ルイス・キャロル/多田幸蔵訳
不思議の国のアリス
目 次
ルイス・キャロルの献呈詩
第一章 兎穴を降りて
第二章 涙の池
第三章 コーカス・レースと長いお話
第四章 兎、小議案を提出
第五章 芋虫の忠告
第六章 豚と胡椒
第七章 気違い仲間のお茶の会
第八章 女王のクローケー・グラウンド
第九章 にせ海亀のお話
第十章 海老のカドリール
第十一章 誰が饅頭を盗んだか?
第十二章 アリスの証言
解説
ルイス・キャロルの献呈詩《けんていし》
きんきらお日さま昼下がり
ゆるりゆるりと滑りゆく、
それもそのはず、櫂《かい》取る腕は
かわいらしくもつたない技量、
それでも道中おまかせと
小さな腕の空《から》力《りき》み。
さてもつれない三人衆よ。夢見まほしい
お天気の、頃《ころ》も頃とてこんな時
つたない話をせがむとは!
それでもひとりの弱声が
三人《みたり》の声に勝てようか。
女王然たる姉さんは
「始めよ!」ときつい勅令《ちょくれい》、
次女は口調もややおとなしく
「おかしいものを」とおねだりすれば、
かたや三女は矢の質問で
のべつ話の腰を折る。
やがて、にわかにしんとなり、
夢見心地であと追うは
鳥やけものと語らいながら
もの珍しい不思議の国を
めぐり歩きのお伽《とぎ》のその子、
なかばまことと信じつつ。
そしていつものことながら
お伽《とぎ》の泉もかれ果てて、
「あとは今度」と弱々しくも
疲れた作者が話をそらせば、
「いまが今度よ」と同音に
さもうれしげなみなの声。
不思議の国のおはなしは
こうしてぽつぽつできました。
しぼり出された奇妙な事件
やっと話もすみました。
みんな楽しく家路につこう
夕日の下を舟|漕《こ》いで。
アリスよ、おさない話を受け取って、
やさしいその手で置いとくれ、
子供のころの夢また夢が、思い出の
神秘の紐《ひも》でまかれたところに。
はるかな異国で摘《つ》みとられ
いまはしおれた、巡礼の花輪のように。
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第一章 |兎穴(うさぎあな)を降りて
アリスは土手で、お姉さんのそばにすわり、何もすることがないのにそろそろうんざりしてきたところでした。一、二度、お姉さんの読んでる本をのぞきこんだけれど、絵もないし会話もないのです。
「あら、絵も会話もないご本なんて何の役に立つのかしら」とアリスは思いました。
そこで、アリスは、こんなふうに思案していたのです。ひな菊で首飾りをこしらえるのも面白《おもしろ》いけど、わざわざ立ち上がってひな菊を摘《つ》むほどのことがあるかしらと(もっとも思案していたといっても、精いっぱいがんばって、ということです。なにしろ暑い日で、アリスは眠くはあるし頭はぼーっとしていたからです)。
その時、とつぜん、赤い目をした白兎が一匹、すぐそばを駆けて行きました。
それは別に『大した』ことでもなかったし、またその兎が、「こりゃ大変だ! おくれっちまうぞ」と、ひとりごとを言ったのも、アリスは『それほど』変わったことだとは思いませんでした(あとになってよく考えてみると、変だなあと思うのがあたりまえだったのにと、アリスは思ったけれど、その時は、何もかもしごくあたりまえに思われたのです)。
でも、例の兎が、ほんとうに、『チョッキのポケットから時計を取り出して』、それを眺め、それから駆けて行くのを見ると、アリスははっとして立ち上がったのです。ポケットつきのチョッキを着た兎だの、そのポケットから時計を取り出す兎だのを、それまで見たことなんぞ、ついなかったことが、にわかに思い出されたからです。
そこで、知りたくてたまらなくなり、兎を追っかけて野原を駆けて行くと、兎が生垣《いけがき》の下にある大きな兎穴《うさぎあな》にぴょんと飛びこむところをやっと見とどけることができました。
すぐさまアリスも兎のあとから穴に飛びこみました。それも一体どうやってまた外に出られるか、なんてことは夢にも考えなかったのです。
兎穴《うさぎあな》は少しの間トンネルのようにまっすぐ延びていましたが、やがて急に下りになっていました。あんまり急だったので、アリスは立ちどまって考えるひまさえなく、気がついてみると、えらく深い井戸みたいなものの中を落ちて行くのです。
井戸がとても深いのか、自分がとてものろのろと落ちたのか、どっちかだったのでしょう。アリスは落ちながらあたりを見まわしたり、次はどんなことが起こるんだろうなどと考えるひまがあったからです。
最初、彼女は下をのぞいて、どこに行きつくのかを見きわめようとしましたが、暗くて何も見えません。次に、井戸の周囲を見ると、戸棚や本棚がいっぱいに並んでいるのです。あっちこっちには地図やら絵やらが木の釘にかかっているのです。通りがかりにアリスは棚から壷《つぼ》を取りおろしました。それには『オレンジ・マーマレード』という張り紙がしてありましたが、からっぽなので、アリスはがっかりしてしまいました。でも、誰か下のほうにいる人を殺《あや》めでもしたらいけないと思って、アリスはその壷を落としたくなかったので、井戸を落ちて行きながら戸棚のひとつになんとか壷を入れました。
「さて」とアリスはひとり考えました。「こんなに落ちたんだから、もう二階からころげ落ちることなんか、なんとも思わなくなるわ! 家の人たちはみんな、わたしのことをなんて勇ましい子だろうと思うわ! そうよ、わたし家のてっぺんから落っこちたって黙っててやるわ!」(それは、なるほど、ほんとうらしいことでした)
ずんずんずん、と落ちて行きます。どこまで落ちても止まりっこないのかしら。
「もう何マイルくらい落ちたかしら」アリスは声に出して言いました。「きっと地球の中心近くまで来てるんだわ。えーと、そうだと四千マイル降りたことになるわ……」(わかるでしょう。アリスは学校のお授業で、こんなことを習っていたんです。それで、聞いてくれる人が近くに実際いるわけではなし、自分の知識をひけらかすのには『大して』よい機会でもなかったけれど、くり返すのはやはりよいお稽古《けいこ》でした)
「そうだわ、それくらいの距離だわ……それじゃ、どれくらいの緯度《いど》や経度《けいど》の所に来たのかしら」(アリスは緯度が何やら、経度が何やらもさっぱりでしたが、口にするととてもえらそうなことばだと思ったのです)
ほどなくアリスはまたしゃべり出しました。
「わたし、地球をつきぬけて行くのかしら! 頭をさかさにして歩いてる人の間に出てきたら、ほんとうに面白いことだわ! 対情地《たいじょうち》だったかしら」(こんどは聞き手がいないのが、かえってうれしいことでした。どうも反感地というのは、ほんとうらしくひびかなかったからです)
「でも、わたし、その国の名を人に聞かなければならないわねえ。奥さま、ここはニュー・ジーランドでございますか? それともオーストラリアで? なんてね」(アリスはしゃべりながらおじぎをしようとしましたが……空中を落っこちながらおじぎをするなんてことを、ちょっとまあ、考えてごらんなさい。そんなことができるとみんな思う?)
「そんなことたずねるなんて、なんて物知らずな娘だろうって、その人は思うわ! 聞いちゃいけないわ。ひょっとすると、どこかに書いてあるのが見つかるかもしれないわ」
ずんずん、ずんずん落ちて行きます。ほかに何もすることがないので、アリスはやがてまたしゃべり始めました。
「ダイナ〔アリスがかわいがっていた猫の名〕は今晩わたしがいないので、とても淋《さび》しがるだろうと、わたし思うわ」(ダイナは猫の名前です)「お茶の時にお皿にミルクを入れてやるのを、うちの人たちが覚えていてくれるといいんだけどなあ。かわいいダイナ! おまえがわたしといっしょに降りてたらよかったのにねえ! 空中にはねずみはいないかしれないけど、こうもりは捕《と》れるでしょうよ。それにこうもりは、ねずみによく似てるものね。でも、猫はこうもりを食べるかしら?」〔cats と batsの韻がそろえてある〕
ここらでアリスはだいぶん眠くなってきました。そこで夢見心地で言いつづけるのです。
「猫はこうもりを食べるかしら? 猫はこうもりを食べるかしら!」そして、時々は「こうもりは猫を食ベるかしら?」と。
そのはずです。アリスにはどちらの問いにも答えられなかったので、どう言ったところで大したことじゃなかったのです。アリスは自分でも、うとうと眠り出したのがわかりました。そしてダイナと手をつないで歩きながら、「さあダイナ、ほんとうのことを言ってごらん、こうもりを食べたことがあって?」と、たいへん熱心に問いかけている夢を見かけていたのです。すると、とたんに、ど、どたーんという音がして、アリスは小枝や枯れ葉の山の上に落っこち、そこで落っこちるのも終わりになりました。
アリスは鵜《う》の毛ほどの怪我《けが》もないのです。そこで、すぐにぱっと立ち上がりました。上を見上げましたが、頭上はどこも真っ暗でした。目の前にはまた別の長い廊下があって、例の白兎がそれをどんどんかけ降りて行くのが見えました。
もう一刻の猶予《ゆうよ》もありません。疾風《しっぷう》のように追いかけて行くと、兎が角をまがりがけに「こりゃ大変だ! とんでもなくおそくなっちゃったぞ!」と言うのが、ちょうど耳にはいりました。アリスが角をまがったときには、兎のすぐうしろまで近づいていたけれど、どっこい兎はもう見当たらないのです。自分はと見ると、長い低い広間にいて、その広間は、天井からさがった一列のランプにくまなく照らされているのでした。
広間はぐるっと扉になっていましたが、どの扉も錠《じょう》がかけてあるのです。
アリスは広間の片側をずうっと歩いて行き、また向かい側を引き返しながら、どの扉にも当たってみたのですが、悲しげに真ん中まで歩いてくると、どうしたらまた外に出られるかしら、と思案しました。
とつぜん、アリスは小さな三本脚のテーブルにぶつかりました。それはすっかり堅いガラスで作られていました。その上には、ただちっちゃな金の鍵《かぎ》があるだけです。そこで、アリスがまず思いついたことは、それが広間の扉のひとつにはまるものかもしれない、ということでした。ところが残念、錠前が大きすぎるのか、それとも鍵が小さすぎるのか、とにかくその鍵では、どの扉も開こうとしないのです。
ところが、二度目に巡回してみると、前のときには気づかなかった低いカーテンに出くわしたのです。そしてそのうしろには、十五インチほどの高さの小さい扉があるのです。あの小さな金の鍵で錠をためしてみると、なんとうれしいことに、ぴったりなのです。
アリスが扉をあけてみると、そこから小さな廊下に通じているのがわかりました。それはねずみ穴ほどの大きさなのです。膝《ひざ》をついて廊下を見わたすと、見たこともないほどの美しい庭園が目にはいりました。
どんなにアリスは、その暗い廊下を抜け出して、あの美しい花壇や涼しげな噴水の間をぶらつきたかったことでしょう。だけど戸口から頭を出すことすら叶《かな》わないのです。
「たとえ頭が通ってくれたって」とかわいそうなアリスは思いました。「肩が出なくっちゃ、なんにもならないわ。ああ、望遠鏡みたいにからだがたたみこめるんだったらいいのになあ! 始めさえわかれば、できるみたいな気がするわ」
なにしろ、ごらんのとおり、このところ変わったことばかりがたくさん起こったものだから、ほんとうにできないことなんか、めったにあるものじゃないわ、とアリスは考えかけていたのでした。
例の小さな扉のそばで待っていてもむだなように思われました。
そこでアリスは、あのテーブルのところへもどりましたが、それは、別の鍵がのっていないかしら、それともとにかく、望遠鏡みたいに人体をたたむ方法を書いた本でも見つかりはしないか、と思ったからです。
ところが、今度は小さなびんがのっているのです(「たしかにこれは前にはここになかったわ」とアリスは言いました)。そしてびんの首には『わたしをお飲みください』という文句が大きな字で美しく印刷した張り札がありました。
「わたしをお飲みください」というのは、たいへんけっこうだけれど、なにしろ利口《りこう》なアリスのこと、あわてて『そんなこと』をしようとはしませんでした。「いや、まず『毒薬』と書いてあるかどうかを見きわめなくちゃ」とアリスは言いました。それもアリスがそれまで読んだおもしろい童話のなかで、火傷《やけど》をしたり、野獣に食われたり、そのほか不愉快なことに出会ったりした子供は、みんな、親身《しんみ》な人たちが教えてくれる簡単な規則《きまり》、たとえば、赤く焼けた火箸《ひばし》をあまり長く持ってると火傷をするとか、ナイフで指を『ひどく』切ると、たいてい血が出るものだとかいうことを覚えようとしなかったからで、アリスは『毒薬』と記してあるびんのものをあまり飲むと、晩《おそ》かれ、早かれ、ほとんどいつもからだに障《さわ》るということを忘れてはいなかったからです。
ところが、このびんには『毒薬』とはたしかに記してなかったので、アリスは思いきって味をみてみました。すると、とてもおいしかったので(実際、それはさくらんぼう入り饅頭《まんじゅう》、カスタード、パイナップル、七面鳥の焼肉と、タフィーと、それに焼きたてのバター・トーストをまぜ合わせたような味だったのです)、たちまち飲み干してしまいました。
* * *
「なんて妙な気持ちだこと!」とアリスは言いました。「きっと望遠鏡みたいにわたしのからだがちぢまってるんだわ」
実際そのとおりでした。今や背たけは十インチほどしかなく、アリスはあの小さな扉を通りぬけて、美しい花園にはいって行くのに好都合な大きさなんだ、と思うと、顔もぱっと輝きました。けれども、まず、この上にもっとちぢまるのかどうかを見定めるために、アリスは数分間待っていました。これにはアリスも少しばかり心配だったのです。
「だって、そうでしょう」とアリスはひとりごとを言うのでした。「ろうそくみたいにわたし消えてしまうかもわからないじゃない。そしたらどんなになるかしら」
そこでアリスはろうそくが吹き消されたら、ろうそくの火がどう見えるかしら、と想像しようと努《つと》めました。そんなものをそれまで見たおぼえが少しもなかったからです。
少したって、それ以上何も起こらないことがわかると、アリスはすぐに花園にはいって行くことにきめました。ところがアリスは、気の毒なことに、扉の所まで行くと、あの小さい金の鍵を忘れてきたのに気がついたのです。そこで、鍵を取りにテーブルまで引き返しますと、どうしても鍵まで手がとどかないことがわかりました。ガラス越しに鍵はありありと見えました。
そこでいっしょうけんめい、テーブルの脚のひとつによじのぼろうとしたのですが、えらくすべってのぼれません。さんざん努めて疲れはてると、かわいそうにアリスはすわりこんで、わーっと泣き出しました。
「なんです、そんなに泣いたってなんにもなりませんよ!」アリスは少しきびしい調子で自分に言いました。「たった今、泣くのをやめなさい」
アリスはとてもいい忠告をよく自分にしたのです(その忠告に従うことはめったになかったけれど)。そして、時には自分で自分をきつく叱《しか》りつけては、目に涙が浮かぶほどでした。忘れもしませんが、一度なんぞは、自分相手にやっていたクローケー遊びで自分をだましたといって、自分の耳をなぐろうとしたことだってありました。だってこの風変わりな子供は、ひとりでふたりごっこをするのが大好きだったからです。
「だけど今は、ふたりごっこをしてもだめだわ」とかわいそうなアリスは思いました。「だって、わたし『一人前』の大きさだって残ってないもの!」
やがてアリスの目は、テーブルの下にあるガラスの小箱の上にとまりました。あけてみると、中にはとても小さいお菓子がひとつあって、その上には『わたしをお食べください』という言葉が干《ほ》しぶどうで美しく書いてあるのです。
「そうね、食べてみるわ」とアリスは言いました。「それで大きくなったら鍵にとどくし、小さくなったら扉の下をぐぐれるし、どっちにしても花園にはいれるわ。だからどっちだってかまわないわ」
アリスはちょっぴり食べてみました。そして心配げに「どっちかしら? どっちかしら」と手を頭のてっぺんにのせて、どちらになって行くのか感じとろうとしましたが、なんとおどろいたことには、相変わらずの大きさなのでした。たしかにそれが、人が菓子を食べる時、ふつうに起こることなのです。
けれども、アリスは、変ちくりんなことばかりがもち上がるのを当てにするくせが、すっかりついてしまっていたので、世の中があたりまえに運んで行くのは、まったく退屈でばかげきったことのように思われたのです。
それで、アリスは本腰《ほんごし》を入れて食べ出し、すぐにお菓子を平らげてしまいました。
第二章 涙の池
「いよいよもって奇妙きてれつだわ!」とアリスは叫びました(あんまりびっくりしたので、とっさには立派な言葉がとんと出てこなかったのです)。「今度は世界一大きな望遠鏡みたいにわたし伸びちゃうんだわ! 足《あんよ》さん、さようなら」(それも、足もとを見下ろすと足がずいぶん遠いところに行っていて、ほとんど見えないほどだったのです)「おお、かわいそうなわたしの足。こうなったら、誰がおまえに靴や靴下をはかせてくれるかしら? きっと『わたしには』できなくてよ! こんなにはなれてしまっちゃ世話のしようもないでしょうよ。自分でなんとかやってね。……でもやさしくしてやらなければいけないわ」とアリスは思いました。「でないとわたしの歩きたいようには歩いてくれないかしれないもの! えーと、クリスマスのたびに新しい深靴《ブーツ》を贈ってやることにするわ」
そこでどうやって贈ったものかとしきりに工夫しはじめました。「運送屋に運ばせなけりゃ」とアリスは考えました。「自分の足に贈物をするなんて、ずいぶんおかしく思えることでしょうよ。それに宛名《あてな》だってとっても奇妙に見えることよ。
炉格子《ろごうし》市外
絨氈《じゅうたん》町
アリスの右足様 (アリスより)
おやまあ、わたしなんてばかなことをしゃべってるんでしょう!
ちょうどこの時、アリスの頭が広間の天井にぶつかったのです。実際、アリスは今では、九フィート以上にもなっていました。そこで例の金の小鍵をすぐさま取り上げると、花園に抜ける扉のほうへと急ぎました。
かわいそうなアリス! 横に寝て、片方の目で花園をのぞきこむのが精いっぱい。通り抜けるなんていよいよ途方もないことでした。アリスはすわりこんで泣き出しました。
「恥を知らなくちゃいけないわ」とアリスは言いました。「あんたみたいに大きな娘が」(そう言うのももっともな話です)「こんなにおいおい泣くなんて! さあ、たったいま、泣くのはおよし!」
でも相変わらず泣きつづけて、何リットルもの涙を流したので、しまいにはまわりじゅうに深さ四インチほどの大きな池ができてしまい、広間の半分先の方までとどくほどでした。
しばらくすると、遠くの方にぱたぱたと小さい足音がするのです。そこでアリスは急いで涙をふいて、何が来るのかと見てみました。それは例の白兎がすばらしく着こしめして、もどって来るところでしたが、片手にはキッドの白手袋をもち、片手には大きな扇《おうぎ》をもっているのです。
ちょこちょこ走りで大急ぎにやって来ましたが、来ながら、「ああ! 公爵夫人! 公爵夫人! ああ、お待たせしたら大そうなご立腹じゃないだろうか」とつぶやいています。
アリスはわらでもつかみたい気持ちでしたから、だれかれかまわず助けをもとめるつもりでした。ですから、兎が近づいたとき、低いおろおろ声で、「あのう、ちょっと」と切り出したのです。兎はとってもびっくりして、あのキッドの白手袋と扇とをとり落とし、暗闇の中へとまっしぐらに逃げて行きました。
アリスは扇と手袋をひろい上げましたが、広間がえらく暑かったので、しゃべっている間じゅう扇をつかっていました。
「おやまあ! 今日《きょう》という日は、なんて何もかも変てこなのかしら! 昨日《きのう》は何もかも当たりまえだったのに。わたし夜のうちに変わっちゃったのかしら。えーと、今朝起きたときもたしかに同じだったかしら? なんだか少しばかり変わった気がするみたいだわ。だけど同じでないとしたら、『いったいわたしは誰なの?』というのが次の疑問だわ。ああ、それこそ大疑問だわ!」
そこでアリスは自分の知り合いの子供たちでおない年《どし》のもののことを全部考えて、その中の誰かに変えられたのじゃないかしらと調べてみました。
「わたしたしかにエーダじゃないわ」とアリスは言いました。「だってエーダの髪はとても長い巻き毛になってるけど、わたしのはちっとも巻き毛になってないもの。それからメーベルでも大丈夫、ありっこないわ。だって、わたしいろいろなことをなんでも知ってるけど、メーベルときたら、知ってることほんとにちょっぴりなんだもの! それに『あの人』はあの人で、わたしはわたしなんだし……おやまあ、なんてこんがらがっているんでしょう! わたしこれまで知ってたことをみんな知ってるかどうかためしてみるわ。ええと、四五《しご》の十二《じゅうに》、四六《しろく》の十三《じゅうさん》、四七《ししち》の……あらまあ! この調子だと二十まで行きつかないわ! でも九九《くく》表なんか意味ないわ。地理をやってみましょう。ロンドンはパリの首府で、パリはローマの首府、そしてローマは……いや、これはたしかにみんな間違っているわ! わたしきっとメーベルに変わったんだわ! 『なんとかわいい……』を歌ってみましょう」
そこでアリスは勉強のおさらいをするみたいに膝の上に両手を重ね、暗唱を始めましたが、声はかすれて変てこで、歌の文句もいつものようには出てきませんでした。
「なんとかわいいお鰐《わに》君
きんきら尻尾をみがいてる。
ナイルの河水《みず》をざあぶざぶ
黄金《きん》の鱗《うろこ》に浴びせてる。
にたりとさてもうれしそう、
じょうずに爪をひろげては
にんまりやさしく顎開《くちあ》いて
さあこい、さあこい小魚どん」
「たしかにこんな文句じゃないわ」かわいそうにもアリスはそう言うと、つづけることばといっしょに、目がまた涙でいっぱいになりました。
「やっぱりわたしメーベルにちがいないわ。すると、あのせまくるしい、ちっちゃいお家に行って住むんだわ。そしておもちゃもほとんどないんだわ。それから、ああ、うんとうんとお勉強しなくちゃならないんだわ。いいえ、わたし決心したわ。わたしがメーベルなら、下のここにいることにするわ。みんなが下をのぞいて、『ねえ、上がっていらっしゃいよ』と言ったってむだだわ。わたし、ただ見上げて言ってやるわ。
『じゃわたしは誰なの? まずそれを教えてちょうだい。その誰かさんをわたし好きなら上がって行くわ。いやだったら、わたし誰か別の人になるまでずっとここの下の方にいるわ』って。……でも、まあ困ったわ」とアリスは、急に涙をほとばしらせて叫びました。「ほんとにみんなが下をのぞいてくれないかなあ。ひとりぼっちでここにいるのは、もうすっかりあきあきしたわ!」
こう言いながら、うつむいて自分の手を見ました。するとおどろいたことに、アリスはおしゃべりをしてた間に兎の小さいキッドの白手袋を片方自分の手にはめていたのです。
「いったいどうしてこうなったのかしら?」とアリスは考えました。「またきっと小さくなっているんだわ」
アリスは立ち上がってテーブルのほうに行って、並んで背たけを測ってみました。
すると、できるだけ正しく推測したところでは、今やアリスは二フィートほどで、まだずんずんちぢまっていることがわかったのです。この原因が、手にしている扇なんだとすぐにわかると、あわてて扇を手ばなしましたが、それで、あやういところで、すっかりちぢんでなくなってしまわずにすんだのでした。
「ほんとにきわどいとこだったわ!」と、アリスはその急な変化に、たいそうびっくりしましたが、まだ自分のからだが残っているのを見てよろこびました。
「さあ今度こそ花園に行くんだわ!」
そう言うと全速力で例の小さな扉の所に駆けもどったのでしたが、なんと残念、またしてもその小さな扉はしまっていて、あの金の小鍵も前のとおりにガラスのテーブルの上に置いてあるのです。
「ますますいけないことになったわ」とかわいそうなアリスは考えました。「こんなに小さくなったことなんか、今までになかったんだもの。ひどすきるわ、ほんとに」
こんなことを言っていますと、アリスは足をすべらし、あっという間に、ざぶん!
塩水の中に顎《あご》まで浸《つか》っていました。最初アリスが思ったのは、どうやら海に落っこちたのだということでした。「それなら、汽車で帰れるわ」とアリスはひそかに思いました。(アリスはそれまでに一度だけ海に行ったことがあったので、イギリスの海岸ではどこに行っても、海中にはいくつも水浴機があって、子供たちは木の鋤《すき》で砂掘りをしており、それから軒なみに下宿屋があって、下宿屋のうしろには停車場があるもんだと、おおざっぱにきめこんでいたのです)
ところが、まもなくわかってみると、自分が九フィートあった時に流した涙の池に落ちこんでるのだ、ということでした。
「あんなに泣かなきゃよかったわ!」アリスは出口を見つけようと泳ぎまわりながら言いました。「泣いた罰《ばつ》に自分の涙でおぼれるのだわ! それだと、ほんとうに変なことだわ! でも何もかも今日は変だわ」
ちょうどその時、池の中で少しはなれたところを、何かがぱしゃぱしゃやっているのが耳にはいったので、それが何だか見定めようと泳いで近づきました。初めは海象《せいうち》か河馬《かば》にちがいないと思ったのでしたが、次には自分が今どんなに小さくなっているかということを思い出し、やがて、それが自分と同じように滑りこんだねずみにすぎないことがわかったのです。
アリスは考えました。
「さて、このねずみに話しかけても役に立つかしら。ここでは何もかも普通じゃないんだから、あのねずみもたぶん口がきけるんだとわたし思うわ。とにかく、話しかけてみたって悪くはないわ」
そこでアリスは口を切りました。
「おお、ねずみよ。この池の出口をご存じ? わたしここで泳ぎまわるの、すっかりあきあきしたのよ。おお、ねずみよ」(アリスはこれがねずみに対する正しい呼びかけかただと思ったのです。それまでそんなことをしたことはなかったのですが、兄さんのラテン語の文法書で「ねずみは……ねずみの……ねずみに……ねずみを……おお、ねずみよ!」とあるのを見たのをおぼえていたからです)
ねずみはいささか珍《めずら》しげにアリスを見ました。そして小さな片方の目でちょっと目をつむってみせたようでしたが、口はききませんでした。
「ひょっとしたら英語がわからないんだわ」とアリスは思いました。「おおかた、フランスねずみで、ウイリアム征服王〔一〇六六年、イギリスを征服したノルマンジー公ウイリアムのこと〕といっしょに渡ってきたのかもしれないわ」(アリスは歴史の心得はたんとあったけど、どれほど昔に事件が起こったのか、それははっきりとわかってなかったのです)
そこで、フランス語読本にあった最初の文章で、「|ウ《どこに》・|エ《いるか》・|マ《わたしの》・|シャット《猫は》?」とあらためて切り出しました。ねずみは急に水中でとび上がりましたが、こわさで全身がふるえているようでした。
「あら、ごめんなさい!」とアリスはあわてて叫びましたが、かわいそうにねずみの気持ちをそこなったと思って、「あなた、猫が嫌《きら》いなことをわたしすっかり忘れていたわ」
「猫が嫌いなんですって!」とねずみは甲高《かんだか》い怒った声で言いました。「あんたがわたしだったら、猫をお好きでしょうかね」
「まあ、嫌いでしょうね」とアリスはなだめるような口調で言いました。「怒らないでね。でも、うちの猫のダイナを見せたいわ。ダイナを見さえしたら、あんたも猫が好きになるでしょうよ。とてもかわいい、おとなしい猫ですもの」
アリスは池の中をのんびりと泳ぎながら、なかばひとりごとのように言いつづけました。「それにダイナはとてもお上品に喉《のど》を鳴らしながら炉のそばにすわって、足をなめたり顔を洗ったりするの……それに、だっこするのに、とっても気持ちよくやんわりしてるのよ……それに、ねずみを捕るのがとってもじょうずなの……あら、ごめんなさい」とアリスはまた叫びましたが、それはねずみが総毛《そうけ》立っているので、ほんとうに腹を立てているのにちがいないと思ったからでした。
「嫌《いや》なようなら、わたしたち、ダイナのこと話すの、もうよしましょう」
「わたしたちだって、へっ!」とねずみは叫びましたが、尻尾の先までふるえているのです。「まるでわしがそんな話をしたがっているみたいに言うじゃないか! われわれ一族は、昔から猫は大嫌いなんだよ。にくたらしい、下等下品な猫族はな。二度とあの名前を言わんでもらいたいんだ!」
「言わないわ、けっして!」とアリスは話題をかえようと、いそいで言いました。「あなたは……あなたはあれはお好き……あのう……犬は?」
ねずみの返事がないのでアリスは熱心に言いつづけました。「ご近所にね、とてもかわいい小犬がいるの。見せたいわ。目のぱっちりした小犬で、ほら、長い長い茶色の巻き毛が生えてるのよ! 物を投げてやるとそれを取ってくるの。それから後足で立ってちんちんしたり、いろんなことをするのよ……半分もわたし思い出せないけど……お百姓さんの持ちものなんだけど、とても役に立って百ポンドの値打ちはあるというの。ねずみは片っぱしから片づけちゃうと言うのよ……あら、まあ」とアリスは気の毒げに叫びました。「また怒らしたんじゃないかしら」
というのは、ねずみは、一目散《いちもくさん》に、アリスからはなれて向こうへ泳いで行きながら、池の水をえらくざわつかせたからです。
そこで、アリスはあとからやさしく呼びかけました。
「ねずみさーん。もどっていらっしゃいよ。お嫌だったら猫や犬のこと話さないことにしましょうよ!」
ねずみはこれを聞くと、くるりと向き直ってゆっくりとアリスの方へ泳いで来ました。その顔は真っ青で(怒ったからなんだとアリスは思いました)、低いふるえ声で言いました。
「陸へ上がろう。それからわしの身の上話をしよう。そしたら、わしが猫や犬を大嫌いなわけがわかるよ」
もう行ってもよい時分でした。なにしろ池も、中に落ちこんできた鳥やけものでごったがえしているところだったからです。鴨《かも》やドードー〔むかしインド洋にいたという、大きさが、がちょうくらいで翼の小さい不完全な鳥〕もいたし、鸚鵡《おうむ》や|小鷲(こわし)も、それに奇妙な動物もいくつかいました。アリスが先に立ち、一同そろって陸に泳ぎつきました。
第三章 コーカス・レースと長いお話
土手《どて》に勢ぞろいした者たちは、まことに異様な一行でした。……鳥はぬれた羽根をひきずり、けものは毛がぴったりとからだにくっついており、みんなぽたぽたしずくが落ち、ふきげんで不快な『ていたらく』なのです。
まず第一の問題は、いうまでもなく、どうして乾かすかということでした。このことを皆で相談しましたが、数分後にはアリスはみんなとわけへだてなく口をきいていて、まるでずうっと昔からの知り合いみたいなのが、なんだかあたりまえみたいに思えました。実際、アリスは鸚鵡《おうむ》と大議論をたたかわしたのですが、鸚鵡はとうとうふきげんになり、ただこう言うだけでした。
「わしはあんたよりか年上だよ。だからあんたより道理もわきまえているはずじゃよ」
これをアリスはどうしても認める気にはならないのです。相手の年もわからないし、それに鸚鵡が自分の年を断固として明かそうとしないのですから、口をきく余地もなくなりました。
とうとう、中でも一目《いちもく》置かれてるらしいねずみがどなりました。
「みなさん、おすわりなさい。そしてわしの言うことを聞いてください! わしがみなさんをすぐに乾かしてあげますぞ」
一同ただちに腰をおろし、中央にねずみをかこんで大きな輪を作りました。アリスは熱心にねずみに注目しました。それというのも、すぐに乾かないと、きっとひどい風邪《かぜ》を引くだろうと思ったからです。
「えへん!」ねずみはもったいぶったようすをして言いました。「みなさん、よろしいかね。この方法がわしの知っているいちばん乾《かわ》いたことです。みんなお静かにねがいます。
『ウイリアム征服王はその主張するところ、教皇も可とせられたれば、ほどもなくイギリス軍もこれに服することとなりたり。そはイギリス軍は将を欠き、ために近来大いに横領《おうりょう》と征服とに慣れいたればなり。マーシャおよびノーサンブリアの領主、エドウィンとモーカーとは……』」
「うっ!」と鸚鵡《おうむ》は身をふるわして言いました。
「何ですかね」とねずみは顔をしかめながら、しかしきわめてていねいに言いました。「何かおっしゃったですか?」
「いいえ何も」と鸚鵡はあわてて言いました。
「おっしゃったように思いましたが」とねずみは言いました。「先へ進みます。『マーシャおよびノーサンブリアの領主、エドウィンとモーカーとは、征服王に味方するの意を宣言したり。愛国の士、カンタベリーの大僧正《だいそうじょう》スタイガンドもそを得策なりと見て……』」
「『何を』見たんですって」と鴨《かも》が言いました。
「『それ』を見たんですよ」とねずみはいささかふきげんに答えました。「もちろん『それ』が何のことだか、わかってるでしょう」
「わたしが見つけるのなら『それ』が何のことだかよくわかっています」と鴨は言いました。「たいてい、蛙《かえる》か蛆虫《うじむし》だからね。問題は大僧正が何を見つけたかということです」
ねずみはこの質問には注意もむけずに、ずんずん話をすすめました。「『……そを得策なりと見て、エドガー・アセリングとともにウイリアムを迎え、彼に王冠を捧げたり。ウイリアムの振舞《ふるまい》は最初のほどは穏健《おんけん》なりき。されども、ノルマン人らが傲慢《ごうまん》のほどは……』ねえ、どんな具合です?」と、ねずみはアリスのほうに向きなおると言いました。
「いままでどおり濡《ぬ》れてるわ」とアリスはふさいだ調子で言いました。「ちっとも乾かないみたいよ」
「さらば」とドードーは立ち上がりながら、おごそかに言いました。「本会を散会して、より強力なる対策を即時採用されんことを小生は動議いたします」
「わかりやすくねがいます」と小鷲《こわし》が言いました。「そんな長ったらしい文句の半分もわしにはわからんです。それに、君だってわからんと思うが」
そう言うと小鷲はうつむいて、微笑をかくしました。ほかにも、何羽か、くすくす笑った鳥もありました。
「小生の言おうとしておったことは」とドードーはむっとした口吻《くちぶり》で言いました。「われわれを乾かす最善の方法は、コーカス・レースだろうということです」
「コーカス・レースって何ですの?」とアリスは言いました。たいして知りたくもなかったのですが、ドードーがいかにも誰かの発言があってもよいのにと思っているふうなのに、誰も発言しそうになかったからでした。
「いや、なに」とドードーは言いました。「最善の説明法はやってみせることです」(みなさんも、冬の日なんかに、自分でやってみたいかもしれないから、ドードーがどんな具合にやったかお話ししましょう)
ドードーはまず円形らしく(「形の正確さは問題ではない」と彼は言いました)競走場の線を引きました。それから一同そろって競走場のあちこちに並びました。「一、二、三、どん!」なんて合図はありませんが、みんな好き勝手に駆け出し、好き勝手に止まるのです。だから、いつレースが終わったのやら、よくはわかりません。とにかく三十分ほども走って、すっかり乾ききると、ドードーがとつぜん「レースおわり!」と叫びました。そこでみんなは、はあはあ息をはずませながらドードーを取り巻き、「でも誰が勝ったんですか」とたずねました。
この質問には、ドードーもよっぽど考えないと答えられなかったのです。そこで、長いこと、指一本を額に当てがって(みんながよく見るシェークスピアの絵のあの姿勢で)すわっていました。
一方、ほかの連中は黙って答えを待っていたのです。
とうとう、ドードーが言いました。
「『みんな』の勝ちです。だから『みんな』褒美《ほうび》をもらうんです」
「でも誰が褒美をくれるんですか」と一同、口をそろえて、うるさくたずねました。
「そりゃもちろんあの娘《こ》だよ」とドードーはアリスを指さしながら言いました。
そこで一同はすぐさまアリスを取り巻き、がやがやと「褒美! 褒美!」と叫びました。
アリスはどうしていいか見当もつかず、困りきって手をポケットに突っこむと、ひと箱の金平糖《こんぺいとう》を取り出し(さいわい、塩水はしみこんでませんでした)、それをみんなに褒美としてくばってやりました。ちょうどみんなにひとつずつ当たりました。
「あの娘《こ》だって褒美をもらわなくちゃ」とねずみが言いました。
「それはそうだ」とドードーはすこぶるまじめくさって答えました。「ポケットには、ほかに何がありますかね」と彼はアリスのほうに向いてことばをつづけました。
「指貫《ゆびぬき》がひとつきりよ」とアリスは情けなさそうに言いました。
「それをこっちに渡しなさい」とドードーが言いました。
そこでまたもや一同はアリスを取り巻きました。片やドードーはおごそかな格好《かっこう》でその指貫を捧げながら、「この美《うる》わしき指貫をご嘉納《かのう》あらんことを」と言いました。ドードーがこの短い演説を終わると、みんなが喝采《かっさい》しました。
アリスは何もかもばかばかしいと思いましたが、みんながとてもまじめくさった顔をしているので、笑い出すわけにもゆきません。それに、うまい言葉も思いつかなかったので、ただおじぎをして指貫を受け取り、できるかぎりまじめな顔をしていました。
お次は金平糖《こんぺいとう》を食べることでした。これが相当のさわぎでした。なにしろ、大きい鳥は味がわかるほどもありゃしないと不平を言うし、小鳥のほうは、喉《のど》がつまって背中を叩いてやらなきゃならなかったからです。しかし、ついにそれも終わり、一同輪なりになって腰をおろすと、ねずみに、もっと話をとせがみました。
「あなたは自分の身の上話をするって約束だったでしょ」とアリスは言いました。「それから、『ね』の字と『い』の字がきらいなわけもね」とアリスは、相手がまた怒らないかと心配しながら小声で言いました。
「わたしのは長くて哀れな|身の上話《テイル》です」とねずみはアリスのほうに向くと、溜息《ためいき》しながら言いました。
「たしかに長い尻尾《テイル》にはちがいないけど」とアリスはねずみの尻尾を不思議そうに見おろしながら言いました。「でも哀れなとはなぜなの?」
そしてねずみがしゃべりつづけている間じゅう、尻尾が哀れだってことにずっと頭をひねっていたものだから、アリスがおぼえてたねずみの話は、こんなところでした。
家でみつけた
子ねずみに、ワン公
フューリー言うことにゃ
「ちょいと来いおいらと
法廷に。おいらが
検事、お前は罪人。
さあさあ四《し》の五《ご》は
言わさねえ。たっても
お裁《さば》き願うんだ。
なんともかんとも
この朝は、
おいらあぶれて
困るんだ」
小ねずみ犬に
言うようは
「とんだお裁き、あなたさま。
判事、陪審《ばいしん》欠席じゃ
何をしゃべるも
むだでしょう」
「なあに、どっちも
このおれが
やってみしょう」と
のら犬の
そこは抜からぬ
フューリー公。
「一から十まで
このおれが
見事さばいて
死の罪に
きっとお前を
おとしてやろう」
「聞いちゃいないね!」とねずみはアリスにきびしい口調で言いました。「何を考えているんだ?」
「ごめんなさい」とアリスはいともつつましく言いました。「五番目の曲がり目までついたんでしたね」
「『曲がり目』になんかにつくもんか!」ねずみは鋭い目つきでぷんぷん怒って言いました。
「結び目だわ!」とアリスは、いつでも人の手助けをよろこんでするので、熱心にあたりを見まわしながら言いました。「ねえ、どうぞわたしに結び目をとくのを手伝わしてくださいな」
「そんなことはおことわりだよ」とねずみは言って立ち上がり、歩きかけました。「そんなくだらんことを言って、わしを侮辱《ぶじょく》してるんだ」
「そんなつもりじゃなかったのよ」と気の毒にアリスは弁解しました。「だってあなたったら、すぐに怒るんですもの」
ねずみは返事がわりに唸《うな》っただけでした。
「ねえ、もどって来て終わりまでお話をしてくださいな!」とアリスはうしろから大声で呼びました。
ほかのものもみんな声をそろえて「そうよ、そうしてくださいよう!」と叫びましたが、ねずみは、いらだたしげに頭を振っただけで、少し足早に行ってしまいました。
「ここにいてくれないのは残念だなあ!」と鸚鵡《おうむ》は、ねずみの姿がすっかり見えなくなるやいなや、溜息まじりに言いました。すると年寄りの蟹《かに》がその機会をとらえて、自分の娘に言いました。
「ねえおまえや、これを忘れないで、怒ったりするんじゃないよ」
「黙っててよ、おっ母《か》さん」とその娘蟹は、ちょっとかみつくように言いました。「おっ母さんみたいじゃ牡蛎《かき》だって辛抱しきれないわ」
「うちのダイナがいてくれるといいんだけど、ほんとうに!」とアリスは誰にともなく声に出して言いました。「あれならすぐにつれもどすのに!」
「ダイナって誰のことですか。失礼なことをおたずねしてすみませんが」と鸚鵡《おうむ》が言いました。
アリスは熱心に返事をしました。かわいい猫のことをきかれると、ふたつ返事でしゃべるアリスでしたから。「ダイナってうちの猫のことなの。とってもねずみ捕りがじょうずなのよ! それから鳥を追いかけるところもお見せしたいわ! ほんとに小鳥なんぞ、見るが早いかぱくっと食べちゃうのよ!」
この演説は、一同の間に大騒動をひき起こしました。すぐに逃げ出した鳥もありました。年とった一羽のかささぎは、しごくていねいに身をつつむと「ほんとうにもう帰らなくちゃ。夜気は喉にわるいんでね」と言いました。カナリアは声をふるわして、自分の子供たちに叫びました。「さあおまえたち行きましょう。もうお床《とこ》につく時間ですよ!」
なにやかやと口実をつくって、みんなその場を立ち去りましたので、すぐにアリスはひとりぼっちになってしまいました。
「ダイナのこと言わなきゃよかったわ」とアリスはもの憂《う》い口調でひとりごとを言いました。「この下界じゃ誰もダイナが好きではないようだわ。世界一の猫にちがいないのに。ああ、かわいいダイナ! わたし、またおまえに会えるかしら!」
ここで、アリスはまた泣き出しましたが、とってもさびしく元気もなかったからです。だけど、しばらくすると、アリスはまた、遠くにぱたぱたいう小さい足音を聞きつけました。で、ねずみの気が変わって、終わりまで身の上話をしにもどって来るのならいいがなあと思いながら、アリスは熱心に見上げました。
第四章 兎、小議案を提出
それは例の白兎が、ぴょんぴょんとゆっくりもどって来るところでしたが、兎は何か落とし物でもしたように歩きながらも熱心にあたりを見まわしているのです。そして、こんなことをぶつぶつひとりで言っているのがアリスに聞こえました。
「公爵《こうしゃく》夫人が! 公爵夫人が! ああ大変だ! ああ桑原《くわばら》だ! きっとわたしをお仕置きになさるだろう。いったいあれをどこに落としたんだろうなあ?」
アリスはすぐに兎があの扇と一対のキッドの白手袋をさがしているのだと判断しました。そこで大変気立てのよい娘らしく自分もさがしはじめましたが、どこにも見つかりません……池で泳いでから何もかも変わったらしく、ガラスのテーブルや小さな扉のあった大広間もあとかたもなく消えていたのです。
すぐに、兎はアリスがさがしまわっているのに気づいて、怒った口調でどなりました。
「や、おまえか、メアリ・アン、何をここでさがしてるんだい? とっとと家にかけもどって、手袋と扇を持ってくるんだ! いますぐにだ!」
アリスはすっかりたまげてしまい、兎が指さした方角へすぐに駆け出し、兎が思いちがいをしていることを説明するどころではありません。
「わたしを女中と間違えたんだわ」アリスは駆けながら思いました。「わたしが誰だかわかったら、きっとおどろくわ! でも、扇と手袋は持ってってやるほうがいいと思うわ……つまり、見つけられたらね」
こう言ったとき、アリスは小ぎれいな家にやって来ましたが、その戸口には、ぴかぴかの真鍮《しんちゅう》の標札に、『兎《うさぎ》 白吉《しろきち》』と彫《ほ》ってありました。アリスは案内もこわないではいっていき、大急ぎで二階に上がりましたが、それは本物のメアリ・アンに出くわして、扇と手袋を見つけないうちに追い出されはしないかと、たいそう心配だったからです。
「なんだかとても変なものだわ」と、アリスはひとりごとを言いました。「兎のお使いをするなんて! 今度はダイナまでわたしをお使いにやるかもしれないわ!」アリスはそうだとどうなることか、と空想しはじめました。
「『アリスお嬢さま! すぐいらしてください。そして散歩のお支度をなさいませ』『ばあや、すぐ行くわ! だけど、ダイナが帰るまで、このねずみ穴の見張りをして、ねずみを出さないようにしなけりゃいけないのよ』でもねえ」とアリスは言いつづけました。「ダイナが人をそんなに使いだてしだしたら、みんながダイナを家に置いとかないと思うわ」
このころまでには、アリスはもうこぢんまりした部屋に来ていましたが、窓ぎわにはテーブルがあり、その上には(思ったとおりに)扇と二、三対の小さいキッドの白手袋がありました。アリスはその扇と一対の手袋をとり上げて、今しも部屋を出ようとしていると、ふと鏡の近くにある小びんが目につきました。今度は「わたしをお飲みください」という文句つきの張り札《ふだ》はありませんでしたが、それでも、アリスは栓をぬいて口に当てがいました。
「何か面白いことがきっと起こるわ」とアリスはひとりごとを言いました。「わたしが何か食べたり飲んだりするといつでもそうだわ。だから、このびんを飲んだらどうなるか、ためしてみましょう。また大きくなるとほんとにいいんだけど。だって、こんなにちびなの、すっかりあきてしまったもの!」
びんは思ったとおりの効《き》き目がありました。それも思いのほかにずっと速かったのです。びんの半分も飲まないうちに、頭が天井にぎゅうぎゅうつかえて、首が折れないように身をかがめなければなりませんでした。アリスはあわててびんを置くと、ひとりごとを言いました。
「これでもうたくさんだわ……これより大きくならないといいけど……今のままでも戸口から出られないわ……あんなにたくさん飲まなければよかったのに!」
残念! もうそう望んでも、取り返しがつきません。アリスはぐんぐんと大きくなりつづけて、すぐに床に膝をつかないといけなくなりました。するとまたすぐに、膝をつく余地もなくなり、アリスは片ひじを扉につけ、片腕は頭にまきつけ、横になって勝手はどうかとためしてみました。それでも大きくなりつづけるので、最後の方法に、片腕を窓から出し、片足を煙突に突っこみ、こうひとりごとを言いました。
「どんなことが起こっても、もうこれ以上のことはできないわ。ほんとうに、わたしどうなっちゃうのかしら!」
さいわいなことに、この小さい魔法のびんは、すっかり効き目を出しつくして、アリスはそれ以上は伸びませんでした。それでもずいぶんと居心地がわるく、部屋からまた抜け出せそうにもなかったので、アリスがみじめな気持ちだったのも無理のないことでした。
「お家《うち》にいたほうがずっと愉《たの》しかったわ」とかわいそうなアリスは考えました。「それだといつも伸びたりちぢんだりもしないし、ねずみや兎に使いまわされることもないんだし。あの兎穴《うさぎあな》を降りて来なければよかったと思うほどだわ。……だけど……だけど……どうも奇妙だわ、こんな暮らし方なんて! ほんとにわたし、どうなったのかしら。お伽話《とぎばなし》を読んでたころは、あんなことなんぞ起こりっこないと思ってたのに、今はその真ん中にいるんだもの。わたしのことを書いた本があってもいいはずだわ、そうだわ。たし、大きくなったら書くわ。でも今でも大きくなっているんだわ」とアリスは悲しげな口調で言いつづけました。「少なくとも、もう『ここでは』これ以上大きくなれる余地はないんだわ」
「でもまた」とアリスは考えました。「わたし、もう、今より年を取らないのかしら? それなら、ひとつは気休めもあるわけだわ……お婆《ばあ》さんにならないなんて……でもまた……いつもいつもお勉強してなきゃならないのだわ! ああ、『それ』はごめんだわねえ」
「あら、おまえ、ばかねえ!」とアリスは自分で返事をしました。「ここのなかでどうしてお勉強ができるの? あら、おまえのからだを入れる余地もないくらいじゃないの? それに教科書なんかまるっきり置く所もないわ」
こんな調子で、アリスは、こっちになったりあっちになったりしてしゃべりつづけ、それですっかり会話をやっていました。けれども二、三分もすると外で声がしたので、アリスは話をやめて耳をかたむけました。
「メアリ・アン! メアリ・アン!」とその声はよぶのでした。「いますぐ、わたしの手袋を取っておいで!」
それから階段にぱたぱたという小さな足音がしました。アリスは、それが自分をさがしてやって来るあの兎なのだ、とわかりました。それで、身ぶるいをすると家中がゆれましたが、それは、アリスが今では兎の千倍にもなっていて、兎をこわがるわけなんか少しもないことを忘れていたからでした。
ほどなく兎は戸口までやって来ると、戸をあけにかかりました。でも、戸が内開きになっていたし、アリスのひじがきつく戸を押していたので、その試みは失敗しました。アリスには、兎が「じゃ、まわって窓からはいろう」とひとりごとを言うのが聞こえました。
「それはできなくてよ!」とアリスは思いました。そして、兎の足音が窓の下に来たと思うころまで待ってから、アリスは不意に手をひろげて空《くう》をつかんだのです。何もつかまったわけではありませんが、アリスには小さな叫び声と物の落ちる音と、がちゃんとガラスのこわれる音とが聞こえました。
それから察《さっ》してアリスは兎が胡瓜《きゅうり》の温床かなんぞに落っこちでもしたらしい、と思いました。
次に怒った声がきこえました……兎の声です……「パット、おいパット! どこにおるんだ?」
すると、アリスが聞いたことのない声で「ちゃーんとここにおりやすだ! りんごを掘ってますだ、旦那《だんな》さん!」
「りんごを掘ってるとはなんだ!」と兎は怒って言いました。「おーい、こっちに来てここからわしを助け出してくれ」(またガラスがこわれる音がしました)
「パット、窓の所のもの、あれは何だい?」
「へい、ありゃ旦那、腕っこでさ」(パットは、腕を腕っこと言いました)
「腕っこだって、この阿呆《あほう》め! あんなでか腕がどこにある? 窓をいっぱいふさいでるじゃないか」
「『ふんと』に、そうでがすなあ、旦那。でもやっぱり腕っこにちげえねえでがす」
「まあ、とにかく、あんなもの、あすこには、いらんもんじゃ。行って片づけてしまいな」
このあと、長いこと静かでした。アリスには時々ささやき声が聞こえるだけでした。たとえば「ほんに、いやでがす、旦那。まったくでがす」「腰抜け奴《め》が、言いつけどおりにするんだ!」
そこで、アリスは、とうとう、もう一度手をひろげて空をつかみました。今度は小さい叫び声がふたつあがって、またしてもガラスのこわれる音がしました。「きっと胡瓜の温床《おんしょう》がいくつもあるんだわ」とアリスは思いました。「お次は何をするのかしら。わたしを窓から引っぱり出すと言うのなら、できたらうれしいわ。ほんとに、これ以上、このなかにいたくないわ」
しばらく待ったけれど、ほかには何も聞こえません。とうとう、荷車の小さな車輪のごろごろいう音と、大勢のがやがや言う話し声が聞こえてきました。
アリスには、こんな言葉が聞きわけられました。「もうひとつの梯子《はしご》はどこにあるんだ? ……おや、わしはひとつでよかったはずだぞ。いまひとつはビルが持ってるな……おい、ビル! ここに持ってきな……この隅《すみ》に立てかけるんだ……まず両方をつなぐんだ……まだそれでも、半分ととどかないや……うん、それでいいや。そううるさいこと言うな……おい、ビル、この縄《なわ》をつかまえるんだ……屋根はもつかな? ……そのはずれてる瓦《かわら》に気をつけろ……やあ、落っこちてくる……下の者は、頭に気をつけろ!(がらがらっという音)誰がやったんだ……ビルかもしれねえ……誰が煙突を降りるんだ? ……いや、おいら駄目だ。『手前』、やりなよ! ……じゃおれもご免だ……ビルに降りさせるんだな……おい、ビル! 親方が言ってるぜ、おまえが降りるんだってさ」
「それじゃ、ビルが降りることになったんだわ」とアリスはひとりごとを言いました。「あの人たち、なんでもビルに押しつけるらしいわ。ビルのかわりには絶対なりたかないわ。この炉はたしかに狭いけど、少しはあがけると思うわ!」
アリスができるだけ煙突の下の方へと足を引っこめて、待っていると、小さな一匹の動物(どういう種類なのか見当がつきませんでした)が、煙突の中のすぐ上のほうで、引っかいたりはいまわったりしているのが聞こえました。そこで、「これはビルだわ」とアリスはひとりごとを言いながら、ぱっと強くひと蹴《け》りして、どうなるかと様子をうかがいました。
最初に聞こえたのは、「あれっ、ビルが飛んだぞ」という異口同音《いくどうおん》の叫びでしたが、次には兎だけの声で「生垣のそばの衆、ビルを受け止めるんだ!」というのが聞こえ、それから沈黙がつづきましたが、ついで、またもや、がやがやという声がしました。「頭を持ち上げろ……ブランデーだ……息をつまらせるな……おい、どうだったい? どうしたんだい。話をしろよ」
最後に細く弱々しい、きいきい声で(「あれ、ビルだわ」とアリスは思いました)「うーん、おいらにもよくわからねえんだ……ブランデーはもうたくさん、よくなったよ……だけどさ、おいら、まったくあわくっちゃって話もできねえです……わかってることと言やぁ、なんだかびっくり箱みたいな奴が、さっとおいらめがけて出て来たんだ。すると、おいらは狼煙《のろし》よろしくすっとんじゃったって始末だよ!」
「そのとおりだったよ、兄弟」とほかの者たちが言いました。
「家を焼かなきゃだめだ」と兎の声がしました。そこでアリスは声をかぎりに叫びました。「そんなことしたら、ダイナをけしかけるわよ!」
たちまち水を打ったようにしーんとなりました。で、アリスはこうひそかに考えました。「今度はどうするかしら。知恵があれば、屋根を取るだろうにねえ」
一、二分すると、みんなはまた動きだしましたが、アリスには、兎が「最初は、手車一杯分でいいだろう」というのが聞こえました。
「いったい何を手車一杯分なのかしら」とアリスは思いました。
けれど、そう思う間もなく、次の瞬間には、小石の雨がぱらぱらと音をたてて窓から飛びこんでき、いくつかはアリスの顔にぶつかりました。
「これはやめさせよう」とアリスはひとりごとを言い、それから、こうどなりました。「二度とこんなこと、しないほうがよくってよ」
すると、またしてもしーんと静まりかえりました。アリスが少々おどろいたことには、気がついてみると、小石が、どれもこれも床に落ちると、小さな菓子に変わっているのでした。すると、うまい考えが浮かんできたのです。「この菓子をひとつ食べたら、きっとわたしの大きさが『なんとか』変わってくるわ。とてもこれ以上大きくなれっこないもの。小さくしてくれるにちがいないわ」
そこで、菓子のひとつを飲みこむと、たちまち、からだがちぢみだしたのを見て、アリスは大よろこびでした。戸がくぐれるくらいに小さくなるやいなや、アリスが家から駆け出しますと、外ではずいぶんたくさんの小さなけものや鳥たちが待っているのです。かわいそうに、蜥蜴《とかげ》のビルは、その真ん中にいて、二匹の豚ねずみにささえられていましたが、びんから何やらビルに飲ませているのです。アリスが姿を見せるが早いか、一同わっとばかりおし寄せて来ましたが、アリスはいっしょうけんめいに駆け出し、やがて無事に森の中へと逃げこみました。
「最初にしなければならないことは」とアリスは森の中をぶらつきながら、ひとりごとを言いました。「もう一度わたしのほんとうの大きさになることだわ。次には、あの美しい花園への道を見つけることだわ。それが一番いい方法だと思うわ」
たしかに、聞いたところはなかなかの良案で、手際《てぎわ》よく簡単にととのえられていました。ただひとつ困るのは、どう手をつけたらよいのやら、それがさっぱりということでした。
そこで、心配げに樹の間をのぞいていますと、頭のすぐ真上でひと声するどく、わん、という犬の吠《ほ》え声がしたので、大あわてに上を見ました。えらく大きな仔犬《こいぬ》が大きな丸い目でアリスを見下ろし、アリスにさわろうと、そおっと片足を伸ばしているのです。
「まあ、かわいそうに!」アリスは賺《すか》すような調子でことばをかけ、口笛を吹いてやろうと大いにつとめましたが、お腹をすかしているのじゃないかと思うと、始終おっかなかったのです。そうだと、アリスがどんなに賺《すか》してみても、アリスを食べてしまいそうでならなかったからです。
何をしてるのか気づかないくらいで、アリスは棒切れを拾い上げると、それを仔犬のほうに差し出しました。すると仔犬は、うれしそうにきゃんと吠えると、四つ足をそろえて、ぱっと空に飛び上がりました。
そして、棒切れにとびつき、くわえて振りまわす真似《まね》をするのです。それでアリスは下に敷かれてはと、大きな薊《あざみ》のうしろに身をかわしました。反対側に出たとたんに、仔犬はいま一度棒切れにとびかかってつかまえようとあわてたあまり、まっさかさまにひっくり返りました。そこで、アリスは、これは荷馬車馬とふざけるみたいなもんだわ、いつ馬の足に踏みつけられるか、しれたものじゃないわ、と思いながら、またもや薊《あざみ》をぐるりとまわりました。
すると仔犬は、棒切れ目がけて、つづけざまに何度か短い突撃を始めましたが、毎度ちょいと前進すると、ぐっと後退するのでした。その間じゅう、しゃがれ声で吠えていましたが、とうとうおしまいには、ずっとはなれた所にすわりこんでしまい、はあはあ息をきらし、舌は口からだらりと垂《た》らし、大きな目は半分閉じるという始末でした。
今が逃げるのにいい機会、だとアリスには思われたので、すぐさまアリスは駆け出し、走りつづけて、おしまいにはすっかりつかれて息も切れ、仔犬の吠え声も遠くでかすかに聞こえるほどになりました。
「それにしても、なんてかわいい仔犬だったこと!」アリスは、身を休めるために金鳳花《きんぽうげ》によりかかり、葉の一枚でからだをあおぎながら、言いました。「いろんな芸を教えてやりたかったわ……ただ、わたしが教えてやるのにちょうどいい大きさだったらのことだけど。あらまあ、わたしまた大きくならなきゃならないことを忘れるところだったわ。えーっと、ほんとにどうしたらいいのかしら。何か飲むか食べるかしなきゃいけないんだと思うけど、大問題は、その『何か』なんだわ」
大問題はたしかにその『何か』でした。アリスはあたりの花や草の葉を見まわしましたが、いまの場合、食べるにも飲むにも、これはと思えるものが見つかりません。身近なところに自分と同じくらいの大きな茸《きのこ》がはえていましたが、その下やら両側やらうしろやらを見てしまうと、いっそてっぺんに何があるのかを見てもいいわ、という気になりました。
アリスは爪《つま》立って背をいっぱいに伸ばしました。そして茸のふちから上をのぞいてみますと、アリスの目はたちまち大きな青い芋虫《いもむし》の目とぶつかりました。芋虫はてっぺんにすわって、腕組みをし、長い水煙管《みずぎせる》をゆっくり吸いながら、アリスにもほかのものにも、てんで目もくれていません。
第五章 芋虫の忠告
芋虫とアリスとは、しばらくはだまったまんまで見合っていました。ついに芋虫は口から水煙管《みずぎせる》をはずすと、だるい眠そうな声で話しかけました。
「『おまえさん』どなたかね」と芋虫は言いました。
これは会話の皮切りとしては気乗りのするものではありませんでした。アリスは少しはずかしそうに答えました。
「あー、わたし、いまのところそれがわからないんです……今朝《けさ》起きた時には、自分が誰かどうやらわかっていたんですけど、それからきっと、何度もわたし変わっちゃったようなの」
「それはどういうことかね」と芋虫はきびしい口調です。「よくわかるように説明しなさい」
「どうもよく説明できません」とアリスは言いました。「おわかりのように、わたしは自分でありませんから」
「わかっちゃいないよ」と芋虫は言いました。
「これ以上はっきりとは、どうもご説明できないように思います」とアリスはしごく丁重《ていちょう》に答えました。「第一わたし自身にもわかりませんから。一日のうちにこう何度も大きさが変わりましては、まごつくばかりですもの」
「まごつくことはないさ」と芋虫が言いました。
「まあ、あなたさまはそんなことはなかったのでございましょう」とアリスは言いました。「でも、あなたが蛹《さなぎ》におなりになって……いずれおなりになるでしょうから……それに蝶におなりになるときには、少々妙な気持ちになられるだろうと思いますわ」
「いや、ちっとも」と芋虫は言いました。
「では、あるいはあなたさまのお気持ちが異なっているのかもしれませんわ」とアリスは言いました。「わたしにわかっていますことは、『わたし』にはたいそう妙だと思えるだろうってことだけですの」
「あんたにね!」芋虫は人を食ったことばです。「『あんた』は一体誰かね」
これで話はもとにもどりました。
アリスは芋虫がずいぶんとそっけないこんなことばづかいをするので、少しばかり癪《しゃく》にさわりました。で、身をそらして、ひどくもったいぶって言いました。「まず『あなたさま』のお名前をおっしゃるべきだと思いますわ」
「なぜだい」と芋虫は言いました。
またもや困った問題が起こりました。アリスにもうまい理由を思いつけないし、芋虫もえらく不愉快そうに見えたので、アリスはそこを立ち去りました。
「もどって来い!」と芋虫は呼びかけました。「大事な話があるんだ」
たしかに、これはまだのぞみがありそうでした。アリスは向きをかえるともどって来ました。
「腹を立てるんじゃない」と芋虫は言いました。
「それだけですの?」とアリスは腹の虫をぐっと精いっぱいおさえながら言いました。
「だけじゃない」と芋虫が言いました。
ほかに用事もないし、ひょっとすると芋虫がやはり何か聞き甲斐《がい》のあることを言わないでもないし、待っていても悪くはないなとアリスは思いました。
芋虫は、しばらくは口もきかずにぷかぷか水煙管《みずぎせる》をふかしていましたが、とうとう腕を解《と》くと、水煙管を口からはずして「で、自分が変わったと思っているんだね?」と言いました。
「どうもそうらしいのです」とアリスは言いました。「昔どおりに物を思い出せませんのです……それに、わたくし、十分《じゅっぷん》ともとの大きさではいないんですの」
「何を思い出せないんだって?」と、芋虫が言いました。
「たとえば『働きものの小蜂さん』を言おうとしたのですが、すっかり違ってしまいましたの!」とアリスはとてもふさいだ声で言いました。
「『ウイリアム父《とう》さん、お年だよ』をやってみな」と芋虫が言いました。
アリスは両手を組み合わせると、歌い出しました。
「ウイリアム父さん、お年だよ」
若い男の言うことにゃ、
「頭の髪は真っ白で、
それでもしょっちゅう逆立《さかだ》ちばかり……
いいのですかね、その年で」
父さん、息子《むすこ》に答えるは、
「若え時分にゃ 脳味噌《のうみそ》に
わるいことかと案じたが、
脳味噌|空《から》だとわかってみれば
なんの、かまわん、やるだけよ」
若者答えて言いけるは、
「さっきも言ったろ、お年だよ。
それにさ、とんだ太《ふと》りよう。
かまわず戸口ででんぐりがえり、
いったいどういうご料簡《りょうけん》」
白髪《しらが》ふりふり父さんは、
「むかしは手足もしなやかで、
それもひと箱一シルの、
この膏薬《こうやく》のおかげじゃで……
どうだ、ふた箱買わんかね?」
若者言うに、
「お年だよ、まった、あんたのその顎《あご》じゃ、
脂身《あぶらみ》よりか堅くては、何ひとつとて噛《か》めまいに、
それでも鵞鳥《がちょう》を骨ごとみんな。
伺《うかが》いたいね、その法を」
父さん言うに「若いころ、法律勉強したっけが、
女房となんでも議論をすれば
おかげで顎《あご》は強くなり
一生|保《も》ってこのとおり」
若者言うに「お年だよ。眼力《まなぢから》とて
むかしほど、あるはずないになんのその、
鰻《うなぎ》を鼻のてっぺんに、上手にのせるその手ぎわ
なんとてそうもうまいのじゃ」
父さん言うに「三つの問いに、わしゃ答えたぞ、
もうたくさんだ。威張《いば》るでねえぞ、この野郎!
馬鹿を相手に一日を、過ごせるもんか出てうせろ、
うせなきゃ階下《した》へ蹴《け》落とすぞ」
「そりゃ合ってないや」と芋虫が言いました。
「全部合ってはいないと思います」とアリスはおずおず言いました。「ことばがいくつか変わっています」
「始めから終わりまで違っているよ」と芋虫はきめつけるように言いました。
それから数分の間、どちらも黙っていました。
芋虫がまず口を切りました。「どのくらいの大きさになりたいのかね」と芋虫はたずねました。
「別にのぞみはないのです」とアリスはいそいで答えました。「ただ、そうたびたび変わるのはいやですもの。ねえ」
「ねえもないもんだ」と芋虫は言いました。
アリスは黙っていました。アリスは生まれてからこれほど反対されたためしがなかったので、癇癪玉《かんしゃくだま》が割れそうな気がしました。
「今のままで満足かね」と芋虫が言いました。
「ええ、もうちょっと大きくなりたいわ。ご面倒でなければ」とアリスは言いました。「三インチというのは、とてもみじめな背たけですもの」
「実にほどよい背たけだよ!」と芋虫は怒った声で言いながらきちんとすわり直しました(それがちょうど三インチの高さでした)。
「だけどわたくし、その高さに慣《な》れていませんのよ」アリスは哀れっぽい口調で弁解しました。そして心中こう考えたのです。「動物たちがこんなにすぐと怒らなければいいのに」
「いずれ慣れてくるよ」と芋虫は言いました。そして水煙管《みずぎせる》を口にくわえると、またもやふかし始めました。
今度はアリスのほうで、芋虫から進んで口を開くまで辛抱づよく待っていました。一、二分すると芋虫は水煙管を口からはずして、一、二度|欠伸《あくび》をしてから身体をゆすぶりました。それから茸《きのこ》から降り、草の中へとはい込みましたが、そうしながらこう言っただけでした。「片側だと大きくなるし、もう一方の側だと小さくなるよ」
「いったい何の片側なのかしら? 何のもう一方の側なのかしら?」とアリスはひとりで考えました。
「茸のだよ」と芋虫は、まるで、アリスが声に出してたずねでもしたように言いました。そして次の瞬間にはもう見えなくなっていました。
アリスは、どれがその両側なのだか知ろうと、ちょっとの間、茸を見つめて考えこんでいましたが、まん丸なのでなかなか難問でした。しかし、とうとう、アリスは両腕をその周《まわ》りにできるかぎり伸ばして、両手で端を少しもぎとりました。
「さあて、どっちがどっちかしら?」とアリスはひとりごとを言い、右手にちぎり取ったほうをちょっと噛《かじ》って効果《ききめ》をためしてみました。たちまち、顎《あご》の下をこっぴどくなぐられたような気がしました。顎が足にぶつかったのです!
アリスはこの激変にはえらくおどろきましたが、自分がずんずんとちぢまって行くので、ぐずぐしてはおれないと思いました。そこですぐさまもう一方のを少し食べにかかりました。顎《あご》がきちっと足にくっついていて、口をあける余地もないほどでした。けれども、やっとどうやら、左手の方のをひと口飲みこみました。
* * *
「さあ、頭がやっと自由になったわ!」とアリスはうれしげな口調で言いましたが、次の瞬間には、それはおどろきの口調に変わっていました。自分の両方の肩が見当たらないのがわかったからです。下を見て自分に見えるものと言ったら、ただ、途方もなく長い首で、はるか下の青葉の海からはえ出ている茎みたいなのです。
「あの青いものは一体なにかしら?」とアリスは言いました。「それからわたしの肩はどこにいったのかしら? それに、まあ、わたしの手も、かわいそうに、どうして見えないのかしら?」
そう言いながら手をふりまわしていたのですが、遠い青葉がわずかにゆれるほかは、何も起こりそうにないのでした。
両手を頭まで持ってゆける『めど』も、まったくなさそうなので、アリスは頭を両手のほうにもって行こうとしました。すると、うれしいことに、首がどんな方角へでも蛇のように曲がることがわかりました。
アリスは、どうやら首を下の方へ品《ひん》よくくねくねと曲げて、青菜はさっきその下をアリスがぶらついていた木の梢《こずえ》にすぎないとわかったのですが、その中にもぐろうとしますと、とたんに鋭いシューッという音がし、アリスはあわてて首をひっこめました。大きな鳩《はと》がアリスの顔に飛びこんできて、翼ではげしくアリスをはたいていたのです。
「蛇だ!」と鳩は叫びました。
「蛇じゃないわよ!」アリスは怒って言いました。「わたしにかまわないでよ!」
「どうしたって蛇だ!」と鳩はくり返しましたが、声の調子を落とし、すすり泣きをしているように言い足しました。「あらゆることをやってみたのに、あいつたちには合わんようだなあ」
「あなたが何を言ってるのか、わたしにはさっぱりわからないわ」とアリスは言いました。
「木の根もためしたし、土手もためしたし、垣根もためした」と鳩は、アリスにはかまわず言いつづけました。「だけどあの蛇の奴らときたら! きげんのとりようもありゃしない」
アリスはますますわからなくなりました、が、鳩がしゃべり終わるまでは、何を言ってもむだだと思いました。
「卵を孵化《かえ》すのだってひと苦労なのにさ」と鳩は言いました。「でも夜昼なしに蛇の見張りをしなくちゃならないし! そうだ、この三週間、わたしは一睡《いっすい》もしてないんだ!」
「それはお困りで、気の毒ですわねえ」とアリスは話の意味がわかりかけてきて、そう言いました。
「それに、森で一番高い木をえらんだちょうどその矢先に」と鳩は金切り声に声を高めながら言いつづけました。「やっと蛇からのがれたと思っていたちょうどその矢先に、なんとまた、のろのろっと空からはい降りてくるじゃないか! ちぇっ、蛇の奴め!」
「でも、わたし蛇じゃないのよ!」アリスは言いました。「わたしは……わたしはあのう……」
「では、いったい、何なんです?」と鳩は言いました。「何かつくりごとを言おうとしてるの、わたしにはちゃんとわかってますよ」
「わたしはね……わたしは少女なのよ」とアリスはいくぶんあやふやに言いましたが、それは、この日何度も変わったことを思い出したからです。
「へん、もっともらしいことを言ってさ!」と鳩は軽蔑しきった調子で言いました。「これまでずいぶん少女にお目にかかったけどね、そんな長首のなんか、ひとりだって見たことないよ! とんでもないよ! 蛇だよ、あんたは。蛇じゃないって言ったって通らないよ。こんどは、卵なぞ食べたことないとでも言うんだろ!」
「たしかに卵は食べたことはあるわ」とアリスは、たいへん正直な子供だったので、そう言いました。「だって少女って蛇に負けないくらい卵を食べるのよ」
「まさか」と鳩は言いました。「だけど、ほんとうなら、少女って蛇の仲間だよ。そうより言いようがないよ」
これは、アリスにとってすこぶる新しい考えだったので、一、二分の間は、口もきかずにいますと、その機をとらえて鳩が言い足しました。
「あんたは卵をさがしているんだよ。それぐらいはちゃんとわかるよ。だからさ、あんたが少女だろうと蛇だろうと、わたしには変わりないよ」
「『わたし』にはうんと変わりがあるのよ」とアリスはいそいで言いました。「でも、いまは卵をさがしているのじゃないわ。さがしててもあなたのはいらないわ。生卵はいやなの」
「じゃ、あっちに行ってよ」と鳩はまた巣に落ちつきながら、ふきげんな調子で言いました。アリスはできるだけ上手に樹の間にうずくまりました。なにしろ、首がしきりと枝にからんで、時々はとまってほどかなければならないのです。
少したつと、アリスは、両手にまだ茸《きのこ》の端っこを持ってることを思い出し、用心深く片方を噛《かじ》ると、次には別のほうを噛るというふうにしてとりかかり、高くなったり低くなったりして、とうとうふだんの背たけになるのに成功しました。
あたり前の背たけに近くなったのは、ずいぶんむかしのことだったので、最初はとても変な気がしましたが、数分もたつと慣れてしまい、いつものようにひとりごとを言い始めました。
「さあ、これで計画の半分はできたわ! こんなに変わるのはほんとにまごついてしまうわ! 一分ごとにどうなるやら見当もつかないんだもの! とにかく、わたしの背たけにもどったんだわ。お次は、あのきれいなお庭にはいることだわ……さあ、それはどうしたらいいかしら?」
そう言っていると、にわかにアリスは広場に出て来ましたが、その中には高さ四フィートあまりの小さい家があるのでした。
「どなたが住んでられるか知らないけれど」とアリスは考えました。「この背たけで会ってはとてもだめだわ。みんなたまげてしまうわ!」
そこでアリスは右手の切れっ端をまた噛《かじ》り出しました。そして九インチにまで背たけをへらしてから、思いきってその家に近づきました。
第六章 豚《ぶた》と胡椒《こしょう》
一、二分間、アリスはその家を眺めながら、こんどはどうしようかと思案していました。その時、とつぜん、お仕着《しき》せ姿の従僕が森から駆け出してきました。……(お仕着せを着ていたのでアリスは従僕だと思ったのです。でなくて、顔付きからだけ判断していたら、お魚《さかな》だと考えたことでしょう)……そして、手の関節《ふし》で音高くとんとんと戸を叩きました。
お仕着せの別の従僕が戸をあけましたが、これは丸顔で蛙《かえる》のような大目玉をしていました。アリスが気をつけて見ると、ふたりの従僕とも頭じゅう、ちぢれ髪に髪粉がふりかけてあるのでした。いったい何事かとアリスはとても知りたくなって、森から少しはい出してきき耳を立てました。
お魚の従僕は、まず身のたけほどもある大きな手紙を小脇から取り出し、これを相手に手渡して、おごそかな口調で言いました。
「公爵夫人へ、女王さまよりクローケー遊びのご招待状でござる」
蛙の従僕は同じおごそかな口調で、ただ言葉の順序を少し変えて「女王さまより、公爵夫人へクローケー遊びのご招待状でござる」とくり返しました。
それからふたりとも低くおじぎをすると、双方のちぢれ毛がもつれ合いました。
アリスはこれを見てあんまり笑ったので、聞かれては困ると思い、森の中へ駆け込まなければなりませんでした。次にのぞいてみると、お魚の従僕はいなくなっていて、もうひとりは戸に近い地面にすわってぽかんと空を見上げているのです。
アリスは、おずおず戸口まで行くと叩きました。
「叩いてもなんにもならないよ」と従僕は言いました。「それもふたつの理由があるんじゃ。第一に、わしがお前さんと戸口の同じ側にいるからじゃ。第二に、内はどえらい騒ぎじゃで、誰にもけっして聞こえはせんからじゃ」
たしかに内ではとてつもない騒ぎが起こっていて、……ひっきりなしのわめき声やくしゃみ、それに時には皿か薬罐《やかん》かがこなごなにくだかれるように、がちゃあんという音がするのでした。
「では教えてくださいな」とアリスは言いました。「どうしたらはいれますの?」
従僕はアリスにはおかまいなしに言いつづけました。「わしらの間に戸があるんなら、おまえさんが叩くのも無駄ではあるまいがのう。たとえばじゃ、おまえさんが内側にいたら、叩けば出してやれるじゃろう」
従僕はしゃべっている間じゅう空を見上げていましたが、これはたしかに失礼なことだとアリスは思いました。
「でも仕方がないのかもしれないわ」と、アリスは思いました。「目があんなに頭のてっぺん近くにあるんだもの。だけど、とにかくたずねたことに返事ぐらいしてくれたっていいのに……どうしたらはいれますの?」とアリスは声に出してくり返しました。
「わしはここにすわってるんじゃ」と従僕は言いました。「明日《あした》まで……」
ちょうどこの時です。家の戸があいて、大きな皿が従僕の頭めがけてまっすぐに飛んできました。あやうく従僕の鼻をかすめ、うしろの樹の一本にぶつかってこなごなにくだけました。
「それとも、あるいは、その次の日まで」と従僕はまったく何くわぬ顔をして同じ口調でつづけました。
「どうしたらはいれますの!」とアリスはいっそう声を大きくしてたずねました。
「おまえさん、いったい、はいりたいのかね」と従僕は言いました。「それがまず問題じゃよ」
たしかにそうでした。ただアリスは、それを言われるのはいやでした。
「ほんとにひどいわ」とアリスはひとりつぶやきました。「ここの動物たちの議論の仕方といったら! 気が狂いそうだわ!」
従僕はこれが自分の文句をいろいろに変えてくり返すいい機会だと思ったようです。
「わしはここにすわっとるんじゃ」と言いました。「やったりやめたり、幾日も幾日も」
「だけど、わたし、どうしたらいいの?」とアリスは言いました。
「どうとも好きなようにな」と従僕は言うと、口笛を吹き始めました。
「ああ、あの人には物を言っても駄目だわ」とアリスはやけっぱちになって言いました。「底ぬけのおばかさんだわ!」
そこでアリスは戸をあけて中にはいりました。
戸口からはまっすぐに大きな台所に通じていましたが、そこは端から端まで煙が立ちこめていました。
公爵夫人は中央の三脚いすに腰かけて、赤ん坊をあやしていました。料理女が炉の火の上に身をのり出して大釜をかきまわしていましたが、釜はスープがいっぱいのようでした。
「あのスープには、たしかに胡椒《こしょう》が入れすぎてあるわ!」アリスはくしゃみをしながらも、どうやら精いっぱいそう言いました。
空中にはたしかに胡椒がありすぎました。公爵夫人でさえ時々くしゃみをしました。赤ん坊となると、ひっきりなしにくしゃみとわめくのとを、かわるがわるにやっていました。台所の中でくしゃみをしないふたりは、ただ料理女と大きな猫だけでしたが、猫は炉の上にすわって耳まで口をあけて、にたにた笑っているのでした。
「お聞かせねがえますかしら」とアリスは、自分のほうから口をきくのが作法にかなっているかどうか心もとなくて、少々おずおずとたずねました。
「お宅の猫はなぜあんなふうに笑いますの?」
「あれはチェシャ猫です」と公爵夫人は言いました。「だからですよ。豚!」
公爵夫人がおしまいのをあんまり急に激しい口調で言ったので、アリスはとび上がってしまったくらいでした。しかしそれは赤ん坊に向かって言われたもので、自分にではないことがすぐにわかったので、アリスは元気を出し、また言いつづけました。
「チェシャ猫がいつも笑うことは知りませんでしたわ。ほんとのとこ、猫が笑えるってことも知りませんでしたわ」
「猫はみな笑えるのです」と公爵夫人は言いました。「また、たいてい笑うのです」
「わたくしまだ笑う猫のことは存じませんわ」とアリスは、話を交わせるようになったので、すっかりうれしくなり、ごくていねいに言いました。
「あなたは物をあまりご存じないのです」と公爵夫人は言いました。「それは事実です」
アリスはこの言葉の調子が一向に気にくわなかったので、何か別の話題をもち出したほうがよいだろうと思いました。話題を決めようとしていますと、料理女がスープの大釜《おおがま》を炉火からおろし、手の届くかぎりのものをすぐに公爵夫人と赤ん坊めがけて投げつけ始めたのです。……まっさきに火箸《ひばし》がとんできました。つづいてソース鍋《なべ》、金属皿、皿の雨です。公爵夫人は自分に当たってもそしらぬふうです。赤ん坊のほうはすでに火のついたようなわめきようなので、物が当たって痛いのかどうかまったくわかりませんでした。
「まあ、どうぞ気をつけてくださいな」とアリスはこわさのあまり、とび上がったりとび下がったりしながら叫びました。「まあ、赤ちゃんの大事なお鼻がとれますわ!」とアリスは、とてつもなく大きなソース鍋が鼻のすぐそばを飛んで、あやうくそれをもっていきそうになったときに言いました。
「みんなか他人のことにおせっかいしなければ」と公爵夫人はしゃがれたうなり声で言いました。「世の中は今よりずっと速く回転するだろうにね」
「それでは世のためにはならないでしょう」とアリスは言いましたが、自分の物知りをちょっぴりひけらかす機会が得られて、ひどくうれしかったのです。「昼と夜がどうなるかちょっと考えてごらんなさいな。そら、地球は軸を中心に二十四時間かかっておのずとまわるんでしょ……」
「斧《おの》と言えば〔公爵夫人が軸 axis を 斧 axes ととりちがえたもの〕」と公爵夫人は言いました。「この娘《こ》の頭をちょん切っておしまい!」
アリスは少々心配そうに料理女をながめましたが、それは、料理女が夫人の指図《さしず》どおりにやるつもりかどうかを見てとりたかったからです。でも料理女は、いそがしくスープをかきまぜていて聞いていそうにもなかったので、アリスはまたしゃべりつづけました。
「二十四時間だと思うわ。それとも、十二時間かしら? わたし……」
「まあ、うるさいね」と公爵夫人は言いました。「数字はがまんできないよ」
そう言うと、夫人はまた子供をあやし始めましたが、あやしながら子守歌らしいものを歌い、歌の文句の一行ごとに子供をはげしくゆすぶるのでした。
「かわいい子供はどなりつけ
くしゃみをしたらぶったたけ。
人が弱ると知っていて
人困らせにやるばかり」
一斉合唱《コーラス》
(これには料理女も赤ん坊も加わりましたが)
「わあ! わあ! わあ!」
公爵夫人は歌詞の第二節目を歌いながら、たえず赤ん坊を上下にはげしくゆさぶりつづけましたので、かわいそうに赤ん坊はたいへんなわめきようで、アリスは歌の文句も聞きとれないくらいでした。
「子供にゃきびしくもの言って
くしゃみをすればなぐります。
胡椒《こしょう》はいつでも好き勝手
たらふくこの子は食べるゆえ」
一斉合唱《コーラス》
「わあ! わあ! わあ!」
「それ! 好きならちょっとあやしてもいいよ!」と公爵夫人はアリスに言いましたが、口といっしょにアリスめがけて赤ん坊を投げつけました。「わたしは女王さまとクローケー遊びに出かける用意をしなけりゃならないからね」
そう言うと、夫人はそそくさ部屋を出て行きました。料理女は、夫人が出て行きがけに、うしろからフライパンを投げつけましたが、わずかなところで命中しませんでした。
アリスは赤ん坊をかろうじて抱きとめましたが、なにしろ変てこな格好《かっこう》の児《こ》で、手足を四方八方につき出していたからです。「まるで『ひとで』そっくりだわ」とアリスは思いました。
かわいそうにその児はアリスが抱きとめたときには、蒸気機関のように鼻で荒っぽく息づかいをしていました。そしてからだを二重に折り曲げたり、またまっすぐ伸ばしたりするので、最初の一、二分間ほどは、抱《かか》えているだけがやっとのことでした。
赤ん坊の正しいあやし方(それは赤ん坊のからだを曲げて結び目のようにし、解けないように右の耳と左の足とをきつく握っておくことでした)がわかるやいなや、アリスは戸外につれ出しました。
「わたしがこの児をつれて行かないと」とアリスは思いました。「きっと一、二日のうちにあの人たちが殺してしまうわ。置きざりにするのは、殺すのと同じことだわ」
終わりのほうの言葉をアリスは声高《こわだか》に言いました。すると赤ん坊は返事がわりにぶうぶうとうなりました(このころにはくしゃみもやんでいました)。
「ぶうぶう言っちゃだめよ」とアリスは言いました。「そんな言い方しちゃいけないわ」
赤ん坊はまたぶうぶうと言いました。で、アリスはどうかしたのかしら、とひどく心配して顔をのぞきこみました。
赤ん坊はひどい獅子鼻《ししばな》をしていて、人の鼻よりかずっと動物の鼻に似ていることには、なんのうたがいもありません。その目までが、赤ん坊にしてはとても小さくなりかけているのでした。何やかやで、アリスは赤ん坊の格好がまったく気に入りませんでした。
「だけどひょっとしたら、泣いてたからかもしれないわ」とアリス考えました。そして、涙が出ているかしらとまた目をのぞきこみました。
いや、涙は見えませんでした。「ねえ、おまえ、豚におなりだったら」とアリスは真剣に言いました!「もうお相手にはなりませんよ。用心おし!」
かわいそうに、赤ん坊はまたもやすすり泣きました(それともぶうぶう言ったのか、どっちともわかりませんでした)。それでふたりは、しばらく無言のままでした。アリスがちょうど「さて、この児《こ》を家に連れて帰ったら、どうしたらいいのかしら」とひそかに考えていますと、またもぶうぶうと言うのです。あんまりはげしいので少々おどろいて顔をのぞきこみました。
今度こそ、つゆほどの疑いもありません。それはまぎれもなく豚でした。で、アリスは豚をこれ以上持ち歩くのはばかげていると思いました。
そこでこの小さな動物を下におろすと、ちょこちょこと静かに森の中へ駆けこむのを見て、アリスはすっかり安心しました。
「あれが大きくなったら」とアリスは思いました。「おそろしく醜い子供になっていたでしょうよ。でも、豚にしてはわりときれいなほうだわ」
そこで自分の知っているほかの子供たちで、豚でもじゅうぶん通れそうなものを考えはじめました。そして「あの子たちを豚にかえる適当な方法を知ってさえいたら」とひとりごとを言っていると、ちょうどそのとき、数ヤードはなれた枝にチェシャ猫がすわっているのを見て、ぎくっとしました。
猫はアリスを見ると、にたりとしただけでした。気のよさそうな猫だわ、とアリスは思いました。それでも『とても』長い爪《つめ》とたくさんの歯を持っていたので、敬意をもって扱わなければならないわ、とアリスは思いました。
「チェシャ猫さん」とアリスはいくらかおずおずと話しかけました。そういう呼び名が気に入るかどうか全然わからなかったからです。けれども、猫は前より少し大きく口をあけて、にやりと笑っただけでした。
「しめたわ、いまのところごきげんだわ」とアリスは思いました。で、ことばをつづけました。「おたずねしますが、ここからどちらに行ったらよろしいのでしょう?」
「そいつは、おおいに行きたいところ次第だよ」と猫は言いました。
「わたし、どこといって格別には……」と、アリスは言いました。
「それじゃ、どっちに行ったってかまわんよ」と猫は言いました。
「……『どこか』に着きさえすればね」とアリスは説明を加えました。
「どこかに着くことは間違いないさ」と猫は言いました。「それほど遠くまで歩きさえすりゃあね」
アリスはそれは間違いないと思ったので、また別の問いをかけてみました。「このあたりにはどういう人が住んでるんですの?」
「あっちのほうにはな」と猫は、右手をぐるっと振りながら言いました。「帽子屋が住んでるよ。それからあっちのほうにはな」と左手を振りながら「三月兎が住んでるよ。好きな方をたずねてごらんな。どっちも気違いだよ〔as mad as a Hatter「帽子屋のように気が狂って」と、as mad as a March hare 「三月兎のように気が狂って」は、どちらも英語の成句〕」
「でも気違いの中にははいりたくありませんわ」とアリスは言いました。
「ああ、それは仕方がないよ」と猫は言いました。「ここではみんな気違いなんだからね。わしもあんたも気違いだよ」
「わたしが気違いだとどうしてわかりますの?」とアリスが言いました。
「それにちがいないんだよ」と猫は言いました。「でなきゃ、あんたはここに来はしなかったろうよ」
アリスはそれではまったくなんの証明にもならない、と思いました。が、言いつづけました。「またどうしてあなたが気違いだとわかりますの?」
「第一に」と猫は言いました。「犬は気違いじゃないだろう。それは認めるね?」
「そうでしょうね」とアリスは言いました。
「うん、ではね」と猫は言葉をつづけました。「犬は怒るとうなり、うれしいと尻尾《しっぽ》を振るだろう。ところで、わしはうれしいとうなり、怒ると尻尾を振るんだ。だによって気違いというわけだ」
「それは喉《のど》を鳴らすというんですわ、うなるとは言いませんわ」とアリスは言いました。
「好きに言うがいいさ」と猫は言いました。「今日女王さまとクローケー遊びをするのかね」
「たいへんしとうございますわ」とアリスは言いました。「でも、まだお招きをうけていないんですの」
「そこでお目にかかるよ」と猫は言って姿を消しました。アリスはこれにはさほどおどろきませんでした。奇妙なことが起こるのには、慣れっこになっていたからです。猫のいた場所をまだ見つめていますと、急にまた猫が現れました。
「ところで、赤ん坊はどうしたかね」と猫は言いました。「つい聞くのを忘れるところだった」
「豚になりました」とアリスは、猫が自然にもどってきたかのように、しごく落ち着いて答えました。
「そうだろうと思ったよ」と猫は言って、またかき消えました。
アリスはまた現れないかとなかば期待しながら、しばらく待っていましたが、現われません。
そこで一、二分たって、アリスは三月兎が住んでいるという方向に歩いて行きました。
「帽子屋ならこれまでにも見たことがあるわ」と、アリスはひとりごとを言いました。「三月兎のほうがずっと面白いようだわ。それに、今は五月だから、大あばれに狂ってはいないかしれないわ……少なくとも三月ほど狂っちゃいないわ」
こう言いながら上を見ると、また猫が木の枝にすわっているのでした。
「『豚』と言ったかね。それとも『無花果《いちじく》』かね?」〔豚 pig と無花果 fig とが発音が似ているから〕と猫が言いました。
「『豚』だと申しましたわ」とアリスは答えました。「そうだしぬけに現れたり消えたりしないでほしいわ。ほんとに目がまわりますもの」
「合点《がてん》だ」と猫は言いました。そして今度はごくゆっくりと消えうせましたが、まず尻尾の端が消え出して、にたにた笑いで消え終わりましたが、その笑いは猫のほかの部分が消えてしまってからもしばらくは残っていました。
「そうだわ! にたにた笑いをしない猫は何度も見たことがあるけど」とアリスは思いました。
「猫がいないにたにた笑いなんて! こんな奇妙なものを見るの、生まれて初めてのことだわ!」
行くことほどなく、アリスは三月兎の家の見えるところに来ました。煙突は耳の形をし、屋根は毛皮で葺《ふ》いてあったので、それがまさしく兎の家にちがいないとアリスは思いました。とっても大きな家なので、左手の茸《きのこ》の切れっ端をもう少し噛《かじ》って、二フィートくらいの背たけになってから近づく気になったほどでした。それでも少々おっかなびっくりで近づきましたが、「でもやっぱり狂いまわってたら? 帽子屋を見に行ったほうがよかったみたいだわ」とアリスはひとりごとを言いました。
第七章 気違い仲間のお茶の会
家の前の木陰にはテーブルが据《す》えられ、三月兎と帽子屋とがテーブルについてお茶を飲んでいました。ふたりの間には一匹のやまねがすわりこんでぐっすり眠っていましたが、ふたりはやまねをクッション代わりにしてその上にひじをつき、その頭越しに話をしていました。
「やまねにしては、とてもきゅうくつだわ」とアリスは思いました。「ただ眠ってるから、平気なんだと思うわ」
テーブルは大きいものだったのに、三人ともその片隅にかたまっていました。
「場所がない! 場所がない!」とアリスが来るのを見ると、みんなが叫びました。
「場所はたっぷりあるわ!」とアリスは怒って言いました。そしてテーブルのかたはしの大きなひじ掛けいすに腰をおろしました。
「ぶどう酒をおあがりよ」と三月兎は気を引き立てるような口調で言いました。
アリスはテーブルを見まわしましたが、あるのはお茶だけなのです。
「ぶどう酒は見えませんわ」とアリスは言いました。
「ないよ」と三月兎が言いました。
「それなのに、おあがりだなんて、ずいぶん失礼だわ」とアリスは怒って言いました。
「招待もされないですわりこむなんて、あんたも失礼だよ」と三月兎は言いました。
「『あなた』のテーブルだと知らなかったものですから」とアリスは言いました。「三人よりかずっと多くの人に用意されていますもの」
「あんたは髪を刈らなきゃいけないね」と帽子屋が言いました。帽子屋はさっきからひどく珍しそうにアリスを眺めていて、これが初めての言葉でした。
「人のことを悪口言わないようにすべきだわ」とアリスはちょっときつく言いました。「とても失礼だわ」
これを聞くと、帽子屋は目を大きくあけましたが、言ったことはただ「黒鴉《くろがらす》が書きもの机に似ているのはなぜだい?」でした。〔本書が発行されて以来、英米の子供たちがいろいろこの謎を解こうとこころみた。当時イギリスの子供たちのあいだで一般的だった答は、「両方とも木にのぼれないから」だったそうだ。ちなみに作者が読者の問いに対して示した答は「ともにノート(鳴き声、短い手紙の両意がある)が出せるが、ともに平べったいから」というものだった〕
「さあ、面白くなりそうだわ」とアリスは思いました。「謎《なぞ》かけを始めたのはうれしいわ……あの謎は解けると思うわ」アリスは声に出して言い足しました。
「答えを見つけられると思うのかね」三月兎が言いました。
「そうよ」とアリスは言いました。
「じゃ思うことを言うがいい」と三月兎は言いつづけました。
「言うわ」とアリスは急いで答えました。「少なくとも……少なくとも、わたし言うことは思ってることだわ……それは同じことだわね」
「ちっとも同じなんかじゃない!」と帽子屋が言いました。「ばかな、それじゃ『わたしは食べるものが見える』というのは『わたしは見えるものを食べる』というのと同じだと言ってもいいわけだよ」
「こうだって言えるわけだよ」と、三月兎は言いました。「『わたしは手に入れるものを好む』ってのは、『わたしは好むものを手に入れる』のと同じだってね」
「こうも言えるわけでしょう」とやまねがつけたしましたが、寝言を言ってるようでした。「つまり、『わたしは眠りながら息をする』は『わたしは息をしながら眠る』と同じことだってね!」
「おまえには同じことだよ」と帽子屋は言いました。
ここで話はとぎれ、一同しばらく黙っていましたが、アリスは黒鴉と書きもの机のことで思い出せるだけのことを考えてみましたが、それもたくさんはありませんでした。
帽子屋がまっさきに口をききました。
「今日は月の何日ですかね?」とアリスのほうに向いて言いました。さっきから帽子屋は懐中時計をポケットから取り出し、心配げに見ていましたが、それを時々振っては耳にあてがっているのでした。
アリスはちょっと考えて言いました。「四日です」
「二日ちがいだ!」と帽子屋は溜息をつきました。「バターじゃ機械に合わないだろうって言ったろう」と帽子屋はつけ加え、怒って三月兎をにらみつけるのでした。
「とびきり上等のバターだったんですよ」三月兎はおとなしく答えました。
「うん、それでもきっとパン屑《くず》までいっしょにはいったんだ」と帽子屋はぶつくさ言いました。
「パン切りナイフで入れたりしちゃ、いけなかったんだ」
三月兎は時計を取って、沈んだ顔でながめました。それから、自分の紅茶|茶碗《ちゃわん》にちょっと浸《つ》けると、また眺めました。それでも最初に言った「とびきり上等のバターだったんですよ」ということばより、もっと気のきいた文句を思いつけませんでした。
アリスはさっきから、兎の肩越しに多少の好奇心をもって見ていました。「なんておかしな時計だこと!」とアリスは言いました。「月の日にちはわかるのに、時間はわからないなんて!」
「それでけっこうじゃないか」と帽子屋はつぶやきました。「あんたの時計は年までしらせるのかね」
「そんなことないわ」とアリスはすかさず答えました。「だけど、それは、長いこと年が変わらないからよ」
「わしのがちょうどそんな具合さ」と帽子屋が言いました。
アリスはおそろしくまごついてしまいました。帽子屋のことばはなんの意味もないように思われたけれど、たしかに英語ではあるのです。
「どうも、じゅうぶんにはのみこめないんですけれど」とアリスはできるだけていねいに言いました。
「やまねはまた眠ってるな」と帽子屋は言って、熱い茶を少しばかりその鼻の上にそそぎました。
やまねはがまんならなそうに頭を振って、目をあけずに言いました。「そうとも、そうとも。わたしもそう言うところだったんだ」
「謎はもうわかったかね」と帽子屋は、またアリスのほうに向きながら言いました。
「いいえ、わたし、よしましたわ」とアリスは答えました。「どういう答えですの」
「ちっともわからないんだよ」と三月兎は言いました。
「わしもそうさ」と帽子屋は言いました。
アリスは退屈げに吐息《といき》しました。「答えのない謎をかけて時間をつぶしたりするより、もっとましなことをなさってもいいじゃないの」とアリスは言いました。
「わしぐらいに、あんたが『時』を知ってればね〔古来 Father Time「時のおとうさん」ともいい、「時」を擬人化していうことも多い〕」と帽子屋は言いました。「『時』をつぶすなんこと言わないだろうよ。時ってあの人だよ」
「何をおっしゃってるのか、のみこめませんわ」とアリスは言いました。
「もちろんわからんさ」と帽子屋は、ふん、とでも言うように、頭をふりながら言いました。「たぶん『時《タイム》』に口をきいたことだってないだろう」
「ないようですわ」とアリスは用心しながら答えました。「でも音楽のお稽古をするときには拍子《タイム》を打たなくてはいけないこと知ってるわ」
「ああ、それでわかったよ」と帽子屋は言いました。「『時』は打たれるのはがまんならんのだ。『時』と仲良くしてさえいりゃ、時計のことはあんたの好きなように何でもやってくれるよ。たとえばだね、勉強の始まる朝のちょうど九時だとするね。ちょいと『時』にささやきさえすりゃ、たちまち時計はくるりっとまわるのさ。一時半、昼食のお時間! というわけさ」
(「そうならいいけどな」と三月兎は小声でひとりごとを言いました)
「そうだったらすてきだわ、きっと」とアリスは考え深げに言いました。「でもそうだと……お腹《なか》が空《す》かないわねえ」
「まあ初めのうちは空《す》くまいよ」と帽子屋が言いました。「でも好きなだけ一時半にしておけるだろうよ」
「『あなた』はそうなさってるの?」とアリスはたずねました。
帽子屋は悲しそうに頭を振りました。「そうじゃないんだ」と答えました。「この三月……あいつが気違いになるちょうど前のことさ……こちらと喧嘩《けんか》をしたんだ……」(茶匙《ちゃさじ》で三月兎をさして)「……ハートの女王ご主催の大音楽会でさ、わしは
『きんきんきらきら、ちびこうもりよ、
おまえのねらいは何かいな』
を歌わなきゃならなかったんだ。あの歌、知ってるだろ?」
「似たのは聞いたことありますわ」とアリスは言いました。
「そら、知ってるな」と帽子屋は言いつづけました。「こんな具合さ……」
「世界の上を高々と
まるでお空の盆《ぼん》のよう
きんきんきらきら……」
この時、やまねは身ぶるいして、眠りながら「きんきんきらきら、きんきらり……」と歌い出し、あんまりながながとつづけるので、みんなでつねってやめさせなければならないくらいでした。
「ところでだ、わしが第一節を終わるか終わらないうちによ」と帽子屋は言いました。「女王さまがどなられたんだ。『あれは時を殺しているぞよ! 首をちょん切っておしまい!』」
「なんておそろしく野蛮なんでしょう!」とアリスは叫びました。
「それからずうっと」と帽子屋は悲しそうな調子で話しつづけました。「『時』はわしの頼むことはひとつだってやってくれないんだ。近ごろはいつも六時なんだ」
うまい考えがアリスの頭に浮かびました。「だからこんなにお茶道具がここに出してあるんですの?」とアリスはたずねました。
「うん、そのとおりだ」と帽子屋は溜息して言いました。「いつもお茶時なんで、あいだで道具を洗うひまがないんだ」
「だからぐるぐる座席をかえているわけなの?」とアリスは言いました。
「まったくそのとおりだ」と帽子屋は言いました。「道具を使いきってしまうんでね」
「でもまた初めにもどったらどうなりますの?」とアリスは思いきってたずねました。
「まあ、話題をかえたらどうかい」と三月兎が、あくびをしながら口をはさみました。「この話はあきちゃったよ。このお嬢さんに、ひとつ、話を願おうじゃないか」
「わたし、話はひとつも知らないようですわ」とアリスはこの提案には少々おどろいて言いました。
「では、やまねがやるんだ!」とほかのふたりが叫びました。「起きろよ、やまね!」ふたりは同時にやまねの両側をつねりました。
やまねはゆっくりと目を開けました。「眠ってはいなかったよ」としゃがれた弱々しい声で言いました。「おまえさんがたが言ってたことは残らず聞いたよ」
「何か話をしろよ」と三月兎が言いました。
「ええ、どうぞお話して!」とアリスも頼みました。
「それに、お早いところ始めてくれよ」と帽子屋が言い足しました。「でないと、終わらないうちにまた寝ちゃうからな」
「むかしむかし、かわいい三人の姉妹《きょうだい》がありました」とやまねは大急ぎで始めました。「名前はエルシーに、レーシーに、ティリーでした、みんなは井戸の底に住んでいて……」
「何を食べて生きてたの?」とアリスは、いつでも飲み食いのことにはとても興味がありましたら、そうたずねました。
「姉妹は糖蜜《とうみつ》を食べて生きていました」と、やまねは一、二分考えてから言いました。
「そんなことできなかったはずだわ」とアリスはものしずかに言いました。「病気になったでしょう」
「そのとおり病気でした」とやまねが言いました。「重病でした」
アリスはこんな途方もない暮らし方ってどんなだろう、とちょっと心ひそかに空想しようとしましたが、あんまり頭がこんがらがってしまったので、ことばをつづけました。「でも、どうして井戸の底に住んでいたの?」
「もっとお茶をおあがりな」と三月兎はひどく熱心にアリスに言いました。
「まだ少しもいただいていないのよ」とアリスはむっとした調子で言いました。「だから、もっといただくということにはならないわ」
「もっと少なくいただくことにはならない、というんだろ」と帽子屋が言いました。「無より余計《よけい》にいただくってのは、しごくやさしいことさ」
「誰も『あなた』の意見を聞いてやしないわ」とアリスが言いました。
「さあ、誰だい人の悪口を言ってるのは?」と帽子屋は得意げに言いました。
アリスはこれには答える文句もありません。そこで、勝手にお茶とバタ付きパンを食べ、それからやまねのほうに向いて質問をくり返しました。「なぜ姉妹は井戸の底に住んでいたの?」
やまねは、また、一、二分かけて考えてから言いました。「それは糖蜜井戸でした」
「そんなものないわよ!」とアリスはえらく怒り出しかけていましたが、帽子屋と三月兎が『しっ! しっ!』と言ったので、やまねはふきげんに言いました。「おとなしくできないんなら、あとは自分でやったがいいさ」
「いいえ、おねがいだからつづけて!」とアリスはたいへん下手《したて》に出て言いました。「二度と口出しはしないわ。たぶん『そんなの』あるんだわ」
「そんなのって、なるほど」とやまねはけしからんという口ぶりでした。が、どうやら話をつづけることは承知しました。
「そこでかわいい三人姉妹は……そら、|ドロー《図画》〔draw には「(絵を)描く」と「(水などを)汲む、ひっぱる」の意味があり、そのとりちがえを遊びにしている〕をやっていたのでした」
「何をドローしたの?」とアリスはすっかり約束のことを忘れて言いました。
「糖蜜だよ」とやまねが、今度は何も考えずに言いました。
「きれいな茶碗《ちゃわん》がほしいや」と帽子屋が口をはさみました。
「みんなひとつずつ席を動かそう」
帽子屋はそう言いながら席を動くと、やまねもそれにつづきました。三月兎はやまねの席に移り、アリスはしぶしぶ三月兎の席にかわりました。
席をかわって少しでも得をしたのは帽子屋だけで、アリスは三月兎がお皿の中に牛乳入れを引っくりかえしたばかりだったので、前よりずっと損でした。
アリスは、またやまねを怒らせたくはなかったので、たいへん用心深く言いました。「でもわからないわ。姉妹はどこから糖蜜を汲《く》みましたの?」
「水は井戸から汲めるんだから」と帽子屋が言いました。「糖蜜は糖蜜井戸から汲めると思うがね。あーん、阿呆《あほう》やな」
「でも姉妹は井戸の中にいたのでしょう?」とアリスは、この終わりの文句には気をとめようとしないで、やまねに言いました。
「もちろんそうだよ」と、やまねは言いました。「『いと』中にな」
この返答にはアリスもすっかりこんぐらがってしまい、しばらくは口もはさまずにやまねにしゃべらせました。
「姉妹は|ドロー《図画》の稽古をしていました」とやまねは欠伸《あくび》をしたり目をこすったりしながら語りつづけました。たいそうねむたくなっていたのです。「それから姉妹はいろんなものを描きました……マ行で始まるものはみんな……」
「まぜマ行なの?」とアリスはたずねました。
「どうしていけないかい?」と三月兎が言いました。
アリスは黙ってしまいました。
やまねは、このころにはもう目をつむってしまっていて、うつらうつらやりかけていましたが、帽子屋につねられると、きゃっと低く叫んで目をさまし、話をつづけました。
「マ行で始まるもの、たとえば升落《ますおと》し〔「ねずみわな」のこと。升を棒でささえて中に餌をおき、触れると升が倒れて「ねずみ」をおおう仕掛け〕、満月、物覚え、まずまず……ほら、物が『まずまず似たり寄ったり』なんて言うだろう……まずまずの絵なんての見たことがおありかね」
「ほんとに、そう聞かれてみると」とアリスはひどくまごついて言いました。「わたしどうも……」
「じゃ話す資格なしだよ」と帽子屋が言いました。
この失敬なやりかたはアリスにはがまんできませんでした。アリスは愛想もつきはて、立ち上がって歩み去りました。やまねはとたんに眠りこんでしまいました。ほかのふたりはアリスが立ち去るのも平気の平座なのです。アリスのほうはあとから呼びかけないかと、なかばのぞみながら、一、二度振りかえってみたのでしたが。
最後に見たときには、やまねを急須《きゅうす》につっこもうとしている〔ビクトリア朝時代の子供たちは「やまね」をペットにし、こけや乾草をつめた急須に入れて冬眠させた〕ところでした。
「とにかく『あそこ』には二度と行かないわ」とアリスは森の中を拾い歩きしながら、言いました。「あんなばかばかしいお茶の会に出たの、生まれて初めてのことだわ!」
ちょうどこう言ったとき、アリスは一本の木に戸口がついていて、そこからずっと中にはいれるようになっているのが目につきました。
「ありゃとても変だわ」とアリスは思いました。「でも今日は何もかも変なんだもの。すぐはいったほうがいいかもしれないわ」
そこで、ずっと、はいって行きました。
またも自分は例の長い広間にはいりこんで、例の小さなガラスのテーブルのすぐ近くにいるのでした。「さあ、今度はじょうずにやるわ」とアリスはひとりごとを言って、まずあの小さな金の鍵を取り、花園に通じている戸をあけました。それから茸を噛《かじ》りにかかりました(切れっ端をひとつポケットに入れていたのでした)が、とうとう一フィートくらいの背たけになりました。それから、小さな廊下を歩いて行きました。すると、ついに美しい花園の、目もあやな花壇や涼しい泉の間に出たのです。
第八章 女王のクローケー・グラウンド
花園の入り口近くには、大きな薔薇《ばら》の木が立っていました。木に咲いている薔薇は白色でしたが、木には三人の庭作りがかかっていて、忙しそうに花を赤く塗っていました。
これはとても変なことだとアリスは思いました。
そこでよくながめようと近よりました。ちょうど近くまでやって来ると、庭作りのひとりがこう言うのが耳にはいりました。
「おい、気いつけろ、五助!〔ほかの七助、二助とも、それぞれトランプカードの数字、five seven two に当ててある〕 そうペンキをおれはねかけちゃ困るじゃないか!」
「仕方がなかったんだ」と五助はむくれた調子で言いました。「七助がわしのひじをつついたんだ」
それを聞くと七助は顔を上げて言いました。「そのとおりだな、五助! いつも科《とが》は人のせいにしやがる」
「手めえは黙っとるがええ!」と五助が言いました。「ついきのうのことだ、女王さまが手めえは打ち首にすべきじゃとおっしゃっていたぜ」
「どうしてじゃ?」と最初に口をきいたのが言いました。
「手めえの知ったことじゃねえ、二助」と七助が言いました。
「いんや、そら二助のことじゃ」と五助は言いました。「あいつに言ってやらぁ……料理女にさ、玉ねぎ代わりにチューリップの根を持って行ったからよ」
七助は刷毛《はけ》を投げすてると、「うーむ、何がひどいったってこんな……」と言ったとたんに、アリスが自分たちを見ているのがひょっくり目についたのです。で、急に、黙りこみました。ほかの連中まで見まわして、みんな低く頭をさげました。
「おしえてくださいな」とアリスは少しおずおずと言いました。「なぜその薔薇を塗っていらっしゃるの」
助と七助はなんとも言わずに二助を見ました。二助は低い声で始めました。
「いや、じつはね、お嬢さん、この木は赤い薔薇のはずじゃったが、まちがえて白いのを植えましたんじゃ。で、女王さまにわかると、みんな首を刎《は》ねられてしまいますんじゃ。でね、お嬢さん、わしら、一生けんめいなんじゃよ。女王さまがお出ましにならんうちにと……」
この時、さっきから花園の向こうに心配そうに目をやっていた五助が叫びました。「女王さまだ! 女王さまだ!」
すると三人の庭作りは、すぐさま平ぐものようにおじぎをしました。たくさんの足音がしました。で、アリスは女王さまを見ようとふり返ってみました。
最初に十人の兵土が棒《クラブ》を持ってやってきました。みんな例の三人の庭作りと同じような格好で、長方形で平たく、手足は隅っこについているのです。次には十人の廷臣でした。全身ダイヤで飾られ、兵士同様ふたりずつ組んで歩いていました。
このあとには皇子さまがたで、十人のかわいいお子たちがふたりずつ組になって手をつなぎ、楽しそうに飛びながらおいでになりましたが、どなたもハートの飾りをつけていらっしゃいました。次にはお客さまたちで、大抵は王さま、女王さまでしたが、アリスはその中にあの白兎の姿を認めました。
白兎はせかせかと神経質にしゃべっては、言われたことにはいちいちにこっとしてみせ、アリスには気づかないで通りすぎました。次にはハートのジャックが、真っ赤なビロードの布団《ふとん》に王冠をのせて捧げていました。
さて、この大行列のしんがりをつとめていられたのは、『ハートの王さまと女王さまでした。』
アリスは、あの三人の庭作りのように、自分も土下座したものかどうかと少々決しかねていましたが、行列のときにそんな掟《おきて》があるとは聞いた覚えがありませんでした。
「それに、行列なんて無用だわ」とアリスは思いました。「みんな土下座して行列が見られないんなら」
そこでアリスはその場に立ったまんま、待っていました。行列がアリスの真向かいにさしかかると、みんな立ちどまってアリスを見つめました。そして女王さまはきびしい口調で、「これは何者じゃ」と仰せられました。
女王さまがことばをおかけになったのはハートのジャックでしたが、ジャックはただお答えがわりに頭を下げて微笑したきりでした。
「ばかものめが!」と女王さまは腹立たしげに頭を振りながら申され、アリスの方に向いて、ことばをつづけられました。「そなた、名は何とお言いじゃ」
「おそれながら、アリスと申します」とアリスはたいそうつつしんで言いましたが、ひそかに心の中で言い足しました。「なによ、たかがひと組のトランプなんだわ。こわがることなんかないわ」
「して、『この者たち』は何者じゃ」と女王さまは、薔薇の木のまわりに土下座した三人の庭作りを指さしながら申されました。というのは三人が平身低頭していて、その背中の模様が組のほかの誰とも同じなので、女王には庭作りやら、兵士やら、廷臣やらそれとも三人のお子たちやら見分けがつかなかったからでした。
「わたくしはわかりっこありませんわ」とアリスは自分の勇気にびっくりして言いました。「『わたくし』の知ったことではございませんから」
女王さまは真っ赤になって怒られ、ちょっとの間、けもののようにアリスをにらみつけられると、金切り声で「あれの首を刎《は》ねておしまい! 首を……」と言い始められました。
「ばかなことだわ!」とアリスが大声できっぱりと言いますと、女王さまも黙ってしまいました。
王さまは女王さまの腕に手をおかけになって、おずおずと言われました。「まあ、考えてもごらんよ。たかが子供じゃないかね」
女王さまは怒ってそっぽを向かれると、ジャックに「あの者たちをひっくり返せ!」と申されました。
ジャックはいとも慎重に片足でご命令どおりにしました。
「お起《た》ち!」と女王さまは甲高い声で言われました。すると三人の庭作りは即座にはね起きて、王さま、女王さま、皇子さま、誰にも彼にもおじぎをしはじめました。
「そんなことはおやめ!」と女王さまは叫ばれました。「目がまわりそうじゃ」
それから薔薇の木の方に向いて言葉をつづけられました。「おまえたちはここで何をしていたのじゃ?」
「恐れながら陛下」と二助は、いともへりくだって、片膝つきながら言いました。「手前どものいたしておりましたのは……」
「わかった!」とさっきから薔薇の木を調べておられた女王さまは言われました。「このものどもの首を刎《は》ねるのじゃ!」
それから行列は先へと進んで行きましたが、兵土が三人あとに残って、この不幸な庭作りを処刑しようとしましたので、庭作りたちはアリスのもとに駆け寄って保護をもとめました。
「首を切らせはしないわ!」とアリスは言って、庭作りたちを近くにあった大きな花鉢に入れました。
三人の兵士は一、二分間うろつきまわってさがしてから、またゆっくりみんなのあとから行進しました。
「あの者たちの首は切ったか?」と女王さまが叫ばれました。
「恐れながら陛下、首は切りましたでございます」と兵士たちは大声で答えました。
「よいぞ!」と女王さまは叫ばれました。「そなたはクローケー遊びはおできか」
兵士たちは黙ってアリスを見つめました。そのご質問は明らかにアリスに向けられたものだったからです。
「はい!」とアリスは叫びました。
「ではおいで!」と女王さまはどなられました。そこでアリスも行列に加わりましたが、今度はどんなことが起こるかしらと思いました。
「今日《きょう》は……今日は、たいそうな上天気ですね」とおずおずした声がそばで言いました。アリスは白兎のとなりを歩いていましたが、白兎は心配そうにアリスの顔をのぞきこんでいるのでした。
「たいそうね」とアリスは言いました。「公爵夫人はどこなの?」
「しっ! しっ!」と白兎は低いあわてた声で言いました。言いながら心配そうに肩越しにふり返ってみましたが、それから爪立ちになるとアリスの耳を近づけてささやきました。「死刑の宣告をうけていられるのです」
「なぜなの?」とアリスは言いました。
「『なんてお気の毒な!』と、おっしゃったんですか?」と兎がたずねました。
「そうじゃないわ」とアリスは言いました。「少しも気の毒だなんて思わないわ。『なぜなの』と言ったのよ」
「夫人は女王さまのお耳をなぐったのですよ……」と兎は話しだしました。アリスはきゃっきゃっと言って笑いました。
「しっ!」と白兎はびっくりした調子でささやきました。「女王さまに聞こえますよ! その公爵夫人が少しおくれて来られたので、女王さまがおっしゃったんです……」
「席におつき!」と女王さまが雷のような声でどなられたので、人々は四方八方に駆けまわってお互いにぶつかり合いました。でも一、二分もすると落ち着いて、遊戯が始まりました。
アリスは生まれてからこれまで、こんな奇妙なクローケー・グラウンドを見たことはないと思いました。どこも畦《あぜ》と畝《うね》ばかりでした。クローケー用の球は生きているはりねずみ、木槌《きづち》は生きている紅鶴《べにづる》で、兵士たちはからだを折り曲げ、手足を地につけて門《アーチ》をつくらなければならないのでした。
アリスが最初に気づいたむつかしい点というのは、紅鶴をどう扱うかということでした。紅鶴の脚をぶらつかせたまま、そのからだを楽に小脇に抱え込むまではうまくやったのですが、その首をじょうずに伸ばし、それではりねずみに一発見舞おうとすると、紅鶴はきまって首をくるっと曲げて、いかにも困った表情をしてアリスの顔をのぞくものですから、アリスもふき出さずにはおれませんでした。
そこで、頭をさげさせてまた打とうとすると、はりねずみが丸めていたからだを伸ばしてこそこそ這《は》って逃げようとするのが目にはいるし、ひどく癪《しゃく》にさわりました。そればかりじゃありません。アリスがはりねずみをやろうとする方角には、どこでもたいてい畦《あぜ》や畝《うね》があるのです。
そして、腰を折り曲げた兵士たちは、しょっちゅう起き上がってはグラウンドの別の部分に歩いて行くので、アリスはやがてこれは実にむつかしい遊戯《ゆうぎ》だ、という結論に達しました。
競技者はみんな順を待たずに、いちどきに始め、競技中|喧嘩《けんか》をしながら、はりねずみをとろうと争っているのでした。
女王さまはたちまちのうちにかんかんに怒られ、そこらを地団太《じだんだ》踏まれながら、「あの男の首をお切り!」とか、「あの女の首をお切り!」とか一分に一度は叫んでおられるのです。
アリスはひどく不安になってきました。たしかに、アリスはまだ、女王さまとは何のいさかいもしなかったのですが、いつ起こるかもしれないことはわかっていました。「そしたら、わたしどうなるかしら? ここの人たちは人の首を切るのが大好きなんだもの。ひとりでも生き残ってる人があるのが不思議だわ!」とアリスは思いました。
どこか逃げ道がないかと目をくばり、そうっと逃げられるかしらとアリスが思案していますと、空中に奇妙なものが現れているのに気づきました。
最初アリスはそれでとてもまごつきましたが、一、二分間じっと見つめていると、それがにたにた笑いであることがわかりました。で、アリスはひとりごとを言いました。
「チェシャ猫だわ。さあお話相手ができるわ」
「どんな具合かね?」と猫は物を言うだけの口ができるやいなや言いました。
アリスは猫の目が現れるまで待っていてから、うなずきました。「猫に話しかけてもむだだわ」とアリスは思いました。「耳ができあがるまでは、せめて片方だけでも」
次の瞬間には顔全体が現れました。そこでアリスは紅鶴をおろし、聞き手ができたので大よろこびで、競技の説明を始めました。猫はもうこれで見えるところはじゅうぶん現れたと思ったらしく、それ以上の部分は現れませんでした。
「ちっとも尋常《じんじょう》の勝負をしてないと思うわ」とアリスはいくらか訴えるような調子で言いはじめました。「それに大変な喧嘩なんですもの、自分の言うことが聞こえないくらいだわ……それに特別規則もないらしいの。少なくとも、あっても誰もかまわないのよ……みんな生きてるんですもの、その混雑ぶりったらないわ。たとえばよ、わたしが次にくぐらなければならない門《アーチ》が、グラウンドの向こうの端のところを歩きまわっているの……ちょうど女王さまのはりねずみを打つところだったのに、わたしのはりねずみがくるのを見ると、逃げちゃったのよ!」
「女王さまは好きかね」と猫は低い声で言いました。
「ちっとも」アリスは言いました。「女王さまはとっても……」ちょうどそのとき、アリスは女王さまが真うしろにいられて聞き耳を立てていられるのに気づきました。それでこう言いつづけました。「お勝ちになりそうなの、だからおしまいまで競技をやってもむだなほどだわ」
女王さまはにっこりされて歩み去られました。
「いったい、誰に話していたのじゃ」と王さまはアリスにお近づきになり、たいそう珍しそうに猫の頭を見つめながら言われました。
「わたくしのお友達で……チェシャ猫でございます」とアリスは言いました。「ご紹介いたします」
「あの顔付きはとんと気に入らん」と王さまは言われました。「しかし、望みなら手にキスしても苦しゅうないぞ」
「それはご勘弁《かんべん》願いたいですな」と猫は言いました。
「無礼なことを言うな」と王さまは言われました。「それにそんなに余《よ》の顔を見るのじゃない!」と言いながら、アリスのうしろにかくれられるのでした。
「猫にも王さまを見る権利はある」とアリスは言いました。「わたし、それを何かの本で読んだことがあるけど、どこでだったか忘れたわ」
「ううん、そいつは除《のぞ》かねばならぬ」とたいそうきっぱり王さまは言われました。そしてちょうど通りかかられた女王さまに向かって叫ばれました。
「ねえ、この猫を取り除かしてほしいものじゃ」
女王さまは大小一切の難事を片づけるにも、ただひとつの方法があるきりでした。
「それの首をちょん切っておしまい!」
ふり返りもしないで女王さまは言われました。
「自分で死刑執行人を連れてまいろう」と王さまは気負いこんでおっしゃり、急いで行かれました。
アリスは遠方で、怒って金切り声を上げていられる女王さまの声が聞こえたので、もどって競技の進み具合を見てもわるくはないな、と思いました。
アリスはすでに競技者のうち、三人が順番をまちがえて、女王さまから処刑の宣告をうけるのを聞いていたので、競技が大そうごたついて自分の番なのかどうかわからないほどでしたから、アリスにはどうもいっこう面白くない様子でした。そこでアリスは自分のはりねずみをさがしに出かけました。
はりねずみは別のはりねずみと格闘中でしたが、それがアリスには、一方で他方を打つ絶好の機会だと思われました。
ただひとつ困るのは、アリスの紅鶴は花園の向こう側に歩いて行っていて、そこでたよりない格好で、しきりに樹にとび上がろうとしているのが見えました。
アリスが紅鶴をつかまえて連れもどったころには、格闘は終わっていて、はりねずみは両方ともいなくなっていました。
「でもたいしたことないわ」とアリスは思いました。「グラウンドのこっち側は門《アーチ》がみんななくなってるもの」
そこでアリスは紅鶴を小脇にかかえて二度と逃げないようにして、お友達ともう少し話をするためにもどってきました。
アリスがチェシャ猫のところにもどってきますと、おどろいたことに、そのまわりにずいぶんたくさんの群集が集まっているのです。執行人、王さま、女王さまとの間に論争が起こっていましたが、みんなが一時《いちどき》にしゃべっているのですが、ほかは誰もかれも黙りこくっていて、とても落ち着かなさそうでした。
アリスが現われるやいなや、三人みんなに問題の解決をたのまれました。そして三人は、それぞれ言い分をアリスにくり返しましたが、みんなが同時にしゃべったので、何を言ったのやら、聞きとるのに大苦労でした。
執行人の言い分は、首を切るからだがなければ、切るわけにはいきません、そんなことはこれまでやったこともありません、この年になってそんなことをやりたくはありません、というのでした。
王さまの言い分は、頭のあるものなら何だってちょん切れるはずだ、そんな筋の通らんことを言うものじゃない、というのでした。女王さまの言い分は、いますぐに何とかしなければ、たれかれなくみんな、首を切らせてやる、というものでした。(一同みんなが真剣な不安げな顔付きになっていたのは、女王さまのこのおしまいの言葉のせいだったのです)
アリスは、こうよりほか言うことを思いつきませんでした。「猫は公爵夫人のものですから、そのことは『夫人』におききになったがいいでしょうよ」
「あれは入獄中じゃ」と女王さまは執行人に言われました。「ここにつれて来《き》や」
そこで執行人は矢のように飛んで行きました。
執行人が行くやいなや、猫の首はだんだんに消え始め、そして、公爵夫人をつれてもどってきた時にはすっかり消えてしまっていました。
そこで、王さまと執行人とはあっちこっちと狂ったみたいに猫の首をさがしましたが、ほかの者は競技をしに帰って行きました。
第九章 にせ海亀《うみがめ》のお話
「まああなた、またお目にかかれてどんなにわたしうれしいか、おわかりにならないでしょう!」と公爵夫人はアリスの腕に自分の腕を組み合わせ、つれ立って歩きながら言いました。
アリスは夫人がそんなに上きげんなのを見て、たいそううれしくなり、お台所で会ったときにあんなに乱暴だったのは、もしかすると胡椒《こしょう》のせいにすぎないんだ、とひそかに思いました。
「『わたし』が公爵夫人なら」とアリスはひとりごとを言いました(もっともそう望みありげな口調ではありませんでした)。「お台所には胡椒なんぞ『少しだって』置かないわ。スープは胡椒なしでも大丈夫できるし……、たぶん、人が怒りっぽくなるのは胡椒のせいかもしれないわ」と、アリスは新しい法則を発見したので大満足でつづけました。
「酢っぱい顔にするのは酢で……苦虫をかみつぶした顔にするのはカミツレ草で〔にがい薬用植物〕……それから……それから……子供の気立てがやさしくなるのは、鳩麦菓子やそんなものなんだわ。ほんとに人に『これ』がわかってればいいのに。そしたら、お菓子だってあんなにけちけちしないだろうと思うわ……」
アリスは公爵夫人のことは、もうすっかり忘れてしまっていたので、耳の真近に夫人の声を聞いてちょっとびっくりしました。
「あなたは何か考えごとしているでしょ。だからお話するのを忘れてるのね。その教訓が何だったかいますぐ言えないけど、すぐに思い出しますよ」
「それには教訓がないのかもしれませんわ」とアリスは思い切って言いました。
「ちえっ、ちえっ、この児《こ》ったら」と公爵夫人は言いました。「何にだって、見つけさえすれば、教訓はありますよ」
そう言うと夫人はアリスのかたわらに、身をきゅうっとすりよせてきました。
アリスは、夫人がそんなにすりよってくるのはどうもいやでした。第一に、公爵夫人がとても不器量だったから、第二に、夫人は、ちょうどアリスの肩にその顎《あご》をのせかけるくらいの背たけで、その顎《あご》が、気味悪くなるほどとがった顎だったからです。それでも、アリスは礼を欠きたくはなかったので、できるかぎりがまんをしました。
「競技はどうやらうまく進んでいますね」とアリスは話をつなぐために言いました。
「そうだわね」と夫人は言いました。「そこでその教訓はね『愛こそは世を動かすなれ』よ」
「誰ですか言いましたわ」とアリスはささやきました。「人が余計なおせっかいをしなければ、そうなるんですって!」
「ああ、そうよ! ほぼ似たことを言ってるのよ」と公爵夫人は言って、とがった小さい顎《あご》をアリスの肩に食いこませながらつけたしました。「それの教訓はね……『意味を重んぜよ、さすれば音はみずから重んずべし』だわ」
「ああ、この方《かた》ったら、何にでも教訓を見つけたがる人だわ」とアリスは思いました。
「わたしがあなたの腰になぜ腕をまわさないかって、たぶん、あなた考えてるんでしょう」と公爵夫人はちょっと間をおいてから言いました。「その理由はね、わたし、あなたの紅鶴の気性が心配なの。ちょいと試してみましょうか?」
「咬《か》みつくかもしれませんね」とアリスはちっとも試してもらいたくはなかったので、そう用心ぶかく答えました。
「いかにもそのとおり」と公爵夫人は言いました。「紅鶴と芥子《からし》は、どちらもぴりっと咬むからね。そして、その教訓とは『鳥は類を以《も》って集まる』よ」
「ただ、芥子は鳥じゃありませんわ」とアリスは言いました。
「いつもながらそのとおり」と公爵夫人は言いました。「あなたは、実にはっきりと物を言うお人だね!」
「鉱物だと思いますわ」とアリスは言いました。
「むろんそうだよ」と公爵夫人は言いましたが、夫人はアリスの言うことにはなんでも喜んで賛成するようでした。「この近くに大きな芥子の鉱山《マイン》〔英語の mine には「鉱山」「自分のもの」の両意があるのをしゃれのめしたもの〕があるのです。その教訓はね……『自己《マイン》に厚ければ他人に薄し』ってことです」
「あ、わかりましたわ!」とアリスは叫びました。アリスは、夫人の終わりの文句を、気をつけて聞いていなかったのです。「植物ですわ。植物らしくないけど、植物ですわ」
「まったく同感です」と公爵夫人は言いました。「その教訓はね……『汝が見えたしと思うものにてあれ』……もっとわかりやすく言ってほしければね……『汝がありし、またはありしやもしれざるものは、汝がありたるものの、他人にはさにあらずと見えしやもしれざりしものよりほかにあらず、またあらざりしやもしれずと他人に見ゆるやもしれずとよりほかのごとく、汝自身を考うることなかれ』です」
「それが文字で書いてあったら、もっとよくわかると思いますわ。でも、おっしゃるのを聞いていては、じゅうぶんにはわかりませんわ」とアリスはたいそう丁重に言いました。
「その気になって言えることにくらべたら、それくらい、なんでもないのです」と公爵夫人は、ごきげんの調子で言いました。
「まあ、どうぞ、それ以上長いのをお骨折りしておっしゃらないで」とアリスは言いました。
「骨折りだなんぞと言わないでちょうだい」と公爵夫人は言いました。「これまで言ったことを、みんなあなたに贈物に差し上げますよ」
「安っぽい贈物だわ!」とアリスは思いました。「お誕生日の贈物があんなのでなくてよかったわ!」でも、これはアリスとて声に出して言うだけの勇気はありませんでした。
「また考えごとをしているの?」と公爵夫人は、またしてもとがった小さな顎《あご》をぐいと食いこませながら言いました。
「わたしにも考える権利はありますわ」とアリスはとがった口調で答えました。そろそろ面倒くさくなってきていたからです。
「その権利っていうのはちょうど」と、公爵夫人は言いました。「豚が飛ぶほどの権利です。その教……」
しかしこのとき、アリスが非常におどろいたことには、公爵夫人の声が、お得意の『教訓』という言葉の途中なのに、次第に消えて、アリスの腕と組んでいた腕がぶるぶるとふるえ出したことでした。
アリスが見上げますと、なんと目の前には、女王さまがお立ちになって、両腕を組み、雷雨《らいう》のようにけわしい顔をしていられるのでした。
「陛下、よいお天気でございます」と公爵夫人は低い、弱々しい声で言いました。
「さて、とくと前もって知らせておくが」と女王さまは足を踏みならしながら叫ばれました。「おまえがとんで行くか、おまえの首がとんで行くか、それもいますぐのことじゃ! どっちかにきめるのじゃ!」
公爵夫人は一方にきめ、あっという間にすっとんで行きました。
「競技をつづけようぞ」と女王さまはアリスに言われました。アリスは、驚きのあまり、ことばひとつ出ませんでしたが、のろのろと女王さまについて、クローケー・グラウンドにもどりました。
ほかの客人たちは女王さまのお留守につけこんで、日陰で休んでいました。けれども、女王さまを見るやいなや、大あわてにまた競技をはじめました。女王さまはちょっとでもぐずぐずしたら命がないぞや、とおっしゃっただけでした。
競技の間じゅう、女王さまはほかの競技者とひっきりなしに喧嘩をされて、「あの男の首をちょん切れ!」とか「あの女の首をちょん切れ!」とか叫んでいられました。女王さまに死刑を宣告されたものは、兵士の手でひっぱられましたが、そのための兵士はもちろん門役《アーチ》をやめなければならなかったので、三十分かそこらすると、門《アーチ》はひとつもなくなって、王さま、女王さまとアリスのほかは、競技者はみんなひっぱられ、死刑の宣告を受けていました。
そこで女王さまはおやめになり息を切らしながら、アリスに言われました。
「にせ海亀にはもうお会いかい?」
「いいえ」とアリスは言いました。「にせ海亀ってどんなものか少しも存じません」
「にせ海亀スープ〔仔牛の首をソースや調味料で料理して海亀に似せたスープ。十八世紀ごろ流行していた〕の原料になるものじゃ」と女王さまは言われました。
「見たことも聞いたこともございません」とアリスは言いました。
「では来《き》や」と女王さまは言われました。「あれに身の上話をさせてやるから」
ふたりがいっしょに立ち去ったとき、アリスは王さまが一同の者に小声で言われるのを聞きました。「みな許してやるぞよ」
「まあ、それはいいことだわ!」とアリスはひとりごとを言いました。女王さまがお命じになった死刑の数にアリスはすっかり沈んだ気持ちだったからです。
ふたりはすぐに、日向《ひなた》ぼっこをしながらぐっすり眠りこけているグリフォン〔キリストの神聖を象徴する中世以来の伝説上の動物。上半身は「わし」、下半身は「獅子」という合成動物〕にぶつかりました。(グリフォンがどんなものかご存じない方は、さし絵をごらんください)
「お起き、怠け者!」と女王さまは言いました。「このお嬢さまをにせ海亀のところにおつれして、あれの身の上話をお聞かせするのじゃ。わたしは帰って、言いつけおいた処刑の監督をしなければならぬ」
そう言うと女王はアリスをひとりグリフォンのところに置きざりにして、行ってしまわれました。
アリスはこの動物の顔付きがどうも気に入らなかったけれど、およそのところ、あの野蛮な女王のあとについて行くのも、この動物といっしょにいるのも、安否のほどは五分五分《ごぶごぶ》だろうとアリスは思いました。そこでそのまま居つづけました。
グリフォンは起き直って目をこすりました。それから女王さまの姿が見えなくなるまで見守っていました。それからくすくすと笑いました。
「いやたまらん!」とグリフォンはなかば自身に、なかばアリスに言いました。
「何がたまらないの?」とアリスは言いました。
「なに、『あの方』がさ」とグリフォンは言いました。「みんな空想なのさ、あいつはね。誰ひとり処刑しはせんのだよ。さあ、おいで」
「ここではみんな『さあ、おいで』と言うわ」とアリスは、ゆっくり後からついて行きながら思いました。「生まれてから、これまでこんなに使いまわされたことないわ」
さほど行かないうちに、ふたりはにせ海亀を遠くのほうに認めましたが、亀は突き出た小岩にひとり悲しげにすわっていて、ふたりが近づくと、アリスは亀が胸もさけんばかりに嘆息しているのを聞きました。たいへんかわいそうだとアリスは思いました。
「何が悲しいの?」とアリスはグリフォンにたずねました。するとグリフォンは前と同じような調子で答えました。「あれだって、みんなあいつの空想でさ。何も悲しみなんぞありはしないんだよ。おいで!」
そこでふたりはにせ海亀に近づきますと、亀は涙をいっぱいためた目でふたりを見ましたが、何も言わないのです。
「ここにおられるお嬢さんはね」とグリフォンは言いました。「おまえの身の上話を聞きたいんだとよ」
「お話しましょう」とにせ海亀は太い、うつろな声で言いました。「おふたりさんともおかけください。そして、わたしが話を終わるまで何もおっしゃらないでください」
そこでふたりはすわって、数分の間は誰ひとり口をききませんでした。アリスはひそかに思いました。「始めもしないで、どうして終わるのかわからないわ」
しかし、がまん強く待っていました。
「昔はね」とついににせ海亀はひとつ深く溜息すると、言いました。「わたしもほんとうの海亀だったのです」
この言葉のあとに、ひじょうに長い沈黙がつづいたけれど、それは時たまグリフォンのいう「ひゃっくるる!」という叫び声とにせ海亀の絶え間ない重苦しいすすり泣きとで途切れるだけでした。
アリスはよっぽど立ち上がって「どうも面白いお話ありがとう」と言いかけたのでしたが、まだ話の先がきっとあるのだろう、と思わずにいられなかったので、じっとすわって何も言わずにいました。
「子供の時分には」と、まだ時々は少しばかりすすり泣きながらも、とうとう、前よりは落ち着いた口調で、にせ海亀は話をつづけました。「海の学校へ行ったものでした。年寄りの海亀が先生でした……わたしたちは陸亀《おかがめ》先生だと言っていましたが……」
「陸亀でもないのに、なぜそう呼んだの?」とアリスがたずねました。
「先生はわたしたちの教師(=手本、おかがみ)だから、陸亀《おかがめ》先生ですよ」とにせ海亀は怒って言いました。「ほんとにおまえさん鈍感《どんかん》だねえ!」
「そんな簡単なことを聞くなんて、恥と思わなくっちゃ」とグリフォンがつけ加えました。それからふたりとも黙ってすわり、かわいそうにアリスを見つめるので、アリスは穴にでもはいりたいくらいでした。
とうとうグリフォンがにせ海亀に言いました。
「おい君、さっさとつづけろよ! 一日つぶしちゃかなわねえよ」
そこで亀は次のように話しつづけました。
「ええ、海の学校に通いました。ほんとうにはなさらないかもしれませんがね……」
「ほんとうにしないなんて言いませんわ!」とアリスが口をはさみました。
「言われましたよ」とにせ海亀は言いました。
「黙っとれ!」とグリフォンはアリスが返事もできないうちに言いそえました。
にせ海亀は語りつづけました。
「わたしたちはまたとない教育を受けたんです……実際、毎日学校に行きましたからね……」
「わたしだって学校には行ったわ」とアリスが言いました。「それほど自慢することないわ」
「課外も加えてかね」とにせ海亀はちょっと心配そうにたずねました。
「そうよ」とアリスは言いました。「フランス語と音楽を習ったわ」
「それからお洗濯《せんたく》は?」とにせ海亀が言いました。
「そんなものないわ」とアリスは憤然《ふんぜん》として言いました。
「ああ、それじゃおまえさんのはほんとうに立派な学校じゃなかったんだ」とにせ海亀はいかにも安心したような口調で言いました。「ところで、『わたしたち』の学校では、勘定書のお終《しま》いには『フランス語、音楽、および洗濯《せんたく》は……費用別』としてありましたよ」
「洗濯の必要はそうなかったでしょうに」とアリスが言いました。「海の底に住んでるんですもの」
「わたしはそれを習う余裕がなかったんです」とにせ海亀は溜息ついて言いました。「本科だけやったんです」
「本科って何でしたの」とアリスがたずねました。
「もちろん、まず第一は『よろけ方《かた》と、もがき方』でさ」とにせ海亀が答えました。「それから算術の四部門……のぞみ方、はらし方、ばかし方、なぶり方」
「わたし『ばかし方』ってのはじめて聞いたわ」とアリスは思いきって言いました。「それは何ですの」
グリフォンはおどろいて、両足をあげました。
「『ばかし方』も聞いたことがないって!」と叫びました。「|びか(美化)し方ってのは何か知ってるだろう!」
「ええ」とアリスはあやふやに言いました。「その意味は……ものを何でも……きれいにすることでしょう」
「うん、それじゃ」とグリフォンは言葉をつづけました。「ばかし方が何かわからないなら、おまえさんはほんとにばかだよ」
アリスはそれ以上質問する勇気をくじかれた気持ちでした。それでにせ海亀のほうに向いて、「ほかに何を習ったの?」と言いました。
「そうじゃな、列奇史《れっきし》があった」とにせ海亀は鰭《ひれ》で学科をかぞえながら答えました。……『古代並びに近代列奇史、それに海理、次に臥法《がほう》……この臥法の先生は年寄りの『あなご』で週に一度やってきました……「先生は鈍話《どんわ》法、斜静法、輪臥《りんが》法を教えたよ」
「それはどんなものでしたの」とアリスは言いました。
「うん、自分で見せるわけにはいかないが」とにせ海亀は言いました。「からだがかたすぎるんでな……それにグリフォンは習わなかったしな」
「暇がなかったんだ」とグリフォンは言いました。「だがわしは古典の先生に通《かよ》ったよ。年寄りの蟹《かに》だったよ、たしか」
「わたしはあの先生にはつかなかった……」とにせ海亀は溜息ついて言いました。「あの先生は、なんでも楽典《らくてん》と愚力苦《グリック》〔ヨーロッパでは近年まで必須の課目だったLatin「ラテン語」、Greek「ギリシャ語」に引っかけ、Laughing「笑い方」、Grief「悲しみ」を、それぞれ Latin、 Greek に代えている〕とを教えるとか言っとった」
「そうだった、そうだった」とグリフォンは、自分でも溜息ついて言いました。そしてふたりとも手で顔をおおいました。
「それで日に何時間お稽古でしたの?」とアリスはいそいで話題をかえるつもりで言いました。
「初めの日は十時間だったよ」とにせ海亀は言いました。「次が九時間という具合によ」
「なんて変わった方法だこと!」とアリスは叫びました。
「だからお軽古《けいこ》というのさ」とグリフォンは言いました。「一日一日軽くなるからな」
これはアリスには初めての考えだったので、アリスはしばらく考えてからこうたずねました。「それじゃ、十一日目はきっとおやすみだったのね」
「むろん、そうだったよ」とにせ海亀は言いました。
「それで十二日目はどうしたの?」とアリスは熱心にことばをつづけました。
「お軽古の話はそれくらいでたくさんだ」とグリフォンはたいそうきっぱりした調子で口を入れました。「今度は遊戯の話をしてやれよ」
第十章 海老《えび》のカドリール
にせ海亀は深く溜息すると、一方の鰭《ひれ》の裏を目にあてがいました。亀はアリスを見て話そうとしましたが、一、二分の間はすすり泣きで声がつまってしまいました。「まるで喉《のど》に骨でも刺さっているみたいだな」とグリフォンは言って、亀のからだをゆすぶったり、背中をどんどんたたいたりしはじめました。
やっとにせ海亀は声が出るようになり、涙を両頬から伝わらせながら、また話をつづけました。
「おまえさんは、海の底にあまり住んだことないだろ……」(「ないわ」とアリスは言いました)
「で、たぶん、まだ海老《えび》に紹介されたこともないだろ……」(アリスは「一度食べ……」と言いかけましたが、あわてて控《ひか》え、「ええ、ないわ」と言いました)
「……それじゃ、海老のカドリールが、どんなに面白いものかわかるはずはない!」
「ええ、ほんとにわからないわ!」とアリスは言いました。「どんなダンスですの!」
「なあに」とグリフォンは言いました。「まず、海岸に沿って一列になるのさ……」
「二列だよ!」とにせ海亀が叫びました。「海豹《あざらし》、海亀、鮭《さけ》なんていう連中がね。それから、海月《くらげ》どもを追っぱらったら……」
「そいつがたいてい、相当手間を取るんだ」とグリフォンが口を出しました。
「……二度前に進むんだ……」
「どちらも海老と組んでだよ」とグリフォンが叫びました。
「もちろんさ」とにせ海亀が言いました。「二度進んで、相手と向き合ってステップを踏んで……」
「相手の海老をとりかえ、同じ順に後にもどるのさ」とグリフォンがつづけました。
「それから、そら」とにせ海亀が言いたしました。「あれを投げこむのさ……」
「海老どもをよ!」とグリフォンは空に飛び上がりながら叫びました。
「……できるかぎり海のほうに遠くな」
「泳いで追っかけるんだ!」とグリフォンが叫びました。
「海の中でとんぼがえりをするんだ!」とにせ海亀は、猛烈にとびまわりながら叫びました。
「もう一度海老を取りかえるんだ!」とグリフォンがあらんかぎりの声でわめきました。
「陸に帰るんだ、それから……以上で第一段全部だ」とにせ海亀は、にわかに声を落として言いました。それまで狂気のように飛びまわっていたふたりの動物たちは、いかにも悲しげに静かにすわりこむと、アリスの顔をみました。
「きっとすてきなダンスだわ」とアリスはおずおず言いました。
「ちょっと見たいかね?」とにせ海亀が言いました。
「とっても見たいわ」とアリスは言いました。
「よし、じゃ、第一段をやってみよう」とにせ海亀がグリフォンに言いました。「海老がいなくてもできるな。どっちが歌うんだ?」
「そりゃおまえ歌えや」とグリフォンが言いました。「おれ、文句を忘れちゃったよ」
そこで、ふたりはしかつめらしく、ぐるぐるアリスの周《まわ》りを踊りだしましたが、時々アリスの真近を通りぎわに、アリスの足指を踏んづけたり、拍子を取るのに前足を振ったりするのでした。
その間じゅうにせ海亀はたいそうゆっくりと悲しげにこの歌をうたいました。
鱈《たら》、蝸牛《かたつむり》に言いました。
「もちっと速くは歩けんかい。海豚《いるか》がうしろに
追いかけて、ぼくの尻尾を踏んでるよ。
ごらんな、海老に海亀を
みんな、けんめい進んでる!
連中浜で待ってるよ……
はいっていっしょに踊らぬか。
はいる、はいらぬ、ダンスの仲間に
はいる、はいらぬ、ダンスの仲間に」
「その面白さはわかるまい
ぼくらをつかんで沖遠く
海老もろともに抛《ほう》りやる」
けれど答えた蝸牛《かたつむり》、
「なんともかんとも遠すぎる!」
そしてじろりと横にらみ。
鱈《たら》さん、親切うれしいが
ダンスはちょっくらごめんだね。
やらない、やれない、ダンスの仲間
やらない、やれない、ダンスの仲間。
鱗《うろこ》の鱈《たら》君答えたね。
「遠いからとて構《かま》やせぬ。
向こうにゃ向こうでまた別の
ちがった岸がちゃんとある。
イギリスはなれりゃフランス近い
青くなるのはそれゆえご無用、
さあさ来たまえ、踊ろじゃないか。
はいる、はいらぬ、ダンスの仲間に
はいる、はいらぬ、ダンスの仲間に」
「ありがとう。見てるととっても面白いダンスだわ」とアリスはダンスがやっと終わったので心中大いによろこびながら言いました。「それにあのおかしな鱈の歌、大好きだわ」
「ああ、あの鱈といえば」とにせ海亀は言いました。「奴《やっこ》さんたちゃ、おまえさんはむろん見たことあるね」
「ええ」とアリスは言いました。「何度も見たことあるわ、晩さ……」とアリスはあわててことばを切りました。
「『晩さ』って、どこにあるのか知らんが」とにせ海亀は言いました。「そうたびたび見たんなら、どんなものかわかってるだろ」
「そう思うわ」とアリスは考えこむような様子で言いました。「口の中に尾があって〔小鱈(whiting)は尾を目に通してフライにするのが料理法だった。キャロルは、尾を口にくわえているものと思っていたと後日人に語っている。なお、このフライにした鱈はパン屑をまぶすので、次のアリスのことばがあるわけ〕……からだじゅうパン屑《くず》なんでしょ」
「パン屑ってのは間違っているよ」とにせ海亀は言いました。「パン屑は、海の中じゃみんな洗い落とされてしまうからね。だが、たしかに口の中に尾があるよ。その理由はね……」
ここでにせ海亀は欠伸《あくび》して目をつむりました。「理由や何やかや、この人に話してやっておくれよ」と亀はグリフォンに言いました。
「その理由はね」とグリフォンは言いました。「海老といっしょにダンスしたかったからだよ。それで沖の方に抛《ほう》られたんだ。それで、うんと遠くにおっこちたんだ。それで、尾が口の中にしっかりとはまりこんでしまったのさ。それで、尾が抜けないんだ。それで、おしまいさ」
「ありがとう」とアリスは言いました。「とても面白いお話だわ。わたし、鱈《たら》のことをそんなにたくさん知らなかったわ」
「お望みなら、もっと話せるぜ」とグリフォンは言いました。「なぜ鱈というのか、そのわけを知ってるかね」
「考えたことないわ」とアリスは言いました。「なぜですの?」
「『深靴や短靴をやるんだ』」とグリフォンはいかにもまじめな口調で答えました。アリスはすっかり面くらいました。「深靴や短靴をやるんですって?」とアリスは腑《ふ》に落ちない口調でくり返しました。
「おどろいたね。おまえさんの靴は何でやるんだね」とグリフォンが言いました。「つまりだ、どうしてそんなに光ってるかってことだよ」
アリスは靴を見下ろしました。そして、ちょっと考えてから答えました。
「それは、黒靴墨《くろくつずみ》でやるんでしょ?」
「海底の深靴や短靴はだね」とグリフォンは太い声で言いつづけました。「白いのでやるんだ。だから鱈《たら》さ、わかったろ」
「靴は何でできているの?」とアリスはたいへん知りたそうな口調でたずねました。
「もちろん、底は平目、踵《かかと》は鰻《うなぎ》さ」とグリフォンは、だいぶんじれったそうに答えました。「小海老だってそのくらいのことはわかってるよ」
「わたしが鱈だったら」と、まださっきの歌のことを思っていたアリスは言いました。「海豚《いるか》に言ってやったことよ。『すまないけど近よらないで。いっしょはおことわりよ!』って」
「いっしょでなくちゃならなかったんだよ」とにせ海亀が言いました。「賢い魚ならどこに行くにも海豚といっしょだよ」
「ほんとにそう?」とアリスは、たいそうおどろいた口調で言いました。
「もちろんさ」とにせ海亀は言いました。「そら、魚がわしのとこにやって来て、旅行に出かけます、と言えばわしだって『何がお『いるか』』って言うだろうさ」
「『おいりか』って言うのじゃないの?」とアリスは言いました。
「わしの言うとおりさ」とにせ海亀はむっとした口調で答えました。するとグリフォンが「さあ、今度はおまえさんの冒険談を聞こうじゃないか」と言いたしました。
「わたしの冒険談ならお話できてよ……今朝から始まって」とアリスは少しびくつきながら言いました。「でも、昨日《きのう》にもどるのはむだだわ。昨日はわたし別人だったんだもの」
「なにもかも説明してみな」とにせ海亀が言いました。
「だめだめ! 冒険談が最初だ」とグリフォンがじれったそうな調子で言いました。「説明はべらぼうに時間がかかるもんだ」
そこでアリスは、はじめて白兎を見た時からの冒険を話し始めました。最初は、ほんの少し落ち着きませんでした。なにしろ、ふたりがそれぞれ両側にぴったりとすりよって、目と口とをえらーく大きくあけていたからです。
でも話しているうちに勇気がついてきました。聞き手たちは、アリスが芋虫に向かって、『ウイリアム父さんお年だよ』とくり返す箇所にくるまではいたって静粛《せいしゅく》にしていました。が、そこで文句がすっかり違ってくると、にせ海亀はひと息長く吸って、「そりゃずいぶん奇妙だな」と言いました。
「みんな奇妙きてれつ至極《しごく》だよ」とグリフォンは言いました。
「みんな文句が違ってたよ!」とにせ海亀は考え深げに言いました。「何か暗唱してもらいたいね。始めろって言ってくれよ」にせ海亀はグリフォンを見ましたが、まるでグリフォンがアリスに対しては、何かにらみがきくものとでも思っている様子でした。
「立ち上がって『なまけものの声』を暗唱してみな」とグリフォンは言いました。
「ここの動物って、よくも人を使いまわしたり、暗唱させたりするもんだわ!」とアリスは思いました。「すぐにも学校に行ったほうがいいくらいだわ」
でも、アリスは立ち上がって暗唱を始めましたが、頭が海老のカドリールのことで詰まっていて、何を言ってるのやらほとんどわからず、文句もすっかり奇妙なふうになりました。
「ありゃ海老の声、言うこと聞けば
『わたしの焼きかた黒すぎた、髪に砂糖をまぶさにゃならぬ』
家鴨《あひる》は眼瞼《まぶた》で、海老ゃその鼻で、
帯をつくろいボタンを直し、足指、外に広げるよ。
浜がすっかり乾いておれば、
雲雀《ひばり》に劣らぬはしゃぎよう。
鱶《ふか》など小癪《こしゃく》と大口きくが、
潮が満ちてきて鱶《ふか》現れりゃ
海老さんおろおろ、ぶるぶる声よ」
「わたしが子供時分によく歌ったのとは違っとる」とグリフォンが言いました。
「うん、わしは聞いたことなかったよ」とにせ海亀は言いました。「しかし、とてつもなくたわいない歌だな」
アリスは黙っていました。アリスは、さっきからふたたびすわって、手で顔をおおい、いったいこの先、何にせよふつうに起こることがあるのかしら、と思案していました。
「そいつを説明してもらいたいな」とにせ海亀が言いました。
「あの娘《こ》に説明できっこないさ」とグリフォンはあわてて言いました。「二節をつづけてみなよ」
「けど、足指がどうしたっていうんだ」とにせ海亀が言い張りました。「どうして鼻を使って外にあけるんだい?」
「それ、ダンスの第一の姿勢なのよ」とアリスは言いましたが、はなし全体におそろしく面くらってしまって、話題を変えたくてしようがありません。
「二節をつづけなよ」とグリフォンはくり返しました。「始まりは『その庭通って』と言うんだ」
アリスは、きっと文句がすっかり違ってしまうだろうと思いましたが、命令に背《そむ》く勇気もなく、震《ふる》え声でつづけました。
「その庭通って片目で見れば
梟《ふくろう》と豹《ひょう》とがパイ分けてるよ。
豹が取ったは皮、肉汁《しる》と肉
梟はお皿をいただいた。
パイ片づけば土産《みやげ》にと
梟はスプンをポケットに。
豹はぶつくさ、ナイフにフォーク
してご馳走のおさめには……」
「そんなくだらんことを暗唱したって何のたしになるのかね」とにせ海亀が横から口を出しました。「歌いながら説明しなきゃ。そんなめちゃくちゃにこんがらがった歌、聞いたの初めてだよ」
「そうだ、おまえさん、よしたがいいようだな」とグリフォンが言いました。アリスはもう四《し》の五《ご》もありませんでした。
「海老のカドリールをもう一段やってみようか?」とグリフォンが言いつづけました。「それともにせ海亀にもひとつ歌をやってもらいたいかね?」
「ああ、歌をどうぞ。にせ海亀さんがおよろしければ」とアリスは答えましたが、あんまり熱心な調子だったので、グリフォンは少々怒った口ぶりで言いました。
「ふん! 蓼《たで》食う虫も何とかだ! 君、『海亀スープ』を歌ってやりな」
にせ海亀は深い溜息をつくと、時にすすり泣きで声をつまらせながら、この歌をうたい出しました。
「濃《こ》いくて緑のすてきなスープ
熱いお鉢で人待ってるよ。
こんなご馳走にゃ誰でもころり。
夕《ゆう》べのスープ、すてきなスープ!
夕べのスープ、すてきなスープ!
すーてきーな スープ!
すーてきーな スープ!
夕《ゆう》ーべーの スープ!
すてきな、すてきな スープよっ!」
「すてきなスープ! お魚なんぞ欲しかない。
お肉もほかのお料理も。
すてきなスープをただ二円だけ、
すてきなスープを一円だけでも
飲めりゃいっさいなんにも要《い》らぬ。
すーてきーな スープ!
すーてきーな スープ!
夕《ゆう》ーべーの スープ!
すてきな、すてきなスープよっ!」
「もう一度折り返しを」とグリフォンが叫びました。そこでにせ海亀がいまにも暗唱しようとしかけていると、「裁判が始まりまーす」という呼び声が遠方に聞こえました。
「おいで!」とグリフォンは叫んで、アリスの手を取ると、歌の終わるのも待たないで、あたふたと立ち去りました。
「何の裁判なの?」とアリスは走りながらあえいで言いましたが、グリフォンはただ「おいで!」と答えただけで、ますます足を急がせるのでした。片や、うしろから吹くそよ風に乗って、かすかになりながらも、あの悲しげな歌詞が聞こえてくるのでした。
「夕《ゆう》ーべーの スープ、
すてきな、すてきなスープよっ!」
第十一章 誰が饅頭《まんじゅう》を盗んだか?
ふたりがやってきたときには、ハートの王さまと女王さまとは玉座にすわられ、大群集にとりまかれていました……トランプの礼が全部は言うにおよばず、あらゆる小鳥やけものまでいました。ジャックは鎖につながれてみんなの前に立っており、両側には護衛《ごえい》兵がひとりずつついていました。王さまのおそば近くには白兎がいて、片手に喇叭《らっぱ》、片手に羊皮紙の巻き物を持っていました。法廷の真ん中にはテーブルが一脚あって、その上には饅頭を盛った大皿がありました。饅頭がとてもおいしそうなので見ていると、アリスはひどくおなかが空いてきました……「裁判をすまして」とアリスは思いました、「ご馳走を配ってくれればいいのになあ!」
でもそういう見込みは、いっこうなさそうなので、アリスは暇つぶしに周りのものを見まわし始めました。
アリスはこれまで法廷《ほうてい》にはいったことはなかったけれど、法廷のことをご本では読んだことがありました。そこで、そこにいるものの名はほとんど知っているのがわかると、すっかり満足でした。
「あれが判事だわ」とアリスはひとりごとを言いました。「大きな仮髪《かつら》をかぶってるもの」
ところで、その判事は王さまなのでした。
そして、王冠を仮髪《かつら》の上から冠《かむ》っているので(どういう具合にだか見たい方は次のさし絵をごらんください)いっこう心地よさそうにもなく、またたしかに似合ってもいませんでした。
「それから、あれが陪審官《ばいしんかん》席なんだわ」とアリスは思いました。「それから、あの十二の生き物」(アリスは『生き物』と言うほかなかったのです。というのは中には動物もいれば鳥もいたからです)「陪審官たちだと思うわ」
アリスはこのおしまいの言葉を二、三度ひそかに、くり返し言ってみました。少々それが得意だったからです。というのは、アリスくらいの年の少女で、その意味をともかくも知っている者は少ないとアリスは思ったし、それもたしかにそうだったからでした。でも「陪審の人たち」でもけっこう間に合ったことでしょう。
十二の陪審官たちは、みんな、石盤《せきばん》にせっせと書き込みをしていました。
「あの人たち何をしてるの?」とアリスはグリフォンにささやきました。「裁判が始まらないうちには、まだ何も書くこなんかないはずだわ」
「名前を書いてるのさ」とグリフォンは小声で答えました。「裁判が終わらないうちに名前を忘れると困るからな」
「間抜けたち!」とアリスは大きな怒った声で言いかけましたが、あわてて言いやめました。というのは白兎が「法廷では静粛に!」とどなったからです。それから王さまは眼鏡《めがね》をかけて、誰がしゃべっているのか見定めようと、心配げに見まわしました。
アリスには、みんなの肩越しに見ているようにはっきりと、陪審官がみんな「間抜けたち」と石盤に書きつけているのが見えました。また、中のひとりが「間抜け」をどう書くのかわからないで、教わらなければならないでいるのまで、見えました。
「裁判がすまないうちに、石盤はずいぶんごちゃごちゃになるわ!」とアリスは思いました。
陪審官のひとりはきーきー軋《きし》る石筆を持っていました。これにはもちろん、アリスはがまんできませんでした。それで法廷をまわってそのうしろに行き、すぐに折りを見つけてその石筆を取り上げました。
たいそうすばやくやったので、気の毒にもその陪審官は(それは蜥蜴《とかげ》のビルでした)いったい石筆がどうなったのか、わけがわからないほどでした。で、そこらじゅうをさがしまわった挙句《あげく》、その日はずっと指で書かなければなりませんでした。そこで、これは石盤に跡が残らないので、ほとんど役に立ちませんでした。
「伝令使《でんれいし》、告訴状《こくそじょう》を読み上げよ!」と王さまが言われました。これと同時に、白兎は喇叭《らっぱ》を三回吹きならし、それから羊皮紙の巻き物をひらいて、次のように読み上げました。
「ハートの女王さま、ご誼製《きんせい》の饅頭
どれもおつくり夏の日に。
ハートのジャックが饅頭|盗《と》って
ごっそりどこかへ持ってった」
「評決を考えよ」と王さまが陪審官たちに言いました。
「まだまだでございます!」と白兎はあわてて口をはさみました。「それまでに、まだ、たくさんやることがございます」
「第一の証人を呼べ」と王さまが言いました。
そこで白兎は喇叭《らっぱ》を三回吹き鳴らして「第一証人!」と呼ばわりました。
第一証人は帽子屋でした。片手に茶碗、片手にバタ付きパンを持って帽子屋ははいってきました。
「恐れながら陛下」と帽子屋は口をきりました。「こんなものを持参いたしてご容赦《ようしゃ》下さいまし。召喚《しょうかん》をお受けいたしました折には、まだお茶をすましておりませんかったのでございます」
「すましておくべきじゃった」と王さまは言われました。「いつ始めたのじゃ?」
帽子屋は三月兎を見ました。兎はさっき、やまねと腕を組んで、帽子屋のうしろからはいって来ていたのです。
「三月の十四日だったと思います」と帽子屋は言いました。
「十五日です」と三月兎が言いました。
「十六日です」とやまねが言いたしました。
「それを書きとめよ」と王さまは陪審官たちに言われました。陪審官たちは三《み》通りの日時をいそいそと石盤に書きつけ、それを加え合わせ、答えを何シリング何ペンスに換算しました。
「帽子をとれ」と王さまは帽子屋に言われました。
「わたくしのものではございません」と帽子屋が言いました。
「盗品だな!」と王さまは叫ばれて、陪審官たちに向きなおられると、みんなはすぐにその事実を覚え書きしました。
「売るために持っているのでございます」と帽子屋は説明を加えました。「自分のものはひとつも持ってはおりません。わたくしは帽子屋でございます」
ここで女王さまは眼鏡をかけて、じっと帽子屋を見つめだされたので、帽子屋は青くなり、もじもじしました。
「証拠を申してみよ」と王さまが言われました。「そわそわするじゃない。さもないと即時死刑に処するぞ!」
これでも証人は少しもしゃんとする様子がありませんでした。帽子屋はしきりに左右の足をふみかえ、不安そうに女王さまを見ているのでした。そして、あわてたあまり、バタ付きパンでなく茶碗を大きくひと口|咬《か》み取りました。
ちょうどこの時、アリスはたいへん妙な気持ちがして、ひどく困りましたが、とうとうそのわけが呑《の》みこめました。アリスはまた大きくなりかけていたのです。最初は立ち上がって法廷を出ようかと思いました。が、また考え直して余地があるかぎりもとの場所に残っていようと決心しました。
「そう押しつけないでもらいたいね」とやまねが言いました。やまねはアリスの横にすわっていたのです。「息もつけないよ」
「仕方がないのよ」とアリスはたいそうおとなしく言いました。「わたし大きくなってるんだもの」
「ここで大きくなる権利はないよ」とやまねが言いました。
「ばか言わないで」とアリスはさっきよりも大胆に言いました。「あんただって大きくなってるのよ」
「そうさ、でもわしはあたりまえの速さで大きくなってるんだ」とやまねが言いました。「そんなばかげたあんばいじゃないよ」
こう言うと、えらくふきげんに立ち上がって法廷の向こう側へ行ってしまいました。
このあいだじゅう、女王さまは、始終、帽子屋をじろじろ見つめていらして、ちょうどやまねが法廷を横ぎったとき、法廷吏《ほうていり》のひとりに、「先の音楽会の歌手名簿を持参せよ」と言われました。
すると、帽子屋はかわいそうに、恐ろしくふるえだして、靴が両方とも抜けたほどでした。
「証拠を申してみよ」と王さまは怒りをこめてくり返し言われました。「さもなければ、そわそわしようがすまいが、死刑に処するぞ」
「陛下、わたくしは哀れな者でございます」と帽子屋は震え声で言い出しました。「それにお茶を始めたばかりで……一週間になるかならないかで……それからバタ付きパンも薄くなり、お茶はちらちらしますやらで……」
「何がちらちらするというのじゃ」と王さまは言われました。
「始まりは茶なのでございます」と帽子屋は答えました。
「言うまでもないこと、ちらちらは、『ち』で始まるわ」と王さまはきびしい調子で言われました。「余を間抜けと思いおるか。先をつづけい!」
「わたくしは哀れなものでございます」と帽子屋はつづけました。「それからは、たいていのものが、ちらちらいたしました……ただ、三月兎が言いまするには……」
「言いません!」と三月兎が大あわてにあわてて、口をはさみました。
「言ったよ!」と帽子屋が言いました。
「わたしはこれを否定します!」と三月兎が言いました。
「兎は否定しておる」と王さまは言われました。「その部分は削除《さくじょ》せよ」
「では、ともかく、やまねが言いまするには」と帽子屋は、やまねがまた否定しないかと心配げにふり返って見ながら、言いました。しかしやまねは、ぐっすり眠りこんでいて、何の否定もしませんでした。
「それから」と帽子屋はつづけました。「いま少しバタ付きパンを切りとりまして……」
「しかしやまねは何と言ったんです?」と陪審官のひとりがたずねました。
「それは思い出せません」と帽子屋が言いました。
「思い出さねばまかりならん」と王さまが言われました。「さもなければ死刑に処するぞよ」
哀れな帽子屋は、茶碗とバタ付きパンを取り落とし、片膝ついてすわりました。「陛下、わたくしは哀れなものでございます」と帽子屋は始めました。
「おまえは実に哀れな話し手じゃ」と王さまは言われました。
ここで、一匹の天竺《てんじく》ねずみが拍手して、たちまち法廷吏に取り押さえられました。(これは少々むずかしい言葉なので、そのやり方を説明しておきましょう。役人たちは大きなズックの袋をもっていましたが、それは、口のところが紐でくくってあるのです。この中に、役人は、天笠ねずみをまっさかさまに投げこんで、その上にすわったのです)
「あれを見学したのはよかったわ」とアリスは思いました。「よく新聞で読んだけど、裁判の終わりに『拍手をしようとするものがあったが、ただちに法廷吏によって取り押さえられた』ってあるのを。でも、これまでは、どんなことだかわからなかったわ」
「おまえの知っておることがそれだけならば、引きさがってよろしい」と王さまが言葉をつづけられました。
「これ以上はさがれません」と帽子屋は言いました。「ただいま床に居りまするゆえ」
「では、すわりはできよう」と王さまが答えられました。
この時、もう一匹の天竺ねずみが喝采《かっさい》して取り押さえられました。
「さあ、あれで天竺ねずみもお終いになったわ」とアリスは思いました。「今度はうまく行くでしょう」
「わたくしはお茶をすませとうございます」と帽子屋は、心配げに女王さまを見ながら言いましたが、女王さまは歌手名薄をごらんになっていました。
「行ってもよろしい」と王さまが言われました。
すると帽子屋は靴もはかずに、あわてて法廷を出て行きました。
「……外であれの首をちょん切るのじゃ」と女王さまはひとりの役人につけ加えられました。でも、帽子屋は、役人が戸口につかぬうちに消えて見えなくなっていました。
「次の証人を呼べ!」と王さまが言われました。
次の証人は公爵夫人の料理女でした。料理女は胡椒《こしょう》入れを手にもっていましたが、入口近くの人たちがみんないっしょにくしゃみをはじめたので、まだ法廷にはいらぬうちから、それが誰だか、アリスには見当がつきました。
「お前の証拠をあげてみよ」と王さまが言われました。
「あげるもんかね!」と料理女は言いました。
王さまが心配げに白兎をごらんになると、白兎は小声で言いました。
「陛下は、この証人には反対|尋問《じんもん》をなさらねばなりません」
「うむ、しなければならんのならするまでだ」と王さまはうっとうしいお顔で言われました。そして、腕を組み、目が見えなくなるほどに、料理女をにらみつけておられましたが、ついに太い声で、「饅頭は何で作るのじゃ?」と言われました。
「胡椒でさ、おおかたは」と料理女が言いました。
「糖蜜《とうみつ》だよ」とそのうしろで眠たそうな声がしました。
「あのやまねを取り押さえろ!」と女王さまが叫ばれました。「そのやまねの首をちょん切るのじゃ! 法廷から追い出すのじゃ! 取り押さえるのじゃ! つねるのじゃ! 髭《ひげ》をちょん切るのじゃ!」
数分間は、やまねを追い出すのに法廷じゅう大混乱でした。やがて、また、もとどおり静まったころには、料理女はあとかたもなく逃げていました。
「かまうには及ばぬ」と王さまもほっとしたご様子で言われました。「次の証人を呼べ」
そして女王さまに向かって小声でつけ加えられました。「ねえ、次の証人はおまえ、反対尋問をしておくれよ。ほんとに頭が痛くなるよ」
アリスは、白兎が名簿を不器用にめくっているのを見つめて、今度の証人はいったい、どんなだろうか、早く見たいなあ、としきりに思っていました。
「……だって、まだ、これまでのところじゃ、あまり証拠がないんだもの」とアリスはひとりごとを言いました。白兎が、甲高い小さい声を張り上げて「アリス!」という名を読み上げたときの、アリスの驚きようを思ってもみてごらんなさい。
第十二章 アリスの証言
「はい!」とアリスは叫びましたが、とっさのこととてあわててしまい、数分間のうちに自分がどれほど大きくなったかをすっかり忘れていました。それで大急ぎで飛びたつように立ち上がったものですから、スカートの裾《すそ》で陪審席をひっかけ、陪審官たちをみんな下にいた群集の頭上にひっくり返してしまいました。そして陪審官たちが、そこらじゅうにぶざまな格好で投げ出されているので、アリスは先週、自分がふと知らずに引っくり返した金魚鉢のことをありありと思い出しました。
「まあ、ごめんなさい!」とアリスはひどくあわてた調子で叫びました。そして、できるだけ手早く、みんなを拾い上げ始めました。というのは、金魚鉢の一件が頭にこびりついていて、すぐにも拾い集めて陪審官席にもどしてやらないと死んでしまうかもしれないと、ぼんやりそんな気がしたからでした。
「裁判を進めるには」と王さまはいかにもしかつめらしい声で言いました。「陪審官が全員各自の席にもどらねばならん……『全員じゃ』」と王さまは、えらく力を入れてくり返しながら、アリスをじっと見つめられました。
アリスが陪審官席を見ますと、自分があわてたあまりに蜥蜴《とかげ》をさかさまに置いてしまい、かわいそうに蜥蜴はまったく動けないで、悲しげに尾をふりまわしているのが目にはいりました。アリスはすぐに取り出して、ちゃんと入れてやりました。
「たいしたことじゃないんだけど」とアリスはひとりごとを言いました。「どっちが上になっていたって、裁判には同じことなんだわ」
陪審官たちは、ひっくりかえされた驚きから少しばかり回復して、石盤や石筆が見つかって手わたされると、早速、一同せっせとこの事件の次第を書き出しました。
ただ蜥蜴だけは別で、あんまり驚いて何も手につかぬらしく、口をあんぐりあけてすわり、法廷の天井に見入っているばかりでした。
「この事件について何を知っているのじゃ?」と王さまはアリスに言われました。
「なんにも」とアリスは言いました。
「『まったく』ないのか」と王さまはなおもたずねられました。
「まったくありません」とアリスは言いました。
「これは大いに重要なことじゃ」と王さまは、陪審官のほうに向かって言われました。みんながその言葉をちょうど石盤に書き込もうとしていたとき、白兎が口を出しました。
「陛下は、もちろん重要ならず、とおおせられるおつもりです」と、いともうやうやしい口調で言いましたが、言いながら王さまに向かってしかめっ面をしました。
「もちろん、重要ならずとのつもりじゃ」と王さまはあわてて言われ、小声で、「重要な……重要ならず……重要ならず……重要な……」と、まるで、どちらがひびきがよいか試してでもいられるふうに、ひとりごとを言われました。
陪審官の中には「重要なり」と書きこんだものもあり、「重要ならず」としたものもありました。アリスは近くにいて石盤を覗《のぞ》き見できたので、このことがわかりました。「でもそんなこと、ちっともかまわないことだわ」とアリスはひそかに思いました。
この時は、しばらくの間、しきりに手帳に書き込みをしておられた王さまが、「静かに!」と叫ばれて、手帳を読み上げられました。「第四十二条。身長一マイルヲ超ユル者ハ全員法廷ヲ去ルベキコト」
みんながアリスを見ました。
「わたし一マイルはないわ」とアリスが言いました。
「あるぞ」と王さまが言われました。
「二マイル近くある」と女王さまが言い足されました。
「まあ、とにかく、わたし出て行かないわ」とアリスが言いました。「それに、今のはほんとうの規則じゃないんですもの。たったいま作られたのですもの」
「書中最古の規則じゃ」と王さまが言われました。
「じゃ、第一条のはずですわ」とアリスが言いました。王さまは青くなられ、あわてて手帳を閉じられました。
「評決を考えよ」と王さまは低い震え声で、陪審官たちに言われました。
「恐れながら陛下、まだ証拠がございます」と白兎はあわてふためいて飛び上がりながら、言いました。「この紙を、ちょうどいま拾いましてございます」
「何とあるのじゃ」と女王さまが言われました。
「まだあけておりません」と白兎が言いました。「しかし、囚人から誰かに宛てた手紙だと思われます」
「誰かに宛てたものには相違なかろう」と王さまは言われました。「宛名なしに書いてなければじゃ。そんなことはまずないことじゃからのう」
「誰宛てのものですか」と陪審官のひとりが言いました。
「誰にも宛ててありません」と白兎が言いました。「実際、外側には何も書いてありません」
こう言うと紙を開きました。そして「やっぱり手紙じゃありません。一篇の詩でございます」とつけ加えました。
「その詩は囚人の筆跡ですか?」と別の陪審官がたずねました。
「いいえ、ちがいます」と白兎は言いました。「それが、いちばん奇妙なところでございます」(陪審官たちは腑《ふ》に落ちない顔をしました)
「誰か他人の筆跡を真似《まね》たにちがいない」と王さまは言われました。(陪審官一同はまた明るい顔色にかえりました)
「恐れながら陛下」とジャックが言いました。「わたくし奴《め》は書きません。わたくしが書いたと証明もできません。おしまいには何の署名もありません」
「おまえが署名しなかったのなら」と王さまが言われました。「事はますます悪くなるばかりじゃ。おまえは何か悪だくみをしたに相違あるまい。さもなくば真っ正直に署名したはずじゃ」
この言葉に全員が拍手しました。王さまがこの日言われた初めての、まちがいなくうがったお言葉であったからでした。
「それがもちろん、この男の有罪の証拠じゃ」と女王さまが言われました。「それでは首をちょん……」
「そんなことの証拠には少しもならないわ!」とアリスが言いました。「だって、どんなことを書いてあるのか知りもしないのに!」
「その詩を読み上げよ」と王さまが言われました。
白兎は眼鏡《めがね》を掛けました。「恐れながら陛下、どこから始めましょうか?」と白兎はたずねました。
「はじめから始めよ」と王さまはいとも重々しい口調で言われました。「そして終わりに来るまで読みつづけるのじゃ。そしたらやめるのじゃ」
白兎が次のような詩を読み上げている間、法廷中はしーんと静まりかえっていました。
彼らの話じゃ、君が彼女のところに行って
〔以下まったくちんぷんかんぷんの詩。法廷の判決文の不条理を諷刺している〕
僕のことを彼に言ったら
彼女は僕をすいせんしたが
僕には泳ぎができぬと言った。
彼は僕が出かけなかったと彼らに伝えた
(それはほんとうだと僕らも知ってる)
もしも彼女が事せき立てりゃ
いったい君はどうなるのだね。
僕は彼女にひとつやり、彼らは彼にふたつやった。
君は僕らにみっつ以上くれた。
彼らはみんな彼のとこから君んとこにもどった。
もっともみんなもとは僕のもの。
もし万が一、僕なり彼女がひょっとして
この一件に巻きこまれたら
僕らの昔のありさまに
彼らを返すのは君の任だと彼らは言うのさ。
僕の考えじゃ、それまで君は
(彼女の発作が起こらぬうちは)
彼と僕らとそいつとの
仲をへだてる邪魔《じゃま》物じゃった。
彼らを彼女が一番好きだったと
彼に知らせちゃならないぞ、
こいつは僕たちふたりの秘密
ほかの連中にゃ知らせちゃならぬ」
「それこそ、これまで聞いたうちでもっとも重要な証拠じゃ」と王さまは揉《も》み手をしながら言われました。「それでは陪審官たちは……」
「陪審官の誰でもその説明ができるなら」とアリスは(この数分間のうちにえらく大きくなっていたので、王さまの言葉をさえぎるのなんか少しもこわくはなくなっていたので)言いました。「六ペンス差しあげるわ。わたしはその中にはこれっぽちだって意味はないと思うわ」
陪審官たちは皆、石盤に「彼女はその中にこれっぽちも意味はないと思う」と書きましたが、誰ひとり、手紙の説明をしようとするものはありませんでした。
「何の意味もないのならば」と王さまが言われました。「見つける必要もないのじゃから、おおきに手間がはぶける道理じゃ。しかし、わからぬのう」と王さまは膝の上に詩をひろげ、片目で見ながら、言葉をつづけられました。「やっぱり多少の意味があるように余には思われるがのう。『……僕には泳ぎができぬと言った』……おまえ泳げないだろうな」と王さまはジャックのほうを向いて言われました。
ジャックは悲しげに首を振りました。
「そのように見えまするか?」と言いました。(たしかにそうは見えませんでした。全体がボール紙でできていましたから)
「そこまではまずよろし」と王さまは言われました。そしてひとりで詩をくり返し、口ずさまれました。「『それはほんとうだと僕らも知ってる』……もちろんそれは陪審官のことじゃ……『もしも彼女が事せき立てりゃ』……これは女王にちがいない……『君はいったいどうなるのだね』……まったくもってどうなることか! ……『僕は彼女にひとつやり、彼らは彼にふたつやった』……なに、こりゃあいつが饅頭《まんじゅう》をどう処分したかってことにちがいない……」
「でも続きは『彼らはみんな彼のとこから君んとこにもどった』となっているわ」とアリスが言いました。
「おや、そこにあるじゃないか!」と王さまは、それみたことかと言わぬばかり、テーブルの饅頭を指さしながら言われました。「これほど明白なことはない。それにまた……『彼女の発作が起こらぬうちは』ともある。……そなたは発作など起こしたことはなかったのう?」と王さまは女王さまに言われました。
「あるもんですか!」と女王さまはかんかんになり、インク壷を蜥蜴《とかげ》めがけて投げつけながら、言われました。(運つたなくもビルは、書いても跡が残らないので、指で石盤に書くのをやめていましたが、あわててまた書き出しました。顔をつたい流れるインクがつづくかぎりそれを使いながらです)
「ではこの詩句はそなたには当てはまらぬのじゃな」と王さまは微笑されながら、法廷を見まわされました。全廷水を打ったように静かになりました。
「酒落《しゃれ》句なんじゃな」と王さまは怒気をこめて言われると、みんなが笑いました。「陪審官は評決を考えよ」と王さまは言われましたが、これでその日二十度目くらいでした。
「いや、いや」と女王さまが言われました。「宣告が最初で……評決はその次じゃ」
「ばかばかしい!」とアリスがどなりました。「宣告を最初にするなんて!」
「黙れっ!」と女王さまは真っ赤になって言われました。
「黙りません!」とアリスが言いました。
「あの女の首をちょん切れ!」と女王さまはあらんかぎりの声を張りあげて叫ばれました。誰も身動きするものがありません。
「あなたなんか誰がかまうもんですか」とアリスは言いました(この時までには、もうもとどおりの背たけにもどってました)「せいぜい、ひと組のトランプじゃないの!」
これを聞くとトランプはみんな空中に舞い上がって、ひらひらとアリスの上に落ちてきました。アリスはあっと叫びましたが、おそれと怒りとが半々でした。それから、トランプをはたき落とそうとしましたが、ふと気がつくと、自分はお姉さんの膝に頭をのせて土手に横たわっているのでした。そして、お姉さんは、アリスの顔に木から舞い落ちた枯れ葉をそっと払いのけておられたのです。
「アリスちゃん、お起きなさいな」とお姉さんが言いました。「まあ、長いこと寝たわね!」
「ああ、ほんとに不思議な夢を見たわ」とアリスは言いました。そしてみなさんがこれまで読んでいらしたアリスの不思議な冒険を、みんな思い出せるかぎりお姉さんに話してあげたのでした。アリスが話しおわると、お姉さんはアリスに接吻《キス》して言いました。
「ほんとに不思議な夢だったわね。でも、さあ、急いで行ってお茶をおあがり、おそくなったわ」
そこでアリスは立ち上がって、駆けて行きましたが、駆けながら、もっともなことですが、なんて不思議な夢だったこと、と思うのでした。
アリスのお姉さんは、アリスが立ち去った時のまま、じっとすわって頭を手にもたせ、夕陽を眺めながら、妹のアリスとアリスが見た不思議な冒険のことに思いを馳《は》せていましたが、ついには自分もまたどうやら夢見心地になってしまい、こんな夢を見たのでした。
まず第一に、アリス自身のことを夢にみました。かわいい手がまたもや自分の膝の上でしっかりとにぎり合わされ、つぶらな熱心な目が、自分の目を見上げているのでした。……アリスの声の調子までが聞こえてき、目にはいろうとするほつれ毛を入れまいと、頭をちょいとおかしく振るのまでが、目に見えるのでした。そしてなお耳をすましていると、あるいはすましていると思っていると、あたり一面がアリスの夢に出た奇妙な動物たちで賑《にぎ》やかになってきました。
背の高い草は、白兎が急いで駆けて行くと、足元でさらさら音を立てました……おびえたねずみは、近くの水たまりをちゃぷちゃぷやりながら進んで行きました……三月兎とその友達たちが、果てしない食事を共にするときの茶碗のがちゃがちゃという音だの、不幸な客人たちに死刑を申し渡している女王さまの甲高《かんだか》い声だのが聞こえるのでした……またしても豚の赤ん坊が、公爵夫人の膝でくしゃみをしており、それとともにその周りには、大皿小皿がちゃりんちゃりんとこわれていました……また、グリフォンの叫び声や蜥蜴《とかげ》の石筆のきーきーいう音や、取り押さえられた天竺《てんじく》ねずみの窒息《ちっそく》するのが空を満たし、哀れなにせ海亀の遠くに聞こえるすすり泣きの声とも混じり合うのでした。
こうして、お姉さんは目をつむってすわっていましたが、なかば自分も不思議の国にいる気持ちでした。もっとも、お姉さんはまた目をあけさえすれば、何もかも退屈な現実にもどってしまうのだということは知っていました……草はただ風の中でさらさらと音を立てるだけで、池は葦《あし》のそよぎに合わせてさざなみ立ち……がちゃがちゃいう茶碗はちりんちりんと鳴る羊の鈴の音に、女王さまの甲高い叫び声は羊飼いの少年の声に変わるということも……赤ん坊のくしゃみ、グリフォンの叫び声や、いっさいの奇妙な物音も(姉さんにはわかっていました)いそがしい農場の入り混じった騒音になり……遠くに聞こえる牛の啼《な》き声はにせ海亀の重苦しいすすり泣きに取って代わるということも。
おしまいに、お姉さんは自分のこのかわいい妹が、後年長じて一人前の婦人になり、分別盛りを通してずっと、子供時代のすなおでやさしい心を保ちつづけ、周《まわ》りにほかの子供たちを集めて、いろいろと不思議なお話で、おそらく遠い昔の不思議の国の夢まで話して、子供たちの目を輝かせ熱心にさせ、また子供たちの単純な悲しみに同情し、その単純な喜びに楽しみを見いだし、自分自身の子供時代や楽しかった夏の日を思い出す姿などを心に描いてみるのでした。 (完)
解説
ルイス・キャロル 人と文学
〔デアズベリー時代〕
ルイス・キャロル、本名をチャールズ・ラトウィッジ・ドジスンという人物は、イングランド西岸チェシャー地方に生まれている。オートバイ・レースで有名になったマン島をはさんでアイルランドとイングランドが形づくるアイルランド海に注ぐ大河のひとつ、マーシー川、上流にマンチェスター、河口にリヴァプールという、産業革命以後の二大花形都市を擁《よう》するこの川の、ほぼ中流域にデアズベリーという穏やかな村がある。この村の英国国教会派の牧師チャールズ・ドジスンが、フランシス・ジェイン・ラトウィッジとの間にもうけた三番目の子供が、後のルイス・キャロルなのである。長男であった。
当時の英国は、いわゆるヴィクトリア朝時代と呼ばれるころで、英国は政治経済の分野で世界に君臨しはじめていた。国民は自分たちの力に自信をもっていたし、孜々《しし》として働いた。そういう時代だから、内的精神的な苦悩だとか、繊細柔弱な趣味だとかは問題にされず、『少なくとも表面的には』、質実勤勉をよしとする道徳主義《モラリズム》が、堅固に人々の生活に浸透していた。ルイス・キャロルはそういう『おかたい』時代に、しかも聖職者の家に生まれついたわけである。長男に家督を相続する長子相続制が微動もしていない社会に、ともかく十一人兄弟の長男として生まれついたわけである。生涯、心理的な圧迫を背負っていかねばならない人物の運命といったような影が、最初からキャロルにはつきまとっている。
キャロル三十六歳の時、彼の父親が死ぬが、彼はそれを我が人生最大の不幸だと書いている。厳格な牧師であった『父親の影響』は絶大なものであったようだ。父の姿と、我々の心に巣食って欲望や怠惰《たいだ》を罪悪だと囁《ささや》きかける、天なる父(神)のイメージが、キャロルの脳裡では解きがたく重なりあっている。『おかたい』社会がすでに、「……すべからず」という規則やタブーの網で人々をがんじがらめにしているのだ。それに加えて〈規則狂《ルール・マニア》〉とでも名づけたいようなところをキャロル自身、身につけているのである。若き日のキャロルの詩には〈規則ときまり〉とか、〈僕の妖精〉といった、「……すべからず」というとぎれることない内部の声をテーマにした一連の作品がある。あたかも海の向こうでE・A・ポオが自分の内に巣食う天邪鬼《あまのじゃく》の妖精《インプ》との夢魔的闘いに苦しんでいた時に、キャロルの〈僕の妖精〉は、幼いキャロルが眠ろうとすると、眠っては『ならぬ』、泣こうとすると、泣いちゃ『ならぬ』、余りのひどさに文句のひとつも言うと、質問、口答え『全て許さぬ』と囁きつづけるのであった。
規則や日課というとまず僧院が思い浮かぶが、それは同時に『牢獄』につきものである。十歳になるまで、キャロルは父親による家庭教育だけで育っているから、父親の潔癖なピューリタン的発想がそのまま叩き込まれたわけでもあろうが、キャロルの一生は、宗教的な内面からの不断の告発の声との闘いでもあったと思われる。規則というのは、それによって縛《しば》られるべき内部の何か『どろどろした』欲望とか自己破壊衝動とかに対して、それをあらかじめ|悪魔祓い《エクソサイズ》しておこうという知恵なのではなかろうか。
キャロルは生涯、厳しい日課と規律をつくり、守りつづけた。どんな恐怖、どんな不安を自分に対して彼が抱いていたか、簡単には言えないが、要するに、自分は自分として括弧《かっこ》に入れ、どんどん他人や社会の方に目を向けていけるような実際的な人間のタイプではなかった。何かしよう、何か言おうとするたびに、自分の内面に、ふたつの、相反する声を聞きつけるような、融通のきかぬタイプなのだ。
こうした心理的なつまずきから、キャロルのひどい『どもり癖』を説明できるかもしれない。彼の兄弟十一人、ひとり残らず『言語障害』だったことが知られているが、おそらくは父親の圧倒的な影の下でうえつけられた罪障感、自省的性格と無関係であるはずがないのである。分裂した内面を抱えこまされたキャロルのような人間が何か『行為する』場合、自分のどこかを傷つけずにおかぬ自虐的なところがでてくるのは当然である。後にオックスフォード大学の数学講師、聖職者となったキャロルは、グランディ夫人という謎めいた告発者の視線に脅《おび》やかされつつ、年端《としは》もいかぬ少女たちのヌード写真撮影に陰気な熱を上げて、スキャンダルを起こした。表面的な潔癖と、抑圧されどろどろした内面的なつまずき、これはある意味ではキャロルひとりのみか、彼の生きたヴィクトリア朝そのものの病理でもあった。
めかしこんだ紳士淑女たちが、実際には、英国史上|未曾有《みぞう》のポルノ雑誌『エクスクィジット』や『パール』のひそかな愛読者であるような時代だった。とりわけ猥褻《わいせつ》きわまる文書の著者が、調べてみると国会議員、ロンドン市長で僧籍も有するJ・ウィルクスであったような時代なのだ。時代全体が裏と表に満ちた、妙にいかがわしく自虐的な活気に満ちていた。キャロルが〈ガラスの部屋〉と名づけられた彼の写真スタジオでなにやらあやしげな写真を撮っていたころ、社会のアングラ的世界では、サド公爵の名でおなじみのあの『鞭打ち』が流行していたのである。
〔ヴィクトリア朝という時代〕
キャロルが生まれたのは『一八三二年』一月のことである。そもそもこの年が意味深長と言わざるを得ないように思われる。十九世紀英国の世界史的繁栄の大立者ヴィクトリア女王は、一八三七年から一九〇一年の長きにわたり在位した。キャロルの没年が一八九八年だから女王在位の期間とキャロル生涯の期間とはほぼ重なるわけだ。しかも一八三二年は英国社会史上の一大革命と称すべき選挙法改正案《リフォームアクト》が議会を通過した年であり、旧来の土地貴族を核にした農本主義的な社会体制から、中産商工業階級が絶大な発言力をもつブルジョワ民主主義社会への転換が、誰の目にも疑いえないものとなった記念碑的な年なのである。文壇論壇では、サー・ウォルター・スコット、ジェレミー・ベンサムという一時代を画した大物たちが、この年に相ついで逝《ゆ》いた。『ひとつの時代が終わり、ひとつの新しい時代が始まった』という感覚《センス》がそこにないとしたら、その方がおかしいではないか。
社会人心の変貌を前にして、我々は『時の流れ』という言い方をするが、変化の激しいヴィクトリア朝期の文芸思潮の中心にあるテーマのひとつが、進歩《プログレス》、そして衰退《デカダンス》という形でとらえられた『時間』そのものであるとしても不思議はないであろう。『不思議の国のアリス』は、かげっていく季節という『時の流れ』をボートですべっていくキャロル一行のことを序詞《プロローグ》で歌い、目のさめたアリスの耳元を吹き抜けていく風の『流れ』の音で終わる。次作の『鏡の国のアリス』では、移りゆく季節とボートの川下りのイメージはいっそう強調される。すべてのユートピアには『時間を停めたい』という人間の願いがこめているというが、キャロルもまた、|気違い茶会《マッド・ティーパーティ》の時計を停める。後に書かれた『シルヴィとブルーノ』という長編の中には、逆《さかしま》に回る時計すら登場する。一八三二年という年の前後、激しく変わっていく英国社会の様相は、『流れていく時間・時流』を人々に意識させ、『没落して』いく者、新しく『興りつつ』ある者という対立をはっきり目に見えるようにさせ、遅れてきた者、早く来過ぎた者、バスに乗りおくれたという意識、『時の流れ』をめぐる様々な感覚の渦巻き模様をひき起こしていたのであって、我々が次に見ていくように、キャロルの生涯に現れる色々な問題は、実はこの、『流れゆくものというテーマで全てつながっている』とさえ言えそうだ。
ドイツで、キャロルに匹敵するナンセンス詩人と言えばクリスチャン・モルゲンシュテルン(一八七一〜一九一四。『絞首台の歌』が主作品)だが、彼がニーチェやショーペンハウエル流の厭世観《ペシミズム》に塗り上げられた、ギリシア的|万物流転《パンタ・レイ》の思想の持ち主であったように、論理学の教授ルイス・キャロルにとっても、エレアのゼノン、パルメニデス、ヘラクレイトスという名や、運動や生成など、この世には存在せぬという彼らの逆説《パラドックス》、「万物は流転《パンタ・レイ》する」という思想は、殊にヴィクトリア朝のような激しい変化の時にあって、内側に野暮で不器用な「……すべからず」の声を抱えて、時流にうまく乗ることができない自分を意識せざるを得ないキャロル型の人間にとっては、また一段と大きな意味をもっていたのである。
ひとつの時代の終わりは、新興ブルジョワジーにとっては、もちろん、ひとつの時代の『始まり』でしかなかった。ヴィクトリア朝の人々は、それこそシャツの袖をまくり上げ、営々と働く。女王陛下その人からしてそうであったから、今や世界の商港と化し、世界の工場となった英国全体を、進歩を信じ、蓄積をよしとする楽天主義《オプティミズム》がひたしたものである。当然マンチェスターは、ランカシャー、ヨークシャーの大工業地帯の中枢《ちゅうすう》都市として飛躍的に発展し、これと運河、マーシー川でつながれたリヴァプールは、世界商工業を独占的に支配しつつある英国の最大の海港として未曾有の活況を呈した。別に幼児記憶を過大にとり上げるつもりはないが、キャロルが当時全世界の中心として熱気を帯びていたマンチェスター、リヴァプールの中間に位置する農村に幼年時代を送ったというのは、なかなか意味ありげだ。
『不思議の国』に、チェシャー猫なる奇妙な猫が登場してニヤニヤ笑うけれども、あれは写真をとる時、「チーズ」と言うと笑い顔に写るというのにひっかけてある。デアズベリー村のあるチェシャー地方は、うまいチーズがとれるのでも有名なのだ。工業化の波は、しかし、そんな穏やかな農村集落を洗う。農村人口の都市流入による、いわゆる腐敗選挙区が、すでに述べた三二年選挙法改正で問題になり、その廃止が旧地主階級への打撃となったのは周知の事実だが、工業都市文明による周辺の農村共同体の吸収という時代の要求はどうしようもなかったはずなのである。人間関係の密な、いわば閉ざされた社会としての農村共同体は、労働力に飢えた近くの工業都市のエゴイズムに沿って『開かれ』、解体させられたであろう。
キャロルの家族は、彼が十一になった一八四三年までデアズベリーに住んでいたが、有名なリヴァプール・マンチェスター運河のすぐそばにあったこの村で、幼いキャロルの見たものは、おそらく農本的文化『対』工業文明という形で演じられた、こうした『閉ざされ、自足した親密な空間の解体』劇ではなかったかと思われる。さらに、キャロルが生まれる二年前、リヴァプール、マンチェスター間に『世界初の鉄道』が開設された。進歩累積の神話に血道をあげつつある当時の人々の目に、真っ黒な煙を吐いて直線的軌道を驀進《ばくしん》する蒸気機関車が、おそらく自分たちの理想を体現した神のごときものとして映ったとしても不思議はない。幼いキャロルの目にも、それは『新しい時代』の鮮やかなイメージとして焼きついたであろう。ジャン・ガッテーニョという、すぐれたキャロル伝の著者は、キャロルの重要な幼児体験として汽車のイメージを考えているほどである。
〔クロフト時代〕
父親の仕事の関係で、キャロルの一家はヨークシャー地方のクロフト村に移り住むことになった。面白いことに、この村もまた、大きな『川のそば』にある。ヨークシャとダラムの州境ともなっているティーズ川の分岐点にこの村はある。幼いころのマーシー川と運河、そしてクロフトのティーズ川、後にオックスフォード大学時代のアイシス川……と、キャロルの生涯につきまとい、たとえば『鏡の国のアリス』では、作品中に波立つ川のさし絵を入れるまでに固定観念と化したこの『流れゆく水のテーマ』を取り上げた伝記はまだないけれども、これは単に思いつきなのだろうか。
キャロルにとって『鏡』という、背後にたっぶり毒《マリス》を塗ったガラスは、幼時からつきぬ興味をそそってやまぬものだった。硬《こわ》ばった仮面さながらの彼の肖像写真を仔細に見ると、顔の『左右』が相称でないのに気付く。右と左で肩の高さが少しちがっていたという。一説によると『左利き』であったともいう。そうしたアンバランスな体の持ち主が、左右を魔術的に『ひっくり返し』てくれる鏡に魅されても不思議はない。彼にとっては水たまりひとつが大きな意味をもっている。そうしたものは、『ひっくり返し』た世界を反映する鏡の一種なのであり、『おかたい』大人の世界に生きていかねばならないことをそろそろ圧迫と感じはじめていた幼いキャロルにとっては、『ひっくり返された現実』があたかも『地下にある別世界』のように見える、水鏡《みずかがみ》の類は絶対的な魅力だったらしい。水たまりや小川、鏡、それらは同じものを意味する。『あちら』の世界では、日ごろキャロルを圧迫してやまぬ『こちら』の世界が小気味よく全て『ひっくり返され』て見えるわけで、鏡や水の表面とはそうした一時のユートピアへの旅、現実への復讐、解放の夢想といった〈不思議の国〉や〈鏡の国〉への入り口に他ならなかった。
キャロルは『水の流れ』を見ているのが好きだったと言うが、そこに映された『世界の転倒像』のイメージが、やがてふたつの『アリス』物語でつくられた『地下で』、あるいは鏡の『向こう側』の世界で、こちら側の大人の道徳と偽善の社会を完膚《かんぷ》なきまでに嘲笑するというアイデアに結実していったというのは説明を要しない。それだけではなく、川は『流れゆくもの』に対するキャロルの瞑想に具体的な表現を与えるものでもあったはずだ。
さて、クロフトの牧師館ではキャロルはよく弟妹の面倒を見て遊ぶ。母親のフランシスは子供には優しい家庭的な女性だったが、なかなかの多産系で、結局キャロルを含め、男四人、女七人、十一人の子供を産んだのだった。ピューリタンの父親の厳格な家父長ぶりと、家庭的な母親の温和、それに十人の兄弟たち、この睦まじい大家族はキャロルにとっては、『自足した』必要十分なコミュニティ(共同体・社会)として意識されたとおぼしい。その『外側』に何か足らないものを求めてさまよい出る必要のない、『閉ざされた』親密な生活領域を意味した。キャロルはこの家族のために家庭内の回覧誌『ごったまぜ』、『牧師館の雨傘』を発行し、クイズやゲームの類を盛り沢山詰め込んで弟妹を喜ばせたり、精巧なマリオネット劇団をつくって、クリスマス・シーズンの暖炉の周りになごやかな笑いと喝采《かっさい》の渦をつくり出す。そうした家族的催しのために、そろそろ頭角の現れだしていた独創的な機知をふるおうと、キャロルはいつも心を砕いている。
自分の家庭のことを『うち』と言うが、あれは同時に外に対する『内』という意味あいもある。キャロルにとって、家族共同体という『うち』が良すぎたのではなかろうか。キャロルは生涯独身であった。年端もいかぬ少女たちとの付き合い以外に女性関係と呼べるものはまったくない。母親と二人の姉、五人の妹という女優位のドジスン家が、言わば彼を去勢してしまったもののようだ。普通言うような意味で女性を愛するには、キャロルは余りに初めから女性的世界の中にひたりすぎていた。
前に書いた農村共同体の解体うんぬんというのは、ひょっとして多少オーヴァーだったかもしれないが、仔細に見るとキャロルの生涯と作品の至る所、無残に開かれてしまいつつある『閉じた世界への執着』というテーマが見つかる。否応もなく『大人にさせられる時、喪われていく子供時代』への愛惜と固執があるのだ。子供が大人になる時、あるいは農村共同体が個人主義と疎外の近代都市文明へと変わっていく時、『閉じられていた』安息の場(母親の胎内)が、時間・時流の経過によって暴力的に開かれていってしまうという(つまり社会の中に、ひとりで生きるべく生み落とされてしまったという)感覚《センス》があるわけだろうが、おそらくキャロルの根底にあるのもこの感覚《センス》なのである。ちょうど嬰児《あかご》が母親の胸に抱かれているように親しげな安息の場(ヨーロッパの文学の中では『庭』というひんぱんに出てくるテーマが、外の荒廃した世界に対してつくられた内側の世界への詩人たちの憧れを表わすと言う)を、汚れた手で押し流し、破壊し去っていく、『時間という怪物』、その上に穏やかな牧歌的田園風景を夜空焦がす溶鉱炉《ようこうろ》の悪夢の光景に変えてしまうヴィクトリア朝の利潤追求のエゴイズム、その時流が重なった時、外の世界をはっきりと『流れていくもの』として恐怖し、それに対して『不動の』、『いつも親しい』、『内側の世界』をつくり、それに執着しようとするキャロル生涯の生き方がでてくるのである。
農村共同体をよしとする見方からの工業都市文明への批判として『アリス』を読むなどと言うと場違いのように聞こえそうだが、ウイリアム・エンプスンという人は、彼のアリス論の中で、『アリス』をはっきり、そういう田園牧歌劇《パストラル》の一変奏とみなし、子供の目を通して見た大人の世界と近代文明への批判として読んでいる、ということをつけ加えておこう。
クロフトの牧師館は広大な庭を抱えていた。ローティーンのキャロルが一番弟妹を楽しませたのが『汽車ごっこ』であったというのは妙に面白い話である。一八四〇年代は信じられないほどの鉄道敷設ブームがイングランド中に起きていた時点だから、『子供の汽車ごっこ』は珍しくもないわけなのだけれども、後世まれに見る人嫌いになったキャロルが、唯一付き合った無数の少女たちとの密会の場として選ばれたのが、汽車のコンパートメント(欧米の客車は、客室がひとつひとつ独立した部屋になっている。この『閉ざされた』一室をコンパートメントと言う)であったことから推して、凄いスピードで疾走『しながら』、中で少女相手に話しやゲームに興じている中年男にとっては間違いなく『時』の停止と運動の停止を錯覚させてくれるこのコンパートメントという魔法の空間は、やはりキャロルにとっては特殊な興味をそそったと思われる。汽車にみたてられた手押車やロープを押したり引いたりしながら、幼いキャロルの中に既に『流れていくもの』とそれを『とめたい』という感覚が疼《うず》きはじめているのがわかる。不安なるがゆえに規則《ルール》をつくり出すキャロルは、ここでも手のこんだ〈鉄道規則〉なるもので遊戯をがんじがらめにしようとしたのだ。
大人になることを拒否した永遠の子供として、キャロルは生涯、ゲームや言語遊戯、クイズ、なぞなぞ、判じ絵、暗号の類の案出につきぬ独創力を発揮したけれども、遊びそのものに対する愛着というより、遊びが一時、遊び手を『外』の現実から切り離された『閉じた』世界に隔離してくれることと、遊び独自の『規則がらみ』の性格が、混沌きわまる世界に戸惑っている人間にとっては、一時、自分の世界を規則《ルール》の中に支配できているという幻想を与えてくれることの二点において、遊びに熱を上げたのだと考えられる。遊びは、外の時間の『流れ』を一時とめてくれるように思われたのであろう。
中に乗っている人間の意志とは無関係に、ひたすら突進する汽車とは、人間味の欠けたヴィクトリア朝社会そのものとして感じられたようだ。『鏡の国のアリス』には実際に、汽車の客室の話が現われる。『気がついてみる』と汽車の中にいる女主人公アリスは切符をもっているはずもないし、自分の行先を知るよしもない。それに向かって車掌が、お前は間違った汽車に乗っているのだと言う。向かいに座っている乗客を、当時『パンチ』誌などに政治漫画を書いていたさし絵画家テニエル卿は、当代政界の大立者ベンジャミン・ディズレイリそっくりに描いている。だとすると、俗にバスに乗りおくれるという言い方があるが、キャロルとはヴィクトリア朝という汽車に『乗り遅れた』、あるいは『間違って乗ってしまった』人物だとも言えそうだ。『不思議の国』の初めの方で白兎は「こりゃ大変だ! おくれっちまうぞ」と騒いでいるし、終わりの方で夢から醒《さ》めたアリスは開口一番、「うわあ、お茶におくれちゃう」と叫んで駆け出す。どうもこれはキャロルの強迫観念らしい。
『不思議の国』にドードー鳥という不器用な鳥がいて、どもりがひどかったキャロルことド・ド・ドジスンはその鳥に自分の姿を書きこんだというのが定説だが、ご存知のようにこの鳥は人間のはて知らぬ食欲の犠牲となって十八世紀中には完全に死滅した鳥である。「ドードー鳥のように息も絶えだえ」という慣用句が大きな英語辞書にあるかと思う。全く時代遅れの、お古の、という残酷な意味の言いまわしだが、我々が相手にしているのは自らを絶滅した鳥、羽も退化し飛べぬまま終わりを待つしかない鳥にたとえようとしている男なのである。折りしも、ドーヴァ海峡の向こうでは新興ブルジョア社会と相容れぬ自分を、一羽のぶきっちょな『あほうどり』にたとえた詩がボードレールによって書かれつつあった時だ。『鏡の国のアリス』では同様に、皆が凄いスピードで直線的に動く世界の只中、一歩行くごとに落馬する、下手くそな騎士《ナイト》(桂馬)に自らを託そうとしたキャロルである。長編詩『スナーク狩り』では怪獣探険の末に生命を落とす、真夏でも服を着込み、気絶ばかりしている、のろまなアンチ・ヒーロー(三枚目)の中に自画像を描いたキャロルである。
アリスの乗った客室の客のひとりがアリスに、「自分の行ってる方向はわかってなくちゃならんよ。たとえ、自分の名は知らなくってもさ!」というけれども、これなどが精神生活を置き去りにしたまま、やみくもに進歩だ、金だと突っ走りつづける経済大国、ヴィクトリア朝英国への総批判としてひっくり返っていくのも、遅れて来すぎたのか早く来すぎたのか、ともかく〈人類の進歩と調和〉の社会的風潮に置きざりにされた男の、置きざりにされることによって初めてものが見えるようになる、その『視』のすごみと怨みが深く根づいているがためなのである。誰もが軽薄にしゃべり散らしている傍らでキャロルはどもるよりなく、やがて赤面して黙りこむしかなかったが、それゆえにこそ「不具の肉体が、その不具性のゆえに他に先立って見なければならない肉体や社会のさまざまな背理や暴力を言葉として対象化するとき、リズムの音楽性によってかろうじて生《なま》の恐怖として堰《せき》を破ることを耐えているナンセンス詩」(種村季弘『ナンセンス詩人の肖像』)、『アリス』という、見かけの数学的論理学的に潔癖な言語宇宙の皮膚の下に言わく言いがたい怨嗟《ルサンチマン》と狂気のよじれを秘めた作品を生んだのでもあった。
〔ルイス・キャロルの学校生活〕
家庭といい、幼年時代という『閉ざされた』世界との訣別は、『学校』に入らねばならぬことによってまず訪れた。今の日本で言えば、要するに中学校に上がる年まで家庭教育一本というわけだ。同じ年の腕白どもが席を並べる教室の世界を知ることのなかったキャロルは、自分を仲間との『横の関係』ではなくて、両親、弟妹との『縦の関係』において、ドジスン一家の『おにいちゃん』として次第に意識せざるをえなかったはずだ。こうした心理的な圧迫に、学校生活が拍車をかけた。リッチモンド・スクール時代はまだよかった。数学に深い趣味をもっていた父親の家庭教育のせいもあって、数学は抜群、品行方正の模範生だった。それがラグビー校に上がる時からいけなくなった。
ヒューズの『トム・ブラウンの学校生活』をお読みになった方も多かろう。男子校一流の、屈託ない弊衣《へいい》破帽《はぼう》の校風には好感がもてるのだが、女性的な神経の持ち主であるキャロルには衝撃だったとみえて、一生涯男嫌い、特に少年に対する憎悪を抱え込む。『不思議の国』で公爵夫人の抱いた男の子は『豚』に変えられてしまう。『シルヴィとブルーノ』ではアガッグという醜い男の子に、キャロルは豚の姿を描き込む。そうした分だけ、妹たちの待つ牧師館に帰る休暇には、彼はすばらしく精彩があった。パズルや物語の山に、きらめくような言葉の遊びを詰めこんだ家庭回覧雑誌を次々に発行した。記事もさし絵も独力でやった。人形劇場もつくった。そのために台本も書きおろした。『アリス』は言葉と論理の、前代未聞の遊びからできているが、そのアイデアの多くが、このころの雑誌記事の中に見られる。
『牧師館の雨傘』のなかに、キャロルとおぼしい女装の男が、『詩』という傘をひらいている絵がある。髪を逆立てた男たちが投げつける、悪意とか、憂鬱《ゆううつ》とかいう石つぶてから主人公を守ってくれる傘、それは責任とか義務とかから一時逃避させてくれる、純粋無償の言葉と詩の世界であり、優しい母や妹たちと一緒に笑いさざめくことのできる家庭といううちの象徴である。おそらく、混沌として暴力的な『外の世界』と、安らかな『内の世界』、それがはっきりと『対立として意識された』のが、このパブリック・スクール、ラグビー校時代なのである。彼は生涯、壁の『外』に出まい、大人になるまいと秘かに決心したのではあるまいか。この自分を守る『壁の中の世界』として、キャロルは『学校』という、ミニアチュアの生活領域を選びとった。キャロルはオックスフォード大学に入学後も相変わらずトップの成績を続け、終生同大学にとどまりうる特別研究生の名誉ある地位を与えられる。そして若冠二十二歳で、同大学で数学講師のポストに就いた。死ぬまでの五十有余年、彼の生活はこの退屈な『学校』という牢獄の手ぜまな『壁の中』に限られてしまったのであった。
〔アリスとの出合い・驚異の時代〕
リデル博士が、キャロルのいたクライスト・チャーチ学寮の長として着任した時、その三人の娘の二番目、アリス・リデルはやっと三つの少女だった。確かに人目をひきそうな、いくぶんこまっしゃくれの美少女という印象を受ける。
『一八五六』年、この年はキャロルの生涯で最も豊かな時代、俗にいう|驚異の時代《アヌス・ミラビリス》の幕開けの年として記憶に価する。『職を得たこと』と『母親の死』という事件のために、一種、家庭からの『独立』みたいな気持ちがあったのではないだろうか。この年、親交のあったジャーナリスト、エドマンド・イェイツの勧めで、ルイス・キャロルをペン・ネームに採用している。自分の本名をラテン語化して、ひっくり返し、それをもう一度英語にして作った、いかにも鏡に憑《つ》かれた男にふさわしい筆名ではあった。そしてこの時代のキャロルの代表的な趣味である『劇場通い』と『写真撮影』が始まったのも同じ年だ。そして何よりもこの年に彼はアリスに出合った。
『不思議の国のアリス』の序詞《プロローグ》で、キャロルと三人の少女がボート遊びに興じているが、あれは一八六二年七月に、実際にキャロルとリデル三姉妹が、アイシスの川面に浮かべてしたボート遊びをモデルにしていると言われる。実際にアリスが「ナンセンスの詰《つ》まったお話」を所望したであろうし、それに答えてキャロルがオール漕《こ》ぐ手を休めて語ったのであろう。それをその夜メモしたキャロルは、これをふくらませ、自分でさし絵を入れた一冊の手書き本にして、後にアリスに献呈するが、ともかくもこのボート遊びの時の話が、我々の手にしている『不思議の国のアリス』の原型なのである。
キャロルはこの少女に熱を上げた。二十も年の違うアリスに求婚さえしたらしい。アリスの母親というのが、娘は貴族に嫁がせようと考えていたような、典型的にヴィクトリア朝的な俗物女だったから、キャロルの申し込みなど軽く一蹴したらしいが、口さがない大学雀の話題にはなった。そんなこともあって、リデル家から敬遠されはじめ、おまけにリデル博士と学寮運営上のことで衝突し、キャロルはアリスと会えなくなった。『アリス』が正式に出版されるまでに、すでにリデル家とはこじれていたのだから、原話と初版本との間に、キャロルの幻滅の気持ちが入り込んできたとしても不思議はない。
物語の中でアリスが目をさました時、漂う幻滅の感じにお気づきだろうか、あるいは序詞にしてすでに『回顧調』であることにお気づきだろうか。かって農村の家族|団欒《ダンラン》を『うち』としていた少年は、それに代わる『内側の世界として』大学の世界、そして少女とのコミュニケーションがつくる秘かな時間と空間を選んだ。少女に対する時だけはキャロルのどもりは直っていたという。それが今や挫折させられつつあるのだ。
教職には聖職が付随していたが、すでに見たように内面的なつまずきをもち、舌に『もつれ』をもつキャロルは説教壇に立とうとしなかった。そんなハンディも手伝ってか、教職はもはや新学期によってせめてものリズムを得られるようなものですらなかったらしく、その上彼は、例のごとく男子学生を嫌い抜いたし、学生の方でも退屈し切っていた。『アリス』の中で、人物たちは「退屈だ」、「あきあきした」を連発している。キャロルもまた、手紙の中で大学生活の倦怠をこぼすこと一再ならずだ。選びとられた『内側』、それが今や一種の牢獄に他ならなかった。その上、アリスとの関係は終わった。『うち』の世界は、ここでも頓挫させられていく。そこにまたしても『流れゆくもの』が姿を見せたとしても驚くにはあたらない。
キャロルは自分の付き合う少女の年齢を十四歳までと区切ったが、日記の中でこのあざとい分水嶺《ぶんすいれい》を「小川と河が出会う所」と叫ぶ。『流れる水』のテーマが意味ありげに登場してくるわけだ。気のきかぬ中年男、キャロルの気持ちも知らぬげに、少女たちは、時が満ちると股間に血を流しながら、大人になっていく。キャロルが少女たちをモデルに写しまくった写真とは、こうして時の『流れ』に身をゆだねて彼を置きざりにしていく少女たちを、永久に少女のまま、時間のない硬ばったポーズのままに、レンズと乾板の上に凍結させたいという願いの現れなのだ。
『不思議の国』も『鏡の国』も、ひとりの少女がいろいろの試練の後に一人前のレディになっていく物語として読むことができるが、そうすると、水の『流れ』を中心にすえたこれらの物語は、少女を初潮から中年女へと拉致《らち》していく時間《タイム》の流れを前にした、キャロルの抵抗と諦《あきら》め以外の何者でもないだろう。アリスの目ざめ(少女が一人の女として『めざめる』)に、幻滅のニュアンスをないまぜにした時、それはキャロルの、『流れゆくもの』への、せめてもの報復なのである。
見たところはふたつの『アリス』を筆頭に、『スナーク狩り』や詩集、パズル集、一方、専門の数学の著作と、実に多作な豊かな時代でもあったが、時間・時流との闘いは次第に無力になっていきつつある。このころ、彼は『川』の他に『海』に興味をもった。ドーヴァー海峡に面した海水浴場イーストボーンを毎夏訪れては、行きずりの少女たちと、波が永遠のリズムを奏でる浜辺で話とゲームに興ずるようになった。一方では、ロンドンの『劇場の中』で、付き合い中の少女たちと芝居を見るのが愉《たの》しみだった。『汽車のコンパートメント』はますます密会の場として使われることになる。『流れゆくもの』に開かれようとしている自分の世界を、小さな親密な空間に閉じようとするキャロルの姿があるのだと思われる。
〔幻滅・晩年・論理学〕
多産な時代は、『一八八〇』年に終わる。アリス・リデルが結婚したことがひとつ。文字どおり、少女アリスは一人前のありきたりのレディへと凋落した。キャロルは結婚式に招待されもしなかった。一方、かねてスキャンダルになっていた、少女の裸体写真の一件のため、写真を断念せざるを得なくなったのもこの年だ。『流れゆくもの』に対する敗北の年とも言えるわけである。
『アリス』で使われている言葉が妙に理屈っぽいのにお気づきだろう。キャロルはもともと『論理学』に興味をもっている。それが晩年にかけて頭をもち上げてきた。『アリス』が面白いのは、ひとりの少女の珍妙な冒険という物語性と、言葉の自由自在な論理的遊戯性とが、よりあわされ、渾然一体《こんぜんいったい》となっているところにあるが、こうした緊張を晩年のキャロルはつくり出せなかった。論理学は独立した研究領域となり、「飛ぶ矢は飛んでいない」とか、「アキレスは亀に追いつけない」といった、『流れ』や『運動』を『言葉の上で否定し』、弄《もてあそ》んでみせる、空しい『机上の慰み事』となった。
一方物語性の方は、死の十年前から出始めた『シルヴィとブルーノ』におけるように、妙に文学っぽくて、キャロルの本領ではない、死・感傷・男と女の愛といったテーマをもちこんでしまったもののようだ。かつては、専門書には本名、それ以外は筆名と使い分けていた彼が、晩年の『記号論理学』を筆名で出したりする。一方、自分の抱えたさし絵画家の絵を顕微鏡にかけ、線の多さを数えたり、大事な手紙を切り刻んで相手に送りつけ、相手に再現させたりする、評判の悪い奇癖は、晩年には病的にまでなった。相変わらず子供には胸襟《きょうきん》を開いているが、気むずかしい晩年だったと伝記は伝える。
一八九八年。子供たちのアイドルは死んだ。ギルドフォードの妹の所でクリスマスを過ごしていたが、気管支炎のため、一月十四日、永眠。享年六十六歳。少女の姿のもはやみあたらないボートで、冥府《めいふ》の暗い流れをひとり下っていったこの男が笑うのを、生前見た大人はひとりもいなかった。それは同時にヴィクトリア朝の終熄《おわり》でもあった。一八五一年、ロンドン万国博を境に、社会人心は急速に退廃と耽美の世紀末へと翳《かげ》っていたのである。 (高山宏)
高山宏……一九四七年生まれ。東大大学院修士課程修了。英文学専攻。専門は十七世紀綺想派詩人とマニエリスム演劇。十七世紀以後の異言語現象と、それを生んだ肉体(特に視覚)的、社会的条件という研究テーマからキャロルに親しむようになった。
年譜
一八三二 一月二十七日、チェシャー州のデアズベリーにて誕生。マンチェスターに近いこの村の国教会牧師チャールズ・ドジスンの第三子、長男である。結局は女七人、男四人の十一人兄弟となる。
一八四三(十一歳) 父親がヨークシャーはクロフトに転任のため当地の牧師館に移転。キャロルの教育は家庭で行われる。父親の数学趣味が影響を与えた。
一八四四(十二歳) リチモンド・スクール入学。このグラマー・スクールでの成績品行ともに優秀。
一八四六(十四歳) パブリック・スクール、ラグビー校入学。腕白な男子校の校風の中で孤立。彼の生涯の男の子への嫌悪の原体験か。弟妹に手紙を書き始めるが、その中に『アリス』に集約されていくパズルや言語遊戯が夥しく見つかる。マリオネット劇の企画、成功。
一八五一(十九歳) 一月二十四日、オックスフォード大クライスト・チャーチ・カレッジ入学。この学寮に彼は死ぬまで暮らすのである。彼には優しかった母フランシス死亡。『アリス』の母系優位の世界との興味つきぬ関係。
一八五四(二十二歳) 最優秀の成績で卒業。終生学校にとどまっていられる特別研究生の地位を得、数学を教え始める。
一八五五(二十三歳) リデル氏が学寮長となり、キャロルが偏愛し、『アリス』のモデルとしたアリス・リデルは彼の三人の娘の二番目、この年三歳。『コミック・タイムズ」編集長エドマンド・イェイツと交友。家庭雑誌『ごたまぜ』にジャバウォッキー詩の原型が載る。
一八五六(二十四歳) 『キャロル伝』のガッテーニョは『一八五五〜六年をひとつのエポック』とみなしている。イェイツの勧めでルイス・キャロルなる筆名採用、そしてアリス・リデルとの出合い。写真への興味、特にアリスをモデルに好む。そして劇場趣味。少女俳優エレン・テリーとの出合い。
一八六一(二十九歳) 国教会副牧師に任命されたが、正式の牧師にはならず、また『どもり』のため終生説教壇に立たなかったと言われる。
一八六二(三十歳) 『不思議の国のアリス』の序詞のモデルとなったアイシス川のボート下りは七月四日、この時した話をメモし、後に『アリスの地下の冒険』として一八八六年ファクシミリ版が出版される形へ自分で整理、さし絵を入れてアリス・リデルに献呈、これが出版社の目にとまり出版の話となる。
一八六三(三十一歳) 友人マクドナルドの勧めで出版することになる。サー・ジョン・テニエルは『パンチ』誌などに政治諷刺画を入れて好評のイラストレーター、彼にさし絵を依頼。
一八六五(三十三歳) 『不思議の国のアリス』Alice's Adventures in Wonderland 出版(マクミラン社)匿名で諷刺的パンフレット『分子力学』 The Dynamics of a Particle を出す。リデル家との関係悪化。
一八六七(三十五歳) 『ブルーノの復讐』 Bruno's Revenge 発表。ヨーロッパ大陸を友人と旅行。
一八六八(三十六歳) 父の死。
一八六九(三十七歳) 『幻想風景』Phantasmagoria and Other Poems 出版。『鏡の国のアリス』の第一章がマクミラン社に届く。
一八七一(三十九歳) 『鏡の国のアリス』の原稿完成。キャロルの自己本位な態度に業を煮やしたテニエル卿はやっとさし絵を書くことを引き受ける。
一八七二(四十歳) 『鏡の国のアリス』 Through the Looking-Glass, and What Alice Found There 出版。匿名でリデル学寮長の改築計画を諷刺した文書発表。
一八七四(四十二歳) 本名で数学専門書を幾つか出版、諷刺パンフレットを集めて匿名出版。『スナーク狩り』に着手。
一八七五(四十三歳) 『ペルメル・ガゼット』二月十二日号に筆名で動物の生体解剖に反対する記事を投稿。少女ガートルード・チャタウェイとの出合い。
一八七六(四十四歳) 三月、『スナーク狩り』The Hunting of Snark 出版。ガートルード・チャタウェイの名を|謎 詩《アクロスティック》の中に読み込んでいる。さし絵はヘンリー・ホリディ。論理学への傾斜が始まる。
一八七七(四十五歳) 夏休みをイーストボーンの海水浴場で過ごす。これ以後例年ここに来るようになる。少女たちと交際できる空間と機会を与えてくれる絶好の場所だった。
一八七九(四十七歳) 言語遊戯集『 ダブレット』Doublets: Word-puzzle 発表。本名で『ユークリッドと現代の彼の敵手たち』Euclid and His Modern Rivals 発表。ただし言語遊戯性の強い論文である。
一八八〇(四十八歳) ガッテーニョがもうひとつ注目するのが一八八〇〜八一年である。一月、写真と訣別。少女の裸体写真への趣味が周到な配慮にもかかわらずスキャンダルとなったためである。アリス・リデルが九月結婚、レジナルド・ハーグリーヴス夫人となる。アリスに求婚したもののリデル夫人に一蹴されたと伝えられるが、アリスの結婚式への列席さえ拒まれた。
一八八一(四十九歳) 数学教師辞職。かくて〈アリスは名前に、教職は機械仕事〉(ガッテーニョ)にすぎなくなった。二十六年間、学生を愛することもなく退屈で不毛な教師生活であったと言われる。
一八八二(五十歳) 教授室主事に選ばれ、九年間勤める。
一八八三(五十一歳) 詩集『詩? と理性?』Rhyme? and Reason? 発表。『アリス』を上演用に脚色する仕事。
一八八四(五十二歳) 比例選挙制に関する文書を翌年にかけ発表。
一八八五(五十三歳) 知的遊戯の物語集『もつれた尻尾』A Tangled Tale 出版。
一八八六(五十四歳) 『不思議の国のアリス』の原型たる『アリスの地下の冒険』 Alice's Adventures Underground がファクシミリ版で出版。『アリス』がロンドン、プリンス・オブ・ウェールズ劇場でオペレッタとして舞台化される。論理学の仕事多数。
一八八七(五十五歳) 上の舞台への劇評、「舞台の上のアリス」Alice on the Stage を「シアター」誌に発表。『論理ゲーム』Game of Logic 上梓。女子校で論理学を講じる。前年にもオックスフォードの女子学生のカレッジで論理学の講義をしている。少女俳優アイザ・ボウマンとの出合い。彼女はキャロル没後、『私の見たルイス・キャロル』というユニークなキャロル伝を書いている。
一八八八(五十六歳) 本名による数学専門書数点出版。
一八八九(五十七歳) 『シルヴィとブルーノ』前篇Sylvie and Bruno 出版。ヘンリー・ファーニス挿画。献詩に例の如くアイザ・ボウマンの名を織り込んでいる。
一八九〇(五十八歳) 幼児向けに『不思議の国のアリス』を書き直した『幼児のためのアリス』The Nursery Alice 出版。
一八九一(五十九歳) 結婚していったアリスとの再会。リデル家との和解。
一八九二(六十歳) 教授室主事辞任。論理学のテクスト数点出版。
一八九三(六十一歳) 『シルヴィとブルーノ』後篇 Sylvie and Bruno Concluded 出版(筆名)。言語遊戯集 Syzygies and Lanrick(筆名)、数学問題集『枕頭問題集』Curiosa Mathematica, Part III, Pillow Problems 本名で出版。
一八九四(六十二歳) 『記号論理学』に没頭。バラドックス遊戯のパンフレット『亀とアキレス』What the Tortoise said to Achiles 発表。
一八九六(六十四歳) 『記号論理学、第一部、入門篇』Symbolic Logic .Part I Elementary 出版(筆名)。
一八九八(六十六歳)一月十四日、気管支炎にて永眠。
あとがき
近年イギリス文学研究の上に生じた一異変、それはルイス・キャロルの作品に対する名だたる文人、学者たちのにわかな傾倒ぶりである。これまで、代表的な英文学史でさえキャロルの文学を正面切って論じたり、重要な文学作品として紹介しているものにはめったにお目にかかれなかった。ところが、キャロルの、とくにアリスものに関する独立の論文や著作は本国のみならず、わが国でも加速度的にふえている。それは従来キャロルの作品が単なる児童読みもの、もしくはノンセンスものとして取り扱われ、オーソドックスな英文学史などではまじめに論じるに当たらないと考えられたためであろうか。いや、どうもそうではなく、むしろ作品のもつ不可解性、近づきがたい、しかし魅力的な謎めく要素のために、危険なものには近づくなといった心境からではなかったか。しかしいまや、ルイスの諸作品について、伝記、社会学、論理学、哲学などなどの側面からするすぐれた専門学者や文人の論考が続出している。ここでそれらをいちいち紹介するわけにはいかないが、こういう事実を頭においてアリスものを読むことも、必要な用心をもって行うならば、読み方に広さと深さと確かさとを加えることになるだろう。
さて、そういう綜合的研究を踏まえ、それに独自の見解を加味して見事にまとめ上げたものが高山君の「解説」である。二十台の少壮気鋭な学究であった高山君がたまたま学部の助手として親しく話を交わしているうちに、アリスものへのなみなみならぬ造詣の持主であることを感知した訳者は、ぜひ「解説」を書いてほしいとお願いした。一度は断られたのを無理にたのみこんで、ついに詳細な「解説」……人と文学……および、作品の解説と鑑賞(これは姉妹篇『鏡の国』にゆずった)、それに「年譜」をまとめて頂いたことは、大きな僥倖であった。読者がこの「解説」を読まずじまいにするなら、それはアリスものへの不可欠な理解の重要部分をみずから放棄するものだと言っても過言ではない。
それと同時に、読者はあらゆる作品に接する折の、あの「進んで不信を停止する」という読書法の鉄則を守って、自分の知性、感性、想像力などを十二分に働らかせ、あくまで主体性を重んじた我流の読み方を楽しんでもいいはずである。だから、『イソップ物語』やバンヤンの『天路歴程』やスイフトの『ガリヴァ旅行記』やヴォルテールの『ミクロメガス』などを勝手に連想し、そこからアリスの寓意、諷刺の性質を考えてみるのも、また別個の感興であろう。あるいはキャロルの筆のままにその幻想世界に幼児の心をもって没入し、現実世界からひととき離脱して、無気味とも言えるそのノンセンスを楽しむのもよい。要するに、読者の年齢と体験とに応じてさまざまな読み方が可能であろう。果たして幼いアリスはどう読み取ったのであろう。
『不思議の国』と『鏡の国』とを訳し終えて、訳者の心にもっとも執拗に居残ったイメージのひとつは、この世に見捨てられた中年男が、ただひとり自分に無垢な愛着を示してくれる童女を、手を変え品を変えして楽しまそうと懸命になっているイメージである。これをやや大仰に形容するなら、万葉の一首をもじれば、「いにしえを恋い渡り鳴くほととぎす」のそれであり、キーツの名句を借りれば「けがされない静寂の花嫁」に永遠にとどかない手を差し伸べる男の姿である。ということは、これら奇怪な児童物語が実は、二度も三度も剥《は》げば、世俗のものさしでは計られない悲しい恋の告白だと訳者にはきこえたと、いうことである。
先年オックスフォードのクライスツ・チャーチ・カレッジを訪ねた折り、たしかそのコモンルーム(教授の社交室)であったか、歴代の有名教授連の大きな肖像が壁いっぱいにかかっている中を目を走らせてキャロルをさがしたが、ついに、それはもっとも目立たぬ一隅、つまり入口扉のすぐ上の空間に、一段と小さくなっておさまっていた。皮肉にもキャロルの声価はその専門の数学の上ではなく、偶然にものした文学作品によって年とともにますます広がる一方であり、あの多数の大きな肖像全体を圧倒する勢いである。
おわりにアリスものの評判にはテニエルの挿し絵が少なからずあずかっている。本書でもそれらを利用した。なお、本訳書は旺文社の英文学習ライブラリーの対訳に手を加えたものである。 (訳者)
〔訳者紹介〕
多田幸蔵《ただ こうぞう》
大正五年、福岡生まれ。東京大学英文科卒。現在東京大学教授。主著『イギリス文学史』『ピューリタン考』、訳書ラッセル『権威と個人』、R・グリーン『悲運の旅人』、同『パンドスト王』他。
不思議の国のアリス
ルイス・キャロル/多田幸蔵訳
二〇〇三年一月二十日 Ver1