E・S・ガードナー/池央耿訳
緋の接吻
目 次
(怪盗レスター・リースもの)
インドの秘宝
レスター・リース作家となる
(ペリー・メイスンもの)
緋の接吻
燕が鳴いた
解説 ガードナー論
インドの秘宝
レスター・リースはその目にいとも愉快げな光を宿して、見るとはなしに執事の様子をうかがっていた。執事とは表向き、実はこの男、部長刑事のアクリーがレスター・リースを見張るために送り込んだ隠密警官であった。
「それじゃあ何かね、君は狂信的な東インドの僧侶たちが嫌いだって言うのか、スカトル?」
「はい、旦那さま」執事は言った。「あの連中に後を付けられたりするのはまっぴらでございます」
レスター・リースは|煙草入れ《ヒューミダー》から煙草を取ってカチリとライターを鳴らした。
「スカトル」彼は言った。「インドの僧侶が何でまた、人の後を付けたりするのかね?」
「それを申し上げましたら、旦那さまは私がまた何か悪いことをそそのかそうとしているとお思いでございましょう。実を申しますと、旦那さま、私が東インドの僧侶が嫌いだと言いましたのも、ある犯罪事件のせいなんでございます」
「ほう」レスター・リースは言った。
「そうなんでございます」執事は言った。「私、ジョージ・ネイヴン殺しのことを考えておりました」
レスター・リースは詰《なじ》るような目つきで隠密警官を見た。
「スカトル」彼は言った。「まさか、私をその事件に巻き込もうなんて言うんじゃああるまいな?」
「いえいえ、とんでもございません」隠密警官は慌ててそれを打ち消した。「ただ、もしこの事件に興味がおありのようでございましたら、これはまさに、旦那さまにはお誂え向きの話でございますよ」
レスター・リースはかぶりをふった。
「駄目だね、スカトル」彼は言った。「たしかに、犯罪事件についてあれこれ考えるのは好きだがね、自分から手を染めるのはごめんだよ。いいかね、スカトル。私にとって、これは知的な遊戯なんだ。新聞で読んだ犯罪事件の絵解きをああでもない、こうでもないと考えるのはなかなか面白いよ」
「ええ、旦那さま」隠密警官は言った。「ですから、これはまさに、旦那さまがあれこれお考えになるのに持って来いの事件なんでございますよ」
レスター・リースは溜息を吐いた。「お断りだよ、スカトル」彼は言った。「考えてみようとも思わんね。なあ、スカトル。部長刑事のアクリーは、私のささやかな楽しみを知っている。で、あの男は私のことを、泥棒どもの稼ぎを横からさらう大悪党だと言い張るんだ。そうじゃないと説得しようにも、こっちはなんの証拠も持ってはいない。だから、私はもうこのお遊びも止めにした方がいいと思うようになったのさ」
「そうはおっしゃいますが」執事は言った。「いくらアクリー部長刑事でも、旦那さまがご自分のお宅で何をなさっておいでか、逐一《ちくいち》知っているはずもございませんでしょう」
レスター・リースは悲しげに頭をふった。「そう思うだろう、スカトル。ところが、あのアクリーのやつは、どういうわけか、私の考えてることをいつの間にかちゃあんと知っていやあがる」
「そのようでございますね、旦那さま」執事は言った。
「ジョージ・ネイヴン殺しについてはお読みになりましたですか?」
レスター・リースは眉をひそめた。「たしか、宝石泥棒を働いたか何かしたんじゃあなかったかね、スカトル?」
「そうなんでございます」隠密警官は膝を乗り出した。「探検家でございましてね、インドの密林を広く探検しておりました。密林の寺院についてはいくらかご存じでいらっしゃいましょう、旦那さま?」
「ジャングルの寺がどうかしたかね、スカトル?」
「インドは豊かな国でございます」隠密警官は言った。「黄金とルビーの国でございます。未開の密林地帯のある地方では、原住民たちが財宝をふんだんに使って偶像をこしらえております。深い密林の奥の、シバ教徒の土地に邪神の王ヴィナヤカを祀《まつ》った大きな寺がございました。そこに、それは美しいルビーがあったんでございます。鳩の卵ほどもあろうかという大きなもので、サンスクリットを刻んだ金の台に嵌《は》められておりました」
レスター・リースは言った。「スカトル、あんまり誘惑するなよ」
「どうも、申し訳ございません、旦那さま」
リースは言った。「まあ、その話はそこまでにしておこう、スカトル。いつもそうだが、一つ聞くともう一つ、もう一つということになってしまう。そうやっているうちに……ああ、一つだけ聞かせてくれ・ジョージ・ネイヴンはその宝石を手に入れたと考えられていたわけだな?」
「そうなんでございます。どうしたものか、あの男はそれをその寺から持ち出したんでございます。自分では決して認めておりませんのですが、ヒンズー教の宗派の特徴を扱った彼の本に、その宝石の写真が載っているんでございます。ところが当局筋は、寺院内で写真を撮ることは絶対にできなかったはずで、ですから、ネイヴンはそのルビーを我がものとして、こっそりこの国へ持ち帰ったに相違ないと見ているんでございます」
リスター・リースは言った。「その写真というのは、ネイヴンが殺された時、新聞にも出ていたやつじゃあないかね?」
「そうでございます、旦那さま。これでございます」
隠密警官はコートの内のポケットから新聞の切り抜きを取り出した。
リースはやや躊躇《ためら》ってから渋々それを手に取った。「見ちゃあいかんのだ。でも、まあちょっと見せてくれ、スカトル。もうこれ以上はこの話は止しにしてくれよ」
「かしこまりました、旦那さま」
リースは新聞の切り抜きの写真に目をやった。「ネイヴンの本の写真はもっときれいなんだろうね。スカトル?」
「ええ、それはもう……実物大の写真でございます」
リースは言った。「おそらく、ヒンズー教の僧侶たちは寺が荒らされたことに抗議したんだろうな、スカトル?」
「それはもう、大変なものでございました。その宝石はどうやら信仰の上で非常に大切なものだったようでございます。憶えていらっしゃいますでしょう。四、五カ月前になりますか、あの本が出ましたすぐ後で、ネイヴンの屋敷に押し入って宝石を奪おうとした者がおりました。ネイヴンは四五口径オートマチックでその相手を撃ちました」
「東インドの人間だったっけ?」
「そうでございます」隠密警官は言った。「まさに、その密林の寺に仕えている宗派のヒンズー僧でございました」
リースは言った。「ああ、もう結構だ、スカトル。これ以上は聞きたくないよ。ネイヴンは当然そのことのあるのを予期して用心していたんだろう」
「用心どころの段ではございません。アーサー・ブレアというボディガードと、エド・スプリンガーという探偵を雇っておりました。二人とも、ネイヴンに付きっきりでございました」
「家にはその三人しかいなかったかのね?」レスター・リースは尋ねた。
「いえ、四人でございます。個人秘書で、ロバート・ラモントと申す者がおりました」
「ネイヴンの探検に付いていく男だね?」
隠密警官はうなずいた。
「他に使用人は?」リースは尋ねた。
「通いの家政婦が一人おりましただけでございます」
リースは眉を寄せて言った。「スカトル。これ以上私の好奇心をくすぐることになるようだったら返事はしないでくれよ。しかし、四六時中用心棒二人と秘書が一緒にいて、いったいどうして人一人殺されるなんてことがあるのかね?」
「さあ、そこが警察としても頭を抱えているところでございます。ネイヴン氏の寝室は事実上、強盗などまったく寄せつけない場所と考えられているんでございます。窓には鉄のシャッターが降りておりますし、ドアの錠は組み合わせ番号で開く式のものでございます。ドアの外では用心棒が交代で不寝番をいたしておりました」
「換気はどうなっているのかね」
「換気装置がございました。空気の流通は自在でございましたが、しかし、人間がそこを通って部屋に入ることは、どうやってみたところで無理でございました」
「そこまでだ、スカトル」リースは言った。「もう、それ以上聞くわけにはいかんよ」
「ですが、旦那さま」隠密警官はそそのかすように言った。「ここまでお聞きになったんでございますよ。すっかり最後までお知りなって、御生来の好奇心を満足おさせになったところで害はございませんでしょうに」
レスター・リースは溜息を吐いた。「わかったよ、スカトル。で、どうなった?」
隠密警官は調子に乗ってまくし立てた。「ネイヴンは寝室にまいりました。用心棒のブレアとスプリンガーが室内をあらためまして、鉄のシャッターは内側から錠がかかっているか、窓は閉じて錠がかかっているか、確かめたんでございます。それが、夜の十時ころのことでございました。十時四十分ころ、秘書のボブ・ラモントは重要な電報を受け取りました。彼はそれをネイヴン氏に届けようとしたんでございます。用心棒にドアを開けさせまして、もうネイヴンが寝ているかどうか、そっと声を掛けました。ネイヴンはベッドの上に起きて本を読んでおりました。
秘書が部屋におったのは、十五分ないしは二十分ほどでございます。二人のやりとりにつきましては、用心棒は何も存じてはおりません。部屋の外の見張りが彼らの役目でございましたし、ラモントは極くありふれた仕事上の用向きだと申しておりましたから。やがてラモントが出てまいりまして、用心棒はドアを閉じたんでございます。真夜中ごろ、アーサー・ブレアが退《さ》がりまして、代ってエド・スプリンガーが朝の四時まで張り番をいたしました。四時にブレアがスプリンガーと交代いたしました。で、朝の九時に、秘書が午前の郵便を持ってまいりました。
朝、秘書が郵便を届けるのは習慣でございました。朝一番に秘書が部屋に郵便物を運びまして、ネイヴンが入浴して髭を剃る傍らで、中身を伝えたり、あるいは指示を仰ぐということになっていたんでございます。
用心棒がドアを開けて、ラモントは中に入りました。
用心棒はラモントがネイヴン氏に『おはようございます』 と挨拶する声を聞いております。ラモントは部屋を横切って窓のシャッターを開けにまいりました。と、突然ラモントの叫び声が聞こえたんだそうでございます。
ジョージ・ネイヴンは咽喉を掻き切られて死んでおりました。部屋中がひっくり返されておりました。家具などもめちゃくちゃにされていたんでございます」
レスター・リースは今や無関心を装おうとさえしなかった。
「犯行時刻はいつごろかね、スカトル?」彼は尋ねた。「検死官にはわかったはずだろう」
「はい、旦那さま」隠密警官は言った。「ほぼ、午前四時でございます」
「殺しの下手人はどうやって部屋に入ったんだ?」
「そこなんでございますよ、旦那さま」執事は言った。「警察もお手上げでございます。窓は全部閉まっておりましたし、シャッターも全部、内側から錠が降りているんでございます」
「殺しがあったのは、ちょうど用心棒が交代した頃だったわけだな、え?」レスター・リースは言った。
「その通りでございます、はい」執事は言った。
「ということは、用心棒のどちらか一人がまず怪しいと見られるわけだな、スカトル?」
執事は言った。「それが、実は二人とも容疑者になっているんでございます。ところが、二人とも、とてもそんな大それたことをするはずのない、ちゃんとした人間なんでございます」
「で」レスター・リースは言った。「下手人は、例のルビーを手に入れたのか、スカトル?」
「それが、旦那さま、ルビーはそもそもその寝室にはなかったんでございますよ。ルビーは屋敷の中の、秘密の場所に特別誂えでこしらえた金庫に入れてあったんでございます。金庫のことは誰ひとり知る者はございませんでした。ジョージ・ネイヴンと二人の用心棒、それにもちろん、その秘書を別にすればでございます。当然、主人が殺されたことを知って、秘書と用心棒二人は、すぐに金庫を開けてみました。ルビーは影も形もなくなっておりました。警察が調べましても、金庫からは指紋一つ採れませんでした。ところが、ちょっと妙なことがあったんでございます。
警察は、下手人は寝室の東側の窓から侵入したと睨んでおります。窓の下の柔い土に足跡がございましたし、おまけに、その柔い土に、竹の梯子の端で付いた丸い跡が見付かったんでございます」
「竹のかい、え、スカトル?」
「はい、旦那さま。ですから、当然、犯人はインド人という線が浮かんで来るわけでございます」
「しかし」レスター・リースは言った。「内側から錠の降りている鉄のシャッターを開けて、中に入って、人を殺してまたその窓から出て、窓を閉めて、シャッターを降ろして内側から錠をかけるなんていう芸当が、いったいどうやってできるんだ?」
「そこが問題なんでございますよ、旦那さま」
「しかも」レスター・リースは言った。「用心棒は二人ともかかわりがないっていうんだろう。その連中がグルだとすれば、ドアを開けて犯人を入れてやったということも考えられるがね。しかし」レスター・リースはさらに言った。「殺しの犯人がどうやって宝石を持っていったか、その点については何の証拠もない」
「まったく、おっしゃる通りでございます」
「警察は何をやってるんだ?」
「関係者を残らず呼んで事情聴取をいたしております。残らず、というのはつまり、家政婦と二人の用心棒でございます。ラモントは、前の晩ネイヴンと会いました後、その足でネイヴンの弁護士でデュアリングという男のところへ、内密の話し合いをしにまいっております。デュアリングのところには若い女の速記者でエディス・スキナーというのがおります。ですから、ラモントがその間何をしていたかにつきましては、そっくり本人の言う通り信用できるんでございます」
「その内密の話し合いというのは、一晩中かかったと考えていいんだね」
「はい、旦那さま。大層重要な話し合いだったそうでございまして。何でも、所得税と著作権についての法律上の問題だったとかでございます」
「しかし、夜通しとはまた妙な時間だね」レスター・リースは言った。
「はい、旦那さま」執事は言った。「でも、しかたがなかったんでございます。ラモント氏はネイヴン氏の仕事で大変忙しいものでございますから。ネイヴン氏は一風変った人柄で、秘書にはずい分いろいろと押し付けていたらしゅうございます。弁護士が記録を調べてそれをするのに、八時間ではとても済まないと申しますと、ネイヴン氏はえらくむずかりましたそうで、それでとうとうラモントは徹夜することにしたんだそうでございます」
「で、ラモントと弁護士の談合が終ったのは?」リースは尋ねた。
「朝の八時ころでございます。二人で朝食を一緒にいたしましてから、ラモントはネイヴン氏に朝の郵便物を届けるために車で屋敷の方へまいったんでございます」
「当然、警察はブレアとスプリンガーを厳しく追求しているだろうな、え、スカトル?」
「はい、旦那さま。と申しますのも、どちらかの見張りに気付かれずに誰かが寝室に入ることはまずできなかったはずだからでございます。それともう一つ、殺人のありました時刻が、ちょうど見張りの交代時間に当たっておりますので、ブレアが犯罪に加担していて、その罪をスプリンガーになすりつけようとしたか、あるいはスプリンガーが犯人で、交代した後すぐに犯行におよんでブレアに嫌疑がかかるように仕向けた、と考えられるからでございます」
「なかなか面白い事件と言うべきだな」レスター・リースは言った。「アクリー部長刑事もさぞかし忙しいこったろう」
「そうでございますとも、旦那さま」執事は言った。「それに、これはヒンズー教徒の手並みのほどを示す事件でもございます」
「まったくだ」レスター・リースは夢見るように言った。「まさに、水際立った殺人だよ。ただし、一つだけ難がある」
執事はキラリと目を光らせて乗り出した。「一つだけ難がある、とおっしゃいますと?」
「いやいや、スカトル」リースは言った。「それを話したりしては、私は自分自身と交わした約束を破ることになるからね。私は以後一切、事件の論理的な絵解きを考えないことに決めたんだ」
「そうおっしゃらずに是非」執事はさとすような口ぶりで言った。「その一つだけの難点というのをお聞かせくださいまし」
レスター・リースは深い吐息を洩らした。「駄目だよ、スカトル」彼は言った。「誘惑には乗らんよ」
レスター・リースは長椅子に寝そべってクッションの上で脚を組み、立ち昇る煙草の烟をじっと見つめた。
「あのなあ、スカトル」彼はまるで恍惚とした様子で言った。「一つ実験をしてみたいんだ」
「実験でございますか?」
「ああ」レスター・リースは言った。「心理学的な実験だよ。ところが、それをするには少々小道具がいる。まず、五十ドル札三枚と、一ドル札五十枚だ、スカトル。それから、ダイアモンドのネクタイピン、ネイヴンの屋敷から盗まれたルビーの模造品《イミテーション》、それに、ちょっといかすコーラス・ガールが一人」
レスター・リースの前では執事のスカトルにすぎないアーサー・アクリー部長刑事直属の隠密警官エドワード・H・ビーヴァーは今、本署の古ぼけたぼろ机を隔てて上司と向い合っていた。
アクリー部長刑事は隠密警官に向かって狡猾そうな目をしばたたいてから言った。「そのリストをもう一度言ってみろ、ビーヴァー」
「五十ドル札三枚、一ドル札五十枚、大きなダイアモンドのネクタイピン、盗まれたルビーの模造品、それから、コーラス・ガール」
アクリー部長刑事は鉛筆を投げ出した。
「お前、やつにからかわれているんだ」彼は言った。
隠密警官は頑固に首をふった。
「いや、そんなことはないです」彼は言った。「これがまさにあの男のやり方ですよ。他人の獲物を横取りしようって時には、あの男は必ず何だかだと、まるで意味もないような馬鹿ばかしいものが入用だって言いだすんです。ところが、これまでの例から言うと、それがいつも見事な計算づくでしてね。リースはまんまと獲物をせしめて、盗っ人どもは吠え面をかくという段取りです。ということはつまり、こっちもしてやられるわけですがね」
アクリー部長刑事は話にならんとでも言うように大袈裟に手をふった。
「ビーヴァー」彼は言った。「今回に関しては、お前、やつにふりまわされているだけだ。この犯罪《ヤマ》に、こんなものが役に立つはずがないじゃないか。実はな、こっちはすでにあの事件が三人のヒンズー教徒の仕業であるとするに足る相当堅い証拠を掴んでいるんだ。土地のインド人街を見張っている情報屋から、かなりはっきりしたネタが上がっている」
隠密警官は食い下がった。「ヒンズー教徒が犯人であろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいんですよ、部長。私が言いたいのは、レスター・リースはやる気だってことです。やつは今話したものを使って、きっと例のルビーが自分の手許に残る筋書きを作りますよ」
「いいや」アクリー部長刑事は言った。「お前はやりすぎだ、ビーヴァー。お前があんまり明らさまに誘いをかけたんで、やつはもうこの件には興味をなくしているよ」
「しかし」隠密警官はせっぱつまって抗弁した。「他にどうしろって言うんです? やつが仕事にかかるといつも部長は、今度こそはやつを追い詰めたとばかり、自信たっぷりに乗り出してくるでしょう。ところが、その度にやつはするりと身をかわして、部長の空振りに終わるじゃあないですか。そんなことが重なったお陰で、やつはどうやら部長が自分の動きを逐一掴んでいると勘づいていますよ。私のことを疑ってないのが不思議なくらいです」
「なあに」アクリー部長刑事は冷やかに言った。「ちっとも不思議なものか、ビーヴァー。お前はとうに疑われているんだ。そうでなくて、やつがこんながらくたの段取りをお前にさせるものか」
「がらくたにしては」ビーヴァーは言い返した。「ちと金がかかりすぎますよ」
「どういうことだ?」
ビーヴァーは部長刑事のデスクに畳んであった朝刊を拡げた。
「この求人広告を見て下さい」彼は言った。
求む、人格明朗容姿端麗の若い女性。最低三年の舞台経験を有すること。ミュージカル・コメディもしくは寄席ならなお可。但し最低八カ月舞台から遠ざかっていること。
「これも、そうです」ビーヴァーは今一つの求人広告を指さした。
求む、当方の負担にて探偵修行を志す意欲のある青年。未経験者に限る。警察の捜査活動に関する知識は一切無用。当方旧来の警察の捜査理念に毒されぬ、斬新な見識を持つ探偵を育成したし。経費全額当方負担。高給優遇。大都市の生活経験浅い地方出身者歓迎。
アクリー部長刑事は椅子の背に寄りかかった。「俺はなあ……」
「どうです、部長」隠密警官は畳みかけた。「ネイヴン殺しに関連して何か企《たくら》んでるんじゃないとしたら、何だってやつはここまでやるんですか?」
「まるで意味がないよ、ビーヴァー」アクリーは言った。「お前がどう思おうと、こいつは出鱈目だ」
隠密警官は肩をすくめた。
「おそらく」彼は言った。「それでいつも、やつにしてやられるんですよ」
「何が言いたいんだ、ビーヴァー?」
「やつのやることはいつも出鱈目に見えるからですよ、部長。およそ常識を破る、まったく独創的なやり方ですからね。こっちはやつの手の内を読みようがないんです」
アクリー部長刑事はチョッキのポケットから葉巻を取り出した。
「ビーヴァー」彼は言った。「優秀な刑事かどうかの別れ目はな、麦と籾殻《もみがら》を見分ける能力一つだ。なるほど、これまでにもリースは何度か人を食ったやり方をしたし、それがことごとく図に当たった。そいつは俺も認めるよ。しかし、今度ばかりはそうはさせん」
「まあ」隠密警官は立ち上がって言った。「どう考えようと部長の勝手ですがね。しかし、やつは絶対に何か企んでますよ。五十ドル賭けましょう。部長は例の秘蔵の時計でどうです」
「何を賭けるって?」
「ですから」ビーヴァーは言った。「やつがリストにした小道具と役者を残らず使ってまんまと例のインドのルビーをせしめる芝居を打つってことです。それも、水も洩らさぬ筋運びで、やつ自身はまるで尻尾を出さない」
アクリー部長刑事は大きな手でバシリとデスクを叩いた。
「ビーヴァー」彼は言った。「お前の言い方は上司に対する反抗と取れなくもないぞ。しかしだ、お前に一つお灸をすえる意味で、その賭けに乗ろうじゃないか。五十ドルと俺の時計だ。
ただし、ビーヴァー。もしやつがべつの方法で殺しの犯人に接近して、ルビーを巻き上げるとしたら、この賭けはお預けだ。今問題になっている、このやり方でやることが条件だ」
「いいでしょう、賭けましょう」ビーヴァーは言った。
「それから、お前はやつの行動を逐一報告しろ。やつが事実この馬鹿げた茶番で煙幕を張って、こっちの目をかすめてルビーを失敬しようとしても、こっちとしては間違いなくやつの尻尾を捕まえられるようにだ」
「心得ました」隠密警官は言った。
レスター・リースは執事に向って品良く笑って言った。「スカトル。こちら、ディクシー・ドームリー君とハリー・ヴェア君だ。ドームリー嬢には特別な仕事をお願いしてある。かなり舞台生活が長いのだが、このところ舞台から遠ざかっていてね。私がお願いしている役所《やくどころ》のためには、目を見張るような上等な衣裳が必要だ。そこで君は、彼女と一緒にあちこち店を歩いてくれ。彼女に好みの服を選んでもらえ。勘定は全部私の方へ回すように」
執事は目をぱちくりさせた。
「かしこまりました、旦那さま」彼は言った。「お値段の方の制限はいかほどに?」
「そんなことは気にするな、スカトル。ああ、それから隣にドームリー君の部屋を借りておいたよ。しばらく、そこに住んでもらう」レスター・リースは言った。「左側のアパートだ」
「わかりました、旦那さま」執事は言った。
「それから、ハリー・ヴェア君は」レスター・リースは言った。「私の演繹論を学ぶために特待生の資格を得た幸運な青年だ」
執事はハリー・ヴェアをじっと見つめた。ヴェアは鋭く探るような目で相手の視線を受け止めた。彼は目を細め、催眠術をかけようとでもするかのように隠密警官の顔を覗き込んだ。
「ハリー・ヴェアは」レスター・リースは穏かに言った。「自分の才能にふさわしい仕事を求めて、つい最近地方から出て来たところなのだよ。それまで暮らしていた田舎はもはや物足りないというわけだ。彼は探偵という職業に何はともあれこれだけは欠くことのできない最も大切な才能、すなわち、あらゆる行為の奥に底意を、あらゆる状況において犯罪を見抜く想像力を備えている」
隠密警官はむずかしい顔をして言った。「お言葉ではございますが、旦那さま。私が見ます限りでは、大方の現役の探偵はそのような才能は持ち合わせてはおりません。探偵も一つの仕事、と割り切っているようでございます」
「いいや、スカトル」彼は言った。「アクリー部長刑事は私が知っているうちでも、最も有能な捜査官の一人だよ。それに、スカトル、彼はいかなる行為、いかなる状況にも犯罪を見る想像力に恵まれていることを忘れてはいかんよ」
女はキラキラと光る目で男たちを順ぐりに見つめた。彼女は美人だった。
「ヴェア君は」レスター・リースは言った。「家の右隣のアパートに入ってもらう。しばらくそこで暮らしてもらうからね、スカトル」
「はい、旦那さま」執事は言った。「お二方のお仕事の中身についてお聞かせ願えますでしょうか?」
「ヴェア君は探偵になるのだよ」レスター・リースはもったいぶって言った。「探ってもらう」
「何を探るんでございます?」
「そこがプロの探偵と一緒にいることの面白さだよ、スカトル。探偵が何を探り出すかはおよそ見当が付かない。例えばアクリー部長刑事を見たまえ。あの男は次から次へと、一見まるで突拍子もないところへ目を付ける。ところが、捜査を重ね、分析を進めて行くと、まったく思ってもみなかった方向に事件は発展するんだ」
隠密警官は咳払いした。
「そちらの若いお嬢様は?」
「ドームリー君には」レスター・リースは言った。「シェイクスピアが見事に描いた舞台で一世一代の名演技を披露してもらう」
「舞台とおっしゃいますと?」隠密警官は尋ねた。
「この世の中ということさ」レスター・リースは言った。
「わかりました、旦那さま」執事は言った。「で、買い物にはいつまいりましょうか?」
「今からすぐ出掛けてくれ」レスター・リースは言った。
「それはそうと、スカトル。金《かね》と、ダイヤモンドのネクタイピンは用意してくれたか?」
執事はポケットから箱を取り出して蓋を開けた。
「はい、旦那さま」彼は言った。「大きなダイアモンドで、あまり値が張らない傷ものを、ということでございましたですね」
「ああ」レスター・リースは言った。「その通りだ、スカトル」
「品物を御覧の上でお気に召しましたらということで」執事は言った。「正札はピンに付いてございます」
レスター・リースはダイアモンドのピンを手に取って口笛を鳴らした。
「こいつは馬鹿に安いな、スカトル」彼は言った。
「はい、旦那さま」執事は言った。「石に少々傷がございますんですが、よくよく見ませんとわからないんでございます」
「金の方は?」
「はい、旦那さま」執事はポケットから札束を取り出した。
レスター・リースはもったいぶった手付きで五十ドル札が表に出るように重ね、札束を丸めて輪ゴムで留めた。
レスター・リースはヴェアをふり返った。
「ヴェア、活動開始だ。用意はいいか?」
「講義を受けるんじゃあなかったんですか?」ヴェアは言った。
「ああ、そうだ」レスター・リースは言った。「ただし、新しい学習方法でね。これまでは、法律を教えるには生徒に法律書を読ませていた。しかし、これは生徒にものを教える正しい方法ではないということがわかってきたのだよ。最近では、いわゆるケース・メソッド、つまり事例に則して学習する方法に変わってきている。どういうことかというとだね、ヴェア、生徒に事件を示して、生徒は事件を構成する事実に対していかなる法律原理が適用されているか、自分自身で資料を分析研究するわけだ」
「わかりました」ヴェアは言った。
「探偵修行もその伝で行く」レスター・リースは言った。「ケース・メソッドだ。今から出掛けるが、いいかね?」
ヴェアはうなずいた。
レスター・リースは自分のネクタイピンをはずしてテーブルに置き、ダイアモンドのピンを刺した。
「ようし、ヴェア」彼は言った。「帽子をかぶって、一緒に来たまえ。第一課だ」
大きな停車場の出札口はいつもの通り混雑していた。いたるところで人々が声を交し、忙しげに行き交い、あたりは喧噪に満ちていた。
「いいか」レスター・リースはハリー・ヴェアに向って言った。「二十フィートばかり後ろからついて来るんだ。油断なく見張っていろよ。見るからに悪者らしいのがいるかどうか捜してごらん」
ヴェアは職業的な目付きで人混みを見やった。
「みな悪者に見えますね」彼は言った。
レスター・リースは重々しくうなずいた。
「ヴェア」彼は言った。「君はまさしく探偵の才能があるらしい。しかし、私は君に、確実な証拠を突き付けられるような悪者を見付けてもらいたいんだ」
「どういうことか、よくわかりませんが」ヴェアは言った。
「今にわかる」レスター・リースは言った。「とにかく、ついて来たまえ」
レスター・リースは人混みをかきわけるようにしてずんずん進んだ。ヴェアは間合いを置いてその後を追った。レスター・リースは時折ポケットから札束を引っぱり出し、無事を確かめるかのように数えなおしては再び輪ゴムをはめてポケットに押し込んだ。
リースは大きな停車場の最も混雑したあたりばかりを選んで歩いた。
彼は二度、人とぶつかった。相手は同じ、陰気な目つきをして口許にしまりのない、貧相な顔の男だった。
男は黒っぽいスーツに地味なネクタイをしていた。これと言った特徴もなく、人混みに融け込んでおよそ目立たない男であった。
やがて、レスター・リースはいくらか人混みのまばらな、閉鎖された出札口の前に足を止めた。
「さて、ヴェア」彼は言った。「誰かに気が付いたかね」
ヴェアは言った。「そうですね、何人か目つきのよくないのがいたことはいましたが、はっきり悪《わる》だと言いきれるようなのはいませんでした。つまり、証拠がありませんから」
レスター・リースは片手をポケットに入れて跳び上がった。
「やられた!」彼は言った。
ヴェアは口をあんぐりと開けて彼を見つめた。
「やられた?」おうむ返しにヴェアは言った。
「やられたよ」レスター・リースは言った。「金だ。ない」
彼はポケットから手を出し、ズボンの切り裂かれたところをヴェアに示した。ポケットの中身はそこから掏り取られていた。
「掏摸《すり》ですね」ハリー・ヴェアは言った。
「君は気が付かなかったのか」リースは言った。
ヴェアはばつが悪そうにもじもじした。
「何しろ混雑していましたから」彼は言った。「気が付くも何も、全然見えなかったんですよ」
レスター・リースは悲しげに頭をふった。
「第一課は、あんまりいい点はやれないな、ヴェア」彼は言った。「さあ、車を拾って帰ろう」
「でも、タイピンの方は大丈夫でしたね」ヴェアは言った。
レスター・リースははっとした様子でネクタイに手をやり、ダイアモンドのピンをはずした。
彼はダイアモンドをあらためてうなずいた。と、いきなり彼はピンを指さして言った。
「見ろ、ニッパーではずそうとしたんだ。ピンに跡がついているのがわかる。間一髪のところで私が体を引いたんだな。で、ダイアモンドははずれなかったんだ」
ヴェアは目を丸くしていた。その顔には驚愕が浮かんでいた。
「まったく」レスター・リースは言った。「君は一時に二つの講義を受けたわけだ。両方とも落第点だな。人のネクタイピンをニッパーでひっぺがそうとしているのがわからなかったとはね」
ヴェアはしゅんとした。
リースは言った。「まあいいさ。一流の探偵が一朝一夕で生まれることを期待するのは無理というものだ。訓練というのはそのためにあるんだからね。とにかく、一旦アパートへ帰ろう。私は着るものを取り換えるよ。君は二時間ばかり、ここで見たことを考え直せ。何か変わったことがなかったかどうか、思いだしてみろ」
ところが、いくばくもなくレスター・リースは再び先の停車場に姿を現した。こんどは彼一人だった。最前と同じように、彼は人混みの中を当てもなくうろついていた。しかし、彼は流れのように移動する人々の顔に素早い視線を馳せていた。
やがて彼は先刻の、黒っぽい服を着た陰気な顔の男を見付け出した。男は新聞を手にして雑踏の中をぶらぶらしていた。約束に一時間遅れた妻をなおも気長に待ち続けているとでもいったふうだった。
レスター・リースは見失わぬ程度に間隔を保って男の後を付けた。
十五分ばかり後、リースはつかつかと男に追い付いてポンと肩を叩いた。
「ちょっと話があるんだ」彼は言った。
男の顔色が変わった。陰気な懶《ものう》げな表情が消えて、目つきは鋭く険を帯びていた。
「俺に話すことなんて何もありゃあしないだろう」
レスター・リースは笑って言った。
「どういたしまして。あんた、そこに私のものを持っているじゃないか。札束だよ。外側だけ五十ドルで、中は一ドルばっかりのさ。それに、あそこの赤いネクタイの太った旦那から失敬したネクタイピン」
男は後退《あとじさ》り、今にも飛んで逃げようとする構えで身を翻《ひるがえ》しかけた。
レスター・リースは言った。「私は刑事じゃあないよ。ただ、ちょっと話がしたいんだ。実は、おたくに仕事を頼みたいと思ってね」
「俺に? 仕事を?」男は訊き返した。
「ああ」レスター・リースは言った。「私は今日の午後ずっと、腕のいい掏摸を捜してここをうろついていたんだ」
「俺あ掏摸なんかじゃねえ」男は言った。
レスター・リースは男の潔白の申し立てを黙殺した。
「私はね」彼は言った。「若い探偵を養成する学校をやっているんだ。で、おたくに助っ人で講師を頼みたいんだよ。従来の警察官や探偵の訓練はまるでなってないと私は思うんだ。私は生徒に掏摸の技術を教えられる人材を捜しているのさ」
「いくらくれるね?」
「そうさな」レスター・リースは言った。「あの、ひょろ長いおじさんからかっぱらった時計と、あの太っちょから失敬したネクタイピン、それに私のズボンを切って持って行った例の札束はそのままおたくの取り分としてやろう。その上に、固定給として一日百ドル出すよ。それから、自由を棒にふる覚悟で冒険がしてみたいという気になった時は、いくらでも好きなだけ内職で稼いでいい」
「内職ってのは、どういう意味だ?」
「もちろん、おたくの本職さ」レスター・リースは言った。
掏摸は彼の顔をじっと見つめた。
「どうも、ちとばかり話がうますぎるな。何か裏があるんじゃねえのか」
レスター・リースは内ポケットから重たそうな財布を出して中を開けた。ぎっしりと詰まった百ドル札を見て掏摸は目を丸くした。
レスター・リースはその中からもったいぶって百ドル札を一枚抜き、掏摸の鼻先に突き付けた。
「さあ、初日の日当だ」
掏摸はそれを受け取り、レスター・リースがポケットに戻した財布を目で追った。
「わかったよ、旦那」彼は言った。「で、この俺に何をやれっていうんです?」
「決まった時間と場所で私に会ってくれればいい」レスター・リースは言った。「まず手はじめに、今晩九時半にここで会ってもらおう。指示を書いた紙を私はコートのポケットに入れておく。おたくはそいつを抜き取って、指示通りに行動すればいい。こっちから声を掛けない限り、私を知ってるなんてことは素振りにも出すな」
掏摸はうなずいた。
「心得た。九時半にここにいますよ。ああそうだ、タクシーんとこまで送りますよ。細《こまか》いことなんか、訊いときたいからね。あたしあ、シド・ベントリーってんだが。旦那は?」
「リースだ」レスター・リースは言った。「よろしく」
握手を交してレスター・リースはタクシー乗場に向かった。ベントリーは彼の右側を歩きながら早口にまくし立てた。
「それにしても、どうやって俺を見破ったのかねえ、リースの旦那。どうでもいいけど、俺あ、とちったのあ、これがはじめてだよ。以前は舞台で手品を使ってたんだよ。それが、どうも売れなくなって、まあ、こんなことをやりはじめたってわけなんだ。前科はねえし、警察《サツ》にも睨まれちゃあいませんぜ」
「いや、結構」レスター・リースはにんまり笑った。「まさに注文通りだ。じゃあ、九時半にここで、いいな、ベントリー」
「九時半だね、旦那」
レスター・リースはタクシーに声をかけた。駅前乗場にタクシーが滑り込んで来た。リースは何気なく掏摸をふり返って言った。
「それはそうと、ベントリー。そのナイフは止してくれ。お前、すでに俺の一張羅を駄目にしてくれたんだからな」
言いながらレスター・リースはさっと手を伸して掏摸の手首を掴んだ。剃刀のようなナイフがキラリと光った。ベントリーはまさにレスター・リースのコートを切ろうとしているところだった。
ベントリーは一瞬無念の表情を示したが、やがてふっと吐息を洩らした。
「内職は自由って約束だったじゃねえか、旦那」彼は抗議した。
レスター・リースはにったり笑った。
「そうか」彼は言った。「じゃあ、但し書きを付けておこう。内職は自由だ。但し、俺のポケットには手を出すな」
ベントリーはにったり笑い返した。
「わかったよ、旦那。じゃあまあ、そういうことにしますか」
レスター・リースはタクシーでアパートに帰った。
ドアが開くと、咲きこぼれる花と見まがう姿が彼を迎えた。ディクシー・ドームリーは超一流の仕立て屋に誂えて作らせたかのような衣裳に着飾っていた。
彼女はレスター・リースに向かって嫣然《えんぜん》と微笑んだ。
「できるだけ遠慮して安いのにしたのよ」彼女は言った。「御期待に添えればいいんだけど」
「ああ、期待通りだ」レスター・リースはいかにも満足気に彼女を見ながら言った。「うん、実にいい。今夜は皆で食事に行くからね。四人だ。ドームリー君、君と、ヴェア君と私。それから、スカトル、君も一緒だ」
隠密警官は目を白黒させた。「かしこまりました、旦那さま」
「ああ、それから」レスター・リースは言った。「ルビーのイミテーションはできているかね?」
隠密警官はうなずいた。
「なかなか見事な出来栄えでございます」彼は言った。「ルビーに関するかぎりはでございます。金の台も、なかなかよくできております。宝石商が非常に柔い金を使わなくてはならないと申しまして。その者の話ですと、インドの金は混じり気が少なく、黄色味の強い、大変柔いものなんだそうでございます。台の模様も実に細かく写しております」
「結構だね、スカトル」レスター・リースは言った。「その宝石商はよく仕事がわかっているんだ。どれ、見せてくれ」
隠密警官はレスター・リースに小箱を手渡した。リースは蓋を開けた。
ドームリーが歓声を上げた。
「わあ素敵。本物そっくり」
レスター・リースはうなずいた。「ああ、よくできている。最近では、ルビーのイミテーションは相当いいものができるようになったね」
彼はその模造の宝石を小箱から取り出して、無造作にポケットに入れた。
「ようし、ディクシー」彼は言った。「君の仕度ができたら、早目に食事に出よう。九時半にちょっと人と会う約束があるんでね。それはそうと、このルビーがイミテーションだということは、二人とも口が裂けても人には内緒にしておいてくれ」
その夜のディナーにおけるレスター・リースの颯爽《さっそう》たることといったらなかった。穏やかな物腰といい、堂に入った態度といい、彼は絵に描いた紳士のようにふるまい、如才ないホストぶりを発揮した。デザートの皿が下げられたところで、リースはあらたまってハリー・ヴェアの顔を覗いた。
「ヴェア」彼は言った。「今日の午後、きみは第一課の演習を受けた。どうだ、いくらか為になったと思うか?」
ヴェアは赤くなった。
「一つだけはっきり言えます」彼は言った。「今後、私が一緒にいる限り、掏摸が先生に近寄ることは絶対にできません」
レスター・リースはうなずいた。
「それは結構。ところで私は今ここに、大変貴重な玩具を持っている。こいつに万一のことがあっては大変だ。君、これをポケットに預かっておいてくれないか」
レスター・リースはポケットからイミテーションのルビーを取り出して、テーブル越しにヴェアに渡した。
ヴェアは仰天して目を剥《む》いた。「これは……これだけで一財産ですね」
レスター・リースは肩をすくめた。
「その価値については言わぬが花だ、ヴェア。とにかく、探偵修行の一環として、君はそれを責任をもって預かってもらいたい」
ヴェアは慌てて宝石をポケットに押し込んだ。
レスター・リースはウェイターを呼んで勘定書を受け取り、支払いを済ませた。
「君たち、ちょっと散歩がてら私と一緒に来てくれないか。ヴェアがこれから探偵修行の第二課の演習を受ける。君たち皆に立ち会ってもらいたいんだ」
隠密警官は見るからに具合の悪そうな顔をした。
「私もでございますか、旦那さま?」
「もちろんだとも」レスター・リースは言った。
「かしこまりました」隠密警官は言った。
リースはドームリーに手を貸してコートを着せ、タクシーの席に案内してから運転手に停車場へ行くように言った。
隠密警官は訝《いぶか》しげに彼の顔を見た。
「どこか、遠出でございますか?」彼は尋ねた。
「いやいや」レスター・リースは言った。「ただ停車場へ行くだけだ。午後と同じように、私は停車場をあちこち歩く。ヴェアが私のポケットが狙われないように見張る寸法さ」
夜の停車場はさほど混み合ってはいなかった。レスター・リースの目的に都合のいい人混みを見付けることはむずかしかった。彼の脇のポケットには指示を書き付けた紙切れが入っていた。
俺の後ろからついてくる若造のポケットにイミテーションのルビーがある。その男は俺が掏摸に遭わないように見張っている。そいつのルビーを掏れるかどうか、やってみてくれ。上手く行ったら、獲物は後で返してもらう。
掏摸のベントリーは出札口の行列の傍で待っていた。彼はレスター・リースに目つきで合図を送った。リースはそれとなくポケットの位置を示した。
人の列をかきわけて進みながら、リースはベントリーの指先がポケットから紙切れを抜き取るのを感じた。
それからなおしばらく、レスター・リースは当てもなく停車場をあちこち歩きまわった。と、突然ハリー・ヴェアが締められたような叫びを発した。
レスター・リースは踵《きびす》を返して青年の傍に寄った。ハリー・ヴェアは土気色の顔をして、眼にうろたえを浮かべて立ちつくしていた。
「どうした?」レスター・リースは尋ねた。
ヴェアはコートの上から中の胴着まで、もろに切り裂かれた跡を示した。
「例の宝石、チョッキのポケットに入れていたんです」彼は言った。「そこなら掏摸にやられないと思ったもんですから。それが、見て下さい」
レスター・リースは隠密警官を手招きして言った。
「スカトル、これを見ろ。私が探偵に育て上げようとしているこの青年は、私がくれぐれも大切にと言って預けた品物をまんまと掏られてしまったよ」
執事は目を白黒させた。
「私、何も気が付きませんでした」彼は言った。「目を皿のようにしておりましたんですが」
「スカトル」レスター・リースは言った。「君、ハリー・ヴェアを彼のアパートまで送ってくれ。二時間ばかり、ここで起こったこと、見たことをじっと考えさせるんだ。彼のポケットを切ったやつを思い出せるかどうか」
ヴェアは小さくなって言った。「どうも済みません、先生。ぼくはどうやらあんまりできのいい生徒じゃないらしいですね」
レスター・リースはにやりと笑った。
「おっとっと、ヴェア。それはこっちが判断することだ。私は君に教えてやると言った。だからこうして教えているんだ。特待生の資格も給料も大丈夫だ。だから君は何も心配しなくていい。アパートへ帰ってよく考えたまえ」
ヴェアは言った。「そんなふうに言っていただいて、本当に御親切にどうも」
「いいんだよ、ヴェア」
隠密警官がヴェアの腕を取ってタクシー乗場の方へ立ち去るのを見送ってから、レスター・リースはにっこり笑ってディクシー・ドームリーをふり返った。
「ちょっとここで人に会う用事があるんだ。それが済んだらダンスに行こう」
彼らはそのまま十五分ないし二十分停車場で待っていた。レスター・リースは眉を顰めてしきりに時計に目をやった。と、掏摸のシド・ベントリーがどこからともなく姿を現わして、つかつかとやって来た。
「うまく行ったよ」彼は言った。
リースは浮かぬ顔で言った。
「やけに時間がかかったな」
「待たせちまって、申し訳ない」ベントリーは言った。「でもさ、ちょいとやることがあったもんでね。何だかわかるかね、旦那?」
「何だ?」
「目利きの故買屋のとこへ例の物《ぶつ》を持ってってさ、本当にイミテーションかどうか見てもらったのさ」ベントリーは言った。
「なるほど」リースは言った。「人間、ざっくばらんが一番だな」
「俺もそう思うよ、旦那」彼は言った。「そりゃあね、旦那にも義理はある。でも、商売の意地ってものがあらあね。みすみすでっかい魚を手にしながら、何もしねえでそいつを放したとあっちゃあ、俺の男が立たねえからねえ」
レスター・リースはポケットに宝石の重みを感じた。彼はうなずいて向きを変えた。
「ようし、もういい、ベントリー。明日の晩七時にまたここへ来てくれ。こっちから連絡しない限り、それまでは何もない。念のため、連絡先の電話番号を教えといてくれ」
掏摸はポケットから名刺を取り出した。
「ここだよ、旦那」彼は言った。「ここへ電話して、何時にどこそこにいるとだけ伝えてくれりゃあいいよ。俺あ、電話には出ねえからね。出たやつに、そう言ってもらやあいいんだ。旦那はその場所へ行ってりゃあ、俺あその辺にいるからさ。やばいことがないとわかれば、顔を出すよ。連絡がなけりゃあ、明日の晩七時にここだね」
「オーケー」リースは言った。
「ディクシー」彼はドームリーに向き直った。「ちょっと君に、内密に頼みたいことがあるんだ。これから君をあるナイトクラブに案内する。そこに、ボブ・ラモントという男がいるんだ。その店はそいつの行きつけでね。おそらく連れがあると思うんだが、とかくの噂から察するにこの男はえらく気が多い。そこで君に頼むんだが、そいつの気を引いて、一緒に踊ってもらいたいんだ。その後、できれば四人でどこかへ行こう。それが駄目なら、君は明日の晩そいつとデートしてくれ。どうだ、できそうか?」
「あなたねえ」彼女は言った。「これだけの衣裳で男の気を引けないとなったら、私、さっさと芸能界から足を洗うわ」
部長刑事アーサー・アクリーはアパートのドアを激しく叩いた。ハリー・ヴェアは閂《かんぬき》をはずしてドアを開け、間の抜けた顔でアクリー部長刑事を見つめた。
アクリー部長刑事はものも言わずにアパートに入り、後ろ手にバタンとドアを閉じるとつかつかと部屋を横切って椅子に腰を降ろした。
「さあて、お若いの」彼は言った。「お前さん、まずいことになったな」
ハリー・ヴェアは目を白黒させて何か言いかけたが、言葉にならなかった。
アクリー部長刑事はさっと上着の胸を開いて、チョッキの金バッジを示した。
「で、お前さん、何か言うことはあるか?」
「ど、ど、どういうことです、これはいったい?」
「この、しらばっくれるな」アクリー部長刑事は言った。「貴様、あの大悪党とグルだろう。ちょこまか動きまわって、やつがどでかいルビーを他所から横取りする手助けをしてやがるんだ」
ヴェアは首を横にふった。
「違います」彼は言った。「それは誤解です。ぼくは大きなルビーを預かってくれと言われていたんです。でも、それが盗まれちゃったんです」
アクリー部長刑事は射すくめるようにハリー・ヴェアを見据えた。と、彼は立ち上がり、大きな手を伸ばしてヴェアの襟首を絞め上げた。
「ようし」彼は言った。「十年食らうから覚悟しろ。さあ、一緒に来るんだ」
ヴェアは拝むような目つきでアクリー部長刑事を見上げた。
「僕は何もしてません」彼は言った。
アクリー部長刑事は含むところありげに目を細めた。
「なあ、おい」彼は言った。「ジョージ・ネイヴンという名前に心当たりはあるか?」
「殺された人ですか?」ハリー・ヴェアは訊き返した。
アクリーはうなずいた。
「新聞で読みましたけど」ヴェアは言った。
「ようし」アクリー部長刑事は言った。「ネイヴンはでっかいインドのルビーのために殺された。ボブ・ラモントはネイヴンの秘書だ。どうだ、何か思い当たるか?」
「いえ」ヴェアは言った。「何も」
「そうか」アクリー部長刑事はいった。「じゃあ、少し話してやろう。それが何を意味するか、手前で考えてみろ。貴様が雇われているあのレスター・リースはな、この街はじまって以来の、そりゃあ頭の切れる大悪党なんだ。やつはそこいら辺の悪党どもの稼ぎを横から巻き上げることで豪勢に暮らしている。何しろ頭がよくて抜け目がない。犯罪が起きると、やつは警察より先に絵解きを考え出す。で、警察に先回りして犯人を強請《ゆす》る、とこういうわけだ」
「知らなかった」ハリー・ヴェアは言った。
「そうかな。知ってたんじゃないのか。あるいは、知らなかったか」アクリー部長刑事は言った。「まあそんなことは裁判の時に陪審に向かってしゃべりゃあいい。だがなあ、こいつは聞いといても損はないぞ。レスター・リースは例のコーラス・ガールに片棒を担がせているんだ。ゆうべ貴様らと別れてから二人はボブ・ラモントと連れの女に近付いた。
レスター・リースは一見紳士風ってやつだ。身なりもぱりっとしている。連れのコーラス・ガールがまた大層ななりをして、えらく羽ぶりのいい女に見える。二人が行ったナイト・クラブは大して格式のある店じゃあない。女はボブ・ラモントに秋波を送ったんだ。ボブはたちまち引っかかって、二人は一緒に踊った。まだ夜も終わらないうちに連中は他のテーブルへ移って、そこで四人揃って調子よくやっていたよ」
「でも」ハリー・ヴェアは勇を鼓して言った。「それが僕と何の関わりがあるんです?」
アクリー部長刑事は探るようにじっと彼を見つめた。
「四人は今晩また会う約束をしたんだ。そろそろお出ましだな」
ハリー・ヴェアははっと息を飲んだ。事の真相を知って彼は目を丸くした。
「そうだったのか」
アクリー部長刑事はうなずいた。「そんなこったろうと思った」
ヴェアはうろたえた。
「白状するなら十秒だけ待ってやる」アクリー部長刑事は言った。「知ってることを洗いざらい打ち明けてこっちに協力するなら、貴様は見逃してやらないでもないぞ。それがいやなら、最低十年は食らい込むからそう思え」
十秒の必要はなかった。アクリー部長刑事の言葉が途切れるのを待ちかねたようにハリー・ヴェアはすらすらと話しだしていた。
「そんな男とは知らなかったんです」彼は言った。「それに、ラモントのことも今の話ではじめて知りました。レスター・リースは探偵として仕込んでやると言って僕を雇ったんですよ。昨日あのひとは一度掏摸にやられました。それから僕に宝石を預けたんです。ところが、僕はそいつを掏られてしまいました。僕はすっかり自信をなくしちゃったんですが、でも、リースさんは、そう気を落とすな、一つずつ覚えていかなきゃあいけないんだから、って言いました。
今夜は、逮捕のしかたを教えてくれることになっていました。犯人を捕まえるようなつもりで、あの人を捕まえろって言うんです。別の二人連れと食事をして、たぶん相手の男の家に行くようになるからと言いました。で、向うのアパートに着いたら、ディクシー・ドームリー……例のコーラス・ガールです……がもう一人の女を連れて席を外すように仕向ける約束でした。女たちが出て行ったところへ僕が踏み込んで、警察だ、と言って、レスター・リースの罪状を言い立てて、手錠をかけてそこから連れ出すという段取りだったんです」
アクリー部長刑事は額に皺を寄せた。「知ってることはそれだけか?」
「これで全部です」ハリー・ヴェアは言った。「その後でまた別の指示がある約束でしたけど」
「ようし」アクリー部長刑事は言った。「貴様に一つチャンスをやろう。これから言う通りにして、俺がここに来たことをレスター・リースには黙っていれば、貴様は見逃してやる。逮捕されないように、俺の方で手配しよう」
「わかりました、刑事さん」ハリー・ヴェアは言った。「何でも言われる通りにしますよ」
レスター・リースは陰気な顔をした掏摸のシド・ベントリーに今一枚の百ドル札を手渡した。
「今日の日当だ」彼は言った。
ベントリーは百ドルを自分のポケットに押し込みながら、リースが財布を胸のポケットに戻すさまを物欲しそうな目つきで見やった。
「玄人に言わせりゃあ」彼は言った。「札の束は、もっと服が重なったところへ入れたほうがいいねえ。胸のポケットの物《ぶつ》は何しろ気やすく頂戴できるからねえ」
「わかってるって」リースは言った。「でもおれは、金はすぐ出るところに持っている主義でね」
ベントリーはとろりとした目の色一つ変えずにうなずいた。「すぐ出るところに金を持ってるやつは大好きだね、俺あ」
「約束を忘れるなよ」リースは言った。
「旦那から百ドルもらうのがさ、どうも面白くねえんだ、俺あ。どうしてだかわかるかい?」ベントリーは言った。「どうやら損な取り引きをしたんじゃねえかって気がしてね」
「仕事がきつすぎるか」
「いや、そうじゃなくってさ。ただ、好きなようにやれねえから。雇われるんじゃなくって、旦那の傍にくっついて歩いてるだけの方が稼ぎがよさそうに思えてきたよ」
リースは声を落とした。「お前、俺がどうやってこれだけ稼いでいると思う?」
ベントリーは言った。「お、お、こりゃ面白くなって来たね」
リースは言った。「俺とお前は、道の同じ側を歩いてるのよ」
「まさか、あんたも|これ《ヽヽ》だってえんじゃねえだろう」
「そうじゃない。しかし、俺も悪党さ。俺はいかさま専門だ」
「ネタは何だね?」ベントリーは尋ねた。
リースは言った。「そいつはいろいろあるさ。今のところ、イミテーションのルビーでカモを釣ってるがね。狙いを付けた相手にルビーを見せてな、脇から手に入ったものだが、俺には値打ちものかどうかわからねえ、どうせがらくただろうが、仮にイミテーションだとしても、いくらかにはなるだろう、どう思う、と持ち掛けるのさ。
相手が石に目が利くかどうかは、そいつの言うことを聞けゃあすぐわかる。そんなものはただの石ころだから忘れちまえ、なんてそいつが言えば、俺は礼を言って帰って来るまでさ。ところが、相手によっちゃあ欲の皮が突っ張っていて、ひょっとすると本物かも知れないと思うやつがいる。そう来ればしめたものさ。うまく話を持っていってな、こっちの方がおめでたいと思いこませてやるんだ。このルビーはな、新聞にも出たべらぼうな値打ちものの石を、そっくり真似てあるんだ」
ベントリーは言った。「はじめて見た時は俺も騙されたからね」
「わかったか?」
「そりゃあもう」
「つまり」リースは言った。「本物と思うやつは世の中に大勢いるってことさ。本当に例の、値段の付けようもない石だと思うやつがなあ。買いたいと言うやつもいるし、そんなことは考えないやつもいる。五百ドル出すってやつが現われれば御の字さ。俺は喜んで売ってやるんだ」
ベントリーは言った。「それで?」
「ただ厄介なことに」リースは言った。「こいつは危ない橋でな」
「て言うと?」
「もうかなりの数をばらまいてるんだ」リースは言った。「このイミテーションは一個五十ドルの代物さ。この一週間ばかり、俺はこれで稼いでいるんだ」
「カモの誰かが騒ぎ出す心配があるってわけか」
「当たり」
ベントリーは言った。「お前さんの気持ちはわかるぜ。商売がやばくなりゃあ、しばらく鳴りをひそめなくちゃあならねえ。ところが、儲けが大きいから、そうあっさりとは止められねえ」
リースは言った。「そこで、お前が登場するんだ」
「どういうことだ?」
リースは言った。「この先、俺が商売をやる時はいつも傍にいてほしいんだ」
「俺にどうしろって?」
「つまりだな」リースは言った。「サツは俺が商売をやらない限り、俺をしょっぴくわけには行かない。そのためには、囮《おとり》のカモをさしむけて、印のついた金を俺に掴ませなきゃあならない」
「いいや、そいつは違うな」ベントリーは言った。「そいつはお前さんの見当違いだ。印のついた金を掴ませるのも一つの手じゃああるが、カモとお前さんを一緒にしょっぴいて、カモの方を重要証人として押さえておくってえ手もあるぜ」
リースは言った。「それだよ。それを俺は心配しているんだ。そこで、万一そういうことになった時、お前に証拠の物《ぶつ》を掏ってもらいたい」
「てのは。つまり、カモから?」
「そういうこと」
「あのなあ、兄弟。証拠の物《ぶつ》となっちゃあ、そいつはやばくて手が出せねえよ。火傷《やけど》はごめんだぜ……」
リースはポケットから小さな布製の袋を取り出した。袋には宛先を記して切手を貼った荷札が付いていた。
「いつまでもぐずぐず持っていることはないんだ」彼は言った。「真っ先に目に付いたポストへ放り込んじまやあいい。国に運び屋をやってもらうのさ」
ベントリーは言った。「なるほど、考えたね」
「一回につき五百ドルのボーナスを出すぞ」
「俺の出番はそれだけか?」
「それだけだ」
「百ドルの日当はそのままで?」
「そうとも。お前はただ俺にくっついて来りゃあそれでいい」
「引き受けた」ベントリーは言った。「ただ、いよいよ商売をするって時には、ちゃんと断ってくれよ」
リースは言った。「一時間ばかりして、俺はあの、昨日一緒にいたドームリーっていう女と、もう一組のカップルを誘って食事に行くことになっているんだ。ドームリーが相手の女を脇へ引っ張り出すように段取りが付いている。それで、相手の野郎と俺は差しになる寸法だ。たぶん、やつは話に乗って来ると思う」
「後からついて行くよ」
リースは言った。「この郵便袋をすぐ出せるところに持っていろ。間違っても、そいつを忘れてぱくられるなんていうどじは踏むなよ」
「あのなあ、兄弟」ベントリーは言った。「昨日生まれた餓鬼じゃああるめえし、お前さんの共犯で喰らい込む証拠の物《ぶつ》を持ったままぱくられる俺だと思うかい。見損なってくれちゃあ困るぜ。言っとくがね、どこを捜してもポストのポの字もねえようなところで商売をやってくれるなよ。そんなことをしたら、お前さんの方だってただじゃあ済まねえよ」
アクリー部長刑事は詰《なじ》るような目つきで隠密警官のビーヴァーを見据えた。「お前の目の前でだぞ、ビーヴァー」彼は言った。「まったく、ポカをやってくれたもんだ」
隠密警官は気色ばんだ。「どういうことです、ポカをやったっていうのは? やつが例のルビーを狙っていると言ったのはこの私ですよ」
アクリー部長刑事は言った。「お前は口数が多いんだ、ビーヴァー。最近じゃあ、どうも鼻についてかなわん。それに、お前のいうことはまるで建設的じゃない」
「どういう意味です、建設的というのは?」
「やつが探偵とかいうふれこみでの若造を引っぱり込んだ時、お前は怪しいとも思わなかったろうが」アクリーは言った。
ビーヴァーは溜息を吐いた。「そんな。それを言ったところでどうなるって言うんですか。賭をしてることを忘れないで下さいよ。部長にお伝えした例のリストですよ。あの小道具や役者が全部、やつがルビーをせしめるためのからくりだってことになれば、部長の時計は私のものですからね」
「おあいにくさまだなあ、ビーヴァー」アクリーは言った。「一つ小さな点をお前は忘れているぞ。やつがまんまと獲物を手に入れて、絶対に尻尾を出さなければという条件だったはずだ。それをお前は忘れているよ、ビーヴァー。これで、お前は俺に五十ドル払う羽目になったわけだ。と言うのは、俺はすでにやつめの尻尾を掴んでいるからな」
ビーヴァーは言った。「やつの手順を逐一心得ているような口ぶりですね」
アクリー部長刑事はにんまり笑った。「その通り」
隠密警官は椅子を引いて立ち上がった。
アクリー部長刑事は言った。「夜中まで起きていろ、ビーヴァー。それまでに本署へ来るように電話するからな。その時はもう、リースめは調べも済んで豚箱だ。やつめの逮捕にお前が一役買ったことを、お前の口から言わせてやるよ。胸がすっとするぞ。その後で、俺に五十ドル払ってもらうからな」
ビーヴァーは憤然として出口に向かったが、ドアのまえでつと足を止めてふり返った。
「これまでにも、部長はやつを捕まえたと自信たっぷりのことがありましたね」
アクリー部長刑事は笑って言った。「今度こそは絶対だ、ビーヴァー。あのヴェアとかいう若造を少々脅して、全部吐かせたからな」
四人の一行はタクシーを降りて歩道を横切り、アパートの入口へ向かった。ふわりとした白のドレスを着たディクシー・ドームリーは眩《まばゆ》いばかりの美しさだった。今一人の女も高価な服を着てはいたが、ディクシーと比べれば月とすっぽんだった。
レスター・リースはぴたりと体にあった服を着こなし、髪の毛は一筋の乱れもなく、その正装姿は非のうちどころもなかった。ボブ・ラモントはどことなく落着きがなく、そわそわしていた。
四人は談笑しながらエレベーターで上階に上がり、ボブ・ラモントはもったいぶった態度で自分の部屋のドアを開けた。
室内は趣味の良い上等な家具調度で飾られていた。ジョージ・ネイヴンの秘書だった彼は高給をもらっていた。
二人の若い女が席に着くと、ラモントは小ぢんまりとした台所に飲物を作りに行った。
レスター・リースは意味ありげにチラリとディクシー・ドームリーを見た。
それを受けて、彼女はいきなり相手の女に向かって叫んだ。「あらいやだ! 私、タクシーの中にお財布を置いて来ちゃったわ。それとも、道で落としたのかしら。困ったわあ、どうしよう。車を降りる時、何か落ちる音がしたような気がするわ」
相手の若い女は言った。「大丈夫よ、ディクシー。タクシー会社に電話すれば遺失物掛かりが預かっといてくれるわよ」
「そうねえ」ディクシーは涙声になった。「でも、ステップのところに落としたとしたら、車が走りだした時、放り出されちゃったかも知れないわ」
レスター・リースは帽子を取った。
「私が見て来よう」
ディクシー・ドームリーは慌てて立って戸口に向かった。
「いいのよ、あなた、ここにいらして」彼女は言った。「よく説明できないんだけれど、私、自分で行きたいの。でも、ヴィヴィアン、あなた一緒に来てくれないかしら」
彼女は相手の女を笑顔で誘った。ヴィヴィアンはすぐに立ち上がった。
女たちが部屋を出てドアが閉まると、レスター・リースはふらりと台所へ入って行った。ラモントは冷蔵庫から氷を出しているところだった。
「ところで、ラモント」彼は事もなげに言った。「例の殺しは、なかなかの手際だったじゃないか、え」
ラモントは製氷皿をガチャリと取り落とし、目を丸くしてレスター・リースを見つめた。
「いったい、何の話だ?」
「おう、しらばっくれるな、ラモント」リースは言った。「警察が少々もたついているってだけのことだぜ。ところがなあ、水も洩らさぬ完璧な手口ってわけには行かなかったぜ。用心棒たちはネイヴンの部屋へ行ってシャッターと窓の錠を中からかけた。その後で、あんた、あの部屋へ行ったろう。窓を一カ所開けて、シャッターの錠をはずすなんぞはわけもないこった。それから、あんたは部屋を出て、まっすぐ金庫のところへ行った。宝石を失敬して、その足で弁護士に会いに行ったんだ。これで、あんたはアリバイができた。朝になってから、あんたはまた部屋に入って中からシャッターの錠を降ろした。
あんた、たぶんヒンズー教徒から金をもらってシャッターを開けたんだろう。で、連中には、四時ちょうどにやれと因果を含めておいた。警察の眼を誤魔化すためだ。
警察がどこで間違ったかって言やあ、それは、誰であれ、殺しの犯人と、金庫から宝石を盗んだやつは同一人物と頭から思い込んだことだ。これが別々の犯行であった可能性を連中は考えようともしなかった。どうやら、これまでのところ、ヒンズー教徒どもも、まだそこに気が付いていないな。おめでたいことに、やつらは宝石を発見できなかったと思ってるんだ。ネイヴンが、どこか別の隠し場所に入れていたと考えているのさ。
しかし、そうは問屋が卸さないぜ、ラモント。警察はもう三十分もすればここへやって来る」
「君は狂ってる!」ラモントは言った。
レスター・リースは首を横にふった。
「いいや、ラモント。狂ってるのはそっちだ。あんた、もし、ヒンズー教徒がしゃべったら、それであんたは電気椅子行きだってことを忘れてる。ところが、まさにその通りになったんだ。ほんの十五分ばかり前、ヒンズー教徒の一人が警察で洗いざらい話したぞ。新聞社から電話があった」
ラモントの顔から血の気が引いた。
「君は……君は何者だ?」彼は言った。
「フリーの記者さ」レスター・リースは言った。「大手新聞の特ダネ専門だよ。今ちょうど、ネイヴン殺しの犯人逮捕の記事を頼まれてるところなんだ。新聞は一両日中に犯人が挙がると踏んでいたのさ。弁護士を頼まなきゃあならない羽目になって、すぐにも金が入用なら、ここで独占インタビュウに応じてくれないかね。だって、そうだろう。全部告白して、せいぜい終身刑止まりにするより他に、あんたとしては打つ手はないぜ。今俺が書いている新聞で告白してくれたら、然るべき筋に手を廻して、あんたが死刑にならないように、できるだけのことはするよ」
激しくドアを叩く音がした。
レスター・リースは気楽な様子で戸口に向かった。
「どうやら警察のおでましらしいぜ、ラモント」
彼はドアを開けた。
ハリー・ヴェアが躍り込んだ。
「君を逮捕する!」レスター・リースに向かって彼は高飛車に言った。
レスター・リースは後退《あとじさ》り、思い入れたっぷり驚愕を装ってヴェアを見つめた。
「いったい、どういうことです、これは?」彼は言った。
「ラモントだな」ヴェアは言った。「ジョージ・メイヴン殺害容疑で君を逮捕する。私は宝石の奪回を図るインドの僧を代表するものだ。君をただちに本署へ連行する」
レスター・リースは言った。「冗談でしょう。私はリースですよ。ラモントじゃあありません。ラモントがお目当てなら、あそこにいますよ。私は新聞記者です」
ハリー・ヴェアは冷やかに笑った。
「君らがここへ入るところを私は見ていた。守衛にここの住人はどれかと訊いたら、君を指さしたぞ」
「いい加減にしてくれ」リースは言った。「守衛が間違っているんだ。いや、あんたの方が間違ったんだろう。守衛はあっちを指さしたのに、あんたは私だと勘違いしたんだ」
ヴェアは拳銃を抜き、左手で手錠を取り出した。
「手を出せ」彼は言った。「さもないと、ぶっぱなすぞ」
レスター・リースはやや躊躇《ためら》った後、不承不承片手を突き出した。ヴェアは手錠の一方をその手首に掛け、今一方を自分の手に嵌めた。「さあ、来るんだペテン師先生、本署まで来てもらおう」
リースは言った。「ちょっと待てよ。こいつはあんた一生の大間違いだぞ。殺しの真犯人を放ったらかして……」
ボブ・ラモントはけらけらと笑った。
ハリー・ヴェアに向かって彼は言った。「おっしゃる通りですよ、刑事さん。そこに逮捕されてるのがボブ・ラモントです。しかし驚きましたねえ。彼とは二、三年前からの付き合いですがね、まさかそんな大それたことをする男だとはねえ」
「とんでもない。こいつは悪党ですよ」ヴェアは言った。「ネイヴン殺しの犯人です」
レスター・リースは唸った。
「おい、若いの」彼は言った。「こんなどじな真似をして、お前さん明日は街中の笑いものだぞ」
ヴェアは声を落として凄んだ。「さあ、来るんだ、ラモント」
レスター・リースは溜息を吐き、ヴェアに連れられて戸口を出、エレベーターで一階に降り、ロビーを横切って建物から通りへ出た。
「ようし」リースは言った。「よくやった。もう、放してくれ」
ヴェアはポケットから鍵を出し、散々手こずった末やっと手錠に挿し込んだ。彼の額には汗が玉をなし、手はぶるぶるとふるえていた。彼は二度ばかりやり直した。
「どうも、鍵がうまく入りません」
リースはきっとしてヴェアを見た。「ヴェア、お前いったいどういうつもりだ?」
「別に、何も」
「その鍵をこっちへ貸せ」
ヴェアは鍵を渡そうとはせず、救いを求めるように背後の闇を透かし見た。
アクリー部長刑事の声がした。「ようし、後は引き受けた」
近くの建物の戸口の陰に人の動く気配がした。私服刑事に伴われて、アクリー部長刑事が姿を現わした。
アクリーに向かってリースは言った。「どういうことです、これは?」
アクリーは言った。「俺に訊く前に、自分の胸に訊いて見ろ、リース。自分からそうやって手錠を掛けて出て来たんだろうが」
一瞬リースの顔に狼狽の色が浮かんだ。しかし、次の瞬間には、彼の目と顔から一切の表情が消え失せていた。
「ここで俺に会うとは思っていもなかったろう、え?」アクリー部長刑事は喜々としていった。
リースは黙りこくっていた。
ヴェアに向かってアクリー部長刑事はいった。「手錠の鍵をこっちへ寄越せ。お前の手錠をはずして、リースの両手に掛けてやる」
ヴェアは手首を突き出した。アクリー部長刑事はカチリと音を立ててヴェアの手錠をはずし、それをリースのもう一方の手首に嵌めた。
カタコトと早足に歩く女たちのハイヒールの音が角を曲って近付いて来た。ふり返ったリースの顔を街頭の光が真っ向うから照らし出した。
「あら、リースさん」ディクシー・ドームリーが頓狂な声を上げた。「どうしたの、いったい?」
リスター・リースは答えようとしなかった。
アクリー部長刑事はさも嬉しそうににったり笑った。
「リース君は逮捕されたんですよ。犯罪人だとは、御存知なかったでしょうなあ」
「犯罪人ですって」彼女は叫んだ。
アパートの入口から走り出す影があった。コートを着て帽子をかぶり、手袋をはめていた。片手に小型のスーツケースを提げたその男は大股に三歩で歩道を横切った。タクシーを呼ぼうと手を上げて、はじめて男は路上の小集団に気付いた。
アクリー部長刑事が私服に言った。「あいつをとっ捕まえろ」
ラモントは命令を聞くと肩越しにちらりとふり返り、スーツケースを放り出して、風をくらって逃げ出した。
「誰か!」アクリー部長刑事は叫んだ。
ラモントは猛然と走った。と、彼はうろたえて肩越しにふり返った。ために彼は、暗闇から滑り出したシド・ベントリーの影に気が付かなかった。
体がぶつかる鈍い音がした。格闘になった。やがて歩道にどっかと坐り込んでベントリーが言った。「捕まえましたよ、刑事さん」
私服が駆け寄ってラモントの襟髪を掴んだ。ラモントをぐいと引き起こして、私服はベントリーに言った。「よくやってくれた。お手柄だよ」
「なあに、どうってことはないですよ」ベントリーは言った。
私服は言った。「一緒に来てくれ。感謝賞カードを出すよ。持っていると役に立つぞ」
ベントリーは目を輝かせた。「そりゃあどうも、御親切に、刑事さん」
私服は思い切りの悪いラモントを引き立ててアクリーらのところへ戻った。早くも野次馬が集まりはじめていた。「捕まえました、部長」
アクリー部長刑事は腹立たしげに言った。「ようし、ラモント。大人《おとな》しく白状した方が身のためだぞ」
「何の話だが、さっぱりわかりませんね」ラモントは言った。
アクリー部長刑事はふんと笑った。「とぼけるな、ラモント。隠れんぼは終りだ。貴様ジョージ・ネイヴンを殺してルビーを盗んだな。そいつをレスター・リースが横取りした。どうだ。潔《いさぎよ》く白状しろ。そうしたところで、貴様にとって少しも損はないぞ」
ラモントは言った。「どうもおっしゃることがよくわからないんですがね。あのルビーは……つまり、その、私が保管していたんですよ。ですから……」
「気を付けろ、ラモント」レスター・リースが鋭く遮った。「自分の不利になるようなことをしゃべるんじゃない」
アクリー部長刑事はリースの横面に平手打ちをくれた。「貴様は黙ってろ」彼は私服に命じた。「いいから、そいつの体を探れ」
「冗談じゃない」ラモントは声を張り上げた。「そんなことをする権利はないぞ。あれはネイヴンから私が預かっていたんだ。私はちゃんと遺産として処理するつもりだった」
「何を預かったと?」アクリー部長刑事は食ってかかった。
「ルビーですよ」
アクリーは言った。「おい、ラモント。さっさと本当のことを吐け。貴様はルビーを盗った。そいつをレスター・リースが巻き上げた。そうだな」
ラモントはかぶりをふった。
アクリー部長刑事はコートの上からリースの体を探った。彼はいきなり手を伸ばし、リースの内ポケットからセム革の袋を引きずり出した。アクリーが袋の中身を取り出すと、野次馬たちははっと息を飲んだ。街頭の光を受けて、その大きな塊は血のように赤く燦然と輝いていた。
「ほうら見ろ」アクリー部長刑事は得意の絶頂であった。
ラモントは目を丸くし、あわてて自分のポケットを押さえたが、それきりふっつりと押し黙った。
アクリー部長刑事は群衆に向かって勝ち誇ったように言った。「皆さん、これが我々のやり方です。犯罪者に縄をくれてやる。彼らはそれで自らの首を縊るのです。明日の朝刊にはこのことが出るでしょう。アーサー・アクリー部長刑事はネイヴン殺人事件を解決し、併せて東インドのルビー強奪を企てていた犯人をも逮捕した、と。ようし、みんな。署へ帰るぞ」
リースは言った。「部長さん。あなたは間違いを犯して……」
「うるさい」アクリーは声を荒げた。「俺はな、前から貴様のことを付け狙っていたんだ。とうとう捕まえてやった」
ディクシー・ドームリーはかっとして言った。「あんまりだわ。手錠を掛けられてる人をひっぱたくなんて。それに、全然この人の言うことを聞こうともしないじゃない」
「あんたは黙ってな」アクリーは横柄に言った。「さもないと、あんたもしょっぴくぞ」
ディクシー・ドームリーは怒りに燃える目で挑むようにアクリー部長刑事を睨んだ。「私の方から行きますからね。止められるものなら止めてごらんなさいよ。警察へ行って、私、あなたの乱暴なやり方に抗議するわ」
シド・ベントリーが私服にすり寄った。「あたし、ベントリーです。シド・ベントリー。その何とかカードってやつは、もらえますか」
私服はうなずいてポケットからカードを取り出し、その表に何やら走り書きした。
「何やってるんだ、お前?」アクリー部長刑事が尋ねた。
「感謝賞のカードですよ。ラモントが逃げようとするところを、組み付いて捕まえてくれたんですからね」
アクリー部長刑事はいつになく気が大きくなっていた。「よし、私からも一枚進呈しよう」
シド・ベントリーは二枚のカードを受け取った。彼は何か言いたそうにしばらくじっとレスター・リースの顔を覗き込んでいた。やがて彼は言った。「いや、刑事さん、どうも。お役に立ててよかったですよ。じゃあ、あたしはこれで」
警察の車がサイレンを鳴らしてやって来た。アクリー部長刑事は逮捕した二人を車に押し込むとそのまま本署に直行した。ディクシー・ドームリーは蒼ざめた顔で口をきっと結び、タクシーでその後を追った。
アクリー部長刑事は巡査部長に向かって言った。「さて、記者《ぶんや》さんたちをこっちへ呼ぶか。俺はネイヴン殺しの犯人を挙げて、ルビーを取り戻した。その上、そいつを横取りしようとしていたやつを現行犯で逮捕したんだ」
ディクシー・ドームリーが横から言った。「それに、不必要な暴力をふるった罪もあるわ」
記者の一人が記者クラブからふらりとやって来た。「部長、何かありますか?」
アクリー部長刑事は言った。「ネイヴン殺しの犯人が挙がったよ」
「そいつはいただきだ」記者が言った。
巡査部長が首をかしげて言った。「部長、このルビー、よく見ましたか?」
アクリー部長刑事は言った。「見るまでもないさ。筋書き通りだ。そいつがどこにあるか俺にはちゃんとわかっていた。どうやって取り戻したらいいかもな。何たって値打ちのあるルビーだぞ。これは表彰ものだな。それに……」
「表彰は望み薄ですね」巡査部長は言った。「私の目に狂いがないとすれば、こいつは、よくできたガラス玉ですよ。ねえ、部長。私は多少、石のことはわかるんですよ。以前は宝石関係の捜査班で……」
アクリー部長刑事は愕然とした。「じゃあ何か、そのルビーは偽物だっていうのか?」
レスター・リースは巡査部長に向かって言った。「ちょっと、いいですか? 説明します。これは、私が作らせたイミテーションですよ。なかなかよくできてましょう……五十ドルかかりましたよ。それを私は、探偵志望のある青年に預けておいたんです。ところが、掏摸にやられましてね。無理もない話ですが、その青年はすっかりしょげ込んでいました。私は何とかそれを取り戻したいと思ったんです。そこで、一計を案じて、謝礼を出すことにしました。今日の夕方、出て来ましたよ。今の話には、全部確実な証拠があります」
アクリー部長刑事の視線は赤い玉に釘付けになっていた。「ラモントから巻き上げたんじゃないのか?」彼は尋ねた。
「とんでもない。ラモントに訊いて下さいよ」
ラモントは言った。「そんなもの、見たこともないね」
「じゃあ、本物のルビーはどこだ?」アクリー部長刑事は言った。
ラモントは深呼吸した。「こっちの方が訊きたいくらいだ」
「お前さん、何で逃げだした?」
「おたくたちの逮捕のやり方に問題があったんですよ、きっと」レスター・リースが口を挟んだ。「警官だとも名乗らずに、ただ『あいつをとっ捕まえろ』と言ったんでしょう? で、おたくの部下が走り出した……」
「いや、そんなことはない」アクリー部長刑事は抗弁した。
「その通りだわ」ディクシー・ドームリーがいきり立って言った。
巡査部長はレスター・リースに尋ねた。「イミテーションだってことを、君はどうして部長に言わなかったのかね?」
ディクシー・ドームリーが答えた。「彼は言おうとしたわ。だのに、アクリー部長刑事は彼の顔をひっぱたいたのよ」
アクリー部長刑事は目をぱちくりさせて言った。「そんなことはしない。この男には指一本触れなかった」
ディクシー・ドームリーは言った。「きっと言い逃れをするだろうと思っていたわ。警察の非道なやり方に対して、私と同じ気持ちでいる目撃者が十何人もいるのよ。私が抗議すれば、その人たち喜んで協力してくれるわ」
アクリーは開き直った。「その連中の名前を聞かせてもらおうか」
ディクシー・ドームリーは浩然と肩をそびやかして嘲るように笑った。
巡査部長が言った。「署長が何て言うか、わかってるでしょうね、部長」
レスター・リースは穏やかに言った。「私の執事を呼びましょう。あの男に見せれば、このイミテーションの出所がわかります。これは私が執事にそう言って作らせたものですから」
巡査部長が電話に手を伸ばすと、アクリー部長刑事はそれを制した。「偶々《たまたま》、俺はイミテーションが出回ってることは知っているんだ」彼は言った。「君の言う通り、これがイミテーションだとすればだが」
巡査部長は言った。「その点は間違いありませんよ」
アクリー部長刑事は鍵を取り出し、レスター・リースの手錠をはずした。「運のいいやつだな。どうしてこういうことになったのか、俺にはどうも合点が行かないがね」
リースは威厳をとりつくろって言った。「安全装置を掛けたまま引き金を引いたようなもんですよ、部長さん。わたしの話をちゃんと聞いてくれれば、こういうことにはならなかったはずですよ。それなのに、あの石はイミテーションで、私のものだと言おうとしたら、いきなり横びんたですからね。私はちゃんと領収書だって持っているんですよ」
新聞記者は大喜びで、しきりに鉛筆を走らせた。「こいつはいただきだ」彼は言うなり記者クラブへ飛んで帰った。と見る間に彼はカメラとフラッシュを手にしてやって来た。「写真を一枚もらいますよ」彼は言った。「その人造ルビーを高く上げて」
アクリー部長刑事はうろたえた。「おい、これは書くな!」
フラッシュの閃光が彼の抗議を遮った。
レスター・リースがアパート戻った時、隠密警官エドワード・H・ビーヴァーはまだ起きていた。
「やあ、スカトル」リースは言った。「ずいぶん遅くまで起きているじゃないか、え?」
「電話を待っておりますものですから」
リースは眉を持ち上げた。「電話? こんな時間にかい、スカトル?」
「はい、旦那さま。ところで、今夜アクリー部長刑事にお会いになりましたですか?」
「会ったも何も」リースは愉快そうに言った。「まさしく、お目に懸かったよ。明日の新聞にでかでかと出るぞ、スカトル。どうしたと思う? 部長は私が自分の持物を取り返したと言って私を逮捕してくれたよ」
「ご自分の、でございますか?」
「ああ、そうとも」リースは言った。「夕方早くに取り返したんだ。それが私のポケットから出て来たもんで、アクリー部長刑事は早とちりして、本物のルビーだと思い込んでしまったのだよ」
「で、部長刑事はどうなさいました?」隠密警官は尋ねた。
レスター・リースはにったり笑った。「得意満面ってやつさ」彼は言った。「野次馬の前で大見得を切ってな、おまけに愚かにも、明日の朝刊を読めと大いに宣伝しやがった。間違いなく、皆新聞を読むぜ、アクリーのやつ、気の毒に」
隠密警官の顔にじわじわと笑いが拡がった。「部長刑事は旦那さまに、私宛に何かお渡しにはなりませんでしたか?」
「君宛にだって、スカトル?」
「はい、旦那さま」
「いや、何も渡されなかったぞ。しかし、またどうしてアクリー部長刑事が君に何か渡したりするんだ?」
「実はでございますね、旦那さま。二、三日前に、私、ばったり部長にお会いしましたんでございます。その時に、私、時計をお貸しいたしまして、それをお返し下さることになっておりましたんでございますが、それが……」
電話が鳴った。隠密警官はさっと電話機に駆け寄った。「いえ、旦那さま、私が」
受話器を取って彼は言った。「もしもし……ええ……、ええ、たった今……」彼はまる一分ほど黙って相手の言葉を聞いていた。
隠密警官の顔が次第に赤みを帯びて言った。彼は言った。「いえ、それじゃあ話が違います。そういう賭じゃあありません……」彼は再び口をつぐんだ。受話器から何やらけたたましい金属的な響きが伝った。やがて相手はガチャリと電話を切った。
隠密警官は受話器を置いた。
レスター・リースは溜息を吐いて言った。「アクリー部長刑事も始末に困る御仁だな。どうにもうるさくて厄介だ」
「まったくでございます、旦那さま」
「考えてみれば、哀れな負け犬だな」リースは言った。
「まったく、哀れな負け犬でございますね」隠密警官は口を滑らせた。「土台、地位や権力を楯に敗けた賭けを踏み倒そうとするようなやつは……」
「スカトル」レスター・リースは彼を遮った。「君はいったい何の話をしているんだ?」
「ああ、いえ、こちらの話でございます。ちょっと、私個人のことでございますよ」
リースは言った。「まあ、この話はこれきりにしよう、スカトル。スコッチとソーダ・サイフォンを持って来い。静かに飲《や》ろう。二人だけで」
ビーヴァーが飲物の用意を終えたところへドアを叩く音がした。「出てみてくれ、スカトル」
ディクシー・ドームリーとハリー・ヴェアが戸口に立っていた。
リースは立って、二人を中へ入れ、女優を椅子に掛けさせてから、ヴェアに手真似で椅子を勧めた。「ハイボールをもう二つだ、スカトル」彼は言った。
ヴェアはかしこまって言った。「申し訳ありません、リースさん。行きがかり上、他にどうしようもなかったものですから」
リースは問題ではないというふうに手をふった。
ディクシー・ドームリーが言った。「あなたが帰った後、カーマイケルとかいう警部が来たの。かんかんに怒って、アクリー部長刑事をとっちめたのよ。あの時集まって来た野次馬の中に、カーマイケル警部を知ってる人が二人もいたんですって。その人たちが警察のやり方はひどいって、警部に電話で抗議したんだそうよ」
リースはにやりと笑った。「ほう、そうかね」彼は気のない返事をした。「で、どうした?」
ディクシー・ドームリーは言った。「それがね、ちょうどアクリー部長刑事がラモントを釈放したばかりのところだったのよ。証拠もないし、起訴には持ち込めないと思ったのね。カーマイケル警部はアクリーの報告を聞いて烈火のごとく怒ったわ。で、もう一度ラモントを逮捕しろって命令したの。無線カーが警察からまだ十二街区と離れていないところでラモントを捕まえたわ。
ラモントが連行されて来て、カーマイケルが訊問したんだけど、あっという間に供述しちゃったのよ。あの人、ヒンズー教のお坊さんに言われて、シャッターを開けたんですって。お金をもらっていたのよね。でも、それから裏切ることを思い付いて、金庫からルビーを盗んで隠したのよ。
さっき逮捕された時、あの人、ルビーを持っていたのよ。あの人組み討ちの最中に私服刑事がポケットから盗んだに違いないって言い張ったわ。私服刑事はそれを否定したの。そこで皆、最初にラモントに組み付いた人のことを思い出したのよ。
あの男こそ、逮捕すべき相手だってことになったわけ。ところが、警察は彼を見逃したばかりか、感謝賞のカードを、それも二枚もやったってことがわかったのよ。本当に、あの時のカーマイケル警部、あなたに聞かせてあげたかったわ。刑事たちを怒鳴りつける凄さったらないの」
リースはヴェアをふり返った。
「これだよ、ヴェア」彼は言った。「ケース・メソッドによる犯罪操作訓練の理想的な例だ。アクリー部長刑事のやることをじっと眺めて、彼の逆、逆を行けばいい。そうすりゃあ成功は間違いなしだ」
隠密警官は飲物を作りながら、我知らず、しかし、はっきりとうなずいた。
レスター・リース作家となる
かれこれ午後の二時半になろうとしていた。商店街の人並みの中を当てもなくぶらついていたレスター・リースは、真っすぐにシームの走った一足の絹のストッキングに大いに気をそそられていた。右手の婦人靴下専門店のショウウインドウに飾られていたそれではなく、五十フィートばかり先を行く短いスカートの若い女の魅力的な足を際立って美しく見せているストッキングだ。
こういうこととなるとレスター・リースは目が高い。とはいえ、彼の関心は抽象派に傾いていたから、彼はその距離を縮めようとはしなかった。リースはこれといった目的もなしに街を散歩し、流れ去る世相のパノラマを眺めることが好きだった。しばらくすれば、彼の関心は、群衆の中の非常に個性的な一つの顔に移っているかも知れないし、あるいはまた、ふと行き過ぎた一人の歩行者が彼の興味を引いているかも知れない。しかし今、彼はその形のよい若い女の脚に目を奪われていた。
半街区ほど前方の四階の窓から、一人の女が身を乗り出した。雑踏の騒音を貫いて、甲高い悲鳴が聞こえた。
「助けて! 誰か! 警察を呼んで!」
ほぼ同時に、何やら黒っぽい毛皮らしきものが窓から投げ出された。一瞬それは小さく丸まったまま宙に浮かんだ。そして、空気の抵抗を受けてぱっと拡がったところを見ると、どうやらそれは毛皮のケープらしかった。ケープは、ちょうどその頃人気を博していた空中ブランコの若い軽業師のように、ふわりと滑空して、四階下の看板を支える腕木の上に落ちた。
レスター・リースの右手で皮肉な笑い声が上がった。声の主はとふり返ったリースの目に、何事につけて訳知り顔に説明して一人で納得する類の男の薄笑いが飛び込んで来た。
「新手の宣伝だよ」リースの視線を捉えて男は言った。
「あれは毛皮商だ。毛皮のケープを窓から放り出してやがる。そうだよ。何か新聞にでかでかと店の名が出るようなことを企《たくら》んでいるんだ」
呼笛と権力的な足音を響かせながら角を曲がって交通巡査がやって来た。
余人の与《あずか》り知らぬ個人的な理由から、リースは犯罪の現場に駆けつける警官たちとは努めて接触を避けていた。彼の手口はあまりにも微妙綿密な計算の上に成り立っている。うっかり警察の捜査網に迷いこむような危険を冒すことは許されなかった。
「なあるほど、そんなものかね」何でも知っているような顔をしたその男に向かって彼は言った。「私はもう少しでひっかかるところだったよ。お陰で約束に遅れずに済みそうだ」
リースは次第に騒ぎの募りつつあるその場から、ゆっくりと立ち去った。
レスター・リースはすっきりとした心憎いばかりの正装姿で劇場のロビーに立ち、一幕目の終わった芝居の続きを見ようかどうしようかと思案していた。
初日の常で、有名人や評論家、上流階級の観客たちがロビーを行き交い、あるいはここかしこと何人かずつかたまって低い声で談笑していた。
女たちは、見るからに姿の良い品のある若い男に賞賛の眼差しを向けた。しかし、当のレスター・リースは宵からずっと頭の隅で疼《うず》いている疑問にもっぱら神経を集中していた。四階の毛皮商の店で銀狐のケープを試着していた若い女が、いったい何故そのケープをいきなり窓から放り出し、何喰わぬ顔で現金で代金を支払い、まるで何事もなかったかのように店を立ち去ったのだろう?
流れるようなチャイムが二分後の開幕を告げた。観客たちは煙草をもみ消し、カーテンを降ろした出入口からぞろぞろと客席に入って行った。レスター・リースはまだ決断しかねていた。
芝居は平均点を上回る出来で、これは彼としても認めない訳には行かなかった。だが、彼の気持ちが、高価な毛皮のケープを四階の窓から無造作に投げ捨てた謎の女をめぐる思索を一夜の観劇の愉しみに妨げられることを拒んでいたのだ。
レスター・リースは二本の指で胴着のポケットから小さく畳んだ夕刊の切り抜きをつまみ出した。すでにすっかり暗記していたけれども、彼は今一度その記事に目を通した。
今日の午後、ビーコン街の歩行者たちはコオペラティヴ・ロフト・ビル四階のギルバート毛皮商会の窓から若い女性が身を乗り出し、歩道に向かって警官に助けを求める悲鳴に驚かされた。人々が見上げると、銀狐のケープが一着、歩道に向かって落ちて来るところだった。ケープは折からの微風にあおられて拡がり、ネルスン光学の看板を支える腕木にかかった。物見高い女性の買物客たちが何人か手を伸ばしたがケープには届かなかった。助けを求めた女性は同商会の従業員で、イースト・グローヴ街三二一番地在住のファニー・ギルマイヤー嬢であることが判明した。
近くの交差点で勤務中だったジェームズ・C・ハガティ巡査はただちに拳銃を抜いて同ビルに駆けつけ、エレベーターで四階に上がった。現場に急行した同巡査に対し、ギルバート毛皮商会社長F・G・ギルバート氏は最前の悲鳴は間違いであったと釈明した。
ハガティ巡査が職務質問した結果、銀狐のケープは同店で若い女性客が試着したものとわかった。ギルバート商会側はその女性客の氏名を明かすことを拒否しているが、同商会の説明によれば、ケープを試着したその女性客は「これをいただくわ」と言うなりケープを小さく丸めて窓から投げ捨てた。応対に当たっていたギルマイヤーさんは、新機軸の万引きと思い、とっさに窓から警官に助けを求めた。
店主のギルバート氏が現場に出てみると、その女性客は落着いた態度で正価通りの現金を支払い、ケープを窓から投げ捨てた理由については一言も触れず、たださりげなく、ケープが回収された場合の配達先を指示した。騒ぎが起こってからハガティ巡査が到着するまでの間に、二十五歳前後で金髪の美人だというその女性客は同ビルから姿を消した。
ハガティ巡査は、この女性客を自己宣伝にとりつかれた女優と見ているが、もしそれが事実だとすれば、住所氏名の公表を拒んだ同商会の措置によって、その望みは絶たれたことになる。ケープはギルバート毛皮商会の手で回収され、クリーニングした上で配達されたもよう。
客席の明かりが消えて二幕目が開こうとしていた。レスター・リースは切り抜きをポケットに戻し、腹を決めて劇場を出た。居合わせたタクシーで彼はビーコン街のコオペラティヴ・ロフト・ビルへ向かった。
その雑居ビルの外観からは毛皮のケープを買った女の不思議な行動を説明する何の手がかりもつかめそうになかった。ギルバート毛皮商会は四階をそっくり占領していた。毛皮のケープが投げ出された窓はネルスン光学の看板の真上に位置していた。
リースは通りを隔てた向かい側に、明らかに間もなく起こるであろう何かを待っているらしい二人の男がいることに気が付いた。
コオペラティヴ・ロフト・ビルに向き合った、ラスト・コマーシャル・ビルの正面玄関を挟むようにして、二人の男は互いに相手を黙殺するふうに、ぼんやり立っていた。しかし、玄関ホールでエレベーターの扉が開閉する度に、二人が申し合わせたようにふり向いてビルの中を覗くところを見ると、どうやら彼らは共通の目的でそこにいるらしかった。そればかりではなかった。遅くまで仕事をしていた会社員がビルから出て来る度に、二人の男は弾けるように出口に走り寄り、出て来た相手を確かめると、また何気なく元の位置に戻って行った。
リースはタクシーに戻って運転手に言った。「ちょっとここで待とう」
運転手は心得顔にうなずいた。「ラジオでもかけますか?」彼は言った。
リースは言った。「いや、結構だ」彼はシートに深々と体を沈めて煙草をつけた。じっと神経を懲らして待つこと約二十分、青いスカートにジャケットを着て、小粋な帽子を右の耳上にはすにかぶった細身の若い女が一人エレベーターから姿を現わし、すらりと伸びた脚の運びも軽やかにつかつかとロビーを横切った。
玄関脇の二人の男は例によってさっと入口に向きなおった。彼らは今度は戻ろうとしなかった。若い女が建物を出るなり、二人は両側から彼女の腕を押え、どこからともなく忽然《こつぜん》とやって来た車に彼女を押し込んだ。彼らを乗せると、車はすぐに走り出した。
レスター・リースは煙草をもみ消して運転手に言った。「あの車を付けてくれ」
運転手は一気にUターンして先の車を追った。赤信号のお陰でぴたりと後につくことができた。
「どんぱちになるんじゃないでしょうね?」運転手は心配そうに言った。
「大丈夫だ」リースは言った。「ただ、ちょっと興味があるもんでね」
運転手は前を行く車のナンバー・プレートを読んだ。「警察じゃないすね」
リースは言った。「まさにその点をまず確かめておきたいんだよ」
運転手はあまり気乗りがしない様子だったが、それでも前の車が繁華街のとある建物の前で止まるまで、抜かりなく後を追った。彼は客商売で暮らす男の目で、前の車から降りる三人を見つめた。「Gメンじゃないすか」
「そいつはどうかな」レスター・リースは言った。「やり方がえらくおおっぴらだし、二人とも、見るからに相棒を頼みにしている。それに全然野暮ったいよ。あれは一時代前の警官のやり方だ。私の見たところでは、あの連中はどこかの私立探偵事務所の兵隊さんだな」
運転手は俄然尊敬の眼差しでリースをふり返った。「ねえ、お客さん。そういうお客さんこそ、Gメンじゃないすか? 賭けてもいいよ」
「誰と賭けるんだ?」レスター・リースは言った。
運転手はにやりと笑った。「あたしが自分でさ」
リースは真顔で言った。「それはいい。敗ける心配がないからね」
エドワード・H・ビーヴァーはレスター・リースに執事として雇われていたが、彼の道化のような忠義ぶりは、実は彼の正体を隠すための周到な演技であった。
前々から警察は、レスター・リースを類《たぐい》まれな超人的探偵であると見ていた。鋭敏な頭脳によって、快刀乱麻を断つ喩《たと》えの通り、難事件怪事件を鮮やかに解明する人物と考えていたのである。ところが、レスター・リースが関心を抱く事件はことごとく、ある一つの決まった大団円を迎えることを常としていた。警察が紆余曲折を経ながらも、リースの行動をしるべに容疑者に接近してみると、そこには必ず不正利得を身ぐるみ剥がれて茫然自失している犯人が浮かび上がるのであった。
そんなわけで、警察はリースの執事として隠密警官を送り込んだのである。警察はリースを現行犯で逮捕したい意向だった。ところがこれまでのところ、舞台の手品使いの種を見破るべく観客の中から選ばれた代表がまんまと騙されてしまうと同様、隠密警官の必死の努力も何の成果も挙げずに終わっていた。
リースがペントハウスの彼のアパートに戻ると、隠密警官が待ち受けていた。
「お帰りなさいませ、旦那さま」
「やけに遅くまで起きているじゃないか、スカトル」
「はい、旦那さま。ハイボールをお飲みにおなりではないかと存じまして。もう、仕度はできております。あ、コートをこちらへ。お帽子をどうぞ。ステッキは? 手袋はこちらに。はい、かしこまりました。ところで、旦那さま。ガウンとスリッパになさいますか?」
リースは言った。「いや、しばらくこのままでいいよ、スカトル。ハイボールを運んでもらおうか」
リースは長椅子に寝そべり、隠密警官が脇に置いた飲物を、何やら考えこみながらゆっくりとすすった。ビーヴァーは傍に侍って何くれとなくレスター・リースの世話をしていた。
「スカトル」リースはしばらくして言った。「君は、犯罪事件の三面記事には必ず目を通すことにしているらしいな?」
隠密警官は取って付けたように咳払いした。「おこがましいことかとは存じますが、旦那さまが、新聞の記事には必ず犯人の手がかりとなる重大な事実が述べられている、とおっしゃいましてからというもの、私、習慣として犯罪記事を読むことにいたしましたんでございます。いわば、私の頭の体操でございます」
レスター・リースはさらに二度ゆっくりとグラスを口に運んでから言った。「実に愉しい暇つぶしだと思わないかい、スカトル?」
「本当でございますね、旦那さま」
「ただし、大切なのは、その結論は純粋に論理的でなくてはならないということだよ。それと、そうやって出た結論は自分の胸のうちにしまっておくことだ。アクリー部長刑事がどんなやつかは君も知ってるだろう、スカトル。人一倍熱心ではあるが、およそ非論理的だ。それに、あの持って生まれた猜疑《さいぎ》心。要するに、それはあの男がまさに偏見の塊であるという、まぎれもない証拠さ」
リースは品よく口に手を当てて欠伸《あくび》した。「スカトル。ひょっとして君は、ラスト・コマーシャル・ビルで起きた犯罪のことを読みはしなかったかね?」
「ラスト・コマーシャル・ビルでございますか? いえ旦那さま。それは読んだ憶えがございません」
リースは言った。「スカトル。確かあのビルの六階は全部、精密機器設計製作社が占領してるはずだな。世間ではピディコの方が通りがいいらしいんだが。君は、ピディコの事務所で何か犯罪があったっていう話を知らないか?」
「いえ、旦那さま。そのような話は存じておりません」
リースは伸びをして、欠伸した。「何ともじれったい話だな、スカトル」
「何がでございますか?」
「情報を新聞に頼るってことがさ。興味ある事件が起こっても、半日あるいは一日先にならなきゃあ新聞でそのことを読めないんだ」
ビーヴァーはおよそ表情のないポーカー・フェイスで彼の驚きを覆い隠した。彼の目には強い好奇心の炎が燃えていたけれども、主人に対する義理にすぎない口ぶりで彼は言った。「何か私でお役に立つようなことがございますでしょうか?」
レスター・リースは眉を寄せてじっと隠密警官の申し出を思案した。「スカトル。君を信用できるか?」
「命に賭けまして、旦那さま」
「ようし、スカトル。君に頼みたいことがある。こいつは絶対秘密だぞ。チャニング・コマーシャル・ビルに何とかという私立探偵の事務所がある。名前は見て来なかったがね。今夜十時頃、そこへ若い女が一人連れ込まれた。女から何か聴き込んだんだ。もう帰しただろうと思うが、あるいはまだかも知れない。私の推理が正しければ、女はピディコの社員だよ。それをまず確かめてくれ。ピディコの社員だったら、住所氏名を調べてほしいんだ。私の見当がはずれていたら、この話はそれまでだ。全然興味はないよ」
「かしこまりました、旦那さま。で、もし旦那さまのお考え通りだといたしますと、旦那さまは、いったい何を、どの程度までお知りになりたいとお思いでいらっしゃいますか?」
リースは言った。「ちょいと気になることがあってね、それに論理的な説明を加えてすっきりしたいというだけのことさ」
「気になること、とおっしゃいますと?」
「四階の窓から銀狐のケープをうっちゃった話さ」
隠密警官はきらりと目を光らせた。「ああ、あれでございますか。あれなら私も新聞で知っておりますです」
「知ってるのか、スカトル。君はあれをどう考えるね?」
「そうでございますね。実は私も、散々考えまして、辻褄の合う結論を出しましたんでございます。私、自分に向かってこう申しました。いえ、大変僭越でございますが、お許し下さいまし……一つ、レスター・リースがこの記事を読んでいるというつもりで警察が見逃している手がかりを見付けてやろう」
「で、君の結論は?」
「例の女は機械の中の小さな歯車の一つでしかないということでございます。非常に巧妙に仕組まれた犯罪の一環でございます」
「スカトル、君もなかなかやるねえ」
「はい、旦那さま。私、考えますには、あの女の役割は周囲の注意を一つところに集めることだったんでございます。その間に悪賢い共犯者が、失敗する気遣《きづか》いのない仕事をやってのけたんでございます」
「その仕事というのは、スカトル?」
「正札をすり替えることでございます」
「そこのところをもう少し詳しく話してくれないか?」
「はい、旦那さま。コートには、たかだか七十五ドルか百ドルどまりの二流品やまがいものがございます。一方には千二百ドルだの二千五百ドルだのという上等な品物がございます。その正札をすり替えておきますと、どさくさまぎれに、高価な品物を安く手に入れることができるというわけでございます」
レスター・リースは言った。「恐れ入ったよ、スカトル。君はどうして、大したもんだ」
「これはどうも、旦那さま、旦那さまも、同じお考えでいらっしゃいますか?」
「とんでもない。だが、君も進歩していると言っているんだ、スカトル」
「では、旦那さまは、そうではないとお思いなんでございますか?」
「違うね、スカトル」
「しかし、そう考えれば辻褄が合うと存じますが」執事はこだわった。
リースはまた欠伸した。「辻褄が合うからそれは違うと言うんだ、スカトル。さあて、そろそろ寝るとしよう。九時前には起こさないでくれよ」
アクリー部長刑事の煙草の焦げ跡だらけのデスクを蛍光灯が明るく照らしていた。建物内の空気には、刑務所や警察署など、四六時中人のいる場所に特有な澱んだ臭気が漂っていた。デスクを隔ててアクリー部長刑事と向き合ったビーヴァーが言った。「ひょっとすると、まだ起きているんじゃないかと思って来てみたんですよ」
アクリーは大きな欠伸をして髪をかき上げた。「いいんだよ、ビーヴァー。あいつめをとっつかまえるためなら、真夜中に叩き起こされても文句は言わんよ。で、朝の九時までにその調べを付けたいわけだな?」
「そういうことです」
アクリーは呼鈴を押し、やって来た巡査に向かって言った。「チャニング・コマーシャル・ビルの探偵事務所を調べてな、責任者を電話で呼び出せ」
巡査が立ち去ると、アクリーは後頭部をゴシゴシと掻き、欠伸をしてチョッキのポケットから葉巻を取り出した。「お前はこれが、ギルバートの店の子供だましの万引き狂言と繋がりがあるって言うんだな?」
「どうやらそのようですね」ビーヴァーは言った。
アクリー部長刑事は葉巻をつけて、何やら思案しながら何度か吸った。やがて彼は大きく頭をふって言った。
「いいや、ビーヴァー。こいつは隠れ蓑だ。毛皮商会の一件は、お前が言った通り、正札のすり替えだよ。明日になりゃあ、ギルバートが、七十五ドルの兎のまがいものの値段で二千ドルのミンクを騙し取られたとか言って泣きついて来るから見ていてみろ」
ビーヴァーはうなずいた。「私はそう思っていたんですがね。ところが、リースの考えは違うらしいんですよ」
アクリー部長刑事は言った。「だからさ、それはやつが何を考えているか、お前に知られないための算段だよ」
「やつはとうとう、こっちの思う壺に嵌《はま》りましたよ、部長。今度は私に片棒を担がせる気になっています」
アクリーは口の端で葉巻を転がしながら言った。「いいや、やつはお前をからかっているんだ。今の、銀狐のケープの話がその何よりの証拠だよ。ピディコの一件は全然……」
電話が鳴った。
アクリー部長刑事は受話器を掬《すく》い上げて、葉巻を銜《くわ》えたまま言った。「もしもし、アクリー部長刑事だ」
短い沈黙が訪れた。アクリーは銜えていた葉巻をはなし、急に権威を帯びた厳しい声で言った。
「ああ、チャニング・コマーシャル・ビルのプラネタリー・インターナショナル探偵社? おたくがそこの責任者ですね? 結構。こちら、本署のアクリー部長刑事といいます。誤解のないように、よく聴いて下さいよ。精密機械の会社で、ピディコっていうのはおたくの依頼人ですか? え? 依頼人です? なるほど。で、目下おたくはこの会社からどんな仕事を頼まれてますか?……秘密だろうと何だろうと、そんなことは構わん! こっちは警察だぞ。我々は今ある事件を捜査している。どうやら、おたくの依頼人にかかわりがあると思われる節がある……我々がどうしてそれを知ったかはこの際問題じゃない。情報がほしいんだ。……いや、おたくが依頼人に連絡してなんて、そんな暢気《のんき》なことは言っていられない。情報が必要なんだ。それも、今すぐだ。警察はおたくらのやることを、かなり大目に見てきたぞ。しかし、こうなってくると……ああ、その方がいい。ようし、さっさと話してくれ」
アクリー部長刑事は左耳に受話器をあてがい、目の前の電話機を睨みつけたまま、まる三分近くじっと相手の話に聴き入った。やがて彼は言った。
「どうしてその女が犯人とわかる?……なるほど……今どこにいる?……わかった。何だってまずこっちへ連絡を寄越さなかったんだ? これは犯罪だぞ。窃盗だ。……もちろん。名前を出したくない気持ちはわかる。しかし、その心配には及ばんよ。警察は秘密を守ることにかけては絶対だ。おたくら素人は、警察を出し抜けるとでも思ってるのか?……ああ、そうした方がいい。依頼人に正直にそう言うんだ。警察から連絡があって、報告を求めているってな。警察はのほほんと構えちゃあいない。被害者が事件をひた隠しにしておこうとしても、警察はちゃんと犯罪を嗅ぎ付けるんだ。アクリー部長刑事が直々に捜査に当たっていると言ってやれ。こっちはすでに、かなりの見通しがついているんだ。それはそれとして、おたくの方でも何かわかったら逐一こっちに知らせてくれ。いいな。……そうだ。アクリー部長刑事だ」
アクリーは叩き付けるように受話器を置き、デスクを隔てて坐っている隠密警官に向かってにったり笑った。「これで署長は大喜びだぞ」彼は言った。「こっそり始末しようとしていやがった。探偵事務所のとうしろうめ、こっちが知ってたもんで腰を抜かさんばかりだった」
「知ってたって、何をです?」ビーヴァーは尋ねた。
アクリーは言った。「ニコラス・ホッジとかいう発明家がいてな、そいつが新式の海底探知機を開発したんだ。で、何とか使いものになる試験機をこしらえた。そいつはそれをワシントンに売り込んだんだ。ところが、お役所仕事で埒があかない、業を煮やしてその先生はある海軍少将のところへ持ち込んだ。少将はテストをしようと言ったんだが、海軍の上層部に見せても恥ずかしくないような、ちゃんとした完成品を持って来なきゃあ駄目だと条件をつけた。それでピディコが注文を受けたんだ。
当然、ピディコは極秘裡に事を運ぼうとした。仕事の中身や、青写真の原版のありかを知っているのはピディコの社長ジェイスン・ベルヴュウと個人秘書のバーニス・レイメンだけだった。あのビルにあるのは設計部だけでな、工場は街から一マイルばかりはずれたところにある。ベルヴュウは装置を細《こま》かいパーツに分けて、職工に別々に作らせる腹だった。それで、いよいよという時になったら腹心の技術屋二人ばかりに手伝わせて、ベルヴュウが自分でそれを組み立てることにしていたんだ」
「ところが、その青写真がどうかしたわけですね?」ビーヴァーが口を挟んだ。
「忽然と消え失せたのさ」
「で、その探偵事務所がそれを探しているんですか?」
「その通り。ピディコのごたごたは全部あそこが引き受ける契約になっている。青写真の紛失に気付いて、ベルヴュウは早速連中に知らせた。連中はバーニス・レイメンが臭いと見て網を張っていた。女はそこへのこのこ踏み込んだんだ。女をとっつかまえて油を絞ったが、知らぬ存ぜぬで何も出てこない」
「その先をこっちが引き受けるんですね?」ビーヴァーはにやりと笑った。
アクリー部長刑事はにったり笑い返した。「引き受けることは引き受けるが、そいつはジェイスン・ベルヴュウのやつが頭を下げて泣きついて来たらの話だ。ベルヴュウは秘密がばれることを恐れている。青写真が失くなったことが知れて、仮にそいつが出て来たとしても、コピーされていないと確信を持って言い切れないとなれば、ピディコは進退きわまるからな」
ビーヴァーの顔からふいに笑いが消えた。彼は眉を寄せてじっと考え込んだ。
「おい」アクリーは言った。「どうした?」
ビーヴァーは言った。「いったい、レスター・リースはどうしてそのことを知っていたんでしょう?」
アクリーはその質問にぎくりとした。
ビーヴァーは言った。「銀狐のケープを窓から投げ出した話とどこかで繋がってるんですよ」
「そんな馬鹿な、ビーヴァー。やつはその話を隠れ蓑に使ってるんだ」
ビーヴァーははっとして言った。「ねえ、部長。ピディコは例の毛皮商の真向かいですよ。窓から中を……」
アクリー部長刑事は権力的な仕種《しぐさ》で彼を遮った。「ピディコは六階だぞ。毛皮屋は四階だ」
ビーヴァーは食い下がった。「しかしですね、毛皮商の入っているビルは下が吹き抜けですよ。その四階は、向かいのビルの六階と同じ高さかも知れないじゃないですか」
アクリー部長刑事は眼を細めた。「そいつは理屈かも知れんな」彼はうなずいてから慌てて言い足した。「しかし、どうかな?」
レスター・リースはコーヒーとトースト、それに堅焼きのベーコンの朝食を取りながら執事の報告を聞いた。
「面白いね、スカトル。それに、実に調べが行き届いている。どこでそれだけ調べたね?」
隠密警官は咳こんだ。「私、ある女に気がありますんですが、それが刑事と付き合っておりまして」
「ああ、そうだったな。前にも聞いたっけ。そういう関係が道徳的にどうだかは知らないがね、スカトル。しかし、君の付合いは情報に関しては大いに生産的であるようだな」
「はい、旦那さま」
「で、ジェイスン・ベルビュウが警察に連絡したことは確かなんだな?」
「はい、真夜中過ぎにでございます」
「もう一度復習しよう、スカトル」
「はい、旦那さま。ベルヴュウは青写真を金庫に入れておりました。一番外の大扉は、昼間は開いたままになっておりますが、夜は錠をかうことになっているんでございます。装置を開発いたしましたニコラス・ホッジとベルヴュウはちょうど打ち合わせを終えたところでございました。青写真を金庫に戻しまして、ベルヴュウはホッジをその場に待たせたまま隣の個室に一旦引っ込みました。ベルヴュウの秘書バーニス・レイメンは自分の部屋で午後の郵便物を開封いたしまして、仕分けして、ベルヴュウの個室へ届けようとしておりました。……と、その女は自分ではそう言っておりますんでございます。で、ベルヴュウの部屋へ入ろうといたしますと、通りの向こうで悲鳴が聞こえました。もちろん、社員たちは一斉に窓に駆け寄って外を見ました。バーニス・レイメンの話によりますと、ベルヴュウの個室の出口のドアがバタンと鳴るのが聞こえたそうでございます。誰かが慌てて飛び出して行ったようにでございます。その時バーニスは、ベルヴュウ社長が出て行ったのだと思った、というふうに申しております」
「ベルヴュウじゃあなかったのか?」
「そうなんでございます、旦那さま。ベルヴュウ自身は別の場所にいたと申しておるんでございます。それが何者であったかはともかく、その音の主が金庫から青写真を盗み出したに相違ございません。内部の事情に詳しい者らしゅうございます」
「外部のものが入り込んだとは考えられないのかね?」
「それはございません。旦那さま。社内報の編集をいたしております、フランク・パッカースンと申すものがおるんでございますが、それが週末にクレー射撃をいたしておりまして、職場にライフルを持って来ておったんでございます。通りの向こうの騒ぎを聞きつけまして、その男はすぐにライフルに弾をこめて廊下に飛び出したんでございます。社内におりました外部の者と申しますと、装置を開発いたしましたホッジだけでございました。もちろん、ホッジが自分の青写真を盗むはずはございません」
レスター・リースは考え深げに眉を顰めた。「バーニス・レイメンはどうかね?」
「昨晩、例の探偵事務所の者がピディコのビルを見張っておりますと、レイメンが会社に戻って来たんでございます。やり残した仕事があると女は申しました。探偵はそれを怪しいとして、女を取り押さえたんでございます。そんなこともありまして、戸口にはただちに見張りが立ちました。青写真が外へ持ち出されないようにでございます。青写真はまだ事務所のどこかに隠されているはずでございます。犯人は金庫から出した青写真を事務所内のどこかに隠したんでございます」
リースは言った。「探偵はそのレイメンという女の子を調べた。ところが、何も出て来なかった」
「そうなんでございます」
リースはにやりと笑った。
「旦那さまは、この件で何かなさるおつもりでいらっしゃいますか?」ビーヴァーは尋ねた。
リースは吃驚《びっくり》して眉を上げた。「何かするだって?」
「ですから、その、何か他に絵解きをお考えになっていらっしゃいますか、という意味でございます」
「そんな気はないね、スカトル。警察の馬鹿げたやり方にはまったく腹が立つがね、だからといって、私がどうこういう謂われはないよ。私のこうした事件に対する関心はね、スカトル、要するに、純粋に論理学的なものでしかないんだ」
芸能プロダクションの女社長は顔を上げてレスター・リースを見た。営業上の追従にすぎなかった彼女の笑顔は、リースの端麗な容姿と涼しい目、高い鼻梁《びりょう》とにこやかな口許を見て、にわかに媚びを含んだ愛嬌笑いに変わった。
「ようこそ」普段、未知の来訪者に対する時にくらべてはるかに心のこもった声で彼女は言った。
レスター・リースはにっこり笑って言った。「私、小説を書きたいんですがね」
女社長の顔の中で一瞬微笑みと渋面がぶつかり合い、やがて笑いが後退した。「うちでは作家のお世話はできかねます」彼女は言った。「著作権は扱っていませんし。もっとも、すでにいくつか作品がおありなら……」
「生世話物《きせわもの》ですよ」レスター・リースは構わず続けた。「独特の角度から捉《とら》えてるんです……事件の陰の人間模様という」
女社長はやや表情を和らげた。「大変面白いとは思います。でも、せっかくですけれど、うちでは……」
「いえね」リースは気取った様子で遮った。「これは私の趣味でしてね。別に金を儲けようとは思っていませんよ。それに、私は、作品を売り込んでくれと言っているんじゃあありません」
「じゃあ、どんな御用ですの?」
「評判になることをいとわない女優を一人紹介してもらいたいんですよ」
女社長は言った。「評判になりたがらない女優なんていませんよ」
「少々注文があるんですよ」リースは言った。「舞台で年季を積んだ女優で……」
「最近では、もうそういう人はいませんよ」女社長はうんざりした様子で彼を制した。「この頃の若い人たちはハリウッドのことしか考えませんからね。舞台は映画界入りの踏み台と思ってるんですよ」
レスター・リースは言った。「私が捜している女優さんは、何も若くなきゃあならないというわけじゃあありませんよ。私がほしいのは、非常に個性的で、何というか、その、芸が達者な人ですよ」
女社長は不思議そうな顔をした。「今、そこの部屋に一人いますけど」彼女は言った。「大きな劇団にもいたことがあるし、小芝居にも出ているし、芸はそれは確かな人ですよ。ただ、お世辞にも若いとは言えませんけれど」
「いくつです?」リースは尋ねた。
彼女はにやりと笑った。「自分では三十だって言うんですけれど、見た目は三十三。本当は四十の坂にかかってるんじゃないかしら。でも、度胸の良さには本当に感心するんですよ」
「何ていう人です?」
「ウィニー・ゲイル」
「私の仕事を引き受けてくれるでしょうか? モデルなんですが……」
「やらないでしょうね。彼女は女優の仕事以外は絶対いやだって言いますから。でも、お話しだけでも、なさってみたらどうかしら?」
リースは言った。「ここへ呼んで下さい」
ウィニー・ゲイルは世辞や追従の通じない、自分の立場をはっきりさせておかなければ気の済まない女だった。彼女はレスター・リースの前置きを遮って、単刀直入に質問した。
「これまでに、何かお書きになったの?」
「いや」レスター・リースは言った。「これがはじめてだよ」
彼女は短気に言った。「あのねえ、一躍有名になって、めきめき売れるようになるなんていうことは間違ってもありゃしないわよ」
レスター・リースは言った。「おっと、そう来るだろうと思った。そう捨てたもんでもないよ、ゲイルさん」
「あら、どうして?」
「幸い、私は作品に収入を頼っていないんでね」
「結構ですこと。私は時間に収入を頼っているの。余分な時間なんて全然ないわ」
リースは言った。「私はね、極めて人間臭ふんぷんたる小説を考えているんだ。そのために、あなたにちょっとカメラの前で演技をしてもらいたい。二時間の拘束で二百五十ドルでどうだろう。それに、そうだ、毛皮のコートをおまけに付けよう」
「おまけに何ですって?」
「毛皮のコートだよ。銀狐のケープだ」
ウィニー・ゲイルはペタリと座り込んだ。
「ねえ、ちょっと」彼女は言った。「それ、本当の話?」
リースはうなずいた。
「おいしいこと言って、何か裏があるんじゃないでしょうね?」
リースはかぶりをふった。
「現金でくれるの?」
「ああ」
「いつ」
「今ここで」
「何をやればいいの?」
「毛皮のコートを窓から投げ捨てるのさ。で、その時の気持ちを、ありのままそっくり私に話してもらいたいんだ」
ウィニー・ゲイルは目を丸くしている女社長をちらりと見やってからレスター・リースに向き直った。「あなた気は確かなの?」彼女は言った。「でも、今ここで二百五十ドル、耳を揃えて払ってくれるなら、いいわ、やるわよ」
レスター・リースは財布を取り出し、五十ドル札を五枚数えて芸能プロダクションの女社長のデスクに置いた。ウィニー・ゲイルは夢見心地で言った。「こんな|おひねり《ヽヽヽヽ》をもらったの、昔ベルマン・ハウスで『我が母は淑女なりき』を演《や》った時以来だわ」
ギルバート毛皮商会の社長F・G・ギルバートは計算高い目つきで冷やかにレスター・リースを見つめた。
「というわけで」レスター・リースは大きなスタジオ・カメラのケースを提げ、三脚を肩にしたカメラマンを指さして愛想よく説明した。「組み写真を撮るために、カメラマンを連れて来たんです。それから……」彼は、仕立て直しのいささかみすぼらしい服を着て胸を張っているウィニー・ゲイルを指さした。「お客も連れて来ています。もちろん、銀狐のケープは定価で買い取りますよ」
ギルバートは首を横にふった。
「ご承知の通り」レスター・リースは陽気に言葉を続けた。「ゲイルさんは女優です。これはここだけの話ですが、彼女はこれがかなり宣伝になると思っているんですよ。で、おたくにとってはどうかと言いますとね、何しろギルバート毛皮商会の名前がニュースや雑誌に派手に出るんですから、損はない話ですよ」
ギルバートは眼鏡の奥で目をひそめた。「あなた、新聞社の方ではないんでしょう?」
「違いますよ」
「プレス・エージェントですか?」
「そう、ある意味ではね。ゲイルさんの宣伝にはいろいろと気を遣っていますから」
ゲイルに対するギルバートの評価は明白であった。「この店は、その種の宣伝を必要としてはおりませんのでね」
リースは肩をすくめた。「そうですか、残念だな。せっかく銀狐のケープを買おうと思っていたのに」
ギルバートは言った。「ちょっと待って下さい。宣伝担当の者と相談してみましょう。すぐ参りますから」
彼は奥の事務所に駈け込んで警察に電話した。「レスター・リースと名乗る男ですがね、社会派の作家を自称しています。それが、女優を一人連れて来ていまして、また銀狐のケープを窓から放り出すと言うんです。で、その時、うちのファニー・ギルマイヤー、昨日窓から警官を呼んだ女の子ですが、その子に昨日とまったく同じことをやれと、こうなんですよ。叩き出して構いませんね?」
巡査部長は言った。「ちょっと待って下さい。アクリー部長刑事に繋ぎます」
ややあって、アクリー部長刑事が電話口に出た。ギルバートはもう一度はじめから説明を繰り返した。
アクリーは真剣な声で言った。「構いませんねだと? いいか、やつの気が変わらないようにしろよ。十五分引き止めろ。それだけでいい。十五分だ」
「十五分経ったら、叩き出していいんですね?」ギルバートは不安そうに尋ねた。
「どうとでも勝手にしろ」アクリー部長刑事は胴間声を張り上げた。「言っとくがな、この千載一遇の好機をふいにしてくれたら、俺は……俺は……その店を盗品売買のかどで営業停止処分にするぞ」
ギルバートは店先に戻った。
「それじゃあ、どうぞ」彼は言った。「ただ、ギルマイヤー君に応対させろということでしたら、少々お待ち下さい。今、他のお客さまで手が離せませんから。そちらも、カメラをセットしたり、リハーサルがあったり、いろいろと準備があるでしょう」
レスター・リースは映画界の大御所と呼ばれる監督もかくやと思われる綿密さで一場を演出した。
「いいかね」彼は言った。「昨日のケープは看板の腕木にひっかかって歩道には落ちなかった。でも、それは偶然そうなっただけのことだ。今日は、ケープは間違いなく下まで落ちるだろう。さて、そうするとどうなる? 誰かがひろって逃げちまうか、それとも、正直者が拾って届けてくるか? とにかく、いずれにしろ、そこで起こったことを全部連続写真に撮るんだ」
カメラマンは大型のスタジオ・カメラを据え、すぐ手の届く近くの床にスピード・グラフィックを一台置いた。そして、さらにもう一台のスピード・グラフィックを小型の三脚に乗せた。
「あのねえ」彼はリースに向かって言った。「本番になったら、こっちはもたもたしてられませんからね。邪魔が入らないように、人払いの方を頼みますよ」
レスター・リースはうなずいた。
ギルバートは時計に目をやり、傍の若い女にうなずいた。「それじゃあ、ギルマイヤー君、こっちへ来てくれたまえ。さあどうぞ、いつでもはじめてください」レスター・リースをふり返って彼は言った。
しかし、リースの態勢が整うにはなお十分かかった。
ふいにレスター・リースは言った。「ようし、本番」
ウィニー・ゲイルは窓際に寄り、一瞬|躊躇《ためら》ってから、銀狐のケープを投げ捨てた。ファニー・ギルマイヤーは窓から身を乗り出して警官に救いを求めた。道行く人々は吃驚《びっくり》仰天して一斉に足を止めた。通りを隔てた向かい側では、ラスト・コマーシャル・ビルに職場を持つ勤め人たちが何もかも放り出して窓に走った。カメラマンはカメラからカメラへと飛び移り、床のスピード・グラフィックをひったくるように拾い上げ、窓から大きく乗り出して立て続けにシャッターを切った。
アクリー部長刑事は本署でカーマイケル警部と額を突き合わせていた。デスクには一連の写真が重ねられていた。
「やつは、こっちがこの写真を握ってることを知らないんだな?」カーマイケルが尋ねた。
アクリー部長刑事はうなずいた。「写真屋には因果を含めてありますから」
カーマイケル警部は写真を取り上げ、一枚一枚慎重に調べた。彼はデスクの抽斗《ひきだし》から虫眼鏡を取り出して、一枚の写真の上に翳《かざ》した。「面白い」彼は言った。
「何かわかりますか?」アクリー部長刑事は色めき立ち、カーマイケル警部の後ろへ回って肩越しに写真を覗き込んだ。
警部は写真の一カ所を指先で叩いて言った。「見ろ、ピディコの窓からこっちを見てる連中の顔がはっきりわかる。部屋の奥の方までちゃんと映ってるな。金庫の前に女が一人立っている」
「それはこっちの回し者です」アクリー部長刑事は言った。「その女は大丈夫です。職務忠実ですから。外の騒ぎには見向きもしませんでしたよ。真っ直ぐ金庫のところへ飛んでいって見張っていました。アン・シャーマンていいましてね。この女の目を誤魔化せるやつがいたら会いたいもんですね」
カーマイケル警部は何やら考え込みながら頭の天辺をこすった。「こいつは、ひょっとすると」彼は思い当たる節がある口ぶりで言った。「リースの段取りをぶちこわしたかも知れないぞ」
「どういうことです?」
「やつは、バーニス・レイメンの後釜が警察の回し者だとは知るまい。おそらく、やつは昨日と同じように、一瞬金庫が無防備になると踏んでいたんだ」
「しかし、すでに青写真は盗まれているんですよ」アクリー部長刑事は言った。「今さらもう一度盗む機会をもうけて何になるんです」
カーマイケル警部は口をすぼめて頬を膨《ふく》らませ、ふっと大きく溜息を吐いた。彼の眉がゆっくり寄って渋面を作った。「君、やつの狙いはそこだったんだ。ところが、アン・シャーマンが見張っていて、やつの目論見はまんまとはずれた。そうか、そこに気が付くべきだったよ。わからないのか? 何者かはともかく、青写真を盗んだやつは、そいつをまだ外へ持ち出せずにいるんだぞ。青写真はまだ、建物内のどこかに隠されているんだ。犯人は新しい装置の肝腎|要《かなめ》の機構を頭に叩き込んだ。今、犯人は青写真を金庫に戻そうとしているんだ」
「どうも釈然としませんね」
カーマイケル警部は根気よく説明した。「ジェイスン・ベルヴュウから君に連絡があって、ただちに警察はピディコの社内を隈なく洗った。ところが何の収穫もなかった。ジェイスン・ベルヴュウに、バーニス・レイメンに謝罪してあの女を職場に復帰させるように言え。そうしておいて、レスター・リースを泳がせるんだ」
「泳がせる?」
「そうだ、泳がせるんだ。中国人がどうやって魚を捕《と》るか知っているか、君?」
アクリー部長刑事はむっとして皮肉まじりに言った。「そいつはこの件に関して、もうひとつ私が見逃していた点ですね。エジプト最後の木乃伊《ミイラ》の髪を顕微鏡で調べることもすっかり忘れていましたよ」
カーマイケル警部は腹を立てた。「調子に乗るな」彼は一喝した。「それにしても、君の無学には呆れるな。私が言おうとしたのはだな、東洋には、頸《くび》を縛って、飲み込めないようにした鳥を使って魚を捕る方法があるってことだ。鳥は水に潜って魚を五、六尾捕まえる。ところが飲み込めないから上がって来る。知恵者の中国人はそうやって労せずして生きたままの魚を捕るんだ」
アクリー部長刑事は目を輝かせた。「何ていう鳥です、そいつは?」
カーマイケル警部は眉を顰めた。「たしか、鵜《う》とか言ったな」
アクリー部長刑事は言った。「それはいい。夏の休みに出掛ける湖にその鳥を一羽連れていきたいですね。あそこに、何としても餌を食わない魚がいましてね……」
「今は青写真の話をしているんだ」カーマイケル警部は彼を遮った。「レスター・リースを鵜に仕立てるんだ。やつは盗まれた青写真を銜えて来る。こっちはそいつを吐き出させるんだ」
「その、鵜ってやつは、どんな格好の鳥ですか?」アクリー部長刑事は尋ねた。
カーマイケル警部は重々しく答えた。「ちょっと、ペリカンに似ているな」
アクリー部長刑事は椅子を引いて立ち上がった。「や、わかりました。リースめをペリカンみたいにしてやりましょう」
カーマイケル警部は今一度念を押した。「くれぐれも言っとくがな、やつの頸《くび》に、しっかりと綱を巻くんだぞ。そこが鵜飼いの鵜飼いたるところだ。さもないと、鵜のやつは銜えた魚をみんな飲み込んでしまうからな」
アクリー部長刑事は胸を叩いた。「任しといて下さい、警部」彼は部屋を出たが、すぐにまた戻って来た。「あの、警部。はなはだ素朴な質問なんですが、そのペリカンみたいな鳥ってのは、どこで売ってるんですか?」
カーマイケル警部は厳しく彼を睨みつけた。「中国だ」
レスター・リースはアパート71Bのボタンを押した。ボタンの脇の表札は二人名前だった。元ジェイスン・ベルヴュウの個人秘書バーニス・レイメン。そしてもう一人はミリー・フォスター。
ややあってブザーが鳴り、レスター・リースは階段を二つ上がって目指すアパートに向かった。ノックに応えてドアを開けた若い女は冷静で隙がなく、警戒心を露わに示していた。「何の御用?」彼女は言った。
「バーニス・レイメンさんにお会いしたいんですが」
「レイメンは留守です」
レスター・リースはにこやかな顔付きで、戸口に立った気丈らしい娘を見つめた。「あなたは、フォスターさん?」彼は尋ねた。
「ええ」
「じゃあ、あなたでもいいんですが」
女はあらためてリースを見上げ、その毅然とした態度にやや心を許した様子でもう一度言った。「何の御用?」
「レイメンさんと一緒の部屋に住んでいるところをみると、あなたがた、かなり親しいわけですね?」
「ええ、お友だちです……ずっと前から」
リースは言った。「ぼくは少々ものを書く人間でしてね」
女は吃驚した様子で言った。「新聞記者?」
「いやいや、ほんの駆け出しの作家ですよ。言ってみれば、趣味でしてね」
「そうですか」彼女は訝《いぷか》しげに言った。
リースは愛想よく言った。「あなたのお友だちは、面白くない立場におかれていますね」
「どんなふうに?」
「僕だったら、自分の潔白を証明しますね」
「どうやって?」
リースはいかにも意外そうな声を出した。「どうやってって、もちろん、真犯人を自分の手で追いつめてですよ」
かなりの間、女は戸口に立ったまま何かを思案していた。やがて彼女はにっこり笑った。「あの、どうぞ、お入りになって」衝動的に彼女は言った。「私、バーニス・レイメン。あそこの窓のところにいるのがミリセント。フォスターさん、こちら……ええと、お名前何ておっしゃったかしら?」
「リースです。レスター・リース」
「さあ、どうぞ、お掛け下さい」
リースは勧められた椅子に腰を降ろした。体にぴたりと合った上等なスーツを見て彼女は言った。「とても、売れない作家には見えないわ」
「どういたしまして」リースは言った。「僕の書くものはなかなか面白いよ」
ミリセントが横から言った。「バーニスが言ったのは、そうじゃなくて……」
バーニスは彼女を制した。「いいのよ。この方、冗談のつもりなんだから」彼女はリースに向かって笑って見せた。「売れるか売れないか、それとも無欲なのかなんていうことは別として、あなたはどう見ても作家とは思えないわ。本当のところ、何をしていらっしゃるの?」
「盗難にあった青写真を捜しているのさ」
ミリセントが言った。「今日の午後、また誰かが窓から毛皮のコートを捨てたんですってね」
「あれは僕だよ」リースは事もなげに言った。
「あなたが?」バーニスは頓狂な声を上げた。
リースは挑むような薄笑いを浮かべた。「他に方法はないからね」
バーニスはちらりとミリセントをふり返ってから、膝を乗り出し、きっとしてレスター・リースを見すえた。「こういうことは、はっきりさせておかなくちゃ。じゃあ、今日の午後また窓から毛皮のケープを捨てたのはあなたなの?」
「いや、だから、僕がこの手で捨てたわけじゃあないんだよ」リースは言った。「人を雇ってやらせたんだ。有能な女優でね。で、僕は彼女に独占インタビュウをして、四階の窓から高価な毛皮のケープを捨てる時の気持ちっていうのがどんなものか訊いてみたかったのさ」
二人の若い女は再びちらりと視線を交した。バーニス・レイメンは目立って冷やかな態度になった。「まあ、お気の毒ですけど、あなたのお役に立てそうもないわね」
リースは手にしていた小型のブリーフ・ケースから何枚かの写真を取り出した。「その時の一部始終を撮った連続写真だよ。ほうら、なかなか面白いと思わないかね?」
しばらく躊躇《ためら》ってから、二人の女は首を伸ばして写真を覗き込んだ。リースはポケットから虫眼鏡を出した。
「これで見ると、それはいろいろなことがわかるよ。ほら、これはピディコの窓から覗いている連中だ。君ならほとんどの顔がわかるんじゃないかな、レイメン君」
「虫眼鏡なんかなくてもわかるわ、ほら、これが……」
リースは彼女を制して、鉛筆の先で窓の一画を指した。「ここが、ベルヴュウ社長の個室だね?」
「ええ」
「そこに、若い女が一人立ってるのが見えるだろう。例の金庫っていうのはこの近くかね?」
「ええ、そこが金庫の真ん前だわ」
「で、これがジェイスン・ベルヴュウだね」
「そうよ」
レスター・リースは言った。「こっちに箒を持ってるのがいるね」
彼女は写真に顔を近付けると、いきなりころころと笑い出した。「これ、箒じゃないわ。鉄砲よ」
「ライフル銃かい?」
「ううん」まだ笑いがおさまらずに彼女は言った。「ショットガンなのよ。英雄気取りでいるのはね、フランク・パッカースンっていって社内報『ピディコ・ニューズ』の編集長。彼、クレー射撃に凝ってるの。週末に郊外に射撃に行ったんですって。それで、月曜の朝に帰って来たんだけど、自分のアパートに帰る時間がなくて、会社に銃を持って来て、そのままなのよ。あの人、よくそうするの」
「なるほど」レスター・リースは言った。「で、この写真でも泥棒を見張っているというわけだね?」
「そのようね。事実、昨日は活躍したんですもの。通りの向こうで悲鳴がした時、彼、銃を持って廊下に飛び出したのよ。発明家と、その少し後でベルヴュウ社長が出て来た他は、誰も廊下にいなかったそうよ。ということは、青写真を盗んだのは、明らかに内部の者だってことでしょう。それで……それで……」
「それで?」リースは先を促した。
「しかも、青写真は廊下までも持ち出されていないということだわ。事務所内のどこかに隠されているのよ」
「隠し場所になりそうな部屋はいくつあるね?」
彼女は言った。「私もずっとそれを考えているの。部屋はずらっと並んでいて、全部ドアでつながっているのよ。廊下はオフィスの端から端までずっと続いているの。問題はね、リースさん。廊下を歩いた者も、横切った者もいなかったってことなのよ。それはパッカースンもはっきり言っているわ。慌てて駆けていくとか、そういう不審なことがあればその場で発砲したはずだって」
「だとすれば、青写真は通りに面して窓がある、このずらりと並んだオフィスのどこかに隠されているはずなんだね?」リースは尋ねた。
「そういうことね」
リースは写真をかすめてさっと手をふった。「この写真に映っている範囲内のどこかだね」
「ええ、そうよ」
リースは鉛筆の先で写真を突ついた。「これは?」
彼女は眉を顰めた。「ちょっと、見せて。ぼやけてるわね」
リースは虫眼鏡を差し出した。
「ああ、わかった。ターヴァー・スレイドだわ。四、五日前から会社の帳簿を調べに来てる人よ」
「監査役?」リースは言った。
「そうじゃなくって、州の税務署の人。時々そうやって帳簿を見に来るのよ。誰も相手にしないんだけど。何しろしつこいのよ。忙しい人をつかまえて、どうでもいいようなこまかいことを何だかだってうるさく訊くの。まともに付合ってたら、こっちは仕事にも何もなりゃあしないわ。最近ではね、部屋を一つ提供して、放ったらかしにしておくの」
レスター・リースは言った。「オーバーを着てるみたいだね」
「そう。その人、ちょっと涼しいなと思うような日は必ずオーバーを着るのよ。リューマチじゃないかしら。すごく跛《びっこ》を引いてることがあるわ。でも、次の日はけろっとしてるの」
レスター・リースは手帳を開いて何やら小さく走り書きした。「ちょっと今でた名前を控えておこうと思ってね」彼は断った。「ええと、他にこの写真からわかる名前は?」
リースの鉛筆を取ってバーニス・レイメンは窓に鈴なりの顔を順番に指しながら名前を言った。歩道を見降ろして顔を伏せているために彼女に名前のわからないのは四、五人だけだった。
レスター・リースは大きく伸ばした写真をブリーフ・ケースに戻した。「いや、どうもありがとう、レイメン君。とても参考になった。面白いものが書けそうだよ。『毛皮のケープを窓から捨てる気持』」
「リースさん」ミリー・フォスターが言った。「正直におっしゃって下さらない? 何が目的なの?」
「何がって、人間模様を余すところなく描いた小説を書きたいのさ」
「売れるかどうかもわからない小説の種を集めるために、こんなにお金をかけるなんていう話を、私たちが本気にすると思うの?」
リースはにやりと笑った。
バーニス・レイメンは言った。「私、その話に興味があるわ。写真もすごくよく撮れてると思う」
「そうだろう」リースは我が意を得たりという顔をした。「いいはずだよ。何しろ、七十五ドルかかったんだからね」
ミリセントは言った。「おやすみなさい……サンタ・クロースさんとでも言っておこうかしら」
リースはドアの把手に手をかけてふり返った。「ストッキングを覗いてごらん」彼はそう言い残してそっとアパートを出た。
レスター・リースはペント・ハウスのアパートのドアを開けて言った。「さあ、こっちだ、諸君」
驚いたのは隠密警官である。タクシーの運転手とおぼしき男が五、六人、デスクやタイプライター、回転椅子、書類戸棚、紙屑籠、文房具を入れる小箱など山のような荷物をどやどやと担ぎ込んで来たのだ。
「スカトル」レスター・リースは言った。「済まないが、その隅の椅子をどけてくれないか。ようし、諸君、構わずそこへ降ろしてくれ。……デスクはそこの隅だ。タイプライターはデスクの上に置いて。紙屑籠はタイプライターの脇だな。椅子は当然デスクの前と」
ペントハウスの厚いカーペットを踏み付けて繰り込んで来る不思議な行列を、執事は呆気に取られて眺めていた。男たちが立ち去ると、彼はこまめにあちこち動きまわって家具のほこりを払った。
「秘書をお雇いになるんでございますか?」
レスター・リースは馬鹿なことを訊くなと言わんばかりの目つきで執事を見た。「スカトル、これから仕事にかかるぞ」
「お仕事?」
「ああ。作品を書くんだ。物事の裏に隠された重大な意味を抉り出すようなやつをね。一流の作家になってみせるぞ」
「そうでございますか、旦那さま。すると、長編小説をお書きになるんでございますね?」
「ノンフィクションだよ、スカトル。多少はめりはりを付けて脚色を加えるがね。例えばだ、スカトル。窓から三百五十ドルばらまいたらどんな気持がすると思う?」
「さあ、それは、私には想像いたしかねますですが」
「でも、どんな気持だか、知ってみたいとは思うだろう」
「そうでございますね……ああ……もちろん、旦那さまがそうおっしゃることでございますから、はい、知ってみとう存じます」
「それだよ、まさに」リースは言った。「今日、ある女が三百五十ドルの毛皮のケープを窓から捨てた。その女はどんな気持がしたか。その時、女は何を思ったか。私は本人から、その女の胸の一番奥深くにあることをすっかり聞いたんだよ。それを一気に書き上げるんだ、スカトル。私の指先から紙の上に言葉が奔る。さながら眼前に見るごとくに場面は展開する。作品は古典として後世に長く残るんだ」
レスター・リースはコートを脱ぎ捨てて執事に渡した。「掛けておいてくれ、スカトル」
リースは椅子をぐいと引いてタイプライターに向かい、白紙を一枚ローラーに挟んだ。
「それにしましても、どうしてタクシーなどで荷物をお運びになったんでございます?」隠密警官は何とか情報を引き出そうと必死の努力を試みた。
リースは顔も上げずに言った。「邪魔しないでくれ、スカトル。考えているんだ。……どうしてタクシーで運んだかって? それは、つまり、もうどこも店が閉まっていて、安物ばかりの店が集まっているところで中古を買うしかなかったからさ。あの辺の小さな店は配達しないんだ。タクシー六台。ちょいと壮観だったよ、あの行列は。さあてと、書き出しはどうするかな。一人称がいいな。ああ、そうだ、題はこうだ。『金を投げ捨てること。レスター・リース記すところのウィニー・ゲイル聞き書き』」
レスター・リースは散々苦労してタイプライターを叩き、題と署名を打ち終えて椅子を下げ、まっ白な紙をじっと睨んだ。
「さあ、書き出しはと。こう打つと……『私は、毛皮のケープを窓から捨てた』いや、これはどうもまずいな。もっと劇的に行かなきゃあ。ええと……『私は女店員が差し出した毛皮のケーブをはおってみた。私にぴったりだった。艶のある毛皮の柔らかく豪華な手触りは快かった。私はそれを窓から捨てた』」
レスター・リースは首を傾けて執事の顔色を窺った。
「どうかね。スカトル?」
「大変結構でございます、旦那さま」
「ちっともいいと思ってないじゃないか。顔に書いてあるぞ、スカトル。全然つまらないっていう顔だ」
「はい、旦那さま。言わせていただけるんでございましたら、それではどうにも、なっておりませんです」
「そうだな」レスター・リースはうなずいた。「もっと、こう、雰囲気がなきゃあまずいな」
彼は椅子を引き、チョッキの袖ぐりに両の親指をかけてしばらくじっとタイプライターのキーを見つめていたが、やがて立ち上がって部屋の中を行きつ戻りつしはじめた。「なあ、スカトル。作家っていうのは、どうやると文章がひらめくんだ?」
「さあ、そういうことになりますと、私はどうも……」
「漠然と考えてた時には造作もないことのように思えたがね、それが、いざ実際に書くとなると……『私はそれを窓から捨てた』じゃあどうにもさまにならない。かと言って、他に言い方はないからなあ。まあ、スカトル、とにかくやるさ。有名な作家だって、ただ坐ってすらすら書くわけじゃない。考えに考えを重ねて文章を推敲してずいぶん苦労するって話をどこかで読んだ憶えがあるよ」
「そういうものでございますか」
「それに」レスター・リースは言った。「私の狙いは今までにない新しい角度から書くことでもあるし」
リースは再びタイプライターの前に坐り、ぽつりぽつりと文字を打ちはじめた。隠密警官は取り入るように彼の傍を離れなかった。
「起きてることはないぞ、スカトル。たぶん徹夜になるから」
「ハイボールか何かお持ちいたしましょうか……」
「いらないよ、スカトル。仕事だからね」
「わかりました、旦那さま。もし、よろしければ、私ちょっと外の空気を吸ってまいろうかと存じますんですが」
「ああいいよ、スカトル。行ってこいよ」リースはタイプライターから顔も上げずに言った。
隠密警官は角の雑貨屋から警察に電話をかけて、アクリー部長刑事を呼び出した。
「ビーヴァー」アクリーは高飛車に尋ねた。「さっきそっちへ行ったタクシーの行列は何だ?」
隠密警官は言った。「やつは作家を志してるんですよ。何でも話がひらめいたとかで、早速取りかかったところです。タイプライターだの、書類戸棚だの、中古のがらくたを山と買い込みましてね、そいつをタクシーで運ばせたんですよ」
アクリー部長刑事は唸った。「やつは人をからかってるのか、何か企んでるのか、どうもその辺のところがよくわからん」
アクリーはまた唸った。
ピディコのオフィスにはどことなく張りつめた空気が漂っていた。一見、通常の業務が流れるように進められているようではあったけれども、そっと交わされる視線や、洗面所のひそひそ話に示される通り、何か重苦しいものが社内全体を覆っていた。
社内報『ピディコ・ニューズ』の編集長フランク・パッカースンは自室に坐って、鉛筆で当てもなく紙の模様をなぞっていた。
インターフォンのブザーが鳴った。パッカースンは反射的に通話のスイッチを押した。受付嬢の声が言った。
「作家だとおっしゃる方がおみえですが、『ピディコ・ニューズ』に五百ドルで原稿をお売りになりたいそうなんです」
パッカースンは仰天した。「五百ドルで、原稿を?」
「ええ」
「原稿は買わないと言ってくれ。記事は全部うちで書くんだから。第一会社は一号分全部の予算だって五百ドルなんて使わせちゃあくれないんだ」
「ええ、パッカースンさん、そうお答えしたんですけど、とにかく会わせろって。銃もお売りになりたいそうなんです」
「銃?」
「ええ、そうです」
パッカースンは興味を覚えた。「どんな銃だ?」
「本物のイサボアの二連銃で、十五ドルでお譲りになりたいそうです」
「本物のイサボア?」パッカースンは大声を発した。「十五ドルだ?」
「ええ、そうです」
銃きちがいのパッカースンにとって、野球狂がワールド・シリーズの招待券をいらないと言えないのと同じように、この取り引きの誘惑は抗し難かった。
「通してくれ」
パッカースンは、みすぼらしい服を着て、髭はぼうぼう、目をぎらぎら光らせているような男が入って来るものと思っていた。案に相違して、現れた男は紳士然とした上等な身なりで右手にブリーフ・ケースを提げ、左肩にケースに入れた銃を二挺担いでいた。
たちまち警戒してパッカースンは言った。「失礼だが、見ず知らずの相手から銃を買うわけには行かないもんでね、その銃の来歴を聞かせてもらいたいんだ」
「ああ、いいですとも」レスター・リースは言った。「譲渡証書も付けますよ」
「譲渡証書はもちろんだがね、それより、おたく自身のことを少し知りたいねえ。いくらで譲るって?……本物のイサボアの二連銃にしちゃあ、全然おかしいじゃないか」
レスター・リースは笑った。「六十ドルにしましょうか?」
パッカースンはかっとした。「妥当な値段ならもう一挺買ってもいいと思うがね。まさかおたくのような初対面の上流紳士から買おうとは夢にも思ってはいなかったよ。しかも、どうやら二挺も売りたい様子じゃないか。私はこの通りの身分でね、ええと……」
「リースです」来訪者は言った。
「ああ。私の身分は察しが付くだろう」
レスター・リースは笑った。「実を言いますとね、パッカースンさん。私が只同然でこのイサボアを手放そうと言うのは、こいつで撃つとき、からきし当たらないからなんですよ。私、ベタービルトも一挺持っているんですが、これはもう、撃ちさえすれば当たるってやつで」
パッカースンは首をふった。「ベタービルトはどうもね。やっぱり、イサボアの二連銃がいいよ。床尾のあまり下がってないやつが」
リースは言った。「これならきっと気に入りますよ」彼は一方のケースを開いた。パッカースンはまず銃をざっとあらため、組み立ててロックを確かめ、一、二度肩にあてがってから、どうも腑に落ちないという顔でリースに向き直った。
「いくらで譲りたいって?」
「十五ドル」
パッカースンはうさんくさそうにリースの顔を覗き込んだ。
「私の銀行に電話して、身許を確かめて下さっても構いませんよ」リースは言った。
パッカースンは言った。「これの新品がいくらだか、知ってるんだろうね」
「もちろん」
「じゃ、どうしてまた、十五ドルで?」
リースはやや躊躇《ためら》ってから、きっぱりと言った。「いいでしょう。正直に言いますよ、パッカースンさん。ほんの僅かですがね、銃身がふくらんでるように思うんですよ。部屋の中じゃあわかりませんけど、窓際へ持って行って日光に透かしてみると、微かに影になって妙な線が出るんですよ」
パッカースンは窓際に寄り、銃身へ陽を当てて仔細にあらためた。レスター・リースはパッカースンのデスクに坐ったままタバコをふかしていた。
一分ほど銃をためつすがめつしてから、パッカースンはデスクに戻って言った。「どうも、そうは思えないがね……いや、多少ふくらんでいるかも知れない。しかし、それにしても十五ドルは安いねえ」
リースは言った。「いや、白状しますとね、パッカースンさん。こいつを安く持ち掛ければ、原稿を見てもらえると思ったんですよ。私は……」
パッカースンは断固として首を横にふった。「うちは外からの原稿は一切買わないんだ」
リースはもったいぶって言った。「そうですか。そういうことであれば、どこか別の編集者にその銃を見てもらいましょう」
パッカースンは顔面に朱を注いだ。「そういう魂胆だったのか。イサボアを本来の十分の一の値段で売り付けておいて、それを餌に原稿を五百ドルで買わせる気だったんだな。この悪党め。出てけ! 銃を持って、さっさと帰れ、俺を何だと思ってるんだ? 袖の下を受け取るようなけちなやつだと思うのか!」
レスター・リースは精一杯しかつめらしい態度でブリーフ・レースを取り上げ、二挺の銃のケースを肩にして立ち上がった。フランク・パッカースンは戸口まで彼を追って罵声を浴びせた。
レスター・リースがエレベーターを降りると、ちょうどバーニス・レイメンがバスを降り、ラスト・コマーシャル・ビルの玄関に向かってつかつかとやって来るところだった。彼は待っていた。やがてレイメンの方でも彼に気付いた。
彼女は吃驚して足を止めて彼を見上げた。「こんなところで何してらっしゃるの?」彼女は大きな声で言った。
リースは言った。「何だか嬉しそうだね」
「そうよ。それにしても、兵隊さん、鉄砲担いでどちらへ?」
リースは言った。「僕は失意のどん底だよ」
「どうして? 何かあったの?」
「散々苦労して仕上げた作品だよ。それが、没なんだ」
「どこへ持っていったの?」
「『ピディコ・ニューズ』だよ。フランク・パッカースンは見向きもしないんだ」
「それは駄目よ」彼女は言った。「外から原稿を買う予算なんてないんですもの」
リースは言った。「金が欲しくて書いたんじゃない。自分の名前を活字にしてみたかったんだ」
彼女は形よく弧を描いた眉を一つに寄せて不思議そうにリースの顔を見た。「あなた、真面目なの?」
「これほど真面目になったのは生まれてはじめてだよ。いや、僕の問題はこれくらいにしておこう。君は何でまた、そんなに嬉しそうな顔をしてるんだ?」
彼女は言った。「さっきジェイスン・ベルヴュウが自分で謝って来たの。で、また仕事に戻れって」
「青天白日の身になったってこと?」
「そうねえ、少なくとも、元通り仕事だけはさせてやろうってことらしいわ」
リースは浮かぬ顔で言った。「そいつは手放しで喜べる話でもないね」
「私はお給料をもらわなきゃあ他に生きる道はないのよ。しかも、ああやってあまり芳しくない状態で辞めされられた後では、どこへ行っても雇ってくれないんですもの。喜ばずにはいられないわ」
「そんなにひどかったのかい?」リースは尋ねた。
「そう。ひどいなんてもんじゃないわ」
「そうか。じゃあ、ここは一杯やらなきゃあね」リースは言った。「君のお祝いと、僕の再起のために」
「私、仕事があるのよ」
リースは言った。「とんでもない。間違っても、のこのこ会社へ顔なんか出すんじゃないよ」
「どういう意味?」
「君には意地ってものがないのか? ずいぶんひどい目に遭わされたんじゃないのか。探偵事務所に連れ込まれたり、痛くもない腹を探られたりさ、警察まで出しゃばって来て、君を散々苦しめたんだろう。濡衣を着せられて、会社の同僚からは白い目で見られて。そんな厭な思いをさせられていながら、連中がおいでって言やあ、君は尻尾をふって出て行くのかい?」
「いいじゃない」
「よくないね。君はもっと毅然とするべきだよ。会社に襟を正させてやれよ。公開謝罪と、名誉毀損をはじめその他諸々の精神的苦痛に対して賠償を要求するんだ」
「私はそんなふうに|できて《ビルト》ないのよ」
リースは目利きするように彼女を見つめた。「どうしてどうして、君はいい体《ビルト》をしているよ」
彼女は頬を赤らめて笑った。「リースさん。原稿が没になったことは本当にお気の毒だったわ。でも、私、こんなところでおしゃべりしてるわけには行かないの。仕事があるんですもの」
リースは路肩に駐めてある彼の車を指さした。「三十分ばかり、いいだろう。ほんの一杯だけ」
彼女は迷った。
「それに、僕にジェイスン・ベルヴュウと掛け合わさせてくれれば」彼は言った。「ピディコの全社員の前で君に頭を下げさせてみせるよ」
彼女は言った。「そんなことができたら素敵だと思うけど、でも、それは、贅沢ってものだわ。ベルヴュウはそんなことをするぐらいなら死んだ方がいいって言うわよ」
リースは言った。「何か飲みながら話そうよ。素晴らしく香りのいいコーヒーを飲ませる店を知ってるんだ。ブランデーとシナモンとオレンジを使ってね……さあ、行こう。そこで話そうよ」
「じゃあ、ちょっとだけよ」
十五分後、二人はとあるレストランのテーブルで、ウェイターが慣れた手付きで材料を混ぜ合わせるのを眺めていた。ブランデーの青い炎が芳しい香を放ちながらボウルのまわりに丸く拡がった。ウェイターは銀の長い杓でボウルの中身をかきまぜた。やがて、ふくよかな香のコーヒーを二つカップに注いでウェイターがそっと引き取ると、リースは言った。「ともかく、ジェイスン・ベルヴュウに電話しよう」
「何て言うつもり?」
リースは言った。「君に対して大変な非礼を働いたということ。公開謝罪した上で君に一万ドル払わなければ君は仕事に戻らないこと。その後、多少のかけひきで、五千ドルまで譲歩するんだ」
「あなたが電話して、五秒後に私は馘《くび》だわ」
リースはポケットからおもむろに紙入れを取り出して百ドル札を十枚抜き、きちんと重ねてテーブルに置いた。「ここに千ドルある」彼は言った。「つまり、そういう結果にはならないのさ」
彼女はその金を見つめ、それから目を上げて彼の顔を覗き込んだ。「あなたみたいな不思議な人、はじめてだわ」
「お世辞にしても嬉しいね」リースは会釈した。「何しろ、この通りの没個性の時代だからね。いくらか気が変だと言われたとしても、ひと味違うっていうのはいいことだ」
「いくらかなんていうものじゃないわ」彼女は笑って言い返した。「あなた、本当に真面目なの?」
答える代わりに、リースはウェイターを手招きした。「電話を貸してくれ」
ウェイターは延長コードのついた受話器を運び、テーブルのジャックに差し込んだ。レスター・リースは手帳を見て即座にダイヤルを回した。
バーニス・レイメンは心配そうに彼のすることを眺めていた。
「もしもし」リースは言った。「ジェイスン・ベルヴュウ氏をお願いします。青写真の件だと言って下さい」
ジェイスン・ベルヴュウが電話に出るのを待っているリースに向かってバーニス・レイメンは言った。「十分もすれば、私、あなたにこんなことをさせる気についなってしまったことを、魔がさしたと後悔するでしょうね。私としては一生の不覚よ。どうして止めさせなかったんだんだろうなんて考えながら、町中を歩きまわることになるわね、きっと。でも、今この瞬間には、私、何だかわくわくしているの……それに……」
底力のある男の声が回線を伝わって来た。「ああ、ベルヴュウだが。青写真の件がどうこうというのは?」
レスター・リースは丁寧な口ぶりで言った。「レイメンさんのことで、お話しがあるんですがね」
「あの女がどうした?」
リースは言った。「あなたは、彼女を傷付けましたね。彼女にあらぬ疑いをかけて、非常に屈辱的な思いを強いたんですよ。どうやら、今となって、あなたは……」
「何者だ、いったい?」ベルヴュウは受話器が砕けるのではないかと思われる声で激しく言った。
「レスター・リースと申します」
「弁護士か?」
「いや」リースは言った。「知り合いの者ですよ。こういうことは申し上げたくありませんが……」
「弁護士でもない者が、何の用だって言うんだ?」
リースは言った。「私、金貸しですよ」
「何?」
「金貸しです。いろいろな仕事に元手を用立てているんですよ。今、レイメンさんのあなたに対する賠償請求のことで相談に乗っているところでしてね。弁護士を雇うような話にはしたくないんですが」
「弁護士を百人でも雇うがいいさ」ベルビュウは怒鳴った。
「そうですか」リースは言った。「ただし、こちらからうまく折合いを付けようとお話ししたことはお忘れにならないようにお願いしますよ。そちらはそちらの弁護士さんの意見をお訊きになった方がいいんじゃあないかと思いますがね」
「脅しには乗らん」ベルヴュウは言った。
「どうぞお好きなように」リースは言った。「おたくの会社が十万ドルの訴訟に巻き込まれて、弁護士が勝ち目はないと言ってから、裁判沙汰は避けられたのになんて言っても後のまつりですよ。ピディコの株主たちにこのことが知れたら」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。話を聞いてみなきゃあ何とも言えんじゃないか。そっちの要求は?」
「一万ドルで手を打ちましょう」
「そうか、お断りだ。それを聞いて気が楽になったよ。強請《ゆすり》にも|ほど《ヽヽ》ってものがある。一万は法外だぞ」
「それはあなたのお考えでしょう」
ベルヴュウは言った。「考えじゃない。事実だ。わかったか」
回線の向こうで乱暴に電話を切る音がはっきりと聞こえた。
バーニス・レイメンは溜息を吐いた。「こうなることはわかってたわ」
レスター・リースは百ドル札を十枚取り上げ、それを彼女の皿の下に押し込んだ。「いいかね、うまく話が付かなかったら、これは君のものだ」
「駄目よ。こんなお金、受け取るわけには行かないわ。でも、私たちの敗けね。あの人、もう決心してるわ。これは賭けだったのよ。私たち、敗けたんだわ」
リースはにやりと笑った。「というわけで、ひとまずこのいい匂いのコーヒーをお代わりしようか。君はもう会社へ行くことはないんだからね」
彼女の目に涙があふれた。彼女は瞬《まばたき》してそれを払うと、ふっと笑って言った。「でも、まあ面白かったわ。その最中はね」
リースは言った。「まあ、そう悲観したものでもないよ。今のところ、こっちの思惑通りに事は進んでいるんだ」
「じゃあ、向こうが示談を蹴ることはわかっていたって言うの?」
リースはうなずいた。
「じゃあ、どうして電話したの」
「向こうは考えて、弁護士に相談するよ。コーヒーをもう一杯飲んだらもう一度電話するんだ。話はそれからだよ」
二人は四方山話をしながら二杯目のコーヒーを飲み、ブランディ・ベネディクティーンを飲んだ。しばらくの後、リースは再びジェイスン・ベルヴュウの番号を回して、態度の大きい精密機械会社の社長を呼び出した。今度は、ベルヴュウは用心深かった。「いいかね、リース。弁護士のところへ行くまでもないんではないかね。私もいろいろと考えてみたがねえ。確かに、レイメン君にはそれなりのことをしなくちゃあいかんと思うよ。……ただ、一万ドルというのは、君、これは問題にならん」
「彼女は謝罪を要求しています」リースは言った。「おたくの全従業員の前で謝罪してもらえますか」
ベルヴュウは一瞬答えに窮した。「それは、できないこともないが」彼は一歩譲った。
「それから」リースはたたみこんだ。「彼女は一万ドル現金でほしいと言っています」
「ちょっと待ってくれ」ベルヴュウは言った。電話の向こうでひそひそと相談する声がリースの耳に伝わって来た。
「ああ、二千五百ドルではどうだろう」ベルヴュウが言った。
「お話しになりませんね」リースは言った。「一万ドル出してもらえないなら、この話しはなかったことにしましょう。この電話が済んだら、私はその足で弁護士に会いに行きます。私個人としても、彼女は充分に報われて然るべきだと思いますね。おたくは……」
「ちょっと待ってくれ」ベルヴュウは言った。
彼らはもはや電話口の相談を隠そうともしなかった。低い声のやりとりが聞こえてきた。
「バーニス・レイメンをここへ寄越したまえ」ベルヴュウは命令口調で言った。
リースは笑った。「それは駄目です。一万ドル払うという返事を聞いた上でなければ、彼女を会わすわけには行きません。それが厭なら、弁護士と相談することですね」
短い沈黙が流れた。やがてベルヴュウの押し殺した声が聞こえた。明らかに傍の誰かに話しかけていた。「一万ドルでなきゃあ御破算だと。とんでもない話だ。どうする?」
相手は低い声で何やら提案した。ベルヴュウは電話に向かってそれを繰り返した。「ようし、手の内を明かそう。ここに弁護士がいるんだ。今この件を話しあった。そっちが裁判に持ち込む気ならそれもいい。あるいは、その必要はないかも知れない。金でかたが付くことなら、こっちとしては、五千ドル出す用意がある」
レスター・リースは受話器に向かってにっこり笑った。「どうやら、裁判沙汰は避けられたようですね」彼は言った。
「結構。レイメン君に、すぐこっちへ来るように言ってくれ」
レスター・リースは電話を切ると、手を伸ばしてバーニス・レイメンの皿の下から千ドルを引き上げた。
彼女は信じられない顔つきで、目を丸くしてリースを見た。「じゃあ……」
リースは言った。「なかなか大変かも知れないけど、でも、それだけの顔と体を持ってるんだから、ハリウッドへ行ってスクリーン・テストだけでも受けてみたらどうかね。女の子一人、五千ドルあったらかなりいろいろなことができるよ」
カーマイケル警部が朝刊のスポーツ欄を拡げて葉巻を楽しんでいるところへ、ボール紙の紙ばさみを抱えてアクリー部長刑事がやって来た。
「今度は何だ?」カーマイケルはいまいましげに顔を上げた。
アクリー部長刑事はデスクを隔てて警部の前に腰を降ろした。「まったく、リースってやつは」彼は吐き捨てるように言った。
「やつがどうした?」
「ビーヴァーから連絡があったんですよ。リースのやつが私宛に手紙を書いたって言うんです。で、ビーヴァーは、リースがそいつに署名して投函する前に、中身を伝えておいた方がいいと判断したわけです」
カーマイケル警部は目を輝かせた。「告白か?」
「まあ、聞いて下さい」アクリー部長刑事は言った。「そうすりゃあわかりますよ」
アクリーは紙ばさみを開き、カーボン紙で複写した手紙を大きな声で読み上げた。
拝啓部長刑事殿。高名な作家の直筆原稿は時として途方もない値段を付けられるものであります。いつの日か、拙作が好事の蒐集家にとって数千ドルの価値を持つに至るであろうと申しては、けだし自惚《うぬぼれ》でありましょう。とはいえ、エドガー・アラン・ポー、ロバート・ルイス・スティーヴンスンをはじめとする多くの過去の泰斗もまた、同じ気持ちでおのが原稿を打ち眺めたでありましょう。
部長刑事殿。この原稿は出版社が刊行を拒否したものであります。そして、その事実は、原稿の価値を一層高からしめるものであります。それはさておき、我々の友情の証として、かつまた、法と秩序を守るための貴殿の熱心な御尽力に対する小生の尊敬のささやかなしるしとして、これを御受納下されば幸甚に存じます。貴殿の熱意故に小生、自由を束縛されることひとかたならずではありますけれども。
アクリー部長刑事は顔を上げた。「どうです、警部」彼は言った。「これをどう思います?」
「なんとも思わんね」カーマイケル警部は言った。
「そうでしょう。私も同じ気持ちでした。ところが、やつはビーヴァーに明日これを投函しろって言ってるんです。ビーヴァーが気をきかせて、今日のうちに知らせて来たんですよ」
「何だ、その原稿ってのは?」カーマイケルは尋ねた。
「紙屑の山ですよ」
「読んだのか?」
「まあ、ざっと目を通しただけですが」
カーマイケルは原稿に手を伸ばした。「これはコピーか?」
「ええ」
「どうして?」
「手紙は明日投函しろってわけでしょう。オリジナルはまだやつが持ってるんですよ」
カーマイケル警部は不快なものを見るような顔でカーボン・コピーに目を走らせた。「こいつを君に送ると言うからには、何かわけがあるはずだな」
「例によって私をからかおうというだけのことですよ」
カーマイケル警部は眉をひそめて葉巻の火を見つめた。
「そいつはどうかな、君。ひょっとすると、リースのやつは魚を銜え込んで、君に犯人の見当を教えようとしてるのかも知れんぞ」
「どうしてやつがそんなことをするんです?」
「つまりだな、今回の事件はこれまで我々が扱って来た犯罪とは少々わけが違う。こいつは、下手をすると国事犯にもなりかねない。リースは売国奴をかばうようなやつじゃないぞ、君」
「やつは盗っ人の獲物を乗っ取ることしか興味はありませんよ」
「君は、最後まで目を通したのか?」カーマイケルは尋ねた。
アクリー部長刑事はチョッキのポケットから葉巻を取り出してうなずいた。
カーマイケルはぱらぱらとページを繰った。と、突然、彼は言った。「待てよ。何だ、これは?」
「どこです?」アクリーは首を伸ばした。
「五ページ目だ」カーマイケルは言った。「こんなことが書いてある」
青写真一式の隠し場所である。どこでもいいというわけには行かない。長い、中空の筒が必要なのだ。ところが、そんな筒はそれ自体、なかなか隠すことがむずかしい。
「ふん」アクリーは鼻を鳴らした。「それがどうかしましたか?」
カーマイケル警部の顔に興奮の色が浮かんだ。「ちょっと待て!」彼は叫んだ。「こいつは次の段落へ持って行く、ただの前置きだ。ここを聞いてみろ」
私の雇った女優が警官を呼ぶ悲鳴を上げはじめてすぐ、私は一人の男が銃を取り上げたことに気付いた。男はピディコのオフィスの、金庫のある一室の戸口に立っていた。ショットガンとは面白い。
カーマイケル警部は顔を上げた。「どうだ、わかったか?」
「何がです?」アクリー部長刑事は言った。
「ショットガンだ!」カーマイケルは叫んだ。
アクリー部長刑事は言った。「ああ、あれですか。あれは、『ピディコ・ニューズ』という社内報の編集長で、フランク・パッカースンっていうのが、クレー射撃に凝っていましてね、それで……」
「原稿には写真がついてるのか?」カーマイケルは尋ねた。
「前に見たのと同じやつですよ。別にどうってことはありません」
「ショットガンだ!」カーマイケルは怒鳴った。「わからないのか、君は。馬鹿者。ショットガンだ!」
「ショットガンがどうかしましたか?」
カーマイケル警部は椅子を押し下げた。その声は、彼が今にも喚き出したいのを非常な努力で堪えていることを物語っていた。「レスター・リースは、明日、こいつを君に読ませるつもりだった。それを君は、こうやって二十四時間前に読んでいるわけだ。リースはこの原稿で君に、例の青写真を盗んだ犯人を教えようとしたんだ。それまでにリースはその青写真を巻上げて足跡を消す予定だった。自分が尻尾をつかまれないようにな。ビーヴァーという有能な男の機転のおかげで、君は二十四時間前にこれを読むことができたんだ。それなのに、君は、この意味を理解するだけの頭もないのか」
アクリー部長刑事はいくらか深刻な顔になった。「つまり」彼は尋ねた。「どういうことです」
カーマイケル警部は立ち上がった。「パトカーを呼べ。俺が教えてやる」
フランク・パッカースンはインターフォンのスイッチを押した。受付の声がした。「警察の方が二人おみえですが」
パッカースンはにっこり笑った。「お通ししてくれ」
カーマイケル警部が話をした。「我々は例の青写真の捜査に当たっている者だがね、パッカースン。犯人は前もって実に巧妙な隠し場所を用意していたに違いない。金庫から青写真を取り出して、そこへ隠すのに、ほんの一、二秒あれば充分という場所だ。言い換えるとだな」カーマイケルは言葉を続けた。「我々の推論ではだ、犯人は実に巧妙にそれを準備したがために、それはすぐ目の前にありながら、誰もそこを見ようとさえしなかった隠し場所ということになる。青写真を押し込むことができる場所。長くて、すべすべした、細い筒状ものだな。しかも、その筒は、後で怪しまれることなく建物から持ち出せるものでなくてはならないわけだ」
パッカースンはもはや笑いを浮かべてはいなかった。
「誰かがショットガンを持っていたとしたらどうだろう」カーマイケルはさらに続けた。「泥棒を見張るふりをして、金庫の前に立っていれば、人は当然、ショットガンは武器だと思うだろう……青写真の容れ物とは思うまいな」
パッカースンは顔を真っ赤にした。額には細い汗の粒が浮いていた。彼は咳払いしていった。「何を言おうとしておいでなのか、よくわかりませんね、警部さん。私について言えば、たまたま私は銃を一挺持っています。誰かが警官に助けを求める声を聞いて、当然私は銃を手に取りました。警部さんがおっしゃりたいのは……」
「君はその銃身に青写真を押し込んだと言うことだ」カーマイケル警部は言った。
「違う! それは違います。誓って言います。私はそんなことはしていない!」
カーマイケル警部はひきさがらなかった。「いいや、お前の仕業だ、パッカースン。お前は銃を両手に構えて金庫の前に立っていた。まわりの者は皆、お前は会社の財産を守ろうとしてそこにいるんだと思った。誰一人として、まさかお前が……」
「何度言ったらわかるんです、私じゃありません。私は……」
カーマイケル警部は立ち上がった。「お前の銃を見せてもらおう、パッカースン」
パッカースンは椅子を下げて、デスクの後ろに立てかけてあった銃を抱え込んだ。「断る」彼は気色ばんでいった。「この銃は私の持ち物だ。捜査令状がなきゃあ見せるわけには行かない」
アクリー部長刑事が掴みかかるような勢いでずいと前に進み出た。
パッカースンは飛びすさって、棍棒のように銃を握って身構えた。「傍へ寄るな」彼は叫んだ。
「脳天を叩きわるぞ」
目の前に突き付けられたカーマイケル警部のリボルバーの黒い銃口を見て、彼はふいに口をつぐんだ。
「そいつを置け」カーマイケルが言った。
パッカースンはやや躊躇ってから銃を捨てた。膝ががくりと折れた。彼は床にうずくまり、両手で顔をおおって嗚咽《おえつ》した。「ああ、もう駄目だ」
「青写真はそこにあるのか?」カーマイケル警部が尋ねた。
パッカースンはかぶりをふった。「引き換えに受け取った金が入ってるんです」
カーマイケル警部はアクリー部長刑事と意味ありげに視線を交わした。「誰から金をもらった、パッカースン?」
「ギルバートです、毛皮商の」
「すべてはあの男の計画か?」カーマイケルは詰め寄った。
「あいつとファニー・ギルマイヤーです。客なんぞは誰もいやしません。ファニーは窓からこっちの様子を窺ってたんです。部屋に人気がなくなって、私が誰にも見とがめられずに青写真を持ち出せる隙を狙って、あの女が窓からケープを放り出して警官に助けを求めたんです。私はショットガンを持って金庫に駆け付けました。で、青写真を銃身に押し込んで、そいつを肩に担いで立っていたんです」
「青写真はどこだ?」
「ギルバートに渡しました。ゆうべ銃を持って守衛の前を通って出たんです」
カーマイケルは眉をひそめた。「で、今日またその銃を持って来たって言うのか」
「ええ」
「どうして?」
「わかりませんか?」パッカースンは言った。「青写真と引き換えにもらった金は三万ドルですよ。全部五十ドル札です。自宅に金を置いときたくないし、身に付けているのも具合が悪いもんで、そこで、金をちょうど銃身に入る太さに丸めて、中へ押し込んだんです。そうすれば、いつも金を身近に置いておけるし、万一手が回っても、そいつを持って高飛びできると思ったんですよ」
カーマイケルは低く口笛を鳴らした。「じゃあ、その銃の中に、三万ドル入ってるのか?」
パッカースンはうなずいた。
カーマイケルはデスクの脇をまわり、屈み込んで銃を拾い上げ、銃身を折った。
アクリー部長が思わず口走った。「金なんぞありゃしないじゃないか」
カーマイケル警部は彼の向こう臑《ずね》を蹴りつけた。パッカースンは弾けるように立ち上がった。
「金はないだって?」彼は銃をひったくり、信じられない顔つきでそれを見つめた。「こ、これは、私の銃じゃない!」
カーマイケル警部はアクリー部長刑事の脇腹を小突いた。
「これは私の銃じゃない」パッカースンは繰り返した。「メーカーも型も同じですが、でも、私のは擦った傷があるし……」彼の声は力なく跡切れた。
「それで、どうした」アクリー部長刑事が言った。
パッカースンの顔にずるそうな笑いがじわじわと拡がった。「へへえ」彼は言った。「今のはちょっとした芝居でね」
「何だと?」アクリーは詰めよった。
「もちろん、こいつは私の銃ですよ」パッカースンは言った。「青写真なんて、私は見たこともありゃしません。ただ、おたくたちがあんまり自信たっぷりなもんでね、ちょっと調子を合わせてみようって言う気になったんですよ」
カーマイケル警部は言った。「お前、なかなか回転が速いな、パッカースン」
アクリー部長刑事はきょとんとして警部をふり返った。「何が何だか、さっぱりわけがわかりませんよ、警部」
カーマイケル警部はポケットから手錠を取り出して言った。「さっき君がそのだらしない口を閉じて、金がないなんて言わなければ、こいつは全部吐いていたに違いないんだ。まあ、しようがない。これからすぐにギルバートと女店員を追っかければ、まだ青写真は取り戻せるだろう。金については……いや、これもまだ大丈夫だな。こっちの行動が早ければだ。二十四時間前に例の原稿が手に入ったおかげだぞ。どうだ、これでわかったか、この馬鹿者めが」
アクリー部長刑事は焦点の定まらない目でカーマイケル警部の顔を見つめた。「じゃあ……レスター・リースが……ここへ来て……銃をすり替えて……」
「その通り」カーマイケル警部は言った。「さあ、行くぞ。まず、ギルバートからだ」
バーニス・レイメンはレスター・リースと一緒に最後の飲物を終えようとしていた。リースの横顔を見上げる彼女の目には尊敬と思慕の色が浮かんでいた。「本当に何とお礼を言ったらいいかしら。私……」
窓際に立っていたボーイの一人がテーブルにやって来て、そっとレスター・リースに耳打ちした。「あの、お客さま。お客さまの車のナンバーはXL552じゃあありませんか?」
リースは目を細くした。「ああ、私のナンバーだが」
「どうも、駐車違反らしいですよ。お巡りらしいのが二人、さっきからうろついていましたが、今、外のパトカーにいます。お客さまが出ていかれるのを待ってるんですよ、きっと」
レスター・リースは無造作にポケットから札束を取り出し、十ドル札を一枚抜いてボーイの手に押し付けた。「いや、どうもありがとう。違反チケットを二枚ばかり破って捨てたもんでね。今度こそ掴まえたと思ってるんだろう。ああ、そうだ。ここにあるような紙ナプキンを百枚ばかりもらえないかね」
ボーイは手にした十ドルをしげしげと眺めた。「いやあ、これはどうも、紙ナプキンですね。いいですよ、すぐお持ちします」
レスター・リースはバーニス・レイメンをふり返った。「それはそうと、君は一人でジェイスン・ベルヴュウと会った方がいいね、僕はもうすぐここを出るよ。十分か十五分してから行くといい。会社まではタクシーを拾えばすぐだよ」
ボーイが小さな紙ナプキンを山のように運んで来た。
「銃を掃除しなければならないんでね」レスター・リースは説明した。「銃身にナプキンを入れるんだが、ちょっとおたくの調理場を使わせてもらえないかね?」
「ええ、どうぞ。でも、ナプキンを使わなくてもいいじゃないですか。ボロ切れをお持ちしますよ」
「いや」リースは言った。「このナプキンてやつが実に具合がいいんだ」彼は立ち上がってバーニス・レイメンに会釈した。
ボーイに案内されて調理場に姿を消すレスター・リースを彼女はきょとんとした顔で見送った。彼がそれきり戻らないと知ってもバーニスはさして意外とは思わなかった。たっぷり十五分待ってから、彼女は出口に向かった。
「あ、ちょっと」最前のボーイが彼女を呼び止めた。「さっきのお客さん、銃を片方忘れて行かれたんですがね」
「あら、本当。置いてっちゃったのね」
「ええ。調理場から裏の路地へ出て行かれました」
バーニス・レイメンはにっこり笑った。「だったら、預かっておいてよ。そのうち彼、取りに来るでしょう」
パトロールカーの中に坐っていたアクリー部長刑事ははっとしてカーマイケル警部の腕を掴んだ。「野郎、のこのこやって来やがったな。おお、ちゃんと銃を持ってる」
カーマイケル警部は言った。「落着けよ、君。間違いないとわかるまで、下手に手を出すな」
銃のケースを肩に、ブリーフ・ケースを手に提げたレスター・リースはつかつかと車に戻り、ハンドルの前に滑り込んだ。
カーマイケル警部は言った。「ようし、行け。ただし、現行犯を確認しないうちは逮捕するな」
アクリー部長刑事はうなずいてパトカーを降り、後ろからレスター・リースの車に近付いた。
レスター・リースがまさにアクセルを踏み込もうとしたところで、アクリー部長刑事は肩を叩いた。
レスター・リースは顔を上げた。その顔に信じられない驚きが浮かんだ。「ほう、これは」
アクリー部長刑事は勝ち誇ったようににったり笑った。「ちょうど、盗難にあったショットガンを捜しているところでね、リース」彼は言った。「そのケースの銃は、確かに君のものかね?」
リースは明らさまにたじろいだ。
「ちょっと見せてもらおう」アクリー部長刑事は言った。
彼は窓から手を入れて銃のケースを取り上げ、蓋を開けて銃身を抜き、それを陽に透かした。左側の銃腔はぴかぴかと滑らかに光っていた。右側の銃腔には丸めた紙が詰まっていた。
アクリー部長刑事は満面の笑みを浮かべた。彼は銃を後部座席に放り込んで言った。「ようし、リース。このまま署へ行ってくれ」
リースは言った。「どういうことか、わかりませんね」
「わからないか。しかし、こっちにはわかっているんだ」アクリー部長刑事は嬉々として言った。
「ここまで来る道は遠かったよ。しかし、やっと曲り角にかかった。本署まで運転しろ。厭だと言うなら、手錠をかけて護送車を呼ぶぞ」
リースは物も言わずに車を出し、本署へ向かった。カーマイケル警部は逃亡の気配を見せたらすかさず追跡する構えでぴたりと後ろに付いて行った。
巡査部長を前にして、アクリー部長刑事は有頂天になった。「さあ、諸君」彼は言った。「明快なる推理とはこのことさ。何か、このショットガンの銃腔を突き通す棒みたいなものはないか。ちょいとしたお茶の間手品を披露するぞ」
「茶番はそのくらいにしておけ」カーマイケル警部が言った。
しかし、アクリー部長刑事は歓喜の絶頂を極めることの誘惑に抗し切れなかった。「さあ、お立ち会い」巡査の一人が差し出した木の棒を手にして彼は言った。「この通り、種も仕掛けもございません。これなる木の棒を、今このショットガンの左の銃腔に通します。御覧の通り、何も起こりません。さて、そこで今度は右の銃腔にこの棒を通すことにいたします。五十ドル札で三万ドルの大金が風に舞う落花のごとく、見事はらはらと散りましたら御喝采」
アクリーは間に合わせの棒を掛け声もろともショットガンの銃腔に、やっとばかりに押し込んだ。
周囲の者たちは一瞬はっと息を飲んだ。続いて銃身から紙ナプキンがどっと噴き出して、室内は爆笑哄笑の渦と化した。
「新しい方法なんですよ」リースは控え目に言った。「紙ナプキンを入れておくと銃身が銹びないんだそうです。それで右側だけ紙を詰めて、左側は何も入れずに、半年ばかり置いといて、どっちが銹びるか比べてみようと思いましてね。それが部長、おかげで私の実験はふいですよ」
カーマイケル警部はアクリー部長刑事の腕を取って言った。「おい、この」
レスター・リースは巡査部長に向かって言った。「紙ナプキンは盗んだんじゃありませんよ。ちゃんと、もらったんですから」
カーマイケル警部はアクリー部長刑事を廊下へ連れ出した。
「どじだな、君は。鵜飼で魚を捕る時は、鳥の頸をしっかり結《ゆわ》かなけりゃあならないって言っただろう」
アクリー部長刑事は言った。「いやあ、警部、私もそのペリカン鳥を一羽手に入れたいですね。例の湖へ連れて行って……」
「君の役には立つまい」カーマイケル警部はずばりと言った。「君は鳥の頸を結くことを知らない。魚はみんな鳥に飲まれてしまうのが落ちだ」
緋の接吻
自分自身の幸せにひたりきったあまり、フェイ・アリスンはアニータの目に湧き起こる激しい憎悪に気付かずにいた。そんなわけで、甘美な思いに夢見心地で、フェイはルームメイトに向かってしきりにまくし立てた。間に合わせの夕食の前にアニータが作ったカクテルが彼女の舌を軽くしていた。
「自分でもわかってた。ずっと前から彼が好きだったのよ」フェイは言った。「でも正直に言ってね、アニータ、まさかデーンが結婚を考えるなんて私、夢にも思ってなかったわ。前に一度結婚に失敗してるでしょう。彼、何に対しても、距離を置いて超然としてるんですもの。そりゃあ、冷淡なのは上辺《うわべ》のことで、彼、本当はすごくロマンチックで優しいんだけど……アニータ、私、幸福だわ。自分でも信じられないくらい」
アニータ・ボンサルは皿を脇へ押しやり、空になったカクテル・グラスのステムを指先でもてあそんだ。彼女の目は黒い増悪の針に穿たれた小さな穴だったが、彼女はフェイ・アリスンにそれと悟られたくはなかった。「日取りは決まったの?」彼女は尋ねた。
「ルイーズ叔母がこっちへ着き次第。叔母には是非会ってもらいたいのよ……それに、もちろん、あなたにも」
「ルイーズ叔母さんはいつ着くの?」
「明日か明後日だと思うわ。はっきりとは聞いてないのよ」
「手紙で知らせたの?」
「そう。叔母は夜の飛行機で来ると思うの。合い鍵を送ってあるから、着いたらそのままここへ来ればいいのよ。私たちが留守でも勝手に入ればいいんだから」
アニータ・ボンサルは無言だった。フェイ・アリスンは口を閉じてはいられない気分だった。
「デーンがどんな風かはあなたも知ってるわね。最初は誰に気があるのか、何となくはっきりしなかったのよね。あなたとも、私と同じくらいよく付き合ってたわ。でも、そのうちに、段々私に接近して来たのよ。でも、あなたは引く手|数多《あまた》だったから、全然気にしなかったわね。でも、私は違うのよ、アニータ。私、すごく彼に惹かれてたけど、自分でそれをはっきり認めるのがこわかった。後で泣く羽目になるんじゃないかっていう気がして」
「よかったわね。おめでとう」
「うまく行くと思わない、アニータ? あなた、あんまり興味がないみたいね」
「もちろん、うまく行くわよ。ただね、私はこの通り身勝手な女でしょう。あなたが結婚しちゃうとなると、こっちはいろいろと考えなきゃならないことがあるのよ。住む場所とか、何やかやとね。まあいいわ。後片付けをしちゃいましょうよ。私、ちょっと出掛けるわ。あなたは会う人がいるんでしょう」
「ううん、デーンはここへは来ないわ。彼、独身クラブで祝杯を上げてるの。男たちばっかりの、人を馬鹿にしたクラブよ。結婚するんで、罰金を払わせられるとか何とか言ってたわ。彼を肴に飲んで騒ごうっていうわけよ。私、何だか上気しちゃって、まるで雲の上を歩いてるみたい」
「とにかく」アニータは言った。「私は週末三日、留守にするわ。お互い、いろいろと大変だわね。私は新しいルームメイトを捜さなくちゃ。このアパート、わたし一人じゃあ広すぎてやって行けないもの」
「心配することはないわよ。誰か好きな人を誘えばいいじゃない。会社の女の子はどう?」
アニータは唇をきっと結んでかぶりをふった。
「もちろん、私、十五日までは部屋代払うわよ。だからそれから……」
「それは気にしないでよ」アニータは何気ない口ぶりで言った。「私ってね、根は一匹狼なの。他の女の人とはどうも調子が合わないのよ。でも、誰か捜すわ。見付かるまで、ちょっと時間はかかりそうだけど。会社の女の子たちなんて、程度が低くてお話しにならないし」
二人は食後の片付けをして室内を整頓した。その間、フェイ・アリスンは興奮してしゃべりまくり、心は弾んでよく笑った。アニータ・ボンサルはいかにも手先の器用な女らしく、口をつぐんだままてきぱきと機敏に立ち働いた。
皿を洗って戸棚にしまい終えると、アニータは黒の長いイヴニング・ドレスに着替えて毛皮のコートをはおった。彼女はにっこり笑ってフェイに言った。「あなた、今夜は睡眠薬を飲んだ方がよさそうよ。すっかり興奮してるわ」
フェイはちょっと神妙な顔つきになった。「ごめんなさい、アニータ。私、なんだか自分のことばっかり話したみたいね。私、夢のお城を築くところを、誰かに聴いてほしかったのよ。私……本でも読んで気持ちを落着けるわ。あなたが帰ってくるまで、起きてるわよ」
「いいのよ」アニータは言った。「私、遅くなるから」
フェイは物思わしげに言った。「あなたって、本当に不思議ね、アニータ。あなたのお友だちのことなんて、私、全然知らないわ。あなた、結婚して自分の家を持ちたいとは思わないの?」
「思わないわね。私は何でも自分の好きなようにしなきゃあ気が済まないんだもの。今のままがいいの」アニータはそっとアパートを出て行った。
エレベーターの前まで歩いた。ボタンを押し、六階まで上がって来たエレベーターに乗ってロビーのボタンを押した。途中まで下がったところで、アニータはストップのボタンを押し、次いで七階を押した。
エレベーターはゆっくりと七階まで上がって、止まった。
アニータはそっとハンドバッグから合い鍵を取り出して長い廊下を歩き、ちらりとエレベーターの方をふり返ってから、七〇二号室のドアを鍵を使って開けた。
カーヴァー・L・クレメンツは読みさしの新聞から顔を上げ、銜《くわ》えていた葉巻を手に取った。アニータ・ボンサルを見つめる彼の目は満足を示していたが、口を開くとその声は冷やかだった。「遅かったな」
「ルームメイトを言いくるめなきゃあならなかったのよ。散々おのろけを聴かされちゃって、大変よ。あの子デーン・グローヴァーと結婚するのよ」
カーヴァー・クレメンツは新聞を置いた。
「したきゃあ勝手にするさ」
「彼、情にほだされて、とうとう陥落しちゃったらしいわ。真面目に、誠実に付き合うようになったのよ」アニータは苦々しげに言った。「フェイは叔母さんのルイーズ・マーロウに手紙を出したの。叔母さんがこっちへ来次第、結婚するんですって」
カーヴァー・クレメンツは背の高いブルーネットを見上げて言った。「どうやら、君はデーン・グローヴァーにいかれてたらしいな」
「あなたったら、この頃すぐそれを言うんだから」
「図星だろう」
「違うわ」
「ねえ、君」クレメンツは言った。「今さら君を失いたくはないんだ」
アニータの目に怒りが走った。「私を所有してるなんて思わないでよ」
「じゃあ、リースと言おうか」
「自由意志による契約よ」彼女は語気荒く言った。「私がここへ来たら椅子から立って下さらないこと? そうでしょう。礼儀ってものがあるじゃない」
クレメンツは立ち上がった。彼は蜘蛛を思わせる男だった。手足が長く、胴は太くて短い。頭はほとんど禿げ上がっている。けれども彼は、着るものには相当金をかけていた。仕立てのいい服は彼のずんぐりとした体の線を巧みに隠していた。彼はにったり笑って言った。「じゃじゃ馬め。でも、僕はそういう君が好きなんだ。いいかね、アニータ。僕はあきらめないぞ。離婚の話がすっかり片付いたら、すぐに」
「あなたの離婚の話はもう聞きあきたわ」アニータは相手を遮った。「あなたはいつもそれを口実にして……」
「口実じゃない。財産のことで、いろいろと厄介な問題があるんだ。これは、そういい加減に扱うわけにはいかない。それくらいのことはわかってるだろう」
彼女は言った。「私にわかっているのはね、もうそういう話はまっぴらだってことよ。あなた、本気だっていうんなら、私にもそれなりのことをして」
「女房の弁護士に小切手を追跡されて、また資産調査に裁判所へ引っぱり出されるような真似をしろって言うのか? 馬鹿も休み休み言え」
彼はとろんとした目でアニータを舐めるように見つめた。「君が好きなんだ、アニータ。きっと幸せにしてやるよ。君のその鼻っ柱の強いところが気に入った。口先ばかりじゃあなくて、本当に君の気っぷがそういうふうであってほしいものだな。車は駐車場だ。先に行って待っていてくれ。五分したら行く」
彼女は言った。「どうして悪びれずに私を連れて歩こうとしないの?」
「女房の思う壺にはまれっていうのか? そんなことをしてみろ。火に油を注ぐことになるんだ。財産の問題はあと五週間か六週間で片付く。そうすれば、僕は好きなように、自由に生きられるようになるんだ。それまでの辛抱だよ、君。それまでは火遊びも慎重にしないとね」
彼女は何やら言いかけたが思い止まり、肩をそびやかして部屋を出た。
カーヴァー・クレメンツの車は大きな贅沢なセダンで、車内の設備もいたれりつくせりだった。しかし、待っているのは寒かった。
十分待った。二十分に感じられた。アニータはもう待ちきれなかった。彼女は車から降りてアパートの玄関に戻り、七〇二号室のベルを荒々しく押した。
答がなかった。クレメンツは部屋を出て、降りて来る途中なのだ、と彼女は思った。外に出てしばらく待った。クレメンツは降りて来なかった。
アニータは自分の鍵を使ってアパートに入った。エレベーターは一階に止まっていた。彼女は人目をはばかろうともせず、エレベーターで七階に上がり、廊下を急ぎ、合い鍵でドアを開けてクレメンツの部屋に入った。
カーヴァー・L・クレメンツは、すっかり外出の身支度をして、床に長々と倒れていた。二フィートほど離れた床にハイボールのグラスが転がっていた。彼の手から抜け落ちて、中身をカーペットに散らしながら転がったものに違いない。クレメンツの顔は異様な色を帯びていた。刺すような強い臭いが漂っていた。泡を吹いている口に顔を近付けてみると臭いはさらに強く感じられた。アニータが最前この部屋を立ち去ってから、明らかに何者かがここを訪れていた。彼の禿げ上がった額に、半ば開いた唇の跡が毒々しく緋色に燃えていた。
かつて救急処置の訓練を受けたことのあるアニータは、馴れた手付きでクレメンツの手首に指を当てて脈を見た。事切れていた。
金持ちのプレイボーイ、ヨットマン、ブローカー、そして大物ギャンブラーだったカーヴァー・L・クレメンツが死んだことは、もはや疑いの余地はなかった。
アニータ・ボンサルはうろたえて、部屋の中を見回した。彼女がここに寝泊まりしたことを示す証拠はあまりにもたくさんありすぎた。ナイトガウン、ランジェリー、靴、ストッキング、帽子。それに歯ブラシや、それに彼女がいつも使っている歯みがきのチューブまである。
アニータ・ボンサルは向きを変えて、そっと部屋から抜け出した。途中、ホールで立ち止まり、廊下に誰もいないことを確かめた。エレベーターは使わず、非常階段を降りて彼女は自分の部屋へ帰った。
フェイ・アリスンはラジオを聴いていた。アニータを見て彼女は飛び上がった。
「あら、アニータ。うれしい。もっと、ずっと遅くなるのかと思ったわ、どうしたの? まだ三十分も経ってないじゃない」
「ひどく頭痛がするの」アニータは言った。「デートの相手がね、酔って来たの。だから、横っ面をひっぱたいて帰って来ちゃった。すぐには寝たくないわ。まだ起きてて、あなたの将来の計画なんか聞かせてもらいたいところだけど、何しろこの頭痛じゃあねえ。それに、あなただって、今夜はよく寝とかなきゃ駄目じゃない。明日はあなた、最高の顔をしてなきゃあ」
フェイは笑った。「眠るなんて時間がもったいないみたい。だって、こんなに幸せなんですもの」
「気持ちはわかるけど」アニータはきっぱりと言った。「今日は早く寝ましょう。私、パジャマに着替えて、ホット・チョコレートを作るわ。そしたら、ヒーターの傍できっかり二十分だけおしゃべりしましょう」
「うれしいわあ、あなたが帰って来てくれて」 フェイは言った。
「飲み物を作るわ」アニータは言った。「あなたのチョコレートは特別甘くしてあげるわね。明日はあなた、体の線を気にするようになるわよ」
アニータは台所に行き、ハンドバッグからバルビツル酸塩の錠剤の瓶を取り出すと、その中身を半分あまりカップに空け、よく擦り潰してから熱湯で溶かした。
アニータが溶けたマシュマロの白い泡を浮かべた熱いチョコレートのカップを二つ、盆に乗せて居間に運ぶと、フェイ・アリスンはパジャマに着替えて待っていた。アニータ・ボンサルはカップを高く上げた。「幸福なあなたに」
一杯飲み終ると、アニータはフェイに無理に勧めて二杯目を飲ませ、将来の計画を話してくれとせがんだ。やがて眠気が襲って来た。フェイの舌はもつれ、言葉は途絶えがちになった。
「アニータ、私、何だか急に眠くなって来たわ。神経を張りつめてた反動かしら……私……うん、大丈夫……私あの……済まないけど……」
「いいのよ、フェイ」アニータは言った。彼女はフェイをベッドに寝かせ、毛布で丁寧に体をくるんでやった。それから彼女は、さてどうしたものかと思案に暮れた。
カーヴァー・クレメンツがそのアパートに秘密の部屋を借りていることを知っているのは、ほんの何人かの彼の取り巻きばかりだった。彼らはカーヴァー・クレメンツのお家の事情を知っていたし、当然、彼がそこに部屋を借りているわけも知っていた。けれども、さいわいなことに、アニータは彼らと顔を合わせたことはなかった。これは彼女にとっては天の助けだった。アニータは、クレメンツの死因が心臓発作ではないことを確信していた。効き目の速い、強い毒を飲まされたのだ。警察は犯人を捜すに違いない。
クレメンツの部屋からアニータの持ち物を持ち出すだけでは、彼女にとって何の得にもなるまい。それではあまりに芸がなさすぎる。アニータはデーン・グローヴァーを愛していたのだ。カーヴァー・クレメンツとの関係があんな風にのっぴきならぬところで縺《もつ》れてさえいなかったら……しかし、もうそれは済んだことだった。大きな青い目をしたフェイ・アリスンは彼女の優しい、誠実な気だてで、世の中に幻滅した皮肉屋のデーン・グローヴァーを真剣な求婚者に変えてしまったのだ。
しかし、世の中、最後に笑うのは頭のいい人間である。夕食後、皿を洗ったのはアニータだった。フェイ・アリスンが皿を拭いた。皿は彼女の指紋だらけの筈だった。アパートの経営者は有難いことに、どの部屋にも同じ模様の食器を備えていた。だから、アニータとしては、少々慎重に行動しさえすればいいのであった。警察はカーヴァー・クレメンツの隠れ家からフェイ・アリスンのナイトガウンを発見することになるだろう。グラスからはフェイの指紋が検出される。警察が訪ねてみるとフェイ・アリスンは睡眠薬を大量に飲んでいる。
アニータは世間でよくある痴情の果てのおどろおどろしい殺しの一幕に、切って嵌《は》めたように辻褄の合う証言をする。金持ちのプレイボーイの情婦がいる。そこへ若くて魅力ある男が現れて、彼女に結婚を申し込む。フェイはカーヴァー・クレメンツに会って手を切ろうとしたのだ。しかし、カーヴァー・クレメンツはそうやすやすと手を切る男ではない。フェイは切羽詰まって彼に毒を盛ったのだ。ところが、アニータが思いもかけず早く帰って来て、フェイは万事きゅうした。上のアパートから衣類をそっと運び出す機会を失ってしまったのだ。アニータは、絵解きは警察に任すことにした。驚愕と恐怖に取り乱した方がいい。もちろん、警察に対しては協力的な態度を示すのだ。
アニータ・ボンサルはアパートの住民が寝静まるまで三時間ばかり待ち、スーツケースを取り出してこっそり仕事にかかった。彼女の行動はいかにも無駄がなかった。詳細にわたって事前に考えつくす習慣を身につけた女の機敏な行動であった。
すっかり細工を終えると、彼女は七〇二号室の合い鍵を、指紋が残っていないようにきれいに拭いて、フェイ・アリスンのハンドバックに放り込んだ。彼女は残った六錠の睡眠薬を擦り潰し、罐の底にあった僅かなチョコレートの粉末に混ぜた。
パジャマに着替えて睡眠薬を飲んでから、アニータは薬瓶のラベルを熱湯で洗い落とし、空の瓶をアパートの裏窓から投げ捨てた。彼女は自分のダブルベッドに潜り込んで明かりを消した。
雑役婦が翌朝八時に掃除にやって来る。そこには二人の女が横たわっている。一人は死に、一人は睡眠薬過量で昏睡状態なのだ。
彼女が飲んだ睡眠薬が二錠でも、医者の処方では最高の強さである。六錠飲んだアニータは心配になった。多すぎたのではなかろうか。今からならまだドラグストアに電話して確かめる時間はあるのではなかろうかと思いながら、すでに彼女は眠りに落ちていた。
長い空の旅に草臥《くたび》れたルイーズ・マーロウはアパートの前でタクシーを降りた。
運転手は彼女に手を貸して荷物を入口まで運んだ。ルイーズ・マーロウはフェイ・アリスンから送られた合い鍵をアパートの入口の鍵孔に挿し込み、運転手に向かってにっこり笑うとバッグをよいしょと持ち上げた。
六十五歳になる彼女は頭がまっ白で陰険な目つきをしており、怒り肩で横幅も広かった。彼女には彼女独特の辛辣な哲学があった。彼女の愛は、彼女にとって親しい者、愛すべき者をその傘ですっぽりと覆い隠すほど大きく深く、彼女の憎悪は彼女の敵が目を白黒させて退散するほどに鋭く激しいのであった。
午前一時という時刻をまるで気にかけるふうもなく、彼女はエレベーターに向かって突き進み、どしんと荷物を降ろすと意気揚々と六階のボタンを押した。
エレベーターはのろのろと昇り、身ぶるいしながら止まった。ドアがゆっくり開き、ルイーズ小母さんは荷物を持ち上げて薄暗い廊下を歩いて行った。
やがて彼女は目指すアパートを尋ねあて、合い鍵でドアを開けた。スイッチを探って明かりをつけながら彼女は奥へ声をかけた。「私よ、フェイ!」
答はなかった。
ルイーズ小母さんは荷物を室内に引きずり込んで陽気な声を張り上げた。「撃たないでちょうだい」それから説明を加えた。「キャンセルがあってね、早い飛行機に乗ったのよ、フェイ」
相変わらず答がなく、彼女ははてなと思った。彼女は寝室へ入っていった。
「起きてちょうだい。フェイ。私よ、ルイーズよ」
ルイーズは寝室の明かりをつけ、眠っている二人に笑いかけた。「まあいいわ。どんなことがあっても起きないって言うんなら、私は居間の長椅子で寝るわ。挨拶は明日の朝ってことにして」
フェイ・アリスンの顔色に、ルイーズはきっと鋭い目を凝らせた。
ルイーズはフェイ・アリスンの上に屈み込んで体を揺すった。やがて彼女は相手を変え、アニータ・ボンサルを揺ぶりはじめた。
揺られてアニータは、薬による昏睡から半ば意識を取り戻した。「誰よ?」アニータはもつれる舌で尋ねた。
「私、フェイ・アリスンの叔母のルイーズよ。予定より早く着いたの。あなたたち、どうしたっていうの?」
アニータ・ボンサルはまだ覚めきらぬ意識の中で、これは面倒なことになったと思った。まったく予期せぬ成り行きだった。薬に冒されて頭はぼうっとしていたが、アニータは起こされてまずアリバイとなるような受け答えをした。
「何かおかしいのよ……」彼女は眠たげに言った。「チョコレートだわ……私たち、チョコレートを飲んだのよ。そうしたら、何だか、こう……ええと、どうしたのかしら……ええと、憶えてないわ……ああ、眠い」
彼女は首をがくりとのけぞらせ、ルイーズの腕の中で眠りこけていた。
ルイーズは彼女をベッドに寝かし、電話帳を取り上げるとページを繰って「弁護士ペリー・メイスン」の名を見付け出した。夜間電話番号はウェストフィールド6―5943であった。
ルイーズ・マーロウはその番号を回した。
ドレイク探偵事務所の当直が電話を取った。「ペリー・メイスンの夜間受付ですが、どちらさまでしょう?」
「私、ルイーズ・マーロウといいます。ペリー・メイスンさんにはお会いしたことがありませんけど、秘書のデラ・ストリートはよく知っています。デラに、私は今キーストン9―7600にいますから、ここへ電話をくれるように伝えてください。できるだけ早く。困ったことが起きてるんです。……ええ、そうです。デラに、ルイーズ・マーロウだと言って下さい。そうすれば、デラはきっと腰を上げるはずです。結局はメイスン先生にもお力をお借りしなくてはならないようになるかも知れませんが、とにかく、まずデラ・ストリートに会って話がしたいんです」
ルイーズ・マーロウは電話を切って待った。
一分と経たぬうちに電話が鳴った。ルイーズの耳にデラ・ストリートの声が伝わって来た。
「まあ、ルイーズ・マーロウ。何でまたこっちへ出て来たの?」
「姪のフェイ・アリスンが結婚するもんで、その立会いよ」ルイーズは言った。「ところが、それがねえ、デラ。今フェイのアパートにいるんだけれど、フェイは薬を飲んでて、どうやっても目を覚まさないのよ。一緒に住んでるアニータ・ボンサルって子も薬を飲んでるの。二人とも、誰かに毒を盛られたのよ。
腕が良くて口の堅いお医者さんはいないかしら。フェイは明日結婚するのよ。そのフェイを誰かが殺そうとしたのよ。何か裏がありそうだわ。このことがほんのちょっとでも新聞に出たりしたら、この私がただじゃおかないわよ。ここはね、マンドレイク・アームズの六〇四号室。急いでお医者を寄越してくれない。それから、あなた、ペリー・メイスンに連絡して……」
デラ・ストリートは言った。「すぐに、いいお医者さんをそこへ差し向けるわ、マーロウさん。あなたはそこを動かないでね。忙しくなって来たわね」
ブザーに応えてルイーズが戸口に出ると、デラ・ストリートは言った。「マーロウさん、こちら、ペリー・メイスン。こちらがルイーズ小母さんですの、先生。国にいるころからのお馴染みで」
ルイーズ・マーロウは有名な弁護士に手を差し出してにっこり笑った。それからデラに接吻して彼女は言った。「ちっとも変わらないのね、デラ、さあ、どうぞ」
「医者は何と言っています?」メイスンが尋ねた。
「まるで火事場の騒ぎのよう。アニータは意識を取り戻しました。フェイも何とか命を取り止めたようです。一寸遅かったら、もう手遅れでした」
「そもそもこれは、どういうことなんです?」メイスンは尋ねた。
「誰かがチョコレートの粉末か、さもなきゃあ、お砂糖に睡眠薬を混ぜたんです」
「何か思い当たる節がありますか?」メイスンは訊いた。
ルイーズは言った。「フェイはデーン・グローヴァーと結婚することになっていました。手紙から想像するとその人はお金持ちの内気な青年で、何年か前に一度恋愛問題がこじれたか何かで幻滅して、それ以来すっかりひねくれてしまった人らしいんです。いえ、それは本人がそんなふうに思っていたのかも知れません。
私がここへ着いたのは一時頃だったと思います。鍵はフェイがあらかじめ送ってくれていました。明かりをつけてすぐ、フェイの顔色がおかしいことに気が付きました。揺すってみたんですけれど、あの子は目を覚ましません。それで、アニータを起こしたんです。やっと気が付いてくれましたけど、口をきくのも大儀なほどで、それでも、チョコレートのせいだって言いました。で、私、デラに電話したんです。私にお話しできることと言ったらこれだけですわ」
「二人がチョコレートを飲んだカップですが」メイスンは尋ねた。「どこにあります?」
「流しにあります……まだ洗ってはありません」
「証拠として必要になるかも知れませんね」メイスンは言った。
「証拠だなんて、とんでもない」ルイーズ・マーロウは吐き捨てるように言った。「警察沙汰にはしたくありません。口さがない新聞記者たちが、結婚式を控えた娘が自殺を図ったなんて尾鰭《おひれ》をつけて書き立てたらどうなるとお思い?」
「ざっと室内を見せてください」メイスンは言った。
弁護士は部屋の中をあちこち見て回った。椅子の背にコートが二着脱ぎ捨てられているところで彼はちょっと足を止めた。それから彼は二つのハンドバッグに目を止めた。
「どっちがフェイ・アリスンのです?」彼は尋ねた。
「さあ、どっちでしょう。調べてみなくては」ルイーズは言った。
メイスンは言った。「二人で調べてみて下さい。よく注意して。二人がチョコレートを飲む前に何者かがこの部屋にいたことを示す証拠になりそうなものがないかどうか。何か手掛かりになる手紙とか、メモとか、そういったものがあるかも知れませんよ」
医者が寝室から顔を出して言った。「注射を打つんで湯を沸かしたいんですがね」
「どんな具合です?」マーロウ夫人が台所へ行くのを見送ってメイスンが尋ねた。
「ブルーネットは大丈夫です」医者は言った。「ブロンドの方も、じきよくなるでしょう」
「話を聞けますか?」
医者はかぶりをふった。「勧められませんね。二人とも疲労しています。それに、ブルーネットの方は頭が混乱しています。言うことがちぐはぐですよ。一時間もすれば、いくらか落着いて、話もできるようになるでしょう」
医者は消毒用の湯が沸くのを待って寝室へ戻った。
デラ・ストリートがメイスンの傍へ来てそっと耳打ちした。「ちょっと変だと思うんですけど、先生。アパートの鍵はみんな部屋の番号が打ってありますでしょう。二人とも、ハンドバックにこの部屋の鍵を持ってるんです。その他に、フェイ・アリスンは七〇二号室の鍵も持っているんです。どうして他の部屋の鍵なんか持ってるのかしら?」
メイスンは一瞬何やら考えるふうに眼を細めた。「ルイーズ小母さんは何て言っているね?」
「あの人、何も知りません」
「他に、何か手掛かりになりそうなものは?」
「何もありません」
メイスンは言った。「ようし、七〇二号室を覗いてみよう。一緒に来た方がいいな、デラ」
メイスンはルイーズ・マーロウの手前を考えて言った。「ちょっと外廻りを見てきます。じきに戻りますから」
メイスンとデラはエレベーターで七階に上がり、七〇二号室へ向かった。メイスンが呼鈴を押した。
室内でブザーが鳴るのは聞こえたが、人の動く気配はなかった。
メイスンは言った。「こういうことはするべきじゃあないがね、ひょっとして何かあるかも知れないから、ちょっと覗いてみよう」
彼は鍵を挿し込んでカチリと廻し、そっとドアを押した。
ドアの隙間から居間の明かりがあふれ出た。床の死体が見えた。意志を失った指から抜け落ちたグラスが転がっていた。
向かい側のアパートのドアが荒々しく開いた。髪を乱してバスローブをはおった若い女が怒った声で言った。「こんな時間に五分間もブザーを鳴らして、どういうつもりなの。いい加減にしたらどうなの……」
「わかってますよ」メイスンは相手を制すると、デラをアパートの中へ引き入れてぴしゃりとドアを閉じた。
デラ・ストリートはメイスンの腕にすがって床に倒れている死体を見下ろした。額には緋色の唇の跡があった。テーブルの傍に椅子が倒れていた。転がったグラスの中身はカーペットにこぼれていた。テーブルにはもう一つ空のグラスが乗っていた。
「気をつけろよ、デラ。何も触るんじゃない」
「誰かしら?」
「どうやら検察側証拠物件Aだな。あのうるさ型の女性はもう引っ込んだかな? ともかく、ここにこうやってじっとしているわけには行かないな」彼はハンカチで手をくるみ、内側の把手を廻して僅かにドアを開けた。
ホールを隔てた向かい側のドアは閉まっていた。
メイスンはデラ・ストリートに向かって、静かに、という仕種《しぐさ》を示し、忍び足で廊下に出ると後ろ手にドアを閉めた。
ドアがぴったり閉まったところへ、エレベーターが七階で止まった。三人の男と一人の女が足早に廊下をやって来た。
メイスンは低い、力強い声で言った。「全然何でもない顔をするんだ、デラ。遅くまでカードをやってた、ただの友達っていう感じでね」
四人は不思議そうに彼らを見た。彼らは一歩脇へ寄って四人をやり過ごした。
「でも、あの人たち」デラ・ストリートは言った。「今度どこかで会えばきっと私たちの顔、おぼえてますね。あの女の人が私のことを見た目つきったらなかったわ」
「ああ」メイスンは言った。「まあ、ねがわくは彼らが……お、お、あの連中、七〇二号室へ行くぞ」
四人はドアの前で足を止めた。男の一人がブザーを押した。
それに応えるかのように、向かい側のドアが荒々しく開いた。バスローブの女が甲高い声を上げた。「私は不眠症で困ってるのよ。何とかして眠ろうとしてるのに、何だって……」見知らぬ四人連れの姿に彼女の声は跡絶えた。
ブザーを押していた男が、にっこり笑ってよく響く声で言った。「どうもすみません。でも、ちょっとブザーを押しただけですよ」
「そりゃあそうだけど、でも、今しがたそこへ入った人たちはそりゃあうるさかったのよ」
「誰か入って行きましたか?」男は尋ねた。やや躊躇《ためら》ってから、彼は言った。「そうですか。客がいるんですか。じゃあ、われわれは遠慮しましょう」
メイスンはデラ・ストリートをエレベーターに押し込んでドアを閉めた。
「さあ、これからどうするんですの?」デラ・ストリートは尋ねた。
「そうだな」メイスンはとげとげした声に落胆を露わにして言った。「警察に電話して、殺人らしいと通報するんだな。他に手はないよ」
ロビーに公衆電話があった。メイスンはコインを入れて警察の番号を廻し、アパートの七〇二号室で、自殺とも考えられる状態の死体を発見したと通報した。
メイスンが電話している間に、先の四人がエレベーターから降りて来た。女は電話ボックスの傍に立っているデラ・ストリートの姿を認めると、女性特有の目つきで彼女の頭から爪先までをじろじろと見た。
メイスンは六〇四号室のルイーズ・マーロウに電話した。「医者にそう言って、患者を絶対安静にできる療養所へ運ばせて下さい」
「お医者様は、ここで大丈夫だと思ってらっしゃるようですけど」
「思っているようだなんていう医者は信用できませんよ」メイスンは言った。「すぐどこかの療養所へ入れるべきです」
ルイーズ・マーロウはまる三秒間口をつぐんだ。
「患者は絶対安静を必要としています」メイスンは言った。
「私としたことが」ルイーズ・マーロウは早口に言った。「そういう意味でしたのね。今度はわかりました。レコードに針を押し付けなくてもいいことよ。私、何をおっしゃってるのか考えてただけですもの」
メイスンは回線の向こうで彼女が荒々しく受話器を置く音を聞いた。
メイスンはにったり笑って電話を切ると、七〇二号室の鍵を封筒に入れ、彼のオフィス宛の上書きを認《したた》め、切手を貼ってエレベーターの傍のポストに投函した。
アパートの前では四人が車の中で何やら言い合っていた。次に如何なる行動をとるべきかについて、明らかに激しく意見が別れている様子だった。しかし、サイレンの音が聞こえると、たちまちにして意見は一致した。彼らの車が動き出そうとしたところへ警察の無線カーが乗り付けた。サイレンは有無を言わせぬ激しさであたりを圧した。
警官が一人、先の車につかつかと近付いてイグニション・キーを抜き取り、乗っていた四人をアパートの正面玄関に追い立てた。
メイスンはさっと進み出て内側からドアを開けた。
警官は言った。「死体があると通報してきた人を捜してるんですがね」
「ああ、それは私です。メイスンと言います。死体は七〇二号室ですよ」
「死体ですって!」女が悲鳴を上げた。
「静かに」無線カーの警官は言った。
「でも、私たち……そんな、だって、私たち、七〇二号室を訪ねたところだって言ったでしょう。……私たち……」
「ああ、七〇二号室の知人を訪ねたという話でしたね。カーヴァー・クレメンツですか。あなたがたが出て来る時はどんな様子でした?」
ぎこちない沈黙がわだかまった。ややあって、女は言った。「本当言うと、中には入らなかったのよ。ドアの前まで行っただけなの。向かい側に住んでる女の人が、中に誰かいるって言うんで、それで私たち引き返したのよ」
「中に誰かいると言ったんですか?」
「そうよ。でも、その誰かっていうのはもう出て来たわね。そこの二人ですもの」
「行ってみましょう」警官は言った。「来て下さい」
殺人課の主任、トラッグ警部補は室内を調べ終わるとメイスンに向かって陰気に言った。「君のことだから、おそらくもう、どういうわけでこういうことが起こったか、すっきりと説明のつく話を考え出しているんだろうな」
メイスンは言った。「正直なところ、私はこの男が何者だか、まったく知らないんですよ。生前会ったこともないんでね」
「わかっているとも」トラッグは当てこするように言った。「自動車事故の目撃者として証人になってもらいたかったって言うんだろう。それで、偶々《たまたま》君は真夜中のこんな時間にここへやって来た。ところがだ」トラッグはさらに言葉を続けた。「君は不思議と思うかも知れんがね、メイスン。私は、どうやって君がここへ入ったかという点に興味がある。廊下の向こう側に住んでいる女性の話だと、君はそこで五分ばかりもブザーを鳴らし続けていたそうだな。それから、その女性が文句を言おうとして、ドアを開けようとした時、錠を開ける音が聞こえたそうだ」
メイスンは真顔でうなずいた。「鍵を持っていましたから」
「鍵を? 君が持っていたのか。ちょっと見せてもらおうか」
「残念ながら、今は持っていないんですよ」
「ほう、持っていない?」トラッグは言った。「これはまた、不思議な話だな。で、君はどこでその鍵を手に入れたね、メイスン?」
メイスンは言った。「ひょんなことから私の手に入りましてね。見付けたんですよ」
「いい加減にしたまえ。君が持っているのは害者の鍵だろう。害者が身に着けていたものは全部あそこのテーブルの上にある。ところが、あの中にはこのアパートの鍵がない」
メイスンは時間を稼いだ。「ところで、テーブルのジャーには氷と、ウィスキーの瓶と、ソーダ・サイフォンがあるにもかかわらず、害者の命取りになった飲物には氷が入っていなかったという点には気が付きましたか?」
「どうしてそんなことがわかる?」トラッグが訊き返した。
「つまりですね、害者の手からグラスが落ちた時、中身は床にこぼれたわけですよ。で、そこに濡れた跡ができた。もし、グラスに氷が入っていたとすればですよ、氷はもう少し向こうまで転がってそこで解けたはずでしょう。だとすれば、そこにも濡れた跡が残っているはずですよ」
「なるほど」トラッグは皮肉に言った。「それから自殺する決心をして、やっこさんは自分の額に接吻した。で……」
彼は言葉を切った。刑事の一人がホールからやって来て言った。「洗濯屋のマークがわかりました、主任」
刑事はトラッグに小さく畳んだ紙切れを渡した。
トラッグはそれを拡げた。「ほう、これは……」
トラッグの探るような視線をメイスンは泰然として受け止めた。
「これには君もびっくりするだろう」トラッグは言った。「この部屋の戸棚にあったコートの持ち主は、フェイ・アリスン嬢だ。この同じアパートの六〇四号の住人だぞ。メイスン君、これからフェイ・アリスンに会いに行くが、向こうへ行くまでに君に妙な真似をされては困る。だから、君は私と一緒に来てもらおう。君はすでに六〇四号室がどこだか知っているんではないかね」
トラッグがエレベーターの方へ行きかけた時、三十代の末から四十代のはじめと思われるとびきり上等な身なりの女がエレベーターから降り、ドアの番号を見ながら廊下をやって来た。
トラッグは一歩進み出た。「何かお捜しですか?」
女は黙って行き過ぎようとした。
トラッグはコートの前を開いてバッジを示した。
「七〇二号室を探しているんです」女は言った。
「誰にお会いになるんです?」
「カーヴァー・クレメンツです。おたくにはかかわりのないことだと思いますけど」
「どういたしまして。かかわりがありますね」トラッグは言った。「あなた、どなたです? どういうわけでここへ来たんですか?」
女は言った。「私、カーヴァー・L・クレメンツの家内です。電話で、主人がここにこっそり部屋を借りてるって知らせがあって、それで私、来たんです」
「で、どうなさるおつもりです?」トラッグは尋ねた。
「何でも好き勝手な真似をして、それで済むものじゃあないってことを思い知らせてやろうと思うんです」彼女は言った。「一緒に来ていただいてもいいわね。きっとあの人……」
トラッグは言った。「七〇二は、この廊下を行った角の右側です。私は今、そこから出て来たところですよ。ご主人は今夜、七時から九時の間に殺害されました」
焦茶の目が驚愕に大きく見開かれた。「あの……それ、たしかですの?」
トラッグは言った。「何者かが、ご主人のハイボールに青酸を垂らしたんです。どうやら、奥さんは何も御存知ないようですね」
彼女はゆっくりと言った。「主人が死んだとしても……信じられませんわ。あの人、死んでも死に切れないほど私を憎んでいたんですもの。あの人、財産分割のことで私に無理な条件を押し付けようとしてたんです。私を大人《おとな》しくさせようとして、一時はろくにお金を渡してくれなかったんですよ。満足に着るものも買えなかったわ」
「ということは、つまり」トラッグは言った。「奥さんの方でも、ご主人の気性を憎んでおられた」
彼女はきっと唇を結んだ。「そうは言ってません!」
トラッグはにやりと笑った。「一緒に来て下さい。私らはこれから六階のある部屋まで行きます。その後、あなたの指紋を採って、それが毒物の入っていたグラスの指紋と一致するかどうかを調べます」
ルイーズ・マーロウがブザーに応えてドアを開けた。彼女はトラッグをちらりと見て視線をクレメンツ夫人に移した。
メイスンは帽子を取ると、初対面の礼儀正しい態度で言った。「このような時間にお邪魔いたしまして、誠に申し訳ございませんが……」
「私が話す」トラッグが言った。
メイスンの慇懃な態度は充分ルイーズに通じていた。彼女はまったく見ず知らずの男に対する口ぶりで言った。「まあ、こんな時間に、いったい何の……」
トラッグはメイスンを押し退けるように進み出た。「フェイ・アリスンはここに住んでいますね?」
「ええ、そうです」ルイーズ・マーロウはにっこり笑った。「あの子と、もう一人、アニータ・ボンサルが一緒です。でも二人とも今はおりません」
「どこにいます?」トラッグが尋ねた。
ルイーズが首をふった。「それは、私には申しかねます」
「で、あなたは?」
「ルイーズ・マーロウと申します。フェイの叔母です」
「ご一緒にお住いですか?」
「いいえ、とんでもない。私、今日ここへ来たんです。あの子の……その、フェイに会いに」
「二人はいない、とおっしゃいましたね?」
「ええ」
トラッグは言った。「探り合いは止して、お互い、ざっくばらんに行きましょう。マーロウさん、その二人のお嬢さんに会わせて下さい」
「申し訳ありません。二人とも病気でして。入院しておりますの。ただの食中毒なんですけど。でも……」
「医者の名前は?」
「あのね、よろしいこと?」ルイーズ・マーロウは言った。「今も申しました通り、あの子たちは具合が良くないものですから、お会いするわけにはまいりませんの。それに……」
トラッグ警部補は言った。「この上の階に住んでいるカーヴァー・L・クレメンツが死にました。殺人の疑いがあります。フェイ・アリスンがその男の部屋で寝泊まりしていたことは明白です。それで……」
「いったい何のお話しですの!」ルイーズ・マーロウはかっとして叫んだ。「何ですって。私……」
「まあまあ、お静かに」トラッグは言った。「その部屋からフェイ・アリスンの衣類が出ました。洗濯屋のマークからそれがわかったんです」
「衣類ですって」ルイーズ・マーロウは蔑《さげす》むように言った。「きっと、あの子がどこかに捨てたボロか何かでしょう。さもなければ……」
「それはまた後の話にしましょう」トラッグ警部補は忍耐強く言った。「人を不当に扱うことは私の本意ではありませんからね。私は事実に即した話をしたいんです。そこでですね、その部屋から指紋が出ているんですよ。女の指紋です。グラス、歯ブラシの柄、それと、歯みがきチューブからですね。私は、その必要がない限り強引なことは言いません。ですが、私としては、フェイ・アリスンの、少なくとも指紋だけは採らせてもらいたいんです。あなたがここで私を妨害するとなると、明日の朝刊にはどういう記事が載りますかね」
ルイーズ・マーロウは咄嗟に決断した。「あの子はクレストヴュウ療養所におります」彼女は言った。「あなたちょっとお小遣い稼ぎをなさりたいなら、賭けましょうか、百対一で、私……」
「賭はやらん方でしてね」トラッグはうんざりした様子で言った。「この仕事も、もう長いことになるもんで」
彼は刑事の一人をふり返って言った。「ペリー・メイスンと、あの美人秘書を見張っていろ。俺が指紋を採るまで、電話に近寄らせるなよ。ようし、行くぞ」
ドレイク探偵事務所の所長ポール・ドレイクは、メイスンのオフィスの依頼人用の大きな椅子に腰を降ろしてポケットからメモを取り出した。
「どうしようもないな、ペリー」彼は言った。
「話してくれよ」メイスンは言った。
ドレイクは調べてきた事実を報告した。「フェイ・アリスンとデーン・グローヴァーは今日結婚することになっていた。ゆうべ、フェイはルームメイトのアニータ・ボンサルと女だけのささやかなおしゃべりパーティを楽しんだ。二人はチョコレートを飲んだんだ。フェイは二杯、アニータは一杯飲んだ。つまり、フェイはアニータの二倍のバルビツル酸塩を飲んだわけだ。二人とも意識を失った。
アニータが気が付いてみると、フェイの叔母のルイーズ・マーロウが彼女を揺ぶっていた。フェイ・アリスンは病院に担ぎ込まれてからやっと意識を取り戻した。
それはともかく、トラッグは病院に押し掛けて行ってフェイ・アリスンの指紋を採ったよ。指紋はグラスのものと完全に一致した。カーヴァー・クレメンツの手から床に落ちたグラスを警察は『毒害グラス』と呼んでいるがね、こいつはきれいに指紋を拭き取ってあるんだ。クレメンツ自身の指紋もこのグラスからは採れなかった。テーブルにあったグラスからは、フェイの指紋が出ている。戸棚の中は彼女の衣類でいっぱいだった。彼女はあの男のとこで寝泊まりしていたんだな。どうも滅茶苦茶な話さ。
デーン・グローヴァーは彼女の潔白を信じると言っている。しかし、俺個人の考えを言わせてもらやあ、やっこさんが今の苦しみに耐えられるのも、そう長いことじゃあないな。言い交わした女が、金持ちのプレイボーイと情事を楽しんでいたなんて新聞に麗々しく書きたてられてみろよ。男としたって、そう涼しい顔ばかりもしちゃあいられまい。叔母のルイーズ・マーロウの話だと、やっこさんは周囲から、女と手を切って旅に出ろなんてやいやい言われて、えらく苦しんでるそうだ。
二人の女の子はね、薬を飲まされたのも何もかも、自分たちを陥れようという陰謀だと主張しているんだ。しかしなあ、だいたいあんなことが計画してできることだろうかね。例えばさ、二人がちょうどその時間にチョコレートを飲むかどうか、いったい誰が……」
「チョコレートに薬が入っていたのか?」メイスンが尋ねた。
ドレイクはうなずいた。「チョコレートはほとんどなくなっていたがね、袋の底に残っていた粉にバルビツル酸塩がたっぷり混じっていた」
「警察の筋書きはだな」ドレイクは続けた。「フェイ・アリスンはカーヴァー・クレメンツとできていた。彼女はグローヴァーと結婚しようとした。ところが、クレメンツが離さない。で、彼女はやつに毒を盛った。彼女は七〇二号室から服をわんさと抱えて出てくるところを見られないように、遅くなってから犯行現場へ戻るつもりだった。ところが、出掛けていたアニータがひょっこり戻って来て、フェイ・アリスンは自分の部屋から出られなくなってしまった。アニータに見とがめられずに上の階から持ち物を取って来るわけにはいかないからな。そこで彼女は薬でアニータを眠らせようとした。ところが、何かの拍子で手順が狂ってしまった」
「なかなか悪くない筋書きじゃないか」メイスンは言った。
「こいつの上を行く筋書きを考えなきゃあならんぞ」ドレイクは言った。「一つだけ確かなことは、フェイ・アリスンは七〇二号室で暮らしていたってことだ。デーン・グローヴァーに関する限り、この事実がやっこさんにとっては我慢のならないところだろうな。良い家の、感じやすいお坊ちゃんだからなあ。新聞に自分の顔写真が出るのは困ると言っている。家族もそれには反対なんだ」
「クレメンツはどうかね?」
「成功したビジネスマンだよ。ブローカー、相場師としてもなかなかのやり手だった。女房はクレメンツが心づもりしているよりもたっぷりと亭主から財産をふんだくろうとしていた。クレメンツは大きなアパートに住んでいたよ。例のアパートはお遊びのために借りていたのさ。あのアパートのことを知っているのは、極く限られた人間だけだった。あれを探るのに、やつの女房は相当金を注ぎ込んだんだろうな」
「女房の方は今どうしてる?」
「気楽なものさ。クレメンツが遺言状を残していたかどうか、まだわかってはいないがね。女房は共有財産権を握っているし、クレメンツの財産の記録も調べられるはずだ。いろんな手を使って資産を隠匿しているらしいんだ。貸金庫だの何だの、調べれば後から後から出て来るに違いないよ」
「アパートで鉢合わせした四人はどうだ?」
「連中も全部洗ったよ」ドレイクは言った。「男の方から言うと、リチャード・P・ノーソン。クレメンツの仕事の相棒みたいなもんだ。マンリー・L・オグデン。こいつは所得税の専門家さ。ドン・B・ロルストン。クレメンツの仕事で時々藁人形の役を務めている男。それに、女はヴェラ・ペイスンといってね、誰かのガールフレンドだよ。誰の相方か何てことはこっちの知ったこっちゃないがね。
とにかく、この連中はクレメンツの隠れ家のことを知っていた。時々あそこでポーカーをやっていたんだ。ゆうべは、向かいの女からクレメンツに先客があると聞いて、連中は事情を察した。それで、その場から引き返したんだ。これで全部さ。新聞は派手に書き立てているよ。デーン・グローヴァーもそういつまでも彼女の潔白を信じちゃあいられまいね。無理もないよ。フェイ・アリスンが涙ながらに犯行を否認している以外は判断の材料がないんだから。ルイーズ・マーロウは早いこと何とか手を打ってくれって言ってるよ」
メイスンは言った。「トラッグは俺がカーヴァー・クレメンツの鍵を持っていると思ってる」
「どこで手に入れたんだ?」
メイスンはかぶりをふった。
「しかし」ドレイクは言った。「カーヴァー・クレメンツは鍵を持っていなかったんだろう」
メイスンはうなずいた。「その点が、我々としては唯一の突破口だよ、ポール。クレメンツの鍵が失くなっている事実をこっちは掴んでるんだ。そのことを知っているものは他にはいない。俺がクレメンツから鍵を受けとっていないと言ったところで、トラッグは信じようとはしないだろうからな」
ドレイクは言った。「トラッグだってじきにそこに気付くだろう。鍵を君に渡したのがクレメンツじゃないとすれば、他にそれができた人間は一人しかいない」
メイスンは言った。「そのことは、あまり深く考えないことにしよう、ポール」
「君がそういうなら、まあよかろう」ドレイクはあっさりと言った。「言っとくがね、ペリー。君は殺人容疑の女の子を代表することになるんだぞ。しかしまあ、その容疑も晴らせるかも知れないな。今のところ、状況証拠しかないんだから。でも、そのためには、面目を潰されて、友人知人の憐れみと世間の蔑《さげす》みにさらされている純情青年を満足させる説明を考え出さなきゃあならないんだ」
メイスンはうなずいた。「早いところ治安判事の予備審問に持ち込むつもりなんだ。その間に、ポール、君はカーヴァー・クレメンツの背後関係を徹底的に洗ってくれないか。特にクレメンツの女房には注意を払ってもらいたいんだ。もし、女房がアパートのことを知っていたとすると……」
ドレイクは自信のない様子で首をふった。「一応当たっちゃあみるがね、ペリー。しかし、もし女房がアパートのことを知っていたとすると、それだけであの女には充分だったはずじゃないか。カメラマンを連れてアパートに踏み込んでさ、カーヴァー・クレメンツの浮気の現場を押さえれば、あの女房は財産分割の取り分を、十万ドルがとこ上乗せできるんだ。それで御の字じゃないか。毒を盛ることはないだろう」
メイスンの太い、力強い指はそっとデスクの端を叩いていた。「何か、わけがあるはずだよ。ポール」
ドレイクは大儀そうに立ち上がった。「そういうこと」彼は言った。「トラッグはもうそのわけを知った気でいるよ」
デラ・ストリートは目を輝かせてメイスンの個室にやって来た。「来ましたよ、先生」
「誰が来たって?」メイスンは尋ねた。
彼女は笑った。「おわかりりくせに。この事務所に関する限り、来るべき人はたった一人じゃありませんか」
「デーン・グローヴァーか」
「そう」
「どんな男だ?」
「背が高くて、とっても繊細な感じ。ウェーブした黒い髪でね、とってもきれいな目をしてますわ。そりゃあ、気の毒なくらいげっそりしてますけど。お友だちに会う度に、死ぬ思いをしてるんだわ、きっと。交換手のガーティったらね、もう、うっとりして見とれているの」
メイスンはにやりと笑って言った。「じゃあ、ガーティが幻滅するか、恋いこがれて死ぬかしないうちに、こっちへ通してもらおうか」
デラ・ストリートは取って返し、やがてデーン・グローヴァーを案内してきた。
メイスンはグローヴァーと握手して、椅子を勧めた。グローヴァーはうさん臭げにデラ・ストリートを横目で見た。メイスンは軽く笑って言った。「彼女は私の右腕でね、グローヴァーさん。私のためにメモを取ってくれるんです。他所へ行って無駄口をきくようなことはありませんよ」
グローヴァーは言った。「私は神経過敏かも知れませんが、人から親切ごかしに何か言われたり、憐れみをかけられたりするのは我慢がならないんです」
メイスンはうなずいた。
「今朝、新聞に出て以来、その両方で、もうさんざんな目に遭いました」
メイスンは再び小さく一つうなずいた。
「でも」グローヴァーは続けた。「これだけははっきり言っておきます。私は彼女の潔白を信じます」
メイスンはやや考えてから、グローヴァーの目を覗き込むようにして言った。「どこまで?」
「最後までです」
「どんな証拠が現れてもですか?」
グローヴァーは言った。「証拠では、私が愛している女性は、カーヴァー・クレメンツの情婦で、その男と暮らしていたことになります。しかし、証拠は必ずしもそっくりそのまま正しいとは言えません。私は彼女を愛しています。最後まで、彼女の潔白を信じます。そのことを、あなたの口から彼女に伝えて下さい。これから、あなたにいろいろお世話になるわけですが、そのためには金がかかります。私、必要な金はこちらで用意するからということを話しに、こうやってここへ来たんです。必要な、というより、あなたがほしいだけ」
「それはどうも」メイスンは言った。「基本的には、私にとって必要なのは、ちょっとした精神的な支えですよ。あなたが彼女の潔白を信じているということを、私は自信を持ってフェイ・アリスンに伝えたいわけです。それと、いくつか事実を知りたいですね」
「どんなことでしょう?」
「フェイ・アリスンとはどのくらいの付き合いですか?」
「三月か四月くらいのものです。その前は……その、両方の女の子と付き合っていました」
「アニータ・ボンサルのことですね?」
「そうです。最初に知りあったのはアニータなんです。しばらくは、彼女と付き合っていました。それから、二人一緒になって。そのうちに、だんだんアリスンに惹かれるようになったんです。ただの遊び友達のつもりだったんですが、実際には、アリスンを愛してしまったんです」
「アニータは?」
「あの人は私たち二人から見れば姉のようなものでした。今度のことについても、あの人はとっても優しくしてくれています。できるだけのことはする、と約束してくれました」
「フェイ・アリスンがカーヴァー・クレメンツと暮らしていたということは、あり得ることですか?」
「物理的な可能性があったか、ということならば、それはあり得たと思います」
「あなたは毎晩会っていたわけじゃあないんですね?」
「ええ」
「アニータは何と言っています?」
「とんでもない濡衣だって言ってます」
「フェイ・アリスンが青酸カリを手に入れることができたかも知れない場所に、どこか心当たりはありますか?」
「実はそのことでお話ししておいた方がいいと思うことがあるんです、メイスンさん。家の庭師が、青酸カリを使っているんですよ。何のためだか、私は知らないんですが、とにかく、いつだったか庭師がフェイを案内したことがあるんです……」
「ほう、なるほど」グローヴァーが言葉を切るとメイスンはじれったそうに促した。「それで?」
「で、その時庭師は彼女に、この袋は青酸が入っているから絶対に触っちゃいけないと言っていました。彼女が何のために青酸を使うのか庭師に質問していたのを憶えています。でも、私はあんまり興味がありませんでした。殺虫剤の主成分《ベス》がどうとか言ってたと思います」
「おたくの庭師は新聞を見ましたか?」
グローヴァーはうなずいた。
「信用できる人ですか?」
「ええ。家に対してはよくつくしてくれます。もう二十年になります」
「名前は?」
「バーニー・シェフです。私の母が……何と言いますか、更生させてやったんです」
「何か面倒でも起こしたんですか? 刑務所に入れられるような?」
「そうなんです。仕事があれば仮出獄できるということになって、で、母が雇ってやることにしたんです」
「おたくでは蘭の栽培についてはかなり詳しく調べたことがあるんじゃありませんか」
「家は蘭は植えません。買って来られるし、それに……」
「おたくでは」メイスンは前とまったく同じ口調で言った。「蘭の栽培についてかなり詳しく調べているんじゃあありませんか」
「とおっしゃいますと……ああ、つまり、家のバーニー・シェフを……」
「蘭の栽培については、かなり詳しいんじゃありませんか」メイスンはもう一度繰り返した。
デーン・グローヴァーはしばらく無言のままじっとメイスンを見つめていた。やがて、彼はふいに立ち上がって手を差し出した。「私は最後まで彼女の潔白を信じるということを、あなたにわかっていただきたかったんです、メイスンさん。ここに、いくらか金を用意しました。どうぞ、使って下さい」彼は無造作に封筒をテーブルに投げた。そして後をも見ずに立ち去った。
メイスンはグローヴァーが置いていった封筒に手を伸ばした。百ドル札がぎっしりと詰まっていた。
デラ・ストリートがやって来て金を受け取った。「お金を受け取っておきながら、数えるのも忘れるくらい男の人に見とれてしまうなんて」彼女は言った。「私もどうしようもなくロマンチックになっているんだわ。いくら入ってます、先生?」
「すごいぞ」メイスンは言った。
デラ・ストリートが金を勘定していると、彼女のデスクの、電話帳には載っていない電話が鳴った。彼女は受話器を取った。ドレイクからだった。「ああ、ポール」彼女は言った。
「やあ、デラ。ペリーはいるかい?」
「ええ」
「ようし」ドレイクは気のない声で言った。「中間報告だ。トラッグ警部補は、グローヴァー家の庭師を拘引したぞ。シェフって男だ。重要証人として押さえておく気だよ。これまでの調べでわかったことは、もうあらかた裏を取ったらしいな。向こうが何を掴んでいるかはわからんがね」
デラ・ストリートは受話器を握りしめたまま身じろぎもしなかった。
「もしもし、もしもし」ドレイクは言った。「聞いてるのか」
「聞いてるわよ」デラは言った。「先生に伝えるわ」彼女は電話を切った。
その夜九時過ぎ、デラ・ストリートはエレベーターの夜間の出入りの記録簿にサインしてペリー・メイスンのオフィスのある階に上がった。ポール・ドレイクのオフィスを覗こうとして思い止まり、彼女は長い、暗い廊下を歩きだした。背後のがらんとしたホールに彼女のきびきびとしたヒールの音が谺《こだ》ました。
彼女は廊下を曲がった。メイスンのオフィスから明りが漏れていた。
弁護士はチョッキの袖ぐりに両の親指を掛け、首をうなだれて何やら考え込みながら室内を行きつ戻りつしていた。考えに没頭している彼はドアが開くのにも気付かなかった。
デスクには夥《おびただ》しい写真が散らかっていた。ポール・ドレイクが報告に使う薄手の用箋も一面に拡げられていた。
デラはそっと戸口に立って、室内を行ったり来たりしている背の高い、腰の引きしまった男を見つめた。花崗岩のようないかつい顔は、精力的な頭脳のたゆみない活動の現れであった。そして今、その頭脳は煮えたぎり、孕んだ熱気の肉体的なはけ口を求めていた。落着きのない動作は無意識の反射的行動にすぎぬものであった。
一分近く経ってから、デラ・ストリートは声をかけた。「今晩は、先生。何かお手伝いしましょうか?」
メイスンは虚を衝かれてふり返った。「こんなところで何してるんだ?」
「何かお手伝いできることがないかと思って来てみたんですの。お食事はもうお済みになりまして?」
メイスンは時計に目をやった。「まだだよ」
「今何時かしら?」デラ・ストリートは尋ねた。
メイスンはもう一度時計を見てから答えた。「九時四十分だ」
彼女は笑った。「さっきも時計御覧になったけど、全然時間なんか見てらっしゃらないの。ねえ、先生。お食事なさらなきゃ駄目よ。帰ってらっしゃれば、事件はちゃんとここで待ってますから」
「どうしてそんなことが言えるね」メイスンは言った。「さっき、ルイーズ・マーロウと電話で話したよ。デーン・グローヴァーの母親に連絡を取ったそうだ。デーン・グローヴァーの母親の気持ちを、だから、ルイーズ・マーロウは知っている。デーン・グローヴァーは彼女の潔白を信じるといったがね、しかし、自分がどうなるか、彼にどうしてわかる? こういう立場に追いこまれたことなんか今までにありゃしまい。友人知人の同情は彼の傷口を刃物でえぐるようなものだ。最後まで潔白を信じると、彼はどうして言い切れるかね?」
「それはそうですけど、でも」デラ・ストリートは言った。「彼は頑張ると思います。こういうところを通って、人間て鍛えられて行くんですもの」
「君は自分自身をはげますためにそう言っているのさ」メイスンは言った。「彼は今、地獄の苦しみを味わっているんだ。自分ではそんなことはないつもりでも、どうしたって証拠には影響される。自分の愛している女が、明日結婚するという日の晩に、それまで金とある種の安全を保証してくれた男から必死で逃れようとしたという見方を、彼自身知らず知らずのうちにするようになるんだ」
「先生、とにかくお食事をなさらなくちゃあ」
メイスンはデスクのところへ行った。「見ろよ、この写真」彼は言った。「しかしまあ、ドレイクはよくもこいつを手に入れてくれたね。これは警察の写真の複写だよ。床の死体。テーブルのグラス。倒れた椅子。安楽椅子の傍の開きかけの新聞……使われていた目的さながらに殺伐とした室内。この写真のどこかに、一人の女の無実を立証する鍵があるはずなんだ。殺人の無実だけじゃない。愛する男を裏切ったというのも事実無根であることを証明する鍵だ」
メイスンはデスクの上に屈み込み、吸取紙の上の虫眼鏡を取ると、今一度写真を綿密に調べはじめた。「待ってくれよ、デラ」彼は言った。「この中のどこかに鍵があるはずなんだ。テーブルのグラス。底にほんのちょっとハイボールが残ってる。グラスにはフェイ・アリスンの指紋がいっぱい。死体の額には真っ赤なキスマーク」
「その人が死ぬ間際に、そこに女がいたっていうことかしら」
「そうとも言い切れない。口紅の跡は、上下の唇がはっきりわかるくらい、くっきりとついているだろう。男の唇には口紅がついていなかった。額だけについているんだ。ちょっと知恵の働く男なら、自分の唇に口紅を塗って、毒が廻ったところでクレメンツの額にそいつを押し付けるくらいのことはできただろう。疑いを脇へそらすためにね。クレメンツのアパートに女が出入りしていたことを知っていれば、すぐに考え付く手だろうさ。
女の存在をあまりにもあからさまにほのめかしてるから、却ってどうも私には疑問に思えるんだ。糸口さえ掴めればなあ。時間だよ。もうちょっと、時間がありさえすれば何とかなるんだ」
デラ・ストリートはデスクに近寄って言った。「もう、その辺になすったら。お食事にしましょうよ。食べながら話しましょう」
「君は、まだなのか?」
彼女はにっこり笑って首をふった。「きっとこんなことだろうと思ったんです。誰かが先生を連れ出してあげなかったら、先生は二時三時までここで行ったり来たりしてらっしゃることになるでしょう。ポール・ドレイクは何を探って来ましたの?」
彼女は薄手の用箋をまとめて文鎮を乗せた。「さあ、行きましょ、先生」
メイスンは彼らの行きつけのレストランの一隅にゆっくりと腰を落着けてから、やっと彼女の問いに答えた。厚いステーキの残骸を乗せた皿を脇へ押しやり、コーヒーのお代わりを注いで彼は言った。「ドレイクは大したことを調べちゃあ来なかったよ。多少の背後関係だけさ」
「例えば、どんな?」
メイスンは大儀そうに言った。「相変わらずの内輪話さ。害者の女房のマーリン・オースティン・クレメンツは、カーヴァー・クレメンツの何としてもこの女を物にしてやろうという押しの強さに圧倒されたんだな。ところが、彼女を法的に自分の奴隷にしてしまえば、クレメンツはまたぞろ持ち前の強欲と攻撃的な気性で、自分の求める他の対象を追いかけるにちがいないということを彼女はうかつにも考えていなかった。マーリンはずいぶん放ったらかしにされたらしいよ」
「それで?」デラは尋ねた。
「それでだ」メイスンは言った。「そうこうするうちにカーヴァー・クレメンツの関心は他に移っていった。いや、待てよ、デラ。考えるべきことが一つある。たった一つ……クレメンツは鍵を身につけていなかったという事実だ。
廊下で出くわした四人を憶えてるだろう。連中は何らかの方法であの建物に入ったわけだ。正面玄関のドアは閉まっていただろう。誰かアパートの住人がボタンを押せば、電気的に正面の入口は錠が開くわけだ。しかし、中の者がボタンを押さない場合には鍵を使わなくては建物には入れない。
となるとだ。あの四人は中へ入った。どうやって入ったんだ? 今となって連中が何を言おうとだね、中の一人は鍵を持っていたに違いないんだ」
「それが失くなった鍵かしら?」デラは言った。
「そこを我々としてははっきりさせなくてはならんわけさ」
「あの人たち、警察に対しては何て言っているんですの?」
「私は知らないよ。警察は連中の口を封じているからね。あの中の誰かを証人台へ引っぱり出して、反対尋問をしてやらなきゃあならんな。そうすりゃあ、少なくとも何かとっかかりができるだろう」
「じゃあ、無手勝流ですぐに予審に持ち込むおつもり?」
「まあ、そんなところだ」
「フェイ・アリスンのハンドバックにあった鍵がクレメンツのだったんじゃありません?」
「あるいは、そうとも考えられるね。もしそうだとすると、フェイはやっぱり男とままごとをやっていたか、何者かが彼女のハンドバックに鍵を仕込んだかのどっちかということになる。しかし、仕込んだとしたら、誰がいつ、どうやって仕込んだんだろう? 私はね、クレメンツは殺された時、鍵は身に着けていただろうと思うんだ。ところが、警察が来た時には失くなっていた。その点が解明すべき肝心|要《かなめ》の問題だよ」
デラ・ストリートは首をふった。「私にはとても手に負えないわ。でも、先生は敢えてその問題に取り組まれるおつもりね」
メイスンは煙草をつけた。「普段なら、何とかして時間を稼ぐところだがね、今回はどうやら時間の勝負になりそうだよ、デラ。自信満々を装って、出るところへ出て、小さな帽子からどでかい兎を引っぱり出して見せるしかないね」
デラはにっこり笑った。「その兎はどこで手に入れるんですの?」
「私のオフィスさ」彼は言った。「写真を細かく調べて何とか手掛かりを見付けるんだ……」メイスンははっと顔を上げた。
「何ですの、先生?」
「ちょっと気が付いたことなんだがね。例の七〇二号室のテーブルにあったグラス……底の方にほんの少し、ハイボールが残っていた」
「それで?」
「グラスでハイボールを飲むとどうなる、デラ?」
「そう……どうしても底に少し残りますわね。グラスの内側に付いた分が、しばらくするとまた底に溜まりますから」
メイスンは首を横にふった。彼は今や目を輝かせていた。「氷を残すだろう。氷はしばらくすると解けて、グラスの底に一インチばかり水が溜まる」
メイスンの興奮につり込まれてデラは言った。「じゃあ、女性のグラスには氷が入っていなかったんですね」
「カーヴァー・クレメンツのグラスにも氷はなかった。なのに、テーブルには氷を入れたジャーがあった。行こう、デラ。写真を徹底的に調べてみよう」
ランドルフ・ジョーダン判事は裁判長の席について静粛を命じた。
「これより被告フェイ・アリスンの予備審問を行う」
「被告側の用意は調っております」メイスンが言った。
「検察側、用意は調っております」スチュアート・リンは声を張り上げた。
地方検事局内でも特に切れ者の法廷検事で通っているリンは百科事典のような法律知識を誇る目つきの鋭い男で、鉄の罠のように冷酷非情であった。
リンはこれから論戦を交える相手の底知れぬ知略を侮るようなことはなかった。彼はヘビー級のチャンピオンに挑戦する拳闘選手の用心を持って審理に臨んでいた。
「ドクター・チャールズ・キーンを喚問いたします」リンは言った。
医師キーンは証言台に上がり、自分は外科医であり、死体解剖、就中、殺人事件の検死に豊富な経験を持つ者であると表明した。
「今月の十日に、あなたは、マンドレイク・アームズのアパート、七〇二号室において、ある死体の検死をなさいましたか?」
「はい、いたしました」
「時刻は何時でしたか?」
「午前二時ごろでした」
「検死の模様を話して下さい」
「歳の頃五十二くらいと思われる男の死体でした。非常に肉付きがよく、頭は禿げていました。しかし、それ以外の点では、年齢に比べて実に健康状態は良好でした。死体は床に倒れていました。頭をドアの方に、足を部屋の奥に向けていました。左腕は体の下に曲げて、右腕を投げ出した格好で、顔の左側をカーペットにつけていました。死後数時間を経過していました。私の推定では、死亡時刻は前夜七時から九時の間と思われます。それ以上厳密に死亡時刻を割り出すことは不可能ですが、その時間内であったことは確実と言えます」
「死亡原因は断定されましたか?」
「その場では断定いたしませんでした。後に断定したのです」
「死亡原因は何でしたか?」
「青酸カリによる毒死です」
「死体の外見的特徴で何か気付かれた点はありましたか?」
「前頭部上方に赤色の付着物がありました。これは明らかに、口紅を濃く塗った唇を、ややすぼめた状態で皮膚に押し付けたものでした。女性が最後の接吻を与えたかのように見受けられました」
「反対尋問をどうぞ」リンは胸を張って言った。
「質問はありません」メイスンは言った。
「ベンジャミン・ハーラン氏を喚問いたします」リンは言った。
見上げるような大男のベンジャミン・ハーランはつかつかと証言台に上がり、自分が二十年の経験を持つ指紋鑑識の専門家であることを表明した。
スチュアート・リンは巧妙な質問で事件当日のハーランの行動についての証言を引き出した。ハーランは、検察側が『毒害グラス』と呼んでいるグラスはきれいに拭いてあったことを指摘し、そこからは指紋が検出されなかったと証言した。一方、検察側が『囮《おとり》グラス』と称しているテーブルの上のグラスや、歯ブラシ、歯みがきのチューブ、その他諸々の物品からは指紋が検出され、それらは被告フェイ・アリスンの指紋と一致したと彼は証言した。
ハーランはさらに警察側の手で撮られた一連の写真を確認した。発見当時の死体の位置、室内の家具の配置、テーブル、倒れた椅子、床に転がった、検察側のいわゆる毒害グラス、テーブルの上に明らかにフェイ・アリスンの指紋の付いた囮グラス、ウィスキーの瓶、ソーダの瓶、氷のジャー等を示す写真であった。
「反対尋問をどうぞ」リンは勝ち誇ったように言った。
メイスンは言った。「あなたは、指紋の専門家として二十年あまりの経験をお持ちなのですね、ハーランさん?」
「その通りです」
「ところで、あなたは、被害者の額にあった口紅に関するキーン先生の証言をお聞きになりましたね?」
「はい、聞きました」
「その口紅というのは、今私がお渡しする、この写真に映っているものに違いありませんね?」
「はい、その通りです。それに、私自身が撮影した口紅の大写しもあります。引き伸ばしたものもありますが。もし関心がおありでしたら」
「大いに関心がありますね」メイスンは言った。「その、引き伸ばした分を見せていただけますか?」
ハーランはブリーフ・ケースから、被害者の額の部分を捉えた一枚の写真を取り出した。口紅の部分は細部にいたるまで鮮明に映し出されていた。
「この写真の倍率はどのくらいですか?」メイスンは尋ねた。
「実物大です」ハーランは言った。「正確に実物大の写真を撮ることができる距離はあらかじめわかっていますから」
「なるほど」メイスンは言った。「私はこの写真を証拠として認めていただきたいと存じます」
「異議はありません」リンは言った。
「ところで、お尋ねしますが、ここに映っている唇の細い皺は、指紋の隆線や渦状紋と同様に、個人的な特徴を明確に示すものではありませんか?」
「質問の意味がわかりかねますが」
「鑑識の専門家にとっては、人間の唇にできる皺は指紋と同様、個人個人によってまったく違うということは、よく知られた事実ではありませんか?」
「よく知られた事実とは言えません」
「しかし、事実ではあるわけですね?」
「そうです。その通りです」
「だとすれば、この写真のすぼめた唇にできた皺の間隔を測ることによって、被害者の部屋に残された指紋の主を割り出すのと同じように、その口紅の跡を付けた人物を割り出すことは十分可能であるわけですね?」
「はい、可能です」
「ところで、あなたは先程、被告の指紋を採って、グラスから検出した指紋と照合した、と証言なさいましたね」
「はい」
「被告の唇の紋理を採って、被害者の額の口紅の跡と照合することをあなたは試みられましたか?」
「いえ、それはしませんでした」ハーランはぎこちなく体を動かした。
「どうしてしなかったのですか?」
「それは、第一、メイスンさん、唇をすぼめた時にできる皺は個人個人によってまったく違うということは、それほど一般的に知られた事実ではないからです」
「しかし、あなたはそのことを知っておいででしたね」
「はい」
「あなたよりさらに経験を積んだ鑑識の専門家たちも、それは知っていますね?」
「はい、知っています」
「だったら何故、それをしなかったのですか?」
ハーランは助け船を求めるようにスチュアート・リンの方を見た。
「裁判長、異議あり」リンはハーランの顔色を見て取り、すかさず立ち上がった。「只今の質問は反対尋問とは受け取れません。およそ本質を離れております。妥当を欠く質問であり、無関係、無意味であって、正当な反対尋問ではありません」
「異議を却下します」ジョーダン判事はきっぱりと言った。「証人は質問に答えなさい」
ハーランは咳払いをした。「つまりその、そういうことは考えもしなかったのです」
「それでは、今ここで考えて下さい」メイスンは言った。「今すぐに、この場で唇の紋理を採って……アリスンさん、口紅を濃く塗って下さい。あなたの唇と、被害者の額の唇の跡を比べてみましょう」
「異議あり」リンはうんざりした様子で言った。「これはとうてい反対尋問とは思えません。メイスン氏がハーラン氏を弁護側証人として喚問の上で、このテストを試みられると言うならば、それはそれとして結構だと思います。しかし、これはどう考えても、反対尋問ではありません」
「ハーラン氏の専門家としての資質を問うという意味で、これは反対尋問として受け取ることができます」ジョーダン判事は譲らなかった。
「しかし、裁判長。これは、あまりにも専門領域に立ち入りすぎているのではないでしょうか」
「あなたの異議は、極めて専門領域に立ち入っています」ジョーダン判事は厳しく言った。「本官は異議を却下しました。それは今もって変わるものではありません。被告の唇の紋理を採りなさい」
フェイ・アリスンはふるえる手でたっぷりと口紅を塗り、ハンドバッグから鏡を出して、小指の先で形をととのえた。
「さあ、どうぞ」メイスンはハーランを促した。「被告の唇を調べて下さい」
ハーランはブリーフ・ケースから一枚の白紙を取り出し、ペリー・メイスンの隣に坐っている被告のところへ行って、それを彼女の唇に押し当てた。彼は紙に押された唇の紋理をあらためた。
「どうですか」メイスンはハーランに向かって言った。「照合した結果をここで発表して下さい」
ハーランは言った。「この場には設備がありませんから、顕微鏡的な厳密度を期すわけには行きません。しかし、一見したところ、被害者の額の口紅の跡は、被告人の唇のものではありません」
「ありがとうございました」メイスンは言った。「反対尋問を終わります」
ジョーダン判事は興味を示した。「その唇の紋理というのは、例えば接吻をする時のように、唇をすぼめた場合にのみ生ずるものですか?」
「いえ、裁判長。調べればすぐにわかることですが、皺はもともと唇にあるのです。ただ、唇をすぼめると、その皺が強調されてはっきりと出るのです」
「で、その皺は個人個人によってすべて違っているのですね?」
「はい、その通りです」
「すなわち、あなたは、当法廷において、グラスその他の物品から被告人の指紋が検出されたにもかかわらず、被害者の額の口紅の跡を印したのは、被告人の唇では決してあり得ないと証言するのですね?」
「その通りです、裁判長」
「よろしい」ジョーダン判事は言った。
「裁判長」リンは引き下がろうとしなかった。「被告人が被害者の額にキスマークを残さなかったという事実はそれ自体何ら意味あるものではありません。それどころか、被害者の額の口紅の跡を被告人が見たことが、被害者の死を招いたかも知れないのです。指紋は、被告人が被害者のアパートにいたということの明白な証拠であります」
「証拠については、本官は充分理解しています。尋問を続けなさい」ジョーダン判事は言った。
「加えて」リンはいきり立って言った。「私は当法廷において、被害者の額の口紅は、他ならぬ被告側弁護人ならびにその有能にして秀麗な秘書によって故意に付けられた可能性が極めて大きいことを立証いたす所存であります。立証のために、ドン・B・ロルストン氏を喚問いたします」
ロルストンは進み出で証人席に着いた。とんだとばっちりをくらって迷惑千万と言った態度だった。
「ドン・B・ロルストンさんですね? 現住所は、当市クリールモア街二九三五番地に相違ありませんか?」
「その通りです」
「あなたは、カーヴァー・クレメンツと生前親交がありましたね?」
「はい」
「職業上の交流ですか?」
「はい、そうです」
「ところで、今月十日の夜、というよりはむしろ夜半過ぎ、当市のマンドレイク・アームズ・アパートメント七〇二号の、カーヴァー・クレメンツの部屋を訪問されましたか?」
「はい、参りました」
「それは何時ころですか?」
「そうですね、午前一時から二時の間……一時半ころだったと思います」
「あなた一人でしたか?」
「いえ、違います」
「誰が一緒でしたか?」
「クレメンツの仕事上の共同者である……いえ、共同者であった、リチャード・P・ノーソンと、クレメンツ氏の所得税の処理を扱っていたマンリー・L・オグデン、それに、友だち……私どもの共通の友だちである、ミス・ヴェラ・ペイスンです」
「先方へ行かれた時の模様を話して下さい」
「ええと、私たちは七階でエレベーターを降りました。で、廊下を歩いて行くと、向こうから人が二人やって来ました」
「ちょっと待って下さい。向こうから、というのは七〇二号室の方からという意味ですか?」
「はい、その通りです」
「その二人というのは誰ですか?」
「ペリー・メイスン氏と、秘書のストリートさんです」
「で、あなたがたは、現実に、カーヴァー・クレメンツのアパート内に入ったのですか?」
「入りませんでした」
「何故入らなかったのですか?」
「七〇二号室まで行って、私はブザーを押しました。中でブザーが鳴るのが聞こえました。と、ちょうどその時、ホールを隔てて向かい側の部屋のドアが開いて、女の人が、さっきからブザーの音がやかましくて眠れないと文句を言いました。そして、クレメンツ氏のところに先客があるという意味のことを言ったのです。それで、私たちはその場から引き返しました」
「さて、裁判長」スチュアート・リンは言った。「私は、只今の証言にありました、ホールを隔てて向かい側の住人のいわゆる先客というのが、実は他ならぬメイスン氏およびストリート嬢であり、二人は実際に被害者のアパートに入って、被害者当人および証拠物件と共に、ある時間、そこに留まっていたのであるということを立証いたしたいと思います」
「続けなさい」ジョーダン判事は言った。
「待って下さい」メイスンが言った。「その前に、反対尋問をいたしたいと思います」
「では、反対尋問をどうぞ」
「マンドレイク・アームズに着いた時、ロルストンさん、アパートの正面玄関は鍵が閉まっていたのではありませんか?」
「はい、閉まっていました」
「で、あなたはどうされましたか?」
「私たちは七階へ上がって、それから……」
「それはわかっています。でも、どうやって建物の中へ入ったのですか? 正面玄関は閉まっていたんでしょう? あなたは、鍵を持っていたんですね?」
「いえ、持っていませんでした」
「すると、どうやって玄関を入ったんですか?」
「どうやってって、あなたが開けてくれたんじゃないですか」
「私がですか?」
「そうですよ」
「いいですか」メイスンは言った。「今お訊きしているのは、無線カーでやって来た警官があなたがたを拘束した時のことではありませんよ。今月十日の夜半過ぎ、あなたがたが最初にあのアパートへ行った時のことを言っているんです」
「ええ、そうです。わかっています。あなたが入れてくれたんです」
「どうしてそうおっしゃるんですか?」
「どうしてって、あなたと、あなたの秘書はカーヴァー・クレメンツのアパートにいたでしょう。だから……」
「あなた自身、私たちがそこにいたことを御存知ではないでしょう」
「ええ、まあ。でも、そうでしょう。あなたがたがあの部屋から出て来て私たちと会ったんですから。エレベーターの方へ急いでたじゃありませんか」
メイスンは言った。「あなたの推測をお訊きしているんじゃあありませんよ。私たちがあの部屋にいたことさえ、あなたは御存知ないでしょう。もう一度お尋ねします。錠のかかっていた正面玄関から、あなたがたはどうやって建物の中へ入ったのですか?」
「カーヴァー・クレメンツのアパートの呼鈴を押しました。すると、あなたが、いえ……、とにかく、誰かが応答のボタンを押して、それで正面玄関の電気錠が開いたんです。錠の開く合図のブザーを聞いて、私たちはドアを押して中へ入りました」
「誤解のないように、この点ははっきりさせておきましょう」メイスンは言った。「カーヴァー・クレメンツのアパートのブザーを押したのは誰ですか?」
「私です」
「私が言っているのは、建物の正面玄関のことですよ」
「ええ、そうです」
「で、ブザーを押してから、あなたは錠が開いたことを知らせる応答のブザーが鳴るのを待ったのですね?」
「ええ、そうです」
「どのくらい待ちましたか?」
「ほんの一、二秒です」
メイスンは証人に向かって言った。「もう一つお訊きします。あなたがたは、玄関を入って、そのまま真っすぐに七階へ上がりましたか?」
「ええと、いいえ、すぐには上がりませんでした。しばらく、ロビーでこれからやるポーカーの方式について話し合いましたから。ペイスンさんはワイルド・ポーカーで大きくすったことがあるんです。つまり、ディーラーが好きなように、勝手に役を決められるやつです。場合によっては、片目のジャックが役になるとか、そんなゲームです」
「どのくらい話し合ったのですか?」
「そう、一、二分でした」
「それから真っすぐ上がったのですね?」
「ええ」
「エレベーターはどこに止まっていましたか?」
「上の方にいました。ボタンを押して、一階まで降りて来るのを待ったことを憶えています」
「以上です」メイスンは言った。
デラ・ストリートが彼の腕をぎゅっと掴んだ。「鍵のことは質問なさらないんですか?」彼女はそっと尋ねた。
「今のところはね」メイスンは言った。彼の目には自信があふれていた。「これで読めたよ、デラ。機会を待とう。それでこの件は落着さ。まず、敵さんに、私らがあのアパートにいたことを立証してもらおう」
リンは言った。「シャーリー・タナーさんを喚問いたします」
証人席に着いた若い女は、メイスンとデラ・ストリートが七〇二号室の呼鈴を押した時の髪をふり乱した、神経のささくれ立った女とはまるで別人の観があった。
「シャーリー・タナーさんですね。お住いは、マンドレイク・アームズ・アパートメント七〇一号室に相違ありませんね?」
「はい、その通りです」
「そこには、どのくらいお住いですか?」
彼女はにやりと笑った。「まだ越したばかりなんです。三週間ばかり方々アパートを捜して、八日の午後にやっとまた貸しで七〇一号を借りられるようになったんです。それで、九日に越したもので、すごく草臥《くたび》れてて、ヒステリーみたいになっちゃってたんです」
「寝付かれなかったわけですか?」
「そうなんです」
「ところで、十日の夜半過ぎに、何かあなたの神経に障るようなことがありましたか? 隣のアパートの呼鈴のことで」
「そりゃあもう、神経に障るどころじゃ済まないぐらいでしたわ」
「何があったのか、正確に話して下さい」
「私、前から時々睡眠薬を使ってるんです。でも、あの晩はどういうわけか、薬が全然きかなかったんです。引越しの荷物を解いたりなんかして、私、神経が高ぶってたんだと思います。心身ともに疲れきってしまって、それでかえって眠れませんでした。
でも、一生懸命、眠ろうとして、ようやくうとうとしかけたんです。そうしたら、向かいのアパートでしきりに呼鈴が鳴って、それで目が覚めちゃったんです。大きな音じゃあないんですけど、あんまりしつこく鳴るんで私、いらいらして来ました」
「なるほど」リンは言った。「で、あなたはどうなさいましたか?」
「とうとう、私、起きてローブをはおって思いきりドアを開けてみました。真夜中すぎのそんな時間にやたらにブザーを鳴らすなんて、どういうつもりだろうって、私、頭に来てたんです。だって、そうでしょう。アパートって、すごく音がよく聞こえるんですもの。それに、ドアのところに換気装置があるんです。七〇二号室の換気装置は開いていました。私も夜の間空気を入れ換えようと思って開けていたんです。私、たかが呼鈴の音にそんなにいらいらしている自分にすごく腹が立っていました。それだけで私、眠られなくなってしまうことが自分でわかってたんです。だから私、ずっとベッドの中で我慢していました。でも、とうとう耐えられなくなって、それでドアを開けに行ったんです」
リンは薄笑いを浮かべた。「あなたは、そこで思いきりドアを開けたと言われましたね?」
「ええ、そうです」
「で、どうなりました?」
「向かいの部屋の前に人が二人立っていました」
「誰だかわかりましたか?」
「その時はわかりませんでした。でも、今はわかっています」
「誰ですか?」
彼女は思い入れたっぷりペリー・メイスンを指さした。
「被告側弁護人のペリー・メイスンさんと、隣に坐っている女の人です。秘書だと思いますけど、被告人じゃなくて反対側の方にいる人です」
「デラ・ストリート君です」メイスンが会釈して言った。
「どうも」タナーは言った。
「で」リンは勢い込んで続けた。「その二人は何をしていましたか?」
タナーは言った。「部屋へ入って行きました」
「二人がどうやってその部屋へ入ったか、あなたには見えましたか? つまり、二人がどうやってドアを開けたかという意味ですが」
「鍵を持ってたんだと思います。メイスンさんがドアを押し開けるところでした。で、私……」
「推測は控えて下さい」リンが口を挟んだ。「あなたはメイスン氏が鍵を使ってドアを開けるところを実際に見たのですか?」
「ええ、あの、音がしたんです」
「どういうことですか?」
「私がドアを開けようとした時、金属が擦れ合う音が聞こえたんです。鍵を鍵孔へ挿し込む音でした。で、私がドアを開けてみると、メイスンさんが七〇二号室へ入って行くところでした」
「しかし、あなたは、金属が擦れ合う音を聞いただけでメイスン氏が鍵を持っていたとおっしゃるんですね?」
「ええ、カチリと錠が開く音がしましたから」
「あなたはメイスン氏ないしはストリートさんに対して、何か言いましたか?」
「もちろん、言いました。それからドアを閉めて、ベッドに戻って眠ろうとしました。でも、私、あんまり腹を立てたもんで、目が冴えてしまいました」
「それから、どうなりました?」
「それから、眠ろうとしていると……ほんの何秒か後だったと思いますけど、またブザーの音がしたんです。私、もう、本当に怒っちゃいました」
「で、あなたはどうなさいました?」
「ドアを開けて、その人たちに文句を言おうとしました」
「その人たち?」リンは促すように尋ねた。
「四人の人が立っていました。さっき証言したロルストンさんていう人と、他に男の人が二人と、女の人が一人です。四人はドアの前で、しきりにブザーを押していました。それで、私、こんな時間に人のところへ来てがやがや騒ぐなんてどういうつもり、って言いました。それから、どうせお向かいには先客があるんだから、ブザーを押しても出て来ないんなら、会いたくないからだろうって、そう言ったんです」
「その時、あなたは、メイスン氏とストリートさんが廊下を立ち去るところを見ましたか?」
「いえ、見ませんでした。私、お向かいの七〇二号室が見えるだけ、ほんのちょっとしかドアを開けませんでしたから」
「なるほど」リンは言った。「しかし、あなたは、メイスン氏とストリートさんがその部屋に入るところをはっきりと見たんですね?」
「はい」
「中に入って二人はドアを閉めたんですね?」
「そうです」
「反対尋問をどうぞ」リンは勝ち誇ったように言った。
メイスンはポケットから手帳を取り出し証人席のシャーリー・タナーに近付いた。「タナーさん」メイスンは言った。「あなたは本当に私がドアの鍵孔に金属の何かを挿し込む音を聞いたんですか?」
「ええ、聞きました」
「私はあなたに背中を向けていましたね?」
「私が最初にドアを開けた時には、そうでした。でも、あなたがドアの中へ入った時、顔が見えました。あなたは肩越しに私の方をふり返ったんです」
「ああ、お断りしておきますが」リンは大袈裟に、うんざりした態度を装って言った。「証人はメイスン氏の背中を透かして何かを見るわけには行きませんでしたよ。我らが博識な弁護人は、鍵を口に銜えておいでだったのではありませんかな」
「いや、どうも恐れ入ります」メイスンはリンをふり返って言った。と、彼はいきなり進み出て、手にした手帳をシャーリー・タナーの顔にぐいと押し付けた。
証人は悲鳴を上げて飛び退いた。
リンは弾けるように立ち上がった。「何をするんです?」彼は叫んだ。
ジョーダン判事は槌を鳴らした。「メイスンさん」判事は厳しく言った。「これは法廷侮辱ですよ」
メイスンは言った。「一言説明をお許し下さい、裁判長。検察側は私の依頼人の唇紋を採りました。それによって、私は本証人の唇紋を採ることを認められたと理解いたします。もし、私が間違っておりました場合には、私は甘んじて法廷侮辱罪の責めを負う所存であります。しかし、私はこのシャーリー・タナーの唇紋を、鑑識の専門家であるベンジャミン・L・ハーラン氏に提出して、これが被害者カーヴァー・L・クレメンツの額に発見されたキスマークと同じ唇によって印されたものであるか否か、その判断を仰ぎたいと思います」
張りつめた、劇的な沈黙が法廷を覆った。
メイスンは進み出て、手帳をベンジャミン・ハーランに渡した。
証人席から恐怖の悲鳴が上がった。シャーリー・タナーが立ち上がろうとしていた。
彼女は怯えて目を剥き、その顔は土気色だった。彼女は立てなかった。膝ががくりと折れた。
彼女は体を支えようとした。そして、床に倒れた。
法廷に静寂がよみがえるのを待って、ペリー・メイスンは第二の爆弾を投じた。
「裁判長」彼は言った。「フェイ・アリスンは無実であるか、あるいは有罪であるかのいずれかであります。もし、無実であるとするならば、何者かが彼女を陥れる証拠を仕組んだことになります。何者かが証拠を仕組んだのであれば、それは、被告人の部屋に立ち入り、フェイ・アリスンの指紋の付いたグラスや歯ブラシ、歯みがきのチューブを持ち出すことができた唯一の人物の仕業であります。まぎれもなく、本件の被告の所持品であることが明白な衣類を持ち出すことができた一人の人物です。裁判長、私はアニータ・ボンサルを喚問いたします」
一瞬の沈黙が流れた。
傍聴席にいたアニータ・ボンサルは、一気に身ぐるみ剥がれて丸裸にされたような気がした。咄嗟に彼女はその場に坐ったまま、この突然のどんでん返しに何とか調子を合わせようとした。次の瞬間、廷内のすべての視線が一斉に抉《えぐ》るように彼女に集中した。
うろたえ切ったアニータ・ボンサルは、考えられる限り最も愚かな行動を取った。彼女は脱兎のごとく逃げ出したのである。
逃げ場を求める獲物を追う群集心理に促される以外の何物でもなく、傍聴人たちはどっと彼女の背後に迫った。
アニータは階段を転げ降り、べつの階段をもとめて裁判所の廊下を駆け抜けた。階段はなかった。
エレベーターが嵐の最中の波静かな入り江のように彼女を差し招いていた。
アニータはエレベーターに飛び込んだ。
「やけにお急ぎですね」エレベーターの係が言った。
恐怖に駆られながらも、アニータは僅かに理性を取り戻していた。「開廷に遅れそうなの」彼女は言った。「ええと、何階だったかしら……」
「わかりますよ」男はにっこり笑って言った。「三階です。家庭裁判所でしょう」
男は三階で滑らかにエレベーターを止めた。「これを左です。十二号法廷です」
アニータの頭は働きだしていた。彼女はエレベーターの男ににっこり笑いかけ、教えられた方向に足早に歩いて行った。ドアを開け、半ば傍聴者で満たされた法廷に入った。彼女はそしらぬ顔で中央の通路へ進み、何列かあるベンチの中程に腰を降ろした。
彼女は名もない傍聴人の一人になり済ました。彼女が群衆に追われている獲物であることを示すものは、ただ彼女の乱れた呼吸と激しい動悸ばかりであった。
やがてゆっくりと、彼女の顔から勝ち誇った微笑は消えて行った。自分がしたことの意味に気付くと、彼女の意識は衝撃に疼いた。彼女は罪を認めたのだ。世界の果てまで逃げおおせるかも知れない。しかし、彼女の罪はどこまでもついて廻るのだ。
ペリー・メイスンは、カーヴァー・クレメンツを殺したのは彼女ではないことを明らかにした。同時にメイスンは、彼女がおよそ男という男の目に、殺人よりもさらに重い罪と映るであろう行為を犯したことを明らかにしたのだ。彼女はフェイ・アリスンの名誉を踏みにじろうとした。彼女は多量の睡眠薬を飲ませることによって自分のルームメイトを殺そうとしたのだ。
メイスンはどこまで立証し得たろう? 彼女には知る由もなかった。しかし、今となっては、メイスンは何を立証する必要もなかった。彼女が逃げ出したこと自体、メイスンにとっては、彼が必要としていた一切の証拠であった。
彼女は姿をくらまさなくてはならない。しかし、それは容易なことではあるまい。夜までには、町中の新聞に彼女の写真がでかでかと載っているであろう。
シャーリー・タナーを囲む裁判関係者を残してあらかた空になった法廷では、メイスンが低い声で追求を続けていた。
シャーリー・タナーはまるで濡れ布巾のように憔悴の極みであった。彼女はメイスンの執拗な厳しい質問に答える自分の声を遠くに聞いていた。
「クレメンツが七〇二号室を借りていることを、君は知っていたね。七〇一号室をまた借りするために、君は敢えて高い部屋代を払うと持ち掛けたんだね。君はクレメンツに疑いを持った。で、こっそり見張ろうとした。そうだね?」
「そうです」シャーリーはほとんど聴き取れない声でか細く答えた。しかし、彼女の傍に控えた法廷速記者は、苦もなく彼女の答を一字一句洩らさず記録していた。
「カーヴァー・クレメンツに他の女がいること、それから、離婚が成立するまで待てという話が君を釣る餌でしかなかったことを知って、君はかっとなったのだね?」
彼女は再び答えた。「そうなんです」もはや言い逃れを考える元気もなかった。
「あの男を愛してしまったのは君の誤りだよ」メイスンは言った。「君はあの男の金が目当てじゃあなかった。それで毒を盛るようなことまでしてしまったんだ。どうやって毒を飲ませたのかね?」
彼女は言った。「私、自分の持ってたグラスに毒を入れました。私がお酒を飲んでるところを見れば、カーヴァーがものすごく怒ることはわかってました。ウィスキーを飲むと私、全然わけがわからなくなっちゃうもんですから。あの人、私は酔うと何をするかわかったものじゃないって思ってたんです。
私、グラスを持って、あの人の部屋の呼鈴を押しました。あの人がドアを開けて、私、酔ったふりをして流し目をして、そのまま部屋の中に入りました。それで、私、言ったんです、『今晩は、カーヴァーさん。これからお隣同士よ、よろしく』って。それから、私、グラスを口のところへ持っていきました。
あの人、私が思ってた通り、かっと怒りました。『このあばずれ。こんなとこでなにしてる? 酒を飲む時は、俺がお前の分も飲んでやると言ってるだろう』あの人、そう言って私のグラスをひったくって、一気に飲みほしました」
「それから、どうしたね?」メイスンは促した。
「しばらくは、何ともありませんでした」彼女は言った。「あの人、椅子のところへ戻って坐りました。私、あの人の上に屈んで、額にあのキスをしたんです。さようならのキスでした。あの人、私を見上げて顔をしかめました。それから、いきなり立ち上がってドアの方へ駆けだそうとしました。でも、足がもつれて、俯《うつぶ》せに倒れてしまいました」
「それから、君はどうした」
「あの人のポケットからアパートの鍵を取りました。後から戻ってその場を上手く細工しようと思ったんです。グラスも隠すつもりでした。でも、あの人が目の前で死んでいくのが恐くって」
メイスンはうなずいた。「君は一旦自分のアパートへ帰って、しばらく待った。もう大丈夫と思ったところがそうは行かなかった。アニータ・ボンサルがやって来たからだね?」
彼女はうなずいた。「彼女は鍵を持っていました。彼女は中に入りました。私、てっきり彼女が警察を呼ぶに違いないと思いました。今にも警察が来るかと思っていたんですけど、どうやら来そうもありませんでした。もう真夜中も過ぎていましたし」
「で、君はまた向かいの部屋へ行ったんだね。ドン・ロルストンが玄関のブザーを押した時、君は室内にいた。君は……」
「そうです。私あの部屋へ戻りました。その時はパジャマとローブに着替えて、髪を解いていました。誰かに見とがめられた時の用心に言い訳も考えていました。ドアが開いて誰かが廊下を走っていく音が聞こえたので、覗いてみたら七〇二号室のドアが細目に開いていた。それで、どうしたのかと思って中の様子を見に行ったところだ、って言うつもりでした」
「なるほど」メイスンは言った。「それは君の作り話だ。実際には君はどうしたね?」
「私、部屋へ行って、床に転がったグラスから指紋を拭き取りました。その時、玄関のブザーが鳴ったんです」
「君はどうしたね?」
彼女は言った。「私、誰かが私の考えてたとおりに証拠を仕込んでいるのに気が付きました。テーブルウィスキーの瓶とソーダの瓶、それに氷のジャーが置いてあるんです」
「それに気が付いて、君はどうしたね?」
彼女は言った。「私、すっかり怯えてたんだと思います。深く考えもしないで、ボタンを押して玄関の錠を開けちゃったんです。それから慌てて自分の部屋へ戻りました。私が部屋へ逃げこむのと、七階でエレベーターが止まる音がしたのと、ほとんど同時でした。私、はてなと思いました。玄関のブザーを押した人がそんなに早くエレベーターで七階まで来られるはずがないんです。私、じっと耳を澄ませていました。そうしたら、あなたたちが廊下を来る足音がしました。ブザーが鳴ってすぐ、私はあなたたちを追い返そうと思ってドアを開けたんです。でも、あなたももう向こうの部屋へ入りかけているところでした。それで私、咄嗟に思い付いた言い訳をしてバタンとドアを閉めました。後から四人の人がやって来た時、私はあなたたちがまだ中にいるものとばかり思っていました。それで、どうなったかと思って、覗いてみずにはいられなかったんです」
「被害者とはどのくらいの知り合いだったのかね?」メイスンは尋ねた。
彼女は悲しげに言った。「愛してたんです。離婚が成立したら一緒になろうって、あの人は言ってました。別の女の人との仲がどのくらい続いていたかは私、知りません。でも、一度おかしいな、と思ってこっそりあの人のポケットを探ってみたんです。そしたら、マンドレイク・アームズ・アパート七〇二号室っていう鍵が出て来ました。
私、やっぱりそうかって思いました。でも、はっきりとたしかめたかったんです。それで、七〇一号室の借り主にあって、断り切れないような条件で転貸の交渉をしました。
私、じっと待っていました。そしたら、あのブルーネットの人がやって来たんです。彼女は自分の鍵でドアを開けました。私、廊下に出て、ドアのところで立ち聴きしました。そしたら、あの人、私に何度も言ったのとまるで同じ話を、彼女にもしていました。私、あの人を憎みました。あの人を殺しました。……それで、御覧の通りです」
メイスンはスチュアート・リンをふり返って言った。「いかがです、検事。カーヴァー・クレメンツ殺害の犯人はこの人です。しかし、陪審としても、故殺以上の判断を下すわけには行きますまい」
リンはすっかり鉾をおさめて言った。「メイスンさん、どのようにして本件の真相を解明されたか、お話しいただけますか?」
メイスンは言った。「クレメンツの鍵は失くなっていました。アパートに入った時は持っていたはずですから、殺人犯人がそれをポケットから持ち去ったと考えなくてはなりません。何故か? 彼ないしは彼女が現場に戻るためです。もし、ドン・ロルストンの証言が本当だとすれば、その何者かはロルストンが正面玄関の呼鈴を押した時に室内にいた人物であるはずです。応答ボタンを押して、玄関の鍵を開けた、その人物に違いありません。
その人物はそれからどうしたでしょうか? わたしがあの廊下を歩いていたのは、ロルストンが玄関のブザーを押した直後だったはずです。にもかかわらず、私は七〇二号室から誰かが出て行くところを見ていません。となると、これは明らかに、呼鈴に応えてブザーを鳴らした人物は、一瞬のうちに近くの別の部屋に逃げ込むことのできる者でなくてはならないことになります。
魅力的な若い女性が、ほんの前日に向かい側のアパートに移ってきたという事実が明らかにされた時、答えはあまりにも明白で、すべてはもはや謎ではなくなりました」
スチュアート・リンは感にたえてうなずいた。「辻褄は合いますね」彼は言った。
メイスンはブリーフ・ケースを取り上げると、デラ・ストリートをふり返ってにっこり笑った。「さあ行こう、デラ。フェイ・アリスンを連れて……」
彼はフェイ・アリスンの顔をふと見て言葉を切った。「君、口紅はどうした?」彼は尋ねた。
メイスンは彼女の傍に立っているデーン・グローヴァーに目を移した。デーン・グローヴァーの顔は、口を斜めに跨《また》いだ真っ赤な口紅の跡に汚れていた。
メイスンが鑑識の専門家ベンジャミン・ハーランにフェイの唇紋を採ることを要求した時にこってりと塗りつけた口紅を、彼女は拭き忘れていたのだ。デーン・グローヴァーの口に彼女が押し付けた真っ赤な口紅の後は、審理の進行とはいかにも場違いな印象だった。
階下では野次馬根性を丸出しにした群衆が猟犬の群のようにアニータ・ボンサルの行方を嗅ぎまわっていた。法廷では決して犯罪を見逃すことのない法の長い腕が、シャーリー・タナーをがっきと抱きすくめようとしていた。悲劇の舞台の中央で、フェイ・アリスンとデーン・グローヴァーの愛は中断されたところに帰って再び燃えはじめようとしていた。
ランドルフ・ジョーダン判事の槌の音が彼らを厳粛な法廷の現実に引き戻した。
「本官は」ジョーダン判事は言った。「フェイ・アリスンに対する訴追を棄却する。本官はシャーリー・タナーの勾留を命じ、併せて、地方検事は然るべき訴因をもってアニータ・ボンサルを起訴するようここに勧告する。なお、本官は被告人フェイ・アリスンに対し、衷心より陳謝の意を表するものである。また、本官は個人として本件を鮮やかに解明されたペリー・メイスン氏に讃辞を呈したい」
ジョーダン判事は厳しい目つきでデーン・グローヴァーの口紅に彩られた顔を見た。判事の口の端に微かな笑いが浮かんだ。
今一度槌が鳴った。
「これにて閉廷」ランドルフ・ジョーダン判事は言った。
燕《つばめ》が鳴いた
ペリー・メイスンが彼のウォールナットのデスクの椅子に深々ともたれて最近の最高裁判決を読んでいるところへ、外のオフィスから秘書のデラ・ストリートがやって来て、手の切れるような百ドル札を十枚そっと吸取紙の上に置いた。
判決を読むことに没頭していたメイスンは顔を上げようともしなかった。
デラ・ストリートは言った。「依頼人の名刺ですよ、これ」
メイスンは回転椅子の中で上体を起こし、はじめてデラ・ストリトーがきれいに並べた紙幣に気付いた。
「名前は現金《キャッシュ》ですって」デラ・ストリートは言った。
メイスンはにやりと笑った。「どんな人だ? そのキャッシュさんていうのは?」
「|床を歩きまわる人《フロアウォーカー》です」
メイスンは眉を高く上げた。「売場主任《フロアウォーカー》だって?」
「いいえ、デパートのフロアウォーカーじゃありません。床を歩きまわるんですよ、先生と同じで。何か心配事があると、部屋の中を行ったり来たりするんです。今も向こうの部屋で室内マラソンの最中なんですよ。身なりは上等だし、かなりの地位の人だと思います。少し足が不自由なようですけど、とっても陽焼けしていて……私、どこかで見たことがあるような気がするんです。あ、思い出した。写真で見たことがあるんだわ」
「誰だ?」
「クロード・L・ウィネット少佐。ポロが得意で、ヨットマンで、お金持ちのプレイボーイですよ。戦争中はプレイボーイは一時お預けにして、戦闘機に乗ってたんです。ドイツの飛行機をずいぶん墜《お》としたんですって。でも、捕虜になって、去年の秋に釈放されて、傷病除隊になって、少佐をとても可愛いがってらっしゃるお母さまのところへ……」
メイスンはうなずいた。「その人のことなら、私も何かで読んだ憶えがある。表彰されたか何かしたことがあったね。結婚したんじゃなかったかな?」
「四、五週間前でしたね」デラ・ストリートは言った。「その時、新聞の写真で私、はじめて顔を見たんです。それから、先週、社交欄の特集に、ウィネット家の探訪記が出てましたでしょう。昔の荘園ふうの、すごいお屋敷ですってね。厩にはポロの小馬がいて、乗馬用の小径も森もあるし、自家用のゴルフコースがあって……」
「通してくれ」メイスンは言った。「誰だかわかってるって断った方がいい。時間の節約だよ」
見るからに健康そうに引きしまって、ブロンズ色に陽焼けしたウィネット少佐は神経質な様子でデラ・ストリートに案内されて来た。軽い跛《びっこ》よりも、彼の興奮と不安の入り混った態度の方が目立っていた。抑制のきいた声音と、一見して上流の人種とわかる物腰はそれだけ彼の感情の乱れを強調しているようであった。
「メイスンさん」部屋に入りなり、彼は言った。「私の正体は伏せておいて、あなたには別の依頼人の件としてお話ししたかったんですがね。秘書の方に見破られてしまったとあっては仕方ありません。すべてあり体《てい》に申し上げましょう。家内が失踪しました。あれはあなたの助けを必要としています。何か面倒に巻き込まれているんです」
「一通りお話を伺いましょう」メイスンは言った。
ウィネット少佐はポケットから一通の手紙を取り出してメイスンに渡した。
弁護士は手紙に目を通した。
愛するクロードへ。私、あることにかかわりあいになっていますけれど、あなたを巻き添えにすることはできません。何とか切り抜けられると思っていたのですが、どうやらそうは行かなかったようです。あなたと暮らした間、私、本当に幸せでした。でも、幸せは儚《はかな》いものです。どうか何も心配なさらないで下さい。これは私の責任です。私に対してあんなによくして下さったあなたに迷惑をかけるようなことはしないつもりです。さようなら、マイ・ダーリン。マーシャ。
「私の責任ということと、よくしてくれたあなたに迷惑をかけるようなことはしない、というのは、どういう意味ですか?」メイスンは尋ねた。
ウィネット少佐は動揺を示して言った。「私の結婚は、必ずしも母の意向にかなったものではありませんでした。母の反対を押し切って、私はどんどん話を進めてしまったんです」
「はっきりと、口に出して反対なさったんですか?」
「いえいえ、そんなことはありません」
「しかし、奥さんはそれを知っておいでだった?」
「女の勘というやつですよ、メイスンさん。どうか、あれを捜し出して、その面倒とやらを片付けてやって下さい」
「それで、結果をあなたに知らせろ、と言うことですか」
「その通り」
メイスンは首をふった。
しばらくの間、二人は口をつぐんだ。微かな車の音と、依頼人の息の音だけが静寂を破っていた。やがて、ウィネット少佐は言った。「いいでしょう。一切あなたにお任せします」
「奥さんが出て行かれたのはいつですか?」
「ゆうべです。夜中に、これがドレッサーの上に置いてありました。私はあれが先に休んだものとばかり思っていました」
「奥さんは、外部からの影響を受けるような、いわば弱味を持っておいででしたか?」
「強請《ゆす》られる種があったか、ということでしたら、それは断じてありません」
「だとすると、あなたに問題を打ち明けられない事情というのは、どういうことですか?」
「私の母は少々変わり者でしてね。父は十年ちょっと前に亡くなりましたが、以来、自分一人で家を切りまわして来ました。母は過ぎ去った時代に生きているのです。考え方も、えらく古風でして」
「厳格でいらっしゃるわけですね」メイスンは尋ねた。
「厳格というよりは、むしろ……そう、上流意識といいますか、自分たちは金持ちの貴族であるというような意識の持ち主なんです。私が誰か、同じような家柄の相手を妻に迎えていれば、母はもっと喜んだろうと思います」
「例えば、どんな人ですか?」
「いや、特に誰ということではありませんよ」ウィネット少佐は慌てて言った。
「それは承知しています。だからこそ、お尋ねするんですよ」
「そうですね、例えば、ダフニー・レックスフォードのような」
「奥さんが家を出られた原因はそれだとお考えですか?」
「いえいえ、直接にはそうではありません。母はマーシャを家族の一員として認めていましたから。私の結婚を母がどう考えていたかは別として、マーシャは今では私どもの……つまり、ウィネット家の人間です」
「今、直接にはそうではない、とおっしゃいましたが、それはどういう意味ですか?」
「マーシャはどんなことをしてでも、私の名前が出ることを防ごうと考えたに違いありません。母がどう感じるかを、あれは知っておりましたから。私どものところはですね、メイスンさん、だだっ広い、昔の荘園領主の住まいのようなところでしてね。地所のまわりは生垣でして、専用の馬道があります。その上、高い鉄柵をめぐらせて、門には錠がおりています。立入禁止の札まで出ているといった具合ですよ。世の中が母の気に入らない方へ進めば進むほど、母は好みに合わないものを自分の生活から閉め出そうとするふうです」
「この二、三日の間に、特に変わったことはありませんでしたか?」メイスンは尋ねた。
「火曜日の夜、泥棒が入りました」
「何か盗られましたか?」
「家内の宝石をやられました。二万五千ないし三万ドル相当と思います。もっとも、始末しても、それだけの金にはならないでしょうがね。保険をかけていた時には、一万五千ドルの評価になっていましたから」
「かけていた時には?」メイスンは問い返した。
「そうなんです。家内は保険を解約しましてね。それが、実は何と泥棒にやられる前の日にですよ」
ウィネット少佐はいかにもやりきれないといった目つきで弁護士の顔を見た。
「保険を解約して」メイスンは言った。「その翌日に盗難があったんですね?」
「そうです」
「繋がりがあるとは思えませんか?」
「断じてそれはありません」ウィネット少佐は急《せ》き込んで言った。「家内が保険を解約した理由はいちいちもっともでしたから。アパートやホテルを転々としていた頃には、あれは保険証を肌身はなさず持ち歩いて、高い掛け金を払っていました。宝石を手許に置いておきたかったし、飾りたかったからです。しかし、私と一緒になって、ヴィスタ・デル・マールで暮らすことになった以上、もう高い掛け金を払う必要もなかろうというわけです」
「盗難のことを、もう少し詳しく話してください。それから、警察に届けなかった理由も」
「届けなかったことをどうして御存知なんですか?」
「顔に書いてありますよ」メイスンはそっけなく言った。
「それは、いつにかかって、母のことを考えたからに他なりません。つまり、その、新聞というやつは、いろいろと余計なことを書き立てますから……」
「盗難の状況をお聞かせ下さい」メイスンは言った。
ウィネット少佐は慎重に言葉を選びながらポツリポツリと話した。「私はぐっすりと眠る方でしてね、メイスンさん。ところが、家内は眠りが浅いんです。火曜の夜、私は家内の悲鳴で目が覚めました」
「何時頃ですか?」
「その場では時計を見ませんでした。でも、しばらくしてから見ました。それから逆算すると、かれこれ一時十五分前頃だったと思います」
「床に入ってからどのくらい経っていましたか?」
「休んだのは十一時頃です」
「で、あなたは奥さんの悲鳴を聞くまで、眠っておられたんですね?」
「それがですね、実は、はっきりと憶えてはいませんが、燕の鳴くのをきいたような気がするんです」
メイスンは眉を持ち上げた。
「サン・ファン・カピストラノ教会の、例の有名な燕のことは、もちろん御存知でしょう?」ウィネッ少佐は慌てて言葉を足した。
メイスンはうなずいた。
「燕が巣を架けるのは、何もあの教会に限ったことじゃあないんです。ただ教会の燕ということで名物になっているだけでしてね。何しろ燕というやつは、決まった日にやって来て、決まった日に帰って行きますからね。来年はいついっかの何時に来るというところまでわかるんではないかと思うほどですよ。不思議なもんですね。どうやって日付がわかるんでしょうか。毎年毎年きちんと渡って来るというのは、実に大した……」
「つまり、お宅にも燕がいるわけですね?」メイスンは相手を遮って言った。
「そうなんですよ。これがどうも厄介なものでしてね。庇《ひさし》に泥の巣を架けるんです。巣をこしらえているところを見付けると、庭師が叩き落としますが、時には庭師の目をかすめて巣をつくるやつがいます。巣ができてしまった時にはそっとしておくことにしているんです。というのは、巣を作るとすぐに卵を産むからです」
「それで」メイスンは先を促した。
「実は、家の燕が選《よ》りによって妙なところへ巣を架けましてね。ヴィスタ・デル・マールの母屋は白壁に瓦屋根の大きなスペインふうの造りなんですが、私の寝室は二階で、バルコニーが張り出しています。瓦屋根がそのバルコニーの端まで伸びていまして、その軒《のき》のところに燕の巣があるんですよ。バルコニーの手すりに登ったら、ほんの数フィートのところです」
「実際、誰かがその手すりに登ったんですね?」
「それはもう、明らかです。横の壁に梯子がかかっていました。泥棒はそれを登ったんです。それで燕を驚かしたわけですよ。燕は喉を絞るような声でキイキイ鳴きました」
「それが聞こえたんですね?」
「事実聞こえたか、さもなければ、聞こえた夢を見たかです。家内は憶えておりません。私よりはずっと眠りが浅いんですが。いや、私はやっぱり本当に聞こえたと思います」
「その後、また眠られたんですね?」
「どうやらそのようですね。ぐっすり眠っていたところを、燕の騒ぐ声に起こされて、でも、はっきりとは目が覚めませんでした。すぐまた、うとうとして、そのうちに眠り込んでしまったんです。そこへ今度は家内の悲鳴で起こされました」
「奥さんは泥棒を見たんですか?」
「部屋の中の物音で家内は目を覚ましたんだそうです。ドレッサーの前に男が立っていました。家内は私が何か用事でそこへ行ったんだろうと思って声をかけようとしました。で、ひょいとふり返ってみると私はちゃんと床に寝ていた……」
「そこまで見えるほど明るかったんですか?」
「ええ。月明かりで」
「で、どうしました」
「男は人の動く気配に気が付きました。ベッドのバネの音でもしたんでしょう。ぱっとバルコニーへ飛び出したそうです。家内は悲鳴を上げました。それで私は目を覚ましました。でも、しばらくぼうっとしていて、自分がどこにいるのかも何事が起きたのかもわかりませんでした。その時には、すでに男は影も形も見えなくなっていました」
「燕はその男に驚いて鳴いた、とお考えなんですね?」
「そうです。バルコニーの手すりを乗り越えて侵入したに違いありませんから、その時巣に触るか何かしたんでしょう」
「奥さんが保険を解約なさったのは、いつですか?」
「月曜の午後です」
メイスンは鉛筆を弄《もてあそ》びながら、ふいに尋ねた。「月曜の朝、何がありましたか?」
「四人揃って朝食をしました」
「四人?」
「母の看護婦で、ヘレン・カスターというものがおるんです」
「御母堂はご病気ですか?」
「心臓が悪いんです。医者が住み込みの看護婦を付けるように勧めまして」
「もう長いことになりますか?」
「三年です。今では家族同様になっております」
「食事の後、皆さんどうなさいましたか?」
「私は手紙を何通か書きました。母は……どこで何をしていたか、私は知りません。マーシャは乗馬に出掛けました」
「どこへ?」
「さあ、それは知りません。地所の中の馬道のはずですが」
メイスンは言った。「たしか、日曜の夜は雨でしたね」
ウィネット少佐はいぶかしげに彼を見た。「それとこれと、どういう関係があるんです?」
「いや、別に」メイスンは言った。「それから、どうなりましたか?」
「これと言って、何事もありませんでした。家内は十一時頃戻りました」
「保険を解約するとおっしゃったのは、いつですか?」
「昼食の前です。家内は保険会社に電話して、その後解約を確認する手紙を書きました」
「奥さんの態度にどこかおかしいところがあったとか、そんなことで何か気が付かれませんでしたか?」
「いえ、何も」ウィネット少佐は、メイスンのその質問を待ち受けてでもいたかのように、即座に答えた。
メイスンは言った。「ええと、今十時半ですね。ドレイク探偵事務所のポール・ドレイクに連絡して、まずお宅から調べることにしましょう。十一時頃ここを出ます。奥さんの失踪を、御母堂は御存知ですか?」
ウィネット少佐は咳払いした。「母には、家内は友だちのところへ行ったと言ってあります」
「私どものことをどう説明されますか?」メイスンは尋ねた。
「何人でおいでになりますか?」
「秘書のストリート君と、探偵ポール・ドレイク、私、それに、たぶんドレイク氏の助手が一人伺うことになると思います」
ウィネット少佐は言った。「私、ある鉱山の仕事に関係しています。母には、その方面のことであなたがたからいろいろと助言をもらうということにしておきましょう。探偵事務所の人は鉱山の専門家にされても文句は言わないでしょう」
「ええ、それはもう」
「家へ来られて……しばらく滞在されることになりますか?」
メイスンはうなずいた。「そうさせていただければ好都合ですね。それから、奥さんの写真と、特徴を伺っておくことが必要ですね」
ウィネット少佐は内ポケットに持っていた封筒から十数枚の写真を出して並べた。
「写真は用意してきました。スナップ写真ですが。家内は二十五歳で、髪は赤。目は青みがかった灰色。身長五フィート二インチ。体重百十五ポンドです。戸棚に残っていた服から判断する限り、家を出た時には、灰色のチェックのスーツを着ていたようです。ああ、この写真の服です」
メイスンは写真をひと渡り見て、封筒に手を伸ばした。「わかりました。お宅へ伺います。先へいらっしゃって、必要な準備をなさって下さい」
シルヴァー・ストランド・ビーチの町は岬が外海からの風を遮る、穏やかな入江に面していた。ウィネット家の地所は岬のほぼ全域を占め、いかめしい「立入禁止」の立札を伴う高い鉄条網の柵は二マイル半におよんでいた。五百フィートの眼下に海を見下ろす崖の緑のスペイン風の建物は四方の眺望をほしいままにしていた。
メイスンの車は砂利を敷き詰めた馬車道の最後のカーブを滑らかに曲がって豪壮な屋敷の正面に止まった。ポール・ドレイクに向かってメイスンは言った。「保険を解約したことが、少佐の奥方が考えを行動に移した最初だろうと思うんだ、ポール。月曜の朝の乗馬はどうやらそれと関係がありそうだな」
ポール・ドレイクの職業的なたるんだ顔は何の表情も示さなかった。「何か心当たりはあるのかい、ペリー?」
「日曜の夜は雨だった」メイスンは言った。「あれからこっち、降ってない。足跡を見付ければ、奥方の馬の足どりがわかるんじゃないかね」
「こいつは参ったな。馬に乗らなきゃあならんのか」
「そうさ。馬丁に、馬に乗りたいって言ってさ、馬道を訊くんだ」
「馬に乗ると俺はなにも見えなくなっちまうんだ」ドレイクは尻り込みした。「馬が歩くと体が跳ねる。体が跳ねると物が二重に見える」
「適当なところまで行って屋敷から見えなくなったら、降りて馬を引っぱればいいじゃないか」
「私はどうするんですの?」デラが尋ねた。
「看護婦に接近してみてくれないか」メイスンは言った。「それから家の中を一通り見ておくことだな」
ウィネット少佐は直々に彼らを出迎えた。てきぱきと彼らを中に通して母親と看護婦のヘレン・カスターに紹介した様子から、ウィネット少佐がすでに話を通していることが察しられた。ドレイクがもっともらしい顔で、馬となるともう夢中だと言って厩へ向かった後、ウィネット少佐はメイスンを案内して屋敷をひとまわりした。
階上の廊下で二人きりになると、ウィネット少佐は早口で低く尋ねた。「特に御覧になりたいところはありますか?」
「建物全体をまず頭に入れておきたいですね」メイスンは慎重に答えた。「とりあえず、あなたのお部屋からご案内いただきましょうか」
ウィネット少佐の寝室は南向きだった。ガラス戸がバルコニーに向かって開き、その向こうに陽光に漣《さざなみ》の揺れる海が見えていた。
「あれが例の燕の巣ですね?」メイスンはバルコニーの上に張り出した瓦屋根の軒端に見えているひょうたんのような泥の塊を指さして尋ねた。
「そうです。梯子を登ってきた泥棒が……」
「梯子ははじめからここにあったんですか?」メイスンは尋ねた。
「そうです。職人が寝室の横の窓ガラスを入れ替えているところでしてね。次の朝仕事を終えるつもりであの晩、梯子をそのままにして帰ったんでしょう。いい加減な話です」
「だとすると」メイスンは言った。「その泥棒はかなり行き当たりばったりのその場主義ですね。自分の梯子は用意していないんですから」
「ああ、そういうことらしいですな」
「それに、どうやらお宅の事情に詳しい者の仕業ですね。使用人はどうです?」
「何とも言えませんね」ウィネット少佐は言った。「特に近頃の世の中では。しかし、家にいる者たちは、まず大丈夫だと思います。母は使用人の待遇を非常に良くしていますし、皆この家は長いですから。ただ、母は使用人に対しては非常に厳しく、時々、追い出したりすることもないではありません」
「この岬は、事実上そっくりお宅の地所なんですね?」
「ほとんどはそうですが、全部ではないんです。これから望楼に上がりますが、そこでお目に掛けましょう。大ざっぱに言って、岬の約四分の三が家の土地です。岬のはずれは郡が一般に開放しているキャンプ場になっています」
「一般の人たちは、お宅の土地を通らずにそのキャンプ場まで行けるわけですか?」
「ええ。家の柵は森に沿って伸びています。実に見事な樫の木が並んでいましてね。ピクニックには絶好の場所ですよ。ところが、行楽客は紙くずだの食べかすだのを散らかして困ります。岬のはずれの公共キャンプ場まで行くように説得に努めてはいるんですが」
「すると、夜ここへ来た者があるとすれば、それは外部からの侵入者だということですね?」
「そういうことです」
「敢えてそれだけのことをするからには、何かはっきりとした目的があったはずですね。だとすれば、多少とも知恵のある人間なら、目的を果たすための方法を事前に考えたでしょうね」
「ええ、それは、そうでしょう」
「となると」メイスンは言葉を重ねた。「押し入りを働いたのは、ここに梯子がかかっていることを知っていた者か、さもなければ内部の者ということになりますね」
「しかし、ここに梯子があることがどうして外の人間にわかったんでしょうか?」
メイスンは言った。「ここから、ピクニック・グラウンドやキャンプ場が見えるのならば、向こうからもこの家は見えるはずでしょう」
「ええ、この家はちょっとした目印ですからね。何マイルも先から見えます」
「例えば、夕方誰かがこの家を見て、壁に梯子が立てかけたままになっているのに気が付いたとしてですよ。あれを登ってみたら何かいいことがありはしないかと思ったかも知れませんね」
「ええ、そういうことは考えられます。しかし、メイスンさん、宝石の盗難と家内の失踪が、関係があることとはどうしても思えませんよ」
「関係のないことかも知れません」メイスンは言った。
最後に彼らはウィネット少佐のいわゆる望楼に登った。
十五フィート四方ほどの鐘楼のような部屋で四面は残らずガラス張りだった。中央に三脚があり、雲台の上に十八倍の双眼鏡が据えられていた。双眼鏡はどの方向にも自由に回転、固定することができた。
「昔は」ウィネット少佐は説明した。「このあたりを商船がたくさん通りましてね。よくこれで船を見て楽しんだものです。御覧の通り、この双眼鏡はどこでも好きな方向へ向けられますから。ちょっと、町の方を……」
「ああ、待って下さい」双眼鏡に手を伸ばそうとするウィット少佐をメイスンは鋭く制した。
「今、森の方に向いていますね。ちょっと覗いてみて構いませんか」
メイスンは倍率の高いプリズム双眼鏡に目を押し当てた。右の視野は焦点がぼやけて何も見えなかった。左の視野は大きな柏の陰の暗くなったあたりを捉えていた。その付近で小径は台地を跨《また》いで小さな谷に落ち込み、大きく弧を描きながら再び視野に浮かんで岬の突端のキャンプ場の方へ伸びていた。
「真ん中のつまみで焦点を合わせるようにはなっていませんでね」ウィネット少佐は言った。
「左右の接眼レンズを別々に調節するんです。たぶん……」
「ああ、なるほど」双眼鏡から目をはなしてメイスンは言った。
「こうするんですよ」ウィネット少佐は手を伸ばした。「こいつを回せば……」
メイスンは穏やかに、しかし強くその手を押さえた。「ちょっと待って下さい、少佐。右の接眼レンズはどうなっていますか」
「誰かいじくったな。全然、焦点がずれている」少佐は言った。
「左はゼロのメモリに合っていますね。つまり、正常な視力ならこれでいいわけですね」メイスンは言った。「ところが、右の方はマイナス五です。この目盛りは、見る人がそれぞれ自分の視力に合わせてあらかじめ調節できるように刻んであるんでしょう」
「そうでしょうな。数字は屈折率ですよ」
「マイナス五ではまるでぼやけてしまう……」
「これは調節したわけじゃあないでしょう」少佐が脇から言った。「誰かが何となく動かしただけですよ」
「まあいいでしょう」メイスンはそう言って目盛りをゼロに戻した。「ああ、これでよく見える」双眼鏡を覗いて彼は言った。
木陰の暗がりとしか見えなかったあたりの細部がはっきりとわかった。
メイスンは双眼鏡をピクニック・グラウンドの方へ向けた。石を組んだバーベキューのかまどと、テーブルや椅子が並んでいた。その向こうに、木の間越しに外海の波が光っていた。
「あそこは砂浜ですか?」メイスンが尋ねた。
「いや、砂浜じゃあありません。でも、磯釣りには持って来いの場所ですよ」
メイスンは再び双眼鏡の向きを変え、木立の間で道幅が広くなっているところを視野に捉えた。「あそこでピクニックをする連中がいるわけですね?」
「ええ、時々」
「あそこから、双眼鏡を使ったら、ここは実によく見えるでしょう」
メイスンはウィネット少佐が屋敷を出て厩の方へ向かうのを見届けた。彼は自分の部屋のドアをそっと開け、廊下伝いにウィネットの寝室へ行くと、バルコニーへ出て手すりに登った。
燕の巣の入口は小さくて、彼の手は入らなかった。彼は人差指と親指で乾いた土を掻き取って穴を拡げた。
巣の中で微かに羽根をふるわせる音がした。小さな嘴がメイスンの指を突ついた。
たちまち親燕の番《つがい》が怒りの声を発しながらやって来て、メイスンの頭のまわりをせわしなく飛びまわった。メイスンはそれには構わず、素早く穴を拡げて、巣の中に手を入れた。綿毛に包まれた柔らかい雛が手に触れた。その下を探ってみたが巣の底の土の窪みがあるばかりだった。
メイスンはそんなはずではないと言わんばかりに眉をしかめた。彼は雛たちをそっと脇へ押しやって、なおも指先で巣の中を探った。やがて彼は眉を開いた。指先に何やら硬い金属らしきものが触れた。
取り出してみると、エメラルドとダイヤモンドのブローチが陽を受けてきらきらと輝いていた。
メイスンはすかさずそれをポケットに入れ、燕の猛攻撃から身をかわしてバルコニーに飛び降り、寝室へ戻った。
寝室に入ると、彼は機敏な動作で、小さなものを隠すことができそうな場所を残らず調べた。戸棚の奥の総革製のガン・ケースに高価なショット・ガンがあった。メイスンはショット・ガンの銃腔を覗いた。銃腔と銃尾に近いあたりに油を染ませたボロ切れが詰めまれていた。
メイスンは持っていたナイフでボロ切れをこじり取った。銃身を傾けると彼の掌に宝石がざくざくとこぼれ落ちた。指環。イヤリング。ブローチ。ダイヤモンドとエメラルドのネックレス。
メイスンはそれらを元に戻してボロ切れを詰め、革ケースにショット・ガンをおさめて戸棚の奥に押し込んだ。
戸口でしばらく耳を澄ませてから、彼は大胆にドアを押して廊下に出、自分の部屋に向かって歩き出した。
廊下を中程まで行きかけると、十字に交わった廊下の角を曲ってヴィクトリア・ウィネット夫人が姿を現わし、悠揚せまらぬ威厳のある態度で彼の方にやって来た。
「何かお捜しでいらっしゃいまして、メイスンさん?」彼女の方から声をかけた。
メイスンは含むところのない笑顔を見せて答えた。「お部屋の配置などをよく頭に入れておこうと思いましてね」
ヴィクトリア・ウィネットは古風を絵に描いたような老婦人だった。目の下の皮膚は袋のようにたるみ、顔は皺だらけであった。しかし、一すじの後れ毛もなく丹念に結い上げた髪や、マッサージをして厚く白粉を塗り、ルージュを引いたその顔は、彼女が容色をいかに重んじているかを物語っていた。彼女の態度物腰はどっしりとした重みがあった。後にデラ・ストリートが言ったように、彼女には今しも粛然として接岸しようとする外航船の風格があった。
もし彼女が登場のきっかけを充分に稽古し、権威をもって相手を叱責する、狙い通りの演技を身に付けていたならば、ヴィクトリア・ウィネット夫人は科白《せりふ》一つとちることもなかったはずである。「息子が御案内いたすように申しておりましたけれど」彼女はメイスンと並んで歩きながら言った。
「ええ、それはもう済みました」メイスンは気さくにくだけた口ぶりで言った。「ただ自分でもう一度拝見しているだけですよ」
「あなた、メイスンさんでいらっしゃいますか?」
「ええ、そうです」
「新聞などでいろいろ拝見しておりますけれどあなた裁判が御専門のようですことね」
「はあ」
「殺人事件の裁判ですの?」
「いや、他にもいろいろな事件を手掛けてはいますが、殺人事件というのはどうしても派手な話題になるものですから」
「そうですか」まるで何もわかっていない口ぶりで彼女は言った。
「結構なお住いですね」メイスンは言った。「この上の望楼がとても面白いと思いました」
「主人の考えで作りましたの。あそこにじっと坐っているのが好きで。燕がいやに鳴いていませんでしたかしら?」
「ええ、私も聞こえたように思います」メイスンは言った。
彼女はじろりとメイスンを見上げた。「巣を架けさせないようにはしておりますんですけれども、時々、巣ができてしまうまで庭師が気付かずにいることがあるんですのよ。そんな時は雛が孵るまでそっとしておきますの。燕の雛ときたら、それはおしゃべりで賑やかですわ。朝早くから、もう大変。おじゃまにならなければよろしいんですけれど。あなた、よくお休みになるほうでいらして、メイスンさん?」
二人は階段の降り口にさしかかっていた。ウィネット夫人は明らかに階段を降りる意志はなかった。メイスンはそれをしおに会話を打ち切ることにした。
「友人のドレイクが馬を見に行っております。私も行ってみようと思いますので、この辺で」
彼はにっこり笑って軽やかに階段を駈け降りた。
中庭に出るとデラ・ストリートが意味ありげに目くばせをして、さりげない様子で馬車道に駐めてある車に乗り込んだ。
メイスンは彼女の後に続いた。「ポール・ドレイクは何か見付けたらしいな」彼は言った。「これから行って話を聞こう。今、馬車道を戻ってくるところだよ。君の方はどうかね?」
「看護婦のことで、いくらかお話しできますわ、先生」
「ほう」
「まず、これは女の直感ですけどね、あの人、少佐を慕ってるんじゃないかしら。先生、しょせんかなわぬ恋と知って、遠くから少佐を崇拝してるみたい。それからね、あの人、何か賭け事をしてるらしいんです」
「競馬か?」
「さあ、どうかしら。私、先生たちがいらしたすぐ後、あの望楼へ行ってみたんです。あそこの小さな机の抽斗に便箋がありました。最初、何も書いていないと思ったんですけど、傾けてみたら、光線の加減で、硬い鉛筆で書いたらしい跡があるんですよ。上の一枚がめくり取ってあるんですよ」
「でかしたぞ。何が書いてあった?」
「何か、賭事の数字です、きっと。実物を持って来るわけにもいかないんで、私、写して来ました。ええと……最初の一行に『以下の番号』とあって、その下に『コールあり(Called)』。それから、その下に一行あけて、5"5936 あと続けて順に 6"8102 7"9835 8"5280 9"2640 10"1320 」
「他には?」メイスンは尋ねた。
「それから一本線があって、下に、49"37817 宝籤かなにかじゃないかしら。ウィネット夫人が最近あの望楼に上がってるようですけど、あの方が賭事をなさるとは思わないでしょう。だから、きっと、あの看護婦が書いたんだろうと思います」
メイスンは何やら考えありげに言った。
「最後の三つの数字を見てごらん、デラ。5280 2640 1320 ――何か気が付かないか?」
「さあ、何かしら?」
メイスンは言った「一マイルは五二八〇フィートだ」
「ああ、わかった」
「次の数字は二六四〇フィート。半マイルだ。最後が一三二〇フィート。四分の一マイル」
「そうですね。わかりました。その前の印はインチですね?」
「そう、インチの記号だよ。看護婦っていうのは、どんな感じかね、デラ? 私はちらっと見ただけだからね」
「髪の毛を真っ直ぐに垂らして、眼鏡なんかかけてて、すごく野暮ったいように見えますけどね、とってもきれいな目をしてるんですよ。少佐の名前が出ると、その目がきらっと光るの。私の観察では、あの人、かなりの美人だわ。でも、それが目立つと、ウィネット夫人にお払い箱にされちゃうでしょう。だから、少佐の傍にいられるように、彼女わざと野暮ったく見せてるんですよ」
「しかしねえ」メイスンは言った。「君は一時間半かそこいらでそれを見抜いたんだろう。ウィネット夫人はどうなんだ? そこへ気が付いていないのか」
「知ってると思います」
「知っていながら馘《くび》にしないのか?」
「ええ。彼女が少佐に土下座してる限り、婦人は問題にしないんだと思います。でも、彼女が顔を上げて少佐を見るようなことは許さないんです。私の言う意味、おわかりかしら」
「ああ、わかるよ」メイスンは考えながら言った。「それに、そいつは気に入らんね。おっと、ポールが来た」
ドレイクがぎくしゃくとした足取りで二人のところへやって来た。
「何か見付けたか、ポール?」メイスンが尋ねた。
「あったよ」ドレイクは言った。「役に立つかどうか、何とも言えないがね」
「とにかく話せよ、ポール」
「まず第一にだね」ドレイクは言った。「馬の足跡はすぐわかった。下の道を行ったんだ。四分の一マイルばかり行くと、その先は馬一頭が往復した跡だけだった。地面が柔かい時に歩いた跡だな。錠のおりたゲートのところへ行ってる。俺は鍵を持ってなかったがね、向こうの足跡はゲートの外の道まで続いているから、馬を繋いで、柵の間を潜って出てみたよ」
「木の繁ったあたりに何か跡があったか、ポール」
「車が駐まった跡があるよ」ドレイクは言った。「二台いたらしいな。そうとしか思えないんだがそれにしても、もう一つはっきりしないんだ」
「と言うと?」
ドレイクはポケットから一冊の小さな手帳を取り出した。「こいつは現在出回っている、あらゆるメーカーのタイヤのトレッド・パターンを集めたものなんだがね。駐まっていた一台のタイヤはかなり新しいんだ。一つだけ、すり減ってよくわからなかったんだが、まず右の前輪がわかってね。それから反対のやつを見付けて、後輪の片方もわかった。……ところがなんだ、ペリー。そのあとがいけない」
「どういうことだ?」
「そりゃあな、地面の跡からタイヤの位置関係を判断するのはなかなか厄介だってことは俺もわかっているがね。それにしても……」
「何が言いたいんだ?」メイスンは尋ねた。
「だからさ、ペリー。車輪が三つあるんだよ」
「あとの一つはすり減ってるやつだろう」
「いや、そうじゃないんだ、俺が言いたいのは。片側に車輪が三つあるんだよ」
メイスンは眉を寄せてドレイクを見た。「片側に車輪三つ?」
「片側に三つなんだ」ポール・ドレイクはこだわった。
メイスンはやや急《せ》き込んで言った。「ポール、地面に丸い跡がなかったか? 直径八インチか、十インチくらいだと思うんだが」
「あれ、どうしてそいつを知ってるんだ?」ドレイクは吃驚《びっくり》して尋ねた。
メイスンは言った。「バケツの底だよ、ポール。片側に車輪が三つ並んでるわけだ。当然だよ」
「わからないなあ」
「ハウス・トレーラーだよ」メイスンは言った。「そこの木の陰に、ハウス・トレーラーをひいた車が駐まっていたんだ。トレーラーの流しの水はパイプで外に排水されるだろう。そいつを受けるバケツが置いてあったんだよ」
「なるほど。そうか」ドレイクはうなずいた。
メイスンは言った。「どうやら、マーシャ・ウィネットは月曜日にハウス・トレーラーに乗った誰かと会う約束だったらしいな。おそらく、それが、少佐の奥方の人生の変わり目だったんだ」
ドレイクはうなずいた。「月曜日か……しかし、どうかね、ペリー」
「そう考える以外にないよ」メイスンは言った。
メイスンはタイヤの跡を調べて言った。「ハウス・トレーラーを引いた車だよ。ポール。排水を受けるバケツの跡が、ほぼトレーラーの中央と見ていいだろう。この前の方に駐車中のトレーラーの重みを支える補助輪の跡がある。これで、トレーラーの長さの見当が付くな」
ドレイクは言った。「トレーラーはこの木の間へ突っ込んで駐めたんだな、ペリー」
メイスンは柵に沿って行きつ戻りつしはじめた。「そこへトレーラーを入れるっていうのは、相当な腕だな。ゴミを捨ててないか、その辺を捜してみよう。前の晩からここにいたとすれば、空罐とか、ジャガイモの皮とか、そんなものが捨ててあるはずだ」
メイスンとデラ・ストリートとドレイクは三方に分かれて隈なくあたりを捜した。
ふいにデラが言った。「先生、急にふり向かないで、そっと丘の上のお屋敷の方を見て下さい。例のガラスの望楼に誰かいるように思うんですけど」
「そんなことだろうと思ったよ」メイスンは顔も上げずに言った。「しかし、まあ、やむを得まい」
ドレイクが大きな声で言った。「あったぞ、ペリー。空罐とごみだ」
メイスンはドレイクの立っている方へ行った。道の側溝を流れた冬の雨水が柏の大木の根方で渦を巻き、木立の奥の方向に三フィートほど地面を抉《えぐ》って窪地を作っていた。
メイスンは地面にしゃがみ、ありあわせの棒切れで塵芥を掘り出した。
踏み潰したらしい罐詰の空罐三個と、玉葱とジャガイモの皮、パンの包み紙、シロップのラベルを貼った空瓶、それに丸めた紙袋だった。
メイスンは棒切れの先で慎重に塵芥を選り別けた。そうしながらも、彼はしきりにしゃべり続けた。
「罐を踏み潰しているところを見ると、これは野宿することに馴れた男だな」
「どうして潰すんですの?」デラは尋ねた。
「動物が空罐に鼻を突っこんで、抜けなくなることがあるんだ」メイスンは言った。「それに、埋めるとき潰してあった方が場所を取らない。このごみの穴一つから、かなりのことがわかるぞ。豆の罐詰に肉のトウガラシ煮。ジャガイモとパンと玉葱だろう。トマトの皮もレタスもない。人参もない。要するに生の野菜は何もない。……女だったら、もっとバランスのいい献立を考えるはずだよ。この空罐は店で売ってる一番小さいやつだし、……おっと、何だこれは?」
メイスンはしゃべりながら紙袋を引き裂いた。中から赤いインクで数字が印字された細長い紙切れが出て来た。
デラ・ストリートが言った。「どこかのスーパー・マーケットのレシートだわ」
メイスンはレシートを取り上げた。「こいつはなかなか面白いぞ」彼は言った。「この男は十五ドル九十四セントの買い物をしている。裏に日付があるな。横の数字は時間だ。土曜日の朝、八時五分過ぎに買い物をしたんだ。ポール、この先はひとつ、君に頼むよ」
「どうしろって言うんだ?」ドレイクは尋ねた。
メイスンは言った。「シルヴァー・ストランド・ビーチのホテルに部屋を取るんだ。そこを仮設事務所にしてな、お宅の兵隊さんを総動員して、スーパーで買い物させるんだ。で、このレシートと同じレジを使ってる店を捜すんだよ。店がわかったら、土曜日の八時五分すぎに十五ドル九十四セントの買い物をした、陽焼けした男がいないかどうか聞いてくれ。開店早々、それだけの額を買い込んだ客だよ。店で憶えてるんじゃないかね」
「了解」ドレイクは言った。「他には?」
「まだまだいろいろあるぞ」メイスンは言った。「デラ、望楼で君が見付けた数字の写しはどうした」
デラは車に駆け戻り、グローブ・コンパートメントから紙切れを取って来た。
ドレイクはそれに目をやって尋ねた。「何だ、そりゃあ、ペリー?」
「デラがあの望楼で見付けたんだ、何だと思う?」
「何かの距離かなあ」ドレイクは言った。「待てよ。八インチと五二八〇フィート。九インチと半マイル。十インチと四分の一マイル。何のことだろう、ペリー? インチのところはどうして五、六、七、八、九、十と続いているのかね。それに……」
「インチじゃあないとしたら?」メイスンは言った。「上に同じっていう記号だとしたら?」
「ああ、それもあり得るな」
「だったら、どうなんだ?」メイスンは言った。
ドレイクは考え込んだ。「宝籤か何かの番号じゃないのか」
「足すとどうなる?」メイスンは言った。
「合計はここに出てるじゃないか、もう」ドレイクは言った。「49"37817 だよ」
メイスンはドレイクに鉛筆を渡した。
ドレイクの肩越しに覗き込んでいたデラ・ストリートの方が先に気付いた。「先生」彼女は叫んだ。「この計算、違ってます」
「やっぱりね」メイスンは言った。「ただどのくらい違ってるか、ちょっと確かめてみようか」
デラ・ストリートは言った。「ええと、合計すると……ちょっと待ってポール。私がやるわ……45"33113 よ。でも、こっちは、49"37817 だわね」
「引き算してごらん」メイスンが言った。「いくつになる」
デラ・ストリートはさらさらと鉛筆を走らせて計算した。「4"4704 です」
メイスンはうなずきながら言った。「この件が解決すれば、きっと、大事なのは今ここにない数字だってことになるだろうと思うんだ。憶えておいてくれよ、ポール。後で数字が出てくるかも知れない」
ペリー・メイスンは望楼の階段を二段飛びに駆け上がった。
望楼には誰もいなかった。けれども、双眼鏡は再びトレーラーの駐めてあった木立の方に向けられていた。メイスンは双眼鏡を覗いた。左の視野は鮮明だったが、右は焦点が合っていなかった。
メイスンは右の調節目盛りを調べた。マイナス五に合わせてあった。彼は焦点を正常な位置に戻した。
背後に人の気配を感じて、彼ははっとふり返った。
ヴィクトリア・ウィネット夫人が入口に立っていた。その脇で、乗馬服を着た痩せぎすなブルーネットの女が目を丸くしていた。ウィネット夫人の顔には何の表情もなかった。
「まさかこんなところにおいでとは、少しも存じませんでしたわ」彼女はメイスンに言い、隣の若い女をふり返った。「レックスフォードさん、ご紹介するわ。こちら弁護士のペリー・メイスンさん」
ダフニー・レックスフォードは僅かに唇だけで笑ってみせた。彼女の目には異様な感情の高ぶりが示されていた。彼女はただ神経質であるだけのようでもあり、あるいはまた、非常にうろたえているようでもあった。
メイスンは初対面の挨拶をしてから言った。「ここの景色はすっかり気に入りましたよ、ウィネットさん」
「亡くなった主人も、よく長いことここに上がっておりましたのよ。ここには何かこう、人をとりこにするものがあるんですのね。ダフニーもここが大好きで」
「ここへは、よくお見えなんですか?」メイスンはダフニー・レックスフォードに向かって尋ねた。
「ええ、野鳥を観察してるもんですから」
「なるほど」
「でも」彼女はやや急《せ》いたように言った。「お邪魔でしたら、鳥を観るのはまた今度にしますわ」
「どういたしまして。私はもう行きますから。ちょっと土地勘を掴んでおこうと思いましてね」
「こちら、クロード鉱山の仕事でご一緒なのよ」ウィネット夫人がとりなすようにダフニー・レックスフォードに言った。「鉱山技師の方もご一緒でね、それから、メイスンさんは秘書をお連れなの。今夜、食事に来られるようだったら、ご紹介してよ」
「ええ、どうもありがとう。でも、私……今日は来られません。クロードはお仕事なんでしょう。……マーシャは?」
「お友だちのところへ行ってるの」ウィネット夫人はそっけなく言った。「ねえ、おいでなさいな」
「ええ、でも、私……」
躊躇《ためら》っている彼女に向かってメイスンは言った。「じゃあ、私はこれで失礼します。ウィネット少佐に会わなくてはなりませんから。仕事に精を出しませんとね」
「本当ですこと」ウィネット夫人は何やら意味ありげな口ぶりで言った。「さあ、いらっしゃい、ダフニー。椅子をこっちへやって。あなた、燕がどうとかって言っていたようね?」
ダフニーは取って付けたように言った。「あら、メドウ・ラークだわ。どこかあの辺の藪に巣があるのね、きっと」
メイスンはそっとドアを閉じて階段を降りた。
ウィネット少佐は応接間にいた。メイスンが中庭の方へ行こうとするのを呼び止めて彼は尋ねた「どうかね?」
「着々と進んでますよ」メイスンは言った。
ウィネット少佐はきっと唇を引き締めた。「もう少し、手際よくやれないものかね? それとも、ただそうやってぐるぐる歩き回っているだけかね」
「優秀な猟犬は必ず輪を描いて獲物を嗅ぎ出すんですよ」
「つまり、まだはっきりしたことは何も掴めていないと言うことか?」
「そうは言ってません」
「今の口ぶりではそう聞こえるがね」
メイスンは右手をズボンのポケットに入れ、いきなり燕の巣の中で見付けたダイヤモンドとエメラルドのブローチを取り出した。
「見覚えはありますか?」彼は少佐の目の前にそれを突き出して尋ねた。
ウィネット少佐は一瞬、凍りついたように体を強張《こわば》らせた。「それは……家内が持っていたものとよく似ているね、メイスン君」
「盗難に遭ったやつですか?」
「ああ、そうだ」
「ありがとうございました」メイスンはブローチをポケットになおした。
「どこにあったのか、聞かせてくれないか」クロード・ウィネットはせっつくように言った。
「追いおいにお話ししましょう」メイスンは言った。
電話がけたたましく鳴った。ウィネット少佐は書斎へ行って受話器を取った。「もしもし」彼はメイスンをふり返った。「あんたにだ」
メイスンは受話器を受け取った。ドレイクだった。「手応えがあったよ、ペリー」
「何がわかった?」
「例のスーパーのレシートさ。店がわかったよ。レジの女の子が客を憶えていた。それでどんな相手かわかったんだ。そいつを足掛かりにして調べたんだがね、トレーラー・キャンプで例のトレーラーの足取りがすぐわかったよ。ハリー・ドラモンドの名前で場所を取ってる」
「今そのキャンプ場にいるのか?」メイスンは尋ねた。
「いや、もういない。昨日の朝早く出て行ったそうだよ。このあたり一帯のトレーラー・キャンプには、全部人をおいて見張っているからね。じきにわかるさ。ナンバーや何か、全部わかってるんだ。それはそれとして、妙なことがあるんだ、ペリー。その男を捜している女がいるんだよ」
「じゃあ……?」
「いや、こっちの目当てじゃない。別の女なんだ。ブルーネットでな、陰気な感じの、背の高い若い女だ。その女も今日、例のスーパーのレジで男のことを訪ねているんだよ。男の特徴なんかよく知っていてね、そういう客が来なかったかって訊いたそうだ」
「今、君はホテルだな?」
「ああ。ここに事務所を構えてな、五、六人外廻りをやらせているよ。どんどん情報は入っている」
メイスンは言った。「よし、すぐそっちへ行く」
「ああ、待ってるよ」
メイスンはドレイクが電話を切る音を聞いてから、なおしばらく、じっと床を見つめながら受話器を耳にあてていた。
やがてガチャリと受話器を置く音がして、書斎の電話がチンと小さく鳴った。
メイスンは受話器を戻してウィネット少佐に言った。「お宅では、外からの電話を何カ所かで取れるようになっていますね?」
「四カ所だよ」ウィネット少佐は言った。「ああ、いや五カ所だ。望楼にもあるからね。うっかり忘れるところだった」
「そうですか」メイスンはそう言い、やや間を置いてから付け足した。「私も忘れるところでしたよ」
ドレイクが本拠を構えたホテルの一室にメイスンが入って行くと、ポール・ドレイクは電話中だった。次の間ではデラ・ストリートが傍らに書き出した番号を見ながら次から次へ電話をかけていた。
「入れよ、ペリー」電話を切ってドレイクは言った。「今、君に連絡しようとしてたとこなんだ。かなり順調だぞ」
「それで?」
「例の男だがね。三十八歳。陽焼けした顔で、カウボーイ・ブーツにカウボーイ・ハット。革ジャケットにペンドルトンのズボン。ずんぐり型で、でかい、武骨な口をしている。車のナンバーは 4E4705 だよ。車はビュィックで、腹は緑、屋根はアルミニウム仕上げの洒落たハウス・トレーラーを引っ張っている。土曜の朝までストランド・トレーラー・キャンプにいたんだ。土曜日に一度そこを出て、月曜の夜また戻った。で、今度は水曜の朝出て行って、それっきり帰ってない」
「どうやってそこまで調べたんだ?」メイスンは尋ねた。
「脚で調べるってやつさ」
「で、今何を調べてるんだ?」
「外廻りの連中に、このあたり一帯のトレーラー・キャンプとハウス・トレーラーが駐車する可能性のある場所を残らず車で当たらせている。だんだん範囲を拡げているがね、そろそろ何かわかるはずだよ」
メイスンは手帳を取り出した。「車のナンバーは 4E4705 だな?」
「ああ、そうだ」
「ははあ。望楼の謎の観察者は足し算を間違ったらしいな。そうだろう。こっちが捜してたのは 4"4704 だ。最初の数字は 4E4705 だったはずだよ。同上の " の印はEの下に付いていたんだ。そうすると、合計は……」
小刻みにドアをノックする音が彼を遮った。
メイスンはちらりとドレイクと視線を交わした。探偵は席を立ってドアを開けた。
歳の頃二十七、八と思われる、背の高いブルーネットの女だった。よく光る黒い目をして頬骨が高く、ほっそりとした体は見るからに機敏そうであった。あみだにかぶった縁なしの赤の帽子は彼女のつややかな髪の黒さを強調し、手際よくきれいに塗った口紅と美しく調和していた。
女はポール・ドレイクに向かってにっこり笑った。計算された笑顔だった。歯並びのよい白い歯が覗いた。
「ドレイクさん?」彼女はメイスンに視線を移しながら尋ねた。
ドレイクはうなずいた。
「入ってもよろしいかしら?」
ドレイクは黙って脇へよけた。
彼女は部屋に入ってペリー・メイスンに会釈した。「ドラモンドと申します」
ドレイクはメイスンをふり返ろうとして、すんでのところで思い止まり、極く何気ない口ぶりで言った。「私がドレイクです。こちらはメイスン。何か、御用ですか、ドラモンドさん?」
「あなた、私の主人を捜してらっしゃるでしょう」
ドレイクは無言のまま眉を高く上げた。
「ストランド・トレーラー・キャンプにいた」彼女はそわそわした様子で続けた。「私も、主人を捜してるんです。それで、情報を持ち寄ったらどうかと思って」
メイスンが静かに口を挟んだ。「あなたの御主人ですか。御主人をお捜しなんですか、ドラモンドさん?」
「ええ」彼女は大きな黒い目で弁護士を見つめながら言った。
「最後のお会いになったのはいつです?」メイスンは尋ねた。
「二カ月前です」
「情報を持ち寄ろうとおっしゃるんでしたら、まず、御主人が姿を消された時の状況と、それから、我々が御主人を捜していることをあなたはどうして御存知なのか、その点について話して下さいませんか」
彼女は言った。「私、今朝シルヴァー・ストランド・トレーラー・キャンプへ行ったんです。管理人は主人がまた現れたら連絡するって約束してくれました。それで、お宅の探偵さんが聞き込みに来た時、車のナンバーを控えておいてくれたんです。それがドレイク探偵事務所の車だとわかったもので……」彼女はぎこちなく笑った。「私もちょっと探偵の真似事をしてみたんです。私と同じ理由で主人を捜してらっしゃるの?」
メイスンはゆったりと笑った。「それにお答えするには、そちらが御主人を捜しておいでの理由を伺わなくてはなりませんね」
彼女はむっとした様子で肩をそびやかした。「ええ、いいわ。別に隠すことなんてないんですもの。私たち、結婚して一年ちょっとになるんです。うまく行きませんでした。ハリーは家にじっとしていられない人なんです。いつも鉱山とか牧場とかの仕事を追っかけて飛び歩いて。私はそんな生活はまっぴらで……それで、二月《ふたつき》ばかり前に別れたんです。私は離婚訴訟を起こしました」
「まだ結論は出てないんですか?」
「まだなんです。財産分与については了解ができていたんですけど、弁護士が書類を送ったら、すごく失礼な手紙と一緒に送り返してきたんです。私にはただの一セントも払わない。もし強硬な手段に訴えたりすれば、私には何の権利もないことを思い知らせてやるって」
「どうしてです?」
「それが、わからないんです」
「で、あなたは、御主人がいったいどういうつもりなのか、それをお知りになりたいわけですね?」メイスンは言った。
「ええ、そうなんです。今度は、そちらが話して下さる番よ。あの人、何か面倒でも起こしたんですか?」
「そういうことがありそうな人ですか?」メイスンは尋ねた。
「前に一度あったもので」
「何をやったんです?」
「鉱山詐欺です」ドレイクは、はてなという目つきでメイスンを見た。
「お住いはどちらです?」メイスンはドラモンドに尋ねた。
「今はこのホテルに泊まってます。でも、ドレイクさんがここだっていうことは、ホテルで聞いたんじゃあありませんよ」彼女は慌てて言い足した。「それは……その、別の筋から聞いたんですから」
「情報を持ち寄ろう、ということでしたね」メイスンは催促するように言った。
彼女は笑った。「ですから、つまりね、お宅があの人を見付けたら知らせてくれません? 私が見付けたら、そちらに知らせますから。どうせあんなトレーラーを引っ張ってるんですもの、すぐ見付かるでしょう。でもあの人が州の外へ出ないうちに見付けないと。私、書類にサインさせてやらなきゃあ……」
「車はお持ちですか?」メイスンは尋ねた。
彼女はうなずいて言った。「結婚で私が手に入れたのは車だけ。私のために、車を買わせたんです。あの人に会いたい理由の一つがその車なの。名義があの人のものになったままなんですもの。財産分与で、車は私のものになるはずで、それはあの人も同意してたんですよ。それなのに、弁護士のところへ来た手紙だと、私が訴訟を起こしたりすれば、車もやらないって言うんです。ここにお二人いらっしゃるけど、あの人どういうつもりなのか、おわかり?」
メイスンとドレイクは揃って首を横にふった。
「何とか打つ手はあるでしょう?」メイスンは言った。「しかしですね、御主人を我々が捜しているだろうという、あなたの推量が当たっていたとしてもですよ、我々は別に依頼人があってそれをしているわけですから、当然、我々としては依頼人と相談しなくてはなりませんよ」
「あの人が何かしでかしたからですか?」彼女は心配そうに尋ねた。「また面倒でも起こしたのかしら? また前の時と同じように、全財産を弁護士の払いに持ってかれちゃうのかしら?」
「その点は、私には何とも言いかねますね」メイスンは言った。
「つまり、あなたは何もしゃべらないってことね。私の部屋、六一三号室なの。依頼人にあなたからそう言って私に会いに来るようにしていただけないかしら?」
「今晩、ずっとそこにいますか?」ドレイクが尋ねた。
「それは……」彼女は口ごもった。「私、出たり入ったりしてますから……、じゃあ、こうしましょう。私、ホテルにちょくちょく連絡します。何かあったら、すぐ帰ってこられるとこにいますから」
彼女は二人に向かって嫣然《えんぜん》と微笑み、つと立ってドアの方へ行きかけたが、ふと思い直したようにふり返り、次の間で電話に向かっているデラ・ストリトーを不思議そうに見やりながら彼らに手を差し出した。彼女はドアを開けてくれたメイスンにもう一度笑いかけ、どこか神経質な歩き方で足早に立ち去った。
メイスンはドアを閉じて、ポール・ドレイクに向かって首をかしげた。
「やっこさん、抜け目がないぜ」ドレイクは言った。「こいつは急を要するってことだな、ペリー」
「自分が歩いてきた後ろにも、ちゃんと気を配ってるってことか?」
ドレイクはうなずいた。「あの女はどうしてなかなかの食わせ物だよ。そのドラモンドってやつは、何かやばいことをやらかして、逃げまわってるんだ。女房に後ろを見張らせてさ。女はトレーラー・キャンプの管理人をたらし込んだ。そこへうちのやつが車で聞き込みに行った……」
「しかし、彼女はスーパー・マーケットで聞き込みをやってるんだろう、ポール?」
ドレイクは指を鳴らした。「へっ、あれは何でもありゃあしないのさ。ただ、そうやってもっともらしく見せかけているだけさ。だってそうだろう。あの女は……」
電話が鳴った。ドレイクが受話器を取った。「ドレイクだ。うん。それで? いつ? どこだ? ようし……そこを見張ってろ、すぐ行く」
電話を切ってドレイクは言った。「やったぞ。やつの居場所がわかった」
「どこだ?」
「三マイルばかり北へ行ったところの、ユーカリの森にあるさびれたトレーラー・キャンプさ。大した場所じゃないよ。オート・キャビンが前の方にあって、その裏にトレーラーを駐める場所があるんだ。設備もあんまりよくない。もっぱら一日の駐車料を二十五セント浮かそうって連中が利用する場所だよ。ただ、広いのが取り柄じゃああるがね。森は何エーカーだかの広さで、便所やシャワーまで多少歩いてもいいって言うんなら、好きなところへトレーラーを置けるんだ」
「詳しいことは、何か?」メイスンは尋ねた。
「うちの連中の一人が今見付けたばかりさ。トレーラーはゆうべ着いたそうだ。その時、管理人は給油で忙しくてな、そうしたら、乗ってた男は、後で名前を届けるからって言って一ドル銀貨を投げて寄越したんだとさ。管理人は、電源のあるところなら、どこでも好きな場所へ駐めろと言ったんだそうだ」
メイスンは言った。「ようし、行こう。デラ、ここは君に任せるよ。三十分ほどしたら電話を入れる」
彼らはメイスンの車でそのトレーラー・キャンプに駆け付けた。オート・キャビンの戸口にさりげない様子で立っていたドレイクの部下が、そっと隣のキャビンを指さした。
ドレイクは「P・ドレイク」とだけ名前を届けて空いたキャビンを借り、ペリー・メイスンと一緒にそこへ腰を降ろした。しばらくして、ドレイクの部下がやって来た。
「ピート・ブレディははじめてか?」ドレイクはメイスンに尋ねた。
メイスンは男と握手して言った。「一、二度君のオフィスで会ったことがあるよ」
「よろしく」ブレディはメイスンに挨拶してからドレイクに言った。「はっきりそうとはわからんがね、管理人のやつは俺たちを怪しい連中だと思っているよ。何しろ、かなりしつこく聞き込んだからね」
「で、どういうことになってるんだ?」
「トレーラーは車に繋いだまま、あそこに駐まってるよ。今までのところ、車の主は顔を見せてないがね、ナンバーは間違いない。4E4705 だよ」
「ちょいと行ってみるか」メイスンが言った。
「目立たないようにやった方がいいね」ブレディが注意した。
「出物のトレーラーを捜してるってのはどうだ?」ドレイクが言った。「その手はもう使ったか?」
ブレディはかぶりをふった。
「ようし、それで行こう」ドレイクは言った。「お前はしばらくここで待っててくれ。管理人は何て名前だ?」
「エルモだよ。シドニー・エルモ」
「お前、ここへくるところを見られたか?」
「いや。給油の客が来るのを待ってこっちへ来たから」
「ようし。じっとしてろ。俺が行って、出物のトレーラーがあるって聞いて来たって言うからな。向こうはそんな話を聞いちゃいない。そこで、こっちはその辺を歩き回る口実ができるって寸法さ」
五分ほどして戻って来たドレイクと連れ立って、メイスンはみすぼらしいキャビンの列をゆっくりと過ぎ、ユーカリの森の方へ向かった。傾きかけた午後の陽は暗い影をつくり、あたりは何となく寒々とした陰気な感じだった。雨と梢から落ちた雫《しずく》で地面は濡れていた。
「あれだ」ドレイクが言った。「どうする? このまま行って、ドアを叩いて、売り物かいって訊くかい?」
メイスンは言った。「先に別のトレーラーを当たろう。大きな声で話してさ。それとなく聞こえるようにするんだ」
「そいつはいいや」ドレイクは言った。
「こっちのやつから行こう」メイスンは言った。
二人はメイスンが指さした、自家製の小さなトレーラーに近付いた。目当ての緑色のトレーラーから百フィートばかり離れていた。電灯の明かりが洩れて、五十近い太った女が料理をしているのが見えた。亭主らしい男が鈍い西陽の中で不器用にトレーラーのバンパーを修理していた。車のナンバー・プレートはオクラホマだった。
「売りに出てるトレーラーっていうのはこれかね?」メイスンが声をかけた。
男は顔を上げた。唇の薄い大きな口がいびつに笑った。のろのろとしたしゃべり方で男は言った。「そうだとは言わんがね、違うとも言わんよ。出物を捜してるのかね?」
「一台売りに出てるって聞いたもんでね、そいつを見に来たんだよ」
「どういったトレーラーだね?」
「何でもなかなかいいやつだってことだったよ」
「こいつだって、どうして、悪くないぜ」
ドレイクが横から言った。「ストランド・トレーラー・キャンプの支配人に売りたいって話したのはあんたじゃないだろう、え?」
「そりゃ違うな。正直な話、俺あ別に売りたかあねえさ。でもさ、あんたら出物を捜してるんなら、話を聞かねえわけでもねえよ」
「こっちが捜してるのは、今売りに出てるやつなんだよ」メイスンがさとすように言った。「あそこに駐まってる緑のやつかな? あれのことを、何か知ってるかね?」
「いいや。ゆうべ来たばっかりだからね」
「持ち主とは口をきいたこともないんだな?」
「顔を見たこともねえよ。閉じ籠もったきり、出て来やしねえんだ」
「いや、どうもお邪魔さま」メイスンは言った。「行ってみよう、ポール」
トレーラーに近付くとメイスンは言った。「気をつけろ。君はトレーラーを使ったことがあるか、ポール?」
「いや。何故?」
「トレーラーってやつはな、一カ所に重みがかかるとスプリングが駄目になりやすいんだよ。だから普通、駐車する時には補助輪を取り付けて支えるようになってるんだ」
「こいつには付いてないじゃないか」ドレイクは言った。
「そこだよ。それに、排水口の下に汚物を受けるバケツが置いてない。おまけに、電源コードが繋がっていない」
「何が言いたいんだ、ペリー?」
メイスンはトレーラーのドアを乱暴に叩いた。返事がない。彼はドアの把手を試した。
ドアは難なく開いた。
残照の淡い光の中で、床に倒れて身動きしないひとつ男の姿があった。体の下に黒ずんだ染みが拡がり、そこから幾条から流れが糸を引いていた。その不吉な形の意味するところはあまりにも明らかであった。
メイスンはトレーラーに乗り込み、血溜まりを慎重に避けながら死体を見下ろした。やがて彼は腰を屈め、踵《かかと》の高いカウボーイ・ブーツに手を掛けて、そっと前後に揺《ゆす》った。
「かなり時間が経ってるな、ポール。死後硬直がはじまってる」
「早く出てこいよ」ドレイクはおよび腰で言った。「こいつは大事をとって、警察に知らせようぜ」
「ちょっと待った」メイスンは言った。「俺は……」死体の上に屈み込んだ彼の顔に一筋の光が当たった。
「何だ?」ドレイクが言った。
メイスンは顔を傾けて、光の筋をまともに目に受けた。「トレーラーに穴が開いてるんだ」彼は言った。「さっきのオクラホマのトレーラーの窓から真っすぐ光が入って来る。女が料理していたあの窓から、その穴に光が入って来るんだよ。こいつは弾の跡だな、おそらく」
「その辺にしておけよ、ペリー。警察に連絡しよう」
メイスンは言った。「その前に、あのオクラホマのトレーラーを少し調べる必要があるな」
「いい加減にしろよ、ペリー。冗談じゃないぜ。もともと、この件には君は関係ないじゃないか……今までのところは」
メイスンはあたりに気を配りながらそっとトレーラーを出た。やや躊躇《ためら》ってから地面に降り立つと、彼はハンカチでドアの把手をきれいに拭いた。
「証拠隠滅だぞ」ドレイクが言った。「そこに付いてるのは君の指紋だけじゃない」
「どうしてそんなことが言えるね?」
「当然じゃないか」
「証明できまい」メイスンは言った。「犯人は今俺がやったように指紋を拭いていったに違いないんだ」
メイスンはオクラホマ・ナンバーのトレーラーに戻った。男は相変わらずトレーラーの後部バンパーをいじくりまわしていたが、これといった目的があるわけでもなく、ただ時間を潰しているに過ぎない様子だった。彼の頭の位置は、彼が隣のトレーラーにおける事の成り行きに大いに好奇心を抱いていることを物語っていた。
「あれだったかね、やっぱり?」メイスンが近付くと彼は言った。
「さあ、どうかな。誰もいないらしいんだ」
「出掛けて行くのは見なかったがね。第一、車なしじゃあ、そう遠くまでは行かれねえだろう」
「誰か尋ねて来なかったかね?」メイスンは何げなく尋ねた。
「今日は来なかったな。ゆうべ若い女が来てたっけ」
「何時頃?」
「さあね、こっちはもう寝てたからね。その女の車のヘッドライトで起こされちまってさ。起き上がって窓から覗いてみたあね」
「どんな女だった?」
「ああ……赤毛だったかな。チェックのスーツで、細っこい女だったよ」
「中へ入ったのか?」
「そうだろうと思うよ。向こうが車の明かりを消して、俺あそのまままた眠っちまったよ。目が覚めた時はもういなかった。女の車が二度ばかりバックファイアを起こしてたっけ」
メイスンはちらりとドレイクを見た。「その連中に会いたいんだがね」
「一人じゃねえかな、男が。ゆうべやってきてさ、散々苦労してトレーラーの位置を直していやあがったよ。俺あ、窓からヘッドライトの明かりが入って来て、眩しくって目が覚めちまったんだ。そいで、外を見たら、その女が来てたのさ」
「女はどんな車に乗っていた」
「ありゃあ、レンタカーだな」
「どうしてそれがわかるんだね?」
「フロントガラスに燃料スタンプが貼ってあったからね」
「奥さんは目を覚まさなかったのかい?」
「ああ」
「あんたはいつからここにいるんだい?」
「どうしてそんなこと訊くんだ」
「いや、何でもないさ」
「そうだろうって」男は言ったが、ふいに首をかしげてメイスンの顔を覗いた。「やけにいろいろと訊くじゃねえか」
「ごめんよ」メイスンは言った。
男は腑に落ちない様子だったが、やがて、もう口はきかないぞとでも言うようにバンパーをいじくりだした。
メイスンはドレイクに目くばせした。二人は無言で歩き出した。
「ようし、ポール」メイスンは低い声で言った。「デラに電話して、お宅の外廻りの連中に半径五十マイル以内のレンタカーの窓口を虱つぶしに当たらせてくれ。その女性が車を借りたところを見付けるんだ。それがわかったら、後は俺が引き受けるよ」
「気にいらんね」ドレイクは言った。
「俺だって気にいらんさ」メイスンは言った。「ゆうべここへ来た若い女っていうのはマーシャ・ウィネットだぜ」
「その車は、バックファイアを起こした」ドレイクがこともなげに言った。
メイスンはドレイクの目を見た。「バックファイアをな、ポール。この先、必要な時のために言っておくがね、その音を聞いた唯一の人間は、それがバックファイアだったと言ってるってことを、忘れないでくれよ」
ドレイクは暗い顔でうなずいた。「しかし、それで事がうまく運ぶってもんでもないぜ、ペリー」
「でも、こっちは関わり合いにならずに済むじゃないか、ポール。誰かの車がバックファイアを起こしたなんて言って警察に駈け込むやつはいやしない」
「死体を見付けりゃあ話は別だ」
「こっちが死体を見付けたことを誰が知ってる?」
「俺さ」
メイスンは笑った。「ホテルへ帰ろう、ポール。そのレンタカーを捜すんだ。それから念のために、ドラモンドの女房がゆうべどこにいたかも調べてみよう」
メイスンが最後にポール・ドレイクに頼んだ仕事はいたって簡単だった。
ドラモンド夫人は夫を捜して前夜、付近のトレーラー・キャンプを歩き回っていたのである。彼女はある非番の警官に同道を求めていた。
チェックのスーツの女がトレーラー・キャンプへ行くのに使ったレンタカーを捜し出すのはなかなか面倒だった。
ドレイクの有能な部下たちの働きにもかかわらず、手掛かりが掴めたのはかれこれ八時近くであった。
シルヴァー・ストランド・ビーチより二十五マイルばかり南へ下った海辺の町で、マーシャ・ウィネットと思われるチェックのスーツの若い女がレンタカーを借りていた。
ドレイクは電話から顔を上げて言った。「うちのやつに足取りを追わせるか? それとも、君が自分でやるか、ペリー?」
メイスンは言った。「俺が行くよ、ポール。それに、念のためって事があるから、もっと他も当たるように言ってくれ」
「よっしゃ」ドレイクは受話器に向き直った。「どんな女だって? ああ、……うん……そうか。ちょいと違うようだな。そのまま続けてくれ。他のレンタカー屋も全部当たってみろ」
ドレイクは電話を切った。「一緒に行こうか、ペリー?」
「デラと俺で何とかするよ」メイスンは言った。「外廻りの連中にそろそろ上がってもらえよ。方向を変えてやり直すって感じで、な。ドラモンドの女房を少し探った方がいいぞ、ポール。俺としては、今ここであの女に出て来てもらいたくはないんだ」
ドレイクはうなずいて、釘を刺すように言った。「気を付けろよ、ペリー」
「ああ、わかっているとも。デラ、行くぞ」
マーシャ・ウィネットに車を貸したレンタカーの店の主人はすこぶる口が堅かった。話す気にさせるには、かなりの駆け引きが必要だった。それでもなお、彼は最小限のことしかしゃべらなかった。
その女性ははじめての客だった。彼女はエディス・バスカムと名乗って、母親が亡くなったので遺産の処理に行くために車が入用なのだと言った。住所は地元のホテルとなっていた。
「客の話は裏付けを取るんですか?」メイスンは尋ねた。「それとも、無条件に車を貸すんですか?」
「そのまま貸すこともあるし、一応調べることもあります」
「この場合は、どうです?」
「今、車が足りないんでね」男は言った。「調べましたよ」
「どうやって?」
男は前日の新聞を取り出して、死亡広告欄を開いて見せた。メイスンは男の指先を追って目を走らせた。シャーリー・バスカム夫人の紋切り型の死亡広告が載っていた。
葬儀は身内だけの簡素なものにする旨、但し書きが添えられていた。
メイスンは言った。「なるほど、これなら問題はないわけだ」
「失礼ですが、どういう関係ですか?」
「私、弁護士です」
「ああ、そうでしたか。ええ、別に問題はないお客さんでしたよ。母上が亡くなったせいでしょうか、いくらか興奮しているようでしたがね。でも、感じのいい人でしたよ。パレス・ホテルにいますよ。この二つ先の通りです」
メイスンと彼の秘書にとって、エディス・バスカムの部屋の番号を探り出すのは何の造作もないことであった。二分後、メイスンはその部屋のドアを叩いていた。
答えはなかった。メイスンはドアの把手を試した。錠がしまっていた。
メイスンは素早くあたりに目を配ると、両手を前に出して言った。「デラ、私の手の上に立って、明かり窓からちょっと覗いてみてくれ」
彼女はメイスンの肩につかまり、片手を明かり窓のふちに掛けて中を覗いた。
彼女の重みを支えながら、メイスンは彼女がはっとするのを感じた。彼女はうろたえて降りようとしていた。
「先生」彼女は悪い知らせでも伝えるように声を落として言った。「彼女、ベッドに寝ています。でも……全然動かないみたいです」
「明かりはついてるのか?」
「いいえ、でもシェードが開いていて、外のネオンの明かりが入って来るから、ベッドに寝てるのはわかります」
メイスンは言った。「ドアにはスプリング錠がかかっているな。……もう一度、見た方がいい、デラ。呼吸をしてるかどうか……ちょっと待った。メイドが来る」
大儀そうにやって来たメイドはメイスンが手の中に押し込んだ金に、ほんの一瞬仕事の疲れを忘れたようだった。
「これは私の家内だがね、実は下にキーを忘れて来てしまったんだよ。ちょっと、ここを開けてくれると、下まで行かずに済むんだが……」
「禁じられてるんですけど」メイドは抑揚のない声で言った。「まあ、いいでしょう」彼女はマスター・キーを取り出して錠を開けた。
メイスンはさっとドアを開け、脇へよけてデラを通すと、自分もすぐ後から薄暗い部屋へ入って後ろ手にドアを閉じた。
デラ・ストリートはベッドに駆け寄って女の脈を調べた。
「生きてるわ!」デラ・ストリートは言った。
「明かりだ」メイスンは鋭く言った。「シェードを先に降ろせよ」
デラ・ストリートはぐいっとシェードを引き、入り口に駆け戻って明かりをつけた。
メイスンはベッドの脇の睡眠薬の瓶に目をやって、床に落ちていた新聞を拾い、日付をあらためた。
「昨日薬を飲んだんだわ、きっと」デラは言った。
「今日の午後だ」メイスンはきっぱりと言った。「これは午後の遅い版だよ」
彼は新聞を放り出して、眠っている女を揺った。「タオルだ、デラ。冷たい水に濡らして。急いでくれ」
デラ・ストリートはタオルを鷲掴みにして浴室の水道に走った。メイスンは冷たいタオルでマーシャの顔を叩いた。やがて彼女は目をしばたたいた。
「何の用?」彼女はもつれる舌で言った。
メイスンはデラに向かって言った。「デラ、ドラグ・ストアで吐剤を買って来てくれ。それから、ルーム・サービスでブラック・コーヒーを頼むんだ」
「お医者様は?」
「できれば、呼ばずに済ませたいね。まだ薬がまわっていなければいいんだが」
マーシャ・ウィネットは何か言おうとしたが言葉にならなかった。彼女はメイスンの肩にしなだれかかった。
三十分ほど後、メイスンとデラ・ストリートはマーシャ・ウィネットを両脇から支えて浴室から連れ出した。彼女は目のまわりにどす黒い隈を作っていたけれども、口はきけるようになっていた。コーヒーが効きはじめていた。
メイスンは言った。「私の言うことを、ようく聴いて下さい。私は弁護士です。私は、あなたの安全を守るために雇われています」
「誰に?」
「あなたの御主人ですよ」
「まさか、あの人が、そんな……それはいけないわ」
メイスンは言った。「私は、あなたの弁護士ですよ。御主人が、あなたの助けになるように、私を雇われたんです。御主人に対して私は何も話す必要はないんですよ」
彼女は力なく吐息を洩らした。「放っといてちょうだい。こうするのが一番いいの」
メイスンは今一度彼女を強く揺った。「月曜日、乗馬に出掛けましたね。トレーラーに乗った男と話をしましたね。その男は、あなたに何か要求したんでしょう。あなたは、お金が必要でしたね。それも早急に。あなたはそのことを御主人に打ち明けて、相談に乗ってもらおうとはしませんでしたね」
メイスンは返事を待った。彼女は口を開こうとしなかった。眉が力なく垂れ下がった。彼女は、意志の力で目を開けているようだった。
メイスンは言った。「あなたは屋敷へ戻って宝石の保険を解約しましたね。保険会社に迷惑を掛けたくなかったからでしょう。それから、あなたは寝室の窓ガラスを入れ替える手配をしましたね。梯子を用意する算段です。あなたは、夜中に起きて、バルコニーに出て、燕の巣に宝石を投げ込んでおいて、大きな声を出した」
彼女の顔はさながら仮面のようだった。
メイスンはなおも続けた。「あなたは、火曜日になってから盗難の芝居を打ちましたね。保険を解約した月曜の夜ではあまりにもみえすいていることがわかっていたからでしょう。水曜の朝、あなたは隙を見て燕の巣から宝石を取り出しましたね。ところが、あなたは一つ拾い残していましたよ。さあ、その後どうしたか、私に話して下さい」
彼女はどこか遠くの出来事を語るような、ものうげな口ぶりで言った。「私、あの人を殺すつもりでした。でも、殺したかどうか、憶えてないんです」
「射ったんですか?」
「家を出てから後のことは、まるで憶えていません」
メイスンはデラ・ストリートの顔をちらりと見てから言った。「あなたを守るためにはですよ、私はあなたがあの男に、どんな弱味を握られているのか、それを知っておく必要があるんです」
「ハリー・ドラモンド。私の前の夫です」
「離婚したんですか?」
「私は離婚したつもりでした。ちょっと事情があって、私はネヴァダへは行かれなかったんです。私、あの人にお金を渡しました。彼はネヴァダで暮らしていました。時々、離婚の手続きの進み具合を手紙で知らせてくれました。二度ばかりお金がいると言って来たことがあります。それから、離婚が成立したという知らせがありました。嘘だったんです。お金は博打ですってしまったんです。離婚の手続きなんて、はじめから全然していませんでした」
「それがわかったのは、いつですか?」
「月曜の朝です」彼女は言った。「抜け目のない人で、私との連絡は絶やしませんでした。私が馬であの小径を歩くことを、あの人はちゃんと知っていて、それであそこにトレーラーを駐めていたんです。ウィネットの母は他所の人があのあたりでキャンプするのをいやがりました。あそこに誰かが来ると、いつも私が行って、公営のキャンプ場へ移るよう言うことになっていました」
「トレーラーの主が誰だかは知らなかったんですね?」
「ハリーが顔を出して、やあ、マーシャ、そろそろ来る頃だと思っていた、と言うまでは」
「何を要求しました?」
「お金です」
「で、あなたを脅迫したわけですね。……何と言って?」
「クロードの一番の泣きどころです。方々へ言い触らすと言ったんです」
「それで金を渡すと約束したんですね」
「宝石を渡すと言ったんです。すぐにもお金がいるようなことを、あの人は言いました。誰かに取り立てられているとかで」
「もう一度そこで会うことにしたんですね。いつです?」
「水曜の朝です」
「それで、月曜に保険を解約して、火曜の夜、狂言盗難を仕組んだわけですか。で、あなたは宝石を持ち出した。どうやってあなたが宝石を持ち出したか、前の御主人は訊きませんでしたか?」
「訊きました。私、何もかも話して、ウィネットは警察に届けるようなことはしないから、お金に換えても大丈夫だって言いました」
「それから、どうしました?」
「憶えてないんです」
「何を憶えてないんです?」
「それっきり、後のことをまるで思い出せないんです……ハリーに宝石を渡してから。あの人、何だかすごく嫌味なことを言いました。それで私、すごく怒ったのは憶えてるんですけど……それから後の記憶がまったくないんです」
「水曜の朝トレーラーのところへ行った時、あなたは拳銃《リボルバー》を持っていましたか?」メイスンは尋ねた。
「ええ」
「どこで手に入れたんです?」
「机の抽斗にあったんです」
「誰のものですか?」
「さあ、知りません。あれは……ウィネットの母のものじゃないかしら。真珠の銃把《じゅうは》でしたから。護身用に、と思ったんです。馬鹿な話ですけど、でも、とにかくそれを持って行きました」
「今、どこにあります?」
「さあ。ねえ、さっきから言ってるでしょう、私、あの人に宝石を渡して、厭なことを言われて、その後のことは全然思い出せないんです」
「他に何か要求しませんでしたか? ゆうべ、人気のないトレーラー・キャンプへ来るように、あなたに言ったんじゃあありませんか?」
「さあ、どうかしら。思い出せないわ」
「あなたは会いに行きましたか?」
「憶えていません」
「あなたは」メイスンは食い下がった。「この二つばかり先の通りにあるレンタカーの店で、車を借りましたね」
彼女は額に皺を寄せた。「そういえば、そんなことをしたような気もするけれど……でも」彼女は首をふった。「いいえ、憶えていません」
メイスンは根気よく言った。「どうして正直に話してくれないんです? あなたは、新聞の死亡広告を見て、どこかの死んだ女の娘になりすますほど知恵がある人じゃあありませんか。私は力になろうとしているんですよ。少なくとも、私が直面しているものが何か、それを聞かせてくれなくては困りますね」
「わかりません。憶えてないんです」
メイスンは睡眠薬の瓶に手を伸ばした。「これを飲めば、万事片が付くと思ったんですか?」
「さあ、それは。私、多分……全然眠れなくて、それでちょっと飲みすぎたんじゃないかしら。思い出せないわ」
メイスンはデラ・ストリートをふり返った。「デラ、少々面倒なことを頼まれてくれるかい?」
彼女はうなずいた。「何なりと、先生」
メイスンは言った。「この人を車に乗せて、ロサンゼルスへ連れて行ってくれ。財布に金を充分持たせてね。どこか個人病院へ連れて行くんだ。間違っても君の住所氏名を明かすんじゃないぞ。急いでいるふりをして最初に出て来た看護婦に、道を歩いていたらこの人に声を掛けられた、自分が誰だか教えてくれって言われた、って言うんだ。脅迫されているらしいけれども、お金を持っているから、安全な場所を捜すとしたら病院がいいと思って連れて来たって、それだけ言って、さっさと引き上げるんだ」
デラはうなずいた。
メイスンはマーシャ・ウィネットに向き直った。「今の話を聞きましたね?」
「ええ……あの、でも、あなた、私のためにそんな。私、あの人を殺したはずなんです。詳しくは憶えてないんですけど、メイスンさん。でも、私、殺したんです。正当防衛だったと思いますけれど、私、憶えてないんです」
「わかってますよ」メイスンは優しく言った。「心配することはありません。いいですか、あなたは、今は未亡人なんですよ。何も思い出したりしちゃあいけません。今度私に会っても、私は見ず知らずの人間ですよ、いいですね。これから、あなたの力になりましょう。ようし、行ってくれ、デラ。車の窓を開けて、冷たい風を入れるといい。病院へ連れて行くんだよ」
「先生は、帰りはどうなさるの?」デラは尋ねた。
「ドレイクのところの誰かに拾ってもらうさ」
砂利を敷いた馬車道で急ブレーキを踏むと、車は大きく横すべりして斜めに止まったが、メイスンはそれを直そうともせずにエンジンを切って明かりを消し、車から飛び降りてウィネット邸の玄関の階段を駆け上がり、案内も乞わずに、ずいと応接間に通った。
ヴィクトリア・ウィネット夫人とダフニー・レックスフォードが飲物を挟んで頭を寄せ合い、低い声で話し込んでいた。
ウィネット夫人はよそよそしい笑顔を見せて言った。「おやまあ、メイスンさん。ずいぶん遅いお帰りですことね……お食事には」
メイスンは黙ってうなずきながら、ダフニー・レックスフォードの方を見た。
ウィネット夫人は呼鈴に手を伸ばした。「何か仕度させましょう。でも、こんな時間ですから、ほんの間に合わせしか……」
「食事は結構です」メイスンは言った。「少々、お話ししたいことがありまして」
呼鈴に触れた指先は、それ以上動こうとはしなかった。ウィネット夫人は言った。「まあ、メイスンさん」その声は婉曲な拒絶を示していた。
ダフニー・レックスフォードはあたふたと立ち上がった。「ちょっと失礼。私、電話をしなくては」
「いいのよ、坐ってらっしゃいな。せっかく二人でこうやって静かにお話ししているのに、嵐のように飛び込んで来るなんて、私は許しません」
メイスンはダフニー・レックスフォードの目を見据えて、ぐいと頭を横にふった。
彼女は微かに強張《こわば》った笑顔を作って部屋を出て行った。
「よろしいこと、メイスンさん」ウィネット夫人は冷やかな声で言った。「私は息子を大切にしていますから、あの子のお友だちは喜んでこの家にお迎えして、自由にふるまっていただいています。でも、だからと言って……」
彼女は、後は言わなくてもわかるだろうとばかりに言葉を切った。
メイスンは椅子を引いて腰を降ろした。「少佐はどちらです?」
「二十分ばかり前に人に呼ばれて出掛けました」
「あなた、ダフニー・レックスフォードをごひいきのようですね」
「ええ、それはもう」
「月曜日に、あの人は望楼に上がりましたか?」
「まあまあ、メイスンさん。私、証言台にいるのではありませんことよ」
「証言台に立つことになりますよ」メイスンは言った。
「あなた、酔ってらっしゃるの」
「冗談だと思うなら、そうやって白ばっくれていればいいでしょう。もう時間がないんですよ。今にも警官がくるかも知れないんですから」
「警官?」
「警官ですよ。巡査だの、私服刑事だの。新聞社のカメラマンも来ますよ。帽子も脱がずにどやどやと入り込んで来て、絨毯の上にタバコの灰を散らしながらポンポン、フラッシュを焚いて写真を取りますよ。社交界の重鎮無罪を主張、何ていう見出しが新聞に出るんです」
最後の一言は効果覿面だった。ウィネット夫人がたじろぐのをメイスンは見逃さなかった。
「なかなか芝居がお上手ですがね、もうこうなっては白を切り通せませんよ。ざっくばらんに話しましょう、ウィネットさん」
「何をお聞きになりたいの?」
「あなたが御存知のことを、何もかも」
ウィネット夫人は浅く息を吸った。「マーシャとクロードの間に何かあることは、私、薄々知っていました。マーシャは出て行ったんでしょう。その方がいいと思います」
「どうしてです?」
「あの二人は結局上手く行かないだろうと思いますから」
「いえ、私が訊いているのは、どうして若奥さんが家を出たのかと言うことです」
「存じません」
「考えて下さい」
「そんなふうにおっしゃっても」
「月曜日のことを、何か知っておいでですね?」
「月曜日? いいえ」
「ダフニーは月曜日、望楼に上がりましたか?」
「上がっていたようですね」
「ダフニーは、月曜日あるいは水曜日に見たことを、あなたに話しましたか?」
「メイスンさん。失礼じゃありませんこと」
メイスンは言った。「マーシャのことを何か知っておいでですね。あなたは、彼女が家族の名を汚すようなことを何かした、と思っておいででしょう。それをご自分の手で、何とか揉み消そうとなさいましたね。それがかえって仇になりましたよ。私は、その禍の根がどこまで深いか、それを知りたいんです」
「あなたの言ってらっしゃることは、何一つ証明できないでしょう、メイスンさん」
「それは」メイスンは言った。「私には警察の持っている権限や手段がないからにすぎませんよ。警察なら証明するでしょう」
「いいえ、できません」ウィネット夫人は冷ややかに言った。「知っていることは、もう、何もかもお話ししましたよ」
メイスンは椅子を下げて立ち上がり、中庭に通じるドアの方へ向かった。と、彼は途中でくるりと向きを変え、足音を忍ばせて機敏に応接間を横切ると、いきなりドアを大きく引き開けた。
ダフニー・レックスフォードは明らさまに狼狽しながらも、まさにドアに向かってやって来たところだというふりを装っていた。「ああ、びっくりした」彼女は笑って言った。「もう少しでぶつかるところでしたわね、メイスンさん。何だか急いでらっしゃるのね」彼女は何喰わぬ顔でメイスンの傍をすり抜けようとした。
メイスンは彼女の前に立ちふさがった。「立ち聴きしていましたね」
「メイスンさん、何を証拠にそんなことおっしゃるの?」
「さあ、入って」メイスンは言った。「話したいことがあります。ここで……いや、二人だけの方がいいな。行きましょう」
メイスンは彼女の腕を取った。彼女は尻込みした。
ウィネット夫人が言った。「メイスンさん、いくらお客さまでも、それはあんまりです。息子の留守中にお引き取り願うのは心苦しいことですけれど……」
メイスンはダフニー・レックスフォードに向かって言った。「夜中までには警察がどやどやとやって来るでしょう。私に話しますか、それとも、警察に話しますか?」
ダフニー・レックスフォードは肩越しにウィネット夫人に言った。「おやまあ、大変だこと。それじゃあ、この方のお話を聞かなくては。ちょっと行って来ます」
ヴィクトリア・ウィネットの返事を待たずに、彼女はメイスンに向かってにっこり笑いかけ、進んで応接間から出た。「さあ、どこでお話ししますの?」
「ここでいいでしょう」メイスンは書斎の片隅に足を止めて言った。
ダフニー・レックスフォードは彼と向かい合って立った。「警察は何を調べに来るんですの?」彼女は声を落として言った。
メイスンは彼女の目を見つめて言った。「殺人です」
「誰が……殺されたんですか?」
「その前に、あなたに訊きたいことがあります」メイスンは言った。「あなた、右の目が悪いですね。ウィネットさんはそれを隠している」
「おっしゃることがよくわかりませんけれど」
「双眼鏡を覗くとき」メイスンは一歩踏み込んだ。「あなたは右の接眼レンズを調節しないとよく見えないでしょう。違いますか?」
「だからどうだっておっしゃるの?」
メイスンは言った。「月曜日、マーシャを見張っていましたね。何を見ましたか?」
「何も。私……」
「月曜日に、ここへ来ていましたか? 望楼へ上がったんですか?」
「ええ、上がりましたけど」
「ここへは、ちょくちょく来るようですね」
「ええ。ヴィクトリアとは仲好しですから。それは、母娘みたいに歳は違いますけど、私、あの人が大好きなんです。あの人の物の考え方とか、心意気とか……」
「ウィネット少佐と接する機会もできるだけ多くしたい」
「まあ、失礼な」彼女はむっとして言った。
「その点はまた後まわしにしましょう」メイスンは言った。「そこで、月曜日のことですがね。あなたは何を見たんです?」
「何も見ていません。私は……」
「望楼へは行ったんですね?」
「ええ。しょっちゅう行ってますよ。鳥を観察してるもんですから。それに、私、詩を書くんです。あそこへ上がると発想が湧いて……」
「少佐の奥方の行動を見張ることもできる、というわけですね」
「メイスンさん。そんな言い方ってあるかしら」
「まあ、いいでしょう。月曜日に、奥さんを見ましたね? 何をしていましたか?」
「私……何も見てません」
メイスンは言った。「木の陰に駐まっているオレンジ色のトレーラーに、奥さんが乗るところを見たでしょう」
「オレンジ色じゃないわ、緑だったわ」
メイスンはにやりと笑った。
「ええ、そう、私、見ました」彼女は言った。「でも、私が罠にかかったとお思いになったら大間違いだわ。私はたまたまマーシャが馬に乗って行くところを見ただけですもの。それで、木の陰にハウス・トレーラーが駐まっているのに気が付いたんです」
「奥さんが乗るところを見たんですね?」
「マーシャが馬を繋いで、トレーラーの方へ歩いて行くのを見ました。でも、私は興味がなかったもので、また詩を書き続けました」
「トレーラーの中にはどれくらいの時間いましたか?」
「さあ、知りません」
「あなたは、どうして奥さんを見張っていたんです?」
「見張ってなんかいません。私は鳥を観てたんです」
「鉛筆と便箋を持っていましたね」
「ええ、もちろん。さっきから言ってるでしょう。私、詩を書くんです。壁に書くわけにはいかないでしょう、メイスンさん。だからあそこの机の抽斗に、いつも鉛筆と紙を入れておくんです」
「双眼鏡で、車のナンバーを見て、それを書き取りましたね?」
「いいえ」
「最後に望楼へ上がったのはいつです?」
「いつって……今日行きましたけど」
「毎日あそこへいくんですか?」
「毎日ではないですけれど、でも、ちょくちょく行きますわ」
「今週は、毎日ですか?」
「ええと。そうですね……ええ」
電話がけたたましく鳴った。
メイスンはじっと耳を澄ました。執事が出た。ほどなく執事はもったいぶってゆっくりと書斎を通り抜け、応接間へ行ってウィネット夫人にそっと耳打ちした。夫人は電話に出た。
メイスンが聞いているところで彼女は言った。「もしもし、まあ、クロード……ええ、ここにいるわ。ねえ、クロード、何か話が妙なのよ。メイスンさんのなすってることは、とても鉱山関係のお仕事とは思えないわ。マーシャのことを根掘り葉掘り……」
メイスンは電話の傍へ行き、そっと夫人を押し除けてその手から受話器を取った。「ああ、少佐。ざっとめどが付きました。すぐ、こちらへいらして下さい」
ウィネット少佐はかっとした様子で声を荒らげた。「どういうことかね、メイスン君」
メイスンは言った。「あなたの御母堂は誰かを庇おうとしていらっしゃいます。ダフニー・レックスフォードも誰かを庇っています。二人がそれほどまで庇おうとする人間は一人しか考えられません。つまり、あなたです。すぐにこちらへいらっしゃれば、警察の先を越せるかも知れませんよ」
「いったい何の話だね?」
「ご自身よくおわかりでしょう」メイスンは電話を切った。
ペリー・メイスンと対決すべく応接間にやって来たウィネット少佐の跛《びっこ》は心なしかいつもより目立っていた。
「留守中に何があったかは知らないが」彼は言った。「私に関する限り、君との関係はこれで終わりだ」
メイスンは言った。「坐って下さい」
「メイスン。車がないなら、私が町まで送ろう。車があるなら、私が君の部屋まで行こう。荷物をまとめて帰ってくれたまえ」
メイスンは言った。「これまでにわかったことから考え併せるとですね、あなたはあの木の下にトレーラーが駐まっているのに前から気付いていましたね。あなたははてなと思った。望楼から、あなたはマーシャがトレーラーに乗るところを見たでしょう。その後、トレーラーを引いて車が出て行くところも見ましたね。あなたは車のナンバーを書き取った。それを基に、あなたは車の持ち主を突き止めましたね。それから、あなたは事の成り行きを細かく監視していたでしょう。
マーシャが保険を解約した時も、それからそのすぐ後で待ってましたとばかりに宝石が盗難に遭っても、あなたは黙っていました。警察はすぐに内部の者の仕業と見るだろうということを、あなたは知っていたからです。奥さんには、母上の手前、家の名前を出したくないと思わせていたんですね。でも、あなたは宝石を取り戻して、二十口径のショットガンの銃身に隠しましたね。それから、あなたは奥さんの一挙一動を見張っていました。宝石はどこで取り戻したんです?」
「メイスン」ウィネットは冷たく言った。「今すぐここを出て行かないと、使用人に言い付けて、君をつまみ出させるぞ」
ウィネット少佐の威しもメイスンにはまるで通じなかった。「それにはもっと人を大勢雇わなきゃあ駄目ですよ」彼は言って、話の先を続けた。「水曜日にまたトレーラーがやって来て、マーシャが二度目にそこへ行った時、あなたははっきりさせてやろうと決心しました。で、あなたはトレーラーのところへ行きましたね。そこで争いになった。あなたはハリー・ドラモンドを殺しました。あなたはトレーラーのドアをロックして、邸に戻って夜になるのを待ちました。暗くなってから、殺人の証拠と一緒にトレーラーをキャンプ場へ移して……」
「メイスン。言うことに気を付けろ、叩き出すぞ」
「そこにトレーラーを駐めました」メイスンは動ずる気配もなく話し続けた。「あなたは一旦、邸へ戻りました。ところが、あなたは二発ばかり銃を射って犯行時間をごまかすのは悪くない考えだと思い付きました。あなたはキャンプ場に出掛けて行って、闇にまぎれてそっとトレーラーの傍まで行きました。トレーラーの陰の暗がりで空へ向けて二発射ちましたね。
あなたはその時、マーシャに後を付けられていることを知らなかった。銃声を聞いて、当然マーシャは、あなたが嫉妬からドラモンドを殺してしまったと思いました。奥さんはあなたを非常に愛しています。だからあなたに嫌疑がかかってはいけないと考えて、姿を消したんです。あなたが探偵を雇って奥さんを捜そうとしなかったのもそのためです。あなたは、もっぱら殺人事件を手掛けている弁護士を雇いました。いずれ殺人事件で裁判になることを、あなたは知っていたからです」
ウィネット少佐は指を鳴らした。「君の話は何もかも出鱈目だ」
「いいですか」メイスンは言った。「あなたは、いくつか致命的な間違いを犯しているんですよ。まず第一に、あなたはドラモンドを射った最初の一発をはずしました。トレーラーの二重の壁に開いた穴が、弾の方向をはっきり示しています。キャンプ場のユーカリの木の下にトレーラーを駐めた時、あたりは暗かったので、あなたはそうやって射った弾がどこへ飛ぶか考えるのを忘れていました。これは間違いでしたよ、少佐。実はですね、トレーラーの弾の痕は、隣のトレーラーの窓からちょうど真っすぐの位置に当たっていたんですよ。
警察はすぐ、銃は隣のトレーラーから射たれたものと判断するでしょう。でも、弾は外からではなくて、中から射たれたものだということはちょっと調べればすぐわかることです。そうなれば、トレーラー・キャンプが犯行現場ではないこともわかります。この点でも、あなたは一つ失敗を犯しましたよ。トレーラーを動かした時、死体はすでに死後かなりの時間を経過していました。ところがです、死体から流れた血は、まだ完全にかたまり切っていなかったんです。真ん中の方はまだ流動性を帯びていました。でこぼこの道を走ってトレーラーが左右に揺れた時、それが流れ出したんです。床の血の痕が乱れて糸を引いたようになっているのはそのためです」
ウィネット少佐はきっと口を結んだまま、身じろぎ一つしなかった。彼は刺すような視線をメイスンの顔に注いでいた。
「というわけで」メイスンは続けた。「警察が捜査に乗り出せば、被害者がマーシャの前の夫であったことがわかるということをあなたは知っていました。警察はマーシャを追跡するでしょう。奥さんの失踪が警察に知れればどうなるか、これはもう目に見えています。それで、あなたは私のところへ来たんですね」
ウィネット少佐は咳払いした。「君は、マーシャが私をつけていたと言ったが、証拠はあるのか?」
メイスンは言った。「論理的に考えれば、それは……」
「そこで君は間違っている。私の部屋へきてくれたまえ。話したいことがある」
メイスンは言った。「もうあまり時間がありませんよ。警察はすでに死体を発見しています。被害者の身元が割れて、前歴がわかれば、警察は直ちにマーシャの行方を追求するでしょう」
「わかった」ウィネットは言った。「こっちへ来たまえ。お母さん、ダフニーともども、今の話は聞かなかったことにして下さい。後で僕の方から話します」
ウィネット少佐は自室に入ると、ポータブル・バーからウィスキーの瓶を取り出した。
メイスンは手を上げて断った。ウィネットが自分のグラスに注ぐと、メイスンは手を伸ばしてそれを取り上げ、半分ほど瓶に戻した。「元気付けに一口だけですよ」彼は釘を刺した。「後であれは酔って言ったことだなんて言われては具合が悪いですからね。もうじき警察に供述することになります。今のうちに私に話してください」
ウィネットは言った。「月曜日にマーシャがあのトレーラーの男に会いに行ったことは知らなかった。水曜日のことは知っている」
「どうして知っているんです?」
「見ていたんだ」
「どうして、見ていたんです?」
「ある人間が、家内が月曜日にトレーラーのところへ行ったと知らせてくれた」
「誰ですか?」
「母だ」
「あなたは、どうしました?」
「水曜日、家内がトレーラーを離れてから私は相手が何者か確かめに行った。それで家内があの男とこっそり会った理由がわかったよ」
「何があったんです?」
「男は死んでいた。テーブルに、家内の宝石が散らばっていた。それを見て、私は何があったのかわかったんだ。一発は心臓をぶち抜いていた。一発は明らかに頭をかすめてトレーラーの壁を抜けていた」
「なるほど。一応あなたの言い分を聞いておきましょう。で、どうしました?」
「マーシャの宝石を掻き集めて、トレーラーをロックした。家へ帰って、暗くなるのを待ってから、知っているキャンプ場へトレーラーを動かして、そこへ駐めたよ。私は、あらかじめおいておいた車まで歩いて、それに乗って帰って来た。家へ帰ってはじめて、殺人が夜遅くトレーラー・キャンプ場で行われたように見せかければ、完全に警察の裏をかくことができると気が付いた。で、私はキャンプ場へ戻って、トレーラーの傍で空へ向けて二発射って、車に飛び乗って家に帰った。マーシャは寝ているだろうと思っていたんだが、二時間ばかりして寝室へ行ってみると、家内はいずに、例の手紙があったんだ。それで私は君のところへ行った。私は君の力を借りたかった。これは本当だよ。だから力になってくれたまえ」
メイスンは言った。「車のナンバーを書き取りましたね。その後、それを隠すために数字や文字を書き加えて……」
「メイスン君、それは誓ってしていない」
「じゃあ、誰です?」
「知らないねえ」
「誰かが車のナンバーを書き留めているんです」メイスンは言った。「4E4705 と。で、その後、それをカムフラージュするために、数字を書き足して、その上に、『以下の番号コールあり』という文句を添えているんですよ。ところが、足し算をして、それが間違っている……いや、待てよ……」
メイスンは目を半眼に閉じてじっと考え込んだ。
「それは、きっと……」ウィネット少佐が何か言いかけた。
メイスンは手を上げてそれを制した。やがて彼は電話に手を伸ばし、ドレイクが本拠を構えているホテルにダイヤルした。ドレイクが出ると彼は言った。「もしもしポール。ペリーだ。わかったぞ。例の足し算なあ、あれは合ってるんだ」
「どうしてさ」ドレイクは言った。「合計は 49"37818 だろう。それが 49"37817 になってたじゃないか」
「だから、その数字でいいんだ」メイスンは言った。「こっちに必要なのは、4E4704 だよ」
「しかし、車のナンバーは 4E4705 だぜ」
メイスンは言った。「車を二台持っていたらどうなる? ナンバーは続き番号になるだろう。4E4705 の車の持ち主を捜してくれ。そこの六一三号室あたりからはじめる手だな」
メイスンは電話を切り、ウィネット少佐に向かって一つうなずいた。「最後のチャンスです。予断は許しませんよ。今度から、弁護士に会う時は、あまり上手く立ちまわろうなんて思わないことです。はじめから正直な話をした方がいいですよ。母上のお部屋はどちらです?」
「廊下の向こうの突き当たりだよ」
「看護婦の部屋は?」メイスンは尋ねた。「当然、続き部屋ですね」
「ああ、そうだ」
メイスンは言った。「行きましょう」
ノックに応えてドアを開けたヘレン・カスターは狼狽の色を隠せなかった。「あら、今晩は。あの、何か……」
メイスンはずいと部屋の中に入った。ウィネット少佐は一瞬|躊躇《ためら》ってから後に続いた。メイスンはピシャリとドアを閉めた。
「警察が今こっちへ向かっている」メイスンは看護婦に向かって言った。
「警察が? 何しに?」
「君を逮捕しにだ」
「どうして私を?」
メイスンは言った。「それは君次第だ」
「どういうことですか?」
「一つは恐喝。もう一つは、殺人の事後従犯だ。恐喝で逮捕される方を勧めるね」
「そんな……私……いったいそれ、何の話ですか?」
メイスンは言った。「私は永年法律と付き合っているからね、手掛かりというのは、思惑どおりにことが運ぶようにいじくってはならないことをよく知っているんだ。数字の合計が、49"37817 になっているのを見て、私は、それが 49"37818 でなくてはおかしいと思った。計算違いだと思ったんだよ。ところが、そうじゃあなかった。君は車のナンバーを書き留めた。Cal 4E4704 だったね。君は番号を憶えておこうとしてそれを書いた。でも、万一人に見られた時、すぐわかったりしてはまずいと思った。それで上に『以下の番号』と書き足して、Cal の後に led を付けて、『コールあり』と読めるようにした。で他の数字を書き出して足し算をした。さあ、4E4704 の番号を書いたわけを話してくれないか。もう五分と時間はないんだ」
看護婦はメイスンからウィネットに視線を移した。その目には絶望の色が浮かんでいた。「何を証拠に、そんな……」
メイスンは時計を取り出した。「警察が早ければ、君は事後従犯だ。頭を使うんだね。まだ恐喝未遂で逃げる道は残されているんだよ」
「私……私……ああ、メイスンさん。だって私……」
メイスンは秒針が時を刻むのを見つめていた。
「わかりました」彼女は低く言った。「あれは、昨日の朝です。私、大奥様を捜していました。望楼かと思って行ってみたんですけど、いらっしゃいませんでした。双眼鏡が森の方を向いていたので、私、何の気なしに覗いてみたんです。そしたら、トレーラーが駐まっていました。トレーラーを引いている大きなビュイックの傍に小型のクーペがいました。男と女が何か言い争っているみたいでした。男の方が女を打とうとして手を上げると、女はブラウスの中へ手を入れました。拳銃が発射されるのが見えました。二発です。男はよろよろとトレーラーの中に倒れました。女はそっとドアを閉めて、自分の車で走り去りました。
双眼鏡で私、その車のナンバーを見たんです。Cal 4E4704 でした。それを紙に書いたんです。警察に届けるつもりで。でも……それから、私、あの……」
「その紙はどうした?」メイスンは尋ねた。
「車のナンバーだとわかってはまずいと思って、あなたがおっしゃった通り、いろいろ書き加えたんです」
「最初のナンバーを君は机の上にじかに紙をおいて書いた。他の文字や数字は、あそこにあった便箋の上で書いたんだね」
「ええ……たしか、そうだったと思います」
メイスンは電話を指さした。「警察に電話して、君が見たことを話すんだ。ずっと気になっていたと言えばいい。すぐ警察に知らせようと思ったけれども、ウィネットさんが名前が出ることをひどく嫌うのでどうしていいか迷っていたと言うんだ。今日ウィネットさんに話したら、すぐ警察に知らせろと言われた。それまで報告しなかったのは、次に見た時トレーラーはいなくなっていたから、怪我は大したことはなくて、男が自分で運転して行ったのだろうと思った。そういうふうに話せばいい」
「そうしたら、私……」
「そうすれば、上手くいくと君は何の嫌疑もかけられずに済むかも知れない。ただし、それは極めて希望的観測ではあるがね」メイスンは眉を寄せて言った。「本当のところは……君は何をした?」
「車のナンバーを調べて、持ち主がハリー・ドラモンド夫人だっていうことを突き止めました。で、その人に会ったんです。私、別に強請《ゆす》ろうなんて、そんなつもりじゃありませんでした。ただ、美容院をやりたいっていう話をしただけです。そしたら、あの人、お金を出してくれるって言いました」
メイスンはもう一度電話を指さした。「警察に電話するんだ。さあ、少佐。行きましょう」
廊下に出るとウィネット少佐は言った。
「ところで、家内はどうなっているね、メイスン? 私の家内は? 私が心配しているのは……」
「そうでしょうとも。心配でしょう」メイスンは言った。
「奥さんは水曜の夜、あなたがトレーラーを動かすところを見て、例のキャンプ場まで後をつけたに違いないんです。トレーラーの中でドラモンドの死体を見て、奥さんはあなたが、家の名前を汚すようなやつは許せないというんであの男を殺したのだと思ったんですね。つまり、こういうことですよ。奥さんはドラモンドに金を渡して離婚しようとしました。ドラモンドは離婚は成立したと言ったんです。それで奥さんはあなたと再婚しました。ドラモンドの方も、再婚するという誤りを犯しました。それが何かの拍子に知れて、その二番目の女房は重婚罪で訴えるとドラモンドを脅かしたんです。それが厭なら金を出せというわけですよ。ドラモンドが金を作るには、マーシャに圧力をかけるしかありません。マーシャは潔癖な性分ですから、あなたに金をねだるわけには行きませんでした。保険会社にも迷惑をかけたくなかったんですからね。そこで狂言盗難を仕組んで、宝石をひとまず燕の巣に隠して、それを後から持ち出してドラモンドに渡したんです。二番目の女房が金を受け取るつもりで会いに行くと、ドラモンドは宝石を出しました。その女は宝石が盗品で、金に換えられないものだと思ったんです。それで、争いになって、かつての亭主を射ってしまったわけです」
「しかし、私は死体を運んだんだよ。これはどう説明したらいいかね?」ウィネット少佐は言った。
「あなたは何一つ説明することなんかありませんよ」メイスンは言った。「何のために弁護士がいると思います? 私の車に乗ってください。看護婦の電話で警察は大忙しです」
真夜中近く、ペリー・メイスンとポール・ドレイクは市警察の本署へ顔を出し、一連の写真を示してマーシャ・ウィネットの特徴を伝えた。
「わかっていると思いますがね」メイスンはドーセット巡査部長に言った。「少佐は表沙汰になることを望んでいません。奥さんは何年か前に健忘症にかかったことがあります。少佐はそれが再発したんではないかと心配しているんです」
ドーセット巡査部長は顰め面をしてデスクのメモを見やった。「実は、ある病院から連絡があってね。まさに君の言う健忘症の女性を一人、ここに保護しているんだ。それにしても、君は何でまたこの事件に巻き込まれたんだね、メイスン?」
「ウィネット家のいろいろな手続きなどを扱っているもので」
「郡からのテレタイプで、ドラモンドという男が殺されたという報告が来ている。ウィネット家の住み込みの看護婦が一部始終を目撃して、電話で通報したんだ。看護婦は犯人の車のナンバーを見ている。ドラモンドの女房だ」
「それはそれは」メイスンはさりげない関心を示しただけだった。「で、その健忘症患者に会わせてもらえませんか。少佐がえらく心配しているもので」
「それで」ドーセットは続けた。「郡の警察がドラモンドの女房を拘引して調べたところが、本人は、殺害は正当防衛で、おまけに看護婦に強請《ゆす》られていたと主張した。看護婦の方では、それは嘘だと言っているよ。ドラモンドの女房の告白の内容から言って、強請《ゆす》られたという線は弱いな。郡警察としては、他の件を残らず放ったらかしにして当たらきゃあならなかった殺人事件が一挙に片付いて大喜びだろう」
メイスンはドーセット巡査部長をじろりと見て言った。「少佐の奥方と今の話とどんな関係があるんです?」
ドーセットは溜息をついた。「そいつはこっちが訊きたいね」彼は含むところありげに言い足した。「結局、最後までその点はわからずじまいだろうな」
メイスンは言った。「現実的に考えましょうよ。その殺しは郡の管轄でしょう。保安官は市警の刑事が嘴をはさむといい顔をしませんよ」
ドーセットはうなずいた。「君はそこまで計算に入れていたな。健忘症患者は市の管轄だ。郡警の方じゃあ見向きもしない」
巡査部長は敵ながらあっぱれといわんばかりの顔でメイスンを見た。
メイスンは断定的に言った。「保安官が事件を解決して、供述まで取った以上、健忘症患者と殺しはもう無関係ですね。でも、一つだけ確かなことは、もしウィネッ少佐の奥方がここにいてですね、すでに精神的に苦しんでいるところへ持って来て、お宅の気まぐれでそれが悪化するようなことがあれば、そちらは後悔するってことですよ。さあ、奥さんを引き渡してもらえますか。それとも、人身保護令状がいりますか」
「わかったよ、今引き渡す」ドーセットはふてくされて言った。「君が過去十二時間どこで何をしていたか残らず調べあげたら、俺は昇進間違いなしだろうなあ。でも、やってみたところで、足を引きずって手ぶらで帰って来るのが落ちだろう。どうにでもなれだ、まったく」
彼は電話を取って言った。「夜間報告八四号の健忘症患者をこっちへ回してくれ」 (完)
解説 ガードナー論
〔ロードランナー〕
ワーナーの漫画に「ロードランナー」シリーズがある。駝鳥じみた鳥を腹ぺこのコヨーテがとって食おうと涙ぐましい努力を重ねるのだが、必ず惨憺たる結果に終わる。このロードランナーのスピードたるや土埃《つちぼこり》しか見えないほど。聞こえるのはビッビーという昔なつかしい自動車の警笛のみ。コヨーテはスピードでは敵わないので毎回計画を練る。たとえば――道を塞ぐ大岩盤にトンネルの絵を描いて衝突させる案。ところがロードランナーは猛スピードで絵のトンネルを通過。後を追ってコヨーテもとびこもうとするが、絵のトンネルに激突して気絶。
ギャグ漫画のいいところは、悪玉・善玉とも決して死なない点と、あくなき試行錯誤が許されていることだろう。「ロードランナー」では、学名《ヽヽ》<信じがたい加速性動物>が、コヨーテの捕獲計画を頓狂な顔で次々とぶちこわしていく――その快感がいい。
ほんもののロードランナーは、アメリカ西部砂漠地帯に生息する尾の長い二フィートほどのホトトギス科の鳥。姿はキジに似ていて、地面を猛スピードで走るらしい。
E・S・ガードナーがこのロードランナーを自己表象とし、レターヘッドに疾駆するこの鳥の写生画を採用していたと知ったとき、ふと漫画「ロードランナー」を思い出したのである。前途に待ちかまえるあらゆる困難を乗り越えてばく進したガードナーには、たしかにロードランナーがふさわしい。カリフォルニア半島基部に当たるメキシコ領バハ・カリフォルニア地方の探検を愛し、『砂漠は君のもの』『砂漠の鯨骨発掘』など多くのノンフィクションを著し、不可能といわれていたコヨーテの馴致に成功したガードナーを知れば、なおさらに思える。
貧しい鉱山技師の息子として生まれ、刻苦して弁護士となり、さらにミステリ作家として大成功をおさるめたのちも、ほとんど手弁当で埋もれた誤審を掘り起こしてキャンペーンしたガードナーの一生は、まさにロードランナーのようにアメリカ的であった。
「たいていの作家は富と名声のために書くが、ガードナーは狩猟のために書いた」と、ピューリッツァー賞を受けたアルヴァ・ジョンストンは短い評伝『アール・スタンリー・ガードナーの事件簿』の冒頭部分で述べている。一九二〇代初期、カリフォルニア州ヴェンチューラの法廷弁護士として地方的名声を得ていたガードナーは、オオジカやトナカイを狩る目的で三度アラスカへ出発したが、そのたびに重要審理のために呼びもどされている。共同経営者《パートナー》や裁判所にしてみれば、彼が戻るまで審理を延期せざるを得ないので文句をつけたくなる。一方ガードナーにしてみれば、せっかくの休暇を台なしにされた、とふくれっ面になろうというものである。
「私は金のために、読者にもっとも単純な意味での喜びを与えるために、書いている」と、後にガードナーは自身語っているが、三十代にさしかかって趣味に熱中していた彼が、さほど金にならず、さりとて余暇も楽しむことが出来ない田舎弁護士稼業に内心嫌気がさしていたことは容易に想像できる。
ガードナーは、時間に拘束されず、しかも成功すれば金になる作家になろうと決心する。もっとも手っとり早いのは、当時ニューヨークの出版社が主軸となって発行していた多数のパルプ・マガジン(安雑誌)に短篇を売りこむことであった。
社会の中・下層階級や少年たちに楽天的なアメリカの夢を売っていたパルプ・マガジンは、一九二〇〜一九三〇年代にかけておびただしい発達を見せた。探偵小説・スパイ小説・戦争小説・SF・恋愛小説・西部小説……とあらゆるジャンルにわたる雑誌が発行され消えていった。ポピュラー出版社の社長ヘンリー・スティーガーは、パルプ小説についてこう語っている。「パルプは数百万のアメリカ人の大切な娯楽手段だった。パルプはちらつかない白黒のTVであり、読者はパルプのおかげでもっともすばらしい想像の翼を拡げることができたのである……」
また当時少年だった幻想作家チャールズ・ボーモントは、「血まみれのパルプ・マガジン」という随筆で次のように過去を振り返った。
「儀式、それはパルプ・マガジンの教養を崇拝することであった。
一体、パルプ・マガジンとは何か? 安っぽい印刷、けばけばしい挿絵、扇情的な内容で中級以下の読者層を狙った小説の盛り合わせである。どこがよかったか? よくはなかった。素晴らしいものだった。
『ドク・サヴィジ』『ザ・シャドウ』『ザ・スパイダー』……『ザ・ファントム』『アドヴェンチュア』『アーゴシー』……などの雑誌がそれであった。
泰平の時代、アメリカの新聞雑誌売り場を賑わした何百冊という雑誌。暗い思春期の世代に未知の陶酔を与え、彼らにうまくとり入った雑誌。当時の向こうみずな若者たち――今では立派な大人になっている人たち――を感激させ、興奮させ、催眠術にかけた雑誌。もちろん、それらは固苦しいものではなかった」(大塚完司訳)
そして、彼ら、読者を熱狂させた作家《マガジン・ライター》たちとは不況の三〇年代、ニューヨークの安ホテルや下宿に住みつき、タイプから叩き出した明るく楽しい物語をかかえて雑誌社めぐりをしていた未来の長篇作家《ノヴェリスト》たちである。地方に住む作家志望者は切手代のかさむのを苦にしながらも、返送されてくる原稿を片っぱしから別の雑誌に郵送していた。
三十代はじめの少壮弁護士ガードナーの目ざしたのは、その日暮らしの群小作家ではなかった。金がもたらしてくれる余暇が楽しめる花形作家である。
一九二〇年代初期には、まだ「ドク・サヴェジ」「ザ・シャドウ」「ザ・スパイダー」「ザ・ファントム」などは生まれていなかったが、「ブリージー・ストーリーズ」「スナッピー・ストーリーズ」「スマート・セット」「トップ・ノッチ」「サンセット」「トリプル――X」などがあり、なかでもキャロル・ジョン・デーリーのハードボイルド探偵レース・ウィリアムズを看板にした「ブラック・マスク」が、彼には有望株に思えた。
「行動派《アクション・タイプ》推理小説は、アメリカのパルプ・マガジン誌上で、はじめて紹介されたものである。この種の最初の作品はダシール・ハメットの『マルタの鷹』(一九三〇)であるという人もときどきいる。しかし行動派推理小説が単行本で出版されたころには、新しいものとはいえなかった。
だれがこの流行をはやらせたのか、の判断はむずかしい。ハメットの最初の探偵小説が雑誌に掲載されだしたのは、一九二三、四年頃だと思う。すくなくとも一九二二年ごろには、キャロル・ジョン・デーリーは False Burton Combs をブラック・マスク誌に発表していた。それは、レース・ウィリアムズ探偵ものだったが、この主人公こそあらゆるハードボイルド探偵の先駆者であろう」(『事始めの事件』E・S・ガードナー)
一九二一年にガードナーは処女作 The Police In The House をブリージー・ストーリーズ社に売った。E・H・マンデルのチェックリストによれば、同年同誌に Nelie's Naughty Nightie を、翌年スナッピー・ストーリーズ誌にPawn Takes Knight を、一九二三年のドロール誌に Nothing Tolt を発表しているとある。アルヴァ・ジョンストンのいう「ジョーク二篇を各一ドル、ユーモア・スケッチを各十五ドルで売った」というのが、これらに当たるかもしれない。
ガードナーが本格的にパルプ・マガジンに登場したのは、ブラック・マスク誌一九二三年十二月十五日号の中篇 The Shrieking Skeleton で筆名はチャールズ・M・グリーンである。編集長はジョージ・W・サットン。
もちろん、すんなりブラック・マスクに掲載されたわけではない。The Shrieking Skeleton の最初の原稿はただちにガードナーに返送された。当時の販売部長フィル・C・コディのメモが同封してあった。「これまで読んだ小説中もっともくだらない物語……登場人物は辞書のような会話をしている」
ガードナーは書き直して送った。一万四千語で百四十ドル。文字通り一語一セントであった(チャンドラーの同誌一九三三年十二月掲載の処女中篇「脅迫者は射たない」も一万八千語で百八十ドル)が、サットン編集長は同号の巻頭小説扱いにした。カリフォルニア州ヴェンチューラの田舎弁護士のパルプ・マガジン奮闘のドラマの幕がいよいよ開くことになる。
〔ガードナーの生いたち〕
アール・スタンリー・ガードナー Erle Stanley Gardner は、一八八九年七月十七日、マサチューセッツ州モールデンに生まれた。父チャールズは鉱山技師で金採掘専門家だったというから山師的な人物だったのかもしれない。おかげでガードナーも小・中学校をミシシッピ州、オレゴン州、カリフォルニア州と転々している。十九世紀末のゴールド・ラッシュで有名になり、ジャック・ロンドンの小説にもたびたび登場するカナダのクロンダイクにさえ父親とともに出かけている。一九〇六年のことである。その後、カリフォルニア州オーラヴィルの高校に入学したが、授業中、漫画ばかり描いていて退学させられている。
オーラヴィル時代にガードナーはプロとしての拳闘を教えられた。オーラヴィル・オペラハウスで四回戦の試合をしたが、打ち負かされた。彼のセコンドは試合中「ファイト! ファイト!」という代りに「|にっこり《ヽヽヽヽ》! |にっこり《ヽヽヽヽ》だ!」と声をからして叫びつづけたためである。
試合後、ガードナーはセコンドを務めた友人に文句を言ったが、後の祭り。当時|拳闘試合《ファイト》は法律で禁止されていて、入場券はこの名目では売れなかった、というのである。苦肉の策として、「優美な美容体操試合」が考えだされ、ポイントは、つねに気どり笑いを浮かべていた方に与えられる、とした。だから、セコンドとしては「にっこり!」とやるしかなかったわけである。
両目にあざをこしらえ、顔中傷だらけになったガードナーだが、さっそく地方検事補から喚び出しをくらい、お目玉を頂戴した。アメリカの地方にはおかしな法律が今でもたくさん残っているが、それにしてもこの試合の勝者はどっちだったのだろう?
ガードナーは、叱られているあいだに法律家になろうと気を変え、地方検事補に頼んで秘書兼タイピストとして雇ってもらってしまうが、やがて、また父親の手でパロ・アルト高校へ転校させられてしまう。しかもパロ・アルト高校の校長の家に寄宿することになる。彼は昼間は高校で勉強、放課後宿題をすませてから法律事務所でタイピストとして働き、ぶじに高校を卒業した。
高校卒業後、月給二十ドルで法律事務所で働きながら勉強したガードナーは、二十一歳のとき、法律試験に合格し、サンタ・アナの法律事務所に入る。彼は所長E・E・キーチのもとで複雑きわまるカリフォルニア灌漑法を修得する。十九世紀前半に平民主義を標榜したジャクソニアン・デモクラシーのおかげで、アメリカでは弁護士資格をとるのは、さほどむずかしいことではなかった。まず法律事務所に入って実務経験をつんだのちに試験を受ければいい。現代では弁護士になるのはかんたんではないが、少なくとも今の日本ほど資格試験についてうるさくはないらしい。
ガードナーもリンカーンもおなじようにして弁護士になったわけだが、それでも彼はインディアナ州のヴァルパライソ大学に一時籍を置いている。おそらく高校を卒業してからまもないころだろうが、一カ月かそこらで逃げ出すはめになっている。寮の部屋で友人と拳闘の練習をしていたところ、下の階から苦情が出た。やがて、教授が登場し、外へ出ろ、出ないの争いになった。しかもガードナーは、友人とはかって教授を住居不法侵入の罪で訴えようとした。
ところが逆に説教をされ、学園を騒がす首謀者として自分に逮捕状が出る寸前だと知ったガードナーは町から逃げだしてしまう。そしてまた法律事務所で働くことになったのである。「私はもとボクサーだった」と教授のほうから先に殴りかかったとはいえ、ぶっとばしたあげくに訴えようとしたガードナーはかなりのツワモノである。後年、ヴァルパライソ大学から講演依頼があったとき、当時の逮捕状が有効であることを知っているガードナーは出席を拒否してしまった。
一九一二年、ガードナーはミシシッピ州生まれのナタリー・タルバートと結婚し、一女をもうける。一九一三年に独立し、ロサンゼルスとサンタ・バーバラの中間に位置するオクスナードの町で法律事務所をひらいた。だが、客は下層階級の中国人やメキシコ人ばかりで、金にはならなかった。
「あらゆる階層にわたる依頼人がひきもひらないので、実務経験をつむにはもってこいです――ただ、上・中流階級の依頼人はありません」と、そのころ彼は父親に手紙を書き送っている。
<中国人の法律事務所>と呼ばれていたくらいだったが、ガードナーは彼らが貧乏で社会的に恵まれない階層であるために、法律上不利に扱われることに納得することができなかった。アルヴァ・ジョンストンはこう書いている。「はじめからアールは、浮浪者やデバカメやニワトリ泥棒のたぐいにまで、重大犯罪や悪行で裁かれる大政治家の弁護に当たるようにふるまった」(ただし、ガードナーは「ジョンストンは私をドン・キホーテのように書いたのさ」と苦笑している。有名になるにつれて上流階級の依頼がふえたからである)
ガードナーの献身的な弁護にうたれた中国人が匿名で銀行口座に金を振り込んできたこともあったという――このころの経験が、中国人への知的な好奇心をうむきっかけとなり、中国史を勉強したり、中国語(広東語)を勉強したりした。一九三一年の中国旅行のさいには要人のような待遇を受けたほどであるから彼の中国びいきは大したものであったらしい。一九三七年の「奥の手の殺人」などは、その所産である。
一九一五年、ガードナーはヴェンチューラの有名な弁護士フランク・オーたちの法律事務所に入る。<法廷では闘士のごとく、街では羊のごとき態度>であることは相変わらずであった。一九一七年の大統領選挙の時、ウィルスンの中立主義に共鳴し、百五十ドルの献金までするが、アメリカが第一次大戦に参戦することになったことで幻滅を覚え、以後政治には興味を失ってしまう。
一九一八年、ガードナーはかつての友人(パロ・アルト高校校長の息子である)ジョー・テンプルトンから、自動車部品販売会社をつくるので社長になってくれと頼まれる。このコンソリデーテッド販売会社の目玉商品は中古タイヤにゴムをかぶせたもので、暑い日に路上を走るとすぐにパンクするような代物だったらしい。百五十ドルもする六段トランスミッションを「これさえあればビルのてっぺんまで登ることができる」といううたい文句でデモンストレーションしてみせたりもした。教会の石段をのぼりかけたとき、結婚式を終えた人たちが扉を開けて出て来たこともあった。急傾斜の海壁をのぼる途中、自動車が立ち往生したこともあった。
一九二一年、彼はカリフォルニア州ヴェンチューラに戻った。セールスの仕事がうまくゆかなかったためである。オーらの法律事務所で再出発をはかったのである。オーら共同経営者たちは、ガードナーにデスクワークをやらせず、法廷弁護士に専念させた。ガードナーは古巣にもどり、再び弁護士活動をはじめた。
「もしアールが弁護士を続けていたら、カリフォルニアのダニエル・ウェブスターと呼ばれるギャレット・W・マケーナニーのような人物になっただろう」と、当時のパートナーで、のちヴェンチューラ郡裁判所判事になったルイス・ドラポーは語っている。
またガードナーの知人で有名な法廷弁護士のジェリー・ギースラーも、「アメリカ第一級の法廷弁護士になっただろう。アールは職業をまちがえた」と語っている。ガードナーが反対尋問にたけており、法廷でのかけ引きに魔術師めいた冴えをみせていたのを惜しんだのである。
〔マガジン・ライター〕
ガードナーの弁護士としての地方的名声はしだいにあがっていったが、ロードランナーのごとき疾駆の精神に燃える彼は、パルプ・マガジン作家になろうと決心する。
一九二〇年代前半には、まだパルプ・マガジンの数はさほど多くはなかった。一般読物誌性格のものでは、ショート・ストーリーズ、アーゴシー、ブルー・ブック、レッド・ブック、マンジーズ・アドベンチャーなど……、専門誌的パルプはウェスタン・ストーリー、ブラック・マスクなどであり、爆発的に数を増すのは、二〇年代後半から三〇年代にかけてである。
セールスマン時代の経験で、ガードナーは経営分析の才が備わっていることを覚る。法律家としての才能はさらに上まわっているが、作家としての資質はゼロだとも分析する。それでもガードナーが精力的な楽観主義者である点は、勤勉につとめさえすれば、良い作家になれると信じたことであろう。
神経の疲れる法廷での仕事のあと、数時間におよぶ翌日の打ち合わせをすませて家に帰る。卵入りミルクを持って二階の書斎にとじこもるのがほとんど真夜中。三時間ばかり電動タイプに向かって、一日の最低ノルマ四千語を打ちおわると、ベッドにころがりこむ。起床六時、朝食もそこそこに事務所へかけつけて法廷戦術を練り、十時には陪審の前で堂々と論陣を張っている……これではワーカホリックといわれてもしかたがない。
パルプ・マガジン時代の作家たちは、一年百万語を書いていたという。ガードナー自身も書いたというが、それにしては、中・短篇の数はさほど多く残っていない。マンデルの『ガードナー著作目録』は不備が多くあるにせよ、月に二、三本がいいところである。おそらく没になった原稿がかなりあったものと思われる。いや、彼の回想記によれば「当時のぼくは、原稿不採用の通知の蒐集家になったような状態で、さらには、わが国の郵便制度の能率的なことに感嘆させられている状態」にあった。
不撓不屈のガードナーは、タイプを激しく叩きすぎてときには生爪をはがしながらも、小説を作りだしていった。
怪盗レスター・リースもの、冒険革命家アルナス・デ・ロボもの、怪盗|エナメル靴小僧《パテント・レザー・キッド》ことダン・セラーものは、ディテクティブ・フィクション・ウィークリー誌を中心に、人間蝿スピード・ダッシュはトップ・ノッチ誌……その他探偵ブレーン少佐、ウィスパリング・サンズ、玉つきのキューを武器に活躍する魔術師あがりのラーキン、暗闇でも目が見えるエル・パイサノ、二挺拳銃使いブラック・バー……ハードロック・ホーガン、フォン・デイ、ラップ、スカール……。
ガードナー自身、創造した主人公をいちいち思いだせない、というほどであるが、彼の労力は報われ、ブラック・マスク誌の幻の怪盗エド・ジェンキンズもの、弁護士ケニス・コーニング(メイスン弁護士の前身)ものは、いつか同誌の看板にまで成長していた。
一九三二年七月号ブラック・マスクは、幻の怪盗ジェンキンズもの「あらごと」を掲載しているが、編集長ジョセフ・T・ショウはこんなことを書いている。
「当然ながら、われわれは、われわれの作家の|全て《ヽヽ》の作品を掲載しようとは考えていない。われわれは彼らの最良《ヽヽ》の作品を掲載するのである。
たとえば、フレドリック・ニーベルの作品がサンデー・イヴニング・ポスト誌に掲載されているのをごらんになっているだろう。一方では、ラオール・ホイットフィールドはパラマウント映画と契約してオリジナル映画脚本を書いている。キャロル・ジョン・デーリーは幾つかの雑誌で作品を発表している。アール・スタンリー・ガードナーは、この世界の花形《リーダー》と認められて、あらゆる雑誌から原稿を依頼されている。
しかし、<レース・ウィリアムズ探偵>ものは、本誌でしか読めない。キャロル・ジョン・デーリーのこのシリーズは彼の最良のシリーズなのである。
われわれは、アール・スタンリー・ガードナーの最初の探偵小説《ディテクティブ・ストーリー》を掲載した。まもなく、彼はすばらしい主人公幻の怪盗エド・ジェンキンズものを本誌のみに書くようになった。
他の多くの雑誌は自然、本誌に掲載された作家の作品を確保しようとして競合する。本誌常連作家なら、行動的《アクション》ミステリの一流《リーダー》と認められるからである。
われわれは、本誌常連作家たちに対して、本誌にしか書いてほしくないというつもりはないが、本誌のおかげで有名になったシリーズ作品は、他の雑誌に書かないでほしいとお願いしておきたい……」
ショウ編集長は翌月にも、二ページにわたってガードナーのエド・ジェンキンズものを讃めたたえている。そして、エド・ジェンキンズものにときどき背景として使われる中国人街がいかに正確であるかを縷々《るる》述べている。「ガードナー氏は十年以上も中国語、中国人の心理・風俗・習慣などを研究しており、あらゆる階層にわたる中国人と親密な友人関係にある。昨年(一九三一)、氏夫妻は友人を訪れるために中国を訪問している。そして、夫妻は白人がこれまでかいま見ることさえできなかった超一流の中国人家庭に招かれている」
中国研究家の側面にスポットをあてながら、ブラック・マスクに掲載されるガードナーの小説がいかに良い小説であるかを売りこんでいるのだ。セントルイスの警察人であったフレドリック・ニーベルのマクブライド警部ものだからこそ警察活動描写に信用がおけるし、ハメットはピンカートン探偵社の社員であったから暗黒街が書ける。また、キャロル・ジョン・デーリーは冒険的職業軍人《ソルジャー・オブ・フォーチュン》(冒険旅行などの雇われガードマンみたいなもの)として経験を詰んでいるからウィリアムズ探偵ものの世界は真に迫っているのだ、などとショウ編集長は賢明にタイコを叩いている。
デーリーがはたして冒険的職業軍人であったかどうか疑わしい。劇場案内人兼副支配人だったといわれているし、ガードナーの回想記では、めったに外出しないデーリーが自分の家を忘れてしまって近所の女性に教えてもらう逸話を披露しながら、「デーリーがレース・ウィリアムズを創造したのは精神力こそたくましいが、肉体的には、このうえなしにひよわなかれが、現実生活ではみたされるはずもないはかない夢を、無意識のうちに満足させようとした悲しい願いであるのだ」と述懐している。
パルプ・マガジン作家として活躍したガードナーの筆名は、本名のほかに、チャールズ・M・グリーン、カイル・コーニング、グラント・ホリデー、ロバート・パー、カールトン・ケンドレーク、チャールズ・J・ケニー、アーサー・マン・セラーズ、レス・ティルレー、デーン・リグレー、チャールズ・M・スタントンであり、長篇ラム&クールもので知られるA・A・フェアを加えると十二にのぼる。
〔弁護士ペリー・メイスン誕生〕
パルプ・マガジンに掲載された長篇を単行本にする出版社は、一九二〇年代にはブルー・リボン社、ガーデン・シティ社などごくわずかだった(短篇集となればほとんど考えられない状態である)。あっても雑誌の紙型からハードカバー本にされ、一ドルでデパートなどで売られている状態だった。それが一九三〇年代に入ると、パルプ・マガジン作家の長篇が単行本として出版されるようになる。
ガードナーはパルプ・マガジン界での売れっ子であり、十年のキャリアを積んでいたが単行本はまだ一冊もなかった。一九三二年、彼は書き下し作品である『ビロードの爪』を四日たらずで口述し終えて出版社に送った。いくつかの出版社に断られたのち、ウィリアム・モロー社の社長セア・ホブスンが認めてくれた。
セアは、一冊ごとに新しい背景や登場人物を創りだす探偵小説よりも、シリーズ化したほうがよいと助言する。ガードナーはこれを受け入れた。当時彼はヴェンチューラの法律事務所《ロー・ファーム》に週二日出勤しながらパルプ小説を書いていたが、ある月には一月二十二万四千語も書いていた。
ブラック・マスク誌に発表していたケニス・コーニング弁護士とヘレン助手の活躍譚の後身であるペリー・メイスン弁護士とデラ・ストリート物語は、一九三三年にモロー社から出版された。四十三歳にしてようやくガードナーは長篇作家として歩きだすことになる。
彼は終生セアを自分を発見し、育ててくれた人物だと考えた。初版がすべてモロー社であることからもわかるが、こんな逸話をジョンストンは書いている。
モロー社の初めの出版契約が切れるころには、ガードナーは推理小説界の王《キング》になっていた。セアはガードナーに印税率をあげてもかまわないというと、ガードナーは速記者をその場に呼んで、最初の印税率で再契約はもとより、ペリー・メイスンものの映画・ラジオ化権の印税まで加える契約書をつくりあげた。「ほかの者がこの契約書を読んだら、きみがばかか、私が悪党だと思われるじゃないか」とセアは言ったが、ガードナーはその契約を実行した。
一九六〇年代に入ってからのことだと思うが、セアがモロー社をやめてセア・ホブスン社をつくったとき、ガードナーは版権取扱いをすべてセアにまかせた。セアがテキサスの農場で悠々自適の生活を送れるように配慮したのである。
〔三位一体の冒険小説群〕
これまでガードナーの作品の特徴について多くの人たちが分析している。ボワロー&ナルスジャックは『推理小説論』(寺門泰彦訳)の中で次のように述べている。
「彼《ガードナー》は、弁護士がどんな特権的地位をアメリカ生活のなかでもつかをよく知っていた。自由企業の国では社会関係を絶対的に支配するのは契約である。そして弁護士は、契約の条件を検討し、解釈し、必要なときには変更することもできる人間である。だから彼は、依頼人の運命をしばしば名誉を、そして生命をさえ手中に握っているのだ。……ガードナーがいつも同じような本ばかり書いていて新機軸を出さないことを、非難することもできよう。だが、彼は非常な達見をもってペリー・メイスンが解決せねばならない問題を選ぶ。これらの問題はアメリカの風俗を非常に鮮やかに映しだしていて、注意深い読者はたとえ慣れっこになってしまった人でも新しい細部や迫真的な作中人物に夢中になってしまう。さらにガードナーはA・A・フェアという筆名で、バーサ・クールとその協力者ドナルド・ラムの冒険を非常にユーモラスに物語り、かくしてすぐれた想像力ときわめて繊細の才能の尽きることのない資源の持ち主たることを示す」
サザランド・スコットは『現代推理小説の歩み』(長沼弘毅訳)でこう述べる。
「彼の物語は、ほとんどアクションと対話によって、爽快なテンポで進められる。彼の常用する手段は、読者に、つぎからつぎへと、事実と事件を衒惑的に積み重ねて見せることである。このため読者は、木を見て森を見ずというようなことにさせられてしまう。しかし、これはなにも、ガードナーの書き方が悪いとか、アンフェアな事実の提示の仕方をしているとかいうのではない。なんといっても彼は巧妙な書き手なのである」
アンソニー・バウチャーは、サザランド・スコットのようにパズル・ストーリーとして評価した。たとえば『車椅子に乗った女』を一九六一年のベストに挙げて、「アガサ・クリスティ作品は別として、読者を《まったくフェアに》まどわすみごとな悪魔的工夫をこらしている」と時評に書いている。
検事あがりの弁護士であった佐賀潜の犯罪小説が、彼の活躍中人気を博したのは、新鮮で第一級の資料を駆使したことに魅力があったためだといわれているが、ガードナーの場合も同様なことがいえる。「地方裁判所は文学的実験室である」という言葉がそのことを物語っている。
メイスン弁護士ものの特徴としていくつかのことが指摘できるが、それを挙げてみよう。
(一)犯罪者の動機が金銭的欲望に限られている
推理小説に登場する犯罪者は、さまざまな動機――恋愛・金銭的欲望・名誉心など――のもとに犯罪を行うが、ガードナー作品の場合、ほとんどの場合財産目当てである。この点がいかにもアメリカ的・現代的な動機である。
(二)冒頭の謎
パズル・ストーリーにかぎらず、推理小説では冒頭の謎かけは読者の興味をそそる点で重要なポイントである。メイスンものでは、これがうまい。『どもりの主教』では、本来能弁であるべき主教が、どもりながら若い娘を救ってくれと依頼してくる。『義眼殺人事件』では、芸術的な義眼をニセモノとすり替えられた理由を知りたいという依頼人。父親が殺された現場にいたおうむのしゃべり方が下卑ている、あれは別の鳥だという依頼人(『偽証するおうむ』)。百万長者でありながら無一文の娘の依頼(『美しい乞食』)、富豪の下男が愛猫にいだく偏愛ぶり(『管理人の飼い猫』)……いずれも背後に秘められた陰謀を予測させる謎の問いかけが充分である。
冒頭の謎は、あくまで冒頭の謎にすぎず、ほとんどの依頼人は無実の殺人事件の被告人にされ、やがてメイスンが絶望的状況のなかから依頼人を救いだすパターンをくり返す。
(三)冒険小説であること
イギリスの推理小説は、パズル・ストーリーであっても、どことなく冒険小説の風合いがあるが、アメリカ作家の書く冒険小説は、いかにもスパイ小説とか陰謀小説らしくなってしまう傾向がある。ごく大ざっぱにいって金銭的階級制アメリカの特権層の一人である弁護士メイスンは、依頼人のために、最後まで闘う思索型闘士として登場し、みずから冒険家を任じ、デスクワークを毛嫌いする。だが、イギリス冒険小説では、ジェントルマン階級にある主人公は、ジェントルマン階級のルールにしたがい、ジェントルマンの信条をつらぬくためにみずからの命を賭すが、ペリー・メイスンの活躍は複雑な法律世界にかぎられる。皮肉ないいかたをすれば冒険者は死を恐れないが、メイスン弁護士は依頼人の死を恐れないのである。ただ彼は、ジェントルマンと同様に法律世界でおのれの名誉の失墜のみを恐れる。
メイスン弁護士の人気は、アメリカにおける弁護士の役割(二十万人以上いて、日本の約二十倍)が日常生活に密着していることにもある。警察小説が読まれることの理由もそこにあると思われる。弁護士を主人公とした推理小説には、D・カーの『バトラー弁護に立つ』、クレイグ・ライスの『マローン御難』『わが王国は霊柩車』、フランシス・ハートの『法の悲劇』、アンナ・キャサリン・グリーンの『レヴンワース事件』など、決して数が少ないとはいえない。だが、ガードナーの作品では、メイスンに冒険家のイメージを与えている点で他作と大きな相違がある。
(四)法律専門家
アルヴァ・ジョンストンは、『奇妙な花嫁』(一九三四)が地方検事の役に立ったことを報告している。夫婦は互いに不利な証言をすることができない法律を扱っている作品だが、一九四一年、アリゾナ州フェニックスの地方検事がベッドに寝ながら『奇妙な花嫁』を読んで審議中の事件を有利に運ぶ戦術を考えついた。ダレル・パーカーというその検事は、中国人殺害事件の容疑者フランク・パスの妻の証言が欲しかったのだが、法律上強制できない。そこで、逆に二人の結婚が無効だったら妻を証言台に立たせることができると考えたのだ。アリゾナ州では白人とインディアンの結婚が禁じられていたので、夫婦の血筋を調査してみた。妻ルビーはメキシコ人とのハーフだが、メキシコ人は白人とみなされている。夫フランクは十二・五パーセントだけアリゾナ地方のインディアン、ペイユート族の血がまじっていることがわかった。二人の結婚は無効と判断され、ついにルビーの証言によって、フランクは有罪の判決を受けた。そして、アリゾナの新聞はこの事件を「奇妙な花嫁事件」と報道したのである。
ガードナーは、この法律をたびたび作品に採用している。『夢遊病者の姪』にも使用している。ダグラス・セルビー地方検事の不倶戴天の敵である悪徳弁護士A・A・カーもこの法律を利用して自己に不利な女証人と結婚してしまう。
ノースウェスタン大学法学部長だった故ウィグモア博士は、ガードナーにファンレターを送って『検事他殺を主張する』のプロット、登場人物、物語性などを称揚したあとで、『屠所の羊』におけるラム探偵の合法殺人はあやまりであると指摘している。
ともあれ、テメキュラの自宅の書斎には法律・犯罪学・心理学・法医学などの蔵書を豊富にそろえて推理小説を書きすすめてていた元弁護士であるから、ペンシルヴァニア州法律家協会副会長ジョン・C・アーノルドが「法廷場面はほんものだ」と協会機関誌に書いたのも当然といえるだろう。
(五)顔のないヒーロー
ニューズウィーク誌一九六〇年一月十八日号は、六十一冊目のペリー・メイスンものである『待ち伏せていた狼』の刊行直前、表紙にガードナーの顔を刷りこんで特集記事を組んだ。その中の囲み記事に「ペリー・メイスン――顔のないヒーロー」がある。
ガードナーがメイスンの顔を描写することを慎重に避けているのは、「男性読者はメイスン弁護士に自分を当てはめられるように、女性読者なら自分の理想の男性を当てはめて読めるように」(ガードナー)しているからであると書いている。たしかに依頼人の顔や性格など、女秘書でありメイスンの恋人でもあるデラ・ストリートの口をかりたりしてことこまかにやっているから、ニューズウィーク誌の記者が不審に思って調べなおしてみたのもうなずける。
『吠える犬』の映画化のさい、口ひげをはやしたウォーレン・ウィリアムスがメイスンを演じた。あまり酒好きでないガードナーはメイスンが酒に溺れる人間として描かれたのに腹を立てて映画界に背を向けた、と書いているが、じっさいには一九三四〜三七年にかけて『奇妙な花嫁』『幸運の脚』『管理人の飼い猫』『ビロードの爪』『どもりの主教』など七本が映画化されている。B級映画ばかりであったとはいえ、数人の俳優が演じているところをみると、映画界では成功しなかったようだ。
メイスン弁護士といえば、やはりTVのレイモンド・バーの顔が浮かぶのはしかたがない。一九五七年ごろから一九六六年六月にかけて、一時間番組で二百九十二本製作し、CBS系で放映した。この番組のためにガードナーは、パイサノ・プロダクションを作り、筆頭株主になり、約千五百万ドルを稼いだ。レイモンド・バーはメイスン役として成功し、百万ドルを稼ぎ、ガードナーに「TVのメイスンものはあの男にかぎる」といわせている。
(六)法の三位一体
ガードナーのシリーズ作品は、この他に、若きダグラス・セルビー検事シリーズ、私立探偵ドナルド・ラム&バーサ・クールのコンビがある。
ペリー・メイスン弁護士ものの場合、法律はメイスンにとって、善用・悪用できる職業上の武器として活用されている。メイスンが証拠隠匿を図《はか》るところはたびたびであり、用ずみの証拠物件はふたたび法の倫理に照らし合わせて、検察側に返却される。弱き依頼者を守るためなら、弱味をつかんだ証人を合法的に脅迫することさえ辞さない。メルヴィル・ポストが悪徳弁護士ランドルフ・メイスンものを書いたとき、悪人に法律破りの知恵をつけるものとして非難されたが、その点では、メイスン弁護士は一九〇〇年代のアメリカ版三百代言の要素は充分持ち合わせている。味方にすれば頼もしいが、敵にまわすと容易ならぬ相手という人物は悪漢小説の主要登場人物であるが、メイスン弁護士の冒険的行動精神は、西部無頼者とアメリカ特権階級者の特徴をいかんなく発揮している――アメリカ的成功者のイメージが強すぎる面があるともいえるし、そのために成功物語として、アメリカ市民はもとより各国読者の精神を解放するかっこうの読みものとして受け入れられているともいえるだろう。
ダグラス・セルビー検事の場合、法は遵守すべき規則として現われる。南部カリフォルニアの架空の街を舞台として、忠誠心は別として実力的にはさほど頼りにはならない少数の味方(保安官や女記者、ときには地方新聞社社長)の声援を受けて、悪徳弁護士カーと対決しなければならない。
ここではガードナーは、完全にドイルのホームズ探偵対モリアーティ教授の小戦闘《コンバット》を模倣している。しかし、どうも豪華な調度品にゆったりとかこまれ、暖めたラム酒をすする老獪弁護士のほうに分があるとみなさざるを得ない。アメリカの地方検事は政界出馬の足場として検事職を利用することがあり、任期中は成績に気をとられることも多いというから、職業意識に燃え、選挙民の思惑も考えずにひたすら悪と闘うこの清廉の闘士は、アメリカ法の具現者とみた場合、やや正義漢にすぎるきらいもある。一九三七年の『検事他殺を主張する』以来『検事卵を割る』まで十二年間に九冊という数字が、それを証明している。
羊《ラム》という名の弁護士失格者探偵とバーサ砲さながらの巨体を誇る私立探偵社の女経営者兼探偵の物語は、ユーモラスな会話の連続に負うところが大きいが、上質なユーモアというよりもダジャレのおもしろさが感じられる。ここでは法律は、私立探偵にとって敵対するものとなっており、その点では、他のアメリカ私立探偵ものと同じパターンである。物語の展開もやや遅いが、ユーモラスなアメリカ私立探偵小説として異色のシリーズである。
ガードナーがA・A・フェア名義でこのシリーズを書き出したのは、『屠所の羊』(一九三九)からである。作風転換・著作数の増加・メイスンものの売れ行き減少時の防御策がその理由である。「三十五冊もおなじみの登場人物やシチュエーションを書いてごらん。クリーム分をすくいとってみたらどうだといわれるにきまっているから」とガードナーは話している。
〔ガードナーの生活〕
一九三四、五年ごろ、ガードナーは弁護士業から足を洗い、執筆に専念するようになった。ハウス・トレーラーで人里離れた西部砂漠地帯を動きまわりながら小説を書いた。その間、だれも買わないような土地をあちこちに買って家を建てた。やがて、それら一ダースほどの家はガードナーの<隠れ家>となる。人と顔を会わせずに小説を書きたいときには、それらの家にこもった。
一九三八年、ガードナーは本拠地となる広い土地を入手した。ロサンゼルス東南百マイルにあるテメキュラの砂漠地帯に接する千エーカーの土地。ランチョ・デル・パイサノと呼ばれるこの土地に十のゲスト・コテジと十二のガレージを建ててひっきりなしに客を招待した。カシの大木のかげに立つそれらの小さな家で、客たちはガードナーの在不在にかかわらず、快適な休暇をすごすことができた。
パイサノでの日課。夜明けに起床。二、三時間ほどディクタフォン(のちにはテープレコーダー)で口述する。八時半か九時の朝食は大きな母屋でつねに半ダースを下らぬ客やガードナーを<アール伯父さん>と呼ぶ二十人ほどの従業員たちとともに食事。母屋から少しはなれたところに秘書たちの棟があり、七、八人が原稿整理・通信事務その他作家活動に付随する雑務を片づけている。ジョンストンに<推理小説界のヘンリー・フォード>だといわれ、みずからも<小説工場>と称した多産な作家ガードナーの精力的な活動がこれだけ多くの人たちを必要とさせていた。かつてアトランタ・ジャーナル&コンスティテューション紙が書評でゴーストライターがいるのではないかとほのめかしたとき、モロー社のセア・ボブスンは、「代作者には十万ドル提供する。それだけの価値はある」と語った。
秘書たちの中心は、アグネス・ベーン・セシルをはじめとするルース・ムーア、ベギー・ダウンズの三姉妹で、デラ・ストリートのモデルであるジーンは、つねにガードナーと行動をともにしていた。ガードナーは一九三〇年代はじめに妻ナタリーと<友好的>別居生活に踏みきっていて、ときどき会うくらいだった。一人娘は結婚後ロサンゼルス近郊に住んでいた。ガードナーは娘と二人の孫の顔を見るために、予告なしに訪れてみやげをやるのを楽しみにしていた。
ジーンは一九三〇年はじめごろから秘書をしていたが、一九六八年に夫人が死んでようやくガードナーと結婚する。映画『ビロードの爪』(一九三六)でメイスンとデラは結婚しているから、現実の二人の結婚はあまりにも遅すぎたといえる。
ガードナーの午後の日課。午後早いうちにしばらくうたたねしてから、また資料をそろえたオフィスで仕事にとりかかる。一九六〇年ごろ(七〇歳をこえている!)の平均で一日十二時間も仕事をしていたというから驚異だ。
趣味は、考古学・廃坑さがし・狩猟・写真などだが、ロマンティックな冒険者である証左といえる。「どことなく神秘的で……神人同形同性論が彼にはあてはまるところがある」とモートンは書いており、「理想主義がソフィスティケーションと合致したまれな例である」とも述べる。火器による猟はアンフェアだといって弓矢に変えたりしたのも彼の性格を表わしているところである。
ガードナーの理想主義と人道主義をよく物語る行動に『最後の法廷』がある。彼は野外生活を好み、余暇をバハ・カリフォルニア地方の砂漠地帯ですごすことが多かった。たき火の残り火を見つめながら自分がゆきたいところへゆきたいときに出かけられる「自由の身を楽しめば楽しむほど、独房に押し込められた無実の人間に思いをよせる自分に気がついた」ガードナーは、アーゴシーの編集長ハリー・スティーガーにそのことを話した。
ハリーは、ガードナーを中心にした調査委員会をつくった。ガードナーは弁護士・法医学者のルモイン・スナイダー、高名な私立探偵レイモンド・シンドラーなどと誤審調査を開始し、その報告をアーゴシー誌に発表していった。一九四八年からほぼ十五年間にわたって数多くの無実の囚人を解放し、裁判制度・警察制度・犯罪学などに大きな刺激を与えたガードナーは、ジョンストンも指摘したように知的ドン・キホーテの印象を受ける。
ミスター・ミステリ、ミステリの王《キング》、ミステリ界のヘンリー・フォード、アンクル・アールと親しまれたガードナーは、ガンに冒され、一九六九年十〜十一月、一九七〇年一〜二月と二度にわたってリヴァーサイド・コミュニティ病院に入院したが、一九七〇年三月十一日午前十一時五分死去した。享年八十歳。われらがロードランナーは遂に腹ぺこコヨーテを峡谷に蹴落して天寿を完うしたのである。