愛について
キェルケゴオル/芳賀檀訳
目 次
序言
祈り
第一の章 愛のかくれた生命について、又愛はその果《こ》の実によって知られること
第二の章 愛さ「ねばならぬ」
第三の章 汝は「隣人」を愛すべし
第四の章 「汝は隣人を愛すべし」
第五の章 愛は律法の完全なり
解説
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愛について
――愛の生命と摂理――
序言
このキリスト教的な愛の考察は、多数の考察を実らせた果実なのですから、ゆっくり、ゆっくり、理解する様にして下さい。そうすれば、極めて平易に解っていただけるだろうと思う。併しもし誰か行きずりに、或いはただ好奇心にかられるかして読みかけて、難渋なものとすると、止め度なく難解なものにもなりかねませぬ。読もうか、読むまいか、とゆっくり自分で思案して見ようという、あの「孤独」の人は、もし本当に読もうと決心されたなら、難解さと平易さとを注意して一緒に秤にのせて、正しく平衡が取れる様に、愛を以って考えて下さる様。キリストの教えが間違って秤りにかけられることは困るのですから。難解と、平易さとがあまりに重大な問題にされたりして。
これは、キリスト教的な考察なのです。それ故に所謂「愛」について説いているのではなく、「愛の生命と摂理」について説くものであります。ここに愛の表現の全てが描写せられ、探求されている、等と思っては下さるな。徹頭徹尾反対なのです。又ここに愛の個々の場合が詳しく論じられている等と考えて下さるな。
とんでもない間違いになります。本質的にその豊かさの全量において、無限で酌みつくし難いものは、そのごく微細な点においても亦無限で端倪しえられるものではありませぬ。なぜなら、それは到る所に本質的に、全体的に示現されているのですから、本質的に描写する等ということが出来る訳のものではありませぬ。
一八四七年の秋
[#地付き]ゼエレン・キェルケゴオル
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祈り
あなたを忘れて、どうして正しく愛について語ることが出来ましょう。元愛なる神よ。凡て天上と地上の全ての愛はあなた故に由来します! 何物も倹むことなく、全てを愛のために贈与されて省みぬ神よ。あなたは元より愛で在す故、凡そ愛する者は、あなたの中に生きて、はじめて愛する者となることが出来ます! あなたを忘れてどうして正しく愛を語ることができましょう。愛の何であるかを啓示せられた神よ、我等が救世の主にして、又和解の主なる神。万人の罪を解くために自らの生命を捨てられて惜しまぬあなたを忘れて! 愛の精霊である神よ、あなたを忘れてどうして正しく愛を語ることが出来ましょう! あなたは己れの所有すべき物より何物をも取られず、愛のための犠牲について教えられました。人々は自らが愛せられるがごとく、人をも愛せよ、又汝が隣人を汝自らのごとく愛すべしとあなたを信ずる人々に教えられました! おお、不滅なる愛よ、あなたが遍照し、示現せられぬいかなる場所もありませず――もし、又人があなたを喚んで援けを乞うとき、いかなる時と雖も確証に立たれぬということはありませぬ。殊に今、「愛について、」又、「愛の摂理」について、語ろうと致しますとき、願わくばここにも亦あなたの確証をめぐまれます事を! なぜならば、元より、人間の言葉につづりあらわし、慎《つつま》しやかに、愛の書と呼びますものは、何かの微《かな》しい仕事には違いありませぬ。しかし、天上の国においてはいかなる人の行為をも嘉賞せられる筈がありませぬ。よし、それがたとえ愛の仕事であろうとも。――それ故に、ひたむきにただ己れを否定することに於いて、愛の止みがたい責心に迫られてこの仕事は完成されました。それ故に又、己れが仕事をほこりたい等いうおごり心を少しも有つものではなりませぬ!
第一の章 愛のかくれた生命について、又愛はその果《こ》の実によって知られること
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(ルカ、六章ノ四四)
樹はおのおのその果《み》によりて知らる。茨《いばら》より無花果《いちじく》を取らず、
野荊《のばら》より葡萄《ぶどう》を収めざるなり。
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もし、自分は決してあざむかれはしない、ということをほこりにしている自惚れた知性の、主張するところが正しい、とすれば、我々は、この肉眼でじかに見ることが出来ないものは、何一つ信じてはいけない、と言うことになる。すると先ず愛などというものは、さしあたり、何よりも信じ難いものになるでしょう。あざむかれるかも知れぬ、と言う恐怖から、そのような身のふり方をすれば、それで、もうあざむかれる事はないのでしょうか? 様々の方法によって、あざむかれる事があります。真理でないものを信じることによって、あざむかれる事があります。又真理であるものを信じないことによっても、あざむかれます。「見かけ」によってあざむかれる事があります。いや、殊に知性による見せかけによって、どんな偽瞞にもあざむかれはせぬと思い込んでいるあのひとりよがりの自惚れによって、あざむかれます。果していかなる偽瞞が、最も危険なるものでしょうか? 何れが最も救いがたいものでしょうか? 眼の見えぬ者でしょうか? それとも、眼に見えていて、而もなお目の見えぬ、ものでありましょうか? 何れが、より難しいことでしょうか? 眠ったものをよび覚すことでしょうか? それとも、目がさめているくせに、而も自ら目醒めていると夢みているものを呼びさます事でしょうか? 何れの姿こそ、最も悲しむべきものでありましょうか? 恋において不幸にもあざむかれたものの、あの押え難い涙にさそわれるあわれな姿でしょうか? それともあの自分から自己をあざむいている、笑うべきものの姿でしょうか? 自らあざむかれていはしないと自負して力んでいるある馬鹿げた自惚れこそ、まことに笑うに堪えたものであります。ただ、この様な笑いの中には、この人は涙にも値しないというもっと悲しむべきことがふくまれている事を知らねばなりませぬ。
愛について自らをあざむくこと。これこそ、最も怖るべきものでありましょう。これこそ永遠の喪失であって、そのためには時間に於いて、又永遠に於いて、いかなる償いもありませぬ。その他の愛の場合において偽瞞だとか詐偽だとか言われる事がありますが、この場合には、あざむかれた者は少くとも未だ愛というものに対する関係においては、変っていませぬ。ただ愛が、あると思われた場所に、実は愛がなかった、という点に偽瞞が成立します。併し、自らをあざむくものは、己れ自身を愛から追放するものであります。人は又人生に、或いは人生において、あざむかれた人の事を言います。しかし自己偽瞞的に、自らを人生においてあざむいたものは、その喪失において、償いがたいものがあります。生涯にわたって人生に於いてあざむかれた者に対してすら、不滅者は、豊かな償いをその中に用意《もう》けています。自らをあざむいたものは、不滅者を受《う》けることを、自ら放棄したのです。もし人が、正にその愛の故に、人間的な偽瞞の犠牲になったとすれば、根本において、彼は、何物を失った、と言うのでありましょう――永遠のうちに、やがて愛は不滅であり、偽瞞は亡ぶことが立証されます時に? 之に反して、狡猾にも、自分の巧智におごって、却って自ら巧智の網にかかるという、己れ自らをあざむくものは、ああ、たとえ、彼は生涯かけて自惚れの中に、己れを幸福だという妄想にかられて生きていようと、己れ自らをあざむいたことが、永遠の中にやがて指示されるときに、一体彼は何という悪ふざけのために、全てをだいなしにしてしまった事でありましょう。この人間の言う「時間」というものの中においてなら、あるいは人は、愛なくて生きることを、押しとおすことが、(殊によったら)うまく行くかも知れませぬ。自らの自己偽瞞を発見《みつけ》ることなしに、時間をふざけつぶすことが、殊によったら出来るかも知れませぬ。又殊によったら自惚れの中に度し難く、己れの自惚れのうちに「ほこりを以って」安住するという、怖るべきことすら、やってのけるかも知れませぬ。「永遠」においては、しかし、彼は愛なくて生きることは出来ませぬ。又、何も彼も演《や》り損ったという発見を回避するわけには行きませぬ。存在はなおかくも真摯なものであります! 而もそれは頑迷固陋のものを罰するがために、その意志のするままに任せ、自らあざむかれていることをほこりつつ、自在気ままに生かしめ、結局永遠に己れ自らをあざむいた事を悟らしめるとき、最も怖ろしいのではありますまいか! まことに不滅者は彼等を嘲弄することはしませぬ。むしろ不滅者は、全智全能の故に、暴力を用いず、ただ、その不逞のものを怖るべき罰に処せんがために、多少の嘲笑を用いるだけであります。愛を措いて、他に人間の「時間」と神の「永遠」とを結びうる何物が果して存在するでありましょうか? それ故にこそ愛は全ての上に君臨し、一切が亡んでもなお不滅なのであります。しかし、愛こそ正に、かく「永遠」を結ぶ紐帯であります故に、そして、正に、「時間」と「永遠」とは質を異にするものであります故に、正にその故に、愛は、この「時間」に属する地上の巧智にとって、重荷であると思われます。又それ故に、その「時間性」の中に在っては、官覚に生きる人間にとっては、この永遠の紐帯をかなぐり捨てることが他愛なく容易《やさ》しいことに思われるのです。
自らをあざむいているものは或いは言うかも知れませぬ。以って自ら慰さむに足ると、いや、勝利をかちえた以上のものであると。その誇大妄想の自惚れの中に、いかに彼の生涯は絶望そのものであるかという事がかくされています。彼が、「悲しむことを放棄した」ことは、我々も敢えて、認めることにいたしましょう。併し、それが一体、何の役に立つかと言うのです。真剣に己れについて悲しむことこそ、先ず彼の回癒への第一歩を為すのでありましょうに! 彼は、なおその詐偽的な不信実の犠牲となった他のものを、慰めることができる等と言うかもしれませぬ。しかし、自ら永遠において、取り返しのつかぬ過ちを犯したものが、危篤にひんしている重病人を治癒しよう等とは、何たる狂気の沙汰でありましょう! 自分自身をあざむいているものは、恐らく又、(奇怪な自己撞着ではあります!)幸福にあざむかれた他のものに対して同情をもっている、等と言うかも知れませぬ。併し、もしあなたが、あなたを慰さめ、回癒させようとする彼の智慧を警戒されるならば、「愛はその木の果実《み》によって知られる」でありましょう。辛辣なる嘲笑、鋭い頭のひらめき、毒をもった懐疑の精神、骨を刺すあの硬化の冷たさ、これらこそその木の果実《み》であり、そこには何の愛も住ってはおらぬことを指示しているのであります。
木の果《み》によって、又その樹の何であるかを知ります。「茨《いばら》より葡萄を、薊《あざみ》より無花果《いちじく》をとる者あらんや?」(マタイ・七ノ十六)もしあなたがそこに木の実を求められるならば、唯徒らに探求《もと》められるだけではありますまい。いや、茨も亦あなたに、徒らに求めることの教訓を与えるでありましょう。「樹はおのおのその果によりて知らる」であります。二つの木の果は互いにあまりにもよく似ている事があります。一つは健康で、味美|甘《よ》く、他のものはしぶく又毒があります。しばしば、併し毒有るもの甚だ美味く、健康のものが甚だ苦いことがあります。同じく愛も亦その実《み》によって知ることができます。愛をつかみ損なったものは、その実を知らぬのか、或いはその一つ一つの場合に正しく区別しえなかったかであります。例えば人が、甚しい錯誤を以って元来利己愛でしかないものを「愛」等と呼んでいる場合。或いはいかにも高貴で誇りかに、恋人なしで生きることは出来ぬなどと誓約めいた事を言っているとき。しかし彼はそういう口の下から、自分自身を否定し、その彼の愛の利己的なものを清算することこそ、彼に向けらるべき愛の課題と要求であることについては、一向に耳を藉そうという気色もありませぬ。或いは又人が、錯覚的に、実はただ意志の弱い軟弱さでしかないものを、或いは涙もろい同情、あるいは、気まぐれの妄想でしかないものを、「愛」と名を冠しますときに。或いは相互の我利慾が虚栄と悪とにおいて認め合い、援助し合うために結合し合うとき、おこがましくも愛などという事を口に説くかも知れませぬ。併し全て「樹はその木の果によって知らる」のであります。同じく愛は又その実《み》によって知られ、又キリストの説く愛もその果《み》によって――即ちその内に、永遠の健康さを保っていることによって――知られるのであります。その他の全ての愛は、たとえそれが、人間的に言いますならば、早く花を咲かせ、さまざまに姿を更え、あるいは又可憐の姿を、時間のある限りを保っているかも知れませんが。――みな、はかない事は同じく、みなただ花と咲くだけであります。ただ一刻の間か、あるいは又、七十年の年月をしばらく咲きつづくかは知りませぬ。が――ただそれが花と咲くのみでありますこと。これこそこの人の世の愛のかなしさ、たよりなさに他なりませぬ。キリストの愛は永遠であります。それ故に、自らを知る人は何人もキリストの愛について、「その愛は花咲く、」等とは言いませぬ。又自らを知る詩人はキリストの愛を詩には歌いませぬ。所詮詩人の歌わんとするものは己れ自らの生命の謎であるあの「かなしさ」を有ったものでなければなりませぬ故。花咲かねばならず、ああ、そして、凋落せねばならぬ、ものなのですから。しかしキリストの言う愛は不滅です。それ故に、愛として実在します。凋落するものは花咲き、又花咲くことあれば、凋落することもあります。併し、「実在するもの」は、歌うべきではなく、ただそれは信ぜられ、生きられねばなりませぬ。
しかし人が「愛はその樹の実《み》によって知られる」と言うとき、同時にそれは又愛そのものが何等かの意味で「かくれている」こと、それ故に愛は、愛を啓示する木の実によって知られる、ということを意味しているのであります。このことは、現実においてもその通りなのです。全て生命は、又愛の生命も同じ様に、生命としてはかくされてあらねばなりませぬ。しかし又他のものの姿をかりて啓示されます。植物の生命はかくされています。果実はその生命の一つの啓示なのです。思想の生命はかくれて在ります。が、人に語るという表現において明らかにせられます。それ故に、先に引いた聖典の言葉は、実に二重もの意味を語っています。ただ(この一つをかくしていて)一つのことだけを意味するかの様に思われますが、この言葉の中には一つの思想がはっきりと語られています。他の一つの思想は、その中にかくれて、ふくまれているのです。
そこで我々は、二つの思想を観察するために取り出して見たいと思う。それは次の様になりましょう。
愛のかくれた生命について。又いかにそれが愛の果実によって知られうるか?
愛は一体どこから来たのであろう? その根源はどこに、又その系譜はどこにあるのであろう? その住みならす場所はどこ、又どこを以って愛はその出口とするのであろうか? そうです、この愛の場所はかくれてあり、又かくれたものの中に在ります。人間の心の深奥と言うところに一つの場所があり、そこより愛の生命は迸り出ることがあります。なぜならば、「胸のうちより、生命は出てくる、」のですから。併し、その場所を目に見ることは出来ませぬ。たとえどの様に深くあなたが侵入しようとも、その根源ははるかなかくれたものに、どこまでも退いて行ってしまう。たとえあなたが最も深部にまで侵入して行ったとしても。その始源の場所は依然としてなお一歩だけ一層ふかく内部にあります。たとえば泉水が、その噴泉に先だっていつもその姿を見せています様に。そこを源泉にして愛は千彩万態の道にわかれて出発します。しかしいかなる道を溯ろうと、あなたは決して愛がその存在の中に歩み出る、秘められた場所にまで切迫してゆくことは出来ませぬ。神は光りの中に在ります。その光りより、凡そ世界を輝やかす全ての光りが放射されます。併し、如何なる人間もこの道を辿って、神を見るべく侵入しゆくことは許されませぬ。なぜならばもし人が光りに面を犯して向って行こうとするならば、その光りの道は、忽ち空虚なる暗黒体と変ずるでありましょう。同じく愛も又かくれたものの中に、あるいは最も心奥の中に在ります。潺湲たる噴泉はそのせん湲たる、又愛すべきささやきを以って、その源を探ねよと人を誘い、いや、招こうとさえしています。しかし、好奇心にかられてその源泉をかきまわしたり、その秘密を明るみにさらしたりしない様にと願っています。太陽はその光線を以って、世界の絢爛さを見てくれる様に人を招待します。しかしおぞましくも好奇心にかられて光りの始源を探究しよう等とこころみる厚顔無恥のものらを、いましめるため、盲目を以って罰することがあります。信仰は人生の軌道のための道標として人間に提供されます。併し、図々しくも手づかみにしてくれようとする厚かましいものにとっては一塊の石くれになってしまう。同様に、愛の秘密にみちた始源と人の心奥の中にかくれた生命とは、いつ迄も神秘としてそっとしておかれる様、又見るべからざるものを見るために人間が、好奇心にまかせ、厚かましくもその中に狂暴なふるまいをせぬ様にしてくれ、というのが愛の希望であり願いなのです。その強迫手段によってむしろ喜びと至上の幸いとは、与えられる事すらも阻げられてしまう。医者が必然の上からであるとはいえ、その高貴な、而も高貴である故にかくされている肉体の部分をばらばらに解剖し侵入して行かねばならぬ事は、最も悲痛な出来事です。それ故にもし人が、愛の提示することを喜びとしないで、愛の原因を追究すること、即ち破壊してしまうことに、享楽を、いや貪婪を求めるならば、これこそ最大の悲しみであり、最大な頽廃なのです。
愛の秘やかな生命は深い心の中にあり、探求し難く、又この全実存との探究しがたい相関関係の中にあります。例えば静かな湖が人間の目にかくれた深淵の下層にふき出している噴泉に、その源をもっている様に。人間の愛は神の愛にその源泉を有っています。そして、神の愛は、なお一層深い原因なのであります。もし原因として噴泉がなかったならば、もし神が愛でなかったとしたら、寂かな湖もなく、人間の心のうちに愛もなかったでありましょう。例えば静かな湖が観賞する様に招いていますが、その暗黒な深澹は、水の面に反映こそすれ、人の目にはかくされています。その様に愛が神の愛の中にもっている神秘に充ちた始源は、吾々がその愛の根源をうかがい見ることは許されませぬ。もしあなたが現に見ていると思っておられるなら、それは恰かも真の根柢であるかの様に、あなたの眼を惑わせている反映の幻にすぎませぬ。そのより深部にある根柢はかくされていて見えぬのに。一つの箱に設けられた秘密の区劃を思って見られるとよい。見つけられぬために、まるで箱の底の様に見せかけている意味深い蓋をもっています。万有の根柢を成しているあの原根柢に於いても同じです。深淵の根柢であるかの様に見えて、人を惑わすものも、実は最も深い深淵を覆っている一つの蓋にすぎませぬ。
この様に愛の生命はかくされています。がそのかくれた愛の生命はそれ自身において運動であり、不滅をその中に有っています。例えば、あの静かな湖が、たとえどの様に静寂に横たわっていようと、元来その根柢にあるひっ噴たる噴泉から湧いてくる流れて止まぬ水である様に、愛も同じく、そのかくれてあるときは静寂であって、而も、不断の運動の中にあります。静かな湖はひとたびその噴泉が涸れれば、乾いてしまうことがあります。愛の生命はそれに反して、不滅の井泉より迸って、涸れるということを知りませぬ。いかなる寒冷も之を凍結せしめることは出来ませぬ。凍結するためにはあまり多くそれ自身において暖味であります故に。いかなる熱もそれを惰弱ならしめることは出来ませぬ。それ自らの冷涼さにおいて、あまりに清新であります故に。しかし、それはかくれたものであります。そして我々はそのかくれてあるがままに、さまたげ乱すことなく、任せておかねばなりませぬ。ただ愛はその果実において啓示せられるでありましょう。決して我々はそれを我の観察、我の反映などによって、明るみにさらしてはなりませぬ。それはただ精神を悲しませ、愛の生育を枯すだけでありましょうから。
この愛のかくされた生命は果実《このみ》によって知られます。そして又、その実った果《み》によって知って貰いたいということこそ、愛の願いであります。ああ、唯一つの、同じ言葉が、最も深い貧困と、最高の豊麗さとを同時に言いあらわしうるとは、何と云う美しいことでありましょう! 願望とは、正に欠乏から、困窮から生れて来るものです。併し我々は、詩人にとって、説教者にとって、詩を創ること、説教することが彼の願望であった、という事以上に、もっと光栄あることを言うことは出来ませぬ。同じく、愛するものについて、愛することこそ彼の願いであった、ということ以上に、もっと高貴なことを言うことはできませぬ。かかる願望を知らぬという人間こそ、何という貧困、何たる乞食の貧窮でありましょう! 少女が恋人をもちたいと願望することこそ少女の最高の豊かさであります。神を有ちたいと願望することが、敬虔なるものの最高にして、真の豊かさであります。少女に、こころみに、処女に、訊ねてごらんなさい。もしも少女がもちたいと思うとき、恋人を有たないで済ませるとしても、果して恋人を有ったときと同じ様に幸福でありうるか、どうか? 敬虔の人に訊ねて見て下さい。彼が神をもちたいと願うときと同じ様に、神を有たぬということを、果して彼が理解し、願うことができるかどうか! 同じく愛の果実《このみ》においてそれ自身を啓示したい、という願望を有たないではおられないのは、愛の内部のゆたかさなのです。愛するものは、その愛のゆたかさを隠しておかねばならぬという事を、愛が需《もと》めるとすれば、これは愛におけるまことに苦痛に充ちた自己矛盾であるかも知れませぬ。それは恰かも植物が歓喜に充ちた生命の幸せを己れの裡に感じて、この幸福をしかし外部に洩らせてはならぬ。むしろその至福を呪いであるかの様に、ああ、まるでその解明しがたい凋落の秘密の様に、ひとり自分のうちに秘めておかねばならぬ、と言うのに等しいのです。幸いなことに、これは愛の場合に当てはまることではありませぬ。なぜなら、それぞれ愛の一定した創造が、実に愛がその全心を打ち込んでしまいたいという一つの創造が、愛によって悲痛にも、かくれてある様に、押し戻されてしまうかも知れないからです。が愛は別の表現法を創造するでありましょう。そして、なおその果実によって知られたいと言うでありましょう。ああ、不幸な愛のための静かなる殉教者よ。愛の故に、愛をかくさねばならぬために、あなたがかくも苦難しなければならなかったことは、人知れぬ秘密として残るかも知れませぬ。この犠牲をもたらしたあなたの愛が偉大であればある程、愛は人知れぬものであるかも知れませぬ。而もなお、あなたの愛はその果実によって知られるでありましょう! そうです。この果実こそ、人知れぬ悲しみの静かな焔のうちに熟れた所の果実こそ、最も高貴なものであるかも知れませぬ。
樹はその果実の何たるかを見て知らる、と言います。勿論葉を見てもその樹を知ることは出来ます。併し、果実はもっと本質的な特徴をつくります。もしあなたがある樹を、その葉によって知っておられるとする。然るに実りの季節になって、この樹は一つの果をもつけないことを発見したとします。すると、あなたにはこれによって、元来この樹はその葉を見るためだけの樹であると云われている様な種類の樹ではなかった、ことに気付かれるでありましょう。愛の場合においても同じことであります。使徒ヨハネは(ヨハネ、第一の書、第三章の十八)「若《わく》子よ、われら言と舌とをもて相愛することなく、行為と真実《まこと》とをもて為べし」と言っている。この言葉と説教における愛をなぞらえるのに、木の葉を以ってするほど適切なたとえはありますまい? 愛が自ら創った表現と言葉とは、愛のしるしとなることが出来ます。併しそれは未だ不動のものとは言えませぬ。同じ言葉が、ある人の口から言われたときは、実に心ゆたかな信実にあふれたものであります。が、他の人の口から吐かれるときには、忽ちあの木の葉の他愛ないざわめきに堕してしまう。同じ言葉があの「祝福され人を育くむ麦」ともなれば、忽ち又実らぬ木の葉のあでやかさにもなります。それ故に、又あなたは言葉を何も、押えておくべきではありませぬ。あなたの愛の心の感動が、もしそれが真実であったなら、決してかくしておくべきではない、と同じ様に。なぜなら、そういう沈黙を守る事はその人に対し愛をもたぬことにおいて、あなたは不正を犯すことになるからです。恰かも、よこしまに人の財を差し押えて渡さぬ時の様にあなたの友だち、あなたの恋人、あなたの子供、あるいは何人にせよあなたの愛の対象であるものは、あなたの愛の言葉の上の表現を要求する権利があります。もしその愛があなたを真に心の底から感動させているものであるならば。あなたの感動はあなたの所有ではなく、他の人の所有でありますから。その感動の表現はその人の財産であります。なぜならあなたは感動するとき、あなたを感動させた人のものに所属するのであり、あなたは又彼のものであることを意識するでありましょうから。もし、あなたの心が愛でいっぱいだったら、あなたは、押しだまって、唇をかたく結んだりして、嫉妬深く、又は気取って、他の人を悩ませたり、のけものにしたりしてはなりませぬ。いや、あなたは口をひらいて、あなたの心をいっぱいにしている愛について語るがよろしい。あなたの感動を恥ずることがあってはなりませぬ。まして人に、その正しい所有を与えるという廉直さにおいて、何も恥ずべきことはありませぬ。
併し乍ら、元より美辞麗句を弄して人を愛してはなりませぬ。又言葉によって愛を測ってはなりませぬ。むしろ人はこの様な木の果《み》において、(即ち、そこには木の葉だけしかない事)愛は未だ固まるための時間を持たなかったことを知るべきであります。ジラハは戒めて(六ノ三)「もし汝が木の葉を喰うときは、汝が木の果を失うべし。かくて凋落したる木のごとく在るのみ」と言っています。正にこの美辞麗句において、人は(もしそれが愛のもたらした唯一の木の果《み》であるとき)彼が季節に反して葉をむしってしまい、従って、如何にしても木の果をもたらす術もないことを知らねばなりませぬ。しばしばあの大言壮語において詐偽漢を発見するという、もっと怖るべき出来事については、一言もふれぬことにしても。即ち未成熟にして偽瞞的な愛は、美辞麗句がその唯一の木の果であることによって知らるるのであります。
人はある種の植物について、それは「心臓」の果を結ばねばならぬ、等と言います。同じことは人間の愛の場合にも当て嵌ります。愛がほんとうに果実をもたらし、そしてその果実によって知られたいと思うならば、先ず「心臓」の果の実を結ばねばなりませぬ。と言うのは、勿論、愛は心臓より出発するものでありますから。併し、それだからと言って我々は粗忽にも愛が心臓を生むのである、という不滅の出来事を忘れてはなりませぬ。不安な、うつろい易い心臓の感動なら誰でも有っています。しかし、この意味に於いて自然のままに心臓を有っている、というのと、永遠の意味において心臓を生ずるのとは無限の距たりがあります。併し又恐らく永遠が人間の上に正しい権力をかちえ、従って愛が人の心の中に、永遠に自ら堅固にし、「心臓」という実を生みうることは、何という稀有な出来事でありましょう。しかしなお、もし人が愛の何たるかを知る、真の愛の果実をもたらそうとするならば、これこそその本質的な条件であらねばなりませぬ。元より、愛そのものは、目に見る事は出来ませぬ。それ故信ずるより他に仕方ないのであります。それ故に愛は又その一つの表現において無条件に、即座に、愛はかかるものであると量るべきではありませぬ。凡そ人間の言語である限り、それについて我々が次の様に言いうるものは、いかなる語も、唯一の言葉も、いや最も神聖な言葉でも、存在しませぬ――もし人がこの言葉を使ったときは、その人に、愛があることが無条件に保証せられると言う様な。事実は正にその反対であります。或る人の口においては、この言葉が他の人の口に上せられるときは、その反対の言葉が、その人の胸に宿る愛を確証してくれるのです。従って、一つの同じ言葉が我々を次の様に確信させます。この言葉を言った一人の人には愛があり、同じ言葉を使ったにしても他の人には愛がない、という事を。人の行為についてもこの行いを為したものは、それによって、無条件の愛を確証する、――と言いうる様な行為はどこにも、唯一つさえ、最善の行為すら、存在しませぬ。「いかにして」、その行為がなされるか、という事が問題なのです。勿論、特別な意味で、愛の事業である、と呼ばれている仕事があります。しかし、人が慈善に金を与え、又はやもめを訪ね、赤裸でいるのに衣料をめぐんだからと言って、未だ彼の愛を立証することはできませぬ。なぜなら人は愛の事業を愛なくて為すことが出来るからです。そうです、利己的な方法によってすら為しうるのです。これでは愛の事業は未だ愛の為す業である、とは言えませぬ。あなたはきっとこの悲しむべき事をしばしば体験されたでありましょう。恐らくは、往々にしてその悲しむべき事の中に、あなた自身をも見出されたに違いありませぬ。この事は、全ての正直な人であれば自ら許容する事でありましょう。と言うのは、彼は、次の重大な事、即ち人はその行った事について、いかにそれを為したかという道程を忘れてはならぬ、という事を見逃してしまう程、愛に貧しくもなく、自分に硬化しきってもいないからであります。ああ、ルーターですら、彼の生涯のうち唯一度ですら安全にその煩悩の思いを放れて、祈ったことはなかった、と言ったといわれています。同じく、正廉の人は、彼が慈善の金を、実に度々、よろこんで心から与えたのではあるけれども、常にその弱さに於いて与えたのである、と告白するでありましょう。恐らくは、偶《ふ》とした印象が、心を乱したかも知れませぬ。多分、彼は、出来心めいたえこひいきから人に与えた事もあります。恐らく又彼は自分の良心を償おうとした事もあります。あるいは、思わずそのとき顔をそむけたかも知れませぬ。勿論バイブルの中にある様なよい意味においてではなく。恐らく、又彼の左手はそれについて何事をも感知しなかったのではありますまいか。勿論、うっつけでいたためにです。恐らくは又、彼は、哀れな人の悩みを思うより先に、己れ自身の身の上を思ってした事ではなかったでしょうか。恐らく彼は慈善の金を投ずることによって、人の貧しさを慰めようと言うのではなく、己れ自らの心の平静を得ようと思ったのであるかも知れませぬ。この様にして愛の事業と雖も、未だ、最高の意において、愛の業ではありませぬ。従って、その言葉がいかにして言われたか、という言い方、殊に何を意味して言われたかという事。いかにしてその行為は為されたかという方法。これらこそもし果《こ》の実を見てその愛を知らんがためには注意せられねばならぬ決定的な要機《モメント》であります。ここにも亦、人が無条件に愛の存在を立証し、あるいは無条件に否定しうる様な「成程」というものは存在しない、という事がいわれるのであります。
にも不拘、「愛はその果《こ》の実を見て知らる、」ことは不動であります。併し乍ら、聖典の言葉は我々が、相互にしのぎを削って相批判し合うことをすすめるものではありませぬ。むしろ、それは個々の人自身を戒めるべく、あなたに、又私自らに、向って投げられたものであります。それは全ての人に向って、愛をして、不毛のものであらしめるな、と言います。その果の実を見て愛を知ることが出来るまでに、怠らず励まねばならぬと言います。他のものがその愛を見て知るか知らぬか、は何れでもよろしい。なぜならば、愛がその果の実によって知られるか、どうか、を憂うべきではなく、ただその愛は果の実によって知られ得るものであるか、どうかを憂うればよろしいのでありますから。なお人はその際に、己れの愛が人に知られることが、己れにとって次の重大な一事、即ちその愛は果の実をつけるものであり、即ち人に知られ得るものであるということより以上に、大切な事とならぬ様に戒むべきであります。他のものから欺かれたり、惑わされたりせぬ様に、いかに注意深く避けたらよいか、など、或る人に良い忠告を与うることは別の問題であります。さて、これも別の事でありますが、はるかに重大であるのは、個人個人に向けられた聖典の中の誡めであります。即ち果の実を見て、いかにしてその樹を知るかを思えと言う事、又聖典の中にその人、或いはその人の愛が、その樹に較《なぞら》えてある事であります。福音書には(あの賢い言葉が言うでありましょう)「人は果《こ》の実を見て、樹を知らねばならぬ、」と言ってはいませぬ。否、それは「樹はその果の実を見て知られる」と言っているのであります。即ち、それは又、この言葉をよむお前こそ正にその樹である、と言うのであります。予言者ナータンがその比喩《たとえ》につけ加えて言った「お前は、その人である、」という言葉があります。福音の書はその言葉をつけ加える必要はありませぬ。もうその言葉の形容の中に、言う迄もなくふくまれているからであり、又それは福音書の中の言葉なのでありますから。つまり、福音書はその神の権威に於いて言うのでありますから、他の人についての批判を、ある人に語るという様な事はありませぬ。私についての批判を、あなたに説くのではなく、又あなたに関することを、私に語るのではありませぬ。否、福音書の語るとき、それは全ての人に向って言います。我々人間について説くのではありませぬ。あなたについて、又私について言うのではなく、凡そ我々に向って、あなたに、私に向って諭《さと》すのであります。即ち又、愛はその果の実を見て知らる、と言ったのであります。
もし人が熱意のあまり、又は妄想にかられて、或いは偽善からかは知りませぬ、愛は秘められた情である。――実《み》などをつけるためには、あまりにも気品高いのである、或いは、あまりにも秘密な情である故に、その実は果《はた》して愛のものか、それに反するものやを知らぬ、いやたとえ毒ある果の実であったとしても何事をも立証するものではない、等と人を悟《さと》そうとするかも知れませぬ。そのとき私共は福音の書のあの言葉の権威を思い浮べましょう。「樹はその果の実を見て知らる」と言う。――攻撃のためではなく、ただ防衛のために、福音の書の全ての言葉が当て嵌るのですが、ここにも亦当て嵌ることを思い浮べましょう。「この言葉にならって行うものは、岩の上に家を築くものに同じ。」と言うのです。「もしそれ大雨、沛然として来るとき、」かの繊細にして気品高く、薄弱なる愛などはけしとんで仕舞います。「嵐のどよもすとき」そして、又偽善の装いの中に吹きすさぶとき。――そのときこそ、真の愛は果の実を見て知られるでありましょう。何故ならば、まことに愛はその実《み》を見て知られねばなりませぬ故。と言うことは、あなたに何も、その鑑定の玄人たれと言っているのではありませぬ。そして、樹は果の実を見て知らるる。それは又、一本の樹は、他の樹の批判を蒙らねばならぬ、等《など》言うのではありませぬ。その反対に、いつも個々の樹自らが、各々|果《こ》の実を点けねばならぬ、のであります。併し、人の畏れるべきものは、肉体を殺しうる所のものではなく、又偽善のものでもありませぬ。人の畏るべき唯一人のもの、それは神であります。又人が懸念すべき唯一人のものがあります。それは彼自身に他なりませぬ。まことに、神に対する畏れと、戦きに於いて己れ自身のために懸念して来たものは、いかなる偽善者も欺くことはできませぬ。しかし又偽善者を嗅ぎ出すことを、その成否にかかわらず、自分の職業としてやる様な人は、これも亦一種の偽善に陥入るのではないか、を心していただきたい。こういう発見というものは、矢張愛の果実であるとは、言い難いでありましょうから。これに反して、真実にその果の実をもたらす様な愛をもっている人は、何も巧まず、それ自ら無意識のうちに彼に近よってくるあらゆる偽善の仮面を引き剥いでしまう。或いは、恥ずかしい思いに堪えがたからしめるでありましょう。愛する人はその様なことは自ら意識しないでいるかも知れませぬ。偽善に対する最も憐れむべき防衛は、賢こさであります。いや、殆んど防衛となるにも足りませぬ。むしろ偽善のための危険なる隣人であります。偽善に対する最善の防衛は愛であります。まことに、それは単に防衛である許りではなく、暗澹たる深淵であります。永遠に、偽善とは相容れることが出来ませぬ。偽善者の網にかからぬ様、愛するものを守ること、これも亦愛を知るにふさわしい果の実の一つであります。
しかし、又たとえ愛はその果の実によって知らるることが真理でありましょうとも、私共は何かの愛の関係に立ち到った場合、決して短気に、疑い深く、偏見を以って、いつも愛の果を見ようとしてはなりませぬ。この告示において私共が説いて来たことは、つまり、人は愛を信ぜねばならぬ、という事であります。信がなければ、愛のそこに在ることを知る由がありませぬ。さてこの説示は再びその始めに戻って繰り返すことになります。「愛をこそ信ぜよ」! これこそ愛の認識について言わるべき最初のものであり、又最後のものであります。併し、最初の場合には、私らはそれを、凡そ愛そのものの存在をすら否定してかかろうと言う無恥厚顔なる巧知者への反極として取りあげて見たのであります。今は、併し、もう愛は果の実によって知られることが明示されたのでありますから、私たちはこの度は、偏狭であり、歪められた不信の中に果の実を見ようとする病的で、臆病で、良心を失った小心さに対して、対決せねばなりませぬ。ここに忘れてはならぬ事があります。それは、もしあなたが、他のものに対し、たとえその人の愛が貧しい実を結《つ》けていようと、その実をあるがままのものよりも、もっと美しいものであると見るほどに、ゆたかな愛を有っておられるとしたら、これこそ、あなたの愛の美しい、高貴な又神聖な果の実であるに違いないということなのです。不信が、あるがままのものよりも劣ったものとして物を見るとき、愛は、あるがままのものを、より偉きなものとして見ます。忘れてはなりませぬ。あなたが、愛の果の実をよろこばれるとき、実はこの人の中にも愛が住んでいることを示しているのです。が、又忘れてはなりませぬ。愛を信じることこそ、なおまさって幸いの恵み深いものであるという事を。――これこそ又愛の深さに対する新しいあらわれであります。即ちひとりあなたは果の実によって愛を知らされただけではない。さてそれよりはじめの場所に立ち戻って、そこに、即ち、愛を信じるということに、最も高いものを見出されることであります。なぜならば、まことに、愛の生命はその果の実に啓示せられるのであります。しかし生命そのものは、矢張個々の果の実よりは、もっと豊かなものであるからであります。いやあなたが只今の刹那に数えられる限りのあらゆる果《こ》の実全部を合せたよりも、なおまさって豊かなものなのですから。それ故、愛の最後の最も幸い深い、無条件に人を確信せしめる象徴の何であるかを言えば――愛それ自体――他の人の内なる愛を知り、又愛によって知られるところの愛そのもの、以外ではありませぬ。同質のものは、又同質のものによって知られます。ただ愛において不動の人だけが、又他の人の真の愛をも確信するでありましょう。唯愛において信実なるものだけが、自己の愛について、他の人をも確信せしめる事が出来るのです。
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第二の章 愛さ「ねばならぬ」
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(マタイ、二十二章ノ三九)
第二の誡命《いましめ》もまた之にひとし。己れの如く汝の隣《となり》を愛すべし。
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全ての説喩は、况んや、一つの説喩の断片は、あるものを前提として、そこから出発します。それ故に、もし誰かが、その説か、或いは発言を取りあげて考察しようとする場合には、先ずこの前提を探求し、そこから始める事が賢明であります。そこで、又吾々の前に在るこの書の中にも、一つの前提がふくまれています。それは、尤も、結論として言われているものでありますが、又その出発点をも成しているのであります。即ち、もし、「己れの如く 汝の隣りを愛すべし」、と言うとき、その中には、凡ての人は、己れ自身を愛するものである、という前提がふくまれています。キリストは即ちそれを前提とします。キリスト教は決してあの雲の中を飛んでゆく夢想家の様に前提を無視して仕事を為そうとするものではありませぬ。又と言って、人の甘心をあがなう様な前提を以って事を始めようとするのでもありませぬ。そして又、事実としてキリストが前提としている所のものの真理であることを、なお争う事が一体出来るとでも言うのでありましょうか? 併し、他面又何人かが誤解して、キリスト教に次の様な意見を、――(これには所謂世俗の賢知らが、一致同盟し、且つ抗争を好んで賛成するでありましょうか)押しつける事が許さるべきでありましょうか。――即ち「全ての人にとって、己れ自らが隣人なのである、」と。又誰かキリスト教を誤解して、ついにそれは利己愛の代弁者であり、その保護者であると考えてよいものでしょうか? キリストは正にその正反対に我々人間から利己愛を剥奪するものであります! 利己愛とは人が己れ自らを愛する所に在ります。しかし、人がその隣人を「己れ自身のごとく」愛しなければならぬとき、その誡命はまるで合鍵を以ってするかの様に、やすやすと利己愛の城の扉をひらき、人間のために利己愛を引きずり出してしまいます。もしその隣人愛の誡命が「己れ自らのごとく」という、きわめて言い易く、而も又永遠の緊張力を失わぬ一個の言葉以外のものによって、言い現わされていたとしたら、その誡命は自己愛をこれほどに見事に制圧することは出来なかったでありましょう。この「汝自らのごとく」という言葉は、意味を変えたり、ひねったりすることはできませぬ。それは永遠のもつ峻厳さを以って、審判のごとく、人が己れ自らを愛するという場所のいかなる内奥のすみずみまでも侵徹してきます。利己愛のためにはいかなる弁解も許さず、些少の逃亡すらも許容しませぬ。至妙の業と言わねばなりませぬ! たとえどの様に人が、「いかにその隣人を愛さねばならぬか、」について万言を費し、きびしい説教を説こうとも、矢張利己愛は何とか弁解をみつけ、そのかくれ場を探し出すでありましょう。と言うのは、それによって、事は未だつくされていないうらみがあるからであります。ある場合が見落され、ある点が不正確に、或いは未だ、完全に綜合して表現し、記述されていないからであります。然るにこの「汝自らのごとく」の場合いかなる挌闘者も、その敵手をこの誡命が利己愛を組み伏せる程に、かくまでに完全に、かく迄絶対に、押えつけることは出来ませぬ。まことに、もし利己愛が、このあまりにも解り易く、何人の頭をもなやますことはないと思われる、この一個の言葉に戦いを挑もうとするとき、彼は容易ならぬものを相手どったことに気が付くに相違ありませぬ。例えばヤコブが神と挌《くみ》うって、疲労困憊してしまった様に。もし利己愛がこの言葉と挌うつとすれば粉砕されてしまうでありましょう。この言葉は、しかし、人間の利己愛を決して否定しようというのではありませぬ。むしろ真の利己愛の何であるかを、はじめて、指示しようとするものであります。至妙の業ではありませんか! いかなる争闘も、利己愛がその己れ自らの生命を守ろうとする戦いほどに退屈な、怖るべき、而も複雑怪奇なるものはありませぬ! 而もキリスト教は唯一撃を以って、その一切を撃砕します。全ては一瞬のうちに決せられる。――一切は、あの復活の永遠の決定の様に決せられるのであります。「この刹那、この瞬間に」(コリント人への第一の書、十五章の五十二)キリスト教は、人間は己れ自身を愛するものであることを前提として、ただ次の言葉だけをつけ加えます。「汝自らの如く、隣人を愛せよ、」と。――而も未だ自分と隣人との間には、なお不滅なる永劫のへだたりが横たわっています。
所で、これが果《はた》して愛の最高の場合であるか、どうか? ある人を、「己れ自ら」よりも「もっと高く」愛することが可能ではないでしょうか? この詩的な感激を説くところの説が、世間には言う迄もなく行われています。キリスト教が、同じ高さに迄高翔して来ない、と言う愛の場は、はたして、これだったのか? それ故にこそ、キリスト教は(ごく単純な卑俗な連中を相手にするのも無理ではない)へり下って「己れ自ら」のごとく、隣人を愛せよというつましい要求しか出来ないのだ。又キリスト教は、甚だ非詩的な「隣人」を愛せよと教えているとき、かの高翔する愛は「恋人」を、「友人」を歌おうとする。隣人への愛などを歌った詩人は未だどこにもありませぬ。又己れ自らを愛するがごとく他人を愛する所の愛について歌ったものもありませぬ。さてはこの詩的な愛はキリスト教にとっては、あまりに高尚すぎるのであろうか? 或いは、私共は、その「司命せられた」ところの愛よりも「歌われた」ところの愛をとりたいのでその哀れむべき代償として、キリスト教流の処世法や、その用心深さをほめたたえてやったらよい、と言うのであろうか? 又それが恰も、あの格言に、「細く、併し、永く愛して、」と言っている様に、平骨凡庸、しかも堅気に大地にしがみついていよと教えるのでありましょうか? 冗談ではない。キリスト教は愛に関して、又愛することについては、凡そ、いかなる詩人も及ばぬほどに深く知っているのです。それ故に、キリスト教は、多分詩人たちが見過してしまうであろう事をも知っているのです。即ち、歌うところの彼等の愛は、根本において利己愛に他ならぬものであるということ。人が、他の人を己れ自身よりもより高く愛すると主張するとき、そこに認識されうるのは、ただ利己愛のする陶酔だけなのです。自然のする恋愛と言うものも、未だ永遠のものではありませぬ。恋は、あの無限が呼び醒す美しい陶酔にすぎませぬ。情痴不逞の謎へのあの耽溺が、その最も高い表現であります。それ故に恋愛は、間違った高翔をすることを止め難く、遂には一個の人間を指して「神よりももっと深く愛する」などと倒錯した説を為すに至ります。然るに詩人たちはこの不逞の情痴を喜ぶこと限りなく、恋愛は彼等の耳に霊妙なる音楽とひびき、感激して詩歌をなすと言います。ああ、キリスト教においては、かかる事を神の冒涜と言っております。愛に就いて言われたことは、又友情についても適合します。即ち友情が唯一人の人間を、他の全ての人を措いても愛する、この人を、他の全ての人を相手にしてもなお愛する、という「偏愛」の内に成立する限りにおいて。――それ故に愛と友情とは、すでにその相手の名を呼ぶとき、彼の人に対する「偏愛」であることを言い現わしています。恋は彼の人を「恋人」と呼び、又「友」であると呼びます。全世界を失ってもなお、愛さねばおられぬと言う彼の人を。これに反して、キリストの教えは、隣人を、全民族を、全人間を、仇敵の人すらも、愛情あるときも、又憎悪あるときも、例外なく、普く愛すべきであると言います。
但し、唯一者をこそ、人は直ちに永遠の意において己れ自身を超えてなおより高く愛することが出来ます。即ち神なる唯一者。それ故に、「汝は、汝自身のごとく神を愛せよ」と言うことは不当です。むしろ、「汝は、汝が主、汝の神を、その全心臓を以って、心魂のかぎりをつくし、汝が全ゆる官覚を捧げて愛しまつらねばならぬ」と言うべきでありましょう。神に対する人間の愛は無条件の「服順」と「拝跪」であらねばなりませぬ。もし人が己れ自身をその様に愛したり、或いは他の人を、神のごとく愛したり、或いは自分を他のものに、その様に愛さしめたりする事は神を有たぬものの行いでありましょう。もしあなたの友人か恋人が、その人々を愛しているあなたの判断に従えば、彼等に害を与えるであろうと思われる或事をして呉れと乞われたとします。もしあなたが、そのときむげに彼等の願望をしりぞけないで、彼等の懇請をはたしてやることによって、あなたの愛を証そうとするときは、あなたはその事に対して凡ての責を負わねばなりますまい。併し、あなたは神を愛するとき、無条件の従順において愛さねばなりませぬ。たとえ神の希望が、あなた自身にとって、あなたの仕事に対して不利であると思われましょうとも。――なぜなら、神の叡智はあなたの知性とは比較を絶した高貴のものであり、又神の摂理は、あなたの智慧に対して何の責を帰する所もないからであります。ただ愛することにおいて従順であればよろしい。一人の人間ならば、あなたは、ただ、いや、これが最高の行為であります。――即ち、一人の人間を、あなた自身のごとく愛すべきであります。もしあなたが彼の人のために一番よいであろうことを、彼自身よりもよく解っていたならば、彼の害になることが、彼自身の希望であった、彼自身からせがまれたのだ、等と弁解がましいことを言うことはゆるされませぬ。そうなれば一人の人をあなた自身を超えてより高く愛したのだと言う事が本当の事になりましょう。なぜならばそういう愛は、あなた自身のよりすぐれた見解に反して、彼がそれを要求したが故に、言うがままにしてやったのだ、彼が望んだが故に、拝跪して言うがままに任せたのだ、という所に成立するのですから。併し、あなたはかかることを行うことに対して何の許可をも有ってはいませぬ。もしかかる事を為せば、あなたはその全責を負わねばなりませぬ。他の人がこの様なやり方であなたに対する関係を誤用した時にはその責任を担わねばならぬのと同じ事であります。
そこで、「己れのごとく」について。曾てこの世に存在した限りの最も奸智に長《た》けた欺瞞者を考えて見ます。(或いはこれ迄にいた、いかなるものよりも、もっとわるがしこいものを想像してもよろしい)巧言令色してまことに尤もらしく振舞うことが彼のつとめであります。(かくてこそ欺瞞者は殆んど成功を収めます、)この様にして、彼は、明けても暮れても、「誘惑的に」かの「王者のごとき法則」を讃美して止まぬでありましょう。「いかにして私は隣人を愛したらよいか?」という事。そのとき彼には、その誡命は簡潔にして、不動のその誡言を繰り返し告げることでありましょう。「お前自身のごとく、」と。さて、この欺瞞者が、様々の迂路曲折をつくしてこのいましめを考証しつつ自分自身を生涯に沿って欺いたとします。そのとき不滅者はただ彼に向って、その法則の小さな言葉を以って彼に答えることでありましょう、「汝自らの如く、」と。まことに、何人もそのいましめを脱れる訳には行きませぬ。なぜなら、その「汝自らの如く」は、利己愛に不即不離のものとして、ぴったり体にくっついてしまうからであります。そこで「隣人」も亦、利己愛に、その生命を脅かすほどに近々とより添ってくる一つの規定となります。ここでこっそりと逃げ出して仕舞おう等という事も不可能であることは利己愛も悟らざるをえませぬ。もし唯一つそこに逃げ口があるとすれば、(あの人のいた時代にも、もうファリサイ人は、自分を正当化するために同じ出口をえらんだのですが)それは、一体「隣人」とは何人か、ということを、自分から突っぱねておくために、疑惑に充ちたものとしておく以外にはありませぬ。
「何人が、では、ある人にとって、隣人であり得るのか?」隣人という言葉は明らかに、場所の上で近くあることを意味します。ですから隣人とは、その他の全ての人よりもあなたにより近くいる人なのです。と言っても、それは決して先入的な愛において近くあると言う意味ではありませぬ。他の全てのものよりも、自分に最も近いものを愛することは、利己愛に他なりませぬ。異教の徒も亦為すところの業でありましょう。隣人はそれ故他の全てのものよりもあなたに近くいるものなのです。しかし、彼はあなたが、あなたに近くいるよりも、もっとあなたに近くいるものなのでしょうか? いや、そうではありませぬ。むしろ彼はあなたがあなた自身に近くいると恰度同じだけあなたに近くいるのです。或いは恰度同じだけ近くいるべきなのです。「隣人」とは元来、あなたの固有の自己の二重の存在であります。隣人は、哲学者らは「他人」と呼ぶでありましょう。そこに利己愛の利己的なものが、啓示される様な「場」なのです。その限りにおいて、抽象的な思索のために言えば、隣人は何も、現にそこに居なくてもよいのです。ある一人の人間が、どこか荒涼たる島に淋しく生きているとします。もし彼が自分の心を、愛の掟に従って形ち造ったとすれば、彼は利己愛を否定することによって、隣人を愛することが出来ます。勿論「隣人」はそれ自体の中に、多様性を含んでいます(「隣人」とは「全ての人間」という意味なのですから)。しかし乍ら、その愛の法則を試練するために、あなたにとって、一人の人間があれば充分なのです。意識の上で二人であり、利己的な意味において、一人の自己であることは元より不可能です。利己愛は唯一人であることを要求します。又三人である必要もありませぬ。なぜなら、もしそこに二人の人があれば、(と言うのは、――もしそこに、あなたがキリスト教の意味において、「汝自らのごとく」愛する唯一人の人があるか、或いは、「隣人」として愛しうる人が一人あれば、)あなたは全ての人間を愛することになるからです。ただ、利己的なものがどうしても我慢が出来ぬというのは自己の二重の存在です。そして、愛の法則が「汝自らのごとく」と言うとき、その中には二重の存在がふくまれています。
自然の恋愛の中に、燃え立っているものは、その情火の上に、又その情火の故に、決して自己の二重の存在を堪えしのぶ等ということは出来ませぬ。なぜなら彼の場合、それは、もし相手の恋する男が要求した場合、自分の恋を捨てなければならぬことを意味するからです。恋をする人は、他の恋する男を、「己れ自身のごとく」愛することは出来ませぬ。彼こそ、むしろ要求する所の人なのです。かの、「汝自らのごとく」はその要求をむしろ彼の男に向けます。ああ、而もなお彼は他のものを、己れ自らよりも、もっと高く愛している等と言おうとするのでしょうか。
ある意味において、それ故「隣人」は利己愛とははるかに遠いものであります。「隣人」は随意に第二の人、第百の人、第千人目の人であってよろしい。もしあなたが百人、或いは千人の人の間に、二人であるとき、他の意味においては、「隣人」は、「友人」や「恋人」よりも、利己愛に近づく事があります。「隣人」は利己愛にとってあまりに「近すぎる」のです。が、「友人」や「愛人」たちは、「先入の愛」の対象ですから、利己愛との関係はきわめて親密でありましょう。「隣人」は、この様にしてそこに在り、あるものにとっては、あまりに近くあります。そのことを人は一般には彼が「隣人」に対して、何か権利を、又は要求を有っていると信じたとき、はっきりと意識するでありましょう。もし人がこの意味において、何人がはたして「隣人」であるかを訊ねるとき、あのファリサイ人らに対して、告げたキリストの答えこそ、まことに意義深い決定をあたえるものであります。なぜなら、その解答に於いては、先ずその質問がひるがえされていて、それによっていかに訊ねるべきであるか、が示されているからであります。即ちキリストはかの慈み深いサマリア人の比喩《たと》えを示されたあとで、ファリサイ人らに次の様に問われている(ルカ・十章卅六)。「汝いかに思うか。この三人のうち、いずれが強盗にあいし者の隣《となり》となりしぞ?」するとファリサイ人は、「その人に憐憫《あわれみ》を施したる者なり」と答えている。その意味は、もしあなたが、あなたの義務を認識するとき、あなたは容易に何人があなたの「隣人」であるかを発見するであろう、と言う。ファリサイ人の答えはキリストの出した質問の中にふくまれている。そこでファリサイ人も次の様に答えざるを得ないのです。「私が果すべき義務を有っている当のその人こそ、私の隣人である。そして私がその義務を果し了えるとき、私はその隣人であることを立証するのです。」キリストの説かれたことは、「隣人」を知ると言うことが言われたのではなくて、人自らが「隣人」となる事、人自らが「隣人」であることを証《あかし》することが大切である、と言われたのです。恰度サマリア人がその憐憫によって示しました様に。サマリア人はこの行いによって強盗におそわれたものが彼の隣人である、ことを証したのではなく、彼自身が襲われたものにとって隣人であることを、証したのですから。
レビ人や、祭司らは元来この哀れむべきものにとってもっと深い隣人であった筈なのです。が、彼等はふり向いても見ようともしなかった。之に反して、サマリア人は強盗に襲われた者にとって隣人であることを正しく理解しました。尤も彼はサマリア人としてユダヤ人に対する隣人としての関係を容易に認めぬことだって出来たのですが。愛人を選ぶ事。一人の友人を見出すこと。これはなかなか難しいことであります。隣人を知り、隣人を見出すことは、却って易しい仕事であります。もし人が自ら、隣人の義務をみとめようとさえするならば。
誡命に言う。「おのれの如く なんじの隣を愛すべし」と。併し之を正しく理解すれば又その逆をも言っているのです。「なんじはなんじ自らを正しく愛すべし」と。もし人がキリスト教から、己れ自身を正しく愛することを学ぼうとしなかったとしたら、彼は「隣人」をも亦愛することは出来ませぬ。彼は恐らく一人或いは数人の他の人々と、俗に所謂生死をかけた契をも結ぶ事が出来るでしょう。併し、それは決して隣人を愛する所以ではありませぬ。己れ自らを正しく愛することと、隣人を愛すること、とは全く互いに相合一し合うものであり、根本において唯一つであり、又同じ物であります。愛の掟がかの「おのれのごとく」を以って、あなたを利己愛、――遺憾乍らキリスト教も利己愛を事実として全ての人間の中に前提しなければならない、――から解放してくれるとき、あなたはそのときこそ正しく、あなた自身を愛する法を学んだのであります。従って、愛の律法は次の様に言います。「あなたが、あなた自身の様に隣人を愛するとき、あなたは又その隣人を愛する様に、あなた自身をも愛さねばならぬ。」と。誰にせよいくらかでも人間というものを知っているものはみな賛同するでありましょう。人間に利己愛を捨てることを教えることも大切な事ですが、真の利己愛について教えることも決してそれに劣らず重大な事であります。もし実業を経営している世界の通人が、その時間と力とをあげて虚栄で、価値のない業務のために浪費しているとき、これは又彼が正しく己れ自らを愛する法を学ばなかったと言うことを示しているのではありますまいか? 軽薄浮佻の人がまるで(自分自身を)塵埃であるかの様に、刹那刹那の些細ないたずら事のためになげ打って省みぬとき、彼は己れ自らをいかに愛すべきか、という事に対して、甚だ何の理解をも有っていないと言うことを証明しているのではありますまいか? 憂悶の人が、己れの生命を、いや、己れ自身を逃れたいと言うとき、己れ自身を愛するというきびしさと真摯さとが欠けているのではありませぬか? 世間や、或いは他の人から信実を破られて裏切られた人が、絶望に身を任せるとき、(その無実の苦難については、ここでは言いませぬ)彼が己れ自らを正しく愛していない、と言う彼自身の罪もその基底にあるのではありませぬか? もし又人が自らを虐使するときこそ、神に仕える法であるとして自己虐待をもっぱらにするとき、己れ自らを正しく愛さぬ事が、正に彼の罪劫そのものを為しているのではありませぬか? ああ、もし人が不遜にも己れ自らの生命に手を下そうとするとき、己れ自らを正しく愛さぬこと、人がみな己れ自らを愛する意味において自己を愛さぬ事が、正しく彼の罪業となったのではありますまいか? ああ、世間の人はあまりにも多くの裏切りや、不信実について語ります。そして、(神よ人間を矯め直し給わんことを!)まことに遺憾乍らあまりにもそれは真理と言わねばなりませぬ。併しなおその際、私共は忘れてはならぬ事があります。凡そ裏切者の中の最も危険なる裏切者は何かといえば、全ての人が己れ自身の内部にかくしている所のものである、と言う事なのです。その裏切りは、人間が利己的に己れを愛する事の中に成立するのか、或いは人が利己的に己れ自身を正しい方法によって愛そうとしない事に在るか。何れにしても、いかなる状態の下に於ても彼自身は秘密として存在していて、その他の裏切りや不真実等の様に、白日の下に公然と曝される事はありませぬ。それ故にこそ、一層われわれは、「己れ自らのごとく隣人を愛さねばならぬ。即ち己れ自らを愛さねばならぬ」と言うキリストの戒めを以って、自らを警戒することが大切になってくるのではありますまいか? 隣人の愛の誡命は、即ち、唯一つの同じ言葉の中に、(「汝自らのごとく」)隣人に対する愛と、己れ自らに対する愛とに就いて説いているのであります。これによってこの教示は、その観察の対象としたいと希っていた事に到達しました。――即ち、隣人愛の誡命と利己愛の誡命とが合致しようとするとき共有するものは、ひとりただ「己れ自らのごとく、」だけではなく、更にそれを超えて「愛さねばならぬ、」という事なのであります。そこで私たちはその最後の
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『汝は愛さねばならぬ[#「ねばならぬ」に傍点]』
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について論じたいと思います。なぜなら、それは、一寸見たときは矛盾だと思われる様な「愛することは義務である、」という事をふくんでいるのです。がこれこそ正しくキリスト的な愛の象徴でもあり、特質でもあるのですから。
汝は愛さ「ねばならぬ、」と、かの「王者のごとき誡命」は言います。まことに、もしあなたが、この愛の立法の司命せられなかった以前の日の、世界の状況を思い描いて見られるとき、或いはあなた自身をそこに理解して見られるとき、又名前だけはキリスト教徒を取りつくろっているが、その実は異端者的な観念の中に漂滔として生き存えているものらの行住坐臥や意味を思い合せられるとき。あなたはこのキリスト教的な特質に面して(その他全てのキリスト教的なものも同じく)信仰の驚異に打たれつつ、これらこそ一人の人間の心臓のよく企て及ぶ所でないことを、慎しみ、認めざるを得ないでありましょう。なぜなれば、この愛の掟はキリストの十八の世紀を通じ、なお既にそれ以前にもユダヤ教の中にあって磨ぎ澄まされて来た教えなのでありますから。――そして又、全ての人はその教の中に育くまれてきて、精神的にも何不自由ない両親の家庭に生れた子供の様に甘やかされて生い長《た》って来ているのです。それ故に日々の糧《パン》が恵《たま》物である事を忘却する危険の中に在ります。
さて、キリスト教の教えはしばしば、その世界の中で育てられたものらによって、種々様々の新奇なものに対するとき、蔑しろにされ勝な事があります。恰、健康な食物が曾て飢餓というものの味を知らぬ者らにとっては、美味佳肴に比べて侮蔑され勝であるのと同じ様に。――キリストの教えは与えられたものとして「前提」され、解り切ったこととして「提示」されます。それによって更に更に「進歩」するためにであります。勿論今日では誰もがそれに倣って物を言って阻りませぬ。而もなお、まことに遺憾な事はキリスト教の中の人間らが――もしキリスト教がこの世界に登場しなかったとしたら、この世界の状態は一体いかなる事に立ち到ったかに就いて、真面目に、感謝しつつ思い描くことがあまりにも稀なのです。そもそも第一の端初に於いて、あの、「汝は愛さねばならぬ!」と言う言葉を宣言するために一体いかなる勇気が必要であったことでしょうか! 或いは、もっと正しく言えば、この言葉を以って人間の自然の観念や概念を一挙にして倒潰せしめてしまうためには、いかなる神的な権威が必要であったことでありましょうか! なぜならば人間の言語を絶し、勇気も挫けて仕舞うかの場所、――限界に於いて、――かの啓示は、その独創性を有ってその舞台の上に登場しました。そして、鋭い人間の悟性や、人間の比較にとっては、理解し難い事ではありませぬが、決して一人の人間の心に生起したのではないかの言葉を告示しました。言葉として口に言われるとき、それは元来決して理解し難い事ではありませぬ。むしろ、ただ実践することの方が問題となるでありましょう。元より一人の肉身の人間の心に生じた事ではありませぬ。例えば、未だキリスト教徒の思想の空虚な饒舌や、自分がもうキリスト教徒であると言う自惚れ等によって甘やかされていない一人の異端の人を考えて見ましょう。されば、この「汝は愛さねばならぬ[#「ねばならぬ」に傍点]」と言う誡命はただ彼を驚嘆させるだけではなく、むしろ反感をもよぶ事でありましょう。いや、彼は憤激に堪えぬとするかも知れませぬ。それ故に、凡そキリストの教えそのものにとって本質を示している次の言葉が、この愛の掟にとっても亦妥当なのであります。「全ては新しくなりぬ」。愛の立法は偶然の意において新しいものではありませぬ。又新奇を好むという意においての新味でもありませぬ。又時間性の意において新しいものでもありませぬ。愛は異端の教えの中にも存在します。併し、人は愛さ「ねばならぬ」と言うとき、これこそ永遠に渡る愛の変革であります。それによって、又一切は新しくなったのであります。あの自然の亢奮や、感情や、愛情や、情熱のたわむれ、一言にして言えば、あの自然な力のたわむれ、あの詩に歌われている所の笑いと涙と願望と憧憬とに塗れている絢爛さとの間に何たる距たりが横たわっているのでありましょう。これら以前のものらと、今宣言された愛の不滅な真摯さ、精神と真理における愛、信実と自己否定の愛、との間には、何たる等差があることでありましょうか!
それにつけても浅ましい人間の忘恩性よ。おお、何と言う追憶の頼りなさよ! 凡ての人に最高の教えの提示せられる今、人はそれを恰かも無であるかのごとく受取ります。恰かも何物をも感覚せぬものであるかの様に。况して、その提示せられたものの高貴な価値について弁明がましく事をあげつろうものらに至っては。――全ての人が同じものを所有し、又所有し得るが故に恰かも最高のものが破損せられでもしたかの様に。――たとえば、ある家族が貴い宝石を所有していて、その宝石が何か事件に出会ったとします。とすればその事は一族から一族へ、両親らはその子等に、子等は又その子供等にその始終を語りつぐでありましょう。さて、キリスト教が数多くの世紀を重ねて全人類の所有であったから、と言う理由で、キリスト教によってこの世界に如何なる不滅の変革がもたらされたか、と言うことを説くことは沈黙すべき事だとでも言うのでしょうか? 全ての民族はみな同じ様に身近に迫った責をもつのではないでしょうか? と云うのはみな同じ様にその事実を明らかに確証するという義務を負っているのではありますまいか? それともその変革は十八世紀以前の出来事である故に、その意味において価値を失ってきたとでも言うのでしょうか? それとも数千年を通じて神を信じて民族が生きてきた故に、神の存在という事実が重大さを失った、というのでしょうか? 私にとって、又重大の意味を減じたのでありましょうか? 別の方法によって私が神を信じていると言うので。キリスト教は十八世紀以前にこの世界に生れたのだから、今日生きている者らにとっても、彼がキリスト教徒になってから、もう十八世紀も経てきたのだと言うのでしょうか? いや、それはついこの間の出来事だったのではありませんか。すればキリスト教徒になった以前の彼は一体どうだったのか、を思い出していただきたい。それと共に、一体どういう変化が彼に起きたか、と言うことを。即ち彼がキリスト教徒になったことによって、彼一身に起った所の変革について。そこには何も異端主義の世界史的な記述が必要ではありませぬ。恰かも異端主義が没落してから、千八百年の年月が経った等と。いや何もそんなに永い昔の話ではないのです。親しい友よ、あなたと私とが異端者であったのは。そうです。異端者だったのです。私共は別の意でのキリスト教徒になったのですから。
もし人が忘恩によって最高のものについて己れ自らを欺くとき、これこそ、最も悲しむべく最も神を無する欺瞞でありましょう。人は最高のものを所有《も》っていると思い込んでいます、が、実は、いかん乍ら所有っていないのです。なぜなら、たとえ最高のものを所有し、一切のものを所有《も》っていた所でそれが何の益になるかと言うのです。――もしも私がそれを所有っている事、何を私が所有っているかについて、一向に正当なその刻銘を身につける事ができなかったとしたら? 地上の財宝を所有っているものは聖典の言葉によれば、「恰かもそれを所有たぬものの如く」あらねばならぬ、とあります。同じことが又最高のものの所有にも当て嵌らねばならぬのでしょうか? 恰かも所有っていないかの如く所有たねばならぬ、のでしょうか? 一体その様に振舞ってよいのでありましょうか? 否であります。吾々はこの質問によって、欺かれることあってはなりませぬ。最高のものをその様な法によって所有することが「可能」であるかの様に。むしろ私共はその様なことは不可能であることを思わねばなりませぬ。地上の財宝は浮雲の如しと言います。それ故に聖典は財宝を人が所有つとき、浮雲のごときものを所有《もつ》がごとくせよ、と教えたのであります。最高のものはしかしかの「はかなきもの」と同様に所有する事は「出来」ませぬし、又所有する事は許されませぬ。地上の財は外部的に見れば一つの「現実」であります。それ故に人は恰かもそれを所有せぬがごとく、存在し、或いは存在するにもかかわらず、所有することが「出来」ます。精神的な財宝は之に反して、ただ人の心の内部にのみ在ります。――而もただ人がそれを「所有する事によって」のみ在りうるのであります。それ故に人はもし真実にそれを所有している時には、それを有たぬ人のごとく在るべきではありませぬ。事実はその反対であります。もし人が所有せぬごとくであれば、現に彼はそれを所有していない事になります。もし人が信仰を所有っていると思い込んでいるとして、而も彼がもしこの所有について、寒かろう暑かろう、一向に頓着ないとすれば、彼は信仰を所有っていないのだと言うことを確信してよろしい。もし人が自分をキリスト教徒であると思い、而もかくある事に「どうでもよい」という態度を示すならば、まことに彼はキリスト教徒ではないのであります。或いは人がもし自分は恋しているのだと確言し、而もその恋は自分にとっては何でもないのだと言うとき、一体我々はこの人を何と批判したらよいのでありましょうか?
そこで我々はここで、キリストの教えについて語るときいかなる機会においても同様なのですが、その始源と言うことを忘れぬ様にいたしましょう。即ち、それは決していかなる人間の心をも始源としているのではないと言う事。その始源を語るときには信仰の独創性を以って語ることを忘れぬ様にいたしましょう。即ちいかなる時においてももし信が人の心のうちにあるとき、他の人が信仰したからと言う理由を以って自分も信仰するのではありませぬ。いや、彼はただ、彼以前に、無数の人の心を感動せしめたものによって、同じく、又感動せしめられたにすぎませぬ。――と言って、この最後の信仰がそれだけいくらかでも始源性において、より少なくなったと言う訳ではありませぬ。なぜならば、大工道具は職人が使い古せば年と共に磨滅します。発条《ぜんまい》はその弾力を失い魯鈍になります。併し不滅者の所有っている弾力は永遠を通じて不変であります。測力器があまり永く使い果されますと、ついにはどんな力の弱い者によっても動かす事が出来る様になります。併し、不滅者のする力の測定は、これによって、一体彼は信仰を有とうとするのか、しないのか、全ゆる人が測定されるのですが永遠にわたって微塵も狂うことはありませぬ。もしキリストが(マタイ・十ノ十七)「人々に心せよ」と言うとき、その中には、又次の意も含められているのではあります。即ち「汝らは、人々によって、(即ちいつも己れと人を較べること、習慣や身なりによって、)最高のものについて、あざむかれぬ様に心せよ」という事。なぜなら欺瞞者の陰謀などと言うものは、それ程危険なものではありませぬ。あらかじめ感付く事だって出来るでありましょうから。――真に危険であるのは、人が最高の所有をどうでもよい共有の財として所有する事であります。精神喪失の惰性に従って。そうです、まことに精神を喪ったところの惰性は、個人の代りに民族を引っ張り出し、民族をその受領者とし、個人はその一成員であるとして、否応なしにその共受者と決めてかかるのです。もとより最高のものを強奪し来って己れの所有とする事は出来ませぬ。利己的な方法によって、汝ひとりのものとする事は出来ませぬ。(なぜなら、あなたが自分だけのものとなしうる様なものは決して最高のものではありませぬ故)、或いは、たとえあなたが最高のものを、最も深い意味において全ての人と共に共有しているときにも、(あなたが他の全ての人と共に、共有に有ちうるものこそ、正に最高のものであります)なおあなたはそれを信念のうちに己れひとりのものとして有たねばなりませぬ。それによって、あなたは他の全てのものがそれをもっている間保持するのは元より、たとえ全ての他のものらがそれを捨て去るときにも、なお所有《も》ちつづけておられる様に。この意においても矢張人々に戒心せねばなりませぬ。「蛇の如く慧《さと》く」それによってあなたが、あなた自らのために信仰の神秘を保っておられる様に。――たとえあなたは全ての人が、あなたと同じ様に、この信仰の裡に止るべきを望み、願い、そのために働らいておられましょうとも。「鳩のごとく素直《すなお》なれ」なぜなら信仰は即ちこの素直さの内に在ります。あなたは信仰を何か別のものに作り更えるために、頭の良さを用いたり等してはなりませぬ。いや、あなたの頭の良さは、人々に対して頭の良い警戒をする事によって、信仰の神秘をあなたの心のうちに保つ様に利用せねばなりませぬ。それともその言葉は全てのものが、(己れ自らのために)よくもう心得たことなので、それ程神秘でないと言われるのでしょうか? なぜと言えば、それは全ての人に神秘として保たれているものである故に。信仰にとっては、神秘である事こそ本質であります。又それは個々の人のものである事。たとえ信仰を告白し乍らも、なおそれを神秘とし心に保たぬものであれば彼は信あるものとは言えませぬ。信仰が神秘であって、神秘として止る事、神秘であらねばならぬ事は信仰に於ける欠陥でありましょうか? 同じ事は又自然の恋愛の場合に於いても、欠陥でありましょうか? それともすぐに表に現われて、すぐ又消え去るものこそはかない亢奮にすぎぬのではありますまいか? 之に反して、深い印象はいつも神秘を胸に湛えているものです。従って私たちは次の様に又次の様に言ってこそ少しも恥じる所はないと思います。即ちいわゆる恋愛などは本当に未だ人を沈黙させるには足らない愛であると! この様に自分自身に指向した愛は、信仰と云う一つの形姿をあらわすものではありえましょう。が、それも信仰に於いて指向した人間の不滅な内心をうつす弱々しい模写にしかすぎませぬ。まことに蛇のごとく慧しく、人々に対して戒心し、鳩のごとく素直に「信仰の神秘を胸に抱く」ものこそ、又聖典の告示のごとく(マルコ、九ノ五〇)「心の中に塩を」もつものでありましょう。もし、「人々に心せぬ」ときは、塩はその力を失うでありましょう。然らば何を以って次の皿に塩味をつけたらよいのでありましょう? 恋愛の神秘は人間の破滅の因となるかも知れませぬ。之に反して信仰は永遠にして常住、人を至福のうちにおく神秘であります。ごらんなさい。あの血を流しつつも女は、キリストの衣にふれようがため、人をわけて前に出たではありませんか。女は何を欲し、何を信じると、何人にも語ったことはありませぬ。ただ、しずかに、自分だけにささやくのです。「もし御衣のへりにさへ、ふれえたならば、病癒えるものを」と。この神秘を女はひとり己れの胸のうちに秘めていました。これこそ信仰の秘義であり、女はそれを永遠かけて救ったのであります。あなたはこの神秘をあなたがつつまずに告白したときに於いても、あなたひとりのために持ちつづける事が出来ます。又たとえあなたが失神して病床の上に横たわり、身動きもならず、舌を動かす事も出来ぬ時すら、なおこの神秘を胸に保つ事ができるのです。
しかし、元より信仰の始源は必然にキリスト的な教えの始源から由来します。その始源を確証するために、何も異端の教えを、その混迷を、その特質をはるかに遡って説く要はありませぬ。キリストの教えの象徴は即ちキリストの教えそのものの中にあります。試みに自らをためして見られるが良い。暫らくキリストの教えを頭から取り去るのです。愛について、それ以外のあなたの知る限りのことを思念して見ます。詩人らの作において読みおぼえたこと、又あなた自らが愛について発見しうること等を思い浮べてごらんなさい。而る後、告白していただきたい。果《はた》して、あなたに曾てこの思想が思い浮んだ事があったか、どうか。「汝は愛さねばならぬ」と? 正直であっていただきたい。それとも、あなたが気まずい思いをされぬ様に、先ず私から正直に告白いたしましょう。即ち、この思想はしばしば、実にしばしば私の生涯の間、私の驚ろきを呼び起しました。いや、それによって愛はその全てを失うのではあるまいか、と思ったことすらしばしばでありました。実は、愛はそれによって、一切を獲得したのではありますが。――正直に白状していただきたい――あなたにも、又多くの人の場合と同じ結果であったと。詩人たちが歌っているあの恋と友情との燃える叙述に比べると、キリスト教の「汝は愛さねばならぬ、」はまことに素客哀れむに堪えたものの様に思われたことでありましょう。
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「汝は愛さねばならぬ。」愛することの義務こそ、愛を永遠にあらゆる変化から擁護し、愛を永遠に至幸なる自存の中に解放し、その幸福を全ての絶望に陥入らぬ様に確保します。
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自然の恋や、愛情すらも亦いかに喜悦に充ち、いかに幸福にいかに名状し難く信実なものであり得ることでしょう。この様な端的な真情の愛も亦かくありうるのです。しかし、それはその最も美しい瞬間において、なお、出来うればその上に一層しっかりした結合を契りたいと云う願いを起さずにはおられませぬ。それ故に、愛人たちは誓い合うのです。かたみに信実と愛情とを誓います。そして、吾々が最も荘重な言い現わし方をしようとする時には、我々は二人について、「互いに誓い愛し合った、」とは言いませず、むしろ「互いに信実を誓い合った」或いは、「互いに友情を誓い合った」と言います。しかし、一体何を以ってこの愛は誓ったのでありましょう? この場合には大変大きな一つの不平等さが支配している、と言うことを思い出したりして我々の注意を外らしたり、乱したり等する事は止めることにいたしましょう。このことについては、この愛の神聖なる通訳の役割をつとめている詩人自身が一番よく知っている事なのですから。つまりこの愛の問題となる場所には詩人が一切仕切っている訳なのですから。詩人が愛人らに代って誓いを果《はた》し、二人を結び合せ、二人の前に誓言を言いきかせ二人を誓約せしめるのです。一言にして言えば、詩人は愛人達を結ぶ牧師なのです。所で、この愛は彼等よりも、より一層高いものに於いて誓うのでしょうか? 否。誓いませぬ。愛人同士が、この事実を自分で発見していないということこそ、正に美しく感動的な、謎めいた詩的な錯誤なのです。而も又、それ故にこそ詩人が彼等の唯一の愛すべき親友なのです。なぜなら、詩人自身もその事に気が付いていぬ故に、この愛の誓うとき愛自らが、この誓いのより所とするものに意味を与えます。愛そのものが、その誓いの拠り所とするものに、その栄光をあたえます。従って愛は、それ自身よりもより高貴なものによって誓いを立てぬだけではありませぬ。むしろ愛そのものよりも却って、劣る所のものに拠り所を求めて誓い合うのです。この愛はその可憐な錯誤を犯していることにおいて、実に限りなく、名状し難いものがあります。なぜならば、愛自身が無限の豊かさであり、自らを確信する事に於いて、無限であればこそ、愛は誓うとき、より劣ったものにより所を置いて誓いを立て、自らそれに気が付かないでいるのです。この愛の誓いが最も優美なユーモアにしかすぎぬ、と言う理由はここに由来します。――最も高貴な真摯さであらねばならぬ時に。――又最も誠実であろうとしますときに。又その謎めいた友人、即ち詩人、この愛の最も親密な立会人として愛に対して最も深い理解を有っている人自身が、その事を理解していないのです。しかし人がもし、真実において誓おうとするならば、より高貴なものを拠り所として誓わねばならぬ、と言うことは、きわめて容易な解り易い事でありましょう。従って天に在る神だけが真理に於いて、己れ自らを拠り所として誓いうる唯一のものであります。詩人は、そのことを理解しませぬ。と言うのは、詩人は個人としては勿論それを理解することができます。しかし、詩人は詩人である限りにおいて、それを理解することは出来ませぬ。なぜなら「詩人」は理解し得ぬからであります。なぜと言えば、詩人は全てを謎に於いて理解します。そして謎において詩人は全てを素晴しく、解釈する事が出来ます。併し、彼は自己自身を理解しえませぬ。彼自身が謎であることを理解出来ぬのです。もし人が無理強いに詩人に理解させようとすると、詩人は腹を立てたり激昂しなかったりした場合には悲しげにこう答えるでしょう。「こういう理解等を私に押しつける様なことはしないでいただきたい。所詮それは私の最も美しいものを台なしにし、私の生命をうばってしまうだけの話なのですから。解った所で、私にはどうせ役に立たぬことなのです。」この点において、詩人の言うことは正しいのです。――なぜなら詩人にとって真の理解とは生命の問題であり、それは彼の存在を決定するものであります。この様にして私らは、ここに二つの謎にぶつかることになります。その第一は、恋人の間の愛であり、他のものは、それに与うる所の詩人の解釈であります。その解釈自身が一つの謎なのです。
この様にして愛は誓い合います。そして愛人たちは、その誓約に互いに「永遠に」愛し合うことをつけ加えます。もし彼等がそれをつけ加えなかったら、詩人は彼等の契りを結ぶことをひかえるでしょう。詩人はそういう「思いつきの」恋愛からは冷淡に面をそむけてしまうでしょう。或いは嘲笑的にそれに向き直るだけで、一方「永遠」の愛には永遠に耳を傾けたがるのです。元来ここには二つの結合があります。先ず永遠に互いに愛し合おうと言う二人の結合があり、それから愛人たちに永遠かけて信実であろうとする詩人との結合があります。この点において詩人は正しいのです。もし二人の愛人たちが永遠に愛し合おうとしなかったとしたら、彼等の愛は歌われたり、人に説いたりする価値はありませぬ。之に対して愛人たちが「彼等自身の愛」を拠り所として永遠に互いに愛する事を誓いますが、「永遠を拠り所にして」彼等の愛を誓うことをしないと言う錯誤を起していることは、詩人の目をのがれてしまうのです。
永遠は又より高いものであります。人は誓うときには、より高いものにかけて誓わねばなりませぬ。人がかの永遠にかけて誓うとき、即ち人は愛さ「ねばならぬ」という義務にかけて誓う事になります。ああ、かの愛人らの愛人である詩人よ。あの様に心にかむけて彼みずから歌いあげる愛よりも、なお優にやさしい存在である詩人。自ら愛すべきことの奇蹟そのものである詩人よ。彼はまことにやさしい人の児であります。彼はこの「愛さねばならぬ」に堪えることは出来ませぬ。もし人がそれを以って彼に試みるとき、彼は腹を立てるか、或いは涙を流すかでありましょう。
この自然的な愛も亦美しい想像として永遠なものを描いているでしょう。しかし意識して永遠の中に土台を築いているのではありませぬ。それ故に「うつろい易い」のです。たとえ愛は変化しないでいても、変化する「可能性」があります。なぜなら、その愛は幸福というものなのですから。そして「幸福は過去になったとき、始めて存在する」ものなのです。と言うのは、幸福がつづいている限り変化する事も可能でありました。過ぎ去って始めて、人は幸福があったと言う事が出来ます。「生きている限り人は何人をも幸福だと賞めるわけには行かない」のであります。生きている限り幸福は変化してしまうかも知れない。人が死んで、その人の生涯の間幸福が彼を見捨てる事がなかったと言う時、始めて彼は幸福であった事を立証する事が出来ます。凡てそこに在るものは、未だ変化を経てないものだとすると、常に変化を未来に有っている訳です。何時何どき訪れて来るか知れず、最後の瞬間にすらなお来るかも知れませぬ。生命が終ったとき、始めて人は変化が来なかった、或いは恐らく来たと言う事が出来ます。変化を有たなかったものは成程「継続」を有っているでありましょう、が、未だ「永続性」を有っているのではありませぬ。存続している限り、それは存在しているでしょう。しかしそれが変化の中に、永続性を獲ち得ない限り、自分自身と同時的である事は出来ませぬ。そのとき、この不幸に関する幸福な無知の中に捉われているか、或いは憂愁の中に閉ざされているかであります。永遠こそ、あらゆる「時間」と共に、同時的であり、同時的に成り、いつ迄も同時的でありうる唯一のものであります。時間性は之に反して、それ自身の中に於て自己を訣別します。かくて現在のものは同時的である事が出来ず、又未来のものは過去と過去は又現在と同じ時間の上に立つ事は出来ませぬ。ある変化を通じて永続性をかち得たものについては、人はそれ故に、ただ、それが存続したとき、「それは存続した」と言いうるだけではありませぬ。それについては人はなお、「それが存続した間存続した」とも言い得るのです。そして正しく、これこそ確証であります。ただ幸福の問題などとは全く別の質のものであります。
もし愛が己れを義務とすることによって、永遠を自分の内に受け入れたとき、愛は永続性をかち得たのです。そのときはもう、おのずから存続してゆくことがわかるでしょう。勿論それはこの瞬間に存続しているものが、又次の瞬間に存続するかどうか、と言うことは、自分からは解らないのです。しかし永続するものが存続することは、自明の理でありましょう。人は或ものが自分の試しに合格した等と言います。そして、その試みに合格したものを賞讃するでしょう。しかし、そういう事はただ不完全なものについてのみ言いうるのです。永続するものの不滅さは、ある試みに合格することを以って、証明すべきではないし又する事も出来ませぬ。それは、不滅のものでありますから。ただ果敢ないものだけが、ある試みに合格することによって、不滅の見せかけをいつわることができます。標準銀についてはそれ故に何人も永い時間をかけて合格するかどうか試してみよう等いうものはありますまい。なぜならば、それは標準銀でありますから。――愛の場合に於いても同じことです。ただ存続するだけの愛は、たとえそれがどの様に幸福で、どの様に純真で、どの様に信実で、どの様に詩的であろうとも、永い年月をかけて、その試みに合格せねばなりませぬ。併し義務となる事によって、永遠を自己のうちに取り入れた愛は、不滅をかち得たのです。標準銀なのです。不滅のものであると言うことは人生においては、それだけ役に立たぬものなのでしょうか? 標準銀は実用価値がより少ないのでしょうか? その様な事のある筈はありませぬ。言葉自体が標準銀を無意識のうちに、独自の方法によって尊敬しているではありませんか。思想が意識してするのと同じ様に。なぜなら標準銀について、人は、ただ「それを使用する」と言います。人はそれを試金石にかけてためすという恥辱を与えようとはしませぬ。標準銀が試金石に合格することは元よりわかり切ったことだからです。もし人が之に反して「普通銀」を使用するときはもっと明確にもっと複雑な言葉使いをせざるを得ないのです。殆んど二重の意をこめて、二つの事を言わねばなりません。「使って見ましょう。使って見ることによって同時に、ためして見るのです。」なぜなら、使用に堪えないものであることが立証される場合だって可能であったのですから。
それ故に、「愛が義務である時、ただ、そのときこそ、愛は永遠に確証」されます。永遠であることを証するこの確証こそ、全ての不安を追放して、愛を完全に安全ならしめます。かつ、ただ存在するだけの自然的な愛においては、いかにそれが信頼あるものであっても、所詮不安に他なりませぬ。いつか変ってゆくのではあるまいかと言う不安なのです。恋自身は、あの詩人と同じ様に、それが不安である事に気が付かないでいます。なぜなら、愛はかくれているからです。外部からは、ただあの燃える様な情慾しか目に付きません、がその情慾こそ、正に、その背後に不安がひそんでいるということの象徴なのです。でなくてどこから一体あの自然的な愛は、愛を試してみよう等という念を起すのでありましょう? その原因は、即ち愛は未だ義務となっていない事、それによって、最も深い意味において「試し」にかけられる事に在ります。そこから又詩人が歌うあの甘美な不安が由来します。それは次第に大胆にいよいよ大胆に、「試し」をかけて見ようとします。恋人は恋人を、友人は友人を試そうとします。「試すこと」は勿論その理由を愛の中に有っています。しかし試しをかけようというあの魅惑的な希い、一度は試しにかけられて見たいというあの胸ときめかす憧憬は、愛が無意識のうちに、それ自身を不安に感じている、ことを証明しているのです。この端的な愛と詩人の解釈の中には又あの謎めいた錯誤が存在します。愛人や詩人らは考えます。愛が試しを求めようとするこの熱望こそ、愛のたしかさを表示する現れであるのだと。はたしてそれは事実なのでありましょうか? どうでも良い冷淡なものを人は試しにかけても見ないと言うことはたしかな事であります。だからと言って恋人を試して見ようと言うことが、愛のたしかさの現われであると推論することはできませぬ。二人は互いに愛し合う。彼等は永遠にかけて愛し合っています。彼等は愛についてかたい確信を有っています。そこで、それについて試して見ようと思っています。一体こういう「たしかさ」が、最高のものなのでありましょうか? これも亦恋愛が誓いを立てるときの様な――あの愛よりも一段と劣ったものにかけて、誓いを立てるときと同じ場合を又くり返すのではありますまいか? 愛人たちの愛の永続性に対する最高の表現は正に、その愛がただ存在するのみであると言う事に対する表現でありましょう。なぜなら、ただ存在しているもの、それを人は試み、それを人は試しにかけるのですから。もし、愛が義務である時、それは最早試しを必要としませぬ。又あの侮蔑的な試しへの強制も要りませぬ。そのとき、愛はいかなる試しよりも、もっと高貴なのであります。愛は試しに合格したより以上のものであります。信仰が「勝利以上のものである」と言われていると同じ意味において。
試しが提出されるところには、常にその試しが合格されぬかも知れぬと言う可能性が前提されています。もし、そこで人が信仰を有っているかどうかを試そうと思い、あるいは、信仰を獲られるや、否やを試みてみようと思ったとしたら、それは元来彼が自ら信仰に到ることを妨げようとした、と言うことになるでありましょう。彼は己れを憧憬の不安の中に置くことになります。そこには信仰など決して得られるものではありませぬ。なぜなら、「汝は信仰せねばならぬ[#「ねばならぬ」に傍点]」と言われているからであります。もし、信仰あるものが神に向って自分の信仰を試してみたいと乞うとき、それは信仰の特に高度である事を示す表現ではありますまい。(もし詩人がそれを主張するとき、それは誤解であります。)凡そ「異常な」度に於ける信仰とは誤解に於てのみありうるものでありますから。(なぜなら、正常の度における信仰こそ最高度、のものであります。)むしろその人の信仰は完全でないことの証明であります。なぜなら、「汝は信ぜねばならぬ[#「ねばならぬ」に傍点]」と言われているのですから。この「ねばならぬ」以上のたしかな確証もなく、又それを措いていずこにも、永遠の静けさを見出すことは出来ませぬ。「試し」という思想はたとえそれが、どの様に可憐な姿を以って登場するものであっても、ある「不安」を露呈せずにはおりませぬ。「不安」であればこそ、あなたをして「試し」がより偉大な確証を与えるであろう等と想像せしめるのです。「試し」や「試練」などを以って始めようとするものは、どこ迄行っても尽きぬものでありましょう。又永久に終る所を知らぬでありましょう。例えば「賢こさ」が決して全ての場合を勘定に入れることが出来ない様に。之に反してあの真摯なものの適切な言葉を借りて言えば、「信仰は全ての場合を勘定に入れている」のであります。もし人が「ねばならぬ」と言う時、それは永遠をも計算に入れています。もしあなたが「愛さねばならぬ」ことを理解されるならば、あなたの愛は永久に確証されたものであります。
同時に、愛は「ねばならぬ」によって、「あらゆる変移」に対して永久に確保されています。なぜなら、ただ存在するだけの愛は、変化を受けるやも知れませぬ。――愛がそれ自身の中で別の愛となるか、或いは愛がそれ自体から離れてしまうかの何れかの変化を。
自然的な愛はそれ自身のうちにある変移を受けることがあります。彼はその反対のものに転換することができます。即ち「憎しみ」の中に。「憎悪」は反対のものに変った愛であります。破綻《はたん》せられた愛であります。未だその心の底には愛が燃えつづいているかも知れませぬ。しかしその火焔《ほのお》はすでに憎しみのほのお[#「ほのお」に傍点]になったのです。その愛が燃えつきたときはじめて、またその憎しみのほのお[#「ほのお」に傍点]も消滅するでありましょう。例えば人は舌について「同じ一つの舌を以って呪詛することも祝福することもできる」と言います。愛し且つ憎むのは同じ一つの愛であると言わねばなりませぬ。しかし、正にそれが同じ愛である故に、それ故にこそこの愛は永遠の意味に於いて「不変不動にして、同一な」真の愛ではありませぬ。かの自然的な愛は「自らを変化」しましたが、その根本に於いては同じ一つの「愛」なのであります。
愛が義務となることによって、永遠を自己の内部に取り入れた真の愛は決して変移することはありませぬ。それは純一であって、ただ愛するだけであります。決して憎むことなく、又決して恋人を憎む事もありませぬ。或いはかの端的な愛は愛と憎しみと「両つ乍ら」もちうるため、一層強い愛であるかのように見えるかも知れませぬ。或いは、その愛は「もしあなたが私を愛そうとしないならば、私はあなたを憎むであろう」と言うとき、恋の相手に対して全く特別な力を有っているかに見えるかも知れませぬ。しかしそれは単なる錯覚であります。無常迅速なるものは、はたして不変永住に対して一層強大な力なのでしょうか? 又何れの人がより強い人なのでしょうか? 「もし、お前が私を愛さぬなら、私はお前を憎む」という者でしょうか? それとも又「もし、お前が私を憎むと言っても、私の心は変ることなく、私はお前を愛しつづけよう」と言う人でしょうか? 愛が逆に憎悪に変るということは、まことに怖るべきことです。しかし一体何人にとってそれは怖ろしい事なのでしょうか? 他ではない、その当事者自身、愛が憎しみに変って行ったと言う出会を有ったその人自身にとってであります!
端的な愛はそれ自身の内部に一つの変移を経験することがあります。それは自己中毒によって嫉妬に、最大の幸福から最悪の苦悩に変じることであります。自然的な愛は自身の内部に毒素を有っています。(それは利己の愛の毒素であります)それは必らず醗酵をひき起し、その醗酵の中に陥ち入らざるを得ませぬ。もし、この事がない場合は愛の情熱は自己中毒より頽廃してついに疾病となります。かくて苦痛でもあり、危険でもある嫉妬という疾患が生じてきます。嫉妬にかかったものは、愛の相手を憎むのではありませぬ。決して憎みませぬ。しかし、相手の愛に対する不安によって自己を苛責しつづけます。それが彼の愛を浄化して行くのだと言う。自ら義務となることによって不滅者を己れの内に取り入れた愛は嫉妬を知りませぬ。それは自分が人から愛せられるだけ、人をも愛するのではありませぬ。それは愛すればよいという。――従って愛とか、相手の愛とか、そういうものを計算する時間もなければ、機会も有ってはいませぬ。嫉妬は自分が人から愛せられるだけ人をも愛したいというのであります。
人を愛するだけ又人からはたして愛せられるだろうか、と言う疑問のために、苛責せられて、不安に堪えられず、自分自身の愛にも、又他の人の愛に対しても嫉妬を炎《も》やす様になります。自分自身への猜疑《さいぎ》にかかり合っていて、その愛は恋人を心から信じ切る事も出来ず、自分自身を捧げ切ることも出来ない、――あまり多く愛をあたえすぎないためになのである。この様にして恋の嫉妬の中に燃えつづけて止む時を知りませぬ。嫉妬の熱病の中に。――自然的な愛は嫉妬に変じうるために何かその中には全く別な焔があるかの様に思われるかも知れません。併し遺憾ながらこの火焔こそまことに怖るべきものなのであります。嫉妬はその相手を殊にしっかりと捉えているかの様に思われるかも知れませぬ。なぜなら、純一の愛がいわばただ一つの眼をしか相手に向けていないのに嫉妬は百もの眼をもって恋人を監視しているのですから。しかし分裂は全一よりもより強いことはあり得ず、支離滅裂の心が完全で分裂を知らぬ心よりもより強大な筈がありませぬ。又絶えず不安動揺して、手探りしたり模索する事が、力を合一し単一を以ってするよりも相手をしっかりつかまえる事が出来る。などという事はありえませぬ! しかしいかにしてその単一の愛は嫉妬に対して安全なのでしょうか? それは比較を試みたりなどせぬ事によってではありますまいか? それは端一な愛を以ってその愛するものだけをえこひいき[#「えこひいき」に傍点]する等という事をしませぬ。それ故に、又愛するときの他のものの愛によって己れをも量る、即ち相関的にだけ愛するなどという病的な愛し方に堕することもあり得ぬのです。
自然的な愛は変化して「自分自身から」遊離して仕舞う、年と共にそれ自ら脱落してしまうことがあります。このことはあまりにしばしば体験されることであります。そこで愛はその火焔や喜びや愉しみや源泉を、清新な生命を失うことになります。河は岩から岩に墜ちつつ下りますが、その長い道程のうちに勢をそがれいつか静かなよどみになります。愛の場合も同じです。いつか慣習と冷淡の鈍化する影響をうけて萎《な》えた弱りはてたものになってしまう。ああ、あらゆる敵の中で慣習というものほど奸悪なるものはありませぬ。殊にその奸佞《かんねい》さは、それが人の目には決して見えぬものである事によって邪悪なのです。慣習を発見したものは、即ちそれから解放せられたものであります。慣習は人が目に見、そして戦い防衛しうる他の仇敵に似たものではありませぬ。いや、ここでは敵を見つけることができる様になるため、先ず自分自らに対して戦うこと、が問題なのです。この奸悪なることによって知られている食肉獣は、悪がしこくもその犠牲を睡眠中に襲います。その生《なま》血を吸っている間、それは涼しい風をあおいで、その眠りを一層快美なものにすると言います。慣習のする事も同じく、或いはなお一層悪辣であります。かの動物は眠っているものを襲って餌食としますが、目ざめているものを眠らせる手段は有っていませぬ。慣習はところがその手段をもっています。彼は人を眠らせ、やがてその眠込んだものの生血をすするのです。その間人は冷たい風をあおいでやって、眠りを一層快美なものとします。その様にして自然的な愛はそれ「自身」から脱落して、下らぬものとなって仕舞う。未だしも憎しみや嫉妬はなお愛には相違ない事を示していますのに。往々人はその事に自分でも気は付いているのです。(恰かも、夢の姿が彼の前を通りすぎて、また忘却の中に返って仕舞う様に)慣習が彼の人となりを変化してしまった事を。人は何とかして元へ戻ろうとします。しかしもう一度自分の愛のほのおをかき立てるために新しい油を買うには一体どこへ出かけて行ったらよいと言うのでありましょう。結局彼は機嫌がわるくなり、いらだたしくなり、自分自身に倦怠する様になります。自分の愛に対して倦怠します。又こんな有様で、以前の愛の面影の見るかげもなくなった事に倦怠します。と言ってそれを自分でどうにも出来ない事にも倦怠します。永遠の変化という事については彼は早くから注意することを怠ってきました。そして今はもう治療を持ち応える力すら失ってしまったのでした。ああ、曾ては裕福に暮していたものが落魄しているのを見るとき、侘びしい思いを致すでありましょう。しかしこの様に落ちぶれて見るかげもない愛の姿を目にしては何倍かまさって悲しい思いをするか知れませぬ! しかし愛が義務となることによって、永遠を己れの内に取り入れたときは、最早慣習に災いされることもありませぬ。慣習は決して、この愛を左右する事は出来ませぬ。永遠の生命について、「そこには最早溜息も涙もない」と言われている様に、人は又「そこには最早慣習のかげもない」と言い得るでありましょう。まことに。吾々がここに言ったことは素晴しさにおいて決して先のものに劣るものではありませぬ。もし、あなたが、あなたの魂、あるいは愛を、慣習の奸策より守ろうとされるならば、人は目覚め、かつ安全に身を守るための幾多の手段があると信じています。が、手段は実に唯一つより他にありませぬ。即ち不滅者の「お前は愛さねばならぬ」だけであります。日々に三度ずつ、百の大砲をはなって、あなたを自からいましめるがよろしい。――慣習の力に抗って見せるぞと。東洋のあの強大な皇帝の様に、一人のいや、百人の奴隷をあなた自身に侍らせて日々にその事を思い起さしめるがよろしい。あなたに会うやいなや、あなたに向ってその事を叫んでくれる一人の友人を持たれるがよい。晩かれ早かれ愛の中に、あなたにその事をいましめるであろう妻女をめとられる様にされるがよい。但しその事が又あなたの慣習とならぬ様に警戒されねばなりませぬ!
なぜなら、あなたは百の大砲のとどろきにも亦なれてくるからです。そこであなたは大砲の側に坐っていて、あなたの耳がなれてしまった百の大砲のとどろきよりも、ごくかすかな些細なことをはるかにはっきりと聴く様になりましょう。あなたは又日々百人の奴隷らがあなたを戒めることにもついに馴れっこになることができます。つまり彼等の言うことを聞かぬことになるでしょう。なぜなら慣習があなたの耳を強制して、たとえ聞えても、聞えない様にしてしまうからです。ただ永遠のかの「お前は愛さねばならぬ」だけが、又その「お前は愛さねばならぬ」を聞こうとする聞く耳だけが、慣習からあなたを救うことができます。慣習とは凡てある限りの最も悲しむべき変化であります。又他面人はいかなる変化にも馴れっこになる事ができます。ひとり永遠だけが、即ち義務となる事によって、自分の内に永遠を取り入れた所のものだけが不変のものであります。そしてその不変不動のものは慣習となることはできませぬ。たとえ、慣習がいかに凝り固ったものになったとしても、それは決して不変のものとなることは出来ませぬ。たとえ人間が改善し難いものとなりましょうとも。なぜなら慣習とは常に「変更されねばならぬ」ものなのですから。不変のものは之に反して変化しうるものでもなく、変化されるべきものでもありませぬ。永遠は決して旧套のものとはならず、又決して慣習となることはありませぬ。
「ただ愛が義務であるとき、愛は至幸な独立自存の中に在って自由」なのです。しかしあの自然的の愛は自由ではないでしょうか? 愛人は恋に於いてこそ自由を有ってはいないでしょうか? それともこの説はあの利己愛の絶望的な独存を賞えようと言うつもりなのでしょうか? 利己愛が自立独存を守っているのは、自分を結合させるだけの充分な勇気を有っていなかったからであります。即ち彼は卑劣さに依存していたのですから。その絶望的な独立自存は自分をどの様な家郷にも結ぶことなく絶えずあちこちをうろつき廻り、日の暮れた所で行き当りばったりに宿を借るといいます。又その絶望の不覊《ふき》独存はいかなる束縛をも、少くとも人の目に見える様な契縛は有っていないと言います。いや、勿論その様な事を言っているのではありませぬ! 我々はすでに恰度その反対の場合に就て考えました。ある人間の豊かさの最高の表現は願望を示しているその人の心の中の熱情なのであると。自由の真の表現に於いても同じ事であります。即ち自由とは自由な人の心の中にある熱情であります。愛を以って熱情としている人はまことにその愛の中で自由を感じているでありましょう。そこで、もし恋人を失ったら、共に一切を失ってしまうであろう、と依存して考えている当人こそ、正に独立自存の人なのであります。但し、彼が愛と恋人の所有とを混同しないと言う唯一つの条件の下に、であります。もし人が「愛か或いは死か」と言おうとしたら、そして、それは「愛のない生命は生きる価値がない」ということを言おうとするのであるとすれば、我々はその言葉の全く正しいことを認めざるをえませぬ。もし彼が先の言葉を以って、恋人の所有を意味するのであり、従って「恋人の所有か、然らずば死か」、「この友達を得ることか、それとも死か」と言おうとするならば。我々はこの様な愛は真理に反する意味において依存的だと言わねばなりませぬ。もし愛そのものが恋人に対する態度において、あらゆる依存性をもっているにも拘らず、自分自身に対する真実に於いて同様に不抜でない時があるとすれば、それは真理に背いた意において依存的であると言われます。そのとき愛はその存在の法則を、それ自身の外部に有っているのであり、それ故にはかなく地上的で時間的な意において依存的なのであります。
しかし義務となる事によって永遠を己れの内に取り入れた所の愛、又愛さねばならぬ故に愛するあの愛は独立自存であります。それは自らの存在の法則を不滅者に対する愛の関係の内に有っています。この愛は決して真理に反した意に於いて依存的になる事はできませぬ。なぜならばもしそれが依存的であるとすれば、ただそれは義務に対してのみでありましょう。而も義務は愛を解放する唯一のものであります。端的な愛は人間を自由にしますが、次の瞬間には依存的にします。それは恰も、人間の形成に似ていると思われます。人間が出来あがるとき、「自己」となるとき、人は自由をえます。次の瞬間にはしかしこの「自己」に依存せねばなりませぬ。所が義務は之に反して人間を依存するものとします。その瞬間に又人間を永遠に独立のものとします。「ただ命律だけが自由を与える」のであります。ああ、人はいつも自由は存在しているのに法則によって束縛されてしまうと考えます。しかし、事実は恰もその反対なのです。法則がなければ自由も亦存在しませぬ。法則、即ち自由を与えるのであります。人は又法則は人間の間の等差を立てると言います。なぜなら法則の存しない所には差別もないからです。しかし実際はその逆なのです。成程法則は差別を立てるでしょう。しかしこれは正に全ての人をこの法則の前において平等ならしむる所の法則なのでありますから。
この様にして「汝は愛さねばならぬ」は愛を至福な独立の中に解放します。この様な愛はうつろい易い対象と共に興り又亡ぶものではありませぬ。それは永遠の法則と共に興亡を共にします。――即ち亡ぶる時はありませぬ。かくのごとき愛はまた「あの物又はこのもの」に依存するものではありませぬ、唯一の解放者にのみ依存するのであります。即ち、之によって永遠に独立するものであります。世間はしばしば高慢な独立自存を売りものにする事があります。勿論ひどく誤解しての上なのですが。愛せられたい等という願いを少しも有っていないでただ自分の方から愛するために他の人が必要だと言うのです。「愛するために何人かは有たねばならぬ!」と。おお、この独立自存こそ何と真理に背いたことでありましょう! 人から愛されたいという念い等は毛頭なく、愛するために誰かを有ちたいと言う! 即ち、彼等はその傲岸な自負心を満足するために別種の人間が必要だと言うのです。これは恰も虚栄心が世間などは相手にしない、と言って、矢張世間を必要としている様なものではないでしょうか。――即ち彼等は世間を相手にせぬという事を世間に知ってほしいと言う事なのです。併し義務となることによって永遠をその内に取り入れた所の愛は、元より愛せられたいという願いを有っています。そしてこの願いはあの「汝は愛さねばならぬ」と一緒に永遠に美しい調音を組み立てます。併しそれはもし止むを得ぬときはあきらめることもあります。が、一方愛それ自身としては愛することにおいて少しも変ることはないのですが。これこそ独立自存ではないでしょうか? この独立自存は不滅者のあの「汝は愛さねばならぬ」によって愛それ自体にのみ依存するのであって、他のいかなるものにも依存するものではありませぬ。それ故に又愛の対象そのものにも依存しませぬ。――もしその人が他のものであるということがわかったとしても。かと言って、それはこの独立の愛が消えて不遜な自己満足に変ってしまうと云うのではありませぬ。もしそれなら却って依存するものとなりましょう。いや、愛は不変であります。愛は独立自存なのです。真の独立自存とは、永久に不変不動であります。全ての変化は依存する所に由来します。――あるときは弱さの中に沈淪し、あるときは高慢の中に頭をそびやかすかも知れませぬ。あるときは身を投げて悲しみ、あるいは己れに満足して自己の中に立て籠ります。もしある人が「私はあなたをもうこれ以上愛するわけには行かない」又は他のものは高慢らしく「では仕方がない」と言うとき、之ははたして独立自存でありましょうか? いや、之は依存に他なりませぬ。彼が自分の愛を守るも捨てるも、相手の人の愛の有無に依存しているのですから。もし彼が「而もなお、私はあなたを愛しつづけるでしょう」と言うとき、彼の愛は至幸の独立自存の中に永遠に自由をえたものであります。自慢して言うのではありません、高慢に依存して。いや、謙譲の故に言います。不滅者の「汝は愛さねばならぬ」の下にぬかずきつつ。それ故に愛は独立自存なのであります。
ただ愛が義務であるとき、そのときこそ愛は永遠に幸にも絶望に対して擁護されています。自然の愛は不幸になること絶望に至ることができます。絶望するだけの力を有っているからと言って、又それがこの愛の強大の表現であるかの様に思われるかも知れませぬ。併しそれはただ単なる見せかけにすぎませぬ。絶望の力はたとえどの様にほめたたえられていようとも、即ち、失神にすぎず、その最高の力は即ち「破滅」にしかすぎませぬ。又端的な愛が絶望に至りうるということは、即ちその愛は絶望しているからなのであります。即ちその愛はたとえ幸福であっても、絶望の力を借りて愛するのであります。他の一人の人を「己れ自身よりも、又神よりも高く」愛するのであります。
絶望について言えることは、――絶望している者だけが絶望しうるという事。自然的な愛が不幸に会って絶望するとき、それはすでに絶望していたのであります。又その幸福に於いてすら、すでに絶望の状態にあったのだと言うことが明らかにされるだけです。絶望は人が無限の情熱を有って個人の関係に対決するところに由来します。なぜなら、無限の情熱とは人間に於いてはただ不滅者に対するときにのみ存在します。然らざる場合は彼は絶望でありましょう。端的な愛はこの様な理由から絶望します。人が言う様に、幸福になるとき、その実は絶望であることが蓋《かく》されているだけなのです。不幸になったときはもうとうに絶望であったことがやっと明らかにされた訳なのです。之に反して義務となることによって、永遠を己れの内部に取り入れた愛は決して絶望となることはありませぬ。なぜなら、それは絶望してはいないからです。絶望はある人に出会しうる様なものではなく、又幸福とか、不幸とか言うものの様に遭遇してくるものでもありませぬ。絶望は人間の内心に於ける混乱なのです。運命や、出会は、それほど幅広くそれほど深く人の心に侵入してゆく事は出来ますまい。それらはただ混乱がそこに在るということを明瞭にするだけでありましょう。従って絶望に対しては唯一つの安全な保証があります。即ち人が義務である「汝は愛さねばならぬ」によって永遠を自分の内部に取り入れることなのです。これを為さぬものは、絶望に生きるのです。幸福と安楽とはそれを掩いかくすことができます。とは言え不幸や災難はその絶望をひき起したのではありませぬ。(彼の考えている様に)ただ元より絶望であったことを暴露したにすぎませぬ。人は軽卒にも最高の概念をはき違えたりするので、これとはいつも違った言い方をしているのであります。即ち人をして絶望ならしめるものは不幸ではありませぬ。むしろ彼が不滅者を有っていないことが理由であります。なぜならここに絶望が由来するのでありますから。即ち義務のいう「汝は愛さねばならぬ」を通して永遠を己れの内部に取り入れなかったこと。――絶望とはそれ故に恋人を失ったことではありませぬ。(それは不幸とか、切なさとか苦痛であります)、絶望とは不滅者の不在を意味するに他なりませぬ。
愛の誡命によって命ぜられた愛は、絶望に対してどの様にして保証せられているのでしょうか? それはきわめて単純な方法によってであります。即ちその誡命――その「汝は愛さねばならぬ」によってであります。その戒《いまし》めの中には、即ち先ずあなたは決して恋人を失ったからと言って絶望するな、と言うのは、あなたの絶望的な状態を明るみにさらす様なそういう方法によって人を愛してはならぬ、という事がふくまれているのです。従ってもしあなたが愛そうと思うならば、決して絶望して人を愛すべきではないと云う。これによって愛は禁ぜられた事になるのでありましょうか? 決してそうではありませぬ。もし「汝は愛さねばならぬ」という誡命が愛することを禁じるものであったとしたら、随分おかしな話だと言わねばなりませぬ。ただ誡命は命じた事に背いた方法によって愛することを禁じるのであります。本質において誡命は「禁止」ではなくて「お前は愛さねばならぬ」という「命令」であります。それ故に愛の誡命は衰弱した気の弱い基礎によって絶望を防衛しようとはいたしませぬ。「人はあまり心を過剰に痛ましめてはならぬ」等と。この様に「悲しまぬ様にしましょう」と言う憐れむべき知性は愛する者の絶望にまさるとも劣らぬ「絶望」ではないでしょうか? むしろ、一層悪質の絶望の一種ではありますまいか? いや愛の誡命は絶望を禁じるものであります。即ち愛することを司命することによって。不滅者を措いて果して何人がこの様な勇気を有つのでありましょう? 又不滅者以外に何人が「汝は愛さねばならぬ」を司命する権利を有つことができるでありましょう? 而も不滅者は愛がその不幸にめぐり合い、正に絶望に陥入ろうとする瞬間に「汝は愛さねばならぬ」という司命を提げて訪れてくるのです。この司命は不滅者を除いて他に宿る所とてありませぬ? この人間の時間の世界において恋人を所有することが不可能となったとき、不滅者はそこで「汝は愛さねばならぬ」と誡めます。即ち不滅者は愛を不滅のものとすることによって、絶望から救うものであります。或いは死が愛する二人を距てるかも知れませぬ。もしそのとき、後に残されたものが絶望の淵に沈淪しようとするとき、一体何ものが彼を救うことが出来るでしょうか? 人間的時間的なものの救援はなお一層悲しむべき絶望の一種にしかすぎませぬ。ただ不滅者のみがよく救うでありましょう。もし不滅者が「汝は愛さねばならぬ」と誡しめるとき、それは「汝の愛は永遠の意をもつものである」といっているのであります。しかしそれを慰藉として(慰さめなどが何の役に立ちましょう)言うのではなく、司命として言います。なぜなら危険が近づきつつあるのですから。もし不滅者が「汝は愛さねばならぬ」と言うとき、不滅者は愛を遂げる様代ってその役を引きうけてくれるでありましょう。ああ、不滅者の恵んでくれる慰さめに較べたら、その他の凡ての慰さめなど何ものでありましょうか? 不滅者にまさる魂の守護者があるでしょうか? もし不滅者がもっとやさしげに言おうとして「歎きなさるな」とでも言ったとしたら、悲歎するものはきっと抗議を申し立てることでありましょう。併し(この様なことが起る筈がありませぬ。――不滅者は抗議などを受け付けぬほどに高くあるのですから)悲歎するものをかばって司命します、「汝は愛さねばならぬ」と。何と驚ろくべき慰藉の言葉! 驚ろくべき憐れみではありませんか! 人間的に言えばそれは非凡に、殆んど嘲笑の様に聞こえるかも知れませぬ。――もし人が絶望している人に向って彼が熱望していた唯一のものを為さねばならぬと言おうとするとき。――それが不可能であったからこそ彼は絶望に陥ちたのですから。これでも愛の誡命が神的の根拠から出たものであるということを、もっと立証しなければならぬと言うのでしょうか? あなたは試みられたことがあるでしょうか? 或いは自ら試して見られるがよい。恋人を失った悲しみが正に彼を圧倒しようとしている瞬間に悲歎するものに歩み寄ったとき、一体何を言ってやったらよかろうかを考えて見られるがよい。慰さめるために来たのだと打ち明けて見られてもよい。「汝は愛さねばならぬ」等といういましめは、あなたがどうにも思い当らなかった最後の言葉であったでありましょう。そして、又一方にはその言葉が言われた最初の瞬間には悲歎者を殆んど憤らせはしないか、どうかを試みられるがよい。悲歎者にとってこの様な際にそういう忠告はあまりに的外れだと思われるでしょうから。あなたは併し、この真摯な経験をされたのです。又あなたは悲しむべき瞬間においては空ろな人間の慰藉の根柢などは、慰さめの代りにただ嘔吐を催させるだけである事をも知られました。且つ又あなたはその永遠の誡命の喚びかけすら、あなたの破滅を押さえるわけには行かなかった、ということを感動を以って発見せられたでありましょう。――そのあなたであればこそ、今、あなたはその「汝は愛さねばならぬ」という司命が絶望から人を救うものであることを悟られたでありましょう。多分あなたがもっと平凡な機会を通して感じておられたことでしょうが、きびしさこそ真に人を築くものであるという事。それを今あなたは最も深い意において悟られたのだと思う。ただこの「汝は愛さねばならぬ」だけが永遠に幸福に人を絶望から救います。永遠に幸福に。そうです。絶望から「永遠に」救われたものだけが本当に絶望から救われたものなのですから。義務となることによって永遠を自己の内に取り入れた愛は、不幸から免れたと言うのではありませぬ、が、絶望から救われたのです。幸、不幸、何れの場合に於ても、等しく、絶望から救われているのであります。
御らんなさい。情熱は人を熱し地上の知慧は人を冷却させます。併しこの熱も、又この冷却も、或いは又、この熱と寒との混合体も、永遠の純粋な大気をつくるものではありませぬ。この熱は同時に蒸し暑くさせ、この冷たさは又同時に人をふるえ上らせ、その混合体は春のなま暖かい風の様に頼り難く詐佯的です。かの「汝は愛さねばならぬ」は全て不健全なものを取り除いて永遠のために、ただ健康のもののみを擁ります。この様にして凡そあの不滅の「汝は愛さねばならぬ」は人を救済し、浄化し、又高貴ならしめるものであります。
ある深い悲しみに悩むものに会われるとします。もしあなたが絶望的な表現を以って情熱をさらけ出す事が出来るなら、悲歎するものもそれは敢えて却けようとはしないでありましょう、――一瞬の間はいくらかの慰藉をあたえる事ができるかも知れませぬ。併しそれは真の慰めではありませぬ。もしあなたがあなたの知慧と、経験とを以って、悲歎者自身には見出せぬ希望をみつけてやる事が出来たら暫らくの間は冷静に誘うことができるかも知れませぬ。しかし、それも真ものではありませぬ。
之に対して、「汝は悲歎すべし」という言葉は真でもあり、美でもあります。決して人生の悲痛に対して硬化することあってはなりませぬ。なぜなら、私は「悲歎すべき」なのでありますから。併し又私は絶望してはなりませぬ。なぜなら、私は悲歎すべきなのですから。而も又私は悲歎することを止めてはなりませぬ。なぜなら、私は悲歎すべきなのでありますから。
愛の場合に於ても同じです。あなたは愛の情に対して硬化してはなりませぬ。なぜなら、あなたは「愛すべき」なのですから。又同じくあなたは愛の心を損ねることあってはなりませぬ。あなたは「愛すべき」なのですから。あなたは愛を守らねばなりませぬ。又あなた自身を守らねばなりませぬ。又あなた自らを擁ることによって愛を擁らねばなりませぬ。
ただ人間的なものが向う見ずに突進しようとするとき、愛の誡言はその手綱を引きしめます。ひとり人間的なものが勇気を失おうとするとき、誡命は人の心を強めてくれます。唯人間的なものが途方にくれ、巧智に陥ろうとするとき、愛の誡命は火と聖智とを与えてくれます。誡命はあなたの愛の中の不健康なものを灰燼にし、蚕食しつくすでありましょう。併しもしあなたの愛が人の言葉を借りて言えば、「打ちひしがれて」しまったときは愛の誡命によって再びその火焔をかき立てねばなりませぬ。もしもあなたが易らかな気持で人の忠言を容れたいと思われるなら、この誡命をこそ忠言とされるがよい。もしあなたが絶望して忠言を要らぬと思われるとき、この誡命をこそきかれるがよい。又いかなる忠言も術なしと思われるとき、誡命は再び一切のものを回復してくれることでありましょう。
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第三の章 汝は「隣人」を愛すべし
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隣人のそこに在る事、又(それと同じく)全ての人は隣人であること、を発見し、その事を悟るもの、即ち、キリスト教の愛に他ならぬのである。もし愛することの義務なければ「隣人」という観念も亦なかったであろう。人がただ隣人を愛する時こそ、偏愛をその底にかくした愛の利己的なものは根絶され、不滅なる愛の正義が確守せられよう。
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様々な方法により又様々な気分に応じてではありますが多少に拘わらず、熱意を以って、これか又は、あれかである所の理由から、キリスト教に対して、キリスト教は自然的な愛や、友情を追放するものであると云う様な考え方がしばしば抱かれたのであります。次に又人は再びキリスト教を擁護しようとしました。そして結局、人はキリスト教の訓え、――即ち人は神を全心を傾けて愛し、隣人をば、己れ自らと同じく愛すべし、ということを証拠としたのでありました。もし人がこの様な方法で争い合うことになれば争いも一致し合うも、結局はつまり、どちらでもよい事になるでありましょう。なぜなら虚空を相手に剣を揮うのも剣を収めるのも、何れも徒労な事なのですから。むしろここでその争いの焦点の何であるかを明確にする様に注意していただきたい。即ちその擁護するに当って、キリスト教はその自然的な愛と友情とを(何れも衝動、あるいは嗜好に基づいた偏愛でありますが)その王座より退けて、その代りに精神的な愛を王座に即けたということを、しずかに落ち付いて譲歩することにいたしましょう。――その精神的な愛とは、その真摯さと真理とにおいて自然の愛よりももっと、内面的に内心性によって人を結ぶものであり、又その誠実さによって、かの有名な友情よりももっと真実に友を援けしめるものであります。むしろ自然の愛と友情の光栄はいかに異端主義に(従って又それらを自らの課題と心得ている「詩人」たちも)所属するか、ということを注意していただきたい。――それから確信の精神をもってもキリスト教に所属する所のものはキリスト教に返却していただきたい。――即ち隣人に対する所の愛。――この愛については異端主義にはその予感すらも発見することができませぬ。又個々の人が混同したり混和したりして、これか、あれか、についてある一定した印象を受け取ることを不可能にしたりすることのない様、むしろ人をして自ら選択なさしめ、正しく判別し、差別する様に注意していただきたい。殊に、キリスト教を擁護しよう等ということはひかえた方がよろしい。むしろ、意識的であれ、無意識的であれ、一切をキリスト教に対してから要求せられる様に(又非キリスト的なるものも)せられたいのであります。
× × ×
これらの事を理解と、真摯さとを有って思念されるものは、その争論の点がはっきりと次の事にあることが容易に分るだろうと思う。自然の愛と友情とは、愛の中の最高のものであるか、どうか? それともこの種の愛は最早愛と為すに足らぬものであるかどうか? 恋と友情とは本質において情熱であります。全ての情熱は、攻撃においても防衛においても、唯一つの戦闘法より他には知りませぬ。即ちそれは「あれか、――これか、」「一切か、無か、」! であります。「断乎として立って最高をかちうるか、それとも又いさぎよく退いて戦場を明け渡すか」を主張いたします。その言う所、尤もな物があります。而るに、之に反してもし人がキリスト教の名に於いてより高い愛を説く一方、同時に又自然の恋と友情とを讃美するとき、一つの矛盾が生じます。これはキリスト教にとって迷惑であると共に、同じく異端主義や詩人らにとっても有難からぬ事であります。その様な説をなすものは二重に裏切りを犯すものであります。彼は詩人の精神を有ってはおらず、と言って又キリスト教の精神をも有ってはおりませぬ。精神の事を語る場合には人は、(もし愚昧に渡ることがないためには、)小間物商人が商品棚に上等の品と中等の品を揃えていて、中等品をも上等品と同じ様に立派だ、いや、同じく上物だと客にすすめる様な言い方をしてはなりませぬ。否、先にも述べました様に、キリスト教の教示によれば神と隣人とに対する愛こそ真の愛であると言う証明によって、それは又自然の愛と友情とを王座より退けたという結果を生じます。まことに『それは神の認識に対して抗う全てのものをその高みより落し、全ての思想をとらえて心服せしめたるがごとく』なすでありましょう。
もしキリスト教があの混乱した無意味な妄談にしかすぎぬとすれば、大体多くの擁護論というものは、そうしたがるものなのですが、(攻撃よりも悪い場合があまりに多いのです)すると、凡そ新約聖書全体を通じて詩人が歌い異端の教えが神格化しているあの愛について一言も言われていないことは、不可解なことではありますまいか? 新約全体を通じて詩人がうたい、異端の教えが尊重するあの友情について一言もふれていないとは奇怪なことではありますまいか?
或いは、一かどの詩人を以って任じている詩人をして、新約聖書が一体愛について何を教えているかを探究させていただきたい。彼はその中に詩人をして感激せしめる様な一言をすら発見できないで、絶望を感じることでありましょう。例え又所謂詩人がその中に、自分の役に立ちそうな一言を発見したとしてもそれはむしろ虚偽的な誤用のためであり、暴力的な行為のたぐいであります。なぜなら彼はキリスト教を尊敬する代りにその高貴なる言葉を恣意的な利用のために私蔵しようとするものだからであります。又詩人をして新約聖書の中に友情について、詩人の意を迎える様な一言でもあるか、探索させて見られるがよい。彼は徒労な探索のあまり絶望に到るに相違ありませぬ。しかしもし隣人を愛そうという一人のキリスト教徒に探求させて御らんなさい。まことに彼は探求して、徒労に終るという事はありませぬ。彼は彼の胸の中にこの愛の炎をもえ立たせ、この愛の中に彼自らを確守すべき言葉の一言、又一言、一言は更に又一言よりも強大になってゆくのを発見するでありましょう。
詩人は徒らに探求するでありましょう。しかし、では詩人は一体キリスト教徒ではないのでありましょうか? 我々はそういう事を言ったのではなく、又言っているのでもありませぬ。我々はただ彼が詩人である以上、キリスト教徒ではないと言っているだけであります。しかし、ここには、勿論差別が為されねばなりませぬ。敬虔な詩人だってあるのです。所がこの詩人等は恋人に対する愛や友人に対する友情などを歌っていませぬ。彼は神の栄光のために信と希望とを歌います。又信仰と希望との姉妹である愛について歌います。而もこの愛をうたうとき、詩人がその恋をうたうときの様にうたうのではありませぬ。なぜなら隣人への愛は歌うべきではなく行うべきものなのでありますから。たとえ詩人が隣人への愛を讃美し、歌うことを何物も妨げるものはないとしましても、あらゆる聖書の中の言葉には、それぞれに詩人を邪魔する様な誡言が目に見えぬ文字をもって書き添えられている、ということでもう充分の妨害となるのではありますまいか――「行ってすぐに行いの上に示せ」と! 一体ここに歌うことを奨める様な調子があるものでしょうか? 敬虔の詩人にとっては、これこそ自分に即した仕事であります。併し世俗の詩人にとっては、彼が詩人である限りにおいて、キリスト教徒でないことが大切なのです。併し我々が一般に詩人というときには世俗の詩人をこそ相手と考えているのです。詩人がキリスト教の世界に生きているから、と言って問題は少しも変更するものではありませぬ。彼がキリスト教徒であるか、ないかは私共は決定することは出来ませぬ。併し彼が詩人である限りにおいて、彼はキリスト教徒ではありませぬ。キリスト教はこの様な永い時代に堪えて来たのですから、キリスト教はあらゆる関係を侵透して来たに違いない、我々全ての人を侵透したのに違いない、と思われるかも知れませぬ。併し之は、官覚の上の錯誤であります。キリスト教が、この様に永い年月に堪え抜いて来たからと言って、それは我々どもがその永い年月をそれぞれ生存して来た、その永い間中キリスト教徒であった、という事にはなりませぬ。
キリスト教において詩人の存在している事、それに詩人のために空け渡された地位というものこそ、正しく、(詩人に対する暴行だの嫉妬的な攻撃などは、キリスト教的な抗議でもなく、詩人の存在に対するキリスト教的な質疑でもありませぬ故)いかに吾々の中の多くのものが先入観に促われてしまうか、又我々は我々自身より進歩してきているのだという危険な自惚れが、いかに吾々の身近に迫っているか、ということについての真剣な警告であります。
なぜなら、キリスト教の啓示は遺憾乍ら耳にすることがあまりに稀有であります、一方、多くのものはみな詩人に耳を傾け、驚嘆し、教えられ、魅了せられています。説教者が説いたことはまことに遺憾乍らすぐに忘れてしまいますのに。詩人の言ったこと、なお、舞台の上で言われたことを人は何と精密に何と永い間記憶していることでありましょう。詩人をなくしたらよい等と(或いは暴力を用いたり等して)言うことは勿論我々の意に背くものであります。こういう事は新しい悟官の錯誤を招くだけであります。たとえ詩人がいないからと言って、一休何の益に立つのでしょうか。キリスト教の中には人生観の中で詩人を代表する様な人々が多数横行しているとき。――詩人を憧れる人々があまりにも多勢いるときに。――併し又盲目的な賢明ならざる熱狂のあまり詩人の作などは読ませたくない等とやりすぎる事はキリスト教徒には希むべきことではありませぬ。同じく又他のものと一緒にもういつもの食物を食べてはならぬ、或いは他のものと交際せず、孤独の寂寥の中に閉じこもって存在すべきだ、等と要求することもよろしくありませぬ。
併し、キリスト教徒たるものは、全て非キリスト教徒とは全然別な方法において理解せねばなりませぬ。彼は他と区別しうるものである事を自ら理解せねばなりませぬ。全ての瞬間をキリスト教の最高の観念の中に、完全に生きるということは人間業には出来ることではありませぬ。それは人間がただ聖餐によってのみ生きることが不可能であるのと同じ事であります。故に詩人をして存在せしめるがよろしい。又二三の詩人らには讃美の念をも許すがよろしい。もし彼が真に詩人であるならそれに値するわけでありますから。しかし又個人個人のキリスト教に於ける場合、その確信について次の点において試みてみてもよいでありましょう。詩人に対してどういう立ち場にいるか。詩人を如何に考えているか。いかに詩人をよみ、いかに詩人に感嘆するか等。ごらんなさい。我々の時代においてはかかる事について、未だ殆んど論ぜられた例はありませぬ。ああ、而も多くのものにとって、かかる考察はキリスト教的でもなく、又真摯さも足りぬものの様に考えられているのであります。理由はかかる事実を問題にしています故に。しかしよく考えて見ますと、人は六日の間この問題にかかり切ることが決して少なくはありませぬ。いやその七日目においても、人は神の問題にかかり合うよりも、むしろこの事に従事している方が多いのであります。併し我々の慰さめとしていますのは、(我々は小児の頃からキリスト教の中に育くまれ、教えられて来ている事、又成年になってからも我々の時間を最善の努力をあげてその勤業のために懸命してきていることであります。尤も私どもはいつも「役僧的な力を抜にして」説くということを繰り返し言ってはおりますけれども。我々はいかに、かかる時代において説かれねばならぬかを存知していること、又(これはなお一層重大なことでありますが)我々の時代には、一体何事について説かれねばならないか、を心得ている、ことは、我々の慰さめとする所であります。我々は全てみなキリスト教の洗礼を受け、その教えを受けてきています。従ってキリスト教を拡めるという事は今問題にはなりませぬ。他面、又我々は自分からキリスト教徒であると名乗っている所の者を彼はキリスト教徒ではないという判決を下そう等とは元より思ってはいませぬ。従って非キリスト教徒に対して我々のキリスト教を告白しよう等という事も問題にはなりませぬ。併し之に反して各々の人が注意深く意識して、己れ自らを反省し、そして出来うるならば、他の者が(一人の人間が他の人間を助けうる限りにおいて。真の助援者は神であります)より深い、一層深い意味においてキリスト教徒となる様に援助することは必要でもあり、有益なことでもあります。
全体の国民を呼ぶ一般名称としての「キリスト教」という言葉は、一つの名題であり、兎角あまり多くのことを意味しすぎます。従って個人にも亦自分自身にとっても、大したものだ等とつい自惚れさせる様な結果をひき起し易いのであります。街道に行くと一般の習慣にならって、この道は一体どこへ行くのか、を示している道標が立っています。多分人は旅程のふみ出しの第一歩に先ずこの道標にぶつかって、この道は旅行の最終の目的地へ通じているものであることを知るでありましょう。が併し、それだからと言って人は既に目的地に到達したことになるのではありませぬ? 「キリスト教」という道標においても同じ事であります。それは行くべき方向を指示しています。が、それでもう人は目標地に着いたことになりうるでしょうか? それとも人は未だ未だ途上にあるのではありますまいか? あるいは又、人が毎週一時間だけ、言わばその道路標の前に佇むことにしているのですが、一方六日間というもの全く別な観念の世界に生きているとき、大いに旅程ははかどった、と言いうるものでありましょうか? 一体全てがどういう関係にあるのであるか、自分をそこにおいて理解して見ようとする試みさえもしないでいるとき、果して先へ進むことができるのでありましょうか? 又人が、事実とその様々な環境との真の関係について沈黙しているのは、特別な真摯さの証拠なのでありましょうか? 而も後に非常な真面目さを以って、真面目なことについて説こうと言うのであります。その真面目さを混乱した外部の環境の中に持ち込まねばならぬと言う。所が、その真面目な真理に対して、環境との関係などは人はあまり真面目であるために少しも簡明してはくれないのであります? 一体どちらがより困難な課題を負うものでありましょう。真面目なことについて――併し恰かも蜃気楼の様に、日常の生活から無限の距たりを以って講演する布教師でありましょうか? それとも、この教えを実践せねばならぬ教え子らでありましょうか? 真面目なことについて沈黙することのみが詐疑でありましょうか? 併し、又それを勝手気ままに、而も現実の日常の生活とは何としても相応しない照明の下に、人に説き、写生することは同様に、危険なる詐疑ではありますまいか? 併し事実として全世俗的な生命がその絢爛さ、その享楽、その魅惑が一人の人間をかくも多様の方法において魂を奪い、捕虜とすることができうるとするならば。かの真面目と称するものは一体何物でありましょうか。まじめさの余り寺院においては、世俗的なことは敬遠すると言うまじめさとは? 或いは人は人を世俗的なものの危険に対して出来うる限り守らねばならぬと真面目に説いています事? 一体、荘重に又真にまじめな方法によって、世俗的なことについて語ることは実際に不可能なのでありましょうか? そしてもし、それが不可能であるとすれば、虔信の教えにおいてはその事については沈黙しなければならぬという結果が生ずるのでありましょうか? いや結果として生じることは、神に祭司するときにはかかる真摯さは、最も荘重に禁止されねばならぬと言うことでありましょう。
詩人に於いて、そこで我々はキリスト教の確信を試すことにいたしましょう。詩人は愛や友情についても何を教えようと言うのでしょう? ここでは誰とか、彼とか、決った詩人を相手に言っているのではなく、「詩人」を問題にしているのであります。即ち、詩人として、自分と課題に対して信実である限りに於いての詩人を問題にします。もし所謂詩人が自然の愛と友情の詩的価値に対する信念、それを詩的に描写することの可能性に対する信念を失い、その代りに他のものをもって置き換えた場合、彼はもはや詩人ではなく、彼が自ら掲げる所の新風なるものも又キリスト教的なものではありませぬ。全体ただまがいものにすぎませぬ。
自然の愛は本能の上に立つものであります。本能は個人の愛情にまで浄化されてこの世界全体の中での恋の対象は唯一つより他にない、又唯一にして不回帰の恋こそ愛であり、第二の恋は愛でない、という。この点にその最高にして、無条件(詩人の批判によれば)にも唯一の表現を発見するのであります。(格言には、『一度は二度とない』と言う。しかし、ここでは之に反して、この一度こそ、無条件に一切なのです。第二のものは無条件に、全体の破滅を意味する)之は詩であります。その高い調子はどうしても情熱の強烈な表現の中にあらねばなりますまい。「生きていようか、生きていまいか。」二度目に恋するということはもはや恋というべきものではなく、詩にとっては外道なのです。所謂詩人が私どもに恋は同一の人間においては繰り返すものだと思い込ませようとするとき。又所謂詩人がその小才の利いた荒唐無稽をふりまわして、おぞましくも情熱の不可解さは知性の「何故」の中に解説しつくされるものだと主張するとき、彼は真の詩人ではないのです。又彼が詩的なものの代りに置く所のものも、キリスト教的なものではありませぬ。キリスト教の愛は全ての人間を愛する事、無条件に全てのものを愛する事を教えます。この様に無条件に決定的に愛することは、自然の愛なら唯一つの愛の対象に対してだけ許すでありましょう。同じ様に決定的に、無条件に、キリスト教の愛はその逆の方向にも運動するのであります。もし人がキリスト教の愛において愛したいと思っていない、或る一人の人について例外をつくろうと思ったとしたらこの様な愛は「キリスト教の愛」ではないのであります。無条件に決してキリスト教の愛ではありませぬ。併しここにも亦なお所謂キリスト教の中の混乱があります。
詩人らは愛の情熱を衰弱させてしまいました。彼等は譲歩します。(緊張し切った満月の情熱は、彼等にとってはもはや存在しないのです)。彼等は拒否します。(即ち賛同することによって)。そして次の様に言うのでありましょう。人間は自然の愛においては数回は愛しうるであろう。それ故に愛しうるという人は数人ありうるのであると。
又キリスト教の愛も譲歩します。(永遠の満月の緊張はもはや彼等のためには存在しないのであります)又拒否します。そして言うでありましょう。もし多数のものが愛せられるとすれば、これこそ、キリスト教の愛なのであると。この様にして二つ乍ら、キリスト教的なものも詩人的なものも、混乱させられてしまいました。その代りに登場する所のものは詩人的なものでもなければ又キリスト教的なものでもありませぬ。情熱というものは常に第三者を無条件に拒絶するという特性を有っています。と言うのは、即ち第三者は「混乱」させるものだからであります。情熱なくて人を恋するということは不可能であります。それ故、自然の愛とキリスト教的な愛の差別は情熱の度において存するのではありませぬ。二つの情熱そのものが永遠に相違したものである、という点に於いてのみ存します。自然の愛とキリスト教の愛についてその他の差別は考え得られることではありませぬ。それ故にもし或る人が人生というものを同時に詩人とキリスト教と二つを通じて理解しうると考えたとすれば、而も彼の人生がそれによって一つの意味を有ちうるかの様に――彼は正に蒙昧の人と言うべきであります。詩人の説く所と、キリスト教の曰う所とは、互いに相反背衡し合うものであります。詩人は自然の愛情を神の様に讃えます。それ故に詩人が(彼は常に自然の愛だけを考えています故)愛を命令しよう等という事は愚の骨頂であり、背理も甚だしいと主張するとき、正当な理を有っているのであります。キリスト教は(いつもキリスト教の愛だけを考えている故)自然の愛情をその王座より追放し、かの「愛さねばならぬ」愛をその王座に即けるとき、之も亦徹頭徹尾正理をえているのであります。
詩人とキリスト教とは正に相背馳する二つを主張するのであります。或いは、もっと精確に言えば、詩人は元来何も主張するものではありませぬ。恋と友情とは謎の中に謎として説いているのでありますから。キリスト教は不滅の意味に於ける愛とは何かの理を説くのであります。これを以ってしても、同時にこの二つの主張に従って生きるということは不可能であることが解りましょう。この二つの説の間の能うる限りの最大の背理は何であるかと言えば、その中の一つは元来課題ではないこと、他のものは課題であることにあります。
詩人が説く所の恋と友情とは、それ故に何ら倫理的な課題を有ってはおりませぬ。恋と友情とは幸福であります。それは詩人に言わせれば、幸福であり、(まことに、詩人は幸福を理解することにかけては、遺憾ありませぬ)最高の幸福であります。愛せられる事、又唯一人の恋人を見出すという事、又唯一人の友人を見出すことは幸福であります。いや同じ程に偉きな幸福であります。ここで課題となりうるものありとすれば、それはただ人はその幸福に対して充分に感謝するがよいと言うこと位でありましょう。之に反して恋人を或いは友人を見出さねばならぬという事は決して課題とはなり得ませぬ。その様な事の不可能である事は詩人は再び充分に了解する所であります。問題は即ち幸福というものは人に課題を与うるものであるかどうか、という事に依存します。併し道徳的に理解するとき、何の課題もそこには存在しないことが之を以って言い表わされているのであります。
もし之に反して人が隣人を愛さねばならぬとき、そこに課題が生じます。道徳的な課題――凡そあらゆる課題の根本とも言うべき課題であります。キリスト教的なるものは、即ち真に道徳的なるものである故に、凡て思考を簡略し、煩雑な序言を捨断し、全て永い期待を取り払い、全ての時間の浪費を除払することができます。キリスト教的なものは即座に課題に直面することを以ってその特質とします。なぜなら課題に即しているのでありますから。何が最高のものであるかについて、世俗では激越に論争しています。何がその名を以って呼ばれうるのであるか、何物がこの優越に値するのであるか、兎に角――何れにしてもそれを理解するために何と限りなく冗漫な手続きが結合されてついてこなければならぬことでありましょう。真に信じ難い煩瑣なものがあります。
キリスト教は之に反して即刻に最高に到る最短の道を示すことができます。――「汝が戸を閉じて神に祈る」がよい。神こそまことに最高のものであります故に。もし人が恋人か、友を探し求めるために、世の中に出かけて行きます、と多分彼は永い永い道を行かねばなりますまい。――徒らに行かねばなりますまい。全世界を歩きまわり、いや、徒労に歩き廻らねばならぬことでありましょう。キリスト教は併し、ある人に対したとえ一歩であろうとも徒らに歩かせるという罪を犯す事はありませぬ。なぜなら、あなたが神に祈った後でその戸をあけて外に歩み出るとき、あなたが出会する最初の人こそ、あなたが「愛さねばならぬ」隣人でありますから。奇体な事ではあります! 好奇心からか、或いは迷信にかられてか、ある少女は恐らく自分の未来の運命を知りたい、自分の未来の夫を見たいと希うことでありましょう。すると欺瞞的な智慧は彼女にもしこれこれの事をすれば、彼女がこれこれの日にめぐり合う最初の人こそ、その目ざす人に相違ない等と思い込ませたりします。
隣人を見るためには、この様な煩らわしい難儀はどこにも見当りませぬ。もし、その人自らが隣人を見ることの妨げとなるのでなかったとしたら。なぜなら、キリスト教は隣人を見損うということは永遠に不可能な事にしてしまったからであります。全世界に於いて隣人ほど認識するに確実で容易なものは他に何もありませぬ。又あなたは隣人を決して他のものと混同することは出来ませぬ。隣人即ち人間全体なのでありますから。もしあなたが他の人と隣人とを取り違えるとき、その過失は決して隣人にあるのではない。なぜなら、他の人も亦隣人なのでありますから。過失はむしろ隣人とは何人であるかを理解しようとせぬあなた自身の中にあります。もしあなたが暗闇の中にある一人の人の生命を救ってやったとする。あなたの友人であろうと思って救ったのでした。ところが、それはあなたの一人の隣人にすぎませんでした。この場合、それは決して、救い損いではありませぬ。もしあなたが、ただあなたの友人だけを救おうとしたのなら、それはあなたの過失となったでありましょう。もしあなたの友人があなたのつかみ損いによって、あなたが唯彼にのみ果すべきであった(友人の考えによれば)事を隣人のためにつくしたと言って非難するとすれば、あなたは残念ですがその様な事には耳を藉さぬでもよろしい。過失はあなたの友人の側にあります。
それ故に詩人とキリスト教の間の論争の点は精確に言うと次の様になります。自然の愛と友情とは「偏愛」、情熱的な偏愛であります。キリスト教の愛は、あなたが「愛さねばならぬ」その愛は「自己否定の愛」であります。偏愛の情熱の窮極の帰結は唯一人の人を愛する事であり、自己否定の献身の窮極の結果は、唯一人と雖も拒まぬ愛にあります。この何れも両つ乍ら意味を有つものであります。而るに情熱を弱めたり、この相反を払拭したりすることは意味のない事でもあり、徒らに混乱をかもすだけの話であります。
キリスト教の教えを人生のために理解しようと真面目に考えた以前の時代の人は、キリスト教は自然の愛に反するものを有っている。なぜなら自然の愛は自然の本能の上に根ざしているものだ。キリスト教は自然の愛を官能として憎むものである。なぜならキリスト教は精神であり、精神と肉とを相反するものだ、と考えました。
之は併し誤解であり、あまりに緊張しすぎた精神でありました。容易に解ることではありますが、キリスト教はあまりに度をすごした精神的な人間を養って、人間に官能をけしかける様な事をするには、あまりにもはるかに理性的なのであります。ペテロも言ったではありませんか。淫慾に悩むよりは結婚した方がましであると! いや、キリスト教は真に精神であります。故に、それは官能において人がわけもなく官能と呼び習している所のものとは別のものを理解します。人間に糧と飲物とを禁じよう等とは思わなかった、と同じ様に、人間の本能に対して攻撃を加えよう等とは思ったことはありませぬ。本能は人間が自分に与えたものではないのですから。
官能的なもの、肉感的なものをキリスト教は利己的なものと解釈します。精神と肉との間の相剋などは考えられることではありませぬ。ただ肉体の側の方に反撥的な精神がある場合、それと精神が争わねばならぬ事は仕方がないとしましても。同じく又精神と一塊の石との間の抗争、或いは精神と一本の樹との争いなども同様に考えられる事ではありませぬ。即ち、利己的なものと官能的なものは同じ物であります。情熱を有った偏愛、或いは情熱的な偏愛は元来、利己愛の一つの変形であります。それ故にキリスト教は自然の愛や友情に対して不信を抱くのであります。御らんなさい。このことについては異端主義は又、曾て夢見たことすらないのであります。異端主義は未だ曾て「愛さねばならない」隣人に対する自己否定的な愛について予感すらも有ったことはありませぬ。それ故に次の様に言います。利己愛は拒否されねばならぬ。なぜなら其れは、利己愛なのであるから。愛と友情と、即ち情熱的な偏愛こそ愛なのであると。キリスト教は既に愛の何であるかを明かにしました、が又次の様に別の言い方もします。利己愛と情熱的な偏愛とは本質に於て同一のものである。併し隣人に対する愛こそ真の愛なのであると。恋人を愛することが人を愛する所以なのであろうか? と、キリスト教は訊ねます。又つけ加えて言います。「異端のものも亦、恋はするのではないか?」友人を愛する事、即ち愛することなのであろうか、とキリスト教は訊ねます。「異端のものも亦、之を為すではないか?」と言って、もし人がキリスト教と異端主義の差異を、キリスト教に於いては恋人や友人が異端主義に於けるよりもはるかに、特別に、真実に心から愛せられることにあるのだ、と言おうとしたら、之は誤解であります。異端主義も恋や友情においては完全ないくつもの例を有っているではありませんか? 詩人たちはそれに省みて学ぶ所がなかったでありましょうか? 併し、何人も異端主義に於いては隣人を愛することはしませぬ。その隣人の実在に就いて何人も予感すら有ってはいませぬ。故に異端主義が利己愛の対蹠的なものとして愛と呼んだ所のものは偏愛に他なりませぬ。しかし情熱的な偏愛は本質的に言えば利己愛の変形にすぎませぬ。そこでここにも亦尊敬すべき師父らが言った言葉の真である事が思い当るのであります。「異端者の道徳は輝やかしい罪業なのである」と。
さて次に情熱的な偏愛は利己愛の変形である事、又その逆に、自己否定の愛は「愛さねばならぬ」隣人を愛するという事が示されねばなりませぬ。利己愛と同じほどに利己的に、この唯一の「自己」を抱擁しようとします。それによってこの愛は利己愛なのであります。同様に自然の愛において、情熱的な偏愛は利己的にその唯一の恋人を愛しようとします。同じく友情において、その唯一の友を愛さねば止みませぬ。それ故に恋人と友人とは、まことに適切、而も、意味深く「もう一人の自己」、「もう一人の私」と呼ばれています。なぜなら、最も身近にあるものはもう一つのあなたであり、或いはもっと精しく言えば、同格の代表人でありますから。即ちもう一人の自己であり、もう一人の私であります! では一体どこに利己愛がひそんでいるのでしょうか? 即ち「私」の中に、自己の中にあります。もう一人の私もう一人の自己を愛するということの中に、果して利己愛がひそんでいない、と言えるでしょうか? まことに、何も非常な人間についての苦労人でなくてもよろしい。この痕跡をたどって行くと恋と友情とに関して他人のためには不都合でありますが、ある自己にとっては好都合な発見をすることが出来ます。利己愛のうちに燃えている火焔は自己燃焼の火です。かの「私」が、それ自身によって、己れ自らに点火します。詩人が言う自然の愛と友情の中にあるものも自己燃焼です。人は時に又後に病的な傾向ではあるが嫉妬が登場する場合があると言います。と言うのは自然の愛と友情の根柢にいつも嫉妬がひそんでいる、という理ではありませぬ。試みに、愛する人と恋人との間に、その中間規定として愛さねばならぬ「隣人」という概念を入れて見て下さい。友人と友人の間に中間規定として愛さねばならぬ「隣人」を割り込ませて見て下さい。忽ちそこに嫉妬が生じるでありましょう。所で、その「隣人」こそ、即ち、「私」と利己愛の私との間に、又「私」と自然の愛と友情とにおける「もう一つの私」との間に登場する自己否定の中間規定に他なりませぬ。不信実の人が恋人を捨てようと思い、又は友人を裏切ろうとする事があれば、それは利己愛である事、は異端主義もみとめ、詩人も亦之を理解しました。しかし愛人がその唯一の恋人に己れを捧げようと思い、又彼を縛ろうとする献身が、則ち利己愛に他ならぬ事。それを言うものは唯ひとりキリスト教あるのみであります。然らば、いかにしてその「献身、無限の献身」が利己愛となりうるのでありましょうか? 勿論、即ちもう一人の私、もう一人の自己のための献身としてであります。
自然の愛が愛と呼びなされるがためには、ひとりの人間にどの様にはたらきかけねばならぬか、は詩人をして歌わしめるがよろしい。様々の詩歌のたねはつきぬでありましょう、が、今それには敢えてふれませぬ。やがて詩人はなお次の様につけ加えるでありましょう。「そして愛には讃美が伴わねばならぬ。愛人は恋人を讃美せねばならぬ、」と。
之に反して、隣人は曾て讃美の対象として現わされたことはありませぬ。隣人を讃美せよとはキリスト教の教えにはありませぬ。いや、人は隣人を愛すべきなのであります。恋愛の関係においては相互の讃美が伴わねばなりませぬ。而もその讃美が偉大であればある程、強ければ強いほど、更によしと詩人は言います。さて、或る一人の人を讃美することは決して利己愛ではありませぬ。併し乍ら讃美する唯一の人から愛せられているということ。この恩寵は利己的な仕方で、そのもう一人の私を愛する私の上に還ってくるのではありますまいか? 友の場合においても同じく。他の人を讃美することは成程利己愛ではありませぬ。併しもし人がその讃美せられた唯一の人の唯一の友であるとき、この事は我々が出発の基点としている私の上に怪しくも還ってくるのではありますまいか? 即ち讃美する対象が唯一人の人である事、従って讃美せられたこの唯一の人が他の人を、又彼の愛、或いはその友情、の唯一の相手とする事。之こそまことに利己愛のもつ危険ではなかったでありましょうか?
之に反して隣人を愛することは自己否定の愛であります。そして自己否定は全ての利己的愛を追放すると同じ様に、全ての偏愛を追放します。でなければ自己否定も亦ある差別をつくるでありましょうし、偏愛に対する偏愛を抱く様になりましょう。たとえ情熱的な偏愛は利己的なものを少しも有っていないとしましても、矢張偏愛の中には意識的或いは無意識的な我意を有っているでありましょう。つまり利己的なものを有っているのであります。無意識と言うのはそれが自然の力である限りにおいて、なのであり、意識的というのはこの自然力に自分の意志を以て無限に献心する故なのであります。自分の「唯一の愛の対象」に対する情熱的な献身に於いて、たとえ我意がどの様にかくされ、どの様に自覚されていない事があったとしても、自意的なものは矢張そこに在るといわねばなりませぬ。その唯一の対象はあの王者のごとき法則「汝は愛さねばならぬ」に従順に信従することによって見出されたものではなく、選択によって見出されたのであります。即ちその唯一の人が無条件に選ばれたことによって。キリスト教の愛も亦唯一つの対象を設けます。即ち隣人という。併し隣人は決して唯一人の人間ではあり得ませぬ。絶対に。なぜなら、隣人とは全ての人間であります。愛人か或いは友人が(それを聞くことは詩人にとって快楽であります)この全世界に於いて唯一人の人間しか愛しえない、と言うとき、この異常な献身の中には又異常な恣意が在ると言わねばなりませぬ。愛する人はこの猪突盲進において、この無限の献身において、本来ただ自己自身に対する利己愛の中にのみ終始します。この我儘なこの我意的なものこそ自己否定の愛は不滅者の「汝は愛さねばならぬ」によって絶滅しようとします。そしてこの利己愛を審問するために、裁断しつつ突入する自己否定の愛は言わば両刃であるため、両つの面に向って、同じ様な切れ味を示します。即ちそれは人が不信実な利己的愛と呼んでよい利己の愛が存在することを、よく知っています。併し、又同じくそこには「献身的な利己の愛」と呼ばねばならぬ利己的愛も存在することを知っています。従って自己否定の課題も、この利己的愛の二つの相異った形体に対応してそれ自身に於て二重なのであります。
自ら脱れようとする不信実な利己愛に向っては次の課題が提出されます。「献身的であれ。」献身的な利己愛に対しては次の課題が提示される。「汝が献身を止めよ」と。詩人にとってこの上もなく気に入っている、あの愛する者の言葉「私は恋人以外の何者をも愛することはできぬ。私はこの愛を捨てることは不可能です。もし私が彼女を捨てねばならない様な事があったら、私も生きてはいますまい。私は恋のために死んでしまうでしょう。」こういう言葉こそ愛にとって少しも気に入りませぬ。かかる献身が愛という名によって貴ばれている事すら我慢できぬのであります。なぜならこれこそ利己的愛に他ならぬのでありますから。自己否定は先ずこの様に審判を下します。而る後に課題を掲げるのであります。「隣人を愛せよ。隣人をこそ愛さねばならぬ。」
凡そキリスト教の教えのある所、そこには自己否定があります。自己否定こそキリスト教の本質的な形態なのであります。キリストの教えの関係に入ろうと思うものは先ず何よりも純真でなければなりませぬ。自己否定とは人が不滅の意において純真となる変化に他なりませぬ。
凡そ、併し、キリストの教えの届かぬ所には利己感情の陶酔こそ最高のものであり、この陶酔の極致は即ち讃美だと言っています。恋と友情とは正にこの利己感情の極点であり、「私」は即ち「他の私」によって酔い痴れるのである。この二個の「私」が一つの「私」に融合することいよいよ緊密でありいよいよ不抜のものとなるとき、一層この統合せられた「私」は他の全ゆるものに対して利己的な蓋を閉じるでありましょう。恋と友情の極致においては、二人は真に一つの自己を成し、一つの「私」をつくります。それは、偏愛というものは端的な自然の生命の一つの形体として(本能、愛情など)利己愛を有っていること、又利己的に二つの自己を一つの新らしい「利己的自己」に統合することができるという事からのみ説明せられましょう。
精神的な愛は之に反して、全て自然的なもの、全て利己的なものを自己の中から遠ざけてしまう。故に隣人への愛は、私を統合した自己において、隣人との共有体、をつくることはありませぬ。
隣人への愛は各々それ自身において、永遠に精神として規定せられている二人の人間間の愛であります。即ち精神の愛であります。精神と精神とは決して利己的な意味に於いて一つの自己になることはありえない。自然の恋と友情とにおいては二人の人間は相違していることによって愛し合うか、又は相違の上に立つ相似性によって愛し合うかであります。(例えば、二人の友人が同じ道徳、同じ性格、同じ職業、同じ教養、等々によって愛し合う様に。即ち他の人々と彼等とを区別する同一性の基礎の上に、或いは他の人々に対するとき彼等を相似ならしめる同一性の上において)。未だその二人の内何れの者も精神的な「自己」という意味において「彼自身」になってはいませぬ。未だその何れの者もキリスト教の意において己れ自身を愛する事を学んだものではありませぬ。それ故にこそ、二人のものは利己的な意において一つの自己を成しうるのであります。
愛において、かの「私は」官能的――心的――精神的に規定されており、恋人は又官能的――心的――精神的な規定を受けます。友情において自我は又心的精神的に規定され、友人は心的――精神的な規定であります。ただ隣人に対する愛においてのみ愛する所の「自己」は純粋に精神として精神的に規定せられます。そして隣人は純粋に精神的な規定であります。それ故に愛と友情について先にもいわれた様な事は、ここには全く通用性をもってはいませぬ。即ち利己的な愛から回癒されるためには、唯一人の人を隣人として認識するがよい。この人の中に隣人を愛することを学ぶであろうから、と言うのです。――なぜなら恋人において、或いは友人において愛せられるものは隣人ではありませぬ、――もう一人の「私」であり、或いは「第一人者としての私」であり、「私」が一層高く愛せられるのであります。利己愛はかくも忌わしいものではありますが、而も人間は、「利己愛」だけで生きる力は有っていないかの様であります。従って利己愛はもう一人の私が見出されたとき、始めてその本性をあらわします。そして二人は相互の同盟の下に、利己愛の中に己れ自身を感じるだけの力を見つけ出します。もし人が恋をしたとき、或いは一人の友を見出したとき、キリストの言う愛を発見した等と思い込んだとしたら大変な錯誤を犯すものだといわねばなりませぬ。
併し人は恋人を愛するとき、まことに隣人の愛の誡命が命じる様に「己れ自らのごとく」人を愛するではありませぬか? 慥かに、その通りであります。併し、彼が「己れ自らのごとく」愛している所の恋人は、かの隣人ではありませぬ。恋人はつまり、「他の私」なのです。たとえ我我がいかに「第一の私」について、又は「他の私」について語ろうとも、それによって我々は隣人に一歩たりとも近づくことは出来ませぬ。なぜなら隣人とは「第一のあなた」なのでありますから。
又自分だけを愛する人間は、もう一人の私をも愛するでありましょう。もう一人の私、即ち彼自身なのでありますから。これこそまことに利己愛に他なりませぬ。同様の意において「恋人」であり「友人」という形ちをとっている「もう一人の私」を愛することも、利己愛に他なりませぬ。そして利己愛が「自己崇拝」の名を冠せられます様に、恋と友情とは、(詩人の歌う様に――これらの愛は詩人らの心と共に生き又亡ぶものであります)「偶像崇拝」にすぎませぬ。
なぜなら、終局の意において神に対する愛こそ、決定的なるものであります。隣人の愛はそこに由来します。この事について異端主義は何の予感すら有ち合せていませぬ。人は神を蔑ろにし、恋と友情を以って愛であると言い、利己愛を軽侮しました。併しキリストの愛の誡めは次の様に言います。神を全てのものよりも一層高く愛すること、かくて隣人を愛すること。恋と友情に於いて、その中間規定となるものは偏愛でありますが、隣人への愛においては「神」であります。神をこそ全てのものをこえてなおよく高く愛すべきであります。かくすればあなたは又隣人をも愛することになり、又隣人において全ての人を愛することになります。ただ人が全てのものよりもなお高く神を愛するときにこそ、他の人において隣人を愛することが出来ます。他者とは隣人であり、又隣人とは、全て他の人が他の人である、という意において、他の人であります。即ち他者において隣人を愛するとき、全ての人を愛することになるのだ、と先にいったことは飽迄も正しかったと言わねばなりませぬ。
それ故に、隣人の愛にとって本質的である事は、個人についていかなる差別をも、いや、些の差別をも為さぬ事にあります。自然の愛において本質的であることは、個人について差別を為すことであり、情熱的であればある程、一層大きな区別をすることにあります。この事は今更進んで追究する必要もありませぬ。
キリスト教が「汝は愛さねばならぬ」の誡を以って自然の恋と友情とをその王座より追放したとき、それらに代ってはるかにより高貴のものをその王座に即けなかったでありましょうか? 勿論、はるかに高貴のものを王座にのぼせました。――併し、かく言うとき我々はある注意深さを以って言わねばなりませぬ。真の信仰ある注意を以って――人はキリスト教をいろいろな仕方に於いて混乱させました。が、殊に最高のもの最も深奥のもの――これがキリスト教であると言う、――に関する説をなして、それがため、キリスト教的なものに対する純人間的なものとの関係が恰かも最高のもの、至上のものに対する、高貴なもの、より高貴なものとの関係と同一であるかの様な錯覚を起させたことであります。ああ、これこそまことに偽瞞の説。――不信にして破廉の法を用いて、キリスト教をして人間の知識慾と好奇慾を釣らしめようと謀るものであります。恰かもそれがキリスト教の意にかなうかの様に。かくのごとき人間、或いは自然のままの人間を誘惑にかけること、所謂「最高」のもの、ほど甚だしいものがありましょうか? 新奇をひさぐ小間物屋風情は最新流行の新品は「最高のもの」である、と大いに喇叭を鳴らすがよろしい。彼は以前からもう名状し難い偏愛と深い本能とを(それも、あざむかれたいと言う)有っている世間において、大いに千客万来を博するであろうと確信しているのでありますから。
まことに、キリスト的なものは言う迄もなく最高のものであり、至上のものであります。しかし、注意せねばならぬのは、自然的な人間にとってむしろ反撥せねばおられぬ様なものなのであります。もし人が、キリストの教えを最高のものと定義して、その反撥するものの中間規定を見落したならそれはキリスト教に対して罪業を犯すものであります。その厚顔無恥なることは、恰かも尊敬すべき一人の主婦が娼婦の装いを着けようとするよりもなお嫌悪すべく、峻厳な裁断者たるヨハネが一流行児の服を着けようとするよりもなお怖るべきものがありましょう。キリスト的なものは、この様なより高いものだとか、最高のものだとか、至上のものだとかいう耳障りな甘言にのって愉快におどりはねるためには、それ自身において、あまりにも重々しく、その運動において又あまりにも真摯であります。キリスト的なるものへ行く道は反撥の門を通らねばなりませぬ。キリストの教えの入門が、その教えに対する反撥に在ると言うのではありませぬ。(キリストの教えをつかむことを妨げとなる様な)併し反撥は、キリスト的なものの入口を守る番兵として立っています。その番兵に反撥しつまずかぬものがあれば、まことに幸い至極と言わねばなりませぬ。
隣人を愛せよ、という誡めにしても同様の事が言えます。正直に告白して下さい。或いは、もし、それがあなたの心に障碍となる様な事があってはいけませぬ故に、私の方から告白いたしましょう。この愛の誡めを充たすこと、は私を屡々反撥せしめましたし、只今に於いてもなおその掟てを果《はた》しうるかどうか、少しも確信を有ってはおりませぬ。この誡めは、正に我々の血と肉にとって反撥するものであり、知性から見ればまことに癡愚なるものでありますから。恐らく、あなたが人の言う教養ある者であるなら、かく言う私も亦その範型に属するものであります。併しもしあなたがその「教養」を以ってこの「最高のもの」に接近しうる、等と思ったら、錯誤も甚だしいと言わねばなりませぬ。ここに過ちがあります。
凡て教養を希まぬものとてはありませぬ。――又教養は常に「最高」を口にしています。たった一つの言葉を覚え込んだ鳥だってこんなにはその一つ覚えの言葉をくり返しはしまいし、どんな鳥だってこの様に不断に自分の名のりをあげているわけでもありますまい――教養が「最高」ということを絶えず口にしているほどには。
キリストの教えは決して教養の言う「最高のもの」ではありませぬ。正にそれは反撥に人を追い落すことによって教うるものであります。その事は容易に了解せられることと思う。あなたの教養はあなたに、隣人の愛を教うるものであったでありましょうか? 或いは、人間の教養病が曾て隣人を愛する様に、人を導いたでありましょうか? ああ、教養と教養癖とは、むしろ、遺憾乍ら教養あるものと、教養なきものとの間に、新しい差別を、新しい間隙を、つくったのではなかったでしょうか? 教養ある者たちの間で恋と友情とについて、何を語っているかを注意して見られたがよい。友人とはある一定の教養の段階に属する者でなければならぬ。娘は教養をもち、而も、しかじかの教養を有っていねばならぬ、等。又強大な教養のテロリズムのために殆んど自分ののびのびした気持を吐露することもできないでいます。愛の力すら信ずることも出来ない、従って多種多様な不平等によって人生の中に打ちたてられたあらゆる障壁を打ち毀すことすら出来ない詩人らを研究してみられるがよい! 而もなおあなたはこれらの説、この詩、或いはこの小説や文章にのっとった人生が、人間をして隣人を愛する様に近づけしめたと信ぜられるでしょうか? ごらんなさい。ここに又しても反撥の前兆が監視に立っています。それから又いかにも教養が高いと言って讃嘆し、誇らずにはいられぬ、最も教養高い人を考えていただきたい。そして又、彼にかく告げるキリスト教について考えてみて下さい、「汝は隣人を愛さねばならぬ」と。
交際上のある種の優雅さ、全ての人に対する慇懃さ、目下の者に対する親切な謙遜、権力ある者に対する自由不覊なる態度、立派に持せられた精神の自由。そうです、これらこそ教養と言わるべきものなのであります。これも亦「隣人の愛」であると信じようとされるのでありましょうか?
隣人とは全ての人が平等に「ある」所のものを言います。隣人とはあなたが情熱的な偏愛を抱く所の恋人ではありませぬ、又あなたが情熱的な偏愛を傾ける友人でもありませぬ。隣人とは又あなたが教養人であるとき、あなたと教養を同じくする教養人でもありませぬ。隣人とあなたを結ぶものは、神の前に出たとき全ての人間のもつ平等、のみであります。隣人は又あなたよりも、より高貴な人を指すのではありませぬ。と言うのは即ち、もしその人があなたよりもより高貴である限り、あなたの隣人ではありませぬ。自ら高貴のものである故に高貴の者を愛することは、きわめて容易に偏愛となり、従って利己愛となるでありましょう。又隣人はあなたよりも、より劣ったものではありませぬ。と言うのは、即ち、もし彼があなたよりも劣ったものである限り、彼は隣人ではありませぬ。彼はあなたよりもより劣ったものである故に、より劣ったものを愛するとき、それは又きわめて容易にへり下った所の偏愛となり、その限りにおいて利己愛となりうるからであります。いや、隣人への愛は、凡そ個人に対するいかなる敬意をも区別しませぬ。より高貴の者に対するあなたの立ち場について言えば、高貴の者の中に隣人を愛さねばならぬことこそあなたを勇気づけるでありましょう。より劣ったものに対するとき、それはあなたに取って謙遜せねばならぬことを意味します。
あなたは彼の中にある劣ったものを愛するのではなく、あなたが「愛さねばならぬ」隣人を愛するのでありますから、全ての人、皆隣人に他なりませぬ。なぜならば、他のものと差別をもっていることによって、人生があなたの隣人であるのではありませぬ。又他の人と差別をもっているという点において、あなたと同様であるというので、あなたの隣人となるのでもありませぬ。彼は神の前に於いて、あなたと平等であることによって、あなたの隣人なのであります。而もこの平等さは全ての人が無条件に有つ所のものであり、各人はみなその平等を無条件に所有しているのであります。
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第四の章 「汝は隣人を愛すべし」
では先ず行って実践なさるがよい。隣人を愛すために、人間の間に横たわっているあらゆる平等も、不平等も滅却せねばなりませぬ。隣人を愛しうるがためには、あなたはあの差別をする偏愛を捨てねばなりませぬ。と言って、それ故に恋人を愛することを止めよ、と言うのではありませぬ。絶対にありませぬ。もしその様な事が言われるとすれば隣人の概念は、凡そこれ迄人に考えられたものの中での、最大の欺偽となるでありましょう。もし、またあなたが、偏愛の心を抱かないではおられない人々に対する愛を捨てることによって、隣人を愛することを始めねばならぬ、と言うとき。――之も亦一つの矛盾でありましょう。隣人とは全ての人間を意味するものであります故、たとえ何人たりとも閉め出されてはならぬのでありますから! では、特に恋人を閉め出すことをしてはならぬのでしょうか? いや、それも亦違う。それは又あの偏愛の言わせる言葉となります。偏愛だけはどうしても除かれねばなりませぬ。偏愛は無条件に除かれねばならぬものであります。それは、次の様な形式の下にしのび寄ってくることをも許してはなりませぬ。即ち、あなたが、いつわりの偏愛をもって、隣人に相対立するものとして、愛しようとするとき。いや、愛の誡命は恋人らが互いに愛し合うことを、恋人に禁じうる筈がありませぬ。
もし未だ何の愛に染まってもいない者に向って、「注意せねばならぬ。利己愛の網の中に陥入らぬ様。」――と言いますとき、人は又、愛に結ばれている者らに向っては、「注意されるがよい。正にあなた方の愛によって、利己愛の網にかからぬ様」と戒めねばなりますまい。なぜならば、偏愛が唯一人の人と、愛として結び合うことが、より決定的であり、より完全であればあるほど、一層それは隣人を愛することから遠ざかってしまうからであります。
夫たるあなたは妻を試みたりすることあってはなりませぬ。妻は、あなた故に、隣人を愛することを怠るか、と! 妻たる人であるあなたも亦、夫をかく、試みたりする事あってはなりませぬ!
恋する人達は、彼等の恋こそ、最高のものであると信じているかも知れませぬ。併し乍らその信実を言えば、――彼等は恋の中に、不滅者によって確証せられた不滅のものを、有っている訳ではありませぬ。成程詩人たちは恋人たちに不滅を約束してくれるかも知れませぬ。――もし彼等が真に愛し合う者らでありますとき。併し詩人とは一体、何者でありましょうか? 愛の保証を立てて何を利せんとするのでありましょうか? 己れ自らのための保証すら出来ぬ詩人たちが? 之に反して、かの「王者のごとき法則」である愛の誡命は、生命を、不滅なる生命を与うることを約します。そして、この誡命とは即ち、「汝は隣人を愛すべし」と言うのであります。而も、この誡命は全ての者に己れ自らを正しく愛する法を教えます。が、同じくそれは又自然のする恋と友情に於いても亦、正しい愛のあり方を指示します。「汝自らを愛に於いて、隣人の愛を生かせよ、」又「恋と友情とに於いてこそ、隣人の愛を生かせ」と。
併し、あなたは或いはここに躓かれるかも知れぬ。さて、キリストの教えには、しばしば、腹を立てさせる様なものがついてまわることも慥かです。而もなお信じていただきたいことがあります。まさに燃えつきようとする蝋燭の灯を消そうとすらしなかった師が、人の心の中なる高貴の焔を圧し消そうとするなどとは信じられることでしょうか。元より愛そのものであったかの人こそ、全ての人に愛を示すものであると、信じていただきたい。全ての詩人らが、力を併せて、かの恋と友情とのために、ともどもの讃歌をうたって止めぬとき、而もなお、全詩人らの言おうとすることは、次の誡命とは比較するにさえ足らぬものであることを、信じていただきたい。「汝は愛さねばならぬ。己れ自らのごとく、汝の隣人を愛さねばならぬ。」この言葉を信じていただきたい。たとえその誡命にはあなたの心を憤らせる様なものがあったとしましても。たとえ又私の説は、詩人らがかの恋歌をもってあなたの幸福に取り入る様に、甘く誘惑的にはひびかぬとしましても。たとえそれはあなたのぬくぬくと心持よい偏愛の神秘の中から、あなたを追い出そうとするかの様に、脅迫的に、不快に聞えましょうとも。それ故にこそ、一層信じていただきたい! なぜなら愛の誡命とその説示とは、その様に不快に、怖ろしく、ひびくものであります。それ故にこそ、愛の対象が信仰の対象ともなりうるのではありませんか! いくらかは、寛大に見て貰えるだろう、それで幾何かの人々、親戚のものとか、友人とかに対するあなたの愛は、隣人愛として許して貰えるだろう、等と甘く見つもってはなりませぬ! そうなれば、あなたは、キリストの教えを把握することも出来ぬくせに、又詩人たちをも放棄することになるからです。そして、あなたは、その甘く値切ったものから身を守るために、あなたの説を、丁度、全て値切ったりすることを軽蔑している詩人のほこりと、全ての値切り等を以って原罪であるとする王者のごとき誡命の神の様な権威、との中間に置こうとします。
いや、恋人を、心から、信実を以って愛していただきたい。併し、もしあなた方が自ら神の中に在ることを発見せられたとき、隣人の愛をして、あなた方の婚姻の聖祭とせられる様に。あなたの友を誠実と献身とを以って愛して下さる様。併し、あなた方が、神の中に在る自身を発見せられたとき、隣人の愛について、お互いに学び合う所があってほしいと思う! ごらんなさい。死は凡て偏愛が、よしとして執着する差別なるものを、一切破滅してしまう。而も生命へ、不滅へ通じる所の道は、死をも超え、全ての差別の破滅を超えて、なお往く所に在ります。唯それ故に、隣人への愛こそ、真に生命を得る所の道なのであります。
キリスト教の美しい使命は、神と人間との血縁をとく所に在りますが、同時に、又いかにして神と人とが相似であるかということは、正に提出せんとする課題でもあります。神は即ち愛である。それ故に、私共は愛するときにのみ、神の姿に似ることができます。まことに、私らは、あの使徒の言の様に、ただ愛においてのみ「神の協力者」となることができます。併し、あなたが、恋人にのみ捉われている間は、未だ、神の姿には似てはいませぬ。神には偏愛がないからである。恐らく、あなたはしばしばそのことを考えて、謙譲な心に帰られたことと思う。しかし、又ときには、又そこに思い到って、あなたの信実さを固められたこともありましょう。あなたが友人をのみ愛している限り、あなたは未だ神の姿に似てはいませぬ。神は差別をつけぬものだからであります。あなたが隣人を愛するとき、はじめて、あなたは神に似ることができます。
では行って、其の通り為さるがよい。差別を取り除けてしまいましょう。――あなたが隣人を愛せられる様に。ああ、しかし、その様なことはあなたにはもう、申しあげる迄もない事かも知れぬ。恐らくあなたは、これ迄のあなたの道において、恋人もなく、友人も見出されず、ひとり淋しくおられた、かも知れぬ。或いは又神があなたに、恋人を、友人をめぐまれたのでした。ところが、そこへ死が訪ずれて来て、彼等をあなたの手から奪って行った。そこであなたは今、ひとり、淋しくあなたの道を行くより他に仕方がない。あなたの弱い側面を守ってくれる唯一つの恋もなく、或いはあなたの生の戦いに付添ってくれる一人の朋友もなく。或いは、あなた方は、未だ結婚の夢も結ばず、人生は外々《よそよそ》しく、あなた方を拒否しているかも知れぬ。あるいは、たとえ婚姻はしたのではあるが、内部的には別離してしまった、のかも知れません。さて今日、あなたはその様な訳で孤独で、寂寥で――あるいは結婚はしていても、矢張りなお寂しく、悲しみに充ちて、ひとりの道を行かねばならぬ。ああ何と、悲惨なことではありませぬか! 試みに詩人に向って訊ねて見ましょう。どんなにそれは悲しむべきことであるか知れませぬ。――淋しく生きること、淋しく生きて来ねばならなかったこと。恋せられることもなく、恋をした覚えもなく! 私は又詩人に向って、訊ねて見たいと思います。一体詩人らは、死がむごくも恋人らを距てるとき、又は人生が友人と友人との間を裂いてしまうとき、むしろ、友人をして仇敵と変ぜしめる様なとき、それは悲しむべきことである、という事以外に、何かもっと、多くのことを悟っているのでしょうか。――と言うのは元来詩人たちは寂しさが好きだからです。詩人は寂寥を愛しています。その寂寥の中に恋と友情の喪われた幸福を見つけようと思っている。例えば、夢を追う人が星を見つけようとして、暗黒な場所を探して歩く様に。而も、ある人が、恋を見出すことができなくて、それも自分の罪ではなかったとき。又友を求めて、而も自分の罪でなく、徒労に終ってしまった様なとき。又、全て、喪失、別離、変化などが、自分自身の故ではなくぶつかってきたとき。かかる場合に詩人は悲しむべき事であった、という以外に、何かより以上のことを知っているでありましょうか? まことに、詩人というものは、彼自身が「変化」に左右せられているのでありますから、喜びを歌うための使者である詩人も、窮迫の日には、ただ悲痛な歎きを以って歌う以外の術を知らぬでありましょう。それともあなたは、詩人が悲しくも悲しむべき人々と共に悲歎するとき、それを変化に左右せられて、とは呼ばない。却って詩人の事実である、と呼ぼうとせられるのでありましょうか? いや、今これらについて争いたいとは思いませぬ。しかし、もしあなたがこの人間的な真実を、天上の真実、あるいは、不滅者の真実と比較して見られるとき、それは真実と言わるべき性のものでないことを悟られるでありましょう。なぜなら、天は詩人に反して、ただ喜ぶ人と共に喜ぶ、だけではないからであり、又詩人と違って、ただ悲しむ人と共に悲しむ、だけではないからであります。いや、天は悲しむ者に対して新しい慰さめに充ちた喜びを用意しています。かくて、キリスト教は、いついかなる場合にも慰さめに充ちたものであります。而も、この慰さめが、あらゆるその他の人間的な慰さめと相違している点は、即ち、人間の慰さめは意識して、喜びの喪失のための償いとなろう、とする所にあり、キリスト的な慰さめは「喜びそのもの」に他ならぬことにあります。人間的に言うと、慰さめとは、後から補充される所の思いつきに、すぎませぬ。先ず苦悩があり、悲痛があり、喜びの喪失があり、そして、次に、その後に来るもの……ああ、ここ迄きてやっとどうやら人間は「慰さめ」という実体の端《はし》にふれたらしいのです。個人の生命についても同じことが言えます。先ず苦悩があり、悲しみと喜びの喪失があって、それからやっとその後にああ、もう来ても効ない頃に、慰さめがやってくるのです。
キリスト的な慰さめについては、凡そそれが何かの後に来る、等といわるべき筋のものではない。それは不滅者の慰さめであり、あらゆる時間的な喜びなどを超えて、はるかに悠久なものであります。この慰さめの訪れてくるところあの、不滅のする優越な歩みを以って登場します。そして言わば悲しみをその中に吸い取ってしまう。なぜなら、悲しみも、喜びの喪失も、刹那のものにすぎませぬ。たとえその刹那が、幾年かを保つ性質のものであった所が、同じことです。やがてその刹那なるものは、永遠のために併呑せられてしまう。又、キリスト的な慰さめは、喜びの喪失を補償するものではありませぬ。なぜならそれは、喜びそのものなのでありますから。その他の、全ての喜びなど、もしもキリスト教の言う慰さめと比べられたなら根本において、矢張絶望的なものと変りはありませぬ。人間にとって、永遠の喜びが、喜びとして告知せられるほど、この地上に於ける人間の生命は完全なものではありませぬ。人間自身が、それをもう、取り逃しているのですから。それ故に、人間にとって、永遠の喜びはただ慰さめとしてのみ告知せられうるのだ、として仕方ありませぬ。例えば、人間の眼が、ただ黒く塗られた硝子をとおしてのみ太陽の光りを見る事が出来る様に。――人間は、不滅の喜びを、ただ、慰さめとして人間に告知せられる、あの「暗黒」を通じてのみ受取ることができます。
それは、又あなたの恋と友情とにおいて、同じ運命でもありました。詩人との理解の下に、あなたはそこに損失と滅亡と、生命の悲しさ、とを発見されました。最高のものは未だ示現せられませぬ。
隣人を愛して下さい! 先にも言った様に、隣人を見つけることは決して難しい事ではない。隣人は、先に言った様に無条件に、いついかなる時にも発見することができます。又決して失うことはできませぬ。恋人はあなたに反いた行いをして、あなたから失われることもありましょう。友人にしても同じことであります。しかるに、たとえ隣人はあなたに対して、いかなる背反の行いを犯そうとも、あなたは決して隣人を失われることはありませぬ。
勿論恋人や友人が、たとえどの様に、あなたに背いた行いをしたからと言って、あなたは彼等を、なおも愛しつづけて行くことは出来るでしょう。併し、あなたは彼等が真実の意味で、もう別のものとなってしまった以上、遺憾乍ら本当の意味で、あなたの恋人であり、友であると呼ぶことは出来ませぬ。しかし、いかなる変化も「隣人」をあなたより奪うことは出来ぬ。なぜなら、あなたを隣人が抱いて離さぬのではなく、あなたの愛が隣人を愛して離さぬからであります。もし、あなたの隣人の愛が不変であれば、隣人も亦不変であります。隣人はいつもそこに居るのですから。死も亦隣人をあなたから奪うことは出来ませぬ。もし、その一人を奪われれば、生命はすぐ次の一人をあなたに贈るでありましょう。死はあなたから一人の友人を奪い去ることができます。なぜなら友人に対する愛に於いては、あなたは友人と共に真に結ばれているからであります。隣人に対する愛においては、神と共に結ばれている。それ故に死も亦隣人をあなたから奪うことは出来ませぬ。たとえ、あなたは愛と友情に於いて全てを失われたとして又これらの幸福の何物をも所有しておらないとしても、なおあなたは、最善のものを隣人の愛のうちに保有しておられるのであります。
「隣人への愛は即ち不滅の完全さ、を有ったものであります。」愛の完全さ、と言うのは恋する対象が卓絶したものであり、優越なものであり、唯一つのものである、ことを言うのでありましょうか? 私はそれらは、対象に即した完全であると思う。而もその対象に於ける完全さはむしろ愛の完全さに対する巧智をきわめた疑惑、を提出しているものではないでしょうか? もしあなたが、ただ異常なものや、稀有なもの、のみを愛するとき、その事があなたの愛の優越さを成すのでしょうか? 私はまた、それが異常なものであり、稀有なものであることは異常及び稀有なるものの有っている優越さである、併し、それはあなたの愛の傑れていることを示している何ものでもない、と考えたいのでした。あなたは、同様に考えられたのではなかったでしょうか? あなたは神の愛の何であるかについて、曾て深く考えて見られたことはないでしょうか? もし、異常なものを愛することが愛の優越さである、とするならば、神は、むしろ当惑せられたことだろうと思う。なぜなら神にとっては、凡そ何物も、異常な、と言われる様なものが実在していないからなのです! 人がただ異常なものを愛しうると言う場合の優越さは、それ故に、むしろ一つの非難に値します。而もそれは、その「異常なもの」に向けらるべきものではなく、又愛に向けらるべきものでもありませぬ。ただ、異常なもののみを愛しうると言う愛に対して向けらるべきものなのです。或いは又、人が世界の中でただあらゆる快楽から取り巻かれている「唯一つの場所において」快適さを満喫することができる、と言う。それはその人の健康のもつ優越さ、を意味するのでありましょうか? もしあなたが生涯を、その様な心構えから生きてきた人を見られたとすれば、一体彼の何を賞めようと思われるのでしょうか? 成程、そういう快適な生の設計をでありましょうか? 併しその際、あなたは現実においてはこの「素晴しさ」に対するあなたの讃辞の一言一言は、ただこの絢爛たる環境の中でしか生活できない哀れな者にとっては、まるで嘲笑の様にひびくのである、ということを忘れてしまわれたのでしょうか? それ故に、人が愛するという場合の完全さは、愛の完全さ、を言うのではありませぬ。
そして、隣人は正にあの恋人や友人や、驚嘆すべきもの、教養ある者、稀有の人や、異常な人たちが、驚ろくべき度に於いて所有している完全さの何一つをも有ってはいませぬ。唯それ故にこそ、隣人の愛は、恋人や、友人や、教養ある者や、驚異すべき人や、稀有なものや、異常な人に対する愛の有っていないあらゆる完全さ、を所有っているのであります。
一体愛にとって、いかなる対象が最も完全であるかについて、世界は存分に争うがよろしい。ただ、隣人に対する愛こそ、最も完全な愛であることに就いては、もう論ずる余地はありませぬ。その他の愛においては、二重の意で問われねばならぬことがあり、従って、そこには二重性が支配する、という不完全さがあります。先ず、愛の対象が問題であり、次には、愛そのものが、問われねばなりませぬ。或いは、もっと本当を言えば常に二つが問題となります。対象と愛と隣人に対する愛に於いては、唯一つの事だけが問われます。即ち、愛ということ。これに対して不滅者は、唯一つの答えを以って答えられます。之こそ「真の愛」である、と。なぜならば、隣人に対する愛は、ある種の愛が、他の種の愛に対してどういうものであるか、等という関係とは違う。自然のする愛は対象によって、友情も亦対象によって規定せられます。ただ隣人に対する愛だけは、愛そのものによって、規定せられます。と言うのは即ち、隣人とは全ての人、無条件に全ての人である。従ってその対象からあらゆる特異性は取り除けられてしまう。隣人の愛は、その対象が、何等の特殊な独自性をもった詳しい規定を有たぬことにおいて、特にはっきりと区別せられるでありましょう。ということは、即ち隣人の愛はただ「愛に於いてのみ知られる」と言うことなのです。これこそ最も高い完全さ、ではありますまいか? なぜならばもし愛が何か他のものにおいて知られ、又知られねばならない、とすると、この他者は、愛の条件として、言わば愛に対する疑惑を提出することになる。その愛は未だ充分な包括力を有っていない。従ってその限りにおいて、永遠の意に於いて無限であるとは言い難い、と言うことになる。この他者は愛それ自身にもまだ自覚されていない疾患への素地であります。この他者が喚び覚す疑惑の中には、かの「不安」がひそんでいる。それが愛と友情とを、その対象から分離しえないものとしてしまう。又あの嫉妬を点火する所の「不安」、又絶望にまで導いてゆく所の「不安」がひそんでいます。
隣人に対する愛に於いては、この他者は何の意味をも有つことができない。それ故に、愛する人達の間に何の疑惑をもはさむ余地はありませぬ。しかしこの愛はその対象の上に、傲然とした無関心さをもって峻しく立っている、という様な態度をとるのではない。そのきびしい愛の正義は、愛が、その対象に対して冷淡に、傲慢に、自分自身の中に立て籠っている、という所に成立しているのではありませぬ。いや、その正義とは、愛が謙譲に外に向って対すること、そしてみな平等に全てのものを抱擁する、而も全てのものを特に愛を以って、併し、決して特殊な愛を以ってではなく、――抱擁する所に在るのであります。
我々は又人が愛の心をもつということは、一つの必然であること、而もこの必然は、その人の豊かさを表現するものであること、を思い出そうではありませんか。その必然さが深刻であればある程、彼の豊かさも亦一層偉きいものがある、と言わねばなりませぬ。もしその必然が無限ならば、その豊かさも又無限であります。
もし或る人に於いて、愛したいという必然が唯一人の人に向けられるとき、彼はたとえ彼の愛がいかに豊かであろうと、彼を、そこ迄切なく駆り立ててゆく人間が実際になければなりますまい。之に反して、もし愛したいという心の衝動が、全ての人に向けられるとき、彼は実に無条件で、強大で、彼自身から愛する対象を創り出さないではおかぬかの様であります。先の場合においては対象の特殊性が問題であり、後の場合においては、唯かくのごとくあるものとして愛することが主題なのであります。唯後の場合においてのみ、愛することの切迫した必然さの豊かな示現である、と言えます。唯この時においてのみ、愛することの必然さと、対象とが互いに無条件に調美し合うのであります。なぜなら、隣人とは、何れの人でもよい、めぐり合う全ての人の意なのです。隣人への愛は、それ故に「特殊な意」においては如何なる愛の対象をも有っていない。併し、無限の意において、全ての人がその愛の対象となります。
もしある人が一人の定った人に語りたいと言う衝動を有っているとすれば、元来彼は、この定った人と話すことを必要としています。併し、もし彼の語らなければならない、と言う切迫があまりに巨きくて、たとえ沙漠の中にひとりでおかれるとしても、たとえ孤独な牢獄の中に閉じこめられたとしてもなお語りつくさないではおられないとき。――語らないではおられぬ切迫があまりに大で、全ての人、誰でもよい、みな語るべき相手だと言うとき、その切迫さ、こそまことに豊かだと言えましょう。
隣人への愛を心に有っている者に於いて、愛したい、と言う切迫は最も深刻なものがあります。彼は何人かを愛したいがために、人間を必要とするのではなく、彼にとっては、「人間」そのものを愛することが必然なのです。と言ってこの豊かさの中にいかなる高慢さ、いかなる驕傲ぶりがひそんでいる訳ではありませぬ。その媒介者としての規定を為すのは神であります故に。その強大な愛の切迫さを結び、又導くものは、不滅者の「愛さねばならぬ、」であり、彼をして、慢心と、混乱から救っているでありましょう。而も愛の対象は何の制限をもその愛に加えるのでもありませぬ。なぜなら隣人は全ての人なのであり、無条件に何れの人であってもよいのでありますから。
されば真に隣人を愛すものは、又よくその敵をも愛するものであります。「友人と敵」との間の差別は、それぞれ愛の対象に即している所の差別であります。併し隣人への愛は、何らの特殊性をも有たぬものをその対象とします。隣人とは、人間と人間の間の全く判別し難い相違であるか、或いは神の前に於ける永遠の同一さであります。敵人も亦この同一さを有つことができます。
人は、敵を愛する等ということは、人間にとっては不可能だと言います。なぜならば、遺憾乍ら、敵同士が互いに相見える等ということすら殆んどありえない事なのだから、と言います。よろしい。試みに、目を閉じて見て下さい。すると敵人も隣人に亦あまりにもよく似通ってはいないでありましょうか。
先ず、あなたの眼を閉じて、愛さねばならぬ、と言う愛の誡命を考えて見て下さい。かくすればあなたは、敵を愛することができるのではないでしょうか? いや、つまりあなたはかくして、隣人をこそ愛することになります。なぜならば、彼があなたの敵であることを、あなたは目に見ることはできませぬ故に。目を閉じれば、あなたは即ち、この地上の差別を見ることはありませぬ。敵性とはこの地上の差別の一つにすぎませぬ。もし、あなたが愛の誡命の言葉を心に銘じようと思うならば、目を閉じられるがよい。さすればあなたの心は乱れ迷うことも、戸惑うこともありませぬ。あなたの心をかき乱し、迷わせるものは、あなたの愛の対象の姿であり、その対象の特殊な独自性に他ならぬのですから。目を閉じてこそ、愛の誡めに対して、全身を耳にして傾倒することができる。――ひとり、ひたむきに「あなた」に対して、「隣人をこそ愛さねばならぬ」と告げているときに。ごらんなさい、あなたが目を閉じ、全身を耳にして、ただあの愛の誡めをきかれるときこそ、あなたは完成への途上にあるのだ、と言うことができます。即ち隣人に対する愛の途の上に。
人はまことに真実において、(すでにこの事の中には、隣人とは純粋なる精神の関係であるという事がふくまれています)――目を閉じてこそ隣人を見ることができます。或いは全ての差別から目をそらすことによって。われわれの肉眼はいつも差別をのみ見ようとし、それのみに目を止めます。それ故に、地上の賢明さは晩かれ早かれ次の様に言います。「愛するとき、注意せねばならぬ」! と。ああ、もし、人が隣人を真に愛そうとするならば、次の様に言わねばなりますまい。「殊更警戒する様な心をもつな!」と。なぜならば、対象を、あれこれと試めすところの賢《さか》しらこそ、永久にあなたが隣人を見ることを妨げるものでありますから。隣人とは全ての人なのですから。全く、手当り次第に取りあげてみる、どの人であってもよいのですから。
詩人は愛に於いて、用心深さを説く所謂賢明さのもっている眼先のきく盲目さ、を侮辱します。詩人の言う所によれば、愛は人を盲目にすると言うのです。詩人の説に従えば、恋するものは神秘な、端倪しえない方法によって、対象に惚れ込んでしまい、次に、恋のために盲目になってしまう。恋の相手のいかなる欠点にも、いかなる不完全さに対しても。――この恋人以外のありとある一切のものに対しても、同様に盲目になってしまう。ただこの恋の相手の人こそ、全世界の中で唯一人の人である、事に対して、だけを除いて。ここには流石に盲目にはならぬ、と言います。もしこれが本当の事だとすると、成程恋は人を盲目にすると言っても仕方ありませぬ。併し同時に恋は人を甚だ慧眼ならしめるとも言えます。恋する唯一の人を決して他の誰彼と混同する様な事はないのですから! されば恋は恋人の他のあらゆる人間との間に巨きな、この世を超絶した差別を置くと言うのですから、恋人に対する限りにおいて盲目にする、と言ってもよろしい。併し隣人に対する愛は全ての人を、最も深遠な、最も高貴な、最も真である意において盲目にします。それ故に人は全ての者を、恰かも恋する人が恋人を愛する様に盲目的に愛するのであります。
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隣人に対する愛は、不滅者の完全さを有っています。多分それ故にこそ、それは、しばしばこの世界の地上的――時間的な諸制約の中には、頗る不相応なものであるかに思われます。従って往々誤解を招き憎悪にさらされることも稀ではない。故に兎も角、隣人を愛することは、甚だ感謝せられることが少ないものであります。
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日頃は神やキリスト教に対して依怙地にも尊崇の念を拒んでいる様な人でも、もし彼が戦慄を以って、次の怖るべきことに思い至ったならば、矢張尊敬の念を有たざるを得ないと思う。いかに異端主義に於いては地上的な差別が、非人道的に人間を人間から距てているか、と言うこと。又そこではいかに一つの階級が或る種の人間と、他の人達との近親性をも否定しつつあるか、その結果、その一人のものは僭越にも、狂気染みて他の人々について、次の様にさえ言おうとします。――彼は無に等しい。彼は『素生でないのだ』等と。
キリスト教は人間をこの恐怖から解放したのでありました。人間と人間の間の近親性を深く、又永遠に忘れられぬものとして人の心に刻印することによって。キリストに於いては全ての人が、同じ程に近親であり、神に対してみな同じ関係に在ることを説き人間同士の近親さを確認したのでありました。又それは全ての人を、いかなる差別もなく、神が創られたのであり、キリストが彼を救済したものであることを教えたのであります。又全ての者に平等に、特に次の様に説くことによって。「汝が家の扉を閉じて、神に祈祷をささげよ。さらば、汝は凡そ人間の有ちうるものの中最高のものを有ちうるであろう。汝が救世の主を愛せよ。然らば汝は生と死に於ける一切のものを享くべし。この世の差別などに心まどうな。差別は何ものをも与えず、何ものをも加うることなし」と。もし人が山の頂に立って、下界に荒れ狂っている嵐の雲を見下しているとき、彼は地球の低地の上に暴威をふるっている嵐をそれほど怖ろしいとは思わないでしょう。キリスト教は全ての人を、無条件に全ての人を、この高さに置いてみます。なぜならキリストにとって又神の摂理にとっても同じ様に、人が包括せられたり、或いは、閉め出しを喰わされたりする群衆はどこにも存在していないのですから。キリストに対するあらゆる人間社会は、それぞれひとりひとりの個人にまで分散してしまいます。キリスト教は全ての人を、この高さにまで置きました。と言うのは、全ての人が、その上に抽け出て見たり、この地上の生命の千差万別に負けて溜息をついたりして、心に惨害の傷手を蒙らぬためになのです。
キリスト教はこの世の差別を「撤廃」してしまったのではありませぬ。その様なことはキリストも欲せず、又キリストは自分の使徒たるものは、「この世界から選び取る」様に、神に請われたのでありました。これは結局同じことを言っているのでありましょう。それ故に、キリスト教に於いても、又同じく異端主義に於いても、この地上の不平等に参与し、又は、その衣を身に着けなかった様な人間は、未だ曾て生存した例がありませぬ。キリスト教徒と言っても、相互の関係がなくて生存した例がなく、又生きる事は出来ませぬ。この人生の不平等さに於いても同じことであります。凡ての者はその素生により、階級により、境遇により、教養により、なおその他のものによって、それぞれの仕方によって関係し合っているのです。我々のうち、一人として、純粋の人間と言うべきものはありませぬ。キリスト教は、純粋な人間についてのお伽噺を発明したりするにはあまりにも真面目すぎます。その希うところは人間を純粋なものにしよう、と言うことなのです。キリスト教はお伽噺の類いではありませぬ。たとえその約束する至上の幸福がいかなるお伽噺が約束するものらを超えて、はるかに気高いものであるとしましても。又、理解し難い、精神的な幻想でもありませぬ。もしそんなものがこしらえられたとすれば、随分暇人のやった仕事だと言うべきものでありましょう。
この様にして異端主義の恐怖を、キリスト教は、一挙にして撃砕してしまいました。しかし、地上のこの不平等さを撤廃することはできなかったのです。時間性が存在する限り、それは同じく存在するでありましょう。而もそれは、この世に生れてくる全てのものを試煉するために存在せねばならぬものなのです。なぜなら、彼は一人のキリスト教徒となることによって、全ての差別から除外せられるのではない。むしろ彼は、この差別がもち来す多くの試煉の中にかち得た勝利によって、一人のキリスト教徒となるのであります。従って所謂キリスト教徒と言われている者らの間には、人生の不平等さがその試煉者としての役割を今なお揮っているのであります。いや、多分試煉する、というだけではありますまい。現に巨大な権力をふるまっています。それ故、或るものは他のものの上に傲りたかぶり、他のものは、それに反抗し、絶望せざるをえないことになります。この高慢と絶望と。これら両つは謀叛であります。キリスト教的なものに対する反逆であります。いや、我々は決して、ただ権力あるものや高貴な人々のみがその責を負うものだ、等と、大胆不敵な狂気沙汰を何人にも強いようとする者ではありませぬ。なぜなら、もしも、卑賤なものや、権力を有たぬ者らが謙譲にキリスト教の至幸なる平等を希う代りに、徒らに反抗の心を以って多幸なる者らの地位に取って代ろうとするとき、彼等の心も亦傷害を受けるからであります。キリスト教は盲目ではありませぬ。又一面的でもありませぬ。永遠の静けさを以って、平等に、あらゆる地上の不平等の上を遍照します。と言って、争いを好んで一つの学派に味方することもありませぬ。それは、この地上の仕事やら、俗世間の似非予言者らがキリスト教の名に於いて、この世の不平等の罪を犯すのはただ権力者のみである、卑賤のものらは平等の回復のためなら如何なることを為してもよい。それだけの権利をもっている、但し、真剣に真に一人のキリスト教徒となることだけは除いて。この様な錯覚を起させようとするとき、キリスト教はそれらのことを悲しみを以って眺めているだろう、と思います。一体、こういう道を辿って行って、我々はキリスト教の言う平等と正義に近づいて行くことがはたして出来る、とでも言うのでありましょうか?
キリスト教は、それ故に、高貴なものであれ、卑賤なものであれ、差別を撤去するものではありませぬ。他面又それは一面的に、何等かの時間的な差別を特に取り立てて利をあたえる様なこともしませぬ。たとえ世間の目から見て最も正当な、合理的な方法によっても。時間的な特殊な地位というものは、人間が世間的な官覚をもってかたくしがみついているし、大いに期待をかけているものなのです、が、世間の目から見て或いは暴戻をきわめ、或いは憤激に堪えぬものであるかも知れぬ。――又は、世間の目から見て無邪気な、愛すべきものであるかも知れませぬ。がこれら全てのことはキリスト教にとってはどうでもよいことなのです。なぜなら、それは、「何によって、」かくなったか、を問題にはしない。ただある人の心が傷害せられるかどうか、を憂うるものだからであります。下らぬこと? であるかも知れぬ! しかし、人の心が傷害を受けるということは、決して小さなことではありませぬ。極度に高貴なものと、卑賤なもの、との間には、世間の位階の差別によれば、なお無数の段階があります。キリスト教はこれらの狭小な、従って余り目につくこともない様な差別についても、何の例外をも認めるものではありませぬ。不平等さは、例えば巨大な網であって、それで時間性をからめ取ろうとします。この網の目は又それなりに大小があって平等ではありませぬ。或る人はその存在において、他の人よりももっと制縛され、捉われているかに見えます。併しキリスト教は、これらの不平等の中の不平等、相関的な不平等を、問題とせず、又顧慮することもありませぬ。絶対にありませぬ。もし問題にするとすれば、それは世俗的な事に堕するでありましょう。キリスト教と、世俗主義とは決して理解することはありませぬ。たとえ一時的に、外面的な観察から見れば、両つ乍ら、何れも同じ事を企画しているかに思えるかも知れませぬが。世俗主義は、世界において人間の間の平等が回復せらるること、時間的な財が人間の間に、出来うる限り平等に頒たれることを、何よりも重大な当面の問題とします。しかし、世間のする努力は、この点に関して、人間の福祉を念うものであると言えるでありましょう。が、それでもなおキリスト教とは、全く相容れることは出来ませぬ。人間の福祉を願う世俗主義は、敬虔にも、(と人は言います、)種々ある地上の生活の状態の中に、平等な正義を代表する様な規定の状態がある、と確信しています。もしこの状態が全ての人間にとって唯一のものとなったとしたら、成程、平等は実現されうるかも知れませぬ。併し乍ら、キリスト教の正義は全ての人が時間的に、同等な生活状態に在るという事を目標にしてはおりませぬ。この世俗的な平等はたとえ可能であるとしても、キリスト教の言う正義ではありませぬ。また、この人間の福祉を願う世俗主義自らが、全ての人間に対する生活状態の平等さ等はただ美しい敬虔な願望にすぎないことを承知しているのです。その実現は未来において希むべく、又そういう未来は、永久に現実となりえないものであることをも。或いは彼等自身その努力する所のものが何であるか、をはっきりと理解したなら、先に言ったことを悟らざるをえなかったろうと思う。キリスト教はかかる事を全然相手にはしませぬ。それは永遠をもたらすものであり、即ち、忽如として標的に到達します。あらゆる差別は差別として手をふれませぬ。が永遠の平等さをこそ説くものであります。全て人は地上の差別を超えて、自らを高めねばならぬ、と教えます。その説くことの、何と、調和に充ちたものであるかに、注意していただきたい。卑賤のものに立身出世をせよと説くのでもなく、権力者をしてその高位高官よりけ落しめよ、と言うのでもありませぬ。いや、もし其の様な事を説くとすれば、それにまた一つの差別を創るものでありましょう。また、権力者の没落により、卑賤者の擡頭によってかち得られるであろう平等は、キリスト的な平等ではなく、世俗の云う平等にすぎませぬ。まことに、たとえ最高の位に在る者であれ、「自らを」その高位の特殊的な地位の上に「高くあらねばならぬ」と教えます。乞食の者もまたその卑陋なる地位の上に、「自らを高めよ」と教えます。キリスト教は、地上的なあらゆる差別を存続させます。併し、隣人に対する愛を司令する愛の誡命は、それ自らの中に、地上の全ての差別の上に自らを高める所から生れてくるあの平等さ、を抱いているのであります。
さて、事実は次の様であります。――卑賤のものも、高貴のものや、権力者と同様に、全ての人間を問わずそれぞれの特殊な方法によって自分の魂を失うことになります、――もし彼がキリスト教にならって、地上の生の差別の上に自分を高めようとしないならば。さて、又それが遺憾乍ら或る人において起ると同様に他の人においても起りうるのであり、時には二つの方法によって、時には又他の仕方で起ることもあります。それ故に、隣人への愛は二重の、いや、実に数倍の危険にさらされています。絶望的に、これか又はあれか、の生活の特殊な地位に執着して来た者は、(従って、その地位なるものが、神の代りに、彼の生命の要素であります時、)誰でも同様な地位にある者に向って、自分と共に党派をつくってくれる様に要望するのが常であります。善きことを為さんがためにではなく、(なぜなら、善いものは党派をつくることはありませぬ。――たとえ二人、又は百人、いや、あらゆる人を結束しても党派をつくることをしませぬ)普通なる人間性に反して、神を侮辱する盟約をつくります。もし人が他のものと、全ての人間と共に共同体を創ろうとすると、かの絶望的な人はそれを反逆と呼びます。他の面から言えば、人間はその時間的な特殊な関心によって支離滅裂な心を抱いているものであり、多分それ故に、自分らの特殊な社会に属していないものが、自分らの仲間に加わろうとするとき、猜疑《さいぎ》の心を起すのではないか、と思う。この地上における不平等についていえば、一般にひろまっている誤解のため、ふしぎにも地上には争闘と同盟とが同時に司宰しつつあります。或るものが出てこれらの不平等を撤回しようとすれば、また忽ち他のものが来て不平等をつくってしまう。差別は、非常に大きな差別あるもの、いや、最大級の差別あるものを意味することが出来ます。凡てある一定の不平等を撤回しようとする、しかしその代りに、他の不平等を置き換えようとする、――この様な方法によって、不平等をなくそうと戦っているものは、正に不平等をつくるがために戦っているに等しいのであります。
隣人を愛そうと冀う者。彼にとっては、これか、又はあれか、何れの不平等さを撤去することが、又は世界的にあらゆる不平等さを撤廃してしまうことが、問題なのではありませぬ。彼にとっては、ただ敬虔な心をもって、自分の特殊な地位をキリスト的な平等さの至福な思想をもって貫いて行くことが問題なのである。かかる人は往々この地上の生を生きるにふさわしくない、又所謂キリスト教徒にも属していない人であるかの様な錯覚を起すかも知れませぬ。四囲八面からの包囲攻撃にいつも身を曝さねばならぬかも知れませぬ。彼を引き裂こうとする豺狼どもにかこまれるさ迷える羊となることもしばしばあります。どこを眺むればとて、勿論彼のぶつかるところ差別界ならざるはありませぬ。(なぜなら、先にも言った様に、如何なる人間も純粋な人間であることはできぬ。唯キリスト教徒だけは、全ての差別の上に立つことができます。)凡て、人間時間的な特殊な地位に世俗的に執着するところのものは、よしその地位がたとえ何であるにせよ、これらの者は真に羊を引き裂く所の残忍な豺狼共にすぎませぬ。
どれだけ多くの地上的な不平等を身につけていることか、いかに危険なものであるかについて、吾々は二三の例を引いて明らかにし、事実を明白にしておく事も必要でありましょう。私も書くだけの時間を費しているのですから、あなたもそれを読んでくださるだけの忍耐だけは有っていただきたいと思う。著述家であることが私の専らの職業でもあり、私の唯一の課題でもあるのですから。そこで私はこの苦痛に充ちた、もし御希みなら、ちっぽけなと言ってもよい、しかしなかなか有益ではある規則正しさを以って働かなければならないし、又働らくことが出来ます。こういう規則正しさというものは、他の人たちは有ち合せてはいませぬ。と言うのは、彼等が著述家ではないからなのです。それ故に彼等はまたその多分もっと永い生涯を、もっと豊かな才能を、恐らく、もっと巨きな働く力を、全て他の方法に向って投資することが出来るでしょう。
ごらんなさい。ただ権力者や貴族たちだけが人間であって、他の者らは奴隷であるか、その奴僕であった時代はもうすぎ去ったのです。この飛躍は我々キリスト教にこそ負うべきなのです。と言って、これでもう位階や、権力が、或る人にとって陥穽となりうる事はないのだ。その特殊な地位に引きかかって、心に傷害を受け、隣人を愛することが何であるかを忘れてしまう様な事はもう起りえないのだ、等ということにはなりませぬ。
こういう事が今日にもなお起りうるとすれば、勿論それはもっとかくされた、目に立たぬ方法によって行われるでありましょう。併し、根本において事態に、何の変更もありませぬ。或る人がその傲慢と矜持とを満喫するために、他の人々に、彼等は彼のために存在しているのではないことをこれ見よがしに見せつけることも勿論しばしばあること。彼はなお己れが高慢さを愉しむために、人々から奴隷的に服従のしるしを要求することによって、人々にそれを感ぜしめることもやってのける。或いは、又彼は他の人々との交渉や接触によって、ごく静穏に、目に立たぬ仕方で、(多分あまり公然とした高慢ぶりは人々を刺戟して、彼自身の危険をも招き易い、という恐怖からであろう)人々は彼のためには存在していないも同然だということを思い知らせようとする。何れの振舞いにしても結局は同一であって異同あるのではありませぬ。非人間的な、或いは反キリスト的な行為というのは、いかにしてそれが為されたか、という方法に在るのではなく、あらゆる人間との結縁、無条件に全ての人との親近さを破ろうとする心情の如何に在ります。ああ、キリスト教の課題と教義とは、我々がいかにこの世界から汚辱せられず、清らかに自らを保つことができるかにあり、我々がみなかくすることを神の栄光に帰せしめます。もし人が世俗的にある特殊なるものに執着するとき、たとえそれがありとあるものの中の最も輝やかしいものであったにしろ、――これこそ、正に世の汚辱にふれたものであると言わねばなりませぬ。
なぜなら、心の清らかさにおいて為されたときには、いかに粗野な仕事も人を汚すものではありませぬ。たとえいかに卑賤の生の地位と雖も人を汚すものではありませぬ。もし、あなたが神を畏敬し静かに生きることの中にあなたの名誉を見出されるならば。勿論絹布や鼬の毛皮などが人を汚辱することもあります。もしそれによって人が心まで傷害されてしまうならば。もし又卑賤のものが自分の不幸に対して抗うのあまり、もはやキリストの教えによって自分を築きあげて行こうともしない程なら、まことに汚辱されたものと言うべきであります。併し又貴族のものが己れの高貴の中に立って、最早キリストの教えによって自らを築こうともしないならば、これも又汚辱に値します。又もし人が、彼の特殊な地位に他の多くの人達と同じく、平然として執着し決してキリスト的な高揚によって、この特殊な地位から抽け出ようともしない場合、これも亦汚辱せられたものに他なりませぬ。
貴族的な頽廃は貴族に次の様に教えます。彼はただ貴族の世界のためにのみ存在するのであり、徹頭徹尾その社会に於てのみ生きるべく、又他のものが彼のために存在していない様に、彼も亦決して他のもののために存在することあってはならぬ、と。併し、ここに注意が肝要だと言う。――真に貴族的なものは、彼の振舞いが他の者らの気に障わらぬ様、肌ざわりよくすることを心得ている、と言う。貴族の秘密と、技術とは正に彼がこの秘密を彼自らの内心に秘めている所にあります。あらゆる知人との交際は決して意識した真実な関係を表現する様なものであってはならぬ。又人の注意を惹く目に立つ様なやり方で交際してはならぬ。なるべく人を避ける様な方法こそ、彼にとっては無事というものである。また何人もそれと気が付かぬ様に、それによって気を持ち損ねたり等させぬ様に充分細心に手心を加えてなさねばならぬ。それ故に彼はもし民衆の中に出るときは、恰も、目を閉じた様な恰好でその中をまっすぐにゆく。(尤もキリスト的な意において目を閉じるのではなく、)ほこらかに、しかし物静かに登場して貴族の世界の一つの仲間から次の仲間へ、言わば逃ぐるがごとく行かねばならぬ。他人から見られたりせぬ様に、こちらからも他のものを目にとめたりしてはならぬ。一方、このかくれんぼの中から抜かりない目を見張って自分と同格の、或いは自分よりもっと貴族的なものにどこかでぶつかりはしないか警戒しなければならない。彼の眼差は全ての人の上を見て見ぬふりをして漫然と一同をねめ廻していなければならない。誰かの眼と眼がぶつかったりして、凡人どもとどこか似通った所もある等と思われたくないからである。決して卑俗な者らの間に立ち交ったり、少くとも決してその社会に出入したりすることがあってはならぬ。もし止むを得ぬ場合があれば、貴族的な侮辱の色を面に浮べる。併し(衝突し、他を傷つけぬ様)全く取りつくろわぬ何気ない風を装う。卑賤のものに対しては完全な慇懃さを以って応接する。併し、決して同等の段階に自分を置いてはならぬ。(とすれば彼も人間だということを表現してしまうことになる。彼は併し貴族なのである。)もし彼がこの手練手管を易々と、自在に、器用に拒否的に、而も常に彼の秘密を保ちつつ(即ち他のものは彼のために存在せず、彼も亦他の人のために在るのではない)やってのける程になれば、彼の貴族的な頽廃も「堂に入った」という太鼓判を押される様になるのです。
実際、世界は変ってきました。つまり、人間の頽廃も変って来たのです。と言うのは、世界が変化して来たからと言って、良くなって来たのだ、と信じるとしたら、それはあまりにも速断にすぎるでありましょう。我々は今、あの神を冒涜する遊びを以って、最大の愉悦だと心得ていた、そこでは、彼等が『この人々』に、彼等の賤しさを思い切り身に沁み込ませることにしていた、高慢で傲岸な典型の一つをとって考えて見ましょう。
現今、この秘密を保つためには、何という細心な手練手管が必要となって来たか、について思い到るときあの時代の代表者は、いかに驚嘆することでありましょうか! いや、それにしても、世の中は変って来たものです。そして、世界が変化すると、それにつれて同じ歩調を以って、頽廃も亦狡猾にも一風変った装いの中に姿をかくし、なかなか正体を極めることが困難になって来ました。併し、あのときから一向に、より良くはなって来ていませぬ。
貴族的な頽廃とはかくのごときものでありました。そこでもしここに、一人の貴族があり、彼の生命はその素性と階級とによって全く同じ華族の社会に属しているものであったとします。所がこの貴族の人は、普遍的な人間性に反する(即ち隣人に反する)分裂した叛逆を与にするのは嫌だと言う。そういうとき彼は、自分の行いがどういう結果を招くか、と言うことを、前以って知っていたとしてもよろしい。併し、神を信頼するのあまり、その様な結果をも堪え抜くだけの力を持っていると自負します。(事実はその力を有ってはいなかったのですが。自分の心を堅固にするだけの)。まことに、やがて経験が彼を敢えて為さんとした事の何であったかについて、教訓してくれるでありましょう。先ず貴族の頽廃は反逆者であり、利己主義者であるとして非難するでありましょう。――と言うのは、彼が隣人を愛そうとしたからなのです。もし彼が頽廃と一緒になって、共通の仕事に加担していたとしたら、それこそ、愛であり、信実であり、誠実さであり、献身の徳であると言いましょう! 次に、これも亦しばしば起ることなのですが、卑俗の者らは、彼等も亦その片よった党派の立ち場から見て、彼を誤解し、見損うでしょう。そして自分の血族にも属そうとしないこの人を嘲笑し侮辱を以って迎えるでありましょう。なぜなら、彼は隣人を愛そうとしたのですから。かくて、この人は、二重もの危険の中に身をさらすことになります。もし彼が反逆によって貴族の特権的地位をふみにじるために、賤民どもの先頭に立つとしたなら、或いは人は彼を尊敬し、愛することがあったかも知れませぬ。が、それは彼の欲する所ではなかった。彼はただ隣人を愛そうというキリスト的な感動を表現してみたかっただけなのです。故に、彼の運命はかくもみじめな二重もの危険に陥ち込む様な始末になったのでありました。
こうなると勝ちほこった貴族の頽廃は彼を嘲笑して止みますまい。嘲罵し、罵倒しつつ言うでありましょう。「自業自得なのだ」と。彼等は彼の名を怖るべき結果の見せしめとして利用するに違いありませぬ。経験の乏しい貴族の青年たちが頽廃のその気持良い上品さから迷い出たりせぬ様、戒めるために。又貴族の中でもいくらかは良心のある、と言っても矢張未だその上品なという束縛から脱し切らないでいる、人々にしても、この良い人を敢えて擁護しようとはしますまいし、『嘲笑者のすすめに従って』一緒になって笑い出さないでいる事も出来ないに違いありませぬ。
或る貴族の者が自分らの仲間で、感激を以って、又美辞麗句を弄して隣人への愛を擁護するということは、元より考えられることであります。所で現実に、それを実践するという段になると、折角かちえた美しい人生観に従って己れを献げるということも、矢張出来ない、という事になる。階級と階級とを、拒絶している壁の内部だけで反対の人生観を擁護する事、キリスト的な意に於いて(革命的な意味においてでなく)、差別を撤廃しようという人生観を擁護する事。――これは即ちその特権的地位に「固執」すること、に他なりませぬ。
学者の社会、或いは保守的に名望を保証し、名望を加える様な環境の内部で、多分、学者は全ゆる人間の平等に関する学説を感激を以って講演するかも知れませぬ。これもなお矢張その特権階級に固執するものであると言わねばなりませぬ。富豪の社会において、勿論富裕という恵まれた地位がこれ見よがしに見せつけられる環境に於いて、多分富豪は人間と人間の間の平等について率直に認めてくれる様なことがあるかも知れませぬ。これも矢張その特権的地位に固執するものであります。又、かのいくらか良心ある貴族らも、貴族らの社会の内部に在る限り、いかなる攻撃をも凱歌を以って撃退するでありましょう。が、もし現実が人間の孤立(?)に向って提出する攻撃に引っかかる様な場合になると、矢張上品に、卑劣に逃亡してしまう事でありましょう。
もし或人が、困難な門出に向って、出発しようとする様な場合、我々は彼の餞別に際し、警めとし又祝福として、「神と共に行かれよ!」と言う言葉を贈ります。さて、貴族の中のこの良心ある者が、不遜な逃亡を企てたりしないで、「神と共に」民衆の中に入って行ったとしたら。恐らく彼は、現に自ら見た所のものを自分にも、従って神の前にも押しかくそうとするでありましょう。が一方神は又彼がいつわりかくした事を照覧せられています。即ち「神と共に往く」ことは勿論何の危険もなしに行くことであります。併し又人はこの場合、真実を見ることを必至とせざるを得なくなるのである。それも全く独自の法において見ざるを得なくなるでありましょう。もしあなたが神と共に往くとき、あなたはただ一人、不幸なものの姿を見かけるだけでありましょう。そのとき、キリスト教が何を希っているのか、を、直ちにあなたは理解せられるでありましょう。即ち人間の平等であります。かの良心あるものは、併し遺憾乍ら、神と共に往くことを矢張思い切ってははたし得ないでありましょうし、現に自分がかく見ねばならぬこともよく堪え切れることではありますまい。恐らく彼はそれを回避してしまう。而も、その同じ晩には再び貴族の社会に出席してキリスト教の人生観のために堂々とまくし立てるのであります。
そうです。人生と己れ自身を知るために「神と共に往く」ことは由々しい行程です。(ただこの同道においてのみ、人は「隣人」を発見することが出来る。なぜなら、神はその媒介の規定でありますから)。ここに於いては、名誉、権力、奢侈、等その世俗的な光輝を失ってしまう。神と共に同道するとき、あなたはそれらについてもう世俗的な悦楽を持つことは出来ますまい。もしあなたが他の二三の党派を形造るとき、或る一定の階級のものと、或いは一定の職業の者らと、いや、ただあなたの妻とだけでも党を為すとき、世俗的なことがその魅力を発散し始めます。たとえそれがあなたの眼から見て大した意味がない、と思われる様な場合でも、あなたが一緒に党派を為そうと言う人とのかかり合に関して、誘惑がしのび寄って来ます。ただあなたが神とだけ、共に往き、神とだけ党派をつくるとき、且つ又あなたの為す全てにおいて、神と共に為すとき、あなたは(あなたの気を損ねる様なことも、敢えて言っておいた方がよいなら)隣人を発見されるでありましょう。隣人を発見せねばならぬ様に、神はあなたを(あなたの気を損ねる様なことも言いますが)しむけるでありましょう。いや、あなたの気を損ねるという様な訳ではないのですが、隣人を愛することは人に感謝されぬ仕事なのですから。
思想に対して思想を以って戦うことは容易しく、言葉の上の抗争に弁護し、勝利をかちうる事は容易です。しかし、現実の生活の実践に面して戦いを交えるに際して、己れの心情を曲げることは難いと言わねばなりませぬ。或る思想が、他の人に、たとえどんなに肉迫出来たとしても、又たとえいかに言葉の争いに於いて一人の討論者に近づきえたとしても、依然として討論者たちはその距たりを持して、ただ空の中で剣を交えているものである。之に反して、これこそ或る人の心情を測る慥かな標尺であると言えましょう、――即ち、或る人の論ずる所と行う事との如何を見、彼の理解と行為の間の距たりの何であるかを見ることです。
なぜなら、根本に於いて、吾々はみな、最高のものを理解することが出来ます。小児も最も単純な人も、最高の賢者も何れもみな、最高のものを理解し、みな同じものを理解することが出来ます。なぜならそれは、敢えて言わせていただけば、私共全てのものの心に芽生えた所の教示であるからであります。併し、その理解において而も相違を為すものは、即ち、ある距たり、を以って理解したのか、(従って、吾々はそれにならって行動はしない。或いは、身辺に切迫して理解したのか。)それ故、それに従って行動すると言うのか、であります。或いは、「それ以外には、如何にする法も知らぬ、」と言うのでありましょうか。恰かもルーテルが何を為すべきかを最も端的な身近において理解したために、『私はその他に為すべき法を知らぬ。神よ助け給え、アーメン』と言わねばならなかった様に。
人生や世界のあらゆる葛藤などからはるかに遠ざかった、静かな時には、人はみな何が最高のものであるかを理解出来ます。たとえ彼が、それから脱れていたって、理解はしたのであります。たとえそれが又人生に於いて、清朗な天気の様に、彼の身の周りを包んでいるときにも、彼はそれを理解したのである。しかし一旦、生の葛藤にまき込まれる段になると、理解はけしとんで仕舞う。或いは、彼が全て「距たりに於いて」、理解したという事が立証されることになります。
一粒の砂がこぼれ落ちる音すら聴える静かな室にじっと坐っているとき、最高を理解することは何人も能くする所であります。併し銅板工がハンマーでたたいている汽罐の中に坐して最高のものを思うとき、人は予じめその理解をよほど身に体していなければどうにも理解できますまい。でなければ距たりをもった理解であったことがわかって来ましょう。――到底そんな所で物を考える等ということは出来ぬ業なのですから。人生の葛藤などからはるかに拒絶した静かな時間の中では、小児も、極めて単純なものも、聖賢の人も、みな同じく、容易に人が何を為すべきか、を理解することができます。そうです。何を各々の人が為さねばならぬか、という事を。併し、現に人生の葛藤において、何を為すべきか、という問題が、それを理解したと思っている人達に提出された場合、恐らく彼等の理解は、「距たりを以っての理解」であったことが容易にあばかれることになりましょう。たとえ理解をもっていたとしても、人間性からはあまりにも距たったものであった事が。
言葉の上の争いにおいて、高い心情を以ってする結論において、荘重に取り交す誓約において、或いは懺悔において、――(そこには常に未だ行動に至るまでの相当の距たりが横たわっている、)何人も最高のものを理解はするでありましょう。旧態依然たる、旧来の因襲によって確保せられた現在の継続というものの上に立ってなら、何人も或る種の変更を企図せねばならぬという事を主張することが出来ます。なぜなら人は、そのとき、距たりを置いて理解しているからであります。しかし乍ら、静止から運動に至ることにこそ、実に宏大な、怖るべき距離があるのではありますまいか?
ああ、世界の中では、誰々は何が出来る、誰彼は何が出来ぬと、あまりにもやかましく、多く論じられています。しかし、最高のものについて説く不滅者は、全ての人が為しうるものだという事は元より前提として、ただ事実はたして実行しえたか、どうか、を訊ねます。貴族の人がその気品の高い侮蔑によって、自分を他の人からはるかに距った所に置くときでも、人間と人間の間の平等さを理解することは出来ます。学者や教養のある人達が、ひそかに優越しているという意識を抱いて、他人を自分から距てて、近寄せぬときにも、人間と人間の間の平等を理解してはいるでありましょう。彼の特質とすべきは、現在人が在るがままの状態に存在をつづけようとする事なのですから。小さな優越さを自分にみとめて貰える、という距たりを置いてなら、人間相互の間の平等を理解するでありましょう。いや、距たりを以ってなら、如何なる人もみな隣人を理解せぬ人はありませぬ。併し、現実においてどれだけの人が隣人を、身近において、知っているであろうか、という事は、神のみが照覧されている。距たりを置いて見るとき、隣人なるものは単なる空想にすぎませぬ。隣人という名は、近くあるという所から由来するのです、が即ち、彼は最初にめぐり合う所の人、無条件に全ての人、という意なのです。距たりをおいて見る隣人とはすべて人の思索の間にふとまぎれ込んでくる空想的な幻影にすぎませぬ。と言い乍ら、その刹那に実際に彼の前を過って行った人が隣人であった事を、彼は恐らく残念乍ら見逃してしまうのです。距たりを置いてなら全ての人は隣人を知っています。が事実は距たりをおいて隣人を見ることは不可能なのです。もし隣人を神の前に於いて、無条件に全ての人の中に発見するほどに身近に見出しえなかったとしたら、絶対にあなたは隣人を発見出来ないでしまう。これは慥かな事なのです。
さて、今度は卑賤の者たちに目を転じましょう。境遇の差別が、彼等にどの様な感化を与えているかに就きまして。所謂卑賤の者や、下層の者らが、自分自身について何の定見も有っていない、或いは、彼等がただ奴隷である、ただ下層民であるだけではない、元来全く人間ではないのだ、という観念しか持ち合せていなかった時代は、もうすぎ去ったのです。その悲惨な状態の帰結としてかもされた狂暴な叛乱と恐怖など、これらも亦恐らくは、過ぎ去った事であるかも知れませぬ。さればこそ又頽廃がひそかに或る人間の心の中にかくれて存在するという事にもなるのではありますまいか。劣等の者に於てその頽廃は次の様に現われて来ます。即ちそれは全ての権力者、あらゆる貴族、凡そ何らかの優越を以って恵まれている者らの中に、己れの仇敵を見出す様な心を抱かしめないではおきませぬ。併し、待て、注意することが肝心だ、とそれはささやくのです。未だ相手の敵はなかなか強大なのだ。うっかり衝突すれば、こちらが却って危いのだぞ、と。それ故に頽廃は敢えて劣等の者らをして向う見ずに憤激したり、表に恭敬の表情を飾ることを拒んだり、その結果つい秘密をばらしてしまったりする事がない様にせねばならぬと言います。むしろ、敵の欲する事を言うままにしてやって、而もその実、その反対を為せばよいと教えます。何も言うがままに為しやるがよい。――但しそれによって権力者らが面白くないと思わざるをえない様な方法によって。と言って人が彼等に尊敬の念を欠いている、等と言う言いがかりを付けられない様な仕方で。従って、服従のかげには、陰険な反抗をひそませよと言う。人知れぬ場所において、狂暴の限りをつくす様な。口には白々と尤もらしく説くことを、かげに廻って否定するという頽廃ぶりなのです。権力者の光栄の歓呼の中に、その腐敗せられた悪意はある不気味な不調音をつけ加えようとします。やたらな暴力沙汰をふるっては却って危ない事がある。無下に破局に持ち来すことは危険になるかも知れない。そこで針の先で人の心を刺す不気味な、抑制した狂暴をもって、どこからともなく感ぜられる所の憤懣を以って、権力者や、尊敬せられている者や、優越した者らにとってその権力や名誉や優越さが苦痛になるまでいやがらせをやるがよい。――尤も彼等が尻尾をつかまえて苦情を言わぬ様なやり方を用いねば行けない。そこにこそ技巧もあり、秘密もあるのだと言う。
もしその下賤の衆の中に一人この陰険な嫉妬を心に抱かず、又外部からの頽廃にも心を曲げられる様な事のない人があったとします。もし彼が卑劣な隷属ぶりや、人間憎悪を有たず、謙遜に、また正当な喜びをもって、己れの上に立つ全ての人に敬意を払おうとしましたならば、而も彼はその際、元来幸福や、喜びを有つべき筈の上流の人達よりも幸福であり、喜びに満ちていたとしますと、彼も亦やがて二重の危険にさらされている事に気が付くでありましょう。
同じ仲間からは恐らく、彼は裏切者として排斥せられ、奴隷的な根性をもつものとして軽蔑せられるでしょう。上流の者らからは、却って誤解せられ、むしろ押しつけがましい者として嘲弄せられます。彼が隣人を愛するという事こそ、貴族らにとって、あまりにも卑俗なことと断ぜられたのですが、卑俗な者らからは逆に、隣人を愛する等とは、僭越至極な事と指ざされます。隣人を愛する、ということは、かくも危険な業なのであります。
なぜならば、世界に人と人を距てる不平等の存在することは無限であります。又時間性のある限り、個別なるものの存在も普遍であります。これらこそ、まことに世界の千差万羅をつくす所の多彩をなすものであります。或いは人はその特殊な独自性の故にこそ、己れと同じ類に属する人間だけではなく、あらゆる地位を占めている人々らと円滑に、豁達に協力しつき合ってゆくことができるのであるかも知れませぬ。一面においては多少己れを屈げ、その代りに、他の面に於いていささか多くのものを人に求めることも出来ます。
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しかし人が隣人を愛して、不滅者の意に従い、人間の間にいかなる差別をも立てぬとき、それはあまりにもやりすぎであり、又あまりにも足らぬものであるかの様に思われます。それ故に、隣人への愛の教えは、この地上の状態に適応させるには、あまり物の役に立つまい、と思われるのであります。
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或る人が饗宴を催おし、その席に足萎え、盲人、片輪、乞食らを招待した、と御考え下さい。勿論世間では、多少奇を好むのきらいはあるが、兎に角、結構な事だと言うに違いあるまい、と私も信じたい者であります。もし、併し、この饗宴を催した人が友人に向って次の様に言ったと御考え下さい。「昨日私は盛大な饗宴を催しました」と。友人は、そのとき、自分が招待された賓客の中にいなかったことをしきりにいぶかるに違いありませぬ。そして、彼が一体招待された客の顔ぶれが何であったかを聞いたとき。――元より私はその友人が、「いささか脱線のきらいはあるが、至極結構な事だった」と言うにちがいあるまいと信じたいものであります。しかし、友人は怪しんで且つ言うだろうと思う。「しかし、これは実におかしな用語例ですな。その様な集まりを指して『饗宴』などと呼ばれるのは! 友人の出席していない饗宴! 芳醇なる美酒、えらばれた賓客、食卓を給仕する召使いらの数などが問題にならない様な饗宴を! まあ、之を饗宴だ、などと言おうとされるのですか!」と言うのは、即ち、友人の説に従えば、この種の饗宴は慈善行為と呼ばるべきであって、饗宴と言ってはいかぬと言うのであります。
なぜならばたとえその饗せられた食卓がいかなる珍味豊饌であったにせよ、又ひとりそれにスープ給与所が言う所の「栄養に富み、美味」であったというばかりでなく、真に山海の珍味をあつめ、善美をつくしたものであったにせよ、例えまた十指に数えるほどの各種の美酒が卓子を飾ったにせよ、――その集った客種そのもの、全体の設備の様子、この催しについて口に出しては言えぬ或る種の欠陥が、この種の催しをして饗宴と呼ぶことを許さぬのであります。即ち、差別を立てる所の用語例に反しているのであります。その饗宴を設けた所の人が次の様に答えたとします。「用語例こそ、実は私の方が心得ている、と思っていたのですが! 福音書ルカ(十四章の十二、十三)に、キリストの言った言葉を読まれなかったでしょうか。即ち、『なんじ昼餐《ひるげ》または夕|餐《げ》を設くるとき、朋友・兄弟・親族・富める隣人などをよぶな。恐らくは彼も亦なんじを招きて報をなさん。饗宴《ふるまい》を設くる時は、むしろ貧しきもの、不具|跛者《あしなえ》、盲人《めしい》などを招け。』キリストの言葉によれば、「饗宴」という言葉が正しく用語例に従って用いられているだけではありませぬ。最初にはむしろあまりに祝祭的でない表現、「昼餐又は夕餐」という言葉が使われている。而も貧しきもの、不具者などの招待という段になって、始めて「饗宴」という言葉が使われている。これはキリストが貧しいものや不具者を招待するのはひとり我々の義務であるだけではない。――朋友や親戚や富裕な隣人などを招いて昼餐や夕餐をふるまうよりもはるかに祝祭的なものである、という事を指示しようとした、とは思われないでしょうか? その他の場合などを饗宴などと呼んではいけない。貧しい者らを招待することこそ、饗宴と名づくべきなのだ、と。
勿論、我々の用語法は多種多様であります。一般の用語例に従えば何人が饗宴の席に招かれねばならぬかは、はっきりと規定せられている、と言ってよろしい。
朋友・兄弟・親族・富める隣人、つまり、「招待くらべ」の出来うる人々に他なりませぬ。しかしキリストの言う平等とその用語法はもっときびしく規定します。それはただあなたは「貧者らを食卓に招くべし」と命ずるだけではない。その席をこそ「饗宴」と呼ぶべきなのである、と要求します。しかしもし、あなたが日常の生活の現実において、この用語例をそのままに実行しようとしたり、貧しい者らに対する招待をどういう名の下に呼ぶべきであるかについてキリスト教的に論じたりされたら、あなたは人々の物笑いの種にされるに違いありませぬ。併し、笑う者は笑わしめるがよい。彼等はトビアス(Tobias)をすら笑ったのであるから。隣人の愛を実行することは、トビアスの例に於いても見られる様に、常に二重の危険にさらされています。王は死者を葬ることを死刑を以って禁じました。トビアスは神を畏れること、王者よりも上でありました。死んだ者を愛することも、生命を愛するよりも深くありました。彼はそれ故に死者を葬ったのでありました。それが第一の危険であった。トビアスがその高潔な行為を敢えて実行したとき、「隣人みな彼をあざ笑う」(トビアス・二ノ八)とあります。これが第二の危険でありました。
この様にして饗宴を設けた者は、まことに正しいことを為したのであると思われるでありましょう? しかし、その態度に対して、別の意で咎むべき所はなかったでありましょうか? なぜ彼はそう事を好んでひとり跛者《あしなえ》や貧者ばかりを招こうとするのか? なぜつとめて、或いは、逆っても、友人や親戚の者らを招こうとはしないのであろうか? みな一緒に招待することだって出来たのではあるまいか! 勿論、言うまでもないこと。もし彼が頑迷にしてそれを欲しなかったとしたなら、私らは彼をも、又彼の用語法をも賞むべきではないと思う。しかし福音書の言葉を注意して見ると、これらの他の人達は参加しようとはしなかったのだという意見がかくされている様に思う。それ故に、友人達はどういう連中がその会に集って来たかということを聞くや否や、忽ち自分らが招かれなかったことの不審が晴れてしまったのだと思う。もしその人が友人らの用語例に従った饗宴を催して、而も友人を招かなかったとしたら、友人は機嫌を損ねたにちがいあるまい。併し今の場合には不快を買う筈がなかったのです。招かれた所で友人らはどうせ来はしなかったのでしょうから。
おお、親しい友よ、これ迄言われたことを、あなたは単に「饗宴」と言う言葉の表現法をめぐっての言葉の上の争いにすぎぬ、と思われるでしょうか? それとも、又争いは、隣人愛に関する論争だと観られるでありましょうか? 貧しい者を招いて饗応する人が、流石にこの饗応を「饗宴」と呼ぼうというほどに悟り切れもしないでいる場合、彼はこの貧者や下賤の者らの中に、ただ貧者と下賤の者だけを見ているのです。これを以って饗宴の催しであると為すものは、貧者と下賤の者らの中に「隣人」を見出した人なのです。たとえこの催しが、世間の眼にはどんなにふざけた事に映りましょうとも。ああ、世間というものは、誰彼について、真面目さがない、等と兎角愚痴をこぼし勝なものであります。世間が真面目さ等と言うとき、何をさして一体真面目と言っているのかが問題なのです。世間の言う真面目とは凡て、この世を渡るやりくりに追い廻されている、位のことを言うのではありませぬか。そこで問題は、世間がその大真面目にもかかわらず、真摯さと虚栄心とをはき違えていることがあまりにも滑稽であります、世間の言う最高の意味に於て大真面目な人を見たとき、(即ち、真面目の典型を示そうとしたかを見かけたとき)……問題は、その世間そのものが思わずどっとふき出さずにはおられまい、と言うことなのです。世間とはつまりこの様に真面目なのです。もし煩雑な、又時間的な人間関係の煩雑をきわめて組み合された諸差別によって、「人間」を発見するのが困難であるのと同じ様に、或る人が隣人を愛しているかどうかをしらべてみることも大変困難である、とすると、世界は兎に角笑うための材料にはずい分事欠かぬ訳であります。――尤も、隣人を愛している相当数の人々がいる、ということを前提としての上の話ではありますが。
隣人を愛する、ということは、己れ自らのものとして分けあたえられた特殊な時間的な地位の内廓に於いて、本質的に全ての人に対して、無条件に平等に存在するという事なのです。もし人がそのめぐまれた世上の地位を利して、これ見よがしに、ただ他人のためにのみ存在しようと言うとき、それは慢心であり、僭越を犯すものであります。又賢明なやり方として、全然他人のためなどにつくそうとはしない、身をかくして、自分らの仲間の圏の中だけで己れの地位の利を享楽して行こうと言う、――これも亦驕慢であり、卑劣なる慢心であります。この両つ乍ら、先のも後の場合も、人は己れ自身について矛盾しているのです。併し隣人を愛する者は彼自身の中に落ち付いているでしょう。彼は己れに分ちあたえられた地上の地位について、たとえそれが高貴なものであれ、卑賤のものであれ、満足しているでしょう。なお、時間の上のあらゆる不平等を我慢するでしょう。そして己れの地位がこの人生において、ゆるさねばならず、且つゆるしてもよいものだけを許容するでしょう。それによって、彼は己れの静けさをかちえたのです。
汝が隣人の有つものに慾望を起すのはいぎたない。隣人の女を、その驢馬を、したがって又人生において彼にめぐまれた特権などを、ほしがってはなりませぬ。もしそれらがあなたの手中のものでなかったなら、少くともそれが他人のものとなったことを喜ぶがよろしい。かくて、隣人を愛するものは、己れの静けさをえたのであります。卑劣にも権力者を逃げかくるのではありませぬ。隣人を愛するだけであります。上品を気取って、卑賤のものを避けるのではありませぬ。ただ隣人をこそ愛するものであります。本質において、全ゆる人のために平等に存在しよう、と希うのであります。現実において、多数の人に知られているか、いないか、は何れでもよろしい。彼の翼のかける所は、非常に宏大な圏であることは疑う余地がありませぬ。而も高邁な飛翔にまかせて、この世界をとび越して行ってしまったりなどはしませぬ。むしろ、自らを否定して、地上に向う所の謙遜な困難に充ちた飛行をえらぶのであります。人生の行路を、こそこそと盗み歩いて行くことははるかに容易でもあり、気持よいことでありましょう(上流のものは、気取った引退の中に。下賤のものは、人の目に立たないで済む気安さの中に)まことに、おかしなことではありますがこのしのびやかな登場こそ却って仕事を果すに都合がよいと見えます。なぜならこの方がずっと抵抗を受けないで済むからなのです。
併し、抵抗を回避するということは、骨肉に徹して訊ねてみて、果してそんなに快いものかどうか。臨終の床にのぞんで心に慰まむものがあるか、どうか? 死に臨んでは少しもにげ隠れたり等した覚えはない、むしろ堂々と堪うべきことを堪えしのんだのだと言うことが唯一の慰藉ではありませぬか。
人間がいかなる仕事を果しえたか或いは果しえなかったか、ということは人間の力の及ぶ範囲にはない事であります。人間は世界を司宰するものではなく、ただ服従してゆくものであります故。凡そ人はそれ故に、先ずいかなる地位が己れに最も快適であり、いかなる縁故が彼にとって最も有利であるか、を訊ぬべきではありませぬ。神の摂理が彼を要求めている点に己れを置くことをこそ、切に訊ぬべきなのです。もし摂理がそれを希まれるという場合ならば。――この点とは、即ち隣人を愛することであり、本質的に全ての人間に対して、平等に存在することに他なりませぬ。その他の全ての点は、彼を徒らに自己分裂に導くだけでありましょう。たとえその地位が外見上、いかに有利で、快適で、重大なものに見えましょうとも。
神の摂理はこれらの地位にかかり合った者らを必要とはしませぬ。なぜなら、彼は神の摂理への叛逆の中に正に在るものなのですから。之に反して、全ての人に対して、本質的に平等に存在するために、かの見捨てられ、侮蔑せられ、拒否せられた正しい地位に就く人、(自分が、この世の特殊の地位に執着することなく、唯一人の人と党派をつくることもなく)たとえ彼は何事をも成就することなかったとしても、たとえ彼は下賤のものの嘲笑をあび、上流のものには侮蔑を買い、或いは嘲笑と侮蔑と何れにもさらされる身となったとしましても、死に臨んでは彼は自ら慰さめを以って、自分の魂に次の様に言うことができます、「私は為すべき事を為したのだ。思うほどの仕事を残しえたかどうかは知らぬ。又誰かのために利をもたらすことができたかどうか、私は知らない。併し、私は人間のために生きたことだけは確信することができる。人が私を嘲笑することによって、私はそのことを知ることができる。これこそ、私の自ら慰さめとしているところのものなのだ。私は自分の秘密を、私と一緒に墓の中に持って行って仕舞おうと思っていない。――私は美しい、静かな愉しい日をもたらせたいために、他の人達と近親であることを否定したのだ。卑賤の人々と上流階級の隠退した生活を共にするために、上流階級の人達とはかくれた人目に立たぬ貧者の生活を共にするために。」
之に反して或る人は他のものと党をつくり、多くの仕事をこれ見よがしに成就します。――つまり彼は全ての人のために存在するものではないのだと、彼はやがて気が付くでありましょう、死は彼に責務を果せと責めるでありましょうが、死によっては人生というものは、矢張少しも変更されたのではなかったのだと。下賤のものであれ、高貴のものであれ、凡て人をみちびくために己れの全力を果し、人を教え、言行の上に示し、努力をささげ、全ての人のために平等に実存したものは、もうその責務に問われることもありますまい。彼を迫害した人々もようやく彼がわかりかけたと言うことを告白するでありましょうから。彼は責務に問われる何物もありませぬ。むしろ彼は良いことを果したのです。教え導かれねばならぬものは、先ずよく了解して貰う様にされねばならぬからであります。
併し、自分の特権あるグループの中の隔壁の中でのみ卑劣にも活動をつづけている様な者たち、たとえどの様に多くの仕事をなし、多くの利益を収めえたかは知りませぬ、が、生れの卑しいもの、と高いものを問わず、卑怯にも人に解って貰おう等ということをしないもの、人間の理解などは、何れ矛盾なるものだと思っているからでありましょう。(その他の所に別の、真にばくろしなければならぬものを有っているのですから。)卑劣にも亦その著名な仕事のかげにかくれて、限界から一歩も出て来ようとしないもの、(これによって、彼の真の人間の様相はごま化されるのです。)これらの人々こそ、責務に問われねばなりませぬ、――彼は隣人を愛する者ではなかった、と。
もしこの人が次の様に言おうとしたら、「一体こんな基準にしたがって人生を営んでみた所で何の役に立つだろう?」私は彼に答えてやりたいと思う。「あなたの弁解は不滅者の前に、一体何の役に立つのでしょうか?」不滅の誡命はいかなる賢明の弁護も到底及び難いであろう高さに立っているのですから。
神の摂理が真理を行うための道具として用いられた所の人々、(忘れてはなりませぬ。全ての人々はかくあらねばならず、あるべきなのです。少くともかくありうる様、己れの生涯を配置すべきなのです)彼等のうちの一人といえども、全ての人にとって平等に存在したいという事のために、その生涯を捧げなかったものはありませぬ。かくのごとき人は、未だ曾て生れ卑しいものと、生れ貴いものと、党派をつくった例しはありませぬ。みな平等に全ての人のために存在したのでした。生れの貴いものの人のために、又最も生れの卑しいもののために、まことに人はただ隣人への愛によってのみ、最高の仕事をはたすことが出来ます、なぜなら、最高のもの、とは神の摂理の御手の道具になりうる、ことなのですから。その他の場所に占拠する全てのもの、特殊の関心を有てる全て党派あるもの、たとえその首領であれ、或いは、それに従属して事を為すものであれ、自ら摂理を為さんとするものであります。かくて、全ての彼の成果は、たとえ全世界を包括するほどに巨大なものであろうとも、みな官覚上の錯乱にすぎませぬ。彼も亦永遠に於いてはその非を悟らざるを得ないでありましょう。神の摂理が彼をも亦用いられたと見るのは或いは正しいかも知れませぬ。しかし遺憾乍ら用いられたとしても、その道具としてではなかった。彼は頑迷固陋な、自尊心のつよい男であり、神の摂理はそれを用いられたにしろ、その報償はすでに空しいものとなる様に用いられたのでありますから。たとえ隣人の愛は世間の眼にはどの様に笑うべく、不合理に、邪魔なものに見えましょうとも、これこそ人間がこの世に於いて為しうる最高の仕事なのです。最高のものがこの地上の生の様々な制約の中に申し分なく適合しえた例は、未だ曾てありませぬ。それは余りに過剰すぎると、同時に又余りにも過少すぎるのであります。
その光彩陸離とした千差万羅をつくしあなたの前に横たわっている世界の様相をよく見ていただきたい。まるで、目のあたり一大悲劇を見ている様であります。ただ違うところはその変化ある多様性が、はるかに、はるかに複雑だ、ということだけです。この無数の人の中にそれぞれ一人一人が、特殊性を有っていて、或る規定されたものなのです。彼は或る規定のものであるという心像をあたえます。併し、本質に於いてはまるで別物なのです。しかし、それはこの人間の生に於いては、あなたは遂に見ることは出来ない。ここには、ただ、あなたは個々の人が現示するところのものだけを見、又いかにして、それを為すか、ということだけしか知ることはできないのです。それはまことに演劇を観ているときと同じであります。
もし、しかし舞台に幕が下りると、これまで国王を演じた所のもの、乞食を演じたものも、すべて、それぞれの人物が、やがては同じ差別のない、みな同一にして、等一なる、――俳優――に還ってしまう。死が来て現実という舞台の前に幕が下りるとき、(死の刹那に永遠の舞台の幕が上るのだ、と言う人がありますが、これはまぎらわしい。永遠には舞台はなく、ただ真理があるのみなのですから)全ての人はみな同一のもの、人間、に還るでありましょう。みな元より本質に於いて以前よりかくあった所のもの、ただあなたはその変化ある外形にまどうて、見れども見えなかった所のもの、即ち人間に帰してしまう。芸術のつくる舞台は、魔力をかけられた世界そのものである様に思われます。或る夜、みんな一様に精神の上の錯乱を来して俳優という俳優が、現実に自分らが演技している人物そのものだ、という考えにかたくとりつかれてしまった、と考えてみて下さい。この魔力なるものは、芸術のする魔力に反して、何か悪霊のなす業である、とか、魔に魅入られたのだ、とか、言うことに帰せられるだろうではありませんか? 同じ事が起ります。現実に於いての魔力にかけられて、(なぜなら、我々みなすべて魔力をかけられている様なものなのだから。我々のうちのみなそれぞれの者が、その特殊性の中に魔力でしばられているのです)根本の考えが怪しくなってきて、しまいには我々が演技している所のものが本質的に自分自身なのだ、と思い込んでしまう。これこそ、まことに同じ立場ではなかったのでしょうか?
而も、もし俳優が演伎の間に実際自分は自分が演じている所の人物だと思い込んでしまったとしましても? 之は過失であると言わるべく余りにも立派すぎる過失だと思う。なぜなら、そうすることによって芸術としての最高の境に到達することができるからです。なぜなら、俳優は自ら演ずる人物と何れが真偽が区別しがたい程にならねばなりませぬ。ついに我々が俳優であることを忘れてしまうまで。――即ちこれは俳優がその配役にすっかりはまって、自分自身を脱却してしまうとき、最も見事に遂行されます。さて、人生も亦一つの舞台である、と言う。併し、この場合には人間がこの時間性の内に演ずる役割を通して、なぜ彼が人間として破滅であるか、ということが少くとも輝いて見えなければならぬ、と言う。――之は過失と言うよりも、むしろ最高のことなのです。ああ、しかし個々人はそれぞれあまりにも限定された自分の配役に密着してしまっている。従ってそれを引き放すために死はついに暴力を用いなければならない程度になるのであります。
もし人が真に隣人を愛したい、と思うならば、特殊性とは衣裳にすぎないと言うことを、刹那といえども忘れてはなりませぬ。先にも言いました様に、キリスト教は、決して貴族とか卑賤の対立を取り除けようとして乱暴に割って入るという様なことは欲しなかった。勿論又世間的な流儀にしたがって、差別を和解するよう世俗的な妥協を結ぼうとするものでもありませぬ。むしろ差別は個人の体に、ゆったりと軽快にまとわれてある様に念ったのであります、例えば帝王が身にまとう長袍の様にゆったりと。帝王は時にその外套を投げすてて自らの何人であるかを示すことが出来ます。軽快にと言うのは恰かも自然を超えた本質がその姿をかくすために、かりに着けたみすぼらしいかつぎであるかの様に、という意味なのです。
この様に特殊性がゆったりと肩にかかっていますと、全ての個人の中に常にあの本質的な他者が輝やいて見えるでありましょう。即ち全てのものにとって普遍なるもの、永遠に同一なるもの、即ち平等性が見えてくるのです。もし事実がそうであり、各個人がその様に生きる事が出来たとしたら、この世の時間性はその最高の位に到達できたと言ってよろしい。勿論時間は永遠そのものの様に在ることは出来ない。併し、人生の歩みを少しも故障することなく、而も日毎に永遠によって新しくされてゆく、又、日毎に特殊性の中に止っている人の心を特殊の中から解放するあの希望に充ちた絢爛さ。これこそ、永遠の姿を反映したもの、と言うべきでありましょう。ここに於いて、あなたは人生の現実の中で安んじて司政者にも見えることが出来るでありましょう。且つ喜びと畏敬とを以って服従を誓うことも出来るでしょう。つまりあなたはその支配者の中にただ人間の心の絢爛さをのみ見ることが出来るのです。それがただ外部の燦然たる衣裳によってつつまれているだけなのです。多分あなたは又乞食の姿を見、彼のために悲しみ、彼自身よりももっと辛い思いをされるかも知れませぬ。しかしまたあなたは乞食の中に、身にはぼろをまとうてはいるが人間の心の中の絢爛さを発見せられることでありましょう。かくてあなたはどこに目を向けられても、隣人を発見されぬということはありませぬ。
凡て、この世界が出来て以来、王が王であり、学者が学者であり、あなたの親族が親族である、と言うのと同じ意において、即ち特殊性の意において、或いは(同じことですが)不平等の意において、或る人間が隣人であったという例しはなかったのだし、又現にどこにも存在しませぬ。いや、全ての人間が隣人であります。我々が王者であり、乞食であり、学者、富豪、貧困、男女、等である限りにおいて、私共は互いに相似たものではありませぬ。正に、それによってこそ我々は遠く距たり合っています。しかし、我々が「隣人」である限りにおいて我々はみな互いに無条件に平等であります。不平等こそ、人間の時間性のもつ混乱であり、全ての人間を別ものとしてこの記号をつけてしまう。併し、隣人とは全ての人間に不滅者のつけたしるしであります。
幾枚もの紙をとって、その一枚一枚の紙の上に何か違った事を記してごらんなさい。一つ一つみな違ったものとなりましょう。次に各々の紙を取って、その上に書きしるした事柄に心を乱されることなく、光りの下にかざして見られるがよい。すると、あなたはどの紙の上にも、普遍のものがある事を発見せられるでしょう。同じく、隣人も亦普遍のしるしに他なりませぬ。ただあなたはそれを不平等の中を徹して輝やく不滅の光りの中に置いてのみ、見ることが出来るのであります。
友よ、勿論あなたは、これを素晴しい事だと思われるに相違ありませぬ。元よりまたあなたは屡々感動せられたことでありましょう。――静かな高揚された心の中で永遠の思想を思いめぐらし、その思索のために献身せられたとき。併し、……ただあなたのこの誓約が、距たりを有ったものでなかったならば、と思わずにはおられませぬ! あなたがあなたの一身をあげて神との盟約のために決意されたこと、この誓約の信実を守るために神と共に協力すること、またあなたはこの理解は、たとえ神のためにあなたは人生において多くの苦難を蒙るかも知れない、いや、場合によっては生命をすら賭するかも知れない。而もなおあなたはそれを神と共にあらゆる苦悩や、不正を超えたあなたの勝利として確保せられる。――以上の事を、あなたの生涯をかけて表現しようとせられることは、素晴しい事ではなかったでありましょうか? 真に善いことを為そうと思い、真に唯一つのことを欲しようと決意したものは、この幸福な慰さめを有っている、ということを思い出していただきたい。「苦難は一度であり、勝利は不滅である」と。
詩人は愛の貴さについて歌って止みませぬ。人が恋するとき、いかにそれは恋する人を高貴なものと化することか。いかに恋はその人の全身を貫徹して、清浄なものとすることであろうか。詩人は恋する人と、未だ曾て恋の一変せしめる力を味ったことのないものとの間に雲泥の相違を置きます。ああ、真の高貴さとは、あらゆる生に対する要求、権力や名誉や利に対する欲求をそのために献げて惜しまぬことでありましょう。即ち、実際に一切の欲求を、(愛と友情の幸福とは欲求のうち最大のものに属します)捧げて惜しまぬことに在ります。神と不滅者とは人々らに対して、いかに巨大な要求を為すものであるか、ということを理解するために。
この神との盟約を享けようとする者はすでに隣人の愛への途上に在るものであります。
人間の生命は、錯覚を以って始められます。始めは自分の前に、永い永い時があり、無限の宏大な世界が拡がっていて、そこに気ままにふるまってよいものだと思っています。人はまた自分の欲求を満足せしめるに充分な時間もあるし、豊富な機会もあるのだという、とてつもない妄想を以って始めるのです。詩人こそ、この途方もない、併し美しい妄想の雄弁にして情熱のある立会人であります。
もし、併し人が、やがて不滅者が、いかに切迫して、自分に近づいてくるか、ということを発見するとき、――それはあまりにも近い切迫です、従って、彼がたった今この刹那に、この瞬間に、この聖なる時刻に果さねばならぬことを、何とか一寸のばしにするために、唯一つの欲求、唯一つの逃亡、唯一つの弁解、一つの瞬間すら見出すことが許されぬほどなのです、――そのときこそ、やっと彼は一人のキリスト教徒となる途上にあるもの、と言ってよいでありましょう。
幼年時代や、青春というものは、人が「私はこうしたい、私はこうしたい、私はこうしたい、」ということによって特徴づけられると思う。成年や、不滅者の高貴さへの尊崇は、人が兎に角、次のことを理解しようとする所に特徴づけられると思います。「私」などというものは無にも等しい、もし「私」が「あなた」にならなかったとしたら。不滅者はその「あなた」に向って、不断にかく命ぜられています。『汝はかくすべきである、汝はかくすべきである』と。青春の者は全世界の中で唯一の「私」であればよいと思っています。成熟した者は己れ自らに即している。
この「あなた」を理解しようとします。――たとえその他のいかなる人にも「あなた」という事が言われえぬとしても、「あなた」は隣人を愛さねばならぬ、ということ。ああ、私の友よ。私がかく話しかけているのは、「あなた」に向って、ではありませぬ。私自らに向ってなのです。不滅者がその私に向ってこう言われます故、――「汝は愛すべきである」と。
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第五の章 愛は律法の完全なり
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(ローマ書、十三章ノ十)
愛は隣《となり》を害わず、この故に愛は律法《おきて》の完全《まつたき》なり。
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ことわざに、「約束は正直だが守ることに難い」と言います。併し、一体これでよいのでしょうか? 明らかに約束を守ることが、正直であり、同時に又難しい事なのです。約束することを正直だと人は言いますが之は、いささか当らないのではないでしょうか? 実に多くのまやかしの約束がなされるこの世界においては、特にあぶないことなのではありますまいか? ただ約束さえしておけばよい、という気になり、そして正直にも約束によって自分自身をあざむいて平気でいる人達の間においては? むしろこの俚諺の名誉そのものに関するということにはならないでありましょうか? なぜなら経験から割り出した他のことわざに次の様なことを言っているからです。即ち「借した金」は、もし(約束通り!)返却される時は、「この金は見つけもの」だと言うのです!
むしろ、これは、その反対を言った方が当て嵌るのではないかと思います。即ち約束することは不正直だと。なぜなら本当の信実さには約束などはしない、と言うことがふくまれている。けだし約束などして時間を浪費する暇はないのですから。約束によって自分自身の良心をあまやかすこと等はしない、決して二重の支払い、――先ず約束のために、それから次に約束の履行のための支払い、を要求することはしない、ということがもう、ふくまれているのですから。何れにしても、約束することは、危険にもあまりに容易なことなので、むしろ、徹頭徹尾約束を履行する、ということに注意が向けられねばなりませぬ。
聖書に一つの比喩が(マタイ、廿一章、二八―三二)示されてあります。神の礼拝の際にはむしろ引用されることはきわめて稀な話なのですが、教えるところはきわめて多く、きびしく私どもの良心を呼びさましてくれるものなのです。暫らくこの話をきくことにいたしましょう。「ある人二人の子をもてり」と言う。このある人は、同じく二人の息子を有っていたと言うかの迷える息子の父親に似てはいないでしょうか。いやその二人の父親同士の互いに似ていることは一層大なるものがあります。と言うのは話によれば、この父親の一人息子も正に迷える息子だったからです。父は「その兄にゆきて云う『子よ、今日、葡萄園に往きて働け』答えて、『主よ、我ゆかん』と言いて終に往かず。また弟にゆきて同じように言いしに、答えて『行かじ』と言いたれど、後悔いて往きたり。この二人のうち孰《いずれ》か父の意《こころ》を為せし、」我々は又問を次の様に試みることも出来ます。「この二人のうち、何れが迷える息子であったのだろうか?」勿論あの往こうと言った方の息子です。従順な彼は、ただ往こう、と言っただけではない「主よ、われ往かん」と言ったのです。恰かも、その言葉によって、自分が父の意に無条件に、従順に服従することを証明しようとでもするかの様に。――彼は、「迷った」のですが、あまりにも目立たぬ迷い方だった。そこで彼の場合は自分の財産を売笑婦らと共に消尽し、終にはそれを豚飼いの所に持って来て、結局は又再び手に戻った、と言うあの「迷える息子」ほどには公っびらにならないでしまいました。迷った息子であったのは、つまり、あの「往こう」と言った方の息子だったのです。あの迷った息子の弟に、あまりにも似てはいないでしょうか? この弟の方は自分から、我こそ正義のものであり、善良な息子だと名乗っているのです、が、それにも拘わらず福音書の中には、彼の正義は疑惑を以って見られています。同様に、多分この兄の方、定見のない男、は自ら善良な息子だと、思い上っていたかも知れませぬ。彼は「往こう」と言い、「主よ、往かん」とまで言い切ったのでした。而も、諺は「約束は正直」だ等言っているのです!
他のひとりの兄弟は、之に反して「否」と言っている。「否」とは言ったが、併し、実際には行いの上では約束を実行することを意味している。かくのごとき「否」は、時とすると何とか理解出来ないことでもありませぬ。ある偏屈な性質にその原因を有っている事があります。こういう詐偽的な「否」にはことによるとこの地上を逃亡する、未知な正直さがかくれていることがあります。そういう答弁者があまりにも日常に「よろしい引きうけた」ということを耳にしなければならなかったので、(と言うのは、「口で肯っても実行しない」と言う意味に他ならない)他のものが「よろしい引き受けた」と言うときに、却って「否」を言う様な習慣がついてしまった。つまり、そうしておいて優柔不決断な兄弟がどうせやらないでしまう事をやり了せるのです。或いは答弁者は、自分自身に対してはたして、どうか、という不信の念を持っている。そこであまり多くを約束しすぎぬ様に、約束することを避けたのであるかも知れませぬ。或いは善いことを為そう、という熱意のあまり約束のもっているまやかしの約束の見せかけをよせつけなかった、のかも知れない。併し、福音書によればこの「否」は勿論、従順ならぬ「否」であります。不従順な息子は、しかし悔いて、矢張行って、父の意を果し了えたのでした。
この比喩は一体何を提示しようとするのでありましょうか? 言う迄もなく、次の事であります。即ち「然り」と軽率に肯うことのいかに危険であるか、と言うことなのです。たとえ、それを言った瞬間にはどんなに真面目で言ったにせよ。――そのぐずの兄弟は彼が「然り」を言ったとき、詐偽者であった所のもの、として例証されたのではありませぬ。約束を守らなかった故に、詐偽漢となったもの、としてあげられたのです。もっと詳しく言えば、約束したいという想意のあまり詐偽者となった所のものとして。彼にとっては約束することが、つまり彼を陥入れるわなになってしまったのでした。もし彼が約束などしなかったとしたら、却って幾分か働いたかも知れなかった。人が何か約束事をするとき、兎角人は自分自身をそれによって欺き勝になるものであり、結局人を欺くことにもなります。まるで約束したことを、もう果し了えた様な気になってしまうのです。或いは約束することによって、これこれの事を為そうと約したその仕事の一部をもうやってのけたつもりになってしまう。あるいは約束すること、そのものが、何か功績でもあったかの様に。
それで約束したことは、結局何もしないという事になる。その時になって、やっと人は約束したことを果す様に約したということを再び思い出さねばなりません。――そして今度こそは本当に約束したことを為そうと決心して御こしをあげるのです。
ああ、何か人のため為てあげようと引き受けた仕事そのものが、多分もう充分に厄介な事であったかも知れませぬ。さて人は今はたしえなかった約束によって、何とはるばると実行から距たって来てしまったことでありましょう。どうやら錯覚でも起しそうな始末になりました。仕事にすぐ取りかかればよいのに、約束することによってそれを飛躍してしまったことは、兎に角道をあやまったものだ、と言わねばなりませぬ。今度はその大変な廻り途を逆行して行かねばならないのです、――いま来た出発点まで戻ってゆくために。
「否を言った」ことから、「よろしい」と言う行動への道、「悔恨」を経て「償いを為そう」という道は、もっとずっと近いでしょうし、見つけることも決して困難ではありませぬ。「然り」という約束の言葉は良心を居眠らせる様なはたらきをする。之に反して実際面と向ってぶしつけに言われ、その人自らの耳にも応えたであろう「否」という言葉は、目を醒すに足るものであります。かくて悔恨まではそんなに遠い道中ではありませぬ。「主よ我、往かん、」と言った者は、その同じ瞬間に自分自身について買い被っているのです。「否」を言ったものは次の瞬間に多分自己自身に対して懸念を感じるでしょう。先の判断は第一の瞬間に為された判断であり、従って瞬間的な判断にすぎませぬ。第二の判断は、次の隣りの瞬間の判断であり、即ち、永遠のなす所の判断であります。正に、それ故にこそ、世界は約束ということに傾倒しています。世俗的な事即ち刹那的なものでありますから。又約束することはその刹那においては、まことに立派に見えるのです。それ故に不滅者は約束というものを信用しませぬ。なぜならば不滅者は凡て、刹那的なものを信じないのですから。
この兄弟の内、どちらも往かないでしまった、として考えて見ましょう。どちらも、即ち父親の意志に反して実行しなかったのです。この場合にも「否」を言った兄弟の方が父親の意志を実行する事に対してずっと近かった、と言うことができる。自分の不従順さを自覚することにも亦近くいた様に、「否」は何一つかくし立てをしませぬ。之に反して「然り」は容易に錯覚となり、自己偽瞞となります。之こそいかなる困難にもまして剋服するに、最も困難極まるものなのであります。
ああ、「地獄への道は平坦だ」という諺はあまりにも真理であります。或る人間にとって最大の危険とも言うべきは、人が良い意志(即ち、約束)によって後戻りをしてしまうことなのです。それが真に後退であるということを発見することはまことに至難の業であります。併し、後退であることに変りはありませぬ。
彼は良い意志を以って良いことに向ったのであります。而も良い志操を以っているのに、前進することが出来ず、良い事に向って進むことができないでいます。そればかりか、後退し、善い事から離れて行こうとしている。新しい志を立てる毎に彼は一歩前進するかに思われる。所が、彼はそこにふみ止っていることすら出来ないで、実際には一歩後退してゆく始末なのです。
裏切られた立派な志向、充されなかった約束はある不快さを、ある憂鬱さを残してゆく。それが彼をしてもっと愉しい決心へと駆り立ててゆく。が、やがてそれは又もっと暗澹たる陰鬱を取り残すだけなのです。飲酒家が酔いしれたいがために次第次第に強烈な刺戟を要求する様に、――良い決心をもつという情熱の惰性の中に堕ちたものは、後|戻《すざ》りをするために、次第次第に度の強い刺戟を需める様になります。我々は決して「否」を言った息子を称揚したいと言うのではありませぬ。いや、福音書について、ただやたらに「主よ、吾往かん」と言い放つことはいかに危険であるか、を学びたかったのでした。約束というものは、行動に対する関係において見れば一つの、魔の申し児みたいなものにすぎませぬ。それには充分に注意せねばならないのです。たった今小児が生れたばかりの刹那で母親の喜びも絶頂であるとき、そして、喜びのあまり、うっかりしている瞬間に、悪魔の力がしのび寄ってきて小児の代りに魔の申し児とすり代えてしまう。同じく行動を起そうという重大な、それ故に、危険な瞬間に、悪魔が訪れてきて、実際の上に活動を退けてしまう。そして魔の申し児として「約束」を以ってすりかえてゆくのです。いかに多くの人がこの流儀であざむかれたことでしょう! いかに悪に魅入られてしまった事か!
ですから、人間にとって、いかなる課題にのぞんでも重大であるのは、彼の注意力を即刻に、錯乱したりしないで、最も本質的な、又決定的な事の上に志向することなのです。同じく、愛の場合においても大切なことは一瞬間と雖も愛が、愛の真相以外のものとしてあらわれることを許してはならぬ、と言う事です。又この愛のにせの見せかけが、愛に固着してしまって、係蹄《わな》となったりすることあってはならぬのです。即ち愛は、たとえば、それ自らに対して悦びを有ってよいのだ等いう、甘やかす様な空想を描く余暇などを与えてはなりませぬ。即刻に課題に直面し、次のことを理解せねばなりませぬ。行為にうつす迄のあらゆる一つ一つの刹那も空しく失われた時間であり、単なる時間の浪費以上の損失である事、その他あらゆる他の方法で自分を示そうとする事も単なる逡巡であり、後退にすぎぬという事であります。我々の論説の上にかかげた言葉、
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『愛は律法の完全《まつたき》なり』
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の中には、他ならぬ以上のことが言いつくされているのでありました。
もし人が「愛とは何か?」と問うなら、使徒パウロは次の様に答えるでありましょう。「愛は律法の完全なり」と。この答えによって、それ以上の質問をみな封じてしまった、と言ってもよいでありましょう。なぜなら、ああ、律法そのものすら、すでに広大無辺の問題であります。而もそれは律法を完全くする、ということ。勿論あなたも解っては下さるでしょう、がそのためには実に一瞬と雖も空費することは許されませぬ。
もとよりしばしばこれ迄も世俗の世界で「愛とは何か」という問が好奇心をもって提出されました。するとその好奇的な者らを相手に解答しようとしてわたり合う暇人達もあったのでした。この何れも、好奇のものと、有閑のものと、互いに申し分なくよく理解し合うと見え、それ故にいつ迄わたり合っても飽く事を知らず、質疑と解答とをくり返し合っている有様なのです。
パウロは併し、質疑者らを相手に取ることはせず、そして広大無辺の問題に堕ちるという事もしませぬ。むしろ反対に、彼はその解答によって質疑者を捉えます。捉えて、律法の下に従順ならしめます。彼は解答によって、即時に愛の方向を指示します。同時に、その方向に進んでゆく様に動力をすら与えます。之は愛の解答に於いてひとりパウロの場合だけそうなのではない。全ての使徒らの解答において、全てキリストのせられた解答に於いて、同じ事なのです。即ちその解答に出会うと、質疑者らは、もうその思想を駆って、雲烟漂渺たる所に漂滔してゆく事が出来なくなります。又彼の全ゆる注意力を今、彼が充溢させねばならぬ課題そのものの上に集中せざるをえなくなります。之こそ、キリストの教えにおいて正に、特色あるものであります。
古代の思考法は、認識を論ずるを主にするために、異端主義に判決を下しました。が、之は問うための技術、問うことによって全て解答者を無知の中に虜にするという技術を心得ていた。キリスト的なものは、之に反して、認識を問題とするのではなく、実践を主題とするものであり、従って解答する技術、解答することによって人をその課題の中に迎え入れるという技術を有つものであります。この故に巧智に長けた言葉の詭弁家や弄説家にとっては、キリストを問い試みることは却って危険であった。勿論質疑者はその解答をえました。併し、彼はその解答によって、ある意味で、余りにも多くのことを知らねばならなかった。即ち心を奪われる様な解答をえました。決して精神を弄し、漂渺たる無辺の境に質疑者を漂わしめるところの解答ではありませぬ。即ちその言に従って行いを為せ、と神の権威を以って義務を課する所の解答であったのでありました。質疑者自身としては、学問的な関心から自分から適当な距離を置いて応待し、又真理を実践するという事からも離れていなかったのでしょうに。
何と無数の人が「真理とは何か?」と言うことを訊ねたものであります! とは言い乍ら根本に於いて、彼等は真理があまりにすぐ真面目な身近にまで追って来ない様に希っていたのでした。でないと真理は即刻この瞬間に、それに応じて行為する様、彼にも義務を負わしめるでありましょうから。
ファリサイ人が「己れを正しくせん事」を求めて「吾が隣人とは何人であるか?」について訊ねたとき、彼は先ずこの探求のために迂遠曲折した過程があるだろう、そして、その探求は非常に永い時間かかるに違いない。そして結局は「隣人」という概念を精確に決定することは不可能だという妥協によって終ることになるのだろう、と考えていたのでした。それ故にこそ、彼はわざわざ問い試みたのでした。逃口を探すために、時間を浪費するために。自らを正当化するために。神は、所で、賢者らの愚昧さのえり首をつかまえてしまった。キリストは課題をふくんでいる解答を与えることによって、質問者をしっかりからめてしまったのでした。キリストのする解答は凡そみなこの種のものであります。キリストは冗漫迂遠の説を為して、不要の質疑を止めよ、と戒めるのではありませぬ。それはただ論争に導くだけであり、注意を他に外《そ》らせて仕まうだけであります。(ああ、それを戒めよという迂遠の説を為したからと言って戒められる所のものとあまり格段の相違もありますまい故!)キリストは神の権威を以って教えたと同じ様に、又神の権威を以って答えたのでありました。権威とは、他でもない、課題を命ずる所にあります。偽善の質疑者は分相応の解答をえたと言ってよろしい。がそれは、願った所の解答ではありませんでした。彼は好奇心を満足せしめる様な答えをえず、又遁走の口実となる答えをも得ることはできませんでした。その解答は驚ろくべき特質を有つものであった、と言うのは、更にその説を押し進めてゆけば、その説を教えられている人をすぐにとらえてしまう、直ちに課題の中にとらえて仕まう所のものだったからです。或いは人が厚かましくもキリストの教えられたあれこれの説をまるで寓話でも扱う様に扱って見ようと思ったとしても、到底できる筈がありませぬ。その解答は、答えをきくものをじかに捉えてしまう。そして課題を即座に彼に担わしめるでありましょう。
ただ人の理性に訴えるだけの解答であれば、何人がそれを為し、何人のためにそれが為されようと、何れにしても無関心でいられたでありましょう。キリストの言われた全ての解答は正に之とは反衝を示す所の性格を有つものであります。余人ではないキリスト自身が、これを解答せられたことが、無限の重大性を有つのであります。又それが或る個人に向って為される場合、特に、それが教えられる者が「その人」である、ということに、不滅者の言う最も大切な意がふくまれているのです。――同じ方法によって、万人に向って諭さるべき説なのでありますが。
理性とはそれ自身理性として立証される場合、それ自身にだけ関する事象なのです。その限りにおいて、恰かも盲目であると云ってもよろしい。誰かがそれを観ているかどうか、にも無関心であり、又誰かがそれをよく観ることによってあまりにも理性に接近しすぎる等ということもありませぬ。之に反して神の権威は全てこれ眼である、と言う概があります。先ず説示を受けるものに立てと命じます。――たとえ神に向ってかく語を為したものが、何人であるかを問わず、次に、その心底をさながらに照破する所の眼をその人の上に注ぐのであります。その眼差はかく教えます。「この言葉はお前自身に向って言っているのである」と。ですからむしろ人々は精神家や、意味深遠な言を弄する者を相手にすることをよろこぶのです。(眼かくしの鬼ごっこが出来ますから)――併し神の権威では相手がわるいと言うのです。
それ故に又人はパウロの愛の解答を、あまりよろこぼうとはしないのであります。それは、先にも言った様に、矢張人々にとって危険なるものでありましたから。愛とは何であるか、に対して、もし何か他の解答が為されたのであったとしたら、そこには逡巡、間隙の空間、解放された瞬間なぞの余裕が生じたでありましょう。かくて、好奇の人は、利己心や、その閑な時間なぞを満足しえたでありましょう。
しかし愛は「律法の完全なり」と言うとき、約束などを弄ぶ時間の余剰は残されていませぬ。行動を否定し、即座に課題を捉もうと言う実践を否定し、愛にその逆の方向を与えようというこの最後の企てを弄する余裕なぞ少しもありませぬ。約束は直接に実行に通じている様に、そのまま直ぐに行為の始めであるかの様に見えます。而もただそう見えるだけなのです。たとえ愛の約束が次の瞬間にはもう幻滅だということを暴露してしまう、単に安易で、刹那的な亢奮や、後には衰頽だけを残してゆく様な瞬間的な火焔でなく、又前方へ飛躍したつもりでいて、その実は後ろへ退く所の飛躍でもなく、先走って契約したのであるが、再びためらう所の停滞、事実とはまるで関係も有たない序説等ではないとしましても。たとえ約束はそうでないとしても、約束は矢張停滞であり、夢見る所の、或いは享楽し、或いは驚異し、或いは軽率な又は自惚れた所の愛に於ける停滞に他なりませぬ。恰るで、愛がやっと自ら正気付きでもしたかの様に、或いは事態を熟考して見よう、とでも思い立ったかの様に。或いは自分自身について、又愛が自ら為しうることについて、いぶからずにはおられぬかの様に。
約束することは、愛に於ける停滞に他なりませぬ。それ故にそれは一つの諧謔なのです。而も危険ともなりうる諧謔です。なぜならば真摯は「律法の完全」なのでありますから。キリストの言う愛は、一切のものを惜しみなく与う、と言いますが、今言った様な理由から云えば与うべき何物も、有ってはいませぬ。いついかなる瞬間、いかなる愛の約束も与うるものではありませぬ。――と言ってもそれはいぎたない商売根性でなく、殊に、最も世俗的な商売根性に反するものであります。しかし世俗主義と商売根性とははなして考えられない概念ではありませんか。
一体「仕事に忙しい」とは何を言うのでありましょうか? 一般には、ある人は仕事に忙しい、と言うとき、その人がどういう仕事ぶりを示しているか、その流儀やこの方法などを指して言っている様であります。併しこれは間違っていると思う。仕事の仕方とか、方法などが物を言うのはもっと精確な規定があって、その内部に於いて始めて言いうる事であります。即ち仕事の対象の何であるか、が決定された上での事なのです。もし人が、あらゆる一秒一秒の瞬間も(もしその様な事が可能だとすれば)不断に、永遠の問題に取りついているとしたら、この仕事に於いて、「仕事に忙しい」等とは言いませぬ。真に永遠の問題にたずさわっている者は、永久に「忙しい」等という事はありませぬ。
「仕事に多忙だ」と言うのは、即ちあれやこれやの雑多な仕事に雑ばくになり、支離滅裂になっていて、凡そ自分自身を一点に集中することさえ出来ない。――全てを綜合した全体に於いても、個々の部分的な事に於いても、――と言う状態を言うのです。「仕事に忙しい」とは、即ち、人が雑ばくで、中心がとれない様な商売にかかり合って取りとめなく、支離滅裂となることを言います。キリストの愛はしかし、「律法の完全」であり、どの様に提示せられる場合にも完全であり、常に集中と用意とを怠らず、又不断の行為であります。従って仕事の忙しさからも、離れたものであると共に、無為怠惰からも、はるかに遠ざかったものであります。決して先走って何かを引き受ける、という事をせず、行為の代りに約束で済ます様な事をしない。空想の中で事を処理して満足したりする事はなく、享楽をたのしんで、自己満足的に停滞することなく、自己自身に感応して、無為に坐してすごす様なことをしませぬ。愛は又説明し難いものの格子のうしろにひそむかくれた、陰険な、謎めいた感情ではありませぬ。詩人は好んでそれを窗ごしに誘い出したがるものです、いかなる律法をも尊重せず、ただ己れの固有の法則にのみ従い、己れの囁く声のみをきいて、はては自らを消粍してゆく魂の軟弱な気分でもありませぬ。愛とは不断の愛の行為であります。全てこの愛のなす業は聖なるものである――と言うのは「愛は律法の完全」でありますから。
キリストの言う愛とは是のごときものでありました。たとえ、いかなる人間に於いて、愛はかくあることも出来ず、又曾てあり得たこともなかったとしても。(愛を有つ全てのキリスト教徒は、彼等の愛がかくありうる様に努力しているのではありますが)愛は、「愛それ自体であった」かの人において、我等が主イエス・キリストに於いて、かくあったのでありました。
同じく使徒パウロはそれ故、キリストについて、(ローマ書、一〇一四)「キリストは律法の終《おわり》となり給えり、」と言っているのであります。律法の生み出しえなかった所のもの、律法は又一人の人間を至上の幸福にもち来すことも出来なかったのですが――それこそ遂にキリストであったと言うのです。それ故に、律法のかかげる要求は、全ての人の破滅となったとしてもふしぎではありませぬ。と言うのは、人々はみな律法の要求める所のものではなかったのですから。人々は律法を通じて、ただ己が罪劫を知りえただけでありました。キリストは律法の破滅となった、と言うのは、彼こそ、律法の要求めた所のもの、それ自体に他ならなかったのでありますから。律法の破滅、即ち律法の終りでありました。なぜならば、もし律法の要求が充溢されたとすれば律法の要求はただ充溢としてのみ在ります。即ち要求そのものとしては最早存在していないのであります。例えば渇きは充たされたときそれは最早ただ爽快な感情の中にのみ存在している様に。キリストは律法を除去せんとしてこの世に来たのではありませぬ。律法を充たすために、従って律法は、それ以来充溢の中にのみ存在する様に、キリストはこの世にのぞまれたのでありました。
そうです。――キリストこそ、愛そのものであり、彼の愛は律法の安全であったのであります。「何人も彼を罪におとす事はできなかった」のであります。律法すら彼を罪する事は出来なかったのでした。法律も亦良心を以って、一切を知っていたのですから。「彼の口に言う所のもの、詐欺に非ず」むしろ、キリストの全ては真理に他ならぬことを。彼の愛は律法の要求とその充溢との間に一瞬たりとも距たりを置くものではありませぬ。その感情において、その決心において距たりを有つものでありませぬ。彼はあの兄弟の一人の様に「否」を言わず、又もう一人の他の兄弟のごとく「然り」をも言いませぬ。なぜなら、父の意志を果すことが彼の喜こびでもあったのですから。彼は父と共に在ったのであり、律法の全ての要求と共にすでに一体でありました。それ故に、律法を充溢することが、彼の止みがたき本能であり、唯一の生命の必需であったのみでありました。
キリストに於ける愛は不断の愛の行為でありました。愛がキリストに於いて、行為を伴わない単なる感情だけであって、徒らに言葉を弄することに走り、時間をむだに費していた様なことは、彼の生涯のうち一瞬たりとも、一刹那と雖もありえなかった。或いは課題をよけものにして、自分の安佚に堕して、己れに躓いている、そんな気持は微塵もなかった。否彼の愛は不断の飽くことを知らぬ行為でありました。
キリストが流した涙すらも、人間の「時間」を充溢することは出来なかった、イヱルサレムは、何を以ってその平和を将来しうるかを知らなかったが、キリストは知っていました。ラザロの墓に哭く悲嘆の人達はどうしたらよいか、途方に暮れていたのですが、キリストは何を為すべきかを知っていました。
キリストの愛は最も小さな事から、最大の事に至るまで、常に全部を以ってのぞまれた。ひとりただ或る偉大な時間に集中されるのではありませぬ、――恰も日常の生活の中の幾時間かは律法の要求から除外でもされていたかの様に。キリストの愛は全ゆる瞬間に於いても同一でありました。又十字架の上に息絶えられた時の愛も、生誕されたばかりの日の彼の愛にまさっていた訳ではありませぬ。又同じ愛を以って、「マリアは良き事を為せるなり」と言われたのであり、眼を怒らしてペテロを叱咤せられる時も、又彼を許されたときも、同じ愛を有ってでありました。使徒らが、キリストの名に於いて奇蹟を行った後で、喜びに充ちて帰ってくるのを迎えられたのも同じ愛であり、又彼等が重大な刻を眠り込んでいるのを見られたのも、同じ愛を以ってでありました。
キリストの愛は他の人に向っていかなる事を要求めるものではありませぬ。他の人の時間を、力を、援助を、労仕を、報ゆる所の愛を、要求めるものではありませぬ。もしキリストが、何人から要求める所があったとすれば、それはひとりその人自身の幸いのためであり、ただ他の人のためを思って、要求められたのであります。キリストが人を愛された様な高い愛を以って、キリストを愛した者は、一人もいなかったのです。キリストの愛の中には、彼が律法の無限の要求を提げてのぞまれた人間に対する慈愛の他に、それと並んで、他の者らと、標準を引き下げた、妥協的な、党派的な協同をつくる等という事はなかった。愛においてキリストは、それ自身に、何の例外をも要求められなかった。どの様に小さな例外をも許容されなかったのであります。
又彼は愛には「差別」を設けることありませぬ。自らの母と、他の人との間にすら、それと気づく程の差別をおきませぬ。キリストは彼の使徒らを指して「これは我が母也」と言われたのでありますから。又使徒らが特別の者らであったが故に、彼等を愛せられたのでありませぬ。各々の人が彼の使徒となってほしいことがキリストの唯一の願いであったのですから。又キリストはかくある事を、全ての人のために願ったのであります。又キリストの愛は使徒等の間に、何の分け距てをもしませんでした。なぜなら、彼の神――人的愛は、全ての人に対して少しも変るところなかったのですから。キリストは全ての人を救済しようと思われたのです。又全て救済された人々に対しても、同じ距てのない愛を注いだのです。
キリストの生涯は、全て最愛のみでありました。そして、彼の生涯そのものも唯一つの「仕事日」に他ならなかったのであります。――働いて働いて彼は憩うことも知ろうとしなかった。夜が来て、もうそれ以上は働らく事が出来なくなる迄。――それ迄は彼の仕事には夜と昼とのけじめはなかった。仕事を休めておられる時は、祈りの中に目ざめておられるのでした。
かくて、彼は「律法の完全」でありました。併しそれに対してキリストは、何の報償を求めようと言うのではありませぬ。キリストの唯一の要求、その生誕の日より、死を迎うるに至るまでの生涯を賭けた目的は、他でもない、罪無くして死に処せられたい、と言う事だけでありました。かかる事は律法それ自体すら、たとえその要求を最高の度にまで発揮しえた場合にしても、要求しうべき事ではなかったでありましょう。
かくて、キリストは律法の完全でありました。
彼は、言わば、彼に従いうる唯一人の伴侶を有っていました。眠ることも知らず、彼を見守っていてくれる、唯一人の伴侶を。即ち、律法そのものであります。「律法」こそ、彼の歩む一歩、一歩にまで、その瞬間から次の一瞬間まで、無限の要求をもって彼に従っていた。併し彼は律法の完全きものであったのです。
曾て人を愛したことがないと言うことは、何たる貧困でありましょうか! しかし、たとえその愛の豊かさを積んで、最も裕かな人間となった者ですらキリストの愛の豊かさに比べたら、その絢爛たる豊かさも哀れなる貧困にしかすぎなかったでありましょう!
いや、併し、本当はそう言ってはいけないのです。我々はキリストと全てのキリスト教徒との間には永遠の楷梯があるということを忘れてはなりませぬ。たとえ律法は充し了えたとしても、神――人であるものと、全ての他の人間との間に横たわる無限の深淵を結び付けるかの力だけは、今なお存している。人は神の律法が認めねばならなかった事を理解する事は出来ないが、信じる事だけは出来るのです。即ち、かの人こそ律法の完全であったと。全てのキリスト教徒はそれを信じ、又信念をもってそれを己れの所有とするでありましょう。併し何人もそれを律法として意識した者なく、又かの人が、律法の完全であったことを知ったものはありませんでした。即ち、人間に於いて、その最も偉大な瞬間に於いてすら未だあまりにも薄弱である所のものが、彼の人に於いては、はるかにより強大に、又全ての瞬間に於いて、同様に見出される、という事を、人間はその最も偉大な瞬間にだけ理解することが出来るでありましょう。併し、一瞬の後には最早理解するに堪えられなくなるでありましょう。それ故に人はそれを信仰し、その信仰をかたく保持する様にせねばなりませぬ。人間は、或る瞬間においてはそれを理解するが他の多くの瞬間においてはそれを理解しえない、と言う事になると、その人の人生が破壊されてしまうのですから。
キリストは「律法の完全」であったという。この思想をいかに理解すべきかは、キリスト自身より学ばねばなりませぬ。なぜならば、キリスト自身が、その解釈であったのですから。そして、解釈が、自ら説明する所のものであったとき、又説明する者が説明せられるもの自体であるとき、又説明する働らきが即ち説明に他ならぬとき、その相互の関係こそ正しいものだと言わねばなりませぬ。ああ、我々人間はその様な説明に何を加うることが出来ましょう。よし我々はその他に何事をも為し得ぬとしても、我々はそこに神に対する敬虔さを学ぶことが出来ましょう。我々人間の地上のはかない生命は、説明すること、と実在とを区別しなければならぬことも止むをえませぬ。ここに於いて明示せられる人間の無力さこそ、神に対する我々人間の関係の様相を示す本質的な表現であります。人間は、人間的に言えば、そのはかない心臓のもつ正当さのままの素直さにおいて神を愛するがよろしい。ああ、神は先ずすすんで人を愛せられました。神は人間に永遠の距たりを以って先駆せられている。人間は永遠の時間だけ後れて来ています。あらゆる不滅の課題に於いて、そうなのです。ようやく人は今之から始めようとする場所にまで来たのですが、その間何という無限に多くの怠慢を重ねて来たことでありましょう、たとえ我々は、一瞬の間、人間の努力につきものの全ての欠点、全ゆる不完全さ、(やっと手をつける所まで来た、その良い出発を顧慮して)、を問わないことにした所で。
もし人間的に言うならば、人間をして素直な心臓の正しさを以って、先ず神の王国と其の正義を見せしめるがよろしい。ああ、人間がそれを正しく理解することを学ぶまでに、何という永い時間が費されねばならなかったことでしょうか! 又始めて人間がようやく神の王国と正義について考察すると言うなら、何と無限に多くのことが不足であったことでありましょう! 而も、全ての点において左様なのです。全ての人間の出発には、先ず失われた時が先に立っているのです。
人間はしばしば商売を始めるために、先ず負債をしなければならぬ、ということは悲しむべきことであります。神に対するとき、人間は全て、先ず無限の負債をなすことによって始めねばなりませぬ。それ故、我々はいったん始めた後で、日々に加算されて来る新しい負債などは全く算入しないでもよい位なのです。ただこのことは、あまりにも屡々人生に於いて忘却されている。而もそれは神が忘却せられている、という理由からでなくして何んでありましょう? 又ある人間は他の人と己れを引き較べて見ます。そして、他の人にいささかまさって多くのことを知っているとわかると、もう一かどの大事をやり了えたかのごとく傲り驕ぶって止みませぬ。かくのごとき人は、神の前に出るとき、己れが無にも等しいものであることをよくよく身に沁みて知るがよろしい。さて人間というものは、みなそれぞれに自らを傲りたがるものであります故、神の愛については様々の弁口を弄するにもかかわらず、真に神と共に、正しく関係を結ぶことを人々は少しも喜ばぬのは、何のふしぎでもありませぬ! 神の要望、神の基準を以ってすれば、人間は無にも及ばぬものになってしまうのでありますから!
試みに神から与えられた力の十分の一を存分に使って見られたがよい。そして神に背《そびら》を向け、人間を相手に力を競ってごらんなさい。間違いもなくあなたは人間の中では、抜群のものとして通用するものとなりましょう。やがて、次には神に面して、十分の一の十倍の力をふるい、あなたの能うる限り最高の努力を傾倒してごらんなさい。あなたは、而も、なお無に等しく、何らかの効果などを言うまでには無限の距離を距てている、無限の負債を担うものであることを発見されましょう! それ故に、人間が元来、最高者について語ることも、全く無為徒労であると言うことも出来ましょう! なぜならば、それについて説いて、感動を与えうる程になる迄は、全く別の由々しい変革が人間に起らねばならぬからであります。もし、あなたがよい日の目を見、安易な方法で豪くなりたい、と思うならば、神を忘れた方がよろしい。又無からあなたを造ったのは神である、等ということを決して真面目に受取ったり、決して悟ったりしてはならぬ。又人間はそもそも何人に対して、無限に又無条件にかかる一切を負債しているか、等という思想にふり向けるための時間の余裕などはないのだ、という前提から出発されるがよい、従ってある人は他の人に向ってその様なことを訊ねる権利も有る筈がないのだと。その様なことを忘れ、大衆と共に騒音を立て、笑い、泣き、商売に奔走し、朝から夕まであなた自身を駆り、友人として、官吏として、或いは国王として、又棺桶舁人夫として、愛され、尊敬せられ、珍重せられるがよろしい。殊にあなたは、よりによって最も真摯なる事、即ち神と関係を結び、無に帰ろうという――を忘れ去ることによって、外面真摯な面をした男となるがよろしい。
併し、次に考えて見たい事は、兎角の論はここで役に立たぬ、と言うこと。むしろ神は与えられるに違いない。それによってあなたは何を失ったかを理解するでありましょうから。――神の前に出ての破滅は、無上の幸であることを理解するでありましょう。――それ故あなたはいついかなる瞬間にも、神のための破滅に回帰しようとされるでありましょう。――血液が強い力を以って迸出せしめられた場所まで再び循環して行こうとするよりも、もっと激しく、もっと暖かく、もっと切ない本能を以って。
と言うことは世俗的な智慧にとっては最大の愚と見えます。又そうであらねばならないのです。「それ故、決して神には与するな」(半知半解の秘密をさらけ出すときは、その様に言わねばなりますまい。――まるで、一度は神にも与した事があったかの様に。いつわりの見かけをかぶる愚昧さ)「決して神に即いてはならぬ! もしお前が神の味方をする様な事があれば、世俗の事に長けてあかるい者が決して失わぬであろう全てのものを失うことになる。その世俗の世界で、最大を失ったものだって、なお失わぬであろう所のものをも。お前は無条件に一切を失ってしまうであろう。」而も、その言うことにはむしろ真理があります。まことに人間の世界は全部を奪う、ということはよくしないでありましょう。なぜならば世界は全部を与えることをば能くしないからであります。ただこれを為しうる者は神はその有てる全部を一切を奪うでありましょう。――そして全部を更めて与えられんがために。
もし、あなたが真に神とともに与せられるならば、神は無条件にあなたの一切を奪うでしょう。――少しずつとか、多量に奪うとか、或いは少しも取らぬ、又は、驚ろくべく多くを奪う、等というものではない。「それ故に、神を逃れたがよい。もしお前が世間に出て恥ずかしくないほどのものになろうと思ったならば、国王に近寄る事すら、実は可成り危険な事なのだ。巨きな稟才ある精神に近づくことも危険な事だ。神に近寄ることは、それらとは較べものにならぬ程危険極まりないことなのだ。」と言う。
しかし、もし神が忘却され、排斥せられねばならぬものだとすると、一体人間はどういう心算で、又どういう目的をもって、「愛は律法の完全なり」と言う言葉について論じようとしたのでありましょうか? 勿論、排他的な、愚昧な論をその説に盛ることしか出来はしないだろうと思う。それ故に我々としては、我々自身の心に反して、まるで余りに多くのことを知りすぎることを怖れるかの様に、(元より自然的な人間は好奇心や教養心から様々な説を為すにかかわらず、矢張多く知ることは怖ろしいらしい、)神に反き、恐怖にかられて、敬虔な理解を捨てる必要はない訳なのです。「愛は律法の完全である」ことを論ずることは、我々が同時に我々自らの障罪を認識し、全ての人間も亦罪あるものとして悟らない以上は、不可能な事でしょうから。
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愛は律法の完全である。なぜならば律法はその全ての多端なる規定にもかかわらず、なお未規定のものである。愛は内容を以ってその末期のものを充溢ならしめるものである。
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律法が未規定のものである、ということはふしぎに思われるかも知れない。律法の強味とは即ち規定に於ける強味であり、律法は全ゆる規定を含み、規定を処理するものでありますから。而もなお、律法は矢張未規定であり、そこに又律法の無力さ、があります。例えば、陰影が逞しい現実に対するとき無能である様に、律法も無力なのです。影にはいつも或る未規定のものが存在している様に、律法の陰影の輪郭の中にも未規定のものが存在しています。たとえどの様に精確に実現にうつされているにしても。それ故に聖書の中では、律法を「未来の投影」と呼んでいる。なぜならばそこに言う律法とは、愛の実現の投ずる影ではなくて、むしろ未来の空間に向って投ずる影であり、その影に従って愛が登場しようとするところのものであります。
或る美術家がある画の構図を描いたとする。するとその構図は、例えどの様に精確に描いてあるにしろ、どこか矢張不確定なものを有っている。其の仕事が完成されたとき、始めて人はかく言うことが出来ましょう。――もう、不確定なところはどこにもない。一本の線、一つの点に至るまですっかり出来上っている、と。それ故、全く確定した構図というものは唯一つしかありませぬ。即ち作品そのものであります。――と言うことは、即ち構図は決して完全に無条件に、確定されたものでなく、又確定されたものであり得ない、と言う事なのであります。
その様に、律法は構図であり、愛(律法の完成として)は全く確定したものであります。愛に於いて、律法の未規定さが充溢せられました。律法が構想する所の作品を完成しうる唯一つの力があります。それこそ、即ち愛であります。又、愛と律法とはその発生した根源は同じなのです。構図と作品とが同じ美術家の手に成ったものである様に。愛と律法と矛盾し合うこともありませぬ。構図にしたがって描かれた作品が構図に対して矛盾しないのと同じ様に。なぜなら、作品は構図のあらゆる規定を超えて、もっと確定されたものでありますから。
それ故にパウロは又別の所で(テモテへの前の書、一ノ五)「命令の目的は愛にあり」と言ったのです。一体どういう意味でかく言ったのでしょうか? そうです。全く同じく、愛は律法の完全なり、と言われた同じ意において言われたのです。それともあなたは命令の目的は、命令の上に、命令を重ねることによってえられるものだ、とでも思われるでしょうか? 盗みをしてはならぬ。――姦淫を犯してはならぬ――何々してはならぬ、――と、どの様に命令を重ねてみた所で、これは、徒労な事でしかないことが御解りになることと思う。なぜなら律法という概念のうちに、既にそれは無限であり、尽くし難いものであり、規定によって固定することはできぬものであることがふくまれている。それぞれの規定は、その中から又第二の、更にもっと精確な規定をつくる要望を生み出してゆく。――すると次にはこの新しい規定を関係づけ、それと連絡を固定する所の第二の、更になお新しい規定の要求が生み出されねばならない。かくして止る所を知りませぬ。律法の愛に対する関係は悟性が信仰に対する関係に等しいと思う。悟性は計算の上に計算を重ね、測定の上に測定をつづけてゆく。しかも信仰が有する所の確信には永久に到達することが出来ませぬ。律法も同じであります。規定の上に、更に規定を積んでゆく。が、永久に目的に到達することが出来ない。目標とは即ち愛であります。目標が論ぜられる場合、目標という言葉は計算に人を誘い込む様な表現であります。併し、人がもう計算することに倦んでしまい、しかしそれだけ一層標的に達したいと希うとき、彼はこの標的なる語がより深い意味を有たねばならぬことを理解するでありましょう。同様に、律法が言わばそのあらゆる規定をある人の上に押しつけて、彼が疲労し困憊するまで追い立てた時。――と言うのはどこ迄行っても規定の数はつきず、あらゆる最も精確な規定といえども、なおそれ自身に未規定さを有っていて、なお精確に規定せられねばならないからであります。(なぜなら、多数の規定の中の不安こそ、永久の不安定を成すものである。永遠に絶えぬ不安である故、この様にして、人間はやっと気付く様になって来た。――と言うのは、兎に角、律法の充溢である別のものが存在しなければならぬ、と言うことなのです。
律法と愛との間には何の矛盾も存在しませぬ。それは恰も全体とその綜合体を構成している個々の部分との間に矛盾が成立しない様に。――又ある目的を発見したいという徒労な希いと、その幸福な発見と、むしろ目的が発見されたという決定、との間に矛盾が存在していない様に。
律法の下に人は喘がないではおられませぬ。到る所全て要求ならざるはなしで、どこにも限界がないのですから。(ああ、広大な海の上を見渡して、ただ、渺茫たる波又波を見る人の様に、限界はどこにもなく、)どこに行けばとて、ぶつかるものはただきびしさだけであり、而もそのきびしさは、無限に一層きびしくなって行こうとする。それを慈愛に和めようという限界はどこにもありませぬ。律法は、言わば自ら飢え果てゆくという傾向がある。律法によって人は決して充溢を得ることは出来ませぬ。律法はただ奪い去るため、要求するため、極端に迄搾取するために在るものでありますから。その無数の規定が矢張後に取り残してゆく未規定なるものは、却ってその要求を苛斂誅求と言うべきほど尖鋭します。律法は規定ごとに何事かを要求し、その規定に対してはどこにも限界というものがありませぬ。律法はそれ故に、生命に反するものであります。生命とはその充溢に他なりませぬ。
律法はむしろ死にこそ似ています。しかし、生命と死とは、元来同じく、同一の知ではありますまいか? なぜなら生命は生命が贈られた所の全部を知悉しますが、死も亦生命が何を贈られているか、の全部を知悉しているのですから。従って、元来知識に関しては律法と愛との間に、何の抗争もありませぬ。ただ愛は惜しみなく与え、律法は惜しみなく奪うのです。或いは、(この関係の中にもっと精確な秩序を組み立てることにすれば)律法は要求し、神は与えます。凡そ律法の規定にして、愛を排斥せよ、と言うものは、一つも、唯の一つもありませぬ。むしろその反対であります。愛がそれら全ての規定に始めて充溢と規定とを与えます。愛に於いて、全ての律法の規定は、律法自身に於けるよりもはるかに決定的なものとなります。この間に何の抗争も起る筈はありませぬ。飢餓とそれを満たす所の食物との間に、何の矛盾も起らぬと同じ様に。
「愛は律法の完全なり。」愛が微弱なものになり、又軟弱に人を化するものであり、どこかにはけ口を求めたり、はけ口を与えたり、律法の完全さから解放されたものとなることは真の愛にとってははるかに距たった出来事なのです。恰かも、愛は暇に飽かした感情で、実際の行為として自分を表現などするには余りに高貴なものであると言う。贅沢三昧をつくした無用の長物で何事を仕出かす事も出来ねば、又何か良いことを為そうとも思わぬと言う人もあります。ただ愚昧の者のみが愛について、この様な説を成すことがあります、律法と愛の間に何かの矛盾でも存するかの様な。勿論その様な矛盾は、この場合には当て嵌るものであるかも知れませぬ。併し、愛の中には律法と愛の矛盾などは存在しませぬ。「愛は律法の完全」でありますから。ただ暗愚の者が律法の要求するところと愛との間には、超え難い溝が横たわっているのだ等と主張することがあります。勿論その様な本質の差もありましょう。併し、愛に於いては存在しませぬ。それは律法の完成として、律法の要求する所と徹頭徹尾同一にして、同等のものであると立証しているのでありますから。ただ愚昧のもののみが律法と愛の矛盾を創り出すのです。彼等はこの二つの間を邪魔立てたり、二つ乍ら互いに詐偽の心を起させたりすることによって、自ら賢明であるかに思い込んでいるらしいのです。
「律法の完全」と言う。ここで言う律法とは、如何なる律法を指して言うのでありましょうか。吾々が拠り所とした原文は使徒の言葉であります。吾々はキリストの愛について語ってきました。それ故、ここでも亦神の律法についてだけ論じて行きたいと思う。
世俗と、(それが愚昧の世界でない限りに於いて)神と、世俗の叡智とキリスト教とは、次の点に於いて一致します。即ち愛が愛となるために、充たさねばならぬ律法がある、ということ。併しその律法とは、いかなるものであるか、については、この両者の思想は必らずしも一致せず、この不一致の中に、無限の差異が存するのであります。
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世俗の智慧は言います。愛は人間と人間との間の関係である。とキリスト教の教うる所によれば愛は人間と神との間の関係である、――と言うのは神は愛の媒介の規定であります故
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二人の間の愛の関係が、或いは幾人かの間の愛が、たとえどの様に美しくあろうと、又彼等の愛の喜びと無上の幸福とは、相互の犠牲の上に、相互の献身の中に在るものであったかは知りませぬ。が、もしそこに、神と、神と人との関係が除外せられていたならば矢張その愛は、キリスト教的に言えば、愛ではなかったと言わねばなりませぬ。ただ愛であるらしい外見にすぎませぬ。それによって人々は互いに欺き合い、魅惑せられ合っているだけなのです。
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なぜなら、神を愛する、とは即ち、真に己れ自身を愛する事を言います。或る人が神を愛する様になる為、援助を惜しまぬ事、それをその人を愛する、と言います。神を愛する様に誰か他の人から愛されるとき、それを人から愛せられると言います。
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世俗の知慧も流石に愛する者が愛をいかに解釈するか、勝手に決めてよい、とは言いませぬ。愛は献身であり、犠牲であります。それ故に、世俗では、愛の対象となる人は、(その人は何人であれ、一人の人、或いは数人、或いは団体をなす人、或いは全人類であってもよい。之からは簡略してただ「恋人」と呼ぶことにします)判断しなければいかぬと戒めます。――犠牲と献身とが捧げられたためしがあるかどうか。又捧げられた献身と犠牲とは果して愛の故であったかどうか。
この場合には批判しなければならぬ当人自身が、はたして正当に批判しうる能力があるか、どうかが問題になります。もし恋人が、神の前に、利己愛についての真の観念を有ち合せていないとすると、(即ち、利己愛は、神に対する愛に於いて成立すること)彼は又、他の人から愛せられるという事は、いかなることか、(即ち、この人から、神に対する愛において援けられる)についても真の観念を有ってはいないのです。ですから、この恋人は、不健康な献身と犠牲とを真の愛であると思い、真の愛を愛がないのだと考える様になります。愛についての純人間的な批判は、真の批判ではありませぬ。神を愛することが、真の利己愛なのでありますから。
之に反して、もし愛の批判に神が媒介規定として立ち会われるとき、結果はどうであるか。と言うと、愛がそこに存在しているか、否かについて人間の批判が決定を終った後に、始めて、最も決定的な第二次の批判が行われることになります。愛する者について言えば、恋人が要求する様な献身を捧げるという事は、神の意において、真に愛と言わるべきであるか、否か。又恋人については、この様な献身を求めることが、神の意において、はたして、愛であるか、どうかを考えてみねばなりませぬ。全ての人間は神の召人であります。それ故同じ愛を以って神に属することなくして、愛において他の人間のものとなることは許されませぬ。又同じ愛に於いて、彼自身も相手の人も、神に属することなくして、人間を愛に於いて私有することも許されませぬ。人は、又或る他の者が、自分にとって全部であるかの如く、その人のものとなってはなりませぬ。又人は他の者が恰かも自分こそ、その人にとって全部であるかのごとく、自分のものとなることを許容してはなりませぬ。たとえ二人の、或いは幾人かの間の愛の関係が無上に幸福であり、最高に於いて完全であり、詩人はこれを歓喜して歌わずにはいられぬ程であり、又あまりにも可憐を極めた愛で、その愛の可憐な姿への喜びと感動とが、見る人をして全て詩人ならぬものをも詩人にしてしまう程でありましょうとも、――ただこれを以って愛は決して完成とは言われませぬ。そこにキリスト教が登場し来って、神との愛の関係を問うでありましょう。
各々人は、先ず神に対する愛の関係に立っているか否か。又その恋愛の関係は、神に対する関係の上に置かれているかどうか、と。
もし、神との愛の関係に立っていない場合は、キリスト教は、愛の代理人として、躊躇することなく神の名においてこの恋愛関係に異議の申し立てを行うでしょう。恋人たちが真の愛を理解する様になる迄。そしてもしその内、一人だけが理解しようとする時には、キリスト教は、愛の代理人として、躊躇する所なく、この人を駆って怖るべき愛の破綻にまで持ち来すかも知れませぬ。凡そ詩人たちはこの破綻について夢想したこともなければ、曾て描写しようと試みた事すらありませぬ。なぜなら、詩人は元よりキリストの教えである「汝の敵を愛せよ」を承認しないでありましょう。が、それと同じく或いはそれよりも、もっと次のキリストの教えには承服することは出来ないだろうと思う。即ち「人は愛すればこそ、愛の故にその恋人を憎まねばならぬ」と言うのです。
神の名において愛の関係をこんなにまできびしく切迫せしめることについて、キリスト教は自らを別にとがめようとは思いませぬ。キリスト教としては、言わば、神の財の取り立てを行うわけですが、(神は人間の主であり、召人としての人間の所有者でありますから)それ許りではなく、むしろ恋人らに対する愛の故に、かかる事をも為なければなりませぬ。
なぜならば、神を愛することは己れ自身を愛することに他なりませぬ。他のある者を、神の如く愛することは、己れ自らを欺くものであります。又神の如く、己れを他の者に愛さしめることは、その人を欺くものでありますから。愛は律法の完全でなければならない、と言うとき、キリスト教は愛の要求を、ここ迄高く、(人間の考えから見れば、――実に非道な狂気沙汰だと言うかも知れませぬ)かかげねばならぬのであります。
それ故にキリスト教徒たる者は、もし必要の場合であれば、己れの父、己れの母、又妹や恋人すらも憎まねばならない、と教えられているのであります。
併し、本当に彼等を憎め、と言う意味で云われているのであろうか? いや、そんな無法なことはキリスト教の教えには絶対にない筈ではないか!
しかし、愛が、(神の意に於ける愛)信実にして正しい愛が、恋人から、側近の者らから、同胞たちから、憎しみであると見られねばならぬ場合もあります。なぜなら、彼等は時として、彼等自身を真に愛することはどの様なことであるか、(即ち神を愛すること)を理解しようとしないし、愛せられるということは、如何なる事か、(即ち、神を愛する様に、他の者から援けられること)も知ろうとしない場合があるのですから。そういう意味で言われたのであります。
世俗の智慧は、犠牲とか献身について、様々な場合を知ってはいます。しかし、愛の故に恋人を憎まねばならぬ、という場合を知っているでしょうか? 愛の故に恋人を、いや、その限りにおいて、己れ自身をも憎まないではおられぬ場合もあることを? 愛の故に同胞を、又己れ自らの生命すら憎まねばならぬ場合について?
世俗の智慧は又不幸な愛について、様々な、多くの場合を知っているでありましょう。併し、はたして、それらの場合の中に、あの苦痛、局外者から見れば恋人を憎んでいるとしか思われない、自分の愛の心をどうしてもただ憎しみとしてしか表現することしか出来ない、――而も自分の愛に対する報いとしては、恋人から憎まれるより他に仕方がないという苦痛をもふくんでいたでしょうか?(なぜなら二人の愛の解釈が無限の深淵によって距てられているのですから――キリスト教の真理を確認する所の深淵によって)
キリスト以前の世界は不幸な愛について勿論あらゆる場合をも見て来たでありましょう。怖ろしい出来事に遭って破綻したこともありましょう。同じ恋愛の根本的観念の地盤の上に立って恋愛の反対のものと、破局にまで戦ったこともありましょう。同じ根本的な観念の地盤の上に立って、ではあるが、部分的に相違した恋愛観を有っていたために破綻した場合もあります。しかし、一つの恋愛において、互いに永遠を以って相距たる二様の愛の観念が相対し合う、ということは、キリスト以前の世界は未だ曾て体験した例はありませぬ。――即ち神の愛と、純人間的な愛との。
かかる破綻に導かれて行くかも知れませんが、神の意によれば、愛とは愛の真の永遠の観念を確保し、その力において愛することなのです。而るに恋人らは愛について、ただこの世の観念しか有っていません、その様な愛を憎しみであるとしか感じないのです。
最高者については、我々は出来るだけ人間的に語ることにいたしましょう、(所謂キリスト教なるものに於いては、遺憾な事ですが、ややもすれば人は全然解ってもいない事を信じる、或いは人の心を呼び醒すに充分な重大な観念も有たないのに信じるという、空想に誘惑され易いのです)そこで出来るだけ最高者については、人間的に語ることにいたしましょう。(と言って、今問題にする所の最高者は、永遠の距たりをもって、全ての人間から超絶したものである、ことを忘れようと言うのではありませぬ。)キリストの生涯は、一生を通じて、まことに不幸な愛そのものでありました。彼は、神の意に於いて愛でありました。彼は愛に関する神の思念に基いて愛しました。つまり、人間全体を愛したのです。而も愛すればこそ、彼はこの愛に関する思念も決して放棄することは出来なかった。でなければ、彼は人間全体を欺くことになったでありましょう。それ故に彼の全生涯はただ人間的な愛の思念との間の激越な相尅でありました。神を失った世間は彼を十字架にかけました。いや、彼の使徒たちですら、ひとりとして彼を理解できなかったのです。いつも自己流の愛の思念の方に彼を獲得しようとばかり心がけていたのです。ですから、彼はペテロにさえ言わねばならなかった、「汝、サタンよ! 吾が後えに去れ!」と。何という怖るべき破綻、無辺際の苦痛でありましょう! 最も正しく、最も信実な使徒であったペテロは、ただ好意を有って、言うだけではなく、燃える様な愛の心から、最善の処置をキリストにすすめ、ただどんなに高く主を愛しているかを表現したかったのでした。唯彼の愛の観念は真理に背くものでした。それ故にキリストは彼の主として、言ってやらねばならなかったのでした。「お前は解っていないのだ。私にとってお前の言うことは、まるでサタンが言った怖ろしい言葉としか思われぬ!」と。
この様にしてキリスト教は、この世に登場し、それと共に何が愛であるか、についての神の解釈もこの世に登場したのでした。我々はよく人から理解せられぬと愚痴を言います。殊に愛についての誤解の苦い飲み物がまぜ物入りでつくられるときに。いろいろな愛の言葉を経験してみて、結局不幸な愛だと知ります。即ち、愛されてはいるのだが、理解せられてはいないのだと。又愛が一旦誤解されてからの始終というものは、何もかも堪えがたく辛いものになってしまうのであります、等、等。
併し、人間としては未曾有の、不可能の度にまでかく人から誤解せられるということ。キリストが誤解せられた様に、誤解を受けること。而もなお、キリストが左様であった様に、愛することを止めぬとき!
人は、神を失った世界だけが、キリストと衝突しなければならなかった様なことを言います。何という誤解でありましょう! キリストと破綻しなければならなかったのは、凡そ、人間としては最高の、最も愛すべき人間達でありました。――而もなお、彼を誤解しないではおられなかったのです。この最高の人たちすら、神の意に於ける愛とは何であるかを、彼について、始めて学び取らねばならなかったのですから。キリストの愛は人間的な意味で犠牲的だった、等と言われる様なやさしいものではありませんでした。はるかに人間と、かけ離れたものなのです。彼は決して、人間的な意において、自分の使徒らを幸福にするために自分をも不幸にしたのではありませぬ。いや、彼は、自分自身はもとより、自分の使徒たちまでみな、人間的な言い方をすれば、この上ない不幸のどん底に落してしまいました。而も、イスラエルの国を建て、自分らをも使徒らをもどんな幸福にでも置くだけの力を手中に握っていた彼が、その様なことをやってのけたのです! 当時の人なら、誰れだって、その位の事は解っていたに違いない。彼なら、出来た事だった。が唯やる気がなかったのです。過失は彼の側にあり、正に彼の心臓に在ると云わねばなりませぬ。即ち彼は、依怙地にも、自分の観念と、構想とを固執して、むしろ、惨酷にも、自分自身と使徒らを犠牲にしました。己れの生命だけではなく、愛する者らの生命をも賭けたのです!
彼はこの地上に王国を建てようとはしませんでした。使徒らをして、獲ち得た所のものを遺産として継承せしめるために、自分を犠牲にする事もしなかった! いや、人間的に之を見れば、正に狂気沙汰であります。彼は愛する者たちを、己れ自らと同様に不幸にするために自分を犠牲にしました! 一体、これをしもなお愛と呼ぶべきでありましょうか?
彼は身の周りに幾多の単純な、微賤な人々を集め、曾て例をきかぬほどの献身と愛とをかち得ました。一瞬の間彼等に、彼等の最もほこるべき夢が実現せられるだろうという希望が啓かれたかの様な幻影を呼び覚させたのです。かと思うと打って代ってにわかにその目的も計画も投げ捨ててしまい、人々の懇願に耳も藉さず、彼等の身の上のこと等一切お構いもせず、この燦爛たる頂点から、あらゆる危険の渦巻いている奈落の底へ自らを墜ち込んでしまったのです。何の抵抗もなく、敵の手に自分を引き渡し、世界中の嘲笑と歓呼の下に、犯罪者として十字架にかけさせてしまったのです! 一体これが真に愛であったのでありましょうか?
一体、真に愛であったのであろうか? この様にむごくも使徒らから自分を引きはなすこと、彼のゆえに彼等を憎むであろう世界に、彼等を取り残してゆくということ、――使徒たちを、まるでさまよえる羊のごとく、引き裂く豺狼の群の中に駆り立てること。狼らの生血への飢渇は彼自身が駆り立てたのにもかかわらず! これが、はたして愛であったか? この人は一体、何を為さんとしたのであろうか? こんなにひどく彼が欺いた、卑賤の者らではあったが信実で正直一方の人達を一体、どうしようと云うのだ! 何故に、彼等に対する彼の態度を愛と呼ぶのか? 何を以って彼はそれを愛と呼ぶことを固執するのか? 彼等を欺いたと告白しないで、矢張それは愛であったと云う志を取り消さないで、何故死んで行ったか? 使徒達は、恐らくは彼によって圧倒されてしまっていたのであろう、みじめに引き裂かれた心を抱いて、しかし人が感動せずにはいられない真実さをもって、主のとった態度については批判を下そうという様な僭越なことはひかえているのである。しかし、局外の者から見れば、彼は、使徒らに対しては明らかに詐欺師として行動したのである。たとえ其の他の点ではただ彼が妄想家であったと見て弁解する余地はあったかも知れないけれども。
而もなお、彼は愛であった。彼は全ての行為は愛の故であり、人間を幸福にもたらそうとした故であった。しかし、何を通してかかる事が可能であろうか?
もとより、神に対する秩序を通じてなのであった。なぜなら、彼は愛であったのだから。そうです。彼は愛であった。彼は自ら、又神と共に知っていたのです。――その愛の知解のために犠牲をもたらさねばならなかったことを。そして、真実を以って使徒らを愛したのである。信実において、人間全体を、自ら救済せられたいと念った全ての人を、愛した、と云うことを。
人間的にだけ解釈された愛の真理に反する点は、それが神に対する関係から脱落してしまった点に深い理由があります。それによって又、今まで語ってきた、かの「愛は律法の完全なり」という律法に対する関係から脱落してしまった点にあります。
ふしぎな誤解から人はややもすれば、次の様な考えに傾倒し勝なのです。即ち隣人に対する愛はなるほど神に対する関係を脱落してはならぬかも知れぬ。しかし、自然的な恋や、友情は、むしろ脱落も止むをえぬではないか、と。
これではキリスト教は不徹底なものになってしまう。これでは全ゆる関係を知悉している、という事にもならないし、隣人に対する愛の教えが、正にその事を深く考えに入れていたこと等をも除外してしまうことになります。世間は隣人の愛は自然のする恋や、友情には手を出さないでほしいとでも云わぬばかりなのです! 人はただ隣人に対する愛に於てだけ(あまり有難からぬ代物)神の助力が必要なので、自然のする恋や友情に於いては、神の同席されることは邪魔でもあり、迷惑だ、とでも云わぬばかりに!
愛は、一人の或いは多数の人に対する関係です。決して、単に人間的な(婚姻的又は友情的)契合であると思ってはいけない。たとえそれがどの様に信実な、親密な人間と人間との間の結合であろうとも。何人も、恋人や、友情や、同胞等に対する愛の以前に、それぞれ神に対し、又神の要求に対する関係を有っている筈です。もし人が神との関係を除外してしまえば、愛人たちにとってはただ人間的な愛の観念、愛の義務、相互の、それに対応した批判などが最高の批判となりましょう。
神の声にすっかり身をささげた人達だけが、ひとりの女の気に入ろうとして、それが修道の障げとならぬ様、女のものとなることを戒めねばならぬ、だけではありませぬ。女に恋をして、女のものとなっている人も亦、先ず第一に、神のものであることを心がけねばなりませぬ。何を措いても妻の心を迎えようとすることなく、先ず彼の愛が神の心にふさわしくある様、努めねばなりませぬ。もし愛が、今吾々が語っている律法(「愛は律法の完全なり」)に関係をもつ様な愛となるためには、神が、全ての人を教えられるでありましょう。夫が妻をいかに愛すべきか、について、妻が夫を教えるのではなく。(或いは夫が妻を、友人が友人を、同胞が同胞を教うることなく)勿論ただ世俗的な、人間的な愛の観念しか持たぬ者から見たら、キリスト教が愛であると解釈するものは、利己愛であるか、或いは愛に反するものである、と思うのも自然であります。之に反して神との関係が人間と人間の間の愛を規定するとき、神は、自己偽瞞や錯覚に陥入ることを阻止されるでしょう。そして正しい自己否定と犠牲との要求が、無限に迄高められる様になります。神に導いて行かぬ愛、相愛のものらを、神に対する愛に導いて行こうという唯一つの目的、を持たぬ愛は、ただ人間的な愛の批判、恋の中の犠牲と献身だけに停滞するでありましょう。停滞し、そして最後の、怖るべき破綻の可能性を免れてしまうでありましょう。――即ち、恋愛の関係に於いて、愛に関する無限の解釈の相違が露呈される、ということなのです。先ず尋常の常識ある者だったらこの破綻には元来近寄らないでおく方がよいかも知れませぬ。なぜなら、ただ人間的な愛の関係に於いては、愛に関する根本観念は、全ての人に於いて本質的に同一である、ということを前提としているからです。
ただ、キリスト教徒だけが破綻の可能であることを理解します。それはキリストの教えと、単に人間的なものとの間に起る破局なのでありますから。併しキリスト教は、この困難をも克服する法を知っています。いかなる教えも、キリスト教ほど愛について永く堪えることを教えたものはありませぬ。
即ちそれは、恋人のために、断乎として、たじろぐことなく、真の愛に関する観念を堅持せよ、と教えます。其の報償として、たとえ恋人より憎しみを受けようとも甘んじてそれを受けよ、と云うのです。なぜなら、二人の愛の解釈は、無限の相違によって距てられているのですから。一方は時間の言葉を語り、一方は永遠の言葉を語るのでありますから。
恋人の持っている愛の観念に従うことは、人間的に言えば、「恋をする」ことであり、そうすれば又恋せられるでありましょう。もしあなたが愛に関する神の観念を堅持するために、全く人間的な恋の観念に反して、恋人の希望を、(また愛する人も亦単なる人間的な観念に従って、希望しないではおられぬ所のものを)拒けたならば、即ち破綻はそこに生じましょう。しかし、単に人間的な愛の解釈は、或る人が他の人から受ける偉大な愛をたのむことによって、この人のためには妨害になる、と云うことまでは気付かぬかも知れませぬ。キリスト教では、併し、この事を、特にありうる事とします。即ち、その様に人から愛せられるということは、愛する人の神との関係に対して障害となることがあります。では一体、どうしたら良いのでありましょう? 恋人が異議を申し立てた所で大した役にも立ちませぬ。一層恋する者をして愛すべき態度をとらしめるだけでありましょう。恋するものは一層あざむかれてしまうだけなのです。キリスト教はその破局を、愛を損わずに処理する法を知っています。即ち、それは唯一つの犠牲を要求します。(勿論考うる限りに於て最も至難のもの、非常に困難な事ではあります)自らの愛に対する報償として憎まれることに甘んじる事なのです。
或る人が他の人からあまりにも愛され、あまりにも尊敬せられていて、その結果、彼等の神に対する関係が危険ともなりうる程である場合には、兎に角破綻は免れますまい。破綻あるところには、犠牲が要求せられます。――それについては、単純な人間的な愛は、予想すらしてはいません。キリストの教えは次の様に云います。神に対する愛こそ、真の利己愛である。或る人に対する真の愛とは、どの様な犠牲を払っても、その人が神に対して愛を有つ様に助け、或いは神に対する愛において、その人を助けてゆく事なのです。
この様なことは、きわめて容易に理解しうることであります。しかし、世の中には非常に困難な立ち場もあるに違いありませぬ。なぜなら、これらとは正反対な愛に関する直観、世俗的な、単純に人間的な、併し精神的に又詩的に創作せられた直観は、これら全ての神との関係を単なる想像か固陋であると、断定するか、或いは愛について説くとき、神との関係を黙殺するか、何れかでありますから。
人は今は人間を凡そあらゆる党派から、時には有用な党派からも、あらゆる方法をもって解放しようとしています。同様に人は人間の神の関係を、個人と神とを結び、あらゆる生命の発現の中に結ぶ紐帯から解放しようと試みます。
人は愛について、全く新しいことを教えようと云うのです。これについては、今日もう時代後れだと云われる聖書が、とうにうがった名前を与えています。即ち、この新時代のものは、即ち「無神論者の自由」に他ならないのです。怖るべき奴隷の時代は過去となりました。同様に人は神に対する人間の依存を否定するという嫌悪すべき手段によって、進歩をもたらしうるのだ、と思い込んでいます。所で神には、全ての人は(素性からではなく、無からの創造によって)召人としていかなる奴隷が主に対するよりももっと深い隷属関係を有っています。この世の奴隷主なら、奴隷の思想や感情などは勝手にさせてほっておくかも知れません。併し、人はあらゆる思想において、最も深奥な思想に於いて全ての感情において、その最も秘められた感情の中にも、全ての運動、その最も内省的な運動の中にも、必然に神に所属している事はどうにも仕方ありませぬ。所でこの所属を、人は終に厄介きわまる脅迫だと感じる様になりました。多少に拘わらず、人は、神を王座から引き下ろして、その後へ人間を据えようと思い描いていないものはありませぬ。「人間の権利のために、」と云います? いや、実はもうその必要はありませぬ。もう神が自ら、神の権利において為されたことなのでありますから。もし神が退けられたときには、その場所は空白になってしまう。併し、かかる冒涜に対する報いとして、人は次第に存在そのものを、疑問符の下に考えざるをえなくなり、或いは、存在を混沌にまで変じてしまったのでした。
律法とは、一体何であるか? 人間に対する律法の要求とは。そうです。この事こそ、人は決定すべきでありました! では、いかなる人間が? ここに疑問があります。
本質的には、人間は誰も彼も大した違いはありませぬ。従って、私が誰と一緒に最高者の決定に調和し合う様になるか、ということは全く、私の一存に委せられているといってよろしい。――尤も私が(もっと勝手気儘に)さて、求婚者として、新しいその門出をするために、自分から新しい決定をすることが出来ないでいるからではありますが。
又これも私の勝手だと思う。今日はこの人を律法の要求する人だと云い、明日はあの人こそ、律法の要求する人だ等と思ったとしても。
或いは律法の要求する決定が全ゆる人の共同の決議や、一致と、合致しなければならない、と云うのでしょうか、個人はみなそれに従わねばならぬ、と云う様な? 成程それも結構? 但し、そういう全ての人間が集りうる様な場所と時とが見つかりさえすれば?(全ての生きている人だけでしょうか? ほんとうに全部がそう一致しますか? 所で死んだ人達はどうなのです?)而もそこでみんなが一致し合う事が随分むずかしい事だろうが、出来る事だったらと思うのです!
それともある程度の数の人、ある一定の投票の頭数が揃えば、決定のためには充分だと云われるのでしょうか? 又もし、律法の要求の単なる人間的な決定が、律法の要求そのものであるとするならば、(尤も個人的な決定ではなく。――そうなれば、先に示された様に、純粋な恣意となってしまう)個人個人のものは、一体、この様にして実際の行動を始めたらよいのでありましょうか? それとも、どこから始めるということはほんの偶然に任すべきなのでありましょうか? 始められねばならぬ所に、各人が行為し始めると云うのではないとすれば! 行為を始める、というためには各々の個人は、先ず律法の要求とは何か、という事を「他のもの」から教えられねばなりますまい。この「他のもの」のそれぞれの人は、又個人個人として、再び「他のもの」について訊ねなければなりますまい。この様にして行けば人間の生命全体が一つの巨きな弁解になってしまう。これが所謂「比較を絶した偉大な計画」、「全人類を一丸とする偉大な行為」なのでありましょうか? 「他のもの」という決定は空想でしかありませぬ。空想的な企画を以って、律法の要求を決定するということは、まことに盲目的な滅法だと云わねばなりませぬ。
さて、全ての人間の間にこの矛盾に充ちた一致を立てようと云う、この茫漠たる、実に非人間的な仕事が、一朝一夕の仕事でなく、次代から次代へと無限に継続されてゆくとすると、どこで個人が行動にうつるか、ということは、全くの偶然に任せられる、ことになります。云わば何時個人に順番が廻ってくるか、ということに全て懸ってくるわけなのです。
或る二三のものは始むることに於いて申し分なかったのですが、中道に到らずして死亡し挫折してしまいました。或るものらは中道より始めましたが、終りを全うせずして死亡してしまった。従ってその終りを見たものは誰一人なかったのです。もう万事が終って、世界歴史の幕がすっかり閉じられてしまってから、ようやく人は、律法の要求とは何であったかを悟ったのだと云う。そこで甚だ遺憾なことは、解ったところで始めようとしても、無駄になってしまったことです。もう万事休したのですから。誰も完全には律法の要求ということを知らないでむざむざと過してしまった、という訳なのです。
もし人が、七人の者をある犯罪を犯したというかどで告発するとします。他のものがやった筈がないのです。第七番目のものがこう云う。「私がやったのではない。他のものがやりました。」この「他のもの」とは他の六人を指すのでしょう。所で、七人が七人とも、次から次に斯う云ったとしたら、どうしたものでしょうか? 「他のものがやったのです」と? こうなるとそこに一つの妄想が浮び上ってくる。それが実際の七人を二倍にし、もっともっと他にも大勢いたのだと言う空想を抱かせるのです。――現実にはただ七人きりだったのですが?
これと同様に、各々の個人を含んでいる人間全体が「他の者が、」と言いつくろうという気を起したとすれば、人間全体は、実際の存在以外に、もう一つの存在を有っているかの様な錯覚を起すかも知れませぬ。ただこの場合は、人間全体をひとりひとり詰問しつくすことが出来ぬため、その錯誤を、深遠な見せかけの下に人をあやまるものを暴き出すことが一層困難となります。併し、その間の関係は先の「七人と他の七人」とでも言いましょうか、あの「作り噺し」の場合と全然同じです。
律法の要求の純人間的な決定が、律法の要求そのものである、と言う主張も事情は全く同じことです、人は「他のもの」という作り噺しの手を打って逃げようとする。而も人は協力することによって、互いに支援し合おうとします。勿論人間の第二の存在というべきものがあります。但しこれは作り噺しとは違う。人間の第二の存在は即ち「神の中に於ける存在」なのです。或いは、これこそ、「第一の存在」であると言った方がもっと正しかったかも知れませぬ。そこに始めて神から律法の要求が何であるか、を教えられるのです。現実の実存とは、実は第二の存在なのです。併し、先に述べた様な混乱の状態を一体、何に較べたらよいでありましょうか? 正にそれは神に対する反乱の如き状態に似てはいないでしょうか? それとも、或る時代になると、その様な誤りを犯していたのは人間全体だったのですから、反乱という様な名前を以って呼ぶことは、控えた方がよいかも知れません。又、我々がよくしらべた上で、これこそ神に対する反乱であろう、とつけ加えたりする事も、避けるべきでしょうか? それとも、道徳というものは、全く偶然に委ねられたものであり、たとえ不正と言っても、もしそれが我々の大多数のものによって犯された場合には正義である、と言わねばならぬ、のでありましょうか?
かかる説は全て反乱の思想、或いは、反乱の無思想を煽ることになります。この説に従えば、結局律法の要求を決定するのは人間だ、と言うことになります。但し、決定は神の業であります。この事を忘却するものは、ひとり自ら神に対する反乱を犯すだけではありませぬ。反乱の横行する様な世の中をもたらすことに対して、責任を取らねばなりませぬ。もし、かかる反乱が起った場合、何人が処置しうると言うのでありましょう? そのとき、もし「私にはどうも出来ぬ、他のものが始末してくれるだろう」と言うとき、手段こそ違え、矢張我々が反乱の騒擾を更にかき廻したことになるのではありますまいか? 反乱を処置することは各人の神に対する義務ではなかったでしょうか? 元より暴君的に他人を神に対して服従させる様、強圧的な態度をとる様な、思い上った尊大さや仰々しさ、を以ってすることは論外であります。むしろ自ら無条件に服従し、無条件に神との関係、神の要求に信従し、神が現にそこに在すこと、又唯一万物の主であること、彼自らは無条件に服従する者にすぎぬことを示すことによってでなければなりませぬ。我々の全てが、各個に、言わば、それぞれの部署において、神よりの指令を受取り、みなそれぞれが、その同じ一つの指令に無条件に服従するとき、吾々の実存ははじめて意味と真理と、現実と、不抜な強固さとを得ることになります。そして、神の指令はみな同じく、唯一つのものであります故、何れにせよ一人の人は、それを他の人に就いて教えられることが出来る様に思われるかも知れませぬ。――もし、その他のものが正しいことを語ってくれることさえ、慥かであり、大丈夫慥かだ、と思われますならば。しかし、それも矢張神の秩序に対して侵害をこころみるものであると言われます。なぜなら、神は確証と、平等と、責任をもたせるために、全ての個人個人が神自身について律法の要求の何であるかを学ぶ様に希望されているからであります。それが出来る様になれば、実存ははじめて、存在の基準を得る様になります。なぜなら、神がその人に泊りを求められるからであります。混乱は最早ありませぬ。個々の人はもう「他人」等を相手にすることなく、弁解や、言い訳で逃れ様とすることも要りませぬ。ただ神との関係だけに頼ればよろしい。今や彼の立ち場は堅固不抜のものとなりました。そして、神への叛抗の最初である、あの昏迷のどうどうめぐりの中に、始めて行くべき方向を決定しえたものと言えましょう。
愛の律法においても同じ関係が見られる。――と言うのは、我々人が全て、みなそれぞれ信従すべき人の要求が何であるかを、神について教えを受けるとき、実存ははじめて真理と強さと、静けさとを取り戻すことが出来るのですから。我々全てがみな、自ら人間の混乱に対して防衛することが出来たなら(そういう事が出来たら、凡そ人間的な混乱はもう存在しなくなるでしょう)いや、必要とあらば、私達は殊に私達の愛の対象である恋人や、友人や、最も近親な人達に対してすら、私達自身を防衛することだってやってのけるでありましょう。この人達は、それぞれ別の方法によって愛の別の解釈を示してくれ、余計な迂り道などをせぬ様に導いてくれます。私達を正しい愛の途に援けてくれる限りにおいて、この人達にも感謝しなければならないのです。この事を忘れず、しかも私達を欺かれぬ様にいたしましょう。不安定な、混沌とした愛の表現によって殊に自らを欺かしめぬ様に。ただ神の解釈をのみきくべきです。恋人や、朋友や、全て吾々の親しい人々の異った意見などにわずらわされてはなりませぬ。冷淡に、無関心に、と言うのではありませぬ。彼等が私達と違った心を有っているとき、むしろ心から悲しいと思います。と言って、そのために、彼等に対する愛において妨げられたり、迷うことがあったりしてはならぬのです。
愛について、神が考えられることと、俗世界が考えることの間には矛盾があります。見せかけの一致ならば容易に実現することが出来ます。(同じ「愛」という語を用いている事の中にも)むしろその矛盾を見つける方がより難しいと思われています。併し、真理を知るためには、この困難な課題も回避してはなりませぬ。俗世間では、次の様な諺が言われている。「最も可愛いものは我が身也」と。この俚諺にしても、世俗についてあまりよい考えを有っているものではないと思う。利己愛がその様に最も賢明な最も有利なものとして押し立てられる様な世界は、どう考えてもあまり良い世界ではない。たとえ世界は利己愛を最も賢明なものと考えているかも知れません、が、と言って、その補償として世界は「愛」をより高貴なものだと解釈しないとは限りませぬ。世界は事実その様に言っています、が、そのくせ愛が何であるかに就いて理解してはいないのです。併し、神と世界との愛の解釈について、一応の一致が成就されていることもふしぎではありません。何れも愛を「高貴なもの」と呼んでいる所からも解ることです。併し、その背後には誤解がひそんでいるのを見落してはいけませぬ。愛を高貴なものとして称えたとて、それは愛に何を加えるかと言うのです。(キリスト教も同じ事をしていますが)愛について世界は別なことを考え、又高貴とは言っても、そこに又別な事を考えているのですから! 事実その通りなのです。もし人が、純粋に彼自身の利己愛のためにだけ生きようとしたら、(そんな事は恐らく、あまりありうることではないのだが)世間はそれを利己愛と呼びます。併し、もしその人が利己愛のために、二三人の他の者らと、特に数人の利己的な者らと共謀するとき、世間ではそれを「愛」だ、と言います。世間などは、愛の決定についてそれ以上に抜け出る等という事は出来ることではありません。なぜなら世間は、媒介の規定として、神をも、隣人をも有ってはいないからです。利己愛のために共謀し合うことを、世間では「愛」という名の下に尊敬し、愛しています。元より、そこでも愛を有てる者として通用するには、相応の献身も犠牲も払わねばなりますまい。自分の利己愛の一部分を共同の利己愛のために犠牲とすることが要求せられる。神を閉め出すか、或いはせいぜい広告のために顔を出していただくか。兎に角そういう世間に一度足をふみ入れたら、協同の信義を守るために神との関係を絶つことを要求されるに違いありません。
神が「愛」と言うとき、それは真に犠牲的な「愛」を言います。それは、神の空間をもっと大きく創るために、一切を犠牲として惜しまぬ愛です。たとえそのために、苦難の犠牲が一層至難のものとなろうと、誰も理解出来ぬほどのものになってしまうとも。何人にも理解されぬ、ということは真の犠牲には当然ふくまれることなのです。人間から理解される犠牲なら、人間から受ける喝采の中に、その報償をえています。その限りに於いて、絶対に報償を有たぬと言う真の犠牲とは違うのです。
それ故に、「愛は律法の完全なり」と言う使徒の言葉は、外面的な軽浮な説に私共が共鳴することを許さぬでありましょう。もし人が真に愛を有っていたら、必らず他の人からも愛せられる筈だ等と。――むしろ真に愛する者は利己的な者として非難せられるでありましょう。なぜなら彼は、人が自分を利己的に愛している様な意味では、人々を愛そうとはしませぬ故、事実は斯うなのです。利己愛の極端なものは、世間でも亦利己愛と呼ぶでありましょう。が協同し合った利己愛を「愛」であると呼んでいます。高潔で、犠牲的で、高邁な人間愛を、人々は愚であると言って嘲笑します。それは未だキリスト的な愛ではないのですが。――キリスト的な愛に至っては、ただ人々に憎悪せられ、卑しめられ、迫害せられるだけなのです。
これらの不幸な事実を、我々は又しても、不都合な調和でもってごま化して、次の様な事を言ってはなるまいと思います。「世間とはそうしたものだ。が、キリスト教徒に於いては左様ではない」と。まことにそれには違いない。――併し、もし洗礼を受けた全てのものがキリスト教徒だとすると、洗礼したキリスト教界が全部キリスト教徒から成り立っているとすると、キリスト教の国にはあの「俗世間」というものが全然存在していない、ことになります。現に教会の帖簿と戸籍の帖簿を照らし合せて見れば直ぐにも証明がつくことであります。
いや、愛について、神と世間とが考えることは全く別なのです。ああ、家の門を守るため、祖国を護るため戦うことは、神に対して戦うことと同じく、立派な事ではあります。神の前に、神の照覧する前に出て、愛に於ける神との関係、愛の神の概念などに固執する者が、なおかつそれを犯します! 勿論、神は人間などを必要としていない。人類、全体、又万有をも必要とはせられぬと同じく。それらは神の前に出ればその存在のいかなる瞬間に於いても、無と同然であり、神は、その無より彼等を創られたのであります。神は実在すること、又万物の主であり、神の言は絶対に信従せられねばならぬことを表現するために、あの良き戦いを敢為として戦う、そういう者だけが、神のために真に戦うものであります。
神との関係こそ、人間に対する愛の真偽を判別する表識であります。もし恋愛が私をすぐ神に導いて行かなかったら、又恋愛に於いて私が相手の女を即刻に神に導いて行くことが出来なかったら、その恋は真の愛ではありませぬ。たとえそれは自然的な愛慾の最高の幸福であり、喜悦であろうとも。例えそれは恋人らにとって、地上の最高の所有とも言うべきものであろうとも。神はこの様に単に全ての恋愛の関係に於いて第三者であるばかりでなく、本来はその唯一の恋の対象であること、従って妻の愛人は夫ではなく、神であり、妻は夫を通じて、神に対する愛に導かれてゆく。これらのことは世間では永久に理解することができますまい。単に人間的な愛の理解は「相対」という関係以上のものになる事は絶対にありませぬ。愛する人、即ち恋人であり、恋人がまたその愛する者であります。かかる愛は未だ真の愛の対象である「神」を見出さぬのである、とキリスト教は教えます。
全て恋愛の関係は三重の関係であることを思わねばなりませぬ。即ち、愛人と、恋人と、愛と。――愛とは即ち神に他なりませぬ。それ故に、「或る人を愛すること、」即ちその人を神に対する愛にみちびいてくることであり、「愛せられる」ことは即ち神に対する愛に於いて捧げられることなのであります。
世間が言う愛とは、混沌そのものであります。世の中に出て行こうとする青年に向って、人はかく言います。「人を愛するが好い。人からも愛せられるから」と。この言葉は真理であります。殊にもし彼の旅が永遠に向うものであり、完成の国に向って為されるものでありますなら。併し、彼は世間に出て行かねばならないのです。ですから、人はそう言い乍ら、何が愛であるかを学ぶについて神に信頼しなければならぬ、ということにはふれようとしない。――又世間というものは、神について愛を知っている訳ではないのですから、(ああ、もしそうだったら、青年はただ完成された国を発見するだけであったでしょうが)、「愛」というとき、まるで別なことを指しているのだ、ということを黙って教えないでいる。これは、意地が悪いと思う。
もしキリストが愛でなく、又キリストの愛が律法の完全でなかったとしたら、人々は彼をはたして十字架にかけたでしょうか? 又もし彼があの要求を自分だけに向けて己れの内に閉じこもり、愛について、どう説いてもよい、ただ神の意における律法の完全という意味に取るのだけは止めよう、と言う他の人々の意見と一致していたならば。もしキリストが愛のためにこの世界の救主であり、救済主となる代りに、世間の言う愛の観念と調子を合せる様に、彼の思想を改造していたとしたら、全ての人から愛せられ、賞揚せられ(怖るべき、狂気よ)教徒らからも神として崇められたであろうに。もし使徒らが、「愛とは律法の完全」であること、故に人間の素性のせんさくや、人間社会への妥協とは別物である、ということを固執しなかったとしたら、もし彼等が、人間的な愛についての観念とぴったり妥協する筈がない彼等の人間愛の観念を守り通そうとしなかったら? 迫害を蒙る様なこともなかったのではありますまいか?
世間が愛し、「愛」と呼ぶ所のものは、この地上の「利害の共同性」以外の何物でありましょう? それ故に、永遠の意から見れば惨めな愛の中断にすぎません。真に神の要求を守り、その信実を以って人を愛し、それ故にどの様な迫害や誤解にもかかわらず、なお人を愛することを止めなかった者らほど、人々から我利的だとしてひどく嘲罵されたものがあったでしょうか? この様に真実に愛する人達が、一般の世人よりももっと深く愛さないではおられない唯一者があることが世間一般を憤激せしめたことも、きわめて自然なことではなかったでしょうか? 使徒らの人間に対する愛は、一層高貴なかの人に対する愛から出発するのですから。
もし人が、世間の利益を獲得することが目的であるとするなら、成程一人も友人が出来なかったと言って、世間を非難するのはおかしな話だ、と思う。なぜならその場合、人を誘うに金を賭けて釣るならどの様な恋愛だって手に入らぬものはなかったでしょうし、友人や仲間だって、剰って仕方ない位出来てしまうからです。その人達と愛の関係を結ぶことだって出来るのです。併し、もし人が、人々に対する愛に於いて、無条件に神にだけ依り所を求めて行こう、という決心であるとするなら、たとえその全てを犠牲にしなければならないとしても、どの様に貧窮になろうと、侮蔑せられようと、ユダヤ人らの教会堂から拒絶せられようと、意に介さぬと言うなら。――試みに、友人を求む、という広告を新聞に出して見られるがよい。――但し、「利害という事を全く度外視して」という条件をつけ加え、而も、それを強調されなければいけません、――そうすれば、恐らく、一人も友人として近寄って来ないに違いありませぬ。
私達はキリストが、あの様な微賤な人民だけを使徒として選ばれたことをふしぎに思っていました。併し、それでも彼等の様な使徒を得られた、ということの方が一層ふしぎではないでしょうか? 自ら進んで苛責され、迫害され、嘲笑され、十字架にかけられ、処刑せられることが当初から決定した運命であった十一人もの盟約を実際形造ることが出来たことこそ、もっとも驚くべきことではなかったでしょうか? 彼等の運命は互いに褒め甘やかす事にあったのではなく、互いに神の前に謙譲となることによって、自らの信念を強化することに在ったのでした。それは世界が「愛」と呼ぼうとしているものに対して、怖るべき嘲笑の様にひびいたかも知れませぬ。しかしもし我々の様な社会的の故に幸福だとも言うべき時代に、この様な愛の盟約を誰かが形造ろうと試みたとしたら、慥かに有効な警告となったかも知れませぬ。もし今ひとりの者があらゆる犠牲を捧げて惜しまぬと言えば、すぐに親し気な様子を装って大勢のものが寄り集って来て彼の犠牲を喰い物にしようとするでしょう。世間もよく承知のことと思います。一緒に困苦を頒とうとする様な同情は御免蒙る、但し利益の分け前に与るという場合には是非とも立ち会わせていただこう、と言った種類の同情が、兎角世間には一般向なのだと言う。
真の同情もこの地上に絶対にないとは言われませぬ。併し、あったとすれば、必らず迫害され、憎しみを受けているでありましょう。試みに、一人の人を考えて見ていただきたい。(何も人の世からは拒絶され、従って、人の世の盛飾ともなったあの壮麗な人達の徳をなしている、完全さを有った一人の人を考えられるには及びませぬ。)あまりにも不幸となったため、この世の財宝もこの世のいかなる利殖も、彼の目には何の魅力ともならなくなってしまった。あまりにひどい不運のどん底に在るために、聖書にある不幸なサラの話の様に、「溜息にも疲れ、」又「悲痛のあまり自ら絞《くび》れて死のう」とするばかりとなった人を考えて見て下さい。彼の深い不幸は、たとえ彼が実際手に入れることが出来たにしろ、いかなるこの世の財宝を以ってしても、決して和めることは出来なかったでありましょう。なぜなら、その財宝の所有は、愉しいこの世の享楽に彼を導くでしょうが、却ってそれは自分の不幸に対する痛ましい追憶をかき立てるだけであったでありましょう。と言って又この世の嫌悪が彼の不幸をより大きくするということもなかったでありましょう。なぜならその不快さは、彼の不幸によくつり合ったことでしょうから。例えば憂愁に閉ざされている者にとって、暗鬱な天候が、よく調和したであろう様に。――その彼の困窮の最も悲痛な時に、はじめて解って来たのだと言います。即ち、この哀れむべき人には未だ至高のものが、それでも残されているのだと。(即ち、人間に対する愛。真理の故に、真理に仕えようという決意、)そして、これこそ、真理に於いて、悲嘆の下に崩壊した彼の心を建て直し、永遠に対する生の悦びを与えてくれる唯一のものであると。……世間にさらされている、その様な人を考えて見て下さい。彼は俗世間でうまく行く筈はありませぬ。世間から愛せられる事もなく、理解されることもありますまい! 世間とどれだけ交渉があるか、と言う程度にもよりますが、或る者には非難され、或る者にはあざ笑われ、ある者からは荊棘あるものとしてふり落されるでありましょう。或る者からは羨望され乍ら矢張り蔑まれている。――或る者からは取り立てられることもありましょうが、矢張押しのけられてしまう。或る者は彼の仕事を迎えてくれるかの様に見えますが、言わば彼が死んでから尊敬する様に全てが仕組まれてある。青年の中には女性的に彼に傾倒して来る者もあるでしょうが、年配となると共に、次第に彼から気持も離れてゆく。世間はもう頭から公然と彼の利己愛を面罵するでありましょう。なぜなら、彼は自分にも他人にも、いやこの世の何人にも利をもたらす事が出来ないからです。世界というものは、これ以上に良いと思ったら間違いです。彼等が認め、世間が愛する最高のものとは、それが世間で成功すればこそよいのであり、人はこの財と人間とを非常に愛すると言うのは、それによって、又自分の、又いくらか他人の利益をも配慮することができるからなのです。それ以上の事になると世間は、どんなに好意があったところで(それも口先だけなのだが)理解しはしないのです。一歩、抜け出れば、世間の友情と愛とはもう御終いです。世間とその愛とは、こうしたものなのです。いかなる科学者だって、今私が世界とその愛について推測する程な精確さと確実さを以って、或る液体の重量を科学的な精密さを以って測ることは出来ますまい。世界というものは、屡々熱狂的に主張される程に全然悪でもありませんが、又純粋に潔白だと云う訳でもありませぬ。ある程度まで善でもあり、悪でもあります。キリスト教的に言えば、「ある程度に於いて悪」なのです。
斯く言うのも、決して審判のためではありませぬ。それは単なる時間の浪費でありましょうから。これらの考察は、鋭い思索と人間学の援けを借りて錯覚を切断し、或いは正にその錯覚らの温床である日常の生活の秩序の中へあの使徒の言を導いて来よう、とする試みなのでありました。欺かれるのに手間暇はかかりませぬ。欺かれるのは瞬忽の間で、醒めるのには永い時間がかかります。勿論愛について、自分の勝手に描いた自惚れの中にとび込んでしまって、その空想のままに存分に振舞う方が容易でありましょう。手早く一群の人々をかり集めて利己愛をもって結合し、最後までその人々から愛せられ尊敬せられる方が、ずっと気楽であるに違いありません。いや、人生に迷うことこそ、最も安易な最も尊敬に値する社会的な技巧なのです。もしこの世を気易く、社交的に渡ろうと言うのが、あなたの人生の最後か、最高の目的であるなら、キリスト教などに近寄らぬ方がよろしい。踵を返して逃げ出した方がよい。なぜなら、そこでは正反対のことが要求せられているからです。それは神の前にあなたを寂寥にしてしまう。又それによって、あなたの人生を重苦しいものとするでしょう。
それ故真面目に生きるものは、どこ迄も錯覚を追究して倦むところを知りませぬ。なぜなら、もし彼が真に思索しつつ生きて行こう、とするならば、錯覚に陥入るということこそ、最悪のものであり、最も彼が怖れるところのものでありますから。どの様に環境が愉しく、どの様にその社会は善良なものでありましても、キリスト教徒として最も恐れるものは、知らず知らずの内に自分を失って行くことなのです。たとえ自分の周囲、又その社会がどんなに快適で輝やかしいものでありましょうとも。
人に厚かましく、要求する所多いものは愛ではない、と言うことは、あまりにも明白な事なので、誰もこの意見に対して異議を挟むことなどはあり得ないと思われるかも知れません。所がいつもそうとばかりは限らない。ここにも亦単なる人間的な判断というものは、いざ決定的な場合にのぞもうとするとき、しばしば錯覚を起すという一例があります。その要求する所多い人間自身が、自分は愛だと言おうとするとき、勿論人は異議を提出してよろしい。この場合には錯覚など起す訳もありませぬ。併し、もしその厚かましく要求の多い人間の相手となろうとする他の人がいて、その厚かましい人を愛であると言い、愛として讃美しようとするとき、始めて、錯覚の問題が起ってくる。大した人間通でなくても往々こういう人生の行き方も在るものだと言うことは容易に指摘されます。即ち或る人が、愛の美名の下に人々からあらゆるものを奪おうとするとき、却って人から好かれたり、彼の愛を賞讃されたりする立ち場に立つということなのです。愛と言えば、凡て脆弱な、自由を奪われた拝跪以外には考えることも出来ない人達も世の中にはいます。斯ういう人たちは、彼等が愛し、彼等が尊敬する人々が出来るだけ多くの要求を出してくれたらよいと念っている。神の前に於ける全人間の平等という折角の思想を忘れたがっている人々がいます。(何とまあ非人間的な!)例え人間同士の立ち場がどうであろうと、一人が他のものに拝跪し、他のものが一人を拝跪せしめてよいと言う法はないのです、(男と女、主人と奴僕、才能あるものと凡庸人と、富めると貧とにかかわらず)それを忘れたいと言うのです! 人は、こういう不合理は優越性の濫用から由来する、即ち優越した権力ある者の罪だ、と考えるかも知れませぬ。ああ、しかし無気力の者自身の罪でもあります。――彼等自身が、そういう仕方で権力者に対して何か気に入ろうと企らんでいるのですから。神と、不滅者の前に出ては、全ての人間は同じ価値しかないのだ、と言うことを忘れるものは、自分が神から与えられた威厳を忘却するものであります。優勢な夫に対して弱々しい妻が、才幹ある者に対して偏狭で併し虚栄な者が、「権勢絶倫」とも言うべき男に対して貧乏な、併し世間的な野心のある者が、支配者に対して下劣な併し利に抜け目のない者らが、みな自分らの立ち場をその様に心得ているのです。彼等は、自分自身を投げうち、生命を捨てることによって、隷属ということを表現しようとするのです。彼等は一層高貴なものを知ろうともせず、又事実知ってもいないために、この様な不合理を希い、いや、情熱的にかくありたいと念っているのです。権力者のために生きることが、彼等の何よりの希いなのです。世間的な権力としては、彼等は権力者に何の足しにもならぬことを知っています。そこで彼等のために捨身することによって、その希いを充たす他に仕方がないと言う。一少女が、人間としての威厳を忘れて、自分の拝跪する所のものに全てを捧げようとします。唯その男が同じく人間の威厳を忘れて、自分の全てを奪ってくれたらよい、と言うことだけを希って。――何という奇怪至極な話ではありませんか! 実に不思議な話ではあります、――と言うのは、少女があまり男の愛を高く讃美しすぎて、遂には、神の前に於いては全て人間の間の差別などは微塵にも等しく、屡々差別は無にしかすぎない、と言うことがどうでもよい程だと言うのです。而も、その拝跪されている男がもし少女に以上の認識を与えようとすれば、少女はそれを利己的な愛だとしか思わないでありましょう。又権力のない、そして神を忘却している実際卑陋な人間が、支配者のために全てを捧げるために、その足下にひれふして塗炭に塗《まみ》れようという一念しか有っていない、とは。何という驚ろくべき話ではありませんか? 支配者の足下に蹂躙されたいという唯一つの慾望しか持ち合せていないのだと言う! それから歓喜して支配者の恩沢あふるる愛と寛仁とを讃美するのだと言う! 又神を忘却し去ったかの虚栄の者が、何分の権勢のものの縁故をえたいものと浮身をやつし、最も下劣なるつき合いをすら喜んで彼の愛のしるしだと言おうとする、とは、何たる奇怪至極のことでありましょう! もしその人が、それを欲せず、神の前には幸福にも万人が平等であることを悟らせようとして、相当の礼を以って報いようとすれば、彼はそれを利己愛だと貶すでありましょう!
ああ、不滅者が人間の魂から奪われて以来、或いは、その人間の中の実在が殆んどあるかないか解らないほどになってしまってから、――(かの不滅者こそ、他人に対する人間の全ゆる不健全な愛情の亢奮を冷却せしめると共に、人間の時間性が冷却する所に愛の火焔を点じる所のものであったのですが)。――その不滅者が人間の心より奪い去られてから、人はもう不合理極まるものを愛と呼んだり、夢中になって自分からその不合理な愛の対象となろうとしたり、することを戒めてくれる様な真実を、どこにも有っていないのです。人は権力の力によって、自己を必然にして欠くべからざるものとすることによって、人間性を剥奪してしまう事も出来ます。併し、人は又自己を無力の故に必然にして欠くことのできぬ者となし、それ故匍匐し、乞食の様に額いて他人の擅横な厚かましさを愛と呼ぶことによっても、人間性を剥奪することが出来るのであります。
不滅者の要求は、誰一人と雖もかの神の律法の完全からのがすものではありませぬ。たとえ全世界は一人間を免除するかも知れず、たとえ又全世界は厚かましさを愛し而も愛を誤解しようとするとしても。なぜなら、土に塗れた奴隷となって魂を損害する代りに、神に拠らねばならぬと言うことを教えるのは、絶望を通じて、多分やっと、絶望の人間たちには呑み込ませることが出来るからでありましょう。愛をして自己偽瞞にとらわれしめるな、又錯覚に陥ちて自己満足を求めしめてはならぬ、――不滅者の要求はかく教えます。人間はあの擅横無惨な人間らの犠牲となることを、自分から願望し、自らそれを愛と呼び、自ら愛されているのだ、と思いたがったのですから、ここにはいかなる弁解の余地もありませぬ。神が人間の心の中に愛を設けられたのであります。何れの場合何が愛であるかを決定されるのは、矢張神の他ありませぬ。
もし、あなたの友人、恋人、愛する人たち、同僚たちが、あなたが愛とは何かということを、彼等からではなく、神から学ぼうとしていることを知ったなら、多分彼等はあなたに向って、斯う言うに違いない、「あなた自身をもっといたわって下さい! 過激な緊張は止めた方がよい! どうして人生をその様に痛ましく、きびしく受取ろうとなさるのですか? 要求することを少し手控えられたら、愉しく交際って、美しい豊かな、立派な生活も出来たでしょうに!」もしあなたがこの偽善の友情の囁やきに耳を藉されるなら、あなたの愛は愛を以って報われ、賞讃されるでありましょう。併し、あなたは偽の者に耳を借さず、愛によって、神をも、あなた自身をも、他人をも裏切りたくないと思ったら、利己愛だと他人から嘲罵されることをも甘受せねばなりませぬ。人々は真の利己愛とは、神に対する愛であり、真の人間愛とは他人の神に対する愛を援けることである、――というあなたの確信を、あなたの友人はみとめようとしないのですから。友人はあなたの生命そのものが、もし神の要求に従って、別の真実さを有ったとき、あなたの方から一言も言わないとしても、彼自身に対する警告であり、戒めであることを、抜け目なく見て取るに違いない。それを葬って仕舞えと言うのです。その代償として、あなたは彼の友情、と、本当に立派な友人だという評判とを貰うでしょう。世間では、世間的なことが幅を利かせ、横行しているのですから、もし人が「まやかしの友情」等を耳にすると、すぐある友人がある友達を何か巷間の利益か財産か、欺瞞を働いて奪ったのだろう、位のことを、考えます。そういう事はまあ、あなたの友人の意見にも、計画にもなかった訳なのです。友人はただあなたの神との関係を胡麻化して、友人として自分自身を欺く手助けをして貰いたく思っているのです。それから、その欺瞞中に生死を賭けた信実の契いを結びたい、と思っているのです。
人は世間の悪を言います。すると人はすぐ、財産を横領したとか、或る人の大きな期待を裏切ったとか、その大胆な計画を挫折せしめたとか、そういう種類の事を考えます。所が、之等の全ての約束を何もかも真正直にいやその約束以上に生真面目に守ることによって世間は最も危険なる欺瞞を犯すことになるのです。即ち世間は、その正当な友情によって、(悪い友情とは、人間的な事象について、あなたを欺く場合としましょう)神を忘却せしめようとする。この最も危険なる悪については、殆んど考え及ぼうとしませぬ。人は「悪に身を売った」とも言います。報酬として、どういう利得があったか、と問えば、人は権力、名声、情慾の満足等々を以って答えるでありましょう。併し、そういう悪への身売りによって、同時に、彼の愛が愛を以って報われ、且つ賞讃されうるものだろうか、どうか。それについて人はあまり論じもしないし、又考え及んでもいないと見えます。併し、事実は其の通りなのです。なぜなら、その反対に神に対する愛を以って、人を愛したものは、世間から憎悪され、又憎悪されるだろうからであります。
世間は権力と暴力を提供することによって、人を誘惑して、神を忘却せしめることが出来ます。而してその人間を、誘惑に引っかかったというので、今度は人間の屑物扱いにします。同様に世間は友情を用いて人を誘惑にかけようとし、もしうまく友達になろうとしない者があれば憎むのです。永遠について、愛に対する神の要求について、など世間は聞きたがらないし、まして実際人生の中に具体化されたりすることは何より迷惑でしょう。所で世間は彼等の愛は利己愛だということを白状するでしょうか? どうして白状するものではありませぬ。むしろ神に依る所のものを利己慾だと非難します。解決の手は、今更言う迄もないこと。或る一人の人を犠牲にすることなのです。もし他の全てのものが、それで利得すると見きわめがついた場合には!
愛が律法の完全である、という点については、神と世間とは別に背馳しませぬ。但し、世間は律法というとき、自分の勝手に気に入ったものを考えるのです。そして、世間の意に共鳴し、信実めいてその意を迎えようとする者を、可愛い奴だと考えるのです。実に無数の人が、少女の愛を、神の意に解すれば、堕落せしめた事でしょうか。而も、それが正に神に対する自分の関係を欺いて少女のためにあまり信実を傾けつくし、その報償として少女から限りなく彼の愛を有難がられる、という事によってなのです。ああ、いかに無数の者が又親族や友人たちを堕落させたことでありましょう。所が彼の愛は、親戚や友人たちから、大いに有難がられ、又愛される結果となったため、ついこの事には気が付かないで済んで終う始末なのです! いかに無数の者が同僚たちを堕落させたことでありましょうか。同僚らは、所が彼の愛情を、その報償として神の様に崇めたのです。なぜなら彼は神との関係を忘却する所までもやり了せ、又一層高貴なものに対して、人々を警告することなどには到らないのに、祝祭され、喝采され、感傷的に驚嘆されたからなのです!
之とは別な、真に重大な問題を行うために、又ひとりあの最高の典型を指し示すだけではない、所謂キリスト教などとは、遺憾乍ら相容れない、最高以下の典型をも殊に愛するために。――我慾と世俗慾のために、軽薄極まる糺問所の前に引き出され、死の宣告を受けたとき、なぜあの人は自分を弁護するために、古代の単純な生き方に自分を較べたのでありましょう? なぜ彼は自らを「神与の天稟」と呼んだとき、自らを時代の『ブレーキ』に比べたのでありましょうか? なぜ彼は又、青年らをあの様に熱愛したのでありましょう?
彼が第一の古代に自らを比べた、と言うのは、異端者としての方が、人間をより高邁な意において、一層高貴な意図を以って愛することが出来たからなのです。つまり、その方が警告的で人を動かす事が出来、人間の時間性や、他の人々から、少しも誘惑されないで済んだからなのです。愛とか友情とか、他の者或いはその時代全体を結ぶ打算的な党派とか、そういうかかり合いに引きずり込まれて意力を消耗したり、下らぬ亢奮にまき込まれたりしないためだったのです。むしろただ他人を教えること、従って、誰からも愛せられない我慾的な人間であればよい、と思ったのです。
彼が特に青年らを愛したことは、彼等の中には、なお神に対する感受性があることを発見したからなのです。併し、それも時が経つにつれ、様々な人生の行路、愛と友情、単なる人間的判断、時代の要求への屈従などによって、容易に失われて行って仕舞う。彼はこの様に不滅者と「神のごとき人」の力によって、人間に対する愛が錯覚や自己偽瞞に損われぬ様に確保しようと念ったのでした。彼自身が愛の要求を重大なこととして受取り、それによって、彼は又人間全体に対する要求ともなったのでした。それ故に彼は「ブレーキ」であり、それ故に青年を愛さずにはおられなかったのでした。
もし、あなたが何とでもして、たとえ人間的な弱さに於てであれ、「愛は律法の完全」である、という使徒の言葉をふみ行おうと努力されるならば、先ず世間の人々に対して注意しなければなりませぬ! 彼等を愛さぬ様に、という意ではありませぬ。そんな不合理なことはない! それではどうしてあなたの愛は律法を充溢させることが出来ましょう? いや、そういう意ではありませぬ。人を愛する、ということよりも、人々の気に入られようとする意の方が大切だと思う様にならぬ様に注意せよ、という事なのです。あなた方が互いに愛せねばならぬ、事をそっちのけにして、人から愛を以って報われる事の方が大事だ、等と思わぬ様に戒めていただきたい。自分を利己的だ、と云われたくないばかりに、あなたの最高のものをして、人々のさらしものにするな、という意なのです。又あなたの愛を証明するために、あなたに対する公衆の批判を引き合いに出してはなりません。なぜなら、公衆の批判は神の要求に一致する限りに於いてのみ正しいのですから。其の他の場合に於いて、人々はただあなたと同罪であります! 同時に、又この悲しむべき教えを悟り、忘れぬ様にせねばなりませぬ。即ち、人間と人間の間のいかなる恋愛も完全に幸福であることは出来ず、又あってはならない。完全に確実であってはならぬという。之こそ、この地上の生命の真理なのです! なぜなら、神より見れば人間の間の最も幸福な恋愛も、ただ一つの危機にしかすぎず、ただ人間的な愛の理解だけではその危機を察知することが出来ません。地上の愛はあまりに激烈なものであり、そのために神の秩序を乱しうると危機になります。危機とは、神の秩序はこの最も幸福な愛をも犠牲として要求することがあるかも知れぬ、という事なのです。人間から見れば、どこにも危険のそぶりすらなく、虚心な平和が領しているとしか思われない場合にしても。この危険故に、あなたは、たとえいかに幸福な恋愛の中にも常に不安の中に心弛むことなく目覚めていねばならぬ、ということになります。恋人にあきが来るだろうとか、或いは、恋人があなたに愛想をつかすだろうとか言う懸念ではありませぬ。二人とも神の事を忘却するのではないか、という不安、又あなたが或いは、あなたの恋人が、何れかが神を忘却するのではないか、という不安なのです。又かかる危険もある故に、この考察の序の中に言われたことも思い出していただきたい。即ち、キリスト教の考えによれば、愛を約束するということは、至難の業であるという事なのです。なぜなら愛の充溢は恋人に憎まれる、という結果になるのですから。ただ神に対する愛のみが常住幸福であり、至福であります。我々の考証の結果からしても、唯一の真の愛の対象であります様に。ここにはもう不安の中に目覚めている必要はありませぬ。ただ祈りの中にのみ目覚めてあるべきなのです。
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「愛は律法の完全である、」と言う。併し、律法とは、無限の規定の全量を指しています。ではいくら説いた所で、その主題を説く事は出来ないであろう? そこでその多彩無限の主題を決定的な事に還元しなければなりませぬ。そこに先ず本質的に言えば律法の二重の要求が生れて来ます。その一つは内心性の要求であり、一つは、永続性の要求なのです。愛は内心的であると共に、又永続でなければならぬと言うのです。
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要求に言う内心性とは何を云うのでありましょう? 人間的な愛の解釈も、内心性、献身、犠牲などを要求しています。――併しそれは、人間的な意味にだけ規定しているのです。その内心的な献身とは愛に関する恋人の観念のためにあらゆる犠牲を捧げて惜しまぬこと、であり、或いは、私は私自らの責任を賭けて、愛とは何か、という決定を試みようとすることを言います。
神の意から解釈すれば自己愛とは神に対する愛に他ならず、或る人に対する真の愛は神に対するその人の愛を援けることに在ります。従って、ここでは内心性とは、ひとりただ愛の関係から規定を受けるだけでなく、神との関係によって規定せられます。要求められた内心性は、この場合には自己否定の内心性に他なりませぬ。愛についての恋人の観念にだけ志向されるのではなく、神に対する恋人の愛を援ける、ということに志向せられます。即ち恋愛そのものも、神の要求に捧げねばならない犠牲であると言ってもよろしい。
凡そ、愛の内心性は、本質的に犠牲的でなければなりませぬ。決して報償を目あてとする様なものであってはなりませぬ。純粋に人間的な愛の解釈ですら、愛は決して酬いを求めるものであってはならぬ、と教えているではありませんか。ただ、愛をもって報われたい、と言うことは自明のこととして、もうその中にふくまれています。――愛だけは報酬でないかの様に! 又、愛の関係は、ただ、人間と人間との間の関係だけでつきるものでない、と言おうとするかの様にもうけ取れるではありませんか? キリストの言う愛の内心性とは、むしろその愛の報償として恋人から憎まれても仕方ない、と甘んじます。つまりここに言う愛の内心性とは純粋に神との関係であることを立証します。いかなる報償をも、愛を以って報われることをも予期するものではありませぬ。従って、その愛は、又その愛の中に在る人は、徹頭徹尾神のものであります。
人の言う自己否定、自己克服、捨身など、むしろ、人間的時間性の内部での交替であり、純人間的な圏の内部での交換を目当としたものでありましょう。が、真の意味に於いて、勿論キリストの教えられたものではなく、キリスト教の真摯さに対比するとき、それはまことに一つの諧謔にしかすぎませず、キリスト的な決定にまで達しようとする所の、最初の足場にしかすぎませぬ。
人は、あれや、これやを犠牲にし、一切を犠牲にする、と言う。――しかし犠牲にしたことは理解して貰いたいと希んでいるのです。そして、他の者との信実な理解の中に結合されていたい、他の者は彼のもたらした犠牲に対して承認と歓びとを支払ってくれるべきだ、と希っているのです。人は一切を捨てる、と言う。――而も他人の口を借りて物を言い、他の者から理解して貰う、ことまで全て捨て去る、という所までは前提していないと思います。犠牲という運動も、これでは、外見的なことにしかならない。世界を捨て去る様な顔付はします。しかし、依然として、世間の中に根を据えているのです。この様な捨身をけなそうと言うのではありませぬ。ああ、この様な純人間的な犠牲すら、まことに稀に見る出来事だと言わねばならないのですから! しかし、キリスト的に言えば、それにしてもなお、半途にしてつまずくものだ、と言わねばなりませぬ。彼は崇高な足場に立とうと登って行きます。(人間的に言えば、犠牲とは崇高なことなのですから)その高い立ち場に立つために、身につけた全てのものを投げ捨てるのであります。その高さは人々を驚嘆せしめ、その犠牲は人に見られるということを予想してなのです。
併し、その絶頂の上に(犠牲が崇高な出来事であることは真理です)罪人として、侮蔑せられ、憎悪され、卑劣なものの中の最下等のものよりもなお、残酷に嘲罵されて立つこと。即ち、超人的な努力のかぎりをつくして漸やくこの絶頂に到達した後で、凡そあらゆる侮蔑の中の最も下位の段階に立つかの様に、全ゆる人に思われつつ、立ちつくすという事。これこそ、キリスト教的に言う、犠牲であります。併し、人間の目から見れば狂気としか思われますまい。唯一者のみがその真の秩序を統合せられている。併し、賞讃しようとしてではありませぬ。天上に於ける神は人間を賞讃することは先ず無いと言わねばなりませぬ。事実はその反対であります。真の犠牲は、ただ唯一の逃避の途を有っているだけなのです。即ち神という。――而もその神から、また見捨てられることになるのです。なぜなら、神の前に出て、始めて、その犠牲も、何の誇るに足る功績でもないことを悟らねばなりませぬから。――と同時に、又人間の心から見れば、犠牲に捧げた所の半分位で済ましておけば、他人からは理解され、愛と驚異とを贈られたに違いない、と思うでしょう。その程度に止めておいたとしても、全部を言った時と同じ位に愛の前では通用したのであったろうに。なぜなら、神の前ではどの様な犠牲も功績ではないのですから。これも亦キリスト教の言う犠牲ですが、人間の目から見たら気狂い沙汰にしかすぎないでしょう。これが、キリスト的な意味で「愛すること」なのです。
もし人間の愛が最高の幸福であるとするなら、このキリストの愛は最も苛重な苦難であると言わねばなりませぬ。――もし、神に対する関係が、至高の幸でなかったとしたら!
もう一つの律法の要求は時間の永さという意味で、「愛の永続」ということです。愛は永続であると共に、内心的であらねばならぬ、と言う。純人間的な愛の解釈も亦、同じことを要求するでしょう。併し、その人間的な要求の意はキリスト的な意とは、まるで別物である。――と言うのは、あの内面性の要求も、まるで別物でありました様に。
時間の中の不変と永続性の要求とは、同じ愛の内面性がどんな永い時間に渡っても変ることなく持続する様に、と言うのであり、そこに或る意味で又内面性の新しい形体があるとも言えます。もしあなたが、あなたの愛に於いては最善をつくした、出来る限り永く愛しつづけて来た。そこで今度は相手に対しても何事かを要求してもよい、と思われるとき、――つまり、あなたの愛は要求に変化しようとすることによって、そこに一つの愛の限界があるのではあるまいか。そこにあなたの愛は一つの権利に対する要求に形を変えてしまう、ということに気付かれるでありましょう。愛は併し、律法の充溢であります。今はあの自己否定という偉大な瞬間について言っているのではありませぬ。なぜなら律法は永い時間に渡って、同じ内面性を持つ様に求めているのですから。永い時間に渡って? と言うのはむしろ人間の心には背馳することではないでしょうか? あまりにも違った二つの方向に人を駆ること、即ち永続を求めると同時に深さをも要求するという、――これは、要求自身の自己矛盾ではないでしょうか? 矢は素早く空を切ってとんで行きます。無限にはるかな所へ、――もしその場合矢が同時に深く大地を下に貫かねばならない、と言うことを要求されるとしたら? 一体これはどういう要求でありましょうか?
不滅というものは、言わば感動した偉大な瞬間の中に足を止めます。併し、時間というものは、その休むことを知らぬ多忙さを以って歩き初め止め様がない力を以って前へ前へと押しすすめて行きます。時間の経つと共に、いつか人が感動から堕落してしまったとしても、仕方ないではありませんか? どうして忙しい時間と一緒に、歩調を合せ、一方に静止している永遠と一緒に止ることが出来ましょう?
最後の行程に倒れているとき、(もし、人が自己否定によって、最も苛重な犠牲をもしのばねばならない、即ち、彼の愛の報償として、恋人から憎まれねばならぬとき。――まことに彼は最後の行程に於いて倒れている人に似てはいませぬか)而し、なお彼は未来を、永い人生の行路を前に据えている、――もう、万事は過ぎ去ったと言ってもよいのでありますのに。――そこでもう一度身心をふるい起し、最後の行程に倒れ乍ら、あらゆる瞬間をかけて、直立不動な態度を以って前進しなければならぬ、と云う。――一体これは何と云う要求でありましょうか! 消耗して再び立てぬと言うことは、真直ぐな姿勢を以って前進をつづけることの正反対であります。最後の行程に於いて倒れていることは、最もきびしい意味において消耗して立てぬことであり、即ち、果敢なる前進に対して、最大の反衝を為すものであります。あなたは、疲れ切った旅人が重い荷を背負ってゆくのを見られた事がありますか? 大地に倒れる許りであるのを、一歩毎に戦って、どうにか堪え切ろうとしている。立っていることすら最大の努力がいります。崩折れてしまわぬ様戦うことで精一杯なのです。
併し、かく崩壊してしまって、――倒れて再び立てず、最後の行程に於いて倒れているのです。が、而も、なお、旺盛な元気をふるって、しっかりした足取りで、前進を続けてゆくこと。――何という素晴しいことでありましょう! それをしもなお愛は要求します。而もそれを、永い時間に沿って、何時までも続けて行かねばならぬ、と言うのです。
ああ、精神の世界には外部の世界には類例を見ないある詐欺が行われています。子供が本を読むことを習う場合には、先ず「いろは」を学ばなければならぬのが当り前です。それはもう決り切ったことで、避け様のない必然です。子供は決して見せかけに欺されたり、錯覚を起したりして、いろはを習わないうちからもう本が読める等という自惚れを起したりすることは、ないでありましょう。所が精神の世界においてはあまりにも誘惑的な事情が存在しています。
精神に於いては、人は先ず全て決意とか、意図とか、約束とか、偉大な瞬間から出発しようとします! 何もかも、ここでは熟練の講演者が完全な技術をもって朗読するときの様に、淀みなく読みあげられねばならぬという! それから次に人はごく卑近な事にかかるのです。ごく微細な、あまりにも日常的な事にかかり合わねばならないのです。それは偉大な印象も与えなければ、これ迄の関係から感動の流れに、人を押して流して行くこともないのです。
ああ、永い永い時間においては「いろは」の綴りを誦んじるのとは、まるで反対なのです。言葉を一字一字ひきはなしてしまって、ばらばらに切り崩して仕舞う事ではありませぬ。それでは意味が取れず、どういうつながりであるか、を探そうとして待ってみても徒労でありましょう。
自己否定に於いて、自らを克服しようとして戦うとき――、殊にもし、そこに勝利を収めようと言うなら、最も困難な戦いに面しなければなりませぬ。即ち時間に対して戦うという。ここに完全な勝利を得ようと云うことは、不可能だと言わねばなりませぬ。
凡そ、人間に負わせられた最も苛酷な重荷と云えば、(なぜなら罪という荷を人は、自ら担うのです)ある意味で「時」であると思う。「時」は、ときに、「死ぬほど永い」ことがある、と人も言うではありませんか! 併し、その一方時間というものは、何という痛みを和める、慰めに充ちた、何という媚態的な力を有っているものでありましょう。併しこの痛みをなごめる、魅惑的なものは、又新しい危険なのです。もし、ある人が何事か罪を犯したとする。そのときには暫らく「時」のほとぼりを醒ますと言います。――時には、この時間の中に、何か見かけだけでも、一歩だけ良い方への仕事をすることだって出来るでありましょう。さて、そうなれば彼にとっては、犯した罪は、もう何と取るに足らぬはかないものとなって見えてくることでありましょう! 併し、実際それだけ罪は軽くなったのでありましょうか? 記憶の乏しい者が瞬間の後にはもう犯した罪を忘れてしまったからと言って、事実罪は忘却されてよいものでありましょうか?
「愛は律法の完全」であると言います。しかし、もし人が自らを審くだけの勇気があるなら、意志に抗っても、自己を審判することなくて、この言葉を論ずる事が出来るでありましょうか! 人はこの愛の要求の完成から、無限にもはるかに離れている。それを表現するには、その距たりの距離があまりにも大であるために測定することすら出来ない、と言うのが、何よりふさわしい言い方でありましょう。その測定をやって見ようとした者すら曾てあったかと言うのです? 日常に於て、あまりにも多くが、怠慢せられるだけではありませぬ。(何の罪を犯すか、と言うことは、暫らく言わぬとしましても)いつか時が経つにつれて、犯した罪の意識は、その当座はっきりと胸に刻まれていたほどに、くっきりと浮んで来ないのです。なぜなら「時」というものが、過ぎ去ったことに対する吾々の判断を変化させ、やわらげてしまうからなのです。ああ、併し、いかなる時も愛の要求を変え、不滅の要求をにぶらすものではありませぬ。――
「愛は律法の完全なり」――なのですから。
[#地付き]――(終り)――
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解説
この「愛について」に入る前に、私は矢張著者自らが序文において言った言葉を思い出しておきたいのです。それは、この考察は「愛について」の考察ですが、ここに言う「愛」とは、所謂世間で言う「愛」ではなく、又「恋愛」と言われる様なものではない、という事なのです。キェルケゴオルが言う「愛」とは「神の愛」であり、「至高の愛」です。故に、もし、人がスタンダールの言う様な「恋愛は結晶である」と言う様な恋の分析を頭に描いて近寄るとしたら、大変な過ちを犯すことになります。
ここにいう「愛」とは、神の愛に対する人間の壮烈な登攀であり、「愛の絶頂」に対する苦難に充ちた遠征です。――そういう事を覚悟して、その登高に参加するものは、ここに二千年に亘る西欧の愛の伝統と哲理が集約せられている壮麗を発見するだろうと思います。恐らくその本質的な美しさに至っては、プラトンの「饗宴」に近いものでありましょう。ただ、我々凡俗のものにとって困ることは、精神の登高があまりに至難であり、苦難に充ちているので、殆んど風景の壮麗さ等を感覚している余裕をもつことが出来ないことです。まことに、ここには、吾々人間の極限の努力が、苛酷と言ってもよい真摯さが要求されています。私共の様に、息切れのし勝な、健康の弱い歩行者にとっては、この高い圏におけるこの様な努力は、往々にして「不可能」を意味するし、却って不快をすら伴います。キェルケゴオル自身にとってすら自ら反撥しないではおられない様なものだった、と告白しているのです。况して、吾々の様な凡弱の性格のものにとって。それ故にキェルケゴオルは、むしろ人々に、ここ迄ついて来ない方がよい、むしろ戻って行った方がよい、と言います。彼はきびしい人間の科学者です。吾々の性格の構造についても知り悉していて、弱いものに対しては無理に限界を超えよとすすめていません。恰かも、最も強壮な二三のものによって為さるべき登高であるといわねばならぬかの様に。彼は世間と、人間に対して、そういう「あきらめ」を有っているのです。それ故に、必然に、そこにある人間との「距たり」の淋しさを、感ぜずにはいられません。キリスト自身そういう淋しさを感じないではおられなかったのですから。なぜなら、誰一人キリストを、彼が吾々を愛した程には愛することが出来なかったのですから。ニイチェの言うあの "Distanz"(距たり)も、殊によったら、キェルケゴオルから暗示されたものがあったのではなかったか?
彼の要求する「愛」は人間の不可能の限界に接しています。従って彼はしばしば吾々に向って、理解し難い言葉を投げかけるかも知れません。併し、それは、苛酷とのみ解すべきではなく、最高の課題に取りついている者の真摯さがあまりに大きい故の風景の反映であると解すべきです。例えば高山の仮借ない烈風が、吾々の肉に徹し、骨の髄の中まで刺し通す様に。
彼は「社会」に対して、その「技巧」に対して、残忍な「妥協」に対して、決して寛大ではありません。なぜならそれらは彼にとって「真理」ではなく、「錯覚」にしかすぎないのですから。もしもそういう不正と妥協の中で幸福でありたいと思うものは、決してキリストの言う愛には近づいて来ない方がよい、と言います。なぜなら、そこにはただ真理だけが司宰し、社会でいう言葉とは「正反対」の言葉が要求されるのですから。むしろ、そういう人達を不幸にしてしまうだけなのですから。
ここに言う「愛」とはそれ故に、犠牲の極致です。もしこれを実践されたとすれば、恋人はその「愛人」を憎む様になるかも知れません。なぜなら、彼は恋人への愛も神に対する愛と同じ質でなければならぬと、要求するのですから。
この壮烈な愛への登高が、いかにニイチェや、R・M・リルケに深い影響を与えたか、は、すぐに理解されることです。恐らく、彼等こそ、最も果敢なその実践者なのであった。リルケも、「ドイノ」や、「オルフォイス」などであの実在の限界のふちに迄抜け出てしまった。そこに彼は驚くべき風景の交替を経験しなければならなかった。「凡そ、天使全て怖ろし」と言う「ドイノ」の言葉を、再び私はここにも思い出さないではおられません。併しこれらの文学の問題については、別の所で何れ詳しく論ずる折もあるでありましょう。
では何故私が、僭越至極にも、こういう及び難いものに取りつこう等と思い立ったか、と怪しまれるかも知れません。――それは、私がニイチェや、リルケを愛さないではおられないと同じ様に、「不可能」をも愛する様な性格だから、と言うより他に仕方がありません。本質的に私も亦、貧しい乍ら、登高者の片《はし》くれなのです。そして、恐らく愛において、これが最短の道であることが信じられるからです。人生は短いのです。愉しく、美しく、良い途はいくらでもあるでしょう。併し、私らにはもう、それらの全てを省みている暇はないのです。最も迅い途によって、時間を除かなければならないのですから。
而も、近代の運命の経過は、遺憾なく私たちを打ち砕いてしまった。この言語に絶した不幸と苦しみの中に在って、ふしぎに、この「不可能」の愛が近い所に在る様な気がしています。この様な巨大な不幸は、世紀が早いだけ、ニイチェも、キェルケゴオルも経験しなかったに違いありません。運命の不幸の経験においては、私たちはこの人達に比べても、恐らく、劣らないものを有っているのです。又、そういう所を手がかりにして近づいてゆくより他に仕方ないでありましょう。多くを失ったことの悲しみにおいて。
今日はそういう苦しんだ多くの人が私たちの身近にもいます。清らかで、美しくあるために、却って世間からは憎まれ、苦しまねばならない多くの人達が。そういう人達は、キェルケゴオルの言う「愛」に近くいるのです。そこに何等かきっと慰めを見出されるに違いないと思う。元来この書は、そういう人達に捧げられたものだと言ってよいのです。キェルケゴオルの全ての書がそうである様に。
「愛について」はキェルケゴオルの「愛の生命と摂理」の始め五章の訳です。原著にはオイゲン・ディートリッヒのシュレンプ版を用いました。私達は彼の精神と思想にふれうればよいのです。たとえコペンハーゲン版を用いたとしても大した相違はなかったろう事を信じています。元来この書は始めて京都の人文書院のために訳したものであって、私達にとっては記念すべき出発でありました。今、又新潮社から文庫として出版されることになりました。新しい運命のために心からの祝福を送りたいと思います。
一九五二年の秋
[#地付き]訳者
この作品は昭和三十年八月新潮文庫版が刊行された。