すねた娘
E・S・ガードナー/鮎川信夫訳
目 次
すねた娘
訳者あとがき
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登場人物
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フランシス(フラン)・セレーン……莫大な信託財産の女相続人
ロバート(ロブ)・グリースン……フランシスの恋人
エドワード・ノートン……フランシスの叔父、信託財産の管理人
アーサー・クリンストン……ノートンの共同経営者
ドン・グレスブス……ノートンの秘書
エドナ・メイフィールド……ノートン家の家政婦
ジョン・メイフィールド……その夫、庭師
ピート・ディヴォー……ノートン家の運転手
パーケット……ノートン家の執事
パーレイ判事……クリンストンの友人
ジョージ・ブラックマン……ディヴォーの弁護士
ハリイ・ネバーズ……新聞記者
クロード・ドラム……地方検事補
マーカム判事……裁判長
ポール・ドレイク……私立探偵
ペリー・メイスン……弁護士
デラ・ストリート……メイスンの秘書
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その娘はドアを開けた秘書の前を通りぬけると、ちょっとうろたえ気味の目つきで法律事務所の中を見まわした。
秘書は静かにドアを閉めた。娘は古風な背の高い黒皮ばりの椅子をえらび、腰をおろして、脚をくむと、スカートをひきさげて膝をかくし、まっすぐドアのほうに顔を向けた。が、一瞬の後、スカートをちょうど効果的と思われる一、二インチだけひきあげた。そして、椅子の背にもたれかかり、大きな椅子のつややかな黒皮に小麦色の髪がいっそう映《は》えるようにした。
広い事務室の中に坐り、大きな皮椅子のせいでなおさら小さく見える娘の姿には、哀れっぽく頼りなげなおもむきがあった。だが、彼女の態度には、そんな効果をわざと出したと感じられるものがあった。椅子に坐ったときの気の配《くば》り方、その頼りなさの示し方には、どこか猫を思わせるものがつきまとっていた。
娘はどう見ても美しかった。絹のような光沢のある髪、大きな黒い眼、高い頬骨、ふっくらした唇、スマートな姿態。小柄だが、よく均整がとれていて、髪形、身なりもきちんとしていた。しかし、その顔は、よく研究された表情が妙に固定し、まるで自分のまわりに防壁を張りめぐらしたように、まったく超然とした感じだった。
奥の部屋のドアが開いて、ペリー・メイスンが入ってきた。彼はドアから二歩進むと、立ちどまって、相手の様子を何から何まで見てとるような執拗《しつよう》なまなざしで娘を見まもった。娘は、まじまじ見つめられながら、身動き一つせず、表情も変えなかった。
「あなたがメイスンさん?」と娘は尋ねた。
メイスンは答えないで、デスクのうしろへまわり、回転椅子にどっかりと腰をおろした。
ペリー・メイスンは、いかにも大きな人間という感じを人に与える――しかしそれは、肥《ふと》って身体が大きいというのではなく、身内にひそむ力の大きさである。肩幅が広く、線の太い顔つきで、落ちついた粘り強い眼をしている。眼光はしばしば変化するが、野性的な辛抱強さを示す顔つきだけは、決して変わることがない。そうはいっても、この男には温順なところはまるでなかった。彼はファイターなのだ。相手にノック・アウト・パンチをくわすチャンスを根気よく待ちうけ、チャンスがくれば、精神的な破城槌《はじょうつい》のような力をこめてパンチをお見舞いできるファイターなのである。
「ええ、僕がペリー・メイスンです。ご用件は何でしょう?」と彼は言った。
娘の黒い眼が用心深く彼を見つめた。
「わたし、フラン・セレーンです」
「フラン?」メイスンは声を高めて訊《き》き返した。
「フランシスの略よ」
「なるほど。で、セレーンさん、ご用件は?」
黒い眼はじっとメイスンの顔を見すえたままだったが、娘の人さし指は椅子の腕をさぐりまわり、皮の凹凸《おうとつ》をつつきはじめた。内面の態度を無意識のうちに表わしているようなその模索のしぐさには、何かがあった。
「ある遺言状のことについて知りたいんです」と彼女は言った。
ペリー・メイスンのしっかりした粘り強い視線には、何の変化も表れなかった。
「遺言状問題はあまり取り扱いませんよ」と彼は言った。「僕は刑事弁護士でしてね、まあ、陪審員の前でやる裁判のほうが専門なんです。陪審席に坐る十二人の人間――あれが僕のお得意ですよ。遺言状の問題ではたいしてお役には立てそうもありませんね」
「でも」と彼女は言った。「おそらく裁判になるわ」
メイスンは、落着いたまなざしで、冷静に娘を見つめつづけた。
「遺言に関する係争《けいそう》ですか?」
「いいえ、なにも係争ってわけじゃないけど。信託の規定について知りたいことがあるんです」
「なるほど」メイスンはおだやかに相手をうながして言った。「お知りになりたいことをはっきりうかがいましょうか」
「ある人が死んで、遺言状を残しましたが、その遺言状のなかのある条項によると、受益者《じゅえきしゃ》は遺言により……」
「いや、そういうお話はもう結構ですよ」とペリー・メイスンは言った。「あなたに関係のあることなんでしょう?」
「ええ」
「それなら、遠まわしな言い方はやめて、事実だけをお話しになってください」
「私の父の遺言状なんです」と娘は言った。「父の名はカール・セレーン。子供はわたしひとりです」
「そう、その調子で」
「遺言状によると、たくさんのお金がわたしのものになることになっています。百万ドルをこえるぐらい」
ペリー・メイスンは興味をそそられた様子で尋ねた。
「それが裁判沙汰になるとお考えなのですね?」
「わからないわ、ならないほうがいいんですけど」
「なるほど。どうぞさきを」と弁護士は言った。
「父はそのお金を無条件でわたしに残したのではないんです。信託にして残しました」
「管財人はどなたです?」とメイスンは訊いた。
「叔父のエドワード・ノートンです」
「わかりました。それで?」
「遺言のなかのある規定によると、もしわたしが二十五歳になる前に結婚したら、叔父は随意に、信託基金から五千ドルだけわたしに渡し、残りは慈善事業に寄付してもいいことになっています」
「あなたはいま、おいくつです?」
「二十三」
「お父さんはいつなくなられました?」
「二年前」
「では、遺言状は検認されて、財産は遺言どおりに分配されたわけですね?」
「ええ」
「なるほど」と言って、メイスンは早口になった。「信託に関する条項が分配判決のときに完全に実行され、その判決に何の控訴《こうそ》もなされなかったとすると、特殊な事情でもない限り、いまさら手のつけようはありませんね」
娘の指はそわそわと椅子の腕をいじりまわしていたが、爪が皮に喰いこんで小さな音をたてた。
「それについてお訊きしたかったんです」と娘は言った。
「いいですよ」とメイスンは言った。「話を進めて、何なりとお尋ねください」
「遺言どおり、叔父は信託金を管理しています。そのお金を自分の好きなように投資することもできますし、わたしには、叔父が持たせていいと考えるだけのお金をくれればいいことになっています。わたしが二十七になったら、元金がもらえることになってますけど、それも、わたしがそんな大金を手にしても無茶な生活はしないだろうと叔父が認めれば、という条件づきです。叔父が認めなければ、月額五百ドルの終身年金証書をわたしのために買って、残りは慈善事業に寄付することになっています」
「ちょっと変った信託条項ですね」とペリー・メイスンは抑揚《よくよう》のない声で言った。
「父はちょっと変った人間でした。それにわたしも、すこしばかりわがままだったんです」
「なるほど。で、何が問題なんです?」
「わたし、結婚したいんです」娘はそう言って、はじめて相手の眼から視線をそらした。
「叔父さんに話しましたか?」
「いいえ」
「あなたが結婚したがっていることを、叔父さんは知っていますか?」
「知らないと思うわ」
「どうして二十五歳になるまで待たないのですか?」
「待てません」娘はふたたび眼を上げて言った。「いますぐ結婚したいんです」
「遺言状についてのあなたのお話から考えると」メイスンは用心深く口を切った。「叔父さんには完全な自由裁量が与えられているわけですね?」
「そうですわ」
「では、まず第一に叔父さんに当たってみて、叔父さんがあなたの結婚についてどう思うか見きわめるべきだとはお考えになりませんか?」
「いやだわ」娘は吐きだすようにそっけなく答えた。
「あなたと叔父さんとは仲が悪いのですか?」
「いいえ」
「よくお会いになるのですね?」
「毎日」
「遺言について話し合ったりしますか?」
「いいえ、一度も」
「では、ほかの用事で会いに行くのですね?」
「ちがいます。同じ家で暮らしているんです」
「なるほど」とペリー・メイスンは例の落着いた無表情な声で言った。「叔父さんはたくさんのお金の管理をまかされて、いささか並はずれた判断の自由を与えられている。それなら、叔父さんはそれに縛られているわけですね?」
「ええ、そう。その点、信託金はまったく安全なんです。それに、叔父はとても用心深くて――気にしすぎるくらい。つまり、何をするにも几帳面《きちょうめん》すぎるの」
「叔父さんは自分の金をお持ちですか?」
「たくさん持ってるわ」
「ふむ」とメイスンはちょっといらだたしげに言った。「で、僕に何をしろとおっしゃるんです?」
「わたしが結婚できるようにしていただきたいの」
メイスンはちょっとの間、じっと無言で値ぶみをするように娘を見つめたが、やがて、
「遺言状か分配判決の写しをお持ちですか?」と尋ねた。
娘は首をふって、訊き返した。
「写しがいるんですの?」
弁護士はうなずいた。
「法律上の書類というものは、現物を拝見しないことには、あまり意見は申し上げられませんからね」
「でも、書類に書いてあるとおりにお話ししたんですよ」
「あなたはあなたの立場から説明なさったのです。実際とはかなりの相違があるかも知れません」
娘はじれったそうに、すばやく言った。「人の結婚の邪魔をするような遺言状の条項なんて、取り消せると思うわ」
「それは違いますね」とメイスンは言った。「一般的に言えば、人の結婚を妨《さまた》げるような条項は公《おおやけ》の利益に反するものとして無効と考えられます。しかし、それにはある制限がともないます。<浪費者信託>として知られている信託の場合は、特にそうですね。お父さんの遺言によって作られた信託は、どうもこの種のもののようですね。
そのうえ、あなたは、二十五歳になれば結婚を拘束するものは何もないとおっしゃるが、実際のところ、その点についても叔父さんは大きな自由裁量の権利を与えられているようですし、あなたのお話からすると、遺言の条項は、叔父さんが判断の自由を行使しうる状況を示しているだけのことですね」
娘は急にいままでの落着いた身構えを乱したようだった。彼女は声を高くして言った。「そうなの、あなたのお噂はずいぶんうかがっているんですよ。弁護士によっては、これはできるとか、あれはできないとか言うけれど、|あなた《ヽヽヽ》はいつも依頼人の望みどおりに片をつけてくださるって話だったわ」
メイスンは微笑した。それは、にがい経験から獲得した知恵と、何千という依頼人の打明け話からたくわえた知識の微笑だった。
「まあそれもいくぶんは本当でしょう。人間というものはどんな事態におちいっても、たいていぬけ道を思いつくものです。『意志あるところに道はおのずから開ける』という古い諺《ことわざ》とべつに変わりありませんね」
「それじゃ、この場合意志はあるんですから、道を見つけていただきたいわ」
「誰と結婚なさりたいのですか?」とメイスンはとつぜん尋ねた。
娘の眼に動揺の色はなかった。だが、そっとさぐるように相手を凝視《ぎょうし》した。
「ロブ・グリースンです」
「叔父さんはそのひとをごぞんじですか?」
「ええ」
「認めていますか?」
「いいえ」
「彼を愛しているのですね?」
「ええ」
「彼は遺言の例の条項を知ってますか?」
娘は眼を伏せた。
「おそらく、もう知っているでしょう。でも、前は知らなかったのよ」
「前は知らなかったというのは、どういう意味です?」と弁護士は訊いた。
娘の眼がメイスンの視線を避けていることにもはや疑いはなかった。
「ただの言いまわしよ。べつに意味はないわ」
ペリー・メイスンはしばらく一心に娘の様子を見まもっていた。
「それで、どうしても彼と結婚なさりたいというわけですね」
娘はメイスンを見つめて、興奮にふるえる声で言った。
「メイスンさん、誤解なさらないでください。わたしはロブ・グリースンと結婚|しようとして《ヽヽヽヽヽヽ》いるんです。それはもう確定的とお考えになって結構だわ。あなたは、なんとか私が結婚できる方法を見つけてくださらなきゃいけないの。それだけよ! 始末はあなたにまかせます。すっかりおまかせするわ。そしてわたしは結婚します」
メイスンは何か言いかけたが、ちょっと思いとどまって注意深く娘をみつめた。
「なるほど」やがてメイスンは言った。「ご自分のなさりたいことは、じつによくごぞんじらしい」
「そうですとも」娘はかっとなって言った。
「では、明朝いまごろの時間にもう一度きていただきましょう。そのあいだに裁判所の記録を調べておきましょう」
娘は首をふった。
「明日の朝じゃ遅すぎるわ。今日の午後やっていただけません?」
ペリー・メイスンの根気のいい眼は、じっと娘の顔にそそがれていた。
「まあ、なんとか」と彼は言った。「四時ではいかがです?」
娘はうなずいた。
「では」とメイスンは立ち上がりながら言った。「またどうぞ。外の事務室で秘書にお名前と住所をおっしゃってからお帰りください」
「もうすんでますわ」娘は椅子から立ち上がって、スカートのしわをのばしながら言った。「四時にまたきます」
娘はあとをふりむきもしないで事務室を横切ると、ドアを開けて、外の部屋へ姿を消した。
ペリー・メイスンはデスクの前に坐って、娘が出て行ったドアのほうを見つめながら、眼を細めてじっと考えこんだ。
だが、じきにたくましい指をのばしてデスクの横のボタンを押した。
くしゃくしゃの髪をして、ひどく真剣な顔つきの若い男が図書室との連絡ドアから首を出して、部屋へ入ってきた。
「フランク」とペリー・メイスンは言った。「裁判所へ行って、セレーン家の遺産に関する書類を探してきてくれたまえ。フランシス・セレーンという女が、百万ドル以上の財産を信託の形で遺贈されているんだ。管財人の名はエドワード・ノートン。分配判決を調べてくれ。遺言状もだ。信託条項のコピーをとったら、できるだけ早く帰ってきてくれたまえ」
青年は二度ばかりすばやくまばたきをした。
「セレーンですね?」
「そうだ、カール・セレーン」
「それから、ノートンですね?」
「そう、エドワード・ノートン」
「わかりました」青年はそう言うと、くるっとうしろをむき、ペリー・メイスンの視線をひどく気にしているように、そわそわした意識的な早い足どりで部屋を横切り、表に面した事務室へ飛びこんだ。
ペリー・メイスンは、ベルを鳴らして秘書を呼んだ。
秘書のデラ・ストリートは、二十七歳ぐらいで、その物腰には、自信にみちた有能な感じがあふれていた。彼女は外の部屋のドアを押し開いて尋ねた。
「お呼びになって?」
「うん、入りたまえ」
彼女は部屋に入り、静かにうしろのドアを閉《し》めた。
「いまの娘の印象を話し合おうじゃないか」とメイスンは言った。
「どうして?」
メイスンは気むずかしげにデラを見つめた。
「僕はひとり合点《がてん》をしていたようだ。きみはさっき、あの娘は絶体絶命になっているか、すねているように見えると言った。僕はいま、どっちだろうと考えているんだ」
「たいした違いはないんじゃないかしら?」
「いや、違いがあると思うね。きみの印象はいつも正しいし、きみはポーズを作る前にあの娘を見たんだからね。彼女は僕の部屋へ入ってきたとたんにポーズを作りはじめたよ」
「そうね」とデラ・ストリートは言った。「あの人はお芝居がうまそうなタイプだわ」
「彼女はその椅子に坐ると、首のかたむけ方から、膝の組み方やスカートの工合、どんな表情を顔に出すべきかということまで、ちゃんと計算していたよ」
「ほんとうのことを話しました?」
「誰でも最初は話さないものだよ。すくなくとも、ご婦人がたはね。だからこそ僕はきみがうけた印象を知りたいのさ。彼女は絶対絶命のように見えたかね? それとも、すねているように見えた?」
デラ・ストリートは、念入りに言葉を吟味《ぎんみ》するように、考えながら言った。
「絶体絶命にも見えたし、すねているようにも見えたわ。何かの罠にでも落ち込んで身動きがとれなくなり、それで、すねてしまったような感じね」
「うろたえていたとは思えない?」
「どういうこと?」デラは知りたがった。
「たいていの人間は、うろたえると平気な顔をしようとする。そして、平気な顔をしようとすると、すねたように見えるものだよ」
「では、うろたえていたとお思いになるのね?」とデラ・ストリートは訊《き》いた。
「そうなんだ」とメイスンはゆっくりと言った。「彼女はうろたえていたんだよ。あれは強情っぱりの小悪魔みたいな娘らしい。いつも自分の思いどおりにふるまう始末におえない気性の持主さ。何か身動きのとれない羽目におちいって、抜けだそうともがいているんだろう。もっとあの娘のことがわかれば、彼女の気性もよくわかってくるよ」
「<|きちがい猫《ヘル・キャット》>〔手のつけられないあばずれ女の意〕ってとこかしら?」
メイスンは微笑に唇をゆがめながら言った。
「<|きちがい小猫《ヘル・キット》>ぐらいにしとこうじゃないか」
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デラ・ストリートは、ペリー・メイスンの私室のドアを開けた。彼女はそっと滑《すべ》りこむように部屋に入り、注意深くうしろ手にドアを閉めたが、その態度には、うしろ暗いことでもしているようなところがあった。
メイスンはデスクの前に坐っていたが、横眼で秘書の様子をうかがった。
「なんだってまた、そうこそこそするんだね?」彼は訊いた。
デラは一、二歩部屋の中へ入って、メイスンの顔を見たが、またドアのほうをふり返って、閉まっているのをたしかめた。
「ロバート・グリースンとおっしゃる方が、むこうの部屋においでです」
「用件は?」
「ミス・セレーンのことをうかがいたいそうですけど」
「さっききたあの娘のことだね?」
「そうですわ」
「本人がいまきたことは、言わなかったろうね?」
「ええ、もちろん」
「で、何だって言うんだね?」
「お目にかかりたいそうです。どんなご用件かお訊きしたら、あなたの依頼人のことだと言うんです。それで、依頼人のお名前と、どんな性質のご用件かうかがいましたわ。すると、ミス・セレーンのことだ、あのひとのことで、ぜひともあなたにお目にかかりたいって言うんです」
「よし、わかった。それで、きみは何と答えたんだね?」
「わたしは依頼人のお名前を残らず知っているわけではございませんから、もっとくわしくご用件をお聞かせくださいと言いましたわ。そうしたら、おそろしく興奮しはじめたわ」
「なんで興奮したんだい?」とメイスンは尋ねた。「娘のことか? 用件のことか? それとも何か――」
「わかりません。とにかく興奮して、いらいらしているんです」
メイスンは、急に決心したように、肩をはって身構えた。
「通してくれたまえ、話し合ってみたい」
デラはうなずいて、うしろをむくと、ドアを開けたまま言った。
「どうぞ、お入りください」
人の動く気配がすると、いかにも落着きのない様子の男が部屋に入ってきた。ひどくとがった鼻と大きな耳を持ったやせた男だった。彼は、いらだたしげな、ひきつるような足どりで歩いた。二十八、九か、三十をすこしまわったぐらいの年かっこうだった。
「あなたがメイスンさん、弁護士の?」と男はもどかしそうに早口で訊いた。
ペリー・メイスンは、濃い眉毛《まゆげ》の下からのぞく執拗なまなざしで相手を見つめた。
「お掛けください」と彼は言った。
訪問者はちょっとためらったが、まっすぐな背の椅子に浅く腰をおろした。
「さて、どんなご用件でしょうか?」とペリー・メイスンは尋ねた。
「フランシス・セレーンが今日あなたをお訪ねしたかどうか知りたいんです」
ペリー・メイスンの顔は、まだ執拗に相手を値ぶみしているようだった。
「グリースンさん、ここは法律事務所で、情報局ではありませんよ」と彼は言った。
グリースンは、いらだたしげにぱっと立ち上がると、すばやく三歩ほど窓のほうに歩みより、ちょっと光線をまともに受けて立ったが、すぐにふり返って弁護士をにらみつけた。
彼の眼は暗く、何かがくすぶっているようだった。抵抗しがたい感情と戦っているように見えた。
「冗談はよして下さい」とグリースンは言った。「僕は、フラン・セレーンがここであんたと話をしたかどうか、知っとかなくちゃ|ならない《ヽヽヽヽ》んだ」
ペリー・メイスンの声は、少しも調子が変わらなかった。熱いナイフからバターが滑り落ちるように、彼の冷静な態度には相手のいらだちもさっぱり手応《てごた》えがなかった。
「まず、誤解のないようにしましょう」とメイスンは言った。「あなたはミス・フランシス・セレーンという方のことをお話になっているのですね?」
「そうだ」
「ミス・セレーンを個人的にごぞんじ?」
「もちろんさ」
ペリー・メイスンは、それなら万事問題はないというように、右手を開いてひょうきんな身ぶりをした。
「では、簡単ですな」と彼は言った。
「どうして?」とグリースンは疑わしげに訊き返した。
「あなたがミス・セレーンとお知り合いだからですよ」と、メイスンは言った。「お知り合いなら、僕のところへ相談にきたかどうか、彼女自身に訊くだけですむじゃありませんか。相談にこなかったと言ったら、もうここへくる必要はないですよ。相談にはきたけれど、あなたに知られたくないのだったら、きっと何とかごまかそうとするでしょう。相談にきていて、あなたに知られてもかまわないのだったら、彼女は話してくれますよ」
メイスンは立ち上がって、面談は終りというように訪問者に向って微笑した。
ロバート・グリースンは、窓のそばに立ったままだった。その顔には、ひどい緊張にさいなまれている気持ちがあらわれていた。
「僕に向ってそんな言い方はできないぞ」
「しかし」とメイスンは根気よく言った。「僕はもうそんな言い方をしてしまいましたよ」
「それでも、できないんだ」
「どうして?」
「局外者に対してなら、そんな言い方もかまわないだろう。だが、僕は局外者じゃない。フラン・セレーンと親密な間柄だ。僕には知る権利があるんだ。彼女はゆすられている。だから僕は、それについてあんたがどうしろと言ったのか知りたいんだ」
ペリー・メイスンは眉を上げて、丁寧《ていねい》に訊いた。
「誰がゆすられているのですか? それに、誰から?」
グリースンは、じれったそうな身ぶりをした。
「そんなばかげたことを言って何になるんだ。僕には彼女がここにきたことはわかっている。あんただって彼女がきたことは承知の上だ。それに彼女がゆすられていることも知っている。だから僕は、あんたがどうしろと言ったか知りたいんだ」
「どうもこの様子では、この事務所からお引きとり願わなければなりませんな。いいですか、ここへお入り願ったとき、僕はあなたが何か法律上の用件のご依頼にみえたのかと思ったのですよ。あいにくと今日はちょっとばかり忙しいのです。まったくのところ、あなたに関心のある問題ばかりを論じている暇はありません」
グリースンは態度を変えなかった。
「すくなくとも、誰がゆすっているかぐらい話してくれてもいいんじゃないか。僕の知りたいことはそれだけだ。それさえ教えてくれれば、後は自分で始末をつける」
弁護士はドアのほうへ歩みよると、きわめて有能らしく、威厳たっぷりに立ちどまって言った。
「さようなら、グリースンさん。何のお役にも立てなくて残念です」
「それでお終いか?」グリースンは、いまにもどなりだしそうに、興奮に唇をゆがめて言った。
「それだけです」とペリー・メイスンはきっぱりと言った。
「ようし」と言ったきり、グリースンは大股に部屋を横切り、ドアから出て行った。
ペリー・メイスンは静かにドアを閉めると、両手の親指をチョッキの腋下《わきした》にかけ、頭をたれて床の上を歩きまわりはじめた。
まもなく彼は自分のデスクに歩みより、フランシス・セレーンに対する信託の条件を説明したカール・セレーンの遺言条項の写しをとりだした。
タイプで打ったその書類を調べていると、デラ・ストリートがまたドアを開けた。
「セレーンさんです」と彼女は言った。
メイスンはちょっと考えこむようにデラを見つめてから、彼女を呼びよせる身ぶりをした。
デラはその身ぶりの意味をさとって、部屋の中へ入り、うしろ手にドアをしめた。
「グリースンはこの部屋を出てからすぐ帰ったかね?」とメイスンは訊いた。
「ええ、あっというまにね。まるで競歩で一等になろうとしているみたいだったわ」
「それで、ミス・セレーンはいまきたばかりなんだね?」
「ええ」
「ふたりはエレベーターで会わなかったろうな?」
デラは口をすぼめて考えこんだ。
「会ったかもしれませんわね。でも、わたしは会わなかったと思いますわ」
「ミス・セレーンはどんな様子?」とメイスンは訊いた。「興奮しているかい?」
「いいえ、落ち着いています。それに、入ってくるなり、最高の自分を見せようとしてるの。コンパクトをとり出してすっかりきれいにおめかししてるの。髪もきちんと直したわ」
「よし。呼んでくれたまえ」
秘書はドアを開けて言った。「お入りください、セレーンさん」
フランシス・セレーンが部屋に入ると、いれかわりに秘書は外へ抜け出て、音もなくドアを閉めた。
「お掛けください」とメイスンは言った。
フランシス・セレーンは、先刻坐っていたのと同じ皮椅子に歩みよって腰をおろし、膝を組むと、無言のまま問いかけるように、澄んだ黒い眼で弁護士を見まもった。
「いましがた、ロバート・グリースンという人が僕を訪ねてきて、あなたがここへきたか教えろとねばってゆきましたよ」
「ロブはとても衝動的なの」
「では、あの男をごぞんじなのですね?」
「もちろんよ」
「ここへおいでになることをお話しになったのですか?」
「あなたのお名前は口に出したわ。で、わたしがきたっておっしゃったの?」
「言いやしません。あなたのことで何か訊きたかったら、直接あなたのところへ行けばいいと言ってやりました」
彼女はかすかにほおえんだ。
「そんなおっしゃり方じゃ、ロブ・グリースンは気にいらなかったでしょうね」
「そのとおりでしたよ」とメイスンは言った。
「わたしが会って話すわ」と彼女は言った。
「グリースンは」と弁護士は話しつづけた。「あなたがゆすられていると言ってましたよ」
ほんの一瞬、若い女の眼に恐怖の色が浮かんだ。だが、すぐに、おだやかな無表情な顔つきで弁護士を見つめた。
「ロブは|とっても《ヽヽヽヽ》衝動的なの」と娘は同じ言葉をくりかえした。
メイスンは、娘に話し出すチャンスを与えようと思って待ちかまえた。だが、彼女は落着きはらってメイスンの言葉を待っていた。
メイスンはデスクの上の書類に目を落として言った。
「遺言の信託条項と分配判決の写しをとりよせました。それから、管財人の手で年間会計報告が出されてることもわかりました。どうもセレーンさん、分配判決に関するかぎりでは、あまり希望は持てないと思いますね。信託財産の管理は、おおかた自由裁量ということになっているようですからね。
いいですか、かりに僕が、結婚についての条項を公《おおやけ》の利益に反するものとして取り消すことができたとしても、まだ、信託財産の分配はおおかた管財人の自由な判断にゆだねられているという事実に直面します。それに、叔父さんは遺言に対するこちらの攻撃を、お父さんのご遺志と自分の管財人としての権限に干渉するものと見なすかもしれません。たとえ法廷でこちらの言い分が通ったとしても、その勝利を無価値なものにすることだって叔父さんの自由になるのですからね」
こうはっきり言われても、娘は平気な様子で聞き流し、ちょっと間をおいてから言った。「わたしが心配してたのもそれなんです」
「この信託には、もう一つ特別な条項があります」とメイスンは言った。「それは、管財人に与えられた自由裁量はあなたのお父さんの信任にもとづくものであるということです。遺言と分配判決によれば、管財人が死亡したり、義務|遂行《すいこう》不能とか拒否によって、信託が打ち切られるような場合には、信託基金はすべて無条件であなたに帰属することになっています」
「ええ、知ってるわ」
「ですから、叔父さんがもはや満足に管理ができないという状態になる可能性もいくぶんあるわけです。言いかえれば、叔父さんの管財人としての資格になんらかの法的攻撃を加えることができるかもしれません――まあおそらく、信託基金と自分の財産を混同していると申し立てるとかなんとかするわけですね。いささか大ざっぱな言い方になりましたが、こんなことを申し上げるのも、これがこちらの活動しうる唯一《ゆいいつ》の道と思われるからなのです」
娘は微笑して言った。「あなたは叔父をごぞんじないんだわ」
「それはどういう意味です?」とメイスンは訊いた。
「つまり、わたしの叔父はおそろしく用心深いし、それにとても頑固だから、いったん決めたら、どんなことをしたって変えませんよ。まったくうぬぼれが強いんです」
メイスンに会いにきてからはじめて、娘の声に感情がこもった――そのまなざしは相変わらず落着いていたが、声の調子はいくぶんとげとげしさをおびていた。
「では、何かいいお考えでもありますか?」とメイスンはじっと娘を見つめながら尋ねた。
「ええ、アーサー・クリンストンの手を借りれば、何かできると思うわ」
「誰です、アーサー・クリンストンというのは?」
「叔父の事業の協同経営者ですわ。不動産を売ったり、買ったり、抵当に入れたり、それに株や債券の売買をやったりして、ふたりでいっしょに仕事をしてるんです。アーサー・クリンストンなら、ほかのどんな人間よりも叔父を動かす力を持っているわ」
「で、あなたのことはどう思ってます?」
「とても親切だわ」と言いながら娘は微笑した。
「そうすると」メイスンはゆっくりと訊いた。「クリンストンという人が叔父さんを説得して、信託財産の管理を思い切らせ、あなたの手に全信託基金が入るようにしてくれるチャンスがあるというわけですか?」
「どんなことにだってチャンスはあるわ」とつぜんそう言うと、娘は立ち上がった。「クリンストンさんにここにきてもらって、あなたに会っていただくようにします」
「明日ですね?」
「今日中によ」
メイスンは時計を見た。「もう四時二十分すぎです。事務所は五時に閉めます。もちろん、すこしはお待ちしますが」
「五時十五分前にきてもらうわ」
「ここから電話なさいますか?」
「いいえ、それにはおよびません」
娘が事務室の戸口に立ったとき、ペリー・メイスンはだしぬけに質問を浴びせた。「あなたがゆすられているとロブ・グリースンが言ったのは、どういう意味ですか?」
娘は大きく見開いた、おだやかな眼でメイスンを見つめた。
「ほんとに、心あたりがないんですよ」――そう言って、ドアを閉めた。
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アーサー・クリンストンは、年齢四十五歳、肩幅の広い、愛想のよい男だった。彼は片手をさしだしながらメイスンの事務室を大股に横切ると、いかにも愛想のよい大声で言った。
「お目にかかれてまったくうれしいですよ、メイスンさん。フランがすぐ行けと言うものですから、何もかもおっぽりだして飛んできましたよ」
ペリー・メイスンは握手《あくしゅ》をすると、じっと値ぶみをするようなまなざしでクリンストンを見つめた。「お掛けください」と彼は言った。
アーサー・クリンストンは、フランシス・セレーンが坐っていた黒い皮椅子に腰をおろすと、ポケットから葉巻をとりだし、靴の底でマッチをすって火をつけ、けむりごしに弁護士に笑いかけた。
「ひどく結婚したがっているでしょう、あの娘は」と彼は言った。
「ごぞんじなんですね」とメイスンは訊いた。
「もちろんですよ」とクリンストンは磊落《らいらく》な調子で言った。「フランのことなら何だって知っています。実際のところ、あの娘はエドワードの姪というより、私の姪のようなものなんです。つまり、私たちは仲もいいし、たがいによく理解し合っているんです」
「エドワード・ノートン氏と話し合えば、なんとかなるとお思いですか?」とメイスンは訊いた。
「誰が話すんです?」とクリンストンは訊き返した。
「あなたですよ」
クリンストンは首をふった。
「では、ミス・セレーンなら?」
ふたたびクリンストンは首をふった。
「だめですね。ノートンと話し合って、何らかの効果を上げそうな人間は、たったひとりしかいませんよ」
「誰です?」
「あなたですよ」とクリンストンは力をこめて言った。
弁護士の表情は変わらなかったが、ただ眼には驚きの色が浮かんだ。「ノートンさんの性格についてお聞きしたところから考えますと、僕などが口を出せば怒らせるだけだと思いますが」
「いや、そうではないでしょう」とクリンストンは言った。「エドワード・ノートンは変わり者でしてね。自分の仕事の判断には一切の感情に動かされたくないと考えています。完全な冷血漢なんです。フランや私のように、どうしても感情にひきずられて話をする人間よりも、まったく事務的な法律的提案をなさるあなたの言葉のほうに耳を傾けるでしょう」
「失礼ですが」とペリー・メイスンは言った。「それはあまり論理的とは思えませんね」
「どう見えようと変わりはありませんよ」とクリンストンは笑いながら言った。「論理的であろうとなかろうと、違いがあるとは思えません。これは事実なのです。まさしくあの男の性格なのです。ノートンに会って話してごらんにならなければ、おわかりにならないでしょうね」
そのとき、デラ・ストリートが外側の部屋から通じるドアを開けて言った。「さきほどお見えになった若い女の方からお電話です。お話したいそうですけど」
メイスンはうなずいて、デスクの上の受話器をとりあげた。
「もしもし」と彼は言った。
ミス・セレーンの早口にしゃべる声が伝わってきた。
「クリンストンさん、お見えになったかしら?」
「ええ、ここにいらっしゃいますよ」
「なんておっしゃってますの?」
「僕が叔父さんに会うべきだというお話なんですがね」
「そう、ではそうしていただけません?」
「それがいいとお思いですか?」
「クリンストンさんがそうお考えになるなら、そうですわ」
「承知しました。では、明日のうちに?」
「いいえ、今夜にしてください」
メイスンは顔をしかめて言った。「こういう重大な問題ですから、少々時間をかけて話を持ちかけるのに一番いい方法を考えてみたいのですが」
「あら、そんなことだいじょうぶよ」と娘は言った。「クリンストンさんが、どう話したらいいか教えてくれるわ。今夜八時半に叔父とお会いになれるようにしておきますからね。わたしがそちらへうかがって、車でお連《つ》れするわ。八時にうかがいます。よろしいでしょう?」
「そのままちょっと待ってください」とメイスンは言って、アーサー・クリンストンのほうを向いた。
「ミス・セレーンから電話ですが、僕に今夜叔父さんと会ってもらいたいそうです。会う手はずは自分でつけると言われるんですが」
「いいじゃありませんか」とクリンストンは大声で言った。「すばらしい考えですよ。それ以上にいい方法はないと思いますね」
メイスンは受話器に向って言った。「承知しました、セレーンさん。八時にここでお会いして、車でご案内願いましょう」
メイスンは電話を切って、考えこみながらクリンストンを見つめた。
「どうもこの事件には奇妙なところがありますね」と彼は言った。「関係者が誰も彼もひどく急いでいるようだ」
アーサー・クリンストンは笑って言った。
「フラン・セレーンをあまりよくごぞんじないからですよ」
「たいへん落着いたお嬢さんのようですね」とメイスンは抑揚のない口調で言った。
クリンストンは口から葉巻をとって、ふきだすように笑った。
「メイスンさん、あなたは人の性質を判断なさる力が必要ですな。近頃の若い女性は外見だけではわからないものですよ。まあ、あの娘を怒らせるものじゃありませんよ。怒りだしたら最後、まるで気ちがい猫です」
メイスンは笑い顔も見せずに客を見つめた。
「なるほど」と彼は相変わらず抑揚のない口調で言った。
「何も悪気があって言ったのじゃありません」とクリンストンは言った。「でも、あなたはたしかにフラン・セレーンを見そこなっておいでです。あの娘はまさしくダイナマイトですよ。ところで、これから私のすることを申し上げておきましょう。今夜あなたがノートンに会いに行かれるのなら、その少し前に私が行って、少し彼の気分をほぐしておきましょう。変った男ですよ。お会いになればわかりますが、まったく冷血な仕事の鬼なんです」
「ミス・セレーンは今夜会う段どりをつけるということですが、むずかしいのじゃないでしょうか?」とメイスンはぬけ目なくクリンストンを見つめながら尋ねた。
「いや、だいじょうぶですよ」とクリンストンは言った。「ノートンは夜働くのが好きな連中の仲間でしてね。自分の家をすっかり事務所にしてしまって、夜仕事をたくさんするのが好きなんです。人に会う約束をするのも、たいてい午後から夜にかけてですよ」
クリンストンは立ち上がって、大股に弁護士のほうへ歩みより、片手をさしだした。
「お目にかかれてたいへん愉快でした。では、あなたがお会いになる前に、エドワード・ノートンの気分をすこしほぐせるかどうか、あたってみます」
「僕がノートンさんと会ったときの話し方について何かご意見がありますか?」とメイスンは訊いた。
「何もありません」とクリンストンは答えた。「ただ一つ、何も特別な交渉の計画をお立てにならないように、とだけ申し上げておきましょうか。お会いになればわかりますが、エドワード・ノートンは自分自身が法なんですから」
クリンストンが帰ってしまうと、メイスンはちょっと部屋の中を歩きまわってから、ドアを開けて外側の部屋へ出て行った。
メイスンの事務所には、二つの応接室、法律図書室、速記室、二つの私室があったが、彼の私室はいちばんすみの位置を占めていた。
メイスンは、タイピスト、速記者兼秘書のデラ・ストリート、それに、彼の事務所で実地見習をしている若い弁護士のフランク・エヴァリイをやとっていた。
ペリー・メイスンは事務所を横切って図書室へ歩みよると、ドアを開けて、フランク・エヴァリイに向ってうなずいた。
「フランク、やってもらいたい仕事がある。それも大急ぎなんだ」
エヴァリイは読んでいた皮表紙の本をわきへおしのけて、立ち上がった。
「承知しました」
「ロバート・グリースンという男が、フランシス・セレーンという女と結婚していると思うんだ。はっきりいつ結婚したとはわからないが、おそらく二、三週間前のことだろう。ふたりは結婚したことをかくそうとしている。結婚許可証を調べ上げて、そいつをつきとめてくれ。登録所の書記に電話をかけて、時間すぎまですこし待ってもらうようにしたまえ。もう二、三分で登録所はしまるからね、急いでやらなければならないよ」
「わかりました、先生」とエヴァリイは言った。「調べがついたら、どこへ連絡しましょうか?」
「うん、わかったことを全部書きとめて、封筒にいれ、親展と書いて、僕のデスクの吸取紙の下においといてくれたまえ」
「承知しました」といって、エヴァリイは電話に手をのばした。
メイスンは自分の部屋にもどると、両手の親指をチョッキの腋下にかけて、ゆっくりと、リズミカルに歩きまわりはじめた。
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フラン・セレーンは、ものなれた手つきでハンドルをにぎり、たくみにアクセルをふんで大きなパッカードのロードスターを走らせた。
弁護士の事務所で大きな皮椅子に坐っていたとき、彼女は小さく弱々しくて、頼りなげに見えた。だがいまは、そんな頼りない感じはすっかりなくなっていた。そして、その性格のなかの猫を思わせる資質がいっそうはっきりとあらわれていた。彼女の運転ぶりはめまぐるしく乱暴だった。雑踏《ざっとう》する車の間をぬって猛烈な勢いで突進し、赤信号にぶつかるとガクンと急停車する。そして信号が変わると、とたんに飛び出す。そのあいだ相変わらず口をとがらし、すねた顔つきだった。
ペリー・メイスンは彼女の横に坐って、油断のない眼で相手の観察に余念がなかった。
丘を登りつめて、ちょっと景色がひらけたところで曲がりくねったドライブウェイに乗り入れると、娘は方向を示すような身ぶりで首をふって言った。
「あそこよ。あの丘のふもとのとこ」
メイスンは、曲がりくねった道のかなたの、あかあかと灯《ひ》のともった大きな家をながめた。
「りっぱな邸宅ですね」とメイスンは言った。
「ええ」と娘はぶあいそうに答えた。
「雇い人は大勢いますか?」
「かなり多いわ。庭師、家政婦、執事、運転手、それに秘書」
「秘書も雇い人と呼ぶんですか?」メイスンは軽い興味を感じて娘の横顔を見まもりながら訊いた。
「|わたし《ヽヽヽ》はね」と娘はかみつくように言った。
「秘書がお嫌いのようですね」
娘はメイスンの言葉にはそしらぬ顔で何も答えず、急カーブを切った。さからうようにタイヤが悲鳴を上げた。
「ところで」とペリー・メイスンは話しつづけた。「もしあなたが何かとくに腹の立つことがあって、この車にあたりちらしたいのでしたら、僕はおろしてもらった方が良さそうですな。暮らしてゆくには、動きまわらなくてはなりません。腕を繃帯《ほうたい》で吊《つ》ったりしてたら、陪審員相手にたいして身ぶりよろしくやれませんからね」
「わかったわ。両足なくすのならいいのね」娘はそう言うと、いっそうスピードを上げて次のカーブを音高く曲がった。
メイスンは片手をのばし、イグニションをきって言った。
「いいかげんにしましょう」
娘はけとばすようにブレーキを踏みつけると、憤激に眼をぎらぎらさせながら、メイスンのほうを向いた。
「運転中の車にさわらないでちょうだい!」と彼女はわめいた。「わかって? さわらないで!」
ペリー・メイスンは、無頓着《むとんちゃく》といってもいいほどの調子で言った。
「ふたりの生命をかけてまで運転の腕前を見せびらかすのはおやめになるんですな。そんな必要はちっともありませんからね」
「見せびらかしてなんかいないわよ」と娘はかっとなって言った。「あなたがどう思おうと、ちっともかまやしない。わたしは約束の時間に遅れたくないのよ。ただの五分でも遅れたら、おじゃんだわ。叔父はぜったいに会ってくれやしない」
「五体満足で着いたほうが、僕はもっとお役に立つんですよ」
娘は猛烈なスピードで走らせていた車を、いまは完全に停めていた。そして、怒りに燃える眼を弁護士に向けながら、ハンドルから手をはなした。
「わたしがこの車を運転してるんだから、邪魔されたくないわ!」
娘はそう言ってから、急に微笑した。「ごめんなさい」と彼女は衝動的に言った。「わたしが悪かったわ。まるでだだっ子みたい。気がせいてたのよ」
メイスンは満足そうに言った。「いいんですよ。それにしても、あなたは癇癪《かんしゃく》もちですね」
「そうですとも。ごぞんじだと思ったけど」
「知りませんでしたよ、クリンストンが話してくれるまでは」
「あの人が話したんですの?」
「ええ」
「話さなくたっていいのに」
「それから、僕の秘書はね」とメイスンは静かにつづけた。「あなたがすねているようだと言っていましたよ。僕もはじめは、秘書の言うとおりかもしれないと思いました。しかし、そうじゃなかった。あなたはすねているのではなく、こわがっている、それだけなんだ。おびえていると、すねているように見えるんですね」
娘は、半分口を開けたまま、びっくりしたような眼つきでメイスンの顔を見つめた。それから、何も言わずに行手《ゆくて》の道のほうに向き直り、車を走らせはじめた。その唇は沈黙を決意したように固く一線に結ばれていた。
それっきり、ドライブウェイを走り切って、急停車のブレーキをかけるまで、ふたりはひと言も口をきかなかった。
「さあ、うまく片づけましょう」と娘は言った。
メイスンは車からおりて訊いた。
「話し合いには立ち会わないんでしょう?」
娘は車のドアを勢いよく開けて、ドライブウェイに飛びおりた。スカートがひるがえって、ちらりと脚が見えた。
「あなたをご紹介する間だけだわ。さ、行きましょう」
メイスンは娘のあとについて玄関へ行った。娘は鍵をだしてかけ金をはずした。
「まっすぐ階段を上るのよ」と娘は言った。
ふたりは階段を上って、左へ曲がった。ちょうど一人の男が戸口から出てきて、立ちどまってふたりを見た。その男は片手に厚表紙の速記ノートを持ち、書類を小脇にかかえていた。
「グレイブスさんよ」とフランシス・セレーンは言った。「叔父の秘書です。ドン、こちらは弁護士のペリー・メイスンさん」
メイスンは会釈《えしゃく》をしながら、ドン・グレイブスが好奇心をかくそうともしないで自分を見つめているのに気づいた。
秘書はやせぎすで、身なりのいい、黄色い髪に茶色の眼をした男だった。彼の様子にはどこか油断なく身がまえているようなところがあった。それはまるで、いまにも口を切ろうとしているような、あるいは、いまにも走り出そうとしているような感じだった。その姿勢と態度は、彼が肉体的にも精神的にも緊張していることを示していた。
秘書はやつぎばやの早口で言った。
「お目にかかれてたいへんうれしくぞんじます。ノートンさまがお待ちかねです。お会いになりますから、どうぞお入りください」
ペリー・メイスンは何も言わなかった。ちょっとうなずいただけだった。
娘は秘書の横をすばやく通りぬけ、弁護士はそのあとにつづいた。フラン・セレーンは、速記用デスク、金庫、書類ケース、二台の電話機、タイプライター、計算器、整理カードなどのある秘書室を横切って行った。
彼女はノックをしないで奥の事務室のドアを開けた。ペリー・メイスンの真正面には五十五歳の背の高い男がいて、ものやわらかだが無表情な顔つきでふたりを見つめていた。
「遅れたね」と男は言った。
「一分以上は遅れてないわ、叔父さん」と娘は言った。
「一分は六十秒だよ」
娘はそれには答えず、弁護士のほうを向いた。
「叔父さん、こちらがわたしの弁護士、ペリー・メイスンさん」
男は、いやにはっきりした、表情の乏しい口調で言った。「おまえが弁護士に相談してくれたことは非常に喜ばしい。これで、ある事情の説明がしやすくなるだろう。おまえはどうしても私の言うことを聞こうとはしなかったからな。メイスンさん、お目にかかれてまことにうれしい、ようこそ訪ねてくださった」
彼は手をさし出した。
ペリー・メイスンは軽くうなずいて手を握り、腰をおろした。
「それじゃ」とフラン・セレーンは言った。「わたしは行くわ。わたしのことはおまかせしますからね」
彼女はふたりに向って微笑すると、部屋を出て行った。彼女が事務室のドアを閉めたとき、秘書のドン・グレイブスと何か早口に話している声が、ペリー・メイスンの耳に入った。
エドワード・ノートンは、ただのひと言も無駄口はきかず、すぐ要点を話しはじめた。
「むろん、分配判決と信託の条項は調べずみでしょうな」
「調べました」とメイスンは答えた。
「よくおわかりでしょうな?」
「わかっています」
「では、ご承知のとおり、多額の金が私の自由裁量にまかされておるわけだ」
「まったくたいへんな額ですね」とメイスンは用心深く言った。
「それで姪《めい》は、信託条項の一部をとくに変更してもらいたいとあなたに頼んだのだろうな?」
「いや、かならずしもそういうわけではありませんよ」とメイスンは慎重に言葉をえらびながら言った。「まあ、姪御さんはある程度の自由がほしいのでしょうね。それに、ある行動を起こした場合にあなたが示される反応を知りたがっておいでなのでしょう」
「結婚した場合だな?」
「まあ、それもひとつの場合と考えられるでしょうね」
「ふん、そのことは私たちも考えている」とノートンはそっけなく言った。「あれの父親も考えていたし、私も考えている。メイスンさん、おそらくきみにはまだおわかりになるまいが、私の姪はどうにも手におえない、ひどい癇癪もちなのだ。あれが怒り出したら、それこそ牝《めす》の虎だ。それに、衝動的で、強情っぱりのわがまま者ときている。そのくせ、まったくかわいらしいのだ。
あれの父親は、あれには誰か保護者がついていなければならないことを悟った。また、大金を残したりすれば、かえってあの娘のためには最悪の結果になりかねないことも知っていた。そして私も同じ考えを持っているとわかったので、この信託が生まれたわけだ。
きみに理解しておいてもらいたいのは、私がこの信託によって与えられている自由裁量権を行使して、姪以外の者に金をやるようなことになったとしても、それはただ、金を与えることがあの娘のために非常に悪い結果になると考えるからそうするにすぎないということだ。あの娘のような気質の者が莫大な富を手にしたら、ひどい目にあいかねないからな」
「しかし」とメイスンは外交的手腕を発揮して言った。「渡す金額を少しずつふやして、だんだんと大金を扱うことに慣れさせたほうが、万事よろしいのではありませんか? それに、結婚によってかえって堅実になるという好影響が生まれるかもしれないとはお思いになりませんか?」
「そういう議論はさんざん聞かされた」とノートンは言った。「あきあきするくらい聞かされている。いや、これは失礼。べつにきみにあてこすったわけではない。ただ、心に思ったことが口に出ただけでな。
私はこの遺産の管財人だし、なかなかうまく管理をしてきた。実際のところ、ここ数年来相場の調整にもかかわらず、喜ばしいことには、信託基金は着実な増加を示し、いまでは信託設定当時の額をはるかにこえていると言える。だが、最近私は姪に与える金を完全にうちきってしまった。現在あの娘は一文も受けとっていない」
メイスンの顔に驚きの色が浮かんだ。
「あれは事情をすっかりうちあけたわけではないのだな」とノートンは言った。
「姪御さんの収入をすっかりたちきられたとは知りませんでしたよ」とメイスンは言った。「そのような処置をとられた理由をお聞かせねがえますか?」
「いいとも」とノートンは言った。「姪がゆすられていると信ずる理由が充分にあるのだ。それについて訊いてみたが、あれは、ゆすられているかも、また、ゆすりにつけこまれるどんな無分別をしでかしたのかも話そうとしない。
そこで私は、いかなる脅迫者にも姪が現金を渡せないような処置をとることにきめたのだ。こんな状況だから、もう二、三日もすれば、事態ははっきりすることと思う」
ノートンは冷静なまなざしでメイスンを見つめた。その眼には暖かみはすこしもなかったが、さりとて敵意の影もなかった。
「この件における僕の立場はおわかりでしょうね?」とメイスンは尋ねた。
「もちろん」とノートンは言った。「私は姪が弁護士に相談したことを喜んでいる。あれがきみの報酬を準備しているかどうか知らないが、もし準備していないようなら、適当な報酬を信託基金から引き出して支払うようにとりはからおう。しかし、あれが法律的には何をする力もないということを、あれに痛感させてもらいたいものだな」
「いや」とペリー・メイスンは言った。「僕の報酬は姪御さんからいただきましょう。それに、何も特別な勧告をするとお約束するわけにはいきませんね。あなたが自由裁量を行使する権利をお持ちかどうかということより、それをどのように行使なさるおつもりかということを話題にしませんか」
「だめだな」とノートンは言った。「それは論じ合う余地のない問題だ」
「なるほど」とメイスンは怒りをおさえて愛想よく微笑しながら言った。「しかし僕がうかがったのは、何よりもそのお話をするためですよ」
「だめだ」とエドワード・ノートンは冷やかに言った。「そんなことを論じ合うのはまったく筋違いだ。きみはただ、この信託におけるきみの依頼人の法的権利を論ずるだけにすればよいのだ」
メイスンの眼は相手を値ぶみするように冷やかに光っていた。
「いつも感じることですが」と彼は言った。「法律問題には、いろいろな観点があるものです。もし、あなたがこの問題を人間的な見地からごらんになって、お考え下されば……」
「きみが何を言ったって」とノートンは冷たい平静な口調でさえぎった。「信託の合法性に関する質問とそれに関する解釈以外は聞かんつもりだ」
メイスンは椅子をうしろに押しのけて立ち上がった。
彼の声も、相手と同じように冷やかだった。「僕は、自分の言うべきことについて、他人からどうこう指図《さしず》されたことはありません。僕は、あなたの姪御さんであり僕の依頼人であるフランシス・セレーンの権利を代表して、いまここにうかがっているんです。ですから、その権利に関することならなんだって言いたいことは言いますよ!」
エドワード・ノートンは呼鈴《よびりん》に手をのばし、骨ばった人さし指でボタンを押した。その動作にはまったく何の感情もこもっていなかった。
「執事を呼んだから、きみを出口まで送って行くだろう。私のほうは、議論は終りからな」
ペリー・メイスンは両足をふんばりながら言った。「執事をふたりと、それに秘書もお呼びになった方がいいでしょう。言わなければならないことを言うまえに僕をほうり出すつもりなら、そのくらいは必要ですからね。
あなたは、自分の姪をまるで道具か粘土のかたまりのようにとり扱うというあやまちを犯しておられる。相手は元気のいい敏感な娘さんですよ。彼女がゆすられているなんて、どこから思いつかれたのか知りませんが、もしそうお考えなら……」
私室のドアが開いて、無表情な顔つきの、肩幅の広い、たくましい大男が馬鹿丁寧なお辞儀をした。
「お呼びでございますか?」と男は訊いた。
「ああ」とエドワード・ノートンは言った。「この方をお送りしなさい」
執事は力強い手をペリー・メイスンの腕にかけた。弁護士はその手をあらあらしく払いのけて、なおもノートンに立ち向かいながら言った。「言いたいことを言うまでは、僕を送り出すこともほうり出すこともできませんよ。もしあの娘がゆすられているのなら、あなたは金銭登録器《レジスター》みたいな態度はやめて、人間らしくふるまったほうがいい。そうしてあの娘によくしてやれば……」
そのとき、勢いよく人の気配《けはい》がして、フランシス・セレーンが部屋へ飛びこんできた。
彼女はメイスンを見つめた。黒い眼は無表情な感じで、顔はふきげんらしく見えた。
「もう何を言ってもむだよ、メイスンさん」
メイスンは、デスクの向こうの男をにらみつづけた。
「あなたは金庫の番人というだけではすまない人ですよ」とメイスンは言った。「そうでなければならない人ですよ。この娘さんがあなたを頼りにすることができて……」
娘はメイスンの腕を引っぱった。
「ねえ、メイスンさん、おねがい」と彼女は言った。「あなたがわたしのためと思って努力していらっしゃることはわかりますど、これじゃまるで逆効果になるのよ。どうか、やめてちょうだい」
メイスンは深くひと息つくと、身をひるがえして、いかめしく大股に部屋から出て行った。うしろで執事がドアをばたんと閉めた。メイスンはフランシス・セレーンのほうを向いて言った。
「がんこで、冷酷無情な、氷みたいな人間にも会ったことはあるが、あんなにひどいのははじめてだ!」
娘はメイスンを見上げて笑った。
「わたしの叔父がどんなにひどいがんこ者か、口でいくら説明したって、あなたはけっして信じてくださらないだろうと思ったの。だから、じかにあなたにわかっていただくようにしたんです。これで、裁判ざたにしなければならないわけが、おわかりでしょう」
「わかりました」とメイスンはきびしい顔つきで言った。「そうしましょう」
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ペリー・メイスンは鍵を使って事務所へ入ると、自分のデスクに歩みよって、吸取紙をとり上げた。その下には、「親展」としるした封筒があった。彼は封を切って、フランク・エヴァリイが書いた手蹟《しゅせき》を見た。
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ロバート・グリースンとフランシス・セレーンは先月四日に結婚許可証をとり、同月八日にクロバーディルで結婚式をあげています。
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それには書記の頭文字《かしらもじ》が署名してあった。
ペリー・メイスンはそれをちょっと見つめてから、チョッキの腋下《わきした》に両手の親指をかけて床の上を歩きまわりはじめた。
やがて彼は、法律図書室に飛びこみ、事典のなかから遺言の項目のある一冊をとり出して読みはじめた。
そして事典を読むのをやめると、彼は書棚のまえへ行って、「パシフィック・リポーター」を一冊とり出した。そのなかの事件記録をしばらく読み、それからまた別の記録を棚からとり出しはじめた。
彼はてきぱきとたゆみなく動きまわりながら、黙々と落着きはらって仕事に専念した。その眼はきびしく、ゆるぎのない光を放ち、顔は無表情だった。
どこかで時計が夜の十二時を告げたが、ペリー・メイスンはなおも仕事をつづけていた。テーブルの上の法律書の山はますます大きくなるばかりだった。彼は図書室じゅうをあさり歩き、いろいろな本を引き出しては、判例を調べ、熱心に研究した。ときどき簡単なノートをとった。そしてたびたび判例記録にしおりをはさんで、片側に積み上げた。
午前一時を十五分ばかりすぎたとき、電話が鳴った。
メイスンは顔をしかめて、ほっておいた。
電話はしつこく、せきたてるように鳴りつづけた。
メイスンは舌打ちをして電話のほうに向くと、受話器をとり上げた。
「もしもし」と彼は言った。「番号違いですよ」
電話の声は答えた。「失礼ですが、そちらは弁護士のメイスンさんですか?」
「そうですよ」とメイスンはいらただしげに言った。
「ちょっとお待ちください」と電話の声は言った。
メイスンが受話器を耳にあてていると、何か早口にささやく声が聞こえ、それからフランシス・セレーンの声が聞こえてきた。「メイスンさんね?」
「ええ」
「すぐきてください」
「どこへ? それに、どうして?」と彼は訊いた。「何がおこったのです?」
「うちへきてください。叔父がいま殺されたんです!」
「いま、どうしたんですって?」
「いま殺されたのよ!」
「誰が殺したのか、わかってるんですか?」
「わかってるらしいわ」彼女は低い、あたりをはばかるような声で言った。「すぐ来て!」それっきり、向こうの受話器が静かにもどされて電話は切れた。
ペリー・メイスンはあかりを消す間もなく事務所を出た。夜警がエレベーターを上昇させてくると、ドアの開くのが待ちきれぬように飛びこんだ。
「だいぶ遅くまでご活躍ですな」と夜警が言った。
メイスンは機械的に微笑して言った。
「悪人には休みがないからね」
彼はエレベーターを出ると、ビルのロビーを横切り、街路をななめにつっ切って、タクシーの駐車場があるホテルのほうへ走った。そして運転手にノートンの住所を告げて言った。「全速力でやってくれ」
「ほいきた」と運転手は言って、ドアをばたんと閉めた。
車がのめるように走りだすと、メイスンは勢いよくクッションに倒れこんだ。何か考えこむように眼を細めていたが、表情はすこしも変わらなかった。飛ぶように流れる窓外の風景には、一度も眼をくれなかった。
タクシーが丘を下るドライブウェイに乗り入れると、やっとメイスンは放心状態からぬけだして、あたりの様子に気をくばりはじめた。
大きなノートン邸は、どの窓にも灯がともり、あかるく輝いていた。前庭にも明りがつき、十数台もの自動車が家の前にとまっていた。
メイスンがタクシーを乗り捨て、家に向って歩いて行くと、玄関の明りを背にしたアーサー・クリンストンの黒い大きな影が見えた。
クリンストンは三段の階段をかけおり、車寄せに出てきて言った。「メイスンさん、よくきてくださった。ほかの人よりさきにあなたにお会いしたいと思いまして」
彼は弁護士の腕をとると、ドライブウェイのセメント道を横切り、帯状の芝生をこえて、生垣の陰に連れて行った。
「いいですか、これは重大な事件です」とクリンストンは言った。「まだ、どんなに重大なのかよくわかりませんが、フランの力になってやると約束していただきたい。どんなことが起ころうとも、あの娘がまきぞえをくわないようにしてください」
「まきぞえをくいそうなんですか?」
「あなたが力になってくだされば、だいじょうぶでしょう」
「では、この事件に何か関係があるというわけですか?」
「いや、けっしてそんなことはありません」クリンストンは急いでうけあうように言った。「ただ、あの娘は変わり者でして、えらい癇癪持ちです。なんだか事件にまきこまれてしまったらしいのです、どうしてだかはよくわかりませんが。ただ、エドワード・ノートンが死ぬちょっと前に、警察に電話して姪を逮捕してくれと言っているんです。まあ、これは警察の主張ですが」
「逮捕ですって?」とメイスンは声を上げた。
「いや、はっきりそう言ったわけではなく、ただ、ノートンはなんとかあの娘をこらしめてやろうとしたのでしょう」とクリンストンは言った。「はっきりしたことはわかりませんが、ともかく、あの娘は、ノートンのビュイックのセダンに乗って行ってしまったのです。警察の話では、ノートンは電話で、セダンが盗まれたから、そいつを見つけだして、運転している人間を拘留《こうりゅう》してくれと言ってきたそうです。ノートンは、|誰が《ヽヽ》運転していようとかまわないからと言ったそうです」
「すると、それは僕がこの家を出てからノートンが殺されるまでの間の事件ですね」とメイスンは言った。
クリンストンは肩をすくめた。
「警察の話では、十一時十五分だったそうです。私自身としては、まったく馬鹿げたことだと思いますがね。警察が何か間違いをおかしたにちがいありませんよ。もちろんノートンには欠点がありました。それもたくさんね。しかし、彼は彼なりのやり方で自分の姪を愛していたんですよ。私には、ノートンがあの娘を逮捕させようとしたなんて信じられません」
「なるほど、それはまあ、それとして」とメイスンは言った。「殺人のほうはどうなんです? 誰がやったかわかっているんですか?」
「それはもう、すっかり片がついているんです」とクリンストンは言った。「運転手のピート・ディヴォーが酔っぱらって、金ほしさにやったのです。やつは外部から強盗が押し入ったように見せかけようとしたんですが、失敗しました」
「ノートンさんはどんな殺され方をしたんです?」
「ディヴォーが棍棒《こんぼう》で頭をなぐったのです。ひどいやり方ですよ。力まかせにぶんなぐったんです」
「その棍棒はみつかりましたか?」
「ええ、それがディヴォーの失敗でした。やつは棍棒を持ち去って自分の部屋の戸棚のなかにかくしたんです。外部から強盗が押し入ったように見せかけたもので、そんなところまで警察に捜索されるとは思わなかったんですね。まったく警察は、思いがけないほど早く犯人を挙げました。それにはまた相当ないきさつがあって、いずれゆっくりお話ししなければならないのですが、実は、ドン・グレイブスが犯行を目撃したんです」
「ざっと説明してください」とメイスンは言った。「急いで」
クリンストンは大きくひと息ついてから、急いで話しはじめた。「ごぞんじのとおり、ノートンは夜ふかしの好きな男で、しょっちゅう真夜中まで事務室で仕事をしていました。今夜彼は私と会う約束をしていましたが、私のほうは、地方判事のパーレイ氏とも会うことになっていました。パーレイ判事との用件が長びいたので、私は判事に頼んで彼の車でここまで送ってもらい、待っていてもらうことにしました。ノートンとの用件はほんの二、三分ですむことだったからです。
私は急いで家の中へ飛びこみ、ノートンとの話をすませてから出てくると、パーレイ判事といっしょに帰ろうとしました。すると、車が動きはじめたとたんに、ノートンが二階の窓を開けて、私に呼びかけ、ドン・グレイブスをいっしょに乗せて行ってくれないかと言いました。グレイブスにある重要書類をとりに行かせるのだが、時間の節約になるから同乗させてやってくれというのです。その書類というのは、私がグレイブスに渡すことを引き受けたものでして――私たちの共同事業に関係ある書類なのです。
そこでパーレイ判事にさしつかえはないかと訊いてみますと、かまわないという返事だったので、グレイブスをおりてこさせるようにノートンに呼びかけました。しかしグレイブスは、むろん同乗できるものと考え、そのときにはもう玄関に出てきていて、すぐに走りよって車に乗りこみました。
私たちの車は並木道に向って走りはじめました。あの道がどんなに曲がりくねっているかごぞんじですね。途中に一か所、ふり返るとノートンの書斎のなかが見える場所があるのです。そして偶然、そこでグレイブスがうしろをふり返り、とたんに叫び声を上げました。ノートンの書斎にひとりの男が立っているのを見た、その男が棍棒を持ち、ノートンの頭にふりおろしたと言うのです。
パーレイ判事は、ターンのできるところまで車を走らせました。判事はグレイブスが何か見まちがいをしたのだろうと考えましたが、グレイブスはぜったいに見まちがいのはずはないと言い張りました。彼なら見まちがいのないようなことでした。そこで、パーレイ判事は大急ぎでこの家へ車をもどしました。
ここへ着くなり、私たち三人は家のなかへ飛びこみ、二階の書斎へかけ上がりました。すると、ノートンが頭のてっぺんを叩きわられてデスクの上につっぷしていたのです。服のポケットはすっかり裏返しにされ、財布《さいふ》はからになって床に落ちていました。私たちはすぐさま警察に知らせました。
食堂の窓がひとつこじあけられ、その外側のやわらかな土に足跡がついていました。その足跡はたいへん大きなものですが、警察はいまでは、おそらくディヴォーが自分の靴の上にもうひとつ大きな靴をはき、足跡を残して警察の眼をくらまそうとしたものだろうと考えています。まあ、家のなかへお入りになれば、いろいろな事実がおわかりになりますよ」
ペリー・メイスンは考えこみながら、生垣の陰の薄やみをじっと見つめた。
「なぜノートンは、車を盗んだと言って自分の姪を訴えたのでしょう?」
「たぶん、誤解でしょう」とクリンストンは言った。「ノートンは車に乗って行ったのが自分の姪だなどとは考えてもみなかったのだと思いますよ。ただ車がなくなっているのに気がついて、警察に電話しただけでしょう。警察では、車のことを調べているうちに、殺人事件の知らせを受けたのです。そこで、この車の事件も殺人と何か関係があるかもしれないと考えて調査中なのです」
「警察では、彼の姪が車に乗って行ったことを知っているのですか?」
「ええ、知っています。車を持ちだしたことを、あの娘は認めています」
「どうも、ノートンが彼女を逮捕させようとしたというのは、おかしいですね」とメイスンはなおも主張した。
「でも、そうだったのですよ」とクリンストンは言った。「警察が名前を聞きまちがえたのでないかぎりはね。それに、そんなことはありそうもない。車の番号はちゃんと合っているのですから。しかし、とにかくフランは変った娘です。何をするかわかりません。どうか、あの娘と話し合って、この事件のまきぞえをくわないようにしてやってください」
「あなたは、彼女が殺人事件に関係があるとはお考えにならないわけですね?」
「それはわかりません」と言ってから、クリンストンはあわててつけたした。「いやいや、むろん関係なんかあるもんですか。あるはずがない。あの娘は、あなたがお帰りになったあとで、癇癪をおこして、相当はでにノートンとやりあいました。でも、どのみちあんなに人をなぐりつける体力が、あの娘にあろうはずはないでしょう。それに、もし共犯者がいたにしても……いやいや、こんなことを考えたって無駄です、まったく馬鹿げていますからね。やったのはまさしくディヴォーですよ。しかし、あなたは殺人がどういうものかごぞんじでしょう。めんどうなことがたくさん出てくるものですよ。ですから、フランと連絡をとって、あの娘がめんどうなことに巻きこまれないようにしていただきたいのです」
「承知しました」とメイスンは家のほうへ引き返しながら言った。「しかしあなたは、彼女がこの事件に関係があるとお考えになっているか、さもなければ、何か僕におかくしになっていますね」
クリンストンは、メイスンの片腕をつかんで言った。
「報酬の点では、ノートンが死んだいまとなれば、だいぶ変ってきますよ。ノートンと私の共同事業にも相当の資財がありますし、それに、信託基金には、問題なくあの娘のものになる金がかなりたくさんあるはずですからね。私はあなたを信頼しています。ですから、あらゆる面で弁護士としての力をふるっていただきたいのです。あの娘のことはもちろん、財産のこともお引き受けください。そして、あの娘があまり警察の訊問に責めたてられないようにしてください」
メイスンは立ちどまって、クリンストンのほうに向き直った。
「もっと率直《そっちょく》にお話願いたいものですね。あなたは、あの娘さんが訊問にはたえられないと考えておいでのようだが」
クリンストンは、はっと顔を上げて、弁護士と眼を合わせた。彼の視線は、自分の眼をのぞきこむメイスンの鋼鉄のような視線と同じくすこしもたじろがなかった。
「|もちろん《ヽヽヽヽ》、訊問にはあまりたえられないでしょうね」と彼はかみつくように言った。「これだけお話申し上げてきたのに、私の言おうとしていることはちっともわかっていただけなかったのですか?」
「なぜあの娘さんは訊問にたえられないのですか?」とメイスンは執拗《しつよう》に追求した。「彼女が殺人事件に関係しているとお考えですか?」
「私はただ」とクリンストンは頑強に言い返した。「あの娘が訊問にはあまりたえられないだろうと申し上げているだけです。第一に、あの娘は気性からいってだめなんです。それに、癇癪をおこしたら手がつけられません。問題は殺人ではないのです。捜査に関連して明るみに出てくる付随的な事柄です。さあ、あの娘のところへ行って、警察に訊問させないようにしてください」
「わかりました」とメイスンは言った。「僕はただあなたを誤解したくなかったのです。それだけですよ。だから、あなたがあの娘さんがめんどうなことにひきこまれる危険があると感じておられるかどうか知りたかったのです」
「もちろん、その危険はあります!」とクリンストンはどなり声を上げた。
「彼女の私生活の面で?」とメイスンは訊いた。
「いや、あらゆる面でですよ」とクリンストンが言った。「さあ、家のなかへ入りましょう」
警官がひとりポーチに立っていて、メイスンに質問した。
「このひとはいいんです」とクリンストンは言った。「私の財産問題の弁護士です。それにフランシス・セレーンの弁護士でもあるんです」
「では、いいでしょう」と警官は言った。「こちらにおすまいの方は出入りなさってかまいません。ただ、おわかりでしょうが、けっして何かにさわったり、証拠がための邪魔をしたりしないでください」
「わかってますよ」と言って、クリンストンは、先に立って急いで家のなかへ入っていった。
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フランシス・セレーンは、簡単なスポーツ服に、青と金色のまじったセーターを着ていたが、その色彩にはえて彼女の絹のような金髪はいっそうみごとに見えた。
彼女は寝室のふっくらとした椅子に膝を組んで坐り、黒い眼で弁護士の顔をじっと見つめていた。その態度にはどこか油断なく警戒しているような感じがあった。じっと耳をすましながら、何かおこるのを待ちかまえているように見えた。
ふたりのまわりでは、大きな邸内いっぱいにいろいろな物音がひびきわたり、つめかけた人間の気配《けはい》をつたえていた。ひっきりなしに床板や廊下や階段を踏み鳴らす足音。ドアの開閉の音。遠雷のようにひびくものうげな話し声。
ペリー・メイスンは、フラン・セレーンをじっと見おろしながら言った。「さあ、はじめてください。起ったことを正確に話すのです」
彼女は、低い単調な声で、無表情に考えこみながら話しはじめたが、それはまるで、暗記した|せりふ《ヽヽヽ》をしゃべっているような態度だった。
「わたしは、あまりよく知らないのよ。あなたがお帰りになったあとで、叔父と喧嘩したんです。どうにもがまんのできない人ですもの。叔父はわたしを道具みたいに扱って、わたしの気持ちをめちゃくちゃにしようとするんです。だからわたし、そんなことは父の意志に反する、あなたは父の信頼を裏切っているって言ってやりました」
「お父さんの信頼を裏切るというのは、どういう意味です?」とメイスンは尋ねた。
「父があの信託を作ったのは、ただ、わたしがお金におぼれすぎてむちゃなことをしないようにと考えたから、という意味だわ。叔父にしいたげられて、まったくの|でくのぼう《ヽヽヽヽヽ》になったりすることじゃなかったはずよ」
「なるほど」とメイスンは言った。「で、誰かその喧嘩のことを知っている人がいますか?」
「いるでしょうね」と娘はがっかりしたように言った。「ドン・グレイブスが知っています。ほかの雇い人のなかにも聞いたものがあるでしょう。かっとなって夢中でしたから」
「かっとなると、どんなことをしますか?」
「何でもするわ」
「大声を上げましたか?」
「ええ、思いっきり」
「何か淑女《しゅくじょ》らしくないことをしましたか? つまり、悪口を言うとか?」
彼女は相変わらず抑揚《よくよう》のない声で言った。「もちろん悪口言ったわ。腹が立ったんですもの」
「なるほど。それから、どうなりました?」
「それから、わたしは階下《した》へおりて、もう叔父もお金も何もかもほうりすてて、どこかへ行ってしまおうと思いました。ほんとうに行ってしまいたかったんです」
「そこで車を持ち出したのですね?」
「まあ、お聞きなさい」と娘は言った。「わたしは、家出をするみたいに荷物をまとめてしまってから、出て行かないことにきめたんです。すこし冷静になってきたのね。わたしはひどい癇癪持ちだけど、いったんおさまれば、自分が間違っているときには、すぐそれがわかるんです。それで、飛び出せば間違いをおかすことになるのがわかったんです。だけど、わたしは外の空気が吸いたくなったのよ。でも、歩いて出るのはいやだったわ。ドライブがしたかったの。うんと飛ばしてみたかったの」
ペリー・メイスンはそっけなく答えて言った。「なるほど、車をふっとばせば、うさばらしになりますからね」
「ええ、そうよ、うさばらしには何かしなくちゃ」と娘は言った。
「わかりました」とメイスンは言った。「では、さきを。それからどうなりました?」
「それから、ガレージへ行ったわ。わたしのパッカードはビュイックのうしろにあったので、どうしてもビュイックを動かさなければならなくなったの。それでビュイックに乗って動かしたんですけれど、もうわざわざパッカードに乗り変える必要はないと思ったんです」
「そのビュイックは叔父さんの車でしたね?」
「そうよ」
「叔父さんはあなたが乗るのを禁じていたのですか?」
「べつに禁じたりしなかったわ」と彼女は言った。「だけど、わたしはめったに乗ったこともなかったのよ。叔父はあの車をとっても大事にして、走行《そうこう》マイル数だの、オイルやガソリンだのって、みんな記録をとっていたし、もう何マイル走ったからと言って潤滑油《グリース》を入れたり、しょっちゅうオイルを交換したりしていたわ。わたしなんか、自分の車のことそんなに気にしやしないわ。どこか変な音をたてはじめるまで乗りまわして、それから修繕させるのよ」
「では、叔父さんにことわらないでビュイックに乗って行ったのですね?」
「ええ、まあ、そういうことね」
「で、どこをドライブしました?」
「わからないわ。ただ、思いっきりスピードを出して、カーブを切りながら乗りまわしていただけですもの」
「すごいスピードだったでしょうね?」
「もちろん、ものすごいスピードよ」
「どのくらいの時間、走っていたのです?」
「わからないわ。家に帰ってきたのは、警察の人たちがくるちょっと前だったわ。叔父が殺されてから十分か十五分たっていたはずよ」
「それで、あなたが出かけている間に、叔父さんは車の紛失を発見した――つまり、車がないのに気がついた、そういうわけですね?」
「ディヴォーが言いつけたにちがいないわ」
「ディヴォーはどうして知ったのでしょう?」
「わからないわ。たぶん、わたしが車で出て行く音を聞いて、どの車に乗って行ったかガレージまで見にきたんでしょう。わたしはどうしてもディヴォーが好きになれなかったわ。なんだか目ざわりな大男で、自分では何の考えもなく、動きまわっているだけというタイプね」
「そんなことはいいですよ」メイスンは言った。「どうしてあなたは、ディヴォーが叔父さんに言いつけたと思うのですか?」
「わからないわ。きっと、叔父が警察に電話した時間から考えてでしょうね。それに、前からあの男は告《つ》げ口《ぐち》でもしそうだと思っていたから」
「叔父さんが電話をかけたのは何時です?」
「叔父は、十一時十五分すぎ頃に、車を盗まれたと言って警察に電話したんです。警察の記録では、ちょうど十一時十四分だったと思うわ」
「あなたが車で出かけたのは何時です?」
「十時四十五分ごろよ、たしか」
「では、あなたが車を持ち出してから三十分たって叔父さんは盗難報告をしたのですね?」
「そうよ、そのくらいたっているわ」
「で、お帰りになったのは?」
「十二時十五分すぎごろね。一時間半ぐらい出ていたわけだわ」
「警察がここへきたのは?」
「一時間半ぐらい前よ」
「いや、あなたが車を戻したのは、警察がくるどれぐらい前だったかときいているんです」
「十分か、十五分でしょうね」
「わかりました。ところで、叔父さんは警察に何と言ったのですか?」
「わたしが知っているのは、警察のひとが話してくれたことだけだわ。刑事さんのひとりがわたしと話をしたとき、なぜ叔父が車を盗まれたと知らせてきたりしたのか、その理由を知らないかって訊いたのよ」
「なるほど。それで、叔父さんは警察に何と言ったのです?」
「その刑事さんの話では、叔父は警察に電話して、こちらはエドワード・ノートンだが、犯罪事件を報告するって言ったそうよ。それから、ちょっとだまってしまって――電話が切れたかどうかしたのね。でもその警官が――デスク係巡査部長とかいうんだけれど――そのまま一分ばかり待っていると、また叔父の声が聞こえてきて、犯罪を知らせたい――自動車の盗難だと言ったそうよ。そうして、盗まれたのはビュイックのセダン6754093,鑑札ナンバーは、12M1834だと説明したんですって」
「そんな数字をばかによく覚えてますね」
「ええ、大事なことらしいから」
「どうして?」
「知らない。ただそうじゃないかって気がするだけ」
「あなたが車に乗っていたことを、刑事に話しましたか?」
「ええ、起ったとおりのことを話しましたわ。十一時十五分前ごろ車を持ち出して、十二時十五分すぎごろ帰ってきたことも、叔父には無断だったことも」
「警察はその説明で納得したようでしたか?」
「ええ、もちろんよ。それっきり車のことは訊かなくなってしまったんですもの。はじめは、強盗が逃げるのにあのビュイックを盗んだと思ったのね」
「いまは、警察も、強盗など入らなかったという結論に達したようですね」
「そうだわ」
メイスンは部屋の中を歩きまわっていた。
とつぜん彼はふり返って、じっと娘を見つめながら言った。
「あなたは、この事件についてほんとうのことを全部話してはいませんね?」
娘は怒った様子はすこしも見せなかったが、冷静にさぐるような眼で、じっとメイスンを見た。
「わたしの話におかしなところがあるかしら?」彼女は用心深い口調で訊きかえした。
「話ではなく、あなたの態度がどこか変ですね」とメイスンは言った。「あなたはほんとうのことを話していません。最初、僕の事務所に見えたときから、そうだった」
「それ、どういう意味?」彼女は知りたがった。
「結婚したいとかなんとかおっしゃってたことですよ」
「それが、どうだっていうの?」
「おわかりのはずですよ。あなたはとっくに結婚していらっしゃる」
たちまち娘はまっさおになった。彼女は大きく見開いた眼でメイスンを見つめた。
「誰が話したの? 誰か雇い人とお話しになったの?」
メイスンは逆に訊き返した。
「雇い人は知ってるんですか?」
「いいえ」
「では、どうして僕が雇い人と話をしたと思ったんです?」
「わかんないわ」
「あなたは結婚しましたね?」
「あなたに無関係のことだわ」
「いや、関係ありますとも」とメイスンは言った。「あなたは僕のところへ事件の依頼にみえたんですよ。医者に嘘をついても何の得にもならないように、僕に嘘をついたって何にもなりません。弁護士と医者には、ほんとうのことを話さなければいけないんです。僕を信用してくださっていいんですよ。依頼人の秘密をもらしたりはしませんからね」
娘は口をすぼめて、メイスンを見つめた。
「何を話せとおっしゃるの?」
「ほんとうのことを」
「それなら、ごぞんじなんでしょ。いまさら話したって何にもならないんじゃない?」
「では、結婚しているのですね?」
「そうよ」
「なぜ、はじめにそれを言わなかったんです?」
「わたしたち、秘密にしていたからよ」
「なるほど」とメイスンは言った。「ところで、誰かがその秘密を知っている。そして、あなたを脅迫している人物がいるわけですね」
「どうしてそれをごぞんじ?」
「そんなことは気にしなくてもいい。質問にお答えなさい」
彼女は右手の人さし指をのばして、椅子の腕をなぞりはじめ、布地の凹凸《おうとつ》をつぎつぎとまさぐった。
「あの遺言だと」と彼女はゆっくりと口を切った。「叔父が死んでしまったいまになっても、わたしが結婚していれば何か影響があるかしら?」
メイスンの眼は、冷やかに、じっと値ぶみをするように娘を見つめた。
「たしか遺言の条項では、あなたが二十五歳になる前に結婚した場合、叔父さんには、信託金を慈善事業に寄付するかどうかきめる選択権が与えられていましたね」
「でも、叔父が死ねば、信託は終るのでしょう?」
「そう、死ねば、信託は終ります」
「じゃあ、叔父が選択権を使えなければ、わたしが結婚していようといまいと何の変わりもないわけね?」
「だいたい、僕の解釈はそうなりますね」
娘はほっとして溜息をもらした。
「それなら、誰かわたしを脅迫しようとするものがいようといまいと、問題ないじゃないの?」
メイスンの眼は、娘の顔から仮面をひきはがし、心の奥底をさぐろうとするように相手を見つめた。
「お嬢さん」と彼は言った。「まあ、あまりこの問題をつっつくのはやめておきましょう」
「なぜですの?」と彼女は訊いた。
「なぜって」とメイスンは、低い、落着いた、単調な声で言った。「もし警察がそんな考え方にひっかかったら、まったく立派な殺人動機になるからですよ」
「わたしが殺したって言うの?」
「あなたには」とメイスンは強くきっぱりと言った。「叔父さんを殺す立派な動機があったんですよ」
「ピート・ディヴォーが殺したんだわ」と娘は力をこめて言った。
「警察では、ピート・ディヴォーは共犯者だと言うかもしれませんよ」
「そうね、そう言う|かもしれない《ヽヽヽヽヽヽ》わね」と娘は肩をすくめながら相槌《あいづち》をうつと、謎めいた黒い眼でメイスンを見まもった。
「まあ、いいですよ」とメイスンは言ったが、その声にはさすがにちょっといらだたしげな調子が出ていた。「話を現実にもどしましょう。僕には何でもかくさないようにしてくれますね」
「ねえ」と娘は早口にしゃべりはじめた。「わたしはもうすぐ大金を相続するのよ。誰かわたしの権利をまもってくれる人が必要になるわ。わたし、あなたのことは前からうかがっているし、すばらしい方だってことも知っているわ。なんでも、わたしのために仕事をしてくださったら、お礼は充分さしあげるわ。おわかりになって?」
「わかりました」とメイスンは言った。「で、何をしろとおっしゃるんです?」
「わたしの利益を代表していただきたいの。わたしの利益だけをね。お礼は四万ドルはらうわ。そして、もし信託金を手にいれるのに何かしなければならないようなら、つまり、法廷へ出るとか何とかいうような仕事をしなければならなかったら、もっとお礼をしますわ」
メイスンはしばらく、だまって考えこみながら娘を見つめていたが、やがて口を切った。「べつに何もすることがなければ、あなたの権利をまもる人間に支払うには、いささか多すぎる金額ですね」
「どういう意味かしら?」
「あなたが叔父さんの車を無断で借りて乗りまわし、帰ってみたら叔父さんが殺されていたというだけなら、あなたの権利をまもるのに弁護士に四万ドルもおはらいになる必要はないということですよ」
娘は両手の指をからみ合わせて尋ねた。「そのことでわたしと議論なさるおつもり?」
「いや、僕はただ説明しただけですよ。事実を理解していただきたかったのです」
「|わたしの《ヽヽヽヽ》権利をまもってくださったら四万ドル差し上げると言ったのはおわかりでしょう?」
「ええ」
娘は立ち上がると、すばやい、神経質な足どりで部屋を横切り、書き物机の前のやなぎ細工の椅子に腰をおろした。そして、紙を一枚ひきよせると、ペンで何か走り書きして、勢いよく派手なサインをした。
「はい、これ」と娘は言った。「父の遺産を受けとり次第、あなたに四万ドルお支払いするという約束手形よ。それから、相続に関して何か訴訟でもおきたら、もっとさしあげることも書いといたわ」
メイスンは手形を折りたたんで、ポケットにいれた。
「警察はこまかいことを訊きましたか?」
「いいえ、うるさいことはちっとも訊かないわ。だって、叔父が殺されたときには車で外出していたということで、わたしにはアリバイがあるんですものね。つまり、叔父が殺された時間に家のなかで起ったことなど、わたしが知るわけがないということがわかってるのよ」
「殺されたのは何時なのです?」
「とても正確にわかっているようよ」と娘は言った。「十一時三十三分か、三十四分ごろですって。ほら、クリンストンさんはパーレイ判事といっしょに車に乗ってたでしょう。パーレイ判事は早く家に帰りたがってたのよ。それで、十一時半に急いでここから出発したんです。判事さんはそのとき自分の腕時計を見たからよく覚えているという話よ。きっと、三十分はかからなかったな、とか何とか話してたにちがいないわ。クリンストンさんはパーレイ判事に、ここまで車で送ってくれたって、三十分とは手間取らないからと約束してたのね。クリンストンさんは叔父と十一時に会う約束をしてたんだけど、七分遅れてしまったのよ。
七分も遅れたら叔父がどんなふうに思うか、あなたにはもうよくおわかりね。クリンストンさんは、ここへくる間じゅう、『早く早く』って判事さんをせきたてつづけていたそうよ」
「まだ、僕にはわかりませんね」とメイスンは言った。「それだけでどうして殺人の時間がはっきり決められるのでしょう?」
「だって、ほら」と娘は説明した。「ドン・グレイブスが殺人の現場を見たのよ。だから、十一時半に車が家を出たとすれば、ドライブウェイでグレイブスがふり返ったところまで三分ぐらいかかったことになるわ。そのときグレイブスが叔父を棍棒でなぐる人たちを見たわけだわ」
「人たち、ですって?」とメイスンは訊いた。
「人、よ」と娘はすばやく言い直した。
「なるほど」と弁護士はそっけなく言った。
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ペリー・メイスンは、警察の訊問から解放されたばかりのドン・グレイブスに出会った。
グレイブスは額の汗をぬぐい、弁護士に向って微笑しながら言った。
「こんなひどい目にあったことはありませんよ。それにしても、あの時|僕は《ヽヽ》ここにいなくてまったくよかった」
「それはどういう意味だね?」とメイスンは尋ねた。
「僕のせいにされたかもしれませんからね」と彼は言った。「なにしろ連中ときたら、人をくたくたになるまで責めたてて、こっちの言うことは片っぱしから疑うんですよ」
「きみが警察に話したことを、ざっと僕にも聞かせてもらえないかね?」
グレイブスはうんざりしたように溜息《ためいき》をもらした。
「あんまり何遍も同じことをしゃべったもので、声がかれてしまいましたよ」
メイスンは、この青年の片腕をとると、にこりともせずに食堂をぬけて日光浴室へひっぱって行った。そこには、やなぎ細工のテーブルのまわりに椅子がいくつか並べてあった。
「吸うかね?」メイスンはタバコの箱をさし出して言った。
グレイブスは大きくうなずいた。
ペリー・メイスンはタバコに火をつけてやり、「さあ、話してくれたまえ」と言った。
「でもねえ、話すことはあまりないんです」とグレイブスは言った。「それで困るんですよ。警察はたくさん話させようとしすぎるんですね。最初、僕が殺人の現場を見たとき、パーレイ判事は僕が気でも狂ったと思ったらしく、車の窓ごしに僕が見たようなことが見えるはずがないと言ってましたよ。ところがいま、警察の連中ときたら、もっと話すことがあるはずだと言って、こっぴどく叱りつけるし、こっちが何かかくしているとでも思っているらしいんです」
「殺されるのを見たんだね?」とメイスンは訊いた。
「そう思うんですがね」とグレイブスはうんざりしたように答えた。「あんまり責めたてられたんで、何を見たんだか、わかんなくなりました」
ペリー・メイスンは何も言わなかった。
「えーと」グレイブスは、鼻の孔から二本の煙をはき出しながら言った。「クリンストンさんが十一時にお見えになるという約束だったんですが、七分遅れておいでになりました。ノートンさんは、めんどうなことがいくつか起ってたいへん怒っておいででした――その原因のひとつはあなたがおいでになったことですが、そのあとで、姪御さんとちょっともめごとがあったんです。しかし、クリンストンさんは、フラン・セレーンとのもめごとはとくに誰かに訊かれないかぎり黙っているようにとおっしゃっていました。
まあ、こんなときにクリンストンさんが約束に遅れたのですから、それがどんなにノートンさんを刺激するか、おわかりでしょう? 例のつめたい憤怒《ふんぬ》にかられていました。冷淡な、てきぱきした態度や、おそろしく不愉快らしい様子からそれがわかりました。
クリンストンさんがどんな話をなすったのか、僕は知りません。だいぶ激しい意見の相違があったようです。はっきり言えば、クリンストンさんも、お帰りになるときにはかなり怒っておいででした。あの方はパーレイ判事に、十一時半までにはかならず引き上げるからと約束なさっていたのですが、ちょうど十一時半ごろ奥の事務室から出てこられました。
ノートンさんは、クリンストンさんを引きとめようとしたんですが、クリンストンさんは拒絶しました。そして、パーレイ判事に十一時半には引き上げると約束したからと言ったんです。すると、ノートンさんは、きみは私を七分間も待たせておいて何とも思わないのに、地方判事のほうはたったの十秒も待たす気にはならないのか、と皮肉をおっしゃいました。とにかく怒っていましたね。まったく、相当な怒りかたでしたよ。
クリンストンさんが出て行って、一、二分と立たないうちに、ノートンさんが出てこられ、僕に急いでクリンストンの家へ行って書類をとってきてくれとおっしゃいました。その書類は、おふたりが議論していたある契約書で、クリンストンさんはそれをノートンさんに送ると約束していたのですが、急にノートンさんは待ってはいられない、すぐにほしいと言い出したのです。それで、僕に、運転手のディヴォーを起して、クリンストンの家へ車で行き、契約書をとってこいと命じました。
ちょうどそのとき、クリンストンさんとパーレイ判事が車を出そうとするところでした。もう車は動き出していたと思います。
そのときとつぜんノートンさんは、僕がクリンストンさんと同じ車で行けば、すこしは時間の節約になると思いつかれました。それまで運転手のディヴォーを呼んで僕を送らせるつもりだったんですが、クリンストンさんの家へ行っても、書類をとりだしてもらうのに多少時間がかかるだろうし、それに運転手が着換えたり車を出したりするのにも時間がかかるだろうというわけで、僕をクリンストンさんといっしょに行かせれば時間の節約になると考えたんですね。何も意味はなかったんですがね。ディヴォーに車で送ってもらったって同じことだったでしょう。ただ、この話で、ノートンさんがどんなに興奮しておられたか、よくおわかりでしょう。まったく、かんかんでしたからね。
そこでノートンさんは事務室の窓を引き上げて、二階からクリンストンさんにちょっと待ってくれと呼びかけたんです。よくはわかりませんが、クリンストンさんは車から出て、引き返し、窓の下に立ってノートンさんの言うことを聞いてたようです。ノートンさんが秘書をいっしょに乗せて行ってくれないかと訊くと、クリンストンさんが、パーレイ判事に都合を訊いてみるからと答えるのが聞こえました。
僕はすぐ、判事さんが反対するわけはないと思ったので、大急ぎで階段をかけおりました。ノートンさんの雲行きからして、すこしでも時間を無駄にしたくなかったのです。
階下《した》におりてみると、クリンストンさんはもうパーレイ判事の承諾をえたらしく、窓の下に立ってノートンさんと話をしていましたが、僕を見ると『急いでくれ、グレイブス。パーレイ判事に十一時半にはここを引き上げると約束してあるし、判事はえらく帰りを急いでいるんでね』と言いました。そこで僕はすぐに走って行って車に飛びこみました。クリンストンさんが乗るより早かったと思いますが、あるいは同時だったかもしれません。とにかくクリンストンさんも、ほとんど同時に車に乗りこみました。
パーレイ判事はエンジンをかけたまま待っていて、ドアがしまると同時に発車させました。僕はうしろの席に乗りこみ、クリンストンさんは判事といっしょに前の席に坐っていました。
あの丘の斜面を登る道が曲がりくねっているのをごぞんじですね。そこでまあ、どうしてそんな気になったかわからないのですが、僕はふり返って、車の窓ごしに家のほうを見たわけです。ちょっとした好奇心だったのかもしれませんし、何か起こるという予感めいたものがあったのかも知れません。
とにかく、僕はふり返って車のうしろの窓から外を見ていたのです。すると、ちょうど車があの書斎の見えるカーブをまわったとき、書斎の中にいる人たちの姿が見え、ひとりの男が棍棒をふり上げていたのです」
「何人いたのだね?」とペリー・メイスンは尋ねた。
ちょっとの間、ドン・グレイブスは返事をしなかったが、じきに大きくひと息ついて、ゆっくりと言った。「間違いのないのはひとりだけですね。つまり、ひとりの人間が腕をふり上げて、べつの人間をなぐるところが見えたのです」
「それは間違いないね?」
「ええ、間違いありません」
「ほかにも誰かいた|かもしれない《ヽヽヽヽヽヽ》のだね?」とペリー・メイスンは訊いた。
ドン・グレイブスは、非常に低い声で言った。「僕があなただったら、その問題には立ち入らないでしょうね」
「どうして?」とメイスンはとつぜん大声で訊いた。
「どうも僕の口からは言いたくないことですが」とグレイブスは居心地《いごこち》悪そうにもじもじしながら言った。「それをあまり|せんさく《ヽヽヽヽ》すると、あなたにも、あなたの依頼人にも、べつに有利でないということがわかるでしょう」
「わかったような気がするね」とメイスンは静かに言った。
グレイブスは、ほっとしたように溜息をもらした。
「むろん、きみはかなりはなれたところにいたわけだね?」とメイスンは訊いた。
「ええ、かなりはなれていました」とグレイブスは答えた。
メイスンはじろじろと青年を見つめた。だが、ドン・グレイブスは視線をそらしたままだった。
「どの程度に見えたのだね?」メイスン追及した。
グレイブスは大きくひと息ついてから、急にしゃべりだした。「ひとりの人物が、もうひとりの人物を見おろすように立って、なぐっているところが、はっきりと見えたのです」
「その相手の人物が倒れるところも見たのかね?」
「見なかったようです。かなりはなれていたし、車がカーブを切るときにちらっと見ただけなんですからね」
「部屋のなかにいたのは二人|だけ《ヽヽ》だったと言えるかね?」
「いや、それはむろんだめです。部屋のなか全部が見えたわけではありませんからね」
「では、部屋のなかの二人の人物を見ただけだとは言えるかね?」
「そう言ったんですよ」グレイブスはそう言ってから、ちょっと間をおいてつけ加えた。「警察には」
ペリー・メイスンは低い声で言った。「グレイブス君、おたがいに誤解のないようにしよう。もしきみが、部屋のなかにほかの人物がいたことを示すようなものを何か見たとすればだね、きみはその人物をはっきり確認できるようなものを見たのか?」
グレイブスは、いかにも気の進まない様子で、非常に静かにしゃべりはじめた。「メイスンさん、まあ正直なところ、あんな一瞬のうちに見た印象なんていうものは当てにはなりませんよ。写真をとるのとはちがいますからね。しかしそれでも、僕の頭にきざみこまれていることがあるんです。警察には言わなかったことですが――。まあ、まったくのないしょ話としてあなたには申し上げましょうか。あの部屋にまだほかの人物がいたとすれば、そして僕がそんな人物を見たとすれば、|その人物は女でしたよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
ペリー・メイスンはじっとグレイブスを見つめていたが、やがて訊いた。
「その女が誰だか見わけがついたかね?」
「僕は、女を見たなんて誰にも言ってないんです」とグレイブスはゆっくりと言った。「それに、誰だったかなんて言いたくありません」
「しかし、きみは、そんな人物は見なかったということを、きっぱり言い切ってきたんだね?」
グレイブスはメイスンと眼をあわせて言った。「メイスンさん、僕はほんとうのことを言おうとつとめてきたのです。いままでのところ、そんな質問をされるたびに、質問の的がべつの方向にそれるように答えてきました。おわかりでしょうが、証人台に立ったら、もしそんなことになったら、僕は何でも正直に答えますよ。しかし、僕たちがみんな、あなたの依頼人にたいして非常に忠実だということもおわかりになってください」
「というと?」とメイスンは訊いた。
「ミス・セレーンのことですよ」
「そうすると」とメイスンは、おだやかすぎて不気味《ぶきみ》なくらいの口調で言った。「その忠実というやつで、あの娘を殺人容疑からまもろうという気になるわけかな?」
「いや、そうじゃないんです」とグレイブスは率直に言った。「でも、たしかに、取調べに対して彼女の名前を出さないようにしようというぐらいの気にはなりますね。もっとも、彼女を調べたところでどのみち失敗に終るだけのことですがね」
「それはまた、どういうこと?」と弁護士は追及した。
「つまり、ミス・セレーンはあの時間には家にいなかったのだから、とうぜん、あの部屋にいることもできなかったはずですよ」
「では、きみは女を見なかったのかね?」
「そうも言いませんでしたよ」とグレイブスは言った。「僕は、もし僕が見たあの部屋にもうひとりべつの人物がいたとしたら、それはおそらく女だったろうと申し上げたんです」
「なぜそんなことを言うのかね?」
「そりゃ、いくぶんぼんやりした印象ですけど、女の頭と肩が窓の片隅にちらっと見えたような気がするんです。でも、もちろん間違いないというわけにはいきません。僕の視線は腕をふり上げた男にひきつけられていたのですから」
「もうひとつ訊こう」とメイスンは言った。「警察の連中は、きみが見たことについて訊問したとき、きみの返答を速記にとっていたかね?」
「ええ」
「それで、そのとき女のことについては何も言わなかったんだね?」
「ええ」
メイスンは、ゆっくりと言った。「ねえ、グレイブス君、この事件には非常に奇妙なことがあるじゃないか。きみもクリンストンさんも、僕の依頼人が何か危険な立場におちいるようなことをほのめかしている。ところが、明らかに彼女は、その時間にはこの家の近くにはいなかったんだよ」
「そうなんです」とグレイブスは力をこめて言った。「ここにはいなかったんです」
「では、危険におちいりようがないじゃないか」
「ええ、そうなんです。僕が強調しようと思うのもその点です。さらに僕は、どんなあてこすりが言われるかもしれないので、それに対しても彼女をまもってやろうと思うのです。なにしろ、彼女にはおあつらえむきの動機がありますからね」
「奇特なことだ」とメイスンはそっけなく言った。「だが、グレイブス君、偽証罪《ぎしょうざい》だけは犯してもらいたくないね。もちろん、きみにはおわかりだろうが、もしきみが例の女のことにふれないであの話を数回くり返し、それが速記にとられたり、新聞にのったりし、その後になって証人台に立たされ、あの部屋に女がいるのを見たかとか、女がいるような印象をうけたかなどとこまかく訊かれた場合に、前の話を変えるような返答をすると、僕の依頼人にはたいした害もないだろうが、きみにとっては、あまりおもしろくない結果になるよ」
グレイブスは、もったいぶって言った。「ミス・セレーンの名誉をまもるためだったら、多少の犠牲は覚悟の上です」
「それに」とペリー・メイスンはおどかすように言いつづけた。「きみがおしゃべりしすぎて、あの部屋に女がいたなんてことまで言いだしたら、僕がたたきのめしてやるぜ」
「どうぞ」とグレイブスはそくざに答えた。
「それに」とメイスンはきびしい声で言った。「僕がたたきのめすと言ったら、ほんとうにたたきのめしてやるよ」
そのとき、ドアが開いて、ひとりの刑事が部屋のなかをのぞき、ちょっとメイスンを見つめてから、グレイブスに視線を移して、さしまねいた。
「グレイブスさん、もう一度、二階へきてもらいたいんだ。二、三訊きたいことがある。さっき供述《きょうじゅつ》したとき、きみが答えをそらしたところがあるらしい。きみの供述書をよく読んでみて、部長がそう言うんだよ」
グレイブスは急に気づかわしげな眼つきになって、メイスンのほうを見た。
「答えるのがいやなわけじゃないだろう?」と刑事が尋ねた。
「ええ、ちっとも」とグレイブスは言って、日光浴室から出て行った。
ドアが閉《し》まってグレイブスと刑事の姿が消えると、ペリー・メイスンはポケットから一枚の紙をとりだし、それをひろげて考えこみながら調べはじめた。それは、フラン・セレーンが書いた四万ドルの約束手形だった。
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その女は、日光浴室のドアからそっと入ってきて、ペリー・メイスンをじっと見つめた。そして、あちこち歩きまわっているメイスンの姿を眼で追いながら、彼の動作をひとつも逃《のが》さず注視していた。
彼女の見つめ方には、はげしい熱意がこもっていた。まるで新しいスターの弱点とともに長所を見てとろうとする映画監督のようだった。彼女はずんぐりした体つきだったが、たいして肥っているわけでもなかった。筋肉が発達して骨が太く、シンの強そうな、人なんか頼らないやり手の女という感じで、その眼には貪欲な生命力が輝いていた。
顔立ちは醜《みにく》くごつごつしていた。顎はまるく重そうにたるみ、小鼻は大きく横にふくらんでいた。唇は薄くはなかったが、|そり《ヽヽ》がなく、口は鼻の下に真一文字に結ばれて、両端の小鼻からつづく皺《しわ》をきざんでいた。額は高いほうで、眼は黒くいきいきとしており、大きな黒いガラス玉のようにきらきら光っていた。
ペリー・メイスンは、女の存在に気づかず、なおしばらく歩きまわっていたが、向きを変えたとたんに女の姿が眼に入ると、急に立ちどまった。
メイスンは、ゆるぎのない|まなざし《ヽヽヽヽ》でじっと女を見つめたが、それでいて女の様子を頭のてっぺんから足の先まですっかり見きわめているようだった。
女は言った。「あんたが弁護士さんね」
「ええ、ペリー・メイスンですよ」
「あんたと話がしたいのよ」
「あなたは誰方《どなた》です?」
「ミセス・メイフィールドです」
「それだけではどういう方かわかりませんね、メイフィールドさん」とメイスンは言った。「もっとくわしく説明していただけませんか?」
「ここに住んでいます」
「なるほど」とメイスンは感情を外にあらわさない口調で言った。
「そうなんですよ。主人といっしょなんです」
メイスンは、女の広い肩、太い腕、ごつごつした体の線を包んでいる黒い服を見つめた。
「家政婦ですね?」とメイスンは訊いた。
「ええ」
「ご主人は?」
「庭師です。ほかにもいろいろと雑用をしています」
「わかりました」とメイスンはにこりともしないで言った。「で、僕に話したいことは?」
女は三歩ほどメイスンのほうに歩みより、声を低くして言った。「お金のこと」
何かその口調にひそむものにつられて、弁護士は女の肩ごしに眼を走らせて戸口のほうを見た。それから女の片腕をつかみ、部屋のすみへひっぱって行った。
「金のことで僕と話し合いたいというのは、いったい何のこと?」と彼は女に尋ねた。
女は、低い、緊張した声で言った。「あんたは弁護士でしょう。物好きで仕事をしているわけじゃないわね。あんたはミス・セレーンの代理をしている。そしてあの娘はやがて大金を手にいれる。そうなったときに、あなたもたっぷりと分け前がもらえるわけね。わたしも、すこしお金がほしいの。あんたからも、あの娘からも、いくらかもらいたいのよ」
「どういうわけで、あの娘さんと僕から金をもらおうなんて考えるんだ?」
「それはね」と女はゆっくりと答えた。「もしわたしの手にお金が入らなければ、あんたたちにも入らないことになるからよ」
「それはまた、どういう意味?」
「いま言ったとおりの意味だわ。このことでわたしを除《の》け者《もの》にしようったって、そうはいかないからね」
メイスンは笑った。まったく機械的な笑い方だった。
「ねえ、メイフィールドさん」と彼は言った。「こりゃ説明していただかないと困りますな。今夜はやつぎばやにいろいろなことが起り、僕はセレーンさんに呼ばれてやってきたんだ。僕が何をしなければならないのか、まだ自分でもよくわからないけれど、たぶん財産処理をまかされることになるでしょう。遺言があったかどうかも知らないのだが」
「そんなことはどうでもいいのよ」と女は言った。「わたしの言ってるのは、ノートンさんの財産のことじゃありません。信託金のことですよ」
メイスンは驚いたふりをしたが、その眼は根気よく油断のない、きびしい光を放っていた。
「ほう、その問題なら、何か月も前に分配判決ですっかり片がついてますよ。セレーンさんは、その金を手に入れるのに弁護士など雇うにはおよばない。信託の規定どおりに法廷の命令で彼女に分配されるんですからね」
「いくらそんな話をしたってわたしはちっともだまされないよ」
「いったい、何のことを言ってるんです?」
「気をつけないとあの娘は一文だって手に入らなくなるということよ」と女は言った。
「それで、あんたは彼女が気をつけるのを手伝おうと言っているわけか?」とメイスンは慎重に言った。
「あんたが何を言うつもりかわからないけど、わたしの考えてることはわかったらしいね」
女はにやにや笑って、太い腰に両手をあてがい、顎《あご》を上に突き出すと、まばたきもせずにじっとメイスンの顔を見まもった。
「もっとくわしく話したらどう?」とメイスンは言った。
「あの娘は結婚してる」と女は言った。
「ほう」
「そうなのよ。重大な意味が出てくるでしょう?」
「いまとなっては、べつに」とメイスンは言った。「あんたの言うことがほんとうであるような場合には、たしか、ノートンさんには、元金のほんの一部をセレーンさんに与え、残りを慈善団体に寄付して信託を打ち切りにする権利があった。しかし、それはまったくあの人の自由な判断にまかされていたことだ。あの人はその判断を行使しないで死んでしまった。だから、信託は終ったことになる」
「ノートンさんが信託財産のことで何もしなかったと思いこまないほうがいいわ」と家政婦は言った。
「何かしたのかね?」とメイスンは訊いた。
「きのうの晩、あんたが帰ったあとで、フラン・セレーンとノートンさんが大喧嘩をしたとしたら、どう?」と女は、直接メイスンの質問に答えないで、言った。「それから、そのときノートンさんがあの娘に、おまえには五千ドルだけやって、残りはすっかり慈善事業に寄付してしまうと言ったとしたら、どうなるかしら?」
「そう言ったの?」
「そうだったとしたらどうなるかって訊いているのよ」
「じゃあ、そう言ったという証拠はべつにないわけだな?」
「いまはないわ」
「どういう意味だね?」
「もしもそんな証拠があるとしたら、どうなるかしら?」
「そのときは、そのときのことだね」
「そう。わたしと取り引きしなければ、そうなるわよ」と女はかみつくように言った。
「まずそんなことはないね」と弁護士は言った。「いいかね、メイフィールドさん、セレーンさんにたいして何かあてこすりたいことがあるのなら、事件の状況にあわせてよく証拠だてられるようにやらなければいけないな。この事件の証拠では、セレーンさんは十一時前に家を出て、警察の連中がきたときにはまだ帰っていなかったことがわかってるんだ」
「ええ、証拠はそうなってるわね。せいぜい、その証拠が変わらないようにしてほしいわ」と女は言った。
「どうもまだ、あんたの言おうとすることはわからない」
「フラン・セレーンに本音をはかせて、ごまかしをやめさせたら、わかることでしょうよ。わたしはなにも、こんなところで弁護士先生のいばりくさったお話を聞くつもりはないわ。わたしはただ、自分の望みを話したのよ。なにか脅迫したりするほど馬鹿じゃないわ」
「言いかえれば、金がほしいわけか」
「そうよ」
「大いに結構。誰しも金はほしいからな」
「わたしの言いたいことはわかったわね。もっと証拠がほしいんだったら、人殺しの起った時間にロブ・グリースンが何をしていたか、調べてみることね」
「グリースンだって?」とメイスンは眉をひそめていった。「グリースンはこの家にいもしなかったんだ」
「あら、いなかったの?」
「いたのかね?」
「フランシスさんにお訊きなさい」
メイスンは急にふりむくと、足を広くふんばって、じっと女を見つめた。
「いいかね、メイフィールドさん」とメイスンは得意の法廷口調で言った。「いったいあんたは気がついているのかどうか知らないが、あんたはたいへんな重罪を犯すことになるかもしれないんだ。いろんなことをほのめかして、僕やセレーンさんをおどかして金をまきあげようとすれば、脅喝《きょうかつ》という罪を犯すことになるんだ。いまのような場合には、非常に重い罪になりかねないな」
女のガラス玉のような黒い眼は、敵意の光をきらきら放ちながら、喰い入るようにメイスンをにらみつけた。
「おどかしたって、ちっとも恐くないわ」と女は言った。
「じゃあ、僕も」とメイスンは言った。「あんたにおどかされても、すこしも恐くないと申し上げておこうか」
「わたしは、あんたをおどかしてなんかいないわ」と彼女は言った。「ただ、確かなことをお話しただけよ」
「何のことだ、それは?」
「わたしがお金を手に入れようとしているってこと、さもなければ、誰の手にもお金は入らないってことよ」
「誰の手にも?」
「そう、あんたにも、あの娘にもね」
「そりゃ、ついてないな」とメイスンはそっけなく言った。
「そうでしょう? そのうえ、あんたが自分の利害もわからないような人で、わたしの言うことをはねつけたとしても、わたしにはお金の払い手が出てくるでしょうね。たとえば、どこかの慈善団体でも」
「まったく、あんたの話はわからないな。何がお目当てなのか、もっとくわしく話してくれなくては」
「そんな手には乗りませんよ、弁護士先生。まあ、せいぜい自分で調べてみることね。無知な女を相手にしているなんて思わないでちょうだい。フランシス・セレーンと話し合ってみることね。それからまた相談しましょう」
「セレーンさんとはもう話し合ったよ」
女は、耳ざわりな、毒々しい笑い声を上げた。
「あら、そんなことないでしょ。あんたはあの娘の話を聞いただけよ。フランシス・セレーンときたら、たいへんな嘘つきなの。聞いてたってだめよ。どんどん話しかけなくちゃ。そして怒らせることね。|それから《ヽヽヽヽ》、あの娘の言うことに気をつけるのよ」
しゃべり終ると、女はくるりと背を向け、活発な足どりですばやく部屋を出て行った。まったくエネルギーのかたまりのような女だった。
ペリー・メイスンは、女が見えなくなるまで、そのがっちりとした背中を見つめていた。その眼つきは何か考えこんでいるようだった。
メイスンがそうやって立っていると、するどい灰色の眼をして、もじゃもじゃの白髪頭の男が、隣室をぬけて日光浴室の戸口のほうへ歩いてきた。その態度は重々しく威厳にみち、足どりはゆったりとして、表情はおだやかに落着きはらっていた。
ペリー・メイスンは、その男に会釈《えしゃく》した。
「やあ、パーレイ判事、僕はあなたの法廷で弁護に立ったことがありますよ」
判事は、鋭いまなざしを弁護士にすえて、うなずいた。
「ペリー・メイスンさんだね。こんばんは」
「もう、おはよう、ですね。じきに夜が明けますよ」
パーレイ判事は顔をしかめて言った。
「私は、急いで家へ帰るつもりだったのだ。まったく疲れきってしまったよ」
「警察も、だいたい捜査は終ったようですね?」とメイスンは言った。
「そうらしい。明らかに犯人をつかまえてしまったのだからな」
「ディヴォーという男ですね?」
「そいつだ。どうもへまなことをやったものだな」
「僕はくわしい話は知らないんですが」とメイスンは、相手の話をさそい出すように言った。
パーレイ判事は、寝椅子の一つに腰をおろすと、長々とからだをのばし、疲れきったように溜息をついた。そして、チョッキのポケットから葉巻を一本とり出した。
彼は注意深く葉巻のさきを切りとり、|外巻き葉《ラッパー》の香りをかいでから、つぶやくよう言った。
「失礼しますよ、メイスンさん。もう、これっきりになってしまったし、どうしても吸いたいものだから」
「どうぞ、ご遠慮なく。どうせ僕は紙巻しか吸いませんよ」
「なるほど」とうなずいてから、判事は慎重な口ぶりで重々しく話しはじめた。「もちろん、犯人を狼狽《ろうばい》させたのは、われわれの車が向きを変えてまっすぐこの家へ引き返してきたことだ。犯行をくらますのに三十分やそこらの余裕は当てにしていたわけだ。
ところが、われわれが引き返してくる物音を聞いたときには、ベッドにもぐりこんで酔いつぶれたまねをするのがやっとだったのだ。ウィスキーくさい息をぷんぷんさせて、なかなかみごとな酔っぱらいぶりだったよ。
いや、実際に、酔いつぶれるほど飲んだのかもしれないな。ウィスキーなら、短時間に相当飲めるわけだからな」
ペリー・メイスンは微笑して言った。
「そうですな、飲みしろさえあれば」
判事はその言葉に笑い顔も見せず、裁判官らしい、値ぶみするようなまなざしでメイスンを見つめた。
「うん、飲みしろはたっぷりあったよ」
「運転手でしたね?」
「そうだ、運転手だ」
「どこかへ出かけるところではなかったのですか?」とメイスンは訊いた。「ノートンさんが電話であの男を呼び出して、車で使いに行くように命じたのではありませんか?」
「わたしの解釈が正しいとすれば、そういうことになるな」とパーレイ判事は言った。「ノートンは秘書をクリンストンの家にやって何か書類をとってこさせようとした。あの運転手は秘書を迎えに行くことになっていたのだ」
ペリー・メイスンは鋭く値ぶみするように判事を見つめて言った。
「では、事件の経過を考えてみようじゃありませんか。ノートンさんが、あなたの車にグレイブスを乗せて行ってくれと頼んだというのは確かですね?」
「まちがいない。というのは、ノートンはクリンストンに向ってそう言ったのだが、もちろん、私にも聞こえたからだ。彼は窓からよびかけていたよ」
「わかりました。では、そこからはじめましょう。グレイブスはあなた方お二人のところへ行くために階下《した》へおりて行った。それからノートンさんは運転手を呼んだと考えていいわけですね。おそらく、事務室へこいと言っただけでしょう。すると、運転手がやってくるまでに、一分や二分はかかったはずです」
「そうだろうな」とパーレイ判事は、うんざりしたように言った。「だがねえ、きみ。そうやっておさらいをしてみたって何も得るところはなさそうだが」
「いやいや」とメイスンはほとんどとらえどころのない調子で言った。「僕はただ、ふたりにどのくらい喧嘩をする時間があったのだろうか、と考えているだけですよ」
「と言うと?」とパーレイ判事は急に興味をそそられた様子で尋ねた。
「もしも、あなたの車が丘の上に着くまでに殺人が行われたものとすれば、そして、それまでの時間にノートンさんが運転手を呼んで争いが起ったものとすれば、どうしてもその争いは前々から続いていたということになりますね」
「そうとはかぎらんよ」と判事は言った。「争いは、いきなりその場でだって起こりうるさ。それに実際問題として、あの二人の間には前々から争いがあったとすれば、ノートンがディヴォーをそのまま雇いつづけていたとは考えられないじゃないか」
ペリー・メイスンの目が輝いた。
「すると、あなたは予謀のチャンスはまずなかった、と考えておられるわけですね」
パーレイ判事はいぶかしそうにメイスンを見つめて訊いた。
「いったい、何をねらっているのかね?」
「べつに何も」とメイスンはあいまいに答えた。
「法律的な観点からすれば」とパーレイ判事は、なにかの判決でも言い渡すような口調で言った。「予謀と見なすのに何も特定の時間など必要ではない。一瞬前の予謀でも第一級殺人罪を構成するには充分なのだ」
「なるほど」とペリー・メイスンは言った。「では、べつの角度から事件を見てみましょう。僕が聞いたところでは、窓がひとつ、こじ開けられ、その下に足跡が残っていたということですが、これは強盗が入ったことを示すようですね」
「みんなでっち上げだ。警察はもう立証している」
「そのとおりです」とメイスンは言った。「しかし、これだけの手がかりを仕組むのには多少の時間がかかったはずです。そこで、僕が問題にしようとしているのは、こういうことが仕組まれたのは殺人の前なのか後なのか、それを示す証拠は何もないということです。警察では、殺人の後だったと考えたがっているようですが、どうやら、前だった可能性もあるようですね」
パーレイ判事は、額に皺《しわ》をよせて考えこみながら、もやもやと立ちのぼる葉巻の青い煙ごしにメイスンを見つめた。
「そうだとすれば」と判事は言った。「ノートンが運転手を呼んだなんてことは、まったく無関係になってしまうぞ。運転手は、ノートンの書斎に入ろうとして、われわれの出発を待ちかまえていたことだろう」
「いよいよ事態の核心《かくしん》に迫りはじめましたね」とペリー・メイスンはうなずきながら言った。
パーレイ判事はじっと葉巻のさきを見つめていた。
メイスンは低い声で言った。「殺人が行われた部屋にはお入りになったんでしょう?」
「うん、警察が部屋を見るのを許可してくれた。判事という身分のおかげで、何でも勝手にさせてくれるよ」
「では、よろしかったらお尋ねしたいんですが、何か変ったことに気づかれましたか?」
こう質問されて、パーレイ判事はいかにもわが意を得たという様子だった。彼はゆったりと椅子にもたれかかると、ときどき手に持った葉巻で身ぶりをいれながら、落着いた口調で話しはじめた。
「ノートンは、どうやら、デスクの前に坐っているところをうしろからなぐられたらしい。デスクの上へうつ伏せに倒れ、頭を叩きつぶされたっきり、身動きひとつしていない。電話が彼の左側にあった。デスクの上には何かの書類と、封筒が一つあったと思う。それから、何も書いてない白紙が一枚と、盗まれた自動車の保険証書があったな」
「ほう」とペリー・メイスンは、のどを鳴らすような声で言った。「それでは、盗まれた車には保険がかけてあったんですね?」
「もちろん、かけてあった」と判事は言った。「当然のことだろう」
「その証書が盗まれた車のものだったことは間違いありませんか?」
「間違いない。わたしが自分で調べたし、警察も調べた。証書はビュイックのセダン、6754093のものだった。完全危険保護の証書だったな」
「判事さん、あなたは生前のエドワード・ノートンをごぞんじでしたか?」
「いや、会ったことはない。ただ、ノートン氏といっしょに仕事をしているクリンストンとはごく親しいので、ノートン氏のことは、風変わりな性質のことまで彼の口からしょっちゅう聞かされていた。だから、まるで私自身あの人をよく知っていたような気もする。だが、会ったことはない。いささか近よりにくい人だったらしいし、近づきにならざるをえないような用件もなかったからな」
ペリー・メイスンは、とつぜん向き直ってパーレイ判事の顔を見た。
「判事さん、エドワード・ノートンは喧嘩の末に殺されたのではありませんよ」
パーレイ判事の眼が動いた。
「また時間の点を問題にしているわけかね?」と彼は言った。「喧嘩をするようなひまはなかったと?」
「それもあります」とメイスンは言った。「ディヴォーには、あの部屋へ行って、ノートンさんと喧嘩をし、人殺しをするほど逆上する時間はなかったはずですよ。そのうえ、残されていた手がかりが、強盗に見せかけるためのでっち上げだとすると、この殺人の動機としてそれがいちばん筋道が立つことを、犯人自身よく心得ていたことになります」
パーレイ判事は落着かない様子でからだを動かした。何か意見をのべたいのだが、それも気が進まないらしかった。ペリー・メイスンは、空を舞う鷹がなだらかな丘の中腹を注視するように、じっと判事を見まもった。
「いやどうも」とパーレイ判事はやっと口を切った。「まったくみごとな推理を立てられた。しゃべってはならないはずだったのだが、あんたはもうごぞんじのようだから、言ってもかまわんだろう。あんたの疑惑、というより推論だな、それは正しいのだ」
「では、動機はやはり物盗りだったのですね?」
「そう、物盗りだった」
「金ですか?」
「非常な大金だ。ノートン氏は殺されたときに、現金で四万ドル以上もっていた。その金は内ポケットの財布に入れてあったのだが、死体が発見されたときには、ポケットの中はすっかりかきまわされていて、財布はなかった。つまり、内ポケットからとり出され、|から《ヽヽ》になって死体のそばに落ちていたのだ」
「ほかのポケットもかきまわされていましたか?」
「うん、ぜんぶ裏返しに引っぱり出されていたよ」
「警察は、その金をいくらかでも見つけましたか?」
「それはまあ、もうすこししなければわからないことじゃないか、弁護士くん」とパーレイ判事は言った。「しかし、あんただからこっそり打ち明けてしまうが、じつは見つけたのだ。警察は、ディヴォーのズボンのポケットから千ドル紙幣を二枚見つけた。これは紙幣ナンバーを調べて、ノートンが持っていた現金の一部と確認された。それでもディヴォーは、どうしてそんな金が自分のポケットに入っていたのかまるでわからない、と泣き落としの手で馬鹿なことを言っていた」
「ノートンさんがそんな大金を持っていた理由はわかったんですか?」
パーレイ判事は何か返事をしかけたが、ふと思いとどまった。
「ねえ、弁護士くん」と判事は言った。「あんたに話してもいい情報はこれだけだろうな。けっきょく、この事件における君の利害関係は、めざす方向は警察と同じでも、むろん同一というわけではないからね。私に与えられた情報は、司法上の地位ゆえに秘密に知らされたものが大部分だ。それをあまり軽率《けいそつ》にまきちらしてはいかんと思うよ」
判事の重々しい姿をながめながら、弁護士の眼には、かすかに笑いが浮かんだ。パーレイ判事の態度には、少なからず尊大ぶった感じがただよっていた。
「もちろんですよ、判事さん」とメイスンは言った。「あなたの地位はよく理解し、尊重しなければなりません。だが、僕も単なる好奇心にかられてこんなことを言っているとは思わないでください。僕はこの事件を頭の中でまとめ上げようとしていたのです。利害関係者から遺産問題を引き受けるように頼まれているので、それならば完全な情報がほしいと思ったのです」
「むろん、そうだろうな」とパーレイ判事はうなずきながら言った。「それだからこそ、私はできるかぎり内密の情報をお話ししたのだ。しかし弁護士くん、ぜったいに秘密にねがいますぞ」
「ええ、ええ、もちろんですとも」とペリー・メイスンは言った。その声にはかすかながら冷笑の響きがあった。とたんに判事がきっとなって顔を上げたが、弁護士は、ものやわらかな、そしらぬ顔をしていた。
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陽光が部屋の窓からさしこみ、エドワード・ノートンの大きなデスクを照らしていた。
警官がひとり、椅子の一つに寝そべるように坐りこみ、巻タバコをだらりとくわえながら、手帳に向って鉛筆をかまえていた。故人の有能な秘書ドン・グレイブスは書類を点検していた。
部屋の中の調度は、殺人のあった夜とまったく同じ位置を占めていた。警察の命令で、現場にはできるだけ手をつけないことになっていた。
ペリー・メイスンは、利害関係者の代理をする弁護士として、殺された男の業務状態の調査に従事していた。
金庫の前に立っていたドン・グレイブスが、メイスンのほうをふり向いた。
「金庫のこの仕切りのなかには、クリンストン・アンド・ノートン商会の業務に関する書類がぜんぶ入っています」
「なるほど」とメイスンは言った。「君はその書類のことはくわしく知っているのだろう?」
「ええ、そうです」
「だいたいのところ、共同事業の財政状態はどうだね?」
「いくぶん不利な投資も、二、三ありましたし、ちょっと大きな欠損を招いた取り引きもいくつかありました。その額は百万ドルほどにものぼるでしょう。でも、それ以外では順調でした。ほうぼうの銀行に八〇万ドルほどは預金してあったと思います。正確な数字をお見せしましょうか?」
「そうしてくれたまえ」とメイスンは言った。「財政状態のあらましをのみこんでおきたい」
グレイブスは金庫から一冊の帳簿をとり出して、数字の欄を読み上げた。
「帳簿面は、僕が思ったよりいくらかいいようですね。シーボード第二ナショナル信託銀行に八七万六五四二ドル三〇セント、農商ナショナル銀行に二九万三九〇四ドル五〇セントの残《ざん》があります。商会の負債となるものには、ホイーラー信託貯蓄銀行あてに九〇万ドルの約束手形が出ています。これには、いくらか利子がつくでしょうね。それから、この銀行には七〇万五〇〇〇ドルの預金があります」
「信託基金のほうはどうかな?」とメイスンは訊いた。「フランシス・セレーンのために信託されている基金だが」
「あれはすばらしい状態ですよ」とグレイブスは言った。「株、公社債、証券などで百万ドル以上あります。この台帳にそのリストがありますが、ノートンさんはこの信託のことには非常に気をつかって、最後の日までちゃんと帳簿をつけておられました」
「信託のほうの帳尻には、何か負債があるかね?」とメイスンは尋ねた。
「いいえ、一ドルもありません。資産はまったく正味《しょうみ》のものです」
「では、ノートンさんの個人財産の帳尻はどうかな? つまり、クリンストン・アンド・ノートン商会以外の面は?」
「それについては、僕からはたいしてお話しできませんね」と秘書は言った。「ノートンさんは、個人の仕事はほとんど帳簿などつけないで、たいてい頭の中で片づけておられました。それに事実上、商取り引きはことごとく、クリンストン・アンド・ノートン商会のほうでやっていたと言えるのです。ノートンさん個人の仕事は、一流株券や債券の購入にかぎられていて、そうした証券類は安全金庫に預けておられました」
「遺言状はどうなっている?」
「ええ、ありますが、僕はどこにあるのか知りません。きっとこの金庫の中にでもあるのでしょう。だいたい全財産をセレーンさんに譲るということでしょうね。ノートンさんにはほかに近い親戚はないのですから」
そのとき、ひょいと警官が口を出した。その言葉は、口からもくもくとはき出されるタバコの煙の中から伝わってきた。「そのセレーンという娘にとっては、何から何まで結構な話だな。信託財産はまったく自由になるし、おまけにあの老人のほうからも、ひと財産ころがりこんでくるんだからな」
ペリー・メイスンは何も答えず、ドン・グレイブスに向って話しつづけた。
「遺言状はどこにあるのかな? 見つけ出せるかね?」
「個人的書類は大部分、この棚にしまってあったのですが」そう言ってグレイブスは、金庫の中の仕切棚の一つを指さした。
ペリー・メイスンは金庫の前に歩みより、一束の書類をとり出した。
「プルーデンシャル会社の生命保険証書、五〇万ドル、保険金受取りは遺産に入るな」
「ええ、まだ数通の生命保険証書が遺産に入りますよ。これは、相続税を払うだけの現金が遺産に入ってくるようにとられた処置で、証券類をみすみす安売りしなくてもすむわけです」
「うまい考えだな」と弁護士は言った。「なるほど、ここにもまだ保険証書がある。君、このリストを作ってくれたまえ」
メイスンは保険証書の下のほうから小さな厚紙表紙の手帳を見つけて引っぱり出した。
「そりゃ、何だ?」と警官が尋ねた。
メイスンは、ゆっくりと手帳をめくりながら言った。
「車の走行マイル数の記録らしい」
ドン・グレイブスが笑った。
「そうなんですよ」と彼は言った。「それもノートンさんらしいことの一つです。あの方はいつも、約束の時間はぴったりしていないと気がすまない人で、秒まできっちり合わせた時計を持っていました。それに、ご自分の車をどれか走らせると走行マイル数を全部記録しておられました。ガソリンやオイルを使うごとに、何マイル走ったか正確に知ろうとなさいました。きっと、どの車の維持費も一セントのはんぱまでぴったりわかると思いますよ」
「車は何台持っていたのかね?」とメイスンは無造作《むぞうさ》に手帳をいじりながら訊いた。
「三台です。あのビュイックのセダンと、フォードのクーペ、それにパッカードのロードスターです」
「そのパッカードは、セレーンさんがいつも乗っている車だね?」
「そうです。だから、この車の記録は何もないはずです。ノートンさんにしてみれば、残念しごくなことだったでしょう。セレーンさんはマイル数などぜったいに記録しようとしなかったですからね」
「なるほど」とメイスンは言った。「しかし、ほかの二台は正確に記録されてるわけだね?」
「そうです」
「セレーンさんがほかの車に乗ることはなかったのかな?」
ドン・グレイブスは、意味ありげな眼つきでちらっと弁護士を見た。
「ええ」と彼はそっけなく答えた。
ペリー・メイスンは無造作に手帳をめくって、ビュイックのセダンの記録が出ているページをさがし出した。そこにはいろいろなマイル数が書きこまれていた。そして、ビュイックが一マイル走るごとに書いたと思われるような、走った道路の種類、行先、平均速度などのメモや、その他いろいろなデータが並んでいた。それは、ただの一セントもゆるがせにしないで出費を計算しつくすことを誇りとする人間以外には、むだなこととしか思われない瑣末事《さまつじ》の羅列《られつ》だった。
ペリー・メイスンは、たいした興味もないようなふりをしながら、ページをめくっていたが、やがてビュイックの記録の最後の書きこみを見つけた。そこにはこう書いてあった――「一五二九四・三マイル。自宅より銀行まで。銀行到着、一五二九九・五マイル。銀行より帰宅、一五三〇四・七マイル。ディヴォーに命じてガソリン補充」
メイスンは日付に眼を走らせた。ノートンが殺された当日の日付だった。
「ノートンさんはなくなられた日に銀行へ行っているね」と彼は何げなくつぶやいた。
「へえ?」とドン・グレイブスは言った。
「そのとき、金を引き出したのかな?……ほら、殺されたとき持っていた現金さ」
「さあ、僕にはわかりませんが」
「どうしてあんな大金を現金で持っていたのか、知っている人はいないかね?」
「おりません」とグレイブスは力をこめて答えた。
「まるで、脅迫でもされていたみたいだ」とメイスンは、真一文字《まいちもんじ》の眉の下から粘り強いまなざしで秘書の顔を見つめながら言った。
ドン・グレイブスは表情を変えずにメイスンを見返し、まつ毛一本も動かさなかった。
「そんなことはないでしょう」と彼は言った。
メイスンはうなずいて、手帳をそっとポケットにすべりこませた。
「ちょっと待ちたまえ」と警官が言った。「その手帳は、ほかの書類といっしょにここにおいとかなくてはいけないんだろう?」
メイスンは微笑して言った。
「ああ、そうか。ときどき僕が持ち歩く手帳にあんまりよく似ているもんで、無意識にポケットへ入れてしまったよ」
彼は手帳を秘書に渡すと、立ちあがって、あくびをした。
「さてと、予備調査としては、必要なことはだいたい全部やったようだな。もちろん、いずれ、こまかい財産目録を作らなきゃならないがね」
「なんなら、いまでも作れますが」とグレイブスが言った。
「いや、だめだろう」とメイスンは、またあくびをしながら言った。「ここには点検しなければならないこまごましたものが山ほどある。そいつをいちいち当たるとなると、速記者を連れてきて筆記してもらったほうがよさそうだ。僕はこまかい仕事はきらいなんだ」
「遺言状は? もっとさがしましょうか?」
「いや、今日はもうやめにしよう。秘書を連れてきて、明日やるよ」
「わかりました。では、そういうことに」
警官が巻タバコの灰をはじき落としながら言った。「こっちはいつでもかまわないね。いつもこのへんにいるから」
「それは結構」とメイスンはそっけなく言うと、タバコに火をつけて、ぶらりと事務室を出て行った。
彼は広い階段を降り、玄関のドアを開けると、新鮮な朝の空気を吸いながら陽光を浴びてたたずんだ。誰にも見られていないことを確かめると、車寄せをはなれて、ドライブウェイに向い、さらにガレージのほうへ歩いて行った。そしてガレージの戸をそっと開けると、なかへ忍びこみ、ビュイックのセダンに近よった。その車は、いまは殺人容疑で拘留されている運転手の手で、見るからに手入れがよくゆきとどいていた。
ペリー・メイスンはセダンのドアを開けると、運転台へすべりこみ、計器板の明りをつけて、スピードメーターを見た。数字は一五三〇四・七マイルになっていた。
弁護士はちょっとその数字を見つめてから、計器板の明りを消し、運転台からすべり出て、注意深くドアを閉めた。そして、ガレージの外へ出て、誰か見ている者がいないか様子をうかがってから、玄関のほうへもどっていった。
玄関へ入ると、彼は家政婦に出くわした。
家政婦は黒い眼をぎらぎらさせながら、ぜったい負けるものかという顔つきでメイスンの様子をうかがった。
「おはようございます」と彼女は言った。
「おはよう」とメイスンは答えた。
彼女はちょっと声を低めていった。
「返事をいただきたいんです。できるだけ早く」
「そうするよ」と弁護士は言った。「ところで、セレーンさんはどこにいる? もう起きたかね?」
「ええ、起きてます。お部屋で食事中よ」
「すぐお会いしたい、と伝えてくれないか」
家政婦のぎらぎら光る黒い眼が、何かさぐるようにメイスンの顔を見まわしたが、メイスンはうんざりしたような眼つきで相手を見返した。
「訊いてきます」と家政婦は言って向きを変えると、すばやい精力的な足どりで娘の寝室に向って歩いて行った。
ペリー・メイスンは落着いた手つきでタバコに火をつけ、深々と味わうようにひと息吸いこんだが、それっきりタバコの先端から渦《うず》を巻いて立ち上る煙を見つめながら立っていた。
やがて、彼のほうへ近づいてくる家政婦の重い足音が聞こえた。
「セレーンさんはお食事をしながらお話をうかがうそうです」と家政婦は言った。「どうぞ、こちらへ」
弁護士は家政婦の後ろについて廊下を歩き、娘の部屋の前まで行った。
家政婦はドアを開けながら言った。
「こちらです。どうぞお入りください」それから小声でつけ加えた。「いいわね、返事を待ってますよ」
ペリー・メイスンは部屋へ入った。うしろで意地の悪い音をたててドアが閉まった。
フランシス・セレーンは絹のネグリジェを着て、ふっくらした椅子の上に身をくねらせて坐っていた。椅子のそばの小テーブルには、|から《ヽヽ》の皿がいくつかのった盆《ぼん》がおいてあり、その横には大きなコーヒー・ポットが押しやってあった。娘は右手の指先に湯気のたつコーヒー・カップを支え、左手には巻タバコを持っていた。
娘は、わざと無表情を装《よそお》っているらしい黒い眼で、弁護士の様子をうかがった。その顔にはほんのり紅がさしていたが、口紅はついていなかった。ネグリジェはあたたかさのためというより、外観のために選ばれたものらしかった。
「おはよう」とメイスンは、あからさまにネグリジェに眼を走らせながら言った。「すこしは眠れましたか?」
「やっと寝床に入る気になって、どうやら」と娘は、じっとメイスンを見つめながら言った。そして口からタバコをとると、コーヒー・カップの受皿のはじに灰を落した。
ペリー・メイスンは娘に近より、その受け皿に自分のタバコの灰も落とした。
「お金がほしいんでしょう?」と娘は言った。
「どうしてそんなことを言うんです?」とメイスンは尋ねた。
「弁護士って、いつもお金をほしがるものでしょ」
メイスンは、いらだたしげに手をふって言った。「そんなことを訊いてやしません。なぜ、そんな問題をことさらに持ち出すんです?」
「あなたのためにお金を少し用意したからよ」
メイスンの眼の光は冷たく用心深かった。「小切手ですか?」と彼は訊いた。
「いいえ、現金よ。わたしの財布をとってくださらないかしら? その化粧台の上よ」
メイスンは財布に手をのばして娘にわたした。娘は、メイスンに中味を見られないように財布を開け、ちょっと指先でなかをかきまわしてから、一束の紙幣をとり出した。
「はい、弁護料の一部よ」と彼女は言った。
メイスンはその金を受けとった。手の切れるような千ドル紙幣ばかり、十枚だった。彼はちょっと相手の顔を見てから、紙幣をたたんでポケットにしまった。
「たしかに」と彼は言った。「ところで、この金はどこで手に入れたんです?」
娘の眼に急に感情がこもった。「そんなこと、よけいなお世話よ」彼女はかみつくように言った。「あなたはわたしの権利を代行するために雇われた弁護士よ。わたしの私事にまで首をつっこむことはないわ」
メイスンは両足をふんばって立ち、怒っている娘を笑いながら見おろした。
「その短気のためにいつかひどい目に会いますよ」
「まあ、そう。そう思ってらっしゃるの?」娘はますますかっとなった。
「そうですよ」とメイスンは言った。「あなたはいま、薄い氷の上を歩いているようなものです。癇癪をおさえて、もっと頭をつかうことをおぼえなければいけません」
「その薄い氷がどうとかって話は、いったい何のこと?」
「つまり」とメイスンは冷静な口調で言った。「昨夜、というよりは今朝早く、あなたがたいしてつっこんだ質問も受けずにすんだ理由のことです」
「何よ、それ?」
「あなたが叔父さんのビュイックを無断で持ち出して、お話のように、気を静めるために郊外をふっ飛ばしたことです」
「わたし、いつだってそうするわ」と彼女は急に用心深い声になって言った。「怒った後にはね。そうすると気が静まるのよ」
メイスンは、娘に向って冷やかにほおえみつづけた。
「距離にしてどのくらい車を走らせたか、おぼえてますか?」
「おぼえてないわ。一時間ぐらい走りまわったのよ。アクセルはほとんど踏みっぱなしだったわ。車を走らせるときは、たいていそうなの」
「しかし運が悪かったですね」とメイスンは言った。「スピードメーターが切れていたなんて」
娘はとつぜん大きく見開いた真黒な眼でメイスンを見つめた。
「何のお話しかしら?」と彼女はゆっくりと訊いた。
「叔父さんの手帳には、あのビュイックが走ったマイル数が全部記録されてることを話しているんです」
「そうなの?」と娘は用心深く言った。
「ええ」とメイスンはそっけなく言った。「叔父さんは銀行からこの家まで車を走らせた記録をつけていますが、銀行出発のときのメーターが一五二九九・五マイル、帰宅のときが一五三〇四・七マイルとなっています」
「そう、それでどうだっていうの?」
「僕が今朝、ビュイックのスピードメーターを調べてみると」とメイスンはゆっくりと言った。「一五三〇四・七マイルになっていました」
娘はうろたえた黒い眼でメイスンを見つめた。その顔は急にまっさおになった。彼女はコーヒー・カップをおこうとしたが、受け皿におきそこなった。カップはちょっと盆のふちにのったが、すぐぐらついて、床に落ちてくだけ、コーヒーが敷物の上にこぼれた。
「メーターのことは考えつかなかったんですね?」とペリー・メイスンは訊いた。
娘は無言でメイスンを見つめた。その顔は唇まで青ざめていた。
「ところで」とメイスンはものやわらかく言った。「もう一度、質問させていただきますよ。いま僕にくださったお金はどこで手に入れたんですか?」
「もらったのよ」と娘はゆっくりと言った。「叔父から」
「殺される前に?」
「殺される前よ」
「ふん、殺される前《ヽ》にね」と弁護士は意味ありげに言った。
その強調した言葉の意味が、とつぜん娘にもわかってきたようだった。
「あなたはまさか――」と彼女は口を切った……
そのとき、ドアをノックする音が聞えて、家政婦が入ってきた。彼女はふたりを見つめながら訊いた。
「何か落としたような音を聞きましたけど?」
娘は床の上のコーヒー・カップを指さした。
「あんたはなかなかいい耳をしているんだな」とペリー・メイスンは意味ありげに言った。
家政婦は、かみつくような眼つきで挑《いど》みかかるようにメイスンを見返した。
「生まれつきいい耳でね、ダテについてるわけじゃないですからね」
「立聞きまでするぐらいにかね?」と弁護士は言った。
フランシス・セレーンが落着いて口を入れた。
「もういいわ、メイスンさん。召使を叱ることぐらい、必要ならわたしにだってちゃんとできると思うわ」
家政婦は身をかがめて、コーヒー・カップを拾い上げ盆にのせると、弁護士に背を向けて、フランシス・セレーンに言った。「かわりのカップと皿をお持ちしましょうか?」
「そうね。それからポットに熱いコーヒーも頼むわ」
家政婦は盆をとり上げると、さっさと部屋から出て行った。
ペリー・メイスンはいらだたしげな口調で話しはじめた。
「僕がこの事件を扱うのでしたら、じゃまするのはやめていただきたいですね。あの女は僕たちの様子をさぐっていたんですよ。けさ早く、僕をゆすろうとしたんですからね」
フランシス・セレーンは、たいして関心もないようだった。
「そう?」と彼女は放心したように言った。
メイスンは彼女を見おろしながら立っていた。
「ええ、そうなんです」と彼は言った。「それから、僕はまだあなたの返事を待っているんです。あのビュイックをそんなに猛烈なスピードで飛ばしたのに、スピードメーターには何も出ていないと言う理由を――」
とつぜん、フランシス・セレーンは椅子から立ち上がると、弁護士の存在をまるで無視したように、すらっとした体からネグリジェをとりはじめた。
「何をするつもりです?」とメイスンは訊いた。
「服を着かえて、あの車のメーターをすこし上げてくるんじゃないの。ばかね!」と彼女はかっとなって言った。
「では、昨夜殺人の時刻にあなたがどこにおられたのか、話してくれるわけですか?」
娘はネグリジェをすっかりかなぐりすてて、身仕度をはじめた。
「なんで馬鹿みたいにつっ立ってるのよ」と彼女は言った。
「僕はもっとずっとお力になれるんですよ」とメイスンは言った。「事実を話してくださるなら」
娘は首をふって言った。「出て行ってちょうだい」
ペリー・メイスンは、いかめしい態度でドアのほうに向った。
「わかりましたよ」彼はそう言って、いきおいよくドアを開けた。
ドアの外側には家政婦がいた。彼女は悪意のこもった眼をぎらぎら光らせ、皮肉な勝利の色を浮かべた微笑をたたえながらメイスンを見まもった。片手にはコーヒー・カップと受け皿を持ち、べつの手にはコーヒー・ポットを持っていた。
「ありがとうございます、ドアを開けてくださって」女はそう言って、するりと部屋の中へ入った。
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ジョージ・ブラックマンは、つとめて印象的な様子を見せようとしていた。頭髪は広い額《ひたい》からうしろへきれいにとかし上げ、深みのある響きのよい声を出そうとし、幅広の黒リボンがたれさがった鼻眼鏡をかけていた。弁護士か銀行家かといった風采《ふうさい》だが、実際は刑事弁護士だった。
彼が人に見せようとしている重々しく知的な勿体《もったい》ぶった様子は、ただ眼にちょっと落着きがないばかりに|ぼろ《ヽヽ》を出していた。
彼はデスクごしにペリー・メイスンを見つめて言った。「あんたがあの家の弁護士だね?」
メイスンの眼はきびしく、粘り強かった。
「僕はミス・セレーンの信託問題が片づくまで彼女の代理をつとめています」と彼は言った。「それから、例の共同事業のパートナーであるアーサー・クリンストンの代理もしています。また、僕に遺言執行人をやらせようと言う話も出ていますが、生き残っているパートナーの代理人と死んだほうの遺言執行人と両方の仕事はちょっとできませんからね」
ブラックマンは、にやりとした。その笑いには妬《ねた》みの色がこもっていた。
「それだけ報酬が入れば、こたえられんでしょうな」と彼は言った。
「あなたが話しに見えたのは、そのことですか?」とメイスンは冷やかに尋ねた。
ブラックマンの表情が変った。
「私がきたのは」と彼は言った。「殺人の嫌疑を受けている運転手ピーター・ディヴォーの弁護士になったことを伝えるためだ」
「見込みはありそうですか?」とメイスンはさりげなく訊いた。
相手はたじろいで、言った。
「|あんた《ヽヽヽ》は何もかも知っているはずだ」
「いや、まったくのところ知りませんね」とメイスンは無関心を装って言った。「事件のほかの方面で非常に忙しかったもので、殺人のほうはさっぱり調べる暇がなかったんです」
「ばかな!」とブラックマンは急に大声を上げた。
メイスンは、威厳をみせて、むっとした顔つきだった。
ブラックマンは身を乗り出し、注意を促《うなが》すようにデスクをたたいて言った。
「いいかね、メイスン君。あんたはなかなかずるがしこく立ちまわっている。だが、まったく同じようにうまくやろうという|やつ《ヽヽ》が相手にまわったことを心得といてもらいたいな」
「と言うと?」
「つまり、のんびり坐りこんだまま、しこたまもうけるわけにはいかない。さっさとディヴォーを絞首台に送りこんでおいて、そっちの連中はそっとしておこうなんていうわけにはいかないということさ」
「僕は誰も絞首台に送ったりしてませんよ」
ブラックマンは、デスクの向う側の男に冷やかに見つめられて、もじもじした。
「ねえ、いいかね」と彼は言った。「私はいま、ほんとうのことだけを話しているんだ。ここには誰も聞いてるものはおらん。われわれ二人だけの相談だ。あんたは私と同じように商売のことはよく知っている。報酬がよければいつだって、罪にとわれている連中を弁護するだろう、私だってそうだ。ある人間を弁護するとなれば、そいつだけのためにやるんで、ほかの人間のことはちっともかまやしない。依頼人の権利をまもるためには、世界中を相手にしてでもたたかうというわけだ」
「まったく」とメイスンは根気よく、抑揚《よくよう》のない口調で言った。「それが弁護士の義務ですな」
「そうとも」とブラックマンは言った。「だから、あんたに承知しといてもらいたいのは、私は自分の義務を忠実に遂行《すいこう》するつもりだということだ」
「さきを、どうぞ」とメイスンは言った。「あんたはしゃべりすぎたのか、しゃべりたりないのか、僕にはまだどっちだかわかりませんな」
「よし、つまりこうだ」とブラックマンは言った。「あんたは例のセレーンという女をしきりに事件の表面に出すまいとしている。なかなか巧妙に切り抜けてきたようだ。だが、けっきょくのところ、ピーター・ディヴォーに対する不利な起訴事項といったら状況証拠だけだし、それも、きわめて薄弱なものだ。あの男は酔いつぶれてベッドに寝てたんだから、|誰だって《ヽヽヽヽ》あの男の部屋に棍棒を持ちこみ、服に二千ドルつっこんでおくぐらいのことはできたはずだ」
「あなたはドン・グレイブスの証言を見落としていますね」とメイスンは言った。「あの男は殺人が行われるところを実際に見たと言ってるんですよ。それに、まだ見落としている事実がある。クリンストンの証言によれば、彼があそこを立ち去るときエドワード・ノートンは運転手を呼んでいたということですからな」
「何も見落としてはおらん」とブラックマンは、挑戦的なまなざしでメイスンの顔を穴のあくほど見つめながら、印象づけるように言った。「それに、この事件のどこかに女がひとり関係しているということも見落としてはいないな」
「ほう?」とメイスンは、丁重《ていちょう》だが、驚きの色をまじえた口調で訊き返した。
「そうだよ。そんなにびっくりすることはないだろう。あんただって、私と同じように知っていることさ」
「知っているって、何を?」
「殺人が行われたとき、あの部屋に女がひとりいるのを、ドン・グレイブスが見たということさ」
「ドン・グレイブスは、警察への供述で、そんなことは言わなかったはずですが」
「警察にした供述など何の関係もないよ。重要なのは、あの男が証言台でする証言だ」
メイスンは天井を見上げながら、とくに誰にいうともなく言った。「しかし、証言台での陳述が、最初に警察にした供述と一致しない場合、その証言としての価値は低くなるようですね。女が関係していると、とくに」
「うん、そういうこともあるだろう」とブラックマンは言った。
ほんのしばらく、沈黙が続いた。やがてブラックマンが声をひそめて、力をこめながら言った。「よろしい、あんたはわたしのいまの立場を承知しているはずだ。この事件で、あんたは金の問題をぜんぶ引き受けているが、こっちは犠牲になるお人よしの代理をつとめているだけだ。だから、この事件ではあの家族に協力してもらいたいものだな。それに、少々金もほしい。さまなければ、すべてをぶちまけるまでだ」
「協力というと?」
「つまり、あの家族に、こちらはけっして復讐心に燃えているわけではない、ディヴォーがやったのだとしても、酔っていたときのことだ、地方検事が故殺〔一時的な感情の激発による殺人。謀殺の対〕だという論告をしても、それで充分満足だ、と考えているという印象を警察に与えてもらいたいわけだ。それから、私もちょっと甘い汁を吸いたいということさ」
「すると、ピート・ディヴォーは故殺罪であって謀殺を犯したわけではないと弁護して、スキャンダルは一切もみ消すようにするから、フランシス・セレーンに金を出させてくれ、というのですね? おっしゃりたいのは、そういうことですね?」
ブラックマンは、重々しくもったいぶって立ち上がった。
「どうやら、わたしの用向きはすっかりわかってくれたようだ。自分の立場をはっきりと率直《そっちょく》に説明したつもりだが、あんたがいま言おうとした多少露骨な要約には答えたくないな」
ペリー・メイスンはデスクの前から椅子をうしろへ押しやると、両足をふんばって立ち上がり、ブラックマンをじっと見つめた。
「ブラックマンさん、そんなことで何かものにできるなどと考えないことですな」と彼は言った。「ここでは僕たち二人きりだ。何でも言いたいことを、たっぷり言ったらいいでしょう」
「とぼけないでくれ」とブラックマンは言った。「私のほしいものはわかっているはずだ」
「何がほしいんです?」
「金がほしいのさ」
「そのかわりに何をくれるつもりです?」
「ミス・セレーンを事件の表面に出さないように協力する」
「ピート・ディヴォーに故殺罪を認めさせても?」
「うん、その抗弁が通ればな」
「あの男はほんとうに故殺罪ですか?」
「そんなことはどうでもいいじゃないか」とブラックマンはいらだたしげに言った。「あいつは故殺罪を認めると言っているんだ」
「どのくらいの金がほしいんです?」
「五万ドルほしい」
「弁護報酬としてはえらく高いですな」とメイスンは、ほとんどなにげない声で言った。
「私がしようとする仕事にしては、高くはないよ」
「ディヴォーのための仕事ですか?」
「フランシス・セレーンのための仕事さ、そう言ってもらいたければね」
「なるほど」とメイスンは言った。「あなたがおっしゃったとおり、ここにいるのは僕たちだけだ。率直に話し合えないわけはない。ほんとうにピート・ディヴォーはエドワード・ノートンを殺したのですか?」
「あんたは知ってるはずだよ」
「どうして僕が知っている?」
「知ってるはずだからさ」
「知らないね。僕はディヴォーがやったのかどうか、あんたに訊いているんだ」
「どうしてそんなことを気にする? あの男に故殺罪を認めさせると言ってるのに」
「五万ドルで?」
「五万ドルでだ」
「きちがいじみてるな。地方検事はそんな抗弁を受け入れやしない。これは謀殺事件だ。うまくいったって、せいぜい第二級謀殺というところだろう」
「故殺に持ちこめるさ」とブラックマンは言った。「あの家族が協力し、グレイブスがちょっと陳述を変えるならね」
「どうしてグレイブスが陳述を変えたりするんだ?」
「どうして人は何か仕事をしたりする?」とブラックマンは皮肉な口調で訊き返した。「どうして私は仕事をしたりする? どうしてあんたは仕事をしたりする? われわれは何も事件には関係がない。ただ、金のために仕事をしているんじゃないか。ドン・グレイブスだって、金のためには何かするだろうさ」
ゆっくりと、重苦しいと言ってもいいほどの足どりで、ペリー・メイスンは大きなデスクをまわり、ブラックマンのほうへ歩みよった。ブラックマンは貪欲《どんよく》な眼つきでメイスンを見まもった。
「ただひと言、承知した、とだけ言やあいいんだ」とブラックマンは言った。「そうすれば、もう何も言わんよ」
ペリー・メイスンはブラックマンの前まできて、立ちどまった。そして、冷やかな、あざけるようなまなざしで相手を見つめた。
「下劣な奴だ!」とメイスンは、怒りに声をふるわせて言った。
ブラックマンはちょっと後ずさりした。「いったい誰のことだ?」
「おまえのことさ」
「そんな言い方をする権利はないぞ」
メイスンは、すばやく一歩つめよった。
「卑劣な三百代言め」と彼は言った。「五万ドルで自分の依頼人を売ろうというのか。出て行け、とっとと出て行け!」
ブラックマンの顔は、驚愕にゆがんだ。
「どうしたんだ。こっちの申し出を聞いているものと思っていたのに」
「聞いたさ。聞きたいだけ聞いちまったよ」
ブラックマンはとつぜん勇気をふるい起こし、メイスンの眼の前に人さし指をぴんと突き出してふりまわした。
「きみは、自分自身すっかりこの事件にまきこまれているんだ。この申し出を受け入れるか、さもなくばもっとひどい目に会うんだぞ」
ペリー・メイスンは左手をのばしてブラックマンの突き出した人さし指をつかんだ。そしてもう一方の手をひっぱって、相手が苦痛の叫びを上げるまでねじりまわした。それから急にその指をはなして、相手をくるっと半回転させ、大きな力強い手で上着の背をつかみ、戸口のところまで押して行った。そして私室のドアをいきおいよく開けて、ブラックマンを一突《ひとつ》きすると、相手は控え室によろけこんで、はいつくばった。
「出て行け。二度と来るな!」
ブラックマンは控え室のなかほどまで逃げてから、ふり返った。その顔は憤激に青黒くなり、黒いリボンの端に眼鏡がぶらさがっていた。
「いまに後悔するぞ」と彼は言った。「いままでのどんなことよりも後悔するぞ!」
「出て行け!」とペリー・メイスンは落着きはらった声で言った。「それとも、もっとお見舞いしようか」
ブラックマンはドアの握りをさぐると、ドアを開けて、廊下へ出て行った。
ペリー・メイスンは、肩をはり、両足をふんばって私室の戸口に立ちはだかったまま、戦闘的なまなざしでゆっくり閉まるドアをにらみつけていた。
「どうなさったの?」とデラ・ストリートが急に心配になった様子で尋ねた。
「卑劣漢に出口を教えてやったんだよ」メイスンは、デラの顔を見もしないで言った。冷やかな視線はまだドアに吸いつけられていた。
やがてメイスンはくるっとふり向くと、心配そうに眼を見開いて彼を見つめているデラ・ストリートを残して、自分の部屋へ戻って行った。
デスクのところへもどると、電話が鳴っていた。受話器を耳にあてると、フランシス・セレーンの声が流れてきた。
「すぐ会いたいのよ」
「いいですよ。僕は事務所にいます。おいでになりますか?」
「行くわ。こっちへきてもらえないのなら」
「どこにいるんです?」
「家よ」
「じゃあ、あのビュイック乗っていらっしたらいいでしょう」
「ビュイックには乗れないわ」
「なぜです?」
「警察が封印してしまったのよ。伝動装置にも、車輪にも鍵をかけてしまったわ」
ペリー・メイスンは、電話口で低く口笛を鳴らした。
「それでは、パッカードに乗って、できるだけ早くいらっしゃい。スーツケースに衣類をすこしつめて持ってきたほうがいいですね。しかし、あまり人目につかないように」
「二十分で行くわ」娘はそう言って電話を切った。
ペリー・メイスンは帽子をかぶって、出かけようとしたが、ちょっと立ちどまって、デラ・ストリートに言った。
「二十分か二十五分ぐらいすると、ミス・セレーンがやってくるはずだ。それまでには帰ってくるつもりだが、もし帰らなかったら、彼女を僕の部屋に入れて、ドアに鍵をかけておいてくれたまえ。誰も入れるな。いいね?」
デラは、すばやく事態を察したようにメイスンを見上げ、のみこんだという身ぶりでうなずいてから、「何かまずいことになったんですの?」と尋ねた。
メイスンは軽くうなずいてから、微笑を浮かべて、デラの肩をたたいた。
彼は部屋を出て、エレベーターで階下《した》に降りると、一区画《いちブロック》半ほど歩いて、シーボード第二ナショナル信託銀行へ行った。
副頭取のB・W・レイバーンは、きびしい、油断のない眼つきでペリー・メイスンを見つめながら言った。「で、ご用件は? メイスンさん」
「僕は、エドワード・ノートン氏が管理していた信託財産の受益者であるミス・フランシス・セレーンの代理をしています。また、クリンストン・アンド・ノートン商会の残りのパートナー、アーサー・クリンストン氏の代理もしています」
「ええ、そのことは、けさほどクリンストンさんとお話ししたときにうかがっています」
「ノートンさんは、なくなられた日に、自宅とある銀行のあいだを往復されているのですが、それはこちらの銀行だったのか、それとも、農商ナショナルのほうだったのか知りたいのです。たしか、あそことも取り引きがあったようですから」
「いや、こちらへお見えになりましたよ」とレイバーンはゆっくりと言った。「また、どうして、そんなことを?」
「あの方は、千ドル紙幣でかなりの大金を引き出しに見えたはずですね。僕がうかがいたいのは、ノートンさんがその金を要求なさるのに何か特別の条件があったかどうか、その紙幣のことで変った要求でもなかったか、ということなのです」
「おそらく」とレイバーンは意味ありげに言った。「もう少しはっきり言っていただければ、お望みの返事ができるのではないかと思いますが」
「ノートンさんは、なぜその紙幣が必要か、目的をはっきり言いましたか?」
「いや、べつに」とレイバーンは、直接の質問でなければ答えないと決めたように言葉すくなに答えた。
メイスンは、大きくひと息ついて言った。
「ノートンさんはあらかじめ、続き番号の千ドル紙幣を何枚かそろえてくれと頼みませんでしたか?」
「お頼みになりました」と副頭取は言った。
「さらに、銀行の連盟を通じて、その紙幣の番号を控えさせ、紙幣がこの街のどこかの銀行に預け入れられたときには、すぐつきとめられるようにしてもらいたいと申しませんでしたか?」
「そのとおりの言い方ではありませんが」とレイバーンは用心深く答えた。
「また、その金は脅迫者にはらうために使うのだが、これを銀行に預けにくる人物の正体をつきとめたい、と申しませんでしたか?」
「そのとおりの言い方ではありませんが」と銀行家はくり返した。
「どうやら」とペリー・メイスンは微笑しながら言った。「お話しねがえることはすっかりうかがったようですね。充分役に立ちました。ありがとう、レイバーンさん」
メイスンは身をひるがえして、銀行から出て行った。後に残ったレイバーンは、冷やかな眼にじっと考えこむような鋭い光をたたえてメイスンの後ろ姿を凝視《ぎょうし》していた。
メイスンは事務所へもどると、デラ・ストリートを自分の部屋へ呼んで言った。
「ドレイク探偵事務所に連絡して、ポール・ドレイク自身にやってもらいたい非常に重要な仕事があると言ってくれ。ドレイクに、依頼人のようなふりをして、この事務所にきてもらいたいんだ。そして、何をしてもらうか僕が教えるまで応接室で待っていてもらう。待っている間は、ただの依頼人のように見えなくてはいけない――そう伝えてくれないか」
デラは、ひどく心配そうなまなざしでメイスンを見つめながら言った。
「それだけですの?」
「それだけさ」
「そして、あのセレーンというお嬢さんにはポール・ドレイクの正体は何も知られたくないわけね?」
「いいかね、ドレイクの正体は|誰にも《ヽヽヽ》知られたくない。誰であろうと、この事務所に入ってくる者には、ドレイクは僕に会いたくて待っている依頼人だと思わせなきゃいけない」
「わかりました」
デラは、ちょっとの間立ちつくしたまま、不安をかくそうともしないまなざしでメイスンを見まもっていた。
メイスンは、相手を安心させるように、にやっと笑った。
「心配しなくていい。だいじょうぶだよ」
「めんどうなことになるんじゃないかしら?」
「そうは思わないね」
「セレーンさんのほうは?」
「彼女はもう――だいぶめんどうなことになっているな」
「自分でわかっているのかしら?」
「わかってるだろう」
「あなたも引きこまれることにならない?」
メイスンはゆっくり|かぶり《ヽヽヽ》をふって言った。
「いや、そんなことはないだろう。まだ、わからないが」
「いつ、わかりますの?」
「セレーンさんがほんとうのことを言うまでは、だめだな」
「それはいつかしら?」
「いまよりもっとこわい目に会うまでは、言わないね」
デラ・ストリートは顔をしかめて、早口に言った。「わたしたちがこわがらせたら?」
ペリー・メイスンは首をふって、微笑した。
「いや、それにはおよばないだろう」と彼はゆっくりと言った。
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十一
ペリー・メイスンは、チョッキの腋下《わきした》に両手の親指をかけながら、自分の部屋の中を歩きまわっていた。
フランシス・セレーンは、はじめてこの事務所へきたときに坐った例の大きな黒皮ばりの椅子に腰をおろして、あちこち歩きまわる弁護士の姿をじっと眼で追っていた。
「ねえ」と彼女はとうとう口を切った。「わたしがあなたに会いたがったわけをちっともお訊きにならないのね」
「その必要がないんです」とメイスンは言った。「事態の|なりゆき《ヽヽヽヽ》は、あなたより僕のほうがよく知っていますからね。僕がしようとしているのは、ずっとさきのことを考えて、連中を出し抜くうまい手を見つけることです」
「わたし、とっても困ったことになっちゃったのよ」
「そうでしょうとも」とメイスンはきっぱり言って、しっかりした歩調でまたあっちこっち歩きまわりはじめた。
しばらく沈黙がつづいたが、やがてメイスンは立ちどまって、両足をふんばり、娘をじっと見おろした。
「僕にくださった金は、どこで手に入れました?」と彼は訊いた。
「前に言ったとおりよ。叔父からもらったんだわ」と娘は力のない声で答えた。
「叔父さんが殺される前ですか? 後ですか?」とメイスンは追及した。
「前よ」
「どのくらい前です?」
「そんなに前じゃないわ。そうね、クリンストンさんが家にくるちょっと前」
「どんなことがあったのです?」
「お金は四万八千ドルあったわ。叔父はそれをわたしにくれて、月々の小遣《こづかい》を渡さなくてすまないことをした、考えをあらためることにしたからって言うの」
「その前に叔父さんは、あなたがゆすられていると言って、とがめましたか?」
「いいえ」
「で、その金は現金でくれたんですね?」
「ええ」
「あなたが叔父さんのところへ行って、現金がほしいと言ったんですか?」
「わたしはただ、どうしてもお金がいる、それもすぐにほしいって言っただけだわ」
「それで、叔父さんは、あなたがゆすられていることについては何も言わなかったんですね?」
「ええ」
「あなたはゆすられてたんですか?」
娘は唇をかみしめて、床《ゆか》を見つめた。
「そんなことがお仕事に関係があるかしら?」
「ありますね」
「そうよ、ゆすられてたわ」
「なるほど。相手は、家政婦ですか?」
娘はぎくっとして顔を上げると、驚いた様子でメイスンと視線を合わせた。
「どうして、ごぞんじ?」
「そうじゃないかと思ったんです。で、いくらやりました?」
「全部やったわ。あなたにさし上げた一万ドルをべつにして全部よ」
「すると、あなたはあの千ドル札は一枚も持っていないというわけですか?」
「そうよ」
「では、いいですか。この問題で誤解がないように、はっきりさせておきましょう。あなたはいま窮地《きゅうち》におちいっていて、僕はあなたを救い出そうとしているのです。しかし、そのためには、その金がどうなったかということを、僕が|正確に《ヽヽヽ》知っていなければなりません。あなたは、その金を|一枚も《ヽヽヽ》持っていないんですね?」
「一枚も持ってないわ」
ペリー・メイスンは、自分の財布から娘にもらった一万ドルをとりだして、指でもてあそびながら尋ねた。
「この紙幣が全部続き番号になっていて、この街のどこの銀行にも、この番号のリストがくばられていることは、ごぞんじですか?」
「いいえ」と娘は、弱々しい、おびえた声で答えた。
「そうですか。だが、ほんとうなんです。千ドル紙幣はそうたくさんあるわけではないから、銀行に預けられれば注意をひきます。それに、くずすにしたって、まず銀行へ持って行かなければならないでしょう。商店ではたいてい、千ドル札につりを出せるほど現金を用意してませんからね」
ペリー・メイスンはデスクの前へ行って、厚いマニラ紙の長い封筒をとり上げると、十枚の千ドル紙幣をその中に入れて封をした。そして、万年筆のキャップをはずし、封筒の上に<コロラド州デンバー市十五番街三二九八番地 カール・S・ベルクナップ>と宛先《あてさき》を書いてから、人さし指でデスクの横のボタンを押して、秘書を呼んだ。
デラ・ストリートがドアを開けると、メイスンはなにげない手つきで封筒を投げ出して言った。
「切手をはって出しといてくれ。第一種だ」
デラは宛名を見て言った。
「ベルクナップさんなんて方と文通したことがあったかしら?」
「これからするんだよ。書留《かきとめ》にしといてくれ」
デラはうなずいて、フランシス・セレーンのほうをすばやくうかがうようにちらっと見てから、するりとドアを抜けて秘書室へもどって行った。
ペリー・メイスンは、フランシス・セレーンのほうに向き直って言った。
「これでいい。あの封筒はこれから数日のあいだ、あちこち郵送されて、けっきょく僕のところへもどってきますよ。そのあいだは、誰も僕のところであの金を見つけられないわけです。ところで、なぜあなたは最初にこのことを警察に話さなかったのですか?」
娘の眼に急に黒い火が燃え上がった。
「そんなこと、わたしの勝手じゃないの!」と彼女は言った。「わたしは、わたしの利益を代表する弁護士として、あなたを雇ったのよ。そんなとこにつっ立って、ああしろだの、こうしてはいけないなんて、いちいち命令できると思ったら、とんでもないことだわ……」
メイスンは、大きく一歩、娘のほうにつめよって言った。「あなたはその癇癪をおさえることにするか、絞首台に登って目かくしの黒い袋をかぶせられるか、どちらかなんですよ。首をしめられたらどんな気持ちがするか、考えてみたことがおありですか?」
娘は立ち上がって、メイスンを打《ぶ》とうとするかのように手をふり上げた。
「これまでのあなたは、甘やかされた癇癪もちの娘だった」とペリー・メイスンは言った。「そしていま、自分ひとりではどうにも始末できない事態に直面している。この四十八時間以内にあなたが逮捕されることは、もう疑いの余地がありません。しかも、あなたに不利な状況はますますお先まっくらになってきて、救い出せるかどうか、僕にもわからないほどです」
娘の黒い眼には、真の驚きの色が怒りの色を押しのけるようにして浮かび上がった。
「逮捕される? わたしが、逮捕されるんですって?」
「逮捕されますね、殺人容疑で」
「ディヴォーが殺人罪で逮捕されたわ。殺したのはあの男よ」
「ディヴォーはやらなかった」とメイスンは言った。「これは、僕がやらなかったのと同じくらい明らかなことです。たとえ、彼がやったとしても、誰もそれを証拠立てようとしないでしょう。それに、彼には|こつ《ヽヽ》を心得た弁護士がついていて、あなたを事件に引きずりこもうとしている」
「そんなことがどうしてわかるの?」
「一時間たらず前に、そいつがここへきて、しゃべって行ったからです」
娘はふたたび椅子に腰をおとして、メイスンを見つめたが、その眼には怒りの色がすっかり消えて、暗く、いたましい影がただよっていた。
「その人、何が望みだったの?」
「金ですよ」
娘の顔にちょっと安堵《あんど》の色が浮かんだ。
「いいわ。はらってやりましょう」
「はらうわけにはいきません」
「どうして?」
「あなたを死ぬまでゆすりつづけるからですよ。あの男は、あなたが窮地《きゅうち》におちいっていることをはっきり知っているわけではなく、感ぐっているだけです。それを確かめようと思ったのですよ。もし僕が妥協的な話し合いをしていたら、あいつは確信を持ったことでしょう。あいつはどこかで噂を聞きこんだので、確かめたかったのです。もし屈服して金なんかやることにしてたら、確信を持ったにちがいありませんよ」
「でも、あなたはどうなさったの?」
メイスンは、きびしい声で言った。
「ここからほうり出してやりましたよ」
「その男、どの程度に知ってるのかしら?」
「たいして知りゃしません。ただ、いろいろと感ぐっているんです」
「こわいわ、その男」と娘はいまにも泣き出しそうな声で言った。
「そりゃあこわいでしょうな」とメイスンは言った。「さあ、僕はこの事件の真相をのみこんでおきたいんです。叔父さんが殺されたときの事情を|正確に《ヽヽヽ》話してください」
娘は深くひと息ついてから、低い単調な声でしゃべりはじめた。「わたしは家にいました。叔父と喧嘩をしたところでした。叔父があんまり意地悪なんで、わたしもかっとなって傷つけるようなことを言ったんです」
「そうでしょうな」と弁護士はそっけなく言った。
「そうなの」と娘は無表情に答えた。
ちょっと沈黙がつづいた。
「それから」と弁護士が言った。
「叔父は財布からお金をとり出しました」と娘は言った。「財布の中のお金全部ではなかったわ。いくらかお札が残っていました。出したお金がどのくらいあるかはっきりわからなかったけれど、叔父はそれをわたしにさし出して、受けとれと言いました。そして、おまえを正気に返らせるために小遣いを切りつめるつもりだったが、もうおまえは正気になりっこないと見切りをつけた、これは間違いなくおまえの金なんだから、捨てようとどうしようと勝手にするがいい、と言ったんです」
「それで、そのお金を受けとったんですね」
「ええ、もちろん」
「それから、どうしました?」
「それから、一万ドルだけべつにして、残りは全部メイフィールド夫人にやりました」
「なぜ、そんなことをしたんです?」
「あの女が、わたしが結婚したことを知っていて、そのことを叔父に話すと言っておどしていたからよ」
「それは、クリンストンさんがお宅へくる前のことですか、後《あと》のことですか?」
「あの女に金をやったときのこと?」
「ええ」
「後よ」
「誰か……あなたが金をやるところを見てましたか?」
「ロブ・グリースンが見てたわ」
ペリー・メイスンは口笛を鳴らした。
「では、グリースンがその場にいたんですね?」
「そうよ」と娘はゆっくりと言った。「グリースンがいたわ。それで、わたしは家にいなかったと言ったのよ」
「なるほど」とメイスンはきびしい声で言った。「では、|それ《ヽヽ》について話してください」
「わたしたちが結婚していることはごぞんじね」と娘は言った。「ロブは自分のシボレーでやってきたの。わたしの部屋には、外に出られるポーチがあります。彼がそこへきたので、部屋へ入れました。彼は、メイフィールド夫人のことや、叔父がどんなことをするかということで心配していました。そこでわたしは、叔父に会ったけれど、万事うまくいくと思うと彼に言いました。
ふたりが話をしていると、メイフィールド夫人が入ってきて、お金をくれと言うんです。立ち聞きしていたとみえて、叔父がお金をくれたことを知ってたわ。いくらとは知らなかったけれど。
わたしはあの女に、お金は持ってるだけ全部あげると言って、財布を開けて、勝手にとらせたの。だけど、その前に、千ドル札を十枚だけ抜きとっておいたわ。あなたにお金がいるだろうから、その分をとっておこうとしたんです。わたしに必要なお金はそれだけだったわ――あなたとあの女にはらうだけ。そしてわたしは、あなたに代理人になっていただけたし、メイフィールド夫人は黙らせることができるから、万事うまく片づくと思いました。これで、何とか切り抜けられると思ったんです」
「で、そのときにはもう、クリンストンさんはきていたのですね?」
「ええ、その前にきていたわ。車の音を聞いたし、そう、ちょうどわたしが叔父の部屋を出ようとしているときに、クリンストンさんがやってきたのよ」
「それから秘書のグレイブスは、そのあいだずっと隣りの秘書室にいたわけですね?」
「ええ、ずっとあの部屋にいました。だから、何があったかよく知っているわ。あの人は口に出すよりずっといろんなことを知っているのよ。叔父のこともよく知っているし、メイフィールド夫人のやっていることも多少感づいていると思うわ」
「わかりました。それからどうなりました?」
「そうね、メイフィールド夫人が出て行ってから、わたし、ロブといっしょにポーチへ出て坐っていました。すると、騒ぎが起ったんです。家の表のほうから人の走る足音や、叫び声が聞え、叔父が殺されたというような声も聞こえてきました。わたしは、ロブがここにいるのはよくないと思ったので、車に乗って逃げるように言いました」
「それで、あなたもいっしょに?」
「ええ、いっしょに行ったわ」
「なぜ、そんなことをしたんです?」
「いたくなかったからよ」
「なぜ?」
「ロブのためにアリバイを作ってやれると思ったから」
「どうやって庭からぬけ出しました?」
「家の裏の細い道からドライブウェイへ抜けられます。私たち、そこから出ました。誰にも気づかれなかったと思うわ」
「なるほど、それからどうしました?」
「それから、わたしは家へ帰ったのよ。つまり、ロブの車で家から一丁ぐらい先まで乗せてもらって、そこでおりたんです。それから、こっそり自分の寝室へもどってきて、ドン・グレイブスと話をしたわ。あの人の話で、叔父がビュイックを盗まれたと警察へ報告したことや、わたしがそれを乗りまわしていると思われていることがわかったんです。これはわたしにとっていいアリバイになるし、ロブもまきこまれないですむと思ったので、ビュイックに乗ってったのはわたしだと言ったのよ。誰もわたしの言葉を疑わなかったわ」
「なるほど、それから?」
「あとはごぞんじのはずよ。わたしがビュイックに乗ってったものとみんなが思いこんでいるので、これで万事うまくいったと思ってたの。そこへあなたがやってきて、メーターの走行記録が合わないなんておっしゃったのよ。あのあと、ビュイックのマイル数をすこし上げようと思って出て行ってみると、警官が立っていて、にやにやしながら、ビュイックは証拠としてさしおさえられていると言うんです」
「封印してあったのですね?」
「ええ、前の車軸と輪止めに鎖をまきつけて鍵がかけてあったし、伝動装置にも錠がおろしてあったわ」
「それなら申し分ないな」とメイスンはそっけなく言った。
娘は何も答えなかった。
やがて、メイスンはまた床の上を規則正しく歩きまわりはじめ、娘は不安そうな黒い眼で彼を見つめた。娘の頭はすこしも動かなかったが、その眼はリズミカルにあちこち歩きまわるメイスンの姿を追っていった。
やっとメイスンは口を切った。「あなたは神経衰弱になるんですな。僕は信頼のおける医者を知っています。彼があなたを診察して、療養所へ行けと言うでしょう」
「そんなことをして、何になるの?」
「僕にすこし時間の余裕ができます」
「だけど、わたしが逃げたりしたら、よけい疑われやしないかしら」
「これ以上、疑われようがありませんよ。あのビュイックに封印したときから、警察が事件を別の角度から調べていることは明らかです。僕はあの走行マイル数の記録してある手帳をそっとポケットに入れて、何喰わぬ顔をしようとしたんですが、警官もそれほどまぬけではありませんでした。すぐ見つかって呼びとめられ、手帳を返すことになってしまいましたよ」
「そのとき、マイル数のことはごぞんじだったの?」
「感づいてはいましたよ」
「どうして感づいたの?」
「あなたが嘘をついてることがわかりましたからね」
娘の眼がきらめいた。
「そんな言い方しないでちょうだい!」
メイスンは、にやっと笑っただけだった。じきに、娘の眼から怒りの色が消えた。
「あなたは自動車の一件で罠《わな》にかかっているということを考えなければいけません」とメイスンは言った。「あの証言は変えることですね」
「だけど、それではロブをまきぞえにすることになるわ。ロブがいたことが警察にわかったら、とてもめんどうなことになるわ。ロブと叔父とは仲が悪かったんですもの」
「事件の夜、ロブは叔父さんに会いましたか?」
娘は|かぶり《ヽヽヽ》をふり、ちょっとためらってから、うなずいた。
「ええ、会ったわ」
「あなたがいま否定しかけてから認めたのは、ロブが叔父さんに会ったことを知っている者がいることを急に思い出したからですね。誰です、それは?――ドン・グレイブス?」
娘はふたたびうなずいた。
ペリー・メイスンは、秘書室のドアのほうへ歩みよった。
「デラ、プレイトン先生を電話ですぐ呼び出してくれ」と彼は言った。「看護婦に非常に重大な――生きるか死ぬかの大問題だと言って、先生自身に電話口に出てもらうんだ。すぐやってくれ」
「わかりました」とデラは答えた。「それから、ポール・ドレイクさんという方が、個人的な用件でお目にかかりたいといって、お待ちになっています。わたしには用件はお話しになりません」
「わかった。待つように言ってくれ」ペリー・メイスンはどなり声でそう言うと、部屋に引き返して、音高くドアを閉めた。
「さあ、あなたは神経衰弱になるんですよ」と彼は娘に言った。「変名で療養所へ送られることになります。遅かれ早かれ、警察に見つけられるでしょうが、遅いほうがいいですね。誰にも自分の正体は知らせないこと、事件に関する新聞記事にあまり関心を示さないこと、それから、どんなことが起ころうとも、あわてて逃げ出したりしないことですね」
娘は、さぐるようにメイスンを見ながら訊いた。
「あなたを信頼できると、どうしてわかるかしら?」
メイスンは落着いたまなざしでじっと娘を見返しながら言った。
「それは、あなたが自分の判断でお決めになることですね。あなたの判断次第で、たいへんな相違が出てくるでしょう」
「いいわ、あなたを信頼します」
メイスンはうなずいた。
「それなら、プレイトン先生がやってくる前に、早いところ病院車も頼んでおきましょう」
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十二
探偵のポール・ドレイクは、私立探偵という言葉から想像されるのとは、およそ似ても似つかぬ男だった。それだからこそ、彼は非常に成功しているのであろう。
彼は、いつも長い首を物問いたげに前へ突き出している背の高い男だった。その眼はとびだし気味で、どんよりくもり、たえず|ひょうきん《ヽヽヽヽヽ》な表情をたたえていた。何が起ころうとも、彼はあわてなかった。彼の生活では、殺人は日常|茶飯事《さはんじ》、隠れ家は自動車みたいに月並なもの、逆上した依頼人たちは日課の一部にすぎなかった。
彼は、ペリー・メイスンの事務室の大きな背の高い椅子に坐ると、横向きになって、長い足を椅子の右の腕にのせた。口にくわえたタバコは、下唇からだらりとぶら下がっていた。
大きなデスクのうしろに坐ったペリー・メイスンは、注意深い眼で、じっと探偵を見つめていた。まるで、ゴングの鳴るのを待ちかまえながら、コーナーで休んでいる老練な拳闘家《ファイター》のような態度だった。やがてその油断のない休息をおえて、椅子から飛び出し、虎のような狂暴さでめまぐるしい闘争に飛びこむ男のように見えた。
「さて、何だい、悩みの種は?」とドレイクが言った。
「いつかきみは、荒っぽい尾行のことを話してたな」とメイスン。
ポール・ドレイクは落着き払ってタバコを吸いこむと、どんよりした、飛び出た眼を冷《ひや》かし気味に光らせながらメイスンを見まもった。
「よくおぼえてるな。ずいぶん前のことだぜ」
「いつだっていいさ。その肝心のとこが知りたいんだ」
「誰かがその手できみを尾行してるのかい?」
「いや、僕がそいつを使えないかと思ってね。ざっと説明してくれないか」
ポール・ドレイクは口からタバコをとって、もみ消し、灰皿に捨てた。
「あれは探偵の仕事のなかでも離れわざに属するんだ」と彼は言った。「ふつうだったら、話しゃしないぜ――仲間以外には。まあ、一種の心理的|拷問《ごうもん》だよ。心の中で何かかくそうとしている人間は、神経質になりがちだという原理にもとづいているんだ」
「どんなぐあいに?」とメイスンは抑揚のない声で訊いた。
「そうだな、まあ、きみがある事件を追っかけていて、ある人物が何かを知っていると目をつけたとする。もちろん、何かうしろ暗い、かくそうとしているようなことだ。その場合、|どろ《ヽヽ》をはかせるためにそいつに接近する方法は二つ三つある。ひとつは、ありきたりの手だが、魅力のある女をそいつに近づけて、自分から|おだ《ヽヽ》を上げるようにしむけるんだ。もうひとつは、誰か男を友人に仕立てて、信用されるようにするんだ。
たいていは、そのどちらかの方法で成功するが、ときにはうまくいかないこともある。女にひっかからないこともあるし、ひっかかっても、|おだ《ヽヽ》を上げないこともある。それに探偵が友人になろうとすれば、疑い出すこともある。そんなときに、荒っぽい尾行を使うんだ。この尾行には二人の人間が必要だ。まず、容疑者と交際する男だが、この男ひとりでは秘密をつきとめることも、話を聞き出すこともできない。
そこでまあ、適当な時と場所をえらんで、荒っぽい尾行を後ろからつけるんだ。そして、交際しているほうの男が合図をして仕事にとりかかるわけだ。
もちろん、わかっているだろうが、尾行というのはそれだけでもたいへんな仕事だ。世間では、尾行という仕事や、そのやり方について、ばかげた考えを持っている。つまり、尾行者というものは変装したり、戸口に首をつっこんだり、電柱のかげにかくれたり、そんなことばかりやっていると思っている。彼等は、映画を見たり、探偵の仕事のことなど何も知らない連中が書いた探偵小説を読んだりして、そんなふうに思いこんでいるんだ。
ところが、実際の尾行者は、ほとんど変装なんかしない、あたりまえの男なんだ。なにげない、無邪気な顔をした傍観者にすぎないんだ。何が起ころうと、さわぎたてないし、戸口に首をつっこむようなまねはてんでしやしない。まったくさりげない様子をしているから、いつもあたりの景色にまぎれこんでしまって、容疑者の眼には特別な人間とはうつらないんだ」
「そんなことは、だいたい知ってるさ」とペリー・メイスンは言った。「僕が知りたいのは、その荒っぽい尾行のやり方だけなんだ」
「うん、そいつは簡単だ」と探偵は言った。「気のきいたことなんてものはみんなそうだが――分析してみれば簡単なことさ。荒っぽい尾行というのは、ただ、容疑者がいかにも尾行されているなと感じるようにやるだけのことなんだ。言いかえれば、ふつうの尾行をやめて、荒っぽく、目立つようにやるんだな。相手のほうでは探偵ならこうするだろうと思うようなことをみんなやるんだ。電柱のうしろにかくれたり、戸口にとびこんだり、そんなことを片っぱしからやるわけだ」
「つまり、相手が自分が尾行されていると気づくようにだな?」とメイスンは訊き返した。
「そうなんだ」とドレイクは言った。そしてポケットのケースからタバコをとり出し、親指の爪の上で軽くはじきながら話しつづけた。
「いいかね、交際しているほうの人間はすでにある程度容疑者と親しくなっている。しかし、相手は、しゃべらせたいことを簡単に吐くような|たま《ヽヽ》じゃない。そこで、交際している人間は自分たちに尾行をつけることにする。尾行者はまだうまくやっているから、容疑者は尾行されていることなど気づきはしない。だが、そこで、折を見て、交際しているほうが合図を送ると、尾行のほうは荒っぽくやりだすんだ。電柱のうしろあたりに首をつっこんだり、変装したりして、ほんとうの巧みな尾行にはまるで役に立たないような、素人《しろうと》じみた手をぞくぞくと使いだす。とうぜん、敵さんは尾行されていると思ってあわてはじめる。
まあ、尾行されていると気がついたやつはこっけいなものだぜ。ことに、あまりそんな経験のないやつはね。誰かが自分をつけまわしているとさとったとたんに、そわそわしはじめる。たいてい、まず歩き方が早くなって、後ろをふり返るようになる。もちろん、交際しているほうが容疑者と連れ立って歩いているときに、こいつをはじめるわけだが、こうなってきたら、連れの男のほうはわざとゆっくり歩いて、ぶらぶら行くんだ。
すると、容疑者のほうはもっと急ぎたがって、そわそわし、すっかり神経質になってしまう。そして、しばらくすれば、まず九十九パーセントまで、連れの男に向って、探偵がつけてくるから、まいてしまいたいと言うね。そこで、連れの男がそれを助けてやれば、相手は気をゆるめて、連れを信用するようになるんだ」
「相手が連れの男に何も言わない場合は?」と弁護士が尋ねた。
「そのときは」とドレイクは答えた。「連れの男のほうから相手に何か言うんだ。肩をたたいて、『ねえ、きみ、よけいなおせっかいはしたくないんだが、どうもきみを尾行しているやつがいるんじゃないか?』とか、『おい、うしろからついてくるやつを見てみろ。やつはおれを尾行しているにちがいない』とか、言ってやるんだ。追いかけているのが犯罪事件なら、ふつう連れの男は自分がつけられているように装《よそお》うべきだ。そして、打ち明け話をして、自分はどこそこでこんな罪を犯《おか》した、刑事がつけているんじゃないか、と言って、尾行をまくのを手伝ってくれと頼むんだ。そこで、ふたりでビルの中にかけこんだり、エレベーターで上ったり下ったり、人ごみにまぎれこんだり、いろんなことをやってみるわけだ。そして、適当なところで連れの男が合図をして、尾行者が姿を消せば、相手はうまく尾行をまいたものと思ってしまう。これは、まあ、ときどき効果を上げる手だがね。とにかく、この荒っぽい尾行を使えば、まずたいていの場合、相手の口を割らせることができるよ」
「よし、わかった」とペリー・メイスンは言った。「ひとつ、荒っぽい尾行ってやつを使ってみたいな」
「そんな必要はないんじゃないかな」とドレイクは言った。「こいつは最後の手段としてしか使わないものなんだ。そんなことをしなくったって、たいてい、友だちになってしゃべらせることができるよ。抜け目のない探偵なら、口を割らせる|こつ《ヽヽ》ってものを知ってるんだ」
「いや、これは並《なみ》たいていの場合じゃないんだ」とメイスンは言った。「まず、交際係の探偵がいるな、あるきまったタイプの――」
「どんなタイプだい?」
「中年の女だ。これまであくせく働きつづけて生きてきたという感じが出せなくちゃいけない。誰か、顔も姿もあまりきれいでなく、皺のよった手と大きな図体をした女を見つけてくれ」
「いいとも。ちょうどおあつらえ向きのがいるよ。利口で手ごわい女だ。それで、誰に接近させたいんだ?」
「エドナ・メイフィールド夫人、エドワード・ノートンの家政婦だ」
「ノートンというと、殺された男だな?」
「そうだ」
ドレイクは口笛を鳴らした。
「その女が殺人に関係があるというわけか?」
「何に関係があるかはわからない」とメイスンはゆっくりと言った。「だが、あの女は何か知っている。そいつを知りたいんだ」
「でも、犯人はつかまったんじゃなかったかな?」探偵は、どんよりした眼の|ひょうきん《ヽヽヽヽヽ》な表情を急に引っこめて、すばやく値ぶみするように光らせながら訊いた。「やったのは、運転手か何かじゃなかったのか?」
「そんな話だな」とメイスンはあいまいな返事をした。
「きみはフランシス・セレーンの代理をしているんだろう? 信託財産と叔父の遺言の受益者になる若い娘の」
「うん」
「よし、わかった。それで、家政婦からどんなことをひっぱり出せというんだい?」
「何でも、知っていることをさ」とメイスンはゆっくりと言った。
「殺人についてだな?」
「何についてもだ」
ポール・ドレイクは、うつろな眼で、タバコの先端とそこから立ちのぼる煙を見つめた。
「おい、いいか」とドレイクは言った。「おたがいに率直にいこうじゃないか。きみがこの殺人事件で僕を働かせようというからには、何か警察の知らない穴があるぐらいのことはわかるぜ」
「殺人事件で働いてくれとは言わなかったよ」とメイスンはゆっくりと言った。
「そうだな、そうは言わなかったな」とドレイクは意味ありげに言った。
ちょっと沈黙がつづいたが、やがてメイスンがゆっくりと、印象づけるように言った。「僕は、あの家政婦が知っていることを全部ひっぱりだしてもらいたい。どんなことでもかまわないのさ」
ポール・ドレイクは肩をすくめた。
「誤解しないでくれ」と彼は言った。「僕は好奇心で|せんさく《ヽヽヽヽ》しているわけではないんだから、間違えないでもらいたい。だが、その女がもらした情報で、きみの依頼人に有利とは思われないものがあったらどうする?」
「やはり、その情報がほしいね」
「なるほど、わかったよ」とドレイク。「そうすると、この仕事をやらせる二人の探偵の手を経《へ》ることになるんだが、もしその情報が秘密にしておきたいようなことだったら、どうする? むろん、信頼のおける連中を使うようにはするが、とかく物ごとは遅かれ早かれ明るみに出てくるからな」
「そうだ」とメイスンはゆっくりと言った。「遅かれ早かれね」
また、ちょっと沈黙がつづいた。
「どうするんだ?」と探偵が尋ねた。
「どうやら、この事件もまた、時間と競争することになるだろう。きみの探偵たちがつかんでくれる情報も、遅かれ早かれ警察の手に入ることになるだろう。だから、僕がそいつを手に入れるのはなるべく早いほうがいいし、警察が手に入れるのはなるべく遅いほうがいい」
ドレイクはうなずいて言った。
「よし、だいたいわかったよ。誤解のないことを確かめておきたかっただけだ。僕の仕事では、誤解から依頼人の不満が生まれるものだし、僕としては、依頼人を満足させたいからな」
「まったくだ」とメイスンは言った。「では、これでたがいに了解したわけだな。
「ところで、もうひとつ話がある。エドワード・ノートンの秘書で、ドン・グレイブスという男が殺人現場の目撃者になっている。ところが、こいつが警察にした話と僕にした話とではちがうんだ。危険な男かも知れない。そこで、この男が、殺人の行われたとき部屋の中に女がいるのをほんとうに見たのかどうか、また、同じことになるが、見たと証言するつもりかどうか、それを内密にさぐり出したい。
どうだ、あまり疑われたりしないでそいつに近づき、ほんとうは何を証言しようとしているのかさぐり出せるような人物がいるかね? もし何とか手があるものなら、そいつから供述書のようなものをとりたいんだが」
「費用はどのくらい?」と探偵は訊いた。
「たっぷり、さ」と弁護士は答えた。
「そうだな、誰かをそいつのところへやって、タブロイド新聞か探偵実話雑誌からきたと言わせる。そして、目撃者の記事をもらいたいと言って、署名と宣誓《せんせい》つきの原稿を書かせ、そいつには語数に応じて金をはらってやることにしたらどうだい?」
「いいよ。その語数があんまり多すぎなければね」
探偵はにやっと笑った。
「つまり、原稿がほんものなら、というわけだな」
「うん、まあ、同じようなことになるな」
ドレイクは立ち上がると、真鍮《しんちゅう》のたん壷《つぼ》にタバコを投げ捨てて言った。
「よし、じゃあ、はじめることにするぜ」
「経過は知らせてくれるな?」
「ああ、知らせる」
「家政婦に重点をおいてくれ。手ごわい女だから、充分注意しないとだめだぜ」
「報告は郵送しようか?」
「いや、必ず口頭でたのむ」
そのとき、ドアをノックする音がして、デラ・ストリートがのぞきこみ、意味深長《いみしんちょう》にメイスンの顔を見た。
「いいよ、デラ、なんだい?」とメイスンは訊いた。
「クリンストンさんがお見えになっています。重大な用件だからすぐお会いしたいそうです」
「よし、会おう」
そう言って、メイスンはドレイクに向って曰《いわ》くありげに眼を走らせると、外の部屋まで聞えるような大きな声で言った。「よくわかりました、ドレイクさん。僕はいま重要な仕事で手が抜けませんので、すぐにとりかかるわけにはいきませんが、出廷までには十日ありますから、それまでに異議申し立ての書類を作って提出しておきましょう。もっとこまかい点が問題になってくるまでは、これで充分でしょう。債務不履行はまぬがれますよ」
メイスンは戸口でドレイクと握手をかわしてから、クリンストンをさし招いた。
「おはいりください」
クリンストンは、持ちまえの威風堂々たる態度を見せて、精力的な足どりで奥の部屋へ入ってきた。その力強い個性で行手の邪魔物をことごとく吹き飛ばさんばかりの様子だった。
「やあ、メイスンさん」と彼は握手をしながら言った。「お目にかかれてうれしいです。えらくお忙しそうじゃありませんか?」
メイスンはじっと考えこむような視線で相手を見まもった。
「ええ、どうも忙しくて」
クリンストンは大きな椅子いっぱいにどっかと腰をおろすと、ポケットから葉巻をとり出し、先端を切って、靴の底でマッチをすった。
「どうも、いろいろと困ったことになりましたな」
「ええ、困りつづけです」
「まあ、そのうちにうまく片づくでしょう」とクリンストンは言った。「しかし、なぜあなたは私の指図《さしず》に従ってくださらなかったのです?」
「とおっしゃると?」
「フランシスを事件の表面に出さないようにすることですよ」
「そのことなら全力をつくしてますがね。かわいそうにあの娘は、興奮しきってるんです。ここへきたとき、すっかりだめになってしまったので、医者を呼ぶと、絶対安静が必要だと言われました。そして医者は、どこかの療養所へ彼女を入れてしまって、それがどこなのか僕にも言おうとしないんです。呼びもどしたりするといけないというわけで」
クリンストンは、葉巻の青い煙をふうっと吹き出し、考え深そうにメイスンを見つめながら言った。
「悪くありませんね、それは」
「彼女の神経は、まったく危険に瀕《ひん》していたんです」とメイスンはもったいぶって言った。
「ええ、ええ、わかってます」とクリンストンはいらだたしそうに言った。「そんなことでおたがいの時間をつぶすにはおよびません。わかってますから。私がうかがったのは、ジョージ・ブラックマンという弁護士を知っておられるかどうか、お尋ねしたかったからです」
「ええ、知っていますよ」
「その男が私に電話をかけてきて、重大な用件があるから、すぐあなたに会えと言ったのです」
メイスンは相変わらず単調で無表情な声で、落着きはらって言った。
「ブラックマンは今日早く会いにきて、もしディヴォーを故殺罪に服させれば、家族の方にとってよい結果になるんじゃないか、と言ってましたよ」
「何ですって!」とクリンストンはどなり声を上げた。「あいつは人殺しじゃないですか! あれは、卑劣きわまる計画的な殺人じゃないですか!」
「ブラックマンは、家族側のそういう態度について、話をしたいと言いました」とメイスンは相変わらず平静な注意深い口調で話しつづけた。「そして、もし家族側が自分の依頼人にたいして報復的な態度をとるつもりなら、自分のほうでも報復的な態度をとって、この事件が自分の依頼人に対するでっち上げだということを立証せざるをえない、と言うのです」
「どうやって、そんなことができるのです?」
「方法はいろいろありますがね」とメイスンは落着いた一本調子で言った。「被告以外のあらゆる関係者を審問するということは、刑法の原則なのです。ときには、検察官を審問することだってできるんですよ。検察側の証人を調べることなど、しょっちゅうです。やたらにほじくりまわし、関係のないようなことについて反対訊問をすすめながら、何らかの殺人動機を証明しようとするわけです。そして、動機があったことを陪審の前で証明できたら、こんどは機会があったことを証明しようとしはじめ、動機と機会の両方をつかむことができたら、急に|ほこ《ヽヽ》先を変えて、検察側の証人にも被告とまったく同じように疑うべき根拠があると主張するのです」
「罪をフラン・セレーンに転ずるということですか?」とクリンストンは訊いた。
「べつに誰とも申し上げませんよ。僕はただ、刑事弁護士というものがどんな手を使うかを説明しただけです」
「それで、その男が何を望んでいるのか、はっきりわかったのですか?」
「謝礼が望みだと|言いました《ヽヽヽヽヽ》。そして、この事件をできるだけ寛大《かんだい》にながめて故殺の主張を認めてくれるよう地方検事に要請することを確約してくれと言っていました」
クリンストンはじっと考えこみながらメイスンを見つめた。
「彼が望みだと言ったのは、それなんですね?」
「ええ」
「あなたのご様子では、それが彼のほんとうの望みではないとお考えのようですが」
「ええ、そうです」
「なぜですか?」
「故殺罪の主張を地方検事がとり上げるとは思わないからです。検事は第一級殺人として起訴するか、それともまったく起訴しないかのどちらかですよ」
「では、ブラックマンは何を望んでいたのです?」
「そのような提案にこっちがどんな反応を見せるか、確かめたかったのでしょうね。こっちが喜んで応じたりすれば、とれるだけの金をとり、さらに脅迫してまたとれるだけとり、裁判のときには裏切るでしょう」
クリンストンは葉巻を見つめて考えこんだ。
「そんな男とは思えませんでしたね」と彼はゆっくりと言った。「もっとも、電話で話をした感じからですが」
「お会いになっていたら、もっとよい印象をうけられたことでしょうな」
クリンストンは葉巻をくわえ直して、噛《か》みながら考えこんだ。
「だが、ねえ」と彼は、ひろげた指を口にあてて葉巻をとると、急に言った。「あなたのこの事件の処理の仕方はどうも気に入りませんね」
「そうですか?」とメイスンは冷やかに言った。
「そうですとも!」とクリンストンは急にどなり声を上げた。
「何が気に入らないのですか?」
「あなたは絶好の機会をみすみす逃していると思う。ブラックマンと協力すれば、この事件をきれいに片づける機会が生まれるはずだ」
メイスンの答えはぶっきらぼうで、何の説明もないものだった。
「僕はそう思いません」
「私はそう思うんだ。さあ、私から命令する。さっそくブラックマンと連絡して、彼の望みをかなえてやりたまえ。理屈のとおるものなら何でもかまわないから」
「あの男は理屈の通るものなんかほしがりませんよ。ああいうタイプの男はぜったいにそうです。こっちの考えを見きわめた上で、要求をつり上げてくるのです」
「いいとも。勝手に持ち出させなさい。この事件には、まったく莫大な金が関係している。へまをやるわけにはいかない」
「フランシス・セレーンの神経が重圧に堪えられないとお考えですか?」とメイスン。
「よくもそんなことが訊けたものだ!」とクリンストンはどなるように言った。「あんた自身、彼女を警察の手に渡さないために、神経衰弱に仕立て上げなければならなかったくせに」
「僕は、警察に渡さないためにそうしたとは言いませんでしたよ」
「そうか、じゃ、私がそう言うのだ」
「ええ、たしかにうけたまわりました。それに、どなるにもおよびませんよ」
クリンストンは急に立ち上がると、吸いさしの葉巻をたん壷に投げこんで、メイスンをにらみつけた。
「よし、これであんたの仕事は終りだ」
「それはまた、どういう意味です?」
「言ったとおりの意味だ。もう私の代理はしなくていいし、フランシス・セレーンの代理もしなくてよくなるだろう」
「それは、セレーンさんが自分でおきめになるのが一番いいでしょうね」とメイスンはゆっくりと言った。「彼女からじかにそう言ってくるまで、僕は待ちますよ」
「私が連絡すれば、たちまち断《ことわ》ってくるだろう」
「どこへ連絡なさるおつもりですか?」とメイスンは考え深そうに微笑しながら訊いた。
「心配はいらない。必ず連絡はつける。そうすればお終《しま》いだ。あんたは|へま《ヽヽ》をやった。前には何か、うまくやったこともあるのだろうが、この事件はまったくめちゃめちゃにしてくれた。私は誰かほかの弁護士を見つけて……」
だしぬけにペリー・メイスンは立ち上がった。そして、きっぱりとした足どりでデスクをまわった。クリンストンは近づいてくる相手をじっと見つめたが、その眼にはかすかながら狼狽の色が浮かんだようだった。メイスンは、クリンストンの前にじっと立ちはだかった。その眼は冷やかで、きびしく、不気味な光をたたえていた。
「よろしい」と彼は言った。「だが、誤解のないようにしておきましょう。これからさき僕はあなたの代理をつとめません。そうですね?」
「そのとおりだ!」
「考えちがいをしないでください」とメイスンは言った。「あなたのほうの仕事はべつに重要ではないんです。セレーンさんにしたって、僕が死んだ人間と生き残っているその共同経営者と、両方の財産を管理するわけにはいかないという事情さえなかったら、遺産問題も僕にまかせたでしょうからね」
「まあ、そんなことは、もう心配するにはおよぶまい。それに、ノートンの遺産問題を引き受けるなどとは考えないことだ。あんたは何の代理も、誰の代理人もつとめやしない。私は、自分の代理人にべつの弁護士を雇うよ。その弁護士がフランシス・セレーンの代理もつとめるだろう」
ペリー・メイスンはゆっくりと不気味な口調で言った。「あなたがどんなにばかか、どんなに抜きさしならない羽目《はめ》におちこんでしまったか、わかるだけのことでしょうな。雇おうとされる弁護士はブラックマンがすすめる男ですね」
「それなら、どうだと言うんだ?」とクリンストンはつめよった。
メイスンは冷やかに微笑して言った。
「どうもしませんよ。どうぞご自由に。お好きなだけ深みにおちることですね」
クリンストンの視線がいくらかやわらいだ。
「いいかね、メイスンさん」と彼は言った。「私は個人的にふくむところがあるわけではない。しかし、これはビジネスだからね。あなたは|へま《ヽヽ》をやっていると思うし、あまりに道徳的すぎるようだ。だが、誤解しないでくれ。フランシス・セレーンは私にとって大事な人間だ。私はあの娘に対して叔父のようなつもりでいる。あの娘にはなみなみならぬかかわりがあるし、なんとか欺《だま》されないようにしてやろうと思っている。だから、この事件ではブラックマンと取り引きのできる人間が必要だと思う。ブラックマンは、世界にあんたひとりしかいなくなっても、あんたとはもう取り引きしないと言っている」
メイスンは陰気に苦笑した。
クリンストンは頑固に話しつづけた。「何が起ころうとも、私はフランシス・セレーンの味方だ。これが片づくまでに、どんな証拠が出てくるかわからないが、どんなことが起っても、あの娘のそばは離れないつもりだ。わかるだろう、はっきりわかってもらいたいな。私はビジネスマンだが、あの娘はビジネスについては何も知らない。だから、あの娘が欺されないようにしてやるつもりなんだ。いまからすぐにでもな」
そう言って、クリンストンは背を向けると、重々しい、もったいぶった様子でドアのほうに歩みよった。
ペリー・メイスンはじっと考えこみながら相手を見まもっていたが、クリンストンがいきおいよくドアを開けたとき、「なんておめでたい人だ」とつぶやいた。
クリンストンは、くるりと向き直って言った。「何だと! 私は誰にも馬鹿よばわりはさせはせんぞ」
「事件が落着するまでには、もっと思い知らされるでしょうね」と言って、メイスンはくるりと向きを変え、デスクのほうへ引き返した。
クリンストンは、ちょっとためらってから、向き直り、また部屋の中へもどってきた。
「よし、おめでたくない人」と彼は言った。「じゃあ、ちょっと教えておきたいことがある。あんたはこの事件では最初から|へま《ヽヽ》をやっている。だが、私にはセレーンの弁護士としてのあんたをクビにはできない。それはどこまでもあの娘のすることだからな。ただ、あんたをやめさせるようにあの娘に忠告するつもりだ。しかし、それでもあの娘があんたをやめさせない場合のために、ひとつ教えておこう。執事のパーケットに注意しろと言うことだ」
「それはまた、おもしろいお話ですな。どうぞ、お聞かせください」
「ほう」とクリンストンは皮肉をこめて言った。「あんたでも、他人の忠告を聞きたいことがあるのかな?」
「僕がうかがいたいのは、なぜパーケットのことをそんなふうに言われたか、ということですよ」とペリー・メイスンは冷たい眼を光らせながら言った。
クリンストンの眼は、考え深く値ぶみするように弁護士を見まもった。
「話してあげても、その情報を使いこなすだけの分別がおありかな?」
ペリー・メイスンは何も答えないで、相手の言葉を待ちうける人間がよくやるように、ちょっと頭をかしげていた。
「この事件の証拠は、まぎれもなくディヴォーが犯人だということを示していた」とクリンストンは話しはじめた。「だから、|腕のいい《ヽヽヽヽ》弁護士なら、警察がこの証拠だけでは確実ではないかもしれないなどと考えはじめたりしないように、うまくやったはずだ。ところが、あんたは坐りこんだきり、何もせず、そのうちに警察が証拠に疑問を持って、捜査の手をひろげはじめた。
そして、捜査が進行しても、あんたは自分の依頼人を事件にまきこまれないようにするために、何ひとつ手を打たなかった。そこで、もしディヴォーが犯人なら、問題は片づくが、もし犯人でないとすれば、ほかに誰か犯人がいることになる。そのほかの誰かがパーケットであるという見込みが、誰よりも強いのだ。それなのに、あんたはあの男のことなどまるでそっちのけにしている」
クリンストンは口をつぐむと、敵意をこめてにらみつけるように突っ立っていた。
「お話しはそれだけですか?」とメイスンは尋ねた。
「それだけだ」
メイスンは微笑を浮かべて言った。
「ブラックマンがいるのは、ミューチュアル・ビルですよ。電話帳をお調べにならなくてもすむようにね」
クリンストンの顔には、ちょっと驚きの色が浮かんだが、すぐいかめしい表情にもどった。
「そりゃどうも」そう言うと、彼はいきおいよくドアを開け、後手に閉めて出て行った。
ペリー・メイスンは、ほんのしばらく坐りこんでいたが、やがて帽子をしっかりとかぶった。そして、外の秘書室を通りぬけながら秘書に言った。「デラ、僕はいつ帰るかわからん。五時になったら、閉めてくれよ」
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十三
ペリー・メイスンは、自分の車のおいてあるガレージへ入って行って、修理工に尋ねた。
「スピードメーターのマイル数をすこしもどすのは、めんどうかね? つまり、メーターが一五三五〇マイルと出ているとき、こいつを一五三〇四・七マイルまでもどしたいというような場合だ。よほどめんどうかね?」
「なに、たいしたことはありませんや」と修理工はにやにやしながら答えた。「ただ、どうせそこまでもどそうってんなら、きれいさっぱり三〇〇〇マイルぐらいまでもどしちまったほうがいい。そうすりゃ、優秀車の見本として売れますぜ」
「いや、自動車屋や客をだまそうというわけじゃないんだ」と弁護士は言った。「証拠物件のことで知りたかったんだ。それで、メーターをもどすには、どのくらい時間がかかる?」
「たいしてかかりゃしません。簡単でさあ」
メイスンは修理工に五十セントにぎらせると、頭をたれて考えこみながらガレージを出た。
つぎに、彼はドラッグ・ストアに入り、エドワード・ノートンの家へ電話をかけた。
電話に出たのは執事だったが、その声は、いかにも、何か世間の関心の的となった悲劇の際にやたらにかかってくる電話の応対をしなければならない型にはまりきった調子だった。
「庭師のジョン・メイフィールドさんとお話ししたいのだが」とメイスンは言った。
「さあ、それはいかがでしょうか、メイフィールドさんにはめったに電話がかかることはございませんので、当人が電話口に出るものやらどうやら」
「そんなことはかまわん」とメイスンは、自分の正体を知らせないで言った。「これは警察の仕事に関係があるんだ。電話口に出してくれ。大至急」
向こうの電話口では、ほんのしばらくためらうような沈黙がつづいたが、やがて執事の声がした。
「承知いたしました。ちょっとお待ちください」
数分たつと、重苦しい、がさつな声がひびいてきて「もしもし」と言った。
メイスンは早口にしゃべりはじめた。
「こっちが誰だか、誰にもしゃべるなよ。弁護士のメイスンだ。フランシス・セレーンの代理人だ。きみの奥さんが金をくれといったんだが、どこにいるのかわからないんだ。きみは知っているかね?」
「地方検事のところへ行ったはずだがね。車で迎えにきて、連れてったんで」
「そうか。じゃあ、ぜひきみと会って、奥さんが僕に持ちこんだ用件について相談しなくちゃならない。どう、車を一台持ち出して、僕に会いにこられないかね?」
「行けるかもしれねえが、どうかわからねえですよ。それより、だんなのほうからきてくださるんなら、並木路の角のところまで歩いて行って、そこでお目にかかればいいと思うんだが」
「よし、そうしよう。並木路で会うんだな。そこで僕と会うことは誰にも言うなよ」
メイスンはガレージへ引き返すと、車に乗りこみ、ノートン邸《てい》に通じる曲がりくねった道が並木路と交差している地点まで急行した。
メイスンが車をとめると、骨太《ほねぶと》で、がっしりした体格の、猫背の男が、しだいに濃くなる夕闇の中から姿をあらわした。
「メイスンさんだね?」
「そうだ」
「あっしがジョン・メイフィールドです。ご用は何です?」
メイスンは車から半分乗り出し、ステップに片足をかけたまま、鋭い眼つきでじっとその男を見まもった。
相手は、のっそりした、無神経な感じの顔をしていた。ぶあいそうな眼つきで、厚ぼったい唇には微笑の影もなかった。
「きみは、奥さんが僕に話したことを知ってるかね?」とメイスンは訊いた。
「女房は、だんなとお話しをしたって言ってましたがね」と男は用心深く答えた。
「どんな話をしたか、言ったかね?」
「たぶん、金が手に入るだろうって言ってました」
「なるほど。ところで、僕は自分の立場を心得ておくために、あのスピードメーターのことを聞いておかなくてはならないんだが」
「なんのスピードメーターのことで?」
「あのビュイックのだよ。きみがあのメーターをもどしたのかね?」
「いいや、そんなことはしませんぜ」
「奥さんとの取り引きがまとまったら、きみがメーターをもどしたと言うかね?」
「何のことです、そりゃ?」
「何のことでもかまわんさ。きみはただ、奥さんにこう伝えればいい。あの取り引きをまとめようというのなら、そのまえに僕が、ビュイックのスピードメーターがもどされたという証言が得られるかどうか、それを知りたがっているとね」
「それがあれと何の関係があるんです?」
「それはこうなんだ」とメイスンは、自分の話を強調するように、ちょっと人さし指を突き出しながら言った。「わかっているのは、エドワード・ノートンが警察に電話をして、ビュイックが盗まれたと報告したことだ。そこで、彼が電話をかけたときには、明らかにビュイックはガレージになかったことになる。|誰か《ヽヽ》があのビュイックを持ち出したのだ。セレーンさんが家にいようといまいと、変わりはない。誰かがあのビュイックを持ち出したのだ。あの車は、ノートンさんが電話をかけたときにはなかったのだ。ところが、警察がやってきたときには、ビュイックはガレージに入っていて、しかも、そのスピードメーターは、車が持ち出されたときと同じマイル数にもどされていた。つまり、誰かがスピードメーターをもどしたわけだ。そこで、問題は、|誰がやったか《ヽヽヽヽヽヽ》? ということになる」
「あっしはやりませんよ」
「運転手のディヴォーはどうだ?」
「あいつのことは知りません」
「執事はどうだ?」
「知りませんね」
「そうか。何を訊いても、ろくに知らないんだな。きみの奥さんのほうは、何が起っているか、実によくごぞんじだというのにな。さあ、奥さんにこう伝えてくれ。もし取り引きをしようというのなら、誰があの車のスピードメーターをもどしたか、|つきとめてくれなくちゃいけない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、とね」
「車を持ち出したやつのことですね?」
「ちがうよ、車を持ち出した人間なんかどうでもいいんだ。持ち出したのはセレーンさんだと思われてたほうがましなくらいだ。僕がやりたいのは、スピードメーターがもどされたという事実を証明することだ。それに、誰がそれをやったのか、つきとめたい。わかるかね?」
「へえ、やっとわかったようです、だんな」
「奥さんはいつ帰る?」
「わかりません。地方検事のところからきた連中があれと何か話をしていました。それから検事局まできて供述書を作ってくれといったんです」
「なるほど。では、僕の言ったことを奥さんに伝えられるね?」
「ええ、だいじょうぶです」
「よし、まちがいなく伝えてくれよ。ところで、もうひとつ知りたい。殺人があったとき、きみがどこにいたかということなんだが」
「あっしですか? 眠ってましたよ」
「まちがいないね?」
「まちがいねえですとも。大騒ぎがはじまったもんで目がさめたんです」
「奥さんは眠ってなかったぜ」
「そんなこと、誰が言うんで?」とメイフィールドは、ぶあいそうな眼にかすかな感情の動きを見せながら尋ねた。
「僕さ」とメイスンは言った。「奥さんは家の中をうろついていた。殺人が起ったときには、まだ寝てなかったんだ。きみも知ってるじゃないか」
「それがどうだというんで?」
「こういうことさ」とメイスンは、もっともらしく声をひそめて言った。「殺人のあった部屋には、ノートンさんをなぐり殺した男といっしょに女がひとりいた。それで、きみの奥さんは、その女がセレーンさんだったとか、だったかも知れないとか、思わせぶりなことを言っている。だが、奥さんに伝えといてもらたいが、僕はいま、あのときあの部屋の中にいた女はきみの奥さんだと思いたくなるような証拠をにぎってるんだ」
「あっしの女房が人殺しをやらかしたって言うんですかい?」と庭師は気色《けしき》ばんだ。
「僕が言っているのは」メイスンは、喧嘩腰の庭師をにらみながら、なおも主張した。「ノートンさんがなぐられたときにあの部屋にいた女は奥さんだと思えるような証拠をにぎっているということだよ。奥さんがなぐったと言っているんじゃない。また、兇行《きょうこう》が行われることについて何か知っていたと言うわけでもない。だが、あのときあの部屋の中にいたといってるんだ」
「女房にそう伝えろって言うんですね?」
「そうだ」
「わかりました。伝えましょう。あんまり喜ばねえでしょうが」
「喜ぼうと喜ぶまいとかまわんさ。そう伝えてくれと言うんだ」
「わかりましたよ。まだ何かありますかい?」
「ないよ。ただ、誰も聞いている者がいないかよく確かめてから、この話をすることだな。つまり、検事局の連中には知られたくない」
「もちろんでさ。そいつはよく心得てます」
「よし、それでいい」と言って、メイスンは車に乗り、並木路を走らせて行った。
彼は、ある料理店に車をつけ、のんびりと、考えこみながら食事をした。
食事をすませた頃には、新聞売子が通りで声を張り上げていた。メイスンは一枚買って、車に持ちこみ、ゆったりクッションにもたれて、社内灯をつけ、第一面をかざる見出しを読みはじめた。
[#ここから1字下げ]
百万長者殺人事件に謎の新事実……兇行現場には女がいた!……当局は死体から消えた紙幣を追求中……女相続人の秘密結婚、重要証人として夫を召喚《しょうかん》……美貌の姪《めい》、有名弁護士を訪問後、謎の失踪。
[#ここで字下げ終わり]
ペリー・メイスンは、見出しに続くセンセーショナルな記事をすっかり読み通した。できるだけ行間に意味をこめた記事だった。実際に誰がどうこうとは書いていないが、警察では運転手のピート・ディヴォーの起訴事実に満足するどころではなく、捜査の方向を一変しようとしている、そうなれば富と名のある人々がまきこまれることになる――そんなことが読者にわけなく推察できる記事だった。
ペリー・メイスンは丁寧《ていねい》に新聞をたたみ、車のドア・ポケットに押しこんだ。それから車を走らせたが、行先きは彼のひとり住まいのアパートではなく、下町のあるホテルだった。彼は偽名を使って、そこで一夜をすごした。
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十四
ペリー・メイスンは事務所に入り、デラ・ストリートに「おはよう」と声をかけ、自分の部屋へ行った。デスクの上に朝の新聞がひろげられていた。
彼のあとから、デラ・ストリートがドアを開けて入ってきた。
「誰かが押し入って、さがしまわって……」
メイスンはくるりと向き直ると、デラを見つめて唇に指をあてた。そして、デラが沈黙すると、部屋の中をあちこち見まわりはじめた。壁の絵を動かして、そのうしろをのぞきこみ、回転書棚をまわし、壁面を調べ、さらにデスクの下へもぐりこんだ。やがて彼は立ち上がると、微笑を浮かべて言った。「盗聴機《デイクタグラフ》でもかくしてないかと思ってね。あいつを仕掛けるにはいいチャンスだったからね」
デラはうなずいた。
「ゆうべ、誰かが押し入って、何から何までひっかきまわしたんです。金庫も開けられたわ」
「こわしたのかい?」
「いいえ、金庫の組合せ文字のことをよく知っている器用な泥棒だったんでしょう。たしかに開けられてるわ。書類がかきまわされているから」
「まあ、いいさ。ほかに変ったことは?」
「ありません。ただ、刑事が三人、事務所を見張ってるわ。誰かが来るのを待ってるんじゃないかしら」
メイスンは心得顔でにやりとした。「待たせとくさ。せいぜい忍耐強くなるように」
「新聞をごらんになって?」
「朝刊はまだだ」
「いちばん新しい版だと、ノートンを殺した棍棒が確認されたって」
「ほんとうか?」
「ええ、重い散歩用のステッキで、その持主は私たちの依頼人の夫、ロブ・グリースンと判明したんですって」
「そうなると、あの男を第一級殺人で告発して、ディヴォーの起訴はとりやめか」
「それに、あの娘さんのほうも告発されるでしょうね。もうされてるかもしれないけれど」
「ほんとうかい?」
「ええ。スター新聞には、秘書のドン・グレイブスは誰かをかばっていたのだけれど、警察の訊問にたえきれなくなって、新しい証言をしたんだそうです」
「そうか。そいつはおもしろくなってきた。誰かきたら、いないと言ってくれたまえ」
デラはうなずいて、心配そうにメイスンを見つめながら訊いた。
「あなたもこの事件にまきこまれておしまいになるんじゃないかしら?」
「どうして僕がまきこまれたりする?」
「わかっていらっしゃるくせに、依頼人のためにいろんなことをなさりすぎるわ」
「そりゃ、どういう意味だい?」
「おわかりでしょう。セレーンさんを神経衰弱にしたてて、病院車でここから逃がしておしまいになったわ」
メイスンは微笑して訊いた。「それで?」
「警察で探している人をかくすと罪になるんでしょう?」
「あのとき、警察は彼女をさがしていたかい?」
「いいえ」とデラは心もとない口調で言った。「あのときはさがしてなかったと思うけど」
「それに、僕は医者ではない。病気をまちがえたかもしれないよ。彼女が神経衰弱にかかっていると思っただけだ。でも、それを確かめるために医者を呼んだぜ」
デラは顔をしかめて、|かぶり《ヽヽヽ》をふった。
「わたし、いやだわ」
「何がいやなんだね?」
「こんなふうに事件にまきこまれていらっしゃることがよ。どうしてもっとじっとしていて、法廷のお仕事だけなさるというわけにはいかないのかしら?」
「僕にもわからんね、まったく」とメイスンは微笑しながら言った。「たぶん、病気だろう」
「ばかなことをおっしゃらないで。ほかの弁護士なら、法廷へ出て行って、証人を調べてから、陪審《ばいしん》の前で弁論をのべるだけでしょう。あなたときたらわざわざとびだして行って、ご自分から事件にまきこまれておしまいになるんですもの」
「ほかの弁護士は、依頼人を絞首刑にしてしまうかもしれないぜ」
「そうなっても仕方のない依頼人だっていますわ」
「まあ、そうだろうね。だけど、僕はこれまでひとりだって絞首刑にしたことはないし、絞首刑になっても仕方のない依頼人なんて引受けたこともない」
デラは一瞬、メイスンを見つめたまま立っていたが、やがて微笑を浮かべた。その微笑にはまるで母親めいた感じがまじっていた。
「あなたの依頼人は|みんな《ヽヽヽ》潔白ですの?」
「それは、陪審員たちの言うことだね。けっきょく、きめるのはあの連中なんだから」
デラは溜息をついて、肩をすくめた。
「負けたわ」そう言って、彼女は秘書室へもどって行った。
ドアの閉《し》まる音がすると、ペリー・メイスンはデスクの前に坐りこんで、新聞をひろげた。誰にも邪魔されず十五分ばかり新聞を読んだとき、ドアが開いた。
「メイフィールド夫人という方がお見えになっています」とデラ・ストリートが言った。「お会いになれるうちにお会いになったほうがよさそうですわ」
メイスンはうなずいて答えた。
「ここへ通すんだ。急いでくれ。おそらく、あとから刑事がやってくるだろう。できるだけ長くごまかして、入れないようにしてくれ」
デラはうなずいて、ドアを開けると、外の部屋に坐っている女をさしまねいた。
メイフィールド夫人のがっしりした姿が戸口からのっそりと入ってきたとき、その向こうの通路をできるだけふさごうとしている秘書の姿がメイスンの眼に入った。そして家政婦のうしろのドアが閉まるときに、デラ・ストリートの声が聞こえた。「まことにお気の毒ですが、メイスンさんはただいま重要な用談中ですから、お取次ぎできません」
ペリー・メイスンはメイフィールド夫人に向って軽くうなずくと、立ち上がって、ドアのところへ行き錠《じょう》をおろした。
「おはよう、メイフィールドさん」
彼女は黒い眼に敵意をこめてメイスンをにらんだ。
「おはよう!」彼女はかみつくように答えた。
メイスンが黒い皮張りの椅子をすすめると、彼女は腰をおろし、背中をぴんと張って、顎を前へ突き出した。そして、訊いた。
「ビュイックのスピードメーターがもどされてるとかって話は、いったい何のこと?」
そのとき外の部屋から、人がもみ合っているような物音が聞こえた。つづいて、ドアに体のぶつかる音がして、ノッブがまわった。だが、錠がかかっているので、ドアは開かなかった。ペリー・メイスンはメイフィールド夫人をじっと見つめつづけて、彼女の注意をドアの音に向けさせなかった。
「ノートンさんは、ビュイックが盗まれたと警察に知らせたね」と弁護士は口を切った。「そのときは、みんな、セレーンさんが乗って行ったものと思った。いまでは、彼女ではなかったらしいんだ。ノートンさんが盗難を報告したときには、あのビュイックはなかったはずだ。ところが、車のマイル数の記録が残っていて、それによると、ノートンさんが乗って帰ってきたとき、メーターはすでに一五三〇四・七マイルになっていたんだ。つまり、殺人のあった夜に車を使った人間がスピードメーターをもとへもどしたのか、それとも、車を持ち出すときにメーターを切ったのか、どちらかにちがいない」
メイフィールド夫人は首をふって言った。
「あの車は外へ出なかったのよ」
「それは確かかね?」
「執事のパーケットはガレージの真上で寝ているんだよ。ベッドの中で本を読んでいたけれど、車を出す音は何も聞かなかったそうだよ。ガレージの扉は閉まっていたし、車なんか出なかったって言ってるよ」
「間違えたってこともあるんじゃないか?」とメイスンは追及した。
「そんなはずはないよ」と彼女はきっぱりと言った。「あの扉は開けるときに大きな音をたてるもの。ガレージの上の部屋にはとてもやかましく響くからね。パーケットに聞こえないはずはないよ。ところで、あんたがうちの人に言った|でたらめ《ヽヽヽヽ》は、いったい何のまねさ、あのときわたしがあの部屋にいたなんて……」
「それはちょっと後まわしにしよう」とメイスンはさえぎった。「いまは車の話だ。それに時間がない。いいかね、僕は、スピードメーターがもどされたという確証がにぎれないかぎり、あんたと何も取り引きはできないんだ」
家政婦は強く|かぶり《ヽヽヽ》をふって言った。
「どっちみち、もう取り引きはできないよ。あんたがだいなしにしちまったんだからね」
「どういう意味だ、それは?」
「あんたがばかなやり方をするから、警察はフランシス・セレーンを引きずりこんじまったんだよ」
女の黒い眼は怒りに燃えて喰い入るようにメイスンを見つめたが、とつぜん涙にうるんできた。
「フランシス・セレーンを事件に引きずりこんだのはけっきょくは自分《ヽヽ》じゃないか」とメイスンは立ち上がって、とがめるように女の顔を見つめながら言った。「あんたはまず最初に、結婚のことであの娘をゆすり、つぎには、この殺人事件の表面に出さないようにしてやると言ってもっとゆすろうとした」
女の黒く輝く眼には、大つぶの涙が浮かんでいた。
「わたしはお金がほしかった」とメイフィールド夫人は敵意の消えてゆく態度で言った。「お金を手に入れるには、楽ないい方法だと思ったんだ。フランシス・セレーンに大金が入ってくることがわかったからね。そのなかから少しもらったって悪いわけはないと思ったんだ。あの娘があんたを雇ったときにも、あんただってたくさん金をもらうんだろうから、わたしが少しもらって悪いわけはないと思ったんだ。
わたしはこれまで働き通しで生きてきた女なんだよ。結婚したけど、亭主はでくのぼうで、みじめな境遇から抜け出す野心も頭もない男なのさ。いつだってわたしは自分でやってかなくちゃならなかった。娘のころは家族の世話をしなければならなかったし、結婚してからは、一家を支えてゆくだけで精いっぱいだった。わたしは何年もフランシス・セレーンの世話をしてきた。そして、あの娘がのらくらと甘えほうだいの生活をしているのを見てきたんだよ。あの娘がベッドで朝食をとるのを見ながら、こっちはまるっきり奴隷のように追いまわされて、家事をしなければならなかったんだよ。つくづくいやになっちまったのさ。わたしだって、少し金を持ったって悪いわけはないと思ったんだ。お金がたくさんほしかった。自分だって人に世話をしてもらいたい。お金を手に入れるためなら、何だってしてやろうと思った。ただ、あの娘にほんとうの迷惑さえかけなければ、何だってかまやしないと思ったんだ。
だけど、もうどうにもなりゃしない。警察に責め立てられて、しゃべってしまったんだよ。警察じゃフランシス・セレーンを殺人罪で逮捕しようとしている。殺人罪だよ! わかってるのかい!」
彼女はほとんど悲鳴に近い声を上げた。
そのとき、ドアを容赦なく強く叩く音がした。
「ここを開けろ!」外から荒々しい声が聞こえた。
ペリー・メイスンはドアの騒ぎには眼もくれず、メイフィールド夫人を見つめつづけた。
「この事件を解決するのに役立つかもしれないんだが、車を持ち出されたことと、スピードメーターが切られるか、もどされるかしたことを証言できる人間を見つけだせないかね?」
「だめだね。あの車は外へ出なかったんだから」
メイスンは、床の上を歩きまわりはじめた。
ドアを叩く音はますます強くなった。誰かが叫んだ。「警察の者だ。ドアを開けろ!」
とつぜん、メイスンが大声で笑いだした。
「なんてばかだったんだ、僕は!」とメイスンは言った。
家政婦は涙にぬれた眼をしばたたいて、驚いたようにメイスンを見つめた。
「なんだ、車はガレージから出やしなかった。ガレージから出た車なんかありはしなかったんだ」そう言って、メイスンはこぶし)を手のひらに打ちつけた。
彼は家政婦のほうに向き直って言った。
「もし、あんたがフランシス・セレーンのために何かしてやる気なら、もう一度パーケットとじっくり話し合うことだね。いっしょに事件をよくふり返って、彼の記憶を確実にしておくんだ。何が起ころうと、証言がぐらつかないようにね」
「車がガレージからでなかったことをパーケットに言わせたいわけだね?」
「ほんとうのことを言ってもらえばいい。ただ、きっぱりした態度で言ってもらって、証人台で弁護士たちにつっこまれてもどぎまぎしないようにしてもらいたい。彼に証言してもらいたいのは――あの晩、車が一度もガレージから出なかったこと、ガレージの扉は閉まっていて、一度も開けられなかったこと、彼に音を聞かれずに車を出すことは誰にもできないと言うこと、それだけなんだ」
「それなら、ほんとうのことだもの。パーケットが言っているとおりのことだからね」
「そうだ。だから、フランシス・セレーンのために何かしてやりたかったら、パーケットに会って、たとえどんな圧迫があっても、彼の証言が変わらないようにするんだ」
「ええ、そうしますよ」
メイスンは急いで尋ねた。「あんたは、フランシス・セレーンから金をもらったことについて、警察に何て言ったんだ?」
「何も言いませんよ。ただ、あの娘があんたに金を渡したことはしゃべったけど、それがいくらか知らないし、大きな札だったか小さな札だったかも知らないって言いました」
外ではドアに体あたりをくわせたらしく、みしみしと大きな音がした。
ペリー・メイスンはドアの前へ歩みよると、錠をはずして、ドアを開けた。
「僕の部屋へ押し入ろうなんて、いったい、何のまねだ?」
肩のがっしりした、首の太い、たくましい男が、顔をしかめて部屋の中へとびこんできた。
「誰だか言ったろう。警察の者だ」
「ムッソリーニだってかまわんが、人の事務所に押し入ったりするのはよくないな」
「よくないだと! おれはこの女を拘留しにきたんだ」
メイフィールド夫人が小さな叫び声を上げた。
「何の容疑で?」とメイスンは訊いた。
「殺人事件の重要参考人としてだ」
「ふうん、彼女がこの事務所へやってきたんで、あわてて重要証人として拘留する気になったってわけか」
「何のことだ、そりゃ?」
「言ったとおりさ。きみが外でこの事務所を見張っていたら、メイフィールドさんがやってきた。そこで上役に電話して指図を聞くと、彼女が僕と話しをする前に重要証人として引っ張ってしまえ、ということになったのさ」
「お見事なもんじゃないか、え?」と刑事はあざけるように言った。
メイフィールド夫人は二人の男を交互に見つめていたが、「だけど、わたしは何もしてません」と言った。
「そんなことは問題じゃありませんよ、奥さん」と刑事は言った。「重要証人として保護するだけです。あなたに迷惑や不自由な思いをさせないところでね」
「それに、検事局の人間以外、誰とも話のできないところでね」とメイスンがあてこすった。
刑事はメイスンをにらみつけて言った。
「あんたが、エドワード・ノートンの死体から盗まれた千ドル札を十枚もらっていることも、こっちにはわかってるんだぜ」
「そうかね?」
「そうさ」と刑事はかみつくように言った。
「その紙幣はどこにあると思う?」
「わからん。だが、見つけ出すさ」
「なるほど。ここは自由の国、いや、そうだったこともあるというだけかな。まあ、どうぞ、おさがしなさい」
「見つけ出したら、あんたも盗品を受けとった罪に問われるのは分かってるだろうな」
「まあ、それには、三つのことをしなければならない」
「何だ、三つのこととは?」
「その金が盗まれたものだということを立証し、僕がそれを受けとったことを立証し、さらに、受けとったとき僕がそれを盗まれたものと知っていたことを立証するわけさ」
「盗まれたものだということは、もう知ってるじゃないか」
「どうして僕が知っているんだね?」
「おれがいま話したからさ。あんたはもう通告を受けたんだ」
「ところが僕は、第一に、一万ドルを持ってるなんてことを認めてはいない。第二に、きみの言うことなんかまるで信用しないからね」
刑事はメイフィールド夫人のほうを向いた。
「行きましょう、奥さん。この弁護士は、あとで片をつけますよ」
「でも、わたしは行きたくありません」
「命令なんです、奥さん。何も困ることはありません。ただ、あなたの証言が得られるまで、安全なところで保護しようというだけなんですから」
ペリー・メイスンは、二人が部屋から出て行くのを見まもった。その精力的な顔は無表情だったが、その粘り強いまなざしには敵意の色がくすぶっていた。
外の部屋のドアが閉まると、ペリー・メイスンは秘書の机に歩みよって言った。「デラ、スター新聞に電話してくれ。きみの名前を言ってね。あそこにハリー・ネバーズという記者がいる。僕をよく知っている。社会部長にネバーズを僕のところへ会いによこすように言ってくれ。僕がセンセーショナルなニュースを提供するからと言ってね」
デラは電話に手をのばした。
「わたしから社会部長に話しますの?」
「そうだ。ネバーズをすぐよこしてくれと言って」
「ご自分でお話しにならないのね?」
「うん。僕が出ると、電話口に筆記者を用意して、こっちの話を聞き、それをインタビューと称してそのまま新聞にのせちまうからな。だから、きみの名前を言って、特種があるからネバーズをよこせと言ってもらいたいんだ。いったい何だと言って聞き出そうとするだろうが、自分は知らない、メイスンはいま電話に出られない、と答えるんだね」
デラはうなずいて、受話器をとり上げた。ペリー・メイスンは自室にもどって、ドアを閉めた。
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十五
ハリー・ネバーズは、背の高い、やせた男で、世の中のことにはあきあきしたというような表情を眼に浮かべていた。髪はぼさぼさで、顔には長いあいだ眠っていない人間のように脂が浮いていた。まるで徹夜をしたような様子だが、じっさい、彼は二晩眠っていなかった。
彼はペリー・メイスンの事務室に入ってくると、大きな黒皮の椅子の腕に腰をのせた。
「きみにいいネタを提供しようと思うんだ」とメイスンは言った。「そのかわり、助けてもらいたいことがある」
ネバーズは低い声でぼそぼそと答えた。
「ああ、いいよ。とうの昔から、そうくるだろうと思っていた。彼女はどこにいるんだ?」
「どこって、誰が?」
「フランシス・セレーンさ」
「そんなことを誰が知りたがってる?」
「おれさ」
「そりゃまた、何のことだい?」
ネバーズはあくびをした。とたんに椅子の腕からうしろへすべり落ちて、横向きに椅子に坐った恰好になってしまった。
「ちえっ、おどかしっこなしにしようぜ」とネバーズは言った。「そいつはその道の玄人がよくやる手なんだぜ。電話をもらったとたんに、筋書きは見破っちまったよ。まったくたやすいことさ。フランシス・セレーンは神経衰弱になって、どこかの療養所へさっさと送られちまった。ところが昨夜、地方検事が証拠をにぎって、彼女を第一級殺人罪で起訴することに決めた。彼女はこっそりグリースンてやつと結婚していたんだ。連中はもうグリースンを挙げて、今度はフランシス・セレーンを追求しようとしている。
あんたはフランシス・セレーンの弁護士だ。あんたがあの娘をどこかにかくしたんだ。そのかくし場所は、彼女を出頭させる用意ができるまで、下手な罠にひっかからないようにかくまっておけるうまい場所さ。ところが、彼女が殺人容疑で追われているという新聞記事が出てしまったので、あんたは彼女をかくしつづけるわけにはいかなくなった。医者や病院をまきぞえにしているからね。たとえあんたが頑張らせようと思ったって、その連中が承知しまい。そこで、とうぜん彼女を登場させなければならなくなり、おれに眼をつけた。ネタをやるから、かわりに何かしてほしいというわけだ。さあ、何がほしいのか話してくれ。そのうえで、取り引きに応ずるかどうか、答えようじゃないか」
ペリー・メイスンは顔をしかめて考えこみながら、指先でデスクの端を軽く叩いていた。
「何がほしいか、僕にもわからないんだよ」
ハリイ・ネバーズは痛ましげに首をふった。
「おい、おい、うちの連中は手ごわいのがそろってるんだからな、わからないんじゃ、とても物になりそうもないぜ。取り引きするつもりなら、いますぐやらなくちゃだめだ」
「それじゃ、まあ」とメイスンはゆっくりと言った。「大体のところなら話せるだろう。僕はそのうちに、兇行当時と同じような状況のノートン家へ、二、三人の人間を引っぱって行ってみようと思う。もっとも、どうやってそれを実行したものやら、まだわからないがね。それからもうひとつ、例の盗まれたと報告されたビュイックは、実際はガレージから出てはいなかったということを強調しようと思っている。つまり、僕が君たちにやってもらいたいのは、この二つの点について大いに書き立てて一般の注意をひきつけるようにしてもらいたいのだ」
「ちょっと待ってくれ」とネバーズは相変わらずのぼそぼそとした口調で言った。「あんたは、あのビュイックがガレージから出なかったことを強調するつもりだと言ったな。それは、車は持ち出されたけれど、スピードメーターが切られるか、もどされるかしたのだと言うつもりではないのか?」
「ちがう。僕は、車がガレージから持ち出されなかったことを強調するつもりだ」
この部屋に入ってきてからはじめて、ハリイ・ネバーズの声に好奇心らしいものがまじり、軽く調子づいてきた。
「あんたがそんな出方をするなんて、おかしいじゃないか」
「いや、いいんだ。この話はいずれまたすることにしよう。いま話しているのは、きみにやってもらいたいことだ。問題は、取り引きができるかどうか、ということさ」
「できるだろうな」
「カメラマンの用意はどう?」
「もちろん。おもての車の中で待ってるよ。それに、第一面には写真をのせるスペースがあけてある」
ペリー・メイスンはデスクの上の電話に手をのばして受話器をとり、低い声でデラ・ストリートに言った。
「プレイトン先生に電話をして、フランシス・セレーンをどこの療養所に入れたか訊いてくれ。先生に彼女を退院させるように電話してもらうんだ。フランシス・セレーンは殺人罪で起訴されそうだから、ご迷惑をおかけしたくない、と言ってね。それから療養所の電話番号を聞いて、先生が退院手続きの電話をすませたころを見はからって、フランシス・セレーンを呼び出してくれ」
メイスンは電話を切った。
「ところで、ちょっと頼みたいことがあるんだが」とネバーズが熱心に言った。
「何だい?」とメイスンは用心深く訊き返した。「もう頼みは聞いているわけだぜ。きみは写真から何からすっかり独占のはずだよ」
「まあ、そう警戒しなさんな。何でもないことだから」
「何だね?」
ネバーズは椅子に坐った体をちょっとまっすぐのばすと、例の低いぼそぼそ声で言った。「その娘にちょっと脚を出させてくれよ。トップを飾る写真だからね。それから、スナップはせいぜいたくさんとらしてもらいたいな。まあ、トップには彼女の顔のクローズ・アップを持ってきて、脚のほうは三面にするかもしれないが。とにかく、ちょっと脚をのぞかせた写真も何枚かとらしてもらいたい」
「それなら、自分で頼んだらどうだ? 何でも言える娘だぜ」
「もちろん、何でも率直に言うつもりさ。だけど、あんたは彼女の弁護士なんだから、あんたを信頼するだろう。どうも、興奮している娘にポーズをとらせるのは、ちょっとめんどうなんでね。あんたにうまくチャンスを作ってもらいたいんだ」
「オーケー。できるだけご期待にそいましょう」
ハリイ・ネバーズはポケットからタバコをとり出して、火をつけると、何かを値ぶみするように弁護士を見つめた。
「もしあの娘をうちの社にこさせて、おれたちに身柄を預けるようにすれば、彼女のためにもっとうまく運んでやれるんだがな」
メイスンはきっぱりした口調で言った。
「だめだ。きみは記事と写真が独占できるんじゃないか。それでこっちは精いっぱいだ。彼女は地方検事のところへ出頭するんだ。その点、誤解のないようにしたいね。つまり、僕は、新聞の記事によって世間に真実を伝えてもらいたいんだ」
ネバーズはあくびをして、電話をながめた。
「わかったよ。ところで、あんたの秘書はまだ電話を……」
とたんに、電話が鳴った。メイスンが受話器をとると、フランシス・セレーンの興奮した声が聞こえてきた。
「どうしたの? ここでは新聞も見せてくれないのよ」
「そうでしょう。いよいよはじまったんですよ」
「何のこと?」
「ロブ・グリースンが殺人容疑で逮捕されましたよ」セレーンの驚いて息をのむ声が聞こえたが、メイスンは話しつづけた。「警察は、エドワード・ノートンを殺した棍棒の出所をつきとめたんです。ロブ・グリースンの散歩用ステッキだったそうです」
「ロブがやったりするもんですか」と娘はそくざに答えた。「彼は叔父に会いに行って、ひどい口喧嘩をしたんです。そのとき、書斎にステッキを忘れてきたのよ、それで……」
「そんな心配はいりません」とメイスンはさえぎった。「この電話には傍受装置がつけられてるかもしれない。僕たちの話を刑事が盗み聞きしているかもしれませんよ。いつ、こっちへこられますか? すぐタクシーを拾ってきてもらいたいんです。殺人容疑で出頭する覚悟でね」
「わたしも逮捕されるって言うの?」
「ええ。だから、あなたを出頭させるのです」
「だけど、まだ殺人罪で告発されたわけではないんでしょう?」
「告発しようとしているところです。だから、こちらから先手をうつんです」
「そうしなければいけないの?」
「僕を信頼すると言ったでしょう。そうしなければいけません」
「行くわ。三十分ぐらいで」
「よろしい。では」メイスンはそう言って、電話を切った。
一息つくと、すぐまた彼は受話器をとり、秘書に言った。「地方検事のところにつないでくれ。クロード・ドラムがいたら、話がしたい」
彼は受話器をおいて、新聞記者のほうを向いた。
「おい」とネバーズが言った。「そんなことをしたら、自分の首をしめることになるぜ。地方検事に向ってあの娘を出頭させるなんて言おうものなら、連中はこの事務所に網を張って、彼女がきたとたんに逮捕するさ。連中にしてみりゃ、彼女を出頭させるより逮捕したほうがいいからな」
メイスンはうなずいて答えた。
「だから、まあ、僕が検事にする話を聞いてみることだな。そうすれば、誤解もなくなるし」
電話が鳴った。メイスンは受話器をとり上げた。
「もしもし、もしもし、ドラムさん? こちらはメイスン。ええ、ペリー・メイスンです。ロブ・グリースンがエドワード・ノートンの殺害容疑で告発されたそうですね」
電話を伝わってくるドラムの声は冷たく、用心深くなった。
「彼は、主犯のひとりとして告発されているよ」
「では、ほかにもいるわけですね?」
「うん、おそらくな」
「起訴状は提出しましたか?」
「まだだ」
「噂によると、フランシス・セレーンを犯人の一人として告発するそうですね」
「それで?」とドラムは相変わらず冷たく、用心深い声で言った。「いったい、何の用で僕に電話したんだ?」
「フランシス・セレーンが出頭する途中だということを、お知らせしようと思ったんです」
ちょっと沈黙がつづいたが、やがてドラムは言った。「彼女はいま、どこにいる?」
「いままでいたところとあなたの事務所のあいだのどこかでしょう。つまり、道路上ですね」
ドラムは用心深く訊いた。「その途中でどこかに寄ってくるかね?」
「そりゃ、僕にはわかりませんよ」
「よし、わかった。彼女がきたら、喜んで会うよ」
「保釈はしてくれますか?」
「それは、彼女の供述を聞いてから、相談しよう」
メイスンは電話に向って微笑した。
「間違えないでください、ドラムさん。僕は、彼女が出頭すると言っただけですからね。供述はしないでしょうよ」
「こっちにはすこし訊きたいことがあるんだ」
「けっこうですよ。訊きたいだけお訊きなさい。喜んで質問をうけるでしょう」
「質問に答えるだろうか?」
「答えないでしょうね。何か話さなければならないことがあれば、僕が話しますから」
メイスンはドラムが怒ってどなる声を聞きながら、受話器をかけた。
ネバーズは、うんざりしたような眼つきで、メイスンのほうを見やった。
「裏をかかれるぞ。向こうは娘がここへくると思って、彼女をつかまえに警官をよこすぜ。彼女が自分から出頭したというより、逮捕した形にしてしまうよ」
「いや、療養所からまっすぐ検事のところへ向っていると思っているさ。とにかく、いま聞いたとおりだ。これで誤解はなくなるだろう」
メイスンはデスクの引出しを開けて、ウィスキーの瓶をとり出し、グラスを一つおいた。新聞記者はそのグラスを押し返して、瓶ごと口にあてて傾けた。
瓶をおろすと、彼は弁護士の顔を見て、にやっと笑いながら言った。「おれの最初のワイフは皿洗いが大嫌いだった。おかげでこっちも食器を汚す習慣がなくなっちまった。ところで、メイスン先生、今朝はこれから大活躍ってことになりそうだが、おれはこの二晩|一睡《いっすい》もしてないんだ。この瓶をポケットにおさめさせていただくと、眼をさましておれるんだがな」
メイスンは手をのばして瓶をとり上げた。
「机のなかにしまっといたほうが、飲みすぎの心配がなさそうだな」
「そうか。それじゃ仕方がない。下へ行って写真屋さんでも呼んでくるか」そう言って、ネバーズは椅子の腕から滑りおりると、秘書室へつづくドアから出て行った。
五分たつと、ネバーズは、片手にカメラを入れたズックのケースを持ち、もう一方の手に三脚をぶら下げたカメラマンを連れてもどってきた。
カメラマンはろくに挨拶もしないで、入ってくるなり、光線の工合ばかり気にしている眼つきで部屋の中を見まわした。
「どんな様子の娘さんですか?」と彼は尋ねた。
「絹糸のような金髪で、眼は黒く、頬がふくらんでいる。それに、いい体つきだよ」とメイスンは答えた。「ポーズをとらせることなら、何もめんどうはない。自分をよく見せることにかけては玄人《くろうと》なみだから」
「あの皮の椅子に坐らせたいな」とカメラマン。
「ほっといても、あそこに坐るよ」とメイスンは答えた。
カメラマンは窓のシェードを上げ、三脚を立てると、大きなカメラを調節して焦点を合わせ、フラッシュ・ガンにパウダーを入れた。
「どうして閃光電球を使わない?」とメイスンは興味深そうにカメラマンの様子を眺めながら尋ねた。「そのほうが仕事もうまくゆくし、部屋じゅう煙でいっぱいにしないですむじゃないか」
「そいつは、支出勘定に眼を光らせている会計係に言ってくださいよ」とカメラマン。「それに、ここは|あんた《ヽヽヽ》の部屋ですからね。煙のことなど知っちゃいません」
ネバーズはにやっと笑ってメイスンに言った。
「こいつがわがスター新聞のうるわしき協力精神さ」
メイスンは天井を見上げて、つぶやいた。「きみたちが閃光電球代を節約しようというのなら、僕は三十分ばかり座を外《はず》すかな」
「この男にあの瓶から一杯飲ませてみろよ」とネバーズが言った。「あまりぼかぼかやらなくなるかもしれないぜ」
メイスンはカメラマンのほうへ瓶を押しやった。
「ところで」とネバーズは気むずかしげな口調で言った。「ねえ、メイスン、なんだかおれには、あんたが切札をかくしているような気がするんだが」
「ああ、そうだよ」とメイスンは答えた。
ネバーズはカメラマンに向ってうなずいた。
「よし、ビル、机に向かった弁護士先生の写真をとっといたほうがいいだろう。法律書でもすこし引っぱり出して。その瓶はどけろ。二枚ばかりとってくれ」
「フィルムをむだにするなよ」とメイスンは言った。「法廷場面か、フランシス・セレーンと街を歩いているようなところでもなけりゃ、僕の写真なぞ新聞にのせやしないぜ」
ハリイ・ネバーズは気難しげにメイスンを見つめて、例のぼそぼそした声で言った。「そうとはかぎらん。あんたの切札次第だ。最近、二度ばかりひっかけられたからな、まあ、必要な場合にそなえて、資料部用にとらしてもらうよ。まったく、どんなことになるかわからんからな」
ペリー・メイスンは鋭くネバーズを見つめて言った。
「つまり、きみは、僕が事後従犯として逮捕されそうだという話を聞きこんできたわけだな」
ネバーズは、かわいた、しゃがれ声で含み笑いをした。
「メイスンさん、あんたはなかなかいい頭を持っている。しかし、あんたの訴訟の扱い方や依頼人の代理の仕方は、ちょっとおかしいんじゃないか。あんたのほうから話にふれたから言うけれど、あんたは弁護料として盗まれた金を受けとったのに、届け出ないなんて話を聞いてるぜ」
メイスンはあざけるように笑った。
「たとえ僕が金を受けとったとしても、地方検事のところへのこのこ出かけて行って、机の上に金をおき、神妙に『はい、これでございます』なんて言ったら、僕の依頼人の立場はどうなるんだね」
「ほんとうに依頼人から千ドル札など受けとったのかい?」とネバーズは訊いたが、その訊き方は、とても返事が聞けるとは思っていない口調だった。
ペリー・メイスンは片手をふって答えた。
「もし受けとったのなら、その紙幣は僕の身につけているか、事務所のどこかにしまってあるか、どちらかだろう。この事務所は隅から隅まで捜索されちまったよ」
「今朝か?」
「ゆうべのうちだ」
ネバーズはカメラマンに向って顎をしゃくって言った。
「三枚とっといたほうがいいな、ビル。机の前のやつと、立っているところ、それにクローズ・アップを一枚だ」
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十六
フラン・セレーンは大きな黒皮の椅子に坐って、三脚にすえられたカメラを見つめたが、ふとペリー・メイスンの顔を見て微笑した。弱々しい、悲しげな微笑だった。
「そのまま、笑ったままで」とカメラマンが言った。
「ちょっと待った」とネバーズが言った。「色気が出なくちゃいけない。もうちょいと脚を見せてくれないかな」
フラン・セレーンは弱々しい微笑を浮かべたまま、左手を下へのばして、スカートを一、二インチ引き上げた。
「カメラのほうを見て」とカメラマンが言った。
ハリイ・ネバーズがまた言った。「ちょっと待った。まだだめだな。もうちょっと脚を出して」
娘の顔から微笑が消え、黒い眼に怒りの色が燃え上がった。彼女は手をのばすと、荒々しく膝のずっと上のほうまでスカートを引き上げた。
「それじゃあ、見えすぎですよ、セレーンさん」とカメラマンが言った。
「いいのよ」と彼女はネバーズに向って憤然と言った。「あんた、脚が見たいんでしょう! ほら、見たらいいじゃないの!」
メイスンは辛抱強く娘に言い聞かせた。
「いいですか、セレーンさん、この人たちはこんどのことでは僕たちの味方なんですよ。あなたのいい印象が世間にひろまるように努力してくれているんです。だが、そうするためには、世間の関心をひくような写真をとらなければならない。そこで、あなたが顔に適当な微笑を浮かべて、それに、男性の眼をひきつけるだけの性的魅力をちょっと見せることができれば、あなたにとって非常に役立つことになるんです」
娘の眼の激しい光がしだいに消えていった。彼女は膝の上のスカートの具合を直すと、ふたたび、弱々しい、悲しげな微笑を浮かべた。
「オーケー。それでいい」とネバーズが言った。
「そのまま。まばたきをしないでください」とカメラマンが言った。
白い閃光《せんこう》がぱっとフラッシュ・ガンからひろがり、小さな煙のかたまりがもやもやと天井に向って立ちのぼった。
「はい、けっこう」とカメラマンは言った。「もう一枚、ちょっとポーズを変えてとりましょう。泣いていたような恰好で左手にハンカチを持って、悲しそうな顔をしてください。もうちょっと口もとをゆるめて。脚はそんなに出さないで」
フランシス・セレーンはまた、かっとなって言った。「いったい、わたしを何だと思ってるの? 女優やモデルじゃないのよ」
「まあ、いいでしょう」とペリー・メイスンは娘をなだめながら言った。「こういうことも、たくさん経験しなきゃならないんですよ、セレーンさん。それに、もっと癇癪《かんしゃく》をおさえるようにしなければいけませんね。あなたがかっとなって、癇癪を起し、新聞記者が虎のような女などと書き立てたりしたら、立場は不利になってくるのです。僕がやろうとしているのは、事件を法廷まで持ちこんで、早いところ無罪釈放にしてしまうことです。それにはあなたが協力してくれなければいけません。さもないと、とんでもない羽目におちいるかもしれませんよ」
娘はじっとメイスンを見つめていたが、溜息をついて、注文どおりのポーズをとった。
「顎をもうちょっと下《さ》げて、そう、左のほうへ」とカメラマンがいった。「眼を下に向けて。いや、向けすぎた、それじゃ、つぶっているように見える。肩のさきをもうすこしうしろへ引いて、そう、それで首の線がきれいに出ます。はい、けっこう。そのまま!」
ふたたび、シャッターの音がして、閃光が白煙を吹き上げた。
「はい、すみました。二枚ともうまくいきましたよ」とカメラマンは言った。
ペリー・メイスンは電話の前へ近づいた。
「地方検事局のクロード・ドラムにつないでくれ」と彼は言った。
ドラムが電話に出てくると、メイスンは言った。「ドラムさん、まことに残念なことですが、セレーンさんは非常にからだの具合が悪いのです。なにしろ、神経衰弱になって、医者の命令で療養所に入ってたものですからね。それが、警察で自分をさがしていると知ったもので、出頭しようと思って療養所を出たのです。いま、僕の事務所にいますが、ひどく神経過敏になってます。ここから連れて行かれるように手配をなさったほうがいいと思いますが」
「さっきの電話では、彼女はきみの事務所を出たと言ったのではなかったかな」とドラムはちょっと困惑したような口ぶりで言った。
「いや、それは誤解ですよ」メイスンは答えた。「僕は、彼女がそちらへ向ったと申し上げただけですよ。それに、途中でどこかへ寄るつもりかどうかは知らないと申し上げたでしょう。彼女は神経がいらだってきたので、僕にいっしょに行ってもらいたいからというわけでここに寄ったのです」
「わかった、すぐ警官を行かせる」とドラムは言って、がちゃっと電話を切った。
メイスンはふり返ると、にやりと笑いながらネバーズに言った。
「もし、彼女が出頭するためにここへくるなんてことを話してしまってたら、連中はこの近所に警官を張り込ませて、ここへくる前に彼女をつかまえてしまっただろうね」
「まあ、それがおきまりってとこだな」とネバースが言った。「ところで、例のウィスキーをまだお持ちなら、もう一杯ちょうだいしたいね」
「わたしにもちょうだい」とフランシス・セレーンが言った。
メイスンは娘の顔を見て|かぶり《ヽヽヽ》をふった。
「いけませんよ、セレーンさん。もうすぐいちばん肝心な|やま《ヽヽ》に入るところです。酒臭い息をしていたのでは困りますよ。いいですか、これからさきのあなたの言動は、どんな小さなことでもことごとく取り上げられて、世間の眼にさらされるんですよ。
さあ、これからは、いかなる場合にも、事件のことをしゃべったり、癇癪を起こしたりしてはいけません。この二つをよく覚えておかなければなりません。ほかのことなら何をしゃべってもよろしい。新聞記者にはせいぜい話題を提供することです。ロブ・グリースンとの秘《ひ》めたる結婚ロマンスや、あなたが彼をどんなに愛しているか、彼がどんなにすばらしい男か、と言うようなことをお話しなさい。子供のときのこと、ご両親が亡くなったこと、叔父さんはあなたにとって父母にも劣《おと》らぬ人だったことなどをお話しなさい。そうして、金こそあるが、父も母もない、哀《あわ》れな小娘だという感じを出すようにするのです。
記者たちがお涙頂戴式の論評や人物スケッチみたいなものを書きたくなるような材料を片っぱしから提供しなさい。しかし、彼等が事件のことや、あの晩の出来事について話しはじめたら、もう一言もしゃべってはいけません。しゃべれなくてまったく申しわけない、|わたし《ヽヽヽ》としては話したいし、話して悪い理由もないと思うのだが、弁護士からその話は全部自分にまかせてくれと言われているから、とでも答えておきなさい。そして、わたしとしては、こんなことは馬鹿らしいと思うし、何もかくすようなことはないのだから、なぜ弁護士があんなふうに考えるのかわからない、いっそ、いますぐにでも、覚えているとおりのことをすっかり話してしまいたいと思うのだが、弁護士とは約束してしまったことだし、わたしは相手が誰であろうと約束は破りたくない、と言うのです。
連中はいろいろな手を使ってしゃべらせようとしますからね。きっと、ロブ・グリースンはすっかり自白してしまったとか、グリースンはどうもあなたが殺人をやったと思うと警察で陳述したとか、どうみても罪を犯したとしか思えないようなことをグリースンにもらしたとか、言い出すでしょう。またあるいは、グリースンはあなたが罪を犯したという結論に達したので、あなたを救うために罪をかぶったのだなんて言うかもしれませんよ。とにかく、そんなことを片っぱしから言ってくるでしょう。そうなっても、ただもう唖《おし》のような顔つきで相手を見つめ、何ひとつしゃべってはいけません。
そして、ぜったいに癇癪だけは起こさないようにくれぐれも気をつけてください。連中はおそらく、殺してやりたくなるようなことを言ってくるでしょう。だが、もしあなたがかっとなったりしたら、新聞の第一面いっぱいに、制御《せいぎょ》しがたい感情の持主、虎のような女などと書き立てられてしまうのです」
「わかったわ」と娘は言った。
そのとき、事務所の窓から、しだいに近づいてくるサイレンの音が聞こえた。
フランシス・セレーンは身をふるわせた。
「おい」とネバーズがカメラマンに向って言った。「カメラにフィルムを入れとけよ。お巡《まわ》りのなかには、容疑者を拘引《こういん》する自分の写真を新聞にのせたがるやつがいるからな。きっと、殺人課のカール・シーワードがやってくるぞ。やっこさんはカメラの前にやたらに腹を突き出したがる連中のお仲間なんだ。逮捕した人間の肩に片手をおいた写真をトップにのせてもらって、こう書いてもらおうという寸法さ――『容疑者を拘引する勇敢な殺人課刑事カール・シーワード。こうして、四十八時間にわたり全捜査陣を悩ました事件も終止符が打たれた』なんてね。
そうだ、おれもその写真に入れてもらったほうがよさそうだな。髪はきちんとしてるかね。容疑者発見に協力した本誌記者、というところだ」
ネバーズはにやにや笑いながらカメラの前でポーズをとった。
フランシス・セレーンが軽蔑するような眼つきでじっとネバーズを見つめながら言った。
「ちょっと脚を見せて」
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十七
ポール・ドレイクはペリー・メイスンのデスクの端に腰かけながら、タバコの|やに《ヽヽ》に染まった指さきで巧みにはさんだ褐色の紙の中へ、きれの袋から刻《きざ》みタバコを落した。
「ところで、メイフィールド夫人には、交際係をつけたぜ」と彼は言った。「もっとも、まだ何も収穫はないがね。とてつもなく時間を喰っちまった。警察がしばらく、重要証人として拘留してたもんでね」
「荒っぽい尾行のほうはもうやったのか?」とメイスンは尋ねた。
「まだだ。目下、その準備中さ。女探偵をひとり使ってね、家庭教師として外国へ行っていたが、いまは失業中という女に仕立ててある。メイフィールド夫人の経歴を洗って、むかしの友だちのこともすっかりわかったよ。そのなかのひとりを捜し出してね、夫人の知り合いの名前だとか、いろんな情報をみんな聞き出したんだ」
「その女探偵はうまくいってるのかね?」
「うん、うまくいってる。メイフィールド夫人に信用されちゃって、夫とのいざこざや何かをいろいろ打ち明けてくるらしい」
「だが、殺人事件のことは何も言わないわけだね?」
「うん、いまのところ、さっぱりね。もちろん、地方検事局へ連れて行かれて、しばらく重要証人として拘留され、最後に供述書にサインしたなんてことは、さかんにしゃべってるよ。しかし、こまかいことは言おうとしない。話すことは全部、新聞に話したことのむし返しなんだ」
「ドン・グレイブスは? あの男のほうはどんな調子だね?」
ポール・ドレイクはタバコを巻き終った。
「そっちは、大丈夫《ヽヽヽ》はかどってるよ。若い女探偵をぶっつけてやったら、グレイブス先生、ぞっこん惚れちまってね、知ってることは片っぱしからしゃべってるよ」
「事件のことも?」
「ああ、事件のことも、何もかもだ。洗いざらい吐き出してる」
「その女はやり手だな」
「ああ、やり手だとも」とドレイクは熱心に説明しはじめた。「たちまち相手の眼をくらましちまうんだ。すり寄ってきて、大きな眼でじっと相手を見つめ、さあ、何でもうかがいますわ、というように、うちとけてくるのがじつにうまいんだ。相手はまったく自然に話がしたくなるんだ。じっさい、僕だってあの女といっしょに出かけるたびに、どこかに坐りこんで、子供のころ振られた娘がいたとか、だから結婚しないんだとか、何だかんだと自分の悩みをみんなしゃべりだしちまうくらいなんだ。
よく、いまにも酔いつぶれそうになって、ふらふら歩きまわり、ぜんぜん見知らぬ人間の首にしがみついては、泣きながら自分のことばかりくどくどしゃべってるやつがいるだろう。まあ、ちょうどあれだな、この女にひっかかると。まるで酔っぱらい同然にされちまうんだ。すっかりいかれちゃって、何でもぺらぺらやってしまうのさ」
「そりゃ、すばらしい。で、何がわかった?」
「いままでのところ、きみが聞きたくないようなことばかりだ。きみの依頼人にはちっとも役に立たないよ」
「いや、かまわない。ほんとうのことを話してくれ。手加減《てかげん》なんかしなくていい。ありのままの事実を聞かせてくれ」
「うん、こうなんだ」とドレイクは話しはじめた。「殺人事件の起った夜、そのセレーンという娘はピンクのネグリジェを着ていた。グレイブスは、エドワード・ノートンの言いつけで、パーレイ判事とアーサー・クリンストンの車に同乗して、ある書類をとりに出かけた。グレイブスは、車が曲がりくねった道を走っていくあいだ、うしろをふり返って家のほうを見ていたが、ちょうどエドワード・ノートンの書斎の窓が見える位置にきたとき、デスクに向って坐っているノートンのうしろに誰かが立っているのを見たんだ。
それだけではなく、その男がエドワード・ノートンの頭に棍棒をふりおろし、ノートンがデスクの上に倒れるところを見た。そして、ひとりの女の腕と肩と頭が見えたが、その男女は二人とも誰だかわかったと思うと言っている。その女がピンクのネグリジェを着ていたそうだ」
「彼は地方検事局でそう供述したのだね?」
「うん、そう供述して、署名も、宣誓《せんせい》もしている」
「だけど、はじめの供述はそうではなかったんだぜ」とメイスンは言った。「警察の連中がはじめに調べたときには、グレイブスは、部屋の中でノートンをなぐりつける男を見たが、そのほかには誰も見なかったと言ったんだ」
「そんなことは何の役にも立たないよ」とドレイクは無造作に言った。「証明できないよ」
「だが、連中は速記をとっていたぜ」
ドレイクは笑った。
「その速記原稿がなくなっちまったんだ。ごぞんじないようだから、教えとくけど」とドレイクは言った。「僕はちゃんと新聞記者の一人に頼んで、あの晩供述を書きとった速記者に当たってもらったんだ。すると、奇妙なことだが、何かごたごたしているうちに、速記ノートをどこかへ置き忘れてしまったと言うんだ。つまり、消えちまったんだな」
ドレイクは弁護士の顔を見てにやりと笑った。
ペリー・メイスンは、額《ひたい》にまっすぐな皺《しわ》をよせて考えこみながら、デスクの上を見つめた。
「卑劣なやつらだ」と彼は言った。「地方検事はねんじゅう、いかさま弁護士が事実をごまかすなどと大声でわめき立てている。そのくせ、自分で発見した証拠が被告に有利なものになると、必ず何かごたごたして行方不明になるんだ」
探偵は肩をすくめた。
「検事は有罪判決がほしいのさ」
「ねえ、ポール、きみの女探偵はノートン邸のメイフィールド夫人の部屋に入れるかい?」
「もちろん、わけはないよ」
「よし、それじゃ、あの女の部屋にある服をすっかり調べてもらいたい。つまり、ピンクの服かネクジリジェがあるかどうか知りたい」
ポール・ドレイクは意味ありげに弁護士を横眼で見ながら言った。
「一枚つっこむことだって、そうむずかしいことじゃないぜ」
「いや、僕はフェア・プレイでゆくよ」
「フェア・プレイが何の役に立つんだ? 向こうさんはちっともフェアじゃないんだぜ」
「仕方がないさ」とメイスンは言った。「だが、僕はこの事件の逃げ道をひとつ見つけたような気がする。だから、フェア・プレイで堂々とやってゆくよ。チャンスさえつかめれば、うまく切り抜けられるだろう」
「だがねえ」と言いながらポール・ドレイクは両足をデスクの角へのせて重ねた。「この事件の逃げ道はないんじゃないか。連中はもういまから、きみの依頼人を罪人同様に扱っている。まあ、連中の手のうちを考えてもみろよ。あの娘は老人が死ぬことで得をするはずの唯一の人間だ。じっさい、結婚問題が頭の上にのしかかっているあの娘にしてみれば、叔父を殺すか、莫大《ばくだい》な財産を失うか、そのどちらかだったんだ。
このグリースンという男にしたって、彼女が好きだから結婚したのかもしれないが、彼女の金がほしくて結婚したのかもしれない。どちらだかわかりはしないが、とうぜん金のために結婚したと見なすことはできるな。検察側の考え方でいけば、こうなるんじゃないか――つまり、グリースンは例の信託条項のことを知ると、娘といっしょにノートンを説得しようとした。ノートンが聞き入れないので、殺そうとグリースンは決心した。そして彼等は大喧嘩をした。もしそこへクリンストンが約束どおりやってこなかったら、そのときすでにノートンを殺していたかもしれない。だが、グリースンは、クリンストンが帰るまで待つことになり、そのあいだに窓をこじあけて、外部から、強盗が押し入ったように偽装《ぎそう》した。それから、ノートンの頭をたたきのめした、というわけだな。
おそらくグリースンは、そのときには何も盗む考えはなかったろう。ただ、強盗の仕業《しわざ》に見せかけようと思って、ポケットをかきまわしたのだ。ところが、財布の中から大金を見つけたので、それをとっておくことにした。そのとき、クリンストンたちが帰ってくる物音が聞こえたので、急いで何とかしなければならなくなった。ちょうど運転手が酔っぱらってることを知っていたので、下へとんで行って、罪を運転手になすりつける証拠をできるだけたくさんでっち上げ、それから逃げてしまった。
フランシス・セレーンは、殺人が行われたとき、グリースンといっしょだった。あの娘は腹を立てると、とんでもない癇癪玉《かんしゃくだま》を爆発させる。おそらく彼女のほうはかっとなってしまったのだろうが、グリースンは金目当てで彼女と結婚した男だ。彼の場合は計画的犯行だ。強盗に見せかけた偽装だって、きっと、クリンストンがノートンと話をしている間にでっち上げたものだろう。だが、車がもどってくる音を聞いたときには、これは自分の姿を見られたか、何か具合の悪いことが起ったか、そんなことにちがいないとさとった。そこで、第二の手段として、運転手に|ぬれぎぬ《ヽヽヽヽ》を着せたわけだ」
ペリー・メイスンは、冷《ひや》やかな、きびしいまなざしで探偵を見つめた。
「ポール」と彼は言った。「もし連中がそんな理屈を頼みにして法廷に出てくるようなら、きれいに叩きつぶしてやるよ」
「いや、何も叩きつぶせないんじゃないか」とドレイクは答えた。「連中は状況証拠をすっかりにぎっちまってるんだ。あの娘がさんざん嘘をついたこともわかっている。どうしてあの娘は、乗りもしないビュイックに乗って出かけたなんて言ったのかな? 連中は、あの車がガレージから出なかったことを立証できる。メイフィールド夫人は、その点で連中のために一仕事しているし、執事にしても、車がずっとガレージにあったことをきっぱりと主張するだろう。ノートン殺害の兇器である棍棒が誰のものかということも立証できるし、あの娘がノートンの金を持っていたことも立証できる……」
ペリー・メイスンは急に緊張して身がまえた。
「あの娘が金を持っていたことを立証できるって?」
「うん」
「どうやって?」
「どうやってか、はっきりは知らないが、それが連中のきめ手のひとつだということは確かだ。すっかり調べ上げちまったらしい。あのメイフィールドという女から出たんじゃないか」
「なるほど」とメイスンは気乗りのしない口調で言った。「いよいよ解決が近づいたな。僕は連中がこの一件を急いで公判に持ちこむようにしてやろう」
「急いで公判に持ちこむようにするって!」とドレイクが叫んだ。「僕は、きみが引きのばし戦術に出るものとばかり思ってたぜ。新聞にだってそう書いてあるよ」
ペリー・メイスンはにやりと笑って言った。
「それが、公判を急がせる手なんだよ。僕が延期をしろとわめき立てて、そうしなければ、こっちの依頼人はとてもだめだというみたいに引きのばしを要求してみせる。自然、あちらさんは僕の延期要求に反対してくる。そうして、検察側の反対を充分強硬なものにしておいてから、こちらの負けを認め、事件を公判に持ちこませるというわけさ」
ドレイクは首をふった。
「そんな手には乗ってこないぜ。古すぎるよ」
「やり方次第では、そうでもなくなるよ。そこで、きみにやってもらいたいのは、例の荒っぽい尾行をメイフィールド夫人と、それからドン・グレイブスにもつけることだ。この連中をおどかして、何かひっぱり出せるかどうか、確かめたい。どちらも、ほんとうのことをしゃべってないからね――いまのところは。それから、例の金のことももっと知りたい、地方検事は証拠をにぎっているのか、それともただ疑っているだけなのか、ということをね」
「きみは、メイフィールド夫妻に殺人の罪を負わせようとしているのか?」
「僕は全力をつくして依頼人の代理をするだけだよ」
「ああ、それはわかってるさ。だけど、どういう意味なんだ?」
メイスンはきれいに磨《みが》かれたデスクの上で巻タバコの端を軽く叩きながら言った。
「殺人事件の真相をつきとめる方法は、まだ説明のついていない関係事実があったら、どんなことでもとり上げて、ほんとうの説明を見つけ出すことだ」
「まったくね、それも一般論さ。しかし、現実の話をしよう。いったい、きみは何の話をしているんだい?」
「なぜノートンは、ビュイックが盗まれたと警察に訴えたか、という話さ」と弁護士は言った。
「それがどんな関係があるんだ?」ドレイクは答を知りたがった。
「すべてに関係があるよ」とペリー・メイスンは強く主張した。「それが、この事件における説明のついていない事実だよ。この事実の説明がつかないかぎり、殺人事件は解決しないね」
「そいつは、陪審の連中を煙にまくにはいい手だな。しかし、じっさいには何の意味もないよ。どんな事件だって、あらゆることが説明できるわけじゃない。そうだろう」
「だが、説明できないかぎり、事件を完全に解決したことにはならない」とメイスンは頑固に言い張った。「いいかね、検察側の主張は、状況証拠ばかりを頼りにしようとしている。だが、状況証拠にもとづいて有罪判決を獲得するには、被告が有罪であるという推定以外のあらゆる論理的推定の余地がないようにしなければいけないんだ」
探偵は、指をぱちっと鳴らして言った。
「弁護士さんの長広舌《ちょうこうぜつ》か。そんなことは新聞には何のききめもないぜ。しかも、その新聞は、きみの依頼人の有罪か無罪かを決定する役割をつとめようとしてるんだ」
「だが、僕がこの事件を片づけるまでには、新聞のほうで、ビュイックの問題がこの事件を通じてもっとも重要だと考えはじめるよ」
「だけど、あの車は盗まれてなかったんだよ。ガレージから出なかったんだ」
「それは、執事が言っていることだ」
ドレイクの顔つきが急に注意深く引きしまった。
「執事が嘘をついていると言うのか?」
「いまは、何も言いたくないね」
ドレイクは、まるで声に出して考えているように、ぼそぼそとしゃべりはじめた。
「すると、もちろん、執事が車を持ち出し、スピードメーターを切り、ちょっとドライブにでも出かけたとするわけか。そして、ノートンが警察に電話をかけ、車が盗まれた、運転しているやつは誰でも逮捕してくれと言った。それから、執事が帰ってきて、電話のことを知り……」
ドレイクの声はしだいに小さくなって、ついに消えてしまった。彼はほんのしばらく身動きもしないで坐っていたが、じきに悲しげに首をふって言った。
「だめだよ、ペリー。そいつもうまくない」
「いいさ」とメイスンは笑いながら言った。「僕は、何がうまく、何がうまくないかなんてことを、きみに訊いてやしない。きみにやってもらいたいのは、事実の提供だけだ。さあ、デスクからどいて、僕に仕事をさせてくれ。きみのほうは、できるだけ早く、荒っぽい尾行をはじめてくれることだ。何が出てくるか、知りたくてしようがないんだから」
「きみは、グリースンとあの娘と、両方の弁護をするのかい?」
「うん、いまではね。フランシス・セレーンは夫を助けるつもりだ。僕に彼の代理もしてくれと言っている」
「そうか。じゃあ、いろんなやつから尋ねられていることなんだが、ちょっと訊きたいことがある。怒らないでくれよ、これはきみ自身のためになることだし、なにしろ街中の連中が話題にしてることなんだから。連中はこう言っているんだ。被告側の弁護士に分別があるのなら、どうして裁判を分離して男と女とべつべつに公判を開かせるようにしないのだろう? そうすれば、男のほうの公判をさきに開かなければならなくなるから、女のほうの公判までには検察側の証拠をみんな知り、全部の証人を反対訊問するチャンスがあるわけじゃないかってね」
「裁判の分離はできないだろうな。法廷が許可しないよ」
「だが、すくなくとも、やってみることはできるはずだ」
「いや」とメイスンは微笑を浮かべて言った。「僕はむしろ、いまのままのほうがいいと思うね。二人いっしょにやってみるよ」
「そうか。まあ、やるのはきみだからな。じゃあ、こっちはできるだけ早く荒っぽい尾行にとりかかるとしよう」
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十八
ペリー・メイスンは、巨大な拘置所《こうちしょ》の建物の中の面会室の入口に姿をあらわした。
「ロバート・グリースンに会いたい」と彼は係の警官に言った。
「あんたはグリースンの弁護士かね?」と警官は尋ねた。
「そうだ」
「最初あの男がやってきたときには、彼の弁護士ではなかったようだね?」
ペリー・メイスンは顔をしかめて言った。「いまは彼の弁護士だよ。きみは彼を連れてきてくれるのか、それとも、法廷へ出て、僕が依頼人と話すのを警官が許さなかったと申し立てることにしようか?」
警官はメイスンをにらんで、肩をすくめると、無言のままくるりと背を向けて、姿を消したが、五分ばかりたつと、またドアを開けてあらわれ、メイスンを細長い部屋に連れていった。
そこには、部屋の端から端までつづく長い机があり、五フィートほどの高さの頑丈な鉄の網が机をまん中から二つに仕切って長々とはってあった。この網を境にして片側に被告人たちが坐り、弁護人たちはその反対側だった。ロバート・グリースンは、机のまん中あたりに坐っていたが、ペリー・メイスンが近づいてくるのを見ると、立ち上がって、懸命な微笑を浮かべた。メイスンは警官が話し声の聞こえないところまで遠ざかるのを待って、椅子に腰をおろすと、殺人罪で告発されている男の顔を鋭い眼つきで見まわした。
「低い声で答えるようにしてくれたまえ、グリースン君。そして、ほんとうのことを話すんだ。どんなことだろうと心配しないで、ありのままを話してくれ」
「わかりました」とグリースンは答えた。
メイスンは顔をしかめながら言った。
「検事に供述したかね?」
グリースンはうなずいた。
「供述書を作ったのかね?」
「記録係に速記をとられ、書類にしたものに署名するようにと言って渡されました」
「署名したのかね?」
「まだです」
「書類はどこにある?」
「僕の独房にあります。読めと言って渡されました。つまり、写しなんです」
「おかしいな」とメイスンは言った。「ふつうはすぐにも署名しろとせきたてるものだ。写しなんか渡さないんだが」
「分かってます」とグリースンは言った。「だけど、僕がだまされなかったんです。すぐ署名しろとせきたてられたんですが、よく考えてみたいからと言ってやりました」
「そんなことをしたって何にもならないな」と弁護士はうんざりしたように言った。「裁判所の記録係の前でしゃべったんなら、全部書きとめられて、記録係が証人になることができるんだよ」
「地方検事のところでもそう言ってました。しかし、やはり僕は署名しません」
「なぜ?」
「なぜって」とグリースンは低い声で答えた。「しゃべったことを否認するつもりですから」
「そんなことはできないよ。それなら、いったいなんだってべらべら喋べっちまったんだね?」
「僕だって思い通りにやれるはずです」
「やれるって、何をやるんだ?」
「自白を否認するんです」
「そうか。まあ、説明してみたまえ」
「僕は殺人の全責任を負うつもりなんです」
ペリー・メイスンは、仕切りのあらい網眼ごしに相手を見つめて訊いた。
「きみがやったのかね?」
グリースンは唇をかんで、弁護士の視線をさけるように顔をそむけた。
「さあ、残らず話したまえ。僕のほうを見ながら質問に答えるんだ。きみがやったのか?」
ロブ・グリースンは坐り心地が悪そうに椅子の上で体を動かした。
「まだ、その質問には答えたくないんです」
「答えなきゃいけないよ」
グリースンは神経質に舌のさきで唇をなめてから、あらい鉄の網に顔がふれるほど身を乗り出した。
「答えるまえに、すこし訊きたいことがあるのですが」
「いいとも。何でも好きなことを訊きたまえ。しかし、帰るまでには、残らず打ち明けてくれよ。きみの弁護士として行動するからには、事情をすっかり知っておかなくちゃならんのだ」
「検事のところで聞いた話によると、フランシス・セレーンは、ノートンさんが殺されたとき所持していた金をいくらか持っていたそうですが」
「地方検事の話など何も信じることはないよ」
「ええ、それはわかってます。だけど、肝心なのは、ほんとうに彼女がその金を持っていたのか、ということなんです」
「その質問に答えるために、こっちからひとつ質問しようか。メイフィールド夫人は、フランシス・セレーンから受けとった金を持っているという供述を検事にしたのかね?」
「知りません」
ペリー・メイスンは慎重に言葉をえらびながら言った。「かりにだね、地方検事のほうでフランシス・セレーンがそんな金を持っていたというような証拠を握っているとしたら、それはメイフィールド夫人から出たものにちがいない。つまり、メイフィールド夫人は自分が金を持っているのを見つけられて、フランシス・セレーンに責任を転嫁《てんか》したと言うことだ。ところで、もしそうだとすれば、フランシス・セレーンが彼女にその金をやったと考えられるのとまったく同じように、メイフィールド夫人が殺人のときあの部屋にいて、被害者の死体から金をぬきとったとも考えられるわけだ」
「殺人があったとき、部屋の中に女がいたと聞かされましたが、確かなんですか?」
「ドン・グレイブスがそう言っているんだ」
「最初の晩はそんなことは言いませんでしたよ」
「ところが、最初の晩に言ったことが証明できなくなってしまった。なにしろ、警察がそのときの供述記録を破りすててしまったんでね」
「すると、グレイブスはいまでは女がいたと言ってるんですね?」
「そうだよ、女がいたと言っている。ピンクのネグリジェを着た女だと言うつもりらしいな」
「その女が誰だかわかるくらいにはっきりと見たのでしょうか?」
「その女の肩と腕、それから頭をすこし――たぶん後頭部を見たと言っている」
「それで、メイフィールド夫人はこの罪をフランにきせようとしてるんですね?」
「いや、僕はそうは言っていない。知っている事実を伝えたまでだ。検事が金についての証拠を握ってるとしたら、その出所はメイフィールド夫人ということになると言ってるだけだ」
「フランを無罪にする見込みはどのくらいあるでしょうか?」
「陪審がどう出てくるかは誰にもわからない。ただ、彼女は若くて魅力的だ。癇癪を起こしたり、不利なことを自認したりしなければ、かなり見込みはあるね」
グリースンはちょっとの間、金網ごしにメイスンを見つめてから、言った。「分かりました。僕には魅力はないし、フランシスのような利点は何ひとつ持っていません。僕を無罪にする見込みはどのくらいあるんですか?」
「それは、僕がどんなチャンスをつかむかによるし、きみが地方検事にしゃべったことにもよるね」とメイスンは答えた。「ところで、きみにやってもらいたいことを言っておこう。独房にもどったら、紙をすこしもらいたまえ。事件の経過を自分の手で書いてみたいからと言ってね。紙をもらったら、数枚は無意味なことばかり書きなぐって破りすててしまう。紙をすっかり使ってしまったと思わせる。だが、残りの紙を使って、地方検事が署名しろと渡した供述書の写しを書きとってしまうんだ。そうすれば、きみが何をしゃべったり、何をしゃべらなかったか、僕にもはっきりと知ることができるからね」
ロブ・グリースンは苦しそうに、二度ばかり|のど《ヽヽ》をごくりとやってから言った。
「もしあなたがチャンスをつかめないようなら、フランは有罪になるでしょうか?」
「もちろん、彼女は第一級殺人罪で告発されているし、あまりかんばしくない状況もあるからね」
「絞首刑になりますか?」
「そうはならないだろう。たぶん、命は助かる。ふつう、女は絞首刑にはしないからね」
「しかし、彼女のような烈《はげ》しい気性の娘が、これからさき一生刑務所に閉じこめられることになったら、どういうことになるか、おわかりでしょう?」
ペリー・メイスンは、いらだたしげに首をふって言った。「もちろん、わかっている。だが、いまはそんな心配はやめにしようじゃないか。さあ、実際問題にとりかかろう。きみは、エドワード・ノートンを殺したのか、殺さなかったのか、どっちだね?」
グリースンは大きくひと息ついて言った。
「もし事態がフランにとって絶望的になりはじめたら、僕は自白するつもりです」
「自白するって、何をだ?」
「エドワード・ノートンの殺害をです。僕は金が目当てでフランシス・セレーンと結婚したので、彼女のことなどたいして愛していたわけじゃないということを自白するんです。そりゃ、まあかなり好きでしたけれど、夢中になっていたわけじゃありません。彼女はたいへんな金持ちだったし、好い結婚相手でした。僕は金がほしくてたまらなかったから、彼女と結婚しました。ところが、結婚してみると、結婚したという理由で、彼女にはほとんど一文も与えなくてもいいという権利を叔父さんが持っていることがわかったんです。あの人は、殺される晩まで、僕たちの結婚のことを知りませんでした。あのときはじめて知ったのです。あの人は、信託の条項によって自分に与えられている自由裁量権を行使して、フランには千ドルか二千ドルのはした金だけを残し、あとは全部慈善事業に寄付してしまおうとしました。僕はあの人の部屋へ行って、説《と》き伏せようとしました。しかし、ちっとも道理を聞き入れようとしません。そこへフランも入ってきて、話し合いましたが、何の効果もありませんでした。そのときクリンストンさんがやってきました。あの人はクリンストンと会う約束をしていたのです。そこで僕たちは話を打ち切り、僕はフランといっしょに彼女の部屋へもどり、腰をおろして、いろいろと話し合いました。すると、そこへメイフィールド夫人が入ってきて、猛烈に怒りはじめました。あの女はまえからフランを脅迫して、金をくれなければ結婚のことをノートンさんに知らせるとおどしていたんです。ところが、その結婚のことがエドワード・ノートンにわかってしまったので、あの女にしてみれば金の卵をうむガチョウを殺されてしまったことになり、それで腹を立てたわけです。やがて、クリンストンの車が出て行く音が聞こえました。ドン・グレイブスもいっしょについて行きました。僕はノートンさんともう一度だけ話し合ってみようと思い、部屋を出ました。そして書斎へ行きかけると、階段のところでメイフィールド夫人と出くわしました。あの女はピンクのネグリジェを着ていました。そして、まだ、手に入れそこなった金のことでぶつぶつ泣きごとを言ってました。そこで僕は、きみが落着いてくれるなら、僕らは大金を手に入れられるのだとあの女に言いました。あの女は、それがどういう意味か話してくれと言うので、これからノートンのところへ最後の話し合いに行くが、もし承知しなかったら、向こうがフランシス・セレーンの金を慈善事業に寄付したりするまえに、頭をぶちわってやるつもりだと話してやりました。あの女は僕といっしょに階段をのぼって、ノートンの書斎にはいりました。僕はエドワード・ノートンに最後|通牒《つうちょう》を出しました。フランシスに金を渡さないと後悔することになるぞ、と言ったんです。向こうは、彼女には一セントもやらない、残らず慈善事業に寄付してしまうつもりだと答えました。そこで僕は相手の頭をぶちわってしまったんです。死体のポケットをさぐってみると、大金が出てきました。僕はその金をメイフィールド夫人と山分《やまわ》けにしました。そして、どうしたら強盗の犯行に見せかけることができるだろうか、と話し合いました。メイフィールド夫人は、窓をこじ開けて、外のやわらかな土に足跡をつけておいたらいいだろうと言いました。僕は、運転手が酔っぱらっていることを知ってたので、あいつに罪をきせてやろうと思いました。ところが、そんなことを話し合っているうちに、丘をおりてくる自動車のヘッドライトが見えたのです。僕はすぐ、クリンストンが引き返してきたにちがいないと考えました。メイフィールド夫人は階下《した》へかけおりて行って、窓に強盗が押し入ったように見せかける細工をし、僕もかけおりて、ステッキと二枚の千ドル札をディヴォーの部屋においてきました。それから、自分の車に飛び乗って、逃げ出しました」
ペリー・メイスンは考えこみながら青年を見つめていた。「きみがとった金はどうしたんだい?」と彼は尋ねた。
「埋めました。ぜったいに見つけられないところです」
メイスンは指さきで机を叩きながら訊いた。「ほんとうに、そのとおりだったんだね?」
グリースンはうなずいて言った。
「この話は内緒ですよ。できることなら、刑を免《まぬが》れたいと思ってます。しかし、だめとなったらぶちまけるつもりです。そうすれば、フランシス・セレーンも罪をまぬがれるでしょう」
「きみは、あの晩、ビュイックを持ち出したかね? ちょっとでも使ったかね?」
「いいえ」
ペリー・メイスンは椅子をうしろへ押しやった。
「よし、わかった」と彼は言った。「ところで、きみに言っておきたい。もしきみがそんな話をぶちまけたりしたら、フランシス・セレーンを絞首刑にはしないまでも、終身刑にはしてしまうよ。いや、絞首刑にしてしまうかもしれないな」
ロブ・グリースンの眼が大きくなった。
「そりゃ、いったい、どういうわけです?」
「きみがしゃべったような話は誰も信じないだけのことさ」とペリー・メイスンは言った。「半分しか信じてくれないよ。きみが殺したってことは、間違いなく信じるだろうが、きみといっしょにいたのがメイフィールド夫人だったとは思わないよ。それはフラン・セレーンで、きみはメイフィールド夫人を引きずりこんでフランをかばおうとしているのだと思うだろうな」
グリースンは立ち上がった。その顔は蒼白になり、眼は大きく見開かれていた。
「なんてことだ! 僕が真実を話しても、フランシスを救うことはできないんですか?」
「そんな真実ではね」とペリー・メイスンは答えた。「さあ、独房へ帰って、検事が署名させたがっている供述書を写しとってくれたまえ。そして、当分のあいだ、落着いて、誰にも何もしゃべらないようにすることだ」
「いま話したような真実でも、しゃべってはいけないのですか?」
「きみの立場からいったら、真実ぐらい、しゃべってはいけないものはないんだ。なにしろ、ほんとうのことを話したって誰も信用しないだろうし、第一きみはひどい嘘つきだからな」
メイスンはそう言って、くるりとうしろを向き、金網ばりの机を離れると、一度もふり返らずに遠去かって行った。警官はドアの鍵をあけて、メイスンを面会室から出した。
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十九
助手のフランク・エバリイがペリー・メイスンといっしょに法廷に出るのは、これがはじめてだった。つまり、彼ははじめて、大きな殺人事件の舞台裏に身を置いたわけだった。
彼はメイスンの横に坐って、満員の法廷や、陪審員の席で資格審査を受けている九人の男と三人の女などをこっそりと見まわしていた。彼はいかにも慣れたふうに見せようと努《つと》めていたが、その態度には明らかに興奮した様子がうかがわれた。
ペリー・メイスンは弁護人席についていたが、回転椅子によりかかり、左手の親指をチョッキの腋下《わきした》にひっかけ、右手は時計の鎖をいじっていた。その顔は、たくましい辛抱強さのために、冷やかな仮面のように無表情だった。心は激しく緊張していたが、それらしい様子はどこにも見えなかった。
彼のうしろには二人の被告が坐っていた――フランシス・セレーンは、黒地に白と赤の混《まじ》った、ぴったりした服を着て、頭をまっすぐ立て、平静だが、やや挑戦的なまなざしをしていた。
ロバート・グリースンはいらだっていた。それは、力を使うわけにはいかない状態で、自分の命を救うために戦わなければならない羽目《はめ》におちいった腕力のある男のようないらだちだった。彼の眼には抑圧された感情の炎が暗くくすぶっていた。そして、ときどき頭をぴくっと動かしては、自分に密接な関係を持つドラマのさまざまな語り手のほうをふり向いていた。
法廷には、落着かない気持ちの人びとがぎっしりつめかけている部屋にたちこめる、あの一種独特な雰囲気が充満していた。
クロード・ドラム検事補が、この公判を担当していた。だが、陪審が選ばれ、型どおりの証拠調べが終りしだい、地方検事自身が乗り出してくるという噂もあった。
ドラムは、陪審員の資格審査のあいだ、ほとんど立ちどおしだった。彼は背が高く、身なりはきちんとして口数も少なかったが、ひどく攻撃的な男で、そのくせ、それらしい様子はあまり見せなかった。彼の態度には、まったく慣れきった調子で、はじめから到達を確信しているゴールに向って着実に進んで行くというようないかにも専門家らしいゆったりとした自信が見えていた。
マーカム判事は、裁判官らしい威厳を示しながらも、内心では、きわめて用心深く気をくばっていた。ペリー・メイスンには、自分の手がける事件を片っぱしから|ひっかきまわす《ヽヽヽヽヽヽヽ》という評判があったので、マーカム判事は、審理は公平に進行させるとともに、法と秩序の尊厳にも充分注意をはらっていかなければなるまいと決意していた。記録にはけっして誤りがないようにしなければならないし、これまでしばしばペリー・メイスンの関係した公判を検察側の大敗北などと新聞の第一面に派手な見出しで書き立てられるような羽目に追いこんだあの芝居気たっぷりな駆引《かけひ》きの機会を与えないようにしなければいけない、と考えていた。
「検察側、陪審|忌避《きひ》をどうぞ」とマーカム判事はいかめしい調子で言った。
クロード・ドラムは椅子に腰を落して、助手と小声で相談しはじめたが、急に裁判官のほうを見上げて言った。
「裁判長、いましばらく猶予《ゆうよ》をいただきたいのですが」
「よろしい」と判事は答えた。
エバリイが不審そうにペリー・メイスンの顔を見ると、メイスンの眼がきらっと光った。
メイスンは前にかがみこみながら、ささやいた。
「ドラムは三番の陪審を忌避したいんだが、こっちが九番と十一番を忌避するにちがいないと考えているんだ。こっちはむこうの倍の人数が忌避できるからね。そこで彼は、自分のほうの忌避を見送って、こっちの出方で陪審の顔ぶれがどうなるか見きわめるまで権利を保留しようと考えているのさ」
「そんなこと、するでしょうかね?」とエバリイが訊いた。
「いまにわかるよ」とメイスンは言った。
法廷にはしばらく緊張した沈黙が流れていたが、やがてドラムが立ち上がり、裁判官に向って頭を下げた。
「検察側は陪審忌避を保留します」
マーカム判事はペリー・メイスンを見おろし、「被告側、陪審忌避をどうぞ」と言おうとして唇を動かしかけた。
しかし、その言葉は声にはならなかった。ペリー・メイスンがやっとこの場の事態に気がついたところだとでもいうように、ちらりとなにげない眼つきで陪審のほうをうかがいながら、はっきりした声で口を切ったからである。
「裁判長、この陪審は被告側にとりましてはまったく申し分のないものと思われます。したがって陪審忌避の権利は放棄いたします」
クロード・ドラムは明らかに不意打ちを喰った。法廷技術に通じている人びとの眼には、ドラムが無駄であることはわかっていながら思わず異議を申し立てようとして、はっと息を吸いこむのがわかった。
マーカム判事の声が満員の法廷にひびきわたった。
「陪審員は起立して、本件を公正に審理することを宣誓してください」
やがてクロード・ドラムが陪審に向って冒頭陳述を行ったが、それはいちじるしく短いものだった。
「陪審員諸君、われわれは次の事実を立証しようとするものであります。本年十月二十三日午後十一時三十二分に、エドワード・ノートンが死亡いたしましたが、これは、被告ロバート・グリースンが手にした棍棒の一撃を頭部に受けて殺害されたものであります。また、この殺人の時刻に、被告フランシス・セレーンは共犯者として現場に居合わせました。そして、エドワード・ノートンは、殺されたとき、千ドル紙幣ばかりで巨額の金を所持していたのであります。
さらに、次の事実を立証しようとするものであります。当日午後十一時十四分にエドワード・ノートンは警察署に電話をかけ、彼の所有している自動車のうち、ビュイックのセダンが盗まれたと報告いたしました。被告フランシス・セレーンは犯行時刻の午後十一時三十二分に、実際はエドワード・ノートンの書斎にいたのでありますが、エドワード・ノートンが十一時十四分にビュイックの盗難報告をした事実を知ると、アリバイ確立の目的で、そくざに故意に虚偽の陳述をし、およそ十時四十五分から十二時十五分までのあいだ前述のビュイックに乗って犯罪現場から遠く離れたところにいた、と申し立てたのであります。
また、次の事実を立証するものです。犯行後ただちに、被告両名は、血にそまった兇器の棍棒と、被害者の死体から盗んだ千ドル紙幣二枚とを、そのとき泥酔《でいすい》状態で眠っていたピート・ディヴォーという男の寝室に入れておきました。これは、ピート・ディヴォーに嫌疑を転じようとの意図によってなされたものであります。
さらに、被告両名が、窓をこじあけ、その下の地面に足跡をつけて、捜査当局に強盗が押し入ったものと信じさせようとしたことも立証いたします。
その後ただちに被告ロバート・グリースンは犯行現場から逃亡いたしました。被告両名は当時の所在については、たがいに矛盾する虚偽の供述をしております。そして、エドワード・ノートンがなぐり殺された棍棒は、被告ロバート・グリースン所有の散歩用ステッキだったのであります。
さらに、この犯行現場は一人の証人によって目撃されており、その証人はノートンをなぐり殺した男がロバート・グリースンであることを確認し、犯行を幇助《ほうじょ》したところのピンクのドレスまたはネグリジェ着用の若い女はフランシス・セレーンであると確認しているのであります」
しゃべり終ったクロード・ドラムは、一瞬、陪審員たちをじっと見つめたまま立っていたが、やがて腰をおろした。マーカム判事は返事をうながすような眼つきでペリー・メイスンを見た。
「法廷の許可がいただけるなら」とペリー・メイスンは言った。「被告側の冒頭陳述は、弁論を開始するときまで保留したいと思います」
「よろしい」とマーカム判事は言った。「では、ドラム君、続行してください」
クロード・ドラムは、彼の名を高めている例のおだやかだが、効果的な手ぎわで、主張を築き上げていった。どんなこまかなことにも彼の注意は行きとどいていたし、ひとかけらの証拠でも見落とすようなことはなかった。
最初の証人は、ノートン邸の地図を作り、写真をとった測量技師だった。彼は縮尺図面をとりだして、死体の発見された部屋、その部屋の家具や窓の位置などを説明した。つぎに、部屋の全景写真といろいろな部分写真をとりだし、それを一枚ずつ縮尺図の位置と照合して見せた。つづいて家の写真をいろいろと示し、最後に、邸と並木道に向って上って行く曲がりくねった道との関係位置を示す地図を見せた。さらに、邸内のいろいろな窓の高さと、自動車が通った道との関係を示す等高線地図をとりだした。
「そうすると」とドラムは図面上の道路の曲がり角を示す個処を指さしながら、いかにも物馴れた調子で言った。「いま私が指さしているこの地点を自動車に乗って通る人物がうしろをふり返れば、検察側証拠物件Aの地図において1と番号のついている部屋のなかを見ることは、完全に可能ですね?」
測量技師がこの質問に答えないうちに、ペリー・メイスンが立ち上がって、大きな声で異議をとなえた。
「裁判長、ちょっとお待ちください。ただいまの質問は誘導訊問です。また、証人の結論を求め、陪審諸君が本件においてくだすべき結論をも引き出そうとするものであります。これこそ、われわれが検察側の主張がいかに真実から遠いものであるかを陪審諸君に納得していただこうとする論点のひとつなのです。いずれにしても……」
判事の木槌《きづち》が鳴った。
「異議を認めます。メイスン君、議論は必要ありません」
メイスンは椅子に腰をおろした。
ドラムは、かたちは敗北だが点はかせいだぞという態度で、微笑を浮かべながらメイスンに会釈《えしゃく》して言った。
「弁護人、反対訊問をどうぞ」
法廷じゅうの人間の眼が自分に注《そそ》がれると、ペリー・メイスンは、この瞬間の劇的な有利さと、自分の最初の訊問によせられている関心を充分に意識しながら、黒板に画鋲《がびょう》でとめてある地図のほうへ大股に歩みより、右手の人さし指を邸から並木道につづく道路の曲がり角を示す線の上におき、左手の人さし指を邸内の書斎の位置において、挑戦的な口調で言った。
「ただいま右の指で示している地点、つまりこの道路の曲り角から、左の指で示している地点、つまり死体が発見された現場まで、正確なところどのくらいの距離がありますか?」
「あなたの指でさしておられるのが、道路がもっとも南よりに曲がる地点と、死体発見の正しい位置とであるなら、そのあいだの距離はちょうど二百七十二フィート三インチ半になります」と証人はおだやかな口調で言った。
ペリー・メイスンは、驚いた顔つきで向き直った。
「二百七十二フィート三インチ半ですって?」と彼は信じられないというように叫んだ。
「そうです」と証人は答えた。
メイスンは、これで終りという身ぶりで、両手をおろした。
「これだけです。この証人に対して訊問することはもうありません」
マーカム判事が掛時計に眼をやると、吹きはじめた風に枯葉が敏感にそよぐように、早くも法廷にはざわめきが起った。
「すでに閉廷時刻も近いようですから、法廷は明朝十時まで休廷いたします。その間、陪審は法廷規則を守って、事件について意見をかわしたり、第三者と意見をかわしたり、あるいは、第三者の面前で意見をのべたりしないようにしてください」
判事はそう言って、木槌を叩いた。
ペリー・メイスンは抜け目なく微笑しながら、助手に向って言った。「ドラムは休廷時刻になるまで訊問をつづけるべきだったよ。僕に一つだけ反対尋問の機会を与えてしまったから、明日の朝刊に書き立てられるぜ」
エバリイは眼をほそめて考えこみながら言った。
「二百七十二フィートといったら、だいぶありますね」
「審理が進むにつれてちぢまるわけでもないさ」とメイスンは冷たい口調で言った。
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二十
新聞の予想では、検察側の最初の重要証人は、被害者の事業上のパートナーであるアーサー・クリンストンか、または、殺人の唯一の目撃者ドン・グレイブスだろう、ということになっていた。
ところが、この点で、新聞は、主任の検事補の劇的な法廷戦術を過小評価していたことを暴露した。劇作家が中途半端なところにクライマックスを持ちこまないのと同じように、ドラムは、陪審員たちの心がこの恐ろしい物語にまだなじまないうちに、いきなり殺人劇のまっただなかに投げこむようなまねはしなかった。
そのかわりに、彼はB・C・パーレイ判事を証人席に呼び出した。
この地方判事が法廷の後方から姿をあらわし、いかにもおのれの威厳のある風采《ふうさい》と重要な地位とを充分に自覚している人間らしい、堂々とした態度で、通路を大股に歩いてくると、人びとはいっせいに首をのばして彼のほうを見た。
白髪で、胸が厚く、腰も太い、どっしりとした体躯の判事は、右手を上げて宣誓を終えると、証人席に腰をおろした。その態度には、法廷とそれが表わしているものに対する尊敬、法務官と陪審員に対するもったいぶった寛大、そして、落着きのない傍聴人に対する平静な無視があらわれていた。
「あなたの名前はB・C・パーレイですね?」とクロード・ドラムが尋ねた。
「そうです」
「あなたは、正当に選出されて資格を与えられた、当市裁判所の現職判事ですね?」
「そうです」
「本年十月二十三日の夜、あなたはエドワード・ノートン邸付近におられましたか?」
「おりました」
「では、パーレイ判事、あなたがエドワード・ノートン邸に到着したのは何時でしたか?」
「ちょうど十一時六分すぎでした」
「で、そこを立ち去ったのは何時でしたか?」
「ちょうど十一時半でした」
「パーレイ判事、あなたが到着と出発の時刻について、なぜそのように正確に証言できるのか、その理由を陪審員諸君に説明していただけますか?」
ペリー・メイスンには、それが罠《わな》であることはわかっていたが、ふみこんでゆくより仕方がなかった。
「裁判長、異議があります」と彼は言った。「証人はりっぱに証言をしたのです。その証言に至るまでの精神的過程は、不適当、無関係、無意味なもので、せいぜい反対尋問においてのみ取り上げうる事項であります」
「異議を認めます」とマーカム判事は言った。
クロード・ドラムは皮肉な微笑を浮かべて言った。
「ただいまの質問を撤回《てっかい》いたします。私の誤りでした。もっとも、メイスン弁護人がこのことを追求したいとお考えなら、反対尋問のさいにそうなさることはご自由であります」
「質問をつづけてください」とマーカム判事は木槌で机を叩いて言った。
「あなたがノートン邸を訪れたとき、誰がいっしょでしたか?」と地方検事は尋ねた。
「あの家のそばへ行ったときには、アーサー・クリンストンさんがいっしょでした。立ち去るときには、アーサー・クリンストンさんとドン・グレイブスさんがいっしょでした」
「そこにいる間に、どんなことが起こりましたか?」
「邸の前の庭に到着すると、車をとめて、クリンストンさんをおろし、車の向きを変え、エンジンを切って待っていました」
「待っている間、あなたは何をしましたか?」
「はじめのうち十分か十五分は、坐ってタバコをふかしていましたが、終りごろにはいらいらしてきて、何度も時計を見ていました」
こう言い終ったパーレイ判事は、押しかくそうとする勝利の色をかすかに見せて、ペリー・メイスンのほうをちらっと見やった。その態度には、法定手続きに精通している彼が、被告側が望もうと望むまいと、自分の証言の足りない部分は補《おぎな》ってゆくつもりであることがうかがわれた。つまり、彼が何度も時計を見たという事実からは、彼が出発の時刻を正確に知っていたという結論が出てくるわけで、しかも、彼はその結論を、法廷の規則を乱すことなく、巧みに陪審に伝えたのであった。
ペリー・メイスンは、まるで無関心な顔つきで証人を見ていた。
「それから、どうなりましたか?」とクロード・ドラムが尋ねた。
「それから、クリンストンさんが家の中から出てきて、私のところへもどってきました。私は車のエンジンをかけました。すると、そのとき家の東南の角の窓が開いて、ノートンさんが書斎の窓から首を出しました」
「ちょっと待ってください」とクロード・ドラム。「そこがノートンさんの書斎だということを、あなた自身、知っていたのですか?」
「いや、そうではありません」とパーレイ判事は答えた。「私はただ、それがあの家の二階の東南の角の部屋だったし、地図と図面の上でノートンさんの書斎として1の番号がついている部屋なので、そうと知っただけです」
「なるほど。では、その部屋は、検察側証拠物件Aにおいて円でかこんだ数字の1によって示されている部屋なのですね?」
「そうです」
「わかりました。で、ノートンさんは何と言いましたか?」
「ノートンさんはクリンストンさんに呼びかけて、だいたい、こう言ったと記憶しています。『アーサー、その車でドン・グレイブスをきみの家まで乗せて行って、例の書類を渡してもらえないか? そうしたら、あとでうちの運転手を迎えに行かせるから』」
「それから、どうなりましたか?」
「クリンストンさんが、こう答えたと思います。『これは僕の車じゃない。友だちのに乗せてもらっているんだ。かまわないかどうか、訊いてみなくちゃならないよ』」
「それから?」
「ノートンさんが『そうか。では、訊いてみて、返事をしてくれ』と言って、窓から首を引っこめました」
「それから?」
「クリンストンさんが私のところへきて、グレイブスさんが書類をとりに行くから……」
「異議があります」とペリー・メイスンがなにげない口調で言った。「被告が聞くことのできない場所で行われた出来事は、実際に|なされた事実《リーズ・ジェスティ》〔単なる伝聞とは区別される重要な事実。一般にこの語の用いられるのは、一見すれば伝聞証拠とみられるも、実質的に争点なる事実に直接関連するため証拠能力を認められたものを指す〕でなければ証拠として認められません。どう考えてみましても、ただいまの証言内容は|なされた事実《ヽヽヽヽヽヽ》と見なすわけにはまいりません」
「異議を認めます」とマーカム判事は言った。
「わかりました。では、それからどうなりましたか?」とドラムはおだやかに言いながら、〈どうです、みなさん、被告側はえらく専門的知識をふりまわしているじゃありませんか〉と言わんばかりに、陪審席に向って微笑を送った。
「それから」とパーレイ判事は言った。「クリンストンさんが書斎の窓の下へもどって行って、二階を見上げながら、たしか、こう呼びかけました。『いいよ、エドワード。グレイブスもいっしょに行けるよ』すると、ほとんど同時に、玄関のドアが開いて、グレイブスさんがあらわれ、階段をかけおりてきました。そして『用意はできています』というようなことを言いました」
「それから?」
「それから三人で私の車に乗りこみました。クリンストンさんは、私といっしょに運転席に並び、グレイブスさんはうしろの坐席でした。私は車を出して、〈検察側証拠物件B〉の地図で〈曲がりくねった道路〉としるされている道を進みはじめました。やがて道がカーブしているところまでくると……」
「ちょっと待ってください」とクロード・ドラムが言った。「これから証言なさろうとする事態が起ったときに、あなたがさしかかっていたそのカーブの、正確な位置に鉛筆でしるしをつけることができますか?」
パーレイ判事はうなずいて、立ち上がり、重々しい威厳をみせて黒板の前に歩みよると、地図を見まわしてから、道路の曲がり角の位置に小さな楕円のしるしをつけた。
「ここがだいたい車の位置にあたります」
「で、車がその位置にさしかかったとき、どんなことが起こりましたか?」
「グレイブスさんがふり返って、うしろの窓から外を見ると、大声を上げて……」
「異議があります」とペリー・メイスンがかみつくように言った。「ただいまの証言は伝聞であり、不適当、無関係、無意味なもので、実際に|なされた事実《ヽヽヽヽヽヽ》と見なすことはできず、被告に対する拘束力はありません」
「異議を認めます」とマーカム判事は言った。
クロード・ドラムは、これではどうにもならないと言う身ぶりを示して言った。
「しかし、裁判長、起った事実を考えれば……」
「異議は認められたのです」とマーカム判事は冷やかに言った。「あなたは適当なときにドン・グレイブス氏を喚問《かんもん》して、彼が見たことについて何でも本人の口から証言してもらえばいいのです。被告のいないところで言われたり行われたりしたことについては、|なされた事実《ヽヽヽヽヽヽ》と認められないかぎり、異議は認められます」
「わかりました。では」とドラムは陪審のほうを向いて会釈をするような態度で言った。「適当なときにドン・グレイブス氏を喚問して、本人の口からその場所で見たことを証言してもらうことにします。では、パーレイ判事、つづけてください。そのとき、その場所であなた自身が自動車の運転をどうなさったか、陪審のかたがたに正確に話してください」
「私はその場所では何もしませんでした。しかし、地図に示されている曲がりくねった道路にそって、さらに二、三十メートル車を走らせ、車をターンさせる余裕のある場所まで行きました。そこでどうにか車の向きを変えると、曲がりくねった道を引き返し、ふたたびエドワード・ノートンの家の前で車をとめました」
「それから、どうしましたか?」
「グレイブスさんとクリンストンさんは家の中へ入りました。二人の頼みに応じて私もいっしょに行きました。私たち三人は階段を上り、検察側証拠物件Aにおいて円でかこんだ数字の1がしるされている部屋に入り、そこで死体を発見しました。それがエドワード・ノートンの死体であることはやがて私にもわかりましたが、頭をすっかり打ちくだかれて、机の上にうつ伏せに倒れていました。私が行ったときには、完全に死んでいました。死体の手のそばには電話があり、机の上の数枚の書類のなかには自動車の保険証書がありました」
「その保険証書がどの自動車のものだったか、気がつきましたか?」
「異議があります。ただいまの質問は不適当、無関係、無意味なものです」とペリー・メイスンが言った。
「裁判長」とドラム。「これは重要な質問でありますので、その関連性を指摘いたします。検察側の見解には、被告フランシス・セレーンがビュイックに乗って外出していたという陳述をしたこと、さらに、この陳述は被告がビュイックの盗難が警察に報告されているのを知った後になされたものだということが論拠《ろんきょ》としてふくまれているのであります。つまり、被告はエドワード・ノートンがビュイックが盗まれたと電話をかけたことを知ったのです。そこで、フランシス・セレーンは……」
「よろしい」とマーカム判事は言った。「証言の関連性について、それ以上論ずる必要はありません。このことが審理に関係があるという検察側の保証にもとづいて、関連性についての異議を却下《きゃっか》し、質問に答えることを許可します。ただし、証言に関連性がないとわかった場合には、弁護側のもとめに応じて取り消すことにします。
しかしながら、この裁定は証言の関連性に対してのみなされたものです。もちろん、この質問によって引き出される証言が最良の証拠とならないことは明らかです。ただ、自動車保険証書そのものは、その内容に関しては最良の証拠です。しかし、この問題については異議の申し立てはなさそうですな」
マーカム判事は当惑の表情を浮かべてペリー・メイスンを見おろした。
ペリー・メイスンは、唇の両端をかすかにふるわせて微笑したようだった。
「ええ、裁判長、|その《ヽヽ》問題については異議はありません」
「よろしい」とマーカム判事はきっぱりと言った。「では、さきほどの異議は却下しました。証人は質問に答えなさい」
「その証書は」とパーレイ判事は言った。「そのとき、いや、数分後だったかもしれませんが、私が見てみると、ビュイックのセダン、自動車番号6754093、鑑札番号12M1834のものでした」
クロード・ドラムは手をふって合図をしながら言った。
「メイスンさん、反対尋問をどうぞ」
ペリー・メイスンはおだやかな微笑を浮かべて、パーレイ判事を見つめた。
「パーレイさん、あなたは、書斎に入ったとき、エドワード・ノートンの死体が机の上にうつ伏せに倒れているのを発見した、とおっしゃったんですね?」
「そうではありません」とパーレイ判事はどなるように言った。「私は、死体を発見した、それがエドワード・ノートンの死体であることはやがて私にもわかった、と言ったのです」
ペリー・メイスンはがっかりしたような顔つきで言った。「私の誤りでした」
一瞬、沈黙が流れた。そのあいだパーレイ判事は、信頼のおける証言を立派にやってのけた人間らしく、いかにも満足そうにじっと法廷を見つめていた。それは、弁護人の反対尋問で仕掛けられた罠《わな》なぞ自分にはわけなくはずすことができるのだという自信にあふれた態度だった。
「つまり、私は」とパーレイ判事は説明した。「クリンストンさんとは非常に親密な間柄で、前に少なくとも一度は彼を車に乗せてノートンさんの家へ行ったことがあるのに、直接ノートンさんにお目にかかったことは一度もなかったのです」
ペリー・メイスンは微笑を浮かべるような顔つきで尋ねた。
「あなたは、何度ぐらいノートンさんと電話で仕事の話などをなさいましたか?」
「いや、あの人と電話で話したことは一度もありませんよ」
パーレイ判事は驚いた顔をして言った。
「では、あなたは、あの人の姪《めい》のフランシス・セレーンの信託財産のことで、あの人と話し合ったことはなかったのですか?」
パーレイ判事は驚いて目をまるくした。
「とんでもない! もちろん、そんなことはありませんでしたよ」
「この信託財産のことを、誰かほかの人と話し合ったことがありますか?」
ドラムが立ち上がった。
「裁判長、異議があります。ただいまの質問は反対尋問として適当ではありません。伝聞であり、不適当、無関係、無意味なものです。弁護人はただ引きのばし策に出て会話をもてあそんでいるだけでありまして、その内容にはまったく何の……」
「異議を認めます!」とマーカム判事がどなり声を上げた。
ドラムは腰をおろした。
法廷に沈黙が流れた。ペリー・メイスンの顔は無表情だった。
「まだ質問がありますか?」とマーカム判事が訊いた。
「ありません」とペリー・メイスンは法廷中の人間を驚かして言った。「これで反対尋問を終ります」
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二十一
「マホニイ巡査部長を喚問します」とクロード・ドラムが言うと、制服に身を固めたマホニイ巡査部長が書記の机の前に進み出て、右手を上げて宣誓し、証人席についた。
「あなたの名前はE・L・マホニイ巡査部長、本年十月二十三日の夜、当市の中央警察署においてデスク係として勤務についていたのですね?」とクロード・ドラムが尋ねた。
「はい、そうです」
「午後十一時十四分ごろかかってきた電話に出ましたか?」
「はい」
「その電話について説明してください」
「エドワード・ノートン氏から電話がかかってきまして……」
ペリー・メイスンが立ち上がりかけたが、クロード・ドラムがいち早く証人の言葉をさえぎって言った。
「ちょっと待ってください。証人に注意しますが、あなたは宣誓に従って、知っていることだけを証言しなければいけません。あなたはその電話がエドワード・ノートンからかかってきたことは知らなかったはずです。ただ、誰かが電話をかけてきたことを知っているだけでしょう」
「しかし、自分はエドワード・ノートンだと言いました」と巡査部長は口をすべらせた。
笑い声が起って、波紋のように法廷中にひろがったが、判事の木槌の音でたちまち静まった。
「その電話で言ってきたことを話してください」と言って、ドラムは、弁護人から異議の出るのを待つように、メイスンのほうを横目でちらりと見た。
だが、ペリイ・メイスンは平然として無関心の様子だった。
マーカム判事が言った。「弁護人、この質問内容を|なされた事実《ヽヽヽヽヽヽ》として承認しますか?」
ドラムはおもしろくなさそうな顔をした。
「いずれにしましても、その質問に異議はありません」とメイスンは言った。
「よろしい。では、部長、証言をつづけなさい」
「この電話がかかってきたとき、私は時間を確かめました」とマホニイ巡査部長は言った。「十一時十四分でした。相手の男は、エドワード・ノートンと名のって、自動車盗難の報告をしたい、自分の持っているビュイックのセダン、自動車番号6754093、鑑札番号12M1834が盗まれたから、その車をさがしだして、運転している者を、誰でもかまわないから逮捕してもらいたい、と言いました。その言い方から考えると、運転している者がたとえ自分の親類であろうと、その男なり、女なりを逮捕してくれという意味だったと思います」
「弁護人、反対尋問をどうぞ」とクロード・ドラムは、有効な一撃をくらわしてやったというように微笑しながら言った。
「その電話はいちどきにかかってきましたか?」とメイスンはさりげなく尋ねた。
「どういう意味でしょうか?」
「ただ、あなたの記憶力をためしているだけです」
「もちろん、いちどきにかかってきました」
ペリー・メイスンは自分の書類|鞄《かばん》の中に手をのばして、一枚の新聞をとり出した。
「あなたはこの事件の記憶がもっとなまなましかったころ、新聞記者に話をしましたね?」
「ええ、事件の翌朝、話をしたと思います」
「そのとき、あなたは、電話が途切れたとは言いませんでしたか?」
「ちょっと待ってください」と地方検事補がさえぎった。「それは、証人の信憑性《しんぴょうせい》を攻撃しようとする根拠としては、妥当ではありません」
「私はただ、よろしかったら、証人の記憶をよびさまそうとしているだけです」とメイスン。
マホニイ巡査部長はいきり立ったような身ぶりをした。
マーカム判事は微笑を浮かべて言った。「証人の態度から察すると、すでに証人の記憶はよびさまされているようです。部長、証言をつづけなさい」
「そのとおりです。いま思い出しました」とマホニイ巡査部長は言った。「電話がかかってきて、話の途中で切れてしまったのです――まだ、話しはじめたばかりだったと思います。相手は名前と住所を告げて、警察署かと訊いてから、犯罪事件を知らせると言いました。そこで電話が切れてしまったのです。私は、こちらからかけてみようと思って、電話帳で向こうの電話番号をさがしました。すると、またかかってきて、話をつづけたのです。電話が切れてしまって、と向こうで言っていました」
「反対尋問を終ります」とメイスンは力をこめて言った。
クロード・ドラムは当惑した顔つきだった。
「あんなことが事件と何の関係があるのかね?」と彼はつっけんどんに言った。
マーカム判事が木槌を叩いた。
「静粛《せいしゅく》に!」判事はぴしゃりと言った。「検事側には何か再直接尋問があるのですか?」
「いや、ありません」とクロード・ドラムは言ったが、その眼はじっと考えこむように、ペリー・メイスンを見つめていた。
「つぎの証人を」とマーカム判事が言った。
「アーサー・クリンストン」とクロード・ドラムはどなり声で言った。
アーサー・クリンスントンは傍聴席の一角から立ち上がると、書記のところへ進み出て、宣誓し、証人席についた。
「あなたの名前はアーサー・クリンストン、エドワード・ノートンと二人で組織するクリンストン・アンド・ノートン商会の共同経営者ですね?」
「そうです」
「エドワード・ノートンは死亡しましたね?」
「ええ、死亡しました」
「クリンストンさん、あなたはエドワード・ノートンの死体を見ましたか?」
「はい。今年の十月二十三日に見ました」
「何時ごろでしたか?」
「死体を見たのは、だいたい午後十一時三十五分か六分でした」
「死体はどこにありましたか?」
「書斎の机の上に、頭を打ちくだかれて倒れていました」
「それで、どうしましたか?」
「警察に知らせました」
「その晩、あなたは、被告フランシス・セレーンと会いましたか?」
「会いました」
「何時ごろですか?」
「十二時ごろか、もうすこし前です」
「あなたは彼女に叔父が死んだことを話しましたか?」
「話しました」
「ビュイックが盗まれたことについても何か話しましたか?」
「話しました」
「そのとき彼女は、そのビュイックのことで何か言いましたか?」
「その質問には、『はい』または『いいえ』と答えればよろしい」とマーカム判事が言いきかすように口を入れた。「ただの前置きの質問です」
「はい、言いました」とクリンストン。
「そのとき何時でしたか?」
「十二時ごろでした」
「その場に誰かいましたか?」
「セレーンさん、ドン・グレイブスさん、それに私です」
「ほかには誰もいなかったのですね?」
「そうです」
「彼女は何と言いましたか?」
「十時四十五分ごろビュイックを持ち出してドライブに行き、夜中の十二時十五分すぎごろ帰ってきた、と言いました」
「あなたが生きているノートンさんを最後に見たとき、彼は何をしていましたか?」
「書斎の窓のところに立って、下にいる私に話しかけていました」
「何と言いましたか?」
「ドン・グレイブスを街まで――つまり、私の家まで連れて行ってくれないかと頼みました」
「それで、あなたは何と答えましたか?」
「パーレイ判事の車に乗っているのだから、判事に訊いてみなくてはならないと答えました」
「それからどうなりましたか?」
「私はパーレイ判事のところへ訊きに行き、承諾の返事を得ました。それからノートンさんに知らせにもどりました。そのとき彼は書斎の窓から数フィート奥に立っていました。私が彼に向って、いいよ、と呼びかけると、パーレイ判事の承諾を予期していたグレイブスさんが、私たちに加わるために、もう玄関の階段をおりてくるところでした」
「それからどうなりましたか?」
「それから、私はパーレイ判事といっしょに運転席に乗りこみ、ドン・グレイブスさんはうしろに坐って、その地図に示されている曲がりくねった道を走りはじめました。そして、ある地点までくると、車をターンさせて、邸にもどったのです。車の中でかわされた会話のことは何も言ってはいけないのでしたね?」
「それが法廷の規則です」
「わかりました。車でもどってくると、私はまた家の中へ入り、さきほど説明したような状態のノートンさんの死体を発見しました。そこで、警察に報告したわけです」
「反対尋問をどうぞ」とクロード・ドラムはだしぬけにペリー・メイスンの方を向いて、どなり声で言った。
メイスンは、数秒のあいだ、無表情な顔つきでアーサー・クリンストンを見まわしていたが、とつぜん言った。「その晩あなたは、ノートンさんと話をしましたか?」
「ええ、しました。会うことになっていたのですが、私は約束の時間に数分遅れました。向こうへ着いたのは十一時七分すぎだったと思います」
「ノートンさんと何の話をしましたか?」
アーサー・クリンストンは急に顔をしかめると、メイスンに向って首をふった。その|しぐさ《ヽヽヽ》は何か警告しているようだった。
クロード・ドラムは異議をとなえようとして勢いよく立ち上がったが、クリンストンのしぐさを見ると、急に微笑を浮かべて、腰をおろした。
クリンストンはマーカム判事のほうを見た。
「質問に答えてください」とペリー・メイスンが言った。
アーサー・クリンストンはだしぬけに言った。「その質問に答えたら|あんた《ヽヽヽ》に都合が悪いだろう」
マーカム判事が木槌で机を叩いた。
「ドラムさん、何か異議がありますか?」
地方検事補は微笑しながら|かぶり《ヽヽヽ》をふって答えた。「何もありません。証人に答えさせてください」
「質問に答えなさい」とマーカム判事は言った。
クリンストンはもじもじしていた。
「裁判長」と彼はだしぬけに言った。「私がいまの質問に答えて証言したりしたら、被告フランシス・セレーンにとって不利になります。メイスン君にはそれがわかっているはずです。それなのに、どういうつもりでこんな質問をするのか、私にはどうも……」
マーカム判事の木槌が鳴った。
「証人の発言は」と判事が冷たい形式張った口調で言った。「質問に対する答弁だけにかぎられています。法廷において、とくにこのような公判において、いまのような発言は法廷に対する侮辱《ぶじょく》となることを証人はよく知っておかなければなりません。陪審はただいまの発言を無視し、また、証言の一部として発言されるもの以外は、いかなる証人の陳述も無視するようにしてください。クリンストンさん、質問にお答えなさい。さもないと、法廷侮辱罪に問われます」
「私たちは」とクリンストンは低い声でしゃべりだした。「ミス・セレーンが誰かにゆすられているということについて話し合いました」
クロード・ドラムの顔に、勝ち誇ったような笑いがひろがった。
「家政婦のメイフィールド夫人にゆすられていたことについてですね?」とメイスンが尋ねた。
ドラムの顔から笑いが消えた。彼は勢いよく立ち上がって言った。「裁判長、異議があります。ただいまの質問は不適当、無関係、無意味であり、また誘導的、示唆的《しさてき》なものであります。弁護人は、メイフィールド夫人が本審理における検察側の重要証人であることを知り、彼女の証言に疑惑を投げかけようとして……」
「誘導訊問は反対訊問の場合には許されています」とマーカム判事は言った。「あなたは、弁護人が会話の内容について証人に質問したさいに、異議を申し立てませんでしたし、これは反対訊問ですから、ただいまの質問は許可します」
クロード・ドラムはゆっくりと腰をおろした。
クリンストンは不愉快そうに椅子の中で身動きしていた。
「メイフィールド夫人の名は出ませんでした」と彼はようやく低い声で言った。
「確かですね?」とメイスンは訊いた。
「まあ、ゆする可能性のある相手としては、名前が出たかもしれませんが」
「ほう、では、可能性のある相手としては名前が出たのですね? そうですね?」
「そうだったかもしれません」
メイスンはとつぜん攻め方を変えた。
「クリンストンさん、十月二十三日にエドワード・ノートンはかなりの大金を千ドル紙幣で引き出しましたね?」
「そうらしいですね」とクリンストンは気むずかしげに言った。
「あなたがかわりに引き出してきたのではありませんか?」
「いや、ちがいます」
「あなたはあの日、クリンストン・アンド・ノートン商会と取り引きのある銀行のいずれかへ行きましたか?」
アーサー・クリンストンは顔をしかめて考えこんだ。
「ええ、行きました」
「どこの銀行ですか?」
「ホイーラー信託貯蓄銀行です」
「そこで誰と話をしましたか?」
急にクリンストンの顔色が変った。
「その質問には答えたくありません」
クロード・ドラムが勢いよく立ち上がった。
「異議があります。ただいまの質問は不適当、無関係、無意味であり、反対訊問としての適格性を欠いています」
ペリー・メイスンはゆっくりと微笑を浮かべ、ものうげに口を切った。
「裁判長、ちょっと意見をのべたいのですが」
「よろしい」とマーカム判事は答えた。
「本証人は、直接訊問のときに、クリンストン・アンド・ノートン商会の共同経営者であると証言しております。あのときの質問は証人の結論を誘導すると言えるようなものでしたが、私は異議を申し立てませんでした。しかし弁護人には、共同経営者としての証人の活動状況、および、その結論の根拠となった理由について、証人を反対訊問する権利があるものと考えます」
「遠い過去のことでなければ」
「もちろんです」とメイスンは言った。「だからこそ、私は質問内容を、十月二十三日――つまり殺人事件の当日にかぎっているのであります」
マーカム判事は、急にけわしく用心深い眼つきになって、ペリー・メイスンを見つめた。
メイスンは大きく見開いた率直《そっちょく》なまなざしで、判事を見返した。
クロード・ドラムが立ち上がって言った。
「共同経営者の問題は、本件には何の関係もないことです」
「しかし」とマーカム判事は言った。「あなた自身が、証人が共同経営者であることを持ち出したのですよ」
「しかし、裁判長、それはただノートンとの親密な関係を示すだけの目的でした」
マーカム判事は首をふった。
「ただいまの質問が反対訊問として妥当であるという確信は私にもありません。しかし、このような場合には、たとえ誤りだとしても、被告側の主張を認めようと思います。証人は質問に答えなさい」
「クリンストンさん、質問に答えてください」とメイスン。「誰と話をしましたか?」
「頭取のシャーマン氏と話しました」
「何の話をしましたか?」
「共同事業のことについてです」
「共同事業で銀行から借りた約九〇万ドルの負債の支払いについて話しあったのでしょう? その負債は、たしか手形になっていて、あなた個人が署名したものですね、そうでしょう?」
「いいえ、ちがいます。あの手形は共同事業のものです。クリンストン・アンド・ノートン商会の名義です」
「つまり、クリンストン・アンド・ノートン商会の名義で、アーサー・クリンストンが署名したわけですね、ちがいますか?」
「そういうことになりますね」とアーサー・クリンストンは答えた。「共同事業の銀行関係の仕事は大部分私が処理していました。つまり、手形には商会名を私が署名していたのです。もっとも、小切手はたいてい二人で署名していました。いや、いま言ったことは訂正します。ホイーラー信託貯蓄銀行の手形は商会名で私が署名し、小切手も同じようにわたしひとりで振り出したと思います」
「あなたがノートンさんの家へ行ったのは、その手形の満期が迫《せま》ったことについて相談するためだったのでしょう?」
「そうです」
「では、どうしてフランシス・セレーンが家政婦にゆすられているという話などをすることになったのですか?」
「私は、脅迫しているのが家政婦だなどとは言いませんでしたよ」とクリンストンはかみつくように言った。「可能性のある相手として家政婦の名前も出たと言っただけです」
「わかりました。私の間違いです。では、どうぞ質問に答えてください」
「あの手形に関する仕事の話は、ほんの数分話し合っただけで終ったからです。ノートンさんは姪《めい》がゆすられているという問題でひどく悩んでいて、仕事の話はもう打ち切りにして、私の助言が聞きたいと言ったのです」
「それで、なぜ彼女がゆすられているのか、そのわけを言いましたか?」
「彼女が何かしでかして、そのためにゆすられているのだと考えていたようです」
「なるほど。で、|どんなこと《ヽヽヽヽヽ》をしでかしたのか、言いましたか?」
「いや、言わなかったと思います」
「それらしいことも言いませんでしたか?」
「彼女《あれ》は始末におえない癇癪《かんしゃく》持ちだから、と言っていました」とクリンストンはいきなり言ってしまってから、唇をかんで言い直した。「ちょっと待ってください。いまのは取り消します。そうは言わなかったようです。私の間違いでした」
「間違いですか? 被告フランシス・セレーンをかばおうとしているのではありませんか?」
クリンストンの顔がまっかになった。
「あんたより私のほうがよっぽどあの娘をかばおうとしているんだ!」と彼はどなった。
マーカム判事の木槌が鳴った。
「クリンストンさん、法廷はすでに一度あなたに警告を与えています。今回は法廷侮辱罪の宣告をくだし、百ドルの罰金を課します」
クリンストンは顔をまっかにして頭を下げた。
「審理をつづけてください」とマーカム判事は言った。
「銀行に対する負債のこと、共同事業のこと、ノートンさんの姪がゆすられているらしいこと、これらの問題のほかに、何かあなたとノートンさんが話し合ったことはありますか?」
「いいえ、何もありません」とアーサー・クリンストンは答えたが、強請《ゆすり》の問題についてはもう質問されないようなので、いかにもほっとした様子だった。
ペリー・メイスンはもの馴れた微笑を浮かべて言った。
「裁判長、弁護人は後ほどまたクリンストン氏を呼んで反対訊問をしたいと思いますが、ただいまのところ、もう質問はありません」
マーカム判事はうなずいた。
「再直接訊問はどうですか?」
「いまはありません」とクロード・ドラム。「しかし、弁護人がさらに反対訊問をするために証人喚問の権利を保留するのでしたら、私もさらに再直接訊問する権利を保留したいと思いますが」
「許可します」とマーカム判事。「審理をつづけてください」
クロード・ドラムは芝居がかりに声をはり上げた。
「ドン・グレイブス氏を喚問します」
ドン・グレイブスが立ち上がって進み出るあいだ傍聴人たちはたがいに顔をよせて、すばやくささやき合った。殺人事件の審理は異常な速さで進行していたが、被告側の弁護人は反対訊問のさいに数多くのチャンスを見逃しているように見えた。だが、ペリー・メイスンを知る者たちは、彼が弁護士仲間で評判になるような法廷技術を使う男であることを知っていた。
傍聴人と同じように、マーカム判事も煙にまかれた様子だった。ときどき判事の眼は、じっと考えこむように、ペリー・メイスンの落着きはらった顔を見まわしていた。
「あなたの名前はドン・グレイブス、本年十月二十三日およびそれ以前の相当期間、エドワード・ノートンの秘書として雇われていましたね?」
「はい」
「十月二十三日の夜、ノートンさんといっしょにいましたか?」
「はい」
「その夜、彼を最後に見たのは何時でしたか?」
「十一時半ごろでした」
「その前にも彼に会っていますね?」
「ええ、もちろんです。クリンストンさんが十一時二十七分か八分ごろお帰りになりましたが、そのときノートンさんも私室から出てこられました。お二人で一、二分話をなさってから、ノートンさんは私にクリンストンさんの家にある書類をもらってきてくれと言われました」
「それからどうなりましたか?」とクロード・ドラムは訊いた。
「それから、クリンストンさんは階下《した》におりて行かれ、ノートンさんは私に運転手のディヴォーを呼んで、クリンストンさんの家まで車に乗せて行ってもらえ、と言われました。そこで、私が階段をおりかけますと、ノートンさんは『ちょっと待て。いい考えがある』というようなことをおっしゃって、窓のほうへ行かれ、下にいるクリンストンさんに声をかけて、私をいっしょに連れて行ってくれないか、とお尋ねになりました。
クリンストンさんは、パーレイ判事といっしょだから、判事の許可を得なければならない、と言われました。しかし私は、パーレイ判事がよいとおっしゃることはわかっていましたし、急いだほうがいいと思ったものですから、階段をかけおりて、玄関のドアから飛び出しました。するとちょうど、クリンストンさんが、パーレイ判事は喜んで私を乗せて行くと言っているから、と二階に向って声をかけておられるところでした。
私が走って行って、パーレイ判事の車に乗りこみ、うしろの席に坐ると、判事はすぐ車を出されました。車は曲がりくねった道を走って、さきほど判事が地図に印《しるし》をつけられた地点まできました」
「それから、何が起こりましたか?」
「その地点で」とドン・グレイブスは芝居がかった調子で言った。「私はひょいとふり返ってうしろを見たのです。すると、車のうしろの窓からノートンさんの書斎の窓の中まで見えました」
「それで、何が見えましたか?」とクロード・ドラムは満足そうな声で尋ねた。
「棍棒をふり上げて、ノートンさんの頭をなぐりつける人間の姿が見えました」
「その人間が誰だか、わかりましたか?」
「わかったと思います」
「誰だと思いましたか?」
「ちょっと待ってください」とペリー・メイスンが言った。「ただいまの質問は、証人の結論を求める、誘導的、示唆的なものとして異議を申し立てます。証人は誰だかわかったと|思う《ヽヽ》と言っているだけです」
マーカム判事は、この重大な論点で弁護人がさらに長々と論じはじめるのを待ちかまえるように、ペリー・メイスンの顔を見つめた。だが、メイスンはそれっきり何も言わなかった。
判事はクロード・ドラムのほうを見た。
ドラムは肩をすくめて言った。
「証人は、誰だかわかったと言うつもりだったのです。|思う《ヽヽ》という言葉は単に話し言葉の習慣からつけたものにすぎません」
「その点をもっとはっきりさせたほうがいいでしょう」とマーカム判事。
「わかりました」とクロード・ドラムは言って、証人のほうに向き直った。
「グレイブスさん、あなたは、誰だかわかったと思うと言いましたが、どういう意味ですか?」
「その男が誰だったか知っているという意味です。その男の見わけがついたと思うのです。顔ははっきり見えませんでしたが、頭の動かし具合や肩の恰好《かっこう》、それに全体のからだつきから、誰だか見わけることができたと思うのです」
「これで充分ではないでしょうか」とクロード・ドラム。「ある人間がほかの人間を見わけるのに、かならず顔の特徴を見なければならないということはありません。弁護人の異議は、証拠の価値の大小に向けられたのならともかく、証拠そのものに向けられたものなのであります」
マーカム判事は、反論を期待するようにメイスンを見た。
ペリー・メイスンは何も言わなかった。
「異議を却下します」と判事は言った。「証人は質問に答えてください」
「その男はロバート・グリースンでした」とドン・グレイブスは低い声で言った。
「その部屋には、ほかに誰かいましたか?」
「はい、いました」
「それは誰でしたか?」
「女です。何かピンクの服を着ていました」
「その女を見ることができましたか?」
「肩の一部と、髪の毛がほんのすこし、それに腕が見えました」
「それだけ見て、その女が誰だか見わけられましたか?」
マーカム判事が口をはさんだ。
「さきほどの人物確認の件を認めたのは、弁護人の異議は証拠|認容《にんよう》の適否《てきひ》よりむしろ証拠価値の大小に向けられるべきであるという理由にもとづいたからですが、この地図に示されているような遠距離から、女の姿の小部分のみを見たような場合には、証拠価値の大小のみならず、認容の適否に対しても、とうぜん異議を向けられるべきです。ですから、その女の確認問題については異議を認めます」
「裁判長」とペリー・メイスンが静かに言った。「その女の確認問題については異議申し立てはしておりません」
「申し立てしない?」
「はい、裁判長」
「よろしい。では、申し立てれば異議は認めます」
「異議は何も申し立てません」
法廷中にざわめきが起った。
「よろしい」マーカム判事は顔をまっかにして、かみつくように言った。「証人、質問に答えなさい」
「はい」とドン・グレイブスは答えた。「その女はフランシス・セレーンだったと思います。この場合、まえの男の場合ほど確かではありませんが、やはりフランシス・セレーンだったと思います。フランシス・セレーンのような服装をしていましたし、髪の色や肩の恰好から言っても、フランシス・セレーンのように思えました」
「あなたは、どのくらいまえからフランシス・セレーンを知っていますか?」
「三年以上まえからです」
「ずっと彼女と同じ家に住んでいるのですね?」
「そうです」
「あなたの知るかぎりでは、彼女はその当時、部屋の中に立っていた女が着ていたような色のドレスか何か持っていましたか?」
「ええ、持っていました」
「けっこうです。で、それからあなたはどうしましたか?」
「私は、連れのお二人に、自分の見たことを告げて、車をもどしてくださいと頼みました」
「ただいまの陳述は裁判長の発意によって削除します」とマーカム判事が言った。「不適当、無関係、無意味な陳述です。質問は、部屋の中で起ったことに関して、証人は次に何をしたかということです。被告のいないところでとりかわされた会話は、|なされた事実《ヽヽヽヽヽヽ》でないかぎり、証拠として認められません」
「わかりました」とクロード・ドラムは言った。「それからどうなりました? エドワード・ノートン氏のことに関して、あなたは何をしましたか?」
「私は邸《やしき》にもどり、階段を上がって、ノートンさんの書斎へ行きました。そして、頭を打ちくだかれて机の上に倒れているノートンさんの死体を発見しました」
「反対訊問をどうぞ」とドラムはどなった。
ペリー・メイスンは立ち上がると、ドン・グレイブスをじっと見つめた。緊張が電流のように法廷じゅうに伝わった。傍聴人たちは、この裁判の決定的な場面を迎えたことを感じていた。
「あなたの視力は健全ですか?」とペリー・メイスンは尋ねた。
「ええ」
「この地図の道路のこの地点で、疾走《しっそう》している車中に坐りながら、うしろの窓から瞬間的に見ただけで、こちらの書斎にいる人間を見わけることができたと思うのですか?」
「そうです。できたことはわかっています」
「どうしてわかっているのです?」
「あのときに見たからです。それに、あとで視力のテストを受けたからです」
「ただいまの答弁の後半は削除することができます」とマーカム判事が口を出した。
「削除の裁定申請《さいていしんせい》はいたしません」とペリー・メイスンは言った。「法廷の許可があれば、この点に関する質問をさらに押し進めたいと思います」
「よろしい」と判事。
「あなたは、あとでテストを受けたというのですね?」
「はい」
「自動車の中でですか?」
「そうです」
「部屋には人をおいたのですね?」
「そうです」
「部屋にいた人は誰ですか?」
「地方検事のドラムさんと、検事局の人が二人です」
「その人たちを見わけることができたのですね?」
「そうです。あそこの窓は非常に大きいし、書斎の照明もとてもいいですからね」
「テストに使った自動車は、あまり速く走らせなかったのではありませんか?」
「殺人事件の夜乗っていた車と同程度の速さでした」
「パーレイ判事の車のことですね?」
「ええ」
「しかし、あなたはパーレイ判事の車ではテストを受けていないのでしょう?」
「ええ、ほかの車でした」
「それでは、そのテストは同一条件のもとで行われたものではないのですね。つまり、車がちがえば、うしろの窓もちがっていたわけだ」
「似たようなものでしたよ」
ペリー・メイスンは、とがめるように証人をにらみつけた。
「だが、そのテストは|完全に《ヽヽヽ》同じ条件のもとに行われたものではないのです」
「ええ、そうですね」
「あなたは、同一《ヽヽ》条件のもとでテストを受ける勇気がありますか?」とメイスンは大声で言った。
「議論がましい質問として異議を申し立てます」とドラムがどなった。
「裁判長は」とマーカム判事が言った。「ただいまの質問は議論がましいかもしれないが、証人の関心または偏見《へんけん》を示すのに役立つと思います。問題は、証人がある条件のもとでテストを受けることをいとわないかどうか、ということです」
「しかし、そのようなテストを行ったところで、すでに立証されているのと同じ事柄が立証されるだけのことと思います」とドラムは言った。
「問題は」と判事は言った。「証人がそのようなテストを受けることをいとわないかどうか、ということです。裁判長は証人が質問に答えることを許可しようと思います」
「答えてください」とメイスン。
「はい、喜んでテストを受けましょう」
「パーレイ判事が車を貸してくれたら、その車に乗ってテストを受ける気《ヽ》がありますか?」
クロード・ドラムが立ち上がった。
「裁判長、ただいまの質問は前とは違っています。こんどは、そのようなテストを受けることをいとわないかどうかではなく、そのようなテストを受ける気《ヽ》があるかどうかになっています」
「よろしい」とマーカム判事は言った。「ただいまの質問に異議を申し立てるのであれば、本官は異議を認めましょう」
ペリー・メイスンは陪審のほうを向いた。
「このような|なりゆき《ヽヽヽヽ》では、反対訊問はもう打ち切ります」
「反対訊問を打ち切るって?」とドラムが訊いた。
「打ち切ります。事実はおのずから明らかです」とメイスンはきっぱりと言った。「あなたは、同一条件のもとでテストを行うことを恐れているのです」
マーカム判事の木槌が激しく鳴りひびいた。
「弁護人、人身攻撃はやめてください。また、意見があれば、検事側ではなく、法廷に向って述べてください」
「お許しください、裁判長」とペリー・メイスンは言ったが、その声には卑下した調子もなく、眼はおもしろがっているように輝いていた。
クロード・ドラムは、額《ひたい》に皺《しわ》をよせて考えこみながら、じっとメイスンを見つめていた。
「裁判長」と彼は言った。「ここで明朝十時まで休廷をしていただきたいと思います。本審理の思いがけないほどすみやかな進行にはいささか驚いております」
「その驚きは本官も同様ですが」とマーカム判事は言った。「喜ばしい驚きといえましょう。とかく殺人事件の審理というものは長々と引きのばされるのが普通ですが、本審理のごとくすみやかに進行するのは驚くべきことです。検事側の要求を認めて、法廷は明朝十時まで休廷いたします。その間、陪審は例のごとく法廷規則を守って、本件について意見を交換したり、第三者の面前で議論したりしないようにしてください」
木槌の音が鳴りひびいた。
ペリー・メイスンは椅子に坐ったまま向きを変えて、フランシス・セレーンの黒い眼を見つめた。
彼は安心させるように彼女にほおえみかけた。
彼女の横に坐っているロブ・グリースンは、きびしい試練を物語るやつれきった、ゆがんだ顔をしていた。その態度には激しい緊張がみなぎり、眼にはひそかな恐怖があふれていた。
娘のほうは落ち着き払っていて、その眼には何の感情の色も見えず、顎《あご》を突き出すようにして顔をあげていた。
ペリー・メイスンは娘のほうに身をかがめて言った。
「僕を信じていてくださいよ」
彼女がメイスンに向って微笑を浮かべたとき、はじめて、裁判がはじまるまでのきびしい試練の間に起った変化がはっきりと読みとれた。その微笑には悲しみの影があった。それは、以前の彼女の顔には見られなかった忍耐の色だった。彼女は何も言わなかったが、その微笑には無量の意味がこめられていた。
ロブ・グリースンがささやいた。「ちょっとお話しがあるんですが。二人だけで」
治安官補がひとり近づいてきて、フランシス・セレーンの肩に手をおいた。ペリー・メイスンは「ちょっと待ってくれたまえ」と言って、ロブ・グリースンを片隅に連れて行った。
グリースンはしゃがれ声でささやいた。
「だいぶ形勢が悪いんじゃないですか?」
ペリー・メイスンは肩をすくめた。
「もし僕たちに不利になったら」とグリースンはささやいた。「僕が全部ひきうけますよ」
「と言うと?」
「つまり」とグリースンはしゃがれ声で答えた。「告白して、ひとりで罪を背負います。フランには何の責任もかからないようにしてやりたいんです」
メイスンの眼は、じっと、意味ありげに、容赦なくグリースンの顔を見まわした。
「まだそんなところまではきていないぜ、グリースン」と彼は言った。「それに、そんなことにはなるまい。きみは黙っていることだ」
メイスンはふり返って、待ちかまえている治安官補に、話が終ったという合図をした。
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二十二
ペリー・メイスンは事務室のデスクの前に坐って、ハリイ・ネバーズを見つめていた。
ネバーズは、散髪し、髭《ひげ》もきれいにそって、プレスしたばかりの服を着ていたが、皮椅子の肘かけにのせた脚を組んで、退屈したようなまなざしでペリー・メイスンを見まわしていた。
「おれにできることなら、もちろんやってやるよ。うちの社はあんたに好意を持ってるんだ。フランシス・セレーンの出頭のときには、うまいチャンスをくれたからな」
「よし」とメイスンは、きびしい、油断のない眼つきで言った。「それじゃ、ドン・グレイブスが真実を語っているかどうかをきめるために、地方検事のほうでは秘密テストを行っていたということを、うんと書き立ててもらいたい」
ネバーズはうなずいて、あくびをした。
「つまり、地方検事の心の中に証言について疑いが少しもなかったのなら、そんなテストはしなかったはずだということを、それとなくほのめかしたいわけだな」
ペリー・メイスンはうなずいた。
「まあ、そんなことなら」とハリイ・ネバーズは、彼独特の抑揚のないぼそぼそ声で言った。「もうやってあるさ。それくらいのお礼は先払いしてあるんだぜ」
「それはけっこうだ」とメイスンは言った。「では、もうひとつある。閉廷直前に起ったこと、つまり、検事側が同一条件のもとでテストを行うのを拒絶したことを強調してもらいたい」
ネバーズは承知したという身ぶりで頭をちょっと下げた。
「よし。で、その裏は?」
「何の裏だ?」と弁護士は訊き返した。
「そのテスト騒ぎの裏だよ」
「わかってるじゃないか」とメイスンは言った。「地方検事側はテストを行った。ということは、証人が主張どおりにあの部屋にいる人間を見わける能力を持っていたかどうかという疑いが検事にもあった証拠だ。そのうえ、いまでは、テストを行うことを拒絶している。まったく同一条件のもとで行われるテストを許可しようとしない」
「ばかばかしい」と新聞記者は言った。「そんなことは陪審にでも言えばいい。おれが訊いているのは、そいつの内幕だよ」
「内幕なんて何もない」
「なに、ないって?」とネバーズは言った。「おれが何も、あんたのために火中の栗を拾おうとしているなんて思わないでくれよ。こんどの事件じゃあ、あんたがいいネタをくれたから、おれもお返しをしようとしているだけなんだ。はたしてその栗が手を出すだけの値打ちがあるかどうかわかりもしないのに、おれがあんたのために走りまわって、ちょっかいを出し、指をやけどしたりするなんて考えたら、とんでもないことだぜ」
メイスンはかぶりをふった。
「ハリイ、きみは誤解している」と彼は言った。「僕はただ、まったく同一の条件のもとでテストを行うようにしたいと思っているだけなんだ」
「ふん、じゃあ、ちょっとそいつを話し合ってみようじゃないか。まったく同一の条件というのはどういう意味かね?」
「まあ、こんな工合《ぐあい》にテストをしてみたいんだ。僕がパーレイ判事といっしょに車の前のシートに乗りこむ。アーサー・クリンストンが坐っていた場所だな。地方検事補のドラム君には、喜んで、ドン・グレイブスといっしょにうしろのシートに坐ってもらうよ」
ハリイ・ネバーズは、眼に驚きの色を浮かべて相手を見つめた。
「気は確かだろうな?」と彼は言った。
「うん」とメイスンはそっけなく答えた。
「ちえっ、あんたはまったく何にも知らない坊やなんだな!」とネバーズ。「公明正大なんて|たわごと《ヽヽヽヽ》で、クロード・ドラムにだまされるなよ。あいつはあの道じゃあ、煮ても焼いても食えないやつだ。ドン・グレイブスが警察にした最初の供述――ディヴォーを犯人と認めて、部屋の中にほかの人間がいたなんてことはいわなかったあの供述書を、どこかへほうりこんじまったやつなんだぜ」
「まさにその通りさ。それならどうだと言うんだ?」
「ふん、こうなるだけさ――あいつは、ドン・グレイブスが眼かくしされてたって、百パーセント確認できるようにお膳立《ぜんだ》てしちまうよ。ドン・グレイブスを肘でつっつけるような位置にあいつを坐らせて、ささやいたり合図したりできるようにするなんて、まったくまぬけだよ」
ペリー・メイスンは首をふって、微笑した。
「よし。それじゃ」とネバーズは言った。「内幕を話せよ。さもなきゃあ、おれはもう協力なんかしないぞ」
「ときには、ちょっとした策略を用いなければならないものだよ――たとえば、ガチョウの群《むれ》にこっそり近づくときには、馬のうしろにくっついて歩みよるのがいつでも賢明な方法なんだ」
「そりゃ、何のことだ?」
「つまり、ガチョウという鳥は野生で人に馴れてないから、見なれないものや狩人《かりゅうど》みたいなものの姿を見ると、かならず逃げてしまう。ところが、馬の姿は見なれているから、馬が近くを歩いていてもちっとも気にしないんだ」
「それで、あんたは馬のうしろから歩いてくってわけか?」
ペリー・メイスンはうなずいた。ネバーズは椅子の腕から脚をすべりおとして、立ち上がり、じっとメイスンを見つめた。
「いいかね」と彼は言った。「あんたは弁護士仲間じゃ、てきぱき能率を上げる、えらく精力的なしたたか者だという評判だ。それに、なかなか|かけひき《ヽヽヽヽ》がうまくて、相手にノック・アウト・パンチを食わすために、ただその一発に力を集中できるように立ちまわるという評判だ。そのあんたが、無益なジャブばかりをうって精力を浪費するはずがない。さあ、この事件のノック・アウト・パンチは何か、教えてくれ」
「まだ、よくわからないんだ。何もないかもしれない」
「何もないって! この事件のあんたのやり方を考えてみろ。あんたはただ坐りこんだきり、検察側の好きなだけ片っぱしから証拠を提出させている。反対訊問をやったって、二人の被告のためになるようなことは何ひとつ引き出していない」
「それはどういう意味だ?」とメイスンは、低い、けわしい声で訊いた。
「まあ、落着けよ」とネバーズはぼそぼそ声でものうげに言った。「とにかく、こんなことではおれをごまかすわけにはいかないぜ。おたがいによく知っているとおり、ドン・グレイブスは事件の晩、警察にした供述では、なぐり殺したのは運転手のディヴォーだと言っている、いや、少なくともそうほのめかしているんだ。それに、殺人が行われたとき、部屋の中に女はいなかったと言った。少なくとも、女を見たとは言わなかった。ところがあんたは、さっさと彼にこの事件の証言をさせたが、いまの話はさっぱり持ち出さないし、彼が前には矛盾する供述をしたことをほのめかしもしなかった」
「そんなことをしたところで、何の役にも立たないからさ」とメイスンは答えた。「あの供述の草稿は破棄《はき》されてしまったし、それにグレイブスは、そんな供述をした覚えはないと言いはるか、フランシス・セレーンから助けてくれと頼まれたので、彼女のことは言わないようにしたと主張するか、どちらかだからね」
「ばかな」とネバーズは言った。
ペリー・メイスンはデスクの引き出しを開けて、ウィスキーの瓶をとり出した。
「ハリイ、これだけは言っとこう。僕に協力していれば、後悔することはないね」
「どういう意味だ?」
「つまり、このテストをやる問題にくっついていれば、第一面に特ダネを飾《かざ》れると言うことさ」
ハリイ・ネバーズは、メイスンが瓶といっしょに渡したグラスを押しもどし、瓶をじかに口にあてて傾けた。そして五、六口ごくごくとやってから、弁護士に瓶を返した。
「その特ダネというのは、いつのことだい? テストがすんだらすぐか?」
「そうはいかないな。ちょっとばかり細工をしないといけないだろうから」
新聞記者は、考えながら思わず声が出てしまったかのように、しゃべり出した。
「検事にテストをさせるようにする、こいつはできるな。テストは間違いなく実現する。しかし、あんたは何か切り札をかくしているな。あんたはこの殺人事件の公判にさっぱりファイトを見せていない。まるで検屍《けんし》法廷に顔を出しているみたいだ。三段跳びのようにさっさと片づけて、検事側には好きなだけ被告に不利な証拠を提出させている。街の連中は誰も彼も、なんて粗末な弁護ぶりだと話し合っているんだ」
「そうかね?」とメイスンは眉を上げて訊いた。
「そうかねじゃないぜ!」とネバーズは、わずかながら興奮した口調で言った。「あんたはちゃんと承知しているんじゃないか。法科を出たばかりの青二才だって、あんたのいまのやり方よりはましだろう。みんな、それを話題にしているんだ。街の連中は二派に分かれている――あんたはおそろしく抜け目のない男だから、何か切り札をかくしているのだろうと考えている連中と、いままでほかの事件では運がよかっただけのことで、ほんとうは無能なのだと考えている連中だ。とうぜん、これは重大事件だからな。フランシス・セレーンのような、何百万ドルの金を持った女性の危機、秘密結婚、それにセックスの方面など、そんなネタが片っぱしからトップ記事になる。この事件をだらだらと長引かせ、一歩一歩前進して、二週間も三週間も新聞の第一面にあんたの名前をのせつづけるようにするには絶好のチャンスなんだぜ。それなのに、あんたは|でくのぼう《ヽヽヽヽヽ》みたいにへまばかりやってるんだ。殺人事件だというのに、この裁判は、まるで百姓の股ぐらを駆け抜ける脂《あぶら》だらけの豚みたいに、全速力で法廷をつっ走っているじゃないか」
ペリー・メイスンはウィスキーの瓶に栓《せん》をすると、デスクの引き出しにしまった。
ネバーズは、さぐるような眼つきでメイスンをながめた。
「何とか言わないのか?」と彼は訊いた。
「ああ」
ネバーズはにやっと笑って、手の甲で口もとをぬぐった。
「まあいい。おれの義務はすましたんだ。社会部長には、あんたから何か引っぱり出そうとして全力をつくしたと言っておこう。たぶんおれは、読者が勝手に想像をたくましくしてくれるような内幕記事でもでっち上げることになるな」
ペリー・メイスンは新聞記者の腕をとって、表の秘書室へ通ずるドアまで送って行った。
「ねえ、ハリイ、何かでっち上げるなら、うまくでっち上げるようにしてくれよ」
そう言って、メイスンは戸口で立ちどまると、急に新聞記者のほうに向き直った。
「よし、ちょっとばかし情報を提供しようか。ロブ・グリースンがすっかり自白して、罪を背負うつもりでいる。フランシス・セレーンを救うためにね」
ネバーズはメイスンを見つめた。
「そんなこと新聞にのせるわけにはいかないじゃないか」
「なぜ、いけない?」
「あんたの職業上の信用を台なしにしてしまうからさ」
「いいさ」とメイスンはこともなげに答えた。「それなら、僕の名前を出さなければ。ただ、内部の確かな筋からの情報としておくさ」
「ばかを言え!」とネバーズは言った。「事実の裏づけができなかったら、もっとも悪質な名誉|毀損《きそん》記事ってことになっちまうさ」
「裏づけはできるじゃないか。誰かに要求されたら、情報の出所をあかせばいい」
「出所はあんただと言ってか?」
「そう、出所は僕だと言って、ね」
ネバーズは大きくひと息ついた。
「なあ、ペリー」と彼は言った。「おれは新聞記者として、いろいろな経験をしてきた。あらゆる種類の事件に足をつっこんで、あらゆる種類の人物のインタビューをやってきた。ずるがしこいやつにも会ったし、自分でずるがしこいと思っているだけのやつにも会った。ばかのくせにそれがわからないやつや、ばかのくせに自分ではりこうだと思っているやつにも会った。だが、あんたときたら、世界じゅうを|ぺてん《ヽヽヽ》にかけようというんだ。弁護士にインタビューをして、こんなとんでもない目にあったのははじめてだぜ!」
メイスンは右手を新聞記者の背中にあてると、静かに外の事務室のほうへ押しやった。
「わかったよ」と彼は言った。「まあ、ネタをひとつやったのだから、こっちにもひとつ頼むぜ」
秘書室には、フランク・エヴァリイがじれったそうな様子で立っていた。
「僕に会いたかったのかね?」とメイスンは尋ねた。
エヴァリイはうなずいた。
「入りたまえ」
エヴァリイは奥の部屋へ入ってきた。メイスンは、ハリイ・ネバーズが外のドアから出て行ってしまうまで、戸口に立っていたが、やがてドアを閉めて、エヴァリイのほうを向いた。
エヴァリイは咳《せき》ばらいをして、眼をそらせながら尋ねた。
「先生、審理の進み方がちょっと速すぎたのではないでしょうか?」
メイスンはまなざしに疲労の色を浮かべながらエヴァリイに向って微笑した。
「つまり」と彼は言った。「きみは、僕が弁護をしくじって、検察側にすっかりしてやられているという話を耳にしてきたわけだね?」
エヴァリイは顔を赤らめて、声をつまらせながら言った。「いや、先生、そんなつもりで言ったんじゃありません」
「きみはこんな話を聞いたことがあるかね?」
とペリー・メイスンはやさしい口調で言った。「ある男が、隣家の犬にかみつかれたと言って、隣の人を訴えた。すると、その隣人は、うちの犬にはそんな悪い癖はないと答えた。それから、犬はその男にかみつきはしなかったと答えた。そして最後には、うちでは犬なんか飼ったことはないと答えた、という話だ」
「ええ、その話なら聞いています。大学の法科では有名な話です」
「そうか。いいかい、この話の場合、弁論がこっけいなものになったのは、あまりに弁護の幅を広げすぎたからなんだ。まあ、あやふやな事件の場合に、弓に二本の弦《つる》をつけて二段がまえにするのも結構なことさ。しかし、忘れてならないのは、一つの弓に二本の弦をつけると、安全性は増すが、武器としての効力は弱まるということだ。二本の弦をつけた弓は、弦が切れて使えなくなる心配はないが、弦が一本だけの場合の四分の一の距離しか矢を飛ばすことができなくなる」
「つまり、先生はこんどの事件で、ある一点だけに力を集中して、ほかのことはみんな犠牲にしていらっしゃるというわけですか?」
「そうだよ。フランシス・セレーンとロブ・グリースンの無罪は、現在あるだけの証拠で実質的には証明されている。二人の被告の有罪を、合理的な疑惑の余地がないまでに立証することはできないからね。だが、僕は、陪審員たちの心に合理的な疑惑を感じさせるだけでは物足りない。僕は事件を完全に解決したいと思っているんだ」
フランク・エヴァリイは、信じられないというように、眼を大きく見開いて、メイスンを見つめた。
「そうなんですか! 僕は、今日の結果でフランシス・セレーンとロブ・グリースンの有罪が決定的になると思っていました。あの証人たちのうちの誰かの証言を打ちくだかないかぎり、第一級殺人罪の評決を予想したほうがいいと思っていたんです」
メイスンはうんざりしたように首をふった。「いや、この事件で僕が望んでいた重大なポイントはもう提出されているんだよ。いま僕がやろうとしているのは、けっして忘れることができないような劇的なやり方で、そのポイントを陪審の胸にたたきこむことだ。それに、いいかい――クロード・ドラムは、僕があまりに超スピードで審理を片づけさせてやったものだから、今頃はうろたえはじめているさ。僕がどこかにとんでもない切り札をかくしているにちがいないと考えているよ。さもなければ、あんなに片っぱしから、チャンスをゆずってしまうはずがない、というわけでね」
「陪審はあまりこっちに同情していないようでしたね」
「もちろん、そうだろうね。おそらくこれからは、もっとひどくなる。クロード・ドラムのやってることは、きみもわかっているだろう。なまはんかな証言だけで、罪体〔犯罪の根本的事実〕を作ろうとしているんだ。自分の立証を終わろうとする直前には、デスクの上に倒れた死体、血だらけの吸取紙、被害者の血が飛びちった保険証書などの写真を片っぱしからとり出して見せることだろう。そうしといてから、弁論のバトンをこっちに渡し、死刑の評決をくだそうときめこんでしまっている陪審に立ち向かわせようとするのだ」
「そういう相手を先生がどうやってくいとめようとなさるんですか?」
「僕はくいとめようなんて思わないよ」とペリー・メイスンは微笑しながら言った。「追いぬいてやるつもりなんだ」
デラ・ストリートが部屋に入ってきた。
「あちらにドレイクさんが見えています。重大なお話しがあるそうですわ」
メイスンは彼女に向って微笑した。
「ちょっと待ってもらわなければならないな。いま、フランク・エヴァリイに説明しているところだからね」
デラ・ストリートは、やさしさのこもった、暖かいまなざしで、メイスンを見つめた。
「おぼえているわ。わたしが説明していただいたときのことを、ね。あれ以来、わたし、先生を信じてしまったものだから、何の説明もいらなくなったわ」
ペリー・メイスンはじっとデラを見つめた。
「新聞を読んだろう?」
「ええ、夕刊を」
「じゃあ、審理の進み工合は知ってるね?」
「ええ」
「僕がひどく頼りない弁護をやっていると思ったかい?」
デラはちょっと体をこわばらせて、とがめるような眼つきでフランク・エヴァリイを見た。
「誰がそんなことを言いましたの?」
「新聞に出てるよ」
「あら、わたしはたったいま、ポール・ドレイクと月給を半分|賭《か》けたところよ、あなたがきっと被告を二人とも無罪にしてしまうって。わたしがあなたをどんなに信じているか、これでおわかりでしょう」
「すると、ドレイクのやつ、何かおもしろくない知らせを持ってきたんだな。じゃ、二人とも席をはずしてくれたまえ、ドレイクと話をしなくちゃならん。こんどの事件じゃ、彼にちょっと仕事をやってもらっているからね。きっと何か情報をつかんできたんだろう。情報をつかんでおいて賭をするとは、あまりきれいなやり方じゃないな」
「それはいいの」とデラ・ストリート。「あの人もその点はフェアだわ。最初から、ある情報をにぎっているんだって言ってましたもの」
「どんな情報か、話したかい?」
「いいえ、ただ情報をにぎっているって言っただけ。だから、わたしのほうにも情報があるって言ってやったのよ」
「きみは、どんな情報を持っているんだ?」
メイスンは考えこむようにデラを見つめて訊いた。
「あなたを信じてるってこと、よ」
メイスンは手をふった。
「よし、わかった。さあ、二人とも出て行って、ドレイクと話をさせてくれ。何を言いにきたか、聞いてみることにしよう」
ドレイクは部屋に入ってきて、腰をおろすと、にやりと笑って、タバコを巻きはじめた。
「さあ、情報をつかんできてやったぜ」
「けっこうだ。何だい、それは?」
「荒っぽい尾行で手に入れたんだ」
「方法なんかどうでもいい。知りたいのは事実だよ」
「うん、話はこうだ。あのメイフィールド夫人って女は、したたか者だな」
「知っているよ。二度も僕を脅迫しようとしたからね」
「うん、そのこともすっかり調べ上げたよ。だが、ペリー、ただ困ったことには、きみの依頼人にはおそろしく悪いことばかりみたいなんだ」
「と言うと?」
「まず、第一にね、メイフィールド夫人は見せかけようとしているほどには何も知りゃしない。あの女はまずい時間に寝てしまったんだ。殺人の起こるちょうど十五分か二十分ぐらい前にベッドに入ってしまった。宵《よい》のうちはこそこそうろつきまわっていたのにね。
だいたい、こんどの事件は、あの女がグリースンとフランシス・セレーンが結婚しているのをかぎつけたことから何もかもはじまっているんだ。彼女はこれを|ねた《ヽヽ》にしてひともうけしようとしはじめた。そして、フランシス・セレーンからかなりまとまった金をまき上げた。その額はわからないが、たぶん一万ドルぐらいだろう。それから、エドワード・ノートンが、フランシス・セレーンがゆすられていることを感づいた。彼はセレーンを呼んで、金をはらっている相手とその理由を言わせようとした。もちろん、セレーンは教えようとしない。だが、ノートンはたいへんな頑固者だから、それをつきとめるために、セレーンに小遣いをやるのを中止してしまった。こうして彼女を、ゆすりにはらおうにもその金がないという状態にしてしまった。
いっぽう、メイフィールド夫人は、この|ねた《ヽヽ》はよそへ行ったって利用できるのだから、もしフランシス・セレーンが金をくれないなら、それで利益を得るようなどこかの慈善団体に|ねた《ヽヽ》を売ってしまう、と言い出した。
これはむろん、こけおどしだが、フランシス・セレーンにはわからなかった。こうして、すべての情勢が殺人の夜にクライマックスに達した。フランシス・セレーンは険悪な状態でノートンと会い、ひどい喧嘩をした。ついにノートンは、今夜寝るまえに、信託終結の書類を作って、セレーンには信託条項どおりの年金を与え、残りは全部慈善事業に寄付することにする、と言った。
これがノートンのこけおどしだったかどうかはわからない。とにかく、ノートンはそう言ったんだ。それから、メイフィールド夫人は寝てしまった。翌朝、フランシス・セレーンは金を持っていた。それも大金だ。彼女はメイフィールド夫人の口をふさぐために二万八千ドル渡した。メイフィールド夫人は何もしゃべらないと約束した。
事件の夜、ロブ・グリースンはあの家にきていて、ノートンとの会見に少しは立ちあっている。ノートンは非常に怒って、いろいろなことでセレーンをとがめた。セレーンもかっとなって、叔父の耳をやけどさせるような毒舌を浴びせた。
その後、グリースンは娘の部屋へ行った。それは、クリンストンがきたあとで、殺人の起こる前のことだ。その頃には、メイフィールド夫人はベッドに入っていた。だからあの女は、何が起ったか、よく知らない。ただ、フランシス・セレーンがビュイックに乗って出かけなかったことだけは確かだと言っている。だから、フランシス・セレーンが作ろうとしたアリバイがうそだということは知っているんだ。
あの女はきみのところへ行って、フランシス・セレーンを事件の表面に出さないようにしてやるから金をくれと脅迫しようとした。きみが頭からはねつけると、娘のほうに|ほこさき《ヽヽヽヽ》を向けて、実際に金をまき上げた。ところが、そのフランシス・セレーンからまき上げた金が、続き番号の千ドル紙幣で、こまかい金にくずそうとしたりしたら、たちまち足がつくことを悟った。そこで彼女はその紙幣をかくし、フランシス・セレーンがきみに報酬として二万八千ドルやったように見せかけようとした。あの女は、地方検事のところで、そう供述した。そこで検事のほうでは、その二万八千ドルのありかをつきとめようとしたわけだ。きみの銀行も調査したし、この事務所の捜索までやってのけた。そして、いまでは、その二万八千ドルはきみが持ち歩いているにちがいないと決めこんでいる。
地方検事のほうでは、メイフィールド夫人を証人にして不意打ちをくわせるつもりだ。ビュイックに乗って出かけたというセレーンの主張がうそだということと、あの晩の喧嘩のことを証言させるはずだ。
検察側の見解はこうなんだ――ノートンと被告二人との激しい口論は、アーサー・クリンストンがきたために中断された。二人は殺人の計画を立てて、クリンストンが帰るまで待ってから実行に移そうと考えていた。だから、クリンストンが車で行ってしまうと、二人はただちに相手の部屋へとんで行って、ノートンを殺した。それから、こじ開けた窓や、やわらかな地面の足跡などの偽装に警察がひっかからない場合をおそれ、そのときにはピート・ディヴォーを犯人に見せかけようとして、ディヴォーの部屋に証拠をおいてきた」
「グレイブスのほうはどう?」とペリー・メイスンは訊いた。「やつにも当たってみたかい?」
「ああ、いろいろとやったさ。例の女探偵が洗いざらい吐かせちまったよ。あいつはきみには扱いにくい男になるだろうが、自分では、フランシス・セレーンをかばおうとしているんだとか、地方検事補に強制されるまでは、かばおうと|していたんだ《ヽヽヽヽヽヽ》とか言ってるそうだ」
「ちょっと待て」とメイスンは言った。「僕の考えでは、ノートンはクリンストンがくる前に、例の金をフラン・セレーンに|やった《ヽヽヽ》ことになるんだ。それで、この考えの裏づけになるようなことを、グレイブスが何か知っているはずなんだがね」
「そこなんだよ」とドレイクは言った。「あいつの証言の中でも、いちばんこっちに不利になるのは。あの男は、ノートンとセレーンの会話は残らず聞いたと言っている。ノートンは財布をとりだして、四万ドルの金をあの娘に見せながら、この金はおまえにやるつもりで用意したが、やっぱり当座の小遣い以外はやらないことにしようと言ったのだそうだ。それから、ノートンは千ドル札を二枚だけとりだして、あの娘に渡した、と言うのだ。
ドン・グレイブスはこう考えている――セレーンはその千ドル札を受けとると、グリースンと二人で、クリンストンがノートンと話している間に、その紙幣を運転手のディヴォーのポケットに入れた。その後、二人は引き返してきてノートンを殺し、残りの金を財布からとった。その金で家政婦の口をふさぎ、きみにたっぷり弁護料をはらって、事件を引き受けてもらおうとした。これがグレイブスの考えさ。
地方検事のほうでは、こういうことが大部分、反対訊問のさいに出てくるようにお膳立《ぜんだ》てをしていたんだ。そうして、きみの横っつらをぴしゃりと張ってやろうと考えていたわけだ。ところが、きみが反対訊問をひどくあっさり切り上げてしまったものだから、ドラムは困ってしまった。いま、やつは、再直接訊問でこれらのことを全部ひっぱり出すために、証人再喚問の許可を求めようとしているよ」
ペリー・メイスンは両腕を長々とひろげてのびをすると、探偵を見つめて、笑いながら言った。「ポール、ときには用心深さが仇《あだ》になることもあるもんだよ」
「そりゃ、何のことだ?」
「つまり、ときには、劇的な一撃、必殺のノック・アウト・パンチにすべてを賭けるのも賢明だということさ。この事件で僕は、自分の弓に一本の弦《つる》しかつけていない。そいつが切れたら、万事おしまいだ。だが、切れなければ、僕は事件の金的のどまんなかに矢を打ちこむことになる」
ドレイクは言った。「そりゃ、ペリー、きみにこの事件が解決できるというなら、僕なんかとてもかなわないよ。こっちは調べれば調べるほど、こんがらがってくるような気がするね」
メイスンは部屋の中をあちこち歩きまわりはじめた。
「僕が心配しているのは」とメイスンは言った。「僕の真の目的をうまくかくしきれなくなるのじゃないかということなんだ」
「そりゃ、どういうことだい?」
「僕は、馬のうしろにかくれてガチョウの群《むれ》に忍びよろうとしている」とメイスン。「ただ、馬が望みどおりの遮蔽物《しゃへいぶつ》になってくれるほど大きくないんじゃないかと心配なんだ」
ポール・ドレイクはドアのほうに歩き出した。
「ねえ、きみ」とドレイクは、片手をドアのにぎりにかけながら足をとめて言った。「そんなことを心配したってはじまらんよ。僕はこれまでにも、ずいぶん殺人事件を見てきたし、ありもしないきめ手を持っていると思いこんでいる弁護士とも、ずいぶん会って話をしたよ。もし、きみがこの事件で、依頼人のどちらか一人でも助けることができるつもりなら、きみは僕以上の楽天家だ。僕はさっき、きみの依頼人が有罪になるということで、デラ・ストリートと今月のサラリーの半分を賭けてきたんだが、きみと話し合ったら、残りの半分も賭けてみたくなっちまったよ。ますます自信を固めてしまったというわけさ」
ドレイクが出て行くあいだ、ペリー・メイスンは部屋のまんなかに両足を大きくひろげて笑って立ち、顎を前へつき出し、厚い肩をはって、閉まるドアをじっと喰い入るように見つめていた。
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二十三
スター新聞の第一面は、派手な大見出しで飾られていた。
百万長者殺人事件の証人
実地テストを拒絶
ペリー・メイスンは、目の前のテーブルの上に新聞を立てかけ、半熟卵を割ると、満足そうに微笑した。大きな見出し活字の下には、次のような小見出しが並んでいた――
検察側花形証人の視力について論争
弁護側実地テストを要求
検察側これを拒絶
ペリー・メイスンは卵に塩と胡椒《こしょう》をふりかけ、四角なバターのかたまりを落とし、よく焼けたトーストに手をのばしながら、くすくすと含み笑いをした。
彼は公判の詳細な記事を読んだ。彼の検察側への挑戦は、ゴチック活字で印刷されていた。そして朝食を終えると、新聞をたたんで、事務所へ出かけた。
「何か変ったことは?」とメイスンはデラ・ストリートに尋ねた。
デラは、もの思わしげな、なかば母親じみた微笑を口もとに浮かべながら、彼を見つめた。
「よくご存じのくせに」と彼女は答えた。
メイスンはにやっと笑った。
「地方検事があの挑戦に応じないようなら、陪審の前の勝負はもうこっちのものだね」
「挑戦に|応じたら《ヽヽヽヽ》、どうなさるの?」
メイスンは窓のそばに歩みよって、じっと考えこむように朝の陽光を見つめた。
「それなら、こっちも訊きたいね。きみは、ポール・ドレイクとの賭を倍にしたかい?」
「ええ」
「すばらしい娘だよ、きみは!」
「地方検事はテストに同意するとお思いになって?」
「うん」
「だけど、公正なテストだということが、どうしてきめられるかしら?」
「きめられないな。だが、やっておいて損はないよ」
「そうね。まあ、どっちにしても、この事件では相当な宣伝をなさったわけね。どの朝刊でも、あなたが何か切り札をかくしているだろうって推測しているわ。あなたのことをやたらに〈法廷の古狐〉だなんて書き立ててるし、それにたいていの記者は、主任の検事補が審理の急速な進み方を気にしているのは明らかだと書いていますよ」
「つまり、新聞は、僕が見かけほどまぬけのはずはないと考えてくれてるわけだな」
デラは笑った。「わたしはあなたに賭けてるのよ」
「地方検事は、不意打ちをくわせるために証人を二人用意してるぜ」
「誰に不意打ちをくわせるの?」
「そいつが問題さ」とメイスンはにやりと笑って、奥の部屋へ入って行った。
彼がドアを閉めるか閉めないうちに、電話が鳴った。
「ドラムさんからです」とデラ・ストリートの声がした。
「もしもし」とメイスン。
「おはよう、メイスン君。こちらはドラムだ。ドン・グレイブスの視力をテストしたいというきみのほうの要求をよく考えてみたのだが、完全に同一条件のもとでのテストに同意することにきめたよ。来週まで審理の延期を求めて、テストが完全に行えるようにしよう。それで、まあ、きみにも知らせておこうと思ったわけなのだ」
「それはまた、ご親切に」
「何でもないことさ」とドラムはどなるように言った。
メイスンはくすくす笑った。
「いや、わざわざ知らせてくださったお礼を申し上げたのですよ」
「ああ、そうか」
「テストを行うのに何かこまかい計画でもお立てになりましたか?」
「それは法廷で言おう。では、また」
ペリー・メイスンは、受話器をかけながら、まだくすくす笑っていた。
彼はボタンを押して、フランク・エヴァリイを呼んだ。
「エヴァリイ、今日は朝のうちに審理延期になるよ。実地テストの手配をするためなんだ。僕は法廷には行かないから、きみがかわりに行って、延期の手続きをしてきてくれたまえ。来週まで審理を延期するという形式的なことだけだ。ドラムはきっと、自分の望みどおりのテストをやらせるために、何かこまかい計画を立ててきて、法廷できみが陪審の前にいるあいだに、その計画に同意しろと迫ってくるだろう。
だが、きみは、自分は審理延期に同意するために僕の代理できたのだから、テストの条件を決定する権限は持っていない、と言うだけでいい。そうすれば、ドラムはどうしても、陪審の前で|ない《ヽヽ》ときに僕と会わなければならなくなるよ」
フランク・エヴァリイはいかにもと言うようにうなずいた。その眼には感嘆の色が浮かんでいた。
「先生が向こうをテストに同意させてしまったわけですね?」
「それは、どうかな。向こうはとにかくテストに同意している。それだけで充分さ。なぜ同意したかなんてことはどうでもいい」
「そして、こんどは、陪審の前でテストのこまかな話をするのをさけておられるわけですね?」
「そのとおりだ」とペリー・メイスンは微笑して言った。「ドラムに伝えてくれたまえ。テストの細目《さいもく》を打ち合わせるのでしたら、午後事務所におります、それとも、おたがいに都合のよい場所でしたらどこでなりとお目にかかりますから、とね。それから、法廷でしゃべるときには、できるだけ率直で正直な態度でやってくれ。陪審はきみをよく観察するだろうし、新聞には僕が古狐なんてことが、ちょっと出すぎているようだからね」
「わかりました、先生」とエヴァリイは言って、興奮に顔を赤らめながら、威勢よく部屋を出て行った。
ペリー・メイスンは、電話でハリイ・ネバーズを呼び出した。
「ちょっと知らせたいと思ってね。いましがた、地方検事補から電話があって、今朝の法廷で来週まで審理を延期して、テストを行うことに同意すると言ってきたよ」
ハリイ・ネバーズの、しゃがれた、ものういようなぼそぼそ声が受話器から流れてきた。
「そのことなら、おれのほうが一枚うわ手だ。いま、あんたに電話をかけて、教えてやろうと思っていたところなんだ。地方検事のほうじゃ、そのテストのために何か計画をでっち上げてるぜ。連中はそれを陪審の前であんたに押しつけようとしている。あんたには気にくわないだろうが、陪審の前では論争するわけにもゆくまいって寸法さ」
「なるほどね」とペリー・メイスンは言った。「だが、それなら僕のほうがさらに一枚うわ手らしいよ。だいいち、僕は法廷には顔も出さないつもりなんだ。かわりに助手をやって、審理延期に同意させることにしたよ。テストの条件をきめる権限は助手には何もないからね」
ハリイ・ネバーズは笑い出した。「それはまた、ちっとばかりいただけますな」とネバーズは言った。「それで、テストは裁判長が指揮をとるということになるのかい?」
「いや、裁判長はテストに関係しようとはしないだろう。これからのとりきめによって処理されることだよ。このテストを行って、月曜日の朝、証人に証言させることになるだろう」
「テストの細目は、いつきめるつもりだね?」
「たぶん、今日閉廷したらすぐだろうな。ドラムが連絡してくるよ。ところで、地方検事のところから発表する情報には手のつけようがないが、僕のほうに関するかぎりは、テストのことで検事のほうとの相談がまとまりしだい、その詳細はきみのほうで独占できるようにするからね。電話をかけたのは、このことを知らせようと思ったからなんだ」
ハリイ・ネバーズは、しゃがれ声でふくみ笑いをした。
「どうも、あんたのところへカメラマンを連れて行ったとき、写真を二、三枚とらせておいてよかったようだな。なんだか、火曜の朝あたり、早けりゃ月曜の夕刊かな、みんながあんたの写真を追いかけまわすようなことになりそうな気がするよ」
「もうひとつ、きみにやってもらいたいことがある」とメイスンは言った。
「ちぇっ、そうおいでなさると思ったよ」と新聞記者は答えた。
「だいじょうぶ、かんたんなことさ」
「よし、言ってみろ」
「テストのとりきめをするとき、僕は、ドラムと僕がノートンの家の前で車に乗りこみ、グレイブスが二階にいて、そして、僕らが何か合図をしてグレイブスを呼ぶ、という状況を作るように話をまとめるつもりだ。そのとき、僕らが合図をしたら、きみは二階のあの部屋にいて、グレイブスを引きとめてもらいたい」
「どのくらいのあいだ?」
「できるだけ長くだ」
「どういうつもりなんだね?」
「あの男をあわてさせたいんだ」
「あいつがあわてるものか。まったく、ずるがしこいやつなんだぜ」
「自分でもそう思ってるかもしれないが、それでも、あわてさせることはできるよ。やつに何か提案を持ちかけて、やつが検事に助けを求めるまで引きとめるようにしてもらいたい」
「どうも、あやしげなことを頼むんだな」
「そんなことはないさ。これをやってくれるなら、あとで、事件の大詰《おおづめ》に参加したといばらしてやるぜ」
「まあ、事件の大詰めなんかに参加したいとは思わんがね。最後の解決なんてやつは、えてして、あまり有難くないものだからな」
「気がすすまないなら、やらなくたっていいんだぜ。ただ、責任は|すべて《ヽヽヽ》僕が引き受けることだし、きみはお手柄にあずかれるわけだからな」
「どうも、そっちへ出かけて行って、もうすこしこの問題を話し合ったほうがよさそうだな」
メイスンはくすくす笑った。
「忘れっこないと思っていたよ」とメイスンは言った。
「忘れっこない、何を?」と新聞記者は不審そうに訊いた。
「僕のデスクの中のウィスキーの瓶さ」と言って、弁護士は静かに受話器をかけた。
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二十四
ノートン邸《てい》は、窓という窓に明かりがともされ、まばゆく輝いていた。十数台の自動車が車寄せの|ふち《ヽヽ》石に沿ってとめられ、車道のほうにまではみだしていた。開けはなされたドアを通って、人びとが出たり入ったりしていた。四、五人の警官が、もったいぶった様子で邸《やしき》のまわりを歩きまわっていた。
エドワード・ノートンが殺された二階の書斎では、クロード・ドラムがじっとペリー・メイスンを見つめていた。
「これ以上公正にしろといわれても、何のことだかわからないね」
「どうも」とペリー・メイスンは言った。「これではテストとして、とくに完全なものだとは思えないのです。ドン・グレイブスは、たとえ眼かくしをしてたって、間違える確率は五十パーセントしかないわけですからね」
「きみが何を言おうとしているのかわからん」とクロード・ドラムは、空っとぼけて言った。
「あなたは二人の女を用意している。ひとりは黒のドレス、もうひとりはピンクのドレス。それから男を三人、みなグレイブスが知っている人間ばかりです。そして、お考えはこうでしたね――パーレイ判事が、できるだけ事件当夜と同じスピードを出すようにしながら車を走らせてあの道を行く。車が道路の例の地点まできたら、パーレイ判事が『見ろ!』と叫び、そのとたんにグレイブスがふり返って見ることにする。
いっぽう、部屋の中では、僕たちが出かけたあと、モデル連中がパントマイムの支度《したく》をする。三人の男のうちの一人は、棍棒を手にして立ち、女のうちの一人は、頭と肩と腕があの道を行く人間から見えるように立つ」
「そのとおりだよ」
「では、僕の言いたいことはこうなんです――男のほうに関しては、グレイブスは、ただの当《あ》て推量だけでも、三つに一つは当たるチャンスがあります。さらに女のほうは、当て推量だけで当たる当たらないは五分五分です」
「だが、きみのほうだって事件のときより有利な条件を要求することはできない。あのとき、この家の中には女は二人しかいなかったのだからね。家政婦のメイフィールド夫人と、きみの依頼人のフランシス・セレーンだ。ところが、殺人のとき部屋の中に女がひとりいたと認められ……」
「いや、認められてはいませんよ」とメイスンは口を出した。
「そうか。だが、事件に対する私の見解によれば、また、公正な証人であるドン・グレイブスの証言によれば、女がいたのだ。まあ、テストが行われる場合、ぬかしてはならない点だがね。そこで、部屋の中にいた女は、メイフィールド夫人か、ミス・セレーンかのどちらかでなければならない。同じように、殺人を行ったかもしれないと思われる男は三人いた。まず運転手のピート・ディヴォー、この男はわれわれに発見されたとき酔いつぶれていたが、それでも嫌疑は免《まぬが》れなかった。それから本件の被告のロブ・グリースン、それに執事のパーケット。この三人の男のうちの一人が棍棒をふるった犯人にちがいないのだ」
「窓の下に足跡があったことや、窓がこじ開けられていたことは、むろん、でっち上げた擬装《ぎそう》と見なすわけですね」
「もちろんだよ。誰か街の人間がこの家に押し入ったのかもしれないからといって、街の連中を全部この部屋に立たせよう、なんてわけにはいかん。そうなにもかもきみの思いどおりにはできないね」
「グレイブスがちゃんと自分の眼で見たことなのか、それとも、ただのまぐれ当たりにすぎなかったのか、それが確かめられる程度には思いどおりにしなくてはならないのですがね」
クロード・ドラムは、勝ち誇ったような色をちらりと眼に浮かべた。
「わたしは、犯行当時の状況とまったく同一の状況でこのテストを行うように手はずを整えたんだ。それに、このテストはきみの強い要求の結果として行われるものだ。どうだね、もしグレイブスにテストを受けさせるのが心配なら、はっきりそう言ってくれればいいんだよ。そうすれば、きみのほうには証人にテストを受けさせる気がなかったということで、中止してもいい」
メイスンは肩をすくめた。
「よろしい。あなたのほうがそんなつもりなら、やってください」
ドラムの眼に宿る勝利の色は、はっきりとした輝きに変った。彼はあくどい自信の色を見せて、にやりとした。
「よし、それでは」とドラムは、自分とメイスンのまわりにつめかけている人びとに言った。「そこのお二人はもうよく事情をのみこんでいただいたと思いますが、私たちは四人で車に乗りこみ、丘を上がります。わたしはグレイブスさんといっしょにうしろの席に坐り、被告側弁護人のメイスンさんはパーレイ判事と並んで前の席に坐ります。
車が丘を上がりはじめたら、新聞社のみなさんがこのご婦人の中から一人を選ぶ。選ばれたご婦人は、頭と肩と腕が窓ごしに、グレイブスさんがふり返った曲がり角の地点から見えるように立つ。それからまた新聞社のかたは、それぞれまるでちがう服を着た三人の男のうちから一人を選び、選ばれた人は手に棍棒を持って、エドワード・ノートンが殺されたときに坐っていた椅子の上にのしかかるようにして立つのです。
これで状況はできあがると思います。自動車内でいかなる結果が生じようとも、検察側弁護側いずれの側によっても歪曲《わいきょく》されるものではないということは、パーレイ判事の名声と誠実な人格によって充分に保証されると確信します」
ペリー・メイスンが言った。「ちょっと待ってください。ドン・グレイブスさんがこの部屋を出る前に、僕はパーレイ判事と内密に話をしたいのです」
ドラムは、疑い深そうにメイスンを見た。
「わたしが立ち会うのでなければ、だめだな。これはテストなのだ。あなたが誰かと内密の話をするのなら、私もその内容を聞かねばならない」
「あなたがお聞きになるのはかまいませんよ」とメイスンは言った。「しかし、これはテストですから、ドン・グレイブスさんに聞かせたくはありませんね」
「わかった。では、グレイブスさん、わたしたちが呼ぶまでここで待っていてください」
「話がすんだら、車の警笛を鳴らすよ」とメイスン。
冷やかにいかめしい顔つきで黙りこんだまま、検事と弁護士は広い階段をおり、玄関をぬけて、自動車のほうへ歩いて行った。車の中には、パーレイ判事がカメラマンたちのフラッシュを浴びながら、威厳たっぷりに坐っていた。その顔には、裁判官らしい重々しい威厳で押しかくそうとはしているが、どうしてもかくしきれない満足そうな表情が浮かんでいた。
「用意はいいのですか?」と判事は訊いた。
「僕は判事さんといっしょに前に坐るのでしたね」とメイスンが言った。「そしてドラムさんはドン・グレイブスとうしろの席に坐るのですね」
「そういうことだ」とドラム。
「そうなると、ドラムさん、あなたに眼鏡をはずしていただきたいですね」
「何だって?」と地方検事補はどなった。
「眼鏡をはずすのです」とメイスン。「だって、わけなくわかることでしょう、もしあなたが眼鏡をかけて正常な視力のまま、ドン・グレイブスがふり返るのと同時にふり返るとしたら、何か思わず声を上げるとか、動作をすることによって、三人の男のうちの誰が棍棒を持っているか、ドン・グレイブスに合図をすることになる|かもしれない《ヽヽヽヽヽヽ》ではありませんか。そんなことになったら、一人の眼ではなく、二人の眼でテストを行うことになってしまいますからね」
「きみ、それは私の誠実さを侮辱《ぶじょく》するものだよ」
「いや、そんなことはありません。無意識の裏切りを予防するだけのことですよ」
「いや、そんなことに同意はできない」
「そうですか」とペリー・メイスン。「まあ、無理じいはしませんがね。ただ、いちおう言っておきたかっただけですから、それから、もうひとつ、パーレイ判事には路上を走っている間まっすぐ前を見ていただきたいですね」
「いや、その条件にも同意できないな」とドラム。「なぜなら、殺人の起った晩にはパーレイ判事が車を運転していて、そこへドン・グレイブスが叫び声を上げたのだから、判事が何事かと思ってふり向くのはまったく当然のことだったのだ。そして、その結果、判事は自然に車のスピードを落として、グレイブスはさらに長い間、しっかりと見ることができるようになったはずなんだ」
ペリー・メイスンは、いかにも作戦負けしてしまったというように、力なく溜息《ためいき》をついた。
「わかりましたよ。グレイブスを呼んでください」
パーレイ判事はボタンを押して警笛を鳴らした。
三人はしばらく待っていたが、こんどはペリー・メイスンが手をのばして、もう一度警笛を鳴らした。
グレイブスはまだ現れなかった。パーレイ判事は、左の手のひらをハンドルの支柱にとりつけられたボタンの上に押しつけて勢いよく警笛を鳴らしながら、まだかというように窓を見上げた。
一瞬、騒々《そうぞう》しい気配がしたかと思うと、ドン・グレイブスが窓ぎわに現れて、大声を上げた。「新聞記者の中に、テストの条件を変えろと言う人がいるんですよ!」
クロード・ドラムは何か叫んで、車のドアを勢いよく開けると、大股に道を横切って、窓の下に立った。「テストの条件は、われわれが部屋を出るときにすっかりきまっているんだ。どこの新聞記者が何を言おうと相手にするな。このテストに協力できないなら、立ちのいてもらおう。さあ、すぐにおりてきたまえ!」
「わかりました」ドン・グレイブスはそう言って、窓から姿を消した。
とたんに、ハリイ・ネバーズが首をつき出して叫んだ。「このテストは公正じゃない。グレイブスが女が立っていたと言っている場所に、男を立たせてもいいということにしなくちゃうそだ。そうすりゃあ、グレイブスが部屋の中にいるのを見たというもうひとりの人物がほんとうに女だったかどうか、はっきりきめられるんだ。男だったかもしれないじゃないか」
「ピンクのネグリジェを着た男かい?」とドラムはあざ笑った。「いいか、きみたちの役目は、三人の男のうちの一人と、二人の女のどちらかを選び出して、所定の位置に立たせるようにすることだけなんだ。これははっきりと了解ずみになったことだし、テストの条件なのだ。もしこれを変えようとするなら、私はテストを中止するよ」
「じゃ、いいですよ」とネバーズは言った。「お好きなようにやってください。だが、どうもおれにゃ、公正だとは思えないな」
ドン・グレイブスは階段をおりて、玄関から出てくると、クロード・ドラムに低い声で言った。「あいつは酔っぱらってるんです。二階でうるさくからんできたんですが、新聞でへたにたたかれたくなかったので、怒らせないようにしたんです」
「いいよ。やつのことは私にまかせたまえ。用意はいいね?」
やっと、一同は車に乗りこんで、めいめい所定の位置についた。車が家の前から動きだすと、カメラマンたちが活躍しはじめ、フラッシュが続けざまに爆発して、まばゆい閃光《せんこう》を投げかけた。
パーレイ判事は手早くギアを切り変え、曲がりくねった上りの道を適度なスピードで車を走らせて行った。
「たしか」とペリー・メイスンが言った。「ドン・グレイブスさんは、あのとき叫び声を上げた場所をパーレイ判事が指示するまでは、うしろをふり向かないことになっていましたね」
「そういうことだ」とドラムがどなるように言った。
車は、つぎつぎとカーブを切りながら、エンジンの音をひびかせて坂道を上って行った。
「ここだ!」とパーレイ判事が言った。
ドン・グレイブスは、車のうしろの窓に顔を押しつけ、眼のまわりを両手でかこった。
ペリー・メイスンは、すばやくノートン邸の書斎の窓に眼を走らせた。
ほんの一瞬、所定の位置に立っている人物たちが、ちらっと見えた。
車は大きくカーブを切って、ノートン邸はすぐに見えなくなった。
「わかりました」とドン・グレイブスが言った。
「誰だったね?」とパーレイ判事がブレーキをかけて車をとめながら訊いた。
「黒い髪の、青いサージの服を着た男と、ピンクのドレスの女でした」
クロード・ドラムはほっと吐息をついた。
「メイスン君、どうやら、これできみの弁護も――こなみじんだな!」
ペリー・メイスンは何も言わなかった。
パーレイ判事は重苦しそうに溜息をついた。
「ここで向きを変えてもどりましょう。新聞の連中がまた写真をとりたがることでしょうな」
「結構です」とクロード・ドラムは答えた。
ペリー・メイスンは何も言わなかった。彼の線の太い顔は無表情だった。その粘り強い、考え深そうな眼はじっとパーレイ判事の顔にそそがれていた。
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二十五
マーカム判事が裁判官席のうしろの判事室から出てきたときには、法廷は傍聴人でいっぱいだった。
「起立!」と廷吏が叫んだ。
傍聴人は立ち上がって、マーカム判事が裁判官席につき、廷吏が型どおり開廷を告げる言葉をのべる間、そのまま立っていた。
マーカム判事が腰をおろし、木槌を鳴らすと、傍聴人、検事、弁護士、陪審員、被告たちはいっせいに着席した。
法廷は緊張した雰囲気につつまれていた。だが、人びとの共感はすっかり検察側に傾いていた。
人間には、敗者に味方するという立派な本能がそなわっているが、これは個人の場合にすぎない。群集心理は個人の心理と異なる。弱い者は引き倒し、傷ついている者は打ちほろぼす。人は敗者に同情をよせることもあろうが、勝者の味方をするほうが好きなのである。
それに、実地テストの結果は、街中のあらゆる新聞の紙面を通じて人びとの間にひろまっていた。それはドラマチックな、見ものともいうべきものだった。そこには、何か賭博的な要素があった。被告側は、何かが起こることを期待して、たった一枚のカードの変り目にすべてを賭けていた。そして、誰かたった一枚のカードにすべてを賭ける人間がいるときには、見物しようと息を切らして群《む》れ集まってくるのが人間性というものなのである。
そんなわけで、人びとは事件を伝える新聞記事をむさぼるように読んだ。いまや、事件のなりゆきは、はじめからわかりきっている結論になった。ドン・グレイブスは、最初に殺人現場を目撃したというその正確な地点から、まったく同一の条件のもとに、部屋の中の人物を見わけられるということを立証したのである。
法廷の傍聴人の視線は、いまでは証人たちからはなれて、二人の被告、とりわけフランシス・セレーンのすらりとした美しい姿にそそがれていた。
激しい法廷闘争にもまれぬいてきた老練な弁護士なら、これが法廷で生まれるもっとも不吉な徴候《ちょうこう》であることを知っているにちがいない。審理がはじまったときには、傍聴人の注意はまず被告のほうにそそがれる。好奇心にかられて首をのばし、被告の顔を見つめながら、その心の中をのぞかせるような表情の動きをさがしもとめている。たいていの傍聴人は、被告を見ると、犯罪場面のまっただなかにいる被告の姿を心の中に描こうとし、その想像図にその男や女がいかにもぴったり適合するように見えるほどになって、それによって被告の有罪無罪についての考えをきめてしまう。
つぎに、審理が軌道《きどう》に乗ってくると、傍聴人は、くりひろげられる犯罪そのものの内容や、証言をめぐる論争に興味を持つようになる。彼等の注意が集中するのは、証人、裁判長、そして、知力をしぼって法廷論争にしのぎをけずる検事と弁護士というドラマチックな存在である。
論争点がまだ疑惑につつまれ、興味が審理のなりゆきに集中しているかぎりは、傍聴人の目は、くりひろげられているドラマの立役者――証人にそそがれている。しかし、何か注目すべきことが起って、証言が一気にクライマックスに達し、あいまいだった点がはっきりして、被告の有罪が納得できるようになってくると、傍聴人の眼は自動的に被告のほうに移る。だが、こんどはもう犯罪場面の被告の姿を思い描こうとするのではなく、いまにも死のうとする人間を見るときに生じる、あの病的な好奇心をもって罪人を見つめるのである。彼等は、逃れようのない運命の手によって、むなしくあがきつづけながら独房から引きずり出された罪人が、とぼとぼ人生最後の無慈悲な歩みに追いやられる朝のことを想像してぞっとすることを好む。
弁護人が恐れる徴候は、このような群衆の判決である。審理の|やま《ヽヽ》はすぎた、被告は有罪にきまっているじゃないか、と言いたげな不満の意思表示である。
いくたびとなく複雑な訴訟事件を切り抜けてきた老練な弁護士なら、かならず、このような傍聴人の注意の変化がもたらす前兆の恐ろしさを十分に認めている。だが、被告にはその致命的な意味がわからず、ときには、急に自分が傍聴人の注目の的になったことに気づいて、満足そうににやにや笑う者もある。しかし、弁護人はそれどころではない。法律書をつみ上げたテーブルを前にして、静かに落着きはらった顔で弁護人席に坐りこんではいるが、心の中では、この無言の判決を示す凶兆に恐れおののいているのである。
この事件の審理においても、無言の判決はすでにくだされていた。それは、被告両名は第一級殺人として有罪、情状酌量《しょうじょうしゃくりょう》の余地なし、というものだった。
マーカム判事の平板な声が、法廷の緊張した沈黙を破った。
「ドン・グレイブスさんが証人席につき、反対訊問を受けていたところで、審理は先週から延期となっていました。それは、この証人について、あるテストを行いたいという提議が被告側から提出され、検察側もこれに応じたので、その実行のための両者の協定に従ったものでした。さて、テストの結果は証拠として採用することになるのですね?」
クロード・ドラムが立ち上がり、あざけるように言った。「このテストは、被告側の要求により、協定に従って、被告側にとっては最大限の公正さをもって実行されたものであります。犯罪が行われたときと完全に同一の条件のもとで、この証人によって行われたのであります。したがって、私は、このテストの結果が証拠として採用されることを要求します」
マーカム判事はペリー・メイスンの顔を見た。
ペリー・メイスンは立ち上がった。「ただいまの要求に異議はございません。しかしながら、テストの問題は弁護側の反対訊問の一部となるものではありません。つまり、これはこの証人に対する検察側の再直接訊問の一部となるべきものであります。したがって、いま法廷に持ち出すことは当を得ていないと思います。しかし、のちほどこの問題が持ち出されたさいに、検事側がテストについて証人を訊問なさりたいというのであれば、私は何も異議を申し立てるものではありません。ただし、そのさいには、テストが行われたときの実状について各証人に対して反対訊問を行う権利を持つことにしたいと思います」
これまでマーカム判事には、法廷に坐っている彼の顔に驚きの表情を浮かべさせた弁護士は一人もいない、という評判があった。ところが、いま、マーカム判事は、いったいこの弁護人は何を考えているのか、見きわめたいというように、眼を大きく見開いて、まじまじとペリー・メイスンを見つめた。
メイスンは、静かに落着きはらって判事を見返した。
「証人の反対訊問をつづけましょうか?」と彼は尋ねた。
「つづけなさい」と判事はどなるように言った。
「あなたは、エドワード・ノートンの事業についてはよく知っていますね?」とメイスンはたんたんとした冷静な口調で訊いた。
「事業のことは何でもよく知っています」とドン・グレイブスは答えた。
「それでは、ノートンの机の上にあった保険証書の満了期日のこともよく知っていますね?」
「知っています」
「その満期はいつでしたか?」
「今年の十月二十六日です」
「ほう! すると、あの保険証書はエドワード・ノートンが殺されてからわずか三日後に満期になったのですね?」
「そうです」
「グレイブスさん、あなたは本件の被告フランシス・セレーンがロバート・グリースンと結婚したために、彼女に対して何か敵意か偏見を持ってはいませんか?」
この思いがけない質問に、法廷にはひそかなざわめきが起った。それは、傍聴人たちが急に注意深くなり、首をつき出し、椅子のはじまで身を乗り出したためだった。
「そんなことはない!」とドン・グレイブスは感情をむき出しにして抗議した。「私はこの事件でフランシス・セレーンの名を出さないように、できるだけのことをしたんです。こうしてこの事件の証言をしているのも、召喚状《しょうかんじょう》で無理に法廷に出廷させられたためにすぎませんよ」
「では、何かほかの理由でフランシス・セレーンに偏見を持ってはいませんか?」
「何もありません」
「それでは、ロバート・グリースンに対しては?」
「ありません。ただ、私はロバート・グリースンをあまりよく知りませんから、べつに親しい感情は持っていません。しかし、ミス・セレーンに対しては、私の感情はまるでちがいます。この法廷でも、自分の言葉の真実性には絶対に疑いの余地がないという確信がなかったら、彼女をノートンさんの殺害に結びつけるようなことは、一言だってしゃべりはしませんよ」
「反対訊問を終ります」とペリー・メイスンは、とてもかなわないという様子で言った。
クロード・ドラムが立ち上がり、勝ち誇ったような態度の中からかすかなあざけりの色を見せて言った。「二、三質問したいことがありますので、再直接訊問を行いたいと思います。グレイブスさん、あなたは前に反対訊問において、エドワード・ノートンが殺されたときと同一の条件に、ノートンが殺された部屋の中の人物を確認できるかどうかをきめるテストを受けたか、という質問をされましたね?」
「ええ、そう質問されました」
「その質問をされてからのちに、まったく同一の条件のもとで、そのようなテストを受けましたか?」
「受けました」
「そのテストが行われたときの状況と、その結果について話してください」
「テストは夜行われました」とドン・グレイブスは、傍聴人が息を殺して聞き耳を立てるなかを、ゆっくり、低い声でしゃべりはじめた。「ノートンさんの書斎には、三人の男と二人の女がいました。女の一人は黒、もう一人はピンクのドレスを着ており、男の一人は青いサージ、一人はツィード、もう一人は格子縞《こうしじま》の背広を着ていました。男のほうはどれも知っている顔でしたが、女のほうはどちらも会ったことのない人でした。そこにはほかに、新聞社の人たちや、地方検事補のドラムさん、それに被告側弁護人のペリー・メイスンさんもいました」
「それから、どうなりました?」
「それから」とグレイブスは、相変わらず低い、緊張した声で話しつづけた。「私たちは自動車に乗りこみ、丘をこえて並木道に通じる曲がりくねった道を上って行きました。パーレイ判事は、殺人事件の晩に私が叫び声を上げた場所まで車を走らせると、私にうしろを見ろ、と合図をしました。私はふり返って、車がカーブをまわって邸が見えなくなるまで、うしろを見つづけました」
「何が見えましたか?」
「ノートンさんが殺されたときフランシス・セレーンが立っていたあたりに女が一人立っていて、ピンクのドレスを着ていました。それから、あの晩ノートンさんが坐っていた椅子にのしかかるようにして棍棒をふり上げている青いサージの服を着た男が見えました」
「反対訊問をどうぞ」とクロード・ドラムは勝ち誇ったように言った。
ペリー・メイスンは、まだるっこいと言ってもいいような声で質問しはじめた。
「グレイブスさん、あなたは、あのテストの間に起ったことを|すっかり《ヽヽヽヽ》話してはいませんね?」
「いいえ、重要なことはすっかり話しました」
「あなたの邪魔をして、しばらくあなたを手間どらせた新聞記者がいませんでしたか?」
「ええ、いました。たしか、ネバーズという男でしたが、テストのやり方を変えろと言ってがんばっていました。私にはテストの条件を変えたりする権限はありませんでした。あれはドラムさんとあなたとの間でとりきめられたことでしたからね。私はこの新聞記者にもそう言ったのですが、彼は私にうるさくつきまといつづけ、私の上着のボタン穴に指をひっかけるようなことまでして、引きとめようとしました」
「そのとき、私たちはどこにいましたか?」
「下の自動車に乗りこんでいました」
「けっきょく、どうやってその男から逃れましたか?」
「私は、下にいるドラムさんに呼びかけました。するとドラムさんは、テストを行う条件はけっして変更しない、とはっきりおっしゃいました。新聞記者も、ドラムさんがそうおっしゃるのを聞くと、ばかなまねをしたのがわかったと見えて、私をはなしました」
首をのばして耳をすませていた傍聴人たちは、不思議そうに顔を見合わせた。
「これだけです」とペリー・メイスンは言った。
「ドラムさん、つぎの証人を喚問してください」とマーカム判事が言った。
「裁判長、ちょっとお待ちください」とペリー・メイスンがさえぎった。「検察側が次の証人の訊問に進むまえに、アーサー・クリンストン氏を喚問して、いま少し反対訊問をしたいと思いますが」
「よろしい」とマーカム判事は言った。「弁護のやり方としてはいささか変則ですが、目下は特別の状況にありまして、すべては本官の裁断にまかされておりますから、弁護人が希望する証人がほかにあれば誰でも喚問して反対訊問することを許可します。先日の他の証人に対する|簡潔きわまる《ヽヽヽヽヽヽ》反対訊問以来、いろいろと新しい状況が関係してきていることは、本官も充分に認めています」
マーカム判事は、反対訊問の短さを表現するのに、ちょっと言葉を強めずにはいられなかった。その強調には、殺人事件の審理において重要証人の反対訊問をあのように軽々しく片づけようとする弁護人に対しての、裁判官らしいかすかな非難の気持がこめられていた。
アーサー・クリンストンが、まじめくさった顔つきで、きびしく眼を光らせながら進み出た。
「もう宣誓はすましていますね」とペリー・メイスンは言った。「では、クリンストンさん、どうぞ証人席についてください」
クリンストンは腰をおろすと、足を組んで、陪審のほうを見やった。
「クリンストンさん、あなたは殺人のあった夜、ノートンさんと話し合いましたね?」
「ええ、それについては、もう証言しています」
「そうでしたね。たしか、あなたは十一時七分すぎにあの家へ着き、十一時半ごろ立ち去られたのでしたね?」
「ええ」とクリンストンは答え、さらに自分から進んでつけ加えた。「到着の時刻を正確に言えるのは、ノートンさんが約束の時間については非常にやかましい人だったからです。私が約束の時間に七分遅れたので、ちょっといや味を言っていました」
「そうでしたね。それで、あなたは十一時七分から十一時半まで、ノートンさんと話し合っていたわけですね?」
「ええ、そのとおりです」
「クリンストンさん、その話し合いは事実上、口論のようなものではありませんか?」
「いいえ、あのときの話の内容については、先日申し上げたこと以上に何もつけ加えることはないと思います」
「クリンストンさん、商会はホイーラー信託貯蓄銀行におよそ九〇万ドルの負債がありますね?」
「ええ」
「そして、あの銀行には七万五千ドルの預金があるだけですね?」
「ええ、だいたいそれぐらいです」
「しかし、シーボード第二ナショナル信託銀行には八七万六千ドルあまりの預金があり、農商ナショナル銀行にはおよそ二九万三千ドルの預金があるのですね?」
「ええ」
「ところで、クリンストンさん、あなたの署名しかない約束手形によってホイーラー信託貯蓄銀行から借りた九〇万ドルの負債は、ノートンさんには知らせずに借りたもので、しかも、この金は商会の仕事に使用したのではなく、単にあなた個人の株式投機に使用されたものではないのですか?」
「とんでもない!」とアーサー・クリンストンはかみつくように言った。「そんなことはありません」
「では、どうして商会は、ほかの銀行には百万ドル以上の流動資産があるというのに、この銀行だけから九〇万ドルの借金をしなければならなかったのですか?」
「それは、事業方針によるものだったのです。私たちは、ある大きな取り引きをする予定だったので、それらの銀行にそれだけの額は預金として確保しておきたかったのです。そうして、現金をいつでもすぐに使えるようにしておきたかったもので、どうしてもこれらの預金のある特定の銀行からは借りたくなかったのです。もしこれらの銀行に対して高額の手形を書いたり、預金を全部引き出したりしたら、何か説明を求められるでしょう。そのため、ちょうどホイーラー信託貯蓄銀行がかねがね商会との取り引きをしきりに希望して、短期|融資《ゆうし》ならいくらでも貸そうなどと言っていたので、この銀行|宛《あて》に手形を切ったのです」
「では、クリンストンさん、そのホイーラー信託貯蓄銀行あての手形は、ノートンさんが死ぬ二日ばかりまえに支払期日がきたのではありませんか?」
「ええ、たしか、そうでした」
「そして銀行は、その通知を郵送してきたのでしょう?」
「たしか、そうでした」
「そしてノートンさんは、殺された日にその通知の一通を受けとったのではありませんか?」
「それは私にはわかりませんね」
「ノートンさんは、殺された日にはじめて、その銀行に負債があることを知ったのではありませんか?」
「いいえ、ちがいます」
「あの晩ノートンさんがあなたを呼んだのは、期限を切って商会に金を返済するように言っておいたのに、あなたが返済しないから、警察に訴えると告げるためだったのではありませんか?」
傍聴人の眼には、クリンストンが明らかに困惑しているのがわかった。彼の顔は見る見る青ざめ、固くにぎりしめたこぶしの関節が白く浮き出していた。だが、その声はまだしっかりと落着いていた。
「ぜったい、そんなことはありません」と彼はぴしゃりと言った。
「そして」とペリー・メイスンは相変わらず平静な、びくともしない調子で言いつづけた。「あなたがノートンさんに、金は返済できなかった、とてもそんなことはできそうもないと言うと、ノートンさんは受話器をとり上げて、警察を呼び出し、『こちらはエドワード・ノートンだが、犯罪事件を報告する』というようなことを言ったのではありませんか?」
「そんなことはありません」とアーサー・クリンストンはどなったが、その声には、はじめて、彼が緊張している様子がにじみ出た。
「そして」とペリー・メイスンは、ゆっくりと立ち上がりながら言った。「ノートン氏が電話でそう言ったとき、あなたは棍棒を彼の頭にふりおろし、頭の骨まで打ちくだいたのではありませんか?」
「異議があります!」とクロード・ドラムが立ち上がりながら叫んだ。「ただいまの訊問はあまりにも常軌《じょうき》を逸《いっ》しています。まったく何の根拠もない……」
「異議を却下します」とマーカム判事がどなった。「クリンストンさん、質問にお答えなさい」
「ちがいます。私はそんなことはしません!」とアーサー・クリンストンは大声を上げた。
ペリー・メイスンはつっ立ったまま、法廷中が自分の質問の意味とその暗示するものを完全にさとり、固唾《かたず》をのんで身を乗り出す傍聴人たちで法廷が沈黙の殿堂と化してしまうまで、じっとアーサー・クリンストンを見つめていた。
「そして」とメイスンは言った。「あなたは受話器をかけて、震《ふる》えながらあたりを見まわした。ところが、とつぜん、エドワード・ノートンが警察に電話をして犯罪事件を報告すると言ったときに、自分の名前を告げていることに気づいた――つまり、エドワード・ノートンの死体が発見されたら、警察が捜査の糸をたぐって、その電話のことをつきとめ、それによってノートンさんが殺された正確な時刻を知り、殺人の動機も推測できるようになる、とさとったのではありませんか?」
「ちがいます」とアーサー・クリンストンはごくりと|のど《ヽヽ》を鳴らしながら言った。だが、その顔には玉のような汗がにじみ出して、法廷の高い窓からさしこむ陽光に光っていた。
「そしてあなたは、罪の意識におびえながらも、電話のことを何とか警察に説明しなければならないと考えた。すると、机の上においてある保険証書が眼にとまった。その保険証書は、非常に几帳面《きちょうめん》だったノートンさんが、満期前に保険を更新しようと思って、そこに出しておいたものだということがわかった。そこで、あなたは、この保険証書から思いついて、ただちに警察に電話をかけ直し、宿直の巡査部長に、いましがた電話をしたノートンだが、電話が切れてしまったもので、と切り出し、じつは自動車の盗難を報告しようと思ったのだと告げて、それから、ノートンさんの机の上の保険証書に記入されているビュイックの特徴や番号などを読み上げた――どうです、こうではありませんか?」
「ちがいます」とアーサー・クリンストンは、もはや機械的に反抗するような口調で答えた。
「そのとき、ドアが開いて、ドン・グレイブスが入ってきた。ドン・グレイブスは、あなたが株式投機で招いた個人的損失を商会の資金で穴埋めしようとした、あの九〇万ドル余りの横領では共犯者としてあなたを助けたのでしょう? そして、あなたとドン・グレイブスは、その場でただちに、ノートンさんを殺した罪を他人にきせる計画を作り上げたのではありませんか?」
「ちがいます」返事は前と同じく、機械的な否定だった。
「あなたは、パーレイ判事はエドワード・ノートンを直接には知らないから、ノートンの声かほかの人間の声かわかりはすまいと考えたのでしょう? あなたと共犯者のドン・グレイブスは運転手のピート・ディヴォーの部屋に忍びこみ、ディヴォーを殺人と結びつけるような偽装証拠を彼の部屋にしかけたのではありませんか? そして、窓をこじ開け、外のやわらかな土に足跡をつけて、ディヴォーが嫌疑を避けるために下手な細工をたくらんだものと見せかけようとしたのではありませんか?
それから、ノートンさんの死体が机の上に倒れている書斎に引き返して、グレイブスと打ち合わせをしてこんな具合に手はずをきめたのです――あなたは階段をおりて、パーレイ判事の車のほうへ行く。グレイブスはノートンさんの書斎の窓を開け、机の電気スタンドの明りを背に受けるように立って、パーレイ判事にはぼんやりとした人影しか見えないようにする。そして、エドワード・ノートンのようなふりをして、したにいるあなたに呼びかけ、ドン・グレイブスをあなたの家まで車に乗せて行ってくれと頼む。あなたはただちに、パーレイ判事のところへ許可を求めに行くことにする。それからドン・グレイブスは窓からはなれ、急いで階段をかけおり、あなたのそばへあらわれる。そのあいだ、あなたは窓辺にノートンさんの姿が見えるように見せかけながら、いいよ、パーレイ判事は承知してくれたと二階へ向って呼びかけることにする――事実は、こうではありませんでしたか?」
「ちがいます」とアーサー・クリンストンは言った。
「これをもって」とペリー・メイスンは、天井まで震わすような、法廷じゅうにひびきわたる声で言った。「この証人に対する反対訊問を終ります」
マーカム判事は、クロード・ドラムにちらっと眼を走らせて言った。
「再直接訊問がありますか?」
クロード・ドラムは大げさな身ぶりをしながら言った。「ありません、裁判長。じつにみごとな推論がのべられましたが、これを裏づける証拠は何もありません。証人はただ否定して……」
マーカム判事が木槌を叩いた。
「検事側の主張は適当なときに陪審に述べてください。本官が質問したのは、さらに再直接訊問があるかどうかということです。あなたはないと答えました。証人は退席してください」
「パーレイ判事を喚問して、反対訊問をつづけます」とペリー・メイスンが言った。
パーレイ判事は証人席に歩みよった。この裁判の最初のころ身につけていた裁判官らしい確信にみちた態度は影をひそめていた。顔は緊張に引きつっていたし、眼には疑惑の色が浮かんでいた。
「あなたも、本裁判において宣誓をすませていますから、宣誓をくり返すにはおよびません」とペリー・メイスンは言った。「どうぞ、証人席についてください」
パーレイ判事は大きな体を運んで証人席に着いた。
「先週の末、テストが行われていたときに」とペリー・メイスンは、厳粛《げんしゅく》な最後の判決をくだしているような口調で言った。「あなたは、エドワード・ノートンの書斎の窓の下にとめたご自分の自動車の中におられましたが、それは殺人事件の晩にあなたがおられたのとまったく同じ場所の同じ位置ですね?」
「ええ、そうです。そのとおりでした」
「そして、その位置から、首をのばせば、エドワード・ノートン邸の書斎の窓を見ることができましたね?」
「ええ」
「しかし、自動車の屋根が低くて視界の邪魔になるので、首をのばさなければ、その窓は見えなかった、そうですね?」
「ええ」
「では、パーレイ判事、あなたがそのように自動車の中に坐って、殺人事件の夜とまったく同じ位置におられたとき、ドン・グレイブスが書斎の窓ぎわに出てきて、あなたか、あるいは、あなたといっしょに車に乗っていたクロード・ドラムさんに呼びかけませんでしたか?」
「ええ、呼びかけました」とパーレイ判事は大きく息をつきながら言った。
「そこで」とペリー・メイスンは、太い人さし指をまっすぐパーレイ判事につきつけながら、大声をはり上げた。「よく注意して思い出して下さい。あの宿命的な殺人当夜の出来事をしっかりと思い返して下さったとすれば、|いまこそ《ヽヽヽヽ》、テストの晩に二階の窓から呼びかけた声が、殺人の夜その窓から呼びかけた声と同じであるということに気づかれたのではありませんか?」
法廷は、緊張した、劇的な沈黙に押しつつまれた。
パーレイ判事の手は証人席の椅子の腕をしっかりとつかみ、顔は苦しそうにゆがんでいた。
「ああ、何ということだ!」と判事は言った。「私にはわからん! 私はこの十分間、その疑問を心の中でくり返しつづけていた。だが、心の底から満足できるような答は出てこない。私にわかっているのは、|同じだったかもしれない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということだけです!」
ペリー・メイスンは、体を半回転させて、陪審のほうを向いた。そして、落着いた、ゆるぎのないまなざしで、九人の男と三人の女の顔を見まわした。
「反対訊問を終ります」と彼は、きっぱりとした口調で言った。
かなり長い間、法廷は沈黙したままだった。やがて、身動きする音や、ささやき声や、あえぐような声が起こりはじめ、どこかうしろのほうでは、ヒステリックな、女の忍び笑いが聞こえた。
マーカム判事は木槌で机を叩いた。
「静粛に!」
クロード・ドラムは、心をきめかねて、苦しそうに唇をかんでいた。再直接訊問に進むべきか? それとも、パーレイ判事とひそかに話し合ってからにすべきか?
だが、このわずかな不決断の時間、つまり、法廷中の人間の注意が彼ひとりに集中していた瞬間に、クロード・ドラムの躊躇《ちゅうちょ》は一秒だけ長すぎた。
群衆の注意が移った。
ペリー・メイスンは、椅子の背によりかかり、平静なまなざしで群衆の顔を見わたしながら、この変化を見てとった。裁判官席のマーカム判事も、法廷の事情に通じ、あまたの殺人事件の審理を手がけてきたベテランである以上、この変化を見てとった。
何かとらえどころのない心霊作用でも受けたかのように、いっせいに、陪審の眼も、傍聴人の眼も、クロード・ドラムからはなれて、アーサー・クリンストンの苦悶《くもん》にみちた顔に集中した。
それは、法廷の無言の判決だった。その判決は二人の被告の無実の罪を晴らし、エドワード・ノートン殺害の罪をアーサー・クリンストンとその共犯者に宣告するものであった。
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二十六
ペリー・メイスンは、事務室に坐っていた。窓からさしこむ陽光が、彼の精力的な、男らしい顔を照らしていた。そのため、彼はいくぶん老《ふ》けたように見え、力強い顔の輪郭がはっきりと浮き上がっていた。
フランシス・セレーンは、大きな黒皮の椅子に腰をおろして、椅子のなめらかな肘かけをなでながら、人さし指をおしつけたり、こすりつけたりしていた。その眼は黒々と輝き、感動にあふれていた。
ロバート・グリースンは、本棚にもたれて立っていたが、その深刻じみた、浅黒い顔は、言いたいことは山ほどあるのに、表現の方法が見つからない口下手の男のように、沈黙の苦しさにゆがんでいた。
開け放たれた窓からは、下の街路でスター新聞の号外を売り歩く新聞売子の叫び声が聞こえてきた。
ペリー・メイスンは、デスクの上のまだ印刷インクの匂いの消えぬ新聞をぽんと叩いて見せた。
「ジャーナリズムというやつは抜け目がない」と彼は言った。「ネバーズは、あなたがたが法廷からここへくるまでに、もうあの新聞を街に流してるんですからね。あの男は事件を予想して、だいたいの記事は組み上げといたんです。パーレイ判事の証言の要約と見出しをつけるだけで、万事オーケーだったのですよ」
彼は、新聞の第一面に黒々とつづく見出し活字にそって指をすべらした――殺人事件解決す
フランシス・セレーンがおだやかに言った。「メイスンさん、こんどの事件ですばらしかったのはジャーナリズムではありません。それは、事件の真相をつきとめたあなたの見事な分析と、パーレイ判事が納得するように事件の現場を再現させたあの方法ですわ。わたしは、あの判事さんが最初に証人台に立ったときから、あの人に注意していました。だから、あの人を相手になさるのは大変だということがよくわかりました」
ペリー・メイスンは微笑した。
「パーレイ判事という人はなかなか強情っぱりですからね、自分が間違っていたと認めなければならないようなことは、大いにいやがったでしょうね。じっさい、最初に証人台に立ったときにあの質問をしていたら、そんなことがあるわけはないと憤慨して否定したでしょう。そして、否定したとなると、そのことがあの人自身の心に強くきざみこまれてしまって、あとからどんなに証言をくり出しても、自分が間違っていたかもしれないとちょっとでも思わせることは、できなくなっていたでしょう。
しかし、起ころうとしていることが判事にはまるで見当もつかないようなやり方で、事件の状況を首尾よく再現したことが、いわば|からめ《ヽヽヽ》手から彼に接近する機会を与えてくれたのです。
もちろん、僕がすべての真実をつかんだのは、アーサー・クリンストンが僕に殺人事件の説明をしながら、例の警察にかかってきた電話のことを、警察の連中から聞いてはじめて知ったというような話し方をしたときです。
あれがクリンストンの犯した失敗でした。致命的な失敗でした。それから、陪審に対する証言のとき、あの電話の内容を言わなかったことも失敗です。
いいですか、あの男は、ノートンさんを殺したときにあの部屋で起ったことを、当局に知らせてはならないという考えにあまりにもとりつかれていたので、何から何まで嘘で固めたストーリーを作り上げて、それにしがみついていたのです。
こういうのは巧妙な嘘とは言えません。偽証に適した方法ではないのです。巧妙に偽証をする人間は、できるかぎり事実にもとづくようにして、どうにもやむをえない場合にのみ、事実から離れるのです。すべてを嘘で固めた話を作る連中は、かならず、どこかに二つ三つ穴を残すものなのです。
しかし、人間の心というものは奇妙なものですね。いろいろな事実がひっきりなしに飛びこんでくるのに、それらの事実をうまく関連させることができないのです。僕も、事実だけはみんな手もとにそろっていながら、事件の真相をさとるまでには、かなり時間がかかりましたよ。
ごぞんじのように、クリンストンは商会の信用で莫大な借金をしていました。もちろん、商会には支払能力はありましたが、クリンストン個人としての信用は完全になくなりました。彼はグレイブスを共犯にしたてていたので、二人であなたの叔父さんをだましていました。ところが、銀行から叔父さんのところへ通知を送ってきたので、叔父さんもはじめて事態をさとりました。
つぎに何が起ったかは、想像のつくことです。ノートンさんは、一定の期限を切って、それまでにクリンストンが金を返さないなら、警察に訴えると言い出しました。そして、クリンストンが金を返さないとなると、叔父さんは例の無慈悲きわまる、冷酷なやり方で能率的な行動に出て、受話器をとり上げ、警察を呼び出したのです。
クリンストンはノートンさんのうしろに坐って、無言で見まもっていたが、ノートンさんが次にしゃべる言葉で自分が刑務所行きになってしまうことをさとったのです。そして、ノートンさんが『警察かね、犯罪事件を報告する』と言うのを聞くと、盲目的な殺人の衝動《しょうどう》にかられて行動しました。彼はだしぬけにノートンさんをなぐり倒したのです。おそらく予謀はほとんどなかったでしょう。
ノートンさんをなぐり殺し、受話器をかけてから、クリンストンはとつぜん、警察にはノートンさんがかけた電話の記録が残るにちがいない、それが糸口になって自分の犯罪が発覚するかもしれないということに気づきました。そこで、非常に巧妙なことをやったのです。ただちに警察に電話をかけ直し、ノートンさんがまた電話をしたように見せかけました。だが、彼は、すでに叔父さんが犯罪事件を報告すると言っているので、自分も何か犯罪事件らしきものを報告しなければならなくなったのです。
すると、ちょうど机の上に自動車の保険証書がおいてあったので、彼はこれを手引きとして、盲滅法《めくらめっぽう》に突進して行ったのです。そのあとで、あなたが、叔父さんの殺されたことを聞いて、ロブ・グリースンが自分といっしょに邸内にいたから、自分が事件にまきぞえをくうかもしれないし、グリースンが邸内で何をしていたか説明しなければならなくなるかもしれないと考えて、叔父が盗難報告をしたそのビュイックに乗っていたのは自分だと言えば絶好のアリバイになると思ったわけです。
外見から判断すれば、この事件は数学的といってもよいようなものでした。つまり、熟練した専門家が落着いて証拠をじっくり考えれば、ただちに犯人を指摘することができたはずなのです。だが、正直なところ、状況があまりに非現実的で異常だったために、僕はしばらくの間めんくらってしまって、事件の真相がわからなかったのです。
しかし、事件の真相がわかったときに、きわめて重大な問題に直面していることに気がつきました。自分の考えをうまく説明して、陪審の心に筋道の通った疑惑を起させ、無罪釈放か評決不能に持ちこむという確信はありましたが、犯人を罠《わな》にかけて正体を暴露することができなければ、あなたたちから疑惑の汚名をすっかりぬぐいさることにはならないと思ったのです。
パーレイ判事が解決の鍵になる証人だということはすぐわかりました。そして、あの人の自負心と気どりには、普通の反対訊問では何の効果もないことに気づきました。それゆえ、彼自身はそれと気づかぬうちに、彼の心に疑惑を起させ、それから劇的な力でその疑惑を彼の胸にたたきこむというような方法を案出しなければならなかったのです」
フランシス・セレーンは、眼に涙を浮かべながら立ち上がった。
「こんどの事件がわたしにとってどういう意味を持つか、とてもお話しできませんけど、一生忘れることのできない経験でした」
ペリー・メイスンは眼をほそめた。「でも、あなたは運がいい」と彼は、鷹揚《おうよう》な口調で言った。「不愉快な経験だけですんでしまったんですからね」
フランシス・セレーンは微笑しながら、涙のあふれた眼をしばたたいた。「いいえ、そんな意味で言ったのではありませんわ、メイスンさん。何ものにも変えがたいような経験だったということですの!」
メイスンは娘を見つめた。
「つまり」と彼女は言った。「殺人事件の裁判を受けたことではなくて、拘置所に入れられて、他人の苦しみをちょっとでも見てきたことです。そのおかけで、物事をいままでとはちがう眼で見ることを知りました。わたしのひどい癇癪《かんしゃく》をなおすのにも役立ったと思います。
それに、ロブの誠実さがよくわかりました。ロブは、私が無実にきまっていることは知っていましたが、不利な証拠がそろいすぎているので、私が有罪になる見込が相当にあることも知っていました。あなたは何も打ち明けてくださらず、わたしたちにまったく不利なことばかり重《かさ》なってくるみたいに見えたあのやりきれないときに、ロブは進んで自分の命を捨てて、わたしをたすけてくれようとしたんですわ」
「そうです」とメイスンは考えこむようにロブ・グリースンを見やりながら言った。「あれはまったく気高い、りっぱな行為でした。しかし、もし僕が事件に対する自分の考え方に確信を持っていなかったら、彼のおかげですっかり迷わされてしまうところでしたよ。彼の告白はまったくもっともらしかったですからね。ただ、死体から千ドル紙幣をとったと言ったことは別です。僕はあの翌朝、あなたから例の紙幣を十枚もらっていましたから、彼がそんなことをやったわけがないと知っていたのです。それから、セレーンさん、あなたも僕に対して率直ではありませんでしたね。自分をまもろうとして隠していましたよ」
「ええ、そのとおりですわ」と娘は言った。「何もかも、最初にビュイックのことで嘘をついてしまったためなんです。あのあとは、ほんとうのことが言えなくなってしまいました。アリバイを作るには、あの車に乗って外出していたと言うのがいちばんいい方法だと思って、あの作り話にとびつきました。それから、罠に落ちたことがわかったんです。叔父からあの金をもらったことを、あなたに話すことさえできませんでした。そのとき車で外出していたことになっていたんですもの」
フランシス・セレーンは、すばやくメイスンのほうに歩みよって、手をさしのべた。
「ロブとわたしは、これで失礼します」と彼女は言った。「わたしたちがあなたのしてくださったことにどんなに感謝しているか、とても口ではあらわしようがありませんわ。もちろん、お金でお礼をすることはできますけど、それ以上に、わかっていただきたいのは……」
彼女の声はふるえ、眼には涙があふれてきた。
ペリー・メイスンは彼女の手をにぎりしめると、うなずきながら言った。「わかっていますよ」(完)
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訳者あとがき
テレビのおかげでわが国でも小学生にまで名を知られるようになったペリー・メイスン弁護士の初登場は、一九三三年(「ビロードの爪」The Case of the Velvet Claws)、作者アール・スタンリー・ガードナーが四十四歳のときである。三日半で書き上げられたといわれるこの第一作を口火として、今日まで三十年近くの間にメイスン物六十篇あまりを生み出し、そのほかにも地方検事ダグラス・セルビー物を書き、さらに一九三五年以来、A・A・フェアの別名でも推理小説を発表しているのだから、ガードナーの超人的な精力にはまったく驚かざるをえない。
もちろん、ガードナーは、四十歳|半《なか》ばになって急に小説を書きはじめたわけではない。しかし、彼の処女作 The Shrieking Skelton が『ブラック・マスク』誌に発表されたのは一九二三年、三十四歳のときだから、作家として年齢的には早い出発ではなかったはずである。彼が弁護士稼業のかたわら小説を書きはじめた最大の動機は、狩猟に行きたいためだったといわれている。つまり、からだを縛られることなく自由に狩猟に時間をさくことができる商売をさがした結果、小説家に転身していったというのである。だが、ガードナーは、その後メイスン物発表までの十年間に、弁護士をやりながら小説を書きつづけ、これで狩猟を楽しむ余裕があったのかと思われるほどの大量生産ぶりをすでに発揮している。一九二三年当時、彼はチャールズ・M・グリーンという筆名を使っていた。彼自身の言葉によれば、「この時代に私が大いに売っていたのはエド・ジェンキンズ、あだ名を「幻の義賊」と呼ぶ主人公や、ブラック・バーという西部ものの人物や、奇術師の探偵で、物語の最後の一行で悪人の口から撞球の棒を引っぱり出すのを得意にしている男、などだった」[E・S・ガードナー「行動派のことはじめ」安倍主計訳]
ガードナーの推理小説作家としての成功は、ペリー・メイスンを創造するにおよんで確実なものとなった。第一作「ビロードの爪」は爆発的な好評を博し、引き続いて同じ一九三三年に本書「すねた娘」が発表された。したがってこの作品は、メイスン物としては初期のものに当たるわけである。たいていの作家は、三十年も書きつづけていれば、たとえ大衆的なシリーズ物であろうと、初期の作品と後記の作品とではスタイルにも内容にもかなりの相違が出てくるものだが、ガードナーの場合には不思議なほどそれが見当らない。第一作からペリー・メイスンは老練きわまる調子で三十年来の知己《ちき》のように読者の心に迫ってくるし、三十年後のメイスンは不死鳥のように若々しく相変わらずの活躍ぶりを見せる。じっさい、「すねた娘」が初期の作であることを示す証拠は、ただ一つ、登場する新聞社のカメラマンがマグネシウムをたく個処だけである。
このようなガードナーの作風の均一性は、その作品の出来ばえにまでおよんでいる。人はクィーンの何々は傑作だが、何々は愚作だという定評を作る。ガードナーの数多い作品についてはほとんどそれがない。そのかわり、世界推理小説ベスト・テンというような批評家のリストにガードナーの作品が顔を出すこともあまりない。だが、おそらく、何千万にのぼるペリー・メイスンの愛読者にとっては、「読者はガードナーにもっといいものをなどと望みはしない。ただ、もっと多くと望むだけだ」という評言ほど正しいものはないのである。
ガードナーの推理小説は、彼みずから称するようにいわゆる行動派に属しているが、彼の作品の特色と魅力をもっとも端的にあらわしているのは、その法廷場面である。もちろん、これに至るまでのなぞの提出や伏線の張り方のうまさによってこのクライマックスが生きてくるわけだが、検事と弁護士の対立による巧妙な弁論のかみあいや機略縦横のかけひきからかもしだされる緊迫感こそメイスン物の醍醐味《だいごみ》なのである。
ガードナーは弁護士としてもきわめて有能だった。彼の弁護士時代の同僚たちは、彼が作家になったのはまちがいだったと思っている。彼はペリー・メイスンそのままに、巧みな理論家、反対訊問の天才、法廷技術の魔術師であった。
法廷物というと、推理小説のなかでもかなり特殊な分野と見られがちだが、考えてみれば、推理小説本来の特質である緻密《ちみつ》な理論性を自然なかたちで展開していくのに、これほど絶好な分野はないのである。現実社会において法廷こそ事実と理論によって真実を再構成すべき公の殿堂なのだから。ガードナーや、シリル・ヘアーの法廷物を愛好する英米読者の心には、偏見や盲信にとらわれずに事実を見きわめることの意味と、論理的思考の価値とが深く刻《きざ》みこまれているはずである。
ガードナーはこれまでに百冊をこえる長篇と四百余の短篇を書いているが、彼の作品の総発行部数は、一九四九年にすでに三千七百万という厖大《ぼうだい》な数に達していた。そして現在では一億二千万をこえているということである。
〔訳者略歴〕
鮎川信夫(あゆかわのぶお)
一九二〇〜八六。東京に生れる。早稲田大学英文科中退。昭和十二年頃より「LUNA」「LEBAL」「詩集」「荒地」「新領土」「文芸汎論」等に、詩、評論を発表。一七年入隊、一九年スマトラ島より帰還。戦後は「純粋詩」「荒地詩集」「詩学」等に作品を発表。「荒地」同人。[主要著書]「鮎川信夫詩集」、評論集「現代詩作法」「抒情詩のためのノート」(疋田寛吉共著)。多数の訳書がある。