E・S・ガードナー/能島武文訳
管理人の飼い猫
登場人物
ペリイ・メイスン……弁護士
デラ・ストリート……その女秘書
ポール・ドレイク……私立探偵
チャールズ・アシュトン……ラクスター家の管理人、猫を飼っている
ピーター・ラクスター……アシュトンの主人、弁護士
サムエル・ラクスター……ピーターの孫
フランク・オーフレイ……同じくピーターの孫
ウィニフレッド・ラクスター……同じくピーターの孫娘
テルマ・ピクスレイ……家政婦
エディス・ドヴォー……看護婦
ナサニエル・シャスター……サムエル・ピーターの法律顧問、弁護士
ダグラス・キーン……ウィニフレッドの婚約者
ワトスン・クラマート……アシュトンの腹ちがいの兄弟
ハミルトン・バーガー……地方検事
トム・グラスマン……地方検察庁捜査主任
ディック・トラスラウ……地方検事補
ペニメーカー……裁判長
第一章
刑事弁護士のペリイ・メイスンは、眉《まゆ》を寄せて、助手の一人のカール・ジャクスンの顔を見た。デスクの一隅から、膝《ひざ》を組み、開いたノートブックを前にして鉛筆を構えた、ペリイ・メイスンの秘書のデラ・ストリートが、おちついた、静かな目で、二人を見ていた。
メイスンは、片手に、タイプライターで打った覚え書を持って、
「猫のことだって?」とたずねた。
「そうなんです、先生」と、ジャックスンがいった。「どうしても、じかに、先生にお目にかかりたいといってきかないんです。頭がおかしいんじゃないかと思うんですがね。こんな男に、ぐずぐず相手になっている時間なんかないんです」
「片足がびっこで、松葉杖をついてるとか、たしか、きみはいったようだったね」と、覚え書を見て、じっと考え込みながら、メイスンはいった。
「そうです。六十五歳ぐらいでしょうね。二年ほど前に、自動車事故にあったとかいってました。主人が、自動車を運転していたんだそうですが、アシュトン――というのが、猫のことで、先生にお目にかかりたいといっている男なんですが――その事故で、腰の骨を折って、右脚《みぎあし》の筋が切れたのだということです。主人のラクスターも、右脚の膝の上のところを折ったんだそうです。ラクスターというのは、若い男じゃなかったんですね。死んだときには、六十二だったとかいうんですが、右の脚は元どおりになおったということです。しかし、アシュトンの脚は、とうとう元どおりになおらなくて、それ以来、松葉杖をつく身になったのだそうです。
ラクスターが遺言状の中で、管理人に対して特に気を使って、特別な条項をもうけておいたという理由の一端は、そんなところにあるのじゃないでしょうかね。主人は、金としては一文もアシュトンには遺贈はしなかったらしいんですが、遺産の受益者にある条件をもうけたらしいんで、受益者に、アシュトンが働けるあいだは、永久に管理人の仕事をつづけさせること、働けなくなったさいは、住居を別に与えてやること、そういう遺言状の条件だそうです」
ペリイ・メイスンは、眉を寄せながら、「ちょっと珍しい遺言だね、ジャックスン」
若い弁護士は、そのとおりですというようにうなずいて、「まったく珍しい遺言といえますね。このラクスターという人物も、弁護士で、孫が三人、後にいるんだそうですが、そのうちの、一人は、女の子で、遺言状からは完全に除外されているらしいんです。後の二人には、等分に財産を分けて遺贈しているのだということです」
「死んでどれくらいになるんだね?」
「二週間ほどだと思います」
「ラクスター……ラクスターと……なんか、新聞に、その人物のことが出てなかったかね? なんか火事のことを、その死に関連して読んだような気がするんだが、そうじゃなかったかね?」
「そうです、そのとおりです、先生、そのピーター・ラクスターです。けちな男だという評判でしてね、まったく変人だったんですね。この市内に邸宅を構えてはいたんですが、そこには住もうともしなかったらしいんです。そして、このアシュトンという男を管理人にして、管理をまかせていたんですね。ラクスター自身は、カルメンシタの田舎《いなか》に別荘を持っていて、そこに住んでいたんです。すると、ある晩、その家が火を出して、ラクスターが焼け死んでしまったんです。そのとき、その田舎の家には、三人の孫と召使が数人いたというんですが、その連中はみんな、逃げ出したんだそうです。アシュトンの話では、ラクスターの寝室の中とか、その近くからとか火が出たということなんですがね」
「その管理人も、そのときは、その田舎の家にいたんだね?」と、メイスンがたずねた。
「いいえ。かれは、この市内の邸宅に留守番をしていたということです」
「そして、孫たちは、いまは、そこに住んでいるんだね?」
「二人だけね――遺産を相続した二人。サムエル・C・ラクスターと、フランク・オーフレイが住んでいるんだそうです。遺産相続からのけ者になった孫娘のウィニフレッド・ラクスターというのだけは、いっしょに住んでいないのだそうです。どこにいるか、居所を知っている者もいないのだそうです」
「それで、そのアシュトンという男が、控え室で待ってるというんだね?」と、きらっと目を光らして、メイスンが問いをかけた。
「そうです。先生のほかには、誰にも会いたくないというんです」
「その特別に会いたいというのは、どんな問題なんだね?」
「孫のサム・ラクスターは、遺言状の条項どおり、アシュトンに、管理人の仕事をさせるということは認めたんですが、アシュトンが猫を家の中に飼うということは、遺言状にも書いてないというんですね。アシュトンじいさんは、大きなペルシア猫を飼っていましてね、とてもひどく可愛がっているんです。それで、ラクスターが、猫を追っ払ってしまうか、それとも毒殺するか、どっちかにしろと、アシュトンにいい渡したというんです。そんなことは、わたしでもさばけるんですが、ただアシュトンが、どうしても先生にお目にかかりたい、でなければ、どなたにも会いたくないといい張ってきかないんです。そんなことで、先生のおひまをつぶしたくないんですけど――ただ先生が、この事務所へ来る依頼人のことは、みんな知らせるようにしろ、わたしたちでかってに事件を扱ってはならんとおっしゃっているものですから」
メイスンはうなずいて、いった。「そのとおりだ。ちょっと見ると取るに足らぬ事件だからといって、大事件にまで発展しないとは、誰にもいえないからね。忘れもしないが、フェンウィックが殺人事件の弁護をしているときのことだった。一人の男がかれの事務所へやって来て、ある傷害事件で、どうしてもかれに会いたいというんだ。フェンウィックは、その男を書記の方へまわそうとすると、男は、ひどく腹を立てて事務所を出て行ってしまったというんだ。ところが、それから二か月後、フェンウィックの依頼人が絞首刑になったときになって、その会いたいといって来た男が、実は、その殺人事件で検察側の証人になった男を、別の自動車事故がもとではじまった傷害事件で逮捕してくれと依頼に来たんだということが、フェンウィックにわかったんだ。もし、追い返さずに、フェンウィックが、その男に会って話していれば、その殺人事件が持ちあがったときに、その検察側の証人になった男が、殺人の現場にいるはずがなかったということが、フェンウィックにわかったのだよ」
ジャックスンは、前にもその話を聞いて知ってはいたのだが、よく注意をそらさないようにして、うなずいた。アシュトン氏の件で、朝の打ち合わせの時間をすこし取りすぎたという気持を、ありありと見せるような口調で、かれは、「それじゃ、事件は引き受けられないと、そうアシュトン氏に申しましょうか?」
「金は持ってそうかね?」と、メイスンがたずねた。
「持ってそうにもありませんね。遺言で、管理人の職は保障されているでしょうが、住み込みで、ひと月五十ドルですからね」
「それで、老人なんだろう?」と、またメイスンがたずねた。
「かなりの年寄りで、偏屈《へんくつ》じいさんとでもいうんでしょうね」
「だけど、動物好きなんだろう」と、メイスンが、相手をたしなめるようにいった。
「自分の猫は、とても可愛がっているらしいんです、先生のおっしゃるのは、その猫のことなんでしょう」
メイスンは、ゆっくりとうなずいて、いった。「うんっ、その猫のことだ」
助手よりもずっと、メイスンの気持をよく知っているデラ・ストリートが、ほとんど形式張るということのないこのメイスンの事務所で働いている人間らしい、気やすい口調で、二人の会話に口を入れた。
「でも、殺人事件の公判をおすましになったばかりじゃありませんか、先生。どうして助手の方たちに、いろんな事件をまかせて、東洋への旅行にいらっしゃらないんですの? すこしは骨休めをなすったほうがいいじゃありませんか」
メイスンは、きらっと目を光らせて、かの女の顔を見て、「それじゃ、いったいアシュトンの猫は、誰が面倒を見てやるんだい?」
「ジャックスンさんがやれるじゃありませんか」
「ジャックスンには話さないというんだぜ」
「それなら、別の弁護士をめっけさせたらいいわ。この市には弁護士がゴマンといるんですもの。先生が、猫のことにわずらわされて時間をおさきになることなんかいりませんわ!」
「年寄りで」と、メイスンは、考え込んだような口振りで、「偏屈もんで……たぶん、友だちもないんだろう。恩人には死なれて、心を寄せる生き物といえば、その猫だけしかないんだろう。たいていの弁護士なら、こんな事件は笑いとばして、事務所からほうり出されるのが落ちだろう。誰かがやる気になっても、どこから手をつけていいかわかるまい。手引きになるような判例だってないにきまっている。
そうだよ、デラ、弁護士にはごくつまらないような気がしても、依頼人には重大な意味を持った事件というのがあるものだが、これがその一例だよ。弁護士というものは、客の選り好みをして商品を売ったり売らなかったりする、商店の主人のようなものじゃない。弁護士の手腕や才能は、不幸な人々の役に立てるためにあるものなんだ」
そのつぎには、どういうことになるかをよく心得ているデラ・ストリートは、ジャックスンの方にうなずいて、「アシュトンさんに、どうぞおはいりくださいって、そういってちょうだい」
ジャックスンは、気の乗らない微笑をうかべ、書類をまとめて出て行った。カチッとドアがしまると、デラ・ストリートの指が、ペリイ・メイスンの左手をぎゅっとつかんだ。
「ねえ、先生、お金がなくて、ほかの腕のいい弁護士には払いきれないと見通したものだから、それだけで、引き受けようとおっしゃるんでしょう」
メイスンは、にやっと薄笑いをうかべて、「そうだよ、びっこで、松葉杖をついていて、文なしで、ペルシア猫一匹だけという人間なら、一度ぐらいは、好い目を見たっていいだろうじゃないか」
長い廊下に、松葉杖の音と足音とが、かわるがわる響いた。ジャックスンがドアをあけた。あんまり利口でないことをさせまいとして、いうだけのことはいったんだから、後はどうなっても知らないぞといったような態度だった。
部屋へはいって来た男は、寄る年波ですっかりしなびていた。唇は薄く、ぼさぼさと長くのびたまっ白な眉に、頭ははげあがって、顔には微笑の陰さえもなかった。「これで三度目ですぜ、あんたに会うために足を運んだのも」と、いらいらとした口調でいった。
メイスンは、椅子《いす》をすすめて、「おかけなさい、アシュトンさん、それはお気の毒でした。ずっと殺人事件にかかっていたものですからね。ときに、猫はなんという名前です?」
「クリンカー(鉱滓《かなくそ》)というんでさ」と、アシュトンはいいながら、大きな、よくふくらんだ、黒い革張りの椅子に腰をおろし、松葉杖を前に立てて両手でつかまった。
「なんだって、クリンカーなんてつけたんです?」と、メイスンがたずねた。
男は、口もとにも目もとにも、微笑の陰さえうかべずに、「ちょっと、しゃれたつもりでさ」
「しゃれたって?」と、メイスンがたたみかけて、たずねた。
「そうでさ。つまり、わしは、元はボイラーマンだったんで、鉱滓がすぐにつまって、故障を起こしたものなんでさ。だもんで、はじめて猫を飼ったときに、しょっちゅう邪魔をして――しょっちゅう、いろんなものを引っくり返して厄介《やっかい》なことを起こすんで、クリンカーと名をつけたってわけでさ」
「可愛がっておいでのようですね?」と、わざと何気ない口調で、メイスンがたずねた。
「この世で、わしに残された、たった一人の友だちですからな」と、無愛想なくらいに、アシュトンがこたえた。
メイスンは、先を促すように、眉をあげた。
「わしは、しがない管理人でね。管理人てものは、ほんとうは仕事なんかしないものなんで、ただ物事を注意深く見張っているだけなんでさ。わしが管理してるのは、大きな屋敷でね、長年のあいだ、しめっきりだった。ご主人は、カルメンシタの方に住んでいた。わしの仕事といえば、大きな屋敷の中をぶらぶら歩いて見まわることと、庭の草を刈ることと、正面の石段を掃《は》くことだけだ。年に三、四回、ご主人が来て屋敷じゅう大掃除《おおそうじ》をなさると、後はもう部屋という部屋はしめたっきりで、鍵《かぎ》をかけて、鎧戸《よろいど》もおろしっぱなしというわけなんで」
「誰も住んでいなかったんだね?」
「誰も」
「なぜ、屋敷を貸さなかったんだろうね?」と、メイスンがたずねた。
「そんなことは、やらない人でしたな」
「それで、あなたのために遺言をしてくれたんですね?」
「そうなんで。わしが働けるうちは仕事をさせてくださること、働けなくなっても面倒をみてくださること、そう遺言に書いてくださったんで」
「相続人は、二人の孫さんということでしたね?」
「孫は三人なんで。ただ二人だけが、遺言状に書いてあるんでさ」
「あなたの心配事というのを、ひとつ聞かしてもらいましょうか」と、メイスンが促した。
「ご主人は、その田舎の別荘が火を出したときに、焼け死になすったんで。わしは、あくる日の朝、電話で知らせを受けるまで、なんにも知らずにいたってわけでさ。ご主人がなくなった後は、サム・ラクスターさんが取りしきることになったんで。このひとは、見てくれはなかなかいい若いもんだが、目をはなすと、一杯食わされるってひとでね。ところが、このひとが動物ぎらい、わしはまた、動物を可愛がらない人間はきらいときているんで」
「別荘が焼けたときには、誰々がいたの?」と、メイスンがたずねた。
「ウィニフレッド嬢さん――つまり、ウィニフレッド・ラクスターさん。孫娘さんでさ。それから、サム・ラクスターと、フランク・オーフレイ――二人とも孫で。ピクスレイ夫人もいたな――このひとは家政婦で。それから看護婦の――エディス・ドヴォー」
「ほかには?」と、メイスンがたずねた。
「運転手のジム・ブランドン。こいつはお世辞のうまいやつで、自分の得になることだけはよく知っている男なんで、ちゃんと。サム・ラクスターにおべっかを使うとこを見せたいようでさ」
アシュトンは、不愉快な思いを強調するように、松葉杖の先で、とんと床を突いた。
「そのほかには?」と、追っかけて、メイスンがたずねた。
アシュトンは、それまでにあげた人の名前を、指を折ってかぞえてから、「ノラ・アビントン」
「どんな女です?」とたずねたメイスンは、さまざまな登場人物の面影を、アシュトンの皮肉な目を通してながめることに、ひどく興味を感じているようだった。
「大きな牝牛でさ」と、アシュトンがいった。「おとなしい、疑うってことを知らねえ親切もんで、大きな目玉の田舎者でさ。だけど、あの女は、家が焼けたときにはいなかったんで。通いで、昼のうちだけ働きに来てたんでさ」
「家が焼けてしまってからは、もうする仕事もないわけだね?」
「そうなんで。あれ以来はもう来ないようでさ」
「じゃ、その女は、この話から抜かしてもいいようだね。事件にはあらわれないだろうからね」
「でしょうね」と、アシュトンは、意味ありげないい方をした。「ジム・ブランドンとできてたとかいったけど、でなけりゃ、あらわれることもないでしょうね。なんでも、ジムは、金ができたら自分と結婚するつもりだと、あの女は思ってるらしいんで。ばかな女でさ! ジム・ブランドンてな、どんな男か、一つか二つ、こっそりあの女に教えてやろうと思ったんだけど、あの女ときたら、わしのいうことなんか聞こうともしないんで」
「あんたは市内の屋敷にいて、みんなは田舎にいたというのに、よくそういう人たちのことを知ってるんだね?」
「ああ、そりゃね、ときどき、車を運転して行ってたからでさ」
「車の運転ができるんだね?」
「ええ」
「あんたの車かね?」
「いいや、ご主人がわしのために、こっちの家においてあったんで、ご主人が用があるから来いとおっしゃると、それを運転してお目にかかりに出かけたんですよ。ご主人は、市内へいらっしゃるのがおきらいだったんでね」
「車の種類は?」と、メイスンがきいた。
「シボレーで」
「足が悪くても、運転には困らなかったんだね?」
「いや、あの車には困らなかったんで。特別な非常ブレーキがついていましてね、そのブレーキを引けば、車はとまるんで」
メイスンは、いかにもおもしろいなというような目を、ちらっとデラ・ストリートに向けてから、またやせこけた、禿頭《はげあたま》の相手の方にもどして、「なぜ、ウィニフレッドのことは遺言状に書いてなかったんです?」とたずねた。
「誰にもわからないんでさ」
「あんたは、市内の屋敷のことを取りしきってたんだね?」
「そのとおりで」
「ところは?」
「東ワシントン通り三八二四番地です」
「いまも、そこにいるんだね、あんたは?」
「ええ――それに、ラクスターさん、オーフレイさん、それから召使たちもいるんでさ」
「ということは、カルメンシタの家が焼けたんで、みんな、市内の家に来た、と、そういうんだね?」
「そうなんで。どっちみち、ご主人がなくなれば、みんな、引っ越して来たでしょうな。みんな、田舎の暮らしが好きだという柄じゃないからね。食べ物でもなんでも町にある物が、それもうんとたくさんいる連中ですからな」
「それで、猫がいちゃいやだというんだね、みんなで?」
「サム・ラクスターさんがいけないというんです。サムさんが遺言執行人なんで」
「はっきりいうと、どういけないというんだね?」
「猫を追い出せ、それがいやなら、自分が毒殺すると、そういうんです」
「なんか、そうしろというわけはいったかね?」
「あのひとは猫ぎらいなんです。そのなかでも、とりわけクリンカーがきらいなんで。わしは、地下室で寝ているんですが、窓は明けたままにしとくんです。すると、クリンカーは。その窓から飛び込んで来たり、飛び出して行ったり――猫というものの性質は、よくおわかりでしょうが――しょっちゅう、猫を閉じこめておくなんて、できるもんじゃありませんや。脚がこんな有様じゃから、わしは、そうむやみに歩きまわったりはしないが、クリンカーとしちゃ、そういうわけにはいかん、出歩かずにはおれんというわけでな。ところが、お天気の日ばかりはないからね。雨が降ってる日は、足がよごれる。それでも、窓から飛び込んで来て、わしのベッドをどろんこにするというわけでさ」
「窓は、あんたのベッドの上にあるんだね?」と、メイスンがきいた。
「そのとおりで、それに、その猫は、わしのベッドの上で眠るんで。そりゃもう長年のことなんで、誰に迷惑をかけるわけでもないんだが、サム・ラクスターは、洗濯代《せんたくだい》がかさむというんで、シーツをよごすからって……洗濯代が聞いてあきれるじゃないか! わしの洗濯代の十年分ぐらい、ナイトクラブで、一晩に使っちまうくせに!」
「浪費家なんだね?」と、メイスンは、気さくにたずねた。
「もとはそうだったけど――近ごろは、それほどひどく使わねえね」
「使わないって?」と、メイスンが問い返した。
「ああ、ほんとですよ。金がはいらなくなったからね」
「どんな金が?」
「ご主人が残した金でさあね」
「遺産は、二人の孫に等分にわけたと、あんたがいったように思ったがね」
「わけましたとも――見つかったぶんだけはね」
「じゃ、遺産が、全部見つけられなかったというんだね」と、メイスンは、興味をかき立てられて、たずねた。
「火事のちょっと前だったけど」と、アシュトンは、こまかく話をすることが、いかにも満足でたまらないというような口吻《こうふん》で、「ご主人は、洗いざらい整理して、全部現金に換えておしまいになったんで。まあ百万ドル以上だろうと思うんだが、その金を、どうしておしまいになったものやら、誰にもわからねえ。サム・ラクスターさんは、どこかにうずめたにちがいねえというんだが、わしは、そんなことをするご主人じゃないってことは、よく知っているからね。どっかの貸し金庫に変名で預けたにちがいねえと思うんだ。銀行を信用しない人だったからね。ご主人の話だったけど、銀行てものは、景気のいいときには、おれの金を人に貸して儲ける、景気が悪くなると、貸し金がこげついて回収ができねえといってくるとね。何年か前だったが、ご主人は、どこかの銀行で損をしたんだね。一度そういう目にあえば、ご主人には、もうそれだけで結構だという人だったからね」
「現金で、百万ドルというんだね?」と、メイスンが目を丸くしてたずねた。
「むろん、現金でさ」と、アシュトンは、ぴしっといった。「ほかに、なんに換えたというんです?」
ペリイ・メイスンは、ちらっと、デラ・ストリートに目くばせをした。
「それから、ウィニフレッドさんはどうしたんだね――行方《ゆくえ》がわからないとかいったね?」
「ああ、家出をなすったんで。わしは、あの方が悪いとは思わねえ。ほかの二人がひどいことをしたんだから」
「孫たちの年齢は?」
「サムさんが二十八、フランク・オーフレイが二十六、ウィニフレッドさんは二十二で――美人でさ! あの方は、ほかの二人を合わせたよりも、ずっと立派な人だ。六か月前に、ご主人は、全財産をお嬢さんに譲って、ほかの二人の孫たちには十ドルずつやるほかには、なんにもやらねえという遺言状をつくりなすった。ところが、なくなる二日前になって、この新しい遺言状をつくりなすったらしいんで」
メイスンは、額に八の字を寄せて、「そいつは、ウィニフレッドには残酷なことだね」
アシュトンは鼻をならしただけで、なんにもいわなかった。
「ところで、あんたは、クリンカーを飼う権利を主張するのに、どれくらいの金を使うつもりなんです?」と、メイスンは、相手の肚《はら》をさぐるようにたずねた。
アシュトンは、ポケットから札入れをぐいと抜き出し、札束を引き出して、
「わしは、しみったれじゃないんで」といった。「いい弁護士というものが、高くつくもんだということはよく承知してまさあね。わしの必要なのは最上等の弁護士なんで、ほかのものはいらん。それで、だいたい、どれくらいの費用がかかりますかい?」
メイスンは、目を丸くして、その厚い札束を眺めながら、
「その金を、どこで手に入れなすったんだね?」と、好奇心をいっぱいにしてたずねた。
「ためたんでさあね。わしは、金を使うってことのない人間だからね。二十年間、給料をためたんでさあ。一時は、例の金縁のついた一流の株に――ご主人がいいとおっしゃる銘柄に――したこともあったが、ご主人が現金に換えなすったときに、わしも現金に換えたのさ」
「ラクスター氏のすすめでかね?」とたずねながら、メイスンは、珍しいものでも見るように、じっと依頼人を見つづけた。
「あんたがそう思いたけりゃ、そう思いなさるがいいさ」
「それを、猫を手もとにおいとくために、喜んで使うというんだね?」
「べらぼうな金は出さねえけど、もっともだと思う金額なら、喜んで使うつもりでさ。べつに捨てるつもりはないんでさ。だけど、立派な弁護士さんを頼むにゃ、金がかかることぐらいは、よく承知しているんで。くだらん弁護士に頼んでるんじゃないってことは、よく知ってまさ」
「どうだろう」と、メイスンがいった。「着手金として、五百ドルかかるといったら?」
「そいつは、高すぎるね」と、アシュトンは、気短かそうにいった。
「じゃ、二百五十ドルではどうだね?」
「いいとこだね。払いましょう」
アシュトンは、紙幣をかぞえはじめた。
「ちょっと待って」と、メイスンは、声をあげて笑いながら、「たぶん、そんな大金を使う必要はないだろう。わたしはただ、あんたがどのくらい猫を可愛がっているか、はっきりみようとしただけなんだから」
「そりゃもう可愛がってるもなにも、並たいていじゃねえ。わしは、サム・ラクスターをつけあがらせないようにするためになら、筋道のたった金なら使うつもりだけど、だけど、吹っかけられるのはごめんでさ」
「ラクスターの名前は?」と、メイスンがたずねた。
「サムエル・Cでさ」
「たぶん」と、メイスンは相手にいった。「手紙一本だけでいいだろうと思うがね。そんな事情なら、あんたも、たいして金がかからずにすむだろう」
メイスンは、デラ・ストリートの方を向いて、
「デラ」といった。「手紙を一本書いてくれたまえ。東ワシントン通り三八二四番地、サムエル・C・ラクスター殿。前略、アシュトン氏の依頼により――いや、待てよ、デラ、名字だけでなく、名前も入れたほうがいい――メモしてあるはずだ――チャールズ・アシュトン、これだ――ええと、チャールズ・アシュトンの依頼により、故ピーター・ラクスター氏の遺言状にもとづく同氏の権利に関して申し述べます。右遺言の文面によれば、貴下はアシュトン氏のため、同人が労働に耐えるかぎり管理人の地位を与える責任を持っています。
アシュトン氏が、その愛猫《あいびょう》を手もとに飼うことを望むのは、きわめて自然の情であって、管理人もまたペットを持つ権利があります。遺言者の生存中も、この愛猫が飼われていたことからしても、特にこのことは至当と考えられます。
もし貴下において、アシュトン氏の愛猫に危害を加えられるならば、本職は、貴下が遺言の一条項に違反し、したがって相続権を放棄せられたものと解釈いたします」
ペリイ・メイスンは、デラ・ストリートの顔に、にやりと笑い顔を見せて、「これでまず、一本釘はさしておける」といった。「これで、たった一匹の猫と引き替えに、全財産を賭けて争うことになると、かれが気がつけば、いちかばちかやってみようなどとはしないだろう」
メイスンは、アシュトンの方を向いて、元気づけるようにうなずいて見せて、「着手金として、十ドル会計に払っておいてください。領収書をお渡しするでしょう。なにかあったら手紙で知らせます。あなたのほうでもなにか起こったら、この事務所へ電話をかけて、このストリート嬢にいってください――ストリート嬢は、わたしの秘書ですから。どんな伝言でも、この人には話して大丈夫です。さしあたっては、こんなとこでいいでしょう」
アシュトンのふしくれだった手が、しっかり松葉杖をつかんだ。やっと立ちあがって、松葉杖を脇《わき》の下にあてがった。ありがとうとも、さようならともいわずに、びっこの足音を高く立てながら、かれは事務所から出て行った。
デラ・ストリートは、びっくりした目つきで、ペリイ・メイスンを見て、
「ねえ、先生」とたずねた。「孫が猫をほうり出したら、相続権をうしなうなんて、そんなこと、あるんですの?」
「もっと奇妙なことだってあるもんだよ」と、メイスンがこたえた。「そりゃまあ、遺言状の文面にもよることなんだがね。管理人についての条項が、相続権成立の一要件となっていれば、十分に頑張れるさ。しかし、きみも十分察しているだろうが、ぼくがいまやっていることは、サムエル・C・ラクスター氏に、釘を一本さしとくということなんだ。たぶん近いうちに、その紳士から直接になんかいってくるだろうと思うんだ。いってきたら、すぐ知らせてくれたまえ……それが、法律稼業のおもしろいところさ。なあ、デラ――まったくいろんなことがはじまるじゃないか……管理人の飼い猫事件とは、おもしろいじゃないか!」
メイスンは、くっくっと愉《たの》しそうに笑った。
デラ・ストリートは、ノートを閉じ、自分の部屋の方へ帰ろうとして、窓際に立ちどまって、賑やかな通りを見おろして、「二百四十ドルもまけておあげになったのに」と、ぼんやり車の往来に目を落しながら、「あのおじいさん、ありがとうともいわなかったわね」
明けはなった窓から吹き込んで来る微風が、デラの髪をなぶった。かの女は、ぐっと身を乗り出して、新鮮な大気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「きっと変わりもんなんだよ」と、メイスンがいった。「たしかにひねくれた代物《しろもの》は代物だがね……ああ、そんなに乗り出しちゃいけないよ、デラ……しかし、あの老人が動物好きだということは忘れちゃいけない。それに、もう若くはないんだ。自分ではいくつというか知らんが、七十五は越えてるだろう……」
デラ・ストリートが、さっと身を起こしたと思うと、しなやかな体をくるっと振り向けて、ペリイ・メイスンの顔をまともに見た。そして眉を寄せて、「先生、おもしろいことがありますわ」といった。「先生のごひいきの猫好きの依頼人を、誰かがつけてますわ」
ペリイ・メイスンは、ぐっと椅子を押しやって立ちあがり、大股《おおまた》に事務所を突っ切って窓際に寄った。片手を窓枠《まどわく》に、片手をデラ・ストリートの腰にまわして、二人は、通りを見おろした。
「ね、ほら」と、デラがいった。「あの男よ、明かるい色のフェルトの帽子をかぶったの。戸口から飛び出して来たのよ……ほら、いまあの車に乗るじゃありませんか」
「ポンテアクの新車だな」と、メイスンは考えながら、「どうして、あの男がアシュトンをつけているという気がするんだね?」
「あの男の挙動から、間違いないと思うの。さっと戸口から飛び出して来たんですもの……ね、のろのろと、車は進んで行くでしょう――ただアシュトンを見うしなわないようにね」
アシュトンは、びっこを引きながら町角を左へまがった。車は、アシュトンの後を、ギアを低速に入れて這うようにつづいた。
メイスンは、頬に深い皺《しわ》を寄せて、その事を見つめながら、いった。「現金で百万ドルといえば、こいつはデカイ金だからなあ」
第二章
ペリイ・メイスンの事務所の奥の部屋の窓からさし込んでいる朝の日の光が、ぎっしり書棚にならんだ、重々しい子牛皮の法律書の背にあたって、そのいかめしさをいくらかやわらげているようだった。
デラ・ストリートが、自分の事務室とのあいだのドアをあけて、郵便物の束と新聞紙とを持ってはいって来た。それを見て、ペリイ・メイスンが読んでいた新聞紙をたたんでいるあいだに、デラ・ストリートは、椅子を引き寄せて腰をおろし、デスクの自在板を引き出し、ノートをひらいて万年筆をかまえた。
「やれやれ、きみは、仕事のほかに頭はないんだな」と、ペリイ・メイスンは不平そうにいった。「ぼくは、きょうは仕事なんかしたくないんだよ。仕事なんかほっぽり出して、ぼんやりしていたいな。なんでもいいが、なにかしちゃいけないようなことをしてみたいよ。ねえ、きみ、きみは、ぼくが会社顧問の弁護士だったら、なんて思ってるんじゃないのかい! せかせか動きまわったりなんかしないで、どっしり机に向かったままで、銀行相手に意見をいったり、不動産を調査したり登記書を検証したりするだけだったら、いいのにと思っているんだろう! ぼくが刑事弁護士として法廷の裁判ばかりを専門にしているわけは、そういう会社顧問の弁護士がするような、きまりきった平凡なことがきらいだからなのに、きみは、ますます、雑務を多くして、ますます冒険をすくなくしようとするんだね。
ところが、法律商売で、ぼくの気に入っているのは――その冒険なんだよ。人間の性質の奥にかくれたものが見えるんだからね。舞台正面の観客には、何度も念入りに練習した俳優の演技しか見えないのだが、弁護士には、舞台裏の裸の人間性がのぞけるんだ」
「あら、あなたが、どうしても小さな事件にかかり合いたいとおっしゃるんなら」と、デラは意地悪くひびくほどの口調でいった。こういうなれなれしさというものも、月並みな規則は二の次で、なによりも仕事仕事と、仕事の能率を第一にするこの事務所に、長年のあいだ、特別な待遇を与えられていっしょに働いているところから出て来たものだった。「あなたのお仕事がかたづくように、あなたのお時間をうまくお使いにならなくちゃいけませんわ。それはそうと、ナサニエル・シャスターさんがお目にかかりたいといって、待合室で待っていらしてよ」
ペリイ・メイスンは、眉を寄せて、「シャスターだって?」といった。「いやまったく、あいつは陪審員を買収するけしからんやつだ――悪徳弁護士だよ。自分では大物の刑事弁護士面をしているが、実は、あの男が弁護する人間たちよりも、はるかにひどい大悪党さ。どんな大馬鹿だって、やっこさんのように陪審員に賄賂《わいろ》を使えば、裁判には勝てるさ。いったい、その悪党が、なんの用があるというんだい?」
「先生がお出しになった手紙のことについて、会いたいとおっしゃってるんですわ。依頼人も――サムエル・C・ラクスター氏とフランク・オーフレイ氏もごいっしょですわ」
いきなり、ペリイ・メイスンは声を立てて笑いながら、「あの管理人の猫の件か?」とたずねた。
デラはうなずいた。
メイスンは、郵便物の束を引き寄せて、
「そうだな」といった。「同業のよしみとして、むやみにシャスター氏を待たせるわけにもいかないだろう。大急ぎで、重要なものだけに目を通して、電報を打たなくちゃいかんものがあるかどうか調べてみよう」
メイスンは、一連の案内書のようなものを見、眉を寄せて、「なんだい、これは?」とたずねた。
「日本郵船の案内状ですわ。浅間丸の一人用の特等船室の――寄港地は、ホノルル、横浜、神戸、上海《シャンハイ》、香港《ホンコン》ね」
「誰が取り寄せたんだ?」
「わたしよ」
メイスンは、郵便物の束の中からまた一通を取り出して、ながめながら、「ダラー汽船会社――プレジデント・クーリッジ号の特等船室の案内状だな――ホノルル、横浜、神戸、上海、香港、マニラか」
デラ・ストリートは、澄ました顔でノートを見つづけていた。
メイスンは、声を立てて笑いながら、郵便の束を押しやって、
「これは後まわしだ」といった。「まずその前に、シャスターの片をつけよう。きみはそこにすわったままでいい。ぼくが、きみの膝をつついたら、速記をとりはじめてくれ。シャスターというやつは、なかなか口のうまい隅におけないやつだからね。あいつ、歯医者へ行って歯の手入れをしてもらうといいんだがな、ぐらぐらしないように」
デラは、無言のまま、なにか物問いたげに眉をあげた。
「フランクリン型歯列といってね」と、メイスンがデラにいった。「むやみに唾《つば》が飛ぶんだ」
「フランクリン型歯列ですって?」と、デラがたずねた。
「うん、まあ空冷装置つきというやつだろうね。もし、人間が生まれ変わって来るもんだったら、あいつは前生では、きっとシナの洗濯屋だったにちがいないだろうな。あいつが歯をむき出して笑うたんびに、きき手に唾をひっかけるんだ。まるで、シナの洗濯屋の霧吹きさ。それに、むやみに握手好きときている。ぼくとしては、大嫌いなやつだが、侮辱するわけにもいかんしね。まあ今回は、職業的な儀礼を示すことも必要だろうが、しかし、もしあいつが、なにかぼくをだまそうとでもしたら、ぼくは儀礼など放棄して、追い出してやる」
「猫も」と、デラがおもしろがっているような口振りで、「きっと得意になって喜んでるでしょう――いそがしい弁護士さんたちが時間をつぶして、自分が泥足でシーツにあがる件を論じようというんですもの」
ペリイ・メイスンは、声をあげて笑いながら、「さあさあ」といった。「なんとでもいうさ! うん、そうだ、さあ、やってやるぞ。シャスターのやつは、依頼人をけしかけて喧嘩《けんか》をさせようとするだろうが、ぼくとしては、やつの手に乗って勝負をするか、しばらくいわせておくかどっちかだね。いわせておけば、ぼくをいい負かしたと依頼人に思いこませて、たんまり礼金を取るだろう。ぼくが引っ込んでいなくて喧嘩になったら、やつは、相続全体が問題になったといって、また手数料をうんとしぼり取るだろう。これが、遺産相続権がなくなるぞと、ぼくがひと言おどしつけてやったおかげだぜ」
「ジャックスンさんにだって、応対ができるんでしょう」と、デラが遠まわしに、相手にするなというようにいった。
メイスンは、気さくに薄笑いをうかべて、「いいや、ジャックスンは、顔じゅう唾をひっかけられることには馴れてないだろうからね。ぼくは、前にシャスターに会ったことがあるんだから、むやみに、やっこさんの手には乗らんよ。こちらへはいってもらおう」
メイスンは、電話器をとりあげて、受付の女の子にいった。「シャスターさんをお通ししてくれ」
デラ・ストリートは、最後にもう一度、訴えるように、「ねえ、お願い、先生、ジャックスンさんにやらせてちょうだい。あなたはきっと大論争をはじめて、猫の喧嘩に、あなたの時間を全部かけておしまいになること、目に見えるようですわ」
「猫と死体か」と、メイスンが、自分にいって聞かせるような口調でいった。「どっちもどっちじゃないか。ぼくはもう、死体のことではさんざん闘って来たんだから、生きてる猫の相手というのも、気散じになっていいだろうからな、よろこんで……」
ドアが開いて、大きな碧《あお》い目をした金髪の女の子が、生気のない声でいった。「シャスターさん、ラクスターさん、オーフレイさんです」
三人が戸口を通りぬけて部屋へはいって来た。小柄な、きびきびとしたシャスターが、枯葉の下をつっついている雀のように、せかせかと先頭に立っていた。「やあ、お早よう、お早よう。きょうは暖かくなりそうですね?」と、部屋を突っ切って来て、手を出した。唇《くちびる》をあけて、口いっぱいの歯を見せた。歯と歯のあいだは、それぞれかなりあいていた。
メイスンが立ちあがると、小さな相手よりも一段と背が高く見えたが、しぶしぶ、手を差し出していった。「まず、はっきり伺いたいのだが、どちらがラクスターさんで、どちらがオーフレイさんだね?」
「さよ、さよ、さよう、もちろん、もちろん」と、シャスターがおちつきなくいった。「こちらがラクスターさん――サムエル・C・ラクスター氏。遺言の執行人で――故ピーター・ラクスターのお孫さん」
くすぶったような黒い目に、同じ色の髪の毛に念入りにマルセル式のウェーブをかけた、黒味がかった肌《はだ》をした背の高い男が、見かけだけは愛想よくにっこりと笑いをうかべたが、その微笑も、誠実さというよりは、身の構えというほどのものだった。大きなクリーム色のステットソンの帽子を左手にしている。
「それから、こちらがフランク・オーフレイさんで、もう一人のお孫さんです」
オーフレイというのは、黄色い髪の毛の、唇の厚い男だった。かれの顔は、表情を変えることができないように見えた。生牡蠣《なまがき》のような妙に水っぽい青い色合いの目だ。かれは、帽子を持っていなかった。
かれは、なんにもいわなかった。
「秘書のデラ・ストリート嬢です」と、ペリイ・メイスンが、デラを紹介した。「ご異議がなければ、話のあいだじゅうこの席にいてもらって、必要なメモをとってもらいます」
シャスターは、のどの奥で陰気な笑い声を立てて、「ご異議があったとしても、どっちみち、この方はこの席にいるんでしょう? は、は、は、わたしは、きみを知ってますよ。ねえ、まるでこれまで知らない人間を扱うように扱われちゃ困りますよ。わたしは、きみをよく知ってるんだからね。きみは闘士だ。きみがどういう人かということは、考慮に入れているよ。問題は、こちらの依頼人の根本方針に関することだ。お二人は、召使に降参するわけにはいかないんだ。しかし、戦いははじまった。わたしは、二人にきみが闘士だといってある。ちゃんと警告してある。警告しなかったとはいわせません!」
「かけたまえ」と、メイスンがいった。
シャスターは、自分の依頼人にうなずいて、椅子を指さして掛けさせた。自分は、例の大きな、よくふくらんだ革張りの椅子に腰をおろしたが、まるでその座席に落ち込んでしまったようだった。かれは脚を組み、カフスを引っ張り、ネクタイをなおし、メイスンの顔に笑顔を向けて、はじめた。
「これは、いくらきみでも頑張れないよ。われわれとしては主義の問題だからね。最後のとことんまで闘うつもりはありますがね。しかし、重大な問題だからね、たしかに」
「なにが、そう重大な問題なんだね?」とメイスンがたずねた。
「あれが遺言の一条件だという、きみの主張がだよ」
「それで、主義の問題というのは、なんだね?」と、追っかけて、メイスンが問いつめた。
「なに」と、びっくりした色を顔にうかべて、シャスターがいった。「猫ですよ、むろん。もう我慢ができないんだ。しかし、それ以上に、あの管理人が指図がましいことをするのが、我慢ができないんだ。これまでにも、余計な真似をしすぎるんだ。一度雇った召使をやめさせられないという場合、いくらもしないうちに、そいつがまったく手に負えなくなるということは、きみにもよくわかるでしょう」
「ねえ、きみたち」と、メイスンは、シャスターの顔から二人の孫の顔に視線を移して、たずねた。「きみたちは、針ほどのことを大げさにいっているという気はしないかね? どうして、可哀そうなアシュトンに猫を飼わせないんだね? 猫はいつまでも生きてやしない。アシュトンだってそうだ。弁護士に大金を使う理由もなければ、また……」
「いそいじゃいかん、きみ、いそいじゃ」と、メイスンの言葉を遮《さえぎ》りながら、シャスターが、すべるようになめらかな椅子の革の上を、ぎりぎりのはしのところまで尻を乗り出して、「むずかしい争いになるな。ひどい争いになりそうだな。そのことは、二人にもいってあるんだ。きみは、機略縦横な男だ、ずるい男だとね。きみがいいまわしを気にしないというのなら、こすっからい男だといおう。弁護士仲間じゃ、これがお世辞だ。わたしだって、そういわれりゃほめられたと自分じゃ思うんだ。わたしの依頼人も、しばしば『シャスターはこすっからい』というさ。そういわれて、わたしがおこるか? いいや、おこりゃせん! お世辞だと、わたしはいいますな」
デラ・ストリートが、ちらっとペリイ・メイスンの顔を見た。その目は、おもしろがっているような色をうかべていた。メイスンの顔は、ちょっとの間、いっそう石のように固くなった。
シャスターは、早口でつづけた。「わたしは、お二人には警告してあるが、ウィニフレッドは、遺言をこわそうとしている。あの子が、あらゆる手だてを尽して、そうしようとすることは、わたしにはよくわかっている。しかし、祖父が正気でなかったとは、あの子にはいえないし、不当な圧迫が加えられたという疑いもない。だから、あの子は、なんとか手がかりをさがさなけりゃならなかったんだ。そして、アシュトンと猫をえらび出したんだ」
メイスンは、怒りを声に含ませて、「おい、おい、シャスター、そんなたわごとはやめろ。こちらの要求は、いままでのように管理人に猫を飼わせてやれということだけだ。きみの依頼人たちは、なにもこんな論争に金をつかうことはいらん。こんな話し合いをするのに要する金額だけで、優に猫がよごすシーツの洗濯代の十年分以上は出るじゃないか」
シャスターは、懸命に頭を上下に振りながら、「わたしもお二人に、そのことをお話したんだ。示談でいくらゆずっても、裁判で勝つのよりは安くあがる。そこでだ、もし、きみのほうに示談にする気があるのなら、こちらにもその用意がある」
「どういう線で?」とメイスンがきいた。
シャスターは、大いに案を練って練習して来たのか、ちょっと聞いただけでわかるほどに早口で、示談の条件をまくし立てた。「ウィニフレッドは、遺言無効の申し立てをしないとの契約書にサインする。アシュトンは、遺言が正当なものであって、なくなった老人が、精神ならびに記憶力ともに健全な状態のときに作成したものと認める旨の一札にサインする。その後、アシュトンは猫を飼うことを許される」
メイスンは、怒りに声を尖らせて、「ウィニフレッドのことは、ぼくの知ったことじゃない」といった。「かの女には会ったこともなければ、まだ話をしたこともない。サインとかなんとか、かの女にいえるはずがない」
シャスターは、したり顔に二人の依頼人の顔を見て、「ほらね、いったでしょう、頭のきれる男だって」といった。「闘いになるとお話したでしょう」
「ウィニフレッドは、これには関係してはいない」と、メイスンがいった。「さあ、現実にもどって、まともな話をしよう。ぼくが関心を持っているのは、この猫のちくしょうのことだけだ」
一瞬、沈黙があたりを占めた。がすぐに、シャスターの陰気な含み笑いが、それをやぶった。
サム・ラクスターが、だんだん怒りが強くなって来たメイスンの顔をちらっと見て、口を出した。
「むろん、あなたは、わたしの相続権を無効にすると脅迫されたことはお認めになるんでしょうね。アシュトンが考えついたことじゃないということは、わたしにはわかっています。わたしたちは、遺言について争うのはウィニフレッドだとは予期していましたのです」
サムの口調には、なにか取りつくろった、相手の機嫌をとるような、ことさら、声帯をやわらかくして、作り笑いをしているようなところがあって、それが、かれの声に高級|娼婦《しょうふ》の微笑に似た感じを与えていた。
「こちらの要求は」と、メイスンがきっぱりといった。「猫のことはほっといてくれということだけだ」
「それで、ウィニフレッドには完全な権利放棄書にサインさせてくれるんでしょうね?」と、シャスターがたずねた。
メイスンは、かれの方に向き直って、「たわけたことをいうもんじゃない」といった。「ぼくは、ウィニフレッドの代理じゃない。かの女とは、なんの関係もない」
シャスターは、大げさにもみ手をして、「ほかの条件では、手を打てませんな。これがわれわれの原則です。私個人としては、あれが遺言の一条件だとは思えません。もっとも、論じる余地はあるでしょうが」
メイスンは、すっくと立ちあがった。怒った牡牛がくるっと顔を向け直して、小うるさく吠え立てるテリヤに立ち向かうのに似ていた。
「さあ、よくきけよ」と、メイスンが、シャスターに向かっていった。「おれは、腹を立てるのは嫌いだが、立てた以上は、誰かにその償いをさせることにしているのだ。だが、きみは、もう十分に怒らせたぞ」
シャスターは、くっくっと笑いながら、「うまいね!」といった。「とても、うまいもんだ。抜け目がないね」
メイスンは、かれの方に一歩踏み出して、「きさまは、おれがウィニフレッドの代理じゃないことは、百も承知していながら、なんという下らないことを企むんだ。おれの書いたあの手紙の趣旨はちゃんとわかっていながら、猫一匹のことでは、きさまの依頼人から大金をだまし取れないと思って、こんな遺言の争いなどという余計な事柄を無理に持ち出したんだろう。こんな卑劣な煽動《せんどう》をしておいて、依頼人からたんまり取りあげようというのだな。ウィニフレッドを知りもしなければ、代理人でもないのだから、当然、サインのさせようも、おれにはないのだ。きさまは、二人をおどかして、遺産放棄についてのウィニフレッドのサインを取らなくちゃならんと思い込ませた。これでたんまり謝礼がとれる土台ができたというもんだ」
シャスターは、椅子から跳ねあがって、「そりゃ、中傷だ!」とわめいた。
メイスンは、二人の孫の顔を面と見て、「お聞きなさい」といった。「ぼくは、きみたちの保護者でも、後見人でもない。だから、わざわざ骨を折って、きみたちの余分な出費をはぶくつもりはありません。もし、きみたちがあの猫を飼わせてやろうと思うのなら、いまそういいたまえ。それで万事はすむんだ。もし、そうするつもりがないのなら、ぼくは、きみたちがこれまでにそんな目にあったことのないほどの悪戦苦闘に、きみたちを引きずり込んで、シャスターに儲けさせてやる。もみ手をするほかになんの取柄もないシャスターの前に、報酬を山と積んでやるために、きみたち二人をおどす案山子《かかし》の役目に使われることは、ぼくはごめんをこうむる……」
「気をつけて! 気をつけて!」と、シャスターは腹立たしそうに、文字どおり手を振り足を踏みながら、叫んだ。「きみは、そんな口をきくことはできないぞ。職業倫理違反だ。苦情処理委員会に報告してやる。名誉毀損で訴えてやるぞ」
「報告でもなんでも、かってにしろ」と、メイスンが厳然とどなり返した。「訴えたけりゃ、訴えるがいい。依頼人をつれて、さっさと出ろ。午後の二時までに、誰でもいい、返事をするんだ、猫を飼わせるかどうか。さもなければ、戦闘開始だ――いいか、三人ともだぞ。それから、おれについては、これだけはおぼえておけよ――いったん闘いをはじめたら、相手が待ち構えてもいないところへ打撃を加えるのが、おれの十八番だ。そのときになって、無警告だなんていうなよ。きょうの午後二時、わかったな。さあ、出て行け」
シャスターが勇ましく進み出て、「わしをだますことなんかできないぞ、ペリイ・メイスン。きみは、猫を口実にして、ウィニフレッドの遺言無効の訴えを……」
ペリイ・メイスンは、さっとふた足、かれの方に進んだ。小柄な弁護士は踊るように身を引き、あわてて戸口の方へ逃げた。と思うと、ドアをあけて飛び出した。
「よし、闘うぞ!」と肩越しに、シャスターはどなり返した。「おれだって、きみに負けない闘士だぞ、ペリイ・メイスン」
「そうか」と、ペリイ・メイスンはため息をついて、「そのざまはなんだ」
サムエル・ラクスターは、なにかいいたそうに、しばらくもじもじしていたが、そのまま振り向いて出て行った。オーフレイも後につづいた。
ペリイ・メイスンは、微笑をうかべているデラ・ストリートの目と目を見合わせて、にたっと笑いをうかべ、「きみのいう番だ」といった。「『こうなるといったでしょう』とね」
デラは首を振って、「あのちびの三百代言を立てないほどやっつけてやってよ!」といった。
メイスンは腕時計を見て「ポール・ドレイクに電話して、二時半にここへ来るようにいってくれ」
「アシュトンさんは?」と、デラがたずねた。
「いや、いい」と、メイスンがデラにいった。「アシュトンには、心配事が山ほどある。どうやら、これは主義の問題になりそうだな」
第三章
ペリイ・メイスンの机の上の時計が、二時三十五分をさしていた。ドレイク探偵事務所のポール・ドレイクが、例の大きな革張りの椅子に横向きにかけ、椅子の片方の肘《ひじ》かけに腰のくびれたところをあて、もう一方の肘かけから両脚をたらしていた。両方の口のはしをすこし上にそり返らせているのが、その顔に剽軽《ひょうきん》な感じを与えていて、いまにも笑い出しそうに見えた。目は、大きく、飛び出していて、ただぽかんとあいているような感じだ。
「こんどはなんだい?」と、ドレイクがたずねた。「まだ殺しはなかったと思っていたがね」
「殺しじゃないよ、ポール、猫だよ」
「なんだって?」
「猫だ、ペルシア猫だよ」
探偵は、ため息をついて、「よし、それで、猫なら、どうしたんだ?」
「ピーター・ラクスターという男は」と、メイスンがいった。「たぶん、けちん坊だったらしいんだが、市内に屋敷があるのに、住もうともしないで、カルメンシタの別荘に居っきりだった。ところが、その別荘が燃えて、ラクスターは焼け死んでしまった。後には、三人の孫が残った。サムエル・C・ラクスターと、いとこのフランク・オーフレイ、この二人は、遺言によって遺産を相続する。それから孫娘のウィニフレッド・ラクスターだが、これは、無視されて遺言状からのけものにされてしまった。遺言状には、管理人のチャールズ・アシュトンに、終生その管理人の職務を保障するという条項が一つある。そのアシュトンが猫を一匹大切にしていて、いつまでも飼っておきたいと思っていた。ところが、その孫のサム・ラクスターが、その猫を追い出せと、アシュトンにいうのだ。アシュトンというのは、びっこの老人でね、その猫だけを可愛がっているのだ。それで、ぼくは、すっかりアシュトンに同情して、ラクスターあてに手紙を書いて、猫のことはほっとけといってやったのだ。ラクスターは、ナット・シャスターのところへ事件を持ち込んだ。シャスターのやつは、こいつは大儲けのチャンスだと見てとったんだね。それで、ぼくが遺言をぶっこわそうとしているという思いつきを、ラクスターの頭に叩き込んだのだ。そして、うまく話をつけようとして、とうていできないような条件をうんと持ち出して来たというわけだ。そんなことはできないからと、ぼくがうんといわないと、やつは、ぼくの拒絶を思うさま利用しようというわけだね。まあ、たんまり着手金をものにしたろうな」
「それで、きみは、どうしてやろうというんだ?」と、ドレイクがたずねた。
「その遺言を無効にしてやりたいんだ」と、メイスンが、厳然といいはなった。
探偵は、煙草《たばこ》に火をつけて、そのおはこの、のろのろした口調でいった。「猫一匹ぐらいのことで、遺言をぶっこわそうというのかい、ペリイ?」
「そうさ、わずか猫一匹のことだ」と、メイスンは、一応相手の言葉を認めて、「だが、ほんとは、遺言といっしょに、あのシャスターのやつをやっつけてやるつもりなんだ。シャスターのやつときたら、一流の刑事弁護士を気取ってやがって、どうにも我慢がならないんだ。三百代言にも劣る悪徳弁護士でね、偽証を教唆《きょうさ》したり陪審員を買収したりする。弁護士仲間のつらよごしだけじゃなく、やつのおかげで、みんなの評判までが落ちることになるのだ。ほんとうだぜ、ポール、やつときたら、いつでも弁護を引き受けると、依頼人を助けるだけでなく、計画的に証拠をでっちあげるもんだから、それで罪のない者が罰を受けて、やつの論拠が立派に通って評判になるというわけだ。もし、ぼくと対決する機会があったら、腕のいいところを見せてやると、町じゅうにふれまわっているようなやつなんだ。こっちはもう、前から胸がむかむかしているんだ」
「遺言状の写しはあるのかい?」と、ドレイクがたずねた。
「いや、まだだ。検認記録を写させているところだ」
「遺言の検認はすんだのか?」
「と思うんだ。しかし、検認の後からでも効力を争うことはできるんだ」
「おれの役目は?」
「まず、ウィニフレッドをさがしてくれ。それから、ピーター・ラクスターのことを、洗いざらいほじくり出してくれ。財産を相続する二人の孫のことについても、できるだけ洗ってくれ」
「いつものとおりのやり方で行くのかい、それとも急ぐのか?」と、ドレイクがたずねた。
「急いでくれ」
ドレイクはどんよりした目で、無表情に、相手をおしはかるように、ペリイ・メイスンの顔を見ながら、「猫でもって、きっと、大枚の金になるんだろうな」といった。
メイスンは、まじめな顔つきで、「はっきりとはいえんが、いくらかの金にはなるだろうよ、ポール。ピーター・ラクスターというのは、けちん坊だったらしいが、またおそろしく銀行を信用しなかったらしいんだね。死ぬすこし前に、大枚百万ドルほどの証券類を、全部現金に換えたというんだ。死んでから、その百万の金がまだ見つからんというのだ」
「別荘で、いっしょに燃えちまったんじゃないのか?」と、ドレイクがたずねた。「紙幣で持ってたんだろう」
「そうかもしれない」と、メイスンがうなずいた。「また、そうでないかもしれない。アシュトンが、ぼくの事務所を出たときに、後をつけてる人間がいた――緑色のポンテアクの新車に乗った男だったが」
「そいつを知ってるのか?」
「いいや、知らん。窓から見てただけで、顔は見えなかった。見たのは、明かるい色のフェルトの帽子と、黒っぽい服だけだ。ポンテアクは、セダン型だった。むろん、これも、なんでもないかもしれない。がまた、なにかあるかもしれない。とにかく、ウィニフレッド・ラクスターには、すばらしい幸運が向いて来るだろう。ぼくが、その子のために遺言をぶちこわしてやろうと思っているんだからな。シャスターのやつも、いままで、法廷でメイスンを向こうにまわすことがあったら、おれがどうするか見ていろとふれまわっていやがったんだから、こんどは、それを実証するチャンスを与えてやろうじゃないか」
「争ったって、シャスターに痛い思いをさすことなんかできないだろうな」と、探偵がいった。
「かえって、かれの思うつぼじゃないかな。きみは、きみの依頼人に有利な結果をもたらそうとして闘うんだが、シャスターは、自分の依頼人から金をとるために闘うんだからな」
「いや、依頼人が負けて、金がとれないということになったら、やつは、一文も取れないよ」と、メイスンがいった。「前の遺言状では、なにからなにまで一切、ウィニフレッドに遺贈することになっていたのだ。もしも、ぼくがこんどの遺言を無効にすれば、前のが有効となるわけだ」
「ウィニフレッドをさがして、依頼人にするのか?」と、ドレイクがたずねた。
メイスンは、首を振りながら、強い口振りで、「依頼人には、もう猫がいる。ウィニフレッドは、証人として必要になると思うんだ」
ドレイクは、なめらかな椅子の革の上から脚をずらして、立ちあがった。
「やることはわかった」と、ドレイクはいった。「またきりきりまいをしろというんだろうな」
メイスンは、陰気にうなずいて、「それに、早いとこ頼む。きみが掘り出せるかぎりの、あらゆる面の情報をしらしてくれ。財産、精神状態、不当干渉、など、なんでもかんでもだ」
ドレイクがドアをしめて出て行くと、ジャックスンが、ほんの申しわけだけのノックをして、法令の用紙にタイプした書類を持ってはいって来た。
「遺言状の写しです。綿密に調べましたが」と、ジャックスンがいった。「猫についての条項は、あまり強く規定してないようですね。相続権成立とはあまり関係のない条件のようですし、遺産に付随した責任でもないようです。遺言者としての、単なる希望の表明というところです」
メイスンは、やや失望の色を顔にうかべて、「ほかに、なにか?」とたずねた。
「どうも、ピーター・ラクスターは、遺言状を自分で作成したようですね。どこか東部で、数年間、弁護士をやっていたように聞いています。文面は、とても抜きさしならないほど厳重にできていますが、一節だけ、変なところがあります。論争となれば、あるいは、その一節が論点に使えるかと思いますが」
「どんなことだ?」と、メイスンがたずねた。
ジャックスンは、遺言状をとりあげて、読み出した。「わたしは生涯、親戚《しんせき》のみならず、偶然の環境からわたしの家族の一員となることを希望した人々の、深い情愛ある尊敬の念に守られて来た。しかし、その親愛と尊敬とが、はたしていかほどまで真実の好意であったか、または、わたしの遺書による遺産相続への道をひらく意図のものであったか、ついに、わたしは確認することができなかった。もし、後者の場合だとすれば、わたしの資産内容は、確実にかれらを落胆させる程度のものであろうから、わたしの遺産受取人たちは、失望落胆にいたるのではないかと、わたしは心を痛める。しかしながら、わたしは、右の落胆の慰留ともなり、同時に、かれらへの暗示ともなる一つの考えを述べよう。単に遺産の分配に預ろうとして、わたしの死亡を我慢強く待った人々は失望にさらされるであろうが、わたしに対して、真の親愛の情を抱いていた人たちは、また別である」
ジャックスンは、読みおわって、まじめくさった顔つきで、ペリイ・メイスンの顔を見上げた。
メイスンは、にがい顔をしていった。「いったい、かれは、なにをからかっているのだろう? ウィニフレッドからは相続権を奪って、全財産を男の孫二人に、等分に遺贈したんだろう。いまの一節には、それを変更できるような文句はないじゃないか」
「ありませんね」と、ジャックスンも相槌《あいづち》をうった。
「かれは、死ぬすこし前に、現金で百万ドルほどのものをどこかへ隠した。しかし、たとえ、その金が見つかったところで、やはり遺産の一部と認められるだろうからな」
「そうですね」
「でないとすると」と、メイスンがいった。「死ぬ前に、なんかの形で贈与したかな。その場合には、その金は、贈与を受けた者の所有になるわけだな」
「とにかく、妙な条項ですね」と、ジャックスンは、あたりさわりのないようないい方でいった。
「信託贈与というようなことをしたのかもしれませんですね」
メイスンは、ゆっくりとした口調で、「ぼくは、チャールズ・アシュトンが持っていた厚い紙幣の束のことを考えずにはいられないね、着手金を払おうとしてポケットから出したんだが……それにしてもだね、ジャックスン、もし、もしだよ、もし、ピーター・ラクスターがアシュトンに金を渡したとすると……うん、これはおそろしい大喧嘩になるだろうな――信託であろうとなかろうと」
「そうですね」と、ジャックスンも同意した。
ゆっくりうなずきながら、メイスンは、デラ・ストリートの部屋への直通電話を取りあげた。かの女の声が聞こえてくると、いった。「デラ、ポール・ドレイクに連絡して、チャールズ・アシュトンも調査目標に加えろといってくれ。特に、アシュトンの経済状態を調べろと――銀行預金があるかどうか、所得税の申告をしているかどうか、不動産があるかどうか、証券に投資しているかどうか、担税力評価はいくらになっているか、そのほかなんでも、調べられるかぎり調べろといってくれ」
「はい、承知しました、先生」と、デラ・ストリートがいった。「おいそぎでしょうね、その報告は?」
「いそぎだ」
「それから、ダラー汽船会社では、あすの午前十時三十分まで、予約を取り消さずに、お返事をお待ちしていると申していました」と、デラ・ストリートは、ひややかな事務的な調子で、こういってから、受話器を元にもどし、ぱちっと電話を切った。ペリイ・メイスンは、切れた受話器を握って、苦笑をもらした。
第四章
事務員たちがそれぞれ自分の家に帰ってしまってから、もうずいぶん時間が経っていた。たった一人、事務所に残っていたペリイ・メイスンは、チョッキの脇あきに親指をかけて、小やみもなく室内を歩いていた。かれの前の机の上には、ピーター・ラクスターの遺言状の写しがのっていた。
そのとき電話が鳴った。メイスンは、受話器をすくいあげて耳にあてた。ポール・ドレイクの声で、「なんか、もう食ったかい?」といっているのが聞こえた。
「まだだ。ものを考えてるときは、あまり食うって気にならないもんだよ」
「報告を聞きたくはないかね?」と、探偵がたずねた。
「いいね」
「まだ十分にはそろっちゃいないんだが、だいたい主要な点だけはつかんだよ」
「よかろう、こっちへ来るだろうね」
「いや、きみがこっちへ来たほうが都合がいいと思うんだがね」と、ドレイクがいった。「おれは、スプリング街とメルトン通りの角のところにいるんだ。すぐ近くにワッフル屋があるから、なんか食べられるよ。おれは、まだ夕飯を食べていないもんだから、胃袋がハンガー・ストライキでもしているのかと驚いているとこなんだ」
メイスンは、眉をひそめて、机の上の遺言状を見やってから、「よかろう」といった。「こっちから行こう」
メイスンは、電灯を消し、タクシーをひろって、ドレイクがいった場所へ乗りつけた。そして、車からおりると、探偵の飛び出した目玉をじろじろと見て、「なんかいいことを企んでるという顔だな、ポール。クリームをなめてる猫のように、いやに、にやにやしてるぜ」
「そうかい? すこしはクリームを使ってもいいだろう」
「それで、ニュースってのはなんだい?」
「なんか食べてから話すよ。すきっ腹で、こんないい種を話すのは、ごめんだ……だがな、ペリイ、気をつけろよ。きみは、またこれを殺人事件と思って、情報をさぐり歩いてるらしいが、これはただの、べらぼうな猫が一匹まぎれ込んでるだけの事件だぜ。おれは賭けてもいいが、弁護料だって五十ドル以上はとれそうにもない代物だぜ、え?」
メイスンは、声を立てて笑いながら、いった。「十ドルだな、正確には」
「こういう男だよ、この男は」と、その場にいない聞き手に話しかけるように、ドレイクはいった。
「報酬は、そんなこととは関係がないんだ」と、メイスンがいった。「弁護士は、依頼人の依頼に対して責任と義務とを負っているものなんだ。報酬はいくらでも、好きなだけ切り出せばいい。それで、依頼人が払わないといえば、弁護士のほうで、その事件を取り上げなければいいのだ。しかし、金を払った以上は、五セントだって五百万ドルだって差別をしちゃいけない。弁護士は、全力をあげて協力すべきものなんだ」
「きみは、よくよくの個人主義者でないかぎり、そんな理論で法律商売をやることなんか思いも及ばないぜ、ペリイ……あ、ここがワッフル屋だ。さあ、はいろう」
メイスンは戸口に立って、どうしようかというように、明かるい店の内部を見まわした。黒味がかった髪に、笑ったような目つきの、まっ赤な厚い唇をした若い女が、ワッフル焼の鉄板の前に、主人らしい顔をしてかまえていた。たった一人いたお客が、勘定を払って出て行った。女は、受け取った金を、ちりんとレジスターに入れ、ちらっと笑顔をその客に見せてから、カウンターを拭きはじめた。
「ぼくは、ワッフルは食いたくないんだがな」と、メイスンがいった。
探偵は、メイスンの腕をとって、そっと押すようにして、店にはいりながら、「いや、ワッフルは大好きじゃないか」
二人は、カウンターの前にすわった。黒味勝ちの目が、ちらっと二人の顔を見て、赤い唇をほころばせた。
「ワッフルを二つ」と、ドレイクがいった。「細く切ったベーコンをそえて」
若い女の両手が要領よくさっと動いて、ワッフルのねり粉を注ぎこみ、ベーコンのこま切れを鉄板の上に散らした。
「コーヒー?」と、女が聞いた。
「コーヒーだ」と、ドレイクがいった。
「いますぐですか?」と、女がたずねた。
「いますぐだ」
女は、二つのカップにコーヒーを注いで二人の前におき、小さな銀色のクリーム入れをめいめいの受け皿にのせた。それから、紙ナプキンを出し、ナイフとフォーク、水とバターをならべた。
鉄板から湯気がのぼりはじめるのを見ながら、ドレイクは、声を高くして、「ピーター・ラクスターの遺言はつぶせると思ってるのかい、ペリイ?」
「わからん」と、メイスンはうなずいて、「しかし、考えれば考えるほど、あの遺言には妙なところがあるんだ。ぼくは、もうかれこれ三時間ほどというもの頭をしぼりつづけていたんだがね」
「一番お気に入りの孫娘を、遺言状からのけ者にしたというのがおかしいという気がするね」と、探偵は、大きな声でいいつづけた。「サム・ラクスターは、夜遊びにふけって放蕩《ほうとう》をつづけるものだから、老人には気に入らなかったのだ。オーフレイは、だんまり屋で、社交性のないやつだもんだから、老人もあんまり可愛がりもしなかったらしいんだね。おそろしく陰性なんだな」
カウンターの向こうにいる若い女は、ベーコンをかえしながら、ちらっと、素早く二人を見た。
「遺言状をつぶすとなれば、うんとかかるだろうな?」と、ドレイクはまだいいつづけた。
「ああ、おそろしくかかるだろうね」と、メイスンはあきあきしたような口振りで、「もし、不当圧迫とか精神異常とかを理由にするとすればね。しかし、はっきりいっとくがね、ポール、ぼくは、あの遺言をつぶすつもりだよ」
目の前のカウンターに、皿が落ちてがちゃんと大きな音を立てて割れた。メイスンが驚いて目をあげると、女の目とぶつかった。顔を赤くして、唇をきっと真一文字に結び、黒い瞳《ひとみ》をぎらぎらと怒りに光らしている。「なにさ」と、娘はいった。「いったい、どういうしゃれなの、これは? 誰にもひいきもなんにもしてもらわずに、あたしが一人でやっているのに、いきなりやって来て……」
ポール・ドレイクは、万事心得てるといったおちついた顔で、大きく手を振って二人を制した。こういうきわどいことを自分で仕組んでおきながら、いかにも日常茶飯事といった顔だった。
「ペリイ」と、ドレイクがいった。「このひとがウィニフレッドだよ」
メイスンが驚いて女の顔を見た。その目が、どう見ても間違いようのないほど正真正銘の驚きの色をうかべていたので、ウィニフレッド・ラクスターの目から怒りの色が褪《あ》せていった。「ご存じなかったんですか?」と、かの女がたずねた。
メイスンは、首を左右に振るだけで、一語も口に出すことができなかった。
女は、店の外にかけた看板を指さして、
「『ウィニーのワッフル』という看板を見たって、わかるじゃありませんか」
「看板を見なかったのさ」と、メイスンがいった。「この友だちが、ここへ引っ張って来たんだよ。どういうつもりなんだい、ポール、こんな狂言を仕組んで場当りを狙おうってのかい、それとも手品でも使おうってのかい?」
ドレイクは、指先でコーヒーのカップを撫でまわしながら、にやりと笑いをうかべて、「きみたち二人を紹介しょうと思ったのさ。あんたが、この店を一人できりまわしているところを、この友だちに見せてやりたかったんですよ、ラクスターさん。大資産家の相続人がワッフル屋を経営しているといったって、世間のたいていの人間は、そんなことやれるはずがないと思うのが、まあ通り相場だからね」
「わたし、相続人じゃなくってよ」
「いまからそうきめこんじゃいけない」と、ドレイクがかの女にいった。「このひとは、弁護士のペリイ・メイスンですよ」
かの女は、心持ち目を丸くした。
「ペリイ・メイスン」と、かの女は、相手の言葉をかみしめるように、ゆっくり繰り返していった。
「聞いたことがある、この男のことを?」と、ドレイクがたずねた。
「知らない人があって?」と、かの女は、赤くなってこたえた。
「ぼくは、おじいさんのことで、いろいろ、あなたに聞きたいと思っていたんです」と、メイスンがいった。「それで、このドレイク君に頼んで、あなたをさがしてもらっていたのです」
ウィニーは、ワッフルの鉄板をあけて、かりかりに焼けて焦げ茶色になったワッフルを二枚取り出して皿にのせた。手早く、とけたバターをワッフルの上につけ、シロップを添え、金茶色に焼けたベーコンの小間切れを小皿に盛って、ワッフルといっしょに二人の手に渡した。
「もうすこしコーヒーをあげますか?」と、ウィニーがたずねた。
「いいや、結構」と、メイスンがいった。
メイスンは、ワッフルにシロップをかけ、ワッフルを切って、その一切れを口に入れたとたん、びっくりしたような色がその顔にあらわれた。
並んで腰をかけたポール・ドレイクは、そのメイスンの顔を見て、くっくっと笑いながら、「おれには、この事件のどこが、それほどきみに値打ちがあるのかどうかよくわからんがね、ペリイ、しかし、このワッフルはなかなか結構な報酬だろう」
「あなたはどこで、こういうワッフルの作り方を習ったんです?」と、弁護士は聞いた。
「お料理の勉強をしておぼえたんですよ。おじいちゃんは、このワッフルが大好きだったの。一人でやっていこうと決心したとき、ワッフルを焼くなんていい案じゃないかと思ったんですの。いまは、店もちょっと静かですけど、つい一時間前には席もないほど、いっぱいのお客さまだったわ。これから劇場がはねると、また大変よ、いそがしくて。それに、むろん、朝のうちもお馴染《なじみ》さんで大変よ」
「朝のあきないは、誰がするの?」と、メイスンがたずねた。
「あたしよ」
「それで、夜の劇場帰りの客は?」
ウィニーはこっくりして、「あたし、自分一人でやってるんです、誰も使わないで。だから、そうでしょう、あたしが一人で働くぶんには、そんなに長時間労働しちゃいけないとは、労働基準法にも書いてないんですものね」
ドレイクは、カウンターの下でメイスンの脚をつっいて、あまり口を動かさないようにして、いった。「窓のところから鳥がのぞき込んでるよ」
メイスンは、目をあげてその方を見た。
ナット・シャスターだ。唇をまくれあがらせて、すき間だらけの歯を見せながら、愛想のつもりか首を上下に振っている。メイスンが自分に目をつけたと気づくと、窓から消えて歩み去った。
メイスンは、ウィニフレッド・ラクスターの顔に、困ったような表情がうかぶのを見て、
「知ってるの、あの男を?」とたずねた。
「ええ、お得意さんなの。もう二、三日つづけて食べにいらっしゃってるの。こん晩は、なんか書類にサインをさせられたわ」
メイスンは、ナイフとフォークをゆっくりと皿のそばにおいて、「ふうん」といった。「書類にサインをさせたというんですね、あの男が?」
「ええ。あのひと、こういうの。わしは、あんたの味方だから、おじいさまの意志が実現されるように、あんたが力をかしてくれる気があるのを知っている。遺言状には遺産を分与される人間として名前を書き加えられなかったけれど、度量の大きなところを見せて、おじいちゃんが自分のしたいとおりに財産を処理したのだと、あたしが認めるだろうと、そう思ってたんですって。それから、ほかの二人の孫は、役所の人がなんだかんだとお役人風を吹かせて、とても大変なんですって。だから、なにもかもすっかりかたづくまで長いこと待っていなけりゃならないんだけど、あたしがその書類にサインをしてくれたら、いくらか面倒な手続きがかたづいて、二人が助かるって、そういうんですよ」
「どんな書類でした?」
「よくわからないわ。だけど、なんだか、おじいちゃんの気がおかしくないことを、あたしが知っていたって、そしてあの遺言に満足していて、べつに無効の申し立てをしないとか、そんなことが書いてあったと思うのよ……だって、もちろん、あたし、なんにしたって、そんな申し立てなんかするつもりはないんですもの」
ドレイクは、意味ありげに、ペリイ・メイスンの顔を見た。
「なにか、あなたに報酬を払いましたか?」と、メイスンがたずねた。
「ええ、どうしても一ドル払うってきかないんですよ。カウンターに置いて出て行こうとするから、あたしは大声に笑いながら、そんなものはなんにもほしくないって、そういったんですの。でも、あのひとは、法律上正当なものにするんだから、その金を受け取ってくれなくちゃいけないというんです。あのひと、とてもすてきな方ですわ。このワッフルが気に入ったから、お友だちに吹聴して、お客をうんと来るようにしてやるって、そうおっしゃるんですよ」
ペリイ・メイスンは、もう一度ワッフルを口に運びながら、「うん」と、ゆっくりとした口調で、「そりゃ、そうするでしょうよ」
ウィニフレッド・ラクスターは、ワッフル焼きの鉄板を支えている外枠に、両手を休ませながら、「あたしも、そう思いますわ」といった。「あたし、ごまかされたのね。そうでしょう?」
メイスンは、相手の肚の中を詮索するように、かの女の目を見入った。ドレイクが代わって、その問いにこたえた。かれは、うなずいて、いった。「うん、それも盛大にね」
ウィニフレッドは、二人の方にずっと身を乗り出して、「いいわ。それなら、こん度はあたしのほうから話したいことがあるの。あたし、平気よ、気になんかしてないわ。あたし、サム・ラクスターがあの男をここへよこしたんだなと思ったの。弁護士だろうとは、とっさに考えたの。なにかにサインさせようとしていることも、そうさせようとしているのも、あたしが面倒なごたごたを持ち上げやしないかと、それをおそれているからだってことも、みんな、ちゃんと知ってたんですのよ。
ところで、あたしにわからないのは、あなた方お二人が、なんのためにここへいらしたかということなんですけど、でも、たぶん、あたしを味方にしようというのね。そうすれば訴訟ができるからでしょう。それなら、おたがいに胸の中を打ち割って、とっくり話し合いましょうよ。それからのほうが、もっともっとワッフルもおいしく味わえるというものでしょう。
おじいさんは、馬鹿ではなかったわ。自分がこうすればどうなると、ちゃんと承知の上でしたんですわ。財産は、二人の孫に残すと、心にきめてたのよ。ほんとにすてきじゃありませんか。おかげで、あたしは地面に足をつけて歩けるというもんだわ。あたしたち三人とも、長年のあいだ、おじいさんといっしょに暮らして来ましたわ。勘定は、子供のときから、おじいさんが払うもんだと思って、お金のことなんかくよくよしたことなんかなかったわ。不景気だの、失業だの、恐慌なんて、気にしたこともなかった。おじいちゃんはお金を、それも現金で持っていたし、気前よく、あたしたちにくれたものよ。
その結果はどうお? あたしたち、世の中とじかに触れるということがなくなってしまったのね。世の中がどうなっているのか知りもしなければ、そんなこと気にもかけなかったの。若い人間のくせして、まるで隠居でもしたみたいで、まるで養老院で暮らしてるようなふうだったわ。
あたしにはボーイフレンドが二人いたの。二人ともとてもしつこく、あたしにつきまとっていたわ。でも、あたしは、どちらのほうがよけいに好きなのか、はっきり心にきめることもできなかったの。二人とも、どこって非の打ちどころがないほど、すてきな青年だったわ。どうかすると、一人のほうが好きだと思うこともあったし、どうかすると、もう一人のほうが好きだと思うこともあったわ。ところが、おじいさんがなくなったでしょう。あたしは遺言状からのけ者になって遺産を相続しないということになったものだから、外へ出て働かなくちゃならなくなったの。それで、あたしはこの商売をはじめることになって、はじめて生活というものがわかりかけてきたわ。たくさんの人にも会ったし、いろんなつき合いもしたし、お金持のおじいちゃんにあまやかされていたときよりも、ここで働くようになって、ずっとおもしろい生活をするようになったわ。それに、あたしが財産を全部とるんじゃないかとやきもきしていた二人の孫の、ひどいやきもちや、陰でこそこそやっていた術策ともおさらばになったわ。それよりおもしろいのはね、一人のほうのボーイフレンドが、あたしが百万ドルの金持にならないということがわかると、たちまち、あたしにはっきり関心がなくなったことだわ。もう一人のほうは、あたしを助けたがっているものだから、あたしがこんな状態になったことを、かえって、とてもよろこんでいるのよ。
さあ、考えてもごらんなさいな。そんなあたしが法廷へ出かけて行って、おじいちゃんや二人の孫の悪口をゴマンといい立ててみたってどうなるというの。翌《あく》る朝起きてみたらひどく頭痛がするか、ほしくもない財産の分け前をぽっちり握っているか、どっちかじゃありませんか」
ペリイ・メイスンは、カウンターの向こうまでコーヒーカップを押しやって、
「もう一杯、コーヒーがほしいな、ウィニー、ぼくの友だちをみんなここへ来るように大いに勧誘するよ」
かの女のよく光る目が、しばらく、弁護士の目をじっと見つめていたが、そのうちに、なにか胸に通じ合うものを感じたのだろう、はははと、軽く笑って、いった。「わかってくだすってうれしいわ。わかってくださらないんじゃないかと思っていたわ」
ポール・ドレイクは、軽く咳払いをして、「ねえ、ミス・ラクスター、あんたがそんなふうに感じるのは結構だが、いつでも、そんなふうにばかり感じるものじゃないということを忘れちゃいけないよ。金をもうけるってことは、なまやさしいことじゃないからね。あんたはもう早いとこ、ちょろっとごまかされて、なんかにサインをしてしまったけど、それだって、おれたちなら、それを取り消すことだってできるんだが……」
ウィニフレッドは、淡々とコーヒーをついだカップを、ペリイ・メイスンの手に渡しながら、意味ありげにいった。「ねえ、あなたのボーイフレンドに、あたしの考えを話して聞かしてあげてくださるわね?」
メイスンは、ポール・ドレイクの腕に手をかけ、指にぐつと力をかけて押しながら、「ポール、きみにはわからないんだよ。きみは、すこしくだらない商売にかかずらわりすぎてるぞ。なんだって、金のことなんか忘れてしまって、人生を楽しまないんだ? さきのことなんか考えないで、現在のことを考えろよ。金をためることじゃない。作ることだよ、作り方だよ」
ウィニフレッドは、そうよといわんばかりに大きくうなずいた。探偵は、肩をすぼめて、「ま、きみはそうするさ。おれの知ったことじゃないよ」
ペリイ・メイスンは、ゆっくりとうまそうに、ワッフルをたいらげて、「あんたは、きっとうまくやっていけるよ」と、からっぽになった皿を押しやりながら、いった。
「あら、もううまくやってるわよ。自分の進む道もわかったわ。お勘定は八十セントよ」
メイスンは、一ドル札を渡して、「おつりはとっといてください」といいながら、にやっと笑いをうかべて、「アシュトンとあなたとはどうでした?」
「アシュトンは、おそろしくがんこなじいさんよ」と笑いながら、かの女はレジスターに向かった。
メイスンは、ことさらさりげなくいった。「猫を手ばなさなくちゃいけないというのは気の毒だねえ」
ウィニフレッドは、レジスターに手をかけていたのをやめて、「なんですって、猫を手ばなさなくちゃいけないっておっしゃるの?」
「サムが、猫を飼わせないっていうらしいんだね」
「だって、遺言状があるじゃありませんか。サムは、アシュトンを管理人としておいておかなくちゃいけないはずよ」
「だが、猫を飼えとは書いてないからね」
動揺の色が、ウィニフレッドの顔にあらわれた。「すると、アシュトンにクリンカーを飼わせないと、サムがいうんですね?」
「そうなんだ」
「でも、じいやには、クリンカーを追い出すなんてできないことですわ」
「追い出さなきゃ、毒殺すると、サムはいってるんだ」
メイスンは、そっとドレイクの脇腹をつついて、戸口の方へ行きかけた。
「待ってちょうだい」と、ウィニーが行こうとするメイスンを呼びとめた。「それは、なんとかしなくちゃいけないわ。そんなことになれば、じいやはやっていけないわ。ほんとに、なんてむごいことをするの!」
「ぼくたちで、なんとかやってみますよ」と、メイスンははっきりといった。
「でも、ねえ、ちょいと。きっと、なんとかしてくださるわね。あたしにも、もしかしたら、なんかお役に立つようなことができてよ。どこへ連絡すれば、あなたに通じますの?」
ペリイ・メイスンは、名刺を一枚取り出して、かの女に渡しながら、「ぼくは、アシュトンの代理弁護士です。なにか役に立つことを思いついたら、知らせてください。それから、これからはもう、どんな書類にもサインをしちゃいけませんよ」
通りに面したドアがあいて、中肉中背の若い男が、ウィニフレッド・ラクスターににっこり笑顔を向けた。それから、穏やかな、相手を品定めするような視線をペリイ・メイスンにあてたが、その視線をポール・ドレイクに移したとたん、急にその目つきをけわしくした。
かれは、背の高い探偵の肩までほどしか背丈がなかったが、つかつかと、喧嘩でもしかけるようにドレイクの前に進み出ると、またたきもせずに、じっと相手をにらみつけて、「おい」と、かれは詰問口調で、「なにを狙っているんだ?」
ドレイクは、さりげなくいった。「ワッフルを食べてるだけさ、相棒。金払いのいい客にからむのはよせよ」
「このひとはいいのよ、ダグ」と、ウィニフレッドがいった。
「どうして、この男がいいと、きみにわかるんだ?」といい返しながら、若者は、ポール・ドレイクから目をはなさずに、「こいつは、きょうの午後いっぱい、いいかげんなでたらめをいって、ぼくを悩ましたんだぜ。請負仕事をするんで、いっしょに仕事をしてくれる、建築のことをよく心得てる人間をさがしてるとかなんとかいってさ。ぼくは、五分と話さないうちに、請負のことなど一つも知っちゃいないとわかったがね。ぼくは、こいつは探偵だと思うんだ」
ドレイクは微笑をうかべながら、「おれの請負師よりは、きみの探偵のほうがうまいぞ。よくあてたね。それで、どうなんだ?」
青年は、ウィニフレッドの方を向いて、「こいつをつまみ出してやろうか、ウィニー?」
ウィニーは、声を立てて笑いながら、「いいのよ、ダグ。こちら、弁護士のペリイ・メイスンさんよ。お名前は存じあげてるわね。さあ、握手するのよ。メイスンさん、こちらはダグラス・キーンです」
青年の顔色がかわった。「ペリイ・メイスンさん」と、青年はいった。「あ、あの……」
メイスンは、キーン青年の右手をとって、強く上下に振った。「はじめまして、お目にかかって大変愉快です、キーン君」と、メイスンがいった。「それから、ポール・ドレイクをご紹介します」
メイスンが、キーン青年の手をはなすと、ドレイクは、その手を握って、「わかったかい、きみ」といった。「むつかしく思うことはないよ。あれもこれも、仕事のうちだからな」
しっかりとおちついた青年の灰色の目が、つくづくと二人の顔を見た。はじめのはにかんだような色が、いつか、非常にはっきりした固い決意と入れかわっていた。
「あなた方が怪しいもんじゃないかどうか、いまにわかるでしょう」と、青年はいった。「このことについては、すこし、ぼくにはいいたいことがあるんです。ウィニフレッドとぼくは、かたく約束をしているんです。ウィニーは、ぼくと結婚するつもりでいるんです。ぼくの収入でこのひとを養うことができるのだったら、あすにでも、ぼくは結婚したいんですが、ぼくは収入がすくなくて、このひとを養うことができないし、このひとに養ってもらうなんてことは、ぼくには、とうてい我慢ができないんです。ぼくは、建築技師で、若い建築屋としては、ひとり立ちしてやっていくのにはまだしばらく時間がかかるのはおわかりでしょう。いますぐ、金儲けをはじめる時じゃないと思うんです。しかし、今日では、いままで以上に、世間では建築家を求める機運が高まっています。景気がよくなって、若い夫婦の家庭がいよいよ多くなり、赤ん坊がどんどん生まれるようになれば、家を建てる人もますますふえるでしょうから、ぼくが裕福な暮らしをするようになるのも、ただ時間の問題ですよ」
メイスンは、若々しい熱意にあふれた青年の顔に目をあてながら、うなずいた。
ポール・ドレイクが、「なるほど……一、二年ねえ」と、抑揚のない口調でいった。
「だけど、ぼくがただ手をこまねいて、これはという仕事が向こうからやって来るのを待っているのだとは思わないでくださいよ」と、キーンは言葉をつづけていった。「いまは、あるサービス・ステーションで働いています。とても喜んで仕事をしているんです。きょうも、社長が見廻りにやって来ましてね。ぼくの働いているサービス・ステーションへ寄ったんですけど、誰も社長だとは知らなかったんですが、帰りぎわに、ぼくに名刺をくれて、ぼくの商いの仕方がいいというんでしょうね、肩をたたいてくれましたよ」
「感心な青年だね、きみは」と、メイスンは相手にいった。
「ぼくがこれだけ話したんですから」と、キーンはいった。「ぼくの立場はわかってもらえたでしょうね。あなた方の立場が知りたかったから、お話したんですけど」
メイスンは、ちらっとウィニフレッド・ラクスターの方に目をやった。かの女の視線は、ダグラス・キーンの顔に吸いつけられたようで、その顔は、誇らしさをかくしきれないように、ぼうっと赤くなっていた。
キーンがひと足さがったので、彼は、二人と戸口の間に立ちふさがるようになった。
「さあ」と、キーンがいった。「ぼくは、肚の中をすっかりさらけ出したんですから、こん度は、あなた方が計画を聞かしてくださる番ですよ。ピーター・ラクスターは死んで、ウィニフレッドに一セントも残さずにいってしまいました。ぼくにしてみれば、そのほうがうれしいんです。ウィニーにしてみれば、おじいさんの金なんかいらないんですから。おじいさんといっしょに暮らしていたときより、いまのほうがずっと裕福なんですから。
ぼくは、ウィニーの一生を支えていくつもりでいるんです。ぼくは、べつに祖父の金なんかほしいとは思いませんし、ウィニーだってほしいとは思わないでしょう。しかし、あなた方が、なんかこのひとをだまして利用しようという考えが気に入らないんです」
メイスンは、青年の肩に手をかけて、「べつに、このひとをだまそうなどとはしないよ」といった。
「じゃいったい、なんのために、こんなところにうろうろしているんです?」
「いろんな消息が知りたいのさ」と、メイスンがいった。「そうすれば、ある依頼人の主張の裏打ちができるからね」
「依頼人って、誰です?」
メイスンは、にやっと薄笑いをうかべて、「信じられないかもしれないが、依頼人というのは、猫さ」
「なんですって?」
ウィニフレッドが、脇から口を出した。「チャーリー・アシュトンなのよ。ダグ――ほら、知ってるでしょう、連中は、アシュトンを管理人としておいとかなくちゃいけないことになっているでしょう。ところが、サムが、猫を毒殺するって脅《おどか》してるんですって。それで、メイスンさんはアシュトンの代理弁護士として、アシュトンが猫が飼えるように、ごたごたをかたづけてやろうとしていらっしゃるのよ」
キーンは、きっと口もとを引きしめて、「じゃなにかい、サム・ラクスターがクリンカーを毒殺するって脅迫しているというのかい?」
ウィニフレッドはうなずいた。
「ふん、そんなべらぼうなことがあるものか」と、キーンは、ゆっくりといった。かれは、ペリイ・メイスンの方に向き直って、「ねえ、聞いてください」といった。「ぼくは、この件からは一切圏外にいるつもりだったんですが、サムがそんなくだらないことをするというんなら、聞いてごらんなさい、コルツドルフのダイヤモンドはどうなったかって」
ウィニフレッドが、鋭く、「ダグ!」と叫ぶようにいった。
キーンは、くるっとかの女の方に向き直って、「いや、とめるな」といった。「ぼくがなにを知っているか、きみは知らないんだ。ぼくは、サムのしたことで、一つぼろの出かかっているのを知っているんだ。いや、心配しなくてもいいよ、ウィニー、そんなことをばらすようなぼくじゃないよ。口なんか出しゃしないよ。エディス・ドヴォーだよ。あのひとが……」
ウィニフレッドが、強くかれをさえぎった。「メイスンさんは、猫のことに関心を持っていらっしゃるだけよ、ダグ」
キーンは、声を立てて笑った。短かくて、強い笑い声だった。「すみません。ひどく疲れていたからですよ。それに、動物を毒殺するなんていう考えに我慢できないから、つい、あんなことをいってしまったんです。ほんとうのことをいうと、クリンカーは、サム・ラクスターの十倍以上の値打ちがあると思うんです。いや、わかったよ、もうだまっていますよ」
ポール・ドレイクは、さりげなく、腰かけにすわって、
「サム・ラクスターのことで、ぼろが出かかっているというのは、なんだね?」とたずねた。
メイスンは、探偵の肩に手をかけて、「待てよ、ポール。この人たちは、ちゃんと、われわれに話してくれたんだから、われわれもまっとうに話すことにしよう」
そういってから、メイスンは、ウィニフレッドの方を向いて、「なにか情報をくださるつもりはありませんか?」とたずねた。
かの女は、首を左右に振って、「あたしは、その話に深入りしたくないんです。ダグにも触れてもらいたくないんです」
メイスンは、ドレイクの腕をとって、ボックスとカウンターの前の高い椅子とのあいだの通路を、文字どおり押し出しながら、「さあ、行こう、ポール」といった。
表のドアがしまるとき、ウィニフレッドの目が、ちらっと微笑をうかべていた。かの女は、手を振った。
「なぜ、あんなことをしたんだ、きみは?」と、ドレイクが異議をとなえた。「あの男は、なんか知ってるんだぜ。エディス・ドヴォーと話したんだな」
「エディス・ドヴォーってのは、誰だい?」
「別荘に住みこんでいた看護婦だ。きっと、あの女がなんか知ってるにちがいないぞ」
メイスンは、気むずかしそうな顔をして、通りを見まわしながら、いった。「もし、シャスターのやつがここらをうろうろしているのをつかまえたら、やつの顔にパンチをお見舞いしてやるぞ。あのけしからん三百代言のやつが、あの娘に取り入りゃがって、あんな書類にサインをさせやがるなんて、想像もつくかね?」
ドレイクは、「それが、やつの流儀だよ。もう、おれたちはなんにもできないじゃないか? 遺言をぶっつぶせるような依頼人は、もう、きみにはさよならしてしまったんだ。あの遺言状は、金城鉄壁も同然じゃないか?」
「おれには、猫という依頼人がある」と、メイスンは、いんきな声でいった。
「猫に、遺書の異議申し立てができるのかい?」
メイスンは、生まれながらの闘士らしい決意を、その顔にありありとうかべて、「そんなこと知るもんか」といった。「さあ、行こう。ともかく、エディス・ドヴォーに会うんだ」
「だけど、利害関係者の依頼がなけりゃ、遺言無効の申し立てはできないんだぜ。利害関係者のうち二人は、喜んで遺言を受諾した人間だし、もう一人は、権利放棄のサインをしてしまったんじゃないか」と、探偵は抗議した。
「前にもいったとおり」と、メイスンがいった。「パンチが来ると思って、相手が待ち構えているところへは、決して打たないのが、ぼくのやり方だ」
第五章
タクシーの中で、探偵は要領よく、二つ三つの報告を、ペリイ・メイスンにした。「きみのご贔屓《ひいき》の管理人のチャールズ・アシュトンには、なんか変なところがあるぜ」と、ドレイクがいった。「主人のピート・ラクスターを乗せて運転していて、事故にあった。アシュトンは、かなりひどくやられたらしいんだね。それで賠償金をとろうとしたんだが、とれなかった。相手の運転手が、保険にはいっていないばかりか、一文なしだったんだ。アシュトンは、なんとか取り立てようとしてやかましくいったらしいんだが、相手は一銭も貯金がないといったらしいんだ」
「べつに変わったこともないじゃないか」と、メイスンがいった。「普通の駆け引きだろう。百万ドルためこんでいたって、やっぱり同じことをいうだろうじゃないか」
ドレイクは、事件の解決よりも、なによりも事実そのものに興味を抱く探偵特有の機械的な調子で、言葉をつづけた。「あの男は、ある銀行の支店に、当座預金を持っていた。いままでの調査でわかったところでは、おそらくかれのただ一つの口座だろう。小切手でもらう給料を、全部そこへ入れていた。かれこれ四百ドルほど貯めていたろうな。それを例の交通事故のために、全部使ってしまった。それでまだ、医者には払いが残っている」
「ちょっと待った」と、メイスンが口をさしはさんだ。「じゃ、なにかい、ピーター・ラクスターは、その自動車事故で受けた傷の治療代を見てやらなかったというのかい?」
「見てやらなかったらしいんだが、だからといって、いっそく飛びにことを決めてかかっちゃいけないよ。アシュトンが、一人の友だちにいった話だそうだが、結局は、ラクスターがちゃんと面倒を見てくれることになるにきまっているのだが、ただ、当座の医者の払いや病院の勘定は、自分の貯金から払っとけるものなら払っといたほうが、賠償を取る上に、ずっと有利な立場に立つことになるだろうと、ラクスターもそう思っているということを、その友だちにいったそうだよ」
「それから」と、メイスンがいった。「そのさきが、まだなんかあるらしいが、それはなんだい?」
「家が火事で焼けるちょっと前に、ラクスターは、証券の類を現金に換えたり、銀行預金の片をつけて引き上げたりしはじめた。金額はどれくらいかわからないが、たっぷりあったらしい。一方、家が焼ける三日前に、こん度は、アシュトンが信託銀行に大型の貸し金庫を二つ借りたんだね。金庫借用の名義人は、チャールズ・アシュトンだ。ところが、アシュトンは係の行員に、義弟が一人いるのだが、その男がいつやって来ても、金庫を自由にさせてさしつかえないといったんだそうだ。それで、係員がその義弟に銀行へ直接に来て、サインを登録してもらいたいといったのだね。すると、アシュトンが、義弟はいま病気でねていて、動かすわけにはいかないのだが、自分がカードを持って行って、義弟のサインを取って来るわけにはいかないかといい出したというんだ。サインについては、当人のサインだということを保証するし、損害賠償とかそんなようなことで一切、銀行に迷惑はかけんと保障したんだそうだ。それで、銀行でも義弟がサインするためのカードを渡したんだね。アシュトンは出て行ったと思うと、一時間かそこらのうちに、義弟のサインを取ってもどって来たそうだ」
「名前は、なんというんだ?」
「クラマート――ワトスン・クラマートだ」
「誰だ、クラマートというのは?」と、メイスンがたずねた。「インチキか?」
「いいや、インチキじゃない」と、ドレイクはいった。「おそらく本物の義弟なんだろう。というのは、故人だ。もう死んでるんだ。住民登録にはのってなかったが、いいあんばいに、陸運局に問い合わせたら、ワトスン・クラマートの名で運転免許証が出ているのがわかった。住所を調べてあたったところが、ワトスン・クラマートは、例のカードにサインしてから二十四時間経たないうちに死亡しているのがわかったんだ」
「死因には、いかがわしいところはないのか?」と、メイスンがたずねた。
「絶対にない。自然死だ。病院で息を引き取ったのだが、看護婦もずっとつきっきりに付き添っていた。ただし――ここがくさいんだが――死ぬ前の四日間というもの、ずっと昏睡《こんすい》状態だったというんだ。一度も、意識を回復しなかったのだ」
「そいじゃ、いったい」と、メイスンがたずねた。「どうして、そのカードにサインができたというんだ?」
ドレイクは、抑揚のない口調でいった。「おれも聞きたいんだ、どうしてできたのだ?」
「ほかに、なにかあるのか、その男のことで?」と、メイスンがたずねた。
「まあ、その男とアシュトンとは、血つづきではあるらしいんだがね。アシュトンは、その男とはもう長年のあいだ、会ったこともなければ、話をしたこともなかったらしいんだ。アシュトンが病院へやって来たのも、そのクラマートという男が施療患者として病院で死にかけているということを聞いてからなんだね」
「そういうことを、どうして聞き出したんだ、きみは?」と、メイスンがたずねた。
「アシュトンが、ほんのすこしばかり、看護婦の一人に話したらしいんだ。その看護婦も、だいぶ問いつめたらしいんだがね。アシュトンじいさんは、根に持つとひどく執念深いが、そのくせ、ひどく親切なところもあるらしいね。クラマートが病気の上に、文なしで困っているという噂《うわさ》を聞くと、びっこを引き引き、市内の病院という病院を尋ね歩いて、やっと意識不明で危篤状態になっているクラマートを見つけ出したそうだ。ポケットの有り金をはたいて、できるかぎりの世話をしたらしい。専門医を何人も呼んだり、特別に看護婦をつけたり、病床につきっきりの有様だったらしい。金ですむことなら、どんなことでもクラマートにしてやってくれと、看護婦にいいつけたというんだ。むろん、患者が助からないということは、看護婦も医者も知ってたんだが、アシュトンにはいえなかったんだろうね。万に一つしか助かる望みはないといわれて、アシュトンは、その万一のチャンスをのがさないでくれといったそうだ。
ところがまた、このきみの依頼人のじいさんときたら、おそろしく意地張りな偏屈じいさんなんだね。クラマートが意識を回復しても、誰が金を出して世話をしたか、絶対に本人に知らしちゃならんといい渡したというんだからね。えらい依頼人を、きみも相手にしたもんだよ。アシュトンは、何年も前に、二人は喧嘩をして、それ以来、会っていないと、看護婦に話したそうだ――その喧嘩のもとは、なんだと思う?」
メイスンは、いらいらしたような口振りでいった。「ちんばの狐と眠り王女とが、なんで喧嘩をしたといえばいいんだい?」
探偵は、にやっと笑っていった。「猫だよ」
「猫だって?」と、メイスンが大きな声を張りあげた。
「そのとおり――猫の名は、クリンカー――そのときは、まだほんの子猫だったがね」
「やれやれ」と、あきれたという口吻《こうふん》で、メイスンがいった。
「まあ、おれの考えたところでは」と、ドレイクは言葉をつづけて、「アシュトンは、義弟のクラマートをさがし出して、二日の後に死なれるまでの間に、病院の払いだとか、専門医の特別の往診とかに、かれこれ五百ドルは使ってるね。一切、現金で払ったそうだ。看護婦の話じゃ、でかい札束を持っていて、いつも紙入れの中に入れてたそうだ。さあ、そこだよ、いったいその金を、チャールズ・アシュトンは、どこで手に入れたのだろう?」
メイスンは、顔をしかめて、「おいおい、ポール、ぼくは、ぼくの依頼人が不利になるような事柄をさぐり出してくれと頼んだんじゃないぜ。ぼくが頼んだのは、サム・ラクスターの不利になるようなことを掘り出してくれといったんだぜ」
「そうさ」と、ドレイクは、持ち前のそっけない、表情の乏しい声でいった。「あれはみんな、判じ絵の切れはしさ。おれは、そんな切れはしを集めるために雇われてる。きみは、それをまとめて一つの絵にするために、雇われてるのさ。まとめて置いて見て、まずい絵になりそうだったら、きみは、いつでもおれの集めた切れはしのうちのいくつかを、誰にも見つからぬように、なくしてしまえばいいじゃないか」
メイスンは、くっくっとのどの奥で笑っていたが、やがて、じっと考えながらいった。「それじゃ、いったい、クラマートが自由に、その貸し金庫に近づけるようにしたアシュトンの肚《はら》は、どういうのだろう?」
「うん、たった一つ考えられることは」と、ドレイクがいった。「クラマートがよくなって自由に出歩けるようになった場合、アシュトンは、金をやるつもりだったんだろうね。ただし、直接に金をやるなんていうことを話したくなかったので、ただ貸し金庫の鍵を渡してやって、ときどき、そこへ金を入れておいて、クラマートがほしいときに出せるようにした、ということだろうな」
「そりゃおかしいじゃないか」と、メイスンがいった。「だって、そうだろう。金庫をあけてもらうためには、クラマートはサインをしなければならなかったんだからね。しかも、クラマートのサインだといってアシュトンが持参した署名は、当時、クラマートは昏睡状態だったんだから、そんなサインなどできるはずはなかったんだから、話の辻つまが合わないじゃないか」
「オーライ」と、ドレイクがいった。「きみの勝ちだ。おれが集めて来た事実は、判じ絵の切れはしだといったのは、そのことさ。おれは切れはしを集める。きみは、それを合わせて絵をつくるのさ」
「誰か、その貸し金庫へクラマートの名前を使って行った者がいるかい?」と、メイスンがたずねた。
「いや、クラマートは一度も、その金庫に近づいた様子はない。アシュトンは、数回行っている。じいさんは、きのうも行ったし、きょうも行った。行員は、あまりそのことを話したがらない様子だったけど、おれが受けた感じでは、アシュトンは、きのうかきょうか、それとも二日とも、相当の札束を金庫から出したと、行員どもも思ってるふうだったね」
「なにを取り出したか、どうして、連中にわかるのだろうね?」
「普通は、行員にはわからないものなんだが、アシュトンが札束を鞄《かばん》に押し込んでるところを見てた行員がいるんだ」
メイスンは、声を立てて笑いながら、「たいていの事件では」と、かれはいった。「前にさんざん手をつくしてからでなけりゃ、手がかりは出て来ないものなんだが、こん度は、手がかりのほうから、どんどんこっちの方へ押し寄せて来るじゃないか」
「きみの依頼人は、コルツドルフ・ダイヤモンドのことを、きみに話したかい?」ドレイクは、知りたいと思ってたずねた。
「えっ」と、メイスンが驚いていった。「ぼくはまるで、黒人の巡回劇団の応答役になったような気がするね。いいえ、ドレイクさん、アシュトン氏は、コルツドルフ・ダイヤモンドのことは話して聞かせませんでした。コルツドルフ・ダイヤモンドとは、どんなものでしょうか?……おい、ポール、こん度は、コルツドルフ・ダイヤモンドについての手がかりを、きみが話す番だぜ」
探偵は、くっくっと笑って、「コルツドルフ・ダイヤモンドというのは、ピーター・ラクスターが、ほれ込んでいた唯一の宝石だったらしいね。そいつを、どうして、ピーターが手に入れたか知ってる者は、誰もいないんだ。古いロシアの亡命貴族が、こっそり持ち込んだ石らしいんだがね。ピーター・ラクスターが、二、三の友人に見せたことがあるらしいが、大粒の、よく光るみごとなダイヤモンドだったというね」
「それがどうした?」
「ほかのものはね」と、ドレイクがいった。「たとえば、札だの証券の類は、家が焼けたときに、いっしょに燃えてしまったかもしれないさ。跡形も見つからんということだってあるからね。ところが、コルツドルフ・ダイヤモンドの跡形も見つからなかったというんだからね」
「焼け跡のダイヤモンドというものは、なかなか見つからんもんだよ」と、メイスンがそっけなくいった。
「いいや、連中は、焼け跡の残骸《ざんがい》という残骸を粉々にして、髪の毛一筋だって見のがさないように、灰をふるいにかけたり、そのほかいろんなことをやったらしいんだね。ところが、ダイヤモンドは見つからなかった。ピーター・ラクスターがいつもはめていた珍しいルビーの指環は、死体についてるのが見つかったそうだが、ダイヤモンドはなかったというよ」
「早くその後をいえよ」と、メイスンが詰問するようにたずねた。「アシュトンが、その、ダイヤモンドを持ってあらわれたのか?」
「いいや、まだおれには、そこまではわからん。しかし、かれは、ほかにもくさいんじゃないかと思うような、おかしなことをやってるんだ。たとえば、火事のちょっと前に、ラクスターは、一軒小さな家を買う交渉をしたことがあるんだ。そして、アシュトンをつれて、その家を見に行ったんだね。ところがどうだ、つい二日前に、アシュトンがその家の持ち主を訪ねて行って、値をつけてるというんだ。おまけは、即金で払うといったというんだからね」
「断られたんだろうね?」
「いまのところは、そうだがね、しかし、まだ話は打ち切りにはなってないらしいね」
メイスンは、眉を寄せて考えながら、いった。「大事件かと思ったが、どうやらつまらないものをかきまわしているらしいな。ラクスターが財産を隠すということは、有りそうなことだし、アシュトンが裏で一役買っているというのも、いかにも有りそうなことだ。その場合、アシュトンにしてみれば、なにもサム・ラクスターにその金をうやうやしく渡す義理はないと思うだろうじゃないか。どうやら、もう一皮アシュトンと話さなくちゃいかんらしいな」
ドレイクが、ごく無関心な調子でいった。「二人の孫は、かなりな我儘者《わがままもの》らしい。とくにサムはね。オーフレイのほうがおとなしい、内気なたちだ。サムのほうは、高速自動車、ポロ、女、そのほかあらゆる道楽に、首をつっこんでいたようだね」
「金の出どころは?」
「老人からさ」
「けちんぼじいさんだと思っていたがね」
「靴紐《くつひも》の結び目よりもずっと締まっていたらしいね。ただ孫だけは例外だった。孫たちには、とても気前がよくて、よしよしと出してやっていたらしいね」
「財産は、どれくらいあったんだろうね?」
「誰にもわからんらしい。遺産目録によると……」
「うん」と、メイスンがいった。「遺産目録は、ぼくも目を通した。わかってるのは、凍結資産だけだ。ほかには、まだ見つかっていない」
「アシュトンが見つけてなければね」と、ドレイクがいった。
「その話はよそう」と、メイスンがいった。「いまのところ、ぼくが関心を持ってるのは猫だけだ」
「火事の前の日、別荘では、ひどい喧嘩があったらしいね。はっきり、どんなふうだったかはまだ聞き出せないが、これから会いに行く看護婦から聞けると思うんだ。召使たちには聞いてみたんだがね。みんな、おしみたいに口をつぐんでいやがって、だめだ。看護婦には会ってないんだ、まだ……さあ、ここが、看護婦のアパートだ」
「名前は、なんとかいったな――ダーフィーだったかな?」
「いや――ドヴォー――エディス・ドヴォーさ。報告によると、まずい顔じゃないらしい。この女が老人の看病をしていたときに、フランク・オーフレイがひどく熱を上げていたとかいうことで、その後も、ときどき会っているらしいよ」
「立派に結婚するつもりなのかな?」と、メイスンがたずねた。
「おれに聞いたってだめだよ。おれは、ただの探偵で――風紀係じゃないんだ。さあ、おりよう」
メイスンが、タクシーの料金を払った。ベルを鳴らすと、応答のブザーが鳴って、ドアの掛け金がはずれたので、玄関をはいって、長い廊下を通り、一階のアパートまで進んで行った。髪の毛の赤い、きょろきょろとおちつきのない目つき、素速い、神経質そうな動きの、服のためによけいに引き立って見える、姿のいい女が、部屋の戸口で二人を迎えた。女は、あてがはずれたというような、がっかりした顔つきで、「あら」といった。「そうじゃなかったんだわ……どなたですの?」
ポール・ドレイクは、軽く頭を下げて、「ポール・ドレイクというんです。こちらは、メイスン氏、ドヴォーさん」
「どんなご用ですの?」と、女がたずねた。ひどく早口で、言葉が、ほとんど一時に流れ出るようだった。
「あなたとお話したいと思いましてね」と、メイスンがいった。
「仕事のことなんです」と、あわてて、ポール・ドレイクが補足していった。「あなたは、看護婦さんなんでしょう?」
「そうですわ」
「そうでしょう、その仕事のことで、ちょっとお話がしたいんですがね」
「どんな条件でしょう?」
「なかへはいったほうが、話がしやすいと思うんですがね」と、ドレイクが思い切って、そういった。
女は、しばらくためらって、廊下を見まわしていたが、やがて、戸口からさがって、いった。「いいわ、はいってちょうだい。でも、ほんの二、三分ですよ」
部屋は、きれいに掃除《そうじ》が行きとどいていて、念入りに掃除がすんだばかりのようだった。髪は、非の打ちどころがないほど手入れができていたし、爪も、よくみがいてあった。服も、極上のよそ行きを着たといったふうだった。
ドレイクは腰をおろして、何時間でもねばるぞとでもいうように、ゆったりと身を構えた。
メイスンは、よくふくらんだ椅子の肘に腰をのせて、探偵の様子を見て、顔をしかめた。
「ところで、この仕事ですがね、ひょっとすると、あなたが考えている仕事とは、ちょっと違うかもしれないんですよ」と、ドレイクがすました顔で口をきった。「だが、悪いことを話そうというんじゃない。でも、その前に伺っておきたいんだが、お礼は一日いくらあげればいいんです?」
「二、三日とおっしゃるんですか、それとも……」
「いや、一日だけです」
「十ドル」と、かの女は、すかっといった。
ドレイクは、ポケットから札入れを出して、十ドル札を抜き出したが、すぐには、相手に渡さないで、
「一日だけ頼みます」といった。「一時間もかからないでしょうが、一日分払いますよ」
女は、神経質そうに舌の先で唇をなめてから、メイスンからドレイクへ、ちらっと目を走らせた。うさんくさそうな調子を帯びた声で、「仕事って、どんなことですの?」とたずねた。
「二つ三つ、事実を思いだしてもらいたいんですよ」と、十ドル札を指にまきつけながら、ドレイクがいった。「あらましを話すのは、あんたにしてみりゃ、十分か十五分ぐらいしかかかりゃしないだろう。その後で、話したことを紙に書いてもらいたいのさ」
女は、注意深く身を守ろうとするような声になった。
「事実って、どんなことですの?」
探偵のどんよりした目が、無表情に、相手の胸の中を計るように、じっと女の顔を見つめた。かれは、十ドル札を女の方にぐいと突き出して、「ピーター・ラクスターのことで、あんたが知ってることをみんな、聞かせてもらいたいんだ」
かの女は、ぎくっとして、さっと警戒するように、二人の顔をつぎつぎに見ながら、「あなたたち、探偵ね!」といった。
ポール・ドレイクは、うまく狙いをつけてアプローチの球を打ったときのゴルファーの表情をした。
「ねえ、こういうふうに考えてもらうんだね」と、ドレイクはいった。「われわれは、ある情報を求めているんだ。知りたいのは事実で――事実以外には、なんにも知りたくないのさ。その事実を聞かしてもらったからって、きみを事件の渦中に引っ張り込んだりはしないからね」
女は、強く首を振って、「いいえ」といった。「わたしは、看護婦として、ラクスターさんに雇われてたんですから、あの方の秘密をもらすなんて、そんな道にはずれたことはできませんわ」
ペリイ・メイスンが、身を乗り出して、話に加わった。「別荘は焼けたんですね、ドヴォーさん?」
「ええ、焼けましたわ」
「そのとき、あなたも居合わせたんですね?」
「ええ、そうですわ」
「どんなふうに焼けたんです――火のまわりは早かったんですか?」
「とても早かったわ」
「逃げ出すのに、困りませんでしたか?」
「わたしは、そのとき、目がさめていたんですのよ。すると、煙の匂いがするんで、はじめは、ごみ焼き場から匂って来るんだなと思ったんですよ。ところが、だんだん匂いが強くなるような気がするんで、調べて見ようと思って、服を着て、ドアをあけてみたんですよ。するともうそのときは、別荘の南の棟の方は、すっかり炎に包まれてたんですの。わたしは、もうびっくりして声をあげたんですけど、それから二、三分して……いいえ、もうこれ以上は、いわないほうがいいわ」
「あの家に火災保険がかかっていたことは、よくご存じなんでしょうね?」と、メイスンがたずねた。
「ええ、そうなんでしょう」
「保険金の支払いがすんだかどうか、ご存じですか?」
「そりゃもう、すんだんでしょう。サムエル・ラクスターさんが受け取ったんだと思いますわ。あの方、遺言執行人だから、受け取るのが当然でしょう?」
「誰か、あの家に、あなたの気に入らない人がいましたか?」と、メイスンがたずねた。「特別にきらいだという人が?」
「なんだって、そんな変なことをお聞きになるんですの?」
「かりにですよ」と、メイスンは、ゆっくりした口調でいい出した。「人命をうしなうほどの火事がおこった場合とか、または、その火事の中で、人が実際に殺されるような、そんな火事がおこった場合には、当局は捜査をするのが普通でしょう。そういう捜査は、その火事の当座だけで終わるとは、常にかぎらないのです。が、そういう捜査がある場合には、関係者としては、知っていることを話すほうが得策だと思うんです」
女は、しばらくの間、じっと考えていた。そのあいだじゅう、何度かぱちぱちと目ばたきをした。
「すると、わたしがなんにもいわなかったり、誰かきらいな人をおとし入れるために、放火の疑いが、わたしにかかるかもしれないというんですね? あら、だけど。そんなことばかげすぎてるわ!」
「じゃ、こういうふうにいったらどうです」と、メイスンがいった。「誰か、あの家に、あなたの好きな人がいましたか?」
「それは、どういうことなんですの?」
「わかりやすくいえば、こうですよ。しばらくの間でも、一つ屋根の下で暮らしていれば、好きな人なり、きらいな人なりは、自然にできるものでしょう。たとえば、かりに、あなたは、誰かがきらいで、誰かが好きだったとするんです。ところで、ぼくたちが火事について、いろいろなことを知ろうとする場合には、誰かから、それを聞き出さなきゃならんわけですね。その場合に、あなたから聞けば、どうかして、あなたのきらいな人から聞くよりは、ずっといいでしょう。ことに、その人が、あなたの好きな人に、罪をおっかぶせようとしているような場合には、なおさらでしょう」
女は、椅子の中で、身を固く緊張させたようだった。「サム・ラクスターが、フランク・オーフレイを放火犯だといってるとおっしゃるんですね?」
「とんでもない」と、メイスンがいった。「事実を述べるのは、わざと控えているんですよ。情報をもらすなど、とんでもない。ぼくは、それを集めに来たんですよ」
それからメイスンは、うなずいて探偵に合図をして、「さあ、ポール、行こう」といった。
メイスンは、立ちあがった。
エディス・ドヴォーは、跳ねるように椅子から立ちあがり、走るようにして、メイスンとドアのあいだに立ちふさがった。
「待ってちょうだい。どんなご用か、わたし、よくのみこめなかったの。いいわ、知ってることはみんなお話しますわ」
「ほんの二つ三つ、知りたいだけなんですがね」と、メイスンは、椅子にもどるのをためらうように、どうしようかというような口振りでいった。「火事のことだけでなく、火事の前のことについても知りたいんでね。やっぱり、どこかほかで聞いたほうがいいかもしれないねえ。聞きたいのは、あの家に住んでいた人たちの生活とか、一人一人の素行とか、みんな知りたいんでね。あなたは、看護婦だから……そんなことと関係しないほうがいいかもしれないね」
「いいえ、いいえ、そんなことありませんわ! どうぞ、もう一度、こちらへおかけになってください。知ってることは、洗いざらいお話しますわ。といったところで、内緒にしなけりゃならないようなことは、なんにもないんですけど、あなた方が事実を聞こうとなさるんでしたら、わたしからお話したほうがいいと思うんです。フランク・オーフレイさんが関係があるようなことを、サムさんが、遠まわしにでもいっているんでしたら、そんなこと、ひどい嘘です。そんなことをいって、自分の悪いことをごまかそうと思ってるんですわ!」
メイスンは、大きくため息をついてから、わざと気が進まないような顔つきで、元の椅子にもどり、もう一度、椅子の肘に腰をのせて、「それじゃまあ、二、三分だけ、お話を聞くことにしますよ、ドヴォーさん、だけど、早いとこ頼みますよ。ぼくたち、急いでいるんですからね、それに……」
女は、どっと早口でしゃべり出した。「いまになってみれば、みんな、よく腑に落ちますわ。そのときにも、なんだかおかしいなと、火事のことを思ったんですよ。それで、フランク・オーフレイさんに、そのことをいってみたんですけど、黙っているほうがいいって、あの方がおっしゃったものだから、いままで、そっと胸にしまっておいたんですの。わたし、金切り声をあげて、ラクスターさんを――ええ、そう、ピーター・ラクスターさんですわ――ご老人を、起こそうとしたんです。もうそのときには、南の棟にはすっかり火がまわっているじゃありませんか。わたしは、叫びつづけながら、手さぐりで階段をあがろうとしたんです。熱くて煙がいっぱいでしたけど、まだ火はまわってませんでしたわ。とても煙で苦しかったわ。フランクが追っかけて来て、わたしを引きもどして、もうわたしなんかでは、どうすることもできないからって、そういうんです。二人で、階段の途中から大声でどなって、ラクスターさんを起こそうとしたんですけど、返事もないんです。まっ黒な煙がもくもくと、階段を渦《うず》のようになってあがって来るんです。うしろを見ると、階段の下のあたりの床に、もうちらちらと火が見えるじゃありませんか。それで、もう逃げなくちゃいけないと思って、北の棟の方を通って、やっと外へ出たんですけど、もうすこしで、煙で息がとまりそうでしたわよ。あれから二、三日というもの、目がまっ赤になって、血走ったように充血してましたわ」
「そのとき、サム・ラクスターは、どこにいたのです?」
「ええ、フランクよりも前に、あの人を見かけましたわ。パジャマの上に、化粧着を引っかけて、『火事だ! 火事だ!』とわめいてましたわ。うろたえて、すっかり前後がわからなくなってるようでしたわ」
「消防は、どうしてたんです?」
「ほとんど焼け落ちてから、やっとやって来ましたわ。なんにしても、ひどく離れていましたでしょう――あの別荘が」
「大きな家だったんでしょう?」
「大きすぎるくらい!」と、女は、力をこめていった。「雇っていたお手伝さんや召使の手におえないくらい、とてもたくさん仕事がありましたわ」
「何人ぐらいお手伝さんは、雇われていたんです?」
「そうね、いた人といえば、ピクスレイ夫人。ノラという若い女の子――ノラ・アビントンといったと思うけど――はっきり知らないわ。それから、ジミー・ブランドン――運転手のね。ノラは、女中のする仕事ならなんでもしていましたわ。住み込みじゃなかったんですけど、毎朝七時に来て、夕方の五時までは、ずっと働いてたわね。ピクスレイ夫人は、料理一切を受け持っていましたわ」
「それから、管理人のチャールズ・アシュトン――あの男もいたんでしょう?」
「ときたまね。あのひとは、市内のほうのお屋敷の番をしてたんでしょう。ラクスターさんがお呼びになると、車でやって来ましたわ。火事の晩は、市内のほうにいたんですの」
「ピーター・ラクスターさんの寝室は、どこでした?」
「二階でしたわ、南の棟の」
「火が出たのは、何時ごろだったの?」
「午前一時半ごろね。わたしが目をさましたのは、きっと二時十五分前ぐらいだったんでしょうね。もうそのときには、家は、もうかなりの間、焼けていた様子でしたもの」
「どういうわけで、あなたは雇われていたんです? ラクスターさんは、どこが悪かったんです?」
「あの方が、自動車事故にあったことは、ご存じでしょう。そのために、すっかり神経を痛めて、体の工合が悪くなっておしまいになったんです。ときどき、どうかすると夜になっても、どうしてもおやすみになれないんです。そのくせ、薬というものがおきらいで、医者が睡眠薬をすすめても、どうしてもお飲みにならないんです。わたしは、マッサージ師の免許もとっているもんですから、そういう神経の発作が起きたときには、マッサージをしてあげたんです。そうすると、発作がおさまって楽におなりになるんです。熱いお湯で入浴して、その後で全身に冷水を浴びてから、マッサージをするんです。そうすると、楽になって寝られるんですって。それに、心臓疾患もおありになって、ときどき、皮下注射を――強心剤を打ってあげたんですよ」
「ウィニフレッドは、火事の晩は、どこにいたんです?」
「眠ってましたわ。あのひとを起こすのに、だいぶ骨を折ったんですよ。一時は、煙でやられたのかと思ったほどなんですの。ドアに鍵がかかっていて、男たちがこわしにかかって、やっと目がさめたんですよ」
「どこにいたんです、あのひとは? 北の棟ですか、南の棟ですか?」
「いいえ、どちらでもないんです。家の中央部の、東側で寝ていたんですよ」
「二人の男たちはどうなの――二人は、どこで寝てたんです?」
「あの人たちは、同じ中央部の西側にいたんです」
「それで、召使たちは?」
「召使たちはみんな、北の棟にいました」
「ラクスター氏に心臓障害があって、その看護婦として、あなたがあの家にいたのなら、発作が起こったときのために近くにいたほうがいいんでしょう、それだのに、どうしてすぐ近くの部屋で寝ていなかったんです?」
「あら、でも、同じなんです。あの方のお部屋には、電動の押しボタンが備えつけてあったんですよ。ですから、ご用のときは、ボタンをお押しになりさえすればいいんですし、わたしの方からも、すぐ行きますって合図をするようになっていたんです」
「どんな合図を、あなたの方からするんです?」
「ボタンを押すんです、わたしの方にある」
「そうすると、向こうの部屋でベルが鳴るんですね?」
「ええ、そうですわ」
「それなのに、どうして、火事の晩にベルを鳴らさなかったんです?」
「押したんです。まっさきにベルを押したんです。火事だと気がつくなり、部屋へ飛んで帰って、何度も何度も、ベルを押したんです。ところが、ラクスターさんのお部屋から、合図のベルがならないんでしょう。だもんだから、階段をのぼろうとしかけたんです。きっとコードが焼け切れていたんですわ」
「なるほど。煙がいっぱいだったでしょうね?」
「ええ、そう、中央部のところは、ただもう煙でいっぱい」
「火事の前の日に、いざこざがあったというのは、どんないざこざだったんです?」
「とおっしゃると?」
「なんか喧嘩があったとかいうんじゃないんですか?」
「いいえ……喧嘩じゃないんですけど、ピーター・ラクスターさんとサムさんのあいだで、なにかもめていたようでしたわ。フランクは関係がなかったと思うんですけど」
「ウィニフレッドは、そのもめごとに関係していたんですか?」
「そうじゃないでしょう。ただお年寄りとサム・ラクスターのあいだでの言い合いでしたわ。なんか、サム・ラクスターの賭けごとについての」
「どうして火が出たか、なにか心当りがありますか?」と、メイスンがきいた。
「誰かが火をつけたとおっしゃるんですか?」
メイスンは、ゆっくりと、強く相手に印象づけるような口調でいった。「あなたは、肝腎なことを、さっきからごまかしていますね、ドヴォーさん――さ、はっきりいいたまえ、火事について知っていることを!」
かの女は、ふうっと息をついた。しばらく、視線を宙に動かしていてから、「排気ガスを暖房に送り込むだけで、火事が起こせるもんでしょうか?」とたずねた。
ドレイクは、首を振って、「いや」といった。「排気ガスじゃ起こらないね。さあ、夢みたいなこといわないで……」
「ちょっと待て、ポール」と、ペリイ・メイスンが、ドレイクがつづけていおうとするのをとめた。「排気ガスを暖房に送り込むと、このひとのいうのがどういうことだか、よく聞いてみようじゃないか」
「そうやって火事にならないのなら、たいしたことじゃないんです」と、かの女は、いいのがれするように、相手の出鼻をくじくようにいった。
弁護士は、気をつけろという目つきを、ちらっと探偵に向けてから、重々しくうなずいて、いった。「うん、たぶん、そうやれば火事が起こせると思うね」
「でも、ガスを暖房に送ってから、何時間もしなけりゃ火事にならないでしょう?」
「いったい、どんなふうにして暖房に送り込んだというんです?」と、メイスンが質問した。
「ええ、こうなんですよ。あのガレージは、家の中に作りつけになっているでしょう。車は、三台はいるんです。家は、斜面に建っていて、ガレージは、斜面の下の方の、東南の隅っこになっていたんですよ。たぶん、家を建てるとき、丘の下に臨時にガレージがあったのを、建築技師が、それを家の中へ取り込んでガレージにすることにしたのじゃないかしら、わざわざ別棟を建てるかわりにね、それとも……」
「うん、なるほど」と、メイスンは、いそいで相槌を打った。「よくわかる、あなたのいうことは。それで、排気ガスについて聞かしてもらいたいね」
「ええ、それなんです」と、かの女はいった。「その晩、散歩に出て、家へ帰って来ると、ガレージの中でエンジンのかかっている音が聞こえるじゃありませんか。ガレージのドアは、ぴったりしまっているのに、エンジンが動いているんです。きっと、誰かが気がつかずに、エンジンをかけっぱなしにして行ってしまったんだろうと思ったものだから、ドアをあけて見たんです――横の小さいほうのドアで――車を出し入れするときにあける、大きいほうの滑り戸じゃないんですよ――そして、スイッチを押して明かりをつけたんです」
メイスンは、かの女のほうに乗り出して、「なにが、目につきました?」とたずねた。
「サム・ラクスターが自分の車に乗って、さかんにモーターをかけているんです」
「自分の車のモーターをかけていたというんですね?」
「そうなんですの」
「ゆっくり、からまわりするようにかけていたのじゃないんですか?」
「いいえ、とても早く、猛烈にアクセルを入れていたんです。全速力で、モーターが動いていたというんでしょうね。ゆっくりだったら、音なんか聞こえなかったと思いますわ」
「そうすれば、どうして、排気ガスが暖房に送られるというんだね?」と、ポール・ドレイクが聞いた。
「それが変なんですよ。わたし、ひょっと気がついたんですけど、車からチューブが出ていて、暖房のパイプにつながっているんです。暖房は、ガス式の暖房炉から、熱した空気を送るようになっていて、その炉は、ガレージの裏の地下室にあったんです」
「排気筒から出てるチューブが、パイプとつないであることに、どうして気がついたんです?」
「わたし、見たんですもの、間違いありませんわ! 排気筒から出たチューブが床の上を通って、パイプにつながっているのを、この目で見たんです。暖房のパイプのことは、よくおわかりでしょう――ああいうパイプが――ガレージの壁ぎわに、ずうっと通っていたんです」
「排気筒から出ているチューブを、あんたが見つけたのを、サム・ラクスターは気がついたでしょうか?」と、弁護士がたずねた。
「いいえ」と、かの女は、ことさら強い口調でいった。「サム・ラクスターは、ひどく酔っ払ってましたわ。しゃんと、まっすぐに身を起こしていられないほどで、エンジンをとめて、乱暴な口をききましたわ」
「なんといったんです?」と、メイスンがたずねた。
「ええ、そうなの。『とっとと出てうせろ。おれがないしょでやってることを、なんだって、こっそりのぞきまわりやがるんだ?』ですって」
「それで、あんたは、なんといってやったんです?」
「くるっとまわれ右をして、ガレージを出てしまいましたわ」
「なんにもいわなかったの?」
「ええ」
「明かりを消してから出て来たんですか?」
「いいえ、つけたままにして来ましたわ。そうすれば、あのひとが出るときにも、よくわかるでしょう」
「相手が酔っ払っていると、どうして、わかったんです?」
「あのひとが、座席に寝そべっている様子だの、声の調子だのからわかりましたわ」
メイスンは、目を糸のように細めて、じっと考えながら、「はっきり、相手の顔を見たんですね?」とたずねた。
女は、しばらく、眉を寄せて考えていてから、いった。「そうね、顔は見なかったような気がするわ。いつも、あのひとは大きなクリーム色のステットソンのソフトをかぶってるのよ。明かりをつけたとき、最初に目にはいったのが、そのステットソンの帽子だったわ。あたしが車の側へ寄って行くと、あのひと、ハンドルにぐたっと寄っかかってたの。もっと近づいたら、首をがっくり落としたわ……よく考えてみると、あたし、ちっともあのひとの顔を見なかったんだわ」
「相手の声だということはわかったんだね?」
「はっきりしない、だみ声で――酔っ払ったときに、男の人が出す声って、よくご存じでしょう、あんな声だったわ」
「いいかえれば」と、メイスンがいった。「もし、法廷で対決というどたん場になった場合には、その車の中にいたのがサム・ラクスターだったと、きっぱり証言ができないんじゃないかな?」
「あら、むろん、できてよ。あの家で、あんな帽子をかぶっていた人は、ほかにいないんですもの」
「それじゃ、人間でなくて、帽子を認めたということじゃないか」
「それ、どういうことなの?」
「誰でも、その帽子をかぶろうと思えば、かぶれたってわけでしょう」
「ええ」と、かの女は、むっとしていった。「かぶろうと思えばね」
「そいつは、大切なことかもしれないよ」と、メイスンがいった。「もし、あんたが証言をしなければならなくなると、こっぴどく反対訊問でやられることになるだろうね」
「火事がどうして起こったかあたしが証言しなければならなくなるっておっしゃるんですね?」
「まあ、そうだろうね。ハンドルの前に乗ってたのが、フランク・オーフレイではなかったと、どうして知ってるんです?」
「知ってるんですもの、そうじゃないって」
「どうしてだね?」
「そうね、どうしても知りたいというんなら、いってもいいけど、あたし、フランク・オーフレイといっしょに外出してたんですもの。いっしょに散歩してたのよ。家のかどのところで別れて、フランクは、表玄関の方へまわり、わたしは、裏口の方へ帰って来たの。だから、ガレージのそばを通ることになったんだし、そのために、エンジンがかかっている音を聞くことにもなったんだわ」
「運転手は、どうだろう――なんとかいったな――ジム・ブランドンだったかな?」
「そうよ」
「その運転手だったってことはないかな?」
「あのひとが、サム・ラクスターの帽子をかぶってたのなら知らんこと。そうでないかぎりは、ちがうわね」
「誰かほかの人に、この話をしたことがあるかね?」と、メイスンがたずねた。
「フランクには話したわ」
「あんたは、いつもかれのことをオーフレイといわずに、フランクといってるんだね?」
かの女は、さっとメイスンの顔から目をそらした。が、しばらくして、その目をあげて、じっと大胆にメイスンの目を見つめて、「そうよ」といった。「フランクとわたしは、とても仲のいいお友だちなんですもの」
「あんたがこの話をすると、かれは、なんといいました?」
「あのひとはね、そんな排気ガスから火事が起こるなんてことはないっていったわ。わたしがそんなことをいえば、厄介なことが起こるだけだから、黙っていろって、そういったわ」
「ほかに誰かに話しましたか?」
「ウィニフレッドのボーイフレンドに――ハリー・インマンじゃなく――もう一人のほうに話したわ」
「ダグラス・キーンだね?」
「そう――ダグラス・キーンよ」
「ハリー・インマンというのは、どんな男だね?」
「ウィニーにしつこくつきまとっていた男の子よ。ウィニーは、キーンよりもかれのほうが気に入っていたと思うんだけど、ウィニーに一文も金がはいらないってことがわかると、とたんに、あわてて捨てちまったわ」
「それで、あんたがこの話をしたら、ダグラス・キーンは、なんといったの?」
「そりゃ、大変重要な証拠だと思うって、ダグラス・キーンはいったわ。いろんなことを、たくさん聞いたわ。暖房のパイプが、何本もどういうふうになってたか。特に、チューブのつながっていたパイプが、ピーター・ラクスターさんの寝室に通じていなかったかどうか、気にして聞いていたわ」
「通じていたのかね?」
「通じていたと思うわ」
「それから、なんといったの?」
「わたしの見たことを、警察に知らせろといったわ」
「それで、知らせたの?」
「いいえ、まだ知らせないわ。わたし、待ってるの……ある友だちを……厄介なことになりそうだから、なんかするにしても、そのひとの意見を聞いてからにしようと思うの」
「ガレージで、サム・ラクスターに会ったのは、何時ごろだったね?」
「十時半ごろだわね」
「出火のだいぶ前じゃないか」
「そうよ」
「サムがその後ですぐ家にはいったかどうか、あんたは知ってるかね?」
「いいえ、知らないわ。わたし、サムがひどいことをいったんで、とても腹が立って、ひっぱたいてやろうかと思ったんだけど、でも、相手は酔っ払いだから、そんなことをしてもつまらないと思って、すぐ出て来ちまったから知らないわ」
「でも、火事であんたが目がさめたときは、パジャマの上に化粧着を引っかけていたというんだから、火事の前に、家へもどっていたにはちがいないんだね」
「そう、そういえばそうね」
「それで、車の中にいるのを見かけたときには、きちんと服を着ていたんだね?」
「と思うわ、ええ」
「ところで、あんたは、自分で明かりをつけたというんでしょう?」
「ええ。どうして?」
「ガレージの明かりは消えていたんでしょう?」
「ええ」
「ドアもしまっていたんでしょう?」
「そうよ」
「すると、最後に車をガレージへ入れた人物が、その後でドアをしめたのにちがいない。そうだね」
「ええ、むろんそうよ」
「そして、電灯のスイッチは、小さい戸のそばにあったんだね」
「ほんの一、二インチもはなれてはいないわ。どうして?」
「というのはね」と、メイスンは、ゆっくりといった。「もしも、ラクスターが自分の車をガレージへ乗り入れたのだったら、どうしても、いったんは車からおりて、ガレージのドアのところまで行って、戸をしめ、明かりを消してから、自分の車までもどったのにちがいない。つまり、ドアがしまってるのに、そのまま車をガレージへ乗り入れるなんてことは、誰にだってできることじゃないからね」
「それで、それがどうしたというの?」
「エンジンをとめることもできないほど、ひどく酔っ払って、エンジンをかけたままで、ハンドルによっかかっていたような男が、車から出て、ガレージのドアをしめ、明かりを消して、車へもどるなんてことは、とてもできないと思うんだがね」
かの女は、ゆっくりとうなずいて、
「それは、考えてもみなかったわ」
「どうしたらいいか、意見をいってくれる友だちを、あんたは待っているんでしょう?」
「ええ、もういまにも来るはずになっているんですけど」
「そのひとの名前を教えてくれませんか?」
「それまで、いう必要はないでしょう」
「フランク・オーフレイ君ですか?」
「ご返事はおことわりしますわ」
「それで、その友だちがそうしろといわなければ、警察に知らせないつもりなんですね?」
「なんともいえませんわ。でも、そっくりその友だちにまかせるつもりはないんです。ただ意見を聞くだけよ」
「しかし、あなたとしては、排気ガスから火事が出たという気が、なんとなくしているんでしょう?」
「わたしは、機械屋じゃないんですからね。自動車のことも、なんにも知らないし、ガス暖房のことも知らないのよ。でも、あのガス暖房炉の中で、いつも火が燃えていたことは、ようく知ってるんですもの。ですから、気化器の中で混合ガスが充満したときに、その炉の中へ、ガソリンの気体が送りこまれたとしたら、爆発を起こして火事になったかもしれないという気がするんです」
メイスンは、わざと見せつけるように派手にあくびをし、ちらっとドレイクの顔を見て、いった。
「なあ、ポール、この話は、あんまり役に立たないな。排気ガスから火事を起こすなんて方法はないね」
女は、がっかりした色を顔にうかべて、二人の顔を、つぎつぎに見た。
「ほんとですか?」
「まったくさ」
「じゃ、なぜ、排気筒から暖房装置のパイプまで、ホースをつないだんでしょう?」
メイスンは、質問をかえて、「ガレージの明かりは、一つだけしかなかったんですね?」
「そうよ――とても明かるいのが、ガレージのまん中に一つだけついてましたわ」
「あんたがガレージで見たのはホースじゃなくて、ロープだったんじゃないのかな?」
「絶対に、そんなことはないわ――やわらかい管のようなのだったわ――つまり、外側から見ると、やわらかいゴムの管みたいなのよ。それが、サム・ラクスターの車の排気筒から、暖房のパイプの孔のとこまでつづいてたわ。暖房のパイプは太い、石綿でまいた、あれよ。そのパイプを通って熱気が、ピート・ラクスターの寝室や居間へ行くようになってるんです」
メイスンは、しかつめらしくうなずいて、「ぼくのすることを話すとね」と、かれはいった。「ぼくは、もうすこし調べて歩くつもりなんだが、もし、あんたが警察に知らせる気になったら、誰か殺人捜査課の人間に会うお手伝いをしてあげられるかもしれないね。ホルコム部長刑事のような疑い深くて、がんこじゃない人間をね」
「そうしてちょうだい」と、女は、あっさりといった。
「さて」と、メイスンは、かの女にいった。「ぼくたちもよく考えてみて、なにか新しい、いい考えを思いついたら、電話をかけることにします。だから、あんたのほうでも、お友だちがどうしろといったか、その意見を聞かしてくださいよ。警察に知らせる気になったかどうかも、知らせてくださいね」
女は、ゆっくりうなずいて、「あなたに連絡するのは、どこへすればいいんですの?」
メイスンは、ドレイクの腕をとり、静かにその手に力を入れて、戸口の方へ押しながら、「後でまた、今晩電話します。話をしてくれて、ほんとにありがとう」と、メイスンは、かの女にいった。
「ちっとも、つらくなんかなかったわ」と、にっこり笑いながら、かの女はいった。「さっぱりしたわ、知ってることをすっかりお話しできて」
廊下に出ると、探偵は、弁護士の顔をつくづくと見た。
「うん」と、メイスンは、くっくっとのどの奥で笑いながら、「これで、猫は大丈夫だ」といった。
「おれも、そう思ったよ」と、ドレイクも相槌を打った。「だが、これから、きみがどんな手を打つのか、おれにはきみの肚がわからんな」
メイスンは、先に立って廊下のはしまで行くと、ほとんどささやくように声を低くして、探偵にいった。
「このつぎ、例の当代一流の、ナット・シャスター君に会ったら、遺言検認規程の第二五八条を読めといってやろう。被相続人に対して殺人罪の判決を受けたものは、遺産のいかなる部分をも相続することはできない。その帰属分は他の相続人に分与するものとする、と、ちゃんと規程してある」
「いまの話の機械仕掛けの点も、そんな工合にいくかどうか、考えてみようよ」と、ドレイクがいった。
「いくともさ」と、メイスンがこたえた。「ドンピシャリだよ。ガス式熱風暖房器からは、たくさんパイプが出て家の各部屋に通じている。パイプには、部屋ごとに調節弁がついているから、使っていない部屋には調節弁をしめれば、熱風をとめることができる。サム・ラクスターは、ごく簡単な方法で殺しをやってのけたんだ。ガレージに車を乗り入れ、排気筒にゴム管をつけ、ピーター・ラクスターの寝室に熱風を送るパイプに孔をあけて、そこへゴム管の先を取りつけた。それから、その取りつけた下のところで調節弁をしめた。それから、車に乗って、エンジンをかけたのだ。すると、自動車の排気筒から出た一酸化炭素の猛毒が、ゴム管を通ってパイプに、さらに、ピーター・ラクスターの寝室に送られたというわけだ。
悪魔といってもいい悪がしこい手口には、驚くのほかはないね。かれは、ただエンジンをかけさえすればよかったのだ。その結果、自動車から遠くはなれた鍵をかけた部屋の中で、人一人が苦痛もなく死にいたったというわけだ。それから、かれは、家に火をつけた。一酸化炭素は、家が火災を起こした場合、そのなかで窒息死した人間の血液中に、一般に検出されるものなんだ。あざやかな殺人事件だ。犯行現場にぶつかった、この赤毛の看護婦は、明らかにただ一人の目撃証人だが、今日もまだかの女が生きながらえているただ一つの理由は、見たって、女にはことの重大さはわかるまいと、サム・ラクスターが思っているからだ。でなければ、たぶん、排気筒からパイプにつながっていたゴム管を、女が見たということを知らないのだろうね」
探偵は、ポケットからチューインガムを取り出して、いった。「それで、おれたちは、これからどうするんだ?」
「地方検事に連絡するんだ」と、メイスンがこたえた。「検事はいつも、刑事弁護士が悪知恵を働かせて、殺人犯人にその罪に相当する刑罰を受けさせないようにすると公言している。だから、こん度は、ぼくが見つけた完全殺人事件を教えて、愚弄《ぐろう》してやる。まんまと、検察局の連中が大失態を演じていた事件をな」
「殺人罪で告発するには、材料がちょっと弱いような気がするがな」と、探偵が反対した。
「弱いなんてことはないさ」と、メイスンがいい返した。「注意しなけりゃいけないのは、時刻が、夜の十時十五分ごろだったということだ。日が暮れてまっ暗になってから、何時間もたっていた。ガレージのドアはしまっていた。サム・ラクスターは、車をガレージへ入れたときには、ひどく酔っ払ったふりをしていた。しかし、かれが車からおりて、入り口の滑り戸のところまで行ってそれをしめてから、もう一度車に乗り込んだが、その間、ずっとエンジンをかけっぱなしにしておいたことは、間違いないことだ。なおまた、かれがゴム管の一端を排気筒につけ、他の一端を、祖父の部屋に通じる。パイプに取りつけたのだ。そのあと、必要なことは、エンジンをかけるだけでおしまいだ。おそらく、それほど長いあいだ、かけつづけにする必要はなかったろう。ぼくの法医学の知識に誤りがないとすれば、自動車の排気ガスは、二十馬力につき一分間に一立方フィートの一酸化炭素を出すはずだ。普通の広さのガレージだったら、普通の自動車のエンジンを五分間かけるだけで、致死量のガスを充満させることができるのだ。致死量は、空気の量のわずか一パーセントの十分の二でいいんだ。死後の徴候は、血液が鮮紅色をしていることだ。血液が、ガスの影響を受けて、体内に酸素を運べなくなるのだ。こういう徴候は、家屋が火災を起こした場合、そのなかで死んだ人間の血液中に、在来からしばしば発見されていることなんだ。
まったくサムエル・C・ラクスターなんてやつは、べらぼうに頭のきれる人間として、その能力を認めないわけにはいかんな。もし、偶然あの看護婦に見つかるようなことさえなかったら、完全犯罪をやってのけたとこだったろうな」
「きみは、一切を地方検事の手に渡すつもりなんだね?」と、ドレイクは思い切っていった。顔には、表情というようなものも、まるきりうかべず、ただ目だけを、ぎょろっとペリイ・メイスンの方に向けただけだった。
「うん」
「この事件で、きみの依頼人の立場がどうなっているか、それをまず調べてからにしたほうがいいんじゃないのかね?」
メイスンは、ゆっくりといった。「いや、ぼくは、そうは思わないね。ぼくの依頼人が間違ったことをしていたのなら、骨を折って守ってやるつもりはない。ぼくは、かれが猫を飼っていられるようにするために雇われたのだ。幸いにして、かれも、猫を手ばなすようなことにはならないらしい。もし、かれが遺産の一部である金を見つけて着服したとしても、それは全然別問題だ。それに、ピート・ラクスターが死ぬ前に、その金を正当な手続を経てアシュトンに贈与したかもしれないという事実を見おとしちゃいけない」
「ばかなことを」と、探偵がいった。「ピーター・ラクスターは、死ぬことなんか予期してはいなかったんだ。だから、金をやったりする理由なんかなかったんだ」
「はっきり、そうとはいいきれんよ」と、メイスンがいった。「なんかの理由があって、証券類を現金にかえたのだ。だが、そんなことを、あれこれと推測するのはよそう。訴訟に勝つ上でもっとも肝腎なことは、相手の人間を常に守勢に立たしめることで、こちらの依頼人を、むやみに説明しなければならんような立場に追い込むことじゃない。まあそうはいうものの、アシュトンに電話をして、猫は大丈夫だと思うといってやることにしよう」
探偵は、声を立てて笑いながら、「カナリヤ一羽を殺すのに、猛獣用の散弾銃を使ってるといってやるんだね」といった。「まったく、ひどくこみ入った話になってきたもんだな、猫一匹を生かしとくために」
「それから」と、メイスンがいった。「ナット・シャスターに、ぼくを相手にしてふところをこやして、さっさとずらかろうたって、そうはいかないってことを思い知らしてやるためにな。こいつのことを忘れちゃだめだぜ、ポール」
「すぐそこの角をまがったドラッグ・ストアに、公衆電話があるぜ」と、ドレイクがいった。
「よし、ポール、アシュトンと地方検事に電話だ」
二人は、ぶらぶらと歩いて角をまがり、公衆電話の前に立った。メイスンは、銅貨を公衆電話器におとし入れ、まだピーター・ラクスターの名前になっている番号のダイヤルをまわして、チャールズ・アシュトンを呼び出してくれといった。しばらく待っていると、向こうの電話器からアシュトンのしゃがれた声が聞こえてきた。
「ペリイ・メイスンです、アシュトンさんですね。クリンカーのことは、もう心配がいらないと思いますね」
「どうしてだね?」と、アシュトンが問い返してきた。「もう間もなく、サム・ラクスターは、すごく忙しくなると思うんです」と、メイスンが説明して聞かせた。「そのほうで、手いっぱいになるはずだと思うんです。まだほかの使用人たちにいっちゃいけないが、おそらく、サム・ラクスターは地方検察局に召喚されて、いろいろ聞かれることになるだろうと思うんです」
管理人は、ひどくかん高い声で、「どういう件で召喚されるのか、教えてもらえませんか?」
「いいや、いえることはこれだけだ。とにかく、内証にしといてくれたまえよ」
アシュトンの声には、だんだん不安が増してくるのが、はっきりと聞きとれた。「ちょっと待っておくんなさい、メイスンさん。わしは、この件についてあんまり深入りしてもらいたくねえんです。ちょっとわけがあるんで、あんまり地方検事なんかに口を出されて、あれこれ聞かれたくねえんですよ」
メイスンの口調は、おそろしく決然としていた。「あなたは、ご自分の猫が毒殺されないようにしてくれと、ぼくに仕事を頼んだ。ぼくは、ただそのとおり働いているだけなんですよ」
「しかし、こりゃ別のことじゃねえですか」と、アシュトンがいった。「とにかく、一度お目にかかりてえんだが、そのことについて」
「それなら、あした会いに来たまえ。その前に、ぼくからよろしくといって、クリンカーに、クリームを一皿なめさせてやってくれたまえ」
「しかし、地方検事が調べをはじめるというんなら、ぜひ、あんたに会わなくちゃいけないんだがね」
「オーケー、じゃ、あした会おう」と、メイスンは相手にいって電話をきった。メイスンは、しかめつらをしながら電話室を出て、探偵と向き合った。
「この猫の畜生は」と、メイスンがいった。「それだけの値打ちもないのに、いやにうるさいね。さあ、地方検事をさがしに出かけようじゃないか」
「アシュトンには、やましいところがありそうな口振りかい?」と、ドレイクがたずねた。
メイスンは、肩をすぼめて、「ぼくの依頼人には、全然、うしろ暗いところなんかないんだからね、ポール。それに、結局のところは、ほんとうの依頼人は猫だってことを忘れちゃいかんぞ」
ドレイクは、くっくっと笑って、いった。「うん、よくわかってるよ。ただ、ちょっとついでに、アシュトンがどこで金を手に入れたか知りたいもんだと思っただけさ……やあ、ペリイ、雨が降り出したぜ。これからまた、あちらこちらまわるんなら、おれの車を使いたいな」
メイスンは、電話帳を繰って、地方検事の自宅をさがしながら、「せっかくだがね、ポール、まわるにはまわるが、きみの車を取りに行くひまはないね――すぐに出動するんだからな……ぼくの幌付《ほろつ》きが、もう出かけたようだから、あれを使えばいいよ」
ドレイクは、ううんと、うなり声をあげて、「そんなことになりゃしないかと思ってたんだ。きみは、ぬれた道で、あれを猛烈に飛ばすからな」
第六章
地方検事ハミルトン・バーガーの風貌《ふうぼう》には、なんとなく巨大な熊《くま》を連想させるものがあった。肩幅は広く、頸筋《くびすじ》は太く、歩くときに、妙なリズムを取って腕を前後に大きく振ると、そのリズムに調子を合わせて、皮膚の下で、筋肉という筋肉が、伸びたり縮んだりするのがわかるほどだった。
「きみも知ってのとおり、メイスン君」と、バーガーがいった。「ぼくは、協力できる場合にはいつでも、きみと協力してやりたいと、心から切望しているのだ。以前にも、きみにいったことだが、もう一度、ここで繰り返していうが、ぼくは、無実の人間を罪におとすのは、非常にきらいなんだ。が、また同時に、誰に限らず、自分が手先に使われるのもいやだと、きみにいいたいのだ」
メイスンは、すわったまま沈黙を守っていた。ぐたっと椅子にかけ、長い両脚をぐっと前に突き出したポール・ドレイクは、どんよりした目を靴の先につけたまま、いかにも退屈でしようがないという顔つきをしていた。
バーガーは、いらいらした物腰で、部屋の中を歩きはじめた。と思うと、熊が風にのって来た獲物《えもの》の匂いをかいだときのように、半分ほど首をまわして、いった。「きみは、立派な弁護士だよ、メイスン君」
ペリイ・メイスンは、じっと静かにすわっていた。
バーガーは、くるっと踵《かかと》でまわれ右をして、反対の方向に歩き出した。それから、肩越しに投げつけるような口振りで、いった。「だが、弁護士以上に、はるかに腕利きの探偵だ。犯罪の解決に心を向けると、たちまち、きみは真相をつかみ出す。その場合、依頼人に罪があるとわかっても、きみという人は、その依頼人の罪をかばうのをやめようとはしないのだ」
メイスンは、なんにもいわなかった。
バーガーは、もう一度、くるっと向きをかえて歩きかけてから、出しぬけに立ちどまり、くるっと正面からメイスンの方を向き、人さし指をまっすぐ突き出して、いった。「ぼくの事務所の連中が、きみから教えてもらった情報で、ぼくが動いていると思ったら、連中は、またきみが、ぼくを手先に使っていると思うにきまっているだろう」
「だから」と、メイスンがしっぺ返しにいった。「検事補たちのところへ行かずに、直接、ぼくがきみのところへ来た理由も、そこなんだ。事故死だと思われていたものが、実は殺人だということを立証すれば、きみが、大いに点数をかせぐことのできるチャンスなんだ。ぼくは、なにも援助なんか求めてやしない。きみにチャンスを提供してるだけだ。採否は、きみの自由だ。ぼくは猫のことから、これにかかわり合っただけだ。知りたけりゃいっとくが、ぼくは、弁護料として、まさに十ドル稼いだだけだ」
バーガーは、チョッキのポケットから葉巻を一本取り出し、はしを噛み切り、暖炉の煉瓦でマッチをすって火をつけ、ふうっと煙をはいた。かれは、ため息をついてからいった。「よしわかった。こん晩、医師のジェースン君が、ぼくを訪ねて来ることになっているから、かれに聞いてみることにしよう。かれが、きみの説を認めたら、旋風的捜査を開始することにしよう。ぼくが陣頭に立って指揮をするか、あるいは、世間に知れるまで一時部下にやらせるかは、まあ話を聞いてからだな」
ペリイ・メイスンは、巻煙草に火をつけた。
「ちょっと待っていてくれたまえ」と、バーガーがいった。「いますぐ医師のジェースン君を呼ぼう。それから、捜査主任のトム・グラスマンにも電話をして、いますぐに呼び寄せることにするからね」そういって、バーガーは部屋から出て行った。
地方検事が行ってしまってドアがしまると、ポール・ドレイクは、無表情な目をぎょろっと、ペリイ・メイスンの方に向けた。探偵の顔には、いつものひょうきんな、おどけたような色がうかんでいた。「おれは気がついていたが、きみは、例の依頼人のチャールズ・アシュトンが、急に金持になったことだの、なんだかおかしなことがあるってことなど、いわなかったようだな」
「ぼくはただ、殺人じゃないかと思う事実を報告するだけにしたんだ」と、メイスンはいった。
ドレイクは目を返して、また靴の先をじっと見つめた。
「おれが地方検事だったら、きみと勝負する気には、きっとならんだろうね、ペリイ」と、ドレイクはいった。
「相手がぼくと勝負するつもりなら、いつでも、正々堂々と戦うさ」と、メイスンは強くいい張った。
「うむ、そうだな。だけど、相手が盗塁でもしようとすれば、後が大変だからな」と、情なさそうな声で、ドレイクがいった。
ドアがあいて、医師のジェースンがはいって来た。背の高い、やや痩《や》せ形の男で、異様に鋭い茶色味を帯びた目で、二人を見わたした。
「こん晩は、メイスンさん」と、かれはいった。
「まだドレイクさんにはおちかづきになっていませんでしたな」
ドレイクは、ゆっくり膝を曲げ、椅子から立ちあがって、のろのろと手を差し出した。
「はじめまして、ドクター」と、ドレイクはいった。「先生のことは、ペリイ・メイスンからいろいろ聞いてました。かれの依頼人の一人の精神鑑定をなすったときの話は、いつも思い出しますね」
「ほんとですかね?」と、ジェースンは問い返した。
「メイスンの話じゃ、先生が人間の意識の内部へはいり込んで行くときの、そのやり口のしつこさといったら、まるで放蕩《ほうとう》の虫が、じりじりと若いもんの身を持ちくずして行くのとそっくりだということですな」
ジェースン医師は、声高く笑い声をあげて、「そいつを世間でいってもらうとありがたいんですがな。わたしが自分でどんな宣伝をするよりも、この上なしの宣伝になるんですがな。しかし、この前の公判で、わたしのことに関して陪審員にいった話は、それとはまったく合ってないようじゃありませんか」
バーガー地方検事は、相手に椅子をすすめ、神経質そうに、むやみに葉巻をふかした。「ドクター」と、バーガーは口を開いた。「難問が一つあるんですがね。ある家が焼けて、死体が一つ出たんです。一見したところでは、その男は、ベッドの中で焼け死んだとしか思われない。死因についても、いかがわしい噂《うわさ》もなかったというわけです。ところが、ここに証人が出て来たのです。その証人は、その焼死した人間の死によって、巨額の利益を受ける立場にある一人の男が、火災を起こした家のガレージの中で、自分の車の排気筒から、焼死した人間の寝室へ行く熱風式ガス暖房のパイプにゴム管をつないだままで、自動車のエンジンをかけっぱなしにしているのを見たというんです。こんなやり方で、人を殺すに十分な量の一酸化炭素を、寝室に送り込むなんてことができるものですか?」
「十分に有りうることですな」と、医師のジェースンはこたえて、ドレイクからメイスンへと視線を移した。
「その人間は、眠ったままで死ぬというんですね?」
「たいがいはね。一酸化炭素というのは、おそろしく油断のならん毒でしてね。しめきったガレージで、エンジンをかけっぱなしにしたままで仕事をしていたために、外気のある外まで出ることもできずに死んでしまった人間の例は、おびただしいものですよ」
「一酸化炭素の中毒で死んだ人間の鑑別法というのは?」
「いくつか鑑別法はありますが、もっとも普通なやり方は、血液の色によって識別する方法ですね。鮮紅色を呈しているんです」
「それから、焼死体についても、一酸化炭素は検出できるもんですか?」
「ちょっと待ってくださいよ」と、医師のジェースンは、ゆっくりといった。「なにか、あなたは見落としておられるようですね。かりに、ある人間が焼死したとすれば、その死体の肺臓に一酸化炭素が残存していると考える理由は十分にあります。事実、火事にともなう一酸化物で窒息死したとも考えられるわけです」
「そういう場合があったとして、先生、その男が、家の焼ける前に、いまお話した排気筒から送られた一酸化炭素で殺されたか否かは、死体の検案から検出することができるものでしょうかな?」
医師ジェースンは、きらっと目を光らして、詮索するようにペリイ・メイスンの顔を凝視した。
「自動車の排気筒から一酸化炭素が、その人間の寝室に送られたというのは、火事の何時間ぐらい前のことです?」
「たぶん、二、三時間前でしょう」
医師のジェースンは、ゆっくりうなずいて、「それなら」と、かれは、ハミルトン・バーガーにいった。「死体を検案すればわかると思いますよ。むろん、火事の後の死体処理の条件にもよることですがね。鑑別をすることは可能だといえるでしょう。死体の組織がまだ反応が可能な場合にできた火ぶくれと、死後の加熱による火ぶくれとは、非常に違っているのが普通ですからね」
「というと、死体を発掘したほうがいいということですね?」と、バーガーが問い返した。
医師ジェースンは、うなずいた。
バーガーは、なにか邪魔物を払いのけでもするような、ひどく気負い立った様子で立ちあがって、「よし」といった。「こいつはぶつかってみたら、案外おもしろいことになるかもしれない。死体発掘許可を求めよう」
第七章
真夜中のまっ暗な空から、音もなく雨が落ちていた。雨は、木々の葉を濡らして光らせながら、なにか深い悲しみを訴えるかのような調子を帯びて、ぽたぽたとしずくをたらし、その場を照らしているガソリン・ランタンの、熱くなった|かさ《ヽヽ》の上に落ちるときだけ、シュッ、シュッと音を立てた。
大理石の墓石がずらっと並んだ芝草の斜面が、ランタンの明るい輪のところから、ずっと伸びひろがって、ぽつぽつと雨の落ちる無気味な墓地のはしの方のやみの中に消えていた。
風はなかった。
幅の広い肩に、大きなオーバーコートを引っかけたハミルトン・バーガーは、幅広の襟《えり》を耳まで立てて、見るからにいらいらして、「きみたち、もうすこし早くやれないのかね?」とたずねた。
シャベルを握った一人が、むっとしたような視線を、かれに向けて、「狭くって、これ以上、人間がはいる余地がねえんでさ」といった。「それに、全速力で掘ってるんですぜ。もうとどきかけてるんでさ、なんとかいったって、どうやら」
男は、濡れた外套《がいとう》の袖《そで》で額の汗を拭き、また掘りにかかった。するとすぐに、一本のシャベルが、なにか固いものにあたったらしく、変な音をたてた。
「のんきにやれよ」と、もう一人のシャベルを握った男が注意した。「あんまり無理なことをすると、わっとお前の方へ飛びかかって来ないもんでもねえからな、気をつけてやるんだ。まわりの泥を落としてからでなくちゃ、あげられねえからな。ハンドルにロープをかけるんだ。そうすりゃ、上で立ってる旦那衆にも、いい運動ができるってもんだ」
バーガーは、そのあてこすりも聞こえぬようなふりで、身を乗り出して、長方形の穴の中をのぞき込んだ。
ペリイ・メイスンは、巻煙草に火をつけ、濡れた靴を踏みしめた。ポール・ドレイクが、そのメイスンの脇にすり寄って、ささやいた。「医者が、ほんとに焼死に相違ないといっても、赤面するようなことはないんだね?」
メイスンは、気短かそうに、首を左右に振って、
「ぼくは、事実を報告しただけだ。ぼくの考えをいえば、連中は、逆なことをしていると思うんだがね。まずエディス・ドヴォーから供述を取ってから、サム・ラクスターを訊問すれば、もっとはっきりしたものをつかめるんだろうがね」
「うん」と、ドレイクがいった。「だが、そうすりゃ、バーガーは、ピーター・ラクスターの死について、公然と捜査をやることになる。それでは、きみの思うつぼにはまるということを、かれは恐れているもんだから、こっそり逆の方から事件にあたって、ものになるという確信がついてからなら公然と動こうというつもりなんだろうね。前に、きみに軽くあしらわれたからな。やけどした子供は火を恐れるものなんだよ」
「いやはや」と、がっかりしたように、メイスンがいった。「すこしあきれるほど用心をしすぎるよ。そりゃ、この事件なんかは、注意深くやらないと、知らぬ間に指のあいだから逃げて行ってしまう事件だよ。だから、かれがやけどを恐れる気持はわかるが、火を使わずに菓子を焼くことは、できないからね。また焼けたところで、菓子を食うのと、手に持つのと、両方いっしょにはできないからな」
地方検察庁の捜査主任トム・グラスマンが、乱暴に鼻をかんで、「こんなときに、かぜを引かないようにするには、どうしたらいいんですかね、ドクター?」とたずねた。
医師のジェースンが、冷淡にいった。「暖かいベッドでじっとしていることだね……わざわざ雨の晩をえらんで、こんなことをしているみたいだね。埋葬してからもう何日も経つというのに、雨が降り出すまでは、誰も気にするものがないというんだからな」
「死体検案の結果がわかるまで、どれくらいかかります?」
「長くはかからんだろう。死体がこげている程度によるだろうね」
「そのロープをよこしてくれ」と、墓の中にいる人夫の一人がいった。「引き揚げの用意をしろ。ロープを棺にかけるからな」
しばらくして、みんながロープを引くと、棺が土を離れて、ななめになって上がりはじめた。
「平均にロープを引っぱるんだぞ、いいか。片っぽうのほうだけ先にあげて、傾けちゃだめだぞ。静かにやれよ」
静々と、棺が地表に近く上がって来た。やがて地面より高くなると、その下に、板が何枚もさしこまれた。つづいて、その雨に濡れ、泥まみれになった板の上をすべらして、とうとう、棺は、かたい大地の上におろされた。
一人の人夫が、布切れで棺の上の泥をぬぐった。ねじまわしで、一本一本、釘がぬかれ、すぐに、棺のふたが開いたと思うと、一人がいった。「オーケー、ドクター、さあどうぞ」
医師のジェースンが前に進み出て、棺の上にかがみこんだと思うと、驚いて叫び声をあげ、ポケットから懐中電灯を取り出した。
人々は、輪になって取り巻いたが、それまでにガソリン・ランタンを差し出す者もなかったので、棺の内部は、暗くて見えなかった。
「どうだね、ドクター?」と、地方検事が問いかけた。
「はっきりいうのは、ちょっとむずかしいね。カリカリになるまで焼けちまったんだね。どこか着物のかげで焦げてないところが、なんとか見つかるといいんだがね」
「一酸化炭素はどうだ」
「それは調べるまでもない。どっちみち検出されるだろうからね」
「それで、調べは、このままでつづけられるかね?」
「ここで調べろというのかい?」
「そうだ」
「ちょっと無理だろうね。最終的結論とはいくまいね」
「推定は、立派にできるかい?」
ジェースン医師は、あきらめたように大きく息をつき、手さぐりをやめて、ねじまわしを取って釘を抜きにかかりながら、「その点は、二、三分で返事をしよう」といった。
一人の人夫がランタンをかざして、医師の手許を照らした。この天候が気に入らぬばかりか、今夜のなりゆきにも気の乗らぬ色をありありとうかべたジェースン医師は、しぶしぶ、棺のふたをはずした。「その明かりを、もっとこちらへよこしてくれ――いやいや、そんなに近くなくていい――なかへ陰をおとさないようにしてくれ。そうだ――そこでいい……おい、そうむやみにびくびくするなよ!」
かれは、棺の中を探りまわして、ポケットから鋭利なナイフを取り出した。着衣を裂く刃の音が、小止みもなしに落ちる霧雨の滴《しずく》の中で、はっと驚くほどはっきり聞こえた。しばらくして、体を起こすと、ハミルトン・バーガーの顔を見て、うなずいて、「推定でいいんですね?」と、かれはたずねた。
「そうだ。推定でいいが――むろん、きみのできる最善の推定をね」
ジェースン医師は、棺のふたを元にもどして、「捜査をつづけたまえ」といった。
ハミルトン・バーガーは、しばらく、気むずかしい顔をして棺を見おろしていたが、やがて、一人うなずき、くるっと踵でまわれ右をして、「よかろう」といった。「では、出かけよう。きみは、われわれといっしょに乗ってくれたまえ、メイスン君。ポール・ドレイク君は、きみの車でついて来てもらおう。死体のことは、きみに頼むよ、ドクター」
メイスンは、バーガーにつづいて、地方検事の車のところまで歩いて、その車に乗った。トム・グラスマンが運転した。三人とも、じっとだまっていた。前面のワイパーが、単調なテンポで右に左に動いていた。その一定の律動的な音が、モーターの音やタイヤのきしみにまじって響いた。
「ラクスターの家へ行くのか?」と、とうとう、メイスンが口を開いた。
「うん」と、バーガーがこたえた。「連中がいまいるところへな――たしか、市内の屋敷と、連中はいってるようだったな。すこし質問したいと思うんだ」
「犯罪の容疑で訊問するつもりかい?」と、メイスンがたずねた。
「かなり突っ込んだ訊問をするつもりだ」と、バーガーも相手の言葉を認めた。「はっきりした告発をしようとは思っていない。まだ準備もできていないうちに、つかもうと思う事実を暴露したくはないからね。たとえば、排気筒からつないであったというゴム管のことなどは聞かないつもりだ。それは、十分にこちらの基礎がかたまってからのことだ。それから、メイスン君、きみたち二人は、ぼくが質問をするときは、その場にいないほうがいいと思うんだがね」
「よかろう」と、メイスンがいった。「これでもう、ぼくたちのすることもないと思うんなら、ぼくだって、すてきなやわらかいベッドや、ぽっぽっと湯気の立つウィスキーのほうがいいよ」
「まだそうはいかんよ」と、バーガーがさえぎった。「これは、きみがいい出したんだからね。からくじを引くかどうか見とどけるまでは、つき合ってくれなくちゃいけないよ」
メイスンはため息をついて、クッションにもたれた。車は、人通りのない道を急いで、やがて、曲がりくねった道の登りにかかって、丘の上へ出た。「あの上の家だ」と、バーガーがいった――「大きな家だよ。必要になるまでは、懐中電灯をつけないようにしろ、トム。気づかれぬうちに、そのガレージを見ておきたいんだ」
グラスマンは、歩道に車を寄せ、停車してエンジンをとめた。車の屋根を打つ雨音のほか、音というものはなかった。
「いままでのところは、うまくいったぞ」と、グラスマンがいった。
「合鍵は持ってるか?」と、バーガーがたずねた。
「ありますとも」と、グラスマンがこたえた。「ガレージをあけるんですね?」
「車を見たいんだ、うん」
グラスマンは、車のドアをあけ、雨の中へ出て、懐中電灯をつけてガレージのドアの南京錠《ナンキンじょう》を照らした。ポケットから束になった鍵を取り出し、音も立てずに南京錠にさし込んだが、しばらくすると、無言のままバーガーにうなずいて合図をし、ガレージのすべり戸を引いた。
ガレージの戸はあいた。
「気をつけて」とバーガーが注意した。「ドアをしめるとき音を立てないようにしろ。ざっと屋敷をひと通り見るまでは、気づかれちゃおもしろくないからな」
ガレージには車が三台並んでいた。グラスマンの懐中電灯が、つぎつぎにその三台を照らした。メイスンは、じっと目を細めて、緑色のポンテアクのセダン型の新車を見つめた。そのメイスンの顔色を見て、バーガーがたずねた。「なにか見つけたか、メイスン?」
ペリイ・メイスンは、首を左右に振った。
グラスマンの懐中電灯が、登録証を照らし出した。「これは、サムエル・C・ラクスターの名義だ」といって、特別注文でこしらえたらしい二人乗りのスポーツ・カーをさした。両側のフェンダーに予備のタイヤが、一つずつ乗せてある。座席の低い、出力の大きい流線型で、エナメルとクロームでぴかぴか光っている。
「スピード向きに造ったんだな」と、つぶやくように、バーガーはいった。「懐中電灯を、こっちの下の方に向けてくれ、トム」
グラスマンが懐中電灯の光を排気筒の方に向けた。バーガーは、しゃがみこんで調べた。ゆっくりとうなずいて、「なんかを、このまわりに締めつけたらしいな」と、バーガーはいった。
「じゃ、サムエル・ラクスター氏に面会を求めて、当人のいい分を聞こうじゃありませんか」と、グラスマンがいった。
ペリイ・メイスンは、いっこう関心がなさそうに、ガレージの壁にもたれて、煙草に火をつけようとして、一本の煙草を親指の爪にとんとんと叩きつけていた。「むろん、ぼくは、口出しをするつもりはないがね、ようく捜したら、例のゴム管が見つかるかもしれんよ」
「どこに?」 と、バーガーが聞いた。
「どこか、車の中にさ」
「どうして、そういう気がするんだ?」
「火は」と、メイスンが指摘するようにいった。「ラクスター老人の寝室か、その付近から出たのだ。ガレージは、そこからちょっと離れているのだ。ゴム管は、重大な証拠だから、普通なら、ラクスターは、簡単に発見されるようなところへは残しておかないだろう。後で、どこかへ隠したかもしれんが、ひょっとすると、どこか車の中にあるかもしれんよ」
グラスマンが、あまり気乗りのしない様子で止め金を引くと、後部の折りたたみ式の座席の背が上がったので、車の中にはいって、懐中電灯で中を照らしはじめた。つづいて、前の座席を起こし、物入れをあけたり、車の奥の方を調べた。
「そこに鍵のかかっているところがあるじゃないか」と、バーガーが指さした。
「ゴルフのクラブ入れです」と、グラスマンが説明して聞かせた。
「どれか、きみの鍵が合わないか調べてみたまえ」
グラスマンは、一つ一つ、鍵をためしていたが、合わないらしく首を振った。
「前の座席のうしろにあるそれを引っこ抜けないか。そして、下をのぞいて見てくれ」
グラスマンの重い体が動きまわると、車のスプリングが揺れた。やがてグラスマンは、低い声でいった。「なんか真空掃除器の長いチューブのようなものが、この下にありますよ」
「おい、ドアをあけろ」と命令口調のバーガーの声は、かれが興奮していることを、ありありと物語っていた。「おれにも見させろ」
グラスマンは、鍵をこじあけながら、「こいつは、あんまり器用なやり口じゃねえな。間違ってたら、おそろしい文句が出ますぜ」
「間違っちゃいないと、おれは考えはじめたとこなんだ」と、バーガーは、ものものしい口調でいった。
グラスマンは手をのばして、約十二フィートほどのゴム管を引き出した。一端には、ボルトとナットで締めるようになった接続用のバンドが二つ、もう一方のはしは、やわらかいゴムのきのこ状の切り口になっていた。
「よし」と、バーガーが決然とした口調でいった。「ラクスターを起こそう」
「おれたちは、ここで待っていたほうがいいか?」と、メイスンが聞いた。
「いや、いっしょに来て、居間で待っていてくれ。大して待たすようなことにはなるまい。こんなふうにベッドから引きずり出せば、自白するかもしれんからな」
大きな屋敷は、どっしりとその構えを丘の上に据えていた。ガレージは、地面を掘ったもので、屋敷からはちょっと離れていた。コンクリートの階段を上がると、砂利道になった。車道は別に、ガレージからゆるい坂になって屋敷をひとまわりして登るようになっている。正面玄関への車道と、裏口への日用品をとどける道路とになっているのだった。
一行は、一団となってものもいわずに、階段をのぼって行った。階段を上がりきったところで、バーガーが立ちどまって、「おい」といった。「なんだろう、あの音は?」
しっとり霧雨に濡れた暗闇《くらやみ》の中から、かちんという金属音が響いたと思うと、すぐに妙な引っかくような音がつづいて聞こえた。
「誰か地面を掘ってるんだな」と、ささやくような声で、メイスンがいった。「あれは、シャベルがくだけた岩にあたる音だ」
バーガーがつぶやくような声で、「うん、そうだ。メイスン、きみとドレイクとは、うしろを守ってくれ。トム、懐中電灯の用意はいいな。拳銃は上衣の脇ポケットに入れとけよ――まさかのときの用意に」
バーガーが先頭に立って進んだ。四人ともできるだけ足音をしのばせて行ったが、砂利道では、どうしても足許から砂をかむ音がざくざくとした。グラスマンが「草の上を行ったほうがいい」とつぶやくようにいって、道の脇に出た。ほかの者も、その後につづいた。草は濡れていて、土もややぐしゃぐしゃしていたが、完全に音ひとつ立てずに進んで行くことができた。
家の中にはまだ灯がついているらしく、カーテンをおろした窓という窓のはしからは、明かるい光がリボンのように見えていた。やみの中の男は、まだこつこつと掘りつづけていた。
「あの大きな灌木《かんぼく》のかげだな」と、グラスマンがいった。
その方角を、かれに指さしてもらう必要もなかった。
灌木はそのつるの重みで、その茂みの形はゆがんでいた。葉という葉からぽたぽたと落ちる雨滴に、ひとところカーテンのかかっていないドアのダイヤモンドの形をしたガラスから射してくる光の矢があたって、そこだけ金色の霧のようにも見えた。
シャベルの音が前よりも高くなった。
「泥をかけて、穴を埋めているんだな」と、メイスンがいった。
グラスマンの懐中電灯からの光芒《こうぼう》が、やみをつらぬいた。
びっくりした姿が、跳ねるように飛びすさって、灌木の中でのたうった。グラスマンが懐中電灯の光を向けると、その茂みはつるばらだとわかった。グラスマンが太い声で、「出て来い。手をあげろ。警察のもんだ」といった。
「ここでなにをしているんだ?」と、押し殺したような声がたずねた。
「出て来い」と、グラスマンが命令口調でいった。
はじめ、その姿は、まっ黒なひとつの塊りのように、きらめく木の葉の中にしゃがんでいた。木の葉の雨に濡れた面が、懐中電灯の光を反射していた。その灌木の茂みの中からあらわれた男の顔を見たペリイ・メイスンが、バーガーにささやいた。「フランク・オーフレイだ」
バーガーが前に出て、「名前は、なんというんだ?」とたずねた。
「ぼくは、オーフレイ――フランク・オーフレイだ。この屋敷の持主の一人だ。いったい、きみたちは誰だ。ここで、なにをしているんです?」
「すこし調べることがあるのだ」と、バーガーがいった。「わたしは地方検事だ。こちらが同僚のトム・グラスマン。土を掘って、どうしようというんだね?」
オーフレイは、のどの奥でなにかいいながら、ポケットから一連の電報を出して、地方検事の方に差し出した。懐中電灯の光が、その電報と、やぶれた上衣の袖と、引っかき傷のある、泥だらけの手とを照らした。
「その懐中電灯には、びくっとしちゃったな」と、かれはいった。「この|とげ《ヽヽ》のまん中へ飛び込んじゃった。だけど、まあいいや。どうせ、その前からいっぱい引っかき傷ができていたんだ。服もめちゃめちゃらしいな」
オーフレイは、自分の服を眺めて、いいわけがましく声を出して笑った。
四人は、相手の方には目も向けないで、電文に目をこらした。文面は以下のようなものだった。
コルツド ルフダ イヤモンド ハアシュトンノツエノナカニアリ」ソフノカネノタイハンハ シヨコノマド ノシタツルバ ラガ タナニノボ リカケルトコロニウメテアル」チイサナクイ ガ メジ ルシ」 アナハアサイ」 スウインチシカナイ」
発信人は、「一ユウジ ン」とだけしか記してなかった。
グラスマンが、低い声でいった。「本物の電報らしい。電報局経由だ」
「それで、きみは、なにを見つけ出したね?」と、バーガーがたずねた。
オーフレイは、それにこたえようと前に進み出て、はじめてメイスンの姿を目にした。かれは、きっとなって、いった。「このひとは、ここでなにをしているんです?」
「わたしが頼んで来てもらったのです」と、バーガーがいった。「あなたのところの管理人のチャールズ・アシュトンに、わたしからちょっとたずねたいことがあるので、アシュトンの代理人をしておられるメイスン君に同行してもらったのです。ところで、土を掘って、なにか見つかりましたか?」
「棒切れを見つけましたよ」といって、オーフレイが、ポケットから一本の短かい棒を取り出した。「地面に突きさしてあったんです。土の部分をのけて、下の砂利の層まで掘ってみましたけど、なんにもありませんでしたよ」
「電報の発信人は誰です?」
「ぼくにはわかりませんね」
バーガーは、小声でグラスマンに耳打ちした。「トム、その電報の番号を控えてね、電信会社にあたって、発信人の書いた頼信紙をさがし出してもらうんだ。発信人の住所もわかるだろうし、そのほかできるだけ、一切のことを洗ってくれ」
「その電報のことでおいでになったのですか?」と、オーフレイがたずねた。「こんなひどい夜にね。ぼくが起きて来て掘ったりなどしなけりゃよかったんだが、でも、その電報を受け取った後の、ぼくの気持はおわかりでしょう」
「わたしたちがやって来たのは、別の事情でです」と、バーガーがいった。「サム・ラクスターは、どこにいるんです?」
オーフレイは、急に神経質になって、「出かけているようですよ。どんなご用で、サムにお会いになるんです?」
「ちょっと聞きたいことがあるんでね」
オーフレイは、ちょっと逡巡してから、ゆっくりといった。「エディス・ドヴォーとなにかお話しになったんですか?」
「いいや」と、バーガーがいった。「わたしは話さない」
メイスンは、じっとオーフレイの顔を見て、「話したのは、ぼくだ」といった。
「あなたが話したってことは聞いてましたよ」と、オーフレイは、メイスンに向かっていった。
「どうして、あんたがいらんお世話をするのかと思ってましたよ」
「それはまあ、後で聞くことにして」と、バーガーがいった。「家の中へはいろう。それよりも、そのアシュトンの松葉杖の中に隠してあるコルツドルフ・ダイヤモンドというのは、どういうんです?」
「そんなことは、あなたがたと同じくらいしか、わたしも知りませんな」と、オーフレイは、不愛想にいった。
「サムは、いないんですね?」
「ええ、いません」
「どこにいるんです?」
「知りませんね――デートに出かけてるんでしょうな」
「よろしい」と、バーガーがいった。「とにかく、はいることにしよう」
一同は、タイル張りのポーチにあがった。オーフレイは、束になった鍵を取り出し、ドアをあけてから、「ちょっとお待ち願えましょうか。この泥だらけの手を洗って、服を着かえて来ますから」
「待った」と、グラスマンが声をかけた。「五十万ドルに関係することだ、きみ。われわれは、きみの言葉を疑ってるわけじゃないが、いちおう所持品の検査をさせてもらったほうがいいだろうね……」
「グラスマン」と、バーガーが注意を促すような口振りでいった。「オーフレイさんを、そんなふうに扱っちゃいかん」
そう注意してから、バーガーは、オーフレイの方を向いて、「グラスマン君が、まったく妙な言葉を使って失礼しました。しかし、わたしにもそんな気がするし、きみにも、きっとそういう気がするでしょう。なんといっても、巨額の金が関係しているんですからね。ひょっとして、その電報を打った人間が、きみが庭にいたとか、その金の一部なり全部を発見したといい出したらどうします?」
「しかし、わたしは、なんにも発見しなかったんですし、よし発見したとしたって、それは、わたしのものなんですからね――ともかく、その半分は」
「その点の確証があったほうがいいとは思いませんか?」
「どうすれば、確証になるんです?」
「自発的に身体検査を受ければね」
オーフレイは、むっとした顔で、「やってください」といった。「その身体検査というやつを」
二人は、身体検査をした。
バーガーは、満足そうにうなずいて、「あらためるだけですよ」といった。「場合が場合ですからね。たぶん、後になって、われわれのいうとおりにしてよかったと、あなたも思いますよ」
「絶対によかったなんて思いませんよ。でも、あなたの立場もよくわかりますから、しいて反対はしませんよ。それじゃ、済んだから、服を着がえに行っていいでしょうか?」
バーガーは、ゆっくり首を左右に振って、「着がえに行かないほうがいい。すわって、待っていたほうがいいでしょうね。すぐに、かわきますよ」
オーフレイは、ため息をついて、「やれやれ」といった。「じゃ、めいめい酒でも飲みますか。あんたがたもずいぶん雨の中にいたようなふうだから。バーボンか、ライか、スコッチか、どれにします?」
「なんでもいいでしょう」と、メイスンがいった。「ウィスキーなら」
オーフレイは、相手の肚の中をさぐるような視線を、ちらっとメイスンに向けてから、ベルを鳴らした。
一人の男が戸口にあらわれた。右の頬骨のところに土気色の傷痕《きずあと》があって、それが、いじの悪い、勝ち誇ったような色を、その顔に与えている。「お呼びになりましたか?」と、男はオーフレイにたずねた。
「うん」と、オーフレイが横柄な口調でいった。「ウィスキーを持って来てくれ、ゼームズ。スコッチに炭酸、それとバーボンも持って来てくれ」
男はうなずいて、引きさがった。
「ジム・ブランドンです」と、説明口調でオーフレイがいった。「運転手と執事とをやらせています」
「あの傷はどうしたのです?」と、バーガーが聞いた。
「交通事故だと思うんですが……バーガーさん、あなたは地方検事でしたね?」
「ええ」
オーフレイは、ゆっくりといった。「エディス・ドヴォーがあんなことをいって、どうもすみません」
「なぜです?」
「火事が、自動車の排気ガスから出たなんて、そんなことはないからです。そんなことはありえないことだってことは、ちょっと考えればすぐわかることじゃありませんか」
グラスマンが、脇からたずねた。「電話はどこです?」
「そこの廊下です。ご案内しましょう……それとも、ゼームズに案内させましょう」
「かまいません。大丈夫、自分でさがしますから、あなたはそこで、長官と話していてください」
バーガーは、グラスマンが行ってしまうと、おもむろに、「これまで、一酸化炭素中毒の話を聞いたことがありますか、オーフレイさん?」
「もちろん、聞いています」
「自動車のエンジンをかけっぱなしにすると、一酸化炭素が発生するということも知っていますか?」
「しかし、一酸化炭素が、いったい、なんと関係があるんです? 可燃性ガスじゃないでしょう?」
「猛毒ガスです」
バーガーの声が、厳然とした決定的なものを含んでいたので、オーフレイは、眉を弓なりに曲げた。
「なんですって!」と、オーフレイは、大きな声でいった。「まさか、そんなつもりじゃないでしょうね?……そんなこと、夢にも考えられないことです!……いやいや、とても信じられない……」
「きみが信じられようと信じられまいと、そんなことは問題じゃないんです、オーフレイさん。われわれは、確実な資料を得たいのです。ここへ来る途中、ガレージに寄って、サム・ラクスターの車を調べて、ゴム管の長いのを見つけましたよ」
オーフレイは、驚きの色も見せずにいった。「ええ、エディスは、はっきり見たといっていました」
「それで、サム・ラクスターは、いまどこにいます?」
「知りません。出て行ったきりです」
「なんに乗って出かけたんです? かれの車は、ガレージにあるじゃありませんか」
「そうです」と、オーフレイがいった。「あの車はあるはずです。雨の日に濡らしたくないから、かれは使わないんです。運転手がポンテアクで山の手まで送ってから、ポンテアクを運転して帰って来たんでしょう。シボレーが一台山の手にあるんですけど、それがなければ、サムがなんで帰って来るか、ぼくにはわかりませんね」
「シボレーがあるんですって?」
「そう、お客用の車で、ふだんは、アシュトンが乗っているんです。荷物の運搬や使い走りに使うんです」
「きみも、車を持っているんでしょう?」と、バーガーがたずねた。
「ええ、ガレージにあるビュイックが、ぼくのです」
「それから、大型のポンテアクは?」
「あれは、祖父が死ぬちょっと前に買ったのです」
「火事のとき、車はみんな助かったんですね?」
「ええ、ガレージがはしっこの方にあったんで、最後に火がまわったもんですから」
「つまり、火は、ガレージからずっと離れたところから出たということですね?」
「火は、祖父の寝室の近くから出たにちがいないと思うんです」
「どうして火が出たか、心当りはありませんか?」
「全然ありません……ねえ、バーガーさん、そのことは、サムと話していただきたいと思うんです。わたしの立場は、ちょっと微妙でね。なんといったって、サムとは、いとこ同士ですからね。率直にいえば、エディス・ドヴォーの話は、前にも聞いたんですけど、気にもしなかったというわけです。一酸化炭素などということは、むろん、いま聞くのがはじめての新しい意見で、そんなことがありうるなんて、まったく信じられませんね。まあそれには、きっと、なにかわけがあるにちがいないんでしょうが」
グラスマンが、左手に電報を持って部屋にはいって来た。戸口のところに立ちどまって、報告をした。「電報は、本物でしたよ、間違いなく。電話で申し込んだそうで、サインを『一友人』としてくれと、そういったそうですが、発信人の電話番号は、エキジビションの六―二三九八で、持主は、ウィニーのワッフル店というんだそうです」
メイスンがさっと立ちあがって、いった。「ばかな!」
「いいんだ、メイスン」と、バーガーがメイスンにいった。「きみは、口を出さないでくれ」
「ふざけちゃいけないよ」と、メイスンがいい返した。「きみは、ぼくを思うとおりにしようたって、そうはいかんよ、バーガー。ウィニフレッド・ラクスターが、そんな電報を打つはずがないじゃないか」
オーフレイも、トム・グラスマンの顔をじっと見て、「どういうんだろう」といった。「そんな電報を、ウィニーは決して打ちませんよ。なんかの間違いですよ」
「打ったんだ、たしかに」と、グラスマンがいい張った。
「とんでもないことだ、打ったなんて!」と、メイスンがわめくようにいった。「電話で、誰か人の名前で電報を打つぐらい、わけもないことじゃないか」
「なるほど」と、グラスマンがいった。「あんたの依頼人という依頼人は、いつでも誰かになんかを企らまれてるんだな」
「あの子は、ぼくの依頼人じゃないよ」と、メイスンがいった。
「じゃ、依頼人はだれだね?」
メイスンは、にやっと苦笑をうかべていった。「猫だろうね」
一瞬、みんなは黙りこんだ。坂をのぼって来る自動車のエンジンの音が聞こえたのだ。さっとヘッドライトの明かりが窓にあたったと思うと、やけに人を呼ぶように警笛が鳴った。ジム・ブランドンが、ウィスキーの瓶《びん》とグラスと、炭酸ソーダのサイフォンとをのせた盆を持って部屋にはいって来たところだったが、その警笛を聞いて、あわてて盆を置くと、玄関に出て行こうとした。また警笛が鳴った。
「サムさまです」と、ブランドンがいった。
バーガーが、急いで自分のそばを通って行こうとするそのブランドンの袖を引いて、「あまり急がなくていい」といった。
グラスマンが、大またに廊下をぬけて、ぐいと玄関のドアをあけた。また警笛が鳴った。「さあ、ジム」と、グラスマンがいった。「行って、なんの用か見て来るんだ」
ジム・ブランドンが、ポーチの電灯をつけて、ポーチに出た。サム・ラクスターの声で、「ジム、ちょっと事故をおこしたんだ。早く来て、車をかたづけてくれ」というのが聞こえた。
バーガーは、カーテンを引いた。ポーチからの明かるい光りが、やや古い型のシボレーをやみの中に照らし出していた。前の風防ガラスが割れ、フェンダーはへこみ、バンパーもつぶれている。サム・ラクスターが運転席から出て来たが、顔には切り傷がついているばかりか、右腕を包んだハンカチにも血がにじんでいる。
バーガーが、戸口の方へ歩きかけた。まだその戸口まで行きつかぬうちに、また自動車のヘッドライトが、しとしとと降る雨の夜のやみの中に、さっと光を投げてきた。調子のいいエンジンの音を立てた車が、視界にあらわれたと思うと、ぐるっと車道をまわり、車寄せに近づいでとまった。大きなセダン型の車のドアがあいて、すらっとした人の姿が車道に飛び降りたと思うと、ひどく興奮した様子で家の方へ走って来たが、サム・ラクスターの姿を見ると、驚いて立ちどまった。
ペリイ・メイスンは、愉快そうにくっくっとのどの奥で笑いながら、バーガーにいった。「おいでなすったのは、ほかでもない、かの高名なるナサニエル・シャスター先生だ。きみが来たと知ってサム・ラクスターの後を追って来たのか、それとも、ただ偶然に顔を出したのか、それを調べるにも、優にこれから三十分というもの、きみは、骨を折らなくちゃなるまいね」
バーガーは、うんざりしたように口の中でぶつぶついいながら、大股にポーチへ出て行った。
シャスターは、ひどく興奮のあまり、かん高い声で叫んだ。「サムさん、聞きましたか? え、聞きましたか、あの話を? 連中のやってることを知ってますか? どういうことになったかご存じですか? やつら、おじいさんの死体発掘の許可をとったんですぜ。墓地へ出かけて行って、掘ったんですぜ」
サム・ラクスターの血まみれの顔に、ぎくっとした驚きの色がうかんだ。フランク・オーフレイは、バーガーのそばに立っていたが、「いったい、なんということだ、それは?」と、驚いた声をあげた。
「おちつけよ」と、グラスマンがさとすようにいった。
「たったいま、発掘許可のことを聞いたんですよ。すぐに調べたんですが、もう死体を発掘した後だったんです。お望みなら、すぐに法律上の手続きを取って……」
ポーチの電灯の光の下に立っているバーガーの姿を見たとたんに、シャスターの声は尻切れとんぼに消えて、黙ってしまった。
「なかへはいりたまえ、シャスター」と、バーガーが声をかけた。「そんなとこに立ってちゃ濡れるじゃないか」
雨が、サム・ラクスターの顔に小やみもなく落ちて、きらきらと光った。手当てもしないままの頬の傷から血がしたたった。激しい感情の動きをあらわすように、唇をゆがめて、「いったい、どうしたんです?」と、サムがたずねた。
「ちょっと捜査をしているだけなんです」と、バーガーがいった。「二つ三つききたいことがあるんですが、異議がありますか?」
「とんでもない、なにもありませんよ」と、ラクスターがこたえた。「しかし、あんたがたの、こういうやり方は気に入りませんね。いったい、どういう考えで、死体を発掘するなんていう……」
「訊問はいかん! 訊問はいかん!」と、シャスターが叫ぶようにいった。「わたしが立ち合わなきゃいけない。わたしが答弁しろといわないのに、答弁しちゃいかん」
「ばかなことをいうな、シャスター!」と、ラクスターがいった。「どんな質問でも、地方検事さんが聞きたいということぐらい、ぼくには、はっきりこたえられるよ」
「ばかなことをいっちゃいかん」と、シャスターが金切り声でいった。「これは、地方検事の捜査じゃありません。そのおせっかい屋のメイスンにそそのかされた仕業ですよ。あの猫のちくしょうのせいです。この連中に返事をしちゃいけません。なんにもこたえちゃいけない。まず第一に気をつけなくちゃ、きみたちは、宿なしになって世間にほうり出される。そのつぎにはどうなる? 遺産は、みんな消えてなくなっちまう。メイスンが采配をふるっているんだ。ウィニフレッドが、かわってきみたちの財産を相続する。猫のやつは、得意そうに笑って……」
「だまらないか、シャスター」と、バーガーが業を煮やして、強い口調でいった。「わたしは、サム・ラクスターと話をしようというのだ。きみの気ちがいじみた邪魔立てなしに、話そうというのだ。さあ、ラクスター、家の中へはいろう。医師を呼んで、傷の手当てをしなくてもいいかね?」
「手当てなんかいらないでしょう」と、ラクスターがいった。「スリップして電柱にぶっつけちまいましてね。ちょっと振りまわされて、右の肘《ひじ》を切ったんですけど、いい消毒薬で洗って、きれいな包帯さえしておけばいいでしょう。医者に見てもらうのは後でもいいでしょう。それよりもお待たせしちゃいけませんから」
シャスターは、サムの方へ駈け寄って、「どうぞ!」といった。「お願いだ! 折り入ってたのむ! そんなこと、しないでください!」
「だまらないか」と、バーガーは、もう一度どなって、自分の方に近づいて来たサムの腕をとった。
ラクスターとバーガーは、家の中へはいり、ぴったりその後にグラスマンがつづいた。シャスターは、まるで老人が歩くように一足一足、やっとの思いで足を運びながら、ゆっくり階段をのぼった。
メイスンは、三人が居間を通って、ドアの奥に消えるのを見守っていた。それから、居間にはいって腰をおろした。ドレイクは、ポケットから煙草を一本ぬき出し、よくふくらんだ椅子にどっかりと腰をおろして、いった。「ふん、これでよしと」
戸口に立っていたジム・ブランドンが、シャスターに、「あなたがおはいりになっていいかどうか、わたしは聞いておりませんが」といって、なかへはいろうとするシャスターをとめた。
「ばかなことをいうな」と、シャスターが相手にいった。それから、声を低めて、なにか、メイスンや探偵に聞こえないことをいった。ブランドンも小声になった。そのまま、低い単調な話し振りで、二人は、話をつづけた。
じりじりと、電話が繰り返して鳴った。しばらくしてから、寝ぼけまなこのふとった女が、バスローブのまま、よたよたと足を引きずりながら廊下をやって来て、受話器をとりあげた。ねむそうな、不機嫌な声で、「もしもし」といったかと思うと、急に驚いたような色を顔にうかべて、「はい、さようでございます、ウィニフレッドさま……いえ、呼んでまいります。おやすみでしょうけど、むろん……メイスンさまに、すぐにそちらへおいでいただくようにと、そう申しあげるんで……」
ペリイ・メイスンが、電話の方へ寄って行って、「誰かが、メイスン氏にご用なら」といった。
「ぼくのことだ。電話に出ましょう」
女は、受話器をかれに渡して、「ウィニフレッド・ラクスターさまです」といった。
メイスンが、「ハロー」と声をかけると、興奮してヒステリックになったウィニフレッドの声が聞こえてきた。「あらあ、よかったわ、連絡ができて。どこへお掛けしたらいいかわからないもんだから、アシュトンにことづけを頼もうと思って掛けたところ。なんだかひどいことができちゃったの。すぐ、いらっしてちょうだいな」
メイスンは、警戒するような声で、「いまは、ちょっとここを動けないんですがね。なにがあったのか、だいたいのとこを話してもらえませんか?」
「あたしにもよくわからないんですけど、ダグラスがとても困っているらしいんですの……ご存じでしょう、ダグラスのこと、お会いになったでしょ、こないだ……ダグラス・キーンよ」
「それで、どうなったというんです、かれが?」
「よくわからないんですけど、とにかく、すぐに来ていただきたいんです」
「じゃ、出かけましょう」と、メイスンはかの女にいった。「十分以内に。それで、せいいっぱいというところですね。こちらでも、別に、面白いことがでてきたんです。どこへ行けばいいんです?」
「ワッフル屋にいますわ。灯は消えてると思いますけど――そのままドアをあけて、はいってくださいね」
メイスンは、「よろしい、十分たてば出かけます」と、きびきびとした口調でいった。
メイスンが受話器をおくと、シャスターが、話していたブランドンを戸口に残したまま、神経質そうな早足で近づいて来た。メイスンの上着の襟をつかんで、
「そんなかってなことはできんぞ!」といった。「そんなうまいことをいって逃げ出そうたって、そうはさせんぞ! けしからん。仲裁委員会に持ち出してやる。三百代言のやるようなごまかしだ」
メイスンは、相手の胸に手のひらをあてて、ぐっと腕を伸ばしてその先まで押しもどしながら、「きみは、講演業になるがいいよ、シャスター。それなら、無味乾燥な講義をしたからって、文句をいうものなんかあるまい」
メイスンは、ポケットからハンカチを出して、顔に飛んだ唾を拭いた。シャスターは、テリヤが雄牛に向かって吠えるように、かっとなって、そこらじゅうを跳ねまわりながら、「きさまは、遺言が破棄できないと気づいたんだな。あの遺言は、ほんとに立派なものだからな。それで、きさまがなにをしたかいってやろうか? おれの依頼人に、殺人の容疑をおっかぶせようとしはじめた。そんなことができてたまるもんか! きさまも、きさまのお客の管理人も、いまに、たいへんな羽目に落ちこんでるのに気がついて、泣き面をかくんだ。大騒動だぞ! おれのいうことが聞こえるか? きさまなんか……」
バーガー地方検事が、トム・グラスマンといっしょに部屋にもどって来たのを見て、シャスターは、不意に言葉をのみこんでしまった。バーガーは、途方に暮れたような顔つきで、「メイスン」といった。「きみの依頼人のアシュトンが持っているダイヤモンドのことを、なにか知ってるか?」
メイスンは、首を左右に振って、「本人に聞いたらどうだ」と、ほのめかすようにいった。
「ぼくも、かれと話してみたいと思うんだ」と、バーガーがいった。「どうも、この件に深い関係があるらしいね」
メイスンはうなずいた。
シャスターがわめいた。「けしからん無法だ! でっちあげだ! 遺言をぶちこわすために、メイスンのやつがでっちあげたんだ」
メイスンは、鷹揚《おうよう》な微笑をうかべて、「いっといたろう、シャスター、いつでも、おれは、思ってもいないところを打つぞ、と」
「管理人を呼んでまいりましょうか?」と、部屋着のままのふとった女がたずねているとき、バスローブにスリッパという姿のオーフレイが、ずるずると、足を引きずりながら部屋にはいって来た。
「あんたは、誰です?」と、バーガーが女に聞いた。
「家政婦です」と、オーフレイが脇から口を入れた。「ミセス・ピグスレイです」
「いや、管理人のところへは、前ぶれなしに行って、話を聞きたいと思うね」と、バーガーが大きな声でいった。
「ねえ、きみ」と、メイスンがいった。「この状況から考えて、きみがなにをさがそうというのか、ぼくに知らせるほうがフェアだとは思わないかね?」
「いっしょに来たまえ」と、バーガーがいった。「そうすりゃ、きみにもわかるだろう。ただし、質問をしたり、忠告をしたりして、こちらの段取りを邪魔されちゃ困るよ」
シャスターは、テーブルをまわって飛び出した。「こいつに、気を許しちゃいかん」と注意を促した。「こいつが、全部でっちあげたんだ」
「やめろ」と、トム・グラスマンが肩越しにいった。
「さあ、行きましょう」と、バーガーは、ミセス・ピグスレイをうながした。「案内してください」
女は、廊下を歩いて行った。歩くにつれて、寝室用のスリッパが踵の下でぺたぺたとなった。ポール・ドレイクは、ペリイ・メイスンとならんだ。オーフレイは、後になって、シャスターと話しながら行った。バーガーは、サム・ラクスターの腕をとって行った。
「おかしな様子の女だね――あの家政婦というのは」と、ドレイクが声を低めていった。「みんなたるんでいて、ただ口もとだけが、みんなのうめ合わせをするように、きっとしまってやがる」
「あのものやわらかさの下に」と、メイスンは、目は相手の値ぶみをするように女の姿を追いながらいった。「たいした力がひそんでいるんだ。ふとっちゃいるようだが、筋肉はとてもがっしりしているようだな。見ろ、あの歩き方を」
女は先に立って、階段を降り地下室にはいった。ドアをあけて、コンクリートの土間を通りぬけて、つぎのドアの前で立ちどまって、「ノックしますか?」といった。
「鍵がかかっていなけりゃ、ノックしなくてもいい」と、バーガーが女にいった。
女は、ドアのノブをまわし、脇へ寄って、ドアを押しあけた。
メイスンには、部屋の内部は見えず、ただ女の顔だけしか見えなかった。その女の顔に、室内からの光が強くあたるのが見え、つづいて、その顔の締まりのない肉づきが、急にものすごい恐怖の色を帯びて凍りつくのが見えた。きっとしまっていた唇がだらんとあいたと思うと、女が金切り声をあげた。
バーガーが、部屋に飛び込んだ。家政婦はよろけて両手を高くあげ、すべるように床に膝から崩折れた。グラスマンも、管理人の部屋に飛び込んだ。オーフレイは、家政婦の脇の下を抱きかかえるようにして、「しっかりしろ」といった。「おちついて。どうしたんだ?」
メイスンは、二人を押しのけて、部屋にはいった。
チャールズ・アシュトンのベッドは、地下室のあけはなした窓際にあった。窓は、道路の高さとほとんどすれすれにあいていた。猫が楽にはいれるように、約四、五インチほどあけてあって、つっかい棒がしてあった。
ベッドは、窓の真下にあって、白い上掛けがベッドを蔽うように掛けてあり、その白い上掛けには、点々と泥だらけの猫の足跡がついている。いや、その足跡は上掛けばかりか、枕にまでついている。
見るも無残な顔になって、チャールズ・アシュトンの死体が、そのベッドに横たわっていた。
ふくれあがった目、だらりと長く垂れた舌を一目見ただけで、殺人の専門家には、すぐに死因がわかった。
バーガーは、くるりとグラスマンの方を向いて、
「みんな、部屋から出てもらってくれ」と注意した。「殺人捜査課に電話してくれ。事件がかたづくまで、サム・ラクスターから目をはなすな。わしは、ここに残って調べる。さあ、かかれ!」
グラスマンは、くるっと向き直り、肩でペリイ・メイスンを押して、「出てください」といった。
メイスンが部屋を出ると、グラスマンは、ぴしゃんとドアをしめた。「電話のところへ案内してくれ。オーフレイ、この家から出ようなんてしちゃいかんぞ」
「なんだって、わたしが、この家から出るなんていうんです?」と、オーフレイが喧嘩腰《けんかごし》で食ってかかった。
「なんにもいっちゃいかん! なんにもいっちゃいかん! なんにもいっちゃいかん――」と、シャスターが、ヒステリーのようにいいつづけた。「静かに! 話は、わたしがする。わからないのか? これは、殺人事件ですぞ! やつらと話してはいかん。どんなことでも、やつらとかかわり合っちゃいかん。絶対に……」
グラスマンが、喧嘩腰で進み出て、「よけいな口をきくな」といった。「さもないと、おれがその唇にふたをして、しゃべれないようにしてやるぞ」
シャスターは、りすが木にのぼるように、ちょこちょこと逃げたが、それでもなお小止みなしにしゃべりつづけた。「しゃべっちゃいかん。なにもしゃべっちゃいかん。わしがあんたの弁護士だということがわからないのか? あんたがたのことを、この連中がなんといってるか、あんたがたは知らんのだ。どんな容疑をかけられているか、あんたがたは知らんのだ。黙って黙って。話は、わしが代ってする」
「話し合いなんかする必要はないよ」と、オーフレイがシャスターにいった。「ぼくだって、役人たちと同じように、この事件をはっきりさせたいと思ってるんだ。だまれよ! きみは、のぼせてるぞ」
一同は、階段をのぼった。一歩おくれたペリイ・メイスンは、ポール・ドレイクの耳に口を寄せて、「しっかり離れないようにしていてくれ、ポール」といった。「どうなるか、よく気をつけていてくれ。見えるかぎりそっくり見とどけて、見えないとこは耳で、ぬかりなく聞いてくれよ」
「きみは、消えるんだね?」と、ドレイクがたずねた。
「うん、消えるよ」と、メイスンはいった。
地下室からの階段の上に出ると、グラスマンは、電話の方へあたふたと駆け出した。ペリイ・メイスンは、階段の上から右へまがり、台所を突っ切り、ドアの掛け金をはずし、ポーチを通りぬけて、石段を降りた。そして、しとしとと雨の落ちて来る夜の中に立った。
第八章
「ウィニーのワッフル」と書いた看板の電灯の灯《ひ》は消えて、ただ黒く見えるだけだった。一つだけ、夜間用の電灯がドアの上にともっていた。ペリイ・メイスンが、ドアの握りに手をかけてまわしてみると、ドアはあいた。メイスンは、うしろ手にドアをしめて、カウンターとボックスのあいだの通路を進んで行くと、あいたままのスイング・ドアのところまで来た。スイング・ドアの奥の部屋はまっ暗で、女のすすり泣いている声が聞こえた。メイスンが「ハロー」と声をかけると、かちっとスイッチの音がして、ばら色の絹の傘をかけた卓上スタンドが、やわらかい光をあたりに投げた。
一人用のベッドが、壁に寄せておいてある。椅子が二脚、テーブルが一つ、それと本棚が一つ。本棚は、罐詰の木箱を釘でとめ、エナメルを塗っただけの簡単な間に合わせの物だ。だが、そんな手製の本棚だが、本はぎっしりならんでいる。部屋の片隅はカーテンで仕切って、小部屋の役目をしている。ドアが半分ほどあいていて、鵞鳥《がちょう》の頸のような形のシャワーの配管が、メイスンの目にはいった。壁には、額縁にはいった絵が、二つ三つかかっている。表具といい造作といい、みんな安物でつまらないものばかりだったが、あたりには、気持のいい、家庭的な雰囲気が漂っていた。ベッドと向き合って置かれたテーブルの上には、大きな額に入れたダグラス・キーンの写真がかざってあった。
ウィニフレッド・ラクスターは、ベッドにすわっていた。目は、泣きぬれてまっ赤だった。一匹の大きなペルシア猫が、かの女のそばに満ち足りたようすで寝そべっていて、かの女の脚に頭をよっかからせ、こちらまで聞こえるほどに、のどをならしていた。電灯にスイッチがはいったので、猫特有の、あの体をよじるような動作で頭を持ちあげて、きらきらとした、きびしい目つきで、じっとペリイ・メイスンの方を見つめた。それから、目をつぶり、前足をのばして、あくびをし、またのどをならしはじめた。
「どうしたんです?」と、メイスンがたずねた。
娘は、ちょっと絶望したという身振りで、電話の方を指さした。それで一切を説明しつくしたというような身振りだった。「こんなことになっちまって。あたし、世の中はおもしろおかしく笑って暮らして行けると思っていたのに」と、女は訴えるようにいった。
メイスンは、椅子を引き寄せて、腰をおろした。相手がヒステリーに近い状態だと見てとって、ことさら何気ない声で、「いい猫ですね」
「ええ。クリンカーよ、これ」
メイスンは、驚いて眉をあげた。
「ダグが行って、連れて来てくれたの」
「どうして?」
「サムが毒殺しやしないかと案じたからなの」
「いつごろ?」
「十時ごろ。あたしが頼んで行ってもらったの」
「ダグは、アシュトンと話したといってましたか?」と、メイスンは、何気ない調子を出そうと骨を折って、そうたずねた。
「いいえ。アシュトンはいなかったんですって」
「煙草をすってもいいですか?」
「あたしにもちょうだい。きっと、いやな赤ん坊だと思っていらっしゃるんでしょう、あたしのこと」
メイスンは、ポケットからシガレット・ケースを出し、しかつめらしく、かの女に一本を差し出し、かの女がその煙草を唇のあいだにはさむのを見て、マッチをすって差し出した。
「いやな赤ん坊だなんて、とんでもない」といいながら、メイスンは、自分の煙草にも火をつけた。「ほんとに寂しいでしょう、ここは?」
「いままでは、そうじゃなかったわ。でも、これからは寂しくなるわね」
「ねえ、よかったら、いつでも話を聞かしてくださいよ」と、メイスンは誘いかけるようにいった。
「まだだめ」そういう女の声は、さっきよりも、ずっと力強くなっていた。しかし、まだヒステリーじみた口吻が残っていた。「あたし、このまっ暗な中で、長いことすわっていたの、あれを考えたり、これを考えたりして……」
「考えごとなんかやめて」と、メイスンがいった。「話をしましょう。ダグラス・キーンは、何時ごろ、アシュトンのところを出たといってました?」
「十一時ごろだと思うわ。なぜなの?」
「一時間ぐらい、いたってわけですね?」
「ええ」
「アシュトンが帰って来るのを待ってたんですね?」
「と思うわ」
「それから、猫をここへつれて来たんですね?」と、メイスンがたずねた。
「そうなの」
「ええと――雨は、何時ごろ降りはじめたんでしたかね? 十一時前だったかな、それとも、十一時過ぎでしたかな?」
「あら、それよりずっと前よ――九時ごろよ、とにかく」
「ダグラス・キーンが猫をつれて来たのは何時ごろだったか、はっきりおぼえていますか? なにか、その時刻を正確にきめる方法は、ないものかな?」
「ないわ、あたしは、芝居がはねてからのお客用にワッフルを焼いてたわ。でも、なぜ、そんなことをお聞きになるんですの?」
「ただ話をしようとしているだけですよ」と、メイスンは、さりげなくいった。「あなたは、ひどく見ず知らずの他人のように、ぼくのことを思って、いますぐには、うちとけて肚《はら》からの話をしないでしょう。ぼくは、あなたの気分を楽にしてあげようとしているんです。ところで、召使のうちの誰かが、ダグラスを家へ通したんでしょうか?」
「市内の屋敷のことをおっしゃってるんでしょう? いいえ。あたしが自分の鍵を、ダグラスに渡したの。猫をつれて来ることを、サムに知られたくなかったんですもの。おじいさんが、家へはいる用にと、前に鍵をあたしにくれたのよ。それを、あたしが返さずに持っていたってわけ――ほんとのところは、返す相手がなかったってわけよ」
「どうして、猫をつれて来るってことを、アシュトンに知らせなかったんです? 猫がいないということを知ったら、気にしないでしょうかね?」
「あら、だって、ダグラスがクリンカーをとりに行くことは、アシュトンは知ってたのよ」と、かの女はいった。
「どうして、知ってたのです?」
「あたしが電話したのよ」
「いつです?」
「じいやが出かける前」
「何時ごろ、出かけたんです?」
「知らないわ。でも、電話でいろいろ話し合った上で、あらゆる点を考えて、しばらくのあいだ、あたしがクリンカーを預っておくほうがいいんじゃないかということにきめたの。じいやは、ダグが来るころは家にいることにするといったの。そして、サムに知られないほうがいいから、あたしの鍵をダグに渡すようにと、そういったんです」
「しかし、ダグラスが向こうへ着いたときには、アシュトンはいなかったんでしょう?」
「ええ。ダグは、一時間ほどまってたんですって。それでも、じいやが帰って来ないんで、猫をつれて出て来たんですって」
メイスンは、椅子によっかかって、ぐるぐると輪のようになってのぼって行く煙草の煙をじっと見ていた。
「クリンカーは、いつもアシュトンのベッドで寝るんじゃないんですか?」
「そうよ」
「ほかには、猫はいないんですか?」
「あの家のまわりにですか?」
「ええ」
「いいえ、いないわ。どんな猫でも、クリンカーが追っ払っちまうの。おそろしく焼きもち焼きよ。特にアンクル・チャールズには」
「アンクル・チャールズって?」と、メイスンがたずねた。
「あたし、ときどき、管理人のことを、アンクル・チャールズって呼ぶんですよ」
「ちょっと変わり者ですね?」
「変わってるわ。でも、つき合ってごらんになれば、すてきな人よ」
「正直者ですか?」
「もちろん、正直者だわ」
「いくらか、けちじゃないんですか?」
「貯めるものがあったら、きっと、けちになったでしょうね。じいやは、おじいちゃんのそばに長くいすぎたのね。おじいちゃんは、いつも銀行というものを信用していなかったわ。金本位制が廃止になったとき、おじいちゃんは、いまにも死ぬかと思うほどがっかりしていたわ。金《きん》をいっぱい蓄めこんでいたのよ。でも、とうとう諦めて、金を出して、紙幣に代えることは代えたんですけど、ほんとに打撃だったのね。何週間も取り乱してましたわ」
「きっと、一風変った人だったんですね」
「そう――とても変ってたわ――でも、とても愛すべき人間だったわ。正邪の観念がとても強い人だったわね」
「遺言状では、そうは見えないがね」
「ええ」と、ウィニーはいった。「でも、いろんな状況を考えてみると、これでいちばんいいんです。あたし、とてもひどく、ハリーに惹かれていたんだと思いますわ」
「ハリーというのは?」と、メイスンがたずねた。
「ハリー・インマンですわ。もうとってもひどく、あたしにつきまとって離れなかったんです。あたし、ひたむきで、純真で、真面目な青年なんだと思っていたんです。だのに……」
「そうじゃなかったというんですね?」と、ウィニーの声が弱く消えて行くのを見て、メイスンは、後をうながすようにいった。
「ぜんぜん、そうじゃなかったの。遺言状で、あたしがなんにももらえないとわかったとたんに、それまでにいったことを、なにからなにまで、ひどくあわてて取り消すってわけなんですよ。最後には、あたしが自分の面倒を見てもらうために、結婚しようといい出しゃしないかと気が気ではなかったんでしょうね」
「金は持っているんでしょう?」
「勤め先は、いいんです。保険会社で、一年に六千ドルほどとってるんです」
「ダグラス・キーン君は、あなたからはなれなかったんですね?」と、メイスンは、ベッドの前のテーブルに飾った額縁入りの写真の青年の上に、さりげなく話題を移して、たずねた。
「断然、あたしからはなれなかったわ。いい人よ。この世界じゅうで、一番すてきな青年だわ。どれだけすてきなんだか、あたし、それまでは気がつかなかったわ――ねえ、そうでしょう、言葉なんて、ほんとに意味ないわね。誰だって、口のきける人間なら、いくらでもおしゃべりをするわよ。他人よりずっとうまい口のきける人間なんか、いくらでもいるわよ。自分のことをうまくいいあらわす力があれば、肚の底は不真面目でも、ほんとに誠実な人間より、ずっと真面目らしく聞こえるような口をきく人間がたくさんいるものよ」
メイスンはうなずいただけで、相手が話をつづけるのを待っていた。
「あたし、ダグラスのことで、あなたにお目にかかりたかったの」と、娘は言葉をつづけた。
「なんだか恐ろしいことが起こったんです。ダグラスは、あたしが巻き添えになりゃしないかと心配してるんです。あの人こそ、どうやら、かかり合いになってるらしいの――どの程度だか、あたしにはよくわからないんですけど」
「なにがあったんです?」と、メイスンがたずねた。
「人殺しなの」といって、ウィニーは、しくしくと泣き出した。
メイスンは、ベッドのところへ行って、かの女の脇にすわり、その肩に腕をまわした。猫は、じろりとメイスンを見上げ、かすかに耳を伏せてから、またゆっくり横になったが、こん度は、のどをごろごろならさなくなった。
「さあ、おちついて」と、メイスンは、相手にいった。「事実を話してごらんなさい」
「あたし、どんなことがあったか、よく知らないんです。知ってることってば、ダグラスが電話をかけて来たってことだけ。すごく興奮してましたわ。あのひとったら、殺人事件があったっていうんです。それでね、あたしを巻き添えにしたくないからって。自分は急いで姿をかくすから、もう二度と会えないだろうって、そういったんです。そして、あたしには、なんにもいっちゃいけない、あのひとのことで人から聞かれても、一切返事をしちゃいけないって、そういうんです」
「誰が殺されたというんです?」
「それは、いってくれないんです」
「あなたが巻き添えになるかもしれないなんて、どうして、そんなことを考えたんでしょう?」
「あの人のことを、よく知ってるからというだけじゃないでしょうか。まったく、ばかばかしいったらないわ。でも、あたし、これはみんな、おじいさんの死と関係があるんだと思うの」
「かれが電話をかけて来たのは、いつごろです?」
「あなたに電話する十五分ぐらい前なの。あたし、思い出せるかぎりの、あらゆるところへ電話をかけて、あなたを見つけようとしたの――あなたの事務所だの、アパートだの。でも、どうしても連絡がとれないんで、アンクル・チャールズにかけることにしたんです。じいやの話では、なんだかサムと地方検事のことで、あなたから電話があったということだったから、またその後、あなたから連絡があったかもしれないと思ったんです」
「あなたは」と、メイスンがたずねた。「おじいさんが殺されたのだということを知ってますか?」
かの女は、目を丸くして、メイスンを見つめ、「おじいさんが? いいえ、知らないわ」
「家の燃えぐあいに、なにかおかしなところがあるという気がしませんでしたか?」
「あら、そんなことないわ。火は、おじいちゃんの寝室を中心に燃えたんだと思うわ。とても風の強い夜で、電線の痛んだところから火が出たということになっていたと思ってたんですけど」
「もう一度、猫のことに話をもどしましょう」と、メイスンがいった。「この猫は、十一時ごろから、ここにいるんですね?」
「ええ――十一時ちょっとすぎだったわね」
ペリイ・メイスンはうなずき、猫をつまみあげて抱いた。
「クリンカー」と、メイスンがいった。「ちょいと楽しいドライブに出かけないかい?」
「なんのことですの?」と、ウィニフレッドがメイスンにたずねた。
ペリイ・メイスンは猫を抱いたまま、じっとかの女の顔を見つめて、ゆっくりとした口調でいった。「チャールズ・アシュトンが、こん夜、何時ごろかに殺されました。正確な時間は、まだわかりません。たぶん、ベッドにはいってから、絞め殺されたのでしょう。ベッドに掛けた上掛けにも、枕にも、泥まみれの猫の足跡がいっぱいついていました。アシュトンの額にまでついていました」
娘は、さっと立ちあがって、目をいっぱいに見開いて、メイスンを見つめた。それから、血の気のなくなった唇をあけて、なにか叫ぼうとしかけた。
しかし、声が出なかった。
ペリイ・メイスンは、猫をベッドにおろし、ウィニフレッドを腕に抱きよせ、髪を撫でて、「おちつくんだよ」と、いって聞かせた。「わたしは、猫をつれて行くからね。誰かが来て、なにかあなたに聞いても、返事をしちゃいけないよ。どんなことを聞かれても、返事をしないこと。いいですね」
ウィニーは、かれの腕から抜けて、ベッドに腰をおろした。膝が、体の重みを支えてくれないかのようだった。顔には、ひどい動揺の色が濃くあらわれていた。「あのひとが、そんなことをするはずがないわ」と、かの女はいった。「そんなこと、できもしないわ。あたし、あのひとを愛しているんです。はえ一匹だって殺せないひとですわ!」
「ぼくが」と、メイスンがたずねた。「この猫を始末してくるまで、あなたは、しゃんとしていられますか?」
「どうなさるの、それを?」
「かくれ家を見つけてやるんです――どこか、この事件がかたづくまで飼っておけるところをね。猫の足跡が、ベッドのおおいの上についていたのは、どういうことか、あなたにもわかるでしょう。つまり、殺人が行われた後も、猫が、そこにいたということですからね」
「でも、そんなことは有りえないことですわ」と、かの女がいった。
「むろん、有りえないことですよ」と、メイスンが、娘にいって聞かせた。「しかし、第三者にも、有りえないことだと思わせなくちゃいけない。問題は、あなたが、あえて、わたしに手をかすことができるかということですよ」
かの女は、黙ってうなずいた。
ペリイ・メイスンは、猫を抱きあげて、戸口の方へ行きかけた。
「ねえ、聞いてちょうだい」と、メイスンがドアの握りに手をかけるのを見て、ウィニーが声をかけた。「納得してくださるかどうかわからないけど、ぜひ、ダグラスを守ってやってくださいね。あなたにお電話したのは、そのためだったんです。あのひとを見つけて、話をしてやってちょうだいね。ダグラスは、殺人罪を、おかしたりなんかしないひとですわ。あのひとが殺人犯人なんかじゃないってことを、きっと証明してくださいね。あのひとが、犠牲にならないですむようにお願いしますわ。あたしのいうことがわかってくださるわね?」
「わかります」と、メイスンは、重々しい口振りでいった。
かの女は、メイスンのそばへ来て、その肩に手をかけて、「あのひとは、とても頭がいいひとだから、警官には、決して見つけられるようなことはしないだろうと思うの……あら、そんなふうに、あたしを見ないでよ。警察の連中なら、すぐあのひとを見つけられるはずだと思っていらっしゃるのは、よくわかってますわ。でも、ダグラスがどれくらい頭のいいひとかってことは、あなたにはおわかりにならないわ。ええ、警官には、決して、絶対に、あのひとはつかまらないわ。ということは、あなたが事件をかたづけてくださるまでは、あのひとは生きているかぎり逃亡者になるということなの……あたしにとって、それがどういうことになるか、よくわかってますわ。警察じゃ、あのひとがあたしと連絡をとるにちがいないと思うでしょう。あたしのところへ来る郵便物を検査するでしょうし、電話も盗み聞くでしょう。そのほか、ダグラスをわなにかけようとして、あらゆる手を尽すでしょう」
メイスンはうなずき、左手でペルシア猫を抱きながら、あいている右の手で、やさしくかの女の肩をたたいてやった。
「あたし、たいして持ってないんですよ」と、かの女は言葉をつづけた。「商売だけは、ここで、どうやら立派にたって行くようになってきたんです。どうやら暮らしもたてられるし、生活費以上にもうかっていくんです。ですから、月賦でお払いしますわ。自分の力でできることなら、なんでも差し上げますわ。この店の権利もあげますわ。そして、あたしは、食べるだけのものをいただけば、月給なんかいただかなくて、この店をやって行きますわ。ワッフルとコーヒーだけで暮らして、そして……」
「それは、後で話すことにしましょう」と、メイスンは、相手の言葉をさえぎった。「いま、さしあたってしなければならんことは、われわれの立場を知ることです。もし、ダグラス・キーン君が罪を犯しているのなら、かれのためにしなければならんことは、その罪に服することです。どのような酌量すべき事情があったかしらないが、その罪を弁護してやることです」
「でも、あのひとは、罪なんか犯していませんわ。そんなことはありません。そんなこと、できるはずがありませんわ」
「よろしい。もし、かれが罪を犯していないのなら、それなら、まず、このいまいましい猫を、あなたは追い出さなくちゃいかん。さもないと、あなたまでが殺人事件の巻き添えになる。わかりますか?」
ウィニーは、黙ってうなずいた。
「箱かなにか、猫をいれて行くものがあるといいんだがな」
かの女は、カーテンの向こうヘ飛んで行って、大きな帽子箱を持って来た。ボール紙のふたに指で穴をあけ、小さな空気抜きをいくつかつくった。
「あたしが入れるほうがいいわ」と、ウィニーがいった。「あたしが入れるほうが、よく聞きわけるわ……さあ、クリンカーや、この方がいっしょに連れて行ってくださるのよ。ごいっしょに行かなくちゃいけないの。だから、いい子になるのよ」
ウィニーは、猫を箱に入れ、しばらく撫でてやってから、そっとふたをした。ふたの上からぐるっと紐をかけてしばり、その箱をペリイ・メイスンに渡した。
弁護士は、紐に手をかけて箱をさげ、元気づけるように、にっこり笑っていった。「ここにいるんですよ。いいかい、なにを聞かれても返事をしちゃいけないよ。まもなく、電話をするからね」
ウィニーは、寝室のドアをあけて、手でおさえていた。メイスンは、表のドアのところへ進み、ドアをあけて、風と雨の中へ出て行った。猫は、箱の中で、ごそごそとおちつきなく動いた。
メイスンは、幌型《ほろがた》のクーペの座席に、猫のはいった帽子の箱をおき、ハンドルの前に乗り込んで、エンジンをかけた。猫が、か弱い声でないた。
メイスンは、いたわるように猫に声をかけてやり、数ブロック、車を走らせてから、終夜営業のドラッグ・ストアを見つけて、その前の歩道にぴたりと車を寄せた。車をとめて歩道に降り立ってから、帽子の箱をとりあげ、ドラッグ・ストアへはいって行った。店員が、妙な目つきでかれを見た。
メイスンは、帽子の箱を電話室の床に置き、ダイヤルをまわして、デラ・ストリートのアパートを呼んだ。しばらくして、にぶい、ねむそうなデラの声が聞こえてきた。
「うん、いい子だ」かれがいった。「しゃんと目をさますんだ。つめたい水で顔を洗って、着物をひっかけて、ぼくが呼び鈴を鳴らしたら、きみのアパートのドアがすぐあくようにしといてくれ。すぐに行くから」
「いま何時?」
「一時ごろだろう」
「なにがあったんです?」と、デラがたずねた。
「電話じゃいえないよ」
かの女の声は、いまではもうすっかり目がさめたということを示した。「まあ、先生、徹夜で仕事をなさるのは、殺人事件だけだと思ってたのに、猫のことでも徹夜なさるのね。いったい、どうして猫のことなんかで悶着《もんちゃく》にはまり込むなんてことがあるの?」
「あるね」と、謎《なぞ》のように、メイスンはいった。「はまり込めるんだよ、いや、もうはまり込んでるんだ」そして、くっくっと含み笑いをしながら、受話器をかけた。
第九章
デラ・ストリートは、絹のパジャマの上にローブを引っかけて、ベッドのはしに腰をおろし、ペリイ・メイスンが帽子の箱にかけた紐をほどくのを見守っていた。
「夜なかの一時に、あたしを起こして、最新流行の帽子を見せてくださるっていうの?」と、デラがたずねた。
弁護士は、紐をほどきながら、いった。「いかに楽々と環境になれるかってのを見せようってだけさ。ドラッグ・ストアの電話室の中じゃ、めちゃくちゃにあばれていたんだぜ」
メイスンは、ふたを取った。クリンカーは身を起こし、背をぐっと大きくまげ、あくびをし、空気をかいだかと思うと、前足を帽子の箱のへりにかけ、ひょいとベッドの上に飛びのった。さぐるようにデラ・ストリートをかいでから、その脚のそばにまるくなってねた。
「コレクションをしようというのなら」と、デラがいった。「郵便切手のほうが簡単かもしれなくてよ。第一、場所をとらないんですもの」
デラは、猫の耳を撫でまわした。
「そりゃ、お世辞のつもりなんだろうな」と、メイスンがかの女にいって聞かせた。「きみになついてるようすは。ぼくのおぼえてるところじゃ、この猫の気に入る人間は、ほとんどないんだからね」
「管理人の猫の遊び相手にでもなさるおつもり?」
「これが、問題の管理人の猫なんだよ」
「じゃ、どうして、管理人のおじいさんといっしょにしておいておやりにならないの?」
「ぼくが最後に見かけたときには、管理人は死んでたよ。あんまり綺麗な顔じゃなかった。ベッドの上じゅう、猫の足跡で泥だらけさ」
デラは、はっとして身をかたくして、「誰が殺したの?」とたずねた。
「わからん」
「警察は、誰が犯人だと思ってるの?」
「わからん。警察の連中もいまだ、考えてないだろうね」
「そのときになって、誰が犯人だと思うでしょう?」
「管理人と利害関係があると思われるのは、数人だろうね。管理人が、百万ドルほどの紙幣を持っていたと信ずべき証拠が、いくつかある。その金の一部は、安全貸し金庫に預けられているらしい。がしかし、また、その安全貸し金庫というのも、人の目をくらます口実だったかもしれない。百万ドルとなれば、なんだってできるからね。それから、かなり高価なダイヤモンドがある。それも、アシュトンが持ってたかもしれない。ぼくは、うちの事務所からアシュトンの後をつけて行った緑色のポンテアクを見つけた。ピーター・ラクスターの市内の邸のガレージにある」
「誰を弁護することになるんですの?」
「ワッフル屋をやっている娘のボーイ・フレンドだ」
「前渡金は?」
「きみは、ワッフルは、好きかい?」と、メイスンが反対にたずねた。
デラは、心配そうな色を目にうかべて、「ねえ、先生、先生は、はじめに報酬のこともきめないで、殺人事件にかかり合ったりはなさらないでしょうね?」
「もうすでに、かかり合ったらしいんだ」
「どうして、どっかと事務所に構えていて、逮捕されてから、あわを食ってやって来る依頼人を待っていてから、法廷へ出かけて行って、弁護するというふうになさらないの? 先生たら、いつでも、いちかばちかという第一線の銃火の中へ飛び出していらっしやるのね。この猫は、どうやって手にはいったんですの?」
「さずかったんだ」
「誰から?」
「ワッフル屋の娘からさ。しかし、そんなことは忘れてしまうんだね」
「すると、あたしに、ここで飼ってろとおっしゃるのね?」
「そうだ」
「こっそりとね?」
「できるだけ、ね。でなけりゃ、誰かきみの友だちで、預かってくれそうなのがいたら、ここにおいとくよりはずっといいかもしれないね。警察でもさがすだろうから。ぼくには、この殺人事件じゃ、この猫は重要なものになるという気がするんだ」
「ねえ、先生」と、デラは、哀願するような口吻でいった。「こんな事件に関係して、先生の弁護士としての立場を危険にさらさないようにしてくださいね。こんなことはほっといて、東洋行の船にお乗りになったら。誰かが逮捕されてから、そういう希望があったら、出かけて行って弁護なさればいいじゃありませんか。それまでは、事件に巻き込まれたりしちゃだめよ」
デラの目には、母親のような、やさしい色が含まれていた。
ペリイ・メイスンは、手をのばして、デラの右手をとり、軽くたたきながら、
「デラ」といった。「きみは、いい子だな。だけど、きみのいうようなわけにはいかないんだ。東洋航路の船に乗れば、ほんの三日ぐらいは、結構な休養がとれるだろう。だが、その後は、ぼやっとしている休止状態が、ぼくを駆って気狂いにしてしまうよ。ぼくは、きりきり舞いをするような忙しい思いをして、仕事がしていたいんだ。ぼくは、この事件で、東洋旅行の十倍ものスリルを味わうんだよ」
「じゃ、この事件を扱かうお考えなんですのね?」
「そうだ」
「で、あなたが依頼人だとおっしゃるその青年が、殺人罪で起訴されると思っていらっしゃるんですね?」
「たぶんね」
「まだ前渡金は払ってないんでしょう?」
メイスンは、首を左右に振ってから、じれったそうにいった。「金なんかどうでもいいじゃないか! もし、殺人容疑者が金持だったら、ぼくだって、弁護料はうんと取ってやるさ。せいいっぱい働いた金で、やっと暮らしている連中が困った立場になって、しかも、無実の罪で訴えられたら、ぼくは、なんとかして助かる機会を与えてやるんだ」
「どうして、その男が無実だということを、先生は、ご存じなの?」
「ぼくが会ったときの、その印象だけでそう思うんだ」
「ほんとに罪を犯していたら?」
「もしそうなら、あらゆる酌量すべき事情を集めて、自分でも罪を認めさせた上で、できる限り軽い判決を得るようにしてやる。でなければ、ほかの弁護士のところへまわしてやる」
「それは、弁護士のやり方としては正しいやり方じゃありませんわ」といったが、デラの目にも、声にも、非難のひびきはなかった。
「いったい誰が、正しくありたいというんだ?」といって、メイスンは、にやっとにが笑いをした。
かの女も、それに合わせて薄笑いをうかべながら、立ちあがった。「あたし、まるで、わがままな子供のことを案じている母親のように、あなたのことを案じてるみたいね。あなたは、子供と大人とが、いっしょにまじり合ってるのね。なんだか、あなたが恐ろしいことにかかり合いそうになっていらっしゃるのが、あたしにはわかるの。だから、あたしは、『川に近よっちゃいけません』といいたくなるのよ」
メイスンは相好《そうこう》をくずして、「母性愛か? きみの就職のときの書類を見れば、ほんとはいくつ年下か、わかるんだぜ。たしか、十五は若かったな」
「あら、お世辞?」と、かの女は問い返した。「先生の弁護士開業許可の書類を見れば、いくつ若くいってくださったのか、すぐわかりますわよ」
メイスンは、ドアの方へ歩いて行きながら、「よく猫の面倒を見てやってくれたまえ」といった。「逃がしちゃいけないよ。名前は、クリンカーというんだ。すきがあったら、逃げ出すかもしれないからね。後で、役に立つかもしれないんだ」
「警察が、ここまでさがしに来ないでしょうか?」
「来ないだろう、すぐには。まだ、それほど切迫しちゃいないんだ……きみは、水のそばへ行っちゃいけないって、ぼくにいうのかい?」
かの女は、首を左右に振った。その微笑には、優しさと誇らしさの色が浮かんでいた。「いいえ」と、かの女がいった。「でも、すっぽり頭までもぐるとこまで行っちゃいけませんよ」
「まだ、足だって濡らしちゃいないんだぜ」と、メイスンがいった。「しかし、なんだか、そのうちに濡らしそうな気はするがね」
かれは、静かにドアをしめ、廊下を通って通りに出て、エディス・ドヴォーのアパートへ車を走らせた。
アパートの玄関の戸には鍵がかかっていた。メイスンは、指をボタンにあてて、エディス・ドヴォーの部屋の呼鈴をならし、何度かそのまま押しつづけた。が、返事はなかった。それで、ポケットから鍵束を取り出し、合鍵をぬき出して、しばらくためらっていたが、またもう一度、エディス・ドヴォーの部屋に通じるベルを押してみた。やはり返事がなかったので、合鍵を鍵穴に差し込んだ。しばらくすると、かちっと音がしてねじがはずれたので、アパートの建物にはいった。廊下を歩いて、エディス・ドヴォーの部屋の前へ来ると、そっとドアをたたいた。ここでも返事がなかったので、しばらく、眉を寄せてじっと中のようすをうかがって立っていたが、やがて、ドアの握りをまわしてみた。握りはまわり、ドアがあいた。メイスンは、まっ暗な部屋の中へ踏み込んだ。
「ドヴォーさん」と」かれは声をかけた。が、返事はなかった。
ペリイ・メイスンは、スイッチを押して明かりをつけた。
エディス・ドヴォーは、床の上に大の字に倒れていた。
路地に向いた窓は、すっかりしまっていなかった。下の方が、二、三インチあいたままになっていた。ベッドは、寝たような様子がなかった。死体は、ごく薄い絹のパジャマをまとっている。死体のそばに、十八インチほどの長さの木の棒が落ちていた。一端は割れて裂けており、反対のはしのそばには、事件のいきさつを語るように赤い血痕がついていた。
ペリイ・メイスンは、用心深く、うしろのドアをしめ、踏み出して、死体をのぞいて見た。後頭部寄りの頭に、傷がついていた。
死体のそばに落ちている棒切れが、棍棒として使われたのだと、一見するまでもなくわかった。両端とも、鋸《のこぎり》できれいに引き切ったもので、よく磨きあげてあり、直径一インチ半ぐらいの太さだ。一端の血痕の中に、非常にはっきりと指紋が一つあらわれている。反対のはしのニスには、気泡ができていた。
メイスンは、素早く部屋の中を見まわした。バス・ルームに足を入れた。湯舟はからっぽだったが、血痕のついたタオルが一つ、洗面台にのっている。暖炉に歩み寄って見ると、炉には灰があり、まだ暖か味があった。時計を見ると、一時三十二分だった。窓のあいたところから、雨が吹き込んでいた。窓枠は、しっとりと雨を受けて光り、窓枠の下の堅木の横まで、雨水が滴れていた。
メイスンは、大の字になった死体のそばに膝をついて、脈をとってしらべ、呼吸がないかと耳を傾けた。
かれは立ちあがって、電話器のところへ行き、指紋を残さないようにハンカチで受話器をくるんでから、警察本部を呼んだ。相手が出ると、低いふくみ声で、早口にいった。「女の人が頭をなぐられて死にかかっています。救急車を願います」
自分のいうことが相手に通じたとわかると、同じような低いふくみ声で所番地を教えてから、受話器をかけた。
メイスンは、ハンカチでドアの握りを、内側も外側もこすって拭いてから、電灯のスイッチを切って、廊下に出、ドアをうしろ手にしめて、そのアパートの建物の表出口に向かった。
ある部屋の前を通りかかると、一人の男の笑い声につづいて、かちゃかちゃという、賭け勝負に使う数取り札の音が聞こえた。すぐつづいて、トランプを切るカードの音がした。
メイスンは、廊下を歩みつづけた。ロビーまで行ったとき、自動車が歩道に寄って来てとまる音がした。表戸のうしろに立って、ちょっとためらっていたが、やがてほんのすこしドアをあけて、外をのぞいて見た。
ハミルトン・バーガーが、歩道に降り立ったところで、くるっとペリイ・メイスンに背を向けて、トム・グラスマンが車から降りるのを見守っていた。
メイスンは、後に寄ってそっとドアをしめ、まわれ右をして、廊下を元の方へ歩き出した。かれは、さっきかちゃかちゃとチップの音のした部屋の前に立ちどまって、ドアをノックした。
メイスンの耳に、椅子が床にこすれる音が聞こえたと思うと、ドアの向こう側は、ぴたっと水を打ったように音がしなくなった。かれは、もう一度ノックした。しばらくすると、ドアが細目にあいて、男の声がした。「どなたです?」
メイスンは、愛想よく笑いをうかべて、「お隣りの部屋にいる者なんですがね」と口を切った。
「おたくのポーカーのおかげで寝つかれないんですよ。すこし寝てくださるか、それとも、リミットが高くなければ、わたしもいれていただけませんか。どっちでも結構ですけど」
男は、しばらく躊躇《ちゅうちょ》していた。部屋の奥から、よくひびく男らしい声が、「ドアをあけて、はいってもらえよ、仲間がふえるわけだ」
ドアがあいたので、メイスンは、部屋の中にはいった。三人の男が、テーブルをかこんでいた。部屋の空気は、むっとして息づまるようだった。椅子が一つあいているのは、ドアのところへ出て来た男がすわっていたのだろう。
「リミットはいくらです?」と、念入りにドアをしめながら、メイスンはたずねた。
「五十セント。ただし、ジャック・ポットは一ドル」
メイスンは、紙入れから二十ドルを出して、「みなさん、飛び入りのわたしから、二十ドルもうけられますかな?」とたずねた。
「もうけなくって」と、ひびきのいい声の持ち主が、にやっと笑いながらいった。「天の恵みの甘露みたいですな。すみませんでしたな、おやすみになれなくて。聞こえるとは知らなかったもんですからね」
「そんなことはいいですよ。とにかく、眠るよりはポーカーをしていたほうがいいですよ。わたしの名前は、メイスンです」
「わたしは、ハモンドです」と、かれを通した男がいった。
ほかの連中も、それぞれ名乗った。
メイスンは、椅子を引き寄せて、チップを手許へ取った。そのとき、廊下をエディス・ドヴォーの部屋の方へ行く、何人かの足音が聞こえた。十五分ほどして、かれが十二ドル三十セント勝ったとき、遠くでサイレンの音がした。間もなく、救急車のベルの音が高く聞こえた。一座の連中は、あわてて顔を見合わせた。
「チップは、現金にかえて」と、メイスンがいった。「証拠が目につかないようにしといたほうがいいでしょう」
一人がとがめるような目をメイスンに向けて、「あんたは、まさか探偵じゃないでしょうな?」
メイスンは、人のよさそうな笑い声を立てて、「まさか」といった。「あの連中は、ここへ来るんじゃないでしょう。もっと廊下の奥の部屋で、なんかあったんでしょうよ、たぶん、おやじがかみさんをなぐるかなんか」
みんなは、じっと耳をすました。廊下をがたがたと通る足音が聞こえた。ハモンドは、椅子の背にかけておいた上着をとって、腕を通しながらいった。「よし、みなさん。きょうはこれでやめて、また来週にしましょう。どっちみち、解散の時間でさ」
メイスンは、ぐっと背を伸ばし、あくびをして、チップを現金にかえながら、「外へ出て、ワッフルにコーヒーでもどうです」といった。
「外に車がおいてあるんだ。それで行きますか?」
メイスンはうなずき、みんないっしょにアパートを出た。警察の車が二台と救急車が一台、すぐ前の歩道に寄せてとまっていた。
つれの一人が、好奇の色を顔にうかべて、「なにがあったのかな、ここで。誰か怪我でもしたらしいな」
「うまい時に出て来たらしいな」と、メイスンがいった。「眠るのもポーカーをやるのも、大いに結構だが、ばかなおまわりに職務質問されて、時間をつぶすのだけは、まったくたまらないよ」
仲間もうなずいて、「行きましょう。わしの車が、すぐそこにおいてある」
第十章
ペリイ・メイスンは、事務所の自室のドアの鍵をあけ、スイッチを押して電灯をつけた。腕時計を見てから電話のところまで行き、ドレイク探偵事務所のダイヤルをまわした。夜勤の交換手が、ポール・ドレイクは、いま出かけていて、電話もかかってきませんでしたと知らせた。メイスンは自分の名前を告げて、連絡するようにドレイクに伝えてくれと頼んで、電話を切った。チョッキの脇あきに親指をかけ、首を突き出して考えに沈みながら、事務所の中を歩きはじめた。
しばらくすると、廊下の側のドアの羽目板を、そっと指でたたく音がした。ペリイ・メイスンがドアをあけると、ドレイクが挨拶《あいさつ》がわりに、例のにやっとした笑顔を見せた。
メイスンは、探偵がはいった後のドアを注意深くしめてから、煙草をすすめ、自分も一本、とり出しながら、「ねたは集まったか、ポール?」とたずねた。
「うん、かなり豊富にな」
「ぼくが出た後で、なにがあった?」
「こまかいことが山ほどな。連中は、シャスターをさんざ問いつめたが、誰が死体発掘のことを教えたか、どうしてもいわないんだ。それで、おれは、シャスターの秘書を電話口へ呼び出して、殺人容疑で窮地におちいっている者なんだが、すぐにシャスターに会いたいといってやった」
「秘書のところを、どうやって突きとめたんだ?」
「わけはないさ。シャスターという男は、昼も夜も四六時ちゅう電話がかかってくる刑事弁護士の一人だ。だから、電話帳には事務所の番号のほかに、そこへかけても返事がないときのために、もう一つ番号が出ている。そのもう一つの番号とは、秘書のアパートの番号なんだ」
「なるほど。それで、秘書からなにか聞き出したかい?」
「こうなんだ――かの女は、いまにもシャスターから電話がかかるかと待ってるとこだというんだ。秘書の話では、なんでも、おれが電話をかける一時間ほど前に、急用だといってシャスターを呼び出した男がいるというんだ。どんな事件で出かけたのか、事件の内容は、はっきり知らないが、殺人事件らしいというんだ」
「じゃ、死体発掘の知らせじゃなかったんだな」
「そうではないらしいんだ」
「しかし、ラクスター家へやって来たときには、知っていたじゃないか」
「そのとおりだ」と、ドレイクがいった。
メイスンは、チョッキの脇あきに親指をかけたまま、ほかの指先で、音もなく胸をたたいていた。「するとこういうことだね、ポール、シャスターは、その謎のような電話を聞いて出かけた|後で《ヽヽ》、誰かと会って、その人間が、かれをラクスター家へ駆けつけさせたと、いうんだね」
ドレイクが、むっとしていった。「どうして、それじゃいけないんだ? まだまだそれ以上に、おかしなことだってあるぜ。きみは、シャスターが死体発掘のことを、やつの依頼人たちに知らせようと思って、あの場に姿をあらわしたとは思っていないだろう?」
「きっと、そうじゃないだろうな」と、メイスンは、考え込みながらいった。
「シャスターってやつは、ずるいやつだぞ」と、ドレイクは、警告するようにいった。「みくびっちゃいかんぞ」
「みくびったりはせんよ」と、メイスンは、ゆっくりといった。「ほかに、どんなことを知ってるんだ、ポール?」
「山ほどさ」
「聞かせろよ」
「きみは、フランク・オーフレイと、エディス・ドヴォーが結婚したってことを知ってるかい?」
ペリイ・メイスンは、事務所の中を歩きまわっていた足をとめた。その目は、ある考えに注意を向けたような色を帯びていた。
「四日前のことだ」と、ドレイクが話をつづけた。「二人は、結婚許可の申請書を出した。そして、その結婚許可書を、きょう、手に入れた。おれの部下の一人が、偶然、それを耳に入れた。おれのところでは、結婚、出生、死亡、離婚といった人口統計の資料を、アルファベット順に整理して記録に残しておくのを、一つの狙いにしているんだ。そうしておいて、なんか捜査にかかろうというときに、いつでもそいつにあたるんだ」
メイスンは、ゆっくりといった。「そいつは、うまいことやったね、ポール。どうやって、二人は、それを隠しおおせたろう?」
「でたらめの住所で手続きをしたってわけさ。オーフレイは、あるアパートメント・ハウスへ行って、独身部屋を数日間借りて、そこを結婚許可書をとるときの住所にして、F・M・オーフレイの名で申請書を出したんだ」
「たしかに、別人じゃないだろうね?」
「うん。おれのところの探偵の一人が、写真を持って行って確かめた」
「二人が結婚したと、どうして、きみは知ってるんだ?」
「絶対に間違いないとはいえんが、二人はこん晩結婚したと、おれは思うんだ」
「どうして、そう思うんだ?」
「というのは、オーフレイがある牧師に電話をかけて、あるところで、会う手はずをしているんだ。家政婦がそのねたを打ち明けたんだ――警察じゃなく、おれにだよ」
「オーフレイも、そのことを認めたかい?」
「いいや、おくびにももらさないよ。やつが『友だちに会いに』出かけたというと、バーガーは、それっきりでおしまいさ」
「その牧師の名前は、調べ出したかい?」
「姓はミルトンというんだ。電話番号はわかったが、頭文字がまだわからん。電話帳を見れば、住所はわかるだろうが」
メイスンは、また部屋の中を歩き出した。考え込んだときの癖で、首をつき出していた。
「シャスターのやっの厄介なところはね、ポール」と、メイスンがいった。「いつでも、警察に協力して、容疑者らしいものを見つけ出そうとすることなんだ。やつの好きかってにさせておくと、その容疑者らしい人間が、いつでも、シャスターの依頼人以外の人間なんだ。こん度の場合でも、シャスターの依頼人は二人とも、立派なアリバイを持っているんだからね、ポール」
「というと?」
「サム・ラクスターは、こん晩はずっと、あの家の近くにはいなかった。姿を見せたのは、警察が到着してから後のことだった。フランク・オーフレイは、十一時ごろまで出かけていて、それから帰って来た。そして、アシュトンは、十時三十分ごろに殺されているんだからね」
「その時間が、どうして決定するんだ?」
「検死医の連中なんてのが得意になってやる、いろいろ残忍きわまる検査でね。被害者が何時に夕食を食ったかがわかれば、消化の程度で、何時に殺されたかが推定できるというわけだ」
メイスンは、手をのばして帽子をとった。
「行こう、ポール、いろいろ行くところがある」
「どこだい?」
「ほうぼうだよ」
ドレイクは、阿弥陀《あみだ》にかぶっていた帽子を、ぐっと額がかくれるほど深くかぶり直し、吸いかけの煙草を痰壷《たんつぼ》に投げ込んだ。二人は、肩を並べてエレベーターに乗り込んで下へ降りた。
「一つ、きみの事件で困ることは、」ドレイクがいった。「ほとんど眠るひまのないことだね」
メイスンは、先に立って歩道へ出ながら、「車があるかい、ポール?」
「うん」
「行く先は、メルローズ・アベニューの三九六一番地だ。ぼくの車は、しまって来たんでね」
探偵は、別の考えごとをしているふうで、いわれた番地を無意識に繰り返していたが、急にはっとして、「なんだ、そりゃダグラス・キーンの住所じゃないか」
「そのとおり。警察じゃ、あの男のことを調べている様子か?」
「特別には調べていないようだね。いまはまだ、関係者の名前や住所を調べあげてるってとこだから、おれは控えといたのさ。ウィニーのボーイ・フレンドだろう? もう一人いたっけな……ええと、まてよ……」と、手帳のページを親指で繰りながら、「そうだ、インマン――ハリー・インマンだ」
「待て」と、メイスンがいった。「出かけよう。きみの車を使おう」
「オーケー」と、探偵はいった。「おれの車は、世間の注意をひかないようなのを、気をつけて選んであるんだ。人目に立たないのをな、わかるかい、おれの肚《はら》が?」
「わかるさ」といって、メイスンはにやっと笑った。「この州には、百万台からの車があるんだ。そのうち、十万台は新車で――二十万台は、まずまず新車といってもいい――そして、ここの車は……」
「残りの七十万台の中にはいるのさ」と、探偵は、相手のいおうとするところをいって、おんぼろの、なんとも名状しがたい車のドアをあけた。
メイスンが乗り込むと、ドレイクは、ハンドルの下のギアを入れて、エンジンをかけた。
「警察じゃ、あの男に注意を向けそうだというんだね?」と、ドレイクが聞いた。
「だから、どうしてもその前に思い切ってやってみなきゃいけないんだ」
「そういうことなら」と、探偵が吐き出すようにいった。「一区画か二区画、手前で車をとめて、後は歩いて行ったほうがいいな」
メイスンは、気むずかしそうにうなずいて、「それから、部屋を調べてるあいだに、邪魔がはいらなけりゃいいんだがな」
「こじあけてでもはいるというんだね?」と、ちらっと横目に見ながら、ドレイクが聞いた。
「ただし、なにもこわさないようにしようじゃないか」と、メイスンがこたえた。
「というと、家宅侵入用の道具を、おれに持って行けということだな」
「まあ、そんなようなことだ」
「車の中にあるにはあるがね。しかし、警察につかまったら、どういうことになるだろうな?」
メイスンがいった。「はいるのは、ダグラス・キーンの住まいだ。本人は知らんかもしれんが、ご当人は、ぼくの依頼人だ。依頼人の利益を守る目的で、かれの部屋へはいろうというんだからね。押込み強盗は、そうだろう、凶悪な犯罪意図をもって、不法に他人の住居に侵入するところに成立するんだ」
「そういう巧妙な区別は、おれにはたくさんだ」と、ドレイクは、かぶとをぬいだ。「とにかく、きみにまかせるから、二人とも留置場へぶっこまれないようにしてくれ。まあ、きみがやっていい冒険なら、おれもやっていいんだろう。さあ、行こう」
ポール・ドレイクの車は、色も型もデザインも、まったく目立たないものだった。がたがたと動き出すと、メイスンは、あきらめたように大きく息を吐いた。「キーンのやつは、なにか容疑者として浮かぶというのかい?」と、ドレイクが運転しながらたずねた。
「だから出かけて行くんじゃないか――みんなを出し抜こうってわけさ」
「すると、後になって、かれが舞台に登場するというんだね?」
メイスンは、その問いにこたえそびれた。ドレイクは、にやりと笑っていった。「返事がないのは、おれの知らんことは、おれの苦にはならんよということなんだろうな」というと、後はなにもいわずに、もっぱら運転に没頭した。
十五分ほど走ると、ドレイクは、人気のない歩道にぴったり車を寄せてとめ、通りの左右を見まわしてから、明かりを消し、車から歩道に降りて鍵をかけ、「二ブロックほど歩こう」といった。「こういう仕事のときは、これでも車の置き場所が近すぎるくらいだ」
「本物の押込み強盗といっしょなら、きみは、一マイルも離れた手前で車を降りるだろうな」と、メイスンがひやかすような口振りでいった。
ドレイクは、大きくうなずいて、「そうさ。それだけじゃない。ハンドルの前に、人を残しておくよ」と相槌《あいづち》を打った。「きみたち法律家というやつは、法律を逆用して冒険をやりすぎるんで、おれはかなわんよ」
「ぼくは、法律家じゃない」と、メイスンは、にやにや笑いをうかべながら、「内職にやってるだけさ。ほんとうは冒険家なんだ」
二人は、ものもいわずに、肩を並べて活発に歩いて行ったが、目だけは油断なく前後左右にくばって、警察のパトロール・カーがやって来はしないかと警戒していた。角をまがって、つぎの区画を四分の三ほど行ったとき、ドレイクがメイスンの肘をつついて、「ここがそうだよ」
「玄関のドアは、わけないだろう」と、さりげなく、メイスンがいった。
「なんでもないよ」と、ドレイクが楽観して相槌を打った。「鍵というものは、親鍵があればあくようになってるもんだ。どんな鍵でもたいていはあくんだ。誰も来ないな?」
「一人も、見えない」
「オーケー。懐中電灯の光をかくすように、きみの上衣をひろげてくれ」
ドレイクは、小さな懐中電灯の光をドアにあて、ポケットから鍵の束を出した。
すぐに、鍵はかちっとなってあいたので、二人は、アパートの中へはいった。
「何階だ?」と、ドレイクがたずねた。
「三階」
「部屋は何番だ?」
「三〇八」
「階段をあがったほうがいい」
二人は、足音を殺して階段をあがった。三階の廊下に出ると、ドレイクは、各部屋の錠に、持ち前の探偵らしい視線を向けて、
「ばね錠だな」といった。
三〇八号室を見つけると、その前に立ちどまって、ドレイクはささやくようにいった。「ノックしようか?」
メイスンは、首を左右に振った。
ドレイクがささやくような声で、「掛け金を押しもどすほうが手っ取り早いんだが」
メイスンは、簡潔に、「手っ取り早くやれよ、じゃ」
ドアと脇の柱とのあいだがごく細くあいていた。探偵は、ポケットから牛皮の道具袋を取り出し、画家や薬剤師などが使う、長くて、うすい箆《へら》ナイフにそっくりの道具を抜き出した。「懐中電灯を持っていてくれ、ペリイ」
メイスンは、懐中電灯を受け取って、照らした。ドレイクがその刃金《はがね》をさしこんだとたん、不意に、メイスンがドレイクの手首をつかんで、「それは、なんだ?」と、弁護士がささやくような声でたずねた。
ドレイクは、メイスンの指がさし示している、柱についた妙な痕跡を見て、「誰かが、おれたちを出し抜いたな」といった。「まだ部屋にいるかもしれんぞ」
二人は、鋼鉄の道具を押しつけられて、ほんのすこし木がつぶれているところを、じっと見つめた。「無細工な手口だな」と、ドレイクが勢よくいった。
「よし、はいろう」と、メイスンがドレイクにいった。
ドレイクは、「親方がそういうんなら」といいながら、刃をさし込んだ。ほんのすこしの間、その刃を動かしていたかと思うと、かちりとなって錠がはね返った。
「ノブをまわして、ドアをあけろよ、ペリイ」と、まだ掛け金を押さえつけながら、探偵がいった。
ペリイ・メイスンがドアの握りをまわし、二人は、部屋にはいった。
「明かりは?」と、ドレイクが聞いた。
メイスンはうなずいて、かちっと電灯をつけた。
「指紋を残さないように用心する屈強の場所だぜ、ポール」と、メイスンが注意した。
ドレイクは、持ち前の剽軽《ひょうきん》なユーモアが強く出た表情で、相手を見返しながら、「きみが」といった。「おれに、そんなことをいうのかい?」
メイスンは、部屋の中を見まわして、
「ベッドには寝ていないな」といった。
「掛けぶとんがめくってあるぞ」と、ドレイクが指摘した。「それに、枕もくしゃくしゃだ」
「それでも同じだ。寝ちゃいないよ。人間の体が長いことベッドの上に横になっていると、シーツにその形なりに皺《しわ》ができるものなんだが、その形を擬装するほどむずかしいものはないね」
ドレイクは、ベッドを調べてみて、うなずいた。
部屋は、ありきたりの独身者用のアパートだった。灰皿には、煙草の吸殻が乱雑に山のようになっていた。箪笥《たんす》の上に、ウィスキーの瓶《ぴん》が一つ、きたないグラスが一個、よごれたカラーが二本、それにネクタイが一つ、まるめておいてある。別に半ダースほどのネクタイが、鏡受けの|さん《ヽヽ》にかかっている。戸棚の戸が半開きになっていて、二、三着の背広が棒からぶらさがっているのが見える。化粧台の引き出しも一部はあいている。
メイスンは、一つ一つ引き出しをあけて、じっとそれを見つめてから、
「スーツケースに」といった。「あわてて詰め込んだんだな」かれは、ハンカチ、靴下、シャツ、下着などをすくい出してから、「ちょっと浴室を見てみよう、ポール」
「なにをさがしてるんだ?」と、ドレイクがたずねた。
「わからん。ただ見ているだけだ」
メイスンは、浴室のドアをあけたと思うと、とたんに、ぎょっとして後ずさりした。
ドレイクは、うしろからメイスンの肩越しにのぞき込み、ひゅうっと低く口笛をならしてから、「この大将が、きみの依頼人なら、罪に服させたほうがよさそうだな」
誰か、ひどくあわてふためいて気もそぞろになった男が、浴室の中で、衣類の血痕を洗い落とそうとして、しかも、すっかりうまくいかなかったことが、一目見てありありとわかった。洗面器には、赤いものが点々と飛び散っている。浴槽の水はかえてなくて、しかも流れ切ってもいないし、その水は、異様な赤味を帯びた茶色をしている。洗ったズボンが一つ、シャワーのカーテンをつるしてある金属の横棒にかけて乾かしてある。一足の靴は、あきらかに石鹸と水を使って洗ったものらしいが、それも十分には洗い切っていないで、血のしみた痕がまだ革に残っている。
「戸棚の中を見よう」と、メイスンがいった。
二人は、戸棚のところへ引っ返した。ドレイクが懐中電灯でまっ暗な隅《すみ》を照らすと、山のようになったよごれた衣類が見えた。ドレイクが、その山の一番上の衣類を引き出して、懐中電灯の光をあてると、その服にも点々と血痕がついているので、はっとして手を引っ込めてしまった。
「うん」と、かれが口を動かした。「これではっきりした」
メイスンは、その衣類を元の隅へ蹴返した。
「オーケー、ポール。ここはもうすんだよ」
「そうだ」と、ドレイクも賛成した。「ところで、おれたちがここでやってることを、法律上なんと定義するんだね?」
「そいつは」と、メイスンがいった。「ぼくが定義するのと、地方検事が定義するのとは、おのずから違うさ。さあ、行こう」
二人は、明かりを消し、部屋を出て、ばね錠をもとにもどした。
「その牧師というやつをつかまえよう」と、メイスンがいった。
「行ったって出て来ないだろう」と、ドレイクが反対した。「質問にこたえるために、はいれなんて――こんな夜明け前の時間にはいわないよ。まず警察を呼ぶのが関の山だろう」
「デラを使おう」と、メイスンがいった。「そして、駈け落ちだと思わせるんだ」
電話のある終夜営業のレストランまでドレイクの車を走らせて、メイスンは、デラ・ストリートのアパートに電話をかけた。やがて、ねむそうなデラの声が、電線を伝わって聞こえてきた。
「こんなふうに、きみを呼び起こす癖がついちまったよ」と、メイスンがいった。「ところで駈け落ちをする気はないかい?」
はっとして、かの女の息をのむのがわかった。
「つまりね」と、メイスンがわけを説明して聞かせた。「ある人間に、きみを家出娘だと思わせるんだよ」
「ああ」と、かの女が抑揚のない口調でいった。「そういうことなの?」
「ざっといえば、そういうことなんだ」と、メイスンが相手にいって聞かした。「なにか着たまえ。そのあいだに、ぼくたちはそこへ行くから。きみには、新しい経験になるよ。これから乗る車は、地面にがたんとぶつかるたびに、きみの背骨を上から下までぞくぞくさせるから、シャワーをとることなんか気にしなくてもいいよ。そのマッサージのおかげで、よく目がさめるだろうからね」
ポール・ドレイクは、大きなあくびをしていたが、メイスンが電話を切ったのを見て、
「最初の晩が、いつでも一番つらいんだ」といった。「あくる日からは、眠らずに飛びまわるのにもなれるんだ――きみの事件では。そのうちには、ペリイ、おれたちはとっつかまって、留置場へぶちこまれるぜ。いったい、どうしてきみは、ほかの弁護士がするように、どっかと事務所にすわっていて、事件が舞い込んで来るのを待っていないんだ?」
「猟犬が、死んだものの臭いを追っかけるのがきらいなのと同じ理由だろうよ」と、メイスンがいった。「ぼくは、事件がまだ熱いうちに食卓に出されるのが好きなんだ」
「熱いといえば、まったく熱いな!」と、探偵は相槌を打った。「だけど、いつかは、二人ともきっと大火傷《おおやけど》をするだろうな」
第十一章
ペリイ・メイスンは、指を玄関のドアベルにあてて押した。デラ・ストリートは、肘でポール・ドレイクを小突いて、いった。「なんかいって、笑いなさいよ。駈け落ちにしちゃ、すこし生真面目すぎるわ。あなたなんか、猟銃でも持ったほうが似合いそうな顔つきよ。先生、もっとぴったり、あたしに寄って立ってちょうだい。たぶん、牧師さんはポーチの明かりをつけて、外をのぞくでしょうからね」
ドレイクが哀れな声でいった。「なぜ、世間のやつは、結婚のときに笑うんだい? 結婚というものは、厳粛なビジネスじゃないか」
デラ・ストリートは、不平そうな声で、「かたいって評判の独身者二人が駈け落ちの芝居をするなんて、あたし、夢にも思わなかったわ。二人とも、魚に餌をとられるのを無性にこわがってばかりいて、糸を水に近づける勇気さえもないのね」
ペリイ・メイスンは、デラ・ストリートのそばに近づき、かの女の体に腕をまわして引き寄せて、「困ったことにはね、われわれは、まだ糸が手にはいらないんだよ」といった。
かちっと音がして、玄関の広間に明かりがついた。デラ・ストリートは、靴の踵で、ポール・ドレイクの向こう脛《ずね》を蹴って、「ほら、早く、笑うのよ」
かの女が、明かるい、楽しそうな笑い声をあげたとたん、ポーチの明かりがまぶしいくらいに、三人を照らし出した。
探偵は、痛そうに顔をしかめ、向こう脛をさすりながら、悲しそうな声で、「は、は」といった。
ドアが、ほんの二、三インチあいた。安全鎖が、ぴんといっぱいに張った。一人の男の目が、用心深く三人をじっと見つめた。
「ミルトン先生ですね?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「そうです」
「ちょっとお目にかかりたいのですが……その……結婚のことで」
男の目は、強い非難の色をうかべて、「いまは、結婚などする時間じゃないじゃありませんか」といった。
メイスンは、ポケットから紙入れを取り出して、五ドル紙幣を一枚抜き出し、それからもう一枚五ドル紙幣を、つぎに三枚目を、それから四枚目を抜き出して、「どうもすみません」といった。「こんな時間にお起こしして」
すぐに、ミルトンは、安全鎖をはずし、ドアをあけて、「おはいりなさい。許可書は持っているんですか?」
メイスンは、脇に寄って、デラ・ストリートを、玄関の広間に入れ、それから、かれとドレイクが押し合ってはいった。ドレイクは、足でドアを蹴ってしめた。メイスンは進み出て、広間の内側のドアと、ドレッシング・ガウンに、パジャマとスリッパ姿の男とのあいだに立ちふさがった。
「こん晩、あんたは、オーフレイという名の男の訪問をお受けになりましたね」と、メイスンが口をきった。
「それと、この結婚と、どういう関係があるんですか?」と、ミルトンが反問した。
「わたしたちがお目にかかりに来たのは、あの結婚のことについてなんです」
「いかん、いかん。あんたは、偽りの口実で、ここへはいったんだな。結婚させてほしいといったじゃありませんか。オーフレイ氏に関しては、どんな質問にもおこたえする気はありません」
ペリイ・メイスンは、驚きの眉をつりあげ、それから、顔をしかめて、喧嘩腰でいった。「失礼だが、なんのことをいっておられるんです――偽りの口実で、ここへはいったとは?」
「結婚させてほしいと、いったじゃありませんか」
「そんなことはいいませんでしたよ」と、メイスンがいい返した。「結婚のことでお目にかかりたいと、あなたにいったんですよ。オーフレイとエディス・ドヴォーとの結婚のことなんですよ」
「あんたは、そうはいわなかった」
「だから、いま、そういっているんです」
「大変お気の毒ですが、わたしには、なにもいうことはありません」
メイスンは、意味深長な目をポール・ドレイクに向け、広間のドアの近くにある壁の電話に顎《あご》をしゃくって見せて、「オーケー、ポール、警察本部を呼んでくれ」
ドレイクは、大股に電話に歩み寄った。ミルトンは、顔をしかめ、神経質に舌のさきで唇をなめ、驚いたように大きな声でいった。「警察本部ですと?」
「そうですとも」と、メイスンがいった。
「あんたは誰です?」と、ミルトンが聞いた。
「あの男は」と、弁護士が、ドレイクの方を顎でさしながら、いった。「探偵ですよ」
「待ってくれ」と、ミルトンは、神経質そうにいった。「わたしは、あのことで迷惑をかけられるのは困る」
「そうだろうと思っていますよ……ちょっと待て、ポール。いますぐ本部へかけなくてもいい。ことによると、このひとには罪はないかもしれんから」
「罪はないだと!」と、ミルトンは、かっとなって大きな声でいった。「むろん、わたしに罪はない。わたしは、結婚式を行っただけのことです」
メイスンの顔は、そんなことは全然信じていないという色をうかべて、「では、女に夫があって生きているということも知らなかったというんですか?」
「もちろんですとも。あの婦人に夫があって生存しているなどとは知らなかった。あんたは、いったい、なにをいおうというのです? わたしが重婚であることを知りながら、二重結婚を行わせたと、そうほのめかすつもりですか?」
ミルトンの声は、怒りにふるえて高くなった。
デラ・ストリートが進み出て、牧師の腕に腕をからませ、なだめるようにいった。「いいんですよ。おおこりになっちゃいけませんわ。チーフは、そんなつもりでいったんじゃないんですから」(チーフは、警察用語とすれば、係長とか主任とかを意味することになる)
「チーフ?」と、目を丸くして、ミルトンがいった。
「あら、困ったわ」 と、デラ・ストリートがいった。「そんなこと、いっちゃいけなかったんだわ」
「いったい、あなたはどなたです、なんのご用があるんです?」と、ミルトンがたずねた。
「二つ目の質問に、まずこたえましょう。われわれは、あなたがエディス・ドヴォーとフランク・オーフレイの結婚式を、いつ取り行ったか、正確な時間を知りたいのです」
ミルトンは、いまでは進んでしゃべる気になっていた。
「あの二人は、ひどく気を使って、挙式のことを秘密にしたがってはいたようでしたが、わたしは、それが二重結婚だとは思ってもみませんでした。かれこれ九時になろうというころでしたけど、電話がかかってきて、あるところへ来てくれというのです。電話をかけてきた人は、非常に重大な用件だとはいったのですけど、なんの用かということはいわなかったのです。しかし、十分に謝礼は払うからとはいっていました。その場所へ行きますと、前に会ったことのあるオーフレイ氏が、その場にいまして、一人の若い婦人を、エディス・ドヴォー嬢だといって紹介されました。二人は、結婚許可書を持っていまして、適法のものでしたので、わたしは、牧師として、結婚の儀式を取り行ったのです」
「証人はいたのですか?」
「隣りの部屋で、数人の男が、ちょっとした……その……集会をしていました。たぶん、カルタでもしていたのだろうと思います。オーフレイ氏がドアのところまで行って、結婚式の証人になってくれと、その連中に頼みました」
「式を挙げたのは、何時ごろでした?」
「十時ごろです」
「いつごろ、あなたは、そこを出ました?」
「二十分後です。悪気のないひやかしで、なかなか賑やかでした。その証人になった人たちはみんな、非常に感じがよくて、はなはだ親切で、はなはだ……ええと、陽気な人たちでした。結婚式の後、ちょっとした宴会になりまして……もちろん、わたし自身は仲間入りはしませんでしたし、ああいう場合の気分は賛成だとはいえませんが、しかしながら、みんなまことにおもしろい人たちでして、すぐに立ち去ることは、どうしてもできませんでしたよ」
「すると、花嫁花婿の健康を祝して乾杯したとおっしゃるんですね?」
「花嫁の健康を祝し、花婿の健康を祝し、わたしの健康を祝して乾杯しましたな」
「その場を出た正確な時刻がおわかりですか?」
「いや、十時十五分ごろ、あるいは、それより二、三分おそかったかもしれませんね」
「十分な謝礼を払いましたか?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「十分に払ってくれました。非常によく払ってくれました、まったく」
メイスンは、ゆっくりといった。「フランク・オーフレイと知り合って、どれくらいになります?」
「数回、わたしの教会へ来たことがあります」
「正会員ですか?」
「いや、正会員ではありません。まだあのひとは、正会員の扱いはしていません。しかし、ときどき、教会へ来ていましたので、会ったことはありました」
「かれが、その若い女を、あなたに紹介したんですね?」
「そうです。そして、そのアパートは、かの女の、『エディス・ドヴォー』という名前になっていました」
「なぜ、結婚を秘密にしておきたいのか、そのわけを、あなたに話しましたか?」
「いいや、話しませんでした。親戚のあいだになにか反対でもあるのだろうと、わたしは、そう思っていました。その若い婦人は看護婦だと思うんです。オーフレイ氏は、たしか富豪の家の人なんでしょう。だけど、わたしは、その点にはべつに注意を払いませんでしたよ。わたしは、結婚式を取りおこなって、そして……」
「花嫁に接吻なすったんでしょうな」と、メイスンは口を入れて、声を立てて笑った。
ミルトン牧師は、その言葉のどこにユーモアがあるのかわからないという顔つきで、ひどく真面目くさった調子でいった。「事実をいいますと、わたしのほうからはしませんでした。帰りがけに、花嫁のほうからわたしに接吻をしたのです」
メイスンは、ポール・ドレイクにうなずいて合図をし、玄関のドアに手をのばして、「それだけ伺えば結構です」といった。
「あの結婚は、やはり二重結婚だったのですか?」
「あなたのお話から考えて」と、メイスンがいった。「そうじゃないだろうと思いますね。しかし、一応、その点を調べなければいけなかったものですから。そうでしょう、ああいう特殊な状況のもとでおこなわれた結婚というものは、常に疑いを受けやすいものですからね」
三人は、急いで夜の外気の中へ出た。後に残されたミルトンは、とまどって目をぱちくりさせていたが、やがて、ばたんとドアをしめた。安全鎖がかちっと、元のようにかかり、かんぬきをかける音が聞こえた。
「ぼくは弁護士だが」と、メイスンがいった。「自分のすまいのドアに鍵をかけることなど、ほとんど気にしたことさえない。あの牧師は、人間性に対してあらゆる信頼を抱いていると思われているのに、泥棒よけの仕掛けをいっぱいつけて、そのバリケードのかげで寝ているじゃないか」
「そうねえ」と、デラ・ストリートが神経質そうに、くっくっと笑いながらいった。「でも、花嫁さんはドアのところまで、あなたを送って来て、キスをしてくれないわね」
メイスンも、ふふと含み笑いをした。
「つぎは、どこだい?」と、ポール・ドレイクがたずねた。
「きみのあの車で、もうひと走り、難行苦行をしても生き残れるとしたら、つぎはウィニーに会いに行こう」
「夜中のこんな時間に、どこで、あの子に会えるか知ってるのかい?」と、ドレイクがたずねた。
「うん。あの子は、ワッフル屋の奥に住んでるんだ」
「あそこで騒ぎは起こしたくないね。町内の夜警も通るだろうし、それに……」
「電話をかけて、ぼくらが、これから行くといっておこう」と、メイスンがいった。「つまり、ぼくが行くといっておいて、向こうへ行ってから、二人を紹介しよう」
「きみは、気がついているかどうか知らないが」と、ドレイクが、ゆっくりした口調でたずねた。
「この結婚式は、アシュトンが自分の部屋で殺された、ちょうどそのころに挙げられたわけだ。だから、オーフレイとエディス・ドヴォーには、二人とも不動のアリバイがあるということだね?」
「気がついていることは山とある」と、メイスンがいった。「しかし、いまは、議論はしないことにしてるんだ。さあ行こう」
三人は、ドレイクの車に乗り込んだ。メイスンは一度車をとめて、これから行くということを、ウィニフレッドに電話で知らせた。やがて、ドレイクが、ワッフル・キッチンの前に車をとめると、手真似で静かにするようにと二人に合図をして、戸口の近くの物陰に待たせ、自分はガラス戸の前に立って、指の関節でこつこつと戸をたたいた。
すぐに、通路の奥のドアから明かりが洩れて来て、絹のネグリジェをまとっだウィニフレッドのしなやかな姿が、すべるように、かれの方に近づいて来た。かの女は、かんぬきをはずして、ドアをあけた。
「なんですの?」と、ウィニーがたずねた。
メイスンがいった。「ポール・ドレイクは知っていますね。はじめてここへ来たときに、いっしょだったでしょう。それから、こちらは、ぼくの秘書のデラ・ストリートです」
ウィニフレッドは、ちょっとあわてたような声で、「あら、こんなに大勢の方にお会いするとは思わなかったわ」といった。「それは、どなたにも知られたくないことが、いろいろと……」
「大丈夫ですよ」と、メイスンは、相手にいって聞かした。「誰もなんにも知りやしません。ぼくたちは、あんたと話がしたかったんですよ」
かれはドアを押しあけ、連れの二人がなかへはいってしまうと、注意深くドアをしめた。ウィニフレッドが先に立って、通路を通って寝室にはいった。寝室は、この前ペリイ・メイスンが出たときと、そっくり同じ様子だった。ただ、ベッドに寝た跡があるだけがちがっていた。
「ダグラス・キーンは、どこにいます?」と、メイスンがたずねた。
かの女は、眉をひそめて、「あのひとのことで知ってることは、みんなお話しましたわ」といった。
「わたしは、人の信頼を裏切る人間のように、あんたに思われるのはいやだが」と、メイスンは、相手に話して聞かせた。「しかし、この人たちには、あったとおりの事実を知らせる必要がある。というのは、この二人がわたしたちを助けてくれなくちゃ困るからです。ポール・ドレイクは、わたしのために働いてくれている探偵だし、デラ・ストリートは、わたしの秘書で、わたしの身辺で起こっていることは、なにからなにまで知っているのです。この二人の慎重なことは、絶対に信用していいんです。さあそこで、ダグラス・キーンがどこにいるか、わたしは知りたいんですがね」
かの女は、せわしなくまたたきをして、いまにも泣き出しそうになったが、それでも、じっとみんなの顔を見て、いった。「どこに、あのひとがいるか知らないんです。あたしが知ってることといえば、行ってしまうって、誰にも見つけられないところへ行ってしまうっていう、たよりをよこしたことだけですわ」
「そのたよりを見せてもらいましょうか」
ウィニーは、枕をのけて、表にかの女の名前の書いてある封筒を取り出した。封筒には、ほかになんにも書いてなかった。所番地もなければ、切手も貼ってなかった。その封筒をひらいて、かの女は、折りたたんだ一枚の便箋《びんせん》を取り出し、ちょっとためらってから、その紙片をペリイ・メイスンに渡した。
メイスンは、部屋のまん中へんに、肩を張り、両足を大きく開いて立って、無表情にそれを黙読した。読みおえると、「声を出して読んでみるよ」といって、すこしも抑揚をつけずに読んだ。『ダーリン。ぼくは、どうにもならない苦境に追いつめられている。ぼくは逆上して、間違いをしでかした。しかも、その間違いは、とうてい取り返しがつかない。どうか、ぼくがどんな罪も犯していないということを信じてくれたまえ。しかし、つぎつぎにあらわれてくる証拠を前にして、その信用をうしなわないためには、きみには、ぼくに対する莫大な信頼が必要となるだろう。ぼくは、永久にきみの前から姿を消す。警察には、絶対に、つかまらない。世間普通の法律からの逃亡者がかかるような罠《わな》にかかるにしては、ぼくははるかに頭がいいのだから。ぼくは、飛行機で出かけるから、ぼくを見つけることさえできる者はないだろう。アシュトンは、コルツドルフ・ダイヤモンドを、かれの松葉杖の中に隠していた。杖に穴をえぐって、ダイヤモンドの隠し場所としていたのだ。ダイヤモンドは、いまもまだそこにはいっている。警察に匿名で知らして、あの松葉杖をさがさせるといい。ぼくは、いつまでも、きみを愛する。しかし、殺人事件で裁判を受けるようなことがあっても、その汚辱の中には、きみの名を引き込むようなことはしないつもりだ。なんとかしてアシュトンに事実を話さすようにしたまえ。かれには、たくさん話すことがあるはずだ。心からきみを愛している――ダグラス』
メイスンは、しばらく、じっとその手紙を見つめていてから、急に、ウィニフレッド・ラクスターの方に向き直った。
「さっきここへ来たとき、あんたは、この手紙を、わたしに見せなかったね」と、メイスンがいった。
「ええ、まだ受け取ってなかったんですもの」
「いつ、受け取ったんです?」
「ドアの下に差し込んであったんですもの、いつだったかわかりませんわ」
「わたしが帰ってからですか?」
「ええ、そうだと思うわ。あなたがお帰りになるときにごらんにならなかったんだったら、きっとそうですわ」
「あなたの話じゃ、ダグラスが電話をかけてきたということでしたね」
「ええ」
「電話では、このダイヤモンドのことは話さなかったんですね?」
「ええ」
「どうして、ダイヤモンドのあるところを知ったんでしょう?」
「知りませんわ。あたしの知ってることは、この手紙に書いてあることだけですわ」
「あなたも、かれを愛しているんですね?」
「ええ」
「結婚の約束をしていたんですか?」
「あたしたち、結婚するつもりだったの」
「かれのことも、ダグラスとは呼んでなかったじゃありませんか」
「どういうことですの?」
「なんとかいう愛称で、かれのことを呼んでいたじゃありませんか」
ウィニーは目を伏せて、さっと顔をあからめた。
「そして」と、メイスンは言葉をつづけた。「その愛称で呼ばないときにも、かれのことをダグラスとはいわなかった――ダグといっていたじゃありませんか」
「それがどうかしたんですか?」と、かの女は問い返した。
「簡単にいえばこうです!」と、メイスンがいった。「もし、ダグラスがこの手紙をあなたあてに書いたのなら、自分の名前をダグラスと書かずに、『ダグ』とか、なんかほかの愛称で書いたはずで、文面もはるかに悲壮なものだったでしょうね。それにもっと愛情のこもった文句があってもしかるべきで、グッドバイとか、アイ・ラブ・ユウとか書いたろうと思うんです。この手紙は、あなたにあてて書いたものじゃないんだ。世間に対して書いたものなんだ。世間に見せるために、あなたに渡した手紙なんでしょう」
ウィニーは、目を大きく見開いて、メイスンの顔をじっと見つめていた。唇をきっと固く噛みしめているのは、泣き出したり、なにか取り返しのつかないことを口走りそうになるのを、ぐっと踏みこらえているかのようだった。
「この手紙は、人の目をごまかすためのものだ。ダグラスは、あなたに電話をかけてきて、窮地におち入ったということを話した。しかし、あんたに会わずに行ってしまう気にはなれなかったので、さよならをいいにやって来た。そこで、あんたは逃げないでいてくれと、かれを口説いた。わたしに弁護を頼んだから、きっとうまく事件をかたづけてくれるだろうと口説いた。頼むから逃げないでいてくれといったのだが、かれは、それをことわった。それであんたは、せめて、わたしが完全に調べあげるまで、どこか連絡のとれるところにいてもらえないだろうかと頼んだ」
ウィニーの顔は、ほんのかすかな表情の動きも示さなかったが、握りしめた右手のこぶしを、ゆっくりとあげて、唇にしっかりと押しあてた。
「そんなわけで」と、メイスンは、容赦なく言葉をつづけて、「ダグラス・キーンも、警察が事実をすっかり明かるみに出し、わたしが、その事実をよく弁明して、かれの無罪を立証するまで、どこか連絡のとれるところにいることを承知した。しかし、あんたは、警察の追跡をはぐらかしたいと思ったのだ。それで、ダグラス・キーンに、この手紙を書かせ、それをわたしに見せ、その後で、新聞記者たちにも渡そうと、そういうつもりだったのだ」
メイスンは、人さし指をきっとかの女に差しつけて、「正直にいってしまいなさい」といった。「自分の弁護士に嘘をついちゃいかん。あんたが事実を隠し立てするのに、いったいどうして、あんたを助けられると思うんだ?」
「いいえ」と、かの女は口を開いた。「ちがいます。それは……ああ!」
ウィニーは、ベッドの縁に身を伏せて、泣き出した。
メイスンは、大股に小部屋のドアに近づき、ぐいとドアをあけて、その部屋の中を見まわした。額に八の字を寄せて考えながら、首を振っていった。「警官がさがしそうなところに男を隠すほど、このひとはばかじゃない。ポール、急いで、箱だのなんだのをしまっておく物置がないか調べてみろ」
メイスンは、つかつかとベッドに近づき、掛けてあったものをはねのけ、手でさわってみてうなずきながら、「毛布が一枚きりだ」といった。「何枚か毛布をはがして、男にやったんだな」
デラ・ストリートがウィニフレッドのそばへ寄り、娘の肩に腕をかけて、慰めるような口振りでいった。「ねえ、メイスンさんが、あなたを助けようとしていらっしゃるのが、おわかりにならない? 時間が大切だから、乱暴な口をきいていらっしやるだけなのよ。事実をはっきり知ってからでなくちゃ作戦計画が立てられないからなのよ」
ウィニフレッドは、デラ・ストリートの肩に、そっと頭をもたせかけて、しくしくと泣き出した。
「ねえ、話してくださらない?」と、デラが頼むようにいった。
ウィニフレッドは、デラ・ストリートの肩の上で、頭を左右に動かすようにして、首を振った。
メイスンは、つかつかとドアから、ボックスとカウンターとのあいだの通路へ出て、あたりをすかして見た。それからカウンターのうしろへはいり、隅々やカウンターの下を調べ出した。
ポール・ドレイクは、店の横の路地を調べていたが、急に鋭い口笛を吹いた。「あったぞ、ペリイ」
ウィニフレッドは、きゃあっと叫んで跳ね起きると、部屋着の裾《すそ》をうしろへなびかせながら、通路の向こうはしまで駆けて行った。メイスンは、早足で歩いて行ったが、ほとんど走って行く娘と同じほどの早さで、通路を通り越した。デラ・ストリートは、ずっとゆっくりした足取りでしんがりをつとめた。
物置のドアがあいていて、こわれた木箱や、古い樽《たる》や、ペンキの罐《かん》や、あまった品物類や、こわれた椅子《いす》や、そのほかワッフル・キッチンをやっている間にできたさまざまながらくたが、山のように積みあげられてあるのが見えた。隅の方に一か所だけ、がらくたの山がかたづけられていて、その場所が人目につかないように、こわれた荷づくり箱や椅子などが積み重ねてあった。床の上に、毛布が二枚敷いてあって、小麦粉のあき袋に紙を詰めた枕が、毛布の上においてあった。一枚の紙が、ピンで毛布にとめてあった。
ポール・ドレイクの懐中電灯が、その隅を明かるく照らし出して、その先のまん中に、便箋の四角い形を浮きあがらせた。
「手紙だ」と、ドレイクがいった。「その毛布にピンでとめてある」
ウィニフレッドは、飛びかかって、その手紙を取ろうとした。ペリイ・メイスンのがっしりした右腕が、さっと娘の前に出て抱きとめた。
「いい子だから、待ちなさい」と、メイスンがいった。「あんたは真実に対して、すこし我儘すぎる。これは、わたしが先に読む」
手紙は、暗闇の中で書いたらしく、鉛筆のなぐり書きだった。文面は――
「愛するウィニー、ぼくには、そんなことはできない。おそらく、かれらは決してぼくをよう見つけ出さないだろう。しかし、万一、見つけられるようなことになったら、ひどい目にあうのは、きみだ。そうなれば、ぼくは、きみを楯にして、その陰に隠れていたという気がするだろう。
万事がうまくいったら、ぼくのほうから、きみに連絡する。しかし、やつらは、きみを看視し、きみのところへ来る郵便物も調べるだろうから、当分は、ぼくからはなんの便りもないものと思ってくれたまえ。いとしききみに、百千の愛とキスを送る――きみのダグ」
メイスンは、声を出してその手記を読み、たたみながら、デラ・ストリートにいった。「早く、その子をつかまえて。気絶する」
ウィニフレッドは、与えようと差し出したデラ・ストリートの腕の方にくず折れかかったが、すぐに、気を取り直して、しゃんとした。その目は、すっかり力がなくなって、悲愁に満ちていた。
「一人にしておくのじゃなかったわ」と、ウィニーはつぶやくようにいった。「こうなることはわかっていたのに」
ペリイ・メイスンは、こわれた荷づくり箱を足で脇へ蹴ってのけながら、ドアの方へ行き、通路を引っ返してウィニフレッドの寝室へはいり、電話器を取って、ダイヤルをまわし、「バーガー地方検事に話したいんですが」といった。
しばらくして、かれはいった。「こちらは、ペリイ・メイスンです。重大な用件で、バーガー氏に会いたいんです。どこへ連絡すればいいですか?」
受話器が、があがあと音を立てた。ペリイ・メイスンは、うんざりしたというような大きな声を出して、受話器をかけた。つづいて、別の番号のダイヤルをまわして、いった。「警察本部?……ホルコム巡査部長を呼び出してもらえるかね?……ハロー、ホルコム部長? ペリイ・メイスンだ……うん、遅いのは知ってる……いやまだ、ぼくの寝る時間は過ぎちゃいないよ。人をからかおうっていうのなら、よせ。洒落《しゃれ》なんてごめんだ。ぼくがわざわざ電話をかけたのは、ぼくが責任を持って、きょうの夕方五時に、ダグラス・キーンに自首させるということを、きみに伝えようと思ったからなんだ……いや、警察本部へじゃない。そんなことをすりゃ途中で逮捕されて逃亡犯人だと主張するチャンスを、きみに与えることになるからね。ぼくが自分できめた場所から、きみに電話する。きみがそこへやって来て逮捕すればいいじゃないか。この情報を新聞に隠しておこうと思ってもだめだぜ。ぼくのほうから話すつもりだからね……そうだ、五時に、ぼくが本人を引き渡す‥‥‥」
ウィニフレッド・ラクスターは、電話の方に突進しながら、「だめ、だめ!」と、金切り声で叫んだ。「だめよ! そんなこと、あんたに……」
ペリイ・メイスンは、かの女を押しのけ、「五時だよ」といって、電話を切った。
デラ・ストリートが、娘の片方の腕をしっかりかかえ、ポール・ドレイクが、もう一方の腕をしっかりつかんでいた。二人ともみ合いながら、ウィニーの目は、肚からの恐怖をうかべて、ペリイ・メイスンの顔にひたととまっていた。
「そんなこと、しちゃいけない!」と、かの女は金切り声でいった。「絶対に、そんなこといけない。あなたには……」
「わたしは、そうするといったのだ」と、ペリイ・メイスンが、ゆっくりといった。「だから、きっと、そうする」
「あたしたちを裏切るのね」
「わたしは、誰も裏切ったりはせん。あんたは、かれの弁護を引き受けてくれと、わたしにいった。だから、間違いなく、弁護は引き受ける。あの青年は、自分からばかな真似をして人の笑いものになった。考えてみれば、まだほんの子供だものだから、自分のしたことにたまげて、一目散に逃げ出してしまったのだ。きっと、誰かにだまされたんだ。だから、わたしは、正しい道に引きもどそうとしているのだ。
かれも、新聞ぐらいは読むだろう。読めば、ぼくが弁護を引き受けたことを知るだろう。きょうの夕方五時に、ぼくが、かれの身柄を引き渡すと、責任を持って保証したことを知るだろう。ぼくが、あんたの味方として行動していることを知るだろう。だから、きっと出て来て、身をまかせるよ」
「先生」と、デラ・ストリートがとりなすようにいった。「もし、あのひとが先生に連絡をとらなかったら――新聞を読んでも、それでも隠れているようだったら、どうなるでしょう?」
ペリイ・メイスンは、肩をすくめて見せた。それから、「さあ、行こう」と、ポール・ドレイクにいった。「事務所へ引きあげたほうがいい。新聞記者連中が、いろんなことを聞きに来るだろうからな」
それから、メイスンは、デラ・ストリートの方を向いて、「きみは、このひとがおちつくまで、ここにいてくれたまえ。ヒステリーを起こさせないように、ばかな真似をさせないように気をつけてくれよ。一人にしても大丈夫だと思ったら、すぐに事務所へ来てくれ」
デラ・ストリートは、靴の踵をかちんと合わせ、軍隊式の敬礼をして、「オーケー、先生《チーフ》」といった。
それから、デラは、ウィニフレッド・ラクスターの方に向き直って、「さあ、赤ちゃん、気を取り直すのよ」
「き、き、気なんか、とうに、と、と、とり直してるわ」と、涙をとめようとしながら、ウィニフレッドはいった。「よ、よ、よけいな、お、お、お世話だわ。さ、さ、さっさと、事務所へ行ってちょうだい」
第十二章
電灯の光が、ペリイ・メイスンの事務所をほのかな青白い色に包んでいた。大都会の岩窟居住者たちのコンクリートの洞窟《どうくつ》が、この上もなく不便に感じられるのは、朝のこの時刻だった。戸外には、早暁《そうぎょう》のすがすがしい爽《さわ》やかさが訪れているのに、オフィスの中の空気は澱《よど》んで、いやな匂いがしていた。日の出までに、まだ三十分ほど。人工光線の無力さを強調するほどの、明け方のほの白い明かるさだった。
ペリイ・メイスンは、自分用の回転椅子の中で、ぐっと体を伸ばし、踵をデスクの角にのせて、巻煙草に火をつけた。「新聞記者たちが来たらね、デラ、外の部屋に待たせておいて、みんな一度にここへ入れてくれ」
デラはうなずいたが、その目には、心配そうな色がうかんでいた。
ポール・ドレイクが歩み寄って、ペリイ・メイスンのデスクのへりに腰をかけた。
「いまのうちに」と、ポールがいった。「きみのとおれのと、情報を突き合わせておくほうがいいんじゃないかな」
メイスンは、無表情な目つきで、「どんな情報だね?」とたずねた。
「おれの部下の話では、エディス・ドヴォーが殺されたそうだ。棍棒で頭をなぐられたというんだ。その棍棒は、鋸で切った松葉杖のきれはしだってさ」
ペリイ・メイスンは、黙って煙草をふかしていた。
「もちろん、なにか気にかかることがあったから、ダグ・キーンのアパートへ、きみは行ったんだろう。血痕のついた衣類を見たとき、アシュトン殺しでついたものじゃないということは、おれにもよくわかったからね」
「しかし、そのときには」と、メイスンがたずねた。「ドヴォー殺しのことは、なんにも知らなかったんだろう?」
「もちろんさ」
「その点は」と、メイスンが強くいった。「おぼえといたほうがいいことかもしれないぜ――訊問《じんもん》でもされた場合にね」
「きみは、知ってたのか?」
メイスンは、窓の外のほのぼのと明かるくなって行く夜明けの色を、じっと見つめていた。
しばらく待っていたが、相手が返事をする気がないと見て、ドレイクが言葉をつづけた。「きみはバブスンという男を知ってるかい? 腕ききの指物師でね。木の細工物ならなんでも作るんだが、内職に松葉杖も作ってるんだ」
メイスンの顔に、興味をそそられたような色がうかんだ。
「二週間ほど前に、アシュトンが、そのバブスンの店に寄ってるんだ。あの松葉杖も、そこで作らせたものだそうだが、それに、手を加えてくれと注文したというんだ。その注文というのは、杖の先に穴をあけて、金属のチューブを入れてその穴を補強した上で、セーム皮を張ってくれというんだ。杖の先に栓をするように金属のねじをつけて、その細工をしたことが、松葉杖の先端のゴムで、すっかりかくれるようにしてくれと、そういうんだそうだ」
メイスンは、ゆっくりとした調子で、いった。「そいつは、なかなかおもしろいね」
「ところが三日ほど前に」と、ドレイクは話をつづけた。「その松葉杖の一件について、ある人から、バブスンは質問を受けたというんだ。その男はスミスと名乗って、アシュトンの負傷に関係のある保険会社の者だといったそうだが、アシュトンが新しい松葉杖を作ったのか、古い杖に手を加えたのか、知らしてほしいというんだそうだ。バブスンは、その模様がえのことを話そうとしかけたんだが、ふと気がついて、よく聞いたほうがいいと思ったもんだから、そのスミスという男に、逆にいろいろ質問しはじめたところが、そのスミスのやつが、黙って、さっさと行ってしまったというんだがね」
「人相は聞いたか?」と、口数すくなく、メイスンがたずねた。
「五フィート十一インチ、四十五歳、体重百八十五ポンド、明かるい色のフェルトの帽子、青い背広、頬に一風変った傷の痕。緑色のポンテアクを運転していたという」
「いつ、その報告がはいった?」と、メイスンが簡潔に聞いた。
「おれが事務所に寄ったとき、当直が渡してくれた。しばらく、おれのデスクの上にのっていたらしい。部下の一人の報告書に書いてあったよ」
「よくやったぞ」と、メイスンがいった。「どうして、バブスンを訪ねたんだ、その部下は?」
「アシュトンのことは、洗いざらい調べろといったじゃないか。だから、ぎりぎりのとこまでやれと、おれは命令したんだ。松葉杖を作らせたところに関心を持つぐらい、あたり前だよ」
「よし」と、メイスンが相手にいった。「じゃ、もう一人、きみのリストに加えてくれ――ジム・ブランドンをつけてくれ。かれについて一切、できるだけさぐり出してくれ。特に、近ごろになって金使いが派手になっているかどうか、調べてくれ」
「もう手配したよ」と、ドレイクはあっさりとこたえた。「報告を見るとすぐに、尾行を二人つけたよ。ところで、二つ三つ、きみに聞きたいことがあるんだが」
「どんなことだい?」と、メイスンが聞き返した。
「この事件で、きみがどういう立場をとるかということだ。きみは、警察に電話をして、あの若いのを引き渡すと約束したが、ああいう電話はかけなくちゃいけなかったのか?」
「もちろん、ああしなくちゃいけなかったさ」と、ペリイ・メイスンは、ひどい性急さをまる出しにしてこたえた。「きみは、事件の概要がまだのみこめないのか? あの男は、正真正銘の犯人か、でなけりゃ、誰かの|わな《ヽヽ》に引っかかったか、どちらかだ。|わな《ヽヽ》だとすれば、逃げることはちょっとむずかしい。まっ正面から、受けて立つしかないだろう。へたに逃げようとでもすれば、つかまっちまうのはわかりきっている。つかまえられて逃げていたということになれば、自分から絞首台に飛び込むようなものだ。ぼくがどんな手を打ったって、自分から首なわを締めるようなもんだ。だから、もし、罪を犯しているんなら、男らしく自首して出て、堂々と審理を受けた上で、身におぼえがあるならあると、一切のいきさつを法廷で陳述するんだ。そうすれば、おそらく終身刑ぐらいにはしてやれると、ぼくは思うんだ」
「でも、ほんとうの肚は、無罪のほうに賭けていらっしゃるんでしょう?」と、デラ・ストリートがたずねた。
「賭けてる。いままでに集めたあらゆる事実をもとにして、無罪に賭けてる」
「問題は、そこですわ、先生」と、はげしい怒りをこめて、デラ・ストリートが異議をとなえた。「あんまり賭けが大きすぎますわ。なんにもご存じのない感情一辺倒の若者のお芝居を助けるのに、ご自分の弁護士としての名声を賭けていらっしゃるじゃありませんか」
ペリイ・メイスンは、デラの顔を見て、にやっと笑った。その笑いには、おもしろがっているような色はすこしもなかった。それどころか、それまでの何ラウンドかの間に、おそるべき猛打を加えて来た強敵と対戦するために、再びリングにあがろうとする拳闘家の残忍な笑いだった。
「確かにそうだ」と、メイスンも認めた。「ぼくは、ばくち打ちだ。生きているうちは生きがいのある生活を生きたいというのが、ぼくの願いだ。死ぬことをおそれる人の話をしばしば聞くが、生きることをおそれる人間の話はあまり聞かないね。しかし、死ぬことをおそれるというのは、一般に誰でも持っている弱点だろうね。ぼくは、ウィニフレッドを信じているし、ダグラス・キーンも信じている。二人は、いま窮境に立っていて、味方になってくれる人を必要としているんだ。だから、ぼくがそれをやってやろうとしているんだ!」
ポール・ドレイクの声には、まだ訴えるようなひびきがあった。
「ねえ、ペリイ、手を引いても、まだ遅くはないんだぜ。きみは、あの若者のことは、なんにも知っちゃいないんだろう。あの男に不利な、いろんな事実を見てみろよ。あの男は……」
「だまれよ、ポール」と、べつにひどく腹を立てた様子もなく、ペリイ・メイスンがいった。「証拠が山のようにあるかないか、きみが知ってるぐらいは、ぼくも知ってるよ」
「しかし、あらゆる事実が、その若者に罪があると示しているのに、なぜ、きみの名声を、その、若者の無罪のほうに賭けなくちゃいけないんだね?」
「というのはね」と、メイスンがいった。「ぼくは、限度のない勝負をしているからなんだ。ぼくは、自分の判断に賭けるときには、自分の持っているすべてのものをあげて賭けるんだ。間違いのないようにするのさ」
「限度のない勝負は、勝ったときの儲けも大きいけど、負けたときの損も大きいですわ」と、デラ・ストリートが、はっきりといった。
メイスンは、じりじりして、相手の二人をひっくるめたような身振りをしながら、いった。「いったい、人間がなにを損するというんだい? 人間は、自分の生命をうしなうことはできないんだ。そうだろう、もともと生命は自分のものじゃないんだからね。生命というものは、一時の借りものにすぎないんだ。金は、うしなうことがあるかもしれないが、金なんてものは、人間そのものと比較すれば、なんの意味もないじゃないか。ほんとうは大切なのは、人生を生きる能力、人生を生きて行くあいだに、その人生からもっとも多くを得る能力だ。だから、賭け金はいくらだとか、なには賭けちゃいかんなどという限度のない勝負をやってこそ、人間は、人生からもっとも多くのものを学びとることができるんだ」
ブザーがなって、事務所の入り口のドアがあいて、またしまった。ドレイクが、デラ・ストリートに顎をしゃくって見せた。デラは立ちあがって、戸口から待合室へ出て行った。ポール・ドレイクは、巻煙草に火をつけて、いった。「ペリイ、きみは、子供と哲学者のあいのこだね。世間知らずで、口の悪い夢想家で、おそろしく愛他的なすねもので、すぐに人を信じてしまう懐疑主義者で……ちぇっ、なんて羨《うらや》ましい人生観だろうな!」
デラ・ストリートがドアをあけ、心配そうな声を低めて、「ホルコム巡査部長が来てますわ」 といった。「それから、新聞記者がいっぱい」
「ホルコムが、新聞記者連中をつれて来たのか?」
「いいえ、きっと新聞記者連中を出し抜くつもりだったんでしょう。後からどかどかとはいって来ましたもの。部長は、いらいらしてるようですわ」
ペリイ・メイスンは、にやにや薄笑いをうかべ、天井に向けて煙の輪を吹きながら、「お客さんがたを案内してくれ」といった。
デラ・ストリートも、わざとらしく、にやっと笑いをうかべて、「ホルコム巡査部長も、お客さまのうちに入れるんですか?」
「今回だけは、そうしておこう」と、メイスンがかの女にいった。
デラ・ストリートは、さっとドアをあけて、「みなさん、どうぞ」といった。
ホルコム巡査部長が、まっさきにドアを通ってはいって来た。そのすぐうしろにつづいてあらわれた数人の男たちは、部屋にはいるなり扇形にひろがって、壁を背にして、めいめい位置をしめた。なかには、急いで手帳を取り出したのもいた。誰も彼もみんな、一心に聞き耳を立てているという身の構えだった。まったくその身構えたるや、懸賞のかかったボクシング試合の第一ラウンドのはじまる前の見物人が、椅子から身を乗り出して、旋風のような素早い打ち合いを約束する一打をも見のがすまいと、固唾《かたず》をのんでいる光景に似ていた。
「ダグラス・キーンは、どこだ?」と、ホルコム巡査部長が聞いた。
ペリイ・メイスンは、深く肺まで煙を吸い込み、鼻の孔から二本の煙を吹き出してから、「ほんとうに知らないんだよ、部長」と、大人がいきり立つ子供をなだめるときのような、辛抱強い口調で、メイスンがいった。
「いいや、絶対に知ってるはずだ」
メイスンは、煙を輪に吹こうとしたが、うまくいかなかった。「空気がかきまわされすぎてるんだ」と、誰にでもはっきり聞こえるほどのいい方で、ポール・ドレイクに内緒話ふうに説明した。
「部屋に人が多すぎると、なかなかうまく輪にならないね」
ホルコム巡査部長は、メイスンのデスクを、拳骨でどんとたたいて、「おい、きみ」といった。「きみたち刑事弁護士が、法律を相手にして鬼ごっこをする時代は、もうすぎたんだぞ。公衆の敵を庇護する者が、いまでは、どんなふうに扱われているか、きみも知っとるだろう」
「ダグラス・キーンは、公衆の敵かい?」と、メイスンが無邪気にたずねた。
「殺人犯人だ」
「へえ! 誰を殺したんだね?」
「二人の人間だ。チャールズ・アシュトンとエディス・ドヴォーだ」
ペリイ・メイスンは、上顎で舌打ちの音をさせて、「あの男が、そんなことをするはずがないよ、部長」といった。
記者の一人が、みんなの耳にはいるほどにくすくすと笑った。ホルコムは、顔を赤黒くして、「いいたいだけ」といった。「いくらでも、利口ぶった口をきくがいい。だが、おれは、逃亡犯人を幇助《ほうじょ》するものと、きみを認めるからな」
「あの男は、逃亡犯人かい?」
「絶対に、そうきまっとるじゃないか」
「あの男は、今日の夕方の五時に、出頭するはずだ」といって、メイスンは、もう一服煙草を吸った。
「その前に、こっちはつかまえるんだ」
「どこにいるんだ、あの男は?」と、眉をぐっとあげて、メイスンがたずねた。
「知らん」と、ホルコム巡査部長はどなった。「知ってれば、おれが行って、しょっぴいて来る」
メイスンは、ため息をし、ポール・ドレイクの方を向いて、弁解するようにいった。「大将は、五時前にキーンをつかまえるつもりらしいが、しかし、キーンがどこにいるかは知らんとおっしゃる。五時には出頭させると、わざわざこちらからそういっているのに、どこにいるか知らんというぼくの言葉を信じようとはしない。まったく理窟に合わんよ」
「いま、あの男がどこにいるかも知らんで、五時に、身柄を拘置させると約束するもくそもないだろう。なんとかちゃらんぽらんをいって、あの男を隠しておいて、そのあいだに、この事件をごまかしてしまおうと、なんかたくらんでやがるんだろう」と、ホルコムは責め立てた。
メイスンは、黙って煙草を吹かしていた。
「きみも弁護士なら、事後従犯者になった場合には、どんな処罰を食うかぐらいは知っとるだろう。殺人犯人に力を貸した者がどうなるかぐらいは、よく知っとるだろう」
「しかし」と、メイスンは、辛抱強く指摘した。「かれが殺人犯人でなかったということがわかったら、どうだ、ホルコム?」
「犯人でなかったらだって!」と、ホルコムは、いまにも叫び出しそうに、「殺人犯人でなかったらか? おい、きみは、あの小僧に不利な証拠がどんなものか、知っとるのか? やつは、チャールズ・アシュトンに会いに出かけて行った。生きているアシュトンを最後に見たのが、やつだ。いいか、ちゃんと間違いなく聞いとけよ。アシュトンは、猫を飼っていた。猫は、アシュトンのベッドに寝る習慣だった。ダグラス・キーンは、その猫を取りに出かけて行ったのだ。やつが、アシュトンの部屋にはいるのを見た証人もいれば、猫を腕に抱いて、そこを出て来るのを見た証人もいるんだ。
ところで、アシュトンは、猫があの家から連れ去られる前に殺されたのだ。猫が、窓から飛び込んで、あっちこっち歩きまわった足跡が、ベッドの上に残っている。アシュトンの額のまん中にまで猫の足跡がはっきりついているということは、キーンが猫を連れ出す前に、殺人が行われたという証拠だ。アシュトンは、十時|以後《ヽヽ》、十一時|以前《ヽヽ》に殺された。キーンは、十時ちょっと前に、アシュトンの部屋にはいって、十一時|過ぎ《ヽヽ》に、猫を抱いて出て来るまで、現場にいたのだ」
メイスンは、唇をすぼめて、いった。「そいつは、ダグラス・キーンには、まったく不利な証拠だろうね、もし、かれの連れて行ったのがアシュトンの猫に違いないというんなら」
「むろん、アシュトンの猫だ。キーンを見かけた証人があるのだ。たしかに。家政婦が見たのだ。よく眠れなかったので、窓から外を見ていると、キーンが出て行ったというのだ。それだけじゃない、猫を抱いていたのを、ちゃんと見ているのだ。まだそのほかに、運転手のゼームズ・ブランドンは、車をガレージに入れようとして、車道の方へ車をまわしたとたんに、ヘッドライトがはっきりとダグラス・キーンを照らし出したのだ。キーンが猫を抱いていたことは間違いないと断言しているのだ」
「その猫というのは、クリンカーのことなんだね?」
「ああ、クリンカーだよ、それが猫の名前ならね」
「その程度の状況じゃ」と、メイスンがいった。「その連中の証言に、陪審員がどれほどの重要性を認めるか認めないかは、連中がその猫はアシュトンの猫に違いないということを、陪審員に納得《なっとく》させることができるかどうかによるだろうな。それはそうと、その猫はいま、どこにいるんだね。部長?」
「知らん」といってから、ホルコム巡査部長は、意味ありげに、「きみは、どうだ?」
ペリイ・メイスンは、おちついた口調で、ゆっくりといった。「ねえ、部長、刑法にも、猫をかくまってはいかんという条文はないようだね? まさか、きみは、猫を殺人犯人として告発しようというのじゃないだろうね?」
「なんとでもいえ」と、ホルコム巡査部長が、吐きすてるようにいった。「きみは、おれがここでなにをしているかわかってるのか? おれがここへ来たほんとの狙いが、わかってるのか?」
メイスンは、ぐっと眉をあげて、首を左右に振った。
ホルコムは、拳骨でデスクをたたきながらいった。「おれがここへ来たのは、ダグラス・キーンが殺人犯人として手配中の人間だということを知らせるためだ。もちろん、ダグラス・キーンの逮捕令状も請求中だ。わざわざここへ足を運んで、ダグラス・キーンに不利な証拠を教えてやったのだから、それでも、ダグラス・キーンをかくまいつづけるなら、破廉恥罪の判決が、きみに下るようにして、弁護士の資格もとりあげてやるということをいいに来たのだ。おれの来た理由がわかったろうな。証拠は全部、きみに知らしてやる。だから、おれがここをおさらばした以上は、ダグラス・キーンが殺人容疑者として手配中の人間だとは知らなかったとか、かれに不利な証拠を知らなかったとか、そんなでたらめなことは、陪審員や、弁護士会の苦情処理委員会の前でしゃべることはできないぞ」
「なかなか辛辣《しんらつ》だね、部長」と、ペリイ・メイスンが、相手をおだてるような口振りでいった。「実際、おそろしく辛辣だ。すると、きみは、ぼくのあらゆる防御手段をふさいでしまうつもりなんだね?」
「まさにそのとおりだ。ダグラス・キーンを引き渡すか、逮捕された上で起訴されて、とどのつまり、弁護士の資格を奪われるかだ」
「それで」と、メイスンがたずねた。「話は、すっかり終わったかい? 洗いざらい証拠をいったのかい?」
「いいや、まだ半分もいっとらん」
「ところが、部長、きみは、すっかり話すつもりだったはずだね」
「おっしゃるとおりだ。すっかり話すつもりだ」
メイスンは、首をかしげて、相手の話を謹聴する姿勢をとった。ところが、ホルコム巡査部長は、相手のそんな態度にはおかまいなしに、びんびんと窓から反響するかと思われるほど、部屋じゅうに鳴りわたるほどに声を張りあげた。
「エディス・ドヴォーは、用件があって、ダグラス・キーンに会いたがっていたのだ。あちらこちらへ電話をかけて、キーンに伝えてくれと伝言を頼んでいるのだ。それで、ダグラス・キーンは、かの女を訪ねて行ったのだ。というのは、エディス・ドヴォーのアパートの管理人が、偶然外出しようとしていると、ダグラス・キーンが、エディス・ドヴォーの部屋へ通じるペルのボタンを押しているのにぶつかったのだ。そして、管理人がドアをあけた拍子に、まんまとキーンは、なかへはいりこんだというわけだ。だから、当然、管理人はかれを呼びとめて、どこへ行くのかと聞いた。キーンのいわく、ドヴォー嬢から来てくれということづけだったから会いに行くのだと、そうこたえたというのだ。 それから後になって、地方検事が訊問のことがあって、エディスのところへ出かけて行ったところが、女は、意識不明で床に倒れていた。文字どおり棍棒で殴り殺されていたのだ。で、われわれがダグラス・キーンの部屋に踏み込んで見ると、やつが着ていた衣類が血まみれだという始末だ。シャツにも、カラーにも、靴にも、ズボンにも、血がついている。やつは、その血痕を洗い落とそうとしたんだが、うまく洗い落とせなかったのだ。なんか衣類のうちで焼きすてようとしたものもあるらしいのだが、それも失敗だ。灰の中に布の繊維が残っていたのだが、それにも人間の血のついていたことが化学反応でわかったのだ」
「猫はいたかい?」と、メイスンがたずねた。
ホルコムは、いまにも大声でどなり出しそうなのを、やっとのことで自制して、「いや、猫はいなかった」
「いったい、猫を絶対的に確認する方法というのは、あるものかね?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。「猫の指紋をとろうと思っても、とりようもないだろうね、部長?」
「よかろう」と、ホルコムがきびしい口調でいった。「いくらでも、見せたいだけ頭のいいところを見せるさ。きみは、殺人犯人を弁護して食ってる弁護士だ。だがな、あとふた月したら、弁護士の資格がなくなるんだぞ。路頭に迷うことになるんだぞ」
「いままでのところ」と、メイスンがいった。「ぼくは、殺人犯人を弁護したことはない。殺人容疑者を弁護しただけだ。そこには大きな違いがあるということを、部長、きみは認めてくれなけりゃいけない。しかし、ぼくは、猫については本気だよ。酒落や冗談じゃないよ。かりに、家政婦と運転手とが二人とも、キーンが腕に抱いていたのはクリンカーだったと断言するとして、ぼくが、その証人たちの前にペルシア猫を二ダースほどならばせて、その中からクリンカーをつまみあげてくれと頼んだらどうだろう。証人たちに、それができると、きみは思うかね? かりに、証人たちが一匹の猫をつまみあげて、これがクリンカーですと証言した場合に、その証言が正しいということを、決定的に陪審員に承認させる方法があると、きみは思うかね?」
「なるほど、それがきみの手か?」と、ホルコムがたずねた。
メイスンは、愛想よく微笑をうかべて、「いや、とんでもない、部長、手なんてものじゃない。ただ、きみに聞いただけだよ」
ホルコム巡査部長は、のしかかるようにデスクの上に身を乗り出し、指の小関節が白くなるほど、ぐっとデスクの両はしを握りしめた。
「もうしばらくしたらな、メイスン」と、ホルコムはいった。「おれたちは、きっと、きみの正体をつかんでみせてやるぞ。きみが考えているほど、警察だってばかじゃないんだぞ。だから、参考までにいっとくが、きみが電話をかけてきて、ダグラス・キーンの弁護を引き受けて、夕方五時に、身柄を引き渡すというのを聞くなりすぐに、おれは猫のありかを探しに、数人の部下を出してやった。そして、たまたま、どこへ探しに行かせたらいいか、おれは知っていたのだ。これは、ほんの参考までにいっとくが、おれたちはクリンカーをつかまえて、いま、警察で保護している。やつは、きみのもっとも有能な秘書、デラ・ストリート嬢のアパートにいたよ。そして、猫は、警察本部で、家政婦と運転手によってクリンカーに相違ないと確認してもらって、首に付け札をつけてもらっている。だから、きみが陪審員の前で猫の手品をはじめようというときでも、指紋をとることも、猫をかえ玉とすりかえることも、そのほかいろんなトリックを使うことも、一切苦労するには及ばないよ。だって、そうだろう。クリンカーは、ちゃんと首に付け札をぶらさげているんだからな」
そういいすてると、ホルコム巡査部長は、くるりと踵でまわれ右をして、大股に待合室の方へ歩み去った。
一瞬、ペリイ・メイスンの顔は、気味が悪いほど緊張した。それから、新聞記者たちの方を向いて、静かに微笑した。
「ちょっとうかがいたいんですが」と、記者の一人がいった。「おさし支えなかったら……」
メイスンは、ゆっくりした口調でいった。「諸君、ずいぶんおもしろい話を聞いたでしょう。どうぞ、聞いたとおりに発表してください」それから、しっかり唇をとじて、いかに沈黙を守るべきかを知る者のかたくなな沈黙にはいった。
第十三章
ペリイ・メイスンは、かかってきた電話を聞きおわると、振り向いて、デラ・ストリートにいった。「ナット・シャスターが、依頼人のサム・ラクスターと、フランク・オーフレイを連れて、ぼくに会いに来ている。こいつは、はじめからおしまいまで、おもしろい見物になるぜ。行って、連中を通してくれたまえ。きみは自分の部屋にいて、インターフォンにスイッチを入れて、こちらの会話をできるだけ速記にとっておいてくれたまえ。後で、きょうの会話を証言してもらわなくちゃならないかもしれないからね」
「そして、外線も切らずにおくんですのね?」と、デラはたずねた。「そして、あなたのところへかけてくる人とも応対するんですのね?」
「まさにそのとおり。脇から邪魔がはいらないように、気をつけてくれたまえ。いつなんどき、ダグラス・キーンが電話をしてくるかもしれないからね。あの男の電話だけは、普通の事務所へかかってくる電話なみに扱わないようにしてほしいんだ」
「もし、電話をかけてこなかったら、先生?」
「その話は、もうすんだじゃないか」
「もし、あのひとが犯人だったら、どうなんですの? ホルコム部長は、さっきおどして行ったようなことを、みんな、できるんですの?」
メイスンは、肩をすくめて、「そこさ」といった。「ぼくが連中を一杯ひっかけてやったのは。ホルコムは、あくまでも、犯人隠匿で、ぼくをやっつけようとしている。ぼくが、キーンは五時に出頭すると警察へ知らしてやったものだから、連中は、当然、ぼくが、かれのいどころを知っていると思っているのだ。ところが、そんなことは、月世界に人間がいるのかいないのか知らない以上に、ぼくは、なんにも知らないんだ」
「だから、警察には、なんにもできないとおっしゃるのね?」と、デラがたずねた。
「あんまりそう心配しなくてもいいよ。それよりも、さっさとシャスターを通したまえ。たぶん、いかさまトランプの札を、一、二枚くれるつもりなんだろう」
「たとえば、どんな?」
「たとえば、名誉毀損でぼくを訴えるとかね」
「どういう理由で?」
「理由は、自動車の排気ガスの一件について、エディス・ドヴォーがぼくに話したことを、地方検事に話したからというんだろう」
「でも、先生は、あのひとが話して聞かせたことを、伝えただけじゃありませんか」
「しかし、いまになってみれば、あの女が話して聞かしたということを立証することさえ、ぼくにはできないんだ。あの女は死んだし、証人もいなかったんだからね。さあそれよりも、シャスターを通してくれ。そして、忘れずに、なんでもかんでも話したことをよく聞いて、後になって証言ができるように、速記をとっておいてくれ」
デラはうなずいて、するっとドアから出て行き、すぐ、シャスターと、ラクスターと、オーフレイの三人を案内して来た。
シャスターは、唇をゆがめて、そっ歯を見せた。そのお座なりの微笑が消えると、その顔は、相手を非難するような重々しいマスクに変った。「メイスン君、きみは、わしの依頼人のサムエル・C・ラクスターが、祖父のピーター・ラクスターを殺した犯人であると、地方検事に密告したのですか?」
「イエスとかノーとか、ぼくに返事をさせたいのかね?」と、メイスンは、さりげなく問い返した。
シャスターは、額に八の字を寄せて、「こたえたまえ」といった。
「ノーだ」
「そういう意味のことを、暗に検事に知らせなかったかね?」
「知らせない」
「エディス・ドヴォーが、あの犯罪はサムが犯したと非難していたと、きみは、検事に話さなかったというのかね?」
「話さない」
シャスターは、鹿爪らしい顔をして、「バーガー氏は、きみがそういったといってるぞ」
メイスンは、黙っていた。
「バーガーが、サム・ラクスターに話したところによると」と、シャスターは言葉をつづけた。「ピーター・ラクスターの部屋に通じている暖房用のパイプに、サムエル・ラクスターが、自分の車の排気筒からゴム管をつないでいたと、エディス・ドヴォーがきみに話したと、そう、きみはいったそうだね」
ペリイ・メイスンの顔は、まるで花崗岩《かこうがん》のように、冷厳で断固たる色をみなぎらせていた。「たぶん、バーガーはそういったのだろう。それは、かの女がそういい、ぼくがそういったからだ」
シャスターは、目をぱちぱちさせて、そのこたえの意味をかみわけようとしていたが、やがて、勝ち誇ったような色を顔にうかべていった。「じゃ、かの女がそう告発したと、きみは、バーガーに話したんだね?」
「告発じゃない。あのひとは、サムがエンジンをかけっぱなしにしたまま、自動車に乗っていて、ゴム管が暖房用のパイプにつないであるのを見たといっただけだ。かの女は、ぼくにそう話したんで、ぼくは、バーガーにそう話しただけだ」
「そりゃ嘘だ」
「なにが嘘だ?」と問い返しながら、メイスンは、凄い顔をして立ちあがった。
シャスターは、片手を前に突き出しながら、そわそわと後ずさって「いや、中傷だというんだよ」と、かれはいった。「名誉毀損だ」
「職務上の通報だとは思ってもみなかったのか?」と、メイスンがたずねた。
「悪意による場合は、そうじゃない」と、ペリイ・メイスンに向けた指をふるわせながら、シャスターはいった。そのくせ、大きな皮張りの椅子が、メイスンから自分の身を守ってくれるとでもいうように、そのうしろにまわりながら、「そして、きみは、悪意から通報した。きみは、自分の依頼人のダグラス・キーンをかばおうとしてやったのだ」
「それで、どうだというんだ?」と、メイスンが問い返した。
「だから、取り消してもらいたいんだ」
「誰が取り消してもらいたいというんだ?」
「サムエル・ラクスターだ。それから、わしもだ」
「なるほど」と、メイスンがいった。「きみが、取り消しを要求すると――それで、どうなんだ?」
「きみの返答を求めるんだ」
メイスンは、きっぱりといった。「ぼくは、聞いたとおり、真実以外には、なんにもバーガーにいっておらん。事実については、保証なんかしておらん。ただ、聞くだけの価値のある陳述があったということを保証しただけだ」
「われわれは、謝罪を要求する」
「勝手にしろ」
サムエル・ラクスターが、前へ進み出た。その顔は、興奮のためにまっ青《さお》だった。「メイスンさん」と、かれがいった。「ぼくは、あなたのことはよく知りません。しかし、なにかけしからん噂《うわさ》があるということは、ちゃんと知ってます。ぼくと祖父の死とを結びつけるけしからん噂がひろまっているということを、ぼくは耳にしてます。それは、憎むべき嘘です! それからまた、あなたが役人たちを案内して、こっそり、令状もなしに、ぼくの車を、ぼくのガレージの中を捜査したということも、ぼくの車に近づくために、まずガレージの錠をこじあけたということも聞いてます。ぼくの知らないうちに、ぼくの自動車に、長いゴム管をこっそり入れておいた人間がいたのだ。法律が、ぼくにどういう保護を与えてくれるか、ぼくは知らない――そんなことは、シャスター氏が知ってるでしょう――しかし、ぼくは、あなたが自分のしたことに対して、あくまでも厳重な責任を負うものだということを、はっきりいいたいんです」
メイスンは、あくびをした。
シャスターは、引きとめるように、サム・ラクスターの腕に手をかけて、「まあ、わしに話させてください」といった。「わしに話させてください。興奮しちゃいけない。おちついて、おちついて。この男とは、わしが話をつける。いうことは、わしにまかせなさい」
メイスンは、もう一度、自分用の大きな、回転椅子に腰をおろし、ぐっとそり返って、デスクの上のシガレット・ケースから煙草を一本取り出し、「まだ、なにか話があるのかね」と、煙草のはしを、親指の爪に軽くたたきつけながら、たずねた。
フランク・オーフレイが口を開いた。「メイスンさん。ぼくの立場も、よく、あなたにわかってもらいたいと、ぼくは思うんです。エディス・ドヴォーとぼくとの関係は、もう秘密じゃありません。あのひとは、死ぬちょっと前に、ぼくと正式に結婚してくれたんです」
さっと、こみあげて来る感情の動揺から、強い痙攣《けいれん》が顔をよぎるあいだ、オーフレイは、ちょっと息をついてから、また言葉をつづけた。「そのとき、エディスは、自分の見たことを、ぼくに話してくれました。しかし、最近になって祖父の部屋へ一酸化炭素を送り込むのは、ごくやさしいことだったろうと地方検事から教えられるまでは、エディスの話をたいして問題にしてはいなかったんです。
ですから、この検事さんの話は、ぼくには大きなショックでした。いとこがどういう人間かということは、ぼくは、よく知っています。そんな大それたことのできる人間だとは、とうてい、ぼくには思えません。それからまた、ぼくは、忘れもしませんが、エディスは、例の自動車の中にいた男を、はっきりサムと認めたとは決していわなかったんです。車の中にいた男は、つばの広いサムの帽子のかげに、その顔を隠していたんです。そのために、エディスは、車の中の男を、サム・ラクスターだと思い込んでしまったというわけです。
だから、もし、あなたが、あの車の中にすわっていた男がサム・ラクスターだと、エディスがいったと、そう役人たちにいったのだったら、あなたは、エディスがいいもしないことを述べたことになるわけです」
メイスンは、フランク・オーフレイの顔をじっと穴のあくほど見つめながら、考え深そうな口振りでいった。「なるほど、|きみは《ヽヽヽ》そういうんだね?」
「ええ、ぼくはそういうんです」と、さっと顔を赤くして、オーフレイがいった。
シャスターは、狡猾《こうかつ》そのものという顔つきで、「考えてみたまえ、メイスン君、どういう立場に、きみが立ってるかということを」と、シャスターは、メイスンにいった。「きみは、わしの依頼人を告発した。その告発には、証拠がないんだから、裏打ちとなるものがない。単なる伝聞証拠だから、エディス・ドヴォーが、きみに話して聞かせたと立証することができんのだ。臨終の告白は、本人が自分が死に瀕《ひん》していることを知っている場合には、証拠として認められるが、これは臨終の告白とはいえん。かの女が、この話をきみにしたときには、まだ百年も生きると思っていたのだから、その点でも、きみがなんと強弁しようと、それには根拠がないんだ。だから、わしの依頼人は、きみを法廷に引っ張り出すことができるし、きみをやっつけることもできる。きみをとっちめて、ぎゅうの目にあわすこともできるのだ――だが、あんたが取り消すんなら、そんなことはしないというんです」
「シャスター氏のいう意味は」と、オーフレイが口を出した。「車の中に誰がいたか、エディスは知らなかったということを、あなたに強調してほしいということなんです」
サム・ラクスターは、にがり切った顔をして、「ぼくは、それ以上に要求するものがある」といった。「ぼくは、取り消しと謝罪を要求する。ぼくは、絶対に車の中にいなかった。メイスンは、それをよく知ってるはずだ」
ペリイ・メイスンは、手を伸ばして、デスクの上の、ブック・エンドのあいだにならんでいる本の中から、一冊を抜き出し、それを開きながらいった。「法律のことをいうのなら、諸君、ちょっと読んで聞かせよう。遺言検認規定の第二五八条にこう書いてある。『被相続人に対する殺人罪の判決を受けた者は、その遺産のいかなる部分の相続権をも失うものとする。而《しか》して右の者が相続権を有する相続分は、本章に規定する相続資格を有する他の相続人に帰属するものとする』これは、きみがとっくり考えるべき法律だよ、フランク・オーフレイ君」
シャスターは、猛然と唾を飛ばしてしゃべり出した。「なんという、ひどいごまかしだ!」と、かれは大声で絶叫した。「なんという、あくどいたくらみだ! 法律の条文などを読みあげて、小ぎたない中傷などをして、きみたち二人を仲間割れさせようとしとる。こんな男のいうことに耳をかしちゃいかん。こんな男の考えに頭を動かされちゃいかん。こんな男の……」
メイスンは、シャスターの言葉を無視して、直接フランク・オーフレイに話しかけた。「きみは、きみのいとこをかばいたいだろうが」と、メイスンがいった。「しかし、自分でも、エディス・ドヴォーというひとが、一足飛びに間違った断定を下す娘じゃなかったということは、ぼくに劣らずよく知ってるはずだ。たぶん、あのひとは、その車の中にいた男の顔は見なかったのだろうが、その男の帽子はたしかに見たのだし、声も聞いたから、その男をサム・ラクスターだと思ったのだ」
オーフレイは、考えをまとめようとするように、額に深い皺を寄せて、ゆっくりといった。「その男の声は、たしかに聞いたんですねえ」
「いいさ」と、サム・ラクスターが、噛んですてるような口振りでいった。「いくらでも芝居をするがいいじゃないか、フランク、ごもっとも千万という顔をしたけりゃするさ。だがね、ぼくをだまそうたって、そうはいかないぜ。この弁護士が、ぼくを殺人罪におとしさえすれば、ぼくの相続するはずの遺産がそっくりとれるぞと、きみに教えたとたんに、どんな芝居がはじまるか、ぼくにはちゃんとわかっていたんだぞ」
「ご両人、ご両人!」と、シャスターが悲鳴に近い声を出した。「そんなことをしちゃいかん。喧嘩はいかん。罠ですったら。そんなものにかかっちゃいけません。この先生は、あんたがた二人を喧嘩させて、そのあいだに、遺産をあの猫の畜生のものにしてしまおうというんですぞ。なんというたくらみだ! けしからんたくらみだ! ああ、なんというひどいトリックだ!」
メイスンは、サム・ラクスターの顔を見ていった。「きみは、あのゴム管が、きみの車の中で見つかったのを、どう説明するんです?」
「誰かがこっそり置いたんです」と、突っかかるような口振りで、ラクスターがいった。「あんたが役人たちをガレージに案内して、ゴム管を探してみろといったものだから、ぼくの車の中から見つかったんだ」
メイスンがいった。「すると、ぼくが、こっそりきみの車の中にゴム管を入れたと、きみは思ってるんですか?」
シャスターが、さっとサム・ラクスターの前に飛び出し、上着の襟《えり》を両手でつかみ、ぐいぐい押しもどしながら、大声でどなった。「返事をしちゃいかん! 返事をしちゃいかん! これも罠ですぞ。ゴム管を置いたのはあいつだとでもいおうものなら、たちまち、名誉毀損であんたを訴えようというんだ。この男が置いたとは、あんたにも立証はできん。だから、そんなことをいっちゃいかん。なんにもいっちゃいけません。話は、わしにさせなさい。黙って、みんな、静かにしてください。興奮しちゃいけません。わしが、相手になってかたづけます」
オーフレイは、一歩ラクスターの方へ寄って、シャスターの肩越しにいった。「ゴム管を置いたのは、ぼくだとでもあてこすりたいのか、サム?」
ラクスターは、声に角を立てていった。「あてこすっちゃいけないってのかい? おれをだまそうたって、そうはいかないぞ、フランク・オーフレイ。お前ってやつは、五十万ドルのためなら、それ以上のひどいことだってやろうって男だ。まあ、おれには、この事件が新しい目で見えはじめて来たんだぞ」
「きみは忘れちゃいかんね」と、オーフレイが、冷静にもったいぶった口調でいった。「見たのは、エディス・ドヴォーなんだぜ。ぼくは、そんなもの見やしなかったんだ。はじめ、エディスが話して聞かせたときにも、ぼくは、気にもとめなかったんだぜ」
「ご両人、ご両人」と、はじめはラクスターに、つづいてオーフレイにと、あわただしく二人の顔に向けて哀願するように、相手の顔を見ながら、シャスターは説きつけつづけた。「お二人とも、気をおちつけてください。こんな話をしに、ここへ来たのじゃないじゃありませんか。おちついて。わしが話したことを忘れちゃいけません。話は、わしにさせてください。だまって、みんな」
「エディス・オーフレイか」と、弁護士の言葉には耳もかさず、サム・ラクスターは、せせら笑って、「かの女が死んでいなかったら、いってやることがうんとあるんだ」
憤怒に口もきけなくなったオーフレイは、右手でシャスターを押しのけながら、左手でラクスターの顔をぴしゃりとなぐった。
「ご両人、ご両人!」と、シャスターは、金切り声でいった。「忘れちゃ……」
オーフレイの顎をめがけて、一撃を加えようと、うなりを発して突き出されたサム・ラクスターの左の挙が、ラクスターの上衣をひっつかもうとしたちびの弁護士の顔に、まともにぶちあたった。シャスターは、どすんと仰向けに床にぶったおれて、うめき声をあげた。ラクスターは、包帯をした右の腕を振って、オーフレイの頬に、さっと一撃を加えた。オーフレイも踏み込んで右腕をふるった。ラクスターが左の腕を振ったが、うまく命中しなかった。しばらく、二人は向かい合ってむやみに殴り合ったが、どちらの打撃もほとんど相手をやっつけるにはいたらなかった。
床に倒れたシャスターは、二人のズボンにすがりついて、「ご両人、ご両人」と、哀願するように叫んでいたが、唇は切れて、みるみるふくれあがってその唇のあいだから出る声は、なにかで口をおおわれたような含み声に近かった。
ペリイ・メイスンは、両足をデスクにのせ、回転椅子によりかかって、いかにも悦に入ったように煙草をふかしながら、おもしろそうな目つきでこの殴り合いを見つめていた。
不意に、オーフレイが後へさがって、「すまなかった、サム」といった。「きみが腕を怪我しているのを忘れていた」
シャスターが、ひょいと二人のあいだに立ちあがり、二人のチョッキに手をあてて、必死に二人を引き分けようとした。二人は、シャスターのそんな無駄骨折りには目もくれず、はあはあと荒い息をはきながら、睨み合っていた。
「おれの腕のことなんか気にするない」と、サム・ラクスターは、にがにがしそうにいってから、ちらっと包帯に目をおとした。傷口がまたあいたと見えて、赤いものがにじみ出していた。
「はなれて、はなれて」と、シャスターがいった。「あいつのいうこと、すること、みんなトリックなんだから。頭のいいやつなんだから。ここへ来る前に、注意しといたじゃありませんか?」
オーフレイは、まだ苦しそうに胸を波うたせ、顔をまっ赤にして、ゆっくりといった。「エディスのことだけはいうな。それだけだ」
かれは、急にまわれ右をして、事務所を突っ切り、廊下へ出るドアをぐいとあけた。シャスターは、とまどって、ちょっともじもじしていたが、どなりながら、その後を追っかけた。「オーフレイさん! オーフレイさん! ちょっともどって来てください、オーフレイさん!」
オーフレイは、首だけ振り向けていった。「きみなんか、くたばるがいい。ぼくは、ぼく自身の弁護士を頼むから」
シャスターは、狼狽《ろうばい》の色を顔にうかべて、サム・ラクスターの顔を見たが、つづいて、ペリイ・メイスンの方に向き直って、「きさまのおかげだ!」と、悲鳴に近い声をあげた。「きさまは、ちゃんとこうなるとねらってやったんだろう! よくも、あの二人を仲間割れさせたな。エディス・ドヴォーを種にして、二人の心に疑心を植えつけて。きさまという人間は……」
「ドアをしめて行ってくれよ」と、冷静な口調で、ペリイ・メイスンが相手の言葉をさえぎって、「帰るときにはな」
シャスターは、サム・ラクスターの腕に手をかけて、
「行きましょう」といった。「法律が、この償いはしてくれますよ」
サム・ラクスターは、吐きすてるようにいった。「フランクのやつ、弁護士をみつけて、じいさん殺しの罪を、おれにおっかぶせようとするんだろう。結構なお家騒動だよ」
シャスターは、かれをドアから押し出した。
「ドアをしめるのを忘れるなよ」と、メイスンが、そのうしろから声をかけた。
シャスターは、壁が落ちるかと思うほど、ばたんと力いっぱいにドアをしめた。そのどんという響きで、壁にかけた額がまだふるえつづけているところへ、デラ・ストリートが、表の事務室からのドアをあけた。
「わざと、あんなふうになすったの?」と、デラがたずねた。
メイスンは、静かに煙草をふかしながら、われ関せずといった口吻《こうふん》でいった。「あの二人が、シャスターを飼っていたというのは、頭がおかしいよ。実際のところ、二人の利害は相反しているんだからね。もっと早く、わかっていなくちゃいけないんだ。シャスターが、二人のうちのどちらかの代理ということになれば、もう一人のほうは別の弁護士を頼むだろう。そうなれば、二人の弁護士が争うことになって、ダグラス・キーンには有利になるというもんだ」
手のつけられない、いたずらっ子を目の前にした母親のように、デラはため息をついたが、急に声高く笑い出して、「とにかく」といった。「あたし、すっかり速記しときましたわ、殴り合いの音まで。ところで、ウィニフレッド・ラクスターが、待合室で待ってますわ。猫をつれて」
「猫を?」と、メイスンが、驚いてたずねた。
「ええ、ペルシア猫よ」
メイスンは、目を光らして、いった。「通してくれ」
「それから、警察が、あたしのアパートから猫を持って行ったというのは、ほんとうなの」と、デラがいった。「管理人に、あたしの部屋を捜査する必要があるといって、管理人から合鍵をとって行ったんですって」
「捜査令状は持っていたのか?」と、メイスンがきいた。
「持ってなかったんでしょう」
メイスンは、煙草をふかしながら、考え考えいった。「そいつは、ちょっと、きみを窮地に追い込んだね、デラ。どうも悪かったね、やつらが、きみの部屋までさがしに来るとは気がつかなかったのは。ホルコム巡査部長も、だんだん、腕がよくなる――というか、だんだん、たちが悪くなるというか――どっちでも同じことだが」
「どうして、あんなにひどく、先生を憎むんでしょう?」
「なんでもない、ただ、ぼくが殺人犯人をかくまってると思ってるからさ。あれは、あれでいいんだ。仕事熱心というだけだ。非難する気にはならないよ。だから、あの男に対するぼくの態度を、ときどき、きみはじれったいと思うだろうね」
「ほんとにそうよ」
メイスンは、かの女の顔を見て、にやっと笑いながら、「わざと、じらしてるんだよ」といった。「それじゃ、ウィニフレッドを通して、きみは、自分の部屋で待っていてくれ。話をよく聞いているといいよ」
デラはドアをあけて、手でウィニフレッドにおはいりなさいと合図をした。ウィニフレッド・ラクスターが、大きなペルシア猫を抱いてはいって来た。顎をつんと突き出し、挑戦的な目つきをしている。いまにも喧嘩でもはじめそうな物腰だ。
ペリイ・メイスンは、むしろおもしろがっているほどの鷹揚な目つきで、かの女を見やって、
「おかけなさい」と、やさしくいって聞かせた。
「あたし、あなたに嘘をついていたんです」と、デスクのそばに突っ立ったままで、かの女はいった。
「猫のことでですか?」と、メイスンはたずねながら、ペルシア猫に目をやった。
かの女はうなずいて、「あの猫は、クリンカーじゃなかったんです――クリンカーは、これなんです」
「どうして、ぼくに嘘をついたんです?」
「あたしが、管理人のチャールズじいやに電話をしたことは、ご存じでしょう。あたし、クリンカーを手放すほうがいいって、クリンカーを、あたしに預けなさいって、そうすすめたんですの。ところが、じいやは、いやだっていうんです。それで、あたし、サム・ラクスターにクリンカーを手放したように思わせるいい方法がほかにあるんだけど、どうだろうと、そうじいやにすすめてみたんです。ダグラス・キーンに、クリンカーそっくりの猫を持たせてやるから、クリンカーは、どこかへ隠すようにと、そうじいやにいってやったんです。そうすれば、その持って行った猫を替え玉に使えるわけだから、それを大っぴらに目につくようにしておけば、それでもし、サムが猫を毒殺したとしたって、クリンカーとはちがう別の猫を毒殺することになるわけでしょう。どう、おわかりにならない?」
ペリイ・メイスンは、鋭くウィニーを見つめながら、いった。「まあ、腰をおろして、その話を聞かせてください」
かの女は、気づかわしそうな目つきで、「あたしを信じてくださらないの?」
「まあその話のつづきを聞かしてください」
かの女は、よくふくらんだ革張りの椅子のはしに腰をおろした。猫は、のがれようとして身をもがいた。それで、かの女は、しっかり抱きしめて、その頭の毛をなでたり、耳のうしろをかいてやったりした。
「さあ、話してごらんなさい」と、メイスンがいった。
やっと猫がおとなしくなったので、かの女は話しつづけた。「ダグラス・キーンは出かけて行きましたわ、猫をつれて。アシュトンが留守だったんで、しばらく帰って来るのを待っていたんです。ところが、アシュトンがなかなか帰って来ないんで、どうすればいいか、あたしに相談しようと思ってもどって来たんです。そして、その猫をあたしに預けて行っちまったんです」
「なぜ、その猫をクリンカーだなんて、ぼくにいったのです?」
「ほかの人たちが、きっとダグラスがクリンカーをつれて行ったというにちがいないと、それが心配だったからなの。それに、あなたがひどく重大に考えるかどうか、知りたかったからなの。つまり、あなたがどう出るかを見たいと思ったんですわ」
そこまで聞いて、メイスンは、声を立てて笑い出した。猫は、ちっともじっとせずに、もがきつづけた。
「まあ、かわいそうだから」と、メイスンがいった。「その猫をおろしておやりなさい。どこで手に入れて来たんです、その猫は?」
ウィニーは、まじまじとメイスンの顔を見つめていたが、やがて、突っかかるような口振りでいった。「なんのことをいってらっしゃるのか、わからないわ。この猫がクリンカーよ。とても、あたしになついてるじゃないの」
猫は、床へ跳びおりた。
「なかなかおもしろい話だ」と、メイスンは、裁判官といってもいいような、まったく超然とした口吻でいった。「その話は、ぼくを窮地から救い出してくれるだろうし、デラ・ストリートにとっても、すてきな逃げ道になる。まったく、猫というものは、みんなよく似ているからな。しかし、あんたは、それでは逃げ切れませんよ。遅かれ早かれ、その猫をあんたがどこで手に入れたか、警察では調べ出しますよ。その猫が、クリンカーかクリンカーでないかは、大きな論争の種になるでしょうな。しかし、早晩、そのためにあんたは、自分を困った立場に追いおとすことになる。自分ではそんな立場に立ちたいとは思わないだろうが」
「でも、これはクリンカーですわよ。あたし、自分で家へ出かけて行って見つけて来たんです。おびえて、死にそうになってたのよ――かわいそうな猫だわ――あの大騒ぎの上に、主人には死なれるわ、なにやかや……」
「いやいや」と、メイスンがかの女にいった。「あんたに、そんなことをさせておくわけにはいかん。もうこれきりで、そんなことをしちゃいけません。もう夕刊が町に出たころだろうが、警察がクリンカーを、ぼくの秘書のアパートで見つけたということを、あんたは読んだのだね」
「警察は、見つけた猫をクリンカーだと思ってるだけですわ」
メイスンは、愛想よくいった。「ばかな! 早く猫をつれて、ワッフル屋へお帰りなさい。ダグラス・キーンは、ぼくに連絡をつけて、自首するつもりですか?」
「知らないわ」と、目にいっぱい涙をためて、かの女はこたえた。
猫は、背を弓なりにして、事務室の中をうろうろさがして歩き出した。
「ちびや――ちび、おいで、ちび」と、ウィニフレッドが、やさしく猫を呼んだ。
猫は、かの女の方なんか見向きもしなかった。メイスンは、目に同情の色をうかべながら、ぽろぽろと涙をこぼしている娘の顔を見つめて、「もし、ダグラスがあんたに連絡して来たら」といった。「非常に大事なことだから、ぜひ、ぼくの打つ芝居にひと役買ってくれということを、よくいって聞かしてくださいよ」
「話すかどうかわからないわ。あんな、あんな、ひどいことを、いわ、いわなくたってい、い、いいじゃありませんか。殺人犯人として、し、し、死刑になったら、どう、どうだなんて?」
メイスンは、かの女のそばへ行って、軽くその肩をたたきながら、
「どうしても、わたしを信用してくれないの?」とたずねた。
かの女は、目をあげてメイスンの顔を見た。
「いまの話のようなことをすれば、あんたが責任をとらなくちゃならないとは思わないんでしょう」と、子供をあやすように、メイスンは、かの女にいって聞かした。「猫をさがしに出かけて行ったり、どうすればダグラス君のアリバイがこしらえられるか考えたりするのは、もうやめなさい。そんなことは全部、わたしにまかせて、大船に乗った気でいなさい。そうすると約束しますか?」
ちょっとの間、かの女は、唇をふるわしていたが、すぐにきっと結んでから、こっくりうなずいた。
メイスンは、もう一度、かの女の肩を軽くたたいてやってから、そこらをかぎまわっている猫のそばへ近づき、ひろいあげて、ウィニフレッドのところへ抱いて来て、その腕に抱かせて、
「家へお帰りなさい」といった。「そして、すこし昼寝をしなさい」
メイスンは、廊下へ出るドアをあけて、かの女を送り出した。かれが、そのドアをしめたとき、デラ・ストリートが、表の事務室からの戸口に立っていた。
メイスンは、デラの顔を見て、にっと笑いながら、「まったくしようのない、いたずらっ子だ」といった。
デラ・ストリートは、ゆっくりうなずいた。
メイスンは、そのかの女の顔を見ながらいった。「きみ、手間をはぶくのはどうだね、デラ?」
「あら、なんのことなの?」
「ぼくといっしょに、新婚旅行に出かけるのはどうだね?」
かの女は、じっとメイスンの顔を見ているうちに、だんだん目を丸くしながら、「新婚旅行ですって?」とたずねた。
メイスンは、大きくうなずいた。
「だって……あら……」
かれは、かの女の顔を見て、にっと笑いながら、「オーケー」といった。「だが、その前に、ちょっと寝椅子で横になって、ひとねむりするんだな。そして、ダグラス・キーンが電話をかけてきたら、ぼくの芝居に一役買わなけりゃいけないといってやってくれ。ぼくよりもきみのほうが、強くいえるだろう。ぼくは、ちょっとポール・ドレイクの事務所へ行って来るからね」
第十四章
ポール・ドレイクの事務所に、ドレイクと向かい会って腰をおろしたペリイ・メイスンがいった。「ポール、きみの部下を、新品の自動車を売る店へやって、最近に、ワトスン・クラマートに、新車を売ったかどうか、調べさせてくれ」
「ワトスン・クラマート」と、ドレイクがいった。「はて、いったいどこで、おれは、その名前を聞いたんだっけな?」
メイスンは、にやにや笑いながら、ドレイクの記憶が蘇えるのを待っていた。不意に、探偵がいった。「ああ、そうだ、思い出した。チャールズ・アシュトンと、貸し金庫を、いっしょに利用していた男じゃないか」
「警察じゃ、もうあの貸し金庫を調べたろうね」
「うん、調べたところ、からっぽも同然だったということだ。見つかったのは、銀行で百万からのおびただしい金額の札を束にして包むときに使う、包み紙だけだ。アシュトンは、札を取り出して、包み紙だけ残しておいたものらしいんだな」
「アシュトンだろうか、それともクラマートだろうか?」と、メイスンがきいた。
「アシュトンだ。銀行の記録にあらわれているところでは、クラマートは一度も、金庫のところへは出かけなかったらしいね。あの男は、カードに署名をしただけで、空な人間も同然だということしか、銀行にはわかっていないらしい」
「警察じゃ、どれくらいの金を金庫から持ち出したと、推定しているんだね?」
「警察にもわからんらしいね。しかし、かなりの大金は大金だったらしい。行員の一人が、アシュトンがかなりの札束を、スーツケースに押し込んでるところを見かけたというからね」
「ラクスターの起こした自動車事故というのを、洗ってくれたかい?」と、メイスンがたずねた。
「うん。電柱にぶつかったんだな、本人のいうとおり――どこかの酔っぱらいの運転した車が、角をまがって来た拍子にぶちあたったんだね」
「見た人間はいるのか?」
「がちゃんという音を聞いた人間は、二、三人いる」
「その目撃者の名前は聞いたかい?」と、メイスンがたずねた。
「聞いた。ラクスターがブレーキをかけて、車がスリップしたタイヤの跡を、その連中は見ているし、そのとき、ラクスターの車が、ちゃんと道路の右側を走っていたともいっている。ラクスターは、ひどく興奮していたらしいが、酒の気は完全になかったらしいよ」
「その前には、どこにいたんだ、ラクスターは?」
ドレイクは、ゆっくりといった。「その点を、いま調べてるところだよ、ペリイ。警察が最初にラクスターと口をきいたのは、祖父のピーター・ラクスターの死について調べたときで、後になって、管理人のアシュトンの死について調べたんだ。それによると、アシュトンの死については、ラクスターには完全なアリバイがある。九時ごろに家を出かけたまま、帰っていなかったんだ。アシュトンは、十時から十一時までの間に殺されたんだから」
メイスンはうなずいた。
「その後で、シャスターが供述をしたんだが、やつが、ラクスターのアリバイを証明してるんだ」
「あの男がか?」
ドレイクはうなずいて、「ラクスターは、自分の事務所にいたと、シャスターはいうんだ」
「なんの話で?」
「シャスターは、その供述は拒んでるんだ」
「なんと結構なアリバイだろう、そいつは」と、メイスンは、鼻で笑うような口吻でいった。
「ちょっと待てよ、ペリイ、その点は、話が合うと思うんだ」
「どう合うんだ?」
「運転手のジム・ブランドンが、ラクスターといっしょだったんだ。かれが、シャスターの事務所まで運転して、ラクスターを送って行っているんだ。十一時ごろにな。降りたときに、ラクスターは、車を持って家へ帰れ、帰りは遅くなると、ブランドンにいってるんだ。それで、ブランドンは、例の緑色のポンテアクを運転して家へ帰って来た。そのとき、キーンを見かけてるんだ。十一時ちょっと過ぎにね」
メイスンは、両方の親指をチョッキの脇あきにかけ、首を前に突き出して、探偵の事務所の中を歩き出した。やがて、頭の中で考えていることを、そのまま口に出していう人にありがちな、一本調子のつぶやき声でいい出した。「すると、ラクスターは、ジム・ブランドンといっしょに、緑色のポンテアクに乗って家を出たくせに、帰るときには、アシュトンのシボレーに乗って来たわけだ。いったいどうして、あのシボレーをひろったというんだ?」
ドレイクは、はっと緊張して、「そいつは大変な思いつきだぞ」といった。
メイスンが、ゆっくりといった。「ポール、部下を一組出して、エディス・ドヴォーが住んでいたアパートに向けてくれ。居住者全部に会って話をして、あのアパートの近くに、そのシボレーがとまっているのに気のついた者がないかどうか調べさせてくれ」
ドレイクは、メモ用紙を手許に引き寄せて、心覚えを走り書して、
「それがわかったら、すばらしいぞ」といった。「しかし、サム・ラクスターを身代りの犯人にするには、それだけでは足りないぜ。そうだろう、アシュトンを殺した人間は、十時から十一時の間に殺したにちがいないんだ。その後で、アシュトンの松葉杖を持ち出して、鋸《のこぎり》でひいてばらばらにしたに相違ないんだ。その上で、エディス・ドヴォーのところへ行ったにちがいないんだ。ところが、サム・ラクスターが、シャスターの事務所にいたということが立証できるとすると……」
「そういう筋書で」と、メイスンが相手の言葉をさえぎって、「ブランドンが、猫を抱いて家を出て来るダグラス・キーンを見たとすると、アシュトンの松葉杖は、どこにあったんだ? ダグラス・キーンは、松葉杖を持っていなかったんだろう」
ドレイクは、もっともらしくうなずいて、「そりゃそうだ」と相槌を打った。「しかし、むろん、キーンは、猫のためにいつもあけはなしになっている地下室の窓から、松葉杖を外にほうり出しといてから、自動車で引っ返して来て、拾って行こうと思えば、そういうこともできたわけだ。確かに、ペリイ、これはむずかしい事件だぜ。もし、キーンが、きみに連絡をしてこないとすると、きみは、苦しい立場に立つことになるな。かりに、キーンが自首すればするで、きみがいくら全力を尽したところで、この状況証拠では絞首刑ということになるだろうからね」
そのとき、電話のベルが鳴った。ドレイクが出て、「きみだ、ペリイ」といった。
かけて来たのは、デラ・ストリートだった。かの女の声は、興奮で上ずっていた。
「先生、急いで帰っていらしてちょうだい」と、かの女は訴えるようにいった。「ダグラス・キーンからかかってきましたの」
「どこにいるんだ、かれは?」と、メイスンがたずねた。
「公衆電話なの。五分たったら、またかけますって」
「じゃ、その線でやってくれ、ポール」と、メイスンがいった。「そして、早いとこ頼むぜ。ぼくのほうも、これから動き出すからな」そういい残すなり、メイスンは、探偵の事務所から飛び出し、一気に階段を駆けあがって、廊下を走って自分の事務所へ飛び込んだ。「自首するといってるかい、かれは?」と、自室へ飛び込むなり、メイスンは、デラ・ストリートに聞いた。
「するでしょう。なんだか気が進まないようでしたけど、承知してると思うわ」
「よく説きつけてやったかい?」
「本当のことを話してやりましたわ。先生が全力を尽して、あなたのためにやっていらっしゃるんだから、その先生の期待にそむくなんて、できないはずだって、そういってやりましたわ」
「そうしたら、なんといったい?」
「なんだか、ぶつぶついってたわ。男って、若い女がこうしてくれっていうと、自分ではそうするつもりでいるくせに、いかにも、その女のいうとおりにすると思われたくないというふりをするわね、そんな口振りなの」
メイスンは、うーんとうなっていった。「いやはや、女にはかなわんな!」
そのときまた、電話が鳴った。
「ちょっと待って、電話におでになる前に」と、デラ・ストリートがいった。「表の通りに、誰がうろついてるか、ご存じ?」
「誰だ?」
「あなたの大好きな遊び相手――ホルコム巡査部長よ」
メイスンは、額に八の字を寄せた。電話がまた鳴った。
「重大?」とデラが聞いた。
「うん」と、メイスンがいった。「キーンが出頭する前に逮捕して、逃亡犯人を取り押えたといい張ろうとするんだろう、そして……」
メイスンは、受話器をとりあげて、「ハロー」といった。
男の声が、「ダグラス・キーンです。メイスンさんですね」といった。
メイスンは、考えを集中するさまで、目を細くした。
「きみは、いまどこにいる?」
「パークウェイと七番街の四つ角です」
「腕時計を持ってるか?」と、メイスンが聞いた。
「ええ」
「いま、何時になっている?」
「十一時十三分前です」
「もっとこまかくいってくれ。秒までわかるか? 十一時十二分三十秒前になったら、『三十』といいたまえ」
「もうすぎてます」と、キーンがいった。「正確に、十一時十一分前になったら、十一といいましょう」
「確実に、ぴったりのときにいってくれよ」と、メイスンがいった。「というのは……」
「十一!」と、ダグラス・キーンが、相手の言葉にはかまわずにいった。
ペリイ・メイスンは、腕をあげて自分の時計を見ながら、「よし」といった。「きみの時計は、ぼくのより二十五秒おくれている。しかし、きみの時計はなおさなくてもいい。ぼくの時計を、きみのに合わせるから。ところで、しっかり聞きたまえよ。ぼくがここを出かけると、きっと警察の連中が、ぼくの後をつけて来る。きみのいどころへ、ぼくが行くだろうと思ってね。だから、きみは、ぼくの事務所に向かって歩いて来て、七番街の角で立っていてくれ――ちょうど、ぼくの事務所の建物の西だ――どこだか、わかっているね?」
「わかってます」
「正十一時十分すぎに」と、メイスンがいった。「いまいった角へ出て来て、最初に七番街をやって来る、東行の電車に乗るんだ。すぐに料金を払わなくちゃいけないが、電車の中へははいっちゃいけない。ぼくが声をかけたら、すぐに電車から飛び降りられるように、車掌のすぐそばに立っていてくれ。ぼくもその電車に乗るが、きみに気がついた顔もしないし、なんにも話しかけないからね。そのとき、若い女の子が、幌《ほろ》をたたんだクーペの、うしろの折り畳みのシートをあけたのを、電車にそって運転して来る。電車と同じ速度で、その自動車は走って来るからね。ぼくが乗ってから、一ブロックか二ブロック走ったところで、ぼくが『飛べ』とどなったら、きみは、その折り畳みのシートに向けて飛ぶんだ。できるかい?」
「ええ、できますとも」
「オーケー、ダグラス、大丈夫だね?」
「ええ、大丈夫です」と、青年は、すっかり、それまでの、気むずかしげな調子のなくなった声でいった。「ぼくは、ひどいばかな真似をしちゃったらしいですね。これからは、あなたと組んでやります」
「オーケー」と、メイスンがいった。「忘れちゃいかんぞ、十一時十分すぎを」
電話を置くと、メイスンは帽子をつかんで、デラ・ストリートにいった。「いまの話を聞いたね。やれるかい?」
デラ・ストリートは、もうそのときには、鏡の前で帽子の恰好《かっこう》をなおしていたが、「どう!」といった。「あたしが、先に出ましょうか?」
「いいや、ぼくが先に出る」と、メイスンがいった。
「それで、先生があの角へ行き着くまでは、あたしが車を出さないほうがいいんでしょう?」
「そのとおりだ。ホルコムが、ぼくの後をつける。ぼくが車を使うと思ったら、ホルコムも車を使う。きっと、この近所に一台置いてるだろうからね。ぼくが歩いて行くと思えば、かれも歩くだろう」
「先生が電車に乗ったら、あのひと、どうするでしょう?」
「わからん。きみの腕時計はどうなっている?」
「あたし、接続の内線電話で聞いてましたから、ダグラスのに合わせておきましたわ」
「いい子だ。さあ、出かけよう」
メイスンは、廊下を駆けてエレベーターに乗り、下へ降りると、わざと気まぐれに散歩しているのだという様子を見せて、ビルディングのロビーを通りぬけて、通りへ出た。表は、かなりの人ごみだった。メイスンは、ちらっと肩越しに、警戒の視線を走らせたが、ホルコム巡査部長の影も形も見えなかった。それでも部長がつけていることは、よく承知していた。狙った相手のすぐそばへ、それもしょっぱなから、寄って行くほど、そんな駆け出しのような真似をする男ではない。
メイスンは、通りを半ブロックほど歩いてから、とある店の前に立ちどまって、時計を見、眉を寄せ、時間をつぶそうとするようなふりをして、ショー・ウィンドーをのぞきこんだ。一分ほどして、もう一度腕時計を見てから、向き直って、通りの左右を見渡した。あてもなく五、六歩あるいてから、煙草に火をつけ、二口吸うと煙草を投げすてて、また時計を見た。これで三度目だ。
メイスンが立っている場所のまん前の車道に、安全地帯があった。メイスンは、まだ四、五分は時間をつぶさなければならんとでもいうように、ぶらぶらとその角の方へ歩いて行った。
メイスンの腕時計の針が、十一時十分をさした。
一ブロック向こうの交通信号に、メイスンはじっと目をつけていた。その信号の向こうから走って来た一台の電車が、こちらのブロックへ来るとスピードをおとし、安全地帯のところへ来てとまった。信号が変わって、電車は発車できなくなった。メイスンは、通りを向こう側へ渡ろうとでもするようなふうに、車道を歩き出してから、急に気が変わったという思い入れで、どうしようかと迷っているように立ちどまった。また信号が変わった。電車の運転手が発車のベルを鳴らして、電車が四つ辻にかかりかけた。その電車が目の前を通りすぎようとしかけたとき、メイスンは、ひらりと後部の踏段に飛び乗った。ダグラス・キーンが、車掌のそばに立っていた。
ばたばたと走る足音が、メイスンの耳にはいった。見ると、ホルコム巡査部長が力いっぱいに走って、スピードを出しかけた電車に、やっとのことで飛び乗った。とそのとき、デラ・ストリートが、メイスンのコンバーティブル・クーペの幌を畳んだのを運転して、全速力で電車のすぐうしろにつづいて来た。そのうしろには、ずっとたくさんの車が列になってつづいている。ホルコムが電車に飛び乗ったとたんに、デラ・ストリートが、さっと車を前へ出したので、うしろの折り畳みの座席が、キーンの立っている踏台と同じ高さに並ぶことになった。
「飛べ!」と、メイスンが大声で叫んだ。
キーンは、その車の折り畳みの座席をめがけて飛んだと思うと、うまくその座席のクッションの上に乗り移って、車の屋根をつかんだ。つづいてメイスンも自動車の踏板の上に飛び乗り、片方の手で前部の座席の背につかまり、もう一方の手で折り畳みの座席のくぼみにつかまった。ホルコム巡査部長は、車掌の前の料金箱の中に乗車賃をほうり込んだところだったが、「とまれ! 逮捕するぞ!」と、大声で叫んだ。
「ぶっとばせ、デラ」と、メイスンがいった。「電車を追い越すんだ」
デラ・ストリートの形のいい足が、アクセルをぐっと踏みつけた。クーペは、びゅうんと飛び出した。メイスンは、片脚をあげて車の横腹をまたいで、後部の座席へはいった。
「警察本部だ」と、メイスンはデラにいった。「全速力で飛ばしてくれ」
デラ・ストリートは、それにうなずこうともしなかった。ききとタイヤの音をさせて、交差点をまがった。交通巡査が呼笛を吹いたが、その最初の笛が通りに鳴り渡ったときには、かの女の車は、もう半ブロックもさきへ行っていた。左の手で運転しながら、右手の手のひらは警笛を鳴らしつづけていた。
メイスンは、前後の車の往来には、まるきり目も向けようともしないで、ただ、ダグラス・キーンにだけ注意を集中して、
「話を聞かしたまえ」といった。「いらん言葉はいわないでね。ぼくの耳にきみの口をぴったりつけて、どなってくれ。きみのいうことを、ひと言も洩さずに聞いておかなくちゃいかんからね。さあ、要点だけ話してくれ」
「エディス・ドヴォーが電話をかけてきたんです。その前に、サムが車に乗っていて、排気ガスを暖房用のパイプに送りこんでいたということを、あのひとから聞いていました。すると、そのときの電話で、会いたいから、すぐに来てくれ、大変なことが起こったからというんです。で、ぼくは出かけて行ったんです。玄関のベルを押したんですけど、返事がない。ところが、おりよくアパートの管理人が出かけるところでドアをあけたものだから、ぼくは、その際にするっと、なかへはいったんです。すると、管理人は、ぼくを引きとめて、誰に会いに行くんだ、名前はなんというんだと聞くんです。で、ぼくは、エディス・ドヴォーと会う約束になっているから来たんだと、そういってやったんです。相手は、ちょっとぐずぐずしていましたけど、そのまま行ってしまいました。ぼくは、廊下をエディス・ドヴォーの部屋まで行きました。あのひとは、床に倒れているじゃありませんか。そばに棍棒が落ちていて……」
「うん、うん」と、メイスンはどなるようにいった。「そこはいい。そのつぎに、どうした?」
「まっすぐ、自分のアパートへ帰りました。すると、ぼくよりも前に、誰かはいったやつがいたとみえて、ぼくの背広に血がいっぱいついているんです。そのときすぐには気がつかなかったんですけど」
「それは、猫をウィニフレッドのところへつれて行った後のことなんだね?」
「ええ、ウィニフレッドのところを出て、アパートへ帰って、そこで、エディス・ドヴォーのことづけを聞いたんです」
「それから、きみのアパートから、エディスに会いに出かけて行ったんだね?」
「そうです」
「アパートへ帰ってからどれくらい経って、背広に血がついていると気がついたんだね?」
「ほとんどすぐです」
「それから、どうした?」
「まったく怖ろしい夢を見ているようでしたよ。血痕を洗い落とそうとしたけど、だめでした」
「エディス・ドヴォーが殺されているのを見て、どうして警官を呼ばなかったんだね?」
「あわててしまったというだけの話なんです。警官は、ぼくに罪をきせようとするんじゃないかという気がしたんです。ひどくぎょっとして、おびえてしまったんですね。ただもう、無我夢中で逃げ出しちゃったんです。すると、こん度は、ぼくの衣類がみんな血だらけになっている……ああ! まったく悪夢でした!」
「きみがアシュトンを殺したのか?」
「むろん、ちがいます。会いもしなかったんです」
「きみは、猫をとりに、あの屋敷へ行ったのか?」
「そうです」
「アシュトンの部屋へは、はいったんだね?」
「ええ」
「なにか探したか?」
青年は、もじもじして返事をしなかった。デラ・ストリートは、トラックを避けようとして、車をぐるっと大きくまわした。とたんに、車は脇へそれて、一本の電柱の方へぶつかりそうになった。デラ・ストリートは、夢中になってハンドルをまわし、車を立て直した。ペリイ・メイスンは、デラが必死に車を立て直そうとしているとき、ちらっと通りの前方へ視線を走らしただけで、ダグラス・キーンの耳に、ぴったり口を寄せていった。「あの部屋にいるとき、なんか探しまわったのじゃないのか?」
キーンは、もじもじしていた。
「さあ、こたえたまえ」
「ええ、あるものを探しました」
「なにを?」
「証拠です」
「なんの証拠?」
「わかりません。ぼくは、アシュトンの金の使い方に、なんだか怪しいものがあるように思っていたんです。それで、ただそこらへんを探しただけなんです。ジム・ブランドンが、アシュトンは松葉杖の中にダイヤモンドを隠してるといったもんですから」
「きみは、手袋をはめていたか、それとも、手袋なしで、指紋を残したのじゃないか?」
「きっと、指紋を残したでしょうね」
「それで、どうだ、キーン、アシュトンは、ほんとうにいなかったのか? 死んでいたのじゃないのか? なにか隠そうと、きみはしているのじゃないのか?」
「いいえ」と、キーンがいった。「アシュトンは、いなかったんです。ぼくは、本当のことをお話してるんですよ」
「アシュトンが帰る前に、きみは、あの家を出たんだね?」
「誓います、メイスンさん、真実はそうなんです」
デラ・ストリートは、すっかり正しい運転を取りもどしていた。いくつもの四つ辻が、稲妻のように、びゅんびゅんと通りすぎて行った。やがて、デラはブレーキを踏んで、車をターンさせた。
「いま、ぼくに話したことを、誰にもいっちゃいけないよ」と、メイスンがいった。「きみは、これから警察本部へ出頭するんだが、ぼくがいっしょにいないときは、供述をしないとことわるんだよ。ウィニフレッドをかばうためには、どうしてもそうしなくちゃいけない。いったん、きみが口を開いたら、ウィニフレッドが巻き添えになるんだからね。かの女のために、黙っていられるかね?」
青年はうなずいた。
デラ・ストリートが、すっかりターンさせてしまうと、車は横すべりをし、ぐっとブレーキがかかって、警察本部の前にとまった。メイスンは、キーンの腕をつかんで、せき立てるように、かれを車からおろし、階段を駆けあがった。本部の入口にはいろうとするとたん、徴発した自動車がききっと鋭い音を立てて車道のはずれにとまり、右手にピストルを構えたホルコム巡査部長が、その車から飛び降りて、二人の後を追って力いっぱい走って来た。メイスンは、せき立てるようにキーンを押して『殺人犯捜査課』と書いたドアのところまで廊下を進み、足でドアを蹴りあけて、さりげない口調で、デスクの前の係員にいった。「これがダグラス・キーンです。拘置されるために任意出頭しました。きのう、わたしからお知らせしておいたとおり……」
と、ドアがぱっとあいて、ホルコム巡査部長が、部屋に躍り込んで来るなり、
「さあ、こん度こそは、きさまをつかまえたぞ」と、メイスンにいった。
「なにをしたというのだ?」と、メイスンが聞いた。
「公務執行妨害だ」
「妨害なんかしなかったよ」
「おれが、この男を逮捕しようとしていると、きみは、おれからこの男をつれて行ってしまったじゃないか。きみが、こいつを本部へつれて来たからって、そんなこと知っちゃいないよ。おれは、きみがこいつを、ここへつれて来る前に逮捕してしまったんだから」
「逮捕したとは、きみにはいえないだろう」と、メイスンがいった。「実際に、身柄を拘束してしまわないうちは。きみが拘束してしまった後なら、逃亡ということもできるだろうが、拘束しないうちは、逮捕はありえないのだぜ」
「しかし、おれが逮捕できないように、きみは、その男を逃がしたじゃないか。だから、そのために、きみを逮捕してやるんだ」
メイスンは、にっこり笑いをうかべていった。「きみは、一つ見落としていることがあるぜ、部長。重罪が実際に行われて、しかも、逮捕しようとする人間が、その重罪を犯した人間であると信ずべき理由がある場合には、一般市民といえども逮捕することができるんだ。だから、ぼくが、ダグラス・キーンを逮捕したのさ」
ホルコム巡査部長は、ピストルをケースにもどした。デスクの前にいた係員が、「安心してくださいよ、部長。メイスンが、この男を出頭させましたから」
ホルコム巡査部長は、ひと言もいわずに、くるっと向き直って、さっさとドアから出て行った。新聞記者が一人、部屋へ駆け込んで来たと思うと、メイスンの腕をつかんで、「キーンとインタビューしてもいいですか?」とたずねた。
「いいですとも」と、メイスンが相手にいった。「ダグラス・キーンがいうと思うことは、全部、正確に、ぼくがお話できます。ああ、きょうは、この季節としては申し分のない、いい天気ですな、キーンのお話はこれだけ。ねえ、きみ、これで、まったく、おしまい」
第十五章
ペリイ・メイスンは、デラ・ストリートに車を運転させて事務所へ帰る途中だったが、いかにも満足そうに、くっくっと笑いながら、「五番街で左へまがってくれ」といった。「そして、まっすぐユニオン駅へ行ってくれ」
「ユニオン駅ですか?」と、デラがたずねた。
メイスンはうなずいて、「事務所は、これから大騒ぎだよ――そうだろう、新聞記者だの、警官だの、探偵だの、地方検事だの、ごまんと押しかけて来るだろうからね。ぼくは、電話をかけたいから、きみが荷造りをするあいだ、駅へ行こうと思うんだ」
デラは、交通規則や信号にはおかまいなしに街路を横切る歩行者を、器用によけて車を走らせながら、ちらっと横目でメイスンを見て、「あたしが荷造りするあいだってなんのことですの?」
「スーツケースを二つに」と、メイスンがいった。「軽い、航空機用のトランクを一つ、もし、きみが持っていればね」
「持ってますわ」
「きみのパーティ用の衣装を全部詰めてね。一流のホテルに、きみは泊まるんだ。そして、すばらしい様子をして――大役を演ずるのさ、ね」
「どんな役を演じるんですの?」
「花嫁さ」
「相手の男は?」と聞いたとたん、交通信号が赤になったので、デラは、車をとめた。
「相手の男はね、ほんのちょっと現われるだけで、大至急、町へ呼びもどされるので、きわめて実質的に新婚旅行に邪魔がはいるというわけだ」
デラは、静かな、おちついた目で、メイスンの目をまっ正面から見つめていたが、その目には、いたずらっぽい光がちらっとうかんでいた。「それで、夫には誰がなりますの?」
メイスンは、軽く頭を下げて、「新婚旅行というものには未経験ながら、小生が全力をつくして間の抜けた花婿の役をつとめさせていただきます。もっとも、ホテルに着いて宿帳に名前を書いてから、緊急の用事で町に呼びもどされるまでの数分間ではございますがね」
デラの目は、いつまでもメイスンの横顔にとまっていた。前方の交通信号は、赤から黄に、黄から緑に変わったが、デラの目は、いっこうその方に向かなかった。うしろでは、ぽかんとしているかの女を正気づかせようとして、なにをしているんだといわんばかりの警笛のコーラスがはじまっていた。かの女は、活気にあふれた声で「あなたったら、いつでも、演技は完全にやるものだと思っていらっしゃるくせに」といった。「新婚早々の夫が、自分の新婚旅行を中断するなんて、おかしくはないのかしら?……」
ぶうぶうと鳴り響く警笛がいっそう激しくなったので、ふっと、かの女も気がついた。見ると、右側の車の往来は流れるように動いているのに、左側とまうしろの車の列は、かの女の車にとめられてしまって前に進むことができないで、自動車の警笛が示しうるかぎりの癇癪《かんしゃく》をぶちまけていた。
「あら、まあ」と、デラは、すばやく目を正面へもどして、交通信号の緑色に気がついたとたん、妙に冷静な口調でいった。「うしろにいる可哀そうな連中、あたしが、いまや新婚旅行に出かける花嫁さんだと知ったら、どうするかしら」
かの女は、蹴るように足でギヤを入れ、アクセルを踏んで、コンバーティブルをさっと飛び出させた。そのスピードたるや、いっきに交差点を突っ切ってしまうほどのスピードだったので、うしろでぶうぶう警笛を鳴らしていた連中は、腹を立てていた相手がいなくなったばかりか、自分たちののろのろした動きが、かえって車の流れをとめていて、肝腎のコンバーティブルは、もう半ブロックも先に行ってしまっているのに気がつく始末だった。
メイスンは、煙草に火をつけて、かの女に差し出し、かの女がそれを受けとると、自分にも、もう一本火をつけて、「すまないね」といった。「きみに、こんなことを頼んで、デラ。だけど、ぼくの知っている人間で、信頼できるのは、きみ一人だけだからね」
「新婚旅行について?」と、かの女は、そっけない口振りでたずねた。
「新婚旅行についてさ」と、メイスンは、ぶっきらぼうな口調でこたえた。
デラは、タイヤがききと鳴るほど、手荒くハンドルをまわして、車を左に切り、ユニオン駅の方へ向けた。
「なにも途中で交通違反の呼び出し状を集めなくてもいいんだぜ」と、メイスンがいった。
「黙っててよ」と、デラがメイスンにいった。「あたし、自分の頭をまとめたいのよ。交通違反なんか、くそくらえだわ」
かの女は、器用にほかの車をよけて、一気に通りを駆け抜け、ユニオン駅の前に車をとめた。
「ここで待つんですね?」と、デラはたずねた。
「うん」と、メイスンがいった。「たっぷり着物を持ってね」
「いいわ、先生」
メイスンは車を降り、車のうしろをまわって、帽子をぬいで、しばらく歩道のへりにたたずんだ。デラは、まっすぐに座席にすわっていた。車を運転するのに、脚が自由に動かせるように、スカートをぐっとたくしあげていたので、まことにお誂え向きに、かの女のすてきな脚の形をさらけ出していた。顎をあげ加減にして、目つきは心もち挑戦的だった。かの女は、かれの顔を見て、微笑をうかべて、「ほかに、なにか?」とたずねた。
「うん」と、メイスンがいった。「これからは、この上なしの新婚旅行らしく振舞ってもらわなけりゃならないからね、ぼくを、先生というのだけはやめてもらおう」
「オーケー」というのにつづいて……「|あなた《ダーリン》」といったと思うと、いきなり身を乗り出して、驚いているメイスンの唇に、口を押しつけた。と思うと、まだメイスンが身動きもできずにいるうちに、クラッチをもどし、アクセルを踏んで、弾丸のように歩道のふちから飛び出して行った。メイスンは、唇に口紅の跡をつけたまま、びっくりして目をぱちくりとさせながら、歩道に立ちつくしていた。
かたわらの新聞売子が、くすくす笑っているのが聞こえた。メイスンは、きまり悪そうに苦笑しながら、口許の口紅をふき、電話のボックスの方へ歩き出した。
ウィニフレッド・ラクスターを呼び出すと、すぐに、電話からかの女の声が聞こえてきたので、「うまくいったよ、ウィニフレッド」といった。「きみのボーイフレンドは、ぼくの期待どおり立派に男らしくやったよ」
「というと……あなたに連絡をとってきたんですね?」
「いま、留置場にいるよ」と、メイスンがいった。
あっと、かの女は叫び声をあげた。
「しかし」と、メイスンは、重々しい口調で望みを持たせるようにいった。「長く、そこにいるわけじゃないのだが、ぼくに連絡をとろうとしちゃいけないよ。わたしは、事務所にはいない。なにか新しいことが起こったら、すぐ、こちらから連絡をします。新聞記者がインタビューをしたがっても、しゃべっちゃいけません。写真をとらしてくれといったら、ワッフル焼きのカウンターの中でなら、店の前でなら、いくらでもポーズをしてやりなさい。うまくやれば、ウィニーのワッフルには大いに宣伝になる」
「宣伝ですって!」と、かの女は、ふんと鼻であしらうように大きな声でいった。「あたしのほしいのは、ダグラスなの。あのひとのところへ行きたいんです。あのひとに会いたいんです」
「それだけは、あなたにもできないよ。もし、面会を許されたら、ダグラスは、あなたにいろいろ話をするだろうが、わたしは、ダグラスにしゃべってもらいたくないのだ。それはとにかくとして、たぶん、警察では面会させないだろうね、どうしても。まあ、わたしがこの事件をかたづけるのに、そう長くはかからないと思っているからね」
「ダグラスが犯人だとは思っていらっしゃらないんですね?」
ペリイ・メイスンは、陽気に声を立てて笑いながら、「あれだけ立派にやりとげる青年が、犯人であるはずはないよ」といった。「ただ、あの子は若いもんだから、気が転倒しちゃっただけさ。その点で、かれを責めちゃいけない。もっと年をとった男でもあわてて逃げ出すような、ひどいでっち上げにぶつかったんだから」
「じゃ、あれはでっち上げだったんですのね?」
「むろん、でっち上げですよ」
「あなたがそうおっしゃったって、いってもいいかしら――ね、誰かに聞かれたときに……」
「いけない」と、かれは、相手にいって聞かせた。「いまから四十八時間は、ワッフルを焼くことに、精神を集中することですね。じゃ、さよなら、わたしは、汽車に乗るから」とそういって、かの女がぐずぐずいわぬさきに、メイスンは電話をきった。
メイスンは、また一枚ニッケルを入れて、ドレイクの事務所を呼んだ。ポール・ドレイク本人が電話に出た。
「山ほど聞き込んどいたぜ、ペリイ」と、ドレイクがいった。「電話で聞くかい?」
「いってくれ」
「うんざりするほどあるぜ」
「どんなことだ?」
「ポーカーをやっていたんだ――エディス・ドヴォーの殺されたアパートメント・ハウスでね。ポーカーは、エディスの部屋と同じ階のほかの部屋でやってたんだ」
「それがどうした?」と、メイスンが聞いた。
「それで、そのポーカー仲間の一人が、新聞で殺人のことを読んで、その晩ポーカーをやっていたこと、そのゲームの最中に、隣りの部屋の者だといって突然はいり込んで来た奇怪な紳士のことを、警察に報告するのが市民の義務だと考えたというわけだ。その怪紳士が割り込んで来たのは、ちょうど警察が現われたのと同じ時刻だったので、その男が犯罪に関係があるのじゃないかという気がしたというんだ。警察では、さっそく、犯罪に関係のある主要人物の写真を全部、その男に見せた。それからこん度は、その怪紳士の人相を聞いてから、きみの写真を見せたところが、即座にこれだといったそうだ」
「その話の教訓はね」と、メイスンがいった。「見ず知らずの人間と、トランプ遊びをするなかれ、ということだ。それで、おまわりはどうしてる? 重大視してるかね?」
「してると思うね。それについて、ホルコム巡査部長が、すっかり手配をしている。きみは、どうせ外をほっつき歩いてるんだろう、ペリイ?」
「おれだって、のべつ事務所にへばりついてはいられないさ」と、メイスンはにやりと笑った。「それに、その件も時間外のことだろう?」
「うん。とにかく、きみが知っとくほうがいいと思ったんでね。だが、もう一つおかしなことがあるんだ。その男が、ほかの写真のうちで、もう一つ知っていた――それが、サム・ラクスターなんだ。十一時十五分ごろに、廊下でサムに会ったというんだ。そこで、サツではラクスターを呼んで面通しさせたら、確かにこの男に違いないというんだ」
「サムは、なんといってる?」
「なにもいわない。シャスターが一人で、なにからなにまでしゃべっている。シャスターのやつったら、その男は酔っぱらってたんだとか、廊下の照明がよくなかったとか、サムは現場の近くには立ち廻らなかったとか、その男は自己宣伝屋だとか、それからまた、サム・ラクスターとダグラス・キーンとはひどく似ているから、その男が見たのはキーンだとか、その男は眼鏡をかけていないからよく見えるはずがないとか、しまいには、嘘つきだとまでいってるよ」
「いままでのところ、いってることはそれだけか?」と、メイスンはたずねて、送話器に向かってにやっと笑った。
「うん、だけど、もうすこし時間をくれ。そうしたら、なんかほかのことを思いつくよ」
「ぼくもそう思うよ。警察はサムを逮捕したのか?」
「地方検事の部屋で訊問中だ」
「そして、シャスターは、その場にいないんだね?」
「むろん、シャスターはいない。だから、サムは、しゃべらないだろう」
「エディス・ドヴォーがいつ殺されたか、警察でははっきりわかってるのか?」
「いや、救急車が着いたときには、女は死んでいた。頭蓋骨を割られてね。死そのものは、救急車の着くすこし前だったらしいが、いつ殴られたかはまた別の問題だ。即死だったかもしれないし、一時間か二時間、意識不明で、それから死んだのかもしれない。だから、襲われた時刻をきめることもできんらしい。あの女とオーフレイとの結婚のことは、いまでは、警察も知っている。牧師のミルトンから供述をとったし、オーフレイも知ってることは全部しゃべった。結婚式が行われたのは、ちょうど十時というところで、ポーカーをやっていた連中が加わって、浮かれ騒いだ。その連中は、十五分か二十分いて引きあけて行った。オーフレイは、十一時十分前ぐらいに帰ったといってる」
「オーフレイが式の後、一時間もしないうちに帰って行ったのは、ちょっと変わってるじゃないか」と、メイスンがゆっくりした口調でいった。
「オーフレイに関する限り、あいつはシロだよ」と、ドレイクがいった。「警察でも、あの男の話が嘘か本当かあたってみたらしいがね。十一時十分前ごろに向こうを出て、十一時五分か十分すぎに屋敷に帰っている。だから、アシュトン殺しには、完全なアリバイがある。アシュトンは、ちょうど十時三十分ごろに殺されているからね。とにかく、十時二十分まで、オーフレイがエディス・ドヴォーの部屋にいたと証言のできる人間が、四、五人いるし、十一時数分前に、そのアパートメント・ハウスを出て行くところを見たという人間も一人いるんだ。それから、屋敷の家政婦は、十一時十分すぎごろに、オーフレイが帰って来たのを見ている、というわけだ」
「オーフレイがアパートを出る前に、エディス・ドヴォーの頭をぶち割ることができただろうか?」
「いや。女は、十一時には生きていたんだな。ポーカーをやっていた連中の部屋をノックして、マッチを貸してくれといったそうだよ」
「ゆうべは、事件の関係者が誰も彼も、エディス・ドヴォーの部屋へ行ったらしいね」と、メイスンは、考えこみながらいった。「きっと披露宴を開いたんだな」
「そりゃ当然だろう」と、ドレイクがいった。「あの女が、サム・ラクスターについて知ってる事実を、前からしゃべっていたことを考えればね。そういう噂は、すぐひろまるもんだからね。
「率直にいって、ペリイ、きみは、すごく有利になってきたぜ。いまのところ、情況はサム・ラクスターには、かなり黒というところだね。かれが力とたのむただ一つのアリバイは、アシュトンが殺された時刻に、シャスターの事務所にいたということだけだ。バーガーが、ピーター・ラクスターの死体発掘の手続きをとったときに、シャスターが誰かからこっそり知らせを受けたので、シャスターがサムに電話をかけ、サムがかれの事務所へ出かけたということが、いまでは明るみに出ているんだ」
「あのシボレーのことは、なにかわかったかい?」と、メイスンがたずねた。
「あのシボレーと同じものかどうかは証明できないんだが」と、ドレイクがいった。「しかし、泥よけのへしゃげた古シボレーが、十一時ごろ、エディス・ドヴォーの住んでいたアパートメントハウスの前にとまっていたのに気のついた人間が、二人ほどいる。そのうちの一人の証人は、はっきりその車のことをおぼえている、というのは、そのシボレーのすぐうしろにビュイックの新車がとまっていて、その二台の車の違いに、はっきり気がついたといってるんだ」
メイスンは、ゆっくりとした口調でいった。「サム・ラクスターが、家を出かけるときには緑色のポンテアクに乗って行ったのに、帰るときには管理人のシボレーに乗って来たのはどういうわけか、それをサムに問いただしたらどうかと、警察にこっそり知らせた人間がいたとは思えないかね?」
「そりゃ、おれから、聞いてみろと、こっそり知らせてやることもできたんだけど、そうしたって、なんの役にも立たないだろうよ。ラクスターは、黙秘権を行使してるんだからね。あの男は、なんだか古くさい手を使って、むやみに話を秘密めかしているんだ――シャスターの事務所を出てから一時間ほど、ある人の細君のところですごしたが、その女の名誉を傷つけるわけにはいかんというようなことをいってるんだ」
メイスンは、いかにもおかしそうに声高く笑いながら、「やれやれ、驚いたね」といった。「シャスターのやつ、まだそんなアリバイを、性こりもなく使ってるのかね? この十年間というもの、あいつの依頼人という依頼人はみんな、その手を使っているんだぜ」
「ところが、ときどきは、あれが陪審に受けることもあるんだからね」と、ドレイクが強く注意するようにいった。「しかし、まあなんとかいっても、きみがうまく立ち廻りさえすれば、キーンには、すごく有利になるね」
「むろん、うまくやるつもりだ」と、メイスンは、重々しく言葉をつがえた。「それでクラマートの自動車の件はどうだ、なにがわかったかい?」
「いくらかはね」と、ドレイクがいった。「ワトスン・クラマートが、ビュイックのセダンを一台買い入れて、州の許可証をもらったということがわかった。番号は、三D四四―一六だ。エンジン番号と車体の番号は、まだ調べがつかないが、なあに、すぐわかるさ。国際自動車損保会社と全額賠償の保険契約を結んでる」
「クラマートの人相はわかったかい?」と、メイスンがたずねた。
「いや、まだだ。だが、いまやってるとこだ」
「そんなら、それはやめてくれ。ワトスン・クラマートなんか、思い切りよく捨ててしまうんだ。部下を呼びもどして、もうこれ以上たずねてまわるなといってくれ。こん度は、まったくよくやってくれたな、ポール。もういいから、すこし眠っていいよ」
「というと、もうなにもいらないというんだね?」
「もう後はいらない。きみに関するかぎり、この事件はおわりだ。これ以上調べることはごたごたを起こすだけだ」
ドレイクは、ゆっくりとした口調でいった。「うん、自分の仕事のことは、自分が一番よく知ってるだろうからな、ペリイ……ところで、一つ知らせとくことがある。警察本部で聞き込んだんだが、連中は、早急にダグラス・キーンに対する予備審問を開いて、サム・ラクスターを証人として喚問するつもりでいるらしいよ。そのときに、殺人の行われた時刻に、どこにいたかを聞くだろうね。ラクスターは、そのある人の細君という女の名前を吐くか、法廷侮辱で収監されるか、お好きなほうを選ばせられるということになるだろうな」
「目下の情況じゃ、たぶん、法廷侮辱罪でほうり込まれて、新聞の同情を買うことになるだろうな」と、メイスンがいった。「ほかになにかあるかね?」
「アシュトンは、かなり深く、この事件に首を突っ込んでいるな」と、ドレイクがいった。「ラクスターの金の大部分を、かれがぽっぽへ入れたと、警察は考えはじめているね。これは、きみにもなにか特別に意味があるんじゃないのかな?」
「確かにあるね。事件の鍵はそれだよ。あらゆる事実が、アシュトンにかかっているんだ」と、メイスンがこたえた。
それを聞いて、ポール・ドレイクが、興奮した質問をしたが、弁護士は、聞こえないふりをしていった。「じゃ、ぼくは汽車に乗るよ、ポール。さよなら」
メイスンは、受話器をかけ、腕時計を見てから、旅行用品専門の雑貨店へはいり、ハンドバッグや二、三枚の衣類を買って、駅へもどった。それから構内の電報局へ行って、一通の電報を打った。宛名は、サンタ・バーバラ市ビルトモア・ホテル気付、ワトスン・クラマート。電文はつぎのとおりだった。
新統制法ノ成立ニヨリ業界ニ動揺アリテ貴下ノ合併案不成立ノオソレアルヨシニューヨーク支店ヨリ長距離電話アリ」大至急帰レ」サンタ・バーバラヨリロサンゼルスマデ専用機ヲ借リテ飛ビ最初ノ大陸横断機ニテ東ヘ飛ベ「反対派ニ知レヌヨウ偽名ニテ切符買ツタ」到着ヲ待ツ
メイスンは、すこしもためらわずに、同業の、この市での第一流の法律事務所の名を、発信人の欄に書き込んだ。最も報酬の多い、会社関係の法律事務や遺言検認などだけを専門に扱う、財界や政界に名声のある法律事務所だ。
かれは、電報料を払い、電報が発信されるのを見とどけた。
かれは、もう一度腕時計を見、ぐっと背を伸ばし、あくびをしてから、くすっと一人笑いをして、電話ボックスに歩み寄った。ハミルトン・バーガーの自宅の電話番号といっしょに住所も調べてから、電話会社を呼び出して、「電報を願います」といった。
すぐに、若い女の声で、「どちらへお打ちしますか?」というのが聞こえた。
「テルマ・ピクスレイ、東ワシントン通り三八二四番地です」
「それで、電文は?」と、女の声がたずねた。
「アナタノ人格、容姿、才能ニ敬服シマシタ」メイスンが、ゆっくり口述した。「コノタビノ出来事ニヨリ、アナタハ失業サレルノデショウガ、ソノアト私ノタメニ働イテクダサルヨウ切望シマス、私ハ独身、高給ヲサシアゲマス。万全ヲ尽シテ取リハカライマス。至急コノ電報持参、私ノ事務所ヘオイデクダサイ。給料ソノ他面談シマス」
「発信人のお名前は?」と、事務的な女性の声がたずねた。
「ハミルトン・バーガー」
「料金は、電話料のほうへおつけしてよろしいですか、バーガーさん?」
「はい、どうぞ」
「番号は、何番でしょうか?」
「エキスポジション九六九四九番です」
「ご住所は」
「ウェスト・レークサイド三二九七番地」
「ありがとうございました。バーガーさん」と、その声がいった。
メイスンが、受話器をかけ、ボックスを出て、駅の正面入口に立ち、煙草を二、三本吹かしたところへ、ようやくデラ・ストリートがかれの車でやって来て、歩道にぴったりと横づけにしたので、メイスンは、顎をしゃくって赤帽を呼んだ。赤帽は、メイスンの荷物を後部の座席に、やっとの思いで積み上げた。
「これから」と、メイスンがいった。「ビュイックのセダンの新車を買おうと思うんだが、なるべく都心を離れたところにある代理店へ行きたいんだ。その前に、まず銀行へ寄って、すこし金を引き出して行ったほうがいいね」
デラ・ストリートは、きびきびと、事を要領よく運んで行った。言葉と、いい様子といい、ついさっきステーションを離れて行ったときに見せていた花嫁気取りのところは、いささかもなかった。
「はい、先生」と、デラはいった。
メイスンは、かすかに微笑をうかべただけで、なんにもいわなかった。
デラは、慌しい車馬の往来の間を巧みに車を走らせて、銀行の前でとめた。メイスンは、腕時計を見て、まだ閉店時間には間があるのを確かめて、いった。「その消火栓の前に駐車していてくれ。小切手を一枚、現金に換えるだけの間だから」
かれは、銀行へはいって行って、三千ドルの現金を受けとると、それをポケットにつっ込み、車にもどって、いった。「商業地区を離れたビュイックの代理店がいいね。ここに代理店の名簿がある。ええと、待ちたまえよ。このフランクリンにある店が、ちょうどお誂え向きだな」
メイスンは、どっかり座席にもたれて、煙草をふかした。デラ・ストリートは、口をきかずに、巧みに車を走らせた。やがて、「ここかしら?」と、デラがたずねた。
「そうだ」
「あたしも行くんですか?」
「いや、きみは、この車に乗ったままでいたまえ。新しいのは、ぼくが運転して行くから」
メイスンは、その代理店の店内へはいって行った。感じのいいセールスマンが、にこにこしながら、近づいて来て、「新車でございますか?」とたずねた。
「セダンの新車が一台ほしいんだがね。付属品を一式揃えて、いくらだね?」
セールスマンは、ポケットから手帳を取り出して、値段を告げて、「実地に試運転をなさいますんでしたら」といった。「さっそく手配をいたしまして……」
まだしゃべりつづけようとしていたセールスマンは、メイスンがポケットから紙入れを取り出して、いきなり札束を数え出したのを見て、はっと驚いて、途中で言葉を呑み込んだ。
「いまいったその型があるかい。あるんなら、その現物見本を買いたいんだ」と、メイスンがいった。
セールスマンは、息がとまるほど驚いたが、すぐに気をとり直して、如才なくいった。
「はい、かしこまりました。すぐに書類をお作りいたします。お名前はなんとおっしゃいますんですか?」
「クラマート、c―l―a―m―m―e―r―t、ワトスン・クラマートだ」と、メイスンがいった。「すこし急ぐんでね。売渡し証明書とか、そのほか必要なものを全部そろえてくれ」
十五分後には、手間どるのでいらいらしていたメイスンは、汚れ一つない見本車を運転して、代理店の横の出口から出て来た。メイスンが、ほとんど目につかないほどの身振りで合図をすると、デラ・ストリートは、そのビュイックの後から車を動かして、町角をまがった。一ブロック行ってから、メイスンは車をとめて、コンバーティブル・クーペから新しいセダンに、荷物を移した。「さて」と、メイスンはデラに向かって、「一番さきにぶつかった保管ガレージに寄って、コンバーティブルを預けよう。きみは、ビュイックを運転しろ。ぼくがクーペを運転して、さきに行くから。ぼくがガレージにはいったら、きみは、その前でとめて待っていてくれ」
「新婚旅行は、いつはじまるんですの?」と、デラがたずねた。
「そのガレージから出るなりはじまりだ」と、にやっと笑いながら、メイスンがいった。
「それで、その新婚旅行を本物になさるおつもりなのね?」
メイスンは、鋭くデラの顔を見た。
「つまりね」と、デラは、無邪気に目を丸くしていった。「本物の新婚旅行らしくなさりたいのでしょう?」
「むろんさ」
デラはうなずいて、くすくすと笑った。
メイスンは、数ブロックその通りを行って、保管ガレージを見つけて、クーペを乗り入れた。数分すると、預り証をポケットに入れながら、メイスンは出て来た。
「われわれの新婚旅行のつぎの行程は」と、かれがいった。「サンタ・バーバラのビルトモア・ホテルだ。きみは、これからは、ワトスン・クラマート夫人だからね。間違えないようにしたまえ。細かいことは、これから途中で話すよ。それはそうと、この車は、エンジンにふたはついているが、たっぷりスピードは出るはずだが、きみは、スピード違反でやられたことがあるかい?」
「今年は、まだよ」
「じゃ、ひとつ、やってみるのもおもしろいかもしれないね」
メイスンはそういって、楽々とクッションにもたれた。
「ええ、いいわ、あなた」と、デラ・ストリートは、取り澄ましていったかと思うと、品のいい靴をはいた足で、ぐっと乱暴にアクセルを踏んだからたまらない、車はぐぐっと一気に飛び出し、反動で、メイスンは、頭をうしろにぶっつけた。
第十六章
ホテルのベルボーイたちは、小まめに立ちまわって、新しいビュイックから荷物をおろした。西へまわった日が、太平洋に傾きかけて、金色に輝く海と濃紺の空とを背に、くっきりと彫り込んだように、シュロの葉を黒く影絵のように浮き立たせていた。この豪華なホテルは、その異国風《エキゾチック》な趣きの背景のために、昔のスペイン統治時代のおちついた静けさを伝えているようだった。
「新婚旅行には、理想的なところだね」と、デラ・ストリートに手をかして玄関をはいりながら、メイスンはいった。
メイスンが、フロントの前に立つと、クラークが、記名用のカードと万年筆をさし出した。
メイスンが、「ワトスン・クラマート」と名前を書き終わったとたん、すぐうしろで、びっくりした女の叫び声が、つづいて、くすくすという忍び笑いの声が聞こえた。
振り返って見ると、外套《がいとう》をふるっているデラ・ストリートの足もとの床に、シャワーのように米粒が落ちていて、クラークも微笑をうかべて、その様子を見ている。メイスンは、まったくあきれたという顔色をしたが、茶目っ気たっぷりなデラ・ストリートの目がまたたくのを見ると、大きくため息をついた。
「ごめんなさいね、あなた」と、デラがいった。
メイスンは、にこにこと笑っているクラークの方に向き直った。
クラークは、カードを自分の方へ向け直して、メイスンが書きつけた名前を見ると、デスクの下の仕切りの方へ手を伸ばして、「電報がまいっております、クラマートさま」といった。
メイスンは、渋面をつくって、電報を開き、カウンターの上にひろげた。デラ・ストリートがぴたっとメイスンに身を寄せ、片手をかれの頸にかけ、肩に頬を寄せた。
電文を読んだとたん、かの女は、びっくりして息を呑んだ。メイスンも、厄介なことが持ちあがったというような叫び声をあげた。
「でも、まさかいらっしゃらないわね、あなた!」と、行っちゃいやというような口吻で、デラ・ストリートがいった。
メイスンは、うっかり電報をそこに置いたまま、向き直ってカウンターをはなれ、「むろん、行かないよ」といった。「行くなんてことは考えもしないが……それにしても……」
「いつでも、仕事に邪魔されてばっかり」と、いまにも泣き出しそうな声で、デラが、わざとみなに聞こえるようにいった。
クラークやベルボーイたちが、その場の様子を見守っていた。
「とにかく」と、メイスンは、いくらかぎこちない口調で、クラークにいった。「部屋へ通してもらおう」
そういって、メイスンは、エレベーターの方へ大股で歩き出した。
「ですが、まだご希望をおっしゃっていただいておりませんのですが」と、クラークがいった。
「手前どもには……」
「ここの一番上等の部屋だ」と、ぴしっとメイスンがいった。「さっさと頼むよ」
「かしこまりました、クラマートさま」といって、クラークが、部屋の鍵を、一人のベルボーイに渡した。
エレベーターを待っているうちに、デラ・ストリートが泣き出した。「ねえ、そうでしょう、いらっしゃるんでしょう」と、とうとうハンカチを顔にあてて、啜《すす》り泣きになってしまった。
メイスンは、しかめ面をし、しゃちこばって立っていた。ふと、その目を手提鞄《てさげかばん》におとすと、古靴が一つ、ハンドルからぶらさがっている。「いったい、どうしたんだ」と、かれが強い口調でたずねた。「なんだって、こんな……」
デラ・ストリートは、ハンカチを顔にあてて泣きつづけていた。
エレベーターがとまって、ドアがあいた。メイスンとデラ・ストリートがはいり、ベルボーイが二人の後につづいた。五分後には、二人は、静かな青海原を見渡す、角の部屋におちついた。
「このいたずらっ小僧め」と、ドアがしまるのを待って、メイスンがいった。「いったいなんのつもりだい、あの米だの古靴だのの一件は?」
デラは、どこまでも無邪気な目つきで、「いかにも新婚らしく見せろというご注文でしょう」といった。「だから、なにかしなくちゃいけないと思って細工をしたのよ。でも、あなたは、まるきり花婿さんらしくなかったわ。わたしの見たところじゃ、あなたの演技は失敗というとこね。花婿というよりも、実業家か、活動家の弁護士てな役割を演じてるというとこだったわ。愛情というものを、まるきり示さないんですもの」
「ホテルのロビーで、新郎は、新婦にキスなんかしないよ」と、かれがいった。「それはそうと、きみは、ほんとうに泣いてたのかい? まるで、ほんとに泣いてるようだったじゃないか」
デラ・ストリートは、その問いなど耳にはいらぬふりで、「わたしが結婚したことなどないってことは、よく知っていらっしゃるわね。結婚についてのわたしの知識といえば、お友だちから聞いたことと、本で読んだことだけ。つぎは、どうすれば、いいのかしら? 手に手をとって、夕日かなにか見に散歩に出るのかしら?」
メイスンは、デラの両肩をつかんで、ゆすぶりながら、「しっかりしろ、いたずらっ児め、ふざけるのはよせ。これからどういう役割をつとめるか知ってるんだろう?」
「もちろんよ、忘れるもんですか」
メイスンは、スーツケースをあけて、玉葱《たまねぎ》を一つ取り出した。鹿爪らしい顔をして、その玉葱を二つに切り、かの女に渡しながら、「嗅ぐんだよ」といった。
デラは、いかにもいやそうに顔をしかめ、その玉葱を目の下へ持って行って、近づけたり離したりした。メイスンは、電話のそばに立って、満足そうにうなずきながら、玉葱のきき目があらわれて来るのを見守っていた。
デラ・ストリートは、玉葱を落として、ハンカチを手にとった。メイスンは、受話器をとって、交換手にいった。「部屋係のクラークを呼んでくれ」
デラ・ストリートは、かれのそばへ来て、その肩に寄り添い、はっきり聞きとれるほど啜り泣きの声を出した。
部屋係のクラークが電話口に出ると、メイスンがいった。「こちらは、ワトスン・クラマート。すぐに飛行機を一台、やといたいんだがね。必要な手配をして、空港までの車の用意をしてもらえるかね? 家内はここに残るし、わたしの車も家内が使う。家内は、空港へも出かけないから」
「かしこまりました」と、クラークがこたえた。「ついでながら、クラマートさま、電報をカウンターにお忘れになりましたから、ベルボーイに持たせてさしあげます」
「オーケー」と、メイスンがいった。「そのボーイに荷物を持っておりてもらおう。わたしは、十分以内に立ちたいのだが、手配はしてもらえるね」
「そのようにいたします」と、クラークが約束した。
デラ・ストリートは、涙で赤くなった目をこすりながら、
「ハネムーンは、もうおしまいだわ」といった。「きっと、あたふたとお仕事のために飛んで行っておしまいになるんだろうと思っていましたわ。あなたは、わたしを、愛して、愛して、いらっしゃらないのね」
メイスンは、かの女の顔を見て、にやにや笑いながら、「それを、ロビーでやるのにとっておけよ」といった。
「どうしておわかりになるの、わたしが、わたしが、ほん気でないと?」と、デラが啜り泣きながらいった。
途方に暮れたような色が、メイスンの顔にうかんだ。つかつかと、かの女のそばに近づいて、しばらくの間、すすり泣いている、ほっそりしたデラの姿を見おろしていた。
「こいつめ」と、メイスンはいって、デラの顔からその両手を引きはなした。
デラは、かれの顔を見上げて、にやっと笑ったが、頬には涙が流れていた。
メイスンの視線には、困惑した複雑な色があった。
「玉葱の涙よ」と、薄笑いをうかべながら、デラがいった。
ドアにノックの音がした。メイスンが歩いて行ってドアをあけた。ベルボーイが、折り畳んだ電報を差し出して「荷物をお持ちしますか?」といった。
メイスンが自分の荷物を、これだと教えると、ボーイはそれを持って先に立ち、メイスンとデラ・ストリートは、その後につづいてロビーに出た。デラ・ストリートは、いままで泣いていた若い女の子の、非常に心を傷つけられているとはいうものの、かってな思惑《おもわく》をほしいままにしている世間一般に対しては、腹を立て、ひどく反抗的になっているという印象を、巧みに与えるようにしていた。
かの女は、高慢な、挑みかかるような目を、ちらとクラークに向けた。クラークは、あわてて、泣き濡れてまっ赤になったかの女の目から、その視線をそらした。つぎに、かの女がベルボーイの方に目を向けると、ボーイの顔から笑いが消えて、卑屈な無表情な顔つきになった。
「ねえ、きみ」と、ペリイ・メイスンがいった。「車には気をつけるんだよ。どうも、お前は、スピードを出しすぎるからね。あれは新車で、まだ傷一つついていないんだよ。あまりスピードを出しちゃいけないよ。それから、説明書に書いてあるとおり、潤滑油の交換を、ちゃんとするんだよ」
「はい、あなた」と、デラ・ストリートが初々しくいった。
「それから、忘れないように、誰かが電話をかけてきても、ぼくがいないというんじゃないよ。電話に出られないとだけいうんだよ。インフルエンザで寝ていますとか、ポロをやりに出かけていますとか、なんといってもいいが、ぼくがここにいないと口をすべらしちゃいけないよ」
「はい、あなた」
「ぐるっと一廻りして用事さえすませれば、すぐに帰って来るからね。ニューヨークには二時間といる必要はないんだからね」
デラ・ストリートは、ぷいと顔をそむけて、なんにもいわなかった。
タクシーの運転手が、ホテルへはいって来たのを見て、クラークは、ペリイ・メイスンの方にうなずいて、「用意はととのいましてございます、クラマートさま」
「それでこそ」と、メイスンがのどの奥でいった。「サービスというもんだ」
かれは、ベルボーイにうなずいて、玄関の方へ歩き出しかけたが、立ちどまって、ぎこちなくデラ・ストリートの方を振り向いて、
「じゃ、行って来るよ、ダーリン」といった。
デラは、あっという間もなく、両腕をひろげ、衣裳の裾をひるがえして、メイスンに飛びついた。いきなり、メイスンの頸に両手ですがりつき、荒々しくその頭を自分の方に引きよせ、ひしと抱きすがりながら、かれの唇を求めた。唇が合うと、ぴったり合わせたまま、長いこと離れなかった。
やっと、かの女から解放されたときのペリイ・メイスンの顔には、仰天したような驚きの色が見られた。さっと一足、デラの方へ寄って、「デラ」といった。「きみは……」
デラは、かれを押しやって、
「急いでいらっしゃいよ、ワトスン・クラマート」といった。「急いで、その飛行機にお乗りなさいな。大切なご用なんですものね、ニューヨークへいらっしゃるのは」
一瞬、メイスンは、どうしようかと迷うような様子で立っていたが、すぐ向き直って、ホテルのロビーから出て行った。
デラ・ストリートは、ハンカチを目にあてて、ふらふらとエレベーターの方へ足を運んだ。
ホテルのクラークは肩をすくめて、顔をそむけた。どっちにしても、おれの知ったことじゃない、サービスをするのがおれの役目で、十分以内に、飛行機の用意をしろというお客がいたから、その注文どおりにしたというだけの話なのだ。
第十七章
デラ・ストリートが表から、ホテルのロビーに駈け込んで来るなり、「ああ!」と、金切り声でいった。「ああ、どうしよう」
ちらっと、かの女の顔を見たと思うと、クラークは、素速くカウンターの内から出て、どうしたのだろうという顔つきで、かの女に近づき、「どうなさいました、クラマート夫人?……飛行機が、どうかしたのじゃございませんでしょうね? まさか飛行機にどうこうということはございませんでしょうね!」
デラは、握りこぶしを口にあて、首を左右に振るだけで、いっぱいに目を見開き、驚きのあまり口もきけないふうだった。二度、なにかいおうとしかけたが、二度とも、ちょっとあえいで息を呑むだけがやっとだった。
クラークは、役目がら、ひどく心配そうだった。いや、そればかりじゃない。これから新婚旅行という初っぱなに、その傍から夫を呼び戻されて、すっかり失望落胆の底に沈んでいる、このか弱い花嫁の美しさが気にならぬはずもなかったのだ。かれは、やさしく、花嫁の肩をたたいて、「若奥さま」といった。「どうなすったんです?」
「車よ!」と、やっとあえぐように、かの女はいった。
「車?」
「ええ、ワトスンの新しいビュイックですの。ああ、あのひと、あんなに大切にしていたのに」
「存じております」と、クラークがいった。「みごとな車でございます。それがどうかいたしましたか?」
「盗まれたの」
「え、盗まれた? ここの構内からですか? とんでもない!」
「ここの構内からじゃないんですの」と、首を振りながら、かの女はいった。「あたし、そこの海浜道路をすこしドライブして、車をとめて、波打際へおりて、しばらくすわっていたんですの。あたし、うっかりして、イグニション・キイを、さし込んだままにしといたらしいんです。もどってみたら、車がなくなっていたんです」
「いや、それなら取りもどせます」と、クラークは、もっともらしい口振りでいった。「こっそりつかまらずに、この郡から外に出ようたって、そんなわけに行くものですか。それで、登録番号は、何番ですか?」
デラ・ストリートは、頼りなげに首を左右に振ったが、急になにか思いついた様子で、「ああ、あたし、知ってますわ。国際自動車損害補償協会を呼び出してちょうだい。料金はあたしが払います。つい二、三日前、車の保険をかけたばかりですから、帳簿を調べれば、すぐわかるはずですわ。保険証書は、主人が持っていて、どこにあるか、あたしにはわからないんですけど、車が盗まれたといってくだされば、登録番号もエンジン番号も、そのほか必要なことは、みんな教えてくれますわ」
クラークは、すっかり聞き終わらぬうちに、もう活動していた。かれは、電話交換手にいった。「長距離電話で、国際自動車損害補償協会を呼び出してくれ。それから、市庁へかけて保安官を呼んでくれ。保険会社のほうを先にしたほうがいい」
交換手の指が、敏捷《びんしょう》に交換台の上を動きまわった。
「大変ご面倒をおかけすることになってしまいましたわね」と、デラ・ストリートがいった。
「どういたしまして、クラマートの奥さま。ただどうも残念なのは、せっかくのご滞在のところを、こんなことのために、せっかくのお楽しみをぶちこわしてしまいまして、なんとも相すみません」
といったとたんに、クラークは、かの女の滞在のお楽しみは、自動車の盗難以上の、もっとひどいことでぶちこわされてしまっていたことに気がついて、きまり悪そうに黙ってしまった。
そのとき、交換台の女の子がいった。「マックスウェルさん、電話室の中でお話しになりますか?」
「そのほうがいい」
「じゃ、一号のボックスで、どうぞ」と、交換手がいった。
クラークは、電話室へはいったが、しばらくすると、番号を書いた紙を持って出て来た。
「こん度は」と、かれは交換手にいった。「保安官のオフィスだ」
「もう出て、待っていますわ」と、交換手がクラークにいった。クラークは、もう一度、電話室へはいって行ったが、やがて、にこにこ笑みをうかべながら出て来た。
「車は必ず取りもどせますから、どうぞ安心してお休みになっていてください、クラマートの奥さま。保安官の事務所では、州内のオートバイ乗りの警官全部と、ベンチュラ、ロサンゼルス、サンルイ・オビスポ、ベイカースフィールド、サリナスなどの保安官事務所に、緊急手配をしてくれました。道路という道路は残らず、完全に網を張ってくれるはずです。まだその上に、ラジオで車の番号も放送することになっていますし、連邦警察自動車局へも、アリゾナ、メキシコ、オレゴンなどの州へ通じる国道にある州境警備屯所へも、電報が飛びます」
「ほんとうにありがとうございます」と、デラがいった。「ああ、あたし、すっかり淋しくなってしまいましたわ。荷物をまとめて、ロサンゼルスへ帰ろうかしら。そして、主人が帰って来てから、いっしょにまたここへ来ますわ。主人もいないのに、ここに泊まっていられないんですもの」
「せっかくおいでいただきましたのに、まったく残念なことでございます」と、クラークはいった。「でも、奥さまのお気持はお察しいたします、クラマートの奥さま」
デラ・ストリートは、急に決心がついたようにうなずいて、
「ええ」といった。「あたし、ロサンゼルスへ帰りますわ」
「自動車のことは、どちらへお知らせいたしたらよろしゅうございましょう?」
かの女は、ちょっと眉を寄せて考えていたが、すぐにいった。「ああ、それは保険会社のほうへさえ知らせてくだされば、主人の弁護士のほうで連絡をとりますから。どちらにしても、それほど大した問題じゃないんじゃないかしら。保険会社のほうで、新しい車をくれるわけなんでしょう?」
「いいえ、車がもどってまいりますよ、クラークの奥さま。たぶん、どこかの無銭旅行者《ヒッチ・ハイカー》が、四、五マイルさきへ行こうというんで、ちょっととって行っただけでございましょう。ガソリンのあるだけ走ってしまえば、どこかの道ばたに乗りすててまいりますでしょう。さもなければ、国道をパトロールしている警官につかまってしまうにきまっております」
「そうね」と、デラ・ストリートはいった。「どっちみち、そのほうのことは保険会社が心配してくれるんでしょう。でも、こちらでは、みなさん、とても、とても、よくしてくだすって。もっとゆっくり泊まっていられなくて、ほんとに残念ですわ。でも、あたしの気持は、わかってくださるわね」
クラークは、お察しいたしますとこたえて、勘定書をつくり、荷物を無事に駅へ送るように手配をした。
ペリイ・メイスンが、自分の事務所の机に向かって、手紙を読んでいると、ドアがあいて、帽子箱を持ったデラ・ストリートが、戸口に姿をあらわした。
「やあ」と、メイスンがいった。「失望落胆の花嫁さんはどうしたね?」
デラは、きびきびと抜かりがなかった。「万事うまく行きましたわ、先生。オートバイのパトロール警官や、州境の屯所へも、手配がまわってますわ」
「うん」と、メイスンがいった。「ぼくも、警察電話で報告を聞いたよ」
「ホテルのクラークは、とても親切でしたわ」と、デラはいった。「あの新しいビュイックのことを、よくおぼえていて、なかなかみごとな車だと思ったんですって。そして、一日か二日もしないうちに、きっと取りもどせるでしょうって……それより、先生に聞かしていただきたいんですけど、いったいどうして、車が盗まれたことを警察から布告させるためだけに、こんな大騒ぎをなすったんですの? ただ電話をかけるだけですむはずじゃ……」
メイスンは、微笑しながら首を振って、かの女の言葉をさえぎった。「じゃ、きみは、ぼくに新婚旅行をさせたくなかったというんだね、デラ!」
「新婚旅行をおやめになったのは、ご自分じゃありませんか」と、デラはいい返した。「それより、わたしの質問の返事を、まだしていらっしゃらないですわよ」
「ぼくは、ワトスン・クラマートを逮捕させたかったのだよ」と、ゆっくりと、かれはいった。
「自動車泥棒を商売にしていると思われるような情況の下で、かれが逮捕されるようにしたかったのだ。といって、普通の手を用いてたんでは、そういう結果を持ちきたすわけにはいかない。だってそうだろう。ぼくには、あえて自分の名前で正式の告発をするとか、いいかげんな行きあたりばったりの名前で告訴状に署名をするとか、そんな思い切ったことはできなかったんだからね。ぼくの推測は間違っているかもしれない。その場合、警察なりクラマートなりが、後で調べてわかるような痕跡を残しておくわけにはいかないんだ。だから、告訴状にサインなどというようなものもなく、後になんらの痕跡も残さないで、警察の積極的な協力や同情心をかき立ててくれるような、そういう第三者を、ぼくは必要としたんだ。ビルトモア・ホテルといえば、サンタ・バーバラでは大きなホテルだし、サンタ・バーバラ郡の保安官といえば、各方面の政治的協力を得られる有力者だ。しかし、ビルトモア・ホテルといえども、ぼくたちがしっかり相手の信用をつかんで、きみの身許なんかに対して、いささかも疑念を起こさせないようにしておかないかぎり、われわれの手先になって火中の栗を拾う役などは、絶対にやってはくれないんだ。
そうさせるためには、人間的興味を抱かせることが必要で、人間的興味を抱かせる最上の方法は、あの番頭を平土間の最前列にすわらせて、哀れにも、きみのロマンスが夢と消えて行く悲劇を、たっぷり観賞させて、同情を得ることだったのさ」
「それで、先生が火中から拾いあげさせようと思っていらした栗というのは、なんですの?」と、デラが聞いた。
メイスンは、首を左右に振って、「いまは、いえないよ」といって……「きみは、汽車で帰って来たのかい?」
「いいえ、ホテルに、駅まで荷物を運んでもらったけど、それから自動車をやとって、帰って来ましたわ」
「手がかりは残さなかったろうね?」
「ええ」
「いい子だ。警察では、早いとこダグラス・キーンをかたづけようとしているんだね。きょうの午後二時に、審問を開くというんだよ」
デラは、びっくりした目つきで、かれを見つめて、「きょうの午後二時に、予審がはじまるというんですの? だって、もう二時二十分前じゃありませんか」
メイスンはうなずいて、「支度をして、出かけようとしていたところなんだよ。行くかい?」
「もちろん、行きたいわ」
「それじゃ、帽子箱をおいて、いっしょに行こう。いろんなことは、タクシーの中で話すよ」
「でも、どうして、そんなに急いでことをかたづけさせようとなさるの? 延期させるわけにはいかなかったんですか?」
「それというのがね」と、にやりと笑いながら、メイスンは相手にいった。「いろんなことが、いい具合になりつつあるという気がするからなんだ。いっそ、ばたばたとかたづけさせてやりたいんだ」
「なぜですの?」
「一つには、あの若い二人の不安をとりのぞいてやりたいのと、一つには、ホルコム巡査部長をやっつけてやりたいからなんだ」
「というと、どういうことですの?」
「もし、ホルコム巡査部長が事件を解決すれば」と、にやっと薄笑いをうかべながら、ペリイ・メイスンがいった。「部長は名声を得る。ぼくが解決すれば、ぼくの信用があがる」
「ホルコム巡査部長に解決ができると思っていらっしゃるんですね?」
「事件のほうで、ホルコムのために解決するだろうと思うね。ということは、機械がもう動き出してしまったということだ。情勢がはっきりするまで、そう長くはかからないだろう。だから、ぼくは、みんなを出し抜いてやりたいんだ。きみも知っているだろうが、ぼくぐらい大向こうをわっといわせる名人はいないんたからね」
デラの目は、かの女の声以上にものをいっていたが、その声もまた、感動に支配されたときのかの女に特有な、低いが、はずむような、強い調子で、「先生は、世界一、正直で公平な信頼できる方ね」といった。それから、目を上げて自分の顔を見たメイスンの顔に、にっと笑顔を見せてつけ加えた。「と同時に、世界一、食い足りない花婿さんね。ホテルの番頭が、どんなにわたしに同情してくれたか、先生にはおわかりにはならないわね」
第十八章
傍聴人たちが押し合いへし合いして、ペニメーカー判事の法廷は、足の踏み場もないほどだった。
ハミルトン・バーガーのもっとも信頼している裁判係の検事補、ディック・トラスラウが、検事席からペリイ・メイスンの顔を見て、にやっと笑った。
トラスラウには、ゆだんのならぬ闘士の素質――相手の強みを十分に感知する能力とともに――個人的な好意があっても、役目柄必要となれば、そくざに、その好意を闘志と置き代えることのできる素質があった。
「こん度の事件では、シャスターは、あんたとおつき合いすることになるわけですか?」と、トラスラウがたずねた。
「たぶん、われわれの仕事がかたづかないうちにしゃしゃり出て、唾を飛ばそうとすることだろうね」と、メイスンがいった。「いつかも、天気のいい日に、日の光の中で、あの男がしゃべっているのを見たんだが、口のまわりに虹が出ていたよ」
トラスラウは、いかにもおもしろそうに声を立てて笑った。それから、打ちとけたことを話すように声を低めて、「一度、ハミルトン・バーガーにお会いになるといいですね」といった。「ひどく、かんかんになってますぜ」
「どうしたんだね?」
「もちろん」といいながら、トラスラウは片目をつぶって見せて、「ぼくがいったといわれちゃ困るがね。だけど、大将は、あんなことは与太だ、でたらめだと、むやみに、誰彼とわずにしゃべりまくっているんですよ。ほら、あんたが大いに反論したでしょう。名前を使おうとする人間の住所と電話番号を知っていて、どこからもそのことで突っ込まれないという確信さえあれば、他人の名義で電報を打つことができると主張した、あのことですよ」
メイスンは、首尾よく、素知らぬ顔をしてのけた。
「ところが、誰だかしらないが」と、トラスラウは、忍び笑いをしながら、話しをつづけた。「ラクスターの家にいる後家さんの家政婦に電報を打った人間がいたんです。それもうちの大将の名前でね」
「そして、その電報には、なんと書いてあったんだね?」と、完全にまともな顔になって、メイスンがたずねた。
トラスラウがいった。「振り向いちゃいけない――あの女が、こっちを見ているからね――ちょっと待ちたまえ……よし、ちょっと見てみたまえ――あんたの左の肩のうしろの方だ。電報を持って、あすこに立ってるでしょう? にやにや作り笑いをしている顔を見てごらんなさいよ。結婚の申し込みと同じように思ってるんですぜ、あの女は」
「それで、地方検事は、なんと思ってるんだね?」と、メイスンが聞いた。
「ぼくの口からはいえないね」と、トラスラウがいった。「あんたの耳に綿でも詰めないかぎりはね」
メイスンは、にっこり笑いをうかべて、「それで、ウィニフレッド・ラクスター名義の電報の発信人についての、検察側の論拠は変わったのか?」
「ええ、あれについては、あまり強く押すなと指示されてますがね……しかしね、どうやら、こん度は、あんたをやっつけることになりそうだぜ、ペリイ。なにしろ、ぼくたちのほうは、べらぼうに立派な情況証拠をつかんでいるんだからな。あんたは、被告に宣誓させるのを拒むつもりじゃないだろうね?」
「うん、そんなことは考えていないよ」と、メイスンがいった。
「十に一つも、あんたには切り抜けられないだろうね。陪審をごまかして、チャンスをつかむことはできるかもしれないが、予備審問を切り抜けることは、とてもできないことだな」
メイスンは、煙草に火をつけたと思うと、ほとんど同時に、ペニメーカー判事が判事室のドアを押しあけて、裁判長席についたのを見て、その煙草を痰壷の中へほうり込んだ。法廷では、かたどおり開廷が宣告された。ディック・トラスラウが立ちあがって、裁判官に向かって発言した。「裁判長どの。本件の予備審問は、ダグラス・キーンを、第一級殺人容疑で引き続き拘置する正当の根拠があるか否かを決定するのが目的であります――すなわち、エディス・ドヴォーなる女性を殺害した容疑でありますが、この殺害の動機を明らかにするためには、チャールズ・アシュトン殺害に関する証拠を提出することが必要となります。しかしながら、ご諒解を願いたいのは、アシュトンの死に関連する証拠は、すべてエディス・ドヴォー殺害に関する動機決定を目的とするもののみに限定されておりまして、他のいかなる目的のためにも、その証拠を提出し、またはその検討を要求するものではないということであります」
「弁護側に、なにか異議がありますか?」と、ペニメーカー判事がたずねた。
「異議は、それぞれ適当の時に申し立てたいと存じます」と、メイスンがいった。「訊問の行われるそのつど、申し立てます」
「わたくしは、弁護側の弁論の範囲を限定しようとするものではありません」と、トラスラウがいった。「わたくしはただ、検察側の立場を、裁判長どのにご説明申しあげたかったにすぎません。わたくしの立場を述べることによって、あるいは、弁護側の異議の一部を排除しうるかと考えた次第であります」
「審理を進めます」と、ペニメーカーがいった。「被告は、入廷しているでしょうね?」
「ただいま入廷するところです、裁判長どの」と、トラスラウがいった。
保安官補が、ダグラス・キーンをつれて、法廷にはいって来た。キーンは、いくらか顔色は冴えなかったが、頭をそらせ、顎をぐっと上げて、昂然《こうぜん》とした態度だった。メイスンはつかつかと、かれに近づいて、力づけるように、その腕を強く握りしめて、「掛けたまえ、きみ」といった。「そして、おちつくんだよ。万事が解決するまで、そう長くはかからないからね」
「検察側の最初の証人は」と、トラスラウがいった。「トム・グラスマンであります」
グラスマンが進み出て、宣誓をし、自分は地方検察庁付きの捜査主任であると証言し、今月二十三日の夜、エディス・ドヴォーのアパートメントへ行ったこと、その部屋の床の上に、一人の女性が俯向けに倒れており、頭部に傷があり、そのかたわらに一本の棍棒があったこと、その棍棒は血にまみれていたことを述べた。
「ここに、一枚の写真を証人に見せますが」と、トラスラウがいった。「これは、ただ確認のためであって、この写真が、そのとき、床に倒れているのを証人が見たという、その若い女性の顔をあらわしているかどうかを聞きたいのです」
「この顔の女です」
「写真は、いずれ後ほど関連事項のさいに提出しますが」と、トラスラウがいった。「いまは、被害者を認定するために注意しておいていただきたいのです」
つづいてトラスラウは、いくつかいいかげんな質問をしてから、ペリイ・メイスンに向かって、「反対訊問をどうぞ」といった。
「その意識をうしなった婦人の体のそばに証人が発見した棒切れには」と、メイスンがいった。
「指紋があったんでしょうね?」
「ありました」
「その指紋の写真をとったのでしょうね?」
「とりました」
「そして、被告の指紋はとりましたか?」
「とりました」
「その棍棒の指紋は、被告のものでしたか?」
「そうじゃありませんでした」
「では、サム・ラクスターか、フランク・オーフレイか、それとも、ラクスター家の召使のうちの誰かの指紋でしたか?」
「いいえ、そのうちの誰のでもありませんでした」
「当然、証人は、その指紋が誰のものであるか調べたでしょうね?」
「もちろんです」
「まだ誰の指紋であるか割り出せないというのですね?」
「そのとおりです」
「その当夜、証人は、事件発覚よりも前に、ラクスター家へ訪ねて行ったのでしたね?」
「行きました」
「そして、管理人のチャールズ・アシュトンの死体を発見したのでしたね?」
「発見しました」
「その死体は、アシュトンの部屋のベッドの上に横たわっていたのでしたね?」
「そうです」
「アシュトンは、死んでいたのでしたね? その死因は、アシュトンの頸にまきつけてあった紐を、強く引き絞めた結果だったのですね?」
「そのとおりです」
「そして、そのベッドには、猫の足跡があちらこちらについていたのでしたね?」
「そうです」
「その猫の足跡がつけられたのは、チャールズ・アシュトンの死より前か、後か、証人は、確かめようとしましたか?」
「しました」
「いつつけられたものでしたか、その足跡は――前ですか、後ですか?」
この一連の質問の受け渡しを聞いて、トラスラウの顔は、驚きの色をうかべた。
「後です」
「わたしは」と、トラスラウが、かすかに、いらいらしたような笑い声を立てて、いった。「この証拠を取り上げるについては、弁護側と大論争になるとは考えていたのですが、どうやら、弁護人のほうで、それを明らかにされたようです。しかしながら、厳密にいって、これは、おそらく適切な反対訊問とはいいがたいようですが、検察側では異議を申し立てないことにします」
「弁護側は、すべての事実を取り上げたいと思います」と、ペリイ・メイスンはいった。それから、証人の方に向き直って、反対訊問をつづけた。「証人がラクスター家に着いたとき、サムエル・ラクスターは、いなかったのですね?」
「いませんでした」
「後になって、顔を出したのですね?」
「そうです」
「かれの自動車は破損し、右の腕に負傷をしていたのですね?」
「そのとおりです」
「しかし、フランク・オーフレイはいたのですね?」
「そうです」
「証人が車を乗り入れたとき、フランク・オーフレイは、どこにいました?」
「わたしたちが車を乗り入れたとき、フランク・オーフレイがどこにいたかは知りません。といいますのは、同家のガレージに寄って、自動車を取り調べていたからであります。しかし、屋敷の建物の建っている中心の高台に着いたとき、一人の男が、屋敷の一隅に近い地面を掘っているのを認めました。その男に懐中電灯を向けたところ、それがオーフレイ氏でした」
「反対訊問をおわります」と、メイスンがいった。
トラスラウは、いささか途方に暮れた顔色で、いった。「裁判長どの、|犯罪の根本的事実《コーパス・デリクティ》は、明確に決定しうると存じます」
メイスンは、もうこれ以上、審理の運行には興味を持たない人間といった様子で、どっかりと椅子にもたれた。そればかりではない。トラスラウが検屍医を証人席に立たせたときにも、ほとんど反対訊問をしなかったし、つづいて、つぎの証人が死んだ婦人が誰であったかを証言したときにも、またそのつぎの証人が、現場に遺留されていた棍棒が松葉杖の一部だと証言したときにも、さらにはつぎの証人が、チャールズ・アシュトンの使っていた松葉杖がどんな形のものであったかを証言するとともに、トラスラウが証拠品として持ち出した血染めの棍棒を、アシュトンの松葉杖か、すくなくとも、外見上は、それによく似た松葉杖の一部分と信じられると証言したときにも、ほとんど反対訊問らしい反対訊問を、メイスンはしなかった。
つづいて、トラスラウが証人席に呼び出した指物師のバブスンは、その棍棒にあらわれている掻き傷から見て、アシュトンの松葉杖の断片に間違いないと積極的に確認し、またアシュトンが松葉杖に物を入れる穴をあけ、セーム皮で張ってくれと、かれに誂《あつら》えたということを証言した。つづいて他の証人たちの口から、トラスラウは、コルツドルフ・ダイヤモンドが高価な価値のものであるということや、故人のピーター・ラクスターがそれを非常に大切にしていて、絶対に手ばなそうとはしなかったということを述べさせた。
「サムエル・ラクスター」と、いよいよ、トラスラウが呼んだ。
サムエル・ラクスターが、証人席についた。
「証人の名は、サムエル・ラクスターで、ラクスター家に住んでいるんですね?」
「そのとおりです」
「証人は、故ピーター・ラクスターの孫ですね? 証人は、火災で焼ける前数か月間は、別荘といわれている家に住んでいて、その別荘が焼けた後は、市内の屋敷といわれている家に居住を移していたのですね?」
「そのとおりです」
「エディス・ドヴォーのことは、よく知っていましたね?」
「はい」
「|死体置き場《モルグ》で、かの女の遺体を見ましたね?」
「はい」
「かの女は、死んでいたんですね?」
「そうです」
「そして、証人が見たその死体は、検察側証拠第一号の写真にうつっているのと同一のものでしたか?」
「間違いありません」
「そして、それがエディス・ドヴォーだったんですね?」
「そのとおりです」
「二十三日の夜、九時から十一時三十分ごろまで、証人は、どこにいましたか?」
「答弁を拒否します」
トラスラウは微笑をうかべて、「答弁を拒否すれば」といった。「法廷侮辱罪に問われることになりますよ。ある秘密の女性をかばうとかいう話は、ここでは通用しませんよ、ラクスター君。証人は、法廷に立っているんですぞ――答弁をしなければいけません」
ナット・シャスターが、せかせかと進み出た。
「裁判長のお許しを得て申しあげたいと思いますが」と、シャスターがいった。「事件に無関係な質問によって、本証人の人格を傷つけようとする企てがなされているように見うけられます。証人は、殺人の容疑者ではありません。従いまして、殺人の容疑者でないとしますれば、殺人の現場に居合わせたのでない限り、証人がどこにいようとも関係のないことでございます」
「あなたは、ラクスター氏の代理人なんですね?」と、ペニメーカー判事がたずねた。
「さようでございます、裁判長どの」
「わたくしは」と、メイスンがいった。「ただいまの質問に異議を申し立てません」
「本職は、証人に対して訊問にこたえるように命じます」と、ペニメーカー判事が、きっぱりといった。
「わたくしは、答弁を拒否します」
ペニメーカー判事の顔が曇った。
シャスターが、弁護士席から身を乗り出して、「つづけて」と、はげますように声をかけた。「その後をいいなさい」
「その理由は、答弁が、わたしに不利をもたらすおそれがあるからであります」と、そらでおぼえてきたものを棒読みにするという口調で、ラクスターが述べた。
シャスターは、にっこり笑いをうかべ、裁判長の方に向き直って、
「裁判長にご諒解を願いたいのでございますが」といった。「ただいま審理中の犯罪に関する限りでは、答弁が証人に不利をもたらすおそれはございません。しかしながら、本職の信ずるところによりますれば、本証人が、市条例の一規定に違反したのではないかという疑いがございます。従いまして、証人が申し述べましたような理由にもとづきまして、法律上、なんびとといえども自己の立場を保護することができるわけでございますので、本職は、年若い某女性の名誉が事件にまきこまれるのを防ぐように、証人に指示いたしましたわけでございます」
「ばかばかしい、場当りをねらったナンセンスだ!」と、吐きすてるように、メイスンがいった。
ペニメーカー判事は、木槌《きづち》で卓をたたいた。
「やめなさい、弁護人。そういう発言をすることは許されません」
ペリイ・メイスンは会釈をして、「仰せの通りです、裁判長どの、しかしながら、また一方では、ラクスター氏の弁護人も、ただいまのような発言をすることは許されてはおりません――あれは、新聞受けだけをねらった発言であります」
シャスターは、やっきになって、両腕を振りながら、「裁判長どの、ただいまの非難は憤慨にたえません」
興奮して、ヒステリーのように、わめき立てる弁護士の言葉を抑えつけるように、トラスラウの声が鳴りひびいた。「裁判長どの、わたくしは、メイスン弁護人と同意見であります。しかしながら、すべて取るに足らぬ瑣事ばかりであります。わたくしは、ここで本証人に対して、殺人以外のいかなる犯罪についても訴追を受けるものではないということを約して、さきほどの質問を繰り返します」
「わたしは、繰り返し答弁を拒否します」と、頑《かたく》なにラクスターはいった。「答弁が、わたしを不利におとし入れるおそれがあるからです」
「アシュトンが殺されたとき、証人は、ラクスター屋敷にいなかったのですね?」と、トラスラウがたずねた。
「いませんでした」
「どこに、いたのですか?」
「ナサニエル・シャスター法律事務所にいました。十時前から十一時すぎまで、そこにいました」
「誰か証人といっしょにいましたか?」
「ナサニエル・シャスターです」
「そのほかには?」
「ゼームズ・ブランドン」
「ゼームズ・ブランドンとは誰ですか?」
「運転手兼執事として雇っている者です」
「その男は、あなたとナサニエル・シャスターとの会談中、同席していましたか?」
「いいえ、表の事務所に待っていました」
「その男は、いつごろ、そこを出て行ったのですか?」
「十一時十分前ごろ、家へ帰ってもいいといってやりました。それ以上、待たせておく必要がなくなったからです」
「それから、証人は、なにをしましたか?」
「それから、数分間、ナサニエル・シャスター法律事務所にいました」
「それから、どこへ行きましたか?」
「さきほどと同じ理由で、答弁を拒否します――答弁が、わたしを不利におとし入れるおそれがあるからです」
「どういうふうに、またどんな罪に、あなたをおとし入れるというのです?」
「答弁を拒否します」
トラスラウは、愛想がつきたという口調でいった。「もうそれだけでいいでしょう。わたしは、この件について、大陪審《グランド・ジュリー》に審理を求めることにします」
ラクスターは、証人席を離れようとしかけた。勝ちほこったように微笑するナット・シャスターの顔に、歯がむき出しになった。
「ちょっとお待ちなさい」と、ペリイ・メイスンが、証人席を離れようとするラクスターを呼びとめた。「わたしは、この証人を反対訊問する権利があると信じますが」
「しかし、証人は、なにも証言しなかったじゃありませんか」と、シャスターが異議を述べ立てた。
「おかけなさい、シャスター弁護人」と、ペニメーカー判事が命令した。「メイスン弁護人には、本証人の述べたいかなる証言に対しても反対訊問をする権利があります」
メイスンは、サム・ラクスターをまっ正面に見た。
「証人は、ジム・ブランドンといっしょの車で、シャスター弁護人の事務所に行ったんですね?」
「そのとおりです、ええ」
「すると、緑色のポンテアクに乗って行ったんですね?」
「そのとおりです」
「ダグラス・キーンのアパートはどこだか、知っていますね?」
「ええ」
「二十三日の晩にも、知っていましたか?」
「はっきりおぼえていませんが……たぶん、知っていたと思います」
「二十三日以前に、キーンを訪ねたことはないんですか?」
「たぶん、行ったことがあると思います、はい」
「証人は、シャスター法律事務所を出てから、エディス・ドヴォーのアパートに行きませんでしたか?」
「答弁を拒否します」
「ところで、そのとき、ふだん管理人のチャールズ・アシュトンが運転していたシボレーが、エディス・ドヴォーのアパートの前にとまってはいませんでしたか?」
シャスターは、懸念《けねん》そうにそわそわして、いまにもなにかいい出しそうに身を乗り出した。
ラクスターは、ことさらに平静な、抑揚のない口調で「答弁を拒否します」といった。
「さて、ではたずねますが」と、メイスンがいった。「きみは、エディス・ドヴォーのアパートにはいらなかったというんですか? かの女が意識をうしなって、床に倒れているのを見つけたんじゃないかな? かの女が前に、きみがおじいさんを殺したと、告発にも匹敵するような非難をしていたことを、頭に思いうかべなかったというんですか? それで、きみは、一目散にかの女が倒れていたアパートから飛び出し、駐車していたシボレーを運転してキーンのアパートに乗りつけ、キーンの部屋にはいると、ナイフか剃刀《かみそり》の刃か、なんかそのほかの鋭い刃物で自分の腕に傷をつけ、キーンの衣類に血をなすりつけてから、ナサニエル・シャスターに電話をして、事情を説明した、そして、殺人の容疑がかかりそうだと話した上で、腕の傷を偶然の事故と見せかけるために、帰宅の途中、わざとシボレーを電柱にぶっつけたのじゃありませんか?」
シャスターは、飛びあがって、両手で空中を引っ掻きながら、
「嘘です、裁判長!」とわめくようにいった。「みんな嘘です! わたしの依頼人の名誉に対する攻撃です」
メイスンは、蒼白《そうはく》になった証人の顔を、じっと睨みつづけていた。
「いまの質問にこたえることが、あなたを不利におとし入れるのなら、そうこたえてよろしい」
法廷は、緊張してものをいう者もなかった。シャスターさえも、やっきになって忠告するのを忘れて、サムエル・ラクスターの顔を魂をうばわれたかのように見つめていた。ラクスターの額には、玉のように汗がにじんだ。かれは、二度、咳払いをしてから、つぶやくようにいった。「答弁を拒否します」
「どういう理由でですか?」と、われ鐘のような声で、ペリイ・メイスンが呼んだ。
「答弁が、わたしを不利な立場におとし入れるおそれがあるからです」
メイスンは、いんぎんに手を振って、「これで、おわりです」といった。
トラスラウが、席から身を乗り出して、ささやくようにいった。「驚いたね、メイスン君、あんたがほのめかしたようなことを、あの男がしたという見込みがあるのかね? それとも、あんたは自分の依頼人を有利にするために、法廷に先入観を与えようとしてるだけなのかね?」
メイスンは、にっこり笑いをうかべていった。「審理を進行したまえ、トラスラウ。ぼくは、一気に解決にこぎつけられると思うんだ」
「フランク・オーフレイ、証人席について」と、トラスラウがいった。
オーフレイは、証人席につき、名前、住所、故ピーター・ラクスターとの関係を、簡潔に述べた。
「今月二十三日の夜」と、トラスラウがいった。「証人は、ラクスター屋敷の庭の土を掘り起こしていましたね?」
「いました」
「どういう目的でですか?」
「異議あり」と、シャスターが叫んだ。
ペリイ・メイスンが、愛想よく微笑をうかべていった。「裁判長どの、本件では、わたくしが被告側を代表しておるのでありまして、シャスター弁護人は、当法廷には、なんらの資格も持ってはいないのであります。したがって、わたくしに異議がなく、また検察側が、訊問の上、答弁を要求する場合には、証人は、訊問にこたえる義務があります」
「そのとおりです」と、ペニメーカー裁判長が裁定した。「訊問にこたえなさい」
「わたしは、祖父の死後、どこへ行ったかわからなくなっていた巨額の金をさがしていたのです。それと、そのほかのある財宝をもさがしていたのです」
「なぜ、さがしていたのですか?」
「一通の電報を受けとったからです」
「検察側は、その電報を証拠品として提出したいと思います」と、トラスラウが、ペリイ・メイスンの顔を見ながらいった。その口振りには、メイスンがきっと異議をとなえ、その異議を裁判長が採用するのを予期しているのが、明らかに感じられた。
「異議なし」と、ペリイ・メイスンがいった。「証拠品として提出してください」
トラスラウは、一連の電報を取り出して、証拠物件として提出するとともに、記録にとどめるように読みあげた。
コルツドルフダイヤモンドはアシュトンの松葉杖の中に隠してある」きみたちの祖父の金の大半は図書室の窓の下|蔓《つる》ばらが四つ目垣をのぼりかけるところに埋めてある」目じるしに小さな棒が地面に立ててある」
「検察側は」と、短文を読みあげたトラスラウが言葉をつづけた。「どういう価値があるかは別としまして、この電報が、電話で電報会社へ申し込まれたものであり、本件被告の婚約者ウィニフレッド・ラクスターの電話から申し込まれたものであることを、立証したいと思います」
メイスンは、沈黙を守っていた。
「証人は、この電文にある場所を掘っていたのですね?」と、トラスラウがいった。
「掘っていました」
「エディス・ドヴォーとは知り合いでしたね?」
「知り合いでした」
「かの女が死んだとき、証人とはどういう関係でしたか?」
証人は、ごくっと唾をのんで、「わたくしの妻でした」といった。
メイスンが、トラスラウにいった。「どうぞつづけて、証人の祖父の死について、エディス・ドヴォーが、どんなことを証人に話したかを聞きたまえ」
トラスラウは、驚きの色を顔にうかべたが、すぐに、証人の方を向いて、質問の矢を放った。「エディス・ドヴォーは、あなたのおじいさんの死に関して、なにか証人に話して聞かせましたか? それとも、火事の晩に、かの女が見たある不審な事柄について話して聞かせましたか?」
ナット・シャスターが、飛びはねるように立ちあがって、「裁判長どの! 裁判長どの! 裁判長どの!」と、わめき立てた。「異議を申し立てます。これはまったく伝聞証拠であります。なんの関連もない……」
ペニメーカー裁判長が、どんと槌を鳴らして、「おかけなさい、シャスター君」と命じた。「筋違いです。あなたは、サムエル・ラクスターの弁護人として出廷されているという以外に、本件にはどのような資格もないのです」
「しかし、サムエル・ラクスターのために異議を申し立てているのであります」
「サムエル・ラクスターは、本件の当事者ではありません。異議を申し立てる権利があるのは、メイスン弁護人一人だけです。そのことは、前にもあなたに注意しておいたではありませんか」
「しかし、これは無法です! わたしの依頼人に自己弁護をする機会を与えずに、かれを殺人の罪におとし入れるものです。検察側と被告側と、両方の代表者が大芝居を打っているのです! 最初ほかの人間を殺人罪で訴追しておいて、その後に、わたしの依頼人を殺人罪におとし入れようとしているものであって、しかも、被告側は異議を申し立てないために、わたしにはどうすることもできないのであります」
思わず、ペニメーカー裁判長は微笑をうかべて、「なるほど、いささか皮肉な状況ですな、シャスター弁護人」といった。「しかし、その合法性については、なんらの疑問をさしはさむ余地はありません。あなたは、どうぞ腰をかけて、審理の進行を妨げないようにしてください」
「しかし、わたしの依頼人はこたえてはならんのです。窮地に立つことになるだけです。わたしは、こたえないようにと、本人に……」
こん度は、裁判長の顔には、微笑のかげもなかった。
「腰をおろして、黙っていてください」と、裁判長はいい渡した。「さもなければ、退廷を命じ、法廷侮辱罪に問いますぞ。さあ、どちらにしますか?」
のろのろと、ナット・シャスターは腰をおろした。
「そのとおり、腰をおろして、黙っていてください」そうペニメーカー裁判長はいい渡してから、証人の方を向いて、「質問にこたえなさい」といった。「というのは、被告側弁護人に異議がない限り、こたえなさい。もし、異議があれば、質問は res gestae《あったこと》の一部とするにはあまりに遠い、伝聞証拠を求めるものとして、異議を認めることにします」
「決して異議は申し立てません」と、いんぎんに、メイスンがいった。
シャスターは、椅子から腰をあげかけたが、がっかりした様子で、また腰をおろした。
フランク・オーフレイは、のろのろと口を開いた。「わたしの妻は、火事の晩、ガレージのそばを通ったと、わたしに話しました。そのとき、サムエル・ラクスターが自動車の中に乗っていて、車の排気筒から、祖父の部屋に通じている暖房のパイプに、長いホースがつないであるのを見たのだそうです」
「モーターはかかっていましたか?」と、トラスラウがたずねた。
「モーターはかかっていたと、そういっていました」
「そのモーターは、かなりの間、かかっていた様子でしたか?」
「はい、妻がスイッチを押して電気をつけるまで、ガレージには電気がついていなかったのですが、しかも、そのときは、日が暮れて暗くなってからかなりたっていたのだそうです」
「奥さんは」と、トラスラウが質問をつづけた。「誰かほかの者にその話をしたと、証人にいいましたか?」
「ええ、話したそうです」
「誰にですか?」
「弁護士のペリイ・メイスン氏と、被告のダグラス・キーンにです」
「それまでです」と、トラスラウはいった。「どうぞ反対訊問を」
ペリイ・メイスンは、ほとんど世間話でもするような口調でいった。「たしか、あなたは、火事の晩に、奥さんが、サムエル・ラクスターが自動車の中にいるのを発見する直前まで、奥さんといっしょにいたのでしたね?」
「そのとおりです。妻とわたしとは、それまで散歩をしていまして……将来の計画を話し合っていました」証人は、出しぬけに言葉をつづけるのをやめて、目をそむけた。さっと、引きつるような表情が、顔を走った。気を静めようとして骨を折っているようだったが、やがて、ペリイ・メイスンの顔をまっ正面に見返し、湧き立って来る激情にうわずった声でいった。「祖父が、ぼくたちの結婚を認めてくれないんじゃないかと、おそれていたんです。二人は、人に隠れて会っていたんですが、なるべく早く結婚するつもりでいたんです」
「ところで、その自動車にいた人物が、サムエル・ラクスターに間違いないと、奥さんはかたく信じていましたか?」と、メイスンがたずねた。
「ええ、信じていたと思います」と、オーフレイがいった。「しかも、顔は、はっきり見なかったといっていました。サム・ラクスターは、ちょっと特徴のある帽子をかぶっているんですが、妻は、その帽子をはっきりと見たんです」
「その男は、奥さんに話しかけましたか?」
「ええ、話しかけました。それで、妻は、サム・ラクスターの声だと思ったそうです。もっとも、突っ込んでそのことを聞いてみますと、その男が酔っぱらっているようなふうで、ぐたっとハンドルによっかかっていたので、はっきり声が聞きわけられなかったということを思い出したようでした」
「サム・ラクスターがおじいさんを殺したかもしれないとすれば、なにかその動機について思いつくことがありますか?」
「そりゃもう、そうです、むろんです。遺言状です」
「チャールズ・アシュトンを殺す動機は、思いつきませんか?」
弁護人席にすわったまま、ナット・シャスターは、大いに異議ありということを示す、苦心惨憺の無言劇を演じて見せた。が、裁判長の警告を思い出して、じっと腰をおろしたまま、沈黙を守っていた。
「いいえ、思いつきません」と、オーフレイがいった。
「アシュトンが殺されたとき、サム・ラクスターがいた場所を知っていますか?」
「いいえ、知りません」
「そのとき、あなたは、どこにいました?」
「アシュトンが殺されたときですね?」
「そうです」
「エディス・ドヴォーといっしょにいました」
「結婚式をあげていたのですか?」と、メイスンが聞いた。
証人は、質問が自分にはひどく苦痛なものだという色を、その顔にうかべた。
「殺害の時刻は、結婚式の直後と確定されたように思いますが」と、オーフレイがいった。
「心の傷を開いてしまって、失礼しました」と、ペリイ・メイスンがやさしくいった。「これでいいようです」
「では、それまでです」と、トラスラウがいった。
シャスターは、発言の機会を与えてくれるかと期待するように、裁判長の方を見ていたが、ペニメーカー判事は、その視線をさけて、「証人はさがってよろしい」といった。
トラスラウは、ペリイ・メイスンの方を向き、味方同士のようなウインクを送って、「テルマ・ピクスレイ、証人席について」といった。
テルマ・ピクスレイが進み出て、宣誓をした。
「証人は、本件の被告を知っていますか?」
「よく存じております」
「二十三日――つまり、チャールズ・アシュトンが殺された夜、被告を見かけましたか?」
「見かけました」
「被告は、なにをしていましたか?……念のため、裁判長ならびに弁護人に申しあげますが、この質問は、単にその後に起こったエディス・ドヴォー殺害の動機を決定するためのものであります。管理人の松葉杖が、エディス・ドヴォーのアパートで発見されたという事実から、検察側は……」
「全然異議はありません」と、ペリイ・メイスンは、相手の言葉をさえぎっていった。「証人は、いまの質問にこたえてください」
「質問にこたえなさい」と、ペニメーカー裁判長が指示した。
「わたくしは、被告の自動車が車寄せへの道をあがって来るのを見ました。車は、屋敷をひと廻りしてから、ガレージの下まで引っ返して駐車しました。たぶん、玄関のベルを鳴らすのだろうと思って、そうしたら、お入れしようと待っておりましたのですよ。ところが、被告は、裏口のドアの鍵を持っていらしたのでございますね。見ておりますと、裏口からはいっておしまいになったんでございます。なにをなさるのかしらと思いまして、自分の部屋の戸口のところで耳をすましておりました。すると、キーンさんは地下室への階段を降りて行ったらしくて、チャールズ・アシュトンの部屋の戸をあける音が聞こえましたのですよ」
「その部屋に、どれくらいいたか知っていますか?」
「わたくし、帰るところも見ていました」
「来たのは、何時でしたか?」
「十時ちょっと前です」
「いつ、帰って行ったのですか?」
「十一時二、三分すぎでした」
「十一時を五分とはすぎていなかったというのですか?」
「そんなにすぎていなかったと思います。時計が十一時を打ってから、すぐ――一分か二分たたないうちに、帰って行くのを見ましたんですから」
「なにか持っていましたか?」
「猫を」
「はっきり、その猫が見えましたか?」
「クリンカーでございました」
「管理人の猫ですね?」
「はい」
「もう一度、その猫を見たら、あなたにはわかりますか?」
「たしかにわかります」
トラスラウが、一人の廷丁に合図をした。廷丁は、明らかにその合図を待っていたらしく、ドアから外の控え室へ出て行き、すぐに、一匹の大きなペルシア猫を抱いてもどって来た。猫の頸には、札がくくりつけてあった。
「これが、その猫ですか?」
「クリンカーです、はい」
「裁判長どの」と、トラスラウは、ペリイ・メイスンの顔を見て、にっこり笑いかけながらいった。「このペルシア猫の顔には、『クリンカー』という文字と、地方検事ハミルトン・バーガーの筆蹟で、その頭文字の『H・B』という文字をしたためたつけ札がつけてございますが、証人が、このペルシア猫が問題の猫に相違ないと認めましたことを、明らかにしていただきたいのでございます」
ペニメーカー裁判長は、うなずいた。
トラスラウは、ペリイ・メイスンの方を向いて、「反対訊問をどうぞ」といった。
「そのとき、あなたは、その猫がクリンカーだと、はっきりわかったのですか?」と、メイスンが聞いた。
「そうですとも」と、証人は、突っかかるようにぴしりといった。「クリンカーなら、どこにいたってわかりますわ――たとえ、いろんな代え玉の猫をたくさん持ち出して来られたって、ちゃんとクリンカーをより出してお目にかけられますわ……」
ペニメーカー裁判長が、槌で卓をたたいた。法廷じゅうがどっと吹き出すように笑った。
「いまの最後の証言は、記録から除くほうがいいでしょうね」と、ペニメーカー裁判長が、それとなくペリイ・メイスンにいった。
メイスンはうなずいた。一々の審理の進行など、どうでもいいというようなふうだった。
「もう質問はありません」と、メイスンがいった。
「ゼームズ・ブランドンを証人席に呼んでくれ」と、トラスラウが、廷丁に指示した。
一風変った傷痕《きずあと》のせいで、人をせせら笑っているような目つきをした顔のゼームズ・ブランドンが進み出て、宣誓をした。
「証人は、サムエル・ラクスター氏にやとわれているのですね?」と、トラスラウがたずねた。、
「それと、オーフレイさまにも」と、ブランドンがこたえた。「運転手ならびに執事として勤めております」
「そして、二十三日の晩にも勤めていたのですね?」
「そうです」
「その晩、なんかのおりに、被告を見かけましたか?」
「見かけました」
「どこで?」
「ラクスター家のガレージのすぐ下でです」
「その近くに、被告の自動車がとめてあったのを見かけましたか?」
「道から二十ヤードほど下に、キーンさんの車がとまっていました」
「証人が見たときに、被告は、なにをしていましたか?」
「ラクスター屋敷の方角から、一匹の猫を抱いて歩いて来ました」
「その猫がどういう猫か、見分けがつきましたか?」
「つきました。クリンカーでした」
「その猫というのは、『クリンカー』という名札をつけて、いまこの法廷にいる、あの猫ですか?」
「その猫です」
「それは、何時ごろのことでした?」
「十一時をまわったころで、たぶん、十一時を、二分か三分すぎたころで」
「証人は、自動車を運転していたのですね?」
「さようです」
「被告を見かける前は、どこにいたのですか?」
「シャスターさんの事務所にいました。サム・ラクスターさんのおいいつけで、シャスターさんの事務所までお送りしましたんで。十時ちょっと前に、シャスターさんの事務所へ着いて、十一時ちょっと前までいたんですが、ラクスターさんが、車を持って帰ってもいいとおっしゃいましたんで、それで、ラクスター屋敷まで運転してもどりまして、車をしまって、屋敷へはいって、その晩は、ずっと屋敷におりました」
「証人が屋敷に帰ったとき、オーフレイさんは、家にいましたか?」
「いいえ。それから十分か十五分して、お帰りになりました」
「反対訊問をどうぞ」と、トラスラウが、メイスンにいった。
「証人が被告を見かけたときに、被告は、松葉杖を持っていましたか?」
「いいえ」
「被告が抱いていたのは、クリンカーに相違ないんですね?」
「はい、自動車のヘッド・ライトで、ごくはっきり見ましたので」
「その後で、被告は、屋敷へもどったのですか?」
「よく存じません。もどったんだろうと思います」
「どうして、そう思うというんですか?」と、メイスンが聞いた。
「車が、車寄せへの道をひとまわりして、アシュトンの寝室の窓のまん前にとまる音を聞いたんです。あっしは、それを被告の車だと思ったんですが、見たわけじゃないんで。つまり、そのエンジンの音が、あのひとの車のエンジンの音と同じだという気がしたからなんで」
「その車は、どれくらい、そこにとまっていましたか?」
証人は、ペリイ・メイスンを横目で見て、「二、三分でした」といった。「松葉杖をとって、車に入れるには十分な時間でした」
法廷に、忍び笑いが聞こえた。
「なるほど」と、メイスンがいった。「ところで、もし、松葉杖を手に入れるために、被告が車で引っ返したのなら、なぜ、猫もそのときに持ち出そうとはしなかったんだろうね? 後で自動車で引っ返して来るつもりだったのなら、最初、猫を腕に抱いていたのは、なんのためですか?」
「あっしには、わかりません」と、ちょっと考えてから、証人がこたえた。
「たしかに、きみにはわかるまい」といいながら、メイスンは立ちあがった。「ところで、きみは、チャールズ・アシュトンにひどく関心を抱いていたようですね?」
「あっしが、ですか?」
「そう、きみが」
「いや、あっしは、そうは思いませんが」
メイスンは、じっと証人を見つめたので、ブランドンは、居心地悪そうに、椅子の中でもじもじして、その目をそらした。
「きみは、アシュトンが猫のことで、わたしのところへ相談に来たときのことを、知っていますか?」
「さあ、わっしには、なんともいえませんが」と、証人がいった。
メイスンは、冷やかにかれを見つめていった。「きみは宣誓をしているんだよ、忘れちゃいけないよ。アシュトンが、わたしの事務所へ来たとき、きみは、かれの後をつけて来た、そうでしょう?」
「いいえ、ちがいます」
「きみは、緑色のポンテアクに乗っていた」と、メイスンは、ゆっくりといった。「きみは、その車をわたしの事務所の前にとめた。きみは、アシュトンが出て来るまで待っていて、それから、ゆっくり車を走らせて、かれの後をつけた、そうだね?」
証人は、唇を舌でなめたが、黙ったままでいた。ペニメーカー裁判長は、裁判長席からぐっと身を乗り出した。その顔には、強い興味をかき立てられたという色がうかんでいた。トラスラウは、とまどったような顔色だ。
「さあ」と、メイスンが強い語調でいった。「質問にこたえるんだ」
「へい」と、とうとう、証人がいった。「つけました」
「それから、きみは、松葉杖つくりのバブスンのところへ行って、アシュトンの松葉杖のことをたずねたろう?」
もう一度、はっきりそうとわかるほどの間、ためらってから、ブランドンは、ゆっくりといった。
「へい、行きました」
「そして、バブスンが、アシュトンの松葉杖に物を隠すように穴をあけたことを聞き出したろう」
「へい」
「なぜ、そんなことをしたんだ?」
「そうしろといいつけられましたんで」
「誰がいいつけたんだ?」
「フランク・オーフレイさまで」
「なぜそんなことをさせるか、オーフレイはいったか?」
「いいえ。ただアシュトンが屋敷を出かけたら、そのたびに後をつけろとおっしゃいましたんで。アシュトンがどこへ行ったかを調べて、誰に逢ったか、一人残らず知らせろって、どれくらいアシュトンが金を使ったか聞き出して来いと、おいいつけになりましたんで。金のことは、特別に気にかけていたようで」
「いつ、そういうことを、証人にいいつけたんだね?」
「二十日の日で」
「そして、もうアシュトンの後をつけなくてもいいと、証人にいったのは、いつのことだね?」
「二十三日の夕方でした」
「何時ごろだね?」
「夕飯のときなんで」
ペリイ・メイスンは、弁護人席へもどって椅子に腰をおろし、トラスラウの顔を見て、にっこり笑みをうかべ、
「これで」といった。「おわりです」
トラスラウは、ちょっとためらっていてから、ゆっくりといった。「わたしも、それだけでいいと思います。ロバート・ジェースン博士、どうぞ証人席におつきください」
医師のロバート・ジェースン博士が証人席について、ピーター・ラクスターの死体を発掘したこと、火傷《やけど》が死の前のものか、死後のものかを決定するために、綿密な死体解剖を行なったということを証言した。
「それで、どういう結論をお出しになりましたか?」と、トラスラウがたずねた。
「死体は、ほとんど炭化していましたが、何か所か、衣類によって肉の部分の残っているところがありました。焼死の場合、着衣がぴったりと肉体を包んでいる部分には、比較的、肉に損傷がすくないということは、承認されている事実であります。こん度の場合、それらの数か所におきまして、検案の結果、わたしとしての結論に到達することができました」
「どういう結論に到達されましたか?」
「故人が、火災の以前に死んでいたということです」
「反対訊問を」と、トラスラウが大声でいった。
「死因が焼死であったか、それとも一酸化炭素の中毒であったかは、結論が出ましたでしょうか?」と、メイスンがたずねた。
ジェースン博士は、首を左右に振って、「あらゆる焼死の場合、組織中に一酸化炭素の残存が認められるのが普通です」
「すると、人間が一酸化炭素の中毒で死んだ場合、自動車の排気筒から送り込まれたガスによってもたらされたものか、窒息死したものが火災の中で焼死したか、その死因を識別することは不可能も同然なわけだ。そうなんですね?」
「大体において、そのとおりです。いや、そうです」
「それゆえに、どちらの場合にも、死体には一酸化炭素中毒の症状があらわれるという仮定から、こん度の死体検案にあたって、あなたは、その点の鑑識を怠ったというわけですね?」
「そうです」
「X線で骨をお調べになりましたか?」
「いいや、しませんでしたが。なぜですか?」
「死体の右脚が、最近骨折した痕跡を残しているかどうかと疑ったからです」
ジェースン博士は、顔をしかめた。
「それが、事件とどういう関係があるのですか?」と、トラスラウが質問した。
「弁護人は、X線検査をしていただきたいと思うものであります」と、メイスンが強い口調でいった。「そして、その結果が残らず証拠として提供されることになれば、弁護人は、一酸化炭素中毒の症状があったか否かについても知る権利があると感ずるものであります」
「しかし」と、ペニメーカー裁判長が、問題点を指摘するようにいった。「証人はいま、死因がどうであろうとも、一酸化炭素中毒の証拠は存在すると陳述したじゃありませんか」
「いや、ちがいます。そういう陳述ではありませんでした」と、メイスンがいった。「証人はただ、死因が焼死であろうとも、一酸化炭素中毒死であろうとも、そういう証拠が存在すると証言したにすぎません。わたくしは、本証人に対して、ただちに右の二点を確かめた上で、法廷にもどるよう、ご指示願いたいと希望いたします」
「わたしは役所に電話をかけて、助手の者に、すぐに検査をするようにさせても結構です」と、証人がいった。
「それは、まことに結構なことですね」と、ペリイ・メイスンも賛成した。
「ちょっと、異例な気がしますが」とペニメーカー裁判長がいった。
「わたくしも、そう思います。裁判長どの、しかし、時刻もだいぶ遅くなりましたし、わたくしは、きょうじゅうに、審理をかたづけたいのです。要するに、きょうの審問は、陪審を前にした上級裁判所での審理ではございません。この審問の目的は、犯罪が行われたか否か、被告が有罪なりと推定されるべき合理的な根拠があるか否かを、決定するだけのものであります」
「よろしい」と、ペニメーカー裁判長はいった。「ジェースンさん、試験を命じてください」
医師のジェースン博士は、証人席をはなれた。
デラ・ストリートが、傍聴席の中を急ぎ足に通りぬけて、境の手すりのところまで進んで来た。ペリイ・メイスンの視線が、かの女のそれと合った。
「ちょっとお待ちを願います」と、ペリイ・メイスンはいって、手すりのそばへ寄った。
デラ・ストリートは、囁《ささや》くように小声で、メイスンにいった。「保険会社へ電話をして、なんか情報がはいったかと聞いていたんです。そしたら、ニュー・メキシコのサンタ・フェの警察が、車を見つけたと知らしてくれたんですの。運転していた男は、ワトスン・クラマートだと名乗ったそうですけど、身分証明書のようなものはなにも持っていないんですって。ただ、領収書のようなものを持っていて、それには、ワトスン・クラマートという名で、その車を買って金を払ったと書いてあるらしいんですけど、警察では、にせの領収書だと思ってるらしいんです。でも、おかしいのは、警察ではその男を銀行破りの強盗だと思っているんですって。だってね、その車の中のスーツケースに、現金で百万ドル以上のお金を持ってるんですって」
メイスンは、満足そうにため息をついて、
「なるほど」といった。「どうやら目鼻がついてきたな」
「つぎの証人として」と、トラスラウがいった。「ウィニフレッド・ラクスター、証人席について」
それから、かれは、心持ち声を低くして、ペニメーカー裁判長にいった。「裁判長もお認めいただけると存じますが、本証人は、検察側と反対の立場にありますので、誘導訊問を用いることをお許し願います」
「訊問をしてください」と、ペニメーカー裁判長はいった。「誘導訊問の必要が明らかになった場合、裁定をします」
「結構です。証人席についてください、ラクスター嬢」
かの女は、右の手を上げ、宣誓をしてから、証人席へ進み腰をおろした。
「あなたの名前は、ウィニフレッド・ラクスターで、被告とは婚約の間柄ですね?」
「はい」
「チャールズ・アシュトンとは知り合いでしたね?」
「はい」
「いま法廷にいる、頸に『クリンカー』と書いた札をつけている猫のことは、よく知っていますね?」
ウィニフレッド・ラクスターは、ちょっと唇を噛んでからいった。「管理人の猫でしたら、知っています」
「この猫が、いまあなたのいわれた管理人の猫ですか?」
ウィニフレッド・ラクスターは、訴えるような目つきで、ペリイ・メイスンの顔を見たが、ペリイ・メイスンは黙っていた。かの女は、深く息を吸い、どうしようかとためらった後、首を振ろうとしかけたが、とたんに、猫は、のどを鳴らして「ニャーオ」となき、テーブルから飛び降りて、法廷を突っ切り、かの女の膝に飛びあがり、いかにも安心しきったというように、体をちぢめて丸くなった。くすくすという忍び笑いが、傍聴人の間に起こった。裁判長が、木槌で卓をたたいて静粛を命じた。ウィニーは、もう一度、ペリイ・メイスンの顔を見た。
「訊問にこたえなさい。ウィニフレッド」と、ペリイ・メイスンが声をかけた。「真実を話しなさい」
「はい」と、かの女は口を開いた。「これがクリンカーです」
「管理人が殺された夜、あなたは、クリンカーを自分の手に入れたのですか?」
「訊問にこたえなさい」と、どうしていいかわからないという目つきで、自分の顔を見るかの女に、メイスンがいった。
「おこたえいたしません」
「訊問にこたえなさい、ウィニフレッド」と、メイスンが繰り返していった。
かの女は、じっとメイスンの顔を見つめていたが、やがて、ゆっくりとした口調でいった。「はい、手に入れました」
「誰が、あなたにその猫を渡したのですか?」
かの女の態度は、いまでは、復仇でもするようなふうだった。「あたしの、ある友だちが渡してくれましたので、あたしは、ペリイ・メイスンに渡しました――というよりも、ペリイ・メイスンが、連れて行きました。あたしの部屋で、警察の人に見つけられちゃいけないと、そういう話でした」
「その友だちというのは、ダグラス・キーンだったのですか?」と、トラスラウがたずねた。
「おこたえを拒否いたします」
「かまわずに、どんどんこたえなさい」と、メイスンが指図をした。
ペニメーカー裁判長が咳払いをした。ちょっと聞いただけで誰にもわかるほど、若い女性に対して同情のこもった口吻で、裁判長はいった。「もちろん、諸君、本証人に対して、訊問にこたえることが本人を不利な立場におとし入れるおそれがあると助言することは、正々堂々と許されていることであり、そのために証人が、従犯の嫌疑を……」
「そういう必要はありません」と、ペリイ・メイスンが、きっぱりといった。「わたしは、本証人の利益を代表しております。さあ、遠慮なしに、どんどん訊問にこたえなさい、ウィニフレッド」
「はい、そうです」と、かの女はいった。
「反対訊問をどうぞ」と、トラスラウが大声でいった。
「反対訊問はありません」と、メイスンがいった。
トラスラウは、立ちあがった。その態度は冷やかで、なにか底意ありげだった。
「裁判長どの」と、かれは口を開いた。「か弱い女性に対してこのような訊問をしなければならないということは、大いに遺憾《いかん》とするところでありますが、チャールズ・アシュトン殺害事件は、エディス・ドヴォー殺害事件と不可分の関係にあることは明らかなことであります。犯人は、アシュトンの部屋から松葉杖を持ち出して、エディス・ドヴォー殺害の現場にいたったに相違ないものと信じます。また、犯人は、その松葉杖を鋸で引き切り、ダイヤモンドを抜き出し、その松葉杖の一端を凶器として、エディス・ドヴォーに致命的な傷を加えたものに相違ありません。したがいまして、チャールズ・アシュトン殺害犯人は、エディス・ドヴォー殺害犯人に相違なしと断定されなければなりません。それゆえに、アシュトンは、猫がラクスター屋敷から連れ出される以前に殺害され、かつまた猫は、殺害の後には、いついかなるときにも、ラクスター屋敷へは帰らなかった、という事実を立証することが必要となります。すなわち、本職の考えるところによりますれば、今回の事件におきまして、この管理人の猫が被告の手に取り押さえられました瞬間から、警察がこれを取りもどしましたその間の、この猫の動静を明らかにいたすことが、検察側に負わせられた義務としてかかってまいるのであります。右の理由によりまして、本職は、デラ・ストリートが証人席に就くことを要求いたします」
デラ・ストリートは、びっくりして息をのんだ。
「証人席へ就きたまえ、デラ」と、ペリイ・メイスンがいった。
デラ・ストリートは進み出て、宣誓をした。
「あなたの名前は、デラ・ストリート、本件の弁護人として出廷しておられるペリイ・メイスンの秘書ですね。ところで、今月二十三日の夜、ペリイ・メイスンは、クリンカーという名で呼ばれ、いま現に当法廷にいるところの猫をたずさえて、あなたのアパートにあらわれましたか?」
「訊問にこたえなさい」と、ペリイ・メイスンが、かの女にいって聞かした。
「存じません」と、かの女は、挑戦的な口振りでいった。
「知らないというんですか?」と、トラスラウがたずねた。
「ええ」
「その答弁は、どういう意味なんですか?」
「存じませんという意味です」
「なぜ、知らないんですか?」
「というのは、この猫が、管理人の猫かどうかわからないからです」
「しかし、証人ウィニフレッド・ラクスターは、そうだといっているじゃありませんか」
「ウィニフレッド・ラクスターの証言について、あたしには、責任はございません。宣誓をして証言をしているのは、あたしでございます」
「しかし、猫は、ウィニフレッド・ラクスターをよく知っていることを示しているじゃありませんか」
「猫の交友範囲について」と、かの女は、冷やかにいってのけた。「あたしに責任はございません」
傍聴人の中から笑い声が起こった。ペニメーカー裁判長もおもしろそうに、にこっと笑いをうかべたが、静粛にと法廷に注意を促すことは忘れなかった。
「しかし、ペリイ・メイスンが、一匹の猫をあなたのアパートに連れて来たことは認めるのでしょう」
「いいえ、そんなふうのことは、一切認めません。ご質問は、殺人と関係がない限り適切ではございませんし、あなたが、あたしのアパートに連れて来られたとおっしゃる猫が、管理人の猫でない限り、それが殺人と関係のあるはずはございませんし、またその猫が管理人の猫かどうかは、わたくしの関知しないところでございます。そういうご質問は、メイスン氏におたずねになるのが至当だと存じます」
トラスラウは、情なさそうな微笑をうかべながら、裁判長にいった。「おそらく、この若いご婦人の法律知識の深遠なことは、メイスン弁護人の成功にかなりの寄与を果たしているようですね」
「証人は、この件に関係のある法律上の急所を、じつによく把握しておられるようですな」と、ペニメーカー裁判長も意見の一端を述べた。
メイスンも、にっこり笑いをうかべた。
「では、ペリイ・メイスン氏を証人席に喚問します」と、トラスラウがいった。「こういう手続が異例なことは、十分に承知してはおりますが、今回のペリイ・メイスン氏のように、弁護人が依頼人の被疑事件にこれほど積極的な役割を演ずるということも、また異例なことと考えます。わたくしは、メイスン氏がその依頼人のある人から内密に聞き取った消息に関して、なんら質問をしようとするものではありません。ただ、ある犯罪人を庇護したことに関連して、氏のとった行動についてだけ質問しようとするものであります」
「よろしい」と、ペニメーカー裁判長は命令した。「ペリイ・メイスン、証人席についてください」
メイスンは、証人席に足を運び、宣誓して腰をおろした。ペニメーカー裁判長は、同情を帯びた目つきで、かれを見ていたが、やがて、トラスラウにいった。「結局のところ、トラスラウ検事補、メイスン弁護人が、自分の依頼人を弁護する方法に関してのきみの意見も、ある程度正当ではあるでしょうが、なんといおうとも、メイスン弁護人がれっきとした弁護士であることは、ゆるがせない事実であります。もしも、メイスン君が、ウィニフレッド・ラクスターの弁護をもすることになれば、おそらくそういう立場をとるだろうと裁判長は考えますが、その場合には、ウィニフレッド・ラクスターが、同弁護人に語った事柄はなんによらず職業上の特権による通報と、裁判長は認めます。さきほど適切な言葉をもって指摘されたとおり、メイスン弁護人の方法は、なるほどいささか異例ではありますが、同君の閲歴が示しているとおり、それは華々《はなばな》しい成功の連続であったのですが、その成功こそは、有罪の人間の弁護によってではなく、まったく刮目《かつもく》に価するほどの独創的な方法で、依頼人の無罪を論証することによってかち得られたものであることは、貴官もお認めにならざるをえないと思います」
「過去のことを、本職は論じてはおりません」と、トラスラウは、厳然といいはなった。「問題にしているのは、現在であります」
「裁判長が、わたしに救いの命綱をさしのべてくだすったことは深く感謝いたします」と、メイスンは、にとにこと笑いをうかべながらいった。「しかしながら、わたしには、その必要があろうとは思えません」
トラスラウが、質問の口火を切った。「あなたの名前は、ペリイ・メイスンですね? 弁護士ですね?」
「そのとおりです」
「ダグラス・キーンの弁護人ですね?」
「そうです」
「今月二十三日の晩、ウィニフレッド・ラクスター経営のワッフル屋に行きましたか?」
「行きました」
「そこで、一匹の猫を受け取りましたか?」
「受け取りました」
「その猫をどうしましたか?」
ペリイ・メイスンは、にっこりと笑いをうかべて、「そのあなたのご質問以上に詳しくおこたえいたしましょう、トラスラウ君、あの猫は、管理人の猫の、クリンカーであるという陳述といっしょに、わたしに手渡されたのです。なおまた、ウィニフレッド・ラクスターは、十一時すこし過ぎ、本件の被告ダグラス・キーンから、かの女に手渡されたときからそれまでずっと、かの女の手許にいたものだということでした。
わたしは、ラクスター嬢に、ここで猫を警察に発見されないようにすることが大切だといって、その猫を受け取った上、しっかり手許からはなさないようにしろといって、わたしの秘書に自分で渡しました」
「それで、なぜ、そういうことをしたのですか?」と、トラスラウがたずねた。
「わたしがそうしたのは」と、ペリイ・メイスンがいった。「猫が逃げ出して、ラクスター家へ帰らないようにするためだったのです」
このメイスンの言葉の意味が、はっきりトラスラウの頭にはいるまでには、ちょっとひまがかかった。かれは、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せていった。「なんですって?」
「猫が、ラクスター屋敷へ帰れないようにするために、そうしたのです」
「わかりませんな」と、トラスラウがいった。
「言葉をかえていうと」と、メイスンが、冷静に陳述をつづけた。「チャールズ・アシュトンが死体となっているのを発見された、あのベッドの掛け布団についていた猫の足跡が、クリンカーの足跡だったとすれば、それは、ダグラス・キーンが、あの家を立ち去る前につけられたものに相違ないということを明らかにしたかったからです」
トラスラウは額に皺を寄せて、じっと考え込んでいた。しばらくの間、かれは、自分が訊問をしている人間だという役割も忘れて、メイスンがいったいなにをいおうとしているのか、なにを企んでいるのだろうかと、その真意を追うのに懸命だった。「そのことは」と、かれは口を開いた。「なんらあなたの依頼人に利益をもたらさないじゃありませんか」
「つぎのような範囲までは、利益をもたらしますよ」と、メイスンがこたえた。「つまり、それによって情況が明らかになり、真犯人が発見されうるという点です」
トラスラウは、質問をつづけずに、ただ茫然《ぼうぜん》と立ちつくしたまま、メイスンが言葉をつづけるのを待っていた。ところで、ペニメーカー裁判長はといえば、一語も聞きもらすまいとするように、ぐっと身をのり出していた。
「わたしは」と、メイスンは言葉をつづけた。「キーンが無罪だという仮定のもとに行動しました。誰かほかの人間が犯人であるということを立証する以外に、わたしは、かれの無罪を明確に立証することはできなかったのです。警察側は、一足飛びに、キーンが虚偽の申し立てをしているという結論をだしてしまいました。表面的に判断すれば、キーンは虚偽の申し立てをしているとしか思えなかったに相違ありません。アシュトンは、疑いもなく十時半ごろに殺されたのです。そして、キーンが、十時半ごろ、後に死体が発見されたアシュトンの部屋にいたことは、疑う余地なく、掛け布団の上には、猫の足跡がついていたのですから、警察側が、一足飛びに、それらの足跡はクリンカーがつけたものだという結論に達したのも無理ではありません。ところが、キーンは、十一時ちょっと過ぎに、クリンカーを連れて、あの家をはなれた、そして、はなれたときには、アシュトンの死体は、絶対に部屋の中にはなかったと、そう話して聞かせました。
警察側の推理にしたがって、キーンが虚偽の申し立てをしているという仮定のもとに行動を起こす代りに、わたしは、キーンが真実を申し立てているのかもしれないという仮定のもとに行動を起こすことに心を決めました。その場合には、あの猫の足跡は、クリンカーのものではないはずです。またその場合には、アシュトンは、十時半には、かれの死体が発見された場所にはいなかったということになるはずです。しかも、アシュトンが十時半に殺されたということは疑う余地がないのですから、アシュトンが、かれの死体が発見された場所とは別の、どこかほかのところで殺されたのに相違ないということが、きわめて明瞭《めいりょう》になってきます。その場合には、あの猫の足跡は、クリンカーではない、別の猫によってつけられたものに相違ないということになります。
ここまで推理をはたらかせたとき、不意にわたしは、その点を立証することが重大な問題だということに気がつきました。と同時に、キーンがあの家からクリンカーを連れ出した瞬間から以後の、クリンカーの所在は、一分といえどもいいかげんにはできないほど大切なことだということに思い到ったのです。そこに思い到ると、猫をわたし自身の管理のもとにおいて、犯人が発見することのできない場所にかくまっておく以上に、最上の手はないと考えついたわけです」
「なぜ」と、トラスラウが詰問するような口調でいった。「あなたは、この猫のクリンカーが、あなたの依頼人の手で、あの家から連れ出されたという事実を、明瞭にしたいと思ったのですか?」
「というのは」と、メイスンがいった。「クリンカーが、あの家のまわりにいたただ一匹の猫だったからです。それどころか、クリンカーは、ほかの猫という猫を、あの近辺からずっと追っぱらいつづけて寄せつけなかったのです。したがって、キーンの申し立てが真実だとすれば、アシュトンの死体は、アシュトンが殺された後で、あの家に運び込まれたものに相違ないのです。そして、犯人は、アシュトンがベッドの中で殺されたと見せかけるために、かつまたダグラス・キーンに嫌疑を向けるために、必ずや、ほかの猫をさがしに、夜中、外へ出かけて行き、無理矢理、その猫を家の中へ連れ込んで、アシュトンの死体の横たわっているベッドへ――ついでながら、そのベッドたるや、嗅覚の鋭い猫の鼻のことですから、クリンカーの臭いを嗅ぎつけたろうと思いますが――そのベッドへ、その猫を連れ込んで、無理に、掛け布団の上に足跡をつけさせたものに相違ないのです。
もし、そのようなことがあったとしたら、よく猫の習性を知っている人ならば、猫は、そのような取り扱いを受けることをひどく思うものであって、嫌ってあばれまわったあげく、その犯人の手にひどい引っ掻き傷をつけるものだということに思い到るに相違ありません。そこで、わたしは、嫌疑ありと考えられる人々の中から、手に引っ掻き傷のある人物をさがしてみました。その人物を発見したとき、その男は、その手の引っ掻き傷を隠そうとして、手の引っ掻き傷のいいわけになるような状況のもとで、さらに余計な引っ掻き傷をつくっているのに気がつきました――すなわち、宝さがしをするように見せかけて、蔓ばらの薮《やぶ》のまわりの地面を掘っていたのですが、その掘り方たるや、およそ百万ドルの宝物を発掘しようとする人間の掘り方とは、とうていいえないような掘り方でした。それゆえに、あの穴掘りは、ばらのとげで手に引っ掻き傷ができたといういいのがれをする、ただそれだけの目的のものだったという結論に、わたしは達したのです」
思いもかけないメイスンの陳述を聞いて、トラスラウは、いまにも飛び出さんばかりに大きく目を見開いていた。
「きみは、フランク・オーフレイのことをいってるんですね? フランク・オーフレイは、アシュトンが殺されたときに、エディス・ドヴォーといっしょだったじゃありませんか」
「そうです」と、メイスンがいった。「わたしが、この全審理を進行させてきたのは、ただ、かれ自身の口からその犯行を認めさせたいと思ったからだけです。というのは、|アシュトンは《ヽヽヽヽヽヽ》、|自分のベッドで殺されたのではなく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|エディス《ヽヽヽヽ》・|ドヴォーのアパートで殺された《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》からです。かれは、そこで殺されたのに相違ないのです。この事件の、すべての物的証拠を満足させる唯一の説明が、それです。アシュトンは、弱り果てた、老残の人物であり、車寄せへの道が、かれのベッドの上の窓の、すぐそばを通っていることを思い出していただきたい。力のある男なら、あの窓から、いとも手易くアシュトンの死体をすべりこませることができたはずです」
「ちょっと待ってください」と、トラスラウは、急に新しい事態の展開に気がついて、相手の言葉をさえぎった。「あなたは、証人として証人席についていながら、事件について議論をしているんじゃないのですか」
「証人席に呼び出されましたのは」と、ペリイ・メイスンは、いんぎんに陳述をつづけた。「検察側の証人としてでありますので、あなたの質問にこたえて証言をしているのです。ウィニフレッド・ラクスターから猫を取りあげ、警察が取りあげて安全に保護するまでのあいだ、事件に関係のある誰にも発見されないような場所に、それを隠しておいた、その動機を説明したわけです。そして、警察が安全にあの猫を保護してくれるという事実を、いっそう確実なものにするために、あの猫を押さえておけば、わたしの依頼人を罪におとし入れることができるし、あわよくば、弁護士としてのわたしの立場をも窮地に追いおとすことができると、警察に思い込ませるように仕向けたという次第です」
ペニメーカー裁判長が、笑みをうかべながらいった。「メイスン弁護人は、なるほど、いささか議論にわたるような答弁をしておられるとは思いますが、当法廷は、もちろん傾聴するつもりでいます。説明をつづけてください、メイスン君」
「わたしは」と、裁判長の方に向き直って、ペリイ・メイスンがいった。「ピーター・ラクスターは、死んでいないと確信していました」
ペニメーカー裁判長は、自分の頭をはっきりさせようとでもするように首を振って、「なにを確信していたというのですか?」とたずねた。
「ピーター・ラクスターが死んではいないということをです。あらゆる事実は、エディス・ドヴォーとフランク・オーフレイとが、老人の命をねらっていたということを示しています。かれら二人は、一酸化炭素のガスを、老人の寝室へ送ろうと企んでいたのです。本件の証拠が示すところによりますと、忠実な召使であった管理人のチャールズ・アシュトンが、主人のピーター・ラクスターから巨額の現金と、有名なコルツドルフ・ダイヤモンドを受け取ったことは明らかであります。また右の財産は、安全に保管される目的で、アシュトンに手渡されたものであり、その理由は、ピーター・ラクスターが、その別荘の焼失することを、あらかじめ知っていたからに相違ありません。
いいかえれば、ピーター・ラクスターかチャールズ・アシュトンのどちらかが、陰険なる殺人の計画が、何人かの手によって企《たく》らまれているということを感知したのです。エディス・ドヴォーは、それは、サム・ラクスターの計画だったと、わたしに話して聞かせましたが、わたしは、それこそあらかじめ腹案を練った計画の一部として、かの女が話して聞かせたものだという気がします。すなわち、その計画の結果、かの女とフランク・オーフレイとは、共謀してピーター・ラクスターを殺害し、さらにサム・ラクスターに殺人の罪をきせることによって、同人を遺産の相続から除外し、フランク・オーフレイが唯一の相続人となろうと計画したのだと考えます。
ピーター・ラクスターは、この共謀の陰謀人どもに、その殺人の計画を実行させようと決心しました。かれ自身のいくつかの理由によって、姿を消すことを望んでいたからです。その理由の一つは、おそらく、ウィニフレッド・ラクスターを表面だけ遺産相続から除外して、かの女に対して愛を告白していた二人の青年がどんな態度を取るかを、はっきりかの女に見させ、それによってかの女の迷いをさまさせたいと思ったからだと思われます。そこで、ピーター・ラクスターからすっかり胸の中を打ち明けられた管理人のアシュトンは、市内の病院の慈善病棟へ訪ねて行きました。そこに、一人の男が――ワトスン・クラマートという男が――身寄りもなければ財産もない、瀕死の病人が見つかりました。アシュトンは、不治の病状だということを知った上で、この男に、完璧な医学上の手当と看護とを受けさせました。こういう手を用いることによって、架空の親戚《しんせき》関係をでっちあげたために、その男が死んだ後、アシュトンがその遺骸を運び出したのにも、なんら問題は起きなかったのであります。
疑いもなく、二人の謀反人《むほんにん》たちは、その犯罪を遂行するための絶好の機会を狙っていました。また疑いもなく、ピーター・ラクスターは、自分の準備が完全に整うまで、抜け目なく、二人にその機会を与えないようにして来ました。その準備というなかには、死体を手に入れることと、動産の全部を現金化し、それによって、表面上の相続人たちにその資産を勝手気儘に分け取りさせないようにすることとが含まれていました。
ところで、ワトスン・クラマートは、運転免許証と、必要な身許証明書の類を持っていましたので、ピーター・ラクスターにとっては、全然新しい名前を名乗るよりは、ワトスン・クラマートの名を使うほうが簡単だったのです。こうして舞台がすっかり整ったところで、かれは、二人の謀叛人に、苦心惨憺、かれの寝室に一酸化炭素のガスを送り込ませた後で、別荘に火をかけるようにさせました。かれらが、それから遺言の検認手続きに騒ぎまわっているころ、ピーター・ラクスターは、こっそりかげで、かれらをあざ笑っていたというわけです。
おわかりいただけるでしょうか、裁判長どの、いまわたしは、自分の行動の背後に横たわっている理由を申しあげているのです。この理由の大半は、仮定であって、これはやむをえないことでありますが、しかし、この仮定は、うまく適合するものと考えます。
|あらゆる人間が《ヽヽヽヽヽヽヽ》オーフレイは、アシュトンが殺害された時刻に、アシュトンの死体が発見された場所にいなかった、かれには立派なアリバイがあるからという仮定のもとに行動をしていたのです。実際のところをいうと、アシュトンが、その死体の発見された場所で殺されたことを示す証拠は、まったくどこにもないのです。わたしは、かれがエディス・ドヴォーのアパートで殺されたのだと信じます。わたしの信ずるところによれば、アシュトンは自分から、エディス・ドヴォーのアパートへ出かけて行ったか、あるいは、自分たちの陰謀をアシュトンに悟られたと感づいた謀叛人どもに、うまいことをいっておびき寄せられたのに相違ありません。かれらは二人とも、ピーター・ラクスターは死んだと信じていたのだと思います。思うに、かれらは、アシュトンを殺し、鋸で松葉杖を切り、ダイヤモンドを盗み、その上で、アシュトンの死体をなんとか処置しなければならないと考えたあげく、とめてあったオーフレイの自動車の中へ、こっそり押し込んだのです。それから、フランク・オーフレイは、その車を運転して、被告が猫を連れて出かけたちょっと後で、ラクスター屋敷へ帰り、窓からそっと死体をアシュトンの部屋に入れたのです。窓は、いつも猫が出入りできるように、明けはなしになっていました。
犯人は、クリンカーがいつも、そのベッドで寝る癖があるということを承知していました。かれは、なにからなにまで、いかにもふだんのとおりに見せかけたいと思ったのです。それで、クリンカーをさがしまわったのですが、ほんの数分前に、クリンカーが、ダグラス・キーンに連れ去られたということがわかると、かれはそくざに、ベッドの上に猫の足跡をつけておきさえすれば、決定的に、キーンに不利な証拠をでっちあげることができると感づいたのです。それで出かけて行き、別の猫を一匹つかまえて来て、首を押さえつけながらベッドの上に足跡をつけさせたのですが、その際に、両手に引っ掻き傷をつけられてしまったのです。
オーフレイは、手の引っ掻き傷のいいわけになるような、辻棲《つじつま》の合う口実がいると思ったものですから、電報を一通、自分宛に打つ手配をしたばかりか、照合すれば、その発信人がウィニフレッド・ラクスターだとわかるようにしたのも、いかにも、その電報が不自然な、にせものでないように見せかけるためだったのです。この作りものの電報を利用して、オーフレイは、ばらの藪を掘り返し、引っ掻き傷のできたいいわけをもっともらしくすることができるようになったのです。
さて、裁判長、これからは、ただいままでのところでは単なる推測の域を出られない事件の局面にはいります。わたしは、ワトスン・クラマートなる人物が、アシュトンが借りた銀行の貸金庫に近づくことができるようになっていると知るとすぐ、ピーター・ラクスターが、おそらくクラマートの運転許可証を利用するために、ほかの名を名乗らないで、便宜上、ワトスン・クラマートの名前を使っているなと感じました。事件の当夜、十一時すこし過ぎに、エディス・ドヴォーのアパートでなにが起こったかは、はっきりわかりませんが、事実を推測することはできます。すなわち、オーフレイは、かの女に手を貸して、管理人を殺したのです。それから、かれは、管理人の死体を持ち出し、松葉杖は、エディス・ドヴォーのアパートに残しておいたのです。松葉杖は、鋸で引き切り、ダイヤモンドを取り出した後で、焼きすてるつもりだったのです。ところで、サム・ラクスターのほうですが、かれは、緑のポンテアクに乗って、弁護士の法律事務所へ出かけて行き、管理人のシボレーに乗って帰って来ました。ですから、かれは、シャスターの事務所を出た後で、どこかを訪ねて行き、そこに駐車していた管理人のシボレーを見つけたに相違ないのです。
わたしは、かれとシャスターとは、エディス・ドヴォーが、かれを人殺し呼ばわりしていることについて話し合ったのだと、かたく信じます。シャスターは、オーフレイがうっかり口をすべらした言葉から、事態を感じとったのだと思います。サム・ラクスターは、ナット・シャスターの了解を得た上であったか、得なかったかのどちらかにしても、とにかくエディス・ドヴォーに会いに出かけて行ったのだと思います。そして、サム・ラクスターは、そのアパートへ出かけて行って、かの女が死んでいるのを発見しました。かれが、あわてふためいてその場を飛び出し、法律顧問のシャスターに電話をかけたと考えても、そう理窟に合わない推測ではないでしょう。かれがシャスターになんといったか、シャスターがかれになんといったかについて推測するのはひかえますが、ダグラス・キーンに罪をきせようとする驚くべき悪辣《あくらつ》な企てがなされたという事実は、厳として動かすことができません。エディス・ドヴォーが、サム・ラクスターを殺人犯人として非難しつづけていた言葉から考えまして、サム・ラクスターはそくざに、自分がエディス・ドヴォーのアパートに、しかも、殺人の行われた時刻にいたことがわかった場合には、とうてい罪をのがれる見込みはないと感じたのでしょう。
さて、ここで疑問が起こります。誰が、エディス・ドヴォーを殺したのでしょうか? わたしは知りません。しかし、わたしは、ピーター・ラクスターが、ワトスン・クラマートの名のもとに、ビュイックのセダン型の新車を買ったことを、よく知っています。また、一台のビュイックのセダン型の新車が、エディス・ドヴォーのアパートメント・ハウスの前で、管理人のシボレーのまうしろに駐車していたのを、多くの証人が目撃していることも、わたしは、よく知っています。おそらく、ピーター・ラクスターがそこへ出かけて行ったのは、アシュトンが出て来るのを待ち合わせるためだったのでしょう。ところが、いくら待ってもアシュトンが出て来ないので、ピーター・ラクスターは、エディス・ドヴォーのアパートへあがって行った。たぶん、十一時ごろ、あるいは、それよりすこしは遅かったかもしれません。そこでは、管理人の松葉杖が鋸で引き切られて、暖炉の中で燃やされていました。コルツドルフ・ダイヤモンドは、たぶん、隠すひまもなかったのでしょう、テーブルの上にきらきらと光っていました。ラクスターが、かっとなったあげく、殺意をもって、棒切れでエディス・ドヴォーを殴打したとは、わたしは思いません。しかし、ラクスターが老人であり、それに引きかえ、エディス・ドヴォーが精力旺盛な、がっしりした体つきの、力のある、猫のような陰険な女であることを忘れてはなりません。おそらく、ラクスターに襲いかかったのは、女のほうだったのでしょう。ラクスターは、一番手近な武器として、暖炉の中の松葉杖の切れはしをつかんで応戦したのでしょう。その数分前に、エディス・ドヴォーが隣室へマッチを借りに行ったということから、松葉杖が燃え出したばかりであったと想定することができます。暖炉の中で、ごく最近に、木が燃されたということを、われわれは知っています。凶器として使用された松葉杖の切れはしの一端には、火熱を加えられた証拠があったということも、われわれは知っています。そして、その凶器に残されていた指紋が、ピーター・ラクスター――またの名、ワトスン・クラマートのものであることも、警察では発見するだろうと考えます」
ペリイ・メイスンは語りおわって、あっけにとられている検察官の顔を見て、にっこりと笑った。
そのとき、医師のジェースン博士が、法廷へ飛び込んで来た。ひどく興奮の様子だった。「あの男は、焼死ではありません」と、かれは、吐き出すようにいった。「いいや、一酸化炭素の中毒死でもありません。明らかに自然死で、右脚にもなんら骨折の痕がありません。ですから、死体は、ピーター・ラクスターのものではないわけです」
とまた別の戸口から、ハミルトン・バーガーが、法廷へ飛び込んで来て、「裁判長」と大声でいった。「即刻、この審問を停止していただきたい。地方検察局は、無期延期を要求いたします。自動車窃盗犯としてニュー・メキシコで逮捕された、ワトスン・クラマートなる男の自供が電報で送られて来ました。その自供によりますと、その男は、実際はピーター・ラクスターであって、エディス・ドヴォーとフランク・オーフレイとが共謀してチャールズ・アシュトンを殺害したことを知っており、エディス・ドヴォーのアパートに侵入して、その殺害の証拠を握ったピーター・ラクスターは、エディス・ドヴォーを殴打して死にいたらしめたと、そういうのです。その後、恐怖にかられ、あわてふためいて、逃亡しようとしたと述べています。以上はみな、この電報に記されています。かれはいま、進んでこちらへ帰り、審理を受けるといっております」
法廷には、一時に大混乱が巻き起こった。
ウィニフレッド・ラクスターは、狂喜の叫びをあげて、両手をひろげて待っているダグラス・キーンの方へ走り寄った。
ペリイ・メイスンは、組んでいた脚を解き、ペニメーカー裁判長の飛びあがらんばかりに驚いた顔を見て、にっこり微笑しながら、手をのばして、猫に向かって、ぱちっと指を鳴らして、
「おい、クリンカー」といった。
第十九章
ペリイ・メイスンは、事務所の安楽椅子にゆったり腰をおろしていた。デラ・ストリートが、うっとりと夢を見るような目つきで、デスクの向こうから、かれの顔を見つめて、
「ピーター・ラクスターの弁護も、お引き受けになるの?」とたずねた。
「起訴されたら、やるよ」
「どうして真相がおわかりになったのか、あたしにはわからないわ」
「ぼくにもわからなかったよ」と、かれがいった。「はじめはね。ところが、だんだん、ひどく臭いなと思うようになったんだ。二つ三つ、こいつはと思わせるような事実があったからね。フランク・オーフレイがエディス・ドヴォーと結婚した、あの結婚のやり方をよく考えてみたまえ。フランク・オーフレーは、ピーター・ラクスターといっしょにいる間は、ピーター・ラクスターが反対をするからというので、やむをえず、二人の仲を内密にしていたと、そういっていたね。ところが、家が火事で焼けてしまった後、あの男は、ピーター・ラクスターは死んでしまったと思い込んでいたのだろう。それなら、秘密に結婚式を挙げる必要もなければ、新婚旅行に出かけずに、すぐにラクスター屋敷へ帰って来たりする必要はないはずだよ。だから、あの二人があんなふうに結婚式を挙げなければならないと気がせいていたのには、きっと理由があるにちがいない、その理由というのは、妻は夫の同意なしに、夫に不利な訊問を受けることはないし、夫は妻に不利をもたらすような証言を強制されないということを心得ていた事実からきているためだと、ぼくは、どうしてもそう結論しないわけにはいかなかったのだ。それというのも、二人は、自分たちの陰謀がばれそうだと気がついていたからなんだね。ということは、なんかの様子から、アシュトンが陰謀のことを知っていることを感づいていたんだね。ピーター・ラクスターは死んだものと思っていたから、気づかれるとしたら、アシュトンだけだったんだ。
しかし、なんといっても、ほんとうに重要な手がかりは松葉杖だよ。検察側の見解では、アシュトンを殺した人間が、松葉杖をエディス・ドヴォーのアパートへ持って行って、それから、エディス・ドヴォーを殺したというのだ。これは、エディス・ドヴォーが、アシュトン殺しの共犯でないかぎり、明らかに不可能なことだ。というのは、エディス・ドヴォーのアパートへ持って来たときには、松葉杖は、まだ鋸で切られてなかったからなんだ。鋸で切られたのは、あのアパートの部屋の中なんで、その切ってばらばらにしたのを、暖炉の中で燃やしたんだ。ということは、アシュトンが、あのアパートにいたということ、犯人たちが、アシュトンを殺してから松葉杖をばらばらにしたということを示しているわけだ」
「警察がおじいさんをつかまえなかったら、先生の立場は、どうなっていたでしょうね?」と、デラ・ストリートがたずねた。
「わからんね」と、メイスンがいった。「じいさんがあらわれなくても、最後まで頑張れたかもしれないし、頑張れなかったかもしれない。しかし、とにかく、いろんな事実をちゃんとつなぎ合わせることだけはできたろうと思うよ」
「なぜ、もっと早く、オーフレイを告発なさらなかったの?」と、デラがたずねた。
「というのはね」と、ゆっくりとした口調で、メイスンがいった。「いろいろなことがかかり合っていたからなんだ。まず第一に、ダグラス・キーンに立派に行動させたかったからだし、第二には」と、くっくっと笑いをもらしながら、「大向こうをうならせたかったからなんだ。ぼくが、警察に教えていれば、手柄はみんな、連中がとってしまうだろうし、ことによると拙《まず》いことをやって、おかげで、キーンは、どうしてもほんとうに無実が晴らせなかったかもしれないんだ。いやそれどころか、連中は、でっちあげで、キーンに濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せるようなことをさえしたかもしれないのだ。それと、アシュトンが殺されたその時刻に、エディス・ドヴォーといっしょにいたことを、宣誓をした法廷でオーフレイに認めさせてやりたかったのだ」
「それから」と、デラがいった。「大事なことを一つ、言い残していらっしゃるわ。先生は、薄い氷の上をスケートで滑るように、むずかしい問題を器用に処理していくのが好きでいらっしゃるから、おたがいに人をかみ合わしておいて、その間に、ご自分は思い切ったことをやるのがお好き、なんでしょう」
「たぶん」と、かれは、にやっと薄笑いをうかべて、「前にもきみにいったと思うが、ぼくは、勝負をする以上は、とことんまでやるのが好きなんだよ」
「ですけど、ワトスン・クラマートを見つけ出すのに、なぜ、ドレイクさんをお使いにならなかったんですの?」
「おそらく、ドレイクでは間に合わせることができなかったろうと思うんだ。あの男じゃ、いろいろやりにくいことがあったろうね。現在のこの国で一番組織的な法の執行機関は、自動車泥棒をつかまえるためにできている保険会社の捜査網だよ。完全な協力体制ができているんだからね。普通、各郡地方警察というものは、協力捜査をしない。ただ、自動車関係の事件だけ協力するんだ。それで、ぼくは、ワトスン・クラマートが自動車泥棒としてつかまるように、段取りを組み立てたんだ。だから、早く成果があがって、あの男も逮捕できたし、自供もとれたんだ。結局、じつにごく簡単なことだったのさ。ビルトモア・ホテルへ二人で行って、新婚旅行の夫婦だという印象をはっきり与え、ぼくたちの新車をクラークに見させ、きみに関心を起こさせておいてから、きみに車を隠させて盗まれたといわせる。こうして捜査網の活動を起こさせてしまえば、いやでもクラマートはつかまえられるようになっていたというわけだ。当人は、全然怪しまれているなどとは思っていなかった。偽名で買った車を運転していたんだからね。逮捕されるのは、時間の問題にすぎなかったわけだ」
「そうね」と、デラ・ストリートがため息まじりにいった。「ほんとに、先生のやり方は、世間なみじゃないわね。でも、あたしにいわせれば、すごく効果のある方法ね」
メイスンは、かの女の顔を見て、にやっと薄笑いをうかべた。
「ところで」と、デラがいった。「こうして事件がかたづいてみると、ビュイックのセダンが一台余分に、あたしたちの手に残っちゃったけど、あれを、どうなさるおつもり? あれをお売りになる、それとも、幌型のほうをお売りになるの?」
「いいや」と、メイスンは、ゆっくりとした口調でいった。「両方とも残しておくほうがいいんじゃないか」
デラ・ストリートは、驚いて眉をあげた。
「そうじゃないか」と、メイスンがいった。「あれは、なかなか手ごろな車だからね――たとえば、新婚旅行に行きたくなったときなんかにね」(完)
解説
この「管理人の飼猫」(The Case of the Caretaker's Cat)の作者、アール・スタンレイ・ガードナー(Erle Stanley Gardner)については、いまさらこと新しく述べるまでもなく、英米推理小説界の第一人者として、大抵の読者が、すでに承知していられることであろう。しかし、なかには初めて、この作者の名に接する人もあるかと思うので、一応その略伝を記しておこう。
ガードナーは、一八八九年、アメリカのマサチューセッツ州のモルデンで生まれた。父が鉱山の技師であったので、幼年時代の大部分は、鉱山のキャンプで育ち、正統な教育も受けなかった。十七歳の時には、アラスカのコロンダイクに住んでいたこともある。やや長じて素人ボクサーとして試合に出たこともある。のち、法律に志し次席地方検事の下で見習として勉強し、一九一〇年、二十一歳のとき、カリフォルニア州の法廷に出る資格を得て、同州ヴェンツェラで弁護士事務所を開いた。それから二十二年間、刑事弁護士として、主として陪審法廷における論争に従事した。
それより前、一九二一年ごろから、かれは、低級な娯楽雑誌や、探偵小説専門の雑誌「ブラック・マスク」などに、短篇の探偵小説を発表し出した。
この「ブラック・マスク」は、最初は低級な雑誌であったが、一九二三、四年ごろから、ダシール・ハメットや、ガードナー(当時は、Charles M. Green という筆名を使っていた)などが、筆を揃えて寄稿しはじめてから、一躍、探偵小説界の寵児となり、ハードボイルド派の揺藍となった。だから、ガードナー自身も、自分はハードボイルド出身だと書いているほどである。
当時は、弁護士事務のかたわら、「ブラック・マスク」をはじめ、種々の娯楽雑誌に短篇の探偵小説を発表したので、一九二八年ごろには、パルプ雑誌界において大量作家として知られた。その当時は、平均一年に百万語(四百字詰の日本の原稿用紙にして一万枚前後)以上を発表した。
こういうと、弁護士事務のほうは、お留守になっていたか、あまりはやらなかったのではないかと思う人があるかもしれないが、どうしてどうして、決してそんなことはなかった。当時の同業が、もし、かれが弁護士の仕事をつづけていれば、その道でアメリカ有数の大家になっていただろうといっているほどで、法廷におけるその反対訊問は、巧妙、かつ辛辣なもので、依頼人もつぎつぎと、あとを絶たなかったという。
が、そのガードナーにも、ついに弁護士の仕事と別れるときが来た。
一九三三年、最初の長篇「ビロードの爪」(The Case of the Velvet Claws)が、単行本形式で出版された。
つづいて、翌一九三四年には、「幸運の脚」(The Case Of the Lucky Legs)「吠える犬」(The Case of the Howling Dog)が、一九三五年には、「奇妙な花嫁」(The Case of the Curions Bride)「義眼殺人事件」(The Case of the Connterfeit Eye)と、本書「管理人の飼猫」の三冊が世に送られた。
そして、一九三四年には、弁護士をやめて、ガードナー自身がいっているように「小説と旅行に専心する」ようになった。そして、ホノルル、サウスシー地方、メキシコ、その他アメリカ合衆国の諸地方や、アラスカに転住した。その内の二か年は、三台のトレーラー・バスを移動住宅として、数人の秘書や運転手とともに、諸地方を転々としながら暮らしたこともあるという。
いまでは、大体は冬は、メキシコの曠野やニューオーリンズ地方に、夏は、暑を避けて山地に暮らしている。またガードナーは、弓による狩猟を愛し、秋は、狩猟によって送り、それらの合間には、カリフォルニア州に持っている二百エーカー(二十四万余坪)の牧場にある住宅に住むのがその習慣になっている。そこで、かれは、四人の秘書を使って、口述速記機械によって、大量のミステリー小説を生産しているのである。
とにかく、ガードナーの探偵小説は、非常な賞賛をかち得た。それとともにまた、売行きも驚異的だった。初版が出てから一九四九年までに、前記のうち、「幸運の脚」は二百万部を、「奇妙な花嫁」は百三十三万部を、また「義眼殺人事件」も、本書「管理人の飼猫」も、それぞれ百万部を越える売行きだった。
以後三十数年の間、平均年に四冊、総計にして百冊を越す作品が、つぎからつぎと世に送られて来た。
それらの作品は、いづれも文句なしに面白い作品であり、揃いも揃って、盛んな売行きを示した。昨年、朝日新聞の海外ニュース欄の伝えるところによれば、いままでにガードナーの作品の英米において売れた部数が一億冊を越えているということであったが、それも決していい加減なニュースではあるまい。
ガードナーは、最初は、手動タイプライターを用いていたが、後に、電動タイプライターから口述筆記と進み、最後には、現在の口述筆記機械を用いるようになった。四人の秘書を傍らにおいて、一日六千語から七千語(日本の四百字詰原稿用紙にして、六、七十枚)をものにする。しかも、一か月の最高レコードは、二十三万語に達したこともあるというから、日本の原稿用紙にして、二千三百枚以上である。驚くべき生産力といわなければならない。
それらの作品を、以前は、弁護士仕事の片手間に、そして、いまでは、旅行と狩猟の片手間に、産み出しているのだから、ただただ驚嘆のほかはない。
しかも、それらの多くの作品のどれ一つをとってみても、面白くないという物は一つもない。どれを読んでみても、文字通り面白い。面白さという点では、正に第一流である。
ガードナーが小説を書き出した目標も、また実際、面白い読物を狙ったのであって、高級な文学云々は、かれの目標の外だったのである。
かれの小説では、登場人物の性格や、雰囲気の描写には、主力は置かれていない。まずトリックの考案に、ついで、事件の進行に、また裁判の場面の緊張とその展開に、思わず興奮させられる。この裁判の場面の描写は、弁護士としてのかれの経験に基づいたもので、同時に、かれの小説の強い特徴となっているものである。
とにかく、ガードナーの小説は面白い。が、その中でも、「奇妙な花嫁」「義眼殺人事件」とともに、この「管理人の飼猫」は、ガードナーが、その弁護士の仕事を放棄して、いよいよ、文筆一本槍で通そうとした初期の作品だけに、筋の展開も緊密で、トリックにも新鮮なものがあるとともに、全篇に、躍動する作者の気塊を感じさせる点、正に代表作中の代表作として、読者にお勧めしたい作品である。
一九六四年五月 訳者
◆管理人の飼い猫◆
E・S・ガードナー/能島武文訳
二〇〇四年九月十日