。あの化け物め、菓子を切るのに、なんて手間《てま》どってるんだ!」
アリスは大きな深皿をひざの上におき、小川の土手にすわり、せっせとナイフで引っ切っていました。「ほんとにじれったいわ!」アリスは、ライオンに答えて言いました。(アリスは『化け物』と呼ばれるのには、すっかり慣れかかっていました)「これでもう数枚は切ったのに、いつもまたつながってしまうんだもの!」
「鏡の国の菓子の扱いかたを知らんね」一角獣が言いました。「初めに配って、それから切るんだ」
ばかばかしく思えましたが、アリスはすなおに立ち上がって深皿を持ちまわりました。すると、菓子はまわっているうちに三切れにわかれました。空になった深皿を持って、アリスが自分の場所にもどって来ると、ライオンが「ここで切るんだ」と言いました。
アリスが、ナイフを手にしたまま、どうやろうかと、すっかりとまどってすわっていると、「おい、これじゃ不公平だぞ!」と一角獣が叫びました。「あの化け物は、おれの二倍もライオンにやったぞ!」
「どっちみち、あれは自分の分は少しも取っとらんのだ。化け物さん、|干しぶどう菓子《プラム・ケーキ》はどうかね?」ライオンが言いました。
しかしアリスが答える間もなく、太鼓が鳴り出しました。
どこからその音が来るものやらアリスにはわかりませんでした。あたりいっぱい音のようで、アリスの頭をすみずみまで鳴りひびいて、すっかりつんぼになりそうでした。
アリスはびっくりしてとび上がり、こわさのあまり小川を飛び越え、
*   *   *
ライオンと一角獣とがご馳走のじゃまをされたので、怒った顔をして立ち上がるのを、どうやら見て取りました。それからアリスはひざをつき、両手で耳にふたをし、そのおそろしい騒ぎを閉め出そうとしましたが、それはむだでした。
「あれほどしても町から追い出せないのなら」アリスはひそかに思いました、「何をしたって追い出せっこないわ!」
第八章 そりゃ 拙者《せっしゃ》が発明
しばらくすると、騒ぎはしだいにしずまっていき、やがて物音ひとつしなくなりました。で、アリスはちょっとおどろいて頭を上げました。だれの姿も見えませんので、アリスが最初に考えたのは、自分がライオンや一角獣やあの風変わりなアングロ・サクソンの使者などの夢を見ていたのにちがいないということでした。けれども、あの大きな深皿は相変わらずアリスの足もとにころがっていました。その上で|干しぶどう菓子《プラム・ケーキ》を切ろうとしたあの深皿です。
「では、やっぱり、夢を見てたんじゃなかったんだわ」アリスはひとりごとを言いました。「もっとも……もっとも、わたしたちがみんなおんなじ夢の一部なら別だけど。ただわたしの夢で、赤の王さまの夢でなければいいわ! ほかの人の夢の中のものになんかなるの、いやだもの」アリスは少しばかり不平がましい口調で言いつづけました。「王さまを起こしに行って、何が起こるかぜひ見たいものだわ!」
この瞬間、アリスの考えごとは、「おーい! おーい! 王手《チェック》だ!」という大きな叫び声に断ち切られました。すると、ひとりの騎士《ナイト》が、深紅《しんく》のよろいをまとい、でっかいこん棒をふりまわしながら、アリスめがけて早駆けに馬を走らせてきました。アリスの所に着くなり馬は突然立ち止まりました。
「おまえは拙者《せっしゃ》のとりこだぞ!」と騎士は、馬からころげ落ちながら叫びました。
はっとばかりアリスはおどろきましたが、そのときは騎士のためというよりは、自分のためだったのです。そして、騎士がふたたび馬に乗るのを、はらはらしながら見まもりました。
気持ちよく鞍《くら》におさまるや、騎士は、またもや、「おまえは拙者《せっしゃ》の……」と言いはじめましたが、ここで別の声が割りこんで、「おーい! おーい! 王手《チェック》だ!」と言いました。アリスはちょっとおどろいて、新しい敵はどこだろう、とあたりを見まわしました。
今度は白の騎士でした。アリスのそばに馬をつけると、赤の騎士がさきほどやったと同じように、馬からころがり落ちました。それから、ふたたび馬に乗ると、ふたりの騎士は、馬上のまま、しばらく無言で見つめ合いました。アリスは少々うろたえながら、かわるがわるふたりを見つめました。
「この娘《こ》は拙者《せっしゃ》のとりこだぞ!」とうとう赤の騎士が言いました。
「そうだ。だが拙者《せっしゃ》がそこに来て、救ったのだ」白の騎士が答えました。
「なるほど、それでは戦ったうえで取らねばならぬ」赤の騎士は言って、かぶとを取り上げ(かぶとは鞍《くら》にかかっていて、馬の首の格好をしたものでした)、かぶりました。
「むろん、貴殿は戦闘規則を守るであろうな?」これまたかぶとをつけながら、白の騎士が言いました。
「拙者《せっしゃ》はいつでも守っておる」と、赤の騎士が言いました。
そこで、両者はえらい勢いで、さかんに打ち合いをつづけましたので、アリスは打たれてはたまらないと、木陰に身をかくしました。
「いったい戦闘規則ってどんなものかしら」アリスは、かくれ場所から、おずおず外をのぞいて、戦いを見つめながら、つぶやきました。「規則のひとつはこういうことのようだわ。騎士が相手を打ったら、相手は馬から打ち落とされ、はずれると、自分のほうがころがり落ちるの……もうひとつの規則は、おたがいパンチとジュディみたいにこん棒を腕にかかえること。ころげ落ちるときには、なんて音を立てるんでしょう! まるで、いろり道具一式が炉格子《ろごうし》の中に落っこちるみたい! ところが馬の静かなこと! 自分がまるでテーブルみたいに、騎士が乗ったり、落っこちたり勝手にさせておくんだもの!」
もうひとつの戦闘規則は、アリスは気づかなかったのですが、騎士がいつでもまっさかさまに落ちることのようでした。そして戦闘は、騎士がふたりともならんで落っこちると終わりになりました。
騎士たちは起き上がると、握手をかわしました。それから赤の騎士は馬にまたがると、早駆けに立ち去りました。(H)
「輝かしい勝利じゃったのう」白の騎士は、はあはあ言いながら近づいてくると、言いました。
「そうかしら?」疑わしそうにアリスは言いました。「わたし、だれのとりこにもなりたくないわ。女王さまになりたいわ」
「なるとも、次の小川を越えたらね」白の騎士は言いました。「森のはずれまで無事お見送りいたそう……それから拙者《せっしゃ》はもどらねばならぬ。拙者《せっしゃ》の詰《つ》め手はそれで終わりじゃ」
「どうもありがとう」アリスは言いました。「かぶとをとるお手伝いしましょうか?」明らかに騎士ひとりでは出来かねることでした。でも、アリスは騎士のからだをゆすぶって、やっとぬがせてやることができました。
「これで息つくことがじつに楽になったわい」騎士は言って、両手でもじゃもじゃの髪をなでつけ、やさしい顔と大きなおだやかな目をアリスに向けました。アリスは、生まれてからこんな異様な格好の兵士など見たことはない、と思いました。
騎士は錫《すず》のよろいをつけていましたが、それはひどくからだに不似合のようでした。松の木でつくった奇妙な格好の小さな箱を、しっかり肩にしばりつけていましたが、それはさかさまにぶらさがっていて、ふたが開いていました。アリスはたいそう珍しげにそれを見つめました。
「拙者《せっしゃ》の小箱を感心しておるのじゃな」と騎士は親しい調子で言いました。「そりゃ拙者|自《みずか》らの発明じゃ……服とサンドイッチを入れるもんじゃ。雨がはいらぬように、さかさまにして持ち運ぶのじゃ」
「でも、物が外に出ることができますわ」アリスは親切に言いました。「ふたがあいているの、ご存知《ぞんじ》なの?」
「存知ていなかったわい」騎士は、ちらりと困った表情を顔にうかべて言いました。「では、みんな外に落っこちたにちがいない! 中身がなくては箱など無用の物じゃ」
騎士はそう言いながら、箱を解いて、あわや潅木《かんぼく》の茂みの中へ投げ捨てようとしました。と、にわかに何か思いついたらしく、注意深く箱を木に掛けました。
「なぜああしたか、わかるな?」と、アリスに言いました。
アリスは首をふりました。
「蜜蜂が巣をつくるかも知れんでの……蜜が取れるからな」
「でも、鞍《くら》に蜜蜂の巣箱が、……何かそんなものが……くっつけてあるじゃないの?」と、アリスは言いました。
「いかにも、それははなはだ、いい巣箱じゃ」騎士は不満げな調子で言いました。「とび切り上等のやつだ。だがまだ蜜蜂一匹近づきおらんのだ。もうひとつはねずみ取りだ。ねずみが、蜜蜂を中に入れないのか……それとも蜜蜂がねずみを入れないのかどっちなのかわからん」
「わたし、ねずみ取りは何のためにあるのかって思ってましたわ」アリスは言いました。「馬の背中にねずみなどいそうにないもの」
「まあ、いそうにはあるまいよ」騎士は言いました。「だが、いざ現れたとなれば、そこらじゅうかけまわられたくないのじゃ」
「いいかな」少し間をおいて騎士は言いました、「何事にでも備えがあるちゅうことはわるくはないことじゃ。そういうわけで、馬の足首にああして足かせがはめてあるのじゃ」
「でも何のためなの?」アリスはえらく興味をそそられたみたいにたずねました。
「さめにかまれぬ用心じゃ」騎士は答えました。「拙者《せっしゃ》自らの発明じゃ。では手をかして拙者を乗せてくれい。森のはずれまでお供いたそう……その皿は何用じゃ?」
「|干しぶどう菓子《プラム・ケーキ》を入れるためよ」アリスは言いました。
「持って行くがよいな」騎士は言いました。「干しぶどう菓子を見つけたら、役立つからのう。手伝ってくれ、この袋に入れるんじゃ」
アリスはたいそう気をつけて袋を開けたまま持っていましたが、なんとか入れるのに長いことかかりました。だって騎士ときたら、皿を入れるのがたいそうぶきっちょで、最初の二、三回は、自分のほうが袋の中に落っこちてしまったくらいですもの。
やっとのこと皿を入れますと、「こりゃ少々きゅうくつだ」と騎士が言いました、「ろうそく立てが袋に入れすぎてあるからじゃ」
そして袋を鞍に掛けましたが、鞍にはすでに、にんじんの束だの、炉辺《ろへん》用具だの、そのほかいろんなものが、たくさん積みこんでありました。
「おまえの髪はしっかりとめてあるじゃろうな?」ふたりが出かけたときに騎士が続けて言いました。
「ただふつうのやり方ですけど」アリスは微笑しながら言いました。
「それでは不十分じゃ」心配そうに騎士は言いました。「ここは風がえらく強いのじゃ。スープみたいにな」〔原文は「スープのように濃い」。この「濃い」にあたる strong が風の場合には「強い」となるわけ〕
「髪の毛を吹きとばされない方法を発明されましたの?」アリスはたずねました。
「いや、まだじゃ」騎士は言いました。「だが、抜け落ちない工夫はちゃんとしてある」
「それ、聞きたいわ。とっても」
「まず、まっすぐな捧を取るんじゃ」騎士は言いました。「それに髪の毛を、くだもののなる木のようにはい上がらせるのじゃ。さて、髪の毛が抜け落ちる理由は、それが下へたれさがるからじゃ……上に向かって落っこちるものは何ひとつないんじゃ。これは拙者《せっしゃ》自らの発明じゃ。よければためしてみるがよい」
気持ちのよい発明ではなさそうだわ、とアリスは思いました。それで、その思いつきに首をひねりながら、数分の間、黙って歩いて行きました。そして、時々立ち止まっては、気の毒な騎士に手をかしてあげました。騎士は確かにじょうずな乗り手ではありませんでした。
馬が立ち止まるたびに(また、しばしばそうしましたが)、騎士は前へ落っこちました。そして、ふたたび馬が動き出すと(たいてい、それをややだしぬけにやるのでした)、こんどはうしろへ落っこちました。そのほかでは、まずなんとか乗り進みましたが、ただ時々横へ落っこちる癖がありました。それもアリスが歩いているほうの側にたいてい落っこちるものですから、アリスはすぐに、馬の真近くを歩かないのがいちばんよいことだとさとりました。
「馬に乗るおけいこは、あんまりなさらなかったようね」アリスは五回目に落っこちた騎士を、助けて乗せてやりながら、思いきって言いました。
それを聞くと騎士はひどくおどろき、すこし腹を立てたようでした。「なぜに、さようなことを言うのじゃ?」とたずね、向こう側へ落っこちないように片手でアリスの髪の毛をつかみ、また鞍にはい上がりました。
「だって、たくさんおけいこしたら、そんなにたびたび落っこちませんもの」
「けいこはうんと積んだわ」騎士はいかにも重々しく言いました、「うんとけいこをな!」
「あら、ほんとう?」アリスはそれよりましなことばを思いつきませんでしたが、精いっぱい、心をこめて言いました。このあと、無言で少し進みましたが、騎士のほうは目を閉じ、ぶつぶつひとりごとを言い、アリスのほうは、騎士がまた落っこちるのを恐る恐る待ちもうけていました。
「乗馬という偉大な術は」騎士は、突然、大声で言い始めました。そして、右手を振りながら「つり合いを……」と言いました。ここで、言い始めと同じように突然、騎士のことばはとぎれてしまいました。それは騎士が、アリスの歩いてるほうの道に、どすんとまっさかさまに落っこちたからでした。
こんどはアリスもすっかりたまげてしまいました。で、騎士を抱き起こしながら、心配そうに「骨が折れはしなかったでしょうね?」とアリスはたずねました。
「言うほどのことはない」骨の二、三本くらい折っても気にしないとでもいうように、騎士は言いました。「さきほども言いかけたが、乗馬という偉大な術は、……からだのつり合いを、うまくたもつことじゃ。さよう、こういう風《ふう》にな……」
騎士は手綱《たづな》を手放し、アリスにことばの意味を示そうと、両手を大きく広げました。すると、こんどは、馬の足の真下にぺたんとあおむけに落っこちました。
「うんとけいこをな!」アリスが騎士を立たせてあげている間じゅう、騎士はくり返しつづけました。「うんとけいこをな!」
「ばかばかしいったらないわ!」アリスはこんどは、がまんできなくなって言いました。「車のついた木馬に乗るのがいいのよ! それがいいのよ!」
「そいつはうまく動くのかね?」騎士はたいそうつりこまれた調子でたずねました。そう言いながらも、あやうく、両腕で馬の首にしがみつき、ふたたび落っこちなくてすみました。
「生きてる馬よりずっとうまく動くわ」アリスは、どうしてもがまんできずに、ひとこえ甲高《かんだか》く笑いながら言いました。
「一頭手に入れよう」騎士は思案する風にひとりごとを言いました。「一、二頭……五、六頭ほど」
そのあと、ちょっと黙っていましたが、騎士はまた言いつづけました。「拙者《せっしゃ》は物を発明するのが大の上手じゃ。ところで、このまえ拙者を起こしてくれたときに、拙者がいささか考えこんでいたのに、おまえ、たぶん、気がついたろうな?」
「ちょっと重々しかったわ」アリスは言いました。
「さよう、ちょうどその時、拙者は門を乗り越える新方去を発明していたのじゃ……聞きたいかの?」
「とても聞きたいわ」と、アリスはていねいに言いました。
「どうして考えついたか、話してつかわそう」騎士は言いました。「いいな、拙者はこう思ったのじゃ、『ただひとつの難点は足にある。頭の高さはこれだけあれはじゅうぶんだ』とな。さて、まず拙者《せっしゃ》は門のてっぺんに頭をのせる……それで頭はじゅうぶん高いのだ……つぎに拙者は逆立《さかだ》ちする……と、足もじゅうぶん高くなる……そこで門を越えるというわけじゃ」
「そうね、そうできれば越えられるでしょうね」アリスは考えぶかく言いました、「でも、少しむずかしいと思いません?」
「まだためしたことがないのじゃ」騎士は重々しい口調で言いました。「で、しかとはわからんのじゃ……だが、すこうしむずかしいじゃろうかのう」
そう考えて騎士は困りきったように見えましたので、アリスは急いで話題を切りかえました。
「あなたのかぶと、とってもめずらしいのね!」と陽気に言いました。「それもあなたの発明なの?」
騎士は、鞍にかかったかぶとを得意げに見下ろしました。「さよう」と騎士、「が、それにもまさるかぶとを発明したことがあるのじゃ……棒砂糖《ぼうざとう》の格好したやつじゃ。それを常用しておったころには、拙者《せっしゃ》が落馬すると、いつでもかぶとがじかに地面についたものじゃ。で、拙者はほんの少し落ちるだけじゃった……しかし、たしかに、かぶとの中へ落ちこむ危険はあった。一度そういうことがありはしたがの……何より困ったことは、拙者がかぶとから出られぬうちに、別の白の騎士がやって来て、それをかぶりおったことじゃ。おのれのかぶとだと思いおったのじゃ」
騎士がいかにもまじめくさった様子なので、アリスは笑うにも笑えません。「きっとその人にけがをさせたんでしょうね」震え声でアリスは言いました。「その人の頭の上にのっかってしまったんですもの」
「むろん、けとばさなくてはならなかったわ」騎士はいかにもしかつめらしく言いました。「すると、またかぶとをぬぎおったが……拙者《せっしゃ》を引っぱり出すのに何時間も何時間もかかったものじゃ。拙者はそれほど固くぴたりっ、とはまっていたのじゃ……稲光《いなびかり》のようにな」〔原文は「電光のように早い」の「早い」 fast はまた「ぴったりと、固く」の意味があるのをひっかけたもの。「ぴかり」に似せて「ぴたりっ」とやってみた〕
「でも、その≪ぴたりっ≫というのは別のことだわ」アリスは反対しました。
騎士は頭をふりました。「よいか、拙者にとっては、どの≪ぴたりっ≫も、えらぶところなしじゃ!」
騎士はこう言いながら、いくらか興奮して両手をあげ、たちまち鞍からころげ出し、まっさかさまに深いみぞの中へ落っこちてしまいました。
アリスは、みぞのわきに駆けよると、騎士をさがしました。しばらくの間、騎士の乗りぐあいが良かったあとでの落馬だったので、アリスも少々びっくりしました。こんどこそ、ほんとにけがをしたかとアリスは心配でした。しかし、騎士の足の裏しか見えないのに、いつもの調子で彼がしゃべってるのを聞くと、アリスは安堵《あんど》の胸をなでおろしました。
「どの≪ぴたりっ≫も」騎士はくり返しました、「だが、他人のかぶとをかぶるなどとは、うかつなやつじゃ……しかも本人が中にいるというのにじゃ」
「頭を下にしたままで、どうしてそんなに落ちついてお話できるの?」
アリスは騎士の足を取って引きずり出し、どっさりと上手に寝かしてあげながら、たずねました。
この質問に騎士はおどろいた様子でした。
「拙者《せっしゃ》のからだが、たまたまどこにあろうと、それがどうしたというのじゃ」騎士は言いました。「拙者の頭は、変わることなく働きつづけるのじゃ。実際、頭が下になっておればおるほど、ますます拙者は新発明ができるのじゃ」
「さて、拙者のでかしたもっとも巧妙な仕事は」騎士はひと息入れてつづけました、「肉のコースの間に、新式のプディングを発明したことじゃ」
「次のコース用に作ってもらうためなの?」アリスは言いました。「そうね、たしかに早わざでしたわ!」
「うむ、次のコースではない」騎士はゆっくり、考えこむような調子で言いました、「いや、たしかに次のコースなどではない」
「では、次の日でなくてはならないでしょう。一度のディナーにプディングは二度出ないでしょう?」
「いや、次の日ではない」騎士は前のようにくりかえしました、「次の日ではないのじゃ。実際」
首うなだれ、声はしだいに低くなりながら、言いつづけました。「こんなプディングはこれまでに作られたこともないのじゃ! これからも作られるじゃろうとも思わぬ! それでも、こんなプディングを発明するならまことに器用なものじゃ」
「材料は何で作るつもりでしたの?」アリスは、相手を元気づけたくてたずねました。気の毒にも騎士は、プディングのことではしょげかえってるようだったからです。
「まず吸い取り紙からかかったのじゃ」騎士はうめき声で答えました。
「それではあまりおいしくないわね……」
「それだけならば、おまりおいしくない」騎士は、気負いこんで、口を入れました。「が、それにほかのもの……火薬や封ろうを混ぜれは、どんなに変わるものか、そなたにはとんとわからんのじゃ。が、ここで別れねばならん」
ふたりはちょうど森はずれに着いたところでした。
アリスはめんくらった顔をするほかできませんでした。例のプディングのことを考えていたからです。
「悲しそうじゃな」騎士は心配そうな調子で言いました。「なぐさめの歌をうたってやろうかな」
「たいへん長いものなの?」アリスはたずねました。その日はたっぷり詩を聞かされていたからです。
「長いものじゃ」騎士は言いました、「だが、まことに、まことに美しいものじゃ。拙者《せっしゃ》がそれを歌うのを聞けば、だれしも……目に涙をうかべるか、さもなくば……」
「さもなければ?」アリスは言いました。突然騎士が口をつぐんだからです。
「さもなくば、涙をうかべないかだ。歌の名は、『たらの目』と呼ばれるものじゃ」
「まあ、それが歌の名ですの?」アリスは、つとめて興味を持とうとして言いました。
「いや、そなたにはわからん」騎士は、ちょっといらだった顔をして言いました。「名がそう呼ばれるということじゃ。実《じつ》の名は『年老いたる人』じゃ」
「では、わたし、『歌はそう呼ばれる』って言えばよかったのね?」アリスは言い直しました。
「いや、そう言えばよかったというわけではない。それはまったく別問題じゃ! 歌は『方法と手段』と呼ばれるが、そう呼ばれる、というだけのことじゃ!」
「あら、ではその歌、なんですの?」アリスは言いましたが、この時分にはすっかりめんくらっていたのです。
「さっきそれに触れるところじゃった」騎士は言いました。「その歌は、実は『門のとびらに腰かけて』というのじゃ。曲は拙者|自《みずか》らの発明じゃ」
そう言って、騎士は馬をとめ、手綱を馬の首に落としました。それから、片手でゆっくりと拍子を取り、かすかな微笑で、おとなしい間抜けな顔をぱっと明るくしながら、歌のしらべを楽しむように、始めました。
鏡の国の旅行中にアリスが見た不思議な物のうちでも、これは、アリスがいつもいちばんはっきりと思い出したものでした。何年たっても、アリスはその場の光景を全部、まるできのうのことのように、よみがえらすことができるのでした……騎士のやさしい青い目と、気のいい笑顔……夕日が騎士の髪の毛を通して、きらめき燃えるような光でよろいを照らして、アリスの目がすっかりくらむほどだったこと……馬が手綱をゆったりと首にかけ、足もとの草をかみ切りながら、静かに動きまわっていたこと……うしろの森の黒い影……こうしたものをみんな、アリスはひとつの絵のように見つめながら、片手を額にかざし、木にもたれて、その不思議な騎士と馬にじっと目を注ぎ、なかば夢うつつに、もの悲しい歌のしらべに聞き入りました。
「でも、曲はあの人が作ったものじゃないわ」アリスはつぶやきました。「『われ、なれにすべてを捧ぐ。これぞわがすべて』だわ」
アリスはたいそう注意して聞き入りましたが、涙はちっとも浮かんできませんでした。
「みんな残らず話して進じょ。
話すこととてさほどなし。
年を重ねた人を見た、
門に腰かけいるを見た。
『だれだい、じいさん』拙者《せっしゃ》問う
『暮らしは何して立てておる?』
篩《ふるい》に水と、じいさんの
答えは頭を抜けおった。
じいさん言うに、『わしゃ蝶さがし
小麦畑に眠るのを、
そいつを羊《マトン》のパイにして、
通りに出《い》で立ち売りさばく。
買い手はあらしの海を行く
舟乗り人じゃ』と彼いうた。
『こうしてパンをかせぎます……
わずかながらも毎日の』
拙者そのとき思案して
ほおひげ青く染めながら、
大きな扇子《せんす》はなさずに
ひげが見えない、その工夫。
それゆえ拙者はじいさんに
答えるすべもないままに、
『さあ、いかように暮らすのじゃ!』
どなって、ごつん、頭をぶった。
ことばもやわらか、話をつづけ
『気のむくままに足むけて
山の小川を見つければ
ぱっとそいつを燃え立たす、
それから作る物呼んで
ロランド印《じるし》の髪油《かみあぶら》……
骨折り賃にもらうのは
ところがやっと二ペンス半』
拙者そのとき思案して
こねもの食って日から日と、
日を重ねつつ過ごしては
ちょっぴり太る法《て》はないか。
拙者、じいさんふんづかみ
青くなるまでゆすぶった。
『さあ、どうして暮らす』どなった拙者、
『お前の仕事は何なんじゃ!』
じいさん言った『たらの目を
明るいヒースの野にさがし、
それを静かな真夜中に
チョッキのボタンに細工《さいく》する。
それでお代《だい》は金貨でも
きらきら銀貨でもなくて、
たかだか鋼貨の半ペニー、
それもひとつで九つ買える。
バターロールを時たま掘って、
枝に≪もち≫つけ≪かに≫を待つ、
草の茂った岡を行き
馬車の車輪もさがしやす。
こうしてわしは(と片目をつむり)
わしの財産つくりやす……
それではだんなの健康祝い
うれしく杯《さかづき》ほしやしょう』
それは聞こえた、たったいま
工夫をおえたばかりゆえ
メナイ橋をばぶどう酒で
煮てさびるのを防ぐ法《て》を。
聞いてお礼は言ったけど、
わけても立派な身共《みども》の健康
祝う乾杯、礼言った。
さて、ひょっとして、拙者《せっしゃ》こと
にかわに指を入れるとか、
または夢中で右足を
左の靴《くつ》に突っ込むか、
どえらく重いおもしでも
このつま先に落としたら、
拙者は泣こう、そのわけは
なじみのじいさん思い出し……
すがたやさしく、口のろく、
髪は雪よりなお白く、
顔はからすと瓜《うり》ふたつ、
目は赤々と≪おき≫のよう、
嘆きに胸はみだされて、
まえやうしろに身をゆすり、
もぐもぐ小言につぶやくと、
ねり粉いっぱいふくんだよう、
水牛かくやと鼻息ついた……
遠いむかしの夏の宵《よい》
門のとびらに腰かけて」
騎士は、歌の最後の文句を歌いおわると、手綱を引きよせ、これまでやって来た道のほうへ馬の首をむけました。「あと、二、三ヤード行けばよいのじゃ」と、騎士は言いました。「あの岡を下り、あの小川を越えれば、そなたは女王になるんじゃ……が、ここで拙者をまず見送ってくれるであろうな?」
騎士は、自分が指した方向をアリスが熱心なまなざしでふりむいたときに、つけ加えました。「長くはかかるまい。ここで待っておって、拙者があの曲がり角についたら、ハンカチを振るのじゃ。すれば拙者も元気づくじゃろうからな」
「むろん、待ちますわ」アリスは言いました、「こんな遠くまで送って来てくださってありがとう……それからあの歌のことも……あの歌とてもよかったわ」
「そうじゃろう」騎士は疑わしそうに言いました、「じゃが、拙者が思ったほどには泣かなかったわい」
そこでふたりは握手をかわし、騎士はゆっくりと森の中へと馬を乗り入れました。
「あの人を見送っても長くはかからないと思うわ」アリスは、騎士を見まもりながらつぶやきました。「そら、落っこちたわ! 相変わらずまっさかさまだわ! でも、また楽に乗るわ……馬のまわりにあんまりたくさんぶらさげてるから、ああなるんだわ……」
こうしてアリスはひとりごとをつづけながら、馬がゆっくり道を歩いて行くのと騎士が右に落ち、左に落ちしているのを見まもっていました。四、五回落っこちると騎士は曲がり角に着きました。で、アリスはハンカチを振り、姿がかくれるまで待っていました。
「あれであの人も元気づいたでしょう」アリスは岡を駆け降りようと向きをかえながら、言いました。「さあ、最後の小川だわ、そしたら女王になれるんだわ! なんてすてき!」
ほんの二、三歩で小川の縁に来ました。「とうとう八の目だわ!」叫ぶと、アリスは飛び越えて、
*   *   *
身を投げて止まったところは、苔《こけ》のように柔らかな芝生《しばふ》の上でした。そして小さな花壇があちこち、まわりじゅうにちらばっていました。
「まあ、なんていいところに着いたこと! わたしの頭の上のもの、これ何かしら?」アリスはあわてて大声を出しながら、頭のまわりにぴっにりはまった何やらとても重いものに両手をあげてさわってみました。
「でも、知らないまに、いったいどうしてここに載《の》っかったのかしら?」
こうつぶやいてアリスはそれを持ち上げ、いったい何かしらと見きわめるためにひざの上に置きました。
それは金の王冠でした。(I)
第九章 アリス女王
「まあ、すばらしい!」アリスは言いました。「こんなに早く女王さまになれるなんてちっとも思わなかったわ……ところで、女王陛下、申し上げることがございます」きびしい調子でアリスはつづけました、(アリスはいつも自分を叱るのが少々好きでした)「そうやって草の上でのらくらしたりしては絶対いけません! 女王さまというものは威厳《いげん》がなくてはなりません!」
そこでアリスは立ち上がって、そこらを歩きまわりました……初めこそ、王冠が落っこちないかと心配なので、少しは固くなっていましたが、だれも見てないと思うと気が楽になりました。
「わたし、もしもほんとうにわたしが女王さまなら」ふたたび腰をおろしながら、アリスは言いました。「そのうち、うまくやっていけるでしょう」(J)
何もかも奇妙なことばかり起こったので、アリスは赤の女王と白の女王が、それぞれ自分の両側に、ぴったりくっついてすわってるのに気づいても、ちょっとだっておどろいたとは思いませんでした。どうしてそこまで来たのか、よっぽどたずねたかったのですが、それはすこうし礼儀はずれだと思ってやめにしました。でも、ゲームが終わったのかどうかをたずねるのは、別に悪くはないだろう、とアリスは思いました。
「おたずねいたしますけど……」おずおず赤の女王を見ながら、切り出しました。
「話しかけられたら、口をききなさい!」女王はけわしい口調でさえぎりました。
「でも、その規則をみんなが守ったら」アリスは、いつでもすぐにちょっぴり議論してみたい子でしたから、言いました。「そして、話しかけられたら口をきくことにして、相手もこちらが切り出すのをいつも待ってたら、だれも物を言うことなんかなくなるでしょう。ですから……」
「あほらしい!」女王は叫びました。「そんなこと、おまえにはわからぬのか……」ここで、顔をしかめると、ことばを切り、しばらく考えてから、にわかに話題を変えました。「おまえが『もしもほんとうにわたしが女王さまなら』と言ったのは、どういう意味じゃな? 何の権利があって自分をそう呼ぶのじゃ? 正規の試験に通るまでは、女王にはなれないのじゃ。試験を早く始めるといいのじゃが」
「わたし、ただ、『もしも』と言っただけなんですわ!」気の毒にアリスはあわれっぽい調子で申し訳しました。
ふたりの女王は互いに顔を見合わせました。
赤の女王は、ちょっと身ぶるいしながら言いました。「あの子は、ただ、『もしも』と申しただけだと言っておるが……」
「いや、ほかにもずいぶん申していたぞよ!」白の女王は、両手をもみしぼりながら言いました。「おお、ほかにもずいぶんたんとな!」
「いかにも申しおったな」赤の女王はアリスに向かって言いました。「いつでもほんとうのことを言うのじゃ……物を申すまえに考えるのじゃ……申したあとで書きとめおくのじゃ」
「けっして、わたしそんな意味などなく……」
アリスは言いかけましたが、赤の女王はいらだたしげにさえぎりました。
「それなのじゃ、わたしがいやなのは! おまえは意味がなくてはならなかったのじゃ! 何の意味もない子供が何の役に立つと思うか? たとえ冗談でも何かの意味があるべきじゃ……しかも、子供は冗談よりも大切なものじゃろう。それは両手で打ち消そうとしてもできっこないことじゃ」
「わたし、両手で打ち消したりなぞしませんわ」と、アリスは反対しました。
「おまえがやったとはだれも言わぬ」赤の女王は言いました。「やろうとしてもやれはせぬ、と言ったのじゃ」
「あの子は」白の女王は言いました。「何かを打ち消したい気持ちなんじゃ……ただ、何を打ち消したいものやらわからないのじゃ!」
「さてもいやな、ねじけた性質じゃ」赤の女王が言いました。そのあと一、二分の間、一同気まずく黙っていました。
赤の女王がその沈黙を破って、白の女王に言いました、「午後にはあなたをアリスのディナー・パーティにお招きしますぞ」
白の女王はかすかにほほえんで「あなたのほうこそお招きしますぞ」
「わたし、パーティを開くなんて、ちっとも知りませんでしたわ」アリスは言いました。「でも開くのでしたら、わたしこそお客さまをお招きしなくてはなりませんわ」
「その機会をおまえに与えたのじゃ」赤の女王は言いました、「じゃが、おまえはまだ、お行儀の授業はあまり受けてはおらぬのじゃな?」
「お行儀の授業はありませんわ」アリスは言いました。「授業では算数やなんかを教えるのよ」
「おまえは足し算ができるのか?」白の女王が言いました。「一たす一たす一たす一たす一たす一たす一たす一たす一たす一は、いくつじゃ?」
「わからないわ」アリスは言いました。「数えきれなかったんだもの」
「この子は足し算はできぬのじゃ」赤の女王が口を入れました。「引き算はできるかね? 八から九を引いてみや」
「八引く九なんてできないわ」アリスは即座に答えました、「だけど……」
「この子は引き算はできぬのじゃ」白の女王が言いました。「割り算はできるかの? パンをナイフで割れば……答えは?」
「それなら……」アリスが言いかけますと、赤の女王が代わりに答えました。「むろん、バタつきパンじゃ。もう一度、引き算をやってみや。犬から骨を引けば、何が残るかの?」
アリスは考えました。「骨は、とってしまえば、もちろん残らないでしょう……犬も残りはしないでしょう、わたしを噛《か》みにやって来るでしょうから……そしたら、わたしも残らなくなってしまうわ!」
「では何も残りはせぬと思うのじゃな?」赤の女王が言いました。
「答えはそうだと思うわ」
「やはり間違いじゃ」赤の女王が言いました、「犬のきげんが残るじゃろうが」
「でも、どうしてかしら……」
「なんだと、よいかや!」赤の女王は叫びました。「犬はきげんをなくするじゃろうが」
「ひょっとしたら、そうかもしれないわ」アリスは用心ぶかく答えました。
「では、犬が行ってしまっても、そのきげんが残るではないか!」女王は勝ちほこって叫びました。
アリスは、精いっぱいまじめくさって、言いました、「でも、犬もきげんも別々のほうに行くかもしれませんわ」アリスは「なんてひどいばかなことを話してるんでしょう!」と思わずにはいられませんでした。
「この子はちっとも計算ができないのじゃ!」女王たちは、えらく力をこめて、いっしょに言いました。
「女王さまはできるの?」アリスは、突然白の女王にくってかかるように言いました。そんなにあらさがしされるのがいやだったからです。
女王はびっくりして息が止まり、目をつむりました。「わたしは足し算ができるぞよ」女王は言いました、「時間をくれれば……じゃが、引き算はいかなる事情があろうとできぬのじゃ!」
「むろん、おまえはABCは知っておるな?」赤の女王が言いました。
「知っていますとも」アリスは言いました。
「わたしも知っている」白の女王がつぶやきました。「ねえ、そなたと時々いっしょにくり返してはどうじゃ。ないしょのことを教えてあげようか……わたしは一文字《いちもじ》のことばが読めるのじゃ。どうじゃ、えらいものじゃろう? しかし、がっかりするには及ばぬぞよ。そのうちおまえもできるからな」
ここで、白の女王がまた言い始めました。
「そなた、役に立つような質問に答えられるかや?」女王は言いました。「パンはどうやって作るのじゃ?」
「それなら知ってるわ!」アリスはいさんで叫びました。「粉《フラワー》を取って……」
「その花《フラワー》はどこで摘《つ》むのじゃ?」白の女王がたずねました。「庭か、それとも生垣《いけがき》かね?」
「あの、摘むんじゃないの」アリスは説明しました、「≪ひく≫のよ」
「どのくらい≪ひく≫のじゃ」白の女王が言いました。「そうたくさんのものを省《はぶ》いてはならぬぞよ」
「頭をあおいでおやりなされ!」赤の女王は心配そうにさえぎりました。「あんまり考えごとをしたので熱を出したのじゃろう」
そこで女王たちは、さっそくとりかかり、木の葉の束でアリスをあおぎましたので、アリスはおしまいにはやめてくださいと頼まなければなりませんでした。髪の毛がひどくひどく吹き散らされてしまったのです。
「さあ、直ったぞよ」赤の女王は言いました。「おまえ、ことばは知っておるかの? ≪フィドル・デ・ディー≫はフランス話ではなんと言うのじゃ?」
「≪フィドル・デ・ディー≫は英語ではありません」アリスはまじめくさって答えました。
「だれが英語じゃと言ったかや?」赤の女王が言いました。
アリスは、今度こそ、うまく言い抜ける道がわかったと思いました。
「≪フィドル・デ・ディー≫がどこのことばか、教えてくださったら、わたしそのフランス語を言いますわ!」アリスは勝ちほこったように叫びました。
けれども赤の女王は、しゃちこばったように直立すると、「女王は取り引きなどはしないものじゃ」と言いました。
「女王さまは質問なんぞしないといいんだわ」アリスはひそかに思いました。
「口論はすまいぞ」白の女王は心配そうな調子で言いました。「稲光《いなびかり》の原因はなんじゃ?」
「稲光の原因は」アリスはとてもきっぱりと答えました、これには十分確信があったからです。「雷《かみなり》ですわ……いいえ、違うわ!」いそいでアリスは言い直しました。「そのあべこべを言うつもりでしたの」
「言い直しても、もはや間に合わぬぞよ」赤の女王は言いました、「ひとたび言えば、それできまりじゃ。で、その結果は引き受けねばならぬのじゃ」
「それで思い出すのじゃが……」
白の女王は、うつむいたり、そわそわと手をにぎりしめたり、開いたりしながら、言いました、「前の火曜日には、どえらい雷雨があったのう……最後の組の火曜日のひとつのことじゃが」
アリスには何のことやらわかりません。「わたしの国では」アリスは言いました、「一度に一日しかありませんわ」
赤の女王が言いました、「それは貧弱なやり方じゃの。この国では、たいてい、昼も夜も、一度に二つか三つはあるのじゃ。冬には、一度に五晩も取ることがある……むろん、暖かくするためじゃ」
「では、五晩はひと晩よりも暖かいんですの?」アリスは思いきってたずねました。
「むろん、五倍は暖かいのじゃ」
「でも、同じわけで、五倍だけ寒いはずだわ……」
「まさにそうじゃ!」赤の女王が叫びました。「五倍暖かで、また五倍寒いのじゃ……わたしがそなたの五倍金持ちで五倍りこうなのと同じにの!」
アリスは溜息をつき、この話はやめにしました。「まるで、答えのない謎みたいなんだもの!」と、思いました。
「ハンプティ・ダンプティーも見たのじゃ」白の女王はひとりごとを言うような調子で、小声で言いつづけました。「栓《せん》抜きを手に持って戸口までやってきたのでな……」
「何用でじゃ?」赤の女王が言いました。
「どうしても中にはいりたいと言うのじゃ」白の女王はつづけました。「河馬《かば》をさがしているからと言うのじゃ。ところで、あいにく、その朝には、そんなものは家にはいなかったのじゃ」
「いつもはいるんですの?」アリスはびっくりした調子でたずねました。
「さよう、木曜日だけじゃ」女王は言いました。
「何用で来たのかはわかるわ」アリスは言いました、「魚を罰しに来たのよ、なぜかと言ったら……」
ここで白の女王がまた言い始めました。「それはどえらい雷雨じゃったぞよ、思いも及ばぬほどな!」(「この子にはとても思いも及ばぬ」と赤の女王が言いました。)「屋根の一部がはがれて、雷雨がどえらく入りこんで……大きなかたまりで部屋じゅうころげまわり……テーブルや品物をひっくり返し……わたしは、たまげてしもうて自分の名も思い出せぬほどじゃった!」
アリスはひそかに思いました、「わたし、大事故《おおごと》の真っ最中に、自分の名前なんか思い出そうとはしないわ! そんなことして何の役に立つのかしら」と。
でも、お気の毒な女王さまの気持ちをそこなってはいけないと、声には出さなかったのです。
「陛下はこの人を見のがしておやりにならなければなりませんぞ」赤の女王は、白の女王の手を取り、やさしくその手をなでながら、アリスに向かって言いました。「悪気《わるぎ》はないのじゃが、たいてい、ばかげたことを言わずにおれないのじゃ」
白の女王はおずおずとアリスを見ました。アリスは何かやさしいことを言ってあげなければいけないと思いましたが、とっさにはほんとに何も思いつけませんでした。
「育ちがあんまりよくはないのじゃ」赤の女王はつづけました。「だが、気立てのよいのはおどろくほどじゃ! 頭をなでておやりなされ。さぞよろこぶことでしょうほどに!」
でも、そうする勇気がアリスにはありませんでした。
「ちょいとやさしくしてやって……髪をカール・ペーパーで巻いておやりなされば……この人に不思議な効《き》き目がありましょうぞ……」
白の女王は深い溜息をつき、頭をアリスの肩にのせました。「ああ、眠い!」とうめくように言いました。
「かわいそうに、疲れているのじゃ!」赤の女王は言いました。「髪をなでつけておやりなされ……そなたの寝帽《ナイトキャップ》を貸しておやり……子守歌をうたってなぐさめておやりなされ」
「わたし、寝帽は持ちませんの」アリスは、はじめのさしずに従おうとして言いました、「それに、なぐさめになるような子守歌も知りませんの」
「では、わたしがやらずばなるまい」赤の女王は言って歌い始めました。
「アリスのひざでねんねんよう!
ごちそうできるまで、おひるねよ、
ごちそうすんだら、舞踏会……
赤の女王、白の女王、アリスとみんな!
「さあ、文句はわかったじゃろう」
女王は、頭をアリスの別の肩にのせながら言い足しました、「終わりまでちょっと私に歌って下され。わたしも眠うなった」
たちまち、女王はふたりともぐっすり寝入りこんで、高いびきを立てていました。
「どうしたらいいのかしら?」アリスはすっかりとまどってあたりを見まわしながら叫びました。最初は丸い頭が、次には別の頭が自分の肩からころがり落ちて、重いかたまりのようにアリスのひざにのっかったんですもの。
「眠ってる女王さまをふたり、いっしょにお世話しなければならないなんてこと、なかったとわたし思うわ! いいえ、英国史全部みたってないことだわ……あるはずないわ、だって、いちどきにはひとりの女王さまよりほか、なかったんだもの。お起き、重たいわよ!」
アリスはじれったい口調でつづけましたが、答えるものは静かな寝いびきだけでした。
その寝いびきは刻一刻はっきりして、歌のように聞こえました。
とうとう、アリスはそのことばが聞きわけられるようにまでなりました。あんまり熱心に聞き入っていたので、そのふたつの大きな頭が突然ひざから消えたときにも、ほとんど気づきませんでした。
アリスはアーチのついた戸口の前に立っていました。戸口の上には大きな字で≪アリス女王≫と書いてあり、アーチの両側にはベルの引き手がついていました。引き手のひとつは≪来客用ベル≫、別のには≪召使い用ベル≫としるしてありました。
「歌の終わるまで待ちましょう」と、アリスは考えました。「そしたら鳴らしましょう……そちらの……どっちのほうを鳴らしたらいいのかしら?」
こうつづけましたが、ベルの名にひどくとまどってしまいました。「わたしお客さまでも、召使いでもないし。≪女王さま用≫と書いたのがなくてはならないんだけど……」
ちょうどそのときです、ドアが少しあいて、長いくちばしをした動物が、一瞬、首をつき出して、言いました。
「再来週《さらいしゅう》まで出入りおことわり!」
そして、ばたんとドアを閉めてしまいました。
アリスは長いことノックしたり、ベルを鳴らしたりしましたが、なんの役にも立ちません。ついにたいそう年をとった蛙《かえる》が、一本の木の下にすわっていましたが、立ちあがるとびっこを引き引きゆっくりアリスに近づきました。蛙はあざやかな黄色の服を着、大きな深靴をはいていました。
「おい、何の用だね?」太いしゃがれ声で蛙は言いました。
アリスは、だれだってかまうことはない、文句をつけてやろうとふり返りました。
「ドアに答えるお役目の召使いはどこにいるの?」アリスは怒って言いました。
「どっちのドアのことかねえ?」蛙は言いました。
アリスは、相手ののろのろした話し方にじりじりして、地団太ふみたいくらいでした。「このドアよ、もちろん!」
蛙は大きなのろまな目で、ちょっとの間、ドアを見つめ、近づいてくると、親指でこすりましたが、それはペンキがはげるかどうか、ためしているみたいでした。それからアリスを見ました。
「ドアに答えるってねえ?」蛙は言いました。「何をドアはたずねていたんかねえ?」ひどいしゃがれ声で、アリスには聞きとれないくらいでした。
「あんたの言っていること、わからないわ」と、アリスは言いました。
「わしは英語で言ってるだあね、そやないかい?」蛙はつづけました。「それとも、おまえさんつんぼかいな。ドアがおまえさんに何を聞いたのかって言ったのよ」
「何も聞きはしなかったわ」アリスはじれったくて言いました。「わたしがドアをノックしてたのよ!」
「そりゃいけねえや……そりゃいけねえや……」蛙はつぶやきました。「怒らしちゃうからな」
それからドアまで行くと、大きな足の片方で、けりとばしました。「ほっときな」蛙はあえぎながらそう言うと、またびっこを引きながらもとの木へともどって行きました。「そうすりゃ、あっちもおまえさんをほっとくだろうよ」
この瞬間、ドアがさっと開かれて、甲高《かんだか》い歌声が聞こえてきました。
「鏡のお国にアリスが言った
『手には王笏《おうしゃく》、頭に冠、持ってるよ。
鏡のお国の生きものみんなに
ご馳走あげる、赤、白女王にわたしとで!』
すると何百という声がコーラスに加わりました。
「そら大急ぎ、杯《さかずき》満たせ
ボタンともみがらテーブルにまいて、
コーヒーに猫いれ、ねずみはお茶に……
三の三十倍、アリス女王に乾杯だ!」
つづいて、がやがやと喝采《かっさい》のどよめきが起こり、アリスは心のなかでつぶやきました、「三の三十倍は九十回だわ。だれか計算してるのかしら?」
まもなくまた静かになりました。すると、さっきの甲高《かんだか》い声が別の歌をうたうのでした。
「『おお、鏡のお国の生きものたちよ、
近う寄りゃ!』とアリスが言った。
わたしを見るは身のほまれ、
ことばを聞くのはお情けじゃ、
赤の女王に白の女王、
それにわたしとディナーにお茶を
いっしょにするのは大きな栄誉!』」
するとまたコーラスが起こりました。
「さらば、糖蜜インキとで、なみなみ満たせを、
そのほか何でもかまわない、
飲んでおいしいものならば、
サイダーをかきまぜろ、
羊毛にぶどう酒つきまぜろ……
九の九十倍、アリス女王に乾杯だ!」
「九の九十倍だって!」アリスは絶望してくりかえしました。「まあ、そんなことできっこないわ! わたしすぐに入ったがいいわ……」
実際、中に入って行きました。
するとアリスが現れた瞬間、水をうったように静まりかえりました。(K)
アリスは大広間を進みながら、おずおずテーブルを見やりますと、五十人くらいの、あらゆる種類のお客がいるのに気づきました。動物あり、鳥あり、花まで二、三本まじっていました。
「招待するのを待たないで来てくれてよかったわ」アリスは思いました、「だれを招待したらいいか、わからなかったでしょう!」
上座《かみざ》には三つのいすがあり、赤と白の女王がそのうちの二つを占めていましたが、まんなかのひとつは空《あ》いていました。
アリスはそれに腰をおろしましたが、みんなが黙っていましたから、なんとなく不安で、だれか口をきいてくれるといいのにと思っていました。
ついに赤の女王が口を切りました。「おまえはスープと魚を食べそこないましたぞ」と、言いました。「大切り肉をのせなさい!」
すると給仕たちは羊の足をアリスの前に置きましたが、アリスはそういう肉をまだ切ったことがなかったので、少しばかり心配そうに見つめました。
「恥ずかしそうじゃの。あの羊の足に紹介しようぞ」
赤の女王が言いました。「アリス……こちらは羊肉《マトン》さん。羊肉さん、こちらはアリス」
羊の足は深皿の中で起き上がり、ちょっとアリスにおじぎをしました。アリスはびっくりしたものか、おもしろがったものかわからずに、おじぎを返しました。
「ひと切れお取りしましょうか?」
アリスは、ナイフとフォークを取り上げ、かわるがわるふたりの女王を見ながら言いました。
「いえ、いりません」赤の女王は、とてもきっぱりと言いました。「おまえが紹介された相手を切るなどとは、礼儀《れいぎ》じゃないぞよ。この大切り肉を持って行きや!」
すると給仕たちは、それを運んで行ってしまい、代わりに大きな干しぶどう入りプティングを持って来ました。
「どうぞ、プティングには紹介しないでください」アリスは少々あわてて言いました、「でないと、ご馳走が何も食べられなくなります。すこし差し上げましょうか?」
だけど、赤の女王はぷんとして、こうがみがみと言いました。「プディング……こちらはアリス。アリス、こちらはプディング。プディングを片づけるのじゃ!」
すると給仕たちは、さっさと持って行ってしまったので、アリスはプディングのおじぎを返すひまもありませんでした。
でも、アリスは、なぜ赤の女王だけが命令を下すのか、そのわけがわかりませんでした。で、ためしに「給仕! プディングをまた持っておいで!」と大声に言ってみました。
たちまち、手品みたいに、もどって来ました。あんまり大きいので、アリスは羊の肉のときのように、ちょっと恥ずかしいな、と思わずにはおれませんでした。
でも、たいそうつとめて恥ずかしさをおさえ、ひと切れ切ると、それを赤の女王に手渡しました。
「なんと失敬な!」プディングは言いました。「もしもぼくが君からひと切れ切り取ったら、君はどう思う! ちくしょうめ!」
プディングは太い、にごった声で言いました。で、アリスは返すことばもありません。すわったまま相手を見つめ、あえぐばかりでした。
「何とか言いなされ」赤の女王が言いました。「会話をみんなプディングに任せておくなどとは、笑止《しょうし》なことじゃ!」
「あのね、わたし、きょうは、とってもたくさんの詩を聞かせてもらったの」
アリスは始めました。が、口を開くとたちまち、静まり返って、みんなの目が自分にそそがれたので、アリスはちょっとびっくりしました。「それがとても妙なの……どの詩も何かしら魚のことを歌ってるの。ここではみんな、どうしてそんなに魚が好きなのか、そのわけご存知?」
アリスは赤の女王に言ったのですが、その答えは少し的《まと》はずれでした。
「魚については」女王は、アリスの耳に口をよせ、ひどくゆっくりと厳《おごそ》かな口調で言いました。「白の女王陛下がおもしろい謎をご存知じゃ……みんな詩になっているが……どれも魚のことじゃ。暗唱させてみようか?」
「赤の女王陛下にはよくぞおっしゃって下さった」白の女王はアリスの別の耳にささやきましたが、それは鳩がくーくー鳴くような声でした。「それはまことによいおもてなしになりましょう! 始めましょうかの?」
「どうぞ、お願いいたします」アリスはたいへんていねいに言いました。
白の女王はうれしげに笑って、アリスのほおをなでました。それから歌い出しました。
「『まずは魚《さかな》を捕《と》らねばならぬ』
それはわけない、赤子《あかご》もできる。
『次には魚を買わねばならぬ』
それはわけない、一ペニーあれば。
『さてその魚、料理しておくれ!』
それはわけない、一分あれば。
『では皿に盛れ、その次は!』
それはわけない、もう皿の中。
『ここに運んで、食わせておくれ!』
皿、テーブルに置くはわけない。
『その皿ぶたを取ってくれ!』
残念、そいつが手に負えぬ!
そのはず間《あいだ》で、にかわのように
皿にふたをばしっかとつける。
どっちがはたしてやさしいか、
魚《うお》ぶたとると、謎解くと?〔un-dish-cover と discover をたねにしたしゃれ。前者の「料理(皿)のふた(dishcover)をとる(un-)と、後者の「発見する」とがともにdishcover, discover と類似形になっている〕
「一分間考えて、当ててみや」赤の女王が言いました。「その間に、おまえの健康を祝って乾杯しようぞ……アリス女王の健康を祝って!」
赤の女王が声をかぎりに叫びますと、客もそろってすぐに乾杯を始めました。
が、そのやり方ときたらまことに奇妙なものでした。ろうそく消しのようにコップを頭にのせ、顔にちょろちょろ流れ落ちるのをぜんぶ飲むものもあれば……ぶどう酒のびんをひっくり返し、テーブルの端から流れ落ちるぶどう酒を飲むものもありで……そのうち三人は(カンガルーみたいでしたが)羊の焼き肉の深皿にはいこむと、ぴちゃぴちゃさかんに肉汁をなめだしました。「まるで、かいばおけのぶたそっくり!」とアリスは思いました。
「うまいスピーチで礼を述べなければなりませんぞ」赤の女王は、しかめっ面で、アリスに言いました。
「どうせ、わたしたちが助けてやらねばなりませぬ」白の女王は、アリスがすなおに、でも少々びくつきながら、スピーチをしようと立ち上がったときに、ささやきました。
「どうもありがとう」アリスは小声で答えました、「でも、わたし、ひとりでもやれますわ」
「それはちっともよくないことじゃ」赤の女王がきっぱり言いました。で、アリスはいさぎよくそれに従おうとしました。
(「それに、ふたりとも、とってもわたしを押したのよ!」アリスは、あとになって、宴会の出来事をお姉さまに話してあげたときに、言いました。「わたしを押しつぶそうとしてるんだと思ったでしょうよ!」)
実際、スピーチをやりながら、アリスは同じところにいるのがむずかしいくらいでした。ふたりの女王は両側からアリスを押しまくって、アリスを宙に押しあげてしまいそうでした。
「わたし、お礼を述べるためにここに立ちました……」アリスは始めましたが、話している間に、ほんとに何インチか浮き上がってしまいました。それでもアリスはテーブルの縁をつかまえて、やっともとどおり、からだを引きおろしました。
「注意なされや!」白の女王は、両手でアリスの髪の毛をつかまえて叫びました。「何か起こりますぞ!」
すると、(あとでアリスが話したところによりますと)あらゆることが、一瞬のうちにもち上がったのです。ろうそくはみんな、天井まで伸びあがり、てっぺんに花火をつけた燈心草の畑みたいになりました。
ビンとなりますと、めいめい二枚ずつ羊皿をつかみ、それをそそくさ、翼がわりにとりつけました。そして、フォークを足にして、四方八方ばたばたと飛びまわるのでした。「鳥そっくりだわ」アリスは、始まりかけた大混乱のなかでは、それだけのことを考えるのがやっとでした。
この瞬間、そばでしゃがれた笑い声がしましたので、白の女王がどうかしたのかと、ふり返ってみました。けれども、女王は見えず、羊の足がいすにかけているのでした。
「ここだよ!」スープ皿の中から叫ぶ声がしました。アリスがまたふり返ってみると、ちょうど女王の、人のいい幅広い顔が、スープ皿の縁の上から、一瞬にやっと笑うのが見え、たちまちスープの中へ消えてしまいました。
一瞬もぐずぐずできません。もう何人かの客は深皿の中で横になり、スープひしゃくは、テーブルを上ってアリスのいすのほうへ歩みよりながら、どいた、どいた、といらだたしくアリスに合図しているのでした。
「こんなこと、もうがまんできないわ!」アリスは、飛び上がってテーブル掛けを両手でつかみながら、叫びました。ぐいとひと引きしますと、平皿も深皿も、客もろうそくも、がらがらがちゃん、とひとかたまりになって、床の上に落っこちました。
「あなたったら」アリスは、はげしいけんまくで、赤の女王にくってかかりながら、言いました。赤の女王が、みんなこのいたずらを起こしたのだと思ったからです……だが、女王はもうアリスのそばにはいませんでした……女王はにわかに小さな人形の大きさに縮んでしまっていて、今はテーブル上にのっかかり、うしろになびいている自分のショールを追いかけては、ぐるぐる楽しそうに走りまわっているのでした。
別の時でしたら、アリスはこれを見てびっくりしたことでしょうが、このときだけはどんなことにもおどろかないほど気がたかぶっていました。
「あなたったら」アリスはくり返し、ちょうどテーブルに降りたったばかりのびんをまさに跳び越えようとしている小さな生きものをつかまえました。
「わたし、あなたをゆさぶって子猫にしてやるわ、ほんとよ!」(L)
第十章 ゆさぶり
そう言いながら、アリスは女王をテーブルの上から取り上げ、力いっぱい、前にうしろにゆさぶりました。
赤の女王は、ちっともさからいませんでした。その顔がたいそう小さくなり、目が大きく緑色になっただけでした。なおもアリスがゆさぶりつづけますと、ますます小さく……ずんぐり……やわらかに……まるまると……そして……
第十一章 目ざめ
……そして、やっぱり、ほんとうに子猫なのでした。
第十二章 だれの夢だったかしら?
「赤の女王陛下には、そんなにのどをゴロゴロお鳴らしあそばしてはいけません」
アリスは目をこすりながら、うやうやしく、でも少々きびしい調子で子猫に話しかけました。「あなたったら、わたしを夢から、ほんとにすてきな夢からさましてしまったのよ! キティや、おまえ、ずっとわたしといっしょだったのね……鏡のお国じゅう、ずっとね。おまえわかってたの?」
子猫の癖ったらとっても不便なもので(アリスはいつかこう言ったことがありました)どう話しかけても、いつもゴロゴロ言うだけなんです。
「『はい』のときは、ゴロゴロ、『いいえ』のときはニャオーと言うとか、なにかそんなおきまりでもあってくれたら」アリスは言ったことがありました、「お話がつづけられるのに! でも、いつもいつも同じことしか言わないひとと、どうやってお話できて?」
この時も子猫はゴロゴロと鳴くだけでした。で、それが「はい」なのか「いいえ」なのか見当がつきませんでした。
そこで、アリスはテーブルの上の駒の間をさがして、ついに赤の女王を見つけました。アリスは炉の前の敷物にひざまづき、子猫と女王を向かい合わせに置きました。
「さあ、キティ!」アリスは勝ちほこったように手を打ち合わせて叫びました、「おまえ、この女王になったんだって白状するのよ!」
(「でも子猫ったらそれを見ようともしないの」アリスはあとになってお姉さまにこのことを話してあげてたときに、言いました、「そっぽ向いて、見ないふりをしてるのよ。でもちょっと自分を恥ずかしがってるようだったわ。だから、子猫が赤の女王だったにちがいない、とわたし思うの」)
「もうすこしちゃんとおすわりしなさい!」アリスは楽しそうに笑って叫びました。
「それから何を……何をゴロゴロ言おうかって考えてるときは、おじぎをするのよ。そしたら時間の節約になるでしょ。忘れちゃだめよ!」アリスは子猫を抱き上げ、ちょっとひとつキスしてやりました、「おまえが赤の女王だった記念よ」
「いい子のスノードロップちゃん!」アリスは肩越しに白の子猫を見ながら、つづけました。白は、まだ辛抱してお化粧をしてもらっていました。「いつになったらダイナは白の女王陛下がすむのかしら? それだからきっと、おまえはわたしの夢の中であんなにだらしない格好だったのね。……ダイナ! おまえ、白の女王さまをごしごしこすってることわかってるの? ほんとに、無礼なことよ!」
「それからダイナは何になったのかしら?」アリスはなおもしゃべりつづけながら、気持ちよさそうに横たわり、片ひじはじゅうたんにつき、あごは手でささえながら、子猫をみつめていました。「ダイナ、教えて。おまえハンプティ・ダンプティになったの?
わたし、そうだと思うわ……でも、そのことおまえのお友だちには言わないがいいよ。わたし、確かじゃないから。
ところで、キティ、おまえ、ほんとうに夢の中でわたしといっしょだったとしたら、おまえがよろこびそうなことがひとつあったわ……わたし、それはたくさん詩を歌ってもらったの、それもみんな魚のことばかりなの! あしたの朝は、ほんもののご馳走をしてあげるわね。おまえが朝ごはんを食べてる間じゅう、わたし、おまえに『せいうちと大工さん』を暗唱してあげるわね。そしたら、牡蠣《かき》を食べてるつもりになれてよ!
さあ、キティ、あの夢を見たのはだれだったのか考えてみましょう。これは重大問題なのよ。だから、そんなに足ばかりなめてちゃいけないわ……けさ、ダイナがおまえを洗ってあげなかったみたいじゃないの。ねえ、キティ、夢を見たのは、わたしか、赤の王さまか、きっとどっちかだったのよ。むろん、赤の王さまはわたしの夢の一部だったわ……でも、わたしだって、赤の王さまの夢の一部だったのよ! キティ、夢を見たのは赤の王さまだったかしら? おまえ赤の王さまのお后《きさき》だったんだもの、知ってるはずよ……ねえ、キティ、どちらに決めるか助けてよ! お手々なんかあとでいいでしょ!」
けれども、腹の立つことに、子猫は別の手をなめはじめるばかり、質問なんぞ聞こえないふりをしていました。
さて、みなさんは、どちらだったと思いますか?
跋詩
かがやく空に小舟《ふね》ひとつ
漕《こ》ぎのぼりゆく、夢のよう
時は七月、昼たけて。
慕《した》いすりよるみたりの子
目かがやかし耳そばだてる
つたない話よろこんで。
かがやく空もあせて久しく
こだま消えゆき追憶|失《う》せて、
秋霜おりて七月|逝《い》った。
それでもアリスははなれない、まぼろしさながら
み空の下を動きつつ、
めざめた目にはさらさら見えずに。
いまなお子供のすがたして、話聞こうと、
目かがやかし、耳そばだてて
みんな、かわゆくすりよるだろう。
不思議の国に子ら横たわる、
日たつままに夢みつつ、
夏|経《ふ》るままに夢みつつ。
変わらず流れをただよいくだる……
黄金色《こがね》の陽光《ひかり》をゆるやかに……
人の世、それはついに夢?   (完)
解説
『アリス』作品の解説と鑑賞
〔ふたつの『アリス』について〕
『不思議の国のアリス』の巻末解説において、激しく変貌していくヴィクトリア朝英国にあって、自分を疎外された時代遅れと感じていたキャロルが、如何《いか》に≪外の世界≫に対して≪内側の世界≫というものに執しつづけたかということを、主としてキャロルの生涯に即して見たつもりである。また、川の流れとか、走る機関車のイメージに託して、如何にキャロルが、外の非人間的な世界を、どんどん≪流れていくもの≫として恐怖したかを述べてもおいた。
かつての穏やかな農村を、≪時の流れ≫がどんどん荒廃させていく時代だった。そうした社会の変貌が最も著しい時代に、最も変化の激しい土地に幼年時代をおくったキャロルであった。|万物は流れゆく《パンタ・レイ》という虚無感が深く根を張ったとおぼしい。
人間嫌いのキャロルは、七歳から十二歳くらいまでの少女にだけは興味をもった。この年ごろのあちらの少女というのは本当に写真うつりがよく、美しい。しかも明日《あした》は一人前の女になる直前の、奇妙に≪ぬめり≫のある青いエロチシズムめいたものを秘めた、いわく言いがたい、危険な存在といえる。愛した美少女たちは、時が満てば一人前の大人になっていく。こうして彼が愛した少女たち、アリス・リデルやアイザ・ボウマンと云った妖精《ニンフェット》が、キャロルの愛の国から離れていった。少女たちの肌の上を流れていく≪時間の流れ≫の上に、変化に満ち、キャロルのように永遠の子供じみた感性をどんどん不器用な時代遅れとして置きざりにしていく≪時代の流れ≫が重なった時、『アリス』が書かれたとも言える。こうした点を、もう少し『アリス』の作品に即して述べよう。
『不思議の国のアリス』が一八六五年、次作『鏡の国のアリス』が一八七二年に出版された。前にも書いたように、『アリス』物語のモデルとも言うべき少女アリス・リデルとキャロルとは、このころ悪化しつつあったキャロルとリデル家との関係がわざわいして会えなくなっていた。ふたつの作品を隔てる七年の間にこの関係は一層悪くなっていた上に、この間、キャロルの幼年時代を絶対的に支配した父親、チャールズ・ドジスンが死ぬ不幸にも見舞われている。第一作に描きこまれた、≪幻滅≫の調子《トーン》が、第二作では誰にも疑いえぬ強度で物語の表面に滲《にじ》み出てきたというのも、おそらくこうした事情を反映するのであろう。その上、第一作の大成功は第二作の執筆を著しく困難にした。同じ種《たね》、同じパターンを繰り返すことを読者が承服しないからだ。とにかく女主人公を兎穴《うさぎあな》に落としさえすれば、後は≪ひとりでに物語ができていった≫、第一作についてキャロル自身そう言っている。『不思議の国』には、本当に作者自身、発刺《はつらつ》とした言語遊戯を楽しんでいるような、のびやかな話り口と発想の自発性がある。その成功が、次作における困難をもたらしたのだ。言わば、妙に肩を張った芸術家気取りが入り込んできた。悪夢に見るほど、キャロルは第二作の制作には頭をしぼりにしぼった。その結果、チェスボードとその規則《ルール》でもって物語全体の動きを支配させるという、いかにも考え抜いた装置を思いついたわけである。
実際にキャロルはチェスの名手として知られていた。初めて『鏡の国』を読まれる方は、自分が巨大なチェス盤上のひとつの駒《こま》だと知らぬアリスが、他の人物たちの奇妙な運動を見て当惑するのと同様、何が何だかわからぬ当惑をおぼえられることだろうが、これが一切、チェスのルールに依《よ》っていたことがわかると、その巧妙さに改めて感心するわけだ。たとえば、アリスをエスコートしてくれるドン・キホーテ然たる白騎士は、進むごとに落馬する不器用な男だが、これはチェスのいわゆる桂馬とびの、ぎくしゃくした運動になぞらえたものだ。最初は歩《ポーン》の駒(少女)にしかすぎないアリスが、いろいろな冒険の末、女王《クイーン》の駒になる(一人前の女になる)までの行程、彼女を守り抜き、最後にセンチメンタルに別離を告げる発明狂の白騎士の中に、キャロルは実生活上の、少女たちとの別離の感傷を書き込んでいる。
こうした≪感傷といった人間的な要素≫は、第一作では周到に排除されていた。それは妙にカラッと知的遊戯の煌《きら》めく世界であり、|気違い茶会《マッド・ティー・パーティ》のやりとりのごとき狂気すれすれの活力あるやりとりをも自然に感じさせ、楽しませるようなドライな作品世界だった。
第二作では、≪永遠の子供≫であるべき男が、やがてまずいことにいじくろうとするようになる、愛だとか別離の感傷だとかいう、およそ言語遊戯の精神とは相容《あいい》れぬ種類の、いわば≪大人のテーマ≫が堂々と入り込んできてしまっている。前に、内なる不安を抑えようとすればこその規則《ルール》、規則《ルール》であると書いたが、≪チェスのルールを作品全体を支える構造的軸に据えたこと自体≫、第一作では大して問題にならなかった不安な要素が、第二作執筆のころまでに肥大してきたことの何よりの証《あかし》なのではないだろうか。
一体物語がどっちの方にころんでいくかわからぬ体《てい》の、八方破れな活力《エネルギー》を盛った第一作か、それとも隅々にまできっちりと芸術家の計算が行きわたって静的な知性の働きの勝った第二作か、おそらくは最もキャロル的な精彩は前者の中に求められるべきだろう。
しかし、≪外≫の、ヴィクトリア朝の現実は、子供でいよう、内なる無垢《むく》に執しようとしたキャロルをそのままにしておくような生易《なまやさ》しいものではなかった。ふたつの『アリス』もの以後、一八七六年の『スナーク狩り』、八九年からの『シルヴィとブルーノ』と続く作品系列は、大人になれぬ感性が無理やりに大人にされ、まずいことに自分でも大人になろうという気を起こした、その無理さと、それを制御しようとする、技法の工夫に工夫を重ねた苦役仕事のプロセスと言える。人間的なテーマの介入、それに拮抗《きっこう》しようとする規則《ルール》と技法《テクニック》の導入、『鏡の国のアリス』は、こうした危険な両極を孕《はら》んでしまったのだ。「流露性の点で失ったものを精巧な工夫で補おうとした」キャロルの、妙に芸術家くさくなったところを、さすがに目ききのハリー・レヴィンはちゃんと指摘しているとつけ加えておこう。
このようにふたつの『アリス』は決定的に違った印象を与えるのだ。しかし、ともかく、ひとりの少女が、地下にしろ、鏡の奥にしろ、≪こちらの現実≫をひっくり返した≪あちらの反世界≫に入り込み、冒険の末、≪こちらの世界≫の中に≪めざめ≫、≪回帰して≫くるという、そしてその≪めざめ≫がそれで終わりでははく、『不思議の国』ではアリスの夢をお姉さんが繰り返し見るし、『鏡の国』では目ざめたあとに、アリスが本当に自分がチェスの王様《キング》の夢の中の幻にすぎないのか、それとも王様が自分の夢の中の幻なのか……という不安を訴えるというわけで、また、≪新たな夢見への可能性≫がいつまでも余韻するといった根本的な構造は二作に完全に共通している。アリスが、混沌《カオス》と化した夢の世界からほとんど暴力的に身をふりほどいて帰ってきた≪こちら≫側の世界だが、それは元のまんまの退屈な世界にすぎないからだ。
「こうして、お姉さんは、目をつむってすわっていましたが、なかば自分も不思議の国にいる気持ちでした。もっとも、お姉さんはまた目をあけさえすれば、何もかも退屈な現実にもどってしまうのだということは知っていました……」(『不思議の国』)
≪目ざめること≫が、その人をもう一度、夢へ、ユートピアへ、彼方《ラ・バ》へ、と誘惑するような、白けた≪幻滅に他ならない≫のだという幕切れは、完全にふたつの『アリス』に共通している。この≪幻滅のテーマ≫には最後にもう一度帰ることにして、しばらくは二作に共通する話題を選んでみよう。
〔意味を欠いた言葉〕
二つの『アリス』に共通するのは極端に≪遊戯する言葉≫たちである。一番おかしいのは、例の|にせ海亀《モック・タートル》が科目の名を列挙するところだろう。最初の日は十時間のレッスンが、翌日には九時間、その翌日には八時間……といった具合に減るのだが、このアイデアは≪レッスン≫と≪減る lessen≫という言葉が≪音としては≫全く同じであることを巧みに利用しているにすぎない。ねずみのお話が、ねずみの尻尾《しっぽ》の形になってしまうのは、話 tale が、尻尾 tail とやはり同音異義語《ホモニム》であることに基づいている。ずぶ濡れの連中が体を乾かす(dry )間にされた話に聞き手のひとりが、「最低につまんねえ話だ」(This is the driest thing I know.)と言う。相手が「……じゃあない」(not)と言うのを、ものの「結び目」(knot)と聞きちがえた方は、そこから、何かをほどくという話にズレていく。
にせ海亀が説教くさいのはなぜかというと、これまた、≪音の上での≫遊びだ。つまり亀(Tortois)は、〈我らに教えを垂れる〉(tanght us)動物なのだ。
| 軸《じく》(axis)は|、斧《おの》(axes)と取り違えられるし、お嬢さん (Miss)という呼びかけは、へまをする(miss)というように誤解される。
『鏡の国』で、アリスが女王ふたりからテストされる場面など、こうした 言語遊戯《ワード・プレイ》の極端な例である。
「粉 flour を取って……」
「その花 flower はどこで摘むのじゃ。庭か、それとも生垣かね?」
「あの、摘むんじゃないの、ひく ground のよ」
「その土地 ground って、何エーカーぐらいあるの(どのくらいひくのじゃ)? そうたくさんのものを省いてはならぬぞよ」
同音異義語《ホモニム》の遊びの次には、直解主義《リテラリズム》(慣用句を字義どおりに解釈してしまう類)の、とぼけた面白さがフルに利用される。これの大盤振舞いは、気違い茶会の中のやりとりである。「拍子をとる」beat time という言い方が、文字どおり「≪時≫をぶん殴る」というようにとられ、やがて「≪時≫を殺す」murder time という妙な言い方を生み、「殺される」≪時≫に同情した帽子屋は、≪時≫をそれ(it)で受けないで≪彼≫(him)で受ける、という≪とんちんかん≫なやりとりになる。「絵を描く」draw という話を一方が、「水を汲む」draw と誤解するところから、井戸の話へと脱線する。思うに、話の質としては全く異質のものを、『アリス』の中でどんどんつないでいくのは、こうした≪言語遊戯の脱線作用の力≫なのである。
醜《みにく》い女公爵の忠告を逆にして「≪音≫にさえ気をつけてりゃ、≪意味≫の方は自分で何とかするわ」と言い直せば、これが『アリス』の言語の原理である。
普通なら≪もの≫があって言葉がついていくが、キャロルは≪音≫の純粋な遊びがまずあって、それが≪もの≫をつくり、話をすすめていくような変わった世界をこしらえる。「バタつきパン蝶 」Bread and butter-fly などという珍奇な昆虫が登場するが、これなどは≪バタつきパン≫ Bread and butter という言葉と、蝶々 butterfly という言葉の絶妙な結びつきによる、言語の、それも、≪音≫の中にしか生息することのできない生物なのだ。もっと大仕掛けなのは、『鏡の国』の第五章で、チェスの女王が羊に変身してしまう話かもしれない。≪音≫の遊び以外にこの変身を説明するものはないのだ。「断然いいわ」(Much better!)と 呟《つぶや》いているうちに、女王の言葉は Much be-etter! Be-etter! Be-e-etter! Be-e-ehh! というようにどもりはじめ、アリスが「なんて羊の啼くのに似てるの」と思ったとたん、女王は羊に変わっていて、アリスと羊の、例によってボートで≪水の流れ≫をすべっていく話へと展開していく。
女王が羊に、針がオールにどんどん変わっていく光景を前にして、アリスは当惑してしまう。「ここでは何もかもが≪どんどん 流れちゃうのね≫」(Things flow about so here!)……これが彼女の印象である。これはアリスとの思い出のボート遊びの日、アイシス川の川面にキャロル自身が受けたあの当惑感と重なるのではあるまいか。いたいけな少女を水鏡に映したその川が自らの名とした女神イシスとは古代神話の中では、同時に母であり、妹であり、恋人でもあるという≪女性≫そのものの象徴であり、しかも≪変容≫の象徴ではなかっただろうか。≪流れゆく女≫というテーマがキャロルの一生を貫流したが、キャロルの言語もこの強迫観念から自由たりえないのだ。実際、ちょうど≪外≫の世界が変転はてない≪流れ≫のセンスでキャロルをいらだたせたように、言葉の中にキャロルが見たのも、どこにどう手がかりをもっていいのか、読者をもいらいらさせる体《てい》の≪流れ≫のセンスではないだろうか。≪音≫と≪意味≫とが不断に追いかけっこする、ハンプティ・ダンプティのああ言やこう言う式の≪のらりくらり≫は、やがて白の騎士の歌の名をめぐる、はてのないやりとりで極限に達する。
「歌の名は、『たらの目』と≪呼ばれる≫ものじゃ」
「まあ、それが歌の名ですの?」
「いや、そなたにはわからん……名がそう≪呼ばれる≫ということじゃ。実の≪名≫は『年老いたる人』じゃ」
「では、わたし『歌はそう≪呼ばれる≫」って言えばよかったのね?」
「いや、そう言えばよかったというわけではない。それはまったく別問題じゃ! 歌は『方法と手段』と≪呼ばれる≫が、そう≪呼ばれる≫、というだけのことじゃ!」
「あら、ではその歌、何ですの?」
あるいは気違い茶会などの、まさに狂気的という他ない、やりとりの≪流露≫感は何なのだろう。外の世界の、流れゆく様相に直面して、言葉の中に逃避したはずのキャロルが、そこにまた≪流れゆくもの≫を見たのだろうか。簡単には断定しえない問題だが、外の世界で時間や時代の巻きおこす≪流れ≫との、およそ勝ち目のない争いから目をそらしたキャロルが、自分で何とか操ることのできそうな言葉たちに託して、外ではとうてい直面しえぬ≪流れ≫の感覚《センス》を、いわば安全地帯の≪中で代償的に≫楽しみ、弄《もてあそ》んだということはできそうだ。
キャロルの言語遊戯は、確かにヴィクトリア朝の現実への嗤《わら》いである。外の世界では、発展する一方の経済大国にふさわしく、≪言葉よりも、ものが≫、あるいは言葉の中で言うなら、≪音よりも意味内容が≫重視されていたわけなのだから、≪もの≫が、逆に≪音≫の遊戯的な組合せからつくり出されるようなキャロルの言語宇宙は、たしかに時代への諷刺である。つ・く・え、そういう音はそれ自体としては気まぐれな唇のふるえ、風の呟《つぶや》きにすぎない。それなのに、そう言いさえすれば、木でできていて、その上でものを書く、例の≪もの≫を誰もが思い浮かべるとして、それは単にその≪もの≫を≪つくえと呼ぼう≫という、人間たちの勝手な約束事にすぎないじゃないか、おかしいじゃないか、そういう感覚がキャロルにあって、誰もが無自覚にしゃべり散らし、書き流していたヴィクトリア朝の只中、それはたしかに稀《まれ》な感覚ではあった。
この感覚を手がかりに、十八世紀の壮大な言語遊戯のバロック模様、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』、あるいは二十世紀のジェイムズ・ジョイス、サミュエル・ベケットの≪音≫の饗宴、その中間に『アリス』の、英文学における、隠れた正統の系譜を要求することができるはずである。
考えてみると時代そのものが英語という言葉に関心をもち始めていた。わざとらしいほどの擬古的文体がテニスン、ロセッティ、ホプキンズらの同時代詩人をとりこにする。英語の正用法に関する議論かまびすしい傍で、古代英語の純正テクストを出版するEETS協会が隆盛を誇る。そして未曾有《みぞう》の大辞典『オックスフォード辞典』も軌を一にして刊行が始まる。こうした時代背景に、キャロルの肉体的条件が重なって、そこにキャロルの宇宙が生まれたのである。
言語の中では、伝えるべき内容、意味と、それを伝える音、形式というふたつの要素が一体になっている、と一般には思われている。それを≪意味と音とに分けて≫、音の奔放なアクロバットの前に、意味などどっかへ行ってしまえという体の≪キャロル語≫とは、最近の言語哲学の方法を先取りする、独創的なものであるが、想像するに、作者の病身で≪どもり≫の、不具の肉体、時の≪流れ≫にもろにさらされた≪自己の肉体への嫌悪≫からでてきたものではなかろうか。≪肉体をもたぬ目玉≫とも言えるチェシャー猫とは、キャロルの憧憬《あこがれ》の表現である。言葉を意味と音とに腑分《ふわ》けする、ほとんど解剖学的な手つきには、自らの不具の肉体を切りさいなんでしまいたいという秘かな夢想を通して、≪解剖≫へのキャロルの幼児からの異常な興味という伝記的事実が奇妙にすけて見えはしないだろうか。キャロルがとりわけ、≪否定≫の文法要素を弄ぶ言語遊戯で抜群の精彩を見せるのは偶然だろうか。「誰も見えない」I see nobory.という言葉が、例によって、|誰でもない人《ノーボディ》が見える、というふうにとられ、おまけにこの男が現実に出てきたりする。≪非≫誕生日祝いなどという奇天烈《きてれつ》なプレゼントの話や、何も出てないのに出されていると主張される酒の話、とりわけ、ローソクの本体がないのに燃える炎の話など枚挙にいとまがない。どうやら、キャロルには非在への、消滅への暗い憧憬があったとおぼしい。時折りしも、ドーヴァー海峡の向こうで『半獣神の午後』(一八七六)の言語彫琢詩人ステファヌ・マラルメが、「肉体は悲しきかな。逃れなん、彼方へ」と歌い、言語内部での我と我が肉体の「至高の消滅」を憧憬していた時であった。
『スナーク狩り』では、主人公は魅惑とも恐怖ともつかぬ闇へと落ちていく。おそらく、キャロル自身の肉体への憎しみが、≪言語の肉体である意味性を消滅させて≫、言語を音という≪器≫へと還元させたのだし、また、おびただしい数の詩の、その≪肉体とも言える情緒性を葬って≫、これをパロディ(変え唄)の具として空洞化させていったというのが真相のようである。アリスや人物たちが口ずさむ詩はすべて当時、学校で暗唱の教材になり、広く流布していた詩行を、徹底的に≪換骨奪胎《かんこつだったい》≫したものなのである。同じように、≪女からその肉体とも言える性を消した時≫、純粋な形態《フォルム》としての美に自立した少女たちがいたわけなのだ!
〔児童文学としての意味〕
≪意味≫を至上とする神話をこれほど諷刺している『アリス』が、ヴィクトリア朝児童文学史でユニークな転換点を成すとしても、それは当然なのである。≪もの≫を、そして意味《モラル》を優先させる社会が子供の世界にひきうつされると、それは「いい子だから……するのよ」式の教訓《モラル》の優先という現象になるだろう。
ヴィクトリア朝は、児童文学の大流行した時期だが、キャロル以前の児童文学には、ラスキンの『黄金河の王様』(一八五一)、キングズレイの『水の子供たち』(一八六三)といった、類書中では図抜けてファンタジックなものにさえ、必ず「……だから、こうしましょう」という教訓《モラル》がついている。一体、『アリス』のどこにそんなものがあるだろう。児童文学史上、『アリス』の占める意義は、学校風モラリスムからの訣別と、言葉の純粋無償の戯れによる、いわば垂直的な空想の飛躍なのだ、と言われる。確かに『アリス』以降、児童文学はモラルからファンタジーへと色彩を変えていった。
オスカー・ワイルドの「王女の誕生日」(童話集『柘榴《ざくろ》の家』中の白眉。一八九二年刊。作者が自らを寓喩したとおぼしき醜悪な侏儒《こびと》が宮廷人に弄ばれ、水鏡のわが姿を見た途端死ぬという一読戦慄の童話)が耽美《たんび》的にまでつきつめられた情緒性の面でついに〈童話〉を遥かに越えてしまったように、『アリス』は乾き切った知性の外見において〈童話〉をあっさり越えてしまった。
『アリス』は、作者の生前にかなりの収入をもたらした。成功したわけだが、本当にその面白さに酔ったのは、残念ながら子供たちではなく、彼らの両親の方だったらしい。ワイルドの方は、たとえばアラン・ガーナーの、ポオとかエミリー・ブロンテの暗い愛欲模様さながらの〈童話〉、『ふくろう模様の皿』のような後継者をもつが、『アリス』の方は今日なお凌駕《りょうが》するものが現われていない。もっとも世紀転回期に活躍したG・E・ファロウのように優れた模倣者はいたにはいたのだが。
単純な教訓《モラル》がないばかりでなく、『アリス』を同時代の紋切り教育に対する批判として読むこともできよう。『不思議の国』の最初の所で、「絵も会話もない」本にアリスが退屈している所がある。それでキャロルは、ジョン・テニエルという当代一流のさし絵画家の絵の入った、そして生き生きした会話にこそその本の精髄があるような、斬新な童話を書く気になったわけなのだが、ともかく当時の童話なるものは退屈な代物ばかりなのだ。
退屈なのは童話ばかりではない。学校の授業だって型にはまり切っていた。逆さに落ちていきながら不安にかられたアリスは、学校で教えられた事を復習し、その威力で落ち着きを得ようとするが、「猫がコウモリを食べるのか?」その逆なのか全くわからないまま、九々《くく》をやって失敗してしまう。
「ええと、四五の十二、四六の十三、四七の……あらまあ! この調子だと、二十まで行きつかないわ! 九々表なんて意味ないわ。地理をやってみましょう。ロンドンはパリの首府でパリはローマの首府、そしてローマは……いや、これはたしかにみんな間違っているわ。わたしメーベルに変わったんだわ! 『なんとかわいい……』を歌ってみよう…」(『不思議の国』)
今度は、学校で叩き込まれたアイザック・ワッツの『子供の讃美歌』(一七一五)の中にあった蜜蜂の歌を暗誦しようとするわけだ。ところが本歌の方の蜜蜂が、やさしくほほえみながら顎《あご》を開いて魚をあざむき食う鰐《わに》に変わってしまうのだ。『アリス』の中にたくさん出てくる、これらの|もじり歌《パロディ》は一切、当時の学校で幼児が教えこまれる童謡を、たとえば牡蛎《かき》をだまして食べる大工とセイウチの唄のように、ほとんど無意識裡に≪何かが何かを食べる≫というテーマにそって変えてしまうのである。
近代文明が田園風景を食っていく、金の世の中が心と人の世の中を食べていく……といった、キャロルの幼児期からの文明観がある。アリスがいつも卵や肉を≪食べる話≫をして、人のいい動物たちをこわがらせているのにお気づきだろう。一八五九年に『種の起源』がでているから、時あたかも弱内強食の思想の全盛期である。
キャロルはあちこちで≪円環のテーマ≫をつかって、盲目的に目的に邁進《まいしん》する時代の≪直線的な≫思潮(そのイメージが汽車だ)を諷刺する事がしばしばである。たとえば、「猫がこうもりを≪食べるか≫」その逆かわからないという話、あるいは参加者が好きなように走り出し、好きなように止《や》めて、しかも全員が一等という、あのうすらとぼけたコーカス・レースの円形の競技場の話などだが、その中に含まれている要素の全き等価性を意味する、この無窮に循環する円環《サークル》ないし回転《サイクル》のイメージとはどうやら、自ら弱者と感じているキャロルが、時代の優勝劣敗の気風に対してひそかに仕掛けた解毒剤なのだ。大体、子供というのは、難かしく言えば口唇性欲《オーラル・エロチック》の段階にいるわけだから、何でも食べよう、なめようとするものだ。しかし、いかに〈童話〉とは言え、『アリス』ほど≪何かが何かを食べてしまう≫という話を累積すると、いわく言いがたい陰惨さをくゆり立たせるものだ。やはり、ダーウィン・ショックの深さというところなのだろうか。
とまれ、『アリス』中の動物たちは、きのこ上の芋虫先生はじめ、さかんにアリスに教えを垂れるのだが、そこにしゃちほこばった教師の口調を見る事は易しいし、『鏡の国』でアリスにテストをする(!)女王《クイーン》のひとりは、まるで「女家庭教師のエッセンス然と」している。『アリス』を、人間の側からする御都合主義的な人間と動物の区別、人間が勝手につくり上げた言葉、時間、裁判……といった神話のウソがひとつずつ吟味されていくプロセスととらえ、しかし、こうしてウソさ加減のあばきたてられたはずの≪こちら側≫へアリスがほとんど「本能的な恐怖から」(D・ラッキン)暴力的に身をふりほどいて帰ってくるプロセスと考える時、その過程であばかれる代表的な虚構《フィクション》が、同時代教育理念の根本にあった、硬直せる教訓主義であり、モラリズムであったのはたしかなようだ。
〔思想史的な意味・白紙のページ〕
英語の≪モラル≫という言葉には、今言った≪教訓≫という他に、いわゆる物ごとの≪意味≫という定義があるが、『アリス』のモラリズムへの批判は教訓道徳《モラリズム》に対してのみか、≪意味≫を優先させる言語観、世界観への思想史的な批判でもある。
訳のわからぬ周囲の世界に対して不安にかられたアリスは、「これはどういうことなの?」「これはどういう意味なの?」と、その≪意味≫を知ろうとする。『アリス』を、自分がその一部なのに全体を見通せないアリスが何とかして、その不定形《アモラル》な世界から、自分の知っている≪形≫をとり出し、無意味《ナンセンス》のただ中から意味《センス》を引き出そうとする意味探求の物語と見る立場があるほどだから、『アリス』の中で「意味する」という言葉がたくさん出てきても不思議はない。ある登場人物などは「すべてのものには、その意味がなけりゃあね」と言いさえしているではないか。
先に≪もの≫とその≪名前≫や≪意味≫とは≪本当には何の関係もない≫のだというキャロルの考えをちょっと書いたが、これは十九世紀末からの、難しく言えば認識論とか、存在論とか呼ばれる分野の問題意識と関係がある。前に引用した白騎士の歌の名前の話がいい例だ。≪名前をつける≫こと、≪呼ぶ≫こと、それがいかに実際の歌≪そのもの≫の周りを、ただぐるぐるまわる空しい営みであるか。『鏡の国』の人は、「名前なんて、それをつけようとする奴にだけ都合のいいものなのさ」と言う。我々が≪名称≫と呼び、≪意味≫と呼びならわしているものとは、存在≪そのもの≫と何のかかわりもない、人間本位の約束事でしかない。世界に対して、人間たちの方から押しつけていった≪名前≫であり≪意味≫に他ならないのだ、という『アリス』一流のテーマは、大げさに言うなら、≪言語≫と≪もの≫との乖離《かいり》についての、あいは言語動物たらざるを得ない人間が、あさはかな言語を介して、ついに非言語的でしかない世界の意味を知ろうとする〈探究〉のむなしさについての、十九世紀後期からの問題の先駆とも言える。
『鏡の国』に、何ものも名前をもたない不思議な森の話がでてくる。お互い名前をもってしまうことでお互いに区別するということがないわけだから、アリスと鹿は仲睦まじく散歩している。そして森の出口で、君は人間、僕は鹿だと≪名前≫がつくや否や、鹿は逃げ去り、アリスはアダムとイヴよろしく楽園を追放されてしまうのだ。存在は言葉の中に光りながら落ちてくる一方、同時に自らを人間から無限に遠ざけるという考えが、『存在と時間』(一九二七)のドイツの哲学者、ハイデガーの悪夢であったわけだし、一方、すべてでありながらついに何者でもない白い鯨の≪白さ≫の中に、見る人ごとに別々の勝手な意味を読みとることの悲劇的なおかしさを叙事詩的奇作『白鯨』(一八五一)の中に書いたハーマン・メルヴィルともキャロルは同時代人であった。そして、この時代には、人間本位の意味と言葉の介入を拒むような白い空間が多くの作家を魅了したもののようだ。いわゆる白紙《タンブ・ラサ》に憑《つ》かれたメルヴィル(『白鯨』)、白い海の物語を書き続けたポオ(『ゴードン・ピムの冒険』)、何よりもマラルメ(『海の微風』)がいる。作家たちにとっては、自分たちが、むなしい言葉で何かを≪書く≫という行為そのものが、書かれつつあるはずの世界とは何のかかわりもない、という幻滅になったのである。
少女アリスの夢と空間とは、ひとりの言語≪芸術家としての≫キャロルに即して見ると純粋無償の言語の可能性を極限までためしてみる場であったわけだけれども、そうだとするとそこからの覚醒《めざめ》にまとわりつく幻滅感とは、ひとりアリスのものではなく、作家ルイス・キャロルのものでもあったはずなのだ。
『鏡の国』の第十章、第十一章は何度見てもおそろしい頁だ。≪あちら≫が≪こちら≫へと、≪夢≫が現実へと収斂《しゅうれん》させられる〈覚醒《めざめ》〉の瞬間、≪作家≫キャロルは言葉を失うのだ。第十一章にいたっては、ただ一行だけ、
……そして、やっぱり、ほんとうに子猫なのでした。
とある他、だだっぴろい白紙の沈黙があるばかりなのである。覚醒《めざめ》とは、幻滅なのだ。
〔十九世紀的ユートピア〕
キャロルにとって、『アリス』は、理不尽な現実を嗤《わら》い、それから自分を守ってくれるはずの、ひとつの解放の場であったはずだ。しかし、では現実をひっくり返した≪あちら≫の世界を完全に認めているかと言えばそうではない。お読みになれば分るが、アリスは≪あちら≫の世界でも、依然ヴィクトリア朝の良家の子女そのものの、さかしらな常識を決して捨てないで、動物たちとは袂《たもと》を分っている。そして、動物たちとアリスのどちらが正しいということは言わず、お互いがお互いを≪かわるがわる≫嘲笑し、諷刺するようにキャロルは書いている。
≪こちら≫がいやだからと言って作った≪あちら≫だが、≪あちら≫が≪こちら≫よりいいという確信ももちえない。キャロルは、≪こちら≫の少女を≪あちら≫に送りこみ、それを≪こちら≫につれもどしたけれども、前に書いたように、帰ってきた現実《こちら》の相変わらずのつまらなさのために、夢《あちら》と現実《こちら》はどちらが一方的に勝つこともないままに、ちょうど猫とコウモリのように、≪いつまでもぐるぐる回る≫のだ、『アリス』の幕切れはそういうふうになっている。『鏡の国』で作者は、ついにその判断を読者にゆだねようとする。「さて、みなさんはどちらだったと思いますか?」と。
キャロル自身、どっちかわからないのである。自己の内側の幻想的世界に対してさえ、ある醒《さ》めた距離を保たざるを得ない作家の姿がそこにある。『アリス』全ての主題は、ユートピアへの、≪同時的≫な憧憬=幻滅ということに収斂《しゅうれん》する。けだし、倦怠と退廃に化しつつあった十九世紀ブルジョワ夜警国家の偽善と圧力が、この時代におびただしい数のユートピアの夢を、詩人、画家に見させる。
これほども人々が、楽園を夢見た時代はない、と『世紀末芸術と象徴主義』の著者ホーフシュテッターは書いている。そしてそれにつづいてすぐ、「しかし、これほども同時に幻滅につきまとわれた楽園幻想の時代もまたなかった」とホーフシュテッターがつけ加えざるをえない、そうした時代だった。遥けき太洋の彼方の桃源境といったユートピアのロマンはない。女々《めめ》しいまでにこじんまりとし、人工的きわまる密室がこの世紀のいじましいユートピアである。「実験室とスタジオ、これが十九世紀のユートピアだ」(W・サイファー)というわけで、「ガラスの城」と呼ばれたキャロルの写真スタジオこそは、フランス第三共和制の偽善的なプチ・ブル社会という外の世界に反抗したユイスマンス(一八四八〜一九〇七。フランスの神秘主義的小説家。『彼方』と『さかしま』が主作品)描く退廃の徒デ・ゼサントの居城フォントネエや、英国随一の富豪にして退廃的趣味人ベックフォート(一七六〇〜一八四四。イギリスの小説家。主著『ヴァセック』は英国暗黒小説の代表作とされる)のフォントヒルの豪邸の、あの隔離された内側、悲惨な安堵感の仲間なのであった。≪流れゆくもの≫に抗してつくられたはずの言葉の世界の、あろうことかその中心にキャロルは≪流れゆくもの≫を発見したと先に書いた。言わば≪どもる≫ことでキャロルは言語の≪流れ≫を切れ切れにしようとしたのに、〈その本性によって≪流れざるをえない≫言語〉(バシュラール『水と夢』)によって復讐されたのだ。
現実世界は、その矛盾と圧迫でキャロルを、時間のない、言葉たちのきらびやかにたわむれるユートピアへと逃避させたけれども、そうかと言って彼にその安息の地にすっかりとどまることをも許さぬほどには十分堅固なものだったのである。幻滅。目ざめていること、それは幻滅ではないのか。大人になること、近代文明をおしすすめること、皆、幻滅、幻滅なのだ。「人の世は、それはついに夢?」
これがキャロルのエピグラフなのである。 (高山宏)
高山宏……一九四七年生まれ。東大大学院修士課程修了。英文学専攻。専門は十七世紀綺想派詩人とマニエリスム演劇。十七世紀以後の異言語現象と、それを生んだ肉体(特に視覚)的、社会的条件という研究テーマからキャロルに親しむようになった。
あとがき
近年イギリス文学研究の上に生じた一異変、それはルイス・キャロルの作品に対する名だたる文人、学者たちのにわかな傾倒ぶりである。これまで、代表的な英文学史でさえキャロルの文学を正面切って論じたり、重要な文学作品として紹介しているものにはめったにお目にかかれなかった。ところが、キャロルの、とくにアリスものに関する独立の論文や著作は本国のみならず、わが国でも加速度的にふえている。それは従来キャロルの作品が単なる児童読みもの、もしくはノンセンスものとして取り扱われ、オーソドックスな英文学史などではまじめに論じるに当たらないと考えられたためであろうか。いや、どうもそうではなく、むしろ作品のもつ不可解性、近づきがたい、しかし魅力的な謎めく要素のために、危険なものには近づくなといった心境からではなかったか。
しかしいまや、ルイスの諸作品について、伝記、社会学、論理学、哲学などなどの側面からするすぐれた専門学者や文人の論考が続出している。ここでそれらをいちいち紹介するわけにはいかないが、こういう事実を頭においてアリスものを読むことも、必要な用心をもって行うならば、読み方に広さと深さと確かさとを加えることになるだろう。
さて、そういう綜合的研究を踏まえ、それに独自の見解を加味して見事にまとめ上げたものが高山君の「解説」である。二十台の少壮気鋭な学究であった高山君がたまたま学部の助手として親しく言葉を交わしているうちに、アリスものへのなみなみならぬ造詣の持主であることを感知した訳者は、ぜひ「解説」を書いてほしいとお願いした。一度は断られたのを無理にたのみこんで、ついに精細な「解説」……人と文学(姉妹篇『不思議の国』所収)……および、作品の解説と鑑賞、それに「年譜」(『不思議の国』)をまとめて頂いたことは、大きな僥倖《ぎょうこう》であった。読者がこの「解説」を読まずじまいにするなら、それはアリスものへの不可欠な理解の重要部分をみずから放棄するものだと言っても過言ではない。
それと同時に、読者はあらゆる作品に接する折の、あの「進んで不信を停止する」という読書法を鉄則を守って、自分の知性、感性、想像力などを十二分に働らかせ、あくまで主体性を重んじた我流の読み方を楽しんでもいいはずである。だから、『イソップ物語』やバンヤンの『天路歴程』やスイフトの『ガリヴァ旅行記』やヴォルテールの『ミクロメガス』などを勝手に連想し、そこからアリスの寓意、諷刺の性質を考えてみるのも、また別個の感興であろう。あるいはキャロルの筆のままにその幻想世界に幼児の心をもって没入し、現実世界からひととき離脱して、無気味とも言えるそのノンセンスを楽しむのもよい。要するに、読者の年齢と体験とに応じてさまざまな読み方が可能であろう。果たして幼いアリスはどう読み取ったのであろう。
『不思議の国』と『鏡の国』とを訳し終えて、訳者の心にもっとも執拗に居残ったイメージのひとつは、この世に見捨てられた中年男が、ただひとり自分に無垢な愛着を示してくれる童女を、手を変え品を変えして楽しまそうと懸命になっているイメージである。これをやや大仰に形容するなら、万葉の一首をもじれば、「いにしえを恋い渡り鳴くほととぎす」のそれであり、キーツの名句を借りれば「けがされない静寂の花嫁」に永遠にとどかない手を差し伸べる男の姿である。ということは、これら奇怪な児童物語が実は、二度も三度も剥《は》げば、世俗のものさしでは計られない悲しい恋の告白だと訳者にはきこえたと、いうことである。
先年オックスフォードのクライスツ・チャーチ・カレッジを訪ねた折、たしかそのコモンルーム(教授の社交室)であったか、歴代の有名教授連の大きな肖像が壁いっぱいにかかっている中を目を走らせてキャロルをさがしたが、ついに、それはもっとも目立たぬ一隅、つまり入口扉のすぐ上の空間に、一段と小さくなっておさまっていた。皮肉にもキャロルの声価はその専門の数学の上ではなく、偶然にものした文学作品によって年とともにますます広がる一方であり、あの多数の大きな肖像全体を圧倒する勢いである。
おわりにアリスものの評判にはテニエルのさし絵が少なからずあずかっている。本書でもそれらをさしこむことにした。(多田幸蔵)
〔訳者紹介〕
多田幸蔵《ただこうぞう》
大正五年、福岡生まれ。東京大学英文科卒。現在東京大学教授。主著『イギリス文学史』、『ピューリタン考』、訳書ラッセル『権威と個人』、R・グリーン『悲運の旅人』、同『パンドスト王』他。
鏡の国のアリス
ルイス・キャロル/多田幸蔵訳
二〇〇三年三月二十日 Ver1