ビロードの爪
E・S・ガードナー/能島武文訳
目 次
ビロードの爪
訳者あとがき
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登場人物
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ペリイ・メイスン……弁護士
デラ・ストリート……その秘書
ポール・ドレイク……私立探偵
エバ・ベルター……依頼人
ジョージ・ベルター……エバの夫
フランク・ロック……赤新聞『スパイシイ・ビッツ』の編集長
カール・グリフィン……ジョージ・ベルターの甥
ハリスン・バーク……下院議員
アーサー・アトウッド……カールの弁護士
エスター・リンテン……フランク・ロックの情婦
ビーチ夫人……ベルター家の家政婦
ノーマ・ビーチ……その娘
ソル・スタインバーク……質屋のおやじ
ハリー・ローリング……ノーマの前夫
シドニー・ドラム……殺人捜査課の刑事
ビル・ホフマン……殺人捜査課の部長刑事
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第一章
秋の日の光が、窓に照りつけていた。
ペリイ・メイスンは、大きなデスクに向かって、どっかと腰をおろしていた。何かを待ち構えているというような態度が感じられた。ゆったり落ちついたその顔は、盤上を見つめて、つぎの手を考えているチェスの棋士といった顔つきだった。その顔色は、ほとんど変わることもなく、変わるのは、ただ目つきだけだった。とことんまで我慢に我慢をしてここぞと思う盤面に相手をさそい込んで、その上で、恐ろしい一撃を相手に加えて片づける人間、思索家でもあれば、闘士でもあるという印象を与えた。
革表紙の書物がぎっしりつまった書棚が、部屋の壁をうずめ、一方の隅には、大きな金庫が、でんと据えられている。いまペリイ・メイスンが掛けている回転椅子のほかに、二脚の椅子が置いてある。事務室は、この部屋の主人公の強い個性のあるものに影響されたとしか思えないような、質素な、きびしい能率一点張りという雰囲気に包まれていた。
表の事務室との間のドアがあいて、秘書のデラ・ストリートが、気軽に部屋にはいって来て、うしろのドアをしめた。
「女の方で」と、かの女がいった。「ミセス・エバ・グリフィンとおっしゃる方がいらしてますわ」
ペリイ・メイスンは、落ちついた目つきで、かの女の顔を見て、「それで、きみは、そうじゃないと思うんだね?」とたずねた。
かの女は、首を振って、「わたしには、いかさまって気がするんです」といった。「電話帳で、グリフィンって名を調べてみたんですけど。その方のおっしゃるような所番地に、グリフィンというのは一つもないんです。市の居住者名簿も繰ってみたんですけど、やっぱりないんですの。グリフィンという名前は、とても多いんですけど、エバ・グリフィンというのは、まるきりないんです。それに、その方のいうような所番地には、グリフィンというのは、まるでないんです。
「どこだね、所番地は?」と、メイスンがたずねた。
「グローブ・ストリートの二二七一番地ですわ」と、デラがいった。
ペリイ・メイスンは、紙切れに、それを書きつけてから、「会ってみよう」といった。
「かしこまりました」とデラ・ストリートはいった。「わたしはただ、その人が、わたしにはいかさまだという気がするということを、お知らせしたかっただけなんですの」
デラ・ストリートは、すらりとした体つきに、しっかりした目つきの、かれこれ二十七、八歳の若い女で、鋭くものを見定めようとする目で人生を見守っているばかりか、ものの上っ面だけでなく、その裏までも深く見詰めているという印象を与えた。
かの女は、戸口に立ったままで、静かに、じっとペリイ・メイスンの顔に目をあてて、「わたし」といった。「なにか、あの人のためになさる前に、ほんとにどういう人だか、先生がさぐり出してくださるといいと思いますわ」
「虫が知らせるのかい?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「先生なら、そうおっしゃるでしょうね」と、にっこり笑いを浮かべて、デラがいった。
わかったというように、ペリイ・メイスンはうなずいた。が、その顔の表情は、ちっとも変わっていなかった。ただ目だけが、油断のない色を帯びて来ていた。
「わかった。その女を通してくれ。ぼくが、自分でゆっくり見てみよう」
デラ・ストリートは、ドアを閉めて、待合室の方へ出たが、手は、ドアの握りにかけたままでいた。二、三秒もたったかと思わないうちに、ドアの握りがまわって、ドアがあき、一人の女が、ゆったりと自信たっぷりの様子で、部屋の中へはいって来た。
年のころは、三十そこそこ、いや、もしかしたら二十八、九というとこで――立派な身なりで、恐ろしく身づくろいに気をくばっているという様子だった。さっと素早く、品定めするような視線を、事務所じゅうに向けてから、デスクの前にすわった男に、目を向けた。
「こちらへ来て、おかけください」と、ペリイ・メイスンがいった。
そう言われて、かの女は、かれの顔に目をあてた。かすかに、なんて失礼なというような色が、その顔に浮かんだ。つまり、部屋にはいって来たときには、当然、どんな男でも立ちあがって、かの女の地位と、その女性としての尊厳を認めて、丁重に扱ってくれるものと予期していたといわんばかりの顔色だった。
一瞬、かの女は、おかけなさいといったメイスンの言葉を無視しようとしたようだった。が、思い直して、デスクの向かいの椅子まで進んで、腰をおろし、ペリイ・メイスンの顔に目を向けた。
「それで?」と、かれがたずねた。
「弁護士のメイスンさんでいらっしゃいますわね?」
「そうです」
注意深く品定めするように、メイスンを見つづけていた青い目が、ことさらそうしたかのように、不意に丸くなった。そのしぐさが、まったく邪心がないという色を、その顔に与えた。
「あたくし、困っているんでございますのよ」と、かの女がいった。
そんなことは日常茶飯のこと以外、なんの意味もないといわんばかりに、ペリイ・メイスンはうなずいた。
かの女が言葉を続けないので、メイスンがいった。「ここへいらっしゃる大抵の人が、困っておいでのようですな」
女は、ぶっきらぼうに、「そんなことをおっしゃっちゃ、かえって、どうしていいか、わからなくなってしまいますわ。あたくしのご相談した、大抵の弁護士のかたは……」
不意に、かの女は黙ってしまった。
ペリイ・メイスンは、かの女の顔を見て、にっこりと笑いを浮かべた。ゆっくり立ち上がり、デスクのヘりに両手をついて、それに上体の重みをかけ、デスク越しに、女の方へ体をぐっと乗り出して、「そうです」といった。「ようくわかっています。あなたがご相談なすった大抵の弁護士は、幾部屋もある贅沢な事務所におさまっていて、大勢の事務員が忙しそうに出たりはいったりしていたというんでしょう。あなたは、目の玉の飛び出るほどの大金をお払いになたのだが、そのくせ、なんにも大したことはしてもらえなかった。部屋にはいると、手をすりながら、ぺこぺこお辞儀をする。その挙げ句には、途方もない前金をふんだくられる。しかし、あなたが、ほんとに困ったことになった場合には、とても、そんなところへは出かけていく気にはならないというのでしょう」
大きく見開いた女の目が、いくらか細くなった。二、三秒の間、二人は、おたがいの目をじっと見つめ合っていたが、やがて、女のほうが目を伏せた。
ペリイ・メイスンは、ゆっくりと、力強く、しかも、声を高めずに、話しつづけた。
「よろしいですか」と、メイスンがいった。「わたしは、そんなのとは違うのです。わたしは、闘うから、依頼人のためにせい一杯闘うから、商売がなり立っているのです。会社を作りたいからといって、わたしの所へ訪ねてきた人など、一人もありませんし、遺産の検認などということは、いままで一度だってありません。契約書の作成を引き受けたことなども、これまでに十二回とはなかったでしょうし、抵当権の処分なんということになると、どうしたらいいものやら知っちゃいません。わたしのところへ来る人は、わたしの目の色が気に入ったとか、事務所の設備が気に入っているとか、クラブで知り合った仲だからとか、そういう理由で、わたしを訪ねてくるのじゃない。みんな、わたしが必要だから、わたしのところへやって来るのです。わたしの腕前をあてにして、助けを求めようと思ってやって来るのです」
女は、メイスンの顔を見上げていたが、やがて、「あなたの腕前というのは、どういうことなんですの、メイスンさん?」とたずねた。
メイスンは、ずばりとあいてに向かっていった。「闘うのです!」
女は、力強くうなずいた。「それですわ、あたくしが、していただきたいと思うのも」
メイスンは、再び回転椅子に腰をおろして、たばこに火をつけた。二つの個性がぶつかり合って起こった磁気あらしがおさまって、大気がさわやかに晴れあがったような感じだった。
「よろしい」と、メイスンがいった。「ところで、どうやら前置きに余分な時間を使いすぎたようですが。現実の世界へもどって、ご用件をうかがうとしましょう。先ず、ご自分のこと、どんなきっかけから、ここへ来られることになったか、お話しいただきましょうかな。たぶん、そこからおはじめになるほうが、お話しになりやすいと思いますが」
女は、まるで練習してきたことを繰り返していうように、せき込んで、話しはじめた。
「あたくし、結婚しております。名前は、エバ・グリフィン。グローブ・ストリートの二二七一番地に住んでおりますの。こん度の事件は、ちょっと訳がございまして、これまでお願いしていた弁護士のかたに打ちあけるわけにはまいりませんのですよ。あるお友達が、名前はいわないでくれと頼まれましたのですが、その方から、あなたのことをうかがいましたのですよ。その方のお話では、あなたは、普通の弁護士とはちがって、自分から出かけて行って、いろいろのことを片づけてくださるかただとか」
女は、しばらく黙っていてから、たずねた。「ほんとにそうでございますの?」
ペリイ・メイスンは、うなずいて、「そうでしょうな」といった。「大抵の弁護士は、事務員や探偵をやとっておいて、事件を引き受けると、その連中を使って、証拠集めをする。が、わたしは、そんなことをしません。というのも、ごく簡単な理由からで、わたしが扱う種類の事件では、他人にそういう仕事を信頼してやらせることができないからです。むやみやたらと事件も引き受けませんが、引き受けたからには、料金をたっぷり頂くかわりに、満足のゆく結末をつけてさしあげることにしています。探偵を雇うこともありますが、雇っても、一回ごとに証拠集めに雇うだけです」
女は、世話しげに熱心にうなずいた。いったん氷がとけてしまったいまでは、熱を入れて、自分の方から話をすすめて行こうとする様子があらわれていた。
「ゆうべ、ビーチウッド・インで起こった強盗《ホールド・アップ》事件のことは、もう新聞でごらんになりましたでしょうね? だいぶお客さんがいたらしいですよ、ね、大食堂に、それから、別室にもいたんですの。そこへ、一人の男が忍び込んでホールド・アップをしようとして、かえって誰かに射たれたんですの」
ペリイ・メイスンはうなずいて、「読みましたよ、そのことなら」といった。
「あたくし、そこにいあわせましたんでございます」
かれは、肩をすくめて見せて、「射った人を知っているとおっしゃるんですか?」
女は、しばらく目を伏せていてから、またその目を、かれのほうに上げて、「いいえ」といった。
女は、一秒か二秒ほど、相手の視線を受け止めていたが、やがて、目を伏せた。
まだ相手が自分の問いにこたえなかったとでもいうように、ペリイ・メイスンは、相手の言葉を待ちつづけていた。
しばらくして、女は、もう一度目をあげて、不安らしく椅子の中で、身をもじもじさせて、「そうでしたわ」といった。「事件を引き受けていただくのでしたら、ほんとうのことを申し上げなくてはなりませんわね。ええ、存じております」
メイスンはうなずいたが、それは相手の返事をたしかめたということよりも、それを聞いて満足しているというほうがはるかに強いようだった。
「それで」と、メイスンは相手を促した。
「あたくしたち、外に出ようとしたんですけど、駄目だったんですの。入口という入口には、みんな見張りがついていたんです。どうやら、ホールド・アップがはじまったばかりのとき、まだその男が射たれない先に、誰かが警察に電話をかけたらしいんですの。あたくしたちが外へ出ないうちに、警察ではその場を取りかこんでしまったんです」
「誰ですか、その『わたくしたち』とおっしゃるのは?」と、メイスンがたずねた。
女は、じっと靴の先を見つめていたが、やがて、低い、はっきりしない声でいった。「ハリスン・バークですの」
ペリイ・メイスンは、ゆっくりとした口調で、「ハリスン・バークというと、こんどの選挙に立候補している……」
「そうですの」と、女は、ぴしっといった。ハリスン・バークのことには、あまり触れてもらいたくないとでもいいたげな、強いさえぎりようだった。
「そこで、あなたとなにをしていたんですか?」
「お食事をしたり、ダンスをしたりしていましたの」
「それで?」と、メイスンが問いかけた。
「それで」と、女は、言葉をつづけた。「あたくしたち、別室に引き返して、警官たちが、その場にいあわした人たちの名前を調べはじめるまで、かくれていました。運よく係りの部長刑事が、ハリスンの知り合いで、あたくしたちのその場にいあわせたことが、新聞記者にかぎつけられて記事にでも出ようものなら、政治家としてのハリスンにとっては致命的なことになるということを心得ていてくだすったものですから、一切の片がつくまで、あたくしどもを別室においてくだすって、それから、そっと裏口から逃がしてくれたんです」
「誰かに見られましたか?」と、メイスンがたずねた。
女は、首を左右に振って、「あたくしがおぼえているところでは、誰にも見られませんでした」
「よろしい」と、メイスンがいった。「その先をつづけてください」
女は、メイスンの顔を見上げて、出しぬけにいった。「フランク・ロックをご存知でしょうか?」
メイスンはうなずいて、「例のゆすり専門の暴露新聞『スパイシイ・ビッツ』をやってる男ですね?」
女は、唇を固く一文字に結んで、黙って、そうだというように、うなずいた。
「その男が、どうかしましたか?」と、ペリイ・メイスンはたずねた。
「その一件を知っているんです」と、女はこたえた。
「新聞に出すといってるんですか?」と、メイスンがたずねた。
女は、うなずいた。
ペリイ・メイスンは、デスクの上の文鎮《ぶんちん》をいじっていた。かれの手は、長く、ほっそりと、良い形をしていたが、しかも、その一本一本の指は、十二分に力に満ちていた。いざというときには、なにものでも握りつぶすだけの力はこもっているように見えた。
「金を出して買収すりゃいいでしょう」と、メイスンがいった。
「いいえ」と、女がいった。「あたくしには、そんなことはできませんわ。ぜひ、あなたにしていただきたいと」
「なぜ、ハリスン・バークにできないんです?」と、メイスンがたずねた。
「わかっていただけませんかしら?」と、女がいった。「ハリスン・バークには、人妻といっしょに、ビーチウッド・インにいたということを説明することはできるかもしれませんわ。でも、その事実が暴露新聞に出ないように、もみ消しの金を払ったりしたら、もういいわけは一切できませんわ。あの人は、事件とは無関係でなくっちゃいけないのです。そんなことをすれば、自分からわなにかかりに行くようなものですわ」
ペリイ・メイスンは、指でデスクをこつこつと叩きながら、「それで、わたしに始末をつけろとおっしゃるんですね?」とたずねた。
「ええ、始末をつけていただきたいんですの」
「いくらお出しになるつもりです?」
女は、ぐっと身を乗り出し、早口に、堰《せき》を切ったようにしゃべり出した。
「ねえ」と、女はいった。「あたくしのお話することだけ聞いていただいて、仔細をよくおぼえておいていただきたいんですけど、どうしてそんなことを知っているか、それは、おたずねにならないでおいていただきたいんですの。いくらあなたでも、フランク・ロックを、お金で買収することなどおできにならないと思いますわ。足許を見られて、いくらでも高くなりますわ。フランク・ロックは、自分では、『スパイシイ・ビッツ』の持主のような顔をしています。どんなたちの新聞だかご存知ですわね。ゆすり、たかりだけが目的の新聞です。金に成ることなら、相手をえらんだりはしませんわ。でも、フランク・ロックは、ただ表向きの看板にすぎないのです。うしろに、別の人がいるんです。誰か、もっとずっと上の人がいるんです。あの新聞の、ほんとうの持主がいるんですわ。恐喝罪とか、名誉毀損で訴えられたときの用意に、ちゃんとした弁護士を抱えているんです。でも、万が一、まずいことになってどうにもならなくなったときに、一切の罪を引き受けるために、フランク・ロックという人間がおいてあるんですわ」
女は、おしゃべりをやめた。
しばらく、沈黙がつづいた。
「お話は、よくきいていますよ」と、ペリイ・メイスンがいった。
女は、一瞬、唇を噛み、それから、また目を上げて、同じような早口で話しつづけた。「あ人たちは、ハリスンがあの場にいたことを嗅ぎつけています。いっしょにいた女が誰かってことは、まだ知ってはいません。しかし、あの人が現場にいあわせたという事実を新聞に出して、警察に証人として召喚させようとしているんです。侵入者が射たれたことにも、何となく怪しいふしがあるんです。誰かがたくらんで、その男がホールド・アップをして、射たれるように、わざと仕組んだようなとこもあるんです。警察と地方検事は、現場にいあわせた人間を残らず訊問しようとしているんですの」
「それで、あなたがたは訊問はされないとおっしゃるんですね?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
女は、首を振って、「ええ、あたくしたちは、大丈夫ですわ。あたくしがいあわせたことを知っているものは、誰もいないんです。知り合いの部長刑事がいましたから、ハリスンがいたことは、知れてはいるんですけど、それだけなんです。あたくしは、偽名を使いましたから」
「それで?」と、メイスンがたずねた。
「おわかりになりません?」と、女がいった。「警察が、あの連中にやいのやいのと責め立てられれば、ハリスンを訊問しなければならなくなると思うんです。そうなれば、あの人だって、いっしょにいた女のことを、誰だかいわなければなりませんわ。さもなければ、事の真相よりも、ずっと悪くとられることになります。ほんとうのことをいえば、別になんにも悪いことはなかったんですものね。あたくしたちだって、あそこへ行く権利はありますわ」
メイスンは、しばらく、デスクを指でこつこつと叩いていたが、やがて、じっと女の顔に目をあてて、「よろしい」といった。「ついては、事件について、お互いに思い違いをなくしておいたほうがいいと思うんですがね。あなたは、ハリスン・バークの政治的生命を救おうとしておいでなんですね?」
女は、意味ありげに、かれの顔を見て、「いいえ」といった。「あたくしも思い違いはしていただきたくはございません。あたくし、自分自身を救おうとしているんでございますのよ」
メイスンは、またしばらく、指先で、こつこつとデスクを叩きつづけていたが、やがて、「それには、金がかかりますよ」といった。
女は、ハンドバッグの口を開けて、「用意はしてまいりましたのよ」
ペリイ・メイスンは、女が紙幣を数えて、デスクの縁に積み重ねるのを見守っていたが、「なんですか、それは?」とたずねた。
「あなたへのお礼の内金でございますわ」と、女がいった。「事件を秘密にしておくのに、もっとお金がいりそうでしたら、あたくしにご連絡をとっていただきたいんでございますの」
「どういうふうに連絡をとるんですか?」
「『エグザミナ』紙の案内広告欄に、『E・G・相談まとまる見込み』と、あなたの頭文字だけ書き込んだ広告を出していただきたいんですの。そうすれば、あたくし、こちらへまいりますわ」
「そいつは気に入りませんね」と、メイスンがいった。「ゆすりに金を出すのは、わたしは、絶対にきらいでしてね。なにかほかのやりかたがありそうものですね」
「ほかにやりかたがございませんかしら?」と、女がたずねた。
メイスンは肩をすぼめて、「どうですかね。あるかもしれませんよ」
女は、いいことを思いついたというような口振りで、「そうそう、フランク・ロックには、一つ申しあげとくことがありますわ。あの人の過去には、なにか、あの人の恐れていることがあるらしいんですのよ。どんなことか、はっきりは知らないんですけど、きっと、一度ぐらい監獄に入れられたか、なにかそんなふうなことじゃないかと思うんですけど」
メイスンは、女の顔を見て、「あの男を、よっぽどよくご存知のようですな」
女は、首を左右に振って、「まだ一度も会ったこともございませんわ」
「それじゃ、どうしてそんなにいろいろのことをご存知なんです?」
「それはおたずねくださらないようにって申しあげましたでしょう」
メイスンは、指に力をこめて、デスクの縁をこつこつと叩きながら、「わたしは、ハリスン・バークの弁護士と名乗ってもいいんですか?」とたずねた。
女は、ことさらに力をこめて首を振った。
「誰の弁護士ともいっていただいちゃいけませんわ。つまり、どんな名前でも、名前をお使いにならないでいただきたいんですの。あなたなら、どういうふうにすればいいか、おわかりでございましょう。あたくしにはわかりませんけど」
「いつから取りかかってほしいとご希望ですか?」
「いますぐですわ」
ペリイ・メイスンは、デスクの脇のボタンを押した。すぐに、表の事務室との間のドアがあいて、デラ・ストリートが、ノートブックを持ってはいって来た。
椅子に掛けた女は、自分には関係がないよそのことだといわんばかりの様子で、ゆったりそっくり返っていた。自分の用事は、召使いの前でなんか、かれこれいわれる筋合いのものではないとでもいいたげな態度だった。
「なにかご用でしょうか?」と、デラ・ストリートがたずねた。
ペリイ・メイスンは、手を伸ばして、デスクの右の上の引き出しから、一通の手紙を取り出して、「この手紙だがね」といった。「大体これで良いが、一つだけ、つけ加えてもらいたいことがある。今、ペンで書き込むから、もう一度、タイプし直してくれたまえ。ぼくは、これから出かけるつもりだ。いつ事務所へもどって来られるかはわからない」
デラ・ストリートがたずねた。「ご連絡は、どこへいたしましょうか?」
メイスンは、首を振って、「ぼくの方から連絡をとる」といった。
メイスンは、手紙を手元へ引き寄せて、余白に走り書きをした。デラは、ちょっとためらっていたが、やがて、デスクをまわって、メイスンの肩ごしにのぞき込んだ。
ペリイ・メイスンは、手紙の上に書きつけた。「表の事務室へもどって、ドレイク探偵事務所に電話をかけ、ポール・ドレイクを呼び出して、この女が事務所を出たら、後をつけるように頼んでくれ。しかし、つけていることを、気づかせないようにすること。女の素性をつきとめたいのだが、大事な用だといってくれ」
メイスンは、吸取紙でおさえて、デラ・ストリートにそれを渡して、「いますぐにやってくれ」といった。「出かける前にサインができるようにね」
デラは、さりげなく手紙を受けとり、「かしこまりました」といって、事務室を出て行った。
ペリイ・メイスンは、女の方に向き直って、「この事件に、どれくらいお金をかけていいか、その辺のことを伺いたいんですがね」と、女に向っていった。
「いいところ、どのくらいとお考えでしょうか?」と、女がたずねた。
「まるきりわかりませんな」と、メイスンは、ずばっといった。「ゆすりに金を出すのは、わたしはきらいなんです」
「そうでしょうとも」と、女がいった。「でも、すこしは経験がおありになるに違いありませんわ」
「『スパイシイ・ビッツ』は」と、メイスンは、相手にいって聞かせるように、「出せる相手だと思えば、どこまでも取ろうとしますよ。だから、わたしがお聞きしたいのは、どれだけまで出せるか? ということです。あまり大きく吹っかけて来たら、ぐずぐずいって引きのばしてやろうと思うんです。もっとも思うところで承知すれば、早いところ片づけられますがね」
「早いところ、片づけていただかなくちゃなりませんわ」
「なんだか」と、メイスンがいった。「肝心の問題から離れたようですけど、一体、どれくらいお出しになれます?」
「五千ドルなら都合できますわ」と、思いきったように、女はいった。
「ハリスン・バークは、政治に関係している人ですね」と、メイスンが相手にいった。「わたしが聞いているかぎりでは、物好きで、政治に首を突っ込んでいるのではなさそうですな。それに、革新派の側に立って立候補しておいでだとすると、反対党にしてみれば、かれに恩を着せることは、この上もなく有利なことになるわけですな」
「どういうことですの?」と、女は、メイスンにたずねた。
「つまり、『スパイシイ・ビッツ』は、恐らく、五千ドルぐらいのはした金など、大海の一滴とも思わないだろうってことです」
「九千ドルか、たぶん一万ドルなら、なんとかなりますわ」と、女がいった。「せっぱつまれば」
「せっぱつまるでしょうな」と、メイスンが、いって聞かせるように女にいった。
女は、下唇を噛みしめた。
「万一、なにか急用がおこって、新聞に広告が出るのを待っていられないほど、急にご連絡しなくちゃならんとなったら、どうしますか?」と、メイスンがたずねた。「どこへうかがったらいいでしょう?」
女は、いそいで、はげしく首を振った。
「いらしちゃいけませんわ。そのこともご承知願いたいんです。あたくしの住所をお探しになったり、電話をかけようとなすったり、しないでおいていただきたいんです。主人が誰かも、さぐったりなさらないでおいていただきますわ」
「ご主人といっしょにお住まいなんでしょう?」
「もちろんですわ。でなくて、どうしてお金の都合がつくでしょう?」
女は、さっと一瞥《いちべつ》をメイスンに向けた。表の事務室との間のドアにノックの音がして、デラ・ストリートが、頭と肩とを部屋にのぞかせて、「ちゃんと用意いたしましたから、いつでもサインをお願いできますわ。メイスン先生」といった。
ペリイ・メイスンは、立ち上がって、意味ありげな目を、相手の女にあてた。
「よろしい、グリフィンさん。できるだけのことはいたしましょう」
女は、椅子から立ちあがって、一歩ドアのほうへ行きかけたが、そこで立ちどまって、テーブルの上の紙幣に目をとめ、「領収書をいただけますかしら?」とたずねた。
「お入用なら、差し上げますよ」
「いただいたほうがいいと思うんですけど」
「もちろんですとも」と、意味ありげに、メイスンがいった。「あなたの財布に入れておくほうがいいというお考えでしたら、ペリイ・メイスンのサインで、エバ・グリフィンさまあて、前渡金なにがし受け取りましたというようなものをお作りしますよ。わたしのほうは、ちっとも構いませんよ」
女は、ちょっと眉を寄せていてから、いった。「そういうのじゃなくて、この領収書の所持者は、いくらいくらの金額を、前渡金として、あなたさまに支払ったというふうにしていただきたいんですの」
メイスンは、にがい顔をしながら、さっと、器用な手つきでデスクの上の紙幣をすくいあげ、デラ・ストリートを手まねきして、「デラ」といった。「この金を持って行って、帳簿にグリフィンさんの口座を作ってくれ。それには、口座番号も、五百ドルいただいているということも書いておいてくれ。その金額が、前渡金として受け取ったものだということも、忘れずに書いてさしあげるんだ」
「料金は、全部でどれくらいになるか、おっしゃっていただけません?」と、女がたずねた。
「仕事の量によりますね」と、メイスンがいった。「相当高くなるでしょうが、けっして不当ではありません。それに、仕事の結果にもよりますよ」
女はうなずき、しばらくためらっていてから、いった。「こちらで、あたくしのすることは、もうそれだけでございましょうね」
「秘書から、受け取りをさしあげます」と、メイスンが、相手にいった。
女は、メイスンの顔に微笑みを向けて、「お邪魔いたしました」
「失礼しました」と、メイスンも挨拶した。
女は、表の事務室へ出るドアのところで立ちどまり、振り返ってメイスンの方を見た。
メイスンは、かの女の方に背中を向けたまま、両手をポケットに突っ込み、窓外を見て立っていた。
「どうぞ、こちらへ」と、デラ・ストリートがいって、ドアをしめた。
ペリイ・メイスンは、五分間ほど、表の通りを眺めつづけていた。やがて、表の事務室との間のドアがあいて、デラ・ストリートが室内へはいって来た。
「帰りましたわ」と、デラがいった。
メイスンは、くるっと、デラの方に向き直って、「なぜ、君は、あの女がいかさまだと思ったんだね?」とたずねた。
デラ・ストリートは、じっとメイスンの目を見つめて、「あの人」といった。「なんだか、わたしにいやな気を起こさせるんですもの」
メイスンは、幅の広い肩をすぼめた。
「ぼくには、あの女は、現金五百ドルの前渡金だよ。それに、事件が片付けば、もう千五百ドルの報酬になる」
デラは、ある感情をこめて、いった。「あの人、いんちきな、くわせ者ですわ。自分のためなら、平気でどんな人でも裏切る、身だしなみのいいあばずれ女というだけのことですわ」
「きみは、妻としての貞節さが認められないというんだね」と、メイスンがいった。「主人にだまって、五百ドルも前渡金を出すような女などは。しかし、あの人は、お客だぜ」
デラ・ストリートは、首を振って、いった。「わたしのいうのは、そんなことじゃないんです。あの人には、なんだかいかがわしいところがあるといっているんです。ほんとうは、先生に知っていていただかなくちゃならないことを、なにか隠していますわ。ざっくばらんに言ってしまえば、先生の気を楽にさせられるのに、それをしないで、ただめくら滅法に、先生をよくないことに引っ張りこもうとしているんですわ」
ぺリイ・メイスンは、肩で身振りをして、「ぼくの気を楽にさせてくれたら、どうだっていうんだね?」とたずねた。「あの人は、ぼくの時間に金を払ってくれるお客さまだ。ぼくの資本といえば、時間しかないんだからね」
デラ・ストリートは、ゆっくりとした口調で、いった。「ほんとに、時間だけが先生の資本かしら?」
「なぜ、そうじゃないっていうんだね?」
「わかりませんわ」と、デラがいった。「あの人は、物騒な女ですわ。なにかしらないけど、先生を窮地に引きずりこんで、ほったらかしにする、そういうたちのあばずれ女ですわ」
メイスンの表情は変わらなかったが、目がぎらぎらと光った。
「そんな目に会うかもしれない」と、メイスンは、デラにいった。「しかし、お客はみんな、ぼくに正直だと思うわけにもいかないからね。お客は、ぼくに金を払うという、ただそれだけだよ」
デラは、なんとなく思いに沈んだような、やさしい、もの思わしげな目つきで、じっとメイスンを見つめながら、「でも、どんなくだらない人にでも、正直にしてくれと、いつでもくどいほど、おっしゃるじゃありませんか」
「むろん」と、メイスンがいった。「そりゃ、ぼくの義務だからね」
「先生の職業に対しての義務ですの?」
「いいや」と、メイスンは、ゆっくりといった。「ぼく自身に対する義務さ。ぼくは、金で雇われる闘士だ。お客のために闘うのさ。ところが、お客というお客はたいてい、正直な信頼できる人間じゃないんだ。なぜかといえば、お客だからだ。その連中は、面倒な問題にはまり込んでいるんで、それを助け出すのが、ぼくの役目なんだ。相手が、ぼくに正直に、公正にするとは、常に予期することはできなくても、こっちは、相手に正直にしなければならんというわけだ」
「そんなの、不公平ですわ!」と、デラは腹立たしそうにいった。
「むろん、そうさ」と、メイスンは、微笑みを浮かべて、「だけど、それが商売というものさ」
デラは、肩をすぼめた。「わたし、ポール・ドレイクさんに、あの人が事務所を出たらすぐに後をつけてくれと、あなたがおっしゃっているとお伝えしましたわ」と、出しぬけに自分の仕事にもどって、デラがいった。「すぐに、後をつけるといっていましたわ」
「じかに、ポール・ドレイクに話したんだね?」
「もちろんですわ。出なければ、万事おいいつけ通りにできましたなんていいませんわ」
「わかった」と、メイスンがいった。「さっきの前渡金の中から、三百ドルは銀行に入れて、二百ドルだけ、ぼくのほうによこしてもらおう。あの女の素性は、じきにわかる。そうすりゃ、金蔵《かねぐら》を掘りあてたようなもんだ」
デラ・ストリートは、表の事務室にもどって、紙幣を二百ドル持ってくると、それをペリイ・メイスンに渡した。
メイスンは、デラの顔に笑顔を向けて、「きみは、いい子だね、デラ」といった。「女のことになると、変な気のまわしかたをするけど」
デラは、くるっとメイスンのほうに向き直って、「わたし、あの人、大きらい!」といった。「あの人の歩く地面そのものまでが、きらいよ! でも、それとはちがうわ。きらいだけじゃないの。虫の知らせっていうようなものだわ」
メイスンは、両足を大きく開き、ポケットに両手を突っ込んだまま、デラを見つめて、「なぜ、そんなにあの女を嫌うんだね?」と、ひどく面白そうにたずねた。
「あの人のことは、なにからなにまで嫌いよ!」と、デラ・ストリートがいった。「わたしは、なにからなにまで、手に入れるためには働かなければならなかったんですわ。いままでに一度だって、働かずに手に入れたものなんかありませんわ。一生懸命働いて、なんにもならなかったことだって、ずいぶんありましたわ。ところが、あの人と来たら、生まれてから、いちどだって働いたことのないというタイプの女ですわ! 自分の手に入れたものの代価に、びた一文だって出さない女だわ。たとい、自分自身にだって、ださないわ」
ぺリイ・メイスンは、じっと考えに沈みながら、唇をすぼめて、「なるほど、あの女を一目見て、身なりが気に入らなかったもんだから、こんなにかんしゃく玉を破裂させたっていうのかな?」とたずねた。
「身なりなら好きですわ。百万長者のような身なりだけど、あの衣裳だって、どこかの人に、莫大もないお金を使わせたんでしょうよ。そんなものにだって、間違いなく、自分でお金を出すような女じゃないわ。どこからどこまできちんとしすぎているし、手入れは申し分なく行きとどいているし、顔だって無邪気すぎるわ。あなたの気をひこうとするとき、わざと目を大きくしてみせる、あの手にお気づきになって? あのベビイ・フェイスだって、鏡の前で、さんざん練習したにきまってますわ」
メイスンは、急に深い、謎を秘めた目つきで、じっとデラを見つめながら、「やって来るお客がみんな、きみのいうように誠実な人間だったら、デラ、法律なんていらないはずだよ。それを忘れちゃいけない。やってくるお客は、みんな歓迎しなくちゃいけないのさ。きみは別さ。きみの家は金持ちだった。それが失敗して、金をなくなしてしまった。きみは働きに出た。そんなことをしない女だって、ずいぶんあるのさ」
デラは、また沈んだ目つきになって、「じゃ、その人たちは、どうするんですの?」とたずねた。「ほかに、どうすればいいんですの?」
「その連中は」と、メイスンが、ゆっくりとした口調でいった。「男と結婚すればいいのさ。それから、だれか別の男とビーチウッド・インへ行って、ごたごたにまき込まれたあげく、救い出してもらうために、弁護士を頼まなきゃならんことになるのさ」
デラは、表の事務室のほうへ向き直った。メイスンの目と合わせないように、視線をそらしつづけていたが、その目は、きらきらと輝いていた。「わたし、お客のことをお話しようとしていたのに」と、デラがいった。「あなたったら、わたしのことをいい出したりなさるのね」そういいすてて、デラは、さっとドアから、表の事務室へ出て行った。
ペリイ・メイスンは、戸口まで足を運び、そこに立って、デラ・ストリートが、自分のデスクのところへ行って腰をおろし、タイプライターに紙をはさみ込むのを見ていた。そのまま、その場に立っていると、廊下のドアがあいて、背の高い、なで肩の、長い頸《くび》からぐっと頭を前に突き出した男が、表の事務室へはいって来た。男は、いつでもおどけたような色を浮かべている、飛び出た生気のない目で、デラ・ストリートを見やって、にっこり笑ってから、メイスンのほうを向いて、「よう、ペリイ」といった。
メイスンがいった。「やあ、ポール。なんかつかんだか?」
ドレイクがいった。「もどって来たとこさ」
メイスンは、ドアをあけてささえていたが、探偵が奥の事務室へはいると、後をしめて、「どうした?」とたずねた。
ポール・ドレイクは、数分前まで客の女のすわっていた椅子に腰をおろし、別の椅子に足をのせ、たばこに火をつけた。
「利口な女だね、あの女は」と、ドレイクがいった。
「どうして、そう思うんだ?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。「つけられていると感づいたのか?」
「そんなことはあるまい」と、ドレイクがいった。「おれは、ここの事務所から出て来たら、すぐに見えるように、エレベーターの入口のところに立っていた。女が出て来たもんだから、おれのほうが一足先に乗り込んだ。誰かついて来るかと、この事務所のほうに、じっと目をつけていたね。きっと、きみのところの女の子でもつけて来るかと思ったんだろうな。エレベーターが下へ着くと、ほっとした様子だったよ。
女は、そこの角まで歩いた。おれは、間に二、三人をおいて、ぴったりくっついて行った。女は、通りを渡って、向こう側のデパートメント・ストアに入ると、行く先をはっきり知っているというような顔をして、ずんずん歩いて行って、夫人休憩室にはいって行った。
はいって行く様子が、なんとなくおかしいんで、隠れるんだなという気がしたもんだから、係りの人間をつかまえて、夫人休憩室からの出口がほかにもあるかって聞いてみたのさ。すると、三方に出られるらしいんだね。美容室へ行く道と、マニキュア室へと、喫茶室とあるんだね」
「どっちへ出たんだ、女は?」と、メイスンがたずねた。
「おれが行く十五秒ほど前に、美容室のほうへ行ったんだな。おれは、ごまかすために化粧室を利用しただけだなと考えていたんだが、女は、そこまで男がつけて来られないのを知っていて、あらかじめ、すっかり計算を立てていたんだな。おれが聞き出したところでは、美容室の通りに面した出口に、運転手つきの自動車を待たしてあったというんだからね。車は、大きなリンカーンだったそうだが、それで、何かの役に立つかなあ?」
「立たんね」と、メイスンがいった。
「おれも、そう思ったよ」と、ドレイクは、にやりと笑ってみせた。
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第二章
フランク・ロックは、きめの粗い、マホガニイ色の肌に、ツイード地の三つ揃いの服を着ていた。その肌は、屋外スポーツの結果の陽灼け色ではなくて、無暗にニコチンを吸いすぎたために色がついてしまったといったほうがよさそうだった。目は、ミルク・チョコレートの色を思わせる、柔らかい茶色で、つやというものがまるきりなくて、生気のない、死人の目のようだった。鼻は大きく、口もとは弱々しく力がなかった。ちょっと見には、ひどくおとなしい、害のない人間のような気がした。
「じゃ」と、ロックがいった。「ここで、話ってのを聞こうじゃないか」
ペリイ・メイスンは、首を振った。「駄目だよ。どうせ、ここには、そこら中にマイクロフォンを仕掛けてあるだろうからな。こちらのいうことを聞いている人間が、きみだけだということのわかっている場所でなら話すよ」
「どこだね?」と、フランク・ロックがたずねた。
「ぼくの事務所へ行ったっていいよ」と、メイスンはいったが、その口振りは、是非そうしようという気もなさそうだった。
フランク・ロックは、声を立てて笑った。その笑い声は、耳ざわりな陰気なものだった。
「そいつは、こっちがお断りだ」と、かれがいった。
「よし」と、メイスンがいった。「帽子をかぶりたまえ。いっしょに出掛けようじゃないか。二人で、気の合ったところが、どこか見つかるだろう」
「というと?」とたずねたロックの目に、急に疑い深そうな色があらわれた。
「ホテルでも見つけるさ」と、メイスンがいった。
「もうちゃんと、きみが見つけておいたやつか?」と、ロックがたずねた。
「いや、ちがう」と、メイスンがいった。「タクシーをひろって、そこらへんを勝手に走れと、運転手にいおうじゃないか。そんなに疑うんなら、きみが、自分でホテルを選んだらいい」
フランク・ロックは、一分間ほどためらっていてから、いった。「済まんが、ちょっと待ってくれ。事務所をはなれていいかどうか、様子を見てこなきゃならん。ちょうどやりかけていた仕事があるんでね」
「いいとも」といって、メイスンは腰をおろした。
フランク・ロックは、踊りあがるようにデスクの前をはなれて、部屋を出て行った。かれは、ドアを開け放したままで出て行った。表の事務室から、忙しそうなタイプライターの音と、がやがやという話し声が聞こえて来た。ペリイ・メイスンは、腰をおろしたまま、落ちついてたばこを吸っていた。その顔は、いつものかれらしい特徴の、すっかり一つのことに心を集中しているという表情をあらわしていた。
かれこれ十分ほど待っていた。と、フランク・ロックが、帽子をかぶってはいって来た。
「いいよ」と、かれがいった。「さあ、出かけよう」
二人は、いっしょにその建物を出て、流しのタクシーを呼びとめた。
「ここらの商業地区を走らせてくれ」と、ペリイ・メイスンが運転手にいった。
ロックが、まるきり表情というものを含んでいるとは思えない、かれ特有の、例のチョコレート色を帯びた茶色っぽい目で、弁護士を見て、「ここだって、話はできるぜ」といった。
メイスンは、首を振って、「大きな声を出さなくていいところで話したいんだ」
ロックは、にやっと笑って、いった。「こっちは、大きな声には馴れてるんだ」
メイスンは、物々しい口振りで、いった。「ぼくが大きな声を出すのは、本気になっているときだから気をつけたほうがいいぜ」
ロックは、うんざりした様子で、たばこに火をつけて、「そうかね?」と、さりげなくいった。
タクシーが左へまがった。「あすこに、ホテルがあるじゃないか」と、メイスンがいった。
ロックは、にやっと笑って、「なるほど」といった。「だけど、おれはいやだよ。きみがいい出したんだし、それに、近すぎるからな。おれが、見つけるよ、ホテルは」
ペリイ・メイスンがいった。「いいとも。どんどん走らせて、見つけるさ。運転手に行く先をいわずにおいて、ただ、ぐるぐる走らせて、どこのホテルでも、通りかかったのを、きみがきめればいいよ」
ロックが、声を出して笑った。「おれたち、いやに用心深いじゃないか?」
ペリイ・メイスンは、うなずいた。
ロックが、運転手席との間のガラスをたたいて、「ここで降りるぜ」といった。「そこのホテルで」
タクシーの運転手は、いささか驚き顔で、ロックの顔を見たが、それでも、ブレーキを踏んで車をとめた。メイスンは、五十セント玉を、さっと渡した。それから、二人は、その安ホテルのロビーにはいって行った。
「談話室《パーラー》ではどうだね?」と、ロックがたずねた。
「よかろう」と、メイスンがこたえた。
二人は、ロビーを通り抜けて、エレベーターで中二階にあがり、マニキュア室の前を通って、灰皿スタンドを中にして、向かい合った椅子に腰をおろした。
「さて、と」と、ロックが口を切った。「きみは、弁護士のペリイ・メイスンで、ある人の代理人として、なんか用事があるということだったね。さあ、さっさといってしまえよ!」
メイスンが口を開いた。「きみの新聞にのせないでおいて貰いたいことがあるんだがね」
「そんなことをいって来るのが、ずいぶんあるよ」と、ロックがいった。「いったい、なにを、のせないでくれというんだね?」
メイスンがいった。「そう。まず手順を相談しようじゃないか。いきなり金のことを持ち出したほうがいいかな?」
ロックは、強く首を振って、「おれのところのは、ゆすり新聞じゃないんだぜ」といった。「広告主には、どうかすれば、便宜をはかることもあるがね」
「なるほど、そういうことか?」と、メイスンがいった。
「そうさ」と、ロックがいった。
「なにを広告したものかね?」と、メイスンがたずねた。
ロックは、肩をすぼめて、「なんでもいいさ」といった。「別に広告なんぞ出さなくてもいいよ、出したくなけりゃね。こっちは、そのスペースを売る。それだけさ」
「なるほどね」と、メイスンがいった。
「よかろう。それで、きみのたねは?」
「ゆうべ、ビーチウッド・インで、殺人事件があった。いや、ある人が射たれたんだ。殺されたかどうか、そいつは知らん。ぼくが聞いているところでは、射たれたのは、ホールド・アップをやろうとしたやつだったそうだ」
フランク・ロックは、落ちつきはらった、例のミルク入りチョコレート色の目を弁護士の顔に向けた。
「それで?」と、ロックはたずねた。
メイスンは、話をつづけた。「事件には、なんだか怪しいふしがあるらしい。それで、地方検事は、徹底的に調べ上げようとしているようだ」
ロックがいった。「肝心の話ってのを、きみは、まだしないじゃないか」
「それを話しているのさ」と、メイスンが落ちついていった。
「よかろう。どんどんいってくれ」
「ある人から聞いた話だが」と、メイスンが言葉をつづけた。「地方検事が受け取った現場にいた人間の名簿は完全なものではないということだね」
ロックは、じっとメイスンの顔を見つめて、「きみは、誰の代理人なんだね?」とたずねた。
「きみのところの新聞に、広告を出してもらおうと思っている人さ」と、メイスンがいった。
「よろしい。それで、その先を聞こうじゃないか」と、ロックが促した。
「その先は、きみのほうで、よくご存知のはずじゃないか」と、メイスンがいった。
「知っていたって、知っているとはいわんよ」と、ロックがこたえた。「おれは、広告のスペースを売るだけで、そのほかには、なんにもせんさ。きみのほうから、話を持ち込んで来たんだからね。切り出すのは、きみのほうさ。おれのほうは、一インチだってゆずらんぜ」
「わかった」と、メイスンがいった。「ところで、きみの新聞の広告主として、希望したいのはこういうことだ。今度の殺人事件に、きみの新聞が、あまり深入りしないこと。つまり、あるいは現場にいたかも知れんが、地方検事の受け取った関係者名簿に含まれていない人間のことを、とやかく書き立てないこと。特に、その名簿に漏れている、ある知名の士の名前は、いっさい、きみの新聞にはのせないこと。また、その人物が、証人として喚問されない理由も問題にしないこと。それから、これも広告主としての希望だが、その人物の同伴者の身もとについて憶測を弄《ろう》しないこと。以上だ。ところで、広告スペース買取りの代価は、どれくらいになるね?」
「そうさな」と、ロックがいった。「そんなふうに、新聞の方針に口を出すつもりだと、ずいぶんたくさんの広告スペースを買ってもらわなくちゃならんね。契約書を取り交わさなくちゃなるまいね。つまり、おれのほうで、一定の期間、そのスペースをきみに売り渡すことに同意する広告掲載の契約書を、きみとの間に作るんだ。その契約書には、契約破棄の際の違約金に関する条項を入れるのだ。だから、きみのほうで、その広告全部を取りやめたいと思えば、違約金を支払ってくれればいいことにする」
ペリイ・メイスンがいった。「契約破棄と同時に、違約金を払えばいいんだね?」
「その通りだ」と、ロックがいった。
「それで、契約は、締結と同時に破棄してもいいんだろう?」
「いいや」と、ロックがいった。「そいつは困る。せめて、一日か二日は待ってもらいたい」
「待っている間に、勝手な動きはしないだろうな、むろん」と、メイスンがいった。
「むろんさ」
メイスンは、シガレット・ケースを取り出し、長い器用な指で、たばこを一本つまみ出し、火をつけて、ぞっとするような冷ややかな目で、ロックの顔をじろじろと見た。
「よろしい」と、メイスンがいった。「話すだけのことは話した。こん度は、こっちが聞こう」
ロックは、椅子から立ちあがって、五、六歩、床を往復した。首を前に突き出し、チョコレート色の目を、せわしげに目ばたきをして、「この問題は、ちょっとよく考えさせてもらいたいね」といった。
メイスンは、懐中時計を取り出して、見ながら、「いいよ、十分間で考えたまえ」
「いや、いや」と、ロックがいった。「もうちょっとかかるよ、考えるのには」
「いや、そんなことはないだろう」と、メイスンがいった。
「大ありだよ」
「十分間だ」と、メイスンがいい張った。
「頼みに来たのは、きみなんだぜ」と、ロックがいった。「おれじゃないんだぜ」
メイスンがいった。「馬鹿なことをいっちゃいかん。忘れちゃいけない、こっちは、依頼人の代理なんだぜ。きみのほうで、案を出したんだから、こっちは、依頼人に伝えなきゃならないんだ。ところが、その依頼人と連絡をとるのが、生やさしいことじゃないんだ」
ロックは、ぐっと眉を上げて、「ほんとうか?」といった。
「ほんとうさ」と、メイスンがいった。
ロックがいった。「よし、十分間で考えられるだろう。しかし、いずれにしろ、事務所に電話を掛けなきゃならん」
「よかろう」と、メイスンがいった。「さっさと掛けて来たまえ。ぼくは、ここで待ってるよ」
ロックは、すぐにエレベーターのところへ行って、一階へ降りて行った。メイスンは、ロビーの見おろせる中二階の手すりまで歩いて行って、ロックが、ロビーを突っ切るのを見ていた。ロックは、電話室にははいらず、そのまま、ホテルを出て行った。
メイスンは、エレベーターの前へ行き、ボタンを押し、エレベーターが来ると、そこの戸口に立って、たばこを吹かしながら、通りの向こう側からホテルの入口を見張っていた。
三、四分すると、ロックが、近くのドラッグ・ストアから出て来て、ホテルへはいって行った。
メイスンは、通りを渡って、ロックの三、四歩後ろからホテルにはいり、電話室の前までつけて行った。そこまで来たとき、メイスンは、ひょっとその電話室の一区画にはいり、ドアをあけはなったまま、首を突き出して、呼びとめた。「おい、ロック」
ロックは、くるっと振り向いた。はっと驚いたように、そのチョコレート色の目を大きく見開き、じろじろとメイスンを見つめた。
「ひょっと思いついたんだが」と、メイスンは、説明して聞かせるように、「依頼人に連絡をとれるかどうか、電話をしたほうがいいと思ってね。そうすりゃ、すぐに、きみに返事ができるだろうからね。ところが、電話が通じないんだ。誰も電話に出ないんだ。それで、ニッケル玉の戻って来るのを待ってるところさ」
ロックはうなずいた。目には、まだ疑わしそうな色が浮かんでいた。
「ニッケル玉なんかほっとけ」と、ロックがいった。「時間のほうが大切だよ」
メイスンは、「きみなら、そうかもしれんね」といって、電話機の前へもどり、受話器を、二、三度がちゃがちゃいわせてから、肩をすぼめて、いやになっちまうなと大きな声でいって、電話室を出た。二人は、いっしょにエレベーターに乗って、中二階へあがり、以前にかけていた椅子にもどった。
「それで?」と、メイスンがたずねた。
「考えてみたんだがね」と、フランク・ロックはいって、つぎをためらっていた。
メイスンは、ぶっきら棒にいった。「うん、そうだろうと思っていたよ」
「きみにもわかっているだろうが」と、ロックがいった。「きみが、名前もなにもいわずに持ち出したこの事件は、どうも政治的に非常に重要なことになるかもしれないんだ」
「と同時に」と、メイスンがいった。「まだ名前をいってないところを見ると、そうでないかもしれないんだ。しかし、こんなところで向かい会って、博労《ばくろう》みたいに相手の腹のさぐり合いをしたところで、きみにもぼくにも、なんの役にも立つまい。ざっくばらんにいって、いくらだね?」
「広告掲載の契約には」と、ロックがいった。「契約破棄の場合には、違約金として、二万ドルを支払うことという条件をつけなければなるまいね」
「きみは、頭がおかしいんじゃないか!」と、大きな声でメイスンがいった。
フランク・ロックは、肩をすぼめて、「広告のスペースを買いたいといったのは、きみのほうだぜ」といった。「こっちは、売ろうとしている人間なんだから、そんなことは知らんよ」
メイスンは、立ちあがって、「きみのすることは、人にものを売ろうとする人間のふるまいじゃないよ」といいすてて、エレベーターのほうへ歩き出した。ロックは、その後を追いながら、「たぶん、そのうちにまた、広告のスペースを買いたいといい出すかもしれんが」といった。「おれのとこの料金は、いくらかは融通がきくんだよ」
「安くなるっていうのか?」と、メイスンが問いただした。
「この事件なら、高くなるかもしれんな」
「ふん」と、そっけなく、メイスンがいった。
メイスンは、出しぬけに立ちどまり、くるっと向き直って、つめたい、敵意に満ちた目で、ロックをにらみつけながら、「おい」といった。「こっちは、ぶつかる相手がどういう奴か、よく知っているんだぜ。はっきりいうが、きみも、そういつまでも、うまくやり通すわけにはゆかんぞ」
「やり通せないって、なにをだね?」と、ロックがいった。
「なにをやり通せないかぐらいのことは、知りすぎるほどよく知ってるだろう」と、メイスンがいった。「しらばくれるな! この土地でゆすり新聞を出して、ずいぶん長いこと、世間の人をしばりあげて来たろう。こん度はどういう目に合うか、はっきり思い知らせてやるぞ」
ロックは、いく分、落ちつきを取りもどし、肩をすぼめて、「前にも、そんなことをいおうとした奴がいたぜ」といった。
「いおうとしたなどと、そんなことは、この口から出さなかったぞ」と、メイスンがいった。「現に、この口からはっきりいっているのだぞ」
「それで、おれは聞いたよ」と、ロックがいった。「そんなに大きな声を出すこたあないじゃないか」
「よし」と、メイスンがいった。「じゃ、こっちのいうことはわかったな。いいか! これから、しつこく跡をつけまわすぜ」
ロックは、にっこり笑いを浮かべて、「よかろう。ところで、エレベーターのボタンを押してもらえないか。それとも、脇へのいて、おれにボタンを押させてくれないかね」
メイスンは、振り向いて、ボタンを押した。二人とも無言のまま、エレベーターに乗って階下へ降り、ロビーを突っ切った。
通りに出ると、ロックは笑いを浮かべて、「じゃあ」といいながら、茶色の目で、ペリイ・メイスンの顔をじっと見ながら、「悪く思わないでくれよ」
ペリイ・メイスンは、くるっと背中を向けて、「思うもんか」といった。
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第三章
ペリイ・メイスンは、自分の自動車の中に腰をおろしたまま、いま吸ってしまったたばこから、新しい一本に火をうつした。その顔には、じっと根気よく精神を集中していることから来る深い皺《しわ》がきざまれ、目は、ぎらぎらと輝いていた。拳闘場のコーナーに控えて、ゴングの鳴るのをいまや遅しと待ち構えている拳闘家といった様子だった。とはいいながら、その顔のどこを見ても、いらいらと神経質になっているような色は見られなかった。ただ一つ、緊張しているらしいと思われるのは、もう一時間以上も、つぎから、つぎと、立て続けにたばこを吹かしつづけているということだけだった。
通りを越してま向かいに大きなビルディングがあり、その建物の中に、『スパイシイ・ビッツ』の編集室があるのだった。
メイスンが、一箱のたばこの最後の一本を、半分ほど吸った頃、フランク・ロックが、ビルディングから出て来た。
ロックは、一目をはばかるといったようなこそこそした物腰で歩きながら、機械的に、そっとまわりに目を走らせた。その目つきは、別になにを見るというのではなくて、まったくの習慣で、のぞき込んだという目つきだった。かれの様子は、夜が明けてからもまだうろうろと、餌をあさって歩きまわっていたのが、早朝の日の光を見て、あわててねぐらへもどろうとする狐といったふうだった。
ペリイ・メイスンは、たばこをぽいと捨てて、ぐっと足で始動器《スターター》を踏みつけた。小型のクーペは、歩道の脇をはなれて、往来する車の流れのなかに加わった。
ロックは、最初の角を右へまがり、タクシーを呼びとめて乗り込んだ。メイスンは、そのタクシーの後ろにぴったりくっついて行き、車の往来がすこしまばらになると、ずっと後からつけて行くようにした。
フランク・ロックは、ある一区画の中程でタクシーから降り、料金を払って、建物のあいだの通路へはいって行き、あるドアをノックした。のぞき孔があき、それからドアがあいた。一人の男が頭を下げ、にっこり笑っているのが、メイスンの目にはいった。ロックが中に入ると、その男がぴしゃっとドアをしめた。
ペリイ・メイスンは、半区画ほど先に車を止め、新しいたばこの箱を取り出し、セロファンを破って、またたばこを吹かしはじめた。
フランク・ロックは、その闇酒場《スピーク・イージー》に、四十五分ほどいた。やがて、そこを出て来ると、素早くあたりをうかがってから、そこの角まで歩いた。アルコールがはいったからか、少しは自信がついたらしい様子で、いくらか胸を張って両肩をうしろに引いていた。
ペリイ・メイスンが様子を見守っていると、ロックは、流しのタクシーを見つけて乗り込んだ。メイスンは、ロックがあるホテルの前で車をすてるまで、そのタクシーの後をつけた。それから、自分も車をとめて、そのホテルのロビーにはいって行き、注意深くあたりを見まわした。そこには、ロックのかげも形もなかった。
メイスンは、ロビーじゅうをしらべた。そこは、セールスマンが泊ったり、業者の集会が催されたりする商人宿ふうのホテルだった。電話ボックスがずらりと一列にならび、帳場には交換手が一人すわっていた。ロビーには、かなり人がいた。
ペリイ・メイスンは、ゆっくりと、用心しながら、歩いて、その人々を調べてまわった。それから、帳場のところへ近づいて、「ねえ、きみ」と、係員にたずねた。「ここに、フランク・ロックが泊っていやしないかね?」
係員は、カードになった宿泊人名簿を繰って見て、いった。「ジョン・ロックさんならお泊りでございますが」
「いや」と、メイスンがいった。「フランク・ロックというんだ」
「そういう方はいらっしゃいません。どうもお気の毒さまです」と、係りがいった。
「どうもありがとう」といって、メイスンは、その場をはなれた。
かれは、ロビーを通り抜けて食堂の入口のところへ行き、なかをのぞき込んだ。数人の客が、テーブルに向かって食事をしていたが、そのなかにロックはいなかった。地下室に、理髪室があった。メイスンは、階段を降りて行って、ガラスの仕切り越しに、そのなかをうかがって見た。
はしから三つ目の椅子に、顔にむしタオルをのせられたロックがいた。ツイード地の服と赤靴とで、かれだということがメイスンには見分けがついた。
メイスンは、よしというようにうなずき、階段を上ってロビーへもどった。かれは、つかつかと交換台の娘のところへ行った。
「電話室の電話は、全部、きみのところを通るのかね?」と、メイスンがたずねた。
交換台の娘はうなずいた。
「よろしい。じゃあ、どうすれば、二十ドルをわけなく儲けられるか、教えてあげようか」
かの女は、かれの顔をじっと見て、「あたしをからかっていらっしゃるのね?」といった。
メイスンは、首を振って、「ねえ、きみ」といった。「ぼくは、ある電話番号を知りたいというだけのことさ」
「どういうことなの?」
「こうなんだ」と、メイスンがいった。「ぼくが、ここへ電話をかけて、ある男を呼び出す。かれは、すぐには電話には出ないだろう。が、しばらくすると、ここへあがって来るはずだ。ぼくの知りたいのは、その電話の番号なんだ」
「でも」と、娘がいった。「ここから電話をかけなかったら、どうなの?」
「それだって」と、メイスンが相手にいった。「きみは、できるだけのことをしてくれたのだから、いずれにしろ、二十ドルは、きみのものさ」
「あたし、そんなことをもらしちゃいけないことになっているんですのよ」と、娘が反対をとなえた。
「だからこそ、二十ドル手にはいるというわけさ」と、メイスンが、にっこり笑いながら、いった。「それと、それから、電話の盗み聞きをすることでね」
「まあ、電話の盗み聞きをして、その話の内容をお話したりすることなんか、できませんわ」
「是非、話をしてくれなくたっていいんだよ。ぼくのほうからいうから、そんな話が出たとか、出なかったとか、いってくれりゃいいんだ。ぼくが聞かしてもらう電話番号が、こっちの知りたい番号だということを確かめるために、きみにあたってもらうだけなんだから」
かの女は、どうしようかというふうに、しばらくためたっていてから、誰かに話し合っていることを感づかれやしないかと気にするふうに、さりげない注意の目で、こっそりあたりを見た。
ペリイ・メイスンは、ポケットから十ドル札を二枚取り出し、折りたたみ、そっと小さくひねった。
娘の目は、その札に落ちて、そのまま動かなかった。
「いいわ」と、とうとう、かの女はいった。
メイスンは、その二十ドルを相手に渡して、「その男の名は」といった。「ロックというんだ。二分ほどのうちに、ぼくのほうから電話をかけて、その男を呼びに行ってもらうからね。ところで、話の内容はこうだ。ロックが、仲間のところへ電話をかけて、ある名前の女についての情報を聞き出すのに、四百ドルを払っていいかどうかたずねる。相手はいいというだろう」
娘はゆっくりとうなずいてみせた。
「外からかかって来る電話は、きみのところを通るのかい?」と、メイスンがたずねた。
「いいえ」と、かの女はいった。「内線の十三番を呼ばなきゃ駄目ですわ」
「わかった。内線の十三番を呼ぶよ」
メイスンは、にやっと女の顔に笑ってみせて、外に出た。
一町ほど先に、公衆電話のあるドラッグ・ストアを、メイスンは見つけた。かれは、ホテルの番号を呼び出して、内線の十三番へつないでくれといった。
「オーケー」と、女の声を聞いて、メイスンがいった。「フランク・ロックを呼んでくれ。誰か呼びにやって、きみの交換台を通る電話に出るように、間違いなくいってくれ。たぶん、すぐには来ないだろうが、このまま待っているからね。かれは、いま理髪室にいるはずだ。しかし、呼びにやるボーイには、ぼくが、かれが理髪室にいるといったことはいうんじゃないよ。ただ、理髪室をのぞいてみるようにとだけ、いってくれたまえ」
「わかりました」と、娘はこたえた。
メイスンが、そのままで、二分ほど待っていると、また娘の声がいった。「そちらさまの番号をおっしゃといてくれといっていらっしゃいます。そうすれば、後からおかけするとのことでございます」
「それで結構」と、メイスンがいった。「番号は、ハリスンの二三八五〇番だ。だけど、きみのところを通る電話でかけるようにと、間違いなくボーイにいっといてくれ」
「大丈夫。ご心配いりませんわ」
「よろしい」と、メイスンがいった。「じゃあ、その番号で、スミスを呼ぶようにって、かれにいってくれ」
「スミス、なんとおっしゃるんですか?」
「いや、スミスと、その番号だけでいい」
「はい」と、かの女はいった。「わかりました」
メイスンは、電話を切った。
それから十分ほど、メイスンが待っていると、電話のベルが鳴った。
メイスンは、かん高い、短気らしい声でこたえた。線の向こうからは、用心深くしゃべるロックの声が聞こえて来た。
「いいかね」と、メイスンは、さっきと同じようなかん高い声で、いった。「間違いがあっちゃ困るから念を押すが、きみは、『スパイシイ・ビッツ』のフランク・ロックだね?」
「そうだ」と、ロックがいった。「きみは、誰だい。それに、ここへ電話をすれば、おれに通じると、どうしてわかったんだ?」
「きみが出かけてから二分ほどして、社を訪ねたんだ。そうしたら、ウェブスター通りの闇酒場か、でなければ、その後では、そのホテルへ電話して見ろって話だったんだ」
「いったい、どうして、やつらがそんなことを知っているんだ?」と、ロックが聞き返した。
「そんなこと、おれが知るもんか」と、メイスンがいった。「そういわれただけさ」
「それで、なんの用だね?」
「いいかね」と、メイスンが口を切った。「電話で商売の話をしたくないというのは、おれにだって、よくわかっているが、こいつは、早いとこ片づけなきゃならんからね。きみたちは、物好きで商売をしているんじゃあるまい。それくらいのことは、おれだって、よく知っているし、誰だってそうだろうし、おれだって、物好きで商売をやっているんじゃないからね」
「おいおい」というロックの声は、用心深かった。「きみが誰だか、おれは知らんが、こっちへ来て、じかに話したほうがよさそうだ。このホテルから遠くにいるのか?」
メイスンがいった。「あまりホテルの近くじゃない。とにかく、きみには非常に貴重な、ある情報を提供できるんだ。そいつを、電話でいうわけにはいかんよ。きみがほしくなければ、ほかの買い手をさがす。おれが知りたいのは、きみに気があるかないかってことだけだ。どうだね、ゆうべ、ハリスン・バークといっしょにいた女の名前を聞きたいとは思わないかい?」
四、五秒ほどの間、電話は、かたっという音もしなかった。
「おれたちは、著名な人物についての、ぴりっと辛味のきいた情報を扱う新聞屋だ」と、ロックがいった。「どんな情報でも、耳新しいニューズなら、いつでも喜んでいただくぜ」
「そんなちゃらっぽこは、ご免こうむるよ」と、メイスンがいった。「事件のあったことは、きみも知っているだろう。おれも知ってる。関係者の名簿はできている。その中にハリスン・バークの名前はない。いっしょにいた女の名前も入っていない。その女が誰かっていう絶対確実な証拠を、どうだ、千ドルで買わないか?」
「いらん」と、ロックは、きっぱりとことわった。
「ふん、なるほど」と、メイスンは、急いでいった。「じゃ、五百ドルならどうだ?」
「駄目だ」
「そうか」と、メイスンは、哀れっぽい調子をその声にまじえて、さらに迫った。「仕方がない、こっちの腹を割ってみせよう。四百ドルで売る。その代わり、ぎりぎり一杯の底値だ。三百五十ドルならといってる買い手が、ほかにあるんだ。きみをさがすのに、ずいぶん骨を折ったぜ。それに、きみが、自分で乗り出したところで、四百ドルはかかるぜ」
「四百ドルといえば、大金だぜ」
「おれが手に入れた情報は」と、メイスンがいった。「とびきりの情報だぜ」
「情報のほかに、よこしてもらわなくちゃいかんものがある」と、ロックがいった。「おれたちが、名誉毀損罪に問われた場合に、利用できる証拠がほしいんだ」
「いいとも」と、メイスンがいった。「四百ドルと引き換えに、証拠を渡す」
ロックは、数秒間、黙っていてから、いった。「よし、しばらく、考えさせてもらおう。後でこちらからかけて、なんとか知らそう」
「よし、ここで待っている」と、メイスンがいった。「ここへかけてくれ」といって、受話器をかけた。
メイスンは、アイスクリーム売り場の腰掛けにかけて、別に急ぐでもなく、なんの感情もあらわさないで、プレインソーダを飲んだ。目は、じっと考えにふけっているような色を色をたたえていたが、その態度は平静だった。
六、七分して、また電話がなったので、メイスンが電話口に出て、「スミスですが」と、哀れっぽい作り声で言った。
ロックの声が、聞こえて来た。「いいよ、証拠が手にはいるのなら、さっきの値段を払うことにするよ」
「よろしい」と、メイスンがいった。「あすの朝、きみは事務所にいてくれ。こちらから連絡する。だが、もう取り消しなんというのは困るぜ。だって、さっき話した三百五十ドルの口は断るんだからな」
「いやいや、こん晩会って、手っ取り早く片づけてしまいたいんだ」そういうロックの声には、興奮からのふるえが聞きとられた。
「そうはいかんよ」と、メイスンが相手にいった。「情報だけなら、こん晩でも教えられるが、証拠のほうは、明日にならなけりゃ渡せないよ」
「それなら」と、ロックはねばっていった。「ニューズだけでも、こん晩聞こう。それから、金はあした、証拠を持って来たときに払おう」
メイスンは、馬鹿にしたような笑い声をあげて、「ふん、その手にのるもんか」といった。
ロックは、いらいらしたような口振りでいった。「くそっ、好きにしろ」
メイスンは、クックッと笑いながら、「結構だ」といった。「じゃそうしよう」と、そのまま受話器を掛けた。
メイスンは、とめておいた自分の自動車のところにもどり、腰を下ろして、かれこれ二十分ほど待っていた。すると、フランク・ロックが、若い女といっしょに、ホテルから出て来た。ひげをそった上に、マッサージをしたばかりのその肌は、うす茶色がかったかげから、ぼうっと赤味がさしていた。かれは、いささか世情に通じていることを自慢にしている世慣れた男の、いやに取りすました満足そうな様子をしていた。
かれといっしょの若い女は、その顔から判断して、二十一か二を越えていなかった。あっと目をみはるほど引きたててみせる見事な曲線を描いた体つき、まるきり表情というもののない顔、高価な衣装、驚くほど化粧をしていながら、そのくせ、化粧しているとは露ほども匂わせていない化粧ぶり。凄まじいと形容詞のつきそうな、かの女は美人だった。
ペリイ・メイスンは、二人がタクシーに乗り込むのを待っていてから、ホテルへ入っていって、交換台に近づいて行った。
交換手の娘は、気がかりそうな目つきで見あげ、そっと片手を腰の前に持って行き、一枚の紙きれを取り出した。
その紙きれには、フライバーグ六二九八〇三と、電話番号が走り書きに書いてあった。
ペリイ・メイスンは、かの女にうなずいて見せて、その紙きれをそっとポケットに入れた。
「話は――さっきいった通り、情報を買うとか買わないとかということだったかね?」と、メイスンはたずねた。
「電話の内容を、おもらしすることはできませんわ」
「なるほど」と、メイスンはいった。「しかし、そんな話でなかったら、なかったといってもらえるだろうね?」
「たぶんね」と、かの女はいった。
「わかった。じゃ、なにかいうことがあるかね?」
「いいえ、ありませんわ!」
「ありがとう。聞きたかったのは、それだけだ」そうメイスンは相手にいって、にやっと笑って見せた。
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第四章
ペリイ・メイスンが、警察本部の捜査課へはいって行って、「ドラム君はいますか?」とたずねた。
一人の係員がうなずいて、親指をぐっとあげて、奥のドアのほうを指さした。
ペリイ・メイスンは、そのドアから中へはいった。
「シドニイ・ドラム君に会いたいんですが」と、メイスンは、デスクの隅のほうに腰をかけて、たばこをふかしている男に声をかけた。その男が大きな声で、どなった。「おい、ドラム、出て来いよ、お客さんだ」
ドアがあいて、シドニイ・ドラムが顔を出して、そこらを見まわしたが、ペリイ・メイスンを見つけると、にやっと笑い顔になった。
「やあ、ペリイ」と、ドラムがいった。
頬骨の高い、疲れ切った目つきの、背の高い、やせた男だ。かれは、警察本部の捜査課などにいるよりも、額に緑色のまびさしをつけ、耳にペン軸をはさんで、背の高い腰掛けにのっかり、帳簿を相手に取っ組んでいるほうが、ずっと似つかわしく見えたろう。が、多分、それだからこそ、かれも腕利きの刑事になれたのだろうが。
メイスンは、相手を外に誘うように、頭をぐいと、ねじるように動かして見せて、いった。「ちょっと話があるんだがね、シドニイ」
「よし」と、ドラムがいった。「すぐ行く」
メイスンはうなずいて、廊下に出た。五分ほどすると、シドニイ・ドラムが、かれのそばへ来て、「なんだい」といった。
「いま、ある事件の関係者を一人、当たっているところで、そいつは、きみのほうにも値打ちのあることかもしれんのだがね」と、メイスンが、刑事に話しかけた。「もっとも、まだいまのところは、さきゆき、どうなるかはわからんが、いまは、依頼人のために動いているんでね。それで、きみに頼みというのは、ある電話の番号を調べてもらいたいんだ」
「どんな電話番号だ?」
「フライバーグの六二九八〇三なんだ」と、メイスンがいった。「おれが見当をつけている相手なら、飛び切り頭のいい奴のことだから、そこへかけたって、この隠し番号の一件ははっきり聞き出せないだろう。きっと、電話帳にも載っとらん番号だろう。電話会社の帳簿から調べ出すよりほかはないと思うが、それで、きみ自身にあたってもらうのが一番だと思いついたというわけさ」
ドラムがいった。「こいつ、なんてあつかましいやつだ!」
ペリイ・メイスンは、不快そうな顔つきで、「おい、おれはいま、依頼人のために動いているといったろう」といった。「なにも、ただで使おうなんていってやしない。ちゃんと、きみのために二十五ドル用意してるんだぜ。二十五ドル出せば、喜んで電話会社までひとっ走り行ってもらえると思ってたんだがね」
ドラムは、にやりと薄笑いを浮かべて、「いったい、なんだって、まっさきにそういわないんだ?」といった。「待ってろ、帽子を取ってくる。きみの車に乗って行くのか、それとも、おれので行くか?」
「両方がいいよ」と、メイスンがいった。「きみは、きみので、ぼくはぼくので。ぼくは、こっちへ帰って来ないかもしれないから」
「よし」と、刑事がいった。「向こうで会おう」
メイスンは、表に出て、自分の車に乗り、電話会社の本社へ走らせた。ドラムは、警察の車で、メイスンよりも先に着いていた。
「ちょっと考えてね」とドラムがいった。「おれが、こっそり話を聞き出すときは、きみといっしょでないほうがいいかもしれないと思ったんでね。それで、先まわりして、もう聞き出してきてやったよ」
「それでどうだった?」
「ジョージ・C・ベルターというやつだ」と、ドラムがいった。「住所は、エルムウッドの五五六番地だ。きみのいった通り、電話帳には載っていない番号だったよ。絶対に秘密ということになっているらしい。番号調査係も、その番号については、どんな問い合わせにも答えちゃいけないことになっている。だから、どこで調べ出したかは、きみも忘れるんだな」
「もちろんだ」と、メイスンは相づちを打って、ポケットから、十ドル札を二枚と五ドル札を一枚、引っぱり出した。
ドラムの指が、その金をつかんだ。
「いい子だ」と、ドラムがいった。「ゆうべ、ポーカーですっかり取られてしまったあげくだから、まったくありがたい。いつかまた、こんなお客があったら、やって来いよ」
「このお客は、しばらく続きそうだぜ」と、メイスンがいった。
「そいつは結構だ」と、ドラムがいった。
メイスンは、自分の車に乗った。気味の悪いほどのしかめつらで、始動器《スターター》を踏み、スピードを早めて、エルムウッド・ドライブに車を走らせた。
エルムウッド・ドライブは、この市の最高級の住宅区域にあった。どの家も、通りからずっと引っ込んで建てられていて、前には芝生があり、屋敷は、手入れの行き届いた生け垣や樹木で光彩を添えていた。メイスンは、滑るように、五五六番地の前に、車をとめた。それは、小さな丘の頂に建っている、いかにも見栄を張ったような邸宅だった。両隣二百フィートほどには、右にも左にも家というものもなく、いかにも丘全体が、その邸を堂々と見せかけるように、庭の造りも美しくできていた。
メイスンは、屋敷内へ車を乗り入れず、通りにとめて、玄関まで歩いて登って行った。玄関の入り口には、電灯が一つ、煌々と光を放っていた。暑い夜だったので、その電灯のまわりには無数の昆虫が群れ集まって、その電灯をすっぽりかこっている大きな、艶消しガラスの丸いグローブに、その羽をたたきつけていた。
メイスンが、玄関のベルを二度目に鳴らすと、お仕着せの服を着た執事が、ドアをあけた。ペリイ・メイスンは、ポケットから名刺を一枚出して、執事に渡しながらいった。「ベルターさんと、お約束はないが、会ってくださるはずだ」
執事は、ちらっと名刺を見て、わきへのいた。
「どうぞ、お通りいただけましょうか?」
ペリイ・メイスンが、応接室にとおると、執事は、椅子をすすめた。執事が階段を二階へあがって行く音が、メイスンには聞こえた。やがて、二階から話し声が聞こえ、つづいて、また階段を降りて来る執事の足音が聞こえた。
執事が、部屋へはいって来て、いった。「失礼でございますが、主人は、存じ上げない方だがと申しております。どんなご用件でございましょうか、おっしゃっていただくわけにはまいりませんでしょうか?」
メイスンは、相手の目を見て、「駄目だ」と、そっけなくいった。
執事は、メイスンが、なにかもっと付け加えていうかと思ったようで、しばらく待っていたが、メイスンがなんにもいわないので、向き直って、また階段をあがって行った。こん度は、三、四分もあがったままだった。もどって来たとき、執事の顔は、木彫りのように無表情だった。
「どうぞ、こちらへ」と、執事がいった。「主人がお目にかかるそうでございます」
メイスンは、執事の後から階段をのぼり、客間に案内された。そこは、廊下に面していて、邸の一翼全部を占める一続きの部屋の一つだということが、明らかにわかった。その部屋は、居心地のよさを第一の眼目に、流行のスタイルなどは無視して、家具調度などを備えつけてあった。椅子はどれもこれも、どっしりと大きく、掛け心地がよさそうだった。装飾を、ある特別の様式に揃えようなどということには、いっさい気が使ってなかったばかりでなく、女らしい趣味とか嗜好といった和らか味などのまるきりない、むんむんするほど男臭さを発散している部屋だった。
さっと、奥の部屋との間のドアがあいて、大柄の男が、しきいの上に立ちはだかった。
ペリイ・メイスンは、その男の肩越しに、相手がいま出てきた部屋の中を、ちらっと見た。それは、壁一面に本棚のある書斎風の部屋で、片隅に、大きなデスクと回転椅子があり、その向こうに、タイル張りの浴室が、ちらりと見えた。
男は、部屋へはいって、うしろ手にドアをしめた。
あぶらぎって、青ざめた顔の、おそろしく大がらな男だ。両の目の下が、ぷくっとふくれていた。胸が厚く、両肩は、おそろしく幅が広い。腰は、思いのほか細かったので、脚も、おそらく細いのではないかという印象を、メイスンは受けた。なによりも注目に値するのは、その目だった。ダイヤモンドのように堅く、冷酷そのもののようにつめたい目だった。
一秒か二秒ほど、その男は、ドアのそばに立って、じっとメイスンを睨《にら》みつけていた。それから、かれは、前に進み出た。その歩き振りたるや、その巨大な上半身のおそろしい重量を運ぶにしては、その両脚の力は、ぎりぎりの負担を負わされているのではないかという印象を、強く与えた。
メイスンは、あいての年輩を、四十七、八と見当をつけた。態度には、しんからの冷酷と残忍|無惨《むざん》とが、一つ一つの身の動きにもにじみ出ていた。
背の高さは、メイスンのほうが、相手よりたっぷり四インチは低かったが、肩幅は、まさに匹敵する広さだった。
「ベルターさんですね?」と、メイスンがたずねた。
男は、うなずいた。両脚を開いて立ちはだかり、ぐっとメイスンの顔を睨みつけて、「なんの用だ?」と、吐きすてるように、いった。
メイスンが口を開いた。「お宅に参上して相すみませんが、商売のほうの問題でお話ししたいと思いましてね」
「なんだ?」
「『スパイシイ・ビッツ』が掲載するといって脅かしている、ある記事の件についてです。こっちは、掲載してもらいたくないのでね」
ダイヤモンドさながらの堅い目は、ほんの露ほども表情を変えもしなかった。その二つの目は、固く貼りついてしまったように、ペリイ・メイスンの顔を睨みつけていた。
「なぜ、ここへ来た、そのことで?」と、ベルターが質問した。
「あなたこそ、お目にかかるべき当のご本尊だと思うからです」
「ふん、わしは違う」
「あなただと思います」
「違う。『スパイシイ・ビッツ』のことなど全然知らん。ときには、読むこともあるが、きたならしい、ゆすり専門の新聞じゃないか、どうだと聞くんなら、いうが」
メイスンの目が、きびしくなった。その体が、腰から上が、心持ち前へ乗り出したようだった。
「よろしい」と、メイスンがいった。「そんなことは聞いていやしない。こっちがいってるんだ」
「なにをいってるんだ?」と、ベルターが聞いた。
「おれは、弁護士だ。『スパイシイ・ビッツ』が脅迫を企んでいる相手から、事件を依頼されている。そんな企みは、気に入らんといっているのだ。要求する金額など払うつもりはないといっているのだ。いや、それだけじゃない、びた一文払うつもりはないといっているのだ。きみの新聞に、広告スペースを買う気はないのだから、きみの新聞でも、おれの依頼人についての記事を掲載するのは止してもらおう。いいな、はっきりわかったろうな!」
ベルターは、小馬鹿にしたように、せせら笑って、「結構な思いをさせてもらったよ」といった。「事件屋の三百代言が、この家の玄関を叩いて、のこのこ入り込んで来るのを、はじめて見せてもらったよ。執事にいいつけて、のっけからおっぽり出してやるんだったよ。きさま、酔っぱらっているか、頭が狂っているか、どっちかだろう。それとも両方か。思うに、両方だな。ところで、そろそろ出て行ってもらおうか、それとも、警察を呼ぼうか?」
「出て行くさ」と、メイスンがいった。「いうだけのことをいってしまったらな。陰でこういうことをあやつっているのは、きみだ。ロックなんて奴は、きみの身代わりに、表に出て踊ってるだけの人間さ。きみは、どっかり陰におさまっていて、現なまをかき集めているんだ。ゆすりの分け前を受け取っているというわけだ。そうだろう。ここにいて、貢《みつぎ》を取り立てているんじゃないか」
ベルターは、ひと言も口をきかずに、じっとメイスンの顔を睨んで立っていた。
「きみが、おれがどういう人間か知っているかどうか、また、おれがなにを狙っているか知っているかどうか、おれは知らん」と、メイスンは、言葉をつづけた。「だが、ちょっとロックに電話でもかけさえすれば、そういったことは、すぐにもわかることだ。いいか、はっきりいっとくが、万が一にも、『スパイシイ・ビッツ』が、おれの依頼人のことを、ちょっとでも記事にするようなことがあったら、おれは、あの憎むべき、ぼろ新聞の本当の持ち主の仮面をはぎとってやるからな! わかったか?」
「ようし」と、ベルターが行った。「きさまが、そんなおどしをするんなら、こん度は、おれの番だ。きさまがどういう人間か、おれは知らんが、そんなことは構わん。そうやって、うろつきまわって、凄《すご》んで歩くところを見ると、おそらく、よっぽど清廉潔白で鳴らしているんだろう。あるいはまた、その反対かもしれん。ともかく、他人の悪口をいって歩く前に、自分の足元に気をつけたほうがよさそうだな」
メイスンは、そっけなくうなずいて、「むろん、それくらいのことは、当然あるだろうと思ってるさ」といった。
「ふん」と、ベルターがいった。「それなら、当てがはずれて、がっかりすることもあるまい。しかし、こんなことをいったからって、おれが、『スパイシイ・ビッツ』と関係のあることを認めたなんて、早合点をするな。そんな新聞のことなど、これっぽっちも、おれは知らんし、知りたくもない。さあ、とっとと出て行け!」
メイスンは、くるりと向き直って、ドアを通りかけた。
敷居際には、執事がいて、ベルターに話しかけた。
「お邪魔をして相済みませんが、奥さまが、お出かけになる前に、是非、お目にかかりたいとおっしゃっていらっしゃいます。ただいま、お出かけになりますところでございまして」
ベルターは、ドアのほうへ足を運びながら、「よし」といった。「よく、この男の面を見ておけよ、ディグレイ。こん度、この辺で見かけるようなことがあったら、ほうり出すんだぞ。手に負えなければ、警官を呼べ」
メイスンは、くるっと向き直って、じろっと、執事の顔を睨んで、「警官は、二人呼んだほうがいいぜ、ディグレイ」といった。「そうでなくちゃ、かなわないかもしれないぜ」
メイスンは、ベルターと執事の二人が、自分のすぐうしろから続いて来る気配を感じながら、さっさと階段を降りた。階下の廊下まで降りたとき、玄関に近い片隅から、一人の女が、滑るように出て来た。
「お邪魔じゃなかったかしら」と、女がいった。「でも、わたし……」
といいかけて、女の目が、ペリイ・メイスンの目と合った。
事務所にメイスンをたずねてきて、エバ・グリフィンと名乗った女だった。
さっと、女の顔から血がひいた。不意の狼狽から、その青い目の色がかげった。つづいて、ぐっと自分を抑えて、巧みに表情を変えないようにした。メイスンを相手に、事務所でもして見せたように、その青い目を、赤ん坊の邪心のなさを思わせるほど、大きく見開いて、じっと見つめた。
メイスンの顔は、いささかの表情もあらわさなかった。完全に落ちついた、澄み切った目で、じっと女の顔を見つめた。
「うん?」と、ベルターがたずねた。「なんだね?」
「なんでもありませんわ」といった女の声には、弱い、おびえたような響きがあった。「おいそがしいと知らなかったもんですから。すみません、お邪魔をして」
ベルターがいった。「この男のことなんか、気にしなくてもいい。インチキなことをいってはいり込んで来たペテン師さ――いそいで、かえるところだ」
メイスンは、くるりと向き直って、「おい、きみ」といった。「いっとくが……」
すると、執事が、メイスンの腕をつかんで、「どうぞ、こちらへ」といった。
メイスンの力強い肩が、プロのゴルファーの猛烈なスウィングのように、腰のひねりといっしょに、くるっと一まわりした。執事は、横っ飛びに廊下をすっ飛んで、かかっている額《がく》がひんまがってしまったほどの猛烈な勢いで、どすんと壁にぶち当たった。ペリイ・メイスンは、さっと、ジョージ・ベルターのどっしりとした躯《からだ》に向かって、踏み込んで行った。
「きさまに、一発くれてやるつもりだったが」と、メイスンがいた。「やめにした。その代わり、おれの依頼人のことにせよ、おれのことにせよ、ひとことでも、新聞に載せてみろ、二十年は、監獄にぶちこんでやるからな。承知だろうな?」
ダイヤモンドのような、堅いベルターの目が、棍棒を構えた人間の顔を睨み返している蛇の目とでもいえそうな、不気味な光を放って、じっとメイスンを睨んでいた。ジョージ・ベルターは、右の手をポケットに入れたまま、「いいことだ」といった。「やめにしたのは。ちょっとでも、このおれに手をかけてみるがいい、きさまの心臓をぶち抜いてやる! 正当防衛の承認は、ちゃんとあるんだ。いずれにしろ、片づけてしまえば、始末がいいんだからな」
「いらん心配をするな」と、メイスンが、平然といいはなった。「そんな脅し文句で、おれを黙らせようったって、そんなことはできないんだからな、ほかにも、おれが知ってるだけのことを知ってる人間が、おれが、何故ここへ来たか、知ってる人間がいるんだからな」
ベルターは、唇をゆがめて、「うるさい野郎だな、きさまは」といった。「いつまでも同じことを、つべこべとぬかしやがって。さっきから、さんざんいっただけで沢山だ。おれが、そんじょそこらの安っぽい事件屋のゆすりに、びくびくするなどと思ったのなら、大間違いだ。はっきりいってやる、これが最後だ、とっとと出て行け!」
メイスンは、くるっとまわれ右をして、「よし。出て行ってやる。いうだけのことは、いったからな」
戸口を出ようとするメイスンの耳に、ジョージ・ベルターの皮肉たっぷりの声が追いついた。
「すくなくとも二度は、聞いたよ」と、ベルターがいった。「なかには、三度も、いったよ」
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第五章
エバ・ベルターが、ペリイ・メイスンの奥の事務室の椅子にかけ、ハンカチを顔にあてて、声もなく啜り泣いていた。
ペリイ・メイスンは、上衣をぬいだまま、デスクの前に腰をおろして、いささかも同情の色のない、油断のない目つきで、じっと女を見つめていた。
「あんなこと、よけいなことをしてくださらなけりゃよろしかったのに」と、啜りあげる合い間に、女はいった。
「よけいなことかどうか、どうして、そんなことが、わたしにわかるというんです?」と、ペリイ・メイスンが問い返した。
「あのひとったら、ほんとに冷酷無情な人ですわ」と、女がいった。
メイスンはかぶりを振って、「わたしも、相当に冷酷無情な人間ですよ」といった。
「どうして、『エグザミナ』に広告を出してくださらなかったんですの?」
「やつらが、おそろしく大金を要求したもんですからね。わたしのことを、サンタ・クロースとでも思ったようでしたよ」
「重大な事件だと思ったからですわ」と、女が、泣き声でいった。「うんと、しぼり取れる事件だと」
メイスンは、なんにもいわなかった。
女は、しばらく、無言のまま、啜り泣いていたが、やがて、顔をあげて、じっと、ペリイ・メイスンの目を、その目に怒りをこめて見つめた。
「あのひとを、脅かしたりなすって、あんなことは絶対に、なすっちゃいけなかったんです」と、女がいった。「家へなど、絶対にいらっしちゃいけなかったんですわ。脅かしたからって、そんなことでは、あのひとを、どうすることもおできになりませんわ。どんなに窮地に追い詰められたって、いつでも闘って、抜け出す人ですわ。どんなことがあったって、命乞いなんかしませんわ。その代わり、ひとのことも、決して容赦しませんわ」
「すると、こん度のことは、どうするでしょうかな?」とメイスンがたずねた。
「あなたのことを、めちゃめちゃに、やって行けないようにしてしまいますわ」と、啜り泣きながら、女がいった。「あなたが事件をお引き受けになると、そのたんびにそれをかぎ出して、やれ陪審員を買収したとか、偽証したとか、やれ職業上の倫理規定に反したことをしたとかと、あなたの悪口をいいふらして、この町から、あなたを追い出してしまいますわ」
「たとい、どんなことでも、わたしのことを新聞に載せたら」と、きびしい調子で、メイスンがいった。「そのとたんに、名誉毀損で訴えてやります。わたしの名前を持ち出せば、そのたんびに告訴してやります。どこまでもつづけてやりますよ」
女は、涙で頬をぬらしながら、首を振って、「とても太刀討ちなんか、おできになりませんわ」といった。「きれすぎるくらい、頭のきれる人なんですもの。ちゃんと弁護士をやとっていて、その弁護士が、どこまでやっていいか、どこから罪になるかを教えているんですわ。あなたの裏をかいて、あなたの事件担当の判事をおどかして、まるっきり反対の判決を下させますわ。自分はかげにかくれていて、行く先々で、あなたをやっつけますわ」
ペリイ・メイスンは、デスクのはしを、こつこつと叩きながら、「馬鹿なことを」といった。
「ああ、なんだって」と、女は、号泣するような声でいった。「あんなところへお出かけになったんですの? どうして、新聞に広告を出すだけにしてくださらなかったんですの?」
メイスンは、立ちあがって、「もう結構です」といった。「聞きあきるほど、うかがいました。わたしが、あそこへ行ったのは、あそこへ行くほうが都合がいいと思ったからです。あの怪《け》しからん新聞は、わたしに手をあげさせようとしましたが、たとい、どんな人間が、どんなことをしたって、わたしは手なんかあげやしません。ご主人も、冷酷非情の人間かもしれないが、わたしだって、相当に冷酷非情な人間です。これまでに、一度だって、ひとに命乞いをしたことなんかありません。その代わり、ひとを容赦するなんてこともしません」
メイスンは、口を切って、とがめるような目で、じっと相手を見おろした。「あなたが、最初にここへおいでになったときに、率直に、包み隠さずに、わたしに打ち明けていてくれれば、こんなことにはならなかったのです。ところが、あなたは、どこからどこまでも、嘘でぬりかためようとなすった。こんな騒ぎになったのも、もとはといえばそのためです。その責任は、あくまでもあなたにあって、わたしにはありません」
「そんなに、あたくしのこと、おこらないでちょうだい、メイスンさん」と、女が訴えるようにいった。「もういまとなっては、頼るのはあなただけですわ。ほんとに、こんなおそろしい、こまったことになって。お願いですから、あたくしがすっかり抜け出せるように、面倒を見ていただかなくちゃいけませんわ」
メイスンは、もう一度、腰をおろしていった。「それじゃ、嘘をつくのをやめることですね」
女は、目をおとして膝のあたりを見、ドレスの裾を引っぱってストッキングをかくし、手袋をはめた指先で、服を小さく寄せながら、「あたくしたち、どうしたらいいんでしょう?」とたずねた。
「まずなによりも」と、メイスンがいった。「そもそものはじめからはじめていただくんですね。それも、ほんとのことをいっていただくことですね」
「でも、知っていただかなくちゃいけないことは、すっかりご存じじゃありませんか」
「よろしい、それじゃ」と、メイスンがいった。「わたしが知っていると思っておいでのことを、いってください。つき合わせてみましょう」
女は、眉をひそめて、「あたくしには、よくわからないんですけど」
「さあ」と、メイスンがいった。「いってください。はじめからしまいまで、すっかり聞かしてください」
女の声は、弱く、頼りなげだった。組んだ脚の上で、スカートの裾をいじりつづけた。そして、メイスンの顔のほうには、目を上げようともしないで、話しつづけた。
「誰も」と、女は口を開いた。「ジョージ・ベルターが、『スパイシイ・ビッツ』と関係のあることを知っている人など、一人もありませんわ。すっかり陰に隠れているので、そんなことを、これっぽっちも怪しんだ人さえありませんの。フランク・ロックのほかには、社の人だって、誰も知っている人もありませんの。そして、ジョージは、ロックを思いのままにあやつっているんです。なにか、あの男のおそろしいことを握っているんですわ。あたくし、それがなんだか知らないんです。おそらく、人殺しじゃないでしょうか。
それはとにかくとして、あたくしどものお友だちの中にだって、そんな関係のあることを疑っている人は、一人もありませんわ。みんな世間では、ジョージのことを、株の売買で金を儲けていると思っていますわ。あたくし、七ヶ月前に、ジョージ・ベルターと結婚しました。二度目の妻ですわ。あのひとの人柄と、あの人の金とに、心を引かれたんですわ。でも、はじめからしっくりいきませんでしたわ。このふた月ほどというもの、あたくしたちの間は、すっかりこじれてしまっているんですの。あたくし、離婚の訴訟を起こそうと思っていたんです。そのことは、あの人も感づいていると思うんです」
女は、そこで言葉を切って、ペリイ・メイスンの顔を見つめたが、メイスンの目には、いささかも同情の色は見えなかった。
「あたくし、ハリスン・バークと親しくおつき合いするようになりましたの」と、女は、言葉をつづけた。「はじめて会ったのは、ふた月ほど前ですわ。ただのお友達というだけで、それ以上のことは、なんにもありませんわ。たまたま、いっしょに出かけたところ、お話ししたあの殺人事件にぶつかってしまったんです。むろん、ハリスン・バークが、あたくしの名前をもらさなければならないような破目になったら、即座に、ジョージは、共同被告として、あの人の名前をあげて、あたくしに離婚訴訟を起こすでしょうから、そうなれば、政治的生命は破滅ですもの。ですから、どうしたって、もみ消さなくちゃならなかったんですわ」
「まあ、ご主人が感づくようなことは決してないでしょうよ」と、メイスンが、ほのめかすようにいった。「地方検事は、立派な紳士ですからね。バークが、地方検事に真相を打ち明けたとしても、あなたの証言が絶対に必要となるほどの事実を、あなたが目撃していないかぎり、地方検事は、あなたを喚問しようとはしないでしょう」
「あなたには、あの人たちがどんなことをするか、おわかりになっていないんですわ」と、女がメイスンにいった。「あたくしにだって、すっかりわかっているわけじゃないんです。でも、どんなところにでもスパイをおいているんです。いろんな情報を買い込んで、寄せ集めのゴシップを流すんですわ。どんな人でも、人の目につくほど有名になると、すぐに、できるだけの手をまわして、その人に関する情報を洗いざらい集めるんです。ハリスン・バークといえば政治家としても有名ですし、それに、こん度の改選に出ようとしているんですわ。あの人たちは、バークを嫌っていますし、バークのほうでも、そのことはよく知っています。あたくし、主人が、フランク・ロックに電話をかけて話しているのを聞いて、あの連中が、バークについての情報を掻き集めているってことがわかったんです。あたくしが、こちらへうかがったのも、それだからだったんです。バークといっしょにいたのが誰かということを、あの人たちが嗅ぎつける前に、お金で買収したかったんですわ、あたくし」
「もし、バーク氏とあなたとの仲が、潔白なら」と、メイスンがいった。「どうして、主人の前へ出て、はっきりと事情をお話しにならないんです? なんとかいったって、ご主人だって、あんまり足もとが綺麗というわけでもないんでしょう」
女は、はげしく首を振って、「まるきり、なんにもおわかりになっていらっしゃらないんですわね」と、警告するように、いった。「主人の性質だって、ちっともわかっていらっしゃらないんですわ。ゆうべ、主人を相手にしてなすった、そのやり方を拝見しても、ようくわかりますわ。あの人は、残忍な、情なんてもののまるきりない人なんです。戦うことだけしか考えない人ですわ。その上に、お金の気狂いですわ。あたくしが離婚訴訟を起こせば、きっと、扶助料やばくだいな弁護料を請求されるということも、訴訟費用がかかるということも、ちゃんと承知していますわ。ですから、なにか、あたくしの弱味をにぎろうと、やっきになっているんです。あたくしの弱味をにぎって、その上、ハリスン・バークの名前を法廷に引っぱりだすことができれば、あの人にとっては、こんなすばらしい幸運なことはないというわけですわ」
ペリイ・メイスンは、眉を寄せて、じっと考えに耽りながら、「あの連中が、あんなにべらぼうに高い値をつけたのは、なんだかおかしいじゃありませんか」と、メイスンがいった。「政治関係のゆすりにしちゃ、高すぎるような気がするんですがね。ご主人かフランク・ロックか、どちらかが、狙っている人間の正体を感づいているとはお思いになりませんか?」
「いいえ、そんなことありませんわ」と、女は、きっぱりといい切った。
しばらく沈黙がつづいた。
「さて」と、メイスンがいった。「どうします? やつらの言い値どおりに払ってやりますかね?」
「もう値段の問題じゃないんでしょうね。ジョージは、どんな交渉にも応じないでしょう。どこまでも闘おうとするでしょうね。あの人のことですから、あなたに頭を下げることなんかできないと、思ってますわ。頭を下げれば、死ぬまで、あなたに追いつめられると考えてますわ。それがあの人の流儀で、他人もみんなそうだと思い込んでいるんです。ただもう、誰にだって負けられないんです。負けるなんてことは、あの人の血にはないというだけのことですわ」
メイスンは、重々しくうなずいて、「よろしい、かれが闘おうというのなら、喜んで、こちらも一戦を交えます。まず第一に、『スパイシイ・ビッツ』が、わたしの名前を載せるようなことがあったら、即座に、告訴してやります。そして、フランク・ロックの宣誓口述書をとって、あの新聞のほんとうの持ち主が誰か、白状させてやります。白状しなければ、偽証罪で告発してやります。あの新聞の持ち主を知りたがっている人間は、うんといるはずですからね」
「まあ、なんにもおわかりになっていないのね」と、女は、早口にいった。「あの連中の闘い方をご存じないのね。ジョージというものが、おわかりになっていらっしゃらないんですわ。名誉毀損の告訴が裁判になるには、ずいぶん時間がかかるはずですわ。ところが、あの人は、すばやいことやっちまいますわ。それに、あたしが依頼人だってことを忘れないでいただきたいんですの。守っていただくのは、このあたくしですのよ。おっしゃるようなことにならないうちに、あたくしが滅茶滅茶になってしまいますわ。連中は、いまにも、ハリスン・バークの一件をものにしようとしているんですのよ」
メイスンは、またデスクをこつこつとたたいていたが、やがて、いった。「そうだ、あなたはさっき、ご主人が、なにか、フランク・ロックの痛いところを握っている、というようなことをおっしゃいましたね。いま、はっきり、そういう気がしたんですが、あなたは、その一件をご存じなんでしょう。どうです、それをいってくだされば、フランク・ロックをとっちめられるかどうか、一つ考えてみましょう」
メイスンを見上げた女の顔は、まっ青だった。
「なにをいってるか、おわかりになっていらっしゃるの?」と、女がいった。「なにをしているか、おわかりになっていらっしゃるの? どんなことになるか、おわかりなんですの? あなたを殺してしまいますわ! はじめてじゃないんですもの。あの連中と来たら、ギャングや殺し屋と、ちゃんと暗い陰で手を組んでいるんですのよ」
メイスンは、女の目をじっと見据えて、「どんなことを」と、強調していい張った。「ご存じなんです、フランク・ロックについて?」 女は、ぞっとしたように身を震わせて、目を伏せた。しばらく間をおいてから、疲れたという口振りで、いった。「なんにも存じませんわ」
メイスンは、じれったそうにいった。「ここへ来るたんびに、あなたは嘘をつくんですね。あなたは、いつでもひとをだまくらかして世の中を渡り歩いている、あのベビイ・フェイスの、かわいらしい嘘つき女だ。お美しくていらっしゃるから、どうやら、今までは、それで通って来た。男という男、自分を愛してくれた男を、いや、それどころか、自分がほれた男まで、ひとり残らずだまして来た、そして、こん度は、ごたごたにはまり込んでいるというのに、わたしをだましている」
見せかけか、それとも本心か、女は、怒りに燃えた目で、メイスンを睨みつけた。
「そんな口をきく権利は、あなたにはありませんわ!」
「権利もへったくれもありませんよ」と、メイスンは、厳然といいはなった。
二人は、一、二秒の間、睨み合っていた。
「なにか、南部の方であったんですわ」と、女は、弱々しくいった。
「なにかって、なんです?」
「ロックがかかり合った事件のことですわ。どんな事件か知らないし、どこであったかも知らないんです。ただ、事件があったということだけしか、南部のどこかであったということだけしか知らないんです。なんだか、女にからんだ問題だったんです。つまり、女のことからはじまったんで、始末がどうなったかは知りませんわ。殺人事件じゃなかったんでしょうか。よくは知らないんですけど、あたくしが知っているのは、なんか、それ以来、あの男が、ジョージに痛いところを握られるようになってしまった。なにかあったということだけですわ、あたくしが知っているのは。ジョージが、人をあやつるやり方といえば、それしかないんです。人の痛いところを押さえて、それを種に、自分の思い通りに相手をさせるんです」
メイスンは、じっと女を見つめて、いった。「あなたも、そういう手で押さえられてるんですね」
「そういう手を使おうとしていますわ」
「あなたが結婚するようになったのも、そういう手だったんですか?」と、メイスンがたずねた。
「知りませんわ」と、女がいった。「いいえ、ちがいます」
メイスンは、ひややかに、声を立てて笑った。
「でも」と、女がいった。「どう違うっていうんですの?」
「ないかもしれないし、大いにあるかもしれない。ところで、もう少しお金をいただきたいんですがね」
女は、紙入れをあけて、「あまり持ち合わせていないんですけど」といった。「三百ドルなら、さし上げられますわ」
メイスンは、首を振って、「当座預金をお持ちでしょう」といった。「もう少しお金をいただかなくちゃなりませんね。この事件には費用が、かなりかかりますからね。今じゃ、あなたのためと同時に、自分のためにも闘っているんです」
「小切手は、さしあげられませんわ。当座預金というものを持ってないんですもの。主人が持たせてくれないんです。それも、あの人がひとを自由にする手ですわ、金でしばるというのが。あたくし、お金を手に入れるためには、あの人から、じかに現金でもらうか、でなけりゃ、なにか別の方法で工面しなくちゃならないんですわ」
「別の方法って、なんです?」と、メイスンがたずねた。
女は、なにもいわなかった。紙入れから札束を取り出して、「ここに五百ドルありますわ。これですっかりですわ」
「よろしい」と、メイスンがいった。「二十五ドルだけ残して、後はこちらへいただきましょう」
メイスンは、デスクのわきのボタンを押した。表の事務室との間のドアがあいて、なにかご用といいたげな、デラ・ストリートの顔がのぞいた。
「領収書を作ってさしあげてくれ」と、メイスンがいった。「このご婦人に。この前と同じ要領で、元帳に書き込んでおいてくれ。金額は、四百七十五ドル、内金だよ」
エバ・ベルターは、メイスンに金を差し出した。メイスンは、それを受け取って、デラ・ストリートに渡した。
二人の女性は、道ばたで出会った二匹の犬が、お互いに脚を固くつっぱって、相手のまわりをぐるぐるまわるのとそっくりに、お互いに敵意をあらわに向き合っていた。
デラ・ストリートは、つんと顎を突きあげたまま、金を受け取ると、表の事務室へもどって行った。
「領収書は、秘書がさしあげるはずです」と、ペリイ・メイスンがいった。「お帰りの節に。ところで、これからの連絡は、どうしますか?」
女は、そくざにこたえた。「それは構いません。家へ電話してください。女中を呼び出して、クリーニング屋だとおっしゃって、お問い合わせのドレスがどうしても見つからないと、そういってくださいまし。女中には、あらかじめ話しておきますから、その通り、あたくしまで伝えてくれるはずです。そうしたら、あたくしから、あなたの方へお電話いたします」
メイスンは、声を立てて笑いながら、「なかなかうまい手だ」といった。「ちょいちょい、その手をお使いのようですね」
女は、目を上げて、メイスンを見た。青い目が、涙を一杯ためながら無邪気らしく、大きく見ひらかれていた。
「まあ」と、女がいった。「なにをおっしゃっているのか、あたくしにはわかりませんわ」
メイスンは、回転椅子をうしろに押して、立ちあがると、デスクをまわって、女の方へ近づきながら、「これからは」といった。「わたしにむかって、もうそんな赤ん坊みたいな目つきを、わざわざ骨を折って、なさらなくても結構です。お互いにかなりよくわかり合ったと思いますからね。あなたは、窮地に立っておいでになる、そして、わたしは、そこから、あなたを助け出そうとしているというわけです」
女は、ゆっくりと立ちあがり、メイスンの目を見あげたと思うと、不意に、男の肩に両手をかけて、「なんだか」といった。「自信をつけていただいたような気がしますわ。あなたこそ、主人に立ち向かうことのできる、たった一人の方ですわ。あなたにおすがりしていれば、きっと、あたくしを守ってくださるんだという気がしますわ」
女は、顔を仰向けて、唇を相手の唇に近づけて、じっと男の顔を見つめた。その体も、相手の体にぴったりとくっつけていた。
メイスンは、その長い、強い指で、女の肘をつかみ、ぐいと女を引き離した。
「守ってあげますよ」と、メイスンがいった。「現金で払ってくださる間はね」
女は、身をくねらせて、またメイスンの顔を真正面から見た。
「あなたは、お金のことよりほかには、なんにもお考えにならないんですの?」と、女がたずねた。
「この仕事ではね」
「あたくしがお頼りするのは、あなただけなんですのよ」と、女が訴えるような口振りでいった。「この世の中では。あたくしを破滅から救ってくださるのは、あなただけですわ」
「それが」と、メイスンがひややかにいった。「わたしの仕事ですよ。そのために、こうしているんです」
そう話しながら、メイスンは、表の事務室との間のドアの方へ、女の体を抱くようにして導いて行った。メイスンが、ドアの握りに右手をかけると、女は、身をよじって、男の手から離れた。
「結構ですわ」と、女がいった。「どうもありがとうございました」
その口調は、ぎこちないほど切り口上だった。そして、そのままドアをぬけて、表の事務室へ出て行った。
ペリイ・メイスンは、その後ろのドアをしめた。自分のデスクのところへもどって、電話機を取り上げ、デラ・ストリートの声が聞こえて来ると、「外線へつなげてくれ、デラ」といった。
メイスンは、ドレイク探偵事務所の電話番号を告げて、ポール・ドレイクを呼び出した。ドレイクが電話口に出ると、「やあ、ポール」といった。「ペリイだ。仕事だ。早いとこやってもらいたい。『スパイシイ・ビッツ』に、フランク・ロックという女たらしがいる。ホイールライト・ホテルに女の子をかこって、うまくやっている。女は、そこに住んでいるんだ。やつは、いつも、そこの理髪室へ寄っておめかしをしちゃ、女をつれて出かける。そいつは、南部のどっかから来たんだが、はっきりどこから来たかは、ぼくにはわからん。なにかの事件にかかり合って、そこを後にして来たというわけだ。おそらく、フランク・ロックというのも、本当の名前じゃあるまい。部下を動員して、そいつの素性を洗ってもらいたい。早いとこ頼む。費用はどのくらいかかるかね?」
「二百ドルだな」と、ポール・ドレイクの声がいった。「それに、長くかかるようなら、今週のおわりに、もう二百ドルだね」
「そんなには、お客に取りつげそうにないね」と、メイスンがいった。
「じゃ、全部で三百二十五ドルにしよう。後は、経費の明細書を見た上で、出せると思ったら出してくれ」
「よし」と、メイスンがいった。「じゃ、すぐかかってくれ」
「ちょっと待て。実は、おれからも電話をかけようと思っていたとこだったんだ。このビルディングの正面に、大型のリンカーンがとまっている。運転手つきのやつがな。いつぞやら、きみの不可解な女友だちが、おれをまいたときに使ったのと同じ車のような気がするんだがね。なんなら、つけてみようか? 車のナンバーは、あがって来るときに控えといたがね」
「いや」と、メイスンがいった。「それはもういいんだ。女のほうはつきとめた。そっちのことは忘れて、そのロックのほうにとっかかってくれ」
「よしきた」といって、ドレイクは電話を切った。
ペリイ・メイスンも、受話器を元へもどした。
デラ・ストリートが、戸口にあらわれた。
「帰ったかい?」と、メイスンがたずねた。デラ・ストリートはうなずいた。
「あのひと、先生を難儀な目に合わせるという気がしますわ」と、メイスンがいった。
「きみは、前にもそんなことをいったね」と、メイスンがいった。
「ええ、でも、もう一度、申しあげますわ」
「どうして?」
「あのひとの目つきが気に入らないんです」と、デラ・ストリートがいった。「それに、働く女性に対する態度が気に入らないんです。臭気ぷんぷんたる俗物だわ、あの女」
「たいていの人間が、あんなものだよ、デラ」
「知ってますわ。でも、あの女は別よ。あの女は、誠実って、どんなことだか知らないのよ。ひとをだますことが大好きなのよ。自分のためになると思ったら、とたんに、手のひらを返すように、あなたに寝返りを打つ人だわ」
ペリイ・メイスンは、じっと考えにふけるような顔つきで、「そんなことをしたら、あの女のためにはならないだろうよ」と、ほかのことに心をとられているような声で、いった。
デラ・ストリートは、しばらくメイスンの顔を見つめていたが、やがて、そっとドアをしめて、メイスンをひとりにした。
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第六章
ハリスン・バークは、背の高い、いかにも有名人らしい態度を身につけた男だった。議会では、平々凡々たる存在にしかすぎなかったが、一部の議員たちが、どんなことがあっても上院では通過しないということを承知しながら、また万一、通過するようなことがあっても、たちどころに大統領が拒否権を行使するだろうということを承知しながら、とにもかくにも下院だけは押し通すような性質の法案の発起人に名をつらねることによって、自分では、『民衆の友』気どりでいるのだった。
かれは、こん度の上院選挙で、市民のうちの有産階級の関心を巧みにかき立てるとともに、自分が、心の底から、保守派であることを印象づけることによって、勝利を勝ち得ようと計画していた。しかも、どんな手段ででも、一般民衆の中の後継者や、民衆の友としての自分の評判を犠牲とすることなく、それをやりとげようとしていた。
バークは、きびしい、相手を忖度《そんたく》するような目つきを、ペリイ・メイスンにじっとあてて、いった。「しかし、わしには、きみのいおうとしていることが、どうもわかりかねるね」
「よろしい」と、メイスンがいった。「ずばり、申しあげないと、おわかりにならんとおっしゃるなら、申しましょう。つまり、わたしは、ビーチウッドに強盗騒ぎのあった夜のこと、ならびに、その場に、あなたが人妻といっしょにおられたことをいっているのです」
ハリスン・バークは、ガンと一撃をくらったように、たじろいだ。あえぐように、深い息を一つ吸い込んでから、自分では、たしかに無表情な顔だと思い込んでいるような顔を、ことさら、つくってみせた。
「どうも」と、バークは、図太い、響きわたるような声で、いった。「誤まった噂話を聞いとられるようだな。きょうの午後は、ひどく忙しいので、折角だが、これで失礼をしなきゃならん」
ペリイ・メイスンの顔には、嫌悪と憤怒の色とが、こもごも浮かんでいた。と思うと、さっと一足、政治家のデスクの方に踏み込んで、相手の顔を睨みおろした。
「あなたは、いま、苦境に陥っておいでになる」と、ゆっくりと、メイスンがいった。「さっさと、そんな下らない無駄をおやめになればなるほど、手っ取り早く、それから抜け出す手を話し合えるんじゃありませんか」
「だが」と、バークはいい張った。「わしは、きみのことは、なんにも知っちゃおらん。紹介状もなにも、きみは、持っとらんじゃないか」
「世間には」と、メイスンがこたえた。「事実さえ知っていれば、紹介状などというものの必要でない場合がある。こん度の場合がそれです。わたしは、事実を知っているのです。わたしは、その事件の起こったときに、あなたとご一緒だった婦人の代理人です。『スパイシイ・ビッツ』は、事件の全貌を書き立て、あなたを検死審問と大陪審の法廷に喚問した上で、あなたの知っておいでになる事実と、ご一緒だった婦人の名前を証言させるよう、要求しようとしているのですよ」
ハリスン・バークの顔は、青ざめた灰色になった。腕にも肩にも支えが要るといわんばかりに、上半身をがっくり、机の上にもたせかけた。
「なんだって?」と、バークが問いをかけた。
「わたしのいったのは、お耳にはいったはずです」
「しかし」と、バークがいった。「わしは、夢にも知らなかった。あのひとも、そんなことは一度も話して聞かせなかった。というのは、こんなことを聞くのは、はじめてだ。確かに、なにかの間違いに相違ない」
「よろしい」と、メイスンがいった。「それなら、もう一度、考えてごらんなさい。間違いなんか、どこにもありませんよ」
「しかし、いったいどういうわけで、きみの口から、そういうことを聞かされることになったというのだね?」
「というのは」と、メイスンがいった。「多分、そのご婦人が、あなたに接近したくないからでしょうな。そのご婦人は、自分で頭をひねって、なんとか、それから抜け出そうとしておられるのです。わたしはわたしで、できるかぎりの手をつくしていますが、それには金がいるのです。あのご婦人は、多分、その運動に必要なものをせびりに、あなたのところへやって来るような人柄ではないようです。しかし、わたしは、そうじゃありません」
「きみは、金がほしいというんだね?」と、バークがたずねた。
「いったい、なんだって、わたしがせびっているなんてことを考えるんですか?」
ハリスン・バークは、つぎつぎに一つずつ、自分の苦境の実情が頭にしみ込んで来るにつれて、その重大な意味をさとりはじめたようだった。
「ああ!」と、かれは、吐息とともにいった。「そんなことになったら、わしは破滅だ!」
ペリイ・メイスンは、なにもいわなかった。
「『スペイシイ・ビッツ』なら、買収することができるはずだ」と、政治家は言葉をつづけた。「具体的には、どうするのか知らんが、なんでも、広告のスペースを買って、それから、契約通りに実行しないというような、一種の取引をするとかいうことだ。契約破棄の場合の損害賠償の条項がついているとか聞いているがね。きみは、弁護士だから、そのへんのことは知っているだろう。それに、どういうふうに扱えばいいかということも、よく承知しているだろう」
「もういまとなっては、『スパイシイ・ビッツ』を買収することなんかできません」と、メイスンがいった。「第一に、大金を要求しすぎています。第二に、連中はもう、とことんまでやろうとしています。むこうも容赦しないでしょうし、こちらも譲歩など求めないというところまで来ています」
ハリスン・バークは、まっすぐ身を起こして、「きみ」といった。「きみは、とんでもない思い違いをしているらしいね。あの新聞が、そういう態度をとる理由が、わしにはわからんのだがね」
メイスンは、にやっと相手に笑って見せて、「おわかりにならんというんですね?」
「まったくわからんね」と、バークがいった。
「そうですか。それじゃ申しあげましょう。実は、新聞の影の実力者、つまり、あれをほんとうに持っている人物が、偶然でしょうが、ジョージ・C・ベルターという男なんです。そして、あなたのご一緒だった婦人は、その人物の婦人で、その人物に対して離婚訴訟を起こそうとしていたところだったのです。その点を、よくお考えねがいたいですね」
バークの顔が、パテのような色になった。
「そんなことはない」と、かれが大きな声でいった。「ベルターは、そういうことに関係するような男じゃない。あの男は紳士だ」
「紳士かもしれませんが、とにかく、あの新聞の持ち主です」と、メイスンが、きっぱりといった。
「おお、だけど、そんなはずがない!」と、バークが言い張った。
「ところが、そうなんです」と、メイスンが繰り返していった。「わたしは、間違いのない消息を、あなたにお伝えしているので、それを、とるかとらないかは、わたしの知ったことじゃなくて、あなたがおきめになるべきことです。ただ、あなたがこの窮地からうまく抜け出せるか出せないかは、あなたが、他人のいい忠告を聞いて、間違いなく手を打つことにかかっているでしょう。わたしは、いつでも助言をしてさしあげる肚《はら》はできていますよ」
ハリスン・バークは、両手の指をからみ合わせて、「ほんとうのところ、きみの要求は、いったいなんです?」とたずねた。
メイスンは、口を開いて、「あの一味をやっつける方法は、ただ一つあるだけで、それは、全力をあげて闘うしかありません。やつらは、ゆすりの常習屋ですから、わたしは、こっちもゆすってやろうと思っているのです。現にある材料を嗅ぎつけていて、それを突きつめてやろうとしているのですが、それには、金がかかるのです。例のご婦人は、金には縁がないし、そうかといって、わたしは、自分で金を出す気はありません。
あの時計の長い針がひとまわりする毎に、わたしは、自分の貴重な時間をつぎ込んでいるわけだし、ほかの人間だって、めいめいの時間をつぎ込んでいるわけで、費用は、ぐんぐんかさむいっぽうです。ですから、あなたにも費用を分担していただいて悪いわけはないと思うんですがね」
ハリスン・バークは、まばたきをして、「どれくらい費用がかかると思います?」と、用心深くたずねた。
「さしあたり千五百ドル。うまく切り抜けられたら、もっといただくことになるでしょうね」
バークは、舌の先で唇をしめして、「ひとつ、ゆっくりと考えてみよう」といった。「金を工面するとなると、それ相応の準備をしなきゃならんからね。明朝、もう一度来てくれれば、そのときご返事しましょう」
「事件は、どんどん駆け足で動いているんですよ」と、メイスンは、相手にいって聞かせるように、いった。「いまから明日の朝までには、橋の下を流れる水だって、ゴマンと流れるでしょうよ」
「では、二時間後に来てください」と、バークがいった。
メイスンは、相手の顔に目をあてて、いった。「なるほど。どうです、あなたのしようとしておいでになることをいってみましょうか。わたしのことを調べようとしておいでなんでしょう。それなら、その結果を前もって申しあげときましょう。わたしは、刑事専門の弁護士です。この弁護士という仕事にたずさわる人間は、誰でも専門の領域を持っているものですが、わたしの得意とするところは、窮地におちいった人を救い出すことです。あらゆる窮地におちいった人たちが、わたしを訪ねて来ます。その人たちを、わたしは救い出すのです。わたしの取り扱う事件は、ほとんどが、法廷まで持ち出されるということは、まずないのです。
あなたが、個人や会社の顧問としている弁護士にお問い合わせになれば、多分、わたしのことを、事件屋だとか三百代言だとかいうでしょう。誰か地方検察局の人間にでもお聞きになれば、ぶっそうな相手だが、あまりよくは知らんというような返事をするでしょう。銀行を通じて調べてごらんになっても、なにひとつ、おわかりにはならないでしょうよ」
バークは、なにかいおうとして口を開きかけたが、思い直して、口をとざした。
「さあ、これだけ申しあげれば、わたしの身許を調査する時間は、かなり省けるというものでしょう」と、メイスンが言葉をつづけた。「エバ・ベルターさんに電話をおかけになれば、あの方は、わたしがここへ来たというので、おそらく、腹を立てられるでしょう。あの方は、すっかり自分の手で片づけようと思っていられる。いや、それとも、あなたのことなど全然頭にないのかもしれない。どっちだか、わたしにはわかりませんがね。あのひとに電話をおかけになるのなら、女中を呼んで、ドレスかなにかのことについて伝言をなさるんですな。そうすれば、あの人のほうから、電話がかかってくるでしょうよ」
ハリスン・バークは、驚き顔で、「どうして、それを知っているんです?」とたずねた。
「そんなふうにして、あの人は連絡をうけるんですよ」と、メイスンがいった。「わたしの合い言葉は、ドレスのことをいうんですがね、あなたのは?」
「靴を届けることだがね」と、ハリスン・バークは、うっかり口をすべらした。
「なかなかいい方法ですな」と、メイスンがいった。「身につける品目をごっちゃにさえしなけりゃね。ただ、女中については、あまり信頼できませんがね」
バークの胸の固い氷も、どうやら融けて来たようだった。
「女中は」と、バークはいった。「なんにも知りゃしません。ただ伝言を取りつぐだけですよ。暗号を知っているのは、エバだけです。しかし、そんな暗号を使ってる人間が、ほかにもいるとは知りませんでしたな」
ペリイ・メイスンは、声を出して笑いながら、「年甲斐もないですな」といった。
「いや、実をいうと」と、もったいぶった振りで、ハリスン・バークがいった。「一時間とたたない前でしたが、ベルター婦人から電話がありましてね。非常に困ったことができたので、すぐに千ドル工面しなきゃならないとかという話で、わしに力を貸してもらいたいということだった。その金が、なんのためにいるのかはいわなかったがね」
メイスンは、ひゅうと口笛を鳴らして、「なるほど」といった。「それじゃ、話しがだいぶ違って来ますな。あの人には、あなたをあてにする気はないのじゃないかと思っていましたよ。あなたがどうなさろうと、わたしの知ったことじゃないが、この重荷は、片棒かついでおあげになるのが当然でしょうな。わたしが働いているのは、あの人のためと同様に、あなたのためなのですからね。しかも、金のいる闘いですよ」
バークは、うなずいて、「三十分たったら来ていただきたい」といった。「ご返事します」
メイスンは、ドアの方に足を運びながら、「よろしい」といった。「では、三十分ということにしましょう。それから金は現金にしておいていただくほうがいいですね。わたしのやっていることや、依頼人のことが世間に知れ渡るようになった場合に、小切手じゃ、銀行の口座を通っちゃお困りのこともあるでしょうからね」
バークは、椅子をうしろに押しやって、政治家らしく、手を差し出しそうなそぶりを見せた。ペリイ・メイスンは、そんな手のそぶりに目もやらなかった。目をやったかもしれないが、そんなものは気にもとめずに、大股にドアの方に足を運んだ。
敷居ぎわで、「三十分ですね」といって、ばたんとドアをしめた。
玄関を出て、メイスンが、自分の車のドアに手をかけたとき、一人の男が、メイスンの肩を軽くたたいた。
メイスンは、振り向いた。
ずうずうしい目つきをした、がっちりした体つきの男だった。
「ちょっとお話しをうかがいたいんですがね、メイスンさん」と、その男がいった。
「話?」と、メイスンがいった。「いったい、きみは誰だね?」
「クランドールというんです」と、相手の男がいった。「『スパイシイ・ビッツ』の記者ですが、われわれは、著名な方々の動静に興味を持っているんでしてね、メイスンさん。それで、ハリスン・バーク氏とどんなことをお話しになったのか、それをうかがいたいんです」
ゆっくりと、慎重に、ペリイ・メイスンは、自動車のドアの把っ手から手をはなし、くるっと向き直って、相手の男をじろじろと眺めた。
「なるほど」と、メイスンがいった。「きみたちは、こういう手を使おうというんだね?」
クランドールは、相変わらず、ずうずうしい目つきで、メイスンを見つづけながら、「乱暴なことはよしましょう」といった。「あんたのためになりませんからな」
「ならなきゃ、どうだっていうんだ」と、ペリイ・メイスンがいった。かれは、距離を目ではかっておいて、にやにや笑っている相手の口もとに、左手のストレート・パンチを、力一杯たたきつけた。
クランドールの頭が、ぐらっと、うしろにのけぞった。ふた足よろめいたと思うと、肉詰めの袋のようにどさんとぶっ倒れた。
通りがかりの人たちが、目を見張って立ちどまり、小さな人だかりができた。
メイスンは、そんな連中には目もくれずに、くるっと向き直ると、ぐっと車のドアを引きあけ、乗り込み、ばたんとドアを閉めると、スターターを踏んで、行き交う車の列の中に加わった。
近くのドラッグ・ストアから、ハリスン・バークの事務所に、メイスンは電話をかけた。
バークが電話口に出て来ると、「メイスンです。バークさん。外へ出ないほうがいいですよ。それに、誰か護衛をおたのみになったほうがいい。さきほどお話しした新聞が、腕っぷしの強そうな連中を出して、なんとかしてあなたをひどい目にあわせようとしているようです。例の金ができたら、使いの者にわたしの事務所まで届けさせてください、信用できる人間を選んで、中身のことはいわないで、書類のように見せかけて、封緘《ふうかん》した封筒にお入れになったほうがいいですね」
ハリスン・バークが、なにかいいかけた。
ペリイ・メイスンは、受話器を荒々しくかけ金にたたきつけて、電話室から大股に飛び出して、自分の車に乗り込んだ。
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第七章
激しい暴風雨が、南東から吹き募っていた。鉛色の雲が、夜空をゆっくりと流れ、しのつく雨は大きなきのこのように跳ね返って、地面をたたきつけていた。
ペリイ・メイスンの住んでいるアパートのある町々にも、風は、激しく吹きつけていた。
一つだけ、下のほうを一インチほどあけてあった窓から、風が思い切り吹き込んで、大きくカーテンをあおり立てて、絶えずばたばたといわせていた。
メイスンは、ベッドの上に身を起こして、暗闇の中で、受話器をさぐった。やっと受話器をさぐりあてると、耳にあてて、「もしもし」といった。
ひどくせっかちな、恐怖に襲われたようなエバ・ベルターの声が、電話線を伝わって来た。
「ああ、よかった、おいでになって! すぐに、車でいらっしてちょうだいな! エバ・ベルターですのよ」
ペリイ・メイスンは、まだ夢うつつで、「どこへ行くんです?」といった。「どうしたんです?」
「なんだか、恐ろしいことが起こったの」と、エバがいった。「家へいらしちゃ駄目。あたくし、家にいるんじゃないんです」
「どこに、いらっしゃるんです?」
「グリスウォルド・アベニューのドラッグ・ストアにいるんです。その通りを走らしておいでになれば、ドラッグ・ストアのあかりが見えますわ。その店の前に、あたくし、立っています」
ペリイ・メイスンは、ようやく意識がはっきりして来た。
「もしもし」と、メイスンがいった。「わたしは、前にも、夜中に電話でたたき起こされて、車で来てくれと誘い出されたあげく、ひどい目に会わされたことがあるんでね。今夜のことも、インチキじゃないかどうか、一応確かめてからでなくちゃ、はっきり行くとも行かないともいえませんね」
女は、受話器のむこうで、金切り声をあげた。
「まあ、そんなくだらない用心なんかおやめになってよ! ね、それよりも、すぐに、ここへいらしてちょうだい。ほんとに大変なことなんです。あたくしの声で、どんなに困っているかおわかりでしょう」
メイスンは、落ちついた声で、「ええ、それはわかっていますがね。ところで、あなたが一番始めに事務所へおいでになったときには、なんという名前をおっしゃいましたっけね?」
「グリフィンですわ!」と、女は、悲鳴に近い金切り声でいった。
「よろしい」と、メイスンがいった。「まいりましょう」
メイスンは、服を着込み、尻のポケットにピストルをすべりこませると、レインコートを引っかけた。帽子を目深にかぶると、あかりを消して、アパートを出た。車は、ガレージに入れてあった。冷えたエンジンを、どうにかこうにかかけて、まだ十分に温まり切らないうちに、雨の中へ走り出した。
角をまがろうとするときに、エンジンが逆発《バックファイヤ》して、ぱんぱんと吐くような音を立てた。メイスンは、エンジン・チョークをあけて、絶えず空気を一杯に吸い込ませるようにしながら、アクセルを踏みつづけた。雨が、フロント・グラスに、まともにぶつかった。大粒の雨脚が歩道からはねあがり、ヘッド・ライトに照らし出されて、無数の小さな、きのこ状の噴水のように光って見えた。
メイスンは、ほかの車の往来などにはおかまいなしに、ぐんぐんスピードをあげて、交叉点を走り抜け、ひた走りに走った。グリスウォルド・アベニューで右に曲がり、一マイル半ほど走らしてから、スピードをおとして、店のあかりをさがしはじめた。
とあるドラッグ・ストアの前に立っている女の姿が、目にはいった。レインコートを着ているが、無帽で、しとどに髪をぬらす雨にも、まるきり無頓着の様子だった。目は、大きく見開いて、おびえたような色を帯びていた。
ペリイ・メイスンは、ぐっと、車を歩道ぎわに寄せて、とめた。
「もう来てくださらないのかと思ってましたわ」と、メイスンが、車のドアをあけてやると、女が声をかけた。
女が乗り込んで来た。見ると、イブニングに繻子《しゅす》の靴といういでたちで、男物のレインコートをはおっている。全身びっしょり濡れて、しずくが車の床にしたたり落ちた。
「どうしたんです?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
女は、蒼白な、雨に濡れた顔で、メイスンの顔を見て、いった。「宅まで行ってくださいな、急いで!」
「どうしたんです?」と、メイスンは、同じ言葉を繰り返した。
「主人が殺されたんですの」と、泣き声で、女はいった。
メイスンは、車のルームライトをつけた。
「そんなことしないでちょうだい!」と、頼むように、女がいった。
メイスンは、女の顔を見て、「わけをお話しなさい」と、静かにいった。
「車を出してくださいませんの?」
「事情がわからなけりゃ出せませんね」と、いかにも何げない調子で、メイスンがこたえた。
「警察が来ないうちに、行っていなくちゃならないからです」
「どうしてですか?」
「どうしてったって、行ってなくちゃならないからですわ」
メイスンは、首を振って、「いや」といった。「はっきり、なにがあったのか、わたしに納得がいかないうちに、警察と話をするわけにはいきません」
「ああ」と、女がいった。「恐ろしいことでしたわ!」
「誰が殺したんです?」
「知りませんわ」
「じゃ、どんなことを知っているんです?」
「こんな、いやなあかりを消していただけませんの?」と、女が吐き出すようにいった。
「なにがあったのか、話していただいてからね」と、メイスンが、かたくなにいい張った。
「何故、つけておおきになるんですの?」
「あなたの顔が、よく拝見できるようにですよ」とはいったが、その声には、すこしもユーモアがなく、態度も、ものものしいものだった。
女は、疲れ切ったようなため息をして、「なにがどうしたのか、あたくしには、よくわからないんです。誰かが、主人を脅迫していたのじゃないでしょうか。二階から、話し声が聞こえましたわ。二人とも、ひどく怒っているようでした。それで、あたくし、階段のところまで行って、聞き耳を立てたんですの」
「言い合っている話しの内容は、聞きわけられましたか?」
「いいえ」と、女がこたえた。「ただ、いろんな言葉と調子だけ。はっきり聞きとれたのは、二人が罵《ののし》り合ってるということだけで、とぎれとぎれに、ぽつんぽつんと、言葉が聞きとれましたけど。主人は、ひどく腹を立てたときというと、氷のように冷たい、刺すような皮肉な口振りでものをいうのがくせでしたけど、そういう口振りでいっていました。相手は、声を高くしてはいましたけど、どなるというほどではありませんでした。主人が、なにかいおうとすると、それをさえぎって、自分のほうばかり、なにかいっていました」
「それから、どうなりました?」
「それから、なにを話しているのか聞きたかったもんですから、あたくし、そっと階段をのぼって行ったんです」と、女は、そこで言葉をとめて、息をついだ。
「なるほど」と、メイスンは、後をうながすように、「それで、なにがはじまりました。それから?」
「すると」と、女がいった。「ピストルの音と、どさっと、体の倒れる音とが聞こえたんです」
「ただ一発だけですか?」
「ただ一発だけ、それから、人の倒れる音と、ああ、ほんとにぞっとしましたわ! 家中が震えるようでしたわ」
「よろしい」と、メイスンがいった。「それから先を話してください。それから、あなたは、どうしました?」
「それから」と、女がいった。「あたくし、くるっと回れ右をして、後をも見ずに駆け出しましたわ。こわかったんですもの」
「どこへ、駆けて行ったんです?」
「自分の部屋へですわ」
「誰かに見られましたか?」
「いいえ、見られなかったと思いますわ」
「それから、どうしました?」
「しばらく、そこで、じっとしていましたわ」
「なにか聞こえましたか?」
「ええ、ピストルを撃った人が、階段を駆け降りて、外へ出ていくのが聞こえました」
「よろしい」と、メイスンが、しつこく言葉をつづけた。「それから、どうしました?」
「それから」と、女が言葉をつづけた。「あたくし、ジョージの様子を見に、なにかしてやれるかどうか、見に行かなくちゃいけないと思いましたの。それで、書斎へあがって行ったんです。夫は、そこにいましたわ。お風呂にはいっていたんでしょうね、バスローブをまとって。そこに、倒れて――死んでいましたわ」
「どこに、倒れていたんです?」と、メイスンは、冷酷に問いつめた。
「ああ、そんなにこまかくいわせないでよ」と、女は、吐き出すように、いった。「あたくし、そんなにいえませんわ。どこか、浴室の近くでしたわ。お風呂から出たばかりだったんでしょうね。きっと、浴室のドアのところに立ったばかりのときに、口論を始めたにちがいありませんわ」
「ご主人が死んでいるということが、どうしてわかりました?」
「様子を見ただけでわかりましたわ。つまり、死んでたと思うんです。あら、はっきりそうとはいい切れませんわ。お願いですから、すぐにいらして、手をかしてくださいな。死んでいなければ、いいんですわ。いざこざはありませんわ。でも、死んでいたら、あたくしたちみんな、とんでもないことになりますわ」
「どうしてです?」
「だって、なにからなにまで、明るみに出るからですわ。おわかりになりませんの? フランク・ロックは、ハリスン・バークのことなら、すっかり知っているんですから、ハリスン・バークが、主人を殺したと思うに決まっていますわ。そうなれば、バークも、あたくしの名前を出さないわけにはいかないでしょうし、そうなれば、どんなことが起こるかしれたものじゃありませんわ。あたくしにだって、疑いがかかりかねませんわ」
メイスンがいった。「ああ、そんなことは忘れるんですね。なるほど、ロックは、バークのことは、たしかに知っているでしょう。しかし、ロックなんて、つまらない人間で、ただの看板にすぎないじゃありませんか。ささえになるご主人がいなくなれば、とたんに、立ってなんかいられなくなってしまいますよ。ご主人に恨みを抱いていた人間が、ハリスン・バークひとりだけだなんてことは、しばらく考えないことですね」
「いいえ」と、女は、いい張った。「でも、ハリスン・バークには、ほかのどんな人よりも、強い動機がありますわ。あの新聞を経営していたのが誰か、ほかに知っている人なんかありませんわ。でも、ハリスン・バークは知っていました。あなたが、お話しになったからですわ」
「バークが、あなたにそういったんですね?」と、メイスンがいった。
「ええ、そうあの人が、あたくしにいいましたわ。なんのために、あの人のところへいらしたんですの?」
「というのはね」と、メイスンは、重々しくいった。「あの男にだけ、知らん顔をさせておきたくなかったからです。あの男は、わたしからおびただしいサービスを受けているんですから、それに対して、それだけの支払いをしてもらおうと思ったんです。あなたひとりに、全部の金の工面をさせるというわけにはいかなかったものですからね」
「でも、そんなことは」と、女がいった。「あたくしのきめることだとは、お思いになりませんの?」
「思いませんな」
女は、唇を噛んで、なにかいおうとしかけたが、思いとどまった。
「よろしい」と、メイスンがいった。「ところで、このことは、よく承知しておいていただきたいのですが、もし、ご主人が亡くなっていれば、いろいろ山ほど取り調べられると思います。その間、気をおとさないように、しっかり肚《はら》を据えていなくちゃいけませんよ。ところで、そのとき、ご主人と一緒だった相手の人間について、なにか心当たりはありませんか?」
「いいえ」と、女がいった。「はっきりしませんわ、ただ、その人の口調から、そうじゃないかと思ってみるだけですわ」
「なるほど」と、メイスンがいった。「そういうこともあるでしょうな。それで、話の内容は聞きとれなかったとおっしゃいましたね?」
「聞きとれませんでしたわ」と、女は、ゆっくりといった。「でも、声は聞こえましたし、調子も、はっきり聞きわけられましたわ。主人の声も聞こえましたし、それから、その相手の男の声も聞こえましたわ」
「その相手の男の声というのは、以前に、聞いたことのある声でしたか?」
「ええ」
「誰だか、わかっているんですか?」
「ええ」
「じゃあ、そうむやみな思わせ振りはやめてください。誰だったんです? わたしは、あなたの弁護士じゃありませんか。いってくれなくちゃいけませんよ」
「女は振り向いて、まっすぐにメイスンの顔を見て、「あなたこそ、よくご存じじゃありませんか」といった。
「このわたしが、知っているというんですね?」
「ええ」
「やれやれ、あなたか、わたしか、どっちかの頭がおかしいんだな。いったいどうして、わたしが知っているというんです?」
「だって」と、女が、ゆっくりといった「あなただったんですもの!」
メイスンの目の光が、冷静に、じっと動かなくなった。
「わたしが?」
「ええ、あなたよ! ああ、あたくし、こんなこと口に出したくなかったのよ! あたくしが知っていると、あなたに考えさせたくなかったの。あなたの秘密は、守ってさしあげるつもりだったのよ! だのに、あなたが、とうとういわせておしまいになったのよ。でも、あたくし、ほかの人にはいいませんわ、決して、決して、決して! あたくしとあなたと、二人きりの秘密なんですもの」
メイスンは、唇を堅く結んで、女の顔を睨みつけながら、「なるほど、あなたという人は、そういうつき合いをする人なんですね?」
女は、メイスンの視線を受けとめて、ゆっくりとうなずいた。
「ええ、メイスンさん、あたくしって、信用なすって大丈夫な女よ。決して、あなたを裏切ったりはしませんわよ」
メイスンは、深い息を吸い込んでから、ため息をついた。
「ええい、畜生」と、メイスンがいった。「いらんお世話だ!」
しばらく沈黙がつづいた。やがて、ペリイ・メイスンは、まるきり感情のない声で、たずねた。
「車の出て行く音を聞きましたか――その後で?」
女は、ちょっとためらってから、いった。「ええ、聞いたような気がしますけど、あらしがむやみに、とってもひどくて、木という木が、家だのなんだのにあたって、ざわざわ音を立てていたものですから。でも、エンジンの音は、聞いたような気がしますわ」
「さあ、よく聞いてくださいよ」と、メイスンが相手にいって聞かした。「あなたは、いま、神経がたかぶっていらっしゃるし、自制力も失っていらっしゃる。しかし、これから、刑事たちと会って、いまのような調子で話しかけるようなことになると、あなた自身が苦しい立場に追い込まれるだけですよ。それよりも、あなたは、すっかり神経がまいっているからといって、知り合いの医者を呼んで、誰とも話してはいけないといってもらうほうがいいですね。さもなければ、話の辻褄《つじつま》をきちんと合わせておくほうがいいですね。ところで、あなたは、エンジンの音を聞いたのですか、聞かなかったのですか、どっちです?」
「ええ」と、女は、いどみかかるように、いった。「聞きましたわ」
「オーケー」と、メイスンがいった。「そのほうがいい。ところで、お宅には、みんなで、何人おいでですか?」
「とおっしゃるのは?」
「召使いとか、そのほか、だれもかれも」と、メイスンがいった。「お宅にいる人のことです。お宅にいたみんなのことを、知らしていただきたいのです」
「ええ」と、女がいった。「執事のディグリーがいますわ」
「ああ」と、メイスンがいった。「あの男なら、わたしも会ったことがあるし、あの男のことなら、よくわかってます。ほかには、誰々がいます? 家政婦は?」
「ミセス・ビーチという女」と、女がいった。「それに、いまは、その娘も来て泊っていますわ。その娘が来たのは、まだ四、五日のことですけど」
「なるほど、それから、男の連中は? 男の連中をあげると、執事のディグリーだけですか?」
「いいえ」と、女がいった。「カール・グリフィンがいますわ」
「グリフィンですって?」
女は顔を赤らめながら、「ええ」
「なるほど、それで、はじめて、わたしのところへおいでになったときに、『グリフィン』という名前をお使いになったわけですね?」
「いいえ、そんなわけじゃありませんわ。ただ、ふっと一番はじめに思い浮かんだ名前を使っただけですわ。そんなふうに、おっしゃらないでちょうだい」
メイスンは、にやりと笑って、「そんなふうにもなにも、いってやしませんよ。あなたが、そういっただけじゃありませんか」
女は、早口にしゃべり出した。
「カール・グリフィンは、主人の甥《おい》なんですの。夜、家にいることなど、めったにないんです。かなりひどい人らしいの。ずいぶん派手な生活をしているようですわ。人の噂では、しょっちゅう酔っぱらって現れるということですわ。あたくしは、その辺のことは、よく知りませんけど。でも、主人とはとても仲がよかったと思いますわ。ジョージは、ほかの誰よりも、カールに対して愛情を持っているらしいんですよ。主人が変わり者だということは、よく承知していていただかなくちゃいけませんわ。あの人は、本当に人を愛さない人なんですの、あの人は、なんでも自分のものにして、独りじめにしたり、権力で支配したり、かと思うと押し潰したりすることは好きですけど、愛することはできない人なんですの。親しい友達など一人もない人ですわ。まったく自信の塊みたいな人ですわ」
「ええ」と、メイスンがいった。「そういう点は、みんな承知しています。わたしが、いま関心を持っているのは、ご主人の性格のことじゃありません。そのカール・グリフィンのことを、もうすこし話していただけませんか。こん晩、かれは、家にいたんですか?」
「いいえ」と、女がいった。「夕方、早くに出かけましたわ。夕食には、いなかったんじゃないでしょうか。ゴルフ・クラブへ行って、お昼からずっと、ゴルフをしていたらしいんですよ。雨が降りはじめたのは、なん時ごろでしたかしら?」
「六時ごろだったでしょう」と、メイスンがいった。「なぜです?」
「そうね」と、女がいった。「それで、おぼえているんですわ。午後はずっと、いいお天気だったでしょう。それで、カールは、ゴルフをしていたんですわ。ですから、カールから電話がかかって来て、夕食もゴルフ・クラブでするつもりだって、帰りも遅くなるって、電話でそういって来たって、ジョージがいっていたのをおぼえていますわ」
「たしかに、カールはもどっていなかったんですね?」と、メイスンが念を押した。
「間違いありませんわ」
「あなたが二階の部屋から聞いたのは、たしかに、カールの声じゃなかったんですね?」
女は、しばらくためらってから、「いいえ、ちがいます」といった。「あなたの声でしたわ」
メイスンは、口の中で、不快そうに、ぶつぶつとつぶやいた。
「つまり」と、女は、あわてていい直した。「あなたの声のような感じがしたということですわ。あなたとそっくりな話し方をする男の人でしたわ。同じような落ちついた話し振りで、話の主導権を握ってましたわ。声を張りあげても、落ちついて、ぐうの音も出させないところなんか、あなたそっくり。でも、あたくし、決して誰にもいいやしませんわ。どんなことがあったって! どんなに責められたって、あなたの名前を口に出したりなんかしませんわ」
女は、わざとらしく、青い目を大きく見開いて、いつもの癖の、ことさら無邪気らしく装った目つきで、メイスンの顔をまともに見つめた。
ペリイ・メイスンも、じっと、その女の顔に目をあてていたが、やがて、肩をすぼめて、「よろしい」といった。「そのことは、後で話し合いましょう。それまでに、あなたのほうでも、ようく考えておいてください。ところで、ご主人とその男とは、あなたのことで言い争っていたのですか?」
「あら、存じませんわ、そんなこと、あたくし、知りませんわ!」と、女がいった。「ふたりがどんなことを話していたか、あたくしにわかるはずがないってこと、おわかりになりませんの? あたくしにわかっていることは、どうしても家に帰らなくちゃいけないってことだけよ。もし、誰かが死体を見つけたら、大変ですわ。ね、あたくし、行かなくちゃいけないでしょう?」
メイスンがいった。「そうでしょうな。しかし、いままで、随分長いことぐずぐずしておいでになったんだから、一分や二分おくれたって、大した違いはありませんよ。それよりも出かける前に、もう一つ、知っておきたいことがあるんです」
「なんですの?」
メイスンは、両手をのばし、女の顔をはさんで上に向かせ、車の天井のルームライトの光が、その顔に一杯にあたるようにした。それから、ゆっくりといい出した。「ピストルがなったとき、ご主人と二階の部屋に一緒にいたのは、ハリスン・バークじゃなかったんですか?」
女は、息がとまりそうに驚いて、あえぎながら、「とんでもない、ちがいますわ!」
「こん晩、ハリスン・バークは、お宅へ出かけて行ったのじゃないんですか?」
「いいえ」
「こん晩か、きょう午後、バークは、あなたに電話しませんでしたか?」
「いいえ」と、女がいった。「ハリスン・バークのことなんか、なんにも知りませんわ。ビーチウッド・インの晩からこっち、会ったことも、話したこともありません。そんなこと、したいとも思いませんわ。あの人ったらあたくしの生活に厄介なことを持ち込んだだけで、なんにもしてくれやしませんわ」
メイスンは、重々しい口調で、いった。「それなら、いったいどういうわけで、『スパイシイ・ビッツ』とご主人との関係を、わたしが、あの人に話したことを、あなたは知っているんです?」
女は、メイスンの顔から目をそらして、メイスンの手から、その頭を振りほどこうとした。
「さあ」と、情け容赦もない口調で、メイスンがいった。「質問におこたえなさい。どうです、こん晩、バークがお宅へ出かけて行ったときに、かれが、あなたに、そう話したのじゃありませんか?」
「いいえ」と、女は、弱い声でつぶやくようにいった。「きょうの午後、電話をかけて来たときに、話して聞かせてくれましたの」
「すると、きょう午後、バークが、電話をかけて来たんですね?」
「ええ」
「わたしが、あの人の事務所を訪ねてから、どのくらいたってからのことか、ご存じですか?」
「すぐ後だと思うんですけど」
「使いに、わたしのところへ金を届けさせる前ですか?」
「ええ」
「なぜ、それを、もっと早く、おっしゃらなかったんです? なぜ、あの人からなにも聞かなかったなんて、いったのです?」
「うっかり忘れていたんです」と、女がいった。「でも、あの人が電話をかけて来たってことは、もうさっき、お話ししましたわよ。あたくし、嘘をつくつもりなら、あの人から電話がかかって来たなんて、初めから、いうはずがないじゃありませんか」
「ふん、なるほど、そうでしょうな」と、メイスンがいった。「しかし、あのとき、そうおっしゃったのは、そのピストルがうたれたときに、バークが、ご主人と一緒の部屋にいたのじゃないかと、わたしが疑おうとは考えてもおいでにならなかったから、そうおっしゃったのでしょう」
「そんなことありませんわ」と、女がいった。
メイスンは、ゆっくりうなずいて、「あなたは、まったく小ざかしい嘘つきですね」と、メイスンは、相手をきめつけるように、そのくせ落ち着き払って、いった。「あなたという人は、本当のことをいえない人ですね。誰にでも、いや、他人はおろか、あなた自身にさえ、正々堂々とした行為のできない人なんですね。現に、いまだって、わたしに嘘をついている。あなたは、誰が部屋にいたか、ちゃんと知っているじゃありませんか」
女は、首を振って、「いいえ、いいえ、いいえ、知りませんわ」といった。「誰だったか、あたくしが知らないってことを、あなたは、わかろうともしてくださらないのね? だって、あたくし、あなただったと思っているんですもの! だからこそ、家から電話をおかけしなかったんです。かれこれ一マイルもある、ここのドラッグ・ストアまで駆け出して来て、あなたにおかけしたんですわ」
「なぜ、そんなことをしたんですか?」
「だって」と、女がいった。「あなたが、おうちへお帰りになる余裕を見てさしあげたいと、あたくし、思ったからですわ。おわかりになりません? 万一、後になって訊問をうけるようになった場合に、あなたのアパートへお電話したら、あなたがちゃんとおいでになったと、いえるわけじゃありませんか。あなたにお電話してみて、いらっしゃらなかったら、どんなにこわかったでしょう、あなたの声だとわかっていたのに」
「わたしの声だと、あなたにわかるわけがないじゃありませんか」と、メイスンは、静かにいった。
「でも、そう思ったんですもの」と、女は、取り澄ましていった。
メイスンがいった。「思ったも思わなかったもありませんよ。わたしは、もう二、三時間も、ベッドに寝ていたんですからね。そういっても、わたしには、そのアリバイを証明する手だてはないんだが。万一、わたしがお宅にいたと、警察に思われてしまったら、その疑いを晴らすには、大変な手間がかかる。そんなことは全部、あなたは、計算ずみなんだ」
女は、メイスンの顔を見上げたと思うと、不意に、両腕を、さっと男の首にまきつけて、「ねえ、ペリイ」といった。「お願いだから、そんなふうに、あたくしを見ないでちょうだい。もちろん、あなたのことをしゃべったりしないわ。あなたも、あたくしと同じくらい、この事件には深くはまり込んでいるんですもの。あなたがなすったことは、あたくしを助けるために、なすったんですものね。二人はもう、いっしょにはまり込んでいるのよ。あたくしも、あなたの味方ですもの。あなたも、あたくしの味方になってくださるのよ」
メイスンは、女を押しのけ、その濡れた両腕に手をかけて、しっかりまといついている女をもぎはなした。それから、もう一度、女の顔を自分の方に向けさせて、その目をのぞき込んで、「わたしたちは、いささかも、この事件にはかかり合っちゃいないんです」といった。「あなたは、わたしの依頼人だし、わたしは、あくまでも、あなたを守る。それだけのことです。わかりますね?」
「ええ」と、女がいった。
「あなたが着ているこのレインコートは、誰のです?」
「カールのですわ。廊下にありましたの。はじめ、着たきりで雨の中へ飛び出そうとしたんですけど、それじゃ、びしょ濡れになると気がついて、広間のところに、このコートがあったものですから、ひっかけて来たんですの」
「よろしい。これから車がお宅へ着くまでの間、そのことをようく考えておいてください。警察が、もう来ているか、どうですかね。ほかにピストルの音を聞いた人間が、いると思いますか?」
「いいえ、いないと思いますけど」
「よろしい」と、メイスンがいった。「警察がやって来る前に、わたしたちの手で、うまくこの一件を片づける機会がつかめたら、ドラッグ・ストアまで駆けつけて、わたしのところへ電話をかけたいきさつは、忘れてしまうことですね。お宅からわたしのところへ電話をかけて、それから、丘を駆けおりて、わたしを迎えに行ったと、そう、警察の連中にいうんですよ。そうすれば、びしょ濡れになったわけも説明がつきます。あなたは、こわくて、家の中にじっとしていられなかったんですよ。わかりますね?」
「ええ」と、女は、おとなしくこたえた。
ペリイ・メイスンは、車内の灯りを消し、ギヤを入れ、クラッチから足をはなして、降りしきる雨の中へ、車を走らせた。
女は、ぴったりとメイスンに身を寄せ、左の腕をメイスンの首に回し、右の腕は、男の腿の上において、「ああ」と悲しげな声を出して、いった。「こわいわ。それに、とても寂しくてたまらないわ」
「黙って」と、メイスンがいった。「それよりも、よく考えるんです!」
車は、乱暴といってもいいようなスピードで、長い坂道をのぼり、エルムウッド・ドライブに曲がった。やがて、ギヤをセカンドにして、あの大きな邸の建っている丘をのぼると、車寄せに乗り入れて、玄関のポーチのまん前に、車をとめた。
「いいですか」と、手をかして女を車からおろしながら、メイスンは、低い声でいった。「家の中は、静かなようだ。誰もピストルの音を聞かなかったし、警察も、まだ来ていないらしい。よく頭を使わなくちゃいけませんよ。もし、わたしに嘘をついていたのだったら、あなたは、それこそ重大な難局に立つことになりますよ」
「嘘なんかつかなかったのよ」と、女がいった。「ほんとうのことをお話ししたんですわ――神かけて」
「よろしい」と、メイスンがいい、二人は、飛ぶようにポーチをぬけて、玄関のドアに近づいた。
「ドアには、鍵がかかっていないはずよ。あたくし、かけずにおいたんです」と、女がいった。「ずっと、おはいりになれてよ」そういって、メイスンを先に家の中へはいらそうと、女は、後ろへさがった。
「いいや」と、メイスンがいった。「鍵がかかっている。掛け金がおりてますよ。鍵を持ってますか?」
女は、呆然とメイスンの顔を見て、「いいえ」といった。「あたくしの鍵は、ハンドバッグにはいってますわ」
「そのハンドバッグは、どこにあるんです?」と、メイスンは、女にたずねた。
女は、呆然とした目つきで、メイスンの顔を見つめるだけだったが、その体つきは、恐怖で身をこわばらせているといったふうだった。
「どうしましょう!」と、女がいった。「きっと、あの部屋に置き忘れて来たんですわ……主人の死体のそばに!」
「二階へあがるときに、持って行ったんですね?」と、メイスンがたずねた。
「ええ」と、女がいった。「たしかにおぼえていますわ、持って行ったと。でも、きっと落としたんですわ。外へ出たときに、持っていたおぼえがないんですもの」
「とにかく、なんとかして中へはいらなくちゃいけない」と、メイスンがいった。「どこか、あいているドアはないんですか?」
女は、首を左右に振ったが、不意に、思い出していった。「ああ、そうだ、召使いたちが出入りする裏口がありますわ。そこの鍵なら、いつも、車庫の軒下にさげてあるはずよ。それであければ、中へ入れますわ」
「そっちへ行きましょう」
二人は、ポーチの階段をおり、砂利を敷いた車寄せの道を通って、裏手へまわった。家の中はまっ暗で、しんと静まり返っている。風が、潅木をゆさぶり、雨は、家の外壁を激しく叩きつけていったが、陰気な邸の中からは、物音一つ聞こえて来なかった。
「音を立てちゃ駄目ですよ」と、メイスンが女に注意した。「召使いたちに聞かれないようにして、はいりたいですからね。誰も目をさまさなかったら、中の様子を見てから、一、二分、調べて見るひまがほしいんです」
女は、うなずいて、車庫の軒下をさぐり、鍵を見つけて、裏口のドアをあけた。
「よし」と、メイスンがいった。「あなたは、そっと家の中をぬけて、玄関のドアから、わたしを入れてください。わたしは、外からこの裏口のドアに鍵をかけて、鍵は、もとの釘にかけておきます」
女は、うなずいてから、邸の暗闇の中に消えた。メイスンは、ドアをしめて鍵をかけ、その鍵をもとの場所にもどしてから、来た道を引き返して、表玄関にもどった。
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第八章
ペリイ・メイスンは、表玄関へもどって、ポーチに立った。二、三分ほども待ったかと思うと、エバ・べルターの足音が、つづいて鍵をまわす、かちっという音が聞こえた。と、ドアがあいて、女が、メイスンの顔を見て、にっこり笑った。
玄関のホールには、灯りが一つついていた。それは、終夜灯で、二階までずっとのびている暗い階段や、応接用の広間の家具類、うしろの寄りかかりのまっすぐな二脚の椅子、飾り鏡が一つ、外套掛け、傘立てなどを、ぼんやりと照らしていた。
外套掛けには、女物の外套が一着かかり、傘立てには、ステッキが二本と、雨傘が三本、立っている。傘立ての下からは雨水が流れ出て、水たまりをつくり、終夜灯の光が、それに反射している。
「ねえ」と、メイスンがささやくような声でいった。「出かけるときに、この灯りは消さなかったんですね?」
「ええ」と、女がいった。「出かけるときも、この通りでしたわ」
「というと、誰だかその人物をこの玄関のドアから通すときにも、ご主人は、終夜灯のほかには、灯りをつけなかったというんですね?」
「ええ」と、女がいった。「そうでしょうね」
「普段は、家族のみなさんがおやすみになるまで、階段には、もっと明るい電灯をつけておおきになるんじゃないのですか?」
「ときにはね」と、女がいった。「ですけど、ジョージは、二階の部屋を全部、ひとり占めにしているんですのよ。あたくしたち、ほかの家族のことなど、あれこれ、うるさくいいませんし、あたくしたちも、あの人のことに、あれこれ口を出さないことにしているんです」
「わかりました」と、メイスンがいった。「じゃ、二階へあがって見ましょう。灯りをつけてください」
女が、かちっとスイッチを押すと、階段に、明るい光があふれた。
メイスンは、先に立って階段をのぼり、最初にジョージ・べルターに会った応接間にはいった。
その時、べルターが出てきたドアは、いまは、しまっていた。メイスンは、握りをまわしてドアをあけ、書斎に足を踏み入れた。
そこは、ほとんど応接間と同じ様式の、おそろしく大きな部屋だった。どの椅子も、おそろしく大きくて、からだが埋まるかと思うほど、ぎっしり詰め物がしてあった。デスクも、普通の大型デスクにくらべて、二倍の大きさだった。寝室へのドアがあけっぱなしになっていて、そのドアから数フィートもはなれていないところに、浴室へのドアがならんでいる。また寝室へはいるドアもあった。
ジョージ・ベルターのからだは、寝室から書斎へのドアの、すぐ内側の床に横たわっていた。フランネルの部屋着を着てはいるが、前があいていて、その下から見える体は、まる裸だった。
エバ・ベルターは、短い悲鳴をあげて、ぴったり、メイスンにしがみついた。メイスンは、女を振り離して、死体に近づき膝をついた。
完全に死んでいた。弾丸は、ただ一発で、まっすぐ心臓のまん中を貫通していた。あきらかに即死だ。
メイスンは、部屋着の内側にさわってみて、まだ湿り気があるのに気がついた。死体の部屋着の前をきちんと合わせてやり、伸ばしている両腕をまたいで、浴室にはいった。
ほかの部屋と同様に、浴室も、使う人の大きなからだに合わせて、とてつもない大きな作りだった。床より低く作られた浴槽は、深さが、三フィートか四フィート、長さは、かれこれ八フィートあった。ばかに大きな洗面台が、浴室のまんまん中を占めている。タオル掛けには、きちんと畳んだタオルが何枚もかかっている。メイスンは、それに目をとめると、エバ・ベルターのほうを振り向いて、「ねえ」と声をかけた。「ご主人は、風呂にはいっておいでになったのだが、なにかわけがあって、急いで湯から出られたんですな。だから、タオルで体を拭きもしないで、部屋着を引っかけた。そうでしょう。その証拠に、部屋着をきたのに、体は、まだ濡れたままだし、タオルは、きちんと畳んだままで、使った様子もないじゃありませんか」
女は、その通りというように、ゆっくりうなずいて、「それじゃ、タオルを濡らして、しわくちゃにして、主人が体を拭いたように見せかけておいたほうがいいでしょうか?」とたずねた。
「どうしてです?」
「あら、あたくしには、よくわからないんですけど」と、女がいった。「ただ、そんな気がしただけなの」
「ねえ」と、メイスンが、女にいって聞かせた。「ここで現場に手をつけて、証拠をでっち上げたりなんかしたりすると、われわれは、重大な難局に追い込まれることになりますよ。いいですか。これは、真剣に胸に入れておいてくださいよ! 見たところ、事件の起こったことも、いつ起こったかということも、あなたのほかには知っているものもないようだ。警察では、すぐ知らせを受けなかったというので、気を悪くするでしょうし、どういう理由で、警察よりも先に弁護士に電話をかけるようなことをしたのか、その理由も知りたがるでしょう。その事実は、あなたに嫌疑の目を向けさせることになりますよ。わかりますか?」
女は、うなずいた。その目は、大きく、暗い色を帯びていた。
「よろしい」と、メイスンがいった。「では、このことをしっかり頭に入れて、とことんまで忘れないようにしてくださいよ。事件は、この通りなんですからね。あなたは、わたしに話した通り、ほんとうのことを間違いなく話すんですよ。ただし、一つだけ例外があります。それは、問題の男がこの家を出て行ってから、あなたが、二階へあがって来たという点です。というのは、わたしにも、あなたの話が納得できないし、警察にも気に入らないだろうということです。二階へあがって行って様子を見るほどに、気持ちがしっかりしていたのなら、警察へ電話をかけるぐらいの分別は、当然あったはずだということになります。ところが、警察より先に弁護士に電話をかけたという事実は、あなたに罪の意識があったからこそだと、警察に思わせることになりますからね」
「でも」と、女がいった。「こうは説明できないかしら、前々から、ほかの事件のことでも、あなたにご相談していたし、なにやかにや、いろんなことがごっちゃになってしまったので、警察より先に、あなたとお話したいと思ったと、そう説明できないでしょうかしら?」
メイスンは、声を出して笑った。
「まったくうまい工合に、ごっちゃになってくれるでしょうな。そんなことをいうと、警察では、前々からのほかの事件とはなんだと、それこそ根掘り葉掘り聞きたがるにきまってますよ。そして、すっかり説明もしおわらぬ先に、あなたにはご主人を殺す立派な動機があったということを、警察に教える結果になったと気がつくのがおちでしょうな。そのほかの事件というやつは、絶対に、この事件に持ち出すようなことはしちゃいけません。ハリスン・バークのことは、しっかり胸に畳み込んでおかなくちゃいけません。バークにも、口を割らせないようにすることです」
「でも」と、女は、異議をとなえた。「新聞のことはどうするんですの?『スパイシイ・ビッツ』のほうは、どうするんです?」
「あなたは、こういうことには気がつかなかったんですか?」と、メイスンが問いをかけた。「というのは、ご主人が亡くなった以上、ほかならぬあなたが、あの新聞の持ち主だということを、考えてみたことはなかったんですか? いまじゃ、あなたが、ご主人の後釜になって、自由に、新聞の方針をきめることができるんじゃありませんか」
「でも、あたくしを相続から除外するような遺言書を残していたら、どうしましょう?」
「その場合は」と、メイスンがいった。「遺言無効の訴訟を起こして、その判決がおりないうちは、あなたを特別管財人とする仮処分を申請することにしましょう」
「わかりましたわ」と、女は、性急にいった。「それで、あたくしが、家を飛び出して、それから、どうしたということにしましょう?」
「わたしに、お話になった通りでいいんです。あなたは、すっかり取り乱して、家を飛び出した。ただ、その飛び出したのが、ご主人と一緒にいた男が、階段を駆けおりる前だったということは、よく頭に入れておいてくださいよ。あなたは、家から飛び出して、雨の中へ出た。玄関の外套かけの前を駆け抜けながら、最初に手に触れたレインコートを、確かめもせずに引っつかんで行った。自分のコートがそこにかかっていたのに、それさえ気がつかずに、男物のコートをもって出たほど、すっかり興奮してしまっていたわけです」
「わかりました」と、女は、同じような性急なじりじりしたような声音で、いった。「それから?」
「それから」と、メイスンが話をつづけた。「あなたは、雨の中に飛び出した。玄関の前の車寄せに車が一台とまっていた。がしかし、あなたは、すっかり気が転倒してしまっていたので、車の種類も、箱型か幌型かの区別も、気がつかなかった。ただ、無我夢中で駆け出した。すると、あなたの後ろから、一人の男が家から駆け出して来たと思うと、とまっていた車に飛び乗って、ヘッドライトをつけた。あなたは、自分が追っかけられているのかと思って、あわてて、植え込みの中に身をかくした。
車は、そのまま、あなたに構わず通りすぎて、丘を降りて行った。あなたは、そのナンバーを確かめようとして、その後を追って駆け出した。というのは、もうそのときには、ピストルの音がしたときに、ご主人と一緒にいた男が誰か、それを確かめることが大事なことだと感じていたからです」
「わかりました」と、女がいった。「それから?」
「その先も、わたしに話した通りでいい。ひとりで、家に帰るのがこわかったので、あなたは、一番近くの電話のあるところまで歩いて行った。忘れてはいけないのは、その間じゅうずっと、あなたは、ご主人が殺されたということを知らなかったということですよ。知っていたのは、ピストルを射つ音がしたということで、ご主人がピストルを射って、自動車で逃げて行った男が傷を受けたのか、それとも、その逃げて行った男が、ご主人を射ったのかも知らなかった。いや、そればかりじゃない。弾丸があたったのか、はずれたのか、ご主人が、かすり傷を受けたのか、重傷を負ったのか、殺されたのか、それとも、その男が部屋にいるうちに、ご主人が自殺されたのか、いっさい知らなかったのです。そういうことを全部、おぼえていられますか?」
「ええ、おぼえていられると思いますわ」
「よろしい」と、メイスンがいった。「それで、わたしに電話をかけた理由が説明できるわけだ。わたしは、すぐに出かけると返事をした。電話では、ピストルを射った音がしたと、わたしにいわなかったということを、ようく頭に入れておいてくださいよ。あなたはただ、大変なことが起こって、気が気じゃないから、すぐに来てほしいと、そう、わたしにいっただけでしたよ」
「どうして、あなたに来ていただきたいという気になったかといわれたら」と、女がたずねた。「それには、どういいわけをしたらいいでしょう?」
「わたしは、昔からのあなた方の友だちじゃありませんか」と、メイスンがいった。「あなたもご主人も、あまり社交界には、ご一緒にはお出でにならないんでしょう」
「ええ」
「それは結構だ」と、メイスンがいった。「あなたは、たしか一、二度、わたしのことをペリイとお呼びになりましたね。これからは、いつも、そう呼ぶんですね。ことに、他人のいる前ではね。わたしは、あなたの古くからの友人なんですからね。あなたが、わたしに電話をかけたのも、特に弁護士だからではなく、友人としてかけたんですよ」
「わかりましたわ」
「さて、問題はそこですがね、いままでの話をすっかり、おぼえていられますか? 一つ、こたえてごらんなさい!」
「おぼえていられますわ」と、女がこたえた。
メイスンは、すばやく、部屋の中を見まわした。
「ハンドバッグをおき忘れたといいましたね。さがし出したほうがいいですね」
女は、デスクのそばへ歩み寄って、引き出しをあけた。その中に、ハンドバッグがはいっていた。女は、それを取り出してから、「ピストルは、どうしましょう?」とたずねた。「どうかしたほうがいいんじゃないでしょうか?」
メイスンが、女の視線をたどると、床に、自動拳銃がころがっていた。デスクの下になっているので、目につかなかったのだ。
「いけません」と、メイスンがいった。「そりゃ運がよかった、わたしたちには。このピストルを調べてみれば、警察では、持ち主をつきとめることができるかもしれませんよ」
女は、額に八の字を寄せて、いった。「でも、おかしいんじゃありませんか、人を射っておいて、そのピストルを、こんなところへほうっといて行くなんて。いったい、誰のピストルなんでしょう。なんとかしたほうが、いいんじゃないでしょうか?」
「なんとかするって、どうするんです?」
「どこかへ隠すのよ」
「そんなことをして」と、メイスンがいった。「なんと説明するとおっしゃるんです。それよりも、警察に発見させたほうがいいですよ」
「あたくし、とてもあなたを頼りにしてるんですよ、ペリイ」と、女がこたえた。「でも、なんとかするほうがいいんじゃないでしょうか。ここは、死体だけにしといたほうが」
「いけません」と、メイスンは、そっけなくいった。「あなたは、わたしがいったことは、なにからなにまでおぼえていられるでしょうね?」
「ええ」
メイスンは、電話を取りあげて、「警察本部へつないでくれ」といった。
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第九章
殺人捜査課の主任、ビル・ホフマンは、遅鈍《ちどん》ではあるが、底の底まで見きわめようとする観察眼を持った、大柄な、ねばり強い男で、はっきりした結論を下すまでに、物ごとを、頭の中で、繰り返し繰り返し熟考する癖があった。
ホフマンは、ベルター家の一階の居間に腰をおろして、立ちのぼるたばこの煙の間から、じっとペリイ・メイスンの顔を見つめた。
「わしらの見つけた書類によると」と、ホフマンがいった。「ジョージ・ベルターは、『スパイシイ・ビッツ』のほんとうの持ち主だということがわかった。ゆすり専門の新聞で、この五、六年間いろんな人間から金をゆすり取っていたんだね」
ペリイ・メイスンは、ゆっくりと、用心深く、しゃべった。「そうなんだ、部長」
「いつから、そのことを知ってたんだ?」と、ホフマンがたずねた。
「それほど前からじゃないがね」
「どうして、かぎ出したんだ?」
「そいつは、いえんよ」
「いったい、どういうわけで、警察より先に、ここへやって来たんだ?」
「ベルター夫人の話を聞いたろう。あの通りさ。あの人が、電話をかけて来たんだ。夫人は、主人がかっと取りのぼせて、訪ねて来た男を射ったと思ったらしいんだね。なにがどうなったのかも知らなかったらしく、行って確かめるのもこわかったらしいんだ」
「なぜ、こわかったんだ?」と、ホフマンがたずねた。
ペリイ・メイスンは、肩をすぼめて、「きみは、あの男を見ただろう」といった。「『スパイシイ・ビッツ』を経営するような人間が、どんなタイプの人間か、見当はつくだろう。ざっくばらんに言えば、まあ冷血漢《ハード・ボイルド》ということで、ご婦人を扱う点において、申し分のない紳士とか、まったく紳士的だとかはいえんだろうな」
ビル・ホフマンは、メイスンの言葉を、頭の中でとっくり考えていたが、「うん、そんなものかね」といった。「いずれにしろ、ピストルの出所を突きとめれば、もっとわかるだろうな」
「出所を突きとめられるかね?」と、メイスンがたずねた。
「そう思うさ。番号があるんだからね」
「そうだ」と、メイスンがいった。「警官が番号を書きとめているときに、見た。三二口径のコルト自動式《オートマチック》だろう?」
「それだよ」と、ホフマンがこたえた。
しばらく、沈黙がつづいた。ホフマンは、たばこを吹かしながら、考えにふけっていた。ペリイ・メイスンは、筋肉一つ動かさないほど、じっとすわり込んでいた。すっかりくつろいでいるか、さもなければ、ほんのちょっとでも身動きすれば、その動きが、自分の心の動きをあらわに見せやしないかと恐れている人の姿勢だった。
一、二度、ビル・ホフマンは、落ちついた目をあげて、ペリイ・メイスンの顔を見た。がやがて、ホフマンは、口を開いた。「どうも、この事件には、なんだかおかしなところがあるね、メイスン。それをどう説明していいか、わからんのだが」
「ふん」と、メイスンがいった。「そいつは、きみの考えるべきことだな。いつもなら、ぼくが殺人事件に関係するのは、警察の仕事がすんでしまったずっと後のことなんだからね。だから、こん度のことは、ぼくにも、一つの新しい経験だよ」
ホフマンは、ちらっとメイスンに視線を向けてから、「そうさ」といった。「警察より先に現場に到着しているというのも、弁護士にとっても、異例なことじゃないのかな?」
「うん」と、メイスンは、曖昧な口振りでいった。「その『異例な』という言葉には、ぼくも賛成できるような気がするな」
ホフマンは、しばらく、黙ってたばこをふかしていた。
「甥のいどころは、まだわからんのかね?」と、メイスンがたずねた。
「まだだ」と、ホフマンがいった。「あの男が、普段行きつけのところは、あらかたあたってみた。夕方早くの足どりはつかんだ。ある女といっしょに、ナイトクラブに行ってる。その女のいどころは、ちゃんとつきとめた。男とは、十二時前に別れた、十一時十五分ごろだという気がすると、そういうんだ」
だしぬけに、門の中の車寄せの道をのぼって来る車のモーターの音が聞こえた。雨は、もうやんで、雲の切れ目から、月がのぞいていた。
モーターの音にかぶさって、どしん……どしん……どしん……どしんという、規則正しい音が聞こえた。
車がとまって、警笛が高く響いた。
「いったいなんだ。ありゃ?」といって、ビル・ホフマンは、ゆっくりと立ちあがった。
ペリイ・メイスンは、首をかたむけて、耳をすましていたが、「パンクしているらしいな」といった。
ビル・ホフマンが、ドアの方へ足を運んで行くと、ペリイ・メイスンも、その後につづいて行った。
ホフマン部長刑事は、玄関のドアをあけた。
玄関の前の車寄せの道には、警察の自動車が四、五台とまっていた。いまのぼって来た車は、そのとまっている警察の車の外側にとまっていた。両脇のカーテンをおろしたロードスターだ。ハンドルの前にすわっている、はっきりわからぬ人の姿が、家のほうを眺めている。車の脇のカーテン越しに、その男の顔が、ほの白く、夜目に浮かんでいた。片手で、引っきりなしに警笛を鳴らしつづけていた。
ホフマン部長刑事が、ポーチの灯りの中に出て行くと、警笛は鳴りやんだ。
ロードスターのドアがあいて、ろれつのまわらぬ声が呼びかけた。
「おいディグリー……パンクだ……とりかえられないんだ……かがめねえんだよ……気持ちが悪いんだ……ちゃんとしてくれ、車を……タイヤをちゃんとしろ」
ペイイ・メイスンが、さりげなくいった。「多分、甥のカール・グリフィンらしいな。なにをいうか、聞いてみようじゃないか」
ビル・ホフマンが、のどの奥でうなるようにいった。「ここから見たところじゃ、たいして口もきけそうにもないね」
二人はいっしょに、車の方へ足を運んだ。若い男は、ハンドルの前からはい出して、あぶなっかしい足で、車のステップをさぐり、つんのめるように出て来た。車体の支えを手でつかんだからいいようなものの、でなかったら、倒れていたところだった。ようやく、その場に立ったが、体は、ふらふらと前後に揺れていた。
「パンクしちまったんだぞ」と、かれは、どなるようにいった。「ディグリーはいないのか……きみたちは、ディグリーじゃあないな。二人いるらしいが……どっちもディグリーじゃねえな。いったい、誰だ? こんな夜中になんの用だ? 人さまの家を訪問するような時間じゃないじゃないか」
ビル・ホフマンが、進み出て、「酔っぱらっているらしいな」といった。
男は、しかつめらしい探るような目つきで、ホフマンのほうをちらと見た。
「そうさ、酔っぱらってるさ……なにをしに出かけていたと思うんだ? むろん、酔っぱらってるさ」
ホフマンは、ぐっと肚の虫を抑えて、いった。「きみは、カール・グリフィンかね?」
「そうさ、カール・グリフィンさまさ」
「よし」と、ビル・ホフマンがいった。「さっさと酔いをさましたほうがいいね。きみの伯父さんが殺されたんだ」
一瞬、沈黙が降りた。車体の屋根につかまって身を支えていた男は、頭の中に一杯になっている霧を払いのけようとするかのように、二、三度、頭を振った。
やがて、口を開いたとき、男は、いままでよりしっかりした声で、「なんだって?」とたずねた。
「きみの伯父さんだよ」と、部長刑事がいった。「そうだろう、きみの伯父さんだろう、ジョージ・C・ベルターは。一時間か一時間半前に、殺されたんだ」
ウイスキーのいやな匂いが、男の体を包んでいた。かれは、必死になって冷静を保とうとしていた。二つ三つ、深い息を吸ってから、いった。「きみは、酔っぱらっているな」
ホフマン部長刑事は、にっこり笑いを浮かべて、「いいや、グリフィン、おれたちは、酔っちゃいない」と、じりじりするのをこらえて、いった。「酔っぱらっているのは、きみのほうだ。ずいぶん、はしごをして来たらしいね。いいから、家の中へはいって、しゃんとなるようにしたほうがいいぜ」
「きみはいま、『殺された』とかいったね?」と、若い男はたずねた。
「そういったよ――殺されたんだ」と、ホフマン部長刑事が、繰り返していった。
若い男は、家のほうへ歩き出した。両肩をうしろに引き、頭をまっすぐに立てながら、「殺されたとすれば」といった。「やったのは、あの畜生女だな」
「というと、誰のことだ?」と、ホフマン部長刑事がたずねた。
「伯父が結婚したベビイ・フェイスの|あま《ヽヽ》さ」と、若い男が吐きすてるようにいった。
ホフマンは、若い男の腕をとり、振り返って、ペリイ・メイスンに、「メイスン」といった。「すまんが、車のエンジンのスイッチを切って、灯りを消してくれないか?」
カール・グリフィンは、立ちどまり、あぶなっかしく、うしろを向いて、「タイヤもかえてくれよ」といった。「前の右だ――パンクしたまま、何マイルも走って来たんだから……かえたほうがいい」
ペリイ・メイスンは、エンジンをとめ、灯りを消し、車のドアをばたんとしめて、足を早めて前へ行く二人を追った。
メイスンは、玄関の広間の灯りの下で見ると、カール・グリフィンは、なかなかの好男子で、酒のために赤らんだ顔には、放蕩者らしい色がありありとあらわれている。目も赤く充血して、どんよりとうるんでいるが、身のこなしには、どことなくもって生まれた威厳のようなものがそなわっていて、非常の場にのぞんで、なんとか周囲の空気にうまく調子を合わせようとしている態度にも、育ちのよさがあらわれている。
ビル・ホフマンは、まともに青年の方を向いて、仔細に相手を眺めた。
「どうだね、われわれと話し合えるほど、酔いがさませるかね、グリフィン?」と、ホフマンはたずねた。
グリフィンはうなずいて、「ほんのちょっと待ってくれ……すぐよくなるよ」
グリフィンは、ホフマン部長刑事を押しのけて、一階の、応接間の奥にある洗面所の方へ、よろめきながら歩いて行った。
ホフマンは、メイスンの顔に目を向けた。
「ずいぶん酔っぱらっているね」と、メイスンがいった。
「まったく酔っぱらってる」と、ホフマンがこたえた。「だけど、飲みつけない男の酔い振りじゃない。飲みつけてるから、性根はしっかりしてるよ。なにしろ、パンクした車で、雨に濡れた道を、ここまで運転してやって来たんだからな」
「そうだ」と、メイスンが相槌を打った。「ちゃんと運転できたんだからな」
「どうやら、あの男とエバ・ベルターとは、仲がよくないらしいな」と、ホフマン部長刑事が、はっきりといった。
「というのは、あの男が、夫人についていったことから、そう思うんだね?」と、メイスンがたずねた。
「そうさ」と、ホフマンがいった。「ほかに、どんなわけがあるんだ?」
「あの男は、酔っ払いだよ」と、メイスンがいった。「まさか、きみは、酔っぱらいが野放図にいったことを盾にとって、一人の女性に嫌疑の目を向けようというんじゃないだろうな?」
「そりゃ、あの男は、酔っぱらってるさ」と、ホフマンがいった。「しかし、ちゃんと、車をここまで動かして来たんだからな。酔っぱらってたって、頭のほうはしっかりしているかもしれんよ」
ペリイ・メイスンは、肩をすぼめて、「ま、好きなようにするさ」と、無造作にいった。
浴室の方から、激しく嘔《は》く音が聞こえて来た。
「あれで、きっと酔いがさめるよ」と、油断のない目つきでペリイ・メイスンの顔を見ながら、ホフマン部長刑事がいった。「見ていろよ、正気にもどってからも、あの女について同じことをいうからな」
「いや、泥酔していることには間違いないよ、正気に見えようと、なんと見えようと」と、メイスンが、びしっといった。「ああいう連中てものは、大酒がはいっているときには、とんでもないことをいうもんだ。酔っぱらっているときにかぎって、裁判官みたいにまじめくさって振舞えるかと思うと、そのくせ、なにをしてるか、なにをいってるか、まるきり頭にはないんだからね」
ビル・ホフマンは、意味ありげな色を目に浮かべて、メイスンを見た。
「あの男が、なにをいい出すかわからんから、前もって予防線を張っておこうというんだね、メイスン?」
「そんなことはいわないよ」
ホフマンは、声を出して笑いながら、「そうだ」といった。「そうはいわなかったな。たしかに、そういう言葉はな」
「ブラック・コーヒーでも飲ませてやったらどうかな?」と、メイスンがたずねた。「台所へ行って、わかして来ようか」
「台所には、家政婦がいるはずだ」と、ホフマンがいった。「おれは、きみを怒らせたくはないんだがね、メイスン君。だが、俺は、どうしても、あの男とさしで話してみたいんだ。この事件における、きみの立場がどんなものか、はっきり、おれは知らん。どうも、きみは、この家族の友人でもあり、弁護士でもあるらしいね」
「ああ、いいよ」と、メイスンは、あっさり同意した。「きみの立場は、よく心得てるよ、部長刑事。ぼくは、偶然、ここに来合わせて、この場にいるだけなんだから」
ホフマンはうなずいて、「台所に行けば、家政婦がいるだろうよ。ビーチ夫人とかいう名前だがね。さっき二階で、その女と娘とを尋問したよ。ひとつ行って、コーヒーをつくれるかどうか、聞いてみてくれ。ブラック・コーヒーをたっぷり沸かさしてくれ。グリフィンだけじゃなく、二階にいる署の連中もほしいだろうからな」
「よし来た」そういうとメイスンは、食堂との間の両開きのドアをぬけて、配膳室を通り、スイング・ドアを押して、台所にはいって行った。
おそろしく大きな台所で、照明も完全なら、設備も整っていた。二人の女が、テーブルに向かっていた。背板のまっすぐな椅子に、ぴったり寄り添うように腰をかけている。ひそひそ声で話し合っていたが、ペリイ・メイスンが部屋にはいって来たのを見て、いきなり話をやめて、目をあげた。
一人は、五十近い女で、髪には、白いものがちらほらまじり、落ちくぼんで、どんよりした黒い目は、見えない糸で顔の奥に引っぱりこまれたみたいに、ずっと眼窩《がんか》の底に落ちくぼんでいて、ほとんど表情を読みとることができない。長い顔に、薄い、しっかりした唇で、頬骨が高く出ていた。黒い服を着ていた。
もう一人の女は、とても若くて、二十二か三を越えない年ごろだった。髪は、漆のように黒く、つやつやと光沢を帯び、目もぴかぴかと黒くて、その輝きは、年上の女の深く落ちくぼんだ目の鈍さをいっそう際立たせている。唇は、豊かで、まっ赤だ。顔は、紅と白粉とで、念入りに手入れが行き届いている。眉は、細く黒く弧を描き、まつげも長い。
「ビーチさんですね?」と、ペリイ・メイスンは、年上の女のほうに声をかけた。
女は、唇をかたく結んだまま、ものもいわずにうなずいた。
その傍らの娘が、豊かな、のどの奥から出る声でしゃべった。
「あたし、娘のノーマ・ビーチですの。どんなご用でしょうか? お母さんは、すっかり気が転倒してしまっているんですの」
「ああ、そうでしょうね」と、メイスンは、いいわけをするような口調でいった。「実は、コーヒーを沸かしてもらえないかと思いましてね。カール・グリフィンが、いま帰って来て、ほしいだろうと思ったんでね。二階で仕事をしている警察の連中も、ほしがるだろうしね」
ノーマ・ビーチが立ちあがって、「あら、そうね。いいわね、母さん?」と娘がたずねた。
娘が、ちらっと母親の方に目を向けると、母親は、またうなずいた。
「じゃ、あたしがするわ、母さん」と、ノーマ・ビーチがいった。
「いいよ」と、母親は、とうもろこしのからをこすり合わせるような声でいった。「わたしがするよ。お前には、なにがどこにあるか、わからないじゃないか」
母親は、椅子をうしろに押して立ちあがり、食器棚に近づいた。食器棚の戸をあけて、大きなコーヒー沸かしと、コーヒーの鑵を取り出した。顔には、まるきり表情というものもなかったが、動作は、ひどく疲れているようだった。
胸はうすく、腰も厚みがなく、元気のない歩き方で、すべての物腰が、がっくり気落ちしているようなふうだった。
娘は、メイスンの方に顔を向けて、まっ赤な豊かな唇に、ちらっと微笑みを浮かべた。
「あなたは、刑事さんでしょう?」と、娘はたずねた。
メイスンは、首を横に振って、「いいや」といった。「ぼくは、ベルター夫人といっしょに、ここへ来た者です。警察へ電話をかけて来てもらったのも、ぼくです」
ノーマ・ビーチがいった。「あら、そうでしたわね。あなたのことはうかがってましたわ」
メイスンは、母親の方を向いて、「ぼくだって、コーヒーぐらい沸かせますぜ、ビーチ夫人、あんた、気分が悪いようなら」
「いいえ」と、母親は、さっきと同じような、かさかさした、無表情な声でいった。「大丈夫、沸かせます」
かの女は、コーヒー沸かしにコーヒーの粉を入れ、水を入れると、ガス・ストーブのところへ行き、火をつけ、しばらく、コーヒー沸かしを見てから、その一風変わった、篇平足のような歩きかたで、もとの椅子にもどり、腰をおろして、両手を膝に重ね、目を伏せて、テーブルの上を見つめた。そのまま、じっと強く見つめつづけた。
ノーマ・ビーチが、ペリイ・メイスンの顔を見上げて、「あの」と口を切った。「恐ろしいことですわね?」
メイスンはうなずいて、さりげない口調で、「ピストルの音は、聞こえなかったのでしょう?」
娘は、首を横に振った。
「ええ、あたし、ぐっすり眠ってたんですの。ほんとに、おまわりさんが来るまで、目がさめなかったんです。おまわりさんは、母さんを起こしたんですけど、あたしが隣の部屋に寝てるのは、知らなかったんじゃないでしょうか。母さんが二階に呼ばれて行っているあいだに、母さんの部屋を調べようとしたんでしょうね。とにかく、一番はじめに気がついたことは、目がさめてみると、ベッドのそばに男の人が立っていて、あたしを見おろしていたってことですわ」
娘は、目を伏せて、ちょっと、くすっと忍び笑いをした。
「それで、どうしました?」と、メイスンがたずねた。
「まるで薪の山の中から、黒ん坊を見つけたような顔をしてましたわ」と、娘がいった。「着物を着ろっていうんですけど、着てるあいだも、じろじろ見ていて、目をそらしたりなんかしないんですよ。二階に連れて行かれて、拷問ていうんでしょう、さんざんにきかれましたわ」
「どんなことを話したんです?」と、メイスンがたずねた。
「ほんとのことをいいましたわ」と、娘はいった。「ベッドへはいって、眠ってたって。目がさめてみたら、誰かが、あたしの顔を見おろしていたって」それから、むしろうれしそうに、「だのに、ちっとも信じてくれないんですのよ」と、つけ加えていった。
母親は、テーブルに向かって、膝に両手を重ねたまま、じっとテーブルのまん中を見つめて、身動きもしなかった。
「それで、あなたは、なんにも聞きもしなければ、見もしなかったというんですね?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「ええ、なんにも」
「なにか、思いあたることがありませんか?」
娘は、首を振って、「無理に、繰り返していうようなことは、なんにもありませんわ」
メイスンは、鋭く、ちらっと娘の顔を見て、「繰り返していわなくてもいいようなことなら、あるんですね?」と問い詰めた。
娘は、うなずいて、「むろんですわ、あたし、ここへ来てから一週間かそこらにしかなりませんけど、その間にだって……」
「ノーマ!」と、母親が、娘の言葉をさえぎった。その声は、急にいままでのような、ものうい、しわがれ声はどこへやら消えてしまって、びしっと鞭《むち》の鳴るような響きに変わっていた。
娘は、いきなり、沈黙に落ち込んでしまった。
ペリイ・メイスンは、ちらっと母親の方に視線を走らしたが、かの女は、ものをいうときにも、ほとんどテーブルから目を上げようともしなかった。
「あなたは、なにか変わった音を聞きませんでしたか、ビーチ夫人?」と、メイスンはたずねた。
「わたしは、雇われている人間です。なんにも聞きもしなければ、見もいたしません」
「なるほど、つまらない問題の場合なら、召使いとして立派な心がけです」と、メイスンがいった。「しかし、こん度のような法律に触れるような事件になると、見ざる聞かざるでは通らないでしょうな」
「いいえ」と、まるきり顔の筋肉一つ動かさずに、かの女はいった。「わたしは、なんにも見ませんでしたよ」
「それから、なにも聞きもしなかったというんですね?」
「なにも聞きもしませんでした」
ペリイ・メイスンは、にがい顔をした。なんとなく、この女が、なにかを隠していると感じた。
「二階で訊問されたときにも、そんなふうにこたえたんですか?」と、メイスンが聞き返した。
「どうやら」と、メイスンの問いなど聞こえないように、母親がいった。「コーヒーがもう沸きそうですよ。火を細くしないと、吹きこぼれますよ」
メイスンは、コーヒーの方を振り返った。コーヒー沸かしは、多量の水を短時間のうちに沸かすように、特別に工夫されたものだった。見ると、その下では火が、青い炎をあげて強く燃え、湯気が立ちはじめていた。
「コーヒーは、ぼくが見ている」と、メイスンがいった。「それよりも、二階で訊問されたときに、その通りの返事をしたのかどうか、そいつを知りたいね」
「その通りといいますと?」と、母親が問い返した。
「いま、ここでこたえたようにということですよ」
「同じ返事をしました」と、母親がいった。「なにも見もしなければ、聞きもしなかったと」
ノーマ・ビーチが、くっくっと笑って、「母さんがそういったら」といった。「てこでも動かないわよ」
母親が、「ノーマ!」と、びしっといった。
メイスンは、じっと二人の女を見詰めた。その考え深い顔は、あくまでも穏やかな色をたたえていた。ただ目だけは、きびしい色を浮かべ、なにかを思いめぐらしていた。
「ねえ」と、メイスンは口を開いた。「わたしは、弁護士ですよ。なにか打ち明けることがあるんだったら、いまが絶好の時じゃないのかね」
「そうです」と、抑揚のない調子で、ビーチ夫人がいった。
「というと?」と、ペリイ・メイスンが、たずね返した。
「そのとおりだと申しあげただけですわ」と、夫人がいった。「いまが絶好の時だとおっしゃったのに」
しばらく、沈黙がつづいた。
「それで?」と、メイスンが口を開いた。
「でも、打ち明けることなど、なにもございません」と、母親はいっただけで、目は相変わらず、テーブルの上に釘づけになっていた。
そのとき、コーヒー沸かしが沸騰しはじめた。メイスンは、火を消した。
「あたし、お茶碗を出すわね」といって、ノーマが、ぱっと立ちあがった。
ビーチ夫人が、「すわっておいで、ノーマ、わたしがします」といって、椅子をうしろに押し、立って食器棚の前に行き、コーヒー茶碗を取り出しながら、「あの人たちなら、これで飲めばいい」
「母さん」と、ノーマがいった。「それは、運転手や召使い用に使うやつよ」
「おまわりじゃないか」と、ビーチ夫人がいった。「同じようなものだよ」
「いいえ、ちがうわ、母さん」と、ノーマがいった。
「これでいいんだよ」と、ビーチ夫人がいった。「旦那さまが生きておいでになったら、なんとおっしゃるか知ってるだろう。旦那さまなら、おまわりになんかお茶もおだしになるまいよ」
ノーマ・ビーチが、「でも、旦那さまは、もういらっしゃらないのよ。これからは、ベルター奥さまが、なんでもなさることになるのよ」
ビーチ夫人は、くるっと向き直って、深く落ちくぼんだ、どんよりした目で、じっと、娘の顔を睨みつけながら、「はっきり、そうとはきまってないよ」といった。
ペリイ・メイスンは、コーヒーを少し、茶碗に注いでみた。が、まだ色がうすかったので、それを、もう一度、コーヒーの粉を通してコーヒー沸かしにもどした。二度目に注ぎ直してみると、コーヒーは黒く出て、湯気を立てていた。
「お盆をください」とメイスンがいった。「ホフマン部長刑事とカール・グリフィン君とには、わたしが持って行きます。二階の連中には、あなたがたが持って行ってください」
無言のまま、母親は、お盆を渡した。ペリイ・メイスンは、三つの茶碗にコーヒーを注ぎ、盆を持ちあげて、食堂をぬけて居間へはいって行った。
ホフマン部長刑事は、両肩を引くように胸を張り、首を前に突き出し、脚を大きく開いて立っていた。
椅子のひとつに、落ち込んだように腰をおろした、赤ら顔の目を血走らせた男は、カール・グリフィンだった。
ペリイ・メイスンが、コーヒーを運んで行ったとき、ホフマン部長刑事はしゃべっているところだった。
「そいつは、さっき、はじめて帰って来たときに、夫人についていったことと、話がちがうじゃないか」と、ホフマン部長刑事がいった。
「そりゃ、さっきは、酔っぱらってたからね」と、グリフィンがいった。
ホフマンは、相手をじっと睨み付けて、「人間というものは、しばしば、酔っぱらっているときに、嘘いつわりのないことを口にし、正気のときに、肚の中のことを隠すものだよ」と、しかつめらしくいった。
カール・グリフィンは、上品に、驚いたというように、眉をあげて、「そうかね?」といった。「ちっとも気がつかなかったね、そんなこと」
ホフマン部長刑事は、メイスンがうしろに近づいた足音を聞いて、くるっと向き直り、湯気の立っているコーヒー茶碗を見ると、にやっと顔をほころばして、「ようし、メイスン」といった。「ちょうどお誂え向きのときに来てくれたな。きみも一杯やりたまえ、グリフィン、気分がよくなるぜ」
グリフィンは会釈をして、「うまそうだな、だけど、ぼくは、もうすっかり気持ちはいいよ」
メイスンは、コーヒー茶碗を一つ、グリフィンに渡した。
「きみは、遺言状のことを知ってるかね?」と、だしぬけに、ホフマン部長刑事がたずねた。
「そいつには、ちょっとこたえたくないな、たってというのでなければ、部長刑事」と、グリフィンがこたえた。
ホフマンは、自分でもコーヒー茶碗をとりあげて、「いや、たって聞きたいね」といった。「いまの質問にこたえてもらいたいね」
「そうさ、遺言状はありますよ」と、グリフィンは認めた。
「どこに?」と、ホフマンがたずねた。
「知らないね」
「どうして、あるということを知っているんだね?」
「ぼくに、見せてくれたからさ」
「遺産は全部、夫人が受けることになっているのか?」
グリフィンは、首を横に振って、「夫人には、なにも行かないだろう」といった。「現金で五千ドル以外はね」
ホフマン部長刑事は、眉をぐっとあげて、ひゅっと口笛を鳴らして、「そうなると」といった。「見方は変わって来るね」
「なんの見方が変わるというんです?」と、グリフィンがたずねた。
「この事件全体の見方さ」と、ホフマンがいった。「夫人は、実際的には、この家の主人に扶養されていて、いつまでも主人が生きていることを頼りにしていた。だから、主人が死んだとたんに、文字通り、一文なしでほうり出されることになるわけだ」
グリフィンは、自分から進んで、弁解するようなふうに、口を開いて、「しかし、二人の仲は、ひどくよかったという気はしないがね」
ホフマン部長刑事は、じっと考えに沈みながら、「そんなことは問題じゃない。こういう事件の場合には、動機をさがし出さなきゃならんのが普通なんだ」
メイスンは、ホフマン部長刑事の顔を見て、にやっと薄笑いを浮かべながら、「きみは、ベルター夫人がピストルをうって、夫を射殺したといいたいんだね?」とたずねたが、その口振りは、これは冗談さというような口吻だった。
「いや、おれは、型通りの訊問をしているだけさ、メイスン。ベルターを殺す可能性のある人物をさがし出すためのな、そういう場合、いつでも、おれたちは、まず動機をさがすんだ。被害者の死亡によって、利益をうける者があるかどうかを発見しようと努めるんだ」
「そうなると」と、グリフィンは、しらふの人間のように落ちついた口調でいった。「ぼくも容疑者の一人ということになるね」
「というと?」と、ホフマンがたずねた。
「遺言の内容によると」と、グリフィンが、ゆっくりとした口調で、「ぼくが遺産のほとんど全部を譲り受けることになっている。そのことが、特に、秘密になっているかどうか、ぼくは知らん。だが、伯父のジョージは、この世の誰よりも、ぼくを可愛がっていてくれたと思うんだ。つまり、伯父の性癖から考えてみると、最大限の愛情を、ぼくに対して持っていてくれたということだ。あの人に、ほかの人間を愛することができたかどうか。ぼくにはわからないね」
「きみのほうでは、伯父さんに対してどう思っていたんだね?」と、ホフマンがたずねた。
「伯父の気持ちを尊敬していたよ」と、一つ一つの言葉を、注意深く選びながら、カール・グリフィンがこたえた。「それに、性質のうちにも、いいものがあったと思うね。ひどく世間を避けた生活を送っていたのも、すべてのごまかしや偽善が、どうにも我慢がならなかったからだろうね」
「どうしてそんなことが、世間を避けた生活を送らなけりゃならん理由になるんだね?」と、ホフマン部長刑事がたずねた。
グリフィンは、ほんのかすかに、肩をすぼめて、「きみだって、ああいうような気持ちを持っていたら」といった。「そういう質問をする必要はないだろうね。あの人は生まれつき、驚くべき知的な頭脳の持ち主だった。人の肚の中を見抜く力を持っていたし、ごまかしや偽善を見破る力も持っていた。決して、人と親しくはならないタイプの人間だった。誰にも頼ろうとなどしないほど、あくまでも独立独行の人間だった。だから、わざわざ友だちなどを作る理由がなかったのだ。ただ一つの好みといえば、闘うことだった。実際、伯父は、世界を相手にし、世界中の一切の人間を相手にして闘ったのだ」
「だけど、きみとは闘わなかったらしいじゃないか」と、ホフマン部長刑事が、ひやかすようにいった。
「そうだ」と、グリフィンは、相手の言葉を承認した。「ぼくとは争わなかった。それというのも、ぼくが、伯父のことや、伯父の財産のことを、これっぽっちも気にかけていないことを知っていたからだ。ぼくは、伯父にへつらいもしなかった代わりに、だましも裏切りもしなかった。思った通りのことをずけずけといって、正々堂々と振舞っていたんだからね」
ホフマン部長刑事は、目を細めて、「じゃあ、誰が伯父さんをだましたんだね?」とたずねた。
「え、なんだって、なんのことだね?」
「きみが、伯父さんをだまさなかったから、伯父さんのほうでも、きみが好きだったといったじゃないか」
「その通りさ」
「そして、そのことをことさら強い口調でいったじゃないか」
「そんなつもりでいったんじゃないよ」
「夫人についちゃ、どうだね? 伯父さんは、夫人を愛しちゃいなかったのかね?」
「知らんね。伯父は、細君のことを、ぼくと話し合ったことなんかなかったからね」
「夫人も、伯父さんを裏切った組か?」と、ホフマン部長刑事が問い詰めた。
「そんなことを、ぼくが知るわけがないだろう?」
ホフマン部長刑事は、じっと、若者の顔を見つめながら、「きみは、たしかに、隠しておくべきことと、そうでないこととを、ちゃんと承知している人間だね。だが、いいたくなければ、いわなくても、そりゃそれでいいよ」
「いや、いうよ、部長刑事」と、グリフィンがいい返した。「いえるだけのことは、なんでも話すよ」
ホフマン部長刑事は、大きくため息をついて、「そんなら、殺人の行われた時刻にどこにいたか、はっきりいえるかね?」
さっと、グリフィンは、顔を赤くして、「残念だが、部長刑事」といった。「そいつはいえないよ」
「なぜだ?」と、ホフマン部長刑事が質問の矢をはなった。
「なぜって」と、グリフィンがいった。「まず第一に、いつ殺人が行われたか、ぼくは知らないし、第二に、自分がどこにいたかも、知りようがないからなんだ。どうも、ぼくは、今夜は、すっかりご機嫌だったらしいんだな。宵のうち早くは、若い女といっしょだったんだが、その女と別れてから、ひとりで、四、五軒、ナイト・クラブへ行った。家へ帰ろうとすると、いまいましい、タイヤがパンクしやがったんだが、すっかり酔っぱらっちまってて、とてもタイヤの交換などできるこっちゃない。店をあけているガレージも見つからない。おまけに、雨は降っているもんだから、やっとのことで車を運転して来たってわけだ。きっと、ここへ来るまでに、何時間もかかったにちがいない」
「タイヤは、ずたずただったろうな」と、ホフマン部長刑事がいった。「ところで、ほかに、伯父さんの遺言状のことを知っている人間がいるかね? 誰か、見たものがいたかい?」
「ああ、いるさ」と、グリフィンがこたえた。「ぼくの弁護士が見ているよ」
「ほう」と、ホフマン部長刑事がいった。「すると、きみにも、弁護士がいるのかい?」
「むろん、いるさ。いちゃ、いけないのかい?」
「誰だね?」と、ホフマンがたずねた。
「アーサー・アトウッドだよ。相互ビルディングに事務所をおいている」
ホフマン部長刑事は、メイスンのほうを向いて、「おれは、そんな男のこと知らんが、きみは、知ってるかい、メイスン?」
「うん」と、メイスンがいった。「一、二度、会ったことがある。しょっちゅう、個人的な名誉毀損の事件ばかり扱っている、薬罐頭の男だ、いつも、事件を法廷に持ち出さずに解決して、しかも、いつも、なかなかうまくおさめるという評判だ」
「きみは、いったいどういうきっかけで、自分の弁護士のいあわせるところで、その遺言状を見るようなことになったんだね?」と、ホフマン部長刑事が、押し返して聞いた。「遺言の受益者を、その弁護士といっしょに呼び寄せて、その遺言状の内容を見せるというのは、あまり世間ではやらないことじゃないかな?」
グリフィンは、唇を噛んで、「そりゃ、弁護士に聞いてもらおう。ぼくの口からはいえないよ。ちょっとこみ入った事情があるんで、ぼくとしちゃ、かれこれいいたくないんだ」
ホフマン部長刑事は、かみつくようにいった。「よし、その件はなかったことにしよう。さあそれじゃ、その先を話してもらおう」
「というと、どういうことだね?」と、グリフィンがたずねた。
ビル・ホフマンは、くるっと向き直って、まっ正面から青年を見おろした。心持ち顎を突き出したと思うと、じっとこらえている目が、急にけわしくなった。
「つまり、こうだ、グリフィン」と、ゆっくりと、凄味を帯びた口調で、ホフマンがいった。
「もうそんないい草は通らんというんだ。きみは、誰かをかばおうとしているか、紳士振ろうとしたり、そんなことばかりしようとしている。が、もうそうはいかんぞ。いま、この場で、知っていることを洗いざらいぶちまけるか、でなけりゃ、重要証人として豚箱へはいるかだ」
グリフィンは、顔を紅潮させて、「そんな」と抗議するように、「そりゃ、ひどすぎるじゃないか?」
「ひどすぎようと、なんだろうと、知っちゃいない」と、ホフマンがいった。「これは殺人事件だというのに、きみは、のんびり構えて、ああだのこうだのと、上顎と下顎とぶつかり放題のことをほざいてる。さあ、とっとと泥を吐いてしまえ。そのとき、どんな話をして、どんないきさつで、きみと、きみの弁護士とに、その遺言状が見せられることになったのだ?」
グリフィンは、しぶしぶ、口を開いて、「ぼくが、いやいやながらしゃべるんだということは、認めてくれるね?」
「ああ、認めるよ」とホフマンがいった。「さあ、とっとと話したまえ。どういうことだ?」
「じゃ、いうよ」と、グリフィンは、ゆっくりと、さも気乗りのしない口調で話しはじめた。「伯父のジョージと細君とが、飛び切りいいなかじゃなかったってことは、さっきもいったね。伯父のジョージは、自分に都合のいい証拠らしいものが見つかった暁には、おそらく、細君が、離婚の訴訟を起こすだろうと考えていたんだね。伯父のジョージとぼくとは、ある事業を共同でやっていたというわけだ、ね。ところが、ある時、アトウッドとぼくとが、伯父を相手にして、事業の打ち合わせをしていると、出し抜けに、まるで方角ちがいな、その話を持ち出したってわけだ。ぼくは、あっけに取られちゃってね、それに、そんな話に立ち入って、あれこれいいたくなかったんだが、アトウッドは、弁護士だからね、話に乗ったというわけさ」
カール・グリフィンは、ペリイ・メイスンの方を向いて、「あんたなら、その事件はわかってもらえると思うがな。そうでしょう。あんたは弁護士でしょう」
ビル・ホフマンは、グリフィンの顔から目をはなさずに、「その人のことなんか、いらんお世話だ。さあ、つづけて。それでどうしたんだ?」
「それでね」と、グリフィンが言葉をつづけた。「伯父は、ひと言、自分と細君の仲がうまく行っていないとかいって、持っていた一通の、どうやら、全部伯父の自筆らしい、書類を差し出して、遺言状が全部自筆の場合には、承認がなくてもいいのか、それとも、やっぱり承認がいるのか、と、弁護士としての意見を、アトウッドに求めたんだ。遺言状を作るには作ったんだが、細君には、対して財産を残さないことになっているんで、異議が出るかもしれないと思っていると、そういう話だった。たしか、五千ドルという額を口に出したようにおぼえている。そして、大部分の財産は、ぼくに残すことになっているともいったんだ」
「きみは、その遺言状を、自分では読まなかったんだね?」と、ホフマン部長刑事がたずねた。
「うむ、はっきりとは読まなかった。そうだよ、手にとって、一語一語、目を通すようにしては読まなかったよ。ちょっと見て、伯父が手で書いたもんだということを認めただけで、後は、伯父の話を聞いていたんだ。アトウッドの方は、もっと念入りに読んだと、思うんだ」
「よし」と、ホフマンがいった。「で、それから?」
「それだけさ」と、グリフィンがいった。
「いや、そんなことはない」と、ホフマンがねばり強く、「そのほかには?」
グリフィンは、肩をすぼめて、「ああ、そうだ」といった。「なんかいったようだったな、男ならいいそうなことを。でも、ぼくは、別に気にもとめなかったんだ」
「とぼけるのはよせ」と、ホフマンは、強くいった。「なんといったんだ、伯父は?」
「そうさ」と、グリフィンは、顔を赤くして、「自分の身になにか起こった場合、細君がそれによって利益を受けないようにしたいって、そういったよ。それから、細君が、離婚訴訟の手続き中に、たんまり分け前が取れないとわかった場合に、早いとこ自分を片づけて遺産を手に入れようという気を起こさないようにしたい、ともいっていたよ。さあ、これで、ぼくの知っていることはなにからなにまで、きみも聞いたわけだ。まあ、こんなことは、きみにはどうでもいいことだろうとは思うがね。仕方ない、いえというからいったようなものの、きみの態度が、ぼくは気に入らんね」
「よけいなことはいわんでいい」と、ホフマンが吐きすてるようにいった。「どうやらこれで、きみが酔っぱらっていたとき、はじめて殺人のことを聞いて口走ったことが、はっきり説明できるようだね。というのは………」
グリフィンが片手をあげて、部長刑事の言葉を押しとどめた。
「頼む、部長刑事」と、グリフィンがいった。「それだけは持ち出さんでくれ。かりに、いったとしたって、ぼくは、そんなことおぼえちゃいないし、まったく、そんなつもりじゃなかったんだ」
ペリイ・メイスンが、傍らから口を開いて、「そんなつもりじゃなかったかもしれんが、たしかに、きみは……」
ホフマン部長刑事は、くるっとメイスンの方を向いて、「きみは、黙っていたまえ、メイスン君!」といった。「おれが訊問しているんだ。きみは、傍聴者として、ここにいるだけだ。静かにしていることができないんなら、出て行ってもらうんだね!」
「きみは、まさか、ぼくを脅かしているんじゃないだろうね、部長刑事」と、メイスンがいった。「ぼくは、エバ・ベルター夫人の弁護士として、当のエバ・ベルター夫人の家にいて、一人の男が、ほかのことはとにかくとして、夫人の名誉を傷つけるような供述をするのを聞いているんだぜ。ぼくは、その供述が実際に述べられるか、それとも取り消されるかを、確かめるつもりだ」
ホフマンの目から、辛抱強くこらえていた色が、すっかり消えてしまった。かれは、気むずかしそうに、メイスンを睨みつけた。
「ふん」と、ホフマンがいった。「そうしたけりゃ、きみの権利とやらを振りまわすがいい。それにしても、きみは、どう説明するつもりか、おれは知らんが、警察がここへやって来て、殺人を発見したときに、きみとご婦人とがすわりこんで、話し合ってたなんて、まったくおかしなことじゃないか。それに、夫が殺されたことを発見した女が、なによりも先に、弁護士に電話をかけたというのも、まったく飛んだ妙ちきりんなことじゃないか」
メイスンは、はげしい口調で、「そいつは公明ないい方じゃないくらいのことは、承知の上だろうな。ぼくは、夫人の友人なんだよ」
「らしいね」と、ホフマン部長刑事が、ぶっきら棒にいった。
メイスンは、両脚を大きく踏み開き、両肩をそびやかして、「これだけは、はっきりさせとこう」といった。「ぼくは、エバ・ベルターの代理人だ。夫人に泥を投げつけていい理由は、絶対にどこにもないぞ。ジョージ・ベルターの死は、夫人には、一文の価値もないできごとだ。ところが、ここにいるこの男には、大いに価値がある。この男は、ふらふらと迷い込んで来て、碌すっぽ頼りにならんアリバイをしたり顔にして、ぼくの依頼人について、うそっぱちを並べ立てにかかっている」
グリフィンは、はげしく抗議した。
メイスンは、ホフマン部長刑事を睨みつけたままで、「いいか、きみたちが、むやみやたらに口から出まかせのことをしゃべったからって、一人の女性に、有罪を宣告することはできないんだぜ。それを決めるのは、陪審員のすることだ。しかも、陪審員にしたところで、かの女に罪ありと、一点の疑問の余地がなくなるまで立証されない限り、有罪の宣告はできないんだぞ」
大柄な部長刑事は、相手の肚をさぐるように、ペリイ・メイスンの顔を見た。
「すると、きみは、もっともらしい疑問点をさがしているってわけなんだな、メイスン?」
メイスンは、カール・グリフィンに指をつきつけて、「だから、きみもあまり大きな顔でのさばるわけにはいかんぞ、若いの」といった。「万一、ぼくの依頼人が陪審員の前に引き出されるようなことになったら、きみと、その遺言状の一件を法廷に引きずり出して、ぎゅうの目に合わせてやる。それを見のがすほど、ぬけていると思うなよ」
「すると、きみは、この男が犯人だと思っているんだね?」と、機嫌でも取るように、ホフマン部長刑事がたずねた。
「ぼくは、探偵じゃない」と、メイスンがいった。「弁護士だ。陪審員は、いささかでも条理のある疑問の存するかぎり、如何なる人に対しても、有罪の評決を下し得ないということを知っているだけだ。だから、なんらか偽りの証拠をでっちあげて、ぼくの依頼人を罪におとし入れるようなまねをしてみろ、ぼくの、いささか条理ある不審というやつが、その椅子に、ちゃんとすわっているんだからな!」
ホフマンは、うなずいて、「おれが思ってたのと、ぽちぽちだ」といった。「はじめから、この場に、きみを立ち合わせるんじゃなかったよ。さあ、出て行ってもらおう!」
「ああ、行くとも」と、メイスンは、相手にいった。
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第十章
夜明けの三時近く、ペリイ・メイスンが、ポール・ドレイクを電話口に呼び出した。
「ポール」と、メイスンがいった。「また一つ、きみにやってもらう仕事ができた。急ぎの仕事だ。こっちの方にまわせる人手はあるかい?」
ポールは、眠そうな声で、「やれやれ」といった。「まだ気にいらんというのかい?」
「おい」と、メイスンがいった。「目をさまして、しゃんとするんだ。大急ぎでやってもらわなきゃならん仕事ができたんだ。警察を出し抜いてもらわなきゃならんのだ」
「いったい、警察を出し抜くなんて、どうして、そんなことができるんだ?」と、ポール・ドレイクが聞き返した。
「きみならできるさ」と、メイスンが相手にいった。「というのはね、ぼくは、偶然のことから知っているんだが、きみがよく頼まれて仕事をする商業保護協会には、この町で売買された銃砲類の記録の控えが、全部保存されているはずだが、きみには、その記録を調べる便宜があるだろう。ところで、ぼくの知りたいのは、三二口径コルト自動拳銃《オートマチック》一二七三三七号の記録だ。警察も、指紋だのなんだのといっしょに、いつもの通りに、その記録も調べにかかるだろうが、そんなことに骨を折るのは朝になってからのことだろう。連中も重要なことだとは承知しているだろうが、それほど急ぐことはないと思っているだろう。きみにやってもらいたいのは、警察よりも先に、そのネタを手に入れることだ。どうしても、先手を打たなくちゃならんのだ」
「そのピストルでどうかしたのか?」と、ポール・ドレイクがたずねた。
「ある男が、そいつで心臓をぶち抜かれたんだ」と、ペリイ・メイスンがいった。
ドレイクは、ひゅうと口笛を鳴らして、「おれのいまやっている件と関係があるのか?」
「そうは思わないんだ」と、メイスンがいった。「だが、警察は思うかもしれん。ただ、ぼくは、依頼人を守る立場に立たなきゃならんと思うんだ。だから、いまいったピストルについての情報をつかんでもらいたいんだ、それも、警察より先にね」
「オーケー」と、ドレイクがいった。「それで、どこへ電話をすればいいんだ?」
「いや、きみからはかけられまい」と、メイスンがいった。「こっちからかけるよ」
「いつだ?」
「一時間したら、もう一度かけよう」
「それまでになんかやれるもんか」と、ドレイクが抗議した。「そんなことできないよ」
「やってもらわなきゃだめだ」と、メイスンがいい張った。「とにかく、電話する。じゃ」そういって、メイスンは、電話を切った。つづいて、ハリスン・バークの自宅にかけた。誰も出て来なかった。それから、デラ・ストリートの番号にかけた。すると、ほとんどすぐに、デラの眠そうな「もしもし」という声が、電話線を伝わって来た。
「ペリイ・メイスンだ、デラ」と、メイスンがいった。「起きて、目をぱちっとさましてくれ。しなきゃならん仕事ができたんだ」
「いま、何時ですの?」と、デラがたずねた。
「三時ごろ、三時十五分すぎかな」
「オーケー」と、デラがいった。「で、なんですの?」
「ちゃんと目がさめたんだね?」
「むろん、さめてるわ。夢の中で、しゃべっていると思ってらっしゃるの?」
「冗談は後まわし」と、メイスンが相手にいった。「まじめな話なんだ。すぐに、なにか引っかけて、事務所へ来られるかい? 着更えのできるころまでに、きみの家に行くように、タクシーに頼んでおくからね」
「すぐに、着更えてよ」と、デラがこたえた。「綺麗にするくらいの時間があるかしら、それとも、なにか着るだけでいいの?」
「綺麗にするほうがいいね」と、メイスンがこたえた。「だけど、あまり時間をかけるなよ」
「すぐよ」と、いって、デラは、電話を切った。
メイスンは、タクシー会社に電話をかけて、デラのアパートまで車を一台まわしてくれるように頼んだ。それから、いままで電話をかけていた終夜営業のドラッグ・ストアを出て、自分の車に乗り込み、急いで事務所まで走らせた。
事務所へはいると、電灯をつけ、日よけを引きおろし、床の上を歩きはじめた。
行ったり来たり、行ったり来たり、両手をうしろに組み、首を前に突き出し、心持ち背をまるめて、メイスンは歩きつづけた。その様子には、檻《おり》の中の虎を思わせるようなところがあった。じりじりと気をいらだてているようだったが、それでも、じっと気を抑えているようないらだちだった。窮地に追いつめられて、すっかり腹を立ててはいるが、あえてまずい動きは一つもしない闘士の姿だ。ドアに鍵の音がして、デラ・ストリートがはいって来た。
「おはようございます、先生」と、デラが挨拶をした。「ずいぶん早起きね!」
メイスンは、手招きして、デラを椅子にかけさせた。「これから」と、メイスンがいった。「忙しい一日がはじまるんだ」
「なんですの?」と、心配そうな目をメイスンに向けて、デラがたずねた。
「殺人事件だよ」
「依頼人に頼まれただけなんでしょう?」と、デラが問いかけた。
「わからん。こっちも、まき込まれるかもしれないんだ」
「まき込まれるんですって?」
「そうだ」
「あの女のひとね」と、デラが腹だたしそうにいった。
メイスンは、いらだたしげに首を振って、「そういう考えはやめたほうがいいね、デラ」
「どっちだって同じことだわ」と、デラがいい張った。「あのひとにはなにかあると感づいていたわ。あの女には、きっと厄介なことがつきまとっていると思っていたわ。わたし、あの女のことなど、一度だって信用なんかしなかったわ」
「わかったよ」と、がっかりしたような口振りで、メイスンがいった。「もう、そんなことは忘れて、ぼくのいうことを聞いてくれ。これからどういうことになるか見当はつかんが、万一、なにかが起こって、ぼくに仕事がつづけられないようになった場合には、きみに代わってやってもらうようなことになるかもしれない」
「どういうことですの?」と、デラがたずねた。「仕事がつづけられなくなるって?」
「それは、気にしなくてもいいよ」
「いいえ、気にしますわ」と、不安に、目を大きく見開いて、デラがいった。「ご自分の身があぶないのね」
メイスンは、相手の言葉を無視して、「その女は、エバ・グリフィンと名乗って、ここへ来た。ぼくは、後をつけさせようとしたが、うまくいかなかった。それから、ぼくは、『スパイシイ・ビッツ』と戦闘を開始するといっしょに、あの新聞のほんとうの黒幕を突き止めようとした。すると、エルムウッド・ドライブに住むベルターという男だということがわかった。朝刊を読めば、その男のことも、邸のこともわかるはずだ。ぼくは、ベルターに会いに行ったが、なかなか手ごわいやつだった。ところが、そこにいるあいだに、ばったり、その男の細君に出会った。それを誰だと思う、ほかでもない、われわれの依頼人だ。本名、エバ・ベルターというのだ」
「いったい、あの女は、なにを企んでいたんですの?」と、デラ・ストリートがたずねた。「あなたをだます気だったんでしょうか?」
「いいや」と、メイスンがいった。「自分が、にっちもさっちも行かなくなっていたんだ。あの女は、ある男といっしょに、あちらこちらへ出歩いていた。すると、女の夫が、その後をつけていたというわけだ。もっとも、夫のほうでは、その女が誰だということは知らなかった。ねらっていたのは男のほうだったんだからね。しかし、亭主のほうでは、例の赤新聞で、男のことをあばくつもりでいたのだから、いずれは、女の身許も明るみに出るはずだったのだ」
「その男というのは、誰ですの?」と、デラ・ストリートがたずねた。
「ハリスン・バークさ」と、メイスンが、ゆっくりいった。
デラは、眉をぐっとあげたが、黙っていた。
メイスンは、たばこに火をつけた。
「それで、ハリスン・バークには、それについて、なにかいい分があるんですの?」と、しばらくして、デラがたずねた。
ペリイ・メイスンは、両手をひろげて見せた。
「昨日の午後、封筒に入れた現金を、使いの者の手で届けてよこしたのが、その男なんだ」
一分か二分ほど、沈黙がつづいた。二人とも、考え込んでいた。
「それで」と、やがてデラがいった。「その先をいって下さいな。明日の新聞には、どんな記事が出るんですの?」
メイスンが、抑揚のない口調で話した。「ぼくが、ベッドにはいっていると、ま夜中すぎに、エバ・ベルターから電話がかかってきた。十二時半ごろだったろうな。どしゃ降りの雨だった。ドラッグ・ストアにいるんだが、すぐに来てほしい、ひどく困っているというんだ。行って見ると、誰かが主人といい争って、射ったというんだ」
「その射った男のことを、あの女は知っていたんですか?」と、デラ・ストリートが、そっとたずねた。
「いいや」と、メイスンがいった。「知らないんだ。姿も見ていない。ただ声を聞いただけなんだ」
「声はわかったんですか?」
「聞いた声だと思ったそうだ」
「誰の声だと思ったんですの?」
「ぼくのだ」
デラは、じっとメイスンの顔を見つめた。その目は、ほんのすこしも表情を変えていない。
「そうだったんですの?」
「いいや、ぼくは、家で、ベッドにねていた」
「証明がおできになるの?」と、単調な口調で、デラがたずねた。
「とんでもない」と、じりじりしたように、メイスンがいった。「ベッドの中まで、アリバイをつれこまないよ!」
「なんてけがらわしい裏切り女でしょう!」そういってから、前よりも冷静に、デラはたずねた。「それから、どうなったんですの?」
「いっしょに現場へ行ってみると、主人は死んでいた。コルトの三二口径|自動拳銃《オートマチック》だ。番号は控えて来た。一発で、心臓をぶちぬかれてね。風呂にはいっていたところを、誰かが射ったんだね」
デラ・ストリートは、目を丸くして、「すると、あの女は、警察に知らせる前に、あなたを呼び出したんですのね?」
「そのとおりだ」と、メイスンがいった。「その点が、警察には気に入らないだろうね」
デラの顔は、まっ青だった。なにかいおうとして、息を吸い込んだが、いわないほうがいいと思って、口をつぐんだ。
ペリイ・メイスンは、前と同じような抑揚のない口振りで、言葉をつづけた。「ぼくは、ホフマン部長刑事とやり合っちまった。甥というのがいたが、ぼくには気に入らんやつだった。いやに紳士振ってやがってね。家政婦は、なにか隠しているし、その娘というのも嘘をついているという気がする。ほかの召使いとは話をする機会がなかった。警官が二階の捜索をする間じゅう、ぼくは、階下で足どめをくっていた。しかし、警官の来るまでに、ほんのちょっとだったが、現場を調べるチャンスはあった」
「ホフマン部長刑事とは、よっぽどひどく衝突なすったの?」と、デラがたずねた。
「相当にひどくね」と、メイスンがいった。「いつもやるように」
「というと、依頼人を支持しなきゃならないと、おっしゃるのね?」と、デラがたずねた。その目は、怪しくうるんでいた。「これから、どういうことになるんでしょう?」
「わからん。そのうちには、家政婦がなにかしゃべるだろうと思うんだ。いまのところ、まだ警察も、それほどひどく追求してはいないらしいが、そのうちには、徹底的にやるだろう。たしかに、あの女は、なにかを知っていると思うんだ。ぼくには、なんだかわからないが。エバ・ベルターが、事件について、全部の事実を話してくれたかどうかさえ、ぼくには確信さえないんだね」
「もし、あの女が、事実をすっかり話していたとすれば」と、腹立たしそうに、デラ・ストリートがいった。「ここへ来て以来、はじめて、隠し立てをしたり、嘘を吐《つ》かなかったってことだわ!」
メイスンは、頼むように、手を振って、「そんなことは、もういいよ。ぼくは、もう、まき込まれているんだ」
「それで、ハリスン・バークは、その殺人事件のことを知っているんですの?」と、デラがたずねた。
「ぼくは、電話をかけてみたんだが、家にいないんだ」
「そんな時間に外出しているなんて、たいした人ね!」と、デラは、大きな声でいった。
メイスンは、ものうげに、笑いを浮かべて、「まったくだね」
二人は、おたがいに目を見合わせた。
デラ・ストリートは、息をはずませて、感情的にしゃべり出した。
「ねえ、先生」と、デラがいった。「あなたは、あの女に勝手な真似をさせて、ご自分が妙な立場に追い込まれていらっしゃるのよ。あなたは、殺されたその男と、口争いをなすったのよ。あなたったら、その人の新聞を相手にして闘っていらしたんだけど、あなたが闘いをなさるときには、穏やかになさらないわね。あの女は、そこへあなたを、だましておびき寄せたのよ。警察が来るときに、あなたがいあわせるように企んだんだわ。自分のご立派な手に泥がつきそうになったら、あなたを狼どもに投げ与えようと用意したのよ。それで、これからも、あの女に、したい放題の真似をさせるおつもりなんですの?」
「させずにすめば、させたくなんだがね」と、メイスンがいった。「しかし、どうしてもそうしなくちゃならなくなるまでは、あの女を裏切るつもりはないよ」
デラ・ストリートは、顔をまっ青にし、唇を、きっと真一文字に結んで、「あの女は……」と、そこまでいって、やめてしまった。
「あの人はお客だし」と、ペリイ・メイスンが、いい張った。「払いもいいからね」
「なんのために、よく払うんですの? ゆすりの代理に、あなたをするためなの? それとも、殺人事件の身代りにするためなの?」
そういって詰め寄るデラの目には、涙が浮かんでいた。
「メイスンさん」と、デラがいった。「お願いですから、そんなにひどく太っ腹にならないでくださいな。こんな事件から離れていて、あの連中の好きなように、どんどんやらせればいいじゃありませんか。あなたは、弁護士として行動なすって、弁護士として、事件に関係なさるだけにしてくださいな」
メイスンは、辛抱強い声で、「それには、もう手遅れじゃないかな、デラ?」
「いいえ、そんなことはありませんわ。関係しないでいてくださいな!」
メイスンは、辛抱強い微笑みを浮かべて、「あの女は、お客さんだよ、デラ」
「そうですわ」と、デラがいった。「あなたが法廷の仕事に取りかかることになってからはね。裁判のときに、どうなるか、すわって見ていらっしゃればいいじゃありませんか」
メイスンは、首を振って、「いいや、デラ、地方検事は、事件が法廷へ持ち出されるまで待っていないよ。もういまごろは、検察局の人間が現場に乗り込んで、証人を調べたり、甥のカール・グリフィンの口から、いろんなことをいわせようとしているにちがいない。すると、それが明日の新聞に大見出しでのって、事件が法廷に持ち出されるころには、おそろしい証言になるんだ」
デラは、もうこれ以上いい争っても無駄だと感じた。
「あの女のひとが、逮捕されると思っていらっしゃるんでしょう?」と、デラがたずねた。
「連中がこれからどう出るか、ぼくには、見当がつかないね」と、メイスンがいった。
「犯行の動機は、発見したんでしょうか?」
「いいや」と、メイスンがいった。「まだ動機は、連中も発見しちゃいない。いちおうは、月並み通りの動機をさがしにかかったのだが、うまくいかなかったもんだから、やめてしまった。しかし、この別の一件をかぎつけたら、お誂《あつら》え向きの動機をつかんだことになるだろうな」
「かぎつけるでしょうか、その件を?」と、デラがたずねた。
「いずれは、かぎつけるだろうな」
デラ・ストリートの目が、不意に大きくなった。「ねえ」と、デラがいった。「ハリスン・バークだとお思いになりません? ピストルを射ったときに、その場にいたという男を?」
「ぼくは、ハリスン・バークを電話に呼び出そうとした」と、メイスンがいった。「だが、呼び出せなかった。そのほかには、考えさえもしなかったが。そうだ、もう一度、電話をかけてみてくれ。あの男か、誰かが出るまで、十分おきに、あの男の家を呼びつづけるんだ」
「やってみますわ」と、デラがいった。
「それから、ポール・ドレイクにもかけてくれ。たぶん、事務所にいるだろう、いなかったら、聞いておいた例の非常用の番号へかけてみるんだ。この件で、ぼくのために動いているはずだ」
デラは、またいつもの単なる秘書にもどって、「はい、メイスン先生」といって、隣りの事務室へ出ていった。
ペリイ・メイスンは、また元のように、部屋を歩きはじめた。
四、五分すると、電話のベルが鳴った。
メイスンは、受話器を取りあげた。
「ポール・ドレイクさんです」と、デラ・ストリートの声がいった。
ポール・ドレイクの声が、「やあ、ペリイ」と響いて来た。
「なんかつかんだか?」と、メイスンがたずねた。
「うん、ピストルの一件は、うまく行ったよ。いいネタをつかんでやったぞ」
「そっちの電話は、大丈夫だろうね? 誰も聞いていやしないだろうね?」
「うん」と、ドレイクがいった。「大丈夫だ」
「よし」と、メイスンがいった。「じゃ、いってくれ」
「ピストルを作ったところだの、売った店のことなんかは、どうでもいいんだろう?」と、ドレイクがたずねた。「きみが知りたいのは、買い手の名前だね」
「その通りだ」
「よし、それで、きみのいうピストルを最後に買ったのは、ピート・ミッチェルという名の男だ。住所は、西六十九丁目、一三二二番地だ」
「わかった」と、メイスンがいった。「ところで、もう一つの方で、なにかつかんだかい? フランク・ロックのことでさ?」
「いや、南部の代理店からは、まだ返事が来ない。前身を洗って、南部のジョージア州にいたことまではわかったが、それから先がわからなくなっちまった。どうやら、そこで名前を変えたらしいね」
「そいつは上出来だ」と、メイスンがいった。「その土地で、やつは、事件を起こしたんだ。後はどうだ? なにか、つかんだかい?」
「例のホイールライト・ホテルにいる女をさぐってみたよ」と、ドレイクがいった。「エスター・リンテンという名前だ。女はホイールライトに住んでいて、月ぎめで、部屋は、九四六号室だ」
「女は、なにをしているんだ?」と、メイスンがたずねた。「そいつを聞きだしたかい?」
「誰でも手当たり次第じゃないかな」と、ドレイクが、相手にこたえた。「あの女のことは、まだ十分にわかっていないんだ。だが、もうちょっと時間をくれ。それからすこし眠らせてもらいたいな。一人の人間が、いちどきに、どこもここも走り回るわけにいかんよ。それに眠らずに働くわけにはいかんよ」
「なに、すこしすれば慣れるよ」と、にやりとしながら、メイスンが相手にこたえた。「とくに、この件で働きつづけていればね。後五分ほど、そこにじっとしていてくれ。こっちから電話をするからね」
「よかろう」とため息をついて、ドレイクは、電話を切った。
ペリイ・メイスンは、外の事務室へ出て行った。
「デラ」と、メイスンが声をかけた。「二年ほど前に、政局がごたごたしたのをおぼえてるかい? あのとき、手紙を集めて|綴じ込《ファイル》を作ったね?」
「ええ」と、デラがいった。「『政治関係書簡』という|綴じ込《ファイル》がありますわ。なんのために、とっておおきになるのかわからなかったんですけど」
「関係書類だからね」と、メイスンがいった。「どこかその中に、『バーク後援会』の書類があるはずだ。そいつを、大いそぎでさがして出してくれたまえ」
デラは、事務室の一方の壁に並んでいるファイリング・ケースに飛びついた。
ペリイ・メイスンは、デラのデスクの片すみに腰をかけて、じっと、かの女を見守っていた。ただ、その目だけは、複雑な問題に、あらゆる角度から考えをめぐらす、白熱的な精神集中の輝きを示していた。
やがて、デラが、見つかった書類をもって、メイスンの前へ来た。
「よかった」と、メイスンはいった。
その書類の右側の欄に、『バーク後援会』の委員の名前が、一列に並べて印刷してあった。かれこれ百人以上の名前が、綺麗に印刷してあった。
メイスンは、目を細めて、その欄を読み下して行った。一つの名前を読む度に、親指のつめでしるしをつけた。十五番目に、P・J・ミッチェルという名前が出て来た。住所は、西六十九丁目、一三二二番地となっていた。
メイスンは、いきなりその書類をたたんで、ポケットに突っ込んだ。
「もう一度、ポール・ドレイクを電話に呼んでくれ」そういって、メイスンは、奥の事務室にはいり、うしろのドアをばたんとしめた。
ポール・ドレイクが電話口に出ると、メイスンは、「やあ、ポール、きみに頼みたいことがあるんだ」といった。
「またかい?」と、ドレイクがたずねた。
「うん」と、メイスンがいった。「まだ、とりかかっていないじゃないか」
「よかろう、さっさと、いってくれ」と、探偵がいった。
「いいかい」と、メイスンが、ゆっくりとした口調で話し出した。「車で、西六十九丁目の一三二二番地へ行って、ピート・ミッチェルという男を、ベッドから呼び出してもらいたいんだ。きみはもちろん、ぼくまでも厄介なことにならんように、慎重にやってくれよ。そうだな、むやみに口数の多い、まぬけな刑事という線で行くんだね。こちらのいうことをすっかりしゃべってしまうまでは、余計なことを、ミッチェルに聞くんじゃない、わかるね? 自分は刑事だがと名乗った上で、ゆうべ、ジョージ・ベルターが自宅で射殺されたが、その凶行に使われたピストルの番号が、そのミッチェルという男、つまり、あんたの買いとったものと同じ番号だということがわかった。ピストルは、まだ、持っておいでになるだろうし、番号のことは、なんかの間違いだろうとは思うが、ゆうべの十二時か、十二時ちょっとすぎごろに、どこにいたか説明してもらえないだろうかと、そういうんだ。それから、そのピストルをいまも手許に持っているかどうか、もし手許にないとしたら、そのピストルをどう処分したかおぼえているか、それを聞かしてほしいがとたずねるんだ。しかし、それを聞く前に、こちらの話をなにからなにまでしゃべってしまうことを忘れちゃだめだよ」
「つまり、大々的に、まぬけな刑事になれっていうんだね?」
「大々的に、まぬけになるんだ」と、メイスンが相手にいった。「そして、後になってから、相手がなにをしゃべったのか、なにを聞いたのか、まるきり記憶というものを残さないように、うまくやるんだ」
「わかった」と、ドレイクはこたえた。「つまり、おれがこの事件には、まるきり関係がないてなふうに立ちまわれっていうんだろう?」
メイスンは、あきあきしたという口振りで、「ぼくがいった通りにやればいいんだよ、正確に、その通りに」
そういって、メイスンは、受話器を元にもどした。かれは、ドアの握りのまわる音を耳にして、目をあげた。
デラ・ストリートが、そっと部屋にはいって来た。顔は、まっ青で、目を大きく見開いている。うしろのドアをそっとしめて、デスクへ歩み寄った。
「先生をよく知っているという男が来ています」と、デラがいった。「ドラムという名で、警察本部の刑事ですって」
デラのうしろのドアを押しあけて、シドニー・ドラムが、にやにや笑いを浮かべた顔を突き出した。まったく生気というものが欠けているような、洗いざらしたような青白い目をして、脚の高い腰掛《ストール》からおりて、領収証かなんかをさがしまわってやって来た事務員といったようすだった。
「勝手にはいりこんですまん」と、ドラムがいった。「だけど、きみが、気のきいたいいわけを考え出さんうちに、話し合いたいと思ったもんだからね」
メイスンは、にっこり笑いを浮かべて、「なあに、こっちは、警官諸君の不作法にはなれっこになってるよ」といった。
「おれは、警官なんてものじゃない」と、ドラムが抗弁した。「つまらん刑事さ。警官どもにきらわれてる人間だよ。給料もろくに貰えん、あわれな刑事さ」
「まあ、こっちへ来て、すわりたまえ」と、メイスンが誘い込んだ。
「きみたちは、おそろしく早くから仕事をするんだな」と、ドラムが、わざと感嘆した口振りでいった。「そこらじゅう、きみをさがしまわって、やっと、この事務所にあかりがついているのを見つけたってわけさ」
「うそをつけ」と、メイスンが、相手の出鱈目をぴしっとやっつけた。「窓には、ちゃんとブラインドがおろしてあるんだぜ」
「ほう、なるほど」といって、ドラムは相変わらずにやにや笑いを浮かべながら、「どっちにしろ、おれには、なんとなくここにいるという気がしたんだ。だって、きみという人間が、骨身をおしまぬ働き手だということを、よく知ってるからだよ」
メイスンがいった。「いいから、もう冗談はよせ。ところで、今日のお運びは、職務上のご来訪というわけだろうな」
「その通り」と、ドラムがいった。「どうも、詮索好きな癖が起こっちまってね。おれは、むやみやたらと好奇心を起こしては、そいつを満足させることで生きている鳥みたいなもんだが、こん度は、例の電話番号の件に、好奇心を起こしちまったというわけさ。きみが、ひょっこりおれのところへやって来て、おれに小銭を握らせたあげく、強引に、電話会社から秘密電話の番号を聞き出せといった。おれは、飛び出して行って、その番号を、いや、そればかりじゃない、その電話の持ち主の住まいまで調べてやった。きみは、ひどくご丁寧にありがたがった。すると間もなく、その持ち主の住まいにあらわれて、殺された男と、一人の女といっしょにいた。問題はだね、そいつは、果して偶然の一致だろうかね?」
「答えは、なんと出たかね?」と、メイスンが問い返した。
「いや」と、ドラムがいった。「おれには、推測がつかん。だから、聞いているんだ。きみに、その答えを出してもらわなきゃならんのだ」
「その答えは」と、メイスンが相手にいった。「ぼくは、細君に呼ばれて、その場所へでかけて行ったということさ」
「細君の方は知っていて、相手の男の方は知らんというのは、おかしいじゃないか」と、ドラムが強くいい張った。
「おかしいかね?」と、メイスンが、皮肉たっぷりにいった。「むろん、そこが弁護士稼業をしていて、最低に我慢のならんことなんだな。しばしば、世間の女というものは、ことに家庭的な問題が起こったりした場合に、われわれを訪ねて来て、あれやこれや質問するものなんだが、そういう場合、きまって女というものは、その夫をつれて来ないものなんだ。だから、亭主がどんな人間か、わからないのが普通だ。わざわざ、弁護士のところへ出かけて行きながら、出かけて来たことを、亭主に知られたくないという女の話を耳にしたことさえ、二度や三度じゃない。そうはいっても、むろん、そんな話は、ただの噂話の又聞きにすぎんのだから、ぼくの言葉をそのままに取られちゃ困るがね」
ドラムはにやにや薄笑いを浮かべつづけながら、「なるほど」といった。「こん度もそういったような話だと、そういうんだね?」
「ぼくは、なんにもいわないよ」と、メイスンが答えた。
ドラムは、にやにや笑いをやめ、首をかしげて、夢見るような目で天井を見上げた。
「そういうことだと、なかなか面白い見方ができるぞ」と、ドラムがいった。「細君が、腕っこきの、事件を引きおこして困っている人間を、その危急の中から助け出すので評判の弁護士のところへやって来る。弁護士は、その細君の主人の秘密電話の番号を知らない。弁護士は、細君のために、動きはじめる。弁護士は、電話番号を聞き出す。弁護士は、その電話番号から、主人の家を突きとめて、出かけて行く。そこには、細君がいて、主人は殺されていた」
メイスンは、いらいらした声で、「弁護士、弁護士と、そうやって行くと、どうかすると思うのか、シドニー?」
ドラムは、もう一度、にやっと笑って見せて、「知るわけがないだろう、ペリイ」といった。「しかし、やってみるつもりだ」
「どうにかなったら、知らせてくれるだろうな?」と、メイスンがたずねた。
ドラムは、立ちあがって、「ああ、もちろんさ」といった。「早速、知らせるよ」そういって、ドラムは、にやにや笑いを浮かべた顔を、メイスンからデラ・ストリートへと、順に向けた。
「そういうのは」と、ドラムがいった。「いい加減に出て行けという催促らしいね」
「いやいや、なにもそう急ぐことはないよ」と、メイスンが相手にいった。「ぼくたちが、夜明けの三時や四時に、事務所に出勤しているというのも、くだらないことを聞こうと思ってやって来る友だちが、ここへ来るのを待っているだけなんだ。実際には、ほかに、これといってする仕事もないわけでね。どうも、朝早く出勤するというのも、習慣になっちまったというとこさ」
ドラムは、立ちどまって、弁護士の顔を、じっと睨みつけた。「ねえ、ペリイ、きみが、おれに本音を吐いてくれれば、おれだって、ちっとは力になってやれないものでもない。だが、きみが、おれを敬遠して、思いあがった考えをしたりするようだと、こっちも、少しばかり立ち入って詮索しなきゃならなくなるぜ」
「なるほど」と、メイスンはうなずいて、「その気持ちは、よくわかる。それが、きみの仕事だからな。まあいい。きみは、きみの商売にせいを出すさ、ぼくは、ぼくの商売にせいを出すよ」
「というと、なんだね」と、ドラムがいった。「おれなんかいなくても、きみは、きみでやるということなんだな」
「なあに」と、メイスンがいった。「きみはきみで、おれには構わずに、自分で事実をさぐり出さなくちゃならんということさ」
「じゃ、また会おうぜ、ペリイ」
「失敬した、シドニー。いつかまた寄ってくれ」
「心配しなくたって、やって来るよ」
シドニー・ドラムは、外に出て、うしろのドアをしめた。
デラが、気持ちを押さえていることができないように、さっとペリイ・メイスンの方へ近づいた。
メイスンは、片手をあげて、かの女を押しもどすようにして、いった。「表の事務室を見て、ほんとうに帰って行ったか確かめてくれ」
デラは、ドアの方へ近づいた。が、その手が、まだドアの握りに触れないのに、その握りが、くるっとまわり、さっとドアがあいて、シドニー・ドラムが、また首を部屋に突き出した。
ドラムは、二人の顔を眺めて、にやっと笑いながら、「なるほど」といった。「引っかからなかったな。じゃあ、ペリイ、こん度は、ほんとに出て行くぜ」
「オーケー」と、ペリイ・メイスンがいった。「さよなら!」
ドラムは、ドアをしめた。すぐに、ばたんと、表の事務室のドアのしまる音がした。
ちょうど、朝の四時になっていた。
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第十一章
ペリイ・メイスンは、帽子を目深にかぶり、外套に手を通した。外套は、まだ濡れていて、濡れたウールの匂いがした。
「ちょっと出かけて、二つ三つ手がかりをあたって来るからね」と、メイスンは、デラ・ストリートにいった。「遅かれ早かれ、連中は、捜査の輪をちぢめにかかるだろうが、そうなってからでは、こっちは、動くこともできなくなる。まだ動きまわれるうちに、なにからなにまで、しておかなきゃならん。きみは、ここに頑張って、本城を守っていてくれ。電話をかけてもらっちゃ困るから、連絡先は、わざと知らせないことにする。その代わり、ときどき、きみを呼び出して、メイスン君はいますかとたずねるからね。ぼくは、ジョンスンという名でかける。メイスン君の古くからの友だちだが、なにか言《こと》づてはないかと聞くから、ぼくが誰かということを誰にも知られないようにして、その後の経過を、ぼくに教えてくれ」
「ここの電話は、盗聴されることになるとお考えですのね?」
「たぶんね。こんどの事件は、どういうことになるか、ぼくにも見当がつかんよ」
「あなたにも逮捕令状を出すでしょうか?」
「令状は出さんだろうが、まだまだ訊問をする気にはなるだろうな」
デラは、相手の気持ちをいたわるように、やさしい目で、メイスンの目を見つめたが、なにもいわなかった。
「気をつけるんだよ」と、メイスンはいい残して、事務所から出て行った。
リプレイ・ホテルのロビーに、メイスンがはいって行ったころは、まだ暗かった。バスつきの部屋をたのみ、宿帳には、デトロイトのフレッド・B・ジョンスンと記入した。五一八号室をあてがわれた。荷物を持っていないので、前金で払ってくれといわれた。
メイスンは、部屋へはいると、カーテンを引き、ジンジャー・エールを四壜に、氷をたっぷり注文し、ボーイから、一クォート入りのウイスキーを一壜、受けとった。それから、体のうずまりそうによくふくらんだ安楽椅子に腰をおろし、両脚をベッドにのせて、たばこをふかした。
ドアには、鍵をかけずにおいた。
そうして、三十分以上も、一本のたばこが尽きると、その火を新しいのにつけて、メイスンが、たばこをふかしつづけていると、ドアがあいて、ノックもせずに、エバ・ベルターがはいって来た。
かの女は、うしろのドアをしめ、鍵をかけて、にっこりメイスンの顔に微笑みかけた。「まあ、よかったわ、あなたが無事でおいでになって」
ペリイ・メイスンは、腰をかけたままで、「確かに、つけられなかったでしょうな?」とたずねた。
「ええ、つけられたりしませんでしたわ。あの人たち、あたくしは重要な証人になるのだから、町を離れちゃいけない、どんなことでも、警察に連絡しないで、しちゃいけないって、そういうんですのよ。ねえ、あたくし、逮捕されるんでしょうか、どうなんですの?」
「ことによりますね」と、メイスンがいった。
「どんなことによるんですの?」
「いろんなことですよ。そんなことより、あなたにお話ししたいことがあるんです」
「いいわ」と、エバがいった。「そりゃそうと、あたくし、遺言状を見つけましたわよ」
「どこにありました?」
「あの人のデスクの中で」
「それを、どうしました?」
「持って来ましたわ」
「見せていただきましょう」
「思っていた通りのものですわ」と、エバがいった。「ただ、そうなればいいなと思っていたほどには、うまくいきませんでしたけど。すくなくとも、ヨーロッパへ出かけて、あちらこちら見物したり、それから……それから、もう一度、新しい生活をやり直すぐらいのものは、遺してくれるだろうと思っていましたのに」
「というと、ほかの男を手に入れるということですね」
「そんなこと、いいませんでしたわ!」
「あなたがおっしゃったことを、どうこういってるんじゃない。そういうお気持ちかと、うかがっているんです」メイスンの口調は、相変わらず、落ちついた、なにかよそのことでも話しているような調子だった。
エバは、もったい振った顔つきになった。
「あら、メイスンさん」と、エバがいった。「大変、お話がわき道へそれたようですわね。さあ、これが遺言状ですのよ」
メイスンは、思案顔を、じっと女の顔に向けて、「わたしを、この殺人事件に引きずりこもうというおつもりなら」といった。「そんなお芝居じみた手は、おやめになったほうがいい。そんな手は、ききませんよ」
かの女は、開き直るように、傲然《ごうぜん》と胸を張ったと思うと、急に声をあげて笑い出した。「そりゃ、むろん、別の夫を手に入れたいという肚でいますわ」と、女はいった。「いけません?」
「いいですとも。でも、それなら、さっきはどうして、そうじゃないと否定なすったのです?」
「わからないわ。そういわずにはいられなかったのよ。なんだか、あんまり自分のことを、世間の人に知られたくないという気持ちがあるからじゃないでしょうか」
「というと」と、メイスンが相手にいった。「ほんとのことをいうのはいやだというんですね。うそという防壁をきずいて、身を守るほうがましだというわけですね」
女は、さっと顔を赤らめて、「まあ、ひどいことをおっしゃるのね!」と、腹立たしそうにいった。
メイスンは、手をのばし、相手の意向も待たずに、その手から書類を取りあげると、ゆっくりと読んだ。
「全部、ご主人の自筆ですか?」と、メイスンがたずねた。
「いいえ」と、エバがいった。「そうじゃないと思いますわ」
メイスンは、しげしげと、女の顔を見た。
「しかし、全部、同じ筆蹟のようじゃありませんか」
「主人の手じゃないと思いますわ」
メイスンは、声を立てて笑いながら、「そんなことをおっしゃったって、どうにもなりませんよ」といった。「ご主人は、この遺言状を、カール・グリフィン君と、グリフィン君の弁護士のアーサー・アトウッド氏とに見せて、自分の遺言状で、自筆だと、そう二人に話しているんですよ」
女は、じれったそうに首を振って、「主人が、遺言状らしいものを二人に見せて、自分が書いたものだと、そういったとおっしゃるんでしょう。その遺言状なんか、グリフィンがやぶいて、偽物とすり換えなかったとはいいきれませんわ。そうでしょう?」
メイスンは、冷やかに、相手の胸の中を忖度《そんたく》するように、じっとその顔を見つめた。
「ねえ」と、メイスンがいった。「あなたは、ずいぶん、いろんなことをおっしゃるが、そのおっしゃる意味が、わかっておいでなんですか?」
「むろん、よくわかっていますわ」
「そうすると」と、メイスンが相手にいい聞かせるように、「いまおっしゃった言葉は、なかなか危険ないいがかりですね、はっきりした裏付けがないかぎりは」
「裏付けなんかなんにもありませんわ――いまのところ」と、エバは、ゆっくりといった。
「よろしい、それなら」と、メイスンが、警告するように、「いいがかりなんかつけちゃいけませんね」
女は、じれったそうに、声を尖らして、「あなたは、あたくしの弁護士だの、なにもかも洗いざらい、いわなくちゃいけないのと、ご自分では、しょっちゅういっておきながら、あたくしが包み隠さずにお話ししようとすると、こん度は、いけないって、お叱りになるのね」
「いや、その話はやめましょう」といって、メイスンは、その遺言状を女に返した。「あなたの、その傷つけられた潔白というやつは、法廷へ呼び出されるまでしまっておくんですね。いまは、その遺言状について話してください。どうして、手においれになったのです?」
「あの人の書斎にあったんですの」と、女は、ゆっくりとした口調で、「金庫に鍵がかかっていなかったんですの。ですから、こっそりこの遺言状を取り出してから、金庫に鍵をかけておきましたわ」
「おかしくもない話だとは、おわかりなんでしょうね」と、メイスンが、相手にいって聞かした。
「信用してくださらないんですのね?」
「むろん、信用しませんね」
「なぜですの?」
「というのはね、警察では、あの部屋に見張りをつけていたにきまっているからです。どんな場合でも、金庫があけられて、中身があらためられたとすれば、連中が気のつかんわけがないでしょう」
女は、目を伏せた。しばらくして、ゆっくりとした口調で、「あの晩、あたくしたちが書斎へもどって行ったときのことをおぼえていらっしゃいます? あなたは、死体を調べたり、バスローブをさぐったりしていらっしゃいましたわね?」
「ええ」といって、メイスンは目を細くした。
「そうでしょう。あのとき、金庫から、そっと抜き出したんですの。金庫は、あいてましたわ。あたくし、鍵をかけたんですけど、あなたは、死体を調べていらっしゃいましたわ」
メイスンは、目をぱちぱちとさせて、「やれやれ」といった。「あなたがやったと信じるしかないでしょうな! 確かに、あなたは、デスクと金庫のそばにいましたよ。だけど、いったいどうして、そんなことをしたんです? なぜ、そういうことをやったと、わたしにおっしゃらなかったのです?」
「それってのはね、遺言状が、あたくしに有利かどうか、有利でなかったら、破いてしまうことができるかどうか、見定めたかったからなんです。破いたほうがよかったとお考えになって?」
メイスンは、爆発するように、「とんでもない!」とどなった。
女は、しばらくの間、黙り込んでいたが、「それで」と、やがて、口を開いて、たずねた。「ほかに、なにかお話がありまして?」
「ええ」と、メイスンがいった。「わたしがよく見えるように、そのベッドにおかけなさい。いまのうちに、うかがっておきたいことがあるんです。わたしは、あなたに、いらぬ不安をおこさせたくなかったので、あなたが警官の訊問をうける前に、こういうことは聞きたくなかったのです。警官と話をする際には、できるだけ平静を保っていてもらいたいと思ったからです。しかし、いまは、事情がちがう。あの晩おこったことを、正確に知っておきたいのです」
女は、目を大きく見開いて、お得意の、わざとらしい無邪気さを、その顔に浮かべて、「あたくし、おこったことは、すっかりお話しましたわ」といった。
メイスンは、首を左右に振って、「いいや、お話しになりませんでしたよ」
「あたくしが嘘をついてるとおっしゃるんですの?」
メイスンは、ため息をついて、「お願いだから、ぬらりくらりはやめて、もっと現実的な話をしましょう」
「はっきりいって、どういうことをお知りになりたいというんですの?」
「ゆうべ、あなたは、よそいきの物を着ていたじゃありませんか」と、メイスンがいった。
「どういう意味ですの、それは?」
「どういうことか、よくわかっているでしょう。背中のあいたイブニング・ドレスを着飾って、よそ行きのストッキングに、繻子《しゅす》の靴というおめかしようだった」
「それで?」
「それで、ご主人は、風呂にはいっておいでになった」
「ええ、それがどうかしたんですの?」
「つまり、あなたは、ご主人のためだけに盛装してはいなかったのだ」と、メイスンがいった。
「むろん、ちがいますわ」
「毎晩、あなたは盛装なさるんですか?」
「ときどきですわ」
「ほんとのことをいうと」と、メイスンがいった。「ゆうべ、あなたは外出していて、ご主人が殺されるほんのすこし前に、帰っておいでになった。ちがいますか?」
女は、はげしく首を振った。またもや、その態度は、ぎこちなく、もったい振ったものになった。
「いいえ」と、女がいった。「ゆうべはずっと、家にいましたわ」
ペリイ・メイスンは、ひややかな、さぐるような目で、女の顔を見つめた。
「コーヒーを沸かしてもらおうと思って台所へおりて行ったときに、家政婦から聞いた話ですがね、靴の件について、誰かから電話がかかってきたということを、小間使いが、あなたにいっているのを聞いたと、そう、家政婦がいっていましたよ」と、メイスンは、ためすようにいってみた。
エバ・ベルターの、ぎくっと驚いたようすが、ありありとわかった。が、女は、ようやくの思いで、胸を抑えて、「あら、それがどうかしたんでしょうか?」と、問い返した。
「それより、まずうかがいましょう」と、メイスンがいった。「小間使いが、そういうことづけがあったことを、あなたに伝えたかどうかを、まずおっしゃってください」
「あら、そうね」と、エバ・ベルターは、なにげない口振りで、「伝えたと思うわ。はっきりはしないけど。あたくし、早く靴を届けてくれればいいと、とても気にしていたんですけど、なんだかごたごたしていたんですよ。そのことで電話がかかって来たのを、小間使いのマリーが聞いて、あたくしにそう伝えたと思うわ。いろんな出来事がごっちゃになって、すっかり忘れてしまったわ」
「絞首刑が、どんなふうに執行されるか、あなたは知ってますか?」と、出しぬけに、ペリイ・メイスンがたずねた。
「なんのことですの?」と、エバが問いかけた。
「殺人犯に対しては」と、メイスンが言葉をつづけた。「普通、朝早く執行されるのです。看守が、死刑囚の監房へやってきて、死刑執行令状を読みあげる。それから、あなたの手を背中で縛り、あなたが参ってしまってへたへたとならないように、背中に一枚の板をあてて縛りつける。そして、あなたたちは、絞首台にむかって行進をはじめる。のぼらなければならん階段は、十三段。それをのぼって、落し板の上に、あなたは立つ。落し板の脇には、刑の執行をつかさどる役人たちが立っている。落し板の裏側は、小さな部屋のようになっていて、そこに囚人が三人、研ぎすました鋭利なナイフを持って待ち構えている。台の上に、三本の綱が渡してある。首つりの役人が、あなたの首に輪にした綱をかけ、黒い袋をかぶせ、それから、両脚を綱でしばり……」
女は、きゃっと悲鳴をあげた。
「わかりましたね。もし、あなたが、絶対に間違いのない真実を、わたしにおっしゃらなければ、いまお話しした通りの運命が、あなたの身にやって来るのですよ」
女の顔は、まっ青だった。唇は、血の気をうしなって、ぴりぴりとふるえ、目は、恐怖に陰気に曇っていた。「あたくし、ほ、ほ、ほんとうのことを、申しあげていますわ」と、女は、吃《ども》り吃りいった。
メイスンは、首を振って、「いいですか」と、相手にいって聞かすように、「あなたをこの窮地から救い出すには、あなたに、率直になって、なにもかも洗いざらいぶちませるようにしてもらわなければなりません。さっきの靴|云々《うんぬん》が、ただの口実にすぎんということは、あなたも知っているし、わたしも知っている。あれは、ハリスン・バークからの、連絡を取れという暗号だったのです。つまり、わたしが、あなたと連絡を取ろうと思うときに、電話で、女中にこういえと教えた暗号と同じ手だったのですね」
女は、まだまっ青な顔で、ぶるぶるふるえていたが、ものもいわずに、うなずいてみせた。
「よろしい」と、メイスンがいった。「では、あったことを話してください。ハリスン・バークが、ことづてをして来た。連絡をとれということだった。それで、あなたは、どこかある場所で会おうと打ち合わせをすると、着がえをして出かけた。そうなんでしょう?」
「いいえ」と、女がいった。「あの人が、宅へ来たんですの」
「あの男が、どうしたんですって?」
「ほんとなんです」と、女は、言葉をつづけた。「来ちゃいけないって、そういったんです。だのに、とうとう、来てしまったんです。あの人、話したいことがあるからといったんですけど、あたくし、いまはいけない、会うこともできないといったんです。そうしたら、あの人のほうから、宅へ出かけて来てしまったんです。あなたは、あのひとに、『スパイシイ・ビッツ』の持ち主は、ジョージだとおっしゃったでしょう。だけど、はじめは、どうしても信じようとはしなかったんです。でも、とうとうしまいには、信じるようになったんですけど、こん度は、ジョージに会って話し合いたいというんですの。ジョージに会って、よくわけを話したら納得させられると考えたんでしょう。『スパイシイ・ビッツ』に攻撃させないようにするためなら、どんなことでもするつもりになっていたのですわ」
「すると、あなたは、バークがやって来ることは知らなかったんですね?」と、メイスンがたずねた。
「ええ」
しばらく沈黙がつづいた。
やがて、女が、「でも、どうして、あなたは、ご存じだったんですの?」
「なにをです?」
「靴を、あの人が暗号に使っているということ」
「ああ、あれですか。かれが、話したんですよ」と、メイスンがいった。
「それから、その電話のことづてのことを、家政婦がお話したんですね?」と、女がたずねた。「警察にも話したんでしょうかしら」
メイスンは、首を振って微笑みを浮かべながら、「いや、大丈夫です」といった。「警察になんかしゃべりやしませんよ。わたしにだって、話しゃしなかったんですから。いまのは、あなたに、ほんとのことをしゃべらせるために、ちょっとはったりをいってみただけなんです。ゆうべ、何時ごろかしらないが、あなたが、ハリスン・バークにお会いになったにちがいないと感じていたし、ハリスン・バークが、あなたと連絡をとろうとする|たち《ヽヽ》の人間だとは、よく承知していましたからね。心配ごとがあるときには、その心配ごとをわかち合う人間が、いてほしいたちの人です。そこで、きっと、女中に伝言をしたにちがいないと考えたわけなんです」
女は、気を悪くしたような顔つきで、「そんなふうにあたくしをあしらって、それで立派なやり方だと思っていらっしゃるんですか?」と、問いつめるようにいった。「それで、あたくしをフェアに扱っていると思っておいでなんですか?」
メイスンは、にやっと薄笑いを浮かべた。
「あなたという人が、どっしりとそこに構えて、フェア・プレイについてあれこれと述べていらっしゃるようすは、まったく、見事な天使といってもいいですな」
女は、口を尖らして、「あたくし、きらいよ、そんなこと」といった。
「気に入るとは思っちゃいませんでしたよ」と、メイスンが、いって聞かせるように、「すっかり片がつくまでには、もっともっと、気に入らんことをいうことになるでしょうな。それで、ハリスン・バークは、お宅へ来たんですね?」
「ええ」と、女は、弱々しい声でいった。
「よろしい。それで、どうしました?」
「どうしてもジョージに会うと、あの人、いい張るんです。ジョージに近づくだけでも、自殺するようなものだって、あたくし、いったんですけど、あの人ったら、絶対に、あたくしの名前を出すようなことはしないというんです。ジョージに会って、事情を説明して、選挙で当選したあかつきには、どんなことでもすると、そういえば、ジョージもきっと、フランク・ロックにいいつけて、記事の掲載をやめさせてくれるだろうというのが、あの人の考えだったんですわ」
「なるほど」と、メイスンがいった。「どうやら、それで、ようすがわかって来ました。バーク氏が、ご主人に会いたいといったのを、あなたは、そうさせまいとした。そうなんですね?」
「ええ」
「いったい」と、メイスンがたずねた。「どういうわけで、あなたは、ご主人に会わせまいとしたんです?」
女は、ゆっくりとした口調で、「あたくしの名前をいいだしゃしないかと思ったからですわ」
「あなたの名前をいいましたか?」と、メイスンがたずねた。
「知りませんわ」といってから、女が、急いでつけ加えた。「いいえ、むろん、いい出したりなんかしませんでしたわ。だって、あの人、ジョージには、まるきり会わなかったんですもの。あたくしと話しただけで、ジョージと話しをしちゃいけないって、あたくし、納得させたんです。それで、あの人、帰って行ったんです」
ペリイ・メイスンは、くっくっと喉の奥で笑って、「あなたは、わなをかけたことに気のつくのが、少し遅すぎたようですね、奥さん。それで、かれが、あなたの名前をジョージにいったかどうかは、知らんとおっしゃるんですね?」
女は、不機嫌そうな口振りで、「あの人は、ジョージに会わなかったといってるじゃありませんか」
「なるほど」と、メイスンがいった。「そうですね。だが、事実は、バーク氏は、ご主人に会っていますよ。バークは、二階の書斎へ行って、ご主人と話し合っていますよ」
「どうしてご存知ですの?」
「そのわけはね」と、メイスンがいった。「この事件について、わたしは、一つの仮定を立てていて、その仮定のもとに、事件を突っ込んで確かめてみたいと思っているからです。どんなことがおこったかということについても、かなりしっかりした観念をつかんでいるつもりです」
「どんなことがおこったんですの?」と、女がたずねた。
メイスンは、女の顔に、にやりと笑顔を向けて、「どんなことがおこったか、あなた自身が、ご存じのはずです」と、相手にいい聞かした。
「いいえ、いいえ」と、女がいった。「どんなことがおきたんですの?」
メイスンは、落ちついた、表情のない一本調子の声で、「だから、ハリスン・バーク氏は、二階へあがって、ご主人と話しをしたのです」と物うげにいった。「どれくらいの間、かれは、二階にいたのです?」
「知りませんわ。十五分より長くはなかったでしょう」
「そういっていただくと、大いに結構ですね。それで、かれが降りて来てからは、あなたは会わなかったんですね?」
「ええ」
「ところで、実際は」と、メイスンが問いつめるように、「ハリスン・バークが二階にいる間に、ピストルが鳴り、それから、かれが階段を駆け降りて、あなたにはなにもいわずに、お宅から出て行った、と、そうなんでしょう?」
女は、強く首を左右に振って、「いいえ」といった。「バークさんは、主人がうたれる前に帰っていらっしゃいましたわ」
「どれくらい前でした?」
「知りませんわ、十五分くらいかしら。もっと前だったかもしれないわ。でも、そんなに前じゃなかったかも知れませんわ」
「ところがね」と、メイスンが指摘するようにいった。「ハリスン・バークが、どこにいるかわからないのです」
「どういうことですの?」
「いった通りですよ。どこにいるかわからないのです。電話をかけても、誰もでないし、住まいにもいないのです」
「どうしてそんなことをご存じですの?」
「氏をつかまえようとして、さっきから、電話をかけつづけていましたし、探偵を、氏の住まいへも行かせたのです」
「なぜ、そんなことをなすったんですの?」
「氏が、この射殺事件にまきこまれることになるというのがわかったからです」
女は、また目を丸くして、「どうして、そんなことになるとおっしゃるんですの?」と、たずねた。「あたくしたち二人のほかには、あの人が、邸にいたことなんか知っているものなんか、いませんし、それに、むろん、あたくしたち、そんなことをしゃべるわけもありませんわ。だって、そんなことをすれば、誰にも彼にも、ずっと立場を悪くするだけなんですもの。あの人は、ピストルをうった、もう一人の男がやって来る前に、帰って行ったんです」
ペリイ・メイスンは、じっと瞳をこらして女の目を見つめて、「ぶっぱなされたのは、バーク氏のピストルだったのです」と、ゆっくりといった。
女は、驚愕に打たれた目で、メイスンを見つめて、「いったい、なんで、そんなことをおっしゃるんです?」とたずねた。
「というのはね」と、メイスンが、相手にいって聞かせた。「ピストルには、番号がついているからなんです。その番号で、製造業者から卸売業者へ、卸売業者から小売商へ、小売商からそれを買い求めた人へと、たどって行くことができるのです。その買い求めた人というのは、西六十九丁目一三二二番地に住んでいる、ハリスン・バーク氏の親しい友人のピート・ミッチェルという人でした。警察でも、ミッチェル氏をさがしています。逮捕されれば、そのピストルをどうしたか、説明しなければならないでしょう。つまり、ハリスン・バークに譲ったということをね」
女は、片手を喉元にあてて、「どうして、そんなふうにピストルのことが、警察ではたどれるんでしょう?」
「なにからなにまで、記録が保存されているんです」
「ですから、あたくし、あのピストルをどうかしたほうがいいと思ったんですわ」とほとんどヒステリックに、女がいった。
メイスンはいった。「そうですね。その代わり、そうしていたら、あなたは、ご自分の首に、縄を巻くようなことになったでしょうな。とっくりと考えてごらんにならなけりゃいけませんな。この事件でのあなたの立場は、決して立派なものじゃないのですよ。あなたとしては、むろん、できれば、バーク氏を助けたいと思っておいででしょう。しかし、わたしが、はっきり申しあげたいことは、もしバーク氏がやったことだったら、正直に、わたしにいってくださるほうがいいということです。その上で、バーク氏を助け出せるものなら、やってみます。けれど、あなたが、バーク氏をかばおうと骨を折っているうちに、警察で、あなたを不利な立場におとし入れようとしている、そういう羽目に、あなたをおち入らせたくないのです」
女は、指でハンカチをもみくちゃにしながら、部屋の中を歩きはじめた。
「ああ、どうしましょう!」と、女がいった。「ああ、どうしましょう! どうしましょう!」
「ご承知かどうか知りませんが」と、メイスンがいった。「犯行の後で、うっかり手助けをすると、事後従犯とか、証拠|湮滅《いんめつ》とかで罰せられるものですよ。ところで、わたしたちはお互いに、そんな目に会いたくありませんからね。わたしたちの望むところは、この事件を起こした人間を、それも警察が発見するよりも先に、見つけ出すことです。わたしとしては、あなたが、警察の手で、殺人の容疑者にでっちあげられることは望まないし、まして、わたし自身が、容疑者にでっちあげられるなどはご免です。もし、バーク氏が犯行を犯したのなら、至急バーク氏と連絡をとって、自首をさせた上で、地方検察局が、十分な証拠を集めないうちに、早いうちに事件を法廷にもって行くことです。わたしは、ロックが騒ぎ立てないように、同時に、『スパイシイ・ビッツ』に恐喝記事がのらないように手を打ちましょう」
女は、しばらくの間、メイスンの顔を見ていてから、たずねた。「どんな方法を、おとりになるおつもりですの?」
メイスンは、女の顔に微笑みを向けて、「この勝負で、なにからなにまで知っていなければならないのは、わたしですよ。あなたは、知っていることがすくなければすくないほど、それだけ、しゃべる機会もすくなくてすみますからね」
「あたくしを、信じていただきたいわ。あたくしだって、秘密を守ることぐらいできましてよ」と、女がメイスンにいった。
「あなたは、大したうそつきですよ」と、皮肉たっぷりに、メイスンはいってのけた。「秘密を守るとおっしゃることからいえばね。しかし、こん度ばかりは、嘘をつくわけには行きませんよ。これからどんなことになるか、あなたにもわからないのですからね」
「でも、バークがやったのではありませんわ」と、女は、いい張った。
メイスンは、眉を寄せて、女をじっと見つめて、「ねえ、いいですか」といった。「わたしが、あなたに連絡をとりたかった理由は、それなんです。もし、バーク氏がしたのでないとすると、誰がしたのです?」
女は、目をそらして、「だから、さっき申しあげたでしょう。誰かが、主人と話しをしていたって。それが誰だったか、あたくし、知りませんわ。ただ、あなただと、あたくしは思ったんです。あなたの声とそっくりに聞こえたんですもの」
メイスンは、立ちあがった。その顔には、暗いかげがさしていた。
「いいですか」と、メイスンがいった。「いつまでも、そんな馬鹿げたことをいいつづけようとするんなら、あなたを、猿どもの前にほうり出しますよ。さっきも、あなたは、そんな馬鹿なことをいったが、そんなことは一ぺんだけで結構です」
女は、声を立てて泣きはじめた。「仕方がないわ。あなたが、お聞きになるんですもの。誰も聞いてやしませんわ。あたくし、い、い、いっただけなんです。誰だって。あなたの、こ、こ、声を聞いたんですもの。け、け、警察なんかに、い、い、いいやしませんわ。どんなに、せ、せ、せめられたって!」
メイスンは、女の肩をつかんで、ベッドの上に押し倒した。その顔から両手を引きはなして、じっと、その目を見つめた。目には、涙のあともなかった。
「さあ、よくお聞きなさい」と、メイスンがいった。「あなたは、わたしの声など聞きもしなかった。わたしは、全然、いなかったんですからね。それから、その泣きまねはよしてください――そのハンカチのなかに、玉ねぎを入れているのでなけりゃね!」
「それなら、あなたそっくりの声をした誰かだったのですわ」と、女は、あくまでもいい張った。
メイスンは、女の顔をにらみつけて、「あなたは、バーク氏を愛しているんですね?」とたずねた。「そして、バーク氏のために、わたしが、事件の始末をつけられなくなる場合に、わたしを身代わりにしようとして、いまからその用意をしようとしているんですね?」
「いいえ、本当のことをいえとおっしゃるから、いっているだけですわ」
「このまま、さっさと立ちあがって、あなたなんか見すててしまって、いっさいのいざこざは、あなたの手にまかしてしまおうかという気になるくらいですね」と、メイスンは、おどすようにいった。
女は、取りすましていった。「そうなれば、むろん、あの部屋で聞いたのは誰の声だったか、警察にいわなければならなくなりますわね」
「なるほど、それが、あなたの手なんですね?」
「あたくし、手なんか使いませんわ。本当のことをいってるだけですわ」女の声は、やさしかったが、メイスンの目とは、目を合わさないようにしていた。
メイスンは、ため息をついて、「わたしは、有罪にしろ、無罪にしろ、これまで一度だって、依頼人を見すてたことはないんです」といった。「いまも、その気持ちを思い出そうとしているのです。がしかし、ああ! あなただけは、見すてようという気がしてなりませんね!」
女は、ベッドに腰をおろして、指でハンカチをいじくっていた。
しばらくして、メイスンは、また話しはじめた。「ゆうべ、あなたのお宅を出てから、丘をくだる途中で、あなたが、わたしに電話をしたドラッグ・ストアへ立ち寄って、店員といろいろ話をしました。その男は、あなたが電話室へはいるところを、よく見ていたというのですが、それも無理のないことでしょう。なにしろ、ま夜中すぎに、イブニング姿の婦人が、男物のレインコートをひっかけて、びっしょり雨に濡れたまま、終夜営業のドラッグ・ストアへはいって来て、電話室へはいるというんですから、人の目をひくのが当然というものです。ところで、その店員の話では、あなたは、二回、電話をかけたということですね」
目を大きく見開いて、女は、メイスンの顔を見ていたが、なにもいわなかった。
「わたしのほかに、誰に電話をかけたんです?」と、メイスンがたずねた。
「誰にもかけませんわ」と、女がいった。「店員の思いちがいですわ」
ペリイ・メイスンは、帽子をとって、ぐっと目深にかぶった。メイスンは、エバ・ベルターのほうを向いて、荒々しく、「わたしは、なんとかして、あなたを助け出してあげます。どうしたらいいかは、いまは、わかりません。しかし、助け出すつもりです。その代わり、金がかかりますよ!」
メイスンは、ぐいとドアをあけ、廊下へ出て、ぴしゃっと後ろのドアをしめた。明け方の最初の光が、東の空を染めかけていた。
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第十二章
早い朝の太陽の、最初の光が、ビルディングの屋根に、かすかに射したころ、ペリイ・メイスンは、ハリスン・バークの家政婦をつかまえた。
その家政婦は、年の頃五十七、八の、おそろしくふとった、憎悪のかたまりのような女だった。その目には、敵意が火花のように飛び散っていた。
「どういうお方か知りませんが」と、家政婦は、突慳貧《つっけんどん》にいった。「はっきり申しあげますけど、ご主人は、ただいま、ここにはいらっしゃいません。どこにおいでになるかも存じません。ゆうべは、十二時ごろおもどりでしたけど、電話がかかって来て、またお出かけになりました。それからも、夜通し電話が鳴りづめでしたけど、わたしは、出てもみませんでした。だって、ご主人がお留守なことはわかりきっているんですからね。それにま夜中なんかに起き出したりしたら、あしが冷えてたまったもんじゃありませんからね。それからまた、こんなに早い時間に、ベッドから引きずり出されるのだっても、あまりありがたくはないんですよ!」
「ま夜中すぎにご主人が帰ってこられて、どのくらい経ってから、電話がかかって来たのです?」と、メイスンがたずねた。
「そんなこと、あんたとどんな関係があるのか知らないけど、たいして長くたってはいませんでしたね」
「その電話がかかって来るのを、ご主人は待っていたようでしたか?」
「どうして、そんなことが、わたしにわかるというんです? ご主人が、帰って来た物音で、わたし、目をさましましたとも。ドアをあけてから、また、しめる音が聞こえたんですからね。それからもう一度、眠ろうとしていると、電話のベルの鳴る音がして、ご主人の話しているのが聞こえましたよ。それから、ご主人が寝室へ駆けあがって行く音が聞こえたんで、わたしは、てっきり、おやすみにおいでになったのだと思っていたんですけど、けさになって、スーツケースがなくなっているところを見ると、どうやら、二階へあがって、スーツケースへ、いろいろお詰めになったらしいんですね。そして、お出かけになったんですね。階段を駆け降りて、玄関のドアを、ばたんとしめる音が聞こえましたからね」
ペリイ・メイスンがいった。「なるほど、そう聞いてみると、そういうことなんでしょうな」
家政婦は、「そうにきまってるじゃありませんか!」といって、ぴしゃんとドアをしめた。
メイスンは、とめておいた自分の車に乗って、とあるホテルに立ち寄り、自分の事務所へ電話をかけた。
デラ・ストリートの声が、向こうの電話口から聞こえてくると、メイスンは、「メイスン君はいますか?」といった。
「いいえ、いらっしゃいませんが」と、デラが答えた。「どなたでいらっしゃいましょうか?」
「メイスン君の友だちでね」と、メイスンが相手にいった。「フレッド・B・ジョンスンというんだが、至急に、メイスン君に会いたいと思ってね」
「どこにいらっしゃるかは申しあげかねますが」と、デラは、早口でいった。「ですが、もう間もなく、いらっしゃるだろうと思いますの。先生にお目にかかりたいという方が、何人もいらっしゃるんですよ、そのうちのお一人は、ご存じのポール・ドレイクさんで、多分、ご面会のお約束になっているんだと思うんです。ですから、間もなく、お出でになると思うんですの」
「そうですか、わかりました」と、メイスンは、さりげない調子でいった。「ではまた、電話します」
「なにか、おことづけはございませんのでしょうか?」と、デラがたずねた。
「なにもありません」と、メイスンがデラにいった。「後でまた、電話をするというほかにはね」と、そういって、メイスンは、電話を切った。
こん度は、メイスンは、ドレイク探偵事務所の番号をまわして、ポール・ドレイクを電話口に呼び出した。
「あまり大きな声を出して、ほかの連中に聞かれないようにしてくれよ、ポール」と、メイスンが口を切った。「いまは答えたくないようなことを、あれこれと聞きたがる人間が、うようよいるという気がするからね。ぼくが誰だかは、わかっているだろうな」
「うん、わかるさ」と、ドレイクが答えた。「ときに、おれのほうにも、きみに聞かせたい面白い話があるんだ」
「いってくれ」と、メイスンがいった。
「例の男の家へ行ってみたんだ。西六十九丁目のやつさ。そこで、ちょっと面白いことを聞き出したんだ」
「どんどんいってくれ」と、メイスンが、相手にいった。
「やつは、ゆうべ、十二時ちょっとすぎに、誰かから電話がかかって来ると、大事な用件ができて、町から逃げ出さなければならんと、そう細君にいったそうだ。なにか、ひどくおびえていたようすだったらしい。いろいろ身のまわりの物などをスーツケースに詰め込んでいると、一時十五分前ごろ、一台の自動車が迎えに来て、それに乗って出かけてしまったということだ。細君には、いずれ、どこにいるか連絡をとるといって行ったそうだ。けさになって、細君は、電報を受け取ったそうだが、それには、『ブジ、シンパイスルナ』と書いてあった。細君の知っているのは、それだけだ。むろん、細君のほうは、すこしは心配しているがね」
「そいつはすてきだ」と、メイスンがいった。
「すこしは役に立つかい?」とドレイクがたずねた。
「と思うね」と、メイスンがいった。「すこし考えてみなきゃならんがね。うん、大いに役に立つと思うね。ロックのほうは、なにか聞き込んだかい?」
ドレイクの声が、生き生きとした響きを伝えた。「きみが知りたいというようなことは、まだ、ようつかまんがね、ペリイ。が、いま追っかけている手がかりは、間違ったものじゃないと思うんだ。きみは、例のホイールライト・ホテルの女の子のことをおぼえてるだろう? 例のエスター・リンテンのことをさ?」
「うん」と、メイスンがいった。「あの女がどうかしたか?」
「うん」と、ドレイクがいった。「面白いことに、あの女、ジョージア州から来たんだぜ」
メイスンは、ひゅうと口笛を鳴らした。
「それだけじゃない」と、ドレイクが言葉をつづけた。「ロックから、きまったお|ぜぜ《ヽヽ》をいただいている。二週間ごとに、小切手が渡っているんだが、その小切手たるやロック自身の振り出しじゃなくて、下町の銀行に持っている『スパイシイ・ビッツ』の、特別口座から振り出されている。ホテルの会計係の男にあたって聞き出したんだが、女は、いつもホテルで、その小切手を現金にしているそうだ」
「その女の身許を、ジョージア州のほうまで追って、なんか事件に関係しているか、洗えないかね?」と、メイスンがたずねた。「たぶん、名前までは変えていないだろうと思うんだがね」
「そいつは、もう手を打っているよ」と、ドレイクがいった。「ジョージア州の同業に頼んで、かからしているよ。なにか、はっきりしたことがわかり次第、電報を打つようにといってあるんだ。すっかり調べがすむまで待っていないで、一つ一つ進行につれて知らせろといってやってある」
「そいつはすてきだ」と、メイスンがいった。「ところで、ゆうべ、フランク・ロックがいたところはわかっているかい?」
「一分一分というところまで、わかっている。あの男には、夜通し尾行をつけておいたからね。完全な報告書がいるかい?」
「うん」と、メイスンがいった。「それもすぐにね」
「どこへ届ければいいんだ?」
「使いの者には、信用できるのを選んで、後をつけられんように気をつけさせてくれ。リプレイ・ホテルへ届させるようにな。デトロイトのフレッド・B・ジョンスンへといって、帳場へおいて行ってもらえばいいよ」
「よし」と、ドレイクがいった。「連絡だけはたやさないでくれよ。打ち合わせたいことが起こるかもしれんからな」
「オーケー」とうなずいて、メイスンは、受話器をおいた。
それからすぐに、メイスンは、リプレイ・ホテルに行き、帳場に立って、ジョンスン氏あてになにか届いていないかとたずねた。なにも届いておりませんがという返事を聞いて、メイスンは、五一八号室へあがって行き、ドアの握りに手をかけてみた。鍵がかかっていないので、部屋にはいった。
部屋では、エバ・ベルターが、ベッドのへりに腰をかけて、たばこをふかしていた。ベッドの脇の小机には、ハイ・ボールのグラスがおいてあり、そのグラスのそばには、ウイスキーの壜があって、かれこれ三分の一はからになっていた。
よくふくらんだ安楽椅子には、きょろきょろした目つきの、落ち着きのないようすの、大きな男がすわっていた。
エバ・ベルターが口を開いた。「来ていただいてよかったわ。あたくしのことを信用してくださらないでしょう。それで、証人を連れて来ましたのよ」
「なんの証人です?」と、メイスンがたずねた。じっとメイスンに見つめられて、大男は、安楽椅子から立ちあがって、困り切ったような目を、メイスンに向けた。
「遺言状が偽造だということの証人ですわ」と、女はいった。「こちら、ダジェットさんといって、ジョージが、いっさいのことをおまかせしていた銀行の出納係をしていらっしゃる方なの。ジョージのことなら、個人的なことまで、とてもよく知っていらっしゃるの。この方が、あの遺言状は、主人の自筆ではないとおっしゃってらっしゃるんです」
ダジェットは、軽く頭を下げ、微笑みを浮かべて、「メイスンさんですね?」といった。「弁護士の? お目にかかれて光栄です」といったが、握手の手はさし出さなかった。
メイスンは、両脚を大きく開いて立ちはだかったまま、困ったような大男の目に、その目をあてて、「くだらない遠慮はいりませんよ」といった。「どうせ、このご婦人は、きみの痛いところをしっかり握っているんでしょう。でなけりゃ、朝のこんなに早い時刻に、でかけて来るわけはないでしょうからね。おそらく、小間使いに電話をかけて、帽子かなんかのことで伝言をする口だろうが、その点については、ひと言もいわないことにしよう。ぼくが、いま知りたいのは、掛け値なしの事実だ。ああいえ、こういえと、このご婦人はいったかもしれないが、そんなことは気にしなくてもよろしい。いまの場合、事実をまっ正直に述べることこそ、この上なく夫人を助けることになるということを、はっきり、きみに申しあげておく。ところで夫人のいったことに嘘はないんだろうね?」
銀行員の顔色が変わった。半歩ほど、弁護士のほうへ進み出たが、そこで立ちどまり、深く息を吸ってから、いった。「遺言状のことをおっしゃっているんですね?」
「遺言状のことです」と、弁護士がいった。
「つまり、なんです」と、ダジェットがいった。「手前は、念入りに、その遺言状を調べてみましたのですが、たしかに偽造でございます。ようく注意してごらんになりますと、一、二ヶ所、筆勢のくずれているのが、おわかりでございましょう。あわてて偽筆を運んでおりますうちに、手がいうことをきかなくなったのでございます」
メイスンが、「その遺言状を見せてもらおう」と、ずばりといった。
エバ・ベルターが、それを渡してから、「もう一杯、ハイ・ボールはどう、チャーリー?」と、銀行員にたずねて、くすっと忍び笑いをもらした。
ダジェットは、はげしく首を振って、「結構です」と、力一杯の声で断った。
メイスンは、仔細《しさい》に遺言状をあらためていたが、目を細めて、「確かにね!」といった。「きみのいう通りだ!」
「その点、疑問の余地はございません」と、ダジェットが、メイスンにいった。
メイスンは、鋭く相手の方に向き直って、「では、証人台に立って、証言してくれるというのだね?」とたずねた。
「とんでもない、そんなことはごめんでございます! ですが、手前など、必要はございませんでしょう! それが、自《おのずか》ら証拠物件でございますから」
ペリイ・メイスンは、じっと相手に目を当てたままで、「よかろう」といった。「もう結構」
ダジェットは、ドアの方へ進み、さっとあけると、急いで部屋から出て行った。
メイスンが、エバ・ベルターに、視線をじっと留めて、「いいですか」といった。「わたしは、打ち合わせのためになら、ここで、お目にかかってもいいと申しあげた。しかし、いつまでも、この部屋にうろうろしていてもらうつもりじゃなかったのです。こんなに朝の早い時間に、わたしたちが、このホテルの一室にいっしょにいるところを見つかったら、わたしたちの立場がどんなことになるか、あなたには、おわかりにならんのですか?」
女は、肩をすぼめて、「どうせ、あたくしたち、ある程度の危険はおかさなきゃなりませんわ」といった。「あたくし、あなたに、ダジェットさんと会っていただきたかったんですの」
「どうやって、かれをつかまえたんです?」と、メイスンがたずねた。
「電話をかけて、大事な用件だから、来てほしいと、そういったんですの。でも、あの人にあんなもののいい方をなさるなんて、あなたもあまり感心しないわ。すこし失礼よ!」
そういってから、女は、アルコールのはいった陽気さで、くっくっと笑った。
「だいぶ親しい知り合いのようですね?」と、メイスンがたずねた。
「どういうことですの?」と、女がたずねた。
メイスンは、立ったまま、じっと女の顔を見つめて、「どういうことか、わかりすぎるほどわかっているでしょう。あなたは、あの男を、チャーリーと呼んでいたじゃありませんか」
「ええ、そうよ」と、女がいった。「あの人の名前ですもの。あたくしのお友だちでもあるし、ジョージのお友だちでもあるんですもの」
「なるほど」と、メイスンがいった。
メイスンは、電話器のところへ行って、自分の事務所を呼び出して、「ジョンスンですが」といった。「メイスン君は、まだ出て来ませんか?」
「ええ」と、デラ・ストリートがこたえた。「まだなんです。出ていらしても、とてもお忙しいんじゃないかと思うんです、ジョンスンさん。はっきりしたことは存じませんけど、ある種の殺人事件らしくて、メイスンさんは、その関係の重要な証人の一人に依頼されて、代理していらっしゃるんです。新聞記者たちが、先生にお目にかかろうとしてもいるんですの。それに、どうしてもお目にかかるまで待つんだといって、待合室で頑張っている人もいるんです。刑事だと思うんですけど。ですから、きょう午前中は、事務所でメイスンさんにお会いになろうとなすっても、とてもご無理じゃないかと思うんですの」
「やれやれ、そいつは弱ったな」と、メイスンがいった。「実は、口述しなければならん書類があって、メイスン君は、そいつを見たいというだろうと思うし、また、署名もしてもらわなければならんのだが。どうかね、その書類を、速記でとってくれるような人はないだろうかね?」
「わたしでできると思いますわ」と、デラ・ストリートがいった。
「どうかね」と、メイスンがいった。「そんなに大勢の人にとりかこまれていて、抜け出すことができるかな?」
「わたしにおまかせねがいますわ」と、デラがいった。
「ぼくは、リプレイ・ホテルにいるよ」と、メイスンがデラにいった。
メイスンは、気むずかしそうに、じっと、エバ・ベルターを見つめて、「よろしい」といった。「どうせ、あなたも大変な危険をおかして、ここまで来られたのだから、もうしばらく、ここにいてもらいましょう」
「どういうことになるんですの?」
「遺産管理命令の申請書を提出しようと思うのです」と、メイスンがいった。「それがおりれば、いやでも警察では遺言状を提出して、検認を受けなければならなくなる。そこで、われわれは、その遺言状の検認に異議を申し立てて、あなたを、特別遺産管理人に任命する申請書を出そうというのです」
「それはいったい、どういうことなんですの?」
「つまりね」と、メイスンが相手にいった。「これからは、あなたが、権力を振るうことになるんです。そして、相手がどういう手段に出ようと、あなたの立場を不動のものにしようというのです」
「そんなことが、なんかの役に立つんですの?」と、女がたずねた。「この遺言状にもとづいて、あたくしが、遺産相続権を奪われているのも同然だとすれば、あたくしたちは、まずその遺言状が偽造のものだということを証明しなければなりませんわ。そして、その裁判が行われて、判決が下ってからでなければ、どうすることもできないじゃありませんか、なんかできるんですの?」
「わたしは、その間の、財産管理のことを考えているのです」と、メイスンがいった。「たとえば『スパイシイ・ビッツ』のことなんかです」
「ああ」と、女がいった。「わかりましたわ」
メイスンは、言葉をつづけて、「この際、いまお話しした書類を全部、口述して作りあげておきたいんです。そして、秘書に渡しておけば、かの女が、必要に応じて、ひとつひとつ提出できるというわけです。この遺言状は、あなたの手で元へもどしておいてください。多分、部屋には見張りがついているでしょうから、最初見つけた場所へもどすことはできないかもしれませんが、お宅のどこかへ、こっそり入れておくことはできるでしょう」
女は、もう一度、くすくす笑って、「それくらいのこと、あたしにだって、できますわ」といった。
メイスンがいった。「万一ということもある。やれるものなら、やってごらんなさい。なぜ、あなたが、あそこから遺言状を持ち出したかということだって、わたしにはわからないことです。万一、遺言状を持っているところをつかまったりしたら、大変なことになるかもしれませんよ」
「大丈夫よ」と、女は、メイスンにいった。「つかまったりなんかしやしませんわ。あなただって、危険をおかしたりなんかなさらないでしょう?」
「とんでもない!」と、メイスンがいった。「わたしが、あぶない目をおかしているのは、あなたの事件にまきこまれそうになったからで、なにもすき好んで、いちかばちか危険をおかしているわけじゃありません。あなたは、まるでダイナマイトみたいな人ですよ」
女は、誘い込むように、メイスンの顔に、にっこり笑顔を向けて、「そうお思いになって?」といった。「でも、そういう女が好きな男の人もいますわよ」
メイスンは、不機嫌に、じっと女を見て、「酔って来ましたね」と、相手にいった。「ウイスキーはおやめなさい」
「まあ」と、女がいった。「まるで、旦那さまのような口のきき方をなさるのね」
メイスンは、歩み寄って、ウイスキーの壜をとりあげ、ぐっと力を入れてコルクの栓をしめて、大机の引き出しにしまい込み、引き出しには鍵をかけ、その鍵をポケットに入れた。
「まあ、それで失礼じゃないとおっしゃるの?」と、女が、問いかけるようにいった。
「ええ」と、メイスンがいった。
電話のベルが鳴った。メイスンが出た。帳場の係りが、使いの者が紙包みを届けてまいりましたと知らせた。
メイスンは、ボーイにその紙包みを持って来させてくれといって、電話を切った。
待ち構えるように、メイスンが、ドアの前に立っていると、ボーイが、ドアをノックした。メイスンは、ドアをあけ、チップを渡して、持ってきた封筒を受けとった。フランク・ロックの、前の晩の行動についての探偵事務所からの報告だった。
「なんですの?」と、エバ・ベルターがたずねた。
メイスンは、首を振って、窓際まで足を運び、封筒をひらいて、タイプライターで打った報告書を読みはじめた。
やや簡単な内容だった。ロックは、ある闇酒場へ行き、そこに三十分ほどいてから、理髪店に行き、ひげを剃り、マッサージをさせてから、ホイールライト・ホテルへはいり、九四六号室を訪ねて、そこに、五分か十分いたのち、部屋の主のエスター・リンテンといっしょに夕食に出かけた。
食事の後、十一時までダンスをしてから、ホイールライト・ホテルのもとの部屋へもどった。ボーイが、ジンジャー・エールと氷を持ってあがった。ロックは、午前一時三十分まで部屋にいて、帰って行った。
メイスンは、報告書をポケットに突っ込んで、指の先で、窓枠をこつこつとたたきはじめた。
「いらいらさせられちゃうわね」と、エバ・ベルターがいった。「どうなっているのか、話していただきたいわね」
「なにをしようというのか、いま、話したばかりじゃありませんか」
「いまの書類は、なんですの?」
「事務上のものです」
「なんの事務ですの?」
メイスンが、声を出して笑いながら、「あなたのために仕事をするようになったからといって、ほかの依頼人のことまでみんな話さなくちゃいけなんですか?」
女は、眉をしかめて、メイスンの顔を見ながら、「あなたって、こわいかたねえ」
メイスンは、肩をすぼめただけで、相変わらず窓枠をたたきつづけた。
ドアに、ノックする音が聞こえた。
「おはいり」と、メイスンが声をかけた。
ドアがあいて、デラ・ストリートが入って来た。エバ・ベルターが、ベッドに腰をかけているのを見て、デラは、身をかたくしてその場に立ちすくんだ。
「いいんだよ、デラ」と、メイスンがいった。「これから起こるおそれのある緊急の場合に備えて、二、三、書類を作っておかなくちゃならないんだ。遺産管理命令下付申請書と、遺言状検認に対する異議申立書と、ベルター夫人を特別遺産管理人に任命する申請書と、いっさいの手続きに必要な委任状とを用意しなければならんのだ。それから、特別遺産管理の書類は、裁判所に提出する以外に、関係者に送達するものも作成しなければならんからね」
デラ・ストリートが、ひややかな口調でたずねた。「いまここで、口述なさるんですか?」
「そうだ。それから、朝めしがほしいな」
メイスンは、電話器のところへ行って、朝食をとどけてくれといいつけた。
デラ・ストリートは、じっとエバ・ベルターの顔を見つめて、「すいません」といった。「そのテーブルを使わせていただきたいんですが」
エバ・ベルターは、眉をつりあげて、そのテーブルからグラスをもちあげた。道で乞食に出会った女が、スカートをつまみあげるような態度にそっくりだった。
メイスンも、ジンジャー・エールの壜と、水のはいった鉢をのけて、そこにあった濡れたきれで、テーブルの上を拭いてから、そのテーブルをデラ・ストリートの椅子の前にすえた。
デラは、うしろの寄っかかりのまっすぐな椅子を引き寄せて、膝を組み、ノートブックをテーブルにおいて、鉛筆をかまえた。
ペリイ・メイスンは、早口に、二十分ほど口述した。それが終わろうとするころ、朝食がとどいた。三人は、ほとんど口もきかずに、たらふく食べた。エバ・ベルターは、つとめて、召使いといっしょに食事をしているという印象を与えるようなふりをしていた。
食事がおわると、メイスンは、食卓のものを片づけて、口述をつづけた。すっかりおわったのは、九時三十分だった。
「事務所へもどって、清書をしておいてくれ」と、メイスンが、デラにいいつけた。「いつでも署名ができるようにね。だが、なにをしているか、ほかの人間に気づかれないようにな。表の事務室との間のドアには、鍵をかけておいたほうがいいね。申請書には、印刷した用紙を使っていいよ」
「かしこまりました」と、デラがいった。「わたし、ちょっと、先生とだけでお話ししたいことがあるんですけど」
エバ・ベルターが、軽蔑するように、ふんと鼻をならした。
「この人のことは、気にしないでいいよ」と、メイスンがいった。「お帰りになるところだから」
「あら、あたくし、帰らないわよ」と、エバ・ベルターがいった。
「いや、お帰りなさい」と、メイスンが、命令口調でいった。「いますぐにね。書類を口述するあいだ、ここにいていただいたのは、必要な事柄をお聞きするためだったのです。それはすみましたから、急いでお帰りになって、その遺言状を、もとのところへもどしておいてください。それから午後、わたしの事務所へおいでになって、この書類全部に、署名をしていただきます。それから、今後は、ご自分の考えを他人にもらさないようにしていただかなけりゃなりませんね。新聞記者連中が、いろいろあなたに質問を浴びせかけるでしょうからね。いずれは、どっかで、つかまることになるでしょうが、そのときこそは、あなたのセックス・アピールを精一杯、発揮することですね。突然、ご主人をなくすような恐ろしい不運に打ちひしがれているといったふうに見せかけるんです。インタビューを受けても、とても筋道の立った返事なんかできるものじゃないといったふうに、悲嘆を売りつけるんですね。外へ出れば出るであなたの行く先々にカメラマンがつきまとって離れないから、そのご自慢の脚をたっぷり見せてやって、ついでに空涙を流すんです。おわかりですか?」
「ずいぶん、お下劣ね」と、取りすまして、女がいった。
「わたしは、実際的な人間だということですよ」と、メイスンが、相手にいい聞かした。「なんだって、それなら、役にも立たないと承知しながら、わたしには、あんなことをやって見せるような下らないことをしたんです?」
女は、もったい振ったようすで帽子をかぶり、外套を着て、ドアの方へ練るように歩いて行った。
「あたくしが、ああしたのは、ほんとにあなたが好きだからよ」と、女が、メイスンにいった。「だのに、あなたったら、勝手にずんずん、ぶちこわしておしまいになるんですもの」
メイスンは、無言のまま、ドアをあけてやり、軽く頭を下げて女をお送り出してから、ばたんとドアをしめた。
メイスンは、デラ・ストリートのそばへ寄って、「なんだね、デラ?」といった。
デラは、ドレスの胸に手を入れて、一通の封筒を取り出して、「メッセンジャーが、これを届けて来ましたの」
「なんだね?」と、メイスンがたずねた。
「お金ですわ」
メイスンが、封筒をあけてみた。中には、一枚百ドルの旅行者用小切手《トラベラーズ・チェック》を十枚綴じ込んだ小切手帳が二冊はいっていた。どの小切手にも、『ハリスン・バーク』と署名がしてあって、裏書きまでしてあった。受取人の名前は、空白のままだった。
そのほかに、鉛筆でいそいで走り書きしたらしい紙きれが、小切手帳にはさんであった。
メイスンは、その紙きれをひろげて、読んだ。
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しばらく身をかくしていたほうがいいと思います。小生を事件の圏外におおき願いたく、何があっても、小生を渦中にまき込まぬよう。ご配慮乞う。
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紙片には、『H・B』と頭文字だけの署名しかなかった。
メイスンは、小切手帳をデラ・ストリートに渡して、「商売は」といった。「好転というところらしい。現金にかえるところを、よく注意してくれたまえ」
デラはうなずいた。
「ねえ、おっしゃって、どういうことなんですの? あの女《ひと》、先生をどうしようっていうんですの?」
「料金をたっぷりくれようとしているだけで、別にどうしようともしてやしないよ。片がつくまでには、まだまだ払ってくれるつもりだろう」
「そればっかりじゃありませんわ」と、デラは、強くいい張った。「先生を、こん度の殺人事件に引き込んだのも、あのひとです。けさ、新聞記者たちが話しているのを聞きましたわ。事件を警察に知らせる前に、先生を呼び出したのも、いつでも、あなたを事件に引っぱりこめるように、ちゃんとそのつもりで、一切を仕組んだんですわ。ピストルの音がしたとき、部屋にいたのは先生だったと、あのひとが警察にいわないなんて、どんなところから、先生は、そんなこと思っていらっしゃるんですの?」
メイスンは、うんざりしたという身振りをして、「そんなこと思ってやしないよ」といった。「いずれ、遅かれ、早かれ、そういうことをしゃべるだろうという気はしているよ」
「それを黙って、見すごしていらっしゃるおつもりなんですの?」
弁護士は、辛抱強く説明するという口調で、「弁護を頼まれた場合にはね、デラ」といった。「依頼人を選り好みすることはできないんだよ。頼まれれば、引き受けないわけにはいかないんだ。この商売に、ルールはただ一つしかない。つまり、引き受けた以上は、自分の持っているかぎりの力をつくしてやらなければならないのさ」
デラは、ふんと鼻をならして、「だからといって、なにも、依頼人が自分の恋人を守るために、あなたを殺人罪で告発するのを、手をつかねて見ていらっしゃることもないじゃありませんか」
「きみも、なかなか利口になったね」と、メイスンがいった。「誰だね、きみに、そんなことを入れ知恵したのは?」
「新聞記者よ。でも、入れ知恵されたんじゃなくってよ。ただ、話しているのを聞いていただけですわ」
メイスンは、デラの顔に微笑みを向けて、「さあ、急いで帰って、この仕事を片づけてくれたまえ、ぼくのことは心配しなくてもいいよ。ぼくも、ひと仕事しなきゃならん。ここへ来るときには、いつでも、後をつけられないように気をつけてくれよ」
「こんなあぶないことは、もうこれでおしまいにしたいわ。さっきだって、もう大変な苦心をして逃げ出したのよ。みんな、つけて来ようとするんですもの。わたし、だから、ベルター夫人が、最初に事務所へ来たときと同じ離れ技《わざ》を演じて、化粧室を通って抜け出したの。男って、女をつけていても、あそこへ女にはいられると困るらしいのね。でも、一度は引っかかっても、二度目は駄目ね」
「よし、わかった」と、メイスンがいった。「ぼくも、できる限りかくれているつもりだけど、それにしても、きょうじゅうには、つかまるだろうな」
「わたし、あの女は大きらいよ!」と、デラ・ストリートは、はげしい口吻でいった。「あんな女に、お会いにならなければよかったんですわ。いまの十倍のお金を出したって、それだって、あんな人、それだけの値打ちなんかあるもんですか。わたし、はっきりいいますわ、あの女――ビロードの中に、とぎすました爪をかくしている女ですわ」
「ちょっと待った、お嬢さん」と、メイスンが、注意するような口吻でいった。「まだ、最後の仕上げは、きみも見ていないんだからね」
デラ・ストリートは、ぐっと頭をそらせて、「たっぷり拝見いたしましたわ。お仕事は、午後までにちゃんと用意しておきます」
「オーケー」と、メイスンがいった。「あの人にサインをもらって、万事用意をしておこう。いざとなったら、ぼくが自分でとりに行って、走りまわらなきゃならなくなるかもしれない。でなけりゃ、電話をかけて、どこかへ持って来てもらうことになるだろう」
デラは、ちらと笑顔をメイスンに向けてから、出て行った。その姿は、一点非の打ちどころなく、落ちつきはらい、忠実そのものではあるが、深い憂いを秘めていた。
メイスンは、五分ほど待っていてから、たばこに火をつけると、ホテルから出かけた。
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第十三章
メイスンは、ホイールライト・ホテルの九四六号室のドアの前に立ちどまって、静かにドアの羽目板をたたいた。部屋の中からは、物音一つしなかった。しばらく待ってから、こん度は、もうすこし強くノックした。
ややしばらくすると、部屋の中で、人の動くらしい音につづいて、ベッドのスプリングのきしむ音が聞こえ、つづいて、女の声で、「だあれ?」というのが聞こえた。
「電報です」と、ドアの前に立ったペリイ・メイスンがいった。
中の方で、かちっとドアの掛け金のはずれる音が聞こえて、ドアがあいた。メイスンは、肩をおとし、ドアを押し返して、部屋の中へはいり込んだ。
若い女は、ごく薄手の絹のパジャマを着ているので、こまかいところまで、その肉体がすけて見えた。いままで眠っていたと見えて、はれぼったい目つきをしている。顔には、まだ前夜の化粧の跡が残っているが、その化粧の下から、血色の悪い肌がのぞいている。
朝の光の下で見て、最初見かけたときに考えたよりも、ずっとふけているなと、メイスンは思った。とはいっても、美しい女で、ことに、その姿かたちは、きっと彫刻家を喜ばせるにちがいない。目は大きく、瞳は黒く、不機嫌そうに口許をとがらせている。
女は、メイスンの前に突っ立ったまま、遠慮の色などいささかも見せず、逆に、むっと突っかかるような口振りで、「そんなに遠慮なしにはいり込んできて、いったい、どういうつもりなの?」とたずねた。
「ちょっと、お話ししたいことがありましてね」
「それにしちゃ、無作法なやり方ね」と、女がいった。
メイスンはうなずいて、「ベッドへおもどりなさい。風邪《かぜ》を引きますよ」
「よけいなお世話よ」と、女がいった。「風邪なんか引くもんですか」
そういって女は、窓際まで歩いて行って、日よけをあげ、メイスンの方へ向き直った。
「それで、」と、女はいった。「なんの話だか、いってごらんよ」
「お気の毒だが」と、メイスンがいった。「あんたは、いま、ひどい窮地に立っているんですよ」
「そんな馬鹿なことがあるもんですか!」と、女がいい返した。
「ところが、さにあらず、本当のことをいっているんだから」
「いったい、あんたは、誰なの?」
「メイスンというものさ」
「探偵?」
「いいや、弁護士さ」
「ふうん」
「ぼくは、ふとしたことから、エバ・ベルター夫人の代理弁護士となったんだが」と、メイスンは、言葉つづけて、「その名前を聞いて、なんか思いあたることはないかね?」
「あるもんですか」
「まあまあ」と、メイスンは、相手をたしなめるように、「そう腹を立てないで。もうすこし、愛想よくお願いしたいもんだね」
女は、しかめっつらをしたが、すぐに、早口でしゃべり出した。「あたしはね、朝のこんな早い時刻に、寝てるのを起こされるなんて、大きらい。それに、あんたみたいに、いけ図々しく這入り来んでくる男、大きらいよ」
メイスンは、相手の言葉なんか聞かないふりをして、「あんたは、フランク・ロックが、『スパイシイ・ビッツ』の持ち主じゃないってことを知ってるかい?」と、さりげない口調でたずねた。
「フランク・ロックって、誰さ。え。『スパイシイ・ビッツ』って、なによ?」
メイスンは、声を立てて笑いながら、「フランク・ロックってのはね」といった。「あんたが、これまで二週間目ごとに現金にかえていた、『スパイシイ・ビッツ』の特別の勘定の小切手に、サインをしていた男のことさ」
「なかなか気のきいたことをやるわね?」と、女がいった。
「まあね」と、メイスンが、うなずいていった。
「ふん、それがどうだというの?」
「ロックは、ただの看板だったのさ。あの新聞の持ち主は、ベルターという名の男なんだよ。ロックは、ベルターの指図の通りに動いていたのさ」
女は、腕をのばして、あくびをして、「ふん、それが、あたしに、どんな関係があるのさ? あんた、たばこを持ってない?」
メイスンは、たばこを一本、女に渡してやった。女は、メイスンのそばへ寄って来て、メイスンがすったマッチの火をつけ、それから、そこらを歩きまわったあげく、ベッドに腰をおろし、両脚をからだの下に折り曲げて、膝をかかえた。
「もっと話したらどう」と、女がいった。「話したいんならさ。あんたが行ってしまうまで、眠るわけにもいかないんだから」
「どうせもう、きょうは、眠るわけにはいかないだろう」
「眠れないっていうの?」
「だめだね。ドアの外に、朝刊が来ているはずだ。読んでみたらどうだね?」
「なぜさ?」
「ジョージ・C・ベルター殺人事件のことが、すっかりのっているよ」
「朝ご飯前に、殺人事件なんか、いやなこったわ」
「しかし、なんとかいったって、きみは、読まずにはいられないだろうよ」
「いいわ」と、女はいった。「取ってきてちょうだい」
メイスンは首を振ってみせて、
「いいや」といった。「自分で取ってくるんだね。でなくて、ぼくがとりに行こうものなら、ドアをあけたとたん、ひょんなことになって、どんと、外へ突き出されることになるのが落ちだろうからね」
女は、立ちあがり、悠々とたばこを吹かしながら、戸口まで行き、ドアをあけ、手をのばして、新聞をとりあげた。
第一面の大見出しが、ベルター殺害事件を大袈裟に書き立てていた。女は、ベッドにもどり、その上にすわり込んで、あぐらを組んだような形になり、たばこの煙を吐きながら、新聞を読んだ。
「ふん」と、女がいった。「だけど、こんな事件が、あたしの若い人生と、どんな関係があるっていうのか、わからないな。どこかの男が、一発ばんと打《ぶ》ちこまれたってのは、気の毒だけど、どうせ打ちこまれるようなことをしていたんだろう」
「その通りだ」と、メイスンがいった。
「だったら、いったいなんだって、あたしが、綺麗になろうと思ってぐっすり眠るのを、たたき起こされなくちゃいけないの?」
「ちょっと頭を使えばね」と、辛棒強く、メイスンが説明して聞かせた。「きみにだってわかるだろう。ベルター夫人が、いっさいの財産を自由にする立場になり、ぼくは、たまたま、ベルター夫人の代理弁護士だというわけだ」
「それで?」
「きみは、これまでフランク・ロックを強請《ゆす》って、金をとっていた」と、メイスンが、ゆっくりとした口調でいった。「ロックは、その強請られた金を払うために、まかされた金を使い込んでいたんだ。『スパイシイ・ビッツ』の特別勘定というのはね、情報を買い込むために、ロックにまかされていたものだったんだが、あの男は、それを、きみに渡していたんだ」
「あたしは、やましいところなんかなくってよ」と、女はいって、新聞を床の上に投げすてて、「そんなこと、まるっきり知らなかったんだもの」
メイスンは、女に向かって、声を立てて笑いながら、「強請《ゆすり》のことは、どうだね?」
「なんのこといってるんだか、あたしにはわからないわ」
「いやいや、わかってるはずだぜ、エスター。きみは、ジョージア州での一件をたねに、ロックから金をまきあげてるじゃないか」
その言葉は、ぐさりと、女の胸をさした。顔色が変わった。はじめて、女の目に、驚愕の色が浮かんだ。
メイスンは、その優位を強調するように、言葉を継いで、「こいつは」といった。「あんまり面白がっているような問題じゃないだろうね。金をとって、重罪をないないにするって話を、きみは聞いたことがあるだろう。そいつは、この州では、犯罪になるということを知ってるだろうね」
女は、相手の胸を押しはかろうとするように、油断なくメイスンを見つめて、「あんたは、刑事じゃないんでしょう。弁護士だわね?」
「弁護士だよ」
「じゃ、いいわ」と、女がいった。「どうしろっていうの?」
「どうやら、すなおに話し出したね」
「話してなんかいないわ。聞いてるだけよ」
「ゆうべ、きみは、フランク・ロックといっしょにいたね」と、メイスンがいった。
「誰が、そんなこといってるの?」
「ぼくがいってるのさ。きみは、あの男といっしょに出かけて、また、ここへもどって来た。そして、あの男は、ずっと夜明けまでここにいた」
「あたしは、自由の身よ、黒人じゃないんだし、年だって二十一ですからね」と、女がいった。「それに、ここは、あたしの部屋なんだからね。遊びたいと思うときには、いつだって、男の友達を呼ぶ権利ぐらいあるんじゃないのかしら」
「そりゃ、あるさ」と、メイスンがいった。「じゃ、つぎの質問だが、きみは、自分のパンのどちら側にバターがぬってあるか、知ってるかね?」
「なんのことさ?」
「ゆうべ、部屋へ帰って来てから、きみは、なにをしたんだね?」
「お天気の話をしたわ、むろん」
「そいつは、いい」と、メイスンが、相手にいった。「きみは、酒を持って来させ、すわり込んで、おしゃべりをした。そのうちに眠くなって来たんで、眠った」
「誰が、そんなことをいうのよ?」と、女がたずねた。
「ぼくが、そういってるんだよ」と、メイスンがいって聞かせるように、「そして、きみも、そういうんだよ。きみは、眠くなって、それきり、なにもわからなくなってしまった」
女は、じっと考え深そうな目つきをして、「それ、どういうことなの?」
メイスンは、以前は、学校で生徒に教えたこともあった先生だといわんばかりの口吻で話し出した。「きみは、疲れている上に、酒を飲んでいた。パジャマに着かえて、十一時四十分ごろ、ぐっすり眠り込んでしまった。だから、それから後、どんなことがあったか、なんにも知らないのさ。フランク・ロックが、いつ帰って行ったかも知らない」
「あたしが、ぐっすり眠り込んでしまったといえば、なんかいいことがあるの?」と、女が問いかけた。
メイスンは、さりげない口調で、「ぼくの話の通りで、もし、きみが、ぐっすり眠り込んでいたということだと、ベルター夫人も、特別勘定をごまかしたことを、見逃す気になってくれるだろうと思うね」
「でも、あたし、眠り込んだりしなかったわ」
「もっととっくりと、考えてみたほうがいいだろうね」
女は、大きな目で、相手の肚《はら》をさぐるように、じっとメイスンを見詰めていたが、何にもいわなかった。
メイスンは、電話器の前へ歩いて行って、ポール・ドレイク探偵事務所の番号をまわした。
「誰だかわかるだろうな、ポール」と、ドレイクの声が聞こえて来ると、メイスンがいった。「つかんだかい、なにか?」
「うん」と、ドレイクがいった。「ちょっと、例の女のことでな」
「話してくれ」と、メイスンがいった。
「あの女はね、サバンナの町で美人コンクールがあったとき、優勝した女なんだ」と、ドレイクがいった。「そのときは、まだ未成年だったが、あるアパートに、もうひとりの若い女といっしょに住んでいた。そこへ、ある男があらわれて、その若い女とごたごたをおこして、殺《や》っつけてしまった。殺した男は、その犯罪を隠蔽《いんぺい》しようとして、卑怯極まる手を打ったが、結局逮捕されて、裁判にかけられた。ところが、この女が、どたん場で証言をひっくり返したんで、男の立場を、非常に有利にした。そんなわけで、最初の公判では、陪審も評決を下すことができなかった。そこで、もう一度、公判にかけようとしていると、その前に、男は、逃亡した。だから、いまでも、逃亡犯人となっている。名前は、セシル・ドーソンというんだがね。人相書きや、指紋や、そのほかの手がかりは、目下調査中というところだ。その男が、きみのさがしているご当人じゃないかという気がするんだがね」
「オーケー」と、メイスンは、その知らせを待ちうけていたといわんばかりの口吻で、「いまとは、どんぴしゃりのときに知らせてくれたもんだな。がんばってくれ。後でまた、こっちから連絡をとるからね」
メイスンは、受話器をかけると、女のほうに向き直って、「それで」とたずねた。「どうだね、イエスかノーか?」
「ノーよ」と、女がいった。「あたし、前にいったでしょう。気持ちを変えたりなんかしないわ」
メイスンは、じっと女の顔を見ながら、「きみもよく知ってるだろうが、この話の奇怪な点はだね」と、ゆっくりといった。「強請《ゆすり》よりずっと以前にさかのぼることだ。きみが証言をひるがえして、ドーソンに、未確定な評決を下させるようにした。そのときまでさかのぼるんだ。ドーソンが、もう一度逮捕されて、殺人容疑で再公判に引き出されることになったら、きみが、ゆうべ、あの男といっしょにここにいたことや、あの男から小切手を受けとっていたという事実は、偽証という点で、きみをひどい立場に追い込むことになるんじゃないかな」
女の顔には、色がなくなった。大きく見開いた目が、陰気に、メイスンを見詰めるだけであった。口をだらしなくあけて、重苦しく息を吸っていた。
「ああ、どうしよう!」と、女がいった。
「ほんとうのところは」と、メイスンがいった。「ゆうべ、きみは、ぐっすり眠ってしまったんだね」
女は、その目をメイスンの顔につけたまま、たずねた。「そういえば、うまく片がつくんですか?」
「どうかねえ」と、メイスンが、いって聞かせるように、相手にいった。「最後には、きちんと片がつくだろうな。もっとも、ジョージア州の一件に、ぶつぶついう人間があるかどうか、そいつは知らんがね」
「いいわ、あたし、眠り込んでしまったわ」
メイスンは、立ちあがって、ドアのほうへ足を運びながら、「いいかね、これだけは、忘れないようにしてもらいたい」といった。「ぼくのほかには、このことを知っているものはないんだ。ぼくが、ここへ来たとか、ぼくが、きみにいった話とかを、万一、きみがロックに話したりしたら、どんなひどい目にあうか、わかってるだろうね」
「ばかげたことをいわないでよ」と、女がいった。「あたしだって、自分のことぐらいわかってるわよ」
メイスンは、部屋を出て、ドアをしめた。
メイスンは、自分の車に乗り込んで、ソル・スタインバーグの質店へ走らせた。
スタインバーグは、こすっからしそうな目を、ちらちらっと光らしている、ふとったユダヤ人で、唇は、しょっちゅう微笑みを浮かべてゆがんでいた。
ペリイ・メイスンがはいって来たのを見ると、スタインバーグは、目を光らせて、いった。「これは、どうも、どうも、ずいぶん久しく、御意《ぎょい》を得ませんでしたな」
メイスンは、握手をして、「まったく、そうだったね、ソル。ところで、ちょっと困ったことがおきてね」
質屋のあるじは、うなずいて、両手をこすり合わせながら、「どなたでもお困りのときは」といった。「いつでも、ソル・スタインバーグのところへお運びになります。ところで、お困りというのは、どんなことでいらっしゃいますかな?」
「ねえ」と、メイスンがいった。「きみに、手を貸してもらいたいことがあるんだ」
「手前でできることなら、なんなりとさせていただきますとも。むろん、商売は商売ですからな。商売上のことでしたら、商売のペースでお願いしなけりゃなりませんし、手前も、商売としての扱いをさせていただきます。ですが、商売を離れてのお話しでございましたらね、そりゃもう、できるだけのことを、させていただきます」
メイスンは、きらっと目を光らして、「きみにとっては、商売の話だよ、ソル」といった。「というのは、その仕事で、五十ドル、きみの手にはいることになるんだからね。しかも、元手は一文もいらないんだ」
ふとった男は、はじけるように笑い出して、「そいつはまた」と大声でいった。「願ってもない結構な取引きですな――元手は一文もいらずに、五十ドルの儲けがころがり込むなんてなあ、まったくいい商売でさあ。で、なにをしたら、よろしいんで?」
「きみが売った、ピストルの帳簿を見せてもらいたいんだ」と、メイスンが相手にいった。
相手は、カウンターの下から、いいかげんよごれた、小さな帳簿をとり出した。それには、この店で売ったピストルの形式、製造元、番号、買受人の名前などが書き込んであり、買受人の署名もしてあった。
メイスンは、順々にページをめくって行って、三二口径コルト自動式《オートマチック》一挺とあるのをさがし出した。
「これだよ」と、メイスンがいった。
スタインバーグは、ぐっと乗り出して帳簿をのぞき込み、その署名をながめて、「それが、どうかしましたんで?」
「きょうか明日、一人の男を連れて、ここへやって来るからね」と、メイスンがいった。「きみは、その男を見るなり、しっかりうなずいて、『この人だ、この人だ、この人に間違いありません』と、そういってほしいんだ。確かにこの男だね、と、ぼくが念を押すから、きみは、いよいよ力を入れて、間違いないといってくれ。男は、むろん関係がないと言い張るだろうが、相手が否定すればするほど、きみは、いっそうはっきり、間違いないといいつづけてくれ」
ソル・スタインバーグは、厚い唇をすぼめて、「なかなか容易ならんことのようですな」
メイスンは、首を振って、「なるほど、法廷でそういうんなら、容易ならんことだろうが」と相槌をうった。「法廷へ出ていわなけりゃならんということじゃない。その男のほか、誰にもいうようなことにならない。それに、その男が、なにをしたということもいわなくてもいい。ただ、この男だと、いうだけでいいんだ。それから、きみは、このピストルの登録簿を、ぼくの前においたまま、店の奥へ引っ込んでしまえばいいんだ。わかったかい?」
「もちろん、もちろん」と、スタインバーグがいった。「ようくわかりましたよ。一つの点だけをのぞけばね」
「なんだね、その一つの点ってのは?」と、メイスンがたずねた。
「例の五十ドルとやらは、どこから来るんです?」
メイスンは、ズボンのポケットをたたいてみせて、「ここからだよ、ソル」そういって、メイスンは、ポケットから札束を引っぱり出し、その中から、五十ドルをかぞえ出して、質屋のおやじに渡した。
「いっしょにお連れになったんなら、誰であろうと、そういうんですね?」と、おやじがたずねた。「そうなんですね?」
「ぼくの連れてきた男なら、誰でもだ」と、メイスンがいった。「本人をつかまえないうちは、やって来ないからね。ことによると、ちっとばかり芝居をしなきゃならんかもしれんが、きみのほうも、ぼくのすることに、うまく調子を合わせてやってくれよ。いいだろうね?」
質屋のおやじは、撫でさするように、五十ドルの紙幣をたたみながら、「大丈夫でさあ」といった。「旦那の芝居さえぬかりなけりゃ、あっしは、あてがわれたせりふを、ちゃんといってのけまさあ。それも、大声でね」
「そいつは結構だ」と、メイスンがいった。「この男だときめつけるのに、ふるえたりしないでくれよ」
スタインバーグは、五十ドルの紙幣を、ポケットに突っ込み、「ふるえるなんて、とんでもない」といいながら、力一杯、首を振った。
ペリイ・メイスンは、口笛を吹きながら、店を出た。
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第十四章
編集室の椅子に腰をおろしたフランク・ロックは、じっと、ペリイ・メイスンの顔を見つめて、「たしか、連中が、きみをさがしていたと思っていたがね」といった。
「連中って、誰だね?」と、ペリイ・メイスンが、ぞんざいにたずねた。
「新聞記者、刑事、探偵、その他大勢さ」と、ロックがいった。
「みんな、連中には会った」
「きょうの午後かい?」
「いや、ゆうべだ。なぜだね?」
「なんでもない」と、ロックがこたえた。「ただ、きょうは、ちがった意味で、さがしているんじゃないかな。それで、なんの用だね?」
「ただちょっとね、エバ・ベルター夫人が、主人の遺産管理人指定の申請書を提出したということを、ちょっと知らせようと思って寄ってみただけさ」
「それが、おれにどんな関係があるというんだね?」と、ミルク・チョコレート色の目を、じっとペリイ・メイスンの顔にすえて、ロックがたずねた。
「つまり、これからは、エバ・ベルターがいっさいを切りまわす。きみは、かの女からの命令で動くことになる、ということだ」と、メイスンがいった。「それから、このぼくが、エバ・ベルターの代理人なのだから、ぼくの命令にも従わなければならんということだ。それで、まず最初の指令は、ビーチウッド・イン事件に関するいっさいの記事をさしとめだ」
「そんなものかね?」と、皮肉たっぷりに、ロックがいった。
「そうだ」と、メイスンは、言葉に力をこめていった。「そういうことだ」
「世間で楽天主義者というのは、きみみたいな人間のことだな」
「そうかもしれん。しかしまた、そうでないかもしれん。悪いことはいわん、受話器をとって、エバ・ベルターを呼び出してみるんだね」
「エバ・ベルターであろうと、誰であろうと、電話なんかかける必要はない。この新聞を出してるのは、おれなんだから」
「これからも、そうしていたんだね?」
「そうさ」と、噛んですてるように、ロックがいった。
「じゃどうだ。こんなにむやみやたらに人の聞いていないところへ出かけるというんなら、もう一度、話し合ってみてもいいぜ」と、メイスンが、落ちつきはらっていった。
「この前みたいな、下らない話じゃお断りだぜ」と、ロックがいった。「あんな話じゃ、でかける気にもならんからな」
「なんなら、ぶらぶら散歩してもいいぜ、ロック、そうすりゃ、話の折れ合いがつくかもしれんぞ」
「なぜ、ここで話さないんだ?」
「この部屋で、ぼくが、どんな気持ちがしているか、よくわかってるじゃないか」と、メイスンが、相手にいって聞かした。「いらいらさせられちゃうんだ。いらいらしていちゃ、とっくり話なんかできんよ」
ロックは、一分間ほど、ためらっていたが、ついに、いった。「よし十五分以上は、ごめんだぜ。それにこん度は、率直に話してくれよ」
「ああ、ざっくばらんに話すとも」と、メイスンが、はっきりといった。
「いつだって、割のいい話ならのるぜ」と、ロックがいった。
ロックは、帽子をかぶって、メイスンといっしょに、通りへ出た。
「どうだい、車をひろって、どこか、話のできそうな恰好のところが見つかるまで、乗りまわしてみちゃ」と、ロックがいった。
「いや、このまま、このブロックを歩いて、そこのかどをまわろうじゃないか。待たしてあるタクシーに乗るのは、まっぴらだ」と、メイスンがいい返した。
ロックは、顔をしかめて、「おう、つまらないことをいうのは、よせよ、メイスン! もうすこし大人《おとな》になるんだな! なるほど、あの事務室なら、必要となれば、会話を録音するマイクをしのばせるくらいのことはするさ。しかし、表へ出てまで、そんな厄介なことを、あれこれやるなんて考えないほうがいいよ。どなりたけりゃこないだやったように、摩天楼のてっぺんからどなったっていいさ。そんなことは、これっぽっちも、かかわりはねえからな」
メイスンは、首を振って、「いやいや」といった。「ぼくは、仕事をやるときには、ぜったいに一つの流儀でしかやらんことにしているんだ」
ロックは、いやな顔をして、「おれには、その流儀が気に入らんのだ」
「たいていの人間が、気に入らんらしいね」と、メイスンもうなずいた。
ロックは、立ちどまって、「こんなことしていたって、|らち《ヽヽ》があかんよ、メイスン。おれは、事務所へ帰ったほうがよさそうだな」
「そんなことをすれば、後で後悔することになるぞ」と、メイスンが、警告するようにいった。
ロックは、どうしようと考えているようだったが、やがて、肩をすぼめて、「よし」といった。「行こう。どうせ、ここまで出て来たんだ。最後までつき合うか」
メイスンは、連れ立って通りを歩き、ソル・スタインバーグの店の前まで来ると、「ここへはいろう」といった。
とたんに、ロックは、なんだか怪しいぞというような視線をちらとメイスンに向けて、「こんなところで、おれは、話なんかしないぜ」
「話なんかしなくていいよ」と、メイスンが、相手にいって聞かせるように、「ちょっとはいるだけだ。きみは、すぐ出てもいいんだ」
「いったい、どういうたくらみだ、これは?」と、ロックが聞いた。
「さあ、はいろう」と、じれったそうに、メイスンがいった。「いったい、なにを疑うことがあるんだ?」
ロックは、用心深く、まわりを見回しながら、はいって行った。
ソル・スタインバーグが、満面に笑みをたたえて、奥の部屋から出て来た。メイスンに近づいて、いった。「これは、これは、いらっしゃい。きょうは、どんなご用でございましょうか?」
そこまでいって、はじめて、フランク・ロックに気がついたらしく、笑いをとめて、いきなり、「おや、きょうは、どんなご用で」とたずねた。
ソル・スタインバーグの顔に、表情の見本とでもいうように、あらゆる表情が、つぎからつぎと浮かんだ。まず、いままでの微笑みが、はっと驚くべきものを認めた表情にとってかわったと思うと、こん度は、驚くべきものを認めた意外の表情が、強い決意の表情にとってかわった。と、ぶるぶるふるえる人さし指をあげて、まっすぐロックの顔をさしながら、「この人だ」と叫んだ。
メイスンは、鋭い声で、「おい、ちょっと待った、ソル。こりゃ、はっきりさせなきゃならんぞ」
質屋のおやじの舌が、とたんに、よくまわり出した。「あっしのいうことが、確かじゃないとおっしゃるんですか? 旦那は、その男を見たら、わかるかとおたずねになった。それで、あっしは、『わかります』とおへんじしました。いま現に、その人を目の前にしているんだから、もう一度、はっきり申しあげますよ。そうでさ。この人ですよ! この男にちがいありませんや! これ以上、なにが、確かめるのにお入用なんです? この人ですよ。この人ですったら。間違えっこありませんよ。どこで会ったって、この顔ならわかりまさ。忘れもしませんや、この鼻。この目の色は、ようくおぼえてまさ!」
フランク・ロックは、ふらふらと、戸口のほうへ後じさりした。もつれる口で、「おい」といった。「どんなわなに、おれをかけようというんだ? とにかく? いったい、こりゃ、なんのわなだ? こんな真似をしたって、一文の得にもならねえぞ。いまに、このお返しはしてやるぞ!」
「おい、落ちつけよ」メイスンは、その相手にいい聞かせてから、質屋の主の方に向き直って、「ソル」といった。「きみは、絶対に確信があるんだね。証人台に立っても、はっきりそういえるんだね。どんなに反対訊問をされても、きみの証言は、びくともしないというんだね」
ソルは、両の手のひらを、表情たっぷりに顎の下で振りながら、「どうすれば、これ以上、確かに申しあげられるんです?」といった。「証人台にすわらせてごらんになればいい。弁護士を一ダースでも、あっしのところへ連れて来るがいい。百人の弁護士だって、いい! あっしは、一言一句違わずに、同じことをいって見せまさ」
フランク・ロックが、「おれは、こんな男生まれてから一度だって会ったこともないぞ」といった。
ソル・スタインバーグの哄笑は、どこにもないほどの皮肉な、騒々しい笑いだった。
小さな汗の粒が、ロックの額ににじみ出た。かれは、メイスンの方に向き直って、「どういうつもりだ?」といった。「どういう|ペテン《ヽヽヽ》だ、こりゃ」
メイスンは、重々しく首を振って、「ただ、ぼくの仕事の一部さ」といった。「調べただけのことだ」
「なにを調べたんだ?」
「きみが、ピストルを買ったという事実をだよ」と、メイスンは、低い声でいった。
「あきれた気ちがいだ!」とロックが、わめくように叫んだ。「おれは、ピストルなんか、一度も買ったことはないぞ。一度も、この店の中へなんか、はいったこともない。こんな店なんか、見たこともないぞ。ピストルなんか、持ってないぞ!」
メイスンが、スタインバーグに向かって、「そのピストルの帳簿を、こっちへ寄越してくれないか、ソル? それから、きみは、引っ込んでいてくれ。ちょっと話したいことがあるんだ」
スタインバーグは、小さな帳簿をメイスンに渡すと、よちよちと店の奥へ引っ込んで行った。
メイスンは、帳簿をあけて、三二口径コルト自動式《オートマチック》の記入してある個所をひろげた。さりげなく手のひらで、ピストルの番号を一部分かくすようにしながら、人さし指で、『三十二口径コルト自動式《オートマチック》』という文字をさし、それから、余白に書き込まれた買い手の署名の方へ、その指をずらせた。
「この署名も、自分で書いたのじゃないと、きみは、否定するんだろうね?」と、メイスンはたずねた。
ロックは、その場から駆け出そうとするかのようだったが、それでもなお、なにか、むくむくと肚から湧いて来る好奇の念に引きとめられているようだった。かれは、身を乗り出すようにして、「むろん、おれが書いたなんて、否定する。おれは、こんな店にはいったこともないし、あのおやじの顔なんか見たこともない。ここでピストルなんか買ったこともないくらいだから、その署名だって、おれの署名じゃない」
メイスンは、じっと気持ちをおさえていった。「これが、きみの署名でないことは、おれにだって、わかっているよ、ロック。だがね、きみは、自分の書いたものじゃないと、いうつもりかい? それなら、用心したほうがいいんじゃないか。きみのいいわけの仕方によって、事情がよっぽど変わるかもしれないからね」
「むろん、おれは、そんなものは書きはしなかった。いったい、きみは、なにを考えてるんだ?」
「警察では、いまのところまだ気がついてはいない」と、メイスンがいった。「だが、ゆうべ、ジョージ・ベルターを殺すのに使ったのは、このピストルだ」
ロックは、まるで強い一撃をくらったように、たじたじとなった。かれのミルク・チョコレート色の目が、荒々しく、大きくなった。額には、汗の粒が、いまでは、はっきり目につくほどになった。
「すると、そういう卑怯極まるわなだったんだな?」
「ちょっと待て、ロック」と、警告するように、メイスンがいった。「そう怒るなよ。ぼくは、この一件を、その気になれば、警察へ持ち込むこともできたんだが、そうしなかった。ぼくは自分の流儀で行動するだけだ。きみにも、いちかばちかのチャンスをあたえるつもりでいるのだ」
「おれをわなにかけようたって、きみだの、こんな恥知らずな質屋のおやじだのに、てにおえることじゃないんだ」と、ロックは、歯をむき出してどなった。「こんなきたないいきさつは、おれがあばき立ててやるからな」
メイスンは、冷静な、じっと肚を抑えた声で、「どうだね、外へ出て、ちょっと話をしようじゃないか。ひとに見られないところで話をしたいんだがね」
「おれをこんなところへ引っ張り込んだのは、わなにかけるためだったんだな。おれをおびき出したのは、これなんだろう。ふん、好きなところへ行くがいいや!」
「なあに、きみを、ここへ連れてきたのは、ソルに、きみの顔をとっくり見させるためさ」と、メイスンが相手にいった。「それっきりだよ。もう一度会いさえすれば、相手の男がようくわかるといったもんだからね。確かめる必要があったんだ」
ロックは、戸口のほうへさがりながら、「まったくうまくできたわなだよ」といった。「こんな話を警察へ持ち込めば、警察じゃ、おれを大勢の人間の中にならばして、その人間の列の中から、おれが見分けられるかどうか、面通しをさせるところだ。ところが、きみは、その手をつかわずに、おれを、ここへ連れこみやがった。どうせ、このやっこには、いくらか金を握らせて、あんなことをいわせたと、おれが感づかないとでも思うのか?」
メイスンは、声高に笑いながら、「警察本部へ出かけて行って、ほかの人間の列に並びたいというんなら、警察本部へご案内と行くぜ。そうすりゃ、ソルのおやじは、きっと、きみを見分けることができるだろうよ」といった。
「むろん、できなくてさ。きさまが、おれの急所つかんでるんだからな」
「さて」と、メイスンがいった。「こんなことをいってたって、どうなるもんじゃない。さあ、外へ出よう」
メイスンは、ロックの腕をつかんで、ドアから外へ連れ出した。
通りへ出ると、ロックは、荒々しくメイスンのほうへ向き直って、いった。「きさまとは絶交だ。もう一切、口はきかんぞ。おれは、事務所へ帰る。きさまは、地獄へでも行くがいい!」
「そいつは、あまり利口なやり方じゃないぜ、ロック」と、メイスンは、ロックの腕をしっかりつかんだままいった。「いいかい、あの犯罪についちゃ、動機も、機会も、そのほかいっさいがっさい、ぼくは、つかんでいるんだぜ」
「そうかい?」と、ロックは、小馬鹿にしたような口振りでいった。「きみの考えている動機というのは、なんだい? そいつは、聞きたいもんだね」
「きみは、社の特別勘定の金を使い込んでいた」と、メイスンがいった。「そればかりじゃない、発覚しやしないかと、おっかなびっくりでいた。といって、ベルターには、サバンナの事件について、よくよく知られていたから、かれの機嫌をそこなうような、そんな思い切ったことはできなかった。その気になれば、相手は、殺人の容疑者として、きみをジョージア州へ送り返すこともできたんだからな。そこで、きみは、相手の家へ出かけて行って、話をつけようとしたが、結局、かれを殺してしまった」
ロックは、じっとメイスンの顔を睨みつけていた。歩くのをやめて、まっ青な顔に、唇をわなわなとふるわせながら、じっと立ちつくしていた。胃のあたりに一撃をくらっても、これほどにがくっとはしなかったろう。なにか口をきこうとしたが、できなかった。
メイスンは、ことさら、なにげない口吻で、「ところで、ぼくは、公明正大に行きたいと思うんだがね、ロック」と言葉をつづけた。「それでだ、あのユダヤのじいさんは、嘘をいう人間じゃないと、ぼくは思うんだ。もし、さっきの一件がでっちあげなら、きみが有罪の宣告を受けるようなことはあるまい。ひとりの人間を有罪と断ずるには、あらゆる疑問の余地のないまでに、その犯行を立証しなければならんということは、きみも承知しているだろう。もし、きみが、ただの一つでも疑わしい点をあげることができたら、どうしたって、陪審員は、無罪の評決を下さないわけにはいかなくなるのだ」
ロックは、やっとのことで出せたという声で、「いったい、どういうわけで、きみは、この事件に首を突っ込むんだ?」とたずねた。
メイスンは、肩をすぼめて、「ぼくは、エバ・ベルターの弁護士だよ」といった。「それだけのことさ」
ロックは、鼻であざ笑おうとしたが、うまくいかなかった。「すると、あの女も一味か! あの裏切り者の女とぐるになってやがるんだな!」
「あの人は、ぼくの依頼人さ、きみのいうのがそういう意味ならね」
「そんなことをいってるんじゃねえ」と、ロックが噛んですてるようにいった。
それを聞いたとたんに、メイスンの声が、きつくなった。「それなら、余計な口をきかないほうがいいぜ、ロック。きみは、注意人物だ。みんなが、きみに目を注いでいるんだぞ」
ロックは、やっとのことで胸を押さえて、「まあ聞け」といった。「きみが、なにを狙っているかは知らんが、いますぐ、おれは、その裏をかいてやる。ゆうべ、あの殺人事件の起こった時刻には、おれには、絶対にびくともしないアリバイがあるんだ。きみの立場をはっきり知らせてやるためにも、そいつを、きさまに見せてやる」
メイスンは、肩をすぼめて、「よかろう」といった。「見せてもらおうじゃないか」
ロックは、通りの左右を見まわして、「よし、タクシーをひろおう」
「よかろう」とメイスンもいった。「タクシーをひろおう」
一台のタクシーが、ロックの合図を見とめて、歩道際によって来た。ロックは、「ホイールライト・ホテル」といって、車に乗り込み、クッションに寄りかかった。ハンカチで額を拭い、震える手で、たばこに火をつけ、メイスンのほうに向き直って、「ねえ、きみ」といった。「きみも、世間のすいも甘いも知りつくした男だ。これから、ある若い女性の部屋へつれて行くが、このご婦人の名前だけは、事件に持ち込むのはやめにしてもらうぜ。きみが、なにを狙っているのか、おれは知らんが、おれをわなにかけようとしたって、まずまず見込みがないってことを教えてやろうと思っているだけなんだからな」
「わなだってことを証明することなどいらないんだぜ、え、ロック。きみとしちゃ、みんなが納得するような疑点を、たった一つでいいからあげさえすりゃ、いいんだぜ。もっともだと思われるような疑点を一つ、あげることができりゃ、そうさ、きみに有罪だという評決を下すような陪審員なんか、どこをさがしたってありゃしないよ」
ロックは、たばこの吸いさしを、車内の床にたたきつけて、「後生だから、その下らないおしゃべりはやめてくれ! きさまが、なにをしようとしているか、おれには、よくわかっているんだ。きみにだって、自分がしようとしていることぐらいは、よくわかっているはずだ。きみは、おれの神経をめちゃめちゃにして、おれを苦しめようとしているんだ。いったい、そんなに遠まわしに探りを入れて、なんの役に立つというんだ? きみは、おれになんかの罪をきせようとしているが、そんなことに頭を下げるなんて、おれはいわないぜ」
「わなだとわかっているんだったら、なにをそうあくせくするんだね?」
「そりゃね」と、ロックがいった。「きさまが、なにか余計なことを持ち出しゃしないかと気になるからさ」
「サバンナの一件のことかい?」
ロックは、ちぇっと呪いの言葉を吐いて、顔をそむけたので、メイスンは、その顔のにがい表情を見ることができなかった。ロックは、そのまま、窓の外を見つづけていた。
メイスンは、ゆったり座席に背をもたせて、歩道の人の群れや、つぎからつぎと通りすぎる建物の正面や、ショーウィンドウの飾りつけなどに、すっかり気をとられているような風だった。
ロックは、一度、なにかいいかけたが、思い直して、また黙り込んでしまった。ミルク・チョコレート色の目に、大きく、不安そうなかげが濃く浮かんでいた。顔色も、まだ生気をとりもどしていず、蒼白で、活気がなかった。
タクシーが、ホイールライト・ホテルの正面にとまった。
ロックは、車から降りて、手を運転手のほうに振って、金を払えというふうに、メイスンに合図した。
メイスンは、首を振って、「駄目だよ、ロック」といった。「きみじゃないか。タクシーを呼ぼうといったのは」
ロックは、ポケットから紙幣を一枚ぬきとって、運転手に投げ与えると、くるっと向き直って、すたすたと、ホテルの入り口へはいって行った。メイスンも、その後につづいた。
ロックは、まっすぐエレベーターまで行って、乗り込むと、「九階」と、運転手にいった。
エレベーターの函《はこ》がとまると、ロックは、外へ出て、メイスンが、ついてくるかどうか、振り向いてみようともしないで、さっさと、エスター・リンテンの部屋のほうに足を運んだ。その部屋のドアをノックして、「おれだよ、お前」と、声をかけた。
エスター・リンテンが、ドアをあけた。キモノを着ていたが、前をはだけて、桃色の絹の下着がまる見えだった。メイスンを見ると、あわててキモノの前をかき合わせ、目を大きく見開いて、一歩うしろにさがった。
「どうしたっていうの、フランク?」と、かの女がたずねた。
ロックは、女を押しのけて、部屋にはいり、「おれにもよくわからんのだが、とにかく、この男に、おれが、ゆうべ、どこにいたか、いってやってくれ」
女は、目を伏せて、いった。「なんの話なの、フランク」
ロックは、荒々しい声で、「よせ、そんなことは、おれのいったことはわかるだろう。さっさというんだ。ごたごたなんだ。お前がそのもめごとに、はっきり片をつけるんだ」
女は、まぶたをぱちぱちさせながら、ロックの顔を見つめて、「この人に、なにもかも話せっていうの?」とたずねた。
「なにもかもだ」と、ロックがいった。「この人は、犯罪を調べてまわる係員じゃなんだ。おれをわなに掛けられると思っている、ただの間抜けさ。だから、さっさと片づけるんだ」
女は、ひくい声で話した。「あたしたち、出かけたわ。その後で、あんたが、ここへ来たじゃないの」
「それから、どうした?」と、ロックがうながした。
「あたし、キモノをぬいだわ」と呟くように、女がいった。
「それから」と、ロックがいった。「この人に話すんだ。すっかり、この人にいうんだ。ようく聞こえるように、もっと大きな声を出すんだ」
「あたし、ベッドにはいったわ」と、女は、のろのろといった。「それから、お酒を二杯飲んだわね」
「なん時でした、それは?」と、メイスンがたずねた。
「十一時半ごろだったかしら」と、女がいった。
ロックは、じっと女の顔を睨みつけて、「それからどうした?」と、詰め寄った。
女は、首を振って、「けさ、目がさめたら、おそろしく頭が痛かったのよ、フランク。そりゃ、むろん、あたしが眠ったときに、あんたがここにいたことは、よくおぼえてるわ。だけど、あんたがいつ帰って行ったか、そんなことはなんにも知らないわ。ベッドへはいるなり、すぐに、ぐっすり眠り込んでしまったんですもの」
ロックは、女から飛びのいて、部屋の隅に立ちすくんだ。まるで、この二人から襲撃されるのを防ごうとでもするかのようだった。
「卑劣な、裏切り野郎……」
メイスンは、相手をさえぎって、「ご婦人に、そんな口のきき方ってあるか」
ロックは、猛《たけ》り立って、「ばかいうな、この女が、ご婦人か?」
エスター・リンテンも、怒りのあふれた目つきで、ロックを睨みつけて、「そんなことをいったって、いまさら、どうにもなりゃしないわよ、フランク。ほんとうのことを、あたしにいわせたくなかったんなら、いったいなんだって、アリバイがいるって、いわなかったの? あたしに、嘘をいわせようというんだったら、なぜ、あたしに、ちょっと耳打ちしなかったの? こうこう、いってほしいっていわれていれば、なんとでもいったわよ。だのに、なんにもいわないでおいて、ほんとうのことをいえっていうから、その通りにいったんじゃないの」
ロックは、また、きたない言葉を吐きちらした。
「さて」と、弁護士がいった。「拝見するところ、この若いご婦人は、お召しかえのところだったようだ。いつまでもお邪魔をしちゃよくない。ぼくは、忙しいんだからね、ロック。きみは、ぼくといっしょに出かけるか、それとも、ご婦人といっしょに残る気か?」
ロックは、薄気味悪い口調で、いった。「おれは、ここにいる」
「よかろう」と、メイスンがいった。「ところで、ちょっと、ここから電話をかけさせてもらおう」
メイスンは、電話器のところへ歩み寄って、受話器をはずして、「警察本部へ」といった。
ロックは、追い詰められた鼠のような目つきで、メイスンを見守っていた。
しばらくすると、メイスンは、送話口に向かって、話しかけた。「シドニー・ドラム君を呼んでもらえますか? 捜査課のドラム君です」
ロックが、苦しそうな、しゃがれ声で、「後生だから、その受話器をおいてくれ、早く」
メイスンは振り向いて、穏やかな、好奇に満ちた目で、ロックを見やった。
「電話を切ってくれ!」と、ロックは、声を振りしぼった。「畜生、きみの勝ちだ。きみは、おれにわなをしかけたが、おれには、そいつをはねかえすことができん。といったって、そのわなのできがいいというんじゃない。ただ、おれには、その動機というやつに、きみの口を出させるわけにはいかないだけだ。そいつが、おれをぐうの音もあげさせなくするんだ。きみが、動機の点を持ち出せば、陪審員なんてものは、ほかの点には、まるきり耳を傾けないだろうからな」
メイスンは、受話器を、元のかけ金にもどして、向き直って、まっ正面からロックを見て、「それで」といった。「どうやら話がつきそうだな」
「どうしようというんだ?」と、ロックがたずねた。
「そいつは、よくわかっているはずだぜ」と、メイスンがいった。
ロックは、両手をさっと広げて、降参の身振りをして、「よし」といった。「そいつは、わかった、ほかには?」
メイスンは、首を振って、「いまのところは、ない。いまや、あの新聞の真の持ち主が、エバ・ベルターだってことを、よく頭にとめておいたほうがいいかもしれないね。ぼく個人の考えをいうと、夫人の気に障りそうな記事は、どんな記事にしろ、一応、新聞に載せる前に、夫人の意見を聞くほうがいいと思うね。新聞は、二週間目ごとに出るんだったね?」
「そうだ、こん度の発行日は、つぎの木曜日だ」
「それまでには、どんなことが起こるかわかるぜ、ロック」と、メイスンが相手にいった。
ロックは、なんにもいわなかった。
メイスンは、女のほうを振り向いた。
「お邪魔してすみませんでしたな、お嬢さん」といった。
「いいわよ」と、女はいった。「この人がばかなのよ、あたしに嘘をついてほしかったんなら、どうして、前もって、そういっておかなかったのかしら? ほんとうのことをいってくれといったりして、いったい、どういうつもりだったんでしょう?」
ロックは、くるっと女の方に向き直って、「いつまで嘘をついているんだ、エスター。ベッドにはいってから、すぐに、ぐっすり眠り込まなかったってことは、お前がようく知っているじゃないか」
女は、肩をすくめて、「眠んなかったかもしれないわ」といった。「だけど、何にも思い出さないんだもの、いつだって、酔っぱらったら、その晩、なにがあったなんて、なにからなにまで、あたし、おぼえてなんかいられやしないんですもの」
ロックは、意味ありげに、「ふん、そんな癖は、直したほうがいいね。いまに命とりになるかもしれないからな」
女は、ぎらぎら光る目を、ロックに向けて、「そういえば、あんたくらい、命とりになりかねないようなことばかり起こす友達を、ごまんと持っている人もないわね!」
ロックは、まっ青な顔になって、「だまれ、エスター。この筋書きがわからんのか?」
「あんたこそ、だまっててよ! あたし、あんたから、そんな口のきき方をされる女じゃなくってよ」
メイスンは、二人の仲へ割ってはいった。「さあ、気にするんじゃない。どっちにしろ、もう話はついたんだ。さあ、ロック、行こうじゃないか。やっぱり、ぼくといっしょに来たほうがいいと思うよ。もうすこし、きみに話したいこともあるしな」
ロックは、ドアのところまで足を運んだが、そこで立ちどまって、ぎらぎらと憎悪に満ちたうす茶色の目で、エスター・リンテンを睨みつけてから、廊下へ出た。
メイスンは、女の方など見返りもせずに、急いでロックの後を追って出て、ドアをしめた。廊下へ出ると、ロックの腕をつかんで、エレベーターの方へ引っ張って行った。
「これだけは、知っといてもらいたいのだが」と、ロックが話しかけた。「あの、きみのでっちあげたわななんか、まったくお粗末極まるもんで、面白くもおかしくもないもんだ。ただ、おれがまいったのは、きみが口にしたジョージアの一件だ。あれだけは、誰にもさわってもらいたくないんだ。きみも思いちがいをしているという気がするんだが、あの一件は、おれの生涯のうちのあけてもらっちゃ困る一章なんだ」
メイスンは、微笑みを浮かべて、「いや、いや、そういうわけにはいかんぞ、ロック。殺人は、決して法律の手を逃れることはできないものだぜ。いつになったって、もう一度、公判廷に引っ張り出すことはできるんだぜ」
ロックは、思わず、メイスンのそばから飛びのいた。唇がゆがみ、目には、恐怖の色がみなぎっていた。「サバンナで公判にかけようとなんかしやがったって、そんなことは、どうにでもやっつけられる。だが、この土地で、別の殺人事件に引っかけて持ち出されたら、手早いとこ片づけられるのはわかりきっているし、またわるいことに、きみは、そいつを心得切っていると来てやがるんだ」
メイスンは、肩をすぼめて、「ときに、ロック」といった。「きみが新聞社の金を使い込んでいたのは、あの女を養っとくためだろう」と、いま二人が出て来た部屋の方へ、親指をぐっと向けて見せた。
「ふん」と、ロックがいった。「もう一度、考えてみるんだな。そこが、きみには、どうにも手のつけられないところだ。おれと、ジョージ・ベルターとの間に、どんな取り決めがあったか、それは、ジョージ・ベルター以外には、この世界中の誰にもわからんことだ。その取り決めは、書いたものにはなっていなかったんだ。われわれの間の了解だったんだ」
「おい、用心して口をきけよ、ロック」と、メイスンが、警告するようにいった。「いまでは、ベルター夫人が新聞の持ち主だってことを忘れるなよ。これから金を使うんなら、使う前に、夫人の了解を求めたほうがいいぞ。きみの勘定が、法廷で検査を受けることになることは、承知しているだろうな」
ロックは、声をひそめて、ちぇっといって、「そういうことなんだな?」
「そういうことだ」と、メイスンがいった。「このホテルを出たら、きみをひとりにしてやるつもりだがね、ロック、後戻りして行って、あの女をなぐったりするなよ。あの女がなにをいおうといまさら、事情はかわらないんだからね。ソル・スタインバーグが、こん度の事件で使われた凶器を買った男は、きみだと証言したのが正しいか正しくないか、おれは知らん。しかし、かりに、かれの証言が正しくなかったとしても、われわれは、ジョージア州の当局へ、ひと言伝えてやりさえすればいいわけだ。そうすりゃ、きみは、連れ戻されて、もう一度、公判にかけられることになるんだ。きみは、うまくごまかして、罰をのがれるかもしれないし、のがれないかもしれない。しかし、とにかく、きみは、ここの事件とは縁のない人間なんだからな」
ロックは、好奇心からいかにも聞きたそうに、「うむ、きみの狙いは、ずいぶん奥が深いらしいな。ひとつ聞かしてもらいたいもんだな」
メイスンは、邪気のなさそうな目をロックに向けて、「いや、そんなことはないよ」とメイスンがいった。「ぼくは、依頼人に頼まれて、そこらじゅうを駆けまわって、あることを見つけ出そうとしているだけだ。探偵をやとって、ピストルの番号を洗わせたので、ほんのわずかだが、警察より先んじたというところだろうな。それというのも、警察じゃ、千篇一律の動きしかしないからね。ところが、こっちは、それ一本にかかっていったってわけだ」
ロックは、声高に笑いながら、「よせやい」といった。「そんなことは、誰かよその、聞いてありがたがる人間に話してやれよ。そんな下らない、とぼけた話で、おれをだまそうったって駄目だよ」
メイスンは、肩をすぼめて、「そうかい、ロック」といった。「悪かったね。まあ、そのうちには連絡をとるかもしれんがね。さしあたっては、ベルター夫人のことなり、ぼく自身のことに、よく注意しているからね。それに、例のビーチウッド・インの一件とか、ハリスン・バークとかについては、二倍の注意を払っているぜ」
「たくさんだ」と、ロックがいった。「くどくどいうことなんかいらんよ。こんなことは、一生ご免だ。負けたときには、ちゃんと、こっちでわかっているよ。だけど、ジョージアの件は、どうする気だ? なんかするのか?」
「ぼくは、刑事でもなければ、役人でもない。ただの弁護士だ。ベルター夫人の代理人というだけだよ」
エレベーターが、二人を、ホテルのロビーへおろした。メイスンは、玄関を出てタクシーに合図をした。
「いや、ロック」と、メイスンがいった。「また会おう」
タクシーが走り去るのを、ロックは、戸口に立って、ビルディングの壁によりかかって見送った。その顔は青ざめ、唇はゆがんで、凍りついたような微笑みを浮かべていた。
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第十五章
ペリイ・メイスンは、ホテルの自分の部屋に、腰をおろしていた。目の下には、黒い隈《くま》ができ、顔は、疲労で、陰気に青ざめていた。しかし、両の目は、確固として、静かに心が一点に集中し、顔全体を支配していた。
朝の日の光が、窓から流れ込んでいる。ベッドの上には、新聞紙がいっぱいに散らばっている。どの新聞にも、ベルター殺害事件の大見出しが、その一面に大きく躍っているようだ。老練な記者たちが、事件が、いよいよ興味満点の段階に達したことを匂わせながら、すばらしいセンセイションをかき立てようとしているのだった。
『エグザミナ』紙では、『殺人事件、ロマンスを暴露す』という大見出しの記事が、第一面を一杯に埋めている。その大見出しのしたには、
――被害者の甥、家政婦の娘と婚約中、秘密のロマンス、警察が暴露。
――遺言状をめぐるベルター家の遺産争い、遺産相続権を排除された未亡人、遺言状の偽造を主張。
――捜査当局、行方不明のピストルの持ち主を追及中。
――未亡人口をすべらし、弁護士に捜査の手のびる。
こういう小見出しの下に、それぞれ記事がならんでいて、一面をそっくり埋めていた。中のページには、目にハンカチをあて、脚を組んで椅子にかけているエバ・ベルターの写真がのっている。それには、お涙頂戴の記事を書くので有名な婦人記者の署名入りで、『警察の取調べに泣き崩れる未亡人』という見出しの記事がのっている。
メイスンは、新聞を読んで、情勢の進展に置いて行かれないように心がけた。警察がピストルの出所を追って、ピート・ミッチェルという男が浮かびあがったが、その男は、事件直後に、奇怪にも行方不明となっているが、犯罪の行われた時刻には、完全なアリバイを持っているのだということを、メイスンは、記事から知った。警察では、ミッチェルという男が、そのピストルを手交したある人物をかばっていると推定している、というのだった。
その人物の名前は伏せてはあるが、捜査の手が、ハリスン・バークにせまろうとしていることは、はっきりメイスンには、わかった。なおまた、エバ・ベルターがつい口をすべらした言葉から、夫人から事件を依頼されながら、奇怪にも事務所から身をくらましている弁護士の行方を、警察がさがしはじめたという記事をも、メイスンは、興味津々たる思いで読んだ。さらにまた、事件は、今後二十四時間以内に解決されて、致命的な銃弾を発射した犯人が、法廷に立たされるであろうと、捜査当局では、自信をもって言明していた。
誰かが、ドアをノックする音がした。
ペリイ・メイスンは、読んでいた新聞紙をおいて、首をかしげながら、耳をすました。
繰り返して、ノックの音がした。
メイスンは、肩をすぼめてから、ドアへ歩み寄り、鍵をまわして、ドアをあけた。
デラ・ストリートが、廊下に立っていた。
待ちかねたように、部屋にはいると、デラは、ぴしゃっとドアをしめて、鍵をかけた。
「あぶないことをしちゃいけないと、いってあるじゃないか」と、メイスンが、相手にいった。
デラは、くるっと振り向いて、メイスンの顔を見た。その目は、心持ち血走っていて、その下に黒い隈《くま》ができ、顔もやつれている。
「わたし、気にしないわ」と、デラがいった。「大丈夫だわ。うまくまいてやったんですもの。一時間ほど、鬼ごっこしていたわ」
「あの連中のやることを、きみは知らないんだ、デラ。みんな、頭のいい連中だからね。ときによると、きみにはまいたと思わせておいて、きみの行く先をつきとめるようなこともするからね」
「そんな人を出しぬくようなこと、させてないわ」と、なまなましい神経をあらわすような声で、デラはいった。「はっきり、わたしの行く先なんか、あの連中にわかりっこないっていえますわ」
メイスンは、デラの声にヒステリーの徴候があらわれているのを感じた。「いやいや、来てくれてうれしいよ。ほんとうは、書きとっておきたいことがあるんだが、誰に筆記をしてもらおうかと思っていたところなんだ」
「なんの筆記ですの?」
「これから起ころうとしていることだよ」
デラは、ベッドの上の新聞紙の方へ、身振りをして見せて、「先生」といった。「わたし、あの女《ひと》が、きっと先生を厄介なことに引きずり込みますよって、前に申しあげたでしょう。あのひと、事務所にやって来て、例の書類に署名しましたわ。そのときにも、むろん、新聞記者連中が何人もうろついていて、あの人の後を追って、話を聞き出そうとしかけましたのよ。でも、刑事が警察本部へ引っ張って行って、また訊問したらしいんです。その結果がどういうことになったかは、よくおわかりでしょう?」
メイスンは、うなずいて、「大丈夫だ。興奮しちゃいけないよ、デラ」
「興奮しているっておっしゃるの? 先生は、あのひとが何をしたか、ご存じなんですの? あの女ったら、先生の声を聞いたと証言したんですよ。ピストルの音がしたとき、ベルターといっしょに部屋にいたのは、あなただったと、そういったんですよ。そういった後で、気をうしなってみせたり、ヒステリーを起こしてみたり、そんなふうな真似をしたんですよ」
「大丈夫だよ、デラ」と、メイスンは、なだめるようにいった。「そんなことをするだろうとは、ぼくも承知していたんだ」
デラは、大きな目をして、メイスンをまじまじと見て、「知っていたとおっしゃるの?」とたずねた。「知っているのは、あたしだけだと思ってましたわ!」
メイスンは、うなずいて、「確かに、きみは知っていたよ、デラ。しかし、ぼくだって知っていたよ」
「あの女は、卑怯な、嘘つきよ!」と、デラ・ストリートがいった。
メイスンは、肩をすぼめてから、電話器のところへ歩み寄った。ドレイク探偵事務所の番号をいって、ポール・ドレイクを呼び出した。
「いいかい、ポール」と、メイスンがいった。「つけられないように気をつけて、リプレイ・ホテルの五一八号室まで、こっそりやって来てくれ。速記帳を二冊と、鉛筆を一束、いっしょに持って来てくれるとありがたいんだが、どうだね?」
「すぐにか?」と、探偵がたずねた。
「すぐだ」と、メイスンがいった。「いま、八時四十五分だが、ショーは、九時にはじまると思うんでね」
メイスンは、電話を切った。
デラ・ストリートは、好奇心を動かして、「なんですの、先生?」とたずねた。
「エバ・ベルターが、九時に、ここへ来るはずだ」と、ぶすっと、メイスンがいった。
「わたし、あのひととなんか、ここにいっしょにいるのはご免ですわ」と、デラ・ストリートが、強くいった。「あのひとのそばになんかいたら、わたし、なにをするかわからないわ。そもそものはじめからずっと、先生を裏切ってばかりいた女よ。殺してやりたいわ。口先ばっかりの、どぶ鼠みたいな女よ」
メイスンは、デラの肩に手をかけて、「まあ、腰をかけて、心を落ちつけるんだよ、デラ。これから、最後の幕があくんだから」
ドアのところで、物音がした。握りがまわり、ドアがあいて、エバ・ベルターがはいって来た。
エバは、デラ・ストリートを認めて、いった。「あら、ごいっしょだったのね」
「どうやら」と、メイスンが口をひらいた。「だいぶ、おしゃべりをなすったようですな」そういいながら、メイスンは、ベッドの上にうず高くなっている新聞紙の方に、手を動かしてみせた。
エバは、もうひとりの女性のいることなどまったく無視して、メイスンの方に歩み寄ると、その肩に両の手をおき、その目を見上げて、「ペリイ」といった。「あたくし、生まれてからきょうまで、こんなにいやな思いをしたことなんかありませんわ。どんなはずみで、あんなことをいってしまったんだか、あたくし、まるきりわかりませんわ。あの連中ったら、あたくしを警察本部へ連れて行って、どなるようにして、質問責めにしたんですのよ。誰もかれも、その場にいる人がみんな、がみがみ大きな声を出して問い詰めるんですもの。あんなこと、一度だってお目にかかったことなんかなかったわ。あんなひどい目にあうなんて、夢にも思っていませんでしたわ。あなたをかばおうとしたんですけど、駄目でしたわ。うっかり、口をすべらしたんですの。そうして、ひと言すべらしたと思うと、とたんに、よってたかって、問い詰めて来るんです。なんだかんだといって脅かすんですよ。共犯として罰するなんて」
「どんなことをしゃべったんです?」と、メイスンがたずねた。
エバは、メイスンの目を見入っていたが、やがて、ベッドに歩み寄り、腰をおろして、ハンドバッグからハンカチを取り出し、しくしくと泣きはじめた。
デラ・ストリートは、さっと素速く、そのエバの方へ、二足ほど踏み出したが、メイスンが、その腕をとらえて、引きもどした。
「ここは、ぼくにまかしときたまえ」と、メイスンがいった。
エバ・ベルターは、ハンカチを顔にあてて、泣きつづけた。
「さあ、話してください」と、メイスンがいった。「どんなことをいったんです?」
エバは、首を振った。
「わざわざ泣いてみせることなんかないでしょう」と、メイスンがいった。「いまさら、そんなにたいしたことにもなりませんよ。ぼくたちは、苦しい立場に追い込まれているんですから、あなたがおっしゃったことを、ありのままに、いってくださるほうがいいですね」
エバは、泣きじゃくりながら、「あたくし、ただ、いっただけですわ、あなたの声を聞いたって」
「ぼくの声だったといったんですか? それとも、ぼくの声のように聞こえたといったんですか?」
「あたくし、なにもかもいってしまったんです。あなたの声だったって」
メイスンの口調は、きびしかった。「ぼくの声じゃなかったのを、あなたは、よく知っていたじゃありませんか」
「あたくし、いうつもりはなかったんです」と、エバは、かなしげな声でいった。「でも、ほんとうですわ。あれは、あなたの声でしたわ」
「よろしい。そういうことにしておきましょう」と、メイスンがいった。
デラ・ストリートが、なにかいおうとしかけたが、メイスンが振り向いて、じっと冷静な目で見つめたので、いうのをやめた。
部屋の中には、沈黙があるばかりで、通りから伝わって来るかすかなざわめきと、女のすすり泣く声とだけが、その沈黙を破る音だった。
一分か二分ほどして、ドアがあき、ポール・ドレイクがはいって来た。
「やあ、しょくん」と、陽気な声で、ドレイクが挨拶した。「早かったろう? 運がよかったよ。おれのすることだの、行先だのを気にするやつなど、一人もなかったんでね」
「ここの前を、うろうろしているような人間を見かけなかったかい?」と、メイスンがたずねた。「デラがつけられなかったとは、はっきりいい切れないんでね」
「誰も気がつかなかったがね」
メイスンは、ベッドに腰をかけて脚を組んでいる女の方へ、手を振って見せて、「この人が、エバ・ベルターだ」といった。
ドレイクは、にやっと薄笑いを浮かべて、その脚に目を向けた。
「うん」と、ドレイクがいった。「新聞に出ていた写真から、そのご婦人だなとわかったよ」
エバ・ベルターは、ハンカチを目から離して、ドレイクを見あげ、相手に取り入ろうとするような微笑みを浮かべた。
デラ・ストリートが、「涙まで、本物じゃなかったのね!」と、ずばりときめつけた。
ペリイ・メイスンは、くるっとデラの方に向き直って、「ねえ、デラ」といった。「このショーは、ぼくが演出しているんだぜ」そういってから、ポール・ドレイクの方に、目を移して、「ノートと鉛筆とを持って来てくれたかい、ポール?」
探偵はうなずいた。
メイスンは、速記帳と鉛筆を受け取り、それをデラ・ストリートに渡して、「そのテーブルを、こちらへ運んで来て、ぼくのいうことを書き取ってもらえるかね、デラ?」とたずねた。
「やってみますわ」と、のどがつかえたような声で、デラがいった。
「よろしい。あのご婦人のおっしゃることを、間違いなく書きとってくれ」と、メイスンは、ぐっと親指を、エバ・ベルターの方にしゃくって、いった。
エバ・ベルターは、つぎつぎに、二人の顔に視線を動かして、「なんですの?」とたずねた。「なにをなさるんですの?」
「はっきり真相をつかむんです」と、メイスンが相手にいった。
「おれにも、ここにいろというんだね?」と、ポール・ドレイクがたずねた。
「そうとも」と、メイスンがドレイクにいった。「きみは、証人だ」
「あなた、ほんとうに、あたくしをいらいらさせるわね」と、エバ・ベルターがいった。「ゆうべ、警察の人たちがやった通りよ。あの連中ったら、あたくしを地方検事の事務所へ連れて行って、ノートと鉛筆を持った大勢の人が身構えていましたわ。あたくしのいうことを、いちいち速記されたりして、あたくし、頭に来ちゃいましたわ」
メイスンは、にっこりして、「そう、まったくそうでしょうな。あの連中、ピストルのことを、なにか聞きましたか?」
エバ・ベルターは、青い目を丸くして、邪気のない視線を向けた。そのしぐさが、かの女を、若々しく、頼りなげなようすにして見せた。
「なんのことですの?」とエバがたずねた。
「なんのことか、よくおわかりのはずです」と、メイスンがいい張った。「どういういきさつで、あなたがピストルを手に入れたか、聞かれたでしょう?」
「どういういきさつで、ピストルを手に入れたかですって?」と、エバがたずねた。
「そうです」と、メイスンがいった。「ハリスン・バークが、あのピストルを、あなたに渡したんでしたね。だからこそ、あなたは、バークに電話をしなけりゃならなかった――凶行に使われたのが、かれのピストルだということを、バークに知らせなければならなかったのでしょう」
デラ・ストリートの鉛筆が、速記帳のページの上を、さっさっと走った。
「なにをいってらっしゃるのか、あたくし、さっぱりわかりませんわ」と、エバ・ベルターが、もったいぶっていった。
「ああ、そうですとも、よくおわかりのはずです」と、メイスンが、いい聞かせるように相手にいった。「あなたは、バークに電話をかけて、思いがけないことが起こって、かれのピストルが事件の要《かなめ》になっているらしいと告げた。そのピストルは、バークが、ミッチェルという男から譲り受けたものだった。それで、バークは、さっそく車を飛ばして、そのミッチェルを誘った。二人は、そのままどこかへもぐって、姿を隠してしまった」
「まあ」と、エバは、絶叫するようにいった。「そんな話、きいたこともありませんわ!」
「そんなふりをしたところで、どうなるものでもありませんよ、エバ」と、相手にいって聞かせるように、メイスンがいった。「それというのは、ぼくは、ハリスン・バークに会って、署名入りの供述書をとっているからです」
エバは、不意のことに驚いて、身をかたくして、「あのひとの署名した供述書を、あなたが持っているんですって?」とたずねた。
「そうです」
「あなたは、あたくしの代理の弁護士だと思ってましたのに」
「あなたの弁護士が、バークの供述書をとっちゃ、どこがいけないんですか?」と、メイスンが問い返した。
「どっこも悪くなんかありませんわ。ただ、あのひとが、あたくしにピストルを渡したとなんかいったんでしたら、あのひと、嘘をついてるだけのこと、あたくし、いままで一度だって、そんなもの見たこともありませんわ」
「それなら、話はいっそう簡単になりますね」と、メイスンがいった。
「なにがですの?」
「いまにわかりますよ」と、メイスンが相手にいった。「ところで、話を前にもどして、別の点を、一つ二つはっきりさせましょう。あなたは、ご自分のハンドバッグを取り出したとき、あれは、ご主人のデスクの中にはいっていましたね。おぼえておいでですか?」
「なんのことですの?」と、低い、用心深い声で、エバが聞き返した。
「ぼくが、ごいっしょに、あの部屋にいて」と、メイスンがいった。「あなたが、ご自分のハンドバッグを取り出した時のことです」
「ああ、そう、おぼえていますわ! あの日の夕方早く、自分でデスクにしまっておいたんです」
「結構です」と、メイスンがいった。「ところで、ここにいる四人の間だけの話ですが、ピストルが発射されたとき、ご主人といっしょにあの部屋にいたのは、誰だとお考えです?」
エバは、あっさりといった。「あなたよ」
「結構です」と、メイスンは、気にしていないような口吻でいった。「ところで、ピストルが発射されるすぐ前まで、ご主人は、風呂にはいっておいででしたね」
はじめて、エバは、不安の色を浮かべて、「それは存じませんわ。あなたは、あの部屋にいらしたけど、あたくしは、いなかったんですもの」
「いや、あなたはご存じですよ」と、メイスンが、強くいい張った。「ご主人は、風呂にはいっていたが、急いで出て、バスローブをまとわれた、からだを拭きもしないでね」
「そうでしたの?」と、エバは、機械的にたずねた。
「拭かなかったということは、あなたが、よくご存じだし、証拠が、拭かなかったということを示しています。ところで、ご主人が入浴中にもかかわらず、ぼくがあの部屋にはいったと、あなたが思うのは、どういうわけです?」
「あら、召使いがお通ししたんじゃないんですの?」
メイスンは、微笑みを浮かべて、「召使いは、そうはいってないでしょう?」
「でも、あたくしにはわかりませんわ。あたくしにわかっているのは、あなたの声を聞いたということだけですわ」
「あなたは、バークと外出しておいでだった」と、メイスンが、ゆっくりとした口調でいった。「それから、帰って来た。イブニング・ドレスを着ているときは、ハンドバッグはもっておいでにならなかったんでしたね?」
「ええ、あのときは、持っていませんでしたわ」といってしまってから、エバは、不意に唇をかんだ。
メイスンは、にやっと、相手の顔に薄笑いを向けて、「それなら、どうして」といった。「それが、ご主人のデスクにはいっていたのです?」
「存じませんわ」
「報酬としてお払いになった金額に対してさしあげた、領収証のことはおぼえておいででしょうね?」と、メイスンがたずねた。
エバは、うなずいた。
「どこにありますか?」
エバは、肩をすぼめて、「存じませんわ」といった。「なくしてしまいました」
「それで」と、メイスンがいった。「はっきりしました」
「なにが、はっきりしたんですの?」と、エバがたずねた。
「あなたが、ご主人を殺したという事実がです。あなたは、真相を話そうとしないから、代わりに、ぼくが話しましょう。
あなたは、あの晩、バークと外出していた。もどってきて、バークとは玄関で別れた。あなたは、二階へあがって行った。ご主人は、あなたが帰ってきた足音を耳にした。そのとき、ご主人は、入浴中だったのです。おそろしく腹を立てていたご主人は、バスから飛び出して、バスローブを身にまとう間ももどかしく、大きな声で、自分の部屋へ来いと、あなたを呼びつけた。あなたが部屋にはいって行くと、あなたが出かけている間に、あなたのハンドバッグの中から見つけ出した二枚の領収証を、ご主人は、あなたに突きつけた。それには、ぼくの名前が書いてあった。その前に、ぼくは、あの部屋でご主人にお目にかかって、『スパイシイ・ビッツ』に記事が掲載されないように骨を折っているのは、なんのためだということをお話しした。そこで、ご主人は、二つの事実から結論を出して、僕の依頼人が誰であるか、はっきり感づいたのです」
「あら、そんな話、きいたこともありませんわ!」と、エバがいった。
メイスンは、にやっと薄笑いを浮かべて、「いやいや、ようくご存じのことです! あなたは、いよいよ最後だと思って、ご主人を射った。ご主人が倒れたので、あなたは、その場を飛び出したが、それにしては、なかなかうまくやってのけた。つまり、ピストルをその場の床に落としたままにしておいたが、そのピストルの持ち主をたどれば、いずれは、ハリスン・バークのものだとつきとめられるだろうが、それ以上、追求されることはあるまいと知っていたのです。ハリスン・バークを事件に引っ張り込もうとしたのも、そうすれば、かれも、あなたを救い出さずにはいられなくなる。そして、同じ理由から、ぼくも事件にまきぞえにしようと思った。あなたは、邸から出て丘を降り、バークに電話をかけて、大変なことが起きたということを知らせた。いずれは、かれのピストルだということが発見されるだろうから、身をかくしたほうがいい、それについては、ぼくにたっぷり金をやって、この事件にあたらせるのが、ただ一つの活路だと、そういった。
それから、あなたは、ぼくに電話をして、その場へ飛んで来させた。ご主人といっしょに部屋にいた男の声を聞いて、ぼくの声だと聞きわけたといった。そういったのは、ぼくに助けさせようと思ったからであり、また、部屋で聞いた声がぼくの声だということを持ち出せば、ぼくが、アリバイを証明できないように仕組んでおこうと思ったからです。
つまり、あなたの肚《はら》では、ぼくとハリスン・バークの二人を、うまく、ごたごたに引きずり込むことさえできたら、ぼくたちは、自分自身が、それから抜け出すとともに、あなた自身も抜けさせてくれるという見込みだったのだ。ぼくを苦しい立場におとし込み、その上で、バークに金を出させてぼくの尻を引っぱたけば、ぼくが、夢中になって走りまわって、なんとか事件を片づけると、そう考えたのだ。自分では、どれだけ、ぼくを支配する力を持っているか知らないふりをして、ただ、ご主人といっしょに部屋にいた男の声を、ぼくの声と認めたといえば、それだけでいいと、あなたは考えたのだ。
なおその上に、万一、捜査当局が、あなたに手を伸ばすような場面に追い込まれるようなことになれば、いっさいを、ぼくにおっかぶせて、バークとぼくと二人の間で闘わせようと、そうも、あなたは考えたのだ」
エバは、眉一つ動かさず、メイスンの顔を見つめていたが、いまでは、その顔は、チョークのように蒼白で、目は、恐怖で陰気にくらかった。
「そんなふうな口をきく権利なんか、あなたにはありませんわよ」と、エバが、突っかかるようにいった。
「権利がなけりゃ、どうなんです!」と、メイスンがいった。「ぼくには、立派な証拠があるんですよ」
「どんな証拠が?」
メイスンは、耳に痛いような笑い声を立てて、「ゆうべ、あなたが、連中に訊問を受けている間、ぼくがなにをしていたと思います?」といった。「ぼくは、ハリスン・バークと打ち合わせた上で、二人して、お宅の家政婦と会ったんですよ。家政婦は、あなたをかばい立てようとしていましたけど、あなたがバークといっしょに帰って来たことも知っていたし、あなたが二階へあがって行ったとき、ご主人が、あなたを大声で呼んだことも知っていましたよ。あの晩早く、ご主人が、あなたをさがしていたことも、あなたのハンドバッグを、ご主人が持っていたことも、そのハンドバッグから、ぼくの署名のある領収証を二枚、見つけ出したことも知っていましたよ。
あなたは、宛名のない領収証をつくらせて、それで大丈夫だと思っていたのだろうが、このぼくの名前が、それに署名してあることを忘れていた。ご主人が、ぼくの働いている事件のことを知り、同時に、あなたのハンドバッグからその領収証を見つけ出せば、即座に、その事件の女というのが、ほかならぬあなただと悟るということを、すっかり忘れてしまっていたのです」
エバの顔は、いまではもう、すっかりゆがんでいた。「あなたは、あたくしの弁護士ですよ。そのあなたが、あたくしの話をそっくり種にして、あたくしに不利な状況をでっちあげることなんか、できないはずですわよ。あなたは、あたくしの利害関係に忠実でなければならないんですよ」
メイスンは、痛烈な笑い声をあげた。
「すると、ぼくは、じっとおとなしくすわっていて、自分が殺人事件に引きずり込まれるのを待っていろ、そうすりゃ、あなたは、逃げられるんだから、と、そういうんですね?」
「そんなことは、いってませんわ。ただ、あたくしに忠実であってほしいといっているだけです」
「忠実を口にするなんて、とんだあきれた人だ」
エバは、抗議の鉾先《ほこさき》を代えて、「あなたの話なんか、みんな、嘘です」と突っかかるようにいった。「証明なんかできるもんですか」
ペリイ・メイスンは、帽子に手をのばして、
「証明することはできないかもしれません」といった。「だが、ゆうべ、あなたは、地方検事に気ちがいじみた供述をしたんだから、こん度は、ぼくが出かけて行って、陳述をする番です。ぼくが、すっかりぶちまければ、事件の真相について、かなりはっきりした考えを持つにいたるでしょう。ピストルのことでハリスン・バークに電話をしたこと、逃げ出すようにとバークにすすめたこと、バークとのいきさつを、ご主人にかぎ出させないようにしようという動機があったこと、そういうことを知れば、捜査当局も、かなりはっきり事件の様相をつかむでしょう」
「でも、主人が死んでも、あたくし、なんにも得をしなかったじゃありませんか」
「それがまた、あなたの巧妙な手だ」と、ひややかに、メイスンがいった。「ほかのいっさいのことと同じにね。まったく上っ面の見せかけだけはうまいもんだが、ほんとうに、やってのけるほどにはお利口じゃない。例の遺言状の偽造の一件などは、うまいもんでしたがね」
「どういうことですの?」
「言葉の通りですよ」と、ぴしっと、メイスンがいった。「ご主人が、遺産はやらないとおっしゃったのか、それとも、金庫の中にある遺言状を、あなた自身で見つけたのか、とにかく、あなたは、遺言状の内容と、しまってある場所を知っていた。そして、なんとかして、その遺言状を無効にする方法を考え出そうとした。やぶって棄てたって、なんの役にも立たないだろうということは知っていた。カール・グリフィンと、弁護士のアーサー・アトウッドとが、その遺言状を見せられていたし、ご主人も、遺言状があることを二人に話していたからです。それに、遺言状がなくなっていれば、一番にあなたが疑われるんですからね。
しかし、うまくグリフィンをだまして、遺言状による遺産相続権を主張させるとともに、その遺言状が偽造だということを立証することができれば、グリフィンを不審千万な立場に追い込むことができると、あなたは考えついた。そこで、あなたは、先手を打って、ご主人のつくった遺言状の偽物をつくった。字句のほうは、一字一字、正確に写しとったが、わざと、簡単に見破られるように、お粗末に偽造した。そして、その偽造の遺言状を、必要なときにはいつでも取り出せるところに、しまい込んだ。
ぼくがお邸に呼ばれて、死体を調べているとき、あなたは、強い感情の衝撃を受けて、すっかり参ったふりをして、死体のそばへ近寄ろうともしなかった。ところが、ぼくが、いろいろ、夢中になって、そこらのものを調べている間に、あなたは、ほん物の遺言状を取り出して破り棄て、代わりに偽造の写しを入れておいた。当然ながら、グリフィンと、かれの弁護士とは、あなたのもくろんだわなにかかって、その遺言状を、ジョージ・ベルターの自筆の遺言状だと主張した。二人が知っている本物の遺言状の内容と同じだったのですからね。
しかし、事実は、筆蹟鑑定の専門家をわずらわして、本物かいなか調査する必要がないほど、まったくお粗末至極な偽造だった。グリフィンも弁護士も、いまでは、自分たちが追い込まれた立場を悟ってはいるが、もはや、その遺言状を提出して、真正なものに相違ないという宣誓もすませていた。偽造と知ったからといって、いまさら撤回するというわけにもいかない。まったくうまいもんですな」
エバは、ゆっくり立ちあがって、「それには、証拠がなくちゃいけませんわね」といったが、その調子は、力がなくふるえを帯びていた。
メイスンは、顎でドレイクに合図して、「隣りの部屋へ行ってくれないか、ドレイク」と口をかけた。「ビーチ夫人がいるはずだから、呼んで来て、ぼくのいったことを確認させてくれ」
ドレイクの顔は、仮面のように無表情だった。かれは、立ちあがると、隣りの部屋との境のドアのところまで行き、それをあけて「ビーチ夫人、こちらへどうぞ」と呼びかけた。
人の動く、衣ずれの音がした。
黒の喪服を着た、背の高い、痩せたビーチ夫人が、どんよりした目で、まっすぐ前の方を見据えながら、部屋へ足を運んできた。
「おはようございます」と、エバ・ベルターに、かの女は挨拶した。
不意に、ペリイ・メイスンが口を開いた。「ちょっと待ってください、ビーチ夫人。ベルター夫人に話をしていただく前に、もう一つ、はっきりさせておきたいことがあるんです。すみませんが、もうしばらく、隣りの部屋へもどっていていただけませんか」
ビーチ夫人は、くるっと向き直って、もとの部屋へ引き返した。
ポール・ドレイクは、相手をからかいたいというような一瞥を、ちらっと、ペリイ・メイスンに投げてから、ドアをしめた。
エバ・ベルターは、ふた足ほど出口のドアの方へ歩きかけたが、急に前の方によろめいた。
ペリイ・メイスンが、前のめりに倒れようとするエバのからだを抱きとめた。
ドレイクもそばへ寄って、両脚をかかえた。二人がかりで、女をベッドに運び、そこに横にした。
デラ・ストリートは、鉛筆をおき、あっと、小さな叫び声を上げて、椅子をうしろに押した。
メイスンは、すごいほどの剣幕で、デラの方を向いて、「じっとしてるんだ、そこに!」といった。「この女のいうことを、残らず書き取るんだ! ひと言だって、書き落とすんじゃないぞ!」
メイスンは、洗面台の前へ行き、タオルをつめたい水に浸すと、それを、エバ・ベルターの顔に、ぴしゃっとたたきつけた。みんなで、エバのドレスの前をひろげて、胸もタオルではたいた。
エバは、あえぐように大きく息を吐いて、意識を取りもどした。
エバは、メイスンの顔を見上げて、いった。「お願い、ペリイ、助けてちょうだい」
メイスンは、首を振って、「助けてあげることはできませんよ」といった。「ぼくをだまそうとしているあいだはね」
「すっかり本当のことをいいますわ」と、エバは泣き声でいった。
「よろしい。それで、どうしたんです?」
「あなたのおっしゃった通りですわ。ただ、あたくし、ビーチ夫人が知っていたとは、知らなかったんです。ジョージが、あたくしを呼んだ声や、ピストルを射った音は、誰も聞いたものがないと思っていたんです」
「ご主人を射ったとき、どれくらい近くにいたんです?」
「部屋のこちらのはしにいました」と、抑揚のない声で、エバがこたえた。「正直にいって、あんなことをするつもりはなかったんです。はずみで、射ってしまったんです。ピストルを持っていたのは、あのひとが、殴りかかりでもしたときに、身を守るためだったんです。殺そうとしやしないかと、それがこわかったからなんです。あの人ったら、とても激しい気性の人ですから、ひょっとして、ハリスン・バークのことが知れたりしたら、どんなおそろしい目に会わされるかわからないと思っていたんです。ですから、知られたと気がつくなり、そっと、ピストルを手にしのばせたんです。主人が、あたくしに向かって来たのを見て、きゃあっと叫ぶといっしょに、射ったんです。ピストルは、その場で床に落としたんでしょうね。そのときは、そんなことなんにもわからなかったんですわ。正直にいって、バークをこの事件にまき込もうなんて、そんな考えは夢にも浮かんでは来ませんでした。すっかり取り乱していて、ものを考えるなんてできませんでしたの。ただもう夢中で、まっ暗な外へ飛び出してしまったんです。
あたくしだって、馬鹿じゃないんだから、あたくしにとって、どんなに暗い運命が待ち設けているか、ようくわかっていました。とりわけ、ビーチウッド・インの殺人事件に、ハリスン・バークといっしょに苦しい立場に追い込まれていると思うと、尚更でしたわ。
ただ、やみくもに雨の中へ飛び出しただけで、なにをしようというのか、たいして考えもなかったんです。玄関を通りがかりに、外套掛けにかかっていたレインコートをつかんだことはおぼえています。でも、よほど度をうしなっていたとみえて、自分のを取りもしなかったんです。あたくしのもかかっていたのに、カール・グリフィンが時たま着る、古いオーバーコートをつかんでいたんです。それを引っかけて、走りつづけたんです。しばらくして、正気にもどったというんでしょうか、あなたに電話したほうがいいと思いついたんです。そのときには、あの人が死んだかどうか、知らなかったんです。でも、もう一度、あの人と顔を合わせなければならないのだったら、あなたとごいっしょにしたいと思ったんですの。
あの人が後を追って来ないので、殺したのじゃないかという気がしたんです。ほんとに、前もって殺そうと考えていたのじゃないんです。はずみでやってしまったんです。あの人、あたくしのハンドバッグを見つけて、かきまわしたんです。そんなことをして、手紙をさがすのが、あの人の癖だったんです。そんなハンドバッグに手紙を入れておくほど、あたくしも馬鹿じゃなかったんですけど、あの領収証だけは、うっかりして入れておいたんです。それで、あの人は、事実を割り出したんです。
あたくしが帰って来たとき、あの人は、お風呂にはいっていました。あたくしの足音を聞いたんでしょうね。浴槽から飛び出して、バスローブをまとっただけで、あたくしにどなりはじめたんです。行って見ると、領収証を手にしていて、ハリスン・バークといっしょだった女というのは、お前だとか、そのほかいろんなことをいって責め立てて、おしまいには、一文もやらずに追い出してやると、どなり立てるんです。あたくし、かっと興奮してしまって、ピストルをつかんで、射っちまったんです。ドラッグ・ストアまでたどり着いて、あなたに電話をおかけしようというときになって、誰かうしろ立てになってくれる人がいるということに気がついたんです。あたくしが、自分の金というものを一文も持っていなかったということは、お話ししましたわね。お金は、主人がそっくり握っていて、ときどき、ほんのぽっちりくれるだけだったんです。遺言状が、カール・グリフィンの利益となるように作られていることは、よく知っていました。ですから、遺言状の検認がすむまでは、遺産の中から、一銭も手に入れることはできないんじゃないかと思いましたの。ハリスン・バークだって、事件にまき込まれて名前が出るのを恐れて、まるきり構ってくれないだろうと察しました。でも、あたくしは、なんとしてでもお金を手に入れなきゃならなかったんです。なんとしてでも、うしろ立てになって助けてくれる人を見つけなきゃならなかったんです。それで、ハリスン・バークに電話をして、わざと、あの人を事件にまき込んだんです。大変なことが起きて、しかも、あんたのピストルが問題になっているといったんです。誰がうちの人を殺したのか知らないが、あんたのピストルが床に落ちていたことだけは、ようく知っていると、そういったんです。
あなたには通じそうにもないごまかしだったんですけど、バークには、ちゃんと通じました。バークは、気ちがいみたいになりましたわ。
あたくし、打つ手はたった一つ、身をかくすことしかない、決心をして、ピストルから足がつかないように、できればすることだと、そういったんです。そしてそれといっしょに、あなたにたっぷりお金を出して、できるだけのことをしてもらわなくちゃいけないともいったんです。それから、あなたに電話をして、来ていただいたんです。
あなたが車を飛ばしていらっしゃる間に、あたくし、考えをめぐらして、あなたが、あなた自身を救うために、無理にでも、あたくしを救い出さなくちゃならないような立場に、あなたを追い込むのが上策だと考えたんです。それからまた、警察があたくしを疑い出したときに、うまくいいわけのできる説明を用意しとくのも得策だと考えついたんです」
「そのへんの話は、あなたのおっしゃった通りですわ」と、エバは言葉をつづけた。「あたくし、警察の連中が、決して、あなたを有罪と認めないということは、よく知っていました。だってそうでしょう、あなたは、頭がよくきれて、こういうことにはよく慣れていらっしゃるんですもの。あなたなら、こんなことぐらい、わけなく抜け出しておしまいになりますわ。ですから、もし、警察が、強く責め立てるようだったら、あたくしが、ゆうべいったような話をあの連中にいってやれば、警察は、あなたに目をつけて、あたくしは逃げられると考えたんです。万一、あなたがうまく切り抜けて、もう一度、あたくしを責め立てようとしたって、こん度は、わけなくごまかせると思ったんです」
メイスンは、ポール・ドレイクを見上げて、首を振って、「まったく、すばらしいお友だちじゃないか?」といった。
そのとき、ドアにノックの音がした。
メイスンは、部屋にいる人たちの顔を見まわした。それから、爪先立ちでドアに近づいて、それをあけた。
シドニー・ドラムが、戸口に立っていた。そのうしろにもう一人、男がいた。
「やあ、ペリイ」と、ドラムはいった。「きみをさがすのに、おそろしく時間がかかったぜ。デラ・ストリートをつけて、このホテルを突きとめたことはいいんだが、きみが、なんという名で泊まっているか、そいつを調べるのに手間どってね。うるさいことをいってすまんが、ひとっ走り、おれといっしょに来てほしいんだ。地方検事が、きみに聞きたいことがあるというんだ」
メイスンはうなずいて、「まあ、こっちへはいれよ」といった。
エバ・ベルターは、小さな叫び声をあげて、「まあ、ペリイ、あたくしを守ってくださらなくちゃいけませんわ! あたくし、すっかりお話ししてよ。きっと、あたくしの味方をしてね」
ペリイは、エバの顔を見たが、急に、その視線を、シドニー・ドラムのほうに向けて、「きみは運がいい、シドニー!」といった。「犯人を逮捕できるぜ。この人は、エバ・ベルター、たったいま、夫殺しを自白したばかりだ」
エバ・ベルターは、金切り声をあげて、立ちあがったと思うと、ふらふらとよろめいた。
ドラムは、つぎからつぎと、みんなの顔に目を移した。
「ほんとうだよ」と、ポール・ドレイクがいった。
メイスンは、デラ・ストリートのほうに身振りをしてみせて、「そこに、すっかり書き取ってある」といった。「証人もいたし、一言一句、言葉通りの供述書をとったんだ」
シドニー・ドラムは、息を殺した口笛を吹いて、「ほんとうか、ペリイ」といった。「きみにも運がよかったな! きみを殺人容疑で逮捕しようとしていたんだぜ」
メイスンは、噛みつくような声で、「幸運なんてもんじゃない。ぼくは、この人が正直に出れば、進んで、なんとかやってみようと思っていたのだ。ところが、新聞で、ぼくを事件に引きずり込もうとしているのを知って、けりをつける決心をしたんだ」
ポール・ドレイクが、「きみは、ほんとうに、ハリスン・バークのいるところを知っているのか?」と聞いた。
「とんでもない、知るわけがないじゃないか!」と、ペリイ・メイスンがいった。「ゆうべ、この部屋から、ひと足だってでなかったんだからね。ぼくは、ただ、ここにすわり込んで、考えていただけだ。ビーチ夫人に連絡をつけて、けさ、エバ・ベルターがここへ来ることになっているから、夫人が新聞記者に会って発表する声明が確かだといいに、ここへ来てくれといって、タクシーをやって、ビーチ夫人に来てもらったんだ」
「しかし、あの女は、供述書についちゃ、きみの味方をしてくれないんじゃないか?」と、ドレイクがたずねた。
「それはわからん」と、メイスンがいった。「多分、してくれないだろう。あの女とは、全然話をしなかったんだ。向こうも、ぼくと話し合おうとはしなかったよ。だが、なにかを握ってるという気がする。ぼくとしては、あの女が、なにかを知っているというだけで、たくさんだ。ぼくは、ただ、きみにドアをあけてもらって、エバ・ベルターにあの女の姿を見させ、ちょっとした圧力を加えたかったというだけのことだ」
エバ・ベルターは、まっ青な顔で、ペリイ・メイスンを見つめていたが、「ひどい男ね」といった。「あきれた裏切りもんだわ!」
この場面に、最後の皮肉な一撃を加えたのは、シドニー・ドラムだった。「まった、ペリイ」と、ドラムがいった。「きみのいどころを、われわれに教えてくれたご婦人こそ、このエバ・ベルター夫人だったんだぜ。このご婦人のおっしゃるには、けさ、きみと会うことになっているから、ホテルで張ってればいい、誰かほかの人間が来るまで待っていて、その人をつけて来たといえばいいと、こういうご託宣だったんだ。きみには、この婦人じゃなく、われわれがデラ・ストリートか、誰か外の人間をつけて来たと思わせたかったというわけさ」
メイスンは、ひと言も口をきかなかった。ただその顔には、急に、疲労の色が濃く浮かんでいた。
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第十六章
ペリイ・メイスンは、ひどく疲れた顔つきで、事務所の椅子にすわっていた。
デラ・ストリートは、そのデスクの向かい側にすわっていたが、ことさら、メイスンの目をさけていた。
「きみは、あの女が嫌いだと思っていたがね」と、メイスンが、思ったままのことをいった。
デラは、目をそらせたままで、「ええ、好きじゃなかったわ」と、相手の言葉を認めた。「でも、あなたが、あの女のことを暴露する役割をしなけりゃならなかったのが、残念ですわ。厄介なことから助け出してもらおうと思って、あなたを頼りにしていたんですからね。それを、警察にわたしておしまいになったんですもの」
「ぼくは、そんなようなことは、しやしなかったよ」と、メイスンが否定した。「ぼくは、身代わりになるのをご免こうむっただけさ」
デラは、肩をすぼめて、「わたし、あなたを知ってから、五年になりますわ」と、ゆっくりした口調でいった。「その間、いつも依頼人のほうから、まずやって来ましたわ。あなたのほうから、事件を起こしたり、依頼人を作ったり、そんなことをなすったことはありませんでしたわ。来る者はこばまずでいらしたわ。依頼人の中には、死刑になった者もあれば、釈放された者もあったわ。でも、依頼をされて代理人となっていらっしゃるからには、決して裏切ったりなさらなかったわ」
「なんだね、それは」と、メイスンが問い返した。「お説教かい?」
「ええ」と、そっけなく、デラがいった。
「では、いってくれ」
デラは、首を振って、「それで、おしまいですわ」
メイスンは、立ちあがって、デラのそばへ歩いて行って、片手をデラの肩において、「デラ」といった。「一つだけ、頼んでおきたいことがある」
デラが目をあげると、その目が、メイスンの目と会った。
「頼むから、ぼくを信じてもらいたいんだ」と、謙虚な口ぶりで、メイスンはいった。
「なんですの?」
「と、おっしゃると……?」
メイスンは、うなずいて、「あの人は、まだ有罪と決まったわけじゃないんだ」といった。「なにかの罪で、陪審員が有罪の評決をしないうちはね」
「でも」と、デラ・ストリートがいった。「もうあの人は、あなたを相手にはしませんわよ。別の弁護士を頼みますわ。それに、自白して、犯人の声は、先生だといっているんでしょう。あの自白を切り抜けるのに、先生は、どうなさるおつもり? 警察でも同じ自白を繰り返して、署名したんですよ」
「あんなものは、切り抜けるも何もない。陪審員は、しかるべき疑念が一つでもあるかぎり、評決を下すことはできないんだ。まだまだ、あの人を自由の身にすることはできるよ」
デラは、眉を寄せて、メイスンを見た。
「いったい、なぜ、あの女にこれこれの質問をしてみないかって、ポール・ドレイクの口を使って、警察に耳打ちをおさせにならなかったんですの?」と、デラがいった。「どうして、そのことを、ご自分の口から、警察の連中におっしゃらなかったんですの?」
「それはね、警察がどんな訊問をしても、あの人なら、嘘をついて切り抜けるからさ。利口だぜ、あの女は。ぼくに助けてもらいたがっていながら、危険が身にせまったら、いつでも、ぼくを狼の群れに投げ与えようと考えていたんだからね」
「だから、代わりに、あの女をお投げになったんですね?」
「そういいたければ、そういってもいいよ」と、メイスンはうなずいて、デラの肩から手をはなした。
デラは、立ちあがって、待合室のほうへ歩き出しながら、「カール・グリフィンが、向こうでお待ちしていますわ」といった。「それから、弁護士のアーサー・アトウッドさんも」
「通してくれ」と、単調な気落ちのしたような調子の声で、メイスンが、デラにいいつけた。
デラは、待合室との間のドアをあけ、それをあけたまま、二人の男をさしまねいた。
カール・グリフィンの顔は、放蕩の色を浮かべていたが、申し分のないほどの身構えに、ひどく慇懃《いんぎん》で、まったく非の打ちどころのない紳士だった。デラ・ストリートの前を通るにも、すみませんとでもいうように、軽くかの女に顔を下げてから、ドアを通りぬけ、ペリイ・メイスンには、礼儀正しく、意味のない微笑みを見せて、「今日は」と挨拶をした。
アーサー・アトウッドは、四十代も末に近い、あまり日の光にもあたったこともないような青白い顔の男だった。目は、きらきらと光ってはいたが、ずるそうな色が隠せなかった。頭は、額からてっぺんまで禿《は》げあがっていて、耳のあたりにいくらか残っている程度で、そのはしが後頭部に縮れてかぶさっている。口もとには、まったく意味のない職業的な微笑みを、絶え間なく浮かべている。その微笑みのおかげで、顔には、いく筋も皺《しわ》が刻まれ、とくに、鼻から口のわきへかけては、深い溝のような皺が流れ、目尻には、八方に小皺が走っている。なんと判断していいか、正体のつかみにくい人物だが、一つだけはっきりしている点は――敵にまわすと手ごわい人物だということだった。
ペリイ・メイスンは、椅子をすすめ、デラ・ストリートがドアをしめた。
カール・グリフィンが話し出した。「まず最初に、メイスンさん、お詫びを申しあげなければなりませんのは、これまで、こん度の事件をお引き受けになったあなたの動機を、わたくしが誤解していたらしいということでございます。了解いたしますところによれば、ベルター夫人が自白したのは、主として、あなたのご賢明な探偵的ご手腕によるものだとのことで」
アーサー・アトウッドが、愛想よく、その言葉をさえぎって、「その後は、わたしにおまかせねがいます、カール君」
グリフィンは、慇懃に微笑みを浮かべて、自分の弁護士のほうに軽く頭を下げた。
アーサー・アトウッドは、椅子をデスクに引き寄せて、腰をおろし、ペリイ・メイスンに目をあてて、「やあ、メイスン君、われわれは、お互いに了解できた、と思いますが」
「さあ、どうですかな」と、メイスンが、あいまいにこたえた。
アトウッドの唇がゆがんで、途切れることのない微笑みを浮かべていたが、そのきらきらと光る目には、ユーモアのかげも浮かんでいなかった。
「あなたは弁護士として」と、アトウッドが口を開いた。「エバ・ベルターの遺言状検認に対する異議申し立てに、正式代理人として登録しておられる。なおまた、遺言状に対する特別管財人任命の申請にも、夫人の代理人となっておられる。ところで、この異議申し立てと、任命の申請とを取り下げていただくと、問題はこの上なく簡単になると思うのです――むろん、後日の訴訟の権利は保留してですが」
「誰のために、問題が簡単になるんです?」と、メイスンが質問した。
アトウッドは、自分の依頼人のほうへ手を振って、「グリフィン氏ですよ、むろん」
「ぼくは、グリフィン氏の代理人じゃありませんよ」と、メイスンは、そっけなくこたえた。
こん度は、アトウッドの目が、唇に調子を合わせるように笑みを浮かべて、「もちろん、ほんとにそうです」といった。「現在のところではね。しかし、率直に申しあげると、わたしの依頼人は、こん度の事件で、きみが示した世にも類稀《たぐいまれ》な手腕と、終始一貫、顕現された公正な精神に、おそろしく感動をお受けになったのです。もちろん、情勢は、四方八方、困難かつ面倒至極なものがからみ合っておりまして、わたしの依頼人にも、非常なる打撃となってます。しかしながら、いまとなっては、なにが起ころうと問題にはなりません。ついては、わたしの依頼人においては、相続財産の問題を取り進めて行くには、有能な弁護士を豊富に求めようとしておられるのです。わたしの意のあるところは、ご了解いただけるでしょうな」
「はっきりいえば、どういうことなんです?」と、メイスンが聞いた。
アトウッドは、ため息をついて、「さよう」といった。「率直にいうとですな、ここに、われわれ、というのは、われわれ三人ということですが、こうして顔を揃えたわけですから、露骨に言わせてもらうとですな、わたしの依頼人が、『スパイシイ・ビッツ』の発行経営について、非常に特殊な、専門的な配慮が必要だと感じられるであろうことは、想像にあまりあることなのです。わたしは、申すまでもないことですが、遺産の運営に忙殺されることになるでありましょう。そこで、グリフィンさんがわたしに提案されたのでありますが、氏に助言を与えてくれる、特に新聞刊行に関して、助言を与えてもらえる有能な弁護士を獲得したいものだが、こういわれたのであります。事実上は、遺産の処分が終わるまでの間、新聞の発行を引き受けてもらいたいとね」
アトウッドは、しゃべるのをやめて、きらきら光るつぶらな目で、意味ありげに、ペリイ・メイスンの目を、じっと見つめた。しばらくそのままで待っていたが、メイスンが、なにもいわないので、また言葉をつづけて、「それには、毎日、かなりの時間をかけていただかねばならないでしょうが、報酬は、十分に差しあげることになるでしょう、いや、十分すぎるほどの報酬を考えております。まったく」
メイスンは、ぶっきら棒に、「よおし」といった。「どうして、そう遠回しにものをいうんです? きみたちの要望というのは、現在の線のような闘いから手を引いて、いっさいの権利をグリフィンさんに委ねろと、こういうんですね。その代わり、ぼくには、いくらかの金を握らせる。それが、きみたちの提案なんですな?」
アトウッドは、口をすぼめた。
「実は、メイスン君、わたしとしては、そこまであけすけに、われわれの方針を表明いたすことに、いささか躊躇《ちゅうちょ》した次第ですが、しかし、わたしの申しあげた言葉を、きみがようく考えていただけば、われわれの提案が決して職業倫理の範囲を逸脱したものでなく、しかも、十分にこん度の事件を解決するに必要なものを網羅したものであることを、おわかりいただけるはずです」
「ばかばかしいことは、いわないでいただきたい」と、ペリイ・メイスンはいった。「もっと、気取らないで肚を割ってもらいたいですね。あなたのほうがいやでも、ぼくは、率直にものをいいますよ。あなたとぼくとは、この垣の反対側に立っているんです。あなたは、グリフィンさんの代理人として、遺産の管理権を握り、永久にその支配を失うまいとしておられる。ぼくは、ベルター夫人の代理人として、例の遺言状の無効を主張しようとしている人間です。あなた方のほうでもご承知の通り、あれは偽造ですからね」
アトウッドの唇は、相も変わらず微笑をつづけたままだったが、その目つきは、冷やかに、きびしかった。
「そうは参らんでしょうな」と、アトウッドがいった。「あの遺言状が、偽造であろうとなかろうと、そんなことは、いささかも影響しませんな。夫人は、本物の遺言状を破棄したことを、自白の中で認めているんですからな。われわれには、破棄された遺言状の内容を証明することもできるし、改めて書くこともできるんですぞ」
「よろしい」と、メイスンがいった。「それが訴訟というものなんです。あなたは、できると思い、ぼくは、できないと思う」
「そればかりじゃなく」と、アトウッドがいった。「夫人は、夫を殺したのですから、なに一つ、夫の財産を相続できんというわけですよ。遺言状やその他の証書の内容がどうあろうと、殺害した当の相手の遺産を相続するということは、法の精神に反しますからな」
メイスンは、なんにもいわなかった。
アトウッドは、その依頼人と視線をかわした。
「その点を、あなたは、問題になさるおつもりですか?」と、アトウッドが、メイスンにたずねた。
「もちろんですとも」と、メイスンがいった。「しかし、それをここで、あなたと論議する気はありません。いずれ、陪審員の前に出たときに、堂々と論じ合いましょう。ぼくにしたって、きのうやきょう生まれた、青二才と思ってもらっちゃ迷惑だ。あなたのお望みは、よくわかっています。あなたは、エバ・ベルター夫人に、第一級殺人罪の判決が確実に宣告されることを望んでおられる。ぼくの助力があれば、夫人の犯罪の動機を明らかにすることができ、それによって、前もって計画された犯罪であることを証明できると、あなたは思っておられる。夫人に第一級殺人罪の判決を下すことができれば、夫人は、遺産の相続ができない。殺人犯人は、被相続人の遺産を相続できない、法律では、そうなっているのですからね。しかし、もし、夫人が殺人罪として判決されなかったとしたら、たとえ、過失致死で有罪と宣告されるとしても、なお相続をすることはできる。あなたたちは、財産を狙って、ぼくを買収しようとしている。そんなことは、うまく行きっこありませんよ」
「あくまで、そういうことを固執しておいでになると、メイスン君、きみ自身、陪審員の前に立つことになりますぞ」
「結構」と、メイスンがいった。「それをイギリス流にいうと、脅迫ということですかな?」
「そういつまでも、われわれを不利な地位においとくことは、いくらあなたでもできませんぞ」と、アトウッドがいった。「そして、いったん、われわれが有利な地位に立つことになった暁には、われわれは、いろいろ重要な決定を下させることになるでしょうが、そのうちには、きみの活動に影響を与えるものが出て来るかも知れませんぞ」
ペリイ・メイスンは、すっくと立ちあがって、「こういう堂々めぐりのお話しは、ぼくは、ご免こうむります」といった。「ぼくは、いうべきことは、出るところへ出ていいます」
「なるほど」と、アトウッドは、相変わらず慇懃な話し振りで、「で、いうべきこととおっしゃると、どういうことですかな?」
「やめたまえ!」と、爆発したような声で、メイスンはどなった。
カール・グリフィンが、なにか詫びるように、咳払いをして、「みなさん」といった。「わたしから申しあげたほうが、事柄を簡明にするかと思いますのですが」
「いや」と、アトウッドがいった。「話は、わたしがします」
グリフィンは、にっこり、メイスンの顔に笑顔を向けて、「感情的になるのはいけません、メイスンさん」といった。「これは仕事の上の話ですから」
「グリフィンさん」と、じっと依頼人の顔を見据えながら、アトウッドがいった。
「いや、わかりました」と、グリフィンがいった。
メイスンは、身振りでドアの方を指して、「さて、紳士方、どうやら会談もすんだようですな」
アトウッドは、もう一度、くいさがった。「あなたが、あなたの取る途をよく考慮して、申請を取り下げてさえくださればですな、メイスン君、無駄な時間をはぶけるわけなのです。きみも、認めなければならんでしょうが、この訴訟は、われわれの勝訴に終わることは明らかなのです。が、そこまでもって行くのにかかる、時間と費用とが、われわれには気に入らないのです」
メイスンは、石のように、じっと相手の顔を凝視して、「ねえ」といった。「あなたは、勝訴になると思っておられるかもしれんが、いまは、わたしが、主導権を握っているのですよ。そして、この主導権は、あくまでも握っているつもりです」
アトウッドは、癇癪《かんしゃく》を起こした。「きみの主導権なんか、二十四時間ともつものか!」
「もたないと思うんですね?」
「ご注意にまで申しあげることを許していただくと、メイスン君」と、アトウッドが、もったい振っていった。「きみは、この殺人事件の共犯と考えられるかもしれないのですぞ。警察が、われわれの望む通りに動いてくれることは、疑いないことなんです。なにしろ、わたしの依頼人は、法的に認められた相続人なのですからな」
メイスンは、相手の方に歩み出して、「いつでも、自分の立場を思い出させてもらうことが必要になったら、アトウッド君、きみに電話をかけることにするよ」
「よろしい」と、アトウッドがいった。「どうしてもご同意いただけないというのなら、われわれも、一戦を交えることにします」
「結構ですとも」と、メイスンが相手にいった。「同意をするつもりはありません」
アトウッドは、依頼人に目くばせをして、二人は、ドアの方へ歩いて行った。
アトウッドは、いささかもためらわず、大股にドアを通って、出て行ったが、カール・グリフィンは、ドアの握りに手をかけて立ち止まったまま、ひどく、なにかいいたいことがあるようなそぶりだった。
しかし、メイスンのそぶりには、相手の気持ちを取りあげるようなけはいもなかったので、グリフィンは肩をすぼめて、弁護士の後を追って出て行った。
二人が行ってしまうと、デラ・ストリートがはいって来た。
「なんとか話し合いがつきまして?」と、デラがたずねた。
メイスンは、首を振った。
「こちらを納得させること、あの連中にはできないんですのね?」と、メイスンの目をさけながら、デラがたずねた。
メイスンは、十歳もふけたような顔つきで、「ねえ、デラ、ぼくは、時間を相手にして闘っているんだ。これまでに、もうすこし時と、自由に動くだけの余地を与えられていたら、もっとうまく、この情勢をさばいていたはずだ。ところが、あの女は、自分が助かりたいばっかりに、ぼくまで事件の渦中に引きすり込んでしまった。おかげで、一つしか代わりの手はなくなってしまった――あの女を、ああいう立場に追い込んで、こちらは、外に立って手を差しのべるということさ」
「いいわけなんかなさることはいりませんわ、先生」と、デラが相手にいった。「お仕事を批評しているように取れたのなら、ごめんなさいね。ほんとうに思いがけなかったし、いつものあなたらしくなかったんで、びっくりしてしまったんですわ。それだけなの。お願いですから、お忘れになってくださいな」そういいながら、まだ、デラは、相手の目をさけていた。
「うん、わかった」と、メイスンがいった。「ぼくは、ポール・ドレイクの事務所に行ってくる。なにか大事なことがあったら、知らせてくれ。ただし、行く先は、いわないようにね」
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第十七章
ポール・ドレイクは、小ぢんまりした事務所の、使いふるしたデスクに向かって腰をおろし、ペリイ・メイスンの顔を見て、にやりと薄笑いを浮かべた。
「なかなかいい手ぎわだったね」と、ドレイクがいった。「ああいう手を、ずっと、ひそかに肚にしまってたのかい、それとも、ことが面倒になったんで、あの女におっかぶせたいというだけなのかい?」
メイスンは、陰気な目つきで、「ぼくは、事件の真相は、だいたい見当がついていた。しかし、見当をつけることと、証拠を握ることとは、別個の問題だからね。こん度は、あの女を助け出さなけりゃならんのだ」
「そんなことは忘れるんだね」と、ドレイクがいった。「第一、あの女には、そんなことをするだけの値打ちがないし、第二に、きみには、できないことだよ。正当防衛を主張するのが、あの女に残されたたった一つの勝ち目というわけなんだが、それも、ピストルを射ったとき、相手が部屋の向こう側にいたと認めているんだから、正当防衛の主張も成り立たないだろうな」
「いや」と、メイスンがいった。「あの女は、ぼくの依頼人だからね。ぼくは、自分の依頼人の味方として、離れるわけにはいかん。こん度のことだって、向こうが無理に仕向けたんで、ぼくとしては、ああいう手を打つしか仕方なかったんだ。でなけりゃ、われわれ二人とも、窮地に追い込まれてしまっていたろうからね」
「おれだったら、あんな女に、どんな思いやりもしてやらんね」と、ドレイクが、きっぱりといい切った。「あの女は、情夫《いろおとこ》だってだます、腹黒い女さ。金と結婚するチャンスをさがしまわっていて、うまくその通りに行ったと思うと、その後だって、誰彼かまわず嘘をつきまわっているという女さ。依頼人に対する義務とかなんとか、お題目を唱えたけりゃ唱えたって構わんが、その依頼人が、殺人の罪をおっかぶせようとたくらんで来たときは、話は別だよ」
メイスンは、陰気な目つきで、探偵の顔を見やって、「そんなことは問題外だよ。ぼくは、あの女を救い出すつもりだ」
「どうやって、救い出せるんだ?」
「公正に考えてみろよ」と、ペリイ・メイスンがいった。「有罪の宣告を受けるまでは、あの女は、無罪なんだぜ」
「だって、自白したじゃないか」と、ドレイクがいった。
「そんなことは、別に影響はないよ。自白というものは、本人に不利である場合に利用できる証拠というだけのことだよ」
「そういうんなら」と、ドレイクがいった。「陪審員は、どう出るだろう? あの女を助けるには、精神錯乱か正当防衛か、どちらかの理由しかない。それに、あの女は、きみのすることをきらっている。こん度は、別の弁護士を頼むだろうな」
「そこが問題なんだ」と、メイスンがいった。「あの女を助け出すには、いくつか、違った方法があるかもしれないが、いまは、方法のことなんかいってやしない。問題にしているのは、結果なんだ。ところで、きみにたのみがあるんだが、例のビーチ一家のことを、洗いざらいさぐってもらいたいんだ。現在からさかのぼって、一年前までのことをね」
「家政婦のことだね?」と、ドレイクがたずねた。
「家政婦とその娘だ。あの一家全部だ」
「まだ、あの家政婦が、なにか隠していると思っているんだね?」
「そういう気がするんだ」
「よし、さっそく家政婦のことに、なん人かかからせよう。ところで、ジョージア州の一件は、どう? 役に立ったかい?」
「すばらしくね」
「どんなことをさぐり出せばいいんだね、家政婦のことは?」
「さぐり出せることは、なんでもかんでもだ。それから、娘のこともな。どんなちっぽけなことでも、見逃さんようにな」
「おい」と、ドレイクがいった。「なにか奥の手があるんだね、ペリイ?」
「ぼくは、あの女を救い出すんだよ」
「どうやって救い出すか、わかっているのか?」
「考えはある。救い出せるという考えがないのに、いきなり、あの女を、こんな目にあわせたりはしないよ」
「きみに、殺人罪をおっかぶせようとしたがってたのにか」と、詮索するような口振りで、ドレイクがたずねた。
「ぼくに、殺人罪をおっかぶせようとしたがっていたってだ」と、メイスンは、かたくなに同じ言葉を繰り返した。
「きみって男は、とことんまで、依頼人にかじりついて行く男だな」と、ドレイクがいった。
「ほかの連中も、それはわかってほしいね」と、弁護士は、つかれたような口振りでいった。
ドレイクは、鋭くメイスンの顔に目をあてた。ペリイ・メイスンは、それには構わず、言葉をつづけた。「それが、ぼくのこの世での信条なんだよ、ポール。ぼくは、弁護士だ。困っている連中を引き受けて、その苦しさから助け出そうとするのが、ぼくの天職だ。どんな事件ででも。原告の側に立つ意志はない。いつでも、被告の側に立って弁護をするだけだ。地方検事は、原告を代表して、できるだけ、罪を重くしようとする。ぼくの務めは、その反対側に立って、できるだけ強力に対抗することだ。決定をくだすのは、陪審員の役目だ。それが、公正な裁きの得られる、ただ一つの道だ。地方検事が、公正に出てくれば、こっちも堂々と闘う。しかし、有罪の評決を得るために、地方検事のほうで、どんな手段でもえらばんというのなら、ぼくも、釈放のためには、あらゆる手段を使うことになる。二つのチームが、フットボールの試合をしているようなものだ。一方のチームが、ある方向へ、できる限りの力で攻め立てようとすれば、一方のチームも、力の限り反対の方向へ攻め立てようとするのさ。
依頼人のために最善の努力を尽くすということは、ぼくには、一種の強迫観念なんだ。ぼくの依頼人が、どの依頼人もやましくないものばかりというわけじゃない。むしろ、たいがいは、よくない人間で、おそらくは、有罪の人間が、多いのではないだろうか。しかし、それをきめるのは、ぼくじゃない。きめるのは、陪審員の仕事だ」
「きみは、あの女が、犯行のときには狂気だったと、証明しようというのかい?」と、探偵がたずねた。
メイスンは、肩をすぼめて、「ぼくは、陪審員が有罪の評決を下さないようにしようとしているんだ」といった。
「しかし、あの自白だけは、どうにもならんぜ」と、ドレイクがいった。「殺したといっているんだからな」
「自白があろうとなかろうと」と、メイスンがいった。「陪審員が、有罪の評決を下すまでは、誰も、あの女をどんな罪にも落とすことはできないんだ」
ドレイクは、いかにも意味ありげに、肩をすぼめて、いった。「ああ、そうだよ、こんなことを、おれたちで論じていたって、なんの役にも立たん。それよりも、おれは、部下をビーチ一家に向けて、きみのために、ネタをつかませるようにしよう」
「いうまでもないだろうが」と、メイスンがいった。「一分の時間も貴重だぜ。ぼくがこれまでずっと闘っていたのは、必要なだけの証拠を集めるまでの時間稼ぎだったんだからね。素速いとこ、やってもらいたいんだ。問題は、時間だけだからね」
ペリイ・メイスンは、自分の事務所へもどって行った。疲労から来た目の下のふくらみは、いっそう大きくなっていたが、その目は、確固として、きびしかった。
メイスンは、事務所のドアをあけた。デラ・ストリートは、タイプライターに向かっていた。ちらっと目を上げて、メイスンを見たが、すぐにまた仕事に目をもどした。
メイスンは、ぴしゃっと、うしろ手にドアをしめて、デラの方へ足を運び、「どうして、デラ」と抗弁するようにいった。「ぼくを信じてくれなんだね?」
デラは、素速い一瞥をメイスンに向けた。
「むろん、信じてますわ」
「いや、きみは、信じてない」
「びっくりして、ちょっとばかり面くらっているだけですわ」と、デラはいった。
メイスンは、突っ立ったまま、気むずかしそうな目で、絶望したように、デラを見おろしていた。
「よし」と、やがて、メイスンはいった。「州庁の人工統計局へ、電話をしてくれたまえ。必要な情報を聞き出すまで、電話から離れないでいるんだ。できれば、誰か、部長級の人間をつかまえることだ。費用なんか、いくらかかろうと気にしないでいい。ほしいのは、情報だ。それも、いますぐほしい。ノーマ・ビーチという女が、結婚したことがあるかどうか、それが知りたいんだ。ぼくの想像では、結婚したことがある。それから、離婚しているかどうか、それも知りたい」
デラ・ストリートは、あきれたように、メイスンの顔を見つめていた。
「そんなことが、殺人事件と、どんな関係があるんですの?」
「気にしなくてもいいよ」と、メイスンがいった。「ビーチというのは、多分、その女の本名だろう。つまり、母親の名だから、結婚許可証にも、結婚したときの花嫁の名として、その名前が載っているはずだ。むろん、結婚したことがないかもしれないし、この州では、結婚しなかったのかもしれない。しかし、このいきさつには、八百長のような、なんとなくおかしなところがある。それに、あの女の過去には、なにかしら、ひた隠しに隠しているという匂いがする。それを知りたいのだ」
「ノーマ・ビーチが、なんかの点で、事件に関係していると思っていらっしゃるんじゃないでしょうね?」と、デラ・ストリートがたずねた。
メイスンの目は、つめたく、顔には、堅く心をきめた色があらわれていた。
「この際、ぼくがしなければならないことは、陪審員の心に、合理的な疑念を起こさせることだ」と、メイスンが、デラにいった。「それを忘れちゃいかん。さあ、電話をかけて、情報を手に入れるんだ」
メイスンが、奥の事務室へはいって、ドアをしめた。そして、チョッキの腕あきに親指をかけ、頭を下げて心を一点に集中するような恰好で、部屋の中を行ったり来たりしはじめた。
三十分近くも、メイスンが、まだ床の上を歩きつづけていると、デラ・ストリートが、ドアをあけた。
「おっしゃった通りでしたわ」と、デラがいった。
「どうなんだ?」
「あの人、結婚していましたわ。人工統計局から聞き出したの。六ヶ月前に、ハリー・ローリングという人と結婚してました。離婚の記録はありませんわ」
ペリイ・メイスンは、素速い大股三歩でドアにとびつき、さっと押しあけると、事務室を突っ切って、ほとんど走らんばかりに、廊下から階段へと降りて行った。ポール・ドレイクの事務所のある階まで駆け降りると、ドレイクの事務室のドアを、どんどんと待ちきれないように、握り拳でたたいた。
ポール・ドレイクが、ドアをあけて、「やあ、きみか! 頼んだ人間が来るのを、事務所で待っていられないのか!」
「おい」と、メイスンが、ドレイクにいった。「いいことをつかんだぞ。ノーマ・ビーチは、結婚していたよ!」
「それがどうしたんだ?」と、ドレイクがたずねた。
「あの女、カール・グリフィンと婚約しているんだぜ」
「それで、離婚はしていなかったんだね?」
「うん、離婚はしていない。離婚するだけの期間もたっていない。結婚したのは、たった六ヶ月前だ」
「よし、わかった」と、ドレイクがいった。「で、どうする?」
「夫なるものを見つけ出してもらいたいんだ。名前は、ハリー・ローリング。いつ別居したか、理由はなにか、そいつを調べ出してもらいたい。それから、あの女が、ベルター家にあらわれる前から、カール・グリフィンを知っていたかどうか、特にその点が知りたいんだ。いいかえると、最近に訪ねて来た以前にも、ベルターのところで働いている母親を訪ねて来たことがあるかどうか、知りたいのは、それだ」
探偵は、口笛を吹いて、「やれやれ!」といった。「きみは、エバ・ベルターを、感情の衝撃による一時的な精神錯乱と、不文律とで弁護するものとばかり思っていたがね」
「いまの件を、すぐに取りかかってくれるかい?」
「相手がどこだろうと、この市内にいる男なら、三十分以内にさがし出してみせるよ」と、ドレイクがいい切った。
「早ければ早いほどいい。事務所で待っているぞ」
メイスンは、自分の事務所へもどり、ひと言もいわずに、デラ・ストリートの脇を通りすぎた。
メイスンが、自分の事務室へはいろうとするところを、デラが呼びとめた。「ハリスン・バークさんから電話がありました」
メイスンは、眉をあげた。
「どこにいるって?」
「おっしゃらなかったわ。後ほどまたおかけしますって。電話の番号も、おっしゃろうともしないの」
「新聞の号外で、事件の新たな展開を読んだんだろう」と、メイスンがいった。
「別に、そんなことおっしゃらなかったわ。ただ、後ほどおかけしますって、そういっただけよ」
電話が鳴った。
デラは、身振りで、奥の事務室の方を示して、「きっと、あの人からの電話ですわ」といった。
メイスンは、奥の事務室へはいった。
「ちょっとお待ちください、バークさん」という、デラ・ストリートの声が聞こえてから、メイスンが、受話器をとると、バークの声が伝わって来た。
「やあ、バークさん」と、メイスンがいった。
バークの声は、いまもなお、人を押さえつけるような響きがあったが、その声には、あわてふためいているような調子が重なっていた。ともすれば、高調子に上ずって、びんびんと割れそうになるのを、かろうじて、押し殺しているというふうだった。
「やあ」と、バークがいった。「大変なことになりましたね。いま、新聞で読んだところだが」
メイスンがいった。「そう悪いわけでもありませんよ。あなたは、殺人事件の圏外にいるんだし、あの家族の友人のようなふりをしておいでになればいい。あんまり愉快ではないでしょうが、殺人容疑で逮捕されるようなことはないでしょう」
「しかし、選挙の時には、敵が利用するだろうね」
「なにを利用するんです?」と、メイスンが問い返した。
「あの夫人との、わしの友情をですよ」
「それは、どうしようもありませんね」と、メイスンが相手にいった。「しかし、その点も、あなたに累《るい》が及ばないように、苦心してやっていますよ。地方検事も、公判で動機を明らかにすることが必要にならない限り、あなたの名前を引き合いに出すようなことはしませんよ」
バークの声は、一段と大袈裟な、気取ったものとなった。
「その点だ」と、バークがいった。「きみと話し合いたいと思っていたのは。地方検事は、きわめて公平な男だから、公判ということにならない限り、わしの名を引き合いに出すようなことはせんと思う。だから、公判が開かれんように、きみは、うまくやってくれるだろうね」
「どんなふうに?」と、メイスンがたずねた。
「きみなら、かの女を説きつけて、第二級殺人の罪を認めさせることができるだろう。きみは、いまもなお、かの女の弁護士としてやっているんだから、地方検事も、きみを、かの女に面会させるだろう――そういう条件でならね。わしも、さっき会って地方検事に話しておいたから」
メイスンは、ずばっと、即座に、「駄目です!」とこたえた。「ぼくは、あなたの利益を守ろうと骨を折ってはいますが、それは、自分流のやり方でやります。あなたは、もうしばらく、身を隠していてください」
「謝礼は、十分にさしあげるよ」と、ハリスン・バークは、慇懃な、弁舌の達者らしい声でいった。「現金で五千ドル。もしかしたら、もうすこし出せるかと……」
ペリイ・メイスンは、受話器をかけ金にたたきつけた。
弁護士は、また床の上を歩き出した。十五分かに十分たったころ、また電話のベルが鳴った。
メイスンが、受話器を取ると、ポール・ドレイクの声が聞こえた。「どうやら、きみの注文の男をさがしあてたらしいよ。ハリー・ローリングという男は、ベルベディア・アパートメントに住んでいる。その男の細君は、一週間ほど前に、男をほっといて、母親といっしょに暮らすといって行っちまったという話だ。その男に、用ありか?」
「もちろん大ありさ」と、メイスンがいった。「しかも、急用だ! ぼくといっしょにでかけられるかい? 多分、証人が必要になるだろうからね」
「よし」と、ドレイクがいった。「きみの車がなければ、おれのがあるぜ」
「二台で行こう。二台とも、いるかもしれないからな」
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第十八章
ハリー・ローリングというのは、痩せた、神経質な男で、むやみにせかせかと、目をしばたたき、舌の先で唇をなめまわす癖の持ち主だった。革紐をかけたトランクに腰をかけて、ポール・ドレイクに、首を振って見せた。
「いや」と、かれがいった。「人ちがいですよ。ぼくは、結婚なんかしてませんよ」
ドレイクは、ペリイ・メイスンの顔を見た。メイスンは、かすかに肩をすぼめて見せた。それを話をつづけろという合図だと、ドレイクは判断した。
「きみは、ノーマ・ビーチという女を知らんかね?」と、ドレイクがたずねた。
「全然」といって、ローリングは、唇から舌を出した。
「引越しかね」と、ドレイクがたずねた。
「ええ」と、ローリングがいった。「ここの部屋代が払えないんでね」
「一度も結婚したことはないのかね?」
「ないよ、独身者だよ」
「どこへ引越すんだい?」
「それがわからんのだよ――まだ」
ローリングは、目をぱちぱちさせながら、一人の顔からつぎの顔へと、視線を走らせて、「あんたたち、お役人かね?」とたずねた。
「おれたちのことは、どうでもいいよ」と、ドレイクがいった。「きみのことをいってるんだ」
ローリングは、「そうですか」といって、黙り込んでしまった。
ドレイクは、またちらっと、メイスンの顔を見てから、「いやに急な荷造りじゃないか?」と、ドレイクが言葉を継いだ。
ローリングは、肩をすぼめて、「急だかどうか知らんが、荷造りするほどのものも、たいしてないんでね」
「いいかね」と、ドレイクがいった。「いい加減なことをいって、おれたちをだまそうとしたって、無駄なこったぜ。調べあげて、事実をはっきりさせることだって、できるんだからな。きみは、一度も結婚したことはないといったが、その通りか?」
「ええ、そうですよ。さっきもいった通り、独り者ですよ」
「よし、ところで、近所の連中はきみが結婚してたといってるぞ。一週間ばかり前まで、細君という女が、きみといっしょに、このアパートにいたって、な」
ローリングの目が、いそがしく、またたいた。トランクにのせたからだを、神経質に、もじもじさせて、「結婚してやしなかったんです、その女と」といった。
「その女を知ってから、どれくらいになるんだ?」
「二週間ぐらいです。あるレストランで、ウェイトレスをしていたんです」
「なんというレストランだ?」
「店の名は、忘れちまいました」
「女の名前は、なんというんだ?」
「ローリング夫人という名前で通ってましたよ」
「そんなことはわかってる。本当の名前は、なんというんだ?」
ローリングは、ちょっといいよどんで、唇のところまで舌を出した。落ち着きのない目で、部屋を見まわしていたが、やがて、「ジョーンズです」といった。「メアリー・ジョーンズ」
ドレイクが、皮肉たっぷりな笑い声を立てた。
ローリングは、なんにもいわなかった。
「いまは、どこにいるんだ?」と、不意を突くように、ドレイクがたずねた。
「知りません。ぼくをほって行っちまったんだ。誰かよその男と逃げていったんだろう。ぼくたち、喧嘩をしたんだ」
「どんなことで喧嘩をしたんだ?」
「あ、知るもんか。ただの喧嘩だったんだよ」
ドレイクは、もう一度、メイスンの顔を見た。
メイスンは、前に進み出て、話し出した。
「きみは、新聞を読むかい?」と、メイスンがたずねた。
「たまにはね」と、ローリングがいった。「しょっちゅうじゃないけど。どうかしたら、見出しぐらいは見るよ。新聞には、たいして興味もないんでね」
メイスンは、内ポケットに手を入れて、朝刊の切り抜きを取り出した。ノーマ・ビーチの写真の出ている一枚をひろげて、「きみと、ここにいたのは、この女だろう?」とたずねた。
ローリングは、ほんのすこし、その写真にちらと目をやったが、ことさら強く首を振って、「ちがいます」といった。「この女じゃなかったんです」
「きみはまだ、ろくに写真を見てもいないじゃないか。ちがうというならいうで、ようく見てからにしたほうがいいぜ」
そういって、メイスンは、その写真を、ローリングの目の前に突きつけた。ローリングは、その切り抜きを手に取って、十秒か十五秒ほどの間、じっとその写真を眺めていたが、「いいえ」といった。「この女じゃありません」
「こん度は、ちがうといい切るまでに、だいぶ時間がかかったねえ?」と、メイスンが指摘した。
ローリングは、なんにもいわなかった。
メイスンは、さっと振り向いて、ドレイクにうなずいて見せた。
「よかろう」と、メイスンが、ローリングにいった。「いつまでも、そんな態度をとりたいというんなら、いやなことは、自分で我慢して、自分でやるさ。あくまでも、ぼくたちに嘘をついていようというんなら、気の毒だが、こっちも、きみを助けてやるわけにはいかんよ」
「嘘なんかついてやしません」
「さあ、ドレイク、行こう」と、メイスンは、ひややかに、いい放った。
二人は、部屋を出て、後ろのドアをしめた。廊下へ出ると、ドレイクが、「あの男を、どう思う?」といった。
「どぶ鼠のようなつまらん奴だ。でなけりゃ、腹を立てたように大見得を切って、他人のことに口を出すのは、いったいどういうつもりだと、食ってかかるべきところだ。どうも、あの男は、以前になにかのことで身をくらましたことがあって、法律を恐れている人間だって気が、ぼくにはしたね。刑事などにいじめられつけてるね」
「おれのにらんだところも、まあそんなもんだ」と、ドレイクがいった。「これから、どうする?」
「うん」と、メイスンがいった。「この写真を持ってまわって、このアパートの連中で、女の顔を見分ける人間がいるかどうか、あたってみようじゃないか」
「この新聞の写真は、あまりはっきり出てないからね。ちゃんとした写真が手にはいらんもんかね」と、ドレイクがいった。
「ぼくたちは、時間を相手にして動きまわっているんだぜ」と、メイスンが、注意を促すように、ドレイクにいった。「いつなんどき、なにが起こるかわからないんだ。ぼくは、先手を取っていたいんだ」
「あの男の責め方が足りなかったんじゃないか」と、ドレイクが指摘した。「ぎゅうぎゅう追い詰めれば、たちまち陥落するたちの奴だよ」
「まったくそうだ」と、メイスンがいった。「後で引っ返して、やってやろう。しかし、できれば、もうすこし奴の急所をつかみたいんだ。もうすこし締めあげれば、すぐに青くなるだろうという気がするんだ」
階段に、足音が聞こえた。
「ちょっと待て」と、ドレイクがいった。「誰かやって来るらしいぞ」
怒り肩の、ずんぐりした体つきの男が、こつこつと階段をのぼって来て、廊下にあらわれた。服は、手垢《てあか》でぴかぴか光り、袖口は、すり切れてほつれている。が、それでいて、どことなくさっぱりとした様子をしていた。
「令状送達吏だ」と、メイスンが、ドレイクの耳もとで囁いた。
その男は、二人の方へ近づいて来た。以前は、警察官だったのだが、いまもなお、どことなく役人らしい匂いが残っているといった様子だった。
男は、二人の顔に目をあてて、「あんたがたのうち、どちらかがハリー・ローリングじゃないかね?」といった。
メイスンが、さっと前に出て、「ええ」といった。「ぼくが、ハリー・ローリングです」
男は、ポケットに手を入れて、「多分」といった。「ご存じのことと思いますが、ノーマ・ローリング対ハリー・ローリングの事件に関する召喚状と告訴状の写しを持参しました。それで、召喚状の原本をお見せして、両方の写しをお渡しします」
そういって、送達吏は、弱々しく微笑を浮かべた。
「委細は、よくご存じでしょうな。本件には、異議の申し立てがなかったとおぼえているから、この送達を待っておられたはずですね」
メイスンは、書類を受け取って、「ええ」といった。「間違いありません」
「悪く思わないでくださいよ」と、令状送達吏がいった。
「悪くなんか思いませんよ」と、メイスンがいった。
令状送達吏は、背中を向けて、召喚状の原本の裏に、鉛筆でなにか書きつけてから、ゆっくり、規則正しい足取りで、階段の方へ歩いて行った。男の姿が階段を降りて行ってしまうと、メイスンは、ドレイクの方に向き直って、にやりと笑って見せた。
「運がよかったな」と、メイスンはいった。
二人は、告訴状の写しをひろげてみた。
「離婚じゃなくて、婚約破棄の訴えだ」と、メイスンがいった。
二人は、訴状の申し立てを読み下した。
「結婚の日付も、ちゃんと出ている」と、メイスンがいった。「引っ返そうじゃないか」
二人は、ローリングの部屋のドアを、どんどんとたたいた。
ローリングの声が、中から聞こえて来た。
「誰だい?」と、ローリングがたずねた。
「きみに送達する書類だ」と、メイスンがいった。
ローリングは、ドアをあけて、二人がそこに立っているのを見て、後じさりして、「あんたたちか!」と、大きな声でいった。「行ってしまったと思っていたのに」
メイスンは、肩でドアを押しあけて、部屋の中へ入り込んだ。ドレイクも、その後につづいた。
メイスンは、いま送達吏から受け取った書類を差し出して、「ねえ」といった。「どうも妙じゃないかね。あんたに、この書類を送達に来て、そのことは、すっかり承知しているもんだと思っていたんだがね。しかし、送達する前に、間違いない相手だと確かめなきゃいけないんで、きみの結婚のことを聞いたんだが、すると……」
ローリングが、そこまで聞くと、熱を帯びた口調で、「ああ、そうなんですか? どうして、そういってくれなかったんです。そうですとも、待ってたんですよ。書類が届くまで、ここで待っていろって、そして、書類が送達されたら、すぐに、ここを出ろって、そういわれていたんです」
メイスンは、いまいましそうな声を出して、「ふん、そんなら、こんな厄介な手間を取らせずに、なんだって、そういってくれなかったんだ? きみの名前は、ハリー・ローリングで、この訴状に書いてある通りの日付に、ノーマ・ビーチと結婚した。それに間違いないね?」
ローリングは、身を乗り出して、告訴状に記載の日付をのぞき込んだ。
メイスンは、右の人さし指で、その日付をさした。
ローリングはうなずいて、「その通りです」
「そして、この日付の日に、きみたちは、別居した。そうなんだね?」と、メイスンは、つぎに書いてある日付のところへ人さし指を動かして行って、そういった。
「そのとおりです」
「よろしい」と、メイスンがいった。「この訴状によると、きみは結婚した当時、もう一人、妻がいて、その妻とは離婚していなかった。したがって、その結婚は違法であったから、原告は、婚約破棄を請求すると、そう書いてあるね」
ローリングは、もう一度、うなずいてみせた。
「どうだね」と、メイスンがいった。「これは、事実じゃないだろうね?」
ローリングは、うなずいて、「いいえ」といった。「それが、あの女が婚約を破棄しようという理由なんです。それに、違いないんです」
メイスンが、「ほんとうか?」とたずねた。
「もちろん、ほんとうですよ」
「そうなると、職務上、重婚の罪で、きみを逮捕しなきゃならんね」
ローリングは、顔をまっ青にして、「なにも問題はないと、いわれたんだがな」といった。
「誰が、そういったんだ?」と、メイスンがたずねた。
「ぼくのところへ来た弁護士です。ノーマの弁護士ですよ」
「おとなしく、きみにいうことを聞かせようと、そういっただけなんだ」と、メイスンが、はっきりいい切った。「そうすりゃ、結婚を解消できるし、ノーマは、二百万ドルを相続する男と結婚できるというわけだ」
「それは、あの連中もいいましたよ。しかし、問題はなにも起こらないって、ただ形式上の手続きでそうするだけだって、そういったんです」
「形式上なんて、馬鹿なことをいっちゃいかん!」と、メイスンがいって聞かせるように、相手にいった。「きみは、重婚を禁ずる法律があることをしらないのかね?」
「しかし、わたしは、重婚の罪なんか犯してやしません!」と、ローリングは抗議した。
「いや、いや、犯している」と、メイスンがいった。「ここに、ちゃんと書いてある。弁護士の署名もあるし、ノーマの宣誓もある。ここにちゃんと、結婚した当時、きみにもう一人妻がいて、離婚手続きが完了していなかったと、書いてあるじゃないか。そういうわけだから、きみには、警察本部まで同行してもらわなけりゃならん。こいつは、相当厄介なことになるだろうな」
ローリングは、すっかり度をうしなって、「これは、ほんとうのことじゃないんです」と、最後にいった。
「ほんとうでないというと、どういうことだね?」
「ほんとうじゃないから、ほんとうじゃないというんです。これまで一度も結婚したことがなかったと、いうことなんです。そのことは、ノーマがよく知っています! 弁護士だって、よく知っているんです! わたしは、二人にそのことを話したんです。そしたら、離婚の手続きは、時間がかかりすぎるんで、手続きが完了するまで待てない。それどころか、ノーマは、運よくその相手の男と結婚することになったのだから、ノーマの望むようにさせて、この訴訟に応じてくれれば、いくらか金も握らせてやると、そういわれたんです。それで、わたしは、結婚した当時、別の妻を持っていたことは認めるが、離婚の手続きは完了したと思っていたという、答弁書のようなものを提出することになったんです。そうすれば、わたしには、なにも嫌疑はかからないし、その上、事はうまく片付いて、ノーマは、婚約を解消することもできると、そういわれたんです。弁護士は、そういうふうな答弁書を、前もって作りあげて来ていたので、わたしは、それに署名したんです。弁護士の話じゃ、あした、それを提出するということだったんです」
「それで、一挙に婚約破棄を成立させようというんだね?」と、メイスンがたずねた。
ローリングは、うなずいた。
「ねえ、きみ」と、メイスンがいった。「事件の真相をつかもうとしている人間に、嘘をつこうとしたところで、なんの得《とく》にもならないよ。なぜ、きみは、最初から、それをぼくにいって、こんな面倒をかけないようにしなかったんだね?」
「いうなと、弁護士がいったんです」と、ローリングがいった。
「ふん、その弁護士は、頭がおかしいんだな」と、メイスンがいった。「とにかく、われわれは、この件について報告書をつくらなけりゃならん。きみは、そういう趣旨の供述書を出したほうがいいね。そうすりゃ、われわれが報告をするときに、いっしょに提出してやるから」
ローリングは、とつおいつしていた。
「それがいやなら、」と、メイスンが、相手の気をそそるようにいった。「警察本部まで来て、向こうで事情を説明してもらってもいいよ」
ローリングはいった。「いえ、いえ。供述書を書いてお渡しします」
「よかろう」といって、メイスンは、ポケットから手帳と万年筆とを取り出して、「そのトランクに腰をかけて」といった。「供述書を書きたまえ。さっき話した線にそって、残らず書くんだぜ。これまで一度も、ほかに妻帯したことなどなかったということ。弁護士が、至急に、ノーマに婚約破棄の訴訟を成立させたいといったということ。それから、そういうふうに事を運ぶために、結婚当時、同居していた妻があったと、きみがいえば、ノーマは、巨万の財産を相続することになっているその相手の男と結婚できるのだからと、そういわれたと書くんだ」
「それで、ぼくが困るようなことにはならないでしょうね?」
「それが、きみがひどい目に会わないようになる、たった一つの方法だよ」と、メイスンがいった。「いまさら、きみに説明したって、なんの役にも立たないかもしれないが、きみは、もうほとんど身動きのできない羽目になりかけているんだぜ。洗いざらい、ぼくたちに打ちあけたのは、運がいいんだ。実際、きみを警察本部へ連行しようと考えていたところだったんだからな」
ローリングは、溜息をつき、「じゃ、書きましょう」といって、万年筆を取りあげた。かれは、トランクに腰をおろして、念入りにペンを動かし出した。メイスンは、立ったまま、相手のペンの動きを見守っていた。両足をぐっと踏み開き、じっと辛抱強く、目を見据えていた。ドレイクは、にやにや薄笑いを浮かべて、たばこに火をつけた。
供述書を書きあげるのに、五分ほどかかった。それから、ローリングは、それをメイスンに渡して、「これでいいでしょうか?」とたずねた。「こういうことは、あまりうまくないんですが」
メイスンは、その供述書を受けとって、読んだ。
「結構だ」と、メイスンがいった。「サインをしたまえ」
ローリングは、サインした。
「よろしい」と、メイスンがいった。「ところで、弁護士は、ここを出るようにと、きみにいったんだね?」
「ええ。金をくれて、ここにいちゃいけないといったんです。人に会うようなところにいて、誰かに見つかっちゃまずいからと、そういったんです」
「そのほうがいいね」と、メイスンが相手にいって聞かせた。「行く先は、あてがあるのかい?」
「どっかのホテルですよ」と、ローリングがいった。「どこのホテルだって、構やしませんよ」
「よしきた」と、ドレイクがいった。「おれたちといっしょに来るがいいよ。部屋を一つとってやろう。誰かにさがし出されて、うるさい思いをさせられないように、別の名前を使ったほうがいいね。だけど、おれたちとは、連絡をとるようにするんだぜ。さもないと、どんな厄介なことになるかもしれんからな。それに、証人の立ち会いの下で、この供述をきみに確認してもらわなきゃならんかもしれんしな」
ローリングは、うなずいて、「あの弁護士も、あんた方のことを話しておいてくれるとよかったんだ」といった。「あの男のおかげで、ひどい目に会うところだったよ」
「まったくだ」と、メイスンは相槌を打った。「いまごろは、警察本部へ引っ張って行かれる途中だっかもしれなかったし、いったん、あすこへ連れて行かれた上は、簡単にすむことじゃなかったろうからな」
「弁護士といっしょに、ノーマもここへきたのかね?」と、ドレイクがたずねた。
「いいや」と、ローリングがいった。「はじめ、あの女の母親が来て、それから、弁護士が来たんです」
「ノーマには会わなかったというんだね?」
「ええ、母親だけですよ」
「よし、わかった」と、メイスンが相手にいった。「ぼくたちといっしょに来たまえ。きみの泊まるホテルは、ぼくたちの方で見つけて、部屋をとってやる。ハリー・ルグランドという名前でとまることにしたほうがいいね」
「荷物はどうします?」と、ローリングがたずねた。
「ぼくたちで、荷物は見てやるよ。運送屋に取りによこすよ。きみのことは、ホテルのボーイがなんでもかんでも面倒を見てくれるからね。きみは、体だけ持って行きさえすればいい。車は待たしてあるから、いますぐいっしょに出かけたほうがいい」
ローリングは、唇をぬらして、「いや、ほんとうに、ほっとしました。そこにすわって、書類をもってやって来る人を待ちながら、いらいらしていたんです。弁護士のやつ、なにからなにまで、自分のすることがわかっているのかしらと、気が気じゃなかったんです」
「いや、間違ってたわけじゃないんだ」と、メイスンが、わけを話してやった。「ただ、二つ三つ、きみにいうのを忘れただけさ。多分、いそいで、気もそぞろだったんだろう」
「そうでしょうね」と、ローリングも相槌を打った。「なんだか、ずいぶんそわそわしていたようだった」
二人は、ローリングをつれて、車に乗り込むと、メイスンがいった。「リプレイ・ホテルへ行こうじゃないか、ドレイク。あすこなら、場所も便利だからね」
ドレイクが、「うん、了解」といった。
一行は無言のまま、リプレイ・ホテルまで車を走らせた。メイスンが、ジョンスンという名で泊まっているホテルだ。メイスンは、帳場へ行って、事務員に話しかけた。「ぼくの故郷《くに》の、デトロイトから来たルグランド君だ。二、三日、部屋の都合をつけてもらいたいというんだが、ぼくと同じ階にあいてないだろうかね?」
事務員は、カードを調べていたが、「ええと。五一八号室でしたね、ジョンスンさんのお部屋は?」
「そうだ」と、メイスンがいった。
「では、五二二号室なら、おとりできますが」
「それは好都合だ。荷物が少しあるんだが、ぼくから、よく話をしよう」
二人は、ローリングといっしょに、五二二号室へあがった。
「これでいいだろう」と、メイスンは、ローリングにいった。「きみは、ここに、じっとしているんだ、外に出ちゃいかん。ぼくたちが電話をしたら、いつでも電話に出られる場所にいてくれ。われわれは、これから警察本部へ行って報告をしなきゃならん。その都合で、なお二つ三つ、訊ねることがあるというかもしれんが、いまのところ、きみの供述書があればいい。きみは、暗いところがないんだ」
「よかった」と、ローリングがいった。「あんたたちのいう通りしますよ。そりゃそうと、弁護士が、いどころがきまり次第、知らせろといってたけど、知らせましょうか?」
「いや」と、メイスンがいった。「われわれと連絡が取れるんだから、その必要はないよ。誰とも連絡をとっちゃいかん。ただ、ここにじっとしていて、われわれから知らせるまで待っていればいい。われわれが、警察本部に報告するまでは、なんにもしちゃいけない」
「わかりました」と、ローリングも承知した。「いう通りにします」
メイスンとドレイクとは、部屋を出て、ドアをしめた。
ドレイクは、メイスンの方を見て、にやりと薄笑いを浮かべた。
「おい、運がよかったな!」と、ドレイクがいった。「さて、どうするかな?」
メイスンは、大股に、エレベーターの方へ歩きながら、「いよいよ、大芝居にかかるんだ」といった。
「あの女を引っ張り出すんだな」と、ドレイクがメイスンにいった。
ロビーに降りると、メイスンは、足をとめて、警察本部に電話をかけた。そして、捜査課のシドニー・ドラムを呼んでくれといった。一分か二分すると、向こうの電話口から、ドラムの声が伝わって来た。
「ドラムだね」と、メイスンがいった。「メイスンだ。例のベルター事件で、また一つ新しい事実をつかんだのだが、それについて、ちょっと協力してもらわなきゃならんのだ。きみには、あの女の逮捕の件で、点を稼がせてやったんだから、こん度は、こっちに手を貸してもらいたいんだ」
ドラムは、大声に笑って、「きみが点を稼がせてくれたかどうか、おれは知らんよ。たまたま、おれがはいって行ったんで、あぶないところを助かるために、大きな顔をして、あんなことをぶちまけたんじゃないのか」
「ふん、そんなことをいい合ってみたところで、役にも立たんよ」と、メイスンがいった。「とにかく、こっちが教えてやったから、きみは、手柄を立てたんだ」
「わかった」と、ドラムがいった。「で、どうしろというんだ?」
「ホフマン部長刑事を連れて来てくれ。エルムウッド・ドライブの丘の麓で会いたいんだ。きみたちといっしょに、ベルターの邸へ乗り込みたいんだ。あっというようなものを、お目にかけられそうなんだ」
「部長刑事がつかまえられるかどうか、わからん。もう帰ったかもしれんぜ」と、ドラムが反対を称えた。「もう遅いからな」
「帰ったのなら、呼び出せよ」と、メイスンが、相手にいって聞かせた。「それから、もう一つ、エバ・ベルターも連れて来てもらいたんだ」
「おやおや」と、ドラムがいった。「そいつは、でかい注文だな。いま、あの女を連れ出しでもしようもんなら、人目を引くことになるぜ」
「こっそり連れ出しゃ、人目になんかたちゃしないよ」と、メイスンがいった。「必要だと思えば、いくら沢山、部下を連れて来たっていいが、ただ大騒ぎをしないようにだけはしてくれよ」
「部長刑事が、なんというかわからん」と、反対を称えるように、ドラムがいった。「だが、百万に一つも、見込みはないだろうな」
「うん」と、メイスンがいった。「まあ、できるだけやってみてくれ。部長刑事が、エバ・ベルターは連れ出さないというのなら、部長だけは連れて来てくれよ。あの女にも来てもらいたいんだが、それが駄目なら、きみたち二人には、どうしても来てもらわなきゃならんのだ」
「よし」と、ドラムがいった。「なにか間違いが起こらん限り、丘の麓で会うことにしよう。署内にいたら、連れて行くようにはする」
「いや、そんなことじゃ駄目だ。ぼくの頼んだように手筈がつけられるかどうか、そいつをまずはっきりさせてから、そこで待っていてくれ。五分ほどしたら、もう一度、きみに電話をする。きみたちが、出て来られるようだったら、丘の麓で待っている。来られないのなら、途方もない計画をしたって無駄だからね」
「わかった、五分だね、それじゃ」といって、ドラムは電話を切った。
ドレイクは、メイスンの顔を見て、「また大芝居を企んでるんだな、きみは」
「そうだ。うまくこなせるさ」
「大丈夫か?」
「大丈夫だろうな」
「あの女の弁護の種をでっちあげようというんなら、警察の人間などのいないところでやってのけて、土壇場《どたんば》で持ち出したほうが、ずっといいんじゃないかな」
「そういう弁護の種じゃないんだ」と、メイスンがいった。「警察に立ち会ってほしいんだ」
ドレイクは肩をすぼめて、「きみの葬式というわけだな」といった。
メイスンはうなずき、たばこ売場に歩み寄って、たばこを買った。五分間待ってから、またドラムを呼び出した。
ドラムの声が、「さっきの案を、ビル・ホフマンに売り込んで見たがね、メイスン。エバ・ベルターを連れ出すわけにはいかんとさ。きみが出鱈目《でたらめ》をいって、わなにかけられるんじゃないかと、びくびくしているんだ。拘置所のまわりには、二十何人もの新聞記者がうろうろしているんでね。その連中につけられんようにして、あの女を連れ出すことなんか、とてもできることじゃないんだ。ホフマンが心配しているのは、きみが、大将をおびき出して、ペテンにかけたあげく、新聞には、やんやと書き立てられて、いい笑いもんになるんじゃないかということなんだ。まあそうはいっても、自分だけなら、喜んで出かけるといってるよ」
「よし、わかった」と、メイスンがいった。「まあそれでもいいだろう。じゃ、エルムウッド・ドライブの下で会おう。おれたちは、ビュイックのクーペで待っている」
「わかった」と、ドラムはいった。「五分ほどのうちには、でかけるよ」
「じゃ、後で会おう」と、相手にいってから、メイスンは、受話器をもとにもどした。
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第十九章
四人の男は、ベルター邸の階段を登って行った。
ホフマン部長刑事は、額に八の字を寄せ、メイスンの顔を見て、「いいかい、おかしな真似はなしだぜ。きみを信用して出て来たんだからな」
「目と耳とを、しっかりあけといてくれ。ぼくが、なにかを暴露しようとしていると思うんなら、遠慮なしに、どこまでも、こっちのすることに食いさがって来てくれ。いつでも結構、ぼくが、きみを一杯ひっかけようとしていると思ったら、さっさと出て行ってもらって構わないよ」
ホフマンは、「そいつは、正々堂々としている」といった。
「ところで、まず取りかかる前に、思い出してもらいたいことが、一つ二つあるんだ」と、メイスンが注意した。「ぼくは、この丘の麓のドラッグ・ストアで、ベルター夫人に会って、いっしょに、ここへ登って来た。夫人は、鍵を持っていなかった。ハンドバッグも持っていなかった。外に出るとき、すぐにもどって来てはいれるように、ドアの鍵をかけずに出かけた。自分でも、ドアの鍵はかけずにおいたと、ぼくにいったんだ。ところが、ぼくがあけようとすると、鍵がかかっている。夜間用の掛け金がおりていたんだ」
ドラムが口を出した。「あの女は、そういう嘘つきなんだ。ドアがあいていたと、あの女がいったら、鍵がかかっていたということなんだ」
「それもそうかもしれない」といったが、メイスンは、また頑固にいい張った。「が、夫人が鍵を持たずに、雨の中へ飛び出して行ったということを、忘れちゃいかんぜ。どうしたって、もどって来たときのことを考えないはずはなかったんだ」
「ひどく取り乱して、そんなこと考えるひまもなかったんじゃないかな」と、ホフマンが指摘した。
「それほど子供でもないだろう」と、メイスンがいった。
「よし、わかった」と、興味を感じて来たらしい口吻で、ホフマンがいった。「で、そのつぎは、どういうんだ?」
「ぼくが家の中へはいって見ると」と、メイスンがいった。「傘立てに、雨傘が一本立っていて、そいつが濡れていた。そればかりじゃない。その下の床には、その雨傘からたれてできたんだろう、水溜まりができていた。きみたちも、やってきたときに、多分、気がついたろう」
ホフマン部長刑事は、ある考えに突きあたったように、目を細めて、「うん」といった。「考えてみると、確かに気がついた。それが、どうしたんだ?」
「なんでもない」と、メイスンがいった。「いまのところはね」それから、メイスンは、指をのばして、呼鈴のボタンを押した。
二分ほどすると、執事がドアをあけて、一同をじろじろと見詰めた。
「カール・グリフィン君は、在宅かね?」と、メイスンがたずねた。
執事は、首を振って、「いいえ」といった。「お出かけでございます。仕事のことでお約束がございましたものですから」
「家政婦の、ビーチ夫人はいるだろうね?」
「はい、むろん、おります」
「よろしい」と、メイスンがいった。「それじゃ、われわれは、ベルター氏の書斎に通らしてもらおう。われわれの来ていることは、誰にもいっちゃいけないよ。わかったね?」
「はい」と、執事がいった。
ホフマンは、ドアの中へ踏み込むと、殺人の夜、雨傘の立ててあった傘立てを、さぐるように見た。その目つきは、ひどく考え深そうだった。
ドラムは、ほとんど聞こえないほどに、低い口笛を、神経質に鳴らした。
一同は、階段を登って、ベルターの死体の発見された部屋にはいった。メイスンは、スイッチを押して電灯をつけ、綿密に壁を調べ出した。
「きみたちにも見てほしいんだがな」と、メイスンがいった。
「なにをさがしているんだ?」と、ドラムがたずねた。
「弾丸の穴さ」と、メイスンがいった。
ホフマン部長刑事は、不服そうに咽喉を鳴らしていった。「そんな無駄なことはしなくてもいいよ。この部屋の中は、おれたちの手でどこからどこまで、徹底的に調べあげた上に、写真にも取り、見取り図も作ったんだからね。弾丸が、おれたちの目につかないような穴を空けたり、壁土を落とさずに通りぬけたなんてことはあり得ないよ」
「わかってる」と、メイスンがいった。「きみたちがここへ来る前に、ぼくもさがしたんだ。同じことをやったんだが、なにも見つけることができなかったよ。だけど、もう一度、調べてみたいんだ。ここで起こったにちがいないことはわかっているんだが、まだ、そいつを証明することができないんだ」
ホフマン部長刑事は、急に疑心を起こして、いった。「おい、メイスン! きみは、あの女の容疑を晴らそうとしているのか?」
メイスンは、相手のほうに向き直り、面と向き合って、「ぼくは、実際に起こったことを明らかにしようとしているんだよ」といった。
ホフマンは、眉間《みけん》に八の字を寄せて、「それでは、おれの質問にこたえたことにはなってないぜ。きみは、あの女を自由にさせようとしているのか?」
「そうだ」
「それじゃ、おれは、帰らせてもらうぜ」と、ホフマンがいった。
「いや、そうじゃない」とメイスンがいった。「ぼくは、新聞の第一面いっぱいに、きみの写真の出る機会をきみに与えようとしているんだよ」
「おれの心配していたことは、それなんだ」と、ホフマンがいった。「きみは、頭の切れる男だ、メイスン君。ぼくは、前々から、きみのことは尊敬していたよ」
「いいだろう、尊敬していてくれたのなら、ぼくが、一度だって、ぼくの友人を裏切ったことのないぐらいは、先刻ご承知のはずだ。シドニー・ドラムは、ぼくの友人の一人だからね。そのかれを、わざわざ、ここへ引っ張って来たんだぜ。仕掛けたわなにかける肚なら、誰か知らない人間を引っ張って来ただろうよ」
ホフマン部長刑事は、しぶしぶ納得して、「まあ、もうしばらく、つき合ってやろう。だが、おかしな真似はするなよ。おれは、君がなにを見出そうとしているのか、そいつが知りたいもんだな」
メイスンは、その場に立ったまま、じろじろと浴室を眺めまわしていた。床には、白墨の線を描いてあって、ジョージ・ベルターの死体が発見された位置をあらわしていた。
不意に、メイスンが大きな声で笑い出した。
「なあんだ、馬鹿らしい!」
「なんのしゃれだ?」と、ドラムがたずねた。
メイスンは、ホフマン部長刑事の方を向いて、「わかったぞ、部長刑事」といった。「いよいよ、いつでも、面白いことをお目にかけられるぞ。ビーチ夫人とその娘を呼びにやってもらえないかね?」
ホフマン部長刑事は、どうしたものだろうかという顔つきで、「あの二人を、どうしようというんだ?」
メイスンがいった。「すこし聞きたいことがあるんだ」
ホフマンは、首を振って、「いかんね」といった。「そいつは、してもらっちゃいかんと思うね――もうすこし、わけがわかるまでは、いかんね」
「間違ったことをしようというんじゃないんだぜ、部長刑事」と、メイスンがいい張った。「きみも立ち会って、質問を聞いてくれたまえ。行きすぎたことをすると思ったら、いつでも、中止を命じていいんだぜ。変なことをすりゃ、地獄の刑罰が待っているんだからな、きみ! きみたちをペテンにかけるつもりなら、陪審員の前で堂々と渡り合って、土壇場で切り札を出してあっといわすさ。わざわざ警官を呼んでまで、ぼくの弁護の奥の手を披露なんかしないよ」
ホフマン部長刑事は、一分ほど思案して、「もっともだな」といった。そして、ドラムの方を向いて、「下へ行って、二人の女を連れて来たまえ」
ドラムはうなずいて、部屋から出て行った。
ポール・ドレイクは、好奇の目で、メイスンの顔を見つめていた。メイスンの顔には、ほんのわずかな表情の動きというものもなかったし、ドラムが部屋を出て行ってから、ドアの外に、ずるずると引きずって歩く人の足音が聞こえるまでの数分の間、口を聞こうともしなかった。やがて、ドアがあいて、ドラムが軽く頭を下げて、二人の女を部屋に通した。
ビーチ夫人は、相変わらず陰気な様子をしていた。冴えない、黒い目で、面白くもないというように、部屋の中の人たちを見た。かの女は、一風変わったぐずぐずした、扁平足のような足取りで歩いた。
ノーマ・ビーチは、ぴったり合ったタイトの服を着ていて、そのために、からだの曲線が、はっきり目立っていた。男の目をひきつける自分の魅力を、得《とく》々と鼻にかけたようすで、豊かな唇に薄笑いを浮かべながら、つぎからつぎと、みんなの顔に視線を向けた。
メイスンが口を開いて、「二、三、お聞きしたいことがあったものですから」といった。
ノーマ・ビーチが、「またですの?」といった。
「ビーチ夫人、娘さんとカール・グリフィンとの婚約について、なにかご存じですか?」と、ノーマの言葉を無視して、メイスンはたずねた。
「婚約したことは知っています」
「ロマンスのあったことも、ご存じだったのですか」と、メイスンがたずねた。
「婚約をするからには、ロマンスがあるのが普通でしょう」と、嗄《しゃが》れ声で、ビーチ夫人がいった。
「そういうことをいってるのじゃないのです」と、メイスンが、相手にいった。「どうか、ぼくの質問にこたえてください、ビーチ夫人。ノーマさんが、ここへ来る以前から、二人の間には、あなたが知っておいでになったようなロマンスがあったのですか?」
陰気な、落ちくぼんだ目が、一瞬、ノーマのほうに動いたが、またメイスンの顔にもどった。
「いいえ」と、ビーチ夫人がいった。「ここへ来る前には、そんなことはなかったんでしょう。ここへ来てから後で、二人は、知り合ったのです」
「娘さんが、その以前に結婚していたことは、ご存じでしたか?」と、メイスンがたずねた。
ビーチ夫人の目は、いささかもその色を変えずに、メイスンの顔を、まっこうから見詰めていた。
「いいえ」と、夫人は、飽き飽きしたような口吻で、こたえた。「結婚なんかしていませんよ」
メイスンは、さっとノーマに鉾先《ほこさき》を向けて、「どうです、ミス・ビーチ? あなたは結婚していましたか?」
「まだしていませんわ」と、ノーマがいった。「これからするとこよ。でも、そんなことが、ジョージ・ベルターさんの殺されたことと、どういうつながりがあるのか、あたしには、さっぱりわからないわね。そりゃ、あんたがたが、そんなことを聞きたいといえば、こたえなきゃいけないんでしょうがね。でも、あたくしの個人的なことまで立ち入るってのは、どういうおつもりだか、あたしにはわからないわ」
「すでに結婚しているあなたが、どうして、カール・グリフィンと結婚できるんです?」と、メイスンがたずねた。
「結婚なんてしてなくってよ」と、ノーマ・ビーチがいった。「そんな失礼ないい方、あたし、我慢できないわ」
「ハリー・ローリングのいうことと違うようだね」と、メイスンが、いい聞かせるように、ノーマにいった。
娘の顔は、表情一つ変えないどころか、まつ毛一本さえ、ちらっとも動かさなかった。「ローリング?」と、落ちついて、問いかけるような調子で、ノーマはいった。「そんな男、聞いたこともないわね。ローリングって名前の男のこと、きいたことあって、お母さん?」
ビーチ夫人は、額に皺を寄せて、「思い出せないね、ノーマ。わたしは、人の名前をおぼえるのは、あまりお得意じゃないけど、ローリングってのは知らないね」
「じゃ」と、メイスンがいった。「思い出させてあげよう。ローリングというのはね、ベルベディア・アパートメントに住んでる男ですよ。三一二号室にね」
ノーマ・ビーチは、あわてて首を振って、「きっと、なんかの間違いよ」
ペリイ・メイスンは、ポケットから、離婚告訴状と召喚状の写しを取り出して、「すると、多分、どういういきさつで、あなたが、この告訴状を確認するようなことになったか、そのわけを説明できるでしょうな。これには、あなたが、ハリー・ローリングと結婚式をあげたことを、宣誓して証言していますがね」
ノーマ・ビーチが、ちらっと、その書類を見てから、その視線を母親に移した。ビーチ夫人の顔は、まったく無表情だった。
ノーマは、早口にしゃべった。
「さぐり出されちゃったのは残念だけど、仕方がない、あなたがかぎ出しちゃったんだから、話すわ。あたしは、そのことを、カールに知られたくなかったの。結婚はしたわよ。でも、うるさいことばかりいうもんだから、飛び出しちゃった。ここへ来て、娘の時の名前にもどったの。カールは、あたしに会って、ひと目で、お互いに愛し合うようになっちゃったわ。でも、思い切って、あたしたちの婚約を発表することができなかったの。ベルターさんが、とても怒るってことが、よくわかっていたんですもの。でも、ベルターさんがなくなってしまったんで、もう秘密にしておく理由がなくなってしまったんです。
あたし、夫には、あたしのほかに、もう一人、妻がいることを聞き出したの。それも、あたしたちが別れた理由の一つだわ。あたし、弁護士に話したら、この結婚は、結婚そのものが間違っていたのだから、解消できるって、そういってくれたわ。それで、あたし、そっと手続きをとっていたんだわ。誰かが、そんなことをかぎつけたり、ローリングの名とビーチの名前を結びつけるなんて、思いもよらなかったわ」
「そいつは、グリフィンの話とは、だいぶ違うようだね」と、メイスンが相手にいった。
「むろんよ」と、ノーマがいった。「あの人は、そんなこと、なんにも知らないんですもの」
メイスンは、首を振って、「いや」といった。「ねえ、グリフィンは、自白しているんだよ。われわれは、かれの自白をこまかく吟味するといっしょに、きみたちに従犯としての刑事上の責任があるかどうか、それとも、単に環境の犠牲者にすぎないのかどうか、それを調べあげようとしているんです」
ホフマン部長刑事が進み出て、「どうも」といった。「そのへんでやめてもらったほうがよさそうだね、メイスン」
メイスンは、ホフマンのほうを向いて、「もう一分だけ待ってくれ、部長刑事」と頼むようにいった。「その上で、やめさせたけりゃ、やめさせていいよ」
ノーマ・ビーチは、素速く、神経質に、二人の顔をつぎつぎに見た。ビーチ夫人の顔は、疲れ切った諦念の仮面のようだった。
「では、事件のほんとうの筋道を話しましょう」と、メイスンが口を開いた。「ベルター夫人は、主人と口論したあげく、相手に向けてピストルを発射しました。それから、なにがどうなったか確かめずに、逃げ出しました。女性らしく、夫人は、むろん、相手に向けて射ったのだから、あたったものと思ったのです。ところが、実際問題として、あれだけの距離で、あれだけ逆上していたのですから、命中する可能性は、まずなかったはずです。夫人は、後をも見ずに階段を駆け降り、レインコートを引っつかむなり、雨の中へ飛び出しました。あなたは、ミス・ビーチ、ピストルの音を聞いて起きあがり、着物を着て、いったい、なんのいざこざかと見に行った。話が変わって、ちょうどそのころ、カール・グリフィンは、車で家へ帰って来たところだった。雨が降っていたので、濡れた傘を傘立てに立てて、二階の書斎へあがって行った。
ミス・ビーチ、あなたは、行ってみると、グリフィンの声とベルター氏の声とが聞こえたので、耳をすませた。ベルターは、妻にピストルで射たれたことだの、妻の不貞の証拠を見つけたことだのを、グリフィンに話していた。相手の男の名前を甥に知らせて、どうしたらいいかと相談を持ちかけていた。
グリフィンは、どういうふうに射ったのか、その射ち方などを詮索したあげく、ベルター夫人が射ったときと同じように、浴室のドアのところにベルターを立たせました。ベルターがその位置に立ったとたん、グリフィンはピストルをあげて、相手の心臓をぶち抜きました。それから、ピストルを床に置き、階段を駆け降り、玄関から外へ出ると、自分の車に飛び乗って行ってしまった。
外へ飛び出してしまうと、グリフィンは、体裁をつくろうために酒を飲み、一方のタイヤの空気を抜いて、帰宅の遅れた口実を作った。そして、警察から人が到着したことを確かめてから、車を乗りつけて帰って来た。そればかりじゃない。午後出かけてから、はじめて帰って来たような顔をしていました。ところがどっこい、玄関の傘立てに置いた雨傘のことをすっかり忘れていました。それだけじゃない。帰って来たときに、ドアに鍵がかかっていなくて、あけたままになっていたのを、二階へあがるときに、夜間用の掛け金をかけたという事実に気がつかなかったのです。
グリフィンが、伯父を射ち殺したのは、遺言状によって、自分が遺産を相続することになっているのを知っていたからでもあり、また、エバ・ベルターが、夫を射殺したと思い込んでしまっていると感づいたからでした。ピストルの持ち主を洗えば、疑惑の目が夫人に向くことも、あらゆる証拠が夫人に不利なことも、グリフィンは、よく知っていたのです。ベルターが見つけ出した妻の罪を証拠立てるもの、つまり、赤新聞に名前の出るのを押さえようと懸命になっている男と、妻との関係を裏書きする証拠の入っているハンドバッグは、ベルターの机の中におさまっていました。
ノーマさん、あなたはお母さんと、自分の目撃したことを話し合ったあげく、口留め料として、グリフィンにうんと金を出させる絶好のチャンスだと、一決した。そこで、殺人犯人として罪に服するか、それとも、あなたには、有利な条件で、あなたと結婚するか、その二つのうちのどちらか一つを選ばせることに、お母さんとの意見が一致したのです」
ホフマン部長刑事は、頭をかきながら、途方にくれたような面持ちだった。
ノーマ・ビーチは、ちらっと、素速い一瞥を、母親の方に走らせた。
メイスンは、ゆっくりした口調でいった。「さあ、あなたがたが、すっかり本音を吐く最後のチャンスですよ。本当のところをいうと、あなた方は二人とも、事後従犯です。ですから、殺人犯人と同様に、起訴されるでしょう。グリフィンは、供述をしてしまっているのですから、別に、あなたがたの証言はいらないのです。ですから、いつまでもごまかしをつづけようというのなら、どうぞおつづけなさい。が、もし、警察と協力したいという気がおありなら、いまが、その時ですよ」
ホフマン部長刑事が、脇から口を出して、「きみたちに、一つだけ聞く」といった。「それで、この仕事はやめだ。きみたちは、いまメイスンのいったこと、または、事実上、それに類したようなことを、やったのか、やらなかったのか?」
「しました」と、ノーマ・ビーチが、低い声でいった。
それまで仮面のような顔をして黙りこくっていたビーチ夫人が、とうとう我慢の緒を切ったように立ちあがると、くるっと、怒りをこめた目を娘に向けて、「ノーマ!」と金切り声で叫んだ。「お黙り、この馬鹿娘が! はったりじゃないか! わからないのかい、お前には?」
ホフマン部長刑事が、かの女のほうに歩み寄って、「はったりだったかもしれん、ビーチ夫人」と、ゆっくりとした口調でいった。「だが、娘さんのいったことと、きみのいまのせりふとは、白状したのも同様だ。さあ、さっさと真実を申し立てるんだ。きみに残されていることは、それだけだ。でなけりゃ、きみたちを事後従犯と認めるぞ」
ビーチ夫人は、ひとまわり舌で唇をなめてから、怒りに燃えた口調でしゃべり出した。「わたしがもっとしっかりしていなきゃいけなかったんだ、こんな馬鹿な娘を信用なんかしないで! この娘《こ》なんか、なんにも知っちゃいなかったんだ。まるで丸太ん棒のように、ぐっすり眠り込んでいたのさ。ピストルの音を聞いて、あがって行ったのは、このわたしなんだよ。わたしが、あの男と結婚して、娘なんかに、金輪際、秘密を打ち明けんじゃなかった。でも、この子に運が向いて来たと思ったもんだから、譲ってやったのに。そのご返礼が、これだとさ!」
ホフマン部長刑事は、振り向いて、ペリイ・メイスンの顔を見ながら、「こりゃ」といった。「とんでもないことになったもんだよ。いったい、ベルターにあたらなかった弾丸は、どうなったんだ?」
メイスンは、声高に笑いながら、「部長刑事」といった。「それには、ぼくも、ずっと一杯かけられていたのさ。傘立てに立っていた濡れた雨傘と、鍵のかかっていたドアとが、ぼくの頭痛の種だった。事件の真相は、こうでなくちゃならんとは、しじゅうぼくの頭から離れなかったが、どうしてそうなったかが考えつかなかった。ぼくは、丹念にこの部屋を見てまわって、弾痕をさがした。そのうちに、カール・グリフィンほどの頭のいい男なら、この部屋に弾痕がついていたら、とうていこの犯罪がものにならぬことぐらいは先刻承知していたはずだと、思いあたった。そうなってみると、弾丸の行方は、ただ一つしか考えられない。わからないかね?
ベルターは、風呂にはいっていた。おそろしく大きな浴槽で、湯を満たせば、深さは二フィート以上になる。かれは、細君のことにひどく腹を立てていて、帰ってくるのを待ち構えていた。風呂にはいっていると、細君が帰って来た物音を聞いたので、やにわに飛び出し、バスローブを引っかけて、あがって来いと、大声に怒鳴った。
二人は、はげしく喧嘩をしたあげく、細君は、ピストルを射った。ベルターは、浴室の戸口に、ちょうど後で死体の発見されたあたりに立っていた。あのドアのそばに立って、指を向けてみれば、弾道を想像することができる。弾丸は、かれにあたらずに、浴槽に飛び込み、水にその勢いをそがれたのだ。
その後で、カール・グリフィンが帰って来たので、ベルターは、事の次第を話して聞かせた。こうして、自分ではそうとは知らずに、かれ自ら、自分の死刑執行令状に署名したことになった。グリフィンは、絶好の機会だと見てとった。話にかこつけて、細君がピルトルを射ったときと同じ位置に、ベルターを立たせ、手袋をはめた手で、ピストルをとり、ベルターを狙って、一発で心臓を射ち抜いた。そして、貫通して飛び出していた、その二発目の空の薬莢を拾ってポケットに入れ、ピストルは、床に落としておいて、部屋を出た。それだけのことだったのさ。ごく簡単なことだよ」
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第二十章
朝の日の光が、ペリイ・メイスンの事務室の窓から流れ込んでいた。メイスンは、デスクに向かって腰をおろし、睡眠不足からの血走った目で、ポール・ドレイクの顔を見やった。
「うん」と、ポール・ドレイクがいった。「経過を聞いて来たよ」
「いってくれ」と、ペリイ・メイスンが、相手にいった。
「やっこさん、今朝の六時ごろ、陥落したよ」と、探偵はいった。「夜通し、やっこさんを絞めあげたそうだ。男が、頑張り通そうとしていると見て、ノーマ・ビーチも、前言をひるがえしにかかった。やっこさんに音をあげさしたのは、家政婦のほうだった。変わった女だね、あの女は。娘が口を割らなかったら、この世の終わりまででも黙りこくっていたろうな」
「すると、最後には、あの女が、グリフィンを裏切ったというんだね?」と、弁護士がたずねた。
「うん、そこが変てこなところなんだ。あの女は、まるっきり娘のことに夢中だったんだね。娘のために、願ってもない縁組みのできる好機だと思ったもんだから、それをやってのけたんだな。ところが、グリフィンが追い詰められて、いまさら、あの男に力|瘤《こぶ》を入れて味方をしたって、なんの得にもならないどころか、あくでも嘘をつき通していると、大事な娘までが事後従犯で豚箱にほうり込まれかねないと見てとると、たちまち、身をひるがえすように、グリフィンに不利な証言をしたってわけだ。つまりはだな、事件の真相を知っていたのは、あの女だったんだ」
「エバ・ベルターは、どうした?」と、メイスンがたずねた。「あの女のために、人身保護令状《ハビアス・コーパス》を手に入れたんだがね」
「その必要はないよ。七時ごろ釈放されたはずだ。まもなく、ここへやって来るんじゃないかな?」
メイスンは、肩をすぼめて、「ありがたいと思っているかな」といった。「どうかな、思っていないかもしれんな。最後に会ったときは、ぼくに悪態をついていたからな」
表の事務室のドアがあいて、またしまったような音がした。
「あのドアは、鍵がかかっていたと思っていたがな」と、ポール・ドレイクがいった。
「ビルの管理人かもしれない」と、メイスンがいった。
ドレイクは立ちあがって、さっと三足で、ドアに飛びつき、ぐいとあけて、待合室の方をのぞいたと思うと、にやっと笑いを浮かべて、「やあ、ミス・ストリート」といった。
デラ・ストリートの声が、待合室の方から聞こえて来た。「おはようございます、ドレイクさん。メイスンさんは、いらっしゃいます?」
「ああ」とこたえて、ドレイクは、ドアをしめた。
ドレイクは、腕時計を見、それから、弁護士の顔を見て、「きみの秘書は、ずいぶん早く出て来るんだね」といった。
「いま、何時だ?」
「まだ、八時になってないよ」
「九時までに出て来りゃいいんだがね」と、メイスンがいった。「あんまり、かの女に厄介をかけたくなかったんだ。こん度の事件では、ずいぶん働いてもらったからね。だから、人身保護令状《ハビアス・コーパス》の申請書も、ぼくが自分でタイプを打ったんだ。夜中の十二時ごろに、判事をつかまえてサインをさせた上で、提出したってわけだ」
「しかし、もう釈放されたんだから」と、探偵がいった。「そんな令状なんか、必要なかったんだ」
「用意しておいて要らなくなるほうが、要るときになって、出来てないよりはましだよ」と、と、重々しく、ペリイ・メイスンがいった。
また、外のドアがあいて、しまった。まだひっそりとビルディング中が静まり返っているので、その音が、奥の事務室まで、つつ抜けに聞こえて来た。男の声が聞こえて来たと思うと、メイスンのデスクの電話が鳴った。メイスンは、受話器をすくいあげて、耳に当てた。デラ・ストリートの声で、「ハリスン・バークさんがおいでになって、すぐに、お目にかかりたいといっておいでです。大切なご用だといっておいでです」と伝えた。
事務所の下のビジネス街も、まだざわめいていないので、電話の声は、探偵の耳にも聞こえた。ドレイクは立ちあがって、「おれは、出かけるぞペリイ」といった。「グリフィンが自白したことと、きみの依頼人が釈放されたことを、知らせに寄っただけだ」
「わざわざ知らせてくれて、ありがとう、ポール」といってから、弁護士は、直接廊下へ出られる方のドアを指して、「そっちから出られるぜ、ポール」
探偵が、そのドアから出て行くのを待って、ペリイ・メイスンは、電話に向かっていった。「お通ししてくれ、デラ。ドレイクは、いま出て行ったところだ」
メイスンが、電話を切ると、一瞬後に、ドアがあいて、ハリスン・バークが、顔中いっぱいに笑いをたたえて、部屋にはいって来た。
「まったく、すばらしい探偵的手腕だったな、メイスン君」と、バークが口を開いた。「ただすばらしいの一語に尽きるね。どの新聞も、その記事で一杯だ。きょうの正午までには、グリフィンも自白するだろうという予想だね」
「グリフィンは、けさ早く自白しました」と、メイスンがいった。「どうぞ、お掛けなさい」
ハリスン・バークは、そわそわと落ちつかない様子で、椅子のところまで足を運び、腰をおろした。
「地方検事は」と、バークはいった。「ひどく、わしに好意を持ってくれておってね。わしの名前が、新聞にのらんことになっとるんだ。ただ、あの事実を知っとる唯一の新聞は、例の赤新聞だけなんだがね」
「『スパイシイ・ビッツ』のことですね?」と、メイスンがいった。
「さよう」
「なるほど、それが、どうかしましたか?」
「あの新聞にも、わしの名前がのらんように、ぜひ、きみにやってもらいたいのだがね」
「それなら、エバ・ベルターにお会いになるほうが早いですよ」と、弁護士が、相手にいった。「あの人が、これから遺産を管理することになりますから」
「遺言状のことは、どうだね?」
「遺言状は、なんら関係はありません。この州の法律によれば、遺言状の有無に関わらず、自分の手にかけて殺した相手の遺産を相続することはできないと規定されていますから、グリフィンは、遺産相続の権利を喪失したわけです。エバ・ベルターは、遺産相続を主張できなかったかもしれなかったのです。ジョージ・ベルターの遺言状で、相続権を排除されていたのですからね。ところが、グリフィンが、遺言状による遺産を相続できないことになったのですから、ジョージ・ベルターの所有物は、すべて相続財産に一括されて、エバ・ベルターは、遺言状によらずに、唯一の法定相続人たる妻として、それら相続することになるのです」
「すると、あの新聞も、かの女が支配するというんだね?」
「そうです」
「なるほど」といって、ハリスン・バークは、両手の指先をつき合わせて、「ところで、警察じゃ、かの女をどうするつもりだろう? たしか、拘置されているとおもっとったがね」
「一時間ほど前に、釈放されました」と、弁護士がいった。
ハリスン・バークは、電話器に目をやって、「ちょっと、電話を使っていいかな?」
メイスンは、デスクの上の電話器を、相手の方に押しやって、「秘書に、番号をおっしゃってください」といった。
ハリスン・バークはうなずいて、まるで、カメラの前で気取ったポーズをとっているかのように落ちついた、厳然たる様子で、受話器をとりあげた。デラ・ストリートに番号を告げて、辛抱強く待っていた。しばらくして、受話器にガガガという音がすると、ハリスン・バークが話した。「ベルター夫人は、ご在宅ですか?」
受話器がまた、音を立てた。
ハリスン・バークは、お世辞たらたらの猫なで声で、「では、お帰りになりましたら」といった。「ご注文をいただいた靴のことでお知らせいたすことになっておりました者から、電話がかかって来て、ただいま、その寸法のものが在庫しておりますので、いつでもよろしいときにお届けいたします、と、そう申していたとお伝えいただけませんでしょうか」
送話器に向かって、にっこり笑って見せ、まるで目に見えない聴衆に演説をすませたかのように一度二度、会釈をしてから、ひどく几帳面に、元の通りに受話器を置き、メイスンの方へ電話器を押しやった。
「どうもありがとう」と、バークはいった。「まったく、口ではうまくいい表せぬほど、感謝しとります。わしの政治家としての全生涯が、危殆《きたい》に瀕するところだった。重大な事態を避け得たのも、ひとえに、きみの努力の賜物と感じております」
ペリイ・メイスンは、口の中で、なにやら言葉にならない言葉を呟《つぶや》いた。
ハリスン・バークは、背一杯に、すっくと立ちあがると、チョッキを撫でおろし、顎を突き出して、「人間というものは、その生涯を、公共の事業に捧げておると」と、轟くような声でしゃべり出した。「自らの目的を達成せんがために、あらゆる奸策を弄せんとする政治的な敵を持つにいたるのは、当然のことであります。かかる状況の下においては、いかに些細な、しかも罪のない無分別でも、新聞紙上において、ことさらに大袈裟に、事実を歪曲して報道されるものなのであります。わが輩は、これまで、公共のために、誠心誠意奉仕してまいって……」
ペリイ・メイスンは、ぐいとうしろに押しやった回転椅子が、どしんと壁にぶつかるほど、出し抜けに立ちあがって、「そんなことは、大切にしまっておいて」といった。「聞きたがっている人間に聞かせるんですね。ぼくとしては、エバ・ベルターが払ってくれるはずの五千ドルに、関心があるだけです。ただし、その半額は、あなたから出していただくのが至当じゃないかと、かの女に示唆するつもりです」
ハリスン・バークは、弁護士の口調の、すごいほどの激越さの前に、いささか忸怩《じくじ》として、「しかし、きみ」と、異議を称えるような口振りでいった。「ねえ、きみ! わしは、きみになにも依頼なんかしなかったのだよ。きみは、ただ、あの人にかけられている殺人の容疑といって悪ければ、あの人に、極めて重大な結果をもたらす恐れのある誤解を解くために、あの人の代理となるように依頼されたにすぎなかったのだ。わしは、たまたま、それにまき込まれただけのことで、いわば、ひとりの友人として……」
「いや、ぼくは、ただ」と、ペリイ・メイスンがいった。「ぼくの依頼人に、忠告をするつもりだと、申しあげているだけなのです。そして、お忘れではないでしょうが、いまや、あの人は、『スパイシイ・ビッツ』の持ち主です。『スパイシイ・ビッツ』が、どんな記事をのせようと、のせまいと、いっさいは、あの人の胸三寸にかかっているのですよ。いや、これ以上、あなたを引き留める必要もないようですな、バークさん」
ハリスン・バークは、不愉快そうに、ごくっと唾を飲み込んで、なにかいいかけたが、思い直して、右手を伸ばして握手を求めようとしかけた。しかし、それも、ペリイ・メイスンの目の、爛々《らんらん》と燃える光を認めると、だらりと、その手を脇におろして、いった。「いや、そう、おっしゃる通りです。よくいってくださった、感謝します。わしは、ちょっとお寄りして、お礼を申し述べたいと思っただけでして」
「なあに」と、ペリイ・メイスンがいった。「お礼をおっしゃられるほどのことではありません。廊下へは、そのドアから出られます」
メイスンは、じっとデスクの前に立ったまま、ドアを通って廊下へ出て行く政治家のうしろ姿を見守っていた。ドアがしまっても、物凄いほど、ドアの羽目板を睨みつけながら立ちつくしていた。その目には、つめたい敵意が燃えていた。
待合室との間のドアが、そっとあいた。デラ・ストリートが、戸口に立ちどまって、メイスンの横顔を見守った。そのうちに、メイスンが、デラの方を見もしないばかりか、部屋にはいって来たことさえ気がつかないと見てとって、デラは、足音を立てないように、絨毯の上を歩いて、メイスンのかたわらに立った。目に涙を浮かべながら、デラは両手を、メイスンの肩にかけて、「ねえ」といった。「ごめんなさいね」
その声にぎくっとして、メイスンは、振り返って、涙ぐんだ相手の目を見おろした。何秒かの間、二人は、なんにもいわずに、互いに顔を見合った。なにか、その手から逃げ出そうとするものに、必死に縋《すが》りつこうとするように、デラの両手が、もの狂わしく、メイスンの肩にすがりついた。
「わたし、ばかだったのね、先生。けさの新聞を読んで、すっかり気が沈んじまって……」
メイスンは、長い腕を、デラの肩にまわして、ぐっと自分の方に引き寄せた。そして、唇を、相手のそれに押しつけた。
「忘れてしまうんだよ」と、声は荒いが、やさしさのこもった声で、メイスンはいった。
「どうして、説明してくださらなかったの?」と、感情が昂ぶって息がつまりそうになりながら、デラがたずねた。
「そうじゃなかったのさ」と、言葉を選びながら、ゆっくりと、メイスンがいった。「説明をするとなると、きみに、いやな思いをさせることになるからだったのでね」
「決して、決して、わたし、生きている限り、二度と、先生を疑ったりはしませんわ」
戸口で、咳払いをするものがあった。気がつかないうちに、エバ・ベルターが、待合室からはいって来ていたのだ。
「ごめんなさい」と、氷のようにつめたい口調で、エバがいった。「お邪魔したのじゃないかしら。でも、あたくし、どうしてもメイスンさんにお目にかかりたかったもんだから」
デラ・ストリートは、頬をまっ赤に染めて、ペリイ・メイスンから飛び離れ、それまでのやさしさのすっかりなくなった、怒りに満ちた目で、エバ・ベルターを睨みつけた。
ペリイ・メイスンは、じっと夫人を見つめた。ほんのすこしの動揺した色も見えなかった。
「どうぞ」と、メイスンは相手にいった。「こちらへはいっておかけください」
「いかが」と不機嫌な口調で、エバがいった。「お口のまわりの口紅をお拭きになったら」
ペリイ・メイスンは、じっと目の色も動かさずに、エバの顔を凝視して、「この口紅は」といった。「ついていたっていいんです。ご用は、なんです?」
エバの目の色がやわらかくなった。メイスンの方に近寄って、「あたくし」といった。「あなたにお詫びを申しあげようと思って。いままで、すっかり、あなたを誤解していて、すっかり、あなたにご迷惑をおかけして……」
ペリイ・メイスンは、デラ・ストリートの方を振り向いて、「デラ」といった。「その事件の書類のはいっている引き出しをあけてくれ」
秘書は、不審そうな目で、メイスンの顔を見た。
ペリイ・メイスンは、書類のはいっているスチール・キャビネットを指して、「その引き出しを、二つばかりあけてみたまえ」
デラは、ボール紙の表紙の中に、それぞれ分類された書類のぎっしりつまっている引き出しをあけた。
「あれが見えますか?」と、メイスンが、エバ・ベルターにたずねた。
エバ・ベルターは、メイスンの顔を見て、眉間に八の字を寄せはしたが、うなずいた。
「いいですか」と、メイスンがいった。「あれは全部、事件の書類です。そのひとつひとつが残らず、事件です。ほかの引出しも全部、同じように事件の書類で一杯です。みんな、ぼくの扱った事件で、ほとんど殺人事件です。
あなたの事件も、すっかり片づけば、やはり、ほかのカバーと同じ寸法のカバーの中にはいることになっています。重要さからいっても、ほかのと同じことになります。そして、ミス・ストリートが、それに番号をつけます。将来、なにかの必要ができて、あの事件はどうだったか振り返って考えてみたくなったとき、その番号をいえば、ミス・ストリートが、その書類の入ったカバーごと取り出してくれるのです」
エバ・ベルターは、眉をひそめて、「どうなったんです」とたずねた。「気分でも悪いんですの? なにをなさろうとしていらっしゃるんです? なにをおっしゃりたいんですの?」
デラ・ストリートは、書類ケースのそばを離れて、待合室へのドアの方に身を動かした。そっと部屋を出て、静かにドアをしめた。ペリイ・メイスンは、じっとエバ・ベルターに目をあてて、いった。「この事務所で、あなたが、どれだけの重要さがあるかということを、お話ししているだけなのです。あなたは、一つの事件です。一つの事件というほかには、なにものでもないのです。あのケースの中には、何百という事件があり、これからも、何百もの事件が加わって行くでしょう。あなたは、すでになにがしかの金を払ってくだすったが、さらに、もう五千ドル払っていただくことになっています。そして、ぼくの忠告をお聞きになるのだったら、そのうち二千五百ドルは、ハリスン・バーク氏に出しておもらいになることですね」
エバ・ベルターの唇が、ふるえた。
「あたくし、あなたにお礼を申しあげたかったんですの」と、エバがいった。「あたくしを信じてくださいな、これは、嘘いつわりのない、あたくしの本心から申しあげるのですわ。前には、あなたを操るために、とんでもないことを申しあげましたけど、こん度ばかりは、ほんとうですわ。あたくし、心の底からありがたいと思って、あなたのためなら、どんなことだろうといたしますわ。あなたは、ほんとうにすばらしい方ですわ。あたくし、それを申しあげようと思って、こちらへ参りましたのに、だのに、あなたは、まるで、実験室へ迷い込んだ標本におっしゃるような、口をおききになろうとするのね」
こんどこそ、本物の涙が、エバの目に浮かんでいた。エバは、思いを一杯にこめた目で、メイスンの顔を見た。
「まだ、仕事は一杯残っています」と、メイスンが、相手にいった。「例の遺言状を無効にするためには、グリフィンが、第一級殺人罪で有罪の宣告を受けるのを見届けなきゃなりません。その件に関しては、あなたは、陰にかくれていなきゃならないが、しかし、闘いだけはつづける必要があります。グリフィンにとって利用できる金は、ジョージ・ベルターの金庫の中にある現金だけです。その金の一部でも、かれの手に渡らぬようにしなければなりません。そういったことが、これからしなけりゃならん仕事です。はっきり申しあげますが、ぼくというものがなくて、ご自分だけで、そういうことがやっていけると思っていらっしゃるのじゃないでしょうね」
「そんなことを、いったんじゃないんです! そんなつもりはありませんわ。そんなこと、考えてもいやしませんわ」と、エバは、早口にいった。
「それなら結構です」と、メイスンがいった。「ぼくは、ただお話ししただけです」
そのとき、待合室との間のドアに、ノックの音がした。
「なんだ?」と、ペリイ・メイスンが声をかけた。
ドアがあいて、デラ・ストリートが、そっと部屋にはいって来た。
「きょうは、ほかの事件をお引き受けになれまして?」と、メイスンの血走った目を見ながら、心配そうに、デラがたずねた。
メイスンは、胸の中の霧でも払いのけるように、首を振った。
「どんな事件だ?」と、メイスンがたずねた。
「わかりませんわ」と、デラがいった。「とても贅沢《ぜいたく》ななりをした、きれいな娘さんですわ。育ちもいいらしいの。なんか困ってるらしいんですけど、いおうともしないんです」
「すねてるのか?」
「すねてるですって?――そうね、なにか隠してるというんじゃないかしら」
「そういうのは、その婦人の様子が気に入ってるからだな」と、メイスンは、にやっと笑いを浮かべて、「でなけりゃ、すねてるっていうだろうからな。きみの勘ではどうだね、デラ? きみはいつも、事件がどう展開して行くか、かなりいい勘を持っているからな。最近のお客さんもね」
デラ・ストリートは、エバ・ベルターに目を向けたが、急いで、その目をそらして、「その若い女の方は」と、ゆっくり、デラはいった。「おなかの中では、ひどく怒っていて、すっかり荒れ狂ってるのね。でも、レディですわ。レディすぎるくらいレディですわ。そうね……やっぱり、すねているのかもしれませんわ」
ペリイ・メイスンは、大きな溜息を吐き出した。荒々しい光が、ゆっくり目から消えて行って、代わりに、いろいろな考えが沸き立って来たという色が浮かんで来た。手の甲を口にあてて、口紅を拭いとると、にっこり、デラ・ストリートに笑いかけた。
「会って見よう」と、メイスンがいった。「ベルター夫人がお帰りになったら、すぐにね。そして」とつけ加えていった。「それは、もうすぐのはずだ」(完)
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訳者あとがき
先日の朝日新聞は、ガードナー(Erle Stanley Gardner)が、その百二十作目の作を発表したこと、その作品が、英語国民の間だけで、三億冊以上もの冊数が売れたということを報道していた。
ガードナーの作品が、アメリカ、イギリス、カナダ等、英語国民の間ではもちろん、フランス、イタリアその他、世界各国で、最も多く読まれていることは、いまさら、こと新しく喋々を要しないところであって、日本も、もちろん、その例外ではない。いまでは、ほとんどその全作品が、わが国語に移し植えられているといってもいいのではあるまいか。
書物だけではない。テレビでも、その「ペリイ・メイスン」シリーズが、放送を開始してからもう数年を経たと思われるのだが、未だに放送をつづけているのは、それだけ視聴率が落ちないという事実を物語っているものにほかならない。
その理由を、ひとことでいいつくすことは、ちょっとむつかしい。面白いからといってしまえば、ある程度は、その要因をいい当てているかもしれないが、すべてを包含しているとはいえない。いうならば、ガードナーの面白さは、その面白さに問題があるのだ。
人間は誰でも、本能的に、幸福を希求する。幸福にも、さまざまあるであろうが、少なくも、その日常の生活が、平安であることを願っている。平安が、継続することを願っている。
が、その平安の継続は、至難であって、ともすれば、外界の諸要因によって破られようとするのが、現代である。
ガードナーの作品は、ほとんどすべてといっていいほど、ここにその作品のモーティブをおいている。
平安な生活を送っていた主人公が、ある日、突然、外界の圧力が、不当にも自分に加えられているのを知るところから、ガードナーの作品ははじまる。幸福が、破棄されようとするのを知って、自力では、その圧力を排除することのできないのを知った主人公が、外部の不当な圧力に対抗する力を求める。
対抗する力は、ガードナーの場合、それはペリイ・メイスンである。
そこに、ガードナーの作品の面白さがあり、現代に息づいている面白さがあるのである。その外界の暴力と対抗して、ペリイ・メイスンが、それを一つ一つ破って行くのが、ガードナーの作品のやま場であり、それが、法廷の場の緊張した場面を作りあげている。
この「ビロードの爪」(The Case of the Velvet Claws)は、一九三三年発表の、ガードナーの多くの作品のうちの、実に最初の処女作であるが、この作品では、その法廷の場は、まだあらわれていない。が、それに近い場面は、第十九章の部長刑事を前にした場面に代置されて、緊張の場面を展開しているのである。
とにかく、幸福を希求し、平安を願う人間の本能が永遠のものであり、外界の暴力と闘ってそれを守ろうとする人間の欲望がなくならない限り、ガードナーの作品は、永遠に生き続けるであろう。(訳者)