E・S・ガードナー/能島武文訳
奇妙な花嫁
登場人物
ペリイ・メイスン……弁護士
デラ・ストリート……その女秘書
ポール・ドレイク……私立探偵
ローダ・モンテイン……奇妙な花嫁
カール・モンテイン……ローダの夫
C・フィリップ・モンテイン……カールの父、シカゴの富豪
グレゴリイ・モクスレイ……ローダの前夫、結婚詐欺常習者
クロード・ミルサップ……外科医師
シドニー・オーチス……電気商
ドリス・フリーマン……結婚詐欺にあった女
オスカー・ペンダー……ドリスの兄
ベンジャミン・クランドール……モクスレイの隣人
クランドール夫人……その妻
フランク・マンロー……上級裁判所家事審判部の判事
マーカム判事……刑事裁判長
ジョン・ルーカス……地方検事補
第一章
その女は、妙にそわそわしていた。ほんのしばらく、その目を、弁護士の目にあてていたと思うと、すぐにその目をそらせて、法律書がぎっしり詰まった書棚の方へ走らせた。入れられた檻《おり》をきょろきょろと見る|けもの《ヽヽヽ》のような目つきだった。
「おかけなさい」と、ペリイ・メイスンはいった。
ペリイ・メイスンは、無遠慮《ぶえんりょ》に品定めするような目つきで、じっと、相手の顔を見つめた。こういう目つきは、長年のあいだ、弁護士という職業にたずさわってきて、人間の心の深い奥底を──法廷で、証人席に立った証人ばかりでなく、依頼人の肚《はら》の底を読んできたあいだに、自然に身についた目つきだった。
「わたしがお訪ねしましたのは」と、女はいった。「お友だちの代わりなんですの」
「はあ?」と、抑揚《よくよう》のない口調で、ペリイ・メイスンはたずねた。
「わたしのお友だちのご主人が行方不明になっているんです」と、女はいった。「なんでございましょう。そういう場合には、失踪宣言を裁判所から受ければ、死亡を認定してもらえるんでしょう?」
ペリイ・メイスンは、それには答えずに、
「お名前は」といった。「ヘレン・クロッカーさんとおっしゃるんですね?」
「はい」
「お年は?」と、無造作に、メイスンはたずねた。
女は、ちょっとためらっていたが、
「二十七になります」といった。
「わたしの秘書は、新婚まもない方《かた》だと思ったようですよ」と、弁護士は、つづけていった。
女は、大きな革張椅子《かわばりいす》のなかで、尻が落ちつかないように、もじもじしながら、
「どうぞ」といった。「わたしのことは、すてといてくださいませ。わたしの名前だとか年だとかは、きょうのご相談には、なんの関係もないんでございますから。申し上げましたように、お友だちの代わりに。お伺いいたしましたので、わたしがどういう人間かということは、別にご承知になっていただかなくても結構なんでございます。わたしは、ほんのお使いにすぎないんですの。むろん、お礼はお払いいたします──現金で」
「わたしの秘書というのは」と、ペリイ・メイスンは、前とおなじ口調でつづけた。「ふだん、あまり見まちがえるということはしないほうなんですがね。その秘書は、たしかに、あなたは最近結婚なすったばかりだと感じたらしいんですよ」
「いったいなにが、そんな印象を与えたんでしょうか?」
「たぶん、その結婚指輪をいじる、あなたの手つきが、嵌《は》めたばかりだという感じを与えたのでしょうね」
女は、暗記してきたものをおさらえでもするように、必死の早口でしゃべり出した。
「お友だちのご主人は、そのとき、飛行機に乗っておいでになったのだそうです。もうずっとなん年も前のことなんで、場所もはっきりおぼえていないんですけど、どこだったか、湖水の上だったそうです。霧の深い日だったという話ですから、きっと、操縦士は水面すれすれを飛ぼうとしたんでしょう。それで、あっというまに、機体を水面にぶっつけたんですわ。ひとりの漁師が飛行機の音を聞いたそうですけど、なんにも見えなかったそうです。その人の話では、水面から数フィートのところを飛んでいたらしいということなんですの」
「あなたは、結婚なすったばかりですか?」とペリイ・メイスンがたずねた。
「いいえ!」と、さっと憤《いきどお》りをあらわして、女はいった。
「飛行機が」と、ペリイ・メイスンはたずねた。「遭難《そうなん》事故を起こしたというのは、確かなんですか?」
「ええ、残骸が見つかったんです。たしか、フロートといっている、あれだったと思いますわ──飛行機のことは、あまりよく存じませんけど。それから、乗客の死骸もひとつ見つかりました。操縦士の死骸も、それから、ほかの三人の乗客の死骸は、とうとう発見されませんでした」
「あなたは、結婚してどれくらいにおなりです?」と、弁護士はきいた。
「どうぞ」と、女はいった。「わたしのことは、すてといてくださいまし。さきほども申し上げましたように、メイスンさん、わたし、お友だちのためにお知恵を拝借したいと思ってあがったのでございますから」
「つまり」と、メイスンがいった。「生命保険の契約がしてあったのだが、保険会社では、死体が発見されなければ保険金を払わないというのでしょう?」
「ええ、そうなんですの」
「それで、保険金をとってくれとおっしゃるんでしょう?」
「それもお願いいたしますわ」
「そのほかには、どんなことです?」
「その妻に、再婚する権利があるかどうかということなんですの」
「その方《かた》の、ご主人が生死不明になってから、どれくらい経《た》っています?」
「七年くらいだと思いますけど、もうすこし長いかもしれません」
「そのあいだ」と、ペリイ・メイスンはたずねた。「ご主人からの便《たよ》りはないのですね?」
「ええ、なんの便りもないのです。あの人は、死んでしまったのです……でも、離婚となると」
「離婚とは、なんです?」と、弁護士はきいた。
女は、神経質に、声をたてて笑って、
「なんだか、話の順序を前後しちゃって、ごめんなさい」といった。「その女の人が再婚したがっているんですの。ところが、死体が見つからない場合は、再婚するには離婚しなけりゃいけないって、誰かがいったんですって。おかしいじゃありませんか。ご主人は死んでしまっているんですものね、ほんとに。だのに、死んだ人から離婚をとるなんて、ずいぶん変な話ですわね。ねえ、離婚しなきゃ、再婚できないんですの」
「行方不明になってから、七年以上|経《た》っているんですね?」
「ええ」
「まちがいありませんね?」
「ええ、もう七年以上ですわ──でも、あのときは、まだ……」
その声は、語尾がしだいに消えて、聞きとれなくなった。
「あのときは、なんです?」と、メイスンがたずねた。
「いま交際している方と、はじめてお会いしたときのことですけど」と、ヘレン・クロッカーの言葉は、しどろもどろになった。
ペリイ・メイスンは、冷静に、品定めでもするように、相手の女をじっと見つめていたが、自分がじろじろと相手を見つめている事実には、気がついていないようだった。
ヘレン・クロッカーは、べつに美人というのではなかった。顔色は、青味を帯びて冴《さ》え冴《ざ》えとしていなかった。口は、ちょっと大きすぎるくらいで、唇も、ふっくらしすぎていた。しかし、なかなかよく整った体つきで、その目には、才気がひらめいていた。だから、全体として見れば、決してみにくい女というのではなかった。
女は、落ちついて、むしろ挑戦的な色を目に浮かべて、メイスンの視線を受けとめていた。
「ほかにまだ」と、ペリイ・メイスンがたずねた。「なにか、お友だちが聞きたいということがおありですか?」
「ええ。そりゃもう、聞きたがって、ほんとに──もう夢中で知りたがっていることが」
「どんなことを聞きたがっているんです?」と、メイスンはたずねた。
「あなた方、法律家が、|罪の主体《コーパス・デリクティ》とおっしゃっていらっしゃることを知りたがっているんですの」
ペリイ・メイスンは、はっとして、じっと相手を注意深く見た。が、やがて、冷静な落ちつきをとり戻して、相手を見つめながら、たずねた。「コーパス・デリクティについて、どういうことを知りたがっていらっしゃるんです?」
「お友だちは、どんなに不利な証拠がそろっていても、死体が発見されないかぎり、殺人罪で起訴されるはずがないというのは本当かどうか知りたがっているんですの。ほんとでしょうか、そんなことは?」
「そして、そんなことを知りたがっているのは」と、ペリイ・メイスンがいった。「ただ好奇心を満足させたいというだけですか?」
「ええ、そうですわ」
「とすると、あなたのそのお友だちは」と、ペリイ・メイスンは、冷やかな、無慈悲《むじひ》なほどの強い口調で、ずばりとつづけていった。「保険金を受け取って、好きな男と自由に再婚するためには、ぜひ、死んだ夫の死体が出てほしい、が同時に、殺人の訴追を免れるためには、あくまでもその死体を隠しておかなくちゃならん。そういうわけですね」
ヘレン・クロッカーは、電気のショックを受けたように、椅子からはねあがって、
「いいえ、ちがいます!」といった。「とんでもないことですわ! まるっきりちがいますわ。最後に申し上げたことを、お友だちが知りたがっているのは、ほんとに好奇心からだけなんです。本を読んで、そういう気になったのですわ」
相手をばかにしたような微笑が、ペリイ・メイスンの目に浮かんだ。その顔には、仔犬《こいぬ》にじゃれかかられた大きな犬が、しばらくは、煩《うるさ》いながらも相手になっていたのだが、なんの役にもたたない遊びがいやになって、きれいさっぱり退散してやろうという様子《ようす》で、のそのそと日陰のほうに歩き出そうとするような表情がうかがわれた。
メイスンは、回転椅子をうしろに押して立ち上がると、それでも腹はたてずに、じっと我慢強い微笑を浮かべながら、相手を見下ろしていた。
「よろしい」と、メイスンはいった。「質問の答えが聞きたいというお望みでしたら、秘書を通じて、面会時間の打ち合わせをしてくださればお目にかかりますと、お友だちにいってください。その件について、よろこんで、ご相談いたしましょう」
失望の色が、ヘレン・クロッカーの顔を濃《こ》くつつんだ。
「ですけど」と、女は、ひどく興奮した口調でいいはった。「わたし、そのひとの親友なんです。自分で伺えないので、よくわかるように伺ってきてくれというので、代わりに、わたしがあがったのです。お話さえしていただければ、わたしが本人に伝えますわ」
ペリイ・メイスンの目は、微笑をたたえつづけていた。そのそぶりには、軽蔑しているかと思うと、おもしろがっているような色がまじり合っていた。
「いやいや」と、メイスンがいった。「法律的な話を依頼人の耳に伝える方法としちゃ、そいつはうまくありませんね。その方に、遠慮なくいらっしゃるように伝えてください。お目にかかって──直接にお話ししますと」
ヘレン・クロッカーは、なにかいいかけたが、ぐっと息を吸って思いとどまった。
弁護士は、部屋を横切って行って、廊下に出るドアの握りをつかみ、ドアをあけて、
「こちらから」といった。「出ていただきます」
その顔は、相手に挑戦の心を起こさせるような、いわゆるポーカー・フェイスだった。しかし、その表情も、ヘレン・クロッカーが顎《あご》をあげて、唇をぎゅっと結び、「よろしゅうございます」といって、さっさと、メイスンの前を通り、ドアを通って廊下に去ってしまうと、さっと一変した。
ペリイ・メイスンは、ドアの内側に立って、女が引き返して来るのを待っていた。が、女は、一度も振り返りもしなかった。それどころか、いらだたしいような、かつかつと早い靴音を立てて廊下を去って行った。
エレベーターの前で、女がボタンを押すのとほとんど同時に、下りの箱が降りて来て、女を乗せた。
エレベーターに乗っても、女は、ペリイ・メイスンに背を向けたままだった。ぴしゃんとドアがしまり、エレベーターは、すうっと下へ降りて、視界から消えた。
第二章
ペリイ・メイスンが、奥の事務室のドアをあけると、秘書のデラ・ストリートが、もの問いたげな目をあげた。と同時に、なにもいわれないうちに、鉛筆をとりあげ、日記帳に手をのばした。それには、この事務所を訪ねて来た人たちの住所氏名、面会所要時間、受け取った謝礼金額などが書きこんであった。
デラの目が、不審そうな色を浮かべていた。
大きな、その顔を目だたせている目だ。よく澄んで、しっかりしていて、物怯《ものお》じしない──ものの奥の奥まで見通すような目だった。
弁護士は、平静に、肚《はら》の底まで読もうとしているその目を、まっすぐに見ながら、説明にかかった。「すっかり本音をはくように仕向けたつもりだったが、とうとう、なにもいわずに帰って行ったよ」
「ごたごたしていたけど、なんでしたの?」
「このぼくに、古い手を用いようとしたのさ。奇怪な謎《なぞ》の友だちなんかでっちあげて、ある考えを引き出そうとしたのさ。いろんなことを聞いたがね。うっかりそれに乗って返事でもしようものなら、相手は、はいちゃいともいわずに行ってしまって、ぼくが、相手の情況に応じていった法律的な解釈を、ご自分の都合《つごう》のいい情況にあてはめようとするんだからね。その結果は、おそるべきものになることはわかっているんだよ」
「でも、あの女《ひと》、ひどくこまっているようでしたわね?」
「そうらしかったね」
デラ・ストリートとペリイ・メイスンとのあいだは、長年の間、どちらが主でどちらが従というようなことのない、完全に、同じだけ努力をした場合にだけ成果をあげることのできるような、真剣な仕事に協力して来た、男と女のあいだにだけ生まれる、特別に深い精神的連繋で結ばれていた。あらゆる個人的関係などというものは、仕事を成功させるために、二の次の問題になってしまって、ことさら、気をつかって親密にしようなどと考える以上の、一点非の打ちどころのない親密感が生まれていた。
「それで、どうなすったの?」と、鉛筆を日記帳の上に構えたままで、デラ・ストリートはたずねた。
「それで、そんな冗談は、ぼくはご免こうむったよ」と、メイスンはいった。「そして、直接ぼくに会うように、その友だちにいったほうがいいって、そういってやったよ。ぼくは、それで女が折れて、本当のことをしゃべり出すと思ったのさ。たいていの人間がそうだからね。ところが、あの女は、そうじゃないのさ。さっさと事務所を出たと思うと、一度も振り返らずに、エレベーターに乗ってしまった。なんだか馬鹿にされたような気持ちだね」
デラ・ストリートの鉛筆は、なんにも書いてない、まっ白なページの上の隅に、話とは関係のない絵を書いていた。
「最近結婚したばかりだっていってませんでした?」
「いいや。そんなこと認めようともしないんだ」
デラ・ストリートは、そうにちがいないというように、ことさら強くうなずいて、
「あの人は、結婚早々の新婦よ、まちがいないわ」
メイスンは、右脚をデスクの片隅にかけて、ポケットからシガレット・ケースを取り出し、一本抜くと、考えぬいていたことを口にしたといった調子で、「あんなこと、するんじゃなかった」といった。
「なにをなすったの?」と、デラがたずねた。
「ぼくがしたようなことをさ」と、メイスンはいった。「いったいどういう権威があるからって、『汝《なんじ》らよりはるかに聖なる者なり』ってな態度で、椅子にふんぞり返ってさ、まるまるの赤の他人に本音をはかせようというんだね? この事務所へやって来るのは、よくよく困ることがあるからこそ来るんだからね。みんな、心配して、怯え切って、相談にのってもらおうと思って来るんだ。そのぼくはどうだといえば、そういう連中にとっては、まるまるの赤の他人だ。しかし、連中は、助けを求めているのだ。あわれにも、愚かな人間たちだ。ごまかしをいったからって、そういう連中を責めるなんてことは、誰にもできるものじゃない。ぼくは、もっと同情的に出て、彼女の話を引き出すようにしてやるとか、信頼感を与えた上で、相手の秘密をさぐり出してやって、肩の荷を軽くさせてやることもできたのだ。ところが、ぼくときたら、じっと相手がいい出すまで我慢しないで、むりやりに言わせようとしたものだから、相手はとうとう行ってしまった。
つまり、ぼくが、相手のプライドを傷つけたということだ。女は、ぼくが相手の嘘のごまかしを見ぬくぐらいのことは、ようく承知していたにちがいない。肚の底では、ぼくにばかにされたと、さとったにちがいないが、そうさとってしまった後で、洗いざらいぶちまけるには、プライドがありすぎ、性格が強すぎ、おまけに自尊心がありすぎたのだ。あの女は、助けがほしかったから、援助を求めて、ぼくのところへ来たのに、ぼくは弁護士としての自分の天職にそむいたのも同じで、まったく、まずいことをやったものだよ」
「一本ちょうだい」と、デラがいった。
デラ・ストリートは、シガレット・ケースのほうへ手を伸ばした。
ぼんやりと、弁護士は、デラのほうヘシガレット・ケースをさしのべた。二人のような親密な間柄《あいだがら》では、べつに相手にシガレット・ケースをさし出さずに勝手に煙草《たばこ》を吸ったからといって、ペリイ・メイスンのほうから、いいわけを口に出すような間柄ではなかった。反対に、秘書のほうにしても、執務時間中に煙草を吸うのに、別に許しを受ける要もなかった。
世間の形式張った法律事務所では、弁護の結果よりも規律を重んじるのがふつうで、秘書が所長の前に立つときには、外見だけは、大いに畏敬の念を、肚のなかではおかしくってと思っていようと、尊敬の念などはかけらほども持っていなくても、うわべだけは体裁《ていさい》をつくろって、かしこまりたてまつっているものなのである。ところが、ペリイ・メイスンは、法廷専門、それももっぱら刑事事件の弁護を得意としている弁護士であり、その信条は、結果に重点をおいていた。依頼人たちにしても、必要に迫られて、この事務所のドアを叩くので、二度と繰り返して事件を持ちこむことはなかった。ふつうにいって、人間が殺人容疑で逮捕されるようなことは、一生に一度しかないものなのだ。だから、メイスンは、自分の商売は、新しい依頼人たちが、つぎからつぎとやって来て、はじめて成り立つので、以前に、弁護の結果、無罪にしてやった人たちは、二度とやって来るものではないということを、ちゃんと覚悟していた。その結果、メイスンは、外見や、世間一般の慣例にはこだわらずに、自分の事務所を経営した。したいときに、好きなことをした。メイスンは、世間のしきたりなど軽蔑して、自分は自分のやり方でやって行くだけの十分な腕を持っていた。
弁護士と秘書とは、一本のマッチで煙草に火をつけた。
「先生、ご心配いりませんわ。あの女《ひと》、どこか、ほかの弁護士さんのところへ行きますわよ」と、デラ・ストリートは、相手を安心させるような、強い口調でいった。
ペリイ・メイスンは、ゆっくり、首を左右に振って、
「いいや、行かないよ」といった。「あの女は、ぼくのところで、すっかり自信をうしなってしまったにちがいない。あの友だちについての身上話を、自分の家ですっかり稽古して来たのだろうね。なん回、なん十回稽古したかわからないだろう。おそらく、ゆうべは、ろくに眠らなかったろう。ああいわれたら、こうと、きょうの会見の模様を、百ぺんは胸の中で繰り返して来たのだろう。弁護士の前へ出たら、颯爽《さっそう》と話をはじめるつもりで、ごく気軽に、なにげなく話そうと思っていたのだ。ところが、どっこいそうはいかない。事件の場所、日時、登場人物の名前と、立てつづけにきかれて、はっきりしたことがいえなかったのだ。そりゃそうさ、もともと『友だち』そのものが、いささか曖昧《あいまい》だったんだから。
ゆうべ一晩中、眠りもしないで、暗闇の中を見つめながら、心配で弱くなっていた心の中で、あれこれと情況を繰り返し考えていたときには、計画は完璧《かんぺき》だという気がしていたのだがね。あの女は、自分の手のうちはさらさずに、聞きたいだけの法律上の疑問は聞き出せると思っていたのだね。ところが、ぼくが、まったく簡単に、きわめてあっさりと、あの女のごまかしの仮面をはいでしまったので、すっかり自信をうしなってしまったのさ。可哀そうな子さ! せっかく、ぼくのところへ援助を求めて来たのに、それを、ぼくは、与えてやらなかったのだからね」
「弁護の着手金は、いくら頂いておいたらいいでしょう」と、デラ・ストリートは、日記帳へ数字を書きこみながら、いった。
「着手金だって?」と、メイスンは、ぽかんとした口調で、鸚鵡返《おうむがえ》しにいった。「着手金なんて──費用なんて、なんにもかかってやしないじゃないか」
デラ・ストリートは、困ったような目をした。重々しく首を振って、
「すみません、先生、でも、あの方、着手金をおいて行ったんです。わたし、あの方の名前と住所や、それから、どんな用件か聞いたんです。そしたら、法律上の問題で、先生に、ご相談したいとおっしゃったんで、謝礼金のことはおわかりになっているんでしょうねと申し上げたんです。すると、あの人、むっとしたような様子で、ハンドバッグをあけて、五十ドル札を抜き出すと、着手金として受けとってくれと押しつけたんですわ」
メイスンの声は、自責の調子を帯びていた。
「実際、気の毒なことをしたな」と、メイスンは、ゆっくりといった。「金までおいたというのに、追い返してしまってさ」
その気持ちをいたわるように、デラ・ストリートは、そっとその手を、メイスンの手の上においた。指が──タイプライターを叩きつづけたので、すっかり太くなった指が、──あなたの気持ちは、ようくわかっていますわと、無言の言葉を、ぐっと押すように伝えていた。
そのとき、人の影が、廊下に向いたドアの曇りガラスにうつり、ドアの握りが音を立てた。
大きな事件を持ちこんで来た依頼人かもしれなかった。しかし、ペリイ・メイスンは、立ち上がろうともしなかった。そういう態度が、前にもいった、彼の事務所の運営方針なり、彼の処世態度を雄弁に物語っていた。デラ・ストリートは、あわてて手を引っこめたが、ペリイ・メイスンのほうは、デスクのはしに、片方の腰をのせたまま、煙草を吹かして、落ちついた、関心のない目をドアにつけていた。
ドアが、さっとあいた。ドレイク探偵事務所のポール・ドレイクが、どんより濁った目を突き出して、二人を見た。その目は、いつでも、剽軽《ひょうきん》なユーモアの色を浮かべているが、この効果的なマスクのお陰で、生まれつきの鋭い頭の働きを巧みに隠しおおせているのだ。
「やあ、ご両人」と、ドレイクがいった。「なんか、おれにうまい仕事がないかい?」
ペリイ・メイスンは、わざと、陰気に、にやっと笑いを浮かべて、
「やれやれ、欲の深い男だな! この数か月というもの、きみの探偵事務所の仕事は全部、おれがあてがっているというのに、それでも、まだよこせというのかい!」
探偵は、ドアから中へはいって、かちっと、うしろ手にドアをしめた。
「茶色の服を着て、ぱっちりした黒い目の可愛いらしい女の子が、六、七分前に、きみの事務所を出て行かなかったかい、ペリイ?」と、ドレイクはいった。
ペリイ・メイスンは、デスクから腰をおろすと、くるっと向き直って、両足をひらき、肩をいからせて、まっ正面から探偵を見た。
「すっかりいえよ!」と、メイスンはいった。
「出て行ったのかい?」
「そうだよ」
探偵は、うなずいて、
「これは」といった。「特別も特別、大特別のサービスだぜ。同じビルディングの中の、探偵事務所と友好的な関係を維持しているところから来る──」
「冗談はよして、さっさと話せよ」と、メイスンが命令口調でいった。
ポール・ドレイクは、嗄《しわが》れた、無表情な声で話し出した。ラジオのアナウンサーが、株式市場の相場の動きを読みあげるのとそっくりだった。その一語一語が、聴取者の運命に、独り立ちできるほどの大儲《おおもう》けをさせているか、または、経済上の悲惨な運命をもたらしているか、そんな事実にはまるきり無頓着《むとんちゃく》な、無感動そのままの口調だった。
「さっきおれが、この下の階の、おれの事務所から廊下へ出ると」と、ドレイクが話しはじめた。「ここの階から階段をおりて来るやつの足音がするんだ。そいつは、急ぎ足に走っていたが、おれの事務所のある廊下まで降りて来ると、急いでたことは、すっかり忘れてしまった様子《ようす》で、煙草に火なんかつけて、ぶらぶらとエレベーターのほうへ歩いて行くんだ。そのくせ、目だけは、エレベーターの針につけている、針が、この階でとまったのを見ると、そいつは、『下降』のボタンを押すんだ。当然、エレベーターが、そいつを乗せるために、とまる。エレベーターには、一人だけしか乗っていなかった──二十六、七ぐらいの、茶色のスーツを着た女がね。きちんとした様子で、厚手な唇、ぱっちりした黒い目だった。その顔つきは、取り立てていうほどのものじゃない。ひどく神経質にそわそわしていて、まるで走ってでも来たように、小鼻をふくらましている。どうやら怯えているような様子なんだ」
「きみは、きっと、双眼鏡とX光線の機械を持っていたにちがいないね」と、メイスンが口をさしはさんだ。
「いやいや、おれだって、なにも最初の一瞥《いちべつ》だけで、これだけのことをすっかり見てとったわけじゃないさ」と、探偵が相手にいった。「その野郎が、すさまじい勢いで階段を駆け降りて来る足音を聞いて、それから、廊下へ降りたとたんに、ぶらぶらと歩き出したのを見て、おれは、こいつといっしょのエレベーターに乗って降りるってのは、なかなか乙《おつ》なプランにちがいないと、肚の中で思ったんだ。おれの仕事もできるかもしれねえと考えたんだ」
メイスンの目つきが、きびしくなった。煙草の煙が、鼻孔から流れた。
「さっさと先きをいえよ」と、メイスンがいった。
「おれの頭に浮かんだのはだね」と、探偵は、気どって、ゆっくりといった。「この野郎、つけてるんだなということだった。きみの事務所まで、あの女の子の後をつけて来て、出てくるのを、廊下で待っていやがったのだ。たぶん、人目に立たないようにして、階段の降り口に立っていたのだ。きみのところのドアがあいて、女の子が出て来るのを見ると、さっと早いとこ、ねらっている相手に相違ないか確かめておいてから、いっさんに下の廊下まで階段を駆け降りて、ぶらぶらエレベーターまで歩いた。そうすりゃ、同じ下りのエレベーターがとらえられるというわけだからね」
メイスンは、いら立たしそうな身振りをした。
「きみは、そんな説明をくどくどと、おれにいう必要はないぞ。さっさと要点をいえよ」
「女が、きみの事務所から出て来たとは、おれは、はっきり知らなかったんだ、ペリイ」と、探偵は、話をつづけた。「そうと知っていたら、もうすこし手の打ちようもあったんだ。とにかく、その様子から、いったいどうしたのか見てやろうという気になったんだ。それで、二人が通りへ出ると、ちょっとその後をつけてみた。確かに、野郎は、女の後をつけていた。それにしても、本職じゃないなと、おれは思った。第一に、やつは、ひどくそわそわと落ちつかないんだ。そうだろう、腕っこきの尾行は、決してびっくりした顔色なんかしないような訓練を経ているものなんだ。どんなことが起こったって、あわてたりびくついたりしないものなんだ。
あんのじょう、ビルディングから半町ほど行くと、その女が急に、くるっとまわれ右をした。女をつけていたその男は、すっかりうろたえて、いきなり近くの戸口に飛びこんだ。おれのほうは悠々としたもんだ。澄ました顔で、女に向かって歩きつづけた」
「女は、きみを尾行かなんかだと感づいたというんだね?」と、メイスンがたずねた。メイスンが話に関心を深めて来たことは、その声音《こわね》でわかった。
「いいや、女は、おれのことなんか、てんで生き物ともなんとも思っちゃいないような様子だったよ。なにか、きみに聞き忘れたことでも思い出したのか、それとも、なんかのことについて気を変えたのか、どっちかだろうね。おれとすれ違っても、見向きもしなかった。くるっとまわれ右をすると、おれのほうへ引っ返しかけた。むろん、戸口に立って、一生懸命《いっしょうけんめい》、目につかないようにと小さくなっている男なんかには目もくれなかった」
「それからどうした?」と、メイスンがきいた。
「女は、十五歩か二十歩、後戻りしたが、また道のまん中に立ち止まった。くるっと、まわれ右をして引っ返したのは、まあ、衝動だったんだろうな。引っ返しながら、肚の中で思案をめぐらしていたんだろう。まるで、なんかをおそれているような様子だったよ。ここへ引っ返して来たかったんだろうが、どうしても引っ返すわけにもいかんというふうだった。それとも、きっと、彼女の自尊心だったんだろうな、引っ返させなかったのは。いったい、ここでどんなことがあったのか、おれにはわからなかったが、しかし──」
「その通りだ」と、メイスンがいった。「ぼくには、なにからなにまで、よくわかる。ぼくは、女がエレベーターに乗らずに、引っ返して来るのを待っていたのだ。ところが、引っ返して来なかった。引っ返せなかったんだろうな」
ドレイクはうなずいて、
「それでね」といった。「女は、しばらく、もじもじしていたが、もう一度、まわれ右をして、また通りを歩き出した。がくんと肩を垂れて、この世の最後の友だちをうしないましたとでもいうような顔つきだった。もう一度、おれの脇を通りすぎたが、おれが、立ち止まって煙草に火をつけていても見向きもしない。いや、おればかりじゃない。戸口にへばりついているやつのほうになんか目もくれなかった。確かに、あの女は、つけられるなんて考えてもいなかったね」
「きみは、どうしたんだ?」と、弁護士がたずねた。
「おれはやめたよ。金魚の|うんこ《ヽヽヽ》のようにくっついて行くのも気が利《き》かねえからね。きみの事務所から出て来た女がつけられてるんなら、どういうことになるか、きみも知りたいだろうと考えたんだけど、第一に、きみの事務所から出て来たかどうか確かめたわけじゃなしね。それに、おれだって、しなきゃならん仕事があったんでね。それで、いちおう、きみに知らしておこうと思って、そのままにしちまったよ」
メイスンは、ちらりと横目に相手を見て、
「きみは、むろん、もう一度、相手を見れば、こいつだとわかるだろうな──その、女をつけていた男をさ?」
「わかるとも。ひどい様子の男でもなかった──三十二、三というとこかな、明るい色の髪の毛に、茶色の目で、ツイードの服を着ていたよ。着こなしの様子から見ると、女蕩《おんなたら》しってとこだろうな。指はマニキュアしたとみえて、爪なんか磨《みが》いたばかりさ。理髪店で、ひげをあたり、マッサージをして来たばかりなんだろう。ぷんぷん、身のまわりから理髪店の匂いをさしているし、顔にはパウダーがついていた。ふつう、自分でひげを剃《そ》る男は、顔にパウダーなんかははたかんもんだ。つけたにしても、手ですりこむもんだけど、床屋はタオルで軽く叩くだけで、こすったり撫《な》でたりはせんよ」
ペリイ・メイスンは、額《ひたい》に皺《しわ》を寄せて考えながら、
「ある点では、あの婦人は、ぼくの依頼人なんだ、ポール」といった。「相談ごとがあって訪ねて来たのだが、ぼくの前へ出ると、急に気がくじけて、なにもいい出さずに帰って行ったのだ。いや、わざわざ知らしてくれてありがとう。また、なにか起こったら、さっそく知らせてもらおう」
探偵は、ドアの方へ足を運んで行ったが、ちょっと立ち止まると、肩越しににやりと笑って見せて、
「頼むからね」と、ゆっくりした口調でいった。「きみたちご両人が、手を握り合おうとなにをしようとご自由だが、この表の事務室だけはやめたほうがいいぜ。おれだからいいようなものの、依頼人が来るかもしれないんだからね。ドアがあいてから、取り澄ました顔をするのは、どうかと思うぜ。いったい、奥の事務室は、なんのためにあるんだい?」
第三章
ペリイ・メイスンは、陰気な目つきで、赤くなったデラ・ストリートの顔を見おろしていた、
「どうして、ドレイクさんにわかったのかしら」と、デラが問いかけた。「わたしが、先生の手を握っていたなんて? ドアがあく前に、ちゃんと手を引っこめておいたはずなんですけど、それに──」
「ただの当て推量《ずいりょう》さ」と、メイスンはデラにいったが、その声は、なにかに気をとられているような調子だった。「きみの顔つきになにかが浮かんでいたんだろう、たぶん……それよりも、デラ、ぼくは、あの婦人に運を開いてやりたい。助けてやれるものなら、ひと骨折ってやりたいのだ。着手金まで受け取ったのなら、とことんまで見てやるのが当然じゃないか」
「でも、見てあげられませんわ。先生に、なにをしてもらいたがっているのか、おわかりにならないじゃありませんか」
ペリイ・メイスンは、うなずいてから、重々しい口振《くちぶ》りでいった。「そりゃ、その通りさ。あの女が、ひどく困っていたことだけはまちがいない。ぼくは、なんとかして、あの女と連絡をつけて、事情を聞いた上で、着手金を返すなり、力を貸すなりすることにしよう。住所は、わかっているのかね?」
デラ・ストリートは、綴《と》じこみから黄色い紙片を抜いて、
「あのひとの名前は」といった。「ヘレン・クロッカーですわ。イースト・ペルトン・アベニューの四九六番地。電話番号は、ドレントンの六八九四二番ですわ」
メイスンがなにもいわないうちに、デラは、プラグを差しこんで、ダイヤルをまわした。受話器の中で音がして交換手が出た。デラ・ストリートは、むずかしい顔をして、
「ドレントンの六八九四二番を願います」といった。
もう一度、受話器が、があがあという音を立てた。しばらく間をおいてから、デラ・ストリートは、送話口に向かって話しかけた。「クロッカー名儀の電話番号を教えていただきたいんですの。かしら字は、はっきり知らないんです。以前の番号は、ドレントンの六八九四二番だったんですけど、その番号には通じないんです。でも、そういう女の人の名前で電話帳にはのっているんですのよ」
受話器がまた、があがあと鳴った。デラ・ストリートが、追っかけて交換手にいった。「所は、ペルトン・アベニューの四九六番地ですの。そこの、いまの番号は?……あら、そうでしたの、どうもありがとう──きっと、番号がまちがっていたんでしょう」
デラは、受話器を元へおくと、プラグを抜き、ペリイ・メイスンの顔を見て、首を左右に振った。
「ドレントンの六八九四二番は」と、デラはいった。「最初から、タッカーという人の電話なんですって。しかも、三十日以上も前に取りはずされているそうよ。それに、イースト・ぺルトン・アベニューには、四九六番地なんてないんですって。ペルトン・アベニューという通りは二ブロックしかないので、いちばん、番地の多いところで、二九八番地だそうですわ」
ペリイ・メイスンは、ぐいと、奥の自分用の事務室のドアをあけて、はいろうとしかけたが、ドアのところで肩越しにいった。「いずれ、あの女は、もう一度連絡をとって来るだろう。着手金をおいたことを忘れるはずがないからね。連絡があったら、忘れずに、ぼくが、あの女と話し合えるように気をつけてくれたまえよ」
メイスンは、大股にドアを通って部屋にはいると、鋭い目つきで、大きな革張りの椅子をにらみつけた。さっき、若い婦人がそれに掛けて、でたらめの話をした椅子だ。窓から差しこんでいる光線が、なにか金属性のものに当たって強い光を反射している。メイスンは、立ち止まって、じっと見つめていたが、やがて、椅子に歩み寄って身をかがめた。茶色のハンドバックが、クッションの間に落ちていて、口金だけが覗《のぞ》いているのだった。ペリイ・メイスンは、そのハンドバッグを引っぱり出した。ずっしりと重かった。手にのせて、なんだろうというように重さをはかっていたが、向き直って、ぐいとドアをあけた。
「デラ、ちょっと来てくれ」と、メイスンはいった。「ノートブックを持ってだよ。問題のお客さんが、ハンドバッグを忘れて行ったから、あけて見ようと思うんだ。あけるから、立ち会って、中身をしらべてもらいたいんだ」
デラは、むだ口をきかずに、さっさと、ノートブックと鉛筆を持ってはいって来た。事務的な手つきで、テーブルの自在板を引き出し、ノートブックを拡げ、鉛筆を持って身構えた。
「レースの縁《ふち》つきの、白のハンカチが一枚」と、ペリイ・メイスンがいった。
鉛筆が、ぺージの上に、かなくぎのような字をあらわして行った。
「三二口径のコルト式|自動拳銃《オートマチック》一|挺《ちょう》、番号、三八九四六二一」
デラ・ストリートは、勢いよく鉛筆を、ノートブックのページの上に走らせていたが、この言葉を聞いて、驚いたような目を、弁護士のほうに向けた。
ペリイ・メイスンの声が、機械的に、単調につづく。
「弾倉には、スチール外披、軟弾頭の弾丸が残らず詰まっている。安全装置はかかっていない。銃身は掃除したらしく、火薬の匂いは認められない」
メイスンは、弾倉を元へもどし、安全装置をかけてから、前と同じような単調な口調でつづけた。「小銭入れには、百五十二ドル六十五セントはいっている。『イプラール』というレッテルを貼《は》った錠剤《じょうざい》の壜《びん》。茶色の手袋。口紅。コンパクト。それに、電報一通、宛名は、イースト・ペルトン・アベニュー一二八番地、R・モンテイン。電文はつぎの通りだ。『サイゴノヘンジ、ギリギリ、コンヤ五ジマデマツ──グレゴリイ』、紙巻煙草スパッドが一箱、西四三番街二五番地、ゴルドン・イーグル・カフェーの広告マッチ一箱」
単調な品調べのペリイ・メイスンの声が、そこでとぎれた。デスクの上に、ハンドバッグをひっくり返し、指で底をはたいて、
「これで全部らしいね」と、メイスンはいった。
デラ・ストリートは、ノートブックから目をあげて、
「驚いたわね!」といった。「あのひと、ピストルなんか持って、なにをするつもりだったんでしょう?」
「ふつう、ピストルってものは、なんに、使う道具だね?」
ペリイ・メイスンは、そう聞き返しながら、ハンカチを取り出して、ピストルについた指紋を拭きとった。そのピストルをハンドバッグのなかにもどすと、ハンカチでくるんだ指で、ほかの取り出した品物を拾いあげ、ひとつひとつ、よく拭きとっては、ハンドバッグにもどした。最後に、電報を手にして、しばらく考えていたが、それは、ポケットにつっこんだ。
「デラ」と、メイスンはいった。「もし、あの女がもどって来たら、待たしておいてくれ。ぼくは、ちょっと出かけてくる」
「どれくらい、出かけていらっしゃるんですの、先生?」
「わからないね。一時間以内にもどれないようだったら、電話するよ」
「あのひと、それまで待つでしょうか?」
「待たせておくんだよ。なんでもいい、思いついたことをいってやるさ。必要なら、先生はさっきの態度を、非常に恐縮《きょうしゅく》しておいでですぐらいのことはいってもいいよ。とにかく、あの女は、抜きさしならないほど困ることがあるものだから、ぼくのところへ、助けを求めて来たのだからね。ただ、ぼくがほんとに恐れていることは、もどって来ないのじゃないかということなんだ」
メイスンは、ハンドバッグを上衣の脇ポケットに突っこみ、帽子をま深かにかぶって、大股にドアのほうへ足を運んだ。かつかつと元気な靴音が、廊下じゅうに響いた。人さし指で、ぐいとエレベーターの信号を押し、下りの箱が来ると乗りこんだ。表の通りへ出ると、すぐにタクシーをとめた。
「イースト・ペルトン・アベニューの一二八番地」と、メイスンはいった。
車が走り出すと、メイスンは、クッションによりかかって、目をとじ、両腕を組んで、イースト・ペルトン・アベニューまでの二十分ほどの間、その姿勢のままでいた。
「ここで待っていてくれ」と、車がとまると、メイスンは、運転手にいった。
メイスンは、急ぎ足に歩道を行き、一二八番地の三段になった階段をのぼり、栂指《おやゆび》で玄関のベルを、いつまでも押していた。
ドアに近づいて来る足音が聞こえた。メイスンは、ポケットから電報を出して、封筒の薄葉《はくよう》紙の四角い『窓』になったところから住所氏名だけが見えるように、用紙をたたんだ。
ドアがあいた。疲れきったような顔つきの若い女が、無表情な目で、ペリイ・メイスンを見た。
「R・モンテインさんに電報です」と、電報を手に持ったままで、ペリイ・メイスンがいった。
若い女の目が、電報の所書きの上に落ちた。女は、うなずいた。
「サインをお願いします」と、ペリイ・メイスンが女にいった。
メイスンを見ている女の目が、まだ、疑念というところまではいかないが、ちょっとけげんそうな色を浮かべた。
「いつもの配達さんとちがうわね」と、女はいいながら、メイスンにとめていた視線を、歩道のそばにとまっているタクシーのほうへ、ちらっとやった。
「わたしは、支局長なんです」と、メイスンは、相手の女にいった。「こっちのほうに別の用事があったんで、配達夫より早くお届けできると思ったもんですからね」
メイスンは、ポケットから手帳を取り出して、鉛筆を抜き出すと、手帳と鉛筆の両方を若い女に渡した。
「上の行にサインしてください」
女は、『R・モンテイン』と書いて、手帳をメイスンに渡した。
「ちょっとお待ちください」と、メイスンがいった。「あなたが、R・モンテインさんですか?」
女は、ちょっとためらってから、答えた。
「R・モンテインさんのところへ来た郵便物は、あたしが受け取ることになっているのよ」
ペリイ・メイスンは、手帳を指さして、
「では、そのR・モンテインと書いた下に、あなたのお名前を書いていただかないと」
「そんなこと、これまでに書いたことなかったんだけど」と、女は、不服そうにいった。
「すみません」と、メイスンが相手にいった。「どうかすると、配達夫は、こういう規則を知らんものですからね。なにしろ、わたしは、支局長だものですからね」
女は、手帳を持ったまま、かなり長いあいだ躊躇《ちゅうちょ》していたが、やがて、『R・モンテイン』と署名した下に、『ネル・ブリンレイ』と書いた。
「ところで」と、女から手帳と鉛筆を受け取ってしまうと、ペリイ・メイスンは、いった。「ちょっと、お話したいことがあるんですが」
女の指が、つかみとろうとして、まだその電報にかからぬうちに、メイスンは、さっと、それを上衣の脇ポケットに入れてしまった。
疑惑と狼狽《ろうばい》の色が、戸口に立った女の目に浮かんだ。
「ちょっと、はいらせてもらいますよ」と、メイスンは、相手の女にいった。
女は、顔に白粉《おしろい》気もなく、部屋着にスリッパという恰好《かっこう》だった。その顔が、唇までまっ青になっていた。
ペリイ・メイスンは、女の脇を通り抜け、廊下を進んで、落ちつき払った態度で居間にはいり、椅子《いす》に腰をおろして、脚を組んだ。
ネル・ブリンレイは、ドアのところまでやって来たが、部屋にはいるのも気味がわるいし、かといって、怪《あや》しい男をたった一人でそこにおいておくのも心配だというような様子で、メイスンを見つめて立ちつくしていた。
「はいりたまえ」と、メイスンが相手にいった。「そして、掛けたまえ」
女は、数秒間、突っ立ったままでいたが、やがて、メイスンのほうへやって来て、
「いったい、あんたは、誰だと思ってるの、自分のことを?」とたずねた女は、憤りで、ことさら声を強めたつもりだったが、実際は、恐怖で震えていた。
メイスンの声は、気味のわるいほど強要するような調子を見せて、
「R・モンテインの日常の調査に出張したのさ。あの女のことで、きみの知っているかぎりのことを話してもらいたいんだ」
「あたし、なんにも知らないのよ」
「いつも、電報を受けとっているじゃないか」
「いいえ、そうじゃないの。ほんとのことをいえばね、R・モンテインという名前は、まちがいだと思ったの。あたし、自分の電報が来るはずだと心待ちにしていたところだったんです。だから、きっと、あたしのところへ来た電報にちがいないと思ったの。それで、読んでみようと思ったの。読んで見て、あたしに来た電報じゃなかったら、あなたに返すつもりだったのよ」
メイスンは、あざけるように、声を立てて笑った。
「じゃ、読んで見たまえ」
「いいのよ、読まなくても」と、女はいった。「でも、あたし、ほんとのことをいってるのよ」
メイスンは、ポケットから電報を取り出し、膝の上にひろげて、
「これが、その電報だがね」と、メイスンは、はっきり指摘するように、「けさの九時五十三分に、ここへ配達している。きみが受け取って、R・モンテインに渡しているね」
「あたし、そんなことしなかったわ」
「でも、記録には、きみが受け取ってサインしたことが出ているよ」
「あの署名は」と、女がいった。「R・モンテインのですわ」
「同じ筆蹟じゃないか」と、メイスンは強くいいはった。「この手帳のサインと。このサインと、その下のきみの署名──ネル・ブリンレイと、二つとも、きみが書くのを、この目で見ていたんだからね。いったい、ネル・ブリンレイというのは、きみの名前だろうね?」
「ええ、そうよ」
「ねえ、きみ」と、メイスンは、相手にいった。「ほんとのことをいうとね、ぼくは、R・モンテインの味方なんだぜ」
「だって、あんたは、R・モンテインが、男か女か知りもしないくせに」と、女は挑むような口振りでいった。
「女さ」と、じっと相手を見守りながら、メイスンはいった。
「あのひとの味方だっていうんなら、なぜ、じかに会うようにしないの?」と、ネル・ブリンレイがたずねた。
「会いたいから、骨を折っているのさ」
「あのひとの味方なら、どこへ行ったら会えるかぐらい知ってそうなものじゃありませんか」
「きみに聞けば、わかると思っているんだがね」と、メイスンは、根気よくいった。
「あたし、あのひとのことなんか、なんにも知らないわよ」
「きみは、この電報を、あのひとに渡したんだろう?」
「いいえ」
「どうやら」と、ペリイ・メイスンがいった。「こちらの正体を明かさなきゃならなくなったらしいね。ぼくはね、じつは、電信公社に雇われている探偵なのさ。最近、宛名人以外の人間が、自分にあてられたものでもない電報を受け取って、しかも、それを読んでしまうという苦情が、たびたびあるんだ。きみは、たぶん知らないだろうが、この州の法律では、他人あての電報を受け取って、勝手に読むのは重い犯罪になるんだぜ。さあ、きみにたずねることがあるから、身支度をして、地方検察庁まで来てもらおうか」
女は、ぎょっとして、あえぐように、大きく息をのんだ。
「いいえ、いやです!」と、女はいった。「わたしは、ローダのためにしているんです。電報は、あのひとに渡してやったわ」
「では、なぜ」と、ペリイ・メイスンがたずねた。「ローダは、自宅で電報が受け取れないのだい?」
「あのひと、受け取れないんですもの」
「なぜ、受け取れないんだ?」
「あんた、ローダを知ってるんなら、わかるはずよ」
「夫のせいだというんだろう? 結婚をした女は、夫の前に秘密を持っちゃいけないね──とくに、新婚そうそうの花嫁はね」
「あら、じゃ、やっぱり、あのことを知ってるのね?」
「なにをさ?」
「あのひとが花嫁だってことをよ」
「むろんさ」と、メイスンはいって、声を立てて笑った。
ネル・ブリンレイは、目を伏せて、じっと考えていた。メイスンは、なんにも口から出さずに、相手の考えるままにさせておいた。
「あんたは、電信公社の探偵じゃないんでしょう?」と、女がたずねた。
「探偵なんかじゃないが、ローダの味方さ。しかし、あのひとは、そうとは知らないがね」
ふいに、女は、決心したように目をあげて、いった。「あたし、ほんとのことを話すわ」
「そのほうが助かる」と、メイスンは、味もそっけもない口振りでいった。
「あたしは、看護婦なんです」と、女はいった。「ローダとは、とても仲がいいんです。もうなん年もの知り合いなの。そのローダから、電報や手紙を、ここの住所で受け取るようにしてほしいって頼まれたの。あのひと、結婚するまで、あたしといっしょに、ここで暮していたんですもの。それで、あたし、いいわって引き受けたの」
「ローダは、いま、どこに住んでいるんだね?」と、メイスンがたずねた。
ネル・ブリンレイは、首を左右に振って、いった。「あたしにも、その所を教えないんです」
メイスンは、あざけるように声を立てて笑った。
「あら、ほんとのことをいってるのよ」と、女はいった。「ローダって、あたしがいままでに会ったひとのうちでは、おそろしく秘密の多い、なんでも隠し立てをするひとなんですよ。一年以上も、あのひとと暮して、この小さな家に、いっしょに住んでいたのに、結婚した相手のことも教えないし、住んでるとこさえも、あたし、知らないんですものね。知っているのは、男の名前がモンテインだっていうことだけ、知ってるのは、それだけじゃありませんか」
「かしら字は、わかっているんですか?」と、メイスンはたずねた。
「知りませんわ」
「姓がモンテインだということは、どうして知っているんですか?」
「ここへ来るローダあての電報が、そういう名前で来るからわかっただけなの」
「結婚前の名前は、なんというんです?」
「ローダ・ロートンというの」
「結婚して、どれくらいになるんです?」
「まだ一週間にもなりませんわ」
「この電報は、どうして渡したんだね?」
「電話で、なにかないかってたずねて来るの、それで、電報が来ているっていうと、受け取りに来るんですよ」
「きみの電話番号は?」
「ドレントンの九四二六八番よ」
「看護婦だという話だったね?」
「そう」
「資格はあるんだね?」
「そうよ」
「仕事があると、電話がかかって来るんだね?」
「ええ、そう」
「最近の仕事は?」
「きのう帰って来たばかりなの。外科手術専門の看護婦なんですよ」
メイスンは、微笑しながら立ち上がった。
「ローダが、また電話をかけて来るだろうね?」と、メイスンがたずねた。
「たぶん、かけて来るでしょうよ。でも、はっきり、かけて来るともいえませんわ。あのひとときたら、とても気分屋さんで、おまけに、おそろしく隠し立てをするひとなんですよ。きっとなにか、他人にはいえない、隠してることがあるの。なんだか、あたしは知らないけど。ほんとうの胸の中を、絶対に、あたしにも打ち明けようとはしないんですよ」
「もし電話があったら」と、メイスンがいった。「こういってもらいたいんだ。きょう訪ねた弁護士のところを、もう一度訪ねなくちゃいけないって。とても重大な問題で、話すことがあるといっていたとね。こんな言伝《ことづ》てなら、おぼえていられるだろう?」
「ええ、おぼえていられますわ。その電報はどうするんです?」と、電報を入れたメイスンのポケットに視線を向けながら、女はたずねた。「ローダのところへ来た電報でしょう」
「こいつは、けさ、きみがローダに渡してやった、あの電報だよ」と、メイスンはいった。
「それはわかってるけど、どうして、あんたは、それを手に入れたの?」
「それはいえない」と、メイスンがいった。「職業上の秘密だよ」
「あんたは、いったい、誰なの?」
メイスンは、どう取っていいかわからないような微笑を浮かべた。
「きみに、ローダ・モンテインヘの伝言を頼みに来た男さ、けさ早く、訪ねて行った弁護士のところへ、もう一度訪ねて行けというんだよ」
メイスンは、すたすたと廊下を歩いて行った。そのうしろ姿に向かって、いろいろ女が質問を浴びせかけたが、メイスンは、ばたんと玄関の戸をしめて、急ぎ足に階段をおり、つかつかと、とまっているタクシーのドアに近づき、飛び乗るなり、
「急いでくれ!」と、メイスンはいった。「その角をまがって。公衆電話があるのを見たら、とめるんだ」
ネル・ブリンレイは、玄関まで追って来て、その場に立ったまま、タクシーが走り出してぐるっと角を曲がるのを見つめていた。
タクシーの運転手は、公衆電話の標示板がさがっている店のほうへ、さっと車を向けて、
「ここでいかがですか?」と、たずねた。
「結構」と、メイスンが答えた。
タクシーはとまった。メイスンは、つかつかと店のなかへはいって行くと、電話機に小銭を落とし、送話器にぴったり口をあて、両手で送話器の口を囲んで、声が漏れないようにして、事務所の番号を告げた。デラ・ストリートの声が伝わって来ると、メイスンはいった。「デラ。鉛筆とノートブックの用意をしてくれ」
「いいわ」と、デラがいった。
「二十分ほどしたら、ドレントンの九四二六八番、ネル・ブリンレイって女に電話をかけるんだ。向こうへローダ・モンテインが来たら、すぐに、きみのところへ電話をするように伝えてくれと、そういうんだ。きみの名前は、いいかげんなことをいうんだよ。グレゴリイから頼まれたのだと、そういうんだよ、忘れずに」
「承知しました。それで、先生、あのひとがかけてきたら、どうするんですの?」
「あの女がかけてきたら、きみは誰だということを告げてね、事務所ヘハンドバッグを忘れて行ったということ、ぼくが至急に会いたがっているということを、相手に伝えるんだ。それから、ほかにもいろいろ用事がある。まず、結婚許可証の調査をしてもらいたい。モンテインって名の男に出した結婚許可証だ。花嫁の名前は、ローダ・ロートン。つぎは、ポール・ドレイクだ。やつの部下を、水道、電気、ガスと、これだけの会社をまわらせて、最近、モンテインという家と契約したかどうか、調べさせるようにしてくれ。結婚許可証のほうから、モンテインのかしら字がわかったら、電話公社にあたって、そういう名前の電話があるかどうか、調べるんだ。そして、ドレイクにそういって、部下をひとり、その結婚許可証の男の住所へやって、突きとめさせてくれ。ピストル所持許可を扱う役所に問い合わせて、あのピストルの番号から突きとめられることも洗いあげてくれ。番号は、ノートブックに控えておいたね。みんないっさい、こっそりやってくれよ。ぼくはあの女の正体について、どんな情報でもぜひ知りたいんだ」
「なぜですの?」と、デラがたずねた。「なんかあったんですか?」
「いいや、なにもないがね」と、メイスンは答えた。「しかし、あの女に会えないと、なにかが起こりそうなんだ」
「わたしのところへはいった情報は、そちらから電話して、聞いてくださいますわね?」と、デラがたずねた。
「ああ、そうするよ」と、メイスンがいった。
「承知しました、先生」
メイスンは電話を切って、タクシーにもどった。
第四章
印刷屋は、巨大なビルとビルとの間の、ちっぽけな店で、オレンジ・ジュースを売る店と隣り合っていた。細長い長方形のガラス張りのショーウィンドーに、いろいろな印刷物の見本が飾ってあって、看板には、名刺、便箋の類は、お待ちの間に印刷|仕《つか》まつりますと書き出してあった。
ペリイ・メイスンは、その長方形のガラスの中を眺めて、買おうかよそうかと思案をしている様子だった。
狭いカウンターの奥から、印刷屋の親父が身を乗り出した。
「特別早乾きのインクを使用しておりますので」といった。「まるで、見たところは銅版印刷とそっくりで、本職でさえもまちがえるくらいでさ」
「値段は?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
印刷屋の親父は、インクで染まった人さし指で、見本と価格表を指し示した。
メイスンは、見本の名刺のうちから一枚を選び、ポケットから紙幣を取り出して、
「これがいいな」といった。「R・W・モンテインと刷ってくれ。住所は、イースト・ペルトン・アベニュー一二八番地。左の下の隅に、保険ならびに金融業としてくれ」
「活字を揃えますのに、一、二分かかりますが」と、釣り銭をメイスンに渡しながら、印刷屋はいった。「ここでお待ちになりますか、それとも、後ほどお寄りになりますか?」
「後で寄ろう」と、メイスンはいった。
メイスンは、通りを突っ切って、向かい側のドラッグ・ストアにはいり、事務所に電話をした。ローダ・モンテインからは、まだなんの便りもないというデラの返事だった。メイスンは、カウンターの前に腰をおろし、思案にふけりながら、ミルク・チョコレートを飲んだ。気がつかぬうちに、時間が経《た》っていた。やがて、メイスンは、また通りを突っ切って、印刷屋へはいって行って、刷り立ての名刺を一箱受け取った。
メイスンは、またドラッグ・ストアにもどって、もう一度、事務所に電話をした。
「ポール・ドレイクさんが、結婚許可証を見つけ出しましたわ」と、デラ・ストリートが勢いよくいった。「カール・W・モンテインという男です。住所は、イリノイ州シカゴとなっていましたわ。でも、水道会社とガス会社との契約は、ホーソーン・アベニュー、二三○九番地のカール・W・モンテインとなっています。先週契約したばかりですわ。結婚許可証によりますと、花嫁は、未亡人で──ローダ・ロートンとなっています。ドレイクさんが、これからさき、どこまで費用をかけて深入りなさるおつもりか、先生に伺ってくれっていうんですけど」
「ドレイクにいってくれ」と、メイスンが強い口調でいった。「はっきりした答えが出るまでは、どこまでも調べろって。着手金を受け取った以上は、依頼人の利益を守らなきゃならんのだからね。ぼくは、この事件をやりぬくつもりだ」
「ねえ」と、デラ・ストリートが問い返すような口振りで、「もう受け取った金額だけのお仕事は、おやりになったのじゃありません、先生? それに、着手金のことだって、ご存じなかったんですもの。先生の責任じゃありませんわ」
「いや、そうはいえないよ」と、メイスンがいった。「着手金を受け取った以上は、当然、ぼくも知っていたはずのことだ。とにかく、引き受けたものとして、ぼくは、徹底的にやりぬく覚悟でいるんだ」
「でも、ほんとうにお願いするつもりなら、どうすればいいか、あのひと、よく知ってるはずですわ」
「いや、もう一度、やって来ないよ」
「ハンドバッグを忘れて行ったのに気がついても、来ないっておっしゃるんですの?」
「まず来ないね」と、メイスンはいった。「いままでに、どこヘハンドバッグを忘れたかぐらいは、きっと思い出しているにちがいないよ。しかし、あのピストルのために、もうもどって来ないのだろうね」
「もう四時すぎですわ」と、デラ・ストリートが注意するようにいった。「役所も会社も、しまる時間よ。ドレイクさんの調査も、後は夜分でしょう」
「ピストルのほうは、まだ、ドレイクには調べがつかないのかい?」
「まだですわ。五時までには、なんとか報告が来るだろうといってましたわ」
「オーケー」と、メイスンはいった。「もうしばらく頑張っていてくれ、デラ、もう一度、ぼくが電話をするからね。女から電話があったら、しっかりつかまえていてくれ。本当の名前も住所も、ちゃんとわかっているんだって、そういってやるんだね。それで、やって来るだろうと思うんだが」
「そりゃそうと、先生」と、デラ・ストリートは、気がついて、いった。「お耳に入れておきたいことがあるんですけど」
「なんだい?」
「先生が電話するようにとおっしゃった、ネル・ブリンレイの電話番号なんですけど、ドレントンの九四二六八番でしたわね。ところが、ローダ・モンテインが知らして行った番号は、ドレントンの六八九四二番なんですよ。つまり、ネル・ブリンレイの番号の、終わりの二桁《ふたけた》を取って、頭のところへつけ加えただけじゃありませんか。ということは、あのひと、そのネル・ブリンレイの電話番号をよく知っていたにちがいありませんわ。だって、わたしがたずねた時、すらすらといったんですもの。きっと、結婚前は、いっしょにあすこに暮していて、いつも、あの電話を使っていたのにちがいありませんわ」
ペリイ・メイスンは、くっくっと笑い声を立てて、
「なるほど、きみは頭のいい子だ」と、メイスンはいった。「いいかい、もう一度、ぼくから電話がかかるまで、そこに頑張っているんだぜ」
メイスンは、受話器をかけ、額の汗を拭くと、つかつかと街角を曲がって、電話公社の本局にはいって行った。
カウンターに近づくと、ペリイ・メイスンは、頼信紙《らいしんし》を一枚取って、ポケットから例の電報を取り出すと、カウンターの上にひろげた。鉛筆を手にしたまま、額に八の字を寄せて考えこんだ。
メイスンは、目をあげて、係員の視線をとらえた。
女の係員が、前へやって来ると、メイスンは、刷り立ての名刺を一枚、ポケットから取り出して、
「ちょっと」といった。「特別にお願いしたいことがあるんですが」
若い女の係員は、名刺を受け取って眺めていたが、うなずいて、微笑を浮かべて、いった。
「よろしゅうございます、モンテインさん、どんなご用でしょうか?」
「じつは、大事な取り引き上の用件で、この電報を受け取ったんだが、あいにくと、相手の住所を忘れてしまったんです。たしか、電信公社では、電報を受けつけるとき、発信人の住所を控えておくということでしたね。この電報に発信番号がついているのはそれでしょう。この発信番号で、発信人の住所を調べていただけないでしょうかね?」
「ええ、わかると思いますわ」と、若い女の係員はいって、名刺と電報を手にして、奥の部屋へはいって行った。
その間に、ペリイ・メイスンは、宛名は『グレゴリイ殿』とだけで、住所欄は空白にした、つぎのような電文を認《したた》めた。
トクベツノジジョウニヨリ、ホウモントウブンエンキス、イサイメンゴ
R・モンテインと、こちらの名前を書いて、係員のもどって来るのを待っていた。
五分もしないうちに、係りの女は、例の電報を手にしてもどって来た。発信人の住所氏名が、鉛筆で書きつけてあった。
メイスンは、ちょっとそれを見てから、うなずき、『グレゴリイ』の後に、『モクスレイ』という名を書き込み、その下に、ノーウォーク・アベニュー三一六番地、コールモント・アパートとつけ加えた。
「どうもありがとう」と、メイスンはいった。「では、この電報をお願いします」
「それでは」と、係員はにっこりと笑いながら、「あなたのお所をお願いします」
「ああ、そうでしたな」と、メイスンはいって、「R・モンテイン、イースト・ペルトン・アベニュー一二八番地」と、頼信紙に書き込んだ。
メイスンは、電報料金を払うと、外に出て、タクシーを呼びとめて、
「ノーウォーク・アベニュー三一六番地」といった。
メイスンは、タクシーの座席のクッションによりかかり、タバコに火をつけ、思案をめぐらすように目を細めて、走りすぎる街のたたずまいを見ていた。吸っていたタバコが尽きたころ、タクシーが歩道のそばにとまった。
コールモント・アパートは、二階建ての堂々とした建物だった。以前は、誰かの住宅だったのだろう。ノーウォーク・アベニューは、一区劃にごたごたと細かい家がなく、大きな邸宅がごくわずかずつあるような地域で、アパートメントにお誂《あつら》え向きの場所となったので、所有者は、この堂々たる邸宅を、四軒のフラットに改造した。ペリイ・メイスンが注意して見ると、この四軒のフラットのうち三軒は、たしかにあいていた。この邸宅の西側に見えるような、近代的なアパートメントが盛んに新築され出したために、個人の邸宅を改造したアパートメントは、あわれ無残《むざん》なものとなってしまったのだ。いずれ近い将来には、取り毀《こわ》されてしまって、代わって、もっと大きなアパートメントが建てられる運命と思われた。
メイスンは、『グレゴリイ・モクスレイ』という標札の出ている二号フラットのボタンを押した。
押す手をやめたと思うとすぐに、電気ブザーが鳴って、ドアのかけがねのはずれる音がした。弁護士は、ドアを押しあけた。目の前に、長い階段がぼんやり浮き出るように見えた。階段を昇って行くと、二階の廊下に、人の足音が聞こえ、やがて、階段の上から、男の姿が見えたので、メイスンは、会釈をしながら昇りつづけた。
男の年齢は、三十六ぐらいで、油断のない、すばやく動く目つきをしているが、愛想笑いだけは忘れていないし、物腰も落ちついて上品さをうしなっていない。この暑さにもかかわらず、きちんと服を着けて、一点非の打ちどころもなく、物質的に恵まれているし、幸福でもあるような雰囲気を身のまわりに漂わせていた。
「やあ、いらっしゃい」と、相手はいった。「といっても、わたしは、あなたを存じ上げていないような気がするんですがね。わたしは、約束した人が訪ねて来るはずで待っていたもので、すっかりその人と思い違いをしてしまいました」
「ローダのことでしょう?」と、ペリイ・メイスンがいった。
一瞬、相手の男は、襲撃に備えるように、体をかたくした。が、すぐにまた、もとの慇懃《いんぎん》さにもどって、穏やかな声で、
「ああ」と、相手の男はいった。「じゃ、人違いをしたわけでもなかったのですね。さあ、どうぞこちらへはいって、お掛けください。それで、お名前はなんとおっしゃるんです?」
「メイスンといいます」
「ようこそおいでくださいました、メイスンさん」
片手をひょいと出して、ペリイ・メイスンの手を握った。力の籠《こも》った、心から歓迎しているような握手だった。
「モクスレイさんですね?」メイスンがたずねた。
「そうです。グレゴリイ・モクスレイです。さあ、どうぞこちらへ。まったく暑いじゃありませんか?」
部屋は、どちらかというと、調度など、いささか旧式ではあったが、居心地《いごこち》よさそうな住まいだった。窓は、あけてあった。十五フィートほど離れたところに、最新式のアパートメント・ハウスの側面が、大きく迫まっていた。
メイスンは、椅子に腰をおろし、足を組んで、機械的にシガレット・ケースに手をやった。
「あのアパートメント・ハウスが邪魔ですな。あれさえなければ、風通しもいいでしょうね?」と、メイスンが問いかけた。
モクスレイは、眉《まゆ》の間に皺《しわ》を寄せて、いかにも困ったというような視線をちらと向けて、
「まったくですよ。あのアパートのお陰で、部屋の中は覗《のぞ》かれるし、風は通らぬし、きょうのような暑い日には、まるで竈《かまど》のなかへでもはいったようでしてね」
モクスレイは、人のよさそうな笑いを、にやっと浮かべた。そのにが笑いは、この世の中を冷静に渡ることを知っている人間の、苦渋な事柄も快く受けとっている、いわば朗らかなにが笑いだった。
「しかし、なんでしょうね」と、メイスンがいった。「遠からず、このアパートも取り毀されて、やがては、ああいう大きなアパートが建つことになるんでしょうね」
「そうですね」と、モクスレイは相槌《あいづち》を打ちながら、その目は、相手の出方を押しはかるように、じっと、メイスンの顔を見つめていた。「それは避けられませんでしょうね。わたしとしては、好ましくないのですよ。どちらかというと、わたしは、小ぢんまりとしたアパートメント・ハウスのほうが好きでして。ああいう大きなところは、しじゅう管理人が、そこらをこそこそ見まわって歩いているようなあんばいで、個人の好みなどぜんぜん問題にしない、便利一点張りの気風というものは、好きになれませんですね」
「このアパートに住んでいるのは、あなただけのようですね」と、弁護士は言葉をつづけた。
モクスレイは、すぐ、ははと、誘いかけるように、笑い声を立てて、
「ご用件は、不動産のお話ですか?」とたずねた。
メイスンも、釣《つ》り込まれたように、笑い声を立てながら、
「いやいや」といった。
「じゃ、どんなご用でおいででございましたので?」
メイスンは、急にまた鋭くなった相手の目を、じっと見返して、
「きょう、伺ったのは」と、メイスンはいった。「ローダの友人としてなんです」
モクスレイはうなずいて、
「なるほど」といった。「そんなことじゃないかと思っていました。しかし、まさか、あなたは──」
といいかけたとき、焼きつくように暑い午後の静寂を破って、かん高いベルの音が響き渡った。
モクスレイは、額に八の字を寄せて、ペリイ・メイスンを見た。
「誰か」と、モクスレイがたずねた。「ごいっしょに来ることになっていたのですか?」
メイスンは、首を左右に振った。
モクスレイは、どう心をきめていいかわからない様子だった。微笑のかげが、顔から薄らぎ、さきほどからの慇懃な色も消えてしまった。目つきも、なにかを推し量るようにきつくなり、顔の線が気味の悪いほど硬《こわ》ばった。やがて、モクスレイは、ひと言の挨拶すらいわずに、椅子から立ち上がると、足音を忍んでドアのところに歩み寄った。そして、廊下とペリイ・メイスンと両方が眺められる場所に立った。
ベルが、また鳴った。
モクスレイは、ボタンを押した。そして、その場に立ったまま、電気ブザーが鳴って、玄関の戸のかけがねがはずれるのを待っていた。
「誰だ?」と、二階から呼びかけたモクスレイの声は、先きほどからの、いやにつくろったような慇懃さを、すっかりうしなっていた。
「電報です」と、男の声が答えた。それにつづいて、階段を昇る人の足音、紙片の音が聞こえ、やがてまた、階段を降りて行く足音、ばたんと玄関の戸のしまる音が聞こえた。
モクスレイは、部屋にもどって、封を破った。電報を開いて、電文に目を通していたが、その目を、いぶかしげに、ペリイ・メイスンに向けて、
「この電報は」と、モクスレイがいった。「ローダからですがね」
「うん」と、気のなさそうな返事を、ペリイ・メイスンはした。
「あなたのことは」と、モクスレイがいった。「なんにも書いてありませんね」
「書く気がなかったのでしょう」と、メイスンは、なに気ない顔でいいきった。
「なぜです?」
「わたしが、こちらへ伺うのを知らなかったからでしょう」
モクスレイは、みせかけの親しさをすっかりなくなしてしまった。その目は、きつく、鋭くなった。
「それで」と、モクスレイはいった。「その後を聞かせてもらいましょう」
「わたしは、あのひとの友だちでして」と、メイスンがいった。
「それは、もうおっしゃいましたね」
「友だちとして、こちらへ上がったのです」
「それも、はじめて伺う言葉じゃありませんね」
「わたしは、弁護士なんです」
モクスレイは、深く息を吸いこんだ。それから、立ち上がると、決然とした、すばやい足どりで、部屋を突っ切って一隅のテーブルに近づき、右手を、そのテーブルの引き出しの把手にかけた。
「それで」と、モクスレイはいった。「なにか、いうことがあるというんだね」
「そうかもしれないね」と、ペリイ・メイスンがいった。「わたしが、友だちとして来たと、口を酸っぱくしていっているのは、そのことなんだが」
「さっぱりわからないね」
「つまり、友だちとして来たので、弁護士として来たのではないということなんです。ローダは、ぼくに事件について依頼をしたわけでもないし、ぼくがここへ来るということも知ってはいないのだ」
「じゃ、なぜ、きみはおいでになったのです?」
「ただ単に、自分自身の気持ちを満足させるためなのさ」
「どんな必要があって?」
「ぼくが知りたいのは、ローダから、なにを、きみが得ようとしているのかということなんだ」
「ただの友だちにしては」と、相も変わらず、右手を引き出しの把手にかけたままで、モクスレイはいった。「じつに、よくしゃべる男だな」
「大いに聴くつもりでいるんだがね」と、メイスンが、しっぺ返しに相手にいった。
モクスレイは、あざけるように声を立てて笑いながら、
「肚の中と、していることとは」といった。「同じじゃないかもしれんね」
モクスレイは、もはや、慇懃に客を迎える主人役でもなければ、親友でもなかった。さきほどからの、わざと取ってつけたような親密な態度は消え失せて、冷たい敵意が取ってかわった。
「かりに」と、メイスンがいった。「ぼくが、話をするとしたら、どうだね?」
「してみるんだね」
「ぼくは、いまいった通り弁護士だ。ある事件が起こって、そのために、ローダに興味を感じ出した。事件の内容などは問題じゃない。ところが、残念なことに、ローダと連絡をとることができない。しかし、きみには、あのひとと連絡をとる途がついているということがわかった。だから、きみに会ってみようと考えたわけだ。きみから聞きたいのは、どうすれば、ローダに会えるかということさ」
「そうすれば、あの女を助けることができるというんだね?」と、モクスレイはたずねた。
「そうすれば、あのひとを助けることが、ぼくにはできるのだ」
モクスレイの左手は、たえずテーブルの上を叩きつづけていた。右の手は、相変わらず、引き出しの把手にかけたままでいたが、いつでも用意はできているぞといっているようだった。
「弁護士としちゃ」と、モクスレイはいった。「ばかみたいにしゃべるね」
メイスンは、両肩をすぼめて、「そうかもしれんな」
しばらくして、モクスレイはいった。「すると、ローダは、洗いざらい肚の中を、きみに打ち明けて相談したというんだね?」
「ぼくは」と、ペリイ・メイスンはいった。「正真正銘、本当のことを、きみに話したじゃないか」
「きみはまだ、おれの質問には答えていないぜ」
「きみの質問に、答える義務があるとは思わんからさ」と、メイスンが相手にいった。「かりに、きみが、ぼくになにも話す気がないとしても、それでも、こちらは、話しておきたいこともあるんだ」
「うん、そいつをいってくれ」と、モクスレイがいった。
「ローダ・モンテインは」と、メイスンがいった。「なかなかいいひとだ」
「きみは」と、モクスレイはたずねた。「おれに、それをいいに来たのか?」
「だから、ぼくは、ローダ・モンテインに力を貸す気になった」
「前にも、そういったぜ」
「一週間ほど前、ローダ・モンテインは、カール・W・モンテインと結婚した」
「おれには、耳新しいニュースじゃないね」
「ローダの結婚前の名前は、ロートンといった」
「それで」と、モクスレイがいった。
「結婚許可証の申請書には、未亡人だと書いてある。先夫の名は、グレゴリイ」
「それから」
「どうやら」と、ペリイ・メイスンがいった。その顔は、まったく無表情だった。「ローダは、誤解をしているんじゃないかと思うのだがね」
「なにを誤解しているんだ?」
「未亡人だということについてさ。かりに、これはまあ、一例としていうのだが、あのひとの結婚した男が、実際には死んでいたのではなくて、七年という法定期間、行方不明でいただけだとするのだ。それでも、死亡は推定されるが、あくまでも、それは推定にすぎないのだ。もし、先夫が生きて、現われて来れば、その男は、やはり、あのひとの夫なのだからね」
モクスレイの目は、いまはあらわに敵意を見せて、相手をねめつけていた。
「きみは、ずいぶんいろいろなことを知ってるじゃないか」と、モクスレイはいった。「ただの友だちにしちゃ」
ペリイ・メイスンの目も、決然たる色を帯びていた。
「刻一刻と、情報が集まって来るからね」と、メイスンは挑戦的にいった。
「しかし、まだ知っておかなきゃならんことが一つあるようだね」
「というと?」
「関係のないことに、首を突っこんでいるということさ」
突然、電話のベルが鳴り出した。機械的に、規則正しく一定の間をおいて、繰り返し鳴りつづけた。モクスレイは、舌の先で唇をなめて、しばらく、躊躇していたが、やがて、しぶしぶメイスンのそばを通って、電話機のところへ足を運んだ。モクスレイは、左の手で受話器を取り上げると、小指と薬指で、器用に送話器をはさんで、送話口を口に、受話口を耳に押しあてた。
「なんです?」と、モクスレイはいった。
受話器は、かすれた、金属的な音を立てた。
「いまは、だめだ」と、モクスレイはいった。「客がいるんだ──いってるだろう、いまはだめだって──客の名を教えておこう──知っとくほうがいい。くどくはいわんから、自分で判断しろ──弁護士だ。メイスンという──」
ペリイ・メイスンは、椅子からとび上がった。
「ローダなら」と、メイスンはいった。「ぼくも話したいことがある」
メイスンは、大股に、電話機の前の男のほうへ近づいた。
モクスレイの顔は、激しい腹だちのためにゆがんでいた。右手を握りしめて、叫んだ。「さがってろ!」
メイスンは、かまわず突進した。モクスレイは、右手で電話器を、左手で受話器をしっかりつかんで、切ってしまおうとした。
「ローダ」と、ペリイ・メイスンは、それに向かって、大声でどなった。「ぼくの事務所に電話をするんだ!」
モクスレイは、がちゃんと受話器をかけた。その顔は、にえ返る憎悪で、醜いくらいゆがんでいた。
「ちくしょう!」と、モクスレイはいった。「この問題に首を突っこむ権利なんか、手前にはないんだぞ!」
メイスンは、ぐっと肩をそびやかせて、
「ぼくは、いいたいだけのことは、きみにいったよ」といいすてて、帽子をかぶり、モクスレイに背を向けて、ゆっくりと、長い階段を降りて行った。
モクスレイは、階段の上まで出て来て、ものもいわず、引き揚げて行く弁護士の広い肩を、敵意に満ちた目で睨みつけていた。
メイスンは、ばたんと玄関のドアをしめると、待たせておいたタクシーに乗った。三町ほど走らせて、ドラッグ・ストアの前でとめて、デラ・ストリートに電話をかけた。
「なにか、新しい情報は?」と、メイスンがたずねた。
「はいってますわ」と、デラが答えた。「ローダ・モンテインの記録がわかりました。正確な名前は、ローダ・ロートン、グレゴリイ・ロートンの夫人です。グレゴリイ・ロートンは、一九二九年の二月、肺炎で死亡しています。死亡診断書を書いた医師は、クロード・ミルサップで、署名しています」
「そのミルサップ医師の住所は?」
「テレシタ・アパートメント──ビーチウッド・ストリート一九二八番地です」
「ほかには?」と、メイスンがたずねた。
「ハンドバッグにあったピストルのことがわかりました」
「どんなことがわかったね?」
「ピストルの買い主は」と、デラがいった。「クロード・ミルサップで、住所は、ビーチウッド・ストリート一九二八番地となっています」
ペリイ・メイスンは、ひゅうと、低く口笛を吹いて、
「ほかには?」とたずねた。
「いまのところ、それだけです。ドレイクさんが、あとどれくらい調べればいいか、先生に伺ってほしいっていってますわ」
「ほかのことは、一時やめろっていってくれ」と、メイスンがいった。「そして、グレゴリイ・モクスレイという男のことを、洗いざらい調べさせてくれ。住所は、ノーウォーク・アベニュー三一六番地のコールモント・アパートメントだ」
「モクスレイを尾行させますか?」
「いいや」と、メイスンがいった。「その必要はないだろう。ほんとのことをいうと、この男をつけるのは、あまり利口なやり方じゃないと思うのだ。というのはね、このモクスレイという男は、なかなか神経の鋭いやつだからね。それに、どのていど、この男が事件に関係を持っているのかもわからないんでね」
デラ・ストリートの声が、急に心配そうな響きを帯びて、
「ねえ、先生」と、注意するようにいった。「すこし深入りなさりすぎているのじゃありません?」
ペリイ・メイスンの口調は、またいつもの通りの、温厚な、朗らかな調子になった。
「デラ、ぼくは、弁護士として正当に働いているんだよ」と、メイスンがいった。「立派に報酬を稼《かせ》いでいるんだよ」
「わかっていますわ!」と、デラは、叫ぶように言いきった。
第五章
ペリイ・メイスンは、電話機のそばを離れて、薬品売場に近づいて、
「『イプラール』というのは、なんの薬だね?」とたずねた。
店員は、ちょっとの間、メイスンの顔を見ていたが、
「催眠剤です」
「どんな催眠剤だね?」
「鎮静剤の一種です。気持ちよく眠れる薬でして、麻酔剤のようにむりに眠らせるのではなくて、安らかにぐっすり休止状態にして眠らせるんです。適量をお用いになれば、副作用もぜんぜんございません」
「強い酒を飲んで酔っぱらったように倒れてしまうのかい?」
「とんでもない──適量さえお飲みになれば、そんなことはございません。ごく自然な、気持ちのいい、熟睡がおとれになれることはうけ合いで、ございます。いかがで──?」
メイスンはうなずいて、売場を離れながら、「いや、結構《けっこう》」といった。
メイスンは、朗らかに口笛を吹きながら、ドラッグ・ストアを出た。タクシーの運転手は、車のドアをあけて、
「どちらへ?」とたずねた。
ペリイ・メイスンは、眉を寄せて考えこんでいた。二か所ある行き先のうちの、どちらにしようかと思い迷っているようなふうだった。
ノーウォーク・アベニューを三町ほど行ったとき、一台の自動車が横町から飛び出して来た。急カーブを切ったので、車体がぐっと揺れていた。
はっとして、メイスンは、その車に目をやった。タクシーの運転手の目も、メイスンの視線を追った。
「達者な運転だな」と、運転手がいった。
「女だね、運転してるのは」と、メイスンもいった。
出しぬけに、手を上げてタクシーをとめさせると、メイスンは、歩道寄りのドアから降り立った。メイスンが手をあげるのを見て、向こうのシボレーも、歩道のほうへ、ぐっと寄った。ブレーキをかけたとみえて、タイヤが、きっと軋《きし》る音を立てた。ローダ・モンテインの紅潮した顔が、ペリイ・メイスンの顔を見つめていた。ローダの運転した車が、ぴたっととまった。
弁護士が口をきった最初の言葉は、相手の来るのを待ち受けてでもいたように、さりげない口調で、「あなたのハンドバッグがとってありますよ」といった。
「知っていますわ」と、ローダはいった。「先生の事務所を出て、一、二分もしないうちに気がつきましたの。一度もどりかけたんですけど、そのままにしとくことにしましたのよ。どうせ、あなたがおあけになって、いろいろおたずねになるにきまっていると思ったものですから。それに一々、お返事したくないと思ったからですわ。先生、なんのために、グレゴリイのところへいらっしゃいましたの?」
ペリイ・メイスンは、タクシー運転手のほうを振り向いて、
「きみ、もういいよ」といった。
メイスンは、紙幣を一枚差し出した。運転手は、その紙幣を受け取りながら、目だけは、何者だろうといぶかるような目つきで、クーペの中の女を、じろじろと見つめていた。
メイスンは、相手がなんにもいわないうちに、ぐいと車のドアをあけて、ローダ・モンテインの脇に乗り込み、にやっと相手に笑顔を見せた。
「すみません」と、メイスンはいった。「あなたが着手金をおいておいでになったとは、ちっとも知らなかったものですからね。後で、そのことを聞いたものですから、すぐにお役にたてばと、あなたのために行動を開始したのです」
ローダの目は、まっ黒な憤怒の塊《かたま》りのように、ぎらぎらと光った。
「グレゴリイのところへ押しかけていらしたのが、あたしを助けるためだとおっしゃるんですか?」
メイスンは、うなずいて見せた。
「そうですかね」と、女は、辛辣《しんらつ》な口調でいった。「あなたのなすったことは、寝ていた子供を起こすように、悪魔を呼び出しておしまいになったのじゃないのですかしら。あたし、あなたがいらしてるということを聞くなり、大急ぎで駆けつけて来たんですけど、もう、すっかりしゃべっておしまいになってしまったんでしょうね」
「なぜ、あなたは、五時という約束を守らなかったんです?」と、メイスンはたずねた。
「決心がつかなかったからですわ。あたし、あの人に電話をして、もうしばらく待ってほしいって、そういいましたわ」
「もうしばらくって、いつまでです?」
「かなり先きまでですわ」
「いったいなにを」と、ペリイ・メイスンはたずねた。「あの男は、要求しているんです?」
「それは」と、女はいった。「先生には関係のないことですわ」
弁護士は、相手の肚の中を推し量るように、じっと、女を見つめて、いった。「けさ、あなたが、わたしの事務所へおいでになった時、そのこともおっしゃるつもりだったのでしょう。なぜ、いまとなって、話そうとなさらないんです?」
「いいえ、あの時だって、お話しするつもりはなかったんです」
「わたしが、あなたのプライドを傷つけていなければ、おっしゃるつもりだったのじゃないかな」
「ええ、あの時は、ほんとにひどい方だと思いましたわ!」
メイスンは、声を立てて笑いながら、
「ねえ」といった。「おたがいに誤解しながら、あれこれいうのはやめましょう。わたしは、もう一度あなたに会おうと思って、一日中、飛びまわっていたんです」
「きっと」と、女はいった。「わたしのハンドバッグも、すっかりお調べになったのでしょうね」
「すっかりね」と、メイスンはうなずいていった。「それどころか、電報を見たので、ネル・ブリンレイさんにも会いに行ったし、探偵を駆けまわらせて、残らず情報を集めさせましたよ」
「なにかわかりまして?」
「たっぷりとね」と、メイスンがいった。「ミルサップ医師というのは、誰なんです?」
女は、はっと驚いて、息をのんだ。
「お友だちですわ」と、女は、漠然とした説明をした。
「ご主人の知り合いですか?」
「いいえ」
メイスンは肩をあげたが、そのあげっぷりは、たくさんの意味を含んでいた。
「どうして、あの方のことがおわかりになりましたの?」と、しばらくして、女がたずねた。
「そりゃ、一日中、歩きまわりましたからね、聞き出しもしますよ」と、メイスンは相手にいった。「あなたを援助する態勢を整えようとしていたわけですよ」
「わたしを助けてくださることなんか、先生にはおできになりませんわ」と、女はいった。「ただ、教えていただきたいのは、一つだけ、後は、ほっといていただきたいんですの」
「一つだけ聞きたいとおっしゃるのは、どんなことです?」
「ひとりの人が、七年間失踪していれば、死んだものと推定されるかどうかということですわ」
「一定の条件の下では、死亡ということになります。ある場合には、七年、事情によっては、五年が法定期間です」
ほっと、心から安心したような表情が、女の顔に浮かび上がった。
「そうすると」と、女がいった。「それ以後の結婚は、正当なものと認められるわけですわね」
メイスンは、心からの同情を顔に浮かべながら、首を左右に振った。
「お気の毒ですがね、モンテイン夫人」と、メイスンはいった。「そういうことにはなっているのですが、それはあくまでも推定にすぎないのです。かりに、グレゴリイ・モクスレイが、ほんとうに、あなたの最初の夫のグレゴリイ・ロートンであって、いまもなお生存しているということが判明すれば、あなたとカール・モンテインとの結婚は無効になるのです」
女は、目をあげてメイスンを見た。その目は、苦悩で暗く曇っていた。じわじわと、その目に、涙が湧き、唇が、ふるえていた。
「わたし、カールを愛していますわ」と、女は、あっさりといった。
ペリイ・メイスンは、女の肩に手をおいて、励ますように、軽くたたいた。それは、特別に個人的な感情のこもっていない、ただ男が女をいたわるゼスチュアだった。
「彼のことを、わたしに話してみませんか」と、促《うなが》すように、メイスンはいった。
「ああ」と、女はいった。「お話したって、わかっていただけませんわ。男の方にはわかっていただけませんわ。わたし自身だって、わからなくなるときがあるくらいですもの。わたし、あの人が病気のとき、看護につきそっていたんです。あの人は、麻薬の中毒だったんです。お家の方たちが知ったら、きっと死ぬほどびっくりなすったにちがいありませんわ。わたしが、ちゃんとした資格を持った看護婦だということは、ご存じでございましょう──いいえ、いまはやめていますけど、そのころは、看護婦として働いていましたの」
「どんどん話してごらんなさい」と、メイスンはいった。「なにもかもいっさい」
「グレゴリイとの結婚のことは、お話する気にはなれませんわ」といった女の唇は、ひどくふるえていた。「思い出しても、ぞっとするようですわ。あのときは、まだ、わたし、ほんとの子供でした──若くって、世間知らずで、感じ易《やす》い年ごろでした。あの人は、わたしより九つ年上で、とても魅力的でした。まわりの人たちは、あの人に気をつけろと注意をしてくれましたが、若いわたしは、嫉妬《しっと》や|ねたみ《ヽヽヽ》で、そんなことをいうのだとばかり思いこんでいました。ことさら上品に、わたしをかばってくれるような態度で扱かってくれるのが、小娘のわたしをすっかり夢中にさせてしまったのですわ」
「それから」と、女が言葉をきると、メイスンは、さきを促した。
「わたし、すこしばかり貯金を持っていたんです。そう、あの人は、それを手に入れると、そのまま身をかくしてしまいました」
メイスンの目が、細く、緊張した。
「あなたが、その金を提供したのですか」と、メイスンはたずねた。「それとも、彼が、こっそり盗んだのですか?」
「あの人が盗んだのですわ。株を買ってもらおうと思って、あの人に渡したんですの。ひどく金に困っている友だちがいて、その友だちが株券を持っているから、それをうまく手に入れれば、すばらしく安い買い物だと思うんだが買わないかと、そう、あの人がいうんです。それで、わたし、あの人に現金を渡したんですけど、あの人は、それっきり帰って来ませんでしたわ。でも、わたしの金を洗いざらい持って出て行くとき、強くキスをしてくれましたけど、わたし、そのことは一生忘れないと思いますわ」
「警察へは知らせましたか?」と、メイスンはたずねた。
女は、首を左右に振って、「知らせましたけど、そのお金のことだけはいいませんでしたわ。だって、わたし、なにか思いがけない事故に遭《あ》ったにちがいないと思ったんです。それで、警察に頼んで、交通事故の記録を調べてもらったり、病院という病院みんなへ、電話をかけて問い合わせたりもしました。ほんとうの意味を悟ったのは、それからずっと後になってからでした。わたし、気がちがうかと思うほどでしたわ」
「なぜ、逮捕してもらわなかったのです?」と、メイスンがたずねた。
「そんなこと、どうしたってできませんわ」
「なぜです?」
「いえませんわ、わたし」
「なぜ、いえないんです?」
「誰にだって、自分からしゃべろうなんて思えないことですわ。そのために、自殺までする気になったほどのことですもの」
「ピストルは、その自殺に使うつもりだったのですか?」
「いいえ」
「モクスレイを殺すつもりだったのですね?」
女は、黙って、返事もしなかった。
「だから」と、メイスンが強い詰問口調で、「『|罪の主体《コーパス・デリクティ》』のことをきいたんですね?」
こんども、女は黙っていて返事をしなかった。
メイスンは、ぐっと、女の肩に、指を押しつけて、
「ねえ」といった。「あなたには、考えることが多すぎるんだ。いちばん必要なのは、相談相手だ。わたしなら、相談相手になって、あなたを助けてあげることができるはずだ。どうです、真相を残らず話してみませんか?」
「できませんわ。とてもおそろしいことですわ。ほんとうのことなんて、とてもお話なんかできませんわ!」
「ご主人は、この問題についていくらか、気がついておいでですか?」と、メイスンはたずねた。
「とんでもない、なんにも知りませんわ! あの人の素姓《すじょう》をご存じないからですわ。もし、ご存じになっていたら、そんなことおききになりませんわ」
「なるほど、それで、どういう身分の方なんです?」
「先生は」と、女がたずねた。「シカゴのC・フィリップ・モンテインという人のことをお聞きになったことがございません?」
「知らんね、どういう人です?」
「とてもお金持ちですわ──ご先祖が、独立戦争でどうとかなすったとかいうふうに、旧い家系を誇る人にありがちな、旧弊で頑固な老人なんです。カールは、その人のひとり息子なんですの。C・フィリップ・モンテインさんは、わたしのことなんか、とても、とても認めようとなんかしないんです。決して会おうともしないんです。ですけど、あの人の息子《むすこ》が、看護婦ふぜいと結婚したということが、あのお年寄りには、とてもひどいショックだったんです」
「お父さんに会ったんですね?」と、メイスンがたずねた。「結婚してから後?」
「いいえ、会ってはいません。でも、カールのところへ、たびたび来ている手紙は見ています」
「結婚前に、カール君があなたと結婚するつもりだということは、老人はご存じだったのですか?」
「いいえ。わたしたち、駆け落ちをして結婚したんですの」
「そのくせ、カール君は、非常にお父さんを怖れているのですね?」
女は、強くうなずいた。
「カールにお会いになれば、おわかりになりますけど、まだしっかり、一人前の健康体になっていないのです──精神的にも、体力的にも──それというのも、あの麻薬中毒のせいなんですけど、つまり、しっかりした意力がないんです」女は、自分のいっていることの意味に気がついて、ぱっと顔を赧《あか》らめながら、「じきに、全癒するとは思うんですけど、麻薬が人間に、どんなおそろしい影響を与えるものかは、ご存じでいらっしゃいましょう」女は、神経質に、言葉をつづけた。「いまのところは、まだ、なんでもないことにも動かされるんです。神経質で、ひどく物ごとに感じ易いんです」
「あなたは、そういうご主人の性格の欠点をはっきり知っていて」と、メイスンは、じっと考えに沈みながら、いった。「しかもなお、愛しているとおっしゃるんですね?」
「ええ、わたし、あの人を愛しています」と、女はいった。「この世のなによりも強く、あの人を愛しています。そして、なんとしてでも、あの人をひとり立ちのできる人間にしたいのです。あの人に必要なのは、回復までの時間と、杖になるしっかりした人間なんです。わたしが、お金や身分でなく、どんなにあの人を愛してきたか、なぜ、あの人を愛するようになったのか、わたしがこれまでに、あの人に尽くしてきたことを見ていただけば、先生にもわかっていただけると思いますわ。わたし、最初の結婚の後、なん年もなん年も、地獄のような苦しみを苦しんできました。絶望して、いっそ自殺してしまおうかとも思いました。でも、自殺する勇気さえもなかったのですわ。
あの最初の結婚が、わたしの心のなかの、なにかの息の根をとめてしまったのですわ。最初の夫を愛したようには、どんな人間も愛することができないようになってしまったのです。あれから後は、結婚なんて、どんな結婚にも頭を向けようとも思わなくなってしまったんです。ですから、いまのわたしの愛情というものも、たぶんに母親の愛情に似たものといえるようなものじゃないでしょうか。わたしの最初の愛は、夢みたいなものだったんだと思いますわ。尊敬できる相手がほしかったのですわ。その初恋が幻滅におわって──ああ、ねえ」と、女は、急に言葉を切った。
「ご主人は」とペリイ・メイスンがたずねた。「そういう母親のような愛情で満足していらっしゃるのですか?」
「してくれると思いますわ」と、女はいった。「あの人は、子供の時から、がみがみ父親に叱られ通してきて、それにしたがうのがあたりまえのような気持ちになっているんです。この世の中でいちばん大切なものは、家名と家族の地位の二つだけだと教えこまれてきたんです。先祖の亡霊を肩にのせて、この世の中を渡り通そうという人なのです。あの人にとっては、家柄というものがすべてだと思っているんです。それがもう、あの人の固定観念になってしまっているんです」
「さあ」と、メイスンは、相手にいった。「これで、どうやらだいぶ、事情が変わってきましたね。あなたは、胸に蟠《わだかま》っていることを、わたしに話して聞かせた。それで、どうやら気持ちが軽くなったでしょう」
女は、あわてて、首を左右に振って、否定した。
「いいえ」と、女はいった。「すっかりなんか、とてもお話できませんわ。どんなに同情していただけるかしれないと思っても、とても申し上げられませんわ。はっきりしたところを申し上げれば、カールとの結婚が適法かどうかということを伺いたいんです。この結婚が適法でさえあれば、どんな苦労にも耐えられると思うんです。ですけど、もし、あの人が、わたしをたったひとりほうっておいて逃げて行ってしまったり、あの人のお父さんが、あの人を連れて行ってしまったりするようなことができるんでしたら、わたし、とうてい生きてなんかいられませんわ」
「もしも」と、メイスンは、ゆっくりといった。「ご主人が、あなたをほうっておいて逃げて行くようなタイプの人間なら、それだけの価値のない人間に、あなたの愛情を浪費しているとは思わないのですか?」
「わたしが、はっきり知ろうとしていたのもそれなんですわ」と、女はいった。「それというのも、主人は、わたしなしではいられないタイプの人間だからですわ。そして、それだからこそ、わたしも、あの人を愛さずにはいられないのです。あの人は、弱い人間です。わたしがあの人を愛するのも、たぶん、あの人が弱い人間だということも一つの理由だと思います。わたしを夢中にさせるような、意志の強い、物ごとをてきぱきと片づける力のある、ぐいぐいと人を惹《ひ》きつける男は、もうたくさんですわ。男に夢中になることなんか、もうごめんですわ。たぶん、抑圧された母性コンプレックスなんでしょうね。きっと馬鹿なんですわ──よくわかりませんわ。はっきりとはいえませんけど、そんなふうな気がするんです。先生だって、ご自分の感じていらっしゃることを、はっきり説明なさることはおできにならないでしょう──ただ、ご自分で、そういう感情をお感じになるだけだと思いますわ」
「あなたが」と、ペリイ・メイスンはたずねた。「わたしに隠していらっしゃるのは、どんなことです?」
「おそろしいことですわ」と、女は、メイスンにいった。
「聞かしてくれるでしょう?」
「いいえ」
「事務所へ訪ねておいでになった時、もうすこし、わたしが同情的だったら、話してもらえたのじゃないかな?」
「とんでもない、そんなことはありませんわ」と、女は、大きな声でいった。「こんなことを、くどくどとお話しするつもりなんか、まるきり考えてもいませんでしたわ。法律上のご意見を伺いたがっている友だちのお話をすれば、それだけで先生がお話にのってくださると思いましたの。鏡の前で練習しましたわ。なん百ぺんというくらい繰り返しました。わたしがこういえば、先生はこうおっしゃるだろうとまで見当をつけました。そう見当をつけてお伺いしてみますと、いきなり、わたしの嘘を、先生は見破っておしまいになりました。わたし、すっかり怯えてしまいました。わたし、生まれてから、先生の事務所を逃げ出したときくらい、こわい思いをしたことは、まだ一度もありませんわ。すっかり怯えてしまったので、ハンドバッグを忘れたのも気がつきませんでした。気がついたのは、エレベーターを降りて、半町ほど行ってからでした。ほんとに、おそろしいショックでしたわ。でも、とてもおそろしくて、とても引っ返す気になんかなれませんでした。引っ返しかけてみたんですけど、先生にお目にかかるかと思うと、とても我慢ができそうもなかったので、いずれ後のことにしようときめたんです」
「なんの後です?」と、メイスンが問いをかけた。
「なにか、この苦しみを切り抜ける方法を見つけた後ですわ」
弁護士の目には、同情の色が濃《こ》く浮かんでいた。メイスンは、あっさりとした調子でいった。「そんなふうに、わたしを考えないほうがいいですね。あなたの先夫の行方がわからなかった。あなたは、その先夫が死亡したものと信じて、誠意をもって結婚した。あなたが責められるところなんか、どこにもない。こちらから進んで離婚を請求して、その上で、カール・モンテイン氏と結婚すればいいんですよ」
女の目に、涙がにじんできた。が、唇だけは、きっと結んでいた。
「先生には、カールという人間がおわかりにならないから、そんなことをおっしゃるんですわ」と、女はいった。「現在の結婚が立派なものではないということになれば、前の結婚を解消してから、カールと再婚することなんか、とうていできませんわ」
「秘密離婚のチャンスがあってもですか?」と、メイスンがたずねた。
「それもだめですわ」
しばらく沈黙がつづいた。
「しかし、あなたは、わたしを信頼しているのでしょう?」と、弁護士がたずねた。
女は、うなずいた。
「では、ひとつだけ約束してくれませんか」と、メイスンは、相手にいった。
「なにをですの?」
「あすの朝、なにより先きに、わたしの事務所を訪ねるということをです。今夜は、熟睡するんですね。あすになったら、気持ちが変わっているかもしれないから」
「でも」と、女はいった。「先生にはおわかりになりませんわ。とても、先生には……」決意の色が、顔にあらわれていた。と同時に、妥協のひらめきが目に浮かんだ。
「いいですわ」と、女はいった。「お約束しますわ」
「ところで」と、メイスンは相手にいった。「事務所まで、あなたの車で送ってくれますか」
「いいえ」と、女はいった。「それができませんの。急いで、主人のところへ帰らなくちゃいけません。待っていると思うんですの。先生がグレゴリイに会いにおいでになったと聞いて、ただもう夢中で、なにがはじまるかと気が気ではなかったもんですから。先生にお会いできるかと思って、後さき考えずに飛び出して来てしまったんです。これで、帰らしていただきますわ」
メイスンはうなずいて、ローダの車から外に出た。メイスンが乗ってきたタクシーの運転手は、長年の商売がらから、男が女といっしょの車に乗りこんだからといって、そのまま行ってしまうとは限らないと知っていた。それで、町まで帰る料金を稼《かせ》ぐつもりで、辛抱強く、道端にとまって待っていた。
ペリイ・メイスンは、そのタクシーのドアをあけながら、いった。
「あすの朝、九時ですね?」と、メイスンがたずねた。
「九時三十分にしていただきますわ」と、女は、遠まわしにいった。
メイスンは、よろしいというようにうなずいてから、元気づけるように、女に笑顔を見せながら、
「あすになれば」といった。「話しづらいなんてことがなくなりますよ。いまだって、たっぷり話してくれたんだから、後を話すことなんか、なんでもないことですよ。わたしにだって、見当がつくかもしれない」
女の目は、憂いを含んで、メイスンの顔を見ていたが、やがて、しっかり見開いて、
「それでは、九時三十分に」といって、笑った。気短かそうな、神経質な笑いだった。
メイスンは、車のドアをしめた。女は、ギアを入れ、車はスピードを増した。
メイスンは、タクシーの運転手にうなずいて、
「さあ、相棒」といった。「けっきょく、きみに送ってもらうことになったな」
運転手は、にやりと笑いかけたが、急いで前を向いて、笑いを隠して、
「まあ、それもいいでしょう、旦那」といった。
第六章
ペリイ・メイスンは、自分の自動車を預けたガレージを出て、事務所まで通りを歩き出した。街角で新聞売子が、脇の下に新聞をいっぱい抱えこんで、一枚抜き出しては二つに折って、叫んでいる。
「大事件だよ、大事件だよ!」と、かなきり声で、売子は叫んでいた。「女が男を叩き殺した大事件だよ! 大事件だよ」
メイスンは、すぐに一枚を買って、歩きながら開くと、ちらっと目を走らせた。一面のトップの、大きな見出しが目にとびこんできた。
深夜の来訪者、詐欺師を殺す
殴り殺した犯人は、女か?
メイスンは新聞をたたんで、すぐそばの高層ビルの入り口へ、吸いこまれるように集まって来る通勤者の流れの中へはいった。満員のエレベーターに乗りこむと、見知らぬ男が、メイスンの腕をつついて、
「お早うございます、先生」といった。「その新聞をお読みでしたか?」
ペリイ・メイスンは、首を横に振って、
「犯罪ニュースは、たまにしか読まないんでしてね。直接に、飽きるほど見ていますからね」
「この間の公判では、相変わらず頭のいいところをお見せになりましたな、先生」
メイスンは、機械的に、愛想笑いを浮かべた。それで、相手の男は、堰《せき》を切ったようにしゃべり出した。世間によく知られた名士ともなれば、誰しもこういう饒舌《じょうぜつ》に悩まされるものだ。相手は、べつに特別な考えを伝えようという肚からしゃべっているわけではない。後日、友人たちに会ったとき、なにげない話の間に、「この間、おれは、有名な弁護士のペリイ・メイスンと話し合った時に、ちょっと、氏に参考意見を述べたんだが──」などといって、得意の鼻をうごめかしてみたいだけなのだ。
「ご親切にどうも」と、エレベーターが、事務所のある階にとまると、メイスンは小声でいった。
「わたしがこの事件を扱うんでしたら、先生、こうしますね、まず最初に、わたしはですね──」相手は、まだしゃべっていた。
メイスンとしては、いつか、自分がこんな会話などすっかり忘れてしまったころになって、この男が、陪審員として法廷にあらわれないとは言いきれないということを、よく知っていた。だから、あまり素《そ》っ気《け》ない態度をとるわけにもいかないのだ。それで、エレベーターのドアがぴしゃんとしまって、この男の参考意見なるものを断ち切るまで、心から傾聴しているように笑顔を浮かべていた。が、廊下を足早に歩いて、ドアをあけて事務所にとびこむと、はじめて、ほっと救われたような色が、その顔にいっぱいになった。
デラ・ストリートは、心配そうに陰気な目つきをしていた。
「それ、ごらんになりましたか?」と、デラがたずねた。
メイスンは、なに、と問うように、眉をあげて、デラの顔を見た。
デラは、メイスンの脇の下の新聞を指さした。
「見出しだけね」と、メイスンがデラにこたえた。「詐欺師がやられたっていうが、誰か知ってる男かい?」
デラ・ストリートは、なんともいわなかったが、その顔つきは、言葉よりも雄弁だった。
ペリイ・メイスンは、奥の自分の事務室にはいり、デスクの上に新聞をひろげて、記事を読みにかかった。
今早朝、ノーウォーク・アベニュー三○八番地、ベレイア・アパートメントの居住者からの急報によって、ノーウォーク・アベニュー三一六番地、コールモント・アパートメントに急行した警官は、同アパートメント居住者、グレゴリイ・モクスレイ(三十六歳)が、頭部に重傷を負って倒れているのを発見した。加害者は、身許不詳の女の模様。
警察が電話の通報を受けたのは、午前二時二十七分。無線の急報を接受した、パトカー六十二号(警官ハリー・エクスターおよびボブ・ミルトン)がコールモント・アパートメントに急行、階上のAフラットのドアをこじあけてはいってみたところ、グレゴリイ・モクスレイが、昏睡状態で倒れていた。寝台は、使用した形跡はあるが、被害者は、寝巻きには着替えていなくて、きちんと服装を整えていた。床上に、うつ伏せに倒れ、両手は絨毯《じゅうたん》をつかんでいた。傍らに鉄の火掻《ひか》き棒が転がり、血に染まっているところを見れば、すくなくも、これで猛烈な一撃を加えられたことは明瞭で、頭蓋骨《ずがいこつ》は粉砕されていた。
パトカーからの急報により、ただちに救急車は、被害者を病院に運んだが、モクスレイ氏は意識不明のまま、途中で死亡した。
警察本部の調査の結果、被害者はグレゴリイ・ケアリー、別名グレゴリイ・ロートンという有名な詐欺師と判明した。その手口は、勤労婦人を色仕掛けで誘惑し、その貯金をまきあげるにあった。十人並みで魅力的ではあっても、かならずしも美人とはいえぬあたりが被害の対象となった。もちろん、偽名でいい寄るのであるが、その物やわらかな態度、明朗な人柄、仕立てのよい服装、巧みな弁舌等で、被害者の婦人たちはやすやすとこの詐欺師の餌食となり、その多くは、『投資』という名目で、金を詐取されていた。
この結婚詐欺師は、必要とあれば、数多くの偽名の一つを使って、正式に結婚するのも躊躇しなかった。警察の調査によれば、彼は、無数の女性と結婚をしたものと推定されているが、多くの女性は悪辣《あくらつ》なその手口に泣きながら、モクスレイが失踪した後も、一人として被害を訴え出た者はない由である。
ベレイア・アパートメント二六九号室居住の、ガソリンスタンド・チェイン経営者ベンジャミン・クランドール夫妻の証言によれば、加害者は女だという推定である。証人の部屋から被害者の部屋までは、その間隔は、直線距離で僅か二十フィートにすぎず、しかも蒸し暑かった昨夜のことで、双方とも部屋の窓はあけはなしてあった。
時間は判然とはしないが、その夜、クランドール夫妻は、執拗《しつよう》に鳴り響く電話のベルに目をさまされた。電話口に出たモクスレイが、しきりに相手に向かって『もうすこし待ってくれ』と懇願しているのが聞こえた。
その電話の正確な時刻は、クランドール氏も夫人も確認できぬが、十一時五十分まで夫妻が起きていたことからして、真夜中の十二時をすぎていたことは確実だとされる。そして、二時前であったことも、モクスレイが電話の相手に、『ローダ』という女性が、二時に訪問する約束になっていると述べているところからも推定できる。電話の会話の内容は、モクスレイが相手方から借財の返済を請求されており、二時に、その金額を持参する女性があるので、それまで猶予《ゆうよ》してほしいというにあったようである。
クランドール夫妻は、いずれもその女性の名として、『ローダ』という言葉を耳にしたといっている。クランドール氏は、その姓も聞いているが、外国人らしい名で、語尾が『エイン』または『エーン』でおわっていたが、初めの部分は、ひどく早口で、聞きとれなかったと述べている。以上の電話につづいて、クランドール夫妻は、なんだか騒ぎが持ち上がってうるさくて堪らないし、いつまでも話し声がするので、窓をしめたと述べている。しかし、窓をしめても、騒がしい話し声は、いっこうにやみそうにもなかった。そのときの様子を、クランドール氏は、次のように、警察に証言している。「わたしが、うとうとと、もう半分眠りかけていますと、モクスレイ氏の部屋から話し声が聞こえてきました。そのうちに、なんだか言い合うらしい男の声が聞こえました。と、こんどは、なぐりつけるような音がして、つづいて、なにかが、争って倒れる響きがしました。その騒ぎの間、それにまた、そのなぐりつけたその瞬間にも、モクスレイのアパートの玄関のベルは鳴りつづけていました。誰かが玄関のドアをあけてくれと、モクスレイを起こしている様子でした。そのうちに、またうとうととしかけていると、こんどは家内に起こされました。家内は、なんだか隣りの様子がおかしいから、警察に知らせろといってきかないのでした。それで窓際へ行って、モクスレイさんのアパートをのぞいて見ました。向こうの部屋には、電灯が煌々《こうこう》とついているので、よく中が見えました。いや、それだけじゃない、壁の鏡に室内の様子がはっきりうつっていて、人間の足が見えるんです。確かに誰か床に倒れているとしか思えないんです。それで、わたしは電話器のところへとんで行って、警察へ知らせたのです。時間は、だいたいのところ、二時二十五分すぎでした」
つぎにクランドール夫人の語るところによれば、夫人は、モクスレイのアパートで電話がけたたましく鳴る音に目をさまされてからは、眠らずにずっと目をさましていたのだという。ローダという女のことを、電話で話しているのを聞いた。そのまますっかり目もさめず、かといって、眠りにも落ちず『うとうと』していると、またもモクスレイのアパートから、低い話し声が聞こえてきた。女の声で、どちらかというと、若い女と思われる声が、早口にしゃべっていたと思うと、怒ったようなモクスレイの声が聞こえ、つづいて、人をなぐりつけるような音がはっきりと聞こえ、どすんとなにかが床に倒れた。とそのまま、しんと静かになった。もう一つ、夢うつつで聞いたのは、モクスレイの家の玄関のベルの音だった。前述の、人をぶん殴る音のしたすぐ前ごろから、じりじりとベルが鳴りつづけた。誰かが親指をボタンに押しつけて、長い間、じりじりと鳴らしつづけているようだった。ベルの音は、ちょっとやんでは、また鳴りつづけたという。夫人の話では、このベルは、人を殴りつける音がしてから、しばらくの間、鳴りつづけたということである。それから、小声で話をするらしい声が聞こえたところからみて、このベルを押した人は、どうやらドアがあかないと思ったらしく、静かにドアをしめる音がして、こんどは、物音一つしなくなった。それから十五分か二十分ほど、眠りにつこうとして、夫人は横になっていたが、どうしても、これは警察に知らしておいたほうがいいと感じて、夫を起こして、調べてごらんなさいといってみたというのだった。
捜査当局は、加害者の身もとについて、強力な手掛りを握っている。上述の通り、犯行の当時、婦人がモクスレイのアパートにいたことは疑いないことであるが、その婦人が、死の原因となった打撃を加えたか、あるいは、単に現場に居あわせただけであるかは明瞭ではない。が、その女は、現場に、皮製の鍵入れを遺留して行った。なかには、南京錠用の鍵が一個、自動車の扉用の鍵二個がはいっており、前者の南京錠は、自家用車庫の扉用のものであり、後者の自動車用の二個の鍵は、一個はシボレー、他の一個はプリマス用のものというのが、警察の推定である。この遺留品によっても明らかなように、この婦人が二台の白家用車を所有しているところから見て、警察当局では、問題の人物は既婚の婦人で、その夫と共に二台の自動車を所有する者という推定を強くしている。問題の鍵の写真は、本紙第三面に掲載してある。
凶器に指紋の見あたらぬところから、犯行は、手袋をはめた手によってなされたものと考えられる。凶器はもちろん、ドアの把手にも指紋がぜんぜん検出されないため、いささか、当局では、容疑者に対するきめ手に困惑を感じているようである。しかし、当局では、この事件においては、指紋の有無のごときは二次的な問題であって、現場に遺留された南京錠の鍵によって、疑問の訪問者を確認しうるとしているようである。
モクスレイなる者の身もとは、警察の記録によれば、本名グレゴリイ・ケアリー、一九二九年九月十五日、四年の懲役刑に処せられて、サン・クエンティン刑務所に服役……(第二面第一段につづく)。
ペリイ・メイスンが、第二面をめくろうとしかけたとき、デラ・ストリートが、申しわけだけのノックをして、そっとその事務室にすべりこんで来た。
ペリイ・メイスンは、額に八の字を寄せながら、目をあげた。
「あの人のご主人がみえました」と、デラがいった。
「モンテイン氏かい?」と、ペリイ・メイスンが問い返した。
デラは、うなずいた。
ペリイ・メイスンは、目を半ばとじて、考えこんだ。
「どういう用件か、聞いたかい、デラ?」
「いいえ、なんにもおっしゃらないんです。お目にかかって申しあげたいって、生死にかかわる問題だって、そうおっしゃってるんです」
「きのう、細君が、この事務所に来たかどうか、聞かなかったかい?」
「いいえ」
「どんな様子だい?」
「神経質らしく、いらいらしてるようですわ」と、デラ・ストリートはいった。「幽霊かと思うほど、まっ青な顔色で、目の下に隈《くま》ができてるの。|ひげ《ヽヽ》も、けさは、あたってないし、カラーだって、汗をかいていらしたのかしら、くしゃくしゃよ」
「どんな男だね、デラ?」
「小柄で、ひ弱そうな体つきですわ。着ている物は上等なんですけど、着方がなってないの。口もとも弱々しくって、奥さんより一つか二つ、年下じゃないかって気がしますわ。ふだん気むずかし屋のくせに、相手に強く出られると、すぐにぺしゃんとなる。自信もない代わりに、人も信じ切れないってタイプね」
ペリイ・メイスンは、にっこりして、
「デラ」といった。「こんど、陪審員を選ぶときは、きみに立ち会ってもらうよ。観察眼という点では、きみには狂いがないらしいね」
「先生、あの人をご存じなんですのね?」と、デラがたずねた。
「まあね」と、弁護士は相づちを打った。「ところで、この新聞の記事を読みおわるまで、待たしておくことができそうかい?」
デラは、即座に、首を振って、
「だめ。ですから、この部屋へはいって来ましたの。おそろしくじりじりしていますわ。これ以上、待たしたりなんかしたら、すぐに出て行くんじゃないかしら」
メイスンは、しぶしぶ新聞をたたんで、デスクの引き出しにほうりこんで、
「通してくれたまえ」といった。
デラ・ストリートは、ドアをあけて、
「モンテインさん、先生がお会いになります」
中背よりも心持ち小柄な男が、事務室へはいって来た。せかせかと、落ちつきのない足どりで、ペリイ・メイスンのデスクのすぐそばまで歩み寄り、デラ・ストリートがドアをしめるのを待っていた。しめおわったのを見ると、子供が詩を暗誦させられるときのように、ぺらぺらと早口でしゃべり出した。
「ぼくは、カール・W・モンテインです。シカゴの大財産家、C・フィリップ・モンテインの伜《せがれ》です。父のことは、たぶん、お聞きだと思いますが」
弁護士は、うなずいた。
「けさの新聞は、もうお読みでしょうね?」と、モンテインはたずねた。
「見出しを見たばかりです」と、メイスンはいった。「すっかり新聞を読むひまがなかったものですから。まあ、お掛けになりませんか」
モンテインは、大きな革張椅子のところまで進んで、ぐっと身を乗り出すように、その端に尻をのせた。もじゃもじゃの髪の毛が、額に垂れさがるのを、いらいらした手つきで掻《か》きあげながら、
「殺人事件のことは、お読みになりましたか?」
ペリイ・メイスンは、漠然とした記憶を呼び起こそうとでもするかのように、眉を寄せながら、
「ああ、見出しだけは見ました。なぜですか」
モンテインは、いまにも床にすべり落ちそうになるほど、椅子の端近く乗り出して、
「わたしの家内が」と、モンテインはいった。「あの殺人事件で告発されそうなんです」
「やはり、奥さんがなさったんですか?」
「いいえ、ちがいます」
メイスンは、黙ったまま、相手の肚をさぐるように、じっと若者を見つめていた。
「家内が、そんなこと、やるはずがないじゃありませんか」と、はげしい語調で、モンテインがいった。「そんなことのできる女じゃありませんよ。ただ、なんかの具合で、まきこまれてしまったのです。誰がしたのか、妻は知っているんです。知らないとしても、うすうすは感づいているようです。ぼくのみたところでは、確かに知っているんだと思うんですが、その男を庇《かば》っているんです。ずっと、その男の手先きに使われていたらしいんです。いまのうちに、ぼくたちが救ってやることができなかったら、そいつのために動きのとれない立場に追いこまれてしまって、助けられなくなってしまうでしょう。
いまのところは、妻は、その男を庇おうとしています。男は、妻の陰にかくれて、うまくそれを利用しているんです。妻は、その男を助けようとして嘘をつこうとするんですが、そんなことをしているうちに、だんだん深みへ深みへと引きずりこまれてしまうんです。お願いですから、どうか妻を助けてやってください」
「殺人は」と、メイスンは、注意を促すようにいった。「けさ、二時ごろに行なわれたのでしたね。そのころ、奥さんはご在宅じゃなかったのですか?」
「ええ、いませんでした」
「どうして、ご存じなんです?」
「長い話なんですが、はじめから話さしていただきたいんです」
メイスンの口調は、きっぱりすぎるくらい、断乎《だんこ》としたものだった。
「では、最初からはじめてください」と、メイスンは、命令するような口振りでいった。「まず、椅子にぐっと掛けて、楽になさい。そもそものはじめから、残らず話してください」
モンテインは、革張椅子に奥深く腰を入れると、手を額にやって、例の早い神経質な手つきで、髪をかきあげた。その目は、赤味を帯びた茶色だった。じっと、その目をペリイ・メイスンにつけた様子は、脚に怪我《けが》をした犬が獣医に、じっと目を向けているときとそっくりだった。
「さあ、はじめて」と、メイスンはいった。
「ぼくは、カール・モンテインといって、シカゴの百万長者、C・フィリップ・モンテインの息子です」
「それはもう伺いました」と、弁護士がいった。
「大学を出ますと」と、モンテインはつづけた。「父は、ぼくを実業につかせようとしました。ぼくは、世間が知りたかったので、旅行に出ました。一年ほど旅行をして、やがて、この土地にやって来て、ひどい病気をしました。悪性の盲腸炎でして、すぐに手術が必要でした。当時、父は、会社の金融上の問題にすっかりまきこまれていました。なん千ドルという金額の問題で、どうしても、こちらへ出て来られなかったのです。それで、ぼくは一人で、サニーサイド病院へ入院しました。そして、金でえられる限りの最善の手当を受けました。金は、もちろん、父が面倒《めんどう》を見てくれました。特別の看護婦を、昼と夜とそれぞれ頼みました。その夜間を受け持ってくれた看護婦が、ロートン──ローダ・ロートンだったのです」
その名前をいえば、当然ペリイ・メイスンに、ある意味をもたらすにちがいないというように、モンテインは、印象強く、言葉を切った。
「それから」と、弁護士は、先を促した。
モンテインは、革張椅子の腕にひじをあて、また、ぐっと身を乗り出すようにして、
「ぼくは、ローダと結婚しました」と、青年は、だしぬけにいった。
そのモンテインの様子は、なにか犯罪を告白する人間のようだった。
「なるほど」というメイスンの口振りは、回復期の患者が、看護婦と結婚するのは、ごくありきたりの経過だといわんばかりのような口調だった。
「ぼくたちの結婚が、どんなに父を驚かせたかは、先生にもご想像がつきますでしょう」と、モンテインはいった。「ぼくは、ひとり息子で、モンテイン家の血筋は、ぼくだけによって伝わるんです。そのぼくが、看護婦ふぜいと結婚したんです」
「看護婦と結婚しちゃ、どこがいけないんですか?」と、弁護士がたずねた。
「どっこもいけないことはありませんよ。おわかりになりませんかね。ぼくは、この問題を、父の立場から説明しようとしているんですが」
「なぜ、お父さんの立場を、そんなに気にするんです?」
「重要なことだからですよ」
「よろしい。それではそういうことにしておきましょう。それで」
「青天の霹靂《へきれき》のように、父は、入院のときに雇った看護婦のローダ・ロートンと結婚したという電報を、ぼくから受けとりました」
「その前に、奥さんと結婚するつもりだということは知らせなかったのですね?」
「知らせませんでした。自分でも、結婚しようなどと思わなかったほどなんです。それほど衝動的だったのです」
「なぜ、婚約期間をおいて、お父さんにも知らせておかなかったのです?」
「きっと反対するにちがいないと思ったからなんです。たいへんな問題を起こすにちがいないからなんです。ぼくは、世の中のどんな物を望む以上に、ローダと結婚したかったんです。ぼくには、ぼくの考えを父に知らせたら、決して結婚できないということがよくわかっていたんです。父はきっと仕送りをとめて、万事を放擲《ほうてき》して帰って来いというにきまっているんです」
「それで」と、メイスンがいった。
「それで、ぼくは、ローダと結婚してから、父に電報で知らせました。ところが心配したほどのこともなく、父は、非常によくわかってくれました。申し上げた事業上の重大な取り引きに忙殺されていて、シカゴを離れることができなかったのでしょう。ぼくたちのほうから、シカゴヘやって来るようにといって来ました。ところが、ローダは、すぐに出掛けるのはいやだというのです。しばらく出掛けるのを待ってくれというのです」
「それで、きみは、シカゴヘ行かなかったのですね?」
「ええ、行きませんでした」
「それが、お父さんには気に入らなかったんですね?」
「気に入るとは思えませんね」
「ときに、きみは、殺人事件のことを、わたしに話したいということでしたね」と、メイスンが話を要点へ持って行った。
「この事務所に、けさの新聞はないのですか?」
メイスンは、デスクの引き出しをあけて、カール・モンテインを、デラ・ストリートが案内して来たときに読んでいた新聞をとり出した。
「第三頁をおあけになってください、どうぞ」と、モンテインがいった。
メイスンは、第三頁を拡げた。実物大の鍵の写真が、紙面のまん中を占めていた。その下には、『犯人が、この鍵を落としたのか?』という、大きな活字が出ていた。
モンテインは、ポケットから皮の鍵入れをとり出し、一つの鍵をはずして、ペリイ・メイスンに渡して、
「くらべてみてください」といった。
メイスンは、その鍵を写真の上にのせて見てから、新開紙の裏面において、その型を鉛筆でとり、ゆっくりとうなずいた。
「どういうわけなんですか」と、メイスンが問いかけた。「きみが、この鍵を持っているというのは? とうに警察が押収していると、わたしは思っていましたがね」
モンテインは、首を左右に振って、いった。「この鍵じゃないんです。これは、ぼくの鍵なんです。写真のは、妻の鍵なんです。車庫のも、二台の自動車のも、ぼくたちは、めいめい合鍵を持っているんです。妻が落としたのは……」と、モンテインの声が、しだいに消えて、沈黙してしまった。
モンテインは、皮の鍵入れをあけて、デスクの上にひろげ、鍵を指しながら、
「シボレーのクーペと、プリマスのセダンとの鍵です。妻は、いつもシボレーに乗り、ぼくは、プリマスのセダンに乗っているのです。しかし、ときどき、取り替えることもあるんです。それで、面倒のないように、めいめい、車のドアの鍵を持っているんです。もっともイグニション・キイは、差しこんだままにしています」
「きみは、奥さんと話し合ってから、ここへ来られたんですね? わたしに相談なさることは、奥さんもご承知なんですね?」
「いいえ」
「なぜです?」
「わかっていただけるようには、ちょっと説明しにくいと思うんです」
「説明してみなくては、わかるかどうか、わたしにもわかりませんね」
「最初から、残らずお話しなけりゃいけないと思うんです」
「わたしはまた、あなたがそうしているとばかり思っていましたがね」
「そうするつもりではいたんです」
「よろしい。じゃ、つづけてください」
「家内は、ぼくに一服飲ませようとしたんです」
「なにをしたんですって?」
「麻薬を飲ませようとしたんです」
「ちょっと待って」と、メイスンが、相手をとめて、いった。「奥さんは、いま、どこにいらっしゃるんです?」
「家におります」
「きみが、その事実を知っていることを、奥さんもご存じなんでしょうか?」
モンテインは、首を左右に振った。
「よろしい。お話を伺いましょう」と、メイスンは、気短かそうに、促がした。
「話は、ぼくが退院した直後からはじまるんです。正確にいうと、その前からなんですが、ぼくは、非常に神経質になっていて、夜なんかなかなか寝つかれなかったんです。それで、鎮静剤を飲みはじめたのです。習慣性のものだとは思ってもみなかったのですが、気がついたときには、すっかり中毒していたのです。家内はそれを知って、すぐやめなくては危険だというんです。イプラールを手に入れて来て、ぼくに渡して、これなら中毒を治すのに、役だつからというんです」
「イプラールというのは、なんです?」
「催眠剤です。世間では、そういっているんです」
「どんな催眠剤です? 習慣性にならないのですか?」
「これは習慣性にはならないんです。神経衰弱と不眠症にきくのです。二錠飲めば熟睡ができて、朝、目がさめたときにも、麻薬を飲んだときのような、いやな感じはないのです」
「それを、きみは、常用しているのですか?」
「いいえ、むろん常用してはいません。ぼくがそれを飲んだのは、ちゃんとした理由があって飲んだので、神経症から不眠の発作が起きたとき、神経を鎮めるために飲むんです」
「きみのさきほどの話だと、奥さんが、きみにそれを飲ませようとしたというのですね?」
「ええ。ゆうべ、ぼくが寝ようとしていますと、妻が、暖かいチョコレートを飲まないかというんです。飲んだほうがいいと思うんだがと、そういうんです。ぼくも、そいつはいいだろうと思ったのです。ぼくは、よろこんで、寝室で服をぬいでいたんですが、そのとき、浴室から台所に通じるドアがあいていましてね、浴室の鏡を見ると、台所でチョコレートを作っている妻の様子が見えるんですね。それで、なに気なしに見ていると、妻がハンドバッグの中をかきまわしているじゃありませんか。変だなと思って、そこに立ったまま、鏡にうつった妻の手をもとを見ていたのです。
すると、妻がイプラールの壜を取り出して、なん錠かチョコレートの中へ落としているのが見えるじゃありませんか。なん錠入れたか、はっきりはわかりませんが、ふだんの量よりずっと多かったことだけは確かです」
「鏡にうつっている奥さんの手もとを見ていたのですね?」
「そうです」
「それから、どうしました?」
「それから、そのチョコレートを、ぼくのところへ持って来ました」
「それで、飲み物の中へ、薬を入れたのを見たと、奥さんにおっしゃったんですね?」
「いいえ」
「なぜ、いわなかったんです?」
「なぜかわかりません。とにかく、ぼくは、なぜそんなことをしたのか、その謎を解きたかったんです」
「それで、どうしました?」
「それで、ぼくは、そっと浴室へはいって行って、洗面器へ流しこんでしまいました。それから、コップを水で洗って、代わりに冷い水を入れて、寝室へ持ってはいりました。ぼくたちは、ベッドを並べているんですが、ぼくは、自分のベッドの端に腰をかけて、いかにもチョコレートを飲むように、水を飲みました」
「きみが、チョコレートの代わりに水を飲んでいることに、奥さんは気がつかなかったのですね?」
「ええ。コップの中が妻には見えないようなところに、ぼくがすわっていたからです。ぼくは、いかにもチョコレートを飲むようなふうをして、ゆっくりと、それをすすったというわけです」
「それから、きみは、どうしました?」
「それから、ひどく眠くなったふりをして、横になり、ぐっすり眠ったように、まったく身動き一つしないで、何がはじまるかと待ちうけました」
「それで、何がはじまりました?」
モンテインは、強い印象を与えようとするように、ことさら声を低くして、
「一時三十五分になりますと、妻は、ベッドから滑りおりて、まっくらな中で、物音一つ立てずに身支度をはじめました」
メイスンの目は、強い好奇心を示して、
「それから、どうしました、奥さんは?」
「家を出て行きました」
「それから?」
「それから、ガレージのドアをあけて、車をバックさせる音が聞こえました。それから、車をとめて、ガレージのドアをしめました」
「どんなドアです?」と、メイスンがたずねた。
「引き戸です」
「二台入りのガレージですね?」
「そうです」
「それで」と、メイスンがたずねた。「奥さんが車をとめて、わざわざガレージのドアをしめた理由といえば、自分の車が出ていることを人に知られたくなかったというだけのことですね?」
モンテインは、強くうなずいて、いった。「問題の要点がおわかりになりましたね。おっしゃる通りです!」
「とすると」と、メイスンは言葉をつづけて、「ふだん、誰かがガレージに目をつけていると思う、なにかわけがあるのですね?」
「とんでもない、そんなことはありませんよ、わたしの知っているところじゃ」
「でも、奥さんは、誰かが──たぶん、夜番が、ガレージに目を配っていると考えたにちがいありませんね」
「そんなことはないでしょう。ぼくが窓から首を出して、ドアがあいているのを見つけないようにしたのだと思いますね」
「しかし、きみは、催眠薬で眠っているはずでしょう」
「ええ──なるほど、それはそうですね」
「だから、奥さんが念入りにドアをしめたのは、なにかほかに理由があったにちがいありませんね」
「そういえばそうですね。いままで、そんなふうに考えたことはありませんでしたけど」
メイスンは、考えこみながらたずねた。「ドアは、どんなふうにあくのです?」
「レールが二本、並行についているんです。ドアはどちらも、ガレージの正面いっぱいに動かせるようになっています。ですから、どちらの車も出せるわけなんです。つまり、左側の車を出すときは、ドアを二枚とも右側へ滑らせればいいわけですし、右側の車のときは、ドアを左側へ二枚ともあければいいわけです。その後で、ガレージをしめるときは、一枚のドアは、そのまま左側に残しておいて、一方を右側へもどす、そして、南京錠をかけておくだけでいいのです」
ペリイ・メイスンは、デスクの上の鍵を、指で叩きながら、
「そして、これが、その南京錠の鍵というわけですね?」
「そうです」
メイスンは、新聞の写真を指して、
「そして、これが、奥さんの鍵だというのですね?」
「ええ」
「どうして、奥さんの鍵だということが、きみにわかるんです?」
「というのは、鍵が三つしかないからなんです。一つは、ぼくの机の引き出しに入れてあるので、一つは、ぼくの鍵入れに、もう一つは、妻の鍵入れに、それぞれつけてあるのです」
「それで、三番目の鍵が紛失していないかどうか、机の引き出しを調べて確かめて見たんですね?」
「見ました」
「よろしい、話をつづけてください。ガレージのドアをしめてから、奥さんはどうしました?」
「いまお話したように、車をバックさせてから、ガレージのドアをしめました」
「奥さんは」と、ペリイ・メイスンはたずねた。「ガレージのドアに鍵をかけたようでしたか?」
「ええ──いいえ、かけなかったんでしょうね──かけなかったと思います」
「そこがかんじんなところですよ」と、メイスンは、ゆっくりと言葉に力を籠《こ》めて、いった。「奥さんが、外出先きで鍵を落としたとすると、もどって来たとき、ガレージのドアがあけられなかったはずですね。奥さんは、いま、家にいるという、きみの話だから、奥さんはもどって来たわけですね」
「その通りです。ガレージのドアに鍵をかけなかったはずです」
「で、奥さんが出て行ってから、どうしました?」
「ぼくは、服を着ようとしました」と、モンテインはいった。「後をつけようとしたんです。どこへ行くか、それが知りたいと思ったのです。で、ローダが部屋を出るとすぐ、ぼくは、服を着かけたんですが、間に合わなかったんです。靴をはきおわらぬうちに、車が出て行ってしまいました」
「なんとかして、後をつけようとはしなかったのですか?」
「ええ」
「どうして、しなかったのです?」
「とても追いつけないとわかっていたからです」
「それで、奥さんが帰って来るまで、ぼんやりと待っていたんですね?」
「いいえ、またベッドにもどりました」
「で、なん時ごろに、奥さんはもどって来ましたか?」
「二時半すぎ、三時前というところでした」
「そのとき、奥さんは、ガレージのドアをあけましたか?」
「ええ、ドアをあけて、車を入れていました」
「それから、しめたんですね?」
「しめようとしていました」
「しかし、しめなかったというんですね?」
「ええ」
「なぜです?」
「ええ、ときどきあるんですが、ドアを乱暴にあけると、ドアの裏側の板が、ガレージにはいっているほうの車の緩衝器《バンパー》に引っかかって、ドアが動かなくなることがあるんです。そうなると、ドアをはずして、バンパーから離すよりほかに手がないんです」
「そのときも、ドアが引っかかったんですね?」
「ええ」
「なぜ、奥さんは、ドアをはずさなかったんです?」
「力がないからです」
「それで、ガレージのドアを、奥さんは、あけはなしたままにしておいたというわけですね?」
「そうです」
「どうして、そういうことがみんな、きみにはわかったんです? ベッドに横になっていたんでしょう?」
「でも、ドアを力いっぱい引っぱる音が聞こえたんです。それに、けさ、見に行ってみて、すっかり様子がわかったんです」
「なるほど、それで」
「ぼくは、ベッドに横になって、眠っているふりをしていました」
「奥さんが帰って来られたときのことですね?」
「ええ」
「なぜ、奥さんが部屋へはいって来たときに、いったい、どこへ行って来たのかと、きみはたずねなかったのです?」
「さあ、よくわからないんです。いわれるのが、こわかったのでしょうね」
「なにをいわれるのが、こわかったのです?」
「ひょっとして、なにかいい出しはしないかと──なにか──」
ペリイ・メイスンは、相手の赤味を帯びた茶色の目を、じっと見つめながら、
「この際」と、ゆっくりと、メイスンはいった。「はっきりと聞かしていただくほうがいいですね」
モンテインは、深く息を吸って、
「先生だって」といった。「奥さんが、夜中の一時半に外出なすったとしたら──」
「わたしは、まだ独身ですからね」と、ペリイ・メイスンがいった。「だから、わたしのことはすてておいて、事実を聞かしていただきましょう」
モンテインは、椅子の端で、体をもじもじさせていたが、五本の指をひろげて、髪を掻きあげて、
「家内は」といった。「人なみはずれて秘密主義で、身辺に、奇怪な陰を持っているんです。それというのも、長い間、女の身で誰にも頼らずに、独立してやって来た習慣から、そういう感じが身についたのだと思うんです。とにかく、自分から進んで、自分の考えなり、自分のすることなりを説明するといったタイプじゃないんです」
「それだけでは、なんのことだか、さっぱりわかりませんね」
「妻は」と、モンテインはいった。「つまり、妻は、ほんとうは──ぼくがいおうとしているのは──そうです、ある医者と、ひどく親しくしているんです──サニーサイド病院で、外科の手術をよくやっている医師なんですが」
「名前は?」
「ドクター・ミルサップ──クロード・ミルサップ医師です」
「それで、そのミルサップ医師に、奥さんが会いに行ったと、きみは思っていたというんですね?」
モンテインは、うなずきかけて、首を横に振ったが、また思い返したらしく、うなずいて見せた。
「それで、きみは、自分の疑惑が事実となるのをおそれて、奥さんに問いたださなかったというんですね?」
「そのとき、たずねるのがこわかったというのが、ほんとうのところです」
「それから、どうしました?」
「それから、けさになって、変事があったにちがいないと思いました」
「変事があったにちがいないと思ったのは、いつですか?」
「新聞を見たときです」
「いつ、新聞を見たのです?」
「一時間ほど前のことです」
「どこで?」
「終夜営業の小さなレストランででした。朝食を食べに寄ったのです」
「その前には、朝食をとらなかったのですね?」
「ええ、けさは早く起きました。なん時だったかわかりませんでしたけど、コーヒーをいれて、三杯か四杯飲みました。それから、出かけて、長い間、散歩をしてから、帰り道にレストランに寄りました。そこで、新聞を見たのです」
「きみが出かけるのを、奥さんは知っていましたか?」
「ええ、ぼくがコーヒーをいれているとき、家内は起きました」
「なんかいいましたか、奥さんは?」
「よく眠れたかとたずねました」
「なんと答えました?」
「夜通し、物音一つ聞かなかったほど、ぐっすり眠ったって、寝返りさえ打たないほど熟睡したって、そういいました」
「奥さんは、なんかいいましたか?」
「ええ、わたしもとてもよく眠れたと、いっていました。きっとチョコレートを飲んだから、そんなによく眠れたんだろうって。横になったと思って、頭を枕につけるなり、けさ、目がさめるまで、なんにも知らなかったと、そういっていました」
「それで、実際は、よく熟睡なすったようですか──もどって来てから?」と、メイスンがたずねた。
「いいえ。眠れなかったようです。なにか飲んでいました、催眠薬だと思うんですが。家内は、ご存じのように、看護婦ですからね。浴室で、動きまわったり、薬箱らしい物をあけている音が聞こえました。それでも、よく眠れなかったようで、しきりに寝返りを打ったりしていました」
「けさは、奥さんは、どんな様子でした?」
「まったくお化けのような顔をしていました」
「でも、よく眠れたと、きみにおっしゃったんでしょう?」
「ええ」
「それで、きみは、なんにもたずねなかったんですね?」
「聞きませんでした」
「どんな口もきかなかったんですか?」
「ききませんでした」
「そして、起きるなり、コーヒーをいれたんですね?」
モンテインは、目を伏せて、
「いいえ。こんなことをいうと、よくないことだとお思いになるかもしれません」と、モンテインはいった。「が、こんなことは、この世の中では、ごくありふれたことだと思うんです。というのは、ぼくは起きるなり、むろん、そこらをさがしまわって、化粧室のテーブルの上に置いたままになっていた、妻のハンドバッグを調べました。妻は、そのときは、静かに眠っていました、薬を飲んでいましたからね。それで、ぼくは、ハンドバッグをあけて、中をあらためました」
「なぜ、そんなことをしたのです?」
「なにか、手がかりが見つかるかもしれないと思ったからです」
「なんの手がかりです?」
「行っていた先きのです」
「しかし、きみは、聞くのがこわいから、聞かなかったんじゃないんですか」と、メイスンがたずねた。
「あのときまでは」と、モンテインは、吐き出すようにいった。「ぼくの心は、正直にいって、ひどい状態でした。夜通し、物音一つしないなかで悩まされていた苦悩が、どんなにひどい、どんなにつらいものだったか、先生にはおわかりになりゃしませんよ。それに、催眠剤を飲んだふりをしていなけりゃならなかったんです。ベッドの中で、寝返りを打つこともできなけりゃ、身動き一つしないで、寝たときの姿勢のままで横になっていなけりゃならなかったんですからね。口ではいえない苦痛でした。時計が打つのも残らず知っていましたし、それに──」
「ハンドバッグのなかで、なにか見つけましたか?」と、メイスンはたずねた。
「イースト・ペルトン・アベニュー一二八番地、R・モンテインあての電報が見つかりました。発信人の名前は、グレゴリイというので、『サイゴノヘンジ、ギリギリ、キョウ五ジマデマツ』という電文でした」
「その電報を、きみは、とらなかったんですか?」
「ええ、ハンドバッグヘ返しておきました。でも、まだ、ぼくの話は、すっかりしていないのですけど」
「じゃ、すっかり聞かしていただきましょう。どんどんいってください。すこしずつ、きみから聞き出していくのは、ありがたくありませんからね」
「電報には、住所と氏名とが鉛筆で書いてありました。それが、ノーウォーク・アベニュー三一六番地、グレゴリイ・モクスレイというのでした」
「殺された男の、住所氏名ですね」と、メイスンは、考えながらいった。
モンテインは、黙ったまま、二つ三つうなずいた。
「その時」と、メイスンがたずねた。「ハンドバッグに、鍵がはいっていたかどうか、気がつきませんでしたか?」
「いいえ、気がつきませんでした。そうじゃありませんか、そのときは、別に気をつけなければならんようなことは、なにも起こっていなかったんですからね。ぼくは、電報を見つけて、それを読むとすぐ、妻の外出した理由はこれだなと思ったのです」
「ミルサップ医師に会いに行ったのではなかったんですね?」
「いいや。妻が会いに行ったのは、ミルサップだったのだと思います。しかし、そのときは、そう思わなかったのです」
「どうして、ミルサップだと思うんです」
「それを、これからお話しようとしているんです」
「やれやれ。では、早いとこ願いましょう」
「妻が出て行ってから、ぼくは、苦しみました。最後に、ミルサップ医師に電話をかけて、妻と親しくしているのを知っているぞといってやろうと、そう決心したほどです」
「それで、どんな効果があるんです?」
「そんなことは知りません」
「とにかく、ミルサップ医師に電話をしたんですね?」
「ええ」
「なん時ごろに?」
「二時ごろです」
「どうでした?」
「電話のベルが鳴っているのは聞こえました。それから、しばらくして、日本人の召使いが電話口に出ました。ひどく病気が悪いので、いますぐ、ミルサップ先生に来診していただきたい、と、こういったんです」
「名前をいいましたか?」
「いいえ」
「日本人は、なんと返事をしました?」
「先生は、電話がかかって出かけたというんです」
「帰りしだい、先生から電話してくれとかなんとか、頼みましたか?」
「いいえ、そのまま電話を切ってしまいました。誰が電話をしたか、ミルサップに知られたくなかったからです」
メイスンは首を振って、深く息をすった。
「それじゃ、わたしに聞かしていただきたいんですがね」と、メイスンがいった。「いったいなぜ、きみは、奥さんとはっきり話をしなかったのです? なぜ、奥さんがもどって来たとき、ぶつかって、はっきりきかなかったのです? なぜ、催眠剤を入れたチョコレートを、奥さんが、きみに渡したとき、どういうつもりだとたずねなかったのです? なぜ、きみは──?」
青年は、もったい振った様子で開き直って、
「というのは」と、モンテインはいった。「ぼくは、モンテイン家の一員だからです。ぼくたちは、そういうはしたない真似《まね》はしないんです」
「はしたない真似とは?」
「口争いをしないということです。物ごとを処理するには、もっと上品な方法があるはずです」
「なるほど」と、飽き飽きしたように、メイスンはいった。「で、けさになって新聞を見て、それからどうしました?」
「それで、ローダが──妻がしたにちがいないと感じました」
「なにをです?」
「モクスレイに会いに行ったのにちがいないんです。きっと、ミルサップ医師も、その場にいたにちがいありません。喧嘩をして、ミルサップ医師が、モクスレイを殺したのです。妻は、なんかで事件にまきこまれてしまったのです。鍵入れを落として来たので、まもなく、警察は、妻に目をつけるでしょう。妻は妻で、ミルサップ医師を庇おうとするでしょう」
「どうして、そう思うんです?」
「庇うという気がするんです」
「ガレージのドアがあけっぱなしになっていたと、奥さんにいいましたか?」
「ええ」と、モンテインはいった。「台所の窓から、ガレージは一目に見えるんです。ですから、コーヒーをいれながら、ガレージのドアがあいていると、それとなく、妻にいってやりました」
「奥さんは、なんといいました?」
「はじめは、なんにも知らないといい張っていましたが、そのうちに、車の中にハンドバッグを置き忘れたまま、ガレージに鍵をかけてしまったのを『思い出した』というんです。ベッドにはいる前になって、そのことを思い出したので、ハンドバッグをとりに出て行ったのだと、そういっていました」
「鍵を持っていなかったのに、どうして、ガレージにはいれたんでしょう?」
「ぼくも、それをききました」と、モンテインがいった。「そうなんです、妻は、よくハンドバッグを忘れるんです。これまでにも、二、三度忘れたことがあるんです。一度なんか、百ドル以上もはいっているのを、なくしたことがあるほどです。それに、妻は、ハンドバッグに鍵を入れているんでしょう。で、ハンドバッグを車内に置き忘れたのなら、どうやって、ガレージのドアをあけたのかと、そう、ぼくもきいてやりました」
「なんといいました、奥さんは?」
「デスクから、合鍵を持って行ったというんです」
「嘘をついているという顔つきでしたか?」
「いいえ、ぼくの目を真正面から見て、はっきりと答えました」
メイスンは、指先きで、デスクの端を、こつこつと叩きながら、
「それで」と、メイスンがたずねた。「きみは、わたしになにをしてくれとおっしゃるんです?」
「妻の弁護をお願いしたいのです」と、モンテインはいった。「妻がミルサップ医師を庇おうとして、この事件にまきこまれないように、面倒をみてくださるとお約束していただきたいんです。それが第一のお願いで、二番目にお願いしたいのは、父を護っていただきたいということなんです」
「お父さんを?」
「そうです」
「どうして、この事件に、お父さんが関係して来るというんです?」
「もし、ぼくたちの名前が、この殺人事件に関係して世間に伝わったりしたら、父の命取りになると思うんです。ですから、できるだけ、モンテインの名が出ないように骨を折っていただきたいんです。父のことを──なんといったらいいか──そうです、陰に伏せておいていただきたいんです」
「それは」と、メイスンはいった。「なかなかむずかしい注文ですね。ほかに、なにかご希望はありませんか?」
「それから、もし、ミルサップが犯人だということがわかったときには、やつを起訴できるように骨を折っていただきたいと思うんです」
「ミルサップの起訴は、奥さんをまき添えにすることになると思うんですが、それでもですか?」
「その場合は、むろん、ミルサップの起訴も見合わせていただかなければなりませんです」
メイスンは、じっと、カール・モンテインの顔を見つめて、
「ここで好運だと思われるのはですね」と、メイスンは、ひと言ひと言ゆっくりと、語調を強めていった。「ガレージの鍵の件を、まだ、警察では感づいていないらしいということですね。プリマスとシボレーを持っている人のリストは、警察でも簡単に調べあげるでしょう。しかし、かりに、きみの名前がそのリストにのっていて見つかったとしても、きみの家のガレージを調べてみた上で、南京錠がないか、あっても、別の南京錠がついていれば、きみや奥さんを訊問することまではしないかもしれませんね」
モンテインは、また居ずまいを正して、
「でも、警察では」といった。「いずれは知ってしまうでしょうね」
「どうしてそういうことを信じるんです?」と、メイスンがたずねた。
「というのは」と、モンテインがいった。「ぼくが、警察に知らせるからです。これは、国民としてのぼくの義務です。自分の妻だからといって、黙っているわけにはいきません。事実を隠すことはできませんからね。法律と妻とどちらかを取らなければならないとしたら、ぼくはアメリカ国民として、やはり法律に従わなければなりません」
「しかし、奥さんは潔白なんでしょう?」
「むろん、妻には、一点のやましいところはありません」と、モンテインは、どなりつけるようにいった。「それは、さっきからいっているじゃありませんか。それは、あの、ミルサップという男だって、犯人は。素直に事実を辿《たど》っておいでになれば、すぐおわかりになることです。妻が外出した。あの男も外出した。モクスレイが殺された。妻は、あの男を庇おうとする。ところが、あの男は、妻の気持ちを裏切って、警察に密告して──」
「ちょっとお待ちなさい」と、メイスンは、相手の言葉を遮って、「きみは、嫉妬している。それでは、きみは、落ちついた、正しい観察はできない。ミルサップのことは、忘れたほうがいい。早く奥さんのもとへお帰りなさい。そして、奥さんの説明を求めるんです。警察へ知らせるのは、それから後でも結構まに合うんですから、まず──」
モンテインは立ち上がって、ひどく威厳を示すような、ひどく他人を近づけないような姿勢をとった。が、せっかくの態度も、額へ垂れさがったぼさぼさの髪のために、その雄々しさは台なしになっていた。
「ミルサップの狙いは」と、モンテインはいった。「妻に入れ知恵をして、あらゆる嘘を吐かせようとすることです。あらん限りの嘘をつき、いいかげんなことをいって、ぼくを警察へ行かせないようにすると思うんです。が、そんなことをしていて、鍵の一件が警察に発覚した時には、ぼくの立場は、どうなるというんでしょう? いいえ、先生、ぼくの気持ちは、とうにきまっているんです。自分の誠実さだけは保たなければなりません。いくら相手が妻だからといって、確固たる態度をとりたいんです。確固たる態度ではあるが、しかし、思いやりのある態度をね。ミルサップにたいしては、どこまでもやっつけてやるつもりでいます」
「まあまあ、きみ」と、なぐさめるように、メイスンはいった。「つまらん虚勢を張るのはやめて、実際的な話にもどろうじゃありませんか。きみは、自分のことばかり、ひどくいたわりすぎたものだから、ちっとひがみすぎていますよ。そのために、物を見る目は狂うし、その上に、おかしな英雄的な態度をつくりあげてしまって──」
モンテインは、顔をまっ赤にして、相手の言葉を遮った。
「それでいいんです」と、モンテインは、自分自身の正義感に、頭の芯《しん》までおかされてしまった人間のように、強い威厳を含んだ口調でいった。「ぼくは、決心しているんです、先生。これから、警察へ出頭するつもりです。すべての関係者にとって、それが最良の道だと考えます。ミルサップは、妻の心を支配することはできるでしょうが、警察までまるめこむことはできないはずです」
「ミルサップの問題は、それくらいで、あまりきびしく考えないほうがいいんじゃありませんか」と、メイスンは、なだめるようにいった。「あなたの考えるほど、怪しいふしもなさそうじゃありませんか」
「でも、彼は、外出していたのです──兇行が行なわれた時刻に」
「急病人の往診に出かけていたのかもしれませんよ。きみが、どうしても奥さんのことを警察に告げるとおっしゃるのなら、それも一つのやり方かもしれないが、しかしミルサップのことまでいい立てると、とんだ困ったことになりかねませんよ」
「大いにそうですね」と、モンテインもうなずいて、「先生のおっしゃることも、よく考えてみましょう。ですが、さしあたっては、妻のことは弁護していただけますね。請求書は送ってくださいまし。それから、どうぞ、父のことを忘れないようにお願いします。できる限りの方法で、父を護ってくださるようにお願いします」
「一度に、両方のサービスはできかねますね」と、メイスンは、不機嫌そうにいった。「まず最初に、奥さんの事件から処理しましょう。ミルサップがへたな手出しをして来たら、そのときは、叩きつけてやります。しかし、ご尊父のほうまで弁護をする必要があるかどうか、わたしには、はっきりわかりませんな。しかし、奥さんの弁護をするにしても、わたしは、自分でいいと思う、自由な行動をとるつもりですから。それに、ご尊父の場合は、やはり、ご自身でお出で願うことにしましょう。それから、いまおっしゃった『請求書を送れ』ということは、どうも、わたしには、あまり感心しませんね」
モンテインは、ゆっくりといった。「むろん、先生のお気持ちはよくわかります……妻のことが、むろん先決です──ぼくのお願いもそこです」
「ご尊父の件の前にですね?」と、メイスンが念を押すようにたずねた。
モンテインは、目を伏せて、ひどく弱々しくいった。「その必要が起こればということにします」
「いや、そういう必要は起こらないでしょう。お父さんは、事件にはまきこまれはしませんよ。しかし、財布の紐《ひも》は、お父さんが握っておられるんでしょう。働いただけの報酬は、遠慮なしにお父さんに払っていただきますよ」
「払わないでしょう。父は、ローダが大嫌いなんです。謝礼金は、ぼくが、なんとか都合《つごう》します、父は、一文だって払いませんよ」
「いつ、警察に知らせるおつもりです?」と、ふいに話題を変えて、メイスンがたずねた。
「いますぐです」
「電話で?」
「いいえ、自分で出頭するつもりです」
モンテインは、ドアに向かって歩き出したが、急になにかを思い出したらしく、くるりと回われ右をして、メイスンのデスクの前までもどって来て、いきなり手を差し出した。
「先生、鍵を」と、モンテインはいった。「もうちょっとで忘れるところでした」
ペリイ・メイスンは、ため息をついて、デスクから鍵をとりあげると、面倒くさそうにモンテインの手に落とした。
「これからは」と、メイスンがいった。「あまり、動き回らんように願いますよ」
しかし、モンテインは、そんなメイスンの注意などどこ吹く風といわんばかりに、廊下へ出るドアに向かって、足音高く進んで行った。その様子には、自分は正しいことをしているのだといった決然たるものがにじみ出ていた。
第七章
ペリイ・メイスンは、額に八の字を寄せて腕時計を見ながら、その間も、じりじりしたように、親指で玄関のベルのボタンを押しつづけていた。三度ベルを押してから、ドアから離れて、左右の隣家に目をやった。
片方の家で、窓のレースのカーテンが、そっと動くのが、目にはいった。
メイスンは、もう一度ベルを押してから、いよいよ返事がないのを確かめると、カーテンの陰で、物好きな目をちらちらさせているのを見てとった隣家のほうへ、つかつかと足を運んで行った。
玄関のベルを押すと、こんどはそくざに、どすんどすんという足音がして、ドアがあき、ひどく肉感的な中年の女が、ぎらぎらした、好奇心にあふれた目で、メイスンを見つめていた。
「あんた、行商人じゃないんだね?」と、女がたずねた。
メイスンは、黙って、首を左右に振った。
「雑誌の予約取りのアルバイト学生なら、帽子をかぶってないわね」
弁護士は、微笑をひっこめて、しかつめらしい表情をしてみせた。
「ふん」と、そんなことでは、おしゃべりの舌はとまりませんよというような声で、女はいった。「じゃ、なんの用なのさ?」
「わたしは」と、ペリイ・メイスンはいった。「モンテイン夫人を訪ねて来たんですがね」
「モンテインさんは、お隣りよ」
メイスンは、うなずいて見せて、相手の言葉を待っていた。
「ベルを鳴らしてみたの?」
「鳴らしていたのは知ってるじゃありませんか。カーテンの陰からのぞいていたのは、奥さんでしょう」
「ふん、あたしだったら、どうしたのさ? あたしだって、自分の家の窓からのぞく権利ぐらいあるはずでしょう? ちょいと、あんた、これは、あたしの家よ。あたしが買って、お金だって、ちゃんと払いおわったんだから──」
ペリイ・メイスンは、声を立てて笑いながら、
「悪気でいったんじゃありませんよ」と、メイスンはいった。「いらん説明をして、時間をむだにしたくなかっただけですよ。奥さんは、なかなか観察眼が鋭い方のようだから、わたしが、モンテイン家のベルを鳴らせば、すぐに気がついておいでになったくらいだ。だから、たぶん、モンテイン夫人が外出するのも、気がついておいでになったのではないでしょうか?」
「わたしが気がついていたら、それが、あなたにはどうだというの?」
「わたしは、とても、あの人に会いたいんです」
「あの人のお友だちなのね?」
「そうです」
「旦那さんは家じゃないのかしら?」
ペリイ・メイスンは、首を横に振った。
「ふむ」と、婦人はいった。「きっと、けさは、いつもよりもうんと早く外出したのにちがいないわね。わたしはまた、あの人の姿が見えないんで、まだ寝ているものとばかり思っていたわ。あの人たちと来たら、お金があるもんだから、毎日、なにもしないで、ぶらぶら遊んでばかりいるんだよ」
「モンテイン夫人は?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。「あの人は、どうなんです?」
「あれは、もと看護婦だったのよ。お金がめあてで、あの男と結婚したのよ。三十分ぐらい前かな、それとも、そんなになっていないかしら、タクシーで出かけて行ったらしいわね」
「荷物をたくさん持っていましたか?」と、ペリイ・メイスンはたずねた。
「小さなスーツケース一つだけだったわ」と、相手の女はいった。「でも、一時間ほど前に、通運の人が来て、大型のトランクを一個運んで行ったわね」
「運送屋が来たというんですね?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「いいえ、通運会社の人だったわ」
「夫人が、いつ帰って来るのかは、おわかりにならないでしょうね?」
「わからないわね。わたしなんかに、自分の考えなんか打ち明けたりするものですかね。目つきを見たってわかるわ。貧乏人だと思っているんですものね、ひとを。つき合う気なんかないことは、よくわかっているわよ。そりゃね、この家だって、伜《せがれ》が買ってはくれたんだけど、なかなか、お金だってすっかり払いきれなかったわ。ところが、時勢もよかったのね。あの子が死んでみると、保険にはいってたってわけなのよ。そのお陰で、この家のお金もちゃんと、きれいにすますことができたのさ。チャールズって子は、そういう子だったの、いつでも優しくて、先きのことを考えていてくれたってわけよ。世間のたいていの子供が、親のことを考えて、保険になんかはいったりしないし──」
ペリイ・メイスンは、そこで頭を下げて、
「どうも」と、メイスンはいった。「たいへんありがとう。おかげで、知ろうと思っていた事情が、すっかりわかりましたよ」
「奥さんが帰って来たら、誰が訪ねて来たといえばいいの?」と、婦人がたずねた。
「帰っては来ないでしょう」と、ペリイ・メイスンがいった。
婦人は、メイスンが帰ろうとする後について、ポーチの端まで出て来て、
「二度ともどって来ないっていうんだね?」と、相手の女がたずねた。
ペリイ・メイスンは、なんにもいわずに、つかつかと早足に、歩道に出た。
「世間の噂では、あの二人の結婚には、親が大反対なんですってね。もし、親が一文も送って来なくなったら、あのひとの旦那は、どうするつもりなんでしょうね?」と、婦人は、メイスンのうしろ姿に話しかけた。
メイスンは、大股に歩いていたが、ちょっと振り返り、にっこりして帽子をあげて会釈をすると、そのまま街角を曲がった。大通りに出ると、メイスンは、タクシーをつかまえた。
「市営飛行場!」と、メイスンはいった。
運転手は、さっと車を出した。
「罰金は」と、弁護士がいった。「おれが払うから、飛ばしてくれ」
運転手は、にやっと笑って、スピードを増した。大通りを走らせながらおびただしい車の間を、巧みに右に左に縫って、車を走らせた。
「バス並みのスピードじゃないか?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「あっしの運転じゃ、これが最大速力でさ」
「超スピードでやってくれりゃ、チップははずむぜ、大将」
「安全運転のできる早さでやるしかねえね」と、運転手がいい返した。「女房子供もあるし、この職だって、うしないたくねえからね──」
とたんに、横町から小型のセダンが飛び出して来た。あっと思うと、運転手はハンドルを切って、ブレーキを踏むと、急停車した。
「ほうら、ごらんなさいよ」と、振り返って、運転手はいった。「急ごうとすれば、こうしたもんでさ。それで、事故になってでもごらんなさいよ。役所へ行ったって、てんで、あっしらの言い分なんか通りっこはねえ。いつだって、悪いのは運転手ときまっているんだからねえ。つまり、あっしらタクシーの運転手は、自分の車を運転するといっしょに、他人の車までも、運転してやらなきゃいけないんですからね。うっかり車をぶっつけられでもしてごらんなさい、たちまち、馘《くび》でさあね、そして──ときに、旦那、この車がつけられてるのを知ってますかい?」
メイスンは、驚いてすわりなおして、うしろを見ようとした。
「おっと、振り向いちゃいけねえ」と、注意するように、タクシー運転手はいった。「ぴったり、うしろへくっつこうとしかけているんだから。フォードのクーペでさ。あっしゃね、ずっと前から気がついていたんだ、旦那が乗るなりすぐ。だけど、そんなこととはまるきり考えなかったんだが、どうやら、ここまで来る間じゅうずっと、ぴったりくっついてはなれようとはしねえのさ」
メイスンは目をあげて、バックミラーを見ようとした。
「ちょっと待った」と、タクシー運転手がいった。「いま、見えるように、なおしてあげまさあ」
ずっとうしろまで、車の往来が見通せるようなところへ来ると、運転手は、手をのばして鏡の向きを直した。おかげで、ペリイ・メイスンは、うしろの路上の、ひっきりなしにつづく車の流れを、よく見ることができるようになった。
「旦那は、うしろに気をつけていてくださいよ。あっしは、前に目をつけて、もっぱらすっとばすほうにかかりますからね」と、運転手が前を見ながら、メイスンにいった。
ペリイ・メイスンは、目を凝《こ》らして、じっとバックミラーを見つめていたが、
「さすがは、きみ、大したもんだな」と、メイスンがいった。「あれに気がつくとは、おそろしく目が利《き》くもんだね」
「いや、大したことじゃねえよ」と、ほめられて照れながら、タクシー運転手はいった。「それほどいわれることはねえよ。ただ、これで飯を食ってるんだからね。ぼやぼやしてたら、女房や子供を干乾しにしてしまいまさあ。頼むから、旦那は、うしろから目を離さないようにしててくださいよ。あっしは、自分のことにかかるからね。飛ばしますぜ。運転だけは、あっしの取柄《とりえ》だからね」
ペリイ・メイスンは、ゆっくりといった。「フォードのクーペだ、右のフェンダーがくぼんでる。男が二人、乗ってるな……ねえ、きみ、おれのいう通りやってくれ。つぎの角を左へ曲がるんだ。二つのブロックを、八の字にまわってくれ。そして、確かめるんだ、あの車が、ほんとにおれたちをつけているかどうか」
「八の字にまわったりしたら、こっちが気がついたことを教えてやるようなもんですぜ」と、運転手がいった。
「やつらがなんと思おうと構《かま》うもんか」と、ペリイ・メイスンが答えた。「おれは、やつらの肚をはっきりと見定めたいんだ。それで、こっちの車について来なけりゃ、見うしなったというだけのことさ。どこまでもくっついて来るようだったら、車をとめて、いったい、なんのためにつけて来るのか、逆に詰問してやろうじゃないか」
「だいじょうぶですか、いきなり、ぱんぱんと、弾丸のお見舞いをくうんじゃねえでしょうね?」と、運転手が、心配そうに尋ねた。
「そんなことはないだろう」と、メイスンがいった。「私立探偵かもしれない。そんなものだよ」
「奥さんと、ごたごたでも起こしたんですかい?」と、運転手が問いかけた。
「なるほど、うまいこというね」と、ペリイ・メイスンがいった。「きみは、すばらしい運転手だね。それだけじゃない、八卦見《はっけみ》のほうもやるとは驚いたね。まったく、運転だけが得意だといったように思っていたんだがね」
運転手は、にやっと笑って、
「いや、旦那、よけいなことをいってすみませんでしたね」と、運転手がいった。「自分の仕事だけに精《せい》を出しましょう。なあに、ちょっとお愛想にいっただけなんですよ。さあ、しっかりつかまっててくださいよ。左へ曲がりますからね」
車は、急カーブを切って、横町へすべりこんだ。
「なんにでもいいから、旦那、つかまってくださいよ。もう一度、左へ曲がりますぜ」
もう一度、ききとタイヤをならして、車は、大きく曲がった。
「ほう、行きすぎてしまったらしいぞ」と、ペリイ・メイスンがいった。「おい、きみ、ちょっと、歩道に寄せて、とめてみてくれ。やつらが、ほかの通りからまわってやって来るかどうか、見ようじゃないか。おれが鏡の中を見ていた様子じゃ、やつらの車は、さっきの十字路で、交通信号に引っかかったらしいんだ。ちょうど、向こうの車が十字路へ来たとき、こっちの車が、二度目に左に曲がったとこだったんだ。それで、やつらの車も、ちょっと曲がろうとしかけたんだけどそのまま、まっすぐに行っちまったらしいね」
タクシーの運転手は、自分の席で、くるっと向きなおって、後部のガラス越しに、うしろのほうをうかがった。口の中では、単調なリズムで、チューインガムを噛みつづけている。
「こんなところにとまっていちゃ、時間がどんどん経つばかりですぜ」と、運転手がいった。「旦那は、飛行機に乗るんでしょう」
「わからんよ」と、ペリイ・メイスンがいった。「じつは、おれも乗ることになるかどうか知りたいほうなんだ」
「ふふうん……旦那、やつらは、この通りへやって来ませんぜ」
「それじゃ、つぎの大通りへ出るんだねえ。そして、それをまっすぐ飛行場へやってくれ。空港ターミナルまではいって行けるんだろう?」
「ええ、行けますとも。旦那はお客ですからね。どこへでも行きまさ」
「じゃ、行ってくれ」と、メイスンがいった。
運転手は、運転台に身構えて、バックミラーの位置をなおした。
「もう、こいつは要らないでしょう、旦那」と、運転手はペリイ・メイスンのほうは見ないで、位置をなおしおわった。
タクシーは、ギアがはいると、ふたたび、スピードを増した。弁護士は、クッションに身を沈めて、ときどき、目を凝《こ》らして、うしろを見返った。
追跡されている形跡は、まるきりなかった。
「どこへ着けましょう?」と、飛行場にはいると、運転手がたずねた。
「チケット売場だ」と、メイスンが、運転手にいった。
タクシーの運転手は、顎《あご》を動かしてかたわらを指して、いった。「旦那のボーイフレンドは、先刻ご到着ですぜ」
なるほど、フェンダーのくぼんだフォードのクーべが、『駐車禁止』と赤いペンキで書いた標識の前に、平気な顔で駐車していた。
「警察の車ですかい、こいつは?」と、タクシーの運転手がたずねた。
メイスンは、不思議そうに、じっと眺めながら、「知らないね、まったく」
「刑事ですよ。でなけりゃ、あんなところに駐《と》めるはずがねえでさ」と、運転手は、確信ありげにいってから、「ここで、お待ちするんですか、旦那?」
「うん」と、メイスンはいった。
「じゃ、駐車場にまわしておきますからね」
「オーケー。向こうへ行って、待っててくれ」
ペリイ・メイスンは、空港のチケット売場のドアを押して、ロビーに足を踏み入れた。大股に、チケット売場の窓口のほうへ五、六歩進んだと思うと、ふいに立ち止まった。茶色の外套に、茶色の毛皮の襟《えり》をつけた姿が、目にはいったのだ。外套の女は、回転ドアの外の、あまり人目に立たない場所に、陽光をいっぱいに浴びて立っていた。そのゲートの向こうには、大型の三発機が、陽光に、やはり、銀翼を光らせていた。プロペラが音を立てて、ゆっくり回転していた。
ペリイ・メイスンは、回転ドアを押して進んで行った。制服姿の係員が、大股にゲートのほうに歩いて行った。スチュワーデスが、飛行機から降りて来て、機体に登って行く階段の脇に立った。
ペリイ・メイスンは、外套の姿の背後に立って、
「驚いた様子を見せちゃいけませんよ、ローダ」と、低い声でいった。
女は、はっとしたように、みるみる体を緊張させた様子だったが、それでも、ゆっくりと振り向いた。不安で曇った目をさっと動かして、メイスンを見た。ほっと安堵の息を吸って、また向こうを向いた。
「先生でしたの」と、十フィートと離れていれば聞きとれないほどの声で、女はいった。
「刑事が二人、あなたを探している」と、メイスンも、低い声で言葉をつづけた。「たぶん、写真は持っていないので──ただ人相書をたよりに、飛行機に乗りこむ人間を見張っているんでしょう。飛行機が出てしまったら、こんどは、空港の捜査をはじめるでしょう。きみは、あすこの電話室へ行きたまえ、わたしも、すぐ後から行きます」
ローダは、人目に立たぬように、ゲートのそばの人混みをぬけて、せかせかと、急ぎ足に電話室まで行くと、中へはいって、ドアをしめた。
制服の係員が、ゲートをあけると、乗客たちは、いっせいに乗りこみはじめた。それと同時に、肩幅の広い男が二人、機体のかげからあらわれて、きびしい目つきで、乗客を一人一人、じろじろと見つめた。
ペリイ・メイスンは、二人がそっちに気をとられている隙に、大股に電話室まで進んで行き、ぐいとドアをあけた。
「床にしゃがむんだ、ローダさん」と、メイスンがいった。
「だめよ。場所がないじゃありませんか」
「だめだって、しゃがんでいなくては、外から見えてしまう。さあ、くるっと、わたしのほうを向いて、それから、この電話機の棚の下に壁によっかかって、ぴったり背中をくっつけるんだ、そう、そう、それでいい……それで、膝を折って……それでいい」
ペリイ・メイスンは、ようやくのことでドアをしめて、電話機に向かって立ち、すばやくロビーのほうに目を走らせた。
「さあ、いいですか」と、メイスンはいった。「わたしのいうことを、すなおに、掛け値なしに聞きたまえよ。とにかく、あの刑事たちが張りこんでいるところを見ると、警察では、あなたが飛行機で逃亡するという情報を握ったと考えていい。でなければ、ただ見当をつけて、町からの出口は──飛行場も、停車場も、バスの発着所も、そのほか出口という出口はみんな、手配したのかもしれない。
わたしは、やつらのことなどまるきり知らないのだが、やつらのほうでは、ちゃんと、わたしのことを知っている。というのは、わたしが、あなたの家を訪ねて行って、タクシーを拾ったときに、感づいたんでしょうね。やつらの肚では、わたしとあなたと連絡があって、逃亡前に、あなたと会うと思ったんでしょう。ここへ来る間も、やつらは尾《つ》けようとしたんだが、わたしは、途中でうまく巻いてやったつもりだった。ところが、着いてみると、ちゃんと先きまわりして、この飛行場に来ているじゃありませんか。わたしが、ここで電話しているところを見たら、あなたが飛行機に乗る前に、あなたに会って、最後の指示を与えようとしていたのに、あなたが飛行機に乗り遅れたか、どうしたのか姿が見えないので、あわてて電話をして、あなたの所在を探しているのだと思うだろう。もうすこししたら、わたしのほうでやつらの姿を見つけて、やつらから姿を隠そうとして、この電話室に逃げこんだように思わせてやってもいい。とにかく、現在の情勢は、だいたいそんなところだが、呑みこめましたか?」
「ええ、よくわかりました」と、女はいった。その声は、囁《ささや》くように、床のほうから上に這《は》い上がって来た。
「よろしい。どうやら、やつらは、そこらを探しはじめましたよ」と、メイスンがいった。「わたしは、電話口に話してるふうにしますよ」
メイスンは、受話器をはずしたが、小銭はほうりこまなかった。そして、口を電話口にあてて、早口にしゃべり出した。見かけは、誰か向こうの相手と話している恰好《かっこう》だが、実際は、下にしゃがんでいるローダ・モンテインに、すばやく、今後の指示を与えているのだった。
「飛行機で逃げ出そうなんて、ちょっと馬鹿といってもいいですね」と、メイスンがいった。「自分から罪を認めればこそ、逃亡するんでしょう。もしも、どこかほかの町までの切符を持って、あの飛行機に乗りこむところを、やつらが見つければ、やつらに起訴の材料を提供するようなものじゃありませんか。これからは、あなたに逃亡のおそれがあるなどと、やつらに口実を与えないように、くれぐれも注意してくださいよ」
「ですけど、どうして、わたしがこの飛行場に来たとおわかりになりましたの?」
「警察の連中と同じ方法でね」と、メイスンがいった。「あなたは、軽いスーツケース一つで家を出て、主な荷物は、トランクで運送会社に送らせた。もし、あなたが汽車に乗るつもりなら、トランクはチッキにするはずだ。
さあ、あなたの身柄も、このままにしておくわけにもいかなくなって来た。そろそろこちらから出て行く必要が起きて来た。といって、もちろん、警察じゃない。先手を打って、どこかの新聞社に出頭するんですね。あなたの話を独占記事にさせるからといって」
「というと、新聞に、わたしの話をしろとおっしゃるんですのね?」
「いいや」と、メイスンがいった。「ただ相手の新聞に、事情を話すと思わせるだけですよ。おそらく、話す機会はないでしょう」
「なぜですの?」
「というのはね、あなたが姿をあらわせば、すぐに刑事どもは、あなたを逮捕しようとするでしょうからね。話し出す機会なんかあるもんですか」
「それから、どうしますの?」
「それから」と、メイスンがいった。「口を割らないことです。誰にも、なんにもしゃべってはいけない。弁護士立ち会いの上でなければ、一言もしゃべらぬというんです。わかりましたか?」
「ええ」
「よろしい」と、メイスンは、相手にいった。「わかったとなれば、クロニクル紙に電話します。あの連中、わたしの様子をじろじろ窺《うかが》っているくせに、こっちが気がついているとは知らないらしい。わたしがクロニクルに電話をしても、そこまでは、やつらには察しがつかない。電話がすんでしまったら、やつらに気がついたと知らせるようにして、こっちの背中を向こうに向けて、隠れるふりをしてやる。そうすれば、ここで、あなたを待っているのだと思うにちがいない。でなけりゃ、やつらが行っちまうのを待っていて、電話室から出るのだなと思わせてもいい。そうすれば、連中は、どこか、わたしの見張りができる場所へ行って、わたしがここから出るのを待つか、あなたがやって来て、わたしと会うまで張りこんでいるにちがいない」
メイスンは、電話器にニッケル貨を入れて、クロニクルの電話番号を告げた。しばらくして、交換手が出ると、社会部長のボストウィックに願いますといった。
電話口に、男の口が聞こえると、メイスンはいった。「ローダ・モンテインの告白を、独占記事にする気はないかい? ほら、例の殺人事件で、けさ二時に、被害者のグレゴリイ・モクスレイと会っていたという女さ……きみのほうにその気さえあれば、女の身柄だって引き取ることもできるんだぜ……そうだ、彼女自身、クロニクルの記者に身柄を預けるといっている。いかにも、ぼくは、ペリイ・メイスンだ。むろん、ぼくは、彼女の弁護を引き受けることになる。
よろしい、やるんだね。では、ぼくのいうことをちゃんと聞いてくれ。ぼくは、いま、市営飛行場にいる。いうまでもないが、ぼくがここにいることも、モンテイン夫人といることも、誰にも知らしてくれちゃ困る。ぼくは、電話室に隠れているんだ。至急、記者を二人、電話室まで派遣してくれたまえ。ローダ・モンテインを自首させるから……そのさきは、ぼくにも、なんとも請け合えない。後は、きみの腕しだいだ。だが、すくなくとも、ローダ・モンテインが、クロニクルに出頭したというだけで、立派な特種になるじゃないか。しかし、これだけはまちがえないようにしてくれ。彼女が逃げ出そうとするところを、クロニクルが飛行場まで追いつめたなんて書いてもらっちゃ困るぜ。あくまで、自発的に出頭したことにしてもらう……そうだ。彼女は、そういうふうにするつもりなんだから。ローダが、クロニクルに自発的に出頭するのだ。号外の用意をしておいてもよさそうだぜ。
とんでもない。ローダを電話口になんか出させられないよ。ぼくが、ローダに代わって事情を話すこともできん。きみのところの記者が駆けつけても、うまく記事がとれるかどうかも、請け合えないよ。どれだけ欲張れば気がすむんだね? 零から見れば、これだけでも大した特種じゃないか。記者から連絡の電話がありしだい、号外を出せば大手柄じゃないか。正直にいって、ボストウィック、きみのところの記者がやって来て、彼女とインタビューをするチャンスがあるかどうか、その前に、刑事たちにつかまりゃしないかと、ぼくは、おそれている。もちろん、彼女は、刑事なんかにあまりいうことはないと思うんだが……オーケー。号外の準備にかかりたまえ。記者を出発させたまえよ。では、記者が到着するまで、前後の事情を要点だけ話しておこう。
だけど、注意してくれたまえ。ぼくの口から聞いたといって、このまま書いてくれちゃ困るよ。ぼくは、ただヒントを与えるだけだから、後は、きみたちのほうで記事にまとめるようにしてくれたまえよ。いいかい、はじめるよ。ローダ・モンテインは、数年前、グレゴリイ・ロートンと名のる男と結婚した。人口統計局へ行けば、結婚許可証があるはずだ。このグレゴリイ・ロートンなる男が、ほかでもない、殺されたグレゴリイ・モクスレイ、またの名、グレゴリイ・ケアリーなんだ。
一週間ほど前、ローダ・ロートンは、カール・W・モンテインと結婚した。モンテインというのは、シカゴの大富豪C・フィリップ・モンテインの伜なんだ。この一家は、なかなか立派な家柄なんだが、それだけじゃなく、われわれ貧乏人を見下し勝ちな連中らしい。ところで、ローダ・ロートンは、結婚許可証の申請に際して、先夫に死別して未亡人だと称した。ところが、グレゴリイ・ロートンは死んでいなかった。グレゴリイ・モクスレイとして姿をあらわし、女を脅迫しはじめた。ローダは、結婚前、ネル・ブリンレイという看護婦と、イースト・ペルトン・アベニュー一二八番地で共同生活をしていた。モクスレイは、その住所あてに、いろいろ脅迫の電報を打っている。その電報の控えを、警察なり、電報公社なりから手に入れれば、それも記事の材料に使えるだろう。手に入れられないとなれば、ネル・ブリンレイだって、そういう電報を受けとったことを認めるはずだ……さしあたって、ぼくのほうから知らせることができるのは、こんなところだ、ボストウィック君……これだけの材料があれば、結構おもしろい記事が書けるじゃないか。こういう方面から洗い立てて行けば、号外発行までに、まだまだ、ネタは集まるかもしれない……そうだ、彼女は、飛行場で、自分の身柄をまかせるといっている。彼女が飛行場へ来た理由は、ぼくが、ここで会おうといったからだ……いいや、ぼくが話すことのできるのは、いまのところ、これくらいのとこだ。ぼくが話せるだけの情報は、すっかり話した。じゃ、失敬」
ボストウィックはまだ聞きたい様子で、送話口の中では、まださかんになにかいっていたが、ペリイ・メイスンは、それには構わずに、がちゃんと受話器を元の通りに掛けた。メイスンは、電話室を出ようとするかのように、ぐるっと向きなおって、ガラス越しに目を走らせ、一人の刑事がこちらを窺っている姿を見ると、やめて、できるだけ顔が隠れるように肩をこごめ、頭を下げて、もう一度、受話器をとりあげた、こんどは、電話をかける恰好《かっこう》だけだった。
「とうとう、こっちを見つけたらしいよ、ローダさん」と、メイスンはいった。「それに、こっちでも気がついたとわかったらしい。わたしが、向こうのわなにかかるのを待っているんだ。どこかに隠れるつもりらしい」
「ここへやって来ないでしょうか?」と、声をひそめて、ローダがたずねた。
「いいや、来ない」と、メイスンがいった。「やつらが狙っているのは、あなたで、わたしなんかに用はないのだ。ただ、わたしは、この飛行場であなたと会うことになっていて、あなたを待っているのだと、だから、やつらが行ってしまうまで、わたしが顔を隠そうとしているのだと、それがまちがいないとこだと思っているんですよ。だから、しばらく、そのへんをぶらついてから、わざと立ち去る振りをすれば、わたしが大っぴらに出て来て、あなたと落ち合うだろうと思っているんですよ」
「いったいどうして、警察じゃ、あたしのことを知ったんでしょう?」と、ローダがたずねた。
「ご主人から聞いたんですよ」と、メイスンがいった。
ローダは、はっと息をのんだ。
「でも、カールは、なんにも知らないはずですわ!」と、ローダはいった。「あのひとは、ようく眠っていたんですもの」
「いいや。眠ってなんかいなかったんです」と、メイスンがローダにいって聞かせた。「あなたは、チョコレートにイプラールの錠剤をとかせて飲ませたつもりでいたが、カール君は、あなたより役者が一枚上で、チョコレートを飲まなかったんです。眠ったふりをしてあなたが出かけるのも、帰って来たのも、ちゃんと知っていたんです。さあ、夜中にどんな事件があったか、残らず、わたしに話して聞かせたまえ」
ローダの声は、電話室の下のほうから這いあがって来るので、はっきりとは聞きとれなかった。ペリイ・メイスンは、受話器を耳にあてたまま、はっきりとその声が聞きとれるように、ちょっと首をかしげた。
「わたし、前に、ちょっとおそろしいことをしてしまったんです」と、ローダがいった。「それを、グレゴリイはかぎつけて、脅迫をはじめたんです。それが明るみに出れば、当然刑務所へ行かなくちゃならないようなことだったんです。刑務所へ行くことなんか、ちっともこわくはなかったんですけど、カールのことを思うと、とてもじっとなんかしていられなかったのです。あのひとの両親は、カールが身分ちがいの結婚を──夜の女としか思えないような女と結婚したとぐらいにしか思っていないんです。ですから、カールのお父さんに、『それ見たことか』といわれるようなことになったら、たまらないと思ったんです。それに、そのために、カールとの結婚が解消されるような羽目《はめ》になっては、それこそ取りかえしがつかないと思ったんです」
「あなたの話し振りは、具体的じゃないようですね」と、電話口に話しかけているようなふうをして、メイスンはいった。
「あたし、精いっぱいこまかくお話しているつもりなんですけど」と、悲しそうに、ローダはいった。いまにも泣き出しそうな声だった。
「ぐずぐずしていられる時間はないんですよ」と、メイスンが注意した。「泣いたり、悲しいなんて思っているひまなんかないんですよ」
「泣いてなんかいませんわ」と、ローダがいい返した。
「そんなふうな声だ」
「そんなことをおっしゃって、試しに、ここへすわってみてごらんなさいな。金属の電話箱の下に頭を押しつけられた上に、顎と膝をくっつけられて、おまけに、スカートまで靴で踏んずけられていれば、誰だって、こんな声になるはずですわ」
ペリイ・メイスンは、くすくすと笑い出した。
「それで」と、メイスンは話の先きを促した。
「グレゴリイは、なんか困っているようでした。どんなもめごとだか知りませんけど、あのひとと来たら、しょっちゅう、なんかごたごた起こしている人なんです。牢屋へはいっていたこともあるんだと思うんです。あのひとから、長いこと便りのなかったのも、そのせいだと思うんです。とにかく、行方がわからなかったんです。わたし、行方を探してみたんですけど、航空事故で死んだという噂を聞いただけで、後は、なんにも聞き出せませんでした。いまになっても、どういうわけで、あのひとが無事だったのか、わからないんです。とにかく、飛行機に乗るつもりで切符を買ったことは事実なんですけど、どういうわけだか、その飛行機に乗っていなかったんですのね。たぶん、乗るつもりでいたんでしょうけど、警察の手が回わっていると思って、乗るのをおそれたのではないでしょうか。乗客名簿を見せてもらったんですけど、ちゃんと、その飛行機に乗ったことになっているんです。
だもんですから、わたし、死んだものとばかり思いこんでいたのです。そのくせ、死骸だけは、どうしても見つからなかったんです。それで──ええ、そうですわ、あのひとが死んだつもりで、自分の身の振り方をきめる気になっていたんです」
弁護士は、なにかいいかけて、いまにも口をききそうにしたが、やめてしまった。
「なにか、おっしゃいましたの?」と、ローダがたずねた。
「いいや、先を聞かせてください」
「すると、突然、グレゴリイが生きてもどって来たのです。そして、カールから金を引き出せと言い張って聞かないんです。世間に名を知られた家柄の家の息子だから、重婚問題で法廷へ引っ張り出されずに済むのなら、カールは、金なんかいくらでも出すにちがいないと、そういって、あのひとは脅すんです。ほんとに、重婚罪で、カールを告訴してやるというのです。つまり、わたしは、まだあの人の妻で、カールは、二人の間を裂いた怪《け》しからぬ人間だなんていうんです」
メイスンは、せせら笑うような声を立てて、
「あなたの金を持ち逃げして、長い間、姿を晦《くら》ませていたグレゴリイがね」といった。
「あなたには、あの男の気持ちなんかおわかりになりませんわ。あの男にとっては、訴訟に勝とうが負けようが、そんなことは問題じゃないんです。問題は、法律的に訴訟を起こす権利があるかどうかなんです。つまり、訴訟さえ起こせば、それでいいんです。カールは、そんな自分の立派な名前が法廷で呼びあげられるくらいなら、きっと、その前に、死んでしまうにちがいありませんわ」
「しかし」と、メイスンは、強く反対するように、「きのう、あなたは、真相を洗いざらい、わたしに話さないうちに、どんなこともしないと、わたしに約束したと思っていましたがね」
「わたし、ネル・ブリンレイさんに会いに出かけたんです」と、ローダがいった。「また電報が来ていると聞いたものですから。電報は、グレゴリイからでした。とても腹をたてていて、すぐに電話しろと書いてあるんです。それで、電話をしてみますと、どうした、今夜じゅうに最後の回答をしろと、どなりつけるんです。だもんだから、わたしも、最後の回答なら、いますぐ、この電話でしますといい返してやったんです。すると、あの人は、電話じゃいけないというんです。どうしても会って話したいことがあるから、会いに来いというんです。話し合ったら、チャンスを与えてやれないものでもないって、そんなことをいうんです。それで、カールが起きているうちは抜け出せないと思ったものですから、グレゴリイと会う約束の時間を、夜中の二時ということにしたのです。そして、カールをよく眠らせようとして、イプラールをいつもの量の倍だけ、カールのチョコレートに入れたのですわ」
「それから?」といいながら、メイスンは、すこし体の位置を変えた。そのために、電話室のガラス越しに、空港ビルのロビーをよく見渡すことができるようになった。
「それから」と、ローダは話をつづけた。「一時ちょっとすぎに起きて、着替えをすますと、こっそり家をぬけ出しました。ガレージのドアをあけて、わたしの乗用のシボレーのクーペをバックさせて出しました。そのとき、ガレージのドアはしめたんですけど、どうやら鍵をかけることを忘れてしまったらしいんですの。家から車を走り出させてみて、タイヤがパンクしていることに気がつきました。家からほんのすこし行ったところに、自動車のサービス・ステーションがあって、終夜営業しているのを知っていましたので、空気のぬけたタイヤのままで、そのサービス・ステーションまで車を走らせました。そこで、予備のタイヤと取り替えてくれたんですけど、取り換えて見ると、予備のタイヤにも釘がささっていて、あらかた空気がぬけてしまっているんです。それも、はじめから空気がすっかり抜けきっていれば、タイヤを取り替える前に気がついたのですけど、生《なま》じっか空気がいくらかはいっていたばかりに、替えてしまうまで、パンクしていることもわからなかったんですの。それでまた、タイヤを取りはずしたり、釘をぬいたり、新しいチューブを入れたりしなけりゃならなかったんですの。それで、わたし、とても待っていられないからって、そういって、預り証をもらって、後で取りに来ることにしたんです」
「その釘がささっていたチューブのことですね?」
「そうなんですの。そのチューブを前のタイヤに入れて、予備にしてくれると、その人はいう話だったんです。パンクしたほうのタイヤのチューブは、空気がぬけたまま走らせたので、もう使いものにならないという話でした」
「それから、どうしました?」
「それから、グレゴリイのアパートに行きました」
「入り口のベルを鳴らしましたか?」
「ええ」
「時刻は?」
「わかりませんわ。二時をすぎていたと思いますわ。約束の時間より遅れたんですから、きっと二時十分か十五分だったと思います」
「それで?」
「グレゴリイは、とても怒っていました。どうしてもお金を作れというんです。明日の朝、銀行があくと同時に、グレゴリイ名義で最低二千ドルを預金しなけりゃいけない、ほかに現金で一万ドル、カールから出させろ、もし、その通り実行しなければ、すぐにカールを告訴するといっしょに、わたしも逮捕させるというんです」
「で、あなたは、どうしました?」
「一セントだって払うつもりはないって、わたし、そういってやりました」
「それから、どうしました?」
「すると、あの人、とても口ぎたなく、わたしを罵《ののし》るんです。ですから、わたし、先生にお電話しようとしたんですの」
「それで、そのつぎには、どうしました?」
「わたし、電話のところへ走り寄って、受話器をとろうと手を出しました」
「ちょっと待って」と、メイスンがいった。「そのとき、あなたは、手袋をはめていましたか?」
「ええ」
「よろしい。それで」
「受話器をとりあげようとすると、その手を、あの人が抑えました」
「それで、あなたは、どうしました?」
「わたし、あの人ともみ合って、あの人を突き飛ばしました」
「突き飛ばしてから、どうでした?」
「いったんは逃れたんですけど、また襲いかかって来たんです。煖炉のそばに、小さな台があって、その上に火掻《ひか》き棒とシャベルとブラシとがのっていました。夢中になって、手に触れるものを掴んで、振りまわしました。気がついてみると、掴んだのは火掻き棒で、どこか、グレゴリイの顔にぶつかったらしいんです」
「それから、逃げ出したんですか?」
「いいえ。逃げたりなんかしませんでした。それよりね、そのとき、電灯が、すっかり消えたんですの」
「電灯が消えたって?」と、メイスンが叫ぶようにいった。
ローダは、窮屈な姿勢を、いくぶんでも楽にしようとして、体を動かしながら、「ええ。アパート中の電灯という電灯が、いきなり、消えてしまったんです。きっと、誰かが、スイッチを切ったにちがいありませんわ」
「消えたのは、あなたが火掻き棒で、相手をぶんなぐる前でしたか、後でしたか?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「ぶつと同時でしたわ。火掻き棒を振りまわしている最中に、なにもかもまっくらになってしまったのを憶えていますわ」
「実際には、たぶん、あなたは相手をぶん殴らなかったんでしょうね、ローダ」
「いいえ、殴りつけました、メイスンさん。自分で殴ったということが、よくわかりますわ。あの人は、よろよろとよろめいて、倒れたと思うんです。ところが、アパートの中に、誰だか知らないけど、人がいたんです──マッチをすっていた男が」
「それで、それから、どうなりました?」
「それで、わたし、夢中で部屋を飛び出して、隣りの寝室へ逃げこみました。そこで、椅子につまずいて、ぱたっと倒れました」
「それから」と、メイスンが先きを促した。
「マッチをする音が聞こえました──おわかりでしょう、あのマッチで、サンドペーパーをこする音でした。それと、寝室にいるわたしを追って来ようとする音も聞こえました。それもこれも、ほんの一、二秒の間のことでした。わたしは、寝室を駆けぬけて、廊下に飛び出し、階下に降りようとしかけました。すると、その男も、わたしの後を追って来るじゃありませんか」
「階下へ降りましたか?」と、弁護士がたずねた。
「いいえ。とてもこわかったんですもの。だってね、階下では、誰かがずっとベルを押していたんですもの」
「どこのベルを?」
「玄関のベルですわ」
「誰か、なかへはいろうとしていたんですね?」
「ええ」
「いつごろから鳴りはじめたのです?」
「はっきりはおぼえていませんけど、たぶん、わたしがグレゴリイともみ合っている間ではなかったでしょうか」
「どれくらいの間、鳴りつづけていました?」
「ずいぶん長い間でしたわ」
「どんな鳴らし方でした?」
「グレゴリイを起こそうとしているようなふうでしたわ。ですけど、その玄関の人には、わたしが争っている物音は聞こえなかったと思うんです。だってね、妙な鳴らし方をしていたんです。なん秒か鳴らしていたと思うと、なん秒かやめて、それからまた、じいっと鳴らして、それをなん度も繰り返していたからですわ」
「誰だったかわからないんですね、あなたには?」
「わかりませんわ」
「でも、そのベルが鳴りやむまで、階下へ降りなかったんですね?」
「そうですわ」
「ベルが鳴りやむとすぐに、下へ降りたんですか?」
「ほんの一、二分してからですわ。だって、そこにいるのが、とてもこわかったんですもの」
「そのときは、グレゴリイが死んだかどうかは、知らなかったのですね?」
「ええ、知りませんでしたわ。わたしが、あの人を殴ると、ばったり床に倒れて、身動きもしなくなってしまったんです。とにかく、倒れる音だけは聞こえましたから、わたしが、あの人を殺したんでしょうね。殺すつもりはなかったんですけど。わたしは、ただもう、めくらめっぽうに、火掻き棒を振りまわしただけなんですけど」
「すると、ベルが鳴りやんでからすぐに、階下へ降りたんですね?」
「ええ」
「誰かの姿を見ましたか?」
「いいえ」
「あなたの車は、どこにとめておいたのです?」
「横町の角を曲がったところにとめておきましたの」
「それで、そこへ行ったんですね?」
「ええ」
「ところで、あなたは、グレゴリイのアパートに鍵を落として行きましたね。たぶん、火掻き棒を取りあげるので、しゃがんだはずみに落としたのでしょうが」
「きっと、そうですわ」
「落としたことに気がついていましたか?」
「いいえ。そのときは気がつきませんでしたわ」
「いつ、なくなっていることに気がついたのです?」
「新聞を読むまでは、気もつきませんでしたの」
「車には、どうやって乗ったんです?」
「車のドアには、鍵をかけてなかったんです。イグニション・キーは、差しこんだままでしたから、それで、急いで運転してガレージヘ戻って、それから──」
「ちょっと待って」と、メイスンが、ローダの言葉を遮《さえぎ》った。「すると、あなたは出かけるとき、ガレージのドアはしめたが、鍵はかけずにおいたということになるわけですね?」
「いいえ、わたし、かけておいたと思っていたんですけど、かけなかったとみえて、帰ってみると、鍵はかかっていなかったんです」
「それで、ドアは、ちゃんとしまっていたんですね?」
「ええ」
「あなたが出かけたときの通りに、しまっていたんですね?」
「ええ、そうですわ」
「それで、どうしました?」
「自分で、ドアをあけましたわ」
「それであけるには、レールの上を、ドアを滑《すべ》らせたわけですね?」
「ええ」
「ずっと端までいっぱいにあけたんですね?」
「ええ」
「それで、ドアをあけて、車をガレージの中へ入れたんですね?」
「ええ」
「そして、ガレージのドアをあけたままにしておいたんですね?」
「ええ、しめようとしたんですけど、その拍子《ひょうし》に、もう一台の車のバンパーに、ドアの裏板がひっかかって、どうしてもはずすことができなくて、しめられなくなってしまいましたの」
「それで、そのままにして二階へあがって、ベッドにはいったというわけなんですね?」
「ええ、わたし、とても神経がたかぶっていたものですから、強い鎮静剤を飲みましたの」
「けさ、夜が明けてから、ご主人とは話をしたんですね?」
「ええ、目がさめてみると、カールは起きて、コーヒーを入れていました。わたし、ちょっと変だなあとは思ったんです。だって、遅くまで眠らせておこうと思って、たっぷり催眠剤をのませたんですからね」
「それで、あなたは、カール君にコーヒーをいれてくれと頼んだんですね?」
「ええ」
「そのとき、夜中に外出したかどうか、ご主人がきいたでしょうね?」
「いいえ、そんなふうにはききませんでしたわ。よく眠れたかとききましたの」
「それで、あなたは、嘘をついて、ごまかしたんでしょう?」
「ええ」
「それから、ご主人は外出したんですね?」
「ええ」
「それで、あなたは、どうしました?」
「もう一度、ベッドにもどって、しばらくうとうとしてから、起きて、風呂にはいり、着替えをすませると、玄関のドアをあけて、牛乳と新聞とを持って部屋へはいりました。わたし、カールは散歩に出たのだと思っていました。新聞をひろげて見て、とんでもないことになったと気がつきました。ガレージの鍵の写真が、まともに、わたしの顔を睨みつけてるじゃありませんか。カールだって、一目見さえすれば、すぐに気がつくにきまっていると思いました。その上に、警察だって、遅かれ早かれ、わたしを突きとめることができるにちがいありません」
「それで?」
「それで、通運会社に電話して、偽の名前と住所あてに、トランクを送らせて、後の荷物をまとめると、タクシーを呼んで、この飛行場に駆けつけて飛行機に乗ろうとしたんです」
「この時間に出発する飛行機があるのを知っていたんですね?」
「ええ」
ペリイ・メイスンは、しばらく口をとじて考えていた。
「どうです」と、メイスンはたずねた。「グレゴリイのアパートで、玄関のベルを鳴らしていたのが誰だか、あなたに、心当りはありませんか?」
「ありませんわ」
「そこを出たとき、ドアは、あけたままで来たんですか、しめて来たんですか?」
「どのドアですの?」
「グレゴリイの部屋から廊下に出るドア、それと、通りへ出る、階段の下のドア」
「思い出せませんわ」と、ローダがいった。「とてもひどく興奮してしまってたんですわ。体じゅう、汗でびっしょりで、わなわなふるえて……でも、どうして、ガレージのドアのことをご存じなんですの?」
「ご主人が話したので聞きました」
「カールは、警察にも知らせたとおっしゃいましたわね」
「知らせたようですよ。警察に行く前に、まず、わたしの事務所に寄ったようです」
「なんと、いっていまして?」
「新聞で、鍵の写真を見るなり、そうだと思ったといっていました。あなたが、催眠剤を飲ませようとしたことも知っているし、夜中に出かけたことも知っているし、帰って来たときの物音も聞いているといっていましたし、あなたがガレージのドアを、車のバンパーに引っかけておいたことも知っているし、そのドアをあけたままにしておいたことをたずねたら、嘘をいってごまかしたともいっていました」
「まあ、そんなに頭が働く人だと思いませんでしたわ」と、ローダは泣き出しそうな声でいった。
「そのガレージのドアのことで嘘をついてしまった以上は、わたしはもう、動きがとれなくなってしまったのも同じですわね?」
「そんな心配はいるもんですか」と、メイスンが、陰気にいった。
「それから、警察へ知らせに行くつもりだって、先生にいったんですね?」
「そうです。それについて、わたしとしては、どうすることもできなかったのです。あの人は、それがアメリカ国民としての自分の義務だと思いこんでいるようでした」
「それだけのことで、あの人の人物を判断なすってはいけませんわ」と、ローダがいった。「あの人は、ほんとうは良い人なんです。……それから、あの人、なんかいっていませんでした……誰か、ほかの人のことを?」
「あなたが、誰かを庇おうとしているようだといっていました」
「誰をですか?」
「ミルサップ医師ですよ」
メイスンの耳に、喘《あえ》ぐようなローダの吐息が聞こえた。それにつづいて、驚いたような調子で、ローダがいった。「ミルサップ先生のことで、どんなことを知っているようでした?」
「わたしにはわかりません。しかし、あなたは、どんなことを知っているんです、ミルサップ医師のことで?」
「あの方は、お友だちですわ」
「ゆうべ、モクスレイの家にいたのは、ミルサップだったんですか?」
「とんでもない、そんなことありませんわ!」
「確かにそうですね?」
「本当ですとも」
ペリイ・メイスンは、もう一つニッケル貨を電話機におとして、ポール・ドレイクの事務所の番号を告げた。
「ポール、ペリイ・メイスンだ」と、受話器の中に探偵の声が聞こえると、メイスンはいった。
「むろん、新聞を読んだろうね」
受話器は、金属的な音を立てつづけた。苦しそうな姿勢で、電話室の床にうずくまっているローダ・モンテインは、ほんのすこし膝をずらして、一、二インチ、片方のほうへ身を動かした。
「そうだ」と、メイスンがいった。「それじゃ、だいたいの情況はわかっているんだね。おれは、ローダ・モンテインの弁護を引き受けた。たぶん、もう感づいているだろうが、きのう、おれのところの事務所から出て行くのをきみが見かけた婦人さ。そこで、さっそく、きみに活躍してもらいたいんだ。なんでもいい。調べられる限りのことを調べあげてもらいたいんだ。警察では、きっと、モクスレイの死体の発見された部屋の写真をとったにちがいない。その写真も手に入れたい。新聞の連中に、うまく渡りをつければ、なんとかなるんじゃないかね。とにかく、あらゆる角度から調べあげてもらいたいのだ、きみの手で洗いあげられる限りのことをね。それから、ちょっと怪しいことがあるんだ。あの部屋のドアの握りに、指紋がぜんぜん残っていないということだ。そのわけが知りたい……なんだって、彼女が手袋をはめていたら、どうだというんだ?……そりゃそうさ、手袋をはめていりゃ、彼女の指紋がないのは当然さ。だが、そのほかにも、あのドアを通って、握りに手をかけた連中もいるはずだ。モクスレイにしたって、一日になん十回となく、ドアをあけたりしめたりしているにちがいないのだ。おれだって、あの日早く、あの家を訪ねている。暑い日だったから、おれの手は汗で濡れていたはずだ。とにかく、あのドアの握りには、指紋がなくちゃならないはずだ。だのに、それがぜんぜんないのだ。
なに、モクスレイ? そうさ、むろん、モクスレイのことも洗いざらい調べるのさ。前科もあるはずだから、それも調べてくれ。証人として呼べそうな連中にも会ってくれ。できるだけの情報を集めるんだ。地方検事のほうも、たぶん、有利な証言をさせるつもりで、先きに証人を手に入れようとするだろう。できれば、それを出し抜かなくちゃならんのだ。
いま、そんなこと気にするな。後で会おう……いや、きみにはいえないよ。では、すぐにかかってくれ。まもなく、局面は進展するだろうと思うが、そのときはまた連絡をとるよ。じゃ」
メイスンは、がちゃんと受話器を元にもどした。
「さあ」と、メイスンが、ローダ・モンテインにいった。「早いとこ、やっつけなくちゃいけない。おっつけもう、クロニクル紙の記者が、ここへ来るでしょう。ああいう連中と来たら、気ちがいのようにとばして来ますからね。その代わり、警察の連中もやって来て、あなたを訊問しますよ。あらゆる手を尽して、あなたをしゃべらせようとする。なんとか機会をつかんで、口を割らせようとするでしょうから覚悟してくださいよ。絶対にしゃべらないと、約束ができますね?」
「ええ」
「どんなことがあっても、黙っているでしょうね?」
「ええ」
「責められたら、わたしを呼んでくれといい張るんですよ。調べを受けるたびに、わたしの立ち会っているところでなくちゃ、どんな質問にも答えられないというんです。きっと、そういいますね?」
「もちろんいいますわ。もう六ぺんもいいましたわ。これ以上、なんど申し上げたら、気がおすみになりますの?」
「十二回ですかな」と、メイスンは、相手にいった。「それでもまだ、十分じゃないでしょうな。あの連中と来たら──」
そのとき、電話室のドアを、静かに叩く音がした。
メイスンは、言葉を切って、ガラス越しに外を見た。若い男が、名刺をガラスに押し当てていた。名刺には、クロニクル紙記者としてあった。
ペリイ・メイスンは、ドアの握りをまわしながら、
「さあ、ローダさん」といった。「戦闘開始だ」
ドアがあいた。
「女は、どこにいるんです?」と、新聞記者がたずねた。
もう一人の記者も、電話室のかげから顔を出して、
「やあ、メイスンさん」といった。
ローダ・モンテインは、手を伸ばしてペリイ・メイスンの手につかまり、立ち上がった。記者たちは、驚いて、ローダを見つめた。
「ずうっと、この中にいたんですか?」と、一人の記者がたずねた。
「そうだ」と、メイスンがいった。「きみたちの車は、どこにあるんだ? 急いで、この婦人を乗せて──」
記者の一人が、吐き出すように、
「ちくしょう、刑事だ」といった。
男が二人、チケット売場をロビーと隔てている低いガラス張りの仕切り戸のかげからあらわれて、駆けるように近づいて来た。
「紹介しよう」と、ペリイ・メイスンが早口でいった。「こちらがローダ・モンテインさん。クロニクル紙の代表者たる、きみたち二人の紳士に、身柄を預けたいといっておられるんです。クロニクル紙ならば、公平な処置をとってくれるだろうとの見通しで、そう決意したそうですから、よろしくお計らい願います。新聞にのったガレージの鍵は、自分のものと認めていられるんです。この婦人は──」
とたんに、二人の刑事が、ローダたちの群れに襲いかかった。一人が、ローダ・モンテインの腕をつかんだ。もう一人は、憤怒《ふんぬ》でまっ赤になった顔を、メイスンの顔の前に、ぐっと突き出した。
「なるほど、世にも名高い悪徳弁護士とは手前だな?」と、刑事がいった。
メイスンも負けずに、ぐっと顎を突き出し、鋼鉄のように鋭い目で睨み返した。
「静かにしろ、密偵ども」と、メイスンがどなり返した。「黙らんと、口に拳固《げんこ》をくらわせるぞ」
一人のほうの刑事が、低声《こごえ》で仲間に注意した。
「おい、ジョー。気をつけたほうがいいぞ。こいつは、ダイナマイトみたいな男だからな。女さえつかまえりゃ、後はもう用がないんだからな」
「とんでもないことをいってやがら!」と、一人のほうの新聞記者がいった。「この人は、ローダ・モンテインといって、きみたちのあらわれる前に、うちのクロニクルに身柄を預けてしまったんだ」
「冗談いうな。おれたちは、ここまで追いつめて来たんだぞ。この女を逮捕する権利は、おれたちの手にあるんだ」
一人の新聞記者が、電話室に飛びこんだ。にやにや笑いながら、ニッケル貨を電話機におとしこんで、クロニクル社の番号を告げながら、
「後十五分もしてみろ」と、わざと刑事に聞こえるように、いった。「町で号外が買えらあ。それさえ読めば、その権利というやつが、どっちにあるか、わかるだろうよ」
第八章
ペリイ・メイスンは、檻《おり》の中の虎《とら》のように、いっときも休まずに、事務所の床を、行きつもどりつしていた。いつもはこうして歩きまわっていても、それが特徴の、深い瞑想《めいそう》を湛《たた》えているのだが、きょうは、そんな根気のいい、哲学者とでもいえそうな表情など、消えてしまっていた。いまは、凄《すさま》じいほどの闘志をみなぎらせて、そのように小やみなく歩きまわっているのも、精神を集中するというよりも、満ち溢れる精力のはけ口を求めようとしているようだった。
探偵のポール・ドレイクは、革表紙の手帳を膝の上にひろげて、つぎからつぎと、メイスンの口から吐き出される調査事項を書きこんでいた。
デラ・ストリートは、デスクの一隅に向かって腰をかけ、速記帳を前に、いつでもメイスンの言葉を書きとめられるように、鉛筆のさきは、速記帳から離さないでいた。その目は、ただただ感嘆の色をきらきらと浮かべて、弁護士から離れなかった。
「やつらは、ローダを隠してしまったんだ」と、メイスンは、いっこう掛かって来ない電話器に渋面を向けて、いった。「ちくしょうめ! このぼくをわなにかけようというんだな」
ポール・ドレイクは、腕時計を見て、
「たぶんね」と、いってみた。「やつらは──」
「確かに、やつらは、ローダを隠してしまったんだ」と、相手のいおうとするのを、メイスンは遮《さえぎ》った。あらあらしい口調だった。「ローダが、警察本部か地方検察庁か、どちらかに連行されたら、すぐに、知らせをくれるように手配はしておいたんだが、いまだに、どちらへも姿を見せない。どうやら、やつらは、どっか辺ぴな分署へ隠してしまったらしい」
メイスンは、くるっと振り返って、デラ・ストリートに命令を下した。
「デラ」と、メイスンはいった。「綴じ込みを取ってくれ。ベン・イー事件の時の、人身保護令状《ハビアス・コーパス》の申請書の控えがあるだろう。それと同じ書式で、一通作ってくれ。被拘禁者の弁護人としては、ぼくが署名をする。急いでタイピストに打たしてくれ。令状が下りたら、警察のやつらの面前に、叩きつけてやる。そうして、やつらがローダをめちゃめちゃに虐《いじ》め抜かぬうちに、やつらの手をいぶし出してしまうんだ」
デラ・ストリートは、機敏に立ち上がると、部屋から出て行った。
ペリイ・メイスンは、くるりと探偵のほうに向きなおって、
「ポール、もう一つ問題がある」と、メイスンはいった。「地方検事は、亭主のほうも抑えにかかっているんだ」
「重要な証人としてか?」と、ドレイクがたずねた。
「重要な証人としてか、共犯としてかわからん。どちらにしろ、亭主の身柄を、われわれの手の届かぬところへ移そうともくろんでいるようだ。いまのうちに、なんとか、あの男を手に入れる方法を考えておかぬことには、手の打ちようがなくなるおそれがある。なんとしても、あの男をこっちのものにしておかなくちゃいかん」
メイスンは、物もいわずに、あらあらしく、床を歩きまわった。
探偵が、一案を持ち出した。
「どうだろう」と、ドレイクがいった。「シカゴにいる父親が急病だという知らせをでっちあげたらどうだ。そんなこと、きみが知っているはずがないことだと、警察のほうで思えば、父親に会いに行かせるだろう。きっと、カールは飛行機で行くにきまっている。おれの手下を一人、飛行場に張り込ませておいて、同じ飛行機にお客みたいな顔をして乗り込ませるんだ。そうすれば、途中でカールと近づきになって、洗いざらい聞き出すことぐらい、わけのない仕事だろう」
ペリイ・メイスンは、それまで小やみもなしに歩きまわっていた足をとめて、眉を寄せて考え込んだ。
表の事務室との間のドアがあいて、デラ・ストリートがもどって来て、元の席に腰をおろした。
弁護士は、それを見てから、ゆっくりと首を左右に振った。
「いや」と、メイスンはいった。「そいつは止そう。ちょっとあぶなすぎるよ。そのためには、電報頼信紙ににせのサインをしなけりゃならん。後日、警察側にあばき立てられでもしようものなら、とんでもないことになるからね。うまくないよ」
「どうして、うまくないんだ?」と、ドレイクが問いただした。「いい案だと思うんだがな。第一、やつは──」
「父親というのは」と、メイスンがいった。「事件に関係があるとなれば、自分から駆けつけて来るようなタイプなんだ。ほんとのところをいうと、向こうで出て来なければ、こっちへ、親父をおびき出そうかと考えているくらいなんだ」
「なぜだ?」
「というのは、やっこさんから金を出させたいからなんだ」
「ローダの弁護料を払わせようというんだね?」
「そうだ」
「まあ出すまいね」
「おれが顔を会わせさえすれば、出すさ」といってから、メイスンは、靴音をあらあらしく立てて、事務室じゅうを行ったり来たり、大股に歩きはじめた。
ふいに、メイスンは、くるりと振り向いて、
「もう一つ問題がある。検察側が、ローダを殺人容疑で起訴しようとすると、どうしてもカール・モンテインに証言をさせなければならんのだ。ところが、カール・モンテインは、ローダの夫なんだから、刑事事件では、妻の承諾がないかぎり、証人として法廷で証言をさせることはできないし、妻に不利益な証言はできないんだ」
「それが、この州の法律かい?」と、ポール・ドレイクがたずねた。
「法律では、そうなんだ」
「うん」と、ドレイクがたずねた。「きみにとっては、運がいいんじゃないのか?」
「ところが、そうはいかないんだ」と、ペリイ・メイスンがいった。「というのは、そのために、ローダとカール・モンテインとの結婚を無効だとする訴訟を提起させることになるからなんだ」
「離婚じゃなくて、婚姻無効の訴訟なのか?」と、ドレイクがたずねた。
「そうだ。離婚訴訟では、この場合、役に立たないんだ。殺人のあったとき、二人は、まだ、妻であり、夫であったのだから、それでは、カールに、妻に不利益な証言をさせるわけにはいかない。だから、婚姻解消の効力を既往にまで遡《さかのぼ》らせるには、無効の確認を求める必要があるのだ。だから、この婚姻は最初から無効なものだったという口実で、婚姻無効の訴訟を起こす必要があるのだ」
「そんなむりなことができるのか?」
「まさにできるんだ。ローダがカールと結婚した当時、ローダ・モンテインには別の夫が生存していたということを立証することができれば、第二の結婚は、そもそものはじめから無効ということになる」
「そうすれば、夫に証言させられるということなんだね?」と、ドレイクがたずねた。
「そうだ。そういうわけだから、グレゴリイ・モクスレイという男のことを、洗いざらい調べあげてほしいのだ。やつの過去をいっさい知りたいのさ。地方検事は、いくらかはもう知っているらしいが、おれは、それ以上のことを知りたいんだ。一から十まで、あらゆることを知っておきたいんだ。できれば、やつの過去を掘り下げて、やつが犠牲にしたすべての女たちのことも調べ出してくれ」
「女たちというんだね?」
「そうだ。女をかたっぱしから瞞《だま》して、金をまきあげるのが、やつの商売だったんだ。特に、結婚式まであげた相手もなん人かいるはずだから、それもよく調べてくれ。とにかく、こんどがはじめてじゃないのだ。そうして結婚式をあげた上で、金をまきあげるのが、やつの手口だったんだが、だいたい、こういった悪漢どもは、常習の手口を、あまり変えないものだからな」
ポール・ドレイクは、いわれたことを手帳に書きこんだ。
「それに、電話の件もあったな」と、メイスンは、言葉をつづけた。「モクスレイの目をさまさせた電話だ。二時よりも前に、かかって来ているにちがいないんだ。モクスレイは、二時にローダと会う約束になっていた。そのことは、モクスレイが、その電話でも、二時にローダと会って、ローダから金を受け取ることになっているといっていたそうだ。その電話の相手についても、なにかさがし出せないか、やってみてくれ。きみなら、嗅ぎ出せるだろう」
「その電話は、二時前にかかって来たと、きみは思うんだね?」と、ドレイクがたずねた。
「うん、そう思うんだ。きみも、モクスレイが起こされた電話の一件を聞き出すだろうと思うんだ。やつは、約束の、その二時を待っていたわけだ。そして、一、二時間眠ろうと思って横になったらしいのだが、電話が鳴ったので、目をさまさせられて、ベッドから出て、電話に出た」
ドレイクの鉛筆が、急がしく手帳のページを走った。
「よし」と、ドレイクがいった。「ほかに、まだ何かあるかい?」
「もう一つ、あの尾行の件だ。きみも知っているように、ローダ・モンテインが、この事務所へ来たときにつけて来た男だ。そいつの正体が、まだ不明なんだ。本職の探偵かもしれないが、もしそうなら、誰か雇った人物があるわけだ。誰が、高い金を払ってまで、ローダの行動を突きとめようとしていたか、そいつを探り出してほしいんだ」
ドレイクは、うなずいた。
メイスンは、くるっと、デラ・ストリートのほうを向いて、
「デラ」と、メイスンがいった。「おれは、世間を相手に、一芝居打ってみようかと思うのだ。これから取り組む事件は、相当デリケートな問題を含んでいる。もし、最初の新聞記事に、看護婦出身の女が、夫に麻酔薬をのませようとしたなんて書き立てられたら、おれの仕事はやりにくくなる。そこで先手を打って、世間の注意を脇にそらせてしまいたいのだ。つまり、ローダが夫に対してしたことよりも、むしろ、彼女の夫が、妻たるローダに対して、どんな怪《け》しからぬ行為に出たかという点に、世間の注意を集中させてしまおうというのだ。
新聞の朝刊に、読者の投稿をのせる欄があるね。あの欄の編集者に手紙を書くことにするからね。ただし、この事務所からとわからぬように、便箋などには注意してくれたまえよ」
デラ・ストリートはうなずいて、鉛筆を手に、ノートに向かった。
ペリイ・メイスンは、早口に、爆弾的な文章を口述しはじめた。
私は、頭の古い、時代遅れの夫にすぎません。おそらく、すこし長生きをし過ぎたのでありましょう。勤倹第一に、つつましい生活を送り、収入の一部を、堂々と貯蓄して来た人々が、その美徳のために、かえって金銭的には癩病《らいびょう》患者のように忌《い》み嫌われていたり、また、映画俳優などは、女の鼻っ面《つら》のひとつも殴りつけないかぎり、世間の評判になって売り出せないという、いまの世相の動きを見るにつけ、私は、まったく不可解の感に打たれずにはいられません。しかしながら、私が声を大にしていい得ることは、こうした社会においてこそ、妻のみが、愛し、尊敬し、慈《いつく》しむことのできる唯一のものであり、余力を尽して、そのように努める覚悟を持たなければならないものであると信じて疑いません。
ところが、近ごろ、私のこの信念とぜんぜん相反するような事実を、貴紙の記事で拝見しました。「遵法《じゅんぽう》精神に燃える夫」という記事がそれです。私はそれを読んで、おもわず慄然《りつぜん》としました。それによりますと、その男の妻は、ある殺人事件で、被害者と、その死の直前に、なんらかの交渉を持ったものと思われます。ところが、この夫は、妻の身を庇《かば》おうともせず、また、妻からその間の事情の説明を求めようともせず、この「遵法精神に燃える夫」は、自ら進んで警察に駆けこみ、殺人容疑者として妻を逮捕せしめ、もって自ら、官憲の捜査に協力したと公言しているのであります。
おそらく、このような行動が、現代の趨勢《すうせい》なのでありましょう。たぶん、このようなことを感じるのは、私が年をとりすぎたせいでありましょうが、しかし、私としてはそうは信じません。私としては、この世の中が、もう一度、あの怖るべきヒステリックな時勢の波に流されようとしていると信じるものであります。
この記事を読んだとき、私ははからずも、一九二九年に最高潮に達した、あの熱狂的な好景気を想い起こしました。あの経済的に誤まった伝染性の考えのために、私たちアメリカ人の足場は覆《くつが》えされてしまったではありませんか。
したがって、いまや、うららかな春の朝、私たちは、ひどい頭痛を伴なって目をさますという事態が起こることも、当然、予想されることではないでしょうか。そのときになって、私たちは、祖先以来築きあげた健全な道徳を葬り去ろうとして、いままでヒステリックになっていたのではなかったか、また当然、緊縮方針をとるべきときに、政府の消費政策にわれ勝ちに便乗しようとしていたのではなかったか。また長年にわたって銀行預金を蓄積しておいたために、経済界の変動を辛うじて乗り切った者を、処罰しようとしていたのではなかったか、などと、悪夢からさめた思いで反省してみるのではないでしょうか。むろん、最愛の妻を逮捕してくれと、もよりの警察署にいちもくさんに駆けつけた夫を、検察当局が進んで賞賛するがごとき狂態を反省すべきことは、いうまでもありません。
以上が貴紙の記事を読んだ、私の偽わらぬ感想であります。しかしながら、これもまた私が、時代からはるかに取り残された旧弊な夫にすぎぬからかもしれません。
ポール・ドレイクは、ペリイ・メイスンの顔を見あげて、いつもの間のびした口調でいった。「そんなものを送って、なにか役に立つとでもいうのかい、ペリイ?」
「大いに役に立つのさ」と、メイスンがいった。「これできっと、論争がはじまるにちがいないんだ」
「亭主のことでか?」
「そのとおり」
「それなら、なんでまた、政治論なんか加えたんだい?」
「確実に、論争を起こさせたいからさ。世間の人間なんてものは、投書なんかするほど、こんなことに関心を持たないものなんだ。ローダに同情するにしても、夫に味方するにしても、どっちにしても、こんな問題はどうでもいいんだ。ところが、これに政治問題をからませると、情勢はがぜん一変するんだ。賛否両論が、わっと湧き立って、山ほど投書が舞い込む。そうなれば、新聞社としても安閑《あんかん》としていられないから、お涙ちょうだい記事担当の婦人記者が、裏切り者の亭主という観点から、敢然として書き立てることになるわけだ」
ドレイクは、ゆっくりと、うなずいて、
「なるほど」といった。「きみのいう通りだろうな」
「それで、写真はどうした?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。「殺人現場の写真は、手に入れてくれたかい?」
ポール・ドレイクは、椅子の脚に寄せて置いてあった書類鞄から、マニラ紙の封筒を取り出し、その中から、光沢のある印画紙に焼きつけた写真を四枚ぬき出した。
メイスンは、その写真を受け取り、机の上に並べて、しばらくの間、丹念に見ていた。やがて、机の引き出しをあけ、拡大鏡を取り出して、その中の一枚をじっと見つめていたが、
「ちょっと、ここを見てみろよ、ポール」といった。
探偵は、掛けていた椅子から身を起こして、机に近づいた。ペリイ・メイスンは、その写真のある部分を指さした。
「うん」と、ドレイクがいった。「それは目覚し時計じゃないか。ベッドのそばの、スタンドの上にのってたんだな」
「そして、おれの聞いてるところでは、ポール、ベッドには人の寝た形跡はあったが、殺されたときには、モクスレイは、ちゃんと服を着こんでいたということだったぜ」
「そうだな」
「そうなると」と、メイスンは言葉をつづけて、「この目覚し時計の重要性が、二重の意味を持つことになるわけだ」
「なぜだね?」
「拡大鏡で、よく見てみろよ」
探偵はうなずいて、
「なるほど」といった。「はっきり目覚し時計は写っている。針まではっきり見える。三時十七分を指しているな。写真の右の隅にある数字は、警察の写真撮影技師が、カメラの位置や、露出時間や、そのほかの必要事項を記録したものだが、それによると、写真は三時十八分にとったことになっている。とすると、この目覚し時計は、警察の時間とくらべて、一分しか狂っていないことになるわけだ」
「それだけじゃない」と、ペリイ・メイスンが相手にいった。「もう一度、よく見てくれよ」
「いったい、何を見ろっていうんだ?」
「ようく見ると」と、メイスンがいった。「目覚し時計の文字盤の上のほうに、もう一つダイヤルが見えるだろう。目覚し用のダイヤルが」
「それが、どうかしたのか?」
「指針が、二時ちょっと前を指しているじゃないか」
「そうだ」と、ドレイクがいった。「モクスレイは、二時にローダ・モンテインと会う約束になっていたので、女が訪ねて来る時刻に目が覚めるようにしておいたんだろうよ」
「それでは、着替えの時間がないことになるじゃないか」と、メイスンがいった。「針の工合《ぐあい》から見ると、なんじゃないかな、二時に五分か十分前に、かけておいたのじゃないかね」
「おい、モクスレイは、ローダの亭主だった男だぜ。ローダにしたって、やつのパジャマ姿を、なんども見ているわけだぜ」
「おれのいう肝心の点が、まだ本当につかめていないようだな」と、写真のはしを、指でこつこつと叩きながら、メイスンがいった。「あの電話が鳴って、モクスレイの目をさまさせた。だから、目覚しなんか必要がなかったんだ。目覚しが鳴ったときには、もうすっかり、やつは着替えていたんだからな」
ポール・ドレイクのどんよりした目が、ペリイ・メイスンの顔を、じっと見ていた。
「どうも意味のわからんことが、いっぱいあるな」と、ドレイクがいった。「いったいなぜ、きみは、正当防衛だと主張しないんだ? おれは、べつに依頼人の秘密をもらせっていってるわけじゃないが、もし、ローダが、本当のことをきみにいったのだとすれば、もみ合っているはずみに、火掻き棒でモクスレイを殴ったと、はっきり、きみにいったのだろう。それなら、陪審員に事実を信じさせることは、それほどむずかしいことじゃないと、おれには思えるんだがね。つまり、正当防衛じゃないか」
ペリイ・メイスンは、ゆっくりと首を左右に振って、
「そいつは危険なんだ」といった。「すべての真相を見きわめぬ前に、弁護の方針をきめてしまうのは、危険なことなんだ」
「しかし、正当防衛論のどこが、弁護の方針としていけないんだ?」と、探偵がたずねた。
「まず第一に」と、弁護士が答えた。「ローダが、亭主に麻酔剤を飲ませたという一件がある。問題はこれさ。それぞれの事件にあたって、陪審員がどう考えるか、あの連中の気持ちの動きくらい微妙なものはないんだぜ。そこで、弁護士というものは、陪審の心理学とでもいうようなことを心得ていなくちゃならない。それに、その心理の動きを予測するということが、常に生易《なまやさ》しいことではないと来ているんだからね。ところが、この事件で、一つのまずい点は、例のイプラールの瓶《びん》なんだ。カール・モンテインの妻が、看護婦あがりだという事実と、その麻酔剤を入れた飲物を、亭主の手に渡したという事実は、今後、この殺人事件について、いろいろのことが明らかにされるだろうが、どんな発見よりも、ローダに不利な先入観を、陪審員に与えることになるんだ。その上に、正当防衛なんかを主張したりしたら、いちおうは殺人行為を自認することになるじゃないか。目下の情勢では、かならずしも、検察側は、ローダの犯行だと立証できるとは、おれには思えないんだからね」
「しかし、凶行のときに、あの女が、現場に居合わせたことは、検察側でも容易に立証できるぜ」と、ドレイクがいった。「凶行が二時前後に行なわれたことは、疑問の余地がない。正確にいえば、二時から二時二十分までの間、隣りの夫婦者が、警察へ知らせる気になったときまでだ。ローダ・モンテインが、深夜に家を抜け出して、モクスレイのアパートヘ行ったことは、はじめからわかりきっている結論だ。ローダが現場にいたという事実は、ガレージの鍵が現場に落ちていたことで、はっきりと証明できることだ。自宅を出るときには、ガレージの鍵を持っていたから、ガレージのドアがあけられた。その鍵を、現場に落として来た。だから、かりに、ローダが自ら手を下して殺したのでないとしても、陪審員は、ローダが凶行のときに現場に居合わせたと信ずるにちがいないし、犯人を知っているにちがいないと思うだろうね」
「それがかんじんな点だよ」と、ペリイ・メイスンは、ゆっくりといった。「おれにも確信はないんだが、ローダは、確かに誰かをかばっているのかもしれないんだ」
「どうして、そんな気がするんだ」
「ドアの握りに、指紋が残っていない事実からね」と、メイスンがいった。
「ローダは、手袋をはめていたんだぜ」と、相手の注意をうながすように、探偵がいった。
「うむ、はめていたら、どうなんだ? もし、ローダが手袋をはめていたとすれば、指紋は残らないということになるわけだろう?」
「そうだ。だから、警察では、ひとつも指紋が発見できなかったじゃないか」
「それなら」と、メイスンは、執拗にいいつづけた。「手袋をはめていたために、指紋が残っていなかったとすれば、ローダには、指紋のことなんか心配する必要なんかないじゃないか」
「そりゃ、どういうことだ?」
「つまり、女が手袋をはめていれば、指紋が残らないのはあたりまえのことだ。しかし、ドアの握りにも、凶器にも、ぜんぜん指紋がないということは、誰かがぼろ布れで、一つ残らず指紋を拭きとったということだ。すると、誰かがそういうことをしたという唯一の理由は、証拠になる指紋がそこにあって、拭きとったということだ。手袋をはめていた人間には、指紋が残るはずもないのだから、そんなことを心配する必要はない──なにも、わざわざ拭きとったりする必要はないはずだ」
ドレイクは、額《ひたい》に八の字を寄せて、じっと考えこんだ。
「すると、それを調べさせようというんで、おれを電話で呼んだんだね」と、ドレイクがいった。
ペリイ・メイスンは、また床の上を歩きはじめた。と出しぬけに、衣装戸棚の戸をあけて、帽子を取り出し、しっかり頭にかぶりながら、意味ありげに、デラ・ストリートを見た。
「人身保護令状の申請書はできたかな。ぼくの署名をすればいいころじゃないかな」
デラはうなずくと、大手術の準備をする看護婦のように、無言で、てきぱきと動きまわっていたが、やがて、一枚の書類を手にしてもどって来た。
「これが、署名をいただく最後のページですわ」と、デラがいった。
ペリイ・メイスンは、のたくるようにサインをして、
「すぐに提出して」といった。「判事から令状をもらってくれ。後の手続は、きみにまかせる。ぼくは、出かけるからね」
「長くかかるのかい?」と、ポール・ドレイクがたずねた。
ペリイ・メイスンは、すごい微笑を浮かべて、
「いや、ただほんの」といった。「クロード・ミルサップ医師にあたってくるだけだ」
第九章
ミルサップ医師の看護婦は、柳眉《りゅうび》を逆立てて、
「そこへおはいりになってはいけません」と、荒々しい声でいった。「そこは、ミルサップ先生の私室なんですから。お約束のない方には、お会いにならないことになっているんです。ご診察をお望みでしたら、あらかじめお打ち合わせを願います」
ペリイ・メイスンは、じいっと相手を見つめて、
「ぼくは、女と喧嘩するのは、あまり好きじゃないんでね」といった。「いまもいったように、ぼくは弁護士で、ある重大な用件で、ミルサップ先生に会いたいんだ。きみは、ただ、ミルサップ先生に、ペリイ・メイスンという者が、ミルサップ名義で登録されている三二口径のコルト自動拳銃《オートマチック》のことで会いたいといっていると、取り次げばいい。その間、きっちり三十秒だけ待つが、後は、遠慮なくはいって行く、と、そういってくれたまえ」
看護婦の目に、狼狽《ろうばい》の色がありありと浮かんだ。ちょっと躊躇《ちゅうちょ》していたが、くるっと身をひるがえすと、ミルサップ医師の私室のドアをあけて中にはいると、ことさらにぴしゃっと大きな音を立てて、ドアをしめた。
ペリイ・メイスンは、腕時計を見ていた。
正確に三十秒経つのを待ってから、つかつかとドアに近づき、握りをひねって、ドアを押しあけた。
ミルサップ医師は、白衣姿で、凹面鏡を皮バンドで額につけているのが、いかにも医者らしい様子に見せていた。室内には、消毒薬の匂いが漂っていて、ガラスのケースの中では、外科道具がぴかぴかと光っている。あいたままの戸口から、ずらっと並んだ本棚が見え、その反対側には、タイル張りの手術室がちらっと見える。
看護婦は、片手をミルサップ医師の肩にかけていた。目を大きく見開いて、医師にもたれかかるようにしていたが、ドアのあく音を聞くと、くるっと振り向いた。目には、怯えたような色が浮かんでいる。
ミルサップ医師の顔も、病人のようにまっ白だった。
ペリイ・メイスンは、無言のまま、毅然《きぜん》とした態度で、うしろ手にドアをしめた。
「失礼します」と、ゆっくりと、メイスンがいった。「時間が惜しいものですからね。むだな挨拶は抜きにしますよ。あなたに、いらん嘘を考え出すひまなんか取らせたくないし、わたしも、それが嘘だと証明するようなむだな時間を費《ついや》したくないものでね」
ミルサップ医師は、むっとして肩をいからした。
「あなたは、いったい誰だか知らないが」と、ミルサップ医師がいった。「また、なんのために、ことわりもなしに、ここへ押し入って来られたのか、まったく了解に苦しむだけです。出て行ってもらいましょう。それとも、警官を呼んで、つまみ出してもらうことにしますか」
ペリイ・メイスンは、両脚をひらいて仁王《におう》立ちになっていた。顎《あご》を挑戦するように突き出して、冷やかな目で、じっと相手を見据えていた。まるで頑丈な花崗岩に根が生えたように──がっしりと、挺《てこ》でも動かないというようだった。
「その電話が警察に通じたら」と、メイスンはいった。「どういういきさつで、一九二九年の二月に、グレゴリイ・ロートンという男の、贋《にせ》の死亡証明書を書いたかということを証明するんだね。それからまた、どういういきさつで、ローダ・モンテインに三二口径の自動拳銃《オートマチック》を与えて、グレゴリイ・モクスレイという男を射撃しろと指示したかということも説明してもらいたいものだね」
ミルサップ医師は、乾ききった唇に沿って舌を走らせて、必死になった目を、看護婦のほうに向けて、
「メーベル、席をはずしてくれ」といった。
看護婦は、しばらくもじもじとして、敵意に満ちた目で、ペリイ・メイスンを見つめていたが、やがて、メイスンの傍を通りぬけてドアから出て行った。
「邪魔がはいらないように気をつけてくれ」と、脇を通りぬけて行く看護婦に、メイスンが声をかけた。
ばたんと、控え室のドアが音を立ててしまったのが、その答えだった。
メイスンは、あらためてミルサップ医師と視線を合わせた。
「どなたです、あなたは?」と、ミルサップ医師が、不安そうな顔でたずねた。
「ローダ・モンテインの弁護士だ」
一瞬、ほっとした色が、ミルサップ医師の顔に浮かんだ。
「ローダが、ここによこしたのですね?」
「いいや、ちがう」
「ローダは、どこにいます?」
「逮捕されてるよ」と、メイスンは、ゆっくりといった。「殺人容疑でね」
「いったいどうして、あなたは、ここへ来られるようなことになったのです?」
「理由は簡単さ。さっきいった死亡証明書とピストルの件の説明が聞きたくて来たのさ」
「おかけなさい」と、ミルサップ医師はいいながら、急に膝の力が抜けてしまったように、へたへたと椅子に腰を落とした。「ちょっと待ってくださいよ」と、ミルサップ医師はいった。「ロートンという男ですね……なにしろ、たいへんな数の患者ですからね、いきなり名前をいわれても、すぐに頭に浮かんで来ませんが、記録を調べれば、たぶん、わかると思いますがね。一九二九年とかおっしゃいましたね?……なにか特別な事実を思い出してくだされば──」
メイスンの顔が、怒りで紅潮した。
「しらを切るのはやめてもらおう!」と、メイスンが強い口調でいった。「きみは、ローダ・モンテインと親しい仲だ。どの程度親しいかは知らんがね。ローダが、グレゴリイ・ロートンと結婚して、そのロートンが行方をくらましたことぐらい、きみは、よく知っているはずじゃないか。その上、ある事情から、ローダが離婚を欲していなかったことも知っていたはずだ。ところで、一九二九年の二月二十日、ある患者が、肺炎でサニーサイド病院に入院した。入院書類に書かれた名前は、グレゴリイ・ロートンというのだった。担当の医師は、きみだったが、患者は、二月二十三日に、死亡した。きみは、死亡証明書に署名しているはずだ」
ミルサップ医師は、もう一度、唇をなめた。目は、ありありと狼狽の色を浮かべていた、
ペリイ・メイスンは、左の腕をぐいと突き出したと思うと、ことさららしく肘《ひじ》を曲げて、腕時計の文字盤を睨みながら、
「十秒待つ」といった。「それから、はっきりいいたまえ」
ミルサップ医師は、大きなため息をついた。早口に、怯え切った言葉が、ホースから出る水のように、その唇から流れ出した。
「あなたには、なんにも事情がおわかりになっていないのです。もし、おわかりになっていれば、そんな態度はおとりにならんでしょう。あなたは、ローダ・モンテインの弁護士でいらっしゃる。わたしは、ローダの親友です。あのひとを愛しています。この世のなににもまして、あのひとのことを気にかけています。あのひとに、会って以来、ずっと愛しつづけているんです」
「いったいなぜ、死亡証明書にサインしたんだね?」
「そうすれば、あのひとが生命保険金がとれるからです」
「生命保険に、なにかまずいことでもあったのかね?」
「グレゴリイ・ロートンの死亡を証明することができなかったからです。なるほど、遭難した飛行機に、グレゴリイが乗っていたという噂はありました。航空会社の記録を調べても、その飛行機に乗る切符を買ったことはわかりましたが、確かに、その飛行機に乗っていたということは、決定的には証明できなかったのです。発見された死体も、男の死体が一つ発見されたほかには、なんにもなかったのです。ですから、保険会社のほうも、それだけでは証拠として取り上げられないというのです。あちらこちらの弁護士に相談しても、七年の法定期間を待って、夫の死亡確認の訴訟を起こすより方法はないだろうということでした。が、ローダの気持ちとしては、それまでグレゴリイとの結婚が継続しているという、そういう状態には、とうてい耐えられないというのです。かといって、離婚を求めようとすれば、グレゴリイの生存を認めることになって、むろん保険金は取れません。ローダには、どうしたらいいかわからなくなってしまったのです。自分では、未亡人だという気がしていたのです。グレゴリイが死んだということについては、一点の疑いも持ってはいなかったのです。
そのとき、わたしにある考えが浮かんだのです。わたしの勤務している病院に、入院を申しこんでいる施療患者の数はたいへんなものでした。大部分の者が瀕死《ひんし》の重病でいながら、みすみす治療を受けられないでいる状態なのです。たまたまその中に、年齢といい、背恰好《せかっこう》といい、グレゴリイ・ロートンと瓜《うり》二つの男が、入院許可を得ようとしているのを、わたしは見つけました。病気は肺炎でしたが、まず助かる見込みはないと見受けられました。わたしは、その男に、もしきみが、グレゴリイ・ロートンだと名乗って、両親の氏名、住所等にも、ロートンのそれと同じのを申し立てて申請することに同意してくれるのなら、すぐに入院の許可が下りるようにしてやろう。それというのも、すでに、そのグレゴリイ・ロートンという男が、入院許可をとっているのだから、きみに振りかえれば、ことは簡単に運ぶのだと、まあこんなふうに教えてやったのです。
その男は、よろこんで、わたしのいう通りにしました。いろいろ問われたのですが、いわれた通りに答えたものですから、病院の記録は、グレゴリイ・ロートンの結婚許可証に記載されたものと同一になったのです。お断わりしておきますが、病院では、この男のために、あらゆる手当てを尽しました。その点は誓って申し上げることができます。死期を早めるようなことは断じてしませんでした。もし、その男が全快すれば、ほかにもまだ不幸な男は大勢いるのですから、同じ手を使って、誰か不幸な男が一人、死ぬのを待てばいいと思いました。しかし、最善を尽したにもかかわらず、結局、その男は死にました。わたしは、死亡証明書を作成しました。それから数週間後に、人口統計局に問い合わせて見て、グレゴリイの死亡の事実を知ったということを、ローダが弁護士に知らせました。弁護士は、その間の事情はなにも知らず、善意で手続きをとってくれました。さっそく保険会社と折衝し、その結果、会社は、保険金を払ってくれました」
「保険金額は、どれくらいだった?」
「大した金額ではありません。そうでもなければ、あれほど易々とは払ってもらえなかったでしょう。たしか総額で千五百ドルぐらいのものじゃなかったでしょうか」
「その保険契約は、ロートンがローダを受取人に指定してあったのだね?」
「そうです。ロートンは、二人がお互いに受取人になる保険にそれぞれ加入するほうがいいと、ローダを説き伏せて保険契約をしたのでした。そのときのロートンの話では、自分はローダを受取人として、五万ドルの保険に加入するつもりで交渉中だが、いろいろな手続上の問題があるので、調査が終わるまで、とりあえず千五百ドルだけ契約しておくと、そういう話で、ローダには、ロートン自身を受取人として一万ドルの契約をさせてしまったのです。もちろんこれは、ローダの貯金を持ち逃げしそこなった場合に、ローダを殺して、保険金をとろうというもくろみだったにちがいありません」
「もちろん、グレゴリイは、ローダの金を持ち逃げした後は、保険料の支払いなんかはしていないんだろうね?」と、ペリイ・メイスンがいった。
「そうですとも」と、ミルサップ医師がいった。「その千五百ドルの保険というのも、単なる口実だったのです。たぶん、契約したことさえ忘れてしまっていたでしょうね。ただ一回掛け金を払っただけで、行方をくらましてしまったのです。それで、ローダが代わって、掛け金を払いつづけて来ました。飛行機の事故は、最初の掛け金を払ってから二、三か月しか経たぬうちに起こったのですが、死亡証明書が受理されたのは、一年ほどしてからでした。事故発生の直後に申し出ていれば、たいした、ごたごたもなく保険金の支払いを受けられたと思うのですが、ところが、ローダのぶつかった係員が、ひどくやかましい男だったとみえて、ひどく手間《てま》がかかってしまったのです」
「それから、どうしたね?」
「それから、かなり長い間待たされて、わたしの書いた死亡証明書によって、ローダは、やっと保険金を受け取りました」
「きみは、その前からローダを知っていたんだね?」
「そうです」
「結婚の申し込みもしたろうね?」
ミルサップ医師は、さっと顔を赤らめて、
「そんなことまでお答えする必要があるんですか?」とたずね返した。
「あるとも」と、メイスンがいった。
「では、お答えしましょう、しました」と、ミルサップ医師は、反抗するような声音《こわね》で答えた。
「結婚してくれと、ローダにいいました」
「なぜ、ローダは応じなかったんだろうね?」
「あのひとは、二度と結婚する気にはなれないと、きっぱりいいました。男性に対する信頼感をなくしてしまったのでしょうね。清純な、なんの汚れも知らない娘だったあのひとを、グレゴリイ・ロートンが結婚を餌に裏切ってしまったのです。そのロートンの背信が、ローダの感情までも萎縮《いしゅく》させてしまったのです。それ以来ローダは、病人の看護を天職として、一生を捧げる決心を固めてしまったのです。だから、いまさら、あのひとの心に、恋愛などという感情のはいりこむ余地はなくなってしまったのです」
「それがまた青天の霹靂《へきれき》のように、百万長者のひとり息子と結婚したというんだね?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「そういう言い方は不愉快ですね」
「どこが、なぜ、不愉快なんだね?」
「百万長者のひとり息子という言い方ですよ」
「だって、そうなんだろう?」
「それはそうですが、そういう理由で、ローダは結婚したのじゃありません」
「どうして、そんなことがわかるんだね、きみには?」
「あのひとの人柄も、結婚の動機も知っているからです」
「じゃ、なぜ、結婚したんだね?」
「抑圧された母性コンプレックスのせいなんです。母性愛をそそぐ対象がほしかったのです。そして、あの金持ちの両親を持った虚弱な息子に、精神分裂の徴候を見せはじめていた青年に、求めていた相手を見つけただけなのです。青年のほうも青年のほうで、ちょうど生徒が先生を見るように、また子供が母親を見るような気持ちで、ローダを尊敬していたのです。青年は、それを恋愛だと感ちがいしていたのです。ローダには、その感情の正体がわからなかったのです。ただにわかに、じっと抱きしめて面倒を見ることのできるものがほしくなったということだけ、ローダは感じていただけなんです」
「むろん、きみは、その結婚には反対したんだろうね?」
ミルサップ医師の顔は、まっ青だった。
「むろんです」と、苦悩のにじみ出た声で、ミルサップ医師はいった。
「なぜだね?」
「ローダを愛しているからです」
「ローダが幸福にはなれないと考えたんだね?」
ミルサップ医師は、うなずいて、
「幸福になれるわけがないじゃありませんか」といった。「あのひとは、自分の感情に対して正直じゃないのです。自分の感情の心理的な意味というものがわからないのです。あのひとが本心から求めているものは、愛し、かつ尊敬のできる男性なんです。子供さえうめば、あのひとの母性愛のはけ口などは、自然にできるにきまっているのです。長年の間、自然の性的感情を抑圧して来たので、最後にはとうとう、抑圧された母性コンプレックスが、弱い、生活能力のない男を求める、どう抵抗しようもないほどの欲求を、あのひとに与えてしまったのです。そういう男を世間の荒波から守ってやって、じょじょに一人前の男に仕立ててやりたいと望むようになったのです」
「それを、ローダに聞かせてやったのかね?」
「いってみました」
「いくらか、きみの意見がわかったかね?」
「いいや」
「ローダは、なんといったね?」
「今後は、ただの友だちとしてつきあうが、それ以上は望まないでくれ、あなたは嫉妬しているからそんなことをいうのだと、そういわれました」
「それで、きみは、どうしたね?」
ミルサップ医師は、大きなため息をついて、
「こういう事柄を、見ず知らずの人と話し合うのは、あまり感心しませんね」といった。
「感心しようとしまいと、そんなことはどうでもいい」と、相手の顔から目を離さずに、ペリイ・メイスンはいった。「その先きを話したまえ。さっさと話すんだ」
「わたしはローダを、自分の生命以上に愛しています」と、ミルサップ医師は、不承不承といった口振りで、ゆっくりといった。「あのひとを幸福にするためなら、どんなことでもするつもりでいます。わたしは、なに物にもかえられないほど、あのひとを愛していますが、その愛は、利己的な愛ではありません。自分の幸福のために、あのひとの幸福を犠牲にしようなどとは思いません。もし、あのひとが、ほかの誰よりもわたしと結婚することによって幸福になれるものなら、わたしにとって、これ以上、世の中にすばらしいことはないといってもいいでしょう。反対に、わたしと結婚するよりも、ほかの男と結婚するほうが幸福になれるのなら、わたしは、いつでも、いさぎよく手を引くつもりでいました。だって、わたしにとっては、あのひとの幸福がまず最初の問題だったからです」
「それで、きみは、身を引いたというんだね?」と、メイスンがたずねた。
「ええ、それで身を引いたのです」
「で、それから?」
「で、ローダは、カール・モンテインと結婚しました」
「それはべつに、きみとローダとの友情の妨げにはならなかったというんだね?」
「いいえ、すこしもなりませんでした」
「そこへ、ロートンが姿をあらわしたんだね」
「そうです。ロートン、またの名モクスレイと、どちらをお呼びになっても結構ですが」
「やつは、なにを要求したんだね?」
「金です」
「なんの理由で?」
「誰かが、やつを脅迫していたらしいんです。詐欺罪でぶた箱送りにするぞといって」
「どんな詐欺か、きみは、知っているのかね?」
「知りません」
「脅迫していた相手は知っているのかね?」
「知りません」
「やつが要求していた金額は?」
「即金で二千ドル、後金で一万ドルです」
「それを、ローダに要求したんだね?」
「そうです」
「で、ローダはどうしたね?」
「可哀そうに、どうしてよいかわからなかったのです」
「なぜ、わからないのだ?」
「なにしろ、あのひとは、結婚したばかりの身で、長年抑圧されていた感情が、ふたたび芽を吹きはじめていたところなんです。あのひとは、死ぬほど夫を愛していると思いこんでいました。自分の生命は、すっかり夫の息の中に包まれていると思いこんでいたのです。そこへ、いきなり、あの思うだけでもけがらわしい下司《げす》野郎があらわれて、金をよこせといい出したのです。与える必要のない金です。しかし、よこさなければ、保険金詐取と、重婚のかどで逮捕させると、そういって脅かしたのです。いやそれどころか、金をやらなければ、やつは、そんなことをする前に、直接カール・モンテインにかけ合って、金を絞りとる男だということは、あのひとには、よくわかっていたのです。モンテインという男は、自分の名前が新聞に出ることを、ひどくおそれているような男なんです。モクスレイという男は、じつに悪賢い男で、モンテインが家名というものに、どんなに愚劣なコンプレックスを持っているかということも、モンテインの父親が、どんなに世間体を気にする俗物根性の男かということも、ようく知っていたのです」
「それで、どうなったのだね?」と、メイスンが聞きただした。
「それで、ローダは、モクスレイに面とぶつかって、すぐに姿を消さなければ、逆に、自分の金を横領したかどで訴えるからといったのです」
「きみが、そういえと勧めたんだね?」
「そうです」
「それで、場合によったら、モクスレイを殺してしまえと、きみは、ピストルを、あのひとに渡したんだね?」
ミルサップ医師は、はげしく左右に、首を振って、
「とんでもない。ピストルを渡すことは渡しましたが」といった。「それは、万一の場合に、身を守るために持っていてもらいたかったからです、このロートンとか、モクスレイとかいう男は、どんなことでも平気でやりかねない男です、これと思ったことをやるためなら、嘘もつけば、盗みもする、人殺しもする悪党だということを、わたしはよく知っていました。せっぱつまって、金に困っていることもわかっていました。それで、ローダを一人で会いに行かせるのが、不安でたまらなかったのです。しかも、モクスレイは、誰もつれて来るなと条件をつけているので、わたしがついて行くこともできなかったのです」
「それで、ローダに、ピストルを渡したというのだね?」
「そうです」
「じゃ、ローダがモクスレイに会いに行くことは知っていたんだね?」
「むろんです」
「ゆうべ、ローダが会いに行くことも知っていたんだね?」
ミルサップ医師は、不安そうに、きょろきょろとその目を動かした。椅子の中で、もじもじと体を動かした。
「知っていたのか、いなかったのか、どっちなんだ?」と、メイスンが畳みかけるように、たずねた。
「知りませんでした」と、ミルサップが答えた。
メイスンは、ふんと、鼻の先で笑った。
「もし」と、かくべつに怒った様子もなく、メイスンがいった。「証人席に立ったとき、もうすこしじょうずに嘘がつけなければ、ローダのための立派な証人にはなれないぜ」
「証人席ですって!」と、驚いて、ミルサップは叫んだ。
メイスンは、うなずいた。
「とんでもない、証人席に立つなんて、わたしにはできません! ローダのために証言をしろとおっしゃるんですね?」
「いいや、ちがう。地方検事が検事側の証人として、ローダに不利な証言をする人間として、きみを喚問するだろうといっているのさ。検察側としては、できるだけ、ローダ・モンテインに不利な心証をでっちあげようとする。まず最初に、殺人の動機を明らかにしようとするだろう──例の保険金を詐取した事実を隠すために殺人を計画したということも、ローダの場合には、立派な動機と認められるだろう。したがって、偽の死亡証明書のことも、保険金詐取の共謀のことも、検事は取りあげるだろう。そうなったら、きみの立場がどういうことになるか、きみにもわかるだろうね」
ミルサップ医師の口が、じょじょに、あんぐりとあいた。
ペリイ・メイスンは、相手の様子をじっと見つめていた。
「きみは、ローダが午前二時に、グレゴリイ・モクスレイに会いに行くことを知っていたんだろう、ドクター?」
ミルサップ医師は、青菜に塩の様子で、
「知っていました」といった。
ペリイ・メイスンは、ゆっくりとうなずいて、
「そういうふうに」といった。「正直にいってくれたほうがいいんだよ。ところで聞くが、ドクター、きみは、夜中の二時に、どこにいたんだね?」
「もちろん、自宅で寝ていました」
ペリイ・メイスンは、無表情な声でいった。「証明できるかね、寝ていたって?」
「世間ふつうのひとができる程度にはできます。ベッドにはいって、朝まで、ずっと眠っていました。ふつう、誰だって、ベッドにはいるときまで、アリバイの用意はしませんからね。そんな事情ですから、わたしのお答えで十分だと思うんですがね」
「それはそうだろう、ドクター」と、メイスンは、ゆっくりと、いかにも意味ありげな口調でいった。「地方検事が、午前二時にかかって来た電話の件について、きみや、きみのところの日本人の召使いに訊問さえしなければね。日本人の召使いの言葉によると、きみは──」
ミルサップ医師の顔色が、あまりはげしく変わったので、ペリイ・メイスンは、思わず中途で言葉を切って、
「え」とたずねた。「その点はどうなんだ?」
「驚きました!」と、ミルサップがいった。「いったいどうして、地方検事は、あの電話のことを知っているんでしょう? あの電話が、万に一つも事件に関係があるなどと、わたしには信じられませんがね。召使いの話では、どこかの酔払いが、公衆電話からかけて来たようだということでしたがね」
「どうして、酔払いだと、召使いにはわかったんだね?」
「わたしにはわかりませんが、酔払ったような声をしていたからでしょうね。わたしが知ってることは、わたしが帰宅したときに……いや、つまり……」
「さあ」と、弁護士が、すかさず促がした。「事実を話してもらおうか」
医師の口から、立て板に水のように、言葉がほとばしり出た。
「わたしは、あの場所へ行きました。でもそれは、二時ではなく、もっと後のことでした。ベッドにはいったものの、目が冴えて、どうしても眠れませんでした。ローダが約束通り、きっと、グレゴリイのアパートに出かけて行くにちがいないと思っていたからです。腕時計を見て、いまごろ、ローダはどうしているだろうか、だいじょうぶだろうかと、そればかり考えていました。とうとう、わたしは起きあがって、服を着ると、ノーウォーク・アベニューへ車を飛ばしました。横町に、ローダの車がとまっていました。モクスレイのアパートを見あげると、窓という窓は全部、まっ暗でした。ベルを鳴らしましたが、誰も返事をするものもありません。わたしは、ずうっとベルを押しつづけました。
それでも、答えがないので、急に心配になって来ました。ローダの車さえとまってなければ、モクスレイがぐっすり眠っているのだと思ってしまったでしょう。わたしは、建物の裏手にまわって、どこかはいる戸口でもないかどうか見てみようと決心しました。しかし、家の前に車をとめておきたくなかったので、そのブロックを一まわりしたところに車をとめ、路地づたいに、どっちかというとのろのろと歩いて戻って来ました。すると、モクスレイのアパートに電灯がついているのです。さっき鳴らしたわたしのベルで、モクスレイが目をさましたのだなと思って、横町を通り越してアパートの玄関にもどると、またベルを鳴らしてみました。そのときになって、気がついて見ると、ローダの車が見えなくなっていました」
「ベルを鳴らしていたとき」と、メイスンがいった。「きみは、通りに面した小さなポーチに立っていたんだろうね?」
「そうです」
「二階で、ベルの鳴るのが聞こえたかね?」
「いいえ、聞こえませんでした」
「なにか、争っているような音が聞こえなかったかね?」
「いいえ、なんにも聞こえませんでした」
ペリイ・メイスンは、眉を寄せて考えこんでいた。
「これから、ぼくのいうことは他言無用にねがいたいんだ」と、メイスンがいった。
「なんでしょうか?」と、ミルサップ医師がたずねた。
「きみは、どうも体がよくないらしいね」と、ペリイ・メイスンがいった。
「ああ!」と、ミルサップが答えた。「むりもないと思いませんか? ローダから、ロートンが生きていて、この市にいると聞いて以来、ここ数日、この問題で頭を悩ましつづけていたのです。毎晩、ろくに眠ることさえできないし、食事だって、咽喉《のど》を通らぬくらいで、頭までがぼうとして、考えをまとめることもできないし、診察の仕事だって手につかないくらいです。わたしにはもう──」
「だから、ぼくがいったろう」と、相手の言葉を遮って、ペリイ・メイスンがいった。「どうも、きみは体の工合がよくないって」
「むろん、顔色がよくないでしょう。気分だって、よくないんですから。気が狂いそうなんです!」
「それで」と、ペリイ・メイスンがたずねた。「いまのきみのような精神状態で──そう、顔色も、きみのようによくない患者が診察を求めて来たら、きみは、どうしろと、その患者にいうだろね?」
「なにを、おっしゃろうというんです?」
「たぶん、長い船旅でもしろと、そう勧めるんじゃないのかい?」
「たしかに、転地療法をすすめるでしょうね。わたしにしても──」
言葉の途中で、ふいに、ミルサップは話をやめ、だらんと口をひらいた。
「いまもいったように」といいながら、ペリイ・メイスンは、やおら立ち上がった。「この件に関しては、他言無用にねがいたい。といって、ぼくは医者じゃない。ごく自然に見せるためには、誰か親しい医者と相談してみるんだね。なにも、きみの心配ごとまで打ち明ける必要はないが、ただ、病気じゃないかと心配しているといえばいいだろう。船旅なんかどうだろうかと、それくらいまでたずねてみてもいいだろう」
「つまり」と、ミルサップ医師が、ゆっくりとたずねた。「警察の手の届かぬところへ行けとおっしゃるんですね? しかし、そんなことをすれば、ローダをただ一人、事件の渦中に残して逃げ出すことにならないでしょうか?」
「ローダに関するかぎり」と、メイスンがいった。「きみがこの町にいることは、害にこそなっても、役に立ちはしない。だが、断わっておくが、ぼくの意見は、ローダとは無関係だからね。ただ、きみの健康が気になるから言ったまでだ。たしかに、きみの顔色はよくない。目の下に隈《くま》ができているし、態度だって、神経を侵されていることは疑う余地がない。ぜひ、評判のいい医者のところへ行って、診断してもらいたまえ。ぼくの名刺を渡しておくから、その間に、なにか起きたら、すぐに電話したまえ」
メイスンは、ミルサップ医師のデスクの上に、名刺をおいた。
ミルサップは飛び上がって、メイスンの手を握ると、はげしく上下に振った。
「いろいろありがとうございます、先生。わたしの考えもつかなかった案です。じつに、この上なしの案です」
メイスンは、なにかいいかけたが、控え室のほうから、押し殺したような物音が聞こえて来たので、口をつぐんだ。二人の耳に、看護婦の抗議しているような声が聞こえた。
ペリイ・メイスンが、ぐいとドアをあけた。
例の飛行場で、ローダ・モンテインを逮捕した二人の刑事が、ぎょっとした様子で、弁護士の顔を見つめた。やがて、刑事たちは、ミルサップ医師のほうに、目を移して、
「なるほど、なるほど」と、一人の刑事がいった。「よく、うろつく男だな」
ペリイ・メイスンは、ミルサップ医師のほうに頭を下げて、
「ありがとうこざいました、先生」といった。「ご丁寧に診察していただいて、安心いたしました。その代わりといっては失礼ですが、もし、弁護士にご用がおありの節は、遠慮なしに、わたくしにお電話してください。念のために申し上げておきますが、このお二人さんは、殺人犯課の刑事さんです。ついでながら、弁護士としてご注意申し上げておきますが、お答えになりたくないことは、一言だってお答えになる必要はありませんから。それから──」
「それくらいでいいだろう」と、一人の刑事が、挑むように進み出て、いった。
ペリイ・メイスンは、足をぐっと踏みしめ、肩をいからせ、ぐいと顎を前に突き出し、花崗岩のようにきびしい目で、小馬鹿にしたように刑事たちを、じっと見つめて、
「それから」と、ペリイ・メイスンは、言葉をつづけた。「弁護士が入用になりましたら、デスクの上に、わたしの電話番号がありますから、すぐに連絡をおとりください。この連中は、どんな用向きで来たのか知りませんが、わたしがもし先生の立場なら、まず、どんな質問にも答えませんな」
メイスンは、刑事たちを押しのけて、後を振り返ろうともせずに出て行った。二人は、そのメイスンを、ちょっと睨みつけるように見ていたが、やがて、つかつかと、ミルサップ医師の私室にはいって、ぴしゃんとドアをしめた。
外の控え室では、ミルサップ医師の看護婦が、デスクの上に肘を曲げ、そのなかに顔を埋めて、啜《すす》り泣いていた。ペリイ・メイスンは、しばらくの間、その姿を見つめて、大きく額に皺《しわ》を寄せた。それから、控え室のドアをぬけると、音のしないように後のドアをしめた。
第十章
朝の太陽が、ペリイ・メイスンの事務所の窓からさしこんでいた。電話が鳴った。やせて、背の高い人の影が、廊下に向いたドアの曇りガラスにうつると、把手がまわって、ポール・ドレイクが部屋にはいって来た。デラ・ストリートが、せわしげな指先きで、電話交換台にプラグを差し込んだ。
ペリイ・メイスンが、奥の事務室のドアをあけて、顔を出した。
「先生、お電話です」と、電話を指さして、デラ・ストリートがいった。
メイスンは、にやっと、探偵に笑顔を見せた。
「重要な用件かどうか、聞いてみてくれ、デラ」と、メイスンは、デラにいった。
ポール・ドレイクが、新聞を二枚、メイスンのほうにさし出して、
「知ってるかい?」とたずねた。
なんだいと、口に出してたずねる代わりに、メイスンは、無言のまま、ぐいと眉をあげた。
ドレイクは、まったくがっかりしたというような身振りをして、「女は、すっかりしゃべっちまったぜ」といった。
弁護士は、両足を大きく開いて立ったまま、じっと、探偵を見つめた。それから、ゆっくりと微笑を浮かべた。
デラ・ストリートが、耳にあてていた受話器を、がちゃんとおいて、ペリイ・メイスンの顔を見あげた。その顔は、怒りでまっ青になっていた。
「どうしたんだ、デラ?」と、メイスンがたずねた。
「警察本部からなんです」と、デラがいった。「刑事のやつったら──まるで、勝ったぞといわんばかりの満足そうな声で──きみのところの依頼人のローダ・モンテインが、いま検察庁で供述書に署名をおわったところだ。だから、いまからは、いつでも面会させると、こう先生にいえというんです。もう人身保護令状なんか申請する必要なんかない。第一級殺人のかどで起訴することになった。今後拘置所では、請求さえあれば、いつでも喜んで面会させるだろうって──その『喜んで』という言葉に、わざと力を入れて、皮肉な口調ったらないんですわ」
ペリイ・メイスンは、顔の筋肉ひとつ動かさずに、まじまじとデラを見おろしていた。
「なぜ」と、メイスンがたずねるようにいった。「ぼくを電話口に出させなかったんだ?」
「だって、あの刑事のやつ、嫌味《いやみ》をいって、先生をおこらせようとしているのが見えるようだったんですもの」と、デラがいった。
メイスンは、ゆっくりといった。「これから、そんな真似《まね》をするやつがあったら、きっと、ぼくを出させるんだよ。いいかい、忘れちゃいけないぜ、デラ。ぼくなら、ぎゅうの目もいえないように、とっちめてやるからな」
それからメイスンは、ポール・ドレイクのほうを振り返って、
「はいれよ、ポール」といった。
二人は、奥の事務室にはいって、ドアをしめた。ポール・ドレイクは、ぴしゃっと新聞紙をたたいた。
「詳しく出ているかい?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「ごまんとね。供述書の全文は発表してないが、どうやら、供述書にローダの署名がすむまでは、発表をとめられているらしいね」
「ローダは、どんなことをしゃべっているんだね?」と、メイスンがたずねた。
「こういっている。モクスレイが、彼女を恐喝しようとしていた。夜中の二時に、アパートヘ会いに来いと言い張ってきかなかった。そこで、亭主が眠っているあいだに家を抜け出して、モクスレイに会いに行った。しばらくのあいだ、玄関のベルを鳴らしていたが、誰もドアをあけるものがないので、あきらめて、車にもどって家へ帰ったというんだ」
「どんなふうにベルを鳴らしたか、そのことは言っていないかね?」
「うん、指をボタンにあてて押したというんだ。たぶん、モクスレイがぐっすり眠りこんでいると思ったものだから、指をあてたまま、数秒間、鳴らしつづけたらしいね」
「そこで」と、ペリイ・メイスンがいった。「警察は、ガレージの鍵のことをとりあげて、突っこんで来たのじゃないか。家の中にはいれなかったのに、どうして、鍵がモクスレイのアパートに落ちていたのかって」
「まさにその通りだ」と、ドレイクがいった。「そこで、女の弁明はこうだ。その日の午後早く、アパートヘ行ったというんだ。そして、鍵をおとしたのは、そのときで、ずっと後になるまで気がつかなかったというんだ」
メイスンは、にこっと笑ったが、その笑いは、陽気な微笑ではなく、歪んだような苦笑だった。酸っぱいレモンをかんだときに見せる、あのしかめっ面《つら》だ。
「そうして、いっぽう」と、メイスンがいった。「カール・モンテインは、こう主張しているだろうな。つまり、夕方、自分の車をしまったときには、ガレージの鍵をかけておいた。だから、ローダが夜中に出かけたとすれば、鍵を持ってなければ、ガレージはあかなかったはずだとね。そしてローダ自身が、車の中にハンドバッグを忘れて来たので、就寝前に、もう一度、外に出て、自分の、つまりカールの鍵でドアをあけて、ハンドバッグを取って来たと、そういっていたと、そう主張しているんだろうな」
「なあに、だいじょうぶさ」と、はげますように、ドレイクがいった。「陪審員のうちには、ローダの言い分を信じる者だってあるさ」
「地方検察庁が、真相をつかんでしまったいまとなっては、もうだめだよ」と、ペリイ・メイスンが、ゆっくりといった。「まんまと、検察庁にひっかけられて、致命的なことをしゃべってしまったものだな、きみにもわかるだろう」
「おれには、わからんね」と、ドレイクは、飛び出した目で、メイスンの顔をじっと眺めながら、いった。
「わからんかね?」と、メイスンが指摘するようにいった。「ローダとしては、正当防衛を主張するのが、もっとも有力な線だったのだ。なにしろ、死人に口なしだから、ローダがなんといおうと、検察庁としては、ローダの主張に反駁を加える余地がないわけだ。だから、適当な時期に、適当な方法で、正当防衛の主張を持ち出せば、陪審員の同情と信頼をかち得るのは、まずまちがいのないところだったのだ。
ところで、新聞の記事によると、隣りに住んでいる連中が、凶行当時に、玄関のベルが鳴るのを聞いたというんだね。ローダも、そのことが頭にひっかかっていたのだね。そして、その玄関のベルを鳴らしていたのは自分だと主張すれば、なんとかうまく行くかもしれないと思ったのだね。ちょっと考えてみれば、非常にうまく行くような気がしたんだろうね。凶行当時、ポーチにいて、玄関のベルを鳴らしていたのが自分だと思わせることができれば、完全なアリバイがあるわけだからね。なるほど、この上なしの罠《わな》だったのに、まんまと、ローダはそれにひっかかってしまったんだ。
ところで、地方検事は、三発、彼女にお見舞いができるわけだ。まず第一は、時間の点からみて、その人物がローダではあり得ないと証明できるのだ。第二は、凶行現場から発見された鍵をとりあげて、ガレージのドアの鍵をあけた後で、モクスレイの部屋にいたのに相違ないと証明できる。第三に、これがいちばん危険なやつなんだが、実際に玄関のベルを鳴らしていた人物をさがし出して、ローダの主張を覆《くつがえ》すために証人席に立たせることができるということだ。
そうなると、正当防衛を主張する道はとざされてしまう。後はローダとしては、ぜんぜん現場には居合わせなかったという事実を証明するか、それとも、無実の罪をひっかぶって、第一級殺人罪を宣告されることになるか、そのどちらかになってしまうのだ」
ドレイクが、ゆっくりとうなずいた。
「おれも、そこまでは考えてはいなかった」と、ドレイクがいった。「しかし、言われてみれば、その通りだな」
デラ・ストリートがドアを細目にあけて、ペリイ・メイスンの私室に、そっとはいって来た、
「お父さまが」と、デラがいった。「おいでになっていますわ」
「誰だって?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「シカゴの、C・フィリップ・モンテインさんです」
「どんな男だい、デラ?」
「口では、ちょっと説明しにくい方ですわ。六十はとっくに越していると思うんですけど、目なんかちっとも霞んでいなくて、まるで鳥の目みたいに、きらきら光ってますわ。まっ白い口ひげを短く刈りこんで、薄い唇を、まっすぐに、きゅっとしめて、ポーカー・フェイスですわ。仕立てのいい服を着て、目がさめるような様子で、堂々たる風采ですわ」
メイスンは、ちらっと、デラ・ストリートからポール・ドレイクに目を走らせて、ゆっくりといった。「この男の扱いを、まちがっちゃいけないぞ。いろいろな意味で、事件の鍵を握っているのも、この男なんだし、財布の紐を握っているのも、この男だ。ぼくとしては、この男からローダの弁護料を吐き出させるように持って行きたいんだ。しかし、デラ、いまのきみの話では、ぼくの頭に浮かんでいたイメージとはぜんぜん合わないね。ぼくは、自分の経済的地位を利用して、他人を支配するのを当然と思っている、横柄《おうへい》で、自分勝手な男だと考えていたんだ。そこで、相手を気狂いのように怒らせて、お前さんが後生大事にしているモンテインの家名が、新聞紙上で物笑いになるのを防ぐには、ローダを助けるしかないのだぞと、ちょっぴりおどかして、悟らせてやろうと思っていたんだ」
メイスンは、黙りこんでいるデラ・ストリートの顔を、じっと見つめて、
「どうだね」といった。「なんとかいったら」
デラは、首を振って、笑って見せた。
「いってみたまえ」と、弁護士はいった。「きみは、他人の性格を読みとる名人じゃないか。その男が、きみにどんな印象を与えたか、聞いてみたいね」
「あなたのおっしゃるようには扱えないと思いますわ、先生」と、デラがいった。
「なぜだね?」
「なぜって」と、じっとメイスンの顔を見ながら、デラはいった。「冷静で、理知的な人物のようだからですわ。なにもかも計算を立てているというか──自分の考えた通りに行動しようとするんですわ。肚のなかではなにを思っていらっしゃるのかわかりませんけど、先生があの人をどう扱おうかと考えていらっしゃるように、向こうでも先生をどう扱おうかと、きっと考えていらっしゃると思いますわ」
メイスンの目が、きらりと光った。
「オーケー」と、メイスンがいった。「それならそれで、ぼくも、そのつもりで扱ってみせるよ」
メイスンは、ポール・ドレイクのほうを向いて、
「きみは、控え室を通って出ていったほうがいいな、ポール。そうすれば、通りがけに、親父の顔が見ておけるからな。後で、後をつけてもらうことになるかもしれないから、どんな顔の男か知っていてもらいたいんだ」
ドレイクはうなずいた。おどけたようなドレイクの顔を、苦笑いが通りすぎた。ゆっくりドアのところまで行って、ドアをあけ、あけた戸口に立ち止まって、
「先生、たいへんどうもありがとうございました」といった。「いろいろご忠告をいただきまして。いずれ、またなにか問題が起きましたら、お知らせにまいります」
そんなことをいって、ドレイクは、ドアをしめた。
メイスンは、デラ・ストリートとまっすぐに顔を合わせて、
「デラ」といった。「ぼくは、その男をすこし手あらに扱ってみるからね。おそらく、自分がいかに重要な人物であるかということを、山ほど聞かせるつもりで来たんだろうからね。だから、やつを出し抜いてやろうと思うんだ、そして──」
控え室との間のドアがまたあいて、ポール・ドレイクが、顔を出して、早口にまくし立てた。
「先生、聞き忘れたことが、一つあるんですが、お差し支《つか》えはないでしょうね」
ドレイクは、大股に戸口を通ると、ドアをぴたりとしめたと思うと、長い脚で、ペリイ・メイスンのデスクまで、わずか四歩で近づいた。
「いつこの市に来たか、はっきりあの野郎に聞くがいいぜ」と、ドレイクは、早口でいった。
「あの親父のことだね?」とたずねるメイスンの目は、びっくりした色を浮かべていた。
「うん」
「おそらく、新聞で殺人事件のことを読んでから出て来たんだろう」と、メイスンがいった。「息子の話では、親父は、重要な金融上の取り引きで忙殺されていて、シカゴを離れられないということだったから──」
「あの控え室に来ている男が」と、ポール・ドレイクが相手の言葉を遮って、いった。「C・フィリップ・モンテインなら、やつは、モクスレイが殺される前から、この町に来ていたんだぜ──事件の後じゃないよ」
メイスンは、口をすぼめて、低く口笛を吹いた。
ドレイクは、デスクの上に体を乗り出して、いった。「おぼえているだろう、ローダ・モンテインが、はじめて、この事務所から出て行ったとき、あの女をつけている男があるのにおれが気がついて、しばらく、その後を、おれがつけたということを?」
「すると、なにかい」と、メイスンがたずねた。「そのつけていたのが、その親父だというのかい?」
「いいや、つけていたのは、この男じゃないが、そのとき、このビルの前の歩道ぎわにとまっていた車に乗っていたのが、この男なんだ。なにしろ、あまり見違えるような目つきの代物《しろもの》じゃないからな。やつは、ローダ・モンテインを見ていたし、その後をつけている男も見ていたし、このおれも見ていた。三人の間につながりがあると思ったかどうか、おれにはわからんがね」
「まちがいないだろうね、ポール?」
「絶対にないね」
「しかし、息子の話じゃ、親父はシカゴにいるといっていたがね」
「息子が嘘をついていたか、親父が嘘をついていたか、どっちかだろうね」
「おそらく、親父のほうが嘘をついていたんだろうな」と、メイスンがいった。「息子じゃない。親父がこの町に来ていることを知っていたら、はじめてこの事務所に来るとき、カールは、親父をつれて来たはずだ。自分の道徳説に味方してもらうためにもね。あのカールという男は、なにをするにも寄っかかる人間がなくてはいられないタイプの人間だ。いままでずっと、親父におぶさって来た男だ。だから、親父のほうで、息子にはないしょでこの町に来ていたんだろうな」
「なぜ、そんな真似をしたんだろうね?」と、ドレイクがたずねた。
「わからんが、たぶん、さぐり出せるだろう。やつは、きみの顔を見たかい、ポール?」
「むろん、見たさ。それどころか、おれの顔をおぼえていたと思うね。もっとも、おれは澄ました顔をしていたから、おれのほうで気づいたとは知らないだろう。ただの依頼人だと、おれのことを思っているだろう。じゃ、行くぜ。きみがやつに会う前に、知らせておきたかったんで、ちょっと戻って来たのさ」
メイスンが、ゆっくりといった。「なあ、ポール。この野郎は、モンテインじゃないのかもしれないという解釈もあるな」
探偵は、その通りだというように、ゆっくりとうなずいた。
「でも、先生」と、デラ・ストリートが問いかけた。「偽物が、なぜ、会いに来たんでしょう?」
メイスンは、すごい、陰気な声を立てて笑った。「そりゃね、ぼくが、親父に圧力をかけると、地方検事が考えたからだろうね」と、メイスンがいった。「そこで、地方検事は偽物をよこして、ぼくがどう出るか、見ようとしているんじゃないかね」
「まあ、そうですの」と、デラが訴えるように、「だとしたら、十分気をおつけになってくださいましね、先生!」
「ということは」と、考えこみながら、探偵がいった。「あの男が、地方検察庁から来たことになるし、殺人事件の起こる前から、地方検事がローダをつけさせていたことになるだろう、ペリイ。あの男の正体を見届けてから、こっちの肚を見せたほうがよさそうだぜ」
メイスンは、ドアのほうを指さして、
「よしわかった、ポール。うまく出て行ってくれ」
探偵は、もう一度、ドアをあけると、話の途中でドアをあけたといった恰好《かっこう》で、いった。「……それを伺って安心しました。前からその点が気がかりだったのですが、お心にとめていただいておることがわかりました。たいへんありがとうございました、先生」
ぱたんと、ドアがしまった。
デラ・ストリートの目が、訴えるように、ペリイ・メイスンの顔を見ていた。
弁護士は、ドアのほうへ行くように、身振りでデラに合図をして、
「あまり待たすわけにはいかんよ、デラ」と、メイスンがいった。「さもないと、相手は怪しむだろう。おそらく、フィリップ・モンテインも、ポール・ドレイクの顔をおぼえているだろうから、当然、ポールが一度戻って来たのも、ぼくになにか知らせるためだなと思っているだろう。さあ、ドアをあけて、モンテイン氏を通したまえ」
デラ・ストリートは、ドアをあけて、
「モンテインさん、先生がお目にかかるそうです」といった。
モンテインは、部屋にはいって来ると、頭を下げて、微笑を浮かべたが、手は差し出そうともしなかった。
ペリイ・メイスンは立ったまま、椅子をしめした。モンテインは、黙って椅子に腰をおろした。メイスンも腰をおろすと、デラ・ストリートが、控え室との間のドアをしめた。
「むろん」と、モンテインが口を切った。「わしがここへ来たわけは、ご存じだろうな」
メイスンは、相手の警戒心を解くように、率直な態度で話しかけた。
「よくいらっしゃいました、モンテインさん。あなたとは、お話し合いをしたいと思っていました。しかし、ご子息からは、きわめて重大な金融上の取り引きのことで手がふさがっておいでになると伺っておりましたが、殺人事件のことをお聞きになって、なにもかも投げすてて、こちらへおいでになったとみえますね」
「さよう。特別に飛行機を借り切って、昨夜おそく着きました」
「カール君にお会いになりましたでしょうね?」と、メイスンがたずねた。
モンテインの目が、つめたく光った。
「たぶん、先生」と、モンテインがいった。「最初にこちらの用向きをいって、その後で、質問してもらうことにしたほうがよくはないでしょうかな」
「結構です」と、メイスンがあっさりといった。
「お互いにざっくばらんに話し合うことにしよう」と、モンテインがいった。「わしは、銀行家でな、商売がら、交際する弁護士は、どれも商法専門の法律家ばかりだ。この連中は、実業界との関係をうまく利用して、せいぜい有利な投資を計ろうとしておるような者ばかりでさ。だから、刑事関係の弁護士となると、じつは、あんたが最初にお目にかかったようなものでしてな。
あんた方刑事専門の弁護士のほうが、わしが交渉を持つ民事専門の弁護士にくらべて、いろんな点で、はるかに敏腕だということは、わしもよく承知しておる。ことに、あんたは、少々腕が利きすぎるという評判は、わしの耳にもはいっておる。近年、とかく犯罪が増大する傾向にあるのも、辣腕《らつわん》をふるいすぎる刑事弁護士に、なんらかの責任があるといえんこともなさそうだ。
まあそれはそれとして、伜《せがれ》があんたに相談をしたそうだが、やつは目下、妻の容疑を晴らそうというんで、やきもきしておるらしい。だが、あれもモンテイン家の一員である以上、虚偽の陳述をするということは、このわしが承知できん」そこでモンテインは、言葉に重みをつけるために、ちょっと一息入れた。「たとえ、どんな犠牲を払ってでも、伜には、ただ正直な事実だけを述べさせるつもりである」
「まだ、なんにも要点はおっしゃっていただけませんようですな」と、メイスンがいった。
「わしは、一般的な心構えを論じておるんだがね」
「お互いにいそがしい体ですから、心構えなんか論じるのは、やめてください。そんな必要はないでしょう。それよりも、要点にはいっていただきましょう」
「よろしい。伜は、あんたに妻の弁護をお頼みした。むろん、あんたは、その報酬の支払いを望んでおるじゃろうが、伜名義の財産といっては、なにもないことはご承知じゃろうな。したがって、あんたの心のどこかには、わしの懐《ふところ》をあてにしているのじゃろうと、わしはにらんでおる。わしだって、それくらいのことがわからんほど馬鹿ではなし、きみだって、そうだろう。
わしは、伜の判断をとやかくいっておるのじゃない。むしろ、なかなかすばらしい弁護士を選んだものじゃと、感心しておるくらいじゃ。だが、わしという人間を甘く見ないでおいてもらいたい。一定の条件のもとでなら、ローダ・モンテインの弁護料として、喜んで、相当の謝礼を支払うつもりでおる。その代わり、その条件がいれられなければ、一セントといえども払うことはお断りする」
「どうぞ」と、メイスンがいった。「その先きをおっしゃってください」
「残念ながら」と、モンテインは、白い口ひげの先きを、しばらく噛んでいてから、また言葉をつづけた。「わしの口からは、その条件はいえん。じつは地方検察庁から、とろうとしておる方針の一部を教えてくれたのじゃ。むろん、わしとしては、その信頼を裏切るような真似《まね》をして、その方針を明かすわけにはいかん。しかし、いっぽう、あんたという人は、きわめて鋭敏な人物じゃということも、よく承知しておる」
「それで、なんです?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「それで」と、モンテインがいった。「その方針がどういうものであるか、わしの口からはいえんが、あんたのほうで、検察庁の方針を察してくれておるとあれば、お互いに率直に、この件を話し合えるというものだが」
ペリイ・メイスンは、指の先きで、こつこつとデスクを叩くような恰好《かっこう》をして、
「たぶん、こうおっしゃりたいんでしょう」といった。「ご子息とローダが夫婦であるかぎりは、検察側としては、カール君を証人として申請することができない。そこで、検察側では、まず両者間の結婚無効の判決を得ようという気でいるのだと」
モンテインの顔に、微笑がひらめいた。
「ありがとう、先生」と、モンテインがいった。「まったく、ありがとうというしか言葉がない。わしは、あんたの口からそういうことをいってもらいたかったのだ。無効訴訟に対するわしの立場も理解してくださるだろうな」
「あなたは」と、メイスンがいった。「ご子息が、身分違いの女と結婚したと考えておいでなんでしょう?」
「その通り」
「なぜです?」
「伜は、ただ金目あての女にひっかかったんだ。過去の生活もいかがわしいばかりか、いまだに前の亭主とも、こっそり会いつづけておる。そればかりか、ほかにも親しい仲の医者までがいる」
「医者との仲が怪《あや》しいと思っているんですね?」
「怪しいとは言っておらんがね」
「そうじゃないかと思っておられるんですね」
「どっちにしろ、先生、そんなことは、むしろ問題外じゃないのかな? あんたが質問をされたから、わしは、率直に肚の中を述べたまでのことさ。おそらく、あんたは、わしのこういう感情には同意せんじゃろう。だが、たとえそうであっても、あんたの質問は、事実よりもむしろ、わしの感情をきいたものなんだからな」
「わたしが、いまの質問をした理由は」と、メイスンがいった。「あなたの態度というものを、はっきり胸にたたみこんでおきたかったからです。見受けるところ、あなたは、ご子息の結婚を無効にしたいと望んでおいでになる。あなたがわたしに望んでおいでになることは、いっぽうでは、ローダ・モンテインの弁護に全力を尽しながら、いっぽうでは、その結婚無効確認の訴訟に反対しないと、約束することなんですね。その上に、ご子息が検察側の証人として出廷したときに、反対訊問で、ご子息が法廷中の物笑いになるような訊問の仕方はしないでおいてくれるように、わたしに期待しておいでになる。こうした点について協力するとわたしが約束すれば、多額の謝礼を払ってもよい。が、協力しなければ、一セントだって払わん、と、こういうわけですね?」
モンテインは、ちょっと困ったような様子で、
「なかなか、あんた、はっきりものを言うね」と、用心深くいった。
「だが、まちがってはいないでしょう?」と、メイスンがたずねた。
モンテインは、メイスンの目を見つめて、
「いかにも」といった。「まちがってはおらん。しかし、わしがお支払いしようと思って、どのくらいの謝礼を用意して来たかは、むろん、あんたはご存じないわけだ。が、わしの考えでは、これは世間の相場をとびぬけた大金だ。どうだね、わしの気持ちを了解してくれるかね?」
ペリイ・メイスンは、右の拳を握りしめると、ゆっくりとデスクを叩いて、自分の言葉に強いアクセントをつけた。
「あなたという人間が、これでよくわかりました。あなた以上にわかったつもりです。あなたは、ローダ・モンテインを抹殺してしまいたいのだ。もし、ローダが、地方検事提出の、カール君との結婚無効の訴訟にうんといえば、殺人事件からまぬがれるようにローダに手をかそう。しかし、あくまでもローダが結婚の合法性を主張するなら、殺人罪の判決がくだるようにして、ローダを抹殺してしまおうと企んでいる。
カール君は、弱い、女のような性格です。あなたは、むろん、それをよく知っているし、わたしも知っている。もし、ローダが無罪釈放されて、なおカール君の妻としてとどまることになれば、あなたにとっては目ざわりな存在になる。だから、ローダが進んでカール君をあきらめるというのならば、弁護の金を出そうという。しかし、どこまでもカール君と離れないというのなら、地方検事と肚をあわせて、殺人犯人として、ローダに有罪の判決がくだるようにしようと考えている。あなたという人は、自分の目的を果たすためには、どんな残忍な手段にも出ることができる恐ろしい冷血漢ですな」
「その批評は」と、モンテインは、冷やかにいった。「すこし当を失してはいないかな?」
「いや」と、メイスンがいった。「そう思いませんね」
「わしは、酷にすぎると思うね」
「それは、たぶん」と、メイスンがいった。「あなたが、自分自身に対して正直じゃないからでしょうね。こういう思いきった手段に出る気になった、その決心や動機を、反省していないからですよ」
「わしの提案に対するあんたの回答を聞くために、わしの動機まで論じ合う必要があるのかね?」
「ありますとも」
「わしには、理由がわからん」
「というのは」と、メイスンがいった。「あなたの動機が、わたしの考えを左右するほどの重要な意味を持つかもしれないからです。その点については、これから論じますがね」
「あんたはまだ、わしの提案に対して、協力してくれるともくれんとも、答えてくれてはおらんがね」
「わたしのお答えは」と、メイスンがいった。「はっきりとお断わりです。ローダ・モンテインの弁護を引き受けた以上は、どこまでもこの結婚が適法であることを主張して、ご子息の口を封じることが、ローダにとって、きわめて有利になることだと、わたしは考えています。ですから、婚姻無効の訴訟には、あくまで闘い抜くつもりでおります」
「おそらく、そうはいかんだろうね」
「おそらくね」
「地方検事も、そうはいかんという確信を抱いておる。伜の結婚は、法的にぜったい無効だと、検事はいうんだ。わしが、きょう、わざわざ訪ねて来たのも、いちおう、あんたの辣腕に敬意を表しただけのことだ」
メイスンは、にやりと笑って、
「わたしの手腕ですか、すばしこさですか?」とたずねた。
「辣腕といったんだがね」と、モンテインがいった。
メイスンは、ゆっくりとうなずいて、
「たぶん」といった。「辣腕かもしれないが、正しいことをする手腕もまんざら持ち合わせていないことはないと、いわせてもらいましょう。一例として、例のあなたの動機を分析する件に話をもどしましょう。あなたは、家名に誇りを持っておられる。もしも、ローダ・モンテインの結婚が合法的なものであって、しかも殺人罪で起訴されるとなれば、その家名にとって、これ以上の汚点はない。したがって、その場合は、当然、さきほどの提案は保留されるでしょう。が、もし、ローダ・モンテインがあなたのご子息の妻でなければ、殺人罪で有罪になろうがなるまいが、あなたの関知するところではない。が、その結婚が合法的なものであれば、ローダの無罪釈放をかちとるためには、全力を尽して運動をするでしょう。
あなたの提案は、ローダをモンテイン家から追っ払うためには、手段を選ばないということを示しています。ということは、ご子息の上におよぼしているローダの影響を、あなたが認めているからだと、わたしはいいたい。このことは、あなたも偶然に知ったのではないでしょう。直接に、カール君から知らせを受けたのに相違ありません。だから、わたしの推測では、あなたは、先きほどおっしゃったように、昨夜シカゴを立ったのではなくて、数日前からこの市に来ていて、そのことを、ご子息にもローダ・モンテインにもかくしていたのです。さらにいちだんと推測を進めるなら、あなたは、私立探偵を雇ってローダを尾行させ、ローダがどんな経歴の女か、現在はなにをしている女か、さらには、カール君が、実際にどれほどの影響を受けているかを、突きとめようとしていたのです。
さらに推測をたくましくすれば、カール君のために、別の結婚を考えているのでしょう。おそらく、あなたにとっても、財政的にきわめて重要な意義を持つ、いわゆる政略結婚というやつをね。だから、そうした結婚をさせるために、ぜひともカール君を、法律上、自由なからだに、あなたはしておきたいのだ」
モンテインは、すっくと立ち上がった。その顔には、また表情というものはなかった。
「あんたは、ずいぶん、いろいろなことを憶測しているようだが」と、モンテインはいった。「それはただ、わしの動機を分析していっておるのだね、きみ?」
「おそらく」と、メイスンがいった。「頭の中で考えていることを、口に出してしゃべっているだけでしょうね」
モンテインは、それでも穏かにいった。「たぶん、そうだろうね。すると、あれも奇妙な偶然ということになるのかね。さきほど、わしが控え室で待っておるさいに、あんたの部屋から出て来た探偵が急に引き返して、なにやらいっておったこともな。なかなか上手にふるまっておったことは、わしも認める。さりげなく、わしの顔を見て、通りすぎてから、急に用事を思い出して、あんたのこの部屋に引っ返したが、あれも、あの男には必要だったのだろうね」
「すると」と、メイスンがいった。「ローダ・モンテインを、ここへつけて来たのは、あなただったんですね」
「いい方はご勝手じゃが」と、モンテインがいった。「情報を集めておったと、ご訂正願いたい」
「ご子息は、そのことを、ご存じなんですか?」
「いいや」
「では、探偵を雇って、ローダ・モンテインを尾行させたんですね?」
「どうやら」と、モンテインがいった。「あんたの質問には、もう十分に答えたと思うがね。ただ、わしとしては、もう一度だけいっておきたい──というのは、あんたは、ローダの弁護料を正当にカールから引き出せると考えている。したがって、わしの申し出を拒絶しても、なんの損失もないと思っておるかもしれない。だが、はっきり申し上げておくが、カール名儀の財産はなんにもないのだから、わしの申し出を受諾しないかぎり、ローダのためのせっかくの骨折りに対する報酬も、まことに微々たるものだということをね」
「それでは」と、メイスンがいった。「いささか苛酷じゃありませんか?」
「わしは、生まれつき融通のきかん性《たち》でね、きみのいう意味がそれとすればな」
「そういう意味ではないんですが」
モンテインは、軽く頭を下げて、
「どうやら」といった。「われわれは、お互いによく胸の中がわかり合ったように思う。とにかくもう一度、よく考えてみることにしようじゃないか。いまこの場で、最後の返答をもらわなくてもいい。あんたは、頭はなかなかきれる人じゃが、かといって、わしを敵にまわすと、なかなか手におえんほうだからな」
メイスンは、廊下に通じるドアをあけて、それを手で押さえながら、
「最後の返事をさせてもらいましょう」といった。「闘いをお望みなら、受けて立ちますよ」
モンテインは、戸口に立ち止まって、「まあ、ひと晩寝て、とっくりと考えてみるんだね」と、後味を残すようにいった。
メイスンは、なんにもいわずに、ばたんとドアをしめた。
メイスンは、しばらく立ったまま、じっと考えていたが、やがて、つかつかと電話器に近づくと受話器をとりあげた。デラ・ストリートの声が聞こえて来ると、「デラ、ポール・ドレイクをたのむ」といった、
すぐに、電話が鳴った。メイスンは、早口にしゃべり出した。
「ポール」と、メイスンがいった。「早いとこ、やっつけなきゃならん。すぐに、とりかかってもらいたい。ところで、モクスレイってのは、詐欺師だったよ。やつは、女をひっかけるのが専門だったんだ。やつが殺されるちょっと前に、誰かやつに電話をかけた人間があったろう。あの電話の主は、どうやら逆に、やつに金を請求していたらしいんだ。まあ女と考えたらまちがいないだろう。必要な金を女からまきあげるのに、モクスレイという男は、結婚式まであげるやつだ。すくなくも一度は、そういう手を使ったということがわかっている。
モクスレイの前歴を洗っているうちに、やつが使っていたいろいろな変名が見つかるだろうが、それがわかりしだい、その変名と同じ名前を使った女が、最近この町に来て泊まったことがないかどうか、きみの部下に、ホテルや公民館を全部調べさせてくれ。警察がその情報をつかむ前に、モクスレイをゆすっていた人間を突きとめられるだろうな」
「なるほど、そいつはいい考えだ」と、ドレイクがいった。「モンテインのほうはどうする? 尾行をつけなくてもいいかい?」
「いや」と、メイスンがいった。「つけても役に立たんだろう。あのじいさんは、用意万端ととのえてから、この事務所へあらわれたんだろうからね。これからは、なんでも大っぴらに、正々堂々とやるだろう。尾行する気になれば、いつでもつけられるだろうが、なにも収穫はあるまい。われわれに知られてまずいところは、全部片づけてから、ここへ来てるよ」
「それで、おれのいう通り」と、探偵がたずねた。「あのじいさん、数日前から、この町に来てたんだろう?」
「そうだ」
「当人も認めたかい?」
「突っこんでやったら、やっと認めたよ。きみにも、ちゃんと目をつけていて、探偵だということも知っていた」
「ここへ来て、なにをしていたんだ?」と、ドレイクがたずねた。
「そいつは」と、メイスンがいった。「推測するしかないな。あんまりおしゃべりのほうじゃない。この事件には、われわれが考えている以上に、深い事情があるらしいよ、ポール」
「きっと、ローダをつけていたんだな」と、ドレイクがいった。「きみの事務所までつけて来たのも、それにちがいない」
「うん、そうだと思うよ」
「すると、カールが、きみを訪ねて来たとき」と、ドレイクがいった。「ローダが、きみを訪ねて来たことも、カールのやつは、親父から聞いて知っていたんだな」
「うん、知っていたんだろうな」
「とすると、親父と息子は、共同戦線を張っているってことだな」
「それは、まだ想像の域を出ないが」と、弁護士も賛成だという口調で、「しかし、そういった感じはするな、ポール。どうやら、われわれは手強《てごわ》いコンビを相手にまわしたらしいよ」
ドレイクの声には、しだいに興奮の調子がにじみ出て来た。
「おい、ペリイ」と、ドレイクがいった。「モンテインがローダをつけていたとすれば、当然、モクスレイのことを知っていたはずだぜ」
「知っていたとも」
「じゃ、きっと、夜中の二時に会う約束だったことも知っていたんだな」
「その点は認めなかったがね」
「きいてみたのか?」と、ドレイクが問いかけた。
ペリイ・メイスンは、声に出して笑いながら、
「いいや」といった。「だが、いずれきいてみるつもりだ」
「いつ?」
「適当なときにさ」と、弁護士が答えた。「きみは、いまのところ、モンテインのことは忘れたほうがいいぞ、ポール。あのじいさんなかなか頭はいいが、おそろしく冷酷な男だ。じいさんの頭にあるのは、家名の誇りというやつだけだ。そのためには、ローダ・モンテインの生命を犠牲にすることなんか屁《へ》とも思わない男だ」
「とにかく、やつからは目を離さんようにすることだな」と、ドレイクのほうから注意した。
「とんでもない!」と、メイスンが、大きな声でいった。「クリスマスに、子供はサンタ・クロースを追っかけて大騒ぎするが、おれは、それ以上に、あいつを追っかけまわしてやるつもりだ」
くっくっと笑いながら、メイスンは、電話を切った。
デラ・ストリートが、ドアをあけて、控え室からはいって来た。
「いま」と、デラがいった。「ローダさんあてに、書類が送達されて来ました。カール・モンテインから、ローダ・モンテインあての、婚姻無効確認の訴状ですわ。
それから、ミルサップ医師から電話がありました。警察で、一晩中締めあげられたが、ひと言ももらしませんでしたと、そう先生にお伝えしてくれということでした。だいぶ、得意のようすでしたわ」
メイスンは、重々しい口振りで、
「それですむと思ったら、大まちがいだ」といいながら、メイスンは、デラ・ストリートの差し出す書類のほうに、手を伸ばした。
第十一章
ペリイ・メイスンは、夜の暗闇の中を、足音を立てぬように、心を配りながら歩いて行った。コールモント・アパートの前まで来ると、立ち止まって、耳をすました。
ノーウォーク・アベニューには、どっしりとした高級住宅が、ひっそりと静まり返っている。ときどき、大通りのほうから、警笛の音や、夜道を急ぐ車の響きが聞こえて来た。夜遅くまで、どんちゃん騒ぎをしていた連中たちが、ふいに、あしたの仕事を思い出して、あわてて車を飛ばして家へ帰るのであろうか、深夜の大通りを行く車の数は、思ったほどすくなくはなかった。
コールモント・アパートメントの入り口は、まっくらで、物音ひとつしなかった。通りのすこし先きにあるベレイア・アパートメントは、間接照明の明かりに輝き、玄関や、郵便受けや、呼鈴や、通話管などが、その柔らかな光を受けて浮かびあがり、さらに、その光は、横町ひとつ隔てて、モクスレイが不慮の死にあった、この時代おくれのアパートの入り口まで達していた。
ペリイ・メイスンは、かれこれ五分ほど、うす暗がりに立って、パトロールの巡査の足音が聞こえないか、警察の無線カーが近くを走ってはいないか、と、注意して確かめた。
その日のまだ明かるいうちに、ペリイ・メイスンは、不動産の周旋業者と会って、この建物全部を借り受ける契約をすませていた。この建物の中の三戸とも、ここ数か月空いたままで、四番目のだけ、グレゴリイ・モクスレイが、一週間ごとの週ぎめ契約で、家具つきのまま借りていたのだ。時の流れに押されて、この旧式な造りのアパートメントは、やがては、取り毀される運命になっていた。アパートを借りるほどの人間は、もっとモダンなアパートを希望するようになっていたのだ。だから、建物の持ち主は、弁護士の代理の不動産周旋業者の口から貸借契約の申し込みを受けると、借り手の身許とか、その使用目的とかを、あれこれと細かく問いただすどころか、喜んで申し込みを受け入れた。
メイスンは、周旋業者から受けとった四個の鍵を、ポケットから取り出した。懐中電灯の光を上着でおおいかくしながら、鍵をひとつ選び出すと、そっと鍵穴にさしこんだ。そのままの姿勢で、もう一度、耳をすました。
車が一台、大通りを曲がって、四つ角を走り去った。その車が、つぎの角に行くまで待っていて、メイスンは、鍵をまわした。
かちっと音がして、ドアがあいた。ペリイ・メイスンは、暗闇の中に踏みこむと、うしろのドアをしめて、また鍵をかけた。
メイスンは、無用な音を立てないように、足もとに気をつけながら、階段の片側だけを踏むようにして、手さぐりで階段を登って行った。
殺された男が住んでいたフラットは、建物の二階の南側全部を占めていた。
街灯の光が窓越しにさし込んでいるので、家具の輪郭がぼうっと浮き上がって見える。
その部屋は、かつては寝室だったらしいのだが、現在は、居間に改造されていた。その奥は食堂で、さらにその食堂の奥に、台所と廊下とがあり、廊下づたいに、台所の裏にある寝室へ行けるようになっている。浴室は、その寝室からはいるようになっている。
ペリイ・メイスンは、警察の現場写真を片方の手に、もう一方の手にもった小さな懐中電灯で、その写真を照らしながら、静かに室内を動きまわって、ひとつひとつ家具を調べていた。そして、ベレイア・アパートのほうに向いた窓のところまで歩いて行った。
その窓は、いまはしまって鍵がかかっていた。ペリイ・メイスンは、それをあけようともしないで、窓際に立って、真向かいの、電灯ひとつついていないまっ暗なベレイア・アパートを眺めた。新聞で知ったベンジャミン・クランドール夫妻の住んでいるアパートだ。
ペリイ・メイスンは、後戻りして室内を突っきると、廊下へ出て、台所へはいって行った。
さがしていたものが、ガス焜炉《こんろ》の上のところに見つかった。
弁護士は、爪《つま》先き立ちで窓際に近づくと、注意深くカーテンを引きおろし、明かりが洩《も》れないように、床までカーテンが曲がらずにおりているかどうか確かめた。それから懐中電灯をつけ、ポケットから|ねじ《ヽヽ》まわし、|やっとこ《ヽヽヽヽ》、絶縁テープ、コードなどを取り出した。つづいてメイスンは、椅子を運んで来て、その上に乗り、懐中電灯の光の輸を、さきほど見つけたガス焜炉の上の壁にはめこんである電鈴にあてた。ことっという音も立てないように気をつかいながら、ペリイ・メイスンは、ねじを抜き、コードを切り、壁から電鈴をとりはずした。電鈴を手にして、入念にメイスンは調べていたが、やがて、椅子からおりると、懐中電灯の明かりで足もとを照らしながら、階段の降り口まで行った。そこには、この建物にはいって来たとき、小脇にかかえていた紙包みがおいてあった。
丈夫な紐《ひも》をほどいて、紙包みをあけると、四個のブザーが、中から出て来た。見たところは、ガス焜炉の上の壁からはずしたベルと、どう見ても恰好《かっこう》は同じだったが、はずしたほうのは、金属性の半球が二つ並んでいて、その間で鉄の舌が動いて音を立てる式のベルに対して、もう一つのほうは、コイルに電流が通じるとブザーが鳴り出すところが違っていた。
メイスンは、そのブザーを一つ手に持って台所にもどり、椅子に乗って、前の電鈴がついていたところに、そのブザーを取りつけると、注意してコードをつないだ。それから、椅子を元のところにもどして、カーテンをあげた。しばらく、その場で耳を澄ましていたが、やがて紙包みを取りあげると、爪先き立ちで階段を降りた。しばらく様子を窺《うかが》っていてから、ドアの鍵をあけて、そっと、つめたい夜気の中にすべり出た。
物音ひとつ聞こえない。そこで、メイスンは、いま出て来たドアに鍵をかけ、ポケットから別の鍵を取り出すと、こんどは階下のフラットのドアをあけた。
このフラットは、むうっとした、かび臭い──長いあいだひとが住まずに、ほったらかしにされていたことを告げる匂いが、強く鼻を襲った。
ペリイ・メイスンは、こんどはまっすぐに台所に行きベルを見つけると、前と同じようにして、ブザーと取り替えた。それから、カーテンを元通りにあげると、そっと夜の戸外に出た。
つぎに、メイスンは、モクスレイが殺されたフラットと向かい合った二階のフラットのドアをあけた。
そこでもすばやく、音を立てぬようにして、またもや呼鈴をはずしてブザーを取りつけた。そのフラットを出ようとしているとき、懐中電灯の光が、廊下の床に落ちていたマッチの燃えさしをとらえた。ポケット用の平たい束になったマッチからむしりとった蝋紙製のマッチだった。
板張りの廊下の上を、懐中電灯の光で照らして、すぐにメイスンは、またもう一本のマッチの軸を拾い、すこし行って、また一本拾った。
マッチの燃えさしを追って行くと、裏手のポーチに出た。そこには、このアパート全体の電流のヒューズを入れた函が取りつけてあり、またそこは食料品や野菜類を配達してくる場所でもあった。
メイスンは、モクスレイが住んでいた南側のフラットからも、同じようなポーチ式のプラットフォームが張り出しているのに気がついた。身の軽い男なら、そのポーチの間の距離なんかわけなく飛び越えられるだろうし、そこから手すりを伝って、モクスレイのフラットの裏手に出れば、廊下と台所をぬけて、モクスレイが殺された寝室へ忍びこむのは、まことに容易な仕事だと思われた。
メイスンは、隣りのポーチに飛び移った。そこでもまたマッチの燃えさしを見つけた。その上、隅のところには、マッチをむしり取った後の空箱が捨ててあった。
垂れ蓋《ぶた》が、マッチをおおうようになっている蝋製のマッチだ。
この空箱の裏には、五階建てのビルディングの絵が印刷してあって、その下には、『センタービル最高の、パレス・ホテルヘどうぞ』と書いてあった。
ペリイ・メイスンは、その空箱をハンカチでくるんで、たいせつそうに、そっとポケットに入れた。それから、来た通りの道順で引っ返すと、階上のアパートを後にして、まだ残っている階下のアパートにも、ちょっと立ち寄った。こうして、メイスンがその建物を出たときには、そのビルディングには、ただ一個の電鈴もなくなっていた。四軒のアパートのどの家にも、ブザーがつけられてしまった。
メイスンは、四個のベルを、丈夫な、茶色の包装紙に注意深くくるみ、しっかりと紐《ひも》で結んだ。耳を澄まして、あたりに人の気配のないことを確かめると、玄関の暗がりから歩道に出た。
第十二章
ペリイ・メイスンは、ぐっと胸を張って、新鮮な朝の空気を思いきり吸った。小さなメモ帳を見ながら、番地を調べていた。が、やがて、小さな商店のガラス窓に出ている看板を見つけて立ちどまった。看板には、『オーチス電気商会』と書いてあった。
メイスンがドアを押しあけると、店の奥で、ベルの鳴る音が聞こえた。両側に、電球や、ブラケットや、スイッチや、コードなどの電気器具類を山のように積みあげたカウンターとカウンターの間に、メイスンは立っていた。頭の上の天井からは、さまざまのシャンデリアだの、間接照明器具だのがぶらさがっていた。
奥のドアがあいて、若い女が、愛想笑いを浮かべて出て来た。
「シドニー・オーチスさんにお目にかかりたいんですが」と、ペリイ・メイスンがいった。
「なにか売りに来たの?」とたずねる女の顔から、愛想笑いが消えていった。
「弁護士のペリイ・メイスンが会いたいといっていると、とりついでくれたまえ」と、メイスンがいった。
奥の部屋から騒々しい音がした。なにかが床の上に落ちた音だ。急ぎ足の音が、床に響いたと思うと、オーバーオールを着て、がっしりした大柄の男が、若い女を押しのけるようにして出て来た。ペリイ・メイスンの前に立ち止まると、タバコの|やに《ヽヽ》で汚れた歯をむき出しにして、にやにやと相好をくずした。
シドニー・オーチスは、二百ポンドはたっぷり越えていそうな体重の持ち主だった。それも、むやみに肥っているほうではなく、均斉がとれて、引き締った体つきで、律気な正直者らしい感じが、からだ全体からにじみ出ていた。腕は肘《ひじ》のところまでむき出しで、油のしみをいっぱいにつけていた。そのオーバーオールは、どう見ても、いままでに一度も洗濯桶につけられたことがなさそうな代物《しろもの》だが、メイスンを迎える態度は、肚の底からうれしそうだった。
「やあ、これは、ペリイ・メイスン先生!」と、オーチスはいった。「これは光栄の至りですね! わたしのことを先生がおぼえていてくださるなんて、夢にも思いませんでしたよ」
メイスンは、心からの笑い声を立てて、
「ぼくはいつだって、自分の手がけた事件の陪審員になった人のことは忘れませんよ、オーチス君」と、メイスンがいった。「元気ですか?」
そういって、メイスンは、手を差し出した。
大男は、手を出しかけて、ちょっとためらっていたが、やがて仕事着の膝で、その手をこすってから、あらためてメイスンの手を握った。
「こんなうれしいことはありませんや、先生」と、急にはにかんだような口調で、いった。
「じつは、きみに頼みたいことがあって来たんだが」と、メイスンが、相手にいった。
「遠慮なくいっておくんなさい。なんだってやらしていただきますぜ」
ペリイ・メイスンは、ちらっと意味ありげに、そばの若い女に目をやった。
大男の電気屋は、ぐいと顎で奥のほうを指して、
「あっちへ行ってろ、バーティ」といった。「メイスン先生と仕事の話があるんだ」
「だって、父さん、あたしまだ──」
「つべこべいわずに、さっさと引っこんでろ」と、オーチスは、店じゅうに響きわたるような声でどなったが、顔だけは、にこにこと笑っていた。
娘は、ぷうっとふくれ面をして、足を引きずりながら、しぶしぶ店の奥へ引っこんで行った。ばたんとわざとらしい大きな音を立ててドアがしまり、娘が話し声の聞こえないところへ行ってしまったとわかると、オーチスは、物問いたげな顔を弁護士に向けた。
「きみはいま、どこに住んでるんだね、オーチス君?」
相手は、言い訳でもするように目を伏せて、
「前にはアパートの二階を借りていたんですが」といった。「どうにも、このところひどい不景気でね、とうとう、そこはたたんでしまいました。いまじゃ一部屋だけ借りましてね、女房と下の娘を、そこに住まわせて、わたしは上の娘とこの店に泊まりこんで、娘に店の手つだいをさせているって始末で、奥にベッドを持ち込みましてね、そこで、わたしが寝て──」
「ぼくは、この間、六か月契約でアパートを借りたんだが」と、ペリイ・メイスンがいった。「急につごうがあって、住めなくなったんだ。それで、きみが引っ越すつもりはないかと思ってね」
「アパートですって!」というオーチスの顔から、急に微笑が消えた。「とんでもありませんや、先生、わっしなんかに、アパートなんて、とても──」
「家賃だったら」と、ペリイ・メイスンがいった。「六か月支払い済みだ。なかなか、いいアパートだぜ」
オーチスは、額に八の字を寄せて、
「いったい、どういうわけなんです?」とたずねた。
「そのアパートというのはね」と、ペリイ・メイスンがいった。「最近、ある男が、そこで殺されたんだ。たぶん、きみも新聞で読んだと思うが、ノーウォーク・アベニュー、三一六番地のコールモント・アパートのBフラットでね、そこで、ケアリーという男が殺された。それが、その男の本名でね、殺されたときは、モクスレイという変名を使っていたんだ」
「ああ、それなら読みましたよ」と、オーチスがいった。「なんとかって女がつかまったっていう話でしたね? シカゴの金持ちの細君だとかが」
メイスンは、うなずいた。
しばらく、二人は黙りこんでいたが、やがてまた、弁護士は、低い声で話をつづけた。「もちろん、オーチス君、きみの家族の人たちには、そこで人殺しがあったなんて教える必要はないさ。黙っていたところで、気がつくかもしれんし、近所の連中が話して聞かせるかもしれない。が、そのときはそのとき、もう引っ越して落ちついてしまった後だから、きみさえ頑張って動かなければいいだろう。とにかく、なかなか気持ちのいい、小ぢんまりとしたアパートで、家族の人にも気に入るだろうと思うよ。南向きで、陽あたりもいいしね」
「へえ、そいつはすばらしいでしょうね」と、オーチスがいった。「でも、なぜ、そんなにしてくださるんです、あっしに、先生?」
「というのはね」と、ペリイ・メイスンがいった。「きみにしてもらいたいことがあるからさ」
「はて、なんでしょう?」
「そのアパートに引っ越したら」と、ペリイ・メイスンは、はっきりと相手の頭に叩き込むような口調でいった。「それも、きょう、引っ越してもらいたいんだが、そうしたら、そのアパートについているベルを取りはずして、きみの店にあるものと換えてもらいたいんだ」
電気屋は、眉を寄せて、いった。
「玄関のベルを取りはずすんですか?」
「ベルがついているか、ブザーがついているか」と、メイスンがいった。「どっちがついているかはわからないが、どっちにしろ、それを取りはずして、別の物と代えてもらいたいんだ。きみが取りつけるドアベルは、ぜひ、きみの店の在庫品でなくちゃいけないよ。正札もきみのところのがついたままにしておいてほしいし、取り換えるときには、最低二人の人間が、その場に立ち会っているようにしてもらいたい。二人の立会人は、なんなら、きみの家族の者でもいいが、かならずその二人に、きみが取りつけているところを見せておいてもらいたい。なぜ、きみが取り換えるかという理由は、誰にも知らさずにおいてもらいたい。いまついているベルなりブザーなりが、気にくわんからとでもいえばいいだろう。そうだ、音が気に入らんとかなんとか、そんなことをいえばいいさ」
「ブザーをつけちゃ、お気に入らないんでしょうね?」と、迷って、オーチスがたずねた。「いま、ブザーがついていても、やっぱり、新しいブザーをつけるんですか?」
「いや、やはりベルをつけてくれ。きみの店の在庫品から持って行ってつけてくれ。いいかい、ベルをつけるんだよ、ブザーじゃないよ」
電気屋はうなずいた。
「それから、もう一つ」と、メイスンがいった。「いま取りつけてあるベルなり、ブザーなりは、ぜひ、保存しておいてもらいたいんだ。それから、取りはずしたら、なにか目印をつけて、後でそれと見分けがつくようにしておいてもらいたい。たとえば、わざと|ねじ《ヽヽ》まわしをすべらせて、エナメルの上に、長い引っかき傷をつけるとか、それもできれば、まあ偶然についたように見えるもので、後日の証拠になるものがいいんだ。わかったね?」
オーチスはうなずいて、
「わかったと思います」といった。「だけど、その話は本当なんでしょうね?」
「もちろんさ。家主にも六か月分、前払いで渡してある。もし、誰かに、いったいなんだってそんなアパートを借りたのかときかれたら、前から家族を入れておく、日当りのいいアパートをさがしていたんだが、高い家賃を払うのは困るし、どうしたものかと思っていたところへ、このアパートで人殺しがあったと新聞で読んだので、ここなら安く借りられると思って、さっそく交渉してみたんだといえばいいだろう。これが、そのアパートの鍵だ。この五十ドルは、引っ越しの費用。家具付きだが、きみの荷物を入れる場所は、十分にある」
大男の電気屋は、手で振るような恰好をして、小さくたたんだ五十ドル紙幣を押し返した。
メイスンは、むりにも受け取らせようとして、
「これは、みんな取り引きなんだよ、オーチス君」といった、「きみは、ぼくのためにしてくれるんだから、ぼくの志を受けとってくれたまえ」
オーチスは、しばらくの間、どうしたものかと迷っているようだったが、急に、額に皺を寄せて、
「あの事件には、なにかあったんじゃなかったんですか?」といった。「たしか、凶行時間に、隣りに住んでいる人が、玄関のベルが鳴るのを聞いたとかということでしたね?」
ペリイ・メイスンは、じっと相手の顔から目を離さずに、
「そうだよ」といった。
オーチスは、にやりと笑って、手をのばして、五十ドル紙幣を受けとって、
「頂戴《ちょうだい》しますよ、先生、きょう中に引っ越します」といった。
第十三章
ポール・ドレイクが、ペリイ・メイスンの事務所の控え室に腰を落ちつけて、デラ・ストリートと無駄話をしていると、メイスンがドアをぐいと押してはいって来て、帽子をぬぎ、笑顔を向けた。
探偵は、骨張った人さし指を、弁護士の脇の下にはさんでいる新聞のほうにあげて、
「読んだかい?」とたずねた。
メイスンは、首を振って、
「新聞はいつも、そこの角の売り子から買うことにしているんだ」といった。「そして、毎日の仕事にとりかかる前に、読むことにしている。なぜだい? なにか重大事件でものっているのかね?」
探偵は、なさけなそうな顔でうなずいた。デラ・ストリートの顔は、真剣そのものだった。ペリイ・メイスンは、二人の顔を、つぎつぎに見て、
「どうしたんだ。いってみろよ」といった。
「地方検事ってやつは」と、ドレイクがいった。「たしかに、この事件担当の専門の宣伝係をおいているらしいな」
「なぜだ?」
「だって、毎朝きまって、きみの依頼人に不利な、目ざましい情報が公表されるからさ」
メイスンは、抑揚《よくよう》のない口調でいった。「そのうちに種切れになるさ。けさは、どんなニュースだね?」
「グレゴリイ・ロートンの名で埋葬された男がいるだろう。その遺骸を発掘するそうだ。毒殺されたものと思われる節《ふし》があるといってるよ。ローダ・モンテインが看護婦あがりだという事実に、世間の注意を集めようとして、なんどもなんども繰り返して強調している。亭主をぐっすり眠らせたいと思えば、亭主のチョコレートにイプラールを入れるほどの女なら、もうちょっと熟睡させようと思えば、毒薬を盛ることぐらい朝飯前だろうというわけさ」
メイスンの顔の線が、きびしくなった。
「検察側としては、カールの証言を法廷で利用できないんじゃないかとおそれているんだ。だから、このイプラールの一件を、新聞に書き立てさせているのさ。検察側が、故意に新聞を利用して、ローダに不利な宣伝をしていることは疑いないことだ。毎朝、新聞の第一面で、こっちの横っ面《つら》をひっぱたくような真似をしているんだからな」
「なんとか、手の打ちようはないのかい?」と、ポール・ドレイクがたずねた。
メイスンは、唇をすぼめて、いった。「手はいくらでもあるさ。それも相手の出ようしだいだね。ローダを公正な裁判にかけるというのなら、こちらもその気でやる。新聞なんかを使って、ローダに不利な先入感を公衆に植えつけようっていうのなら、話は別だ」
「気をおつけになってくださいね、先生」と、デラ・ストリートが警告するようにいった。「地方検事は、わざと先生を刺戟して、むちゃな真似をさせようとしむけているのかもしれませんわよ」
ペリイ・メイスンは、ゆっくりにやっと笑ったが、その笑いにはきびしい決意がうかがわれた。
「ぼくはこれまで、どんなすごい火いたずらをしたって、指にやけどをしたことは一度もないんだ」
「その代わり、二度ほど髪の毛をこがしたことがあったようだぜ」と、ドレイクがいった。「それにしてもトリックを使わしたら、きみにかなうやつはないだろうな」
弁護士の目に、きらっと鋭く光るものがあった。
「うん」と、メイスンがいった。「きみたち二人に、あることを約束するよ」
「なんだい?」
「まだ、なんにもわかっちゃいないんだな」
「この事件に、トリックをお使いになるおつもりですの?」と、デラ・ストリートが、心配そうに目を曇らせて、たずねた。
「すばやいやつをね」と、メイスンがいった。「ストライクだか、ボールだか、誰にもわからぬうちに、ホームプレートをひゅっと通ってしまうようなやつを」
「アンパイヤにもわからなくちゃ、なんにもならんじゃないか?」とたずねるドレイクのおどけた表情は、いつも以上に大げさだった。
「たぶん」と、ペリイ・メイスンは、ものやわらかにいった。「アンパイヤなんかに判定してもらう必要はないだろうよ。ぼくの狙いは、バッター・ボックスに立っているやつなんだ……さあ、ポール、中へはいってくれ」
二人は、メイスンの私室にしている奥の部屋にはいって、向き合ってすわった。ドレイクは、ポケットから手帳を取り出した。
「なにかつかんだかい、ポール?」
「らしいんだ」
「なんだい、それは?」
「モクスレイの過去を洗って、できるだけ、やつのしていたことを調べろといったろう?」
「うん」
「いや、生易《なまやさ》しいことじゃなかったよ。モクスレイってやつは、長いあいだ、くらいこんでいやがったんだ。刑務所から出て来たんだって、脱獄して出て来やがったんだ。むろん一文なしだから、そこで、むやみに金がほしかったんだ。野郎は相棒なしのひとり狼《おおかみ》だもんだから、やつのこれまでにやったことを調べるのは、とてもむずかしかった。それでも、だいたいの見当だけはつけたがね。まあ、尻尾《しっぽ》を押えたと思うんだ」
「それで」と、弁護士がいった。
「モクスレイが、最近に、センタービルヘ長距離電話をかけたことを聞き出したんだ。それに、やつのトランクに、センタービルのパレス・ホテルのラベルが貼ってあることも調べ出したんだ。そこで、パレス・ホテルの宿帳を調べさせたんだが、モクスレイって男が泊まったということは発見できなかった。ところが、やつの前歴には、おかしなことが一つあるんだ。というのは、やつは苗字《みょうじ》のほうは、しょっちゅう変えるが、名前は、ほとんどいつもグレゴリイで通しているということなんだ。
苗字だけ変えて名前を変えなかったというのは、たぶん、名前まで変えてしまうと、誰かに呼びかけられたときに、うっかりして変名を忘れて、ぼろを出すことをおそれたんだろうな。とにかく、そういったわけで、パレス・ホテルの宿帳をもう一度あたってみたんだ。すると、かれこれふた月ほど前に、グレゴリイ・フリーマンという男が泊まっているんだ。そこでさっそく、結婚許可証をあたってみると、そのグレゴリイ・フリーマンなる男が、ドリス・ペンダーという娘と結婚しているということがわかったんだ。
で、そのペンダーという女をさがしてみると、センタービルの乳製品製造の会社で、速記と会計係をやっていた女だということがわかった。なかなかしっかりした働き者でね。せっせと小金をためて、株や公債に投資していたんだな。そのうちに、結婚をするといって会社をやめて、亭主といっしょにセンタービルを立ち去ったという噂を聞きこんだ。どうやら、センタービルには親戚というものもいないらしいんだ。もっとも乳製品会社の者の話では、なんでも州の北のほうに兄貴がいるらしいということだったがね」
メイスンの目がきらっと光って、じっと一点を見つめた。なにか考え考えうなずくと、
「よくやってくれたな、ポール」といった。
「そこで」と、探偵は言葉をつづけていった。「ひょっとして、グレゴリイ・モクスレイが、グレゴリイ・フリーマンという名で、そのペンダーという女と同棲しているんじゃないかと思って、さっそく、電灯会社を調べてみた。ところが、その名前で契約した者は見当らなかったが、二週間ほど前に、ウエスト・オードウェイ七二一番地のバルボア・アパートで、ドリス・フリーマンという名で契約した者がある。部屋は六○九号室で、そこに、女がひとりっきり住んでいるんだな。その女のことを知っている者も、一人もいないらしいんだ」
「たぶん」と、弁護士がいった。「アパートの電話交換台にあたってみれば、電話の連絡先きを突きとめられるんじゃないかな、それに──」
探偵は、にやっと笑った。
「おい」と、ドレイクがいった。「おれたち探偵屋が、だてに金をもらっていると思うのかい?」
「いや、失礼したな」と、メイスンが辛辣にいった。
「話はおわりまで聞くもんだ」と、ドレイクがいった。「まだ、ろくにしゃべっちゃいないんだからな」
「じゃ、早いとこたのむよ」
「見ると、交換台はアパートのロビーにあって、四六時中、誰かがロビーで勤務してるんだ。交換台の仕事は、別に忙しいわけでもないんで、外からかかって来た電話も、各部屋からの電話も、いちいち記録にとってあるんだ。
その記録をとっている人間に、へたなことをきいてやぶ蛇になっちゃまずいと思ったんで、うまいこと、そいつをデスクから数分間おびき出して、その隙に、おれの部下が事務所にもぐりこんで、通話記録ののっている帳簿を盗み見てきたというわけだ。
記録は、一時間単位じゃなくて──一日単位のものだった──が、六月十六日に、六○九号室が、南の九四三六二番にかけている。その通話は、六月十六日の日付のいっとう最初に出ているから、きっと真夜中の十二時すぎにかけたものにちがいないと思うんだ」
「その帳簿は、どこにあるんだ?」と、弁護士がたずねた。
「向こうにあるさ。その代わり、問題の個所だけは写真にとって来たよ。これさえあれば、法廷に持ち出す場合でも、書き直しなんかされたって、平気だよ」
メイスンは、考えながらうなずいて、
「本当によくやってくれたな」といった。「そいつを、法廷に持ち出す必要が起きるかもしれん──がまた、起きないかもしれん。そこまでやってもらったついでに、むだになるかもしれんが、もう一押し押してみよう。その仕事にかからせる腕利きの男がいるかね? 頼みになる男が、ポール?」
「いるともさ。ダニー・スピアなら、うってつけだ。その帳簿の写真をとって来た男だがね」
「腕はたしかか?」
「腕利きだね、まず一流だね。忘れてしまっちゃ困るな、ペリイ。例の手斧殺人事件のときに、使ったじゃないか」
メイスンはうなずいて、
「すぐに、その男を呼んでくれ」といった。「いっしょに連れて行こう」
「バルボア・アパートヘかい?」
「うん」
ドレイクも帽子をとりあげて、
「よし行こう」といった。
第十四章
ポール・ドレイクが、車の速度を落として、ぴったり歩道ぎわに近づけた。これといった特徴のない、いたって平凡な顔に、山のつぶれた茶色の帽子をあみだにかぶり、その帽子の汗止めの下から錆茶《さびちゃ》色のまき毛をのぞかせたダニー・スピアが、物問いたげな目をペリイ・メイスンに向けた。
スピアは、これまで一度も、探偵と見られたことがなかった。びっくりしたような目つきで、どことなくおめでたいような、お人好しという感じがある。そのせいで、田舎のお祭りでインチキ賭博《とばく》の前に立っている、典型的な『田舎者』のように見えるのだ。その顔には、生まれてはじめて都会見物に来てびっくりしている田舎者の、うれしそうな、にたにた笑いを浮かべているのが常だった。
「あっしは、なにをするんです?」と、スピアがたずねた。
「ぼくたちの後から、このアパートヘついて来てくれ」と、メイスンがスピアにいった。「ぼくたちは、まっすぐ女の部屋へ行って、ブザーを鳴らす。で、女がドアをあけて、ぼくたちを通すころを見計らって、きみは、廊下を通りすぎるんだ。突きあたりの部屋に行くふりをしてな。時間をうまく計って、戸口を通りすぎるときに、女の顔をよく見ておいてくれよ。ちらっとしか見えないだろうが、それでも、顔だけは見られるだろう。そうすりゃ、後で見分けることができるというもんだ。
ところで、いちばん肝心《かんじん》なことは、女の顔をよく頭に入れておくことだ。もし、十分に女の顔が見えなくて、はっきり見分けがつけられないかもしれないと思ったら、ぼくたちが部屋の中へはいるまで待っていて、もう一度もどって来て、ドアを叩いてもらおう。このアパートに住んでいた女のことをさがしているんだとかなんとか、いいかげんな口実をいえばいいだろう。女の顔をようく見てしまったら、ぼくたちとは別れて、女が外出するまで張っていて、後をつけるんだ。車は残しておくからね、ドレイクとぼくは、アパートを出たら、タクシーを拾うから、きみは車の中にすわって、女が出て来るのを待っていればいいんだ。わかったね?」
ダニー・スピアはうなずいて、
「わかりました」といった。
「ぼくたちが帰るときに話しかけたりしちゃ駄目だぜ。おそらく、女はどこかから目を光らしているだろうからね」と、メイスンがいった。「なにしろ、女は心配でいっぱいだろうからね、またそれが、こっちの狙いなんだから。わざと、女を苦しめてやるつもりなんだ。こんどのことは、女がひとりでやったことかどうか知らんが、しかし、突きとめたいのは、それも一つの点だ」
「女が電話をかけたら、どうします?」と、スピアがたずねた。
メイスンは、ゆっくりといった。「電話はかけないだろう。電話は盗聴されていると信じこませるようにするから」
「じゃ、疑心暗鬼を起こさせるようにするっていうんですね?」
「そうだ」
「じゃ、尾行のほうにも気を使うじゃありませんか」と、ダニー・スピアが抗議した。
「そいつは、どうにもしようがないね。だからこそ、きみには用心の上にも用心してやってもらおうと思うんだし、またそれだからこそ、ぼくたちが帰りかけたら、ぼくたちから離れていてもらいたいんだ。はじめに、ぼくたちを通り越して廊下を行ってしまえば、ぼくたちの仲間とは、女もきみのことを思わないだろうじゃないか」
「わかりました」と、ダニー・スピアはいった。「じゃ、そこのブロックをまわって、角のところでおろしてもらいましょう。あっしは、後から歩いて行って、アパートにはいるときいっしょになるように、うまく時間を見計らいまさ。万一、女の友だちが窓から見ていないともいえませんからね。三人いっしょに、同じ車から降りるところを見ていられたんじゃ、ぶちこわしですからね」
ドレイクはうなずくと、車をスタートさせ、そのブロックをまわり、角のところでダニーをおろした。それから、もう一度車をまわして、アパートの正面の駐車場に乗り入れた。ゆったりと降りると、ずりあがったチョッキを引っ張りおろし、上衣の襟《えり》とネクタイをなおした。そして、ごく気楽なふうをよそおって、足取りもゆっくりと、二人は、アパートの建物にはいって行った。二人の後から、ダニー・スピアが、急ぎ足ではいって行った。
肥った男が揺り椅子にすわっているだけで、ロビーには誰もいなかった。
相も変わらず、ゆっくりとエレベーターのほうへ歩きながら、ポール・ドレイクと弁護士とはちょっと脇にのいて、後から追い抜いて行くダニー・スピアに道をゆずった。揺り椅子にかけている肥えた男の目にも、三人の男が同じエレベーターに乗りこんだのは、まったく偶然の成り行きと見えたにちがいない。
エレベーターから二階の廊下に出ると、ダニー・スピアは、ちょっとぐずぐずとしていた。その間に、あとの二人は目あての部屋を見つけて、そのドアを叩いた。
人の動く気配がして、かちっと鍵をはずす音がした。ドアがあいて、大きな茶色の目に、うすい唇をきっと引きしめた二十五ぐらいの、あまり器量のよくない女が、黙って、うさんくさそうに二人を見つめた。
「あんたが」と、ペリイ・メイスンが、ちょっと大きな声でたずねた。「ドリス・フリーマンさんですね?」
「ええ」と、女がいった。「なんの用なの?」
ペリイ・メイスンは、ちょっと片側にのいて、急ぎ足に廊下を通りすぎて行くダニー・スピアに、若い女の顔がよく見えるようにした。
「用向きは」と、ペリイ・メイスンがいった。「ちょっと廊下では話しにくいことなんですが」
「本屋さんなの?」
「いいえ、ちがいます」
「生命保険の勧誘?」
「いいえ」
「なにか売り込みなの?」
「そうじゃないんです」
「いったい、なんの用なの?」
「二、三、ききたいことがありましてね」
女のうすい唇が、前よりもいっそうきつくしまった。目が、大きく開いた。その奥に、恐怖の色がちらっと光った。
「あんたは、誰なの?」
「人口統計局のために資料を集めている者なんですが」
「なんの話だか、あたし、さっぱりわからないわ」
そのとき、ダニー・スピアは、女の部屋の前を通りすぎて、廊下のはずれまで行って、そこのドアをどんどんと拳で叩いていた。ドアがあいて、無愛想な男の声が聞こえ、つづいて、探偵がいった。「C・フィンレイ・ドッジさんあての速達小包を階下まで配達して来たんですが、どこへ運んだらいいでしょうか?……」
ペリイ・メイスンは、女を押しのけるようにして、ずかずかと部屋に通った。ドレイクもその後につづいて、室内にはいるとドアを足で蹴ってしめた。
プリント地のふだん着を着た女は、突っ立ったままだった。窓から差し込む光線が女の顔にあたって小鼻からうすい唇のはしにかけて、深い皺《しわ》を彫りつけた。顔には白粉気《おしろいけ》がなく、ごくわずか猫背だ。
メイスンからドレイクに、つづいてまたメイスンにと視線を移す女の目には、まちがいなく恐怖の色が窺《うかが》われた。
「いったい、なんですの?」と、女が虚勢を張った口調でたずねた。
ぬかりなく女を観察していた弁護士は、目に見えぬほどポール・ドレイクにうなずいてみせた。
「重大なことだからね」と、メイスンは、荒々しい、喧嘩口調でいった。「こっちの質問に正直に答えてもらおう。嘘をつくと、厄介なことになる。わかったね?」
「いったい、なんのことなの?」と、逆襲するように、女がいった。
「あんたは、結婚してるのか、それとも独身かね?」と、ペリイ・メイスンが質問した。
「そんなこと、あんたたちになんの関係があるの」
メイスンは、いちだんと声を張りあげて、「よけいな心配はしなくてもいい。ただきかれたことに答えればいいんだ。文句は後で聞く。あんたは、結婚しているのか、独身か?」
「結婚してるわよ」
「ここへ来る前に住んでいたところは?」
「そんなこと、いいたくないわ」
メイスンは、ポール・ドレイクの顔を見て、意味ありげにいった。「こりゃ、有罪の立派な証拠じゃないか」
ドリス・フリーマンが振り向いて、ポール・ドレイクの顔を見つめた。その隙に、ペリイ・メイスンは、右の目をつぶって、意味深長なウインクを送った。
「それだけじゃ、有罪のしるしにゃならんぜ」と、ポール・ドレイクはいって、なにか考えるように唇をすぼめた。
メイスンは、くるっと、若い女のほうに向きなおった。またもやその声が、証人をおどしつける弁護士の声のように、威丈高《いたけだか》な口調になった。
「あんたはセンタービルに住んでいたろう? 否定したって駄目だ、どうせ後で認めるくらいなら、早く兜《かぶと》をぬいだほうが利口だぜ」
「センタービルに住んでいると、罪になるというの?」と、女がたずねた。
メイスンは、またドレイクのほうを振り返った。嘲《あざけ》るように唇をゆがめた。
「これ以上、きくことがあるかね?」と、メイスンがドレイクにたずねた「この事件の仲間でなけりゃ、あんなごまかし方はしないはずだぜ」
ドリス・フリーマンは、両手をのど元にあてて、ふらふらとした足つきで、いっぱいに詰め物をした椅子に近づき、急に、膝の力が抜けてしまったように、がっくりと腰を落とした。
「いったい、なんで……なんで──」と、あえぐように、女がいった。
「きみの夫の名前は?」と、ペリイ・メイスンがいった。
「フリーマン」
「何フリーマンだね?」
「サム」
ペリイ・メイスンは、嘲るように声を立てて笑った。ぐっと腕を伸ばして、まるで弾丸をこめたピストルのように、人さし指を、女の顔に突きつけて、
「なんだって、そんなしらっばくれたことをいうんだ」と、メイスンがいった。「グレゴリイだということは、よく知っているんだろう?」
女は、全身の毛孔から生命力がぬけ出してしまったように、へたへたとなった。
「いったい──いったい、あんたたちは、誰なの?」
「本当に知りたければ教えてやるが」と、ペリイ・メイスンがいった。「電話会社の者だ。きみが電話を使って恐喝を働いた容疑で調査しているのだ」
女は、かすかに身を起こして、いった。「恐喝じゃないわ。恐喝だなんて、とんでもないことだわ」
「金を持って来いといったじゃないか」
「むろん、持って来いといったわ。でも、持って来させるのが当然の、あたしの金ですもの」
「共犯は、だれだ?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「よけいなお世話よ」
「電話を、そんな目的のために使っちゃいけないぐらい、知っているだろう?」
「知らないわ、いけない理由なんか」
「葉書で金を請求すると法律違反になるということを、聞いたことがないのかね?」
「ああ、それは聞いてるわ」
「それなら、のほほんと部屋にすわったまま、相手を電話で呼び出して、金を支払えなんていうことが、法律違反になるとは知りませんでしたと、いうのか?」
「あたしたち、そんな真似はしなかったわよ」と、女がいった。
「どんなことをしなかったというんだ?」
「電話で呼び出して、金をよこせなんて請求しなかったわ──別に、そんなことをいわなかったわ」
「あたしたちってのは、誰のことだ?」と、ポール・ドレイクが、横あいからたずねた。
メイスンは、眉を寄せてドレイクの顔を見た。しかし、探偵が合図の意味をさとるよりも早く、その質問がドレイクの口から飛び出してしまっていた。
「あたしっていったのよ」と、あわてて、ドリス・フリーマンが答えた。
ペリイ・メイスンは、ひどく腹をたてた声でいった。
「すると、電話で金を請求するのが法律違反とは知らなかったというんだね?」
「さっきからいってるじゃないの、あたしたち──あたし、お金なんか請求しなかったって」
「男の声だったんだぞ」と、ペリイ・メイスンは、若い女の顔を穴のあくほど睨みつけながら、運まかせでいってみた。「局の交換手が、電話で話をしたのは男の声だといってるんだ」
ドリス・フリーマンは、黙って答えなかった。
「さあ、どうだ、なんとかいったら、どうだ?」
「なんにもいうことなんかないわ──だって、聞き違いかもしれないじゃないの。あたし風邪《かぜ》を引いていたから、がらがら声だったのよ」
メイスンは、突然、部屋を横切ると、受話器を掛け金からはずして、耳にあてた。と同時に、右手でなにげなくフックを押えて、電話線が接続されないようにした。
「局の六二番、調査部をたのむ」と、メイスンは、相手を呼び出してくれといった。
メイスンは、しばらく待っていてから、いった。「こちらは十三号です。例の六月十六日の朝、恐喝電話をかけた現場に来ています。部屋の名儀は、ドリス・フリーマンって女になっていますが、どうやら男の共犯者がいるようですが、女はそいつを庇《かば》っているらしくて名前をあかそうとはせんのです。それに、電話でそんな要求をすると法律違反になるってことも知らなかったと主張しているんです」
メイスンは、それからまたしばらく、相手のいうことを聞いているようなふりで、待っていてから、急に皮肉な笑い声を立てて、
「ええ」といった。「女のいい分は、そうなんです。本当かどうかはわかりませんがね。センタービルから来たといってます。ことによると、センタービルには、こうした市条例がないのかもしれませんね。それは、なんともいえませんが……それで、女をどうしましょう、拘引しますか?……え、なんですって?」と、ペリイ・メイスンは、甲走《かんばし》った声を出した。「あの電話は、モクスレイにかけたもんだとおっしゃるんですね、あの殺された男に!……そいつあ、課長、そうなると話が違って来ますよ。われわれの管轄外でさ。すぐ地方検事に通告したほうがよさそうですぜ。それに、今後ここにかかって来る電話は全部、監視するんですね……ええ、わたしの気持ちはおわかりですね……オーケー、では、また」
メイスンは、受話器をおいて、ポール・ドレイクのほうを向いた。目を大きく見開いて、たまげたという表情をして見せた。たったいま聞いたことの重大さに、怯えたというように、声をひそめて、
「おい、あの恐喝の電話を、誰にかけたか知ってるかい?」と、メイスンが、ことさららしくたずねた。
ポール・ドレイクも声をひそめて、
「課長と話してるのを聞いたよ」と、いかにも重大だというようにいった。「本当かね?」
「本当さ、あの電話は、グレゴリイ・モクスレイにかけたんだとさ。例の殺された男だよ。しかも、電話をかけてから、三十分ほどして殺されているんだ」
「課長は、どうするといってるんだ?」
「できることってば、一つしかないさ──事件を、地方検事の手に引き渡すだけさ。ちぇっ。おれは、ただの月並な調査かと思っていたんだが、とんでもねえ、殺しと出やがったよ」
ドリス・フリーマンが、ヒステリックな早口でしゃべり出した。
「ねえ」と、ドリスがいった。「あたしは、電話でお金を請求しちゃいけないって法律のこと、まるきり知らなかったのよ。そのお金だって、当然あたしのものなのよ。あたしから、あの男が盗んで行ったお金なの。あたしをだまして、まきあげて行ったお金なのよ。あの男は、悪魔だわ。殺されるのが当り前よ。死んだと聞いて、いい気味だと思ったわ。でも、あたしの電話は、人殺しとは無関係よ。殺したのは、ローダ・モンテインよ! あんたたち、新聞で読まなかったの?」
メイスンは、嘲るように、女の顔をじろじろと眺めていた。
「あの男が殺されたときに、ローダ・モンテインがその部屋に居合わせたかもしれないさ」と、メイスンがいった。「だが、殴り殺すなんて、女の力じゃできっこない。地方検察庁にも、そのことはよくわかっているんだ。あんなにぶん殴って殺すなんて、腕っ節の強い男でなきゃできないことだ。しかも、きみたちには、立派に殺人の動機がある。訴因は完全だよ。殺される三十分そこそこの前に、モクスレイに電話をして、金を払わなければ、ばらすって──」
メイスンは、ふいに肩をすぼめると、口をつぐんでしまった。ポール・ドレイクが、その会話を引きとって、
「さあ」といった。「さっさと白状したほうがよさそうだぜ。そうすりゃ──」
「そんなことあ忘れてしまうさ、ポール」と、ペリイ・メイスンがいった。「課長は、事件を地方検事の手に渡すつもりらしいからな。地方検事ってやつは、おれたちが手を出すのは、あんまりお気に召さねえんだ。まったく、おれたちの管轄外だからな。もうその話はやめにしようぜ」
ドレイクはうなずいた。二人の男は、ドアに向かって歩き出した。ドリス・フリーマンは、跳ねるように立ち上がった。
「でも、あたしの説明を聞いてよ!」と、ドリスはいった。「あんたたちの考えていることとは、まるきりちがうの。あたしたちはなんにも──」
「その話は、地方検事の前でするまでとっとくんだね」と、ペリイ・メイスンは相手にいって、ぐいとドアを押しあけ、さきに廊下へ出ろとポール・ドレイクに合図をした。
「でも、あんたたちは誤解してるのよ」と、ドリスはいった。「問題になってるのは──」
メイスンは、文字通り、探偵の肩に手をかけて廊下に押し出し、自分もさっと飛ぶように出て、ぴしゃっとドアをしめた。が、二人がまだ五歩と歩かないうちに、ドリス・フリーマンかドアをあけて、
「でも、あたしにわけを説明させてくれないの?」と、ドリスがいった。「あたし、まだなんにも──」
「こういう。ごたごたにまきこまれるのは、まっぴらだよ」と、調査員になりすました弁護士が、きっぱりと言い切った。「おれたちの権限外のことだからな。おおかた、いまごろは課長は、地方検事に事件を渡してしまってるだろうから、地方検事の領分だよ」
二人は、駆けるようにしてエレベーターに飛びこんだ。まるで、戸口に立っている女が伝染病患者で、それから逃げ出すような恰好だった。
エレベーターのドアがしまって、箱が下に降り出すと、ポール・ドレイクがいぶかしそうに、ちょっとペリイ・メイスンの顔に目をやった。
「もうすこしで、あの女、しゃべり出すとこだったじゃないか」と、残念そうに、ドレイクがいった。
「いや、たいせつなことはしゃべるものか。おれたちの同情をひくために、いかにしてモクスレイが自分をだましたかという哀しい話を、長々としゃべるだけさ。肝心《かんじん》の男のことは、絶対にしゃべらなかったじゃないか。こっちが知りたいのは、その男のことなんだ。見ていろ。あの女、いまに、その男のとこへ行くから。同情を引こうとして芝居気たっぷりにしゃべる女のおしゃべりぐらい、人をいらいらさせるものはないからな」
「その男ってのは、あの部屋に同棲しているのかね?」と、ドレイクがたずねた。
「誰だとは、ちょっといいにくいね。探偵か弁護士だろうと思うね」
探偵は、驚きの声をあげて、「弁護士だって! 冗談じゃないぜ。弁護士なら、刑事が二人やって来て、金の請求に電話を使ったから逮捕するといったなんて聞こうものなら、かんかんになって気狂いのように怒るぜ。あの女、電話で連絡をとるだろうか?」
「そんなことはしないだろうよ。電話は聞いてるぞといっといたからな。電話を使うのは、びくびくだろう。相手は誰か知らんが、直接会いに行くだろうよ」
「おれたちをうさん臭いと感づいたろうか?」と、ドレイクがたずねた、
「どうだかね」と、メイスンが答えた。「そうだろう、市条例を持ち出したら、あの女、ふるえあがっていたからな──それに、感づいたところで、警察の刑事が、相棒をつかまえるために罠《わな》を張りに来たと考えるのが関の山だ」
二人は、エレベーターから降りると、大股にロビーを横切り、ダニー・スピアが運転台に腰をおろしている車のほうには、ちらっとも目を向けないように注意して、さっさと右に曲がり、通りを横切った。こうして、アパートからよく見える場所に出てから、走って来たタクシーを呼びとめた。
第十五章
事務所にもどると、ペリイ・メイスンは、両手の親指をチョッキの腋《わき》あきにかけて、部屋の中を歩き回っていた。
大きなデスクの一隅に向かって腰をおろしたデラ・ストリートはノートに、紙をはさむと、ペリイ・メイスンが部屋を歩き回りながら口述する言葉を書きとっていた。
……以上を要約しますと、原告の請求の趣旨は、原告ローダ・モンテインと被告カール・W・モンテインとの婚姻関係を、本裁判所の指示によって解消し、同時に、被告は、裁判所が公正かつ妥当と認める財産を、原告に分与すること。すなわち、被告は原告に、離婚による扶養料として、総額五万ドルを支払うこと。ただし、その金額の内二万ドルは即座に現金を支払い、残金三万ドルは、月額五百ドルの月賦払いとすること。月賦支払い分についてその金額の支払いが完了するまでは、残額について年利七分の利息を付すること。その他、本裁判所が公正かつ妥当と認める慰藉を求めるものであります……
「それで終わりだ、デラ。最後のところはあけておいてくれ。原告の弁護士としてのぼくの署名と、供述書の真正を保証するローダ・モンテインの署名がはいることになる」
デラ・ストリートは、ノートの上に、かなくぎ流の速記文字を書き終えると、目をあげてペリイ・メイスンの顔を見て、たずねた。「あのひと、本当に離婚訴訟を起こすつもりですの、先生?」
「ぼくが説き伏せれば、そうするよ」
「そうなると、いっぽうでは離婚訴訟を起こしながら、もういっぽうでは、婚姻無効の訴訟では被告として争うわけですのね?」と、デラ・ストリートがたずねた。
「そうだ。もし、婚姻が無効ということになれば、扶養料は一文もとれない。C・フィリップ・モンテインが狙っているのは、そこだ。あの男は、財布の紐を解きたくないのさ。いっぽう、地方検事のほうは、なんとかして、カールを殺人事件の公判で証言させたいというわけだ」
「そして、婚姻無効の訴訟に、先生が勝てば、カールは証人になれないんですのね」
「その通りだ」
「離婚が成立したときは、証言ができるんですの、先生?」
「できないね。婚姻の無効が成立すれば、カールは証言ができることになる。法律上の見地からいうと、無効の婚姻とは、はじめから婚姻が存在しなかったことになるんだ。これに反して、正当な婚姻が成立していた場合には、たとえ、その後、離婚によって、その婚姻が解消されても、夫は、妻の同意なしには、妻に対して不利な証言はできないんだ」
「でも」と、デラが異議をとなえた。「婚姻無効の判決をとめるわけにはいかないでしょう。法律の条文にはっきりと書いてあるじゃありませんか、前配偶者の生存中になされた婚姻は、すべてこれを無効とするって」
「大いに結構じゃないか、それで」と、にやっと笑いながら、メイスンは答えた。
「だって、ローダがカール・モンテインと結婚したときには、ローダの前の夫は、まだ生きていたんじゃありませんか」
メイスンは、また荒々しく室内を歩きはじめた。
「そんなことは、目をつぶっていてもやっつけられる問題だよ」と、メイスンはいった。「それよりもぜんぜん別のことなんだ、ぼくが悩んでいるのは……ちょっと待った、デラ、ちょっと考えさせてくれ。考えてることを、口に出していってみたいんだ。書きとってもらったほうがいいかもしれないな。電話の交換台には、誰かいるのかい?」
「ええ」
「大事な電話がかかって来るはずなんだ」と、メイスンがいった。「ダニー・スピアからね。モクスレイを脅かして、金をとろうとしていた連中が、まもなくわかるだろうと思うんだ」
「その連中を見つけたいと思っていらっしゃるんですか、先生?」
「地方検事に先手を打たれて、その連中に召喚状を出されると困るからさ」と、メイスンがいった。「早いところ、この州から追っ払ってしまいたいんだ」
「そんなことをなすって危険じゃないんですか、重罪の者を逃がすとか、なんかそんなことにならないんですか?」
メイスンは、デラの顔を見て、にやっと笑った。その笑いそのものが、口に出す以上の返事だった。しばらくして、メイスンは、ものやわらかにいった。「きみも、なかなかいうじゃないか?」
デラは、心配そうな顔で、でたらめの模様をノートに書きつけていた。やがて、顔をあげて、心配そうな目で、室内を歩きまわっているメイスンの姿を追いながら、いった。「正当防衛を主張したほうが、よかったんじゃないでしょうか?」
メイスンは、勢いよく、くるっとデラのほうに向きなおって、
「まさに、その通りだ」といった。「立派に正当防衛の弁論を成立させることができたんだ。無罪釈放とまではいかないかもしれないが、検察側が有罪の評決をとれなかったことだけはまちがいない。ところが、ローダが検事の罠にひっかかってしまった。いまさら、正当防衛も主張できないことになってしまった。凶行の時間に、玄関のベルを鳴らしていたのは自分ですなんて供述してしまったんだからね」
デラ・ストリートは、口をすぼめて、じっと考えこみながら、たずねた。「すると、ローダさんが警察で述べたことは、真実じゃないとおっしゃるのね?」
「むろんさ。真実なんかいってやしないよ。検察側では、釣り針にうまい餌をつけて糸をたらした。そうしたら、ローダはそれにかぶりついた。いや、釣り針だけじゃない、糸から錘《おもり》までのみこんでしまったというわけだ。しかも、自分が針にかかったことさえ気がついていないんだ。というのは、地方検事としても、すぐに糸を引っぱっては、針をしかけてあるのがばれるから、うまくないというわけなんだ」
「でも、どうしてローダさんは、真実のことを話さなかったんでしょう、先生?」
「話せなかったからなんだろうね。真実のほうが、どんな嘘よりももっともらしく聞こえない場合があるもんだが、これもそのひとつさ。この事件だけじゃない。刑事事件の場合には、しばしば見受けられる現象だ。被告が実際に犯人である場合、頭のいい弁護士なら、陪審員に聞かせるための話を作りあげてしまうんだね。したがって、こうしたでっちあげの物語ってものは、かなり陪審員を納得させる力をもっているのがふつうなんだ。ところが、被告が罪を犯していない場合は、でっちあげの話ほどには、真実がそれほどもっともらしく聞こえないという逆の結果を生むことになるものなんだ。変に聞こえるかもしれんが、話をでっちあげるときは、そもそものはじめから、もっともらしく聞こえるということを念頭に入れて話をつくるから、うまくいく。ところが、事実を発生の順序通りに述べると、その話は、それほどもっともらしくは聞こえないものなんだ」
「わたし、はっきりそうとは思えませんわ」と、デラ・ストリートが反対した。
「古い諺《ことわざ》を聞いたことがあるだろう?」と、メイスンがたずねた。「事実は小説よりも奇なりってのを」
デラはうなずいた。
「こんどの場合が、その適例だよ。世の中の出来事というものは、すべて偶然の連鎖から生まれるものなんだ。こうした事実の組み合わせのうちで百のうち九十九までは、もっともらしく納得できるものなんだが、百に一つぐらいは、現実にあった事実でも、とても信じられんことがあるものなんだ。被告が、こういう罠にかかると、弁護士としては、これ以上やりにくいことはないんだ」
「で、どうなさるおつもりですの?」と、デラがたずねた。
「こうなった以上は」と、メイスンがいった。「検察側の証人のいう話に、いちいち怪《あや》しいぞという印象を与えてしまおうと思うのだ。その上に、ローダのアリバイを立証しようというつもりなんだ」
「でも、アリバイを証明なさろうたって、できませんわ」と、デラがいった。「先生ご自身だって、たったいま、検察側の証人が、ローダ・モンテインが、グレゴリイ・モクスレイに会いに出かけたことを立証するだろうと、お認めになったばかりじゃありませんか」
メイスンはうなずいて、くすくすと笑い出した。
「なぜ、お笑いになるの?」と、デラがたずねた。
「えびで鯛《たい》をつろうと思ってね」と、メイスンがいった。「どんな反応があるか、手ごたえを待っているところなんだ」
ドアをノックして、タイピストの一人が顔を出した。デラ・ストリートが、ペリイ・メイスンの部屋に来ている間、代わって交換台についていたのだが、力のない怯えたような声でいった。「ダニー・スピアという方から、いま、お電話がありました。ポール・ドレイクさんのところの探偵の方だとかおっしゃって、先生に電話口に出ていただくまで待っていられないから、おつたえしてくれということで。大至急、メープル・アベニュー四六二○番地においでくださいって。玄関の前でお待ちしているそうです。ポール・ドレイクさんに連絡をしたんだそうですけど、ドレイクさんは事務所にいないので、すぐ先生においでねがいたいと、そういっておいででした」
ペリイ・メイスンは、衣装戸棚の戸をぐいとあけ、帽子を引っぱり出して、頭の上にぐいとかぶせた。
「なにか困ったことでも起こったような口ぶりだったかね?」と、メイスンがたずねた。
タイピストはうなずいた。
「じゃ、離婚の訴状をタイプしておいてくれ、デラ」といいながら、ペリイ・メイスンは、ドアを通って飛び出した。廊下を走り抜けてエレベーターをつかまえ、事務所の建物の入り口でタクシーを呼びとめていった。「メープル・アベニューの四六二○番地。大至急飛ばしてくれ」
メイスンの乗った車が歩道に寄ると、ダニー・スピアが、そこに立っていた。
「着きましたぜ、旦那」と、タクシーの運転手がいった。「右手のきたない建物がそうでしょう──グリーンウッド・ホテルてんでさ」
メイスンは、ポケットの小銭をさぐって、
「なるほど、きたない建物だな」といった。
タクシーの運転手は、にやにや笑いを浮かべて、
「お待ちしてましょうか?」
メイスンは、首を左右に振って、タクシーが、角を曲がって行ってしまうのを待ってから、ダニー・スピアのほうを向いた。
ダニーは見るも哀れな様子で、すっかり悄気《しょげ》きっていた。ワイシャツのカラーはやぶれて、安全ピンでとめてあった。ネクタイもひき裂けていた。左の目のあたりが大きなあざになって、下唇はまっ赤にはれあがっていた。
「どうしたんだ、ダニー?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「ひどい目にあいましたよ」と、ダニー・スピアがいった。
メイスンは、相手のひどい顔を見て、うなずきながら、説明を待った。
スピアは、帽子を目深《まぶか》にかぶりなおし、つばをぐっと下げて、あざになった目のまわりをかくすようにすると、頭を前方にしゃくって、グリーンウッド・ホテルのほうを向いた。
「とにかく、なかにはいってもらいましょう」と、スピアはいった。「ロビーで油を売ってる連中には、構わずに、どんどん歩いてくださいよ。案内は、あっしがしますから」
二人は、回転ドアを押して、中にはいった。三流のホテルといった狭いロビーに、五、六人の人間がとぐろを巻いていて、はいって来た二人を、詮索するように、じろじろとながめた。
ダニー・スピアは先きに立って、椅子と真鍮のたん壷《つぼ》がずらりと並んでいる前を通って、狭い、うす暗い階段に向かった。左手には、太い金網の向こうに、むき出しのエレベーターのシャフトが見えた、箱は、ふつうの電話ボックスくらいの大きさしかなかった。
「階段をあがったほうが早いんです」と、ダニー・スピアが肩越しにいった。
二階の廊下にあがると、スピアは先きに立って、いきなり、一つのドアをさっとあけた。
部屋の中はうす暗くて、いやな臭気が鼻をついた。白いエナメル塗りのベッドに、うすい、でこぼこのマットレスが敷いてあり、ベッド・カバーには、穴がいくつもあいていた。ベッドの鉄の手すりには、靴下が一足かかっていたが、その片方の踵《かかと》には、大きな穴があいている。乾いた石鹸《せっけん》の泡がくっついているひげ剃《そ》りブラシが、洗面台の上にのっかっていた。その鏡の脇には、皺《しわ》だらけのネクタイがある。洗濯物でも包んだような茶色の紙包みが床の上に投げすててあり、そのそばに、洗濯券が一枚落ちている。さらに錆《さ》びた安全|剃刀《かみそり》の刃が六枚ほど、傷だらけの洗面台の上にのっている。
洗面台の左手には、衣装部屋への戸が半開きになっている。床には、木のけずり屑がいっぱいに散らばり、戸の下のほうは削りとられて、めちゃめちゃにこわれている。
ダニー・スピアは、はいって来た後の、廊下との間のドアをしめると、片手をぐるっとまわして、室内を指摘するような身振りをした。
「いや」と、スピアがいった。「ひどい目にあいましたよ」
「いったい、どうしたっていうんだ?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「先生とポールは、さっきのバルボア・アパートを出ると、向こう側の角へ渡って、タクシーを拾いましたね。女は、そいつを窓から見ていたらしいんですね。というのは、あなたたちが角を曲がるか曲がらないうちに、急いで女が表に飛び出して来て、通りがかりのタクシーに手を振ったんです。タクシーをつかまえるまでに、三、四分もかかりましたかな。そのあいだも、女はじりじりして、手をもむようにしていましたっけよ。
やがて、イエロー・タクシーが歩道にとまりました。後をつけられているとは、夢にも気がついていない様子で、車が動き出しても、一度だって、うしろの窓から振り向こうともしませんでしたよ。わたしもおんぼろ車をスタートさせて、のろのろと後から走らせました。見うしなう心配なんかこれっぽっちもない、楽な仕事でしたよ。ここまで来ると、女はタクシーを降りて金を払いましたが、大っぴらな様子でした。
ところが、ホテルにはいりかけると、女は、急になんだか気を配り出したような様子でした。たいしてつけられていると気がついたふうじゃないんで、なんかうしろ暗いことをするみたいなふうで、しばらく通りの左右を見わたして、ためらっていてから、思いきったように、ひょいとホテルにはいって行きました。
あんまりぴったり女にくっついてはいるのもまずいと思って、すこし間をおいて、ロビーにはいって見ると、女は、あがってしまったとみえて姿は見えない。エレベーターが二階にとまっているんで、二階で降りたんだなと見当をつけました。ロビーには、どこでもいるような酒場の常連がごろごろしていましたから、あっしは階段を登って行きました。二階へあがると、非常梯子のかげにかくれて、廊下の様子を見張りました。十分ぐらい経ったときでしょうか、女がこの部屋のドアをあけました。ちょっと廊下に立って、さいぜんと同じように廊下の左右を見回してから階段に向かいました。こんどは、エレベーターには乗りませんでした。
あっしは、部屋をおぼえておいて、女を先きに行かせてから、後を追いました。下へ降りて見ると、女は、こんどはタクシーに乗らなかったので、さがすのに、ちょいとまごまごしました。角を曲がってしまってたんですね。見つけたときには、市電の停留場に向かって歩いているところで、あっと思う間に、電車に乗ってしまいましたよ。なるほど、電車に乗れば、ウエスト・オードウェイ七二一番地の、バルボア・アパートから一町ほどのところにとまるんですから、タクシー代を節約するために市電に乗ったんだなと考えてね。そこで、引っ返して、女が話にやって来た相手を突きとめてやれ、と、こう考えたんです。そこで、とんでもない|どじ《ヽヽ》を踏んじまったってわけでさ」
「なぜだね?」と、メイスンがたずねた。「きみの正体を見破られたのかね?」
「いや、見破られはしなかったんですがね。あんまり利口振った振りさえしようとしなけりゃ、うまく行ったと思うんですけど」
「うむ、それで」と、メイスンは、じれったそうに、先きを促した。「詳しく聞かしてくれ」
「それで、ホテルにもどって来ると、階段をあがって、この部屋のドアをノックしたんです。するとね、おそろしく大きな男がドアのところへ出て来ましたよ、上着をぬいだワイシャツ姿でね。ベッドの上を見ると、荷造りの最中だったとみえて、スーツケースがのっかっていましたっけ。そのスーツケースってやつも、田舎の雑貨屋で売ってるような、安物の、胸のふくれた代物で、長いあいだ、ショーウィンドーで店ざらしになっていたか、それとも日なたにおきっぱなしになっていたのか、とにかく日にやけて、革の色がすっかり変色してしまっていましたよ。男ってのは、三十ぐらいでしょうか、肩の肉なんか生まれてこの方ずっと百姓仕事だけをして来たといわんばかりに、隆々と盛り上がっているんです。
でも、なんとなく、農場で働いている人間というよりも、ガレージで働いている修理工という恰好でしたね。気のせいかもしれないけど、両手には油のしみがくっついているし、ワイシャツの袖のまくりかたなんか、どう見てもガレージを連想させる男でしたよ。
はじめ、野郎は、ひどく突っかかって来るような様子で、そのくせ、内心はちょっとびくついているふうなんで、それで、あっしは、にやにや笑ってみせて、『あんたの仲間がもどって来たら、ひとつ伝えてもらいたいんだがね、町の薬局で売ってるキャラメル水よりもずっとましな、値段も手ごろな品が手にはいったけど、いらねえかって』そういってやったんです。
すると、野郎は、あっしがなんの話をしているのかわからないって顔をして、いろいろと聞くんです。そこでまたあっしは、この辺を縄張りにしている酒の密売屋という古い手を使ってね、二、三週間前に、この部屋にいた男に売ったんだが、そのときの話では、まだ当分はここに滞在するから、品物が出たらまた寄ってくれって頼まれたんで、その注文の品を持って来たんですが、あんたもそのお仲間じゃねえんですかって、そういってやったんですよ」
「相手は、うまくそれに乗ったかい?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「まんまと乗ったと思いましたね」と、スピアがいった。「だけど、その話してるあいだじゅう、やっこさんの顔をとっくりと見ていたんですが、さっきまで後をつけていた女とそっくりの、いっぷう変わった目と、大きな、ナマズみたいな口をしているんです。あっしは、ついさっき、女がタクシーの運転手に金を払うときに、ようく見ときましたからね。あの長い上唇と、あの特徴のある目とは、まちがえようったってまちがえようがありませんや」
「すると、その男は、女のきょうだいだと思うんだね?」と、メイスンがたずねた。
「たしかに、きょうだいでさ。で、あっしは、ひとつごまかして、口を割らしてみようと考えたんです。女の名前がペンダーで、センタービルから出て来たんだってことを思い出してね、そいつを利用してやろうとしたんでさ。というのは、やっこさん、手出しなんかはなんにもできねえ、ただ、こっちにしゃべるだけしゃべらせておいて、後はいきなり、鼻先きでぴしゃっとドアをしめる肚だなと読めたからなんです。で、ここはあっしの弁舌で、うまく話を持ちかければ、やっこさんも気を許して来ないものでもなかろう、口を開かせることもできるかもしれねえと考えたってわけでさ。
こういう手を考えつくなんて、なんておれは頭のいい男だろうと、誰でもその場に居合わした人間の背中でもどんとぶってやりたくなる気のするときがありますがね、そのときのあっしも、じつはそうだったんです。ところが、そういう予感ってやつは、目算通りに行かないとなると、地獄へ落ちたのと同じで、目もあてられませんや。とにかく、そのときは、とっくり考えてみる余裕もなかったんで、ただ思いついた通りに、芝居を打ったってわけでさ。あっしは、あっ、わかったぞといわんばかりに、ぱっと顔を輝かせて、『あれ、あんた、センタービルから来たんじゃないのかね?』といったんです。
するてえと、やっこさん、怪訝《けげん》そうにあっしの顔を見て、二度ほど、ごくりと生唾《なまつば》を呑みこんで、『いったい、あんたは誰だね?』というんでさ。そこで、こっちは、顔じゅうを愛想笑いでいっぱいにしてね、『やっぱりそうだ、ペンダーさんじゃねえか!』そういって、握手しようと手を差し出したんでさ」
「やつは、どうしたね?」
「そこでさ」と、ダニー・スピアがいった。「野郎に、いっぱいしてやられたのは。やつのほうも、澄ましこんで手を出したってわけでさ」
「それで」と、メイスンがいった。
「田舎者だと思って、なめてかかったんですがね」と、スピアが無念そうにいった。「まぬけなのは、こっちでしたよ! やっこさん、いまのせりふをどう受けとるか、タカのように、じっと相手を見ていたんです。やつは、クリスマス・ツリーで払いのけられでもしたように、ちょっとあっけに取られていたようでしたが、いきなり、顔をにこにこさせたと思うと、あっしの手をつかんで上下に振りながら、『そうだ、兄弟、いま思い出したよ、さあ、中へはいんなよ』というんでさ。
で、やっこさんは右手で、あっしの右手をつかんだまま、部屋の内へ、あっしを引っ張りこみましたよ。クリスマスの晩のサンタ・クロースみたいに、にやにや笑いながらですよ。そして、右足で、ドアを蹴っ飛ばしてしめると、二、三度、あっしの手を上下に振って、『故郷《くに》の連中はどんな様子だね?』とかなんとかいっていたかと思うと、いきなり左手で、気が遠くなるほど、あっしの目に一発くらわせやがったんでさ。あわてて右手をひっこめたんですけど、後の祭りでさ。いやというほど口のあたりに拳骨をくらって、戸棚のとこまでふっとばされましたよ。戸棚からはね返ったところへ、みぞおちにとどめの一発をがんとくらって、あやうくお陀仏《だぶつ》になるとこでさ。なにか変なものが来たなと思うと、どんと顔にぶつかったのをおぼえてたんですけど、なんと気がついてみると、きたない床の絨毯《じゅうたん》だったんで、あっしは、その場に伸びていたってわけですよ」
「やつは、どうしたね!」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「枕カバーを引き裂いて、あっしの口に押しこんで、手足を縛りあげると、戸棚の中に押しこみやがった」
「きみは、気絶していたのか?」
「すっかり気絶していたわけじゃないけど、完全にグロッキーでしたよ。ですがね、まちがえないように願いますよ。あっしが気絶しようがしまいが、あの野郎を相手にして闘うなんて思いもよらないことでさ。なにしろ、あの野郎ときちゃ、お宅の事務所の女の子が交換台のキイを押すみたいに、あのでっかい拳骨を、むやみやたらに振りまわすんですからね、いやはや、日本人の手品師が、ビリヤードの球を手玉にとるように、このあっしを空中にほうりなげたんですからね」
「それから」と、メイスンが先を促がした。
「あっしを戸棚にぶちこんでしまうと、やつは、つぎの芝居にかかりました」と、ダニー・スピアが、口惜《くや》しそうに、言葉をつづけた。「ですが、しゃくなのは、やつのやったことが芝居か芝居でないか、はっきりわからないことなんです。むろん、あっしも、こりゃとてもかなわねえと思ったんで、すっかり気が遠くなったように、ぐにゃっと死んだようなふりをして、ごまかしていましたがね。なんだか気がついてみると、両方の手首がちょっと動くじゃありませんか。それで、ネクタイをちょっとゆるめて、伸びちまったふりをしてたんです。野郎は、まるで納屋の中に穀物袋をほうりこむみたいに、あっしを戸棚の中にほうりこむと、扉をしめて、かんぬきまでかけやがった──そのかんぬきたるや、先生、おそろしく頑丈なやつでね。まるで岩窟の中にとじこめられたみたいでしたよ」
「それで、やつの芝居ってのは、どんなことをしたんだ?」と、メイスンは、好奇心をそそられて、たずねた。
「ええ、やつは、まず荷造りにとりかかりましたよ、嘘じゃないんで、しかも、ひどくあわててるんでさ。引き出しという引き出しを、片っぱしからあけては、中の品物を、夢中でスーツケースへつめこんでるかと思うと、熱いストーブの上にのっかった雄鶏《おんどり》みたいに、寝台と戸棚の間を行ったり来たり、走り回っているんです。そして二分おきぐらいに立ち止まっては、ガルバンツァの三九四○一番に電話をかけるんです。そして、一、二分、電話にへばりついてるんですが、いくらしても相手が出ないらしいんです」
「そいつは、女のいる、バルボア・アパートの電話じゃないか」と、メイスンがいった。
ダニー・スピアがいった。「そいつは、あっしも知ってますよ。やつは、その番号を呼んじゃ、ミス・フリーマンを呼んでくれといいつづけていましたっけ」
「それで、相手が出たんだね?」
「ええ。誰かちゃんと出ることはでるんですね。それで、やっこさんがミス・フリーマンを頼むといって、しばらく待っているんですが、相手は切っちまうらしいんですね。戸棚の扉がひどくうすっぺらなんで、やっこさんの動作も、話していることも、残らず、こっちには聞こえるんです。
ここで問題なのはですね、あっしが聞いてるのをちゃんと知っていて、そんな芝居を打ったのか、それとも、あっしは気絶しているものと思って、本気でしゃべっていたのか、またそんなことなんか、てんでどうでもよかったのか、そこのところが、はっきりわからないってことなんですよ」
「ぼくは、じっと聞いているんだがね」と、メイスンは、じりじりした口調で、いった。「きみのいう意味を、はっきり呑みこもうと思って」
「つまり、こうなんですよ」と、ダニー・スピアが説明した。「その場の状況を、はっきり、先生に頭に入れていただきたいんですよ。というのは、ありのままに見ていただくことが大事だからなんですよ。やっこさんは荷造りをつづけながら、電話をかけつづけました。そのうちに、とうとう荷造りが終わりました。ベッドのスプリングのきしむ音が聞こえたところをみると、やつがベッドの端にでも腰をおろしたんでしょう。やつは、また同じ番号に電話をかけて、ミス・フリーマンを呼び出しました。こんどは、どうやら、女が出た様子で、『やあ、ドリスか、オスカーだよ』という、やつの声が聞こえました。
たぶん、電話でなんか話しちゃいけないと、女がいったんでしょうな。とんでもない大ごとになっちまったんだから、そんなことなんか、もうどうでもいいと、女に答えていましたからね。刑事がおれのとこまでやって来た。おれの正体も知ってたぞと、そういってね。このホテルまで、そんな刑事につけられて、のこのこ出かけて来るなんて、とんでもない間抜けだと、さかんに女に毒づいているんです。二人の刑事がお前のところを訪ねて行ったという話だったけど、きっと余計な口をすべらしたんだろうって責めつづけるんでさ。あんまり剣突《けんつく》がはげしいんで、女もすっかりのぼせあがった様子で、しばらくするてえと、最初の剣幕はどこへやら、こんどは、野郎のほうがなだめるほうにまわりましてね、叱るどころか、女を落ちつかせるのに大汗をかいていましたっけ。
その電話のやりとりを聞いていて、変だなという気がしたのは、いやに話が長ったらしくて、話としてまとまっていることなんです。まるで百姓が、野良帰りに近所の衆と会って、長々としゃべって夕方の時間をまぎらわしているように、電話にかじりついてしゃべりつづけていやがるんでさ。そのうちに、あんたの話は本当なのって、女が聞いたらしいんですな。すると、野郎はむきになって、ああでもないこうでもないといい出して、絶対に本当だと断言するんです。あの晩、おれはモクスレイのアパートの戸口までは行ったが、さんざんベルを鳴らして、モクスレイを起こそうとしてみたんだが、ぐっすり眠っていたとみえて、なんの物音もしなかった。いまになって考えてみると、おれが向こうへ行き着く前に、きっと殺されていたにちがいないと、こう、やっこさんはいうんです。女は、男がうまいことをいって、いいくるめようとしているのかもしれない、本当は、男が部屋の内まではいって行って、モクスレイの頭をぶちわったんじゃないかと、考えているようなふうでしたね。やつは、そうじゃないって、むきになって否定していましたがね。かれこれ、十分近くも、二人はしゃべっていましたよ。
まあ話ってのは、だいたいこんなところです。まちがうといけないから、事実をそっくりお話したわけでさ。やっこさんは、あっしに聞かせるつもりで、打った芝居かもしれませんがね、そうだとしたら、やつは、とてつもない名優ですぜ。やっこさんが、さっさとずらからなきゃいけないのに、のんきにすわりこんで、妹となんか無駄話をしていたんだとすりゃ、ありゃ、よっぽどまぬけな田舎者ですぜ。まあそこは、先生が好きなように、どっちかにきめておくんなさい。むやみに体ばっかりでっかくて、かんしゃく持ちの抜け作なのか、それとも拳骨と同じくらい、頭の動きも早いやつなのかをね。とにかく、目にもとまらぬすばしこいやつでしたよ」
メイスンは、きびきびとたずねた。「それから、どうした?」
「ええ、二人は、それからもしばらく、わけのわからんやりとりを電話でやっていましたっけが、それから、やっこさん、どうしても二人は、ずらからなくちゃならんというんですよ」
「そういう言葉を使ったのか?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「いいえ、そうはいわなかったんで、旅に出なくちゃなるまいって、そういったんです。ところが、女のほうでは、男といっしょに旅に出たくないような口振りらしいんですけど、やつのいうのには、二人はもう抜きさしならないくらい首まではまりこんじまったのだから、溺れるにしろ助かるにしろ、いっしょでなくちゃならねえ、離れ離れになっちゃうまくねえ、離れ離れになれば、警察に二つ手がかりを残すことになるが、いっしょにいれば、一つですむからって、必死で説きつけていましたよ。そして、これからタクシーをつかまえて迎えに行くから、荷物をまとめておくんだぞって、そういっていました」
「それから、どうした?」と、弁護士がたずねた。
「それから、荷物をひと山引っぱり出し、靴を一つ二つ引っつかむと、廊下へ出て行った様子でした。あっしは、体をねじったり、もがいたりさんざんしたあげく、やっとのことで両手をゆるめると、縛られていた紐をほどいたことはいいが、こんどは押しこめられていた戸棚の扉をあけにかからなきゃならんという始末でした。大声をあげて騒ぐか、足で戸の羽目板を蹴っ飛ばして割れば、戸棚から出るのもわけはないと思ったんですけど、そんなことをすりゃ大騒ぎになって、ホテル中の人間が集まって来ちゃまずい、先生としちゃ、内緒でやりたいつもりなんだろうと考えちゃったんですよ。そこで、ポケットナイフを出して、羽目板のうすいところを削ったってわけでさ。それから足で蹴破ったんですけどね、思ったほど大きな音もしませんでしたよ。すぐに、ここから電話と思ったんですけど、きっと帳場を通っているだろうから、ここから掛けるのはまずいと思ってね、町角まで出て行って、うちの事務所へ電話をかけたんです。あいにくドレイクは出かけていて、いなかったんですけど、うちの探偵を一人呼び出して、すぐに飛び出してバルボア・アパートをおさえろ、また手分けして、停車場全部と空港に張り込めといいつけました。二人の人相もよく教えておきましたから、だいじょうぶ、逃がすようなことはないでしょう。なにしろ、あのペンダー兄妹は、人一倍大きな口をつけているんですし、男のほうと来たら、とにかく山のように聳《そび》えてる大男と来てるんですからね」
「たぶん」と、メイスンがいった。「きみが電話をしたときには、二人ともまだ、バルボア・アパートを出ていなかったろうよ」
「出ていなけりゃありがたいんですがね」と、ダニー・スピアがいった。「なにしろ、きょうというきょうは、とんでもない|へま《ヽヽ》をやりましたからね。それで、やつらの足どりをつかんで行く先をを突きとめれば、きっとお役に立つだろうと考えたってわけですよ」
メイスンは、いくらか腹だたしそうにいった、「なんだって、電話で話してくれなかったんだ?」
「というのはね」と、スピアは、いいわけのように、答えた。「早いとこ、どっちかにきめなくちゃいけないと思ったからなんです。どっちにきめるか、一発しかなかったんですからね。その上一分一分が大事だときているでしょう。それで、うちの事務所へ電話をすれば、早いとこ、やつらの足どりをつかむことができると考えたんですよ。先生にまず電話でいきさつを説明しようかと思ったんですけどね。そんなことをしていたら、うんと時間がかかっちまうと思ったからなんです。ところで、うちの事務所へ電話をして、めいめい張り込みにつかせてしまってから考えますと、いまさらくわしいことを先生に電話したところで、なんにもならないだろうって気になったんです。というのは、お話したところで、先生にできることはなにもないんで、どうって意味もないんですからね。それで、できるだけ早くここへ来ていただいて、いきさつをお話し、現場も見ていただけば、先生自身の判断が下せるだろうと思ったってわけなんですよ。しかし、先生、やつらの高飛びをくいとめようとしたのは、まずかったでしょうかね?」
ペリイ・メイスンは、額に八の字を寄せ、じっと考えに沈みながら、色が褪《あ》せてうすくなった絨毯の上を歩きまわっていたが、やがて、ゆっくりと首を振って、重々しい口調でいった。「うむ、あの連中をつかまえようとしたのは、まずかったな。好きなように、どこへでも行かしたほうが、よかったね。ただし、必要なときには、いつでも引きもどせるように、居場所だけは知っておかなければならんが、行動だけは、勝手にさせておいたほうがよかったな」
ダニー・スピアは、腕時計を見て、
「そいつは」といった。「どうも済みませんでした。でも、すっかり打ち明けたところ、事情はそういうわけなんです。後三十分もして、うちの事務所へ電話をすれば、二人をつかまえたかどうかわかるでしょう。あっしの見たところ、十中八、九、つかまえていますぜ。やつらは、バルボア・アパートを出たら、鉄道を利用しようとするにきまってますからね。汽車に乗っちまえば、誰にもつかまりっこないと考えるような手合いですからね」
ふいに、ペリイ・メイスンは、にやっと笑って、
「よし」といった。「事務所に帰ろう、そのころには、ポール・ドレイクも、たぶん、もどって来ているだろう」
第十六章
上級裁判所家事審判部のフランク・マンロー判事は、つかつかと判事室から出てくると、裁判長席に着いた。おもむろに眼鏡をなおして、ぎっしり傍聴人のつまった法廷を見おろした。
廷丁が、高々と開廷を告げた。マンロー判事が木槌《きづち》を音高く響かせるのを合図に、法廷の両側のドアがあいて、一方からローダ・モンテインが、一方からはカール・モンテインが、係官につれられて出廷した。
ローダ・モンテインは、殺人事件の被告として、カール・モンテインは、その重要な証人として、ふたりとも、身柄を拘留されていたので、事件で逮捕されてから、ふたりが顔を合わせるのは、きょうがはじめてであった。
「モンテイン対モンテインの、婚姻無効確認の訴訟の審理を開始する」と、マンロー判事が口を開いた。「原告代理人は、地方検事補ジョン・ルーカス、被告代理人は、ペリイ・メイスン弁護士」
ローダ・モンテインは、思わず叫び声をあげて、つつっと前に踏み出した。係官の腕が、それをさえぎった。
「カール!」と、ローダが叫んだ。
毎日毎日の心痛と、夜ごとの不眠の跡を、そのやつれ果てた顔にありありと現わしたカール・モンテインは、唇をかたく結び、目をまっすぐ前に向けたまま、検事補の隣りの所定の席に着いた。妻のローダは、まさか夫がと、信じられないといった失望の色を両の目に浮かべ、まっ青な顔で立ちすくんでいたが、カールは、そのほうに目も向けなかった。
傍聴席から、一瞬、低いざわめきが起こった。が、廷丁が木槌を強く叩くと、じきに、そのざわめきも静まった。
ローダ・モンテインは、ふらふらと、被告席のほうに歩き出した。涙があふれて、目の前もよく見わけられぬ様子なので、かたわらの係官がその肘に手をあてて、席まで導いてやらなければならないほどだった。
ペリイ・メイスンは、この無言劇を見ても、ひと言も口をきかず、身動きひとつしなかった。悲痛な被告の心境をまざまざと見せたいまの出来事を、強烈に傍聴人に印象づけたいと思ったのだろう。そのためには、自分のような余計な役者が登場して邪魔をしないほうがいいと心を配ったのだろう。
最初に、法廷の緊張を破ったのは、マンロー判事だった。
「本訴訟における」と、マンローが口を切った。「原告と被告は、ともに身柄拘束中の者であります。すなわち、被告は、殺人事件の容疑者であり、また原告は、同事件における検察側の重要な証人として喚問される予定と聞いております。なお、審理にはいるに先きだちまして、当裁判所は、関係者に一言、注意を喚起しておきます。すなわち、本訴訟は、地方検察局の手によって、原告の利益のために提起されたものでありまして、その提訴の趣旨は、原告被告間に存在する婚姻に対し、その婚姻当時、被告の前配偶者が生存していたことを理由として、その婚姻の無効確認の宣告を求めようとするものであります。したがって、当裁判所は、原告、被告双方の弁論が、本訴訟の争点から逸脱しないように希望します。双方の代理人も、相手方証人の反対訊問にあたっては、後日、別個に審理さるべきローダ・モンテインの殺人事件の公判に利用しうるごとき情報を引き出すことを目的とする訊問は、絶対に許されぬものとお考え願いたい。わかりましたね?」
ペリイ・メイスンは、黙ったまま、同意のしるしに、軽く頭を下げた。
ジョン・ルーカス検事補は、勝ち誇ったような視線を、メイスンに向けた。いまの裁判長の説示は、地方検察局側の明白な勝利を、十分に予想させるものであった。
ペリイ・メイスンとしては、いまの裁判長の説示を待つまでもなく、被告が検事側の反対訊問にあったさい、それが被告を罪におとし入れるものであるという理由で、被告に答弁を拒否させることができるのだった。したがって、いまの裁判長の警告は、原告カール・モンテインに対するメイスンの反対訊問の権利を限定したものといえるのであった。
「原告側の最初の証人として、カール・モンテインを喚問します」と、ルーカス検事補がいった。
カール・モンテインは、すぐ隣りの席にいる父親の肩に手をおいて立ち上がると、もったい振った様子で証人席に進んだ。右手をあげて宣誓をすませ、それから、なんでしょうかと問いかけるような目を、ルーカス検事補に向けた。
「証人の名は、カール・W・モンテインですね?」
「そうです」
「証人は、現在、この市に居住しているんですね、モンテインさん?」
「そうです」
「被告ローダ・モンテインのことは、よく知っていますね?」
「はい」
「はじめて会ったのは、いつですか?」
「サニーサイド病院に、わたしが入院していたとき、付添い看護婦として雇ったのです」
「その後、証人は、ローダ・モンテインと結婚式をあげたのですね?」
「そうです」
「式をあげた日は、いつですか?」
「六月の八日でした」
「今年のですか?」
「そうです」
ルーカスは、ペリイ・メイスンのほうを向いて、手を振って、
「訊問をどうぞ」といった。
ペリイ・メイスンは、慇懃《いんぎん》な微笑を浮かべて、
「質問はありません」といった。
明らかに、カール・モンテインは、被告側の弁護人から、強烈な反対訊問を浴びせかけられるだろうと予期して、周到な注意を検事から受けて来たであろうし、ルーカス検事補としても、メイスンが重要な質問をして来たら、すぐに立ち上がって異議を申し立てようと身構えていただけに、質問がないというメイスンの言葉に、二人とも、あっけにとられたような顔をした。
「質問は、それまでです」と、マンロー判事が、廷内に響き渡るような声でいった。「席にもどってよろしい、モンテインさん」
ルーカス検事補が、すっくと立ち上がって、
「裁判長閣下」といった。「民事訴訟の規定に基づきまして、原告側は、被告の弁護人の質問に先き立って、被告を反対訊問の証人として喚問する権利をもつものと考えます。したがって、被告ローダ・モンテインの喚問をご許可くださるよう希望いたします」
「いったい」と、ペリイ・メイスンがたずねた。「この証人から、なにを立証しようとお考えですか?」
ルーカス検事補は、額に八の字を寄せて、「原告側が、訴訟進行についての方針なり、訊問の目的なりを、明らかにする必要はないと思います」と言い切った。
「裁判長閣下のご説示の趣旨に鑑《かんが》みまして」と、ペリイ・メイスンは、ことさらに慇懃な微笑を浮かべていった。「原告側が、被告の証言から立証しようと意図しているところは、本弁護人としては、すべて承認する用意があると申し上げようとしていたところです」
「では」と、ルーカスは、突っかかるような、敵意のこもった、荒々しい声で問いを浴びせかけた。「被告弁護人は、本年六月八日、被告が、原告カール・モンテインと結婚式をあげた当時、被告はすでに、別の男と結婚していたこと、その男の名前は、グレゴリイ・ロートン、別名グレゴリイ・モクスレイであって、本年六月十六日早暁に殺害された男であることを認めるのですか?」
「認めます」と、ペリイ・メイスンが、平然といい放った。
ルーカス検事補は、驚愕の色をありありと浮かべた。マンロー裁判長も、眉をひそめて考えこんだ。満員の傍聴席も、ざわざわとざわめいた。
「原告は同時に」と、ジョン・ルーカス検事補は、ちらっと裁判長に目を向けて、いった。「一九二九年二月に、グレゴリイ・ロートン名義の下に埋葬された人物が何者であるかについて、本証人に質問したいと考えます」
ペリイ・メイスンの微笑が、さっと軽蔑の薄笑いに変わった。
「被告側としましては」と、メイスンがいった。「本訴訟の被告と結婚していたグレゴリイ・ロートンが、原告と被告の婚姻当日、生存していたことを認めた以上、グレゴリイ・ロートンの名で埋葬された人物の身元を詮索するごときことは、本訴訟におきましては、まったく重要性のないものと考えます。もちろん、別個の刑事事件としてその問題を追求することは、検事側のご自由でありましょう。かつまた、本被告が、暗《あん》にその人物を毒殺したものであるかのごとき言葉を新聞社に流すことによって、この問題を追求することも検事側の自由でありましょう」
ルーカスは、顔をまっ赤にして、くるっと振り向いた。
「不当きわまる誹謗《ひぼう》だ」と、ルーカスが叫んだ。「弁護人は、そのような──」
マンロー判事が、木槌でデスクをたたいた。
「異議を認めます」と、ペリイ・メイスンのほうを向いて、マンロー判事がいった。「被告弁護人のいまの言葉は、まったく不当なものと考えます」
「裁判長閣下に陳謝します」と、ペリイ・メイスンは、おとなしくいった。
「原告側にも陳謝を要求します」と、ルーカスがいった。
ペリイ・メイスンは、意味ありげに黙ったままであった。
マンロー判事は、ふたりの顔を見くらべていた。その目には、おもしろそうな色が、かすかにひらめいていたのではないだろうか。
「審理の進行を命じます」と、マンロー判事がいった。
「望むところです」と、ルーカスはいって、着席した。
年のころ三十二ぐらいの、疲れたような目つきの婦人が、証人席に進み、右手をあげて宣誓をした。
ペリイ・メイスンが、訊問をはじめた。
「証人は、本年六月十六日に殺害された、グレゴリイ・モクスレイ、別名グレゴリイ・ロートンなる男の検屍審問に出席しましたか?」
「はい」
「死体を見ましたか?」
「はい」
「身もとがわかりましたか?」
「はい」
「誰でした?」
「一九二五年一月五日に、わたくしと結婚した男でした」
傍聴人たちは、あっと息をのんだ。ルーカス検事補も、思わず腰をあげかけたが、思いなおして腰をおろした。がまた、はねるように立ち上がった。ちょっとためらってから、ゆっくりと口を開いた。
「裁判長閣下、ただいまの証人の発言は、原告側にとってじつに意外きわまるものであります。しかしながら、ただいまの答弁は、不適格であり、関連性なく、かつ、重要ならざるものとして、異議を申し立てます。このモクスレイなる男が、ローダ・モンテインとの婚姻以前に、なん回結婚を重ねていようとも、本訴訟には関係のないことであります。かりに、結婚した相手が二ダース生存中であったとしても、この訴訟では問題にはなりません。被告ローダ・モンテインがそのような事実を知っていたとすれば、モクスレイの存命中に、婚姻無効確認の訴訟を起こすべきでありました。しかるに、被告は、そのような処置をとらなかったのであります。いまとなっては、モクスレイの死亡によって、被告が寡婦《かふ》である身分は動かしがたいものになっているのであります。いいかえれば、被告ローダ・モンテインとグレゴリイ・モクスレイの婚姻の事実は、付帯事実によって否認されるようなものではないのであります」
ペリイ・メイスンは、にっこり微笑を浮かべて、反駁した。
「この州の法律では、先夫または先妻の生存中に結ばれた婚姻は、当初から非合法であり、無効なものであると規定されています。カリフォルニア州判例集第一六○編六一ページには、無効の婚姻は、付帯事実に従属すると明記してあります。
この規定によっても明らかなように、グレゴリイ・ロートンに先妻が現存していたあいだは、ローダ・モンテインと有効な婚姻関係にはいることは不可能であったはずです。したがって、本被告の前の婚姻は無効であり、それゆえに、その後のカール・モンテインとの合法的な婚姻に対しては、なんらの障害にならぬものであることを申し立てます」
「原告の異議を却下します」と、マンロー判事が裁決した。
ペリイ・メイスンは、訊問をつづけた。
「証人は、一九二五年一月五日の結婚以後、グレゴリイ・モクスレイ、別名グレゴリイ・ロートン等、さまざまな名前で呼ばれていた男と離婚しましたか?」
「はい、離婚しました」
ペリイ・メイスンは、一通の法律書類をひらいて、ことさら勢いよくルーカス検事補の前に差し出した。
「ルーカス君のご覧に供しよう」と、メイスンはいった。「これが、その離婚判決の謄本です。この判決の日付が、被告とグレゴリイ・ロートンとの婚姻の日より後になっている事実に、裁判長閣下ならびに原告側のご注意を願います。この謄本を、証拠物件として提出いたします」
「受理します」と、マンロー裁判長がいった。
「では、反対訊問をどうぞ」と、ペリイ・メイスンが大きな声でいった。
ルーカス検事補は、証人席に近づくと、証人の顔をじっと見つめていった。「証人が、死体置き場で見た男の身もとに、まちがいはないでしょうね?」
「まちがいは、ございません」
ルーカスは、肩をすくめ、マンロー裁判長のほうを向いて、いった。「反対訊問は、これだけです」
裁判長は、机から身を乗り出すようにして、書記に命じた。「カリフォルニア州判例集第一六○篇と、カリフォルニア州法令集第十六巻を持って来なさい」
書記が判事室へはいって行った。法廷は、ものをいうものもなかったが、なんとなく、ざわざわと落ちつきがなかった。やがて、書記は、二冊の書物を持ってもどって来た。マンロー裁判長は、それを受けとると、しきりにページを繰って、考え考え、検討していた。
やがて、マンロー裁判長は、書物から目をあげると、簡潔な言葉で判決をいい渡した。
「被告の勝訴と認めます」と、裁判長がいった。「婚姻無効確認の訴えは却下します。では、これで閉廷します」
ペリイ・メイスンが振り向いたはずみに、モンテイン老人と目が合った。ぞっと寒気がするような、きらきらと光るような目の色だった。が、老人の顔には、どんな表情の動きも見られなかった。ジョン・ルーカスは、ぺしゃんこにやっつけられたという顔つきだったし、カール・モンテインは、いささか茫然自失の態だったが、C・フィリップ・モンテインだけは、厳然たる態度を崩さなかった。いま下された判決で衝撃を受けたかどうか、それすらわからなかった。
法廷は、いっせいにざわめき出した。新聞記者たちは電話器に飛びつき、傍聴人たちは、三々五々寄り集まって、めいめいが、いっせいにしゃべり出した。
ペリイ・メイスンは、ローダ・モンテインに付き添っている係官に向かっていった。「ぼくは、依頼人と打ち合わせがしたいんで、陪審員室を借りますからね。なんなら、きみは、ドアの外で待っていてくれたまえ」
メイスンは、ローダ・モンテインの腕をとって、陪審員室に案内した。椅子をすすめ、テーブルを中にして向き合うと、もうだいじょうぶとはげますように、力強く微笑みかけた。
「これは、どういうことなんですの?」と、ローダが、まずたずねた。
「つまり」と、ペリイ・メイスンがいった。「マンロー判事が、あなたとカール・モンテイン君との結婚を、全面的に、有効で合法的なものだと認めたわけなんです」
「そうなったら、どういうことになりますの?」と、ローダがたずねた。
「そうなったら」といいながら、ペリイ・メイスンは、ポケットから訴状をとり出して、「こんどは、あなたが離婚の訴えをする番です。はなはだしい虐待が、その理由の一つ。殺人を犯したと虚偽の告発をしたことが一つ。夫としてあなたの愛情を裏切ったこと。そのほか、いろいろの機会に、あなたに対して、残酷かつ非人道的な扱いをしたことを理由に、離婚を求めるんです。その具体的な例のいくつかは、この訴状の中に列記してあります。後は、あなたの署名を待つばかりになっています」
涙が、ローダの目に浮かんで来た。
「でも」と、ローダがいった。「わたし、あのひとと別れる気はありませんわ。あのひとの弱い性格から、こんどのことだってむりもないことだと、わたしが思っていることなんか、先生にはおわかりになりませんわ。ほんとに、わたし、あのひとを愛していますわ」
ペリイ・メイスンは、ぐっと相手の顔に顔を近づけて、じっと相手の目をのぞきこんで、
「ローダさん」と、ささやくような声で、いった。「あんたは、もうすっかり、しゃべってしまったんですよ。地方検事の前で、供述書に署名をしてしまったじゃありませんか。いまさら、その供述をひるがえすことはできませんよ。飽くまでも頑張り通すか、降参《こうさん》するか、どちらかなんですよ。
さいわいにして、いままでのところ、検事は、モクスレイが殺されたとき、現実に、モクスレイのアパートの玄関に立って、ベルを鳴らした人間を発見することができないでいる。が、ぼくは、その人間を発見しました。しかも、二人も発見したんですよ。一人は、嘘をついているのかもしれない。反対に、二人とも、本当のことをいっているのかもしれない。二人のうち、どちらかが証言をすれば、あなたは、死刑になるんですよ」
ローダは、目に狼狽《ろうばい》の色を浮かべて、メイスンの顔を見つめた。
「その一人は」と、ペリイ・メイスンは、言葉をつづけて、「オスカー・ペンダーという、センタービルから出て来た田舎者で、モクスレイから金をとろうとしていた男です。その金は、妹に代わって、ペンダーがとり返そうとしていたもので、モクスレイが、ペンダーの妹の貯金をだましとっていたってわけです」
「わたし、そんな人のことなんか知りませんわ」と、ローダ・モンテインがいった。「もう一人は、誰なんですの?」
メイスンの目が、射すように、ローダの目を見て、ゆっくりといった。「もう一人は、医師のクロード・ミルサップです。彼は、あの晩、眠ることができなかった。モクスレイに会うという、あなたの約束を知っていたからです。それで、ベッドから出ると、モクスレイの家まで車を走らせた。すると、あなたは、まだいたんですね。あなたの車が、横町の角を回ったところにとめてあった。しかし、モクスレイの家は、電灯がみんな消えてまっ暗だったが、ミルサップはベルを鳴らした」
ローダ・モンテインは、唇まで紙のように白くなった。
「まあ、クロード・ミルサップが!」と、呟くように、ローダがいった。
「あなたが、こんな困った立場に追いこまれたのも」と、メイスンが彼女に話して聞かせた。「ぼくのいった通りにしなかったからです。だから、これからはどんなことでも、ぼくの指図通りにしてくれなくては困りますよ。さいわい、きょうの公判で、婚姻無効の訴訟には勝ったとはいうものの、地方検事は、ご主人の証言の裏づけに、署名入りの供述書を新聞社に発表してしまった。その上、重要証人として、ぼくが会えないようなところへ拘置しているのだが、そのくせ、新聞記者には誰とでも、自由に会見させている。
そこで、こちらも、そうした検事側の宣伝戦に対抗して闘う必要があるんです。それには、この離婚訴訟を起こすことです。ご主人は、地方検事に嘘八百を並べたて、こともあろうに、無実のあなたに殺人犯人のぬれ衣を着せるような嘘をついた。そういう虐待は立派な離婚の理由になるというのです」
「そうすれば」と、ローダがたずねた。
「そうすれば」と、メイスンが言葉をつづけて、「新聞社には、この訴状が絶好の種になるのです、しかし、いちばんの狙いは、カール・モンテインに召喚状を突きつけて、法廷に引っ張り出し、宣誓供述書をとることです。地方検察局が事のしだいに気がつく前に、こっちは、カール君をがんじがらめにしてしまうのです。もし、カール君がこれまでの証言を変えなければ、あなたに莫大な扶養料を払わなければならない。それがいやで、証言を変えることになれば、地方検察側にとっては目もあてられないようなことになるというわけです」
ローダが、目に恐怖の色を浮かべて、たずねた。「検事は、あのひとの宣誓した供述を、わたしに不利なように殺人事件の公判で利用できるんですか?」
「そうはいきませんよ」
「でも」と、ローダはいった。「わたし、あのひととは離婚したくないんです。あのひとの性格の弱いことは、わたし、よく知っていますけれど、それでも、わたし、あのひとを愛していますの。あのひとを一人前の男にしたいのです。あまりに甘やかされすぎたんですわ。お父さんやモンテイン家の家名に頼るようにしこまれて来たんです。人間の性格を、一晩で変えようたってできることではありませんわ。いきなり突っかい棒をはずして、すぐに独り立ちをさせようったってむりですわ。先生だって、そんなことは──」
「まあ、お聞きなさい」と、メイスンは、彼女に噛んで含めるように、いった。「あなたが、カール君を愛しているのなら、そりゃ、それでも構いませんよ。しかし、さし当っての問題は、あなたが殺人容疑で起訴されているということです。地方検事は、死刑の判決をかちとろうとしている。しかも、その背後には、非常に頭のするどい、恐ろしく冷酷な、徹底的に残忍な男が控えているんです。その男は、あなたに有罪の判決が下って、死刑の宣告を受けさせるために必要な金なら、どれだけでも惜しまずにつぎこもうと考えているのです」
「誰のことをおっしゃってますの?」と、ローダがたずねた。
「C・フィリップ・モンテインですよ」と、メイスンが相手にいって聞かせた。
「まあ」と、ローダがいった。「あの方は、わたしをいい嫁だとは思っていらっしゃらないようですけど、でも、まさか──」
戸口にいる係官が、わざと大きく咳払いをして、
「時間です」といった。
ペリイ・メイスンは、離婚訴訟の書類を、ローダの前に押しやり、万年筆を差し出して、
「そこにサインをなさい」といった。
ローダは、訴えるような目を、じっとメイスンの目に向けて、
「だって」といった。「あの方は、カールのお父さんですわ! まさか、あの方が──」
「サインをなさい」と、メイスンがいった。
係官がはいって来た。
ローダ・モンテインは、万年筆を取り上げた。その指先きが、メイスンの手の甲に触れたが、氷のようにつめたかった。一気にサインをすると、ローダは、涙に濡《ぬ》れた目を係官に向けて、
「お待たせしました」といった。
第十七章
ペリイ・メイスンは、指の先きで、こつこつとデスクのはしを叩きながら、じっと冷静に目を凝《こ》らして、ポール・ドレイクの顔を眺めていた。
「きみのところの探偵が、停車場で、ふたりを見つけたというんだね。ポール?」
「そうだよ。発車時刻の十分ぐらい前に見つけたんだそうだ。そこで、あのふたりと同じ列車に乗りこんで、郊外の駅から電報を打ってよこしたんだ。さあそこで、おれは電話に飛びついて大活躍さ。別々の駅から、応援の連中をつぎつぎに乗り込ませた。そんなわけで、あのふたりは高飛びのはじめから、ずっと監視しているんだ」
「あのふたりには、逃げ回っていてもらいたいんだ」と、メイスンがいった。
「デラ・ストリートからも、そのことは聞いたがね。もしかしたら、聞きまちがえじゃないかと思ってね。はっきり、きみの真意を聞きたかったんだ」
メイスンは、ゆっくりといった。「ふたりをつけ回したいんだ。怯えさせてやりたいんだ。逃げ回らせたいんだ。ある土地へ行けば行くたんびに、偽名を使って泊まるだろう。その偽名を知りたいんだ。そのホテルの宿帳を写真にとってもらいたいんだ」
「探偵がつけ回しているってことを、ふたりに知らしたいというんだね?」
「そうだ。しかし、そこのところを、ほどほどにやってもらいたいんだ。探偵につけ回されて、もう逃げ回ることもできない、なんて思わせちゃまずいんだ。探偵のやつ、人相書だのなんだのを持って、いろんなホテルに張りこんでいるな、ぐらいに思わせてもらいたいんだ」
探偵は、しばらく黙って煙草をふかしていたが、いきなり、「きみは、どうかしているぜ、ペリイ!」
「どうして?」
「おれの知ったことじゃないがね」と、ドレイクが、ゆっくりといった。「しかし、このペンダーって男は、殺人のときに、現場にいたにちがいないんだぜ。やつは、妹に電話をしたときにも、夜明けの二時十五分ごろに、モクスレイのアパートの玄関のベルを鳴らしたといっているんだからね。それに、モクスレイを殺す動機だってあったし、モクスレイを脅迫していたこともまちがいないことだ。だから、あの男を逃げ回らせておく代わりに、新聞記者たちに知らしてやって、逮捕させるように仕向けてやれば、ローダ・モンテインにとっては、この上なしの宣伝材料になるじゃないか」
「それから、どうなんだ?」と、メイスンがたずねた。
「そうすりゃ、地方検事は窮地に追い込まれるにきまっているじゃないか。きみは、ペンダーの逮捕を要求できるじゃないか。地方検事は、やつを証人として喚問すべきだと要求できるじゃないか」
「それから?」
「なにが、それからだ」と、ドレイクがいった。「陪審員の前に、やつを引っ張り出して、八つ裂きにできるじゃないか。モクスレイから金を取り返すために、ここへやって来たことを、しかも脅迫で、その金を取ろうとしたということを証明できるじゃないか。犯行の行なわれた時刻に、現場にいたことを認めさせるなり、妹と電話でした話を引用して、やつを責め立てるなりできるし、やつが、おれの部下にどんな扱いをしたか、それを証明することだってできるじゃないか」
メイスンは、微笑を浮かべて、
「うん」といった。「そういうことなら、みんなできるさ。しかし、ここ当分は、それで楽にしていられるだろうが、そのうちに、公判にはいる。地方検事は、ペンダーを証人席へ立たして、モクスレイに電話をしたことや、モクスレイから金を取り返そうとしたことを認めさせるだろう。そればかりじゃない、必要によっては、モクスレイを脅迫していたことも認めさせるだろう。それからさらに、やつが、午前二時すぎにモクスレイのアバートヘ行ったことも、二時に、ローダ・モンテインが金を持って、会いに来るとモクスレイがいったということも、やつに証言させるだろう。ペンダーは、その金を受け取るために行ったのだ。それはもう、当然すぎるほど当然なことだ。それから、ペンダーは、二階のモクスレイの階段に通じる玄関の前に立って、なんども繰り返してベルを鳴らしたが、誰も出て来なかったと証言するだろう。
そうなると、やつの証言は、隣りのアパートに住んでいる夫婦者の証言と一致するから、ローダ・モンテインが証人席に立って、凶行時刻にベルを鳴らしたのは自分だと、いくら証言したところで、陪審員は、ローダを嘘つきと思うにちがいない。それから、地方検事は、陪審員の前にガレージの鍵を見せびらかして、ローダ・モンテインに対して、第一級殺人の評決を引き出すにきまっているのだ」
ドレイクは、しかつめらしくうなずいて、
「だけど」といった。「あのふたりを野放しにしとくというのは、いったい、どういう狙いなんだ?」
「遅かれ早かれ」と、メイスンがいった。「地方検事も、この事件の真の核心をつかむだろう。とにかく、凶行の時刻に、モクスレイのアパートの玄関の前に立って、ベルを鳴らした人間がいたのだ。検察側は、主《おも》だった証人たちの証言によって、その点を明らかにするだろう。ところが、その人物が誰であっても、その男もしくは女は、この殺人事件では犯人ではあり得ないのだ。というのは、明らかに、その人間が玄関のベルを鳴らしていながら、それと同時に、二階の、それもいちばん奥の部屋で、男の頭を殴りつけているなんて器用な真似《まね》はできないのだからね。
いっぽう、玄関のベルを鳴らしていた人間が、凶行の時刻に、現場付近にいたのは、わたしでございますなんて、自分から進んで申し出るわけもない。しかし、いったん検事に追いつめられるような羽目になれば、自分が犯人でないということを、汗水流して力説するだろうね。
そういうわけで、ベルを鳴らしたのは自分だと主張する人間が、二人いることになるのだ。一人は、実際に玄関の前に立って、ベルを鳴らした人間、もう一人は、ベルが鳴っているときに、モクスレイを殺していた人間だ。この二人はどちらも、玄関のベルを鳴らしたのは自分だといい張るだろう。
ローダ・モンテインが、進んでそう主張した最初の人間だ。ところがその主張は、ガレージの鍵がモクスレイのアパートの部屋に落ちていたために、実質的には、その信憑性《しんぴょうせい》が弱くなっているのだ。しかし、それでも、陪審員は彼女の主張を信じるかもしれない。けれども、地方検事が、玄関のベルを鳴らしていたのは自分だと、はっきり証言をする証人を見つけたとしたら、そのときには、ローダ・モンテインの主張は影がうすくなってしまうにちがいないのだ」
ドレイクは、うなずいた。
「だから、もしも」と、メイスンは言葉をつづけた。「地方検事がペンダーを捕え、ペンダーが真実を告げるということになれば、地方検事は、やつを検察側証人中のスターにするだろう。だから、ぼくとしては、やつを反対訊問して、実際に玄関のベルを鳴らしていただけではなく、これこそ真犯人だということを、陪審員に立証しなければならなくなるのだ。ところが、反対訊問の場合、いつものやり方で、この男のいうことはまっ赤な嘘だと証明しなければならないということになると、大して成功しそうにもないのだ。おそらく、地方検事は、反対訊問の応答の仕方を、やつに教えこむだろうからね。しかも、念入りに、教えこむと思うんだ。ところが、ぼくが、やつを反対訊問で、やつがさまざまの変名を使って、しかもそれぞれの場所を真夜中にこそこそと、いかにも犯罪人のように、町から町と国中を逃げ回っていたということを、陪審員の前で証明することができれば、やつの証言はまっ赤な嘘だと、いっぺんにきめつけることができるのだ。
さあ、そこだ。オスカー・ペンダーと、合わせてその妹に、勝手に逃げ回らせているぼくの狙いは、そこなんだ。自分のほうから陪審員に疑わさせるような機会を、やつらに与えてやっているのだ。やつらが、つぎからつぎと、新しい町へ行っては、泡《あわ》をくって逃げ出せば逃げ出すほど、偽名を使えば使うほど、変装をしたり正体を隠そうとすればするほど、陪審員は、やつらこそ怪しいと思い込むことになる。それに、ペンダーのやつだって、自分の立ち回った先きや、使った偽名のうちには忘れてしまうのだってあるだろうから、そうなるといっそう、ぼくのいうことがまちがいないことになって来る。そこで、ぼくが宿帳の写真を提出して、やつの証言の信憑性を問題にすれば、やつを一刀両断にできるというものだ」
「するとなんだね」と、ドレイクがいった。「最後には、地方検事の手で、オスカー・ペンダーを発見させるつもりなんだね」
「適当な時期をねらって」と、ペリイ・メイスンがいった。「地方検事に、オスカー・ペンダーをつかまえさせるかもしれないが、やつを舞台に引っ張り出すか出さぬかは、ぼくの支配下においておきたいのだ」
ドレイクは、合点をして、ゆっくりといった。「きみは、殺人の現場にいて、玄関のベルを鳴らしていたという人間が、二人、出て来るというんだね。そのうちの一人は、真犯人で、一人は、実際にベルを鳴らしていた人聞だ。ところが、おれたちは、もう二人とも見つけてしまったじゃないか。一人は、オスカー・ペンダー、もう一人は、ローダ・モンテインだ。とすると、真犯人は、二人のうちのどちらかということにちがいない」
微笑が、ゆっくりとペリイ・メイスンの顔に浮かんだ。
「あっぱれな推理だよ、ポール」と、メイスンがいった。「ところで、あいにくなことに、玄関のベルを鳴らしたと称する人間が、三人いてね」
「三人だって?」と、驚いて、探偵はたずねた。「誰だい、もう一人は?」
「きみにはいえないよ、ポール。ただ、地方検事もよく知っている人間だとだけしかいえない。いまのところ、その男はローダのことを庇おうとしているので、地方検事も、なんにもきき出せないでいる。しかし、いずれは口を割らせるだろう。そうなると、ローダの立場は、非常に危険なものになって来るんだ。
地方検事は、このベルの件をどこまでも追求するだろう。そのときこそ、ぼくがオスカー・ペンダーを引っ張り出す時だ。そのときこそ、やつのうしろ暗い振舞《ふるま》いをあばき立ててやる時だ。そのときこそ、やつの動機を明るみに出してやる時だ。そのときこそ、あれを出し、これを出して、事件全体をめちゃめちゃに引っかきまわしてしまえば、地方検事は、なにがなんだかわからなくなるだろうし、陪審員だって、どう考えていいかわからないほど、すっかり頭が混乱してしまって、二人の男には論争させるままにしておくだろうし、女のことなんかそっちのけになってしまうだろう」
ドレイクは、煙草の火を見つめて、考えこんでしまっていたが、なかば振り向いて、目を弁護士の顔にあげた。
「じつは、ほかにも、おかしなことにぶつかったんだ」と、ドレイクがいった。
「なんだ?」
「誰か、ペンダーをさがしているやつがいるんだ」
「どうして、さがしているとわかるんだ?」
「じつは、ペンダー兄妹がずらかった後、ペンダーが泊まっていたホテルと、妹がいたアパートに、部下を張り込ませておいたんだ。ひょっとすると、共犯のやつが姿を見せるかもしれないと思ってね。
ところが、昨日の夕方なんだ。まるでシロップの壷《つぼ》に蝿《はえ》がたかるみたいに、どっかよその探偵どもがなん人も、どやどやと、そこへ現われたってわけだ。そして、そこらじゅうを引っかきまわして、ペンダーと妹のいどころを突きとめようとしたというんだ」
メイスンの目が、非常な関心を示して、
「刑事か?」とたずねた。
「いいや、私立探偵だな。しかも、どういう理由かわからないが、自分たちの行動を、警察の目につかないように、とても気を使っているようだった」
「大勢なんだね、ポール?」
「そうなんだ。たしかに、誰かよっぽど金を使っているやつがいるね」
ペリイ・メイスンは、目を細めて、
「C・フィリップ・モンテインという老人がいる」といった。「敵にまわすと危険な男だ。ぼくの肚にあることも感づいているだろうと思うね。どうしてペンダーの足どりをつかんだのかわからんが、たぶん、きみと同じ筋道を辿ったんだろうな、ポール」
ドレイクは、ゆっくりといった。「すると、きみは、モンテイン老人が、地方検察局とは別に、自分ひとりの手で、この事件に動き回っていると思うんだね?」
「たしかにそうだと思うね」
「なぜ、そう思うんだね?」
「というのはね、ローダ・モンテインを、無罪にしたくないと思っているからさ」
「なぜだ?」
「まず第一に」と、メイスンも、ゆっくりした口調で、「もし、ローダが無罪放免になれば、伜の正式な妻ということになるからさ。ところが、C・フィリップ・モンテインとしては、伜の将来の結婚というものについて、はっきりした計画を持っていると、ぼくは睨んでいるんだ」
探偵は、信じられないような顔つきで、じっと、ペリイ・メイスンの顔を見つめた。
「それだけじゃ」と、ドレイクはいった。「ひとりの女を殺人罪に、落とさなきゃならんほどの、強力な動機とは思えないね」
メイスンは、唇をゆがめて、にやっと笑った。
「ぼくもね、ポール、はじめて、C・フィリップ・モンテインが会いに来たとき、その通りに思ったことなんだが、あのじいさん、こういう提案を持って来たんだ。ローダの弁護料として、金はいくらでも出す。ただしそれには、ローダの立場が実質的に弱体化するように弁護することを、ぼくが承知するならばという条件がつくんだ」
探偵は、低く口笛を吹いた。
しばらく、ものもいわずに考えこんでいたが、やがて、ドレイクは、「ペリイ、グレゴリイ・モクスレイが殺されたとき、オスカー・ペンダーは、本当はどこにいたんだろうね?」
「ひょっとすると」と、メイスンがいった。「実際に、玄関の前に立って、ベルを鳴らしていたかもしれない。だから、やつを反対訊問するさいに、洗いざらい泥を吐かせるための弾丸を、十分に用意しておきたいと思っているのは、そこなんだよ」
ドレイクは、じっと、相手の目を見据えて、
「きみは、依頼人の無罪を、あくまでも信じているわけでもないらしいね」といった。
メイスンは、にやっと笑いを浮かべただけで、なにもいわなかった。そのとき、デラ・ストリートがドアをあけて、そっと部屋にはいって来た。意味ありげな視線をポール・ドレイクに向けてから、ペリイ・メイスンに向かっていった。「ミルサップ医師の看護婦の、メーベル・ストリックランドさんという方が、控え室に来ておいでです。至急、先生にお目にかかりたいといって。泣いていますわ」
「泣いている?」と、メイスンがたずねた。
デラ・ストリートは、うなずいて、
「目がまっ赤で、涙が頬を流れていますわ。どうしても、とまらないらしいんですの。あんまりひどく泣いているんで、まるで、物も見えないらしいんですの」
メイスンは、額に八の字を寄せて、廊下に出るドアのほうに、ぐいと顎をしゃくって見せた。ドレイクは、椅子の腕からすべり降り、立ち上がって、いった。「じゃ、後で会おう、ペリイ」
探偵がドアをしめて出て行くと、メイスンは、デラ・ストリートにうなずいて見せて、
「通したまえ」といった。
デラ・ストリートは、ドアをあけて、「どうぞ、おはいりください、ストリックランドさん」といった。それから、手さぐりで、泣きながら、戸口に進んで来る女の姿が弁護士に見えるように、片側に身を寄せた。デラ・ストリートは、女の手をとって事務室に導き、椅子にかけさせた。
「どうしました?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
看護婦は、話そうとしかけたが、思うように口がきけず、あわてて、ハンカチを鼻にあてた。
メイスンが、ちらっとデラ・ストリートに目くばせをすると、デラは足音を立てぬように、そっと事務室から出て行った。
「どうしたんです?」と、メイスンが問いかけた。「遠慮なく話してごらんなさい。二人だけで、ほかには誰もいないんだから」
「あなたが、ミルサップ先生をひどい目にあわせておしまいになったんですわ」といって、女は泣きつづけた。
「ミルサップさんに、なんかあったのかね?」と、メイスンがたずねた。
「誘拐されておしまいになりましたの」
「誘拐されたって?」
「ええ」
「詳しく話してみたまえ」といった弁護士の目は、油断のない光を放っていた。
「ゆうべは遅くまで仕事をしておりました」と、女は話し出した。「ほとんど、ま夜中の十二時ごろまで。先生は、わたしを家まで車で送ろうとなすって、途中まで来ますと、うしろからほかの車が追って来て、わたしたちの車を歩道のきわにとまらせたんです。その車には、男が二人、乗っていましたけど、どちらも、これまでに見かけたこともない人でした。二人ともピストルを持っていて、ミルサップ先生に命令して、向こうの車に乗り移らせると、そのまま走って行ってしまいました」
「どんな車だったの?」と、メイスンがたずねた。
「ビュイックのセダンでした」
「車のナンバーをおぼえているかね?」
「いいえ」
「車の色は?」
「黒でしたわ」
「男たちは、きみにもなにかいったかね?」
「いいえ」
「なにか、きみに要求したかね?」
「いいえ」
「警察には届けたんだろうね?」
「ええ」
「そうしたら?」
「警察の人がやって来て、わたしの話を聞き取ってから、ゆうべ、わたしたちの乗っていた車がとめられた場所まで行って、そこらじゅうを調べてくれましたけど、なんの手がかりも見つかりませんでした。それから、警察本都へ報告してくれました。そしたら、やったのは、あなたらしいと、地方検事さんは思っているらしいんです」
「ぼくが、なにをやったって?」と、メイスンがたずねた。
「公判で、あなたの依頼人に不利な証言をさせないように、ミルサップ先生をひっ捕えたというんです」
「ミルサップ君は、ローダ・モンテインに不利な証言をするつもりでいたのかね?」
「そんなことは、なんにも知りませんわ、わたしが知っているのは、地方検事さんが、そう考えているということだけですわ」
「検事の考えていることが、どうして、きみにわかるんだね?」
「いろいろ質問された、その口振りだの、なんだので」
「ピストルを突きつけられたときは、こわかったろうね?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「ええ、むろんですわ」
「どんなピストルを持っていたんだね?」
「自動拳銃《オートマチック》。大型の黒いオートマチックでしたわ」
ペリイ・メイスンは、つとデスクから立ち上がって、ドアのところまで行き、ぴったりしまっているかどうか確かめてから、部屋の中を歩き出した。
「ねえ、きみ」と、メイスンは、ゆっくりとした口振りで、いった。「ミルサップ君は、証言するのは気が進まなかったんだね」
「そうでしょうか?」
「きみも知ってるはずじゃないか」
「わたしが?」
「知ってると思うがね」
「でも、それと、先生が誘拐されたこととは関係がないのじゃありませんかしら?」
「さあ、どうだろうね」と、ペリイ・メイスンは、考えに沈みながらいった。「ぼくは、健康のために船旅に出るようにと勧めておいたんだがね」
「でも、出かけられなかったんですわ。地方検事から、なんだか書類が来ていたんですもの」
メイスンはうなずいた。そして、部屋の中を大股に歩きまわりながら、震えている女の肩から目を離さなかった。突然、彼は、ずかずかと女に近づいて、その手からハンカチを引ったくると、鼻に持って行って、深く息を吸いこんだ。
女は、ぱっと飛ぶように立ち上がって、メイスンの手をつかもうとしたが、つかみぞこなって、腕をつかんでしまった。そのまま手さぐりのようにしてメイスンの手先きまで自分の手をずらせて、ハンカチをつかんだ。メイスンは、涙でぐっしょり濡れたリンネルの布を、しっかり握って離さなかった。女は、そのはしをつかんで、夢中で引っ張った。びりっと布のさける音がして、切れはしだけ、女の手に残ったが、大きいほうの布は、メイスンの手に残った。
弁護士は、手の甲で目をこすって、陰気に声を立てて笑った。メイスン自身の目にも涙があふれて来て、頬をつたって流れた。
「なるほど、これだったんだね?」と、メイスンがいった。「催涙ガスをたらしたハンカチを持って、ここへやって来たんだね」
女は、なんにもいわなかった、
「きみは」と、涙のぽたぽたたれる目で女を見ながら、メイスンがいった。「警官と話すときも、ハンカチに催涙ガスをたらしたのかい?」
「あのときは、そんなことしなくてもよかったの」という女の声には、どうやら本当に泣き出したような口吻が見られた。「だって、うんとおどすんですもの、そんなことしなくたって」
「警察じゃ、きみの話にひっかかったかい?」と、メイスンがきいた。
「警察の人たちが、ミルサッブ先生を襲ったのは、あなたが雇った探偵らしいと思ったところをみれば、そうなんでしょうね。いま市内にあるビュイックを全部調べて、ポール・ドレイクのところで働いている探偵で、誰かビュイックを持っているものがいるかどうか当っているわ」
メイスンは立ち止まって、じっと女を睨み据えながら、
「この催涙ガスとは厄介なものだね」といった。「ぼくの目までがかすむじゃないか」
「いっぱいしみこませたんですもの」と、女は白状した。
「そもそも、自動車なんて、あったのかい?」と、メイスンが呆れ返ったような口吻でたずねた。
「どういうことですの?」
「いまの話の、車に乗った二人の男が、きみたちの車を歩道に押しつけたというのは、本当のことかい?」
「いいえ、嘘なの。ミルサップ先生が行っておしまいになっただけなの。公判廷の証人なんかには出たくないということを、あなたに知らしておけと、先生は、そうおっしゃったの」
「重要な事態になった場合には」と、ゆっくりと、ペリイ・メイスンがいった。「連絡がとれるようになっているのだろうね?」
「重要な事態が起きたときは、わたしに、電話してくださればいいわ」と、女はいった。「でも、あなたの声だとわかるように、はっきり話してくださいね。でないと、あなただと信じないかもしれませんからね」
ペリイ・メイスンは、声を立てて笑いながら、デスクの上のボタンを手さぐりで、押した。
デラが戸口を通りぬけて、控え室からはいって来た。
「デラ」と、ペリイ・メイスンがいった。「メーベル・ストリックランドさんを下まで案内して、タクシーに乗せてあげてくれ」
デラ・ストリートは、はっと息を呑んで、
「まあ、先生」といった。「泣いていらっしゃるじゃありませんか!」
ペリイ・メイスンは、声をあげて笑いながら、
「伝染性の涙だよ」と、デラにいった。
第十八章
精巧な彫刻をほどこしたマホガニー材の『判事席』には、本日の公判の裁判長マーカム判事が着席していた。これまでに数えきれないほど、大きな刑事事件を処理して来た、老練なこの判事は、おのずから厳然たる威風を身辺にただよわせていた。彼は、びっしりと傍聴人で埋まった法廷を見おろし、その目を、しんぼう強い、仮面のようなペリイ・メイスン弁護士の顔に移し、さらに、検察側の代表に選ばれた地方検事補ジョン・C・ルーカスの、ぴりぴりと頬の肉を動かしている機敏そうな顔に向けた。
「ただいまから、ローダ・モンテインに対する刑事事件の審理を開始します」と、彼は、開廷を宣告した。
「検察側の用意は整っています」と、ルーカス検事補は簡潔に述べた。
「被告側も整っています」ペリイ・メイスンがいった。
ローダ・モンテインは、保安官補と並んですわっていた。濃茶一色の地味な服をまとっていたが、わずかに襟元と袖口を縁どった白の飾りだけが、その暗い感じを和らげていた。そわそわとした物腰で、たえず、きょろきょろと法廷中にその目を走らせているのは、公判の緊張した空気が影響しているからだった。しかし、そのつんとそらした頭や、きっと結んだ口元を見れば、たとえ、陪審員が『第一級殺人罪』という答申をしても、緊張はしているかもしれないが、かの女がその毅然たる態度と自制とを崩さないだろうということは、もっとも鈍感な傍聴人にもよくわかった。
ジョン・ルーカス検事補は、ちらっと被告に目をやって、眉をしかめた。
殺人容疑で起訴された女にこういう態度をとらせることは、弁護士にとって、まことに危険この上もないことだといわなければならない。それよりも、陪審員の前に出たときには、できるだけ女らしく、できるだけ弱々しく、どうかすれば、いまにもヒステリーの発作を起こすのではないかと思わせるほど、女という、かの女の性《セックス》の特権を利用するように指導したほうが、ずっと良い結果をもたらすものなのだ。気丈で男まさりの女なら、人殺しもやりかねないものなのだ。それに反して、法廷に出たとたんに、ぶるぶる震え出すような弱々しい神経の持ち主の、弱々しい女となれば、人を殺すような冷血な人間とは受けとりにくくなろうというものだ。
書記の単調な声が、陪審員たちを呼び出して、席につかせた。
ルーカス検事補が立ち上がって、簡単に事件の概略を説明しおわると、マーカム裁判長を見あげた。
「法律の規定にしたがいまして」と、マーカム判事が口を開いた。「陪審員諸君の資格について、二、三の予備的質問を行ないます。なお、この後さらに、検事ならびに弁護人からも補足的な質問があるものとお考えください」
裁判長は、陪審員席のほうに向きなおって、型通りの質問にはいった。が、陪審員の選定に関する限りは、実質的には、格別意味のないものだった。
裁判長は、まったく無意味なことをしているにすぎないのだと、はっきりわかるような口調で、陪審員諸君は、本事件の理非曲直について、なんらかの見解を持つなり、あるいは公表するなりしたことがあるかどうか、もしまた、そうしたことがあるなら、そうした先入感を抹殺するためには、証拠を必要とするかどうか、また、諸君が陪審員に選定された場合、いちおうそうした先入感をすてて、虚心坦懐《きょしんたんかい》な気持ちで公判に臨むことができるかどうか、などとたずねた。予期した通り、この質問から失格者は出なかった。陪審員たちは、裁判長の単調な法律的独白に耳を傾け、ときどき、わかりましたというように、黙ってうなずいてみせるだけだった。
こんどは、マーカム裁判長は、弁護人と検事のほうを向いて、
「本官の承知していますところでは」といった。「法は、審理の公正迅速な進行をうながすために、陪審員諸君の資格審査を裁判長に要求しております。この趣旨は、弁護人および検事による質問によって、いっそうの完璧《かんぺき》が期せられるものと考えられます。なおまた、一定の適正範囲内における弁護人ならびに検事による審査は、陪審員の資格認定の目的からいっても、裁判長自身による質疑よりも、はるかに効果的であると考えます。まず、被告弁護人の質疑を許します」
こういいおわると、マーカム判事は着席して、メイスンの顔を見て合図した。
ペリイ・メイスンは立ち上がって、陪審員席の一番の席にいる男のほうに向きなおった。
「シンプソンさん」と、メイスンは、陪審員の名前を呼んで、「あなたは裁判長の質問に答えて、本事件の陪審員として、公正無私な答申ができるといわれましたね?」
「ええ、いいました」
「いかなる偏見も先入感も持っていないのですね?」
「ええ、持っていません」
「被告を、公平無私に扱えると思っているんですね?」
「思っています」
そこで、ペリイ・メイスンは、いちだんと声を張りあげた。お芝居がかって、大きく両手を振りあげて、
「シンプソンさん、本弁護人がこれから申し上げることは」と、メイスンはいった。「べつに個人的に、どうこうというのではありません。ただ、依頼人の利益のためにおたずねするのが、本弁護人の義務と思考するのであります。さて、従来の裁判の歴史を顧みまするに、後日になって、じつは、なんらいまわしい意味のないことが、まったく明らかになったような状況の偶然の連鎖にもとづいて、情況証拠が有罪の答申をもたらした例証が、すくなからず多いのであります。こうした悲しむべき結果の生ずるのを怖れるあまり、本弁護人は、あえてここで質問をさせていただくのでありますが、シンプソンさん、かりに、同じような偶然の情況の連鎖によって、不幸にして、あなたが、いま、被告がおかれていると同一の席にすわる身となり、第一級殺人罪で起訴される身となったとしたら、どういうことになりましょうか? その場合、いま、あなたが被告に対して抱いているのと同じ感情を、あなたに対して抱いているこの十二人の陪審員諸君の手に、あなたは自分の運命を、安んじてゆだねる気になるとお考えでしょうか、それともゆだねられないでしょうか?」
このメイスンの、芝居がかった言葉の羅列《られつ》に、ぼうっとなってしまったシンプソンという陪審員は、一語一語の特別な意味はわからないが、どうやら全体の要領はわかったような気がしたので、ゆっくりとうなずいた。
「ゆだねられると思います」と、シンプソンは答えた。
ペリイ・メイスンは、ほかの陪審員たちのほうを向いて、
「陪審員団の中に」といった。「シンプソンさんと、ちがったご意見の方がおいででしょうか? もし、おいででしたら、手をあげてください」
ほかの陪審員たちは、こんどは、自分たちがひとりひとり、きびしい質問攻めにあうものと、内心びくびくもので待っていたところだったのが、この突然の事態の変化に呆然として、助けを求めるように、おたがいに仲間の顔を眺め合った。質問の趣旨を完全に理解した者は、一人もいなかった。といって、手をあげて、人目につくようなことをしようという者もいなかった。
ペリイ・メイスンは、得意そうな微笑を満面に浮かべて、裁判長のほうを向いた。
「裁判長閣下、ただいまのところ、これ以上に適当な陪審員諸君を求めることは、至難であると思います。審理におはいりくださるよう希望します」
ジョン・ルーカスは、ぱっと立ち上がり、信じられないという声で、
「すると」といった。「弁護人は、資格審査の質問は打ち切りにして、殺人事件の公判にはいろうというのですか?」
マーカム判事は、木槌を叩いて、
「弁護人の言葉は、きみも聞いたはずですね、ルーカス君」といった。
しかし、そうはいったものの、裁判長自身も、相手の真意をどうとっていいのか迷っているような目つきで、しげしげとペリイ・メイスンの顔を眺めていた。マーカム判事にしても、メイスンの機敏な法廷戦術を、これまで見すぎるほど十分に見ていたので、この腕利きの弁護士が、例によって、なにかすばらしい長打を放とうとしているなとは感じられたが、さて、この事件ではどんな手を打とうとしているのかとなると、まったく予測がつかなかった。
ジョン・ルーカスは、大きく息をはいて、くるっと椅子を回すと、「わかりました」といった。
「では、検事側の質問を許可します」と、マーカム判事はいった。
そこで、ジョン・ルーカスは、陪審員の資格審査にとりかかった。その徴に入り細にわたる質問振りを聞けば、ペリイ・メイスンが陪審員の中に、ごく親しい人間を『割り込ませた』と、かれが思い込んでしまっていることは明らかだった。敵対する相手の名声を知っているだけに、ルーカスは、被告側に好意を持っている陪審員をいぶし出す以外に、とるべき道はないと思ってしまったのだ。そこで、長い午後の時間を全部使って、だらだらと、各陪審員の公正と不偏性に対する質問をつづけた。
その結果、じょじょにではあったが、被告側の弁護人ペリイ・メイスンが、陪審員の言葉を素直に受け容れて、かれらが公正無私だという申し立てに満足しているのに、地方検察局側では、むやみに陪審員たちを質問攻めにしたり、おどしつけたりして、かれらを嘘つきだと証明しなければ気が済まないのだという固い印象を、法廷中に植えつけてしまった。
午後の閉廷時間が近づくころには、ジョン・ルーカス自身の態度に、一見してそれとわかるほどとげとげしいものが忍び込んで、ともすれば陪審員の言葉のはしばしにまで、がみがみとどなりつけるというありさまだった。
時間が経つにつれて、マーカム判事のきびしい顔が、ほぐれて行った。一度か二度、検事補と陪審員との間で、おたがいに相手を疑うような、特別にはげしいやりとりが行なわれたときなど、判事は、いまにも吹き出しそうに、その顔をゆがめたほどだった。そして、夕方の閉廷時刻が来ると、ペリイ・メイスンの顔を見て、ぱちぱちと目くばせさえした。
翌る朝、審理が続行されることになっても、まだ、ジョン・ルーカスは、うるさいことをいって、陪審員にからんでいた。十一時になって、やっと資格審査がおわった、こんなに小うるさく、長時間もかかった上に、絶対忌避権を行使して、ルーカスは、四人の陪審員を除いてしまった。ペリイ・メイスンが忌避権など行使しなかったばかりか、「陪審団の構成にまったく満足であります」と述べているのにくらべて、ルーカスとしては、明白に負けたと認めざるを得なかった。
ジョン・ルーカスは、頭の働きが鋭いことと、法律に精通していることで知られていた。かれが、数多い若手の検事補のうちから選ばれて、これまで敗れたことのないペリイ・メイスンを敵にまわして闘うことになったのも、その頭の働きの機敏さを認められたからだった。ルーカスは、どんなことがあっても、ペリイ・メイスンごときに負けないぞという固い決意をもって闘いにのぞんだのだが、この決意に固執しすぎるあまり、法廷中の誰にも彼にもわかりすぎるほど、陪審員たちに悪印象を与えているのが、この分別をうしなってしまった地方検事補にはわからなかったのだ。
ペリイ・メイスンは、見たところ、奇策を胸に秘めている様子など微塵《みじん》もなかった。かれは、いかにも平静に落ちつき払っていて、物腰も慇懃で、合法的な策略家、人形使いが物いわぬ人形を自由自在に操るように、思いのままの証拠事実を操ることのできる手品師という世評とは、およそうらはらの態度だった。
しかし、この弁護士の変幻きわまりない法廷戦術をよく知りつくしている法廷の常連たちは、かれがこのようにとびきり無心な態度を装っているときこそ、じつは、周到な秘策が、その胸に生まれつつあるのだということを感じていた。ところが、陪審員たちの目には、メイスンがこのように冷静に構えているのは、被告の無罪を確信しているからこそで、いっぽう、検察側があんなに苛立っているのは、事件の結果に半信半疑の念を抱いているからだと映った。
午後の審理がはじまると、ジョン・ルーカス検事補は、ますます緊張の色を濃《こ》くして行った。が、ペリイ・メイスンは、慇懃な、平然とした態度をすこしも崩さず、証人の証言さえはじまれば、被告の無罪は、たちどころに明らかになることはまちがいないと、自信に満ちあふれている様子だった。
まず、ハリー・エクスター巡査が呼ばれて証人席についた。かれは、ともすれば、警察官のあげ足をとろうとする被告側弁護人に対して、ことさら反抗的に、警察官らしい強調した口吻で、つぎのような点を、それでも要領よく証言した。すなわち、市警察の一員であること。パトロール・カー六二号の担当であること。六月十六日午前二時二十八分、無線の通報を受けたこと。その通報にしたがって、ノーウォーク・アベニュー三一六番地のコールモント・アパートに急行したこと。アパートの中にはいって見ると、その一室に、意識不明の男を発見したこと。ただちに救急車を呼んで、その男を運ばせたこと。その後で、証人は現場に残っていて、写真係が到着して写真を撮影し、指紋係がアパート中をくまなく指紋を検出するのに立ち会ったこと。証人が到着してから後、警察官以外には、アパートにはいったもののないこと。数個の鍵のはいっている皮の鍵入れが、ベッドの下の絨毯の上に落ちていたこと。それらの鍵は、もう一度見れば見分《みわ》けがつくと思う、というような証言をした。
ルーカスは、皮の鍵入れを取り出して、ペリイ・メイスンのほうに差し出して、じゃらじゃら鳴らしてみせながら、
「これを検証したいとお望みですか、弁護人は?」とたずねた。
ペリイ・メイスンは、首を左右に振った。まったく無関心な様子だった。
証人は、その鍵を受け取って、アパートで発見した物に相違ないと確認した。鍵は、検察側証拠物件第一号として採用された。ついで、証人は、死体の発見された部屋の写真を確認し、死体の倒れていた位置を指し示し、その他、いろいろ細部についての証言をおわった後、ペリイ・メイスンの反対訊問の矢面《やおもて》に立つことになった。
ペリイ・メイスンは、別に声を張りあげるでもなく、目さえも上げなかった。椅子に深くかけたまま、軽く頭を下げただけで、
「その部屋の中に、目覚し時計がありましたね?」と、まるで世間話でもするような口振りで、たずねた。
「ありました」
「それは、どうなりました?」
「証拠として押収しました」
「誰が押収しました?」
「殺人捜査課の警官です」
「証人は、その時計をもう一度見れば、見分けがつきますか?」
「つきます」
ペリイ・メイスンは、ジョン・ルーカスに向きなおって、
「その目覚し時計は、どうなっています?」とたずねた。
「検察側で持っていますが」と、いささか面くらった様子で、ルーカスが答えた。
「ご提出願えますか?」と、ペリイ・メイスンが、追い打ちをかけるように、たずねた。
「当方の用意が整ったおりに」と、ジョン・ルーカスが答えた。
ペリイ・メイスンは、ちょっと肩をすぼめてから、もう一度、証人のほうを向いて、
「その目覚し時計について、証人は、なにか気付いた点がありましたか?」とたずねた。
「ええ、ありました」
「どんなことですか?」
「目覚しのベルが、午前二時、ないしは、二時一、二分前に鳴るようになっていました」
「時計は動いていたのですね?」
「動いていました」
「その写真を見て」と、ペリイ・メイスンがいった。「検察側証拠第二号の、その写真に、目覚し時計が写っているかどうか、よくあらためてください」
「写っています」と、証人が答えた。
「陪審員の方々に、よくわかるように指示してあげていただけますか?」
陪審員がいっせいに身を乗り出して、首をのばすと、証人は、片手に写真を持って、その目覚し時計を指で示した。
「その目覚し時計を、いま、証拠物件として提出願えませんか?」と、またペリイ・メイスンが要請した。
「検察側としては、提出の用意が整ったおりに提出します」と、ジョン・ルーカスが答えた。
ペリイ・メイスンは、マーカム裁判長に目を向けて、
「本弁護人としては」といった。「その目覚し時計に関して、この証人に、反対訊問を行ないたいのですが」
「目覚し時計は、まだ検察側から証拠物件として提出されていません」と、マーカム裁判長はいった。「裁判長としては、検察側の証拠提出の予定の順序を変更させてまで、提出を強制しようとは思いません。後刻、その目覚し時計が証拠物件として提出されたときに、弁護側が本証人を訊問したいというのでしたら、あらためて、本証人の反対訊問を許可することにしましょう」
「わかりました」と、ペリイ・メイスンは、気のないような口振りでいった。「では、これ以上、質問はありません」
ジョン・ルーカス検事補は、てきぱきと審理を進めて行った。殺人捜査課の課員につづいて、救急車の乗員を証人席に呼び出して、アパートから運ばれた男が、途中で死亡したことを立証し、アパートから発見された気味の悪い血痕や、皮ごと頭髪のこびりついている火掻き棒を、証拠物件として提出した。
ペリイ・メイスンは、身じろぎひとつしないで、すわっていた。猟師たちが輪になって迫って来るのにも気がつかずに、日なたでのうのうと寝ている大きな熊のようだった。彼は、反対訊問に立とうともしなかった。
一歩一歩、ジョン・ルーカスは、証拠を固めて行って、やがて、フランク・レインを証人席に呼び出した。
フランク・レインというのは、年のころ二十五、六歳の、元気のいい、はしこそうな青年だった。住所氏名、ならびに職業は、自動車のサービス・ステーションに勤めていることなどを、てきぱきと証言した。さらに、勤め先の場所を、ローダ・モンテインの住まいを引き合いに出して説明した。それから、今年の六月十六日の早暁、ローダ・モンテインを見かけたかとの質問に対して、きびきびした口調で、見かけたと肯定の答えをした。
「それは、いつごろでした?」と、ジョン・ルーカスがたずねた。
「午前一時四十五分です」
「被告は、なにをしていました?」
「シボレーのクーペを運転していました」
「そのクーペには、なにか変わったことがあるのに気がつきましたか?」
「はい、気がつきました」
「どんなことでした?」
「右の後部の車輪のタイヤがパンクしていました」
「それで、被告はどうしました?」
「わたしのいるサービス・ステーションの中へ車を乗り入れて、タイヤを替えてくれとお頼みになりました」
「で、証人は、どうしました?」
「ジャッキで車を持ちあげて、パンクしたタイヤをはずし、予備のタイヤを、右のうしろの車輪にとりつけました。ところが、ジャッキをはずして見ると、いま取り替えたばかりの予備のタイヤも、パンクして、いまにもぺしゃんこになりかけているんです。耳をあてて聞いてみると、予備のタイヤの小さな穴から、空気がしゅうしゅうとぬけているんです」
「それで、証人はどうしました?」
「仕方がないんで、またジャッキで車を持ちあげて、予備のタイヤをはずして、新しいチューブを入れたんです」
「そのとき、時間のことで、なにか被告と話しをかわしましたか?」
「ええ」
「どんな話でした?」
「パンクしたチューブを修繕しましょうかときいたんです。そうしたら、約束の時間に遅れるから、修繕できるまで待っていられない。新しいチューブと取り替えて、古いのをなおしておいてくれれば、後で取りに来るからと、そういう話でした」
「それで、預り証を渡したのですね?」
「ええ、そうです」
ジョン・ルーカスは、番号のはいったボール紙の合札を取り出して、
「これが、そうですか?」とたずねた。
「それです」
「被告がサービス・ステーションを出たのは、なん時でした?」
「正確にいって、午前二時十分すぎです」
「なにかで、時間を確かめたのですか?」
「ええ、そうです。作業日誌に記入するんで、時計を見たんです。昼間の勤務の者に、修理の仕事を引継ぐことになっていますんで」
「それで、被告は、ひとと会う約束があるといったのですね?」
「そうです」
「約束はなん時だと、いっていましたか?」
「午前二時だということでした」
「場所は、どこだといいました?」
「いいえ、いいませんでした」
ジョン・ルーカスは、ペリイ・メイスンのほうを向き、皮肉たっぷりな身振りで、
「この証人に、質問がおありですか?」とたずねた。
ペリイ・メイスンは、目をあげて証人を見た。体は大して動かさなかったが、ただ、口を開いたとき、法廷中に響き渡るような声でいった。「被告は、一時四十五分に、証人のサービス・ステーションに車を乗りつけたというのですね?」
「そうです」
「正確に、一時四十五分ですか?」
「一分と違ってはいません。違っても数秒といったところです。車がはいって来たとき、時計を見たんですから」
「出て行ったのは、二時十分ですね?」
「その通りです」
「すると、一時四十五分から二時十分までの間、被告は、証人の働いているサービス・ステーションにいたのですね?」
「そうです」
「証人の修理作業を見ていたのですね?」
「そうです」
「証人の目の前から離れたことはありませんか?」
「いいえ、ずっと目の前にいました」
「万一にも、人違いをしているということはないでしょうね?」
「絶対にありません」
「確かですね?」
「確かですとも」
「これでおわりました」と、ペリイ・メイスンはいった。
ジョン・ルーカス検事補は、つぎにベン・クランドールを証人席に呼んだ。
「証人の名前は?」
「ベンジャミン・クランドールです」
「どこにお住まいですか、クランドールさん?」
「当市のノーウォーク・アベニュー三○八番地、ベレイア・アパートメントに住んでいます」
「この六月十六日には、やはり、そこに住んでいたんですね?」
「はい、そうです」
「その日の夜の十二時から二時三十分まで、証人はアパートに在宅していましたか?」
「はい」
「ノーウォーク・アベニュー三一六番地、コールモント・アパートメントのBフラットをよくご存知ですか?」
「はい」
「これから、コールモント・アパートとベレイア・アパートとを示す見取図を見せますから、あなたのアパートの位置と、それに関連して、コールモント・アパートBフラットの位置をも指摘してください」
ルーカス検事補は、そういってから、マーカム判事のほうに目をあげて、いった。
「裁判長閣下、図面の正確なことについては、後ほど証明するつもりでおります」
「図面についても、またただいまの質問についても、異議はありません」と、ペリイ・メイスンは、すぐにいった。
「質問をつづけてよろしい」と、マーカム判事がいった。
証人は、ルーカス検事補が示した地図を見て、二つのアパートの位置を明らかにした。
ジョン・ルーカスは、ポケットから|ものさし《ヽヽヽヽ》を取り出して、
「すると」と、その|ものさし《ヽヽヽヽ》を図面にあてて、その正確さを誇示するように、いった。「証人のアパートからコールモント・アパートのBフラットまでは、直線距離にして、二十フィートもないくらいですね」
ペリイ・メイスンは、椅子の中で、わずかに身を動かした。と同時に、その太い声が、法廷中に響きわたった。
「裁判長閣下」と、メイスンがいった。「ただいまの検事の質問は、第一に図面が正確であるという仮定にもとづき、第二には、二つのアパートの間には、高さの点で相違がないという仮定にもとづいています。いいかえれば、この図面は、投影距離だけしか示してはおりません。なるほど、側面の距離についていえば、二つの部屋の直線距離をあらわしてはおりましょうが、二つの部屋の窓の高さ、ないしは、傾斜の度あいは、ぜんぜん計算にはいってはおりません」
マーカム裁判長は、ジョン・ルーカスのほうを見やって、
「検事補は、側面図なり、見取図なりの用意があるでしょうね?」と、マーカム裁判長はいった。
ルーカスは唇を噛んで、
「遺憾《いかん》ながら、裁判長閣下」といった。「そのような図面は用意しておりません」
「弁護人の異議を認めます」と、マーカム判事はいった。
「どれくらいの距離があるか、証人自身の概算で、説明できますか?」と、ジョン・ルーカスが、あらためて証人にたずねた。
「さあ、何フィートとか、何インチとかはどうも」と、証人がもぞもぞといった。
しばらく、沈黙の間があいた。
「二十フィートぐらいじゃありませんか?」と、目に見えていらいらして、ジョン・ルーカスがたずねた。
「誘導訊問として、異議を申し立てます」と、すかさず、ペリイ・メイスンがいった。
「異議を認める」マーカム判事がぴしゃりといった。
ジョン・ルーカス検事補は、息をついて、ちょっと考え込んでいたが、
「裁判長閣下」といった。「ただいまの質問は撤回いたします。その代わりとしまして、陪審団が、現場検証をして、直接その目で確かめられるようにお願いいたします」
「被告側には異議はありません」と、ペリイ・メイスンがいった。
「よろしい」と、マーカム判事はいった。「陪審員諸君の現場検証は、午後三時三十分とします。それまで、検事補は引きつづいて、他の事項について本証人に訊問しなさい」
ジョン・ルーカスは、勝ち誇ったような微笑を浮かべて、
「クランドールさん」といった。「証人は、本年六月十六日の早朝、コールモント・アパートのBフラットで、何かの物音が起こったのを聞きましたか?」
「はい」
「なにを聞いたのです?」
「電話のベルの音を聞きました」
「それから、なにか聞きましたか?」
「誰かが電話口で話している、話し声を聞きました」
「誰が話しているのかわかりましたか?」
「いえ、ただ声だけが──男の声が──コールモント・アパートのBフラットのほうから聞こえて来るのが、わかっただけです」
「電話のやりとりは、どんなことでした?」
「女の名前を口にしました──ローダ、といったことは確かです。苗字《みょうじ》もいったようでしたが、聞きとれませんでした。しかし、なんだか外国人みたような名前で、『エイン』とかなんとか、そんな語尾で──わざと外国人の名前のようにいったのか、そこははっきりしませんが、その女が二時に、金を持って来ることになっているようなことをいっていました」
「その後、なにか聞きましたか?」
「うとうとしていたんですが、そのうちに、変な物音が聞こえました」
「どんな音です?」
「取っ組み合うような、どたんばたんという音だの、殴りつけるような音がしたと思うと、それっきり、しんと静まり返ってしまいました。その後で、ささやくような声を聞いたように思います」
「そのとき、ほかに何か聞こえましたか?」と、ルーカスがたずねた。
「はい、聞こえました」
「なんでした?」
「小やみもなしに、じりじりと鳴る玄関のベルの音でした」
「繰り返していたのですか?」
「ええ、繰り返し繰り返し鳴っていました」
「なん回くらいですか?」
「さあ、はっきりはいえませんが、数回、繰り返して鳴りました」
「さきほどの証言の取っ組み合いの音の、前ですか、後ですか?」
「取っ組み合いの間じゅう、殴りつけるような音がした間にも鳴っていました」
ジョン・ルーカス検事補は、ペリイ・メイスンのほうを向いて、
「反対訊問を」と、ぶっきら棒にいった。
ペリイ・メイスンは、椅子の中で、ちょっと体を起こして、
「さてそれでは、その点をまちがいのないようにしておきましょう」といった。「証人は、はじめに、電話のベルが鳴るのを聞いたのですね?」
「そうです」
「どうして、電話のベルだとわかりました?」
「鳴り方でわかりました」
「というと?」
「機械的に鳴ったんです。電話の鳴り方は、こ存じでしょう──一秒か二秒、鳴ったと思うと、二秒か三秒、休んで、それからまた、つぎのが鳴るんです」
「それで、目をさましたのですか?」
「そうだと思います。あの晩は、ちょっと蒸し暑い晩でしたので、窓は、みんなあけたままでした。ひどく浅くしか眠っていなかったのです。はじめ、気がついたときは、わたしのアパートの電話が鳴っているのかと思って──」
「証人がどう思ったか、そんなことはいらざる発言です」と、ペリイ・メイスンは、吐きすてるように、いった。「証人が、なにをしたか、なにを見たか、なにを聞いたか? われわれが関心を持っているのは、それだけです」
「わたしが聞いたのは、電話のベルの鳴る音です」と、証人も、いささか|むっ《ヽヽ》としたような口振りで、いった。「わたしは、起き上がって耳を澄ましました。すると、北隣りの──コールモント・アパートで、電話が鳴っているのだなと、わかりました。そう思うと、電話口で話す、人の声も聞こえて来ました」
「その後で」と、ペリイ・メイスンがいった。「取っ組み合いの音を聞いたのですね?」
「その通りです」
「そして、その取っ組み合いのさいちゅうに、玄関のベルの音を聞いたというんですね?」
「それに違いありません」
「証人が聞いたというのは、電話のベルではなかったのですか?」
「いいえ、絶対にそんなことはありません」
「どうして、そんなことはないと、それほどはっきりいえるのですか?」
「電話のベルの音じゃなかったからです──まるきり、電話のベルとは違う鳴り方だったのです。第一に、ぶるるると、うなるような音でしたし、第二に、電話のベルの音より、ずっと間隔が長かったのです」
ペリイ・メイスンは、証人の答弁に、ひどく失望した様子で、
「証人は」といった。「絶対に電話の音ではなかったと断言できますか?」
「断言します」
「電話じゃなかったと断言するのですね?」
「そうです」
「証人が述べた他の証言と同じように、電話ではなかったということに確信があるのですね?」
「そうですとも」
「なん時に鳴ったか、証人は知っていますか?」と、ことさらなにげない調子で、ペリイ・メイスンはたずねた。
「午前二時前後だったと思います。はっきりとはわかりませんが。その後で、はっきり目がさめてから、警察へ知らせました。それが、午前二時二十七分でした。それまで、たぶん、十五分か二十分、間があったのですが──正確に、どれくらいの間だったかわかりません──その間、うとうととしていたものですから」
ペリイ・メイスンは、ゆっくり立ち上がった。
「証人は」と、メイスンは口を開いた。「ベレイア・アパートの二六九号室にいる人間が、コールモント・アパートのBフラットの玄関のベルが鳴るのを聞くのは、あり得ないことだとは思わないのですか?」
「あり得ないことではありません。現に、わたしがちゃんと聞いたのですから」と、証人は、激越な口調でいった。
「証人は、ただベルが鳴るのを聞いたというのでしょう。玄関のベルだとは、べつにわからないのでしょう?」
「玄関のベルだということは、わかっています」
「どうして、そんなことがわかるのです?」
「音に聞きおぼえがあったからです。玄関のベルだということは、よく知っています」
「しかし、それまでに、隣りのアパートの玄関のベルが鳴るのを聞いたことなど、おぼえてはいないのでしょう?」
「いいえ、あの晩は、とてもひどく蒸し暑い晩でした。その上、おだやかな、静かな夜で、物音一つしませんでしたし、窓も、みんなあけ放してありました」
「質問にだけ答えてください」と、ペリイ・メイスンが、重々しい口調でいった。「証人は、それまでに、隣りのアパートの玄関のベルが鳴るのは、一度も聞いたことがなかったのでしょう?」
「聞いたかどうか、思い出せません」
「その上に、証人が聞いたのが玄関のベルか否か、それを確かめるために、事件以後も、コールモント・アパートの玄関のベルに耳を傾けたことはなかったのでしょう?」
「ええ、ありません。そんなものを聞く必要がなかったから、聞かなかっただけです。でも、聞けば、玄関のベルだぐらい、ちゃんとわかりますよ」
ペリイ・メイスンは、なんにもいわずに、どっかと椅子に腰をおろして、陪審員席のほうに、にっこりと笑顔を向けた。その微笑には、この証人の証言の頼りなさに対しての、かれの無言の嘲笑が含まれていた。が、まだそのときには、陪審員たちの目には、それに対する反応の色は浮かばなかった。
「それで」と、メイスンはいった。「反対訊問はおわりです」
ジョン・ルーカス検事補は、また直接訊問にとりかかった。
「何フィート何インチという測定は別にして」と、ルーカスはいった。「玄関のベルが証人には聞こえないほどの距離だったかどうかということは、証言できるでしょうね」
ペリイ・メイスンは、そくざに立ち上がって、
「裁判長閣下」といった。「異議を申し立てます。ただいまの検事の発言は、不適正な再直接訊問であり、論争的であり、証拠によらずして事実を仮定するものであり、かつ、誘導的であり、暗示的であります。本証人は、それまでに一度も、コールモント・アパートの玄関のベルを聞いたことはなかったと証言しております。したがって、玄関のベルを聞くことができたか、できなかったかを述べるのは、証人には適当なことではないと考えます。それは、陪審員諸君が、証言に基づいて下すべき結論であります。玄関のベルを一度も聞いたことがなかったのでありますから、玄関のベルが鳴るのを聞くことができたかどうか判定するなどということは、明らかに不可能なことであります。それはあくまでも、証人の憶測にすぎません」
マーカム裁判長は、考え深そうにうなずいて、いった。「異議を認めます」
ルーカス検事補は、眉を寄せた。それからしばらくしていった。「証人は、電話が鳴ったときに、聞くことはできたのですね?」
「はい」
「はっきり聞こえたのですか、かすかに聞こえたのですか?」
「はっきり聞こえました。うちの電話かと思うほど、明瞭に聞こえました」
「証人の経験では」と、ルーカスは、たたみかけてたずねた。「電話のベルと玄関のベルとは、同じくらいの音で聞こえますか?」
「異議を申し立てます」と、ペリイ・メイスンは、また立ち上がっていった。「誘導訊問として、結論を求めるものであります……」
マーカム判事はうなずいて、きっぱり裁定した。「異議を認めます。その質問は不適当です」
ジョン・ルーカスは考え込んでしまった。そばに並んでいる検事補のほうに身をかがめて、その一人と、しばらく、ひそひそと話し合っていた。ずるそうな表情が、その顔にあらわれた。ひそひそ話の間に、一度か二度、微笑が浮かんだ。
相手の検事補が、うなずいて見せた。
ルーカスは、椅子にすわりなおすと、「質問をおわります」といった。
「再反対訊問は?」と、マーカム判事は、ペリイ・メイスンのほうを見てたずねた。
ペリイ・メイスンは、黙って、首を左右に振った。
「さきほどきめた陪審員諸君の現場検証の時間が近づいて来ました」と、マーカス判事がいった。「それで、いったんここで休憩にはいり、現場検証にとりかかることにします。その間には、どのような証言の提出も採用も許可しません。検事と弁護人は、陪審員諸君の検証を求めるべき所定の事項について打ち合わせをするように。陪審員諸君は、それらの事項について検証をするように。検証がおわった後は、即刻法廷にもどって、さらに証人の訊問をつづけます。陪審員諸君と法廷関係者のためには、現場までの自動車の用意がしてあります。現場への往復は迅速におこなって、裁判のすみやかなる進行に支障なきように、とくに希望しておきます」
マーカム判事は、さらに陪審員席に顔を向けて、
「現場への往復の途上において」と言葉をつづけた。「さきほど開廷のさいの裁判長の説示を忘れないようにして、事件について議論をかわしたり、みだりに他人が議論をするのを黙認しないようにしてください。また、被告の有罪無罪について、なんらかの見解を固めたり、表明したりすることのないように希望します」
第十九章
陪審員たちの現場検証が楽にできるように、保安官事務所の係官たちが待っていた。
陪審員たちは、歩道に一団となって、二つのアパートメントの間の空間を眺めた。検事側と弁護側との合意によって、保安官補の一人が、クランドールのアパートの窓と、コールモント・アパートのBフラットの窓を指さしながら、しきりと何かを説明していた。それから、陪審員たちは、凶行の演じられたアパートヘ案内されて行った。それよりも一足先きに、ほかの係官たちが、現在の居住者のシドニー・オーチスと、検証のために部屋を開放してくれるようにと打ち合わせをして、準備を整えていた。
ジョン・ルーカス検事補は、マーカム判事に身振りで合図をし、さらにペリイ・メイスンを手招きして、二人を片隅に引っ張って行った。
「陪審員たちに玄関のベルを見せて、ボタンを押してもよろしいでしょうか?」
「異議はありません」と、ペリイ・メイスンはいった。
保安官補の一人が、陪審員たちの注意をベルに集めておいて、ボタンを押した。すると、二階のほうで、かすかにベルの鳴る音が聞こえた。
「さあ」と、ペリイ・メイスンがいった。「玄関のベルの試験をするくらいなら、いっそ取りはずして、正式に確認した上で、証拠として提出したらどうでしょう」
ジョン・ルーカスは、ちょっとためらっていたが、
「そうすることにしましょう」といった。「法廷にもどってから」
それから、彼は、保安官補のほうを向いて、
「このアパートの、現在の居住者は、なんという名前だ?」とたずねた。
「シドニー・オーチスという男です」
「その男に、すぐ召喚状を出すんだ」と、いつも、目下の者に命令を下して、盲従されることに馴れきっている王さまといったような尊大な態度で、ジョン・ルーカスは命令した。「その男を法廷につれて来るんだ。それから、あの玄関のベルを取りはずして、それも法廷に持って来るのだ。それから」と、ジョン・ルーカスは低い声で、「陪審員たちを、隣りのベレイア・アパートヘご案内して、ここの二階の窓を見てもらうんだね」
ベレイア・アパートのエレベーターは、まったく小さなものだったので、陪審員の全部を証人クランドールの部屋まで運ぶのに、すし詰めにして、二回往復しなければならなかった。一同が部屋に揃うと、あけ放した窓際に集まって、殺人の行なわれたコールモント・アパートの窓を見渡した。すると、そのとき、沈黙を破って、ぶるる、と、ベルの音が鳴り渡った。一度、ちょっと鳴りやんでから、また、長く、執拗《しつよう》に、ベルは鳴った。
ペリイ・メイスンは、やにわに、ぐっとジョン・ルーカスの腕をつかんで、マーカム判事の前へ引っ張って行った。そして、陪審員たちに聞こえぬように、低い声ではあったが、はげしい語調でいった。「裁判長、これは、まったく怪《け》しからんことです。陪審員がこの部屋に集まっているのを狙って、ベルを鳴らしてみせるとは、まったく悪辣《あくらつ》な。こんな打ち合わせはしなかったはずだ。これではまるで、検事側に都合《つごう》のいいように証言をさせたのも同然じゃありませんか」
ジョン・ルーカスは、そんな抗議はどこ吹く風と澄ました顔で、
「わたしも」といった。「大いに驚いているところです。ベルが鳴り出すなどとは、まったく思いもよらなかったなあ。確かにベルを取りはずすようにとは、保安官補にいうことはいったが。きっとこれは、取りはずしている最中に、ついボタンを押してしまったんでしょうな」
ペリイ・メイスンは、いっそうしかつめらしい口振りでいった。「きみはそういうが、さきほど法廷で、この証人に、ここのアパートと向こうのアパートの距離を隔てて、ベルの音を聞くことができたかどうかが問題になったとき、しきりに保安官補と私語をかわしていたじゃないか。ぼくは、ちゃんと気がついていたんだぞ。その上、いまだって、隣りのアパートを出る前に、保安官補に、意味ありげな目くばせをしていたのを、ぼくは、ちゃんと見ているんだ」
「いいがかりをつける気か、きみは?」と、ルーカスが、かっとなって声を荒らげた。
マーカム判事は、落ちつきはらって、ゆっくりといった。「まあまあ、落ちついて、落ちついて、両君。その点は、後でゆっくり検討することにしようじゃないか。あまり大声を出したりすると、陪審員の連中に口論しているのを聞かれてしまう」
「いや、わたしは」と、ペリイ・メイスンは、低い声ではあったが、いきまいた。「いまのベルの音は検証事項から除外するよう、裁判長が陪審員に指示されるようにとの動議を提出するつもりです」
ルーカスは、声を立てて笑った、意気揚々たる笑い声だった。
「調書からは削除できるかもしれない」と、ルーカスがいった。「しかし、陪審員の記憶から消すことはできまいね」
マーカム判事は、むずかしい顔をルーカスに向け、つづいて、ペリイ・メイスンの顔をじっと見て、低い声でいった。「こういう思いもよらないことが起こったのは、まことに遺憾《いかん》だが、検事補のいうことも一理がある。起こってしまったことは、いまさら別にどうしようもあるまい。聞いてしまったことを、いくら、きみでも、陪審員の記憶から、抹殺《まっさつ》することは、できないじゃないか」
「わたしとしては」と、ペリイ・メイスンがいった。「その点を、わたしの弁論の重要なポイントとして取り上げて、ベルの鳴る音をはっきり聞くことが、生理的に不可能だということを論ずる権利があったのです」
つとめて慇懃な表情をしようとはしていたが、ジョン・ルーカスの目には、勝利の色が濃くにじみ出るのを押えることができなかった。
「むろん」と、ルーカスは、わざと相手をじらすような口吻で、「その点を論ずるのは、きみの自由だがね」
マーカム判事は、強く頭を振って、
「両君」といった。「そんな議論は、即刻やめていただこう。これ以上、議論をしたければ、法廷でしていただくことにしたい」
ジョン・ルーカスはうなずいて、そこを離れた。ペリイ・メイスンは、まだぐずぐずしていた。
するとそのとき、殺人の行なわれた部屋で、またベルが鳴り出して、そのまましばらく鳴りつづけた。ジョン・ルーカスは、窓際に駆け寄ると、大声でどなった。
「そのベルを止めろ! 陪審員の方々に、そんな音を聞かしちゃならんのだ」
陪審員の一人が、くすくす笑うのがはっきり聞こえた。
ペリイ・メイスンは、唇を固く、一文字に噛みしめた。
「むろん」と、マーカム判事が、低い声で話しかけた。「地方検察局と保安官補との黙契について、きみが調査を望むなら──」
ペリイ・メイスンは、自嘲するような笑い声を立てて、
「わたしがやってみたところで、なにも掘り出せないことは、よくおわかりでしょう」と、苦々しげに、メイスンはいった。
マーカム判事は、そこでまた、裁判官としての無表情な顔つきにもどって、
「まだ、これ以上、検証することが残っていますか?」と、二人にたずねた。
ジョン・ルーカス検事補は、首を左右に振った。
「ありません」と、ペリイ・メイスンは、そっけなく答えた。
「それでは」と、マーカム判事は、命令するように、「裁判所にもどることにします。閉廷時刻までに残りの証言を行なうことができるはずです」
陪審員たちは、エレベーターよりも階段を歩いて降りるほうを選んだ。待っていた自動車で裁判所にもどると、すぐに陪審員席に着いた。
「開廷します」と、マーカム裁判長が宣言した。
「エレン・クランドールさん、証人席について」と、ジョン・ルーカス検事補が、立ち上がっていった。
エレン・クランドールは、きょうの公判にそなえて、念入りに身なりを整えていた。法廷にぎっしり詰まった人々の視線を意識しながら、かの女は、しずしずと証人席に進み出た。こわばった表情をしていたが、それも、きょうのこの公判に臨むために、念入りに練習して来た表情であることは明らかだった。それはまるで、これからかの女が述べようとする証言が、一人の人間の運命を左右するほどの重要なものであるのと同じように、かの女自身が、この公判の重要性をよく承知しているのを、満廷の傍聴人にわかってもらいたがっているかのような取り澄ました表情だった。
ジョン・ルーカスの質問に答えて、かの女もまた、さきほど夫が証言したのとそっくり同じような証言を述べた。ただ違うところは、取っ組み合いの物音がしていた間じゅう、かの女のほうがもっとはっきり目がさめていたということぐらいなものだった。かの女は、夫よりもずっとはっきり、殴りつける音を聞いたし、その殴りつける音につづいて、こっそり内緒にささやくような話し声をも、はっきりと聞いていた。
夕刻の閉廷の時刻が迫るころに、ジョン・ルーカスは、やっと直接訊問をおわった。
そこで、ペリイ・メイスンが立ち上がった。
「これから、裁判長閣下の、陪審員諸君へのご説示があることと思いますが、それが済みました後で、本弁護人は、裁判長ならびに検察側と打ち合わせをいたしたいことがあります。それは、裁判の進行とは無関係のことでありますので、陪審員の方々のおいでにならぬところで論議したいと考えるのでありますが」
「よろしい」と、マーカム判事は同意するとすぐ、陪審員席に向きなおって、いった。「夕刻の定例の時間が来たようでありますから、本日はこれで閉廷とします。裁判長としましては、本公判中、陪審員諸君を禁足する意図はありません。しかしながら、諸君は選ばれて、法の一機関として行動しておられるのでありますから、重大な責任を負うものであることを意識せられて、慎重な行動をとられんことを希望いたします。公判は、明朝十時まで閉廷します。その間、諸君は、相互の間において、本事件について論じ合うことはもちろん、諸君の面前において、第三者にもほしいままに論じ合わせぬよう、注意されたい。被告の有罪か無罪についての見解を固めたり、またそれを表明することのないよう。また公判に関する新聞記事を読むことも差し控えられたい。なおまた、諸君の面前において、本件について諸君と論議を闘わしたいとか、または、なんらかの参考資料を提供したいなどと称する者があったときは、即刻、裁判所までご報告を願います」
いいおわって、裁判長の木槌が、大理石張りの机の上で鳴ると、陪審員はぞろぞろと、列をなして法廷から退出した。
陪審員が姿を消してしまうと、ペリイ・メイスンは立ち上がり、マーカム判事のほうに向きなおって、
「裁判長閣下」といった。「じつは、本事件の被告ローダ・モンテインは、カール・モンテインを相手どって、離婚訴訟を提出しておるのであります。その訴訟も、本弁護人が代理委任を受けているのでありますが、その公判に関しての適当な準備のために、カール・モンテインの宣誓供述書をとる必要が生じて来ましたので、明日、それをとるよう通知してあります。が、余分のてまを省くために、昼の休憩時間に、供述書をとることに決めました。しかし、供述を完了しますのに、多少、規定の休憩時間をはみ出すかもしれませんので、その節は、裁判長の寛大なご処置をお願いいたしたいのであります」
自信にあふれ、嘲笑の色さえ浮かべたジョン・ルーカスは、我慢ができないというような身振りをして、
「検察側としては、よく見当がついていますよ」といった。「その宣誓供述書とやらをとる唯一の狙いが、どこにあるかということぐらいはね。どうです、検察側の証人が証人席につく前に、ちょっと一当り当ってみようというんでしょう」
ペリイ・メイスンも、ふざけたように、軽く頭を下げて、
「おっしゃる通り」といった。「グレゴリイ・モクスレイの死亡以来、ずっと、検察側にかわいがられてきた証人ですからな」
「まあまあ、ご両君」と、マーカム判事が二人の間にはいった。「争論はやめなさい。弁護人は望むなら、いつでも、その証人の宣誓供述書をとる権利を与えられているのは、法の規定しているところです。供述書の聴取が明日と通告されているのなら、明日、とっていいでしょう」
「カール・モンテインの民事弁護人との協定によりまして」と、ペリイ・メイスンがいった。「供述書は、非公式のものとなるはずで、当方の秘書のデラ・ストリートが取ることになっています。公証人の資格も持っている、有能な速記者で、カール・モンテインの弁護人とわたしとが列席するはずです。この供述書は、純然たる民事事件のものでありますから、ルーカス検事補も、別に立ち会う希望もおありになるまいが、もし──」
「必要とあれば、わたしにだって、立ち会う権利はありますぞ」と、ルーカスは、大声でどなった。
「ところが、ありませんな」と、ペリイ・メイスンは、落ちつきはらっていった。「これは、純然たる民事問題で、あなたは、カール・モンテインの民事弁護人ではないのです。だから、モンテインにしても、別の弁護士を雇う必要があったというわけです。その弁護士も、これが純然たる民事問題だという、ぼくの意見に同意してくれましたので──」
マーカム判事の木槌が、またデスクの上で鳴った。
「ご両所」と、マーカム判事はいった。「ここで、そんな議論をしたところで、まったく本末顛倒じゃないか。裁判所としては、明日、供述書をとりたいという、きみの便宜を了承したんだ。メイスン君、きょうはこれで閉廷します」
ジョン・ルーカスは、被告に対しての訴因を固めたきょう一日の大成功に、内心ほくほくしていた。さすがのペリイ・メイスンも、反撃ができなかったじゃないか。嘲笑うような笑顔を、メイスンのほうに向けると、ルーカスは、法廷中にいる人間の耳に聞こえるような大声でいった。
「やあ、メイスン君、きょうは、珍らしく、いつものきみらしい闘志がなかったね。ベルに関してのクランドール夫妻の反対訊問も、たいした収穫もなかったらしいね?」
メイスンは、ことさらに慇懃な口調でいった。「まだ、こっちの反対訊問をおわったのじゃないということを、お忘れないようにな」
それに答えるように高々とあげたジョン・ルーカスの笑い声は、相手を嘲弄しているようだった。
ペリイ・メイスンは、法廷を出ると、電話室にはいって、シカゴの百万長者、C・フィリップ・モンテインが泊まっているホテルを呼び出して、
「モンテインさんは、ご在室ですか?」と、交換手にたずねた。
しばらくして、モンテインさんは、まだ部屋にお帰りになっていません、という返事が伝わって来た。
「それでは、お帰りになったら」と、ペリイ・メイスンがいった。「ペリイ・メイスンからだといって伝言してもらいたい。明晩七時半に、こちらの事務所までご足労願えれば、ご子息の離婚事件で財産上の取り決めができるからとね。忘れずに伝言してもらえるね?」
「はい、承知しました」と、交換手がいった。
つづいて、ペリイ・メイスンは、デラ・ストリートを呼び出して、
「デラだね」といった。「いま、C・フィリップ・モンテインのホテルに電話をして、明日の晩七時半に、事務所で、ローダとカールの間の、完全な財産上の取り決めをしたいからという伝言をたのんでおいた。しかし、その伝言が確実にとどくかどうかわからんから、念のために、今晩もう一度、きみから電話して、確かめておいてもらいたいのだがね?」
「はい、かしこまりました、先生」と、デラがいった。「事務所へはお帰りにならないんですね?」
「帰らない」
「ねえ、先生」と、デラが言葉をついで、「カール・モンテインは、事務所へは来られないでしょう。地方検事が、身柄を拘束しているんじゃありません?」
ペリイ・メイスンは、くっくっと笑った。
「その通りだよ、デラ」
「それでも、C・フィリップ・モンテインに、ここへ来てもらうことにするんですのね?」
「そうだ」
「わかりました」と、デラが答えた。「忘れないように伝言しますわ」
その夜、クロニクル紙の社会部長は、きょうの公判記事の原稿を、新聞記者らしい、鋭い、|わし《ヽヽ》のような目で検討していた。かれは、公判廷でのペリイ・メイスンを何度も見ていたし、その名人といってもいい法廷技術も知りすぎるほど知っていた。なにくわぬ顔で公判の進行を見ているが、いつの間にか検察側の訴因の中に時限爆弾を仕掛けておいて、もっとも思いもかけない時に爆発させて、いっきょに相手に致命傷を与えるのが、メイスン得意の戦法だった。そう思って、きょうの公判記事を読むと、玄関のベルについての、ペリイ・メイスンの反対訊問の妙な言葉使いに、何か意味が含まれているような印象を受けたのだ。部長は、腕っこきの記者を二人呼んで、至急に、メイスン弁護士の所在を突きとめて、この事件の特異な面について、談話記事を取って来いといいつけた。しかし、記者たちは町中をかけずりまわったが、とうとうメイスンに会えなかった。つぎの朝、法廷が再開されるまで、ペリイ・メイスンは、公衆の前に姿を見せなかった。きれいにひげを剃《そ》って、意気揚々とした足どりで、かれが法廷のスイング・ドアを押したのは、正確に開廷の五秒前だった。
マーカム判事は、裁判長席につくと、陪審員が全員出席し、被告も出廷しているのを見定めると、クランドール夫人を呼んで、もう一度、反対訊問を受けるために証人席につくようにと命じた。
ペリイ・メイスンは立ち上がって、裁判長に向かって話しかけた。
「裁判長閣下」と、メイスンが口を開いた。「グレゴリイ・モクスレイが殺されたアパートから取りはずしたベルを、証拠物件として提出することは、きのう、検察側と本弁護人との間で合意に達しております。本弁護人としては、この証人に反対訊問を行ないたいと思いますのは、そのベルの音色についてでありますので、電気技術者に乾電池の用意をさせ、配線もすませてあります。そうすれば、当法廷で実地に鳴らして、そのベルの鳴り方に関して、証人の記憶をテストできるからであります。裁判長もご記憶と存じますが、きのう、本証人の夫は、ベルの音色に関して、つぎのように証言しております。すなわち、『ベルの種類がまるきり違うのです。第一に、ぶるる、と、うなるような音です。第二には、電話のベルよりもずっと長い間をおいて鳴りました』と。
裁判長閣下、ただいま、本弁護人が述べました言葉は、きのう証言しましたクランドール氏の証言から引用したものでありまして、法廷速記者作製の調書によったものであります。明らかに、こうした証言は、ただ単に一証人の結論にすぎないものでありまして、クランドール夫人が同様な証言を述べている事実から見まして、本弁護人としては、証拠物件のベルそのものについて、この両証人を反対訊問したいと思うのであります。ベルが当法廷に持ちこまれていますところから、本弁護人は、裁判長閣下のお許しを得まして、本証人にはいったん証人席からおりてもらい、代わって検察側からそのベルを証拠物件として提出してもらい、確認の上、テストを行ないたいと存じます」
マーカム判事は、ちらっとジョン・ルーカスに目をやって、
「異議がありますか?」とたずねた。
ジョン・ルーカス検事補は、両腕を前に突き出すようにして、さっと大きく拡げて、まるで、胸の中を陪審員たちに見せるような恰好をした。その態度が挑戦的なことは、誰にでもはっきりとわかった。
「もちろん異議はありません」と、ルーカスはいった。「当方が提出する証拠物件が、被告側弁護人による検察側証人の反対訊問に役立つとは、当方としても、ただただ欣快《きんかい》にたえぬしだいであります。喜んで、被告側弁護人には、できるかぎり反対訊問の機会を提供したいと考えます」
にやにや笑いながら、ルーカスは腰をおろした。
マーカム判事は、クランドール夫人に会釈をして、
「では、クランドール夫人、しばらく証人席からおりてください」といってから、ジョン・ルーカスにうなずいて、
「では、検察側は、証拠物件のベルを提出する」その声には、これ以上、陪審員の前でスタンド・プレイを演ずるようなことがあったら、裁判長としては許しませんぞと、ルーカスを非難する響きがこもっていた。
「証人、シドニー・オーチス君」と、ルーカスはいった。
大男の電気商が、どしんどしんと進み出た。歩きながら、ちらっとペリイ・メイスンのほうを見たが、あわてて、目をそらせた。片手をあげて宣誓をすませる間、目は伏せたままでいた。それから、証人席の椅子のはしに尻をのせて、待ち構えるようにジョン・ルーカスの顔を見た。
「証人の名前は?」と、ジョン・ルーカスが質問をはじめた。
「シドニー・オーチスです」
「住所は?」
「ノーウォーク・アベニュー三一六番地、コールモント・アパートのBフラットなんで」
「職業は?」
「電気商で」
「年齢は?」
「四十八歳でさ」
「現在、住んでいるアパートには、いつ転居しました?」
「たしか、六月の二十日ごろだと思います」
「証人が住んでいるアパートの玄関のベルのことは、よく知っているでしょうね、オーチスさん?」
「ええ、知ってます」
「電気商という職業柄、たぶん、そのベルには、多少、ひとよりは特別に注意を払ったでしょうね?」
「もちろんでさ」
「引っ越してから、そのベルを取り換えるなり、修理するなり、したことはありませんか?」
シドニー・オーチスは、証人席で、すこし居心地悪そうにもじもじしていたが、
「引っ越してからは、手はつけたことはないんで」といった。
「いまのアパートに引っ越してからは、ベルを変えたことはなかったと、こういうんですね?」と、ジョン・ルーカスは、とまどったような顔つきで、たずねた。
「その通りなんで」
「というと、証人がそのアバートヘ引っ越す前に、取り換えるか、修理するかしたことを知っているというのですか?」
「ええ、そうなんで」
ジョン・ルーカス検事補は、はっと驚いて、身を固くして立ちすくんだ。
「なんですって?」
「ベルを換えたと、いったんでさ」と、シドニー・オーチスがいってのけた。
「ベルをどうしたって?」
「取り換えたんでさ」
「どうして? どんなふうに?」そうたずねたジョン・ルーカスの顔が、怒りから、じょじょに赤くなって来た。
「あっしは電気商だもんですからね」と、シドニー・オーチスは、あっさりといってのけた。「あのアパートに引っ越すときに、店の在庫品から持って来たベルと取っ換えたんです」
地方検事補の顔には、それを聞いたとたん、ほっとしたような表情が浮かんだ。
「ああ、自分の店のベルをつけたかったと、そういうことですか?」
「ええ、そうなんで」
「わかりました」と、いまはもう微笑を浮かべて、ルーカスはいった。「それで、自分のをとりつけたときに取ったベルは、手もとに保存してあるでしょうね?」
「とってはありますが」と、シドニー・オーチスはいった。「でも、そいつは、ベルじゃないんで──ブザーでさ」
緊張した、劇的な沈黙が、法廷を支配した。裁判長の目も、陪審員の目も、傍聴人の目も、いっせいに、シドニー・オーチスの、なんの包み隠しもしない、正直そのものといった顔にそそがれ、それから、ジョン・ルーカスの顔に、その視線を向けた。その顔は、激しい怒りでまっ赤に染まり、興奮で引き歪んでいた。両手は、指の小関節が白く見えるほど、テーブルのはしを強く握りしめていた。
「それで、証人がそのアパートに引っ越したのは、いつですか?」と、彼は凄い声でたずねた。
「六月の二十一日だったか二十二日だったか──なんでも、そのへんでさ」
「それで、引っ越す前に、ベルと取り換えたというんですね?」
「そうでさ。ブザーをはずして、ベルをつけたんで」
ルーカスは、深く息を吸い込んで、
「ええと」といった。「証人は、電気器具商ですね?」
「さいです」
「では、なんかのおりに、あの建物のほかのフラットにははいったことがありますか?」
「ないんです」
「それでは、証人は、証人が引っ越しをしたフラットだけが唯一の例外で、ブザーがついていて、ほかの三軒のフラットにはベルがついている事実は、知らないというんですね」
「おっしゃる意味がよくわからないんですがね」と、シドニー・オーチスがいった。「しかし、わたしのフラットだけにブザーがついてたというんなら、そりゃ違ってますぜ。だってね、二階にあるもう一つのフラットもブザーですからね」
「どうして、そんなことを知っているんです、ほかのフラットヘ行ったことがないというのに? 誰かが教えたんですか?」
「いいえ、旦那。でもね、わたしが自分のフラットにベルを取っつけたとき、配線の工合を調べようとしてましてね、ほかのフラットのボタンも押してみたってわけですよ。そのとき女房は、うちの二階にいたんですがね。一階の二つのフラットのことは、どうだったか知らないけど、わたしがボタンを押すてえと、二階のもう一軒のフラットでもブザーが鳴るのが聞こえたって、女房がいってましたよ」
ジョン・ルーカス検事補は、固く心を決したように、ぐっと口を噛みしめて、
「よし、こいつは、とことんまで調べてやる」といった。
そういって、ルーカスは、くるっと保安官補のほうを向いて、
「至急、出かけて行って、ほかのフラットもブザーかどうか、調べてくれ」と、陪審員たちにも、はっきり聞こえるような声でいった。
マーカム判事は、木槌を鳴らして、
「検察側に注意します」といった。「法廷で陪審員を前にしているかぎり、発言は、証人への質問と、裁判長に対する申し立てに限定されるように」
ルーカスは、憤怒で身を震わせていた。軽く頭を下げて、裁判長の注意に無言の承諾の意を示すと、くるっとペリイ・メイスンのほうに向きなおった。そして、なにかいおうとしかけたが、うわずった、とっぴょうしもない声が出るかもしれないと、自分の声に信頼がおけないような気がして、しばらくは、口をぱくぱくさせるだけだった。が、やがて、ぎこちなく、「反対訊問を」とだけいった。
ペリイ・メイスンは、やめだというような恰好に、手を振って、
「もちろん」といった。「質問はありません。本弁護人としましても、ベルをテストするつもりでいましたので、このさき、どういう処置をとっていいものか、実際、当惑しているしだいです。どうやら、このベルは、モクスレイが殺されたときに、あのアパートについていたものとは違うように思われますな」
ジョン・ルーカスはくるっと向きなおって、証人の顔を見て、
「それまでです」といった。「ご苦労でした、オーチスさん。では、裁判長のお許しがいただけますならば、つぎの証人として──」
「検事補は」と、ペリイ・メイスンが、ルーカスの言葉を遮った。「クランドール夫人が、反対訊問のために証人席についていたことをお忘れのようですな。本弁護人が、夫人に対して反対訊問をはじめようとしかけたときに、検察側から証人としてシドニー・オーチス君を喚問したいというので、クランドール夫人には、一時席をはずしてもらっただけなのです」
「もっともな言葉です」と、マーカム判事がいった。「弁護人は、クランドール夫人の反対訊問を継続してよろしい。クランドール夫人、証人席についてください」
エレン・クランドールは、ひどくおどおどした様子で、また証人席についた。
「さて、証人に注意を向けていただきたいのは、殺人の行なわれた部屋から取っ組み合いの音が聞こえて来たあいだじゅう、証人が聞いたというベルのことなんですが」と、ペリイ・メイスンは口を開いた。「証人が聞いたのは電話のベルの音ではなかったと、確信をもって答えられますか?」
「電話のベルだったとは思いません」と、クランドール夫人は答えた。
「そうおっしゃる根拠は、なんですか?」
「電話のベルのような鳴り方じゃなかったからです。電話のベルというものは、短い間鳴っていてから、ちょっと間をおいて、それからまた鳴るものなんです。その鳴る音だって機械的で、ずっと調子が高いものなんです。ところが、わたしが聞いたのは、もっと低く、うなるような音だったんです」
「そうすると、こういうことになりますと」と、ペリイ・メイスンがいった。「いや、決してあなたをトリックにかけようというのではありませんから、クランドール夫人、安心してお答えください。ところで、いままでのいろいろな証言で、あの家についていたのはベルではなくて、ブザーだということが明らかになったのですから、そうすると、むろん、あなたが聞いたのも、当然ベルではあり得ないということになるわけですね」
ジョン・ルーカス検事補は、さっと立ち上がって、
「異議を申し立てます」と、ひと息にいった。「議論にわたるものとして異議を申し立てます」
「いまの質問は議論にわたるものかもしれませんが」と、マーカム判事は裁定するようにいった。「しかし、裁判長は許可するつもりです。質問の言葉使いに妥当を欠くところはあるとしても、反対訊問の方法としては、きわめて正当なものです。異議は却下します」
「わたしは、ベルだと|思いましたわ《ヽヽヽヽヽヽ》」と、クランドール夫人が答えた。
「それでは」と、ペリイ・メイスンは、訊問をつづけた。「検察側証拠物件第二号の、この写真を見てください。その写真に、目覚し時計がうつっているのが見えるでしょう。殺人当夜、取っ組み合いの音と同時に、クランドール夫人、あなたが聞いたというのは、その目覚し時計のベルではなかったのですか?」
クランドール夫人の顔が、ぱっと明かるくなった。
「あら、そうですわ」と、夫人はいった。「そうだったかもしれませんわね。考えてみると、たぶん、そうだったんでしょうね。いえ、きっとそうだったんですわ」
ペリイ・メイスンは、裁判長に向かって、
「さて、裁判長閣下」といった。「本弁護人は、この証人に、この目覚し時計のベルの音を聞かせて、反対訊問を行ないたいと思います。最初は、殺人の当夜、被害者の住んでいたアパートのベルの鳴る音を聞かせて、証人の記憶を確かめてみるつもりでおりましたが、いまや、当時、あのアパートにはベルがついていなかったということが判明したのであります。なおその上に、検察側自身の証言から、目覚し時計が現場にあったということが明らかになっております。したがって、検察側がその目覚し時計を、即時、提出されんことを申請いたします」
マーカム判事は、ジョン・ルーカス検事補を見おろして、
「異議がありますか?」とたずねた。
「もちろん、異議があります!」と、ジョン・ルーカスは大声に叫んで、立ち上がった。「検察側としては、当方の予定どおり、審理を進めたいと思います。威嚇《いかく》されたり、策動に乗せられたりするつもりは、いささかも──」
マーカム判事は、その検事補の発言の途中から、つづけざまに、木槌をはげしく鳴らして、
「検事補」といった。「腰をおろしなさい。ただいまの検事補の発言は、議論としても、陳述としても、まったく不当きわまるものであります。弁護側は、殺人現場から押収した物件の提出を要求しておるのであって、その物件は、検察側の保管にかかるものです。コールモント・アパートBフラットのベルの音色に関して、本証人に対する直接訊問から引き出された証言から見て、裁判長としては、本証人を、アパートにあったベルに関して質問することも、また、それが問題のベルであるか否かを確認させるために、そのベルの音色を聞かせることも、反対訊問の正当な権限内にあるものと考えます。よって、裁判長は、該当する目覚し時計を、証拠として提出するよう命令します」
ジョン・ルーカスは、身を固くしてすわっていた。
「検事補は、目覚し時計を保管しているのでしょうな?」と、マーカム判事はたずねた。
「保安官の手もとに保管しています」と、ジョン・ルーカスは、やっとの思いで、それだけ答えた。「しかし、裁判長」と、憤激した検察官は、すっくと立ち上がって、口を開いた。怒りが急に、彼を能弁にした。「これがみな、弁護人によって巧みに操作されたものであることは、裁判長にもおわかりのはずです。弁護側は、明らかにあらかじめ、証人クランドール夫人にふい打ちの反対訊問を行なう計画を立てていたのであります。いまや、証人は、検察側が十分に検討する機会のなかった劇的な局面の展開に、精神的な動揺を受けたまま、しかも、検察側と打ち合わせる余裕もなく、いきなり反対訊問の矢面に立たせられておりまして──」
マーカム判事は、手きびしい声でいった。「検事補に注意します。ただいまの発言は、不適当、かつ、審理進行の規則に従わないものです。着席しなさい」
それからマーカム判事は、陪審員席のほうを向いて、注意した。「陪審員は、ただいまの検事補の発言を無視するように命じます」それから、廷吏のほうを向いて、「目覚し時計を、法廷に持って来なさい」
廷吏は、急ぎ足に法廷から出て行った。しばらく、法廷はしんと音もなかった。そのうちに、うっとりするほど興奮した傍聴人の、身動きする衣ずれの音や、ひそひそと囁きかわす声で、廷内はなんとなくざわめいて来た。うしろのほうの席からは、鋭い、ヒステリックな笑い声さえひびいて来た。
そのたびに、マーカム判事は、木槌を鳴らして、静粛を命じた。
すると、しばらくは、しんと静まり返るのだが、またしても緊張した雰囲気の中に、ひそひそと囁きかわす声がしのびこむのだった。だれが囁きかわすのか突きとめることはできないが、漠然とした、とらえどころのない物音が、廷内の人々の心にいっそう強い緊張を加えるばかりだった。
保安官補が、目覚し時計を持って、法廷にもどって来た。
ペリイ・メイスンは、その目覚し時計を受けとると、手の中でひっくり返して見ながら、
「この時計には、封紙が貼ってあります」といった。「したがって、本年六月十六日の未明、グレゴリイ・モクスレイのアパートから押収された時計であると申し上げられます」
マーカム判事はうなずいた。
「この時計は」と、ペリイ・メイスンは言葉をつづけて、「本証人の反対訊問に使用し得るものと考えて差し支えありませんでしょうな?」
「その証拠物件は、凶行現場から押収した目覚し時計を、弁護人の手に渡すようにとの裁判長の指示にしたがって、検察側から提出されたものであるという事実から見て」と、マーカム判事がいった。「弁護人は、それを反対訊問に使用して差し支えありません。検察側に異議があれば、ただちに申し出ることを望みます」
検察側のテーブルに向かって腰をおろしたジョン・ルーカスは、すっかり全身をしゃちこわばらせたまま、一語も発しないばかりか、身動きさえもしなかった。
「では、反対訊問をつづけて」と、マーカム判事が命じた。
ペリイ・メイスンは、目覚し時計を両手に持って、証人席に近づいた。
「よく見てください」と、ペリイ・メイスンは、目覚し時計をクランドール夫人にかざして見せながら、「目覚しの針が、二時にかけてあるのが見えますね。また、もうすこし注意をすれば、いまは、時計がとまっていることもわかりますね。|ぜんまい《ヽヽヽヽ》がゆるみきっているからです。なおまた、裁判長ならびに検察側にもご注意を願いたいのは、目覚しの|ぜんまい《ヽヽヽヽ》もゆるみきっているように思われる点であります」
「そりゃ」と、横あいから、ジョン・ルーカスが嘲るようにいった。「ゆるみきってるのが当然さ。保安官事務所で、朝の二時に鳴るのを聞いた人間なんか、いないにきまっている」
「議論の必要はありません」と、マーカム判事がいった。「弁護人は、その目覚し時計で、なにをしたいというのですか?」
「目覚しの|ねじ《ヽヽ》を巻いてみたいのです」と、ペリイ・メイスンはいった。「そして、時針と秒針を動かしてみれば、目覚しがかかっていれば、はっきり確かめられると思うのです。そして、証人に目覚しの音を聞いてもらう。そうすれば、証人が聞いたのがベルの音かどうか、証言することができるでしょう」
「よろしい」と、マーカム判事はいった。「弁護人は、裁判長の監督のもとに、目覚し時計の|ねじ《ヽヽ》をまき、針を合わせてよろしい。ルーカス君、希望があれば、弁護人が|ねじ《ヽヽ》をまく間、裁判長席まで登ってもよろしい」
しかし、ジョン・ルーカスは、身を固くしてすわったままで、
「そんなことにかかわり合うことはお断りします」といった。「これは不法な、弁護人のトリックであります」
マーカム判事は渋面を作って、彼の顔を見て、
「検事の発言は」と、重々しい口振りでいった。「法廷を侮辱するに近いものがありますぞ」
そういって、マーカム判事は、ペリイ・メイスンのほうを向いて、
「弁護人は、時計を持って、登壇してよろしい」
とつじょとして、ペリイ・メイスンの存在が、全法廷に優位を占めてしまった。いままでの無関心の態度は、すっかり消えてしまって、いまや、呼び物の芸にとりかかる名芸人の観があった。彼は、うやうやしく裁判長に一礼し、陪審員席に笑顔を向けてから、おもむろに裁判長席に、登った。目覚しの|ねじ《ヽヽ》をまき、ゆっくりと時計の針を動かした。二本の針が二時二分前に来ると、目覚しは、けたたましく鳴り出した。
ペリイ・メイスンは、時計を判事の机の上におくと、さもみずからの成果に満足したような顔つきで、回れ右をして、壇からおりた。
目覚しは、るるると、数秒間鳴りつづけると、しばらく鳴りをやめ、それからまた鳴りつづけ、休んでは、また音高く鳴った。
ペリイ・メイスンは、進み出て、目覚しをとめ、クランドール夫人のほうを向いて、にっこりと笑いかけた、
「いかがです、クランドール夫人」と、メイスンがいった。「いままでの審理の結果で、事件の当夜、あなたが耳にしたのは、入り口のベルで|あるはずがない《ヽヽヽヽヽヽヽ》ことが明らかになり、かつまた、あなたが耳にしたのは、電話のベルの音では|なかった《ヽヽヽヽ》と、同じく、あなたは確信をもっておいでになる。したがって、あなたが聞いたのは、この目覚し時計の音にちがいないと思うのですが、そうお思いにはなりませんか?」
「そうですわ」と、夫人は、呆然として答えた。「きっと、これだったんでしょうね」
「確かにそうですか?」
「ええ、これにちがいありません」
「宣誓して、そういえるんですね?」
「はい」
「もう一度、よく考えてくださいよ。あなたが当法廷で行なったほかの証言と同様、あなたが聞いたのは、この目覚し時計のベルの音にちがいないという事実を、あなたは宣誓できるのですね?」
「はい」
マーカム判事は、目覚し時計を取り上げ、眉を寄せて、仔細に調べていた。目覚しをまく鍵を、手でいじりまわしていたが、急に、指先でデスクをこつこつと叩き出した。眉を寄せて、ペリイ・メイスンの顔を眺めていたと思うと、また顔をしかめて目覚し時計を見つめた。
ペリイ・メイスンは、ジョン・ルーカスのほうに軽く頭を下げて、
「反対訊問をおわります」といって、腰をおろした。
「再直接訊問は、検事補?」と、マーカム判事が、地方検事補にきいた。
ジョン・ルーカスは立ち上がって、
「証人は」とわめくようにいった。「以前の証言をひるがえして、証人が聞いたのはベルの音ではなくて、目覚し時計のベルの音だったと、断言するのですか?」
クランドール夫人は、そのすさまじい剣幕《けんまく》に、いささかあっけにとられた顔つきだった。
ペリイ・メイスンは、からからと声を立てて笑った。それは、まったくこの上なしのご機嫌の、夫人を庇《かば》うような笑いだった。
「裁判長閣下」と、メイスンが口を開いた。「検事補は、いささか取り乱しておられるように見受けられます。自分の証人に対して、反対訊問をなさるおつもりのようですが、この証人は、弁護側の証人ではなく、検察側の証人なのであります」
「異議を認めます」と、マーカム判事はいった。
ジョン・ルーカスは、大きく息を吸いこんで、辛うじて自制した。「では、おたずねしますが、証人が聞いたのは、この目覚し時計だったのですね?」
「そうですとも」と、証人は、急に威丈高《いたけだか》に、語気を強めていった。
ジョン・ルーカスは、だしぬけに腰をおろして、「質問はこれだけです」と、呟くようにいった。
「裁判長閣下」と、ペリイ・メイスンが代わって、いった。「クランドール氏に、もう一度反対訊問を行ないたいと思いますが、お許しいただけましょうか?」
マーカム判事はうなずいて、
「裁判の進行状況からみて」といった。「反対訊問を許可します」
法廷を、痛いほど張り詰めた、劇的な沈黙が支配した。その静まり返った廷内に、証人席への通路を進んで行くベンジャミン・クランドールの靴音が、最後の審判の太鼓をたたくかのように、はっきりと耳に響き渡った。
クランドールが証人席についた。
「証人は、いまの奥さんの証言を聞いたでしょうね?」と、ペリイ・メイスンが質問した。
「はい、聞きました」
「目覚し時計の音も聞きましたね?」
「はい、聞きました」
「証人は」と、ペリイ・メイスンがつづけて聞いた。「あの夜聞いたのは目覚し時計の音だったという、奥さんの証言に反対したいと思いますか?」
ジョン・ルーカスは、はねるように立ち上がって、
「異議あり!」といった。「論争を招く質問です。不適切な反対訊問です。弁護人は、それはよく承知のはずです」
マーカム判事はうなずいて、
「異議を認めます」と、厳格な口調でいった。「弁護人の反対訊問は、正当な範囲内にとどめるように、そのような質問が不適切なものであることを、十分に認識すべきです」
ペリイ・メイスンは、その非難を素直に受け入れたばかりか、微笑さえ浮かべて、
「かしこまりました、裁判長閣下」と、穏かにいった。それからまた、証人のほうに向きなおって、
「それでは、クランドールさん、こういいかえましょう」と質問をつづけた。「証人がベルの音を聞くはずがなかったという物理的事実が、いまや明らかになり、かつまた、証人が聞いたのは電話のベルの音ではなかったと、はっきり申し立てている以上、証人が聞いたのは、この目覚し時計の音だったのにちがいないとは思いませんか?」
証人は、大きな溜め息をついて、ぐるっと法廷中を見回した。そして、通路の席にかけている細君の凝視に会うと、そのまま釘づけになってしまった。
ジョン・ルーカスは、いまにものどがやぶれるかと思うほど声をふるわして、異議を申し立てた。
「裁判長閣下」と、ルーカスはいった。「ただいまの質問は、議論にわたるものであります。弁護人は、証人を誘導して、質問の一部として、巧みに議論を挿入しているのであります。夫の面前に、妻の証言をこれ見よがしに見せびらかしていますが、これは、この証人を反対訊問する方法として適切なものではありません。なぜ、弁護人は、公明率直に、ベルを聞いたのか、聞かなかったのかと、質問しないのでしょうか?」
「裁判長閣下、本弁護人は」と、ペリイ・メイスンも頑強にいい張った。「ただいまの質問は、正当な反対訊問と考えます」
マーカム判事が裁定を下す前に、証人が、だしぬけに返事をしてしまった。
「わたしが家内の証言を否認すると思っているんなら」と、彼はいった。「あんた方は、どうかしていますぜ!」
法廷は、思わず、どっと起こる笑い声に割れるようだった。マーカム判事が、いくら木槌をたたいても、騒ぎを静めることなど、なかなかできなかった。それまであまり息づまるような劇的な場面がつづきすぎたので、傍聴人たちは、大よろこびで、そうした感情の緊張から解放されて、ほっとしているのだった。
いくら木槌をたたいても騒ぎがおさまらないのに業《ごう》を煮《に》やしたマーカム判事が、いつまでも騒ぐのをやめなければ退廷を命じますぞと、いくらか脅し気味に命令すると、やや騒ぎがおさまった。すると、ジョン・ルーカスが、仲間にいじめられた子供が母親に訴えるような口振りで、「これこそ、メイスン君が証人の心に刻みつけようと狙っていた点であります。メイスンの希望通りに証言しないと、細君を苦しい立場に追い込むぞと、証人にさとらせようというのです」
「いや」と、マーカム判事は、ついうっかりと、微笑で口もとをゆがめながら、いった。「弁護人の意図がいずれにあったにしろ、すくなくも証人の心がそう受けとってしまったことはやむを得んでしょう。しかしながら、検事補の異議は認めます。弁護人は、議論にわたるような質問をしないように気をつけなさい」
ペリイ・メイスンは、軽く会釈をして、
「証人が聞いたのは、入口のベルでしたか」と質問をつづけた。「目覚し時計の音|でしたか《ヽヽヽヽ》?」
「目覚時計でした」と、躊躇なく、クランドールは答えた。
ペリイ・メイスンは、腰をおろして、
「反対訊問をおわります」といった。
「再直接訊問は?」と、マーカム判事はきいた。
ルーカスは、目覚し時計を左の手にしっかりと握り、金属と金属との触れ合うかたかたという音が、法廷中に聞こえるほど乱暴に振りまわしながら、
「証人は、陪審員の面前で」といった。「証人が聞いたのは、|この《ヽヽ》目覚し時計だったと証言するのですか?」
「あの部屋にあったのがその目覚し時計なら」と、証人はゆっくりといった。「わたしが聞いたのは、そいつですねえ」
「それでは、入口のベルではなかったのですね?」
「そんなはずはありませんね」
ルーカスは、憤激の色をあらわに顔に浮かべて、証人の顔を睨みつけていたが、
「質問はそれだけです」といった。
クランドールは、証人席を離れた。ルーカスは、目覚し時計を手にしたまま、くるっと向きなおって、検事席のほうへ歩きかけた。途中まで来ると、急に何か思いついた様子で、立ち止まった。目覚し時計をかざして、立ったまま、まじまじと見つめていたが、くるっと回れ右をすると、まっこうからマーカム判事の顔を見た。憤怒の言葉が、唇から溢れ出た。
「裁判長閣下」と、ルーカスはいった。「この反対訊問の目的は、明白であります。もし、この目覚しの針が、二時五分前にかけられてあって、かつ、グレゴリイ・モクスレイが殺害されたその瞬間に鳴っていたとすれば、被告ローダ・モンテインは、犯人では有り得ないということになります。なんとなれば、検察側の証人の証言によると、その時刻には凶行の現場にはおらず、かつまた、凶行が演ぜられた未明には、二時十分すぎまで、被告がそのサービス・ステーションで、証人の修理工の目の前にいたからであり、しかも、その修理工は、注意深く時計を見て、その時間を記録しているからであります。
さて、裁判長閣下、その事実に鑑《かんが》みまして、この全情況のもとでもっとも重要な点は、この時計の目覚しが|止めて《ヽヽヽ》あったか、それとも鳴りおわって|ねじ《ヽヽ》がゆるみきろうとしていたかに、問題がかかっているのは明らかであります。さて、本官は、被告側弁護人が、保安官補の手から受けとったのを注目しておりました。また、弁護人が、目覚しがゆるみきっているという発言をしたのは聞きました。しかしながら、ゆるみきっていたという証拠はありません。弁護人が、目覚し時計の|ねじ《ヽヽ》を巻いて、針を動かしている間に、目覚しのレバーを操作して、止めてあった目覚しを鳴りおわった後のように見せかけるのは、きわめて簡単なことであったはずです。以上の理由をもちまして、検察側としては、本証拠物件を排除されんことを提案いたします」
ペリイ・メイスンが何かいいかけるのを、黙ってと目顔で制して、裁判長は、じっとジョン・ルーカスの顔を見つめながら、
「その証拠物件は、排除するわけにはいきません」といった。「なんとなれば、二人の証人が、事件当夜聞いたのは、その目覚し時計だと、明確に証言を行なっているからです。証人たちがそうした証言をするに至った訊問方法は別として、証人たちは正に証言を行なったのであり、証言はあくまでも不動のものとして保持されなければなりません。ただし、ルーカス君、裁判長としては、一言述べておきたいことがあります。というのは、もし、検事補に、なんらかそのような操作を目覚し時計に加えられるのではないかという懸念《けねん》から、検察側の利益を守る気があったのならば、その特権を与えられていたのです。裁判長は、特に検事補が登壇して、弁護人が|ねじ《ヽヽ》をまいて針を動かすさいに監視するようにと勧告したはずです。しかるに、本官が記憶している情況によれば、検事補の態度は、まるですねた子供のようだったではありませんか。すねて、ふくれて検事席から動こうともせず、裁判長から与えられた利益擁護の機会を、自ら放棄してしまったではありませんか。裁判長が、この非難をあえて陪審員の面前で行なうのも、検事補が、被告側弁護人が誤まった処置を行なったかのように、さきほど、陪審員の面前で非難を申し立てたからです。なお、陪審員諸君にも注意しておきます。ただいまの裁判長と検事補の発言中、証言の比重に関する言葉は無視されんことを希望します。証人が証言を行なうに至った訊問方法は、すべて裁判長の監督のもとにあります。証人が行なった陳述の効力は、あくまでも陪審員諸君に対するものです」
ジョン・ルーカス検事補は、まっ青な顔をして突っ立ったまま、両手を脇にさげて、握ったり開いたりしていたが、
「裁判長閣下」と、聞きとれぬほどの声でいった。「事件は、予想外の方向に展開しました。本職としては、裁判長のご非難を受けるのが、たぶん、当然なのでありましょう。しかしながら、それはそれとして、本公判を明朝まで延期をお願いいたしたいのですが、いかがでしょうか?」
マーカム判事は、ちょっとためらって、ちらっと、ペリイ・メイスンの顔を窺うように見てから、たずねだ。「被告側に異議がありますか?」
ペリイ・メイスンは、慇懃に、にっこりしながら、「被告側としては、いかなる異議もありません。当公判の当初におきまして、検察側が、本事件の公判においては、あらゆる弁護の機会を被告側に与えたいと発言されたのを記憶しております。いまや、本弁護人は、これに対してつぎの言葉を、検察側に返すことのできるのを、等しく喜びとするところであります。すなわち、被告を糾弾するあらゆる機会を検察側に与えたい──もし、それが可能なものであるならば、と」
マーカム判事は、吹き出しそうになって、口もとがほころびかけたのを陪審員の目から隠そうとして、あわてて口もとに手をあてた。
「よろしい」と、裁判長はいった。「公判は、明朝十時まで延期します。その間、陪審員諸君は、裁判長の注意を忘れないように、事件について論じたり、諸君の面前で第三者に事件について論じさせたり、被告の有罪無罪について、いかなる見解をも形成したり、表明したりすることのないよう注意してください」
そういうと、マーカム裁判長は、くるっと椅子を回し、法服をひらひらさせながら、自分の部屋に飛び込んで行った。
しかし、傍聴人の中には、部屋に飛び込むさいに、判事の横顔をちらっと見た者もあった。その連中は、後になって──裁判長も、ひどく人間的なところがあるんだな。大きな口をあけて笑っていたぜ、と、大騒ぎをしながら、そんなことをいっていた。
第二十章
ペリイ・メイスンの事務室では、C・フィリップ・モンテインの仮面をかぶったような落ちつき払った顔と、ペリイ・メイスンの花崗岩のようなきびしい顔とが、明かるい電灯の光を受けて、向き合っていた。
デラ・ストリートだけが、見るからに興奮した面持ちで、ノートブックを膝の上にひろげていた。
「きょうの午後、ご子息にお会いでしたか、モンテインさん?」と、メイスンがたずねた。
モンテインは、何を考えているのかわからない、謎のような顔つきだった。和らいだ、かすかに嘲笑気味の声で、
「いや」といった。「わしが会わんことぐらい、きみも知っとるだろう。地方検事が重要な証人として拘束中で、誰も会えないことぐらい、きみは、よく承知しとるはずじゃないか」
メイスンは、なにげない口調でいった。「カール君の拘留を継続させているのは、モンテインさん、あなたの案じゃなかったのですか?」
「とんでもない」
「それでは、ちょっとおかしいという気がしませんか?」と、メイスンがいい出した。「法律では、夫は妻に不利益な証言をできないと規定しているのですから、カール・モンテインを証人として喚問できないことは、百も承知のはずなのに、地方検事が、カール君を重要証人として監禁しつづけなければならんというのは、変じゃありませんか?」
「わしには、特別に意味があるとは思えんがね」と、モンテインがいった。「どっちにしろ、わしは、その件には関係しておらん」
「どうも」と、メイスンは言葉をつづけた。「裏になにかあったんじゃないか、という気がするのですがね。ことによると、わたしがカール君に対して活発な反対訊問を浴びせるだろうというので、誰かが、そうさせたいように押さえているのではないでしょうかね」
モンテインは、なんにもいわなかった。
「わたしが、きょうの午後、カール君と会ったことはご存じですか?」と、メイスンが詰問口調でいった。
「きみは、離婚訴訟の件で宣誓供述書をとることになっておったことは、知っておるがね」
ペリイ・メイスンは、相手の頭によくはいるように、ゆっくりといった。「モンテインさん。デラ・ストリートに、その供述書を読んでもらうことにします。カール君がどんなことを供述したか、聞いていただきます」
モンテインは、口を開きかけたが、ぐっと自分を押さえた。その顔は、相変わらず仮面のようだった。
「じゃ、読んでくれ」と、ペリイ・メイスンは、デラ・ストリートにいった。
「このノートに書いてある通り、読んでいいんですか?」
「そうだ」
「質問と答と両方ともですね?」
「そうだ、きみが書いた通りに読めばいいんだ」
【問】 きみの名前は、カール・モンテインですね。
【答】 そうです。
【問】 ローダ・モンテインの夫ですね?
【答】 そうです
【問】 ローダ・モンテインが、虐待を理由にして、きみに対して離婚訴訟を提起していることを知っていますね?
【答】 ええ。
【問】 その主張のひとつは、きみが、グレゴリイ・モクスレイの殺人犯人だと、不当に、彼女を告発した点にあることも知っていますね?
【答】 ええ。
【問】 その告発は、虚偽ですか?
【答】 虚偽ではありません。
【問】 それで、いまでもまだ、その告発を繰り返しているのですね?
【答】 そうです。
【問】 そのような告発をする理由は?
【答】 理由はたっぷりあります。ローダは、モクスレイとの約束を守って出かけているあいだ、ぼくを眠らせておこうとして催眠薬を飲ませようとしました。ガレージからこっそり車を引き出し、殺人を犯して、帰宅すると、何ごともなかったような顔でベッドにもぐり込みました。
【問】 奥さんが午前二時にそっと家を抜け出すよりも前に、きみは、モクスレイという男のことをすっかり知っていたのじゃないのですか?
【答】 いいえ。
【問】 では、ちょっと待ってくださいよ。きみは、奥さんに、いわゆる尾行というやつをつけていた。その尾行は、殺人の前日に、わたしの事務所まで奥さんをつけて来た。さらに、その尾行は、グレゴリイ・モクスレイのアパートまで奥さんをつけて行った。こういうことは、みんな事実じゃないのですか?
【答】 (証人は口ごもって、ついに答えず)
【問】 さあ、いまの質問に答えてください。宣誓をしていることを忘れないで。どうです。事実と違いますか?
【答】 ええ、人を雇って、彼女を尾行させました。はい。
【問】 それから、午前一時半ごろ、奥さんがガレージから車を出したとき、タイヤがパンクしていたそうですが、ちがいますか?
【答】 そのように聞いています。
【問】 それから、予備のタイヤにも釘がさしてあったそうじゃありませんか?
【答】 そう聞きました。
【問】 ところが、予備のタイヤの空気は、まだすっかり抜け切ってはいなかったそうですね?
【答】 そうだそうです。
【問】 では、モンテインさん、この点を説明していただけますか。つまり、故意に釘を打ち込んだのでないかぎり、地上から三フィートも上の、車体の後部につけてある予備タイヤに、どうして、釘がささるなどということが有り得るのでしょうか?
【答】 ぼくには、わかりません。
【問】 ところで、奥さんが車をガレージにもどしたとき、ドアをぴったりしめることができなかったそうですね?
【答】 ええ。
【問】 しかし、ガレージから車を出すときには、すべり戸をあけたてしなければならなかったはずですね?
【答】 ええ。そうだと思います。
【問】 思うというのじゃ困りますね。はっきり、きみは知っているはずでしょう? 奥さんがドアをあけたてする音を、きみは聞いたのでしょう。
【答】 ええ。
【問】 ところで、そのドアは、奥さんがガレージを出るときには、楽にしまったんでしょう?
【答】 ええ。
【問】 そして、奥さんが帰って来て、二度目に、そのドアをしめようとしたときに、ぴったりしまらなかった理由は、それもガレージの中にあった、きみの自動車の緩衝器《バンパー》にドアが引っかかっていたからじゃないのですか?
【答】 そうです。
【問】 だから、こういうことになるわけじゃありませんか? 奥さんの車がガレージから出て行っている間に、きみの車も、きっと引き出されたのにちがいない。そして、きみの車をガレージにもどしたとき、ドアが楽にしまるほど十分に奥まで入れなかった。どうです、ちがいますか?
【答】 ぼくは、そうは思いません。
【問】 きみは、午前二時に外出するということを知っていたのではありませんか?
【答】 いいえ。
【問】 きみは、奥さんのハンドバッグを調べてみて、『グレゴリイ』という署名の電報を見つけたことを、認めるでしょうね?
【答】 ええ。でも、それは後になってからのことです。
【問】 その電報に、グレゴリイ・モクスレイの住所が書いてあったのではないのですか?
【答】 ええ、書いてありました。
【問】 そして、奥さんが、グレゴリイ・モクスレイと会う約束で出かけるつもりだということを、きみは知らなかったのですか? 奥さんとモクスレイの間にどんなことがはじまるか見届けようとして、グレゴリイ・モクスレイの家へ出かけようと決心したのではなかったのですか? そこで、奥さんよりも先きに現場へ到着する時間を稼ごうとして、奥さんが出かけてから手間どるように計画したのではないのですか? そのために、奥さんの車の右のうしろのタイヤの空気を抜き、予備のタイヤに釘を打ち込んで、じょじょにパンクするようにした。そうすれば、その予備のタイヤはパンクしてぺしゃんこになるだろうが、車に取りつけてしまってからでなければ、そのパンクはわからない。それだから、以上のようなことをしたのではないのですか? そこで、奥さんが着替えをすませてガレージを出てしまった後、まだサービス・ステーションで修理をさせている間に、きみは自分の車に、飛び乗って、グレゴリイ・モクスレイのアパートヘ車を飛ばせたのではないのですか? きみは、裏手の階段を登って、北隣りの二階のフラットヘはいり込んで行ったのではないのですか? 奥さんがモクスレイとの約束を守って会いに来るまで、その場に身を隠していたのではないのですか? それから、裏のポーチの境界の手すりを乗り越えて、モクスレイのアパートの台所へはいり込んで行って、モクスレイが奥さんに金を要求して、場合によっては、きみを毒殺して、保険金をとってでも持って来いとゆすっているのを聞いていたのではないのですか? 奥さんが、このわたしに電話をするというのを、きみは聞かなかったというのですか? それからまた、取っ組み合いの音を聞かなかったというのですか? そこで、きみは、ふいに、きみの名前や家名がそんな騒ぎのかかわり合いになって、お父さんの顔に泥をぬるのじゃないか、そんなことをさせちゃ一大事だと|あわ《ヽヽ》を食って、前述のアパートの奥にある配電盤の親スイッチを切って、アパート中をまっ暗にしなかったというのですか? それから、きみは、モクスレイのアパートヘ飛び込んで行くと、人を殴りつけるような音が聞こえ、つづいて、奥さんがアパートから駆け出して行く音が聞こえはしませんでしたか? きみは、モクスレイがいた部屋へ忍び込んで、マッチをすって、何事が起きたのか見届けようとはしなかったというのですか? すると、火掻き棒で頭をぶんなぐられてふらふらになったモクスレイが、ちょうど立ち上がったところにぶつからなかったというのですか? そこで、きみは、やにわに衝動にかられて、落ちていた火掻き棒を拾って、恐ろしい一撃をモクスレイの頭に加えると、モクスレイは床に倒れはしませんでしたか? そこで、きみは、廊下を歩き出した。歩きながらマッチをすった。そのマッチはモクスレイのアパートの煙草盆の上からとって来た。そうではないのですか? すると、廊下で、もう一人、別の人間と、ばったり出くわしませんでしたか? その男は、玄関の前でベルを鳴らしつづけていたのだが、いっこうに返事がないので、家の裏手へまわって、きみと同じようなやり方で裏口から忍び込んだ男だったのじゃありませんか? その男は、センタービルから出て来たオスカー・ペンダーという男で、妹のために、取られた金をモクスレイから取り返してやろうとしていた男ではありませんでしたか? きみたち二人は、ひそひそと小声で話をかわしませんでしたか? そればかりか、きみは、きみたち二人とも、きわめて危険な立場にいるのだということを、ペンダーに説明して聞かせはしませんでしたか? きみは、その部屋にはいったときに、モクスレイが死んでいるのを見つけたのだが、警察では、そんなきみのいうことを決して信じないだろうとは、いわなかったというのですか? そこで、きみは、きみたちがいたという手がかりを残さないように、布切れでドアの握りや、凶器からすっかり指紋を拭きとりはしなかったというのですか? そこで、きみは、家の裏手に回ることにしたでしょう。そのとき、たぶん、奥さんも裏口から出て、隣りの家の廊下に出たのかもしれないとは思いませんでしたか? そこで、いまいった廊下まで行って、マッチをすって照らしてみたが、廊下には人の影も見あたらないので、モクスレイの家のポーチにもどり、最後のマッチを使いはたしてしまったので、マッチの空箱を投げ棄てた。どうです、そうと違いますか? それから、配電盤のスイッチを入れて、前の通り、もう一度モクスレイのアパートの電灯をつけたのではありませんか? それから、きみとオスカー・ペンダーの二人は、急いで現場から逃げ出さなかったというのですか?  きみは、自分の車に飛び乗ってあわてて、家へ飛ばして来たが、いいあんばいに、ほんの数分の差で、奥さんより先きに帰って来たことは帰って来たものの、あわてたあまり、うっかりして車をガレージにしまうのに、ずっと奥まで入れなかったので、ガレージの左右のドアがうまく動かなくなってしまったのとちがうのですか? きみの車のうしろ側のドアは自由にあけたてができるのだが、もう一枚のドアを、きみの車のほうへ送りこもうとすると、きみの車のバンパーに引っかかってしまう。奥さんが、どうしてもガレージのドアをしめることができなかったのは、そういう理由とはちがうというのですか?
【答】 恐れ入りました、その通りです! ぼくはいままで、そのことをひた隠しに隠しつづけていたので、いまにも気が狂うかと思うくらいでした。ただ、殺すところだけは違っています。ぼくは、ローダが逃げ出せるようにと電灯を消したんですが、それでも、あの男がローダをやっつけるんじゃないかと心配になったんです。まっ暗な中で、殴りつける音が聞こえ、つづいて、誰かが倒れる音が聞こえました。そこで、マッチをすって、手さぐりで部屋から部屋へ進んで行きました。すると、目の前に、モクスレイが立っていました。ひどく傷をしてはいませんでしたが、人を殺しかねないほど怒り狂って、ぼくに向かって来ました。火掻き棒がテーブルの上にのっていました。ぼくは、マッチをすてて、その火掻き棒をつかむと、暗の中でせいいっぱいの力で振り回しました。それから、ローダの名前を呼びました。が、返事がありません。さっきマッチをすてて手もとになかったものですから、手さぐりで暗闇の中を探しまわりました。そのときに、ガレージと車の鍵を落としたのでしょうね。きっと、ポケットから皮の鍵入れを引っ張り出したにちがいありません。そのときは、気がつかなかったんですけど。とそのとき、誰かマッチをする男がいるんです。それがペンダーでした。その後は、あなたがおっしゃった通りです。ぼくは、高飛びをしろといって、ペンダーに金をやりました。そのときは、ローダを告発する気なんかありませんでした。そんな気が起こったのは、家の近くまで帰って来て、ガレージの鍵を探して、ないので、たいへんなことになったのを知ったときでした。
【問】 それで、きみは、車をしまうと、ガレージの鍵はかけずに、そのままベッドヘもぐり込んだ。それから、奥さんが帰って来て、眠りにつくのを見すまして、きみはベッドを出て、奥さんのハンドバッグをあけ、奥さん用のガレージの鍵と車の鍵を取りのけた。きみが、わたしの事務所に来たときに見せたのは、じつは、奥さんの皮の鍵入れだった。そうでしょう?
【答】 そうです、おっしゃる通りです。ぼくとしては、ローダが正当防衛を主張すれば、陪審員もローダのいうことを信じるだろうと考えたんです。警察へ出頭する前に、先生のところへ行ったのも、先生ならローダを無罪にしていただけると思ったからなんです。
【問】 そして、わたしの了解しているところでは──
ペリイ・メイスンは、そこまでデラが読み進んで来ると、手をあげて、
「デラ」といった。「そこまででいいよ。そこから後は読まなくてもいい。きみは、向こうへ行っていいよ」
秘書はノートをとじて、控え室へ姿を消した。
メイスンは、C・フィリップ・モンテインに顔を向けた。
モンテインの顔は、まっ青だった。両手で椅子の腕を握りしめて、ひと言もいわなかった。
「むろん」と、ペリイ・メイスンはいった。「夕刊をお読みでしょうね。あなたが公判に出席されなかったのは、モンテインさん、むしろ賢明なことでした。それにしても、むろん、公判の経過は、ご承知でしょう。検察側の証人が、ローダ・モンテインのアリバイを立証してしまったのです。こうなれば、陪審は、絶対にローダに有罪の評決は下しませんよ。わたしは、ご子息が供述書におっしゃったことを信用します」と、ペリイ・メイスンは、ゆっくりといった。「しかし、陪審は信じないでしょうな──カール君のとった行動がわかり、いっさいの罪をローダの肩に負わせて、自分だけが助かろうとしたやり口がわかってしまったいまとなっては、信じてくれといってもむりでしょうね。
わたしは、あるていど、カール君の性格を知っています。それは、ローダとの話からつかんだのです。ご子息は衝動的で、その癖、弱い性格だと、わたしは思います。世の中のなにものにもまして、あなたから非難されることを怖れているひとだということも、わたしは知っています。家名を尊重するのも、子供のときから、そういうふうに教え込まれて来たからだと思います。
モクスレイという男は、殺されるのが当然な男があるとすれば、まさにそのような、殺されるのが当然の悪人だと、わたしは思います。ご子息は、生まれてこの方、本当の危機というものに一度も直面したことのない人間だと思います。いままではいつでも、あなたによりかかっていればよかったのです。はじめ、ご子息がモクスレイのアパートヘ出かけて行ったというのも、奥さんとモクスレイとの仲を怪しんだから出かけて行ったのですが、真相を知ると、かっとして極端な行動に出たのです。そして、あわてふためいて家に帰って来たのですが、そのときになって、モクスレイのアパートにガレージの鍵を落として来たことに気がついたのです。それでも、カール君は、ガレージから車を出すときに、鍵がかかっていなかったことを思い出して、帰って来たさいも、鍵をかけずにそのままにしておくだけの分別はあったのです。そうしておけば、ローダが帰って来ても、ちゃんと元のままになっているというわけですからね。そのときにはもう、モクスレイのアパートに鍵を落として来たことに気がついていたものだから、ローダの鍵をぬすんで、アパートに落ちているのはローダの鍵入れのように見せかけようというもくろみを立てました。残念なことに、ご子息には、現実に試練の場に立たされたとき、すべての責任を一身に負って頑張るだけの男らしさもなければ、勇気も欠けていたのです。卑劣にもローダに罪をおっつけて、自分だけが逃れようと企てたのです。
もし、あのとき、進んで警察に出頭して、堂々と真相を告白する男らしささえ、ご子息にあったら、おそらく、事件をこんなに紛糾させず、どうにか正当防衛として簡単に片づけることができたのです。しかし、それもいまとなっては、できないことで、誰ひとりカール君の言葉を信じる者はないでしょう。わたし個人としては、ご子息を殺人の罪で責めようという気はありません。わたしが責めたいのは、罪を最愛の妻に押しつけて、自分だけ嫌疑を逃れようとしたその卑劣な心情なんです。
しかし、モンテインさん、わたしが本当に責めたいのは、あなたです。あなたは、事件の真相を知っていたか、それとも、うすうすは察していたか、どちらかに違いないと、わたしは信じています。だからこそ、わたしの事務所へやって来て、わたしを買収して、ご子息がローダに対して不利な証言をできるように、わたしが反対訊問でご子息をはげしくやっつけないように、それによって、わたしにローダの弁論に手心を加えさせようとなすった。率直にいって、わたしがなんだか怪しいぞという疑惑を感じたのは、それが最初でした。あなたほどの名声と知能のある人が、依頼人に死刑の宣告を受けさせるために、わたしを買収しようとする理由が、わたしには理解できなかったのです。それほど強い動機がどこにあるのか、わたしには考えもつかなかったのです。と突然、わたしは思い当りました。あなたにそうした非常識な行動をとらせたものは、ただ一つ、ご子息を助けたいという、強力な動機しかないということを感じたのです」
モンテインは、ほっと大きな溜息をついて、
「この勝負は、わしの負けだ」といった。「いまになって、わしは、カールに与えた教育に致命的な誤まりを犯していたことがわかったよ。あれが特別に強い性格の人間ではないということは、わしも知っている。あれが看護婦と結婚したと電報を打ってよこしたとき、相手がどんな女か、わしは突きとめてやろうと思った。わしは、自分の結婚は誤まりだったと、心からあれが得心の行くようなふうに、女の正体を突きとめてやりたかったのだ。それと同時に、相手の女に対しても、生かそうと殺そうとわしの自由になるような弱味を握りたいと思った。そこで、わしは、伜には、まだわしはシカゴにいると思わせておいて、こっそりこの市に出て来た。
わしは、夜となくひるとなく、あの女の後をつけまわさせた、あの女の動静は、いっさいもれなく、わしのところへ報告がとどいた。わしが使ったのは、ふつうそこらにいる私立探偵じゃない。常に、わしの会社で雇っている秘密調査員たちなのだ」
メイスンは、眉を寄せて考えながら、
「そうですかね」といった。「それにしちゃ、この事務所までローダをつけて来た男は、この上なしの|しろうと《ヽヽヽヽ》でしたね」
「それは、あんた」と、モンテインが前よりは口調までがいくぶん弱く、いった。「この上なし念入りにお膳立《ぜんだ》てをした計画でも、ほんの思いがけぬ偶然から、めちゃめちゃに引っくり返ってしまうことがあるものだが、この場合がそのよい例さ。ローダ・モンテインがあんたの事務所を出たとき、わしの使っておった男は、抜け目なくつけておった。さすがのポール・ドレイクでさえ、その男には気がつかなかったくらいだ。ところが、カールもローダを疑い出していたのだね。いわゆる私立探偵というやつを雇って、ローダをつけさせておったらしいのだが、こいつが|しろうと《ヽヽヽヽ》に毛の生えたような男なんだ。そうはいうものの、その尾行を使ったおかげで、あれは、ミルサップ医師の一件を嗅ぎつけたらしいのだ──わしには、よくわからんがね」
メイスンは、ゆっくりとうなずいて、
「そうです」といった。「わたしにも、カール君はミルサップ医師のことを話して聞かせましたが、それを聞いたとたん、ははあ、私立探偵を使って情報を手に入れているなと、すぐにぴんと来ましたよ」
「わしの雇った連中の一人が」と、モンテインは言葉をつづけた。「ローダが家を抜け出して、モクスレイと会いに行ったときも、油断なく目を光らせておった。その男は、後をつけようとしたのだが、あのときばかりは、まんまとローダにまかれてしまった。なにしろ、もうそのときは真夜中すぎで、どの通りにも、ほとんど人の影さえもなかったものだから、あまり接近してつけるわけにもいかなかったのだね。ローダの姿を見うしなうと、すぐ伜の家にとって返して、物陰に身をひそめておった。だから、うまいことカールがガレージヘもどって来て、車をしまって、家にはいるところを、ちゃんと見届けることができたのだ」
「むろん」と、メイスンがいった。「そのことの重大な意味はおわかりでしょうね?」
「わしの探偵から報告を受けたとき」と、モンテインがいった。「すぐに、その報告の非常な重要性に、わしも気がついた。だが、そのときは、後の祭りで手を打つことなどできるわけもなかった。新聞は事件を書き立てて、街に出てしまっていたし、カールはカールで、警察に出頭してしまっておった。なにしろ、あの日は夜明け近くに眠りについたばかりで、しかも、どんなことがあっても絶対に起こしてはならんぞといいつけておいたものだから、探偵も、わしに報告をしようとして来たことは来たものの、起こしてまでは、よういわなかったのだね。あれこそは、あの男のおかした、最初の、まったく重大な大失策じゃった。ひとのいいつけを、馬鹿正直に守りおったばかりにな」
「そりゃそうですが」と、メイスンがいった。「むろん、その男は、自分の発見したことに、そんな重大な意味が含まれているとは感じなかったのでしょう?」
「朝刊の遅い版を読むまではな」と、モンテインがいった。
モンテインは、肩をすぼめて見せた。
「だがな、弁護士さん、こんなことはみんな、要点をはずれたことだ。ざっくばらんにいって、いまのわしは、あんたの御意まかせだ。むろん、あんたは金をよこせといわれるんじゃろう。ほかになにか要求することがおありかね? どうしても、この事実を地方検事に知らせるとおっしゃるのかね?」
ペリイ・メイスンは、ゆっくりと、首を左右に振って、
「いいや」といった。「地方検事にしゃべるつもりはありませんな。この供述書は、わたしが個人的に必要だからとったものです。わたしは、絶対にしゃべらないし、秘書のデラ・ストリートだって、しゃべりません。ご子息の代理の弁護士にしても、職業柄、カール君を守る義務があるから、しゃべるわけにはいきません。しかし、万一ということもありますから、カール君の弁護料として、その弁護士に相当の金をやっておおきになっておいたほうがいいでしょうね。
ところで、金の話が出たついでに、わたしの希望も申し上げましょう。ご推察の通り、わたしも相当の金額をいただきたいと思っています。ローダ・モンテインのために努力した報酬は、正当に請求する権利があると信じます。その金は、あなたの懐から払っていただきたいと思います。しかし、そんなことは、二次的なことです。主要な点は、ローダのための金をいただきたいということです」
「どれくらいの金額かな?」と、モンテインがたずねた。
「多額にいただきたい」と、メイスンは、重々しい口調でいった。「ご子息はローダに対して、どう償《つぐな》っても償いようのないほど誤まった仕打ちをしました。それでも、あのひとは弱い人間だと思えば、許せないこともありません。しかし、あなたは、それに劣らぬ言語道断なことを、ローダになすった。これは許すわけにはいきません! あなたは、思慮も分別も人並以上にある、強い人です。あなたから支払っていただくのは、当然だと考えます」
ペリイ・メイスンは焼きつくような目で、百万長者の目を、じっと見つめた。
C・フィリップ・モンテインは、小切手帳を取り出した。その顔には、まったく表情というものはなかった。唇は、一文字に結んだままだった。
「どうやら」と、モンテインが口を開いた。「わしも、わしの倅も、モンテイン家の家柄を鼻にかけすぎたようだ。なるほど、あんたのいわれる通り、家名を償うためには、誰かが責任を負わねばならんだろう」
彼は、ポケットから万年筆を出して、キャップをはずすと、わざと金額は書き込まずに、二枚の小切手に署名をして、その小切手をペリイ・メイスンに渡した。
「罰金の額は、あんたにお任せするとしよう、弁護士さん」と、しっかりした声で、モンテインはいった。が、唇はふるえていた。
第二十一章
ペリイ・メイスンの奥の事務室の窓からさし込んでいる、昼ちかい太陽が、大きなデスクの上に、きらきらと金色の点々を落としていた。
弁護士は廊下に立って、その事務室のドアに鍵をさし込んで回すと、ぐっと勢いよくドアをあけ、片側に身を寄せて、ローダ・モンテインにはいるようにと合図して勧《すす》めた。
女の顔には、このところ引きつづいて悩まされていた緊張の影が残っていたが、それでも、頬には、ほんのりと赤味がさして、目もきらきらと輝いていた。
ローダは、デスクの前に立って、事務所の中を見回した。その双の目に、涙があふれて来た。
「わたし、いま、考えていましたの」と、かの女はあっさりといった。「この前、このお部屋にうかがったときのことを──なんて自分勝手だったんだろうと、先生に嘘をつこうとしたことだの、あれから起こったいろんなことだのを。それから、先生のお力添えがなかったら、殺人罪で処刑されていたところだったんだと」
そういって、ローダは、ぞっとするように身ぶるいをした。
ペリイ・メイスンは、身振りで、おかけなさいと、かの女に合図をした。かの女が、大きな革張りの椅子に身を沈めると、自分も回転椅子に腰をおろして、紙巻煙草に手を出した。
「わたし、とても口には出せませんわ」と、ローダ・モンテインがいった。「いま、どんなに恥ずかしい気持ちでいるかってことを。先生のおいいつけにしたがわなかったばかりに、ずいぶんお手数をおかけしましたわ。わたし、とても困ったことになったと肚では思っていたんですけど、それにしても、いっさいを先生の手におまかせして、お指図にしたがうだけの分別さえあったら、こんなにひどく、先生にお骨を折らせないですんだんでしょうと思いますわ。
だって、地方検事さんたら、グレゴリイ・モクスレイが殺されたとき、その間じゅうずっと、玄関でベルを鳴らしつづけていた人間がいたといいつづけているんですもの。事件が起こったころに、わたしがあの近所にいたことは、検事さんには立証できることだと思ったものですから、おそろしい嫌疑をのがれるには、ベルを鳴らしたのはわたしだというほかに方法がないと思い込んでしまったのですわ」
「そういう|こじつけ《ヽヽヽヽ》の困った点は」と、メイスンは、微笑を浮かべながらいった。「誰もかれもが、同じような考え方をするということですよ」
かれは、デスクの引出しをあけると、小切手を一枚取り出して、かの女に渡した。
ローダは、目を大きく見開き、信じられないという色を浮かべて、じっとその小切手を見つめた、
「まあ!」と、ローダはいった。「まあ──これは、いったい、どうしたんですの?」
「それはね」と、メイスンがかの女に、「C・フィリップ・モンテインが、あなたをひどい目にあわした、その償いの一端として書いたというとこですね。法律的にいえば、あなたとカール・モンテインとの間の、財産分与の取りきめといってもいいんですが、現実には、道徳的な正常の心をうしなった金持ちに課せられた罰金だと解釈してもいいんですよ」
「でも、わたしには、わけがわかりませんわ」と、ローダはいった。
「あなたは、わかろうとしなくてもいいんです」と、メイスンは、ローダにいって聞かせた。「その上に、モンテイン氏は、わたしの報酬も払ってくれました。ざっくばらんにいって、ひどく気前のいい報酬でした。ですから、このお金は全額あなたのものです。ただ一つだけ、あなたに負担していただきたい口があるのですが」
「なんでしょうか?」
「ペンダーという女がいるのです」と、ペリイ・メイスンがいった。「グレゴリイ・モクスレイが、フリーマンという偽名で結婚していた相手です。グレゴリイが、その女の金をだましとったので、その金を取りもどそうとして、この町まで追っかけて来たのです。かの女の兄というのも、助太刀にやって来ました。この兄というのには、わたしも別に同情を感じませんが、妹には気の毒だと思っています。わたしは、あなたを弁護する一つの手段として、やむを得ず、この兄妹を、わざと脅かして逃げ出させたり、引きつづいて、あちこちに逃げ回らせたりしました。そういうわけで、グレゴリイがだまし取った金を、あの女に返してやっていただきたいのです。小切手の金額をきめるさいも、それを考慮に入れて書いてあるつもりです」
「でも」と、かの女はいった。「まだ、わたしにはわかりませんわ。なぜ、C・フィリップ・モンテインが、わたしあてに小切手を書いてくれたんでしょう? しかも、なぜ、こんな大金を?」
「わたしの考えでは」と、ペリイ・メイスンがいった。「きのう取った、あなたの夫の宣誓供述書をお読みになれば、もうすこし、その間の事情がおわかりになると思いますよ」
メイスンは、デスクの上の呼鈴を押した。と、すぐといってもいいくらいに、控え室からのドアがあいた。デラ・ストリートが、急ぎ足に戸口をまたいだひょうしに、ローダ・モンテインの姿を見ると、思わず立ち止まったが、すぐに両手をひろげて進み出た。
「おめでとうございます」と、デラがいった。
ローダ・モンテインは、その手を握って、
「わたしよりも、先生におよろこびをおっしゃってくださいな」
「ええ」と、デラはにっこり笑って振り向くと、両手を弁護士に差し出して、長いこと、じっとその目を見つめていた。
「わたし、あなたをみんなに自慢したいと思いますわ、先生」
メイスンは、デラの片手をはなして、自分のほうにかの女を引き寄せ、その肩を軽くたたいて、「ありがとう、デラ」
「地方検事が、事件を取り下げたんですのね?」
「ああ、連中の負けさ。手をあげたらしいよ……ところで、例の供述書はタイプしてしまったかい、デラ?」
「ええ」
「モンテイン夫人に読んでもらいたいんだ。その後で、破ってもらいたいね」
「ちょっとお待ちになって」と、デラがいった。
デラは、すばやく、メイスンの手をぎゅっと握りしめると、控え室へ出て行ったが、間もなく、タイプした書類を持ってもどって来た。
「これを読んでごらんなさい」と、ペリイ・メイスンは、ローダ・モンテインにいった。「はじめの部分は、ざっと目を通すだけで結構。その後の、長い問答体のところを、じっくり読んでください」
ローダ・モンテインは、カールの宣誓供述書を読みはじめた。タイプされた行を追って読み進んで行くうちに、ローダの顔には、好奇心がいっぱいに浮かび、目が行の上を走った。
デラ・ストリートは、ペリイ・メイスンの傍に立っていた。その手は、メイスンの腕にそっと触れていた。そして、なかばささやくような声で、
「先生」といった。「あのベルの件は、まちがいないんですのね?」
かれは、心配そうなデラの目に、にっこり笑顔を向けながら、「なぜ?」とたずねた。
「わたし、いつも心配ばかりしていたんですの」と、やはり、同じような低い声で、デラがいった。「いつか、あんまりやりすぎて、厄介なことになるんじゃないかと。だって、そうでしょう──」
メイスンの笑い声が、デラの言葉をさえぎった。
「ぼくのやり方は」と、メイスンがいった。「月なみな型にははまっていないさ。しかし、あの程度じゃ、決して違法じゃないんだぜ。おそらく、ひとはきわどいことをやりすぎるというかもしれないが、弁護士なら当然使用してもいい合法的な手だよ。証人を反対訊問するときは、思いつくかぎりのいかなるテストも、法律が許している範囲内での、どのようなデッチ上げも、弁護士には利用する権利があるんだよ」
「それは、わかっていますわ」と、デラは、小声で、早口にいった。「でも、地方検事は、きっと恨んでますわ。あなたが家主にことわりもなしに、あの家にはいりこんだことを立証できたら、先生を逮捕しやしませんかしら。検事は──」
ペリイ・メイスンは、折りたたんだ書類をポケットから取り出して、
「これを」といった。「領収証の綴じ込みの中へ入れておいてくれ」
デラは、その折りたたんだ書類を見つめた。
「家賃の領収証だよ」と、弁護士は説明するようにいった。「ノーウォーク・アベニュー三一六番地の建物のね。不動産に投資しておこうと思ったもんだからね」
デラは、目を丸くして、その書類を見つめた。なるほど、これで安心しましたわというような微笑が、ゆっくりとかの女の顔にひろがって、泣き笑いのような表情になった。
「わたしって、なんにもわからないんですのね」と、かの女はそっといった。
長い無言の時間がすぎた。
そのとき、ローダ・モンテインが、さっと立ち上がって、供述書をデスクの上に投げ出した。手袋をはめた手を、かたく握りしめていた。燃えるような目で、じっとペリイ・メイスンの目を凝視した。
「あのひとたち、なんてひどいことをするんでしょう!」と、ローダは吐き出すようにいった。
ペリイ・メイスンは、ゆっくりとうなずいた。怒りが強く、ローダの目に燃えていた。
「わたし、やっと目がさめましたわ」と、ゆっくり、ローダがいった。「わたし、弱い男といっしょになって、そのひとを母親のように愛したいと思っていたんですの。わたしがほしかったのは、つれあいじゃなく、子供だったんです。でも、大人になった男が、子供になれるはずがありませんわね。ただ、弱い、自分勝手な人間になるだけですわ。カールは、ひとり立ちする勇気も、自分が矢面《やおもて》に立つだけの肚もなかったんですわ。そのくせ、わたしに人殺しの罪をおっかぶせようとして、わたしのハンドバッグから鍵を盗んだり、警察に訴えたりして、わたしに殺人のぬれ衣を着せたんですわね。しかも、父親までが息子を助けようとして、わたしに罪を負わせようとしたんですわね。わたし、すっかり目がさめましたわ。もうこれで、おしまいですわ」
ペリイ・メイスンは、ローダを見守ったまま、なんにもいわなかった。
「わたし」と、ローダは、いまは早口で言葉をつづけた。「いままでは、モンテイン家の金には、一文だって手を触れるものかと決心していました。小切手はそのまま、カールのお父さんにつっ返してやろうと思っていたんです。でも、いまは……」
そこで、彼女は口をつぐむと、小鼻をふくらませて、肩をぐっとあげた。
「先生」と、頼るような目をあげて、ローダはいった。「お電話を拝借できますかしら?」
「どうぞ、ご遠慮なく、モンテイン夫人」
ローダ・モンテインの目から、けわしい色が、ゆっくりと消えて行った。口もとをもどかしそうにゆがめると、
「すみません」といった。「クロード・ミルサップ先生を呼び出していただけませんかしら」(完)
解説
一八八九年生れの、アール・スタンレイ・ガードナー(Erle Stanley Gardner)が、単行本の形でミステリー物を出版したのは、一九三三年の、「ビロードの爪」(The Case of the Velvet Claws)がはじめてであった。
もちろん、それまでにも短編のミステリー小説は、一九二一年以来、低級な娯楽雑誌や、探偵小説専門の雑誌「ブラック・マスク」などに、数え切れないくらい発表していた。が、単行本形式で発表したのは、「ビロードの爪」が最初であり、ガードナーが四十四歳のときである。
そうして、本書「奇妙な花嫁」(The Case of the Curious Bride)を発表したのは、それから二年後の一九三五年、かれが四十六歳のときである。
その前年の一九三四年、かれは、それまでの二十二年間、刑事専門の弁護士として相当高く評価されていた弁護士の職をやめた。ということは、作家と弁護士との二足の草鞋《わらじ》をはいていたのを、きれいにぬいで、いよいよ作家一本槍でやって行く肚をきめたということである。
それまで、低俗なパルプ雑誌に短編小説を発表していたころのガードナーは、平均一年に百万語(日本風に、四百字詰原稿用紙にすると、大体一万枚前後に当る)以上を発表していた。しかも、それまでの本職である弁護士の仕事も、決して門前雀羅《もんぜんじゃくら》を張るといった態のものではなく、かれの作品の裁判場面を見ても察しられるように、その反対訊問は、巧妙、かつ辛辣で、もし、かれが弁護士の仕事をつづけていれば、その道でアメリカ有数の大家になっていただろうと、当時の同業がいっているほどだから、かなりの忙しさだったと推察される。
その弁護士の仕事を放擲《ほうてき》し、おそらくかなりの収入になったであろうパルプ雑誌の仕事とも別れて、単行本一本槍に突き進んで行ったのであるから、かれの気魄は並々のものではなかったであろう。
だから、単行本一筋にその文筆活動を制約してから三年目、弁護士の仕事をもすてた翌年の一九三五年に発表した、この「奇妙な花嫁」が、同じ年に発表した「義眼殺人事件」(The Case of the Counterfeit Eye)「管理人の飼猫」(The Case of the Caretaker's Cat)とともに、その作品の緊密な構成の点で、ガードナー作品中での代表作といわれるのも、その並々ならぬ気魄の表われとして決して理由のないことではない。
とに角、ガードナーの作品は面白い。読み出したらやめられないとは、誰でも口を揃えていうことである。とくに裁判場面の面白さ、思わず引き込まれずにはいられないが、中でも、この「奇妙な花嫁」の裁判の場面は、ガードナーのそういう場面のうちでも、飛びぬけて読む者の心を引きつけずにはおかない。どんなに面白く、どんなにハラハラさせられるかは、私があれこれというよりも、一つ直接に読んで味わっていただくことにしよう。
最後に、ガードナーの略伝を述べておこう。ガードナーは、一八八九年、アメリカ、マサチューセッツ州のモルデンで生まれた。父が鉱山の技師であったので、幼少年時代の大部分は鉱山のキャンプで育ち、正統な教育も受けなかった。十七歳の時には、アラスカのコロンダイクに住んでいたこともある。やや長じて素人拳闘家として試合に出たこともあるが、後、法律に志し、次席地方検事の下で見習として勉強し、一九一○年、二十一歳のとき、カリフォルニア州の法廷に出る資格を得て、同州ヴェンツエラで弁護士事務所を開いた。それから二十二年間、刑事弁護士として、主として陪審法廷における論争に従事した。
以後文筆生活──といっても、ガードナーは筆でなど作品を書かない。最初はタイプライターから、つぎには電気タイプライターに、口述筆記にと進み、最後は口述速記器械(dictating machine)を用いて、その驚異的な量産をつづけた。一九三三年、「ビロードの爪」を発表して以来、大体、一年平均四冊というおそるべき速度であった。(訳者)
◆奇妙な花嫁◆
E・S・ガードナー/能島武文訳
二〇〇四年九月十日