どもりの主教
E・S・ガードナー/田中西二郎訳
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登場人物
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ペリイ・メイスン……弁護士
デラ・ストリート……メイスンの秘書
ポール・ドレイク……私立探偵
ウイリアム・マロリー……オーストラリアから来た主教
レンウォルド・C・ブラウンリー……銀行家
ジャニス・ブラウンリー……レンウォルドの孫
フィリップ・ブラウンリー……ジャニス・ブラウンリーの従兄
ジャニス・シートン……看護婦
ジュリア・ブラナー……ジャニス・ブラウンリーの母
ステラ・ケンウッド……ジュリアの友人。同居者
ゴードン・ビクスラー……兇行現場に居合わせたヨットマン
ヴィクター・ストックトン……探偵
ピーター・サックス……ストックトンの仲間
ハミルトン・バーガー……地方検事
ジョージ・シューメイカー……検事補
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メイスン法律事務所の所長室の入口まで来て、入ろうか入るまいかとためらうように足をとめた人物に、ペリイ・メイスンの視線がきびしく向けられた。
「どうぞ、主教《ビショップ》さん」メイスンが言った。
黒ラシャのだぶだぶな牧師服を着た、ズングリした体格のその人は、軽く会釈をして、メイスンの指さす椅子の方へ進んだ。幅の広いカラーの白さが目立って、日焼けのした顔に灰色の涼しい眼が光っている。頑丈な短い二本の脚が、だいぶ履きふるされた黒靴で、元気よく進んで来たが、それを見ていたメイスンは、この人なら、そのいかつい胴体を電気椅子へ向って運ぶときにも、この脚で、同じシッカリした足どりで歩くだろう、と思った。
主教《ビショップ》は腰をおろして、弁護士と向き合った。
「煙草はいかがです?」ケースをさしだしながらメイスンがきいた。
主教は巻煙草のほうへ手をのばしかけたが、途中でその手をとめて言った、「さっきから一時間ほど巻煙草をすうていました。これじゃと、一本すうのに、フ、フ、二口《ふたくち》ですわい」唇がもつれると、主教は口をつぐみ、二度ほどゆっくり呼吸して、落着きをとりもどそうとする様子だった。そのあとで、ピアニストが間違えて指をすべらせたのを埋め合わせるために殊更《ことさら》つよく鍵盤を叩くように、声に力をこめて言葉をついだ。「失礼して、自分のパイプをつけさせていただきましょうかな」
「さあ、さあ、どうぞ」とメイスンは答え、客がポケットからやおら取り出した太くて短いパイプの感じが、持主の感じとそっくりだなと観察していた。
「秘書から聞きました。オーストラリアのシドニーから見えられたそうですな。お名前はウイリアム・マロリー主教さん、過失致死事件でご相談がおありだというのですな」客の話しやすいように、弁護士はテキパキと切り出した。
マロリー主教はうなずいて、ポケットから革の袋をだし、香りのいい刻み煙草を、よく磨きのかかったブライアの火皿に詰めこみ、彎曲した柄の端をガッチリ歯と歯でくわえてから、マッチをすった。その手もとをみまもるメイスンには、主教が両手でマッチの火を蓋《おお》ったのが、指のふるえを防ぐためなのか、それとも癖で機械的に風を防ぐ所作をしただけなのか、どちらだろうと考えたが判定がつかなかった。
ゆらめく光に照らされた広い額、頬骨が高いので平たい感じのする顔、一徹そうな顎の形などを、眼を細めて、メイスンはじっくりと観察した。
「うかがいましょう」彼はうながした。
マロリー主教は、五、六回、小さな煙の雲を吐いた。不安そうな椅子のなかで腰をもじもじさせるようなタイプとはちがうが、内心の落着いていないことはそのあらゆる挙動が示していた。やっと口を開いた。
「なにぶん、法律を習ったのは昔のことで、だいぶ怪しくなっとりましてな、その、控訴の時効についてお訊きしたいのです――カ、カ、過失致死罪の」
どもったのはこれが二度目で、パイプの柄はガッチリ歯と歯で締めつけられていた。その歯のあいだからパッパッと吐きだされる煙が、神経のいらだちと、うまくしゃべれないもどかしさとを語っていた。
メイスンはおもむろに答えた。「この州には出訴期限法というものがありましてね。殺人罪と公金横領罪または公文書偽造罪とを除くすべての重罪は、犯罪が行われてから三年以内に起訴されなくてはなりません」
「犯人が発見できなかったとしますと?」マロリー主教は煙草の煙の青い薄霞のなかから、灰色の眼で熱心に弁護士の顔をうかがいながら訊ねた。
「被告が州外にいる場合は、州内にいない期間は計算されません」
主教は急に視線をそらせたが、それより早くその眼にうかんだ失望の表情は包む由もなかった。
メイスンは楽々と、流暢に話しつづける――手術の前に患者の気持ちを楽にしてやろうとする医者の調子に、それは似ていた。「つまりですな、一定の年数を経ると、被告が自分の利益になるような証拠をもちだすことがむずかしくなります。検察当局がカビの生えた犯罪事件で目撃者の証言を手に入れることがむずかしいのと、ちょうど同じ理屈です。そういうわけで、さっきお話した最も重大な犯罪以外のすべての犯罪について、法律は期限をつけているのです。それは法律上の出訴期限ですが、一方、実務上の期限というものもあります。ですから、ある犯罪を、地方検事が、法規上は起訴して差し支えない場合であっても、年数がたってしまって、起訴をためらわざるを得ないということもあるんです」
しばらく沈黙がつづいた。主教は頭のなかにある考えを、どんな言葉で装わせようかと、手間どっているらしい。話を本筋へもってゆくために、メイスンは笑いながら言った。「要するにですね、主教《ビショップ》さん、依頼者が弁護士に相談するのは、いわば患者が医者にかかるのと同じことですよ。抽象的な質問で遠まわしに探りをお入れにならんで、頭のなかにあることを、そのまま話してごらんになったらどうですかな」
マロリー主教はひどく意気ごんで言いだした。「するとあなたは、その犯罪が二十二年前に行われたものだったら、被告がこの州内にいなかった場合であっても、地方検事はキ、キ、キ、起訴しないだろうと言われるんですか?」――今度は、はやくこの質問に対する答えをきこうと意気ごんでいるために、自分の発音障害をきまりわるがる様子は少しも見せなかった。メイスンは答えた。
「あなたの方では過失致死だと考えても、地方検事のほうでは殺人だと考える|かも《ヽヽ》知れませんね」
「いや、これは過失致死です。逮捕状は出たが、当人がうまく逃げたものじゃから、とうとう執行されなかったのですよ」
「どういう状況だったのです?」
「自動車を運転していて、ほかの車とぶつかりましてな。その女……いや、ソ、ソ、その人物は……酔っておったと検事側は主張したわけです」
「二十二年前ですか?」
主教はうなずいた。
「そういうケースは、二十二年前には、あまりたくさんはありませんでしたね」客の表情をみまもりながら、メイスンは言った。
「仰せのとおりじゃ」主教は答えた。「しかしこれは、この州でも辺鄙な県での出来事でしてな、そこの地方検事が、その……ひどく仕事熱心な人で……」
「というと、どういうことです?」
「つまり、法律の許す限りの専門的な手段を、一つも抜け目なく利用しようとしたわけです」
メイスンはうなずいて言った。「ひょっとしたら、主教さん、あなたが被告だったんじゃありませんか?」
主教の顔にうかんだ驚きの色は、どう考えても本ものだった。
「当時、わしはオーストラリアにいました」と彼は答えた。
「二十二年というのは――」考えつめて、細くなった眼で、メイスンは主教をみつめ、「いくら地方検事が仕事熱心でも、長すぎますなあ。そればかりじゃない、地方検事は次から次へと人が変わるんですからな。二十二年前には、その県の政治情勢も、よっぽど変わっているはずです」
主教は、政治情勢の変化などは、目下の問題と何の関係もないと思っているらしく、上の空でうなずいた。
「したがって」メイスンは言った。「いまだにその事件をあなたが気にしておられるところを見ると、仕事熱心な地方検事以上の何ものかが、事件の背後に伏在していると、考えられますね」
マロリー主教はパチッとまたたきをして、眼をまるくし、メイスンをみつめた。「や、メイスンさん、あなたは実に、キ、キ、機敏な弁護士さんじゃな」
数秒間、わざと間をおいてから、メイスンは言った。「主教さん、いかがです、あとの話をおきかせになっては?」
マロリー主教はパイプを一服してから、だしぬけに言った。「報酬は成功払いということで事件を引き受けられることがありますか?」
「ええ、あります」
「貧しい女性のために、百万長者を向うに廻して闘ってみる気がおありですか?」
メイスンは不適な色をうかべて、「依頼者のためなら、悪魔だって向うに廻しますよ」
主教は、どこから話を進めようか、そのいとぐちを探す様子で、パイプをくゆらせながら数秒間、無言で考えこんでいた。それから、パイプの温かい火皿を掌に包みこむように持って、「レンウォルド・C・ブラウンリーという男をご存じですかな?」
「話は聞いています」
「あの男のために、何か仕事をされたことが……いや、つまり、あんたはあの男の弁護士をしておられるのですかな?」
「いや」
マロリー主教は言った。「あんたにこれからご相談する事件の相手方は、レンウォルド・ブラウンリーなのです。莫大な額の金が、それにはからまっております。どれほどか、わしは知りませんがな、百万か、それより多いかも知れんのです。あんたには真正面から素手でぶつかっていただかなくてはならん。もし勝ってくだされば、大きな報酬になりましょう、まあ二、三十万ドルのな。
あらかじめ申しておくが、ブラウンリーはテ、テ、手ごわいですぞ。きっと厄介な事件になります。あんたの仕事は、これまでひどい仕打ちを受けてきた、ある婦人の権利を護ってやることじゃ。そうして、裁判に勝てるたった一つの見込みと言えば、このわしが証人として証言することしかありませんのじゃ」
メイスンの眼つきがけわしく、警戒の色をみせた。「だから、どうなんです?」
マロリー主教は首を振った。「わしを誤解なすってはいかん。わしは何も求めておるのではありませんぞ。自分としては、何ひとつ欲しくはない。ただ正義を行わせたいのです。それで、もしわしがこの事件の主要な証人になるとすれば、困ることがある。つまり、わしが事件以前から被告側と関係があって、その味方をするように見られるとすれば、わしの証言の価値を弱めはせんかということです」
「ありましょうな」メイスンはうなずいた。
主教は唇のあいだからパイプの曲った柄を抜きだし、太くて短い人差し指のさきで火皿のなかの煙草を押しかためてから、ゆっくりとうなずいて、「どうもそういう気がするのですて」
メイスンは無言で油断なく相手の言葉を待っている。
マロリー主教はまた話しだした。「それじゃから、わしはここへ来たことを誰にも知られたくないのです。むろん、そのことについて、嘘もつきたくはない。いよいよ証言台に立った折に、事件に利害関係を持っておることについて質問されたら、わしは正直に答えます、けれどもそういう質問が出なければ、われわれ関係者みんなにとって、そのほうがよかろうと思うのです。
さて、わしはあと一時間ほどしたら、電話します。そのときに、あんたに来ていただく場所を申しますが、そこで重大な関係のある人々にご紹介しましょう。その人々の話は信じかねるように聞えると思うが、真実です。これは一人の大富豪が、まことに無慈悲、不正であったという事件なのです。その会見がすめば、わしは姿をかくします」とマロリー主教は言葉をついて、「あんたがわしを探しだして、証人として法廷へ引き出すまで、決してあんたに連絡をとらんことにしなくてはなりませぬ。探しだすことについては、メイスンさん、あんたに敏腕をふるっていただくほかはないが、しかしその点では、わしはあんたをあてにしておりますぞ」
ここまではなしたことに、すっかり満足をおぼえたといった様子で、主教はひとりでうなずいた。そしていきなり椅子から立ち上がったかと思うと、例の短い切株のような脚を踏みならして出口の方へ歩いて行った。廊下へ出るドアを開き、ふりかえり、メイスンに頭をさげると、ドンと扉を閉めて行ってしまった。
奥の室で話の要点をノートにとっていた秘書のデラ・ストリートが出て来た。「あの人をどうお考えになって、先生《チーフ》?
ズボンのポケットに両手を深くつっこみ、自室の中央に、仁王立ちで、メイスンはじいっと絨毯の一点を睨みつけていた。「てんでわからん」とやがて言った。
「あれ、どんな人だとお思いになるの?」デラがまた訊いた。世事
「あれが主教《ビショップ》だとすれば、なかなか人間味があって、坊さんらしいコチコチなところは少しもない。あのズングリしたパイプにしても、そのほか全体の感じが、いかにも鷹揚《おうよう》な、世故《せこ》に長けた人らしい。相手方から反対尋問を受けたら、嘘はつきたくないが、そういう質問をさせないようにするのが、おれの役目だと言ったね、そこに注意する必要がある」
「主教だと|すれば《ヽヽヽ》って――なぜそんなことをおっしゃるの?」
ゆっくりとメイスンが答えた、「主教というものはどもらないよ」
「え?」
「主教になるには、永年《ながねん》の修行が要るよ。人なみすぐれた能力があって、しかも公衆の面前でおしゃべりをしなくてはならない。どもりの男は、弁護士になれないのと同様に、牧師にもなれないものだ。だがもし、かりにどもりで、しかも牧師になった男がいるとしても、とても主教にはなれないはずだよ」
「わかったわ、そうすると先生は……」
メイスンの顔をみつめていたデラは驚いて、目をまるくして黙ってしまった。
弁護士はゆっくりとうなずいて、「あの男は、おそろしく利口な詐欺師かも知れん。が、また一方から考えると、主教ではあるが、何かよほど強い感情的なショックを受けるような経験をしたのかも知れん。おれの法医学の知識によると、成人がどもりになる原因の一つに、急激な感情的ショックがあるんだ」
デラ・ストリートは心配そうに言った。「ねえ、所長、いまの人の話をいくらかでも真にうけて、レンウォルド・C・ブラウンリーみたいな億万長者を敵にまわすとすれば、その前にあの人が本物の主教さんか、それともインチキ師か、それを知る必要があるんじゃないかしら。本物とニセ物では大へんな違いですもの」
メイスンはうなずいて答えた。「おれもそのとおり考えていたよ。ドレイク探偵局へ電話して、ポール・ドレイクに、どんな用件があっても構わないからほうりだして、いますぐこっちへ来るように言ってくれ」
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ドレイク探偵局の主宰者ポール・ドレイクは、大きな革張りの肱掛椅子に横むきに寝そべって、椅子の片方の肱に背中をもたせかけ、もう一方の肱にぶらんと両脚をぶらさげていた。無表情にペリイ・メイスンの顔をのぞきこんでいる、どんよりした、無表情な眼は、やや出目である。顔の色は赤みがかっていて、その顔面筋肉がたるんでいるときには、口の恰好が鯉のような妙な形になり、おどけたユーモアのある顔つきになる。その風貌があまりに探偵らしくないおかげで、この男はしばしば驚くべき成功をおさめることがあった。
ペリイ・メイスンはチョッキの腋孔《わきあな》に親指をひっかけて、オフィスのなかを行きつ戻りつしながら、肩ごしに言葉を投げつけている。
「オーストラリアのシドニーから来た、ウイリアム・マロリーと自称するイギリス教会の主教が、相談に来た。無口で、野良《のら》ではたらく男のような顔をして……わかるだろう、寒風に吹かれて永年くらしたように、渋紙みたいな皮膚をしているんだ。……いつこっちへ来たのかはわからない。二十二年前に、田舎の方の県で酔っばらい運転のために起った過失致死事件について、話をききたいというのだよ」
「人相風体は?」と探偵が訊いた。
「年の頃は五十三から五十五ぐらい、身長五フィート六ないし七インチ、体重は百八十ポンド、牧師の着る丸襟のラシャ服を着て、煙草はパイプが好きで、たまには巻煙草もすう。眼は灰色、頭髪は黒っぽくて毛は濃いが、コメカミのまわりは白髪まじりで、なかなかしっかりした人物、ときどきどもることがある」
「どもる?」ドレイクが聞きとがめた。
「そうなんだ」
「というと、教会の主教で、そうしてどもるんだね?」
「然り」
「主教《ビショップ》はどもるもんじゃないよ、ペリイ」
「そこなんだ。このどもりは、たぶん何か感情的なショックを受けたために、近頃はじまったものに違いない。その感情的ショックが何からきたか、おれはそれを知りたいんだ」
「当人はそのどもりをどんなふうに思ってるのかね?」ドレイクが訊いた。「言いかえると、どもったときに、どんな態度をとったかね?」
「ちょうどゴルファーが、球の上の方を打ってドライヴをやりそこなったときとか、マシーを打ちそこなったときとかのような態度だったな」
「気に喰わんね、おれは」と探偵が言った。「おれにはイカサマのように聞えるな。主教だということが、どうしてきみにわかるんだ? ただ本人の言うとおりに受け取ってるのかい?」
「まあそうだ」メイスンはごくあっさりと肯定した。
「まあおれに調べさせて、すっかりネタを上げることだな」
「それをやってもらいたいんだよ、ポール。主教さんは、一時間以内におれに連絡するはずになってる。それからしばらくすれば、おれは莫大な金にかかわる事件をやるかやらんか、返事をしなくてはならない。もしあの主教さえまともなら、おれはうんと言いたい気持になるだろう。イカサマなら、いやと答えたいんだ」
「事件というのはなんだ?」
「これは厳重にここだけの話だぜ。この事件には、レンウォルド・C・ブラウンリーがからんでいる。だからもしどうにかなるものとすれば、まあ何十万という報酬になるかも知れんのだ」
探偵は低い口笛の音をさせた。
「もう一つ、この事件には、ずっと昔の、酔っぱらい運転のために生じた過失致死事件というのがひっかかっている」
「いつの話だ?」
「それが二十二年前なんだよ、ポール」
探偵は眉を釣りあげた。
「ところで、二十二年前には、酔っばらい運転なんぞ、ザラにはなかった。おまけに、この事件は辺鄙な県で起ったのだ。それについておれは知りたい、今すぐ知りたい。人を大勢つかって、やってくれ。オレンジ、サン・バーナーディノ、リヴァサイド、カーン、ヴェントゥラ――これだけの県を全部あたってくれ。被告は、女だと思う。だから記録をしらべて、一九一四年に女が被告になった過失致死事件があったかどうか、やってみてくれ――しかもいまだに解決のついていない事件だ。
それからきみと持約のあるオーストラリアのシドニーの探偵局へ電報して、ウイリアム・マロリー主教について、わかるだけのことを調べ上げてくれ。船客名簿をあたって、マロリー主教がいつキャリフォニアに着いたか、着いてから今まで何をしていたか、洗ってくれ。主なホテルをかたっばしから当って、マロリー主教が泊まったかどうか調べてくれ。幾人でも必要なだけの人員を使って構わないから、答を出してくれ、しかも大急ぎで。まず行動だ!」
情なさそうに溜息をついて、ドレイクが言った。「行動も行動、ひでえ行動だよ! 一週間の仕事を六十分でやれっていうんだからな」
メイスンはまるで聞いてもいなかったように、その文句には返事もせずに言葉をつづけた。
「特別に知りたいことは、あの坊さんが誰と接触しているかだ。できるだけ早くヒモをつけて、接触する人間ぜんぶを尾行してくれ」
探偵は背中をすべらせたので、尻のポケットだけが革椅子に触れるような位置になった。そのとき身体をくるりと一廻転させると、床に足が着いて、長い脚と頸筋とがまっすぐになり、いくらか前かがみな両肩もピンと張った。
「オーケー、ペリイ、やるぜ」と彼は言った。
廊下へ出るバアのところで振りかえり、探偵はメイスンに言った。「その男がインチキだってことをおれが発見したら、きみはやつに面と向ってそれをバラすかい?」
「バラさんね」ニヤリと笑ってメイスンが言った。「そのままヒモをつけて、なぜそんな芝居をやったか、裏をつきとめるよ」
「イカサマだよ、きみと一対一で金を賭けたっていいぜ」
「顔つきは正直そうだった」メイスンは主張した。
「イカサマ師はみんなそうさ。だから一杯くわされるんだ」
メイスンはそっけなく、「とにかく、本物の主教《ビショップ》が正直そうな顔をしていたからって、そうひどく怪しいとは言えないだろう。いいから早く行って、仕事にかかれよ」
ドレイクはまだ戸口を去らずに、「おれと賭けをしない気かい、ペリイ?」
いきなりメイスンは机上の法律書の一冊に手をのばした。まるでそれを投げつけるつもりのように見えたので、ドレイクはいそいでドアをピシャリと閉めた。
電話が鳴った。メイスンが受話器をとると、デラ・ストリートの声が言った。「先生、タクシーの運転手が一人、受付へ来ています。そちらへ連れてゆきますから、話を聞いてあげてください」
「タクシーの運転手だと?」
「ええ」
「いったい何の用だい?」
「お金がほしいらしいの」
「それをおれが会わなくちゃいかんというのか?」
「そうよ」
「電話で、どういう話か、説明できないか?」
「そうしない方がいいと思いますの」
「その男がきみの話す声の聞えるところにいるからか?」
「ええ、そうなの」
メイスンは言った。「よかろう、つれて来たまえ」
受話器をかけるか、かけないかに、表事務室から通じているドアが開いて、デラ・ストリートが運転手を案内して入って来た。男はしきりに恐縮しながら、なかなか強情だった。
「先生、この人が、マロリー主教さんを、ここまで乗せて来たんですって」
運転手はうなずいて、「このビルディングの前で、待っていてくれという話でした。乗り場のところにいたもんですから、お巡りが来て、追っ払われました。それで駐車場をみつけて、そこに待っていたところが、いつまでたってもお客さんが見えねえんです、メーターがどんどん上るから、わっしはエレヴェーターの番人に訊いてみました。運よくそいつがおぼえていましてね。その人ならこちらの事務所は何階だって訊ねたって言うもんですから、それでここへやって来たわけなんで。まるいカラーをしめた、ズングリした人で、五十から五十五、六の年配ですが」
メイスンは興味をおぼえたらしい声で、「その人がまだこのビルディングを出て行かないというのかい?」
「わっしはずうっと気をつけていましたが、出て来た様子がねえんです。エレヴェーター番も、その人ならおぼえてるから、たしかにまだ出て来ねえって言います。メーターは三ドル八十五になってるんですが、いったい誰がそれを払ってくれるんだか、わからねえんで困りましたよ」
「どこでそのお客を乗せたんだね?」メイスンが訊いた。
運転手は返事をしぶった。
メイスンはポケットから札束をだして、五ドル紙幣を一枚ぬき、ニヤリと笑って、「車賃を立て替える前に、それを教えてもらえば、わたしが損をしないですむと思っただけさ」
運転手は言った。「リーガル・ホテルで乗せましたよ」
「それから真っすぐ、ここへ来たのか?」
「ええ」
「急いでいたかね?」
「ええ、ずいぶん」
メイスンは紙幣を渡して、「わたしの考えでは、これ以上待っていても仕方がないと思うね」
「お巡りに叱りとばされるだけのことで、何にもなりませんや」運転手は釣銭をメイスンに差し出しながら、「それから、ひと言だけ言わせてください、ねえ大将、お前さんはえらく切れっ離れのいい人ですねえ。旦那のことは、仲間のやつらから聞いていますがね、旦那ははたらく人間をちゃんと扱ってくださる、公平な人だ。もしもわっしでできることがあったら、いつでも一肌ぬぎますからね、遠慮なく言ってくださいよ。名前はウィンターズってんです、ジャック・ウィンターズでさ」
「ありがとう、ジャック」メイスンは答えた。「ことによると、いつかお前さんが、おれの事件で陪審員になることもあるかも知れない。それはそうとして、いままで待った時間で、あんたはどうせ料金だけでなく、チップも稼ぐにきまってるんだから、釣銭はそっちへ取って置いて、葉巻でも買いなさい」
男はニコニコして出て行った。
メイスンはすぐ電話機をとってポール・ドレイクを呼び、「おい、ポール、すぐにリーガル・ホテルへ人をやってくれ。ウイリアム・マロリーの名で帳場にレジスターしてるかも知れないんだ。居どころがわかり次第に電話をたのむぜ、そしてやっこさんと接触する人間を一人のこらず尾行すること、忘れるなよ」
からだにピッタリ合ったグレイのスーツをすらりと着こなしたデラ・ストリートは能率のいい女性秘書の典型だ。一瞬の機会をとらえて、彼女は言った。「ジャクスンが、ちょっとお暇があったら、例の電車事件でお話したがってますけど」
メイスンはうなずいて、「呼んでくれ」
またたく間に、彼は書記と二人きりになって、その話を聞いた。ある身体侵害事件で、寛大な判決を受けた被告側が控訴審でどういう見解をとるかについて、ジャクスンは要領よく説明した。そのあいだもデラ・ストリートはせかせかとオフィスを出たり入ったりして、こまかい、きまりきった用件をどしどし片づけていった。一度大きな事件に熱中してしまうと、メイスンは時間を全部その方にとられてしまうので、いつもこの調子でデラはその前に他の用事を片づけるのである。
メイスンは控訴人が冒頭弁論要旨で述べると想像される見解について、その誤謬の点を書記に向って滔々《とうとう》と指摘していた、ちょうどそこヘデラ・ストリートが入って来て、「ポール・ドレイクから電話です、先生。重大な用件ですって」
メイスンがうなずいて受話器をとりあげると、例の睡くなるような口調ではなく、早口でしゃべりたてるドレイクの声が流れてきた――「ペリイ、いまリーガル・ホテルに来ているんだが、例の主教《ビショップ》のことが気になるなら、いますぐこっちへきた方がよさそうだぜ」
「すぐ行く」受話器をかけながら、もう帽子に手をのばしていた。腕時計を見ながら、「きみは残っていなくていいぜ、デラ。何か用ができたらアパートヘ電話するから。ジャクスン、きみはいま話した線にそって弁論要旨の文案をまとめてくれ、そしてファイルする前に一ぺんおれに見せてくれ」
すぐ廊下へとびだして、ビルディングの前でタクシーをつかまえた。十五分とはかからずリーガル・ホテルに着くと、ポール・ドレイクはロビイで待っていた。一緒にいる首の太い、禿頭の男が、厚ぼったく垂れた唇に短くなった葉巻をくわえ、厭な眼つきで彼を見た。
「このホテルの嘱託探偵のジム・ポーリイだ、握手してくれ」とポール・ドレイクがペリイ・メイスンに言った。
「やあ先生、今日は」とポーリイは言って、握手しながら、職業的な観察眼をはたらかせて、メイスンの顔をジロジロ見ていた。
「ポーリイとおれとは旧いつきあいでね」だまされるなよ、といわぬばかり、ゆっくり片目をつぶってみせながら、ドレイクは言った。「土地では一流の腕っこきの探偵だ。二度ばかり、おれもこの男を雇おうとしたことがあるが、金が足りなくってだめだった。頭がしっかりしていて、おれにも何度か、いい話を聞かせてくれて、成功したことがある。きみもおぼえておいていい人だよ、ペリイ。いつか何かの事件で役に立ってくれるだろうぜ」
ポーリイは葉巻を口からとって、下手に出て言った。「いやあ、わしゃ天才でも何でもねえ。ただ常識を少しはたらかすだけさ」
探偵の肩にドレイクが手をかけて、「こういう調子の男だよ、ペリイ――謙遜なんだ。ホテル泥棒のナンバーワンといわれた、イーソップス組を、この男がつかまえたとは、きみにはとても思えんだろう。例によって警察の手柄にされちまったけれども、実は本当の仕事をやったのはこの男なんだ……ところで、わかったことがあるぜ、ペリイ――いや、ジムが教えてくれたんだ。ジム、あんたから話してくれた方がいいだろう」
ホテルの探偵は太い指をもちあげて、ビショビショの葉巻を口から抜きとり、わざと声を低く、立ち聞きを恐れるようにあたりを見まわしながら、もったいをつけて話しだした――「ご承知のとおり、ウイリアム・マロリーってのが、ここに泊まってますがね、あれは妙なやつですぜ。タクシーに乗って、ここを出て、どこかへ行きましたがね、わしはほかのタクシーで、そのあとをつけたやつがいるのを、みとどけたんでさあ。普通の眼じゃ、とても気がつかなかったろうと思うが、まあそれがわしの商売だ。そういうことにかけては修業を積んでいるから、野郎が歩道の端を離れたとたんに目をつけましたよ。運転手をつかまえて、何か話しながら、マロリーが車に乗りこむところを、顎をしゃくって教えてるんだ、何を話してるか、聞くまでもありませんや。判で捺したような文句にきまってる、そこでわしは、あのマロリーという男からは、眼は離さねえことにしようと、腹をきめたんですよ、だって、あの尾行した男は、私立探偵か、Gマンか、とにかくそんな連中だろうと思うからね。
ここのホテルは、ご承知のとおり、ごく真当《まっとう》に商売していますからね、尾行がつくような渡世人には泊まってもらいたくねえ。だから、やっこさんが帰って来たら、わしが話をして、部屋をあけて貰おうと思っていたんですよ。
するてえと、帰って来た。赤髪のご婦人が一人、そのときロビイに腰をおろしていてね、それがサッと立ったかと思うと、ピカッと目にものを言わせた。男はちょっとうなずくようにして、そのままエレヴェーターの方へ行っちまった。あの歩きっぶりが、おかしいでしょう。脚が短くって、まるで高速ハンマーみたいに地面を叩くように歩くんだね。
さて、そこでわしは考えた、ロビイの女はやっこさんを待ってるんだから、五分と経たないうちに、部屋で、あの女と会うことになるだろう。ところがお客さんに向って、部屋をあけてくれろと談じこむのは、あんまり楽な仕事じゃねえ。ときによると、向うはイキリ立って、訴えるぞなんて、おどかすこともある。そんなのは大抵、口さきだけのハッタリですがね、世話のやけるのは同じこった。そこでわしは考えた、その女を部屋へ上って行かせて、そのあとで獲物をねらった方が、ずっと仕事がやりいいだろうとね――おわかりでしょうな?」
メイスンはうなずき、ドレイクは小声で、相手をなだめるような調子で言った。「この先生がスマートなことは、さっきも言ったな、ペリイ。実にスマートだ、頭のはたらきが違うよ」
ポーリイが話しつづける。「ま、そんなわけで、案の定、女は五分ばかりすると、上って行った。話をする時間を十分間やって、十分たったらドアをたたいて談判にかかってやろう、そう思った。ところが女は、せいぜい三、四分しか上にいなかったとみえて、降りて来た。エレヴェーターの中から、あわてて飛び出して、まるで火事場にでも駈けつけるようにロビイを突っ走るじゃありませんか。話しかけようと思って、わしは行きかけたが、待てよ、おれは何にもあの女に用はねえ、これからマロリーのやつとやりあわなくちゃならねえと、思い直した。とにかく女はここの客でもねえし、おまけに女に騒ぎ立てられでもすると、こっちが災難だからね。それでわしは女をやりすごした。
それで、六〇二号のマロリーの部屋へ上って行ってみると、大立廻りだ、すげえ有様なんです。椅子は二つもひっくり返ってるし、鏡はめちゃめちゃに割れてる、当のマロリーはベッドのまん中に、頭をぶんなぐられて、虫の息で倒れている。これだけの大立廻りがあれば、人が騒ぎだすはずなんだが、ちょうどそのときは一階下も空き部屋だったし、向う三軒両隣り、みんな留守だったんです。ま、とにかく、わしはとびついて、脈をみると、心臓はまだ動いている。気絶して、虫の息だが、まだ脈がちゃんとある。すぐ電話をつかんで、交換手に救急車を呼ばせた。
五分たって、救急車が来て、さっそく手当をしました」
「気がついたかね?」メイスンが訊いた。
「いいや、まるで灯が消えたようなもんです」ポーリイは答えた。「で、もちろんわしはホテルの名を出したくねえ。立廻りのことは誰も知っちゃいねえから、救急車の連中に承知をさせて、裏のエレヴェーターからこっそり裏口へはこばせたんです。ところでね、ここに妙な話がある――ちょうどその頃、救急車がまた一台やって来た。交換手は一度しか電話をかけねえというのに、しらべてみると二度電話がかかって、二度とも若い女の声だったというんだ。どうです、わかりますかい? わしにゃわからねえ――例の赤毛の女が、マロリーをねむらせておいて、それから下へおりて車を呼んだということでねえ限り、辻棲が合わねえじゃありませんか」
メイスンはうなずいた。ポーリイはビショビショの葉巻をまた口にもどし、マッチをすった。
メイスンは探偵の頭ごしにポール・ドレイクの方をチラと見て、こっそり眉をあげてみせた。
それだけで弁護士の無言の問いの意味をのみこんだドレイクは、わかったとうなずいてみせ、「探偵というものがどういう仕事をするものか、見たいだろうな、ペリイ。これからジムに行ってもらって、もう一ぺん、ざっと部屋を見てもらったら、誰の仕業か、手がかりがみつかるかも知れん。おれはきみが事件を手がけるときのやり口を知ってるから、きみがここへ駈けつけたところを見たときにすぐ気がついたよ――本ものの探偵がどんなふうに仕事をするものか、見せてくれと言いだすだろうとね」
ポーリイは二、三服、葉巻をふかしてから、卑下するように言った。「なあに、わしゃ天才でも何でもねえ。いくらかこの仕事がわかってるというだけでさあ」
「そりゃもちろん、ポーリイ君の仕事ぶりを、おれは見たいね」メイスンが言った。
「さてね」ポーリイはちょっと考えてから、「わしが誰かを部屋へ入れたら、警察はむろん好い顔をしませんよ。ホテルのお雇い探偵なぞはうしろへ引きさがらせておいて、大抵は政治家のツテでも頼りに役についた連中が入りこんで、手がかりを台なしにしちまうんだ。だが、お前さんがたが、何にも手を触れねえことだけ約束してくれれば、一緒に行ってザッと目を通してもいいね。そうすれぱ、一つや二つは手がかりをメイスンさんに教えてあげられるかも知れない」
彼はエレヴェーターに歩み寄り、まるまっちい人さし指でボタンを押した。葉巻の煙が右の眼にかかるのを避けて、頭をすこしばかり仰向けにしている。間もなく、エレヴェーターは降りて来た。ポーリイはすぐ中へ入った。メイスンはちょっとぐずぐずして、こっそりドレイクに耳打ちした。
「ポール、きみの部下はもう仕事についていたか?」
ドレイクはうなずき、探偵のあとについてエレヴェーターに入った。
「六階」とポーリイが言った。
上でとまると、ポーリイが「こっちだ」と二人に言って、長い廊下をさきに立った。ドレイクは小声でメイスンに言った。「運よく、おれんとこの男が、その女を尾行したんだが、ポーリイにはそんな気《け》ぶりも見せちゃだめだぜ」
探偵は先に立って、廊下の行きどまり近くの部屋へ二人を連れて行った。彼は合鍵を出してドアを開き、そして言った。「何にも触らないでくださいよ、きっとですぜ」
椅子が一つ逆さになり、その桟が二本、折れていた。床上《フロア》スタンドがひっくりかえり、電球が粉々になって絨毯の上に散乱し、キラキラと舗道の霜のように光っている。鏡が一つ、床に落ちて、硝子はたくさんの楔形《くさびがた》にヒビ割れ、まだ枠のなかにそのまま残っている部分もあり、床に散らばっている破片もあった。人間のからだが伸びていたことを物語るように、ベッドの白い掛け毛布の上には凹みがあった。
旅行鞄が一つ、「『モンテレー』号船室ゆき」というラベルを貼ったのが、床に置かれ、いくつかの衣類がそこからはみだしている。軽い衣類トランクは蓋が開け放してある。携帯用タイプライターが一台、逆さまに床に投げだされている。タイプライター・ケースのカヴァにも、同じく「『モンテレー』号特等室ゆき」のレッテルがあった。戸棚のドアが半分あいて、三、四着の背広服が懸っているのが見える。
メイスンの眼は一個の書類鞄の上でとまった。鋭利なナイフで錠のぐるりを切り裂かれ、蓋の革が不気味にぶらぶらしている。
「赤毛はマロリーを押しころがそうとした。その手をマロリーがとらえた。女は男をなぐり倒してから、部屋のなかをさがしまわる気になった、きっと金でも探したんでしょう」
「するとその赤毛の娘というのは、えらく乱暴なお客さんだったわけだね」メイスンは言った。
ポーリイは冷やかに笑って、部屋のがらくたの方へ手を振ってみせた。「これを見てもそうらしく思えませんかね?」
メイスンはなるほど、というふうにうなずいた。
「まっさきにしなきゃならないことは――」ポーリイはポケットから鉛筆を出しながら言った、「ここにある品物の一覧表を作ることです。あの男が意識をとりもどしたら、いろんなものが無くなってると言いだすでしょう。そうして、そのなかのある物は、ホテルの管理の仕方がわるかったために、自分が病院へ行ったあとで無くなったと言いだす恐れがあるんです……何しろ、ホテルはどんな奴が舞いこむかわからねえから、その扱いには相手がいろんな手を使ってくるのを覚悟してなきゃあね!」
「そうだろうなあ」とドレイクが言った。「ペリイ、ホテル附きの探偵ってものは、いつも前の方へ出て来ないから、大してはたらかないもののように思ってる人が多いけれども、優秀なホテル附き探偵は何でもやらなきゃならないことが、これでわかったろう」
メイスンはうなずいて言った。「ところで、おれはそろそろ出かけようと思うがね、ポール」
「まだしばらく見てゆきなさるんだと思ったが」とポーリイが言った。
「いや、わたしはちょっと、好い折だから、あんたのやりかたを見ておきたかっただけだよ」とメイスンは言った。
「これからきみは、完全な一覧表を作るんでしょう?」
「そうです」
「まさかこの部屋のこまごました品物ぜんぶについて、一覧表が作れるというわけでもないだろう」
「いいや作れますとも、おまけにそれが手早いんで、あんたがたびっくりしますぜ」
メイスンは答えた。「じゃ、そのあんたのやり方と、品物の書き出し方を見るために、表ができあがったときに見せて貰おう」
ポーリイはポケットから手帳を出して、「ようがすとも」と言った。
「じゃ、少したったら、また来ますよ。それはそれとして、どうもいろいろありがとう、あんたの仕事ぶりを見せてもらって、愉快でした。大抵の人間なら、ロビイの女には気がつかなかったろう」
ポーリイはわが意を得たようにうなずいた。「すごく気のきいた女でしたよ。ちょっと立ち止って、ほんの少し眉を動かしただけが、合図なんだからね。きっとどこかでマロリーをつかまえて、このホテルで密会する約束をしたに違いないですよ」
「なるほど」と言いながら、メイスンはドレイクの肋骨を小突いて、「じゃ行こう」
ポーリイはエレヴェーターのところまで二人を見送ってから、一覧表のつづきを仕上げるために引き返して行った。「ペリイ、おれはね、きみがあの男を相手に遊ぶつもりになるかどうか、わからなかったが、その気があったときのことを考えて、あんなふうに機会を作ったんだ。横柄な野郎だけれども、ホテルの事件を手がけるには、よく知ってるからね。少しばかりお世辞を使ってやると、とても効目があるんだ」
「おれは部屋のなかをちょっと見たかっただけさ」とメイスンは答えた。「だいたいの見当では、主教《ビショップ》はおれのオフィスまで尾行されて、それに気がついた。尾行をまこうと思ったので、運転手に待ちぼうけを喰わせて、ここへ引き揚げてきた。主教に目をつけている男どもは、尾行の男を信用して、思いがけなくホテルヘ帰って来ることはないと思ったから、荷物をひっくり返して調べる間はあると思ったんだ。主教が帰って来たので、めんくらって、立廻りになったんだ」
「するとロビイの赤毛の女はどうなる?」ドレイクが質問した。
「それをこれから調べなくちゃならない。きみの手下の連中が、うまくつかまえてくれるといいがな」
「たぶん大丈夫だよ。主教にちょっとでも関心を示した人間は誰でも尾行しろと命令して、チャーリー・ダウンズに張り番をさせておいたんだ。チャーリーから何か報告が来てるかも知れないから、オフィスヘ電話しよう」
ドレイクはロビイの電話室で数分間、話してから、ニヤニヤ笑いながら出て来た。「しめたぞ。チャーリーから、ちょうど一分前にかかったところだ。やつはいまアダムズ・ストリートにいて、あるアパートの前で見張っている。赤毛の女は、そのアパートヘ入って行ったんだ」
「オーケー、行こう」
ドレイクは自分の車を持っていたので、時を移さず雑沓の街をくぐりぬけて行った。アダムズ・ストリートの電話で聞いた番地へ来ると、彼は速力を落して、歩道寄りにパークしている一台の旧型シヴォレーのうしろまで行った。運転台からそっと降りた一人の男が、ぶらぶらと二人の方へ歩いて来た。
「何かわかったか?」ポール・ドレイクが訊いた。
背の高い、痩せ男のチャーリー・ダウンズは、下唇にぶらさがるように巻煙草をくわえていた。車内の二人からは横顔が見られるような位置に、彼は立ちどまった。そして二人のいる側の右の口の端から、ものを言った。眼だけはアパートから離さずにいる。口をきくにつれ、巻煙草がヒョコヒョコ動いた。
「赤毛の女は、主教に合図をしました。主教はすぐに合図を返して、六〇二号の自分の部屋へ上ってゆきました。少したって、女が上ってゆきました。あとはつけませんでしたが、エレヴェーターの標示器を見ていると、六階のところで止りました。一、二分すると、ひどく興奮した様子で、女が降りて来ました。ロビイを横切って、通りへ出て、ドラグ・ストアヘ入って電話をかけました。外へ出ると、タクシーをとめて、ここへ来たんです」
「尾行をまこうとするようなことはしなかったか?」とメイスンが訊いた。
「しません」
「ここではどの部屋にいるんだね?」
「右手の下段の郵便函をのぞきこみましたから、わしがその函の名前を見ておきました。ジャニス・シートンという名で、三二八号です。二つばかり、ほかの部屋のベルを鳴らしたら、返事があったので、なかへ入りました。エレヴェーターは三階で止っていました。それで引き返して、オフィスヘ電話して、指令を待っていたんです」
「よくやった」とドレイクが言った。「お前のおかげで、手がかりがつかめたらしいぞ。チャーリー、お前はここにいてくれ、女が出て来たら、追っかけろ。おれたちは上ってゆくからね」
ダウンズ探偵はうなずいて、自分の車のなかへ戻った。
ドレイクはメイスンがその車に目をつけているのを見て、「探偵はこういう車を使わなきゃだめだ。絶対に平凡だから注意をひかないし、機械はたしかだからどこへでも行ける。おまけに誰かを歩道の縁石にめり込ませたくなったって、|泥よけ《フェンダー》に傷が一つや二つ付いたって何でもない」
メイスンはニヤリと笑って、「例の娘さんは、ベルを鳴らさない方がいいだろうな、ポール」
「鳴らしちゃいかん。上ってゆくあいだに、うまく舞台装置をつくられては、まずいからな。いきなり雪崩れこむに限る。ほかの部屋のやつを鳴らそう」二つばかり、いい加減に部屋をえらんで、ベルを鳴らすと、やがてドアの掛け金のはずれる合図の音が聞えた。ドアを押し開き、ドレイクは弁護士をさきに入れてやり、二人で階段を上って行った。三二八号のドアの前で、しばらく聞き耳をすませた。何かあわただしく用事ありげな物音がしている。
「荷づくりだ」ドレイクが言った。
メイスンはうなずいて、静かに指さきで戸の板をたたいた。内側で、かぼそい、おびえたような女の声が、「どなた?」
メイスンが言った。「速達です」
「すみません、ドアの下から差しこんでちょうだいな」
「二セント料金をいただきます」
「ちょっと待ってね」声が言って、足音がドアから遠のいたが、すぐにまた引き返して来て、ドアの下から銅貨を二枚、押しだそうとしたが、うまく行かなかった。
「大丈夫だからドアをあけてください」メイスンが言った。「郵便屋ですよ。何も気にかけやしません!」掛け金がカチリと鳴り、ドアが、ほんの少し、割れ目ほど開いた。その隙間へ、メイスンは靴のつま先を押し入れた。若い女は小さな悲鳴をあげ、ドアを押し戻そうとした。わけなくドアを開けてしまって、メイスンは言った。「さわぐことはないよ、ジャニス。話がある」
ベッドの上にスーツケース、戸棚から床の中央へ引き出されたトランク、山のようにベッドに積みあげられた衣類など、じろりと見まわして、「出かけるんだね?」
「あなたがたはいったい誰です? どういうつもりでこんなふうにして入って来たんです? 速達の手紙ってどこにあるんです?」
メイスンは椅子を指さして、「ポール、腰をおろして、ゆっくりしろよ」探偵が席につくと、メイスンはベッドの縁に腰をかけた。若い女は、血走った蒼い眼で、その有様をみつめていた。髪は銅線とそっくり同じ色で、ふつうこの色の髪の女の持前でなめらかな肌をしている。すらりとして、敏捷そうな均斉のいい身体つきだが、ひどくおびえていた。
「あんたも腰をかけたらどうです」とメイスンが話しかけた。
「あなたはどなたです? こんなふうにして入って来るなんて、何のことです?」
「マロリー主教さんのことを聞きたいんですよ」
「何の話だか、あたしにはわからないわ。マロリー主教さんなんて、知りません」
「あんたはリーガル・ホテルへ行ったね」メイスンが言った。
「行きません!」無礼な、という怒りをあらわして、火のように叫んだ。
「あんたはマロリーの部屋へ上って行った。ホテルの雇い探偵がロビイにいるあんたに目をつけていて、あんたが主教さんの入って来たときに合図したのを見たんだ。ぼくたちはあんたを助けてあげられるかも知れないんだよ、だがきれいさっぱり話してくれなきゃだめだ」
「きみだってわかるだろう」ドレイクがつけ加えた。「いま自分がどんな立場にいるか。おれたちの調べたところでは、だいたい主教さんの生きているのを見た最後の人はあんただぜ」
女は握りしめた拳を歯にあてがい、指の関節が白くなるほど強く押し当てた。眼は恐怖で暗くなっていた。「生きてるって」彼女は叫んだ。「あの方、死んではいないわ!」
「きみはどう思うんだ?」ドレイクが訊いた。
だしぬけに、女は腰をおろして、泣きだした。やさしい同情の色を眼にたたえて、メイスンはポール・ドレイクに目くばせをし、首を振って、「あまりひどくやるな」と注意した。
ドレイクは性急に、「逃げねえ獲物は追っ駈けられねえというぜ。おれにまかせろ」
立ち上ると、娘の額に掌をあてがって、頭をうしろへ押し上げ、眼からハンカチを引き離した。「あんたが殺《や》ったのか?」彼は訊いた。
「ちがいます!」女は叫んだ。「はっきり言います、あたしはあの方を知りません。あたながたが何の話をしてるのかわかりません、それにあの方は死んでやしません」
メイスンが言った。「まあちょっと、おれにやらせろ、ポール。いいかね、聴きなさいよ、ジャニス、マロリー主教を見張ってる人間が幾人かあった。それがどういう人間か、なぜ見張ってるのか、それを話すつもりはないが、とにかく主教がホテルへ入って来たときには、尾行されていたんだ。あんたはロビイに坐って、主教に合図をした。主教は少し待てと手真似をして、自分の部屋へ上って行った。四分か五分、あんたは間を置いて、エレヴェーターで上って行った。それから少したって、あんたは降りて来た、ひどく興奮してね。そのあいだ、ずっとあんたはわたしの探偵に尾行されていた。みんな、一度みた人間は忘れない、熟練した連中だ。どんな嘘をついたって、とても逃げるわけにゃいかないよ。
さてそれから、主教のところを出たきみは電話をかけて、主教さんを運んでもらうように救急車をたのんだ。それであんたは苦しい立場に立たされた。わたしはその窮地から逃れるチャンスをあんたに与えようとしてるところなんだよ」
「あなたはどなたです?」
「マロリー主教の友人だよ」
「それがどうしてあたしにわかりますの?」
「まあ今のところ、わたしの言葉どおりに受け取っておきなさい」
「それだけじゃ、困るわ」
「オーケー、じゃ言うが、わたしはあんたの味方だ」
「どうしてそれがあたしにわかるんでしょう?」
「それはね、わたしは警察へ電話をかけないで、あんたとこうして話をしてるじゃないか」
「あの方、死んではいないでしょう?」彼女がきいた。
「うん、死んではいないよ」メイスンは答えた。
ドレイクが性急に顔をしかめて言った。「こんなことしてたって、どうにもならんぜ、ペリイ、この人はもう嘘をつこうとしてるじゃないか」
女はきっとして探偵の方を振り向き、「だまっててちょうだい! あんたよりこの人のほうが、ずっとどうにかなってよ」
ドレイクは相手にならずに、「ペリイ、おれはこういうタイプを知ってるよ。絶えず拍車をかけて駈け出させておかなきゃ、だめなんだ。狼狽させて、狼狽から立ち直らせなくするんだ。まともに話をしようと思うと、するりと下からすり抜けるからな」
女はこの批評を聞き流して、ペリイ・メイスンに向い、「あなたとなら、まともにお話しするわ。あたしは新聞の広告を見て行ったのよ」
「それで主教に会ったの?」
「ええ」
「どういう広告?」
娘はちょっとためらったが、やがてちょっと首をかしげて言いだした。「信用のおける、仕事のまかせられる熟練した看護婦が欲しいって、広告でしたの」
「あんたは看護婦さん?」
「ええ」
「その広告で、幾人ぐらい応募したね?」
「知りません」
「あんたはいつ、応募したの?」
「昨日です」
「主教は名前やアドレスを広告に出したかね?」
「いいえ、姓名在社なんです」
「ではその広告にあんたが応募したと。それからどうしました?」
「それから主教さんから電話がかかって、あなたの手紙が気に入ったから、会いたいって言うの」
「それはいつのこと?」
「ゆうべ、遅くでした」
「それで面会のために、今朝でかけて行ったんだね?」
「いいえ、昨夜ホテルへ行ったんです、そして雇われたんです」
「何のために雇うか、言ったの?」
「ある患者の看護をして貰いたいという話でしたの」
「きみは登録した看護婦かい?」ポール・ドレイクが口を入れた。
「そうよ」
「見せたまえ」
女はスーツケースを開き、封筒をとりだして探偵にそれを渡すと、すぐにメイスンの方へ向き直った。もうこのときは、だいぶ落ち着いて、ハキハキしてきたが、同時に前よりも用心ぶかく、警戒的になっていた。
「その広告の写しを持っていませんか?」メイスンが訊いた。
彼女の眼つきが、一瞬、動揺した。それから首を振って、「いいえ」と答えた。
「新聞は何だったの?」
「さあ、忘れましたわ。一日か二日前の、夕刊新聞でした。ひとから教えられて、その広告を見たんですの」
「で、マロリー主教はあんたを雇ったんだね?」
「ええ」
「その患者はどこが悪いか、言いましたか?」
「いえ、言いませんでした。あたし、想像したんですけど、自宅にいる精神病者か何か、そんなことだろうと思いましたの」
「なぜ荷づくりしてたんだね?」封筒を返しながら、ポール・ドレイクが訊いた。
「マロリー主教さんの話では、主教さんやその患者といっしょに、旅行に出るんだって、言いましたから」
「どこへだか、言わなかった?」
「言わないんです」
「そして、ホテルで待ち合わせようと言ったんだね?」
「ええ。そうして、ロビイでは話をしない約束だったんです。万事都合がよかったら、うなずいて合図するから、そうしたら、五分後に部屋へ上って来てくれって、お話でした」
「いったい何でそんな謎みたいなことを言ったんだ?」ドレイクが訊いた。
「あたしは知りません。向うは言わないし、あたしも訊かなかったんです。あの方は主教さんですし、間違いのない方だと思いました。それに、お給金も、たくさん下さるとかおっしゃるんです。それにまた、精神病にはときどき、そういうことがあるんです。病人あつかいされてるとか、そばで見ていられるとか思うと、すごく荒れる患者があるものですわ」
「そこで、部屋へ上って行った」メイスンが言った。「何を見ました?」
「部屋のなかがめちゃめちゃでした。主教さんは床に倒れていました。脳震盪を起していました。脈は弱かったけど、確実でしたわ。あたしは抱きあげて、ベッドに寝かせてあげましたわ。骨が折れましたわ――大変でしたのよ」
「部屋のなかに誰かいませんでしたか?」
「いいえ」
「ドアは錠がかかっていたかね、いなかったかね?」
「一インチか二インチ、あいていました」
「廊下に誰か見えなかった?」
「主教さんに会いに、上って行ったときですか?」
「そう」
「見ませんでした」
「エレヴェーターで上って行ったとき、誰か降りた人間はいなかった?」
「いません」
「主教さんの有様をみて、どうしてホテルの者に知らせなかったの?」
「その必要があるとは思わなかったんですもの。ホテルの人なんか、何にもできやしないわ。だから外へ出て、救急車を呼んだんですわ」
「そしてそれからここへ来て、逃げ支度をしていたんだね?」ドレイクが嘲るように訊いた。
「逃げ支度してたんじゃありません。荷づくりしたのは、主教さんから旅行に出ると言われたから、ホテルへ行く前にしたんです。患者さんは『モンテレー』号で航海するんだって、おっしゃったのよ」
「それでいま、あんたはどうするつもり?」
「ここにいて、主教さんから便りがあるのを待つだけですわ。べつに大した怪我じゃないと思いますの。動脈硬化さえなければ、長くても一時間か二時間で気がつくと思うわ」
メイスンは立ち上って、「オーケー、ポール、これでこの人は知ってることはみんな話してくれたと思うよ。出かけよう」
ドレイクが言った。「こうしてこの人が逃げだすのを、そのままにしておく気かい、ペリイ?」
弁護士の眼色はきびしかった。「もちろんそのつもりだ。ポール、きみの困ることはだな、いつもあんまり悪党ばかり扱いつけてるから、まともな女のひとの扱いかたを知らんということだよ」
ドレイクは溜息をついた。「負けた。じゃあ行こう」
ジャニス・シートンは、ペリイ・メイスンに近づいて、好意をこめて彼の腕を握りしめた。
「あなたは紳士ね、感謝しますわ」
二人が廊下へ出ると、ドアはピシャリと閉まった。一瞬後にはカチリと鍵をかける音がした。ドレイクはメイスンに言った。「おい、どうしてあんなに神妙にしていたんだ、ペリイ? 殺人罪で上げられそうだと思わせておけば、もっと何か聞きだせたかも知れないのに」
「あれでけっこういろんなことがわかるんだよ」メイスンが答えた。「あの女は何かやろうとしている。女を怪しませたんでは、とてもそれを聞き出せやしない。うまくおれたちの眼をくらませたと、思いこませておけば、うまくおれたちを案内してくれるんだ。二、三人、見張りをつけておけよ。きみは大急ぎでリーガル・ホテルへ引き返してくれ。あのきみの友達の探偵を、もう少しおだてて、あの娘がエレヴェーターで上って行ったあと、そして探偵が娘のあとから上ってゆく前に、階段を降りてロビイへ入って来た人物がわかったら、そいつの人相を聞き出してみてくれ」
「ほかにはないか?」
「あの娘の行くところはどこでも尾行して、それからもう一つ、おれが頼んだ情報を、できるだけ早く手に入れてくれ――あれさ、例の過失致死事件、それから主教に関係のあること、そういったことだ。もう一つ忘れないでもらいたいのは、主教の足どりを逃がさないことだ。どこの病院にいるか、いまどんな容態だか、調べてくれ」
「四対一で賭けてもいいぜ、あれはニセ者だよ」ドレイクが言った。
メイスンはニヤリと笑って、「誰が相手になるもんか――まだ早いよ。オフィスへ連絡して、いつでも動きが知らせられるようにしておいてくれ」
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午後五時。どっと流れだす勤労者の大群が、満員のエレヴェーターから吐きだされるたびに渦を巻いて、大市街のコンクリートの谿谷にあふれ、流れ出てゆく。
交通巡査の呼笛、シグナルの変る合図のベル、市電のやかましいゴングの音、邪魔された車の鳴らす耳ざわりな警笛、そして無数のモーターの発する鈍い鼓動のような響きは、それらのなかで休みなしに続いている窓を透して、それらの音響がオフィスのなかへ侵入してきていた。
秘書の席に腰をおろして、帳簿を記入していたデラ・ストリートが顔を上げると、オフィスヘ帰って来たペリイ・メイスンの笑顔がそこにあった。
「いかがでした、マロリー主教さんにお会いになって、話の要点はおわかりになりましたの?」
メイスンは首を振って、「だめだ。主教さんは、てんで面会の約束を守れるような状況にいないよ。急病で、当分は動けそうもない。デラ、今日のと昨日のと、新聞を全部、もって来てくれ。求人広告をしらべたくちゃならん」
デラはすぐに書庫に通じるドアの方へ歩きかけたが、途中で立ち止って、「あたしに話してもいいことですの、先生?」
彼はうなずいた。「ホテルまで主教の足どりをつきとめた。棍棒であの人を殴って、ねむらせちまったやつがある。それから赤毛のお転婆娘を襲ったところが、お伽噺を聴かされて、うまくはぐらかされた。もっとも、途中でちょいちょい顔色をごまかせなくて、本当のことを白状してはいたがね――咄嵯の場合、そううまく嘘はつけないからね」
「新聞で何を探しますの?」
「赤毛の話では、広告を見て、主教に連絡したというのだ。あの主教は、この市に知った人間がいないらしいから、ことによると、あの女は本当のことを言ったかも知れない。とにかく、その角度から一通り調べてみたいんだ。求人欄を見て、若い、勤めの責任のない、旅行しても差し支えない看護婦を求めてる広告を探してみてくれ……それはそうと、女の名前はジャニス・シートンだよ」
「でも、なぜマロリー主教は看護婦を求めたんでしょう?」
「いまも求めてるんだよ。ことによると、先生、こんな災難がふりかかるのを予想して、その準備をしたかったのかも知れんね。女には、患者といっしょに旅行してくれと言ったそうだ」
何をやらせてもソツのないデラ・ストリートは、活発に書庫へ入ってゆき、まもなく一抱えの新聞紙を持って戻って来た。メイスンはデスクの上をかたづけて場所をあけ、巻煙草を一本ぬきだしながら、「よし、はじめよう」と言った。
二人はいっしょに各新聞の求入広告を読んで行った。十五分すると、メイスンは顔をあげ、目をパチパチさせながら、「何かあるかい、デラ?」
ちょうどデラは首を振って、全部の広告を見終った。「だめだわ、所長」と言った。
メイスンは顔をゆがめて、わざと大げさにしかめ面をしながら言った。「ポール・ドレイクのやつが、しきりに文句を言ったっけが。おれはなるたけあの女を勝手にさせておけば、余計に事実がつかめるだろうと思った、それに、あの女が嘘をついているか、真実をしゃべっているか、おれならわかると思ってたんだから、ばかだったなあ」
「広告のことは、本当のことをしゃべってるとお思いになったの?」
「そうなんだよ。全部が全部、本当でないまでも、真相のいとぐちぐらいはつかめると思ったよ」
「どうしてそう思いになったのかしら?」
「さあね」メイスンは重い口調になって、「いったい人間が、あらかじめ頭のなかで話を組み立てるんでなしに、大急ぎで嘘の話をするときに、どういうふうになると思うかね。差し支えない限りは真実の線にそって話しながら、こっちのひとかたまりの真実と、あっちのひとかたまりの真実とをつないで辻褄を合わせるために、何か嘘をこしらえようとするのだ。だから一定の筋道にそって、安心してしゃべれるところでは、声のテンポがなめらかに進行するが、むりに辻褄を合わせようとして工夫をしてるときには、そのテンポが少し遅くなる。それでおれは、この広告の話はまともだと推定したんだ」
彼は立ち上り、チョッキの腋の下に親指をひっかけて、頭をすこし前かがみに、オフィスの床を歩きはじめた。
「ポール・ドレイクのやつは、荒っぽく扱った方がいいと言う、それが癪にさわる。女をおどかした方が、手っとり早いと言うのが、やつの考えだった。やつの方が正しかったかも知れんね。しかし赤毛の女はどういう性格か、きみも知ってるだろう。そしてこの女はなかなかしっかり者らしく思われた。おどかしたら、カンカンに怒って、ヒステリカルになるまで反抗するだろうと思ったんだ。いじめつけるよりは、親切にしてやった方が、見込みがあるに違いないような気がしたのでね」
電話が鳴った。デラ・ストリートは、まだ新聞から眼を離さずに、手さぐりに受話器をとり、「ペリイ・メイスン弁護士事務所です」と言い、すぐに弁護士に受話器を渡した。「ポール・ドレイクが出ています」
「ヘロー、ポール、何か新しいことがあるか?」
ドレイクのつまらなそうな声に一脈の興奮が感じられた。
「例の過失致死事件がわかったよ、ペリイ、少くとも、これが探している情報であってくれればいいと思うんだ。ある女とある男とが、結婚式を挙げるためにサンタ・アンナヘ出かけて行った。ロサソジェルスヘの帰り途のことだ。女の方が運転していた。いくらか酔っていた。一人の年寄りの牧場主が運転している車と衝突した。八十に近い老人なんだ。
さて、ここに妙なことがある――そのときには別に大したことにはならなかった。警察は女の名前と住所を聞いた。二、三日して、老人は死んだ。だがその女に過失致死罪容疑で逮捕状が出たのは、四ヵ月後のことだった。どうだ、ちょっと見たところ、何かありそうだろう?」
「その女は誰だ?」
「もとの名はジュリア・ブラナーだが、事件の当時はオスカー・ブラウンリー夫人だった。きみが知らないといけないから言っておくが、オスカー・ブラウンリーはレンウォルド・C・ブラウンリーの息子なんだ」
メイスンは低い口笛を吹いて、「その結婚には、何かスキャンダルめいたことでもあったのか、ポール?」
「何しろ、事件は一九一四年にさかのぼるんだから、それを忘れてはいかんよ。ブラウンリーの財産は、あらかたは株で儲けたもので、二九年の暴落の直前にうまく売り逃げて引っ込んだのだ。一九一四年にはレンウォルド・ブラウンリーはまだ不動産の売買でまごまごしていた。十二年後には百万長者になったがね」
「警察がほんとうに逮捕する気だったら、女はすぐに捕まるはずではなかったのかね?」
「そうでないんだ。女とオスカーとは親父と喧嘩して、あちこち転々としていた。一年ばかりしてから、オスカーは帰って来た。そのあいだに親父の方はかなり不動産で儲けた。例の土地分譲の波に乗ってうまく泳いで、それから株式の方へ鞍がえした。そして大儲けして、売り逃げたんだ」
「オスカーは今どこにいる? 死んだんじゃないのか?」
「そのとおり、二、三年前に死んだよ」
「娘が一人あったろう?」
「そうだ。その娘について、いくらか謎めいた節がある。レンウォルドはオスカーを溺愛していた。ところが孫娘の存在を認めるようになったのは、オスカーが死んでからなんだ。つまり、親父は伜の結婚に烈しく反対していたから、娘というものは息子の子供ではなくて、生んだ女の間違いで出来てしまったとでも考えていたらしい。二年前に、ブラウンリーは孫娘をさがしだして、自分の邸に住まわせることにした。それについてはべつに大した騒ぎはなかった。娘はあっさりとレンウォルドの邸に引っ越して来た」
メイスンは顔をしかめて考えに沈んだ。左手で受話器を耳にあて、右手の指さきでデスクの縁を軽くたたいていた。
「そうすると、現在ビヴァリー・ヒルズのレンウォルド・ブラウンリー邸で贅沢三昧で暮らしている娘の母親というのが、二十二年前にオレンジ・カウンティが発行した過失致死罪の逮捕状に対する逃亡犯人になっているというんだな?」
「そのとおりだ」とドレイクが答えた。
「いやどうも、この事件は本当に面白くなってきたぞ。主教さんの方はどうなってるね?」
「救急病院で相変らず気を失ったままだ、しかし医者は、何も心配することはないと言ってるそうだよ。いまにも意識をとりもどすかも知れん。病院では私立病院へ移そうとしている。どこの病院だか、わかったらすぐ知らせる」
「あのシートンという娘には、見張りをつけてあるかい?」
「あるとも。二人つけてある、一人はあのアパートの表側に、一人は裏側を見張ってるよ。もっとおれにやらせてくれればよかったのにな、ペリイ。ジャンジャン拍車をかけてから……」
メイスンは嬉しそうにクスクス笑いを洩らした。「きみは赤毛の女というものを知らんね、ポール。いまに心配ないことがわかるさ。ブラウンリーの方を全力をあげて洗いだしてくれ。そして何か確実なことがわかったら、すぐに知らせてくれ」
「それはそうと、主教のことが、もう少しわかったぜ。あれは『モンテレー』号で六日前に上陸して、サンフランシスコのパレス・ホテルに四日間、滞在していた。それからこの市へやって来たんだ」
「ふむ、ではサンフランシスコでわかることがあったらみつけてくれ。そのホテルヘ誰が訪ねて来たとか、そういったふうのことだ。おれはまだ一時間やそこらは、ここにいる。それからデラと二人で飯を喰いにゆくから」
メイスンは受話器をかけて、またオフィスのなかを行ったり来たりしはじめた。だが、やっと二度往復した頃に、デラ・ストリートが興奮した声で言った。「ちょっと、先生、やっばりあなたの方が正しかったわ。ここにあってよ!」
「何が?」
「広告よ」
メイスンは彼女の机に歩み寄り、片手をその肩にかけてのぞきこんだ。彼女のマニキュアした爪のさきが、一個所を指さしている。
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元ネヴァダ州リーノに存在せるチャールズ・Wおよびグレイス・シートン夫妻の娘に告ぐ。ロサンゼルス『エグザミナー』紙XYZ私書函に連絡あれ、貴女にとって大いなる利益となることをお知らせします。
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メイスンは口笛を鳴らして、「個人欄にあったのか?」
デラ・ストリートはコクリとうなずき、顔をあげてにっこり笑いながら、「やっぱり、あたしは先生以上に先生の判断を信じてるのね。広告についてのその女の話は真実だと思ったとおっしゃるから、あたしはそのことで賭けをしてもいいと思ったの。ところが『求人欄』や『事業欄』でみつからなかったから、あたしは『個人欄』を見ることにしたのよ」
メイスンが言った。「『タイムズ』にも何か出てやしないか、見ようじゃないか。これはいつの新聞だね?」
「昨日です」
メイスンは同じ日のタイムズ紙の案内広告欄を引っ張りだし、『個人欄』をいそいで見て行った。やがてまた低く口笛を鳴らして、「これをごらん、デラ」
二人はいっしょに一つの広告を読んだ。
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情報を求む――ジャニス・シートン、来る二月十九日に二十二歳となる女性について。彼女は得業着護婦にして、赤毛、眼は青色、魅力あり、体重約一一五ポンド、身長五フィート一インチ。六ヵ月前、自動車事故にて死亡せるチャールズ・W・シートンの娘なり。真実の情報を最初に提供せられる方に二十五ドルの謝礼を呈す。ロサンゼルス『タイムズ』私書函ABC
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デラ・ストリートは鋏をとって、二つの広告を切り抜いた。
メイスンはにやりと笑って、「これでポール・ドレイクに顔が立つぜ」
「そうして」とデラが彼に言った。「筋は余計こみいって来たんじゃなくって?」
メイスンは顔をしかめて、「うん――おれがこの前キャンプに行ったときに作った肉汁《グレーヴィ》みたいに煮つまってきた――ゴッテリと大きな塊みたいになって、ニッチもサッチも行かなくなりそうだ」
その顔を笑顔で見上げて笑いながら、デラが、「先生、その肉汁《グレーヴィ》のために、みんなにあやまらされたでしょう?」
「どういたしまして! おれは言ってやったよ、これはニューヨーク一流のレストランのコック長から習いたての、一番新しい料理で、ロシアふうサウザンド・アイランド・グレーヴィっていうんだって〔ピクルズ、ピーマン、シシトウガラシ、堅ゆで卵などを刻んで入れたロシアふうマヨネーズ・ソースをサウザンド・アイランド・ドレッシングという〕。 ポール・ドレイクに電話して、おれたちが晩飯を喰いにゆくと知らせてくれ。広告のことはしゃべっちゃいけないよ。自分でみつけるかどうか、見ていてやろうじゃないか。晩飯のあとで、この部屋で会おうと言ってやれ」
「あのね、先生」デラが言った。「何だか、仕事の順序が逆さになってるような気がなさらない? あの主教さん|について《ヽヽヽヽ》、ずいぶんいろんなことがわかったけれど、主教さん|のために《ヽヽヽヽ》、わかったことは沢山ないでしょう。主教さんの知りたがっていることは、やっばり過失致死事件についてなんですもの」
メイスンはなるほど、とうなずいて、「そりゃ主教さんが知りたい|と言った《ヽヽヽヽ》ことはそれさ。だがおれは、何か、すごく重大なことがありそうな臭いを、嗅ぎつけている、その臭いがだんだん強くなる。おれが気になるのは、それがあんまり強くなりすぎてることなのだ。おれは二と二を寄せてみようとした、そうしたらその答えが六になったんだよ」
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ペリイ・メイスンは、めずらしい上機嫌で、カクテルと料理とを註文した。その彼を、幾年も側にいてはたらいたデラ・ストリートだけが持っている洞察力で、彼女はカクテル・グラスを傾けながら、ズバリと言った。「得意の絶頂ってところね、先生、そうでしょう?」
生きることの喜びにあふれんばかり瞳をかがやかせて、メイスンはうなずいた。「デラ、何といっても、おれはミステリイが好きだ。日常茶飯事は嫌いだ。こまごました事務が嫌いだ。悪党どもと智慧をたたかわせる、そのスリルが好きだ。他人がおれに嘘をつく、その嘘を見破って、とっちめてやるのが好きだ。他人の話を聞いてやって、その話のどこまでが真実で、どこまでが嘘かを考えるのが好きだ。おれのほしいものは生活だ、行動だ、たえず変化する情勢だ。事実を少しずつ寄せ集めて、ジグソー・パズルみたいに、それらの事実を一つの絵図にまとめるのが好きだ」
「それで、あのどもりの主教さんは、何かあなたを一杯くわせようとしてると思っていらっしゃるの?」
メイスンは指のなかで、空らになったカクテル・グラスの足をおもちゃにしながら、「さあね、わからんね、デラ。あの主教さんは、なかなか腹の底をみせない。オフィスヘ入って来た瞬間に、おれにはそれがピンと来た、何かわからんが、自分の本当の目的について、おれに知らせずに置きたがっている、という感じを受けた。だからこそおれはあの人の腹の底を見ぬいて、あの人の本当の目的をおれに知らせてもいいと思う前に知ってしまうことに、これほど夢中になっているんだ。さあ、踊ろう」
身体を引きさらうようにして、彼はフロアヘ彼女を連れだした。幾年もいっしょに踊った一組らしい完壁なリズムで、二人は床《ゆか》をすべった。ダンスが終って、テーブルヘ帰ると、晩餐の最初のコースが二人の前に並んでいた。
「お厭でなかったら、話してちょうだい」とデラが水をむけた。
「話したいんだ」とメイスンは言った。「事実を一通りおさらいして、それがうまくまとまるかまとまらないか、考えてみたいんだ。きみの知ってる事実もあるが、知らないのもある。
最初からはじめよう。オーストラリアの主教と自称する男が、おれを訪ねて来た。興奮していて、どもりだ。どもるたびごとに、ひどくひとりで腹を立てる。なぜだろう?」
「なぜって、主教というものはどもってはいけないことを知っているからですわ。何かの感情的なショックをうけて、近頃になってそういう癖がついたので、もしオーストラリアヘ帰ってからも、どもるようだったらどうしようか、と心配してるんでしょう」
「素敵だ」メイスンは言った。「それは立派な論理的な説明だよ。出発点ですぐおれの頭に浮んだ説明もそれだった。しかし一方、その男は主教ではなくて、どこかの悪党が何かの理由でオーストラリアはシドニー市のウイリアム・マロリー主教という仮面をかぶってる、と仮定してみよう。彼は興奮すると、どもる癖がある。だからそいつは一生懸命、どもるまいとするが、どもるまいとすればするほど余計にどもる結果になる。どもりのために、偽装がばれるんじゃないかと、心配になっている――とも考えられるね」
デラはだまって、うなずく。
「さて、この主教が、ある過失致死事件について、おれと相談したがっている。関係者の名前を言わないんだが、この過失致死事件が、オスカー・ブラウンリー夫人になったジュリア・ブラナーと関係があることは、まず間違いない。オスカー・ブラウンリーはすなわちレンウォルド・C・ブラウンリーの二人の息子のうちの兄の方なんだ。
ブラウンリーのことは、話すまでもない。弟の方は六、七年前に死んだ。オスカーは妻と一緒に出奔して、誰もその行方を知ってる者はない。すると彼は帰って来た。女は帰らなかった。オレンジ・カウンティでは、まだ彼女を過失致死罪として追及している。ただしその容疑は自動車事故があってから、だいぶ後になって提起されたんだ」
「それで?」
「うむ、それで、まあかりにこう考えてみよう、レンウォルド・ブラウンリーは、息子のオスカーが親許へ帰って来る気があることを知っていて、同時にその女性が一緒に帰ろうとすることを恐れていた。してみれば何か政治的な糸を引いて、女に対する逮捕状を出させるようにするというのは、レンウォルド・ブラウンリーのやりそうな、うまいやり口ではないだろうか? そうすれば、彼女がキャリフォニアへ帰って来たとたんに過失致死罪で監獄へほうりこむことができるわけだ」
デラ・ストリートはぼんやりうなずいて、スープの皿を押しやりながら言った。「ブラウンリーのところには、二人の孫が、一緒に住んでるんじゃなかったかしら?」
「うん、そのとおりだ。フィリップ・ブラウンリー、これは死んだ次男の子供、それから名前を忘れたが、オスカーの娘にあたる女の子がいる。ところでマロリー主教は『モンテレー』号でアメリカへ来て、サンフランシスコに四、五日滞在し、土地の新聞に二、三の広告を出して……」
「ちょっと待って」とデラが口を入れた。「いま思いだしたことがあるの。主教さんは『モンテレー』号で来たとおっしゃったわね?」
「うん。なぜだい」
彼女は神経質に笑って言った。「先生、あなたは人情通ですわ。速記者とか秘書とかショップ・ガールとかが、社交記事を読むのはなぜだか、ご存じ?」
「さあ困った。なぜだね?」
彼女は肩をすくめてみせた。ちょっとの間、彼女はさびしそうな眼つきをした。
「あたしも知らないのよ、先生。あたしは生活のために働くことができないくらいなら、生きていたいとは思わないのよ、それだのにパーム・スプリングズ避寒地に誰がいるとか、ハリウッドで誰が何をしてるとか、そういう記事を読むのが好きなの、そしてあたしの知ってる女秘書は、みんな同じことをしているの」
じっと顔を寄せて彼女をみまもり、メイスンは言った。「前置は適当にとばして、肝腎のことを話してくれよ、デラ」
デラはおもむろに言い出した。「偶然、おぼえているんです、レンウォルド・C・ブラウンリーの孫娘、ジャニス・アルマ・ブラウンリーは、シドニーからサンフランシスコまで、『モンテレー』号の船客になったんです。そしてこの魅力ある若き百万長者の令嬢は、船中における杜交生活の中心になっていたとか何とか、そんな意味のことを新聞は書いていたわ。ですからね、先生、あなたは孫娘の名前さえご存じないけれども、あたしはいろんなことを教えてあげられるんですわ」
メイスンは食卓ごしに彼女の顔を穴のあくほどみつめて、「十二」と言った。
「え?」
「十二だ」と彼はくりかえした。その眼がいたずらっぼくキラキラしていた。
「ねえ、先生、いったい全体、何を言ってらっしゃるのよ?」
「少し前に、この事件では、二と二を寄せたら四にならないで、六になったと話しただろう、それが気にかかるんだと。ところが、いまおれは二と二を寄せたら十二になっちまったんだ」
「何が十二よ?」
彼は首を振って、「しばらく、そのことは考えないことにしよう。こんなにくつろいだ気分になれることは、めずらしいんだぜ、デラ。喰って、飲んで、陽気に踊ろう、それからオフィスヘ帰って、ポール・ドレイクと会議をしよう。それまでには、いまおれが追っかけてるものは、たぶん一場の蜃気楼にすぎなくなってるだろう。だがいまのところは――」声がやや憂いを帯びて、「もしも蜃気楼でなかったとすれば、いったいこれは何というどえらい事件になることだろう。これこそ一流、最高級の事件だ。豪華版だ!」
「話して、ねえ、先生」
首を振って、「本当とは思えんよ、デラ。蜃気楼だよ。話さない方がいい、その方が、ポール・ドレイクから、われわれの見当が違ってたことを証明するような情報を聞かされても、失望しないですむ」
デラは真剣にメイスンの顔を見つめて、「じゃ、その娘というのが……」
「いけない、いけない、ボスにさからってはいけない。おいで、デラ、フォックス・トロットだ。いいかね、おれたちはいま頭をやすめてるんだぜ」
メイスンは食事を急いですませることも、仕事の話をすることも、承知しなかった。デラ・ストリートは彼の気分にピッタリした。一時間以上も、二人は世の中で稀にしか得られない親密さを心ゆくまで楽しんだ。その親しみは失望も歓喜もともに頒けあって一緒にはたらき、人と人との接触ではしばしば例外ではなくてむしろ通例にさえなっている些かの偽善すらも必要としないほど、完全にお互いに理解しあっている人間どうしのあいだにしかわかない、特別な親しみであった。
デザートの皿が運び去られ、リキュールの盃に残った最後の一滴をすすり終ると、はじめてメイスンはホッと溜息をつき、デラに言った。「さあ帰って、われらの蜃気楼をもう一度、追いかけよう――結局、それが蜃気楼だということをつきとめよう」
「あなたは蜃気楼だとお思いになる?」
「その点はわからない――けれども、どうもそうではないと考えてるらしいね。ま、どっちにしてもドレイクに電話して、オフィスヘ来てもらおう」
「ねえ、先生、あたし、さっきから考えていたのよ。かりに例の女が、キャリフォニアで重罪犯として逮捕状が出たことを知って、オーストラリアヘ逃げたとするわね、そうして……」
「だまって、だまって」デラの肩をつかんでメイスンは言った。「雲のなかを跳ねまわるのはよそうや。われわれは足を地に着けていなくてはならない。きみはポール・ドレイクに、オフィスヘ来るように電話をしたまえ、おれはタクシーをつかまえるから」
デラはうなずいたが、その眼は空想にとりつかれていた。「それは勿論、あの人がほんとうの主教さんでなくて、詐欺師だったとすれば……」
メイスンは頑丈な人さし指を彼女にさしつけ、ピストルの引き金のような恰好に親指を折りまげて言った。「とまれ、とまらんと撃つぞ」
デラは笑った。「じゃ先生、鼻の頭をお化粧しなおして、そのあいだにポールを呼びますわ」と言いすてて、化粧室へ消えた。
ポール・ドレイクがペリイ・メイスンの自室のドアをたたくと、デラ・ストリートが彼を内へ入れた。
「お二人さん、ご馳走をタップリ召上ったらしいな」二人に笑いかけながら、ドレイクが言った。
メイスンはキャバレにいたときの調子に乗った朗らかさを、もうすっかり失っていた。考えぶかい顔つきになり、精神を思考に集中するときの癖で、眼をなかば閉じている。
「主教はどうしているかね、ポール?」
「主教は目下もう完全に自分の力で活動できるようになっているよ」とドレイクは答えた。「もう退院して、ホテルヘ帰った。もっとも、帽子はかぶれない。頭を繃帯でグルグル巻きにして、外から見えるのは片目と鼻の頭だけだ。最後に来た報告によると、もう坊さんらしく落ち着いた調子をとりもどしているようだ」
「それでシートンという娘はどんなふうだ?」
「まだウエスト・アダムズ・ストリートのアパートにいる。テコでも動かない。主教からの電話を待っていて、それまでは外へも出ないつもりなんだろう」
メイスンは顔をしかめて考えていたが、「どうも、それでは辻褄が合わんよ、ポール」
「なあに、辻褄の合う少数の事実の一つじゃないか。おれたちが押しかけたとき、あの娘は荷づくりをしていた。どこかへ出かける気でいたことは確かだ。主教か、それとも主教が紹介する患者と一緒に旅行するはずだということを、彼女は認めた。だから主教から具体的な指示が与えられるのを待ってるんだ。主教が入院して以来、ぜんぜん一歩も外へ出ないんだからね」
「食事にも出ないのか?」
「ゴミを棄てるために裏口のドアをあけさえもしない」
「アパートの表側と裏側に二人の男を配置したと言ったね?」
「そうだ、アパートまで女を尾行した男が表口を見張り、おれたちがあそこを出てから五分たたないうちに、もう一人の探偵が裏口の見張りに立った」
メイスンが言った。「デラが教えてくれた事実は重要らしい。ジャニス・アルマ・ブラウンリーは、『モンテレー』号でオーストラリアから帰って来た」
「ふん」ドレイクが言った。「それがどうなんだ?」
「マロリー主教も同じ船で来た。二人は二、三週間、船中で一緒だったわけだ。そうして、いいかね、どこかに思いがけない事実がひそんでるんでない限り、主教が例の過失致死事件で奔走している、当の女というのは、そのブラウンリーという娘の母親なんだ」
ドレイクは眉に皺を寄せて考えこんだ。
メイスンが言った。「デラとおれとで、さっきから玩具にしている考えが一つあるんだよ、ポール。それはばかげてるかも知れん。まだ口に出してその考えをしゃべる勇気がないくらいだ。その話をきみに聴いてもらって、きみの考えを聞きたいんだ」
「話せよ。おれは他人《ひと》の考えに穴をあけるのは大好きだ」
「例のブラナーという女がオーストラリアヘ逃亡したと仮定するんだ。オスカー・ブラウンリーがアメリカヘ帰ったあとで、赤ん坊が生れたと仮定する。当時イギリス教会の牧師だったマロリー主教が、その子供をどこかの良家に預けることを頼まれたと仮定する。そこでシートンという名の家庭にやったと仮定して、さて『モンテレー』号でアメリカヘ来るときに、同船していたある娘がジャニス・ブラウンリーと自称しているのを発見して、それが贋物であることを|知った《ヽヽヽ》と仮定する。だが主教は慎重に構えて、火蓋を切る前にガッチリした証拠を揃えたいと思った、なかでも大切なことは本物のブラウンリーの娘を探しだしたいと思った、と仮定するんだ――どうだ、いろんな事実が、この話にピッタリ合わないところがあるか?」
ドレイクはちょっと考えてから、言った。「いいや、ペリイ、そいつはおかしいぜ。第一に、それは全部、推測だ。第二に、娘がブラウンリー家へ迎え入れられるというのに、母親がそれを知らないことはありえないし、かりにその娘が贋物だったとしたら、とうの昔に大騒ぎを起してるはずじゃないか」
「しかし」とメイスンがさえぎって、「母親は州外にいて、そのことを知らずにいたのが、いまになってわかってきたと仮定したらどうだ。そうなれば実際に大騒ぎを起しに来るだろうじゃないか」
「だが母親は出て来ていない。それがきみの説に対する最良の反駁じゃないか。それにまた、容姿《きりょう》のいい娘は、生れたばかりの赤ん坊のときと、眼もくらむような大家の令嬢になって花を咲かすときでは、すっかり変ってしまうものだということも、忘れてはいけないぜ。マロリー主教は、養女にやるために預かった赤ん坊のことなんぞよりも、聖職者としての義務の方に遥かに関心を持つだろうね。……いいや、ペリイ、きみの予感は当ってないよ。しかしこういうことは考えられるよ――ここに強請《ゆすり》をたくらんだ男がいて、その下ごしらえをするのにマロリー主教というものが必要になる。そこでニセのマロリー主教を、ある騙されやすい、しかし喧嘩好きな弁護士のところへ行かせて、お涙頂戴式の家庭秘話を一席、弁じさせる。それでブラウンリー財閥に自在スパナをぶっつけて、口止め金をせしめようという魂胆さ」
「するときみは、主教は贋物だと思ってるんだな?」メイスンがきいた。
「はじめっからさ」とドレイクは答えた。「あの主教は悪党だというのがおれの考えだ。あのどもりが気に喰わんよ、ペリイ」
メイスンはちょっと考えていたが、「そうきみがハッキリ言うんなら言うが、おれも実に気に喰わんのだ」
「ふん」ドレイクはニヤリと笑って、「これでハッキリしたじゃないか」
「だからおれは、もう一度マロリー主教と話をしたい――むろん向うから連絡をとって来なければだ。いつごろホテルヘ帰ったんだね、ポール?」
「さあ、半時間ぐらい前だろう。病院ではすっかり手当をして、意識を回復したときには、頭痛と頭の繃帯のほか、どこも悪いところはなくなっていた」
「警察にはどんなふうに話したのかね?」
「ホテルヘ帰って、部屋のドアをあけたとたんに、誰かがうしろからとびだして殴りかかった。そのほかのことは何もおぼえていないと言ったそうだ」
メイスンは顔をしかめた。「それでは鏡の割れたのも、椅子の壊れたのも説明がつかんじゃないか、ポール。あの部屋のなかで、格闘があったはずだ」
ドレイクは肩をすくめてみせ、「おれが知ってるのは警察でそう話したということだけさ。第一、ペリイ、あれだけ殴られれば、大抵のことは忘れてしまうことだってありうるわけだろう」
「主教には尾行をつけてくれたんだね?」とメイスンがきいた。
「二人つけた」とドレイクは答えた。「べつべつの車で、二人に見張らせている。絶対に見失うようなことはないよ」
しばらく考えていたメイスンが言った。「どうだ、もう一度シートンという娘と話をしに行こうじゃないか、今度はデラを連れてゆこう。あれは赤毛の短気娘だが、デラが話をすれば、うちとけるかも知れないよ」
ドレイクは恨めしそうな声でそれに答えた。「|いまは《ヽヽヽ》あの娘から何も引き出せはしないぜ」
「なぜ|いまは《ヽヽヽ》というんだ?」とメイスンが訊いた。
「おれはきみの扱い方が気に喰わないよ、ペリイ。ああいうタイプの娘を、おれはよく知ってる。絶えずあわてさせておかなきゃだめなんだ。主教が殺された、当然自分に嫌疑がかかってる、というふうに思わせて話をすれば、身にふりかかる火の粉を払おうとして、本当のことをしゃべったに違いないよ」
「それにしても、いくらかは真実を語ったんだぜ」とメイスンが言った。「たとえば、広告によって主教と連絡したなんてことはね」
メイスンがデラ・ストリートに手を上げてみせると、デラは『個人欄』から切り抜いた広告を手渡した。それをメイスンが探偵に渡すと、ドレイクは顔をしかめてそれを眺め、「いったい、これはどういうつもりだ、ペリイ?」
「さっきおれが大筋を話したとおりでないとすれば、おれにはわからんよ、ポール。ところでオーストラリアからは、あれきりまだ何も来ないか?」
「来ないな。向うの連絡先へ、人相書を送るように言ってやった。それから主教の現在のアドレスを電報で知らせるように頼んだよ」
メイスンは考えて、「あのシートンという娘が、この事件の鍵を握ってると、おれはずっと考えている。あの娘のところへちょっと寄って、二つ三つ訊ねてから、例の大先生、どもり主教を訪ねよう。その頃までには、いろいろ情報が集って来るだろうからね」
ポール・ドレイクが言った。「ペリイ、きみがどうしようと、むろんおれの知ったことではないがね、この事件は結局、とりたててどうという結果にもなりそうもない、報酬も取れる見込みはないし、誰ひとり特にきみに働いてくれと頼んでる様子もないのに、いったいどうしてこんな苦労をしなきゃならないのかね?」
メイスンは肩をすくめて、答えた。「きみはこの情況の潜在的な可能性を見すごしているようだな、ポール。第一に、これは一つのミステリイであり、ミステリイに対しておれがどういう気持を持ってるか、きみは知ってるはずだ。第二に、すべての兆候が空に消えてしまわない限り、いままでにおれたちにわかっている事実は、専門的な言葉でいうところの『筋立て』というやつだ」
「何の『筋立て』だい?」ドレイクが例のどんよりした口調で訊いた。
メイスンは腕時計をみて、「おれの予想では、十二時間以内に、おれのところへ女から電話がかかる、その女はジュリア・ブラナー、あるいはオスカー・ブラウンリー夫人と名乗るはずだ」
探偵が言った。「その点はそうかも知れんな、ペリイ。そしてその女がニセモノかも知れない。ニセモノでないとすると……うむ、そうなると大仕事になるかも知れん」
メイスンは帽子をかぶって、「さあ、出かけよう」
三人はドレイクの車に乗って、ウエスト・アダムズのアバートヘ行った。くたびれた車の窓から、巻煙草の尖端の小さな光が見える。そのくらがりのなかから姿をあらわした人影が近寄ったのをみると、チャーリー・ダウンズだった。
「何もないか?」ドレイクが訊いた。
「異状ありません」探偵は笑顔で答えた。「いつまでここで見張りをつづけるんですか?」
「夜中の十二時に交代させる。それまで、しっかり見張っててくれ。おれたちはなかへ入る。おれたちが出たあとで、女は外出するかも知れない。外出したら、その行先を知りたいんだ」
エレヴェーターで三階へ上った。ドレイクが先に立って三二八号室の前へゆき、かるくドアをたたいた。返事はない。もう一度、やや音たかく叩いた。
メイスンがささやいた。「待てよ、ポール。おれに考えがある」そしてデラ・ストリートに言った、「呼んでみなさい、「あけてちょうだい、ジャニス、あたしよ」
デラ・ストリートはうなずき、ドアに口を押しあてて言った。「あけてよ、ジャニス、あたしよ」
それでもコソリともしない。メイスンは床に膝をつき、ポケットから細長い封筒を一つ出して、それをドアの下へ挿しこみ、前後に動かした。「灯がついていないぞ、ポール」と彼は言った。
「変だな!」ポール・ドレイクが言った。
しばらく、三人は無言で寄り添って、そこにたたずんでいた。やがてドレイクが言った。「下へおりて、裏側の見張りが完全にやれたかどうか、調べてくる」
「じゃ、ここで待っていよう」
エレヴェーターを使わず、ドレイクは階段を走り降りて行った。
「この建物から、出られない状況だったとしたら――」デラは思い切って想像を口に出した。
「うむ?」
「このなかにいるわけだわ」
「というと?」
「もしかすると……ね、わかるでしょう?」
「自殺したというのか?」
「ええ」
「おれにはそんなことをしそうな娘とは思えないよ、デラ。負けん気で、頑張りそうに見えた。しかしあの娘が利口で、この建物のなかの誰か友人の部屋へ行ってるということは考えられるね。その可能性は想像してもいいことだ。それとも死んだ鼠のふりをして、こっそりこの中にいるのかも知れない」
気づまりな沈黙のなかで、二人は待っていた。
一足で二つずつ階段をかけ上って来たので、苦しそうに息をはずませながら、ドレイクが戻って来た。「女は完全にこのなかに閉じこめられている。表からも裏からも出て行かなかったことは確実だ。どうしたって、このなかにいるよ。ペリイ、ことによると……」
そのさきを、彼は言葉を濁した。メイスンが言った。「うん、デラもそれを言っていたところだ。だが、どういうものか、おれにはそういうことをしそうには思えない」
ドレイクがニヤリと笑って、「それを知る方法を、おれは知ってるよ」
「弁護士として言うと、そういう方法は明らかに不法だと言いたいね」
ドレイクはポケットから革の道具袋をとりだし、なかから合鍵の束を出した。
「良心か、好奇心か、どっちだ?」と彼がきいた。
「好奇心」とメイスンが言った。
ドレイクが鍵束をためしているあいだに、メイスンはデラに言った。「きみはかかりあわない方がいい。廊下にいて、なかへ入ってはいけないよ。そうすれば、うるさい騒ぎになっても、きみには罪はないから」
ドレイクは鍵束をまわして、デラに言った。「もし誰か来たら、ドアをたたくんだ。そうしたらおれたちは内から錠をおろす。きみのノックが聞えたら、静かにしていろという合図だということにする」
「当人のそのひとが来たらどうするの?」デラ・ストリートが訊いた。
「そういうことはないだろう。出た様子はないんだから。しかし万一そうだとすれば、年頃は二十一か二十二、派手な赤銅色の髪、燃えるように光る眼、そして桃のようなキメの細かい肌をしている。見ればすぐにわかるよ。何か口実をこしらえて、どこかへ女を引っ張って行って、おれたちが外へ出るチャンスを作ってくれよ。階下で車のなかで待っている人間があって、あんたに会いたがってるとか何とか言えばいいだろう。名前を言ってはいけないよ、それが主教だというふうに思わせて、それがどういう反応を起すか、見てくれ」
「オーケー」とデラは答えた。「心配しないでよ、何とかうまくやるわ」
「あの娘はダイナマイトだよ」メイスンは警告した。「議論をしちゃいけないよ、とっちめられるとつかみ合いをしかねないから、そうされると困るんだ」
「灯をつけようか?」ドレイクがきいた。
「いいとも」メイスンが答えた。
「オーケー、さあ入ろう」
「さきにドアを閉めよう」メイスンが注意した。
二人はドアを閉めた。ドレイクが手さぐりで電燈のスイッチをさがし、カチリと音がして室内は明るくなった。
室内の有様は、昼のうち二人が見たのと同じだった。衣類はベッドの上に積みあげてあり、衣裳トランクは床の中央に開け放しになって半分ぐらい品物が詰めてある。
メイスンは低い声で言った。「何かしたとすればそれは、ここでわれわれと話をした直後のことだね。きみは浴室を見てくれ、おれは台所を見よう」
「ベッドのうしろの大戸棚も忘れるなよ」ドレイクが言った。「やれやれ、おれはちょっと見るのが気味がわるいよ、ペリイ。もしあの娘の死体を発見したら、おれたちはえらい困ったことになるぜ」
「そんなことを今さらおれに言うのか?」ペリイ・メイスンが言った。
二人はべつべつに、急いで室内を点検してから、もう一度弱気な苦笑をうかべて、ベッドのわきで落ち合った。
「おい、ペリイ」ドレイクが言った。「うまく一杯くわされたぜ。むろん、この建物のなかに友達がいて、その部屋へ行ってるかもわからんがね」
メイスンは首を振って、「もしそうだとすれば、たぶんその前に荷づくりをすませて、見張りがとけたと思ったらすぐに荷物を持ってとびだせるように準備をしているはずだ。いいや、ポール、女は、おれたちがここを出てから五分とたたないうちに、つまりきみの二人目の見張りが仕事にかからないうちに、裏口から出て行ってしまったのだよ」
ドレイクは嘆息した。「どうもきみの言うとおりらしいな、ペリイ。だがそれほどアッサリ裏をかかれたと思うと、おれは癪にさわるな。いもしないのに、あんなに厳重に見張らせたりしてさ」
メイスンは静かに、「じゃ、主教に会いに行こう。デラ、きみはオフィスヘ帰って、頑張っていてくれ、電燈はつけたまま、裏のドアは開けておいてくれ」
デラの顔に物問いたげな色が見えたので彼は言った。「おれはきみにジュリア・ブラナーからの電話を待っていて貰いたいんだ。それともオスカー・ブラウンリー夫人と名乗るか、それはどっちでもご随意だ。ブールヴァールまでおれたちと一緒に行って、あすこからタクシーを拾って帰ってくれ。おれたちはリーガル・ホテルヘ行くから」
ドレイクは二人の部下に見張りをつづけるように指令し、ジャニス・シートンが帰ったらすぐに知らせるようにと言った。それからデラ・ストリートをブールヴァールまで乗せてゆき、彼女がタクシーを拾ってオフィスヘ向ったのを見とどけてから、まっすぐリーガル・ホテルヘ向った。
ホテルで、ドレイクはロビイを見まわし、
「おれんところのやつは一人もいないぞ」
「どうしたんだろう?」メイスンが訊いた。
「きっと主教は外出したんだろう」
「どこかでシートンの娘と会ってるかな」メイスンは臆測した。
「ジム・ポーリイを探しだして、何か知ってるか、訊いてみよう。……おお、あすこにいた。ヘイ、ジム!」
ホテルの探偵は、一向に似合わないタキシードを着込んで、窮屈そうにしていたが、彼らをみると禿頭をさげて挨拶し、ニヤニヤ笑いながらこっちへやって来た。
「あのマロリーってのは、イギリス教会の主教ですよ」彼は言った。「いまはひどく頭をやられて、寝ています。しかしあいつは面白い男ですよ。なくなった物は何もないし、何も苦情を言うつもりはないから、万事内済ってことになりそうです。いまのところ、うまく妥協がつきそうです。それはそうと、少し前に出かけましたが、メイスンさんに置き手紙をしてゆきましたよ」
メイスンとドレイクは顔を見あわせた。
「わたしに手紙を?」
「ええ。デスクにあります。持って来ましょう」
「何か荷物は持って行ったのかね?」ドレイクがきいた。
「いや、ただちょっと食事に行ったんだろうと思うが」
探偵はカウンターのなかへ入り、覗き窓から一通の封書を出した。封筒の宛名は――
「弁護士ペリイ・メイスン氏へ。今夕、メイスン氏が訪問されたらお渡し下さい」
メイスンは封を切った。五ドル紙幣が一枚、ホテルの便箋にクリップでとめてあった。簡単な手紙の文面は次の通りだった――
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メイスン様。あなたの事務所を出て、間もなく尾行されていることに気づきましたので、守衛に頼んで地下室から裏露地を通って、外へ出してもらいました。後になって電話で、乗って来たタクシーを探しましたところ、あなたが料金をお払い下さったことを知りました。それでここにその分をご返済申しあげます。
あなたからいただいたご助言に関する限りでは、それは予期せざる大漁となるものとお考え下さるべく、愚生はそれが千倍の報酬となることを保証申しあげられると確信しております。
ウイリアム・マロリー
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メイスンは嘆息し、五ドル紙幣をクリップからはずして、チョッキのポケットにおさめた。
「主教さんは、いつ帰るとも言わなかったんでしょうか?」メイスンがきいた。
ジム・ポーリイは頭を振って、それから言った。「とても好い人ですね、あの主教は。何ひとつ恨めしそうな顔もしませんよ。頭に大きな傷をしましてね。帽子もかぶれないんですよ。まるでターバンみたいに、ぐるぐる巻きに繃帯をしています」
メイスンはドレイクにうなずいて、意味ありげに言った。
「ポール、きみのオフィスに電話をかけてみないか」
ドレイクは電話室に入って行って、しばらく何か話していた。それから電話室のドアをあけて、メイスンを手招きした。「報告が入っている」電話室のくらがりから頭を出さず、低い単調な声で言った。「主教のあとをつけて、ロサンゼルス港の一五七―一五八棧橋まで行った。途中で一軒の質屋に寄って、スーツケース二つと何か衣類を買った。そこからずっと埠頭へ行った。主教は『モンテレー』号の架板を上って行って、それきり戻って来ない。『モンテレー』は今夜出帆して、ホノルルとパゴ・パゴ経由でオーストラリアヘ出かけてしまった。うちの連中はスピード・ランチで防波堤の向うまで汽船を追って、主教が下船しなかったことを確かめた。きみの友達は、きれいに逃げ出しちまったらしいぜ。気をつけろよ、ペリイ。あいつは贋物だよ」
メイスンは肩をすくめて、「おれに電話をかけさせてくれ、ポール」
電話に出たデラ・ストリートの声は興奮していた。
「ヘロー、先生《チーフ》。あなたの勝ちよ」
「何だ?」
「ジュリア・ブラナーがいまオフィスに来て、あなたを待ってるの。すぐお会いしたいって言ってるわ」
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ジュリア・ブラナーは、頭髪の燃えるような赤銅色にふさわしい赤褐色の眼で、ペリイ・メイスンをみつめた。顎の下の一本の筋と、微笑するときに出来る鼻から唇の隅への二本の線上を除けば、その顔はまだ三十前と言っても通りそうだった。
「依頼者の方にお目にかかる時刻としては、遅すぎますな」とメイスンが言った。
「ちょっとお寄りしてみたんですの。オフィスに灯がともっていたものですから、うかがってみました。秘書の方が、会ってくださるかも知れないとおっしゃいましたので」
「この市にお住まいですか?」
「ウエスト・ピーチウッド二一四―A号のあるお友達のところに泊まっております。そのひとと一緒にアパートを借りることになっていますの」
「結婚しておいでですか、それとも独身ですか?」メイスンが何げない調子で訊ねた。
「ミス・ブラナーという名で通しています」
「はたらいていますか?」
「いまは仕事がありませんけれど、ついこのあいだまでは、はたらいておりました。少しはお金もあります」
「この市ではたらいておられたんですか?」
「いえ、ここではございません」
「どこです?」
「どこでも、同じじゃございませんかしら?」
「いや、違ってきます」メイスンは答えた。
「ソルトレイクシティですわ」
「そして、これからはこの土地で、ほかの女のひとと一緒にアパートに住むつもりだと言われるんですね?」
「はあ」
「よほど前からのお知り合いですか?」
「ええ、ソルトレイクシティでの知り合いで、もう何年もつきあっていますの。ソルトレイクでも同じ部屋に住んでおりました」
「電話は?」
「ええ、ございます、グラドストーンの八七一九ですわ」
「あなたのご職業は?」
「看護婦ですの……でも、メイスン先生、こういうどうでもいいことを、いちいちみんなお話する前に、あたしがおうかがいした事情をお話した方がいいんじゃないでしょうか?」
メイスンはおもむろに頭を振って、「わたしは一通りの概念をつくりあげるのが好きなのです。どういうわけで、わたしに相談に来られたんです?」
「たいへん敏腕な弁護士さんだとうかがっておりましたから」
「それでソルトレイクシティからわたしに会いに来られたんですか?」
「さあ、そうばかりでもないんですけれど」
「汽車でおいででしたか?」
「いえ、飛行機で」
「いつ?」
「つい近頃ですの」
「正確にこちらへ見えた日を言ってください」
「今朝の十時――もしそれが必要でしたら」
「あなたにわたしを推薦したのは誰ですか?」
「オーストラリアから見えた知人の男の方ですの」
メイスンは無言で、あとをうながすように眉をあげてみせた。
「マロリー主教さんです。あたしがおつきあいした頃は主教ではありませんでしたけれど、いまは主教におなりになっています」
「そしてあの方が、あなたにここへ来るように勧めたんですか?」
「ええ」
「じゃ、この市へ着いてから、主教さんに会ったんですね?」
彼女はちょっとためらってから、「それは、お話しなくても、同じではないでしょうか、メイスンさん」
メイスンは微笑して、「なるほど、おっしゃるとおりでしょう、殊にわたしはこの事件をお列き受けすることはできそうもないように思われますからね。ご承知のとおり、わたしは重要な用事をたくさんかかえて、ひどく忙しいので……」
「あら、でも引き受けてくださらなければいけませんわ……そんなことって、どうしても困りますわ」
「マロリー主教さんに、いつ会いました?」メイスンが訊いた。
女は溜息をついて、答えた。「二、三時間前ですの」
「しかし朝からこの土地にいたんでしょう?」
「はあ」
「なぜオフィス・アワーのうちに来られなかったんです?」
彼女は不安そうにもじもじした。赤みがかった鳶色の眼に、一瞬、恨めしそうな色がうかんだ。それから、深い息を一つして、おずおずと言いだした。「おうかがいするように勧めてくださったのはマロリー主教さんでございます。でも、つい先ほどまで、あたしは主教さんにお会いできませんでした。怪我をなさって、病院にいらしったので」
「そしてわたしのところへゆけと勧めたんですね?」
「ええ、そうです」
「わたしあての手紙を、あなたに渡しませんでしたか?」
「いいえ」
「そうだとすると」メイスンはわざと咎めるような調子を装って言った。「あなたは、実際にマロリー主教の知人であるということも、実際に主教に会ってここへ来るように勧められたことも、何ひとつ証拠をお見せになれないわけですな」
女はその眼色にうかんだ恨めしさを強いて押し隠そうとしながら、首をふった。メイスンは言った。「こういう有様では、あなたの問題に興味をもつことは、わたしにはとても不可能なことが明らかです」
彼女は一瞬、われとわが心と争っている様子だったが、急に膝の上に置いていた黒のハンドハッグをパチンと開いた。
「これをお目にかければそのご返事になると思いますわ」
言いながら、彼女の手袋をはめた指が、袋のなかを掻き探した。その黒いバッグのなかに沈められている自動拳銃の青みがかった鋼鉄の銃身が光っているのを見ると、メイスンの眼は急に興味にかがやきだした。その詮索の眼つきを嗅ぎつけたかのように、女は半身をねじって、メイスンの視線とバッグとのあいだを肩でさえぎるようにした。それから、彼女は一通の黄いろい封骨をとりだし、そのなかからウェスタン・ユニオンの電報送達紙をとりだして、注意ぶかくバッグを閉じてからその電報をメイスンに手渡した。電報はサンフランシスコから送られたもので、宛名はユタ州ソルトレイクシティ精神病院気付、ジュリア・ブラナー、そして内容は簡単で――
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四ヒゴゴ ろさんじえるす りーがる・ほてるニテアイタシ シヨルイゼンブオモチヲコウ――ういりあむ・まろりい
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その電報をみて顔をしかめて考えていたメイスンは、言った。「今日の午後、マロリー主教には会われなかったんでしょう?」
「ええ、いまお話したように、お怪我をなすったものですから」
「夜になって、二、三時間前に会ったんですか?」
「ええ」
「これからの計画について、何か言っていましたか?」
「いいえ」
「何と言いましたか?」
「メイスン先生にお会いして、何もかも、すっかりお話するようにおっしゃいましたの」
メイスンは廻転椅子にもたれて、「話してください」
「レンウォルド・C・ブラウンリーについて、ご存じでしょうか?」女は訊いた。
「話は聞いています」あっさりメイスンは答えた。
「オスカー・ブラウンリーという者についてご存じでしたでしょうか?」
「話には聞きました」
「あたしはオスカー・ブラウンリーの妻でございます!」
そう宣言して、芝居のようにそこで黙ってしまった。メイスンはデスクの上のケースから巻煙草を一本とり、そして言った。「そうして、オレンジ・カウンティから出た過失致死罪による昔の重罪逮捕状の下で、逃亡犯人となっているんですね」
だしぬけにミゾオチに一撃をくらったように、彼女は呆然と口をあいた。
「ど、どうして……それを知っていらっしゃるんです? 主教さんはそれを言わなかったはずですのに!」
メイスンは肩をすくめて言った。「わたしはただ、あなたが事実を偽ってわたしにお話になってもむだだということがわかるように、それを言っただけですよ。これから話を聞かせてくださるんなら、すっかり話してください」
彼女は深い息をついて、堰を切ったようにしゃべりだした。その話は、セリフのように棒暗記しているか、さもなければ長いあいだ虐げられた恨みをくりかえしくりかえし考えつめていた結果であろうと思われるほど、すらすらと口をついて流れでて来た。
「二十二年前でした」と彼女は話しだした。「あたしは無鉄砲でした――とても無鉄砲でした。レンウォルド・ブラウンリーは不動産の売買をやっていて、大してお金を持ってはいませんでした。オスカーのことは、目に入れても痛くないほど可愛がっていましたけれど、オスカーは盛り場を遊びあるくのが好きでした。あたしは看護婦でした。あるパーティでオスカーに会いました。オスカーはあたしと恋に落ちて、あたしたちは結婚しました。若い者にありがちの、熱病みたいな情事だったのですわ。
あたしたちが相談しなかったというので、オスカーの父親はひどく怒りました。けれども、あの自動車事故さえなかったら、万事はうまく行ったと思います。ひどい出来事でした。少しは二人ともお酒をのみましたけれど、あたしは酔ってはいませんでした。一人のお爺さんが、まるで運転なんぞするのが間違ってるくらい下手な仕方で、逆の方から角を曲って来ました。あたしは急いで左へよけました。むこうが左側にそのままいてくれれば、何事も起らなかったんでしょう、ところがあわてたと見えて、右の方へ車を動かしたんです。ですから事故が起ったときには、あたしの方が全然わるい側にいたような形になってしまいましたの。
あたしは酔ってはいませんでしたけれど、お酒は飲んでいました。オスカーはかなり酔っていました。だからあたしが運転をしていたんですの。
あの頃のオレンジ・カウンティがどんなふうだったか、ご存じでしょうね。一時間三十マイルの速力で走っただけで、監獄へ入れられましたのよ。オスカーが父親の方から手をまわしましたので、あたしたちはうまく逃げられました。そのときあたしたちはハネムーンの途中だったんです。そうして、オーストラリアヘ行きました。
あたしがペテンにかかったのはそれからのことで、あたしはちっとも知らなかったんです。オスカーは事件をもみ消して、お金でカタをつけるように、父親にたのんだんですけれど、父親はその正反対のことをしたんですの。ちょうどその頃、ブラウンリーはお金が――大きなお金が出来はじめていました。オスカーは可愛くて仕様がありません。息子が、でたらめな、行儀のわるい、結婚しようと結婚しまいとどんな男にでも身をまかせる女にひっかかってしまった、と考えました。あたしたちは外国にいました。あたしは働こうと思えば時間はたっぷりありました。オスカーの方は何ひとつ仕事がありません。そこで父親は、政治的な勢力を利用して、事件をもみ消すかわりに、あたしに対する過失致死罪の逮捕状を出させて、この土地へ帰って来られないようにしてしまいました。そうしておいて、あたしに秘密でオスカーと連絡をとりました。
その当時、あたしはそれをちっとも知りませんでした。ある日うちへ帰ってみると、オスカーはいなくなっていました。父親が電信でお金を送って、帰国させましたの。それから四、五ヵ月は、はたらいていましたけれど、子供が生れるのではたらけなくなりました。オスカーは子供が生れることさえ知りませんでしたし、あたしは決して知らせまいと心に誓いました。あたしはあの人を憎み、あの人の家族を憎み、あの人たちが代表する階級ぜんぶを憎みました。その当時あたしはレンウォルド・ブラウンリーがどのくらいのお金持になっていたか知りませんでした。かりに知ったとしても同じことだったと思います。あたしは自分の二本の脚で立ってゆこうと決心しました。……けれども子供をそばに置くことはできませんでしたし、オスカーには決して子供を頼む気になりませんでした。
マロリー主教さんは教区牧師でした――イギリス教会の――そしてあたしのお目にかかった誰よりも人情のある牧師さまでした。世間の牧師さんのような、独りよがりの、自分だけ正しいという態度が、ちっともありませんでした。人々を助けたいという気持をいつもお持ちでした――だからあたしを助けてくださいました。わけを打ち明けて、あたしはご相談しました。するとある日、ジャニスを引き受けてくれる、とてもいい家庭があると知らせてくださいました。格別お金持というわけではないけれども不足のない生活をしていて、ジャニスに教育を授けてやれるというお話ですの。けれども先方の家では、ジャニスが誰に養われているかを絶対にあたしに知られたくないし、あたしがジャニスのあとを追ってくれては困るというのでした。マロリー主教さんは、ジャニスのことについて何もあたしに言わない、居どころも教えないと、あらゆる神聖なものにかけて誓わなくてはならなかったそうですの」
「その誓いを、主教さんは守ったんですか?」メイスンが訊いた。
「完全に」ジュリア・ブラナーは答えた。その眼には涙があった。「若いときには、衝動的ですわ。あとになって、悔やむことがあるのを考えないで、何かやってしまいますわね。あたしは衝動で結婚しました、そして衝動で、自分の娘についてのあらゆる権利を投げだしてしまいました。二つとも、後悔しています……」唇がふるえた。はげしく眼をしばたたきながら、彼女は言った、「後悔しているという点では、どちらもまったく同じことですわ」
彼女ははげしく首を振って、語りつづけた。「メイスン先生、あたし、めそめそ泣きはしませんから、ご心配なさらないで。いままでずっと、自分ひとりの力で世を渡って来たんですもの。いろいろの場合に、たいていの世間の仕来りを踏みにじって生きて来ましたし、その報いも受けました。でも泣き言を言ったことはありませんし、これからだって言いませんわ」
「さあ、そのさきを話してください」メイスンが言った。
「何年かたって、あたしはアメリカヘ帰って来ました。レンウォルド・ブラウンリーが大金持になっていることを知りました。オスカーはレンウォルドの言いなりになって、くれるというもののほかは何も貰っていないようでした。でもオスカーはあたしに対して、何とかするのが当り前だと、あたしは思いました。あたしは連絡をとりました。そっけない返事をよこしました。先方では、あたしを重罪の逃亡犯人だとしか考えていないんですわ。父親の態度はひどいものでした。もしあたしがキャリフォニアヘ帰ったら、あの過失致死罪であたしは裁判にかけられるんです……ああ、やっとわけがのみこめました、それはいいんです、でもあたしに何ができるでしょう? あたしは賃金で労働している看護婦です。オスカーはどんな理由でもつけて離婚をするでしょう。レンウォルド・ブラウンリーは百万長者です。あたしには例の逮捕状があります。何もあたしは特別にキャリフォルニアヘ来たくはありません。オスカーと撚りを戻そうとも思いません。ただ何とか話しあいはつけてもいいとは思いましたけれど、あたしは手を縛られていました。あたしに対する容疑は、ただ酔っぱらい運転だけのことではなく、過失致死の容疑でした。そしてレンウォルド・ブラウンリーのお金と政治的背景とを敵に廻したのでは、あたしは刑務所に入れられて、市民権を失って、看護婦の資格も失って、暮らしを立ててゆくこともできなくなるにきまっています……とにかく、そんなふうに、あたしは感じました。誰にも秘密を打ち明ける勇気がなかったものですから、弁護士にご相談しようという考えも浮びませんでしたの」
「それから、どうしました」メイスンの調子は熱を帯びてきた。
「たった一つ、あたしの望みは、あたしの娘に、当然の権利としてあの子のものになるはずのものを得させてやることでした。それでオーストラリアヘ手紙を出しました。そのときにはウイリアム・マロリー牧師は主教になっていらっしゃいましたけれど、あたしを助けることはできませんでした。あたしがあの方にしたお約束、あの方がジャニスの養い親とした約束を思いだしてくれ、とマロリーさんはおっしゃるのです。娘は、娘にとって仕合せな人々に養われている。その人々を実の父とも母ともジャニは思っている。親たちも娘を愛して、実の親でないことを知られるくらいなら死んでしまった方がいいくらいに思っている。財産はそうたくさんではないけれども、たいへんに確実に安定している、というのでした。また娘は、生れつき看護に適した能力があって、ほかの何よりも看護婦になりたがっているということもわかりました。その頃は病院に入って、研究していました。自分では保姆になるように勉強したいと思っているし、勉強するだろうということでした。そうして真面目にその資格をとりました。メイスン先生、あたしは娘を探すために、どんなことでも厭いませんでした。約束はしました、けれど、母親が自分の娘を探そうとする気になったら、約束なんか、何でしょう。あたしは稼いだお金を一文のこらず使って、探偵をやといました。でもみつからないのです。マロリー主教さんはとてもスマートなんですもの。娘の足どりを上手に隠してしまって、決して口をすべらせなかったんです。すると、そこヘマロリー主教からこの電報が来ました。きっと今度こそ、みんな話してくださるのだと、あたしは思いました。娘ももう成年になりました。知らせてならない理由はもうない、それに養家のご両親もきっとなくなられたのだと思うのです、けれども主教さんは何も話してくださいません。ただ、あなたに会うようにとおっしゃるだけです。でも、あたしにもわかったことはあります、オスカーが死んだあとで、レンウォルドはどこかに孫娘がいることを知って、探偵をやとって探していました。そしてジャニスという名の娘を引きとって一緒に暮らしています……でも――マロリー主教さんのお話では、その若い女は本当のジャニスではないそうですの。イカサマなんですの」
一息ついて、燃えるような挑戦的なまなざしで弁護士をみつめた。
「わたしに、何をしろと言われますか?」メイスンが訊いた。
「あたしは何も望みません、ただそのニセ令嬢の仮面をひんむいてやっていただきたいんです。娘を探しだして、ブラウンリー家の者として認められるようにしていただきたいのです」
「そんなことをしても何にもならないかも知れませんよ」メイスンは言った。「レンウォルドはジャニスを相続権から除外する遺言をつくることができます。孫はほかにもう一人いるんでしたね――孫息子が?」
「ええ――フィリップ・ブラウンリーですの。でもとにかくあたしは、レンウォルドがジャニスの相続権を奪う気はないように思いますのよ。あの子のために、何かしてくれる気はあると思うんですの」
「では、それでみんなですね?」メイスンが訊いた。
「ええ、みんなですわ」
「ご自分は何も望みはないんですか?」
「一セントだって……でも、たまにはグチをこぼしに行っていいんじゃないでしょうか? それができれば、少しは気が楽になれますわ。あたしは世間からこづきまわされてきて、泣き言を言うか、あくたれを言うかしなければ、たまらないということがわかりましたの。どっちかといえば、あくたれを言う方があたしは好きですわ」
メイスンはゆっくりと、そういう彼女を観察していたが、急に、「ジュリア、あなたはなぜ拳銃なんか持って歩くの?」
女は本能的に膝の上のバッグをつかみ、メイスンから遠い方へそれを持って行った。メイスンは彼女から眼を離さずに、「わけを聞かせなさい」と言った。
しばらくためらって、彼女は言った。「あたしは夜の夜中でも、病院とのあいだを往復しなくてはなりませんでした。看護婦で災難に遭ったひとも、ちょいちょいありますわ。あたしが拳銃を持って歩くことは、警察もその方がいいと言ったくらいですの」
「許可証は持っていますか?」
「ええ、もちろん持っていますわ」
「いまはなぜ持ってるんです?」
「わかりません。買ってからは、ずーっといつも持ち歩いて来ましたの。ちょうど口紅を持ち歩くように、第二の天性みたいになってるんですわ。そのほかには決して何のわけもありませんのよ、先生」
「もし許可証をもらっているなら、その番号は警察に登録してあるということになる。そのことは知ってるんでしょうね?」
「え、もちろん知っています」
「マロリー主教が急に、人々の予期に反して、荷物までリーガル・ホテルに置き去りにしたままで、『モンテリイ』号で発ってしまったことを、あなたは知っていましたか?」
女は、ぐっと口許に深い線を刻んで唇を噛みしめ、答えた。「マロリー主教さんのことは、お話したくありません。結局、あたしとしては、問題は娘のことだけなんですから」
「それで、いつからわたしに仕事をして欲しいと思いますか?」メイスンが訊いた。
彼女は立ち上って、「いますぐ、お願いしますわ。あの無情な悪魔が降参して、助けてくれと言って泣きわめくまで、やっつけていただきたいわ。あいつこそ、過失致死罪の逮捕状を出させた人間だったこと、あたしを州の外に追っぱらって、あたしの結婚生活を破滅させ、娘との仲を裂いた人間だったことを、証明していただきたいわ。あたしは一セントも欲しくありません、ただあいつを降参させてやりたいんです。あの悪魔に、お金の力では、あいつが望むように正義からまぬがれることはできないことを、思い知らせてやりたいんです」
いまは彼女の眼には涙はなかった。ただ口許が痙攣していた。燃えるような眼で弁護士をみつめていた。
ペリイ・メイスンは数秒間、その彼女のすがたを眺めていて、やがて卓上電話をとってデラ・ストリートに言った。「レンウォルド・C・ブラウンリーに電話をかけてくれ」
[#改ページ]
深夜の雨が、鞭のような南風に乗って、ビヴァリー・ヒルズにあるレンウォルド・C・ブラウンリー邸の植えこみの葉に降りかかっていた。メイスンの自動車はドライヴウェイを大きく旋回しながら、ヘッドライトでその濡れ光る緑の繁みを照らしだした。
車寄せの屋根の下で、弁護士は車をとめた。その夜の天気のように機嫌のわるい顔つきをしたバトラーが、ドアをあけて言った。「メイスンさまで?」
弁護士はうなずいた。
「どうぞこちらへ」とバトラーは言った。「ブラウンリーさまはお待ちかねでございます」レインコートも帽子も、メイスンに脱がせようとはしなかった。
ホールを抜けて、暗色の壁板を張った大きな書斎へ通された。やや暗くした燈火が、書棚の書物、深い椅子、広々とした壁の入込み、かけ心地のよさそうな窓際の座席などを照らしていた。
どっしりしたマホガニイの卓の前に腰をおろしている男は、伝説の異端審問官を想いださせるほど厳酷にみえる。頭髪は真白で、眉毛などは見えないほど白いので、それが禿鷹のような特異な感じをその頭部に与え、冷たい、詮索的な態度をいっそうあからさまに感じさせる。「ふむ、あんたがペリイ・メイスンか」と言う声には、いささかの歓迎の調子も含まれていなかった。興味のある品物をはじめて手にとって調べるときのような調子だ。
メイスンはレインコートから雨滴を振り落しながら、それを脱ぎ、あるじの勧めを待たずに椅子の背にそれをかけた。ガッチリ肩を張り、軽く両脚をひらいて立った彼は、やわらかなシェードをかけた書斎の燈火に花崗岩のような瞼しい横顔と、忍耐づよい鞏固な眼光とを照らさせながら、口を切った。「さよう、メイスンだ、あんたがブラウンリーだね」その声に、彼は相手の老人の声の調子とそっくり同じの同情のない調子を帯びさせるように工夫した。
「かけたまえ」ブラウンリーは言った。「ある意味で、わしはきみの来てくれたことを喜んでいるよ、メイスン君」
「ありがとう。腰をかけるのは、もう少し後にしましょう。いまは立ってる方がいい。なぜわたしの来たのを喜ぶんですか?」
「ジャニスのことで話したいと言ったね?」
「そうです」
「メイスン君、あんたは非常に機敏な弁護士だ」
「ありがとう」
「ありがたがらなくてもいい。お世辞を言うとるのではないからな。やむを得ず認めるんじゃ。目下の事情から言えば、むしろ厭々ながら認めると言ってもいい。きみの活躍ぶりは、ずっと新聞で読んで、おどろきの念を禁じえないでいるがね。同時に好奇の念もわかした。それできみに興味を感じ、きみに会いたくなったことを認めるつもりだ。実をいえば、ある件について、きみに相談しようかと思うたほどじゃ、しかし、さあ、何というか、経済上重要な要件をだね、頭脳の敏捷さを強みとする弁護士にまかせるというのは気が進まんものじゃ、やはり欲しいものは……」
「責任感ですか?」メイスンはブラウンリーのためらうのをからかうように訊いた。
「いや、わしの言おうとしたのはちがう、しかし、あんたの特技は、人目をおどかすような、劇的な方面にある。もっと年をとると、メイスン君、あんたもきっとわかるじゃろうが、大きな資本を動かしとる人聞は、人目につくような、劇的な事件では尻ごみをしがちなものだよ」
「言いかえると、わたしに相談しなかったということですな」
「そうじゃ」
「そこで、あなたがわたしに仕事をさせる気がないときめられた以上は、わたしの側では、あなたの反対側に廻る人間のために仕事をする完全な自由を持つわけです」
その莫大な富、経済力を示す周囲の品々で城砦のようにとりまかれたマホガニイのテーブルの前に坐っている男の唇が、物すごい微笑をうかべて歪んだ。
「うまい応酬じゃ」と彼は言った。「わしの批評を逆手にとって、わしに矛さきを向けるという手練は、さすがに聞きしに優る手腕だな」
メイスンは言った。「わたしがここへ来た理由は、あらまし電話で説明しましたね。あなたのお孫娘さんのことです。ブラウンリーさん、あなたがどう思われようと構わんけれども、わたしという男は、わたしを金でやとった人間のために喧嘩の用心棒をつとめる、ただの雇い侍ではありませんぞ。わたしは闘士です、自分では闘う力のない人々のために闘っているという気持になりたい、それかといって無分別な仕事はしません。正義を助けるために闘うのです」
「するとメイスン君、あんたは不正を正すことのみを求めていると、わしに信じろと言われるか?」いささか疑わしいといった調子である。
「あなたに何かを信じてもらおうなどと、夢にも思わん」とメイスンは言った。「ただそう話すだけです。信じる、信ぜんはあなたの勝手だ」
ブラウンリーは眉をひそめた。「何も乱暴な言葉を使う必要はなかろうが、メイスン君」
「その点については、わたしのほうが判断が正しいでしょうよ、ブラウンリーさん」言うと同時に、メイスンは腰をおろし、巻煙草に火をつけた。銀行家の極度に落ち着きはらった態度が、いくらか崩れたのを見てとったからである。「ところで」とメイスンは語をついだ。「ある人が他人の欲しがる物を持っている場合には必ず、あらゆる種類の圧力を他から加えられるものです。あなたは金を持っておられる。他人は金が欲しい。彼らはありとあらゆる工夫をして、あんたにその金を出させようとする。わたしには闘士としてのある能力があるので、人々はわたしの同情をひくために、ものを信じやすいわたしの気質につけこもうとします。
これからわたしは、カルタの手のうちをすっかりテーブルの上にさらしてお目にかけようと思う。この問題についてわたしの興味をわきたたせた一連の事件は、まことに異常なものです。それがわたしを味方につけるために工夫した精妙な『筋立て』ではないという確信をわたしは持てません。もしそうであるとすれば、わたしは他人に対して不正を加えたり、あるいは詐欺の手先に使われることになるので、そんなことのために自分の能力を使いたいとは夢にも思わん。だが一方、その、一連の事情が、巧みに作られた道具立ての一部でなく、実際に起ったある一つづきの事件を物語るものだとすれば、あなたが息子さんのオスカー君とジュリア・ブラナーとのあいだに出来た娘だと信じている女性は、あなたとは何の関係もないということに、非常に大きな可能性があるのです」
「そういう主張をするだけの何かの権威を、あんたは持っているのかね?」ブラウンリーが訊いた。
「むろんです」メイスンは巻煙草の先端のくゆりをみつめて、言葉を切ったが、あからさまな探りを入れている相手の眼と視線を正面から受けとめて、ズバリと言った。「現在生存している片親のジュリア・ブラナーその人の権威に基づいて、わたしは言うのです」
ブラウンリーの顔には感情の動きは少しも見えなかった。その微笑は霜のように冷やかだった。「ではそのジュリア・ブラナーを誰が本人と認めたか、うかがいたいものだね?」
メイスンの表情は微動もしなかった。「誰もそれを証明しないのです。だからこそ、わたしはあなたを訪ねた。この事件で、わたしの側にもし欺瞞があるなら、それを暴露するのはあなたであるべきです」
「そしてもしわしが、そういう欺瞞の存在をあんたに納得させたら?」ブラウンリーが訊いた。
メイスンは大きく両の掌を開いて相手に見せた。「そのときは、事件はもうわたしには何の興味もありません。しかし、ブラウンリーさん、それにはわたしを納得させなくてはならない、その点はわかっていただきたいですね」
「ジュリア・ブラナーはアバズレだ。わしの雇った探偵は、彼女がわしの息子と出会う以前の生活について、いろいろ調べてきた。まあ相当に並はずれた男出入りの連続というべきだろうね」
メイスンは巻煙草を口へはこび、深くすって、煙を吐きだしながら口をきった。煙が彼の言葉を、ぼうっとした光に包んだ。「たしかに、そんなふうに精密に調査をされたら、さまざまの変化のある過去をもった婦人は、たくさんあるでしょうな」
「この女は、アバズレなのだ」
「いま、あなたの言っておられるのは、ご令息と結婚したジュリア・ブラナーのことですか?」
「そう、もちろん、そうじゃ」
「それなら、彼女がアバズレであるという事実は、彼女の生んだ子供の法律上の立場とは何らの関係もありませんな」
ブラウンリーは唇を湿し、しばしためらってから、銀行家が会計書類の欠陥を分析するときの冷酷きわまりない口調で、言葉をつづけた――「関係者一同にとって幸いなことに、あの女が生んだ子供は、早くから母親の影響のもとを離れた。それがどういう事情で、どこでそうなったか、正確には洩らしたくないが、それらの情報は、もっぱらわしのために、ほかとは全然無関係にはたらいた人々の手で、集められたものです。彼らはみなもっぱらわしの利益を護ろうとする意志の下に活動したのです。わしは偶然に知ったがそしてあんたもそれを承認すると思うが、ジュリア・ブラナーもまた、自分でその情報を手に入れようとして、ずいぶんと金を使ったが、その結果は不成功に終った。わしの方が幸いにして充分な調査の便宜があったので、彼女の失敗したところで、わしは成功することができたのじゃ」
「ジュリアはあなたの一家との関係を種にして、金をとろうとしたことがありますか……偏見を抜きにして、公平な返事を聞かせていただきたいが」
ブラウンリーの表情はきびしかった。「一度もとろうとしたことはない――それは、彼女の側で、そういうことのできんように、わしがあらかじめ手段を講じておいたからじゃ」
「とおっしゃるのは、つまり彼女を逃亡犯人の立場に置くことができたことをさしておられるのですな」
「何とでも、わしの言うことをあんたが解釈するのはご勝手じゃ」ブラウンリーは言った。「わしは何も承認はせん」
「こういうことをご警告しておくことがフェアだろうと思います」メイスンは指摘した。「つまり、わたしがもしこの事件に興味をもつとすれば、わたしはどこまでも自分の依頼者の利益を守ろうとするでしょうし、かりに依頼者があなたの力で生じた外的な圧迫のために、形式的に逃亡犯人にならされたというふうに考えられるならば、わたしはそういう圧力を揮《ふる》ったことに対しては、あんたに償いをしてもらおうとするでしょう」
「むろん、ペリイ・メイスンともあろう弁護士が、いい加減な気持で闘うだろうなどとは期待しておらんが、一方、あんたがジュリア・ブラナーのために味方をするようになるとはちょっと思えんのです。第一に、わしは本当のジュリア・ブラナーが死んだことを信ずべきあらゆる理由を持っておる。したがって、あんたこそイカサマ師に引っ張りこまれておるんではないかと思うとるんだが」
「いまあなたの言われたことは、いかなる意味においてもあなたが孫娘として認知された若い女性が、実はジュリア・ブラナーの娘であるということを証明するものではありません――ジュリア・ブラナーがどこにいるとしてもです。一方、わたしの方では、あなたが詐欺か間違いか、どちらかの犠牲者であったと信ぜざるを得んような証拠を、持っているのです」
ブラウンリーはしばらく考えてから言った。「メイスン君、わしはあんたの要求されることに対して防禦のために、何事も洩らす気はありませんな」
「それではわたしがこの事件を引き受けてはならんということを、わたしに納得させてくれないわけです」
ブラウンリーは顔をしかめて、数秒間、じっと精神を集中して考えこんだ。そして、「ではこれから話すところまでは、話してもいい、しかしそれ以上は言えませんぞ、メイスン君」そして長い細い指でアザラシ皮の紙入れを出し、それを開いて、一通の手紙をとり出した。
老人はその便箋の上部の印刷した部分を静かに、ていねいに裂き取り、その次に今度は署名を破り取った――それをメイスンはみまもっていた。
「メイスン君、きみはわかってくれると思うが――」その破いた手紙を考えぶかく指でもてあそびながら、富豪は言った。「わしが調査をする以上は、この上もなく完全に調査しました。その調査をする上での基本的な線になるような、ある疑う余地のない事実を、わしは持っていた。それらの事実の性質は、高度の秘密に属するものじゃったが、わしは金で買える限りの最上の人間を雇って調査をさせたのです。わしはあんたがダシに使われとると信ずる。あんたの前に、ジュリア・ブラナーと自称して現われた女は、わしの伜と結婚した女でないと、わしは事実上確信するのです。その女が、自分の子供として持ちだす女性が、わしの伜の娘ではないことを、わしは知っておる。また、あんたがこの事件に興味をわかされたのは、主として、あんたから見て非難の余地のない人物、正しい事情を知っている立場にあると思われる人物が、あんたの依頼者になろうとしておるその女を信用しておるためではないか、と、そう信ずる理由をわしは持っておる。したがって、それ故にわしは、この手紙をあんたに見せる気になった。これが誰から来たかは、言いますまい。ただこれは疑惑の余地のない根拠あるものとわしが考えておるとだけ言うておきます」
ブラウンリーは手紙を押しやった。メイスンは読んだ――
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調査の結果、私どもは、真のジャニス・ブラウンリーの信用を失わせ、彼女の地位に贋物を取って代らせようとする企てがなされるであろうと確信していると申し上げることができます。この詐欺行為に関係を有する者たちは、数ヵ月以前から事情を熟知しておりまして、虚視眈々として実行に移る時機をねらっているのであります。
仕事を成功にみちびくため、彼らはこの争いの経費を自分でまかなえる有能な弁護士を引き込まなければならぬでしょう。そのために、かかる弁護士に信じこませるため、彼に圧力を加えうる人物が必要になるでしょう。
これら一党は、オーストラリアはシドニーのウイリアム・マロリー主教が一年間の休暇をとるのを、待ち構えていました。主教はこの一年間を旅行と研究とに費す意向であり、邪魔を防ぐため、巡歴の予定を極秘にしておくと声明しました。
わが杜の探偵は彼ら一党と内部的接触関係をつくることに成功しましたので、その立場を利して、次のごとき情報をお知らせすることができます、すなわち、一人の巧妙な詐欺師がマロリー主教を詐称し、あらかじめ注意ぶかく選定した某弁護士と接触し、この事件を引き受けるよう説得しよう、というのであります。この偽主教は、たんに弁護士にある感銘を与えるに充分な期間しか姿を現わさないでしょう。その期間を過ぎたら姿を消すでありましょう。
当社がこのことを前もってご助言申しあげますのは、貴殿が、この詐欺師の一党との接触期間が長引いた場合、逮捕状の発行が可能であるとすれば、彼を逮捕する手続きをお踏みになってしかるべくと存ずるからであります。いずれにしましても、この事件をば成功払いの契約で引き受けるに充分なる財力を有する攻撃的な弁護士が、本件を取り扱うことになるであろうと予期せられるがよろしかろうかと愚考いたします。この情勢を予想し、闘争の計画をお立てになるため、顧問弁護士にご相談あるよう、当杜はご勧告申し上げます。なお数日中にご報告すべき事実が手に入ることと存じます。
敬具
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「なるほど」顔の筋肉を一筋も動かさず、少しの表情の変化も見せずに、メイスンは言った。
「この手紙では、あなたは信用されたことでしょうな?」
「あんたは信じないかね?」鋭く客をみまもりながら、ブラウンリーが訊いた、その声にはいささかの驚きが含まれていた。
「一つも信じません」
「その手紙を手に入れるためには、わしは金を使った」とブラウンリーは言った。「メイスン君、もう少しわしという男がわかったら、わしが金を使う以上は、かならず最上のものを手に入れることがわかるはずじゃ。はっきり言わせてもらおう――わしはその手紙に、大いに重きを置いとりますよ」
「もしこれを手紙として見たとすれば、わたしも大いに重きを置くかも知れません。しかしあなたは故意に価値のある部分をすべて破り去ってしまわれた。残ったものはたんなる匿名の通信にすぎません、それ故わたしは、それをそういう物として見ます――たんなる匿名の手紙として」
ブラウンリーは苛立ちの表清を見せた。「もしあんたがわしを、わしの情報機関を教えるような男と思うなら、それは間違いじゃ」
メイスンは肩をすくめて、「べつに何とも思いません。ただ、わたしはあるカルタの手のうちをあなたにお目にかけて、それで勝負することをあなたに求めただけだ。いままでのところ、あなたは相手になってくださらなかった」
「さよう」ブラウンリーは有無を言わせぬ語気で宣言した。「いままでのところが、わしの出られる限度です」
メイスンは立ち上ろうとする様子をみせて、椅子をうしろへ押した。
「まだ帰るんではないでしょう、メイスン君?」
「いや、帰ります。もしあなたからこれ以上の話を聞かせてもらえんのなら、わたしを納得させるのには程遠いというほかはありません」
「メイスン君、納得させられる必要のあるのは、あんたではないということが、あんたの頭には浮かぱなかったのですか?」
テーブルの端に握り拳を置き、頑丈な両腕で広い両肩の重みを支えて立っていたメイスンは答えた。「いや、浮かびませんでしたな。この会見の目的から言って、わたしが主です。もしあなたが正しいことをわたしに納得させられなければ、あなたは闘うほかはないのです」
「なるほど、ビジネスマンとして、ご立派な言葉です」ブラウンリーは率直に相手の言葉を認めた、「しかしわしは、きみが手はじめから詰め手を喰っていることを、教えて上げようと思うのだ」
「詰め手とは、またかなり思い切った断定的な言い方ですな。わたしは王手はずいぶんかけられたが、まだほとんど詰められたことはありませんよ」
「ところが生憎、今度は詰められているのだ。メイスン君、わしは自分の孫娘の名が法廷のやっさもっさで引っ張り出されることは好まん。わし一家の私事について、うるさく新聞種にされることを好まん。それだから、この贋の孫のために、あんたが争いをするのを、やめてもらおうと思うのじゃ」
思わず、メイスンは驚きの声をあげた。「わたしがしようと思うことを、あなたはわたしにやめさせようというのですか?」
「そのとおり」
「前にもそういうことをした人はあるが、いつもあまり成功しませんでしたよ」メイスンはすげない調子で言った。
ブラウンリーの詮索的な眼が、冷やかな楽しさをみせて光った。「その点はよくわかりますよ、弁護士さん。しかし、わしの一家のことを調査された以上は、わしという男のことも調査されたはずで、わしが容赦のない喧嘩相手で、さからっては手ごわい男、いつも自分の意志を押し通す人間じゃということも知っておられるじゃろうが」
「あんたはいま、結果について考察しておられる」メイスンは言いかえした。「少し前には、わたしが仕事に|かかる《ヽヽヽ》のをやめさせようとする意味のことを言われた」
「いまもそうじゃ」
慇懃ながら相手の言葉を信じないことを示すメイスンの微笑が、それに対する充分な批評だった。
「わしがあんたにやめてもらおうとするのは、あんたがビジネスマンだからじゃ。相手方は、闘うべき資金を持たん。彼らの希望はただ一つ、充分な財的の基礎を持った弁護士が、成功報酬の契約で博奕をする気になるように、誘いこむことじゃ。したがって、わしがあんたの勝つ見込みのないことを説明すれば、あんたは優秀なビジネスマンとして、仕事を引き受けんじゃろうと思うのじや」
「なるほど、訴訟に勝つ見込みがないことを、わたしに納得させてくださるというのは、ご親切なことですな。その点については、わたしは自分の判断で結論を出すことにしたいものです」
「よくわかってもらいたい」とブラウンリーは言った。「贋者の孫を、法律上正当なものにしようとあんたが工夫するのを、妨げることができるなどと思うほど、わしはばかではないつもりじゃ。が、ただわしは、あんたがそういう主張をはっきり正当化したとしても、それがあんたには一向、何の利益もないことを説明できると思っているのじゃ。わしの孫であるということは、何人にとっても何の意味もないことなのじゃ。その娘は成年に達しておるし、どんな事情の下にあろうとも、わしの側にはその娘を扶養する何の責任もない。祖父と孫という関係をハッキリさせることによって得られる唯一つの利益は、わしが死んだあとで、遺産の分配を期待できるということだけじゃろう。したがって、メイスン君、わしは遺産の大部分を、孫娘のジャニス・ブラウンリーに譲るという遺言を作るつもりじゃが、特にその遺言のなかに、こういう条項を設けようとしている――わしが自分の孫娘と呼ぶところの人物は、現在、わしとともに、わしの孫として住んでおる女性である、その孫としての血縁関係が真正のものであるや否やは問うところでない、彼女《ヽヽ》こそ余の遺言の受益者である――とな。さてそこで、あんたがそういう遺言を無効にしようと骨折る|かもしれん《ヽヽヽヽヽ》ということは、わしにはわかっておる。したがって明日の朝、九時に、わしは不動産譲渡証書にサインをするが、その証書によって、わし自身の生涯不動産権だけを保留して、わしの財産の四分の三をば、わしの孫娘として、わしとともに住んでおる女性に最後的に譲渡することになる。残りの四分の一は、同様にして孫のフィリップ・ブラウンリーに譲られることになるじゃろう」
ブラウンリーの力づよい冷やかな眼は、勝ち誇って弁護士をみつめた。「さて、こうなると、この法律上の胡桃《くるみ》は、あんたの力でどんなことをしようとも、割ることはできませんぞ、メイスン君。あんたはスマートな人じゃ、まさか煉瓦の壁に頭をぶつけるようなことはすまい。わしがあんたに理解して欲しいことは、わしがあんた自身にも劣らん頑強な相手だということじゃ。一度、決心をしたからには、何ものもわしを引き止めることはできん。その点で、わしは、思うに大いにあんたに似とるようだ。しかしあいにくと、この問題では、わしが全部の切札を持っておる上に、わしの自由になるありとあらゆる冷血な手段でその切札を使う気になっている。では、メイスン君、もうこれでお別れとしよう、あんたに会えて、楽しかったですぞ」
レンウォルド・ブラウンリーは、メイスンの逞しい手を、長い指で包んだ。その指が鋼鉄のように冷たいことを、メイスンは知った。
「バトラーがあんたの車のところまでご案内するでしょう」とブラウンリーが言った。するとバトラーが、何か秘密の合図で呼ばれたものと見え、音もなく書斎のドアをあけて、ペリイ・メイスンにお辞儀をした。
メイスンはブラウンリーをみつめた。
「あなたは法律家ではないのでしょう?」と彼はきいた。
「法律家ではないが、得られる限りの最高の法律技能を利用していますよ」
メイスンは主人に背を向け、バトラーにうなずいて、レインコートを手にとった。
「この事件をわたしがかたづけた後では」彼は冷やかに言った。「あなたもあなたの弁護士たちの手腕についてのお考えが変るかも知れませんぞ。おやすみ、ブラウンリーさん」
メイスンはバトラーの手つだいでレインコートを着るあいだだけ、玄関に立ち止っていた。雨は滝のようにドライヴウェイに降り注いで、小型の噴泉を現出していた。風にはためく樹々の枝が暴風雨に敵しかねて、怪物のグロテスクな腕のように揺れ動いていた。
メイスンは車のドアを内側から閉め、イグニションとヘッドライトのスイッチを押し、変速レヴァをパチリと戻して低速《ロウギヤ》にし、クラッチをゆるめた。車は屋根のある車寄せを出て、暴風雨の猛威のなかへ突入した。
ギヤを第二速《セコンド》に切りかえ、ブレーキのペダルを慎重に踏み、速力をさげながら砂利敷きのドライヴウェイの曲り角にさしかかった――そのとき、ヘッドライトが、土砂降りの雨のなかに棒杭のように立っている一つの人影を拾いだした。
灌木の植え込みを真黒な背景にして、人影はヘッドライトの光に浮き上るように白く見えた。痩せぎすな若い男、頸までレインコートで包み、額まで帽子をひきさげて、その縁を雨が流れ落ちている。青年が両腕をさしのばしたので、メイスンはクラッチを蹴って車を停めた。
若者は彼の方へ進んで来る。その顔がひどく蒼ざめ、黒っぽい眼だけが何かを思いつめたようにギラギラ光っているのを、メイスンは意識した。
メイスンは車のガラス窓をひきおろした。
「弁護士のメイスン氏ですね?」
「そうです」
「ぼくはフィリップ・ブラウンリーです。そう言えば何か思い当るでしょう?」
「レンウォルド・ブラウンリー氏のお孫さんですね?」
「そうです」
「わたしと会見なさりたいのですか?」
「ええ」
「濡れるから、なかへ入った方がいい」メイスンは言った。「一緒にわたしのオフィスまで乗って行ってもいいのでしょう?」
「いや。ぼくがあなたと話をしたことを、祖父に知らせてはならないんです。あなたは祖父と話をされましたか?」
「しました」
「何の話ですか?」
「そういうことは、お祖父さまにお訊ねになっていただきたいな」
「ジャンのことでしょう?」
「ジャン?」
「ジャニスですよ――ぼくの従妹の」
「要するに、わたしはその問題を話しあう自由がないように感じます――特に現在は」
「ぼくはあなたの貴重な味方になれるかも知れないんです」フィリップが言いだした。
「そうかも知れませんね」メイスンは肯定した。
「要するに、ぼくとあなたとの利害は、ある意味で共通なんです」
「というと、きみはこの邸にジャニス・ブラウンリーと称して住んでいる女性が、オスカー・ブラウンリーの娘ではないと思うんですか?」
「ぼくの言う意味は、ぼくがあなたの味方になれるかも知れないということなんです」フィリップは同じことをくりかえした。
ちょっと間をおいて、メイスンは、「いまのところ、わたしとしては、あなたと何もご相談することはないように思います」と言った。
「祖父は、あなたの行動を抑えるために、財産を全部ジャニスに譲って、自分は生涯財産権だけを保有するっていうのは、本当ですか?」
「それも目下のところ、話したくないことの一つです。しかしわたしは、もっと都合のいい時に、あんたとゆっくり話すのは望むところですよ。明日の朝、十時ごろにオフィスヘ来てもらえませんか」
「いや! だめです! 行けません。しかしあなたはこれがどういうことだかわからないんですか? 祖父はある探偵局をやとって、ジャニスを探しました。みつかったら、二万五千ドルの賞与をやると約束したんです。ジャニスはみつけられなかったが、二万五千ドルはあきらめられなかったから、やつらはデッチ上げをやったんです。あの女はもうこの家に二年間もいて、完全に祖父を麻酔にかけちゃったんです。理屈から言えば、たといあいつが本物だとしたって、ぼくは同等の遺産を受ける資格があるんです。ところが祖父を麻酔にかけちゃって、大部分の財産をもらうことになったんです。あいつはふてぶてしい女山師です。どんなことがあったって、平気な女です。あいつは……」
フィリップ・ブラウンリーは憤怒のために口がきけなくなった。数秒間、聞える物音といっては、暴風雨の、車の屋根をたたく雨の音、風に振りまわされる枝の音、吹きすぎる風の音だけだった。
メイスンはそのあいだ、じっと青年をみつめていたが、やがて、「だから、どうなんです?」
「あいつの陰謀を抑えつけて欲しいんです」
「どういう方法で?」
「方法は、ぼくは知りません。それをあなたに頼みたいんです。ただぼくは、あなたがぼくの支持を当てにしてくれていいことを知ってもらいたい――ただし秘密でなくてはだめです。絶対に、祖父に知らせてはいけないんです」
「わたしのオフィスヘ来られますか?」メイスンがきいた。
「だめです、祖父にわかってしまいます」
「贋者だということを、どうしてあなたは知っているのです?」
「うまいことを言って甘ったれて、祖父の愛情にとりいった、あのやりかたからです」
「それじゃ証拠にならない」
「まだほかにもあります」
メイスンが言った。「きみ、よく聞きなさいよ、はじめその娘について、きみが話したときは、『ジャン』という名で呼びましたね。それは一種の愛称でしょう。ところで今、きみはわたしを助けようとしている|ようだ《ヽヽヽ》。わたしが発見しようと企てていることを発見してくれといって、わたしの尻をひっばたこうとしている|ようだ《ヽヽヽ》。それでわたしがオフィスヘ来てもらって話そうと申し出た。あんたは厭だという。わたしに会うのも厭だという。きみのお祖父さんはそれほど厳重にきみを監視してるかどうか、きみだってわからないはずだ、のみならず、あの家から誰かがこっちを見ていて、わたしが車を停めてきみと話をしていることを……」
「しまった!」青年は叫んだ。「それはちっとも気がつかなかった!」たちまち身をひるがえして、生垣の闇のなかへもぐりこんだ。
メイスンはしばらく待っていたが、やがてギヤを入れ、スロットルを踏んで、車を走りださせた。
彼はまっすぐ車をウェスタン・ユニオンの支杜へ走らせた。レインコートの裾から雨滴をしたたらせたまま、カウンターに立って、無線の電文を書いた――
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ういりあむ・まろりい主教
汽船もんてりい号
ほのるる経由 おーすとらりあ、しどにい行キ
重要事態発生、今夜キカノ出発後マモナク小生ヲ訪問セルじゅりあ・ぶらなート称スル婦人ガ本人ニ相違ナキコトヲ保証セラレタシ、絶対必要。
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電文に署名し、料金を支払い、今度は電話室へ入って、ドアを閉め、ジュリア・ブラナーが教えた電話番号を廻した。
かぼそい、抑揚のない、引込み思案らしい女の声が、返事をした。
「ジュリア・ブラナーさんですか?」メイスンがきいた。
「いえ。あたくしはジュリアの友達のステラ・ケンウッドでございます。メイスン先生でいらっしゃいますか?」
「そうです」
「ちょっとお待ちください。いま本人が出ますから」
ステラ・ケンウッドのかぼそい、蘆のそよぎのような声に代って、ジュリア・ブラナーの豊かな、ひびきの強い声が、電線をつたわって、閉めきった電話室のなかに鳴りわたるような気がした。メイスンの身体の温かみで衣類にしみこんだ湿気が、狭い電話室のなかの空気を息苦しくした。
「何かおわかりになりまして? 早く聞かせてくださいません?」
メイスンが言った。「希望のもてることは一つもないね。ブラウンリーはなかなかの強か者だ。遺言を作って、現在あの家に孫娘として住んでいる娘に財産の大部分を譲ることを考えている。そして、その財産を今すぐ、自分の生涯財産権だけを残して譲渡してしまうことを計画していますよ」
「もうそれは、やってしまいましたの?」ジュリア・ブラナーが訊いた。
「いや、まだです。明日の朝、それをやろうとしている」
ジュリアがハッと息を呑んだのを、メイスンは聞いた。「今から朝までのあいだに、何かあたしたちにできることはないんでしょうか?」
「ないだろう」メイスンは答えた。「そういう能力が彼にないことを、われわれが示せない限りは、本人が自分の好きなときに、自分の財産を自分の好きなように処分するのを、止めることはできませんね。しかしわれわれには、ブラウンリーが思いもよらんような取返しの工夫がある。明日の朝、それをあんたに説明しましょう」
かなり長いあいだ沈黙がつづいて、メイスンの耳には電線のジーッという音だけしか聞えなかった。やがて、ジュリア・ブラナーの声が言った。「メイスン先生、あなたにおできになることは何もないと考えていらっしゃるの?」
「明日の朝、よく話しましょう」彼は答えた。
「それでは、あんまり頼りないような気がしますわ。あたしたち、あの男に負かされちゃったことになると思うわ、もしも……」
「もしも、何です?」女がだまってしまったので、メイスンは訊いた。
「もしも、最後の方法として、やる気のなかった取って置きの手段に、あたしがうったえない限りは――というんです」
「何です、それは?」
「あたしには、レンウォルド・ブラウンリーを納得させる方法が一つあると思います」彼女は言った。「それはあの男が、あたしの持っているある品物が欲しいために、あたしがこうしろと言うとおりにするかどうか、それほどその品物を欲しがるかどうかで、きまることなんです」
メイスンは言った。「ま、落ち着いて聞いてください、いいですか。あんたは手を出さないで、じっと坐っていてください。朝になったら、わたしが話してあげます。あんたがブラウンリーに何をさせようとしたって、そんなことはできない相談です。あの男は狡猾で、頑固で、おまけに冷酷ですよ」
この彼の言葉に、相手が何とも答えないので、メイスンは拳で送話器を叩いて言った。「聞えますか?」
「ええ。聞えました」曖昧な調子で、彼女は答えた。「明日の朝、何時にお目にかかれるでしょう?」
「十時に」とメイスンは言った。「わたしのオフィスで」そして受話器をかけた。
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電話のベルが鳴りつづけるので、眼を覚ましたとき、ペリイ・メイスンのアパートの窓には、まだしつこく雨の音がしていた。
手さぐりでベッド・ランプのスイッチを押し、ベッドの中で半身を起して、受話器を耳にあてた。開いている窓から湿気が流れこんで、レースのカーテンをパタパタ動かし、弁護士の胸のあたりへ冷気を吹きつけた。手さぐりでバスローブをとって胸もとにあてがいながら「ヘロー」と言うと、聞えて来たのはポール・ドレイクの声で、「事件だぞ、ペリイ。まるでまた一つ、きみが引っ張りだしたようなやつだ」
メイスンは眼をこすって眠気を払いながら、はれぼったい声で、「何があった? いま何時だ?」
「ちょうど三時十五分すぎだ」とドレイクが答えた。「うちの杜の男が、ウイルミントンから電話をかけてきた。きみがブラウンリーの線を見張れといったから、あの邸の外に一人、つけておいたんだ。いまから一時間ばかり前に、ブラウンリー老人が自家用のクーペに乗って外へ出た。雨がひどく降っていた。うちのやつは後をつけた。べつにむずかしいこともなく、ブラウンリーが港地区へ降ってゆくまではつけて行った。たぶんブラウンリーは自分のヨットのところまでまっすぐに行くものと見当をつけた。そのためにすこしうっかりしたらしいんだな。ブラウンリーとのあいだを少しあけすぎたために、車を見失ったが、べつに心配はいらんと思って、ヨットのところへ行って、待っていた。ところがブラウンリーはやって来ない。そこでうちの男は車を引き返して、敵の車を探そうとした。十分ばかりもその辺をドライヴしていると、そこへ一人の男が走って来て、手を振っているのが見えた。うちの男は車を停めた。するとその男が駈け寄って来て、ブラウンリーが殺されたというのだ。白いレインコートを着た女が、暗闇のなかから出て来て、ブラウンリーの車の踏板《ステップ》に足をかけ、五、六発、撃って、そのまま立ち去ったと、こういう話だ。
この男はひどく騒ぎ立てた。すぐに警察本部へ電話をかけたいと言う。それでうちの所員が車に乗せて電話のあるところへ行き、二人して救急車と警察へ電話をした、もっともこの目撃者は、老人はたしかに死んでいるから、救急車の必要はないと言い張ったそうだがね。電話をかけたあとで、うちの探偵は車と死体を探しに引き返した。それがみつからない。警察が来たけれども、やっばりみつからない。おれはその情況を見に行こうと思うんだが、きみも一緒に行きたいだろうと思ってね」
「たしかにレンウォルド・C・ブラウンリーだったのか?」メイスンがきいた。
「当の本人だ」
「そいつは、どえらい騒ぎになるぞ」弁護士が言った。
「何を今さら言ってるんだ」ドレイクが言い返した。「市中の新聞は二時間以内に号外を出すだろう」
「いまきみはどこにいる?」
「自分のオフィスだ」
「おれのところへ車を廻してくれ、おれは着物を着て、きみが来るまでに表に立っているから」
電話を切り、ベッドから躍りだすと、右手で窓を閉めながら左手でパジャマのボタンをはずしていた。
メイスンはエレヴェーターのなかでネクタイを結び、アパートメントのロビイを横切りながら、レインコートの袖に手を通し、ちょうど舗道に踏みだしたときに、ドレイクの自動車は角をまがって、雨のなかを眼のくらむような二条のヘッドライトが、機関銃のようにたたきつける雨に濡れた舗道から小噴泉となって弾ねあがる水沫《しぶき》を照らしだした。
ドレイクが歩道の角石から斜めに車をすべらせるとき、メイスンはクッションに腕を落ち着けながら言った。「殺したのは女だって、ポール?」
「うん、白いレインコートを着た女だそうだ」
「どんな話だ?」
「電話で聞いたところでは、ブラウンリーは誰かをさがしていた。車を停めるばかりに速度を落して、舗道のうえを這っているときに、横手の暗いところから、その女が出て来た。ブラウンリーが車をとめて、窓の硝子をおろしたところをみると、明らかに女を予期していたようだ。女は踏板《ランニングボード》にあがって、自動拳銃を挙げると、ダダダと続け撃ちに撃った。それから、往来ヘパッと飛び下りると、一散に角をまがって、逃げてしまった。その逃げた車を、証人は見たんだ。シヴォレーだったが、登録番号まではわからなかった。クーペのなかをちょっと見ると、ブラウンリーはぐったりして、ハンドルの上に伏せていた。撃った弾丸が一発もむだにならなかったように見えたそうだ。目撃者はこれといってハッキリした目途《めど》もなしに走りだした。そして四、五分もそんなふうにして走っているところへ、うちの探偵の運転する車のヘッドライトを見た、とこう話したそうだ」
「その男は混乱して方角が狂っていたということも考えられるかな」
「大いに考えられる。むしろ九分通りそうだったろう」
ドレイクはスロットルを床板の近くまで押しさげて言った。「神経がたかぶってるかい、ペリイ?」
「すぐ行けよ」メイスンは言った。「おれのことを理由にして躊躇することはない。タイヤはどうだ」
「大丈夫、調子はいいよ」ニヤリと笑って、ドレイクが言った。「おれの研究によると、|横すべり《スキッド》ということは、尾が頭に追っつくということにすぎない。頭がどんどん走っていれば、車がとまろうとするときまでは、尻は頭に追いつくことはできんからね」
メイスンは巻煙草に火をつけて、「ポール、きみは遺言状を作ったことがあるか?」
「まだない」
「そうか、明日の朝になったら、わしの事務所へ寄りなさい、一つ作ってやるから。主教のことは何かわかったかね?」
ドレイクが答えた。「オーストラリアのおれの連絡先は、向うでは何というか知らんが、おれが少しばかりからかってると思ったらしい、おれの質問に対して、電信で「主教《ビショップ》はどもらず」という返事をよこしたよ」
メイスンが言った。「それじゃ質間に対する答えにはならんね。主教の人相書はどうだ? 送って来たかね?」
「うん、次の電報で来た」
ドレイクは片手で運転をつづけながら内ポケットを探り、電報をとりだし、弁護士に渡した、そのとたんに、メイスンが叫んだ。「ほら、気をつけろ!」
ドレイクは電報を落して、ハンドルをつかみ、車が急にかしいで横すべりしようとするのと闘った。ハンドルを懸命に左へ廻したが、だめだった。車の右側の車輪からザァッと大きな水沫《はね》があがった。とたんに、前部の車輪が二つとも止った。ドレイクが、まるでヨットの舵輪をでも廻すようにキリキリとハンドルを廻すと、車は急角度に反対側へ方向を転じた。ぐー、と右へかしいだ車に、ドレイクはアクセルを踏んだ。ヘッドライトの正面に曲り角がうかび上った。横ざまにそっちへ曲りこんだが、そのときやっと車輪が車台を引きずる力をとりもどした。車が道端へ向って突進するのを、ドレイクはやっとのことで、前輪が舗装してない軟らかな盛土に衝突する寸前でくいとめた。
「電報はどこへいった?」探偵がきいた。「きみは落しただろう?」
メイスンは今まで床板《フロアボード》に突っぱっていた両脚をゆるめ、やっと安心の溜息をついて、「いや、どこか座席の上にあるはずだ」と答えた。
探偵は車を曲り角からまっすぐに向け直して、足ぶみスロットルを押し下げ、「ダッシュライトでそれが読めるか?」
「読めるだろう、おれの手がふるえなくなりさえすればね。いや、まったく、ポール、きみは用心ということを知らんのかね?」
ドレイクが言った。「知ってるとも。おれはちゃんと運転してたんだが、あの電報のことをきみが言いだして、おれの注意を逸らしたんだよ」
メイスンは電報を開いて読んだ――
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ういりあむ・まろりい主教 五五歳 五ふいーと六 一七五ぽんど 眼ハ灰色 ぱいぷ喫煙ヲ常用ス 一ヵ年ノ休暇ニテあめりか某地ニアリトイウ タダシ正確ナ情報ハイマダ得ラレズ
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メイスンは電報紙をたたんだ。
「それできみはどう思うね?」ドレイクが訊いた。
メイスンは煙草に火をつけた。「いいから、走らせてくれ、ポール。もう二度ときみの注意を逸らせたくないからな。目的地に着いてから話をしよう」
彼はクッションに背中を落ち着けて、レインコートの襟を立て、顎を胸の上に落して、無言で煙草をふかしていた。
「人相書はピッタリじゃないか」ドレイクがきいた。
メイスンは答えない。
ドレイクはクスリと笑って、運転に精神を集中した。雨が前面の硝子にしぶき、前蓋《フッド》を乱打し、硝子と金属とから河のように流れ落ち、ヘッドライトの光の前に斜めに駈けめぐる雨脚をみせていた。前部硝子《ウィンドシールド》のワイパーが単調に左右に振り動いているが、そのゴムの刃のついた振子さえも豪雨には力を失って、ともすれば前方の濡れた舗道の帯の形をゆがめがちだった。
とうとう、行手に一台の自動車のテールライトが見えた。ドレイクの車のヘッドライトは、あるヨット・クラブの徽章と、「私道、出入を禁ず」という言葉との記されたサインボードを照らしだした。
一人の男が、ゴム引きのレインコートをヘッドライトにテラテラ光らせ、全身から小川のように雨をしたたらせて、水沫をはねかえしながら車の方へ進んで来た。
「ハリイ、メイスンを知ってるな」とドレイクが言った。
メイスンはうなずいて、「やあ今晩は、ハリイ。何か新しいことはあるかい?」
探偵は車の窓のなかへ頭をさしこんだ。帽子から流れる雨滴がドレイクの膝にしたたり落ちた。ドレイクが叫んだ。「帽子をとれよ、野蛮な野郎だ! 話をするなら、うしろの席へ入ってくれ。シャワー・バスは朝まではごめんだよ」
探偵はうしろの座席へ入った。
「いいですか、言葉どおり受け取ってくださいよ。ぼくには何だか気違いじみて感じられるんですがね」低い、セカセカした声で、こう前置して、いかにも重大なことを打ち明けるらしい謎めいた調子で男は話しだした。「あなたに言われたとおり、ブラウンリーの邸の外にいました。ひどい土砂降りでしたがね。これはたぶん普通の仕事にすぎないんだろうと思っていました。百万長者が、こんな嵐の晩に走りまわるなんて、想像できなかったんです。それでぼくは車の窓を閉め切って、ゆったりトグロを巻いていました。一時半ごろでした、一台のタクシーがやって来ました。邸のなかに灯がついて、何か評議してるのが聞えました。それからタクシーが行ってしまいましたが、邸のなかは灯がよけいにつきました。十五分ばかりして、車庫に灯がつきました。それから車庫の扉があいて、ヘッドライトが見えました。その車が通りすぎるとき、ぼくはどうにか一目、なかを覗きました。運転していたのはブラウンリー老人です」
「そのあいだ雨はずっと降っていたか?」ドレイクが訊いた。
「土砂降りでしたよ」
「ブラウンリーは運転手に運転させなかったのか?」メイスンが訊いた。
「ええ、たった一人でした」
「さきを話してくれ」ドレイクが指令した。
「ぼくはブラウンリーを尾行しました、灯をときどき消したりして、むずかしい追跡でしたよ。あまり近くへ寄ってはまずいと思ったんです。この辺まで来た頃には、向うはよほどぼくよりも先になっていました。ここまで来た以上、ヨットに乗るつもりにちがいないと思いました。先方がターンをして、ぼくの追跡に気がつき、こっちを|まこう《ヽヽヽ》としてるような様子がみえたので、ぼくはまっすぐヨット・クラブヘ廻ったんです。四、五分たっても車が現われないので、ぼくは探しはじめました。みつかりません。バカなことをしたと思いながら、五分か十分ぐらい、先方の車の行きそうなところを探しまわりました。十字路を全部通ってみてから、ドックのところまで降りてみました、そして引き返して来たときに、一人の男が雨のなかを腕を振りながら走って来るのが見えました。車をとめましたが、男は興奮のあまり、口がきけないんです」
「その男の名を訊いたか?」ドレイクが訊いた。
「訊きましたとも。ゴードン・ビクスラーというんです」
「それが兇行のことを話した男なんだね?」メイスンが訊いた。
「そうです」
「何と言ったんだ?」ドレイクはさきを聞きたがった。
「ちょっと待て」と、メイスンが言った。「そこのところは要点を聞いてる、だがおれが知りたいのは、その男がこんなところで何をしていたかだ。それがおれにはおかしいんだ」
「あの男は安心なんです」ハリイが言った。「ぼくはあの男の話をチェックしました。キャタリーナから来ているヨットマンなんです。暴風雨のために遅く着いたのでフィリッピン人のボーイに電話して、自動車で迎えに来るように言ったんです。そのボーイというのが、雨が厭だったのか、遊びまわっているのか、待ってもやって来ないものだから、ビクスラーは腹を立てて、タクシーか電話のあるところまで、歩きだしたわけです。ぼくは運転許可証や名刺を見せて貰った上に、乗っているヨットの名前も言わせました。警官もその男のことは調べ上げました」
「オーケー」とメイスンは言った。「おれはただ知りたかっただけだ。さあ、そのさきを話してくれ、大事なところだ」
「ええ、ビクスラーの話では、大きなクーペが這うようにゆっくりとやって来て、ちょうどそれを運転してる男は誰か人をさがしているようなふうだったそうです。そこへ白いレインコートの女がクーペに手を振ったので、車は速力をゆるめました。女は踏板《ステップ》の上にあがって、運転者にどこか方向を教えてやるようなふうに話しかけてるようでした。それから女は踏板から飛び下りて、ドックのわきの暗闇へ走り去りました。車はゆっくりと走りつづけます。ビクスラーは車が横丁へ切れて、次の通りへ出て、速力を速め、それからまた曲ってぐるりともとの通りへ帰って来るのを見ました。
ビクスラーは、この車の男に頼んだら乗せてくれるかも知れないと思ったので、通りの真中へ出て立っていました。車はやって来ました。やっぱり時速十マイルか十五マイルぐらいです、そこへ例の白いレインコートの女がヘッドライトの正面へとびだして、また手を振って車を停めました。ビクスラーは車の方へ向って歩きだします。そのとき約五十ヤード離れていたそうです。レインコートの女は踏板の上に立っていましたが、いきなり、ビクスラーの眼に閃光が見え、自動拳銃のバン! バン! バン! バン! という音が聞えました。五発だったか、六発だったか、はっきりしないけれども、五発だったと思うと言っています。レインコートの女は踏板から飛び下りると、一散ばしりにドックの一つへ通じている横道へ走りこんでゆきました。ビクスラーは少したってからクーペのところへ走ってゆきました。車のそばまで行かないうちに、一台の軽いセダン――シヴォレーだろうと思うが、確かなことはわからんと言います、それを運転していたのは、これも白いレインコートのその女だと|思うが《ヽヽヽ》、確かなことはわからんそうです――その車が爆音をあげて走りだし、たちまちそのテールライトは雨のなかに呑みこまれてしまったというんです。
ビクスラーはクーペのところへ来ました。運転者は、車の左側のドアにうつ伏せになっていました。腕と、肩と、頭とは車の外にだらりと垂れて、血が車の横腹をつたって踏板にしたたり落ちています。ビクスラーはたしかにレンウォルド・ブラウンリーだった、弾丸をいっばい喰って――サバみたいにノビていたと言っています」
「どうしてブラウンリーだと知ってたんだね?」とメイスンが訊いた。
「その点を、ぼくも突っこみました。ところが、ほら、この男はヨットマンでしょう、ブラウンリーもヨットマンなんです。二人はヨット・クラブの晩餐会で一度か二度、会ったことがあるし、ビクスラーは五、六ぺんもクラブのあたりでブラウンリーを見かけたことがあるんです。間違うはずは絶対にない、たしかにあれはブラウンリーだと言うんです。雨はひどかったけれども、兇行の時刻ごろには、ちょっと小止みになって、それにヨット・クラブのフラッドライトで、かなり明るかった、そしてクーペのダッシュボードにも灯がともっていました」
「それからどうなった?」ドレイクが訊いた。
「ビクスラーは駈けだしました、電話か、それとも誰か助けを求めようと思って。ぼくの想像では、やっこさん、すっかりあがっていたと思います。ブールヴァールをしばらく走ってから、自動車道路をまた、しばらく走って、どこか横道に迷いこんでまごまごしてから、やっと引き返して来たときに、ぼくの車のヘッドライトを見たわけです。そのときは兇行の五分か十分あとだと言っていました。
ぼくは車に乗せてやりました、ひどく狼狽して、口がきけないんです。兇行の行われた場所をぼくに教えようとしたんですが、みつかりません。あっちこっち、ぐるぐる廻らせるもんだから、この野郎、気ちがいかなと思いましたよ。ぼく自身がレンウォルド・ブラウンリー老人を追跡していたから、老人がどこかこの辺にいなくてはならないことを知ってるんでなかったら、夢みたいな与太話だと相手にしなかったかも知れないんです。
そんなわけで、やっこさんが早く警察に電話かけさせろと喚くもんですから、ぼくもこんなふうにいつまでもぐるぐる廻っているのは警察の手前もよくないと思いましてね、電話のあるところへ行って、二人で警官を呼んだわけです」
「それからどうした?」とメイスンが訊いた。
「警官が来て、われわれの話を聞いて、それから……」
「ブラウンリーを追跡してたことを話しゃしまいな?」ドレイクが口をはさんだ。
「絶対に」――そんなことを訊かれるのは心外だというように、吐きだすようにハリイは答えて、「ヨットに乗ってるある人間をみつけようと思って、何となく車を走らせていたんだと言いました。ある離婚事件で仕事をしてるって」
「その人間は誰だとか、そんなことは訊かなかったか?」
「まだ訊きません。これから訊くでしょう。そのときは警察は忙しかったですからね。ぼくはブロンドの女だとでたらめを言ってやりました」
「警察は車をみつけたのかい?」
「いえ、まだです。ところがこれが変なんですよ――警察もぼくも、このビクスラーという男がすっかりアガっちゃって、現場をちゃんと教えることができないんだと、そう考えたんですがね、そのうちに一人の警官が、懐中電燈でその辺をあさり歩いていたところが、ちょうど確かにここで女が射ったんだとビクスラーが言うその場所の舗道に、赤い汚れのある水たまりをみつけたんです。それからもっと探しまわると、・三二口径の自動拳銃の薬莢がみつかりました。銃からはね飛んだ、空の薬莢なんです。こうなると、話が別になりました。雨はまだ降っていたけれども、いまほどひどくはありませんでしたから、その道路の表面の赤い小さな水たまりを跡づけることができました。道路が少し凸凹していたんで、それに車の踏板から道路の表面へ血を洗い落すには充分な雨でしたが、その赤い水をすっかり道路の表面から洗い去るほどは降っていなかったんです。それを跡づけてゆくと、ドックの一つへ向っていました、それでいま警察では、車はドックから海へ落ちたんじゃないかと考えています」
メイスンが言った。「そのドックはどこだ?」
「車を進めてください、教えますから」と探偵は言った。
「ぼくはあなたがたが見えるまで、ここで待っていただけなんです、それはここで待ち合わせるとあなたに言った場所だからです。ぼくが曲れと言うまで、まっすぐ進んでください」
ドレイクは発車させて、数百ヤード走らせたところで、探偵が言った。「ここで右へ曲って」
ドレイクがターンすると、すぐに数台の自動車が列をなしてパークしているのに出会った。数個のヘッドライトがまばゆくあたりを照らしていた。携帯用のサーチライトが、海の上に強い光線を投げている。一台の応急作業車が、起重機と捲揚機《ウインチ》とをつけられて埠頭の縁に置かれてある。鼓胴がゆっくりと、ピンと張ったケーブルの上で捲かれていて、ケーブルのさきは下の闇のなかへ沈んでいた。作業自動車の平たくなったスプリングから見て、それがいま何か非常に重い物体を引き揚げていることが明らかだった。
ドレイクは行けるところまで車を走らせてから停めて、探偵に言った。「ハリイ、パークする場所をみつけてくれ。行こう、ペリイ」
弁護士はもう雨の中に降り立っていた。二人は並んで、足もとの水たまりをはねかえしながら歩んだ。豪雨が二人の顔を打った。まもなく埠頭の一隅にかたまった一団の人々のなかに二人は加わったが、人々は気をとられているものがあるので、新しく加わった二人に気もつかなかった。
メイスンは岩壁からのぞきこんだ。弓弦のように張ったケーブルは墨のような水のなかへ真直ぐに延びていて、その水の黒さが、豪雨の暗黒を貫いて照らされるサーチライトの煌々とした明るさで一そう際立たされている。見おろしている人々の緊張した顔が、その光に真白く浮き出ていた。巨大な作業車の捲揚機《ウインチ》は動力で規則正しく動いている。ときどき、ケーブルが、叩くような音を立て、油のような水面にザーッと飛沫を落す。
一人の男の声が喚いた。「そら、出て来るぞ!」
一人の写真師が、メイスンを押しのけて、カメラを下へ向けた。クーペの頭が、ゆっくりと、雨の降りそそぐ海面から持ちあがってくる、そのとたんにフラッシュが光って、メイスンの眼をくらませた。
人々は押しあうほどに密集した。誰かが叫んだ。「もう一つ鈎をとりつけるまで、これ以上引き揚げるな! 水から出たときはもっと重くなるからな。断《き》られたら大変だぞ」
オーヴァオールを着て、油でよごれた顔をサーチライトで光らせている男たちが、捕捉鈎を水のなかへ沈めて、とりつけた。埠頭のどこからか、小蒸気機関《ドンキー・エンジン》が咳をするようなリズミカルな爆音を立てた。起重機の腕が大きく外へ向って出て来た。写真班のフラッシュがまた一しきり焚かれた。一人が叫んだ。「やれ!」
ゆっくりと、クーペが揚ってきた、ついに水面からすっかり出た。右側のドアは押しつぶされて、大きく開いている。フロアボードの割れ目から水がざァッと流れ出て、湾の水面に小滝のように飛沫をあげた。指揮をしている男が叫んだ。「これからこの起重機で揚げて岸へ戻すから、みんな気をつけてくれ!」
メイスンは長い起重機の腕が、彼の頭の上の闇のなかにあらわれたのを眺めていた。車体の下にロープ・スリングが投げこまれるのが見え、その次にウィンチが唸りだし、新しくつけられたケーブルが重みを引き受けてピンと張ったかと思うと、クーぺは彼の頭の上まで引き揚げられ、埠頭の上空まで持って来られた。
いよいよ自動車が地面へおろされるときになって、制服の警官が縄を張って人々をどかせ、この縄の内側の空地へ、捲揚機係の連中はクーペをおろした。
メイスンは縄に身体を押しつけるようにして、一人の警官の肩ごしに覗きこんだ。警官の濡れたゴム引きレインコートが、彼の顎に触れた。警官たちが車の内部をしらべているのが見え、一人が喚いているのが聞えた。「兇器があったぞ、・三二口径の自動拳銃だ。座席にはまだ血が残っている」
死体は――メイスンは見た――跡形もなかった。
誰かが言った。「埠頭から人を出せ。正当の資格証明のない者は誰も入れるな」
次々と新しい自動車が到着する。制服警官が、メイスンの方へも、のしかかってきた。雨に濡れた顔が、嬉しそうに歯をむきだして、声はきびしく、反抗をゆるさぬ調子で、「さあさあ、旦那、波止場から出てくれ。新聞を読めばわかるこった」
メイスンはおとなしく埠頭の端の方まで追いたてられた。ポール・ドレイクのそばへ来たとき、彼は言った。「バッジをちらつかせろ、ポール、聞けるだけ聞きこんでくれ。おれは車のなかで待っている」
弁護士は豪雨のなかを歩んで、ドレイクの車のところまで戻った。レインコートの水気をできるだけ振り落して、まだ人間のいた温かみと臭いの残っている車内へ入った。
五分後、ドレイクが戻って来た。「てんでだめだい。いま死体を捜索している。きっと車からころげ落ちたんだろう。サイドポケットに、ウイスキーが一壜あるぜ、ペリイ」
「ありがたい」とメイスンは言った。「死体なんぞ、どうだっていい――なぜウイスキーのことをもっと早く言わないんだ?」
壜を引っ張りだし、栓を抜いて、それをドレイクに渡して言った。
「お年寄りに敬意を表そう」
ドレイクは受け取って、三杯、たっぷり呷ってから、壜をメイスンに返した。メイスンがそれを自分の唇へ持って行ったとき、ドレイクの部下がこっちへ来るのを見て、壜をおろした。水のしみこんだ靴が一歩ごとにグシャッ、グシャッと鳴るのが聞えた。
「一杯やれ」とメイスンが言った。「そして何があったか聞かせてくれ。ポール、きみは少しはバッジが役に立ったかい?」
「やつら、笑いやがったよ」とドレイクが答えた。「心臓の強い刑事が一人、あべこべにおれをつかまえて、事件とどういう関係があるか、誰から雇われて来たか、いつからここに来てるか、事件についてどんなことを知ってるか、どうして偶然ここへ来たか――立てつづけに訊きやがった。おれはこりゃもう退散する時だと思ったね。ハリイ、お前はどうだ? 何かわかったか?」
ゴム引きレインコートの探偵は、横なぐりに唇を拭って、「ぼくはあまり無理をしませんでしたよ、ただそこらをうろついて、あっちこっちで聞える言葉を拾って歩いたんです。あれがブラウンリーの車だってことは、間違いないです。ギヤシフトを見ると、埠頭から落っこちたとき、車はロウギヤで走ってたことがわかります、そうしてハンド・スロットルは大きく引きあげられていました」
「ハンド・スロットルだと?」メイスンが訊いた。
「そうです。兇器はみつかりました、フロント・シートのクッションに止っていた弾丸も二つばかりみつかりました。警察の推定では、車が飛びこんだときにドアがあいて、死体がこぼれ出たんだろうということです。いま潜水夫を呼びに行っていて、これから湾の底を捜すんでしょう」
「白いレインコートを着ていたというほかに、もうすこし女について手がかりはないのか?」
「役に立つようなものは一つもないですね」ハリイは答えた。「しかし拳銃の番号はわかります! 死体がみつかれば、もっといろいろのことがわかるという見込みです。例のタクシーの運転手が、ブラウンリーに手紙をとどけたことは確かです。それがどんなことか、とにかく手紙の内容で、ブラウンリーがすごく興奮した。一人でここまで車を走らせるほど、緊急の用件だった――こんな嵐の晩の午前二時というのに、レンウォルド・C・ブラウンリーに対して、それだけのことをさせたのは、何かあったにちがいないです」
ドレイクが言った。「まあそうだろうな……とにかくそのウイスキーをかたづけよう」
するとメイスンが、「いかん、いかん、ポール。運転手はきみだ。こっちはハリイとおれにまかせておけ」
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明けがたの最初の微光が、街を、さむざむと雨に打たれる峡谷に変えていた。ペリイ・メイスンは、ウエスト・ビーチウッド二一四番地、サンセット・アームズ・アパートと呼ばれる三階建ての木造漆喰の建物の向う側に、車をパークした。
メイスンはレインコートの襟を立て、豪雨のなかに降りたった。建物の玄関には灯は一つも見えないが、メイスンは、建物の裏側の三階の窓に、レースカーテンでさえぎられた長方形の明るみを探しあてた。アパートの正面玄関まで歩いてゆき、ドアをたしかめてみたが錠がかかっていた。だが鍵孔がだいぶすりへっているので、メイスンのナイフの刃がわけなく插しこめて、少しばかり力を加えただけで掛け金はカチリと跳ねかえり、ドアはあいた。メイスンはレインコートの水をふるい落し、階段をのぼった。一足ごとに、水気をふくんだ靴がキュッキュッと鳴った。
三階へあがると、どこかの部屋の鼾の音、屋根をたたく雨の音、建物の隅々で呻くような風の音が耳に入った。彼は廊下の向う端まで歩き、ドアの下からリボンのように細い金色の帯が見えている室のドアを静かに叩いた。かぼそい、おびえたような女の声で、「何でしょう?」と言った。
「ミス・ブラナーからの使いです」とメイスンが答えた。
数秒間の沈黙のあいだ、室内の女は、この言葉を額面どおり受け取ったものかどうか、考え悩んでいる様子だった。次に、衣ずれの音がメイスンに聞えて、掛け金がはずされた。寝巻にスリッパ姿の痩せた女が、頭にカールクリップをつけ、化粧をしていない土気色の顔、不安そうな眼つきでメイスンを凝視した。
「入ってもいいですか?」メイスンが訊いた。
入口に立ったまま、女は何も言わない。緊張した不安をそっくり顔にあらわして、彼をみまもっている。
メイスンは相手の気を落ち着かせるように笑って、「まさか、伝言を、アパートじゅうに聞かせるわけにはゆかんでしょう。この廊下の壁は、ずいぶん薄いようですね」
女は愛想のない声で、「どうぞ」と言った。
「この伝言を――」部屋に入りながら、メイスンは言った。「聞かせるべき婦人があなたなのかどうか、わたしにはわからないんですがね。失礼ですが、あなたはどなただか、言っていただけませんか?」
「ジュリア・ブラナーの伝言をお持ちになったのなら、あたしにきまっていますわ。あたくし、ステラ・ケンウッドです」
「ああ、なるほど、よほど前から、ミス・ブラナーとはお知りあいですな?」
「はあ」
「彼女の過去について、何かご存じですか?」
「みんな知っていますわ」
「どのくらい以前まで?」
「あのひとがアメリカヘ来て以来ずっと――」
「オーストラリアにいた頃の生活について、何かご存じですか?」
「ええ、いくらか。なぜお訊きになりますの?」
「なぜなら、わたしはミス・ブラナーを助けようとしている者だからです。そしてわたしはあなたの力をお借りしたいと思うとすれば、そのためにはあなたがどの程度まで彼女をよく知っていらっしゃるか、正確に知らなくてはならないのです」
「もしジュリアが伝言をあなたにお頼みしたのなら――」ステラ・ケンウッドは、負けずに自己主張をしようとして言った、「それをあたしに伝えてくださればいいんで、いろんなことをお訊きになる必要はありませんわ」
「不幸にして、事態はそれほど単純ではないのです。つまり、言いにくいが、ジュリアはいま苦しい立場にあるんですよ」
ハッと、女は息をのんだ。そして弱々しく椅子に崩れこんで、「おお」と言った。
メイスンはすばやく室内を観察した。ドアの左手の壁に、いわゆる壁ベッドを置いた、独身者用の部屋である。そのベッドは鏡のかかった入口の取っつきの壁に畳みこまれるようになっているのだが、いまその場所に等身大の姿見があるところをみると、昨夜は誰もベッドに寝なかったか、それとも女はメイスンがドアをノックする前に起きて、ベッドをかたづけ、畳んでしまったか、どちらかであろう。
室内はアルミニウムの塗料を塗ってスチーム放熱器のような形に作ったガス・ヒーターで温められていたが、換気装置はなかった。室内の空気は温かく、むしむしして、よどんでいた。外気のなかから入って来て、メイスンはそのむっとする、よどんだ空気を鋭く意識した。湿気が、窓の硝子や姿見を曇らせていた。
「一晩じゅう煖房をつけていたんですか?」彼は訊いた。
女は答えない。不安をむきだしにした、かすんだような蒼い眼でメイスンをみつめている。もう五十に近いだろうな、とメイスンは判断した。人生は彼女にあまりやさしくしてはくれなかった。絶え間ない不運の下で、他人が右の頬を打ったら左の頬を向けることを学んだ、その結果はいま見るようにまったく無抵抗になってしまったのだ。
「ブラナーさんは、何時にここを出ましたか?」メイスンは訊いた。
「あなたはどなたです? なぜそんなことを知ろうとなさるんです?」
「ミス・ブラナーを助けようとしているのです」
「それはあなたがそうおっしゃるだけですわ」
「本当のことです」
「あなたはどなたですの?」
「わたしはペリイ・メイスン」
「弁護士さん、あのジュリアが会いに行った?」
「そうです」
「それから昨夜、あたしが出た電話をかけて来たお方?」
「そうです」
さして力を入れるでもなく、彼女はうなずいた。
「ジュリアはどこにいます?」
「出ましたわ」
「わたしが電話をかけてから、すぐ出かけたんですね?」
「|すぐ《ヽヽ》ってわけでもないけれど」
メイスンにじっとみつめられて、女はその視線を避けた。「何時に出かけたんです?」
「一時を十五分はすぎていましたわ」
「どこへ行ったんです?」
「知りません」
「どういう方法で?」
「あたしの車で。鍵を渡してやりましたの」
「その車の種類は?」
「シヴォレー」
「何のために、彼女は出かけたんですか?」
「あたし、こんなふうに――」ステラ・ケンウッドは質問に答えずに、「あなたとお話していてはいけない場合だと思うんですけれど」だがその声には確信がなく、メイスンは相手にならず、答えを待った。
「ね、あなたは何か知ってらっしゃるでしょう?」また彼女は言った。「何かあったんですわ。それをあたしに隠していらっしゃる。話して」
メイスンは有利な立場をきかせて言った。「あなたの立場がわかったら、すぐに出来事を話してあげます。わたしの質問に答えてしまうまでは、話すわけにはゆかないんです。なぜジュリアは外出したんですか? どうしようというつもりだったんです?」
「あたし、知りません」
「拳銃を持って出ましたか?」
女はゲッと叫び、かぼそい手で咽喉をおさえた。皺の寄った手の甲に、網の目のように、青い静脈が浮き出ていた。
「拳銃は、持って出ましたか?」メイスンがくりかえした。
「知りません。あら、だって何がありましたの? どうして拳銃のことを知ってらっしゃるんですの?」
「それは心配しなくていいんです。質問に答えてください。あなたはずっとここで、ジュリアの帰るのを待ってたんですね?」
「ええ」
「なぜ寝なかったんですか?」
「さあ、わかりませんわ。あのひとのことを心配していましたの。はやく帰って来てくれればいいと思いつづけていましたわ」
「あのひとがソルトレイクからこっちへ出て来たわけは、知っていますか?」
「ええ、むろんですわ」
「なぜ来たんです?」
「知ってらっしゃるくせに。あたしがお話する必要があるでしょうか?」
「あのひとがわたしに話したのと同じことを、あなたに話したかどうか知りたいんですよ」
「あなたがあのひとの弁護士なら、当然ご存じのはずですわ」
「知っているべきだということは知っています」メイスンは抑えつけるように言った。「なぜ来たんです?」
「娘さんのことと、それから自分の昔の結婚のこと」
「それを知ってるんですね?」
「あら、むろんですわ」
「いつ頃から知っていますか?」
「かなり前からですわ」
「ジュリア・ブラナーは、オスカー・ブラウンリーとの結婚のことを、あなたに話したんですね?」
「ええ、むろんですわ」
女は、その自分の話題に熱してきた様子だった。「だってあなた」と、はじめて自分から気乗りして話し出す調子になって、彼女は言いだした。「三年前に、あたしたちはソルトレイクで一緒に暮らしていたんですもの。オスカー・ブラウンリーのことを、すっかりあたしに話しましたわ――オスカーの父親がペテンにかけて、オスカーをあのひとから引き離したことも、あのひとが娘をとられないようにどんな工夫をしたかということも、みんな聞きました。あたしにも、ジュリアの娘とちょうど同じ年頃の娘がありましたから、あのひとの気持は、よくわかったんですのよ。ただ、もちろんあたしは、自分の娘のいる場所は知っていました。手紙をやったり、ときたま会いにも行けました。ジュリアは自分の娘が生きているかどうかさえ知らなかったんですもの……」彼女は顔を曇らせて、眼をそらせた。「その後、あたしの娘は死にました、二年ばかり前ですの。ですから余計に、可愛い子供に会うことも、便りを聞くこともできないジュリアの辛さが、よくわかりますのよ」
「ジュリアはキャリフォニアヘ帰って来られなかったわけを、あなたに話しましたか?」メイスンが訊いた。
「ええ」
「それは?」
「あの過失致死罪の嫌疑のためですわ」
「けっこうです」メイスンは言った。「では、当面の問題に移りましょう。わたしは、なぜジュリアが、港で会おうという手紙をブラウンリーに送ったか、それを知りたいんです」
ステラ・ケンウッドはぽかんとして、頭を振った。
「知らないんですか?」
「あたし、ジュリアのことについて、あなたとお話したくございません」
「知っているんだ、あなたは」メイスンはうながした。「だからこそ、あなたはこうして起きて、ジュリアの帰りを待っている。十二時前から、あのガス・ヒーターをつけている。寝床にも入らなかった。さあ、好い加減に、本当のことを、それも早く話してください。これでは日が暮れてしまう」
女はメイスンの凝視にひるんで、眼をそらした。いらいらと、指を組んでよじった。そのとき、廊下に急ぎ足の足音が聞えた。メイスンはすばやくドアの左側に寄って、誰が入って来るにしてもすぐには目につかぬところに立った。
ドアのノブが廻った。ドアが開いて、閉まった。ジュリア・ブラナーが、ほとんど踵まである白いレインコートを着て、靴は水びたし、髪も帽子の下で、濡れ、乱れて、カールはすっかり消えて頸のうしろにからみついた姿で――急調子な、ヒステリイに近い調子で言った。「ちくしょう、ステラ、あたし急いでここを出なきゃならないわ。たいへんなことになっちゃった。はやく荷づくりを手つだってちょうだい、そしてあたしを車に乗せて、飛行場へつれて行って。ソルトレイクヘ帰るのよ。とても大変なことができちゃって、あたし……」
相手の女の眼のなかに見出したものに、ギョッとして口をつぐみ、振り返ってペリイ・メイスンをみつめた。
「あんたね!」彼女は叫んだ。
メイスンはうなずいて、静かに言った。「ま、腰をかけて、何があったか、わたしに話したらどうだろう、ジュリア。わたしが事実を知れば、大きな救いになるだろうから」
「何もありません」
メイスンが言った。「かけなさい、ジュリア。わたしはあなたと話したいんだ」
「ちょっと、あたし急ぐの。あなたと話をして、つぶしてる時間がありません。もう今となっては、何とかしようと思っても、あなたにとって遅すぎるんですわ」
「なぜ遅すぎるんだね?」
「いいんです、心配しなくって」彼女はハンドバッグをテーブルの上に投げ、レインコートの頸のボタンをはずしにかかった。メイスンは進み出て、そのハンドバッグをとり、首をかしげてその目方をはかり、「あんたが持っていた拳銃はどうなりました?」
彼女は意外そうな顔で、「おや、そこにありませんの?」
「いいですか」メイスンは彼女に言った。「そんなふうにわたしと腹のさぐりあいみたいなことをして時間をむだにしていたら、それこそあんたの破滅ですよ、しかしレンウォルド・ブラウンリーは今夜、白いレインコートを着てシヴォレーを運転していたある女に撃たれた。警察はその自動車の様子を非常によく知ってると思う。さあ、これであなたはわたしに助力をさせたいか、それともまだ智慧くらべごっこをしたいのか、どっちなんです?」
ジュリア・ブラナーは考えこんだように、じっとメイスンをみつめていたが、ステラ・ケンウッドは低い呻き声をあげて言った。「ああ、ジュリア! あんた、やったのね!」そして低い声で泣きだした。
メイスンはジュリア・ブラナーの激しい敵意の眼を見かえして言った。「言いなさい」
「何であたしがあなたにお話しなくてはならないんですの?」彼女は訊いた、その声には毒があった。
「あなたを助けてあげられるから」メイスンは答えた。
「もっと早く助けられるはずだったわ。でもそのときはあまり好くやってくださらなくって、いまではもう遅いんですわ」
「なぜもう遅いんです?」
「ご存じのくせに――でもあたしはあなたがどんなふうにご存じだかは存じませんけれど」
メイスンの声は彼の焦燥を語っていた。「まあ聞きなさい、二人とも、一秒でも大切なときなのに、ここでギャーギャーいがみあってる。そんなことはやめにして、目の前の問題に移ろうじゃないか。わたしはあんたを助けるつもりだよ、ジュリア」
「なぜですの? わたし、お金を持っていませんよ、みんな集めても百五十ドルとはないわ」
ステラ・ケンウッドが椅子から立ち上りかけて、元気づいた声で言った。「あたしに二百ドルあるわ、ジュリア、それをあなたにあげるから……」
「金のことはいまは忘れよう」メイスンが言った。「わたしはあんたを助けるつもりだよ、ジュリア、しかしそのためには何があったかを知らなくてはならない。あんたが何をしたにしても、この事件についてあんた側には言いたいことがたくさんあると思う。ブラウンリーは完全に冷酷で、申し分なく無慈悲だった。あんたの過失致死罪の嫌疑をでっちあげて、何十年のあいだ、それであんたを脅かした。あんたが得られるはずだった家庭の幸福を破壊して、びた一文もあんたに与えなかった。長い半生をはたらきつづけてきたあんたには、言いたいことは山ほどあるだろう、だがわたしの知りたいのは、事態がどれほど悪いかということだ。最後まであんたの味方になってゆくということは保証できないけれども、とにかくそうして出発しようと思う。さあ、真相を話してください。あんたはブラウンリーを殺しましたか?」
「いいえ」
「誰が殺したんです?」
「知りません」
「今夜、ブラウンリーに会いましたか?」
「ええ」
「どこで?」
「埠頭の近くで」
「どんなことがあったか話してください」
彼女は首を振った、そして急に勢いのない、つまらなそうな調子になって、「話したって同じことじゃないの? あなたは信じてはくれませんわ。誰だって信じてくれやしないわ。ステラ、泣くのをやめてよ。あたしは出てゆくの。あたしが自分で始末をつけます。あなたはまきこまれやしないわ」
メイスンは腹立たしげな声で言った。「よしなさい! 出来たことを話しなさい。あなたを助けられる者があるなら、わたしが助ける」
ジュリア・ブラナーは言った。「そうね、どうしても知りたいとおっしゃるなら、あたしはブラウンリーに、ある圧力をかけようとしました」
「どんな圧力を?」
「オスカーがハイスクールを卒業したときに、ブラウンリーがくれた時計がありました。その側《ケイス》はブラウンリー家の家宝でした。レンウォルドはそのなかに新しい器械を入れさせて置いたのでした。何よりも大切な品だったんです。その時計をあたしが持っていました。ちょうどオスカーが逃げ出して、父親のところへ帰った日に、あたしはそれを持って外へ出ていました。レンウォルドは世界じゅうのどんな宝よりも、その時計を欲しがっていました。あたしはタクシーの運転手に手紙を持たせて、十分間だけ話をしたい、もし今すぐ、一人きりで、浜のある場所へ来て、他人の邪魔を入れず十分間あたしと話してくれれば、その時計を上げる、と言ってやりました」
「来ると思ったんですか?」
「来ることはわかっていました」
「あの男が、あんたを逮捕させるだろうとは思いませんでしたか?」
「いいえ、思いません。あたし、こう言ったんです、時計は隠してある、それを手に入れる方法は、あたしを正直に相手にするよりほかないって」
「それで?」メイスンが訊いた。
「あの男、来ました」
「向うはどういう方法で、その場所を知ったんです?」
「あたしが簡単な地図を描いて、会う場所を教えました。一人で来なくてはいけないと書いてやったんですの」
「それから、あなたはどうしました?」
「あの男に会うために、港まで自動車でゆきました」
「何を話すつもりだったんですか?」
「あの男がたった一つだけ、耳を傾けて聴くだろうと思う議論をするつもりでした。あたしの娘は、死んだ父親に生写しです、もしあなたが少しでもオスカーのことを心にかけているなら、オスカーの肉と血が人生の仕合せを得られずにいるようなことのないように、してやりたいと思うでしょう。それから、こうも言ってやるつもりでした、あたしはあなたがあたしにしたことは何とも思っていません、あたしの望みはたった一つ、オスカーの子供を正当に扱ってやって欲しいことだけです、そしていまオスカーの子供と自称しているのは贋物です――」
「なぜわざわざ港まで来させたんですか?」
「あたしがそうしたかったからですわ」
「|なぜ《ヽヽ》港へ?」
「それは何も関係ないことですわ」
「あなたの拳銃は、・三二口径のコルトの自動拳銃ですか?」
「ええ」
「それはどうなりました?」
「わかりません。宵のうちに、なくなってしまいました」
「そういう冗談はよしてください。それではあんたの何の得にもならんですよ」
「でも本当なんです」
「それで、あんたがレンウォルド・ブラウンリーを殺さなかったとしたら、誰が殺したんです?」
「知りませんわ」
「じゃ、どこまであなたは知ってるの?」
「あたしはあるヨット・クラブのわきでブラウンリーに会いました」と彼女は言った。「あたしは誰も追跡していないことを確かめるために、横丁を一廻りして、もとのところへ帰って来てくれと言いましたの。そのとおり一廻りして、戻って来て、速力を落しました。あたしのいたところから半ブロックほど離れたところで、あたしと同じような作りの黄いろいレインコートを着た女が、車に駈け寄りました。ブラウンリーが車を停めたのは当然でしたわ。女は踏板《ステップ》の上に躍り上って、撃ったんです」
「あなたはどうしました?」
「あたしは振り向いて、一生懸命で走りました」
「どこへ走って行ったんです?」
「あたしの車は一ブロックばかり離れたところに置いてありましたから」
「それに跳び乗って、逃げたんですね?」
「車を出すのに、ちょっと困りました。雨が降っていたので、エンジンがすぐには動かなかったんですの」
「誰かあなたを見ましたか?」
「知りません」
「その自動車は、どこで手に入れたんです?」
「ステラの車です。あたしが借りたんです」
「それがあんたの話せる最上の話なんですね?」
「それが真実ですわ」
少し間を置いて、メイスンは言った。「真実であるかも知れん、ないかも知れん。わたし個人としては、真実とは思わない。一つだけ確かなことは――陪審は絶対に信じない、ということだね。いまのような話をしたら、いまあんたがそこに腰かけてるのと同じくらい確実に、第一級殺人罪をおっつけられるね。あのベッドを引き下ろして、ガス・ヒーターを消して、窓をあけて、そのレインコートをうっちゃって、着物を脱いで寝なさい。もし警察がやって来たら、一言もしゃべってはいけない。どんなことを訊かれても、一つでも陳述しないこと。ただ自分の弁護士が答えるということのほか、どんな訊問にも答えない。そして弁護士はペリイ・メイスンだと、それだけ言いなさい」
彼女は彼をみつめた。「じゃ、あたしの味方になって、助けてくださるとおっしゃるの?」
「いまのところは、そうです」と彼は言った。「さあ、早く、着物を脱いで、ベッドヘ入りなさい。それからステラ、あんたも一言もしゃべっちゃいけない。ただじっと坐って、黙っていてください。それができそうですか?」
ステラ・ケンウッドは、蒼ざめた、おびえた眼つきで見上げて、「わかりませんわ、できそうもないわ」
「わたしもそう思う」メイスンは言った。「しかし、できるだけそうしてください。どんな場合でも、できるだけ長くごまかしてください。そしてジュリア、忘れてはいけないよ、誰に対しても|あんたは《ヽヽヽヽ》一言もしゃべってはいけない。どんな質問にも答えず、どんな陳述をもしないことだよ」
「あたしのことはご心配に及ばないわ」ジュリアは言った。「そのことなら、あたし得意なんですから」
メイスンはうなずき、サッとドアをあけ廊下へ出た。ドアを閉めるとき、ジュリア・ブラナーが案外に落ち着いているとみえ、壁ベッドを引き下ろすギイという音が聞えた。
雨は弱くなって、冷たい霧雨になっていた。南東から、低く垂れていた雲が霽れ上って来たのがわかる程度に、もう朝だった。冷たい、湿った暁の空気が鼻に快かった。ちょうど車のモーターをかけたとき、一台の警察自動車が角を曲って来て、サンセット・アームズ・アパートの玄関前に停った。
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朝、ペリイ・メイスンが出所すると、デラ・ストリートが迎えた。「何かあるかい?」デスクの上に帽子を投げだし、郵便物の方へ笑顔を向けながら、彼は訊いた。
「こ存じだと思いますけれど、ジュリア・ブラナーがレンウォルド・ブラウンリー殺害犯人として逮捕されましたわ」
メイスンはいかにもびっくりした顔つきで目を丸くし、「いいや、聞いてないぜ」と言った。
「号外が出ましたわ」とデラは言った。「ジュリア・ブラナーはメイスン氏が弁護するはずだと言ってるんですもの、あなは知っていなくちゃならないわけですわ」
「いいや、こいつは大した驚きだわい」とメイスンは言った。
反対訊問をする弁護士の仕草をまねて、デラ・ストリートは人さし指をまっすぐ水平に突き出し、「先生、あなたは今日の明けがた、どこにいましたか?」
ニヤリと笑って、「嘘はつけない。警官がビーチウッドのあすこへ着く六十秒前に、あすこを退散したんだ」
デラは嘆息して、「いつかは運のわるいときも来るわよ」
「あすこで捕まったって、別に害はないさ。おれには被害者と面会する権利があるんだからね」
「新聞には、こうも出ていますわ――ジュリア・ブラナーは一切の陳述を拒んでいる、けれども同じ室に住んでいるステラ・ケンウッドという女は、はじめは訊問に答えることを拒んだけれども、最後にはすっかりしゃべってしまったんですって」
「そうだろう」メイスンは言った。「あの女ならね」
秘書の声は心配そうな調子になった。「先生、その女は、何かあなたの迷惑になるようなことをしゃべりそうなんですか?」
「そうではあるまい。あの女が、誰かを巻きぞえにすることができるとは思えんね。ほかに何か新しいことは?」
「ポール・ドレイクが会いたいそうです、お知らせすることがあるんですって。『モンテレー』号のマロリー主教宛てに先生がお打ちになった電報は、配達されなかったそうですわ、『モンテレー』号にはウイリアム・マロリーという人は乗っていないから」
メイスンは意外そうに低く口笛を吹いた。デラ・ストリートは手帳をしらべて、「それであたしの責任で、汽船『モンテレー』号船長に宛てて無電を打ちましたの――ウイリアム・マロリー主教はシドニーからの北行航海のときに乗船していたか、もしそうなら、その同じ人が、同じ名前でなり別の名前でなり、一等もしくは二等船客として現に乗船しているかどうか、はっきりと確かめてもらいたいって」
メイスンが言った。「えらい、感心だ。おれもその点、もうちょっとよく考えてみなきゃならんだろうな。ところで、とりあえずポール・ドレイクを呼びだして、ここヘハリイを連れて一緒に来てくれと言ってくれないか。ほかには何か、あるかね?」
「C・ウドウォード・ウォレンがご面会の約束をしたいと言っています。あたくしに電話で、もし先生が息子の生命を救ってくださるなら、十万ドルまで出すって言いましたわ」
メイスンは頭を振った。
「ずいぶん大きなお金だわ」とデラ・ストリートが言った。
「大きな金には違いない」メイスンは冷たく言った。「その金をおれは要らんと言うんだ。あの小伜は、あまやかされた百万長者のドラ息子にすぎない。生れてからこのかた、金を使うことだけを知って、取ることを知らないやつだ。だからはじめて本当の障害にぶつかったとき、いきなり拳銃をつかんで、ぶっぱなした。いまは済みませんと言って、万事が自分に都合のいいようにかたづくのが当然のように思っているんだ」
「先生だったら終身刑にしてやれるんじゃないでしょうか。ウォレン氏としてはそれ以上のことを望めない場合ですわ。あなたはこのブラナーという女を弁護してやって、一文も取れないかも知れませんわね、それだのに一財産にもなりそうな莫大な報酬を要らんとおっしゃるのね」
「ブラナー事件の方には、ミステリイの要素がある、何か詩的正義を感じさせるものがある。胸を締めつけるような、人生的なドラマの要素を、残りなく具えているよ。まだおれは、はっきりと最後までやりぬく気にはなっていない。おれはおれの持っているかも知れない技能《タレント》を、その詩的正義が行われるために使うつもりだ。ところがもしウォレン事件を引き受けるとすれば、おれは自分の技能と知識教養とを、愚かで放任的な父親にあまやかされたドラ息子の下劣な犯罪を正当化するために使うことになる。忘れてはいけないよ、これはあの小伜の最初の失敗ではないんだ。あいつは去年、自動車である女を轢き殺した。父親はそれをもみ消して、金で息子をたすけた。いまも誰か弁護士に賄賂を使って、ごまかして絞首台を逃れる方法を考えさせようとしてるんだ。親も子も、呆れたやつさ! ポール・ドレイクを呼んで、来いと言ってくれよ」
デラが電話をかけているあいだ、メイスンはチョッキの腋の孔に親指をひっかけ、頭をさげて考えに沈みながら、床の上を歩いていた。
それから数秒すると、彼は顔をしかめて、デラ・ストリートに言った。「チェッ、デラ、遅いな、すぐこの下じゃないか。電話かけるより廊下を走って行った方が早いや。いったいどうしたんだ?」
「交換台から、あたしの打った無電の返事が、『モンテレー』号から来たもんですから、聞いていたんですの。ちょっとお待ちになって、いま読みますから」そして送話器に向って、「ドレイク探偵局へかけて、ドレイクさんに、所長がお待ちしているって言ってちょうだい」そして電話を切ると、速記した電文を翻訳した。
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ういりあむ・まろりい主教ハしどにいヨリノ往路航海ニ船客トシテ余ト卓ヲトモニセリ 五五歳前後 五ふいーと六マタハ七 体重一七五マタハ八〇 全船客ヲ調査セルモ明ラカニ本船ニ在ラズ
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「『船長E・R・よはんそん』と署名してありますわ」
メイスンはうなずいて、「うん、たしかによく調べたに違いないよ。何か重要なことだということは、船長にはわかったんだよ」
「主教さんは密航してるんじゃないかしら」デラ・ストリートが言った。
メイスンは頭を振って、「いいや、おれはヨハンソン船長の方に賭けるね。船長が乗っていないという以上、そのとおりに違いないよ」
「じゃ、主教が『モンテレー』号に乗りこんで、下船しなかったと思ったのは、ドレイクの間違いだったことになるわね」
メイスンは言った。「もし荷物を持っていたら、そういうことも……」そこまで言って、だまってしまった。じっと考えこんで立ったまま、デラ・ストリートの顔をみつめていたが、「もう一度、ヨハンソン船長に無電を打ってくれ。マロリー主教の名のラベルの付いたスーツケースが船の中の荷物部屋にあるかどうか、わかったら知らせてくれって」
「じゃ、主教さんが変装道具を持って乗船したかも知れないとおっしゃるの?」疑わしそうにデラが言った。「そうしておいて下船して……?」
「変装して船に乗ったんだよ」メイスンは笑いながら言った。
「どういうこと、それは?」
「すべての事情から察するに、主教さんは頭をすっかり繃帯していた。ところで、おれは救急車が主教を運んで行った直後に、あのホテルの部屋を見た。かけ蒲団がベッドの上にあって、主教さんが寝ていたらしい凹みがついていたが、どこにも血は一滴もついていなかった。あの人は明らかに棍棒で殴られたんで――それだと普通は打撲は出来るが、皮膚は破れないんだ。さて然らばだ、なぜ主教は顔ぜんたいを隠さんばかりの繃帯を頭に巻く必要があったか?」
デラは困惑して眉をひそめ、彼をみつめていたが、「だって、先生、ドレイクの探偵たちは、あの方の様子をよく知っていたのよ。顔かたちを隠したって、何にもならないじゃありませんか」
メイスンは笑顔になって、「デラ、きみはああいう大きな汽船の出航するところへ行き合わせたことがあるかい?」
「いいえ。なぜ?」
「出帆ま近になると、埠頭からの踏板のところはごった返して、身動きもできない押し合いになる。ぎっしりと顔が並んで流れ出てゆく。きみが探偵だったとして、一人の男が黒の背広で、頭を繃帯でぐるぐる巻きにして乗船したのを見ていたとする、きみの頭は、そのごった返しがはじまった頃には、自分で自分をだます程度に物臭になってるだろう。言いかえれば、人々の顔を一つ一つ検査しようとはしないだろう。無意識に、繃帯した頭と黒い背広だけを探すだろう。もし目ざす男が、ツウィードの背広なり、目立たないグレイの背広なりを着て、繃帯しない頭にフェルト帽子を真深にかぶって踏板を降りて来たら、きみは無意識にその男を見のがしてしまうだろう。ほんのわずかの時間の出来事だ、何百という人間が踏板から押し出されて来る、それが熱狂して喚きたてる群集のなかへとけこんでしまうのだ」
デラ・ストリートはようやく承服してうなずき、「そうね、そんなこともありそうだということはわかるわ。だけれど……」
そのときメイスンの私室をポール・ドレイクのおきまりのノックが聞えたので、彼女は口をつぐんだ。
デラがドアをあけた。ポール・ドレイクは彼女にうなずいてみせ、風邪をひいたらしい濁ったアクセントで、「おはよう、デラ。入れよ、ハリイ」と言った。
ドレイクとハリイ・カウルターがオフィスヘ入ると、ドレイクは詰問の調子で弁護士に向って、「昨夜のウイスキーの残りについて、話があるぞ、ペリイ、おれがどうなったと思うんだ」
うるんだ眼、赤くなった鼻をつくづく眺めて、メイスンは同情のない笑顔で言った。「きみは最初に余計に飲みすぎたぜ、ポール。だから反応が早くきたんだ。ハリイ、きみはどうだ、何ともないか?」
「大元気ですよ」カウルターは答えた。「しかもぼくは所長があすこへ来る前に、何時間もズブ濡れで駈け廻ったんですからね」
ドレイクは大きい革椅子にすべりこんで、両脚をそのふくらんだ肘にかけ、悲しそうにデラを見て頭を振ってみせた。「一生懸命、ご用をつとめた結果がこれだ」彼は言った。「弁護士のために病気になるほど働いたって、これっぱかしの同情もしてもらえねえ。みじめなもんだ。探偵は夜昼《よるひる》わずかな日当ではたらいてるのに、弁護士はその探偵の調べた結果を土台に、たんまり報酬をせしめるんだからな」
メイスンはニヤニヤ笑って、「風邪はそれだからいけない――ものの見方が悲観的になるからね。これだけ仕事がたくさんあるのを幸運だと思えよ、ポール。しかしきみが同情を求めてるっていうなら、デラに手でも握ってもらいながら、報告を聞かせてくれ」
と、ドレイクは急に感電したように活発に動き、顔をヒクヒクさせながら、右の手で腰のポケットを探った。あわててハンカチーフを引っ張りだしたが、一瞬おそく、それを鼻へあてがう前に猛烈なクシャミが出た。情なさそうに鼻を拭きながら、風邪声《かざごえ》で、「シートンという女は消えてなくなった。昨夜はとうとうアパートヘ帰って来なかったよ。おれは今朝もう一度あの部屋へ押し込んで、ざっと見たが、この前にきみと二人で見たときのままだったよ」
メイスンは顔をしかめて考えていたが、「あのアパートのなかのどこかに隠れてるなんてことはあるまいな――たとえば友達の室か何かに?」
「そうは思えんね。歯ブラシも歯みがきも、洗面台のわきの棧に懸けてある。新しいブラシを買いに外へ出るわけはないし、友達の室へ行ったなら、たとえ忘れたとしてもコッソリ取りに帰るはずだよ」
「じゃ、どこにいるんだ?」
ドレイクは肩をすくめ、またしかめ面になって、鼻の下にハンカチーフをあてがった。しばらくそのままでいたが、やがて顔の緊張がゆるんで、溜息をつきながら、彼は言った。「これがまた自然の法則に対するおれの不平の種なんだ。おれがハンカチを鼻にあてると、クシャミが出ない。ポケットにしまうと、今度は出すのが間に合わない……ときに妙なことがあるぜ、ペリイ。おれたちのほかに、二人、見張ってるやつがある」
「どこに?」
「シートンのアパートだ」
「警察か?」
「いや、そうじゃあるまい。うちの連中は、私立探偵だと言ってるよ」
「そいつらがシートン娘を見張ってるということが、どうしてわかる?」
「わからんが、そうらしいんだ。一人のやつはこっそり三階へ上って、うろついていた。部屋の中へさえ入ったかも知れない……ハリイにどういう用があるんだね?」
メイスンはハリイ・カウルターに向って、「昨夜、ブラウンリーは、まっすぐ浜へ行ったかね?」
「ええ」
「きみはずっとうしろからつけて行ったんだろう?」
「まあ、そうです」
「ほかの車に追い越されなかったか?」
カウルターはちょっと考えていたが、「そうです。大きな黄いろいクーペが、ちょうど浜へ着く直前に、追い越してゆきました。すげえ勢いで飛ばしていましたぜ。それより前にも追い越されたかも知れませんが、それは思いだせません。雨のなかを、ブラウンリー爺さんを追跡するんで、手いっばいでしたからね。だからその黄いろいクーぺは、すごい速力を出していましてね、しかもぼくたちを追い越したのは、|本通り《メイン・ドラッグ》を通りすぎてからでしたよ」
「言いかえると、もう浜のすぐそばへ来てからだね?」
「そうです」
「その車には幾人乗っていた? 一人か、二人か?」
「一人だと思います。そしてその車はキャデラックだったと思います、自信はありませんが」
少し考えて、メイスンが言った。「ポール、ブラウンリー邸の車を当ってみてくれ。いまの話に合う車を、誰か持ってるか、調べてくれ。それから、それをやってるあいだに、召使いたちからでも、ブラウンリーが出かけたあとで、家の内外で何か普通でない動きがあったかどうか、聞き出してみてくれ。そして……」
「あ、ちょっと待ってください」ハリイがさえぎった、顔に皺を寄せている。「思ったよりも、ぼくはもっと知ってるかも知れませんよ」
メイスンがいぶかしそうに眉を挙げた。
「ヨット・クラブのわきに、ほかの車がパークしていました。もうずっと昔からそこにあったように見えたんです。あの連中が海へ出るとき、どんなふうにするか、ご存じでしょう。あすこの道路の駐車場に、車を乗りすてて鍵をかけておきっばなしにしておくんです。あすこにはギャレジもあるんですが、たいていの連中は……」
「うん、それは知ってる」メイスンはさえぎった、「それがどうしたんだ?」
「ええ」カウルターは言った、「ぼくがブラウンリーのヨット置場のところで、車を見失ってグルグル廻っていたときのことです、雨のなかに、四、五台の車がパークしていました。ブラウンリーに|まか《ヽヽ》れたんで癪にさわっていたもんですから、その四、五台の車をずっと眺めたんです――ベつにそれを憶えておこうというつもりではなく、そのなかにブラウンリーの車がないかと思って見たんです。そのときは、そのなかにはいませんでしたから、ぼくは通ってしまいました。しかしいまになって考えてみると、あのなかの一台は黄いろい大型のクーペで、キャデラックでした、と思います。してみると、あれがぼくを追い越した車だったかも知れません。もちろん、はっきりしたことは言えるはずがありません、何しろ追い越されたときは、土砂降りでしたからね、バック・ミラーにヘッドライトが映って、それから大波のように水がかぶって、一台の車がどうっと追い越して行ったんです。その次に見えたのはテールライトだけでした――雨の晩に追い越してゆく車なんて、そんなものです」
メイソンがうなずくと、ドレイクがまたハンカチーフで鼻を抑えてクシャミをしてから言った。「ああ、風邪をひいてから、はじめてハンカチが問に合ったよ」
「きみは今朝あすこで風邪をひいたんではないぜ」とメイスンが指摘した。「風邪って、そんなに早く出て来るもんじゃない」
「うん、わかってるよ」ドレイクが言った。「たぶんおれは風邪なんかひいていないんだろうよ。きみは汽船の甲板を散歩して、パイプをふかしながら、青い顔をした船客に向って、船酔いなんてものはない――単なる空想にすぎん、なんて言う連中に似てるよ。
ふだんなら、おれはこんなことを言うのは嫌いだがね、ペリイ、しかしきみがあんまり同情がないから、こんなことを言うのも気晴らしの一種だ。どうせきみは、黄いろいクーペでも何でも、好きなだけオモチャにするのもいいが、それがすんでしまったところで、きみはどうにもならんのだぜ。この事件は、警察がきみの依頼者をガッチリ抑えつけちまった場合の一つで、気をつけないと、きみまで抑えつけられるかも知れないぞ」
「そりゃどういう意味だ?」
「言葉どおりの意味さ。警察だって、事件にぶつかってからはまるで居眠りしていたわけじゃないし、きみ自身いくらかの手がかりを残して来てるよ。
警察は、ブラウンリーが、きみの依頼者を手も足も出ないようにする遺言を作る気でいると、きみにしゃべったことを立証できる。それからきみがウェスタン・ユニオン局へ行って、モンテレー号へ電信を打って、局の公衆電話を使ったことを跡づけることができる。つまりジュリア・ブラナーの泊まっているステラ・ケンウッドのアパートヘ電話をかけたことを立証できるんだ。
そこで、きみがジュリアに電話したあとで、ジュリアはタクシーの運転手にブラウンリー老人のところへ手紙を持ってゆかせた。ブラウンリーはその手紙を読んで、オスカーの時計を取り返すために浜へ行かなくてはならんということを洩らした。ものすごく興奮したんだ」
「タクシーの運転手はその手紙をブラウンリーに渡したのか?」メイスンが訊いた。
「老人にじゃない。孫息子に渡し、孫息子がそれを持って行った。ブラウンリー老人は眠っていたんだ」
「フィリップは老人が手紙を読むのを見たのか?」
「そのとおりだ。そしてジュリアから時計を取りもどすという話をフィリップにしゃべったんだ。――さて警察は、女が老人を浜へおびき出して、踏板に上って、・三二オートマティックでやっつけたと、こう考えている。女は兇器を落っことして、引き揚げた。共犯者が一人、その場にいて、これが車に乗りこみ、運転して波止場まで行った。近くに別の車をおいてあった。車を低速《ロウギヤ》にして、自分は踏板に立って、スロットルを開き、飛び下りた。車は海へとびこんじまった」
「そして車は、引き揚げられたときもロウギヤになっていたんだと思うが?」メイスンが訊いた。
ドレイクはハンカチーフで鼻をこすりながら、含み声で、「うん、そうだ」
「そして兇器はあの女のものです」カウルターが言った。「ソルトレイクシティで許可を取って、持ち歩いていたんです」
ドレイクが鼻をクンクンさせながら言った。「それどころか、車の左側の窓に、ジュリアの指紋まで警察はとったんだぜ。いいかい、雨が降っていたから、ブラウンリーは窓を閉めて運転していた。ジュリアが出て来たので、話をするために窓をあけたが、ブラウンリーは硝子をすっかりおろしたわけじゃない。女は踏板の上に乗って、窓に指をかけたから、硝子の内側に完全な指紋を残しちまった。車を引き揚げるのが早かったから、指紋はまだ水で消されていなかったんだ」
メイスンは顔をしかめた。「ブラウンリーが浜へ出かける前に、彼女が車に指紋を残すというチャンスはないのか?」
「一千万分の一のチャンスもありゃせん」ドレイクは答えた。「さあ、これが暗い方の面だよ、ペリイ。ところが雲のまわりにも銀色の明るい縁がある。ブラウンリーの邸に住んでる孫娘というのが、ニセモノらしい、大いに見込みがあるんだよ」
「何か事実をつかんだのか?」メイスンが訊いた。
「むろん、事実をつかんださ」ドレイクは怒りっぽく答えた。「それがどういう結論になるかは知らんが、とにかく事実だ。オスカーが死んでから、老人は孫娘のありかを知りたがった、それでジャクスン・イーヴズをつかまえて、探させた――というか、イーヴズの方からブラウンリー老人のところへ行って、娘をみつけて来ると名乗り出たのかも知れん。どっちだかは、おれにはわからん。
ところで、おれの倫理から言って、よその探偵局をやっつけるのは本意じゃないし、死んだ人間を悪く言うのも感心したことじゃないが、噂によると、もしイーヴズが孫娘をみつけたら、二万五千ドル払うと、ブラウンリー爺さん、約束した。
二万五千ドルの金と、それに加えて、その娘がいくら相続するにしても、その割り前とを考えて、そしてイーヴズの職業倫理の綱領からそれを差し引いたら、何も本の終りのページをひっくりかえしてみなくたって、答えは出ようというものだ。おれはイーヴズのために、これだけは言っておこう。あいつは本物の孫娘を探そうとして、ずいぶん手をつくしたらしい。わざわざオーストラリアまで行って厚い壁にぶつかっちまったんだ。
イーヴズの目の前には、二万五千ドルの賞金がぶらさがっていた、これは探偵として、孫娘を持ち出すことができないというだけでアッサリ引きさがるにしては、あまり大きすぎる金だった。ところでニセモノが本物でないことを証明する唯一の方法は、本物を持ちだすことだけだということを、忘れないでもらいたい。イーヴズはとても本物を持ちだすことはできんという結論に満足できる程度にまでは調査をしたんだ。老人は、むろん金を払うについては、証拠が欲しかった、だが同時に、その娘が本物であることを信じ|たがって《ヽヽヽヽ》もいたんだ。老人は納得させて貰いたかった。イーヴズとその娘とは老人を納得させたかった。反対側に立って議論をつくす人間はいなかった。いわば、弁護士が、反対側に立つ証人も弁護士もなしで、裁判官に向って自分の立場を論じるようなものだ」
メイスンはじっくりと考えこみながら、「イーヴズは、その娘が相続をしたら、割り前をとるという取りきめをしたと思うかね?」
ドレイクは性急に、「もちろんさ。イーヴズがそんな餌をみのがす男だと思うかい?」
「そして死んだんだね?」
「うん、まあね」
「そういう話を、自分ひとりにしまっとくことはないだろうね、ポール。その取引には誰か他の人間がいたに違いない、そしてイーヴズが死んだ今、相続した遺産のイーヴズの取り分を取ろうと狙ってるに違いない」
ドレイクはうなずいて、「なるほど、理屈だ、だがおれには何も立証できんね」
「そうしてさらに、その餌の臭いを嗅ぎつけた人間が、割りこもうとするかも知れん――原則としてはの話だが」メイスンは指摘した。
「それはありそうでないな」とドレイクが言った。「強請《ゆすり》屋が、もし事情をよく呑みこんでいるとしたら、こりゃ強請屋にしては大した道具立てだよ。だがブラウンリー爺さんはばかじゃなかったし、ジャクスン・イーヴズにしたってそうだ。娘が邸に入るときに、二人は新聞には飛ばっちりも見せなかった。するりと静かに邸に入って、そのまま暮らしていた、そしてブラウンリーが何げなく、これはおれの孫娘だと言った、しばらくしたら社交記者どもはパーム・スプリソグズヘ出かけるたびごとに書き立てるようになった。着ている衣裳のことも必ず書いた」
メイスンはゆっくりとうなずいた。「孫娘は、いまでも邸にいるかい、ポール?」
「いや、今朝はやく邸を出て、サンタ・デル・リオス・ホテルヘ行った。ああいう若い娘が、こんな惨劇のあとで家のなかなんかにいたくないのは当り前だろう」
「その娘がそう言っているのか?」メイスンが訊いた。
「その娘がそう言ってるんだ」ドレイクが肯定した。
「一方、この殺人事件に彼女をまきこませない方が利益だと思う人間がいれば、そういう人間と相談をするには都合がいいから、それでホテルヘ行ったのかも知れんね」
ドレイクはクシャミをし、鼻を拭いてから言った。「おれは見張りをつけてある」
メイスンは眉に皺を寄せ、床を歩きだした。一、二度、疑わしそうに頭を振って、それから歩くのをやめ、股を大きく開いて、気むずかしい顔で探偵をじっとみつめた。
「そんなことをしても、何にもならんね、ポール」彼は言った。「そんな網を張っても、雑魚《ざこ》はひっかかるかも知れんが、呑舟の大魚は逸してしまうな」
「それは何の話だ?」ドレイクが訊いた。
「その娘がホテルにいて、誰かがその味方として画策しているとするね、その誰かというのは探偵か、それともイーヴズの生前にイーヴズの協力者だった男だろう。別の言葉で言えば、その男は探偵がどんなふうに仕事をするか、何のために見張りをするかを、よく知っているやつだ。おれたちが娘に尾行をつけていることは、その男にはすぐわかる、そこでその尾行がなんの役にも立たんように、少くとも自分の関する限りでは、計略をたくらむだろう」
「ふん、だからって、おれに何ができるんだい?」ドレイクは怒りっぼく反問した。
「仕方がないさ。要するに、おれたちの狙うべき当の相手は、尾行をしようにも普通のやりかたではつかまえられんということだ」
彼はデラ・ストリートに向って言った。「デラ、きみ、ヘンナを使って、髪を赤いきれいな色に染めることができるかい?」
「ええ。なぜ?」
メイスンは気むずかしい調子で、「あのシートンという娘のアパートヘ、いかにも自分の部屋みたいな顔をして入って、トランクやスーツケースの荷づくりをすませて、どこかのアパートヘ引っ越してもらいたいんだ」
「そんなことをしたら、えらく注目の的になりゃしないか?」ドレイクが訊いた。
メイスンは、頭のなかで考えていることをそのまま口にしているような不機嫌な調子で、「家宅侵入、大窃盗罪、その他――といってもそれは、犯罪的意図を立証できた場合のことだ。犯罪的意図を立証できなかった場合には、なに、そう大したことはないさ」
「しかし、そうすることの利益は何だい?」ドレイクが質問した。
「あの家を見張っている男たちが、イーヴズの遺産の割り前を取ろうとしているやつらに雇われてる連中だとしたら、人相書でわかる程度のことしかジャニス・シートンについて知っていないはずだ。つまり小ぎれいな姿をして、髪が赤いぐらいのことしか知りゃしないんだ。その人相書に相当する女がシートン娘の部屋を明け渡して立ち退けば、やつらは二と二と寄せれば四になるつもりで行動するだけで、わざわざ銀行へ行って身許をしらべるような手数をかけやしないよ」
ハリイ・カウルターが落ち着かぬ様子でモジモジしていたが、このとき言った。「メイスンさん、やつらが何を狙うか、わかったもんじゃありませんよ。一方から考えると……」
そこまで言って、テレて、肩をすくめた。
デラ・ストリートは戸棚のところへゆき、自分の帽子と外套を出して来た。
「先生、髪を染めて、乾かすのに、二時間ぐらいかかりますわ」と彼女は言った。
メイスンはうなずいた。ほかの二人の男は心配そうに、無言で彼女をみつめていた。
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そのホテル・アパートの前で待っていたメイスンは、眉をひそめて腕時計と相談した。巻煙草に火をつけ、いらいらと舗道を行きつ戻りつした。煙草を半分ほどすい終った頃に、タクシーが一台、綱で小型の衣裳トランクを括りつけて、角をまがって来た。
ちらりとそれに一瞥をくれて、メイスンは吸殻を歩道の溝に棄て、アパートの玄関まで引き返し、タクシーを降りて歩いてくるデラ・ストリートと、その明るい赤褐色の髪とを見た。
そのまま振り向いて、ロピイヘ入ってゆき、デスクに控えているクラークに安心させるようにうなずいてみせ、「鍵は持ってる、ありがとう」と言った。
エレヴェーターで十階まで上り、一〇二八号室のドアをあけた。入ってドアを閉めると、椅子を引き寄せ、その上にあがって、廊下をへだてた正面にあたる一〇二七号室の欄間を望見した。
数分後、エレヴェーターのドアのあく音、廊下を歩むせかせかした足音、つぎに手押しトラックの車輪の音が聞えた。デラ・ストリートが、片手にスーツケース、片手にバッグを抱えたポーターに案内されて、廊下をこっちへ歩いて来た。ポーターが一〇二七号室の前で足をとめて言った。「この部屋です――電話でお申し込みになったのは。お気に入らなければ、とりかえます」
「これでいいと思うわ」デラ・ストリートが言った。「アパートには馴れていますし。この家も、前にお友達が住んでたことがあるから」
ポーターはドアをあけ、傍へ寄ってデラを入らせてから、スーツケースを持ってあとに続いた。すぐあとから、手つだいのボーイが手車でトランクをなかへ運びこんだ。
メイスンは欄間の下枠に腕をかけて、身体の重みを楽にした。ポーターとボーイとが、めいめいニコニコ顔で廊下へ出て来て、外からドアを閉めるのを、彼は見た。
それからだいぶ退屈させられた。メイスンは身体の位置を変え、煙草を何本もすい、その吸殻を欄間の下枠でこすり消した。
やがてエレヴェーターのドアの音と、廊下に足音とが聞えて、彼は緊張をとりもどした。絨毯を敷いた廊下を、足早に、背の高い男が一人、近づいて来る。足音をぬすもうとしている様子もみえないが、それにしてはその男の様子には厭にコソコソした感じがあった。
男はメイスンの室の前に立ち止り、ノックしようとするように手をあげかけて、室番号をよく見ると、クルリと振り向いて一〇二七号のドアをノックした。デラ・ストリートの声が言った。「どなた?」
「電灯の接続線を検査に来たんですが」男は言った。
デラ・ストリートはドアを開いた。男は一言もしゃべらずになかへ入った。やや手荒に、ドアが閉まった。
メイスンは煙草をすい終り、腕時計を見た。
一分、二分と、時計は秒を刻む。
五分たって、メイスンはまた新しい煙草をすいかけたが、二口もすわないうちにそれをもみ消した。廊下ごしに、向うの部屋で何かドサッというかすかな音がし、耳のせいかと思う程度の押し殺した物音がした。
メイスンは床に飛び下り、片方の手首の一ひねりですばやく椅子を半分がた部屋の中央まで動かし、パッとドアをあけて僅か三足で廊下を横切り、一〇二七号室のドアノブを廻した。
ドアは錠がおりていた。
猫のような敏捷さで、うしろへさがると、肩を低くして、ドンと前へぶつかって行った。全身の重みを鍵のかかったドアにぶつけたのは、球を持ってラインを突破するフットボールの選手が、ファイナル・クオーターの残り時間あと何秒という際どい瞬間に似ていた。掛け金がこわれ、板がメリメリと割れた。ドアは蝶番の通りに跳ね返り、ドアストップに激しくぶつかって、そのまま揺れながら止った。
メイスンは猛烈に蹴上げる二本の脚を、きゃしゃな、抵抗する女の身体にのしかかっている男の広い肩を、見た。二人は書斎用の寝椅子の上であらそっている、その寝椅子の下から、ベッド用の布がひきずりだされていて、例の背の高い男は、デラ・ストリートの顔の上に厚い枕をかぶせ、彼女の叫び声を殺し、徐々に彼女を窒息させようとしていた。そのとき急に飛び立ってメイスンの方へ向き直った男の顔は、はげしい腕力の行使に口許がひきつれ、テープに近づいた短距離選手の顔のケイレンを思わせた。
男はあわてて腰のポケットヘ手をのばした。「動くな」彼は警告を発した。
メイスンがつかつかと進み寄った。
デラ・ストリートは枕をはねのけた。背の高い男はポケットから青く塗った鋼鉄の武器をつかみ出した。十フィートほど離れて、メイスンは・三八口径リヴォルヴァの薄気味のわるい黒い銃口をじっとみつめた。発射時の反動を予期したように、男は肩を突っ張った。唇がゆがんでめくれ、歯がむきだされた。メイスンは急に足をとめて、デラ・ストリートの方へ視線を移した。
「怪我はないか?」彼はきいた。
「手をあげろ」拳銃を持った男は威嚇した。「壁のところまでうしろへさがれ。さがったら壁の方を向いて、手を高く……」
デラ・ストリートが身体を折りまげ、踵で床を蹴って弾丸のように前へとびついた。男はわきへ飛びのいたが、そのとき早く彼女は拳銃を持った腕にしがみついていた。メイスンが二跳躍して、右の拳を大きく振り、それがモロに男の顎に入った。
背の高い男はうしろへよろめいた。拳銃をとろうとしがみついていたデラ・ストリートは、男の腕を下へ引きおろしながら、顔を下に、床へ倒れた。彼女は力の抜けた男の指から、兇器をもぎとった。身体の平均をとりもどした男は、憤然とメイスンを一蹴り蹴って、椅子に手をかけた。
拳銃を手に持ったままで床をころがりながら、デラ・ストリートが絶叫した。「気をつけて、先生《チーフ》! そいつは人殺しよ!」
メイスンは敵に殺到すると見せかけて、だしぬけに踏みとどまった。
男は力いっぱい、椅子をふりまわし、メイスンの殺到が見せかけだったと気がついて、中途で振るのをやめようとしたが間に合わず、半廻転して、重心を失った。椅子を手から離し、殺到してくるメイスンにつかみかかった。その左の脇腹をメイスンはノックし、矢つぎ早に相手の鼻柱を一撃した。その鉄拳の下で、鼻柱がぐしゃりとつぶれたのがわかり、見ると男はよろめいてうしろへさがり、とたんにどっと尻餅をついた。背の高い男は何か叫ぽうとしたが、血だらけの鼻と口で、出て来る音は言葉をなさなかった。
デラ・ストリートはやっと起き上ると、メイスンは男の襟をつかんで引き起し、ぐるりと一廻転させて、今しがたデラと格闘していた寝椅子の上に突き倒した。弁護士の両手は、手早く男の武器のありなしを捜った。
「これでよし、若いの」と彼は言った。「何とか言え!」
男はガボガボと咽喉を鳴らし、上衣のポケットからハンカチーフを出して、ペチャンコになった顔にあてがい、顔から離すと、真赤に濡れていた。
デラ・ストリートが浴室からタオルを持って走って来た。メイスンがその一枚を男に渡してやり、デラに「水を少し」と言った。金盥に水を入れて彼女が運んで来ると、メイスンは一枚のタオルを水にひたし、それを男の頸の下にあてがって支え、冷水を彼の顔にぶっかけた。男は濁った、むせたような、ちょうど鼻をかみながらしゃべっているような声で、「鼻がつぶれちまった」と言った。
「じゃ、おれがどうすると思ったんだい?」メイスンが訊いた。「キスでもするのか? 頸が折れなくって仕合せだと思え!」
「訴えて、逮捕させてやる」男は苦しそうな声をしぽって言った。
「きさまは、殺人の意図による暴行の容疑を避けられないんだぞ。こいつは何をした、デラ?」
デラ・ストリートは半分ヒステリックに言った。「乱暴なやつよ、先生。あたしが口笛を吹いて、あなたに合図しようとしたら、いきなり跳びかかって、息がとまるほど殴っといて、戸棚から寝具を引っ張りだして、あたしを窒息させようとしたのよ。あたしを殺すところだったわ」
男は顔にタオルを押しあてて、うなった。
メイスンは憎々しく、「おれはきさまの頭を梶棒で殴ってやるんだった。だが困った、きさまの顔をすっかり変えちまったから、マロリー主教に見せても、あの人の頭を殴ったやつがきさまだったかどうか、わからなくなった」
血だらけのタオルの奥から、男は何か含み声で言ったが、言葉は聞きとれなかった。
メイスンが言った。「そうだ、こんなことをしていても仕様がない。この男が誰だか、調べようじゃないか」
彼はおだやかに男のポケットのなかを探った。男はメイスンを押しのけようとし、次にはメイスンの咽喉をつかもうとした。メイスンが「まだ足りないか?」と言って、相手のミゾオチに一突きくれた。その格闘がやんで、彼は男のポケットから幾つかの品物を引きだし、デラ・ストリートに渡した。彼が発見して手渡したものは、紙入れ、鍵ケース、ナイフ、時計、棍棒《ブラックジャック》、巻煙草一包み、ライター、万年筆、鉛筆、そして最後に革の鍵ケースとは別にしてある鍵が一個、だった。「目を通してくれ、デラ、そうすればこの男が何者だかわかる」
男は寝椅子にぐったりして、完全に動かなくなっていた。ただタオルをあてがった顔の奥からゼイゼイ苦しそうな息をしているのだけが、まだ生きている証拠だった。デラ・ストリートが言った。「この男はあたしを殺そうとしたんです。ただあたしの声を出させなくしようとするのと、ほんとに殺そうとしているのとの違いは、わかります」
「わかった」メイスンは言った。「こいつが誰だか、調べよう。この事件のどこでどういう役廻りをこの男が勤めているか、それがわかると、今までわかっていたことよりもずっとたくさんのことがわかってくると、おれは踏んでるんだ」
紙入れをあけて見ながら、デラが神経質に笑った。「手がふるえてるわ。あたし、くやしい、先生、ほんとうに怖かったのよ!」
メイスンが言った。「うんととっちめてやるよ。こいつは主教さんの頭を殴った一味の一人だ。あのブラックジャックを持っていた廉で、刑務所へ叩きこめるよ」
「運転許可証があるわ。ピーター・サックスという男のものだわ。住所はリプリイ・ビルディング六九一」
「オーケー、ほかに何かあるか?」
「名刺もあるわ。有限責任、キャリフォニア探偵局。ピーター・サックス名義の私立探偵としての登録証もあるわよ」
メイスンは口笛を吹いた。
「紙入れのなかには、まだほかにも書類があってよ。それも調べる?」
「全部だ」
「二十ドル紙幣で百ドルあります。汽船モンテレー号、ウイリアム・マロリー主教宛ての無電があります。読むわよ――」
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ちゃーるず・W・しーとんハ六ヵ月前自動車事故ニテ死亡セリ 余ハ彼ノ遺産ヲ整理シツツアリ さん・ふらんしすこ、まとすん会杜気付 貴下宛テ重要ナル手紙ヲ出ス
(署名)弁護士じゃすぱー・ぺるとん
[#ここで字下げ終わり]
「さあいくらか見当がついてきたぞ」とメイスンが言った。「ほかに何がある、デラ?」
「ここに手紙があります。アイダホ州ブリッジヴィル、弁護士ジャスパー・ペルトンからよ。宛名はサンフランシスコ、マトスン郵船会社気付、汽船『モンテレー』号旅客、ウイリアム・マロリー主教殿」
「読んでくれ、さあ」とメイスンが言った。
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親愛なる主教様。(デラは読んだ)チャールズ・W・シートンの遺産整理の任にある弁護士として、私はシートン氏宛て、貴下がサンフランシスコご到着次第、至急連絡せよとの無電を拝受しました。
シートン夫人は、良人チャールズ・W・シートンおよび令嬢ジャニスに先立ち、約二年前に死去されました。約六ヵ月前、シートン氏は自動車事故で致命的傷害を受けました。右の傷害を受けてから二十四時間を経ずして、氏は死亡しました。臨終の床には看護婦の資格あるジャニス嬢が付き添っていました。右の次第を貴殿にお伝えしますのは、死の直前の意識明瞭なる際に、シートン氏は貴殿にお伝えすべき何らかの伝言を私どもに言い残そうとする様子が甚だ明らかであったからであります。氏は数回、次のごとく言われました。「マロリー主教。告げてくれ……約束……要らない……新聞で読んだ……」
かく逐言的にお伝えできますのは、私どもは理解できる限りの言葉を筆記しておいたからであります。不幸にしてシートンは衰弱はなはだしく、明瞭に発言することができず、その言葉の大半は単なる意味不明の軋音にすぎませんでした。本人もこのことに気づいたらしく、その言わんとするところを伝えんと必死の努力をしましたが、ついに心にまかせず、みまかられたのであります。
当初、私は手をつくして合衆国じゅうにマロリー主教なるお方を探し求めました。シートン氏がいまはの際に語らんとした事件につき何らかの光明を与えていただけるであろうと信じたからであります。ニューヨークおよびケンタッキイ両州にお一人ずつマロリー主教なるお方がいられることを私は知りました。御二方ともシートン氏についてご記憶がなく、主教職にある者は多くの人々と接する機会があるため、どこかでシートン氏と会ったことがあっても忘れてしまっているのかも知れぬとのことでありました。
シートン氏は一時は相当の資産を有しておられましたが、過去二年来、氏の資産状態は絶望的に悪化し、要求せられ、かつ支払いを認められたる各種支払い分を遺産目録の評価額中より引き去りました後には、現在、ロサンゼルス市内某所に居住するはずの令嬢に移譲されるべき資産がどれほどあるか、甚だ疑わしい状態であります。
令嬢の現在の住所は私は存じませんが、彼女の友人を通じ連絡をとり、貴殿へご連絡するよう申し伝えるよう努力いたします。もし貴殿がロサンゼルスヘおいでになるようなことでもありましたら、令嬢が資格登録せる看護婦なる事実を利して、その居所をお訪ねになれるかと存じます。
かく詳細に貴殿に対しお知らせいたしますのも、私は故シートン氏の親友の一人であるのみならず、故人が参加し積極的に活動していた某友愛団体の会員の一人でもあるからであります。何とかして遺産中よりジャニスヘ相当のものを送りたきものと、衷心から切望しておりますが、同時にもし貴殿が何らか既存の、あるいは潜在的の資産に関しご存じのことでもありましたら、ジャニス・シートン嬢もしくは私あてご連絡いただければ甚だ仕合せに存ずる次第であります。
[#ここで字下げ終わり]
「それで全部か?」とメイスンが訊いた。
「本文はこれだけで、あとは署名よ。何だかすごいなぐり書きだわ」
「よし、これでだいぶはかどってきたぞ。その電報や手紙はこいつが……」と言いかけたときに入口で声がした――「こんなところで何してるんだ?」
メイスンが振り向くと、そこには血色のよい赤ら顔に短い白い口髭がひどく対照的な、尊大ぶった一人の老紳士の顔があった。眼つきは鋼鉄のように冷たく、度胸がすわっている。一見したところ、銀行家か何かのようだが、眼つきにはひどく気味のわるい悪党じみたところがあった。
メイスンが言った。「おや、きみは一体どういう役廻りなんだ?」
「わしはヴィクター・ストックトンだ」男は言った。「それがどうかしたかね?」
「どうもせんね」とメイスンが答えた。
「きみもわしにはどうでもいい人だ」
寝椅子に倒れていたサックスは、ストックトンの声が聞えたときから、半身を起そうとして、もがいていた。血染めのタオルを顔からとった。冷徹な灰色の眼が、メイスンからサックスヘと移った。「ピート、きさま、何をされたんだ?」ストックトンが訊いた。
サックスは何か言おうとしたが、腫れ上った唇とつぶれた鼻が、言葉を聞きとらせなかった。
ストックトンはメイスンに向き直った。「この男はわしの仲間だ。この事件で一緒に仕事をしている。きみは誰か、わしは知らんが、これから知ろうと思っておる」
両手を横腹にあてがったメイスンが言った。「きみの友人のサックス氏は、リーガル・ホテルのマロリー主教の室へ押し込んで書類を盗んだ。|あの《ヽヽ》仕事についても、きみはサックス君の仲間だったのかね?」
ストックトンの眼つきは相変らず冷たい、さしてひるんだ色もみえない、が何か薄い膜のようなものが、その眼の上にかかったように見えた。
「何か証拠をつかんだのかね?」彼は訊いた。
メイスンが答えた。「仰せのとおり、たしかに証拠をつかんだ」
サックスがとびだして、デラの手から手紙をもぎとろうとした。メイスンはその肩をとらえて、押し戻した。ストックトンが腰に手をまわしながら進み出ようとした。デラ・ストリートがグッと身体を押しつけて来たのを、メイスンは感じ、右の腕を軽く引かれるのを感じた。彼女はメイスンが探偵の手から叩き落した・三八口径の冷たい銃身を、彼の指のなかへそっと押しこんだ。
その右手をメイスンは前へ突きだした。拳銃を見ると、ストックトンは凍りついたように動かなくなった。メイスンはデラ・ストリートに言った。「あすこに電話があるから警察本部を呼びなさい。警察が出たら……」
顔をへしゃげられた男は急いで身を起した。ストックトンが一つうなずいた。
よろめきながらサックスは走った、ストックトンの横をすりぬけ、ドアの外へ、そして廊下を。ストックトンは用心ぶかく入口の方へ向きをかえると、ゆっくりと歩いて部屋の外へ出て、外からドアをしめた。
メイスンがデラ・ストリートに言った。「怪我はないかい、デラ?」
ニッコリ笑って、デラは頭を振り、指さきで咽喉のあたりをさわってみた。「あのケダモノ、あたしの頸を締めようとしたのよ。それからお腹に片膝をのせて、寝具をあたしの頭にかぶせちやったの」
「きみがおれに合図をしようとしていたのを、あいつは気がついたのかい?」
「気がつかなかったようだわ。乱暴をしかけてきたから、口笛を吹こうとしたの。先生、たしかに、あの男、死物ぐるいだったわ。眼を見たら、すっかり狼狽して、殺意がありありとわかったわ。きっと何かに脅かされて、追いつめられた鼠みたいになっていたのよ」
メイスンはうなずいて、「もちろん、脅かされていたんだ」
「何にでしょう?」
メイスンが答えた。「ジャニス・シートンはレンウォルド・ブラウンリーの本当の孫娘だ。あの探偵どもは例の女天一坊をでっちあげた悪党の一味だから、どうしてもこのまま押し通さなくちゃならない。プラウンリーが死ねば、やつらは贋物の孫娘から遺産の分け前を取るだろう、そうすればやつら一人一人が大金持になれる。だから富か、刑務所か、二つに一つの大バクチをやってるのさ」
「ブラウンリーを殺すのは、あの一味にとっては理屈に合わないでしょうか?」
「理屈上ブラウンリーを殺しそうな人物はたくさんいるよ」メイスンは言った。「おれの仕事は、実際上だれが殺したかを知ることだ」
「この書類、どうしましょう?」
「おれに渡しなさい」
「あなたが持っているおつもり?」
「証拠品として、とっておくよ」
「窃盗罪になりゃしない? あの財布にはお金が入ってるのよ。届け出られたら……」
メイスンは荒々しく、「あんなやつ、何ができる! 時が来たら、ここにある手紙をリーガルの雇い探偵のジム・ポーリイに廻してやれば、ポーリイがあの連中を主教の家へ侵入した廉で訴え出るだろう」
「所長、あなたはあの男の顔の正面に、洞穴をあけちゃったわね」
好戦的に、顎を前に突きだし、メイスンはデラを見る眼がモヤモヤとかすんだようになって、「もっとひどくやっつけてやらなかったのが、残念だよ」
彼は電話機のところへ行き、ドレイク探偵事務所を呼びだして、ドレイクがトルコ風呂に入っていると聞くと顔をしかめて、ドレイクの秘書に言った。「ピーター・サックスという名の私立探偵について、洗いざらい調べてくれ。この男はデラ・ストリートをシートンの娘と取り違えて、殺そうとしたんだ。……その角度ですぐに人を出してくれないか」
メイスンは電話を切った。「オーケー、デラ、きみはオフィスヘ帰れ」
「先生はどこへいらっしゃるの」
「おれか」ズバリと、メイスンが言った。「サンタ・デル・リオス・ホテルヘ行って、レンウォルド・C・ブラウンリーの贋孫娘と会見するよ」
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十一
サンタ・デル・リオス・ホテルで、メイスンは電話交換手の娘のてのひらに、二十ドル紙幣をそっとすべりこませた。「頼みたいのは、ブラウンリー嬢を電話口ヘ呼びだしてもらうだけのことだよ。そのあとは、わたしがうまくやるから」
「電話をとりついではいけないって、特別に言われてるんですの」交換台は反対した。「あんまり新聞記者に悩まされましたから」
「新聞で騒がれるのを避けてるんだね?」
「そうでしょう。悲歎にくれてるんですわ」
「なるほど、何百万ドルかの遺産を相続して、いまにもそれを掴もうとしてるんだから、悲歎にくれるのも無理はないさ」
「あなたも新聞の方?」交換台の娘が訊いた。
メイスンは頭を振った。
「じゃ、何?」
「お前さんには、サソタ・クロースさ」
交換嬢はホッと溜息をついて、二十ドル紙幣をのせた掌を閉じた。「あたしが頭をちょっと下げたら、二番の電話室へ入ってちょうだい。あのひと、電話口に出ていますから。それ以上のことは、あたしできませんわよ」
「それだけしてくれれば充分だ。部屋の番号は?」
「二階のAの間ですわ」
「オーケー」と言ってメイスンはデスクから離れた。娘の器用な指さきがスイッチボードの上を飛びまわった。ときどき、胸のところに、半円形のゴムの送話器が、ちょうどマウスピースが唇から数インチのところに来るように装置したのに向って、彼女は何かしゃべった。やがて急に、メイスンの方を向いて、軽く頭をさげた。メイスンは電話室へ入り、受話器をとって、「ヘロー」と言った。絹糸のような女の声が言った。「ハイ、何ご用?」
「このホテルにいるメイスンと申す者です、ただいま新聞記者があなたのお邪魔にならないように工夫しておるんですが、そのことでお目にかかってご相談したいのです。ただいま階下《した》には一杯つめかけております。記者たちは是非インタヴュウをとって来るように命令されて来ているのですから、あなたとわたしで協力してうまくやりませんと、いまに大変なご迷惑になるんじゃないかと思います」
若い女の声が言った。「ええけっこうですわ、メイスンさん。ご苦労さまですこと」
「いまうかがっても、よろしいですか?」
「ええどうぞ。二〇九号室へいらしって、扉をたたいてくださいな。そこからお入れしますから。Aの間の方へおいでになってはだめよ。きっと新聞の人が見張ってると思いますの」
メイスンは礼を言って電話を切り、エレヴェーターで二階へ上って、二〇九号室のドアをノックした。ドアをあけたのは緑色の部屋着を着た魅惑的な若い女性で、ちらと誘惑的な微笑をひらめかし、彼の入ったあとのドアに掛け金をかけた。それからさきに立って、隣室との境のドアから、二つの浴室と、ありきたりの飾りつけをした寝室を三つ通り抜け、建物の一方の隅に当る|続き間《スイート》へ入った。ここは豪華な家具と厚い絨毯とが、宮殿の奥の間のような雰囲気をつくりだしていた。
女は一つの椅子に顎をしゃくってみせてから言った。「お煙草と、スコッチ・ソーダを少しいかが?」
「ありがとう」とメイスンは答えた。
彼が巻煙草をえらんでいる間に、女はカット・グラスの大壜からスコッチを細長いコップにつぎ、氷のかけらを落し、炭酸水を上から注いだ。
「何かニュースをお聞きになって?」彼女はたずねた。「お祖父さまの死体はみつかりましたの?」
「まだです。どうも、さぞびっくりなすったでしょう」
「ええ、恐ろしいショックでしたわ」と言って、宝石のかがやいている手を眼におしあてた。
椅子にゆったり背中を落ち着けて、メイスンが言った。「あなたはお小さい頃のことを、何かおぽえておいでですか?」
「あらむろんですわ」と女は答え、手を離して、じろじろと客の顔をみた。
「あなたはたしか養女になられたんですな」
「おや、何のことですの?」急に彼女の眼つきが警戒的になり、いまにも走り出そうとするように全身の筋肉を緊張させた。「新聞記者を寄せつけないために、あたしに会いたいっておっしゃったんじゃないの」
メイスンはこともなげにうなずいて、「あれは電話交換手をだますのに使えと言って、ピートが教えてくれた口実ですよ。そのことはピートから話してあるはずだが」
「ピートって?」眉をあげて、彼女はきいた。
「そうですよ」ふわりと煙草の煙を吐きながら、メイスンは言った。
「何の話をしてらっしゃるんだか、あたしわからないわ」
メイスンは性急に顔をしかめて、「まあお聴きなさい! こんなことをしていたら日が暮れてしまう。ピート・サックスとヴィクター・ストックトンから、あなたに連絡をとってくれと頼まれたのですよ。ピートはわたしが誰だか、あなたに知らせてはいけないというのです。というのは電話を横から誰かに聞かれると困るからです。それで新聞記者を追っばらうという口実をもちだせば、ピートの方からあなたに内報して、面倒なしにわたしがなかへ入れるようにしておくという話だったのです。あなたが上って来いと言ったから、ピートはきっとあなたに連絡したんだなと思ったんです」
およそ十秒間ばかり、彼女はピンクに染めた指の爪をみつめていたが、やがて言った。「あなたはどなたです?」
メイスンが言った。「いいですか、ピートがわたしたち二人を二人ともペテンにかけるなんてはずはないでしょう? あなたはマロリー主教と一緒にモンテレー号で海を渡って来たんでしょう?」
彼女はうなずいて何か言いそうにしたが、ちょっとためらってから、思い直した。
メイスンはうしろでドアの掛け金のカチリと鳴る、かすかな音を聞いたが、ふりかえる気になれなかった。
「ちょっと、あなたはどなた?」ふたたび、娘は訊いたが、今度は前よりも声に自信があった。
一人の男が、戸口に立って、言った。「ペリイ・メイスンという男だ。強請《ゆすり》をかけて、ブラウンリー家の遺産から幾らか捲きあげようとする悪党の一味に頼まれた弁護士だよ」
メイスンがそろそろとうしろを向くと、ヴィクター・ストックトンの鋼鉄のような眼とバッタリ出会った。
「弁護士ですって!」ジャニス・ブラウンリーは思わず立ち上って叫んだ。その声ははげしい驚きを示していた。
「そうさ。あんたは何か話したか?」
「いえ何にも」
ストックトンはうなずいて、メイスンに言った。「きみとわしとで、少し話をする時期らしいな」
メイスンはきびしい語調で答えた。「おれがきみと話すのは、証言台の上で、宣誓をしたときだろう」
ストックトンは悠々と部屋のなかを歩き、椅子に腰をおろしてから、「一杯ついでくれ、ジャニス」と言った。眼は油断なく、メイスンから離さなかった。
ジャニス・ブラウンリーはグラスにスコッチを注ぎ、銀の|挿み《トング》で氷のブッカキをつまんだ。ストックトンは心地よさそうに椅子に反りかえって、メイスンに言った。「あまり安心はできんぜ。きみには逮捕状が出ている」
「おれの逮捕状?」メイスンが叫んだ。
ストックトンはうなずいた。ニヤリと笑い、「大窃盗罪、兇器による暴行、および強盗罪だ」
メイスンの眼は、相手の腹をみさだめるように抜け目なく観察していた。「サックスの一件かね?」
「サックスの件だ」相手は答えた。「何とごまかしたって、逃げられはせんよ」
メイスンは冷たく言った。「ふん、そうだろう。きみはまだ何もわかっていない。おれはあのことはそのまますまそうと思っていた。だがそっちがやりたいと言うなら、きみらがどうなるか、やってみるさ。サックスは人殺しをしようとしたのだ。拳銃をおれに突きつけたから、鼻柱をたたきつぶして、兇器をとりあげてやった。あれでも運のいい方だ」
ストックトンはジャニス・ブラウンリーに言った。「ソーダはあまり入れんようにな、ジャニス」
そしてまた凍ったような冷やかな眼をメイスンに向け直して、「いいかね。わしは探偵だ。ピートはわしに雇われてはたらいている。われわれは三週間以上前から、ブラウンリーをゆすろうとする計画が進行しているのを知っていた。それが一体どういう方法で実行されるかは、わからなかった。わしは誰か弁護士の手で扱われるだろうと想像した。スマートな弁護士なら、まずブラウンリーのところへ行って立場をきれいにしておいて、それからジャニスにある提案を持って来させるようにするだろう。愚物なら最初からジャニスのところへ来て、あからさまに恐喝罪で訴えられるような立場に身をさらすだろう。どちらにしても、それは強請《ゆすり》だ、それでおれはきみをとっちめることを考えた。おれは老人にそっと知らせ、ジャニスにも覚悟しているように話した。おれたちは待ち伏せをしていたのだよ。そこできみはおれたちを不意討ちして老人を殺してしまった……ま怒るなよ。|きみが《ヽヽヽ》殺ったとは言やせん、が、きみは誰がやったか知っとるし、わしも知っとる。
それでおれたちは妙な立場に立たされた、殊に遺言がなかった場合、あるいは遺言で、遺産を孫娘に譲るとあっても、その孫娘という言葉が、現在いっしょに老人の家に住んでいる娘を意味すると特別にうたってない場合にはだ」
ジャニス・ブラウンリーは無言でストックトンにグラスを渡した。ストックトンはグラスの横腹で氷の音をさせながらグラスを動かしてから、それを口へ持って行った。
「それで、どうした?」メイスンが訊いた。
ストックトンは言った。「きみがおれに言わせたいことは、もしきみがこの事件から手を引けば、ピート・サックスはきみに対する告訴をとりさげるということだろう。そのあとできみはその声明を利用して、地方検事に向って、おれたちが検事をダシに使ったと言うつもりだろう。どうだね、ペリイ・メイスン君、きみはもう少し頭をはたらかせんといかんね。おれはそんな罠にはかからんぜ」
「まあ聴いているから、さきを話したまえ」メイスンが言った。
慎重に言葉をえらびながら、ゆっくりした口調で、ストックトンは言った。「ここで何らかの妥協をするのが、ジャニスにとっても得策かも知れん。血縁関係を証明することが、まず不可能に近くなってきたことでもあるし。一方、誰にしても、その反証をあげることも、まったく不可能になりつつあるがね」
「きみは何か案があるのか?」メイスンが訊いた。
「きみは?」ストックトンが問い返した。
「ない」
「解決案を出さんというのか?」
「何もない」
ストックトンが言った。「よろしい、では正面から、一歩もゆずらず闘うわけだ。妥協の途はない。きみはこの事件に捲きこまれてもいいと判断した、もう逃げるわけにはゆかないぞ。自分のオフィスに引っ込んで、自分のことだけ考えて法律事務をやっていれば、安心していられるはずだ。きみはそれをしなかった。外へ出て、駈けずり廻って、探偵の真似をして、スマートに立ち廻った。喰いついて来た以上は、好きなだけ味をみさせてやる。ジュリア・ブラナーは大風呂敷をひろげたが、そいつがうまくゆかなくて、遺言が出来てしまえば計画が水の泡になるから、ブラウンリーを消しちまった。もしビクスラーが一伍一什を見てしまわなかったら、それも思う壷にはまったろうが、いまの形勢ではジュリア・ブラナーは殺人の主犯として有罪になるだろう。ジュリアが自分の娘だと言って持ちだそうとした女の子は、事後従犯として刑を受けるだろうし、きみはきみで弁護士の資格を奪われ、大窃盗、兇器による暴行、強盗罪でひっくくられる。そのあとできみは、きみたち三人が遺産のほんの切れっばしにありつくという問題について、陪審が、どんなふうに考えるか、勝手に想像をたくましくするがいいさ――出てゆくんなら、ドアを大きな音を立てて閉めないでくれよ」
メイスンが言った。「まだドアを閉める気はないよ、おれは。ところで、ちょっと訊くが、ジャニス、あなたはお祖父さんが殺されたとき、どこにいました?」
ストックトンはグラスを下に置いた。顔が暗くなった。「では、そんなことをきみはやろうとしてるんだな?」
「なに、ちょっと質問しただけだよ」メイスンが答えた。
「よし、いくらでも質問をするがいい。そして、きっと聞きたいだろうから教えてやるが、ジャニスには完全なアリバイがある。わしと一緒にいたのだ」
メイスンの顔に、少しずつ、ゆっくりと微笑がひろがった。「なるほど、そいつは感心せんな。ジャニスはきみが老人をだまして掴ませた身替りだ。それがバレかかったから、きみは躍起になって……」
「ジュリア・ブラナーの拳銃を盗み、手紙にジュリアの名を偽署して、爺さんをやっつけたか」ストックトンが引き取って言った。「その説の弱点は、老人を浜までおびきだした手紙を、頼んだ人間はジュリアだと、タクシーの運転手が知っていることだ。あの女が拳銃をからにするときに、片手で窓につかまった、それがジュリア・ブラナーの指紋だと、警察ではわかっている。兇器はジュリア・ブラナーの拳銃だし、警察がアパートを襲ったときにジュリア.ブラナーの濡れた衣類をおさえてきた」
「そのほかにもまだあるわ」ジャニス・ブラウンリーが言った。「あの……」
「ジャニス、あんたは聞いていなさい」ストックトンは弁護士から視線を動かさずに、さえぎった。「話はわしがする」
「なるほど」メイスンは冷嘲的に言った。「この人が、ジャニス、あんたのアリバイだ。この人が、殺人の行われた時刻に、あんたは自分と一緒にいたと誓言する、だからあんたが犯人であるはずはない、そしてあんたも、この人はあんたと一緒にいたと誓言する、だからこの人も、犯人であるはずはないんだ」
ストックトンはニヤリと笑って、「わしの女房のことを忘れてはいかん。女房もいあわせたし、廊下をへだてて住んでいる公証人も、わしが訪ねたことを証言してくれる」
ストックトンはウイスキーを飲み終った。わざとらしい、冷やかな笑みを浮べて、彼は言った。「いまきみがどういう立場にあるか、これだけ話せばわかるだろう、またこれがわれわれから訊き出せる話の全部だ」
「きみは何を望んでいるのだ?」メイスンが訊いた。
「何もない」
「きみの提案は?」
ストックトンはニヤリと笑って、「何もないよ。そればかりでなく、今後も何の提案もせんつもりだ。きみらもこれからはよほど受身の立場になるだろうから、これ以上の恐喝計画をでっち上げるわけにゆかんだろうぜ」
メイスンは嘲笑的に、「きみの話から推定すると、ピート・サックスがマロリー主教の部屋へ侵入して、ブラックジャックで主教を殴打して、主教の秘密の文書を盗んだあと、その書類を奪還することは、それがマロリー主教の代理をする人間の仕業であっても、地方検事は犯罪だと認めるだろうと言うんだね?」
ストックトンは頭を振った。「ふざけちゃいかん。何できみがピートをああして罠にかけたか、わしと同様によく知ってるはずじゃないか。鍵が欲しかったのだ」
メイスンの声に含まれた驚きは本物だった。「鍵だと?」
ストックトンはうなずいた。
「何の鍵?」
「きみが手に入れた鍵さ」ストックトンは冷酷な調子で、「白っぱくれるな」
「鍵の束は手に入れたよ」メイスンは言った。
「まだほかに現金を百ドルと、いくつかの品物があった。だがきみの欲しかったものは|あの《ヽヽ》鍵だ」
メイスンはどうにか表情を顔にあらわさずにすませた。ストックトンはその顔をしばらく観察してから、「白ッぱくれるなよ、まったく。――畜生、そうすると、きみはただの人形なのかな。いったいどうしておれたちが、この恐喝団の内幕を知ったと思ってるんだ。おれたちはジュリア・ブラウンリーがキャリフォニアヘ来る以前からずっとヒモをつけていたんだ。あの女はピートを、誰でも喜んでやっつける、爆弾男だと思いこんで、すっかりあの男にはまりこんじまった。ジュリアはピートに、ブラウンリーが新しい遺言を作らないうちに爺さんを殺してくれと相談をもちかけた。ジュリアはある男にマロリー主教になりすまさせ、しばらくのあいだ、ジャニス・シートンが本物の孫娘だと確認する証言をさせるまでのあいだだけ、なりすまさせておこうとした。この主教は贋物で、あらかじめどういうお芝居をするか、ちゃんと稽古してあったのだ。その内幕もピートに洩らしさえしなければ、ジュリアは老人をだますなり、ここにいるジャニスから金をゆすることだってできたかも知れんのだ。女はピートを自分の片腕にしようと、やっていた。一方、誰か頑張りのきく弁護士を手に入れて、自分の話を信じこませて、ブラウンリーと交渉させようとしていた。もしブラウンリーが醜聞を嫌って、かたづける気になれば、折り合うつもりでいた。もしブラウンリーがきかなければ、やっつけるつもりだった。そしてその血まみれ仕事をやらせようと思って、あの女が拾いあげたのが、ピートだった。それでピートに自分のアパートの鍵を渡して、自分とジャニス・シートンとがこの取引で手に入れた金の二割五分はピートにやると、約束したんだ。それから、きみがどのくらいお人好しだったかを教えてやるために言うんだが、あの女はきみが最初に掛け合いの口火を切ったあとで、蔭に廻って老人と折衝することさえ考えていたんだぜ。つまり老人とのあいだで話をまとめて、きみをおっぽりだそうとしていた。またもし老人を嚇しつけて妥協にもちこむことができなかったら、この孫娘の方をゆすって二、三千ドルでもまきあげ、きみには知らぬ顔をきめこもうとしていたのだ。――その点では、おれたちも、もしピートを床下に忍びこませて置かなかったら、よっぼど苦労をするところだったよ。
兇行のあとで、きみはすっかり深みにはまって、女を助けてやらなければ自分も助からないことになった。だからピートから鍵を奪う必要があった、さもなけれぱあの鍵はピートの証言と一致する証拠になるからね。そこできみはピートを罠にかけてアパートに連れこみ、あの男を殴って証拠を奪った。だがおれたちはきみの想像してるよりは、もう少しジュリア・ブラナーという女について知ってるんだ。まあみずから墓穴を掘ったんだから、安心して成仏することだな」
メイスンは立ち上った。ストックトンは空らのグラスを卓に置いて、一歩メイスンの方へ進み、「だからもうこれっきり来るな。わかったか?」
メイスンは不快そうにその顔をみつめた。「おれは一本の鼻っ柱をたたきつぶしたから、もう一本のやつもたたきつぶしてやりたいよ」
ストックトンは進みも退きもせず、立っていた。「そしてきみはすでに、この事件の証拠となるべき書類を盗んだ。ピートがその証拠をとりかえそうとしたときに、あの男を殴り、おれには拳銃を向けた。それを忘れるな。そしてもし、きみがまだあの恐喝団の一党と組んで、うろちょろするつもりなら、たぶんは殺人容疑にもまきこまれることになるだろうぜ」
メイスンはドアの方へ歩いて行ったが、出入口でふりかえった。「相続人をでっちあげた仕事で、いったいどれくらいの分け前が取れると思ってるんだね?」
ストックトンは陰気な苦笑いをみせて言った。「いまはそんな心配をするなよ、メイスン。サン・クエンティンからおれに手紙でもよこせ。あすこへ入ったら、少しは暇になって、ゆっくりものが考えられるだろう」
メイスンは部屋を出て、エレヴェーターでロビイヘ出た。そして歩道を渡りかけたときに、彼の腕をつかんだ者がある。ふりむくと、フィリップ・ブラウンリーだった。「ヘロー」と彼は言った、「こんなところで何をしているね?」
ブラウンリーは冷酷に、「ジャニスを見張ってるんですよ」
「何か危険なことでもあるといけないからかい?」
ブラウンリーは頭を振って、「メイスン先生、ぽくはあんたに話がある」
「話したまえ」
「ここではだめだ」
「どこで?」
「あすこにぼくの車が置いてあります。さっきあなたが入って行くのを見たので、声をかけたんですが聞えなかったんです。だからあなたが出て来るのを待っていました。ぼくの車のなかで話しましょう」
メイスンは言った。「この辺の空気は、あんまり好かないんでね。ストックトンとかいう名の男が派手に立ち廻っているから。……きみはストックトンを知っていますか?」
ブラウンリーは不快そうに、「あれはジャニスを助けてお祖父さんを殺させたやつですよ」
メイスンはじっとブラウンリーの眼を見すえていた。。「それはただのおしゃべりかね? それとも何か根のある話か?」
「話ですよ」
「きみの車はどこ?」
「こっちです」
「よろしい。なかへ入ろう」
ブラウンリーは大きな灰色のキャブリオレの扉をあけて、ハンドルの前へすべりこんだ。メイスンはその隣りの、歩道に近い側の席を占めて、扉を閉めた。
「これはきみの車?」
「そうです」
「よろしい。ジャニスはどうなんだ?」
ブラウンリーの眼の縁にはどす黒い隈ができていた。顔は蒼白で、やつれていた。煙草に火をつける手はふるえていたが、話しだしたとき、声はしっかりしていた。「ゆうべ――というより、今朝ですが――タクシーの運転手が持って来た手紙を、ぼくが受け取りました」
「それをきみはどうしました?」
「祖父のところへ持っていきました」
「お祖父さんは寝ていたの?」
「いや。ベッドには入っていたけれども、まだ眠ってはいませんでした。本を読んでいました」
「それで?」
「手紙を読むと、ものすごく興奮しました。跳ね起きて、着物を着ながら、すぐ車を出させろとぼくに言います。これからジュリア・ブラナーに会いに、浜まで行くからと。誰にもあとをつけられないように、一人で浜へ来て、祖父のヨットの上で二人きりで、邪魔されずに話をさせてくれれば、オスカーの時計を返すと、ジュリア・ブラナーが約束したというんです」
「きみにそう話したんだね?」
「ええ」
「きみはどうした?」
「行かない方がいいって言ったんです」
「なぜ?」
「罠だと思ったからです」メイスンの眼がだんだん細くなった。「誰かがお祖父さんを殺そうとするとでも思ったの?」
「いや、もちろん、そうじゃないです。ただ、やつらが祖父を罠にかけて、妥協させられるか、それとも何か言わされるか、するんじゃないかと思ったんです」
メイスンはうなずいた。少しの間、二人は無言でいたが、やがて弁護士が言った。「さあ、それから。きみが主入公だよ。さきを話したまえ」
「ぼくは自分で階下へおりて、車庫の扉をあけて、祖父の車が出せるようにしました。降ってきたので、運転はぼくにさせてくれと頼みました。ひどい天気だったし、祖父はあまり運転がうまくないから……なかったから。夜は、視力だって充分じゃなかったですし」
「で、きみに運転をさせなかったんだね?」
「ええ。一人でゆかなくちゃならんと言うんです。ジュリアの手紙には一人で、誰もついて来てはいけないと、強く要求しているから、そのとおりしなかったら行っても何にもならないというのです」
「その手紙はいまどこにあるの?」
「祖父が上衣のポケットに入れたと思います」
「じゃ、そのさきを……いや、ちょっと待ちたまえ。お祖父さんは自分のヨットヘ行こうとしていたと言ったね?」
「ぼくの了解したところでは、そう言いました。ジュリアはヨットの上で会いたいと言ったと」
「わかった。さきを話したまえ」
「祖父がギャレジを出発して、ぼくは家のなかへ入りました、そしたらそこにジャニスがいて、すっかり身支度をして、ぼくを待っていました」
「どうしようと言ったね?」
「何だか騒々しいから、何かいけないことがあるんじゃないかと思った、話してくれと……」
「ちょっと待った」メイスンがさえぎって、「どんな装《なり》をしていたの――夜会服《イヴニング》?」
「いや、スポーツ服を着ていました」
「ふむ、それで?」
「それで何があったか話してくれと言うんで、話しました。ジャニスはすごくぼくに怒って、なぜお祖父さんを出してやった、止めなければいけなかったと言うんです」
「で、それから?」
「それから、ぼくは言ってやりました、きみは気違いだ、抑えたって引っ張ったって、思いとまる爺さんじゃない。そう言って、二階へ上っちまいました。あとから彼女も上って来るだろうと待っていました。ぼくのすぐあとから上って来る音が聞えたんですが、一、二分すると、また自分の部屋を出て、階下へ下りてゆきました。そこでぼくはそっと廊下へ出て、階段の下をのぞきました。ジャニスは、音を立てないように爪先立ちで歩いて、レインコートを着ています」
「どんなレインコート?」メイスンは何げない調子で訊いた。
「ごく淡《うす》い黄色のレインコートです」
メイスンはポケットから煙草を一本だし、だまって火をつけた。「つづけたまえ」と彼は言った。
「ジャニスはそっと階下を歩いています、それでぼくはあとをつけました」
「音を立てないようにして?」
「ええ、もちろんです」
「それから?」
「ギャレジヘ行って、自分の車を引き出しました」
「どんな車?」
「淡黄色のキャデラックのクーペです」
メイスンはクッションにもたれた。「ジャニスの出てゆくのを、きみは見たんだね?」
「そうです」
「それはお祖父さんが出かけてから、どれくらい経っていた?」
「ほんの一、二分後です」
「よろしい、それできみはどうした?」
「ぼくはジャニスがギャレジを出るのを見まして、急いで走って行って自分の車を出し、スタートさせました。ぼくは灯をつけないでジャニスのあとをつけたんです」
「先行の車の見えるようにつけられたかね?」
「ええ」
「きみはお祖父さんがジュリアに会うために、ヨットまで行くとジャニスに話したんだね?」
「ええ」
「そしてジャニスは浜へ行った?」メイスンは訊いた。
「それがわからないんです。ぼくが話したかったのは、そのことなんです」
「しかしきみは彼女のあとをつけたと言ったんじゃなかったかい?」
「ええ、つけました、つけられるだけは」
「さきを話したまえ。きみの好きなように、出来事を話したまえ、しかし早く頼むよ。よほど重要なことらしいから」
「ジャニスは悪魔みたいに車を走らせました。おまけに闇夜で、土砂降りです。ぼくは灯を消しておかなきゃならなかったし、あとをつけるのがせい一杯で……」
「その辺はとばしたまえ、きみはあとをつけた、そうだろう?」
「ええ」
「オーケー、どこへ彼女は行った?」
「フィグエロアから五十二丁目へ降って、それから曲って、車をパークしました」
「フィグエロアの側か、それとも五十二丁目の側か?」
「五十二丁目です」
「きみはどうした?」
「フィグエロアの歩道のわきへ車をすべりこませて、イグニションのスイッチを切って、車から飛びおりました」
「そしてもちろんそれは浜へ出る道だ」メイスンは考えこみながら言った。
ブラウンリーはうなずいた。
「つづけたまえ」メイスンは性急に言った。「何があった?」
「ジャニスは雨のなかを、ぼくの前方を歩いていました。いや実際は、走っていたんです」
「それがきみに見えたか?」
「見えました。明るい黄色のレインコートが、はっきり見えるんです。ぼくは足音を立てないように懸命で走りました。むろんぼくの方がジャニスより速く走れます。明るい色のレインコートはつけていくにはいい目印です。ぼくにはハッキリとではないがそれが見えました。けれども、あなたも想像がつくと思いますが……」
「わかった。知ってる。彼女はどこへ行った?」
「四ブロック歩きました」
「四ブロック歩いたって!」メイスンは叫んだ。
「そうなんです」
「なぜ車で走らなかったんだ?」
「わかりません」
「つまりきみの言うのは、明るい黄色のキャデラック・クーぺを運転して、フィグエロアから五十二丁目へ入ったところにその車をパークし、それから大雨のなかを四ブロックも歩いたというんだね?」
「それもたいていは走っていました」
「走っても歩いても、それはどっちでもいい。問題は車をすてて、足で行ったということだ、そうだね?」
「そうです」
「そしてどこへ行った?」
「そこに小さなアパートがあります。せいぜい八室か十室ぐらいだろうと思います。木造の家で、そのなかヘジャニスは入って行きました」
「灯は?」
「ありました。二階の右の隅と、一方の側とに、灯がついていました――その建物は二階までしかないんです。幕《シェード》はおろしてありましたが、それを透して光が見えました。そしてときどき人影がカーテンを横切って動くのも見えました」
「つまりきみはそこにいて、見張っていたんだね?」
「そのとおりです」
「どのくらい?」
「朝、明るくなってしまうまで」メイスンは低く口笛を吹いた。
「ぼくは上って行って、覗いてみました」ブラウンリーは言った。「そして郵便受けから察するところでは、表側の室はヴィクター・ストックトン夫妻のものです。灯のついていた横の部屋は、ジェリイ・フランクスか、ポール・モントローズか、どっちかだと思います」
「そしてきみは明るくなってしまうまで、そこにいたんだね?」
「そうです」
「そしてそれから?」
「ええ、明るくなってきてからは、ぼくはむろん少し遠ざかりました。それからは建物の正面だけでなく、裏側も見られました。あの辺には空地が幾つもあるので、その一つにいて、見張っていたのです」
「その頃には雨はやんでいたね?」
「ちょうどやみかけていました」
「そのとき何が起った?」
「そのときジャニスと、フェルト帽をかぶった背の低い、ズングリした男と、二人でなかから出て来て、ひどく早足にフィグエロア・ストリートの方へ歩道を歩いてゆきます。そのときはもう明るいので、あまり近くから尾行するわけにはゆきません。二人がだいぶ先へ行くまで、ぼくは待っていました。そのときは晴れた明るい日ではなく、まだ薄明りの鼠色でした」
「それでジャニスはレインコートを着ていたの?」
「ええ」
「夜中に着ていたのと同じやつかね?」
「ええ、むろん同じです」
「それからどうした?」
「ジャニスとその男とは、彼女の車に乗って、廻転《ターン》して、市中の方へ戻って行きました。ぼくは急いで自分の車のところへ走ってゆきましたが、ぼくが車をスタートして廻転したときには、向うはもう見えないくらい先へ行っていました。ぼくは猛烈にスピードを出して、やっとのことで見えるところまで追いつきました。ぼくは気づかれないようにオーヴァの襟を立てて、ヘッドライトをつけて、こっちの車が何か、向うからは見えにくくしていました」
「しかし向うは、むろん、きみがヘッドライトをつけてからは、あとをつけられてることは気がついたろう?」
「そうでしょう、そうです。しかし向うは速度をゆるめたり、ぼくをまこうとしたりはしませんでした」
「往来にはほかの車がいただろうね?」
「そうたくさんはいません。一、二台は向うから来るのに会いましたし、追い越したのも一台あったと思いますが、はっきりは言えません。ぼくはジャニスを見張っていましたから」
「そしてジャニスはどうしたの?」
「まっすぐこのホテルヘドライヴして来ました。ジャニスとその男とは車を降りました。そのときぼくはやっと見る機会がありました。灰色の眼と、白髪まじりの口髭をしていたと思います。眼鏡をかけていて……」
「その後その男を見た?」
「見ました。いま上にいます。十五分か二十分前に入って行ったんです」
「同じ男が?」
「ええ」
「確かかね?」
「確かです」
「いいかね、きみ」メイスンが考え考え言った。「そのアパートには、裏口があったね?」
「ええ」
「きみはその家を見張っているあいだ、裏口も見ていたかね?」
「いいえ。そこなんです。ぼくが説明しているのは。ぼくは表口ばかり見張っていたんです。明るくなって、よく見えるようになってから、ぼくは表と裏と、両方見えるところへ行ったんですが、それは二人が出て来る、たった数分前のことです」
「そして灯は、ジャニスがそこに着いたときに、両方の部屋についていたんだね?」
「ええ」
「そしてきみはずっとそこで、その建物を見張っていたんだろう?」
「ええ」
「しかしジャニスは表口から入って、夜が明ける前ならばいつでも、裏口を出て、また裏口から帰って来ることができた。そうなんだね?」
「そうです、もちろん彼女は、そうしようと思えばできたんです」
「そしてきみはそうしたと思うの?」
ブラウンリーはうなずいた。
「何でそう思うの?」
「なぜなら、ジャニスは死物狂いだったからです。あいつは詐欺師です。いまにも見あらわされて、刑務所へ送られるところだったからです」
メイスンがゆっくりと言った。「それでは意味をなさない」
ブラウンリーは焦って、「ぼくは意味をなすと主張してるんじゃありません。事実を話してるんです」
メイスンはすっている煙草の火をみつめたまま、数分間、眉をひそめて、考えていた。やがておもむろに車のドアをあけた。
「誰かにこの話をしたかね?」
「いや、しません。していいんでしょうか?」
メイスンはうなずいて言った、「うん、地方検事に話した方がいいね」
「会うにはどうしたらいいんでしょう?」
「心配しなくていい。向うからきみに会いに来るだろう」そう言って、外からドシンと車のドアを閉めた。
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十二
メイスンは、憂わしげに眉をひそめて、面会人室に腰をおろし、金網越しに、真正面に腰掛けているジュリア・ブラナーの方を見た。
部屋の長さいっぱいに、長いテーブルが置いてある。そのテーブルの中央を、横木で仕切った部分――そこはメイスンと入口とのあいだにあたる――には、二人の役人が臨席している。彼らのうしろには、拳銃、催涙弾、銃身の短い小銃など一通りの武器を揃えた小部屋がある。
メイスンはジュリア・ブラナーと視線を合わせようとしてみたが、彼女はずっと彼の凝視を避けつづけた。
メイスンは言った。「ジュリア、わたしの手を見てごらん――いやそっちじゃない、こっちだ。いまわたしはちょっとこの握った手をあけてみる。手にはある品物がある。わたしはあんたにそれを見てもらって、前に見たことがあるかどうか、言って欲しいんだ」
メイスンは女看守の方をちょっと見て、眼の隅からは二人の役人を見て、ゆっくりと右手を開いたが、自分の眼は注意して下を見ないようにした。
ジュリア・ブラナーは、まるで魅入られたようにその手をみつめた。ゆっくりと、メイスンはその手を閉じ、ある話の要点を強調するような風に、おだやかにその握り拳でテーブルを叩いた。
「何だね?」彼は訊いた。
「鍵」
「あんたの鍵か?」
「どういう意味でしょう?」
「サックスという名の男、これは私立探偵だが、この鍵をあんたがその男にくれたと主張しようとしているんだが……」
「嘘です! サックスなんて男、知りません。あたしは……」
「ちょっと待ちなさい」メイスンは注意した。「そんなに大きな声を出さないで。落ち着きなさい。サックスという名では、たぶん知らないだろう、またもちろん、その男が探偵であることも知らなかったろう。背の高い、肩幅の広い男で、四十二か、四十三ぐらい、眼は灰色で、人なみな顔だち――いや、前には人なみな顔だちだった」ニヤリと笑って、メイスンは付け加えた。「いまでは人なみでなくなったがね」
「いいえ」彼女は手で口を抑えて言った。「見たことがありません。知りません」
「口から手を離しなさい。そして嘘を言うのをやめなさい。これはあんたの部屋の鍵かね?」
「あたしには部屋はありません」
「いや、わたしの言う意味はわかるはずだ――あんたがステラ・ケンウッドと一緒にいた部屋のことさ」
「いいえ」ジュリアは弱々しい声で言った。「それがあの鍵だとは思えません。拵えごとです」
メイスンが言った、「なぜあんたはレンウォルド・ブラウンリーに、水際へ来るようにという手紙をやったの?」
「あたし、やりません」
「そんな手はやめなさい」腹立たしげに顔をしかめて、彼は言った。「やったことは、立証されるよ。タクシーの運転手もいるし、それに……」
「あたしはもう何にも言わないつもりなんです」キッと唇を結んで、彼女はさえぎった。「もし言わされたら、薬を飲みます」
「ジュリア、わたしはあんたを信じ、あんたを助けようとしている。そのわたしに対してあんたはまともにつきあってくれないね。わたしはあんたをここから出してあげられるかも知れないのだが、それにはどうしても出来事を正確に知らなくてはならない。そうでなければ、まるで目隠しをされてリングに上る拳闘選手みたいなものだ。あんたはほかの人間には何もしゃべってはいけないが、わたしにはしゃべらなくてはいけないんだ」
彼女は首を振った。
メイスンは言った、「わたしはあんたとまともにつきあってきた。いまあんたはわたしを寄せつけまいとしている」
「あなたはあたしの事件をお引き受けになる必要はないんです。おやめになってください。そうなさるのが、たぶん一番お得でしょう」
「ご忠告はありがとう」メイスンはからかうように言った、「しかしあんたはわたしが脱けられないほど深く、わたしを引っ張りこんでしまったし、それを知っているのだ。わたしは聞いた話のどこまでが真実か、わからない。おそらくあんたはわたしをこの事件に引きこんで、その尻ぬぐいをさせる考えではなかったろうと思うが、事実はまるでそんな風になってしまった。たとえ今わたしが手を引こうとしても、あんたは有罪になり、わたしは従犯で捕らえられるか、資格を奪われるかが落ちで、わたしの関する限りではどっちになろうと大した違いはない――そしてわたしの考えでは、それこそあんたの計画だったのだ。あんたはわたしが手を引けないほど深くわたしを引っ張りこみたいと思った。はじめわたしは周りをうろうろしてたんだが、いつの間にか首ったけ深みにはまりこんでいた。いまではわたしは、自分を救うためにも、あんたを救わなくてはならないのだ」
彼女は相変わらずかたく唇を結んだままだ。眼も伏せたままである。
「いいかね、話はこうだ、あんたはわたしに事件を引き受けさせるように話をもちかけようと思って、ある男にマロリー主教の身替りをさせた。それからあんたは早いところ金をさらって、逃げてしまうつもりだった。ところで、どこかに本物のマロリー主教がいる。あんたも本物のジュリア・ブラナーかも知れんし、そうでないかも知れん。ジャニス・シートンもあんたの本物の娘かも知れんし、そうでないかも知れん、またレンウォルド・ブラウンリーの孫娘かも知れんし、そうでないかも知れん。この事件には、好さそうに見えないもの、好さそうな臭いのしないものが多すぎるところへ、かてて加えて説明のつかない殺人があり……」
女は悲鳴に似た声を上げて、彼の言葉をさえぎった。彼女はいきなり突っ立ちあがって女看守の方へ向い、「あの人を出してください! 外へ出してください! あたしに話しかけさせないでください!」
女看守は彼女の方へ走り寄った。役人の一人はサッと拳銃をとりだし、横木のついたドアの掛け金をはずして、猛然とペリイ・メイスンめがけて進んで来た。
メイスンは鍵を右手からチョッキのポケットのなかに落しこんで立ちあがった。
「いったい何のつもりだ、これは?」役人が訊ねた。
メイスンは肩をすくめてみせ、おだやかに答えた、「わたしを検査してもいいよ。ヒステリイだろう、きっと」
女看守はジュリア・ブラナーをこの室から連れ出した。
メイスンはいらいらと自室の床の上を歩きまわっていた。デラ・ストリートは心配そうに、自席に坐り、デスクにノートブックをひろげていた。トルコ風呂から上ってサッパリしたポール・ドレイクは革張りの椅子にのびていた。風邪はときどき洟をすする程度で、もう退散していた。
「きみの知ってることをさきに話してくれ」メイスンは探偵に言った、「その上でおれの知っていることをきみに話そう」
ドレイクが言った。「ペリイ、この事件は、どんな角度から見たって、気違いじみてるぜ。きみが早く手を引いてくれたらよかったんだがな。ジュリア・ブラナーはヤクザだよ。あの女がやっつけたことだけは問題ない。ただほかのことがいろいろと絡んでいやがってね。しかしおれはきみに有利なことは一つもないと思うよ。第一……」
「ほかのこととは何だね?」
「ジャニス・ブラウンリーは、爺さんが出かけてから五分と経たないうちにギャレジから車を引き出して出かけた。そしてフィリップ・ブラウンリーはそのあとをつけた。ヴィクター・ストックトンにピート・サックスという二人の探偵が、ジャニス・ブラウンリーのために仕事をしていて、たぶん老人にも雇われているらしい。それでジャニスは……」
「ちょっと待て」メイスンがとめた。「われわれはジャクスン・イーヴズの分け前を誰が受け継いだかを問題にしていた。ところがいま、ちょうどこの二人の探偵がそれにあてはまるんじゃないかね? きみの話では、イーヴズはあの娘をみつけだしたことによって二万五千ドルの賞金を儲けた上に、娘が受け取る遺産の分け前も取る契約をしてることは疑いないということだった」
ドレイクは気の毒そうに頭を振った。「それにしたって、きみの利益には少しもならんよ、ペリイ。かりにイーヴズが女天一坊を立てたとするね。かりにストックトンとサックスがその場合のイーヴズの利権を相続したとするね。それだって一向きみの助けにはならない、なぜならジュリア・ブラナーもまた本物の孫娘をみつけられなかった点ではイーヴズと同じことだった。それでジュリアは自分も天一坊を持ち出して儲けようと企んだが、そのやり方が性質《たち》がわるくて、ある悪党の一味と手を組んだらしいのだ。地方検事が立てている説というのは――同時にこれは誰かからそれについて情報を得ているらしいんだがね――ジュリアはマロリー主教が一年の休暇をとって、連絡の取れなくなる時まで待つことにした。そしてある男にマロリー主教と名乗らせて、仕組んだ筋をもってある弁護士を訊ねさせることにした。そして選んだのがきみだ。話を聞かされたあとは、火中の栗を拾うのはきみの仕事だ。だがジュリアはそれさえ待っていられなかった。自分の仕掛けた芝居を台なしにされまいとして、ブラウンリーをやっつけてしまった。忘れてはいけないよ、あの女はブラウンリーを仇にして憎んでいたのだ。おれ自身は、実は女が少し頭がおかしいんじゃないかと思ってるがね。あまり長いこと考え詰めたもんだから、とうとう気が変になった。また年配も、どんな形で狂気が出てくるか、わからんような年齢だからね。
その意味では、あの二人の探偵は、ずるいことをやって有利な立場に立った。サックスというのはただの無法者だが、ストックトンは恐ろしい悪党だ。頭がある。だからあいつに頭がないなんて油断をしたらえらいことになるぜ。サックスは、ストックトンの指図を受けて、ジュリアに接触した。そして絶対に発覚する惧れのないように人殺しをする魚雷みたいなやつだと触れこんだところが、ジュリアはコロリと参って餌にとびついて来た……これが新聞記者からおれが聞きこんだ話だ。――そしておれの考えでは、替え玉を作るときにジャクスン・イーヴズがサックスを使って、ジュリアにかまをかけて秘密を聞きだそうとしたのだ。そして後になってイーヴズが死んだので、サックスがストックトンを話に割りこませたのだ」
「なぜサックスが嘘をついてるとは考えられんのかね?」メイスンが訊いた。「もし遺産からの大きな分け前がもらえるものなら、なぜ何もかもしゃべってしまわないで、ジュリアだけを悪者にするような話をでっちあげようとしないんだろう?」
ドレイクは肩をすくめてみせ、「そうしそうなものだが、地方検事はあの男が真実をしゃべっていると信じているよ。おそらくきみはやつが嘘をついてると陪審に信じさせることはできるだろうが、しかしきみがサックスを法廷へ引っ張りだす前に、地方検事がきみをどう扱うと思っているんだね?」
「ジャニス・ブラウンリーがどこへ行ったかについて、きみはもっと何か知らないか?」
「ジャニスのアリバイは水も漏らさないよ」
「たしかに水も漏らさないが、しかし漏れないようにみえるだけじゃないか?」
「水も漏らさないように見えるし、おれは水も漏らさないアリバイだと思うよ。ヴィクター・ストックトンから地方検事に報告している。それによると、ジャニスは祖父がジュリア・ブラナーと何らかの取引をするために出かけたらしいから、ストックトンと相談したいという電話をかけてきた。ストックトンは会いに行くと言ったが、ジャニスの言うにはすっかり身支度もできているからこっちから行く方が早いというので、ではすぐ来いとストックトンは答えた。あの男は五十二丁目に住んでいて、前にも言ったとおり、狡猾な野郎だ。ジャニスが来たときに女房を同席させた上に、廊下の向うにいる公証人を叩き起して、その男を自分の部屋へ来させた」
「そしてその公証人はずっと終いまでいたのか?」
「そうだ」
「ジャニスやストックトンと同じ部屋にか?」
「そうだとおれは了解している」
メイスンは頭を振って言った、「ポール、それが気に喰わんね、おれは」
「気に喰わんはずだよ」ドレイクは意地悪く言った。
「もしマロリー主教が本物だったとすれば、そのときは……」とメイスンが言いかけたのをさえぎって、デラ・ストリートが言った。
「先生、モンテレー号のヨハンソン船長から、また電信が来ましてよ。『ウイリアム・マロリー、二一一号船室』というラベルを貼ったスーツケースが二つみつかったんですって。ところが二一一号室の船客は、ウイリアム・マロリーとは似ても似つかぬ人で、そんな名は聞いたこともないと言うのです。そのスーツケースのなかにはね、繃帯が何ヤールかと、黒ラシャの背広と、聖服用のカラーと、黒い靴とがありました。その二つは二一一号室へ行くはずの本当の荷物と一緒に、その室へ届けられたそうですわ」
メイスンは自分のデスクの前に腰をおろして、指さきでデスクを軽く叩いていた。
「それではどうも意味をなさん」と彼は言った。「かりにマロリー主教が贋物だとする。すると本物の主教はどこにいるのだ? 一方、もしあれが本物の主教なら、なぜ隠れん坊のようなことをして姿を消してしまったのだ?」
ドレイクは肩をすくめて、「マロリー主教について、おれも一つ新しいことを知ったよ。これはリーガル・ホテルの探偵のジム・ポーリイが、おれに洩らしてくれたんだ。われわれが主教に注目して、うちの探偵を見張りにつける前に、一人の男がマロリーを訊ねた。その男の名はエドガー・キャッシディというんだ。ポーリイはこの男を知っていた。キャッシディは主教の部屋を訪ねて、約半時間ぐらいいて帰った」
メイスンの顔は緊張した。「すごいぞ、ポール。それこそおれたちが探していた情報だ。主教を知っている人がいれば、その人が……」
「まだまだ、喜ぶのは早いよ。それがとんだ見かけ倒しなのさ。おれはさっそく、人をやって、キャッシディに面会させた。その話では、シドニーにいる友人から手紙が来て、マロリー主教は愉快な男でロサンゼルスのリーガル・ホテルに泊まるはずだから、然るべく便宜を計らってくれと言って来た。キャッシディはなかなかのヨットマンだ。『アティナ』号という小ぎれいなヨットを持っていて、それでメカジキ釣をやるんだ。主教も出かけたいと言うかも知れんと思ったので、近づきのためにホテルを訪ねた。だがあの男の証言は全然きみの役に立ちそうもない。友人の手紙ではマロリー主教は大の釣気ちがいだというのに、会ってみたら、てんで一塁にも出られなかったそうだ。主教は一向に釣好きでもないし、ろくな応対さえもしなかったという。キャッシディは不愉快になって帰ったそうだ」
メイスンはまた床を歩きだした。急に足をとめて、彼は探偵に向き直った。「キャッシディはヨット気ちがいだ。キャッシディがビクスラーを知ってるかどうか、調べてくれ。そのことを考えてみると、朝のあんな時間に雨のなかを歩いていたというビクスラーの話も、少しばかり妙に聞えるじゃないか」
ドレイクはポケットからノートブックを出してメモをとり、あまり気乗りしない調子で言った。「オーケー、調べてみよう」
「それはそうと」とメイスンは意味ありげに言った。「そのキャッシディの話を、ポーリイが地方検事局の連中に話さなかったとすれば、こいつは好い案かも知れない。おれは連中がキャッシディの証言を利用できるとは思えない、みんな伝聞だし推定からきた結論だからね。しかしおれは新聞もその話を聞かないでくれるといいと思うが」
ドレイクはニヤリと笑って、「心配するな、ペリイ、そいつはもうちゃんと用心しておいたから。ポーリイはおれの良い友達で、少しばかりお土砂をかければ仲好くできるんだ……若い方のブラウンリーはどうだね? 兇行の時刻にあれがどこにいたか、何もわからん。しかしやつの車は今朝ギャレジの中にはなかった」
「フィリップとは会って話をしたよ」メイスンが言った。「地方検事にも会うことになっている。あの男の話はジャニス・ブラウンリーの迷惑には少しもならないが、やっぱりおれはあのアリバイにはどこか変なところがあると思うね。ストックトンは信用できんよ」
「ストックトンは一筋縄ではゆかんぞ」ドレイクが警告した、「よほどのことがなければ、あの男とは絡みあわない方がいいぞ、ペリイ」
メイスンはチョッキのポケットを探して、一つの鍵をとりだし、それを探偵に投げた。
「おれは絡みあわざるを得んね――ということは、すでに絡みあっちまったのさ。おれはもうこの事件にネクタイのあたりまで陥《はま》りこんだよ、ポール。その鍵はジュリア・ブラナーが泊まっているアパートの部屋に合うかも知れん、ウエスト・ビーチウッドの二一四だ。それが合うかどうか、調べてくれ、それもできるだけ早く調べて、いそいで電話で話せるように、きみのオフィスへ帰ってくれ」
ドレイクは気むずかしい顔で鍵を眺めていたが、「ペリイ、きみはどうしてジュリア・ブラナーの部屋の鍵なんぞ手に入れたんだい?」
デラ・ストリートが急に息をのんで、「あら、先生、その鍵は……」
彼女は急に口をつぐんだ。メイスンは気むずかしい顔で彼女を見て、「これから地方検事のオフィスへ行くよ。あのスマートな探偵どもが、何かおれを引っかけようとしてるんで、どうも面白くないよ」
ドレイクが警告した、「ペリイ、いま地方検事局へ行ったら、えれえことになるぜ」
「まったくさ」とメイスンは答え、バタリと外からドアを閉めた。
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十三
地方検事のハミルトン・バーガーは、大きな熊のような体格をしている。肩幅広く、胸厚く、胴まわりが太く、ガッシリと梃子でも動かぬ物腰格好で、筋肉のひきしまった短い腕をセカセカと振り廻しながらしゃべるくせがある。
デスクごしにペリイ・メイスンを見やって、彼は言った、「これはまた、思いがけないご光栄だな」
その声は意外そうではあったが、嬉しそうではなかった。
メイスンが言った。「例のブラナー事件で、話があって来ました」
「どういう話?」
「わたしの立場がどんなものだか、訊こうと思って」
「おれは知らんが」
「ある男が今日、わたしに言うには、わたしの逮捕状が出るんだって?」
バーガーは正面から彼の眼を見て答えた、「うん、出ると思ってるよ、ペリイ」
「いつ?」
「わしが完全な捜査をすませるまでは出さんよ」
「何の容疑かね?」
「暴行、大窃盗、ならびに共同謀議」
「わたしに説明させますか?」
「きみからは聞く必要はあるまい。事実はよくわかっている。
きみはジャニス・シートンの室の見張りをしていた。ひどく彼女を求めていた。ほかにも二人ばかり私立探偵が彼女を狙っていた。シートンは姿をあらわして、ほかのアパートへ行った。敵方の方がさきに行った。それがきみの気に入らなかった。きみは部屋へ押し入って、早いところやろうとして、とうとう立ち廻りになった。きみは一人の鼻柱をたたきつぶして、その男が持っていたジュリア・ブラナーに不利な証拠を奪い、もう一人の男に拳銃を向け、シートンの娘をさらって隠してしまった。それはきみにとっては訴訟に勝つための方法だろうが、わしからみると逮捕されるための方法だよ」
「事実を聞く気がありますか?」メイスンがたずねた。
バーガーはしばしメイスンの顔を観察していたが、「ペリイ、わしがこれまできみに多大の尊敬を抱いてきたことは、きみも知ってることだが、きみのやりかたではいつかは厄介なことが起ると、つねづね思っていた。きみのような無理をして通ってゆくものではないよ。いままではばかに運がよかったが、いつかは年貢の納め時が来るはずだったのだ。どうも今度のがそうらしい。わしはきみを迫害しようとは思わんし、確実なこっちの立場を知るときまでは新聞などにも何の情報も与えないつもりだが、いまのところはきみの職業的経歴も終りに近づいたと考えざるをえなくなっている。これは汚らわしいことだ。
きみも知ってのとおり、わしは無辜の人を追及することには、つねに恐怖を抱いてきた。ある人を法廷へ引き出すのは、その人の有罪を確信してからにしたいと思う。きみはすばらしい頭脳の持主だ。きみがいなければ罪ある者を逃がし、罪なき者を罪に落す結果になりかねない難渋な事件を、きみが正しく解決したことが幾度かあった、だがきみは倫理的な制限の範囲にとどまろうとしないから困るのだ。きみはオフィスに坐って法律事務を扱っていようとしない。きみはあくまで外へ出て自分で証拠をつかもうとする、そしてそうなると、証人たちと智慧くらべをしたり、何か人をだしぬくような、あまりにも思い切った芝居を打ったりするのだ」
「その辺でいいかね?」メイスンが訊いた。
「いいや、まだやっと序の口だよ」
「そんならちょっと一休みして、おれからあんたに話させてくれ」
「ペリイ」とバーガーは言った。「わしはきみと法廷で闘ってきた。二、三度はきみのお陰でわしはひどく間の抜けた羽目に立たされたこともある。もしきみがそれらの事件で、きみの手に入れた証拠を持ってわしのところへ来てくれたら、わしはきみと協力していたろう。きみは法廷で大向うを沸かせる方法を選んだ。それはきみの特権だ。いまわしはきみを起訴すべく求められている。わしはわしの義務を果たそうとしている。少しでも自分に悪意があるとは、わしは思わん、事実、個人的にはきみが好きなのだが、遅かれ早かれ、きみはやられることになっているのだ。きみはこれまで、あんまり悪運が強すぎたのだ。だからだ、きみがここでしゃべることはすべて、きみに不利な証拠として使われることがあるし、また使われるであろう、とおれが言っても、きみはおれの立場を了解してもらいたいのだ。この会見には秘密ということは一切ないことにするからね」
「ああ、結構だ」とメイスンは言った。「すばしこい探偵が二人、あんたのオフィスへこそこそやって来て、おれについて様々のことをしゃべった。ところがあんたはおれに自分の立場を説明する一度の機会さえも与えずにやつらに嵌められているんだ」
「あれは偶然だがね」バーガーが言った。「きみの言うすばしこい探偵の一人が、ジュリア・ブラナーについて非常に具体的な証拠を持っていた。その男はそれについてわしに連絡して、わしの指示の下で活動していたのだよ」
「わかった。では事実を話そう。おれがジャニス・シートンを探していたというのはあんたの言ったとおりだが、おれはジャニス・シートンをみつけはしなかった。あの娘をみつけたいと思ったし、あの娘が姿をあらわすのを待って、あの辺をうろついている二人の男が誰だか、知りたいと思った。その二人はあんたの部下でもないし、おれの雇った男たちでもない。おれはやつらがジャニス・シートンを知らず、ただ特徴だけを知っているのを附け目にした。あの娘の一番目に目立つ特徴は赤い髪の毛だから、おれは自分の秘書のデラ・ストリートに髪を染めさせて、シートン娘のアパートへ姿をあらわさせ、勘定を払って別のアパートへ行かせた。おれはその部屋の真向うの部屋を借りて、見張っていた。前もってデラに、誰か入って来たら、うまく調子を合わせて、そいつらが何者で、なにを目当てにしているかを探り出せと言い含めておいた。もし敵が乱暴をはたらいたら、口笛を吹くはずにしておいた。
無事にデラはこのアパートへ行った。すると例のサックスという男が押し入って来た。デラはドアをあけておこうとしたが、サックスが錠をかってしまった。おれは室内で何かハッキリしない音が聞えたのでドアを破ってとびこんだ。それでサックスがデラ・ストリートを殺すのを危ないところで防ぐことができた。やつはデラを窒息させようとしていた。サックスはおれに向って拳銃をつきつけた。それを奪いとって、やつの鼻柱をたたきつぶしたんだ」
バーガーの顔に驚きが見えた。「ではジャニス・シートンではなかったのか?」
「そう。あれはデラ・ストリートだった」
「サックスはシートン娘に対して数種の重罪容疑で起訴するのに充分な証拠をあげたと言っている。サックスによると、サックスが警察を呼ぼうとしたら娘がとびかかってきて、それを抑えようとしているところへきみが侵入して来たというのだ」
「サックスはデラの呼吸をとめた。おれが部屋へとびこんだときは、寝具でデラを窒息させようとしていた……この話はあんたに何か意味があるかね?」
地方検事はうなずいた。「ある、大いにある」
メイスンは立ち上がった。「よろしい、おれはただそれを話したいと思っただけだ」
「しかしそれだけではほかのことの説明にはならんぜ」とバーガーが言った。
「何だね、たとえば?」
「わしはブラナーという女に対する起訴を取り消したくない。しかしサックスはあの女に会って、ギャングを装った。女はブラウンリーを殺すために、莫大な報酬を出すと申し出た。そして男にアパートの部屋の鍵を与えた。その鍵は証拠品だ。それはサックスがわしに話したことと照応する。きみがサックスをやっつけたときに、きみはポケットのなかの物を全部とりあげた。いかなる状況の下でも、ペリイ、きみはそういうことをする権利はないよ。ほかの幾つかの品と一緒に、きみはその鍵を取った。わしはそれが欲しい」
「おれは持っていない」メイスンが言った。
「どこにある?」
「しばらく後ならば提出できる。あんたはその男の言葉意外に、それが本当にジュリア・ブラナーの部屋の鍵だと信ずべき理由があるかね?」
「うん、わしにはある」バーガーは答えた。「だが逆にきみがその鍵を返したときに、もしそれが当の鍵でなかったとしても、それがサックスから奪ったのと同じ鍵だという|きみの《ヽヽヽ》言葉以外には信ずべき何ものもない。これはきみをかなり困った立場に置くことになる、なぜならサックスは午後の三時頃にジュリア・ブラナーを訪ねてゆき、その鍵を使ったと申し立てているんだから。またヴィクター・ストックトンも一緒に行って、サックスの述べたことをすべて裏書しているからだ」
「なぜサックスはあそこへ行ったのだろう?」
地方検事は言った、「それはわしの主張の一部だ。ここでは明かすつもりはない。それよりもペリイ、わしがどうするつもりでいるかをきみに話そう。わしはブラナー事件の予備審問をさっそくにやろうとしている。もしきみがこの事件の完全な捜査をするためにわしと協力する気なら、明日の午前十時に裁判所へ来てくれれば、そこで証人の訊問が開始できる。もしきみがそうしてくれれば、わしはきみに対する逮捕状を出させないし、証拠が出そろって、われわれの立場がはっきりするまでは逮捕状を出すの出さんのという話も一切しないことにしよう」
「それではまるで足下から鳥の立つような話だ」とメイスンが言った。
バーガーは肩をすくめた。
「おれはもっと暇を要求してもいいはずだ」
バーガーは何も言わずに巻煙草に火をつけた。
「もし明日の朝、法廷に入らなければ、あんたはおれの逮捕を指令すると、そう了解すればいいのかね?」
「いや、そんなふうに言ってもらいたくないな。わしはきみを強制したくはない。ただ逮捕状を出す前に状況を徹底的に検討したいと話しているのだ。その検討を、きみにてつだってもらおうと提案するわけだ。もしその案を採らんというなら、わしは独自の捜査をやるまでだ」
「そして告訴の受理と逮捕状の発行とを命令するのか?」
「それは捜査の結果によるさ」
メイスンはじっと地方検事の顔を見つめていたが、やがて冷ややかに言った。「あんたはおれにひどい乱暴をしている! あんたのろくに知りもしない二人の私立探偵がでたらめな話を持ってやって来たのを鵜呑みにして、完全に引っかかってしまった。いいか、やつらは悪人だ。一人はデラ・ストリートをシートン娘と思いちがえたときに殺そうとしたやつだ。それなのにきみは『捜査をしよう』などと約束している。おれがあいつの鼻をぶっくらわしたことについて、あいつがデラ・ストリートを殺そうとしたこと以上に大袈裟にあつかっているじゃないか」
バーガーは頭を振って、辛抱づよく言った、「そう言えばずいぶんひどく聞えるがね、ペリイ、しかしそれは公正《フェア》な言い方ではないぜ」
「なぜなら、きみがその男を襲ったときに、きみはブラナー事件の有罪決定に役立つものとしておれが当てにしている証拠を取りあげてしまった。もちろん、それは単なる暗合にすぎんかも知れんが、この二人の男がきみの依頼者の不利になる証拠を持っていたという事実は依然として残る。そしてきみが彼らに会って、その男の鼻を叩きつぶし、その証拠を持って行った。それを単なる暗合と信じてくれというのは、少くとも表面上は、無理なことだ」
「あんな証拠に、あんたはどれほどの価値を置けるというんだ?」メイスンは抗弁した。「あいつらにとってはアパートの鍵を手に入れるぐらい、わけもないことじゃないか。おれは二十四時間の暇をくれれば、市内のどんなアパートの鍵だって持って来てあげるよ」
バーバーは執拗に言った。「それはポイントを外れてるよ。ペリイ、そしてきみは外れてることをよく知ってるんだ。あの鍵はそれ自身として、またそれだけのものとしてみれば、何でもないかも知れんが、しかしあれはそれだけのものとして孤立してるのではないのだ。それはきみの依頼者に不利な一連の証拠の一環なのだ。きみとしてそれが弱い一環だと主張するのは結構だよ。しかしそれだけでは、どうして、きみがその証人に暴行を加え、その小さな証拠をその男から取り上げて行ったかということの説明にはならない。あれではまるできみがそれを最重要な証拠だと知ってのことのように見えるじゃないか。わしは彼らの言葉をきみの言葉に反して採用しているのではなくて、率直に、これから捜査を行って、その捜査の結論が出るまでは絶対に何もしないと、きみに話しているのだ。しかし彼ら二人は逮捕状を請求している。またきみが彼らの一人を殴り倒し、ほかの一人に拳銃を向けたこと、陪審が相当《ヽヽ》の重要性を認める可能性のある補強証拠の一つを盗み去ったことなども、新聞方面に流れ出ようとしている。わしがただここに構えていて、あの告訴をとりあげたと考えるなら、それは間違いだ。わしが何をするつもりでいるかをわしは話した。それが絶対的に確実な、絶対的に最終的な、わしの意向だ。きみはわしの提案を容れてもいいし、容れなくてもいい、きみの都合のいいようにしたまえ」
メイスンは椅子をうしろへ押して立った、「少し後に、あんたに電話をさせてくれんかね?」
「いま二人で決められることだと思うが」バーガーは言った。
「十分間以内に電話しよう」
「結構だ」
メイスンは握手の手を出そうとしなかった。オフィスを出て、廊下の公衆電話室へ入ると、ポール・ドレイクを呼んで言った、「ポール、鍵は試してみたか?」
「試した。合うよ」
「確かだな?」
「絶対に。おれは外のドアも室のドアも、両方ともあけた。それでどういうことになるんだ? ペリイ?」
メイスンは言った。「おれにはわからんよ、ポール。あの探偵どもはバーガーを麻酔にかけてしまいやがった。あの鍵がジュリアに不利な証拠だった。おれがそれを取るまでは、ごく弱い証拠だったが、おれがつかんだばっかりにまるで霧の夜の渡し舟みたいに光ってきたんだ。ひどい失敗だ。あとで会おう」
電話を切り、地方検事のオフィスへ引き返して、受付の女の子に言った。「バーガー氏に言ってください。ペリイ・メイスンは、明日の午前十時にジュリア・ブラナーの予備審問を行うことに同意します。おたがいに面倒な手続きはみんな抜きにしましょう、とね」
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十四
ノックス判事は、地方検事局の公判検事補のなかでも指折りの腕っこきといわれるジョージ・シューメイカーに向って、うなずいた。
「ではジュリア・ブラナー事件の証言を進めてください」と判事は言った。「これは、目下のところ原被双方の同意によって証人の訊問を行うこと、ならびに弁護側は審問を開く時期の問題には一切触れないという約束で弁護側との合意が成立しまして、それに基づいて行われるものです」
「そういう約束です」とメイスンが言った。
シューメイカーが言った、「では、カール・スミスを呼びましょう」
タクシー運転手の制服を着た、ずんぐりした体格の男が進み出て内気そうに手を挙げて宣誓をし、証言台に就いた。
「あなたの名前はカール・スミス、現在も今月五日にも、タクシー運転手であり、またあったわけですね?」
「へい」
「被告のジュリア・ブラナーを知っていますか?」
ペリイ・メイスンよりやや後ろの席に、唇をかたく結んで、硬直したように腰かけているジュリア・ブラナーの方を、運転手は見た。
「知っています」
「はじめて見たのはいつですか?」
「五日の夜、午前一時ごろです。この人に呼ばれて、わしは車をとめました。この人はレンウォルド・C・ブラウンリーに宛てた手紙をわしに渡しまして、それをブラウンリー屋敷へ届けてくれと申しました。そういう用事ではもう遅いじゃないかとわしが申しましたら、この人が大丈夫だ、ブラウンリーさんは喜んでこの手紙を受け取るだろうと申しました」
「ほかに何か言いましたか?」
「わしに言ったことはそれだけでがした。わしは手紙を持って参りました。ブラウンリー家のベルを鳴らしますと、若い男の人が玄関をあけました。おれがブラウンリー氏に渡すからと、その人が言います。わしがその人の名を訊ねましたら、その人の言うには……」
「ちょっと」メイスンがとめた。「わたしはこういう二人の間の会話に対しては、それが単なる伝聞であり、『付随事実《レス・ジェステ》』の一部をなさぬという理由により、異議を申し立てます」
「承認します」ノックス判事が決定した。
シューメイカーが勝ち誇った微笑をうかべて、一般席の方へ向って言った、「フィリップ・ブラウンリーがこの席におられるなら、起立していただけませんか?」
紺のサージの背広で、痩せぎすの、蒼白い顔色をしたフィリップ・ブラウンリーが、起立した。
「あなたはあの人を前に見たことがありますか?」シューメイカーはタクシー運転手に訊ねた。
「へい。あの人がわしの手紙を渡した人でがす」
「以上」シューメイカーが言った。
メイスンは手を振りながら、「ありません」と言った。
「フィリップ・ブラウンリー、証言台へ就いてください」シューメイカーが頼んだ。
青年は進み出て、宣誓した。
「あなたは、いま証言をした証人カール・スミスを知っていますか?」
「はい」
「五日の朝に同人と会いましたか?」
「はい」
「同人はあなたに何かを渡しましたか?」
「はい」
「それは何でしたか?」
「わたくしの祖父、レンウォルド・C・ブラウンリー宛の手紙でした」
「あなたはそれをどうしましたか?」
「わたくしはすぐにそれを祖父のところへ持って行きました」
「お祖父さまはもうお休みでしたか?」
「ベッドで読書しておりました。夜おそくまで読書するのが祖父の習慣でございました」
「あなたの目の前でその手紙をお開きになりましたか?」
「はい」
「あなたはその手紙を見ましたか?」
「読みはしませんでしたが、なかに書いてあることを、祖父がわたくしに話してくれました」
「何が書いてあるとあなたに話されましたか?」
メイスンが言った。「裁判長殿、それは最善の証拠ではないという理由により異議を申し立てます。それは伝聞であり、不適格、無関連、無内容であります」
ノックス判事が言った。「意義を認めます」
シューメイカーは眉をひそめながら、訊問を続けた。「あなたのお祖父さまは手紙を受け取った直後に何をなし、あるいは言いましたか?」
「同じく異議を申し立てます」メイスンが言った。
「手紙の内容が何であるか、誰から来たものかであるかについて、いかなる陳述をも認めません」ノックス判事が決定した。「しかしブラウンリー氏によって語られたかに思われる事柄のうち、氏が何を為す意向であったか、あるいは、どこへ行くつもりであったかについては、付随事実の一部として、許容します」
フィリップ・ブラウンリーは低声で、「祖父はジュリア・ブラナーに会うため、直ちにロサンゼルス港まで行かなくてはならぬと申しました。わたくしは祖父が彼のヨットの上で彼女に会おうとしていると言ったと了解しました」
「ジュリア・ブラナーに会うことに関する部分を削除するよう申し立てます」メイスンが言った。「質問に対する答えをなしていない、不適格、無関連、無内容かつ伝聞であります」
ノックス判事が言った。「決定を保留します。もし今後の証言によって、それが付随事実の一部であるとわたしの看做すものであることが示されたら、いまの証言を残すことにします」
「付随事実の一部とするには、あまりに間接的です」メイスンが反対した。
「わたしはそう思いません、メイスン君。しかしながら、それは幾分とも証拠によってきまることです。後刻、証拠が出そろった後に、もしいまの証言があまりに間接的と思われたら、そのときに改めて発言されたらよろしいでしょう」
シューメイカーが訊いた。「お祖父さまはほかに何か言われましたか?」
「はい。あの女悪魔めは、わしの息子の時計を永年のあいだ握っていたが、やっといまそれを手ばなす気になった、と申しました」
メイスン――「この陳述の削除を申し立てます、付随事実の一部をなさないが故に、またある書面の内容を口頭で示そうとする企てであるが故に、伝聞、不適格、無関連、無内容なるが故に」
「申し立てを許可します。削除を命じます」ノックス判事が決定した。「それは付随事実の一部ではありません」
「お祖父さまはどうなされましたか?」シューメイカーが訊いた。
「着換えをし、自分の車のところへ行き、二時頃に車庫から出発しました」
「あなたは被告の代理をしている弁護士、ペリイ・メイスンを知っていますか?」
「はい」
「あなたは同夜――というよりも四日の晩に、メイスン氏に会いましたか?」
「はい。十一時前後、十一時と十二時のあいだでした」
「あなたはメイスンと話をしましたか?」
「はい」
「あなたはお祖父さまの遺言について話しあいましたか?」
「はい」
「メイスンはお祖父さまと会ったときの会話について話しましたか?」
「ある意味では、話しました」
メイスンが言った。「裁判長殿、罪体《コーパス・デリクタイ》について立証がなされるまで、右の会話を立証しようとする企てに対し異議を申し立てます」
シューメイカーが言った。「裁判長殿、わたくしは只今のところ、これ以上右の会話に深入りしないつもりです。後刻、わたくしは次のことを立証すべく期待しております――すなわち、ペリイ・メイスンは、四日の晩に、レンウォルド・ブラウンリーが、翌五日の朝、彼の財産の大部分を孫娘ジャニス・ブラウンリーに譲渡する文書を作成し署名する意向であったことを知った、という事実です。そしてメイスンはその情報を依頼者に通報し、このことが殺人の動機を構成したという事実であります。しかしながら現在はその点に立ち入りません。メイスンさん、反対訊問をどうぞ」
メイスンが言った。「わたしがあなたの祖父上の邸を出たとき、あたなはわたしを待っていましたね?」
「はい」
「どのくらいの時間、待っていましたか?」
「ただの数分間です」
「わたしが祖父上と話をしていた部屋から出て、自分の車のところへ行ったときは何時であったか、あなたは知っていたでしょう?」
「はい。ぼくはあたなが部屋を出る音を聞きました」
「それであなたは外へ出て、ドライヴウェイに立って、わたしを待っていた。間違いありませんか?」
「ありません」
「しかし」とメイスンは言った。「あなたの衣服はずぶ濡れでした。あのときは大雨でしたが、わたしがあなたのお祖父さんと話をしていた部屋から出て、ドライヴウェイであなたと会うまでの僅か数秒間に、肌まで濡れとおるほどには、ひどく降っていなかった。それをあなたはどう説明しますか?」
ブラウンリー青年は眼を伏せて、何も言わない。
「訊問に答えなさい」裁判長が命令した。
「わかりません」ブラウンリーは言った。
「事実はこうではないのですか」メイスンは質問した。「あなたはわたしが邸を出る|前から《ヽヽヽ》雨のなかに立っていたんではありませんか? 事実は、あなたはわたしとお祖父さんとの会談の内容の全部ではないまでも大部分を、聞くことができたのではありませんか? 窓の外で、聴いていたんではありませんか?」
ブラウンリーはためらった。「いまの質問に答えたまえ」メイスンは仁王立ちになって大喝した、「真実を述べたまえ」
「そうです」少し間をおいて、ブラウンリー青年は言った。「ぼくは窓の外に立って、何を話しているか、聞こうとしました。全部は聞けませんでしたが、一部は聞きました」
「それ故、そのときあなたは、あなたの祖父が明朝、さきほどの話の書類に署名するつもりであることを知っていた、すなわち財産の大部分が、あの邸内にジャニス・ブラウンリーとして住んでいた若い女性の手に最終的に収められるという書類にです」
「はい」フィリップ・ブラウンリーはおずおずと答えた。
「それ故に」進んでメイスンは言った、「動機という点に関する限り、あなたもまたあなたの祖父を殺害する動機を持っていた。別の言葉で言えば、あなたはあなたのお祖父さんの死によって利益を得る立場にあった。もし彼が右の書類の実効を生じる前に死ねば、ジャニス・ブラウンリーが|真に《ヽヽ》孫娘であった場合には、あなたの相続分は遺産の二分の一になる。また彼女が孫娘でないことが立証されうるならば、あなたの相続分は遺産の全部となったでしょう。それに間違いありませんか?」
シューメイカーが憤然と立って、「裁判長殿」と叫んだ。「異議を申し立てます! いまの質問は議論的、無関連、不適格、無内容であります。適切な反対尋問ではありません。これは法律問題についての証人の判断を求めるものであります」
「わたしは単に証人の側にある先入主を示すために質問しているにすぎません」メイスンが言った。
ノックス判事が裁定した。「いまの質問は議論的であり判断を求めるものと考えます。もしそれを立証したいならば、会話がどの程度まで聞かれたか、何が語られたかを証人に訊ねることによって立証し、その法的効果は法廷の決定にゆだねなくてはなりません」
メイスンは肩をすくめて言った。「これ以上本証人に問うべきことはありません」
シューメイカーは再直接訊問でもっと質問することが得策かどうか、考えている風で、ためらったが、すぐに首を振って言った。「証人は退席してよろしい。ゴードン・ビクスラーを呼び出します」
ゴードン・ビクスラーは、グレイの背広を着た四十五歳ぐらいの骨張った顔の男で、証言台に就くと、次のように証言した――名前はゴードン・ビクスラーという。彼はヨットマンで、ヨット『レゾルート』号の持主である。兇行の当夜、彼はそのヨットでキャタリーナへ旅行して来た。大豪雨の中を帰って来て、クラブハウスから電話で、自分のフィリッピン人のボーイに自動車で迎えに来るように命じた。それから自分のヨットの繋留やら、次の航海のための準備等に関して、二、三こまかい作業をした。フィリッピン人のボーイは姿をあらわさなかった。一時間以上も待ったころに、クラブハウスの近くの路上に自動車の音が聞えた。フィリッピン人のボーイは、このクラブハウスへ前に一度しか来たことがなく、途に迷ってるのではないかと思ったので、調べるつもりで外へ出た。自分がエンジンの音を聞いた自動車のヘッドライトが見えたので、その方へ歩いてゆき、その車が非常にゆっくり走っていることに気がついた。それを見ているあいだに、白いレインコートを着た女が一人、道路の端から歩み出た。車は停まり、その若い女は踏板《ステップ》の上へのぼり、数秒間、車の運転手と話をした。これが済むと女は地面へ降り、車は道路を徐行して、証人のすぐそばまで来たときに横丁へ曲り、次の道路へ出て、速力を速め、ぐるりと廻って、元の道路へ帰って来た。もう少しで元の位置へ達しようとしたときに、白いコートの若い女が暗いところから現れ、車の踏板へ跳びあがるのを、証人は見た。その頃には証人はフィリッピン人のボーイが何か都合のわるいことが出来たのだろうと思い、その車のなかの男に頼んだら乗せてもらえるかも知れぬと考えていた。それで車の方へ向って歩きだした。そのとたん、突然、数発の目のくらむような閃光を見、それにつづく速射的な銃声を聞いた。彼は全部で五発であったと思うが、ことによると六発であったかも知れない。彼は白いレインコートの女が踏板から飛び下り、暗いところへ走り去るのを見た。一台のシヴォレー、それはある十字路の暗がりにパークしていたものだが、これがエンジンの音をひびかせて動きだし、彼から遠ざかる方角へ高速度で走り去った。証人は前の自動車のところへ走って行った。一人の男の身体が、左腕と肩と頭とを車の左側のドアの外へのめり出させて、横たわっていた。銃創から流れる血が車の外側を流れ落ち、左側踏板に血だまりをなしつつあった。その男はレンウォルド・C・ブラウンリーであり、彼は死んでいた。証人は数回ブラウンリーに会ったことがあるので、見誤ることはあり得ない。
次に証人は、彼が狼狽混乱したことを認めた。雨のなかを無我夢中で走っているうちに、誰か知らないある男の運転している車に出会った。その男は後に私立探偵のハリイ・カウルターであることがわかった。この探偵と一緒に、証人はブラウンリーの車を捜したが、みつけだせなかった。二人は警察に電話をかけ、結局役人が来て捜索を引き受けた。彼の推定しうる限り、射撃の行われた時刻は午前二時四十五分ごろである。そして彼が警察へ電話したのは、三時を十分ないし十五分すぎた頃であった。
シューメイカーは証人をメイスンの反対尋問にゆだねた。
「あなたはひどく狼狽していたのですね?」メイスンが訊いた。
「ええ、そうです。あまり突然で、あまり意外だったので、非常に混乱しました」
「なぜあなたはブラウンリーの車に乗りこんで、それを運転して最寄りの病院へ怪我人を運ばなかったのですか?」
「ただそう思いつかなかったからです、それだけです。死人が頭と肩を窓からのりだしてノビているのを見て、それがレンウォルド・ブラウンリーであり、彼が殺されたのだと知ったとき、わたしは混乱してしまったのです」
「そしてあなたはそれがブラウンリーであると認める|前から《ヽヽヽ》、ずいぶんひどく混乱していたのでしょう? その白いレインコートの女がその車を運転していた男を至近距離から何度も撃ったのを目撃した、それだけで当然あなたは気が転倒したのでしょう?」
「ええ、そうでした」
メイスンは両手の指の先をつきあわせて、証人から眼を離し、ぐっと自分の指さきをみつめた。
「雨は降っていましたか?」彼は訊いた。
「はい」
「はげしく降っていましたか?」
「さあ、その少し前ほどに激しくは降っていませんでした。すこし前に小止みになりましたが、そのときは降っていました」
「そこはあなたが会員になっているヨット・クラブの近くでしたね?」
「そうです」
「そのヨット・クラブと道路を隔てている塀がありますね?」
「あります」
「街灯はありませんか?」
「ありません」
「月は出ていませんでしたか?」
「ええ、出ていませんでした」
「星も見えませんでしたか?」
「ええ。……あなたの考えていらっしゃることはわかります、メイスンさん、しかしそのときわたしが今まで証言したことを見ることが充分にできる程度の明るさがあったのです」
「その明るさの源は何でしたか?」
「ヨット・クラブのクラブハウスの正面には一本のマストがありまして、そのマストには、もやってあるヨットや、会員が留めておく自動車の置場などを照らすための溢光《フラッドライト》があるのです」
「そしてその溢光《フラッドライト》は、兇行の現場からどのくらい離れていましたか?」
「たぶん三、四フィートでしょう」
「それだと道路は非常に明るかったのですか?」
「いえ、ちがいます。わたしはそうは言いませんでした」
「しかし明るかったんでしょう?」
「ある明るさがありました」
「そこにあったものを明瞭に見ることができる程度にでしょう」
「わかっていただきたいんですがね、メイスンさん」ビクスラーは、ある種の罠を避けるように、あらかじめ指導を受けているらしく、好戦的な態度で言った、「問題の女は白いレインコートを着ていたので、物蔭から出て来てからはハッキリ見えたんです。道路は暗かった、濃い暗い場所はありました、それはそうです。しかし女が車の踏板に足をかけたときには、わたしがその姿を明瞭に見ることができる程度の照明があったのです。わたしは女の顔かたちを見ることはできませんでしたから、彼女が誰かを確言しようとはしません」
「あなたの確認は、彼女が白いレインコートを着ていたという事実に基づいています。それで間違いありませんか?」
「ええ」
「どうしてそれが白いということがわかりましたか?」
「それが白いことを見ることができたからです」
「それは淡いピンクではあり得ませんか?」
「あり得ません」
「では淡い青では?」
「あり得ません」
メイスンは突如として自分の指さきを見ていた眼を上げて、じっと証人を凝視した。彼は訊いた、「それが淡い黄色《ヽヽ》ではなかったと、確言されるつもりですか?」
証人はためらったが、まもなく答えた、「いや。それは淡い黄色ではありませんでした」
「黄色は少しも入っていませんでしたか?」メイスンは訊いた。
「ええ、ありません」
メイスンはゆっくりと、「おわかりでしょうね、純白と、うすい黄色、またはクリーム色とは違うということを?」
「ええ、もちろんわかります」
「そして時とすると、昼間でも、それらの色を識別することは困難な場合がありますね?」
「格別に困難ではありません。白い色を見れば白いとわかります。あれは白のレインコートでした」
「たとえば、このボール紙は」ポケットから長方形の厚紙を急にとりだして、メイスンは言った、「白ですか黄色ですか?」
「白です」
メイスンはまた一枚、真白なボール紙をポケットから出し、前のと並べて、さしあげてみせた。法廷じゅうに忍び笑いが起った。
ビクスラーはあわてて言った。「いまのは間違いでした、メイスンさん。最初のボール紙には|少しく《ヽヽヽ》黄色がまざっていました。それはあたなの黒い背広を背景にして、あなたがお持ちになっていたので、白く見えたんです。しかし、いま白いボール紙を隣りに置かれて見ますと、色の違いがわかります」
メイスンは何げない調子で、いかにも証人の証言を明瞭にしたいとのみ考えている人のような口調で言った、「ですから、もし兇行の晩にあなたが見たレインコートのわきに真白な布か何かを置いたら、そのレインコートの淡黄色の色あいを発見するのに役立ったかも知れないですね、ちょうど、この白いボール紙が黄色い板紙との色の違いをあなたにわからせたようにね。それに間違いありませんね?」
「ええ、ありません」と証人は言って、それから伏目になって言った、「いや、違います。つまり、わたしはあれが白のレインコートだったと|思うのです《ヽヽヽヽヽ》」
「しかしそれは淡黄色のだった|かも知れない《ヽヽヽヽヽヽ》でしょう?」メイスンは、二枚のボール紙を、証人の視線がその方へ移るように手つきで示しながら訊ねた。
ビクスラーは困ったように、地方検事の方を、また一般席の傍聴人たちの同情のない顔の方を、盗み見た。急に自信が抜け落ちたかのように、彼の身体が着ている着物のなかで萎縮したように見えた。「ええ」彼は言った。「あれは淡黄色のレインコートであったかも知れません」
メイスンはおもむろに、満廷の注意を一身にあつめて、立ち上った。混乱している証人を、まじろぎもせずみつめながら、彼は言った。「どうしてあなたはブラウンリーが死んでいるのがわかりましたか?」
「様子を見て、それがわかりました」
「積極的にそう言えますか?」
「言えます」
「しかし当時あなたはひどく狼狽していたのでしょう?」
「ええと、そうです」
「で、あなたは脈をみなかったんでしょう?」
「ええ、見ません」
「あなたは自動車のダッシュライトからくる明りだけで見たのでしょう?」
「そうです」
「医学を学んだことはないのですね?」
「ありません」
「生れてから幾人ぐらい、死んだ人を見ましたか――つまり、防腐されて棺に入れられる前の死体を?」
証人は少しためらってから答えた、「四人です」
「そのなかには暴力によって死んだ人も含まれていますか?」
「いえ、いません」
「すると、これはあなたが、狙撃された人間を見た最初の経験ですな、それに間違いありませんか?」
「ありません」
「それでもあなたは特にしらべて見ないで、その人が死んでいたと誓言するつもりですか?」
「さあ、死んでいなかったとしても、たしかに死にかけていました血が傷口から噴き出していました」
「ああ、なるほど、死にかけていたかも知れないが、死んではいなかったのですね?」
「ええ、たぶん、そうです」
「そして、その死にかけていたと言われるのは、べつにこれといった医学上の知識経験も持たず、銃創で死にかけている人間を一度も今まで見たことがなくて、言われるのですな?」
「ええ、そうです」
「そして銃創で死ぬ人間を見たこともないんですね?」
「はい、ありません」
「しかしあなたは一般に人間は射撃されて、ときには重傷を負っても、結局は助かった人があるのを知っているでしょう?」
「さあ……そうです、そういう場合があることを聞いたことはあります」
「それでいま、あなたは被害者が死にかけていたと誓言したいと思いますか?」
「ええと、わたしは死にかけていると|思った《ヽヽヽ》んです」
「あなたは医学の心得のある人が、自動車のダッシュライトの薄暗い光で、ある人間をちょっと見て、すぐにわきを向いてこの男は死んでいるとか死にかけているから手のほどこしようがないとか言うとは、まさか考えないでしょうね?」
「ええ、考えません」
「医者が聴診器で心臓のはたらきを聴くことを期待するでしょうね?」
「ええ、そうです」
「しかもあなたは、はじめてピストルに撃たれた人間を見て、何百人となく似たような患者をとりあつかった経験のある医師よりも正確に、それも医師が一つの判断に達するためにどうしてもしなくてはならぬような診察をすることなしに、答えられると期待するのですか?」
「いや、そうではありません、そう言おうとは思いません」
「なるほど、では、あなたは被害者が死にかけているとは知らなかったのですな?」
「ええ、ただわたしは撃たれたことを知っていました」
「まさにそのとおり」メイスンは言った、「そしてそれがあなたの知っている全部ですな?」
「ええ、とにかく、その人は完全にグッタリして倒れていて、ピストルで撃たれていたのです。そして頭も衣類も血まみれでした」
「まさにそのとおり、あなたが答えられるのはそれがすべてです。あなたはピストルの撃たれる音を聞き、車のところへ走り寄って、一人の男がぐったりとして血を流しているのを見た、それがあなたの知っている全部です。そうでしょうな?」
「ええ、そうだと思います」
「その人が死んでいたかどうかは知らないんですね?」
「ええ」
「死にかけていたかどうかも知らんのですね?」
「ええ」
「さらにまたその射撃が、単に肉だけにとどまる傷以上であったか否かも知らないですね?」
「さあ……ええ、そうです、わたしはしらべて見なかったんですから」
「これで終りました」メイスンが言った。
「再訊問はありません」一瞬ためらってから、シューメイカーが言った。
「次の証人を呼び出してください」ノックス判事が命じた。
シューメイカーは電話で呼び出されて港へ行った警察官たちを呼びだした。彼らは自動車を捜索したこと、最後に舗道上に血痕を発見したこと、雨水とまじっている赤い汚れのあとをつけて、ついに埠頭まで達したこと、一台の自動車を水中から鉤にかけて引き揚げたこと、その車はレンウォルド・C・ブラウンリーの車であったこと、それは低速《ロウギヤ》のままになっていて、引き揚げられたときもまだロウギヤであったこと、手押《ハンド》しスロットルは引きあけられ、車を引き揚げた後にテストした結果によれば、ハンド・スロットルの位置は、車が引き揚げられた時と同じハンド・スロットルの位置ならばロウギヤで正確には時速十二・八マイルで走るであろうようになっていたこと、その車の床の上に・三二口径のコルト自動拳銃を発見したこと、彼らは空らの薬莢を数個発見し、車の内部被覆から二発とりだしたこと、そのうち一発は明らかに車に乗っていた人物から外れ、他の一発は人体を通過した証跡を示していること等を証言した。
ここでノックス裁判長は、時刻が十二時半になったので、休憩し、午後二時に再開することを宣告した。
メイスン、デラ・ストリート、ポール・ドレイクの三人はノース・ブロードウェイの小さなレストランへ昼食に行き、ボックスを占領した。
「ポール、きみはどう思うね?」とメイスンが訊いた。
「きみは罪体《コーパス・デリクタイ》の問題で争うつもりなんだろう?」
「そうだ。そいつをずうっとやってゆければいいと、実は思っていた。けれどもビクスラーがどんな証言をするか、自信がなかったんだ。積極的に被害者が死んでいたと断言して、それを固執するんじゃないかと心配した。いまの調子なら、おれは事件を法廷から投げだしてしまえると思うね」
ドレイクはうなずいた。「あの反対尋問はすてきだったな、ペリイ。ビクスラーがあまり混乱したんで、シューメイカーは再訊問するのを控えてしまったね」
「とてもうまい技術的弁護になるんじゃなくて?」デラ・ストリートが言った。
メイスンは厳しい口調で、「うむ、技術的弁護になることは大いにそのとおりだ。だが、同時に、それが法律だ。後になって、犠牲者と思われた人間が殺されていなくて、生きてピンピンしていることがわかったのに、情況証拠で死刑になった人はたくさんいるよ。だからこそ、法律は現在のように出来ているのだ。『罪体』という術語は、犯罪の実体という意味だ。殺人容疑でそれを示そうとすれば、検察側は『結果』としての死と、『手段』としての被告の犯罪行為とを示さなくてはならない。
いま検察側は、この『罪体』の問題で一つの大きな障碍に乗りあげようとしている。彼らは死という事実を示すことができないし、用心しないと、おれは向うを罠にかけて、向うの証拠を使って動きのとれないようにしてやれると思うんだ」
「それはどういう意味?」デラ・ストリートが訊いた。
「これは頓馬な犯罪だよ」メイスンは言った。「女が――それが誰であるにせよだ――自動拳銃で撃って、姿を隠した。いまのところ、証拠は、女が自分の車に乗って、高速度で引き揚げて行ったことを示している。|誰か《ヽヽ》がブラウンリーの車を運転して湾のなかへ突っこんだ。その『誰か』は撃った人間ではありえない、なぜならば彼女は検察側の証人によって、狂気のように犯罪現場から逃走するところを見られているからだ。彼女に、射撃が行われるあいだ蔭に隠れてじっとしていた共謀者があり、それがあとになって出て来て車を運転して埠頭から海へ投げだした、とは考えにくいことだ。
それ以外の説明があるとすれば、それはこうだ、ブラウンリーはビクスラーが車のなかを覗いたときには意識を失っていたけれども、ビクスラーが去ったあと、ブラウンリーは救いを求めて車を運転しようとする程度に意識を恢復した、どうにか車をスタートさせることはできたが、篠つく雨のなかを、どの程度か知らんがでたらめな運転をしていたために道を間違え、自分で桟橋の端からとびこんでしまった、というわけだ」
ドレイクはやや不服そうにうなずいた。
「さて、そこでだ」メイスンは言った、「もしブラウンリーの死体を引き揚げた場合に、それが溺死だとわかったらどうなるか、その場合、ブラウンリーは撃たれた傷のために三十分後に死んだろうかそれとも三十秒後に死んだろうかということは、どちらでも一向かまわないわけだ。彼の死が銃創による死でなく溺死であるという事実は、ジュリア・ブラナーを殺人犯人として決定しえないということを意味する、なぜならば銃創は本当の死因ではないからだ。これは技術的のポイントでもあるが、そういう判例があるのだ」
デラ・ストリートは眉をひそめてコーヒー茶碗に目を落していたが、「ねえ、先生、いつでもいままでの事件では、あなたが代理する被告はみんな無罪の人でした。いつでも何とかして、検察側が間違った推定をしたことを証明して、誰もがびっくりするような結論に事件を持って行ったものですわ。だから世間はあなたの味方になっているのよ。いまでは弁護士として、探偵として、両方で名声を博しています、けれども、もしあなたが普通の刑事弁護士のやるような、ありきたりの戦術だけを頼りにしたら、その瞬間から世間はあなたの敵に廻るわよ。専門的な理屈だけで、有罪の女を釈放させることにあなたの才能を使うようだったら、世間はあなたを人殺しと手を握ってると思うようになりますわ。あなたを尊敬しなくなりますわ」
メイスンは考えこみながら答えた、「ほかの事件では、デラ、おれは多少とも安全な立場だった。この事件では頸まではまりこんでいる。敵はピート・サックスを証言台に立てようとしている。そうなったら最後――そうしてジュリア・ブラナーがあいつにブラウンリーを殺してくれと頼み、自分の部屋の鍵を渡し、それからおれがあいつを罠にかけて、あいつから鍵を盗んだと証言したら最後、目もあてられないことになるんだ。おれが取りさえしなかったら、あの鍵は重要な証拠にはならなかったろう――ところがおれが自分の手に掴んだとたんに、この事件で一番重要な証拠物件になってしまったんだ。地方検事がかりにそれを見のがしたとしても、弁護士会は見のがすまいよ」
「きみが例の『罪体』問題でやつらをつまずかしたら、サックスを証言させずにすませられるのかい?」ドレイクが訊いた。
「そこが問題なんだ」メイスンが答えた。「だからこそおれはこういう弁護手段をとってるんだ。もし『罪体』について敵の主張を叩けば、ジュリア・ブラナーを一時的には釈放させられる。この事件は法廷から棄却されて、万事はブラウンリーの死体を引き揚げてからということになるだろう。サックスは例の話をする機会を得られなくて、鍵はそれほど重要なものと思われなくなる。いよいよ死体を発見したとしても、ブラウンリーは溺死であることを証明できるチャンスは大いにある。そうなれば、地方検事がおれを困らせるような手続きをとっても、意地悪でやってるように見えるだろう。おれはどうしても、この『罪体』の角度から、やつらを叩かなくてはならない。それをやったあとで、こっち側の説に役立つような事実を、もっと集めなくてはならない」
探偵が言った、「ペリイ、おれはあらゆる角度からうちの者たちに仕事をさせてるが、一向に役に立つような事実を一つもみつけだせない。おれはマロリーの足跡を、サンフランシスコ上陸のときからロサンゼルスへ来るまで、すっかり跡づけた。サンフランシスコでは船からまっすぐにパレス・ホテルへ行って、そこに泊まった。そしてサンフランシスコのホテルの雇人たちのわかる限りでは、ホテルを発ったときの主教は、ホテルに泊まりに来た主教と同一人だ」
「あの主教は」メイスンはテーブル・クロスの縁を指さきで軽く叩きながら言った、「ある意味でこの事件全体の鍵だ。なぜあの人はおれを訪ねたか? なぜあの人は消え失せたか? もしあれが本物なら、なぜあんな煙幕を張って逃げたのか? もしインチキなら、なぜもっと人を信じさせるような消え方をしなかったのか……秘密の用事で出かけなくてはならないから、あとはよろしく頼むとおれに電話でもかければいいのに? つまり偽装を疑わせずに自分だけ上手に姿を消す方法は、いくらでもあったのだ。わけわからずに追いまくられているのは、足がかりがまるでないからだ。まるでノッペラボーな壁を攀じのぼってるようなんだ。
またジュリア・ブラナーも、どうしてあんな態度をとるのだ? なぜおれと話をしないのだ。自分で自分の頸を絞めるような真似をして、手のほどこしようのない立場におれを置いてるのが、わからないんだろうか?」
「ことによると有罪だから話をしないんじゃないでしょうか」デラ・ストリートが示唆した。
「おれにはそうハッキリ有罪だとは思えないんだ」とメイスンは言った。「検察側がつくりだした犯罪の想定は、一向に論理に合ってるとは思えない。ジュリアは誰かほかの人間をかばってるんで、自分は罪がないのかも知れないよ」
ドレイクが言った、「そりゃ無理だよ、ペリイ。この犯罪を誰がどうやってジュリアに疑いがかかるように仕組めたんだ? 彼女はブラウンリーに手紙をやっている。死体がみつかれば、ポケットのなかの手紙もみつかるだろう。それはジュリアの筆蹟だろう。そうなれば動きがとれんよ。被害者を浜に近い場所におびき寄せたのはジュリアだ。その点では疑いの余地はない。一つには娘のため、一つには自分の憎しみのため、あの女はブラウンリーを殺したがっていた。誰がどうやってあの女の拳銃を当人の知らない間に取って、あの女がブラウンリーに来いと言った場所へ、そっくり同じ衣裳を着て、同じ種類の車を運転して、行くなんて、そんな器用なことができたかね? いいかい、ジュリア・ブラナーは、きみが電話をかけて、どういう風向きになってるかを知らせた|あとまで《ヽヽヽヽ》、手紙を書かなかったんだよ。だからブラウンリーを浜へおびき寄せようという計略も、あのときよりも以後に、たくらまれたものだ。したがって、あの女に罪を着せようと思った人間は、あの手紙が書かれたあとの時刻から走りだしたものでなくちゃならない。おれはハッキリ言う、そんなことは不可能だと」
メイスンは時計を見て、「よし、とにかく法廷へ帰って、どんなことになるか、見ることにしよう。おれたちはまだ取り返しのつかないほどにやられたわけじゃないんだ」
「もしピート・サックスが証言台に出て、きみがやつを罠にかけて鍵を盗んだと証言したら、そのあとはどうなろうとも、あまり大した違いはないよ。世間の感情はハッキリときみに不利になる」とドレイクが言った。「とにかく『罪体』問題なり、ほかのことなりで、やつにしゃべらせないようにしなくてはだめだぜ」
メイスンは肩をすくめた。
デラ・ストリートがやさしく言った。「ねえ、先生、あたしを証言台に立てて、あたしに話をさせなさいよ。サックスが話したあとで、できるだけ早くそうなさいよ。あたしがあの男をとっちめてやるわ。あたしに対して、どんなことをしようとしたか、言ってやるわ。そうすればみんなはあいつにリンチをしたいと思うでしょう。もしシューメイカーが反対尋問であたしをあわてさせようとしたら、あたしが逆にうんとやってやるわよ」
メイスンは彼女の手を握りしめて言った。「ありがとう、いい子だ。おれもきみをあてにしてもいいことは知ってるよ」
レストランを出ながら、ドレイクはメイスンに低い声で言った、「デラにそんなことをさせるのはまずいよ、ペリイ。そうすると、きみたち二人でサックスを罠にかけて、デラがアパートへサックスをおびき寄せたというふうに見られるよ。まるでそれじゃあアナグマいじめだ。デラは世間に対して、ひどく悪い立場に立たされるよ」
メイスンも同じく低声の、うなるような調子で、陰気に言った、「きみからそんなことを言われるおれだと思うのか? だが、デラには知らせるな。おればデラを証言台に立てようとさえ思っていないよ」
デラ・ストリートが言った、「二人で何をそんなに頭をくっつけあってやってるの? まるで何かよくない企みでもしてるみたいよ。さあ行きましょう。遅くなるわ」
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十五
シューメイカーは、グロッキーになった敵に対して、あくまで優勢を保持しようと懸命に攻撃をつづける拳闘家のように、次から次へと証人を立てて行った。
弾道学の専門家は、車中で発見された弾丸は、車の床でみつかった・三二口径自動拳銃から発射されたものであることを証言した。ソルトレイクの金物屋は、ジュリア・ブラナーがその自動拳銃を彼から買い入れたことを証明する書類を提出した。ソルトレイクの一警察官は、ジュリア・ブラナーの武器携帯許可証に記載されているのは同じ特徴の拳銃であり、拳銃に刻印してある番号と同じ番号であることを証言した。指紋の専門家は車が水中から引き揚げられた後、それが乾いてから隠れて見えなくなっていた指紋を現像させる処置がとられ、左側ドアの硝子の上縁に、被告の左手の中指と一致する指紋が発見されたことを証言した。
シューメイカーは立ち上って、芝居がかった調子で言った。「ピーター・サックスを呼んでください」
鼻と頬とを完全に繃帯や絆創膏で隠したピーター・サックスが、進み出て、宣誓した。
「あなたは被告ジュリア・ブラナーを知っていますか?」シューメイカーは、サックスが名と年齢と住所とを延べたあとで質問した。
「はい」サックスは含み声で答えた。
「あなたが被告と話しあわれた際に、被告がレンウォルド・ブラウンリーの名を口にしたことがありますか?」
「あります」
「被告の代理をしている弁護士ペリイ・メイスンを知っていますか?」
「ええ」
「ジュリア・ブラナーと話をしたとき、誰が同席しましたか?」
「ヴィクター・ストックトン」
「ほかには?」
「ありません」
「その会話はどこで行われましたか?」
「バーバンクのユナイテッド空港です」
「あなたの職業は?」
「私立探偵です」
「あなたは以前にこの事件で被告と通信したことがありますか?」
「あります」
「その会話のあいだ、あなたはあるタイプの人間を偽装しましたか?」
「しました。わたしはギャングを装って、金のために幾度も殺人をしたと自慢しました」
「いまあなたが証言している、ストックトン氏同席の際の会話の日付はいつですか?」
「今月の四日です」
「何時ですか?」
「午前十時ごろです」
「ではその際、何が言われ、また誰によってそれが言われましたか?」
メイスンが立ち上って言った。「裁判長殿、ただいまの様子では、検察側は、被告を殺人罪と結びつけようとしているように見受けられますが、検察側はいまだいかなる殺人をも証拠だてることに成功しておりませぬ。わたしは只今の質問を不適格、無関連、無内容であるが故に、なんら適切なる基礎が与えられていないが故に、それは付随事実の一部をなさず、また『罪体』の一部をもなさざるが故に、検察側は現在まで、『罪体』を立証することにハッキリ失敗しております故に、異議を申し立てます」
「われわれは第一審裁判所においてとは異って、それを立証する必要はございません」シューメイカーは反対した。「これは予備審問にすぎません。われわれは単に犯罪が行われたことと、被告がそれを行ったと信ずべき相当の理由あることを立証する必要があるだけであります」
「ではありますが、なおかつ、いかなる法廷においても、『罪体』を立証することなくしては殺人を立証することはできません」メイスンは言った。「ところで、検察側の説によりますと、誰か、被告以外の人間が、レンウォルド・C・ブラウンリーの自動車をば、射撃の行われた場所から、埠頭まで走らせたのでなくてはなりません。かりにビクスラー氏の証言を信ずるとしますれば、被告はすでに現場を去っております。ところが、ブラウンリー氏自身が、意識を取り戻して、車を走らせはじめ、雨のなかで混迷に陥り、車を埠頭から落した、と想像するより以上に、いかなる仮定が道理にかなっておるでありましょうか? その場合には、ブラウンリー氏は溺死したのであって、拳銃による傷害のために死に遭遇したのではないことになるでありましょう。そして殺人を立証せんがためには、検察側は被告の行為の直接の結果としての死を立証しなくてはならないのであります」
「とんでもないことです」シューメイカーは憤然として応酬した。「裁判長殿、もしも弁護人の論点が正しくて、ブラウンリー氏が溺死したのであるとしましても、その溺死は被告の不法なる行為によって惹起されたものでありましょう、すなわちブラウンリー氏の巧みに運転する能力を奪ったのは射撃なのであります」
「しかし」メイスンが言った。「あなたはまだ射撃がブラウンリー氏をして運転能力を失わしめたことを立証していません。彼が何回撃たれたか、どの一発かが致命傷を負わせたか、あるいは単に肉にとどまる傷ばかりであったか、いずれもあなたはまだ立証していません。拳銃は小口径のものでありまして、弾丸が生命に関わるいかなる臓器をも貫通せず、皮膚の下あたりにとどまっていることは、大いに可能なことであります。のみならず、ブラウンリー氏が溺死したのであれば、被告なり、その共犯者なりが、車を埠頭から落下させたのでない限りは、被告は明らかに溺死については責任ありとすることはできません。ブラウンリーが意識をとりもどし、自動車を湾内に突入させる可能性さえもがあるとお認めになった瞬間に、わたしの述べうる如何なる議論よりも強力な論点を以て、あなた自身の主張に反対されたことになります。あなたはあなた自身が提出された証拠によって確信を得ていないことを、あなた自身が暗々のうちに認められたではありませんか!」
シューメイカーの顔に血がのぼった。彼は怒号した。「これは法律論の手練手管で正義を妨げようとする企てであります。これは……」
「ちょっとお待ちなさい」ノックス裁判長が押し止めた。「裁判長は、ビクスラー証人に対する先ほどの極めて巧妙な反対訊問を聴取して以来、本件について考慮を加えてきました。ここに死因に関して、いささか疑問があります。車が埠頭の縁を越えて海へ落ちこんだ際に、レンウォルド・ブラウンリーが車内にいたと想像するのは、道理にかなってはいますがそのとおりであったことを示す証拠はありません。被告を拘束するに必要な証拠の程度は、第一審裁判所で本案の論点について審理する上に要求される証拠の程度と同じでないことは、裁判長はよくわかっています。しかし一方において、もしわたしが現在において本件を却下するとしましても、被告が有罪の危険にさらされていたことにはなりませんし、シューメイカー検事補、あなたは死体そのものが発見されるまでは、この被告を殺人容疑で一審裁判所に起訴されるお考えは、まずないということは、恐らくお認めになると思います」
「問題はその点ではないのです」辛抱して癇癪を抑えている様子をはっきり見せながらシューメイカーが言った。「これは予備審問にすぎません。検察は被告を拘束しておきたいのです。われわれとしましては、現在われわれがいかなる立場にあるかを知りうるような形に、証拠を固めたいと存ずるのです。またわれわれが何故に現在、公衆の前に……いや、裁判長の前において、これらの証人から証拠を得ることを特に熱心に望むかには、ほかにも理由があるのであります」
メイスンが肩をすくめて言った。「検察官は口がすべりましたな。本心は公衆の前というつもりなのです」
ノックスは渋面を作って言った。「いけません、メイスン君。あなたはそういうふうな評言を慎んで、目下議論中の問題だけに発言を限定してください」
彼は少しの間、メイスンを睨みつけていたが、やがて急いで顔をそむけて、辛うじて微笑をおさえた。
その瞬間、憤怒のあまり口がきけなくなっていたシューメイカーは、効果的な議論を展開するのに必要な言葉がみつからず、そのまま立っていた。
「本事件の審問を明朝十時に続行します」ノックス判事が言った。「そのときに改めてこの問題を論じていただきたい。しかしわたしは、現在のところ『罪体』はいまだ示されていないという意見に大いに傾いています。そしておそらく技術的にわたし自身の立場を、犯罪が行われたりや否やという問題にのみ限局すべきではありましょうけれども、やはりわたしは当面の情況について、もう少しゆとりのある見方をしたいような気がします、というのは特に、現在において本件を却下するのは、今後において起訴することの妨げとはならないという理由からです」
「しかし裁判長殿」とシューメイカーは抗弁した。「検察側は兇器による暴行事件として充分な主張を打ち出さなかったといわれるのですか?」
ノックス判事は微笑して言った。「すると地方検事局では、殺人の意図を以てせる兇器による暴行の容疑によってのみ、法廷をして被告を拘束せしめ、殺人容疑からは被告を解放する意向をお持ちですか?」
「いや!」シューメイカーは叫んだ。「われわれは被告を殺人罪で起訴するのです。被告はその罪が……」
自分の陳述がどういう効果をあげたかを知って、彼は声を落して低音になり、ちょっとためらってから、自信のない様子で腰をかけた。
ノックス判事の微笑が苦笑に変った。「シューメイカー君、あなたの議論そのものが、何ものよりも明らかに、あなたの現在の主張の、失礼ながら誤謬を、説明するものだと思います。法廷は明朝十時まで休憩に入ります。被告は、もちろん、シェリフの拘置の下に送還されます」
ペリイ・メイスンは肩ごしにポール・ドレイクの方をちらと見た。探偵はポケットからハンカチーフを出して、額の汗を拭いているところだった。
メイスン自身も、ノックス判事がベンチから立ち上るのを見て、ほってと安堵の吐息をした。
ジュリア・ブラナーの方へ向き直って、メイスンは言った、「ジュリア、是非教えてもらいたいのだが……」
彼女の唇は細い一本の線になって、ピッタリ閉じられていた。彼女は頭を振り、椅子から立ち上って、彼女を未決監へ連れもどるために待っていた副シェリフに合図の会釈をした。
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十六
デラ・ストリートは、自動車のハンドルを握っているペリイ・メイスンの右手に彼女の指をからませながら言った。「先生、何かあたしにできることはなくって? あたしが地方検事に会いに行くわけにはゆきませんの?」
メイスンは前方の道路をみつめたまま、首を振った。
「あたしが悪者になるのはいけないかしら? あたしがやった、鍵を取ったと言ったら、いけないかしら?」
「だめだ」彼は言った。「バーガーはおれを狙っている。自分では悪意は一つもないと言っているが、もうずっと前から、おれがいまに大しくじりをやるだろうと予言しているのだ。したがって、自分の予言が当たった方がいいという偏見に陥るのは自然なことだ」
「先生《チーフ》」デラは一そう近くすり寄りながら、「あたしはどんなことでもするわよ、どんなことでも、ね」
メイスンは左手をハンドルに乗せたまま、右手を彼女の肩にまわし、いとしげに抱きしめた。「いい子だ、デラ。だがきみにできることは何もないよ。だまって運命を受け取るほかないよ」
「ねえ、よくって、先生」彼女は言った。「あの犯罪は、どんなふうにやったんでしょう? 地方検事の説が正しいというのは、どうも腑に落ちないわ」
「ジュリアは、あるいは猛烈にのぼせあがって撃ったのかも知れない」彼はそこまで譲歩した。「しかし、そうだったら、その前にいくらか言い合いがあったはずだ。あの女はブラウンリーを殺すために、あすこへおびき出したんじゃない、それは確かだ。それでなければ、あんなに開けっ放しに証跡を残すはずがないんだ」
「じゃ、なぜおびきだしたの?」
「それがおれの説明できない点だ」彼は言った、「しかしそれはわれわれの友達のどもり主教さんや、姿を消したジャニス・シートンや、おそらくそのほかの幾人かと関係のあることなのだ」
「そしてジュリアは、アパートを出るときは、殺すつもりではなかったわけなの?」
「百に一つも、そんなはずはない」メイスンは言った。
「でも先生のお話では、明けがた、アパートへ行ったとき、ステラ・ケンウッドは一晩じゅう寝ないで、ジュリア・ブラナーが何か捕まっては困るようなことをしに行ったことを知ってるような態度を見せたというじゃありませんか?」
メイスンは突然ブレーキをかけ、車を歩道のそばへ横すべりさせ、変速《ギヤ》レヴァを蹴って、眼をまるくしてデラ・ストリートをみつめた。
「さ、話してくれ」と彼は言った。
「何の話? あら、先生、では……」
「待ってくれ、おれは考える」
エンジンを動かしたまま、彼はそこに動かなくなった。横を車が流れて行った。一度、二度、彼はうなずいた。しばらくして、「デラ、これはあんまり無茶ので、筋が通らないようだが、この事件のいろいろな事実を説明するには、絶対にこれ一つしかない。こうして考えてみると、これはまた絶対に明々白々なんで、いままでどうしてそこに気がつかなかったか、その方がずっと不思議だ。きみは速記のノートブックは持っているね?」
彼女はバッグを開いて、うなずいた。
メイスンはギヤ・シフトをドンともとへ戻し、クラッチを蹴った。「よし、さあ出かけよう」
彼は道端から車を廻転させて、一気にビーチウッドの木造アパートへ駆けつけ、ステラ・ケンウッドの室のベルを鳴らすと、返事のブザーが鳴ってドアの掛け金がはずれた。「さあ、デラ、上ろう。部屋へ入ったら、ノートブックを出して、会話を全部、書き取るんだよ。どんなことが起っても、あわててはいけないよ」
二人は階段を上って、ステラ・ケンウッドの室まで廊下を歩いて行った。メイスンはドアをノックした。ステラ・ケンウッドがドアを開き、蒼白い不安そうな顔で彼を覗き、弱々しい、うるんだ眼をしばたたいて、かぼそい、無表情な声で言った。「まあ、あなたでしたの」
メイスンはうなずいた。
「どうぞ」と彼女は言った。
「わたしの秘書、ミス・ストリートです」
「ええ、今日、法廷でお見かけしましたわ。あれはどういうことなんでしょう、メイスンさん? ジュリアの罪の証拠をとりあげないことになるのですか?」
「まあ坐りましょう、ケンウッドさん、少しおたずねしたいことがあるんです」
「ええ」抑揚のない声で、「何でしょう?」
メイスンが言った、「あんたのお嬢さんが、自動車事故に遭われたんです。あんたがショックを受けられるといけないから、しっかり心の用意をしていただきたいのです」
彼女は呆然と口を開いた。眼が大きく見ひらかれた。
「あたしの娘?」
「ええ」
「でも、あたしには娘はありません……死にましたもの。二年前に、なくなりましたの」
メイスンは頭を振って言った。「お気の毒ですが、もうすっかりわかってしまいました。いまはの際に、あなたに一目会いたがっているのです。娘さんは、すっかり告白しました」 女は石のように動かない。疲れきった眼でメイスンをみつめ、蒼白の顔には感情も希望も失われていた。とうとう、疲れた声で言った。「あたし、何かこんなことが起りそうな気がしていましたわ。娘はどこにいますの?」
「帽子をかぶってください」メイスンは言った。「一緒に行きましょう。いつからあなたはこの身替りを計画していたんです、ステラ?」
「さあ、わかりません」前と同じ生気のない声で、「たぶん、ジュリアが自分の娘の話をしたときからでしょう。身替りになれるような年頃の娘にとって、これは何てすばらしいチャンスだろうと、すぐに気がつきました」
「それであなたはサックス氏と近づいたんですね」
「ええ。あの人はソルトレイクで探偵をしていたのです」
「それであの男が、この土地のジャクスン・イーヴズを通じて、はたらきかけたのですね?」
「そのとおりですわ。ちょっと、事故はどんなふうでしたの?」
「十字路で衝突したんです」メイスンは言った。「行きましょう、急いで行かないと間に合わない」
女は痩せた身体に、肘のすり切れた、色あせた青い外套をまとった。メイスンはデラ・ストリートに言った。「地方検事のバーガーを電話口に呼びだして、グッド・サマリタン病院の応接室でおれが会いたいと言ってくれ。電話口でこの会話を読み聞かせるんだ。全速力でそこへ来いと言ってくれ」
ステラ・ケンウッドが言った。「もう今となったら、検事さんも娘にひどいことはなさらないでしょうね? 臨終の床なら、訊問なんかで娘を苦しめることはないのでしょう?」
「そんなことはしないでしょう」メイスンは答えた。「さ、行きましょう」
デラ・ストリートをアパートに残し、彼はステラ・ケンウッドに付き添って階段を降り、車にのせた。スピードを上げながら、ステラ・ケンウッドに言った。「娘さんの臨終に、あなたが付き添う許可をとるために、たぶんあなたは詳しい陳述を地方検事にしなくてはならんかと思いますよ」
「もう見込みはないんでしょうか?」
「到底だめです」
「かわいそうに」彼女は言った。「あたしはこれが一番いいと思ってしたんですけど、どういうものか、結局はみんなまずいことになりそうな気がしていました、そこへ今度はもう何もかもばれそうになったので……」
メイスンは唸りを立ててスピードを出した。「それで?」彼は女の言葉を受けて、「ばれそうな様子になってきたときに、どうしました?」
彼女はバッグからハンカチーフを出して、静かに顔を蔽って泣いた。それきり何を訊いても返事をしなかった。
メイスンはときどき腕時計を見ながら、死物狂いで車のあいだを縫って飛ばした。グッド・サマリタン病院の前で車を横づけにすると、ステラ・ケンウッドを助けて車から降ろした。入口の階段を上り、応接間へ入った。とまどって眉をひそめたハミルトン・バーガーが、立って二人を迎えた。速記帳を前にひろげた一人の男がテーブルの前に腰をおろしていた。二人が入って行っても、男は顔もあげなかった。
ペリイ・メイスンが言った。「ステラ、地方検事さんは知っていますね?」
「ええ、ジュリアが連れてゆかれた日に、あたしに訊問をなさいました」
メイスンは地方検事に向って、「バーガー」と言った。「これでお終いだ。ステラ・ケンウッドの娘さんは死にかけている。ステラを娘さんのそばに付き添わせてあげるために、できるだけ早く必要な手続きをすませたい。たぶん娘さんが話した話の荒筋を、わたしから話した方が、時間の節約になるだろう。そのあとでステラがそれを確認すれば、きみが許可して病室へ入れてあげられるだろう。
ステラ・ケンウッドには、ジュリア・ブラナーの娘と同じ年頃の娘があった。ジュリア・ブラナーはソルトレイクでステラと同じアパートに住んでいて、自分の身の上をステラに話した。ステラは、もし自分がブラウンリーに自分の娘を百万長者の家で暮らさせることができる、願ってもないチャンスだと気がついた。そこでこの人はソルトレイクで私立探偵をしていたピーター・サックスに相談した。サックスはジャクスン・イーヴズに接近した。どういう方法で事を進めたかは、なるべく簡単にかたづけた方がいいだろう、だがとにかく、ステラはすべての事実を知っていたし、細かい、ちょっとした逸話のような出来事までジュリアから聞いていたから、完全にブラウンリーをたぶらかす筋の仕組みが出来たわけだ。そんなわけでステラ・ケンウッドの娘はジャニス・ブラウンリーになり、ジュリアはそれについて何も知らなかった。
ケンウッドの娘はジャニス・ブラウンリーとして、すっかりブラウンリーの信用を博し、お気に入りになり、莫大な遺産が相続できそうになった。
それから娘はオーストラリアのシドニーへ行き、『モンテレー』号で帰って来た。むろんレンウォルド・C・ブラウンリーの孫娘、ジャニス・ブラウンリーの名で押し通したのだ。ウイリアム・マロリー主教が、その船の客になっていて、そしてマロリー主教は忘れていなかった。主教は根掘り葉掘り、いろいろ質問した。驚いたのは娘の方で、自分の応答が壺にはまらないために、マロリーが真相を嗅ぎつけたことに気がついた。そこで母親に無電を打ち、母親はサックスに訴えた。サックスは今では自分の『利益』を守るために、ロサンゼルスに住んでいた。
ステラは何とかしてジュリアに事の真相を知らせまいと躍起になった。わかるだろう、娘がブラウンリー家に住むようになったときも、世間の評判になるのはまずいということを、うまく老人に納得させ、それで万事はごく内輪に運ばれたわけだ。もちろんサックスは、主教が直接にブラウンリーのとことへ行くのではないかと思ったから、狼狽した。
ところが主教は自分の考えであるところへ電報を打ち、船の上であった娘がインチキだということをハッキリ確かめて、それからジュリア・ブラナーにロサンゼルスで会いたいと電報を打ち、一方ロサンゼルスでは、マロリー主教は本当の孫娘のジャニス・シートンをもみつけだした。ジャニスの養い親が遺した遺産の検認に当たっていたある弁護士から手紙を受け取って、マロリー主教は、娘が養女になる際に誓いを立てた秘密を守る必要がもはやなくなったことを知った。のみならず、主教は、養父のシートンが臨終の際に、自分の経済状態が絶望的に悪くなっているので、娘にまとまった遺産を残してやれないことを自覚し、娘の素性を明らかにしてくれという伝言をマロリー主教に伝えようとしたことまで知った。シートンはもう弱りすぎて、聴いている者にその伝言の意味をハッキリ伝えることができなかったけれども、主教は病人が何を望んでいるか、よくわかったので、その言葉に従って行動しようと決心した。
ジュリアが姿をあらわしたので、ステラは半狂乱になった。ステラはサックスと連絡をとった。サックスはできるものならば本物の孫娘を消してしまわなくてはならないと思った。
ここまでは間違いないですか、ケンウッド夫人?」
彼女はうなずいて、低い声で言った。「ええ、あたしの知ってる限りでは、そのとおりですわ。主教さんのことについては、あなたの方があたしよりよく知っていらっしゃいます。でもほかの点は、みんなそのとおりです。はやくさきを話してください、すっかりすませてしまいましょう」
メイスンは言った。「一味の連中は半狂乱だった。サックスはどんなことでも、殺人さえも辞さない気になっていた、ところへジュリアが、ブラウンリーに手紙をやって、港で会って、本物の孫娘を老人に見せることにしたと言いだしたので、ステラは気が転倒してしまった。そうだろう、ジャニス・シートンは父親のオスカーとそっくりに成人しているのだ。ジュリアはあの日の午後に自分の娘に会って、もしブラウンリーが見たら、争われない似た顔だちに、すぐに気づくだろうと思った。
ブラウンリーを誘いだして、自分と会うことを承知させる決め手を、ジュリアは持っていた、それはレンウォルドが息子のオスカー・ブラウンリーにやった時計だ。レンウォルドはその時計が欲しくてたまらなかったのだ。
ステラには、これでもう百年目だということがわかった。陰謀はすっかり露《ば》れる。自分のことは構わないが、娘が牢屋へ入れられるのだ。棄て鉢になって、ジュリアのバッグから拳銃を盗み出した。ジュリアには自分のシヴォレーに乗って行けと言って、自分は別のシヴォレーを借りるか、賃借りするかした。ジュリアは白いレインコートを着ていた。ステラも白いレインコートを着た。一散に海岸へ駆けつけて、実際にジュリアより先に着いたのだが、しかしジュリアがブラウンリーの前に姿をあらわしたので、計略はすっかり宙に浮いてしまった。事実、ブラウンリーの車の踏板《ステップ》に最初に乗ったのは、ジュリアだった。そのときにジュリアの指紋が、クーペの硝子窓に付いたのだ。だがステラはあきらめなかった。ジュリアはブラウンリーが跡をつけられていないかどうかを確かめるために、ゆっくりと車を一廻りさせようとした。それを知って、ステラは一か八《ばち》か、運をためす決心をした。ブラウンリーがゆっくり一廻りして来るあいだ、ずっと隠れつづけていて、それから暗闇から走り出てブラウンリーに手招きした。ブラウンリーはむろん車を停めた。ステラは踏板に躍りあがって、ジュリアの自動拳銃で五発、撃って、それを車内へ落し、自分のシヴォレーの方へ走り、雲を霞と逃げた。
そのあいだに、ジュリアは、銃声を聞くが早いか、自分の乗って来た車に駆けつけたが、車をスタートさせるまでに数分かかった。ステラはジュリアよりさきにアパートへ帰り、着物は脱がず、そのまま待っていた。ジュリアはあまり興奮したので、すぐにはアパートへ帰らず、気をしずめるために、その辺をしばらくドライヴしていた」
メイスンはステラ・ケンウッドに向って言った。「このとおりだね、ステラ?」
「ええ」彼女は答えた。「そのとおりですわ」
「そしてサックスが持っていた例の鍵は」メイスンは語った。「アパートへ入る鍵だったことは、間違いなかったが、それをサックスに渡した人は、ジュリアではなくて、ステラだった。それでいいんだね、ステラ?」
「ええ」と彼女は言った。「でも、あたしの娘は、あたしがブラウンリーを撃ったことについては、何も知りません。そのことについては、誰も知らないんです。ピート・サックスにだけは、電話で話ができたら、自分の考えを話したかったのですけれど、電話が通じませんでしたの。ジュリアが何をするつもりでいるか、知ったとき、あたしはただもう、娘が牢屋へ入れられるのを見ていられない気持ちでした。罪をジュリアになすりつけようというつもりはなかったんです――はじめのうちは。ただ拳銃がほしくて、自分は持っていないものですから、ジュリアのバッグから取ったんです。でもどうして娘はこの話を、メイスンさん、すっかりあなたに話したんでしょう――何も知らないはずの娘が?」
メイスンが言った。「すまなかった、ステラ。あんたに自白をさせるためには、罠にかけるより仕方がなかったのだよ」
「どこまでが娘の話でしたの?」
「何も話さないよ」
「じゃ、娘は、娘は、あの……?」
メイスンはうなずいてみせて、「そうだよ、ステラ、娘さんは無事だ。間違いを直すために、わたしはこうするより仕方がなかった。わたしはこれよりほかの方法を考えられなかった」
ステラ・ケンウッドはぐったりと、疲れ切ったさまで椅子のなかに崩れ折れた。やがて泣きだした。「審判ですわ」と彼女は言った。「どのみち、このままで通るということはないはずだったのでしょうね。あなたがたにお願いしたいのは、この事件をあたしの側からも見ていただくことですわ……長い、つらい生活でしたわ……娘のために闘ってきたんですわ。自分のことはどうなろうと構いませんでした……この機会をどうして逃してなるものかと思ったんです。ジュリアは自分の娘をブラウンリーにやる気はない、ブラウンリーは孫をほしがっている、だからあたしが与えてやろう……するとそこへ主教さんが出て来ました、ピート・サックスは、あたしたち、みんな牢屋へ行かなくてはならないと言います。自分のことは構いません。娘のためです。あたしは、よろこんで死にます。どうぞ法律のとおりに殺してください、ただお願いですから娘にだけ、手荒くしないでくださいね。娘は、母親の言いつけだから、したことなのですもの」
看護婦が入って来て、ハミルトン・バーガーに言った。「バーガーさま、お役所からお電話でございます」
「今はいい」ステラ・ケンウッドから眼を離さず、「手が離せないと言ってください。一つ二つ、ここでハッキリさせたいことがあるから……」
看護婦が言った。「たいへん重要なことだとお伝えしてくれとおっしゃいましたの。ブラウンリー事件が、新しく発展したとかで……」
バーガーは顔をしかめて考えていた。「こちらへ線をおつなぎいたしますが」と看護婦は言った。
バーガーは看護婦にうなずいてみせ、ステラ・ケンウッドに向って、「ステラ、あなたは口供書を作らせてくれますか?」
彼女は答えた。「ええ、よございますとも。すっかりお話してしまったら、少し気分が楽になりましたわ。あたしは悪い女です、けれども娘だけは苦しめたくありませんわ」
看護婦が卓上電話を運んで来て、線をつなぎ、バーガーに手渡した。バーガーは「へロー」と言って、数秒間、眉を寄せて、考えこみながらだまって聴いていた。
彼は意味ありげにペリイ・メイスンをちらと見て、送話口に言った。「万事、そのままにしておけ、何も手を触れてはいかんぞ。フィリップ・ブラウンリーとジャニス・ブラウンリーとを連れて行って確認させろ。しかしおれが行くまでは二人に見せずにおけ。速記者を配置しておけ。おれはまだ十分か十五分は、ここから動けないから、まだしばらくはそのままにごまかしておいてくれ。おれはいま口供を取ってるんだ」
電話を切り、メイスンが眉をあげてみせた意味をのみこんで、一つうなずいた。「そうだ、ほんの少し前にみつかった」
ステラ・ケンウッドは顎をがっくりと胸にうずめ、その会話には何の気もつかぬ様子であった。
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十七
メイスンの車の速度計は時速七十マイルのあたりでふるえていた。運転席の隣りに坐ったデラ・ストリートは、電気ライターで巻煙草に火をつけ、唇のあいだからそれを抜いて、メイスンにさしだした。
「いや、いいよ、デラ」と彼は言った。「いまは運転だけして、煙草はあとだ」
うしろの席にいるポール・ドレイクがどなった。「遅くしろ、ペリイ。曲り角だぞ」
メイスンは意地わるい口調で、「きみが運転したときは、このカーヴで宙返りして、妙な曲り角だと思ったろう。いまはおれが運転してるから、どんな目にあうか、見ていろよ」
車は悲鳴をあげてカーヴに入り、かしいで、立ち直って、すべって、それからメイスンが足踏みスロットルをフロアボードに押しつけると、曲り角を出て、まっすぐに走りつづけた。ドレイクはほっと安堵の吐息をして、つかんでいた前の手摺を離した。デラ・ストリートが煙を吐きながら言った。「溺死だか、拳銃の傷で死んだのか、もうわかったんでしょうか、先生?」
「知っていたって、言やあしないよ」彼は答えた。「それがわかるには、よほど完全な死体解剖《ポスト・モーテム》が必要だろうね」
「それで何を調べなくてはならないかは、あなたがハッキリ指摘しちゃったわね」彼女は言った。
「もし溺死だったら、ステラ・ケンウッドに殺人罪を宣告することはできないって。そうなるとどういう罪になるんでしょう?」
「殺意を持ってする兇器による暴行の罪で起訴するのさ。しかし最初に決定を下したときに犯人の見込み違いをしたからには、陪審の前で有罪の判決を取るのは、容易なことじゃあるまいな。バーガーもそれはわかるだろうから、今度こそは五分の隙もないケースにしようと、大活躍をするだろうよ」
「それで銃創で死んだのだったら?」デラが訊いた。
「それなら射殺事件になるのさ」メイスンは言った。「ただそのときは、検察側は車がどういう方法で埠頭から海へとびこんだか、それを立証しなくてはならないが、これがまたそう容易でないんだ。なぜかというと、解剖した医者たちの結論は別としても、もしレンウォルド・ブラウンリーが自分で運転して埠頭からとびこむことができたのなら、陪審はそのとびこんだときに被害者が死んでいたとは考えまいからね。そうなるとステラ・ケンウッドに同情が集まるだろう。
その次に、もしブラウンリーが銃丸で殺されたのなら、誰かがその車を運転して跳びこませたのでなくてはならない。その誰かは共犯者のはずだ」
「そりゃあブラウンリーは意識をとりもどして、車を動かしたかもわからないわよ。ロウギヤにして、半ば無意識の状態で、埠頭から、道路と間違えて走ったかもわからないわ。そのあとで車にギヤを入れたままで死んで、身体の重みで足踏みスロットルを押しつけて……」
メイスンは笑って、デラをさえぎり、「それは起った|かも知れない《ヽヽヽヽヽヽ》成行だよ。地方検事が陪審に対して立証しなくてはならないのは、あらゆる合理的疑惑の余地のない、実際に起った成行なんだ」
ドレイクがわめいた。「おおい、デラ、たのむからそうおしゃべりしないで、運転させてやれよ。いまもトラックが横をかすりそうになったぜ! 車を埠頭から落ちさせたのは手押しスロットルだよ。きみは優秀な秘書だけれども、探偵にだけはならんほうがいいぜ、女は探偵に必要な頭の発達をするのは無理だからな――だからあまり議論ばかりして、メイスンの気を散らさないでくれよ、三人とも死体になっちまうから!」
デラが答えた。「そんな文句ばかり言ってるのは、あんたの風邪のせいよ、ポール。神様があんたに探偵能力を少しばかり授けて下すったのは、あんたが男だからだなんて考えちゃだめよ」
「いや、そういう意味じゃないんだよ」ドレイクが説明した。「その議論はいずれあとでやるとしてだな、探偵になるには、無数のこまかい事実を記憶していて、その事実に自動的にどんな仮説でも当てはめるということが必要だ。いまきみが説明した筋は、あの手押しスロットルを忘れているというのさ」
メイスンはニヤニヤ笑いながら、「ポールと議論しちゃだめだよ、デラ。風邪をひいて、事件の解釈と、熱と、わがままとで頭がごっちゃになってるんだから」
デラは無言になって、眉をひそめて考えこんだ。ドレイクは眼をつぶった。車の運転に全部の注意をあつめているメイスンは、さらに速度計の針をふるわせながら上げて行った。
「バーガーさんは、ジャニス・ブラウンリーとフィリップ・ブラウンリーと、二人とも死体の確認に呼びだすように命令しましたの?」しばらくして、デラが訊いた。
メイスンはうなずいた。
「なぜでしょう?」
メイスンが言った。「向うへ着けば、もっと詳しいことがわかるだろう。それはそうと、ポール、おれはこの事件について、一つの仮説をつくりかけてるよ。あのどもり主教のことがわかるまでは、事件は本当に解決したことにはならないよ。ハリイ・カウルターも向うへ行くかね?」
「うん。すぐに知らせたから、おれたちよりさきに行ってるだろう、でなければすぐ後から来るよ」
「おれはハリイに、例のジャニス・ブラウンリーの車を見てもらいたいんだ」メイスンは言った。
「黄いろいキャデラックだ。それを見て、ハリイが何か気がつくことがあるかどうか、知りたいのだよ」
ドレイクはうなずき、メイスンは港内の雑沓のはげしい場所へ来たので、速度をゆるめた。
「あの娘のアリバイは、水も洩れる隙がないよ」ドレイクは、とある遊歩道のストップでメイスンが車を止めたとき言った。「ポール・モントローズは、非常に評判のいい人物だ。ある不動産登記所ではたらいている公証人でね。この男がストックトンに起されて、向かいの部屋でジャニスたちと一緒にいたと証言してるんだ」
「|なぜ《ヽヽ》そんなことをしたのかね?」メイスンはセカンドに直してスロットルを踏みながら訊いた。
「ストックトンが、自分の証言を確実にするために、利害関係のない証人が欲しかったからさ」
「ストックトンには奥さんがいたでしょう」デラが口を出した。
「うん、しかしやつはもっと他の人間が欲しかったのだ」とドレイクがものうげに答えた。
「そうしてそれは、ジャニスの来る前だったんだろう?」顔をしかめて、メイスンが言った。
「そうだ、モントローズの陳述によると、およそ五分前だった」
「ふうん、いずれわかるときにわかるだろう」メイスンは言って、車を右へ廻した。「やあ、こりゃ大層な車だ」
「大概は新聞のカメラマンだ」とドレイクが言った。「おい、ちょっと、あのお巡りがおれたちを止めようとしてるよ」
制服の警官が道路へ出て来て、手を挙げていった。「おい、埠頭へは出られないぞ」
メイスンがためらって何も言わないうちに、これまで数々の場合に当意即妙のごまかしで非常線を突破するのを仕事にしてきたドレイクが、デラ・ストリートを指して言った。「われわれは行かなきゃならん。このひとはジャニス・ブラウンリーだ。バーガー地方検事から、できるだけ早く来て、お祖父さんの死体を確認してくれと言われたんでね」
「そんなら別だ」と警官が言った。「その人のことは命令を受けているが、おれはもう来てるんだと思っていた」
ドレイクは頭を振って、「行ってくれ、ペリイ。ジャニス、元気を出しなさい。すぐすむんだから」
デラ・ストリートがハンカチーフで眼を軽くおさたので、警官はわきへ寄った。
「ハリイ・カウルターも、あすこをうまく通れるかな?」メイスンが訊いた。
「大丈夫」ドレイクが言った。「わけはないさ。車で通るのはたぶんむずかしいだろうが、あすこにいたやつのような間抜けな警官の横を通り抜けるぐらいの口実は、ハリイなら結構自分で思いつくよ」
メイスンは向うを指さして、「あすこに黄いろいキャデラックのクーペがあるぜ、ポール。なるべくあのそばにパークして、ジャニスの車かどうか、ざっと一調べしようじゃないか」
メイスンは車を廻して、その大きな黄いろいクーペに近寄った。ドレイクはうしろの席から跳びおりて、大胆にそのクーペのわきへ歩み寄り、ドアを大びらにあけて、登録証を見て言った。「オーケー、ペリイ、この車だ」
メイスンが言った。「どこかに特別な特徴があって、カウルターがおぼえているかも知れない、たとえば泥よけが凹んでるとか……おや、これは何だ?」
彼は左の前の方の泥よけの凹みをみつけて立ち止った。「これは近頃できたものだ」
「そんなのは駐車場でよく出来る凹みだよ」とドレイクはその泥よけを見に来て言った。
デラ・ストリートは、車の内部の革の被覆を覗きこんでいたが、急に興奮して叫んだ。「先生、これを見て!」
二人が彼女のそばへ来ると、彼女は運転席のうしろ側にある深い革張りの棚《シェルフ》に附いている赤褐色の斑点を指さした。
一瞬、三人はその汚点をみつめて、動かずにいた。ドレイクが言った、「デラ、きみは良い眼を持ってるなあ。この朽葉色の革では、あんな痕跡のあることはほとんど見えやしない」
彼女は微笑しながら、「これが女性の観察力よ、ポール。男の人にはとてもわからないわ」
「うん、だからいままで見のがされていたんだ」メイスンが言った。
「そうするとジャニスが浜へ行って、ブラウンリーの死体をこの車にのせた……?」
「そいつはむずかしい」メイスンが言った。「ここを離れよう。この血痕は証拠だ。警察はみのがしているんだ。おれたちがそれを発見したことに気がつけば、誰かがこの血痕を消してしまうだろう。そうなればこの血痕の意味を立証できなくなってしまう」
「しかし、これは何の証拠になるね?」ドレイクが訊いた。
「それはあとで考えよう」メイスンは答えた。
三人は、埠頭を二十ヤードほど歩いて、病院車の停まっているところへ行った。カメラとフラッシュ・バルブとを持った、一群の男たちが、フィリップ・ブラウンリーとジャニス・ブラウンリーとの|大写し《クローズ・アップ》を撮っていた。ハミルトン・バーガーがペリイ・メイスンに挨拶した。
「死体は間違いなかったかね?」メイスンが訊いた。
「ない。レンウォルド・C・ブラウンリーだ。死体は車から流れ出たものらしい、それが潮に押し戻されて桟橋の下へ戻って来たんだ」
「溺死かね、それとも言いたくないのかい?」メイスンが訊いた。
「いまのところ、何も発表しないことにしている」とバーガーは宣言した。
メイスンは病院車の方へ眼をやった。「死体を見せて貰える?」
「だめだろうな、ペリイ。ジュリア・ブラナーは無関係だ。きみはステラ・ケンウッドの弁護をする気かい?」
「いや、依頼者は一件に一人でたくさんだ」
ドレイクがメイスンに耳打ちして、「ハリイ・カウルターがいる。ここへ連れて来て、あの黄いろいキャデラックを見せよう」
バーガーがわきを向いたので、メイスンが言った。「ポール、ハリイには遠くから見せろ。おれたちがあの車に興味を持ってることを知られてはまずい。これからどうするにしても、その前にまずあの血痕のことを解決したいんだ」
ドレイクが去ってゆくと、入れ替りにフィリップ・ブラウンリーがメイスンのそばに来て、「厭ですねえ」と言った。
メイスンはじっと青年をみつめた。「いくら厭でも、いままでよりはいいだろう?」
ブラウンリー青年は身ぶるいをした。「こんなふうに祖父の死体が発見されてみると、なおさら悲劇が強くぼくの身に迫る思いがするんですよ」
「遺骸を見た?」
「ええ、もちろん。ぼくは確認させられたんですから」
「衣類はどんな様子だった?」
「うちを出たときのままでした」
「上衣のポケットは? 何か書類があった?」
「ええ、二、三の書類がありました。みんなひどく水びたしになってね。警察が取りあげましたよ」
「きみは見せられた?」
「いや、警察はその点、とても秘密主義なんです。……ちょっと、メイスンさん、教えてください、先生はぼくを反対尋問したときに、もし祖父が遺書をのこさず、ジャニスが孫娘でなかったら、ぼくが全部の遺産を相続することになる、というようなことをほのめかしましたね。法律ではそうなるんですか?」
メイスンは、じっと青年を見据えながら言った。「きみはジャニスを追いだしたいと思ってるんだね?」
「ぼくはただ法律がどうなってるかを訊いてるんですよ。あの娘をぼくがどんなふうに思ってるか、ご存じでしょう。あれは女山師ですよ」
「それはきみが自分で弁護士に相談する方がいいだろうね。わたしはきみに依頼されたくない」
「なぜです?」
メイスンは肩をすくめて言った。「わたしはむしろ逆の立場に立ちたいかも知れないよ」
「というと、ジャニスの代理人になるんですか?」
「かならずしも、そうじゃない」
「すると、どういう意味になるんです?」
「考えてみたまえ」メイスンは青年に言い聞かせた。
病院車のやかましいゴングの音が、道をあけさせる合図をした。はじめはゆっくり動きだし、道があくと、だんだん速度を早くした。ドレイクは五、六歩、ペリイ・メイスンの方へ歩み寄り、意味ありげにうなずいてみせた。メイスンは彼のそばへ来た。
「ハリイは似ていると言ってるよ」ドレイクが言った。「しかし法廷で証言できるほどハッキリした特徴が記憶にないそうだ。だがもしあれがハリイの見た車でないとすれば、ほとんど瓜二つの似た車だと言ってる」
「そしてそれはレンウォルド・ブラウンリーのヨットの置場の近くにパークしてたんだね?」
「そうだ」
メイスンはドレイクの腕に手を触れて、数艘のヨットがもやってある方を指さした。「ちょっと見ろ、ポール」彼は言った。「あのヨットに書いてある名は『アティナ』じゃないか?」
ドレイクは横眼で見て、「おれにはそうらしく見えるよ、ペリイ」
デラ・ストリートはもっとキッパリと、「そうよ、アティナよ」と言った。
「マロリー主教を訪ねたキャッシディという男の持ち舟だね?」
ドレイクはうなずいた。
メイスンが言った。「デラとおれとは出かけるよ。一つおれの思いついたことがある。きみとハリイと二人で、あのヨットのなかをちょっと見てくれないか」
「何のために?」ドレイクが訊いた。
「何でも、きみがみつけるもののためにさ」メイスンはゆっくりした口調で答えた。
「あれに乗るのは、ちょっと面倒だな。番人がいるし、それに個人のヨットだからな」
メイスンが腹を立てて言った。「おい、一体きみは、私立探偵の仕事のやりかたを、おれに教えさせるつもりか?」
「いや、そうじゃない」ドレイクはどんよりした声で、「おれが知りたいことは、どのくらい力瘤を入れるかということだよ。つまり、あのヨットに乗ることが、どの程度に重要なんだ?」
メイスンは湾の水面から反射する陽光に横眼を向けて、「ポール、こいつはどえらい重要なことだよ、きみとハリイとがあのヨットに乗るってことがね」
「その点を知りたかっただけさ」ドレイクは言った。「来い、ハリイ」
メイスンはデラ・ストリートに合図をした。「行こう、デラ、仕事が出来た」
「どんな仕事?」
「救急病院の記録をしらべるんだ。さあ行こう」
デラ・ストリートは人名の表を手に電話室から出て来た。
「あなたの知りたいとおっしゃる応急患者はこれだけよ」彼女は言った。「その結果も聞きました。三号、四号、十号は死にました。身許は全部わかっています。二号だけがまだ意識不明で、身許もわかっていません」
メイスンはその表を受け取り、うなずいて、「さあ出かけよう」
彼はイグニションのスイッチを押し、ギヤを入れると、高速度でロサンゼルスへ引き返した。
「アティナ号で、ポール・ドレイクは何を発見すると思っていらっしゃるの?」デラ・ストリートが訊いた。
「正直のところ、知らないんだ」
「なぜ残って知ろうとなさらなかったの?」
「なぜなら、おれはこの事件の筋道の立った仮説をまとめあげたからさ」
「それはどういうの?」
「それが事実に符合したとわかったら話そう。犯罪を解くには、たくさんの仮説を考えださなくてはならない。そのあるものは筋道が立つが、あるものは立たない。自分の名声を築きあげたいと思う男は、自分の考えが事実に符合することを知るまではしゃべってはいけないのだよ」
その彼の横顔をじっとみまもるデラの眼ざしはやさしかった。「あなたは自分のために名声を築き上げたいとお思いになるの、先生?」彼女はやさしく訊ねた。
「まさに仰せのとおりだ!」
あとは二人とも沈黙した。メイスンはある病院の前で車をとめた。一緒にオフィスに入ると、メイスンは言った。「五日の朝に頭蓋骨の負傷で担ぎこまれた男の患者を見たいのですが」
「まだ面会は許されないんですけど……」
「わたしたちは、身許がわかると思うんです」
「結構ですわ。医局員《インターン》の方に言えば入室を許可してくださるでしょう。あの患者さんはまだ意識がありませんの。絶対に声をお出しにならないことを約束していただかないといけないでしょうね」
メイスンはうなずいた。看護婦はベルを押し、あらわれた白衣の医局員に言った。「こちらの方々を二三六号へご案内してくださいな。身許がわかるかも知れませんの。声をお出しにならない約束です」
二人はインターンについて廊下を行き、ベッドの幾列にも並んでいる病室へ入って、一隅の衝立で仕切られている寝台へ案内された。医局員は衝立の一つを片寄せた。デラ・ストリートはギョッとして、手を咽喉もとへ持って行った。
メイスンはその意識のない姿をじっとみつめ、やがて医局員にうなずいた。医局員は衝立をもとに戻した。
メイスンはポケットから紙幣束を出した。「あの患者に、金でできる最上の手当をするようにしてください」とメイスンは言った。「個人室へ移して、昼も夜も看護婦を付けてください」
「ご存じの方ですか?」医局員は物めずらしげに訊いた。
メイスンはうなずいて、「あの方はオーストラリア、シドニーのウイリアム・マロリー主教です」
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十八
メイスンは自分のオフィス・デスクの廻転椅子に腰をおろし、うしろへ凭りかかって、足はデスクの端にのせ、踵を組みあわせていた。煙草をすいながら、満足そうな微笑を唇の隅にただよわせていた。
行儀わるくデスクの隅に腰かけているのはデラ・ストリートで、彼の方を見てニヤリと笑って言った。「さあもういいわ、『謎解き』先生、どういう仮説なの? ちゃんと筋が通ったじゃありませんこと? だから早くあたしに教えてちょうだいよ。けちん坊ねえ。あれがマロリー主教だと、どうしておわかりになったの? それからアティナ号のなかで、ドレイクが何を発見すると期待していらっしゃるの?」
メイスンは数秒間、煙草の煙の行方を眺めやってから、低い、瞑想的な調子で話し出した。
「ジュリアはブラウンリーを殺すつもりではなかったが、浜へ来て貰いたいと思った。したがって、ブラウンリーが浜にいるときに、ジュリアは何ごとかをさせようと思っていた、その何ごとかは、ほかのある人々が、それをさせないために、ブラウンリーを殺そうとしたほど、重要なことだった。
ところが、それには一つの答えしかない。論理的な解答はね。ジャニス・シートンは死んだオスカー・ブラウンリーに生き写しで、レンウォルドが一目見ればすぐにオスカーの娘だとわかるはずで、しかもオスカーには一人しか娘はないのだから、そうなれば贋のジャニス・ブラウンリーにとって運の尽きだ。
そこで、ステラ・ケンウッドはというと、ジュリア・ブラナーにはレンウォルド・ブラウンリーを浜へ呼び寄せるに足るだけの手段があることに気がつき、その浜へきたときに、正真まがいもない孫娘だということをその容貌で証明することのできる本物の孫娘の前に立たされることになるということを知ったとき、当然に、ステラは動きのとれない破局に直面したのだ。彼女は自分のことはどうでもよかった。彼女のしたことは母性愛、そのための歪んだ考え方からしたことで、一、二の悪党が巧く工夫して彼女をある立場に引っ張りこんだためなのだ。
ステラはジュリア・ブラナーが着ているのと非常によく似たレインコートを持っていたが、彼女は人から見られるつもりではなかったから、おそらくこれは単なる暗合だろう。しかし彼女はジュリアの拳銃でレンウォルド・ブラウンリーを殺すつもりだったから、そこでジュリアに自分の車を貸し、その上で別のを一台、手に入れる手配をした。
さて、ここで反対の側からこの事件を眺めてごらん。ジュリアは成人したジャニス・シートンがオスカー・ブラウンリーに生き写しであることを知ったという、明らかな事実がある。これはわれわれのうち誰も考慮に入れなかった、一つの動きのとれない証拠だ。だが|どのようにして《ヽヽヽヽヽヽヽ》ジュリアはそれを知ったか? 彼女がそれを知り得たと考えられる唯一の道は、彼女がソルトレイクシティからこの市に着いてから、ジャニスに会ったのでなくてはならない。本物のジャニスの居どころを知っていたのはマロリー主教だけだから、したがって、それ故に、マロリーは、ジュリア・ブラナーがおれの事務所へ来る前、そしてドレイクの手下がリーガル・ホテルでマロリーの見張りにつく前に、ジュリアに会い、また母と娘とを対面させたのでなくてはならない。
さてそこで、ジュリアはレンウォルドを浜へ来させたいと思った。彼女は彼に会おうとした。彼女は彼をジャニス・シートンに会わせようとし、そのときにブラウンリーにジャニス・シートンとの血縁関係の動かない証拠を見せようと考えた。だから従って、第一にはブラウンリーに肉親の相似をハッキリ見せること、第二には彼をマロリー主教に会わせること、この二つがジュリアのもくろみだったに違いない。それだから、マロリー主教は海岸のどこかにいることになっていた。しかしマロリー主教は尾行されていること、自分の生命に危害を加えようとする企てがあることを知っていたし、また疑いもなく、自分の敵にまわしている一味はジャニス・シートンの居どころを突きとめたが最後、有無を言わさず殺す気でいることも、推察していた。そこでマロリー主教は浜へ行って、|雲隠れした《ヽヽヽヽヽ》のだ。彼は雲隠れの手段として、モンテレー号を使った。むろんほかにいくらでも身を隠すための踏台はあったかも知れない。彼がモンテレー号を選んだのは、場所が都合がよかったからだ。したがって、主教は隠れ場所として、海岸に近い場所を前もって用意した、そしてその日の午前中に、彼はアティナ号の持主のキャッシディの訪問を受けているのだ。
マロリー主教とジャニスとが、アティナ号の上でジュリアとレンウォルドとを待っていたと考えるぐらい、理屈に合った話があるだろうか? 主教は頭のいい人だから、敵方が機会さえあればジャニスを殺す気でいることを知っていた、だからこそジュリアはどうしてもレンウォルド・ブラウンリーは一人きりで来なくてはいけないと強く言ったのだ。ジュリアは彼に会ったらすぐにアティナ号へ連れてゆけるくらい接近した地点で、しかもかりにブラウンリーが行先を口に出したとしても、ジャニスの隠れ場所を敵方に知られない程度には離れた地点で、ブラウンリーと会うはずだった。
さてここで注意すべきことは、一連の出来事が奇妙にごたごたと入り組んで起ったために、まるでそれらの出来事が真実の解答を嘲り笑っているようなものだということだ。
ステラ・ケンウッドは、ブラウンリーを殺す決意をかためて、自分ひとりだけで行動を起した。しかし彼女は殺人事件に自分の娘をまきこみたくないから、娘には何ひとつ知らせなかったといっている。母親らしく犠牲になろうとしていたのだ。
フィリップ・ブラウンリーは祖父が浜へ出かける前に、老ブラウンリーと話をした。レンウォルド・ブラウンリーはフィリップに、手紙に書いてあるあらましを語って、ジュリア・ブラナーと『ヨットの上で』会うことになってるといった。フィリップ・ブラウンリーはその言葉を明瞭には聞かなかった、なぜなら『浜』と『ヨット』という言葉を聞くとすぐに、観念の結合で、直ちに浜につないである彼の祖父のヨットのことを考えてしまったからだ。そこでブラウンリー青年はニセの孫娘に、レンウォルドはジュリアに会うために自分のヨットへ出かけたと報告した。するとニセのジャニスは電話でヴィクター・ストックトンに報告した。そのストックトンは即座にブラウンリーを殺すことと、論理的に嫌疑者の一人にされそうなジャニスのための鉄のアリバイを作る工夫とをしたのに違いない。
ところで、ある人間は何故に、あらかじめアリバイを用意するのだろう?」
メイスンは一息入れて、じっとデラの顔をうかがった。デラはハッと息をつめて、「あら、アリバイが必要になることを知ってるからでしょう」
「そのとおり」メイスンは言った。「言葉をかえて言えば、ヴィクター・ストックトンがジャニス・ブラウンリーにアリバイを与えるために、あれほど手のこんだ、骨の折れる工夫をしたのは、その瞬間に彼が、|ジャニスにはアリバイが必要になる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と知ったからだ。したがって、|ストックトンは《ヽヽヽヽヽヽヽ》レンウォルド・ブラウンリーが殺されることを知っていたが、しかしステラ・ケンウッドがすでに殺人の計画をしていたことは知らなかった。なぜならステラは自分の娘にそれについて何も知らせないつもりだったから。
したがって、ストックトン自身が、殺人のすばらしい計略を考えだしたということになる。ジャニスを彼の家に呼ぶ、しかし車は彼の家から四ブロックも離れたところにパークさせる。ジャニスは恐らくストックトンの企んでいることを知らなかったろう。そうしておいてストックトンの共犯者がジャニスの車を使って浜へ行き、レンウォルドを待ち伏せする。レンウォルドはジャニスの車に気がつくだろう。ジャニスのことばは腹の底から信用しているから、彼はためらわずにジャニスの車に近寄るだろう、とたんに拳銃が火を噴いて、ジュリアとレンウォルド・ブラウンリーとを一緒に殺してしまうだろう。そういうわけでピーター・サックスはジャニスが車から離れるとすぐにそれに乗って、ブラウンリーのヨットまで行った――レンウォルド・ブラウンリーを殺し、おそらくジュリア・ブラナーをも殺すつもりでね。なおサックスはストックトンからの情報を受け取ったので、その情報をストックトンはジャニスから受け取ったのだ。ところがそのジャニスは、レンウォルドがほかのヨットへ行くのではなく、自分のヨットへ行くと思ったわけだ。
したがって、兇行の時刻に、浜にはジュリア・ブラナーがいた、彼女はレンウォルドが一人で、尾行されずに来るかどうかを確かめるために待っていた。またステラがいた、これはブラウンリーを殺す決意をかためて、まっさきに舞台に来ていた。またピーター・サックスがいた、ジャニス・ブラウンリーの車を、レンウォルド・ブラウンリーのヨットの前にパークして、その車のなかで、待っていた。またマロリー主教とジャニス・シートンがいた、この二人は同じ繋留場にもやってあったアティナ号の上で待っていた。
ステラが自動拳銃の引き金をひいたとき、銃声はサックスにも主教にもハッキリ聞えた。二人ともその銃声の意味するものを察したに違いない。ハリイ・カウルターは車を運転していて、自分のエンジンの音と、車の屋根をたたく雨の音で、銃声を聞きそこなった。マロリー主教は車を持たなかったから、徒歩で兇行の現場へ向って歩きだした。サックスはジャニス・ブラウンリーの車で出発したから、さきに現場へ着いた。彼は何が起ったかを知った、恐らくビクスラーよりは詳しく観察して、ブラウンリーが死んでいないことを知ったのだろう。彼はブラウンリーの車へもぐりこんで、ギヤを入れ、一番近い桟橋にそれを走らせ、車首を湾の法へ向け、ロウギヤにしたままハンド・スロットルを開いた。それからジャニスの車へ引き返して、逃走しようとした、そのとき出合ったのが、現場へ向って来るマロリー主教だった。サックスは主教に気がついて、彼に向って車を向け、はねとばした。頭の骨を砕いたから、きっと殺してしまったものと思っていたろう。だがサックスはマロリー主教をそこで発見されてはまずいと思ったから、車のなかへ担ぎこんで、ロサンゼルスのはずれまで運んでおいて、身許のわかるような証拠を全部はぎとってから、外へほうりだした……」
ポール・ドレイクの合図のノックがドアに聞えたので、メイスンは途中でやめた。「よし、デラ、ドレイクが何を発見して来たか聞こうじゃないか」
デラはドアの方へ歩きかけ、途中で止って言った。「でもなぜジュリア・ブラナーは黙っていたんでしょう、それからジャニス・シートンもなぜ……?」
「それはね」メイスンが言った。「ジュリア・ブラナーは、マロリー主教と娘とが、何か非常に重要な理由があって、姿をあらわさないのだと思ったからだよ。この二人の立場がどうなっているか、それを知るまでは一言も口を開くまいとしていたのだ。ジャニス・シートンは、マロリー主教が自分をヨットに残して、主教からの連絡があるまで動いてはいけないと言ったのを言葉どおりに守っていたのだ。おそらく彼女はレンウォルド・ブラウンリーをヨットへ連れて来る手筈が、何かの都合で狂ったのだと思ってるだろう。おれの推理が、あまり間違っていないとしたら、彼女はいまでも殺人については何も知らずにいるだろう」
デラ・ストリートはうなずいて、ドアをあけた。ドレイクは勢いこんでオフィスへとびこみ、「ペリイ、きみはおれたちがヨットの上で何を発見したか、とても想像がつくまい――百年かかったって、むずかしいぞ! いいか、おれたちは……」
デラ・ストリートがそれをさえぎって、「マロリー主教が帰って来るのを待っているジャニス・シートンを発見した。彼女はレンウォルドの殺されたことさえ知らなかったぞ、でしょう?」
ドレイクは口をアングリあけて、彼女をみつめた。「どうして知ってるんだ?」
デラ・ストリートは右の眼をつぶって、ペリイ・メイスンの方へ人のわるいウインクをした。
「初歩だよ、きみ、ワトスン君、こんなことは、ごく初歩だよ。女のあたしの頭でさえ、事実を分析して考えだしたんですもの」
ドレイクはヘナヘナとなって、近くの椅子に腰をおろした。「やられた、おれはもう、だめだ」
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十九
翌日の正午である。電話機を置いたメイスンが、デラ・ストリートにうなずいて、言った。
「解剖の結果は、溺死だったそうだ」
「そうなると、みんなはどういうことになるの?」
「これで、ステラ・ケンウッドは兇器による暴行罪になる。ピーター・サックスとヴィクター・ストックトンは第一級殺人罪になる。解剖の結果は、弾丸一つが大動脈を切断しているから、たぶん出血のために死んだろうと推定された。それと同時に、死因が実際に溺れたことにあることも疑う余地なくわかった」
「地方検事はサックスとストックトンの共同謀議を立証できるでしょうか?」
メイスンは苦笑して、「そいつはバーガーの仕事さ。おれは地方検事局の親方ではないからなあ、しかしおれはできるだろうと思うね。ストックトンは、ブラウンリーが殺されると信ずべき何の理由もないうちから、ジャニスのためにあれほど凝ったアリバイを用意したことで、すっかり正体を見せてしまったからね」
「きっとこれで、バーガーはこれからはあんまり急いであなたの逮捕状を出す気になれなくなるでしょうね」
メイスンはまた苦笑して、「実際問題として、バーガーは今晩おれといっしょに晩飯を喰いたいと言ったよ。「この事件について、懇談したい」んだそうだ。マロリー主教も意識をとりもどして、助かることがわかったから、バーガーも滅法いい事件が出来たわけだ。おれは今朝、病院へ行って、主教さんを見舞って来たよ。マロリーさんは黄色いクーペを見たことを憶えている、そいつが方向を変えて、故意にぶつかって来たことも憶えている。もちろん、それが最後の記憶になっているが、泥よけの凹みと、座席の裏側の血痕とはバーガーにとっては願ってもない情況証拠だよ。そうして、忘れてならないことは、やつらが下劣なスパイだということだ。やつらはどたん場になれば、いつでも罪のなすり合いをやるだろう、殊にストックトンのやつが、自分だけ安全な場所にいて、サックスを絞首台の十三階段をのぼらせるように、綿密な工夫をこらしたのだと、サックスに思わせることが地方検事にできたとすればね」
「ころですっかり筋がわかったけど」デラが考えこみながら言った。「一つだけ、まだ腑に落ちないことがあるのよ、先生。あの主教さんが本物の主教で、ニセモノでないとすると、あのどもりはどうしたんでしょう?」
メイスンはニヤリと笑った。「おれもそれを考えた。今朝そのことをマロリーさんに訊ねたよ。そうしたらすっかり話してくれたよ――あの人は子供のときは、どもりだったらしい。自分でその癖を治したんだが、何か深い感情的ショックを受けると、かならずまたどもるようになるのだそうだ。船のなかで、ニセのジャニス・ブラウンリーに会って、ニセモノであることを知り、チャールズ・シートンとの約束があるために、この重大犯罪を暴露できないことを知ったときに、あまりカッとなったので、またどもりが始まった。おれのオフィスへ来たときも、まだそのショックで苦しんでいたというんだ」
メイスンの助手のジャクスンが、外側の部屋から通じているドアをあけた。デラ・ストリートは顔をあげて、笑いだし、「まあ悲しそうな顔! どうしたの、ジャクスン?」
「ご婦人だよ」ジャクスンが答えた。
ひどく意気ごんだ若い女性が、カナリアの鳥籠をかかえて、ずかずかとオフィスへ乗りこんで来たのを、ペリイ・メイスンは好奇の眼をかがやかせながら観察した。デラ・ストリートが堅苦しく言った。「失礼ですが、どうぞお出になってください。ドアに『私室《プライヴェート》』と書いてございます。受付室はあちらの角をまがったところですから」
若い女は大きな、黒っぽい瞳をあげて、女秘書をみた。塗りたてた唇が、嫣然《えんぜん》と割れて微笑した。「それは存じていますわ」ゆたかな、ゆったりした声で、「あたし、あちらから入ろうとしましたの。そうしたら、お約束がしてなければ、メイスン先生にはお目にかかれないっておっしゃるんです。それであたし、メイスン先生の事務所の規則を変えていただくことにしましたの」
彼女は落ち着きはらって、デスクのわきの膨らんだ革椅子に勝手に腰をおろし、カナリアの籠を膝に、弁護士を見てにっこり笑った。窓から入る光線が、彼女の顔の若さにあふれた輪郭をハッキリ見せ、挑戦的にツンと上げた顎の形を見せていた。
デラ・ストリートは電話機をとり、ペリイ・メイスンの方をチラと見て、無言の問いを発した。だが弁護士は彼女の方を見ていなかった。微細な観察に馴れた彼の眼は、考えぶかく、精細に、そのカナリアをみつめていた。
メイスンの顔にあらわれた吸いこまれるような好奇の表情を見てとったデラ・ストリートは、あきらめたように溜息をして、電話機をもとへ戻した。
新しく夢中になれるような問題にとびつく学生のような熱中ぶりで、眼をかがやかせたメイスンは、片膝を床に落して、近くからそのカナリアを観察しようとした。
「この鳥は」彼は叫んだ。「足に怪我をしている!」
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訳者あとがき
E・S・ガードナーのペリイ・メイスン・シリーズは恐らく今世紀のアメリカ・ミステリ小説として最高の人気をたもちつづけ、最大の発行部数を記録した。ではなぜそんなに人気があったのか、人気が衰えなかったのか、というと、案外に世間の探偵小説通は口をつぐんで、ニヤニヤ笑っている人が多い。端的に言うなら、ガードナーはなぜあれほど売れたのか、それは世界の読者大衆がアマくて、幼稚であるからなのか、それともペリイ・メイスン物語にそれほど圧倒的な支持を受けるだけの魅力、面白さがあるからなのか、その点について今日まで、日本はもちろん、アメリカのその道の批評家までが、妙にハッキリした発言をしていないのだ。
日本では、特に、ガードナーは最初のうち意外なほど不遇であった。わたしは、その何よりも大きな理由は、日本の読者がおとなしくて、正直な自分の好き嫌いよりも、その道の権威といわれる人々のあてがってくれるお菓子を行儀よく喰べているだけで満足する傾向があるからだと思う。不幸にして、海外ミステリ文学紹介の任に当った日本のエリートたちはガードナーに偏見を抱いていた。それらのエリート諸氏は日本の推理小説をある方向に成長させようとし、もっぱらその方向で師とするにふさわしい海外作家の紹介に熱中し、海外のミステリそのものを歓び嗜む読者自身の好みを度外視する傾きがあった。手取ばやく例を挙げればヴァン・ダイン、エラリイ・クイーン、J・ディクスン・カーといった、いわゆる本格推理派、トリック派が推理小説の本道として推賞されつづけて来た。いうまでもなく、これらの作家は一流中の一流で、それにケチをつける気持はわたしには少しもない。だが推理小説の世界は広大であって、これらを上廻ってペリイ・メイスンが読者に歓迎されたのは、またそれだけの理由、つまり別趣の面白さ、魅力があったためであることを強調したいのである。
ではガードナーのどこがそんなに面白いのか――何といっても、ペリイ・メイスン・シリーズの魅力の最大なものは、主人公メイスンのパースナリティ、個性である。この中年の独身の刑事弁護士は、傲岸不屈の闘士であり、引き受けた仕事のためには昼夜をわかたず活動する精力絶倫、勤勉無類の職業人であり、危険を怖れず自分の確信の前に名誉と地位とを賭けてぶつかってゆく、いわゆる「限度なし」の賭博師、冒険家であるとともに退いて身を守り、抜け目なく金を儲けるコツも心得ていて、一方ではつねに大衆をアッとわかせるスタンドプレイの名手でもある。超人的な推理力の持主ではないが、平凡な一般人の智力を一歩だけぬきんでた機智を抜け目なく活用する工夫力と、人間の弱点を洞察するリアリストの眼光とを具えている。要するに、セチガラい現代のアメリカ社会で、特権を利用せず、資力に頼らず、悪事をはたらかず、僥倖をたのまず、与えられた能力と機会とによって競争者を圧倒して生活をきりひらいてゆく――こう書いてくると、これはミステリの世界ではなくて現実のアメリカ社会で、実はひとびとが自覚してはいないが実生活を生きてゆくうえでこうでなくてはならぬという、アメリカ市民の理想的典型であることに諸君はお気づきにならぬだろうか?
こういう人物が、アメリカ社会自身でさえも、そのまま偶像視されるほど、人間はセンチメンタリズムから自由ではない。日本では特にそうだろう。あいにく日本の社会ではメイスンのようなチャッカリ屋の心臓の強い成功者はマトモな世渡りはしていないのが多い。右に挙げたような個性的特質は、日本の小説家の筆にかかると、イヤなやつの典型として描かれかねないだろうし、それはまたそれで、また別の魅力のある性格創造が可能だろう。またガードナー自身も、メイスンをかならずしも偶像的英雄としてではなく、敵の多い世間師として、お上品ぶった金持社会から嫌われ、嫌われるのをものともせずに一本立ちで世間に立ち向ってゆく人間として描いているのだ。
だから、そういう人物に読者が魅力を感じるというのは、度胸とか勇気とか才智とかいう恵まれた素質のかたまりとしてだけではなく、何か一口では言えない人間チャームがあると見なければならず、そのチャームを説明するのは骨が折れるし、本文を読んでもらうほうが手っ取り早い。だが、ここで簡単に言ってしまえば、イギリス人がシャーロック・ホームズを、フランス人がアルセーヌ・ルパンを、物語の英雄として持ったように、二十世紀のアメリカ人が持ち得た最もアメリカ人らしい英雄がペリイ・メイスンその人なのであり、ペリイ・メイスン物語の人気の本質はこの点にあるというのが、わたしの感想である。アメリカ文化とは何か、米日両国の知識人諸氏の著述を百冊読むよりも、メイスン物語を読むほうがよくわかるとわたしは信じている。
そこで、そういう人物の動きまわる小説の世界というものが、深刻がった知性人を主人公とする探偵小説とは違ったものになるのは当り前である。メイスンは行動人であり、必然にメイスン物語は目もくらむようなスピーディな行動の文学である。
推理よりもアクションを重んじるミステリのジャンルとして、ハードボイルド派が誕生したことは皆さん先刻ご承知であろう。ガードナーの作家歴は、ハードボイルド派の牙城であった雑誌『ブラック・マスク』から始まっているが、彼はアクションに重点を置く点でかれらと傾向を同じくしながら、ストオリィの構成の点では探偵小説の正統を離れなかった。彼は本格的なミステリ(謎)をスピードに載せて物語を突っ走らせる。追駆けやピストルの乱射がきわめて稀にしか彼の物語には出て来ないことも、気がついた人には一つの驚きであろう。そんなマナリズムには少しも頼らずに、この作家は「アメリカ生活」そのものを――さもなければ退屈なはずの人生を――攪拌し、沸騰させる術を心得ている。
その「術」とは何か。メイスンの武器とする頭脳と弁舌である。メイスンは犯人および警察を両面の敵として争う知的競技を楽しんでいる。そのゲームは推理だけのゲームでないことも彼の特徴であり、これがまたガードナーの独創の大きな現れである。
メイスンは刑事弁護士として事件に関係するが、彼は自分が弁護を引き受けた被告の無罪を証明するために、みずから事件の真相をあばき、真犯人を摘発するから、当然に「探偵《スルース》」としても活躍する。その限りでは物語には謎があり、トリックがあり、それを解くメイスンの推理がある。だがメイスン物語の内容はそれだけではないし、それだけでないところにエポック・メイキングな特色があった。ほかでもなく、弁護士としての彼は、犯人を捕えることが本業ではなくて、自分の依頼人を無罪にすること、真犯人が別にいることを法廷で立証するのが彼の本来の役割なのだ。したがってペリイ・メイスンの頭脳の活動は、決して単純に犯罪の謎の解決だけに向けられているのではなく、事件の展開と一緒に突っ走りながら、一方では依頼者の立場を有利にし、敵を防禦の立場に追いこむためにも、それに劣らぬ苦心を払う。筋《アクション》のスピーディな展開がここから生じる。S・S・ヴァン・ダインが近代的な検察組織の精密な描写によって探偵小説に犯罪捜査のリアリズムを導入したように、ガードナーは刑事法廷と弁護士業務の実態とをミステリ小説に導き入れ、裁判小説、弁護士小説の近代的創始者になったのである。
『どもりの主教』The Case of the Stuttering Bishop は一九三六年の作で、ペリイ・メイスン・ミステリとしては第九冊目にあたる。作者のあぶらの乗りきっていた時代で、このシリーズの代表作の一つとして推しても誤りではあるまいと思う。
メイスン物語は、普通に散文的なものの代表のように考えられているアメリカのブルジョアの生活に、一脈の「童話的」とでも名づけたいような雰囲気をただよわせる不思議な味をもっている。この物語では、その雰囲気を、「主教《ビショップ》はどもらない」という諺にでもありそうな通念に反して、開巻第一、どもりの主教を出現させた着想で導き入れている。その出現が、たちまちにしてメイスンの冒険欲を奮い立たせる事件の急旋回のなかへ彼を捲きこみ、彼が少しばかり無理をしてひどく危険な立場に追いこまれるところで、秘書のデラ・ストリートや相棒の探偵ポール・ドレイクと一緒に、われわれ読者もハラハラさせられることになる。だが、ガードナーの最大の特色とするアクションの盛りあがりによるスリルは、豪雨の夜のロサンゼルス埠頭の場面で、高潮に達する。さまざまの立場の人物が集中的に同一の時間と場所に入りみだれる境遇の設定は実に見事で、この物語を傑作たらしめている。ついでだが、この物語の時代――つまりこれが書かれた一九三〇年代には、乗用車のドアの外側に、乗降の便宜のための踏み板(running board)、ステップがあった。そのことがこの埠頭の場面の出来事に深い関係があるので、そういうステップのついた車をご存じない世代の読者のため、一言書き添えておく。
一九五六年二月に本篇を訳出したとき、わたしは当時の最高裁検事平出禾氏に校正を読んでいただき、アメリカの法律関係の訳語の不手際なところを是正していただいた。新版を出すに当って、二十年前の文恩への感謝を新たにし、平出先生の御健康をお祝いする次第である。
一九七六年二月