E・S・ガードナー/能島武文訳
義眼殺人事件
登場人物
ペリイ・メイスン……弁護士
デラ・ストリート……その秘書
ポール・ドレイク……私立探偵
ピーター・ブルノルド……自動車部品卸商、メイスンの第一弁護依頼人
ハートリ・バセット……金貸し
シルビア・バセット……その妻
ディック・バセット……その息子
ヘーゼル・フェンウィック……ディックの妻
アーサー・コールマー……ハートリの秘書
ゼームズ・オーバートン……ハートリの運転手、兼用心棒
ハリー・マクレーン……ハートリの元使用人
バーサ・マクレーン……その姉
エディス・ブライト……バセット家の家政婦
セルマ・ベビンス……失業中の女
ホルコム……巡査部長
ハミルトン・バーガー……地方検事
第一章
ペリイ・メイスンは、事務室の窓からさしこむ朝の日の光に背を向け、渋い顔をして、まだ返事のすんでいない手紙の山のほうに、目をやった。
「こういう、事務所の、毎日のきまりきった仕事は、あきあきするね」と、かれはいった。
女秘書のデラ・ストリートが、冷静な落ちついた深さの中に、いくぶん面白がっているような色を浮かべた目で、ちらっとメイスンを見あげた。無理もないわというような微笑を浮かべていた。
「ねえ」と、かの女はいった。「殺人事件が一つ片づいてしまったものだから、もう一つあればいいなと思っていらっしゃるのでしょう」
「殺人事件でなくたっていいがね」と、かれはかの女に向かって、「陪審団の前で、堂々の陣を張るのはいいね。ぼくは、波瀾《はらん》に富んだ殺人事件の裁判が好きだね。検察側が思いもかけない爆弾を、ぼくの足もとに投げつけると、こちらは、あおりを食ってきりきり舞いをしながら、どんな手を打って立ちなおろうかと考えをめぐらす……そんなことより、そのガラスの義眼《いれめ》をはめたとかっていうお客はどうしたね?」
「ピーター・ブルノルドさんですわ」と、かの女はいった。「待合室で待っておいでですわ。わたし、たぶん、あなたがお引き受けなさるでしょうっていったんですの。そうしたら、どの弁護士でもいいというわけではないのだから、ぜひお目にかかりたいって、そうおっしゃるの」
「どんな様子の人だね?」
「年は、四十ぐらいね、まっ黒な、ちぢれっ毛がふさふさしているわ。なんとなく風変わりな感じで、思い悩んでいるとでもいった様子ね。あなたなら詩人とおっしゃりそうなタイプだわ。顔つきにも、感情的というのかしら、感受性が強いというのかしら、なんか変わったところがありますわ。きっと、好きにおなりになってよ。でも、お仕事のたねを作りそうなタイプね、どっちかといえば──そうよ、自分でそうしなきゃならんと思いこんだら、かっと人殺しでもするようなロマンティックな夢想家というとこですわ」
「ガラスの眼玉だってことは、きみにも、すぐわかるんだね?」と、メイスンはたずねた。
「まるきり見わけられないの」と、首を振りながら、かの女はいった。「わたし、義眼《いれめ》なんてものは、見さえすればわかるもんだと思っていたんですけど、ブルノルドさんの眼がおかしいなんて、ちっとも気がつきませんでしたわ」
「自分の眼のことを、なんと、きみにいったんだね?」
「そっくり一揃い持っているっておっしゃってましたわ──朝使うのと──夜使うのと──ちょっと充血したのと──それから……」
ペリイ・メイスンは、握りこぶしを手のひらにたたきつけた。きらきらと、眼が光っていた。
「その手紙の束を片づけたまえ、デラ」と、かれは命令するようにいった。「それから、そのガラスの眼のお客を通したまえ。これまで、遺産相続の問題で争ったこともあるし、名誉毀損や損害賠償で闘ったこともあるが、ガラスの眼玉が出てくる事件なんてものは、はじめてだ。さあ、通したまえ」
デラ・ストリートは、にっこり笑いを浮かべ、黙って、ドアをあけて待合室へ姿を消した。直接ペリイ・メイスンに会いたいというお客は、その待合室で待つことになっていた。しばらくすると、ドアがあいた。
「ピーター・ブルノルドさんです」といって、まっすぐに立ったかの女の姿は、ひどくきゃしゃに見えた。
ブルノルドは、大股にペリイ・メイスンに近づいて、手を差しだした。
「わざわざお会いくだすってありがとうございます」と、かれはいった。
弁護士は、手を握りながら、注意深く、ブルノルドの眼を見つめた。
「どちらの眼だか、おわかりですか?」と、ブルノルドがたずねた。
メイスンが首を振ると、ブルノルドは、にっこり笑い、腰をおろして、身をのり出した。
「おいそがしいことでしょうから、当面の問題にはいらせていただきます。わたしの名前、住所、職業その他は、秘書の方に申しあげましたから、いまさらくだくだしくは申しあげません。
まず、そもそもの起こりからはじめて、いっさいをお話しいたしましょう。たいしてお時間をとらせはいたしません。ところで、ガラス製の眼玉のことについては、なにかご存じでしょうか?」
ペリイ・メイスンは、首を左右に振った。
「よろしい、それでは、ちょっとお話しいたしましょう。義眼《いれめ》を作るということは、一つの芸術なんです。合衆国中で、こいつの作れる人は、十三、四人以上はいないでしょう。よくできた義眼なら眼窩《がんか》に傷さえなければ、もって生まれた眼と区別のつけられないものなのです」
メイスンは、相手の眼をようく見ながらいった。「両方とも動くじゃありませんか」
「むろん、両方とも動きます。わたしの眼窩には傷はありませんからね。九十パーセントまでは、生まれつきの眼と同じように動かせます。ところで」と、かれは言葉をつづけて、「人間の眼というやつは、しょっちゅう変わります。瞳孔《どうこう》は、昼の間の方が夜よりも、ずっと小さくなりますし、時には、いい眼でも充血します。それには、いろいろな理由があるでしょうが、長時間自動車の運転をつづけるとか、睡眠不足とか、酔っぱらったりするとかね。わたしなら、だいたい酔っぱらった時でしょうね。わたしは、自分の眼については、人一倍気にするたちなんです。こんなことをお話しするのも、弁護士としてお力添えを願おうと思えばこそです。でなけりゃ、代わりの眼を持っていることなど、こんりんざい、人にしゃべったりするものですか。わたしの親友だって、だれも知りゃしません。
わたしは、六個一揃いの義眼を持っています──予備としてのものもあれば、いろいろの場合に応じて使うものもあります。そのなかに、充血した眼に似せたのを一つ持っていました。すばらしい出来栄えでした。そいつを、おとといの夜、ある酒宴に出た時に使いました」
弁護士は、ゆっくりうなずいて、「それで」と、いった。
「ところが、誰かそいつを盗んだやつがあるのです。そして、代わりに贋物《にせもの》が残してあったのです」
「どうして、贋物だとおわかりです?」
ブルノルドは、ふんと鼻をならして、「どうしてわかるかですって?」と、大声でいった。「誰かが、あなたの犬か馬を盗んで、代わりに、下らない雑種の犬かよぼよぼの老いぼれ馬が残してあったとしたら、それに気がつかないなんてことがあるでしょうか? それと同じことですよ」
かれは、ポケットからケースを取り出し、蓋《ふた》をあけて、一つ一つなめし皮の仕切りにおさまった四個の義眼を見せた。
「しょっちゅう、それを持って歩くんですか?」メイスンは、好奇心をそそられたようにたずねた。
「いや、こんなに持っては歩きません。どうかすれば、余分に一つ、チョッキのポケットにしのばせてはおきますがね。わたしのチョッキのポケットは、義眼に傷がつかないように、やわらかい羚羊《かもしか》の皮で内張りがしてあります。旅行に出かける時には、この革のケースごと鞄に入れて持って行きますが、そうでない時は、箪笥《たんす》の上にのせておきます」
かれは、義眼を一つとり出して、弁護士にわたした。
メイスンは、それを手のひらに受けて、つくづくとながめた。
「みごとなものじゃありませんか」といった。
「なにが、みごとなものですか」と、ブルノルドは、むきになって反対した。「やくざな代物《しろもの》ですよ。瞳孔がちょっとゆがんでいるでしょう。虹彩不整というやつで、色合いがうまくいっていない上に、血管も赤すぎますよ。充血した眼の血管のできのいいのは、黄色味を帯びているものなんです……ところで、この眼を見てください。できのいい義眼とはどういうものだか、よくおわかりになりますよ。むろん、こちらの方は、いまお眼にかけた充血した眼とは違って、一流の専門家の作った眼です。違いがおわかりでしょう。色もずっといいし、調和もはるかにみごとだし、瞳孔も正確です」
メイスンは、二つの眼を仔細《しさい》に見くらべながら、重々しくうなずいた。
「こっちが、あなたの眼じゃない贋物ですね?」と、充血した方の義眼を、人さし指でたたきながら、たずねた。
「そうです」
「どこで見つけたのですか?」
「わたしの、その革のケースの中でです」
「すると」と、弁護士はたずねるように、「盗んだ人間は、そのケースから、あなたの充血した眼をとり出して、もとの仕切りの中に贋物の義眼を入れておいたというんですね?」
「その通りです」
「そういうことをするというのは、なにか目的があってのことでしょうかね?」
「わたしの知りたいのは、そこなんです。おうかがいしたのも、その目的をさぐっていただきたいからなんです」
弁護士は、妙なふうに眉《まゆ》をあげて、
「さぐるために、いらしたというと?」と、たずねた。
ブルノルドは、まぶたがほとんど閉じてしまうほどに、眼を細くした。かれは、声を低くして、いった。「わたしをおとし入れるために、誰かがその眼を盗んだとしたら、どうでしょう?」
「それは、どういうことですか?」
「眼は、人によってそれぞれ特有のものなんです。正確に同じ色の眼を持っている人など、ほとんどないといってもいいくらいです。できのいい義眼は、美術家の作品と同じで、細工の手法ではっきり区別がつくものなのです。わたしのいう意味がおわかりでしょうね。六人の画家が一本の樹をかいたとしますね。どの画もみんな、その樹をかいたとは見えるでしょうが、それぞれ、どの画家がかいたものか、一枚一枚を区別するなにかがあるはずです」
「それで」と、弁護士はいった。「その後をいってください」
「どうでしょう」と、ブルノルドはいった。「誰かわたしをおとし入れようと企らんだ人間が、わたしの眼を一つ盗んで、贋物をおいて行ったとしたら、どうでしょう? ある犯罪が──強盗か、あるいは殺人が犯されて、現場に、わたしの眼があったとしたら、どうでしょう? わたしは警察に、現場不在《アリバイ》を説明するのに、おそろしい手間がかかるわけです」
「あなたの眼だってことが、警察にわかるとお考えなんですね?」と、弁護士はたずねた。
「わかりますとも。正しい捜査の道さえ踏んで行けば、わけなくわかります。腕のいい義眼作りなら、その義眼を作った職人をあてることができます。そういうくろうとは、細工っ振りを見分けますからね。警察は、その職人にわたりをつけて、眼を見せる。その男がわたしの眼を作っているのは、いつものことなんですね。一眼見ただけで、『ウォシントン通り三九○二番地の、ピーター・ブルノルドさんのです』というでしょう」
弁護士の眼は、じっと吟味《ぎんみ》するように、一心に見まもっていた。
「すると」と、かれは、ゆっくりたずねた。「あなたの義眼が、殺人の現場に残されることになりそうだとお考えなんですね?」
ブルノルドは、一瞬ためらっていたが、やがて、ゆっくりうなずいた。
「そして、うまく始末をしろとおっしゃるんですね?」と、弁護士はたずねた。
ブルノルドは、もう一度うなずいた。
「その」と、ペリイ・メイスンはたずねた。「あなたが犯したのか、犯していないのか知らないが、その殺人の始末をね?」
「犯してはいません」
「どうして、それがわたしにわかります?」
「信じていただくよりほかありません」
「で、どうしろとおっしゃるのです?」
「刑罰を受けない方法を教えていただきたいのです。あなたは、刑事弁護士でいらっしゃる。警察のやり方もご存じでいらっしゃるし、陪審員の考え方も知っておいでになるし、探偵が事件を解決する仕方も心得ておいでになるでしょう」
メイスンは、大きな回転|椅子《いす》の中で、ゆっくり、体を前後に動かした。
「その殺人は、もう犯されたものですか?」と、かれはたずねた。「それとも、これから犯されるはずだというのですか?」
「知りません」
「どうです」と、メイスンはたずねた。「事件を処理する料金として、千五百ドル出せますかな?」
ブルノルドは、ゆっくりといった。「その方法がよければね」
「いい方法だと思いますがね」と、メイスンは、相手にいった。
「いい方法以上のものでなければね。完全無欠でなければ困ります」
「完全無欠だと思いますね」
ブルノルドは首を振って、いった。「完全無欠な方法などないでしょう。自分でも、何度も何度も考えてみました。なんとかうまい解決法を見つけようと思って、朝方まで眠りませんでした。ありませんな。さっき申しあげたようにすれば、警察は、義眼の持ち主をさがしあてることができます。おわかりでしょうが、問題は、義眼の持ち主がわかってしまってから、わたしの無罪を証明することじゃなくて、警察に、誰の義眼だかわからせたくないということなんです」
メイスンは、唇をすぼめて、ゆっくりうなずいてから、「わかりました」といった。
ブルノルドは、紙入れから百ドル札を十五枚とり出して、ペリイ・メイスンの机の上にひろげた。
「千五百ドルあります」と、かれはいった。「さあ、どんな方法をおとりになるんですか?」
メイスンは、充血した義眼をブルノルドにわたし、もう一つの方は、自分のポケットにおとしこんでから、紙幣をとりあげて、畳んだ。
「かりに」と、かれは、ゆっくり話し出した。「警察が最初に発見したのが、あなたの眼だとしたら、おっしゃったようなやり方で、持ち主をつきとめるでしょうね。もし、最初に、それと違う眼を発見したのだったら、その持ち主をつきとめようとするでしょう。つぎに、もう一つ別の眼を発見すれば、また、それをつきとめようとする。そして、かりに、三番目に発見したのがあなたの眼だったとしても、むろん、はじめの二つと同じ持ち主のものだと思いこむでしょう」
ブルノルドは、せわしげに、眼をぱちぱちとしばたたいて、「もう一度、いっていただけませんか」といった。
メイスンは、ゆっくりといった。「じっくりお考えになれば、わたしのいうことがわかるはずですがね。問題は、あなたの義眼のできがよすぎるということです。芸術品ですよ。あなたは、義眼についてよく知っておいでになるから、そのことを承知しておいでになる。しかし、警察には、よほど眼をひくようなことでもおこらぬ限り、そんなことはわかりっこありませんよ」
急に、活気がブルノルドの顔を明かるくした。
「すると」と、かれはたずねるように、「あなたは……?」
かれの声がしだいに細くなって、消えてしまった。
メイスンは、うなずいた。
「そう」と、かれはいった。「まさにそのつもりです。だから、千五百ドルという料金を申しあげたのです。そのことで、金がかかるでしょうからね」
ブルノルドはいった。「なんでしたら、少しは、わたしの方で──」
「あなたは」と、ペリイ・メイスンは相手に告げた。「そのことについては、いっさいご存じないということにしていただきます」
ブルノルドは、さっと手を差し出し、弁護士の手をしっかり握って、上下に打ち振った。
「あなた」と、かれは大きな声でいった。「なんて頭のいい方でしょう! 驚くべき頭のよさだ。夜通し考え通しても、その考えだけは思いつきませんでしたよ」
「ご住所は、秘書がうかがっていますね?」と、メイスンはたずねた。
「申しあげました。ウォシントン通り三九○二番地です。そこで、ちょっとした卸店をやっております──自動車の部分品を──ピストンリングとか、ガスケットとか、そういったものを扱っております」
「ご自分の店ですか、それとも、雇われておいでですか?」
「自分の店です。他人のために働くのは、もう飽き飽きしました。長年、セールスマンをやっていました。がたがたの汽車で旅行をしてまわり、まずい物を食べてすっかり胃をこわし、たっぷり儲《もう》けたところで、その金は、店でのうのうとしている抜け目のない主人の懐《ふところ》にはいるだけでした」
かれは、ガラスの眼の方で、意味ありげにウインクした。
「こうなったのは」と、かれはつづけて、「古いことで、一九一一年、列車|顛覆《てんぷく》の事故ででした。頭の横のところに傷跡があるのがおわかりでしょう──がんとやられて、気をうしなってしまいました。病院には二週間いましたが、自分が誰だとわかるまでに一か月かかりました──記憶喪失症というやつですね。片眼はなくなしてしまうし、生活をめちゃめちゃにされました」
メイスンは、いかにも同情するようにうなずいて、いった。「わかりました、ブルノルドさん。何かあったら、さっそく連絡してください。わたしが事務所にいなかったら、秘書のデラ・ストリートに話してください。かの女のことは、わたしも信用しておりますし、ここに電話をかけてくる人の用事は、全部心得ていますから」
「しゃべったりはしないでしょうね?」と、ブルノルドはたずねた。
メイスンは、声を出して笑った。「拷問《ごうもん》にかけたって」と、かれはいった。「ひと言だって、かの女から聞き出せないでしょうな」
「金ではどうです?」
「見込みなしですね」
「おべっかはどうです? 誰かがくどきにかかったらどうですか? なんといったって、女ですからね。それに、すばらしく魅力的ですから」
メイスンは、顔をしかめながら、首を振った。
「そんなことより、自分のことを心配なすったらどうです」と、かれはいった。「こっちのことは、こっちで心配しますよ」
ブルノルドは、はいって来たドアの方へ、行きかけた。
「ああ」と、メイスンはいった。「こっちのドアから願います。このドアから、じかに廊下へ出られるので……」
とその時、自家用電話のベルがじりじりと鳴ったので、かれは、言葉を切って受話器を耳にあてた。デラ・ストリートの声が聞こえて来た。
「バーサ・マクレーンという方がお見えです、先生。弟さんの、ハリー・マクレーンさんとごいっしょです。ひどく興奮していらっしゃるようですの。どんな用だかおっしゃらないんですけど、姉さんは泣いていらっしゃるし、弟さんは、気むずかしい顔をしてらっしゃるんです。なにかありそうなようすですわ。お会いになりますか?」
「オー・ケー」と、かれは、かの女に、「すぐに会うことにするからね」といって、受話器を元にもどした。
ブルノルドは、待合室のドアを半分ほどあけかけて、
「待合室に、帽子をおいて来たものですから、こちらから出させてもらいます」といった。
待合室の方へ向きなおったとたん、ブルノルドは、急に硬直したようになって、いった。
「やあ、ハリー。いったい、なんだって、こんなところへ来たんだ?」
メイスンは、大股に、四歩で広い事務室を横切って、ブルノルドの上衣の肩をつかんで、ぐいと引きもどした。「お待ちなさい」と、かれはいった。「ここは法律事務所で、クラブじゃありません。ほかのお客が、あなたを見かけても困るし、あなたが、ほかのお客の顔を見てもらっても困ります」
かれは、ドアから顔を出して、いった。「デラ、この方の帽子をもって来てくれ」
デラ・ストリートがブルノルドの帽子をもって来ると、メイスンは、ドアをしめるように合図した。
「誰ですか?」と、かれは、ブルノルドにたずねた。
「なあに、マクレーンの若者ですよ」と、むりになにげないふうをして、ブルノルドはいった。
「ご存じの方ですか?」
「ちっとばかりね」
「ここに来ることをご存じだったのですか?」
「いいや」
「じゃ、なんだって、顔を青くなすったのですか?」
「青くなりましたか?」
「なりました」
「なぜ青くなったのか知りませんね。マクレーンの若造なんか、わたしにはなんでもありませんよ」
メイスンは、ブルノルドの肩に手をかけて、「それでは」と、かれはいった。「こちらからお出になってください──おやおや、あなた、ずいぶん震えていますね!」
「神経のせいですよ」と、ブルノルドはいって、メイスンの手からのがれて、大いそぎで、廊下へ出るドアの方へ歩きながら、「あんなマクレーンの若造なぞ、なんでもないんですが、あいつを見た拍子に浮かんだんですよ、ある考えが──」
そこまでいいかけて、ふいに口をつぐんだ時には、かれは、もう廊下に出ていた。そのうしろで、ドアがばたんとしまった。
ペリイ・メイスンは、デラ・ストリートの方へ向きなおった。
「ポール・ドレイクを呼び出してくれ」と、かれはいった。「ドレイク探偵事務所のだよ。いますぐにだ。二人の客は、ドレイクと会って用のすむまで待たせておいてくれ。ドレイクには、廊下のドアの方に来て、ノックしろといってくれ。ぼくが通すから」
デラは待合室へもどると、待っている二人にいった。「メイスンさんは、ひどくいそがしいんですけど、間もなく、お眼にかかるそうですから」
ペリイ・メイスンは、煙草《たばこ》に火をつけて、じっと考えこみながら、部屋のなかを歩きはじめた。
そうして右に左に歩きつづけていると、廊下へ出るドアを叩く音が聞こえた。メイスンは、ばね錠を元へもどして、ドアをあけ、眼のどんよりした、ひょうきんな表情の、変に口をまげた、背の高い男にうなずいた。
「おはいり、ポール」と、かれはいった。「ちょっと話があるんだ」
弁護士は、ブルノルドから受けとったガラスの眼を、ポケットからとり出して、ポール・ドレイクにわたした。
探偵は、物めずらしそうに、それをしらべた。
「ガラスの眼玉のことについて、なにか知っているかね、ポール?」
「たいして知らんね」
「じゃあ、近いうちに、たっぷり知るようになるよ」
「よろしい、さっさといってくれ」
「ボルチモア・ホテルに行って、一部屋とるんだ。職業別の電話帳を見て、どこでもいいから、義眼の卸屋を見つけて、そこへ電話をかけるのだ。よその土地から来た商人だといってね、充血した義眼を半ダースほどほしいという客があるから頼むってね。見本は、使いの者に届けさせるから、それに似合ったのをほしいというのだ。でたらめの名前をいうんだよ。どこか辺鄙《へんぴ》な土地から来たもので、この商売は、はじめたばかりだというんだね。
卸屋なら、在庫の義眼をたくさん持っているはずだ。できは、一流の職人が誹《あつら》えで作ったほど、立派なものはないだろう。ちょっと考えたって、註文して作らせた服と、安っぽいレディメイドとがくらべ物にならんのと同じほど、違うのはわかりきったことだ。しかし、卸屋は、この見本の眼に似通ったのをえらんで、そっくりに充血させることができるものなんだ」
「どういうことなんだ――そっくりに充血させるって?」と、ドレイクがたずねた。
「外側に、血管をくっつけるのさ。赤いガラスを使ってやるらしいんだね。さきざきいいお得意になりそうだと思ったら、手っ取り早くやってくれるだろうから。そう思わせるんだね、遠い町から来た新米の商人だといってね」
「義眼というやつは、どれくらいするもんだね?」
「知らんね──一つ十ドルか二十ドルじゃないかな」
「出かけて行って、じかに掛け合っちゃいけないんだね?」
「いかん。きみの顔を知られちゃ困るんだ。どこから来た人間か、どこへ行ったかもわからせちゃいけないんだ。でたらめの名を使って、ホテルに泊りこむんだ。相手の商人にも、でたらめの名をいうんだ。できるだけ、目立たないようにするんだ。ボーイにやるチップも、多すぎてもいけないし、すくなすぎてもいかん。要するに、後になって、きみのことを調べ上げようとしても、誰一人おぼえていそうにない、ごくありふれた客になるんだ」
ポール・ドレイクのぼんやりした眼が、じっと、弁護士の顔を見つめた。
「誰かが、おれのことを調べあげるというのかい?」と、かれはたずねた。
「たぶんね」
「おれは、法律を犯すことになるのか、ペリイ?」
「ぼくの手にあまるようなことにはならんよ、ポール」
「オーケー。いつから、かかるんだね?」
「いますぐだ」
ドレイクは、義眼をポケットに入れ、うなずいてから、ドアの方へ向かった。
ペリイ・メイスンは、受話器をとりあげて、デラ・ストリートにいった。「いいよ、デラ、マクレーンさんと弟を通してくれ」
第二章
バーサ・マクレーンは、低い、鋭い口調で、いっしょに来た若い男に話しかけた。男は、首を振って、なにかぶつぶつと小声でいい、ペリイ・メイスンの方に顔を向けた。
メイスンは、椅子《いす》をすすめて、
「バーサ・マクレーンさんですね?」と、たずねた。
女は、うなずき、若い男の方を向いて、
「弟のハリーです」
メイスンは、二人が腰をおろすのを待って、やさしい声で、「ご用向きは、どういうことでしょう?」といった。
女は、強い決意のきらめいている目を、じっと、かれにあてて、
「どなたですの」と、女はたずねた。「いま、ここを出ておいでになったのは?」
ペリイ・メイスンは、眉をあげた。
「ご存じでしょう。あなたたちに話しかけたのを聞いたように思いましたがね」
「わたくしにじゃないんです。ハリーに、声をおかけになったのです」
「じゃ、ハリーさんにお聞きになればわかるでしょう」
「ハリーは、いってくれないんですの。わたくしの知ったことじゃないというんです。どうぞ、聞かせてくださいまし」
弁護士は、首を振って、微笑を浮かべた。やがて、やさしい声で、「どういうご用で、いらしたのですか?」といった。
「あの方のことを聞かせていただきたいんですけど」
弁護士の顔から、微笑が消えた。
「なんといっても」と、かれはいった。「ここは法律事務所ですからね。よろず案内所じゃないのでね」
一瞬、女の眼に、怒りが燃えた。やがて、女は、平静をとりもどした。
「そうですね」と、女はいった。「おっしゃる通りですわね。かりに、わたくしの事務所に誰かが来て、いま出て行ったばかりの人のことを知ろうとしたら、わたくしなら──わたくしなら──」
「あなたなら、どうします?」と、ペリイ・メイスンはうながした。
女は、声を出して笑いながら、いった。「きっと、嘘をついて、知らないといいますわ」
メイスンは、シガレット・ケースをあけて、女にすすめた。
女は、ちょっとためらってから、一本をとり、馴《な》れた手つきで、親指の爪《つめ》にとんとんとたたきつけ、メイスンの差し出したマッチの方へ、乗り出して、深く吸いこんだ。メイスンは、ハリー・マクレーンにもすすめたが、ハリーは、黙ったまま首を振って、ことわった。メイスンは、自分も煙草に火をつけ、ゆっくり椅子にもたれかかって、若者から若婦人へと目を移し、そのまま、話し出すのを待ち受けるように、バーサ・マクレーンに目をとめていた。
女はスカートの具合をなおして、「ハリーが困っているんですの」といった。
ハリー・マクレーンは、不安そうに、椅子の上で身を動かした。
「あなたからおっしゃいよ、ハリー」と、女は、たのむようにいった。
「姉さんがいいなよ」と、ハリー・マクレーンは、前と同じような、低い、はっきりしないいい方でいった。
「あの」と、女は、弁護士にたずねるように、「ハートリ・バセットという人のことをお聞き及びでしょうか?」
「その名前なら、ラジオで聞いたような気がしますね。自動車金融をやっているんじゃありませんでしたかね?」
「ええ」と、声に感情をこめて、女はいった。「そうなんですの。どんなものにだって、金を貸していますわ。自動車金融って、ラジオじゃ広告していますけど、広告していないことにでも、むやみに金を貸していますわ。盗んだ宝石を買ったり、密輸入のくろうと筋に金を貸したりだって、しかねない人ですわ」
弁護士は、妙なふうに眉をあげて、なにかいいそうにしたが、その代わりに、煙草の煙をはき出した。
「そんなこと、姉さんだって証明できないんじゃないか」と、ハリー・マクレーンが不機嫌《ふきげん》な小声でいった。
「あなたが話して聞かせたんじゃないの」
「あてずっぽうをいっただけさ、みんな」
「いいえ、そうじゃなくってよ、ハリー。本当のことをいってたんじゃないの。あの人のところで働いていたのだから、あの人がどんな商売をしているか、知っているはずだわ」
「ハリーさんがお困りになっているのは、どういうことなんですか?」と、メイスンはたずねた。
「ハートリ・バセットのお金を、三千ドル以上も使いこんだんですの」
弁護士は、ハリー・マクレーンに目を移した。ハリー・マクレーンは、しばらく、反抗するように、その視線を受けとめていたが、やがて、その目を伏せ、やっと聞こえるか聞こえないかの小声でいった。「ぼく、返すつもりなんです」
「バセット氏は、そのことを知っているんですか?」と、メイスンはたずねた。
「知っています」
「いつですか、かれが気がついたのは?」
「昨日です」
「どういうふうにして使いこんだのですか?」と、メイスンは、若者の方に向きなおってたずねた。「長い間のことだったのですか? 一度に、それだけの穴をあけたのですか、それとも、すこしずつだったのですか、それで、その金はどうしたのですか?」
ハリー・マクレーンは、助け舟を求めるように、姉の方を見た。姉は、「四回なんですの――一度に、千ドル近くずつ」
「どういうふうにやったのです?」
「借用証書をにせのにすり変えたのです」
弁護士は、額《ひたい》に八の字をよせて、いった。「元の証書をなんとか始末でもつけない限り、使いこみができるとは思えませんがね」
ハリー・マクレーンが、この部屋へ来て以来、はじめて、声をあげていった。「そんなこまかいことに立ち入る必要はないよ、姉さん。用事だけを話したらいいんだよ」
「なにをしてほしいとおっしゃるのですか?」と、メイスンはたずねた。
「バセットさんに、お金を返していただきたいのです。つまり、わたくしがお金を返せるように、バセットさんと話をつけていただきたいのです」
「全額をですか?」と、メイスンはたずねた。
「最後には、全額をです。さしあたってお返しするのは、千五百ドルとちょっとしかございません。残りは、月賦でお返ししようと思うのです」
「働いておいでなんですね?」と、メイスンはたずねた。
「はい」
「どちらへ?」
女は、ちょっと頬を染めて、いった。「そこまで申しあげなくちゃいけないのでしょうか?」
「そうかもしれませんよ」と、かれは、女にいった。
「申しあげなくちゃいけないのでしたら、後からでもよろしいでしょう。わたくし、ある有力な実業家の秘書をしていますの」
「給料は、どれだけとっておいでです?」
「そんなことも必要ですの?」
「そうです」
「どうしてですの?」
「一つには、料金をどれだけいただくか、それで、きめられますからね」と、メイスンは、女にいった。
「わたくしがしています仕事から考えて、すくなすぎるくらいですわ。使用者というものは、せいぜい元をとらなくちゃいけないものなのでしょうね」
「どれだけです?」と、メイスンはたずねた。
「週に四十ドルですの」
「扶養していらっしゃるのは?」
「わたくしの母です」
「いっしょにお暮しですか?」
「いいえ、デンバーにおります」
「いくら仕送っておいでです?」
「月に七十ドルですわ」
「身よりは、あなただけなんですね?」
「ええ」
「ハリーさんはどうです」
「弟は、まだ仕送りができるまでにはなっていませんの」
「ずっと、ハートリ・バセットのところで働いていらしたのですね?」
「そうです」
「給料は」と、メイスンはたずねた。「どれだけとっておいでです、ハリーさんは?」
ハリー・マクレーンがいった。「とても、母さんに仕送りするどころじゃなかったんです、ぼくがとっているだけじゃ」
「いくらでした?」
「月に百ドルです」
「男の方が、女よりも暮しにかかりますわ」と、バーサ・マクレーンが口を添えた。
「バセットの店には、どれくらい働いておいででした?」
「六か月です」
メイスンは、じっと若者を見ていてから、そっけなくいった。「すると、その間、毎月、七百五十ドル以上かせいだわけですね?」
ハリー・マクレーンは、心からびっくりして、いっぱいに目を見開いた。
「月に七百五十ドルですって!」と、かれは、叫ぶようにいった。「とんでもない。バセット爺《じい》さんが、そんな給料なんかよこすものですか。月に百ドルぽっきり、それさえ、しぶしぶよこすんです」
「その六か月の間に」と、メイスンはいった。「きみは、四千ドルほど使いこんだでしょう。それを、きみの給料に加えると、だいたい、月に七百五十ドルの収入ということになるじゃありませんか」
ハリー・マクレーンの口のはしが、ぴりぴりと震えた。かれは、「そんな勘定の仕方はありませんよ」といったが、そのまま黙りこんでしまった。
「その金は、すこしはお母さんに仕送りましたか?」と、メイスンがたずねた。
その問いに答えたのは、バーサ・マクレーンだった。
「いいえ」と、かの女はいった。「なにに使ったのか存じませんの」
メイスンは、また若者の方を向いて、
「なにに使ったのです、ハリーさん?」
「なくなってしまったのです」
「どこへ?」
「なくなってしまったと、いってるじゃありませんか」
「なにに使ったか、知らしてもらいたいのですがね」
「なぜ、そんなことを知りたがるんです?」
「きみを助けてあげるとすれば、そういうことも知らなければならないからです」
「大げさな助けようですね」
メイスンは、慎重にゆっくりと、握りこぶしでデスクを叩きつけた。そのひびきで、一語一語、自分の言葉の調子をとりながら、
「もしも」と、かれはいった。「事件の真相を知りもしないで、わたしが、あなたがたを助けようとしているとお考えなら、正気の沙汰《さた》じゃありませんよ。どうです、事実をうち明けてくれますか、それとも、別の弁護士をさがしますか?」
「弟は、誰かよその人に、その金をやったのです」と、バーサ・マクレーンがいった。
「女ですか?」と、メイスンがたずねた。
「ちがいます」と、自尊心を傷つけられたように、顔を赤らめて、ハリーがいった。「女などに、金をやる必要なんかありません。よろこんで、向こうからくれますよ」
「誰にやったのです?」
「元手として、ある人に渡したのです」
「誰です?」
「それは、いえません」
「いってくれなくちゃいけません」
「いいません。人を裏切ったりはしません。ぼくに裏切らせようとしたって、それだけは駄目です。姉さんも、ぼくを裏切らせようとしました。でも、ぼくは、裏切りなんかしません。裏切るくらいなら、死ぬまででも牢屋にはいっています」
バーサ・マクレーンは、弟の方へ向きなおって、
「ハリー」と、訴えるような声でいった。「さっき、この部屋にいたあの人じゃないの──そこのドアのところで、あなたに話しかけた人じゃないの?」
「ちがうよ」と、ハリーは、喧嘩口調でいった。「あんなやつなんか、一度会ったきりだ」
「どこで会ったの?」
「姉さんの知ったことじゃないよ」
「なんという人なの?」
「やつのことなんかいいじゃないか」
姉はペリイ・メイスンの方を向いて、いった。「弟には、誰か仲間があったのですわ。その人が、弟から金をしぼり取ったのです。自分はつかまらずに金が手にはいるように、弟をあやつったのですわ」
「どうやって、金をごまかしたのです?」と、メイスンはたずねた。
「弟は、借用証書の|綴じこみ《ファイル》をまかされていたのです。バセットという人は、途方もない利息をとるのです。よっぽどせっぱつまってでもなければ、世間じゃ、バセットから金を借りる人などありません。どんな物でも担保にとって、法律のゆるす限りの利息をとるのです。借りた人だって、ほかに貸し手が見つかることがありますわね。そうすれば、その人は、べらぼうな利息を払わないですむように、期限前でも、大いそぎで借りた金を返しますわね。
そこが、弟のつけ目でしたのね。お金を返しに来た方は、ハリーに現金を渡します。ハリーは、それを受けとって、借用証書を返します。そこで、弟は、サイン入りの贋証書を作って、それを借用証書のファイルに入れておくのです。バセットさんがファイルを調べても、贋の証書があるものですから、気づかれずにすむというわけです。そうして、ハリーは、その贋の借用証書の利息を払いつづけるのです」
「どうして見つけ出されたのです?」と、メイスンがたずねた。
「一枚の借用証書の利息の支払期日が来たのですけど、ハリーは、すぐには、支払いに間に合うだけのお金ができなかったのです。弟は、まだ四、五日はあると思って、そのままにしておいたのです。ところが、バセットさんが、ゴルフ・クラブで、ひょっこり、そのお金を借りた人に会ったのです。お金を催促《さいそく》すると、その人は、もう四か月も前にすっかり返済したと答えたんです。その証拠に、『支払済』の判の捺してある最初の証書を見せたのです。それで、バセットは、すっかり調べあげたのですわ」
「ハリー君に仲間があるとお考えになるのは、どういうことからです?」
「あるということだけは、わたくしに申しましたの。お金をとったのは、その仲間の人だったのです。ばくちに使ったのじゃないかと思うんですけど」
「どんなばくちです?」
「なんでも手あたりしだいですわ──ポーカーでも、ルーレットでも、競馬でも、富くじでも……おもに、競馬と、富くじですわ」
「もし、爺《じじ》いの馬鹿が頑固に返せといいはったら、一どきに返さなくちゃならないんです──全部の金を」と、ハリー・マクレーンがいった。
ペリイ・メイスンは、バーサ・マクレーンの方を向いて、じっと品定めするような目で、相手の顔を見つめた。
「その千五百ドルというのは」と、かれはいった。「あなたの貯金なんですね?」
「それだけ、貯蓄銀行にありますの――ええ」
「給料からためたお金ですね?」
「ええ」
「お母さんには、月に七十ドルずつ、送りつづけておいでになったのでしょう?」
「そうなんです」
「ハリーさんが刑務所に入れられないように、使いこんだだけは全部、返済しようとおっしゃるんですね?」
「ええ、そんなことになったら、母さんは死んでしまいますわ」
「それで、給料から払うおつもりなんですね?」
「はい」
「ハリーさんが失業すると」と、メイスンはいった。「あなたの肩にかかるわけですね」
「ぼくのことなら、心配いりませんよ」とハリー・マクレーンがいった。「だいじょうぶです。仕事を見つけて、姉さんに、すっかり返します。姉さんの給料から払ってもらわなくちゃならないようなことにはなりませんよ。三十日もしないうちに、すっかり姉さんに返しますよ」
「どんな方法で」と、ペリイ・メイスンはきいた。「その金を返すつもりですか?」
「いろいろ有利な投資をして、返すつもりです。そうしょっちゅう、運が悪いってことはありませんからね」
「というと」と、メイスンはいった。「ばくちをつづけるということですね」
「そうはいいませんでしたよ」
「どんなことに投資する考えなんですか?」
「どんな投資をするつもりか、あなたにいう必要はないでしょう。あなたは、どんどん事を運んで、バセットと話をつけてくれれば、いいんです。ぼくのことは、姉さんと相談してうまくやりますよ」
メイスンは、決定的な口調で、
「それでは、わたしの意見を申しあげましょう」といった。「バセットには、一文もお返しにならんことですね」
「でも、どうしても返さなくちゃいけないんです。金はあの人のものを使いこんだのですから」
「一文だって、返さなくてもいいでしょう」
「あの人は、明日の夜まで待ってやるから、金を返せといっているのです。その期限が切れたら、地方検察局に訴える気なんです」と、ハリー・マクレーンは、弁護士が事態を誤解しているとでもいうような口振りで、いった。
「刑務所は」と、メイスンはいった。「きみのような人間には、一番ふさわしいところだ!」
バーサ・マクレーンは、目をみはった。
「わたしは、長いこと、弁護士をしています」と、メイスンは、二人にいってきかせた。「ずいぶんたくさんの人が、わたしに会いに来ては、去って行くのを見ました。きみのようなタイプの人間にも、これまでにたくさん会いました。そういう連中も最初の罪は、ふつうは、ごく些細な罪で、誰かが大変な犠牲をはらって、その罪をかくしおおせるのです。ところで、わたしは、十対一で賭《か》けてもいいと思うのですが、ハリーさんのためにうめ合わせをなさるのは、今度がはじめてではない──でしょう?」
ハリー・マクレーンが、だしぬけに口を出した。「そんなことは、なんにも関係がないよ。自分をなんだと思ってるんです、いったい?」
ペリイ・メイスンは、バーサ・マクレーンの顔から目をはなさなかった。
「はじめてですか?」と、かれはたずねた。
「一度か二度、小切手の後始末をさせられましたわ」と、ゆっくり、かの女はいった。
「そらごらんなさい!」と、かれは、女にいってきかせた。「弟さんは、おちかけているのです。あなたは、全力をつくして、防ぎとめようとしておいでになる。弟さんは、いつでも、あなたが助けてくれるということを知っているのです。まず最初が、不渡り小切手の発行でした。あなたは、その後始末をなすった。弟さんは、後悔をして、決して二度とこんなことはしないと約束をした。弟さんは、ほら吹きです。仕事を見つけるつもりだという。あれやこれや、するつもりだという。いうだけなら、ちっとも金はかかりません。ところが、人に受けとってもらえるのは、現金だけです。弟さんは、自分でするつもりだと口に出していったことは、いつの間にか、できるものだという気になっているのです。しかし、自分から出かけて行って、実行するだけの元気はないのです。仕事をさがす気もないのです。あなたからもっと金をせしめて、『こんどこそ間違いなし』の勝負をするつもりなんです。そして、『大穴』をあてて、ポケットを現なまでふくらませて帰れると思っているのです。
弟さんは、『大立て物』になりたがっている連中の一人なんです。しかし、世の中へ出て、骨身をおしまず働いてそうなるだけの勇気はないのですね。ですから、口先をはたらかせて、てっとり早いことをやってのけようとする。失敗するとひどくしょげて、誰かに、自分の悲痛な話を聞かせたがる。ちょいといい目が出ると、友だちを寄せ集めて、親分気取りでのし歩く。すると、そのつぎにはまた、がんとくらわされると、ぺしゃんこになって、そこらじゅうをのたうちまわり、あなたの膝に頭をのせて、涙ながらに自分の心配事をうち明ける。すると、あなたは、やさしく頭をなでてやって、わたしが守ってあげるとかなんとかおっしゃる。それで、片がつくのです。
この若い人に必要なのは、無理にでも、一本立ちの生活をさせることです。一番末っ子の男の子で、長いこと、お母さんや姉さんなど、女のひとに甘やかされすぎたんですね。あなたも、苦労なすったことでしょうな。お父さんを早くなくなされて、あなたが、弟さんを学校へおやりになったのでしょう。そうでしょう?」
「わたくしが実業学校《ビジネス・カレッジ》までやらせましたの。速記と簿記も習わせました。それだけがせいいっぱいでしたわ。どうかすると、自分がいけなかったのじゃないかと思うこともありますわ。もっと苦労をして、立派な教育を受けさせるのだったと思いますの。でも、父がなくなってからは、母を見なくてはなりませんでしたし、それに――」
ハリー・マクレーンは、立ちあがって、
「行こうよ、姉さん」と、いった。「回転椅子にふんぞり返って、弱味のある人間にお説教を聞かせ、それで目の玉の飛び出るような料金をふんだくるなんざ、馬鹿にしてらあ。そんなものを聞いて、ぐずぐずしてるこたあないよ」
「ところが、そういうわけにはいかないよ」と、ペリイ・メイスンは、かれにいって聞かせた。
かれは、立ちあがって、椅子を指さし、
「もどって、そこへ掛けたまえ」といった。
ハリー・マクレーンは、むっと反抗するように、かれを見返した。メイスンがさっと一足踏み出すと、マクレーンは、落ちこむように椅子に腰をおろした。
メイスンは、ぐるっと、バーサ・マクレーンの方を振り返った。
「あなたは、法律上の助言をお望みでしたね」と、かれはいった。「よろしい、申しあげましょう。バセットに弟さんを訴える気がないということがわかっていても、弁償の条件の示談を成立させなければ、この使いこみを償《つぐな》うことはできません。その上に、あなたの自由になる収入から、バセットに月賦をきちんと支払い、お母さんを養い、あなた自身の生活費を払い、それと同時に、弟さんが賭けをつづけて行くために、毎月あなたからくすねる金のうめ合わせをするのは、どう考えても無理ですね。
弟さんが執行猶予になるように、努力してみましょう。しかし、執行猶予になるためには、弟さんが賭け仲間とすっかり縁を切らなければなりません。金を渡した相手と、その金の使途を、法廷で述べなければなりません。姉さんに甘やかされて、駄目になった子供のような真似《まね》をするのをやめて、一人立ちすることをおぼえなければなりません。ひょっとすると、それで大人《おとな》になれるかもしれませんよ」
「でも、まだわかっていただけませんのね」と、いまにも泣き出しそうな声で、バーサ・マクレーンはいった。「どうしても、お金は返さなくちゃなりません。弟が、使いこんだお金ですもの。弟が刑務所に入れられようと、入れられまいと、どっちだって構いませんわ。できるだけ早く、バセットさんにお金を返したいんです」
「おいくつですか?」と、メイスンはたずねた。
「二十七ですの」
「弟さんは?」
「二十二です」
「どういうわけで、弟さんの使いこみを、あなたが返済しなきゃいけないのですか?」
「わたくしの弟だからですわ。それに、母のことも考えなくちゃなりません。おわかりいただけませんでしょうか? 母は、病身の上に、年をとっていて、もう長くないのです。ハリーは、母にも大事にされているんですの」
「お気に入りなんですね?」と、メイスンはたずねた。
「ええ」と、かの女は、ゆっくりいった。「もちろん、家じゅうで、たった一人の男ですわ。父がなくなってから、男といえば、この人しかいなかったのですもの──つまり、この人は──」
「なるほど」と、ペリイ・メイスンはいった。「それで、あなたも、一身を弟さんのために捧げていらしたんですね。こんどのことも、お母さんにはお知らせにはなれないでしょうね?」
「とんでもない、そんなことできませんわ! 母は、死んでしまいますわ。母は、ハリーのことをえらい実業家だと、バセットさんの片腕だと思っているんですの。バセットさんのことは、この町一番の大銀行家だと思っていますの」
ペリイ・メイスンはデスクをとんとんとたたいて、
「そして、あなたは、バセットが訴えようと訴えまいと、金は返すお考えなんですね?」
「ええ」
メイスンは、じっと、ハリー・マクレーンを見おろして、
「ねえ、きみ」と、いった。「きみは、一度も運にめぐまれたことがなかったとかいっていたね。今晩は寝るときに、膝《ひざ》まずいて、病弱な母さんを持っていることを、神さまに感謝したまえ。というのは、そういうお母さんを持っているからこそ、ぼくは、自分の立派な判断にさからって、執行猶予をとってあげようとしているんだからね。しかし、きみとは、しょっちゅう連絡をとるぜ。きみの土性骨をたたきなおしてやるか、さもなければ、おっぽり出してやるからね」
メイスンは、デスクの上の受話器をとりあげて、デラ・ストリートに、「ハートリ・バセットを呼び出してくれ、金貸し業だ」といった。
かれは、受話器を手にしたまま、バーサ・マクレーンの方を向いて、いった。
「ハートリ・バセットを相手にすると、厄介なことになりますね。あなたの持っているものならなんでも――あなたの魂までも、ほしがるでしょうね。骨までしゃぶろうってタイプの男ですからね」
ハリー・マクレーンが、「ハートリ・バセットのことなら、心配いりませんよ。われわれのできる最上の提案を、申し出てください。そうすれば、バセットも受諾するでしょう」
「どこから、そんなしゃれた言いぐさを仕入れて来たのだね?」と、メイスンは、軽蔑《けいべつ》するような調子でいった。「われわれのできる最上の提案なんて」
「そうですよ。ぼくと姉さんとですよ」と、マクレーンがいった。「姉さんには、ぼくが返すんですからね」
メイスンはうなずいて、いった。「いまは、そう思っていないかもしれないが、返すことになるだろうね。ぼくが、返すように心配してあげよう。だが、どうして、バセットがきみの提案を承知すると、それほどはっきり信じているんだね?」
「承知しなきゃならんからです。いまに、どうしても、そうせずにはいられないように、させられますよ」
「誰からだね?」
「あの家にいて、ぼくに好意をよせてくれている、ある人からです」
「きみは、万一の際の頼みにならん友だちしかつくれないタイプだと思っていたがね」と、メイスンは、かれにいって聞かせた。「きみぐらいの個性しか持たん人は、どんなときにも離れない友だちはできないものだがね」
「そんなことしか考えないようじゃ」と、マクレーンは、反抗的にいった。「馬鹿にされますよ、あの家には、どんなことでもバセットにさせることのできる人がいて、その人は、どこまでも、ぼくを支持してくれるということに、あなたも気がつくでしょうよ。あなたは話を持ち出して、そのときには、バセットがなにをいおうと、気にかけずにいてくださればいいんです。きっと、ノーというでしょうが、一時間とたたないうちに電話をかけて来て、考えなおして、承知することにしたといいますよ」
ペリイ・メイスンは、若者を見おろして、ゆっくりと、ひと言ひと言考えながら、いった。「きみは、バセット夫人といい仲だったのかね?」
マクレーン青年は、頬を赤らめて、こたえかけた。受話器の中で声がしたので、メイスンは、受話器を耳にあてた。
「もしもし」と、かれはいった。「バセットが出たかい?……ハートリ・バセットさんですか? はあ、弁護士のペリイ・メイスンです。ご相談したいことがあるんですが、事務所までご足労願えませんでしょうか?……承知しました、こちらから伺いましょう。今晩ではいかがでしょう?……ええ、今日の午後なら都合《つごう》がいいんですが……結構です、今晩うかがいましょう。事務所も、お宅といっしょでしたね? では、八時三十分にまいります……ほう、用件をご存じですか、それでは……結構、では、八時三十分に」
ペリイ・メイスンは、受話器を元にもどした。
「バセットは、どうして、きみがここに来ることを知っていたんだね?」と、かれはたずねた。
ハリー・マクレーンは、自信に満ちた物腰で、いった。「ぼくが話したから知ってるんですよ」
「あなたが話したの?」と、バーサ・マクレーンがたずねた。
「そうさ」と、ハリーはいった。「ぼくを刑務所にぶちこむだのなんだのと、うるさくいやがるから、こいつは一つ、おどかしてやる方がいいと思ったんだ。それで、ペリイ・メイスン氏が、ぼくの弁護士になることになっているのだから、自分こそ足もとに気をつけるがいい。でないと、自分こそ、ペリイ・メイスン氏のために、刑務所に行かなきゃならないことになるかもしれないぞって、いってやったんだ」
メイスンは、ものもいわず、にがい顔をして、ハリー・マクレーンをにらみつけていた。
バーサ・マクレーンがメイスンに近よって来て、その腕に手をかけた。
「ほんとうに」と、かの女は、「ありがとうございました。わたくし、バセットさんにはできるだけのことをいたしますから。できるだけ早く、お返しいたします──ご迷惑をおかけしたお金と、その利息も全部。その金額の借用証書を入れますわ。月一分の利息をつけていただくことにしたいと存じますの。月一分というのが、あの方のお貸しになるときのきまりになっておりますの」
メイスンは、深く息をすいこんで、ゆっくりといった。「ハートリ・バセットのことは、おまかせください」デスクの上の、まっ白な用紙を一枚とって、鉛筆で数字を走り書きして、それをバーサ・マクレーンにわたしながら、いった。「それが、わたしのアパートの電話番号です。なにか変わったことがあったとき、事務所にいませんでしたら、そこに電話をかけてください。弟さんも、いずれ話そうという気になると思います。そのときには、わたしも、きかせていただきます」
「仲間のことですのね?」
「そうです」と、メイスンはいった。
厚かましいほどの自信を顔に浮かべて、ハリー・マクレーンが、吐き出すように、
「馬鹿いってら」といった。
バーサ・マクレーンは、弟のいったことが聞こえないふりをした。
「先生へのお礼は」と、かの女はきいた。「いかほどでございましょうか?」
メイスンは、にやっと笑いを浮かべて、いった。「そんなことはいいですよ。さっき、出て行った男が、自分の分ばかりか、あなたの分まで、たっぷり払って行ってくれましたからね」
第三章
『バセット自動車金融商会――入り口』と書いたドアのすぐ左に、もう一つ別のドアがならんでいて、それには真鍮《しんちゅう》の表札がうちつけてあって、
ハートリ・バセット ──私宅
行商、物乞い、お断わり
と記してある。
ペリイ・メイスンは、事務所へのドアをあけて、はいって行った。はいったばかりの部屋には、人気《ひとけ》がなかった。つきあたりのドアに、『私室《プライベート》』と書いてある。壁の押しボタンの上に、『ベルを鳴らして、お待ちください』とある。
ペリイ・メイスンは、そのベルを鳴らした。
ベルが鳴るか鳴らないうちに、ドアがあいた。灰色の口ひげを短く刈りこみ、こめかみのあたりに、半白の髪の毛がもじゃもじゃと残っている、厚い胸の男が、薄灰色の眼で、じっとペリイ・メイスンを見つめた。その眼の中心の、針のさきほどの黒いひとみには、人の心をまどわすような怪《あや》しい光がある。
左の手を素早く、ぐいとつき出して、腕時計を見た。
「約束の時間通り」と、かれはいった。「一分と違いませんな」
ペリイ・メイスンは、なんにもいわずに、頭をさげただけで、ハートリ・バセットの後から、なんにも飾り気のない部屋にはいって行った。
「ここはいけません」と、バセットはいった。「ここは、貸金をとりたてる部屋だから、あまり裕福らしい様子を見せびらかさない方がいいと思いましてね。それよりも、大きな商談に使う、奥の事務室へまいりましょう。わたしは、ずっとこっちの方が気に入っているのです」
かれは、一つのドアをあけて、贅沢《ぜいたく》な調度をそろえた部屋に案内した。隣りの部屋からは、タイプライターをたたく音が聞こえて来た。
「夜までお仕事ですか?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「いつも、夜も二時間ばかり、店をあけております。それというのも、勤めのあるお客の用をたすためでさ。仕事もないくせに、自動車をかたに金を借りに来る連中よりも、仕事をもちながら金の必要にせまられている人の方が、なんといったって信用できますからね」
かれは、椅子をすすめた。メイスンは、それに腰をおろした。
「ご用件は、ハリー・マクレーンのことでしたな?」と、バセットがきいた。
弁護士がうなずくのを見て、バセットは、ボタンを押した。隣りの部屋のタイプライターの音がやんで、椅子をうしろに押す音が聞こえ、やがて、ドアがあいた。肩幅のせまい、四十五歳ぐらいの、灰色の眼をした男が、ロイド眼鏡の奥から、ふくろうのように、じっと見つめた。
「アーサー」と、バセットがいった。「マクレーンの使いこんだのは、正確なところどれだけだったかな?」
「三九四二ドル六十三セントで」と、戸口に立ったままで、相手の男はいった。しわがれた、いささかも感情らしいものを含んでいない声だ。
「利息もはいっているんだね?」と、バセットはたずねた。「月一分の割で?」
「月一分の利息もはいっています」と、はっきり相手はいった。「使いこんだ日からの計算で」
バセットは、「それだけだ」といった。
戸口に立っていた男は、一足さがって、ドアをしめた。しばらくすると、タイプライターの音が、機械じかけのように規則正しくひびきはじめた。ハートリ・バセットは、にっこり、ペリイ・メイスンに笑顔を見せて、いった。「期限は、明日の午後になっておりますが」
メイスンは、シガレットケースから、煙草を一本ぬき出した。バセットも、チョッキのポケットから葉巻をとり出した。二人は、同時に火をつけた。メイスンは、ふうっと煙を吹きかけて、マッチを消して、「おたがいに、誤解しなきゃならん理由は、まったくありませんな」といった。
「ぜんぜんありませんな」と、バセットは、あいづちをうった。
「事実は、わたしにはわからないのですが」と、メイスンはつづけていう。「しかし、わたしは、マクレーンがその金を使いこんだという前提のもとに、事件を引きうけています」
「自分からそう白状したのですからな」
「そこで、その点は論じないことにして、あの男が、実際に使いこんだと仮定しましょう」
「その点にふれない方が、法廷で弁護しやすいとおっしゃるんですな?」そうたずねたバセットの眼つきが、けわしくなった。
「わたしは、ただ単に事実を認めないというだけです」と、メイスンはいった。「わたしの依頼人が認めたければ、認めてもいいが、わたしは、決して認めません」
「それで」と、バセットはうながした。
「あなたは、ご自分の金をとりもどしたい」
「もちろんですよ」
「マクレーンは、金をもっていない」
「仲間があったのですよ」
「その仲間をご存じですか?」
「いや、こっちがききたいぐらいでさ」
「なぜです?」
「その仲間が金をもっているからです」
「どうして、金をもっていると思うのです?」
「実際に、そう信じているからです」
「それなら、なぜ、その仲間が金を返さないのですか?」
「なにからなにまで、そんなわけを、わたしが知るものですか。ただ一つ、わかっているわけは、その仲間がばくち打ちだということですよ。ばくちを打つには、金を用意しなけりゃならんというわけですよ。ハリー・マクレーンの胸のうちを、ようく考えてごらんになりゃわかりますけど、大きく一山あててやれと考えているんですよ。ハリーが使いこんだだけの金を、二人でそっくり返しちまえば、かけ金がなくなるぐらいのことは、ちゃんと心得ていまさあ。ばくち打ちってものは、ばくちを打つ元手がいるもんですからな。わたしだって、なにもことさら、やつらに文句もいいませんよ」と、バセットはつづけた。「あの連中が思いこんでるほど、うまくあたるものならね。ところが、あたりっこないんですから。ことに、わたしの金を使って、そんなことができるもんですか。泥を吐くか、刑務所に行くか、どっちかでさあ」
「あなたは」と、メイスンはいった。「起訴はなさらないお考えなんですね」
「そんなことはしませんよ。自分の金を返してもらうつもりですよ」
「使いこんだ金を返済すれば、訴訟をとり下げようとおっしゃるんですね」
「あまりむつかしいことをいわないでおいてくださいよ」と、バセットはいった。「あなたは、ご自分のいい分をよくご存じだし、わたしは、自分のいい分はよく承知しているんですからね。わたしは、ほかの場合には、はっきりいわないかもしれないが、あなたには、はっきりいいますよ。金を返してもらいたいとね」
「そして、マクレーンが、金をもっているとお考えなんですね?」
「いいや、あの男の仲間がもっていると思ってますよ」
「しかし、マクレーンが仲間からとりもどせるなら、もういままでにとりもどしているはずだと、お思いになりませんか?」
「思いませんな」と、バセットはいった。「やつらは、ばくちをするために金を盗んだのです。すこしは、なくなしたでしょうが、まだつづけて行くつもりでいるんですよ。マクレーンの姉が、マクレーンが刑務所へほうりこまれないように、なんとか金をつくるでしょう。そうすりゃ、二人には、ばくちの元手が残るでしょうからな」
「それで?」と、メイスンはたずねた。
「姉も、すっかり返せるだけの金はもっていないのでさ」と、バセットはいった。「千五百ドルとちょっとしか持っていませんよ。マクレーンの相棒の手もとには、二千ドルほど残っていまさあ。わたしは、姉の持っているだけを吐き出させて、それから、相棒をつきとめ、そいつの持っている金をとりあげてやるつもりです」
「どうでしょう」と、メイスンはたずねた。「そんなふうに行きますかね?」
「行きますとも」
メイスンはゆっくりいった。「さしあたり、現金で千五百ドル、残りは、三十ドルずつ月賦でお返しすることにしましょう。姉の代理人として、そういうことでお願いしたいのですが」
「姉の金ですか?」と、バセットはたずねた。
「そうです」
「全部ですか?」
「そうです」
「弟のほうは、一文も出さないのですね?」
「出しません」
「千五百ドルは現金でいただいて、残りは、百ドルずつ、姉から月賦でもらいましょう」と、バセットはいった。
メイスンは、顔を紅潮させ、ぐっと息を吸いこんで、やっとのことで気持ちを押さえつけると、ふうと煙草の煙をはき、抑揚《よくよう》のない口調でいった。「そんなことは、あの女《ひと》にはできません。病気の母親を養っていますし、そんなに給料から引かれたら、生きて行かれなくなります」
「わたしの方は、面白くもありませんな」と、バセットはいった。「そんなすこしずつ、月賦で返してもらったって。百ドルずつの月払いということにすれば、割合に早く片づくじゃありませんか。そのうちには、ハリー・マクレーンも仕事が見つかるでしょう。損しただけ、新しい雇い主におっかぶせられまさあね」
「どういうことですか」と、メイスンはきいた。「新しい雇い主に、損をおっかぶせるというのは?」
「なにか、新しい雇い主から、新手の使いこみ方を工夫して、わたしの方の穴を埋めりゃいいということでさ」
「むりやりに、泥坊を働かせるということなんですね?」
「そんなことはありませんよ。こっちの荷物を、あっちにしょわせたらどうかといっているだけですよ。やっこさんは、わたしの金を使いこんだ。いままでは、わたしが重荷をしょったんですから、こんどは、誰か別の人間がしょえばいいというんでさ」
メイスンは、声を立てて笑った。「その代わり、こんどは、自分が使いこみの教唆者ということになるかもしれませんよ、バセットさん」
バセットは、ひややかな眼で、じっと、かれを見てから、いった。「それがどうだというんです? わたしは、自分の金をとりもどしたいというんでさ。とりもどし方は、どうだっていいんでさ。罪になるような証拠は、一つもありませんよ。道徳なんて問題は、こっちの知ったことじゃありませんや」
「そうでしょうな」と、メイスンは、相手にいった。
「結構じゃありませんか。これでおたがいの間の誤解というものも一掃されました。わたしは、あなたのご商売のやり方に、あれこれという気はないし、あなたは、わたしの商売のやり方に文句をつける気はおありにならない。わたしは、自分の金がとりもどしたい。あなたは、その話をつけに、ここへ会いに見えた。姉は、あの男が刑務所に入れられることを望まない。わたしは、あなたに条件を申しあげた。それっきりの話です」
「その条件が」と、メイスンは、相手にいった。「問題ですな」
バセットは、肩をすぼめて、いった。「期限は、明日限りです」
指の節《ふし》で、そっとドアをたたく音がした。と思うと、ほとんどすぐにあいた。三十五から四十の間と思われる女が、半ば微笑を浮かべて、ちらっとペリイ・メイスンを見てから、心配そうにハートリ・バセットの方を向いて、
「ごいっしょしてもよくって、ハートリ?」とたずねた。
ハートリ・バセットは、腰をあげようともしなかった。かれは、葉巻から立ちのぼる煙ごしに、女を見た。その顔には、表情のかげさえもあらわれなかった。
「家内です」と、かれは、弁護士に紹介した。
メイスンは、立ちあがって、ほっそりした女の姿をつくづくと眺めて、いった。「はじめてお眼にかかります、バセット夫人」
夫人は、心配そうに、じっと、夫に眼をつけたままで、
「ねえ、あなた、わたくし、この件について、ちょっと申しあげたいことがあるんですけど」
「なぜだ?」
「気になるからですわ」
「なにが気になるんだ?」
「あなたのしようとしていらっしゃることが気になるんです」
「というと」と、かれはたずねた。「ハリー・マクレーンのことが気になるのか?」
「いいえ、ほかにわけがあって気になるんです」
「ほかのわけとは、なんだ?」
「あの人の姉さんがお金を出すんでしたら、あまりひどいことをなさらないでいただきたいのです」
「そんなことは」と、バセットはいった。「わしのきめることじゃないか」
「ご相談に口をいれちゃいけません?」
「いかん」というバセットの声には、まったくなんの感情もなく、眼つきは、つめたく、きびしかった。
しばらく、沈黙がつづいた。バセットは、そっけなくことわったことをやわらげようともしなかった。バセット夫人は、しばらくためらっていてから、身をひるがえして、部屋を横切って行った。夫人は、はいって来たドアから出ずに、隣りの事務室へのドアヘはいって行った。やがて、またドアのしまる音が聞こえた。夫人が隣りの事務室から、玄関へ出て行ったのだ。
ハートリ・バセットがいった。「もう一度、お掛けになるには及びません、メイスンさん。われわれは、おたがいに完全な了解点に達しましたからな。おやすみなさい」
メイスンは、大股に歩いて行って、ぐっと大きくドアをあけ、肩ごしに振り返って、「おやすみ、さようなら」と、吐きすてるようにいった。
かれは、大股に待合室を抜けて、玄関のドアをぴしゃんとうしろ手にしめ、つかつかと三足でポーチを通り抜けた。自分のクーペ型の車の左側へまわって、ぐいとドアをあけ、ハンドルの前にはいりこもうとしたとき、座席の向こうのはしに、誰かがちぢこまっているのに気がついた。
かれは、はっと警戒するように、身をかたくした。すると、女の声がいった。「どうぞ、ドアをおしめになって、ついそこまで走らせてくださいませ」
バセット夫人の声だった。
メイスンは、ちょっとためらった。いらだたしそうな色が顔にあらわれたが、すぐ、好奇心にかわった。ハンドルの前に身を入れて、一ブロック先の角を曲がり、車を停め、あかりを消し、エンジンのスイッチを切った。バセット夫人は、身を乗り出し、メイスンの袖《そで》に手をかけて、いった。
「どうぞ、あの人のいう通りになすってくださいまし」
「ご主人の要求は」と、かれはいった。「人間として不可能なことです」
「いいえ、不可能じゃありませんわ」と、夫人はいった。「わたくし、そのことについて、あの人のすることを、知りすぎるほど知っておりますわ。かぶらからでも血をとる人ですわ。最後の一滴まで血をしぼりとる人ですけど、不可能を要求するようなことは決してしませんわ」
「あの男の姉さんは、病身の母親を養っているんですよ」
「でも、きっと」と、バセット夫人はいった。「そういう方には、公共保護法の扶助があるんでしょう? いずれにしろ、姉さんがそんなにまですることはありませんわ。文明社会で、人が餓《う》え死にすることなどありませんわね。もし、姉さんが死ぬようなことがあっても、誰かが、お母さんのことは面倒を見ますわ」
メイスンは、腹立たしそうにいった。「すると、あの男の姉さんに、ひと月六十ドルで生活しろ、母親にはびた一文送らなくてもいいというんですね、しかも、やくざのチンピラに横領された、ご主人の金を返済させるために?」
「いいえ」と、夫人はいった。「主人の金をとりもどすためではないんです。金がとりもどせなかったら、主人が、きっとすることをさせないためです」
メイスンは、ゆっくりといった。「それで、そのことをわたしにおっしゃるために、ここまで抜け出しておいでになったのですね?」
「いいえ」と、夫人は、かれにいった。「あることをお願いしたかったのですわ。使いこみのことを申しあげたのは、ふと思いついただけですわ」
「わたしにご相談がおありでしたら」と、かれは、夫人にいった。「事務所へいらしてください」
「あなたの事務所へは伺えませんの。家を出られないのです。しょっちゅう見張られているんです」
「馬鹿なことを」と、メイスンは、夫人にいった。「いったい、誰があなたを見張っているんです」
「主人ですわ、むろん」
「弁護士の事務所へ来ようと思っても、来られないとおっしゃるんですか?」
「ほんとに出られないんです」
「誰が、あなたをとめるんです?」
「主人ですわ」
「どういうふうにしてとめるんです?」
「存じませんわ。でも、きっととめますわ。ほんとに容赦《ようしゃ》しない人ですの。さからったりしたら、きっと殺されますわ」
メイスンは、顔をしかめて考えこんでいたが、やがて、いった。「それで、ご相談というのは、どんなことです?」
「二重結婚ですの」
「それで?」
「わたくし、ハートリ・バセットと結婚しています」
「それはわかっております」
「わたくし、あの人から逃げ出したいのです」
「それで」
「もう一人、わたくしを養ってくれるという人がいるんです」
「結構じゃありませんか」
「その人と結婚したいのです」
「じゃ、バセット氏と正式に離婚しようと思えば、できるじゃありませんか」
「でも、今すぐに、その人と結婚しなくちゃなりませんの」
「すると、バセット氏とは離婚しないで、結婚式をあげたいとおっしゃるんですね?」
「ええ」
「すると、そのもう一人の人は、あなたがバセット氏と結婚しているということは知らないんですね?」
「いいえ」と、夫人は、ゆっくりとした口調で、「知っていますわ」
「知っていて、二重結婚の相手になりたいというんですね?」
「二重結婚にならないように、なんとかしたいと思っていますの、わたくしたち」
「できますよ」と、ペリイ・メイスンはいった。「すぐに離婚の手続きをやってくれる土地に行きさえすればね」
「主人に知れないようにできるでしょうか?」
「知れるでしょうね」
「それじゃ、駄目ですわ」
「そのかわり、結婚もできませんよ」
「できないわけはないでしょう? その結婚が法律で認められるか、認められないかという、それだけの問題でしょう」
「結婚許可証をもらうために、偽証しなければならないでしょうね」
「では、わたくしが偽証したとしたら──どうなりますの?」
弁護士は、振り返って、夫人の横顔をながめて、いった。「さっき、しょっちゅう尾行されているとか、おっしゃいましたね。この車のうしろの歩道のそばに、さっきから車がとまっていることはご存じでしょうね?」
「まあ、知りませんでしたわ!」と、夫人はいった。
夫人は、くるっと振り向いて、うしろの窓からのぞいたと思うと、息がとまったような、叫び声に近い声をあげた。
「どうしましょう、ゼームズですわ!」
「ゼームズというのは?」
「主人の運転手ですわ」
「あれは、ご主人の車ですね?」
「ええ」
「運転手が、あなたをつけて来たのでしょうね?」
「そうにきまっていますわ。こっそり抜け出したと思っていたんですけど、駄目でしたわ」
「さしあたり、どうします……外にお出になりますか?」
「いいえ。この一区劃をぐるっとまわって、宅の前でおろしてくださいまし」
「うしろの車の男は」と、メイスンはいった。「奥さんがあの男をごらんになったことを知っていますよ」
「振り返らずにはいられなかったんですもの。どうぞ、申しあげたようにしてくださいましな。どうぞ、すぐに!」
メイスンは、車を出して、その一区劃をまわった。うしろにとまっていた車も、ヘッドライトをつけて、根気よくつけて来た。メイスンは、バセット家の前の歩道際に、車をとめ、夫人のすわっている方に手をのばして、ドアをあけた。
「わたしにご用があれば」と、かれはいった。「ごいっしょにまいりますよ」
「いえ、よろしいんです!」と半ば叫ぶように、夫人はいった。
影のなかから人の姿が動いて、つと車のそばに寄って来たと思うと、ハートリ・バセットだった。
「なんだって、わたしの家内と逢いびきをなすったのです?」
メイスンは、自分の側のドアをあけて、外に出、車のうしろをまわって、ハートリ・バセットと鼻つき合わせるようにして、立った。
「いいや」と、かれはいった。「そんなことはしません」
「すると」と、バセットはいった。「きっと、家内の方で会う手だてをしたんだな。なにか、相談をもちかけましたか?」
メイスンは、腕を組み、両足を大きく開いて、
「車から出て」と、かれはいった。「ここまで来たわけはね、自分の足もとに気をつけろというためだ」
メイスンをつけて来た車が、歩道際にとまっていた。背の高い、やせた男が車からおりて、猫のような、早い足取りで、メイスンの方に近づこうとしたが、メイスンの声音を聞きつけて、車の方に引っ返し、車のドアのサイド・ポケットからなにかをとり出して、うしろから、急ぎ足に弁護士に近づいた。右の手に握ったレンチが、ヘッドライトにきらりと光った。
弁護士は、くるっと向きなおって、二人の男に向かい合った。バセット夫人は、段々を駆けあがって、家の中にはいり、ばたんとドアをしめた。
「二人がかりで」と、メイスンは、無気味な声できいた。「なにか、やらかそうっていうのか?」
バセットは、レンチを握った背の高い男に眼をやった。
「もういい、ゼームズ」と、かれはいった。
メイスンは、じっと二人を見つめてから、ゆっくりとした口調でいった。「よけいなまねをするなよ」
自分の車へもどり、ハンドルの前へはいりこむと、クラッチを蹴《け》った。立ったまま見送る二人の姿が、とまっている車のヘッドライトを背中にうけて、影絵のように見えた。
弁護士は、すべるように車をまわし、本通りへ出ると、スピードをあげて、まっすぐに飛ばした。
ドラッグ・ストアの前へ来ると車をとめ、電話室にはいって行って、ダイアルをまわした。バーサ・マクレーンの心配そうな声が聞こえて来ると、「なにもかもうち切りです」と、かれはいった。
「承知してくれないんですの?」
「駄目です」
「どうしろというんですの?」
「とてもできないことです」
「どういうことですの?」
「不可能ですよ」
「でも、どういうことだか、いうだけはいってくださらなければいけませんわ」
「毎月百ドルずつ払えというんです」
「でも、そんなことできませんわ!」
「それは、ぼくもいいました。お母さんを養わなければならないともいってやりました。お母さんなら、公共保護法の適用を受けられるじゃないかと、相手は思っているようですね」
「まあ、でも、そんなことはできませんわ!」
「ぼくも、そのとおりいってやりました。ところで、どうでしょう。金をどうしたのか、相棒が誰かということを、あなたがハリー君から聞き出すことはできませんかね?」
「でも、ハリーは、きっといいませんわ」
「それじゃ、刑務所行きですね」
「いま、どこにいらっしゃいますの?」
「ドラッグ・ストアです」
「バセットの家のそばの?」
「そうです」
「もう一度おもどりになって、バセットさんに、わたくしがお金をなんとかしますと、おっしゃってくださいましな。すくなくとも、一か月か二か月の間は、なんとかやって行けますわ。それまでには、ハリーも働くでしょうし、売るものも、すこしはございますから」
「そんなことは、バセットにいいたくありません」
「でも、ハリーが刑務所に入れられないうちに、向こうの案を承知したいんです」
「あすの午後が期限ですから、それまでに、別の弁護士をお頼みになったらどうです」
「わたくしの代理にはなれないとおっしゃるんですの?」
「そうです」と、メイスンはいった。「ああいう理不尽ないい分を受け入れるというのでしたら、ご依頼は受けられません。あなたの弟さんお一人と会って、事情を確かめさせてもらえれば、そうすればご依頼を受けましょう。弟さんがきれいさっぱりおっしゃった後なら、できるだけのことはいたしましょう。それがいやなら、別の弁護士をおさがしなさい。電話で議論するのはやめましょう。ようく考えてごらんなさい。後でお返事をうかがいましょう」
かれは、がちゃんと受話器をかけた。
第四章
ペリイ・メイスンは、安楽椅子に寝そべり、心理学の最新学説に関する本を読みふけっていて、時計が真夜中の十二時を打ったことさえ、ほとんど気がつかなかった。
そばの台にのせた電話が、けたたましく鳴った。メイスンは、受話器をとりあげて、「もしもし、メイスンです」といった。誰からかかって来たのか、はっきり考えるひまもないうちに、興奮でうわずった女の声が耳に飛びこんで来た。
「……すぐに、いらしてくださいまし。わたくし、主人のとこを出ようと思っていますの。とても乱暴なことをするんです。ごたごたが起こりそうなんですの。息子は、主人を殺すといっていますし……」
「どなたですか?」と、メイスンは、相手の言葉をさえぎった。
「シルビア・バセット──ハートリ・バセットの家内ですわ」
「どういうご用です?」
「一刻も早くいらしていただきたいんですの」
「朝まで待ってください」と、弁護士はいった。
「いいえ、それでは間に合いませんわ。事情がおわかりにならないんでしょうけど、女の人が、ひどい怪我《けが》をしたんです」
「どうしたというんです?」
「頭をなぐられたんです」
「誰がなぐったんです?」
「主人ですわ」
「ご主人は、どこにおいでなんですか?」
「車に飛び乗って、逃げ出して行きました。息子のディックは、こんどもどって来たら、殺してやるっていっていますの。わたくしには、とめようがないんです。すぐにいらして、なんとかしていただきたいんですの。あなたがいらしてくださるより先に主人がもどって来ましたら、ディックが主人を殺しますわ。ディックに、そんな法律を犯すようなことをしなくても、あなたが、わたくしの利益を守ってくださるのだと、いって聞かせてやっていただきたいんですの」
「いま、どこにいらっしゃるのですか?」
「宅におりますの」
「ご子息を、わたしのところへつれていらっしゃることはできませんか?」
「いいえ、とても出かけそうにもありませんわ。ひどく怒っておりますの。わたくしには、どうすることもできません」
「警察を呼ぶと、おどしてごらんになりましたか?」
「いいえ」
「なぜです?」
「逮捕するからですわ。そんなこと、こまりますもの。それに、ほかにも、ひどくこまっていることがあるんです。お願いですから、いらしていただけません? 電話では、こまかいことが申しあげられませんけど、人の生命に関することですの。それはね――」
「まいりましょう」と、ペリイ・メイスンは、相手の言葉をさえぎった。「そちらへまいるまで、ディック君に気をつけていらしてください」
かれは、受話器をもとにもどすと、部屋着をぬぎすて、スリッパーを蹴飛ばし、上衣を引っかけ、靴をはき、一分半の後には、もう自分のクーペ型の自動車のアクセルを、ぐっといっぱいに踏みつけて、深夜の街を突っ走っていた。
バセット夫人は、玄関で──金融商会入り口と書いてあるドアのところで、かれを出迎えた。
「こちらからいらしてください」と、夫人はいった。「どうぞ、すぐに、ディックに話してやってくださいまし」
ペリイ・メイスンは、待合室へはいって行った。二十一か二の、すらっとした若者が、奥の事務室からドアをぐっとあけて、いった。「これを見てごらん、母さん。ぼくは、もうがまんなんかしない──」ペリイ・メイスンの姿を見て、いいかけたままやめた。ぐいと前にさしのばしていた両手を、脇におろした。
「ディック」と、夫人はいった。「弁護士のペリイ・メイスンさんにご挨拶なさい。これが、息子のディック・バセットですの」
若者は、大きな、深い茶色の眼で、じっとペリイ・メイスンを見つめた。死人のようにまっ青な顔色だった。利口そうな、形のいい唇を、きっと一文字に結んでいる。
メイスンは、気安く手をのばして、
「バセットさん」と、いった。「はじめてお眼にかかります」
バセットは、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》して、メイスンのさしのばした手を見ていたが、右手から左手に、なにかを持ちかえて、前へ進み出た。
小さな物が、床に落ちた。かれは、メイスンの手を握り、振りながら、いった。「母の代理をしていただいているのでしょうか?」
メイスンは、うなずいた。
「母は、とてもみじめな目にあわされて来ました」と、若者はいった。「ぼくは、長いこと、それに立ち入らないようにして来ました。しかし、今晩、ぼくは――」
かれは、ペリイ・メイスンの眼が、カーペットの上に落ちた物にとまっているのに気がついて、口をきった。
「薬莢《やっきょう》ですか?」と、メイスンはたずねた。
若者は、腰をかがめて、それをとろうとしたが、メイスンの方が早かった。かれは、三八口径の薬莢をひろいあげ、手のひらにのせて、不審げに見つめながら、
「どうして、こんな弾丸《たま》なんかあるんですか?」とたずねた。
「なんでもないんです」と、バセット青年はいった。
メイスンは、ぐっと手をのばして、若者の左手をつかみ、かれがなにをするつもりなのか、バセット青年がはっきりきめかねているうちに、五本の指をひらかせた。三八口径の弾丸が、まだ数発出て来た。そのうち一つは、からの薬莢だった。
「ピストルはどこです?」と、かれはたずねた。
「そんなことは、どうだっていいでしょう!」バセットはいきり立った。「あなたには――」
ペリイ・メイスンは、若者の肩をつかんで、ぐっと手前へ引き寄せたと思うと、ぐるっと向こうをむかせ、間髪を入れず、右手で、上衣のうしろ裾《すそ》をさぐった。
ディック・バセットは、身をもがき、踏ん張って、やっと振りほどいたが、その時には、ペリイ・メイスンが、右の腰のポケットから三八口径のリボルバーを抜きとっていた。
メイスンは、ピストルをあけた。弾倉には弾丸がこめられていなかった。銃口をかいでみた。
「発射したらしい臭いがするね」と、かれはいった。
ディック・バセットは、まっ青な顔で、ものもいわず、メイスンをにらんでいた。バセット夫人が駆け寄り、両手でピストルを包むようにして、
「まあ、お願いですわ!」と、ペリイ・メイスンにいった。「どこにあったんでしょう。どうぞ、わたくしにお渡しくださいまし」
メイスンは、ピストルをにぎったままで、
「どうするんですか?」とたずねた。
「いただきたいんですの」
「誰のですか?」
「存じませんわ」
メイスンは、バセット青年に眼を向けて、いった。「どこから、きみは持って来たんだね?」
バセットは、黙っていた。
メイスンは、バセット夫人に頭を振って見せて、ピストルを包んでいるその両手を、そっとはなさせた。
「どうも」と、かれはいった。「しばらく、わたしがお預りしといた方が安全なようですね。ところで、なにがあったのですか?」
夫人は、しぶしぶ両手をピストルからはなし、息子に、「お眼にかけなさい、ディック」といった。
ディック・バセットが、日本ふうの衝立《ついた》てを脇へのけると、いままで弁護士の眼には見えなかった部屋の片隅があらわれた。
腰のまわりの広い、色のあせた赤い髪の婦人が、誰かしら、こわれかけた寝椅子に横たわっている人におおいかぶさっていた。衝立てがのけられても、婦人は、顔をあげようともせず、肩ごしにいった。「もうじきに、よくなるでしょうよ。お医者さまですか?」
弁護士は、そばへ近づいて行ったので、赤い髪の婦人の肩ごしに、寝椅子に横になっている人の姿が見えた。
黒っぽい色のスーツを着た、二十四、五のブルネット(栗色髪)の女だった。ブラウスの襟《えり》もとをあけてあったので、咽喉《のど》や胸の白い曲線があらわに見えた。濡《ぬ》れたタオルが、寝椅子の頭のそばに置いてある。気つけ薬の瓶《びん》と、ブランディの小瓶とが、その濡れタオルに包んであった。赤い髪の婦人は、その若い女の手首をさすっていた。
「どなたです?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
バセット夫人は、ゆっくりといった。「嫁──ディックの家内ですけど、まだ、どなたにもお知らせしてありませんの。娘のころの名前で通しております」
ディック・バセットは、くるっと振り向いて、なにかいいそうにしたが、そのまま黙っていた。
ペリイ・メイスンは、若い女の頭の横の傷を指さして、
「どうなすったのですか?」
「わたくしの主人に打たれたのです」
「どうして?」
「わかりませんの」
「なにで打たれたんですか?」
「存じませんの。なぐっておいてから、外に逃げ出したのです」
「どこへ逃げて行ったのです?」
「家の前にあった自分の車に飛びのって、気ちがいのように、行ってしまいましたの」
「運転手もいっしょでしたか?」
「いいえ、ひとりきりでしたわ、乗っていたのは」
「あなたも、ごらんになっていたのですか?」
「ええ」
「どこに、おいでになったのです?」
「二階の窓から見ていましたの」
「ご主人の車だとおわかりになったのですね?」
「ええ、自分のパッカードでした」
「なにか鞄類を持って行きましたか?」
「いいえ、なんにも」
寝椅子の若い女が、身を動かし、ううんと、うなり声を出した。
「気がおつきになりましたわ」と、赤い髪の婦人がいった。
ペリイ・メイスンは、前にのり出した。バセット夫人は、寝椅子の頭の方にまわって、若い女の濡れた髪を撫《な》でつけてやり、とじた眼を指でさすりながら、いった。「ヘーゼルさん、聞こえますか?」
まぶたを、ぱちぱちとまばたき、黒目勝ちの眼を見せて、ぼんやりと見た。若い女は、吐き気を催したように、低くうなり、横を向いた。
「まだ気分がお悪いようですけど、じきに、よくおなりになりますわ」と、世話をしていた老婦人はいって、シルビア・バセットにうなずいて見せてから、ペリイ・メイスンの方を向いて、不審そうに、じっと見つめた。
ペリイ・メイスンは、バセット夫人の方に向きなおって、
「奥さん、この事件を、わたしにご一任になさるおつもりでしょうか?」
「どうなさるんですの?」
「わたしの最善と考える方法で、やってみようと思いますが?」
「お願いいたします」
ペリイ・メイスンは、煙草の火で焼け焦げた跡のある、ひどく古びたデスクの上の、電話の方に歩み寄って、「警察本部を願います……もしもし、本部ですか? こちらは、フランクリン通り九六八二番地の、リチャード・バセットです。ちょっと困った事件が起きたんです。ぼくの父が酔っぱらっていたと思うんですが、ある女性を、ひどく殴りつけたんです……そうです、ぼくの父です。もちろん、父を逮捕していただきたいのです。気ちがいのようになっていますから。このつぎ、どんなことをしでかさないともいえません。どうぞ、すぐに警官をよこしてください……そうです。パトロール・カーで結構です。ただ、すぐ来ていただきたいんです。でないと、誰かを殺すようになるかもしれませんから」
ペリイ・メイスンは、受話器を元にもどして、バセット夫人を見つめた。
「あなたは」と、かれはいった。「この事件とは無関係でいてください」
かれは、若者の方を向いて、
「きみは、進んでこの事件の主役になってください。きみは、お母さんの味方になって、お父さんに歯向かっていたのでしたね?」
バセット夫人が口を出した。「むろん、調べられることになったら、ハートリが、ディックの父親でないことがわかって来ますわ」
「誰のお子さんですか?」
「前の主人の子供ですの」
「何年ぐらい、ハートリ・バセットさんと結婚しておいででした?」
「五年ですわ」
ディック・バセットが、悲痛な口調でいった。「五年間の拷問か」
寝椅子の女が、また身を動かして、うなった。なにかよく聞きわけられないことをいってから、咳《せ》きこみ、起きあがろうと身をもがいた。
「ここは、どこなの?」と、女はたずねた。
「もうだいじょうぶよ、ヘーゼルさん」と、バセット夫人がいった。「なにもかも、うまく行きますよ。心配することは、なにもありませんよ。弁護士の方も、ここにみえていらっしゃるし、お巡りさんも来ますからね」
若い女は、眼をつむって、ため息をついて、いった。「ああ、あたし、どうしたのかしら……どうしたのでしょう」
バセット夫人は、ペリイ・メイスンのそばに寄って、
「どうぞ」と、低い声でいった。「そのピストルを、わたくしにくださいまし。おあずけしておくのも気がかりですから」
「どうしてですか?」
「隠した方がいいと思いますから」
「ピストルなど持っていらっしゃらなかったことにしましょう」と、メイスンは、夫人にいって聞かせた。
「わたくしのではありませんわ」
「警察が見つけたらどうします?」
「わたくしに渡してさえくだされば、見つからないようにいたします。お願いです」
ペリイ・メイスンは、腰のポケットからピストルをとり出して、夫人に渡した。夫人は、それを、ドレスの襟《えり》あきから胸におとしこんで、片手で押さえた。
「そんなところにしまいこんだって駄目です」と、メイスンはいった。「隠すのなら、さっさと隠す方がいいですね」
「待ってください」と、夫人は、かれにいった。「あなたには、おわかりになっていただけませんでしょうけど、わたくしが気をつけて……」
ディック・バセットは、寝椅子の上の若い女の上に、やさしくかがみこんで、「よかったね!」といった。
女は、眼をあけた。ディックが接吻すると、女は、片手を男の頸にまきつけた。女は、低い声で、なにか、かれに話しかけた。それを聞いて、ディック・バセットは、女の腕を静かにはなさし、二人の方を向いた。
「ヘーゼルをなぐったのは、ハートリじゃないそうですよ」と、かれはいった。
「そんなことはありませんよ」と、バセット夫人はいい張った。「きっと、ことを荒立てまいとして、そんなことをいっているんですよ。待合室まで、母さんがいっしょに来たんだもの。お父さんひとりしかいなかったことは、わたしもよく知っているんだもの」
ディック・バセットは、かっとしていった。
「ハートリ父さんではなかったんだ。ヘーゼルは、父さんとは話もしなかったんだ。父さんの事務室のドアをノックしたけど、返事もなかったんだって。ドアをあけて見ると、表の事務室には、誰もいなかったので、事務室を通って、奥の事務室のドアをノックしたんだ。すると、父さんがドアをあけてくれて、誰かがいっしょにいたんだって。その人は、ヘーゼルに背中を向けていたので、誰だかわからなかったんだ。父さんは、いまいそがしいからといって、元の椅子にもどって腰をおろしたって。
ヘーゼルは、かれこれ十分ほど待っていると、奥のドアがあいた。一人の男が出て来て、電灯を消した。その男は、外へ走り出そうとして、ヘーゼルを見つけて、向きなおった。奥の事務室からさす電灯の光が、その男の顔にあたった。ヘーゼルは、黒いマスクとそのマスクを通して眼が見えた。片一方の眼には、眼玉がなかった。ヘーゼルがきゃっと叫ぶと、男は、ヘーゼルをなぐった。ヘーゼルが夢中でマスクをむしり取ると、これまで見たこともない片眼の男だったって。男は、ヘーゼルに向かって呪いの言葉を吐きかけながら、|革の俸《ブラック・ジャック》でヘーゼルをなぐりつけたんで、それきり、ヘーゼルは、気を失ってしまったそうだ」
「片眼しかなかったって?」と、シルビア・バセットが叫ぶようにいった。「ディック、それは、なにかの間違いよ!」という夫人の声は、ヒステリーのように高くなった。
「片方しか眼がなかったんだ」と、ディック・バセットは繰り返した。「そうだろう、ヘーゼル?」
若い女は、ゆっくりうなずいた。
「マスクはどうしました?」と、メイスンがたずねた。
「ヘーゼルが、むしり取ったんです。紙のマスク──黒い紙で作ったマスクだったそうです」
メイスンは、膝をまげて、床から一枚のカーボン・ぺーパーをひろいあげた。眼にあたるところに、孔が二つあけてあり、片隅はちぎれ、まん中から裂けていた。
「それですわ」と、ヘーゼルはいった。起きあがろうともがいていたが、ようやく立ちあがった。
「あたし、その人の顔を見ましたわ」ヘーゼルは、ふらふらとよろめいた。赤い髪の老婦人が、あわてて、たくましい腕をさしのばしたが、間に合わなかった。ヘーゼルは、両手を前にのばして、倒れかかった。両方の手のひらが、外のドアの、菱形の板ガラスにささえられた。赤髪の婦人が、まるで人形でも扱うように、かるがると、若い女を抱きあげて、寝椅子にあお向けに寝かせた。
「まあ、どうしたのかしら!」と、若い女は、低い声でいった。
メイスンは、気づかわしそうにのぞきこんで、「だいじょうぶですか?」とたずねた。
女は弱々しい微笑をうかべて、「ええ。立ちあがったとき、めまいがしたんですけど、もうだいじょうぶですわ」
「その男は、片眼の男だったんですね?」とメイスンがたずねた。
「ええ」と、女はこたえた。だんだん、声がしっかりして来た。
「いいえ、そんなことありませんわ!」シルビア・バセットがいった。その声は、ほとんど、うめき声のようだった。
「本人に話させた方がいい」と、ディック・バセットが荒々しくいった。「ほかのみんなは、黙っているんだ」
「その男がなぐったのは、一度じゃなかったんですね?」と、メイスンがたずねた。
「そう思うんですけど、おぼえていませんわ」
「玄関から出て行ったかどうか、おぼえていますか?」
「いいえ」
「車で逃げ出す音は聞こえましたか?」
「わかりませんわ、はっきりいって。打たれたので、なにもかもわからなくなってしまったんですもの」
「そっとして置いてやってくれませんか?」ディック・バセットが、ペリイ・メイスンにいった。「証人席に立っている証人じゃないんですから」
ペリイ・メイスンは、奥の事務室へ通ずるドアの方へ、大股に歩いて行った。握りに手をのばしかけてから、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》し、その手を引っこめ、ポケットからハンカチをとり出した。指にハンカチをまきつけてから、握りをまわした。ドアは、ゆっくり内側に開いた。その部屋は、はじめて通されて見たときと同じようだった。天井の間接照明が、明るく輝いていた。
メイスンは、奥の事務室のドアまで、部屋を突っ切って行った。そのドアもしまっていた。もう一度、ハンカチを手にまきつけて、握りをまわした。部屋は、まっくらだった。
「電灯のスイッチはどこですか?」と、メイスンはたずねた。
「こっちですわ」と、バセット夫人がいって、部屋にはいった。すぐに、かちっというスイッチの音がして、電灯がついた。
バセット夫人が、絶叫といってもいいような恐怖の悲鳴をあげた。戸口に立っていたペリイ・メイスンも、からだを硬直させて動かなくなってしまった。ディック・バセットが叫んだ。「やっ! あれはなんだ?」
床の上に、ハートリ・バセットが、うつ伏せに倒れていた。毛布と|掛け蒲団《キルト》とがいっしょに畳んだようにして、顔を半分ほどおおっている。両腕を突き出し、しっかり右の手を握りしめている。頭から流れ出たまっ赤な血が、毛布と掛け蒲団を染め、床のカーペットにまで流れ出している。その前のデスクに、携帯用のタイプライターがのっていて、それには一枚の紙がはさんであり、かれこれ半分ぐらいまで、字が打ってあった。
「そばへ寄らないで」と、ペリイ・メイスンがいった。「なにも触っちゃいけない」
メイスンは、両手をうしろにまわして、注意深く前に進み、死体の上に乗り出すようにして、タイプライターにはさんである紙の文字を読んだ。
「これは」と、かれはいった。「遺書のようですね。しかし、ピストルがどこにもないところを見ると、自殺とは思えませんね」
「声を出して読んでください」と、ディック・バセットが、興奮した声でいった。「なんと遺書に書いてあるんです。いったい、どんなわけで、自殺なんかしたんだ?」
ペリイ・メイスンは単調な、低い声で読んだ。
わしは、いっさいに結末をつけることにする。わしは、失敗者だ。金は儲《もう》けたが、まわりのすべての人たちの尊敬をうしなった。友だちをつくることもできなかったし、友だちをつなぎとめることもできなかった。いまになって、自分自身の妻の尊敬と愛情ばかりか、友情さえも期待できないことがわかった。世間からは、わしの息子と思われ、これまでわしの姓を名乗って来た若者は、痛烈にわしを憎んでいる。わしは、いまになって、ふいに、人間というものは、自分だけでどのように満ちたりていると思っていても、所詮《しょせん》、たったひとりでは、この世に生きては行けないということを悟った。時が来れば、人というものは、生きて行こうとすれば、あれこれと自分のことに気を使ってくれる人たちに、取りまかれていなければならないと悟るようになるものなのだ。金は使い切れないほどあっても、わしは、愛情の点では破産者だ。最近、ある事件がおこった。そのことは、紙に書きとめるには忍びないが、わしは、自分にとって、この世の中でもっとも親愛なものである女の愛情を、つなぎとめようとどんなに努めても、なんの甲斐もないことを、つくづくと思い知らされた。だから、わしは、いっさいに結末をつけてしまおうと決心した。もし、自分に、ピストルの引き金を引くだけの勇気があるなら。もし、十分の勇気があるなら……もし、十分な勇気があるのなら……
「手に、なにか握っている」と、ディック・バセットがいった。
ペリイ・メイスンは、かがみこんで、一瞬ためらった後、握りこぶしを、すこしこじあけた。
死人の手につかまれていたガラスの眼玉が、血走った眼つきで、またたきもせず、気味悪く、みんなを睨《にら》み据《す》えた。
バセット夫人は、喘《あえ》ぐような息をはいた。
ペリイ・メイスンは、くるりと、夫人の方に向きなおった。
「この眼に、あなたは、見おぼえがおありですか?」と、かれはたずねた。
「い、いいえ、とんでもない」
「さあ、はっきりいってください。見おぼえがあるんですか?」
ディック・バセットが、前に進み出て、「おい、きみ」と、いった。「きみには、母にそんな□のきき方はできないはずだぞ」
メイスンは、払いのけるように手を振って、
「きみは、のいていたまえ」といった。「あなたには、この眼に、なにか心当りがありますか?」
「なんにもあるもんですか」と、こんどは、ずっと反抗的な口調で、夫人はいった。
メイスンは、ドアの方を向いて、
「結構です」といった。「もうこれ以上、わたしにご用もないらしいですね」
夫人は、取り乱したように、かれの袖口にすがりついて、
「お願いです」といった。「お願いです! どうぞ最後まで助けてくださいましな」
「ほんとうのことをいってくださいますか?」
「お話しいたします」と、夫人はいった。「でも、いまでなく――この場でなく」
ディック・バセットが、死体の方へ歩み寄って、
「よく見てみなくちゃ」といった。「いったい──」
ペリイ・メイスンは、その肩をぐっとつかみ、くるっとまわれ右をさせて、ドアから部屋の外へ押し出した。
「電灯を消してください、奥さん」と、かれはいった。
夫人は、電灯を消した。「まあ、わたくし、ハンカチをおとして来ましたわ」と、夫人はいった。
「かまいませんかしら?」
「いけませんとも」と、ペリイ・メイスンはいった。「とっていらっしゃい」
夫人は、しばらく、そこらをごそごそ手さぐりしていた。ペリイ・メイスンは、いらいらしながら、戸口に立っていた。やがて、夫人が、かれに近づいて来た。
「ありましたわ」と、ほっとしたように息をついて、メイスンの腕にすがりついた。「どうぞわたくしをかばってくださいね。そして、わたくしたち二人で、ディックをかばってやらなければなりませんわ。ねえ、お願いですから──」
メイスンは、夫人の手をふりほどき、うしろのドアをしめ、外側の事務室をぬけて、入り口の広間までもどった。
寝椅子に寝かされていた若い女は、もう立ちあがっていた。その顔は、まっ青だった。微笑をしようとするように、唇をゆがめた。
メイスンは、女の前に立って、
「あの部屋になにがあったか、ご存じですか?」とたずねた。
「バセットさまですの?」と、ささやきに近い声で、女はいった。
「そうです」と、ペリイ・メイスンはいった。「あの部屋から出て来た男を、はっきり、ごらんになったのですね?」
「はい」
「相手は、あなたを見ましたか? もう一度、あなたを見れば、あなたの顔が、相手にはわかるでしょうか?」
「そうは思いませんわ。あたしのいたこの部屋は、まっくらで、手前の事務室からさす光が、その男の方の顔にあたり、あたしは、その光に背を向けていましたので、あたしの顔は、影になっていたんですもの」
「相手は、このマスクをつけていたのですね?」
「ええ、それですわ。カーボン・ペーパーですわね?」
「片一方の眼窩がうつろだったのも、よく見たのですね?」
「ええ。ぞっとしましたわ。マスクは、まっ黒でしょう。そのマスクの奥から、片眼だけが、そんなふうにぎろりと睨んでいて、もう一方は、赤い眼窩だけなんでしょう。ほんとに――」
「ねえ、いいですか」と、ペリイ・メイスンはいった。「間もなく、警官がやって来ます。あなたも訊問《じんもん》するでしょう。そして、重要な目撃の証人として、あなたを保護留置すると思います。あなたは、ディック君をかばってやりたいとお思いでしょうね?」
「ええ、もちろんですわ」
「よろしい。あなたが警察で訊問を受ける前に、わたしは、こまかな点までこの事件のことを打ち合わせして置きたいのです。もう車に乗っても、気分はだいじょうぶですか?」
「ええ、もうだいじょうぶですわ。さっきは、ふらふらしていましたけど」
「自分で運転ができますか?」
「ええ」
メイスンは、ポケットから車の鍵をとり出し、ヘーゼルに投げ渡して、つかつかと電話器のところへ歩いて行きながら、
「わたしの車が、この家の前にあります」と、肩ごしにいった。「それに乗って、出かけてください。わたしの事務所は、セントラル・ユティリティ・ビルディングです。あなたが向こうへ着くまでに、秘書を待たせておきますから」
かれは、返事を待たずに、電話のダイヤルをまわした。ベルの鳴る音を聞いていたが、しばらくすると、ねむそうなデラ・ストリートの声が聞こえて来た。「はい? なんのご用でしょうか?」
「ペリイ・メイスンだ」と、かれは相手にいった。「これから迎えのタクシーをやるが、それまでに着がえができるかね?」
「なんとか検閲を通れるほどの|なり《ヽヽ》はできますわ」と、デラはいった。「恰好《かっこう》はよくないでしょうけど」
「恰好なんか、どうだっていいよ。なんでもいいからそこらのものを引っかけて、その上にコートを着るんだな。タクシーをやるから事務所へ行ってくれ。女の人が行くはずだ。名前は、と──」
かれは、肩ごしに、「そのご婦人の名前は、なんとおっしゃったっけ?」といった。
ディック・バセットが、「ヘーゼル・フェンウィックです」といった。
「ヘーゼル・フェンウィックという方だ」と、ペリイ・メイスンはいった。「ヒステリーを起こしたりしないように、やさしくしてあげてくれ。ウイスキーを、すこしついであげるといいな。しかし、酔っぱらわせちゃいかんよ。その人と話をして、いうことを速記にとってくれたまえ。ぼくが行くまで、誰にも会わせないようにするんだぜ」
「あなたは、いつおいでになりますの?」とデラはたずねた。
「じきに行く」と、メイスンは、デラにいった。「これから、お巡りに、ちっとばかり訊問していただくことになるんだ」
「なにがあったんですの?」と、デラがたずねた。
「そのご婦人からうかがってくれ」と、かれは、相手にいった。
「いいわ、先生」と、デラはいった。「タクシーは、先生が頼んでくださるんですね?」
「そうだ」
「ここへ着くまでには、下へ降りていますわ。運ちゃんに、毛皮のコートを着て、歩道に立っている女の子を拾えって、そうおっしゃってね。その毛皮のコートの下を、誰ものぞかなけりゃいいんだけど」
「誰も見やしないよ」といって、メイスンは、受話器を元へ置いた。
かれは、こんどはタクシー会社を呼び出して、一台、大急ぎで、デラ・ストリートのアパートまで迎えに行くように頼んでから、バセット夫人の方に向きなおって、
「ほかに、このことを知っている人がありますか?」とたずねた。
「なにをですの?」
メイスンは、片手をあげて、部屋全体を示すような仕種《しぐさ》をした。
「いいえ、誰もありませんわ。あなたがご自分で発見なすったのですもの。あなたが最初の方ですわ、あの部屋に近づいた――」
「いや、いや」と、かれはいった。「ご主人のことではなく──頭をぶんなぐられた、あの若い婦人のことをです。そのことを知っている召使でもいますか?」
「コールマーさんが知っていますわ」と、夫人はいった。
「というと」と、メイスンがたずねた。「ご主人の事務所に勤めている、眼鏡をかけた、はげ頭の人ですか?」
「そうです」
「どうして知ったのです?」
「映画を見に行っていたんです。帰って来ると、誰かがこの家から駆け出すのも見たし、それから、わたくしが、この部屋を走りまわっているのも見たんです。なにかあったのかと思って、この部屋にはいって来たのですわ」
「それで、奥さんは、なんとおっしゃったのです?」
「自分の部屋へ行って、じっとしていてくれって、そう申しましたの」
「若いご婦人が寝椅子にいるのを見ましたか?」
「いいえ、あの人を見せないようにしていましたわ。好奇心をそそられたようすで、寝椅子のそばへ寄って、あの人を見ようとしていましたわ。あの男は、見せたってだいじょうぶな男なんですけど、金棒引きで、わたくしを傷つけるようなことなら、なんでもしかねない人なんです。主人とわたくしの仲は、うまくいってなくって、あの人は、主人の味方なんです」
「どこへ行ったのです、その男は?」と、メイスンはたずねた。
「自分の部屋へ行ったと思いますわ」
弁護士はディック・バセットの方に顔を向けて、
「その部屋を知っていますか?」
「知っています」
「よろしい、案内してくれたまえ」
ディック・バセットは、どうしようかとたずねるように、母親の顔を見た。メイスンは、ディックの肩をつかんでいった。「頼むから、早くしてくれたまえ。いつなんどき、警官がやって来るかわからんのだ。さあ、出発だ! こっちから行けるのかね?」
「いいえ」と、ディック・バセットはいった。「ここは、家のほかの場所から独立しているんです。もう一つの入り口からはいって行かなくちゃいけないんです」
二人は、ドアを通ってポーチヘ出て、住まいになっている方へはいって行った。階段をのぼり、しばらく廊下を進んで行くと、先に立っていたディック・バセットが立ちどまって脇に寄り、敷居のすき間から細い光の帯の洩《も》れている、しまったドアを指さした。
弁護士は、ディック・バセットの肘《ひじ》をつかんで、
「よろしい」といった。「きみは、お母さんのところへ戻って、あの赤毛の女中を追い出し、大事な相談をしたまえ」
「大事な相談というと?」
「わかってるだろう。細かな点まで話のつじつまを合わせ、あのピストルのいいわけも考えておくんだよ」
「どのピストルです?」
「むろん、きみが持っていたやつだよ」と、メイスンはいった。
「あんなことも、警官はたずねるでしょうか?」
「たずねるかもしれない。発射したあとがあったからね。きみは、なにを射ったんだね?」
ディック・バセットは、舌で唇をなめてから、いった。「きょうは射ちませんでした。きのうです」
「なにを射ったんだね?」
「空き罐《かん》です」
「なん発?」
「一発ですよ」
「なぜ、一発だけ射ったんだね?」
「一発で罐《かん》に命中したからですよ。はたからうるさくいわれないうちにやめてしまったんです」
「なぜ、空き罐を射ったんだね?」
「腕前を見せびらかしてやったんです」
「誰に?」
「女房にですよ。いっしょに、ドライブに出かけたんです」
「すると、きみは、しょっちゅう、ピストルを持って歩いているんだね?」
「そうです」
「なぜだね?」
「ハートリ・バセットが、ぼくの母に、とてもひどい仕打ちのしづめだったからです。早晩、最後のどたん場が来ることは、よく知っていたんです」
「携帯許可証は持っているのかね、あのピストルの?」
「いいえ」
「きみの奥さんのほかに、きみが空き罐を射ったのを見た人がいるかね?」
「いいえ、それだけですよ。見た人間といえば、女房だけですよ」
メイスンは、ぐっと親指で、いま来た廊下の先のドアの方を指して、いった。「さあ、お母さんのところへ行きたまえ。水ももらさぬように、しっかり二人の話をつくっておきたまえよ」
メイスンは、片手をあげてドアをノックしようとして、しばらくためらったあげく、その手をドアの握りのところへおろし、その握りをまわして、ぐっとドアをあけた。夕方、バセットの事務所で見かけたのと同じ肩幅のせまい、はげ頭の男が、大きな大きな鼈甲縁《べっこうぶち》の眼鏡の奥から、侵入者をにらみつけた。その顔には怒りの色があらわれていたが、ペリイ・メイスンだとわかると、怒りは驚きにかわった。
「夕方、バセットの事務室でお眼にかかりましたね」と、メイスンはいった。「弁護士のペリイ・メイスンです。コールマー君でしたね?」
コールマーの顔に、いらだたしさの色が戻って来た。「弁護士だと、ノックをしないのですか?」と、かれはたずねた。
メイスンは、なにかいいかけたが、眼が鏡つきの小箪笥の方へ行ったとたん、自分の住まいの電話番号を鉛筆で走り書きして、バーサ・マクレーンに渡しておいた紙切れがのっているのをみとめると、思いなおした。
「あれはなんですか?」と、メイスンがきいた。
「あんたと、なんか関係があるんですか?」
「ありますね」
「なんですか、廊下で拾ったんですがね」と、コールマーはいった。
「いつです?」
「いまですよ」
「廊下のどの辺で?」
「どうしても知りたいとおっしゃるのならお知らせしましょう。階段をあがった、バセット夫人の部屋の前ですよ。しかし、さっぱりわからないのは、いったい、なんの権利がおありで――」
「水に流してくれたまえ」といいながら、メイスンは前に進み出て、その紙切れをとりあげ、折りたたんで、自分のポケットにしまいこんだ。「あなたは、証人になることになっています。わたしは、弁護士です。お力添えできるかもしれませんね」
「わたしに、力を貸すっておっしゃるんですか?」
「そうです」
意外なことを聞くというように、コールマーの眉が釣《つ》りあがった。
「おやおや」と、かれはいった。「わたしが、なんの証人になるというんです。そして、あんたが、どう力を貸してくださるというんです?」
「ついさっき、バセット氏の事務所の待合室で、怪我《けが》をして、寝椅子に寝かされていた婦人をごらんになったでしょう」
「婦人だったか男だったか、はっきりわからなかったが、誰かが、寝椅子に横になっていましたね。わたしは、男だと思ったんですが、寝椅子の前には、エディス・ブライトが立ちふさがっていたし、バセット夫人は、わたしを寝椅子のそばに寄らせないようにしていましたからね。しじゅう、わたしを押しのけつづけていましたよ。とにかく、この事件に利害関係がおありになるんなら、知っといていただきたい。朝になったら、バセット氏に報告するつもりでいますから。バセット夫人には、あの事務所へ立ち入る権利はないんですからね。まして、わたしを突きとばしたりする権利はないんですから」
「力ずくで負かしたんですか、あの人が?」と、メイスンは、皮肉な口調でたずねた。
「あんたは、あのブライトという女をご存じないからですよ」と、コールマーはいい返した。「牛のように強い女ですからね。それに、バセット夫人がしろっていえば、どんなことでもする女ですよ」
「外出していたのですね?」と、メイスンはたずねた。
「そうなんです。映画を見にね」
「帰って来た時、通りを走って行く人間を見たでしょうな?」
コールマーは、長年の間、事務の仕事をしてデスクに背中をかがめつづけていた人間でなくては、とてもできそうもないような、ひややかな、もったい振った様子で、背をぐっとのばした。
「見ましたよ」と、かれは、陰気にいった。
そのいい方には、メイスンの眼を細めさせるものが含まれていた。
「ねえ、コールマー君」と、メイスンはいった。「その人が誰だかわかりましたか?」
「そんなことは」と、コールマーはいった。「あんたとは関係のないことですね。報告するんなら、バセット氏にしますよ。失礼と思われるのは好かんが、わたしは、あんたがバセット夫人とどういう関係の人か知らんし、あんたがノックもせずにわたしの部屋にはいりこんで来るばかりか、わたしを訊問するような権利があるかどうかも知らん。あんたは、わたしが証人になることになっているといいなすったが、いったい、なんの証人になるんですかね?」
メイスンは、サイレンの音といっしょに、車が、タイヤをきしらせながら町角をまわる音を耳にした。かれは、コールマーの質問にこたえる余裕もなく、ぐっとドアをあけ、廊下を走り抜けて、一足に二段ずつ階段を駆け降り、ドアをあけてポーチヘ出ると、事務所のドアヘ飛んで行った。と、ちょうどその時、自動車が、ぴたっと歩道の脇にとまった。
メイスンは、ドアを押しあけた。ひそひそ話をしていたディック・バセットと母親とが、悪いところを見られたというように飛びはなれた。
「オーケー」と、メイスンはいった。「警官が来ましたよ。二人とも、ハートリ・バセット氏といざこざがあったなどということは、なんにもいわないでいてくださいよ。こういう場合には、そういうことはなんの役にも立ちませんからね。おわかりですか?」
バセット夫人は、ゆっくりといった。「わかりました」
玄関の外のポーチに、足音がひびき、あらあらしくドアをたたく音がした。
夫人がドアをあけると、肩幅の広い男が二人、部屋に飛びこんで来た。
「オーケー」と、一人がいった。「何が起こったのですか?」
「主人が」と、バセット夫人がいった。「自殺をしたのです」
「無線で聞いたのは、そうではなかったがね」と、一人の方がいった。
「すみません」と、夫人は相手にいった。「息子が興奮しておりましたものですから。まちがったことを申しあげてしまったのです。あのときには、なにが起こったかもわからなかったのでございます」
「なるほど」と、一人の方がいった。「で、どういうことだったのですか?」
夫人は、身振りでドアの方を示した。
「どうして、自殺だということがわかったのですか?」と、もう一人の警官がたずねた。
「タイプライターにのこした遺書を読んでいただければおわかりになりますわ」
警官はドアをあけた。一人が懐中電灯をとり出して、部屋を照らした。もう一人は、電灯のスイッチを見つけて、ボタンを押し、電灯に照らし出された光景に、眼をみはって立った。
「発見して、どれくらいたちます?」と、かれがたずねた。
「五分ぐらい前だ」と、質問にこたえて、ペリイ・メイスンがいった。
警官は、そろってかれの方を振り返った。
「誰だね、きみは?」と、一人がたずねた。
もう一人は、相手をそれと認めて、びっくりしたような顔をした。
「ペリイ・メイスンじゃないか」と、かれはいった。「弁護士の」
ペリイ・メイスンは、頭を下げた。
「こんなところでなにをしているんだね、きみは?」と、はじめの警官がたずねた。
「この自殺に関しての必要な手続をすますために、きみたちの来るのを待っていたのさ」とペリイ・メイスンはいった。「そうすれば、バセット夫人といろいろ打ち合わせもできるからね」
「どうして、ここに居合わせたのだね?」
「仕事のことでバセット氏を訪ねて来たのだ」
「どんな仕事だね?」
「たいしたことじゃない」と、愛想のいい笑いを浮かべながら、ペリイ・メイスンはいった、
「ただ、バセット氏に雇われていた青年の件でね。二人の間に誤解があったので、話をつけたいと思ったのだ」
「ふふん!」と、警官はいって、死体を見おろした。
「誰かピストルの音を聞いたかね?」
誰もこたえなかった。
「明らかに毛布と掛け蒲団を使って、ピストルの音を消したんだな」と、警官がいった。「そこに、使ったピストルがあるね」
ペリイ・メイスンは、警官の人差指の方向に眼をやった。床の上に、警察用の三八口径のコルトが、むき出しにころがっていた。まぎれもなく、メイスンが、バセット青年からとりあげたピストルだった。
一人の警官が死体に歩み寄って、毛布のはしをつまみあげた。
「おい、見ろよ!」と、興奮した声で叫んだ。「この毛布の下にもピストルがあるぞ。いったい、人間が自殺をするのに、どうして、ピストルを二梃も使うんだ?」
二人目の警官は、見物人たちを戸口の方へ押しもどした。
「ここから出るんだ」と、かれはいった。「電話だ、電話だ。殺人捜査課を呼ぶんだ」
メイスンは、じっとバセット夫人の顔を見つめて、
「ピストルが二梃か」といった。
夫人は、へんじをしなかった。唇には血の気がなく、眼には恐怖の影が濃《こ》かった。
第五章
関係者たちは、表の待合室に、一かたまりになって腰かけていた。殺人捜査課の連中は、死の部屋で、いそがしく立ちはたらいていた。
ペリイ・メイスンは、バセット夫人の方に身を寄せて、
「あのピストルを置いたのは、どういうおつもりですか?」と、ささやくようにいった。
「困ったことになるでしょうか?」と、夫人はたずねた。
「むろん、なるでしょうね。なぜ、あんなことをしたんですか?」
「なぜって」と、夫人は、ゆっくりといった。「ピストルが見つからなかったら、自殺ということにならないんですもの。あんなところにピストルがあるなんて、思いもよりませんでしたわ。さっき、あの部屋にはいった時には、一つも見えませんでしたでしょう。毛布は動かしませんでしたし、それに──」
「しかし、なぜ」と、弁護士は問いつめた。「あんなところへ、あのピストルを置いたんですか?」
「置かなければいけないと思ったんですもの」と、夫人はいった。「ピストルがなければいけないんです。でなければ、自殺のようには思われないで、殺されたと思われてしまいます」
「ご自分をごまかしちゃ駄目ですね」と、メイスンは、陰気にいった。「あれが殺人ではないと。それに、あなたが置いたのは、ディック君のピストルじゃありませんか」
「存じていますわ」と、夫人は、いそいでいった。「でも、だいじょうぶですわ。ディックとわたくしとで、すっかり打ち合わせてあります。一週間以上前に、ハートリがディックから借りたので、それからこちら、ディックは、そのピストルを見たこともなかったと、そういうことに二人で口うらを合わせましたわ」
「しかし」と、メイスンはいった。「あのピストルはからっぽですよ。自殺のできるはずがないでしょう、からの──」
「ああ、いいえ」と、夫人はいった。「部屋へ置く前に、弾丸《たま》を入れておきました」
「わたしがディック君からとりあげた、あの弾丸ですね、からの薬莢もいっしょに?」
「ええ」
「あなたは」と、メイスンは詰問するようにいった。「警察では、弾丸を調べれば、どのピストルから発射されたものか、すぐにわかるということをご存じだったのでしょうね?」
「いいえ、存じませんわ。わかるんですの?」
「それから、よく拭きとって、わからない指紋でも、警察では検査することができるんで、その時には、奥さんの指紋も、ディック君のも、わたしのも調べ出すことも、よくご存じだったのでしょうね?」
「まあ、どうしましょう、そんなこと存じませんでしたわ!」
「奥さんは」と、メイスンは、夫人にいって聞かせるような口調で、「長い間に、わたしが会った女性のうちで、一番かしこいか、一番ばかか、どっちかですな」
「わたくし、犯罪事件のことなど知りませんわ」と、夫人がいった。「そんなこと知るわけがないでしょう」
「ねえ、奥さん」と、じっと夫人を見つめながら、ペリイ・メイスンはいった。「あなたは、ご主人のハートリ・バセット氏が、外へ駆け出して行ったと、ほんとうに思っていたんですか、それとも、あの部屋で、死んでいることを知っていたんですか?」
「きまっていますわ。むろん、出かけて行ったと思っていましたわ。駆け出して行くのを見たと、そう申しあげましたでしょう……あの人だと思っていましたわ」
「それで、あの若い婦人は、奥さんの義理の娘さんにあたるわけですね?」
「そうですわ。ディックと結婚しているんですから。でも、その結婚のことについては、なにもおっしゃらないでいただきたいんですの」
「なぜ、いっちゃいけないんです? なにか、いっちゃ具合の悪いことでもあるんですか?」
「お願いですから」と、夫人はいった。「いまは、なにもきかないでおいていただきたいんです。後でお話しますわ」
「ねえ、お聞きなさい」と、メイスンは、重々しくいった。「今晩は、これから、いやというほど訊問されるのですよ。その訊問にこたえられる用意はできていますか?」
「わかりませんわ……いいえ、訊問になんかこたえられませんわ」
「どうしてです?」
「なんといっていいか、わからないんですもの」
「なんといっていいか、いつになったら、わかります?」
「もう一度、ディックと話し合ってからなら。わたくし、もう一度、あの子と相談しなければなりませんわ」
メイスンは、人差指で、夫人の膝を軽く叩いて、
「ご主人を殺したのは、あなたですか?」とたずねた。
「いいえ」
「ディック君が殺したのですか?」
「いいえ」
「それじゃ、なぜ、ディック君と相談したいとおっしゃるんです?」
「誰が殺したのか、警察で見つけるだろうと心配だからですわ……ああ、そんなことお話しできませんわ。どうぞ、ほっといてくださいまし」
「もう一つだけおたずねします」と、メイスンはいった。「神さまに誓って、真実をいってください。奥さんですか、ご主人を殺したのは?」
「いいえ、ちがいます」
「せっぱつまったとしても、自分は殺さなかったと申し開きできますか?」
「はい、できると思います」
「よろしい。警察と新聞屋とに問い詰められて窮地におちいるのを防ぐ手は、ただ一つしかありません。とにかく、思いがけない出来事にすっかり逆上してしまって、訊問になどこたえるどころではないとおっしゃい。それでも、連中は、いずれにしても、お構いなしにどんどん訊問するでしょう。そうなったら、ヒステリーを起こしはじめるんです。なんでもかんでも、どんなことでもいろんなことを、しゃべりまくるんです。つぎからつぎと、とんちんかんなことをいうんですね。射たれる一時間前に、ご主人と会ったというかと思うと、いや、会ったのは、射たれる一週間前だったといったり──いや、もうひと月も、会ったかどうか思い出せないとか、二、三分もたつと、矛盾したことをいうんですね。とにかく、めちゃめちゃな供述をするんです。殺してやるぞと、脅かす人の声をご主人が聞いたともいうんです。
いってみれば、気ちがいの真似《まね》をするんです。だんだん、声を高くして、つじつまの合わないことをいいつづけるんです。自分でもがまんできないくらいにして、叫んだり、わめいたり、げらげら笑ったり、ヒステリーを起こしたりするんです。わかりましたか?」
「ええ」と、夫人はいった。「わかったように思いますわ。でも、そんなことをして、あぶなくはないでしょうか?」
「むろん、あぶないですよ。しかし、いろいろなことをいいわけをしようとして、警察のわなに落ちるよりは危険じゃないでしょう。ねえ、ようくおぼえておいてくださいよ。奥さんが、潔白で、いよいよ最後のどたん場になって、その無罪を証明できるのでなければ、いまお話したような芝居はできませんよ。それさえなければ、控え目になんかしないで、めちゃめちゃなことをしゃべるんです。叫んだり、笑ったりして、奥さんが、酔っぱらっているか、気が狂っているかと思わせるような、道理に合わんことをしゃべるんですね。
そうすれば、向こうはうるさいと思って、注射でも打った方がいいと思うにきまっています。いったん注射をされたら、こんどは、ぐったり死んだふりでもできますね。眼がさめたら、ふらふらになったふりをして、ぽつんぽつんと、なにをいっているのかわからないほど、のろのろとしゃべるんです。発音もあいまいに、かと思うと、眼をつぶったり、言葉の間には、眠りこんだりするんです。そうやって、連中をうまくごまかしているうちに、わたしの方でいい知恵もうかぶでしょうし──」
ドアがあいた。殺人捜査課のホルコム巡査部長が、ぐいと、ペリイ・メイスンに顎《あご》をしゃくって、
「きみだ」といった。
メイスンは、無関心な態度で、悠々と部屋にはいった。
「この事件について、どんなことを知っているんだね、きみは?」
「たいして知っちゃいないね」
「知らないんだね」と、飽き飽きしたように、ホルコムはいった。「これまで幾度、その『たいして知っちゃいない』という文句を、おれにいったと思うかね?」
「ぼくがここへ来たのは」と、ペリイ・メイスンはいった。「ハートリ・バセットに、仕事のことで話があったからなんだ」
「仕事のこととは、なんだね?」
「バセットと、以前雇われていた男との貸借関係の問題だ」
「その以前雇われていた男というのは、誰だ?」
「ぼくの依頼人さ」
「名前は?」
「本人の承諾がなければ、いえないね」
「ここへ来て、それからどうしたんだ?」
「なにか、ひどく取りこんでるようだったね」
「なにがあったんだ?」
「そいつは、ほかの連中に訊《き》くといいね。ぼくは知らん。なんでも、ハートリ・バセットと、息子のディック・バセットとの間に、なんかごたごたがあったらしいね。それから、怪我をした若いレディもいた」
「なんで怪我をしたんだ、その女は?」
「誰かになぐられたと、いっていたね」
「ほ、ほう!」と、ホルコムはいった。「誰がなぐったんだ?」
「知らんといっていた」
「知らんとは、どういうんだ?」
「一度も会ったことのない男だそうだ」
「その女は、どうした?」
「ぼくの一存で、朝まで安静にしていられる場所へ送り届けたよ」
「きみが、なにをしたって?」
ペリイ・メイスンは、煙草に火をつけ、すらすらといった。「安静にしていられる場所へ送り届けたよ」
「厚かましい男だね、そんなことをするなんて」
「どうして?」
「ここに殺人事件のあったことを知っていたのか?」
ペリイ・メイスンは、眼をあげ、驚いていった。「とんでもない、知らないよ!」
「ふん、いまは、知っているんだな」
「へえ」と、メイスンはいった。「誰かが殺されたのか?」
ホルコム巡査部長は、馬鹿にしたように、声を立てて笑った。
「きみほどの男に、なにかい、眼の前で事件が起こっているってときに、それが殺人事件だとわからせるのに、頭を梶棒《こんぼう》でどやしつけてやらなきゃならないのかい」
「ハートリ・バセットは、自殺したんだぜ」とペリイ・メイスンはいった。
「へえ、そうかね?」と、ホルコム巡査部長は、しっぺ返しにきいた。「ほかならぬきみが、ほかならぬこのおれに、そういうんだね」
「そうじゃなかったのか?」と、メイスンは問い返した。
「むろんよ」
「しかし、タイプライターに挾んであった遺書には、そう書いてあったじゃないか」
「タイプライターの遺書なんか、誰にだって書けるさ」
「弾丸の音がもれないように、ピストルを毛布と蒲団でくるんでいたぜ」
「なぜだい?」と、ホルコムがたずねた。
「家族を驚かさんようにだろうな」
「なぜ、家族を驚かさないように、そんなことをしたんだろうね?」
「思いやりだろうな」
「馬鹿な! 自殺をする人間は、いずれ発見されるってことぐらい知っているさ。そんなこと、気になんかしないよ。人殺しをする犯人こそは、発見されないうちに、なんとかして逃げおおせようとして気をつかうものなんだ。それに、自殺する人間は、三|挺《ちょう》もピストルを使わないものだよ」
「三挺も!」と、メイスンは大きな声を出した。
「三梃だよ、ピストルを」と、ホルコム巡査部長はいった。「一つは、堂々と床にころがっていた。一つは、蒲団と毛布の下に隠してあった。もう一つは、バセットが、革のケースに入れて、左の脇の下に吊して持っていたやつだ。それに、そのピストルは、使われてはいなかった。かりに、バセットが自殺するつもりだったのなら、どうして、自分のピストルを使わなかったのだね? え、どうして、わざわざ、別のピストルを手に入れるような、面倒なことをするんだね?」
「殺しに使ったのは、どのピストルだったね?」と、メイスンはたずねた。
ホルコム巡査部長は、もったい振った微笑をうかべて、
「おい、おい」と、ホルコムはいった。「きいているのは、おれだぜ」
メイスンは、肩をすぼめた。
「きみは、さっきの話の頭をなぐられた女の子を、どこへやったんだ?」
「安静にしていられる場所へさ」
「どこだ?」
「ぼくが、そこを教えたら」と、メイスンはいった。「安静にしていられる場所ではなくなるよ」
「おい、聞けよ」と、ホルコムはいった。怒りで、いまにものどがつまりそうな声だった。「これは、殺人事件だぞ。わかってるだろうな?」
「うん」と、ペリイ・メイスンはいった。「わかってるつもりだ」
「きっと、わかってるんだね」と、ホルコムは、メイスンにいった。「それじゃ、われわれは、その女を訊問する必要があるんだ。ホシが割れることになるかもしれない。さあ、白状しろよ、きみ。女がどこにいるかいうんだ、さっさと。さあ、どうだ。いわなきゃ、こっちにも考えがあるぞ」
「ぼくの事務所にいるよ」と、メイスンは、ホルコムにいって聞かせた。
「どうして、そんなところへ行かせたんだ?」
「心を落ち着かせてやらなきゃならんと思ったからさ。その時には、バセットが殺されたなんて夢にも思っちゃいなかったんだ。むろん、自殺だと思っていたんだ」
「そして、きみの事務所には、あの腕ききの秘書もいるんだね?」
「そりゃ、むろんさ」と、メイスンはいった。「誰かがいなきゃ、あの若い婦人だって、事務所にははいれないからね」
ホルコムの顔が、憤怒に黒ずんだ。「すると」と、かれはいった。「きみは、警察でさえ、その女を訊問するチャンスのないうちに、ただ一人の目撃者から、供述書をとるつもりだったんだね」
メイスンは、肩をすぼめて、平静な口調でいった。「そして、もし、きみの方であの女を先に手に入れたら、どこかに閉じこめてしまって、裁判が開かれて証人台に立たされるまでは、誰も、かの女の話なんか聞き出すこともできなくなる。それが、きみのお好きなやり方だからね。だがね、巡査部長君、正直なところ、ぼくは、自殺だと思ったからこそ、安静にしていられる場所へ、あの女を送り届けたんだぜ。だから、きみから、殺人だと聞かされたら、すぐに、かの女の行く先を教えたということは、きみも認めるだろう」
誰かが、くすくすと笑った。
ホルコムは、部下の一人の方を振り返って、
「本部に電話しろ」といった。「ペリイ・メイスンの事務所にいるその女を逮捕しろといえ。必要なら、ドアなどぶちこわしたって構わん。目撃証人だ。メイスンは、その女の供述を速記にとろうとしている。あの秘書ともう十分もいっしょにしといてみろ、事件もくそもあったものじゃない、と、そういうんだ」
ペリイ・メイスンは、もったい振った口調でいった。「もうおたずねになることはありませんかな?」
「いつ、ここへ来たんだ?」と、ホルコムはたずねた。
「ま夜中ちょっとすぎ――たぶん、十二時二十分ごろだったね」
「その時には、バセットは死んでいたのか?」
「らしいね。ぼくは、ずっと、表の事務室の方にいたし、この部屋からは、なんの物音も聞こえなかったからね。バセット夫人が、なにかとりにはいって、死体を発見したんだ」
「きみが警察に知らせたのか?」
「警官がやって来たちょうどそのときに、発見したんだ。その警官は、フェンウィック嬢がなぐられた件で、来てもらうようにぼくがいったのだ」
「フェンウィック嬢というのは、誰だね?」
「なぐられた若い婦人さ」
ホルコム巡査部長は、気むずかしそうに、ペリイ・メイスンをにらみつけた。
「その女は、きみの依頼人か?」
「いいや、いまのところは、そうじゃない」
「これまでに、これまでに会ったことがあるのか?」
「いや」
「あっちの部屋で、あの連中と話し合っていて、そんなに暇どったというのは、どういうわけだ?」
「ぼくがここへ来たのは」と、メイスンはいった。「バセットに会うためなんだ」
「バセットに会うために、ここへ来たのなら、いったい、なにがあって、ぐずぐず無駄話をして時間をつぶしていたんだね?」と、ホルコム巡査部長は、詰問した。
「若い婦人がなぐられたことで、みんながむやみに興奮していたからさ。それで、ぼくが、警察に来てもらうようにすすめたのだ」
ホルコムがいった。「きみが、警察のことをいうのは、これで二度目だが、二度とも、警察に来てもらうようにすすめたとか、そんなふうな言葉を使ったね」
メイスンは煙草の煙を吐き出しただけで、なんにもいわなかった。
「そんなふうなことばかりいっているが」と、ホルコムはつづけた。「妙ないい方じゃないか。まあ、いい。それよりも、知りたいのは、真実だ。警察に来てもらうようにと、おれにいったことなどはどうでもいい。それよりも、警察に連絡したのは、誰だ?」
「ぼくだよ」
「自分が誰だということを、きみは、警察にいったか?」
「いや、バセットの息子だといったよ」
「なぜ、そんなことをいったのだ?」
「すぐに行動を起こしてもらいたかったからだよ。正直に、ぼくが名乗ったら、嘘だと思うかもしれないし、詳《くわ》しく説明するひまもなかったんだよ」
ホルコム巡査部長は、疲れ切ったようにため息をついて、「敗けたよ」といった。「いつも、うまくいい逃れやがる」片手を、ドアの方へ振って見せて、「オーケー、行ってもいいよ。しかし、いくらきみでも、本部の人間より先に、事務所に行き着けると考えたら、楽天家すぎるぜ、いいな」
「ぼくは、別に急いでやしないがね」と、メイスンはいった。
「ああ、そうだろうとも」と、ホルコム巡査部長は、メイスンにいった。「きみは、もうお帰りになるんだろう。きみは、いそがしい人だ、メイスン氏。そして、きみは、仕事の用で、バセット氏に会いに来ただけだ。バセット氏は死んでいるんだから、仕事の件で会うわけにもいかん。だから、誰とも話をすることもない。この家の誰かに、事件を依頼されているのでもない。バセット氏が殺されたことは知らなかった。自殺だと思っていた。それに、なぐられた若い女は、もうここにはいないのだから、きみをこの家に引きとめるものは、なにもない。おれたちには、きみがおやすみになるのを邪魔する気はない。さあ、いつお引きとりくだすっても結構ですよ」
「電話をかけて、タクシーを呼ぶあいだぐらいは、ここにいてもいいよ」と、メイスンはいった。
ホルコム巡査部長は、にやりとして、
「きみの車は、ここにないのだね?」
「ないよ」
「どうしたんだ?」
「ぼくの事務所まで乗って行くように、例の若い女にいったのだ」
「自分が事務所へ行くときには──どうするつもりだったのだ?」
「タクシーを呼ぶつもりだったのさ」
「なるほど、なるほど」と、ホルコム巡査部長はいった。「そいつは、まったく気の毒だ。われわれの市の一流の弁護士どのを、タクシーの来るまで、お待たせするわけにはいかんね。絶対に、そんなことはできん。先生のお時間は貴重なものだ。おい、お前たちの誰か、警察の車で、事務所までお送り申しあげろ。ぐずぐずしないで、まっすぐ送り届けるんだぞ。その前に、バセット夫人をここへ連れて来い。一つ、この事件について何を知っているか、調べてみるんだ」
ペリイ・メイスンは、灰皿に煙草をこすりつけた。
「部長、きみは、手がらというほどの手がらは、ほとんど立てたことはないのに、なかなか抜け目のない手を考え出すね」
そして、ホルコム巡査部長が、どうこたえようかと考えている間に、弁護士は、軽く頭を下げて出て行った。
第六章
ペリイ・メイスンは、廊下から直接に事務室へはいるドアの鍵をあけ、電灯のスイッチをひねり、部屋を通り抜けて、待合室まで来た。そこのドアのガラスには、
弁護士 ペリイ・メイスン 入口
という文字が書いてあった。
デスクに向かって、法律の本を読んでいたデラ・ストリートが顔をあげ、にやっと、かれに笑いかけた。
「法律の勉強をしているんですよ、先生」と、デラはいった。
デラは、毛皮の外套を着て、上から下まで、きっちりとボタンをかけている。毛皮の外套の前あきから、ストッキングに包まれた脚がはみ出している。
「警官がやって来ただろう?」と、弁護士はたずねた。
「そうね。さんざん毒舌を吐いたわ」
メイスンは、顔を曇らせて、
「あの女の人に、手荒なことをしたかい?」とたずねた。
デラは、目を丸くして、
「あら、わたし、あなたが、どこかよそへお隠しになったんだと思ってましたわ。ここへは、来ませんでしたよ」
「ここへは、来なかったんだって?」と、メイスンはたずねた。
デラ・ストリートは、首を左右に振った。
「それで、きみは、お巡りになんといったんだね?」と、メイスンがたずねた。
「連中は心得顔に、皮肉だの警句だのいったわ」と、デラは話して聞かせた。「だから、わたしもまけずに、やり返してやったわ。わたし、あなたが、警官がこちらへ来たことを知って、その女の人をお隠しになったのだと思ってましたわ。だから、大きな顔をしてやったわ。わたし、ちょっと勉強しようと思って、ふいに来ただけだって、そういってやったの。あなたが探偵になれっておっしゃるから、夜の間に、うんと勉強をしているんだとも。探偵もたくさんいるけど、しっかりしたのがいないから、ほんとうにしっかりした探偵の働く余地は、まだまだあると、あなたにいわれたんだって、そんなことをいってやったわ」
「ここへはすぐに来たのかい?」
「電話を切ってから二分ほどしたと思うと、タクシーが来ましたわ。わたし、通りへ出て待っていたの。チップをやって、飛ばしてもらったわ。あっという間に、ここへ着いたわ。この部屋にはいって、電灯のスイッチをひねり、ドアは鍵をかけずに、そのままにしておきましたわ。宿直の守衛にも、若い女の人が事務所を訪ねて来るはずだから、きかれたら、教えてやってくれって頼んでおいたのよ」
ペリイ・メイスンは、低く口笛を鳴らした。
「ポール・ドレイクが、あなたをさがしていましたわ」と、デラはいった。「ポールが家へ帰ろうとしていると、わたしが来ているって、守衛が教えたんですって。それで、ここへ引っ返して来て、この箱を、あなたにといっておいて行ったのよ」
デラは、テーブルの上の、紐《ひも》でしばって、数か所、赤い封蝋《ふうろう》で封をしてあるボール紙の箱を、指さした。
弁護士は、ナイフをとり出し、紐を切りながら、いった。「警官を相手にして、困らなかったかい?」
「いいえ。事務所じゅう、すっかり見せてやったわ。わたしが、その女の人を袖の中へでも隠しているかと思ってたようね」
「納得させるのが大変だったかい?」とたずねながら、弁護士は、箱の蓋をあけた。
「いいえ、ちっとも」と、デラはいった。「いかにもうれしそうに、わけなく納得したわ。女の人をここへ送り届けたと、刑事連中に教えたのは、あなただってことに気がついたのよ。だから、あなたのいう通り、ほんとうに女の人がここにいるなんて、思いもよらないことだと悟ったのね。女の人が見つからなかったのは、予想とぴったりだったばかりでなく、お得意の毒舌を吐くチャンスがつかめたってわけなの」
メイスンは、箱の一番上にのっている綿をとりのけ、血走ったガラスの眼玉を六つとり出して、デスクの上にならべた。眼玉は、またたきもせずに、じっと空《くう》を見つめた。
「ブルノルドのアドレスはわかっていたね?」と、メイスンがたずねた。
「ええ。整理カードに書いてありますわ」
「電話番号もあったかな?」
「あると思うんですけど。見てみましょう」
デラは、カード箱をあけて、一枚のカードをとり出した。
「電話は?」と、メイスンはたずねた。
「ええ、ありますわ」
「かけてくれ」
デラは、腕時計を見た。が、メイスンは、じれったそうにいった。「時間など構わない。さっさとかけてくれ」
デラは、交換台の外線にプラグをさし入れて、ダイヤルをまわし、かれこれ一分近く待ってから、いった。「もしもし、ブルノルドさんですか?」
かの女は、デスクごしに、ちらっと弁護士を見てうなずいた。
「ここへ来るようにいってくれ」と、メイスンはいった。「いや、ちょっと待って。ぼくが、自分で話す方がいいだろう」
メイスンは、かの女から受話器を受けとって、いった、「ペリイ・メイスンです。すぐに、事務所へ来ていただきたいのですが」
ブルノルドは、むっとした声で、
「しかしですね」といった。「どんな大事な用が有るのか知りませんが、こんな時刻に、わたしを──」
「あなたは、ぼくに千五百ドル、お出しになったでしょう」と、弁護士はいった。「それというのも、わたしなら、いざという時に、あなたを窮地から救い出す能力があると見込んだからでしょう。それは、まだそんなことになる前でした。ところが、いま、あなたは窮地におちているんですよ。わたしの最上の判断は、あなたは、いますぐ、ここへ来なければならんと教えています。もし、わたしの助言をきかなければ、ひどい見込みちがいを犯して、みすみす千五百ドルを、どぶへ捨てたことになりますよ。これから十分間、事務所で待っています。これから、毎朝、ひげをあたるのをやめたくないというのなら、わたしのいう通りにしてください」
ペリイ・メイスンは、ブルノルドがそれ以上、なんとかいうのも待たずに、受話器を元にもどした。
デラ・ストリートが、いぶかしそうな眼をかれに向けて、いった。「あの人、窮地に追い込まれているんですか?」
「そうなんだ。今晩、ハートリ・バセットが殺された。死体が発見された時、血走ったガラスの眼玉を、しっかりその手に握っていたのだ」
「でも、ブルノルドは、バセットを知っているんですか?」
「知りたいのは、そこなんだ」
「あの人に、暗いことなんかないはずですわ」と、ゆっくりデラはいった。「今朝、眼がなくなったって、自分でこぼしてたじゃありませんか」
メイスンは、テーブルの上から、凄《すご》くまっ赤に睨みあげている、血走った六個の眼玉を見つめながら、ゆっくりうなずいた。
「それは」と、かれはいった。「一応考慮しなければならん点だ。だが、ハリー・マクレーンが、バセットのところで働いていたという事実も、見逃しちゃいかん。ブルノルドは、ハリー・マクレーンと知り合いだったのだ。どこで、ブルノルドとハリー・マクレーンとは知り合ったのだろう? マクレーンがここへ来たのは、偶然だったのだろうか、それとも、ブルノルドにいわれたから来たのだろうか?」
「あなたが依頼されていらっしゃるのは、誰々ですの?」と、デラはたずねた。
「一人はブルノルドだ」と、メイスンはいった。「もう一人は、ミス・マクレーンと、それから、たぶん、バセット夫人だろうな」
「どんなふうにして、殺されてたんですの?」と、デラはきいた。
「ちょっと見には、自殺と思われるかもしれないような状況だったが、まったくお話にならないほど拙《まず》いことをしたものだった。というのは、バセット夫人が、わざわざ、ピストルを現場においたものだから、いろいろな事がこんぐらがってしまったのさ。毛布と蒲団とを使って、発射音を消したんだね。その下に、ピストルが一つあったから。ところが、バセット夫人が、第二のピストルを床にころがしといたというわけさ。最初のピストルには気がつかなかったから、自殺と見せかけようとしておいたのだというんだがね」
「それで?」と、デラ・ストリートがたずねた。
「そうさ」と、メイスンはいった。「その通りかもしれないし、あるいは、毛布にくるんであったピストルが殺しに使われたものでないことを知っていて、警察は、弾丸の比較によって、どちらが使ったものか割り出すはずだと思って、そんなことをしたのかもしれない」
「二つ目のピストルには、夫人の指紋がついているんですか?」と、デラ・ストリートはたずねた。
「うん」と、メイスンはいった。「夫人のと、ぼくのとがね」
「あなたのも!」
「そうだ」
「どうして、あなたの指紋がついたんです?」
「ぼくが、そのピストルを、息子のディック・バセットからとりあげたんだ」
「そして、夫人にお渡しになったの?」
「そうなんだ」
「驚きましたわね、先生。じゃ、それは、ピストルにあなたの指紋をつけさせるための、お芝居だったのでしょうか?」
「なんともいえないね、いまは」
デラは、唇をすぼめて、無音の口笛を吹いた。しばらくして、かの女はいった。「すっかりいきさつを話していただけます?」
「ま夜中ごろ、すぐバセットのところへ来てくれという電話がかかって来た。息子のディックが、夫を殺すと脅かしているという、バセット夫人の話だった。しばらくは、ぼくもいいかげんにあしらっていたのだが、いかにもせっぱつまったような口振りなので、出かけて行った。
行ってみると、さきほどの話のフェンウィックという女が、寝椅手に寝かされていて、気をうしなっている様子だ。ハートリ・バセットがなぐったのだと、バセット夫人はいうのだ。ディック・バセットは、ピストルを持っていたので、ぼくは、それをとりあげた。気をうしなった女は、ディックの細君だという話だが、その結婚のことは黙っていてほしいということだった。赤毛の、年は五十ごろの女が、たぶん、召使なんだろうが、その女が、若い女の額《ひたい》に濡《ぬ》れたタオルをあてがっていた。ディック・バセットは、大きな口をきいた。
ぼくは、バセット夫人は、離婚を望んでいるのだなと思った。離婚の法廷で、かの女の夫は、女をなぐったことを否認するだろうが、事実をきわめようとする刑事たちの手荒い扱いには、相当閉口するだろうと思ったので、ぼくは警察に電話をかけた。
そのうちに、若い女は気がついた。その話によると、かの女をなぐったのはバセットではなくて、片方、眼のない覆面《ふくめん》の男が、猛烈になぐったということだった。女は、覆面をむしりとって、その男の顔を見たが、部屋が薄暗くて、あかりは、自分のうしろの戸口の方からさしていたので、自分の顔は見られなかった。女の話では、知らない男だということだ。男は、ひどく女をぶんなぐって気絶させた。マスクは、黒いカーボン紙に、眼の孔を二つあけたものだった。帽子の前を深く下げて、そのカーボン紙をはさみ、顔の前にたらしていたのだろう。そのやぶった片割れは、バセットの事務室のデスクの上に残っていた。
バセット夫人は、一人の男が玄関から走り出し、バセットの自動車で逃げて行ったといっていた。夫の、ハートリ・バセットだともいっていた。
むろん、フェンウィック嬢の話を聞いて、ぼくは、奥の部屋を調べに行った。そして、さきほど話した通り、ハートリ・バセットが死体となってころがっているのを発見した。バセットのところで簿記をしたり、タイプをしたり、秘書のような仕事をしている、煮《に》えきらない、ハツカネズミのようなコールマーという男が、その場にいたのだが、バセット夫人に追い出されたということを聞き出した。ぼくは、その男が腹を立てているだろうと思って、その男の部屋まで話しに出かけて行った」
「その男にお会いになって?」
「うん」
「腹を立てていまして?」
「おそろしくね。追い出されただけなら、大したこともなかったのだろうが、なにしろ、バセットと細君との仲がよくなかったものだから、よけいだったのだね。かれは、バセットのために働いていたのだから、ボスの味方だったんだからね。かれが知っていることといえば、バセットの立場からだけで、耳を傾けようとするのも、それだけなんだ。
ところが、コールマーの部屋にはいった時、ぼくは、かれの小箪筍の上に、この紙きれを見つけたのさ。ぼくの電話番号を書いて、バーサ・マクレーンに渡した紙きれなんだ」
メイスンは、ポケットからその紙きれをとり出し、ゆっくり開いて、デスクの上にほうり出した。
「バセット夫人の寝室の前の廊下で見つけたと、コールマーはいっていたがね」
「すると、ハリー・マクレーンがきっと、バセット家へ行っていたのね」と、興奮して、デラ・ストリートがいった。
「ハリーか、バーサか、どちらかだね」と、メイスンはいった。「しかし、忘れちゃいけないのは、ぼくが渡したのはバーサだということだ。バーサが、弟に渡したのかもしれないし、誰かがバセット夫人に渡したか、コールマーが嘘をついていたか、それとも、みんながみんな嘘をついていたか、まあ、そのどれかだね」
「毛布と蒲団の話も、いかさまという気がするわね」と、デラが、メイスンにいった。
「くそっ!」と、いらいらして、メイスンはいった。「なにからなにまで、いかさまさ。ぼくは、重要な目撃者として、そのフェンウィックという女を選び出した。ひとたび、警察がこの女に手をつけたら、独り占めにしてしまって、絶対に会えないだろうと思ったものだから、出し抜くことに肚《はら》をきめてしまった。ぼくは、警官がかの女を連れて行かないうちに、きみが完全な供述書をとってくれると思っていたのだ」
「そのガラスの眼玉の一件から見れば」と、デラはいった。「ブルノルドらしいじゃありませんか」
「フェンウィックという女のいうことがほんとうだとすれば、そういうことになる」と、メイスンはいった。「しかし、やましいことがないのなら、なぜ、あの女はここへ来なかったのだろう? それに、マスクの一件だって、怪しいもんだ」
「なぜなの?」と、デラはたずねた。「犯人なら、マスクをしないとおっしゃるの?」
「どうして」と、メイスンが逆らうようにいった。「犯人がマスクをして、毛布と蒲団の下にピストルを隠したままで、バセットの事務室にはいることができたというのだね? どうすればバセットに近づいて、発射音を消すために、毛布と蒲団をバセットの頭におっかぶせて引き金を引くなんていうことが、バセットの抵抗なしにできるのだね?」
「抜き足さし足ということだったかもしれないわね」と、デラ・ストリートはいった。
メイスンは、気むずかしげに、首を左右に振った。
「それなら、マスクなどいらなかったろうね。いいかね。ピストルは、毛布と蒲団の下に隠していたにちがいないんだぜ。死体の位置から考えて、バセットは、ふいを打たれて、なにがなんだかわからなかったとはいうものの、ピストルを射った男に向かい合っていたことだけは、まず確かなんだ」
デラ・ストリートがゆっくりといった。「だけど、家の中には、すこしもバセットに不審の念を起こさせないで、蒲団と毛布を持って、事務室へはいって、バセットに近づくことのできる人が、ずいぶんいるじゃありませんか」
「なるほど」と、メイスンはいった。「きみは、いいところに気がついたね。その人たちの名前をあげてみたまえ」
「一人は、バセット夫人ね」と、デラはいった。
「そうだ」と、メイスンが、デラにいった。
「つぎは、ディック・バセット」
「よし」
「それから」と、デラはいった。「たぶん、寝椅子に寝かされていた女の人もそうでしょうね」
メイスンは、うなずいた。
「ほかには?」
「わたしの知っているのでは、もうほかにはないわね」
「そうだ」と、弁護士はいった。「召使がいる。おぼえてるだろう、寝椅子にいた女の上にかがみこんでいた召使のことを。召使なら、毛布と蒲団を腕にかかえて行ったって、至極あたり前のことだ。ベッドをつくりかけていたのを、途中でやめて、たぶん、バセットになにかたずねようとして……」メイスンは、いいかけたのをやめて、しばらく、じっと考えていてから、いきなりいった。「しかし、きみの話したことには、重要な点が抜けているよ」
「なんでしょう?」
「いまいった人たちだけが」と、メイスンはいった。「バセットもよく顔を知っている連中だから、毛布と蒲団をもって事務室にはいって行っても、バセットを立ちあがらせるようなことはなかったろう。しかし、その部屋から駆け出した人間は、マスクで顔を隠していたんだぜ。ということは、そのマスクのことを考慮しなければならんということだ。そのマスクは、あわててこしらえたものなんだ。カーボン紙は、おそらく、バセットのデスクの上にあったのだろう。その男は、それをとりあげて……」
「殺してしまってからね!」と、デラ・ストリートは、勝ち誇ったように大きな声を出した。
「さあ、そこだ」と、メイスンは、デラにいった。「マスクは、後から思いついたことにちがいない。しかし、ピストルの音を消すための、毛布と蒲団はそうじゃない。細心に計画したものだということを示している。マスクは、あわててつくったものだ」
「なぜ、犯人は、罪を犯してしまってから、覆面をしなけりゃならなかったの?」と、デラはたずねた。
「逃げるためさ、むろん。そのフェンウィックという女は、バセットの事務室に、一人の男がすわっているのを見た。背中は、かの女の方に向いていた。バセットは、フェンウィックに、待っているようにといった。そこで、かの女は、待合室にすわって待っていた。バセットといっしょにいた男は、そのことを知っていたのだ」
「じゃ、逃げるためだけに、マスクをしたのね」と、デラはいった。
「そうらしいね。しかし、なぜ、裏口から逃げなかったのだろう? そうすれば、マスクもいらなかったろうにね。しかし、はじめに、そのマスクをつくった男が、それをつけて、部屋から出て来た男と同じ人間だとすれば、なぜ、見えない方の眼にも穴をあけたのだろう? なぜ、片方の眼だけあけなかったのだろう?」
デラは、頭を左右に振っていった。「むずかしすぎるわ、わたしには。バセットが抵抗しなかったことが、どうして、先生にはおわかりになりますの?」
「一つは、死体の倒れていた様子からわかる」と、メイスンはいった。「それに、バセットは、肩からかけたケースに入れたピストルを、左の脇の下につるしていたのからね。かれは、そのピストルに手をつけていないのだ」
「それじゃ、その部屋には、ピストルが三つもあったことになるじゃありませんか」と、デラはいった。
「三|挺《ちょう》だよ、ピストルが」と、気むずかしそうに、メイスンは、デラにいった。
「そして、どのピストルが、ほんとうに殺しに使われたか、まだわからないのね?」
「十中八、九」と、メイスンは、デラにいった。「ぼくの指紋のついているやつだな……ところで、ポール・ドレイクは、どれくらい前に帰ったのだね?」
「わたしがこの部屋へはいって、十分ぐらいしてから、その眼玉を渡して行ったんですわ。だから、十五分以上経っていないはずだわ」
「きっと、赤獅子《レッド・ライオン》にいるだろう」と、メイスンはいった。「新聞の連中と飲んでね。電話でつかまえられるかどうか、かけてくれないかね」
「車を盗まれたことを届けるんですか?」と、デラはたずねた。
メイスンは、首を左右に振った。
「そんなものは、どこかから出て来るよ」
ダイヤルをまわしていたデラ・ストリートは、この上なしの甘い声でいった。「お客さんが、ポール・ドレイクさんと話をしたいとおっしゃってるんですけど。そちらに、いらっしゃいます?」
しばらくして、デラはいった。「もしもし、ポールさん。ちょっと待ってくださいね。先生が話をしたいとおっしゃってるんですの」
メイスンは、受話器を受けとって、
「ポール」といった。「鉛筆をとって、書き取ってくれ。ハートリ・バセット──バセット自動車金融商会――金融業、金貸し、たぶん、盗品故買もやっているだろう。どんなことでもいい、この人物に関した情報を、洗いざらいあたってみてほしいんだ。
今晩、自殺をして、タイプライターに遺書が残してあった。新聞屋が写真を持っているだろうが、その写真のプリントも手に入れたい。バセット夫人と、その息子――ディック・バセットという名前だが――その二人も洗ってくれ。ついでだが、ハートリ・バセットは、息子の父親ではない。なぜ、その子供が本当の父親の名前を名乗っていないのか知りたい。それから、もう一件ある。ウォシントン通り三九○二番地、ピーター・ブルノルドという男だ。きみは知らないかもしれないが、例のきみが届けてくれた六つの眼玉のご本人だ。この男のことも洗いざらい調べあげてくれ。す早いことやってくれ。どんなに大勢の人間をかけても構わん。が、すぐかからせてくれ、すぐだ」
笑いたくなるのを抑えつけているようなポール・ドレイクの声が、線を伝わって来た。「自殺とはおっしゃいましたね、ペリイ。おれは、殺人事件だという方に五倍かけるぜ。事実は知らないがね」
「黙れよ」と、メイスンは、かれに向かっていいながら、にやっと笑って、「そのサーチライトのようによくひらめく頭を、金儲けの方に向けたらどうだ」
メイスンが受話器を元にもどしたとたん、ドアの握りがまわった。ピーター・ブルノルドが、ドアから飛びこんで来た。はあはあと息を吐き、額には汗の玉が光っている。腕時計をちらっと見て、満足そうにうなずいた。
「レコードをつくりましたぜ、早く走る。タクシーの運ちゃんでも──」
そこまでいったとき、デスクの上にならんだガラスの眼玉を見て、言葉が途切れた。
「なんです、これは?」と、たずねた。
「ようく見てください」と、メイスンが相手にいった。
ブルノルドは、念入りに、その眼玉をあらためた。
「まったくいいできですね」と、ブルノルドはいった。「すごくよくできていますね」
「本ものの義眼《いれめ》は、まだ見つかりませんか?」と、話の口火を切るためのように、メイスンは、さりげなくたずねた。
ブルノルドは、首を左右に振って、じろじろとデラ・ストリートを見つめた。デラ・ストリートは、毛皮の外套の前をかき合わせて、脚をかくした。
「盗まれたあなたの眼を、とりもどしたいとお思いですか?」と、メイスンがきいた。
「とりもどしたいですね」
デラ・ストリートは、ガラスの眼玉を箱にしまいこんで、そっと、速記のノートブックを膝の上にひろげ、脚をくんで、速記をとりはじめた。
「あなたの義眼がとりもどせるか」と、メイスンはいった。「さもなければ、とりもどせる方法を教えて差しあげられると思いますがね」
「どういうふうにしてです?」
「まず、あなたのしなければならんことはね」と、ペリイ・メイスンはいった。「タクシーをひろって、フランクリン通り九六八二番地の、ハートリ・バセットの家へいらっしゃればいいんです。そこには、警官がいるでしょう。ここに自分の義眼があると思うが、自分のかどうか確かめてみたいと、そう警官におっしゃるんですね。警官は、あなたを、ある部屋に案内するでしょう。そこの床の上に、ハートリ・バセットが頭を弾丸に射ち抜かれて、倒れているはずです。その右の手には、なにかを握りしめています。警官は、その指をこじあけます。あなたは、血走った眼玉が、あなたを見あげているのをごらんになれます、その手のひらから――」
ブルノルドは、一瞬ぎょっとしたようだったが、すぐに気をとり直し、デスクの上の煙草入れから一本抜きとった。煙草にマッチをもって行く手が、ぶるぶるとふるえていた。
「どうして、その眼が、わたしの眼だとお思いなんですか?」
「どうも、そうらしいですよ」
ブルノルドは、ゆっくりといった。「わたしが恐れていたのも、それなんです。誰かが、わたしの眼玉を盗んで、贋物をおいて行きました。わたしは、その元の自分の義眼をとりもどしたいと思ったんです。わたしが恐れていたのは、いまおっしゃったような状況で発見されやしないかということだったのです。ぞっとしますよ。まったく恐ろしいことです!」
「びっくりしましたか?」
「もちろん、びっくりしました……まさかわたしが、そんなとこへ出かけて行って、その男を殺し、自分の義眼を、その男の手に握らせたと思っていらっしゃるのではないでしょうね? やろうと思っても、わたしには、そんなことはできません。わたしは、その義眼をもっていなかったのですからね。今朝も、誰かがそれを盗んで、代わりに贋物をおいて行ったと申しあげたじゃありませんか」
「ハートリ・バセットは、ご存じだったのですか?」と、メイスンはきいた。
ブルノルドは、しばらくためらってから、いった。「いいや、知りません。会ったこともありません」
「奥さんの方はご存じですか?」
「会ったことがあります……つまり──そう、知っています」
「息子の方は?」
「ディック──ええと──バセットですね?」
「そうです」
「まあ、そうです。ディックは見かけたことがあります。会ったということですがね」
「バセットに雇われていた、ハリー・マクレーンはご存じでしたね?」
「ええ」
「どこで会ったのです――バセットのところでですか?」
「バセットのところでです。あの男は、秘書の助手兼タイピストをやっていました。会いました──一度だけ」
「あの男が、あなたをバセットに紹介したのじゃないのですか?」
「ちがいます」
「ハートリ・バセットは、見かけたことがおありですか?」
「いいや……一度も、見かけたことはありません。むろん、あの人のことは知ってはいましたが」
「というと、どういうことなんです?」
ブルノルドは、不安そうに、もじもじした。
「ねえ」と、ブルノルドはいった。「わたしを苦しめるために、こんなことをしているんじゃないのでしょうね? 拷問じゃないでしょうね? バセットが死んだなんて、わたしをだましていらっしゃるんじゃないでしょうね?」
ペリイ・メイスンは、親指の爪で、煙草を軽くたたきながら、
「そんなことはありませんとも」
「それじゃ」と、ブルノルドはいった。「ほんとうのことを申しあげましょう。細君の方は、よく知っています──つまり、なん度も会ったことがあります」
「知り合いになってから、どれくらいになります?」
「そう大して長くはなりません」
「二人の仲は、プラトニックなものでしたか、それとも、そうじゃなかったのですか?」
「精神的な友情でした」
「最後に会ったのは、いつですか?」
「二週間ほど前だったと思います」
「かりに、バセット夫人が、あなたが自分から離れて行こうとしていると思った場合」と、メイスンは、ぶっきらぼうにいった。「あなたに不利な事件をでっちあげるようなことはないでしょうかね?」
ブルノルドは、いまにも煙草を指からおとしそうになった。「なんですって」と、かれはいった。「いったい、どういうことですか?」
「どういうことって、言葉通りの意味ですよ、ブルノルドさん。あなたが、バセット夫人と喧嘩をしたとするんです。ちょうど、そのとき、夫人の夫が自殺をした。夫人は、あなたが、誰かよその婦人と恋愛関係におちいっていて、自分から離れて行こうとしていると考えたとするんです。そういう場合に、夫人が、夫の死を自殺でなく、他殺と見せかけ、しかも、その殺人に、あなたが関係しているらしく思わせるようなことはないでしょうか?」
「なぜですか?」
「あなたの気持ちを、よその女性のところへ移らせないようにするためですよ」
「しかし、そんなほかの女などありませんよ」
「そのことを、夫人は、よく知っていますか?」
「ええ…つまり、知らないでしょう……おわかりでしょうが、われわれの間には、なんにもないのです……わたしにとって、夫人は、なにものでもないのです」
「なるほど」と、弁護士は、冷淡にいった。「それで、はじめてバセット夫人にお会いになったのは、いつですか?」
「一年ぐらい前でしょうね」
「そして、最後にお会いになったのは、二週間ぐらい前なんですね?」
「そうです」
「それ以来、お会いにならないのですね?」
「会いません」
「義眼を盗まれたことに、はじめて気がついたのは、いつですか?」
「昨夜遅くです」
「どこかにおき忘れたとは思いませんか?」
「そんなことはありません。贋物とすり替えてあったのです。つまり、誰かが計画的に盗んだにちがいないということです」
「なぜ、盗んだのでしょう?」
「わかりませんな」
「なぜ、盗んだと思うんです?」
「見当もつきませんね」
「バセットの住まいで、ハリー・マクレーンに会ったということでしたね?」
「ええ、あすこで見かけました」
「あの男が金を使いこんでいたことは、ご存じですね?」
ブルノルドは、ややしばらくためらっていてから、いった。「ええ。聞いていました」
「使いこみの金額を、正確にご存じですか?」
「四千なんドルとかいうことでしたね」
「ヘーゼル・フェンウィックという若い女性をご存じですか?」
「フェンウィックですか?」
「そうです」
「知りません」
「アーサー・コールマーという男はご存じですか?」
「知っています」
「話したことがおありですか?」
「ありません、が、見かけたことはあります」
「バセットの運転手はご存じですか?」
「知っているといえましょうね。オーバートンという名で、色の浅黒い、背の高い男です。一度も笑ったことのないような顔をしていますね。あの男がどうかしたのですか?」
「ご存じかどうか、知りたかっただけですよ」
「ええ、知っていますよ」
「五十から五十二ぐらいの、ふとった、赤毛の女は?」
「ええ、それは、エディス・ブライトですよ」
「なにをしている女ですか?」
「家政婦とでもいうんでしょうね。まるで牝牛のように力の強い女ですよ」
「ところが、バセット氏には、一度も会ったことがないんですね?」
「話をしたことはありません」
「ほかの連中は、あなたのことを知っているのですか?」
「ほかの連中というと?」
「あなたが知っているとおっしゃった連中ですよ」
「知らないでしょう……もっとも、運転手は、わたしの顔ぐらい見ているかもしれませんがね」
「あなたの方では、向こうの連中を見てもいれば、知ってもいるのに、向こうは、あなたを見たこともなければ、知ってもいないというのは、いったい、どういうわけですか?」
「シルビアが教えてくれたから、わたしの方では知っているんです」
メイスンは、いきなり、くるりと、かれの方に向きなおって、火のついた煙草の先を、ブルノルドのチョッキの前につきつけた。
「ディック・バセットは」と、メイスンはいった。「昨日、あなたを見かけていますよ」
「どこで?」
「自分の家で」
「そりゃ、見間違ったにちがいありません」と、ブルノルドはいった。
「それじゃ、コールマーです、あなたを見かけたのは」
「あの男が、わたしを見かけるはずがありません」
「なぜです?」
「なぜって、あの男のいる方へは行かなかったからです」
「というと、どういうことですか?」
「あの家は、二軒建ちのような恰好なんです。バセットは、一軒の方を事務所に、一軒の方を住まいにしていました。ところが、細君との仲が不仲になってから、バセットは、すっかり事務所の方でだけ暮らすようになっていたのです」
「すると、昨日、あなたは、あの家のバセット夫人の住んでいる方にいたんですね」
「昨日じゃなく、一昨日《おととい》です」
「あなたは、もう二週間から、バセット夫人とは会っていないのだと思っていましたが?」と、メイスンはいった。
ブルノルドは、なにもいわなかった。
「それから、ディック・バセットは、今晩、あなたのことで、ハートリ・バセットと口論をしたそうですよ」と、弁護士は、つづけていった。
「今晩というと、いつごろです?」
「あなたが、あの家を出てから後で」
「そりゃ、あなたの間違いです」と、ブルノルドは、きっぱりといった。「絶対に、そんなことはあり得ないことです」
「なぜです?」
「というのは、わたしが、あそこを出る前に――」
メイスンは、にやりと笑って見せた。
ブルノルドは、いまにも食ってかかりそうに、弁護士の方に身を動かして、
「畜生!」といった。「なにをしようと企んでいるんだ?」
「事実をつかもうとしているんですよ」と、メイスンは、相手にいって聞かせた。
「そんなら、ひとを、そこらのありふれたぺてん師かなんぞのように、おどしたり、わなにかけたりするのはよせ。そんなことをするなんて──」
「おどそうなんてしてやしませんよ」と、メイスンはいった。「それに、わなにかけるといえば、あなたは、もうわなにかかっていますよ。あなたは、今晩、あの家を出る前に、バセットはもう死んでいたと、いいかけていたんでしょう?」
「今晩、あの家にいたとは、一言もいわなかったぞ」
「そう」と、メイスンは、にっこり笑いを浮かべていった。「そうは、いいませんでしたね。しかし、あなたのいったことから、いかにも、そういう推理ができますね」
「きみは、わたしのいったことを誤解しているんだ」と、ブルノルドはいった。
ペリイ・メイスンは、デラ・ストリートの方を向いて、
「みんな書きとったかい――問いもこたえも、デラ?」とたずねた。
デラは、眼をあげて、うなずいた。
ブルノルドはデラ・ストリートの方へ飛びかかろうとした。
「なんだと! ひとの話を洗いざらい書きとったって? とんでもないことだ。そんなことは――」
ペリイ・メイスンの両手が、相手の肩をつかんだ。
「なにをするんだ?」と、荒々しく、メイスンはたずねた。
ブルノルドは、向きなおって、メイスンをにらみつけた。
「若い女性に乱暴なことをしてみろ」と、メイスンは、重々しくいった。「すぐに、廊下へほうり出してやるぞ。それよりも、腰をおろしたまえ。そして、こんな遠まわしな話はやめて、正直なところを話したらどうだ」
「なぜ、きみに話さなくちゃいけないのだ?」
「こんなことになる前から、きみが助けを求めていたからさ。だから、今こそ、きみは、真実を打ちあけるチャンスをつかんだのだ。後になっては、そんなチャンスもないかもしれない。鉄格子の中から、娑婆《しゃば》をうらめしく眺めることになるかもしれないよ」
「警察に疑いをかけられるようなわけは、なにもないんだ」
「きみの方で、そう思っているだけさ」
「今晩、あの家にいたことは、きみのほかには誰も知ってやしない」
「バセット夫人が知っているじゃないか」
「むろんだ。しかし、あの女は、馬鹿じゃない」
「コールマーも」と、メイスンはいった。「誰かが、家から駆け出したのを見た。それが誰だか、あの男は知っているよ。ぼくにはいわなかったがね。あれは、きみだったのか?」
ブルノルドは、ぽかんと口をあけて、「認めたというのか?」といった。
「コールマーは、そういっているよ」
「そんなはずはない。あの男は、ずっと遠くにいたんだし、それに、ぼくは――」
「すると、きみだったんだね、コールマーの見たのは」
「そうだ。しかし、コールマーには、ぼくが見えるはずがないと思うんだ。あの男は、通りの向こう側にいたのだ。間違いなく、こっちが先に見つけた。ぼくは、顔を見られないように、ずっと、顔をそむけていた」
「なんのために、走っていたんだね?」
「急いでいたんだ」
「なぜ?」
「シルビアが――いや、バセット夫人が――きみに電話をかけたことを知っていたからだ。きみが来たとき、あのあたりにうろうろしているのを見られたくなかったのだ」
「ねえ、きみ」と、メイスンはいった。「きみは、警察で、どんなにきびしく訊問をされても、頑張り通せるかね?」
「むろん、頑張れるさ」
「ぼくの訊問には、大して頑張り通せなかったじゃないか」
「警察は、ぼくを訊問したりはしないよ」
「なぜだね?」
「どうしたって、ぼくが、バセット家とつながりがあるなどと気がつかないからだよ」
「誰かが来ましたわ」と、デラ・ストリートがいった。
ドアの艶消《つやけ》しガラスに、なん人かの人の影がうつった。握りがまわって、ドアが押しあけられた。ホルコム巡査部長と、部下の警官二人が、入口に立ちはだかった。三人は、油断のない目つきで、事務室の中の人たちを眺めまわした。ホルコム巡査部長が、前に進み出た。
「ピーター・ブルノルドだね?」と、ホルコムはたずねた。
ブルノルドは、うなずいて、かみつくようにいった。「それがどうしたんだね、きみに?」
ホルコム巡査部長は、ブルノルドの肩をつかむと同時に、上衣の襟《えり》をかえして、黄金色のバッジを見せた。
「別にどうもしないがね」と、ホルコムはいった。「ただ、ハートリ・バセット殺害の容疑者として、逮捕するだけだ。注意しておくが、きみのいう一言一句は、きみに不利な陳述として利用されるかもしれないよ」
ホルコムは、ペリイ・メイスンの方へ向きなおって、横柄《おうへい》な笑いを見せた。
「せっかくの相談を邪魔してすまなかったな、メイスン」と、ホルコムはいった。「しかし、きみとおしゃべりをした後では、その人間は、ふっと姿を隠してしまうという、まことにいやな手を用いるんでね。ブルノルド氏も、健康のために、転地する方がいいなどと決心する前に、つかまえときたかったんだ」
ペリイ・メイスンは、煙草を灰皿にこすりつけて、
「どういたしまして」といった。「いつでもまた来てくれて構わないよ、巡査部長どの」
ホルコム巡査部長は、陰気な口調でいった。
「例の目撃者の行方《ゆくえ》について、地方検事どのが、おれと同じ考えをもっておいでだったら、またやって来るよ。そして、おれが、ここを出て行くときには、手ぶらじゃ帰らんぜ」
ペリイ・メイスンの物腰は、ひどくいんぎんだった。
「いつだって、きみとお目にかかるのは、大いによろこびとするところです、巡査部長どの」
ブルノルドは、ペリイ・メイスンの方を振り返っていった。「ねえ、顧問弁護士さん、先生は、なんだって──」
ホルコムは、二人にうなずいて見せた。警官たちは、ブルノルドをドアの方へぐいと押した。
「ああ、もういい、もういい」と、ホルコムはいった。「きみたちは、たっぷりおしゃべりをすませたはずだ」
「きみは、ぼくが弁護士と打ち合せる邪魔はできんはずだぞ」と、ブルノルドがどなり立てた。
「とんでもない」と、ホルコム巡査部長はいった。「ちゃんと手続きをすませて、拘置所へおはいり願ってからなら、弁護士との面会を要求する権利はあるさ――しかし、それまでには、もっともっと、いろんなことが起こっているだろうがね」
部下は、ブルノルドをドアから外へ押し出した。ブルノルドは、身をもがいて、逆《さか》らおうとした。手錠が、さっとひらめいて、かちりとつめたい金属の音がした。ブルノルドは、いや応なしに引き立てられた。「来るんだ」と、一人の部下がいった。
ドアが、ばたんとしまった。
後に残ったホルコム巡査部長は、ペリイ・メイスンをにらみつけた。
メイスンはあくびをして、つつましく、四本の指で、そのあくびをかくした。
「これは失礼、巡査部長どの」と、メイスンはいった。「あくびをしたように見えたかもしれんが、なに、大した奮闘の一日だったからね」
ホルコムは、くるっと向きを変え、ぐいとドアをあけ、戸口で立ちどまっていた。「なかなかこすっからしい手を打つが、それにしては、きみも、みじめな結果に終るもんだな」
そのまま、ホルコムは、ぴしゃりとドアをしめた。
メイスンは、元気そうに、デラ・ストリートに、にやりと笑って見せた。
「家に帰る前に、そこらのナイトクラブをのぞいて見るのは、どうだね?」
デラは、ちらっと自分の体を見おろして、いった。「この毛皮の外套をぬいだら、その場で、逮捕されてしまいますわ。おぼえてらっしゃるでしょう、大急ぎで、あり合わせのものを引っかけて来いっておっしゃったじゃないの。だから、この外套の下には、なんにも着ていないのよ」
「じゃ、きみは、家に帰りたまえ」と、メイスンは、きっぱりといった。「われわれのうち一人は、すくなくも刑務所とは無縁でなくちゃならんからね」
デラの眼は、不安そうな色を浮かべていた。
「先生、まさか、あなたが逮捕されそうだというんじゃないでしょうね?」
メイスンは、肩をすぼめ、頭を軽く下げ、ドアをあけてデラを待った。
「誰にもわからん」と、メイスンはいった。「ホルコム巡査部長がなにをしようというのかは。あの男は、まったく変幻出没、無器用極まりない男だからね」
第七章
さっぱりとひげを剃《そ》ったペリイ・メイスンは、デラ・ストリートのデスクの前に立ちどまって、にっこりと見おろしながら、
「ゆうべは、だいぶ遅かったが、気分はどうだね?」といった。
「百万長者のようなご機嫌だわ」と、デラはいった。「新聞がハートリ・バセット殺しを書き立てているのを読んでたんですけど、ブルノルドのことは、なんにも出ていませんわね」
「新聞の連中は、ブルノルドのことは、なんにも知らないんだよ」と、メイスンがデラにいった。
「なぜかしら?」
「ホルコムが、あの男を本署へつれて行ってないからだろうね。どこかずっと離れた分署ヘブルノルドを引っ張って行って、しぼりあげてるんだろうね」
「なんとか手の打ちようはなかったのかしら?」
「人身保護令状《ハビアス・コーパス》を請求してもよかったのだが、こっちの手を見せたくなかったからね──まだ今のところは。ぼくにも、事件の真相がわからないのだ。ブルノルドは、野放しにされているよりも、拘置されている方がいいかもしれない。令状を請求したとしても、それがぼくの手にはいる前に、警察は、ききたいだけのことを、あの男から聞いてしまうだろうからね」
「バセット夫人は、どうしてるかしら?」
「ぼくは、アパートに帰るとすぐに、あのひとに電話をしてみたよ」
「お話しになって?」
「いいや。ぼくがあの家を出てから、あの人は、ヒステリーの芝居をやってみせたらしい。さすがのホルコムも、どうにも手がつけられなかったのだね。息子は、医者を呼んでから、早いことやったらしいんだ。病院へつれて行くといっていたが、どこの病院にもいない。息子は、夫人の行く先をいわない。いつでも必要な場合には、母親を出すとはいってるがね」
「あなたにも、母親がいるところをいわないんですの?」
「いわないんだ」
「いったい、ホルコムともあろう人が、どうしてそんなことを、その息子さんにさせてしまったのかしら?」
「ホルコムは、ブルノルドを逮捕しに、とび出して行く。それが、バセット青年に好機をもたらし、バセットは、それにとびついたというわけだ。しかし、確実なとこ、刑事の方じゃ、張り込みをしている。夫人の居場所を知っているらしい。バセットの息子は、気づいていないかもしれないが、警察では、ちゃんと知っているんだ」
「それじゃ」と、デラはいった。「ディック・バセットのせっかくの苦心も、あなたは夫人には連絡がとれないが、警察には嗅《か》ぎつけられるということになっただけじゃありませんか。そうでしょう?」
「まあ、そんなところだね」
「じゃあ、バセット夫人は、ブルノルドが逮捕されたことは知らないんですね?」
「たぶん、知らないだろうね」
「いつになったら、気がつくかしら?」
「現実の世界にもどって、人間らしく振舞うようになった時だろうね。ぼくは、できるだけ、ぼくに連絡をつけるようにお母さんに伝えてくれ、大変重要な問題なんだからと、バセットの息子にはいっておいたがね」
「それで、まだ電話をして来ないんですのね?」
「かかって来ない」
「でも、夫人のいるところは、おわかりになったのじゃないんですか?」
「わかったところで、どうなるというんだね? 確かに、警察じゃ、夫人を監視しているにきまっている。ぼくが無理を押そうとすれば、かえって向こうの思う壼《つぼ》にはまって、よくないことになりそうなんだ」
「なぜでしょう?」
「ぼくの指紋が、その犯罪に使ったピストルに残っているかもしれないからね」
デラは、速記のノートブックの片すみに、シャープペンシルで、小さな模様を書いた。
「あなたがこれまでに関係なすったうちでも、こんな奇妙な殺人事件て、はじめてですわね」と、デラはいった。「殺人事件だというのに、依頼人が一人もないでしょう、まだ──つまり、ブルノルドのほかには、前渡し金をおいた人もないじゃありませんか」
メイスンは、ゆっくりうなずいて、いった。「昨夜、バーサ・マクレーンに連絡できる場所を聞いておきたかったね。あの女は、住所もなにも知らして行かなかったんだろう?」
「ええ。弟の――ハリー・マクレーンの方だけは――きっと、どこかの賭場の電話番号だと思いますわ」
「たぶん、そうだろうね。電話で連絡がとれるかどうか、弟が知らしていった番号を呼んでみたまえ。どこかほかの番号を教えてくれれば、すぐに連絡がとれるかもしれないからね」
デラはうなずいて、速記用のノートブックに、心おぼえを書きとめてからいった。「ほかに、なにかご用は?」
「そうだ」と、メイスンは、デラにいった。「バセットの家に、かけてくれたまえ。ディック・バセットに、ぼくが母親と連絡をとりたがっている、非常に大事な用件だからと、そういってくれたまえ。それから、ついでに、もう一つ──」
そのとき、電話のベルが鳴った。デラは、受話器をとりあげて、「はい、どなたでしょう?」といった。しばらく聞いてから、送話器を手で押さえ、いかにも面白がっているような目を光らせて、ペリイ・メイスンをみつめた。
「あなたの車、どこにあったかおわかりになって?」と、デラはたずねた。
「いいや。どこだね?」
「警察署の前に駐車してあるんですって。電話は、交通課からなの。今朝の二時から、消火栓の前に、車が置きっぱなしになってたって、そういってるわ。盗まれたのかどうかって、たずねて来ているの」
ペリイ・メイスンは、顔をしかめた。
「それこそ」と、メイスンはいった。「やつらが、ぼくを一杯はめようというのだろう。ちがうって、盗まれたのじゃない、うっかりして、ぼくが消火栓の前にとめたのにちがいないと、そういってくれ」
デラは、送話口から手をはなして、いわれた通り繰り返し、それからまた、送話口に手をおいた。
「それにね」と、デラはいった。「そこは、二十分以上駐車禁止区域で、今朝の九時から、二十分おきに、カードをくくりつけておいたんですって」
メイスンは、「誰か使いに、白紙の小切手を持たせて、車をとりにやってくれ。余計なおしゃべりはするなといってくれ。それにしても、あの小悪魔の厚かましさはどうだい? 車を借りて行って、警察署のまん前に置きっぱなしにするなんてね!」
「あのひとが自分でしたのかしら、それとも、警官がつかまえて、警察まで送らせたのかしら、どうお思いになって?」
「わからんね」
「もし、警官がそんなことをしたのだったら」と、デラ・ストリートはつづけた。「ずいぶん、ふざけたことをしたものね。だって、あなたが車を盗まれたといえないことを知っていて、消火栓の前の、二十分以上駐車禁止区域にとめとくなんてね」
メイスンは、うなずいて見せて、大股に、自分の事務室の方へ歩きながら、
「まあ、いいよ」といった。「笑わせとくさ。最後に笑うものは、もっとも長く笑う、だ……例の眼玉は持ってるかい?」
「ポール・ドレイクさんが作って来た眼玉のことでしょう?」
「そう」
デラは、自分のデスクの引き出しをあけて、ガラスの眼玉の箱をとり出して、
「ぞっとするわ」と、いった。「わたし、これを見ると」
メイスンは、その箱をあけて、眼玉を二つとり出し、そっとチョッキのポケットにおとしこんで、いった。「後の四つは、金庫にしまっておいてくれたまえ。誰にも見つからんように、鍵をかけておくんだよ。この眼玉のことは、きみとぼくの間だけの秘密だからね」
「そっちのほうは、どうなさるの?」
「わからんね。ブルノルドのつぎの出方によるよ」
「つぎに、どう出るかしら?」
「電話をかけて来て、殺人事件の弁護をしてくれと頼むだろうね」
デラは、気づかわしげなたて皺《じわ》を、眉の間に浮かべた。
「こんなふうに、この事件にまきこまれて行って、どうなるでしょう、先生?」と、心配そうに、デラはたずねた。「ホルコム巡査部長は、逮捕令状を持って、もどって来るでしょうか?」
「ピストルの指紋を、ぼくのだと確認しないかぎり、そんなことはないだろうね。それに、ぼくの指紋をとってからでなければ、そんなことはできないだろうしね。ぼくの指紋は、本部には登録されていないのだから。連中は、おそらくヘーゼル・フェンウィックの失踪のことで、じりじりしているだろうが、ぼくに、どう嫌疑のかけようもないだろう。こんど新しい地方検事が就任したね。ぼくは、かれは、公平な信頼できる人らしいという気がするんだ。有罪の宣告をしようというのは、確かに起訴しているのが犯人だという確信のある時だが、そうでなくて、潔白な人間に有罪の宣告をするようなことはしないらしい」
「昨夜、ブルノルドのいったことは、清書しておきましょうね?」
メイスンは、首を左右に振りながら、奥の事務室へ通りながら、
「いいよ」と、肩ごしにいった。「ほっときたまえ。依頼人が誰か、見きわめてから、はっきりした処置を講じることにしよう」メイスンが、自分用の大きな回転椅子に、どっかり身をおとして、新聞をとりあげ、バセット殺しの記事を読んでいると、電話が鳴って、デラ・ストリートの声が聞こえて来た。「ハリー・マクレーンに、電話がかかりましたわ。ひどく威張った口のききようだったけど、ようやく姉さんの電話番号を聞き出しましたわ。その番号を呼んで、姉さんと話したら、いますぐお目にかかりたいっていうんです。できれば、弟も連れて来るそうですわ。どうしてもお目にかからなくちゃいけないから、一日中でも、待合室でお待ちしますって、そういってましたわ」
「なんの用だか、いったかい?」と、メイスンはたずねた。
「いいえ、いいませんでしたわ……それから、車をとりに、一人、行ってもらいましたわ。ポール・ドレイクさんから電話で、いつでもご都合のいい時にお目にかかりたいそうです」
「ポールに来るようにいってくれ」と、メイスンはいった。「バーサ・マクレーンが来たら、すぐに知らせてくれたまえ。フェンウィックという女も、警察につかまっていなければ、きっと、今日じゅうには電話をかけて来るだろう。偽名を使うかもしれないから、正体のわからん女が、ぼくに連絡をつけようとして来たら、間違いなく、話をきいて、その内容をつかんどいてほしいね。如才なく、しっかりやってくれよ。
ポール・ドレイクには、じかに、こっちの事務室へはいって来るようにいってくれ。ぼくが通すからね。きみのところのブザーを鳴らしたら、こっちへ来て、ノートをとってくれ」
メイスンが受話器を元にもどして、新聞の記事を一欄の半分ほど読んだとき、廊下へ通じるドアをノックする音が聞こえた。メイスンがドアをあけると、とってつけたような、おどけた顔をつくったポール・ドレイクがはいって来た。
メイスンは、きびしくポールの顔を見て、いった。「昨夜は、ずいぶんよく眠れたという顔をしているじゃないか」
「うむ」と、ポール・ドレイクはいった。「かれこれ二十分はね」
「どこで?」と、メイスンはききながら、デラ・ストリートを呼ぶブザーを押した。
「今朝になってから、床屋の椅子の上でね。きみも突然妙案を思いついたりなんかするのは、勤務時間中だけにしてもらいたいもんだね。大至急の用事といや、きまって、真夜中なんだから、こっちはたまらんよ」
「ぼくには、どうもならんよ」と、ペリイ・メイスンはいった。「殺人犯人は、どうしても、勤務時間外に、餌食《えじき》がほしくなるんだからね。ところで、なにかかぎ出したかね?」
「どっさり、かぎ出した」と、ドレイクはいった。「なにしろ、いろんな角度から追求するんで、一度に二十人の探偵を動かすんだからね。きみもせいぜい金持ちを客にしてもらいたいもんだ」
「いまはないけど、そのうちには、そうなるさ。それで話というのは?」
「長い長い物語りだ」と、ドレイクはいった。「人間の利害関係の織りなす物語りだ」
メイスンは、大きな、ふくらみすぎた革張りの安楽椅子を指さした。
「かけて話したらどうだ」
ポール・ドレイクは、長い脚をえびのように曲げて、横向きに、肘かけの片方に背中を、もう一方に両脚をかける、妙なすわり方をした。デラ・ストリートがはいって来て、探偵ににっこり微笑を向けてから、腰をおろした。
「そもそも話は、ヴィクトリア王朝中期に数あるロマンティックな背信行為の一つにさかのぼるのだ」
「なんのことだい?」
ドレイクは、煙草に火をつけ、煙の雲を吐き出しながら、手を振っていっさいを含んでいるというようなしぐさをして、いった。「まず、なに不自由のない、幸福な、しかし、狭量な、美しい農村社会を想像してみたまえ――狭量なということが大事なんだがね」
「なぜ、大事なんだね?」と、メイスンはたずねた。
「それが、その社会の特徴だからさ。誰でもが、誰でものしていることを知っている。一人の女の子が、新しい着物を着てあらわれると、たちまち、一ダースからのいろいろ違った舌がぺらぺらといそがしく動いて、どこからその着物を手に入れたろうと、詮索《せんさく》にかかる」
「毛皮の外套だったら?」と、弁護士が質問の口を入れた。
ポール・ドレイクは、よせよというように、両手をあげていった。「おい、おい! どうして、せっかくの可愛らしい娘を、そんなふうに台なしにするんだね?」
メイスンは、くっくっと笑っていった。「それから」
「そこに、シルビア・バークレーという名の娘がいた──可愛い──人を信じ易い、単純な、まがったことのきらいな、きれいな眼をした娘だった」
「なんだって、そうありったけの美辞麗句《びじれいく》をつらねるんだね?」と、弁護士はたずねた。
「というのはね」と、ドレイクは、真剣な口振りでいった。「ニュースを持って来たやつが、そんなふうに大げさに、その娘のことをいったんだ。写真まで手に入れたぜ」
ドレイクは、ポケットをさぐって、封筒を出し、それから一枚の写真をとり出して、ペリイ・メイスンに渡した。
「その写真を、朝の四時に掘り出したのを、大した技術じゃないと思うんなら、きみの頭はどうかしているというもんだぜ」
「どこで、手に入れた?」
「郷土新聞からさ」
「当時、特種《とくだね》になったんだね?」
「うん、失踪したんだ」
「誘拐されたか、どうかしたのか?」
「誰にもそのわけさえわからんのだ。ただいなくなったのだ」
弁護士は、さぐるような眼を探偵に向けて、いった。「きみは、その失踪事件の真相をつかんだというんだね?」
「そうだ」
「よし、どんどん話してくれ」
「おれの話しっぷりがロマンティックとか、詩的とか、なにかそんなふうに聞こえるというんなら、それは、おれが一晩じゅう眠らなかったせいだと思ってくれ」
「そんなこと気にするな。まっすぐ問題の核心にはいってくれ」
「そのころ、服地などを売って歩いていた外交販売員がいた。名前を、ピーター・ブルノルドといった」
「片眼だったね、その男は?」と、メイスンがたずねた。
「いや、当時は、両方の眼があった。義眼を入れたのは、もっと後のことだ。おれがすこしもたもたしていたのは、それも、その理由の一つなんだ」
「それで、話は、どこからはじまるのだね?」と、メイスンがたずねた。
「シルビア・バークレーの家族のことからはじめるかな。その家は、よくあるだろう、こちこちにこりかたまった、しょっちゅう、そっくり返って歩いているといった、謹厳一点張りの家風だった。外交販売員といえば、あこがれの都会から来たいんちき屋だ。ブルノルドが、その娘をつれ出そうとしかけたときには、家じゅうが火の玉のようにかんかんになった。その町には、小さな映画館があった。ねえ、その時代のことだから、ラジオなんてものもなかった。映画だって、やっと、カウボーイの追っかけごっこを卒業しかけたころだ。町も小さかったから、昔なつかしいメロドラマも、そういつも見られるというわけにはいかなかった。それに――」
「社会描写はもういい」と、じりじりしたように、メイスンはいった。「ブルノルドは、その女と結婚したのか?」
ドレイクは、持ち前のゆっくり気取って話す口振りで、いった。「物語りをいいというんでなけりゃ、社会描写をしないわけにはいかないよ。いいや、結婚はしなかったがね。きみ、やっぱり、おれの物語りをする以上は、その町のことをうっちゃらかすことはできんよ」
弁護士は、ため息をついて、半ばひょうきんな眼で、ちらっとデラ・ストリートに笑いかけながら、いった。「よし、講義をすすめたまえ」
「ところで、感じ易い年ごろの娘っ子が、どんなことをするかは想像がつくだろう。町じゅうが、その女のことを、地獄に落ちかけていると思ったものだ。家族は、ブルノルドなど相手にするなといった。女は、男から離れなかった。たぶん、いろんな考えが──自分は、自分の道を行く──といったような考えが、その女の頭の中で渦を巻いていたんだろうな。ねえ、ペリイ、その娘っ子が、なん代もなん代もの間、その一族の頭の中にしみこんでいた下らない考えから脱け出そうとしかけていたのは、ちょうどそのころなんだ」
ペリイ・メイスンは、これ見よがしにあくびをした。
「ちえっ」と、探偵はいった。「きみは、おれの青春から、ロマンスというものをすっかりむしり取ろうというんだね──このごろ、やっと、おれの若さも、まだすっかりなくなっていないと思いはじめているというのに」
「そんなものは、青春のロマンスじゃないよ。老年のたわごとだよ」と、メイスンはいった。「後生だから、ぼくが、いま殺人事件と取っくんでいて、事実を求めているのだということを、しっかり頭に入れておいてもらいたいね。きみは、事実を提供してくれるだけでいい。それに、たっぷりロマンスをまぜて、陪審団に召しあがっていただくのは、ぼくの役目だよ」
「あんなひどいことをいってね」と、デラ・ストリートの方を振り向いて、ドレイクはいった。「大将は、この話を聞きながら、おれと同じような気分になっているんだぜ。この人と来たら、ウェディング・ケーキみたいでね──外側は、堅ゆでの卵そっくりで歯が立たないんだが、割ってみれば、中身は、軟かくて涙もろいんだからね」
「まぬけないい分をぐずぐずいわないでもいい」と、メイスンはドレイクにいった。「さあ、ポール、かんじんのことを聞かせろよ」
「ある日のことだった」と、ドレイクは話し出した。「ブルノルドは、シルビアから手紙を受けとった。その手紙には、もうこれ以上、結婚を延ばすことは、家のものが承知しませんと書いてあった」
ペリイ・メイスンの顔から、半ばひやかすような微笑が消えた。その声は、急に同情の調子を含んで、「そうだったのか?」といった。
「そうだったのさ」と、探偵はいった。
「それで、ブルノルドは、どうした?」
「手紙のいう通りだと、ブルノルドは思った」
「そして、逃げたのか?」と、メイスンは、ひややかな、気むずかしそうな口調でたずねた。
「いいや、逃げなかった。小さな町のことだし、電報係りに知られて、噂の種になっちゃたまらないと思ったので、電報も打たずに、汽車に飛び乗って、シルビアのところへ出かけた。それが、運命のわかれ目だった。そのころの寝台車というやつは、きみもご存じのようなひどいものだった。そうさ、忘れもしない、そのころ、おれも、あるローカル線に乗ったことがあるが、焼けたストーブにのせた鍋《なべ》の中のポップコーンみたいに、上段の寝台の中で、あっちへごろごろ、こっちへごろごろやられずめだった」
「その列車が転覆して」と、弁護士は口を入れた。「ブルノルドは負傷したというんだね」
「頭にひびがはいり、片一方の眼を駄目にし、その上に、記憶をうしなってしまった。医師は、眼の玉をとり出し、看護婦をつけて、病院に入れた。おれは、病院の記録も見つけたし、運のいいことには、そのときの看護婦もつきとめたよ。その看護婦だった女は、その事件のことをよくおぼえていた。というのは、ブルノルドが記憶をとりもどしたときに、なにかその心の奥に重大なことがあるにちがいないと推測したからだというんだ。
記憶をとりもどすとすぐに、ブルノルドは、シルビアに電話をかけた。ところが、シルビアが失踪したという返事が来た。ブルノルドは、それを聞いて、気ちがいのようになったそうだ。実態は、逆もどりして、精神錯乱状態で、うわごとばかりいっていた。看護婦は、職業上の秘密だからと、あまりいおうともしなかったが、よく知っているという気がしたね」
「シルビアは?」と、メイスンはたずねたが、その調子には、ひやかすようなひびきはもはやなかった。
「シルビアは」と、探偵はいった。「何か月もの間、都会の女たらしの話を、ありったけの身上を貢《みつ》いだ女たちの話を、耳にたこができるほど聞かされていた。娘たちが、吹雪の中に、破れた古靴のように捨てられたなんという、物語りのような時代だった。シルビアの両親は、こういう話を、うまくつぎこんでいたものだ。だから、ブルノルドが姿を見せなかったとき、シルビアが、てっきり捨てられたと思ったのも、もっともなことだったのだ。それで、シルビアは、小さな貯金箱をぶちこわして、家を飛び出した。どうやって町から離れて行ったか、誰も知らなかった。三マイルばかり行ったところに、別の線の乗換え駅がある。きっと、そこまで歩いて行って、牛乳列車に乗ったにちがいない。とにかく、シルビアは、都会に出て来た」
「どうして、そんなことがわかる?」と、メイスンがたずねた。
「連が好かったのさ」と、ドレイクはメイスンにいった。「そこは、高等探偵術ということに思わせておきたいが、実は、結婚をしたとき、また、息子の籍を入れたりして、いろんなデータを残しているからね。そんなことが、こっちの手がかりになるんだ」
「すると、バセットと結婚したんだね?」と、メイスンはたずねた。
「その通り。都会に出て来て、シルビア・ローリングと名を変えた。働ける間は、速記タイピストとして働いた。子供が生まれてしまうと、またその事務所へもどって働いた。事務所では、席をあけて待っていてくれたのだね。なん年も、そこで働いた。やがて、男の子が大きくなるにつれて、だんだん金が要るようになった。教育も必要になって来た。そのころ、ハートリ・バセットにめぐり会った。その法律事務所の依頼人の一人だったのだ。男の気持ちには浮わついたところはなかった。女は、男を愛してはいなかった──すくなくとも、そうだと、おれは見るね。あの女は、ブルノルドのほかには、誰も愛したことはなかったのだね。ブルノルドまでが、自分を捨てて逃げたと思いこんでいたので、男が信用できなかったのだ」
「それで、バセットに、自分の子供の籍を入れさせたんだね?」
「そうだ。法律上、ちゃんと息子の籍を入れてもらうまでは、結婚しなかった。その子供は、バセットの名を名乗りながら、おそらく、シルビアに対するバセットの扱いようが気に入らないせいだろう、義理の父親をひどく憎み出した」
「どこがいけなかったんだ?」と、メイスンがたずねた。
「おれの聞いたのは、召使たちの噂話だ」と、ドレイクはいった。「しかし、召使たちの噂話というものは、時には、信用できるものなんだ。バセットは、それまで独身で、仕事にかけちゃ一筋縄ではいかぬ男だった。細君というものは、世間的には飾りのような物、家の中では召使だというのがあの男の結婚というものについての考え方だ」
「それで」と、メイスンは、ゆっくりといった。「籍を入れてもらったおかげで、ディック・バセットは、ハートリ・バセットの財産を相続することになるんだね?」
ドレイクは、ゆっくりとうなずいてから、いった。「エディス・ブライトも、そんなことをいっていた。家政婦だがね。ただ、得をしたとかなんとか、そんなことはいっていなかったがね。子供が母親のためにいいことをしたと考えているようだ」
「すると、あの家政婦は、ディックがあの男を殺したと思っているんだね?」と、弁護士はたずねた。
「その通りだ。おれは、あの女に酒をおごらずにはいられなかったがね、酔ってしまうというと、あれもこれも吐き出したよ。シルビアは、ひどい目にあわされていた。子供は、それをよく知っていた。ハートリ・バセットは、殺していいような男だった。子供がやったのももっともだと、あの女も思っているようだ」
デラ・ストリートが口を出した。「ちょっと待ってちょうだい、ポールさん。ロマンスの方は、まだすんじゃいませんわよ。ブルノルドは、どうなったの? あの人が夫人を見つけたの、夫人があの人を見つけたの?」
「男の方が見つけたんだ。病院を出てから、ずっと探しつづけていた。そこはわれわれとちがって、こういうことは、どういうふうに探したらいいかわかりもしなかったし、シルビアはシルビアで、しばらくは、自分で自分を隠すようにしていたからね」
ペリイ・メイスンは、チョッキの両方の袖つけの孔に、それぞれ親指をかけて、床の上を歩きはじめた。
「ディックは、ブルノルドが母親を見つけたことや、ブルノルドがどういう人間だということを知っていたのかね?」と、メイスンはたずねた。
ドレイクは、肩をすぼめて、「おれは、探偵だぜ」といった。「読心術師じゃないよ。だから、当てずっぽなら、きみのもおれのも似たり寄ったりだ。まあ、なんだろうな。シルビア・バセットが初夜の床を作って、横になろうとしているところへ、ブルノルドが現われて、いっしょに逃げようと誘ったというとこだろうね。その時そくざに、シルビアが飛び出さなかったのは、なにか女を引きとめるものがあったという事実を示している。ハートリ・バセットの性格について、おれが調べあげたところから考えると、結婚詐欺という理由で、子供の入籍を取り消し、ディックに私生児の烙印《らくいん》を押し、世間にひどい悪評を立てるぞと脅かしたのかもしれないね。それとも、バセットが離婚を承知しないところへもって来て、シルビアも子供のために、ブルノルドと結婚できるという目安が立たないかぎり、いっしょになる気にはなれなかったのかもしれないね」
メイスンは、相も変わらず、床を歩きながら、いった。「バセット夫人は、いま、どこにいるんだね?」
「どっかのホテルに隠れているよ」
「つきとめてくれないかね」と、メイスンはいった。「きみなら、大してむずかしいこともないだろう。上等のホテルでなければ泊まらんようなタイプの女だからね。そんな上等のホテルに、昨夜真夜中すぎに、付き添いもなしに、たった一人で泊まりに来た女の数は大して多くなかったはずだ。あの女の写真は手に入れたろうね?」
「うん、入れたとも」
「よし、それじゃ、女をさがし出してくれ」
「この話は、すこしは役に立つというんだね?」と、ドレイクがたずねた。
「大いに役に立つね」と、メイスンは相手にいった。
待合室で、デラ・ストリートを呼ぶブザーが鳴った。デラは、ちらっとメイスンの顔を見た。メイスンは、それにこたえてうなずいた。
「眼玉は、あれでよかったかい?」と、ポール・ドレイクがたずねた。
「仕事は申し分なかったと思うが、遅すぎやしなかったろうかな」
「ハートリ・バセットの右手が、血走ったガラスの眼玉を握っていたと聞いたときは、どうだったかなと思ったよ」
メイスンは、陽気な口振りでいった。「いや、いや、いまにうまく収まるから心配するな」
ドレイクは、とぐろを巻いていた椅子から立ちあがって、出口のドアの方へ行きかけた。
「じゃ、シルビア・バセットを当ってみるほかには、別に用はないんだね?」
「いまのところ、それだけだ。よくやってくれたね、ポール、限られた時間で、これだけのことを探り出してくれて」
「なあに、大したことはなかったよ」と、探偵はいった。「もっとも、いろいろ細かなことは別だったがね。新聞屋連中は、あの家の召使たちにかまをかけて、洗いざらい聞き出していたし、ブルノルドの前歴は、雲をつかむようだったしね。そういったって、あの男のことを調べあげるのは、わけもなかったが、それに、子供の籍を入れるについて、シルビア・バセットは、子供の出生地と誕生日とを、本当のところを届けていたね。その当時には、そんなことが大した問題になるとは思わなかったんだろうな。偶然のことから、子供の産まれた病院の医者を見つけ出し、医者が、看護婦に会わしてくれたんだ。その看護婦は、その娘のスーツケースの中に、月並みなリボンでゆわえたラヴレターの束のあったことをおぼえていた。宛名がみんな、シルビア・バークレーとなっていたというし、新聞で、シルビア・バークレーが失踪したということも読んでいたそうだ」
「そして、看護婦は、しゃべらずにいたんだね?」と、メイスンはたずねた。
探偵はうなずいて、「看護婦というものは」といった。「しばしば、そういう場合にぶつかるんだね。この節は、二十年前ほどには、そうむやみにお目にかからないそうだがね」
「家族とは、それ以来、音信不通なのか?」と、メイスンがたずねた。
「わからん。そこまでは調べられなかった」
「家族は生きているのかね?」
「その点は、今日の午後、情報がはいるはずだ。きみが、どの程度関心をもっているのかわからなかったもんだから、あまり直接的な、立ち入った調査はしなかったのさ」
「見事な手並みだよ、ポール」と、弁護士はいった。
待合室から出入りのドアがあいて、デラ・ストリートがはいり、念入りに、うしろ手にそのドアをしめた。デラは、ペリイ・メイスンのデスクのそばまで行って、そのまま待っていた。
探偵は口をつづけて、「よし、ペリイ、今のことは、午後早目に知らせるよ。ホテルをつきとめたら電話する。これから三十分もあれば、主なホテルはあたれるはずだ」
ドレイクは、廊下に出るドアをあけて、用心深く、頭を突き出し、左右の廊下を見まわしてから外に出た。かちりと、ドアがうしろでしまった。
ペリイ・メイスンは、デラ・ストリートの方へ向きなおって、
「それで?」とたずねた。
「あの人たちをお助けになるおつもりね」と、デラはいった。
「あの人たちって、ブルノルドと、バセット夫人のことかね?」
「ええ」
「それには、まだ、事実がわからないのでね」
「殺人事件のことをおっしゃるんでしょう?」
「そうだ」
「ほんとうに」と、デラ・ストリートは、ゆっくりといった。「バセット夫人という人は、一度も好運をつかんだことがなかったらしいわね。人生のカードが、不利に不利にと、あの人に積み重なっていたのね。なぜ、いまこそ、運を開いておやりにならないの?」
「たぶん、開いてやれるだろう」と、メイスンは、ゆっくりいってから、つけ加えていった。「あの人が、その気になればね」
デラ・ストリートは待合室の方に身振りをして、
「マクレーンさんたちが、あちらにいますわ」といった。
「ハリーと姉さんとだね?」
「ええ」
メイスンは、うなずいて、「二人を通してくれ、デラ」
第八章
バーサ・マクレーンは、ペリイ・メイスンが愛想よく、「お早よう」と、いいおわるかおわらないうちに、話しはじめた。
「新聞で読んだんですけど、なにか、わたくしたちにも影響がありますでしょうか?」
「大いにありますね」と、メイスンは、ゆっくりといった。「遺産は、管理人か、指定遺言執行人が管理することになるでしょう。シルビア・バセットが遺産を管理することになれば、好意的に扱ってくれるでしょうが、誰かほかの人がなれば、厄介なことが起こりそうですね。いま、問題を片づけることはできません。遺言をめぐって議論があったりして、仮管財人が、帳簿の穴を見つけでもすると……」
メイスンの話につれて、バーサの目は、だんだん大きくなって行った。とうとう、待っていられなくなって、メイスンの言葉をさえぎって、いった。「まあ、まだご存じないんですの?」
ペリイ・メイスンは、話をやめて、相手の顔をじっと見つめながら、
「なにをです?」と、そうたずねるその声にも、態度にも、油断がなかった。
バーサは、弟を振り返って、
「あなた、おっしゃいよ、ハリー」
ハリー・マクレーンは、「ぼく、払っちまったんです」といった。
メイスンは、つくづくと、弟の顔を見つめた。
「どうしたんですって?」
「すっかり払っちまったんです」
「誰に?」
「ハートリ・バセットにです」
「どれだけ?」
「洗いざらい、びた一文残さずに──三九四二ドル六十三セントですよ」
「きみは」と、ペリイ・メイスンはたずねた。「受け取りをもらいましたか?」
「受け取りなんか、必要はないですよ。贋の借用証書をとりもどしました。それだけあれば、ぼくにはいいんです」
「いつ、払ったのですか」
「昨夜です」
「正確な時刻は?」
「わかりません。十一時ごろだったでしょうね、もしかしたら、もうちょっと遅かったでしょうよ」
メイスンは、青年の視線をしっかりとらえようとしたが、マクレーンは、姉の方へ、つづいて窓の外へ視線を向けてしまった。
「もう万事オーケーです」と、若者はいった。「ぼくたち、それをお知らせしようと思っただけなんです。さあ、姉さん、もうこんなところに用はないんだろう」
「ちょっと待ちたまえ」と、メイスンはいった。「ぼくの顔を見てごらん」
ハリー・マクレーンは、弁護士の方に眼を向けた。
「さあ、じっと、ぼくを見ているんだよ」と、メイスンはいった。「眼を、ぼくの眼から離しちゃいけないよ。さあ、いいたまえ、きみは今朝の新聞を読んだね?」
「ええ、だから来たんですよ──なにか影響があるかどうか、見ようと思ってね」
「きみが、その金を払ったのは」と、ゆっくりとした口調で、弁護士はたずねた。「ハートリ・バセットの殺されるどれだけ前だったね?」
「知るもんですか、そんなこと。第一、あの男がいつ殺されたか知らないんですからね」
「真夜中ごろに殺されたとしたら?」
「そんなら、殺されるしばらく前に、きっと払ったにちがいない……たぶん、誰かがその金を盗んだんだ」
「現金で払ったんだね?」
「間違いなしの正金《しょうきん》でね」
「どこで、その金を手に入れたんだね?」
「よけいなお世話だ」
「ばくちをやって勝ったのかね?」
「どこで手に入れたなんて、なんだって、そんなことを気にするんです? 大したことじゃないじゃないか」
「とても重要なことになるかもしれないよ」と、メイスンが相手にいって聞かせた。「きみは、気がついているかどうか──いや、それは、まあいいことにしよう。それよりもまず、すこしばかり訊ねさせてもらおう。ハートリ・バセットは、きみに贋《にせ》の借用証書をもどしてくれたんだね?」
「そうですよ」
「証拠の線で、バセットが持っていたきみに不利なものといえば、その贋の借用証書だけなんだね?」
「そうさ」
「ところで、バセットは、その贋の借用証書をどこから取り出したね? 言葉をかえていえば、どこにしまってあったね?……いや、きみ、眼をそらしちゃいけない。じっと、ぼくの眼を見つめて……どこから、ハートリ・バセットは、その贋の証書をとり出したのかね?」
「いつもデスクの上においていた、鍵のかかる証書類のファイルからですよ」
「そのファイルの鍵は、どこにあったのかね?」
「むろん、爺さんの鍵環についてましたよ」
「きみは」と、メイスンはたずねた。「バセットの死体が発見されて、捜査が行なわれた時、ポケットの中には、現金が二十五ドルしかなく、また、金庫の中からも、殺された部屋の中からも、警察では大した額の金を発見しなかったという事実を知ってるかね?」
「たぶん」と、ハリー・マクレーンがほのめかすようにいった。「殺人の動機は、強盗だったってことでしょうな」
ペリイ・メイスンは、一言一言、言葉を強めるように、握りこぶしで、ゆっくりデスクをたたきながら、
「いいかね、きみ」と、ゆっくりといった。「きみが、金を払いに来たといって、ハートリ・バセットが仕事をしている部屋にはいるのを断わられる理由は、こんりんざいないばかりか、一たん、部屋にはいってしまえば、ハートリ・バセットを殺し、バセットの鍵環から鍵をとって、デスクの上の書類整理箱をあけ――その書類箱たるや、バセットに雇われていたきみにしてみれば、自分のもののように、すっかり勝手がわかっているのだが――その中から、唯一つの、きみに不利な証拠である贋の借用証書をとり出し、タイプライターに、自殺だとわかるようないんちきの遺書をはさんで家を抜け出す、それだけのことが、きみにはできないはずはないと感じているだろうね……? いや、口を出しちゃいかん──それよりも、ぼくの眼から眼をはなさないでいるんだ……いいかね、事件をそういう推理に立って、警察がきみを訊問した場合、それを切り抜けるただ一つの道は、きみが、ハートリ・バセットに払った金をどこで手に入れたか、はっきりと証明し、殺人の行なわれた正確な時刻にいた場所を説明することができるかどうかにかかっているのだということが、きみにはわかるかね?」
「まあ」と、バーサ・マクレーンが大きな声を出した。「あなたは、ハリーが犯人だとおっしゃるんですね! ハリーが、そんなことをするなんて――」
「おだまりなさい」と、女の方を見もしないで、メイスンはいった。「まず、ハリー君のいうことを聞こうじゃありませんか」
ハリーは、椅子から跳ねあがって、窓の方へ歩いて行った。
「ちえっ、ばかな」と、ハリーは、肩ごしにいった。「誰があの老いぼれを殺したか、ちゃんと知ってるくせに。おれを身代りにしようったって、そんなわけに行くもんか」
「こっちへもどって来たまえ」と、メイスンはいった。
「よせやい!」と、ハリー・マクレーンは、二人に背中を向けて、窓の外を見ながらいった。「人を呼びもどして、もう一ぺん椅子にかけさせ、にらめっこをさせて、誰か別の依頼人を助けるために、ひとをわなにかけようとしたって、誰がいうことをきくものか」
「きみは」と、メイスンは、顔を紅潮させながらたずねた。「ハートリ・バセットに払った金の出所を説明できるのかね?」
「いや、できるもんか……いや、たぶん、できるよ。しかし、説明なんかする気はないよ」
「それをしなきゃならんのだよ」
「そんなことしなくたっていいんだよ」
「ぼくに、その説明ができるようにしておいてくれないと、ハリー君、警察は、きみを逮捕するぜ」
「そんなら、勝手に逮捕させるがいいや」
「それどころか、そんなことより、もっともっと真剣なことだよ。きみが、金を払って、合法的にその借用証書をとりもどしたということを証明できなければ、警察では、きみが、不法な手段でそれを手に入れたと考えるものなんだよ」
「警察なんか糞《くそ》くらえだ」
「警察がそう思うだけじゃない。陪審団もそう思うだろう。いいかね、きみ、証拠物件は、きみが使いこみをやっていたことを明らかにする。検事は、バセットはきみを刑務所にぶちこもうと思っていた──が、きみは、そうさせまいとして、バセットを殺したのだと、そう主張するだろう」
「ちぇっ、ばかな!」と、またハリー・マクレーンはいったが、相も変わらず窓の外を見つづけていた。
メイスンは、肩をすぼめて、バーサ・マクレーンの方を向いて、
「ぼくは、ありのままに申しあげているんですがね」といった。
「でも、警察は、その使いこみのことを知っているでしょうか?」
「知ってはいないが、そのうちには知れるでしょうな」
ハリー・マクレーンが、窓から向きなおった。
「いいかい」と、ハリーはいった。「こんなやつに、だまされちゃ駄目だよ、姉さん。誰がバセットを殺したか、ちゃあんと知ってるのさ。知らなけりゃ、大馬鹿だよ、だけど、金をたんまり稼《かせ》ごうとして、ぼくを身代りにしようとねらっているんだ。こんなやつとの話は、いまこの場でうち切りだ。勝手にいわせとけばいわせとくほど、ぼくにかけようとするわなはしまって行くばかりさ」
メイスンは、ゆっくりといった。「ねえ、ハリー君、きみがそんな口をきくのは、二度目か三度目だね。自分では、心にもない嘘をいっているのだと、よく知っているのだ。しかし、きみに分別があるのなら、警察がきみのことを感づく前に、訊問された場合の返答を用意しておかなければならんということだけは、よくわかっていなきゃいけないぜ」
「警察のことなんか、心配しなくたっていいよ」と、若者はあざわらうようにいった。「ぼくは、ぼくの好きなようにするから、あんたの方でも好きなようにすりゃいいんだ」
「きみは、バセットに現金で払ったんだね?」と、メイスンはたずねた。
「そうさ」
「バセットは、その現金をどうしたね?」
「上衣のポケットに入れて持って歩いている豚皮の紙入れにしまったよ。紙入れのことなら、爺さんの細君にきいてみりゃいいや。いつでもポケットに入れていたというだろうよ」
「ところが、警察が死体を発見したときには、そんなものはポケットにはなかったんだぜ、ハリー君」
「そんなことは、ぼくにはどうしようもないよ。金を払ったときには、とにかくあったんだ」
「そして受取りはもらわなかったんだね?」
「もらわないよ」
「誰も、その場にはいなかったんだね?」
「むろん、誰もいなかったよ」
「そして、その金をどこで手に入れたか、きみはいえないんだね?」
「いえるけど、いいたくないんだ」
「その金を、きみが持っていたことを、誰か知っているものがいるかね?」
「そんなことは、余計なお世話だよ」
ペリイ・メイスンの前の電話が鳴った。メイスンは、受話器をすくいあげた。デラ・ストリートの声で、「ポール・ドレイクさんからの電話ですわ。なんだか、大事なニュースらしいですわ」
メイスンは、「やあ、ポール。なんだね?」といった。
探偵の声が伝わって来た。「誰か、この事務所にいる人間に、おれの話を聞かれると困るから、ペリイ、低い声でいうぜ。電話というやつは、大きな声でどなり立てると、どうかすると、妙なことになり勝ちだからな……さあ、いいかい。警察は、手っとり早く、いっさいを片づけようとかかかっているよ。ずいぶんいろんなことを嗅《か》ぎつけている。きみのお客のブルノルドも口を割ったし、バセットのデスクの上のタイプライターに挾んであった遺書を、専門家が鑑定した。
ところで、タイプした字には、書いた字ほど、はっきり癖が現われるんだね。警察の犯罪学者にいわせると、バセットのデスクの上のタイプライターに挾んであったあの遺書は、あのタイプライターで打ったものじゃないそうだよ。そこで、実際に使ったタイプライターをさがすんで、家じゅう調べたそうだ。そしたら、バセット夫人の寝室に、本ものはあったそうだ。そいつは、夫人が自分の手紙を打つのに使っていたレミントンのポータブルだ。
その上に、字を打った力が平均しているところから、専門家は、タッチ・システムに馴れた人間、五本の指をみんな使って、文字盤を見ずに打つ人間──というのは、本職のタイピストだが、そういう人間の作った書類だということまでにらんだ。バセット夫人が秘書をしていたと、おれがいったことはおぼえているだろうね」
ペリイ・メイスンは、考えこむように、送話器に向かって、額《ひたい》に皺を寄せた。
「まだ、夫人のいどころはわからんのかね?」
「いや、まだわからんが、いまのニュースは、新聞の連中とつき合っている、うちの若いやつから聞き出したんだが、きみの耳に入れといた方がいいと思ったのでね」
「そうとも」と、メイスンはいった。「ありがとう、よく聞かせてくれた。とにかく、できるだけ早く、夫人のいどころをつきとめてくれ」
メイスンは、受話器を元にもどし、向きなおって、気むずかしい眼つきで、ハリー・マクレーンをじっと見ながら、
「ハリー君」といった。「きみは、この前、誰かハートリ・バセットに非常に近い関係にある人が、きみをかばって、刑務所へきみを入れないようにするとかいっていたね」
「ああ、あんなことは忘れてしまってくれ!」と、マクレーンはいった。
メイスンは、バーサ・マクレーンの方を向いて、いった。「あなたに、ぼくの電話番号──この事務所がひけてから、ぼくに連絡できるように、アパートの番号を書きつけた紙きれをあげましたね。あれを、どうなさいました?」
ハリー・マクレーンが、さっと進み出て、「黙って……」
「ハリーに渡しましたわ」と、弟がさえぎるより早く、バーサはいった。
ハリー・マクレーンは、ため息をついて、「そんなこと、いっちゃいけなかったんだ」といった。
メイスンは、また若者の方に向きなおって、「きみは、その紙をどうしたね、ハリー君?」
「しばらく、ポケットに入れていたよ」
「それから、どうした?」
「知るもんか。なんだって、そんなつまらないことを、いちいちおぼえていなくちゃいけないんだ? 捨てちまったんだろうよ。老いぼれに金を払っちまえば、もう、あんたなどに電話をかける用などないんだからな。ぼくが、あんたの電話番号など後生大事に持って歩かなきゃならん理由なんか、どこにもないんだ。あんなものをつけ物瓶の中へ大事にしまっといて、いったい、ぼくにどうしろというんですね?」
「あの紙きれが」と、メイスンはいった。「バセット夫人の寝室の前の廊下で、人にひろわれたのだ」
ハリー・マクレーンの顔が、正真正銘の驚愕に痙攣《けいれん》するように歪《ゆが》んだ。「そんなはずがあるもんか」と、いってからしばらくして、ずるそうな色をその眼にうかべて、追っかけるようにいった。「ふん、ひろわれたんなら、それがどうしたんだ?」
「ぼくがあの家へ行ったとき」と、メイスンは、ハリー・マクレーンのいうことなどはすっかり無視して、言葉をつづけた。「バセット夫人は、きみのことをかばおうとしていたよ」
「あの女がか?」と、抑揚《よくよう》のない口調で、ハリーがたずねた。
「きみは、夫人がそうしてくれることを知っていたのかね?」
「もちろん、知らないよ、読心術師じゃないからな」
「バセット夫人は、きみが好きなんだろう、ハリー君?」
「どうして、おれにそんなことがわかるんだ?」
「昨夜、ハートリ・バセットに会う前に、夫人にも会ったのかね?」
ハリー・マクレーンは、ちょっとためらってからいった。「なぜ、そんなことを聞くんだ?」
「なるほど、語るにおちるとはそのことだね」と、メイスンはいった。「警察も、そこまでは、間違いなく調べあげられるにちがいない。召使も、家の中にいたことだし、それに――」
「もう、あの人のことはしゃべらんぞ、あの人のことには、手をふれないでくれ」
「これまで、夫人の部屋にはいったことがあるかね?」
「あるさ、用事があってね」
「その部屋に、タイプライターがあったかね?」
「あったと思うよ」
「レミントンのポータブルだね?」
「そうだろう」
「そのタイプライターを使ったことがあるかね?」
「あすこで働いていて、折り折り、夫人が手紙を出すとき、あの人のいうことを打ってやったことがあるよ」
「ハートリ・バセットが、そうしてやれといいつけたのかね?」
「知らないよ」
「いや、知っているんだろう、ハリー君。ほんとうのことをいいたまえ」
「ハートリ・バセットは、そんなことをしていることなんか知らなかったよ」
「じゃ、なぜ、自分の仕事以外のことに手を出したんだね?」
「夫人はいい人だったし、ぼくも好きだったからだ。それに、バセット爺さんの扱いようが、ひどかったからだ」
「すると、夫人に同情を感じたんだね?」
「そうだ」
「そして、代りに手紙を打ってやったんだね?」
「うん。時々、あの人は右腕に神経痛を起こすことがあったからね」
「きみが訪ねたとき、ハートリ・バセットの前のデスクに、ポータブルのタイプライターがあったかね?」
「あったとも。いつも、自分用のタイプライターを置いて、自分で書類を作っていたよ。口述することも、自分でたたくこともあったよ」
「タッチ・システムじゃなく──二本の指で、雨だれ式に、ぽつりぽつりと打つやりかただったろうね?」
「その通り」
「しかし、きみは、タッチ・システムだね?」
「もちろんさ」
「きみは」と、ペリイ・メイスンは、じっとハリー・マクレーンの顔を見据えながら、たずねた。「バセットのデスクの上のタイプライターに挾んであった、自殺をすると書いてあった遺書が、実は、そのタイプライターで打ったものではなくて、バセット夫人の部屋にあったタイプライターで、本職のタイピストが、タッチ・システムで打ったものだということは、知ってるかね?」
ハリー・マクレーンは、出口のドアの方へ飛んで行った。
「さあ、バーサ」と、ハリーはいった。「こんなところから出かけよう」
バーサは立ちあがって、ペリイ・メイスンの顔を見つめ、それから、弟の方に、その眼を向けて、
「ハリー」といった。「メイスン先生はあんたを助けようとしていてくださるのよ。それに──」
「馬鹿いうな。だまされちゃ駄目だよ。姉さんがいうから、ぼくは、仕方なしについて来ただけなんだぜ。この人は、お人好しの身代りをさがしているんだぜ」
バーサ・マクレーンは、ペリイ・メイスンの方を向いていった。「すみません、メイスンさん、ハリーがあんなことを考えたりなんかしまして。なんとお詫びしていいやら──」
「お詫びなんて、糞くらえだ!」と、ハリー・マクレーンは、姉の言葉をさえぎって、「だまされちゃ駄目だ!」
ハリーは、つかつかと、メイスンのデスクのところまでやって来ていった。「あんたは、ぼくに、いやというほどきいたね。こんどは、こっちからきかせて貰おう。あんたは、ブルノルドの代理人なのか?」
「そう」と、メイスンはいった。「あの人の代理人ということになっているようだね」
「それから、バセット夫人は?」
「あの人も、ぼくに相談をもちかけて来ているよ」
「それから、ディック・バセットは?」
「直接ではないがね」
「しかし、母親を通じてだね?」
「たぶんね」といいながら、メイスンは、糸のように眼を細めて、ハリー・マクレーンの顔を見つめた。
「そうら見ろ」といいながら、ハリー・マクレーンは、勝ち誇ったように、姉の方を振り向いて、「姉さんは、そんなところにすわっていて、ぼくが身代りにされるのを黙って見ているつもりかい? そもそものはじめから、ここへ来るなんて愚の骨頂だっていったじゃないか」
「メイスンさん」と、バーサはいった。「なんとか――」
ハリー・マクレーンは、姉の腕をつかんで、ドアの方へ押しやりながら、
「姉さんは、口では、ぼくのことを心配しているといっているくせに」といった。「こんなやつに、いつまでも話をしていれば、ぼくの首に縄をかけて、しめつけることになるじゃないか」
バーサの顔に、どうしたものだろうかというような色があらわれた。
メイスンは、ゆっくりといった。「ハリー君、きみは、ハートリ・バセットの支払いにあてたという金を、どこで手に入れたか、まだ聞かしてくれなかったね。きみがその金を持っていたことを、誰か知っているかどうかも、まだ聞かしてくれない。バセットが殺された時に、どこにいたかも、まだ話さなければ、きみがバセットを殺し、証書類のしまってあった書類箱をあけて、贋の借用証書を取り出したという疑いをかけられた場合、なんと申し開きをするか、それも、まだいってくれていないね」
ハリー・マクレーンは、廊下に出るドアをぐいとあけ、戸口に立ちどまって、「ぼくは、弁護上に倫理規定のあることぐらい、ようく知っているんだからね、あんたは、ぼくがしゃべったことを、どんなことでも、誰にもしゃべっちゃいけないんだからね。ぼくがバセットの家にいたことを、お巡りどもにばらしたりしたら、弁護士の資格を剥奪《はくだつ》してやるからな。あんたが口を開きさえしなけりゃ、ぼくも、誰にも、なんにもしゃべりゃしないんだ」
「だけど、ハリー」と、バーサ・マクレーンがいった。「バセット夫人は、知ってらっしゃるじゃないの、あんたが──」
ハリーは、姉の腕をつかんで、ドアから外へ押し出した。
「バセット夫人はともかくとして」と、メイスンはいった。「コールマーは、きみの使いこみを知ってるよ。忘れちゃいけないよ、警察では――」
「ちぇっ、ばか」と吐き出すようにいって、マクレーンはドアを蹴とばしてしめて行ってしまった。
メイスンは、指でデスクのはしをこつこつとたたきながら、じっと考えにふけっているような眼つきで、身動き一つせずにすわっていた。電話のベルが鳴った。それでも、まだじっとしていた。ようやく三度目に、姿勢を変えた。さっと、回転椅子にかけたまま、体の向きを変え、受話器をとりあげると、ポール・ドレイクの声が聞こえて来た。「夫人を見つけたよ、ペリイ。アンバサダー・ホテルに、シルビア・ロートンという名前で泊っているんだが、刑事が三人、その部屋を見張っている。昨夜、夫人をつけたんだ。ホテルの交換台にも一人ついているもんだから、交換台を通る電話は、どんなのでも聞いているというわけだ」
ペリイ・メイスンは、じっと考え深そうに、眼を細めて、
「なるほど」といった。「ぼくが、のこのこ会いに出かけて行ったりすれば、刑事どもは、さっと取りかこんで、夫人を逮捕しようというんだな」
「そうさ」と、ポール・ドレイクは、嬉しそうな声でいった。「やつらの狙いは、夫人に欲しいだけたっぷり縄をやって、自分で自分の首をしめさせようというんだ。夫人の方で、いつまでもじっとしていれば、いろんな手を使って、つまずかせるだろうな。しかし、息子のやつが電話をかけて、いろいろニュースを知らしているらしいから、今晩じゅうには、警察の思う壷にはまるだろうよ」
ペリイ・メイスンは、ゆっくりといった。「ポール、ぼくは、どうしても警察に感づかれずに、あの女に会わなきゃならんのだがね」
「百万に一つもチャンスはないね」と、ドレイクがメイスンにいった。「きみだって、警察のやり方は、先刻ご承知のはずじゃないか」
ペリイ・メイスンは、ゆっくりといった。「きみは、非常階段の在り場所を調べたかい?」
「いや、まだ自分では行ってないんだ。現場にいる男から報告を受けているところさ。調べさせておこうか?」
「いや、いい」とメイスンはいった。「帽子をかぶれよ、ポール。エレベーターの前で会おう。いっしょに出かけるんだ」
探偵は、うなるような声を出して、電話の向こうでいった。「ああ、遅かれ早かれ、きみが、おれを牢屋にぶちこむつもりだなとは思っていたよ」
「いつだって、ぶちこまれたら」と、ペリイ・メイスンは、陰気にいった。「ぼくが出してやるよ。さあ、帽子をかぶれ、ポール」
メイスンは、がちゃんと、受話器をおいた。
第九章
ペリイ・メイスンは、芝居の衣裳屋から借りて来た、窓ガラス清掃会社員の白い制服を着こみ、右の手には、ゴム製のガラス拭きの道具をいくつか持っていた。そのすぐ後につづくポール・ドレイクも、同じ服をまとって、両手に水のはいったバケツをさげている。
「ねえ、きみ」と、探偵は、情《なさ》けなそうな口振りでいった。「きみは、衣裳を借りるときめたときから、すっかりそのつもりだったのだろう」
「どんなつもりをしていたというんだね?」と、メイスンはたずねた。
「おれを助手にして、バケツを持たせるということをさ」
メイスンは、にやっと笑ったが、なにもいわなかった。
二人は、アンバサダー・ホテルの荷物用エレベーターにのりこんで、六階までのぼった。いやに爪先のがんじょうな靴をはいて、廊下をぶらぶらしていた、肩幅の広い、あごの張った男が、無言のまま、咎めるような眼で二人をねめつけた。
二人は、そんな視線を無視して、さも用ありげに廊下のはずれまで歩き、非常階段に出る窓をあけた。
「見ているかい?」ペリイ・メイスンは、片足を窓枠からつき出しながら、たずねた。
「見てはいるが、あんまり気の乗らないってようすだな」と、廊下に立ったまま、ポール・ドレイクがこたえた。「早いとこやった方がいいぜ」
「へえ」と、ペリイ・メイスンが問い返すような口振りで、「きみがそういうのかね、ぼくに?」
メイスンは、バケツからスポンジを取り出し、非常階段の上の窓ガラスを濡らし、ゴムの板のついた道具で、そろそろ拭きにかかった。
「よし」と、メイスンはいった。「さて、早いとことりかかるとするか」
「部屋がからっぽだってことは、わかってるんだね?」と、ドレイクがたずねた。
「いや」と、メイスンがいった。「わからんよ。いちかばちかやってみるんだ。そこのドアのところに背中をぴったりつけて立って、下の方をそっとノックしてみろ。やつに気づかれないようにしろよ、ノックしてるのを」
弁護士は、乾いたボロ切れで、ガラスに磨《みが》きをかけ終えた。ドレイクがいった。「だいじょうぶだ。二度ノックしたが、返事がないよ」
「むやみにいじりまわさずに、うまくあけられるかい?」
「やれると思うよ。ちょっと鍵をしらべてみよう。うん、これならしめたもんだ。やるぜ」
ドレイクは、ポケットから鍵をいくつも取り出し、その中から一つえらんで、鍵穴にさしこみ、呼吸をはかってそっとまわした。かちっと背後で音がした。ドレイクは、さも満足だといったような低い声を、のどの奥の方で出し、二人は、部屋にはいった。
「この右隣りだったな?」と、メイスンがいった。
「そうだ」
「たしかに、あの女だね?」
「絶対に間違いなしだ」
「万一、人違いだったら、大変なことになるぜ」
ドレイクは、いらいらした口振りでいった。「つかまったら、どっちみち大変なことになるさ。いいわけなど立ちっこないからな」
「気にするなよ」と、メイスンはいった。「例のベルトはどこだ?」
ドレイクは、安全|帯《ベルト》を、メイスンに渡した。メイスンは、窓の外に出て、ベルトの金具を、隣りの窓際の壁に埋めこんである環にひっかけた。窓の縁の出っ張りに立ちあがり、ドレイクの手につかまって平均をとり、隣りの窓の出っ張りに片足をかけた。踏ん張った両脚の下には、六階の高さの空間があった。
「落ちつけよ」と、ドレイクが注意した。
メイスンは、ベルトのもう一つの金具を、隣りの窓の向こう側の壁の環にひっかけて、全身を隣りの窓の前の出っ張りに移した。
「これでよし」と、メイスンはいった。「水をよこせ」
ドレイクは、手をのばして、バケツを渡した。メイスンは、スポンジで窓のガラスを濡らしはじめた。しばらくして、ガラスをこつこつとノックした。下着姿の女が、あわててキモノを肩にひっかけ、目を怒りに燃え立たせながら、窓際へやって来た。
メイスンは、窓をあけろと、手真似をしてみせた。
シルビア・バセットは、憤然と窓を押しあげた。
「気をつけなさいよ」とシルビアはいった。「ひとが着替えをしているのに、どういうつもりで窓なんか拭きに来るの? 事務所にいいつけてやるからね。いまごろ窓を拭きに来るなんて、とんでも──」
「大きな声を出さないで」と、ペリイ・メイスンはいった。「落ちついてください」
メイスンの声を聞いたとたん、シルビアは飛びあがらんばかりに驚いて、眼をまん丸くした。
「まあ、あなたですの!」と、シルビアはいった。
ペリイ・メイスンは、バケツを窓縁の出っ張りにおろした。
「さあ、よく聞いてくださいよ」と、メイスンはいった。「ぐずぐずしている時間なんかありませんよ。ぼくは、今度の事件の真相をつかまなくちゃならんのです。ブルノルドが逮捕されたのをご存じですか?」
「ブルノルドですって?」といって、シルビアは、額に八の字を寄せた。
「そうです。ブルノルドです」
「誰ですの、その人は?」
「誰だか知らないんですか?」
「知りませんわ」
「どうして、偽名を使ってここへ来たんです?」
「ゆっくり休みたいと思って」
メイスンは、ベッドの脇の床の上に置いてある幾つかの鞄の方へ、うなずいてみせた。
「あれは、あなたのですか?」
「そうですわ」
「昨夜自分で持って来られたのですか?」
「いいえ」
「いつ、運ばせたのです?」
「ディックが、今朝早く、持って来てくれましたの」
「なにがはいっているんです?」
「いろいろなものですわ」
「というと、どこかへ逃げるおつもりなんですね?」
「神経がすっかりめちゃめちゃになってしまったんですの。ですから、事件が片づくまで、しばらくよそへ行くつもりなんです」
メイスンは、きっと唇をかみしめていたが、「なんて下らない馬鹿なことを。高飛びを企むおつもりだったんですか?」
シルビアはいった。「あら、逃げちゃいけないんですか?」
「それこそ」と、メイスンは、シルビアにいって聞かせた。「警察の連中の思う壷ですよ。逃げるということは、罪があるからですからね。どんな事件でも同じで、犯行の証拠になるものですよ」
「決して逮捕されるわけはありませんわ──どこへ行くからって」
「逮捕されますとも」と、メイスンはいった。「向こうへ行かないうちに、切符を買ったばかりで」
「冗談をおっしゃらないでよ」と、シルビアはいった。「わたくしの方がずっと利口ですわ──ただ逃げるだけじゃないんですのよ。わたくしは、そんな――」
「よくお聞きなさい」と、メイスンはいった。「そこの廊下では、刑事が一人、あなたの部屋のドアを見張っていますよ。ロビイにもう一人、エレベーターの前にも一人います。電話の交換台にも、特別の交換手を警察は頑張らせています。あなたは尾行をされていたんです。ここへ来るときに。息子さんもつけられています。あなたが電話で話すことは、すっかり聞かれているんですよ。さあ……」
バセット夫人は、片手で自分ののどを押さえて、
「まあ、どうしましょう!」と絶叫するようにいった。「じゃ、あなたのお考えでは――」
「真相をいってください」と、メイスンがさえぎった。「ぼくが帰ってから、どうしました?」
「大したこともありませんでしたわ。すこしばかり訊問しましたけど、ヒステリーを起こしてやりましたの」
「どんなことを、警察の人間にしゃべったんです?」
「はじめは、正直なところを話しました――用があって、主人に会おうと思っていたんだって、控え室へはいって行くと、ヘーゼル・フェンウィックが床に倒れているのに気がついたって。介抱するうちに、あの子の気がついて、主人が事務室にしている部屋から、片眼の男が走り出した話をしてくれたってことなどを」
「なぜ、その時、ご主人を呼ばなかったかとたずねられませんでしたか?」
「なんとかして、ヘーゼル・フェンウィックを正気づかせようとして、そればっかりに夢中になっていて、主人のことなど忘れていたと、そういいましたわ」
メイスンは不快そうな渋面をつくった。
「あら、いけなかったかしら?」
「なにからなにまで、悪いことだらけです」と、メイスンはいった。「それから、どうしました?」
「それから」と、シルビアは話しつづけた。「警察の人たちが、ちょっと意地悪くききにかかろうとしたので、わたくし、ヒステリーの真似をして、嘘をいってやりました」
「どんな嘘をついたのです?」
「なんでもかんでも、手あたりしだいにいってやりましたわ。主人が出かけたのを知っていたというかと思うと、出かけないのをよく知っていたといったり、義眼の人を誰か知っているかときくから、主人が義眼だったといってやったりしました。大きな声で笑ったり、泣き叫んだりしたので、医者を呼び寄せましたけど、わたくし、さわらせもしませんでした。どうしても、かかりつけの医者でなきゃいやだといい張って、ディックに呼ばせました。やっと、先生が来ると、事情を察したんでしょう。注射を打ってくれて、自分の部屋に行くようにと、警察の人にいってくれました」
「それから、どうしました?」
「ディックがそこらじゅうを窺《うかが》って、裏口には見張りがないのをたしかめてから、部屋まで迎えに来てくれました。わたくしは注射がきいて、すっかりふらふらでしたけど、どうやらディックの肩にすがって歩けました。いっしょにこのホテルまでつれて来て、寝かせてくれました。今朝早く、眼がさめると、ディックに電話をかけました。警察に知れないようにと思って、偽名を使ったんですけど──交換台で聞かれていたとすると──ああ、どうしましょう!」
「なにか聞かれて悪いような話をしたのですか?」
「いいえ。聞かれて悪いようなことは、なんにもいいませんでしたわ、ヒステリーのことだけは別ですけど」
「ヒステリーのことというと、どんなことを?」
「ディックが、警察になにかしゃべったかとたずねるものですから、なにもしゃべりゃしない、ヒステリーの真似で、すっかりごまかしたと、そう返事をしたのです」
「ほかには?」
「ディックとは、今日は、二、三度話しましたわ」
「どんなことをいったのです?」
「ええ、聞かれているとは知らなかったので、ほんとに遠慮なしに、なんでも話しましたけど、取り返しのつかないようなことはいいませんでしたわ」
「息子さんは?」と、メイスンはたずねた。
「主人が死んでよかったといいましたわ。ディックは、以前から、あの人のことをひどく憎んでいましたからね」
「ねえ、いいですか」と、メイスンは夫人にいった。「こんど、連中が訊問にとりかかったら、うまく警察をごまかすわけにはいきませんよ。だから、話の筋をきちんと考えておかなくちゃいけません。ピストルのことはどうしました?」
「わたくしの身を護ってもらうために、ディックに渡したのだと、ほんとうのことをいいました」
「あれが、殺人に使われたピストルだったのですか?」
「知りませんわ」
「ブルノルドのことはどうです?」
「ブルノルドなどという人は知りませんわ」
「知っているはずですよ」と、メイスンはいった。「あなたのお子さんの父親ですからね」
バセット夫人は、テーブルの縁をつかんで身を支えながら、
「なにをおっしゃるんです!」といった。
メイスンは、うなずいていった。「自分の探偵を使って、すっかり調べあげたんです。ブルノルドがまだ口を割っていないとしても、ぼくがしたくらいですもの、警察だってわけなく調べあげますよ。ブルノルドは、いま、警察に拘置されているんですがね」
「ディックさえ知らないのに」と、夫人はいった。
「ディックは、疑ってもいませんか?」
「そんなことないと思いますわ」
「ブルノルドは、昨夜、お宅に行っていたでしょう?」
「いいえ」
「ほんとうのことをいってください」
「ええ、来ていました」
「なん時ごろ、お宅を出ました?」
「そんなことも警察にいわなければならないのでしょうか?」
「なんともいえませんね」
「ヘーゼル・フェンウィックが気をうしなって倒れているのを見つける、ちょっと前に帰って行きました」
「あなたは、ご主人の事務所の控え室で、なにをしておいでだったのですか?」
「ヘーゼルが、ハートリと話をつけたかどうか、様子を見ようと思って出かけて行ったのです。あの子が会いに行ってから、ずいんぶん時間が経っていて、心配になったものですから」
「階下へ降りていらっしゃるまで、ブルノルドは、あなたといっしょにいたのですね?」
「そうです」
「それまでずっと、あなたといっしょだったのですか?」
「いいえ、ずっとではありませんわ。居間にあの人を残して、わたくしだけ、自分の寝室へまいりました。なにか用があって、廊下へ出たのだと思いますの。居間へもどって来た時、あの人はいませんでしたけど、しばらくすると、もどってみえました」
「ヘーゼル・フェンウィックが、ご主人に会いに行っていたことはご存じだったのですね?」
「ええ、知っていました。わたくしが会いに行かせたのですもの」
「ご主人が手に握っていたのは、ブルノルドの義眼《いれめ》ですか?」
「そうだと思いますけど」
「ヘーゼル・フェンウィックは、いつごろからご存じだったのですか?」
「まだいくらにもなりまんわ」
「フェンウィックという女には、なにかおかしなところがありませんでしたか?」
「それは申しあげられませんわ」
「いいたくないとおっしゃるんですね。ディック君との結婚には、おかしなところはありませんでしたか?」
「わかりませんわ。あの女《ひと》は、事件の夜、はじめて、うちへ来たんですよ。ディックは、ハートリの相続人になっているものですから、ハートリは、自分の思うような結婚をディックにさせたがっていました。あの女とのことがわかったら、一騒ぎもちあがるだろうと思っていました。わたくしは、あの女の口から主人にいわせた方がいい、きっといい印象を与えるだろうと思ったのです」
「お宅で、あの女がディック君と結婚したことを知っていたのは、誰々ですか?」
「誰もいませんわ。運転手のオーバートンが、あの女を停車場から、うちまで乗せて来ましたけど、わたくしの友だちだと思っていたでしょう。家政婦のエディス・ブライトは、うすうす感づいたかもしれませんけど、たぶん、知らなかったろうと思います。うちの人間で、あの女を見かけたのは、その二人だけです」
「昨夜、ハリー・マクレーンにはお会いになりましたか?」
「いいえ」
「ねえ」とメイスンはいった。「あなたは、なにかいえばそのたびに嘘をいうんですね。自分の弁護士に嘘をつくのは、利口なやり方じゃありませんよ。そんなことをすると、ひどい目に会うかもしれませんね。どうです、昨夜、ハリー・マクレーンに会いましたか?」
「会いません」と、夫人は、反抗するようにいった。
「あの男がお宅に行ったかどうか、ご存じですか?」
「ハートリに会いに来たかもしれませんけど、そんなことはないと思います」
「フェンウィックという女が、事務室のドアをノックした時、誰かが、ご主人の事務室にいたということでしたが、それは、誰だったのですか?」
「どうも」と、シルビアはいった。「わたくしには、わかりかねますわ。わたくし、ヘーゼルが誰にも邪魔をされずに、主人と会うようにしてやろうと思ったものですから、玄関のドアを見張って、一番おしまいの客が帰って行くまで待っていました。それから、邪魔はなくなったからとへーゼルにいって、控えの入り口までいっしょについて行ってやりました。もし、誰かが、ほんとうに主人の部屋にいたのでしたら、その人は、裏口からはいって来たのかもしれませんわ」
「それでは」と、メイスンはいった。「ハリー・マクレーンは、裏口のことを知っていましたか?」
「むろん、知っていましたわ」
「ピーター・ブルノルドはどうです?」
バセット夫人はちょっとためらってから、ゆっくりといった。「ピーターも知っていました。というのは、おりおり、裏口から、わたくしの住まいの方へまいりましたの。両方の裏口は、隣り合わせになっていますから……あら、わたくし、ほんとうのことを申しあげていないなんて、おっしゃっちゃ困りますわ」
メイスンは、きびしい眼つきで、じっと夫人の顔を見つめて、いった。「なんにもいってやしませんがね、いろいろなことを考えているのです。事件の夜、ピーター・ブルノルドはお宅にいる間じゅう、あなたといっしょにいましたか?」
「ずっとじゃありませんわ」
「どこへ行っていたのです?」
「あの人、運転手のオーバートンが、わたくしたちのことを怪しんで様子を窺《うかが》っていると、いつも思っていましたの。それで、その時も、わたくしの部屋のへんを、こそこそ見まわっているらしいと思って、オーバートンがいるかどうか、たしかめに出て行きましたの」
「うろうろしていたのですか?」
「いいえ、どこにもオーバートンの姿は見えなかったそうです。家じゅうを見てまわったといっていましたが」
「それは、いつのことです?」
「わたくしが、ヘーゼルをハートリの事務室へつれて行く、ちょっと前です」
メイスンは、ゆっくりといった。「ねえ、あなたは、ピーター・ブルノルドをかばいたいと思うんですか、それとも、ご自分が無事にのがれたいとお思いなんですか?」
「自分の命といっしょに、ピーターもかばいたいと思いますわ」
「忘れちゃいけないことはね」と、メイスンは、夫人をさとすようにいった。「あなたは、自分から進んで事件にまきこまれているということなんですよ。ご自分の嫌疑を晴らさなければ、事件の真相を正確に、あなたも知り、ぼくもつかまなければ、他人をかばうことなど、あなたにはできませんよ。ぼくは、ブルノルドがもし犯人だとしたら、そんな男をかばったりはしませんし、あなたが犯人なら、やはり、あなたをかばう気はありません。ところで、ブルノルドは、殺人が行なわれたと思われるころ、家の中のどこかを歩きまわっていた。あなたは、オーバートンをさがしていたとおっしゃる。しかし、ほんとうのところは、ご主人に会ったのかもしれない、そして──
「おい、ペリイ」と、ポール・ドレイクがいきなり声をかけた。「下を見ろ」
ペリイ・メイスンは、手を休めていたのを、またガラス磨きをはじめながら、右の脇の下から、ちらと下を見おろした。
ホルコム巡査部長の渋面をつくった顔が、真下の窓から突き出ていた。
「万事休すだ」と、メイスンはいった。「警察には、休養のためにここへ来たのだ、いつでも同行すると、そういうんですよ。あなたが、ご主人を殺したのでなく、ブルノルドをかばおうというのなら、どんなことを訊問されても、答えてはいけませんよ。ご自分をかばおうというのなら、神にかけてほんとうのことをいうんですよ。ブルノルドが犯人なら、罪に服した方がいい。もし、あなたが、ご主人を殺して、そして、そのいいわけも立たないのなら、ほかの弁護士をお頼みなさい。あなたが犯人でありながら、ぼくに嘘をつくのなら、断然おことわりです。でなければ、最後まで、あなたのために頑張ります」
「わたくしたち、ピーターもわたくしも、無罪です」と、バセット夫人は、気ちがいのようにいった。「ピーターは、立派に申し開きが立つと――」
「おい、きみ、その上にいるの!」と、ホルコム巡査部長がどなった。「誰が、その窓を拭けといったんだ?」
メイスンは、もぐもぐと口の中で、聞きとれない返事をした。
「こっちを見ろ」とわめくように、ホルコムはいった。「顔を見せるんだ、顔を」
メイスンは、そちらを向くと見せかけて、水のはいったバケツを蹴とばした。ホルコム巡査部長は、水が落ちて来るのを見、あわてて首を引っこめたが間に合わなかった。眼にも顔にも、飛沫《しぶき》を浴びせながら、バケツは落ちて行った。メイスンは、ポール・ドレイクの差しのべた手をつかんで、隣りの窓枠に飛び移り、あやうく体の釣合いを保ちながら、さっと部屋の中へすべりこんだ。
「非常階段をつたって行けば、二階まで降りられるよ」と、ポール・ドレイクがいった。
「そいつは、すてきだ、二階で、やつらが待ってさえいなけりゃな」と、弁護士は相手にいった。
二人は廊下へ出るドアをあけて見た。廊下へ飛び出し、左手へ向かって行って、非常階段へ出る窓をまたぎ越した。バセット夫人の部屋を見張って、まだ廊下に立ちつくしていた肩幅の広い刑事は、不審そうに二人を見て、二、三歩、その方に進みかけたが、どうしようかと躊躇していた。
ペリイ・メイスンは、ことさら大きな声で、ポール・ドレイクに声をかけた。「バケツの水はあけてしまえよ、ポール。下へ行けば、水道の蛇口があるよ。この非常階段の手すりを磨かなくちゃならんぞ」
ドレイクはうなずいた。二人は、非常階段を駆け降りた。二階まで来ると、上の方でどなる声がした。ホルコム巡査部長が非常階段にあらわれて、やたらに手を振りまわしていた。
「さあ」と、メイスンはいった。「こっちは、ここで乗り換えだ」
メイスンは、あいている窓から二階の廊下に飛びこんで、廊下を走った。階段の降り口で、背広の上に着こんでいた白い制服をぬいだ。ポール・ドレイクは、白いオーバーオールのボタンがうまくはずせなくて、まごまごしていた。メイスンが手をのばして、ボタンを引きちぎって、制服をぬがせてやった。
「千番に一番だ」と、メイスンがいった。「もう一度、上へあがろう」
メイスンは、白い制服を小脇にかかえ、エレベーターの前へ行って、『昇り』のボタンを押した。
「運がよければ」と、メイスンはいった。「われわれは、うまく──」
みなまでいわないうちに、ぱっと明かるくなって、ドアが、すうっとあいた。メイスンとドレイクが乗りこんだとたん、六階から降りて来た隣りのエレベーターがとまって、ドアがすっとあいた。ホルコム巡査部長が廊下へ飛び出した。
「なん階まで?」と、ドアをしめながら、エレベーター・ボーイがたずねた。
「一番上だ」と、メイスンがいった。
エレベーターが昇りはじめたとき、メイスンは、話し好きらしい口振りでいった。「屋上庭園があるんだね?」
「そうです」
「そいつはいい」と、メイスンがいった。「そこへ行って、しばらく休もうじゃないか」
二人は、最上階でエレベーターをすてて、屋上庭園に出た。白い制服を植木鉢のかげにほうりこんだ。「合鍵は持っているかい、ポール?」
「もっているとも」
「用意しとけよ」と、メイスンはいいながら、先に立って、客室の廊下へはいった。
表通りと反対側の方を向いた部屋を一つえらんで、ドアをノックした。答えはなかった。メイスンは、ドレイクにうなずいて合図をした。探偵は、鍵穴に鍵をさしこんでまわした。ドアはあいた。二人は、はいりこんだ。メイスンは、真鍮の握りをまわして、錠をかった。
メイスンは、ポケットから煙草のケースをとり出し、一本ぬき出して、親指の爪にたたきつけながら、探偵の顔を見て、にやりとした。
「どうだい」と、メイスンはいった。「まだ、ここは、牢屋じゃないぜ」
「いったい、どうやって、ここを抜け出すというんだ?」と、哀れな顔をして、ドレイクがたずねた。
メイスンは、ながながとベッドの上に寝そべり、枕を頭の下にあてがって、煙草の煙を天井に吹きあげた。その顔は、心から満足そうな微笑をたたえていた。
「連中は、まだ廊下で鬼ごっこをしているつもりでいるんだぜ」と、メイスンはいった。「三十分がそこらもして、いよいよわれわれが見つからんとなったら、荷物のエレベーターか階段づたいに降りて、ずらかったと思うだろうよ。だから、その間に……」
メイスンの声は、しだいに語尾が消えて、ものをいわなくなってしまった。
「その間に、なんだい?」と、ドレイクがたずねた。
「ぼくは、昨夜、まるきり眠っていないんだ」と、弁護士はいった。煙草の最後の煙を大きく、ふうっと吹き出して、吸いがらを灰皿にこすりつけて、「六時になったら起こしてくれ」といった。
「それまでに、眼をさまさなかったら」そういって、眼をつむってしまった。
探偵は、呆れ顔で、ぽかんと口をあけたまま、しばらくメイスンを見つめていた。それから、自分ものろのろと、長椅子の方へ歩いて行った。
「おいこの豚」と、ドレイクはいった。「おれにも、一つ枕をよこせ。おれだって、まるきり眠っていないんだぜ」
第十章
ペリイ・メイスンは、デラ・ストリートの渡した書類に、のたくったような署名をしてしまうと、ブザーを押した。一人の助手がはいって来るのを見て、メイスンはいった。
「これは、ピーター・ブルノルドという人間に対する人身保護令状《ハビアス・コーパス》の申請書類だ。早いとこやってくれ」
「ブルノルドの保釈を要求するんですね?」と、その助手がたずねた。
「いや、とても出してはくれんだろう」と、メイスンはいった。「しかし、こっちから無理押しをして、いやでも、あの男を起訴しなければならんようにしむけたいのだ。向こうは、どうやら、今すぐには、殺人容疑であの男を起訴するのは本意ではないらしい。しかし、起訴するとなったら、殺人以外の容疑はありっこないのだから、人身保護令状《ハビアス・コーパス》をつきつけて、どうしても起訴しないではいられないようにしてやるという作戦なんだがね」
助手が書類を受けとって出て行くと、メイスンは、デラ・ストリートの方を向いて、「ドレイクに来るようにいってくれたかね?」とたずねた。
「ええ。直接、こっちの部屋に来てくださいっていいました。もう来るはずですわ……ああ、ドアのところへ来ましたわ」
ドアの艶消しガラスに、人の影がうつった。デラ・ストリートが、すべるように部屋を突っ切って行って、ドアをあけた。ポール・ドレイクが、ペリイ・メイスンに、にやりと笑顔を向けて、
「虫の知らせでもあったかね?」とたずねながら、大きな、いっぱい詰め物をした革張りの安楽椅子に、横向けに身をおとし、片方の肘《ひじ》かけから両脚をだらんと垂らし、もう一方の肘かけに、腰のくびれのところをよっかからせた。
「うん」と、メイスンはいった。「例のフェンウィックという女のことだがね」
「その女がどうしたんだ?」
「あの女は」と、メイスンはいった。「殺人犯人に誘拐《ゆうかい》されたか、なにか突発事故にあったか、自分から高飛びしたか、三つのうちの一つが、あの女に起こったのだ。ところが、犯人は、あの女を知らない――つまり、あの女の顔を見なかったのだからね、第一に、もし、事故にあったのなら、いままでに、警察にわかっているはずだ。それから考えて、あの女は高飛びしたんだろうね」
「そいつは、むろん」と、探偵は、ゆっくりといった。「あの女が、事件の夜、目撃したことについて、嘘偽りのないことを話したと仮定した上でいえることだな。もしかすると、ディック・バセットを窮地におとしこむような、なにかを知っているものだから、ずらかったのかもしれないね」
メイスンは、気むずかしげにうなずいてから、いった。「ハートリ・バセットの家の待合室のドアに、ダイヤモンド形のガラスがはまっている。殴られて倒れていたフェンウィックが、息を吹き返して寝椅子から立ちあがった時、ふらふらとしたものだから、つかまろうとして、そのガラスに両手をついたんだがね。あのガラスには、あの女の指紋が十本とも、立派に残っているにちがいないのだ。
ところで、ぼくは、どういう女だろうと、あの女のことを考えて、どんな小さなことでも見おとしたくないと思っているんだがね。なにかよっぽど強い動機があって高飛びしたのだね。誰かをかばっているのか、なにかしらないが、事件の当夜の自分の行動をかくそうとしているのか、前科があって、警察に訊問されるのをおそれているか、それのどれかなんだろうね。部屋へはいって行って、ハートリ・バセットが死んでいるのを見つけ、そのポケットから紙幣束を盗んでから、自分で自分の頭をなぐりつけて、気をうしなったふりをしようとすればできたのだ。
あるいは、ディック・バセットが、義理の父親を殺すのを見て、証言させられるのをおそれて逃げ出したとも考えられるわけだ。
あるいは、前科持ちのしたたか者だってこともあり得るね。いずれにしろ、考えられるだけのことは、吟味しておこう。バセットの家へ飛んで行って、ドアのガラスに残っている指紋を写真にとって、身許がわかるかどうか調査してもらいたいんだ」
ドレイクは、ゆっくりうなずいて、「ほかには、なにか?」とたずねた。
「いまは、ない。とにかく、このフェンウィックという女を洗ってみてくれ」
ポール・ドレイクは、廊下へ出るドアの握りをまわしながら、ひょうきんな笑顔を見せて、いった。「まさか、きみは警察のいう通り、その女を、どこかへ隠しているんじゃないだろうね。ぺリイ?」
メイスンは、にやりと笑って、いった。「さては、ぼくのデスクの下をのぞいたな、ポール」
探偵は戸惑ったような顔つきをして、いった。「この野郎めが。おれをごまかして走りまわらせてるんだったら、二度ときみのいうことを信用しないぞ」
探偵は、ドアをしめた。メイスンは、デラ・ストリートの方を振り向いて、
「手紙をつくってくれたまえ」といった。「ガラスの義眼を眼窩に固定させる方法と、固定された義眼が、なにかのことがあると、わけなくゆるんではずれたりするかどうか、それを問い合わせる手紙だ」
デラは、速記のノートブックに、いわれたことを走り書きしてしまうと、メイスンを見上げていった。「あのピストルについているあなたの指紋は、どうなるでしょう?」
メイスンは、くっくっと笑って、いった。「どうやら、警察じゃ見おとしたらしいね。家じゅうの人間の指紋はとったのだが、ぼくのだけは、うっかりして忘れたんだね」
デラは、なにか気にかかるような口振りでいった。「こんどのハミルトン・バーガーという地方検事は、腕ききなんですの?」
「さあ、わからんね」と、メイスンはいった。「いまのところじゃ、なんともいえないね。なにしろ任命されてから、はじめての殺人事件だからね」
「個人的にご存じですの?」
「会ったことがあるというだけだ」
「もし、バーガー検事が、そのフェンウィックという証人を出廷させることのできないのが、あなたのせいだと思ったら、あなたを逮捕するとかなんとかしないでしょうか?」
「するかもしれないね」
「もし、そんなことをしたら、あなたは、どうなさるの?」
「ほんとうのことをいってやるだけだが、納得はしないだろうね」
「というと、どういうことなの?」
「ぼくが陪審を前にして、殺人事件のもっとも重要な目撃証人を、警察の手からかっさらって、自分の事務所へ行かせたのは、警察につかまる前に、その証人の知っているありのままの事実を聞きとって、供述書を作ろうとしたのだが、その証人がどこかへ姿を消してしまって、ぼく自身でさえもどこへ行ったのか知らないと、そんなふうなことをいったとしたら、まず第一に、ぼくが嘘《うそ》つきで、第二には、その証人の供述が、ぼくの依頼人にとって決定的に不利だということがわかったものだから、その証人を隠しているのだと、ふつうの新聞読者には、そういうふうにとられるだろうね」
デラ・ストリートは、同情するようにうなずいた。
大事な用件で電話がかかったという合図のブザーが鳴った。デラは、ちらっとペリイ・メイスンの顔を見た。メイスンはうなずいた。デラは、受話器を取りあげて、「もしもし」といった。デラの眼が細くなった。手のひらを送話口にあてて、
「ハミルトン・バーガーさんよ」といった。「地方検事が来ていらして、お眼にかかりたいんですって」
「ひとりでか?」と、メイスンはたずねた。
デラ・ストリートは、送話口にむかって、その問いを繰り返してから、メイスンにうなずいて見せた。
「お通ししろ」と、メイスンはいった。「きみはここにいて、二人の話を一ことももらさずに、正確に筆記してくれ。たぶん、ぼくにしゃべらせて、ことさら言葉尻をつかまえようというのではないだろうが、うっかりすると、そういうのがまさかの時の役に立つということが、しばしばあるものだからね」
デラはうなずいて、待合室へのドアの方へ歩み寄った。メイスンは立ちあがり、両脚をぐっと開いて立ち、両手のにぎりこぶしで、デスクの縁をつかんだ。
デラ・ストリートは、ドアをあけて、脇へ寄って立った。肩幅の広い、頸《くび》のふとい、口ひげを短く刈りこんだハミルトン・バーガーが、部屋にはいって来て、愛想よく、「今日は、メイスン君」と、挨拶した。
ペリイ・メイスンは、ていねいに会釈を返して、椅子をさしていった。「どうぞおかけください。おいでくだすったのは、検事としての公式のご来訪ですか、それとも、社交上の訪問でしょうか?」
「どちらかといえば、社交上の訪問でしょうな」と、バーガーはいった。
メイスンは、煙草をすすめた。バーガーは、一本をとって火をつけ、デスクの向こうのはしで、速記の用意をしているデラ・ストリートに笑顔を向けて、
「ぼくのいうことなど、筆記される必要はないと思いますがね」といった。
メイスンがいった。「いや、筆記が必要になりそうなのは、ぼくのいわないことの方なんですね。ぼくがいわなかったことを確めるただ一つの道は、ぼくのしゃべったことを間違いなく記録させるより方法がないのです」
地方検事は、じっと考えつめたような眼つきで、ペリイ・メイスンを計るように見て、いった。「ところで、メイスン君、実は、きみのことを調べてみたんですがね」
「別に、ぼくには驚くほどのことではないようですな」と、メイスンは、相手にいった。
「それで知ったのですが」と、バーガーはいった。「なかなか油断がならないという評判があるようですね」
メイスンは、つっかかるような口吻《こうふん》をただよわせていった。「あなたは、ぼくの評判を論ずるために、わざわざ出かけて来られたのですか?」
「ある意味では、そうです」
「よろしい、大いに論じましょう。しかし、言葉づかいには気をつけてくださいよ」
「評判によると」と、バーガーはつづけた。「きみは、もっぱら、ずるいという説ですね。そして、ぼくも、たしかにきみはずるいと認めます。しかし、合法的なずるさだと、ぼくは思うのです」
「そう思ってくださるのはありがたい」と、メイスンはいった。「あなたの前任者の考えは、そうじゃなかった」
「ぼくの見解では、弁護士というものは、真実を明らかにするためには、合法的である限り、どんなトリックでも使う権利があると思います」と、バーガーは言葉をつづけた。「きみのトリックも証人を混乱させるためではなくて、証人の頭から先入見をたたき出して、真実を吐くことができるようにするためだと認めます」
メイスンは、頭を下げてからいった。「お礼の言葉は、全部、お話をうかがった上で申しあげます。どうも経験からすると、こういうおほめの言葉というものは、概して、横《よこ》びんたをくらう前ぶれのようですからな」
「横びんたなんてとんでもない」と、バーガーはつづけた。「ぼくは、ただ、ぼくの立場を理解していただきたいだけです」
「そういう立場なら」と、メイスンはいった。「理解しています」
「それでは、ぼくがいおうとしていることは、認めてくださるでしょうな」
「遠慮なくいってください」
「地方検事というものは、自分の扱う事件の被告に有罪の判決が下されるのを望む習性があります。それはまあ、当然のことでしょうな。警察は、事件を調べあげて、地方検事のところに投げてよこします、被告に断罪を下させるのが、地方検事に課せられた役目です。事実、地方検事の声価は、扱った事件のうち、有罪の判決の下ったパーセンテージに基いて決定されるのです」
メイスンは、ひどくなにげない声でいった。「どうぞおっしゃってください。傾聴しております」
「ぼくは、この職に任命された時」と、バーガーはいった。「良心的に、誠実でありたいと望みました。無実の人間を起訴することに怖れを感じます。ぼくは、これまでから、きみの仕事振りに深い感銘をおぼえていました。しかし、それについて、ぼくの到達した結論には、たぶん、同意なさらんでしょうな」
「どんな結論です?」と、メイスンはたずねた。
「きみは、弁護士としてよりも、探偵としてずっとすぐれた腕をもっている、しかも、それが、きみの法律的才能を傷つけていないという結論ですがね。きみの法廷戦術は、実に手際があざやかだ、しかし、それはすべて、まず最初に、事件の正しい解決に到達しておいた上のことです。きみが法廷戦術の一部として、ひねくれたトリックに訴えるようなことがあれば、ぼくは、あくまでも対抗する。しかし、そういうトリックでも、謎を正しく解決するために利用するのなら、あえて反対はしない。ぼくは、両手をしばられている。ぼくは、ひねくれた、目ざましい駆け引きに頼ることはできない。時には、それができたらなあと、思うこともあります。ことに、被告の確認訊問の場合に、証人の発言が虚偽であると考えられるような時にはね」
メイスンは、ゆっくりといった。「いままでの地方検事には、かつてなかったほど、あなたが率直にものをいってくれるのだから、ぼくも、いままでの地方検事に対しては、いささかもそうしようなどと思ったこともなかったのだが、あなたには率直に話しましょう。ぼくは、人に向かって、有罪か無罪かというようなことはたずねません。依頼を受けて弁護をしようというには、金を受けとって事件を扱うだけです。有罪であろうと無罪であろうと、当然、その人間は、法廷に立つ権利があるのです。しかし、依頼人がほんとうに殺人犯人であって、道徳上からも法律上からも、弁明の余地がないと明らかになった場合は、ぼくは、その人間を罪に服させ、その上で、裁判長の情状酌量にすがるだけです」
バーガーは、心からうなずいて、「きみはそうだろうと、ぼくも思っていましたよ、メイスン君」
「忘れないでいてもらいたいのは」と、メイスンは、注意を促すようにいった。「ぼくが、殺人という行為には、道徳上からも法律上からも、いいのがれは有り得ないといったことです。もし、ある人間の殺人の動機に、道徳的に弁護の余地があるとすれば、できることなら、その人間に実刑が課されないように守ります」
「さあ」と、バーガーはいった。「その点では、きみに賛成することはできませんな。ぼくは、法律の条文だけが、唯一の弁護の規準だと信じているのですからね。しかし、ぼくが、きみに偏見を抱いているわけではなく、むしろ、おたがいに仲よくありたいと望んでいるということを理解していただきたい。それで、ヘーゼル・フェンウィックを引き渡してもらいたいんですがね」
「どこにいるのか、知らないのですよ」
「それはそうかもしれないが、引き渡してもらえるのじゃありませんかな」
「確かに、いどころを知らないのです」
「きみが、あの女をさらったのだ」
「いかにも、ぼくの事務所へ行かせましたがね」
「きみのその行為は、重大な嫌疑をかけられるだけのことはありますよ」
「そうおっしゃる理由がわかりませんな」とメイスンは、平静な口振りでいった。「もし、あなたが、その現場に行き合わせた最初の人間だったら、あなただって、あの女を自分の事務所に行かせて、供述書をとることのほかには、なんにも考えなかったでしょうね」
「ぼくは、政府の役人で、殺人事件の調査は、ぼくの職務ですからな」と、バーガーはいった。
「だからといって、ぼくが依頼人の利益のために調査をやってはいけないということにはならんでしょう?」
「やりようによりけりですね」
「こんどの場合には、やりように、こそこそしたところなどありませんよ」と、メイスンは相手にいった。「なん人も証人がいる目の前でしたことです」
「その後でどうしました?」
「ヘーゼル・フェンウィックは、ぼくの車に乗ったまま、姿を消してしまったのです」
「ぼくには」と、バーガーがいった。「あの女の生命が危険に瀕《ひん》していると信じられる理由があるのです」
「なんで、そう思うんです?」
「犯人を積極的に確認できる唯一の人間ですからね」
「犯人をじゃない」と、メイスンはいった。「部屋から飛び出して来た男をでしょう」
「同じことじゃありませんか」
「あなたは、そう判断するんですね?」
「立派に理由のある判断ですよ」
「証明されるまでは、どんなことでも理由などありませんよ」
「それなら、こういいましょう。それは、見解の相違です。きみにはきみの、ぼくにはぼくの見解があっていい。すくなくとも、その男は、犯人である可能性がある。そして、その男は、自暴自棄におちいっている。ぼくは、ヘーゼル・フェンウィックは、その男の卑劣な行為にかけられたか、でなければ、かけられようとしていると思うのだ」
「だから、どうだというのです?」
「だから、安全な場所へ、あの女を保護したいと思うのだ」
「それで、ぼくに、あの女のいどころがいえると思っているんですね?」
「確信しています」
「いえませんね」
「いえないのか、いいたくないのか、どっちです?」
「いえない」
バーガーは立ちあがって、ゆっくりといった。「ぼくは、ぼくの立場を、きみにわかってもらいたかった。もし、きみの依頼人が無罪なら、それを知りたい。しかし、きみが、殺人事件の証人を隠匿《いんとく》して、しかも、厄介な目に会わずにいられると、そんなことを考えているんだったら、きみは気ちがいだ」
メイスンは、ゆっくりといった。「ぼくは、あの女のいどころを知らないと、きみにいっているでしょう」
バーガーは、廊下に出るドアをぐいとあけ、戸口に立ちどまって、最後|通牒《つうちょう》だぞとばかり、「四十八時間だけ猶予してやる」といった。「その間に、考えなおしたまえ。それが最後だ」
ドアがしまった。
デラ・ストリートは、心配そうに、弁護士の顔を見て、
「先生」といった。「あの女のこと、なんとかしなきゃいけないんでしょう」
メイスンは、気むずかしげにうなずいてから、にやりと笑っていった。「四十八時間もあれば、ずいぶんいろんなことができるよ」
第十一章
ポール・ドレイクの眼は、一眼見てわかるほど、睡眠不足を示していた。
「探偵ってものは、生き生きとした人間の命を掘り出そうとしているものなんだがね」と、ドレイクはいった。「ところが、いつでも掘り当てるものは骸骨《がいこつ》ばかりだ」
メイスンは、不機嫌そうにうなずいていった。「こんどは、誰のことだ、ポール?」
「ヘーゼル・フェンウィックのことだよ」と、探偵はいった。
弁護士は、デラ・ストリートに、ノートをとるようにと、身振りで合図をして、
「あの女がどうした」とたずねた。「例の指紋から、なにかつかめたかい?」
「つかめたとも」と、探偵はいった。「完全無欠な十本の指紋がとれてね、必要な情報を集めようと四、五通電報を打ったら、あの女のことは残らずわかってしまったよ」
「すると、あの女の指紋は記録されていたのだね?」
「そうなんだ、あの女は、女青ひげの容疑者なんだ」
「なんだって?」
「女青ひげさ」
「わかった。どんどん聞かせてくれ」
「警察は、はっきり決定的なことをつかんでいるわけじゃない」と、探偵はいった。「しかし、この女が、つぎからつぎと結婚すると、相手の男は死に、遺産を手に入れているんだ」
「男はなん人だね?」と、メイスンがたずねた。
「そこまでは、調べられなかった。警察も確証は握っていないのだが、かなり強い疑いをかけている。夫だった男の一人の胃の中に、砒素《ひそ》が検出された。それで、捜査に踏み出した。別の夫だった男を墓から掘り出して見ると、もっと多量の砒素が検出された。そこで、あの女を逮捕し、指紋を取って訊問したが、なにもつかめなかった。警察が、もっと材料を集めまわっているうちに、親切な女の友人が、鋸《のこぎり》を二本、そっと差し入れた。女は、郡刑務所の鉄格子を引き切って、行方をくらましてしまった」
メイスンは、低く口笛を鳴らしてから、「大勢の夫のうちで、生きているのはいるのか?」とたずねた。
「うん、スティーヴン・チャーマーズという男だ。女は、その男と結婚したのだが、結婚して二日目に、男の方から逃げ出した。さすがの女も、一服盛るひまがなかったというわけさ」
「その男は、女の経歴を知っていたのか?」と、メイスンはたずねた。
「いいや。女と結婚する時、財産のことで嘘をついていたのだと思うんだ。女が、ほんとうのことに気がついて、一騒ぎやらかした。チャーマーズは、金を目あての男たらしと、女に毒づいて、逃げ出してしまった。それ以来、女には会ったこともないそうだ」
「確かに、その女に間違いないのだね?」と弁護士がたずねた。
「間違いない」と、ドレイクはいった。「おれは、ディック・バセットの時計の裏蓋に貼《は》りつけてあった女の写真を、首尾よく複写してのけたんだ」
「そんな写真があるとは知らなかったね」と、メイスンはいった。
「警察もご存じなしさ。バセットが、一枚きりその写真を持っていたのさ。やつは、ひと言もいわなかったがね」
「どうやって、手に入れたんだ?」
「そうさ、どこかに、あの若造が持っているにちがいないと思ったものだから、こっそりポケットから時計を失敬して、裏蓋をこじあけて見たのさ。そしたら、運よくあったんで、その写真の写真をとって、警察の前科者肖像室の警察写真とつき合わせて見たんだ」
「そして、チャーマーズも、その写真を確認したんだね?」
「そうとも、おれが、バセットの時計から失敬した方をな。女が前科持ちだってことは、あの男に知らせたくなかったので、警察写真は見せなかったよ」
メイスンはゆっくりといった。「ねえ、ポール。もし、一文も金がかからずにすむのだったら、ぼくが、かれのために離婚の手続きをしてやることを、チャーマーズに承知させられると思うかい?」
「させられるとも」と、ドレイクはいった。「しかし、疑いを起こさせることになるかもしれないな。いずれにしろ、再婚したがっているんだ。百ドルで、証明書を手に入れてやることにしたらどうだろう。いんちきなやつだから、喜んでとびつくだろう」
メイスンは、ゆっくりうなずいて、いった。「よし、出そう。きみから手配をしてやるといってくれ」
「しかし」と、探偵はいった。「どうするつもりだね、離婚の世話をしてやったりして?」
「一芝居打とうと思うんだ」と、メイスンは、相手にいった。
「どんな芝居を?」
メイスンは、ゆっくりといった。「世の中で、女の様子を口でいい表わすほど、むずかしいことはないんだ。警察が新聞に発表した、ヘーゼル・フェンウィックの人相書を見るがいい――身長、五フィート二インチ、体重、一一三ポンド、年齢二十七歳、眼は黒く、浅黒い顔色、失踪直前の服装、別|誂《あつら》えの茶色のスーツ、靴、靴下ともに茶色」
「それで?」と、ドレイクがたずねた。
「この女を見た人間は、ごくわずかばかりしかない。謎のように、事件の渦中にまぎれこんで来た女だ。ディック・バセットも、明らかに結婚したことを、ひた隠しに隠していた。あの人相書なら、二十五、六歳の、濃いブルネット色の髪の女だったら、ほとんど誰にだってあてはまる」
ドレイクは、眼を細めて相手を見ながら、いった。「だから、どうなんだ?」
メイスンは、デラ・ストリートの片腕をつかんで、探偵から離れた部屋の隅につれて行き、囁《ささや》くような低い声でいった。「職業紹介所へ行って、二十五、六歳ぐらいの若い女で、身長、五フィート二インチぐらい、体重、一一三ポンドほど、髪も眼も黒味を帯びた女を見つけてくれ――腹を減らしているのをね。茶色のスーツに、茶色の靴と靴下なら、おあつらえ向きだ。そうでなかったら、そんなのを一揃い買ってやるんだな。腹を減らしていることが大事だぜ」
「どれくらいお腹がすいていればいいんですの?」と、デラ・ストリートはたずねた。
「金の多いすくないなど問題にしないほどすき腹ならいい」
「刑務所に入れられることになるんですの?」と、デラ・ストリートがたずねた。
「なるかもしれないが、長くなんかはいっていないだろうし、もしそうなったら、その分だけ別に払ってやるよ。ちょっと待ってくれ、デラ、出かける前に、まだ一つ二つ用があるから」
メイスンは、ドレイクのそばにもどって来ていった。「ポール、きみは、新聞の連中には、かなり評判がいいんだろうね?」
「そのつもりだがね。なぜだい?」
「誰でもいい、きみの親愛なる新聞の友だちのうちの一人をつかまえて、五十ドル握らせるんだ」と、弁護士はいった。「その男に、バセットの家の連中一人残らずの写真をとらせてほしいんだ。新聞に出す写真がいるといわせるんだね。どうだ、そんなことがやれるかな?」
「やれるとも、わけのないことだ」
「よし、それから、ここが肝腎《かんじん》なところなんだが、その写真を、ある特別な場所でとってもらいたいのだ」
「どんな場所だ?」
「うつされる当人を、バセットが殺された時にすわっていた椅子にかけさせてもらいたいのだ。その連中の顔の表情がはっきりわかるような、クローズアップがほしいのだ」
「なぜ、そんな特別な場所をえらぶんだ?」と、探偵がたずねた。
「そいつは秘密さ」といって、メイスンはにやりと笑った。
「あそこは、ずいぶん暗いぜ」
「朝早くなら、そうでもないさ」と、メイスンはいった。「朝の九時から十時までの間に、その写真をとらせてくれ。めいめい、東の窓に顔を向けさせてね。朝の日の光が、その窓からさしこんでいるはずだ」
ドレイクは、ノートブックを引っぱり出して、「オーケー」といった。「あの家の人間というと、運転手のオーバートンと、コールマーと、ブライトという女と、ディック・バセットと、ほかに誰かあるかな?」
「とにかく、殺人事件の当夜、あの家に出入りしたもの全部だ」
「あのデスクのところにかけさせるんだね?」
「窓の方に顔を向けて、デスクにかけさせるんだ」
「クローズアップがいるんだね?」
「そうだ」
「オーケー」と、ドレイクはいった。「ばかげた話だが、やってみよう」
電話が鳴った。デラ・ストリートが受話器をとりあげて、「もしもし」といったが、いそいで、受話器をペリイ・メイスンに渡しながら、小声で、「ハリー・マクレーンから電話。直接、お話したいんですって」
メイスンは、ドアを出て行こうとするポール・ドレイクに、手を振って合図をしながら、送話口に向かって、「もしもし、メイスンです」
ハリー・マクレーンの声は、興奮で上ずっていた。
「もしもし」と、ハリーはいった。「ぼくは、大馬鹿でした。いまのいままで、手先に使われていながら、それに気がつかなかったのです、やっと、自分が馬鹿だったとさとりました。はじめからおしまいまで、いっさいのことをぶちまけてお話しようと思うんです」
「よろしい」と、メイスンはいった。「やって来たまえ。待っているよ」
「行けないんです」と、マクレーンはいった。「とても、出かけるなんてできません」
「どうして、来られないのだ?」
「見張られているんです」
「誰が見張っているんだ?」
「それも、お眼にかかってからお話します」
「じゃあ、いつ会えるのかね?」と、メイスンがたずねた。
「どうしても、ぼくのところへ来ていただかなくちゃなりません。とても、事務所へうかがうわけには行かないんです。そうです、ぼくは、見張られているのです。お会いするのだって、命がけなんです。ねえ、いいですか。ぼくは、いま、ジョージ・パーディという名で、メリーランド・ホテルに泊まっています。部屋は九〇四号室です。帳場で、ぼくのことをたずねないでください。ホテルにいらしたら、いきなりエレベーターであがって、廊下をやって来てください。廊下に人がいたら、ぐずぐずなどしないで、ぼくの部屋の前を通りすぎて、どこかほかの部屋をさがしているような顔をしていてください。誰も廊下にいなければ、ドアをあけて、遠慮なくはいって来てください。ドアはあけておきます。ノックはしないでください」
「ねえ、きみ」と、メイスンはいった。「ひとつだけ聞かしてほしいんだが。誰だね、共犯は? 誰が──」
「駄目です」と、マクレーンはいった。「電話では、どんなことだってお話しできません。いまだって、しゃべりすぎたくらいです。来る気があるのなら、来てください。でなかったら、勝手にしてください」
線の向こうのはしで、受話器をかけ金にたたきつける音が、がちゃんとした。
ペリイ・メイスンは、受話器を、静かに元へもどして、デラ・ストリートと、ポール・ドレイクの顔を見た。
「ぼくも出かけなきゃならん」と、メイスンはいった。
「なにか大事なことが起きたら」と、秘書がたずねた。「ご連絡はどうしましょう?」
メイスンは、ちょっとためらっていたが、やがて、一枚の紙に、『メリーランド・ホテル、九〇四号室、ジョージ・パーディ気付』と走り書きして、その紙を折りたたみ、封筒に入れ、封をしてから、デラに渡した。
「十五分以内に、ぼくが電話しなかったら」と、メイスンはいった。「その封筒をあけてくれ。そうなったら、ポール、きみも、その場所へ来てくれるだろうな。それから、ピストルを忘れるなよ」
メイスンは、帽子をとって、ドアの方へ歩き出した。
第十二章
ペリイ・メイスンは・メリーランド・ホテルから一町半ほど先へ行った歩道の際に、車をとめた。ハンドルの前にすわったまま、煙を吹かして、十五秒か二十秒ほどの間というもの、通りの前後をうかがっていてから、ドアをあけて、歩道に降り立った。
かれは、まっすぐホテルには行かずに、ぐるっとその区劃を大まわりして、横の入り口からホテルにはいった。
帳場には、当番の事務員が一人いた。メイスンは、その前をぶらぶら通りすぎて、煙草の売店まで行き、巻煙草を一箱買い、雑誌の表紙をじっと眺めてから、ふらっとエレベーターの方へ足を運び、ドアのしまりかけていた箱に飛びこんだ。
「十一階」と、メイスンはいった。
十一階でエレベーターを出て、階段を伝って九階まで降り、階段に立って、廊下に人の姿のないのを見定めてから、廊下へ足を踏み入れた。まっすぐ、つかつかと九〇四号室のドアのところまで行き、ノックをせずに握りをまわして、ドアをあけ、部屋にはいって、うしろ手にドアをしめた。
部屋の中は、日おいが降りていた。引き出しという引き出しは、化粧箪笥から引き出されていたし、スーツケースはあけっぱなしたままで、中身は、床の上にまき散らされていた。ベッドの上に、一人の男がうつ伏せに横たわっている。左の腕は、だらんと床に垂れ、右の腕は、胸の下に折り曲げている。
メイスンは、どんな物にも手をさわらないように用心をしながら、爪先立ちでベッドをまわり、膝をつき身を乗り出して、ベッドの縁から落ちかかるようになっている上半身を、下からのぞきこんだ。
見ると、男の右手は、ナイフの柄を握りしめてい、ナイフは、深く心臓に突き刺さっている。苦痛に歪んだ顔は、ハリー・マクレーンの顔だった。
メイスンは、慎重に気を配った。二足後ろに寄って、首をかしげて、耳をすました。チョッキの左のポケットに、親指と人さし指をつっこんで、ドレイクが持って来た義眼を一つ引っぱり出した。指紋が残らないように、その義眼をハンカチでこすり、ベッドの傍に寄り、かがみこんで、ゆるく握ったハリー・マクレーンの左手の指の間に、それを押しこんだ。爪先立ちでドアまで歩き、ハンカチで内側の握りを拭き、ドアをあけ、廊下に出ると、またハンカチで外側の握りを、いそいで拭いてから、ぴったりドアをしめた。
メイスンは、急ぎ足に階段まで歩き、階段を十一階まで昇り、エレベーターを呼んで、さっとロビイに降りた。電話室にはいって、事務所を呼び出し、「もうだいじょうぶだ、デラ、さっきの封筒は燃しちまってくれ」といった。
メイスンは、ホテルを出て、横町を通って車をとめておいた通りのところまで行き、人目につかないように横町の入り口に立って、通りの左右を見渡した。
自分の車の五十フィートほどうしろに、警察の車が一台とまっているのを見つけた。車の中には、よっぽど気永に待つつもりらしく、二人の男が、だらしなく座席にすわっている。
二人は、メイスンの車を見張っているのだった。
弁護士は、眼を細めてようく確かめてから、横町に一足さがった。そこに立っていると、もう一台の車が角をまわって来て、警察の車の、通りをへだてた向かい側にとまった。運転席から、殺人捜査課のホルコム巡査部長が飛び降りて、車の中の二人の男と、小声で話しをはじめた。
ペリイ・メイスンは、くるっと身をひるがえして、横町をつぎの通りまで引き返した。急ぎ足でホテルまで歩き、ホテルにはいると、まっすぐ帳場へ行って、事務員に声をかけた。「放送までしてもらわなくてもいいんだが、ぼくは、ハリー・マクレーンという名前の男をさがしているんだがね。このホテルのどっかにいるということを耳にしたんだが、マクレーンという泊まり客はいないかね?」
事務員は、宿帳をずっと調べて見て、首を左右に振った。
「おかしいな」メイスンは、ゆっくりといった。「確かに、ここにいると聞いて来たんだがね。ぼくは、ペリイ・メイスンというものだが、食堂へ行って、ちょっとものを食っているから、そういう男が泊まりに来たら、すまないが知らせてくれないか。ただし、その男には、ぼくがさがしていたといわないでもらいたいのだが」
メイスンは食堂へはいって行って、サンドウィッチとビールを一瓶注文した。サンドウィッチが来ると、勘定書を受けとって、辞退するウェイトレスに、むりやり五十セントのチップを押しつけた。のんきそうにサンドウィッチを食べ、ビールを飲みおわると、ぶらぶらと食堂の入り口まで行き、立ちどまって、ロビイを見渡した。
ホルコム巡査部長が、ロビイの片隅の、鉢植えのシュロの木の陰に立っていた。
メイスンは、食堂へ引っ返して、まっすぐ勘定場のそばの公衆電話のところへ足を運んだ。五セントの白銅貨を落としこんで、警察本部を呼び出した。
「ホルコム巡査部長に話したいのだがね」と、メイスンはいった。
「ホルコム巡査部長は、いまおりません」
「代りに伝言を聞いてくれる人はいるかね?」
「どんな用です?」
「ぼくの関係している事件についてなんだが」
「あなたは、どなたですか?」
「弁護士のペリイ・メイスンだ」
「どういう伝言ですか?」
「もどって来たら、すぐに、メリーランド・ホテルに来るようにいってくれ。ぼくがここで待っているから、といってくれたまえ」
メイスンは受話器をおいた。
かれは、もう一枚、五セントの白銅貨を公衆電話器に落としこんで、地方検察局を呼んだ。
「弁護士のペリイ・メイスンだ」と、メイスンはいった。「非常に重要な用件で、ハミルトン・バーガー氏と話したいのだが……いや、ほかの人間には話せない。直接、バーガー氏と話したいのだ。メイスンからの電話だといってくれ」
しばらくすると、落ちついた、ものやわらかな、しかも油断のないバーガーの声が聞こえて来た。
「なんですか、メイスン君?」
「メリーランド・ホテルにいるんですがね、バーガー君。名前をいわなかったが、誰かが、ここへ来るようにと、そっと電話で知らして来たんです。ハリー・マクレーンがこのホテルにいて、話をしたいからということでした。ここへ来て、帳場で聞いてみたんですが、マクレーンは泊まっていないというんです。いまにも来るかとも思うんですがね。電話をかけて来た男の声の調子では、なにを話すのか知っているようなふうでした。
ところで、そのマクレーンというのは、バセットのところで働いていた男でしてね。偶然のことから、ぼくの依頼人なんです、もっとも事件は別の事件で……」
「いや」と、バーガーが口を入れた。「その件なら、こっちでもすっかりわかっていますよ、メイスン君。ご説明には及びません」
「それなら、話は簡単だ」と、メイスンはいった。「マクレーンが、重要な情報を提供するかもしれないということは、わかっていただけるでしょうね、むろん、かれが、その気になればですがね」
「その気になればは、よかったね」と、地方検事はいった。「で、ぼくに、どうしろというんですか?」
「この事件では、ぼくは、ちょっと妙な立場に立っているのでしてね」と、メイスンは、わけを話し出した。「ある点では、マクレーンの代理弁護士として動いているわけなんです。ですから、あの男がなにか供述するつもりなら、その時に、あなたのところの代表者に立ち会ってもらいたいんです。殺人捜査課のホルコム巡査部長にも電話をかけたんですが、つかまえられませんでした」
しばらく沈黙の時があってから、バーガーがいった。「きみは、いま、メリーランド・ホテルにいるんですね?」
「そうです」
「もうどれくらい、そこにいるんです?」
「いや、ほんのしばらくです。マクレーンを待っていたんですが、現われないので、食堂で食事をとって、ホルコム巡査部長に電話をかけたところです」
「なるほど」と、バーガーは、ゆっくりとした口調で、「あなたが、やってみても無駄じゃないという考えなら、一人、係りを差し向けましょう。しかし、一つだけ承知していただきたい──というのは、部下がそちらへ着いた時から、事件をこちらにまかせてもらうということです」
「結構ですとも」と、メイスンはいった。
「知らせてくれてありがとう」といって、バーガーは、電話を切った。
メイスンは、受話器を元にもどし、煙草に火をつけ、食堂の出口のドアをあけ、ホルコム巡査部長の立っている片隅の方を見ないように気を配りながら、ロビイヘはいって行った。ホルコム巡査部長は、シュロの植木鉢の縁に片足をかけ、その膝に肘をつき、指の間に煙草を挟んで立っていた。
メイスンは、帳場に近づいて、いった。「まだ、マクレーンは来ないんだね?」
「いらっしゃいません」
メイスンは、一脚の椅子に、両脚を前にのばし、楽々と腰をかけて、静かに煙草をくゆらせた。四分の三ほど、煙草を飲みおえたころ、もう一度、帳場まで行って、いった。「ねえ、きみ、たびたび厄介なことをいってすまないが、このマクレーンという男は、ひょっとすると、ほかの名を使って泊まっているかもしれんのだ。二十四か五の、セルロイド縁の眼鏡をかけた若い男でね、顔には、ぽつぽつとにきびがあるが、いい服を着て、うすい赤毛で、両手の甲にそばかすがある。もしかしたら──」
専務員は、「ちょっとお待ちください。ホテル付きの探偵を呼びますから」といった。
事務員は、押しボタンを押した。しばらくすると、きつい、いやな眼つきをした、ほてい腹の男が事務室から出て来て、メイスンを、不作法にじろじろと眺めまわした。
「ホテル付きの刑事のマルドーンです」と、事務員が紹介した。
「ぼくは、本名ハリー・マクレーンという男をさがしているんだがね」と、メイスンはいった。「が、もしかすると、別の名前で泊まっているかもしれないのだ。二十四か五ぐらいの男で、にきび面《づら》だ。髪は淡赤、両手の甲にそばかすがある。細長い貧弱な男だが、身なりは、いい物を着ている。最後に見た時には、白い縞《しま》のある濃《こ》いブルーのスーツを着て、ごく淡色のグレーの帽子をかぶっていた。そういう男をおぼえていないかね」
「その人に、どんな用があるんだ?」
「話したいことがあるんだ」
「しかし、なんという名で泊まっているかは知らんのだろう?」
「知らん」
「ここにいることは、どうして知ったのだ?」
「ここにいると、知らしてくれたものがあるんだ」
「誰が知らせたんだ?」
「そうさ」と、メイスンはいった。「それも知らんのだが、そんなことはどうでもいいじゃないか」
「厚かましいぞ」と、マルドーンがいった。「のこのこやって来て、このおれに、うちの客がぺてん師だなんて悪口をぬかすなんて」
「悪口などいうもんかね」
「偽名を使って泊まったなんて、悪口をいってるじゃないか」
「人間なんて、わけがあれば、偽名ぐらい使うさ」
「よし、どうだ、本音をはくか」と、ホテル付きの刑事はいった。「きみは、なにか隠しているね、きみは、誰だ? なんだって、きみは……?」
二人のうしろで、足音がした。マルドーンは眼をあげて、一瞬、驚いたように、その方を見ていたが、やがて、にやにやと、歯を見せて笑いながら、
「ホルコム巡査部長じゃありませんか──」といった。「久しくお眼にかかりませんでしたね」
ペリイ・メイスンもくるっと向きなおって、わざと驚いたふりをして見せながら、
「やあ、電話で、きみをつかまえようとしていたんだ」といった。
「どこから?」と、ホルコム巡査部長がきき返した。
「ここから――このホテルからさ」
「おれに、なんの用があったんだ?」
「聞きこんだことがあったんで、きみに知らせようと思ったんだ。すばらしい聞きこみだと思ったんでね」
「どんなことだ?」
「ハリー・マクレーンがこのホテルにいて、話したいことがあるというんだ」
「で、もう会ったのか?」
「そんな男は泊まっとらんというんだ」
「ホテル付きの刑事をつかまえて、なにをごたごたしていたんだ?」
「この人が、ある男の人相をいってね」と、マルドーンがいった。「偽名を使って、このホテルに泊まっているかもしれんから、さがしてくれというんです」
ホルコム巡査部長は、じっとマルドーンの顔を睨みつけた。
「そういう男がいるのか?」
「ええ、いるようです」
「なんという名前だ?」
「ジョージ・パーディです。九〇四号に泊まっていますが、一時間半ほど前に着きました。ちょっとインチキなところがあるんで、わたしもおぼえていたんです」
ホルコム巡査部長は、ペリイ・メイスンの方に向きなおった。
「きみは、どれくらいここにいたのだ、メイスン君?」
「だいぶしばらくだ」
「その間、なにをしていた?」
「マクレーンのあらわれるのを待っていたのさ。ぼくの方が、先きに来たと思ったものだからね。このホテルに泊まるつもりだからという伝言だったんだ。よろこんで話すつもりだからと」
「おれに電話をかけたとかいっていたね?」
「うん、あの男が話す時に、誰か役人に立ち会ってもらいたいと思ってね──あの男が、話すつもりになればということだがね」
「どんなことを、あの男は、話すつもりだったんだ?」
「バセット事件についてだろう。はっきりとは知らんよ」
「おい」と、ホルコム巡査部長はいった。「おれを、ぽっちりでもからかったら承知しないぞ。きみは、おれに電話などかけなかったし、かけるつもりもなかったんだろう。三十分以上も、ここに来ていて、なにをしていたんだ?」
「食堂に、いたのさ」
「待ちきれんほど腹が減ったから、なにか食っていたと、いうんだろう」
メイスンは、助けを求めるような眼を、事務員に向けた。
「おっしゃる通りですよ」と、事務員がいった。「食堂に行くといっておいででした」
「この男が行くといったところと、実際に行ったところとは、いつも同じじゃないんだ」と、ホルコム巡査部長はいってのけた。
ホルコムは、メイスンの腕をつかまえて、食堂の方へ押して行った。
「さあ、大将」と、ホルコムはいった。「きみに給仕をした女の子がどれだか、はっきりいえるか。いえたら、一札詫状を入れてやる」
メイスンは入り口に立って、はっきりわからないがという顔で、食堂の中を眺めていた。
「残念だが」と、メイスンはいった。「いえないよ。だって、ぼくは、女の子を気をつけて見たりしたことなどないんだ。たしか、青い制服を着た若い女だったと思うな」
ホルコム巡査部長は、大きな声であざ笑った。
「みんな、青い制服を着ていらっしゃるじゃないか」と、ホルコムはいった。「おれが思った通りだな、メイスン君。そうはうまく、いいのがれはできないぞ」
「ちょっと待て」と、弁護士がいった。「あそこにいるあの女の子は、見たような気がするよ」
ホルコム巡査部長が、その女の子を指で呼び寄せた。
「きみは、五、六分前に、この男に給仕をしたかい?」と、ホルコムはたずねた。
女の子は、首を左右に振った。
ホルコム巡査部長は、ふんとあざ笑った。
メイスンに、サンドウィッチとビールを運んだウェイトレスが、二人の前へ出て来た。
「この方に給仕したのは、わたしですわ」と、その女の子がいった。
メイスンの顔が、ああこの人だったというように、急に明かるくなった。
「そうだ」とメイスンはいった。「あなただったね。すまないが、はっきりと思い出せなかったんだ。あの時、ぼくは考えごとをしていたもんでね」
「でも、わたしは、よくおぼえていますわ」と、その女の子がいった。「サンドウィッチとビール一本のご注文だけで、五十セントもチップをくだすったんですもの。サンドウィッチとビールの注文で、五十セントもくださる方なんてめったにないんですもの、忘れやしませんわ」
ホルコム巡査部長の顔は、びっくり仰天《ぎょうてん》という場面の練習をするタレントの顔といってもよかった。
その話を小耳にはさんだ会計係の男も、口を出した。「いや、わたしも、この方をおぼえていますよ。勘定をおすましになってから、デスクの脇の電話を、二度ほどおかけになりました」
「誰にかけたかね?」と、ホルコムがたずねた。
「警察本部のホルコム巡査部長と、それから、地方検察局へね。ですから、刑事さんだとばっかり思って、話に聞き耳を立てたんですよ」
「地方検察局だって!」と、ホルコムがいった。
「ええ、そうなんですよ」と、会計係がいった。「ホルコム巡査部長がいなくて話ができなかったので、地方検察局を呼び出して、なんかの事件の証人だとかっていうマクレーンって男と話をすることになっているから、立会人に一人よこしてほしいと、そんなことを地方検事に頼んでおいででしたよ」
ホルコム巡査部長は、ゆっくりといった。「ふん――くそっ――やられたか!」
「さて、どうするかね?」と、メイスンがたずねた。「二人で、ハリー・マクレーンと話をするかね?」
「ハリー・マクレーンとは、おれが話をする」と、ホルコム巡査部長はいった。「きみは、廊下で待ってろ」
ホルコムは、メイスンをエレベーターの方へ押して行った。
「九階」と、ホルコムはいった。
九階に着くと、メイスンは急いでエレベーターから出て、わざと間違った方角に歩き出してから、ちらっと部屋の番号を見て、ちょっと立ちどまり、まわれ右をして、九〇四号室の方へ廊下を進んで行った。ホルコム巡査部長は、メイスンの袖口をつかんで、引きもどした。
「おれが渡りをつける」と、ホルコムはいった。「きみは、後ろに寄っとれ」
ホルコムは、九〇四号室のドアの前に立って、穏かにノックした。返事がないので、もう一度ノックをしてから、ドアの握りをまわして、ドアをあけた。部屋の中に、足を踏み入れながら、肩ごしにメイスンにいった。「きみは、そこで待っているんだ」
ドアはしまった。
メイスンは、身じろぎもせずに、立っていた。
ふいに、ドアがあいた。ホルコム巡査部長の、興奮に青ざめた顔が、ペリイ・メイスンを睨みつけた。
「話をしそうかい?」と、弁護士がたずねた。
「いや」と、重々しい口振りで、ホルコム巡査部長はいった。「しそうにない。ところで、きみは、いそがしい人間だろう、メイスン君。事務所に帰ったらどうだ。ここは、おれがいいようにしとくから」
「だけど」と、メイスンがいった。「ぼくも、マクレーンに会いたいんだがね」
ホルコム巡査部長の顔には、いまにもかんしゃく玉の爆発しそうな様子が、ありありと見られた。
「きみはね」と、ホルコムがいった。「おれが癇《かん》を立てないうちに、とっとと、ここから行くんだ。きみが、小ざかしく証拠に細工をしたり、証人を逃がしたりしないうちに、おれが調べあげるんだ」
「どうかしたのか?」と、メイスンは、その場に踏みとどまって、たずねた。
「きみが行っちまわなけりゃ、どうかするんだ」と、ホルコム巡査部長はどなった。
メイスンは、もったい振った様子で向きを変えて、いった。「このつぎ、なにか聞きこんだって、知らしてやらないぜ」
ホルコム巡査部長は、なにもいわずに、部屋に引っこみ、ドアをしめて、中から鍵をかけた。
メイスンは、まっすぐ、自分の車まで行って、事務所まで車を走らせた。デラ・ストリートの部屋へはいって行って、いった。「おい、デラ、早いことやらなくちゃ──」
部屋のかげのところで身動きする人の姿に気がついて、メイスンは、途中で言葉を切った。ピーター・ブルノルドが、にやにやした笑顔を浮かべ、椅子から立ちあがって、ペリイ・メイスンに手を差し出した。
「ありがとう」と、ブルノルドがいった。
思いもかけないことにびっくりして、メイスンは、化石のように動かなかった。
「きみか!」と、メイスンは、うなるようにいった。「きみは、拘置所から出て、いったい、なにをしているんだ?」
「出してくれたんですよ」
「誰が出したんだ?」
「警官ですよ――ホルコム巡査部長です」
「いつ?」
「一時間半ばかり前です。ご存じだと思っていましたがね。人身保護令状《ハビアス・コーパス》を請求してくだすったんでしょう。まだ起訴するまでになっていないということで、それで釈放してくれたんです」
「シルビア・バセットは、どこにいる?」
「知りません。地方検察局にいると思いますよ。訊問しているんでしょう」
メイスンは、ゆっくりといった。「きみが釈放されたことは、おそらく、きみの生涯の最大の悪運かもしれない。大急ぎで、ここを出て、どこかのホテルヘ飛んで行って、きみの本名を宿帳に書きつけ、地方検事に電話をかけて、そこにいると知らしたまえ」
「しかし、なぜ」と、ブルノルドが問い返した。「地方検事に、電話などかけなきゃいけないんですか? 検事は──」
「なぜって、ぼくがそうしろというからだ」と、メイスンは、荒々しくさえぎった。「ちぇっ! なんでもいい、ぼくのいう通りにしたまえ。時間がない――一秒でも遅れてみろ、大変なことになる。さあ、行きたまえ! ぼくは、きみが無事に拘置所にいるとばかり思っていた。ぐずぐずしていると、いつなんどき──」
さっと、ドアが押しあけられて、二人の男が、ノックもせずにはいって来た。一人が、ブルノルドを見て、ドアの方へ、あごをしゃくってみせた。
「ようし、大将」と、その男はいった。「いっしょに、行ってもらおう」
「どこへ?」と、ブルノルドがきき返した。
「おれたちは、地方検察局の人間だ」と、その男はいった。「検事殿が、いますぐ、きみに会いたいとおっしゃる。こんどは、人身保護令状《ハビアス・コーパス》ぐらいじゃ出してもらえんぜ。きみのお友だちのバセット夫人が、検事殿にいろいろと打ち明けたんだ。夫人ももう逮捕されたし、きみの逮捕令状も持って来たよ」
「逮捕の理由は?」と、メイスンがたずねた。
「殺人の容疑だ」と、その男は、重々しくいった。
メイスンがいった。「ブルノルド君、なにをきかれてもこたえちゃいかん。一言もしゃべらん方が──」
「ばかなことを!」と、一人がいって、ブルノルドの腕をつかみ、ドアの方へ押しながら、「この一時半ほどの間、どこですごしていたか、それにこたえなきゃ、二件の殺人で起訴されることになるんだ」
「二件?」と、ブルノルドがたずねた。
「そうさ」と、相手の男はいった。「きみが釈放されるたびに、手にガラスの眼玉をにぎる死人が伝染して行っちゃたまらないからな。さあ、来るんだ」
ドアが、ばたんとしまった。
デラ・ストリートが、物問いたげな眼で、ペリイ・メイスンを見た。
メイスンは、す早い足どりで部屋を横切り、ぐいと金庫の扉をあけ、血走ったガラスの眼玉のはいったボール箱を取り出した。外套戸棚のところへ行って、鉄の乳鉢と乳棒を取り出した。一つ一つ、ガラス製の眼玉を乳鉢の中にほうりこみ、細かな粉になるまで、それをたたきつぶした。
「デラ」と、メイスンはいった。「邪魔がはいらないように、気をつけてくれ」
第十三章
ペリイ・メイスンは、デスクの向こう側から、どことなく反抗的な態度を見せて自分を見つめている、濃《こ》い髪の毛に、黒味を帯びた眼の若い女を、仔細に見つめた。
そのすこしうしろの、片側寄りに立って、デラ・ストリートが、心配そうに、ペリイ・メイスンに眼をあてている。外見だけを見ると、二人の女の間には、どこかしら似通ったところがあった。
「この人でいいでしょうか?」と、デラ・ストリートがたずねた。
ペリイ・メイスンは黙ったまま、眼は、その女を観察しつづけていた。
「きみの名は?」やっと、メイスンがたずねた。
「セルマ・ベビンスです」
「年は?」
「二十七」
「専門は?」
「秘書です」
「失業してから長いの?」
「ええ」
「いいつけられたら、どんなことでもできるかね?」
「仕事によりますわ」
ペリイ・メイスンは、黙ったままでいた。
女は、肩をそびやかし、あごを突き出していった。「ええ。どんなことでも文句なんかいいませんわ」
「その方がいい」と、メイスンは相手にいった。
「お仕事をくださいますの?」
「ぼくのいう通りにしてくれたら、あげられると思うよ。教えられた通りに、自分でやれるかね?」
「それも、ご命令によりますけど、やってみますわ」
「必要なときには、黙っていられるかね?」
「なにもしゃべらないということですの?」
「そうだ」
「できると思いますわ」
「仕事というのはね」と、ペリイ・メイスンはいった。「リノまで、飛行機で飛んで行ってもらいたいんだ。そして、セルマ・ベビンスという名で、アパートに部屋を借りてもらいたいのだ」
「つまり、わたしの本名で、アパートに部屋を借りろとおっしゃるんですのね?」と、女がたずねた。
「そうだ」
「それから、どうするんですの?」
「ある男が、きみのところへ書類を持ってやって来るまで、そこに滞在する」
「どんな書類ですの?」
「離婚訴訟の書類だ」
「そうしたら、どうするんですの?」
「その男は、きみの名前が、へーゼル・バセットか、または、ヘーゼル・フェンウィック、以前には、ヘーゼル・チャーマーズといわなかったかとたずねる」
「そうしたら、どうするんですの?」
「きみは、自分の名前は、セルマ・ベビンスだが、その書類は待っていたのだから、受けとると、そう、きみは答えるのだ」
「そんなことをして、法律にふれるようなことはないんですか?」
「もちろん、そんなことはない。ぼくが作って、きみが待っている書類だからな。ぼくが、いま、きみにそういうんだから、きみは、それが来ることを知っているわけだ」
女は、うなずいて、いった。「それだけですの?」
「いや」と、メイスンは女にいった。「それがはじまりだ」
「おしまいは、どうなるんですの?」
「拘留されることになるだろうな」
「というと、逮捕されるんですか?」
「正確には逮捕ではないが、訊問のために、保護留置されるだろうね」
「そうなったら、どうするんですの?」
「むずかしいのは、そこのところなんだがね。しっかり口を閉じていてもらわなきゃならん」
「なんにもいわずにいればいいんですね?」
「一言もしゃべっちゃいかん」
「こちらから、なにかたずねるのは?」
「それもいかん。ただ歯を食いしばって頑張るんだ。訊問されたり、反対訊問されたりするだろう。新聞の連中は、きみの写真をとるだろうし、うまいこといってだまそうとしたりするだろう。脅しもするだろうが、いっさいだまっているんだ。ただ一つだけ、いっていいこと、むしろ、いい張ってもらいたいことがある」
「どんなことですの?」
「つまり、正当な裁判によって、州外退去を強制的に命ぜられるまでは、ネヴァダ州を離れるのはいやだと、そういい張るのだ。わかったかね?」
「ネヴァダ州にいたいと、そういうんですね?」
「そうだ」
「どうすれば、そこにいられるんですの?」
「ただ、そこを離れるのはいやだというだけでいい」
「むりやりに、わたしを連れ出されたら?」
「むりやり連れ出すようなことはしないと思うがな。きみのことは、世間の評判にもなるだろうし、新聞にもむやみに出るだろうからな。きみが、正式の裁判にかけられて退去命令が出るまでは、ネヴァダ州に滞在してもいいはずだと、いい張りつづければ、裁判もなしに連れ出すこともないだろう」
「それだけですの?」
「それだけだ」
「それで、どれだけいただけるんですの?」
「五百ドル」
「いつ、いただけますの?」
「二百ドルは、いま――残りの三百ドルは、仕事がおわった時に」
「費用はどうしますの?」
「リノまでの飛行機の切符は、こちらで買ってあげる。アパートの部屋代は、きみの二百ドルから出したまえ」
「いつ、仕事に取りかかりますの?」
「いますぐに」
女は、首を振っていった。「いますぐは、駄目ですわ。その二百ドルをいただいたら、わたし、出て、食事をしてから、仕事にかかりますわ」
メイスンは、デラ・ストリートにうなずいて、
「この人に、二百ドルをあげてくれたまえ」といった。「そして、書類にサインをしてもらってくれ。書類には、ぼくの指図によってリノに行くこと、自分の本名で、アパートを借りること、離婚訴訟に関する書類を送達するために人が来たら、自分は、ヘーゼル・フェンウィックでも、ヘーゼル・バセットでも、ヘーゼル・チャーマーズでもないが、書類は受け取りたいということ、それだけのことを書くんだ」
「どうして、そんなことをいわなくてはいけませんの?」と、セルマ・ベビンスがたずねた。
「きみが法律によって処罰されないため、ぼくも処罰されないためさ」と、ペリイ・メイスンはいった。「きみのしなければならんことが、はっきり書いてある。なによりも、嘘をつかんように気をつけなければいけない。きみの名前が、ヘーゼル・フェンウィックだとか、ヘーゼル・バセットだとかいっちゃいかん。決して、セルマ・ベビンス以外のものだといっちゃいけない。ただ、離婚の書類を待っていたのだから、受け取りたいとだけいうんだ。わかったかね?」
「わかったような気がしますわ」と、女はいった。「そして、すっかりすんだら、後の三百ドル、いただけるんですのね?」
「その通り」
女は、デスクから乗り出すようにして、ペリイ・メイスンに手を差し出した。
「ありがとうございます」と、女はいった。「できるだけお役に立つようにやってみますわ」
その時、電話のベルが鳴った。デラ・ストーリートが受話器をとりあげ、耳を傾けてから、ちらっとペリイ・メイスンを見て、
「ポール・ドレイクさんです、先生」といった。
メイスンがいった。「ベビンス嬢には、そっちのドアから出てもらってくれ、デラ。ポール・ドレイクに、この人の顔を見せたくないから。一たん廊下に出てから、もう一度、表の方からはいりなおしてもらえばいい。ドレイクには、すぐ来るようにいってくれ。ぼくが、こっちでドレイクをつかまえている間に、きみは、ベビンス嬢のことを片づけ、それから、いっしょに飛行場まで行って、飛び出すのを見送るんだ。ベビンスさん、きみは、リノに着いたら、すぐアパートを借りるんだ。長くて一週間ぐらいだろうから、週ぎめで借りたまえ。アパートの所番地は、電報で知らせてくれたまえ。電報には、サインをしないようにするんだ、わかったかね?」
セルマ・ベビンスはうなずいた。デラ・ストリートは、かの女を案内して、脇のドアから出て行った。しばらくすると、デラが顔を見せて、ポール・ドレイクを部屋に通した。
「万事順調に行っているかどうか、様子を見に来ようと思ってたんだがね」と、ドレイクがいった。
メイスンはうなずいて、いった。「すっかり、オーケーだ、ポール」
「スティーヴン・チャーマーズとは、うまく話はついたんだね?」
「うん、今日じゅうに、離婚訴訟の書類を提出するつもりだ」
「きみに頼まれた写真はとったよ」と、ドレイクはいった。「明日中には、プリントを渡すよ」
「厄介なことでもあったかい?」と、メイスンがたずねた。
「いやあ、ちっとも。家じゅうの者は誰もかれも、つかまえてうつしたよ。一人だけ、例外はあったがね」
「例外って、なんだ?」
「コールマーさ」と、探偵はいった。「あの男は、最後にうつすことになっていたんだが、なんか感づいたらしいんだね。実はね、ペリイ、きみに五十ドル、無駄に使わせまいと思ったのさ。あんな仕事ぐらいに、新聞の写真部員を使うことはないと思ったものだから、うちの人間を一人、ジャーナルの記者に仕立てて乗りこませたんだ。コールマーの番になるまでは、万事すらすらといった。ところが、コールマーは、検事側の証人になることになっているらしいね。その時も、地方検察局から帰って来たばかりのところだったが、さっそく、検察局に電話をかけて、写真をとらせていいかどうか、聞き合わせよった。すると、検察局め、とらせるなとか、こっちからいうまでは、なにもしゃべるなとか、そんな注意をしたらしいんだ」
「検察局では、なんといったんだ?」と、メイスンがたずねた。「なにか感づいたのかな?」
「たしかに感づいたね。というのは、コールマーのやつ、その電話を切るなり、こんどは、ジャーナルに電話をかけて、編集長を呼び出しやがったからな。そうなったら、うちの人間もお手上げだ。カメラをかついで、一目散に逃げ出したよ。コールマーなしで、なんとかなるかい、ペリイ?」
「なんとかなるだろうよ」と、メイスンはいった。「きみがいう通り、あの男が検事側の証人になるのが間違いなければね」
「それは間違いなしだ」と、探偵ははっきりいい切った。「検察局に行って、なにかしゃべったらしいし、喚問するまでは、なにもするんじゃないと、たしかにいわれたらしいよ」
メイスンは、ゆっくりとうなずいて、いった。「ほかの連中の写真はどうだった、ポール? 顔の表情に、なにか特別な動きは見せなかったか?」
「おれには、なにも目につかなかったね」と、探偵はいった。「自分で調べて見るといいよ。オーバートンは、どんな表情も顔に出さないようにしていたようだ。エディス・ブライトは、唇をきっと一文字に結んでいた。ディック・バセットは、肖像写真をとる時のような気取った顔をしているが、写真をうつした男の話では、ディックに、カメラをまっすぐ見つめさせるのに、ずいぶん骨を折ったということだ。どうしても、ディックの眼が床の一点に動いて行ってしまうということだったよ。なにか、それには、わけでもあるのかな?」
「かもしれないね」と、メイスンはいった。「しかし、おそらく、なんでもないんだろう。写真をもらってから、研究してみよう。ブライトという女はどうだったね?」
メイスンがまだなにかいおうとするのを、ドレイクはさえぎって、小さい声で、「おい、ペリイ、ひどく重大なことかもしれないが、きみは、マクレーンの若造のことを聞いたろうね?」
メイスンはうなずいて、いった。「うん、いろいろ噂を聞いたがね。警察は、どう考えているんだね、ポール? 殺されたのか、自殺か?」
「わからんね。警察では、ひた隠しに隠している。だが、おれが気にしているのは、あの男がしっかり握っていた眼玉のことだよ、ペリイ。おれがきみに頼まれて、ガラスの眼玉を一揃いあつらえたのをおぼえているだろうね。おれは、あの眼玉が一揃い、ちゃんと揃っているかどうか、一度たしかめて見たくてたまらないんだがね」
「なぜだね?」
「ちゃんとみんな揃っているのを確かめて見たいのさ」
メイスンは肩をすぼめて、「あの眼玉なら、ポール、みんな、消えてなくなっちまったよ」
「どこへ?」
「どこだっていいじゃないか」
「だけど、卸屋から、おれが注文したということがわかったら──」
「だから、きみにいったろう」と、メイスンがさえぎった。「足がつくようなへまはやるなって」
「そういったって、時には、やむを得んこともあるさ」
「そうだとすりゃ」と、弁護士はいった。「まことにお気の毒さまだな」
「おい、ペリイ。きみは、おれが牢屋にはいらないようにしてやると、そういったじゃないか」
「まだ、はいってないんだろう?」
探偵は、ぶるぶると身ぶるいして、いった。「おれは、なんとなくはいりそうな予感がするんだ」
メイスンは、ゆっくりといった。「ポール、ぼくは、この事件は、一気に公判にもちこんだ方がいいと思っているんだがね。地方検事は、明後日、予審をやりたいといって来たが、ぼくは、それを承知するつもりなんだ」
探偵は、気づかわしそうな皺《しわ》を額に寄せて、「おい、ペリイ、おれたちはいっしょに、この事件に深入りしているんだが、もしも──」
「きみは、スーツケースの用意をしてくれ、ポール」と、弁護士は、相手の言葉をさえぎっていった。「つぎの飛行機で、リノまで飛ぶんだ」
「例の眼玉の一件でずらかるのか?」と、ドレイクがたずねた。
「いや、ヘーゼル・フェンウィック、またの名、ヘーゼル・チャーマーズ、またの名、へーゼル・バセットの離婚訴訟の書類を送達してもらうんだ」
ドレイクは、低い口笛を吹いてからいった。「すると、あの女のいどころを突きとめたというわけか!」
メイスンは、煙草に火をつけて、「きみは、まったく下らない註釈を、一々つける男だな、ポール」といった。
ドレイクは、ドアの方へ行きかけた。
「おれは、スーツケースをつめるよ、ペリイ、だがな、一つだけおぼえておいてくれよ――おれを牢屋に入れるようなことはしないと約束したことだけはな」
メイスンは、わかったから早く行けというふうに、陰気に手を振ってから、ベルを鳴らして、デラ・ストリートを呼んだ。デラがはいって来るのと入れちがいに、探偵は出て行った。メイスンは、ドアがしまるのを待ってから、いった。「離婚請求の書類を作ってくれないか、デラ。理由は逃亡。請求の相手方は、ヘーゼル・チャーマーズ、またはヘーゼル・フェンウィック、ときには、リチャード・バセット夫人とも呼ばれる女だ」
秘書は、驚いて、口をぽかんとあけて、メイスンの顔を見つめた。
「まあ」と、デラ・ストリートはいった。「そんな訴訟を提出なすったら、町じゅうの新聞が飛びついて来ますわ。離婚訴訟は、毎日のように追っかけまわしているニュースなんですもの」
メイスンは、わかっているというようにうなずいて、「夕方の飛行機で、ポール・ドレイクをリノヘ立たせようと思うんだ」といった。「さっきの女は、すぐに立たせてくれ。アパートの所番地を知らせて来たら、ドレイクに、そこへ書類をとどけるように、電報で連絡するんだ」
デラ・ストリートは、不思議そうにメイスンを見守りながら、いった。「ポール・ドレイクさんが、あらかたのここの書類を送達していることは、たいていの新聞記者が知っていますわ」
メイスンは、ゆっくりうなずいて、「もしも」といった。「この筋書きが、お誂え通りに行ったら、万事はすらすらと運ぶんだ。さあ、その離婚請求の書類を作って提出してくれたまえ」
第十四章
下級裁判所の裁判長、ケネス・ウィンター判事は、自分にそそがれている大衆の眼を、十分に意識していた。
「ただいまから」と、ウィンター判事はいった。「ハートリ・バセット殺害事件の共同被告、ピーター・ブルノルド、及びシルビア・バセットの両名に関する予審廷を開きます。関係の諸君、予審を進めてもよろしいでしょうな?」
「結構です」と、ペリイ・メイスンがいった。
バーガー地方検事も、結構ですというように、会釈をした。
新聞記者たちは、いよいよ仕事にとりかかろうと、ノートブックを開いて構えた。この事件は、地方検事自身が、予審の訊問を担当するということからも、実際に特異な事件といってもよかった。法廷に詰めかけている記者連中は一人残らず、この予審の進行中に、一波瀾もちあがらずにはいないことを承知していた。
「ゼームズ・オーバートン」と、バーガー地方検事が口を開いていった。「前へ出て、宣誓をしていただけますか?」
オーバートンは、右手をあげ、立って、法廷じゅうを見わたした――暗い、陰気な、せせら笑いをうかべ、しかもその上に、どことなく、自分を世間の他の人たちから隔離しているようにも見える、洗練された構えといったものがうかがわれた。
「証人の姓名は、ゼームズ・オーバートンで、ハートリ・バセットに運転手として雇われていたのですね?」と、オーバートンが宣誓をおわって、証人席につくと、バーガーは訊問をはじめた。
「さようです」
「どれくらいの間、バセット氏に雇われていましたか?」
「十八か月です」
「その間ずっと、運転手として雇われていたんですね?」
「さようです」
「その以前の職業は?」
ペリイ・メイスンが、弁護人席から、つと立ちあがった。
「わたしは」と、メイスンはいった。「予審廷において、むやみに専門的な異議を申し立てることが、一般に、弁護人として、賢明な方策でないことを、よく承知しています。むしろ、検事側に、望むままに、あらゆる事項について訊問させることによって、その手の中をさらけ出させることの方が、はるかにすぐれた法廷戦術であります。また、わたしは、検事側としては、自分の意図を被告側にいささかも感づかせないようにして、被告をがんじがらめにするにたるだけの種を小出しにして行くのが通例であることも、よく承知しています。しかしながら、今回の事件には、なにかふつうでないものがあるように感じられるのであります。従って、わたしは検事に、証人がハートリ・バセットに雇用される以前の、証人の前歴に関する訊問によって、なんらかの目標に到達することができるかどうか、おたずねします」
「できると思います」と、バーガーがこたえた。
「それなら、異議はありません」と、にこにこ笑いをうかべながら、メイスンは、大声でいった。
「証人は、訊問にこたえてください」と、ウィンター判事がいった。
「わたしは、探偵をやっておりました」
「私立探偵ですか?」と、バーガーがたずねた。
「いいえ、わたしは、合衆国政府に勤めて、情報関係の仕事をしておりました。その後、政府の仕事から、地方自治体警察部の捜査課に転じました。その職務に変わりましてから、ほんの数日経ったころ、バセット氏から交渉がありまして、運転手として勤めてくれと依頼されたのです」
ペリイ・メイスンは、椅子の背にもたれて、ブルノルドの顔に眼をあて、つづいて、シルビア・バセットの顔に、その眼を移した。
ブルノルドは、脇に立っている保安官補の看視などは知らぬげに、表情のない顔ですわっている。シルビア・バセットは、その証言を聞いて、びっくりして眼を大きく見開いた。
「証人は、運転手としてハートリ・バセットに雇われている間に、自動車運転以外の職務を与えられていましたか?」と、バーガーはたずねた。
「なるほど」と、嘲笑するような調子を帯びた声で、ペリイ・メイスンがいった。「この証人が、バセット夫人の行動をスパイするために、ハートリ・バセットに雇われ、また、そのような探偵行為を必要とする事実を報告することによって、主人に取り入ろうとつとめたということを明らかにしようというわけですね」
バーガーは、立ちあがって、
「裁判長閣下」と、われるような大声でいった。「本職は、弁護人のこのような術策に対して、異議を申し立てます。弁護人は、他人が推定できないようなことを推定するふりをして、証人の証言が信用できないものであるということを強調しようと企んでいるのであります」
「それが、なぜいけないのですか?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「事実ではないからです」と、バーガーはいった。「この証人は、捜査に関しては、令名のある人でありまして、また──」
「いずれにしろ、同じことです」と、メイスンがさえぎった。
ウィンター判事は、木槌をたたいて、「諸君」といった。「そのような議論は禁止します。それから、メイスン弁護人、あなたは、検事の訊問の途中に、発言しないようにつつしんでください。裁判長に対して、正当な異議を申し立てる場合と、反対訊問の場合に限って、弁護人の発言を認めます。それも、節度のある態度でしてください」
ペリイ・メイスンはうなずいて、椅子から立ちあがり、かすかに笑いを浮かべて、
「裁判長」といった。「お詫びいたします」
「訊問をすすめてください、バーガー検事」と、ウィンター判事がいった。
バーガーは、深く呼吸をすいこんだ。一生懸命落ちつきを取りもどそうとしているようだったが、やがて、口を開いて、「訊問に、簡単にこたえてください、オーバートンさん。ほかに、どんな仕事をしていましたか?」
「バセット氏には、家庭内の出来事について、しじゅう助言をするようにといわれていました」
「というと、どんなことですか?」
「情報の聴《き》きこみ役になってくれといわれました」
「『聴きこみ役』という言葉は、バセット氏がそういったのですか?」
「そうです」
「それでは、最初に、事件の本筋にはいることにします。証人が、ハートリ・バセットを最後に見かけたのは、いつですか?」
「十四日です」
「生きていましたか?」
「その日、最初に見かけた時には生きていました」
「最後に見かけた時は、生きていたのですか?」
「ちがいます。死んでいました」
「どこにいました」
「自分の奥の事務室の床の上に、手足を伸ばして倒れていました。頭のそばには、毛布と掛け蒲団とがまるめて落ちていました。両腕を伸ばして、左手に近い床の上には、三八口径のコルト警察型|回転胴式《リボルバー》ピストルが、右手のそばには、三八口径スミス・ウェッスン回転胴式ピストルが落ちていました。この後の方のピストルは、毛布と掛け蒲団の下に隠されていました」
「そして、バセット氏は死んでいたのですね?」
「さようです」
「証人の陳述は、証人自身が知った事柄なんですね?」
「さようです」
「証人がバセット氏の死体を見た時、その部屋には誰がいましたか?」
「殺人捜査課のホルコム巡査部長と、名前は存じませんが二人の刑事と、殺人捜査課勤務の鑑識係員が一人いました。名前は、シャーラーという人だと思います」
「死体の左手に、なにか握っているのに気がつきましたか?」
「はい」
「なんでした?」
「ガラスで作った眼玉です」
「そのガラスの眼玉には、その時、証人の眼の前で、後日、その眼玉であることが確認できるように、その室にいた係員の一人の手によって、目じるしがつけられましたか?」
「はい、つけられました」
「誰が、しるしをつけましたか?」
「シャーラー氏です」
「どんなしるしをつけたのですか?」
「シャーラー氏は、なにか黒い物を――インクか、硝酸銀か、はっきりは存じませんが──取り出して、眼玉の内側の面に、しるしをつけました」
「その眼玉を、もう一度見たら、証人は、それを見分けることができますか?」
「できます」
バーガーは、封をした封筒を取り出し、ひどくもったい振った手つきでその封を切り、ガラスの眼玉を出して、オーバートンに、その眼玉を渡した。
「これがその眼玉ですか?」
「さようです。これです」
「その眼玉を、証人は、以前にも見たことがありますか?」と、バーガーはたずねた。
オーバートンは、ことさら強くうなずいて、「はい」といった。「以前にも見たことがあります」
「どこでですか?」
「バセット氏が持っているのを見ました」
ペリイ・メイスンは、椅子にかけたまま身を乗り出して、眼を細めてじっと見守った。
バーガーは、勝ち誇ったように、ちらっとメイスンの方に眼をやって、「つまり」といった。「証人は、バセット氏が殺される以前に、その眼玉を持っているのを見たというのですね?」
「さようです」
「どれくらい前ですか?」
「二十四時間前です」
「証人が」と、バーガーは、自分の訊問から、最大の劇的効果が得られるように、一こと一ことに間をおいて、たずねた。「その血走ったガラスの眼玉を見たのは、その時がはじめてだったのですか?」
「ちがいます」と、オーバートンがこたえた。
ウィンター裁判長は、椅子から身を乗り出して、証人の言葉を聞きのがすまいと、耳のうしろに手をあてがった。
バーガーは、語気を強めてたずねた。「その眼玉を最初に見たのは、いつですか?」
「最初、バセットが持っているのを見たよりも、一時間ほど前です」
「その時は、それはどこにあったのですか?」
「ちょっと待ってください」と、ペリイ・メイスンがいった。「その訊問は、曖昧な事実を、いかにも存在したかのように想定するばかりでなく、正当な根拠の十分にないものでありますから、不適格、かつ不適切なものとして、異議を申し立てます」
「異議の内容を、もうすこし明確に説明してもらえませんか?」と、ウィンター裁判長がいった。
「証人が、死体の手に握られているのを見た眼と、それより二十四時間、または二十五時間以前に見かけた眼とが同一の眼であるという、そういう前提に立って、証人の答弁をうながすものであるからです。裁判長のご記憶にもある通り、死人の手からその眼玉を取りあげた時、その義眼には、その場で、後日の確認のための目じるしがつけられました。その目じるしによって、証人は、いまここで、その血走った眼を確認し、証言することができるわけです。ところが、裁判長、目じるしがつけられる以前の事態に関しては、証人は、いま問題になっている、目じるしのつけられた血走った義眼よりもむしろ、不特定の血走った義眼を見たということだけしか知らないのです」
バーガーは、含み笑いをして、
「結構です」といった。「証言に正当な根拠が不十分であるとの理由による弁護人の異議を認めます。で、裁判長のご承認を得て、本職は、ただいまの訊問を撤回し、正当な根拠を確立することにいたします。
「証人は、類似のガラスの眼玉──つまり、死体の手に握っていたのと、見たところは同じようなガラスの眼玉を見たのですか?」
「そうです」
「いつですか?」
「最初に見つけたのは、殺人の起こる二十五時間ほど前でした。わたしは、それをバセット氏に渡し、殺人の約二十四時間前にも、バセット氏が持っているのを見ました」
「証人は、その義眼が、いま確認し、かつ、いま手に持っているものと同じ義眼かどうか、指摘する手段がありますか?」
「あります」
「確認する方法があるというのですね?」
「そうです」
「どんな方法ですか?」
「その眼玉を見つけました時、わたしは、ダイヤモンドの指環をはめておりました。わたしは、刑事としての経験から、確認の重要なことを知っていましたので──」
「証人が、刑事としての経験から知ったことは、述べなくてよろしい」と、バーガーはいった。「その時にしたことだけをいってください」
「わたしは、そのダイヤモンドの指環で、その眼玉の表面の裏側に、十字の形の切り傷をつけました」
「その十字形は、肉眼で見えますか?」
「いいえ、十分な光線のもとで、よく注意して見なければ見えません。はっきり目立つほどには深く、切らなかったのですから」
「いま、証人が手にしているその眼玉に、その十字形がついているかどうか、指摘できますか?」
「はい、ついています」
「本職は」と、バーガーはいった。「そのガラスの義眼を、検察側証拠物件第一号として、採用されることを求めます」
「異議なし」と、メイスンがいった。
「では、証拠品として採用します」と、ウィンター判事が宣告した。
「すると、この証拠物件第一号は、証人が、殺人の約二十五時間前に見た物と、同一の義眼なのですね?」と、バーガーは訊問をつづけた。
「そうです」
「どこで発見したのですか?」
オーバートンは、深く息を吸ってから、法廷中にひびきわたるような声でいった。「バセット夫人の寝室でです」
「どうして、そこで発見するに至ったのですか? どんな情況の下で発見したのですか?」
「バセット夫人の寝室で、なにか物音が聞こえたのです」
「どんな物音でしたか?」
「人の話し声でした」
「人の声を聞いたというのですね?」
「そうです。それと、動く音でした」
「それで、どうしました?」
「寝室のドアをノックしました」
「なにか起こりましたか?」
「あわてて動きまわる音がしました」
「証人が聞いたその会話は」と、バーガーがたずねた。「聞き分けることができましたか?」
「言葉がわかったかということですね?」と、証人が問い返した。
「そうです」
「いいえ、それはわかりませんでした。男の声と、女の声だということは聞きとれましたが、なにを話しているのか、言葉までは聞きとれませんでした」
「証人がドアをノックしてから、どんなことが起こりましたか?」
「しばらくの間、ばたばたと興奮したような動作がつづきました。それから、窓があいて、しまる音が聞こえました。それから、バセット夫人の『誰ですか?』という声が聞こえました」
「それで、証人は、なんといいましたか?」
「『運転手のゼームズです。どうぞ、ドアをあけてください』といいました」
「それから、どうしました?」
「しばらく間をおいてから、『着替えをすますまで、待っててくれ』と、奥さんがおっしゃいました」
「それから、どうしました?」
「それで、たぶん、一分間ほど待っておりました」
「それから?」
「それから、奥さんは、ドアの鍵をはずして、あけてくれました」
「証人は、なんかいうか、するか、しましたか?」
「わたしは、『失礼いたしますが、奥さん、ご主人が、家の中に泥棒がはいっているのじゃないか、窓がみんなしまっているかどうか確かめて来いとおっしゃいますので』と申しました」
「夫人は、なんといいましたか?」
「なにもおっしゃいませんでした」
「証人は、更になにかいいましたか?」
「やすんでおいでになるとは思いませんでしたので、お邪魔をしてすみませんと、そういいました」
「すると、夫人は、なんといいました?」
「やすんでいたのではない、風呂にはいっていたのだと、おっしゃいました」
「それで、証人は、どうしました?」
「部屋を突っ切って、窓のところまで行きました」
「窓はあいていましたか、しまっていましたか?」
「あいていました」
「部屋は、二階でしたね?」
「そうです。しかし、窓の六フィートほど下のところに屋根があって、その屋根まで四つ目垣で行けるようになっております」
「窓枠に、見馴れない痕跡でも認めませんでしたか?」
「靴のかかとでつけたような、木のはがれているところが一ところ眼につきました。はがれたばかりというような新しい傷で、裂けた木のはしが、まだ細いすじでぶらさがっていました」
「ほかになにか、眼につきましたか?」
「このガラスの眼玉が見つかりました」
「どこにありましたか?」
「床の上です」
「バセット夫人も、それを認めていましたか?」
「証人に決定を求めようとする誘導訊問として、異議を申し立てます」と、メイスンが発言した。それから、ウィンター裁判長が逡巡しているのを見て、いった。「いや、結構です、異議を取り下げます。訊問をつづけてください」
「いいえ」と、オーバートンはいった。「夫人は、その眼玉に気がついていませんでした」
「証人は、どうしました?」
「かがみこんで、それを拾いました」
「証人が拾いあげた物を、夫人は見ましたか?」
「いいえ、夫人は、その時、わたしの方に背中を向けていました」
「それで、それから、証人はどうしましたか?」
「その眼玉を、そっと、自分のポケットに入れました」
「それから?」
「それから、部屋を出ました。わたしが部屋を出るとすぐ、夫人は、ドアをしめて鍵をかけました。それから、わたしは、指環のダイヤモンドで、その眼玉の裏側に十字形の傷をつけて、すぐに、バセット氏のところへ行きました」
「それから、どうしました?」
「バセット氏は、その眼玉が誰の物かはっきり知ろうとお考えになったようでした。誰か評判の高い義眼の製作者にあたってみて、その眼玉の持ち主が突きとめられるかどうか調べてみろとそうおっしゃいました」
「証人は、その通りにしましたか?」
「しました」
「本職は」と、バーガーはいった。「この義眼の確認については、別の方法で明らかにしたいと思います。その点については、この証人に対する訊問をさし控えて、この証人が、その義眼の識別について問い合わせた専門家を、証人台に喚問することとします」
バーガーは、ペリイ・メイスンの方を向いて、いった。「どうぞ、反対訊問を願います」
「証人が聞いたのは、男の声だというのは確かなんですね?」と、メイスンは、反対訊問をはじめた。「わたしのいっているのは、バセット夫人の寝室の前で、鍵穴から聞いたという会話に関してですがね」
「鍵穴から聞いたとはいいませんでした」びしっと、証人がいい返した。
メイスンは、いんぎんな微笑をうかべて、
「しかし、聞いたのは、鍵穴からだったのじゃありませんか、機密諜報部員どの?」
くすくすと忍び笑う声が、法廷中につたわった。ウィンター裁判長が、木槌を鳴らした。
「さあ」と、メイスンがいった。「訊問にこたえてください。聞いたのは、鍵穴からですか、そうじゃなかったのですか?」
「鍵穴から聞きました、そうです」と、オーバートンがこたえた。
「まったくその通りですね」と、メイスンがかんで含めるようにいった。「ところで、鍵穴から、なにを見ましたか?」
「なにも見えませんでした。つまり、なにも重要なものは見えませんでした」
「バセット夫人が、部屋の中を動きまわるのは見えましたか?」
「誰かいるのが見えました」
「バセット夫人だと思いますか?」
「はっきりいえません」
「しかし、男の人を見たのじゃないでしょう?」
「はい、そうです」
ペリイ・メイスンは、いきなり、さっと片腕をあげて、長い人さし指を突き刺すように証人に向けて、
「さて」といった。「バセット氏が殺された時、犯人は、バセット氏の自動車で逃亡したのでしたね?」
「ちがいます」
「それについては、確信があるんですね?」
「あります」
「なぜ、それほど確信があるのですか?」
「というのは、死体が発見されたすぐ後で、一人の目撃者が、犯人はバセット氏の車で逃げたと、そういったということを聞きましたので、わたしは、すぐさま、車がなくなっているかどうか、確かめにガレージヘ飛んで行ったからです」
「車は、なくなっていましたか?」
「いいえ、ありました」
「ラジエーターが温いかどうか、さわってみましたか、温度計を調べてみましたか?」
「いいえ、それはしませんでした。しかし、車は、わたしがしまった通り、いつもの場所にちゃんとありました」
メイスンは、にっこり笑いを浮かべ、手を振って、いった。「それだけです」
「ちょっと待ってください」と、バーガーがいった。「もう一つ、再訊問があります。証人は反対訊問にこたえて、部屋の中に、男のいたのは見えなかったと証言しましたね」
「その通りです」
「男の声は聞こえたのですか?」
「男の声は聞きとれました」
「証人が聞いたのが、ラジオの声でなかったことは確かですね?」
「そうです」
「ディック・バセットの声ではなかったのですか?」
「ちがいます」
「どうしてわかりますか?」
「ディック・バセットの声を、よく知っているからです。それに、言葉を聞きわけることはできませんでしたが、声の調子はわかりました」
「証人は」と、バーガーは訊問をつづけた。「その男の話し振りで、なにか変った点に気がつきましたか?」
「はい、気がつきました」
「どんなことですか?」
「早口の、興奮した口振りで、おそろしく早くしゃべっていました。つまり、いくつもの言葉がとても早く口から飛び出すので、まるで、みんないっしょに出て来るように聞こえました」
「これで訊問を終ります」と、バーガーはいった。
「もう一つ質問があります」と、メイスンが発言した。「証人は、一つ一つの言葉は聞きわけられなかったのですね?」
「そうです」
「それなのに、どうして、いくつもの言葉が、いっしょに飛び出して来るなんてことがわかったのですか?」
「その男の話し振りからです」
「しかし、その人間が、いつ一つの言葉をいいおわって、いつつぎの言葉がはじまったかは、わからなかったのですね? いいかえると、一つ一つの言葉は聞きわけられなかったのですね?」
「聞きわけられたと思います」
「思うというのですね?」
「さあ、はっきりしません」
「それなら結構です」といって、メイスンは、にっこり笑いを浮かべた。
バーガーは、証人台から降りるように、手を振ってオーバートンに合図をした、
「証人ダルトン・ベーツ」と、バーガーは呼んだ。
背の高い男が、速歩の足取りで神経質に進み出て、右手をあげ、宣誓をしてから、証人台についた。
「証人の姓名は?」と、バーガーがたずねた。
「ダルトン・ベーツです」
「職業は?」
「義眼の製造業です」
「どれくらいの間、義眼を作っていますか?」
「十五歳の時からです。その年に、ドイツで、はじめて見習にはいりました」
「ドイツで修業するというのは、なにか特別に有利なことがあるのですか?」
「あります」
「どんなことですか?」
「義眼を作るのに用いられておりますガラスは全部、ドイツの二つの場所で製造されております。そのガラス製造の方法は、秘密にされておりまして、この国では、どうしても真似《まね》ができません。ある特殊なタイプのガラスを用いるものでございます」
「証人は、ドイツのどこで修業したのですか?」
「ウイスバーデンで、徒弟奉公をいたしました」
「期間は、どれくらいでしたか?」
「五年でした」
「それから、どうしましたか?」
「それから十年間、ドイツでもっとも腕ききだといわれていた義眼の専門家の一人のところで、いっしょに働きました。サンフランシスコに来ましてから、しばらくの間、シドニー・ノールズのところで修業をしまして、やがて、自分で商売をはじめ、それ以来、義眼を作っております」
ペリイ・メイスンは、椅子から乗り出すようにし、眼は、証人を見やりながら、
「専門家としての、この証人の資格を確かめておられるわけですね?」と、メイスンは、地方検事にたずねた。
「そうです」と、そっけなく、バーガーはこたえた。
「それでは、訊問をすすめてください」と、メイスンはいった。
「義眼の製作は、高度の技術を要する職業ですね?」と、バーガーはたずねた。
「そうです。とてもひどく技術がいります」
「証人は、義眼をつくる手順を――大体でいいんですが、説明することができますか?」
「できます。まずガラスを吹いて、玉を作ります。つまり、ガラスは、管になっておりますが、それを焔の中で吹きまして、玉の形にして切りとるのでございます。個々のガラスの色は、注文を受けました眼の白眼の色に合うようなのをえらぶわけでございます。
つぎに虹彩でございますが、これは、その玉の表面に、着色したガラスの小さなかたまりをのせまして、ガラスの玉を焔の中でまわしながら、念入りに混ぜ合わせて作りあげるのでございます。人間の眼というものは、よく調べてごらんになるとおわかりになると思いますが、いろいろな色がまじり合っているものでございます。一つの色合いが際立っておるかと思いますと、さまざまに変化のある色合いが、虹彩にはあるものでございます。こういうさまざまに変化のある色合いを、本物通り似せなければなりません。そればかりではなく、ごくわずかの、ぽちぽちとした色とか艶までも、本物通りに、ガラスの上に溶かし出さなければなりません。瞳孔《どうこう》は、紫ガラスで裏打ちした、ごく黒いガラスで作ります。瞳孔の大きさも形も、念入りに考えなければなりません。
眼の血管も、似せる眼に合わせて、考慮する必要がございます。義眼だからといって、いいかげんに血管を作りあげるわけには行きません。虹彩の片方の側に、血管の多い眼もありますし、すくない眼もございます。色もそれぞれにひどく違っておりまして、黄色味の勝ったものもあれば、ほかのよりもずっと赤味の強いのもあり、飛び出したような眼もございます。
こうして眼ができあがりますと、透明な水晶をかぶせて、ガラスに溶かしつけます。この工程がおわったところで、ガラスの球をガラス管の端から発炎ランプで切りはなして、形を整えますので。ほんのざっとした工程を申しあげますと、こんなところでございます」
バーガーは、うなずいていった。「すると、非常に専門的な技倆のいる職業ですね?」
「そりゃもう大変なものでございます」
「もっとほかに、専門的な職業であるということをうなずかせるような、わかりやすい説明はできませんか?」と、バーガーはたずねた。
「こういうことは申しあげられると思います」と、べーツがいった。「この合衆国に、一流と認められている義眼の製作者が、十三人以上はいないということでございます。義眼を作る仕事には、とてもたくさん厄介なことがございます。まず第一に、材料の扱い方に、十分に熟達しなければなりませんし、色の混ぜ工合にも、それぞれ独特の芸術的手腕が必要でございます。ほんとうに腕のある義眼の作者といわれるためには、優秀な芸術家の上に、非常に腕利きのガラス吹きの職人でなければいけません」
「すると、それぞれ各個人の独特な仕事を見分けられるのは」と、バーガーがたずねた。「ある一画家の作品が、筆触とか色の調子とかで、他の画家の作品と区別できるのと同じだというわけですね?」
「多くの場合、そうですね」と、べーツがいった。
「それでは」と、バーガーはいった。「ここで、検察側証拠品第一号として採用された義眼をお渡しします。これは、ある殺人事件の被害者の手に握られていた眼です。その義眼について、証人は、なにか陳述することがあるかどうか、たずねたいのです」
ベーツは、バーガーから渡された眼玉を見て、うなずいて、
「さよう」といった。「これについては、とてもたくさんお話がございます」
「どういうことですか?」と、バーガーがたずねた。
ウィンター裁判長は、額に八の字を寄せて、異議を待ちうけるかのように、ペリイ・メイスンの顔を見た。メイスンが発言するようすがないので、裁判長は、バーガーに向かっていった。「その訊問は、ちょっと変わった訊問のようですな」
「異議はありません」と、メイスンがいった。
「この眼は」と、ベーツが陳述をはじめた。「非常に腕利きの職人が作ったものでございますね。その職人の名前をあげることもできるかと思います。サンフランシスコに住んでいる職人です。この眼は、血走っておりますでしょう。ということは、特別な場合に限って使うために作った眼でございます。しかも、お気づきでございましょうが、かなりはめていたと申しますか、使いこまれていた眼でございますな。これをはめていた方は、ひどく酸性体質の方ですね」
「どうして」と、バーガーがたずねた。「それが証人にわかりますか?」
「この眼の縁の辺が、環状に変色しておりますでしょう、この環状の変色でわかります。これは、酸度の強い体液がガラスにしみこんで、こういう変色を来たしたのでございます。ある期間使っておりますと、こういう変色がはっきりあらわれてまいります。漂白処理によって、ある程度除くことはできますが、ガラスにしみこんだこういう体質の酸性のために、義眼の寿命が尽きて、ガラスの質が脆《もろ》くなってまいります」
バーガーは、ペリイ・メイスンに会釈《えしゃく》をして、
「弁護士どの、貴下のご承諾を得て」といった。「本職は、この証人に、もう一つ別の義眼について質問したいと思います。その義眼の確認については、いずれ後ほど行ないたいと思います。ただし、弁護人の誤解をさけるために、ベーツ証人に質問しようとする義眼が、別個の死体、すなわち、ハリー・マクレーンなる者の死体の手の中に発見されたものであることを、おことわりしておきます」
「検事の主張は」と、ウィンター裁判長はたずねた。「一つ以上の犯罪の証拠品を提示する権利があるということですね?」
「ちがいます」と、バーガーはいった。「本職の提示するのは、ハートリ・バセット殺害事件の被告に対してだけの証拠品であります。これから提示しますのは、犯罪の動機を説明するための証拠品であります」
「よろしい」と、ウィンター裁判長はいった。「その目的のためだけに限定します」
バーガーは、別の封筒をあけて、また一つの義眼を取り出し、証人の差し出した手のひらにのせた。
「その義眼については、どういうことがいえますか?」
「この眼は、前のほど念入りに作られたものではございませんですね。いわば、既製品でしょう。つまり、特定のお客の注文によって作ったものではなくて、大都会のどんな物でも揃っているという眼鏡屋の、大量に仕入れている義眼ですね」
「証人がそういう理由は?」
「この眼は、できあがっていた、透明な水晶をかぶせられていた眼だったんでございます。ですから、その時には、澄んだ眼だった──つまり、世間ふつうの澄んだ眼に合うように作られていたものだったのです。それを、この眼は、透明な水晶膜をかぶせた後から、あわただしく細工をして血走った眼に似せております。白眼のところに充血した様子を出そうとした、こういう細い血管は、水晶膜の上につけたものでございます。それに、この眼には、どんな色の変化も出ておりません、ということは、ほとんど着用されたことがなかった。ことに、さきほど拝見した義眼をつけていた人が着用した形跡は、全然ございません」
「この義眼を」と、バーガーがたずねた。「検察側証拠物件第二号として、登録することに異議はありませんか?」
「異議なし」と、メイスンがいった。
「登録をみとめます」と、ウィンター裁判長が裁決を下した。
「反対訊問を」と、バーガーがいった。
メイスンは、さりげない口調で反対訊問をはじめた。「血走った義眼なんてものをつけるのは、どういうわけですか?」
「人によりますと、ご自分の義眼に、ひどく神経を使う方があるんです。義眼を用いていることを、他人に知られたくないんですね。そのために、義眼だと感づかれないように、いろいろと苦心をされるわけです。夜はめる義眼、気分のよくないときにつける義眼、片方の悪くない方の眼が炎症をおこしている時に使う義眼と、幾通りも作らせて用意している方があるわけです」
「すると、義眼をはめている人を見分けるのは、むずかしいともいえるわけですね?」
「とてもむずかしいことです」
「夜、ちがった義眼を使う必要があるというのは、どういうわけですか?」
「というのは、自然の眼の瞳孔の大きさは、一日のうちに、いろいろ変わるからでございます。ぎらぎらした明かるい太陽の光の中では、瞳は収縮しますし、夜の人工照明の下では大きくなります」
「すると、できのいい義眼をつけている人を見破ることは、実際としては不可能だということですか?」
「眼窩の形が正しくて、義眼がきっちり合っていれば、おっしゃる通りです」
「そういう義眼をつけている人が、その義眼をとりはずすことはできるのですね?」
「ええ、できますとも」
「どうして、義眼は、眼窩にきちんとはまっているのですか?」
「真空の作用でです。義眼と眼窩との間の空気が、ほとんどなくなるような工合にはめこむのでございます」
「すると、そういう工合にはめこまれた義眼を抜きとるのは、なかなかむずかしいということですね?」
「別にむずかしいことではございません。ただ、下まぶたをぐっと引きおろして、義眼の裏側に空気を入れるようにすれば、わけなく抜き出せます」
「義眼をつけている人が、自分でやるんですね?」
「そうです。まぶたは引っぱりおろさなくちゃいけませんが」
「うんと、引っぱりおろすんですね?」
「うんと、引っぱりおろすんです」
「すると」と、ペリイ・メイスンがいった。「よく合った義眼をつけた人間が、人を殺そうとして、殺そうとしている相手の上に身をかがめたりしても、その義眼が、偶然に抜け落ちるということは、不可能なことなんですね?」
傍聴人たちは、ペリイ・メイスンが狙っていた問題点を、はじめて悟ったらしく、満員の法廷内に、驚きのため息がおこった。
「そうです」と、証人ベーツがいった。「まず不可能なことでしょうね」
「だとすれば、犯行の現場から出て来た犯人が、からっぽの眼窩を見せていたとすれば、犯人は、その眼窩にはいっていた義眼を、自分でことさらに抜きとっていたからだということになるわけですね。真実は、そういうことではないのでしょうか?」
「まあ、そういえましょうね──おっしゃる通りです。それは、むろん、犯人がぴったり合った義眼をつけていたとしての上ですがね」
「つまり、検事が、最初に証人にお渡しした、ハートリ・バセット氏の手に握られていたといわれているような義眼だったら、ということですね?」
「そうです」
「あの義眼は、証人の見解では、よく合っていたと考えているんですね?」
「そうです。あの義眼は、腕利きの専門家の作ったものでございました」
メイスンは、手を振って、
「それだけです」といった。「ありがとう」
バーガーは、ぐっと身を乗り出し、額に皺を寄せて、聞き耳を立てていた。その眼は、不安そうな色を浮かべていた。
「つぎの証人を訊問してください」と、ウィンター裁判長がいった。
「証人、ジャックスン・セルビイ」
仕立てのいい服に、おそろしく高い、よく糊《のり》のきいたカラーをつけた人物が、もったいぶった足取りで進み出て、よくマニキュアの行き届いた右手をあげ、宣誓をすますと、証人席に歩み寄り、折り目を崩さないように、ていねいにズボンをつまみあげ、膝を組み、てきぱきと要領よく自分の義務を片づけるのに馴れているらしい態度で、バーガーの顔を見て微笑をうかべた。
「証人の姓名は?」バーガーがたずねた。
「ジャックスン・セルビイです」
「職業は?」
「ダウンタウン眼鏡商会の支配人です」
「その商会の支配人として、どれくらい働いていましたか?」
「四年です」
「その前には、どこに勤めていましたか?」
「同じ商会で、販売部長をしておりました。申しあげたように、四年前に、支配人に昇進したのです」
「ダウンタウン眼鏡商会には、義眼の在庫品があるのでしょうね、セルビイさん?」
「はい、非常によく揃った在庫品がございます」
「そういう在庫の義眼は、さきほどの証言の時に、証人ベーツ氏が証言されたような腕利きの職人が作ったものと同じ程度に、入念に製作されたものですか?」
「まったく上等のできでございます。ふつうの眼ならどんな眼にでも、すぐ似合うように、種々様々の色のものが揃えてございます。どんな眼にでも合って、お客さまのご満足をいただけるような立派なものばかりでございます」
「では、証人の店の在庫品には、いわゆる血走った眼──つまり、眼球の白眼の部分のところに、血管が赤く浮き出して、血走ったような外観をしている義眼がありますか?」
「ございません」
「なぜ、ないのですか?」
「そういう血走った義眼は、義眼をしているということを、どんなことがあっても感づかれたくないという人ででもなければ、お買い求めにならないからです。そういう方たちは、名の通った腕利きの専門家に頼んで、めいめいの生きている眼に合わせて作らせるのがふつうでございます。ところが、われわれの店から義眼をお買い求めになる方は、お金を節約しようというのでお買い求めになるわけでして、完全な義眼のセットをお揃えになることは、ふつうにはできることではございませんのです」
「しかし」と、バーガーは質問をつづけた。「証人の店で、たまには、血走った眼を作るようにという注文を受けたことはありませんか?」
「はい、一度だけございます」
「どういうふうにしろと頼まれたのですか?」
「在庫の義眼を職人に渡して、ごく細い赤の血管用のガラスで、充血した血管をつけさせてくれということでした」
「それは、最近のことですか?」
「そうです」
「証人におたずねしますが」と、バーガーはいった。「この法廷にいる人たちを見て、証人の店で見かけた人物がいるかどうか、答えてください」
「はい、いらっしゃいます」
「その人物が、いま、証人のいった血走った眼を注文したのじゃありませんか?」
「そうです」
「どの人ですか?」
セルビイは、ブルノルドを指さして、
「その人は」といった。「そこにかけておられる被告のブルノルド氏です」
傍聴人の眼はもちろん、法廷関係者たちの眼という眼が、ブルノルドに集まった。ブルノルドは、両腕を胸の前に組み、あごを心持ち前におとし、眼を据えたまま、すわっていた。その顔には、まったく表情というものがなかった。
むしろ、新聞記者たちが、好んで煽情的な記事などに書き立てるような感情を顔にあらわしたのは、シルビア・バセットだった。かの女は、唇をきっとかみしめ、身を乗り出して証人を睨みつけ、それから、椅子の背にもたれかかって、聞きとれるほどのため息をついた。
「その血走った眼を、被告が注文したのはいつですか?」と、バーガーが訊問をつづけた。
「今月十四日の午前九時でした」
「ダウンタウン眼鏡商会は、何時に店をあけるのですか?」
「午前九時です」
「すると、店をあけるといっしょに、はいって来たのですね?」
「そうです」
「で、なんといったのですか?」
「すぐに、血走った眼がぜひ欲しいのだとおっしゃいました。もっていた義眼をなくしたので、代りの眼がほしいともおっしゃいました」
「いつ、その眼をなくしたか、いいませんでしたか?」
「はい、前の晩ということでした」
「時刻は、いいませんでしたか?」
「いいえ」
「どんな事情でその眼をなくしたか、ブルノルド氏は話しましたか?」
「話しました。わたしが、そういう特別な注文の義眼を、限られた期限内に作ることは、とてもできませんと申しますと、たぶん、わたしの同情を買おうというつもりなんでしょう、わけを話してくれました」
「その話の時、誰かその場にいましたか?」
「ブルノルド氏と、わたしとだけでした」
「どこで、その話をしましたか?」
「ダウンタウン眼鏡商会の検眼室でです」
「ブルノルド氏は、どういう話をしたのですか?」
「非常に嫉妬深い男と結婚した昔の恋人を訪問していたのだという話でした。その前の晩、その婦人と話し合っているところへ、その家の召使がドアをノックしたのだそうです。ブルノルドさんは、じかに主人に会って、片をつけようと、そういったのだそうですが、その婦人の方では、息子が法律上、相続人に認められていたりするので、別れることはできないと、そんな話をしていたところだったということです。それで、相手の婦人は、風呂にはいっていたような振りをして、できるだけ、召使が部屋へはいって来るのを遅らせる。その間に、ブルノルドさんは、窓から飛び出して逃げ出したという話でした。それからまた、窓から逃げ出す時に、いつもチョッキの、裏にセーム皮をつけたポケットにいれて持って歩いていた血走った眼をおとしたんだとも、その義眼を、その婦人の主人が捜し出しはしないだろうか、誰の義眼か調べあげられやしないだろうか、そんなことになったら、いろいろないきさつが主人にわかって、婦人が抜きさしならないことになって、ひどい目に会うんじゃないかとも心配していました。
それから、どうしても、なくした義眼の代りを、至急に手に入れる必要があるのだといっていました。そうすれば、その義眼をなくしたことなんかないともいい張れるし、そういう方が有利な場合には、誰かが自分の義眼を盗んで、にせの義眼と取り替えておいて行ったのだと申し開きをすることもできるともいっていました。それに、自分の義眼を盗んだ人間が、自分が抜きさしならなくなるようなところに、その義眼を『置いておく』つもりだろうということも、ひどく心配していました」
「それで、証人は」と、バーガーは質問をつづけた。「そういう話を証人にした人物が、いま、この法廷の被告席についているピーター・ブルノルドにほかならないと、確かに信じているんですね?」
「そうです」
バーガーは、勝ち誇ったような微笑をうかべて、ペリイ・メイスンの顔を見た。
「では、弁護人どの」と、バーガーはいった。「反対訊問を願います」
ペリイ・メイスンはうなずいて、立ちあがり、挑戦するように、靴の踵《かかと》の音を響かせながら法廷を突っ切って、地方検事がすわっているテーブルの前まで歩いて行った。
「どうか、その」と、メイスンはいった。「検察側証拠物件第二号として登録された、さきほどの義眼を貸してください」
バーガーは、スタンプを捺《なつ》した封筒にはいった義眼を、メイスンに手渡しながら、いった。「気をつけて、元のスタンプを捺《なつ》した封筒に入れるようにしてください」
ペリイ・メイスンはいった。「だいじょうぶです。あなたと同様に、ぼくも、二つの義眼の区別がつかなくなることを恐れますからね。しかし、あなたの老練な訊問で吐露されたさきほどの証言によれば、たとえ、そういう混乱が起こったとしても、わけなく二つは見分けられるはずですよ」
メイスンは、証人台に進み出て、封筒から義眼を取り出して、いった。「この検察側証拠物件第二号として登録された義眼を、よく見てください。この義眼は、証人がピーター・ブルノルド氏に売ったにせの義眼かどうか、おたずねします」
セルビイは、首を左右に振った。その唇は、勝ち誇ったような微笑で歪んでいた。
「いいえ」と、セルビイは、穏かにこたえた。「ちがいます」
「ちがうんですね?」と、メイスンは、勝ち誇ったように問いつめた。
「ちがいますとも。ブルノルド氏には、どんな義眼もお売りしなかったのですからねえ。ブルノルドさんは、店へおいでになって、さきほど申しあげたような義眼をほしいとはおっしゃいましたが、手前どもでは、作れないとおことわりしましたのです。きっと、どこかほかの店で、手にお入れになったのでしょう」
第十五章
休憩時間になって、法廷中がなんとなくざわざわする中へ、ポール・ドレイクが、傍聴人の群れをかきわけてはいって来た。傍聴席との境のマホガニー材の手すりのところまで来ると、立ちどまり、しばらく待っていたが、やがて、ペリイ・メイスンの視線をとらえると、意味ありげにウインクをして見せた。
メイスンは、立ちあがって、あまり人目に立たない片隅へ足を運んで行った。ポール・ドレイクも、そこへ行って、いっしょになった。
「やれやれ」と、探偵が口を開いた。「えらい目に会ったぞ。新聞を見たかい?」
「いや」と、メイスンがいった。「なにかあったのか?」
ドレイクは、書類鞄をあけて、まだインクの香も新しい一枚の新聞を取り出し、しかめ面をしながら、それをペリイ・メイスンに渡していった。「いきさつは、ここに出ているよ――おれのいう通りとはいくまいがね。しかし、おれに話させるより、そいつを読んでくれた方が、おれには、楽も楽も大楽というものさ」
メイスンは、すぐには、その新聞を見ようとしなかった。脇の下にはさみこんだまま、じっと、探偵の顔を見つめていた。
「どうやって帰って来た?」と、メイスンがたずねた。
「リノで一番速い飛行機をやとって、あっという間に帰って来たのさ。平均時速二百マイルかそこらは出たろうな」
「いくら速いったって」と、メイスンがいった。「電報の方がずっと早いじゃないか。それにしても、いったいどうして、こんなニュースを、新聞の連中はかぎ出したんだね?」
「リノの警察の小生意気な野郎どもが、事件を牛耳《ぎゅうじ》ろうとしたんだ」とドレイクがいった。「すくなくとも、おれがリノを立つ時には、そんなたくらみで動いていたようだったよ。すっかり白状させるまでは、ニュースを発表するつもりはなかったらしいんだがね」
「白状させたのか?」
「知らんね」
「だけど」と、メイスンがいった。「誰が、なにを白状するというんだね?」
「ヘーゼル・フェンウィックさ」と、弁護士の眼を避けるようにして、ドレイクはいった。
書記の一人が、五、六種類の新聞をかかえて、法廷にはいって来た。その男は、勢いよく検事のところへ寄って行って、新聞を一つ渡した。バーガーは、不機嫌に額に八の字を寄せて、その新聞を開き、読みはじめた。
メイスンは、書記が刑事室の方へ姿を消すのを見てから、片隅の方へ歩を移しながら、
「で、きみは、どんなひどい目に会ったんだ、ポール?」とたずねた。
「お釣りが来るほどたんまりさ」と、探偵は、メイスンにいった。
「よし、話してみろよ」
「新聞を読んでもらった方がいいんだがな」
「よせよ!」と、我慢できないように、メイスンは大きな声でいった。「公式の発表なら、新聞でだって読めるだろうが、ぼくの聞きたいのは、どんないきさつで、きみがやりそこなったかということだよ」
「おれはわからんよ」
「よし、それじゃ、いちぶしじゅうを話してみたまえ。そうしたら、きっと、ぼくにもわかるだろう」
「おれは、きみの指図に従って」と、ドレイクは、ゆっくり話し出した。その眼は、伏せたままであった。「リノまで飛んで行った。向こうへ着くと、電報局へ行って、電報が来ていないかと聞いた。すると、書類の届け先を知らせるデラ・ストリートの局止め電報が来ていた。その電報をポケットに突っこんで、ホテルに行き、部屋をとって、服をぬぎ、水を浴びた。そこへ、一人のボーイがやって来て、タオルやなんか、いるだけの物がみんな揃っているかって訊くんだ。いろいろそんなことをな──つまりね、ペリイ、その時には、ほんとうのボーイだとばかり、おれは思っていたんだ」
「それで」と、なにかを感じたように、メイスンがいった。「それから、どうした?」
「その時には、なんにも気がつかなかったんだ」と、ドレイクがいった。「ところが、後になって、上衣のポケットをさがしても、その電報が見つからないんだ。しかし、大して時間もかからなかったんだがね」
「それで」と、いらいらした口振りで、弁護士はいった。「早く聞かせろよ」
「神さまに誓ったっていいが、ペリイ、おれは、できるだけ気を配って、後をつけられないようにしたんだぜ。飛行機の中でも、つけられているとは思わなかったんだがね」
「飛行機は、混んでいたんだね?」と、メイスンがたずねた。
「うん、満員だった」
「誰か、きみに話しかけようとしたかい?」
「うん、酒瓶持参のやつが二人いて、おれにからんで来やがった。相手にせずにいると、こんどは、若い女の子がやって来た。いまから考えてみると、なんだか怪しい節《ふし》もあったが、その時には、はじめて飛行機なんてものに乗って旅をする女の子が、ちっとばかりおびえているんだと思ったんだ」
「その女が、なにをしたんだ?」
「おれを見て、にっこりと笑ったよ」と、ドレイクはいった。「ところが、おれの座席の横を通りすぎようとした時、飛行機がちょっと傾いたもんだから、おれの膝の上に尻もちをついてさ……ちぇっ、きみだって、そんなことがあるのを知ってるだろう?」
「それで、きみは話しかけたのか?」と、メイスンがたずねた。
「飛行機の上では、あんまり話さなかったよ。話したって、よく聞こえないからね。しかし、サクラメントでは、一杯おごってやったよ」
「その時には、話したのか?」
「ちょっとね」
「自分のことをいったのか?」
「名前はいったよ」
「なにをしているか、いったかい?」
「いいや」
「商売のことはいわなかったかい?」
「いわない」
「名刺を渡しやしなかったか?」
「いいや」
「なにか内輪話をしたんだろう?」
「いわなかったつもりだがね」
「じゃ、なにをしゃべったんだ?」
「知らないよ、ペリイ。おれは、ただ、あたりさわりのないお世辞をいっただけさ。断言してもいいけど、それ以上のことは、なんにもいやしなかったよ──ほら、いまにも陥落しそうな女によくいうじゃないか。あんなことだけだよ。離婚のためにリノに出かけて行く映画スターだと思っているようなふうをして、どこだったかのスクリーンで見たことがあるとか、有名な女優なんだが、あまり映画館へ行かないものだから名前を思い出せないとか、そんなことをしゃべったんだ」
「そんなお世辞に乗って来たか?」と、メイスンがたずねた。
「すっかり夢中になったよ」
「その女が、わなだったんだよ」と、弁護士はいった。
ドレイクは、ひどく自尊心を傷つけられた上に、睡眠不足の人間らしいいら立ちから、とっ拍子もない大きな声で、「むろん、わなだったのさ。きまってるじゃないか! このおれが、わなだと気がつかないほど間抜けだと思うのかい? しかし、その時には、気がつかなかったのさ。きみが、なにがあったか知りたいというから、話しているんじゃないか」
「いいよ、いいよ。それで、どうしたのかいってくれよ」
「ホテルで、水を浴び、一杯飲んでから」と、ドレイクは話をつづけた。「表へ出て、タクシーをつかまえた。タクシーの運転手に、アパートの所番地をいった」
「その時には、電報を見なかったんだね?」
「うん、前に読んで、番地はおぼえていたんだ。わけなくおぼえられたからね」
「それで」
「着いて見ると、そのアパートというのはけちなところさ、目あての部屋のベルを鳴らすと、用件を聞きもしないで玄関をあけてくれた。おれは、エレベーターでのぼって行った。がたがたの自動エレベーターだった。ねえ、よくあるじゃないか」
「うん、知ってるよ」と、じれったそうに、メイスンがいった、「それより、さっさと、先を話してくれ」
「女の部屋まで廊下を歩いて行った。廊下は、あまり明るくなかったんで、部屋の番号を見つけるのに、懐中電灯を出さなくちゃいけないという始末さ。女の部屋のドアをノックすると、女があけてくれた。おれは、すぐにはポケットから、書類なんか引っぱり出しゃしなかったよ。姉さんから頼まれてやって来た男とでもいうふうに、おれにしてみればこの上なしのとっときの顔で、にやっと笑いながら、小声でいったよ」
「で、なんといったんだ?」と、メイスンがたずねた。
「ヘーゼル・フェンウィックさんですかとたずねたよ。女は、まるで表情一つない顔で、『ちがう』といった。おれは、ちょっとびっくりした顔をして、ヘーゼル・バセットさんじゃないのかとたずねた。女は、ほんのぽっちり顔色を動かしただけで、ちがう、ヘーゼル・バセットでもないといったんだけど、ドアをしめようとする様子もしなかった。おれは、仔細に女の顔や様子を見た。どうやら、聞いていたフェンウィックとかって女の人相書とぴったりなんで、時分はよしとばかりに、じっと女の顔に眼をつけたまま、ポケットから書類を出して、ヘーゼル・フェンウィック、またはへーゼル・バセットという人に、書類を届けに来たのだがといった。
女は、ひどくゆっくりと、まるで暗誦でもするように、『わたしは、セルマ・ベビンスですが、ヘーゼル・フェンウィック、またはヘーゼル・バセットあての書類を持っておいでになるのなら、わたしが受け取ります』と、そういったよ。
ねえ、きみにだって、どういういきさつだかってことはわかってるだろう。きみは、もっといろんなことを聞けといわなかったので、これだけ聞けばたくさんだと思ったので、おれは、書類を渡した。女は、受け取った。その前後から、おれの身のまわりに、人が動きまわるのは耳にはいっていた。向かい側の部屋のドアが、いきなりさっとあいた。ちらっと見ると、その部屋には、男がいっぱいいるじゃないか。なんのことやらわからなかったが、書類を渡すのに邪魔するやつなんかいないと、おれは思っていたので、女の手に、その書類を押しつけた。そのとたんに、撮影用の閃光がいくつも光った。おれは、サーカスのまん中にいるのかと思ったよ。
むろん、その時には、なにが起きたかはわかったが、その時は手遅れさ。念のために、ポケットの電報をさぐってみたが、上衣のポケットにはなくなっていた。だが、一つはっきりいえることは、そいつらどもがす早いところ、やっちまやがったんだ。やつらは、贋もののボーイを使って、おれが水を浴びている間に、おれの上衣からすり取りやがったんだな。たしかに、おれが来ることと、なんの用で来るかってことを知っていて、待ち伏せていやがったんだ。そうさ、女の部屋の外の非常階段にも、一人張っていやがったからね! そいつは、窓ガラスを割って、カメラを突き出しやがってさ、おれが書類を渡したとたんに、フラッシュをたいて写真をとりやがったよ」
「新聞記者かね?」と、メイスンがたずねた。
「新聞記者どもと警官どもだ。あんな田舎町だからって、思い違いをしちゃ駄目だぜ、ペリイ。新聞の連中だって、警官の味方をするんだからな――すくなくとも、相手がよそ者の時は、やつらは共同戦線を張るんだからね」
「警官は、どうしたね?」
「なかの一人が」と、ドレイクがいった。「おれの顎《あご》をめがけてなぐって来やがった。おれは、うまくよけたつもりだったが、なにしろ杭打ち機ほどの大きな拳固《げんこ》だったんで、そいつがかすった拍子に、ちょっと皮をすりむいたよ。ほかの警官どもは、女をつかまえて、腕ずくで廊下を引きずって行こうとした」
「書類はどうした?」と、メイスンがたずねた。
「ああ、間違いなく渡したよ」と、ドレイクはいった。「渡すだけはね。連中は、廊下をばたばたと引きずって行ったが、女は、しっかり右手に書類を握っていた。おれが女の手に、そいつを押しつけたとたん、あたりがいっぱいになり出したのに気がついたんだが、女は、そんなものには目もくれず、まるで機械のように無意識に受け取って、じっと書類をつかんでいたっけ。あの女は、世界一の驚嘆すべき女だと思うな」
「その後、どうなったか、知ってるのか?」
「ああ、知ってるとも。廊下を引きずって行きながら、ありったけの脅し文句をならべて、女をぎゅうぎゅう責めているのが聞こえた。誰がリノまでの金を払ったか、なんのために来たのか、誰にいわれて来たのか、そんなことを聞き出そうとしているようだったな」
「女は、なんといっていた?」
「なんにもいわなかった。弁護士に会うまでは、なんにも話すつもりはないとだけ、いってたな」
「それから?」
ドレイクはいった。「おれには、大切な秘密が、リノでは洗いざらい洩れちまったとわかった。警察では、女にありったけの泥をはかせるまでは、きっと、女を隠しておこうとするんだなと思った。きみが、この予審のまっ最中だということを知っていたし、雲一つない空から、相手がきみに奇襲攻撃を加えて来たりしちゃ困ると思ったもんだから、空港へ駆けつけて、アメリカ一の速い飛行機を持っているって男をさがし出し、たっぷり金を払って、一直線に舞いもどって来たというわけなんだ」
「その男は、速く飛んだかい?」
「うん、飛んだといえるだろうな」と、ドレイクは、熱っぽくいった。
ペリイ・メイスンは、物思わしげな皺を顔に寄せて、ゆっくり新聞をひろげて、見出しを読んだ。
謎の証人、リノで発見さる
弁護士も連座か
検察当局の談話によれば
審理は大陪審に移される筈
メイスンは、ゆっくり新聞をたたんだ。
「まったく、すまんことをしたなあ、ペリイ」と、ポール・ドレイクがいった。
「なんだね、ことさららしく?」と、メイスンが聞き返した。
「ひどい羽目《はめ》に、きみを追いこんだからさ。あの女にしても、まだ泥は吐いていないとしたって、手を変え品を変え責められれば、まいっちまうだろうということは、おれと同様、きみにだって察しがつくだろう。いずれは、洗いざらいすっかり白状するだろう。新聞で読んだところじゃ、どうも、いちぶしじゅうを吐き出しちまったらしいね」
「どうだ」と、メイスンがいった。「あの女は、どうしてもネヴァダ州を離れるのはいやだと、いいはっていなかったかね?」
「さあ」と、ドレイクは、ゆっくりとこたえた。「どうしたか知らんね。しかし、あれだけの警官に責められたら、いわずにはいられないだろう。でないといえば、おれが嘘つきということになるだろうな」
メイスンがゆっくりといった。「気をつけろ。検事が、こっちへやって来るぜ」
バーガーは、ひややかな微笑をうかべてペリイ・メイスンを見、猫がねずみを弄《もてあそ》ぶ時とそっくりの、いけにえをおもちゃにするような態度を見せて、いった。「きみの方で異議がなければ、今日はこの予審を延期させてもらって、その間に、ある重要な問題を、大陪審の審理にかけたいのですがね」
「そっちの方は」と、ペリイ・メイスンがたずねた。「代理の人にやってもらって、予審をつづけてもらうわけには行かんでしょうか?」
「それは困りますね」と、バーガーが相手にいった。「それに、はっきりいうとね、予審をつづけたところで、きみにとっては、いささかも役に立たんでしょうよ」
「なぜ、役に立たんのですか?」
「というのはね」と、バーガーがいった。「きみも、大陪審の審理に出てもらわなくちゃならんからです。ヘーゼル・フェンウィックという人物が、突然リノに現われた件に関連してね」
「ほう」と、メイスンがいった。「すると、ヘーゼル・フェンウィックが、この土地にいるというんですね?」
「間もなく、来ることになっています」
「すると、あの女は、リノにいたんですね?」
バーガーは、いくらか興奮の色をうかべていった。「あの女がリノにいたことは、きみの方がよくご存じのはずです。きみが費用を払ったと、当局にいったそうですからな。その点は、すっかり認めたそうですよ。いまのところ、それだけしか認めていませんがね。自分の名前は、セルマ・ベビンスだといいはっているそうです。そういう変名で、リノでは泊まっていたんです。リノの警察では、それだけしかいっていません。それ以上は、吐かせることができなかったらしいんですがね。しかし、ここへ来て、ぼくの手にかかったら、また違う歌をうたうでしょうな」
法廷は、急に活気づいて来た。ウィンター判事が、黒いカーテンの垂れている戸口の奥から姿をあらわし、裁判長席に進んだ。木槌の音がひびいて、傍聴人は静まりかえった。
ウィンター判事は、ペリイ・メイスンを見おろした。その顔の表情はきびしかった。新聞を読んだことを、言葉すくなにいったが、法廷中を圧するような声で、ペリイ・メイスンを直視していった。「弁護人は、予審をつづけることを希望しますか?」
ペリイ・メイスンも、じっと視線を返しながら、
「希望します、裁判長どの」といった。
第十六章
ウィンター裁判長は、地方検事にうなずいて、
「訊問をつづけてください」といった。
バーガー検事は、一人の書記の方を振り返り、頭を振って合図をした。
その書記は、ペリイ・メイスンに近づいて、折りたたんだ書類を差し出した。
「裁判長」と、検事は口を開いた。「現在、本法廷において審理を進められている事件に関連して、まったく予想されなかったわけではありませんが、ある驚くべき事実が判明いたしました。その観点から、本職は、一時間以内に、この予審審問を一時延期していただくようお願いしたいのであります」
ウィンター判事は、顔をしかめた。
バーガーは、発言をつづけた。「これは、この席で申しあげても別に差し支えないと存じますが、実は、ただいま審理中の事件は、大陪審廷において行なわれることになっておりまして、本職も、その大陪審廷に出廷しなければならないからであります」
「弁護人には」と、ウィンター裁判長がたずねた。「異議はありませんか?」
メイスンがなにもいわぬうちに、バーガーは、一段と声をはりあげていった。「弁護人は、異議を申し立てることができないのであります。と申しますのは、大陪審が召喚する重要な証人の一人が、ほかならぬ被告の弁護人ペリイ・メイスンだからであります」
メイスンは、悠々と、平静な口振りでいった。「裁判長閣下、ただいまの検事の発言は、まったく余計な、不必要な発言であります。大陪審廷に出廷しろという召喚状は、小職の手に持っております。しかし、この召喚状は、本法廷の再開以前に送達できる状態にあったにもかかわらず、ことさら、裁判所書記の手許にとどめおかれたことはまったく明らかなことであります。しかも、その書類が、検事の合図によって小職に送達されたことは、小職が大陪審廷に証人として召喚された事実を、法廷ならびに傍聴人に周知せしめようとする意図に出たことは、まったく明白なことで、これこそ、単なる人気取りの演技にすぎないものであります」
ウィンター判事が、一瞬ためらっていると、バーガーは、挑戦的にペリイ・メイスンの方を向いて、いった。「なるほど、うまくお膳立《ぜんだ》てをすることはできるかもしれないが、箸《はし》をつけようったって、つけられませんよ」
ウィンター裁判長は、木槌をたたいて、
「もうよろしい、検事どの」といった。「そういう個人的な発言は控えてください。弁護人も、そのような発言によって、法廷の裁決にいささかなりとも影響を及ぼそうと企むことは許されません。審理を続行します」
ペリイ・メイスンは、片手に召喚状を持ったまま、振り返って、法廷を埋めた無数の顔に急いで眼を走らせた。その群集のはしっこの方に、デラ・ストリートの心配そうな、びっくりしたような眼をとらえた。メイスンの眼にぶつかると、デラは、手にした新聞をあげて、意味ありげに振って合図をした。
ペリイ・メイスンは、ほとんど気づかれないほどにうなずいて、す早くウィンクを送った。
「つぎの証人をどうぞ」と、ウィンター判事が、検事にうながした。
「証人ジョージ・パーリー」と、バーガーが呼んだ。
パーリーが宣誓を行なっている間に、バーガーは、メイスンの方を向いていった。「パーリー氏の筆蹟鑑定家としての名声は、いまさら資格確認を必要としないほど世に知れていますが、氏は、多年にわたり、警察部に勤務していまして──」
「いや、反対訊問の権利にしたがって、パーリー氏の資格確認を要求します」と、メイスンはいった。
バーガーは、申しわけ程度にうなずいてから、証人の方に向きなおった。
「証人の名前は、ジョージ・パーリー、これまでも、また現在も、指紋および筆蹟鑑定の専門家として、警察部に勤務しているのですね?」
「そうです」
「今月の十四日、証人は、ハートリ・バセットの家に出張しましたか?」
「まいりました」
「証人は、バセット家の事務室の床に倒れていた、男の死体を見ましたか?」
「見ました」
「その死体のそばのテーブルの上に、携帯用のタイプライターがあったのを見ましたか?」
「はい、見ました」
「そのタイプライターには、タイプされた紙片がはさまれていましたか?」
「はさまれていました」
「この紙片が、それと同じ紙片であるかどうか、答えてください」
「これが、その紙片です」
「証人は、この紙片にタイプされた文字が、この紙片のはさまれていたタイプライターによって打たれたものかどうか、確かめる試験を行ないましたか?」
「行ないました」
「その試験の結果はどうでした?」
「試験の結果、その紙片の文字は、そのタイプライターによって打たれたものではなくて、実は、その後、同じ家で発見された別のタイプライターで打ったものであるということが、確実に判明しました」
「どこに、別のタイプライターはありましたか?」
「本事件の被告の一人、バセット夫人の寝室で発見されました」
「夫人は、証人の前で、その機械の持ち主について、なにかの陳述をしましたか?」
「しました」
「なんといいましたか?」
「自分の機械で、私信を打つのに使っているのだと、また自分で打つこともあるし、主人の雇人のタイピストに頼むこともあると、そう申しました」
「夫人は、タイピストとしての自分の素養について、なにかいいましたか?」
「いいました。長年のあいだ、タイピストの職業に従事していて、タッチ・システムで打っているといいました」
「タッチ・システムとは、どういう打ち方ですか?」
「タイピストが、文字盤を見ずに、指先の感覚だけに頼って打つ打ち方です」
「この紙片に打たれた文字を見て、この機械を操作した人間が、タッチ・システムで打ったかどうか、証人はいうことができますか?」
「できます。どの文字もほぼ同じ強さの力で打たれている、ある一定の平均した打ち方から、タッチ・システムだということがわかります。いわゆる二本指打ちとか、雨だれ式という打ち方は、打つ力が機械のように一定しませんので、文字盤に力の強さが変化して加わります。ですから、紙の上にあらわれた文字にも、ごくわずかながら濃淡の差が出て来るのであります」
「証人の意見では、この紙片は、この紙片の発見された機械で打たれたものでなく、またタッチ・システムで打つ人間が打ったものだ、と、そういうのですね?」
「そうです。この文書が、バセット夫人の寝室で発見されたレミントンの携帯用タイプライターによって打たれたものであることは、疑問の余地がありません。わたしの考えでは、この文書は、タッチ・システムの素養があり、かつ、その人物は、すくなくともある期間、タイピストを職業とした人物によって、タイプされたものであります」
「反対訊問をどうぞ」と、バーガーは、そっけなくいった。
「いまの証言を正確に受けとると」と、メイスンがいった。「その紙片は、後になって、バセット夫人の寝室で発見されたタイプライターによってタイプされたもので、その後で、死体の発見された部屋へ持って行って、そこにあったタイプライターに挿《はさ》まれた、と、そういうことなんですね?」
「そうです」
「ありがとう」と、メイスンはいった。「それだけです」
ウィンター裁判長は、自分のノートブックになにか書きつけてから、バーガーに向かってうなずいていった。「つぎの証人をどうぞ」
「証人アーサー・コールマー」と、バーガーは呼んだ。
コールマーは進み出て、宣誓をし、すべるように証人席に腰をおろした。いささかまわりの様子に当惑を感じたように、その灰色の眼をしばたたいた。
「証人の姓名は、アーサー・コールマーですね?」
「さようです」
「証人の職業は、最後の雇い主は?」
「ハートリ・バセット氏の秘書でございました」
「どれくらいの間、バセット氏に雇われていましたか?」
「三年間です」
「証人が、バセット氏の姿を最後に見たのはいつですか?」
「今月の十四日です」
「生きていましたか、死んでいましたか?」
「死んでいました」
「どこでですか?」
「主人の奥の事務室でです」
「どういうきっかけで、主人のそういう姿を、その事務室で見ることになったのですか?」
「わたしは、映画を見に出かけておりました。帰って来ますと、家の中がごたごたしているのに気がつきました。人々が走りまわっておりまして、ひどく興奮しているような様子でございました。騒ぎのもとはなんだろうとたずねてみますと、バセット氏がなくなったということでございました。誰でございましたか、わたしを事務室まで引っぱっておいでになって、死体の確認をさせられました」
「本職の考えでは」と、バーガーがいった。「犯罪事実は、すでに証明されていると思いますので、本証人について、死の問題に立ち入るつもりはありません。それよりも他のある事実を、本職は、この証人によって明らかにしたいと思います」
ウィンター裁判長はうなずいた。メイスンは、どっかりと椅子にかけて、両脚を前に突き出したまま、なんにもいわなかった。
「証人は、むろん、被告シルビア・バセット夫人は、ようく知っていたのですね?」
「もちろん、知っていました」
「バセット氏は、自宅に事務所をおいていたのですね?」
「同じ建物の中に、事務所をおいていました。もともと、二軒長屋か、四戸建てか、どちらかよく存じませんが、そういうふうな設計だったのだと思います」
「そして、バセット氏は、その建物の東半分を事務所に使っていたのですね?」
「東側の階下を、そうです、使っていました」
「証人は、どこで寝ていたのですか?」
「家の裏手の二階で寝ておりました」
「仕事は、どこでしていたのですか?」
「バセット氏が事務所に使っていた、その脇でです」
「証人は、時々、バセット夫人と話をする機会がありましたか?」
「たびたび、ありました」
「証人は、なんかの折に、バセット氏がかけていた生命保険の金額について、夫人と話したことがありましたか?」
「はい、ありました」
「いつ、そんな話をしましたか?」
「不適格、不適切、かつ、なんら重要な意味のない訊問として、異議を申し立てます」と、メイスンが発言した。
「異議を認めません」ウィンター裁判長は、すぱっとはねつけた。その顔は、花崗岩のようにひややかだった。
「裁判長閣下」と、バーガーがいった。「本職は、この証人によって、動機を証明しようという考えであります。それは、本職の権利であり、かつ──」
「異議は却下されました」と、ウィンター裁判長はいった。「その上に、本法廷は、このような訊問には、なんら重要な意味がないという異議は支持しません。経験の示すところによれば、金銭的利害は、殺人事件においては、もっとも有力な動機の一つであります。もし、動機としてそれを確証することができるのであれば、検事は、疑いなくそのような訊問を行なうことが許されます」
メイスンは、肩をすぼめて、椅子に腰をおろした。
「その会話は」と、証人はいった。「バセット氏の死の三日ほど前のことでした」
「その場に、誰かいましたか?」
「バセット夫人と、ディック・バセットと、わたしとでした」
「どこで、その会話をしましたか?」
「夫人の寝室の入り口の近くの、階段の降り口の廊下でです」
「どんなことを話しましたか?」
「夫人がわたしに、バセット氏の仕事のことにくわしいかと、おたずねになりましたので、くわしいと申しました。すると、バセット氏がどれだけ生命保険をかけているかと、夫人がおたずねになりましたので、それは、バセット氏に聞いていただきたいと、そう申しました。夫人は、そんな馬鹿なことはない、保険は、わたしの先行きが不安のないようにかけてあるのだからと、そういわれました。そして、『コールマーや、わたくしがその保険の受取人だということは知ってるんでしょう』と、そんなふうにいわれたとおぼえています。
わたしは、なんにも申さずにいました。すると、しばらくして、『わたくしが受取人なのだろう、そうじゃないのかい?』と、そういわれました。それで、わたしは、『もちろん、そういうふうにお考えになっているのでしたら、奥さんに反対する理由もございません。しかし、保険の詳しい内容については、ご主人にお聞きになっていただきたい』と、こう申しあげました。夫人は、ご主人があまりたくさん保険をかけすぎているように思うから、そのうちのいくつかは解約するように勧めるつもりだと、こういわれました」
「どの保険を解約すると、はっきりいいましたか?」
「いいえ、いわれませんでした」
「すると、夫人の話のねらいは、バセット氏の生命保険について、自分の肚《はら》をたしかめることに――」
「異議あり。議論によって、証人の結論を誘導するものです」と、ペリイ・メイスンが口を出した。「本証人は、被告の質問の動機に関して、いま、証言をしているものであります。証人自身に証言させてください」
「弁護人の異議を認めます」と、ウィンター裁判長がいった。
「それでは」と、バーガーは訊問をつづけた。その顔は、強い決意を示していた。「証人は、本事件の被告の一人であるピーター・ブルノルド氏を知っていますか?」
「知っています」
「はじめて知るようになったのは、いつですか?」
「一週間か、十日ほど前です」
「どうして、知り合うようになったのですか?」
「わたしが車で家へもどって来ましたとき、ちょうど、ブルノルド氏は玄関を後にして行こうとしているところでした。氏は、バセット氏を訪ねて来たのだが、バセット氏は留守らしいが、いつ帰って来るだろうかと、そう、わたしにたずねました」
「証人は、なんとこたえましたか?」
「バセット氏は、遅くまでお帰りにならないだろうといいました」
「それで、その時、ブルノルドは、家から出て来るところだったのですね?」
「そうです」
「証人は、どこへ行っていたのですか?」
「バセット氏の使いで外出していました」
「バセット氏の車を使っていたのですね?」
「はい、その通りです──大型のセダンを」
「証人がブルノルド氏に会ったのは、その時がはじめてですね?」
「そうです」
「その後にも会いましたか?」
「会いました」
「いつですか?」
「殺人事件の当夜です」
「当夜のいつ、見かけたのですか?」
「家から駆け出して行くのを見かけました」
「バセットの家から駆け出したというのですね?」
「そうです」
「それについて、誤解をしないように、もう一度たずねますが、証人がその家というのは、バセット氏が事務所にしていた、かつ、住まいにしていた家ということですね?」
「おっしゃる通り、そうです」
「その家から、ブルノルド氏が駆け出したというんですね?」
「その通りです」
「時刻は、いつごろでしたか?」
「さきほど申しあげた、映画を見て戻って来た、その時です」
「どんな方法で、戻って来たのですか?」
「歩いて来ました」
「証人は、ブルノルド氏に話しかけましたか?」
「いいえ、話しかけませんでした。ブルノルド氏は、わたしに眼をとめませんでした。通りの向こう側を走って、通りすぎて行きました」
「はっきり、ブルノルドだとわかりましたか?」
「はじめはわかりませんでしたが、街灯の下を通った時に、ようく姿が見えました。それで、相手が見え、ブルノルドだとわかりました」
「それから、どうしました?」
「それから、家に近づくと、なにか変わったことの起こったのがわかりました。窓のところに、人の姿の右往左往するのが見えました。あわただしく、人の姿が動いていました」
「なにを見たのですか?」
「バセット夫人と、息子さんのディック・バセットの姿が見えました」
「二人は、なにをしていましたか?」
「応接室で、誰かの上にかがみこんでいました。そのうちに、バセット夫人が駆け出して、エディス・ブライトを呼びました。エディス・ブライトが、家の別の方から走って来て、応接室にはいるのが見えました」
「証人は、どうしましたか?」
「応接室へはいって行って、どうしたのか、なにか手伝えることがないかと、たずねました。誰かが、寝椅子に横になっているのが見えました。バセット氏かもしれないと思って、怪我をなすったのかとたずねました。バセット夫人がやって来て、わたしの前に立ちふさがり、わたしをドアから押し出しました。夫人は、自分の部屋へ行って、じっとしていろと、そういわれました」
「証人は、どうしましたか?」
「いわれた通り、自分の部屋へ行きました」
バーガーが、メイスンにいった。「反対訊問をどうぞ」
メイスンは、弁護人席から立ちあがって、いった。「証人は、後で、事務室へ行って、ハートリ・バセットの死体の確認をしたのでしたね?」
「そうです」
「その時、証人は、映画から戻って来て、最初に家へはいった際に寝椅子に寝かされていた若い婦人が、事務室から出て行くのを見かけた男を、もう一度見れば、よく識別することができるだろうという話を聞きませんでしたか?」
「はい、そういう目撃者があったということを聞きました」
「その婦人は、暗い部屋にいたのだが、明かりが背後からさしていたので、婦人自身の顔は陰になっていて相手の男にはわからなかったが、婦人が相手の男の顔からマスクを剥ぎとると、明かりが、その男の顔を照らしたのでようくわかったのですね」
「そういうことがあったと聞きました」
「弁護人の訊問の目的はなんですか?」と、バーガーがたずねた。「伝聞にすぎない証拠を、記録にとどめようとでもいうのですか? 本職は、ヘーゼル・フェンウィックが供述したかもしれないいっさいの事実の訊問に対して、異議を申し立てます」
「これは」と、メイスンがはっきりいった。「事件の経過の一部です。弁護人として、証人が映画から戻って来て家へはいった直後の出来事にもとづいて、証人の記憶力を検証する権利はあります」
「しかし」と、バーガーは、強調するようにいった。「その権利は、ただ証人の記憶力の検証を目的とする場合だけに限られていて、事実の設定を目的とするものではないと考えます」
「これまでの訊問はおっしゃる通りのはずです」
「結構です」と、バーガーはいった。「弁護人の訊問の目的が、それだけに限定されていることを条件として、異議をとり下げます」
メイスンは、コールマーの方を向いて、
「ところで」といった。「人がマスクをつけるのは、自分の顔の人とちがう特徴をかくそうと思うからではないでしょうか?」
「その訊問は」と、ウインター裁判長がいった。「論争的なものと認めます」
「本職は、異議がありません」と、バーガーが発言した。「弁護人の自由にまかせます」
「ありがとう」と、ペリイ・メイスンはいった。「これまでの訊問は、序の口であります。本職はただ、後に訊問する事項の基礎をあらかじめつけるために、二、三の事実を、証人に指摘しておきたかったのです」
「訊問を進めてください」と、ウィンター裁判長はいった。「検事には、異議がないようです」
「証人は」と、メイスンは反対訊問をつづけた。「自分の顔貌《かおだち》の際立った特徴をかくすためにマスクを使っている人間が、自分の顔のもっとも際立った特徴、すなわち、片眼がないという事実を、ことさらさらすように、マスクを通してからっぽの眼窩を見せびらかしていたというのは、ありそうもないことだという印象を受けませんでしたか?」
「さあ、よくわかりません」と、コールマーはいった。
「証人にたずねているのは」と、メイスンがいった。「フェンウィック嬢の話のその部分を聞いて、その時、不合理だという印象を受けなかったかと聞いているだけなんですがね」
「そう思いませんですね、別に」
「ところで」と、ペリイ・メイスンは、訊問をつづけた。「被害者の生命を奪った弾丸は、明らかに、音を消すために、毛布と蒲団とに包まれたピストルから発射されたのでしたね?」
「わたしが見たところではそうでした」
「いまさら、いう必要もないほど、まったく明らかなことですが」と、メイスンは、言葉をつづけた。「マスクをした男が、毛布と蒲団を腕にかかえて、バセット氏の事務室にはいり、バセット氏に警戒心を起こさせることなく、相手の間近まで近づいて行って、弾丸をうちこむことなどは、とうていできなかったはずです。そうじゃないでしょうか?」
「そう思います」
「それにもかかわらず、バセット氏の死体が発見された時の位置から判断すると、バセット氏は、デスクに向かって腰をかけたまま、うたれて、前に突っ伏していただけのようでしたね。抵抗もしなければ、肩からかけたケースに入れていたピストルも取り出そうともしていなかった。そうじゃありませんか?」
「裁判長」と、バーガーが、メイスンの訊問をさえぎって、いった。「弁護人の訊問は、明白に議論を強いるものであり、空論に近いものであります。本証人は、専門家ではなくて──」
ペリイ・メイスンは、上品に微笑をうかべて、
「本職も」といった。「検事のいわれる通りだと考えます」
そのとたん、法廷のうしろの方で、ざわめきが起こった。人々が、いくつも小さな渦巻きになって、口々にぶつぶつと罵《ののし》り騒いでいた。
ペリイ・メイスンは、法廷中の注意を集めようとするように、一段と声を張りあげた。
「裁判長もおわかりいただけると思いますが」と、メイスンはいった。「この証人は、被告両人ともを、きわめて不利な立場におとし入れました。従って、弁護人としては、どういう動機によってこのような証言を行なったか、証人を反対訊問する権利があり――」
法廷のうしろの方の騒ぎは、いっそう大きくなった。その騒ぎの中から、「係官だ。道をあけてくれ」という男の声が聞こえて来た。
ウィンター裁判長は、強く木槌をたたき、法廷のうしろの方に眼をやった。その顔には、裁判官としての焦燥と、人なみな好奇心とが入りまじってあらわれていた。
バーガーが立ちあがった。
もうその前に立ちあがっていたペリイ・メイスンは、バーガーに発言の機を与えずに、声を張りあげて、叫ぶように、「裁判長、本職が、本証人ならびに法廷の審理に、専心できるようにしていただきたい。もし、なんらかの理由でそれが不可能ならば、秩序が回復して、証人ならびに法廷もともに注意をそらされることなく、審理が継続できるまで、本証人の退席を取り計らっていただくようお願いします」
バーガーも、穏かにいった。「もしお許しいただけるなら、本職も、同じことを提案しようと思っていたところであります。審理の中断もやむを得ないと存じますので、一時、証人を退席させることを、本職も提案し──」
ウィンター裁判長は、つづけさまに木槌を打ちならして、
「静粛に!」と、どなるような声でいった。「でなければ、退廷を命じます」
「自分は、係官であります」と、法廷のうしろから、一人の男が大きな声でいった。
「誰だか知らんが」と、ウィンター裁判長は、どなるようにいった。「法廷侮辱罪とみとめる。法廷は、いま、開廷中である」
「裁判長のお許しがいただけるなら」と、バーガーは、ていねいではあるが、強くいった。その声には、一歩も退かないという決断の調子がこもっていた。「本職は、この証人を退席させることに、全面的に同意します。いや、まったく、証人の退席を取り計らっていただくようお願いします。ただいま、もっとも重要な証人が出廷して来ております。本職は、その証人の訊問を希望いたします。そして、この証人の訊問をおわれば、もはや、他の証人の訊問は必要がなくなると存じます。バセット夫人の共謀の事実はともかくとして、この証人は、ブルノルドに対する起訴事実を確定せしめる重大な証言を行なうと、本職は信じます」
「ただいまの検事の発言は、不穏当、かつ違法として異議を申し立てます」と、メイスンがどなった。
バーガーは、顔をまっ赤にして、大声でいった。「弁護人は、人々の注意を自分からそらすために、煙幕を張ろうとしているのであります。いまこの瞬間、弁護人は、おそろしく不安に脅えて――」
「静粛に!」と、ウィンター裁判長が、バーガーの言葉をさえぎった。「本職は、法廷の秩序を保たねばなりません。法廷に個人的な感情を持ちこむことを許しません。静粛にしてください。さもないと、退廷を命じます!」
廷内は、いくら静かになった。バーガーは、顔を赤らめて、のどがつまったような声でいった。「裁判長、うかつなことを申しました。お許しください……」
「検事の弁解はみとめません」と、ウィンター裁判長は、手きびしくいった。「本職は、審理に感情をまじえることについて、再度、検事に注意を与えました。ところで、検事はなにを希望するのですか?」
バーガーは、よそ目にもそれと見えるほどの努力をして、自制した。緊張した、無理に抑えつけたような声でいった。
「本職は、この新しい証人を証人台に立たせるために、証人コールマーを退席させることを希望します。しかし、その前に、しばらく休憩をいただきたいのですが」
「検事が」と、メイスンが発言した。「この新しい証人を訊問しようと望まれるのならば、訊問に先立って、自分一人で証人を取調べることなく、堂々と法廷で審問を行なわれるはずだと思います」
「裁判長」と、バーガーは、なおも主張をつづけた。「この証人は、敵意ある証人であります。これまで法廷からの召喚を拒んでいた人物であり、従って、本職は、敵意ある証人として、この人物を取り扱わなければなりません。しかし、この証人の証言は、最大の価値のあるものであります」
「検事のいう証人とは、ヘーゼル・フェンウィックのことですね?」と、ウィンター裁判長がたずねた。
「そうです、裁判長」
ウィンター裁判長は、うなずいた。
「証人コールマーは、証人席をさがってよろしい。フェンウィック嬢は、前に出てください」
「裁判長、通路が混雑して、進むことができません」と、バーガーが申し立てた。
「通路をあけて!」
「しばらく、休憩をいただければ……」と、バーガーが訴えるようにいった。
ウィンター裁判長は、ちょっと躊躇してから、いった。「五分間、休憩します」
二人の係官が、蒼白な顔の女を間にはさんで、通路を掻きわけて進んで来た。
ウィンター裁判長は、判事席から立ちあがり、ちょっと女の顔を物珍しそうに見つめてから、黒いカーテンのかかった戸口から、つかつかと自分の部屋へ退いて行った。
法廷じゅうの眼という眼が、ほっそりとした、いい姿の、黒い髪の若い女の方に注がれた。
女は、一度、訴えるような、怒りのこもった視線を、ちらっとペリイ・メイスンに向けたが、すぐに、その眼をそらした。係官は、女を前へ押した。誰かがマホガニーの柵の入り口をあけた。女は、弁護士用にあけてあった場所へはいった。
バーガーが、取り入るような微笑を浮かべて、女に近づいた。傍聴人たちは、首をのばすようにして、そこでなにがはじまるかを見ようとした。見えない連中は、聞き耳を立てていた。ふつう、重大な殺人事件の審理中の休憩時間につきものの、興奮した会話のざわめきはどこにもなかった。すこしでも前へ出て、いい席をしめようとする人々の、かすかなひしめきと、人々の息づかいとが聞こえるだけだった。
バーガーは、手ごろの場所をさがすようにあたりを見まわしてから、セルマ・ベビンスの腕をとって、新聞記者席に近い法廷の片隅に引っぱって行って、ひそひそと、かの女に囁きはじめた。
女は、頑固に頭を振っていた。バーガーは、女を睨みつけ、小声の言葉をつづけざまに吐き出し、それからまた、なにかを質問する様子だった。女は、ペリイ・メイスンの方を振り向きかけたが、はっと気がついたように、くるりと顔をバーガーの方に向けて、バーガーの顔を見返し、きっと唇をとざした。
バーガーの脅しつけるようなしわがれた声が、傍聴席の最前列にいる人々の耳にまで聞こえた。
「よろしい」と、バーガーがいった。「あなたが、そんなに強情を張ろうとするんなら、わたしは、あなたを証人席にすわらせ、宣誓をさせた上で、あなたをしゃべらせて見せる。これは、正式の予審廷なのだから、どんなことであっても、事件に関連したあなたの発言は、重大なことになるのですよ。もし、あなたが嘘をいえば、わたしは、あなたを偽証罪で告発するし、もし、飽くまでも、あなたが発言を拒めば、法廷侮辱罪で、裁判長は、あなたを監獄に入れますよ」
女の唇は、とざされたままだった。
バーガーの顔色が、前よりも黒味を増した。バーガーの眼は、法廷の向こうの方で、おっとりと無関心な態度で、煙草に火をつけているペリイ・メイスンの方を睨みつけた。
バーガーは、ポケットから時計を取り出し、相変わらず、しわがれたような声でいった。「もう一度だけ、チャンスを与えてあげよう。六十秒だけ、しゃべるのを待ってあげる。それから、正直にしゃべるんだ」
バーガーは、時計を見つめて立っていた。セルマ・ベビンスは、しゃんと身をまっすぐに立てて、バーガーのうしろの方を見つめていた。その眼は、相手を軽蔑するように、遠くに見据えられていた。顔色は、ひどく蒼白で、唇は、かたく噛みしめられていた。
一人の向こう見ずな新聞記者が、法廷が審理中でないのをこれさいわいと、カメラを構えて、閃光球《フラッシュ》を焚き、写真をとった──その写真には、喧嘩腰に頑張っているセルマ・ベビンスと、敵意と焦燥とをあらわに、時計を睨んでいるバーガーと、その背景には、皮肉な表情を顔に浮かべて、煙草を吹かしているペリイ・メイスンとがうつった。
バーガーは、くるっとその記者の方を振り向いて、どなりつけた。「そんなことをしてはいかん!」
「審理中じゃないんだ」と、記者はいいすてたまま、向きなおって人ごみを掻《か》きわけ、特種《とくだね》写真を持って飛び出してしまった。
バーガーは、時計をポケットにしまいこんだ。
「よろしい」と、セルマ・ベビンスに向かって、バーガーはいった。「あなたが蒔《ま》いた種子だ。さあ、いくら嘘をついても、いいよ」
女は、バーガーのいうことが聞こえたというような気ぶりも見せずに、まるで大理石の彫像のように身をかたくして、まじまじと見つめながら立っていた。
ウィンター裁判長が、自分の部屋からまた法廷にはいって来て、一段高くなった自分の席について、いった。「審理を再開します。お二人とも、準備はよろしいですか?」
ペリイ・メイスンが、ものうげな声でいった。「結構ですよ、裁判長」
バーガーの顔は、憤激の色をあらわしていた。「ヘーゼル・フェンウィック、証人席について」
女は、身動きもしなかった。
「聞こえたでしょう!」と、バーガーは、どなるようにいった。「証人席についてください。右手をあげて、宣誓をするんです。それから、あの椅子にかけてください」
「わたしの名前は、ヘーゼル・フェンウィックじゃありません」
「なんという名です?」
「セルマ・ベビンス」
「よろしい。では、証人セルマ・ベビンス。右手をあげて、宣誓をしなさい。それから、証人席についてください」
女は、一瞬ためらっていたが、やがて、右手をあげた。書記が宣誓をさせた。女は、証人席へ足を運んで、腰をおろした。
「あなたの姓名は、なんというのですか?」と、バーガーが、高い声でいった。
「セルマ・ベビンスです」
「これまで、ヘーゼル・フェンウィックという名前を使ったことがありますか?」
女は、躊躇した。
ペリイ・メイスンの声は、物やわらかで、幾分いたわるような調子だった。
「ベビンスさん」と、メイスンはいった。「その問いにこたえたくなければ、こたえなくてもいいんですよ」
バーガーは、くるっとメイスンの方を向きなおって、いった。「きみは、こんどは、この若い婦人の弁護人となったのですか?」
「敢えておたずねなら、そうです」
「すると」と、バーガーはいった。「そのことは、非常にいかがわしい立場に、きみを置くことになるじゃありませんか。ことに、この証人の失踪と、きみが関係があるのではないかとして持ちあがった疑惑の点から考えれば」
メイスンは、軽く頭を下げて、いった。「ありがとう、検事どの。しかし、わたしにだって、自分の行為の結果がどうなるかぐらいのことは、よくわかっていますよ。繰り返していうが、ベビンスさん、いまの訊問には、こたえなければいかんということはありませんよ」
「いや、こたえなくてはいけない」と、バーガーは、証人の方へ向きなおり、その方に指を突きつけて、いった。「証人は、いまの訊問にこたえなければいけない。適切妥当な訊問であるから、検事としてこたえることを要求します」
ウィンター裁判長はうなずいて、いった。「メイスン弁護人に注意しますが、どのような訊問にこたえなくてはならないか、どのような訊問にはこたえなくてもよいかを指示するのは、裁判長の判定にかかるものなのですよ。いまの訊問は、適切妥当な訊問として、証人に答弁を命じます。答弁を拒む場合には、法廷侮辱罪を適用することになりますぞ」
ペリイ・メイスンは、安心させるように、セルマ・ベビンスににっこり笑って、
「ぜひこたえなくてはならんということはありませんよ」といった。
ウィンター裁判長は、それを聞いて、感嘆に近い絶叫の声をもらした。バーガーは、くるりと向きなおって、憤怒の色を顔に浮かべて、ペリイ・メイスンの顔を真正面から見た。
ペリイ・メイスンは、いままでいっていた言葉の途中で、ちょっと息をついて休んだだけというような、前と同じ調子で、言葉をつづけた。「……もし、いまの訊問にこたえることが、あなたを罪におとし入れそうだという気がするのだったらね。あなたがしなければならんことはね、ベビンスさん、『憲法に定められた権利に基づいて、自分を罪におとし入れるおそれのある答弁は拒みます』と、それだけいえばいいのです。いったん、あなたがそういった以上は、地球上のどんな権力も、あなたに答弁をさせることはできないのですよ」
セルマ・ベビンスは、ちらっとメイスンに微笑を見せてから、いった。「わたしは、憲法に定められた権利に基づいて、わたしを罪におとし入れるおそれのある答弁をすることは、おことわりいたします」
大きな暗礁《あんしょう》に乗りあげたような沈黙が、証人席を取りかこんだ一団の人たちの上に落ちた。やがて、バーガーが、大きな溜め息をついた。雄弁に敗北を認めているような溜め息だった。
バーガーは、もう一度、セルマ・ベビンスの方を向いて、
「証人は」といった。「ハートリ・バセットが殺害された時、バセットの家にいたのではありませんか?」
女は、ちらっとペリイ・メイスンを見た。
「その質問にこたえることは、ことわりなさい」と、メイスンがいった。
「このような訊問にこたえることが、どうして、証人を罪におとし入れることになるのでしょうか?」と、バーガーが、ウィンター裁判長にたずねた。
メイスンは、両方の肩をすぼめていった。「わたしが法律を正しく理解しているとすれば、それは、証人自身が判断するものだと思います。説明すれば、答弁以上に罪を犯すことになるかもしれませんからね」
セルマ・ベビンスは、ペリイ・メイスンの言葉の言外の意味をくみとって、にっこり微笑をうかべて、「とにかく、いまのご質問にこたえることは、おことわりいたします」
ウィンター裁判長は、咳払いをした。しかし、なんにもいわなかった。バーガーは渋面を作ったが、やがて、荒々しく別の線から攻撃にとりかかった。
「証人は、ペリイ・メイスン氏を知っていますね?」と、バーガーはたずねた。
ウィンター裁判長は、ぐっと身を乗り出し、裁判官らしい威厳を含んだ声でいった。「いまの訊問に答弁をしたからといって、罪を犯すようなことなどは、どこにもないはずです。ですから、本職は、いまの訊問にこたえることを、証人に命じます」
「知っております」と、セルマ・ベビンスは答えた。
「証人は、ペリイ・メイスン氏からいわれて、ネヴァダ州に行ったのですか?」
女は、ちょっと当惑したような様子で、ペリイ・メイスンの方を、ちらっと見た。
メイスンが発言した。「わたしは、いまの訊問に対しても、憲法に定められた権利に基づいて、こたえないように指示してもいいところですが、裁判長と検事のご便宜のために、この婦人にリノヘ行くようにすすめ、リノまでの旅費を払ったのは、わたしであることを申しあげておきます」
地方検事は、たとえ、濡れタオルで、いきなり顔をなぐられたとしても、これ以上大きな驚きを示すことはできなかったろう。
「あなたが、なんですと?」と、バーガーはたずねた。
「この証人に、リノまでの旅費を払って、向こうへ行くようにすすめました」と、ペリイ・メイスンはいった、「なおまた、滞在中の費用も、わたしが払ったのです」
「そして、この婦人の弁護人だと、きみはいうのですね?」
「さよう」
「そして、証人に、どんな訊問にもこたえぬように指図するのですね?」
「いままでおたずねになった訊問には、こたえぬようにと指示しました。これからもおたずねになる訊問にこたえるようにとは、いえそうにもありませんな」
バーガーは、再び証人の方に向きなおって、
「証人は、ディック・バセットを知ってからどれくらいになりますか?」とたずねた。
「その訊問にも答えなくてよろしい」と、メイスンはいった。「答えたら、罪を犯すことになる」
ウィンター裁判長は、ぐっと体を乗り出して、ペリイ・メイスンをじっと睨みつけた。
「弁護人は」と、ウィンター裁判長はいった。「訊問にこたえることは、証人が罪を犯すおそれがあるという口実で、この証人に、訊問にこたえないように指図しているようですが、それは、答弁が証人を罪におとし入れるからではなく、むしろ、弁護人自身を罪におとし入れるという感じを抱いているからだという印象を、本職は受け出しています。本職は、その問題に関して説明する機会を、弁護人に与えます。その結果、いまいったような印象が正しいと判明した場合は、本職は、断乎たる処置をとらなければなりません」
「わたしに、説明をする機会を与えるといわれるのですね?」と、ペリイ・メイスンはたずねた。
「そう、その通りです」と、ウィンター裁判長は、もったい振っていった。
「よろしい」と、ペリイ・メイスンはいった。「そういう事情なのでしたら、弁明をする必要が、わたしにはあるようです。このような弁明をしなければならないというのは、わたしの望むところではないのでありますが。
ハートリ・バセットが殺されたその夜、一人の若い婦人が、表の事務室に待っていました。婦人がそこで待っていますと、明らかに凶行直後と思われる時刻に、一人の男が、その部屋にあらわれました。その男の顔は、カーボン紙で作ったマスクでおおわれていました。そのマスクには、両眼の部分に孔が二つあけてありました。そして、その片一方の方から、眼玉のない、からっぽの眼窩が見えていました」
ウィンター裁判長が、鋭くいった。「弁護人、その発言は、証人であるこの若い婦人、あるいは、この証人が訊問にこたえない理由と、なにかの関係があるのですか?」
ペリイ・メイスンは、率直にこたえた。「裁判長、それは問題ではありません。問題は、なぜ、わたしが訊問にこたえないように、この証人に助言するかということであります。わたしは、その点についておこたえしようとしているのであります。そして、弁明がおわった時には、裁判長も、多少議論がましいかもしれないが、わたしのいま申しあげることが、すべて適切妥当であるとおわかりいただけるであろうと信じます」
「よろしい」と、ウィンター裁判長は認めた。「さきへ進んでください」
「若い婦人は、声を張りあげて叫びました。男は、その婦人をなぐりました。婦人は、マスクをはぎとりました。婦人は、相手の男の顔貌《かおつき》をよく見ることができました。それというのも、特殊な照明装置の結果からで、男には、婦人の顔貌を見ることができなかったのです。男は、またもや婦人をなぐりつけ、婦人を気絶させてしまいました。たぶん、婦人を殺してしまったと思ったのでしょう。そのまま逃げ去りました。ところで、裁判長、その若い婦人は、われわれの知る限りでは、あの殺人が行なわれた直後、あの部屋から出て来た男の顔を目撃した、ただ一人の生存者であります」
「それならば」と、ウィンター裁判長はいった。「あなた自身の論述は、弁護人、そのような証言の妨害をしようとするばかりか、そのような重大な証人を法廷の正しい審理から遠ざけようとするもので、もっと重大な違法行為だという気を、本職にさせるのですが」
「ただいまのところ、その点を論ずるつもりはありません」と、メイスンはいった。「わたしは、ただ、この若い婦人に、自身を罪におとし入れるおそれがあるような答弁をしないように指図をした理由を、説明しようとしているだけであります」
「これは」と、ウィンター裁判長はいった。「まったく驚くべき事態ですな、弁護人どの」
「そうでないとは申しません」と、メイスンはいった。「しかし、わたしは、ただ、裁判長から与えられた機会を利用して、説明をしようとしているだけであります」
「よろしい。その先をつづけてください」
「明らかに」と、ペリイ・メイスンは弁明をつづけた。「マスクは、むしろとっさの間に合わせに作ったものだったのでしょう。バセットの部屋へはいって行った男は、計画的に殺害の目的ではいって行きました。ピストルをうつことも、ちゃんと計画してはいって行ったのでありまして、ピストルの発射音を人に聞かれないように、用意を怠らなかったのであります。わかりやすくいえば、相手の眼から武器をかくすためと、発射音を消すためとの二重の目的にかなうように、毛布と蒲団の下にピストルを隠し持っていたのです。この事は、計画的だったことを示しています。さらにまた、バセットのタイプライターの上に残されていた、タイプで打った自殺をする旨の遺書も、あらかじめ用意したものにちがいありません」
「弁護人はいま」と、ウィンター裁判長は、額に八の字を寄せながら、いった。「被告に不利な論述をしているようですね」
ペリイ・メイスンの声は、平静を保っていた。
「裁判長、わたしは、いま、裁判長から求められた説明を、この若い婦人に答弁をしないように指示した、わたしの立場を説明しようとしているのであります」
「しかし、弁護人が、この殺人事件で弁護をしている被告の利益に反する言動に出ることは、法律的倫理を犯すことですね」
「わたしには」と、ペリイ・メイスンはいった。「わたしの職業、あるいは、弁護依頼人に尽すべきわたしの義務に関する倫理について、この法廷のご指示を受ける必要はありません」
「よろしい」と、ウィンター裁判長はいった。その顔は、それまでよりも、いくぶん暗くなった。「説明をすすめてください。そして、なるべく簡単に、納得の行く説明ができなければ、法廷侮辱とみとめます」
「残念ながら」と、メイスンがいった。「説明というものは、最後まで完了しなければ、全然説明の用をなさないものであります。わたしは、これから申しあげる意味深長な、いくつかの点に、裁判長のご注意を喚起したいのであります。その一つは、犯人である男が殺人を行なった後、表の事務室を通って立ち去る計画だったのなら、かれは、あらかじめマスクを用意していたはずだということであります。ところが、犯行は計画的だということを示しておりますが、逃亡はそうではありません。マスクは、あわてて作られたものでありました。それは、殺人を遂行した後、手近かにあった材料で作られたものです。
さて、裁判長、この逃亡の方法は全部、すなわち、顔にマスクをして、ことさらからっぽの片方の眼窩をさらして見せるという、この逃亡の方法は、殺人を遂行してから、被害者の手に握っていたガラスの義眼に気がついて、その価値の可能性を巧妙に利用するために、犯人の頭に湧いて来た思いつきであったというのが、わたしの論点であります。
このガラスの義眼が、偶然に犯人の眼窩から落ちたとか、あるいは、争闘の最中に、バセットの手によって抜き取られたとか、そのようなことは明らかに不可能なことであります。ぴったり合った義眼なら、故意にはずさなければ、はずれないものであります。そして、問題の義眼は、ぴったり合った義眼でありました。それなら、犯人は、なぜ、自分の義眼を故意に取りはずし、なぜ、故意に、一方のからっぽの眼窩を、目撃者にさらしたのでありましょうか? その理由は、裁判長、ただ一つしか考えられないのであります。すなわち、犯人は、自分が義眼を用いていることについて知っている者は、誰一人いないと確信していたということ、しかも、警察が嫌疑をかけると予想される容疑者の一人が、義眼の着用者であることをよく知っていて、死者の手に握られていた義眼が、その容疑者の所有物であると、必ずや警察は推定するであろうと感じていたということであります」
「弁護人の発言はすべて」と、ウィンター裁判長は、いらいらした口調でいった。「議論のための議論とみとめます。しかも、犯人の故意ならびに計画性についての弁護人の論述は、むしろ検察側に味方するかの感を与えるもので、要求された説明の範囲を逸脱していて、ただ議論のための議論とみとめます」
ペリイ・メイスンは、かすかに頭を下げていった。「わたしは、その犯人である男を確認することのできる唯一の人物であるこの若い婦人が、寝椅子から立ちあがった時に、ドアによろけかかろうとして、両手をのばして、身を支えたという事実を述べようとしていたのであります。その婦人の両手が、ドアにはめこまれていたガラス板に押しつけられました。それで、その若い婦人が両手の指紋を、そのガラス板に残したのにちがいないという考えが、わたしの頭に浮かびました。わたしの依頼によって、私立探偵はその指紋を検出し、その指紋の調査をさせました。
それらの指紋を調査した結果、問題の若い婦人は、いわば女青ひげとも称すべき人物として、警察が緊急手配中の女であることが明らかになりました。その女は、つぎつぎに男と結婚する癖があり、しかも、その女と結婚した夫は、結婚後数週間ないし数か月後には、死亡するのが常でありました。そして、そのたびに、女は、遺産を相続して、つぎの結婚にと移って行ったのであります」
ウィンター裁判長は、物もいわず、強い衝撃を受けたような、信じられない面持ちで、ペリイ・メイスンを見おろした。地方検事のバーガーは、そろそろと腰をおろし、深い息をつづけざまにはいてから、そろそろと立ちあがった。その眼は、驚きに大きく見開かれていた。
「わたしたちが知り得たところによりますと」と、ペリイ・メイスンは、穏かに言葉をつづけた。「それらの中には、謀殺であることを、警察においては、実際に確証し得たものも、幾件かは含まれているのであります。この若い女は、ひそかにディック・バセットと結婚していました。その結婚は、重婚でありました。女には、一人の生存する法律上の夫が――すなわち、すくなくとも一人の、いや、たぶん、二人以上の生存する法律上の夫があります。その夫が特別に生き長らえた理由は、結婚にあたって、自分の財産について女に嘘をつき、かつ、女を受取人とする生命保険の加入を拒んだからで、殺すだけの価値が、それらの夫にはなかったからであります。
以上申しあげた事実については、すべて、確証を握っております。ここに持っている封筒の中に、問題の女性の犯罪記録を明らかにした完全な文書がはいっております。この文書を、バセット家のドアのガラス板に残された指紋の写真とともに、検事に提出できるのは、わたしの大いな喜びとするところであります。
その故にこそ、裁判長、わたしは、敢えて検事に対する非礼をも顧みず、弁護士としての自分の権利を行使することなく、罪に落ちるおそれのある訊問には答弁を拒否するよう、この証人に助言をしたのであります」
バーガーは、ペリイ・メイスンが手渡した封筒を受け取った。あまりにも大きな驚きに、その指はぎこちなくこわばっていた。
ウィンター裁判長は、一瞬、その顎を指でたたいていたが、やがて、ゆっくりといった。「本職は、弁護人の口から、依頼人である被告の利益を裏切る、このような驚くべき発言がなされるのを、いまだかつて耳にしたことはありません。本職は、このような陳述を、とうてい了解することができません。本職は、むろん、弁護人の論述の一部が、弁護人の知り得た事実から成るものであり、それを当局に伝えることが弁護人の義務であることはみとめますが、その論述の方法と、述べられた言いまわしと、その論述の行なわれた時期とは、この若い婦人の利益に対して、非常に不利な作用をするものと感ぜざるを得ません」
ペリイ・メイスンはうなずいて、まるでなに気ない口振りでいった。「もちろん、裁判長、わたしは、このような論述をすることは望まなかったのでありまして、裁判長のご要求がなかったならば、いまのような論述はしなかったでありましょう。しかし、裁判長は、この婦人でなく、わたし自身を守ろうと思うためだけの気持ちから、わたしが、この若い婦人に答弁を拒否するよう助言をしたと主張されました。しかし、いまは、わたしがどういう考えで行動をしているかをよく承知していたことを、裁判長もおわかりいただけることと考えます」
ウィンター裁判長は、なにかいおうとしかけたが、そのとたん、バーガーがさっと立ちあがって、さえぎった。その右手には、一人の婦人の、正面向きと横向きの顔写真と、その下に両手の指の指紋と、人相書きを印刷したものを持っている。
バーガーはまた、左手にも指紋の写真を持っていた。その両方を、ペリイ・メイスンに振って見せて、
「これが」と、ペリイ・メイスンに問いかけた。「そのドアに残されていた指紋ですか?」
「それが、指紋の写真です、そうです」
「そして、この指紋と、このわたしの右手に持っているこの写真の指紋と一致するというのですか?」
「一致します」と、メイスンはいった。
「すると」と、その紙片をペリイ・メイスンに向かって振りながら、バーガーは、大声でいった。「なんらかのぺてんが行なわれたということですね。だって、そうでしょう。この女青ひげの写真と、証人のこの若い婦人とは、全然似てもいないのですから!」
ペリイ・メイスンは、静かな微笑をバーガーに見せて、
「それこそ」といった。「大陪審廷で、述べていただきたいことです」
法廷には、大混乱が起こった。
第十七章
ウィンター裁判長は、三分間ほど、法廷を静粛にさせようとしてみたが、うまくいかなかった。最後に、十分間の休憩を宣して、傍聴人を退場させろと、廷丁に命じた。
一人の廷丁が、メイスンのそばへやって来て、
「ウィンター判事どのが、お部屋で、あなたと検事どのにお目にかかりたいと申しておいでです」といった。
メイスンはうなずいて、廷丁といっしょに判事の部屋へ行った。ひと足おくれて、地方検事がはいって来た。
バーガーは、不機嫌な顔をメイスンに見せ、固くるしい威厳をつくって、「ご用でしょうか、判事さん?」とたずねた。
「実は、非常に特異な、この審理の進展について、諸君と検討してみたいと思ってね」と、ウィンター判事はいった。
「たとえどんなことでも、ペリイ・メイスン君と話し合うことはありません」と、バーガーは、きっぱりといった。「いまの婦人がヘーゼル・フェンウィックであってもなくても、大陪審廷にペリイ・メイスン君が出廷しなければならんこととは関係がありませんからな」
ドアにノックが聞こえた。
「はいりたまえ」と、バーガーが声をかけた。
ウィンター判事は、困惑したような渋面をつくって、顔をあげた。ホルコム巡査部長が部屋へはいって来た。
「判事さん、勝手な処置で恐れ入ります」と、バーガーがいった。「しかし、事情が事情ですから、ホルコム巡査部長に、ペリイ・メイスン君の身柄拘置を依頼しました」
「拘束とは、なんの理由で?」と、メイスンがたずねた。
「証人に干渉を加えたかどで」と、バーガーが、ぴしっといった。
「しかし、あの婦人は、証人ではありませんでしたよ。あの婦人は、この事件について、なに一つも知ってはいなかったのです。新聞さえも読んではいなかったのです。まるっきり関係のない人間だったのですよ」
「きみは、あの婦人をリノヘやって、ヘーゼル・フェンウィックにばけさせ、それによって、本物のヘーゼル・フェンウィックの逃亡を助けたじゃありませんか」
「そんなことは、なに一つ、わたしはしませんでしたよ。ヘーゼル・フェンウィックは、わたしがセルマ・ベビンスにまだ会いもしない前に、とうに逃亡してしまっていたのです。法廷で申しあげた通り、ヘーゼル・フェンウィックが身をかくさなければならなかったわけは、まったく明白だと思います。おそらく、警察も逮捕するにちがいありません。いまや、あの女について、いろいろ知った以上は、捜査にとりかかっているでしょう。
あの婦人に助言して、ヘーゼル・フェンウィックにばけさせたということですが、そんなことは、なんにもしませんでしたよ。わたしは、リノヘある男をやって、あの婦人のところへ、書類を送達させました。その書類を送達した時、婦人は、自分でヘーゼル・フェンウィックではなくて、セルマ・ベビンスだが、送達の書類は受けとると、特別にはっきりといったということです。
わたし自身の理由を申しあげれば、わたしは、その書類が、ネヴァダ州のリノで送達される形式をとることを望んだのです。その事情は、この事件とはなんら関係のないことです」
「しかし、なぜ、そういうことをしたのです」と、ウィンター判事がきびしい調子でいった。「わたしが問題にしているのは、そこのことなんですがね。ここで、そのことをきみと個人的に、とっくり話し合うことができれば、それ以上、公開の席で、その問題を論ずる気はないのです。しかし、どうも、きみは、故意にこの審理の全過程を利用して、この事件の関係者全部を笑い者にさせるばかりか、確かになんらかの利益をはかろうとしているように、わたしには思えるのですがね。もし、その通りなら、きみは、法廷侮辱の罪を犯したことになり、わたしは、きみを処罰しなければなりません」
「わたしは、なんにもしませんよ」と、メイスンはいった。「わたしは、あの若い女性を、ここへつれて来はしませんでした。事実、あの婦人は、わたしの指図にしたがって、自由意志でネヴァダ州を離れることを拒みました。お調べになればきっとおわかりになることですが、あの婦人は、検事さんとネヴァダ州当局との黙認の下に、力ずくで無理につれて来られたのです」
「あの婦人は、重要な証人だ。正式の召喚状を請求して、本人に送達したのだ」と、バーガーが断言した。
「その通りです」と、メイスンは相手にいった。「あの婦人をここへつれて来たのは、あなたです。あの婦人をヘーゼル・フェンウィックだと考えたのも、あなただったのです。わたしは、そんなこと考えもしなかったし、あの婦人を、ここへつれてなんか来ませんでした。証人台にすわらせもしませんでした」
「しかし、そんなことをして、きみは、なにを得ようと望んでいたのです?」と、ウィンター判事がたずねた。「なぜ、訊問にこたえるなと、あの婦人に助言したのです?」
「その質問にはおこたえしてもいいが」と、ペリイ・メイスンは、ウィンター判事にいった。「それには、終りまで完全に、話の腰を折らないという条件さえ入れてくださるのなら、おこたえしましょう」
「わたしは約束なんかしないよ」と、バーガーはメイスンにいった。「ただ約束できるのは、きみが大陪審廷に召喚されることと、それまで、きみの身柄を拘束することだけだ」
「わたしは」と、ウィンター判事はいった。「喜んで、きみの説明を聞かせてもらうつもりだ。当然、そうしなければならんという気がするし、きみも当然しなければなるまい。きみは、非常に頭のいい、敏腕な弁護士だという評判を聞いています。そのきみの行為の裏には、なにか理由があるのは当然だ。この場合、わたしは、喜んでその理由を聞きたい」
「結構です、判事さん」と、メイスンはいった。「この部屋においでになるみなさんは、この地上にある誰よりもヘーゼル・フェンウィックを恐れる理由のある一人の男がいるという事実を、見おとしておいでになる。その男こそ、ハートリ・バセットを殺害した犯人なのです。
その男は、ヘーゼル・フェンウィックがどんな顔をしているか知らないのです。ですから、もし、検事さんが、いかにもヘーゼル・フェンウィックその人らしい婦人を引っぱり出して、証人台に立たせたら、その男は、万事休すと思って、当然尻尾をまいて逃げ出すでしょう。
わたしは、あなたがたお二人とも、わたしが法廷で行なった論述の、義眼の着用者であることを知られている男が、凶行が行なわれた後に、故意に自分の義眼を、ハートリ・バセットの手に握らせるはずがないから、この事件の犯人はブルノルドではあり得ないという趣旨の、論述の意味を見のがしておいでになる。これに反して、かりに、その義眼がハートリ・バセットの手で、眼窩からもぎとられたとすれば、たとえ、そのようなことが可能だと想像できるとしても、ブルノルドが、ことさらマスクを顔にあてたばかりでなく、自分の顔のもっとも際立った特徴の一つであるからっぽの眼窩を、はっきり人の眼につくように、わざわざマスクに孔をあけたりするはずがありません。
一方、あの家に住む誰か他の人物が、義眼を着用していて、しかも、その事実を、家の中の誰にも知られていないとすれば、その男は、どこまでも、その犯罪が片眼の人間によって犯されたらしく見せかけるようにつとめ、そうすることによって、ブルノルドに嫌疑が向けられることを期待するのではないでしょうか。
わたしは、あの家に住む全部の人間の顔を、強い照明をあてて、写真にとろうと企ててみました。おわかりでしょうが、できのよい、ぴったり合った義眼が、眼窩にもなんら傷がないような場合、義眼であることを発見するのは、とても困難なことです。しかし、天性の眼は、光の強弱に応じて、瞳孔が広がったり収縮したり、自分で調節しますが、義眼では、明らかにそういう調節はできません。ですから、強い光に向いて写真にとられた人物が、もし、片方に義眼を用いていれば、左右の瞳孔の大きさが違ってうつるはずです。
ところが、コールマーだけが、写真をうつさせませんでした。そのことが、コールマーに対する疑念を、わたしに深く植えつけました。コールマーは、さきほど検事さんが証人席につかせた若い婦人を見て、これこそ、自分の本性をはっきり証言できる、あの失踪した目撃者であって、検事と弁護人との論争が決着ししだい、躊躇するところなく、この女は、自分を犯人だと証言するだろうと、そう思ったのじゃないでしょうか。ですから、どうでしょう、いま、コールマー氏がどこで、なにをしているか、調べた方がいいんじゃないでしょうか」
そのとたん、電話が鳴った。ウィンター判事が受話器をとりあげ、耳にあててから、いった、
「ちょっと待ってください」
ウィンター判事は、ペリイ・メイスンにうなずいて見せて、
「若い婦人が」といった。「きみと話したいそうです」
メイスンが受話器を耳にあてると、デラ・ストリートの声が線を伝わって来た。
「まあ、すてき、先生」と、デラがいった。「まだ、牢屋に入れられてないのね?」
メイスンは、受話器に向かって、にやっと笑顔を向けていった。「半々だな──半分牢屋、半分はまだというところだ」
「ねえ」と、デラ・ストリートはいった。「わたし、ちょっとお馬鹿さんだったわ。ベビンスという女の子に、訊問にこたえるなとおっしゃるのを耳にするまで、あんな子をどうなさるおつもりか、さっぱりわからなかったの。あれを聞いたとたん、急に、なにもかもはっきりわかりましたわ」
「いい子だよ」と、メイスンは相手にいった。
「それでね」と、デラはいった。「わたし、証人のうちの誰かが、あわてて、でなけりゃ、こそこそと、法廷から逃げ出しゃしないか、頑張っていて、見張ってやろうと、そう決心をしたんですよ」
「いい子だ」と、メイスンはもう一度繰り返していった。「それで、お客は見つかったかね?」
「まあね」
「誰だった?」
「コールマーよ」
「きみは、つけたのかね?」
「ええ」
「そいつは」と、額に皺を寄せて、メイスンはいった。「危いことをしたものだね、そんなことはしない方がよかったのに」
「わたしに合図をなすったじゃありませんか」と、デラがいった。「わたし、あなたの合図の意味がよくわからなかったの、万事うまく行っているってことなのか、それとも、あなたのやり方をまねて、後をつけろってことなのか」
「それで、相手は、いまどこにいるんだね、デラ?」
「ユニオン空港にいるの。後二十二分すると、飛行機が出るんです。その切符を買ったのよ」
「用心したまえ」と、メイスンがいった。「見つからないようにするんだよ。相手は死に物狂いだからね」
「そちらの方は、どんな工合ですの?」と、デラがたずねた。
「すっかり済んだよ」と、メイスンがいった。「きみは、そっちはほっといて、事務所へ帰りたまえ。あちらで会おう」
「わたし、おしまいまで見届けたいと思うの」と、デラはいった。「判事さんのお部屋で待っていらしてくださいな。もし気を変えて別の方へ逃げるようだったら、お電話しますから」
「そんなところで、うろついてもらいたくないんだがね。いつなん時、相手がきみを見つけるかしれないし、それに──」
デラ・ストリートは、快活に笑って、「だいじょうぶよ、先生」といって、電話を切った。
ペリイ・メイスンは、腕時計をよく見てから、ホルコム巡査部長の顔を見た。
「諸君、きみたちには興味のあることだろうと思うが、コールマーは、後二十一分ほどユニオン空港にいるよ。部長、きみのピストルに弾丸がはいっているんなら、すばらしい捕物《とりもの》ができるかもしれないという気が、ぼくにはするんだがね」
ホルコムは、バーガーの顔を見た。バーガーは、考えこむように額に皺を寄せていたが、やがて、うなずいた。ホルコム巡査部長は、さっと大股に、三足でドアまで行き外へ出て行った。ペリイ・メイスンは、椅子の肘かけに腰をのせて、にやりとバーガーに笑顔を向けた。
「メイスン君」と、いく分照れくさそうに、検事が問いかけた。「いったいなんだって、きみは、こんなばか騒ぎを演じたんです?」
「いや、ばか騒ぎじゃないんですよ」と、メイスンはいい張った。「べらぼうに運がよかったというだけのことですよ。わたしの弁護依頼人の無実を明かすことができるはずの証人は、警察のおたずね者だったので、早いとこ、ずらかってしまいました。もちろん、あの女の失踪については、わたしに責任があることで、そのために、わたしの依頼人は、困った立場になりました。わたしとしてはたぶん、反対訊問の時に、コールマーをわなにかけて白状させることも、できたでしょうが、わたしは、できるだけたくさんのきめ手を用意しておきたかったのです。それで、こんな離れ業《わざ》をたくらんだわけです。わたしは、もし、犯人に、フェンウィックという女が一時身を隠していただけで、それが姿をあらわして証人となって、自分に不利な証言をしようとしていると思わせることができたら、犯人は、その女を殺そうとするか、逃げ出すか、どっちかだと考えついたのです。警察官や廷丁たちが取りかこんでいる法廷にいる限り、犯人には、とてもとても、あの女を殺すことなどできないことです。そこで、わたしは、犯人に万事休すと思わせながらも、審理の当事者同士が、あれこれと論争に手間どっている間、数時間の余裕があるなと犯人に思わせるような、ああいう一幕を演じたわけです。わたしの考えでは、犯人は、わたしがほんとうにあの女をかくまっていたので、そのために、わたしが大陪審廷に呼び出されて、そこで、あの女が証人として訊問されることになると、そう思いこんだのでしょう。それが、犯人に、逃亡のチャンスを与えたということでしょうね」
「ひとつ」と、ウィンター判事がたずねた。「事件の真相を、はっきり説明していただけませんか? わたしには、さっぱりわからないんでね」
メイスンはうなずいて、「コールマーは」と話し出した。「ハリー・マクレーンの使いこみの相棒で、二人は、バセットの金を使いこんだのです。ブルノルドは、バセット夫人の連れ子の父親だったのです。あの女《ひと》が行方をくらましてから、長年の間、さがしていました。見つけ出した時には、あの女は結婚していました。そこヘブルノルドは訪ねて行ったのですが、バセットのスパイ役をしていた運転手に、すんでのところでつかまりそうになりました。ブルノルドは、バセットと別れてくれと、あの女にせまりました。バセット夫人は、どうしたらいいか、決心しかねていましたが、ブルノルドが自分の部屋にいるところを、ハートリ・バセットに見つけられるようなことがあったら、おそろしい騒ぎが持ちあがるだろうし、自分の子供にも飛ばっちりが及ぶだろうということを、夫人は、よく承知していました。なによりも、そんなことになっては困るというのが、夫人の肚《はら》でした。それで、ブルノルドをせき立てて、部屋から逃がしました。その逃げ出す時に、ブルノルドは、ガラスの義眼をおとしたのです──着用していたものではないんですが、ポケットに入れて持ち歩いていた予備の義眼をね。
バセットは、そのガラスの義眼を手に入れました。妻のところへ訪ねて来た人間が誰であるか、バセットにはわかりませんでしたが、コールマーが義眼を着用していることは、前からよく知っていました。たしかに、家の中でそのことを知っているのは、バセットただ一人だったようです。気をつけてごらんになればよくおわかりになるでしょうが、そのバセットの手にはいった義眼は、コールマーの義眼と、とてもよく似た色艶のものです。バセットは、コールマーがうさん嗅いと、自分の妻とひどく親密じゃないかと疑いました――その点は、コールマーは、まったくきれいなものだったのですがね。ところが、バセットがコールマーのことを調べにかかると、コールマーが金を使いこんでいる形跡がばれて来ました。
ハリー・マクレーンが、バセットの家へ出かけて行ったのは、バセットに会うためでもなければ、使いこんだ金を返しに行ったのでもなく、バセットが告訴しないように、使いこんだだけの金を返させようと、コールマーに談じこみに行ったのです。ちょうどそのころ、ブルノルドが、家を出ていっしょになるようにと、バセット夫人に、最後の懇請に訪ねて来ていましたし、また、息子のディック・バセットは、自分の若い妻を、義理の父親に挨拶させようと、事務室へやりました。
コールマーは、マクレーンなどは、ちょっと話をすれば、夥《おびただ》しい金を使わずに、簡単に片づけられると思ったんでしょうね。バセットは、ガラスの義眼の一件でコールマーを呼びつけて、たぶん、なんとなく怪しいという気配を匂わせて、帳簿を取りにやったのでしょう。コールマーは、帳簿を持っては行かなかったのです。かわりに、蒲団と毛布とピストルとを手にとりあげました。それからまた、自殺と見せかけるための遺書もタイプしました。後になって、警察が遺書にだまされなかった場合は、理論上、疑われるのは自分だということに、ふいに気がつきました──それは、凶行を演じてしまってからのことだったのでしょうね。それで、書類綴りから、そっくり贋の借用証書を抜きとってしまい、カーボン・ペーパーで間に合わせにマスクを作って、表の事務室で待っていた女に、犯人は片眼の男だということを見せびらかしながら、逃げ出しました。それはまた、バセットの手に握っていたガラスの義眼とも、うまくつながりがつくと考えたのです。ところが、女がマスクをはぎとったので、すっかりあわてふためいてしまって、女をなぐり倒して、家から逃げ出し、バセットの車に飛び乗って、走り出した。それから、ひとまわりして車庫にもどり、車をしまいこんで、映画を見に行っていたふりをして、部屋の方へもどりました。その時になって、殺したと思ったフェンウィックという女が、死んではいなかったということがわかりました。それで、女を永遠に沈黙させたいと思って、フェンウィック嬢が寝かされていた部屋へはいって行って、うろうろしていました。もし、二人だけにされていたら、女を殺していたでしょうが、バセット夫人が、部屋から追い出してしまいました。それで、自分の部屋へあがって行って、事のいききつをマクレーンに説明し、なにより大事なことは、使いこんで借りになっていた金はすっかり返したといい張ることだ、そうすれば誰もそうじゃないといえるものなんかないと教えこみました。殺された時に、バセットは相当の現金を持っていたはずだから、それがなければ、殺人の動機が金を目あての強盗らしいということにもなるわけでしょう」
ペリイ・メイスンの顔をじっと見つめていたバーガーがいった。「きみは、どうして、そういうことをみんな知ったのです?」
「ただ演繹的推理によってですよ」と、メイスンはいった。「まったく、バーガー君、こんなにはっきりしていることを、ほかならぬあなたに、一々説明する必要があろうとは驚きましたね。犯行は、専門的なタイピストが演じたものにきまっていたのです、贋物の遺書は、タッチ・システムに慣れた専門のタイピストが作ったものでした。それにまた犯人は、腕になにか抱えたまま、大した警戒心も相手におこさせずに、バセットの事務室にはいりこむことのできる人間でなくちゃなりません。だって、そうでしょう。バセットには、なんら抵抗した跡もなければ、危険も感じていなかった様子ですからね。犯人は、義眼をしている人間でなくちゃなりません。そのくせ、当局に、犯人は義眼の着用者であることを知ってもらいたがっている人間でなくちゃなりません。犯人が、なぜ、ことさらに自分の義眼を知らせたがるか、ただ一つ可能な理由は、それによって、疑いが、誰か他の人間に向けられるはずだと感じたからにちがいありません。
なおまた、バセット夫人は、フェンウィックという女が、人に邪魔をされずに、ハートリ・バセットと話し合うことを望みました。ですから、夫人は、最後のお客が帰って行くまで玄関を見張っていてから、フェンウィックという女を、ハートリ・バセットの表の事務室へつれて行きました。それだのに、フェンウィックが、バセットの奥の事務室のドアをノックしてのぞいた時には、部屋の中では、誰かがバセットと話をしていました。その男は、裏口からはいって来た人間──まあ、そんなことは、とうてい有り得べからざることで――ですから、そうでないとすれば、コールマーでなければならなかったのです。
まだその上に、もし、片眼の人間が、自分の顔を隠そうという、ただそれだけの目的で、大急ぎでマスクを作るとすれば、きっと片方の、見える眼の方の孔だけをあけるでしょう。ところが、二つも眼の孔をあけたという事実は、その男が、からっぽの眼窩に注意を引きつけようと企てたことを示しています。ところが、その男がブルノルドだったとすれば、かれは、そんなからっぽの眼窩を見せびらかすようなことは、絶対にしなかったでしょう」
「すると」と、バーガーがいった。「マクレーン青年は、真実を打ち明けようとしたので、きっと殺されたのですな」
「たぶんね」と、メイスンはいった。
「しかし、いったいなぜ、マクレーンを殺した人間は、ガラスの義眼をマクレーンの手ににぎらせたのでしょう? きっと、コールマーがやったにちがいないのだが、なぜ、あんなことをしたのでしょう?」
ペリイ・メイスンは、まったくなんにも知らないという顔つきをして、いった。「結局、バーガー君、世の中には、一人の人間の演繹的推理では手が届かないほど、いろいろたくさんのことがあるんですね。正直にいって、わたしには手が届かない。ですから、それにはお答えができませんね」
バーガーは、じっとメイスンを見つめた。メイスンは、どこまでも落ち着きはらった顔つきで、静かに煙草を吹かしていた。
ウィンター判事は、ゆっくりとうなずいて、「まったくね」といった。「人間が、心を引きしめてむやみに関係のない細部にとらわれないで、明白なことに心を集中していたら、はじめからわかりきったことだったんですな」
ペリイ・メイスンは、手足をのばし、あくびをもらし、腕時計に眼をやって、いった。「ホルコム巡査部長から、なにかいって来そうなものですね。弾丸などうたずに、コールマーを逮捕できるといいがな」
バーガーが、ゆっくりといった。「メイスン君、きみは、弁護士などより、探偵になる方がよかったですね」
「ありがとう」と、メイスンは相手にいった。「いまのままでも、十分、間にあってますよ」
「きみは、どうして、ぼくがベビンスという女に目をつけて、法廷に引っ張って来ると知っていたのですか?」と、バーガーがたずねた。
「それはね」と、メイスンが相手にいった。「年の功で、相手の腕がわかるからですよ。いずれは、あなたが、あの女をここへ引っ張って来るにちがいないということが、わたしにはわかっていました。あなたが、意外な証人として、あの女をつれて来て、わたしをあわてさせるつもりだなと、ちょうどその時間をはかりながら、いっさいの筋書きを進めていたのです。あなたなら、きっとそれをやるだろうと、思いましたからね」
「しかし、あの女には、あなたの計画はなんにも話してなかったのでしょう?」
「ええ、話しませんでしたよ。知らなければ知らないほど、あの女もおしゃべりせずにすむと思ったんです。あの女が、あなたがたに本当のことをしゃべったところで、嘘をついているとしかお考えにならないということは、よくわかっていましたからね」
「どうして、われわれが、あの女をここにつれて来ることができると、おわかりだったのですか?」
「それは、わたしが、あなたがたの腕前を見くびったりしたことがないということですよ、バーガー君」
バーガーは、ため息をついて、立ちあがると、部屋の中を歩きはじめた。
「いまになって聞けば、なんでもないことなんだが」と、バーガーはいった。「だが、ぼくは、ブルノルドが、バセット夫人と共謀して、殺人の罪を犯したと断言するところでした。そして、二人を起訴し、すくなくともブルノルドには死刑を求刑するところでした」
バーガーは、椅子の中に身をおとしこんで、沈黙に落ちた。
「それにしても」と、ウィンター判事は、不平がましい声でいった。「このわたしには、筋書きを打ち明けておいてくれるべきでしたよ。そうすれば、法廷で、あんなにばかげた真似はせずにすんだはずですからね」
メイスンは、にっこりと微笑を浮かべていった。「その点は、心からお詫びします。また、わたしの言葉に失礼の言辞のなかったことだけは、ご諒解願います。しかし、ああでもしなかったら、とうてい納得していただけなかったでしょうからね」
一瞬、ウィンター判事の額の皺が深くなったが、やがて、唇のはしをゆがめて、
「いや、なに」といった。「めいめい考えのあることだからね」
ペリイ・メイスンは、煙草の吸殻を指でつまんで捨て、腕時計を見てから、また煙草に火をつけた。バーガーが、メイスンの方に向きなおって、いった。「いったい、新聞記者連中には、どういうふうに話をしたらいいもんですかね?」
メイスンは、大まかに手を振って見せて、
「なあに、引き受けちまえばいいんですよ」
「引き受けるって、なにを?」
「いっさいの責任をですよ。わたしと手を組んで、真犯人をわなにかけるために打った芝居だってことにしたらどうです」
バーガーの眼に、さっと面白いという強い輝きがひらめいた。
ふいに、ドアがさっとあいた。新聞記者が三人、部屋へ押し寄せて来たと思うと、わっと、バーガーに質問の矢を浴びせはじめた。
「ちょっと待ってくれたまえ」と、バーガーがいった。「どうしたんだね?」
「空港で――うち合いですよ。ホルコム巡査部長は怪我をするし、コールマーは死にましたよ。なんだって、コールマーはあんなところへ行ったんです? なにをしたんです、あの男は? ホルコム巡査部長は、なぜ、あの男を追跡したのです?」
一人の記者が、ほかの連中からはなれて、メイスンの腕をつかんで、
「いったい、どうしたんです、メイスンさん?」と、どなるようにいった。「真相を話してください。最大の事件でしょう、あんたにだって、これまでにない──」
ペリイ・メイスンは、ため息をついて、
「バーガー氏が」といった。「われわれ二人のために、新聞に対する声明書を作ってくださるはずだ。ところで、諸君、ぼくは、事務所にもどらなくちゃならんので、失礼します」
第十八章
ペリイ・メイスンは、自分の事務室の椅子に、ゆったりと背を寄せて掛けていた。デスクの上には、なん枚も新聞がちらかっていた。
「ホルコム巡査部長は、よくやったね」と、メイスンはいった。「あの男には骨があるとは、いつも思っていたよ」
「わたし、あなたは、あの人をきらっていらっしゃるんだと思ってましたわ」と、デラ・ストリートがいった。
「あの男の間抜けっ振りには、時々、いらいらさせられるよ」と、メイスンも同意した。「しかし、ああいうきわどい場へ飛びこむというのも、あの男に熱意があるからなんだ。すると、コールマーは、窮地に追いつめられたと知って、ピストルを手に、血路をひらこうとしたんだね?」
デラは、ゆっくりとうなずいた。
「どう考えたって」と、メイスンがいった。「最後は、二人がうち合うのは当り前だよ。ホルコム巡査部長は、サイレンをうならせながら、空港へ乗りこんだんだからね」
「でも、車の混み合う道でスピードを出すには、サイレンを鳴らさなきゃならなかったんですわ」と、デラ・ストリートがはっきりと指摘した。
「そりゃそうさ、混雑した道を通る間はね。しかし、それを通りすぎてしまってからは、そんな必要はなかったんだよ。行く手は、だだっ広い飛行場なんだからね。それだのに、サイレンをうならせながら行ったというんだろう。むろん、コールマーには、なんのためのサイレンか、よくわかったんだ。コールマーは、便所の中にかくれて、どうなるか、鍵穴からのぞいて待っていた。やがて、ホルコムは、待合室に足を踏み入れた。コールマーは、ドアのガラスをぶち割って、ピストルを発射した。もし、あがっていなかったら、コールマーは、その最初の一発でホルコムを殺していたところだったろうね。
そこまでのホルコムは、まったく形通りにおちて、なにからなにまでぶちこわしをやっている。サイレンを鳴らしながら飛んで行くようなことをして、相手に警戒をさせた。待合室をさがしおわったんだから、コールマーが便所にいるぐらいは気がついていたはずだ。怪しいと思った証拠には、便所のドアの方へ大股に進んで行ったことでもわかる、すこし気の利いた男なら、横手から進んで行って、ピストルを構えながら、ドアをぐいとあけて、出て来いと命令したろうよ。ところが、ホルコムは、そうじゃないんだから。あの男は、足音も高く、まっ正面からドアの方へ進んで行った。それからのホルコム巡査部長のやり方には、ぼくも敬意と賛美とを惜しまないね。
肩をやられたのは、四五口径の弾丸だった。ところで、きみにいっとくが、四五口径の弾丸といえば、たいていの男が肩にあたったりすれば、へたへたとなるほどの代物《しろもの》だ。ホルコムのやつは、まだピストルを手にしてさえいなかった」
デラは、うなずいた。
「ねえ、きみ」と、メイスンがたずねた。「あの男は、自分のピストルを取り出すのに、立ちどまったかい、それとも、どうしたね?」
「あの人は、ずっと歩きつづけていましたわ」と、デラがいった。「その弾丸があたった衝撃で、半分ほど横に体がまわりましたけど、すぐに、あの人、しゃんと身を立てなおして、ぐっと歯をくいしばると、そのままドアの方へ歩きつづけながら、ピストルを取り出しましたわ。コールマーがもう一発うって来た時、はじめて、ホルコムさんは、ドア越しにうち出したわ。あの人の弾丸が、ドアの木のところをぶち抜いて行った弾痕をごらんになればおわかりになるけど、警察の射撃場の的《まと》でもうったように、完全にひとところにかたまって孔をあけていますわ」
メイスンは、ゆっくりとうなずいて、いった。「まったく大した男だ。そんなことするなんて、肚ができていなきゃできないよ」
メイスンは、一枚の新聞紙を取りあげた。第一面に、地方検事バーガーの写真が、三段抜きで、大きくのっている。その下に、大きな活字で──
ハートリ・バセット殺しの真犯人、検事のわなにかかり、本性をあらわす
その右の、ちょっと下には、ホルコム巡査部長の写真が出ていて、その二つの写真の間の紙面は、ホルコム巡査部長とコールマーとのうち合いの模様をあらわした線画で埋められている。ホルコム巡査部長が腰に構えたピストルから火を吐きながら、便所のドアヘ近づいて行くと、一方、コールマーの方は、ドアの陰にかがみこんで、四五口径の連発ピストルの弾丸を、巡査部長に浴せかけている画だ。
「ほんとに、あの人たちったら、たっぷり手柄をかりとっちまうのね」と、腹立たしそうに、デラ・ストリートがいった。その声は、デラのいろいろな感情を、思わずあらわしていた。「あれをそっくりお膳立てしたのは、あなただったんでしょう。すっかりあなたの計画を、あの人たちの手にやっておしまいになったのじゃありませんか。あの人たちのしたことっていえば、それを横取りして、うまく仕事をしただけだわ」
メイスンは、いかにも愉快そうに、くっくっとのどを鳴らして笑った。
「セルマ・ベビンスは、約束の金を受け取ったろうね?」と、メイスンがたずねた。
「ええ。ピーター・ブルノルドからも、素敵なボーナスをもらったわ」
「ブルノルドにしては上できだね。あの男は、お涙頂戴の作者には、お誂え向きの人物じゃないか?……それにしても、セルマ・ベビンスは、立派にやってくれたよ」
「それにしても、先生、もし、あの人がやりそこなったら、どうなさるおつもりでしたの? そうでしょう、証人台に立つ前に、おびえてしまって、すっかり筋書きをしゃべりかねなかったんですものね」
「あの女のしゃべれないってところが」と、メイスンがいった。「この筋書きのいいところだったのさ。たとえ、あの女がほんとうの話をバーガーにしゃべったところで、バーガーは、女が、頭のいい嘘つきで、単にぼくをかばおうとしているとしか思わないだろう。ぼくの仕掛けたわなにはまって、バーガーは、自分から催眠術にかかったように、あの女をヘーゼル・フェンウィックだと思いこんでしまったのさ。そして、あの女が、そうじゃないといえばいうほど、いよいよ嘘をついていると信じこんでしまったんだね」
「でも、ひょっとして、思わぬことが起こっていたら?」
「その時は、コールマーの口から泥を吐かせることもできたのさ」と、メイスンは、ゆっくりといった。「反対訊問でね。しかし、ぼくは、そんなことはやりたくなかったのでね」
「なぜですの?」
「そんなことをすれば、それでバーガーをまかしたように見られるにきまっているからさ。バーガーは、正々堂々と立ち向かって来た。だから、ぼくも四つに組んだ相撲《すもう》をとりたかったのだ。バーガーは、無実の人間を起訴することに恐れを抱いている。ぼくの立場からすれば、それはなによりもありがたいことだ。後になってこの事件を振り返ってみれば、バーガーにもまったく愉快な思い出だけしか残らないだろう。このつぎ、なにか特別な証人を調べようという時に、ぼくに便宜を与えてくれることになるだろう」
「ねえ、先生」と、ふいにデラがいった。「どうして、あのガラスの義眼が、ハリー・マクレーンの手にあったのでしょう? コールマーが、あんなことをするはずがないことだけは確かですものね」
メイスンは、デラの顔を見て、意味ありげに、にっこり笑った。
その微笑の意味が、デラにも明らかにわかった。
「まあ」と、大きな声でデラはいった。「あなたったら──あんなことをなすっちゃ──!」
「そうさ」と、メイスンがいった。「二度目の殺人が行なわれた時に、ブルノルドが拘置されていれば、あれが、ブルノルドには、すばらしい幸運になっていたんだろうがね。ところが、残念ながら、ブルノルドは釈放された後だった。ぼくとしては、警察の嫌疑の眼をブルノルドからそらすために、す早い行動をする必要があったのだ」
「でも、あんなこと、なさるべきじゃありませんわ。第一には、そんな危険をおかすなんて、よくないことですし、そのつぎには、そんなこと……そんな……なんていったらいいのか、うまくいえないけど」
「倫理にもとるというのだね?」
「はっきりそうじゃないけど。あなたみたいな地位の人のすることじゃないわ。あなたったら、いつもとんでもないことをなさるのね。あなたは、半分聖者で、半分悪魔ですわ。中間のほどほどってところがないの。どっちかの極端へ走ってしまうんですものね」
メイスンは、デラを見て声を出して笑った。そして、「ぼくは、平凡が嫌いなのさ」といった。
「ヘーゼル・フェンウィックは、どうなるでしょう?」と、デラがたずねた。
「そのうちに逮捕されるだろうよ」と、メイスンは相手にいった。「まったく、ディック・バセットは、きわどいところで助かった。この殺人事件が起こらなかったら、あの女青ひげは、あと二人、いけにえにあげていたろうね」
「まあ、あと二人ですって!」
「そうとも」と、メイスンがいった。「まず、ハートリ・バセットを、それからディックを殺していたろうね。たぶん、その上に、シルビア・バセットも片づけていたろうね」
「女でいながら、どうして、そんなことができるのかしら?」
「まあ、病気のようなものだね」と、メイスンがいった。「一種の精神病さ……おやおや……片づけなきゃいけない手紙や書類が山ほどたまっているらしいね」
メイスンは、書類をいじりはじめたが、ふいに、その手をやめた。その眼がきらきらと光っていた。
「これは面白そうだね」と、メイスンはいった。
「なんですの?」と、デラがいった。
「ある個人が管理人の職を継承する時」と、覚え書きを読みながら、メイスンはいった。「その人間は、管理人の飼猫をも継承すべきものなりや?」
「いったい、なにをいっていらっしゃるんですの?」
「ジャクスンからの手紙だよ」と、メイスンはいった。「片足がきかない、松葉杖をついた変人の管理人が、猫を一匹つれているというのさ。その男は、あるけちん坊爺さんのところで働いているというんだが、そのけちん坊も、管理人に劣らず変人らしい。そのけちん坊が、死ぬまでその管理人に、永久に職を与えるという条件で、誰かに財産を遺したというんだ。ところが、その遺産を受ける人間が、遺言状の条件はよろこんで承知したというんだが、ただ、管理人に、猫だけは追っ払うことという条件をつけたというのだ。いっさいこの手紙に書いてあるから、ひとつ、読んでみたまえ、デラ……よし! ぼくは、その事件を扱うことにするよ。面白いじゃないか──『管理人の飼猫事件』というのは」(完)
解説
この『義眼殺人事件』(The Case of the Counterfeit Eye)の作者、アール・スタンレー・ガードナー(Erle Stanley Gardner)ほど、英語を読み、話す、この世界中の国民の中で、多く読まれている作者はないといってもいいだろう。
いや、英語を読み、話す国民の中だけではない。英語など読みも話しもできない日本人の中にも、ガードナーの名を知っている人が夥《おびただ》しくあるのではないだろうか。ガードナーの名は知らなくても、ペリイ・メイスンの名は、テレビの裁判場面ともに、即座に想い浮かべる人がすくなくはないと信じて疑わない。
事ほどさように、作者ガードナーが創造した主人公『ペリイ・メイスン』は、作者の手を離れて、半ば実在の人物に近いほど、その生命を確立しているといってもいい。
読まれている量も多いが、作品の量においても、おそらくガードナーに匹敵する作者はないといっても、いいすぎではあるまい。
ガードナーは、一八八九年、アメリカ、マサチューセッツ州のモルデンに生まれた。父の職業の関係から、正統な教育を受けなかった。後、法律に志し、一九一○年、二十一歳のとき、カリフォルニア州の法廷に出る資格を得、同州ヴェンツラで、弁護士の事務所を開いた。それ以来約二十二年間、刑事弁護士として、主として陪審法廷における論争に従事した。当時の経験が、作家ガードナーの良き培養土になっていることはいうまでもない。
その弁護士ガードナーが、はじめて小説を書いたのは、一九二一年。弁護士事務のかたわら、仕事として小説を書き出したのは、一九二四年からであり、一九三三年には、はじめて『ペリイ・メイスン』が登場するミステリー『ビロードの爪』を発表した。それから今日まで、『ペリイ・メイスン』物だけでも、すでに百編を越しているのではあるまいか。
そのほかに、ガードナーは、D・A(地方検事の略)ものの一連の作、テリー・クレーンを主人公とした一連の作をも発表し、ほかに、A. A. Fair 名義でも、いくつかの作を発表している。
とにかく、夥しい作品の数である。何人かの速記者と口述速記器械を使って、つぎからつぎと、多量のミステリー小説を、ガードナーはものにしている。それはもう、一人の作家の創作というよりも、ミステリー小説製造工場の感がある。
それだけ多量のミステリーを作りながら、そのどれもが面白いことにおいては、これまた、ちょっと比較するものがないほどだから、これは一種の驚異といってもいい。
とにかく、ガードナーの作品は、面白い。読者をぐんぐんと引張って行く。特に裁判の場面の緊張と面白さは、手に汗を握らせる思いがある。
その中でも、この『義眼殺人事件』は、一九三五年発表されてから、一九四六年までの約十年間に、百万部以上が売れたというほどで、その構成の緊密さ、事件展開の面白さとその意外性、特に裁判場面の緊張など、いかにもガードナーらしい作品である。
一般の売行きがいいだけではない。多くの批評家からも、ガードナーの代表作の一つにあげられている。批評家ジェームズ・サンドーの『大学図書館の備えるべき探偵小説表』(一九四六年版〉にも、この『義眼殺人事件』が選ばれているし、またイギリスのケンブリッジ大学版『読書案内双書』の中の『探偵小説案内』(W.B.Stevenson編、一九四九年)にも、やはり、この『義眼殺人事件』があげられている。
そういう意味で、この『義眼殺人事件』は、ガードナーの代表作といってもいいものである。(訳者)
◆義眼殺人事件◆
E・S・ガードナー/能島武文訳
二〇〇四年九月十日