幸運の脚
E・S・ガードナー/中田耕治訳
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登場人物
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ペリイ・メイスン……弁護士
デラ・ストリート……その秘書
ポール・ドレイク……私立探偵
J・R・ブラッドバリー……もとクローヴァーデイル・ナショナル銀行の頭取、実業家
フランク・パットン……詐欺師
マージョリー・クリューン……クローヴァーデイル脚線美コンテストに当選した女性
ヴェラ・カッター……ポール・ドレイクの依頼人
セルマ・ベル……パーカー・シティ脚線美コンテストに当選した女性
ロバート・ドーレイ……歯科医
ジョージ・サンボーン……セルマのボーイフレンド
ジャック・サミュエルズ……私立探偵
イヴァ・ラモント……クローヴァーデイル脚線美コンテスト参加者
オマリイ部長刑事
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第一章
デラ・ストリートは、ペリイ・メイスンの私室のドアを開けた。
「ミスタ・J・R・ブラッドバリーです」彼女は言った。
うしろから入れ違いに部屋に入ってきた男は、まず四十二歳というところだったが、動きの早い灰色の眼にさっそく親しみのいろをうかべながらペリイ・メイスンをじろじろ見た。
「はじめまして、ミスタ・メイスン」彼は手をさしのべながら言った。
ペリイ・メイスンは、その手をとるために回転椅子から腰をうかせた。デラ・ストリートは、この二人を見つめながらちょっとドアに立っていた。
ペリイ・メイスンは、ブラッドバリーより背が高かった。おそらく体重も彼よりあったが、彼の重量は、脂肪ぶとりというよりもむしろ骨格がかっしりしていることと逞《たくま》しい筋肉のせいだった。彼が椅子から立って握手をしたとき、彼の動作には、なにか決定的な様子があった。この男は花崗岩のように実体のはっきりした感じだったし、その顔には、どことなく荒くれた花崗岩のような趣きがあって、彼が口をきいたときにも、全く表情というものがなかった。
「こちらこそ、はじめまして、ミスタ・ブラッドバリー。どうぞ椅子に」
デラ・ストリートは、ペリイ・メイスンの眼をとらえた。
「何か御用は?」彼女は訊いた。
弁護士は頭をふった。デラ・ストリートがドアを閉めると、やがて彼は客に向き直った。
「私あてに電報を打ったと、秘書におっしゃったが」彼は言った。「私の方のファイルには、あいにくブラッドバリーという名前のかたからの電報は見あたらないのですが」
ブラッドバリーは笑って、仕立てのよいズボンの脚を組んだ。たいへん、くつろいでいるように見えた。
「そのわけは」と、彼が言った。「簡単なことですよ。あの電報は、私の名前が知られている電報局から打ちましてね。自分の名前を使いたくなかったので、電文には、イヴァ・ラモントとサインしたんです」
ペリイ・メイスンの顔に、さっと興味のいろが動いた。
「それでは」と、彼は言った。「あの写真を航空便で送ってこられたのはあなたですね。あの若い女性の写真を」
ブラッドバリーはうなずいて、チョッキのポケットからひょいと葉巻をとり出した。
「喫《の》んでもかまいませんか?」彼は訊いた。
ペリイ・メイスンはその返事にうなずいてみせた。彼はデスクの上の電話をとりあげて、デラ・ストリートの声が聞えたとき言った。
「昨日届いた写真をもってきてくれ、それと、いっしょに、『イヴァ・ラモント』とサインしてあった電報も」
彼は受話器をおいた。そして、ブラッドバリーが葉巻の口を切ると、ペリイ・メイスンはデスクの上の|煙草入れ《ヒュミダー》から煙草を一本とった。ブラッドバリーは靴の底でマッチをすると、椅子からさっと立ちあがってメイスンの煙草に火をつけて、そのあと、そうして立ったまま自分の葉巻の先に火を持って行った。ちょうどそのマッチをデスクの上の灰皿に落したとき、デラ・ストリートが外側のオフィスとのあいだのドアを開けて入ってきて、ペリイ・メイスンのデスクに書類ケースをおいた。
「ほかに何か御用は?」彼女が訊いた。
弁護士は頭をふった。
デラ・ストリートの眼は、葉巻をくゆらしながら立っている、仕立てのいい服を着た男を鑑定するように向けられた。やがて、彼女はくるりと背を向けて部屋を出て行った。
ドアがかちりと音をたてて閉まると、ペリイ・メイスンはその書類ケースをめくって、光沢のある紙に印刷された一枚の写真をとりあげた。肩、腰、腕、両脚をあらわに見せている若い女の写真だった。その写真には女の顔は撮《うつ》っていなかったが、身体つきのしなやかさ、その手の優雅な恰好、その写真のなかであらわに開いている両脚の流れるような感じから、この女が若いことは疑いを容れなかった。
この女の手はスカートを高くたくしあげて、すらりとした両脚を見せていた。写真の下には、タイプで打った見出しが糊で貼りつけてあり、それには『幸運の脚の女性』とあった。
その写真にはつぎのような電報がクリップでとめてあった。
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依頼シタキ事件ニ関シ非常ニ重要ナル写真ヲ速達航空便ニテ送ル 写真保管ノ上 当方ノ到着を貴事務所ニテ待タレタシ
(署名)イヴァ・ラモント
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ブラッドバリーはデスクに身体をのりだすようにして、その写真にじっと眼を落した。
「その写真のモデルになっている娘《こ》は」と、彼は言った。
「詐欺にひっかかったのです」
ペリイ・メイスンは写真を見ていたのではなく、舞台装置の表面のかざりの下にひそむ真実を見すかすような、しっかりした、油断なく調べあげるような眼でブラッドバリーの顔を見ていた。その吟味のしかたは、これまでにありとあらゆるタイプの依頼人を扱ってきて、しかも、ほんとうの事実をつきとめるために、つぎつぎに表面にあらわれてくるさまざまな虚偽をおちついて、急がずに、ひとつずつ除いて行くことが身についた弁護士の精密な検査だった。
「この女性はどういうひとです?」メイスンは訊いた。
「名前は」と、ブラッドバリーが言った。「マージョリー・クリューンというんです」
「詐欺にひっかかった、と言われましたね?」
「ええ」
「で、それをやった人間は誰なんです?」
「フランク・パットンという男ですが」ブラッドバリーが言った。
ペリイ・メイスンは、デスクに向いている大きな革張りの椅子に手を動かした。
「おかけになって」と、彼は言った、「はじめからお話しして頂ければ、話がずっとはかどると思いますね」
「一つ申しあげておきたいことがあるのですが」と、ブラッドバリーは腰をおろしながら言った。「これから私の申しあげることは、どこまでも内密にねがいたいのですが」
「かしこまりました」メイスンは言った。
「私はJ・R・ブラッドバリーと申します。クローヴァーデイルに住んでおりましてね。クローヴァーデイル・ナショナル銀行の大株主で、だいぶ長いあいだその頭取だったのです。年齢は四十二歳ですが。今後は、個人的な投資に専念しようと思いまして、最近、勇退しました。クローヴァーデイルの名士というわけでして、第一級の身許証明書を何通でもそろえてさしあげられますよ」
ブラッドバリーの声は、口述をしている人間が語尾をきり落すような発音をした。弁護士は、X線が人間の内臓を透すように、相手の心の動きを見ぬくような眼で彼を見つめていた。
「マージョリー・クリューンは」と、ブラッドバリーはつづけた。「気だてのいい、美しい娘《こ》なんですよ。両親はおりません。私の銀行に速記者として雇われていました。あと一カ月も経たないうちに、きっと彼女は私と結婚することを承諾していたでしょう。ところがフランク・パットンが町にやってきたわけです。映画のスカウトでした。なんでも、『幸運の脚の女性』というような宣伝に使えるような若い、個性のある美しい女性を探している、ある映画会社の代理だと称していましたよ。その映画会社では、その娘の脚に二百万ドルの保険をかけて、世界一の脚線美といった宣伝をすることになっていたのです」
「パットンは、その映画会社のスカウトとして行動する権限を持っていると言いましたか?」
ブラッドバリーは、もう何度もくり返したことを言っているといった、うんざりしたような微笑を見せた。
「彼は、当市に本社のある映画会社との契約書を持っていました。その契約書は、映画会社の白紙委任状でした。パットンは適当と認める相手と、その契約を結ぶ権限を与えられていましたよ。表面上は、その女優が、年間四十週、週給三千ドルで雇われるという契約でした。もっとも、その女優の主演する企画の映画製作が中止されることに決定した場合には、その契約を破棄できるという切札が一条ちゃんと書いてありましたがね」
「それで、パットンのほうはどうやって金が儲かるんですか?」メイスンは訊いた。
「商工会議所を通じて、ですよ。もし、その土地の女の子が選ばれれば、クローヴァーデイルにとってもたいへん宣伝になるといって、その企画を売りこんだわけです。仮証券を土地の商人に売りつける、商人はそれを客にさばく。その仮証券の所有者は、その映画からあがる利益の配当にあずかれるということをうたったわけです」
「ちょっと待ってください」と、ペリイ・メイスンは言った。「その点ははっきりしておきましょう。その仮証券の所有者は、その映画製作の共同出資者になる、というわけですか?」
「映画製作の共同出資ではないんですよ」と、ブラッドバリーは言った。「その製作からあがる収入の配当にあずかるということなんです。これは、たいへんな違いですね。当時は、私たちにも、それがわからなかった。その女優は、自分の収入の歩合でパットンがマネージャーとして働くという契約にサインすることになっていました。その収入というのがその映画の利益のぶんも含んでいるのです。パットンは、その収入のぶんを仮証券の所有者に割りあてたわけですよ」
「それで、仮証券の所有者は」と、弁護士は訊いた。「その女優の選出に助力するというわけですね?」
「これで」と、ブラッドバリーが言った。「あなたも、はっきりおわかりになりましたね。仮証券を商人に売りつける、商人は買物をした客にそれを景品にする。仮証券の所有者は、その女優選出の投票をするわけです。候補者は六名でした。水着を着て、いろいろな商店に出たり、ショウ・ウィンドゥでストッキングのモデルになったり、その土地の写真コンテストに出たりして、脚を撮影させ、その写真がいろいろな店のウィンドゥに飾りたてられたんです。おかげで商売は活気づきましたよ。むろん、若い女の子たちは財布をはたきました。パットンは、ぼろ儲けでしたよ」
「それでどうなりました?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「コンテストに応募した娘たち、候補者と呼んでもよいのですが、そのなかでマージョリー・クリューンがいちばん美しい娘として選ばれたわけです。パットンは彼女のために盛大な送別会を開きました。たいした宴会でしたよ。商工会議所の書記が、彼女のところに契約書を持って行きました。契約書にサインするのに使った万年筆はガラスの箱に入れて市庁に保管するために商工会議所へ持って帰りました。誰も知らないクローヴァーデイルが一躍有名になるのですからね。映画産業はじまって以来の最高の女優、アメリカ一の美女の故郷ということになるわけだったんですよ。パットンは、夜行列車の特別室を予約しましたよ。マージイは、熱狂した千五百人以上の市民たちに送られて、その特別室に乗りこみました。その特別室は、とりどりの花で埋まる。ブラス・バンドが演奏する。列車は動き出す、といったわけです」
ブラッドバリーは、ちょっと言葉をきってから、劇的につづけた。「それ以来、誰もマージョリーの噂を聞いていないのです」
「誘拐されたかどうかした、とお考えですか?」とメイスンは訊いた。
「いいえ、彼女は詐欺にかかったのですが、自尊心が故郷に帰ることを許さないのですな。大スターの仲間入りをするつもりでクローヴァーデイルをあとにしたんですから。故郷に帰って、自分が合法的な詐欺の犠牲になったんだということを認めるだけの勇気が持てなかったんです」
「どうして合法的な詐欺だとおっしゃるのですか?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「水も洩らさぬようにできているからですよ。クローヴァーデイルの検事が調査をはじめようにも、インチキな点は何もないのですからね。検事は映画会社に手紙を出したのですが、会社側では、そういう女優を探しているところだし、パットンの見識に対して非常な信頼を置いているので、そういう女優を見つけ出す権限を与えている、マージョリー・クリューンは撮影所にあらわれたので、二日間、彼女を雇って撮影を開始したが、まあ、ある点まではミス・クリューンが映画に向かないという事情もあって、その映画はおくらにすると決めた、と、こういう返事でした」
「その契約は一本だけに限定されていたのですか?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「三本でした。が、最初の一本を支障なく完成した上で、ということがうたってありました」
「すると、最初の映画の題名は、映画会社が、題名を変更して別の女優を雇えば、その劇の製作を放棄せずに撮影がつづけられるような題名がついていたわけですか?」
「まあ」と、ブラッドバリーは言った。「そういったところですね」
「それで、私にどういうことをして欲しいとおっしゃるんです?」メイスンが問いただした。
「私はフランク・パットンを法廷に立たせてやりたいんですよ」と、ブラッドバリーは言った。「あいつは非常に敏腕な法律上の助言者がついていると思いますが、私としても、それに劣らず敏腕な法律家を味方につけておきたいのです。私は、あいつを見つけ出したい。私はマージョリー・クリューンを探し出したいんですよ。マージョリー・クリューンに対する損害の賠償をさせたいことと、付随的にですが、彼がはじめから詐欺を働く意志を持っていたことを白状させたいのですが」
「なぜですか?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「そうなれば」と、ブラッドバリーは言った。「当地の地方検事が映画会社に対する起訴手続を行うでしょうし、クローヴァーデイルの地方検事はパットンを起訴するからですよ。しかし、彼らは、単なる嫌疑よりも、まず、パットンの犯意を証拠だてなければならないと言っているわけでしてね。これは非常に複雑な事件なんです。もし、彼が、そんな意向はなかったと言えば、彼を有罪にすることができませんからね。なんらかのかたちで、彼に認めさせたいわけなのです」
「それなら、なぜ検事がそうしないのです?」メイスンは訊いた。
「クローヴァーデイルの地方検事は」と、ブラッドバリーは言った。「ある簡単な理由から、こんどの事件に手をつけようとしないのです。こちらの地方検事は、なにもクローヴァーデイルのことに手を出したくないと言いましてね。もし、私がパットンを告訴するところまでもって行こうというのであれば、動くことは動くが、クローヴァーデイルの火中から栗をひろうためにこの郡の時間と金を浪費したくはない、というわけです。詐欺されたのはクローヴァーデイルの金ですし、選出や何かは全部クローヴァーデイルできめられたことですからね」
「ほかに何か、私にして欲しいことはありますか?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「私が」と、ブラッドバリーは言った。「恐喝罪で逮捕されたりしないようにして欲しいのですが」
「われわれがパットンを探し出したときに、という意味ですか?」
ブラッドバリーはうなずいて、ポケットから紙入を出した。
「私の弁護士として依頼するのですから」と、彼は言った。「さしあたって千ドル。お支払いしておきましょう」
ペリイ・メイスンはブラッドバリーにふり向いた。
「腕ききの探偵が必要ですよ」と、彼は言った。「ドレイク探偵社をやっているポール・ドレイクは、私の非常な親友でしてね。彼に紹介状を書いてさしあげましょう」
彼は卓上電話をとりあげた。
「デラ」と、彼は秘書に言った。「J・R・ブラッドバリー名義あてに千ドルの領収書を作ってくれ。ポール・ドレイクを電話に呼び出して、そのあとで、地方検事の秘書、モウド・エルトンに電話をかけてくれ」
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第二章
地方検察庁の秘書、モウド・エルトンは法廷の誰よりも犯罪事件の裏面史を知っているという評判があった。顔いろが、どことなく冴えない様子で、身体つきなども、映画のプロデューサーがスクリーン・テストをしてみようと意気ごむようなものであるとは言いがたいのだが、その顔には、すばやい、生き生きした感じ、敏捷な気の配りかたが認められて、それが、まるで、自分の籠の近くにぐっと顔を寄せてくる見なれない人の明るい眼《まなこ》に射すくめられて、ばたばた跳びまわるカナリヤのような、おちつきのない感じを見せているのだった。
「ハロー、ミスタ・メイスン」彼女が言った。
ペリイ・メイスンは彼女に向ってにやりとしてみせた。
「なめらかにパウダーをぬりたくろうなんてことしか考えられないような足りない女性たちに会ったあとで」と、彼は言った。「君みたいな眼を見るとせいせいするよ」
「という意味は」と、彼女がきり返す。「あたし以外からは訊き出せないようなネタを引き出そうというんでしょう」
「これはしたり」と、彼は言い返した。「育ちが育ちだから、語るに落ちたというところだね」
「あら、あたしの育ちがどうしたの?」
「君は、人生の傷痕といった部分ばかりを、いつも見ているからさ。いかがわしい人間や、いずれ肚《はら》に一物《いちもつ》ある人物ばかりに接しているからね。小生の本日の用件は、平穏無事な一市民として、なんなら納税者と申しあげてもよいが、公務員のオフィスへ合法的な調査事項を問い合わせにきたに過ぎないんだよ」
彼女は、彼を見つめながらかるく一方に首をかしげた。
「どうやら、その点は間違いなさそうね」彼女は言った。
「いかにも」彼は言った。
「ふざけてるんじゃないでしょうね?」
「とんでもない。大まじめだよ」
「なるほど、あたしはこれまでいろいろなことを見たり聞いたりしてきたけれど、こんなのははじめてだわ。御用件はなんですの?」
「クローヴァーデイルの商工会議所が一杯食った事件のことを調べに、クローヴァーデイルからここにやってきたブラッドバリーという男の応待をした検察官は誰だったのかが知りたいんだが」
彼女は眉をひそめた。
「ブラッドバリーですって?」と、彼女は言った。「あらそのことでここへきたのは、ドーレイ先生よ――ドクター・ロバート・ドーレイ」
「いや」と、彼は言った。「僕はブラッドバリー――という名前の男のことを知りたいんだよ――J・R・ブラッドバリー」
「ちょっとお待ちください」と、彼女は言った。「面会簿を調べてみますわ」
彼女は面会簿に指を走らせていたが、やがてうなずいてみせた。
「そうそう、そのかたはカール・マンチェスターに面会しています。二人ともカール・マンチェスターに会っていますわ」
「それで、ドクター・ドーレイのほうは」とペリー・メイスンが言った。「若くて、ハンサムで、印象が深かったから、名簿を調べないでもおぼえていたくせに、ブラッドバリーのほうは、肥っちょの四十男だから、忘却の彼方に追いやられたわけか。心理学者たるものは、この際どうしてもあらためて、われわれが興味を持っているものを記憶するということを……」
「カール・マンチェスターは」と、彼女は彼をさえぎりながら言った。「廊下を左に行って三番目のドアよ。あなたがおいでになったとお伝えしましょうか? あなたが、あたしの心の秘密をほじくり返すつもりなら、この判例集で叩いてあげるわ。そうなると、ほら、あの控室にすわっているでしよう、一生かかってこつこつ貯めたお金をすっかり詐取されたあの悲しい顔をした男がびっくりするわよ。立派な女性にふさわしくない振舞いだし、お葬式にアコーデオンを弾くような、場所柄もわきまえないことだって」
「僕が行くと連絡しておいてくれ」ペリイ・メイスンは微笑しながら言って、控室と、オフィスの並んだ長い廊下を隔てている入口を通って歩いて行った。
カール・マンチェスターは、ペリイ・メイスンがドアを開けたとき、吸いさしの煙草を唇から下げながら、読んでいた法律書から眼をあげた。
マンチェスターは、いつでも身体を四十五度の角度に曲げている人間のような印象を与えた。眼がさめている時間はずっと法律書にかじりついているか、そうでなければ訪問客に眼をあげているのだが、そうした邪魔が入っても、自分が読んでいる本にいつでも帰れると信じきっている人間らしい態度を棄てなかった。
「ハロー、ペリイ」と、彼は言った。「何でまたやってきたんだい?」
「依頼人への義務をはたすためだよ」ペリイ・メイスンは言った。
「まさか、あのハンマーの撲殺事件を引きうけたんじゃないだろうね!」マンチェスターは言った。「あの女の犯行だということは調べあげてあるが、ここで君が手を出したとなると――」
「そうじゃないよ」メイスンが言った。「こんどは君とおなじ側で動いているんだ」
「どういうことなんだい?」
「クローヴァーデイルでぼろ儲けをしたフランク・パットンのことで、ブラッドバリーというのが君んとこへ会いにきたろう」メイスンが言った。
「そのことではドーレイ先生というのもきたよ」と、マンチェスターが言った。「ドーレイは三十分もしたらまたくることになっているんだが」
「どうしてもどってくるの?」
「ちょっと法律を調べておいてやることになっているんでね」
「調べはついたのかい?」
「ついていないんだが、そんなふうに扱ってやったほうが彼も安心するからさ」
「言い換えれば、この事件全体から君は手を引くというんだね?」
「もちろんさ。われわれはクローヴァーデイルの汚れたリンネルを洗おうという気はないし、ここではどうしようもないじゃないか。ここはその娘がいる場所だというだけのことだからね」
「映画会社はここにあるんだぜ」メイスンは言った。
「それがどうした?」
「おそらくどうもしないさ。まあ、どうかしたとしても、ごくわずかなことだろうね、きっと」
「詐取されたのはクローヴァーデイルの金なんだし、クローヴァーデイルの商人はうるさくする連中なんだよ」と、マンチェスターがつづけた。「われわれはわれわれで、問題は、いやってくらいあるんだからね。君はどうしようっていうんだい、ペリイ?」
「それは」と、メイスンが言った。「僕に何ができるかによってきまるね」
「君の目的は何だい?」
「もし」と、ペリイ・メイスンは言った。「パットンから、これがクローヴァーデイルの、あるいはほかの土地の商人たちを詐欺にかけるためにでっちあげたからくりだった、という自供をとれれば、この問題の情勢は変ってくるかも知れないよ」
「おいおい」と、マンチェスターは言った。「このパットンというやつはね、ひとすじ縄ではいかない男だぜ。自分のやっていることは百も承知さ。そんな自供を誰がするもんか」
「ことによると」ペリイ・メイスンは言った。
「ことによるって何が?」
「むこうの出かた次第によるんだよ」
カール・マンチェスターはするどくペリイ・メイスンを見ていたが、やがて煙草を口からとると灰皿に押しつぶした。
「どうやら」と、彼は言った。「君の考えていることがのみこめてきたよ」
「そうあって欲しいところだね」メイスンが言った。
マンチェスターは眉をひそめて考え深い様子を見せた。
「ねえ、メイスン」彼は、指を法律書の隅まで走らせて、指先でページをぱらぱらめくりながら、くどくどと言った。
「われわれはクローヴァーデイルの事件には手を出さないがね、なにもわれわれがパットンの肩をもっているという意味じゃないぜ。あいつは犯人だよ、そいつには問題はないさ。それに間違いない証拠も充分集めようとした。それで証明できるかどうかは疑問だな。クローヴァーデイルの地方検事は責任を転嫁した。こいつはまずい知らせだよ。われわれとしては、そんなことにかかわり合いたくないもの。それに、なにもよそから借りてこなくても、われわれにも問題はたくさんあるからね。しかし、君がその男をばらばらにしたいんなら、大いにやってくれ」
「どこまで強くやっていい?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「どこまででも、お好きなくらいやることだね」
「先方が文句をつけたら?」
「こいつははっきりしてるじゃないか」と、マンチェスターが言った。「僕には、このからくりはわかってるんだぜ。よくある合法すれすれの詐欺行為の一つさ。どこかの弁護士が、どの程度までは、やっても臭い飯は食わないですむ、ということをパットンに教えたんだな。その弁護士の言ったことは正しかったかも知れないし、間違っていたのかも知れない。それは、すべて、意図の問題だし、刑事事件の場合、およそ考慮し得るかぎりの嫌疑以上のものとして意図を証明しなければならないように、こういった民事上のケースでも、その証拠で意図を証明することが必要とされるわけだが、これがほとんど不可能に使いことは君もよくご存じだろう。
しかし、君がパットンにあたってみて、あいつをきり離して、彼が詐欺を働こうとした理由を調べあげたかったら、やってみるんだね」
「で、その限界は?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「うちのほうとしては」と、マンチェスターが言った。「どこまでやってくれてもかまわないよ。なにも暴行傷害を奨励するという意味じゃないぜ。棍棒でぶんなぐるというのは黙認するわけにはいかないが、ゴムホースでなら話が違ってくるだろうね。言葉を換えて言えば、もし、パットンがこのオフィスに姿をあらわして、頭のまわる商売の話をしたり、君のやりかたに悪態をついたりした場合、われわれとしてはその話に対しては非常な懐疑《スケプティシズム》をもって調査を行うし、彼の職業に関してたくさん質問を浴びせるつもりだ、ということになる。彼に対するわれわれの態度は、まさしく友好的なものにはならないだろうね」
「聞きたかったのは」と、ペリイ・メイスンはドアのノブに手をかけながら言った。「それだけなんだ。それからドーレイには、僕のことは内緒にしておいてくれ」
「あいつの自供をとれよ」マンチェスターは、メイスンが廊下に出る戸口から足を踏み出したとき、声をかけた。「そうすればクローヴァーデイルのほうで、なにか手をうつだろう」
「僕がそいつの自供をとったら」と、ペリイ・メイスンはにやりとするように言った。「君たちみんなをあっと言わせてやるようなものを見せてやるさ」
彼はうしろ手にドアを閉めると、ちょっとモウド・エルトンと冗談を言いあってから、裁判所を出て、タクシーで自分のオフィスに帰った。
彼のオフィスのある建物のロビーで煙草店をやっている金髪の女が、こぼれるような微笑をみせて真赤な唇をきゅっと歪めた。
「ハロー、ミスタ・メイスン」彼女は言った。
ペリイ・メイスンは立ちどまって、そのカウンターに身体をのり出した。
「マールボロですか?」彼女が訊いた。
「一箱だよ」彼は言った。
「つけにしときましょうか?」彼女は訊いた。
「いや」と、彼は言った。「現金で払いますよ」
彼は金をかぞえてわたすと、その煙草の箱をうけとって隅をきって、ショウ・ケースのガラスに片肘をついた。
「君は、一日じゅう働いているのかい?」彼は訊いた。
彼女は、微笑をうかべて頭をふった。
「夕方もいるね」彼は言った。
「ええ」と、彼女は言った。「芝居に行くかたがお買いになりますので、夕方もここにいますのよ」
「それに朝も、午後もいるんだろう?」
彼女は、微笑をうかべて頭をかすかに左右にふった。
「どういうおつもりなんですか」と、彼女は訊いた。「あたしをあわれな気もちにさせようとなさっているの? 育てなければならない子供がいて、おまけに面倒をみなければならない母親がいたりすれば、女というものは働かなければなりませんのよ。仕事があるということ自体、とても運がいいことですものね」
「お嬢さんはいくつになったの?」ペリイ・メイスンは訊いた。
彼女は笑った。
「この前、申しあげたときとおなじですのよ――五歳半《いつつはん》。一月《ひとつき》に一ぺんは定期的にお訊きになりますのね」
ペリイ・メイスンの微笑は内気そうなものだった。
「訊いたあとは」と、彼は言った。「忘れてしまうんだよ」
彼は内ポケットから紙入をとり出して、二十ドル紙幣をとり出した。
「お嬢さんの貯金に積んでおきなさい、いいね、マミイ?」
彼女の眼に、さっと涙がにじんだ。
「あのう」と、彼女は言った。「どうして、いつもこんなことをなさいますの? あたし、困りますわ。子供のためにお断りもできませんけれど、でも、ここの収入で、生活は一応なんとか――」
「これはね、この前言ったとおりだよ、マミイ」彼は言った。
「迷信ですの?」彼女は、野鴨のようにはげしく、きらきらする眼で彼をじっと見つめながら言った。
彼はうなずいてみせた。
「賭博者《ばくちうち》というものはみんなそうらしいんだよ、マミイ。それに僕は世界一の賭博者の一人だからね。カードでやるかわりに、人間の感情で勝負するんだよ。お嬢さんのために少しばかり貯金をしたときは、いつでも運がつくんでね」
ゆっくりと彼女の手がのびてきて、指がその紙幣を握りしめた。涙が、またしてもその眼をうるませた。
「あなたは、迷信だなんておっしゃって、いつも私を半分ごまかしておしまいになりますのね」と、彼女は言った。「でも、あなたが、どんなに心の優しいおかたか、これでもわかりますわ」
ペリイ・メイスンは何か言おうとしたが、誰かが自分の名前を呼んでいるのを耳にしてふり返った。
私立探偵のポール・ドレイクと、J・R・ブラッドバリーがこの建物のロビイから姿をあらわしたところだった。
ポール・ドレイクは、なで肩の、背の高い男だった。彼は頭をわずかに前にかがめるような恰好で身体を動かした。眼はガラスのようで、突き出していた。顔は、いかにもおどけた人の表情をとってつけていた。眼にはまったく表情というものがなかった。
「ハロー、ペリイ」と、彼は言った。「いま出かけるところかい?」
メイスンは腕時計を見た。
「帰ってきたところだよ」と、彼は言った。「ちょっと検察庁まで話に行ってきたところでね。君のほうはどうなった――何か?」
ブラッドバリーの、すばやく動く灰色の眼が、さっそく肯定するようにペリイ・メイスンの顔に向ってきらめいた。
「私から申しましょう」と、彼は言った。「このかたは、事件のことはもう私よりもよくご存じですよ」彼の眼は、煙草店のカウンターのむこうで微笑をうかべているブロンドのほうに動いて行った。
「やあ、君《シスター》」と、彼は言った。「煙草を買うよ。その右手の隅にある箱を出してくれないか」
彼は指でショウ・ケースのガラスをかるく叩いた。
マミイはその葉巻の箱を出した。
「これをやったことがありますか?」と、ブラッドバリーが訊いた。「なかなか味のいい二十五セント葉巻ですよ」
メイスンはうなずいて、葉巻を一本とった。
「二本どうぞ」ブラッドバリーが言った。
メイスンは葉巻を二本とった。
ブラッドバリーは、その箱をポール・ドレイクのほうに押しやった。
「二本おとりなさい」彼は言った。
ドレイクが葉巻を二本とると、ブラッドバリーも二本とって、ガラスのショウ・ケースの上に一ドル銀貨を二つおいた。
「こんどの事件について、ちょっと話をしたいんだが」マミイが、セールの音を鳴らしてキャッシ・レジスターを開けて、内部《なか》からおつりをとり出したとき、探偵は言った。
「いつだい?」メイスンが訊いた。
「時間が空《あ》けられたら、いますぐがいいな」
マミイは、ブラッドバリーにおつりをわたした。ブラッドバリーの灰色の眼は、ひたと彼女を見つめていた。彼の顔は、親しそうな微笑に変った。
「いいお天気だね」彼は言った。
彼女は明るくうなずいてみせた。
ペリイ・メイスンは時計を見た。
「オーケイ」と、彼は言った。「事務所に走って行けるだろう」
ブラッドバリーはブロンドから目を離した。
「私もいっしょのほうがいいでしょうか?」彼は訊いた。
「いや」と、ポール・ドレイクは言った。「その必要はないでしょう。ミスタ・メイスンと、ちょっと法律上のことを話して、われわれがどういう立場にあるか知りたいだけですから」
「言いかたを変えれば」と、ブラッドバリーは言った。「私が同席しないほうがいいというわけですね?」
「いらして頂く必要がない、ということですよ」と、ポール・ドレイクは彼に言った。「あなたにいらして頂いても、べつにどうってこともありませんしね。あなたのご存じのことは、私がみんなうかがったわけですから」
「そういうわけですな」ブラッドバリーは言って、かるく笑った。「なにしろ、いろいろお訊きになりましたからね」
彼は、左手をのばしてペリイ・メイスンの上着の襟《ラベル》をかるくつかんで、おだやかに彼を煙草店のカウンターから離して内密なことをうちあけるように声を低めた。
「一つ」と、彼は言った。「はっきりしておきたいことがあるんですが」
「何ですか?」メイスンは訊いた。
「じつは」と、ブラッドバリーが言った。「ボブ・ドーレイが当市に出てきているという話を聞きましてね。私とあなたとの契約は、私の承諾なしでは、あなたが彼と契約するわけにはいかないものだということを了解しておいて頂きたいのです」
「ボブ・ドーレイというのは誰です?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「クローヴァーデイルの人間ですよ。若い歯科医で――まあ、一文なしといってもいいようなやつでしてね。私は好かんのですよ、あの男を」
「この市で何をしているんです?」
「マージイがここにいるから、出てきたんですよ」
「彼女の友達ですか?」メイスンは訊いた。
「友達になりたがっているんですな」
「それで、彼が私を雇おうとするだろうと、あなたは考えているんですか?」
「ありそうもないことですがね」と、ブラッドバリーは言った。「彼がこっちへ出てくるときに、銀行から二百五十ドル借りたことを、私はたまたま知ったわけでしてね」
「しかし、あなたは」と、メイスンが指摘した。「彼に雇われたりしてもらってはいけないとおっしゃったが」
「私は、つまりですな」と、ブラッドバリーが言った。「あなたに立場を了解して欲しい、と申しあげたのですよ。もし彼があなたに接近するようなことがあったら、あなたは私に雇われているのだということを思い出して欲しい、というんです。彼は、あなたにノートか何か見せるようなことがあるかも知れませんが」
「なるほど」と、ペリイ・メイスンは言った。「言い換えれば、ミス・クリューンが私の仕事で利益を得られるように手筈をととのえたのはあなたであること、及び、その名誉はほかならぬあなただけにあくまでも帰せられるべきことを、私は思い出さなければいけないわけですね。そうですか?」
困ったような眉のひそめかたが、ブラッドバリーの顔にあらわれたが、それは、すばやく微笑にとってかわった。
「まあ、それは」と、彼は言った。「どうもむきつけな言いかたですが、私の言おうとするところはおわかりになったと思います」
メイスンはうなずいた。
「ほかに何か?」彼は訊いた。
「それだけです。ミスタ・ドレイクに細かい点は全部、くわしくお話ししておきました」
ポール・ドレイクは、ペリイ・メイスンにうなずいてみせた。
「行こう」彼は言った。
「私はいつでも」と、ブラッドバリーが言った。「メイプルトン・ホテルに連絡して頂ければ、そこにおりますから、部屋は六〇三号です。秘書のかたが、アドレスと電話番号の控えを持っていますよ。ミスタ・メイスン、それに、ドレイクが話は知っていますから」
ドレイクはうなずいた。
「さあ、行こうや、ペリイ」彼は言った。
二人はエレヴェーターに向って行った。ブラッドバリーは、煙草のカウンターに向って半ば身体を開く恰好で、そこに並べてある雑誌類に眼を走らせるようにして、ちょっと二人を見まもっていたが、やがて、彼は元気よく大股に歩道に出て行った。
「あれをまわしてくれたのは恩に着るよ」エレヴェーターのなかで、ポール・ドレイクがペリイ・メイスンに言った。
「いい金になったのか?」彼のオフィスのある階でエレヴェーターがとまったとき、メイスンは訊いた。
「まあ、かなりのところだね。金のことになると、どうもけちなほうだったがね。うまく話に乗せちまったんだ。この事件はもうこっちのもんだぜ」
「そう思うかい?」メイスンは訊いた。
「俺にはわかるんだよ」メイスンが事務所のドアを押し開けたとき、ドレイクが言った。
「このパットンというやつは、おなじような仕事をほかの場所でも仕組んでいるぜ。一度きりでやめてしまうにしては、よく考えてあるし、うまくできすぎているからね。クローヴァーデイルのほうは、気にしないつもりだよ。ほかの場所をあたってみるさ。……ハロー、ミス・ストリート。今日のところは、ご機嫌はいかがですかな?」
デラ・ストリートは微笑をみせた。
「どうやら」と、彼女は言った。「あの写真を見にいらしたのね」
「何の写真だい?」とポール・ドレイクは、そんなやましいところはないような顔をして訊き返した。
彼女は笑った。
「まあいいさ」と、ドレイクは言った。「ここにきたついでに拝見してもいいだろう」
「ミスタ・メイスンのデスクの上にございますのよ」彼女が言ってやった。
ペリイ・メイスンは私室に入ると、回転椅子にどっかり腰をすえて、デスクの上にあった書類ケースをとりあげた。彼は、それを探偵にわたした。探偵はそれを見て、口笛を吹いた。
「えらく凄いじゃないか」彼は言った。
「ああ」と、メイスンは言った。「パットンというやつも、どうして眼が高いよ。僕に話があるって、なんだい、ポール?」
「こんどの事件で、どんなことが起るのか知りたいんだが」
探偵が言った。
「特になにも起こらないさ」と、メイスンが話をした。「君はパットンを探すんだよ。マージョリー・クリューンを探すんだ。われわれ二人で連中に会うんだよ。彼から自供書をとる。そうすればここの地方検事が起訴するだろうし、クローヴァーデイルの地方検事が起訴するだろう」
「君があっさり言うもんだから」と、ポール・ドレイクは無表情な眼を眼瞬きしながら言った。「楽にいきそうに聞えるね」
「手っとり早くやることにしているんだよ」メイスンが彼に言った。
「フランク・パットンは見つけられるだろうと思うよ」と、ドレイクは言った。「はっきりした人相もわかっているからね。背が高く、がっしりした身体つき、もったいぶった感じ、年齢は五十二才、髪はグレイで、短く刈り込んだグレイの口髭がある。右頬に黒子《ほくろ》がある。ブラッドバリーは、ホテルの自室に、『クローヴァーデイル・インディペンデンス』紙の綴り込みを持っているんだよ。証拠になる広告も載っているし、俺たちが使える写真もあるんだ。
俺の理論はね、このからくりは一つの町で使うだけにしては、あんまりうまく考えてあるってことなんだよ。おなじようなことが行われた町が、ほかにも見つかるだろうし、そうした町のことを通じてパットンの手がかりがつかめるだろう」
「いいね」ペリイ・メイスンは、煙草に火をつけながら言った。「やってみてくれ」
「しかし」と、探偵が訊いた。「その場合どういうことになる?」
「どういう意味だい?」
「どこまで手をのばしていいんだ?」
メイスンは、にやりとして言った。「僕は、そのために検察庁まで行ってたんだよ。どこまでやってもかまわないんだぜ」
「その話はブラッドバリーにするのかい?」ポール・ドレイクが訊いた。
「そんなことはしないよ」メイスンは、きびきびした強調の語気で彼に言った。「そういう話は、いっさいしないつもりだよ。パットンの所在がわかっても、その場所はわれわれだけのあいだのことにしておくんだぜ。われわれが彼に会うんだ。会ったあとでブラッドバリーには、われわれのしたことを話すんだよ。これからしようとすることは、こんどの事件ではいつでも彼には話さないことにするんだ」
「依頼人には報告書を出さなけりゃならんだろう」ドレイクは心配そうに言った。
「そんなことは簡単だよ」と、メイスンは言った。「僕は、君の依頼人の弁護士だからね。君は僕に報告すればいいさ、僕が責任を持つさ」
探偵は、沈思黙考といった態《てい》でペリイ・メイスンを見まもっていた。
「それで、うまくいくかなあ?」彼は訊いた。
「いくとも」メイスンは言った。
「それで、どんな方法で自供をとっても、地方検事は構わないのかい?」
「ちっとも構わないさ」と、メイスンは言った。「わかるだろう、検察庁としては不正な手段はとれないんだからね。われわれとしては、どんな手段でも採用できるもの」
「暴力を使うという意味かい?」
「必ずしもそうじゃないさ。ほかにもっとましな方法があるんだよ。あいつがしゃべらなければならないような立場に追い込んでやるんだ。こっちが映画との契約に関して、手紙を詐欺の目的に使ったという点をわれわれが追求しているんだと、向うに思わせるような立場に追い込む。そして、映画のほうのことで何かを認めさせようというわけなんだ」
「どうしてクローヴァーデイルの地方検事は手をつけないんだ?」ドレイクが訊いた。
「まず第一に」と、メイスンは言った。「彼にとっては事件じゃないわけだよ。第二に、クローヴァーデイルの商業上の大立物が、ごっそりひっかかったんだ。事態をはっきりさせようとして地方検事が動けば動くほど、こんなちっぽけな町の実業家の、瞞されやすいところがわかってきた。当然、彼は責任を回避したわけだよ」
「それで、われわれがしようとすることはブラッドバリーには知らせないというわけなんだね?」
「それをやってしまうまでは、だよ」
「言い換えれば」と、ドレイクは言った。「君は彼を手ひどく扱うつもりなんだね?」
メイスンの語調は、静かだったが、強調するようなところがあった。
「いかにも、僕はやつをこっぴどく扱ってやろうというんだよ」彼は言った。
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第三章
ペリイ・メイスンがドアを通ってテーブルの上に書類鞄を投げ出したとき、ペリイ・メイスンのオフィスの窓から午後の日がさしこんで、独立して置いてある本棚のガラス戸に反射していた。
「例のナイフ事件の訴訟を起こすことにしたよ」と、彼は言った。「先方は、殺害の目的を持って兇器を使用した傷害行為というのを、単なる傷害行為にあらためたので、こっちはその時機をつかんだというわけさ」
「お金は頂きましたの?」彼女が訊いた。
彼は頭をふった。
「これは慈善でやっている事件だよ」と、彼は言った。「どうあっても、あの女を責めるわけにはいかないからね。人間の耐えられる限界以上にいじめぬかれてきたんだ。金はなし、頼りになる人もないしね」
デラ・ストリートは、微笑を含んだ、賞賛の眼でひたと彼を見つめたが、温かい眼だった。
「あなたなら、そうなさると思っていましたわ」彼女は言った。
「何か変ったことは?」彼が訊いた。
「ポール・ドレイクが電話をかけてきましたわ。もどったらすぐ電話をしてくれるようにと言っていました」
「よし」と、ペリイ・メイスンは言った。「彼に電話をしてくれたまえ。ほかには?」
「あい変わらずのことがいろいろとあるだけですわ」と、彼女は言った。「あなたのデスクにメモを置いておきました。重要なことは、ドレイクからの電話だけ。ブラッドバリーが二度も電話をかけてきましたけれど、事件がどう動いているかを知りたいと思ってかけただけだと思いますわ」
「ポール・ドレイクとの話が」と、ペリイ・メイスンは言った。「終るまでは、彼から電話があっても出ないから、そのつもりでいてくれたまえ」
彼が奥のオフィスに歩いて行って、デスクに向ってすわるかすわらないかのうちに、電話が鳴った。受話器を耳にあてると、ポール・ドレイクの声が聞えた。
「俺はフランク・パットンを嗅ぎ出したぜ、ペリイ」と、探偵は言った。「じつはね、今夜の八時ごろにはわかるんだ、おそらく、もうちょっと早くだろう。そっちへ話しに行ってもいいかい?」
「オーケイ」と、メイスンは言った。「ちょっと、そのまま電話のところにいてくれ」
彼は指で受話器の台をかちかち押していたが、すぐにデラ・ストリートの声が聞えた。
「ああ、君だね、デラ?」
「ええ」
「ポール・ドレイクが電話に出ているんだよ」と、彼は言った。「ブラッドバリーの件を話しにくるんだ。われわれの探していた情報をつかんだらしい。ドレイクとの話が終るまでは、絶対に誰にも会わないからね。ということは、とくに、ブラッドバリーとは話をしたくないということだよ」
「わかりました。先生《チーフ》」彼女は言った。
「すぐにきてくれ」メイスンはドレイクに言って、受話器をもとの場所にもどした。
二分後、ポール・ドレイクはペリイ・メイスンの私室のドアを入ってきた。
「何をつかんだ?」弁護士が訊いた。
「いろんなネタがまとまったと思うんだがね」ポール・ドレイクは、大きな革張りの椅子に腰をおろして煙草に火をつけながら言った。「あのパットンというやつが、パーカー・シティで、おなじ商売をやったことを探りあてたよ。へんなことだが、野郎は変名を使ってないんだな。おなじ事件を仕立てながらフランク・パットンの名前でやりやがった。契約書にサインしてその映画会社は、クローヴァーデイルの契約のときのとおなじ会社ときてるんだよ」
「パーカー・シティでは誰をひっかけたんだ?」ペリイ・メイスンは好奇心にかられたように訊いた。
「おなじ連中さ――商工会議所と商人だよ」
「いや、そんなことを訊いているんじゃないよ。ペテンにひっかかった女の子は誰なんだ?」
「そこから、われわれがパットンをたぐり出そうって寸法なんだよ」と、探偵が言った。「その娘はセルマ・ベルという名前で、ここに住んでいらっしゃるそうだよ。住所と電話番号がわかった。イースト・フォークナー・ストリート九六二のセント・ジェームズ・アパートメントという安アパートに住んでいて、電話はハーコート六三八九一なんだ。部屋は三〇一号だがね、いまは、外出中だよ。こっちは電話をかけっきりで連絡をとろうとしたんだがね。その子がフランク・パットンと現在も連絡をとっていると信じられるような証拠をつかんでいるんだよ」
「いつ、その女と連絡がとれる?」メイスンは訊いた。
「まず八時前後というところだな。どこかで働いているんだが、その場所を知らないんでね。コーラスの仕事をやっていたんだが、どうも俺の感じでは、ちょっと、したたかなところのある娘《こ》らしい。パーカー・シティの脚線美コンテストに入賞して、マージョリー・クリューンとそっくりおなじで映画の契約でこっちに出てきた。そいつがみごとにオジャンになるとコーラス・ガールになったり、ある画描きのモデルになったりしてたわけさ」
「それで、ずっとフランク・パットンと連絡《つながり》があったのか?」ペリイ・メイスンは眉をひそめながら訊いた。
「ああ、その子はね、どうみても、成り行き次第でものごとをうけ入れて行くような性質《たち》の娘なんだよ。パットンがいかさまな商売をやっていながら、告訴もできないということを見てとった。そこで、この市でできるだけのことをあいつにさせた。こういったことは、俺たちがその子の友達から聞いた話で見当がついたんだが」
「それで、今夜、八時ごろにその女が帰ってくるのかい?」メイスンは訊いた。
「うん、きっと、もう少し前になるだろうな」
「それで、その女がフランク・パットンの住所を教えてくれると思うのか?」
「そいつは絶対だと思っているよ。帰ってきたところをつかまえるために、腕っこきの男を待たせてあるんだ。いい加減な約束で田舎の娘たちがこの都会におびき寄せられるのを防ぐためだとか、何とか、そんな台詞《せりふ》でその男がうまく訊き出せるだろう」
「なるほど」ペリイ・メイスンはデスクの煙草入れからマールボロをとりながら言った。「そいつは結構だね」
「いやあ、そうでもないよ」と、探偵は言った。「まだ、そうなってみないとね」
「どういう意味だ?」
「フランク・パットンの所在をつきとめたら」と、ポール・ドレイクが言った。「どうしようというのか、そいつをはっきり知っておきたいんだよ」
ペリイ・メイスンは花崗岩のような厳しい表情をみせてポール・ドレイクに顔を向けた。
「あの男が見つかったら」と、彼はゆっくり言った。「僕は粉砕してやるんだよ」
「だから、どういうふうに粉砕しちまうんだい?」
「わからないよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「何とかして不意打ちの要素を盛りこむんだな。君も察しがつくだろう、ポール、あいつのやっている商売は、放っておけばどんどんひろがるかも知れないんだよ。むろんそういうことにはならないかも知れないがね。意図の問題だからな、これは。
そうなると、ことごとくの犯罪訴追は空しいことになってしまうんだ。地方検事は、詐欺行為や横領の作為か不作為かで有罪を証明しなければならない事件に対しておじけをふるうようになってしまう。それが、犯罪の構成要素なんだよ。だからこそ、単なる嫌疑以上のものとして立証しなければならないわけだ。推論できる嫌疑以上のものとして犯罪の意図だけを立証するためにほかの証拠をいくら持ってきて当事者の精神にひそんでいたものを証明しようたって、とてもむずかしいことなんだよ。
だからこそ、僕はこの男の自供をとりたいんだ。いっさいが詐欺を目的としたペテンだったこと、自分が相手にした商人たちや、インチキな脚線美コンテストに入賞した女の子を、はじめから詐欺にかける意図があった、と認めさせるために、彼自身を裏ぎるようなかたちに圧力をかけても話を持って行きたい。それをするためには、やつの不意をつかなけりゃいけないわけだ。やつの油断しているところをついて、こっちの話がどこまでハッタリで、どこまでが証明できるものなのかを判断する余裕を与えないように、引きずりまわすんだな」
「で、ブラッドバリーがその場にいてはまずいわけかい?」
ペリイ・メイスンはおちついてポール・ドレイクを見つめた。
「こいつははっきりしといてくれよ、ポール」と、彼は言った。「ブラッドバリーには、これからわれわれがしようとしていることを知らせるのも、絶対にまずいんだぜ」
デスクの電話が鳴った。
ペリイ・メイスンは受話器をとった。
デラ・ストリートの気を配るような声が言った。「J・R・ブラッドバリーから電話ですけれど。あなたが裁判所から事務所にもどったことがわかったから、電話で話ができなければ、ここへ伺うとおっしゃっていますわ」
「しかたがない」と、ペリイ・メイスンは言った。「たったいま帰ってきたばかりで、五分ばかり手が離せないことがあるので、五分経ったら電話をして頂ければ、電話でお話しする、こちらにはお迎えをさしあげるまでお出にならないで頂きたい、と言ってくれ。わかったね?」
「はい、先生《チーフ》」彼女は言った。
メイスンは、がちゃりと受話器をおくとポール・ドレイクに眼をあげた。
「あの男は」と、彼は言った。「まったく、たいへんなうるさがただよ」
「ブラッドバリーかい?」探偵は訊いた。
「ブラッドバリーさ」ペリイ・メイスンは言った。
「あれで、なかなか人あたりはよさそうなんだがね」探偵は言った。
メイスンは何も言わずにうなずいた。
「ブラッドバリーが俺んとこへ電話をかけてきたら?」ポール・ドレイクは訊いた。
「詳細に僕のほうに報告しといたし、捜査の結果は話さないように言われている、と言ってやれよ」
「何も言うのはいけない、という意味かい?」
「いかにもそのつもりで言ったんだよ。ほかにどんな意味があって言ったんだと思うんだ?」
「かんかんになるかも知れないぜ」
「そいつはまかしとけよ」と、メイスンは言った。「ところで、僕のほうとしては、やつの居場所がわかり次第、すぐさま僕といっしょに駆けつけられるように準備しておいてもらいたいんだ。僕の芝居の応援をしてもらいたいんだが、主役は僕がつとめるからね」
「あまり心配はいらないってわけか」と、ドレイクが言った。「俺はお客さんの利益《とく》になるような立場に立っているんだぜ。ちゃんと情報は集めたが、そいつをわたさないというわけだ」
「僕にわたしたじゃないか」と、弁護士が言い返した。「責任は持つよ」
電話が鳴った。
ペリイ・メイスンはそのほうに向って顔をしかめると、受話器をとって言った。「こんどは何だい?」
「そちらの部屋へ伺いますがよろしいですか?」デラ・ストリートが訊いた。
「いいとも」彼はそう言って、受話器をもとの場所に返した。彼は、外側の部屋に通じるドアに眼を注いだまま身動きもせずにすわっていた。
ドアが開いて、デラ・ストリートがするりと入ってきた。
「ドーレイ先生が、あちらにお見えになっていますのよ」彼女は静かに言った。「どうしてもお目にかかりたいと言っているんです。ブラッドバリーから電話がかかってくる前にお知らせしようと思ったものですから」
ペリイ・メイスンは眼を細めて考えていたが、ふと、いきなりポール・ドレイクのほうを向いた。
「ほかにまだあるかい、ポール」彼は訊いた。
「さしあたってはそれだけだよ」と、探偵は言った。「八時ごろにはわかるんだ。この事務所にいてくれるかい?」
メイスンはうなずいた。
「あのドアから」と、彼は言った。「廊下に出られるよ」
ポール・ドレイクは革張りの椅子の肘かけからひょいと両脚をはずすと、そのままドアに向って行った。
「ブラッドバリーは」と、彼が言った。「どうしても俺んとこに電話をかけてくるだろうな」
「僕の言った通りに言えよ」メイスンは言って、デラ・ストリートにふり向くと外のオフィスのほうへ頭をぐいっと引いてみせた。
「ドーレイ先生に、こっちへ入るように言ってくれ」彼は言った。
ポール・ドレイクはドアから廊下にぬけて行った。デラ・ストリートは外側のオフィスに通じているドアを開けた。
「どうぞ、先生《ドクター》」彼女は言った。
ドクター・ドーレイは、背が高く、髪と眼が黒くて、頬骨が出ていて、口もとには何の表情もなく、顎が、やけに強く突き出した男だった。戸口に立った彼は、おかしいくらい不安な様子だった。
「どうぞ」とペリイ・メイスンが言った。
ドクター・ドーレイが部屋に入ってくると、ペリイ・メイスンは大きな革張りの椅子を指さした。
デラ・ストリートがうしろ手に閉めて行くと、ペリイ・メイスンはむきつけに品さだめするような眼をじろじろドーレイに向けた。
「ご用件は?」彼が訊いた。
「あなたは、マージョリー・クリューンの居場所を探していられる弁護士のかたですね?」ドクター・ドーレイは何の前置きもせずに言った。
「誰に聞きました?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「それは、ちょっと申しかねるのですが」ドクター・ドーレイはおちつかない様子で、もじもじしながら言った。
ペリイ・メイスンは彼を見つめた。
「それで?」彼は訊いた。
「じつは」と、ドクター・ドーレイは言った。「ちょっとおたずねにあがったのですが。じつは、私、あなたを、マージイ――つまり、ミス・クリューンの弁護士になって頂くように手をまわすことができるだろうと思うのです。ブラッドバリーがあなたに何をしてもらうつもりで、あなたを雇ったか、それがわからないのですが」
「残念ながら」と、ペリイ・メイスンは言った。「あなたに雇っていただくわけにはいかないんですよ。しかし、私が雇われていること、私を雇ったのがミスタ・ブラッドバリーだということをどうしてご存じなのか、伺いたいものですね」
ドクター・ドーレイは口もとで微笑した。しかし、その眼は、ぎらぎらして、笑いをうかべずにくろぐろとしたままだった。
「この質問にはお答えなさらないのですな?」ペリイ・メイスンは訊いた。
ドクター・ドーレイは頭をふった。
「察するところ」と、ペリイ・メイスンはゆっくり言った。「あなたはキャンディの一箱でも買ったわけですな、地方検察庁のミス・モウド・エルトンに」
ドクター・ドーレイは顔を染めて、あわてて眼をそらせた。
ペリイ・メイスンはうなずいた。
「これで、先生」と、彼は言った。「われわれは完全に了解しあったわけですな」
「そうはっきり了解しあったとも思いませんが」ドクター・ドーレイは言った。「私がとくにどうしても知りたいのは――」
「私からはお話しできませんね」ペリイ・メイスンが言った。
電話が二度鳴った。ペリイ・メイスンは受話器をとりあげた。
「ちょっと失礼します」彼はドクター・ドーレイに断ってから、電話口に出た。「ハロー」
ブラッドバリーの声が聞えた。
「何かわかりましたか?」彼が訊いた。
「ええ」と、ペリイ・メイスンは抑えたような声で言った。「あなたにとっても重要な情報が今夜八時前後にわかる手筈になっています。遅くとも八時十五分までには、私の事務所までおいで願いたいのですが。お持ちになっている新聞の綴《とじ》込みを持ってきてくださるようにお願いしますよ」
「パットンの所在がわかったんですか?」ブラッドバリーは夢中になって訊いてきた。
「いや、まだです」メイスンは言った。
「ミスタ・ドレイクとお話しになったんでしょう?」
「ええ」
「ドレイクのほうが、彼の居場所をつきとめたのですか?」
「いや」と、弁護士が言った。「しかし、調査は進捗しているという報告をよこしました」
「それ以上のことは話していただくわけにいかないんですか?」
「これだけです。八時十五分までに事務所のほうにおいでください。その時、例の新聞をお持ち願いたいんですが」
「その前にお目にかかれませんか?」ブラッドバリーは訊いた。
「いや」と、ペリイ・メイスンは言った。「忙しいんですよ。今夜、おめにかかりましょう」
「私が伺ったとき、そちらにいらして頂けますか?」
「わかりませんね。もし私がいなくても、きて頂くように私から電話するか、私が事務所にもどるまでお待ちになってください」
「|あなたに《ヽヽヽヽ》お話しがあるんですが」ブラッドバリーは言った。
「今夜お話しできますよ」と、メイスンがつっぱねた。「失礼します」彼は受話器を置いた。
ドーレイの黒い瞳は、熱を帯びたようにぎらぎら輝いていた。
「ブラッドバリーからですか?」彼は、乾いたような調子で訊いた。
ペリイ・メイスンは彼に向って微笑を見せた。
「さきほども申し上げたように、先生《ドクター》」と、彼は言った。「われわれは完全に了解し合ったと存じますがね。私には何も申し上げられることはございません。しかし、念のためにアドレスを秘書に教えといて頂きましょうか」
「もう、お教えしておきましたよ」と、ドクター・ドーレイは言った。「私がきたことを通じて頂く前にお教えしなければなりませんでしたからね。私はミドウィック・ホテルに泊っております。電話はグローヴの三六九二一です」
「ありがとう存じました」ペリイ・メイスンは立ちあがって、外の廊下に通じているドアを指さしながら言った。「あのドアから外に出られます」
ドクター・ドーレイは立ちあがって、ちょっと躊躇して、何か言おうとしてせわしなく呼吸をしたが、気が変ったらしくドアのほうに歩いて行った。
「失礼します、弁護士さん」
「失礼しました、先生《ドクター》」
ドアが音をたてて閉められた。ペリイ・メイスンは、受話器をとりあげた。
「デラ」と、彼は言った。「今夜、八時十五分までにオフィスへきてもらいたいんだよ。できたらもう少し前に。削った鉛筆をたくさんと、新しいノートを用意しておく。口述書をとってもらうようになるかも知れないんだよ」
「自供書ですか?」彼女は訊いた。
「まあ、そういったものになるかも知れないね」彼は、そう言って受話器を置いたとき、にやりと微笑した。
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第四章
ペリイ・メイスンは、オフィスの表のドアの鍵を開け照明のスウィッチを押した。彼は腕時計を見た。ちょうど七時五十分だった。外側の部屋を通ってオフィスのドアの鍵を外し、私室のドアを開けて照明をつけた。デスクの端に腰をおろして受話器をとった。じいじい鳴る音で、デラ・ストリートが外の部屋の電話の交換台にプラグを嵌《は》めたままにしておいたことがわかった。ペリイ・メイスンは、幸運の脚の女性の事件に関する書類の覚書に書きとめてあった電話番号をまわした。電話番号に関する記憶力は、まるで写真のように正確で、彼の指はなめらかに、何の躊躇もなく動いた。
「メイプルトン・ホテルでございます」女の声が言った。
「クローヴァーデイルのミスタ・J・R・ブラッドバリーをお願いしたいんですが」ペリイ・メイスンは言った。
「ちょっとお待ちください」
受話器に歌でも歌っているような音がしばらくつづいて、すぐに交換台できり換える音がすると、女の声が言った。
「もしもし?」
「ミスタ・ブラッドバリーをお願いしたいのですが」ペリイ・メイスンは言った。
「六九三号室におかけください」いらだった女の声が言うと、がちゃりと受話器をかける音が聞えた。
その瞬間に、外側のオフィスのドアが開いて、また閉った。ペリイ・メイスンは眼をあげた。受話器は、そのまま歌を歌うような音を立てていた。ペリイ・メイスンの私室のドアの下に流れてくる室内照明の光に影がひろがってきて、やがてドアが開いた。
ペリイ・メイスンは受話器をもとの場所に置いた。
「ハロー、ブラッドバリー」と、彼は言った。「ちょうど、いま、電話をかけていたところでしたよ」
ブラッドバリーは慇懃に微笑をみせながら部屋に入ってきた。
「お話ししていただけるのでしょうな?」と、彼は訊いた。「おわかりなったことは?」
「まだ何もわからないんですよ」メイスンは言った。
「まだ?」ブラッドバリーは訊いた。
「まだですよ」
「夕方、ポール・ドレイクに電話をしたのですが」と、ブラッドバリーは言った。「彼が見つけ出したことは全部あなたに話すように指示をうけたと言っていましたがね。そうすれば、あとは、あなたが責任を持つとか」
ペリイ・メイスンは右手の指でデスクの上をかるく叩くような動作をちょっと見せた。
「これはどうしてもはっきりさせておこうと思いますが、ブラッドバリー」と、彼は言った。「あなたは、あなたご自身の利益を守るために私を雇ったわけです。私は使用人としてではなく弁護士として雇われた。いわば外科医とおなじ立場ですからね。外科医に手術してもらうとき、手術のやりかたまで指図はしないものでしょう」
「文句を言っているわけではありませんよ」ブラッドバリーは微笑をうかべながら言った。「仕事のことはあなたがよくご存じですな。ここへくる前に、あなたのことは調べたものですから。おっしゃることは何でもその通りにいたしますとも」
ペリイ・メイスンは吐息を漏らした。
「それなら」と、彼は言った。「話が簡単になる」
彼は煙草入れから煙草を一本とって、ブラッドバリーにもすすめた。ブラッドバリーは頭をふって、チョッキのポケットに手をやった。
「折角ですが」と、彼は言った。「私は葉巻を喫います」
「なかなか早くおいでになりましたね」ペリイ・メイスンは言った。
ブラッドバリーは、左の腕の下にかかえていた『リバーティ』誌を指さした。
「新しい『リバーティ』を買ってきたんですよ」と、彼は言った。「ちょうど発売になっていたところでしてね、お邪魔をするつもりはありません、外のオフィスにすわって、これを読んでいますから。お仕事がおありでしたら、ご遠慮なくなさってください」
ペリイ・メイスンはデスクから離れて、外側のオフィスに通じているドアに寄って行った。
「そうして頂こうかと思っていたところでした」と、彼は言った。「一人で片づけたい仕事がいくつかありましてね。おわり次第、すぐにお知らせします」
ブラッドバリーは、鋭い灰色の眼でペリイ・メイスンを見透かすようにしながらうなずいた。
「あなたは」と、彼が言った。「告訴できるような事実をつかめると思いますか?」
「さあどうですか」と、ペリイ・メイスンは言った。「そこから発展させて行けるようなものをつかむまでは、何とも言えませんよ。事実をつかまずに事件をでっちあげるわけにはいきませんからね。私はまだ全部の事実を握っていませんので」
ブラッドバリーは外側の部屋に出て行った。ドアがかちりと音を立てて、彼のうしろで閉った。ペリイ・メイスンは十分ばかり最高裁判所の判決記録を読んでから、外側の部屋に通じるドアにそっと近づいて、それを開けて部屋のなかを見た。
J・R・ブラッドバリーは、デラ・ストリートのデスクの右にある椅子の一つに腰をおろして、夢中になって雑誌を読んでいた。眼をあげようともしなかった。ペリイ・メイスンは、ドアを閉めるとき指先でそっとノブをまわしたので、掛け金が音もなくかかった。
彼はデスクにもどると、判決記録を片隅に投げて、じっと考えにふけりながら煙草をくゆらしていた。
電話が鳴った。
メイスンは、いそいで受話器を耳にあてた。
「メイスンです」彼は言った。
ポール・ドレイクの声が聞えてきた。
「オーケイ、ペリイ」と、彼は言った。「例の女のアパートに張らせておいた部下から報告があった。ネタは全部ものにしたよ」
「パットンの所在はつきとめたのか?」メイスンは訊いた。
「ああ、居場所をつきとめたし、アパートにいるってこともある程度、確実なんだ。あいつのやっていたからくりもほんの一部だが握ったよ。こっちが告訴できるような程度には、だよ」
「彼はメイプル・アヴェニューのハリデイ・アパートメントに住んでいる。三五〇八号だよ。部屋は三〇二号室。
そこを調べてみた。ホテル式のサーヴィスがあるようには見せかけているがね、たいしたことはないアパートだよ。自働エレヴェーターと、ロビーに受付がある。そこの受付に、ときどき出ているやつがいるけど、いないときのほうが多いくらいなんだ。受付を通さないで、あいつの部屋まで行ってみようという考えなんだよ。あいつをしめあげれば、きっと白状するさ」
「オーケイ」と、メイスンは言った。「で、いま君はどこにいるんだ?」
「九番街とオリーヴの角のドラッグ・ストアから電話しているんだ。いつでも出かけられるようになっているよ。デラ・ストリートをつれてきたほうがいいと思う。きっと自供するよ」
「いや」と、メイスンは言った。「さしあたってすぐ彼女をつれて行きたくはないんだ。やつをいたぶるところを聞かせたくはないんでね。こっちが電話したら、すぐタクシーがつかまえられる場所に待たせておこう」
「じゃ、君はここにきてくれるね?」ポール・ドレイクが訊いた。
「ああ、そこにいてくれ。十分か十五分以内にそっちへ行くよ」
ペリイ・メイスンは受話器をおくと、ちょっと考えこむように眉をひそめていたが、やがて外側のドアに通じているドアに大股に近づくとそれを開けた。
ブラッドバリーは、読んでいた雑誌から、期待するように眼をあげた。
「お話し願えるまでに、まだだいぶ時間がかかりますか?」
「そう長くはかかりません」と、メイスンは言った。「デラ・ストリートはまだきていないようですな」
ブラッドバリーは、彼女の姿の見えないデスクに眼をやった。
「何か私にできることでもありますか?」と、彼は訊いた。「どんなことでもしますよ。なにしろ、私は――」
彼は、突然、眼を大きく見張って、顔に、はっとしたようないろをうかべて、ペリイ・メイスンを見つめた。
「どうしました?」弁護士は訊いた。
「あの新聞です!」と、ブラッドバリーは言った。「うっかりした! 忘れてきてしまいましたよ!」
ペリイ・メイスンはゆっくりうなずいた。
「まあいいですよ」と、彼は言った。「あったほうがいいのですが、一時間やそこら遅くなったからって、べつにどうってこともありますまい。とってきて頂くのにどのくらい時間がかかりますか?」
ブラッドバリーは時計を見た。
「三十分もあれば」と、彼は言った。「とってこられますよ。タクシーなら十五分で行けるでしょう。帰ってくるにもそれとおなじくらいですね。真暗ななかでも見つかるところに置いてあるんです。ぐるぐる巻きにしてベッドの上においてきたんですよ」
「何かに包んでおきましたか?」メイスンは訊いた。
「いいえ、ただ、まるめて紐をかけてあるだけですが」
ペリイ・メイスンは、叱りつけるように無言で頭をふった。
「そんなことは決してなさらないようにしてください」と、彼は言った。「犯人をとっちめようとするときは、手に入れてある証拠はどんな小さなものでもいつも注意して扱うものです。そういった新聞なんか、証拠になりますし、パットンのほうも、あなたがそんなものを持っていることを知ったらきっと盗みとろうとしますよ」
「それにしても、むろん、新聞の綴込みはとりもどせるでしょう」と、ブラッドバリーは言った。「しかし、もし必要なら証拠として提出できる、はじめから揃えた綴込みですからね、あれは」
「べつに証拠として提出するつもりはないんです」と、ペリイ・メイスンは言った。「その男の前にひろげて、自分がどんなところに追いつめられているのかをはっきり悟らせてやるのです。行って、とってきてください」
ブラッドバリーは雑誌をおいて、ドアに向かった。そのとき、ドアが開いて、デラ・ストリートが二人に微笑をみせた。
「遅かったかしら?」彼女は訊いた。
「いや」と、メイスンは言った。「われわれのほうが早かったんだ。これから出ようとしていたところなんだよ、デラ」
彼女はブラッドバリーに意味ありげな眼を走らせた。
「ミスタ・ブラッドバリーは」と、弁護士は言った。「忘れてらした新聞をとりに、ホテルにもどるところなんだ。それを持って三十分以内に、返っていらっしゃる。僕は君に三十分以内――遅くとも一時間以内に電話をかけよう。電話がかかるまでここで待っていて、速記のノートと鉛筆を用意していてくれたまえ。ミスタ・ブラッドバリーはここへもどってらして、こちらから何か指示をうけるまでお待ちになるからね」
ブラッドバリーの顔に熱心ないろがうかんだ。
「どこかへお出かけになろうと思っていらっしゃるのですか、ミスタ・メイスン?」彼は訊いた。
「まあ、そんなところです」ペリイ・メイスンは言った。
「それでは」と、ブラッドバリーは言った。「ホテルについたら、すぐに電話をしますから、何かわかったことがあったら私に伝言するようにしてください」
ペリイ・メイスンは、右眼の眼くばせがデラ・ストリートにだけ見えるように、わずかに首をまわした。
「オーケイ」と、彼は言った。「あなたにどこかまできて頂くようなことになるかも知れませんよ」
彼は、デラ・ストリートのほうを向いた。
「出かけるよ」彼は言った。
「ところで」と、ブラッドバリーは言った。「一つお訊きしたかったことがあるのですが」
ペリイ・メイスンは、ドアのところで、じりじりしたようにふり返った。
「ドクター・ドーレイはあなたを訪ねてきましたか?」ブラッドバリーは訊いた。
「ええ」と、メイスンは言った。「きましたよ。なぜです?」
「あなたを雇う話には承諾なさらなかったでしょうな?」
「いや、そんなことはいたしません。あなたとの了解のなかにそれは入っていましたからね。どういう状況にあっても、彼の弁護士になることはありませんよ」
「つまり」と、ブラッドバリーは言った。「私の承諾なしには、ということですね」
メイスンはうなずいた。
「理由は?」彼が訊いた。
「あなたに申し上げておきたいのですが」と、ブラッドバリーは言った。「ドーレイという人間は、どっちかと言えば、おかしなところのある性質《たち》でしてね。あなたが、マージョリー・クリューンと連絡がついたら、このことは忘れないで心にとめておいてください。それに、もしパットンの居場所がわかった場合、どんなことがあってもドーレイには知らせないようにしてください」
「なぜです?」と、メイスンは訊いた。「ドーレイが何か乱暴を働くといったことを心配なさっているんですか?」
「そういうことをやると私は確信しています」と、ブラッドバリーが言った。「彼が放言していたことを、たまたま耳にしたものですから」
「オーケイ」と、メイスンは言った。「とくにおいそぎになることはないんですよ、ブラッドバリー。とにかく三十分あるんですからね。しかし、私は事務所とずっと連絡をとるようにしますから、あなたもそうなさってください」
彼は廊下に出た。煙草をすすめながら眼になかなかの興味を見せて、デラ・ストリートのデスクにかがみこんでいるブラッドバリーを残して、ドアをうしろ手に閉めた。
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第五章
ペリイ・メイスンは、九番街とオリーヴの角でタクシーをおりた。
「また乗るからね。ちょっと待っていてくれ」彼は運転手に言った。
通りを横ぎってドラッグ・ストアに入ると、ポール・ドレイクがソーダ・ファウンテンの大理石のカウンターによりかかって煙草をふかしているのが眼に入った。
「ずいぶんかかったねえ」探偵は言った。
「ブラッドバリーが事務所にきやがった」と、メイスンは言った。「ドーレイのことを、くどくど話したがったものだから」
「それで?」ポール・ドレイクは訊いた。
「さて、それから」と、ペリイ・メイスンは言った。「デラ・ストリートに煙草をすすめていた。何かいわくありげな様子でね」
二人は顔を見合わせて笑った。
「でもね」と、ポール・ドレイクは言った。「君がどんな気もちでうけとっているか俺は知らないし、まあ、俺のほうは俺で、あのおじちゃまがどんなに印象的だろうと俺の知ったことじゃないよ。そうやっているおかげで、俺は飯が食えるわけさ。個人的に申しあげれば、あのおじちゃまは、女性に対してはなかなか慇懃な男という印象の下《もと》にご苦労さまなことをしていると思うね。あの煙草店のマミイに鼻の下を長くしていたのに気がついたかい?」
ペリイ・メイスンは、そっけなくうなずいた。
「しかしね」と、ポール・ドレイクはつづけた。「あいつを責めるわけにもいかないさ。なにしろ金をしこたま持った独身者だからね。あのめかしようったらないぜ。ネクタイ一本が、まず五ドル以上もしたに違いないんだからな。あつらえた服は、非のうちどころのない仕立てときている。あの茶色の特別な色合いは、これまた念入りに選んだものだ。あれは、自分の肌の色にあっているからわかるよ。さて、それから、はいているソックス、靴、ネクタイ、シャツ、どこからどこまで色が全体に――」
ペリイ・メイスンは、不快を示す身ぶりをした。
「よせよ、そんな話」と彼は言った。「実際問題に移ろう。パットンはどうした?」
「電話で話した以上のことは、あまり知らないんだが。これからどういう作戦に出るか計画を立てたいんだ」
「よし」と、ペリイ・メイスンは言った。「作戦計画はこうだ。君はここに車を持ってきてあるのか?」
「ああ」
「そいつに乗って、君はハリデイ・アパートメントに行くんだ。僕のほうは、外にタクシーを待たせてある。そいつで行くからね、こっちは。君の車のほうが早いだろうから、五分ばかり僕が先に出る。僕は、そこでおりて、いよいよ実行に移る。君はノックせずにとびこんできてくれ。ドアが開くようにしておく」
「入ってから俺はどうするんだい?」ポール・ドレイクは訊いた。
「僕の指示に従うんだよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「僕は、威嚇してやろうと思うんでね。やつは、驚愕するか、悪いことなんか何もしていないといった調子で怒るか、どっちかだね。どっちであるか、そいつは君がドアを開けたときにわかるわけだ。
もし、そうしたければ、君は、僕となんの関係もないようなふりをしてもいいよ。さもなければ、どうでも勝手な口実を使っていい。ブラッドバリーは、われわれがどんなふうにでも使える、新聞の資料を持って三十分以内に、事務所にきているはずだ。われわれはね、その新聞資料のリストの一部が郵便で送られたのだ、と言ってやるわけだ。そして、彼が詐欺を目的として、その郵便物を使用したと浴びせてやるのさ」
「そいつはうまい台詞だね」と、ドレイクが言った。「その新聞は持ってくるべきだったな」
「それはわかっているよ」と、メイスンが言った。「しかしブラッドバリーのやつが忘れてきたんだし、こっちは、とってくるまで待っていたくなかったんだ。デラ・ストリートは、こっちがあいつをちょっと柔らかくしてやったら、すぐタクシーをつかまえて飛んでくるように事務所で待っているんだよ。やつもはじめのうちは、きっと、しぶとく出るだろうから、こっちの扱いかたはデラに聞かせたくないんだ。
ところで、僕が全体をリードするんだが、必要とあれば、まず、たいていの手は使って構わないことは心にとめといてくれ。地方検事は自供書をとるのに、めったな手段はとれないが、われわれは自供をとるのに、ほとんどどんな手段をとってもいいんだからな。そのあとで、地方検事に彼が確認すればいいんだ」
「それで、君は、やつに詐欺をする意志があったということを認めさせようというんだね?」探偵は訊いた。
「それが、この仕事全体の要点だよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「それを認めさせるまでは、いじめぬいてやる。その自供がとれたら、あとはどうなったってかまわない」
「わかった」と、ポール・ドレイクは言った。「さあ行こう。五分、先に出てくれ。君のほうは二十分かかるね。あそこまで」
「十五分以上はかからないよ」と。メイスンは言った。「五分だけ遅く出てきてくれれば、むこうへ着く時間のことは考えないでいい」
ポール・ドレイクは、カウンターにいる給仕を呼ぶ恰好をして、うなずいた。
「炭酸水を一杯くれ」彼は言った。
ペリイ・メイスンは外に出ると、反対側の街角にいる車に手をふってみせた。車がぐるりとまわってくると、彼は言った。「メイプル・アヴェニューのハリデイ・アパートメント、番地は三五〇八だ。いそいでくれ」
車が動き出すと、彼はクッションにおさまりかえって、喫いさしの煙草から新しい煙草に火を移した。緊張のいろも、神経質なところも、まったく外にあらわさずに、どこまでも静かにおちついてすわっていた。彼には、ただの一撃で敵を倒すまでは、あくまで自分を抑えて敵を攪乱する拳闘家のような印象があった。
彼が煙草を喫いおわろうとしたとき、タクシーは曲り角に近づいて行った。
ペリイ・メイスンは身体をのり出すようにして、ガラスを叩いた。運転手はふり返って客席とのあいだのガラス戸を開けると、ペリイ・メイスンが言った。「ハリデイ・アパートメントの前でとめないでくれ。半|区画《ブロック》ばかり行ってからとめたほうがいい」
運転手はうなずいて、交叉点を通り、曲り角に向かった。
「この辺でどうです?」彼は訊いた。
「結構だね」と、弁護士は言った。「一時間ばかり間があるんだよ――あるいは、もう少しかかるだろう。もう車はいらなくなるかも知れないが、もし乗るようなときは、すぐに君をつかまえたいんだ。十ドルあげよう。このあたりに駐めておいて、五分か十分おきにモーターをかけて、エンジンを冷さないようにしといてくれ。いそいで行ってもらいたいところができるかも知れないんでね」
運転手は、にんまり笑ってその紙幣をポケットに入れた。ペリイ・メイスンは曲り角へ出て、ハリデイ・アパートメントの場所を示すネオン・サインを認めた。彼は急ぎ足で、はげしいものを内に秘めたような、目的をはっきり持った大股な足どりで歩いて行ったが、アパートの入口から二十フィートのところまでくると、ドアからあわただしく出てくる若い女の姿が眼についた。
二十代になったばかりというところだった。狐の毛皮の襟がついた純白のコートを着て、白い靴をはき、上に赤いボタンが一つついた、小さな白い帽子をかぶっていた。すらりとして優雅な身体つきで、らくらくとすべるように運んで行く足どりには、なにか人間離れのした、かろやかな感じがあった。
ペリイ・メイスンは、大きな青い眼をした、ひどく蒼ざめた顔をちらっと眼でとらえた。すると、その顔はさっとそむけられた。ペリイ・メイスンとすれ違うときもそのまま顔をそむけて、靴のヒールがペーヴメントにかるく音を立てた。
ペリイ・メイスンは、立ちどまって彼女をじっと見つめた。その青い眼は、うろたえたようないろをうかべ、彼女が弁護士を知っていて、彼に自分を見おぼえられまいとするかのようにひどくせっぱつまった様子で顔をそむけていた。
コートがぴっちりと背中や腰にまつわりついていたので、彼女が歩くと、その下にある筋肉の動きがペリイ・メイスンの眼についた。
彼女が交叉点を横断するのを見送ってから、やがて彼はハリデイ・アパートメントに入って行った。
ロビーには受付があったが、誰もいなかった。受付のうしろには、いくつもの仕切った棚があって、それぞれの棚の上に部屋の番号があった。その鳩の巣のような棚のなかのいくつかには鍵が入っているのもあり、紙や封筒の入っているのもあった。
ペリイ・メイスンは三〇二号室の分に眼をやったが鍵は見えなかった。彼はエレヴェーターに近づいて、ドアを開けて、へんな匂いのするケージに乗り三階というボタンを押すと、がたがた音を立てながらゆっくり昇って行った。
エレヴェーターががたびしとまると、ペリイ・メイスンはエレヴェーターの内側と外側のドアを開けて、廊下に出た。廊下は直角に曲っていて、左手に折れて廊下をずっとつきあたりまで行くと三〇二号室になる。彼は指の関節でドアをかるくたたきはじめたが、ふと、ドアの右にベルのボタンがあるのに気がついた。親指でそのボタンを押すと、室内でブザーの鳴る音が聞えた。
人の動く気配はなかった。
メイスンは、ちょっと待ってから、またブザーを指で押してみた。それでも返事がないので、彼は指をまげてドアをたたいた。室内の照明が眼についたので、鍵穴からのぞいてみた。
数秒、静かに待ってから、彼は眉をひそめてノブをまわしてみた。ノブはちゃんとまわるようになっていて、かちりと音を立てるとドアが開いた。
ペリイ・メイスンは、居間と食堂の兼用と思われる部屋に足を踏み入れた。右手に小さな調理場があった。右手には閉められたままのドアがある。部屋には誰もいなかった。テーブルの上に、ソフト、ステッキ、グレイの手袋、それに紙が二枚おいてあった。
ペリイ・メイスンはテーブルに寄って、その紙をとりあげた。二枚とも、かかってきた電話の伝言で、三〇二号室の客が帰ってきて鍵をとりに寄ったときわたすように受付の棚に入っていたものに違いなかった。
その一枚の伝言には簡単に「パットン様、ハーコート六三八九一に電話してマージイにご連絡ください――午後六時五分」とあった。
もう一つの伝言には「パットン様、セルマに、マージイが二十分ほど遅れるとお伝えください――午後八時」とあった。
ペリイ・メイスンは、その二枚の紙に向って、眉をひそめるように視線を集めていたが、それをテーブルに返すと、グレイの帽子をとって内側の皮にある頭文字を見た。F・A・Pと書いてあった。
ペリイ・メイスンは、右手の、閉めきったドアを見まもった。右手を、汚点《しみ》のついたテーブルの端において、指でかるくテーブルを叩くような動作をした。やがて、心を決めると、彼は大股に近づいて行ってドアを開けた。
彼が今までいた部屋とおなじように、寝室にも照明がついていた。入口の右手にバスルームのドアがあって、それは開いていた。反対側の隅に、ベッドがあり、そのベッドの向い側に衣装箪笥があった。その箪笥の上の鏡には、ペリイ・メイスンの立っているドアのところからは見えない隅のほうが映っていた。
その鏡に映った場所には、爪先を上に向けてスリッパをはいている男の足が見えた。スリッパの上は、何もはいていない脚で、そのさらに上にはバスローブの端が見えた。
ペリイ・メイスンは、一、二秒、みじろぎもせず立っていたが、眼は鏡に映った光景をひたと見つめていた。
ベッドのほうに眼を移すと、男の上着、ワイシャツ、タイ、ズボンなどが、まるで無造作な乱雑さでベッドに投げ出されていた。上着はくしゃくしゃになっていて、片方の袖がまくりあげてあり、ズボンはくたくたとまるめられたままだった。シャツはベッドの反対側に放り出されていた。
ベッドの下に靴とソックスがあった。靴は、鞣革《タン》オクスフォードで、ソックスの色はグレイだった。メイスンは、ネクタイを見た。これもグレイだった。ズボンと上着もグレイだった。
ペリイ・メイスンはその部屋に足を踏み入れて、バスルームの隅のほうに寄って行った。
彼は、フロアに倒れている屍体を見つめて立っていた。
その屍体は、まず五十年配、髪がグレイで、短い刈りこんだ灰色がかった口髭があり、右の頬に黒子がある男のものだった。
屍体は下着の上に、絹のバスローブを肩からはおって、右手だけを袖に通していたが、ローブを右肩からはだけて左の手はむき出しのままだった。片手は、拳を握りしめてのばし、もう一方の手は胸の上にのせていた。屍体は仰向けに倒れていて、眼をわずかに開いて、死の光をたたえていた。
左の胸部に刺された傷があり、その傷から血がほとばしり、あたりにべっとりと厚くたまって、バスローブを汚し、絨毯を染めていた。屍体から数フィート離れた絨毯の上に、よくパンを切るのに使われるような刃わたりの長いナイフが落ちていた。基底《もと》のほうは三インチ幅だが、だんだん細くなって先端《さき》が尖っているナイフだった。刃わたりは、ほぼ九インチほどだった。ナイフには血がついていて、屍体から引きぬいたあとで、そこに放り出したものに違いなかった。
ペリイ・メイスンは、注意深く血だまりをよけて身をかがめ、男の手首をとった。脈搏はなかった。手首は、まだ生あたたかかった。
弁護士は、その部屋のいろいろな窓を見まわした。その一つ――ベッドの傍にある窓は――非常階段に通じていて、ベッドは、誰かが横になったか、その上を這って通ったというように少し乱れていた。メイスンは、寝室から廊下に出るドアを開けようとした。それは鍵がかかっていて、内側から閂《かんぬき》がおりていた。彼はハンカチーフを出して、自分の指の触れたノブを注意深く拭きとった。居間から寝室へ通じているドアへもどって、そのドアのノブもハンカチーフで拭いた。さらに彼は、居間から廊下へ出るドアのノブもおなじように拭いた。
そのドアのノブを拭いているとき、部屋の隅に近いフロアの上に落ちているものに、眼が惹きつけられた。それに歩み寄った。それは、革をかぶせた棍棒で、例のブラックジャックだった。手首にかけるために革紐がついている。
それに触れずに、身をかがめて調べると、それにも血がついているのに気がついた。
帽子、手袋、ステッキなどが置いてあるテーブルの近くには、もみくしゃにされてはいないが、明らかにフロアに投げすてられたらしい褐色の包装紙があったが、それは、はじめに包んだものの形がそっくり残っているほど固い紙だった。
ペリイ・メイスンは、その包装紙には、さっきの部屋で見たナイフを包んであったのではないかと思われるような折り目がついているのに気がついた。
彼は注意深く指さきをハンカチーフで包んで、廊下に出るドアを開けた。ドアの外側のノブを拭きはじめたとき、もっといい考えがひょいとうかんだ。彼は廊下に出ると、外側のノブに指を触れまいとするような気を使わずに、右手でドアを閉めた。
彼が、ちょうどドアを閉めようとしているとき、エレヴェーターのドアが開いて女の声が聞えてきた。「……ドアのところに行ってごらんになれば、あの女の声が聞えますよ。泣いたり笑ったり、幸運の脚とか何とか言ったりしているんですからねえ」
廊下を歩いてくる足音がして、男のそっけない声が聞えた。「女が痴話喧嘩か何かでヒステリーでも起しただけですな、きっと」
「だって、何か倒れるような音がしたんですよ、お巡りさん。人の身体が倒れるような音でしたわ。何だか、ぶつかって喧嘩をしているような……」
ペリイ・メイスンは廊下のずっと端に眼をやった。窓が一つもない行きどまりの廊下だった。彼は、曲っているほうの廊下をふり返ると、ポケットから合鍵をいくつか出して、その一つを選んで、鍵穴にさしこんだ。その鍵がうまくかかった。ボルトがかちりとかかって、ペリイ・メイスンが合鍵をポケットにしのびこませたとき、制服の警官が廊下の角から姿を見せて、三〇二号室のドアの前にペリイ・メイスンが立っているのを見ると、いきなり足をとめた。
ペリイ・メイスンは顔をドアに向けたまま手をあげて、ドアをノックした。
眼の隅で、彼は、警官が左手をのばして、自分のすぐうしろについて廊下をまがってきた、中年の、どちらかといえば肥り肉《じし》の婦人をとめるのを認めた。
ペリイ・メイスンはドアのパネルをどんと叩いてから、呼鈴のボタンに親指をあてた。
ちょっと経ってから、彼は、がっかりしたような態度でふり返り、ふと眼をあげて、いかにもはじめて気がついたというようにその警官と婦人に眼をやった。
彼は二人を見つめた。
「もしもし、あんた」と、警官は立った。「ちょっと話があるんだが」
ペリイ・メイスンはじっと立っていた。
警官は女をふり返った。
「あれがその部屋かね?」彼は訊いた。
女はうなずいた。
ペリイ・メイスンは、その女の方をふり向いた。かなり皺くちゃな服に靴をはいていたが、靴下ははいていなかった。髪の毛はひどく乱れていた。顔には化粧をしていなかった。
「誰をたずねているんだね、あんた?」警官は訊いた。
ペリイ・メイスンは三〇二号室のドアに向って頭をぐっと引いてみせた。
「ここに住んでいるのは誰かね?」警官が訊いた。
「フランク・パットンという男だが」と、ペリイ・メイスンは言った。「――という名前の男だと思う理由があるんだよ」
「どんな用事で会いにきたんかね?」
「仕事の用件でね」
警官は女のほうを向いた。
「この人を知っているかね?」彼は訊いた。
「いいえ」と、彼女は言った。「見たこともありませんよ」
ペリイ・メイスンは、いらいらしたように眉をひそめた。
「僕が何者だろうと不審に思う必要はないよ」彼は言った。
ポケットから革の名刺入を出して、仕事用の名刺を出して警官にわたした。
それに目を通してから眼をあげたときの警官の声には、尊敬するような調子があった。「ああ、あんたが、あの有名な弁護士のペリイ・メイスンですか、はあ? 法廷でお見うけしたことがありますよ。いや、おみそれしました」
メイスンはうなずいて、愛想のいい微笑を見せた。
「このアパートにいらしてから、どのくらいになりますか?」警官は訊いた。
「ああ、一分か、もう少し経っているでしょう」メイスンは言った。
「誰もおらんのですか?」警官が訊いてきた。
「なんの音も聞えなかったな」と、メイスンは言った。「それにしてもおかしいんだよ、パットンはどうしてもここにいる筈なんだが。このブザーを押してみると、音が鳴っているのは聞えるんですな。それでドアを叩いてみたんだが、返事がない。服でも着替えているんだろうと思って、しばらく待ってから、もう一度、ブザーを鳴らしたりドアを叩いたりしてみたんですがね。がっかりしてあきらめかけたところへ、あんたが廊下を曲って出てきたわけだ」
「このご婦人が」と、警官は言った。「若い娘がこの部屋でヒステリーを起している声を聞いて、誰かがフロアに倒れるような、どしんという音を聞いているんですよ。あなたは何もお聞きになりませんでしたか?」
「聞かなかったね」と、メイスンは言った。「どのくらい前のことですか」彼は、その女に訊いた。
「そんなに前のことじゃないんですよ」と、彼女は言った。「あたしはベッドに入ってましたよ。気分がよくなかったものですから、早くから寝込んじまいましてね。とび起きて服を引っかけると、お巡りさんを呼びに行ったんです。このお巡りさんを見つけると、すぐここへつれてきたんですの」
「ドアを開けてみましたか?」警官が訊いた。
「ノブをがちゃがちゃやってみたよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「ドアは鍵がかかっているようだ。しかしノブをまわしてドアを押してみたわけじゃない。ちょっと、がちゃがちゃやってみただけでね。正直に言って、お巡りさん、私は非常な興味を惹かれましたよ。どうしてもフランク・パットンに会いたいんだが。もし、このなかにいるのなら、どうしても会いたいんですがね」
警官は、眉をしかめて、どうしようかと考えるように女のほうを見ていたが、やがて三〇二号室のドアに寄って拳でたたいた。返事がないので、こんどは警棒ではげしくたたいた。それからドアのノブをまわしてみた。
「鍵がかかっている」彼は言った。
彼はドアから離れて、女に言った。「あんたの部屋はこのホールの向い側ですか?」
彼女はうなずいた。
「そっちへ行きましょう」と、彼は言った。「管理人を呼んで、合鍵があるかどうかたしかめて、なかを調べてみましょう」
ペリイ・メイスンはじりじりしたように腕時計を見ると、女に向き直った。
「このなかで物音が聞えたというのは十分ぐらい前ですか?」彼は訊いた。
「そんなものだと思いますわ」彼女は言った。
「何が聞えたんです?」
「女の子がすすり泣いているのが聞えました。何ですか、幸運の脚だとか、自分の脚が幸運だとか、そんなことをずっと口走っていましたよ」
「大きな声で話していたのですか?」メイスンは訊いた。
「ええ、女がヒステリーを起こすとどうなるかご存じでしょう。すすり泣いてはいろいろな言葉をどなっていましたわ」
「言っていることは全部聞えましたか?」
「いいえ」
「それで、その次に聞えてきたのは何でした?」
「そのあとで、何かフロアにどしんと倒れた音がしました」
「誰か、この部屋へ入って行く音は聞えなかったのですか?」
「ええ」
「誰か出て行く音は?」
「聞えませんでした。そんな気がしませんの。ごらんのとおりの部屋の配置ですから、バスルームの窓から洩れてくる音は聞えますけれど、ほかの部屋に起ることは聞えませんもの」
「しかし、争いながら倒れる音を聞いたんですね?」
「ええ、壁に掛けてある絵がぐらぐら揺れたくらいですから」
「それに、その娘が自分の幸運の脚のことですすり泣いているのが聞えたんですね?」
「ええ」
「その娘はバスルームにいたに違いありませんな」
「私はそう思いますよ」
ペリイ・メイスンは警官のほうに眼をやった。
「さて」と、彼は言った。「これ以上私にできることはなさそうですな。たとえその女の子がいたとしても、いまは、もういそうもないし、それに、とにかく、私の用があるのは男のほうだからね。事務所にもどらなければなりませんな、私は」
「あなたに連絡をとるのは、そちらにすればいいんですか、いつでも?」と、警官が訊いた。「証人として、喚問されるかも知れませんのです。このなかで、何が起こっているものかわかりませんから。何でもないだろうと思いますが、しかし、壁にかけてあった絵がゆれたという音は、どうもおだやかではありませんな」
ペリイ・メイスンはうなずくと、五ドル紙幣を指のなかにかくして、警官にはそれが見えるが女からはそれが見えないようにしてその手をのばした。
「ああ、お巡りさん」と、彼は言った。「事務所に連絡してくれれば、いつでも私に連絡はつきます。しかし、私は何も知らないですよ。私がここにやってきたときには、べつに何の騒ぎもなかった。この部屋は、今とおなじで何の音もしなかった」
警官は、ペリイ・メイスンの指のあいだから五ドル紙幣をすっととった。
「わかりました、弁護士さん。何か用がございましたら、こちらでご連絡いたしましょう。私は、とにかく合鍵をさがして、この部屋で何があったものか調べてみることにします」
女は紙入から鍵をとって、三〇二号室の向い側の部屋のドアを開けた。警官は彼女の横に立っていたが、すぐうしろについて部屋に入り、ドアを閉めた。ペリイ・メイスンはいそいでその廊下を離れ、エレヴェーターを待たずに、階段に出て、二段ずつおりて行った。ロビーを通るとき、わざとゆっくり歩くようにした。しかし、受付には誰もいなかった。
ペリイ・メイスンはあわただしく歩道を歩いて、待たせておいたタクシーに乗った。
「この通りをまっすぐ行ってくれ。十二区画《ダズン・ブロック》ばかり行ってから電話をかけられる場所を探して欲しいんだよ。だがね、この近所ではかけたくないんだからね」
運転手はうなずいた。
「いつでも動けるように、車はすっかりあたためてありますよ」彼は言ったが、ドアを閉めて弁護士がクッションによりかかったとたん、ほとんど同時に車がさっと走り出した。八区画、ないし十区画ばかり走らせたあとで、彼は速度を落した。
「あの角のドラッグ・ストアではどうです?」彼は言った。
「結構だね」メイスンは言った。
タクシーは消火栓の近くに寄っていった。
「エンジンをかけたままにしときますよ」運転手は言った。
「ちょっと待ってもらうことになるかも知れないよ」メイスンはそう言って、ドラッグ・ストアに入った。電話室を見つけて、硬貨を入れて事務所の電話番号をまわした。
デラ・ストリートの声が出た。
「ブラッドバリーはそこにいるかい、デラ?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「いまはおりません」と、彼女は言った。「もうじきもどってくる筈ですが。十五分ばかり前に、メイプルトン・ホテルから電話をかけてきました。新聞はあったし、そのほか、商工会議所あての手紙や、商人たちが使った契約書や、仮証券や何か、いろいろそろえて持ってくると言っていましたわ。新聞とおなじようにそういうものが必要かどうかって、私に問い合わせてきました。みんな書類鞄に入れてあるそうです」
「君は何て言った?」メイスンは訊いた。
彼女は笑った。
「必要かどうか、あたくしは存じませんでしたもの」と、彼女は言った。「でも、あのひとがからかい半分で言っていることはわかりましたから、ええ、どうぞ持ってきてくださいと言っときましたわ。もう、そろそろ見えるころで――あ、やってきましたわ」
「電話に出してくれ」と、ペリイ・メイスンは言った。「話したいことがあるんだ」
微かに電話に入ってくる彼女の声がメイスンには聞えた。
「ミスタ・メイスンが電話に出ていらっしゃいますの、ミスタ・ブラッドバリー」と、彼女は言った。「あなたにお話があるそうです。あちらのテーブルの上の電話でお話しになってください」
電話をきりかえる音がかちりとして、やがてせきこんだブラッドバリーの声が出た。
「もしもし?」と、彼は言った。「あのう、何ですか?」
ペリイ・メイスンの声は、低く、押しつけるようなところがあった。
「いいですか、よく聞いてください、ブラッドバリー」と、彼は言った。「これからちょっとお話ししますが、とりみださないでくださいよ」
「とりみだす」と、ブラッドバリーが訊き返した。「どんなふうにですか?」
「黙っていてください」メイスンが言った。「これから私が、どういう立場なのかを話すまで静かにしていてください。ええとか、いいえとだけ答えるんですよ。どういうことが起こっているか、秘書に知られたくないんですからね。わかりましたか?」
「ええ」ブラッドバリーは言った。
「ホテルに行ってきましたか?」
「ええ」
「新聞はとってきましたか?」
「ええ」
「そこにお持ちですか?」
「ええ」
「何か、ほかのものを入れた書類鞄をお持ちですね?」
「ええ」
「秘書に電話でお話しになった鞄ですか?」
「ええ」
「結構です」メイスンは言った。「ちょっと前に、フランク・パットンの所在が判明したのです」
「わかりましたか」と、ブラッドバリーは叫んだ。「それはすごい。もう、彼と話をしたのですか?」
「死んでました」メイスンが言った。
「何ですって?」ブラッドバリーはどなった。声は興奮でうわずっていた。「何ということだろう? あなたが見つけたのは彼が――」
「黙っていてください」ペリイ・メイスンは電話に向って吠え立てた。「頭を使うんだ、黙って、おちついて聞くように言ったんですよ、私は。そんなに、大きな声を出さないでください」
一瞬、沈黙があった。次いで、こんどは低い声でブラッドバリーが言った。「わかりました。ミスタ・メイスン。どうぞつづけてください。よく聞えなかったものですからね」
「よく聞いてください」ペリイ・メイスンは言った。「こちらの言うとおりにうけとってくださいよ。そして騒ぎたてないでください。フランク・パットンの居場所をつきとめたのです。ハリデイ・アパートメントに住んでいて、部屋の番号は三〇二号。そのアパートはメイプル・アヴェニューにあるんです。私は会いに行ってみました。あなたのことがわかってしまう前に、自供書をとっておきたかったのですが。あなたにいらして頂いても、論争が起きるだけで役に立たないと思ったものですからね。
私がそこに着く十分ばかり前に、フランク・パットンは殺害されたのです。誰かにパン切りナイフで胸を刺されましてね。絶命して部屋のなかに倒れていました」
「そうでしたか」と、ブラッドバリーは言ったが、すぐさま、間髪を入れずにつけ加えた。「はい、ミスタ・メイスン。私はちょっと考えたことがあったものですから。どうぞ、話をつづけて、もっと話をしてください」
「私がちょうどそのアパートに入って行こうとしたとき」ペリイ・メイスンはつづけた。「若い女が一人、出てくるのを見かけましてね。二十一か二十二ぐらいのところでしょう。歩くと臀《しり》がくりくり動く娘で、狐の毛皮の襟がついた白いコートを着ていました。白い靴をはいて、赤いボタンのついた白い、小さな帽子をかぶっていましたよ。眼が非常に青みわたって、まるで何かから逃げ出そうとしている様子でした。ところで、その若い女がマージョリー・クリューンかどうかをうかがいたいんですが」
ブラッドバリーが思わず喘ぐのが、電話ごしにペリイ・メイスンに聞えてきた。
「ええ、そうです」と、彼は言った。「おっしゃることはぴったりです。そのコートと帽子は私も存じています」
「なるほど」ペリイ・メイスンは言った。「これでおわかりですね」
「何のことです?」
「彼女は、悪い立場に立たされるかも知れませんよ」
「どうも私にはのみこめませんが」
「彼女は、私があそこへ行ったとき、ちょうど外に出てきたのです。パットンの部屋で、たいへんな騒ぎをしていたのを聞いた女が隣の部屋にいましてね、警官を探しに出かけたのです。私が行ってから五分ほどして、その女が警官を連れてやってきました。その警官がマージョリー・クリューンを見かけたという可能性はきわめて大きいですからね。それにまた、彼女が彼の部屋にいたということを探り出すという可能性もつよいわけです。バスルームでヒステリーを起して、自分の幸運の脚のことを喚きちらしていた娘がいたんですよ。これは、どうしてもマージョリー・クリューンのことと結びつくでしょう。まあ、こういった次第ですが、あなたは私にどういう手を打って欲しいのですか?」
ブラッドバリーの興奮は、もう、どうにも抑えられないものになっていた。
「どういう手を打つかですって?」と、彼は叫んだ。「私のして欲しいことはわかっているじゃありませんか。さっそく行って、彼女の弁護をしてください。すぐに手をまわして、彼女に何も起こらないようにしてやってください。フランク・パットンなんかどうなったって構いませんよ。あんなやつのことなんか、私はどうなったっていいが、マージイは私にとってはかけがえのないたった一つのものですから。もし、彼女が悪い立場にあるのでしたら、あなたがそこから助け出してやってください。費用はいくらかかっても構いません。請求書をよこしてくだされば、いくらでもお払いしますよ」
「ちょっと待ってください」ペリイ・メイスンは言った。
「まだ、うろたえないでくださいよ。まだ、のぼせあがるのは早い。この電話を切ったあとで、デラ・ストリートが何を訊いても、黙っていてください。一時間ばかりしたら、新しい知らせを伝えると私があなたに言ったのだとか、何とか、そんなふうにごまかしてください。そのほうはうまくごまかして、そのまま待っているように言ってください。わかりましたか?」
「ええ」ブラッドバリーは言ったが、その声はまだ興奮がさめやらず、かなりうわずっていた。
「あなたもそこで待っていてください」ペリイ・メイスンは言った。
「いや、ここではいけません」と、ブラッドバリーが言った。「私のホテルに行っていますよ。私の部屋に電話をしてください。番号はご存じですね、六九三号室です。念のため私の部屋のナンバーを呼んでください。私は、部屋にいますから」
「事務所でお待ちになったほうがいいでしょう」
「いいえ、いいえ、私は話のできる場所にいたいんですよ。あなたに話すことがたくさんあるし、どんなことが起こっているのかも全部知りたいんです。十五分たったら、私の部屋に電話して、起こったことは包まずお話ししていただけますね?」
「またそんなことを言い出す」と、ペリイ・メイスンは言った。「いまの話は、誰にも洩らしてはいけないと言った筈ですよ、私は忙しいし、あなたと議論している暇がないんです」
彼は受話器をがちゃりとおいて、ドラッグ・ストアから大股に出た。
「セント・ジェームズ・アパートメントへやってくれ」と、彼は運転手に言った。「イースト・フォークナー・ストリート九六二だ。ふっとばしてくれ」
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第六章
ペリイ・メイスンは、セント・ジェームズ・アパートメントの三〇一号室のドアをたたいた。
ほとんど同時に内側で、すばやく人の気配が動き、つづいてフロアに足音が聞えたが、やがてドアの向い側で聞き耳をたててみじろぎもせずに立っているらしく、静かになった。
ペリイ・メイスンは、またノックした。
せわしない女の囁きが聞えたような気がした。やがてしばらく沈黙が流れてから、「どなた?」という声が聞えた。
ペリイ・メイスンは、ぶっきらぼうに「電報」と言った。
「誰あてにですか?」こんどは前よりも大きくなって、おちつきをとりもどした女の声が訊いた。
「セルマ・ベル」ペリイ・メイスンは言った。
ボルトが外される音が、かちりと鳴った。ドアがわずかに開くと、ゆるやかな袖からあらわに出ている腕がドアの隙間からさしのべられた。
「ください」その声が言った。
ペリイ・メイスンはドアを押し開けて、部屋に入った。
さっと身をひるがえす気配と、足音が耳に入った。ドアがぴしゃりと閉まって、その音のするほうをふり返るひまもなかった。バスルームで水が流れていて、ペリイ・メイスンには浴槽にゆっくり水が満される音が聞えた。
いそいでひっかけたということがすぐわかる、キモノを着た女が、ひどくとりみだした感じと、怒って挑みかかるようないろをまじえた、あたたかい褐色の眼でペリイ・メイスンを睨《にら》みながら立っていた。
年のころは、まず二十五というところ、身体つきがととのった、スタイルのいい女だった。
ペリイ・メイスンは、じっと彼女を見つめた。
「君はセルマ・ベルですね?」彼は訊いた。
「誰なの、あんた?」
ペリイ・メイスンはじろじろ彼女全体を眺めて、その額にかかったすばらしい髪が湿っていること、あわててスリッパをひっかけた素足、踝の薄桃色の肌などを見てとった。
「君はセルマ・ベルですか?」彼はまた訊いた。
「ええ」彼女は言った。
「マージョリー・クリューンに会いたいんだが」
「あんた、どなた?」
「マージョリーはここにいるんですか?」彼は訊いた。
彼女は頭をふった。
「マージイには、もう、ずっと会っていませんわ」彼女は言った。
「その浴室に入っているのは誰です?」メイスンは訊いた。
「そんなところに誰もいませんよ」彼女は言った。
ペリイ・メイスンは、その女を凝視しながらじっと立っていた。バスルームの水道がとまって、いそいで、ごしごし洗っているような音がはっきり聞えてきた。それから、素足をべたっとフロアに置く音が聞えた。
ペリイ・メイスンは、微笑を含んだ眼つきで、彼女が嘘を申したてていることの、いわば肉体的な証拠に注意を向けさせて、彼女の言いぶんを否定してみせた。
「どなたです、あなたは?」彼女はまた訊いた。
「君はセルマ・ベルだね?」彼は訊いた。
彼女はうなずいた。
「私は弁護士のペリイ・メイスンです」と、彼は言った。「つまり、どうしても、いますぐ、マージョリー・クリューンに会わなければならないということです」
「なぜですの?」彼女は訊いた。
「それは、ミス・クリューンにお話ししますよ」
「彼女《あのひと》がここにいることをどうしてご存じですの」
「いまは、ちょっとお話ししたくありませんね」ペリイ・メイスンは言った。
「ミス・クリューンは、あなたに会いたがらないと思いますわ。誰にも会いたがらないと思います」
「お聞きなさい」と、ペリイ・メイスンは言った。「私は弁護士ですよ。ミス・クリューンの利益を守るためにここに伺ったのです。彼女は面倒なことになっているんですよ。私はそこから助けようとしているんですからね」
「彼女《あのひと》は、べつに面倒なことなんかに捲きこまれてはいませんわ」セルマ・ベルが言った。
「なりかかってるんです」ペリイ・メイスンはぶつりと言い放った。
セルマ・ベルは、さらにぴったり、キモノをかき合わせると、バスルームのドアに近づいて、パネルをかるくたたいた。
「マージイ」彼女は言った。
一瞬、沈黙があったが、やがて、「なあに、セルマ?」という声がした。
「ここに弁護士がきてるのよ」と、彼女は言った。「あなたに会いたいんだって」
「いやよ」という声がドアの向う側から聞えた。「弁護士なんて用はないわ」
「出ていらっしゃいね」セルマ・ベルは言った。
彼女はペリイ・メイスンをふり向いた。
「すぐ出てきますわ。マージイがここにいるってこと、どうしておわかりになったのか、お話ししてください」と、セルマ・ベルは言った。「彼女がここにきていることを知っている人は誰もいませんもの。今日の午後にやってきたんですから」
メイスンは眉をひそめて、椅子に寄り、腰をおろして煙草に火をつけた。
「はっきり話しあおう」と、彼は言った。「僕は君を知っているんだよ。君は、フランク・パットンがパーカー・シティで開催した、脚線美コンテストに入賞した若い娘なんだ。パットンは君とインチキな映画の契約を結んで、こっちへ君をつれてきた。君は故郷へ帰るには自尊心が強すぎた。そこで、できるだけいい手段をとることにしたわけだ。マージョリー・クリューンと知りあったのはフランク・パットンを通じてだった。彼女も君とおなじような目にあっていたところだったわけさ。君は彼女を助け出そうとしたんだ。
マージョリー・クリューンは、今夜、フランク・パットンのアパートにいたんだよ。そこで起こったことに関して、僕は彼女と話をしなければならないことになった。それも、警察が訊問するより先に、だよ」
「警察が?」セルマ・ベルは、眼を大きくして言った。
「警察だよ」ペリイ・メイスンはくり返した。
バスルームのドアが開いた。フランネルのバスローブを身につけた、ひどく青い眼をした若い女が、ペリイ・メイスンを見つめたが、とたんにかるく喘いだ。
「ああ、やっぱり僕をおぼえていたわけだね」ペリイ・メイスンは言った。
マージョリー・クリューンは何も言わなかった。
「僕は、ハリデイ・アパートメントから出てくるところを見ましたよ」ペリイ・メイスンが言った。
セルマ・ベルの声は、早くて、確信的なものだった。
「このひとがハリデイ・アパートメントから出てくるところなんか、あんた、見てやしないくせに」と、彼女は言った。「このひと、今日の夕方はずっとあたしといっしょにいたのよ、そうねえ、マージイ?」
マージョリー・クリューンは、大きな青い眼に、なにがなしの恐怖をたたえて、ひたとペリイ・メイスンを見つめていた。何も言わなかった。
「そんなことを」と、セルマ・ベルは、もっと大きな声で言いつのった。「どうして言ったりするんでしょう! このひとがフランク・パットンのアパートで何をしていたっていうの? とにかく、このひとは夕方ずっとあたしといっしょだったんですからね」
ペリイ・メイスンは、おちついた眼でマージョリー・クリューンを見まもっていた。
「マージョリー、よく聞いておくれ」と、彼はやさしい調子で言った。「僕は君の利益を守るためにきているんだよ。君は面倒なことになっている。いま、君にはわかっていないとしても、それはもうすぐわかるだろう。僕は弁護士だ。君の利益を守るように依頼を受けている。君のために、最もいい手段をとりたいと思っているんだよ。いま話そうか、それとも二人だけになってから話をしようか?」
「あとではいや」と、彼女は言った。「いまお話ししますわ」
「それでは」と、ペリイ・メイスンが言った。「何か着てきたまえ」
彼はセルマ・ベルのほうを向いた。
「君もだよ」彼は言った。
壁に立てかけられるようになっている簡易ベッドのうしろについている、鏡つきのドアの片側に、小さな化粧室があいていた。二人の女はすばやく顔を見合わせると、やがて、すっと化粧室に引っこんだ。
「打ち合わせなんかして、あまり時間をとらないようにしなさい」ペリイ・メイスンは言った。「なんにもならないからね。われわれは実際問題を討議しなければならないんだ。警察はいつやってくるかわからない。早くしてくれ」
小さな化粧室のドアが、ぴしゃりと閉った。
ペリイ・メイスンは、いままですわっていた椅子から立った。彼は室内を見まわした。彼はバスルームに寄ってドアを開けた。水が流れ出していた。濡れたあとのあるバスマットがフロアに敷いてある。そのバスマットの傍に濡れたタオルがまるめて放り出してあった。ペリイ・メイスンはあたりを見まわした。バスルームには着るものは何もなかった。彼はもとの室内にもどり、戸棚を見つけて、そのドアを開けてみた。そのドアのすぐ傍に、狐の毛皮の襟のついた白いコートがかかっていた。彼は、そのコートの裾をとって指先で注意深く調べてみた。
その調べが終ると、彼はいぶかしげに眉をひそめて、もとのハンガーにかけ直した。靴の棚に気がついて、一つずつ手にとってみた。その棚には白い靴は一足もなかった。
彼は、しばらくのあいだ両脚を開いて、身体の重心をやや前にかたむけたまま、その毛皮の襟のついた白いコートを、考えあぐむような眼を細めてじっと見ていた。化粧室のドアが開いて、マージョリー・クリューンが服の着つけを直しながら出てきたときも、まだ、そのままの位置で立っていた。一足おくれてセルマ・ベルが出てきた。
「彼女の前で話したいかね?」ペリイ・メイスンはセルマ・ベルのほうに頭を引いてみせながら訊いた。
「ええ」と、彼女は言った。「セルマ・ベルには何もかくしだてするようなことはありませんから」
「ほんとうのことを、いっさい率直に話す気があるんだろうね?」
「ええ」
「まず、僕を紹介しておこう」ペリイ・メイスンは言った。「僕は弁護士だ。当市で、非常に大きな事件をいくつも扱ったし、かなり成功してきている。J・R・ブラッドバリーが当地に出てきているんだ。君を探している。パットンを告訴したいという意向なんだよ。できればパットンを刑務所に叩きこんでやりたいわけだ。地方検事に会いに行ってみたんだが、何もできない、証拠を充分につかんでいないと言われたんだ。それで僕のところへやってきた。パットンから、何らかの形で、自供書をとってもらいたかったんだと思う。そういったものがなければ、どうにも手は出せないと言ったんだろうね。とにかく、僕は私立探偵を動かして、われわれはパットンの所在を追いはじめた。それで、とうとうセルマ・ベルの居場所をつかんだわけだ。彼女は、われわれにパットンにつながる手がかりをくれたんだ」
ペリイ・メイスンはセルマ・ベルをふり返った。
「君は、今夜、探偵社から派遣された男と話したんだよ」
彼女はうなずいた。
「私立探偵だってことは知らなかったわ」と、彼女は言った。「何を知りたがっているのかもわからなかった。ちょっと聞きたいことがある、と、こうなんですもの。あたしは教えてやったのよ。でも、何に使うのかは知らなかったわ」
「まあ」と。ペリイ・メイスンは言った。「そういう次第だ。僕は君の利益を守るために依頼された。パットンを法廷に立たせるために雇われたわけだ。セルマ・ベルと話をした探偵からパットンの住所を聞いて、パットンのアパートへ行ってみた。そこで、あのアパートから君が出てくるのを見たんだ」
二人の若い女は、さっと視線をかわした。
マージョリー・クリューンは深い吐息を洩らしてふり向くと、ペリイ・メイスンをじっと見つめた。
「いったい何を」と、彼女は訊いた。「フランク・パットンのアパートで見つけましたの、ミスタ・メイスン?」
「いったい何を」と、ペリイ・メイスンが訊いた。「君は残してきた、マージョリー?」
「室内には入れませんでしたわ」彼女は言った。
ペリイ・メイスンは言葉もなく頭をふって、叱るように否定のいろをみせた。
「入れなかったんです!」と、彼女はかっとなった。「彼の部屋まであがって行って、ブザーを押したんです。返事がありませんでした。あたしはもどってきたんです」
「ドアを開けてみたかい?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「いいえ」
「君があの部屋を出たとき」と、彼は言った。「ちょうど――」
「部屋には入らなかったって言ってるのよ!」
「それならそれとして」と、彼は言った。「君があのアパートを出たとき、ちょうど警官を呼んできた女がいるんだ。その女は、あの部屋で、ずいぶん派手な騒ぎが起こっているのを聞いたんだよ。若い女がね、自分の脚が幸運だとか何とかわめきちらして、ヒステリーを起しているのを聞いた。そのあとで、何かが倒れる音がしたっていうんだよ。壁にかけた絵がぐらぐらするほどずっしり重い音が」
ペリイ・メイスンは言葉をきって、マージョリー・クリューンにおちついた視線を向けた。
「それで?」と、彼女は訊いたが、その声には失礼にならない程度の無関心さがあらわれていた。
「それで」と、ペリイ・メイスンは言った。「僕が知りたいのは、君が通りを歩いているとき、あの警官に会ったかどうかなんだが」
「なぜですの?」
「それは」と、彼は言った。「君にやましいところが見えたからさ。僕を見て、僕が君を見ているのに気がつくと、顔をそむけね。まるで僕が君を抑えて、千ドルも強盗しそうだというような恰好だった」
ペリイ・メイスンは、するどく頭を働かせているようないろを眼にたたえながら、彼女を見まもっていた。
女は唇を噛みしめた。
「ええ」と、彼女はゆっくり言った。「その警官に会いましたわ」
「ハリデイ・アパートメントから、どのくらい離れていた?」
「ずいぶん離れていました。多分二、三|区画《ブロック》はあったでしょうね」
「君は歩いていたの?」
「ええ、歩いていました。じつは、あたし……」
彼女は言葉をにごした。
「どうしようと思ったの?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「歩きたかったんです」彼女は言った。
「それで?」彼は言った。
「それだけですわ」
「君は警官に会った。それでどうした?」
「何もしません」
「向うは君を見た?」
「ええ」
「君はどうした? あわてて足を速くしたのかい?」
「いいえ」彼女は言った。
「もう一度、よく考えてごらん」ペリイ・メイスンが言った。「僕が見かけた君ときたら、まるで、もう駆け出しているみたいだった。まるで、競歩レースに勝とうと思って歩いているような足どりだったよ。さあ、警官が君を見たときは、そんなふうじゃなかったという確信があるのかい?」
「ええ」
「なぜ、そんなに確信があるんだ?」
「全然歩いてなかったんです」
「ああ、すると立ちどまったのか?」
「ええ」
ペリイ・メイスンはじっと彼女を見ていたが、やがて、ゆっくりと、しかし不親切ではなく言った。「いきなり警官にぶつかって気絶するところだった、という意味だね。立ちすくんで、きっと咽喉に手をやるとか何とか、そんなことをしたんだね。さて、それから眼をそらせて、近くのショウ・ウィンドゥをのぞいた。そんなところだろう?」
彼女はうなずいてみせた。
セルマ・ベルは、マージョリー・クリューンの肩に手をまわした。
「この子をいじめないで頂戴」彼女は言った。
「僕のやっていることは」と、ペリイ・メイスンはセルマ・ベルに言った。「彼女自身のためなんだよ。君はわかっているね、マージョリー。わかってくれなければいけないよ。僕は君の友達だ。君の利益を守るためにやってきているんだからね。君との話し合いが終わらないうちに、警官がここへやってくる可能性だってあるんだよ。だから、起こったことを正確に知ること、君が真実を話してくれることが重要なんだ」
「あたし、ほんとうのことを申しあげていますわ」
「あの部屋に入らなかったということもほんとうかい?」
「もちろんですとも。アパートには行きましたけれど、部屋には入れなかったんです」
「室内で人の動く気配がしたかい? 誰かがわめいているのが聞えたの? ヒステリーを起していた人間はいたかい? 幸運の脚のことを言っていたの、誰かが?」
「いいえ」彼女は言った。
「それで君はエレヴェーターで下におりて歩道に出たの?」
「ええ」
「それで、君があの部屋に入らなかったことは、どこまでも確かなんだね?」
「どこまでも確かですわ」
ペリイ・メイスンは吐息をついて、セルマ・ベルのほうに向かった。
「君はどうなの、セルマ?」彼は言った。
彼女は眉を上げた。
「あたし?」彼女は、ぶしつけではないが驚いたような調子で訊いた。
「ああ、君だよ」ペリイ・メイスンは、声にちょっとむかむかしたようなものを響かせて言った。
「まあ」と、セルマ・ベルが言った。「噛みつくわよ。あたしが何だって言うの?」
「僕の言う意味はおわかりの筈だよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「君は、今夜、あのアパートのいたのか?」
「フランク・パットンのアパートのこと?」
「そうだよ」
「とんでもないわよ」
ペリイ・メイスンは、彼女が証言台に立ったら、どういう種類の印象を与えるだろうと考えるかのように、おちついて、じっと評価をくだすように見まもっていた。
「もう少し伺おうか、セルマ」彼は言った。
「ボーイ・フレンドといっしょに出かけてたのよ」
「いい娘だね」彼は言った。
「どういう意味、それ?」
「ずいぶん早いお帰りだったからさ」
「あたしの勝手よ、そんなこと」彼女は言い返した。
ペリイ・メイスンは、おや、こんなものが、といった何気なさで自分の靴の先を見ていた。
「そうだね」と、彼は言った。「君の勝手だよ」
しばらく沈黙があたりを閉した。ふと、ペリイ・メイスンはマージョリー・クリューンに顔を向けた。
「君たちは、今夜、フランク・パットンと約束があったのか?」彼は訊いた。
二人はお互いに顔を見あわせて、眉をあげた。
「フランク・パットンと約束ですって?」マージョリー・クリューンは、自分の耳を信じることが肉体的に不可能だというように言った。
ペリイ・メイスンはうなずいた。
若い女たちは互いにちらっと眼をあわせると、いきなり、高いピッチの、さもおかしくてたまらないといったような笑い声をあげた。
「馬鹿なことを言うのは止して頂戴」マージョリー・クリューンが言った。
ペリイ・メイスンは、もとに椅子にすわり直した。彼の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。眼は静かで、乱れがなかった。
「それなら仕方がない」と、彼は言った。「僕は君に救いの手をさしのべようとしていたんだ。君がそれをつかみたくない以上、ここで、警察がくるのを君といっしょに待っているしか、手はないな」
彼は、静かに考えにふけるような沈黙に落ちて行った。
「どうして警察がこんなところへくるんですの?」セルマ・ベルが訊いた。
「マージイがここにいることは、そのうちわかってしまうからさ」
「どうしてわかるのかしら?」
「僕とおなじようにして見つけるだろう」
「あなたはどうやって探したんですか?」
彼はあくびをしたが、わざわざ四本の指で、かるく唇をたたいて抑えてみせた。あくびをしながら頭をふったが、何も声に出しては言わなかった。
マージョリー・クリューンがセルマ・ベルに向けた視線は、はっきり不安なものになってきた。
「警察は何をしようというのかしら?」マージョリー・クリューンは言った。
「いろいろなことだね」ペリイ・メイスンは、むっとしたように言った。
「ねえ」と、セルマ・ベルが不意に言った。「この子をそんな立場に追いやってもいいんですか?」
「どんな立場だい?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「殺人事件に捲きこませておいて、外に立って、何も守ってやるような手段をとらないで」
忍耐づよい、おだやかな仮面が、ペリイ・メイスンからずり落ちた。彼は筋肉を、盛りあがらせた。眼は、日あたりにのうのうと寝そべっていた猫が、不意に頭の上の木の枝に、うっかりとまった鳥の姿を見たときのように、すさまじい緊張を見せた。
「殺人事件だということをどうして知った。セルマ?」椅子のなかで身を起し、さっと身体をまわして、そのすさまじい眼がひたと彼女の眼をとらえるようにして言った。
彼女は、思わず息をのみ、かるくうしろに退って、唇をふるわせて言った。「どうしてって……どうして……あなたの態度がそうだったからよ。あなたがおっしゃったことから、そんな気がしたのよ、きっと」
彼は、ものすごい笑いをみせた。
「こんどは、よく聞くんだぜ」と、彼は言った。「君たちは僕の言うことを認めてもいいし、警察がおなじことを言うのを認めてもいいんだ。君たち二人は、フランク・パットンと、今夜、約束があった。マージョリーは電話をかけて、自分の電話番号を伝えておいた。それが、ここの番号だった。警察はその番号から調べて、ここにやってくるよ。マージイは、パットンがハリデイ・アパートメントに帰る直前に電話をかけて、セルマに二十分ばかり遅れると伝えてくれ、という伝言も残しているんだ。
君たちは二人ともフランク・パットンが計画したコンテストで入賞しているね。二人とも、それぞれ、小さな町で一番美しい脚をしているというので選ばれたんだ。一人のほうは、幸運の脚の女性、というんで新聞に出たことがある――おそらく二人とも出たんだろう。パットンが地方新聞に手をまわしておいた宣伝の一役を買ったわけさ。
ところで、フランク・パットンのアパートのバスルームで、何か脚のことでヒステリーを起していた若い女がいるんだよ。その子は、『幸運の脚』という言葉をしょっちゅう使いつづけていたんだ。
僕はマージョリー・クリューンがフランク・パットンのアパートから出てくるところを目撃している。ところが、彼女はパットンに会わなかったと言っている。そういうお話なんだ、彼女の。会ったかも知れないし、会わなかったのかも知れない。警察では、そいつを大いに探り出そうとするね。そういうことを探る段になると、遠慮も何もないし、あまり楽しいものでもないよ。
この事件に関するかぎり、君たちの味方というのは、この世に僕しかいないんだよ。僕は君たちを助けようとしている。経験はあるし、知識もある。ところが、君たちは僕の助けを求めようともしない、そこにすわったなりで、お互いに眉をつりあげて『何ですって! あたしたちがフランク・パットンに会いに行くの? は、は、は! 馬鹿なことを言うのは止して頂戴』なんて言っているわけだ。
それから、僕がこのアパートにきてみると、御入浴のまっさいちゅうさ、石鹸を塗りたくってね。君たちには、浴槽性ヒステリーってやつがあるらしいね。そんなに早く身体を洗うわけにはいかないよ。めいめい一人ずつ浴槽に入るわけだろう。ところが一人があわてて飛び出したとたんに、もう一人が飛びこむんだからね」
「何がいけないんです?」マージョリー・クリューンは挑むように言い放った。「あたくしたち、好きなように入浴してもいいはずよ」
「ああ、それはそうだよ」と、メイスンは言った。「ただね、警察のほうは、やはり夕方早く入浴することに証拠となる事実を見るだろうし、そんな時間に入浴する以上、何らかの理由があるのではないか、と疑うだろうね」
「あたしたちが入浴することに警察が興味を持つような理由が何か考えられますの?」マージョリー・クリューンは、前から響かせていたあの高慢ちきな語気で言い放った。
ペリイ・メイスンは、あらあらしく彼女にふり向いた。
「よし」と、彼は言った。「どうしても僕の口から言わせようというのなら、言ってやろう。警察は君が血を洗い落としていたと主張するよ、きっと。君がフランク・パットンを殺《や》ったとき、ストッキングについた血を洗っていた、脚についた血を洗い落としていた、とね」
女は、殴られたようにあとずさりした。
ペリイ・メイスンは、大きな体格の身体を椅子から起して二人の若い女性の前に立った。
「何てこった!」と、彼は言った。「真実を訊き出すために、僕は二人の女のお相手をしなければならないのか? なぜバスルームには着物が一枚もなかった? 脱いだ服をどうした? それに、マージョリー・クリューン、君は、あのアパートから出てきたときはいていた白い靴はどうしたんだ?」
マージョリー・クリューンは、大きく見開いた眼に恐怖のいろをうかべながら彼を見つめた。唇がふるえていた。
「あの……警察もそれを知っているでしょうか?」
「連中は、いろいろなことを知っているよ」と、彼は言ってやった。「さあ、はっきり相談をしよう。あと、どのくらい時間があるかわからないが、われわれはこの事件に対して率直な態度をとればとるだけいいだろうな」
セルマ・ベルは、平静な無表情な調子で口をきいた。
「もし、あたしたちがあそこにいたとしたら? それならどう違うっておっしゃるの? あたしたちは、絶対に殺したりしなかったもの」
「そうかね?」と、ペリイ・メイスンは言った。「君たちは何の動機もなかった、というんだろう?」
彼は、マージョリー・クリューンをふり返った。
「君がここにもどってきてから、僕がここにくるまでどのくらい時間があった?」彼は訊いた。
「ほんの、い、い、い、い、いっぷんくらいよ」彼女はふるえ出した。「あたし、タ、タ、タ、タクシー、に乗ら、なかったの。市電で帰ったのよ」
「君は、フランク・パットンのアパートの浴室で、ヒステリーを起して幸運の脚のことを言っていたね?」
彼女は、押し黙って頭をふった。
「ねえ」と、セルマ・ベルは早口に言った。「道路でこの人に会った警官が、このひとを何らかの方法で犯罪と結びつけなければ、マージョリーが現場にいたことは警察にはわからないわけね?」
「わからないかも知れないな」と、ペリイ・メイスンは言った。「なぜだい?」
「それなら」と、セルマ・ベルは言った、「あたしが、狐の毛皮の襟がついた、あのコートを着られるわけよ。あの赤いボタンのついた、小さな帽子もかぶれるわ。あれはみんなあたしのものだ、と言ってやるもの」
「そんなことをすると、君が悪い立場に追い込まれるよ」ペリイ・メイスンは言った。「例の警官も、あの服ほど顔のことはおぼえてはいないだろう。着ているものを見て、君を、通りで会った女だと言うよ。君が、あの女と同一人物だと証言するだろう」
「それが、ねらいなのよ」セルマ・ベルはゆっくり言った。
「なぜ?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「だって」と、彼女は言った。「あたしはあの近所にはいなかったんですもの」
「証明できるかい?」メイスンは訊いた。
「もちろん、証明できるわ」彼女は、そっけなく言った。「それが証明できなくて自分をそんな立場に追いこんだりするわけがないじゃないの、そうでしょう? あたしは、マージョリーを助けたいのよ、でも、そのために殺人事件に自分を捲きこむほど馬鹿じゃないわ。服のことは、どこまでもあたしのものだと言うつもり。その警官は勝手にあたしを確認すればいいわよ。あのアパートから出てくるのを見たのは、あたしだって、勝手にいくらでも証言すればいいわ。そうしたら、あたしはそこにいなかったって証明してやるわよ」
「君はどこにいた?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「ボーイ・フレンドといっしょだったわ」
「こんなに早く帰ってきた理由は?」
「喧嘩したからよ」
「何のことで?」
「あんたの知ったことじゃないじゃないの?」
「ああ」
「フランク・パットンのことよ」
「フランク・パットンのどんなことで?」
「彼はフランク・パットンが嫌いなのよ」
「なぜ? 嫉妬でもしたのかい?」
「いいえ、あたしがフランク・パットンをどう思っているかぐらい彼だって知ってるわよ。パットンが、あたしを泥沼にひきずりこんでいると思っているもの」
「どういうやり方で?」
「彼が、あたしのために結ぼうとしていた契約のことで」
「たとえば、どんな?」
「モデルよ」と、彼女は言った。「画家や、挿絵画家や、そんな連中の」
「君のボーイ・フレンドはそれをいやがっていたのかい?」
「ええ」
「何ていう名前だ?」ペリイ・メイスンはそれが知りたかったのだ。
「ジョージ・サンボーンという名前よ」
「どこに住んでいる?」
「ギルロイ・ホテル――九二五号室」
「ねえ」と、ペリイ・メイスンは言った。「君は僕に嘘をついているんじゃないだろうね?」
「自分の弁護士に嘘をつくの? 馬鹿なこと言わないでよ」
「僕は君の弁護士じゃないよ」と、彼は言った。「マージョリー・クリューンの弁護士なんだ。しかし、君のことも何とかして助けたいと思っているよ」
彼女は、電話に向って手を動かした。
「電話があるわよ」と、彼女は言った。「ジョージ・サンボーンに電話してみて頂戴。プロスペクトの八三九四五よ」
ペリイ・メイスンは大股に電話に近づくと、乱暴に受話器をとりあげた。
「プロスペクト八三九四五を呼んでくれ」
ロビイの交換手が出ると、電話番号を言った。話をしていると、うしろで、女のせわしない囁きがかわされるのに気がついた。
ペリイ・メイスンはふり返らなかった。彼は耳に受話器をあてて、両脚を大きく開いて立ち、顎をやや前につき出すような恰好だった。電話がざわざわした音を立て、交換に繋がれると、「ギルロイ・ホテルでございます」という女の声が聞えた。
「九二五号室のミスタ・サンボーンにつないでください」ペリイ・メイスンは言った。
すぐに、男の声が言った。「ハロー」
「セルマ・ベルが」と、ペリイ・メイスンが言った。「自動車事故で一時間ばかり前に負傷しました。救急病院に収容されていますが、紙入のなかにあなたの名刺が入っておりましたものですから。彼女をご存じですか?」
「また何だい、こんどは?」男の声が訊き返した。
ペリイ・メイスンは、もう一度、おなじことをくり返した。
「おいおい、何のおまじないなんだ?」と、男の声が答えた。「僕を何だと思ってるんだい?」
「病院では、あなたがお友達だろうからお知らせしたほうがいいと思いまして」
「病院とは、何の真似だ!」と、男の声が言った。「夕方ずっと僕はセルマ・ベルといっしょにいたんだぞ。別れてから三十分も経っていないんだ。そのときには、自動車事故なんかで負傷はしてなかったんだぜ」
「それは、どうも」ペリイ・メイスンは言って電話を切った。
彼はマージョリー・クリューンにふり返って顔を向けた。
「いいかい、マージョリー」と、彼は言った。「もう話をしている場合じゃないんだよ。君はセルマ・ベルを一番の親友だと思っているかも知れないが、君のほんとうの話を聞かなければならない人間はたった一人だよ――君の弁護士なんだ。わかってくれるね?」
彼女はうなずいた。
「あなたがそうおっしゃるのでしたら」彼女は言った。
「僕がそう言っているんだよ」
彼はセルマのほうをふり返った。
「君はりっぱな友達なんだ」と、彼は言った。「しかし、僕を誤解しないでくれたまえ。マージョリー・クリューンが君に言ったことは、検屍法廷や、裁判の法廷に立ったら全部、君はしゃべらなければならないんだよ。ところが、彼女が僕にしゃべったことは、どんなことがあっても僕から訊き出すことはできないんだからね」
「わかったわ」セルマ・ベルはまっすぐ立って、ひどく蒼ざめた顔をして言った。
「それで、君は、マージョリーをこんどのことから助け出したいのかい?」
「ええ」
「例の服を着てごらん」と、彼は言った。「どんなふうに見えるかためしてみよう」
彼女は、戸棚に歩み寄って、あのコートを出した。それを着て、例の帽子をかぶった。
「そっくりだねえ」と、彼は言った。「白い靴は持っているかい?」
「いいえ」彼女は言った。
「あいつ、靴までおぼえていないだろう」と、ペリイ・メイスンは言った。「君にしてもらいたいことは、外に出て、通りの向う側を歩いてもらいたいんだ。今夜、もうじき、警察自動車がこの前にきてとまるよ。車の登録番号でわかる筈だよ、きっと。わからなかったら、その車の型でわかるだろう。きっと殺人課の車だろうが、その場合、私服を着ていかにも刑事らしい肩幅のひろい男が三、四人おりてくる。もしそうでなければ、ラジオ・カーだよ。ラジオ・カーだったら、明るいいろのロード・スターかクウペで、男が二人乗っているよ。その一人が車をおりて、一人が残ってラジオの連絡にあたるだろう」
「その事情はだいたいのみこめたわ」と、彼女は言った。「それで、あたしはどうすればいいの?」
「その連中がこのアパートに向って行くのを認めたらすぐに」と、ペリイ・メイスンは言った。「ちょうどどこかへ出ていて、いま帰ってきたというように通りを横ぎってくるんだ。アスピリンを買いに薬局へ行ったとか、何でもいいからうまい口実を考えて言えるようにしてくれ。まっすぐ警察の網のなかにとび込むんだ。連中は訊問をはじめるからね。まごまごしたようなふりをするんだ。先方に疑いを起こさせるような返事をするんだよ。怒って、どこで何をしていたかなんて誰にも言う必要がない、とか何とかあたりちらすんだ。
もし、例の警官が、マージイの態度に特にあやしい点を認めていた場合、彼女がどんな女だったかを報告するだろう。おそらく、身につけているものほど顔のほうは、はっきりした人相を手配していないからね。その女は、彼の制服を見て、うろたえた。彼女は足を止めて、背を向けると商店のウィンドゥを見た。そのときは、彼の注意を惹いたかも知れないが、例の女に呼ばれてアパートに何が起こったのか調べに行く途中だから、たいして気にもとめていなかっただろうね。しかし、パットンの部屋に入って、マージイとセルマの名前のある伝言を見たら、殺人に関係のありそうなそぶりのあった女に会わなかったかどうかを思い出そうとして考えはじめるよ。そうすれば、きっと、このコートと帽子を思い出すだろう。
そこで、君がたいへん悪い立場のまんなかに立たされる。あまり愉快なことじゃない。悪い評判が立つし、ほかにもいやなことがいっぱいふりかかってくるよ。問題は、君にそれができるかどうか?」
「できますわ」と、彼女は言った。「やってみます」
ペリイ・メイスンは、マージョリーにふり向いた。
「自分の部屋に入りなさい」と、彼は言った。「ここにある自分のものは全部片づけるんだ。スーツケースに入れる。できるだけ早くここを出るんだ。どこかのホテルに移るんだよ。名簿には本名をかいて泊まるんだが、あまり簡単に見つからないようにするんだよ――君のミドル・ネームは何て言うの?」
「フランセス」と彼女は言った。
「よし」と、彼は言った。「M・フランセス・クリューンと書く。住所もクローヴァーデイルにしないことは忘れないで。君は、いま、この市にいるんだからね。ここに住んでいるんだし、住所もそうするんだ。これが僕の名刺だ。電話番号があるよ、ブロードウェイ三九二五一だ。僕のオフィスに電話をかけて、ミス・ストリート――僕の秘書だよ――に連絡したまえ、彼女は君のことを知っているからね。電話ではどういう名前も言わないこと。ただ、さっき僕と話したけれど、僕がアドレスを言ってくれと言ってたから、とだけ言うんだ。彼女に、そのホテルを教えたら、ずっと部屋にとじこもっているんだよ。どこにも行ってはいけない。電話の傍につきっきりでいるんだ。夜も昼も、僕がいつでも連絡のとれる場所にいてくれ。食事も部屋に運ばせなさい。何か起こりでもしないかぎり僕に連絡しようとしてはいけないよ。もし警察にかぎつけられたら、あどけない何も知らないような顔をして、弁護士がついているかどうか訊かれたら答えるだけにして、ほかは何も返事をしないこと。僕が君の弁護士だと言ってやりなさい。そして連絡をとらせてくれと頼むんだ」
彼女は、彼をじっと見つめたままゆっくりうなずいた。
「みんなわかったね?」
「ええ」
「じゃ、はじめてくれ」と、ペリイ・メイスンは言った。
「しかし、どんなことが起こっても、僕と話をするまでは、誰にも何も言ってはいけないことは忘れないように。訊問にも答えてはいけないよ。君が誰であるか、どこの出身かも言ってはいけない。逮捕されたらすぐに弁護士と連絡をすることを要求するんだ。連中に名刺を見せてやるんだ。電話をかけさせてくれと要求するんだよ。もし電話をかけさせてくれたら、僕のほうから電話で、君は何も言ってはいけないと言うからね。もし電話をかけさせてくれなければ、怒ってやるんだ。こっちのしたいことをさせてくれないのなら、そっちがこっちにさせたいことはいやだって言ってやるんだ。もし僕に電話をかけさせてくれないのなら、そっちの訊問には答えられない、とね。先方が訊問するたびに、おなじ公式を使って、僕に電話をかけさせてくれないんだったら返事をしない、と言ってやるんだよ。わかったね?」
「わかりましたわ」彼女は言った。
ペリイ・メイスンは、大股にドアのほうに近づいた。セルマ・ベルの前を通るとき、彼はその肩を叩いた。
「いい子だね」彼は言った。
彼が廊下に出ると、ドアが閉められて、ボルトがかちりとかけられる音が聞えた。
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第七章
ペリイ・メイスンが、ホテル・メイプルトンのドアを入ったとき、ロビーの椅子にJ・R・ブラッドバリーがいた。
ブラッドバリーは、その灰色の眼によくマッチしたグレイのトゥイードの服を着ていて、いかにも静かな、有能で、腕ききの実業家に見えた。グレイのシャツに、赤い模様をちらしたグレイのタイ、グレイのウールの靴下に、白と黒のコンビネーションのスポーツ靴をはいていた。彼は考えにふけるように葉巻をふかしていたが、ふと、彼のすばやい眼がペリイ・メイスンの姿をとらえた。
ブラッドバリーは立ちあがって、彼のほうに近寄って行った。
「話を聞かせて下さい」彼は、早口に夢中になって言った。「どうしたんです? マージョリーは見つかったのですか? 彼女《あれ》のためにどんなことをしてくださいますか? 何を――?」
「おちついてください」と、ペリイ・メイスンは言った。「話のできるところへ行きましょう。あなたのお部屋はいかがです?」
ブラッドバリーはうなずいて、エレヴェーターのほうに行きかけたが、ふと立ちどまった。
「そこの角に、ちょっとしたモグリの酒場があるんですよ」と、彼は言った。「そこなら食べたり飲んだりするものもあります。おつきあい願いたいのですが、私の部屋では、何もありませんのでね」
「仰せにしたがいましょう」ペリイ・メイスンは言った。
ブラッドバリーは、ロビーの廻転ドアを押して通りぬけ、歩道でペリイ・メイスンの出てくるのを待ち、弁護士の腕をとって言った。「マージョリーに不利にならないような手がかりがあるんですか?」
「まあ、黙っておいでなさい」ペリイ・メイスンは言った。「話のできるところへ行くまで待ちましょう。そのモグリの酒場に二人だけの席がなかったら、そこで話すのはやめますよ」
「そんな心配はありません」ブラッドバリーは言った。「静かな小部屋がとれますよ。非常に厳重な会員制なんですが、ホテルの給仕長から会員証をもらってありますからね」
彼は角をまわって、ある家のドアの前に足をとめて呼鈴を押した。のぞき窓がすっと開いて、黒い眼が二つ、じろりとブラッドバリーを見てから、その顔が見えなくなった。掛け金が外される音がして、ドアが開いた。
「まっすぐ二階へ」ブラッドバリーは言った。
ペリイ・メイスンは絨毯を敷きつめた階段をあがって行った。給仕長が会釈して迎えた。
「小部屋が欲しいんだが」メイスンは言った。
「お二人だけでございますか?」給仕長は訊いた。
メイスンはうなずいた。
給仕は一瞬ためらった。ふと、ペリイ・メイスンのおちついた眼がじっと見つめているのに気がつくと、そのまま先に立って、テーブルのこみあっている小さい食堂を通り、ワックスをひいたこじんまりしたダンス・フロアをぬけて、絨毯を敷いた廊下を案内して行った。彼がカーテンを引くと、ペリイ・メイスンはそのなかに入ってテーブルに向って腰をおろした。ブラッドバリーは、彼と向いあってすわった。
「上質の葡萄酒の赤と、バタをいっぱいつけた、あたたかいフランスパンをもらおう」ペリイ・メイスンは言った。「それだけでいい」
「私のほうはライ・ハイボールにしよう」ブラッドバリーは給仕に言った。「その、ライ・ハイボールの一パイント壜と、氷、それにジンジャー・エールを二本持ってきてもらったほうがいい。ミスタ・メイスンも、葡萄酒のあとで、ハイボールを召しあがりますね」
「私は結構です」と、ペリイ・メイスンは言った。「葡萄酒とフランスパンだけですから」
「それではジンジャー・エールは一本にしてくれ」ブラッドバリーは給仕に言った。
カーテンがもとどおりになると、ブラッドバリーはメイスンをみて眉をあげた。
ペリイ・メイスンは、テーブルに肘をついて身体をのり出し、低い、親しみをこめた、そのくせ早い口調で話した。
「マージョリー・クリューンの居場所はわかりました。私は行ってみましたよ。彼女は事件に捲きこまれていますが、どこまで深く足をとられているかはわかりませんな。そこには彼女の友達のセルマ・ベルという女の子がいました。セルマ・ベルはシロです。アリバイがありましてね、マージョリー・クリューンを助け出すつもりなんですよ。
マージョリーから全部の話は聞いていません。彼女が話したことは聞きましたが、それが全部じゃない筈ですよ。セルマ・ベルの前で、すっかり訊き出すつもりもなかったし、マージョリー・クリューンをほかの部屋につれて行くのも、ちょっとどうかと思いましてね。というのは、われわれが何か秘密な裏ぎりめいたことを相談するのではないかとセルマに気をまわされるのも困りますからね。セルマのほうはマージョリーに対して、なかなか率直な態度をとっていましたよ。細かいところまでは、あなたにお話しできないんですがね。こんどの事件は、あなたが知らなければ知らないほどうまく運ぶといった事件ですから」
「しかし、マージイは大丈夫でしょうね?」と、ブラッドバリーが訊いた。「彼女を潔白にしておくと約束していただけますね?」
「何もお約束はできませんな」ペリイ・メイスンは言った。「できるだけのことはしてきましたし、警察よりも先に彼女に会いましたよ」
「フランク・パットンの話を聞かしてください」と、ブラッドバリーがいった。「どうして殺《や》られたのです」
「どういうふうにして殺《や》られたのかは私にもわかりませんな」メイスンは言った。「私は彼の居場所をつきとめて、出かけて行ったんですよ」
「どうやって、つきとめたのですか?」ブラッドバリーが訊いた。
「あなたの雇った私立探偵を通じてです」
「いつ、つきとめました?」
「今夜です」
「それでは、今夜、オフィスを出て行かれたときには、彼の居場所はもうわかっていたんですね?」
「ええ」
「なぜいっしょにつれて行ってくれなかったのです?」
「つれて行きたくなかったからです。パットンから何らかの形で自供書なり、あるいはそうした性質の罪状を認める書類をとりたかった。あなたをつれて行ったら、かっとなって責めたてることがわかっていました。しかし、そんなことをしても何にもなりません。私は彼と話をしてみて、ひとつ、ふたつ、|かま《ヽヽ》をかけて先方がうまくそれに引っかかるかどうかみたかったものでしてね。それから少し荒っぽく扱ってやろうと思いました。ある程度、やつをおとなしくしておいてから、あなたと秘書を呼ぼうとしたのです。秘書がわれわれの会話を速記する筈になっていましたが」
ブラッドバリーはうなずいた。
「それはたいへん結構ですがね」と、彼は言った。「はじめのうち、私としても、どうもおもしろくない気がしましたよ」
「気を悪くなさるようなことは何もありませんよ」メイスンは言った。「この事件は、私も非常に大きな興味を持って処置を執りますからね。あなたはどこまでも私を信頼してくださっていい、それだけのことですよ」
「それで」と、ブラッドバリーは言った。「どうなりました?」
「私は彼のところへ行って」と、メイスンは話をつづけた。「彼の部屋のドアをたたきました。返事がない。身体をかがめて、鍵穴のなかをのぞいてみました。室内には照明がついていましたよ。鍵穴からのぞいてみると、帽子と、ステッキと、手袋の載っているテーブルが見えましたよ。たしかにパットンのものだという気がしました。われわれの手にあるパットンの人相書や何かに、やはり一致しますね。
私は、またドアのパネルを叩いてみて、ブザーを鳴らしつづけてみました。ブザーを鳴らすのをやめて、耳をすませてみましたが、何の音も聞えないんですよ。もう帰ろうとしたとき、廊下のまがり角に警官が立っているのに気がつきました。たしかに、しばらく私を見ていたようでしたが、どのくらい見ていたのかはわかりません。
すぐに、私は、何か悪いことがあって、私がうかうかとそのなかに入ってしまったのだな、という気がしましたが、平気な顔をするよりどうにもしかたがないので、警官のほうに歩いて行ったわけです。彼は、私を呼びとめて、何をしようとしているのかと訊きますから。フランク・パットンのところへきたのだと言ったんですよ。彼がここに住んでいて、在宅だと思ったとね、言ってやったわけです。私は身分を言って名刺をわたしました。
警官といっしょに女が一人いましたよ。反対側の部屋に住んでいると言っていました。実直そうな女の人でしたよ。ベッドからとび起きて、あわてて服を着た様子でした。気分が悪くてベッドに入っていたそうでした。となりで、女がたいへん騒いでヒステリーを起していたそうですが、なかでも『幸運の脚』という言葉が聞えたそうです。このことは電話でお話ししましたね」
「それからどうなったんです?」ブラッドバリーは訊いた。
「それから」と、ペリイ・メイスンは言った。「警官は、その女の部屋に入って行って何か話しあっていました。それから、警官が、どうにかその部屋のドアを開けたんですよ。そうすると、大きくて長い、先がするどく尖っている大きなパン切りナイフでパットンが刺されているのがわかった。私はすぐにあなたに連絡したわけですが、それは、マージイのほうをあなたがどういうふうにして欲しいと考えていらっしゃるか知りたかったものですからね」
「マージイが捲きこまれているということがどうしてわかりました?」ブラッドバリーは訊いた。
「私は彼女を目撃したんですよ――だからあなたに電話で連絡したのです」メイスンは言った。「私がちょうどそのアパートに入って行こうとしたとき、彼女がそこから出てきたのですが、私の注意を惹くほど、何か悪いことをしたような様子が見えたわけです。眼には恐怖のいろがうかんでいました。彼女は白いコートを着て、赤いボタンのついた白い帽子をかぶっていましたが、こうしたことをあなたは何一つ知らないのですからね。これは内密に願います。あなた一人の胸にしまっておいてください」
「もちろん、誰にも洩らしませんよ」と、ブラッドバリーは言った。「しかし、なぜ、あなたは彼女に声をかけなかったのです?」
「彼女を知らなかったんですからね」と、ペリイ・メイスンは言った。「あとになるまで、彼女が誰かわかりませんでした。私とすれ違うとき、ひどくうろたえていたように見えました。それで、その女が警官に脚のことでヒステリーを起していた女の子の話をしていたのを聞いて、そのバスルームにいた女はマージイに違いないと思ったわけです」
「バスルームで何をしていたんでしょう?」ブラッドバリーが訊いた。
「まあ私に言わせれば」と、メイスンは言った。「二人は、ちょっとごたごたを起したように見えました。パットンは、バスローブを半分着ていて、上着やズボンは脱いでいましたよ。彼が何か行動に訴えようとしたので、マージョリーはバスルームに逃げこんだわけでしょう。私はそんなふうに思いましたが」
「そのあとでパットンが彼女を追ってバスルームに押し入り彼女が刺殺したんですか?」ブラッドバリーは訊いた。
「いや」と、メイスンは言った。「屍体はバスルームにはなかったのです。屍体は、バスルームの一方に接した寝室にあったんです。その女がバスルームに逃げこんだが、パットンが何とかしてドアを開けた。そこで二人は、争っていたのかも知れませんね。そこで正当防衛で彼を刺したということも考えられるでしょう。その女がバスルームに入ってドアに鍵をかけておいたとき、誰かほかの人間が部屋に入ってきて、パットンを刺した、ということも考えられますね」
「ドアには鍵かかかっていたのですか?」ブラッドバリーが訊いた。
「そうです」と、メイスンは言った。「ドアには鍵がかかっていました。ドアを開けるために、警官が管理人か誰かを探しに行かなければならなかったことをお話ししませんでしたかね」
「そうすると」と、ブラッドバリーは言った。「ドアが閉まっていたとすれば、マージイがバスルームにいるあいだ、誰かほかの人間がどうやって部屋に入れますか?」
「そんなことは簡単です」メイスンは言った。「誰か入ってきたとしても、出て行くときに、ドアに鍵をかけていくことはできますよ」
ブラッドバリーはまたうなずいた。
「探偵のポール・ドレイクはどうしていたんです?」と、彼は言った。「その場にいたんですか?」
「ポール・ドレイクは、私のあとからやってくることになっていました」と、ペリイ・メイスンは言った。「私は五分経ったら出発してくれと言ってたんですよ。ドレイクとは、九番街とオリーヴの角で会いましてね。ちょっと相談しました。そこで、作戦を練って、ドレイクは、私が出て行ってから五分経って出発することになったんです。ドレイクは自分の車で行く。私はタクシーで行く。ドレイクのほうが時間は早く着いたかと思いますが、あれから話してないんです。私の想像ですが、彼がアパートに入ろうとしたとき、女の人と警官が入って行くのを見たのでしょう。何かまずいことが起こったな、と思って、その事情がわかるまで、たちまち行方をくらまして、どこかに隠れたんでしょう。まあ、そんなふうに考えているんです。まだ彼と話をしていませんのでね」
カーテンが開けられて、給仕は二人の注文したものを持ってきた。ブラッドバリーは壜からウィスキーを注いで、氷をグラスに落し、ジンジャー・エールで割ると、スプーンでかきまぜて、大きく三口で半分ほど飲んだ。
ペリイ・メイスンは、もっともらしく葡萄酒の壜を調べていたが、鼻の下に壜の口を持って行き、一杯つぐとフランスパンを一きれちぎって、あたたかいパンを口いっぱい頬ばって葡萄酒をすすった。
「何かほかにご用は?」給仕は訊いた。
「いまのところ、これでいい」と、ブラッドバリーは言った。「勘定のときは呼鈴を鳴らす。それまで、邪魔されたくないからそのつもりで」
給仕はうなずいた。
「私のほうの話は、だいたいこんなところですよ」ペリイ・メイスンは言った。
ブラッドバリーはうなずいた。
「私から話したいことがありましてね」彼は言った。
「あなたのほうに?」彼が訊いた。
ブラッドバリーはうなずいた。
「どうぞ」メイスンは言った。
給仕は外に出て、カーテンがもとに返った。
「まず最初に」と、ブラッドバリーがゆっくり言った。「あなたに知っておいてもらいたいことが一つありましてね、メイスン。どんなことになろうと。こんどのことでは、私はどこまでもマージョリー・クリューンの後盾になるつもりだということです」
「ごもっともですな」また指先でフランスパンをちぎりながらメイスンは言った。「そういう印象をずっと持ってきましたからね」
「さらに、ですよ」と、ブラッドバリーは言った。「誰がどんな目にあおうと、私がマージョリー・クリューンを助け出したいと思っていることは、はっきり認識しておいて頂きたいのです」
「はあ」と、ペリイ・メイスンは言った。「あなたは、まだ何も新しいことはお話になりませんな」
ブラッドバリーは身体をのり出すようにして、つよくペリイ・メイスンを見つめた。
「わたしの言うことをわかってください」と、彼は言った。「このことについては誤解されたくないのです。そのためなら誰がどんな目にあおうと、マージョリー・クリューンをこんどのことから助け出したいんですからね」
彼の話しぶりには、何か押しつけがましい、つよく主張するようなところがあり、ペリイ・メイスンはワイン・グラスを半ば口に運びかけたまま、眼はいままでになかった光をたたえて不意にブラッドバリーの上にひたと向けられた。
「ほう?」彼は言った。
「マージョリー・クリューンのことを」と、ブラッドバリーは言った。「何よりも最初に考えて頂きたい。私は、自分の生命よりも愛しているんですよ。彼女のためなら、どんなことでもします。詳しいことは私もまだ存じませんし、あなた自身にもおわかりにはなっていないようですが、マージョリー・クリューンをどんな危険にもさらしてはならない、ということだけは絶対に頭に入れておいて頂きます。彼女のためなら全世界を敵にまわしても闘いますよ。誰を相手にしなければならなくなっても私はやります」
「つづけてください」ペリイ・メイスンは、まだグラスを半ば口に持って行きかけたまま言った。
「どのくらいの時間」と、ブラッドバリーは言った。「あなたが、警官のくるまでドアをたたいていたのか、ちょっと不思議な気がするんですが」
「一、二分ですよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「なぜです?」
「警官がやってきたのが正確に何時だったかおぼえておいでですか?」
「いいえ」メイスンは言った。「べつに時計を見ませんでしたので」
「それは」と、ブラッドバリーは言った。「調べれば、もちろんわかりますね」
「もちろんです」メイスンは言って、ワイン・グラスを下においた。「話をつづけてください、ブラッドバリー、伺いましょう」
「あなたがアパートについた時間から考えてみて、殺人が行われた時刻は何時だったろうと思っているのですか?」ブラッドバリーはつづけた。「時間の経過が、非常に重要なものになるかも知れませんからね」
「かも知れませんな」ペリイ・メイスンが同意した。
「どうもおかしいように思えるんですが」と、ブラッドバリーは言った。「マージイがバスルームにいるとき、誰かがフランク・パットンを殺したんだとすれば、ドアが閉まっていたというのは」
「なぜです?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「まず第一に」と、ブラッドバリーは言った。「マージョリー・クリューンがフランク・パットンのアパートの鍵を持っていたということが、どうしても信じられませんな。そんなことは問題にもなりませんよ」
「つづけてください」メイスンが彼に言った。「聞いていますから」
「その場合ですね」と、ブラッドバリーが言った。「マージョリー・クリューンがバスルームに逃げこんだところへ、フランク・パットンが押し入った。二人が争って、マージョリーが正当防衛で殺した。一番最後にドアを出たのはほかならぬ彼女でしょう」
「ええ」と、メイスンは言った。「それがどうしたんです?」
「そうすると、ドアに鍵はかかっていなかった筈ですよ。マージョリー・クリューンは鍵を持っていなかったんだし、死人に鍵をかけることができる筈もありませんからね」
「一方」と、ブラッドバリーは、あのつよい主張を秘めたペリイ・メイスンの眼を見つめながらつづけた。「もしマージョリー・クリューンがバスルームにいて、パットンが入ろうとしても入れないでいたとき、誰かほかの人間がドアから入ってきて、パットンを殺して、あなたのおっしゃるように鍵をかけて出て行ったとすれば、マージョリーはどうやって部屋から出て行ったんです?」
ペリイ・メイスンは、黙って考えながらブラッドバリーを見まもりつづけていた。
「ただ一つ考えられる解答は」と、ブラッドバリーは言った。「マージョリー・クリューンが、二人の男が争っているすきに、バスルームから逃げ出した、ということだけですな。つまり、その部屋のドアから入ってきた男とフランク・パットンが争っているうちに、ということですね。そうだとすれば、マージョリー・クリューンはこの犯人を見ているわけだから、自分の知っている男だったら誰だかわかったでしょうし、知らない男だったとしてもどんな男だったかおぼえているでしょう」
「それから?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「それから」と、ブラッドバリーは言った。「犯人はパットンを刺して、そのアパートから逃げ出したわけでしょう。そうなると、彼はマージョリー・クリューンを見ている筈ですね、きっと。彼女がバスルームから出てきたときか、廊下にいるときか、あるいはエレヴェーターに乗ったところでも」
「あなたは」と、ペリイ・メイスンは言った。「なかなか立派な探偵ですな、ブラッドバリー。ものごとを、きわめて明快に分析しますね」
「私はただ」と、ゆっくりブラッドバリーは言った。「ちっぽけな町から出てきたからといって、時がきても起ちあがって立派に闘えないようなことはないということを、あなたに感じさせたかっただけでしてね。私をあまく見てもらいたくないんですよ、弁護士さん」
「とんでもない、そんなことはありませんよ、ブラッドバリー」ペリイ・メイスンは立った。「あまく見ようなんて思ってはいません」
「それはどうも、弁護士さん」ブラッドバリーは言って、ハイボールのグラスをとった。彼はそのハイボールをすっかり飲みほした。
ペリイ・メイスンは、数秒、注意深く彼を見つめていたが、やがて、ワイン・グラスをあげて、それをすすり、壜からグラスに注いだ。
「お話はそれだけですか?」彼は訊いた。
「いや」と、ブラッドバリーは言った。「もう一つ、言及したい論点があります。つまり、私はマージョリー・クリューンは犯人を見ているに違いないと思うわけですね。そのとき叫び声もあげないし、警察にも知らせなかった。というのは、彼女は犯人を知っていて、彼をかばおうと決心しているんですよ」
「ドクター・ドーレイのことを言っていらっしゃるんですか?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「そのとおりです」ブラッドバリーは、声に冷たくきめつけるような響きをこめて言った。
「それなら申しあげましょう」と、メイスンは言った。「私は、一つのことをはっきりさせることができるかと思いますのでね、ブラッドバリー。私は、マージョリー・クリューンがアパートから出てきたところを目撃しているんですよ。彼女が半|区画《ブロック》以上も先まで歩いて行くのを立ちどまって見てから、あのアパートに行ったのです。エレヴェーターに乗りました。エレヴェーターをおりてから、フランク・パットンの部屋までまっすぐ行きましたよ。パットンのところから誰か出てくるのは、べつに気がつきませんでした。警官がやってくるまで、ドアのところにいたんです。あの警官は、捜査が終るまでは、誰ひとり、自分が確認しないかぎり外に出さなかったでしょう。だから、私が行ったとき、彼の部屋は空だったとみてもいいわけです。もちろん、私がエレヴェーターであがっているあいだに、犯人が階段をおりて逃げたということも可能性としては考えられる。しかし、それは単なる可能性ですな。ドクター・ドーレイには私も会いましたからね、あのアパートで見かけていれば、私にはわかった筈ですよ」
「窓はどうですか?」と、ブラッドバリーは訊いた。「窓はあったのですね?」
「ええ、非常階段に通じている窓が一つあります」メイスンはゆっくり言った。
「やはり思ったとおりですな」ブラッドバリーが、得意そうに指摘した。
「しかし」と、ペリイ・メイスンが言った。「もし、ドクター・ドーレイがあの部屋にいたとして、マージョリー・クリューンがバスルームから飛び出してドアから逃げ出したとすれば、なぜドクター・ドーレイはドアに鍵をかけてから、窓から出て非常階段をおりて逃げ出したのです?」
「それは」と、ブラッドバリーが言った。「これからわれわれが、はっきりさせようとすることの一つですね」
「そうですな」と、メイスンは同意した。「われわれがもっと事実をつかんだときには、はっきりさせなければならないことは、たくさんありますよ、ブラッドバリー。事実をことごとくつかまないで、兇行の現場を再現するということは、人間には不可能なことですからね」
「そういうことはよくわかっています」と、ブラッドバリーは言った。「しかし、私が指摘している論点は、われわれが知っているいろいろな事実というものが、そこで起こった筈の、ある種の事情とはぴったり符合していないように思えるということなのですよ」
「それは」と、メイスンは言った。「われわれが法廷に出て、犯罪訴追を開始したときに、解決すべきことでしょう」
「私としてはむしろ」と、ブラッドバリーが言った。「いますぐ解決したいものですね」
「すると」と、ペリイ・メイスンは言った。「あなたはボブ・ドーレイが殺人犯人だと思っているのですか?」
「率直に申しあげれば、そうなんです。あの男が危険人物であることは、私はずっと言ってきましたね。彼が殺人に関係があることは間違いないという確信がありますし、おなじく、マージョリー・クリューンがもしできることなら彼をかばおうとするだろうということも確信があります」
「彼女がドーレイを愛しているとお思いですか?」
「それはよくわかりません。彼に、惹かれているとは思いますね。彼女自身は、彼を愛していると思っているかも知れません。おわかりでしょう、弁護士さん、その違いが」
ペリイ・メイスンは、あらためて敬服するといったいろをうかべて、J・R・ブラッドバリーの、つよい輝きを帯びた眼を見まもった。
「わかりますよ」彼は言った。
「さらに言えば」と、ブラッドバリーは言った。
「ドクター・ドーレイを救い出すためにマージョリー・クリューンが自分を犠牲にしようとするような場合、私はそんなことをさせないようお願いしたいのです。私の言っていることがおわかりになりますか?」
「わかりすぎるくらいですよ」ペリイ・メイスンが言った。
ブラッドバリーは壜をグラスの上に傾けてライをちょっと注ぐと、それをジンジャー・エールで割った。
「どんな事態になっても」と、彼は言った。「マージョリーがドーレイのために自分を犠牲にすることがあってはいけないのです」
「それでは、ドーレイが犯人であるということを私に証明して欲しいとおっしゃるんですね?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「反対に」と、ブラッドバリーはゆっくり言った。「こういうことは、あなたにはっきりわかっていただきたいのですがね、弁護士さん。私の説が正しくて、ドクター・ドーレイがこの事件に捲きこまれているとか、あるいは、彼が実際に手を下した犯人だということがはっきりするとかした場合には、あなたに彼の弁護をお願いしたいと思っているんですからね」
ペリイ・メイスンはまっすぐにすわり直した。
「何ですって?」彼は訊いた。
ブラッドバリーはゆっくりうなずいた。
「私はあなたに」と、彼は言った。「ドクター・ドーレイの弁護をお願いしたいんですよ」
「もし彼の弁護をするようになったら」と、ペリイ・メイスンは言った。「彼を助けるためにできるだけのことはしますよ」
「わかって頂けましたな」ブラッドバリーが言った。
ペリイ・メイスンは食べるのをやめて、テーブルごしにブラッドバリーを見つめながら指先でテーブルクロスの端をかるくたたくような動作をしていた。
「いや」と、彼はゆっくり言った。「あなたをあまく見るようなことはいたしませんよ、J・R・ブラッドバリー――これからも絶対に」
ブラッドバリーは微笑を見せた。
「さて、弁護士さん」と、彼は言った。「お互いに完全に理解しあったわけですから、仕事のことは忘れて、大いに飲み、かつ、食うことにしましょう」
「あなたはどうぞ」メイスンは、にやりとして言った。「あいにく私は事務所へ連絡しなければなりませんのでね。きっと、事務所《うち》のまわりに刑事がうろついていると思いますよ」
「何をしようというんです。その連中?」ブラッドバリーが訊いた。
「わたしがあのアパートに行ったことを知っていますからね、何をしに行ったか、とか何とかいろいろ知りたがっているんでしょう」
「どの程度までお話になるつもりですか?」
「あなたのことは話しませんよ、ブラッドバリー」メイスンは言った。「あなたのことは、うしろへ隠しておくつもりなんです」
「それは結構ですな」ブラッドバリーが言った。
「そして」と、ペリイ・メイスンは言った。「ドクター・ドーレイとのロマンスを新聞に書かせるような機会があったら、わたしはそうしようと思うんですがね」
「なぜです?」
「というのは」メイスンはじっと彼を見つめながら言った。「あなたは教養のあるかたですからね、ブラッドバリー、あなたにははっきりお話ししていいと思うんですが。あなたはご年配で、マージョリー・クリューンよりはずっと年長ですし、財産がおありになる。マージョリーが面倒な立場に立っているような場合、まず第一に、新聞はマージョリーのことを脚線美コンテストに入った女として書きたてる。次に、金持ちの|パトロン《シュガー・ダディ》がいて、そのパトロンが彼女を追っかけて出てきた、ということになると、もう一つの扱いかたとではたいへん違う印象を与えますからね」
「もう一つの扱いかたというのは?」ブラッドバリーが訊いた。
「マージョリー・クリューンは大都会に出てきた、というお話ですがね。ひどい幻滅を感じさせられた、というわけですよ。そこへドーレイという若い歯科医、彼女よりいくつか年上で、自分の仕事を棄てて金を借りると、当市《ここ》に出てきて、彼女を探し出す決心をした、というわけです。こうなると、まるで違った話になりますからね。若い恋人たちのロマンスというわけで」
「なるほど」ブラッドバリーは言った。
「この事件では、われわれにはハンディキャップがあるんです」ペリイ・メイスンがつづけた。「なにしろ脚線美コンテストがくっついていますからね。そいつを新聞がかぎつけたら、とたんに、マージョリー・クリューンの写真をデカデカと掲載するでしょうし、その写真は、どうしても脚ということになりますよ。読者の注意を惹きますがね、われわれが望んでいるような、マージョリーの利益になる種類の宣伝にはならないでしょうな」
ブラッドバリーはゆっくりうなずいた。
「もう一つありますよ、弁護士さん」と、彼は言った。「われわれの意見の一致することが」
「何です?」メイスンは訊いた。
「お互いにあまく見ないと決心することですよ」ブラッドバリーは微笑しながら言った。「それに何をなさるにしても、私にいちいち弁解するようなことは考えないでよろしいのです。あなたがいいとお思いになるとおりに、この事件のことをひろめてくださっていいのです。ただ、ですね」と、ここで、ブラッドバリーは、いかにもビジネスライクな配慮のいろをみせて、つよく輝く眼をひたとペリイ・メイスンに向けた。「私がはじめからどこまでも闘わずに、むざむざマージョリー・クリューンを苦境に立たせるようなことをすると考えてはいけませんよ。彼女をそこから助け出すためなら、誰だろうとそのなかにひきずりこんでやりますよ。誰であろうと、ですよ、わかりましたね?」
ペリイ・メイスンは、葡萄酒の残りをグラスに注ぎながら深い息をして、パンを一きれちぎると、それにたっぷりバタを塗りたくった。
「いや、どうも」と、彼は感慨深げに言った。「はじめてあなたというかたがわかりましたよ、ブラッドバリー」
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第八章
ペリイ・メイスンは、ブラッドバリーがメイプルトン・ホテルのエレヴェーターに乗って、階上《うえ》にあがってゆくまで待ってから、電話室に行ってオフィスに連絡をとった。
デラ・ストリートの声は低くて慎重だった。
「何か悪いことがあったんですか?」彼女が訊いた。
「なぜだい?」彼は知りたかったのだった。
「刑事が二人、ここにきているんです」
「そいつは何でもないんだ、待っているように言ってくれ。これから行くから」
「大丈夫なんですか、先生《チーフ》?」
「もちろん大丈夫だよ」
「何もなかったんですの?」
「君が心配するようなことは何も起こりやしないさ」
彼女の声があわてた口調になってきた。
「連中が疑っているんです。あたしが電話で話しているのを訊いて、むこうの電話にプラグをつなごうとして……」つづいて彼女は、いままでより高い声で言った。「……いつもどるかちょっと申しあげられないんでございますが。今夜、もどることはもどると存じますが。電話するまで待っているように言われておりますので。まだ、電話がございません。お名前をうかがっておいて、もどりましたら、そちらからお電話があったことをお伝えいたしましょう。それとも電話番号をうかがっておいて、もどりましたらこちらからお電話するようにいたしましょうか」
ペリイ・メイスンは作り声で言った。「いや、結構です」そして受話器をかけた。
電話室を出ると、立ちどまって煙草に火をつけ、ゆらゆら立ちのぼる煙に、深く考えを追うような眼をそそぎ、火のついている先をじっと見ていた。やがて、何か決心でもついたようにうなずくと、大股にロビーを通りぬけて、タクシーを呼び、まっすぐ事務所に向かった。ドアを開けて「ハロー、デラ」と言ったときの彼は平静で、快活だった。
「こちらにお二人……」と、彼女は言いかけて、うしろの椅子にすわって壁にもたれている男のほうに頭をまわした。
その一人が上着をはねのけるようにして、チョッキの袖口からサスペンダーをひっぱり出して金メッキをした徴章《バッジ》を見せた。
「ちょっとお話ししたいことがあるんですが」彼は言った。
ペリイ・メイスンは、ようこそ、といった微笑を明るくうかべてみせた。
「ああ」と、彼は言った。「捜査本部からですか? それはよかった。お客さんが二人いるのかと思ったんですが、あいにく今夜は疲れていましてね、さあ、お入りなさい」
彼は自分のオフィスに通じるドアを開けると二人の刑事を先に通した。ドアを閉めるとき、デラ・ストリートの蒼ざめた顔、彼に注いでいる心配そうな眼に気がついて、右眼を閉じて、ちらりとウィンクを送った。それからドアを閉めると椅子を手ですすめ、自分は大きな回転椅子にすわってデスクの上に脚をあげた。
「さて、と」彼は言った。「何の用だい?」
「あたしはライカーって者《もん》です」と、一人が言った。「こっちがジョンスン。殺人課でちょいと仕事をしてましてね」
「喫うかい?」メイスンは煙草のパッケージをデスクごしに押しやって訊いた。
二人とも煙草をとった。
ペリイ・メイスンは、二人が煙草に火をつけるのを待ってから言った。「さて、こんどはなにがあったんだね、諸君?」
「メイプルトン・ホテルのハリデイ・アパートメントにいる、フランク・パットンという男に会いに行かれましたな」
メイスンは、たのしそうにうなずいた。
「うん」と、彼は言った。「行くには行ったんだ、いくらやっても返事がなくてね、そこへ、その部屋のなかでヒステリーを起していた娘のことでひとくさり御託を並べていた女といっしょに警官がやってきたよ。僕はどうもね、なかでいちゃついているんで邪魔されたくないんだろうと思ったわけさ」
「あの部屋で」と、ライカーが言った。「殺人がありましたよ」
メイスンの声は平然たるものだった。
「そうだってね」と、彼は言った。「警官がドアを開けてみると、殺されていたそうだね。詳しいことはまだ知らないんだ。部屋のなかに男が倒れていたっていうんだろう?」
「はあ」と、ライカーが言った。「死んでいたんですがね。下着のままでフロアに倒れていました。バスローブを半分着て、半分肌ぬぎのままで。心臓部にナイフが刺されていました」
「何か手がかりは?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「どうしてそんなことを訊くんです?」ジョンスンは気にしたのだった。
メイスンは笑った。
「悪くとらないでくれよ、あんたがた」と、彼は言った。
「僕は、この男と会って話をしようとしてただけで、べつに何の関係もないんだからね。はっきり言っちまえば、その男が死んでくれたおかげで、僕は安心してすわっていられるってわけさ」
「それは、いったいどういう意味です?」ライカーが聞き耳を立てる。
「僕に関するかぎり、検察庁のカール・マンチェスターに訊けば、いっさいわかる筈だよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「われわれはおなじ事件に手をつけていた。僕はパットンを告訴して、こわいところへぶちこむつもりだったんだ」
「どういう罪状でですか?」ライカーが訊いてくる。
「彼にかぶせることのできるいっさいの罪状で、だよ」と、メイスンが言った。「だから、僕が手を出したんだ。カール・マンチェスターは、はっきりあの男をとっちめる確信が持てないでいるんだが、それを僕が罠にかけて、やつを告訴するところまで持って行こうとしたんだ」
「法律上のお話はどうでもいいんでしてね」と、ジョンスンが言った。「実際のところを聞かせてください」
「この男は、綺麗な脚をした女をひっかけるからくりをやっていたんだ」と、メイスンは言った。「脚の綺麗な娘《こ》をひろい出すんだがね、この娘をうまく囮《おとり》にして詐欺をやるんだな。彼の仕事する場所は小さな町で、ひっかける相手は商工会議所だが、それに伴って女の子が犠牲になるというわけだ」
「つまり、商工会議所の会員をうまくひっかけたというんですか?」ジョンスンが訊いた。
ペリイ・メイスンはうなずいた。
「そうだよ」と、彼は言った。「おかしいかね?」
「その連中は頭がいいんじゃないですか?」
「自分ではそう思っているよ」メイスンは言った。「ほんとうのことを言えばね、ああした連中をひっかける手なんざ、いくらでもあるんだよ。あんたが僕にやってみろとおっしゃれば、楽にやってみせるがね」
ライカーの眼は、はっきり見さだめようとしてするどいものになった。
「あなたは、ずいぶん腕ききらしいですな」彼は言った。
「どういう意味だね?」メイスンが訊いた。
「あなたに仕事を頼むとずいぶんとられるだろうなってことですよ」
「おかげさまでね」と、ペリイ・メイスンはにやりとして言った。「そうなんだよ」
「なるほど。そんな金を費《つか》ってまで、あなたにこの男を告訴させようと思ったやつがいるわけですな?」
メイスンはうなずいた。
「そりゃあねえ」と、彼は言った。「言うまでもないことさ」
「なるほど」とライカーが言った。「誰です、そいつは?」
メイスンは頭をふってみせて、微笑をうかべて言った。
「お行儀がわるいね」
「どういう意味です?」ライカーが、たたみかけた。
「つまりね」と、メイスンが言った。「君たちの言う通りだというんだよ、僕は。君たちも 僕とおなじで食うために働いているんだろう。君たちは、きっと君たちが知りたいことを訊くわけだ。これが殺人事件に関係があると思ったら、教えてあげるところだよ。しかしね、殺人には何の関係もないことなんだ。だからさしずめ君たちには何の関係もないわけさ」
彼は二人に、たのしそうな微笑を向けた。
「動機の有無に関係がありますよ」と、ライカーが言った。「彼を刑務所にぶちこむために、あなたに金を払うような人間には、彼を殺すに足りる立派な動機があるものですよ」
メイスンは、にやりとした。
「彼を告訴するために、僕に五千ドル払ったあとでは、どうかねえ」と、彼は言った。「もし彼にあの男を殺すつもりがあったとすれば、五千ドルむざむざ棄てるような真似はしないだろうね。僕のマホガニーのデスクにご来光遊ばすようなことはしなかったろうし、さっそく出かけて行ってあの男を殺すさ。そうなると、僕は生活費をかせぐために仕事ができなくなるわけだ」
ジョンスンはゆっくりうなずいた。
「そういうことになりますな」彼は言った。
「そうは言っても」と、ライカーが言った。「やはり、あなたを雇った人が誰か、こっちとしては知りたいところですがね」
「君としてはそうだろう」と、メイスンは言った。「しかし、僕としてはどうあっても言いたくないことでね。それにこれは法律で保護されていることなんだよ。いわゆる職業上の秘密という、つまらないものの一つでね。僕を訊問するわけにはいかない。従って僕にどういう質問をしようと返答はしかねるんだよ。しかし、べつに悪気《わるぎ》があって言ってるんじゃないんだからね」
ライカーは、むっつりして自分の靴の爪先を見つめていた。
「ないとは思えませんな」彼は言った。
「ないって、何が?」メイスンは訊いた。
「悪気《わるぎ》がですよ」
「間違ってとらないでくれよ」メイスンは彼に言った。「僕は君たちに、話の|めど《ヽヽ》を話しているんだぜ。秘密を破らないですむところまでは、話したんだからね」
「そうすると、彼は、若い女の子を悪い目にあわせていたわけですか、どうなんです?」ジョンスンがたたきつけるように言った。
ペリイ・メイスンは笑った。
「そのことはマンチェスターのところへ行って訊くんだね」
ライカーは、むっつりとメイスンを睨んだ。
「それで、あなたはわれわれに|めど《ヽヽ》を話してくれないわけですか?」
メイスンはゆっくり言った。「ライカー、僕だって君たちの力になってあげたいところだがね、僕を雇った人間の名前を明かすわけにはいかないな。僕も、これはフェアな態度だとは思っていないよ。しかし、僕としては、これだけのことなら言って……」
彼は言葉をきって、指先でデスクの端をたたいた。
「さあ、言ってくださいよ」ライカーが言った。
ペリイ・メイスンは深い吐息をしてみせた。
「女の子がいるんだよ」と、彼は言った。「クローヴァーデイル出身の――彼の、一番最近の犠牲者なんだがね――マージョリー・クリューンという名前の娘なんだ。この子がこの町のどこかにいるんだ」
「どこです?」ライカーが訊いた。
「そいつは、ちょっと言えないね」メイスンは言った。
「まあいいです、つづけてください」とジョンスンが言った。「その子がどうしたんです?」
「僕も、その娘のことはあまり知らないんだが」と、ペリイ・メイスンは言った。「しかし、その子には恋人がいて、クローヴァーデイルから出てきているんだよ――ドクター・ロバート・ドーレイというんだがね。ミドウィック・ホテルに泊まっているんだよ。場所はイースト・フォークナー・ストリートだ。この男は、やけに感じのいい男だよ。彼が、殺す計画を持っていたとは、僕は絶対に思わないがね。しかし、パットンにぶつかったら、ぶちのめしてやるくらいのことはしたかも知れないよ」
「やっと」と、ライカーが言った。「糸口をくれましたね」
メイスンは、いかにも無邪気な顔に大きく眼を見開いた表情をみせた。
「だって、それが私としては当然じゃないか」と、彼は言った。「できるだけ、協力すると言った筈だよ。あんたがただって、僕とおなじで、生きるために働いている人だからね。実際、いままでのどんな事件でも、僕は警察に対して悪いような真似はしていないんだ。警察ができるだけのことをして事件をかためる、僕がそれを法廷に出てぶちこわそうとする。これは仕事だからね。容疑者を逮捕できるように君たちが事件をかためてくれなかったら、僕が弁護して金をとる可能性がないわけだからな。何もごたごたがないのに弁護士に金を払うやつはいないものね」
ライカーは、うなずいた。
「そんなところですな」彼は言った。
「そのマージョリー・クリューンという娘について、何かほかにご存じですか?」ジョンスンが訊いた。
ペリイ・メイスンはベルを鳴らしてデラ・ストリートを呼んだ。
「デラ」と、彼は言った。「『幸運の脚事件』の書類を持ってきてくれないか?」
彼女はうなずいて、書類をとりに外に出たが、すぐに書類ケースを持ってもどったきた。
ペリイ・メイスンは彼女にうなずいてみせた。
「それだけでいい」彼は言った。
彼女はつまらなさそうに、音を立てて外側のオフィスに通じるドアを閉めた。
ペリイ・メイスンは、その書類ケースから例の写真をとり出した。
「さあ、諸君」彼は、その写真をとりあげて言った。「これがマージョリー・クリューンの写真だよ。どこかよそであったら、見わけがつくかね?」
ライカーは口笛を吹いた。
二人は椅子から立って、その写真を見るために寄ってきた。
「こういう脚をした娘というのは」と、ジョンスンが言った。「トラブルを起こすために生まれてきたようなものですな。この殺人事件に関係があるってことは間違いないですよ」
メイスンは肩をすくめた。
「僕に|かま《ヽヽ》をかけたってわからないさ」と、彼はたのしそうに言った。「僕は、パットンを告訴するために金をもらっているんだよ。彼が死んでしまった今となっては、彼を告訴する必要もないわけだ。僕の言ったことは、マンチェスターに連絡してみればみんなたしかめられるよ。まあ、とにかく、このドーレイのほうはあたってみたほうがいいね。新聞にニュースが出るころは、こっちにいてもしょうがないと思って、ドーレイはクローヴァーデイルに帰っちまうかも知れないよ」
「その女の子を探しに出てきた、と聞きましたがね」ライカーが言った。
メイスンは眉をひそめた。
「そうかね?」彼は反問した。
「そうおっしゃったんじゃないですか?」
「そうは言わなかったと思うけど」
「何かそんな気がしましたがね」
メイスンは吐息をついて、両手でつよく訴えるような身ぶりをしてみせた。
「諸君」と、彼は言った。「僕からは何も探り出せないんだよ。もう、職業上の秘密にふれないかぎり、この事件に関して知っていることはみんな話したからね。今から午前二時までは、僕がもう何も話さなくなったってたっぷり君たちがしゃべるだけさ」
ライカーは笑って立ちあがった。
ジョンスンは、ちょっと躊躇したが、すぐに自分の椅子をうしろに押した。
「こちらから出られますよ」メイスンは二人に言って、廊下の出口のドアを開けた。
廊下を折れてエレヴェーターに向ってゆく二人の足音がだんだん遠ざかって行くのを聞いてから、メイスンはそのドアをがたんと閉めて、スプリング・ロックがかかったのをたしかめると、外側のオフィスとのあいだのドアを開けて、デラ・ストリートに微笑をみせた。
「何があったんですの、先生《チーフ》?」彼女は、その声になんとなく咽喉にからんだようなものを響かせて訊いた。
「パットンが殺されたんだよ」彼が教えた。
「あなたがそこに行く前ですか、それともあとですか?」
「前だよ」と、彼は言った。「あとで殺されたんだったら、僕も捲きこまれてしまったさ」
「今は捲きこまれているんですの?」
彼は頭をふると、彼女のデスクの端に腰をおろし、吐息を洩らして言った。「それがね、わからないんだよ」
彼女は手をさしのべて、その冷たい、有能な指をそろえて彼の手の上に重ねた。
「あたくしには話して頂けないの?」彼女は低い声で訊いた。
「君がくるちょっと前にポール・ドレイクから電話があった」と、彼は言った。「パットンの住所を知らせてきたんだ。ハリデイ・アパートメントだったんだよ、それが。すぐに僕はとんで行った。ドレイクは五分経ってからくることになっていたんだ。ちょうど僕がその場所に入ろうとしたとき、綺麗な女が出てくるのにぶつかった。白いコートを着て、赤いボタンのついた白い帽子をかぶり、白い靴をはいていたな。青い眼をしていた。その眼がおびえていた。何だか、悪いことをしてきたようなところがあって、ひどくおびえきっていたので、格別その女をおぼえているんだけどね。さて、それから僕は彼の部屋まであがっていって、ドアをノックした。何の返事もない。ブザーを鳴らしてみた。やっぱり返事がない。ノブをまわしてみると、それがうまくまわってドアが開いた」
彼が、ちょっと言葉をきって、頭を前にかるく下げると、彼女の指先が彼の手の甲をやさしく押すように動いた。
「それで?」彼女が訊く。
「なかに入ってみたさ」と、彼は言った。「何だかくさい気がしたんだ。そこは居間になっていてね。帽子と、ステッキ、手袋が、居間にあった。なかに入る前に、鍵穴からのぞいてみたんだがね。それで、誰かなかにいるに違いないと思ったわけさ」
「なぜ、なかに入ってみなければいけなかったのかしら?」彼女は訊いた。
「パットンに関して、何かつかみたかったんだ」と、彼は言った。「彼が返事をしない。それで、こいつは好都合かも知れないと思ったんだよ」
「それで、どうなったか、もっとおっしゃって」彼女は言った。
「居間にはほかにこれといったものはなかった」と、彼は言った。「しかし、寝室に通じるドアを入ってみて、パットンが死んでフロアに倒れているのを発見した。刄わたりの長いナイフで刺殺されたんだ。ものすごい犯行だったね」
「どういうふうでした?」彼女は訊いた。
「たしかに即死だよ」メイスンは言った。「しかし、傷が大きい。心臓めがけて兇器が刺さって、そこから血がほとばしっているんだ、わかるだろう」
みるみるうちにおぞましさが顔に拡がってくるのを抑えようとしていたが、彼女は平静な調子で言った。「ええ、想像はつきますわ。それからどうしました?」
「まあ、そんなところだね」と、彼は言った。「もうひとつの部屋に、ブラックジャックが落ちていたよ。それがどういうことに使われたのか、まだ心あたりがないんだが」
「でも、もし彼がナイフで殺されたとすれば」と、彼女は言った。「そんなブラックジャックなんて、何のために残してあったのかしら?」
「それが、僕にはわからないんだよ」と、彼は言った。「どうも、おかしいね」
「警察に連絡なさって?」彼女は訊いた。
「そんなことをすれば」と、彼は言った。「こっちのアヤが悪くなるよ。僕はドアのノブにつけた指紋を消して帰りかけた。ポール・ドレイクが五分後にはやってくるのがわかっていたからね。ドレイクが死体を発見したことにしようとしたんだ。僕のほうは僕のほうで、ほかにすることがある。ドレイクが警察に連絡することはわかっていた。
僕がその部屋を出ようとしていると、エレヴェーターがのドアが音を立てるのと、人声が聞えた。何かヒステリーを起していた娘のことを言っている女の声で、その話していることから、その女が警官に向って話していることがわかった。こっちはすぐに、こんなことをしていてどうなるかを悟ったわけだ。人が殺されたアパートから僕が歩いて行くところを見られたら、たちまちえらいことになってしまう。そこにいて、事情を正確に説明したりすれば、今後、誰にも信用されなくなる。僕が殺人で告発されないにしても、僕を雇った人間が殺人を犯したように見られるだろうね。その人間が僕に電話をかけてよこしたものだから、僕が出て行って証拠を湮滅《いんめつ》するとか何かそうした手段をとった、と見られてもしかたがない。そうなると、僕がどういう立場に立たされるか、想像がつくだろう。僕がアパートから出るところなり、その場に立っているところなりを警官が目撃したあとは、僕はもう、殺人の嫌疑をうけている人間を弁護することは絶対にできなくなるんだよ。なぜなら、陪審は僕が弁護する人間は有罪だときめてかかるし、起こったことに対して僕にまず通報したと見なすからね」
「それで、あなたはどうしました?」彼女は、すぐに興味をみせて訊いた。「苦境に陥ったわけね」
「することは一つしかなかった」と、彼は言った。「僕の考えた方法でね。なにしろ、いそいで考えなければならなかったんだよ。もっと違う手が打てたかも知れないが、それはわからないな。ああいう場合って、人間が何か決定しなければならない、それも即座に決めなければならないといった状況だからね。ポケットから合鍵を出して、ドアに鍵をかけたんだ。簡単な鍵だったよ。それから、警官が近くにいるなんてことはちっとも気がつかないふりをして、ドアをたたきはじめたんだ。警官は廊下をまがってきて、僕がドアの前で、がんがんたたいているのを見たわけさ。二回ばかり呼鈴をぐいぐい押してやったよ。それから、がっかりしたように帰りかけたんだ。そのとき、はじめて警官に気がついたようなふりをしたんだよ」
「うまいわ」彼女は叫んだ。
「ここまではうまくいったよ」ペリイ・メイスンは、カードを全部もらってしまったあとで片手でブリッジをやっているような態度を見せるような恰好で、思慮深い調子で言った。
「しかし、そのとき、僕はとんでもない失敗をしでかしたよ」
「どうしたんですの?」彼女は眼をいくぶん大きく見開いて、じっと彼の顔を見つめながら訊いた。
「J・R・ブラッドバリーの頭を見くびっていたんだよ」
「まあ」彼女は、さもあろうといった明確な感情をこめて、そんな声を出したが、ちょっと経ってから言った。「彼が何か……?」
「まさにそうなんだよ」ペリイ・メイスンは言った。
「私ねえ、あの人について、いまなら言えることがありますわ」と、彼女は言った。「あれで、なかなか女には眼うつりがするようですし、気が若いのよ。あなたが出て行くとき、私に煙草をすすめていたのをおぼえていらっしゃる?」
「ああ」
「火をかしてくれようとして身をのり出してきたのよ」
「君にキスでもしようとしたの?」
「いいえ」と、彼女はゆっくり言った。「しないからおかしいのよ。こっちはキスでもするつもりなんだろうと思ってたわ。そのつもりだったと、いまでも思ってるんですけど、何かで気が変ったんですね」
「何なの、それ?」
「わかりませんわ」
「君が僕に言いつけるだろうと思ったのかな?」
「いいえ、そんなことじゃないと思いますわ」
「それで、彼はどうした?」
「あたしにぐっと近くかがみこんでマッチに火をつけてくれると、身体を起して、オフィスの反対側のほうへ歩いて行きました。そこに立ったまま、まるで私が絵か何かみたいにじっと見つめているんです。もしかしたら、私を絵にしたらうまく行くかどうか見ようとしてるようでしたわ。とてもへんな見かた。私を見ているくせに、私を見ていないようで」
「それで、どうしたの?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「それで」と、彼女は言った。「目を離すと、笑って、新聞と書類鞄をとりに行ってきたほうがいいですな、なんて言いましたわ」
「それで出て行ったのかい?」
「ええ」
「ところで、その新聞と鞄はどうした?」
「ここへおいて行きましたわ」
「出て行くとき、書類鞄のことは何か言ってたかい?」
「いいえ、そのことはホテルから電話してきたんです」
「君はそれをどこにやった?」
彼女は戸棚を指さした。
ペリイ・メイスンは立ちあがって、戸棚のほうに歩み寄って、ドアを開け、茶の書類鞄と新聞紙の束をとり出した。その一番上に、二月ほど前の『クローヴァーデイル・インディペンデンス』紙があった。
「戸棚の鍵はあるかい?」
「ええ、私の鍵束のなかに」
「これをしまっておくときは、この戸棚に鍵をかけておくことにしよう」メイスンは言った。
「金庫に入れましょうか?」
「そうまでしなくてもいいだろう。しかし、どこまでも鍵はかけておいたほうがいいな」
彼女は戸棚のドアを閉めて鍵を挿しこみ、かちりと鍵をかけた。
「まだ、話してくださらないのね」と、彼女は思い出すようにしむけた。「あなたがどういうふうにブラッドバリーの頭を見そこなっていたか」
「僕は、あのアパートから女の子が出てくるのに会ったんだ。あの殺人に何らかの関係があると睨《にら》んでいるんだがね。どういうふうにとなると、僕にもわからないんだが。その女がマージョリー・クリューンでなければ、べつにどうってこともないんだよ。それをたしかめたかったもんだから、ブラッドバリーに電話をしたんだよ」
「それでパットンが殺されたことを話したんですか?」
「うん、それでマージョリー・クリューンのことを訊いたんだ。あのアパートから出てきたのがマージョリー・クリューンだったとすれば、すぐに動いて警察より先に手をうたなければならないからね」
「でも、ほかにどうしようもなかったんでしょう?」と、彼女は訊いた。「それを確かめなければならなかったんだし、ブラッドバリーが何をして欲しいかも確かめなければならなかったでしょうから」
「そうだろうね」
「私は」と、彼女が言った。「何かまずいことがあったと思いましたわ。あなたから電話があったとき、あのひと、ほんとうに驚いていたようでしたもの。お話の内容はわかりませんでしたけれど、あのひと、ひどく打撃をうけたように見えましたわ。受話器を落とすんじゃないかと思ったくらいなのよ。口で呼吸をはじめて、眼が大きくなって、ステッキではじき出せるくらいでしたわ」
「まあね」と。メイスンが言った。「ああいうことになれば、無理もないが」
「それがどうして悪いことになるのかしら?」彼女は訊いた。
「僕にはまずいよ」と、彼は言った。「僕が部屋のなかに入ったことは、どこまでも警察に知られたくないものね。いまさら、ほんとうのことを言ったりしたら、連中はきっと殺人の嫌疑を僕に持ってくるよ。ここはどうしても、ドアに鍵がかかっていたということで押しとおさなければならないんだ。一方から言えば、鍵がかかっていたドアというものは、やけに眉唾《まゆつば》ものに聞えるよ。僕が望んでいるよりも、もっともっとめだってしまうんだ」
「すると」と、彼女は言った。「警察はそれを看破するわけですの?」
「そこまではわからないがね」と、彼は言った。「しかし、ブラッドバリーが危険な敵対者《アンタゴニスト》になることは確かだな」
「敵対者ですって」と、彼女は言った。「だって、あのひとは依頼人じゃありませんか。どうして、あの人が敵の立場をとるのです?」
「それが」と、彼は言った。「まさに問題なんだよ。こいつを僕は見おとしてたな」
「どういう意味ですの?」
「アパートから出てきた女の子はマージョリー・クリューンだった。彼女は何らかの形で、この事件に関係がある。どの程度のものか、わからないがね。ブラッドバリーは彼女に夢中だよ。すっかりうつつをぬかしているからね、もし彼女がそのなかに捲きこまれているんだったら、誰を犠牲にしても構わないから僕にうまく解決しろとおっしゃるんだ。費用はいくらかかってもいいんだとさ」
デラ・ストリートは考えこむように眼を細めていたが、不意にノートに眼を移した。
「若い女の人が電話をかけて居場所を伝えておくようなこと、おこころあたりがあって?」彼女は言った。
「ああ」と、彼は言った。「それはマージョリー・クリューンだよ。僕と話ができるところへ行っていることになっているんだ。僕は、まだ、彼女と話をして、どういうことになったのか訊く機会がないんだ。いつも傍に人がいてね」
「あなたが入っていらっしゃるちょっと前に」と、デラ・ストリートは言った。「若い女の人から電話があって、『ミスタ・メイスンに私はボストウィック・ホテル四〇八号室にいる、例のアリバイを調べてください、とだけ伝えてくれ』って言っていました」
「それだけかい?」彼は訊いた。
「それだけです」
「なんのアリバイを調べろって?」
「存じませんわ。あなたのほうでご存じだろうと思っていましたけれど」
「この事件でアリバイのある人間は一人しかいないんだ」と彼は言った。「それは調べたんだが」
「誰ですの、それは?」
「セルマ・ベルなんだ。サンボーンという男といっしょに外出していて、僕は、彼女が彼と話をする前に調べたんだよ」
「彼女が調べてほしいと言ったのは、きっとそのアリバイでしょう」
「僕はもう調べたんだぜ」
彼は考えこむように彼女に向って眉をひそめてみせたが、すぐに頭をふった。
「ほかには考えられないな」と、彼は言った。「ポール・ドレイクとの話がすみ次第、もう一度調べてみよう。あいつ、僕を待っているだろう。パットンのアパートで落ちあうことになっていたんだが、何か起こったのを悟って、消えちまったんだな」
「私も待っていましょうか?」彼女は訊いた。
「いや」と、彼は言った。「もうお帰りなさい」
彼女が帽子をかぶり、コートを着て、パウダーを頬につけ、口紅を唇にさしたとき、ペリイ・メイスンは、チョッキの袖ぐりに親指をかけて、フロアを行ったりきたりしはじめた。
「どうしたんですの、先生《チーフ》?」鏡から眼を彼に向けて、じっと見つめながら彼女は訊いた。
「考えているんだよ」と、彼は言った。「例のブラックジャックのことを、ね」
「どうかしたんですか、それが?」
「なぜ」と、彼は言った。「ナイフで殺してから、べつの部屋へ行って隅っこにブラックジャックを投げ出しておいたかがわかれば、この事件全体は解決するんだがね」
「たぶん」と、彼女は言った。「犯人がわざわざ証拠を残しておくという、よくあることの一つじゃないかしら。誰かべつの人間の、それも罪をかぶせたいと犯人が思っている人の指紋をつけたブラックジャックを用意していたのかも知れませんわ。その指紋は、何カ月も前にそのブラックジャックについたものかも知れませんし、そうだとすれば――」
「そうだとすれば」と、彼は言った。「犯人はそのブラックジャックで犠牲者を殺している筈だよ。パットンの頭部には、何の痕もなかった。彼の生命を奪ったのは、あのナイフの一突きで、それで即死だった。あのブラックジャックは、僕のデスクの右上の抽斗《ひきだし》に入っているリヴォルヴァーがあの男の死に関係ないのとおなじで、まったく無関係だよ」
「じゃ、なぜ落としてあったのかしら?」彼女は訊いた。
「それが知りたいんだよ」彼は言ったが、いきなり笑い出した。
「君は探偵になろうというんでもないのに、こういうことになるとなかなか頭を働かせるじゃないか」
彼女はドアのノブに手をかけながら立って、彼を不思議そうに見つめていた。
「先生《チーフ》」と、彼女は言った。「あなたはどうしてほかの弁護士みたいにしないんですの?」
「証拠をでっちあげたり、偽証をさせるために買収するという意味かい?」
「いいえ、そんな意味じゃないわ。私の言う意味は、ちゃんとオフィスにすわっていて、事件が向うからやってくるのを待つってこと。警察にその事件をかためさせておいてから、あなたは法廷に出て、それを破ってやるようにするのよ。それなのに、どうしてあなたは、わざわざ前線に出て、事件それ自体に捲きこまれるような真似をなさるの?」
彼は、彼女に向ってにんまりしてみせた。
「知ってたら、僕だっておとなしくしているよ」と、彼は言った。「ただね、僕って人間はそんなふうにできあがっているんだな。それだけのことさ。これまで陪審が、ただ、あやしいというだけではっきり有罪の事実を証明できないために、ある人間に判決を下さないことが何度もあった。僕は、そういう判決がいやなんだよ。無実なら無実で、どこまでも潔白であることを証明したい。僕はどこまでも事実に即して考えて行きたい。たいへん困難な立場に、自分からおどりこんでゆく偏執的情熱があるんだよ、僕には。警察を出しぬいて、事件を料理したい、実際起こったことを誰より先に判断を下したい、という偏執がね」
「それともう一つ、誰からも助けが得られない人をかばうことも、でしょう」彼女が言った。
「ああ、そうだとも」と、彼は言った。「そういうのもゲームの一部だからね」
彼女はドアから彼に微笑を投げた。
「おやすみなさい」彼女は言った。
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第九章
ペリイ・メイスンは、ポール・ドレイクの事務所の電話番号をまわしたが、探偵が用心深く「もしもし」という声が聞えてきた。
「君のほかに一人でも誰かいたら、誰の名前も言ってはいけないぜ。すっかりつつぬけになるからな」
「十分ほどしたら、そっちへ話に行きたいんだが」と、ポール・ドレイクが言った。「待っててくれるかい?」
「ああ」メイスンが言った。
弁護士は受話器をおいて、回転椅子にもたれかかって煙草に火をつけた。やがて煙草を口から離して、煙がゆっくり渦を作《な》してのぼってゆくのが見られるようにそのまま煙草を持っていた。みじろぎもせず、くねくねたちのぼる煙を半ば夢みるような眼で見まもっていた。煙草が半分もなくなったころ、何か決心したらしくうなずくと、また煙草を口に持って行った。その煙草をゆっくり喫い終って、それを灰皿にすてると時計を見た。
そのとき、廊下へ通じているドアのノブがかちゃりと鳴る音がした。
ペリイ・メイスンはドアに寄って、ノブに手をかけた。
「どなたです?」彼は訊いた。
「開けてくれよ、ペリイ」というポール・ドレイクの声を聞くと、ペリイ・メイスンはドアを開けて探偵を入れた。
「情勢がわかったのか?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「ああ」ポール・ドレイクが言った。「あいつを俺に発見させたかったんだなと思ったよ」
「何が起こったか、どうしてすぐわかった?」
「まず第一に」と、ポール・ドレイクが言った。「始動がうまく行かなくて遅れたんだよ。スターターがバカになっちまった。みんな鍵がかかっちまったみたいなんだ。俺には、どうしたのかわかんねえんだよ。クランクのほうもスターターのほうも直してみたんだがね。そこへね、車にくわしいっていう通行人がやってきたよ。そいつの話ではギヤの一つの位置がおかしくなってるっていうんだよ。ギヤをいっぱいにして前とうしろにやってみれば、うまく行くってわけさ。言われたとおりにやってみたんだが、うまく行ったよ」
ペリイ・メイスンは、眼を細めるようにしてポール・ドレイクを見つめていた。
「それでどうした」彼は言った。
「俺はご報告申しあげているんだよ」と、ポール・ドレイクが言った。「俺がちょっと時機を外した理由を、ね」
「どのくらい遅れたんだ?」
「わからないんだよ」探偵が言った。
「君がタクシーに乗って走り出したときに、俺はあそこへ着いたんだよ。君が、あの道路を走ってゆくのがちらっと見えたな。だいぶいそいでいるように見えた。何かまずいことがあったな、と思ったよ。それで、俺にあてた伝言がパットンの部屋にあるかも知れないし、さもなければ君が緊急の事態に立ち至ったかと思った。すごく用心しながらパットンの部屋へあがって行ってみたよ。俺が廊下を歩いていくと私服警官がドアを開けてるところだった」
「君は手を出さなかったのかい?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「ああ。俺にはアリバイがあったほうがいいかどうか、君の意向がわからなかったからな。弥次馬がたかっていたんで、俺はそのなかにまぎれこんだよ」
「室内には入らなかったのかね?」
「パットンの部屋にかい?」
「ああ」
「うん。入れなかったもの。すぐに殺人課の連中に連絡をとったんだな。しかし、二人ばかし懇意なやつがいたし、新聞の写真班もきてたよ。訊き出せるだけは訊き出したさ」
「それを聞こうじゃないか」ペリイ・メイスンが言った。
「それよりも」と、ポール・ドレイクが言った。「俺よりさきに、君のほうに何か話すことがあるんだろう?」
「僕は君よりちょっとさきに行っただけなんだよ」と、メイスンは言った。「あそこに行ったときはドアに鍵がかかっていた。鍵穴からのぞいてみたら帽子と、ステッキと、手袋が見えた。ドアをノックしているところへ――」
「君が警官に話したオハナシは知っているよ」ポール・ドレイクが言った。
「それなら」と、メイスンが言った。「ほかに何があるんだい?」
ドレイクは肩をすくめた。
「そんなこと、俺が知るもんか」彼が反問した。
「まあね」弁護士は言った。「僕の話したことを知ってるんならほかに言いようがないもの」
「うまいオハナシだよ」ポール・ドレイクは言って、しばらくしてから「ある一つのことを除けばね」とつけ加えた。
「何だい、その一つってのは?」メイスンがかまをかける。
「事実を聞かせてやるよ」ドレイクが言った。「あとはあんたがまとめるんだぜ」
「よしきた」弁護士はそっけなく言った。
ポール・ドレイクは、長い脚がうまく椅子の肘掛にのっかるように大きな革椅子に身体をのばした。脚をのせたほうの反対側の肘掛に、いかにも窮屈そうに背中をあてた。
「居間にあった帽子と、手袋と、杖。あれはパットンのものさ。君の会ったあの女――向いの部屋に住んでいるあの女の名前はセァラ・フィールドマンというんだがね、若い女がヒステリーを起しているのを聞いていて、その声はバスルームから聞えてきたに違いない、その娘はバスルームに入っていて男がなかに押しいろうとしていたらしい、というんだよ。屍体は寝室にあって、下着にバスローブをひっかけて、片腕だけ袖を通しているんだ。大きなパン切りナイフの一突きでほとんど瞬間的に死んでいるんだよ。そのナイフは新しいものなんだ。傷は、まさに心臓部を貫いている。むごたらしい殺しで、あたりは血しぶきでいっぱいだった。ドアは両方とも鍵がかかっている。寝室のほうのは内側から掛け金がかかっているんだ。非常階段に通じる窓には鍵がかかっていなくて、ベッドには誰かがその上をわたって非常階段に出たか、または、非常階段から入ってきた形跡があった。
バスルームで警察は、女持ちのハンカチーフを見つけた。手拭いがわりに使ったか、血のなかに落したのでそれを洗い落したかと思われるように、ぜんたいがくじゃぐしゃに濡れているやつなんだ。洗面台のあたりには血がまざった水が散っていた。えらくいそいでやった仕事らしい。女が服や、身体についた血を洗おうとしたらしいんだが、うまく行かなかったような様子に見えるんだな。外側の部屋で警察は例のブラックジャックを見つけたんだよ」
「ちょっと待ってくれよ」メイスンがさえぎった。「そのナイフは新しいナイフだと言ったね。どうして警察にそれがわかったんだ?」
「刃のところにチョークで値段がついていたんだよ。それにね、そのナイフは紙に包んでアパートまで持ってきているんだ。その包装紙は、買ったときに包んだものだということがはっきりしているんだよ。警察はその紙についている指紋をとった。その指紋はあまりはっきりしたものじゃないんでね――大部分が不鮮明なんだ。ドアの内側のノブには指紋がない。誰か拭きとったやつがいるみたいなんだ。外側にはいろいろな指紋がついていて役に立ちそうもないんだ――その警官や、ミセス・フィールドマン、それにきっと君のものもあるだろうし、ほかの連中のもいっぱいついているんだ」
「誰か容疑者は?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「どういう意味だい?」
「部屋を出てくるところを見られたやつはいないのか?」弁護士は聞いた。
ポール・ドレイクは顔にふざけたようなおかしい表情をうかべて彼を見たが、眼はガラスのようにまったく表情というものがなかった。
「どうしてそんなことを訊くんだ?」彼が反問した。
「ただ、こんな場合におきまりの質問だよ」ペリイ・メイスンは言った。
「パトロールの警官がね」と、ポール・ドレイクが言った。「態度の不審な女を見たことを報告しているんだ。テーブルの上に、女たちからかかってきた電話の伝言が二つあってね。もし、ある事情がなかったら、警察としても当然その伝言をもっと重視した筈なんだが」
「その事情って何だい?」弁護士が訊いた。
「君の知っているドクター・ドーレイさ」と、探偵は言った。「彼の車が犯行の時刻に、あのアパートの前に駐車していた。つまり、半|区画《ブロック》以内の場所に駐っていたんだ」
「警察にどうしてそれがわかった?」
「消火栓の前に駐車してあってね。交通巡査が違反であげた。彼は、その車がクローヴァーデイルからきたものだということに気がついたんだな。殺人事件の報告が殺人課に入ると、地方検察庁と連絡をとったんだが、検察庁の頭のきれる野郎が、パットンという名前の出てくるのを扱っているのは、カール・マンチェスターだと思い出したわけさ。そこでマンチェスターをつかまえてみると、はたしてその被害者が同一人物だということ。君がこの事件に関心を持っていること、ブラッドバリーも関心を持っていること、もう一人、ドクター・ドーレイも関心を持っていることなんかがわかった」
「連中は、どうしてブラッドバリーを追求しないんだろう?」メイスンは訊いた。
「こんなにはっきりした手がかりがドーレイのほうにあるもの。連中は、すぐにドーレイの車をあげた巡査を調べたよ」
ペリイ・メイスンは、考え深そうに眼を細めた。
「何かほかには?」彼が訊いた。
「さて」と、ポール・ドレイクが言った。「君の話がちょっとおかしいぞ、という気がするところがこれからなんだよ」
「何だい?」
「ハリデイ・アパートメントは」と、探偵が言った。「居住者に向って、出かけるときは鍵を受付にあずけて行ってくれとうるさく言ってるんだよ。そういう理由で、警察ではあのドアに鍵がかかっているということにえらく頭をひねっているんだ。アパートの居住者はうっかり鍵を持って旅行するようなことがあったら、切手を貼って郵送するように、という印刷物がまわっているんだよ」
「警察はフランク・パットンの部屋の鍵が当人の上着の内ポケットに入っているのを見つけたんだ」と、ドレイクは言葉をつづけた。「パットンはあきらかにドアを開けてから、上着のサイド・ポケットに入れたんだな。内側から鍵を閉めたかも知れないし、あるいは閉めなかったかも知れないね。警察は、閉めなかったという説なんだ。もし閉めたとしたら、鍵をそのまま鍵穴に挿したままにしておくだろうという理由なんだ。連中は、彼が女と会う約束になっていたと見ている。だから、その女が入ってこられるように鍵は開けておいたろうと見ているわけだよ」
「すると」メイスンは言った。「警察は、誰がドアに鍵をかけたと思っているんだい?」
ポール・ドレイクのガラスのような眼は、まったく表情のないままメイスンを見つめていた。その顔には、いかにもこの男の性格を特徴づけるあのふざけきったおかしい表情が凍ったようにはりついていた。
「警察ではね」と、彼は言った。「犯人が出て行くときに鍵をかけたものと思っているんだよ」
「犯人は」と、ペリイ・メイスンが言った。「非常階段から入って、おなじところから出て行ったかも知れないぜ」
「じゃ、誰がドアに鍵をかけた?」ドレイクが訊いた。
「フランク・パットンさ」メイスンは言った。
「それなら、どうしてその鍵を鍵穴に挿したままにしとかなかったんだい?」
「ひょいっと、いつものくせでポケットにしまっちゃったんだよ」
ポール・ドレイクは肩をすくめた。
「だって、そういうことは考えられるだろう」と、ペリイ・メイスンは言った。「内側から鍵をかけて、何気なくポケットにしまうことはよくあるもの」
「俺を相手に議論しなくたっていいじゃないか」と、探偵は言った。「陪審員の前でやるときまでとっておけよ。俺はね、ただあんたと話をしているだけなんだ」
「人が倒れる音がしてから警官がくるまでに、どのくらい間《ま》があったんだい?」
「十分ぐらいだろう」と、探偵は言った。「その女は起きて、服を着ると、エレヴェーターで外に出て警官を見つけ、話をした。そして、警官に調べなければいけないと納得させてアパートにつれてきたわけさ。それからあと、君と話をしたわけだが、そのあと警官が合鍵をどこからか探してきた。何やかやで十五分はかかったろう。だから、君が廊下で警官にはじめて会ったのは十分という見当なんだ」
「十分もあれば、かなりいろいろなことができるね」メイスンは言った。
「血のついたのを洗うなんてことは、とてもできるもんじゃないよ。ずいぶん忙しい仕事だったと思うな」ポール・ドレイクが説明した。
「警察は」と、ペリイ・メイスンが言った。「ブラッドバリーの居場所を知っているのかい?」
「警察がブラッドバリーを、どういう点でも重視するとは思えないね」と、ドレイクは言った。「どこにいるかは知っていないが、もちろんホテルを洗って行けば簡単にわかるさ。カール・マンチェスターは、君を通せば、すぐにでも彼に連絡がとれると思っているよ」
「それで、だが」と、ペリイ・メイスンは言った。「僕としては、ドーレイの名前がまずうかびあがってくるまで、彼の名前は伏せておきたいんだよ。新聞には年配のパトロンがいるというすっぱぬきをやられるより、若い恋人同士だという書きかたをさせてやりたいんでね」
探偵は、うなずいた。
ペリイ・メイスンのデスクの上の電話が鳴った。メイスンは、それに向って眉をひそめた。
「誰か、君がここにきているのを知ってるのか?」彼は、ポール・ドレイクを見ながら訊いた。
探偵は頭をふった。
ペリイ・メイスンは受話器に手をのばし、それから一、二インチばかり離れたところでちょっとどうしようかと迷っているようだったが、不意に手をおろすと受話器を耳にあてて言った。「ハロー、ペリイ・メイスンですが」
女の声が言った。「ミスタ・ペリイ・メイスンあての電報がきております。電話でお読みしましょうか?」
「ええ」ペリイ・メイスンは言った。
「電報は」と、彼女は言った。「市内からうったものです。『彼女ニ何カサセルマエニ彼女ノアリバイを調ベラレタシ』これが本文です」交換手の、猫が咽喉を鳴らすような声が言った。「これにはただMとだけサインがしてあります」
「ありがとう」ペリイ・メイスンは言った。
「そちらにお届けしましょうか?」
「朝になったら、たのみますよ」彼は交換手にそう言って、そのまま受話器を手にした。彼は、人指指でその電話をきった。
「どうも」と、彼はゆっくり言った。「こいつはおかしいな。どうして彼女は電報なんかうってよこすんだろうな、それもあんな電報を」
彼は受話器を持った手を動かして、ボストウィック・ホテル、エクシター九三八二一番のダイヤルをまわした。
探偵は、まるで不注意に見すごすような顔つきをしながら、じっと彼を見つめていた。
「ボストウィック・ホテルでございます」という声が聞えてきた。
「四〇八号室につないでください」彼は言った。
交換手の声がすぐに言った。「四〇八号室のお客さまは、二、三分前にお引き払いになりました」
「ほんとうですか?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「ええ、ほんとうでございます」
「彼女は」と、ペリイ・メイスンは言った。「僕から電話があるのを待っている筈なんですが。部屋を呼んでみてくれませんか?」
「呼んではみますけれど」と、交換手が言った。「どなたもいらっしゃいませんよ。もう、お引き払いになりましたから」
ペリイ・メイスンは数秒待っていたが、やがて、誰も出ないというさっきの通りの返事が聞えた。
彼はまた指先で電話をきると、その指を離して、電話を見つめて立っていた。ベルがいきなり鳴ったときも、彼はまだじっと見つめていた。
「よく電話がかかってくる晩だな」ポール・ドレイクが言った。
ペリイ・メイスンは、受話器の台にかけた指を離して言った。「ハロー」彼は、早口な、神経質な、がさがさした声で話した。
デラ・ストリートの声だった。
「あなたが出てくださってよかったわ、先生《チーフ》。おひとりですか?」
「ポール・ドレイクがいるだけだよ、どうしたんだ?」
「こうなの」彼女は言った。「いまにあなたもわかるけど。刑事が二人、いま帰って行ったところよ。私をしめあげようとしたわ。ずいぶん手荒なのよ、それが」
「何でだい、デラ?」
「私がドクター・ドーレイに電話して、警察が探しているから逃げ出せって通報したというのよ」
「警察がどうして、そんなことを考えたんだろう?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「ねえ」と、彼女は言った。「これは、はっきりのみこんでおいてくださいね。というのは、あの連中、いまごろあなたのところへ行く道中だからよ。今夜、九時十五分から九時半までのあいだに誰かミドウィック・ホテルのドーレイに電話した人間があって、パットンが殺されたこと、ドーレイが容疑者として検挙されようとしていること、彼とマージョリー・クリューンにとって不利な証拠が残っていること、マージョリーが身をかくして、今後しばらく消えていることなどを話したっていうのよ。言い換えれば、彼女は高飛びしたというわけね。それで、ボブ・ドーレイが警察にあげられるようなことになったら、それこそ彼女にとって絶体絶命だというのよ。彼はすぐ当市《ここ》から出て、警官に訊問されないようにしたほうがいいって言ったそうなんです」
ペリイ・メイスンは電話に向って眉をひそめた。
「どうしてそれを、われわれと結びつけたんだね、警察が?」彼は言った。
「それが」と、デラ・ストリートが言った。「女の声だったからですって。ミドウィック・ホテルの交換手がたまたま話を聞いたところ、その話をしている女が、自分をペリイ・メイスンの秘書、デラ・ストリートだと言ったそうです」
ペリイ・メイスンの眼は、凍てついたガラスのように酷薄なものになった。
「なんてことをする女だ!」彼は言った。
「ほんとうよ」デラ・ストリートが言った。「それで刑事が二人、あなたのほうに行く途中なのよ。連中を迎える用意をしていてください」
「ありがとう、デラ」と、ペリイ・メイスンは言った。「君に向って手荒な真似をしたのかい?」
「しようとしたわ」
「で、うまくあしらったの?」
「ええ」彼女は言った。「私は、むっとして、怒ったような顔をして何も答えてやらなかったからそれですんだけど、あなたに対してどんなことをするかは心配だわ、先生《チーフ》」
「どうして?」
「だって」と、彼女は言った。「……私の気持ちは……ご存じでしょう……」
「大丈夫さ」と、ペリイ・メイスンは言った。「君は寝《やす》むんだよ。デラ、その連中は僕があしらっとくよ」
「ほんとうに大丈夫ですの、先生《チーフ》?」彼女が訊いた。
彼は低い、安心させるような笑い声をあげた。
「もちろん大丈夫さ」と、彼は言った。「おやすみ」
受話器をもとにおくと彼はポール・ドレイクのほうをふり向いた。
「さあ」と、彼は言った。「君に考えてもらいたいことが起こったよ。どこかの女がペリイ・メイスンの秘書のデラ・ストリートだといってドーレイに電話をかけた。フランク・パットンが自室で殺された、それにマージョリー・クリューンが捲きこまれていて、警察がマージョリーを捜査している、情勢が好転するまでドーレイも早く市から出たほうがいい、もし刑事が彼の所在をつきとめて訊問したりすれば、マージョリーには悪いことになる、ペリイ・メイスンがマージョリーの弁護を引きうけてドクター・ドーレイが町から出ることを望んでいる、なんて言ったそうだ」
ポール・ドレイクは口笛を吹いた。
「それで」と、ペリイ・メイスンが言った。「刑事が二人ここへやってくるとさ。俺をイタブろうってわけだからね、この事件がどういうふうに発展してきているか、君にも読めるだろう」
「その電話があったのは何時ごろなんだい?」ドレイクが訊いた。
「九時ごろだね――九時十五分までだろう。ドーレイがちょうどホテルに帰ったころに電話があったわけだ」
ポール・ドレイクはじっとペリイ・メイスンを見つめていた。
「そんな時間に、どうして君のオフィスはパットンが殺されたことを知ったんだい? 警察は、ちょうど発見したばかりの時間だよ」
ペリイ・メイスンはおちついて彼の視線をうけた。
「それなんだよ、ポール」と、彼は言った。「刑事が僕に訊こうとしていることの一つさ」
ポール・ドレイクは神経質に時計を見た。
「心配するなよ」ペリイ・メイスンは言った。「刑事にここで君とぶつからせるようなことはしないよ」
「君は」と、ドレイクが訊いた。「ここで刑事たちと会うつもりなのか?」
弁護士の、むっつりした顔は、依然、どことなく断乎としたところがあって、たしかに風雪を凌いできたものを思わせるような無表情さだった。
「ポール」と、彼は言った。「君には率直に言うがね。ここで、いますぐ訊問されるとなると、こいつはまずいんだ」
彼は回転椅子をぐるりとまわして、帽子をまぶかにかぶった。
無言のまま二人は、外の廊下に通じるドアを出た。ペリイ・メイスンが照明を消すと、ドアは二人のうしろでかちりと閉った。
「どこへ行ったらいいかね?」と、ペリイ・メイスンが訊いた。「君のオフィスは?」
ポール・ドレイクはおちつかずそわそわしていた。
「どうしたんだい?」と、ペリイ・メイスンは訊いた。「君は、急に警官がこわくなったのか? 君と僕とは、かなり危ないこともいっしょにやってきた仲じゃないか。今になって僕が天然痘にでもかかっているみたいな顔をするんだな、君は。たかが刑事の、二、三人がやってきて、僕に返事をするつもりのない訊問をしようというだけで、僕が君のオフィスへ行っておしゃべりをしちゃいけないって法はないだろう。もし連中は、君が僕んところにいるのを見たら、こいつはあまりおもしろくないかも知れないが、僕が君んとこにいるのを見つかってもべつに迷惑はかからないぜ」
「そんなことじゃないんだよ」と、ポール・ドレイクが言った。「じつは白状しなけりゃいけないことがあるんだよ。さっき電話があったとき、そいつを言おうとしてたところなんだ」
「白状って?」ペリイ・メイスンが訊いた。
ポール・ドレイクはうなずいて、眼をそらせた。
ペリイ・メイスンはためいきをついた。
「よし」と、彼は言った。「タクシーをひろって、そこいらを乗りまわそう」
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第十章
ペリイ・メイスンは探偵を先にタクシーに乗せた。
「この通りを二|区画《ブロック》ばかりまっすぐに行ってからその一画をぐるぐるまわってくれ」と、ペリイ・メイスンは言った。
タクシーの運転手は不思議そうに二人を見ていたが、やがてギヤを入れた。ペリイ・メイスンは、ポール・ドレイクのほうをふり向いた。
「どうした?」彼は言った。
「妙な立場なんでね」と、探偵は言った。「あんたにわかってもらいたいことがあるんだよ、ペリイ。君を裏ぎるつもりなんてなかったんだ。君に連絡しようとしたんだがね、それができなかった。俺は、俺の直接の依頼人のブラッドバリーに連絡をとったんだが、先方は構わないというわけなんだよ。このことには二百ドルばかり金がからんでいるんだが、俺はその金が欲しかった。事情も、どっちかと言えば平静だったし――」
「これがまたとないチャンスだった、なんて話を無理にしてみせなくてもいいぜ」と、メイスンは言った。「どんどん話してくれよ、何があったか。てっとり早く頼むぜ、いろいろ行かなきゃならないところがあるんだからね、僕には」
「こういうわけなんだよ」と、ポール・ドレイクは早口に言った。「俺はあの殺人事件のいろいろな事実をさぐって、そのすぐあとで俺の事務所にもどったんだ。俺が待っているあいだに、若い女が一人やってきた。いい服を着た、眼つきがちょっと変った綺麗な若い女だったよ。変ったって、ちょっと説明ができないんだがね。俺としては、とくに好きな表情じゃなかったな。パットンが殺されたことを知っている、と言ってね、それで――」
「ちょっと待てよ」と、ペリイ・メイスンが言った。「いったい、そんな時間に、彼女がどうしてパットンの殺されたことを知ってるんだ?」
「俺も知らないよ」と、ドレイクは言った。「俺はその女の言ったとおりを言ってるだけだもの」
「君は訊いてみたのか?」
「ああ」
「何て言ってた?」
「いきなり笑いやがってね、知らせることがあってきたんだから、それを聞けばいいんで質問しないでいいんだ、とさ」
「その女の名前は?」
「自分ではヴェラ・カッターと称していたがね。どこに住んでいるのかは言わない。用のあるときは自分のほうから連絡をとる、俺のほうからは連絡をとろうとするなと言うわけさ。彼女の言うところでは、殺人事件にマージョリー・クリューンが捲きこまれていることも知っているし、マージョリーとは親しくしている、という次第でね、おまけに――」
「ちょっと待った」と、ペリイ・メイスンは言った。「そこんところをはっきりしとこうじゃないか。その女ってのは、年のころ二十四、五、あたたかい茶色の眼で、マホガニーいろの髪をして、日にやけた顔いろで――」
「いや」と、ポール・ドレイクは言った。「セルマ・ベルじゃないんだよ、君が彼女のことを言っているんだとしたらね。セルマ・ベルの顔や何かは、俺も知っているよ。パットンの住所をつきとめるために部下を彼女のところへ張らせておいたんだからね、そうだろう。いや、その女は、年こそ二十四というところだが、まぎれもないブリュネットなんだ。眼は、ぱっちりとして黒いし、手がすんなり長くて、やけに、しなしな動きやがるし、ぬけるほど肌が白くてね、おまけに――」
「脚はどうだい?」不意にペリイ・メイスンが訊いた。
ポール・ドレイクは彼をじろっと見た。
「どういう意味だ?」
「綺麗な脚をしていて、そいつを見せつけたのかい?」ペリイ・メイスンが訊いた。
ドレイクの眼は、じっと考えあぐむように弁護士を見つめているようだった。そのガラスの膜のような眼のうしろに、はげしく燃えさかる火があった。
「おいおい」ペリイ・メイスンは言った。「僕は大まじめなんだぜ」
「なぜだ?」探偵が訊いた。
「われわれがパットンのことに接触すると、全部、綺麗な脚をしていて選ばれた女がからんでくるんだよ。その女たちは、宣伝の目的でうまく|だし《ヽヽ》に使われた」と、メイスンが言った。「ところでね、今、その女をマージョリー・クリューンとじゃなくて、パットンに結びつけられないかなと、そんな気がしたんだよ」
「なるほど」と、ドレイクは言った。「そういえば、綺麗な脚をしてたな。足を組んで、やけにストッキングを見せつけやがった」
「それからどうした」
「この女はね」と、ポール・ドレイクが言った。「マージョリー・クリューンの利益を守るために俺を雇いたいとおっしゃるんだよ。ずいぶんいろいろな内幕を知っているらしかったな。どうして知っているのか俺には言わなかったがね。ドクター・ドーレイってのは、かっとなると何をするかわからないって言うんだよ。つまりパットンがクローヴァーデイルにいるあいだじゅう嫉妬していて、こっちへ出てきたのはマージョリーを救うためじゃなくて、パットンを殺すためだったなんて言ってた」
ペリイ・メイスンは、じっくりポール・ドレイクを見つめていった。
「それで、君はブラッドバリーに電話したのか」彼は訊いた。
「うん、俺はブラッドバリーをホテルでつかまえた。事情を説明して、その契約をしてもいいかと訊いてみた。最初のうちは、いかんというんだよ。自分だけのために働いてもらいたい、そんな女のために働いて報告を出してもらいたくないというわけなんだ。彼女は、そのいきさつを聞いていて、報告は全部ブラッドバリーにするだけでいい、ただ正しいことが行われさえすればいい、自分としては、いかなる報告をするにあたってもそのことを第一に考えておいて欲しいというんだよ」
「そいつを君はブラッドバリーに伝えたんだね?」メイスンが訊いた。
「ああ」
「彼は何て言った?」
「そういうことなら、自分としては事情は納得しよう。もし、こっちがやりたければやってもいいって言ったよ」
「君は、その女がこの事件をどう見ているか、およそのところを彼に話したんだね?」
「うん」
ペリイ・メイスンは、右手の指でタクシーの窓をかるくたたく動作をした。いきなり彼はポール・ドレイクをふり返った。
「それで読めた」彼は言った。
「何が読めた?」
「例のドーレイの車の密告さ」
探偵はだしぬけに驚きのいろをみせたが、すぐにわれに返ってみじろぎもせず、固くなってすわっていた。
「密告だったと、どうしてわかった?」彼は訊いた。
「殺人課の連中が地方検事補と連絡をとったということやなにかなんか、警察のやることにしちゃちょっと手まわしがよすぎるし、やけに気がききすぎているよ」と、ペリイ・メイスンが言った。「形式的な手段以外に、警察が有能なところをみせるというのは、たいていの場合は、何かつかまされたか密告があったかに決まっていることは、君も知ってのとおりさ。さて、ドーレイの車があの近くに駐まっていたことを密告したやつが誰だと思う?」
「ほんとうのことを言うとね」ポール・ドレイクが言った。「――それに、ついでに言っておくがね、ペリイ、君に言わないでおいたのはこのことだけなんだよ――ドクター・ドーレイの車が殺人の行われた時刻に現場近くの消火栓の前に駐まっていたので召喚状を貼られたということを俺に教えたのは、この女なんだよ」
ペリイ・メイスンの眼は、興奮にぎらりと光った。
「その車ってのは」と、彼が言った。「何か変ったところがあるのかい?」
「うん、まあそうだろうね。小型のロードスターだが、装備はすっかりそろっていてね――警笛がいくつもあって、ヘッドライトも二つだけじゃないんだ。ドーレイってのは変った車を乗りまわすのはいい宣伝になると思ってるんだよ。なにしろ、クローヴァーデイルってのは小さな町だし――」
ペリイ・メイスンは、ガラスをたたいて運転手を呼んだ。
「ここでおりるよ」彼は言った。
彼はポール・ドレイクをふり返った。
「君はオフィスに帰るかい、ポール?」
「ああ」
「それで」と、ペリイ・メイスンは言った。「その女は、いま、君のオフィスにいるのかい?」
「うん、君から電話があったときはいたんだがね。外に出るまで、数分、時間がかかっちまった。俺がもどるまで待っていることになっているんだよ」
タクシーの運転手はまがり角に車を寄せると、ドアを開けた。ペリイ・メイスンは歩道におり立った。
「ねえ、ペリイ」と、ポール・ドレイクは言った。「このことは、ほんとうにすまないと思っているよ。もし、それで少しでもよくなるんだったら、二百ドルをあの女に返して、事務所から追い出してやりたいくらいさ。その金が必要なんだが――」
ペリイ・メイスンは彼に向ってにやりとしてみせた。
「ポール」と、彼は言った。「君がほんとうに後悔しているんなら、オフィスにもどったときのタクシー代を払っとけよ」
彼はドアを閉めると、タクシーが左に折れて行くのを見送った。それから彼は、公衆電話のあることを示す小さな、エナメルを塗った看板の出ている終夜営業のレストランにいそいで入って行った。彼は電話にとびついて、ある番号をまわした。
女の声が答えた。「協力探偵社です」
「今夜の当直は誰だい?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「ミスタ・サミュエルズです」
「呼んでくれ」と、ペリイ・メイスンは言った。「こちらは弁護士のペリイ・メイスン――ペリイ・メイスン――彼は僕を知っているから」
すぐに電話をきり換える音がして、サミュエルズの脂っこい声が聞えてきた。「今晩は、弁護士さん。今夜はなにかお手伝いすることでも? |うち《ヽヽ》でもあなたのお仕事をさせて頂きたいと存じまして――」
「ああ」ペリイ・メイスンがぶつりと言った。「ちょっと頼みがあるんだ。僕の仕事をやってくれる気があるんなら、こいつは迅速にことを運んでくれよ。ドレイク探偵社に女が一人いるんだ。いま、ポール・ドレイクと話をしているところだ。二十四、五で、すらっとした綺麗な|くち《ヽヽ》でね、身体つきが人眼を惹く。ブリュネット、眼がすごく黒くて、眉が黒い。きっともうじき、彼の事務所から出てくる筈だ。どこへ行くか、何をするか、ということが知りたい。朝から晩まで眼を離さないでいてもらいたいんだよ。必要なだけ人数をくり出していい。費用のほうは心配しないでいい。報告は郵送しないでくれ。用があったらこっちから電話するよ。気づかれないようにして、すぐかかってくれ」
電話の向うの声がきびきびした実行力を感じさせた。
「二十四、五、すらりとして、ブリュネット、黒い眼。いまポール・ドレイクのオフィスにいるんですね?」
「そうだよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「早いとこ頼んだぜ」
彼は電話を切って、街角に出て、通りにすっと眼を走らせて流しているタクシーのヘッドライトを認めた。彼は手をあげてタクシーを角に呼び寄せた。
「ギルロイ・ホテルまでやってくれ」と、彼が言った。「早くやってくれよ」
通りが混んでいなかったし、交通信号が大部分うまく青になっていたのでギルロイ・ホテルまでかなり早く行った。
「待ってくれ」メイスンが言った。「まだこの車に乗りたいし、さしあたってべつの車をあわててひろうのもたいへんだからね。十分以内にもどってこなかったら、そのまま行っちゃってもいいから」
彼はロビーにさっと入り、眠そうな受付に向ってうなずいてみせると、大股にエレヴェーターに近づいた。
「九階」彼はエレヴェーター・ボーイに言った。
エレヴェーターが九階にとまると、ペリイ・メイスンが言った。「九二七号はどっちだね?」
エレヴェーター・ボーイはその廊下を指さしてみせた。
「非常階段の照明のついている側です」彼は言った。
ペリイ・メイスンは大股に廊下を歩いて行った。彼の足が絨毯にかるくきしんだ。九二七号室は、エレヴェーター・ボーイが教えてくれた場所にあった。九二五号室はどこかと、彼は廊下の反対側を見まわした。彼は九二五号室のドアをたたいた。
欄間窓《トランサム》は開いていた。ドアはうすい板だった。ペリイ・メイスンにはベッドのスプリングがきしむ音が聞えた。彼は、またノックした。しばらくすると、素足でフロアをばたばた歩いてくる音がして、すぐにドアのうしろで人の気配が動き、男の声が言った。「誰です?」
「開けたまえ」ペリイ・メイスンはあらあらしく言った。
「何の用です?」
「話がしたいんだ」
「何の話です?」
「開けたまえ、と言っているんだよ」メイスンが言った。
掛け金が外れてドアが開いた。パジャマを着た男が、いかにも眠そうな眼をして、顔に驚いたような表情をつけて、照明をつけると、まぶしそうに弁護士に向って瞬《まばた》きをした。
ペリイ・メイスンは部屋を横ぎって窓に寄った。風が吹きこんでいて、レースのカーテンが揺れていた。彼は窓を閉めると、部屋をさっと見まわしてからベッドを指さした。
「ベッドにもどりたまえ」と、彼は言った。「そこからでも話はできるよ」
「どなたです?」男は訊いた。
「弁護士のペリイ・メイスンだよ」メイスンは言った。「知っているかね?」
「ええ、あなたのことは何かで読んだことがありますよ」
「僕が来ると思っていたかね?」
「いいえ、なぜです?」
「ただ、ちょっとそんな気がしてね。今夜、七時からあと君はどこにいた?」
「それがあなたに何の関係があるんです?」
「あるんだよ」
「あなたの用件は何です?」男は訊いた。
ペリイ・メイスンは彼をじっと見まもった。
「君も知ってるだろうと思うがね」と、彼は言った。「セルマ・ベルが殺人の嫌疑で逮捕されて、告発をうけているよ」
「逮捕ですって?」彼は言った。
「ああ」
「いつです?」
「そんなに前のことじゃない」
「いや」と、男は言った。「そんなことは知りませんでした」
「君はジョージ・サンボーンという名前だね?」
「ええ」
「今夜、セルマ・ベルといっしょだったのか?」
「ええ」
「いつ?」
「七時十五分か七時半ごろから九時ごろまで」
「どこで彼女と別れた?」
「彼女のアパートで――フォクナー・ストリート九六二の――セント・ジェイムズ・アパートです」
「なぜ、そんな時間に彼女と別れたんだね」
「喧嘩したんですよ」
「何のことで?」
「パットンという男のことでした」
「彼女が殺したという嫌疑がかかっているのはその男なんだ」メイスンは言った。
「何時にその殺人が行われたんですか?」サンボーンは言った。
「八時四十分ごろだよ」
「彼女がやった筈はありませんよ」
「確かかい?」
「ええ」
「彼女が君といっしょにいたとは証明できるかい?」
「できると思います」
「どこへ行って、何をした?」
「七時二十分ごろ出かけたと思いますが、映画でも見ようと思ったんです。二本立のあとのやつを見ようと決めました。モグリの酒場に行って、そこでしばらく話をしていたんですが、喧嘩になりました。二杯ばかり飲んだのですが、そのせいでかっとなったんだろうと思います。僕はパットンのことを怒ったんです。あいつのせいで彼女は堕落しているんですよ。あいつは、彼女の肉体のことしか考えないんです。彼女は脚のコンテストで入賞したんですが、それ以来あいつはことごとにそればかり言いましてね。あいつに言わせると、まるで脚だけが彼女の身についた美点みたいなんですね。彼女はコーラス・ガールで歌を歌ったり、ある絵描きのモデル女になったり、宣伝用のカレンダーに脚の写真を出したりするくらいで、うだつがあがらないんですよ」
「そういったことで喧嘩したの?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「ええ」
「それで、君はここに帰ってきたのかい?」
「ええ」
「その酒場にいた誰かを君はおぼえているかね?」
「いいえ」
「その酒場の場所は?」
サンボーンの眼が伏せられた。
「飲み屋に迷惑はかけたくないですね」彼は言った。
ペリイ・メイスンの笑いは陰気なものだった。
「そんなことは心配しないでいいよ」と、彼は言った。「酒場は酒を飲ませるのが仕事じゃないか。ああいった場所は、ちゃんと用心のために金を積んでいるよ。これは殺人事件なんだぜ。そのモグリの酒場はどこにあるんだ?」
「四十七町目の、エルム・ストリートから折れてきたところですよ」
「そこのドア・マンを知っているかい?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「ええ」
「君をおぼえているかね?」
「そう思いますが」
「給仕は知っているの?」
「ええ」
「給仕を知っているのかい?」
「とくに給仕はおぼえていませんね」
「そこへ行くまえに飲んでいたのかい?」
「いいえ」
「そこへ行って、まず何を頼んだ?」
「僕たちはカクテルを飲みました」
「どんな?」
「知りません。ただのカクテルです」
「何ていうカクテル? マーティニ? マンハッタン? ハワイアン……?」
「マーティニです」
「二人ともマーティニかい?」
「ええ」
「それから何だった?」
「もう一杯ずつ飲みましたよ」
「それから?」
「それから食べるものをとって――何かのサンドウィッチでした」
「何のサンドウィッチ?」
「ハム・サンドウィッチでした」
「二人とも、ハム・サンドウィッチを食べたのかね?」
「ええ」
「それから何を?」
「ハイボールにかえたと思います」
「ライかね、スコッチか、それともバーボンかね?」
「ライです」
「二人ともライ?」
「ええ」
「ジンジャー・エールで?」
「ええ」
「二人ともジンジャー・エールで?」
ペリイ・メイスンはがっかりして吐息をついた。彼は椅子から立ちあがって、ぞっとしない顔をした。
「こんなことくらい気がついてしかるべきだったな」彼は言った。
「どういう意味です?」サンボーンはきり返した。
「今夜、僕が電話する前にセルマが君に入れ智慧してあったことは疑いがないね」と、メイスンが言った。「救急病院からだと言って電話したとき、君はうまくテストに答えたな。ところが、いまの君の話は小学生みたいじゃないか」
「どういうことですか、それは?」
「だってさ、二人ともおなじものをとったというオハナシだよ。二人ともマーティニだった。二人ともハム・サンドウィッチ。二人とも、ライ・ハイボール、ジンジャー・エール。殺人事件のアリバイを立てるにしては、君にはまた、何とこころ優しい証人がいたもんだね!」
「しかし、僕はほんとうのことを言ってるんですが」サンボーンが言った。
メイスンの笑いは、ぞっとしないものだった。
「セルマ・ベルが警察に何て言ったか知っているのか?」彼は訊いた。
サンボーンは頭をふった。
「連中は、飲んだもののことを彼女にすっかり訊いたんだ」彼は言った。「彼女はね、モグリの酒場へ行って、君がマンハッタンを、彼女がオールド・ファッションを飲んだ。そこへ行く前に二人で――夜食をとった。そこで君は何も食べなかった。葡萄酒を一本、グラスを二つもらって、それを飲み、そのあとで喧嘩して別れたって言ってるんだよ」
サンボーンは、もじゃもじゃの髪の毛に指をつっこんだ。
「僕は知りませんでした」と、彼は言った。「飲んだもののことをこんなに訊かれるなんて」
ペリイ・メイスンはドアに向って歩いて行った。
「電話をかけちゃいけないよ」と、彼は言った。「朝まではね。わかったかい?」
「ええ、わかりました。でも僕は電話をかけて――」
「言ったことは聞いたろう」と、メイスンがきめつけた。「朝までは電話を使うんじゃないぜ」
彼は、ぐいっとドアを開け、うしろ手にどしんと閉めて、エレヴェーターに向って狭い廊下を歩いて行った。彼の肩は、いかにも落胆したような恰好でかるく前に下っていた。しかし、顔はどこまでも無表情だった。彼の眼は疲れていた。
エレヴェーターのケージが、上にあがってきてとまった。ペリイ・メイスンは乗りこんだ。
「おめあての人はいましたか?」エレヴェーター・ボーイが訊いた。
「うん」
「もし、あんたにその気があれば」と、ボーイがはじめた。「あたしにちょいとこころあたりが――」
「いや、そんなことはいらないよ」ペリイ・メイスンはほとんど粗野なくらいの語気で言ったが、やがてちょっと間《ま》をおいて、うす気味悪いヒューマアをこめてつけ加えた。「あんたに頼めることならいいんだがね」
エレヴェーター・ボーイは、ケージをロビーにとめて、ペリイ・メイスンがはっきりした目的を持って大股に歩き出すと、うしろ姿を不思議そうに見送った。
「イースト・フォークナー・ストリート九六二――セント・ジェイムズ・アパートメントにやってくれ」ペリイ・メイスンは、待たせておいたタクシーのドアをぐいと開けると、その声に疲労のかげを宿しながら言った。
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第十一章
ペリイ・メイスンは、セント・ジェイムズ・アパートメントの廻転ドアを通ってロビーに入った。黒人のボーイが脚を開けて受付にすわっていた。彼はいびきをかいているのだった。
弁護士は、静かに受付とエレヴェーターの前を通りぬけて、階段に出た。ゆっくり、重い足どりで、三段ずつ休まずに階段をあがって行った。彼はセルマ・ベルの部屋のドアを、軽く指の関節でノックした。三度目のノックで、ベッドのきしむ音が聞えた。
「開けてくれ、セルマ」彼は言った。
彼女がドアに近づいてくる音が聞えて、ボルトが外されると、セルマが、驚いた大きな眼をして彼を見つめながら立っていた。
「どうしたんです?」と、彼女は訊いた。「何か悪いことがあったんですか?」
「いや、べつに」と、彼は言った。「ちょっと確かめることがあってね。警察のほうはどうなった?」
「コートにも帽子にも全然気がつきませんでしたわ」と、彼女は言った。「ここにきて、フランク・パットンと約束があったことをあたしに訊きましたわ。彼が死んだことを伏せているので、あたしも知らないことにしましたわ。明日の朝の九時に会う約束があるって言っといたんです。友だちのマージョリー・クリューンもおなじ時間に行くことになっているって。このところマージョリーには会っていない、どこに泊まっているかも、どうやって連絡をしたらいいかも知らないって言いました」
「それで、どうなったの?」彼は訊いた。
「例の、白いコートと帽子が向うの眼にとまるようにと思って、歩きまわったんです」と、彼女は言った。「でも、まるで誰もそんなことに注意を払ってなんかいないみたいでしたわ」
ペリイ・メイスンは、慎重に眼を向けた。
「どうしてか教えてあげよう」と、彼は言った。「連中は、パットンの部屋のテーブルの上にあった伝言を見たからここへやってきたんだよ。君にあたって確かめようとしたわけさ。連中は、事件を発見した警官とはたいして話をしていなかったんだな。あとになって話をするだろうし、誰か白いコートと帽子のことを思い出すやつがいて、またやってくるよ」
「そうでしょうか?」彼女は訊いた。
彼は、むっつりうなずいてみせると、じっと彼女を見つめながら、立っていた。
「君のアリバイのほうは心配ないのか?」彼は言った。
「ええ、心配ないわ」と、彼女は言った。「アリバイは大丈夫よ。現場にいなかったって言ったでしょう。それは嘘じゃないわ」
「マージイのことはどのくらい知っているの?」彼は訊いた。
「格別よく知ってはいないわ。だって、知りあってからまだ二週間ばかりなんですもの。あたし、あの子にすっかり同情しちゃって、あたしにできることならどんなことでもしようと思ったのよ」
「自分の身を危険にさらしてまで、彼女を殺人事件の罠から救い出すことはないだろう?」
セルマ・ベルは頭をふった。
「殺人なんていやよ」と、彼女は言った。「あたしは願いさげだわ」
「パットンの部屋にハーコート六三八九一のマージイに電話するように、という伝言があったんだよ」と、彼は言った。「その番号がここなんだ。僕は、どうして刑事たちが――」
「あら、その説明はしましたわ」と、彼女は言った。「六時ごろ、あたしは出かけていたんだけど、マージイが訪ねてきたらしく、ドアの下から彼女の置手紙が入っていた、って言ってやったんです」
「連中はその手紙を見たいって言ったの?」
「ええ、そうです」
「君は何て言った?」
「紙入に入れたんだけど、べつにとっておく気はなかった、破ってしまったけど、どこで破ったか思い出せない。あたしはボーイ・フレンドといっしょにあるモグリの酒場に行ってた、って言ってやったけど」
「その説明で連中は納得したのかい?」
「ええ、あたしには全然関心がないみたいでした。マージイに関心があってマージイの脚に興味があって何か知りたがっていたようです。彼女が『幸運の脚の女性』って呼ばれるのを聞いたことがあるかって、私に訊きましたわ」
「君は何て言った?」
「ええ、もちろんよ、って言いましたわ」
「君がパーカー・シティで入賞したことは、連中、知らなかったのかい?」
「ええ、あたしのことはあまり知らないんですね。フランク・パットンとはどの程度の知りあいかって言うんで、ほとんど知らない、マージイを通じて知りあったんで、マージイに会う約束であそこへ行くことになっている。パットンはあたしたちに仕事を世話してくれることになっているんだ、って言ってやりました。行ってはいけない理由でもあるんなら、あたしは行かなくてもいいんだって言ったのよ。そうしたら、しばらくもさもさしていたと思うと、最後に、行っちゃいけない理由というのはパットンが死んだからだって教えてくれましたわ。あたしがどういうふうにうけとるかと思って、連中はあたしをじっと見てました」
「君はどういううけとりかたをした?」彼は訊いた。
「べつに驚くことはないわ。心臓が弱っているということは聞いていたし、ずいぶん無理な生活をしていましたから、って言ってやったんです。そうしたら、殺されたんだって言うんです。あたしは連中をじっと見つめて『まあ!』って言ったきり、ベッドに腰をおろしちゃったんです。眼を大きく開けて『明日の朝、会う約束だったのに! 何てことでしょう! そんなことを知らないでいて、あのひとの部屋に行ったらどうなったんでしょう……』って言ったんです」
「そのとき連中は何か言ってたかね?」
「いいえ、あたりを見まわして出て行きましたわ」
「それで、君は例のコートを着て、例の帽子をかぶっていたんだね?」
「ええ」
ペリイ・メイスンはチョッキの袖ぐりに親指をかけて、室内の絨毯を敷いた部屋をしっかりした足どりで行ったりきたりしはじめた。セルマ・ベルはナイトガウンにキモノをひっかけていた。彼女は、素足の爪先に眼を落して、それをこちょこちょと動かしてみせた。
「足が冷たくなってきたわ」と、彼女が言った。「何かはいてきます」
彼は、彼女に向って頭をふった。
「服を着るんだ」彼は言った。
「どうして?」彼女が訊いた。
「ちょっとね」と、彼は言った。「行ってもらいたいところがあるんだよ」
「どうしてですの?」
「警察のためだよ」
「行きたくないわ、そんなの」彼女が言った。
「行ったほうがいいと思うね」
「だって、そんなことをするとあたしがまずく見えるわ」
「君にはアリバイがあるんだろう?」
「ええ」彼女は、ゆっくりと、躊躇のいろをみせて言った。
「それなら」と、彼は言った。「べつに構わないじゃないか」
「でも、アリバイがあるんなら、出かける必要はないでしょう?」
「あらゆることを考慮した上で、やはり行ったほうがいいと思うんだがね」
「マージョリーのためにいい、って意味なの?」
「たぶんね」
「マージョリーのためにいいんなら」と、彼女は、すぐに心を決めるように言った。「あたし、行きますわ。彼女のためならどんなことでもするつもりよ」
彼女はベッドの枕もとにある読書用のスタンドをつけて、キモノの前をかきあわせると、じっとペリイ・メイスンを見つめていたが、やがて言った。「いつ出かけるんですの?」
「すぐにだよ」と、彼は言った。「君が服を着次第ね」
「どこへ行くんです?」
「いろいろなところだよ」彼は言った。
「それが何かの役に立つんですか?」
「そう思うね」
「あなたは、あたしが行くところをこれから選ぼうって言うの?」
「そうだよ」
「どうしてなの?」
「いつでも君をおさえておきたいからね」
「マージョリーと話したんですか?」彼女は訊いた。その眼は大きく見開かれて、いかにも潔白な表情をたたえた、あたたかい率直さを彼に向って強調するようだった。
「君は?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「まあ、とんでもない」と、彼女は、いかにも驚いたような調子で言った。「むろん、話なんかしませんわ」
ペリイ・メイスンは不意に足をとめた。両脚を開いたまま立って、相手をたたきつけるように顎をぐっと前に張った。肩の筋肉におしかぶさっていた疲労をふり落とすと、そのおちついた眼に暗い光をたたえて、じっと彼女を見つめた。
「嘘をつくのはよしなさい」と、彼はあらあらしく言った。「マージョリー・クリューンがここを出て行ってから、君は彼女と話をしているんだよ」
セルマ・ベルの眼が大きく見開かれて、傷つけられたようないろをうかべた。
「まあ、ミスタ・メイスン!」彼女は咎めるように叫んだ。
「そんな芝居はよせ」と、彼は言った。「僕が彼女と話をしたあとで、君はマージョリー・クリューンと話をしているんだ」
彼女は、黙って否定するように顔をふった。
「君は彼女と話をしているんだ」と、ペリイ・メイスンはあらあらしく言った。「それで、君は僕と話をしたなんて彼女に言ったんだ。僕が彼女に当地《ここ》を立ち去るようにと言っていた、とかなんとか、そんなようなことをね。君は彼女に当地《ここ》を立ち去ったほうがいいなんて言った。とにかく彼女が逃げ出すようになることを言って聞かせた」
「言いませんよ!」と、彼女はかっとなった。「そんなことは言わなかったわ。彼女のほうがあたしに――」
「ああ」と、ペリイ・メイスンは言った。「彼女のほうが君に何とおっしゃったのかね?」
セルマ・ベルは、眼を伏せた。しばらくして彼女は低い声で言った。「この市からひきあげるって言ったんです」
「行先は言ったかい?」
「いいえ」
「いつ発つか言ったか?」
「真夜中に発つって」セルマは言った。
ペリイ・メイスンは時計を見た。
「四十五分ばかり前か」彼は言った。
「ええ、そうね」
「その話をしたのは何時ごろ?」
「十一時ごろだったと思います」
「どこにいるか言ったかい?」
「いいえ、出発しなければいけないって言ってましたわ」
「そのほかに何か言ってたかい?」
「あたしにお礼を言っただけです」
「何のお礼?」
「彼女の服を着て、救い出したことの」
「僕にことづけか何かは?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「いいえ、ホテルの部屋に閉じこもっているようにって言われたけれど、どうしても言われたとおりにするわけにはいかない事情ができてしまったんだって言ってましたわ」
「どういう事情になったか言わなかった?」
「ええ」
「ほのめかすようなこともしなかった?」
「ええ」
「君は」と、ペリイ・メイスンが言った。「嘘をついているね」
「いいえ、そんなことはありません」彼女は言ったが、眼をあわせようとはしなかった。
ペリイ・メイスンは、むっつりとこの若い女を見おろしていた。
「僕の秘書がデラ・ストリートという名前だっていうことをどうして知った?」彼は訊いた。
「知りません」
「いや、君は知っているんだよ」と、彼は言った。「君はドクター・ドーレイに電話して、デラ・ストリートになりすました。ペリイ・メイスンの秘書のデラ・ストリートだが、当市《ここ》から逃げたほうがいいって言ったんだよ、君は」
「そんなこと、言いませんわ!」
「君は電話をした」
「しません!」
「彼がどこに泊まっているか知っているかい?」
「マージョリーがそのひとの名前を言うのは聞いたことがあります。どこかのホテルだったような気がしますけど――たしか、ミドウィック・ホテル、だったと思いますわ」
「そうだよ」と、メイスンは言った。「かなり記憶力があるんだね」
「そんなことであたしを非難するなんて!」彼女は不意にかっとなって、眼に怒りをたたえて彼を睨みつけた。「ドクター・ドーレイなんてひとに電話はかけなかったわよ」
「彼のほうから君に電話をかけてきたのか?」
「いいえ」
「彼から手紙でもきたのか?」
「いいえ」
「マージョリーは彼のことを何か言ってたかい?」
彼女の眼が落ちた。
「ドクター・ドーレイはマージョリーを愛していたのか?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「そうでしょうね」
「彼女は彼を愛していたのか?」
「存じません」
「彼女はブラッドバリーが好きだったのか?」
「存じません」
「彼女は自分の問題を君と話しあったかい?」
「どういう問題ですの?」
「恋愛問題さ――誰を愛しているのか言わなかったかね?」
「いいえ。あたしたち、そんなに親しくはなかったんですもの。たいていはクローヴァーデイルのことや、フランク・パットンのおかげで落ちこんだ苦しい事情のことなんかを話していましたわ、クローヴァーデイルに帰るのがこわい、恥ずかしいし、顔むけができないって」
ペリイ・メイスンは化粧室のほうに向ってうなずいた。
「服を着なさい」彼は言った。
「明日の朝にするわけにはいきませんか?」
「いや」と、彼は言った。「警察が今夜にもやってくるかも知れないんだよ」
「でも、あなたはあたしに警察と話をさせようとなさったと思いますけど。あたしが、あの白いコートを着て、あのアパートから出てきて警官にぶつかった女の子だと思わせようとしていたくせに」
「気が変ったんだよ」と、メイスンは言った。「服を着なさい」
彼女は立ちあがって、化粧室に二歩ばかり寄って行ってから不意に彼に顔を向けた。
「一つだけ言っとくことがあるわよ、ペリイ・メイスン」彼女はふるえ声で言った。「あたし、あなたは信用できる人だと思っているの。あなたは自分の依頼人のためなら手をつくす人だとわかったわ。あたしがこんなことをする理由は一つだけよ、マージョリーのためだからよ。あたし、あの子が潔白な扱いをうけて欲しいと思っているわ」
メイスンはむっつりうなずいてみせた。
「それは心配しないでいいよ」と、彼は言った。「服を着なさい」
セルマ・ベルが身支度をしているあいだ、ペリイ・メイスンは、また室内を行ったりきたりしはじめた。彼女がすっかり支度をして、小さなスーツケースを手にして出てくると、ペリイ・メイスンは時計に眼をやった。
「君は」と、彼は言った。「朝食はどうする」
「コーヒーを飲むだけにします」彼女は言った。
メイスンは彼女の腕をとると、軽いスーツケースを自分の手にとった。
「さあ行こう」彼は言った。
二人はアパートを出た。ロビーにいた黒人は、二人が出て行くとき眼をさました。彼は、好奇心にかられたように眼をまるくしてじっと見送ったが、彼の視線をぼんやりしたものに見せるような、はっきりとしない、眠そうな表情が顔にはりついていた。
メイスンは、タクシーに手をふった。
「この通りをまっすぐやってくれ」と、彼は言った。「それから、一番手近に開いているレストランの前にとめて、そこで待ってくれ」
二|区画《ブロック》も行かないうちに運転手はレストランを見つけた。ペリイ・メイスンはセルマ・ベルをエスコートしてレストランに入り、自分のぶんにハム・エッグスを注文したが、彼女が頭をこくりとさせたので、おなじものを二つ頼んだ。給仕がカウンターの上を、水を入れた厚いグラスをさっとすべらせてきて、ナイフとフォークをおいた。
ペリイ・メイスンは、突然、あっという表情をした。
「紙入れが!」
「どうしたんですの?」
「失くなった」と、彼は言った。「君の部屋におき忘れたらしい」
「そんなことはないでしょう」と、彼女は言った。「お出しにならなかったわよ、そうでしょう」
「出したんだ」と、メイスンは言った。「ある番地を探したんだ、あのなかに僕の名刺が入っているんだ。僕があそこにいたのを警察に知られるのはまずいな。鍵をかしてくれ。すぐ行ってとってくるから」
「あたしも行きますわ」彼女は言った。
「いや」と、彼は言った。「君はここに待っていてくれたまえ。もうあのアパートのまわりをうろうろされたくないんだよ。警察がいつやってくるかわからないんでね」
「もし、あそこであなたが見つかったら、どういうことになりますの?」
「君を探してるところだと言うさ」
「だけど、鍵のことは?」
「誰もやってこないことを確かめてからでなければ、僕はうかうか入らないよ」
彼女は、部屋の鍵をわたした。ペリイ・メイスンは給仕の視線をとらえた。
「ハム・エッグスは一つにしといてくれ」と、彼は言った。「それからコーヒーをたくさんだよ。もう一つは、僕がもどってからにしてくれ」
彼はいそいで大股にレストランを出ると、待たせてあったタクシーの運転手に言った。「大至急、セント・ジェイムズ・アパートにもどってくれ」
運転手はみごとにターンしてスピードをあげた。あっという間に彼は、人通りの絶えた道路をもどってアパートの前に車をとめた。ペリイ・メイスンはロビーをかけぬけた。こんどは、あの黒人のボーイは興味を持った眼で彼を見つめていた。メイスンはエレヴェーターで三階まであがって、あの部屋のドアを開けて、照明のスウィッチをつけ、ドアをうしろで閉めるとボルトを内側からかけて、外側からあかないようにして、いそいで部屋のなかを探しはじめた。はじめからついている化粧箪笥の抽斗《ひきだし》や、そのほかのそういった場所は探さなかったが、戸棚の暗い隅のあたりに眼を走らせた。わずか一、二秒かかっただけで、戸棚の隅に服がいっぱいあってかくされている皮革製の帽子箱が見つかった。
メイスンはその帽子箱をひっぱり出してさっと蓋を開けた。
その箱にはスカート、ストッキング、白い靴などが入っていた。みんな洗ってあるらしく、まだじっとりと湿っていた。その湿りは帽子箱にしみこんでいて、蓋をとったとき蒸気のような匂いが立ちのぼった。
ストッキングには汚れはなかったが、スカートには一、二カ所汚れたところが残っていて、靴にはまぎれようもなく茶褐色じみた汚れがついていた。
ペリイ・メイスンは帽子箱の蓋を閉めると部屋を出た。
「あなたはここにお住いですか?」受付の黒人のボーイが訊いた。
ペリイ・メイスンは、円い一ドル銀貨をひょいと受付のデスクにおいた。
「いや」と、彼は言った。「友だちの部屋を昼間借りただけだよ」
「何号室です?」黒人のボーイが訊いた。
「五〇九号室」と、ペリイ・メイスンは言って、それ以上質問される前にさっさとロビーの外側のドアを通りぬけた。彼はその帽子箱を運転手にわたした。
「さっきのレストランにもどってくれ」と、彼は言った。「それから、ユニオン・ステーションに行って、カレッジ・シティまで切符を買ってこの帽子箱をチッキにして、もどってきたらあの若い女の人に気づかれないようにして、切符とチッキの札を僕にわたしてくれ。わかったね?」
運転手はうなずいた。
ペリイ・メイスンは、二十ドル紙幣をわたした。
「おつりは君にやるよ」彼は言った。
メイスンは、レストランにもどって行った。セルマ・ベルはハム・エッグスの皿から眼をあげた。
「見つかりました?」彼女は訊いた。
彼はうなずいた。
「椅子にすわっていたときに」と、彼は言った。「ポケットから落ちたんだね。見つかってひと安心さ。すぐ見つかるところにあった。警察がひろったりしたら、僕は君のアパートには行かなかったことになっているんだから厄介なことになっていた筈だよ」
給仕は調理場に通じる仕切りの、半円形にぬいてある窓から頭を出して言った。「ハムはあがったから卵をのせてくれ」
ペリイ・メイスンはスタンドに腰をおろして、給仕が出したコーヒーをかきまわした。
「誰かきてました?」彼女が訊いた。
「いや」と、彼は言った。「しかし、いつくるかわからないからね」
「かなり確信がおありのようね」
「そうだよ」
「ねえ」ハムのひときれを口の途中まで持って行った手をとめて、彼女は言った。「どんなことがあっても、あたしたちはマージョリーを守ってあげなければいけないのよ」
ペリイ・メイスンはそっけなく言った。「そのために僕は金をもらっているんだ」
ちょっと沈黙が流れた。給仕は、ペリイ・メイスンにハム・エッグスを運んできた。彼はそれにかぶりついて、セルマ・ベルが食べ終わったときには彼もすっかり平らげてしまっていた。
「さあ、これでいいよ。ねえさん」と、彼は言った。「これから出かけるんだ」
「どこへ行くのか教えて頂けます?」
「そんな遠い場所じゃないよ」
「明日と明後日、あたし、モデルになる仕事の約束が二つあるんですけど」
「断るんだね」
「お金がないんだもの」
「金はやるよ」彼は言った。
コーヒーをすませて、ナプキンで口を拭くと、彼は彼女に眼をやった。
「もういいね?」彼は訊いた。
「いいわ」彼女は言った。
彼はセルマの腕をとって、レストランのドアに向って行った。二人が歩道に出たとき、ちょうどタクシーが寄ってきた。
「さあ旦那」運転手は掌《てのひら》を下にして腕をのばしながら言った。
ペリイ・メイスンは切符とチッキの札をうけとった。
「何ですの、それ?」セルマ・ベルは疑わしそうに訊いた。
「運転手に頼んで使いに行ってもらったんだよ」彼は言った。
「あと走らせるぶんくらいおつりが残っているかい?」メイスンは運転手に訊いた。
「ええ、ありますよ、少しおおいくらいですがね」運転手はそう言って、いい気持ちそうにつけ加えた。「あたしにはおかげで結構な旅行ができるくらいでさ」
メイスンは、セルマ・ベルをひたと見つめた。
「君を信用してもいいね?」彼は訊いた。
「マージョリーのためなら、信用してくださっていいわ」
メイスンは運転手からうけとった列車の切符を、チョッキのポケットから出して彼女にわたした。
「これはカレッジ・シティまでの片道切符だよ」と、彼は言った。「そこへ行って、どこかのホテルに泊まるんだ。本名でね。モデルの仕事ということで行くんだからね、もし誰かが調べようとしても、それ以上のことはしゃべらないことにするんだ。もし危なくなってきたら、僕に連絡をするんだよ、僕が指図するまでは何も言ってはいけない」
「警察の手がのびたらという意味なの?」
「うん」と、彼は言った。「警察の手がのびたらね」
「こんな夜遅く、汽車があるかしら?」
彼は時計を見た。
「あと二十分で出る列車が一本ある」と、彼は言った。「それに間にあうだろう」
彼は運転手にスーツケースをわたすと、手をかしてセルマ・ベルを車に乗せた。
「さようなら」と、彼は言った。「気をつけてね。僕のオフィスに電話をかけるか、電報をくれたまえ。君の泊まるホテルの名前を知らせて欲しい。へんな気を起こすんじゃないよ」
「へんな気?」彼女が訊いた。
「この世がいやになってあばよなんていけないよ」と、彼は言った。「僕は、いつでも連絡がとれるところに君をおいときたいんだ」
彼女は手をさしのべて彼に微笑してみせた。
「マージイのためなら」と、彼女は言った。「あたし、何でもやるわ」
ペリイ・メイスンは彼女の手をとった。指先が氷のように冷たかった。運転手が運転台に入った。
「誰にも、あたしの居場所を言ってはいけないの? つまりジョージ・サンボーンに、ですけれど?」
ペリイ・メイスンは父親のような微笑をうかべて頭をふった。
「いけないね」と、彼は言った。「あとになってびっくりさせてやるのさ――たいへんな驚きを用意しとくわけなんだ」
タクシーのエンジンがうなった。ペリイ・メイスンはドアを閉めて、タクシーが角にぼうっと消えて行くまで見送っていた。それからレストランにもどった。
「電話は」と、彼は言った。
給仕は、レストランの一番奥にある有料電話を指さしてみせた。
ペリイ・メイスンは大股に寄って行って、硬貨を入れて協力探偵社の番号をまわした。交換手が出ると、「メイスンだがね。まだ、そっちにいたらミスタ・サミュエルズを呼んでくれたまえ」と言った。
すぐにサミュエルズの親切そうな声が響いてきた。
「メイスン? おっしゃるとおりに手配しましたよ。例の場所に行ってみましたが、しばらく女は出てきませんでした」
「彼女は、いま、どこにいるんだ?」メイスンは訊いた。
「十分ほど前に、うちの連中が電話で報告してきましたよ。あなたから電話があって三十分ほどして、その女はポール・ドレイクのオフィスを出ました。彼女はモンマート・ホテルに行ったのですが、そこでミシガン州デトロイトのヴェラ・カッターという名前で部屋をとったのです。番地は記載しなかったそうです。そのホテルには昨日の夜早く、部屋をとったそうですがね。六時半ごろですな。それでちょっとおかしいことがあるんですが、彼女のトランクはひどく新しいもので、E・Lという頭文字が入っているんですよ。それに彼女の持っている華美なハンドバッグにも銀メッキをした花文字が入っているんですが、それもE・Lなんです。この意味はそちらでおわかりになりますか?」
「さしあたっては、何のことかわからないね」と、ペリイ・メイスンは言った。「しかし、ずっと尾《つ》けていてくれ」
「報告のほうはそちらから電話してくださいますか」
「うん。報告するときには、あらかじめ相手をよく確かめてくれ、こっちから電話があったとき一分ばかり話をして、相手が僕の名前を使っているべつの人じゃないことを確かめるようにしてくれ。それから、一刻も彼女から眼を離さないでくれよ。彼女に関するいっさいを知りたいんだからね。ほかにも二人ほどつけたほうがいいし、もしホテルに誰かが訪ねてきたら、こっちのほうも尾《つ》けてすっかり洗ってもらいたいんだ。ところで、電話のほうはどうだい? 盗聴できるようにモンマート・ホテルの交換手に|わたり《ヽヽヽ》がつけられるかね?」
「うちの者が一人、いま、あたってみてるんですが」と、サミュエルズが言った。「もちろん、かなり難しいと思いますが――」
「むずかしくてもやってみてくれよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「この世のなかは、どっちをみてもむずかしいことばかりだからね。僕だって、むずかしいことをたくさんかかえこんでいるんだ。彼女の電話を聞いといてくれ、どういう内容か知っときたいんだから」
「わかりました、ミスタ・メイスン」と、サミュエルズが言った。「できるだけ手をつくしてみましょう」
ペリイ・メイスンは右手の中指で電話をきると、ポケットをさぐってもう一つ硬貨を出して、ドレイク探偵社を呼び出した。
ドレイクが出た。
「そんなとこにすわって電話を待ってるのか?」弁護士が訊いた。
ドレイクは笑った。
「事態に新しい変化が起ると、たいてい君から電話がかかることになっているんでね」彼は言った。
「何か報告は?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「報告することはたくさんあるよ」と、ポール・ドレイクは言った。「もう自宅に帰って寝てもいいよ、ペリイ」
「どうして?」
「この殺人事件は全部解決したよ」
「どういう意味だ?」
「警察がナイフの出所をつきとめた」
「刺すのに使ったナイフのことか?」
「うん」
「どこまでたぐって行った?」
「あのナイフを買った男をつきとめたのさ」
「買った男の身許を?」
「まさに、そのとおり。いっさいの本質的な点にぴったり符合する調査が行われた」
「誰が買った?」
「君の友人の、クローヴァーデイル出身のドクター・ロバート・ドーレイさ」ポール・ドレイクはざまをみろといったような語調をたっぷり響かせた。
「それで、どうした」と、ペリイ・メイスンは言った。「もっと話せよ」
「まあ、それだけのことだよ」ポール・ドレイクは言った。「警察はあのナイフを調べた。死体を発見したときから、すぐナイフの出所を洗いたてたんだが、あのナイフの刄のところに値段のマークがついていたわけさ。つまりね、ナイフに販売価格と、原価があった。ああいう品物は値段があがってきているんでね、その原価と、ほかに以前の値段が書いてないこと、削りおとしてもないことなどから警察にはこれが、値上がりした新品だということがわかった」
「つづけてくれ」メイスンは言った。
「まず、ナイフが金物屋から買ったものと見当をつけた。包装紙がね、十セント・ストアで普通使われているものよりも、ちょっと質が重いんだ。そこで金物屋の主人を何人も叩き起して、その連中に販売員に電話をかけさせて、その値段で買った小売店をさがさせた。はじめは、骨折り損のくたびれもうけみたいだったが、運がよかったんだな。ほとんどすぐに、ベルモント・ストリートの小売商とその値で取引した金物のセールスマンと連絡がついた。このセールスマンは、この十日以内にそのナイフを一ダース買った店をおぼえていたんだ。そこで警察がその商店に問い合わせた。その店の人間はナイフを売った相手を思い出して、詳しい人相その他を証言した。この人相がドクター・ドーレイさ。警察は新聞課と連絡して、クローヴァーデイルの新聞の綴じこみを出してもらって、そこで調べてドクター・ドーレイの写真を見つけたんだよ。彼は共同募金の幹事だったし、写真が新聞に出ているんだ。写真製版だったが、人相の手配には充分間に合うやつだった。金物屋の店員は、絶対間違いないと確認しているよ。ナイフを買ったのがドクター・ドーレイだということに一点の間違いもないと言うんだ。
警察は、みごとな捜査を展開したという感じだな。すぐ、ドーレイを緊急手配した。彼がズラかったのははっきりしているんだが、それに伴って、君は、ちょっとへんな立場に立っているわけだ」
「なぜだい?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「あきらかに君のオフィスからかかってきたものと思われる電話の伝言のためさ。事情がどうなっているかをドーレイに通じたんだからな。警察では、そのことではかなり激昂《げっこう》しているよ。あんたと俺のあいだだから教えとくがね、こいつはまずいことになるぜ。おまけに、ブラッドバリーのほうもあまりおもしろくないだろうね」
「ブラッドバリーなんかどうでもいいよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「僕はドーレイに電話はしなかったし、それより当のデラ・ストリートが電話をかけなかったんだからね」
「なるほどね」と、ポール・ドレイクはたのしそうに注意してみせた。「君が電話をかけない、と言っているし、デラ・ストリートもかけないと言っているんなら、警察でもどうしようもないだろう。ドーレイを検挙して、やつが何か違った話でもしないかぎりね」
「そんなことになっても事情は変わらないよ」と、メイスンは言った。「ドーレイは声でわかるほど、僕の秘書を知らないよ。それに、法廷で証言できるほどは知らないさ。彼が知っているのは、どこかの女がデラ・ストリートと名のったということだけでね。そんなことは簡単だもの。僕だってブラッドバリーに電話して、私はポール・ドレイクです。この州から逃げ出したほうがいいですよ、てなことは言えるからね」
ポール・ドレイクは笑った。どうやら、彼はやけに機嫌がいいらしい。
「ところでね」と、彼は言った。「法規上の問題で、もう少しお耳を拝借しなければいけないんだよ。なにしろ、君も気をつけなけりゃと思うようなことがあるんでね」
「何だい?」
「マージョリー・クリューンさ」
「彼女の、どんなところが?」
「警察はね、マージョリー・クリューンとドクター・ドーレイがパットンのアパートの近くに車を乗りつけたことをつかんだ。ドーレイが車を駐めた消火栓の前で、お菓子屋をやっている男がいてね。この男は、車がとまって男と女がおりたということをおぼえていた。男のほうの姿、恰好はドーレイに、女のほうはマージョリー・クリューンにぴったりときた。このお菓子屋の店主というのは、よくあるだろう、他人の不運を見ると溜飲がさがるって野郎なんだよ。自分の店先の消火栓の前にたくさんの人がうっかり車をとめて、違反であげられるのを見ているんだな。車の持主が、もどってきて、ハンドルのところにぶらさがっている召喚状を見てびっくりするときの顔つきをおもしろがって見るって趣味の野郎なんで、ドーレイとマージョリーにはずいぶんよく気を配っていたんだな」
「警察では、あのブラックジャックの説明が何かついたのか?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「いや、あんなものは、この事件では特に問題にはならんだろう」
「どうして?」
「兇器に使われたわけじゃないもの。あんなものはテーブルに杖が載っていたことほどにも――いやそれ以上に犯罪に関係はないんだよ。だって、あのステッキはパットンの所有物として認められたんだが、あのブラックジャックは誰のものとも判明しないんでね」
「言葉を換えて言えば」と、メイスンは言った。「警察では事件が解決した、と思っているわけだね?」
「まあ、そんなところだよ」
「それで、君は僕の立場が危うくなっていると思っているわけか?」
「警告しとくけどね」ドレイクは言った。「俺は君がこの事件ではマージョリー・クリューンの側に立って働いていることは知っているよ。俺としちゃあ、君が重罪犯とひっかかりがあって悪い立場に追いこまれたり、事後従犯なんかになってもらいたくないんだよ」
「お前さんが電話に出ているあいだに」と、ペリイ・メイスンが言った。「ちょっと法律ってものを教えといてやろう。重罪というものはね、重罪を犯さない以上成立しないんだよ。一方、どういう点から言っても無実な人間を弁護することは、事後犯にはならないんだ。もし、正犯が有罪でなければ、何をしたにしても無罪なんだ」
「マージョリー・クリューンが潔白だと思っているのかい?」
「マージョリー・クリューンは」と、ペリイ・メイスンは堂々たる威厳をみせて言った。「僕の依頼人だよ。君が何を待っているかを訊いても構わないかい?」
「どういう意味だ?」
「君は事務所で待っているんだ。電話の前に鎮座ましましている。何かを待っているんだな。何を待っているのか訊いても構わないかね?」
探偵の語気はむっとしていた。
「おいおい、ペリイ」と、彼は言った。「君の不利になるような契約はしないって俺は言ったじゃないか。そいつはブラッドバリーと了解しあったんだが、君とも了解しあったと思ったがね。あの若い女と契約したことは、君んとこの連中が俺がくれた仕事とはちっとも矛盾しないんだぜ。事実、俺はこいつを調べあげるつもりなんだ。この女はね、マージョリー・クリューンが無実で、ドーレイが犯人だと言うんだ。マージョリー・クリューンが彼をかばおうとするかも知れないってね、そして――」
「そんなことはみんな知ってるよ」と、ペリイ・メイスンが言った。「しかし、そんなことを言っても、まだ君が何を待っているのか言ったことにはならないぜ」
「うん」と、ポール・ドレイクが言った。「これから話そうというんだよ、それを。今夜早く、警察がセルマ・ベルを訊問したという話をつかんだ。そのときは、連中も、彼女が事件にそんなに関係があるとは思わなかった。令状を執行するほどね。今となっては、考えが変ったろうと思うよ。彼女が何か重要なネタを握っている、そいつを隠しているか、または、うまくばらすかだと思っているんだ。俺の見たところじゃ、警察が彼女をあげに行くだろうから、彼女が連中に言ったことを聞こうと思って待っているんだ。何か異議でもあるのかい、君のほうに?」
「そんなものはないよ、坊や」と、ペリイ・メイスンは言った。「警察が彼女をあげるまでそこで待っていることだね」
静かな微笑をうかべながら、ペリイ・メイスンは受話器をそっと台《フック》にかけた。
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第十二章
ペリイ・メイスンがトルコ風呂の長椅子から立ちあがったとき、朝の日光が市街に流れていた。彼の眼は、おちついてはっきりしていた。彼は髭をきれいに剃っていて、顔は疲労のあとをとどめていなかった。
トルコ風呂の電話室からドレイク探偵社に電話をかけた。デスクの交換手が彼に返事した。
「ポール・ドレイクはいますか?」彼は訊いた。
「いいえ」と、彼女は言った。「ミスタ・ドレイクは三十分ほど前に外出なさいました」
「どこへ行ったかわかりますか?」
「ええ、自宅にお帰りになってお寝みになるのです」
「僕はメイスンですが」と、弁護士は言った。「昨夜、彼が何時ごろまでそこにいたかわかりますか?」
「あら、三十分前までおいででしたのよ」と、その女の子が言った。「電話がかかるのを待っていらしたんです。何か重要な情報が入ることになっていまして」
「それで、彼にはそれがつかめなかったわけなんだね?」
「ええ、一晩じゅう待機していたんですけど、とうとう少し寝ることにしたんです。パットン事件が何か新しい発展をみせたらすぐ電話するようにわたしに言いおいて行きました。あなたのために、パットン事件を調べているんじゃございませんか?」
「ほかの人のためもあってね」メイスンは微笑をうかべて言った。
「アパートのほうにお電話をなさいますか? 番号を教えてさしあげますが」
「いや」と、メイスンは言った。「番号は知っているよ。僕は、あいつがまだそこにいるかどうかを確かめたかっただけなんでね。さしあたって、こっちに重要なこともないんです」
彼は電話をきると、大きな微笑に顔をくずしたが、服を脱いできた部屋へ行って、身支度をととのえ、受付で貴重品をうけとって、時計を見た。八時三十五分だった。
彼は電話室にもどると、自分のオフィスに電話した。デラ・ストリートが「お早うございます。ペリイ・メイスンの事務所でございますが」という声が、きびきびと、新鮮な、仕事になれた感じで響いてきた。
「誰の名前も言わないように」と、ペリイ・メイスンは言った。「こちらはポゥダンクの市長ですがね。[ポゥダンクは、特定の場所ではなく田舎をさす。メイスンはふざけた意味で使っている]じつは、例の証券からあがっている利息について、ちょっと――」
「あら」と、彼女は言った。「お電話くださってよかったわ」と言った彼女の声には、ほっとしたような様子があった。
「何か新しいことは?」彼が訊いた。
「たくさんありますわ」
「いま話せるの?」
「ええ、いまミスタ・ブラッドバリーお一人しか見えておりませんし、法律書の書庫のほうにお通ししときましたわ」
「話すことって何だい?」メイスンは訊いた。「電話で話をするときは注意してくれ」
「みんなブラッドバリーに関係のあることなんです」彼女が言った。
「彼がどうかしたの?」
「あなたに会いたがっているんです。それもすぐに会いたいそうですけれど」
「僕は会いたくないね」メイスンが言った。
「何か異変があって」と、彼女が言った。「ここへいらしたのか、私にははっきりしませんのよ。あなたがあのかたについておっしゃったことを思い出して、やはりあなたのおっしゃったとおりだという気がしましたわ。あの人は、こちらではっきり考慮に入れてかからなければいけない人ですわ。あなたに会おうと思ったらどこまでも会おうと決心しているんですもの。この一時間以内にあなたに会わなかったら、あなたがたいへんなことになる、もし、あなたが私に電話をかけてきたらそう伝えるようにって言いましたわ。それにもう一つ、彼の愛している女とその女の自由のあいだに、鍵のかかったドアがあるなんてことは許せない、ということも伝えるようにって言われました」
しばらくのあいだ沈黙が流れ、ペリイ・メイスンは考えこむように顔をしかめた。
「彼が何のことを言っているのかおわかりになりまして?」彼女が訊いた。
「わかったよ」と、メイスンは言った。「今だってあいつにこっちの手をさらけ出してやってもいいんだがね。うかうかあいつの|おどし《ヽヽヽ》にのるもんか」
「私ねえ」と、彼女が言った。「刑事がこの事務所を見張っているんじゃないかと思うんですけど」
「うん」と、彼は言った。「そんなとこだろうね。連中は、僕を検挙したいんだよ。君がこれからね、デラ、どうするかを教えてあげよう。僕は、オフィスから八|区画《ブロック》ばかり離れたトルコ風呂にいるんだよ。この|通り《アヴェニュー》をずっと行ったところさ。君はブラッドバリーといっしょにタクシーに乗ってくれ。このトルコ風呂まできてくれ。僕は入口に立っているからね。すぐに僕と会えるようにする」
「彼といっしょに出かけても大丈夫ですの? ひょっとして刑事が疑いはしないかしら?」
「いや、そんなことはないと思う」と、彼は言った。「僕はね、証人が欲しいんだよ。ハンドバッグに鉛筆を入れて、ノートも持ってきたほうがいいな。もし必要になったら使えるようにね。ブラッドバリーと了解しあいたいんだよ、それも今すぐに」
「オーケイ、先生《チーフ》」と、彼女は言った。「十分ぐらいで行きますけど、ねえ、お願いですから気をつけてくださいね」
ペリイ・メイスンは電話をきっても、にがい顔つきで考えこんでいた。彼はトルコ風呂を出て階段をのぼり、あたたかい朝の陽ざしのなかに出た。歩道から凹んだ恰好になっている壁のところに立って、下町の商業地域のオフィス街に向って歩道をいそぐ人たちをじっと見つめていた。
彼の眼は、通り過ぎていく人たちの顔を、さっと一眼見ただけで、その性格を見ぬく修練を積んだ人間、そして、人間の本質的な部分に関心を抱き、こうした通りにひしめていてる群衆の一つひとつの顔に書きしるされた物語を読むことに絶大な興味をおぼえる人間の持つ、するどい、すばやい興味をもって見ているのだった。
ときどき、若い魅力のある女性が、彼の視線を感じて、あるものはひそかに、あるものは大胆に、彼のするどく人待ち気な視線に応えるのだった。また、ときには、メイスンの視線をとらえた男が、咎めるように眉をひそめたり、刑事が何かの仕事をしているのだと考えてびっくりしたような視線をじろじろ向けてくるのだった。
メイスンは、おそらく五分ぐらいそうして動かずに立っていたのだが、ふとブロンドの若い女が通りをいそいでやってきた。自分の上に注がれた彼の視線を本能的に感じとって、自分も眼をあげた。突然、彼女は微笑した。ペリイ・メイスンは帽子に手をかけた。
彼の事務所のあるビルディングのロビーで煙草店をやっている若い女だった。
不意に彼に向って寄ってきた。
「何をそんなに考えこんでいらっしゃるんですの、ミスタ・メイスン?」彼女は訊いた。
「ちょっとね、ある問題に答えようとして考えているところなんだよ、マミイ。どうしてそんなにいそいでいるの?」
「だって、毎日の日課みたいなものですから」
「頼みがあるんだが、やってくれないか、マミイ」
「ようございますとも」
「誰かに訊かれても、僕とここで会ったことは忘れちゃって欲しいんだよ」
「依頼人をまいていらっしゃるんですか?」と、彼女は訊いた。「それとも、警察?」
「両方だよ」彼は言って、にやりとしてみせた。
「こんどの新しい依頼人をまこうとなさるのは無理もないことと思いますわ」彼女は言った。
「どっちの人?」
「いつも茶色の服、茶色のタイ、茶色のシャツ、靴下までタイとそろえてあるひと」
「ブラッドバリーのことだね?」
「ええ、あなたがお喫いにならないのに、わざわざ葉巻を買ったひと。商売柄というものですわね、ミスタ・メイスン。あたし、あなたが葉巻をおやりにならないことを存じておりますの」
彼は笑った。
「われわれはね、よそからきた人間の金はありがたく頂くことにしようよ、マミイ。君とブラッドバリーのあいだに何か困ったことでもあるの?」
「あら、そんなこと」と、彼女は言った。「ただ、田舎くさい遊びをする人だなって気がするだけですわ」
「どういうところがそんな印象を与えた?」
「ええ、あの人の態度ですわ。あのビルにくるたびにあたしのところに寄るんですのよ。その都度なれなれしくしようというそぶりをみせて」
「話しかけてくる言葉で、というんだね?」
「いいえ、そんなんじゃないんです。あのひとは、あまりしゃべりませんのよ。あのひとの言葉の調子や眼つきがなれなれしくなってくるんです。男の人が興味を持っているな、ということは女にはピンとくるものなんです」
ペリイ・メイスンは、彼女のすらっとした身体つきを、いかにも当然だというふうな眼で眺めた。
「彼が眼をつけたにしても、君は文句を言うわけにはいかないね」彼は言った。
彼女は飾らない態度で彼に向って微笑して言った。「へんなふうにとって頂くと困りますわ、ミスタ・メイスン。みなさんがあたしを見てくださるのはうれしいんですのよ。虚栄心をくすぐりますし、商売のほうも繁盛しますから。でも、あたしの嫌いなのは、カウンターで話しこんで、あたしと外で会えると思ったり、大きな荷物をあずけて行ったり、そうかと思うとわずか五セントの雑誌を買って、さも得をさせてやったような顔をする人ですわ」
タクシーが一台、すぐ近くに寄ってきた。
「僕の言ったことは忘れないように頼むよ」帽子に手をかけて歩道を横ぎりながら、ペリイ・メイスンは言った。
「まあ、どうでしょう」と、彼女は言った。「今朝、また新しい服装をしてきましたわ。全部グレイづくめで……うす笑いをうかべた顔ったらないんですもの。いやなやつ。パーティか何かからの朝帰りみたいなつもりでいるんですね」
ペリイ・メイスンは、そんな話に注意を向けていなかった。タクシーのドアに寄って行ったとき、彼の眼はブラッドバリーの姿をとらえた。彼はドアを開けて、そのなかに乗りこんだ。
「あんまり混んでなくて、適当なところに出るまで、この通りをまっすぐ行ってくれよ、運転手君。そこへ出たら、まがって、いいと思った場所で駐めてくれ」
彼はデラ・ストリートに微笑を見せてから、ブラッドバリーの視線をとらえた。
「あなたはなかなかシンのつよい人ですね。ブラッドバリー」彼は言った。
ブラッドバリーの眼が彼の視線をおちついてうけとめた。
「闘士ですよ、メイスン」彼は静かに言った。
メイスンは、冷静な灰色の眼、意志の強そうな顎の恰好を見ていたが、うなずいた。彼は、ポケットから煙草の箱を出して、デラ・ストリートに一本すすめたが、ブラッドバリーが頭をふって断り、葉巻を出そうとしているのを見た。それからメイスンが煙草を一本とったとき、ブラッドバリーは靴底でマッチをすった。メイスンもマッチをつけた。デラ・ストリートは、ブラッドバリーに眼で礼をすると、メイスンのマッチから火をつけた。ブラッドバリーは、いやな顔をしてマッチを自分の葉巻に持って行った。ペリイ・メイスンはデラがつけたあとで自分の煙草に火をつけると、ブラッドバリーに向って言った。
「いったい、何を大騒ぎしてたんです? 私に会わない場合、いろいろ何かしようとしておられたらしいですな」
「しなければならない仕事がありましてね」ブラッドバリーがゆっくりと言った。「ちゃんとした報酬を払って弁護士を雇った場合、私にはその弁護士と会って相談する資格があるんじゃないかと思いますがね」
「その話はよしましょう」と、メイスンは言った。「もう会って話をしているんですから。ご用件は?」
「用件は」と、ブラッドバリーが言った。「フランク・パットン殺害の容疑で指名手配されているロバート・ドーレイの弁護をあなたにお願いしたいのです」
「あなたはマージョリー・クリューンの弁護をしろとおっしゃった筈ですが」
「そうです。それと同時に、ドクター・ドーレイの弁護も依頼したいのですよ」
「二人とも起訴されるとお思いですか?」
「二人とも正式に殺人罪に問われているんですからね」と、ブラッドバリーが言った。「このニューズは今朝知ったんです。正式に指名手配がされて、逮捕状が出されているんですよ」
「はっきり言ってあなたは」と、ペリイ・メイスンは訊いた。「何をして欲しいんです?」
「ドクター・ロバート・ドーレイの弁護をして欲しいんです」と、ブラッドバリーは、ぼきぼきするような言葉づかいで言った。「そして釈放されるようにしてもらいたいんですよ」
「どっちにしろ、そう簡単にはいかないかも知れませんね」と、ペリイ・メイスンは、煙草からうねうねと立ちのぼる煙を考え深く見つめながら、ゆっくり言った。「もし二人が殺人の共同正犯に問われたとしたら、倫理的な理由かも知れませんが、二人を弁護するわけにはいきませんな。言葉を換えて言えば、ドーレイがマージョリー・クリューンに罪をきせようとするかも知れませんし、マージョリー・クリューンのほうで、ドーレイに罪をきせようとするということも考えられますからね」
「技術的な問題は持ち出さないでください、弁護士さん」と、ブラッドバリーは言った。「事態は切迫しているんですよ。何とか手をうたなければならないんですが、それもすぐに実行しなければなりません。ドクター・ドーレイが釈放されるようにしてもらいたいんです。べつに利害関係が相反するものではないことは、あなたも私と同様に知っている筈だ。相反する事態があるとすれば、二人が互いに相手をかばおうとして罪をきようとしたときです。これは、ぜひとも防がなければなりませんのでね。だからここは二人の弁護を引きうけて、そういう事態が起こらないようにしてもらいたいのです」
「そうですか」と、メイスンはゆっくり言った。「適当な時期がきたら、そうした道義的な問題について話しあいましょう。私の知るかぎりでは、二人はまだ逮捕もされていないんですからね」
「それは、そのとおりですが」
「警察がどこまで真相をつかんでいるか、ご存じですか?」
「かなりはっきりしたところまでつかんでいますよ」と、ブラッドバリーは言った。「ドクター・ドーレイに関しては、非常に不利なものをつかんでいますね。マージョリー・クリューンのほうに対してつかんでいるかどうか、ちょっと疑問ですが」
「それで、あなたは私にドーレイを釈放しろと言うんですね。そうですか?」
「どうしてもドーレイを釈放させなければいけないんですよ」
「二人にそれぞれべつの弁護士が必要になったらどうします?」ペリイ・メイスンは言ったが、その眼は、するどい注意力をこめてブラッドバリーに向って凝縮し、ひたと見つめて、その深いいろは、鋼鉄のような輝きを帯びているように見えた。「どっちの弁護を私にさせたいのです?」
「そんな必要はないんですよ」と、ブラッドバリーは言った。「その点は議論したくありませんな。わたしはどうあっても二人の弁護を引きうけて頂きたいんですよ、弁護士さん。そして、その弁護の一部として。あのドアの問題をはっきりして欲しいんですがね」
ペリイ・メイスンの眼は、眼蓋が水平になるほど細められた。
「何のドアの何の問題です?」彼は訊いた。
「パットンの部屋の、鍵のかかっていたドアの問題ですよ」と、ブラッドバリーは言った。「何度もくり返して申しあげる必要はないと思いますがね、ミスタ・メイスン。私は、それほど馬鹿じゃありませんよ。あなたがなさったことに対しては私も感謝しています。あなたのなさったことは、その当時には、みんなのために一番いいようにと思ってなさったのだということは、私も認めますよ。しかし、警察はマージョリー・クリューンが、殺人が行われた時刻のころにあのアパートにいたということを証明できるらしいんですよ。もし、あの部屋のドアに鍵がかかっていなかったら、マージョリー・クリューンが、あの部屋へ入って行って、屍体を発見し、すっかりおびえて逃げ出した、ということも考えられますね。そうとすれば、見つけたことを警察に知らせるのを怠ったという以外、罪はないわけです。また、ドアが閉まっていたとしたら、マージョリー・クリューンが鍵を持っていたことを意味しますよ。ということは、彼女が部屋を出たとき、自分の精神的能力をしっかり統御していて、あの部屋を出たとき足をとめてドアに鍵をかけたというわけです。これはマージョリーにとっては、いいことじゃない。彼女が捲きこまれた事件全体にとってもいいことじゃないし、彼女の性格から見てもいいことにはなりませんよ」
「しかしね」と、ペリイ・メイスンはゆっくり言った。「マージョリー・クリューンがバスルームにいて、ヒステリーを起していたと考えてみましょう。誰かそれを聞いた者があって、なかに駈けこんで行ってフランク・パットンを殺したとしたら?」
「それでも」と、ブラッドバリーは、そういう状況の可能性を充分に考えたというような語調で、ためらういろもなく言った。「マージョリー・クリューンがあの部屋を一番最後に出たことになりますね、犯人がまだ室内にいるうちに逃げ出したのでないかぎり。屍体を発見して、それを報告しなかった、ということは、おそらく何らかの法律に触れますね。殺人の現行犯を見つけて、その犯人の逃亡を助けたということになれば、彼女自身が共犯ということになるでしょう。こうなると、どうしても、弁護士さん、あの鍵のかかったドアの問題は、ますます重大なものになりますよ」
デラ・ストリートは、不安そうにそわそわしていた。
タクシーは横道にそれて二|区画《ブロック》走ったが、やがてカーブ近くに駐った。
「ここでいいですか?」タクシーの運転手が訊いた。
「ここで」と、ペリイ・メイスンは言った。「結構だよ」
彼の声は、まるで寝言でも言っているような、単調なものを響かせていた。彼の眼は、催眠術でもかけようとしているように、じっとブラッドバリーに注がれていた。
ゆっくりと、まだそのままおなじ無表情な単調さで彼は言った。「お互いに理解しあいましょう、ブラッドバリー。あなたは私にマージョリー・クリューンと、ドクター・ドーレイの弁護を頼みたいんですね」
「そうです」
「その弁護をすることで私は報酬を頂くわけです」
「そうですな」
「そして、さらに、あなたは釈放を要求しているわけですね」
「そうです」と、ブラッドバリーは言った。「釈放を要求しますよ。目下のところでは、弁護士さん、私にはその資格があると思いますね。もし釈放されないような場合、ある種の事実を完全に暴露しなければならなくなりますよ。その事実というのが何であるか、さしあたっていまは申しあげる必要はありませんが、その事実は、マージョリー・クリューンと犯人が兇行後にあの部屋を出たあとでドアに鍵がかけられたと言うことを非常につよく示しているように私には思えるんですよ」
「すると、それが」と、ペリイ・メイスンは言った。「最後通牒ですね」
「そういうふうにおとりになるのなら」と、ブラッドバリーは言った。「まあ、最後通牒ですな。残酷なことはしたくないんですがね、弁護士さん。あなたを苦しい立場に追いつめているとは思ってもらいたくないんですよ、ほんとうにねえ! マージョリー・クリューンが公正に扱われるようにしたいと思っているんです。これは、もう前にくり返して申しあげましたな」
「で、ボブ・ドーレイのほうは?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「私はドクター・ロバート・ドーレイの釈放を望んでいますよ」
「この事件の」と、ゆっくりメイスンは言った。「あらゆる事実がことごとくドクター・ドーレイの有罪を疑いもないものとして示していることがおわかりにならないのですか?」
「もちろんわかっています」と、ブラッドバリーは言った。「私を何だと思っているんです、馬鹿だと思っているんですか?」
「とんでもない、はじめからそんなふうには思っていませんよ」メイスンは、語調に、尊敬を響かせて言った。「ただ、たいへんなことを命令なさったものだ、ということを申しあげただけですよ」
ブラッドバリーは、ポケットから紙入れを出した。
「これで、目下の情勢に関しては検討しあいましたね」よ、彼は言った。「たいへんな命令だということは、私も認めますし、それに対する報酬はきちんとお支払いしますよ。前に千ドルさしあげましたね。秘書のかたに、あらためて四千ドルおわたししておきましょう。陪審員の判決が無罪ということになったら、また、さらにお礼をさしあげますよ」
いかにも銀行家らしい、きびきびした手つきで四千ドル数えると、それをデラ・ストリートにわたした。
彼女は、ペリイ・メイスンに伺いを立てるような視線を向けた。
ペリイ・メイスンはうなずいた。
「これで」と、ペリイ・メイスンは言った。「お互いに了解しあったわけですな。しかし、これはよく理解しておいて頂きたいんですよ、ブラッドバリー。私はドクター・ドーレイとマージョリー・クリューンの二人を弁護するように努力します。有利な評決を得るように、せいぜい努力しましょう。しかし、あなたがご自分のことをおっしゃったとおなじことを私も申しあげたいんですよ。あなたはご自分のことを闘士だと言われましたが、私にしても闘士ですからね。あなたはご自分のために闘う。私は私の依頼人のために闘う。私がマージョリー・クリューンとドクター・ドーレイのために闘いをはじめたら、どこまでもやりますよ。中途半端なことはしませんからね」
ブラッドバリーの顔は、筋肉ひとつ動かさず、まったく表情を変えなかった。
「あなたが何をしても構いません」と、彼は言った。「――フランス語を使うことを許して頂きますが、ミス・ストリート――いや、何と言ったらいいんですかね。私にわかっていることは、あの二人が釈放されることがはっきりして欲しいんです」
デラ・ストリートが興奮したように言いはじめた。
「あなたがおっしゃったことについては、あたくしの全然関知するところじゃありませんのよ、ミスタ・ブラッドバリー」と、彼女は言った。「ほんとうにいやらしいひとね、あなたって。ミスタ・メイスンは、あなたが依頼して保護してもらおうと思った人を守ろうとしてああいう手段をとったのです。このかたがあんなことをしたのは……」
「おちつきなさい、デラ」ペリイ・メイスンが注意した。
彼女は、彼の視線をとらえて、不意に沈黙した。
「なるほど」と、ブラッドバリーが言った。「彼女《このひと》は知っているんですね」
「あなたは何もわかっていないんですよ」と、メイスンがぶつりと言った。「ここであなたに言っておきたいことがあるんですがね、ブラッドバリー、あなたはパイに指をつけないでいたほうが[身を引いていたほうがいいという意味]あなたご自身にとっても、依頼人にとっても、ずっといいことなんですよ。われわれはお互いに理解しあったんですからね、それでたくさんですよ」
「それでたくさんですな」ブラッドバリーが言った。
「もう一つ」と、メイスンは言った。「私の秘書に向って、思わせぶりな|おどかし《ヽヽヽヽ》はもうたくさんですよ。私に面会を強要して、この子をおどかすのは今後ともやめて頂きます」
「いや、もう会おうとは思っていませんよ」と、ブラッドバリーが言った。「最後通牒を発したわけですからね。その方法に関しては何も口を出しませんよ。結果については、絶対に責任を持ってもらいますがね」
デラ・ストリートは何か言おうとして口を開け、ぐっと深く息をすいこんだが、すぐに、ペリイ・メイスンのむっつりした顔を見ると黙ってしまった。
メイスンは、ブラッドバリーを見た。
「わかりました」と、彼は言った。「私はここでおりましょう。デラ・ストリートをオフィスまで送ってやってください。車代はそっち持ちですよ」
ブラッドバリーはうなずいてみせた。
「受領書をさしあげてくれ」メイスンは言った。
「こんなことは申しあげる必要もないんだが」と、ブラッドバリーは注意した。「時間が何と言っても一番貴重ですからね。警察では、ドクター・ドーレイにとっては危険なところまで進めていますよ」
「あのナイフを買ったのが彼だということを確認したことはご存じですか?」ペリイ・メイスンは訊いた。
ブラッドバリーの顔に驚愕したいろがうかんだ。
「パットンが刺されたナイフを買ったのが彼だということを、連中は立証したというんですか?」
「ええ」
「そうですか!」ブラッドバリーは言って、タクシーのクッションに深くよりかかると口をかるく開け、大きく見開いた眼で弁護士を見た。
「彼の乗用車が現場近くに駐めてあったのを調べあげたとはご存じですか?」メイスンは訊いた。
「ええ、それは知っています。だから、彼に対して決定的なことを握っていると私は思っていたんですよ。しかし、いまの、もう一つのほうは、確実なんですか?」
ペリイ・メイスンは肩をすくめるような動作をした。
「ちょっとお訊きしたいのですが」と、彼は言った。「あなたが急にドーレイを釈放させることに夢中になった理由はなんです?」
「それは」と、ブラッドバリーが言った。「あなたに関係のないことですよ」
「私としては」と、メイスンが言った。「ドーレイがミス・クリューンに働きかけているライヴァルで、あなたは彼に友情というか――特殊な愛情は持っていなかったと思っていたんですが」
「ドーレイに対する私の感情は、この事件にはまったく関係がないんですよ」と、ブラッドバリーは、まぎれもなく叱りつけるような響きを声に含んで、そう注意した。「あなたは弁護士だ。告訴された人間の弁護をして釈放するようにするのが仕事です。マージョリーとおなじくドクター・ドーレイが釈放されるようにして欲しいと私は言った筈ですがね。警察の提出した証拠で二人が釈放されないようなことになったら、べつの弁護士を通じて、ほんとうの事実が法廷の注意を惹くような手段をとらなければならない、ということは念をおしておきますよ」
「その事実というのは、私の理解したところでは」と、ペリイ・メイスンが言った。「例の、鍵のかかっていたドアのことですね?」
「そのとおりです」
「なるほど、あなたはなかなかはっきりしている」メイスンが彼に言った。
彼はデラ・ストリートに向って安心させるように、にやりとしてみせた。
「心配しないでいいよ、デラ」と、彼は言った。「もっとむずかしいことをきりぬけたこともあるんだからね」
「だけど」と、彼女は興奮して言った「どうしてこのひとは――」
メイスンは眉をひそめて、頭をふった。
「デラ」と、彼は言った。「すばらしいお天気だね」
「そう?」彼女は訊いた。
「それでね」と、ペリイ・メイスンは言った。「ミスタ・ブラッドバリーと何かお話をするときは、いつも、お天気の話にしてもらいたいんだよ。お天気のことは、いつ話しても語りつきせぬ話題なんでね。どこまで話してもとどめを知らぬというわけさ。ブラッドバリーがその話にのってくるようにしむけてくれたまえ」
「心配しないでもいいですよ」ブラッドバリーは、不意に率直な微笑に唇を歪めながら言った。「私は闘士を相手にまわしているんですからな、メイスン。女のひとに手を出すようなことはしませんよ。あなたの秘書は、私が言おうとしたことはすっかりご存じのようにお見うけしましたが。それは、どうも、私には――」
ペリイ・メイスンは、きっぱりした語気でさえぎった。
「このお天気は、ミスタ・ブラッドバリー」と、彼は言った。「今じぶんの季節としてはすばらしいですな。いつになくあったかくて」
ブラッドバリーはうなずいた。
「今、申しあげようとしたように」と、彼は言った。「ミス・ストリートがこれから口にしたり、行なったりすることに乗じて、あなたの不意を打つようなことはしませんよ」
ペリイ・メイスンは、タクシーのドアを開けて、歩道に立つと、雲ひとつない空を讃えるような眼をあげた。それから、彼は帽子に手をかけた。
「もしかすると」と、彼は言った。「午後になると曇るかも知れませんな」
ブラッドバリーは何か言おうとしたが、ドアが閉まって彼の言葉を切った。そしてペリイ・メイスンは大股に、|大通り《アヴェニュー》のほうに向って歩いて行った。
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第十三章
ペリイ・メイスンは、タクシーをひろって飛行場へ行った。十分もしないうちに、事務所の受付にいた若い女が、その時間にチャーターされてスピードの速い小型飛行機を操縦するパイロットに連絡してくれた。弁護士は君でいいんだよというような眼でそのパイロットを眺めた。彼はポケットから紙入を出し、パリッとした新しい紙幣を引き出してパイロットにわたした。
「出発の準備はできているのかい?」
「エンジンをあたためるのに、ほんの二、三分かかるだけですよ」と、操縦士は言った。「準備はできています――ガソリンは食わせたし、整備もすんでいますからね」
「じゃ出発しよう」ペリイ・メイスンは言った。
操縦士は微笑した。
「どこへ行くのか、まだ聞いてませんよ、あたしは」彼は言った。
「エンジンをあたためているあいだに言うよ」メイスンが言った。
二人は、幅の広いコンクリートの道路を歩いて行った。小型で、先が押しつぶれされたような恰好の飛行機が、日光をうけてきらきら輝いていた。
「こいつですがね」操縦士が言った。
「真夜中ごろ、ここを出る郵便用航空機があるんだよ」と、メイスンは言った。「そいつにくっついて行きたいんだ」
パイロットは彼を見まもった。
「あいつは、つかまりませんや、あいつは、もうずっと――」
「つかまえなくてもいいんだよ、あとを追いたいんでね。最後に着陸するのはどこなんだい?」
「サマーヴィルですよ」
「そこまでこの飛行機でどのくらいかかる?」
「約一時間ですな」
ペリイ・メイスンは言った。「最初にそこで着陸しよう。そこから先は行かないかも知れない。むろん行くかも知れないが」
パイロットは狭い客席のドアを開けた。
「お乗りになって腰をかけてください」と、彼は言った。「前に飛んだことがおありですか?」
メイスンはうなずいた。
「空中で不意にがくんと揺れても心配しないでください」とパイロットは彼に言った。「何でもないんですからね。はじめて乗る人は、ひどく気にするんですよ」
メイスンが座席に着くと、彼は飛行機のまわりをまわってみて、それから操縦席に入り、キャビンのドアを閉めて、錠をおろし、整備員に手をふった。パイロットがスロットルを開け、飛行機は始動のうなりをあげた。
つぎの一時間、ペリイ・メイスンはほとんど身動きもせず、よく、自分が手にした煙草から立ちのぼる煙を見ているときとおなじ、抽象的な思索にふけるような眼で風景を眺めていた。
一、二度、パイロットは、じっと何かに心を奪われているらしい客のほうを不思議そうに見やったが、サマーヴィルの上空につくまで彼は口をきかなかった。
「下に見えるのがサマーヴィルですよ」彼は言った。
ペリイ・メイスンは興味なさそうに飛行場に眼をやって、かすかにうなずいてみせた。
パイロットは機首を前方に向けた。急激に高度が落ちてきた。車輪が大地にきしると、ペリイ・メイスンはパイロットに向って叫んだ。
「格納庫のあまり近くにとめないでくれ」
パイロットはスロットルを落し、機体はうなりながら制動に移った。二人の整備員が、滑走路として使われている舗装された地面の固い表面を歩いてきた。
ペリイ・メイスンは飛行機から降りると、その二人に大股に寄って行き、さっと彼等を眺めると、いきなり声をかけた。「君たちの誰か、郵便機がついたときに勤務していたかね――午前一時ごろに到着する|やつ《ヽヽ》だが」
「僕がいましたよ」背の高いほうの一人が言った。
メイスンは彼をわきのほうに呼ぶと、声を低めた。
「若い女を探しているんだよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「あの飛行機に便乗していたんだがね。二十一、二というところなんだ。ひどく青い眼で、すらりとした、身体つきのいい娘で――」
「あの飛行機には女の子なんて一人も乗ってなかったですよ」と、その男はきっぱり言った。「男が二人のっていただけでしてね。一人が降りて、一人はそのまま乗って行きましたよ」
ペリイ・メイスンは、額に深く皺を寄せて、その男を見つめた。その男がちょっと眼をそらすほど、彼の眼はつよい光を帯びていた。
「その男たちがどんな連中だったか、君、言えるかい?」
「一人は、頭の禿げた、肥ったやつでしたよ。五十ぐらいの年格好だと思いますがね。すっかりくたびれちまったみたいでしたよ。魚みたいな眼をしていましたがね。あとはたいしておぼえていませんなあ。この男はずっと乗って行きましたよ。ここで降りたほうの男は、ブルーのサージの服を着た若い男ですがね。黒い髪で、黒い眼でしたよ。朝までに着くことになっている飛行機がまだあるかって訊いてましたがね。あたしはないって教えてやりましたがね。何だか決心がつかないようでしたが、それからリヴァーヴュー・ホテルに行くのはどう行くのかと訊きましたよ」
ペリイ・メイスンの眼はさっとその整備員を見たが、ずっと遠くに焦点が向けられているのだった。彼は、二、三秒考えあぐむように立ちつくしていた。やがて、ポケットから五ドル紙幣を出した。
「タクシーを」と、彼は言った。「つかまえてくれないかね」
「こちらへどうぞ」整備員は言った。
「飛行機を点検してくれ」と、彼は言った。「すぐに出発できるようにね」
「どっちの方向へですか?」操縦士は訊いた。
「わからないんだ」と、メイスンは言った。「もどってくるまで待っていてくれ、そうしたら教えるよ」
彼は整備員についてタクシーのほうへ行った。
「リヴァーヴュー・ホテルだ」メイスンは運転手に言った。
車が走っているあいだ、弁護士の眼は、忍耐づよく、おちついて、タクシーの窓の両側に流れてゆくビルに少しも注意を向けずに、何を見るともなくクッションにふかぶかとよりかかっていた。
タクシーがリヴァーヴュー・ホテルの前にとまると、ペリイ・メイスンは運転手に金を払ってロビーに入り、受付に寄って行った。
「つかぬことを聞くようだがね」と、彼は受付に言った。「ここで、ある人と商用で会うことになっているんだよ。その人は、こっちに午前一時二十分で着く飛行機できているんだがね、あいにく、僕は人の名前がおぼえられない性質《たち》でね。おまけにその取引に関係のある手紙を持ってくるのを忘れてしまったんだよ。そんなことが、|うち《ヽヽ》の販売主任に知られたら、しぼられちまうんだ。何とか助けてもらえないかね」
受付の係は宿泊簿に眼をやった。
「よろしゅうございます」と、彼は言った。「一時半ごろ、チャールズ・B・ダンカンというかたがおいでになりました」
「部屋はどこです?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「お部屋は」と、その係は微笑をうかべながら言った。「六〇一号の――新婚のかたがお泊まりになるお部屋でごさいます」
ペリイ・メイスンは、一、二秒、その受付の係をじっと、微笑を見せずにみつめていたが、彼の眼は静かで、忍耐づよく、そのカウンターのうしろの男をまっすぐつらぬくようだった。
「何ということだ」ペリイ・メイスンは言ってエレヴェーターに向ってふり返った。
六階でおりると、六〇一号室の場所を訊いて、廊下を歩いて行くと、その部屋のドアを威圧的にどんどんたたこうとしたが、ふと、その手を途中でとめた。握りしめた拳を開くと、指の先で、女がたたいているように臆病なノックの音を響かせて、そっとたたいた。
ドアの向うで、ばたばたフロアを歩いてくる足音がした。掛け金がかちりと外されて、ドアが開き、ペリイ・メイスンは、ドクター・ドーレイの期待にみちた眼をひたととらえた。
彼の顔に、失望、恐怖、憤怒――そうした感情の全音域がさっとうかんだ。
ペリイ・メイスンは室内に足を踏みこむと、足でドアをうしろに蹴った。
ドーレイは、ペリイ・メイスンの顔にぴたりと眼をつけたまま、二、三歩身を退いた。
「新婚の|続き部屋《スイート》か、ええ?」
ドクター・ドーレイは、まるで膝が体重を支えることを拒否したように、ガックリとベッドの端に崩折れた。
「どうした?」ペリイ・メイスンは言った。
ベッドにすわった男は何も言わなかった。
ペリイ・メイスンの語気には、じりじりしてするどい響きがあった。
「さあ」と、彼は言った。「話すんだよ」
「何のことを、です?」ドクター・ドーレイが訊いた。
「話ははじめから聞かせてもらおう」ペリイ・メイスンは言った。
ドクター・ドーレイは深く息を吸いこんで弁護士にひたと眼をあげた。
「何も話すことはありませんよ」彼は言った。
「君はここで何をしているんだ?」メイスンは訊いた。
「逃げ出してきただけですよ。いろいろ事情がひどく悪いものになってきたような気がしたんです。あなたから、あの伝言があったので、ここへやってきたんですよ」
「どんな伝言だ?」
「あなたの秘書のひとからの伝言で、逃げ出して身を隠せという話でしたが」
「それで」と、ペリイ・メイスンは皮肉に言った。「真夜中に出る飛行機に乗って、ここへやってきて、新婚旅行用の部屋をとったわけか」
ドーレイは、強情に言った。「そのとおりです。いかにも私は新婚の部屋をとりましたよ」
「マージョリー・クリューンは、なぜ君のところにおちあわなかった?」ペリイ・メイスンは訊いた。
ドクター・ドーレイは、ベッドの端からとびあがった。
「それは言葉が過ぎますよ」と、彼は言った。「マージョリーに対する侮辱です。彼女は、そんな種類の娘じゃありませんよ。そんなことは考えもしないでしょう」
「ほう」と、ペリイ・メイスンは言った。「それでは、君たちは結婚するつもりじゃなかったんだね? 僕はまた、君たちが結婚して、ハニムーンをここですごすつもりだろうと思っていたよ」
ドクター・ドーレイは顔を赤らめた。
「マージョリー・クリューンのことは、正直に言って何も存じません。僕は、自分が危い立場になってきたと思ったので、ここへやってきたんです。彼女は僕とおちあうにも何も、そんなことは全然ありませんよ」
「僕はね、あのドアを」と、ペリイ・メイスンがゆっくり言った。「指先でかるくたたいたんだよ。部屋のなかにいる人間をはっきり知っている女がノックするふうに聞えるようにね。君は、いかにも待ちかねたような顔をしてドアに駆け寄ってきて、僕を見ると誰かに濡れたタオルで顔をひっぱたかれたような様子を見せたじゃないか」
「びっくりしたんですよ」と、ドーレイが言った。「僕がここにいるのを知っている人間は一人もいないと思っていたせいで」
ペリイ・メイスンは、チョッキの袖《そで》ぐりに親指をかけて、頭をかるく前につき出すような恰好で、フロアを行ったりきたりしはじめた。
「私に言わせれば」と、ドクター・ドーレイが言いはじめた。「あなたは全然ウエットですよ。間違ってうけとっているんです、このこと――」
「黙っていたまえ」ペリイ・メイスンは静かに、何の感情もあらわさずに言った。「考えているんだ、邪魔をしないでくれ」
彼は押し黙って、三分以上も室内を行ったりきたりしていたが、不意にドーレイのほうをくるりとふり返った。彼はあいかわらずチョッキの袖ぐりに親指をかけたままで、頭を前に出して、顎を張り加減にしていた。
「こんなところへやってくるなんて迂闊《うかつ》だったな」
「そうですか?」ドクター・ドーレイは、びっくりして訊いた。
「僕は、この事件にはもう深みにはまりこんでいるんだ。ここへきたのは、何を措《お》いてもマージョリー・クリューンが見つかるだろうと思ったからなんだよ。彼女を助け出してやりたかった。彼女には、どうしてもそれが必要だからね。どうして彼女は、真夜中の飛行機で君とおちあわなかったんだ?」
「彼女のことは、べつに何も知らないって言ってるじゃありませんか。会ってもいないし、話もしていないんですよ」
ペリイ・メイスンは、ほとんど悲しげに、といってもいいほどの感じで頭をふった。
「こいつははっきりさせとこうじゃないか」と、彼は言った。「彼女の知人で、彼女の消息を聞いているものは一人もいないんだよ。君は心配になってきた。ブラッドバリーもそうだ。二人とも彼女を愛している。ブラッドバリーは財産はあるし、年配の人物だね。君は、マージョリーと、そんなに違わない年齢だ。一年か二年、歯科医を開業しただけで、まだ、たいして金が残る筈もない。金を払わなければならない器械もたくさんあるし、地盤をかためているところだからね。君はできるだけの金を借りて、マージョリーを探しに市《シティ》に出てきた。それといっしょに、君はパットンを告訴してやろうと思いつめた。
君は、クローヴァーデイルから車でやってきた。こいつが、人眼につく車ときている。君はマージョリー・クリューンと連絡をとった。どういうふうにしてやったのか、僕は知らないがね。彼女を通じて、パットンの住んでいる場所をつかんだ。君が僕のところに相談にきたときには、それはまだわからなかったんだね。だから、君がマージョリー・クリューンにわたりをつけたのは、そのあとに違いない。マージョリーを通じて以外には、君がパットンをつかまえる方法がなかったんだな。探偵を雇う金もなかった。マージョリー・クリューンはフランク・パットンと会う約束があったんだ。君の車は消火栓の前に駐めたおかげで、違反礼状が貼りつけられているんだよ。君が、パットンとの約束で会いに行ったマージョリー・クリューンをその車で送って行ったことは、金を賭けてもいいね。
パットンは屍体となって発見された。使用された兇器はナイフだった。警察は、あのナイフの出所を洗ったんだよ。あのナイフを売った店をつきとめた。そのナイフを売った金物屋の男が、君の写真を見て、ナイフを買った男だと確認しているんだ」
ドーレイの顔が不意に蒼《あお》くなった。
「僕は何も供述はしませんよ」彼は言った。
「そんな必要はないさ」メイスンは、静かな、じっくり考えたような声の調子で言った。「僕のほうで話があるんだからね。僕はマージョリー・クリューンを見つけた。そして、ホテルへ行って泊まるようにさせてやった。僕の電話を待っていることになっていたんだ。部屋を離れてはいけないことになっていた。約束はきちんと守るタイプの女に見えたもんでね。
ところが、その約束を破るようなことが起こった。僕にうしろ足で砂をかけたわけさ。彼女の足どりを追っているうちに、真夜中の飛行機に乗ろうとしていたことがわかった。僕がその真夜中の飛行機を追いかけると、それに君が乗っていたことがわかった。だから、彼女が僕との約束を破ったのが君のせいだという推論は当然だね。これでも、君は、まだ逃げ口上を言うつもりかい?」
「逃げ口上も何もありませんよ」と、ドーレイは言った。「マージョリー・クリューンのことは何も知らないと言ってるんですからね」
「すると、彼女は君とここでおちあうことになっていたんじゃないのか?」
「ええ」
「君は電話で彼女と話をしなかったのか?」
「ええ」
メイスンは、ぎらぎら光る、あらあらしい眼で、ドクター・ドーレイをじっと見おろした。
「君はなんていう馬鹿野郎なんだ」と、彼は言った。「たかが、三、四年、ちっぽけな田舎町で開業した歯科医|ふぜい《ヽヽヽ》で、俺の専門の殺人事件で、俺をきりきりまいさせようっていうのかい。おまえさんみたいに若い上に、阿呆ときている野郎が、どうして俺の眼をごまかしきれるもんか。ところがどうだ、人もあろうにこの俺に嘘をついて、惚れた女を危険に陥《おとしい》れても、しゃあしゃあした顔でおさまり返ってやがる」
「嘘なんかついてませんよ、ほんとうです」ドーレイは言った。
彼の額と鼻のあたまに、玉なす汗がきらきら噴いていた。
ペリイ・メイスンは深く息を吸った。
「僕は、マージョリー・クリューンを、気だてのいい、正直な娘で、たまたま悪い方へ悪い方へと運がツイちまった、と見たんだ。僕にできるだけのことはして救けてやろうと思ってるんだ。僕は事務所にすわったきりでいて、彼女を逮捕しにくる警察の手をうかうか待って、いよいよ法廷にひきずり出されたらさて救けてやろう、なんて了見じゃないんだよ。自分で言うのもなんだが、あの子を救けるために、身を挺して危険を冒しているんだ。警察を相手にしてうまくきりぬけられる立場に、あの子をおいときたかったんだ。あの子の証言をこっちの手に抑えておける場所においときたかったんだ。そうすれば、その話のどこが食い違っているのか――何を彼女が忘れたか、彼女が強く訴えようとしているものが何なのか、はっきりするんだ。警察に捕まったとき、警察がどういう手をうってくるか、それをちょっと教えてやろうと思ってたんだ。そういうことができる場所へ、彼女を隠しておいたんだよ。そこへお前さんがやってきて、このサマーヴィルで週末をいちゃつきたいばっかりに、呼び出した」
ドクター・ドーレイは、ベッドから立ちあがろうとした。
ペリイ・メイスンは、あらあらしく手をのばして、彼を押しもどした。
「すわってろよ」と、彼は言った。「口答えは無用だ。まだ、話が終わったわけじゃないんだぜ。彼女は、真夜中の飛行機で君とおちあうことになっていたんだ。ところがやってこなかった。その意味はわかるだろう。警察がどこかで彼女を逮捕して、報告を伏せて拘留しているという意味だよ。おそらく、郊外のどこかの町に、彼女は『埋められている』んだぜ、つまり、連中が彼女をしめあげるだけしめあげてしまったあとでなければ、こっちには彼女の足どりも何もまるでわからないということなんだ。警察は知っているだけの手は使うはずだよ。
彼女がしゃべるとなったら、君がサマーヴィルにいて、このホテルにチャールス・B・ダンカンの名前で泊まっていることなんか、洗いざらいしゃべっちまうぜ。つまり、いつ警察がここへやってくるかわからないってことなんだ。さあ、笑いたかったら笑いとばしてみろよ」
ドクター・ドーレイは、ポケットからハンカチーフを出して額の汗を拭きとった。
「どうしよう!」彼は言った。
ペリイ・メイスンは何も言わなかった。
ドクター・ドーレイは両肘を膝の上につけた。両手を膝のあいだに力なくぶら下げて、うなだれきって絨毯を見つめていた。
「一つだけお話しすることがあります」と、彼は言った。「絶対に嘘じゃないんですよ。彼女にここへきてくれなんて言いませんでしたよ。つまり、その……」
「つまり、その、何だ?」ペリイ・メイスンはすばやくききとがめた。
ドクター・ドーレイは自分を抑えた。
「あなたの完全な見当違いですよ」と、彼は言った。「マージョリー・クリューンは、ここで僕とおちあうことにはなっていません。僕のいる場所も知ってはいません、どこへ行ったら僕に会えるか、知る筈もないんです。僕は、クローヴァーデイルを出て以来、彼女と連絡をとってはいないんですよ」
「それだけでもお前さんが」と、ペリイ・メイスンが言った。「どんなにつまらない嘘つきかわかるぜ……」
廊下を足早に歩いてくる足音がして、ドアをかるくノックする音が聞えた。
ドクター・ドーレイは、ペリイ・メイスンにじっと目を向けたが、その眼は、愕然として大きく見開かれていた。
ペリイ・メイスンは、ドーレイに動くすきを与えるまでもなく、さっとドアを開けた。
マージョリー・クリューンが青い瞳に感動のいろをうかべて戸口に立っていた。
ペリイ・メイスンを見つめた顔に、とても信じられないような困惑の表情があらわれた。
「あなたが!」彼女は言った。
ペリイ・メイスンは、うなずいて、わずかに横に身を退いた。彼女は、ドクター・ドーレイを見た。
「ボブ」と、彼女は叫んだ。「何があったのか教えて!」
ドクター・ドーレイは、四歩大股に近寄って、二人のあいだの距離をつめると彼女を抱きしめて引きよせた。
ペリイ・メイスンは室内を横ぎって窓ぎわに歩みよると、コートのポケットに手をつっこんで、下の通りをむっつり見おろしていた。
「どうしてあの飛行機に乗らなかったんだい、君は?」と、ドーレイがささやいた。「僕たちは、君が逮捕されたとばかり思っていたんだよ」
「タクシーが故障したの。それで飛行機に乗り遅れたのよ。始発の列車できたわ」
ペリイ・メイスンは、二人に背を向けたまま、顔は窓に向けて肩ごしに声をかけた。「どうして僕の言ったとおりにしなかった、マージョリー、部屋を離れてはいけないと言ったろう?」
「できなかったんです」彼女は言った。
「どうして?」
「うまく説明がつかないんですけど」
「僕はね」と、彼はまだ彼女に背を向けたままで言った。「君が話してくれることが非常に重要だと思っているんだ」
沈黙が流れた。ドクター・ドーレイが彼女にひそひそささやきはじめた。
ペリイ・メイスンは、その、ひそひそ声を聞きつけると、ぐるりと踵をまわした。
「よしなさい」と、彼はドクター・ドーレイに言った。そして、マージョリー・クリューンの青い眼を眼でとらえると、彼は言った。「さあ、マージョリー、すっかり話してくれ、重大なことだからね」
彼女は頭をふったが、唇まで蒼ざめていた。
ペリイ・メイスンは、するどく彼女を見まもっていた。
「よし」と、彼は言った。「僕から言ってやろうか。君がドクター・ドーレイに電話したんだ。彼が、君に、ここにいっしょにくるようにさそった。結婚して、いっしょに楽しくすごそうとしたのか、あるいは、ここに身を隠そうとしたか、だな。どっちなんだい?」
「いいえ」と、彼女は、しっかりした、悪びれない声で言った。「それは間違いですわ、ミスタ・メイスン。どっちでもないんです。ドクター・ドーレイに電話したのは、あたしのほうです。この旅行を提案したのは、あたしです。このひとのホテルに、あたしが電話したんですもの。そのときには、そのホテルを引き払ったあとでした。それで、ボストウィック・ホテルのあたしのところに電話をくれるように伝言を残しておいたんです。このひとは、ホテルを出たのですけれど、あとでホテルに電話したのでその伝言がわかったわけです。あたしに電話をかけてきました。それで、一週間ばかり、ここへ行ってみないかとあたしがさそったんです。新婚の部屋をとって、いっしょにすごすつもりでした。それが終わったら、警察へ出頭するつもりでしたの」
「ここの?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「いいえ、もちろん違いますわ。あたしたちがいた場所は誰にも知らせない筈でした。二人でニューヨークにもどるつもりでしたもの」
「それで二人で自首するつもりだったのかい?」ペリイ・メイスンは訊いた。
彼女はうなずいた。
「僕との約束を破ってまで」と、ペリイ・メイスンは訊いた。「わざわざここへやってきた理由は何だ?」
彼女は、率直な、おちついた眼で、じっと彼を見つめた。
「ボブといっしょに」と、彼女は言った。「ここで一週間すごしたかったからですわ」
「君はそんなことをするようなタイプの娘じゃないよ」彼は言った。
「君はボブ・ドーレイと何カ月も会っていながら、一度だっていっしょに週末をすごしたいなんてことは考えたこともないじゃないか――少なくとも僕はそう思うね。それが、だしぬけに、彼といっしょに一週間すごそう、そうしたら、もうあとはどうなっても構わないというわけだ。君って女は――」
彼女は、ペリイ・メイスンに寄って、彼の肩に両手をかけた。唇は蒼ざめて、ふるえていた。
「おねがいです」と、彼女は言った。「このひとに言わないでください。あなたには、すぐにわかることなんです。おねがいですから、よして。ちょっと考えるだけで、あなたにはおわかりになることですもの」
ペリイ・メイスンは、彼女に向って眉をひそめたが、やがて眼が細められた。
「ああ」と、彼は言った。「もうわかってきたよ」
「おねがいです、かれにはおっしゃらないで」マージョリー・クリューンは哀願した。
ペリイ・メイスンは、彼女から離れて、窓に寄り、ポケットに手をぐいっとつっこんで立っていた。彼には、ドクター・ドーレイがマージョリー・クリューンのところに駆け寄って、彼女を両腕で抱きしめる音が聞えた。
「何の話なんだ。君? 話してくれたまえ」
「訊かないで、ボブ。あたし、泣いてしまうわよ。あの約束《バーゲイン》を思い出して頂戴。あたし、あなたに一週間あげるのよ。あなたは何も訊かないって、あなたは、約束した筈よ――」
不意に、ペリイ・メイスンの声が二人の低い話し声を遮った。彼の声は、ニュースを放送しているアナウンサーの声に似ていた。
「この通りのちょうど反対側に」と、彼は言った。「車が一台とまったよ。黒い、鍔《つば》びろの帽子をかぶった大きな男がおりてくるところだ。どうみても田舎の保安官というところだな。反対側からもう一人おりてくるよ。金の紐がついている警察の帽子をかぶった制服警官だね。この町の所長らしい。二人で何か話をしている。道路をへだててこのホテルを見ているよ」
メイスンの背後の室内が、突然、静かになった。メイスンは、あいかわらず、感情を押し殺したような声でつづけた。
「二人は通りを横ぎってホテルのほうへやってきたよ。ここへやってきて、君たちの一人を検挙することは、まず疑問の余地はないね。マージョリーの後を尾けてきたのかも知れない。ドクター・ドーレイが真夜中の飛行機でやってきたことを知ったのかも知れないね」
ペリイ・メイスンは、ぐるりと身体をまわして二人に向き直った。
ドクター・ドーレイは、蒼白な顔をして立ちつくしていた。マージョリーは、その傍に寄り添っていた。唇はふるえていなかった。彼の眼は、ひたとペリイ・メイスンに注がれていた。
「わかりました」と、彼女は言った。「こうなったら覚悟はできましたわ。あなたは、あたしだけでなくドクター・ドーレイの弁護もしてくださいますね、ミスタ・メイスン。そう了解してもよろしゅうございますか?」
「そうだね」と、ペリイ・メイスンは言った。「そう了解してもらっていい。しかし、僕流のやりかたでやるつもりだぜ」
「どういうんですの、それ?」彼女は訊いた。
ペリイ・メイスンの眼は、ドクター・ドーレイに移った。
「君がいさぎよく男の役を引きうけるんだね」と、彼は言った。「僕は、君を狼どもに投げてやることにしよう。君は、その役をいやでも引きうけるんだ。一つだけ、僕に約束しなけりゃいけないよ。君には、これまでになく一番むずかしいことになるだろうが、これからそれをやるんだよ」
「マージョリーの助けになるんですか?」ドーレイは静かに訊いた。
「そうだよ」ペリイ・メイスンは言った。
「どんなことですか?」
「絶対になにもしゃべらないことだ」
「そのほかには?」ドクター・ドーレイが訊いた。
ペリイ・メイスンは、陰気に笑った。
「それだけでたくさんだよ」と、彼は言った。「連中は、警察の心理学というやつで、ありとあらゆる手を使うんだぜ。マージョリー・クリューンが殺人を自供した、なんて君に言うだろうな。君を愛していたからそんなことをしたんだ、とか、君を助けたがっている、とか言うだろう。彼女のサインのある自供書を君に見せることもあるだろうな、きっと。お前は、お前のやった犯罪で彼女が死刑になるのを彼女のスカートのかげにかくれて見過ごすのか、なんて詰問するよ。君をしゃべらせるために、頭をしぼって、あの手この手で攻めたててくるさ。おどかしでくることもあるだろうな、きっと。そうじゃないこともあるだろうね。これは|おどかし《ヽヽヽヽ》だろうとかそうじゃないのか、なんて、うっかり考えたりしないと約束してもらいたいんだよ、僕は。マージョリーの弁護のことは僕にまかせて、そのことは考えないこと、連中がどんなことを言っても何もしゃべらないことを約束してもらいたいんだ。僕が君の弁護士であって、僕と連絡をとりたい、とだけ言うんだよ。君に、できるね、これが?」
「ええ」
ペリイ・メイスンはマージョリー・クリューンをふり向いた。
「君のスーツケースはどこにあるの?」
「駅に預けてきました。ボブがここにいるかどうか確かめたかったので」
「いい子だ」と、彼は言った。「さあ、いっしょにきたまえ」
ドーレイは彼女の身体に腕をまわすと、飢えたように引きよせた。彼の唇は、彼女の唇を求めていた。
ペリイ・メイスンはドアをさっと開けた。
「そんなことをしている暇はないんだぞ」と、彼は言った。「きなさい、マージョリー」
彼女は、ほんのわずかのあいだ、そのまま彼に抱きついたが、やがて、背を向けてペリイ・メイスンに駆けよった。
「ドアを閉めて鍵をかけるんだ」と、メイスンは言った。「あんまり早く開けるんじゃないよ」
彼は、マージョリー・クリューンの腕をつかむと、廊下を走って行った。角に近い部屋のところで、彼は部屋をノックした。部屋のなかで人の動く気配がした。
「急げ」と、ペリイ・メイスンは言って、マージョリーを廊下の角に引ったてた。もう一つドアをノックした。返事がなかった。彼は、ポケットから合鍵を出すと、その一つを鍵穴に押しこみ、鍵を外してドアを開けた。
「入りたまえ」彼はマージョリー・クリューンに言った。
マージョリー・クリューンが戸口に歩いて室内に入ったと同時に、エレヴェーターのドアが音をたてて開き、さっきの、一人は制服制帽、一人は黒い、鍔《つば》びろのステットスンをかぶった連中が廊下に出て、ペリイ・メイスンのほうに歩いてきた。
ペリイ・メイスンは、静かに、おちつきはらって行動した。彼は部屋に入ると、その幅の広い肩で、マージョリー・クリューンが警官の眼に入らないように立ちはだかった。ゆっくり、踵のうしろでドアを探りあてると、足で蹴ってドアを閉めた。
「戸棚のなかに札《ふだ》があるよ、マージョリー」と、彼は言った。「厚紙に『面会謝絶』と印刷したやつなんだ。それを探して持ってきてくれないか」
彼女は、戸棚のドアを開けて、その札を見つけると黙って彼にわたした。
ペリイ・メイスンはドアの傍に立って、聞き耳を立てている人のように、首を一方に傾《かし》げていた。
不明瞭な話し声が、わずかに開いた欄間窓から洩れてきた。やがて、その響きは、さらに不明瞭になって、すっかり聞えなくなった。
ペリイ・メイスンは、ノブをまわし、ドアを開けて、その厚紙の掲示《プラカード》の紐を表側のノブにかけ、またドアを閉めると、内側のボルトをかけた。彼は、その室内を、さっと見まわした。
「あいている部屋だな。しばらくのあいだは、しずかにしていられるだろう」彼は言った。
「どうなさるつもり?」マージョリー・クリューンは訊いた。
「君をここからつれ出して、君があくまでも残っているべきだった場所にもどろうというわけさ。静かにしていてくれ。何もしゃべらないで。あの椅子にすわっていたまえ」
言われたとおり彼女は椅子に崩れた。
ペリイ・メイスンはドアによりかかるようにして、聞き耳を立てていた。
数分たった。
遂に、廊下を歩いてくる足音が聞えてきた。ペリイ・メイスンは、椅子をドアのところに寄せて、その椅子にあがり、わずかに開いた欄間窓の高さに耳をあてるようにした。
訊問する声がいくつもつづいて聞えてきた。その質問のあとには、いつも沈黙がつづく。返答する声は一つも聞えてこなかった。
ペリイ・メイスンは安心したように吐息を洩らすと、椅子からおりて、マージョリー・クリューンに向って微笑をみせた。
「いまのはほんの小手調べなんだが」と、彼は言った。「男らしく、がんばってくれるだろう」
「もちろん、そういう人ですもの」彼女は言った。
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第十四章
ペリイ・メイスンは、ごてごてしていてすわりごこちの悪い椅子にすわって彼の視線を悪びれもせずにうけとめているマージョリー・クリューンをじっと見つめていた。
「君は、ブラッドバリーと結婚する決心だったね」彼はゆっくり言った。「ボブ・ドーレイがあの殺人をやったと思ったからだ」
彼女は何も言わなかった。
「それで、ブラッドバリーが」と、ペリイ・メイスンは言った。「ボブ・ドーレイの弁護の費用を持つ。そうなんだろう?」
「あたしとしては」と、彼女は言った。「何かあの人が感づくようなことをおっしゃるんじゃないかと思って、むろん心配でしたのよ。あたしが犠牲になるというようなことがわかったら、あの人は、十回でも二十回でも死刑の宣告をうけるほうを選びますわ」
「なぜ、君はそんなことをした?」
「だって、あのひとの弁護士の費用を作る方法なんか、ほかになかったんですもの」
「君は、それほどにしてまで、彼の弁護が必要だと思っているのかい?」
「ええ、必要よ」と、彼女は言った。「あなたは弁護士ですもの、ご存じでしょう」
「すると」ペリイ・メイスンはゆっくり言った。「君が僕と連絡をとって、ボストウィック・ホテルで待っていると約束したときからずっと、ブラッドバリーは君と連絡をとっているんだね?」
彼女はじっと彼を見つめているだけで何も言わなかった。
「君がブラッドバリーに電話したのか?」と、彼は訊いた。「それとも、彼から電話をよこしたのか?」
「それは」と、彼女が言った。「ちょっと申しあげられませんわ」
「なぜ?」
「ただ、あたしには申しあげられないだけですの」
「べつな言いかたをすれば、口外しない約束をしているわけだね?」
「その質問にも、返事はいたしかねます」
ペリイ・メイスンは、チョッキの袖ぐりに親指をかけて、室内を行ったりきたりしはじめた。
「あの警官たちが」と、彼は言った。「ボブ・ドーレイを逮捕した。いまごろは、彼をおどしたりすかしたりやっているだろう。彼の弁護を引きうけるとなると、事実はどうなのかをはっきり知っておくことが非常に重大なんだよ。君は僕に話してくれるね?」
「ええ」
「よかった」と、彼は言った。「さあ、話してくれ」
彼女は低い、おちついた声で話した。一、二度、咽喉にこみあげたようなかすれた声がまざったが、眼は乾いていて、最後までおちついて話しつづけた。
「クローヴァーデイルのコンテストに入賞したときは、もちろん得意でしたわ。大スターになれるような気がしました。のぼせあがっていたんですね、きっと。若かったからですわ。もし、うぬぼれなかったら、人間の血が通っていないことになりますものね。
栄光に輝きながらあの都会に出てきましたわ。いざ到着してみると、自分が罠にかかったことがわかりましたけれど、やはり、何と言っても、故郷へそんなことを書いたり説明したりしてやるのは自尊心が許しませんでした。あたしは決心したんです。自分には将来がひらけるだけの素質があるんだって。それでこっちに残って、がんばることにしたんです。パットンがあたしを欺して、映画スターになろうなんて思わせたのなら、あんな男のことはどうなってもいいから、自分の力で映画スターになってやろうと思ったんです」
ペリイ・メイスンはうなずいた。
「あたしにはわかりませんでしたのよ」と、彼女は言った。「自分がどんなものを相手にまわしているのか、あなたにはおわかりでしょうね、きっと。大都会に住んでいらっしゃるんですから。あたしは、何でもやってみました。そして、セルマ・ベルに会いました。彼女とはフランク・パットンを通じて知りあったんです。フランク・パットンとはずっと連絡をとっていましたけれど、それは、彼を踏み台にして何とか身のふりかたを決めようとしたからですの。お金がだんだん心細くなってきたし、もうしばらくこっちに滞在するお金をとってやりたかったんです」
「つづけてくれたまえ」と、ペリイ・メイスンは言った。「そういうことはみんな知っているし、推測もつくよ。どんなことが起こったか話してくれ」
「パットンが殺された晩」と、彼女は言った。「あたしは、彼と会う約束があったんです。その約束の時間は八時でした。その日の午後、あたしはボブ・ドーレイが車を走らせているのを見かけたんです。ほんのちらっと見ただけでしたけれど、あのひとがこっちに出てきていることがわかったんです。あたしは、それからすぐいろいろなホテルに電話をかけて、ドクター・ドーレイが泊まっているかどうかを問い合わせはじめました。いや気がさすほど時間が長くかかりましたわ。あたしは部屋を安く借りているガール・フレンドの電話を使ったんです。彼女のことはあなたに申しあげたくありません、こんな事件に捲きこみたくありませんから。その日の午後いっぱい電話をかけるのに使っていましたわ。でも、とうとう見つけたんです。ミドウィック・ホテルにいましたわ。もどってきたらすぐ、あたしに電話をかけるように伝言を残しておきました。彼は、ホテルにもどって電話をかけてよこしたので、あたしは自分の住所を教えました。彼は車でやってきて、あたしをつれ出したんです。
あのひとに会えて、あたしはほんとうにうれしかった。あたしは泣いちゃったものですから、ずいぶんたいへんだったと思いますわ。うれしくて、うれしくて、涙がポロポロ顔を濡らしました。
フランク・パットンと会う約束があったのを、あのひとに知られてしまったんです。あのひと、あたしを行かせたがらないんですの。パットンを殺してやるなんて言っていましたわ。でも、べつに本気で言ったわけじゃなくて、言葉の調子ですのよ」
「つづけて」彼女が彼を心配そうな眼で見ながら言葉をきったとき、ペリイ・メイスンは言った。
「あのひとは例のナイフを車のなかに持っていました」と、彼女は言った。「どうしてそんなことをしたのかわかりませんけれど、すっかり逆上していたに違いありませんわ。あたしはパットンとの約束をはたしたかったんですけど、あそこまでボブに送ってもらいたくなかったんです。ボブは、どうしても送って行くと言い張るんです。とうとう、あたしたちは妥協しあいましたわ。ボブはパットンのところまであたしを送る、あたしは一人で行ってパットンに、もう今後いっさい関係しない、あたしはボブ・ドーレイと結婚する、と言うことに決めたんです。ボブは、自分のホテルに帰っている約束でした。あたしは、ボブに、フランク・パットンの居場所の正確なアドレスは教えていなかったんです。ただ、どこどこまで送って行って頂戴、って言っただけでした。あそこに着いたとき、あたしはホテルで会うから帰って頂戴、って言ったんです。
ボブは、あたしから離れるのをいやがって、パットンの部屋までいっしょに行かせてくれって頼みました。あたしは、ほんとうにこわくなってきましたわ。ボブは車を駐めたんですけど、消火栓の前じゃなかったかと思います。あまり興奮していたから自分のしていることもわからなかったんでしょうね。あたしも、わからなかったと思いますわ。あたしは、咽喉が乾いた、と言って、アイス・クリーム・パーラーにいっしょに行ったんです。あたしは、お化粧室に入って、待って、待って、待ったんです。メイドの人にボブがいるかどうか見てもらったんです。まだいましたわ。それで、その女の人に、あたしがもう裏口から帰っちゃったって言ってもらったんです。ほんとうは裏口なんかなかったんですけど、あのひとを追い払おうと思ってそんなことをしたんです」
「それで、君は、そのあとも化粧室で待っていたのか?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「ええ、その化粧室で待っていましたわ」
「どのくらいの時間?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「わかりませんけど、五分ぐらいか、もっとたっていたかも知れませんわ」
「で、それからどうした?」
「で、それから、もういなくなったろうと思って、通りへ出たんです。ボブの姿は見あたりませんでした。私は大いそぎでフランク・パットンのアパートに行ったんです」
「おっと待ってくれ」と、ペリイ・メイスンは言った。「その前に電話をかけて、二十分ほど遅れるという伝言を残したんじゃないかい?」
「ええ、なにしろ、あたし、ボブと会って、とてもうれしかったものですから、できるだけ長いあいだあのひとといっしょにいたかったんです。少し遅くなるだろうってわかっていましたから」
「で、セルマ・ベルもその晩、フランク・パットンと会う約束があったのかい?」
「もちろん、彼女もあたしとおなじ時刻に行くことになっていたんです」
「よし」と、ペリイ・メイスンは言った。「これで何かつかめそうだ。それで、どうなったんだ?」
「あたしは、あのアパートのロビーをぬけて」と、彼女は言った。「エレヴェーターで三階まであがって、パットンの部屋まで行ったんです。ドアをノックしたんですけど、返事はありませんでした。あたしは何気なくノブをまわしてみましたが、ドアのノブがまわって、すうっとドアが開きました。あたしは室内に入ってみました。照明がついていて、パットンの帽子と、手袋と、ステッキがテーブルの上にあるのに気がつきましたわ。あたしは、『あら、ミスタ・パットン』とか、何とか、そんなふうに呼んで、寝室のほうへ行ってみました。そこで彼を発見したんです」
「ちょっと待った」と、ペリイ・メイスンは言った。「バスルームのドアは開いていたか、閉まっていたか、どっちなの?」
「開いていましたわ」
「寝室の入ったとき彼は死んでいたのかね?」
「もちろん、フロアじゅうに飛び散った血のなかに倒れていましたわ。おそろしい光景でした」
「そのあとで、どんなことがあった?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「何もありませんでしたわ」と、彼女は言った。「あたしはすぐに外に出たんです。出てくるときドアを閉めましたけれど、鍵はかけませんでした。鍵なんか何も持っていませんでしたから。あのドアは、あたしが入って行ったときも鍵はかかっていませんでしたし、あたしが出てきたときも鍵はかかっていませんでした。あたしは廊下に出て、エレヴェーターでロビーにおりましたが、ロビーには誰もいませんでした。アパートを出て通りを歩きはじめたとき、あなたにお会いしたんです。あなたは、何かあたしの知っていることを探り出そうとしていらっしゃるような、奇妙な眼でごらんになったので、あたしはこわくなったんです。そのとき、はじめて、自分がこの事件に何らかのかたちで捲きこまれるんじゃないかって気がしましたわ」
「どんなかたちで?」彼は訊いた。
「あら」と、彼女は言った。「訊問とか何かそんなかたちでですわ。新聞で読むようなことで、法律の専門家に反対訊問されたり、あたしの写真が新聞に出されたり、あたしの証言にも疑惑が持たれるんじゃないか、そんな気がしましたわ」
「君は白い靴をはいていたね」と、彼は言った。「あれはどこにあるの?」
「セルマ・ベルが持っていますわ」
「どうして、彼女が持っているんだ?」
「もちろん、血がついていたからですわ」
「そのとき、君はそれに気がついた?」
「そのときは気がつきませんでした。アパートに帰ってから見つけたんです。セルマが、靴についた血のあとに気がついたんです」
「どうしてついたんだね?」
「血の流れているところへ踏みこんだので、血が靴に跳ねたんです」
「着ていたコートにはつかなかったのか?」と、彼は訊いた。
「ええ」と、彼女は言った。「ちっとも。ストッキングにもつきませんでした。ついたのは靴だけです」
「ストッキングに」と、ペリイ・メイスンは訊いた。「つかなかったというのは確かなの?」
「もちろん確かですわ」
「服にもつかなかったんだね?」
「もちろん、つきませんわ。だってコートにつかないのに、どうして下の服にまでつきますの?」
ペリイ・メイスンはゆっくりうなずいた。
「それはほんとうらしいね」と、彼は言った。「ところで、僕の言ったとおりにしないで、ボストウィック・ホテルを出た理由をもう少し話してくれたまえ」
「それは、もう説明した筈ですわ」と、彼女は言った。「ボブといっしょにいたかったから出たんです」
「君がパットンに会いに行ったときは、もう二度と彼には会わない、ボブ・ドーレイと結婚するんだ、と言うつもりだったんだね?」
「ええ」彼女は、一瞬、ためらうようないろを見せて言った。
「僕がセルマ・ベルのアパートで君に会ったときも、その気もちに変わりはなかったんだね?」
「あのとき、あたしは、ひどくおびえていたんです」と、彼女は言った。「あたしの靴についた血を見つけたとたんに、セルマがどうしたのかって訊きたがったものですから。あたしは、知っているだけのことを話しましたわ。彼女は、あたしが捲きこまれるんじゃないかって心配しはじめたんです」
「彼女が君にそう言ったのかい?」
「ええ」
「あの晩、彼女もフランク・パットンに会う約束があったんだろう?」
「約束はあったんですけど、守らなかったんです。パットンとの約束なんか、何度も破っているんです。こんどの場合は、いっしょに外出したボーイ・フレンドがその約束を守らせなかったんですけれど。ジョージ・サンボーンという人ですの。そのことは全部、彼女からあなたに話しましたわ。あなたがサンボーンに電話をかけて、彼女の言ったことがほんとうだということを確かめたのをおぼえておいででしょう」
「その問題は、さしあたってそのままにしておこう」と、ペリイ・メイスンは言った。「僕が知りたいのはね、セルマのアパートで僕が君と話したとき、君はまだドーレイと結婚するつもりだったか、ということなんだ」
「そのつもりだったと思います。あのとき、結婚のことなんてあまり考えていませんでしたわ。おびえていましたから。それも、とくにあなたがあそこにいらしてからは」
「しかし、結婚に関するかぎりでは、ボブ・ドーレイといっしょになる意向だったんだね?」
「もし、そのことを考えたとすれば、そうですわ」
「ところが、真夜中までのあいだに」と、ペリイ・メイスンは言った。「君はブラッドバリーと結婚しようと決心したわけだ。なぜだね?」
「なぜって」と、彼女は言った。「それ以外にボブ・ドーレイを救うお金を作る方法がないと思ったからです」
「君はボブ・ドーレイがやったと思っているのかい?」
「そんなことは何も考えていませんわ。あたしにわかっていることは、ただ、あのひとには一番腕のきく弁護士に依頼してやらなければいけないってことだけです」
「屍体を発見したとき」と、ペリイ・メイスンは言った。「君はその傍に落ちていたナイフに気がついたのか?」
「ええ」
「そのナイフがどんなものかわかったのか?」
「どういう意味ですの?」
「君は、ボブ・ドーレイがナイフを買ったことを知っていたのか?」
「ええ、あのひとの車のなかにあるのを見ましたわ」
「彼がそれで何をしようとしていたか、知っていたのかね?」
「ええ。あのひとが話してくれましたわ」
「それが、フランク・パットンの住所を彼に教えるのがこわかった理由の一つなんだね?」
「ええ」
「すると、フロアに落ちているナイフを見たとき、君はボブ・ドーレイが殺したという結論に、一足飛びに飛躍したに違いないね」
「ああいう状況で、あなただったらどんな結論に達しますか?」彼女が反問した。
「ところでね、もう少しだよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「君は、そのキャンディ・ストアに行った。化粧室に入った。そこに入りこんでいて、ドーレイには、君が裏口から出たと思わせたんだね?」
「そうです」
「彼は、だいたい五分ぐらい君より早くその店を出ているわけだね」
「ええ」
「パットンは、君が入って行ったときからどのくらい前に殺されていたんだろう? 君はどう思う」
「そんなに長いことはないでしょうね」と、彼女は言った。「一分か二分……ああ、こわい!」
「まだ、動いていたかい?」
「いいえ」
「傷からはまだ血が出ていたのか?」
「ええ、ものすごく」彼女はそう言って身をふるわせた。
「それで」と、ペリイ・メイスンは言った。「君はすぐにドーレイが殺人を犯したと結論した。君が姿を見せずにフランク・パットンと会う約束をはたしに行ったという伝言を伝えさせたとき、ドーレイがかっとなったものと君は思ったんだ」
「ええ」
ペリイ・メイスンはじっくり彼女を見つめていた。
「君のことでどういうことを僕がしようとしているか知っているかい?」彼は訊いた。
「どういう意味ですか?」
「君が与えた強い印象と、加えてこの事件に関連して僕が見てきたことだけのために」と、彼は言った。「僕の職業上の全経歴を賭けようというんだ。君は殺人罪で指名手配されているよ。その君の逃亡を幇助《ほうじょ》しようというのだからね、僕は。もし僕が逮捕されるようなことになれば、僕も事後従犯ということになる。言い換えれば、僕は共犯として殺人罪に問われるわけだ」
彼女は何も言わなかった。
「君を信用しているほど、僕はドクター・ドーレイを信用していないんだよ」と、彼は言った。「それで、わざわざドクター・ドーレイをあの部屋に残してきたんだよ。もし、あの部屋が空っぽだったら、連中はホテルのなかを探す筈だとわかっていたんだ。もし、ドーレイが見つかって、彼が何も話さなければ、君がホテルにいるかいないか、どっちともわからないだろうね。そのチャンスを狙ったんだよ」
「だけど」と、彼女は言った。「あたしたちが出て行くとき、警察がホテルを監視してはいないでしょうか?」
「そのとおりだよ」と、彼は言った。「だから何とか脱出する方法を考え出さなければならないんだ。僕たちは、もう動きがとれないんだからね」
彼は大股に窓ぎわに寄ると、また、むっつりと下の通りを見おろした。
「それなのに、君はまだ」と、彼は言った。「僕があったときから真夜中までのあいだに、どうして気が変ったのか、なぜ、こんなに不意にブラッドバリーと結婚する決心をしたのか教えてくれないのかい?」
「申しあげた筈ですわ」と、彼女は言った。「ボブの弁護費用を作る方法がほかになかったんですもの。もしボブに一流の弁護士がつけられなかったら、殺人犯にされてしまうことがわかっていました。いろいろな事情を考えつめたあげく、ブラッドバリーが、あなたをあたしにつけてあることに思いあたったわけですの。それで、あたしが彼と結婚することがわかったら、ジムはボブを救うためにあなたをつけてくれるだろうと思ったんです」
ペリイ・メイスンの眼がぎらりと光った。
「どうやら」と、彼は言った。「僕が聞きたいと思っていたことを、やっと君は言ってくれたね」
「どういう意味ですか?」
「もし、君が彼と結婚するということがわかれば、彼がドーレイの弁護士の費用を出すってことさ」
彼女は唇を噛んで何も言わなかった。
ペリイ・メイスンは、しばらく何か考えているように彼女をじっと見つめていた。
「君と力をあわせてやろう」と、彼は言った。「僕が力をあわせてやるとなったら、徹底的にやるからね」
彼女は、心配そうに眼を大きくして彼を見まもっていた。
「着ているものを脱ぎたまえ」と、彼は言った。「そして、ベッドにもぐりこむんだ」
「どこまで脱がなければなりませんの?」彼女は訊いた。
「スカートを椅子にかけて」と、彼は言った。「靴はベッドの下においとくんだ。ストッキングはベッドのすそにひっかけといたほうがいいな。胸はむき出しにしておいて、カヴァーから出ているのは肩のストラップだけにしておいてもらいたいんだ」
「それから、どうします?」彼女は訊いた。
「それから」と、彼は言った。「僕は男を一人、この部屋に入ってこさせて、その男に君を見せるんだよ。その男が考えるような種類の女みたいな態度をとってみせるんだよ」
彼女はスカートの脇のジッパーに手をかけた。
「あなたがあたしと力をあわせようとおっしゃるんですから」と、彼女は言った。「あなたが信用してくださっているのに負けないくらい、あたしもあなたを信用しているところをお見せしますわ」
「いい子だ」と、彼は言った。「チュウインガムを持ってるかい?」
「いいえ」
「チュウインガムを噛んでいるように顎を動かせるかい?」
「ええ、こういう調子ではどうかしら?」
彼は、じっくり彼女を見まもっていた。
「噛みしめたとき、顎をもう少し横にずらすようにしたまえ」と、彼は言った。「ぐりぐりまわすようにするんだよ」
「ずいぶん、あたりまえに見えますわ」彼女は言った。
「そういうふうに見えていいんだ」
「こういうふうにしたら?」
「そのほうが」と、彼は言った。「いいね。さあ、どんどん脱ぎなさい」
彼はまた窓の傍に寄ると、ベッドのスプリングがきしむ音を聞くまで通りを見おろしていた。
「もういいかい?」彼は訊いた。
「ええ」彼女は言った。
彼はふり返って、じっくり彼女を見つめた。スカートは椅子の背にかけてあり、ストッキングはベッドのすそに、靴はベッドの下においてあった。
「チュウインガムを噛む真似をしてごらん」彼は言った。
彼女は規則的に顎を動かした。
「さて、その男が君を見たら」と、ペリイ・メイスンは言った。「眼を伏せたりしちゃいけないよ。恥ずかしがっているような態度をとってもいけない。『こっちへいらっしゃいな』みたいな眼つきをしてやるんだ。できるかい?」
「誰がくるんですの?」彼女は訊いた。
「まだわからないんだよ」と、彼は言った。「このホテルのポーターというところだろうね。君を見るだけで、べつに何もしやしないよ。だがね、そこんところはうまくやらなけりゃいけないぜ」
「できるだけうまくやりますわ」彼女は言った。
ペリイ・メイスンは、ベッドに寄って、その端に腰をおろした。彼女は、青く、けなげな眼で彼の考え深く、賞めるような視線をうけとめた。
「君の靴についた血はほんの少しかい?」彼は訊いた。
「ええ」
「セルマ・ベルは白い靴を持っているの?」
「さあ、どうかしら」
「セルマは君の白い靴の汚れを落とすために受けとったんだね?」
「ええ」
「君があのアパートにもどったとき、セルマ・ベルは何をしていた?」
「ちょうどお風呂から出たところでした。彼女はあたしの靴を見ると、すぐに脱げって言うんです。それから服を脱いでお風呂に入って、足や踵に血がついていないようにしなければいけないって」
「君のストッキングは見たのか?」
「いいえ、早くしなさいって言いましたわ」
「君はアパートまで市電で帰ったんだね?」
「ええ」
「それで、君が風呂に入ろうとしているところへ僕が行ったわけだね?」
「そうです」
「すると、君はセルマがその靴をどうしたか知らないんだね」
「ええ」
ペリイ・メイスンは、ベッドの上に身体をおろして、半分寝そべるような恰好で、左の肘を左膝にあてて、右脚をフロアにつけ、左の脚をベッドに立てるようにした。
「マージイ」と、彼は言った。「君はほんとうのことを言っているんだろうね?」
「ええ」
「もし」と、彼はつづけた。「僕が、セルマ・ベルのアパートを家探《やさが》ししたら戸棚のなかに帽子箱があって、その帽子箱には洗濯してまだ乾いていない衣類があった、その衣類のなかには、血のついたものを落とすために洗った証拠が残っていて、白い靴が一足、ストッキング、それにスカートが入っていた、と言ったとしたらどうだね?」
青い瞳が、ひたと彼に注がれていた。不意にマージョリー・クリューンがベッドの上に半身を起した。
「そのスカートとストッキングに、血痕がついていたとおっしゃるの?」
「ああ」
「そして、それが洗いおとされていたんですね?」
「ひどくあわてて洗ってあった」と、メイスンは言った。「その血痕は、刄物をつき刺した傷から飛び散ったような血痕だった」
「まあ!」彼女は言った。
「さらにね」と、ペリイ・メイスンは言った。「バスルームで幸運の脚のことでヒステリーを起していた女の子がいるんだよ。君たち二人のうち、どっちかが嘘をついているわけだ。バスルームにいたのが君でないとすれば、セルマなんだよ」
「誰かほかの人かも知れませんわ」彼女は言った。
「しかし、それらしい女を知らないだろう?」
「ええ」
「ほかの女だとは思わないね、僕は」ゆっくりメイスンは言った。
マージョリー・クリューンは考えあぐんだように、ゆっくり瞬《まばた》いた。
「ところでね」と、ペリイ・メイスンは言った。「つぎの段階に入るわけだがね。君はイヴァ・ラモントという女を知っているかい?」
「ええ、むろん知っていますわ」
「イヴァ・ラモントは、コンテスト向きの脚をしているのかい?」彼は訊いた。
「どういう意味ですの?」
「入賞するような脚か、というんだが?」
「そうでもありませんわ」マージョリー・クリューンは言った。
「しかし、コンテストに出たんだね?」
「ええ」
「言い換えれば、彼女も候補者の一人だったわけだね?」
「ええ」
「どこで?」
「クローヴァーデイルです」
「彼女は」と、ペリイ・メイスンは訊いた、「髪と眼が黒い、君によく似た身体つきの女かい?」
マージョリー・クリューンはうなずいた。
「なぜですの?」彼女は訊いた。
「それはね」と、ペリイ・メイスンは言った。「彼女がこっちに出てきていて、ヴェラ・カッターという名前でホテルに泊まり、この殺人事件の発展に非常に興味を持っていると思われる|ふし《ヽヽ》があるんだよ」
マージョリー・クリューンの眼は、驚きのあまり大きくなった。
「それで」と、ペリイ・メイスンは言った。「この女がどこから金を捲きあげているか教えてくれ」
「いろんなところから、ずいぶん捲きあげているようですわ」マージョリー・クリューンがはげしく言った。「しばらくのあいだ、ウエイトレスをしていました。フランク・パットンがやってきて、コンテストをしたあとはそうだったんです。それからあとは、いろいろなことをやってきていますわ。脚を見せる機会があったものですから、夢中になる人もかなりたくさんいました。コンテストに入賞しようとしまいと、こっちへ出てきて映画に入るんだって言っていましたわ」
「君がコンテストに入賞してから」と、ペリイ・メイスンは言った。「あとはどうした?」
「それから」と、彼女は言った。「こっちへ出てきて自分で成功してみせる。あたしを見返してやるなんて言っていましたわ。あたしがコンテストで勝ったのは、フランク・パットンにとり入って、えこひいきさせたからだ、なんて言いふらしていましたけど」
「君はそんなことをしたの?」ペリイ・メイスンは言った。
「いいえ」
「イヴァ・ラモントのことはあまり話してくれないじゃないか」と、彼は言った。「彼女のことをもっとよく知ることが重要なんだよ」
「彼女が嫌いなんですもの」
「そんなことは関係がないよ。これは殺人事件なんだからね。君は彼女についてどんなことを知っているんだ?」
「あまりよく存じませんが、いろいろなことを耳にしましたわ」
「例えば?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「あら、いろいろなことですわ」
「その女が」と、メイスンは訊いた。「こっちへ出てきてから、フランク・パットンを訪ねたかどうか知っているの?」
「会っているでしょうね」マージョリー・クリューンはゆっくり言った。「そんなことをするタイプですから」
「彼女には、君に悪感情を持つ理由でもあるの、マージョリー?」
マージョリー・クリューンは眼を閉じて、またベッドにもぐりこみ、肩まで掛布団をひっぱりあげた。
「ボブ・ドーレイに気ちがいみたいにのぼせあがっていたんです」彼女は言った。
「それでドーレイのほうは君に夢中だったんだね」
「ええ」
ペリイ・メイスンは、ポケットから煙草の箱を出して、一本ひきぬくと、口の途中まで持っていったが、ふと気がついて、その箱をマージョリー・クリューンのほうへさし出した。
「煙草を喫ったほうがいいかしら?」彼女は訊いた。
「どうでもお好きなように」
「いいえ、その男のひとがは入ってきたときに、煙草を喫っていたほうがよくないかしら?」
「いや、チュウインガムを噛んでいたほうがいいよ。両方やるのはむずかしいだろう」
「じゃあ、今、喫うことにしますわ」彼女は言った。
一本、煙草をとった。ペリイ・メイスンは化粧台から灰皿をとってくると、二人の間のベッドの上においてマッチを、マージョリー・クリューンの煙草につけてやった。
「空いているほうの枕をくれないか、マージョリー」彼は言った。
彼女がその枕をわたすと、彼はそれをベッドのすそにあててよりかかった。
「ちょっと考えることがあるからね」と、彼は言った。「邪魔しないでくれたまえ」
ちょっと煙草を喫ってから、その煙草を前に出すようにして、くねくね立ちのぼる煙を見つめている彼の眼は、夢を見るように、ぼうっと放心して膜がかかっているようだった。その煙草は、指を焦がしそうになったが、やがて彼はゆっくりうなずくと、眼の焦点をはっきりマージョリー・クリューンに向けた。
煙草を灰皿に押しつぶすと、勢いよく立ちあがって、チョッキをひっぱった。
「よし、マージョリー」と、彼はやさしい声で言った。「答が出たようだ」
「何の答ですの?」
「いっさいのことに対する答えさ」と、彼は言った。「それで、君には言っても構わないが、僕はあるところでは、ひどく馬鹿だったよ、マージョリー」
彼女は、彼を見つめていたが、かすかに身ぶるいした。
「そんなふうにあたしをごらんになるときは、どこまでも冷やかな感じね、あなたって」と、彼女は言った。「まるで、どんなことでもできるみたいで」
「きっと」と、彼は言った。「何でもできるんだよ、僕は」
彼は、べつな煙草を一本とると、化粧台に近づいて、その煙草を二つに折って、煙草の粉をつまんで、左眼の下の瞼《まぶた》をひっぱると、その粉を入れた。ついで、右眼の下瞼をひっぱって、おなじように煙草の粉を入れた。彼は指の関節で両眼をこすった。.
マージョリー・クリューンは、ベッドの上にまっすぐ身体を起して、彼のすることにどぎもをぬかれたように見ていた。
ペリイ・メイスンの眼から涙が流れて、頬に伝わった。彼は手さぐりで洗面台に近づいて冷水を両眼に注ぎタオルで拭いてから鏡に映してみた。
眼が赤く血ばしっていた。
彼は満足そうにうなずくと、指を濡らして、ワイシャツの襟が濡れてしわくちゃになるまで襟もとを撫でまわし、それからネクタイをかるくまげて、もう一度鏡に映してその効果を調べた。
「オーケイ、マージョリー」と、彼は言った。「僕がもどってくるまで、ここで待っているんだ。チュウインガムを噛むのを忘れるんじゃないよ」
彼はドアに行って、それを開けて廊下に出ると、ふり向きもせずに、うしろ手にドアを閉めた。
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第十五章
ペリイ・メイスンは、荷物用エレヴェーターをさがして、その廊下をずっとはずれまで歩いて行った。そのつきあたりで見つけると、ボタンを押して六階まで、音を立ててあがってくるのを待っていた。エレヴェーターがとまると、ドアを開けてそれに乗り、『手荷物室』と書いてあるボタンを押した。
その大きなエレヴェーターがゆっくりおりて行って、がたんと音を立ててとまった。ペリイ・メイスンは二枚のドアを開けて、手荷物室へ踏みこんだ。受付にいた制服のポーターが、不審な、あまりぞっとしない眼を向けてきた。
ペリイ・メイスンは、エレヴェーターのドアにわざとつきあたって、二歩よろめいて立ちどまり、深く息をすると、制服の男に向ってうすぼんやりと笑顔をしてみせた。
「トランクをもらいにきたんだがね」ペリイ・メイスンは言った。
「どんなトランクです?」ポーターは|とげ《ヽヽ》のある声で言った。
ペリイ・メイスンは、にんまり笑って、あっちこっちポケットを探っていたが、とうとう札束をとり出した。彼は一ドル紙幣をとり出して、ふらふらしながらポーターに近寄って行った。彼はその紙幣をわたした。ところが、ポーターがそれをうけとろうとしたとき、ひょいとひっこめた。
「こんなもんだあ、足りやしねえや」ペリイ・メイスンは言った。
彼は札束のなかから五ドル紙幣をとり出すと、仔細らしくそれを眺めていたが、いかめしく否定するように頭をふり、札束をひろげて、二十ドル紙幣を引きぬいた。
ポーターは夢中になって手を出した。ポーターの指がそれをひっつかんだ。仏頂面をした敵意がその顔から消えた。その紙幣をポケットにしまいこむと、親しげな愛想笑いをして立ちあがった。
「トランクの預かり証はお持ちですか?」彼は訊いた。
ペリイ・メイスンは頭をふった。
「めっからねえだよ」彼は言った。
「どんな種類のトランクでございますか?」と、ポーターは訊いた。「どんな恰好です?」
「でっけえトランクなんだ」と、ペリイ・メイスンは言った。「やけにでけえトランクだぞ。販売屋《シェールズマン》のトランクだよ。なんすろ、わしの品物《すなもん》がみんなはいってるだぁ。めっけてくれ。はあ二日も遅れてるでなあ」
ポーターはトランクの山のほうへ行った。
ペリイ・メイスンは、おしゃべりをはじめた。
「はあ二日も遅れてるだよ」と、彼は言った。「女房がやってくるだ、俺の身にもなっとくれ。友達が教えてよこしただが、女房が街から俺こと、どうすてるかと思ってくるだよ。俺こと、探偵やとって調べるかも知んねえでなあ。どえれえ、べっぴんの娘っこといっしょだで。その子を捲きこむわけにはいがねえ」
ポーターは、大きなトランクを指さした。
「これですか?」彼は訊いた。
ペリイ・メイスンは頭をふった。
ポーターは、トランクの山のまわりを動いた。
「ここのですか」と、彼は言った。「ここにおいてある……」
ペリイ・メイスンの顔がほころびた。
「そいつだあ」と、彼は言って、そのトランクを、いかにもうれしそうにぴしゃりとたたいた。「さ行くべえ」
「お部屋の番号は?」ポーターが訊いた。
「六四二号だ」ペリイ・メイスンが言った。
「すぐお届けしますよ」ポーターが言った。
「すぐにきてけれよ」と、ペリイ・メイスンは言い張った。「探偵の野郎がホテルを見張ってるかも知んねえだで」
ポーターは同情してくれた。
「かしこまりました」と、彼は言った。「すぐに参ります。しょっちゅう旅に出ていらっしゃる男のかたの行状を調べるとは、ご婦人もよろしくございませんな。男ってものは、ときには愉しみもございませんとね」
ペリイ・メイスンはポーターの肩をたたいた。
「お前、ながながええこと言ってくれるでねえか」と、彼は信用した口ぶりだった。「ときたま、愉しいことやったからって、誰の迷惑にもなるでねえだよ」
ポーターは手押しの運搬車にそのトランクを載せて、荷物用のエレヴェーターに押しこんだ。ペリイ・メイスンは彼の横に立って、エレヴェーターが六階に着くと、部屋までその運搬車につきっきりで歩いた。彼は部屋のドアを開けると、横に身を寄せた。
ポーターが運搬車を押して室内に入った。マージョリー・クリューンは、顔をポーターのほうへ向けて、チュウインガムを噛んでいるように顎を動かした。
ポーターは、彼女のほうをちらっと盗み見ると、すぐ眼をそらした。
「このトランクには、半分べえウィスキイが入ってるだよ」と、ペリイ・メイスンは言って、なんとなく戸棚のほうに手をふってみせた。「そこらへんにおろしてくれや。十五分もしたら出るでな」と、ペリイ・メイスンは言った。「十分ぐれえかも知んねえ。女房が探偵にホテルを見張らしてるかもわからんでな。タクシーを呼んで裏のほうに待たしといてくんろよ」
彼は、手をズボンのポケットにもう一度つっこんだ。
「もう頂いておりますから……」と、ポーターは言いかけたが、ペリイ・メイスンがもったいぶって札束をとり出し、もう一枚二十ドル紙幣をひきぬいて彼の掌につっこむと、むにゃむにゃと最後のほうをぼかしてしまった。
「ご用意ができましたら」と、彼は言った。「いつでもお呼びください。タクシーは待たせておきますから」
彼はドアにもどって、ノブに手をかけてちょっと足をとめ、もう一度、ベッドにいる若い女に眼を走らせた。
マージョリー・クリューンのほうも、彼にすかさず応えた。ポーターの視線を、いつでもいいのよ、というように大胆に見返した。
ポーターは廊下に出て、ドアを閉めた。
「よし」と、ペリイ・メイスンは言った。「ベッドから出て服を着なさい」
マージョリー・クリューンは、ベッドから飛び出すと、大いそぎで服を着た。ペリイ・メイスンはポケットから合鍵の束を出して、そのトランクの鍵を開けにかかった。
マージョリー・クリューンは、ペリイ・メイスンがそのトランクを開ける前に、服を着終わり、髪をととのえ、顔にパウダーをはたいた。トランクには女の衣類がいっぱいつまっており、それぞれがハンガーにかかっていて、正札とカタログ番号がついていた、ペリイ・メイスンはその服をハンガーから外すと、マージョリー・クリューンに投げてわたした。
「そいつを戸棚にぶら下げておいてくれ」と、彼は言った。「そして、戸棚のドアを閉めるんだ」
彼女は黙ってその服をうけとると、六回ばかり戸棚に足を運んだ。ペリイ・メイスンはトランクの内部を調べた。
「楽じゃないぜ」と、彼は言った。「身体をまるめなければいけないんだ。かすり傷ぐらいつくだろうな。空気だっていいわけじゃないが、そんなに長くはかからないよ」
「あたしがそのなかに入るってことですの?」
「そうだよ」と、彼は言った。「君はこのなかに入るんだ。やむを得ないんでね。膝をまげて顎をつけるようにすればすわれるだろう。ポーターには、半分ウィスキイが入っていると言ったから、このトランクは大事に扱わせるようにするし、僕が傍についているよ。荷物の入口に車が待っているんだ。このトランクはタクシーに紐《ストラップ》でしばりつけることにしよう。
そのタクシーで、べつのホテルに行く。部屋をとって、すぐにトランクを持ってこさせる。注意深くとり扱うように、みんなに金をつかませるつもりだ。しかし、君は揺られたり、かすり傷ができたりして、あまり楽じゃないことは覚悟しといてくれ」
「それからどうなるんです?」彼女が訊いた。
「できるだけ早くべつなホテルに入ってトランクを開ける」と、彼は言った。「君は外に出て、こんどは二人でタクシーをひろって飛行場に行くんだ。速力の早い飛行機を待たせてあるんだ。それに乗ることになるわけだ」
「飛行機でどこへ?」彼女が訊いた。
「市《シティ》へもどるのさ」彼は言った。
「もどったら何をするんです?」
「あそこへもどったら」と、彼は言った。「いろいろな手を打つんだよ」
彼女は、彼の腕に手をおいた。
「あの服や何か」と、彼女は言った。「血のついたセルマの服や何かがどこにあるかご存じですの?」
「ああ」
「どこにあるんです?」
「必要なときには、いつでも手に入れられるところにあって、もし必要とあればセルマ・ベルと結びつけてやることもできるよ」
「ということは」と、彼女が言った。「そうした服や何かが見つかったらボブにはずいぶん役に立つわけですね。ボブは、あたしのボーイ・フレンドなんです。ご存じでしょう。警察では、彼にパットンを殺す動機があると見るかも知れませんけれど、サンボーンは、セルマのボーイ・フレンドで、彼にはボブ・ドーレイなんかよりずっと強い動機がありますわ。なにしろパットンは……」
彼女の声は、沈黙のなかに消えた。
「パットンがどうした?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「何でもありません」と、彼女は言った。「そんなこと、べつにたいしたことじゃないんです。ただ、その服や何かのことを考えただけですわ」
ペリイ・メイスンは、トランクのほうを身ぶりで示した。
「入りなさい」彼は言った。
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第十六章
飛行機が着陸するために機首を下に傾けたとき、ペリイ・メイスンはマージョリー・クリューンに向って、両手を口にもっていって叫んだ。「飛行場の北端にタクシーの駐車場があるんだよ。君はまっすぐそのタクシーの発着場へ行ってくれ。車に乗って、僕が行くまで待つように言ってくれ。僕は電話をかけなければならないところがあるんでね。できるだけ君を人眼にさらしたくないんだ。あたりを見まわしたりしないこと。まっすぐ前を見ているんだ。わかったね?」
彼女はうなずいた。
「十分以上はかからないよ」と、彼は言った。「きっとそんなにかからない筈だ」
機体はかるく円を描いてまわりこみ、機首をまっすぐにして、着陸し、舗装した滑走路の上を車輪が小気味よくきしんだ。パイロットは尾部の車輪が地面につくと、格納庫に滑走させて行った。
ペリイ・メイスンは、ポケットから紙入を出してパイロットに金を払い、マージョリー・クリューンに向ってうなずいた。
「君はタクシーに乗りなさい」と、彼は言った。「僕は、ちょっとあとで行くから」
彼は電話室に行って、事務所を呼び出した。デラ・ストリートの声が彼の耳に聞えてきた。
「一人かい、デラ?」と、ペリイ・メイスンは訊いた。「話ができるのか、それとも君の話が聞かれてしまう人間が誰かきているのかい?」
「ちょっとお待ちください」と、彼女は言った。「接続の悪いところを調べてみますから。書庫だとかおっしゃいましたね? かしこまりました。受話器が外れているのですわ、きっと」
彼女は低い声でつけ加えた。「切らないで待っていてください」
ペリイ・メイスンは待っていた。
しばらくして、また彼女の声が聞えた。
「私、書庫にいます。向うの部屋に刑事が二人いますし、ブラッドバリーが待っているんですもの」
「書庫には誰もいないのか?」
「ええ、誰も」
「よし」と、彼は言った。「こいつを聞きたいんだ。カレッジ・シティから何も言ってきてないか?」
「電報で、『カレッジ・シティ・ホテルに滞在中』というだけの内容のものが一通きています。T・Bという頭文字のサインがありますけど」
「ほかには?」
「それだけです。ただ刑事があたりをうろついているだけで。二度も訪ねてきましたわ」
「ブラッドバリーはどういう用件だい?」と、ペリイ・メイスンは訊いた。
「存じません」と、彼女は言った。「何かあるらしいんです。例の、愛嬌のあるところがなくなって、こわいくらい――爪みたいにこわくなっていますわ」
「こっちだってそうだよ」と、メイスンは言った。「つまり、情勢が荒れてくれば、こっちだってそうなるというわけさ」
「何だか、私には荒れそうな気がしますけど」と彼女は言った。「そちらは、どうですの? あなたは大丈夫なの?」
「元気だよ」
「ポール・ドレイクは」と、彼女が言った。「とてもへんな態度でしたわ。あなたが、何ですか、ひどく悪い立場に立っていて、自分はそれに捲きこまれたくないと思っているようでした」
「ほかに何か?」彼が訊いた。
「だいたいこんなところだと思いますわ」
「わかった、デラ」と、彼は言った。「これから言うことをノートしておいたほうがいいよ。カレッジ・シティ・ホテルのセルマ・ベルに電話をかけること。事務所から電話をしてはいけないよ。内線のほかの電話を使うか、外の電話に行ってくれ。君が誰なのかを言うんだ。事件のあった晩、僕が彼女のアパートを出てから、マージョリー・クリューンに電話があったかどうか、僕がぜひとも知りたがっていたと伝えてくれたまえ」
「それで?」彼女が訊いた。
「もし電話がかかっていたら」と、彼は言った。「民事訴訟法の大きな本を君の交換台の机の上においといてくれ。もしそういう電話がなかったのなら、君のインク・スタンドをおいといてくれ。どっちもおいてなかったら、何かで君がセルマ・ベルと話ができなくて、返事が得られなかったのだと思うからね」
デラ・ストリートの声は不安のいろが濃かった。
「先生は」と、彼女が言った。「セルマ・ベルを教唆《きょうさ》して逃がしたんじゃないでしょうね? あなたも捲きこまれているんじゃないでしょうね?」
「そいつはあとで話そう」
「だって、先生《チーフ》、警察が――」
「その話はみんなあとにしよう、デラ」
「オーケイ、先生《チーフ》」
「ブラッドバリーは」と、彼が言った。「書庫へ入れとけばいいよ。一時間以内に僕が会うって、内緒で言っといてくれてもいい」
「オーケイ」
「さて、刑事のことだがね」と、メイスンは言った。「ずっとそこに控えているのかい?」
「二、三度やってきましたのよ。今日のうちに、あなたが本署まで出頭する意向があるのかどうか知りたがっていましたわ。あなたから電話がなかったかって訊きつづけていました」
「このあいだの晩、やってきたのとおなじ刑事かい?」と、彼は訊いた。「たしかライカーと、ジョンスンという名前だったが」
「おなじですわ」
「そっちにずっといる様子はないらしいかね?」
「ええ、そんなこともないでしょうね。やってきたと思うと、二、三分ぶらぶらして、いろんなことを訊いて、さっと出て行ってしまうんです。今日は、これで三度目ですわ」
「ビルを刑事が監視しているかどうかわからないか?」
「ええ、でも、私が昼食に出かけたら誰か尾けてきたようでしたわ」
「ビルの中を歩きまわるだけなら尾けられる筈はないだろう?」
「ええ、そうは思いませんわ」
「二十ドルを、現金の抽斗から出して」と、彼は言った。「エレヴェーターで地下までおりるんだ。守衛のフランクに話をつけて、僕が目下危険な事件の調査をしていて私立探偵が尾けようとしていることを伝えるんだ。はっきり。私立探偵だと言うんだよ。僕が彼の眼にもつかないように事務所へ行きたいと思っていることを伝える。ボイラー室のドアに注意するように言うんだ。僕がタクシーを乗りつけたとき、そのドアが開けられるようにして、エレヴェーターを一台、僕を乗せるために地下室までおろしておく。そのエレヴェーターが、途中の階にとまらずに六階まで直行できるように、エレヴェーターの係にも手配しておいてくれって言ってくれ」
「わかりました」と、彼女は言った。「何かほかには?」
「それだけだと思ったな」と、彼は言った。「僕は……」
J・B・ブラッドバリーの声が、強く主張するように響いてきた。
「弁護士さん、どうしてもすぐおめにかかりたいんだが!」
「どなたです?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「ブラッドバリー」
「どこで話をしているんです?」
「あなたの私室ですよ」
「どうやって電話に出たんです?」
「自分で繋いだんですよ」と、彼は言った。「もし知りたかったら、どならなくてもいいんだ」
せわしなく呼吸をする音が、ペリイ・メイスンの耳に入ってきた。
「まだ切ってないね、デラ」
「ええ。チーフ」彼女は言った。
「書庫で話をしているのかい?」
「ええ」
「誰からの電話なのか、どうしてわかりました、ブラッドバリー?」メイスンが訊いた。
「私は馬鹿じゃないんですよ」と、ブラッドバリーが言った。「二度もあなたにすっぽかされてこりましたからね」
「どんな用件です?」メイスンが訊いた。
「ドクター・ドーレイに有罪の判決を下して終身刑に服させたいんですよ」
「いやあ」と、ペリイ・メイスンは言った。「電話ではお話しもできませんね。これからオフィスに行くところなんですよ。書庫で待っていてください。それからブラッドバリー、何にも手をつけないでくださいよ。わかりましたか? 交換台をいじくりまわしたりされるのはありがたくないですからね、自分のオフィスは自分で管理することぐらいできるんですよ、こっちだって。私の私室までうろうろされる必要はないし、こっちの電話に途中から割り込まれる必要もないんですからね」
「いいですか」と、ブラッドバリーは言った。「あんたが誰にも――誰にも会わない前に――わたしはどうしても話さなければならんことがあるんだ。わかりましたね?」
「あとで話をしましょう」と、メイスンは言った。「オフィスへ行ってからですよ」
「いや、今、話さなければいかんのです。こっちは、事情を説明しなければならないんですよ。警察は、夢中になってあんたのあとを追っかけまわしているんだよ。あんたのタクシーを見つけ出しましたからね」
「何のタクシーです?」
「あのタクシーですよ」と、ブラッドバリーは言った。「あんたがこの事務所から、ポール・ドレイクと会った九番街とオリーヴの角まで乗ったタクシーですよ。そのあとで、おなじタクシーでパットンに会いにハリデイ・アパートメントまで直行した。さらに、おなじタクシーで、セント・ジェイムズ・アパートメントへ行って、マージョリー・クリューンに会って、彼女の逃亡を幇助した。こいつは大失策でしたよ。警察は、あんたの教唆と見ているわけでね。マージョリーが高飛びしたことは、有罪の印象を強めたわけですよ」
ペリイ・メイスンは、じっとり汗ばむ掌で受話器がぬるぬるするまで、しっかり握りしめた。
「そこまで話してしまったんだから」と、彼は言った。「ついでにもっと話してください」
「私は、マージョリー・クリューンをこの事件に捲きこみたくないんですよ」と、ブラッドバリーが言った。「どんなことがあろうと、マージョリー・クリューンはこれから切り離しておきたい。さる有力な知人を介して、検察庁のほうを打診してあるんですがね。地方検事は、ドーレイを有罪と見ている。もし、ドクター・ドーレイが有罪を申し立てて、彼の自供がマージョリーの無罪を立証するものだったらマージョリーの起訴はとりさげられるんです」
「ドーレイのほうはどうなります?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「終身刑ですな。それで死刑は免れるわけです。それが彼にとっては最も有利な判決でしょう」
「彼に何が最も有利であるか、それを決めるのは私ですよ」メイスンは言った。
「いや、あんたじゃないよ」と、ブラッドバリーが言った。「あんたは私の命令で動いているんだからね」
「わたしは、ドクター・ドーレイの弁護に立っているんですよ」
「あんたが彼の弁護をするというのは、私があんたを雇ったからだよ」
「誰が雇ったところで、私の知ったことじゃない」と、メイスンは言った。「私が弁護しているのは、私の最上の努力に値する人物ですよ」
ブラッドバリーの声には冷たく主張するような響きがあった。
「あなたは意志の強い人ですね、メイスン」と、彼は言った。「私自身も、かなり意志力の強い人間だと心得ていますがね。警察じゃ、あんたがあのドラッグ・ストアから電話した相手が誰なのか、話した内容は何なのかということに非常に関心を持っていますよ。オフィスへくる途中、いろいろな事実を考えて、情勢をよく検討したほうがいいですな」
「オーケイ」と、ペリイ・メイスンは言った。「事務所でおめにかかりましょう。失礼します」
「じゃあ、あとで」ブラッドバリーは言った。
ペリイ・メイスンは、受話器をおく音が聞えてくるまで待ってから低い声で言った。「まだ切っていないかい、デラ?」
「ええ、チーフ」彼女は言った。
「彼の言ったことを聞いたかい?」
「全部、速記しておきました」彼女は言った。
「いい子だね」と、メイスンは言った。「あいつは書庫へ入れとけよ。一時間以内にそっちへ行くよ。ブラッドバリーを、何もいたずらのできないところにおいといてくれ。僕が、すぐにも着くかも知れないって言っとくんだ。あいつは、どうやら交換台の操作を心得ているらしいからね。電話を繋いで、僕の私室へ入っていれば君のやってることが筒ぬけに決まってるよ」
「ほんとうなんですか」と、彼女が訊いた。「警察や、タクシーの話は?」
ペリイ・メイスンは、電話に向ってにやりとしてみせた。
「君は僕とおなじくらいご存じの筈だよ、デラ」と、彼は言った。「どうして、ブラッドバリーからもっと聞き出さなかったんだい?」
「だけど、あなたはたいへんな立場におかれているわけですね、先生《チーフ》」
「いままでにも、そんな立場を何度もきりぬけてきたじゃないか」と、彼は言った。「いつも、きりぬけてきたよ。あと出会おう、デラ。じゃ、また」
彼は電話をきって、協力探偵社の番号をまわした。
「メイスンだがね」と、彼は言った。「その後、ヴェラ・カッターの件の報告はないかね?」
「ちょっとお待ちください」交換手が言った。
男の声が出た。
「どなたですか?」彼は訊いた。
「ペリイ・メイスン」
「|うち《ヽヽ》のミスタ・サミュエルズをご存じですか?」
「ああ」
「ファースト・ネームは?」
「ジャック」
「彼と最初にお会いになったのは?」
「一年ばかり前だよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「仕事を請負に僕のオフィスにきた」
「何と言ってやりました?」
「|うち《ヽヽ》の仕事はポール・ドレイク探偵社が全部扱っているが、もし、そっちで間に合わないことができたらお願いしよう、って言ったよ」
「オーケイ」と、その声が言った。「あなたはたしかにメイスンですな。いちばん新しい報告が届いています。ヴェラ・カッターは、モンマート・ホテルにひきつづき滞在中。部屋は五〇三号室。ひっきりなしに、ドレイク探偵社に電話をかけています。あいにく、まだ電話を盗聴する手筈がととのっていません。彼女は、ほかに全然電話をかけていませんが、不定な間隔をおいて、どこかの男から何度も電話がかかってきていますよ」
「いま女は部屋にいるのか?」ペリイ・メイスンは訊いた。
「はあ」
「それだけでいい」と、彼は言った。「これから、僕がその女のところにしゃべりに行くよ。僕が出てきたとき、僕のあとなんか尾けて、おたくの探偵さんに時間を無駄にさせないでくれよ。いっしょに若い女を一人つれて行くからね」
彼は電話をきって、マージョリー・クリューンがもう乗りこんでいるタクシーに寄って行った。彼女の顔は、まっすぐ前方に向けられていた。
「マージイ」と、彼は言った。「イヴァ・ラモントの声を聞いたら、君にはわかるかい?」
「わかると思いますわ」彼女は言った。
メイスンは運転手に向ってうなずいてみせた。
「モンマート・ホテル」彼は言った。
メイスンは、マージイのとなりのクッションにどっかり腰をおろした。
「イヴァ・ラモントが、こんなところで何をしているんですの?」マージョリー・クリューンが訊いた。
「もし、こいつがイヴァ・ラモントだとすれば」と、ペリイ・メイスンは言った。「僕は、彼女に間違いないと思うんだがね、この女が、ボブ・ドーレイを殺人事件に捲きこもうとして、とんでもないことをやっているんだよ」
「なぜ、そんなことをするんでしょう?」マージョリー・クリューンは訊いた。
「二つ理由がありそうだね」メイスンは、考えにふけるように眼を細めて言った。
「どんなことですの、その二つって?」
彼はタクシーの窓の外をじっと睨みつけ、外の風景をじっと考えあぐむような眼で見るともなく眺めやっていた。
「よそう、マージイ」と、彼は言った。「あまりいろいろなことを考えさせて、君を心配させるつもりはない。一つだけ約束してくれないか。もし警察に捕まるようなことがあっても、何も口を割らないことだよ」
「そんなことは、もうとっくに決心していますわ」彼女は言った。
ペリイ・メイスンは何も言わず、往来をじっと睨みつけていた。タクシーの運転手は右手のカーブに向かった。
「ホテルの入口に乗りつけますか?」彼は訊いた。
「うん」と、メイスンは言った。「そこまで行くんだよ」
彼はタクシー代を払って、マージョリー・クリューンの腕をとってホテルのエレヴェーターに乗りこんだ。
「五階」彼はエレヴェーター・ボーイに言った。
五階でエレヴェーターをおりると、ペリイ・メイスンは身をかがめてマージョリー・クリューンの耳に口を近づけた。
「僕は部屋に入って」と、彼は言った。「あの女と、ちょっと口論するからね。大きな声をあげさせるようにするよ。君はドアに身を寄せて、彼女の声だということを確かめて欲しいんだ。もし、わかれば、それでいい。もし、わからないようだったら、ドアをノックしたまえ、僕が開けるからね」
「もし、イヴァ・ラモントだったら、あたしのことをおぼえていますわ」マージョリー・クリューンが言った。
「それでいいんだ」と、彼は言った。「それが、われわれの確かめようとしていることの一つなんだからね。とにかく、その女がイヴァ・ラモントかどうかもつきとめなければならないんだよ」
彼は、マージョリー・クリューンの先に立つようにして廊下をまがった。
「ここだよ」と、彼は言った。「あっちの壁のところに立っていたほうがいいね。ドアが開いているうちにしゃべらせるようにするからね。ドア越しで聞えないといけない」
ペリイ・メイスンは、ドアをノックした。
ドアは、ほんのわずか内側から開けられた。
「どなた?」女の低い声が訊いた。
「ドレイク探偵社の者《もん》ですが」メイスンは言った。
それには返事がなかった。ドアが大きく開いた。外出着を着た女が、誘いこむような微笑を見せて立っていた。
ペリイ・メイスンは室内に入った。
「やあ」と、彼は言った。「出かける支度ができているらしいですな」
その女は、じっとペリイ・メイスンを見つめていたが、すぐ彼の視線を追って、ベッドの傍に立ててあった一部分だけ服をつめこんだ衣裳用のトランク、ベッドの上の、蓋の開いているスーツケース、さらに椅子の上に閉めてあるスーツケースに眼を移した。
彼女はふり返って、開けたままのドアに眼をやると、黙ってそのドアに寄って、それを閉めて鍵をかけた。
「何ですか」と、彼女が訊いた。「ご用件は?」
「じつはね」と、ペリイ・メイスンは言った。「あなたのトランクにはE・Lという頭文字がついているのに、どうして宿帳にはヴェラ・カッターと書いたのか知りたかったんです」
「そんなことは簡単ですわ」と、彼女は言った。「妹の名前がイーディス・ロアリングですのよ」
「あなたは、クローヴァーデイルのご出身でしたな」ペリイ・メイスンが訊いた。
「デトロイト出身ですわ」
ペリイ・メイスンは、衣裳トランクに近づいて行った。木製のハンガーにかかっているスカートをとりあげてみると、その木のハンガーをひっくり返して、〈クローヴァーデイル・洗濯・染色工場〉というマークが見えるようにした。
黒い瞳が敵意を帯びて、ぎらぎらしながら彼を見つめた。
「妹が」と、彼女は言った。「クローヴァーデイルに住んでいますから」
「しかし、あなたはデトロイト出身ですか?」彼は訊いた。
「ねえ、あんた誰なの?」と、彼女は、不意に|とげ《ヽヽ》のある声で訊いた。「ドレイク探偵社の人じゃないわね」
ペリイ・メイスンは微笑した。
「じつはね」と、彼は言った。「ここへきてあなたと話をするための口実ですな。あなたにほんとうにお訊きしたかったのは……」
彼女は彼から身を引いて、顔を堅くして眼はぎらぎら光らせ、注意を怠らず、片手はベッドの真鍮の手すりをつかんだまま、じっと見つめて立ちすくんだ。
「特に伺いたかったのは」と、ペリイ・メイスンが言った。「フランク・パットンが殺されたとき、あなたがどこにいたか、ということなんですがね」
十秒以上も彼女はみじろぎもせず、ものも言わず、ひたと彼を見つめていた。ペリイ・メイスンは咎めるように彼女と視線をあわせた。
「あんた、刑事なの?」彼女は、低い、喉咽にかすれた声で、やっと訊き返した。
「まず質問に答えてもらおう」と、ペリイ・メイスンが言った。「そうしたら、君の質問に答えることにしよう」
「あたしの弁護士に」と、彼女は言った。「訊いてください」
「ああ、それでは弁護士を雇ってあるんだね?」
「もちろん弁護士がいますわ」と、彼女は言った。「安っぽいイヌがここにきて、あたしに妙な言いがかりをつけるのを放っておくなんてうぬぼれないでよ。新聞で読んだこと以外、あたしはフランク・パットンの殺人事件のことは知らないんだから。でもね、あんた、ここにきて、うまくあたしに|かま《ヽヽ》をかけるつもりだったら、あとで吠えづらかくわよ」
「で、フランク・パットンが殺されたとき君はどこにいたか言えないんだね」
「どこにいたか言うもんですか」
「かりに」と、ペリイ・メイスンは言った。「君を本署まで連行したら、君はどうするね?」
返事をするかわりに、彼女はきっと電話に寄って行って受話器を外すと、ペリイ・メイスンの事務所の番号をまわした。ちょっと、間があって、やがて受話器がきしむような音を立てると、女は冷たい、横柄な声で言った。「ミスタ・メイスンはいますか? ミスタ・ペリイ・メイスンとお話ししたいんですが。ヴェラ・カッターと申します」
受話器が、また音を立てた。
女の顔を探っていたペリイ・メイスンには、その表情に少しの変化も認めることができなかった。ちょっと経ってから、彼女は、愛嬌よく言った。「あら、どうもおそれ入ります。ミスタ・メイスン。またヴェラ・カッターですの。誰かが、どうしてこっちに出てきているのかというようなことを訊いたりしたら、すぐ連絡するようにっておっしゃいましたわね。刑事だっていう人が、ホテルにきていて……はい、何ですか?」
受話器がさらに音を立てた。
ヴェラ・カッターの声に微笑がひろがった。
「どうもありがとうございました、ミスタ・メイスン。もし、その人が刑事だったら、あなたのオフィスへよこすように、もしそうじゃなかったら警察に知らせて官名詐称で逮捕させるようにとおっしゃるんですね? どうもありがとうございました、ミスタ・メイスン。またお邪魔しまして申しわけございません。でも、誰かに訊問されたらあなたに電話するように――そうおっしゃってくださったでしよう。ええ、どうもありがとうございました」
彼女は受話器をおくと、勝ち誇ったような顔つきでペリイ・メイスンのほうをふり返った。
「あたしの弁護士をご存じでしょう」と、彼女は言った。「ペリイ・メイスンよ、この市きっての一流弁護士の。あたしが当市《ここ》に滞在中は、あたしの利益を守ってくれることになっているの。それに、あんたが警官でなかったら、警官だと詐称したことで逮捕させるって言ってたわ。もし、警察の人だったら、あんたにオフィスまできてもらって、直接話をして頂戴」
「君はペリイ・メイスン自身と話をしたのか?」弁護士は訊いた。
「もちろんペリイ・メイスンと直接話をしたわよ。あの人には費用が払ってあるんだから、あんたみたいなのと話をして、時間を無駄にするのはまっぴらだわ」
「そいつはへんだな――」と、メイスンは言った。「俺もペリイ・メイスンに会いたいんだがね。電話をかけてから十分も経っていないんだよ。今日は、もう、帰ってこないって話だったが」
彼女の笑顔は、得意そうだった。
「区別があるのよ」と彼女は言った。「ペリイ・メイスンを電話に呼び出すには、電話をかけるほうの人間が問題なんだから。とても忙しいんで、ケチな刑事やなんかに構ってられないわよ」
「なぜ、出発の準備をしていたか、君は言わないんだね?」
ペリイ・メイスンは、トランクを指さしながら訊いた。
彼女は嘲《あざけ》るように笑い出した。
「ねえ、あんた」と、彼女は言った。「何も言うもんですか、どなってやるだけよ。出て行ってよ! さあ! 刑事だったらペリイ・メイスンに会ってよ、そうじゃなかったら、さっさと逃げ出したらいいわ」
ドアをノックする音が聞えた。ペリイ・メイスンはふり返った。
ヴェラ・カッターは彼に向ってどなった。「ドアを開けたら承知しないわよ!」
彼女は、彼の傍を駈けぬけて、ノブをまわしてドアをさっと開けた。
マージョリー・クリューンが戸口に立っていた。
「久しぶりね、イヴァ・ラモント?」マージョリー・クリューンが言った。
イヴァ・ラモントは、二、三秒、穴のあくほど彼女を見つめていた。
「すると」と、ペリイ・メイスンが言った。「君はイヴァ・ラモントと言うんだね?」
イヴァ・ラモントは、硬ばった指でペリイ・メイスンを指さした。
「あんたは、この男といっしょなの?」彼女が叫んだ。
マージョリー・クリューンは、どう言ったものかと訊くような眼をペリイ・メイスンに向けた。
メイスンが彼女に合図するより先に、イヴァ・ラモントはさっと電話に駆け寄った。
「ちょっと待ってよ、あんた」と、彼女は肩ごしに言った。「あんたのすばらしい映画契約のことを全部訊きたがっている人がいるのよ」
彼女は受話器をひったくった。
「警察!」と、彼女は叫んだ。「警察!……警察を呼び出して!」
ペリイ・メイスンは、マージョリー・クリューンの腕をつかむと、ぐるっとうしろをむかせた。二人はいっしょに廊下に駆け出した。二人のうしろで、イヴァ・ラモントの声ががなり立てるのが聞えた。「警察! 警察よ!……警察ですか!」
ペリイ・メイスンは階段を四階までおりると、エレヴェーターのドアを押した。
「おちつくんだよ」彼はマージョリー・クリューンに注意した。
ペリイ・メイスンは、マージョリー・クリューンと並んでホテルのロビーに出ると、彼女が足を早めようとするのを背中に手をあてて抑えた。
「しっかりするんだよ」彼は低い声で注意した。
彼は歩道にいたタクシーに合図した。
「メイプルトン・ホテル」と、彼は運転手に言った。座席に入ると、彼はマージョリー・クリューンに煙草をさし出した。
「喫うかい?」
彼女は煙草をとった。ペリイ・メイスンは彼女の煙草に火をつけてやってから、自分の煙草につけた。
「クッションに寄りかかるようにしていなさい」と、彼はマージョリー・クリューンに言った。「この事件以外のことでも考えるようにしなさい。できるだけ気を静めるんだよ。僕は考えることがあるから邪魔しないでくれたまえ。君は考えないほうがいい。これからあとが君にはむずかしいことになるんだからね。何かほかのことを考えるんだね。気を楽に持って、休んでいなさい。これから、君は試練にぶつかるんだから」
「警察へ出頭するんですか?」彼女は訊いた。
ペリイ・メイスンの語調は暗かった。
「何とかなったら行かないさ」彼は言った。
二人は黙ったまま目的地まで着いた。ペリイ・メイスンは運転手に待っているように言ってから、マージョリー・クリューンに向って、手で、できるだけ顔をかくすようにして車内に待っているように、と言った。制服を着たドアマンがタクシーのドアを開けたので、メイスンはすばやく、いかにも目的ありげな大股な足どりで、メイプルトン・ホテルの廻転ドアを通りぬけ、まっすぐ精算場に行った。
「J・R・ブラッドバリーという人が泊まっているでしょう」と、彼は言った。「六九三号室に」
出納係の女が、不審そうな眼をあげた。
「はあ、それで?」彼女は訊いた。
「僕は彼の弁護士ですが」と、ペリイ・メイスンは言った。「重要な用件で、彼をここからつれ出さなければならなくなるかも知れないんですよ。必要なときに、いつでも出られるように、彼の勘定をすませておきたいんだが」
「お引き払いになりますか?」出納係が訊いた。
「いや」と、彼は言った。「今日の分まで精算しとくだけだよ」
彼女は、書類用の封筒を開けて、書類を出すと、計算機にかけて、キイを動かし、総計を出してペリイ・メイスンにわたした。
「これが全部の計算書でございます」と、彼女は言った。「八十三ドル九十五セントになっております」
「六九三号室の分ですね?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「今日は六九三号室でございますが」と、彼女は言った。「六九五号室といっしょでございまして、両方の室代を払っておいででした」
ペリイ・メイスンが百ドル紙幣を窓から出した。出納係はそれを調べてたくみな指先で弾《はじ》いてみてから現金出納器へしまった。会計の分の数字を出して、受領書といっしょにおつりをペリイ・メイスンにわたした。
メイスンは、計算書を調べた。
「この電話は」と、彼は指で計算書を示しながら言った。「市内、それとも長距離?」
「長距離はマークしてございます」と、彼女は言った。「そのほかは近距離でございます」
「じつはね」と、ペリイ・メイスンは言った。「この近距離電話の料金の明細書が欲しいんだよ。僕はミスタ・ブラッドバリーのかわりに料金を払っているんだからね。ほかの明細は全然いいんで、問題はないと思うんだが、この近距離通話の明細書が欲しいんだよ」
彼女はちょっと額をかるくたたいていたが、すぐに言った。「よろしゅうございます。ちょっと面倒ですから、五、六分はかかると存じますが」
「まことに恐縮だがね」と、ペリイ・メイスンは微笑しながら言った。「この受領書の裏にマークしといてくれたまえ」
出納係の女は、受領書をとって、電話のデスクに寄って交換手を呼び出した。しばらくして彼女は革の装幀の帳簿を持ってきて、それを開け、なれた指先で書きとめはじめた。それが終ると、彼女はその受領書をペリイ・メイスンに返した。
「電話は」と、彼女が言った。「全部、裏に書いてございますから」
ペリイ・メイスンは彼女にお礼をして、その受領書を見もせずにポケットにつっこんで出納の係の窓から離れた。
「やあ」と、彼は言った。「どうもありがとう」
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第十七章
ペリイ・メイスンは、オフィスのドアを開けると、一方に寄ってマージョリー・クリューンを通した。
交換台の傍の秘書専用デスクに向っていたデラ・ストリートは、飛びあがってペリイ・メイスンに眼をやり、ついでマージョリー・クリューンの青い眼を見つめた。
「デラ」と、ペリイ・メイスンは言った。「こちらが、例の幸運の脚の女性、マージョリー・クリューンだよ。マージイ、これが秘書のデラ・ストリート」
デラ・ストリートは、その紹介を気にとめる様子もなかった。彼女は、まじまじとマージョリー・クリューンを見つめていたが、ついで、ペリイ・メイスンに視線を移した。
「こんなところへおつれしたんですか?」彼女は言った。「あなたともあろうかたが?」
ペリイ・メイスンはうなずいた。
「だって刑事がきていましたのよ」と、デラ・ストリートは言った。「あとでまたやってきますわ。このビルを監視しているんです。あなたは入ってこられても出ては行かれませんよ。おまけにマージョリー・クリューンは殺人容疑で指名手配されているというのに。あなたが従犯になることまず確実ですわ」
マージョリー・クリューンは、ペリイ・メイスンの腕にすがりついた。
「ああ、ほんとうに申しわけもございません」と、彼女は言った。それからデラ・ストリートに顔を向けてつけ加えた。「知っていたらここへくるようなことはしなかったんですけど」
デラ・ストリートはいそいでマージョリー・クリューンに近づくと、その肩を抱きしめた。
「いいのよ、いいのよ、あなた」と、彼女は言った。「心配しないで。あなたが悪いんじゃないんですもの。この人はいつもこんなことをするの。いつも危ないことを自分からする人なのよ」
「そして」と、ペリイ・メイスンは微笑しながら言った。「いつでも、うまくきりぬけることになっているんだよ。ついでにどうして、そう言ってあげないんだい、デラ?」
「だって」と、デラ・ストリートは言った。「いつか、きっと、あなただって、とてもきりぬけられなくなりそうですもの」
ペリイ・メイスンは、意味ありげにデラ・ストリートに眼を走らせた。
「このひとを僕の部屋につれて行ってくれ、デラ」と、彼は言った。「そして、そこで待っていてくれたまえ」
デラ・ストリートは私室のドアを開けた。
「かわいそうにねえ」と、彼女は母親のように言った。「こわかったでしょう? だけど心配しないでいいのよ。もう、これからは大丈夫よ」
マージョリー・クリューンは、ドアのところで立ちどまった。
「おねがいですから」と、彼女は言った。「あたしのせいで、あなたが困るようなことはなさらないでくださいね」
デラ・ストリートは、マージョリー・クリューンにやさしく力を加えて奥の部屋に押しこむと、ペリイ・メイスンのデスクの傍の大きな革張りの椅子に彼女をすわらせた。
「ここで待っていて、少し休むようにしなさいね」と、彼女は言った。「頭をクッションにもたれさせて、脚を椅子に載せてすわるといいわよ」
マージョリー・クリューンは、彼女に感謝をこめた微笑をみせた。
デラ・ストリートは、外のオフィスに出て行って、ペリイ・メイスンといっしょになった。
メイスンはオフィスの入口のドアに歩み寄ると、それを開けて、夜間の警戒に使う錠をおろした。
「二、三分邪魔されたくないんだよ」と、彼は言った。「ブラッドバリーはどこにいるの? 書庫かい?」
デラ・ストリートは、うなずいてみせて、ペリイ・メイスンの私室のほうにちらっと眼をやった。
「彼女《あのひと》をどこで見つけたんですの?」彼女が訊いた。
「いくらでも考えてごらん」と、ペリイ・メイスンは言った。「どんなに考えても、こいつはちょっとわからないだろうな」
「どこにいたんですか、チーフ」
「サマーヴィルだよ」
「どうやって、彼女はそんなところに行ったのかしら?」
「汽車で、だよ。しかし僕のほうが彼女に先まわりした」
「ほんとう?」
「ああ。僕は、もう一人、べつな人間を追っかけてんだよ」
「誰なの?」
「ドクター・ドーレイ。彼は、真夜中の飛行機で行ったんだ」
「二人ともそこにいたわけね?」彼女が訊いた。
ペリイ・メイスンはうなずいた。
「いっしょにですか、チーフ?」
ペリイ・メイスンは、煙草の箱をとり出して、くやしそうにそれを見つめていた。
「二つともきれちゃったな」彼は言った。
「私のでよかったらありますわ」デラ・ストリートは言った。
ペリイ・メイスンは煙草に火をつけて、大きく一息吸いこんだ。
「二人はいっしょだったんですか?」デラ・ストリートは言った。
「新婚旅行の部屋にいたよ」ペリイ・メイスンは言った。
「それじゃ、彼女は結婚したんですね?」
「いや、結婚はしなかった」
「二人は結婚するつもりでしたの?」
「いや、彼女はブラッドバリーと結婚するつもりだったんだ」
「それでは」と、デラ・ストリートは言った。「あなたのおっしゃる意味は……つまり……つまり……」
「そのとおりだよ」と、彼は言った。「ブラッドバリーが、ほかにどうしようもない立場にうまく彼女を追いこんだために、ブラッドバリーと結婚しようとしていたんだよ。しかし、その前に、彼女はその人生の一週間をボブ・ドーレイに捧げようとしたわけさ」
デラ・ストリートは、電話の傍に立ててある本を身ぶりで教えた。
メイスンはうなずいた。
「うん」と、彼は言った。「その合図には、入ってくるとすぐ気がついたよ。こいつは特に重要なんだ。どうしても知らなければならないことなんだが、刑事がここにきてやしないかと思ったんで、その連中の前で君から訊き出したくなかったんだよ」
「ええ」と、彼女は言った。「あなたがやるようにおっしゃった合図が、あれなんです。マージョリー・クリューンは、セルマ・ベルのアパートを出る五分ばかり前に電話を一本うけとっているんです」
「誰からかかってきたものか、セルマ・ベルは知っていたのか?」
「いいえ、彼女の話では、マージョリーは二、三分話をして『一時間以内に電話する』とか何とか言っていたそうです。その電話がかかってきたことがちっともうれしくなかったような気がしたそうですけど。電話をきったとき、眉をしかめていたそうよ」
ペリイ・メイスンは、考えこむように、煙草から立ちのぼる煙をじっと見ていた。
「ブラッドバリーのほうはどうなさいます?」と、彼女は訊いた。「彼の命令に従うおつもり?」
「勝手にしやがれ、だよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「このショウを演じているのは僕なんだからね」
書庫のドアが音もなく開いた。J・R・ブラッドバリーは大股に室内に入ってきたが、顔が蒼ざめ、憔悴して、その眼は冷たく決然としたいろを帯びていた。
「あんたは、このショウの主役が自分だと思っているようだが」と、彼は言った。「鞭を持っているのは私ですからね。やっぱり、あの嘘つきの、安っぽい娼婦は、私を裏ぎったんですな、そうでしょう? ドーレイと道行《みちゆき》をきめこんだわけか、そうなんだね? おぼえているがいい。二人とも舞台に引きずり出してやる!」
メイスンは、おちついた、洞察力にみちた眼でブラッドバリーを見つめていた。
「鍵穴から盗み聞きですか」と、彼は言った。「それとも欄間のところに椅子を持ってきて背のびでもしましたか?
「せっかくご興味がおありの様子だから申しあげるが」と、ブラッドバリーは冷たい憤怒をこめて言った。「欄間から聞いていたんだよ。こういうこともあろうかと思って前から聞えるようにしておいたんだ」
デラ・ストリートは、ブラッドバリーからペリイ・メイスンに眼を移したが、その眼にはむっとしたいろがうかんでいた。彼女は何か言おうとして大きく息を吸いこんだが、ふと、メイスンの視線をとらえて、そのまま黙ってしまった。
ペリイ・メイスンは彼女のデスクの端に腰をおろして、脚をもの倦げにぶらぶらさせていた。
「どうやら、いよいよ裏切られたというところですな、ブラッドバリー」彼は言った。
ブラッドバリーは、うなずいた。「私を誤解してもらっては困るんでね、メイスン」と、彼は言った。「あんたは闘士だ。あんたを私は非常に尊敬しているが、私にしても闘士でね。あんたが私を尊敬しているとは思えないね」かれの声は、はげしいものを秘めて、単調で、緊張していた。
ペリイ・メイスンの眼は、おちついて、静かで、忍耐強かった。
「いや、ブラッドバリー」と、彼は言った。「あんたは闘士じゃない。相手の失策に乗じて、ことを起こすタイプの人間ですよ。石橋をたたいてわたるといった精神を持っている。あんたは、ここから出てはいけないという線を決めてその内側にいて、よく眼を光らせて待っている。そして、いよいよ時機が熟したと見たとたんに躍りかかる人だ。私は、自分で血路を切り開くために行動する。あなたは、そういう賭はしない。自分はいつも安全な場所にひっこんでいる。身の危険を冒してまで闘うようなことはしないんですよ」
ブラッドバリーの眼の表情に、さっと変化があらわれた。
「私が身の危険を冒してまで闘わないなどと考えないでくださいよ」と、彼は言った。「危険はいくらでも引きうけるが、いつでもそれをきりぬけるだけ要領がいいんでしてね」
ペリイ・メイスンの眼は、忍耐強く、じっと観察していた。
「いくぶんあなたのおっしゃるとおりですな、ブラッドバリー」と、彼は言った。「しかし、私が言ったことはどこまでも正しいと思いますね」
「こんな話をしていてもはじまらないじゃないか、メイスン」と、ブラッドバリーが言った。「あんたと私は完全な了解に達したと思っていたんだが。私は自分のやりかたに熟練しているんだよ。針《フック》にかけようと、鉤《クルック》にかけようと、とにかく獲物はしとめるんだ。私を嫌う人間は大勢いるさ。私が汚い手を使うと思っている人間も大勢いるが、しかし、私がいったんやろうと思ったことは何でもやりとおすということは認めざるを得ないんだ」
デラ・ストリートは、二人の男をかわるがわる見ていた。
「私はあんたに」と、ブラッドバリーは言った。「ボブ・ドーレイを有罪にしたいといった筈だ」
「最初に言ったことはそうじゃなかったですな」メイスンは言った。
「気が変ったし、それにつれて計画が変ったんですよ。それが、今、私の言っていることなんだ」ブラッドバリーは言った。
メイスンは、考えこむように唇をぎゅっと結び、デラ・ストリートに眼を走らせ、ついでブラッドバリーに視線を返した。
「それが条件の一つだったら、あなたと契約はしませんでしたね、ブラッドバリー」と、彼は言った。「あなたがドクター・ドーレイの弁護士を引きうけるように強制したこともおぼえているでしょう。もし、私が彼の弁護をするとなれば全力をあげる、彼のために闘う、彼とマージョリー・クリューンの利益を守ること以外は、いっさい考慮に入れないと言った筈です」
「あんたが言ったことなんかどうでもいい」と、ブラッドバリーはじりじりして言った。「時間がどんどんなくなっていくんだよ。われわれは何らかの行動を起こさなければいけないし、さらに……」
外部の部屋のドアに、男の身体の重みをかけている音がした。くもりガラスに、二人の男の影が映っていた。ノブがまたがちゃがちゃ音を立て、ついで命令するようなノックの音が聞えた。
ペリイ・メイスンは、デラ・ストリートに向ってうなずいてみせた。
「ドアを開けなさい、デラ」彼は言った。
ブラッドバリーが早口に言った。
「お互いに誤解しあうのはよしましょう、メイスン。この事件に関しては、私はもうはっきり決心しているんですよ。あなたは私のために働いているんだ。私の命令に従ってもらいますよ」
「私は」と、ペリイ・メイスンが言った。「依頼人の最高の利益のために仕事をしていますよ。完全な弁護を行うために努力するという了解の上であなたと契約したのだし、それに……」
彼は、デラ・ストリートがドアを開けたとき、言葉をきった。
ライカーとジョンスンが彼女を押しのけて室内に入ってきた。
「やあ」と、ライカーが言った。「やっと、あなたをつかまえましたな」
「君たち、僕をさがしていたのかい?」ペリイ・メイスンは訊いた。
ジョンスンが笑った。
「いやあそうじゃないです」と、彼は皮肉たっぷりに言った。「あなたを探してはいませんよ。ちょっとね、法律上の助言をして頂くためにおめにかかりたかっただけでね」
ライカーは、ブラッドバリーを指さした。
「こっちのは誰です?」彼は訊いた。
「お客さんだよ」ペリイ・メイスンは言った。
「どんな用件です?」
「どうして直接聞いてみないんだ?」と、弁護士は答えた。「僕の口からは言えないよ、職業上の秘密でね」
ブラッドバリーは、二人のほうに顔を向けたが何も言わなかった。
「お訊きしたいことがありましてね、本署までお出でねがいたいんですが」ジョンスンが言った。
「じつはね」と、ペリイ・メイスンが注意した。「しばらく事務所にいなかったものだから、片づけなけりゃいけない仕事がいっぱいあるんだよ。すまないが、今すぐには行かれないんだ」
「こっちとしては」と、ライカーが言った。「お訊きしたいことがあるから本署までお出でねがいたいと言っているんでしてね」
「逮捕状はあるかい?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「じゃ」と、ライカーがぶつりと言った。「とろうと思えばとれますし、そんな時間もかかりませんよ」
「それはよかったね」と、メイスンは言った。「行って、とってくるんだな」
「ねえ、メイスン」と、ジョンスンが言った。「馬鹿な真似はよしてくださいよ。われわれがあんたを本署までしょっぴいていけるくらいのことはご存じでしょうが。どうしても令状を持ってこいと言うんなら、持ってきますがね。令状を持ってきたら告訴ってことになりますぜ。あんたがこんどの事件にひっかかっている以上、こいつは、あんたが重罪の裁判に引っぱり出されるってことになりますからね。署長は、あんたを助けようとなされるでしょうな、起訴陪審に証拠を提出する前にあんたから説明を伺うんですぜ。そいつが、あんたを救うわけだ。あんたがしゃべって身のあかしを立ててくれれば、こっちとしても安心ですよ。われわれは、どういう方法でも構わないんでしてね。あんたをさっそくここまで送ってきますよ」
「君たちは法律上の助言を得たいと言ったね」と、ペリイ・メイスンは言った。「どうやら、君たちの言うことが正しいらしい。僕の逮捕状を持ってきたら、いつでもおともするよ。それをする前は、おことわりだね」
「今すぐでも、しょっぴいて行けるんですぜ、こっちとしては」ジョンスンが言った。
ペリイ・メイスンは、考え深そうな、挑むような眼で二人をじろりと見た。
「なるほど」と、彼は言った。「しょっぴいて行けるかも知れないね。しかし、行けないかも知れないよ」
「えい、くそ」と、ライカーが言った。「電話で本署に連絡しよう」
ペリイ・メイスンは二人の刑事に眼を向けて、嘲るように言った。
「おいおい、君たち」と、彼は言った。「喜劇はよそうじゃないか。自分の権利を知らない、馬鹿な田舎ものを相手にしゃべっているんじゃないんだよ。君たちがしゃべっている相手は弁護士だ。僕が逮捕できるだけ証拠があるんなら、すぐでも令状を持ってきたらいいだろう、逮捕状も持っていないし、とりに行くのもいやだと言うんなら、とにかく今行くのはいやだよ。起訴陪審となれば、いろいろなことをひっかきまわして告訴ということになるか、そうでなくとも、告訴の署名をする馬鹿野郎を見つけるぐらいのことはするだろうが、しかしね、君たちがしようとすることは僕を向うにまわして、僕の個人的な問題を洗い立てようということなんだよ。断っておくが、そいつはできない相談さ。そこに電話があるよ。さあ、本署に連絡したまえ」
彼は、デラ・ストリートに向かった。
「この連中の恐喝を電話で連絡したまえ、デラ」と、彼は言った。「さあ、電話で本署に連絡したまえ」
デラ・ストリートは電話をとりあげて、プラグに、不吉な音を立てて繋いだ。
「警察をお願いします」彼女は言った。
ペリイ・メイスンは、刑事に向ってにやりと笑った。
「本署に行く用意ができたら」と、彼は言った。「出頭するよ。逮捕したかったら逮捕したまえ。しかし、法律的な手続きの点はできるだけ注意するんだね」
「ねえ、あんた」と、ジョンスンが言った。「こっちはあんたに関して、いろいろネタがあがってるんですぜ、メイスン。どうしても説明してもらわなくちゃ片づかないということが。あんたは、はじめからこの事件《おはなし》に首をつっこんでいた。やたらにかきまわして、マージョリー・クリューンを逃がしたんだ」
「僕が彼女を逃がしたことがわかるのかね?」ペリイ・メイスンが訊いた。
「あんたはタクシーで彼女のアパートの近くまで行った。あんたがそこにいた直後に、女が出た」
「ほんとうかい?」と、ペリイ・メイスンは言って、ふと、つけ加えた。「運がいいね」
「本署が出ました」デラ・ストリートが言った。
ジョンスンは、ライカーに眼をやった。
「えい、くそ」と、ジョンスンは言った。「用はねえよ」
「電話をきってくれ、デラ」ペリイ・メイスンは言った。
デラ・ストリートは、キイをかちりと音をさせて、コネクションを外した。
「おんなじこった」と、ジョンスンはペリイ・メイスンに言った。「四十八時間以内に、俺たちが逮捕状を持ってここにくることは、五ドル賭けてもいい」
「その反対に五ドル賭けるよ」と、ペリイ・メイスンは言った。「せいぜいその金を用意しとくんだな」
「行こう、ジョンスン」ライカーは言った。
二人は、ドアに向かった。
ブラッドバリーは、じっとペリイ・メイスンを見つめていた。
「ちょっと待ってくれ、メイスン」と、彼は言った。「あんたは、この件についてはわたしの指示に従いますか?」
メイスンは、ブラッドバリーに二歩近寄ると、息づまるほど冷静に彼を見つめた。ライカーは、ドアのノブに手をかけて立ちどまった。ジョンスンはふり返って、見まもっていた。
「よく聞くんだ」と、ペリイ・メイスンはブラッドバリーに向ってゆっくり言った。「こいつはそのままにうけとるんだ。二度くり返すのはいやだからね。この事件に関するかぎり、あなたはサンタ・クロースに過ぎない。それだけなんだ。金を注ぎこむのはあなただ。それ以外は、あなたは何もする必要がない。これっぽっちの……ことも……しないでいいんだ」
ブラッドバリーは、刑事に向き直った。
「みなさん」と、彼は言った。「あの私室のドアを開ければ、現在容疑者として手配されているマージョリー・クリューンが隠れていますよ」
ペリイ・メイスンは、刑事たちにさっと開き直った。
「捜査令状なしであのドアを開けたら」と、彼は言った。「顎をぶち割ってやるぞ」
二人の刑事は、互いに眼をあわせて、ブラッドバリーを見た。
「でたらめを言ってるんじゃないんですよ」と、ブラッドバリーは言った。「あのなかにいるから、早くしないと、廊下に出るドアから逃げ出しますよ」
二人の刑事は、私室のドアを押した。ペリイ・メイスンは、拳闘家のようなしなやかな身のこなしで躍りかかった。ブラッドバリーが背後からとびかかり、メイスンの腰のまわりに脚をまきつけて、両腕をふりまわした。メイスンはバランスを失ってわずかに前によろめいた。ライカーが突撃して、メイスンとブラッドバリーを絨毯に倒した。デラ・ストリートが悲鳴をあげた。ジョンスンは私室に通じるドアを、はげしく開けた。
マージョリー・クリューンは、ホールに出るドアの鍵に手をかけていた。
「動くな」と、ジョンスンがどなった。「射つぞ!」
マージョリー・クリューンはふり返って彼を見つめた。彼女はみじろぎもせずに立って、蒼ざめた顔で、青い眼は恐怖に大きく見開かれて、じっと刑事二人を見つめていた。
「うん!」ジョンスンはおしころしたような声で言った。「違いないぞ! マージョリー・クリューンだ!」
ペリイ・メイスンは立ちあがった。ブラッドバリーは、トウィードのズボンの膝をたんねんに払っていた。ライカーはポケットから手錠を出した。
「マージョリー・クリューンだな?」ライカーが訊いた。
マージョリー・クリューンの眼は、しっかり注意深く彼に注がれていた。
「何かご質問がございましたら」と、彼女は言った。「あたくしの弁護士、ペリイ・メイスンにお訊きください」
ペリイ・メイスンは、デラ・ストリートに向ってうなずいた。
「警察に電話してくれ」彼は言った。
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第十八章
ジョンスンがマージョリー・クリューンの手首に手錠をはめたとき、ペリイ・メイスンは彼の肩をつかんだ。
「そんなことをする必要はないぜ、でかいの」と、彼は言った。
ジョンスンはぐるりと向き直ったが、その眼は憎悪でぎらぎら輝いていた。
「お前さんが弁護士だからというだけで」と、彼は言った。「何でも思うようになると思ってるんだな。さっきは、お前さんを逮捕することはできないとぬかしたな。いかにもおっしゃるとおりだったさ。こっちだって、そのくらいは心得ていたよ。たしかに、お前さんをあげるだけの話がそろってはいなかった。しかし、こうなると事情が変ってきた。もう、今なら逮捕できるぜ」
「ちょっと僕の話を聞いてくれないか?」ペリイ・メイスンは言った。
「ははあ、今、話したいのかね?」ライカーが言った。「今となっては事情がちょっと変ったからな。話したくてしかたがないんだな、ええ?」
デラ・ストリートが、ペリイ・メイスンの私室に入ってきて、彼と視線が合うまで待っていた。
「警察が出ていますが」彼女は言った。
「オマリイ部長刑事に、十分以内にここまでくれば、パットン事件の内情を教えてやると言ってくれ」メイスンは言った。
デラ・ストリートはうなずいた。
「十分以内にくる筈があるもんか」と、ジョンスンは言った。「オマリイに本署で待つように伝えろよ」
デラ・ストリートは彼には注意を払わずに、外の部屋にもどって行った。
J・R・ブラッドバリーは、冷たい勝利のいろを顔にうかべて、ポケットから葉巻をとると、端を切って火をつけた。
「この男が」と、ペリイ・メイスンがブラッドバリーを指さして言った。「マージョリー・クリューンの弁護をさせるために僕を雇ったんだ、警察よりも先に手を打って彼女を救い出してくれと頼んだのは、この男なんだよ」
「私は、そんなことは何もしなかったよ」ブラッドバリーは言った。
「ドクター・ロバート・ドーレイの弁護をしてくれと言ったのもこの男だよ」
「そんなことは何もしなかったよ」ブラッドバリーがくり返した。
「あんたたちが何をしようと俺たちの知ったことかい?」ライカーが言った。「俺たちは、お前さんと、この綺麗なのを捕まえたのさ。殺人で指名手配されている女だぜ。殺人で手配されていることは、あんたも承知だ。こいつは、でかでかと新聞に出るね。自分の事務所に女を匿まった。事後従犯ということになるね。こいつは重罪だから逮捕するのに令状は必要ないんだ。あんたについては証拠を押さえた。現行犯だが、この事件に関するかぎり、重罪なんだから、そんなことはたいしたことじゃないわけさ」
「話を聞いてくれるんなら」と、ペリイ・メイスンは言った。「いっさいの事情を説明してやるよ」
「判事に話せばいいじゃないか」と、ジョンスンは言った。「俺は自分でやろうと思った以上、どこまでもお前さんを追いつめたんだぜ、ペリイ・メイスン。お前さんは、俺たちに向って勝手な熱を吹いていたが、これから長い間きりきり舞いするんだな。さあ、いっしょに行こう。手錠《うでわ》をはめてやれよ、ライカー」
ペリイ・メイスンは刑事二人におちついた視線を向けていた。
「話がしたいんだ」彼は言った。
「お前さんが何をしたくたって俺の知ったことか」ジョンスンが言った。
「警察に行ったら」と、ペリイ・メイスンは言った。「僕の言わなければならないことを訊くぜ。僕はこう言ってやるよ、全部自供しようと思ったんだが、二人ばかし頭の足りない刑事《ディック》がさせなかった。こうなったら起訴なんかできないし、俺を有罪にしようたって駄目さ、と言ってやるよ」
ジョンスンは、ライカーをふり返った。
「あのドアに鍵をかけろ」と、彼は言った。「自供したいということになると、ちょっと事情が変ってくるからな」
「自供したいのか?」彼は訊いた。
「そうだよ」メイスンは言った。
「何の自供だ?」
「自供でいろいろなことを説明するためさ」
ライカーは、ペリイ・メイスンの事務所の外側の部屋に出るドアを開けた。
「あんた」と、彼はデラ・ストリートに向って言った。「こっちへきて、こいつの言うことを速記してくれ」
「彼の速記者だぜ」と、ジョンスンが異議を唱えた。
「いいよ、そんなこと。こいつがそう言えば速記するさ」と、ライカーが言った。「もし、こいつがこの子に速記しろと言わなければ、しゃべったことにはならないからね」
メイスンは笑った。
「僕に|おどかし《ヽヽヽヽ》がきくなんて考えないでくれよ、君たち」と、彼は言った。「しかし、まあ、こうなれば速記してもらいたいね。デラ、これからこの部屋でしゃべることは全部速記してくれないか。しゃべったこと、誰がそれをいったのかと言うことの完全な書類が欲しいんだよ」
「さあ言えよ」と、ジョンスンは、かるく唇を歪めて注意した。「話をはじめろよ」
「僕がはじめてこの事件に関係したのは」と、メイスンは言った。「そこに立っている人物、J・R・ブラッドバリーに雇われたときだった。彼は、その前に地方検察庁に行ってきているんだよ。連中は、彼には何も助けになってやれなかった。そこで、彼は僕にフランク・パットンを見つけ出して告訴してくれってわけさ。僕の提案で、パットンを探すことをドレイク探偵社の、ポール・ドレイクに依頼した」
「こいつは自供みたいじゃないな」ライカーが言った。
ペリイ・メイスンは、彼に冷たい眼を据えた。
「聞くのか、それとも、僕に黙らせたいのか?」彼は言った。
「つづけさせろよ、ライカー」ジョンスンが注意した。
「この男が言うことに私が何の関係もないことは了解して頂きたいですな」ブラッドバリーが言った。
「黙ってろよ」ジョンスンが彼に向って浴びせた。
「自分の言いぶんを聞いてもらうまでは黙りませんよ」と、ブラッドバリーが言った。「自分の権利については、私だって存じていますからね」
ライカーは手をのばして、ブラッドバリーのネクタイの結び目をぐいっとつかんだ。
「おい、あんた」と、彼は言った。「俺たちがここにお出ましになっているのは、こいつの自供を聞くためで、あんたの独奏《ソロ》を聞くためじゃないんだぜ。すわっておとなしくしてろよ」
彼はブラッドバリーを椅子に押しもどすと、メイスンにふり返った。
「つづけろよ」と、彼は言った。「話したかったんだろう。話をはじめろよ」
「ブラッドバリーは僕の事務所へやってきた」と、ペリイ・メイスンは言った。
「その前に、僕はイヴァ・ラモントという署名のある電報をうけとっていた。ブラッドバリーは自分がその電報を打ったと言ったよ。その電報は、マージョリー・クリューンの捲きこまれているある事件に関して、いつでも行動できるようにしていてくれという依頼だった。ブラッドバリーは、その事件の輪郭を説明した。マージョリー・クリューンは、フランク・パットンのために犠牲になったんだ。彼は、フランク・パットンを僕に告訴してもらいたいと依頼した。僕はドレイクを通して、パットンの所在をつきとめた。パットンに会いに行って、たまたま、イースト・フォークナー・ストリートのセント・ジェイムズ・アパートメントに住んでいるセルマ・ベルという若い女に会うことになった。この女の電話番号は、ハーコートの六三八九一だ。電話番号にかけては、僕はたいへん記憶がいいんでね。
ドレイクがフランク・パットンの居場所をつきとめた晩、僕は事務所でドレイクからかかってくる電話を待っていた。僕たちは、いっしょに出かけて行って、パットンから自供をとろうと思っていたんだ。そこへブラッドバリーがやってきた。で、僕は、彼に待っているように言った。外のオフィスへ通したんだよ。ドレイクから電話がかかってきた、僕はドレイクに、これから会いに行くと答えた。タクシーをひろってドレイクに会いに行った。そのあいだ、僕は、ブラッドバリーを、彼の泊まっているメイプルトン・ホテルに帰した。ある新聞が必要なので、それをとりに、だよ。タクシーで行って帰ってくるのに、三十分はかかると言った。まあ、そんなもんだろう。そのくらいの時間は、どうしてもかかるだろうね」
「君は」と、ブラッドバリーが、冷やかな、難詰するような語調で訊いた。「警察よりも前に、パットンの部屋に入って、出てきたあとにドアに鍵をかけたことを自白するつもりかね?」
ジョンスンは、ブラッドバリーにふり向いた。
「どうして知っているんだ、そんなこと?」彼は訊いた。
「それが彼のしたことだということはわかっていますよ」
ブラッドバリーは言った。
「どうしてわかった?」
「それというのも」と、ブラッドバリーは勝ち誇ったように、ペリイ・メイスンに流し目をくれて言った。「九時ちょっと過ぎに、この事務所にいた私のところへ電話をかけてきて、殺人の詳細な話をしたんですよ。兇行がどのようにして行われたか、それを話したんですな。その時間には警察だってまだ知らなかったことですよ。マージョリー・クリューンを護るためにできるだけのことをしてくれと私は言いましたがね。もちろん、これはどこまでも合法的に、という意味でした」
ジョンスンとライカーは互いに視線をかわした。
「それは、ペリイ・メイスンがドラッグ・ストアからかけたという電話だったんだな」と、ライカーが訊いた。「俺たちは、ここから出て九番街とオリーヴ・ストリート、さらにそこからパットンのアパート、パットンのアパートから、彼が電話をかけたドラッグ・ストア、そのドラッグ・ストアからセント・ジェイムズ・アパートメントにいったタクシーの足どりを洗ったんだよ」
「電話の相手は私でした」と、J・R・ブラッドバリーが言った。「私はこの証言を証人のいる前で行ったということは、あくまでも了解されたいと思います。つまり、この話を聞くとすぐに、メイスンのやったことがことごとく非合法なものだと思ったわけですからね。どういう点からでも法律に触れるような問題に私は関係を持っていないんですから」
ライカーは、デラ・ストリートを見た。
「いまのは書いたね?」彼が訊いた。
「ええ」デラ・ストリートは言った。
「話をつづけてください」ジョンスンが、ブラッドバリーに言った。
「彼に話をつづけさせてください」ブラッドバリーは、メイスンに向って顎をしゃくりながら言った。
「僕はパットンのアパートへ行ったんだよ」と、メイスンは言った。「ドアをノックしてみた。返事がなかった、ドアを開けて、室内へ入ってみた。ドアには鍵がかかっていなかった。僕は、パットンの屍体を発見した。刺殺されていたんだよ。居間の隅にブラックジャックが投げ出されているのを見つけた。僕が帰ろうとしたとき、警官が廊下をやってくる音を聞いた。その部屋を出てくるところを見られたくなかったし、開いたドアの前に立っているところも見られたくなかった。ポケットに合鍵があったので、ドアに鍵をかけて、パネルをノックしてみせた。その警官には、いまきたばかりで、入ろうとしていたところだと申し立てた」
ペリイ・メイスンは話をやめた。オフィスのなかに沈黙がひろがり、速記をとるデラ・ストリートのペンのすれる音と、呼吸をするとき彼女がすすりあげる声が聞えた。
「貴様は、とんでもねえ弁護士だな」と、ライカーが悪意をこめて言った。「その自供と、ブラッドバリーの協力で、終身刑になるさ」
「パットンの部屋の」と、ペリイ・メイスンは、そんな言葉には耳もかさずに言った。「テーブルの上に、電話の伝言が二つあった。一つはセルマのもので、マージョリーが約束に遅れるというものだった。もう一つは、ハーコート六三八九一のマージイに連絡するように、という内容だった。僕はその二つを見た。セルマ・ベルの電話番号を想起した。セルマ・ベルのアパートに行けば、マージョリー・クリューンをつかまえられるという推測が、すぐに頭にうかんだ。そこで、ブラッドバリーに電話して指示を仰いだ。どんなことをしてでも、また、どんな手段をとってもマージョリー・クリューンを守ってくれという命令だった」
「それは嘘だ」と、ブラッドバリーが言った。「私はあんたを弁護士として雇ったんだ。非合法なことまでやってもらおうとは思っていなかった。私は、そんなことに関わりはないよ」
「そいつはあとまわしだ」と、ジョンスンが言った。「先をつづけろよ、メイスン」
「僕はセルマ・ベルのアパートに行ってみた」と、メイスンは言った。「そこにマージョリー・クリューンがいた。彼女は入浴中だったよ。セルマ・ベルは、ちょうど出たばかりのところだった。セルマ・ベルは、フランク・パットンと会う約束があったけれど、その約束ははたさなかったと言ってたよ。ボーイ・フレンドと出かけてたというんだ。僕はそのボーイ・フレンドに電話で照会してみた。彼女の証言したとおりだった。
僕はマージョリー・クリューンに、どこかのホテルに行って、本名で泊まり、その場所を事務所に連絡して一歩も外に出ないようにしろと言った。彼女は、そうすると約束した。あとで彼女は事務所に電話で、ボストウィック・ホテル、四〇八号室にいると連絡してきた。電話番号はエクシター九三八二一だった。僕はブラッドバリーのところへもどった。僕は事件のことを話したが、パットンの部屋に入ったこと、ドアに鍵をかけたことは言わなかった。ブラッドバリーは、マージョリー・クリューンといっしょに、ドクター・ドーレイのほうの弁護もしてくれと言ったよ。その弁護は引きうけたんだ。
この事務所で待っているのをいやがったものだから、ブラッドバリーとはホテルで会った。彼は、メイプルトン・ホテルからその新聞をとって事務所へもどってきた。彼がもどってきたのは、ちょうど僕がパットンのアパートの近くのドラッグ・ストアから電話したときだった」
「書類鞄もいっしょに持ってきたよ」ブラッドバリーが言った。
「そうだ」と、メイスンは言った。「君は、デラ・ストリートに電話して、書類鞄も持って行こうかと訊いた。彼女は、持ってきていただければ好都合だろうというふうに答えたんだ」
「私はホテルの自室から電話したんですよ」ブラッドバリーは刑事たちに説明した。
「あとになって」と、メイスンは言った。「僕はマージョリー・クリューンに電話をかけた。彼女はホテルから出てしまっていた。刑事が、デラ・ストリートのところへ押しかけてきて、ドクター・ドーレイに電話をかけて州外に出るように教唆したと言って責めていた。もとよりデラ・ストリートは彼に電話なんかかけなかった」
「君がそうおっしゃるんだよ」ブラッドバリーが言った。
「黙ってろよ、ブラッドバリー」ライカーが言った。
「僕は」と、メイスンがつづけた。「マージョリー・クリューンが真夜中の飛行機に乗る意向を察知した。僕は飛行機をチャーターして、その真夜中の郵便飛行機のあとを追った。その最初の着陸地、サマーヴィルで、ドクター・ドーレイがおりたことがわかった。リヴァー・ヴュー・ホテルへ行ってみると、ドクター・ドーレイは新婚用の部屋をとっていたんだ。はじめのうち、マージョリー・クリューンのことは知らぬ存ぜぬで押しとおしていたが、話の途中でマージョリー・クリューンがその部屋にきた。彼女は飛行機に乗りそこなって、汽車できたんだよ。そのとき警官が二人を逮捕しにきたわけさ。僕はマージョリー・クリューンをホテルからつれ出して、こっちへつれてもどったんだ」
「貴様のやりそうなこった」ライカーが言った。
「僕のやりそうなことさ」メイスンは言った。
「馬鹿なやつだ、自分から認めてやがる」ジョンスンが言った。
ペリイ・メイスンは、二人の刑事を冷やかな嘲るような眼で見やった。
「僕の自供に諸君が興味をお持ちなら」と、彼は言った。「黙ってすっこんでいるんだな、こっちは話をしまいまでつづけたいんでね」
「きいたふうな真似はやめて、さっさと言えよ」ジョンスンが彼に浴びせた。
ペリイ・メイスンは、じっとジョンスンを見つめていたが、やがて向きをかえてデラ・ストリートに顔を向けた。
ブラッドバリーは口を挾んだ。
「君たち二人が頭を使えば」と、彼は言った。「あの鍵のかかったドアがこの事件の重要な問題になることがわかりますよ。ドアに鍵がかかっていなかったとすれば、ロバート・ドーレイがフランク・パットンを殺したということは、まず疑いないところですな。もし、ドアに鍵がかかっていたとすると、フランク・パットンを殺したのは――」
「そんな話は全部、一人になったら自分に言って聞かせろよ」と、ジョンスンは言った。「われわれをさしおいて、話をきり出すチャンスをうかがっているんだな、あんたは。自分の知っていることでペリイ・メイスンを脅迫しているみたいに聞えるぜ。そんな真似がどうしてもやめられないんだったら、出て行ってもらうからな」
「放っとけよ、ライカー」ジョンスンが言った。
ライカーは、またブラッドバリーのネクタイをつかんで椅子にぐいっと突きもどした。
「すわってろよ」と、彼は言った。「黙ってるんだぜ」
外のドアに、強く叩きつける音がした。
「あれは」と、ペリイ・メイスンが言った。「オマリイ部長刑事だろう」
ジョンスンがちょっとそわそわして、ライカーに言った。
「開けろよ、ライカー」
ライカーがドアを開けた。どっちかといえば背が低く、でっぷり腹がつき出て、まるまるした童顔で、まったく表情がない明るいいろの眼をした人物が、せわしなく、飛ぶような足どりでペリイ・メイスンの私室に入ってきた。彼は、その場の人たちに顔を向けた。
「やあ、オマリイ」ペリイ・メイスンは言った。
「何があるんだい」オマリイが訊いた。
「この女が、殺人犯人の指名手配をうけているマージョリー・クリューンです」と、ジョンスンがいそいで言った。「ペリイ・メイスンがこの事務所に匿まっていましたよ。各地に彼女をつれまわしましてね」
オマリイの眼がさっとマージョリー・クリューンをとらえ、さらにペリイ・メイスンに眼を移し、ついでジョンスンに眼を向けた。
「メイスンが何かするときは」と、彼はジョンスンに言った。「自分のしていることは知っている筈なんだが。女には手錠をかける必要があるのか?」
「殺人事件ですし」と、ジョンスンが言った。「ペリイ・メイスンは自供しているところなんですよ」
「何だって?」オマリイが訊いた。
「自供です」
「何を自供するんだ?」オマリイが訊いた。
「警察がくる前にフランク・パットンの部屋に入り、屍体を発見して出てきてからドアに鍵をかけ、あとでそのことについて偽証したことを自供しているんです」
オマリイは、不思議そうに額に皺をよせてペリイ・メイスンを見た。それからデラ・ストリートに眼を移した。
「きみが速記をとっているのかい、デラ?」彼は訊いた。
彼女はうなずいた。
オマリイは、もう一度メイスンを見た。
「どういうわけなんだい、ペリイ?」彼は訊いた。
「自供しようとしているのさ」と、ペリイ・メイスンは言った。「しかし、ときどき邪魔が入るんだ」
「つまり、重罪の自供書を作るんで自分の秘書に速記をさせているという意味かい?」とても信じられないといった響きをこめてオマリイが訊いた。
「全部、自供が終わったら」と、メイスンは言った。「僕としては終わらせてもらいたいんだがね、とにかく自供書がすべてを語ってくれるよ」
オマリイは、ブラッドバリーのほうへ眼を向けた。
「あの男は誰だい?」彼は訊いた。
「J・R・ブラッドバリー」と、メイスンが言った。「ドーレイとマージョリー・クリューンの弁護をさせるために僕を雇ったんだ。金があるんだよ」
「じゃあ、つづけて自供をおしまいまでやってくれ」オマリイがペリイ・メイスンに言った。
「私は、自分の立場をここで――」ブラッドバリーがはじめた。
オマリイは彼に向き直った。
「すっこんでろよ」彼は言った。
ペリイ・メイスンは自分の説明を進めた。
「あきらかに」と、彼は言った。「フランク・パットンはナイフで刺殺されていたんだ。ブラックジャックは、全然関係がないんだ。もっとも、犯人が兇行後、そのブラックジャックを隅に放り出しておいたことはすぐにわかった。マージョリー・クリューンと話をしたおかけで、ドクター・ドーレイが彼女をパットンのアパートの近くまで車で送って行ったことがわかった。彼は、パットンをおどかすつもりだったそうだ。殺すとか何とか放言したんだな。それが理由で、マージョリー・クリューンはパットンの住んでいるところは教えなかったんだ。彼女はキャンディ・ストアへ入って、しばらくそこで時間を食った。婦人用の化粧室へ入って、ドーレイには、裏口から出て行ったと伝えさせた。出て行ったわけじゃなかったんだ。化粧室に隠れていたんだよ。ドーレイが出て行ってから五分後に、彼女はその店を出てパットンのアパートに行った。彼女は、彼が死んでいるのを発見したと言ったよ。僕は、彼女がアパートから出てくるところを見かけたんだ。
僕は、セルマ・ベルのところへ行って、彼女を逃がした。カレッジ・シティまでの切符を買ってわたした。彼女は向うで、あるホテルに泊まっているんだ。
ちょっとしたからくりを使って、僕はセルマ・ベルのアパートにもどった。家《や》さがししたんだ。帽子箱を見つけたんだが、そのなかに白い靴、ストッキング、服が入っていた。みんな血がついていたものだった。それを、いそいで洗い落したんだ。その白い靴はマージョリー・クリューンのものだった。そのほかはセルマ・ベルのものなんだ。その帽子箱はカレッジ・シティまでチッキにして、その受けとりは僕が持っている。それからは僕は切符をセルマ・ベルにやって、彼女は帽子箱をチッキにした切符で旅行に出かけたわけさ」
ペリイ・メイスンは、チョッキのポケットをさぐって、番号の入った厚紙を出して、オマリイ部長刑事にわたした。
「それが」と、彼は言った。「チッキの受けとりだよ」
「マージョリー・クリューンのものは靴だけかい?」オマリイが訊いた。
「靴だけだよ」メイスンが言った。
「そう彼女が言うんだね」オマリイが言った。
「いや、僕が言ってるんだよ」メイスンは言った。
「貴様は、見さげはてた弁護士だな」と、ブラッドバリーが言った。「依頼人の秘密をさらけ出しているじゃないか。弁護士と依頼人のあいだの話の秘密を洩らした。貴様は――」
「こいつが黙らなかったら」と、オマリイがライカーに言った。「君が黙らせていいぜ」
ライカーは、ブラッドバリーの椅子に寄って行った。
「耳は悪くないんだろう、あんた?」彼は右手で拳固を作りながら訊いた。
ブラッドバリーの眼は冷やかで嘲るようないろがあった。
「私をおどかそうたってききませんよ」彼は言った。
メイスンは話をつづけて、ブラッドバリーとライカーの険悪な空気をそらすようにした。
「僕はセルマ・ベルのアリバイをさらに調べてみた」と、ペリイ・メイスンは言った。「そうしたら、でたらめだということがわかった。そのアリバイがでっちあげで、それもあまり悧巧なものじゃないと確信したよ。素人じみたアリバイでね――大急ぎでこしらえたものなんだ。セルマ・ベルはマージョリー・クリューンがアパートにもどってきたとき入浴していたんだよ。血痕を洗いおとすために入浴していたことは、まず間違いはないところさ」
ちょっと沈黙が流れた。
「セルマ・ベルが彼を殺したというのかね?」オマリイが訊いた。
ペリイ・メイスンが、彼に向って、黙っていてくれというような身ぶりをした。
「ブラッドバリーがこの事務所にやってきたときには」と、彼は言った。「彼はパットンがどこにいるのか、マージョリー・クリューンがどこにいるのかも知らなかった。セルマ・ベルのアパートで僕がマージョリー・クリューンと別れたときは、彼女はドクター・ドーレイと結婚するつもりだった。彼女は愛していたんだよ。ところが、サマーヴィルで会ったときには、彼女はブラッドバリーと結婚する気になっていた。ドーレイを前ほど愛さなくなったというんじゃない。事実は、ドーレイを愛していたからこそ、ブラッドバリーと結婚しようとしたんだよ。彼女は、ドーレイがたいへんな立場に立っていることを知っていた。彼があのナイフを買ったんだからね。パットンを殺すとも言っていた。ナイフはあの殺人の兇器に使われている。彼が殺人を犯したに違いない、と自分で思ったんだ。それで、もしブラッドバリーと結婚することを承知すれば、彼が弁護士の費用を出してくれるだろうと思ったわけなんだ。
ところで、彼女がボストウィック・ホテルを出てからあと、サマーヴィルで僕と会うまでのあいだに、僕はブラッドバリーと会った。彼はマージョリー・クリューンといっしょにドーレイの弁護を引きうけて釈放させるようにしてくれ、ときた。あとで、僕はこの事務所に電話で連絡して、秘書に、セルマ・ベルに電話をかけてくれと言った。マージョリーがセルマ・ベルのアパートを出る前に電話で誰かと話したかどうか調べるように、とね。そうしたら、僕の電話をブラッドバリーが聞いていた。勝手に僕の私室に入って、交換台をいじりまわして電話を聞いていたんだ。途中で話にわりこんでくると、こんどはドーレイを有罪にして終身刑にしろと命令したよ。
ところで、マージョリー・クリューンと、例のキャンディ・ストアに入ったとき、ドクター・ドーレイがあのナイフを手に持っていなかったことははっきりしている。そのとき、彼はパットンのアパートがどこか知らなかったこともあきらかなんだ。彼はマージョリー・クリューンよりも五分ばかり前にそのキャンディ・ストアを出ている。たとえ、もし、その五分以内に、車までナイフをとりに行って、パットンのアパートへ行って彼を殺して逃げたとしても、パットンのアパートをどうやって知ったのかという問題が残る。マージョリー・クリューンは、彼が自分のあとを尾けてきたんじゃないかと考えているらしいんだが、彼女は、自分が兇行後にアパートへ行ったのであって、殺される前にアパートへ行ったわけじゃないことを見逃しているんだよ。
犯行のあった晩、ブラッドバリーがこの事務所にきたとき、彼はパットンの住んでいるところを知らなかった。マージョリー・クリューンがどこにいるかも知らなかった。ところが、殺人の行われたあとで、マージョリー・クリューンと連絡をとっている。どうして彼がドクター・ドーレイの弁護をするように指示したか、ということがほかには説明がつかない。マージョリー・クリューンが彼との結婚に同意して、愛する男と幸福な一週間をサマーヴィルで送るために、ホテルから外に出てはいけないという僕の言いつけを破った唯一の理由だね。マージョリー・クリューンのほうは、ブラッドバリーがどこに泊まっているのか知らなかった。しかし、誰かが、セルマ・ベルのアパートにいた彼女に電話をかけてよこした。彼女が計画を変えたのはその電話での会話の結果だよ。だから、その電話の相手はブラッドバリーに違いないというわけだ。彼女は、どうしてもそれを言わなかったけれど、いっさいの事実から見て妥当な推理だと思うね」
ペリイ・メイスンは、ブラッドバリーをふり返った。
「彼女に電話しましたか?」彼は訊いた。
「もし、私が電話をかけていたら」と、ブラッドバリーが反問した。「それで、どうなるんだ?」
「私はただ、犯罪の事情を調べようとしているだけですし、ボストウィック・ホテルから出ないようにと言う私の言いつけを、マージョリー・クリューンに破らせた理由を確かめようとしているんです。私は率直、かつ、直截に質問しているんですよ、ブラッドバリー。ご忠告しておきますが、もし虚偽を申し立てると、有罪を示すものとしてうけとられますよ」
「有罪って、何が?」ブラッドバリーは訊いた。
ペリイ・メイスンは肩をすくめた。
「私に嘘をつかせたいんだろう、貴様は?」ブラッドバリーが言った。
「あんたがどうしようと僕の知ったことか」メイスンが浴びせた。
ブラッドバリーは、ペリイ・メイスンからマージョリー・クリューンに眼を移した、長いあいだ、じっと彼女を見つめていた。やがて彼は、ゆっくり強調するように言った。「君の企んでいることがわかったよ、メイスン。マージョリー・クリューンは、ドーレイの首を救うためなら何でもやってのけるさ。こんな電話のことみたいな、ちっぽけな証拠をほじくり返して、つまらない証拠をさも重大なものに見せかけて、自分の弁護を芝居がかったものにしたあげく、マージョリーに嘘を言わせて、私が罠に落ちたような恰好にするとは、さすがに頭がまわるね」
「それで、申し述べることが終わったのなら」と、メイスンは冷たく言った。「質問に返事をして頂きたい。彼女に電話をしましたか、しませんでしたか?」
「しなかった」ブラッドバリーは言った。
「警告しますがね」と、メイスンは言った。「虚偽の申し立ては、有罪を示すものとしてうけとられますよ。彼女に電話したか、しなかったか?」
「いくらでも」と、ブラッドバリーは嘲るように笑いをみせて言った。「マージョリー・クリューンのつこうとしている嘘の重要性を強調するために、ありったけの芝居をするんだな。マージョリー・クリューンの偽証にいくらでも劇的な背景をでっちあげる老練な法廷弁護士の手腕をふるったらいいだろう。そんなことが終わってしまえば、私がマージョリー・クリューンに電話しなかったという事実が残るだけさ」
「いや」と、ペリイ・メイスンはゆっくり言った。「君は電話をかけた。すぐに証明してあげるよ。その前に、一つ質問があるんだ。あそこへ電話すれば、どうしてマージョリー・クリューンに連絡できることがわかった?」
ブラッドバリーは何か言おうとしたが、ふと、自分を抑えた。
「返事を待っているんだよ」メイスンが言った。
「勝手に待っているんだね」ブラッドバリーが言った。
ペリイ・メイスンは、オマリイ部長刑事のほうをふり向いた。
「彼があの番号に電話すれば彼女に連絡がとれると知ったのは」と、彼は言った。「フランク・パットンの部屋のテーブルの上にあった伝言を読んだからなんだ。彼はパットンを殺したとき読んだのさ」
デラ・ストリートが、ノートから眼をあげた。マージョリー・クリューンは、せわしい息づかいをしていた。オマリイは油断なく、さぐるような眼をブラッドバリーに向けた。ぴったり五秒も、ブラッドバリーはまったく身動きもしなかった。やがて、彼は、おだやかな微笑をうかべた。
「忘れてはいけないね」と、彼は言った。「まず第一に、僕はフランク・パットンがどこに住んでいるのか知らなかったんだ。君はそれを隠すのに苦労していたからね、メイスン。それに、君は新聞をとりに私をホテルへやったじゃないか。私は三十五分で、ホテルへ行ってまたもどってきているよ。だいたい普通の時間だね。自分の生命を救うために二十五分以下で行ってこられればよかったんだがね、それは無理というものだ。パットンのアパートに行ってもどってくるだけで少なくとも三十分はかかるよ。従って、こういう事情の下では、私が君に不利な証言をしたことをひっくりかえすべつな方法をさがしてきて、あまり復讐にばかり夢中にならないで、ちゃんととどめをさせる手段を見つけることだね」
「君は、パットンの所在を知っていたんだよ」と、メイスンは言った。「電話を盗聴していたからさ。交換台を操作する能力からみても、電話の盗聴をやってのけたことは考えられる。君がパットンのアパートへ行って、マージョリー・クリューンの電話番号を書いたメモを読んだ事実は、君が殺人をやったということになるね。ホテルにいたというアリバイは、まさに計画の周到さを示しているが、新聞なんか忘れてきやしなかったんだよ。ちゃんと持ってきた。書類鞄も持ってきたんだよ。例の電話は、ちょっとした技巧を弄したに過ぎない。パットンのアパートの近くから電話したんだね。デラ・ストリートに、ホテルの自室から電話していると言った。むろん、彼女にはそれを確かめる方法もなかったわけだが、君はこのビルにきたとき、紙包みにした新聞と鞄を煙草店のマミイに預けてたのさ。
君は例のブラックジャックを身につけていた。音のしない兇器を使わなければならないと知っていた。自分がべつの用事で出かけていて、パットンの居場所を知らないと僕に思わせておいて、僕をパットンのアパートに出向かせることができたら、彼を殺して逃げられると思ったんだね。君は、ちょっとデラ・ストリートにふざけてみせたりして、ゆっくりした態度で事務所を出るようなふりをした。ところが、事務所を出たら、大急行だった。パットンのアパートの近くへ車を乗りつけた。そのとき、すばらしい救いの手と思ったものを見つけた。ドクター・ドーレイの車が駐まっているのが眼についたんだよ。タクシーを帰して、その車のなかをのぞいたところが、例のナイフがあった。きみはそのナイフをとって、パットンのアパートにあがって行って、パットンを殺し、アパートから逃げ出した。
君が彼の部屋についたとき、セルマ・ベルがバスルームでヒステリーを起していた。ドアには鍵がかかっていなかった。君はドアを開けて、なかに入った。パットンはバスルームに押し入ろうとしてたんだ。彼は下着一つになっていた。彼は君をみるとあわててバスローブをひっかけようとした。君は、何も言わずに彼に近づいて、ナイフを心臓めがけて突き刺した。彼はフロアに倒れた。君は入口に向って駆けだした。そのときブラックジャックを思い出した。もう、そんなものに必要はないわけさ。調べられることがあるかも知れないし、そんな兇器を所持していたくなかった。それを出して、フロアに放り出した。アパートの階段を駈けおりると、タクシーをひろった。一、二|区画《ブロック》手前でとめて、デラ・ストリートにホテルの部屋にいるなんて言って、新聞といっしょに書類鞄を持っていったほうがいいか、と訊いたわけさ。それからタクシーでこのビルにもどってくると、煙草店のマミイに預けた包みをうけとって、包みを破って、新聞と書類鞄を出して、僕がちょうど電話をかけて、君がそっちにいるかと確かめて、殺人事件のことを話したときには事務所にもどっていたわけさ。
セルマ・ベルは、パットンの身体が倒れる音を聞いたんだ。彼女はバスルームの鍵を開けて、外に出た。パットンの上にかがみこんでみた。そのときスカートや、ストッキングや、靴に血がついた。彼女は白い靴ははいていなかった。だから靴の汚れは、特に眼につくものではなかったし、靴クリームでそんなものは隠れてしまう。しかし、スカートとストッキングはたいへんなんだよ。彼女は、バスルームで、できるだけ血を洗い落とすと、まっすぐアパートに帰って入浴した。彼女はタクシーで帰ったんだ。マージョリー・クリューンがパットンと約束があったのを知っていたから、服に血がついていやしないかと思って、よく見まわした。それでマージョリーの靴についた血痕を見つけて、彼女を風呂に入れた。マージョリーをこの殺人事件に捲きこませたくなかったんだね。一方、自分だって捲きこまれたくなかった。そこで、アパートに帰ってすぐボーイ・フレンドのサンボーンに電話して、いそいでアリバイの打ち合わせをしたんだ」
ペリイ・メイスンは言葉をきった。
ブラッドバリーが嘲りのいろをうかべた。
「君の、くだらない結論でなくて」と、彼は言った。「何か証拠を出してもらいたいと言ったらご無理ですかな?」
ペリイ・メイスンの微笑は、冷たく、凍りつくようなものだった。
「あの翌日、僕はマミイに会った」と、彼は言った。「そうしたら、君が包みを預けて行ったことを話したよ。彼女は、君がいつも茶色の服を着ているって言ってた。それを聞いて、あの晩、事務所にきたとき、君が茶色の服を着ていたことを思い出した。ところが、ホテルで会ったとき、君はトゥイードの服を着ていたね。僕の事務所からホテルに駆けつけると、服を着換えたんだ。どうしてだろうと思った。茶色の服には血痕がついたからじゃないかと僕は思った。もちろん、その汚れは、照明の下でははっきりわからなかったろう。しかし、とにかくついていたんで、君はあの服を脱ぎたかったんだ。あの服を処分するのに困ったろうと思うね。ホテルの君の部屋のどこかに隠してあるのが見つかるだろうね、きっと。
さらに、君の計画を進展させるために、君はドーレイを逃げ出させなければならなかった。君は、彼を絶体絶命の立場に立たせたかった。そこで、君はイヴァ・ラモントに、ホテルにいるドーレイに電話をかけさせた。彼女は、僕の秘書のデラ・ストリートだと名のって、僕が逃げ出すように言っていたと彼に言ったわけさ。
ドクター・ドーレイはホテルを出たが、出てからずっとホテルに電話で連絡をとっていた。彼は、マージョリーの伝言を知って、電話をかけた。そして彼女がサマーヴィルで彼とおちあうことになったんだ」
「イヴァ・ラモントというのは何です?」オマリイが訊いた。
「昨日まで」と、メイスンは言った。「メイプルトン・ホテルの、ブラッドバリーの続き部屋にいた女さ。それから、ブラッドバリーの金と指令で、モンマート・ホテルに移って、ヴェラ・カッターという名前で部屋をとって、彼女は、ドーレイをいち早く捲きこむことになった情報をポール・ドレイクに知らせた。
僕がこの事務所にいたブラッドバリーにパットンの死を知らせたとき、いかにも待ってましたというような驚きかたをしてみせた。そいつが素人《しろうと》のあさましさ、というやつさ、薬を効かせすぎたんだな。驚きが驚愕になり、驚愕が恐怖になった。
しかし、このイヴァ・ラモントの話にもどるが、ブラッドバリーは、ドーレイを事件の渦中に立たせるために、彼女を使った。当然のことだが事件がドーレイにとって不利になればなるほど、マージョリー・クリューンが、ドーレイを釈放させるためにどんなことでもするようになるさ。
ブラッドバリーは、今日の午後、電話を盗聴して、僕がデラ・ストリートに、マージョリー・クリューンがセルマ・ベルのアパートを出る前に、彼女にかかってきた電話を調べるように言ったのを聞いて、僕がもうれつに追いこんできたことを知った。そこで、彼は、計画を変えて、ドーレイが有罪になり終身刑を受けるようにしろと僕に迫った。そんなことをしたのは、僕が事件の真相をつかみかけているという気がしたからさ。それで、彼は、ドーレイを有罪にして、僕を巻き添えにして自分の立場を救おうとしたんだ。
これが僕の自供だよ」ペリイ・メイスンは言った。
彼は大股に部屋を横ぎると椅子にすわった。
ブラッドバリーはオマリイ部長刑事の責めるような眼に、顔を向けた。
「みんな嘘だ」と、ブラッドバリーは言った。「みんな嘘ばかりだ。ちょっとでいいから、証拠を出させてみろ」
「僕はね」と、ペリイ・メイスンが言った。「メイプルトン・ホテルの彼の部屋を捜査したらいいと思うよ、オマリイ。例の服が出てくるだろうな。彼の指紋を血まみれのナイフについていた指紋と比較照合してみれば、ぴったりと符合すると思う。それに、彼がどんな嘘つきかみせようと思って、じつは今日の午後、彼のホテルに寄って、彼の勘定を払ってきたんだよ。それを払うとき、彼のかけた電話の明細をもらってきた。このリストで、彼が殺人の晩、ハーコートの六三八九一に電話していることがわかるよ。それに、グローヴの三六九二一にもかけているね。これは、ミドウィック・ホテルに泊まっていたドクター・ドーレイの番号だよ。それに、彼が今朝まで続き部屋のほうも払っていたことがわかるんだ。この部屋にいた女がイヴァ・ラモントだよ。モンマート・ホテルに部下を急行させれば、イヴァ・ラモントが、ヴェラ・カッターという名前で泊まっていることがわかるし、ポール・ドレイクは、彼女がドクター・ドーレイに不利になる証拠を、彼が警察に知らせるように情報を提供した女だということを確認するだろう」
ペリイ・メイスンは、ホテルの精算の受領書をポケットから出して、オマリイ部長刑事にわたした。
メイスンは、ブラッドバリーに顔を向けた。
「僕は警告したんだよ、ブラッドバリー」と、彼は言った。「マージョリー・クリューンにかけた電話のことは嘘をつくなとね。罪状を自白することになると言ったろう」
ブラッドバリーは、ペリイ・メイスンを見た。
彼の顔は、紙のように白くなっていた。
「畜生」彼は、憎悪にふるえる低い声で言った。
オマリイは、ライカーとジョンスンに向ってうなずいた。
「本署へ行くんだよ」
彼は、デラ・ストリートに向き直った。
「本署へ電話して頂けませんか?」と、彼は言った。「イヴァ・ラモントをつかまえたり、メイプルトン・ホテルのブラッドバリーの部屋を捜索させたりしたいんでね」
ペリイ・メイスンは、オマリイに会釈した。
「ご苦労さまだね、部長刑事」彼は言った。
彼は、ブラッドバリーのほうを向いて、追い立てるような身ぶりをした。
「君はうまいことを言いましたな、ブラッドバリー」と、彼は言った。「われわれは完全に了解しあったわけです。二人とも闘士でね。ただ、使う武器が違っているんですな、それだけですよ」
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第十九章
ペリイ・メイスンの私室の入口には、各社の新聞記者が半円形に群がっていた。カメラマンは、大きな回転椅子にすわっているペリイ・メイスンと、そのうしろに、あたたかい眼をして唇に微笑をたたえているデラ・ストリートを立たせて、キャメラを持ってフラッシュをたいた。ドクター・ドーレイは大きな革張りの椅子にすわっていた。マージョリー・クリューンはその椅子の腕にかるく腰をおろしていた。
「もう少し、お互いに頭を寄せてくれませんか?」マージョリー・クリューンと、ドクター・ドーレイの記事の取材にきたカメラマンの一人が言った。「もうちょっと、身体を低めにしてください、ミス・クリューン、そこでドクター・ドーレイは眼をあげて、彼女ににこにこしてみせて……」
「にこにこしていますよ、僕は」ドクター・ドーレイが言った。
「それは、にが笑いってやつですよ」と、新聞記者が言った。「こっちの注文はね、なんかこう、ほのぼのとあこがれているようなところでね。幸福で幸福でたまらないって感じですな」
マージョリー・クリューンは、かるく頭を一方に傾《かし》げた。
ペリイ・メイスンは、この二人を愛《いと》おしくてたまらないような微笑をうかべて見つめていた。
フラッシュが、いきなり二人を浮彫りにした。
新聞記者の一人が、ペリイ・メイスンのほうを向いた。
「ブラッドバリーがですな、ミスタ・メイスン」と、彼は言った。「有罪だという確証をはじめてつかんだときのことを話してくれませんか?」
「最初にそうわかったのはね」とペリイ・メイスンはゆっくり言った。「殺人が行われてから真夜中までのあいだに、ブラッドバリーがマージョリー・クリューンと連絡をとったという確信がついたときだよ。マージョリー・クリューンはブラッドバリーがどこにいるか知らないから、彼女のほうからは電話がかけられないことがわかっていた。従って彼のほうからかけたに違いない。彼女が、ボストウィック・ホテルに移ってからあとは、彼のほうから電話できないんだ。だから、その電話は彼女がセルマ・ベルのアパートにいたときに決まっている。僕はね、彼女がセルマ・ベルのアパートにいることをどうして彼にわかったのかと疑問を持った。僕が知らせる前にその情報をつかんだに違いない。そうなると、テーブルの上にあった伝言を彼が見たということしか考えられないじゃないか」
「すると、あなたが彼をひっかけたわけですか?」新聞記者が訊いた。
「そういうわけでもないんだよ」と、ペリイ・メイスンが言った。「しかし、僕は、いろいろなことを思い合わせはじめたよ。彼が、まだ発売されたばかりの『リバーティ』を読みながらこの事務所に入ってきたのを思い出したんだ。彼はあの晩、下の煙草店から買ってきたんだ。あとで、煙草店の若い女性から、彼が雑誌を買って荷物を預けて行ったということを聞いたとき、あの晩、彼が事務所《ここ》にやってきたとき何も言っていなかったけれど、その荷物をおいてきたに違いないということがわかった。それから、ほかの細かい事実を調べはじめると、彼が、単に有罪であり得るばかりでなく、もう絶対に有罪に間違いないということがわかった。僕は、彼がどこへ電話をかけたか、ということを知りたかったんだが、こいつがどうしたらいいかわからないんだよ。しばらくして、ホテルでは客のかけた電話の控えをとっておくことを思い出したら、あっさりわかったがね」
「それで、イヴァ・ラモントがこの事件に一枚加わっていることがどうしてわかりました?」新聞記者が訊いた。
「それは」と、ペリイ・メイスンが言った。「この事件に関して僕がうけとった最初の電報にイヴァ・ラモントとサインしてあったからさ。ブラッドバリーは、最初はこの女に全部やらせようと思ったらしいんだね。ところが途中でこの女には彼の計画を推進できないということが心配になってきて、ドーレイを捲きこむ助手に女を使ったんだな。もちろん、彼女は真相は知らなかった。ブラッドバリーは、女に知らせていいことだけをうちあけたんだ。彼女は言われたとおりに動いていたが、こいつは、どっちかというと頭がよくまわる女でね、命令には絶対服従だし、ポール・ドレイクに一泡吹かせたわけさ。彼女を使ったんで、ブラッドバリーは事件の進展の方向としてはあんなに早く警察にドクター・ドーレイのあとをたぐらせたんだね」
「ブラッドバリーがパットン殺害の考えを最初に抱いたのはいつだと思いますか?」新聞記者が訊いた。
「ほんのちょっと前だね」と、ペリイ・メイスンは言った。「もちろん、彼は、いろいろな事実がだんだんある形をとりはじめて、巧妙な計画が立てられるようになるまでは、細かい計画なんか立てていなかったんだね。頭のきれる男だよ。ブラッドバリーは、その点に関してはまったく手落ちがなかった。それからあとは、もちろん、運がついていて自分に都合がよく進んだわけだが、おかげでもう少しでドクター・ドーレイを電気椅子にすわらせるところだったわけさ。
ドクター・ドーレイが自分の車をあのアパートの近くに駐めておいたら、不思議なことにナイフが紛失した、なんて申し立てたとき、彼が真実のことを言っているなんて思う陪審員は一人もいなかったろうね。さらに言えば、あの場合、ドクター・ドーレイはマージョリー・クリューンが罪を犯したと確信するようになったら、どうしても自分がやったと白状することになったろう」
「セルマ・ベルが隠していたことがあったのに、あなたはご自分で全部推理したんですか?」新聞記者が訊いた。
「こういうことが起こったに違いない、という気がしたんだよ」と、ペリイ・メイスンはゆっくり言った。「セルマ・ベルは、全然真実を申し立てなかった。僕だって彼女のほんとうの話を全部知ったのは、新聞のインタヴューで彼女が真相を語っているのを読んでからさ。パットンが酒に酔ったせいで、彼女をどうやって寝室に閉じこめようとしたか。彼女がどうやってバスルームに逃げてヒステリーを起したか、などさ。自分の美しい身体を利用して、パットンが、だんだん自分を堕落させたと彼女は思ったんだね。彼女は疲れきっていたし、神経が昂《たかぶ》っていたので、ヒステリーがその鬱屈した感情のはけ口になったわけさ。
ブラッドバリーは廊下を歩いてくるときに、もちろん彼女がヒステリーを起しているのを聞いているんだ。彼は簡単にドアを開けて、入ってきた。時といい、場所といい、彼の目的にはぴったりじゃないか」
「しかし」と、新聞記者の一人がいった。「あなたは自供しましたね。そうでしょう、ミスタ・メイスン。例のドアに鍵をかけたあとで警察に偽証したんですね?」
ペリイ・メイスンがにやりとしてみせると、眼がきらりと光った。
「そうだよ」
「それは法律に触れませんか?」
「触れないね。人間は、警察に対しても、いかなる個人に対しても、自分の欲したように虚偽を申し立てることはできるさ。もし、その人間の偽証が殺人犯人をかばい立てする作為的なものであれば、重罪幇助で有罪になる。もし、それが法廷で宣誓した上での虚偽の申し立てなら、これは偽証で有罪だよ。しかし、この場合はね、諸君、虚偽は犯人を罠にかけるためのものだったんだよ」
「しかし」と、新聞記者が指摘した。「あなたは罪に問われる危険を犯したんですね?」
ペリイ・メイスンはデスクから椅子をうしろに引いて、立ちあがると、肩をがっしりと張って立ちつくし、愉しそうないろをうかべて新聞記者たちを見まわしたが、なんとなく愉しくなさそうなところが出てきた。彼がまた話をしたときには、ほとんど侮蔑に近いものが語調に含まれていた。
「諸君」と、彼は言った。「私は、いつでも危険に身を賭けている。私が仕事に手を出すときはいつでもそうだし、自分はそういう生きかたが好きなんだよ」
そのとき、ペリイ・メイスンの電話が強く鳴った。デラ・ストリートが受話器をとって、二、三分話を聞いていたが、やがて部屋を出て行った。ペリイ・メイスンは、新聞記者のほうに向き直った。
「諸君」と、彼は言った。「これでお訊きになりたいことは全部申しあげたと思います。これで、このインタヴューを打ちきりたいんだが。たいへん疲れているんでね」
「オーケイ、承知しましたよ」新聞記者の一人が言った。ペリイ・メイスンは、マージョリー・クリューンとボブ・ドーレイの姿を、まるで見知らぬ人ででもあるかのように見つめた。それから、彼はドアに向って頭をかるく傾《かし》げた。
「君たちはここで何をしているんだい?」と、彼は訊いた。「君たちの事件は終わったんだよ。さあ、帰りなさい。君たちは事件として終結した。もう君たちは書類に過ぎないんだからね。『幸運の脚の事件』――は終わった」
「さようなら、ミスタ・メイスン」と、マージョリー・クリューンがやさしく言った。「あたくしには、何とお礼を申しあげても足りないような気がしますわ、わかってくださいますね」
ドアが開いて、デラ・ストリートが入ってきた。彼女は二人が出て行くのを見送ってから、ペリイ・メイスンのほうをふり向いた。
「あちらの部屋にとても奇妙な男のかたが見えていますけれど」と、彼女は言った。「あなたはお会いになると思いますが、はじめにこっちの準備をして頂きたいと存じまして」
「よし」と、ペリイ・メイスンは言った。「用件はなんだい?」
「吠える犬のことでおめにかかりたいそうです」
ペリイ・メイスンの顔は、まったく表情というものがなかったが、彼の我慢強い眼は、この女性をしげしげと見やって、きらりと光った。
「そいつは」と、彼は言った。「獣医のほうにまわしたほうがいいよ」
デラ・ストリートは笑わなかったし、彼女の声はなめらかで、興奮していた。
「何か非常に重大なことなんですよ」と、彼女は言った。「そのかたは、じっとすわってもいられない様子ですわ。まるで一週間も寝ていないみたいな顔つきで。どんなご用件ですか、と訊いたら、吠える犬に関係したことだって言うんです。はじめのうち、私は笑っちゃったんですけど、そのとき、その人の顔にうかんだ表情は忘れませんわ。私が笑うのをやめると、その人ったら、遺書を作ることについても伺いたいことがあるなんて言うんですの」
ペリイ・メイスンの顔には関心を持っている様子が少しも見えなかった。
「僕は疲れているし」と、彼は言った。「遺書作成なんて願いさげだね。僕は刑事弁護士だよ」
彼の言葉を気にとめずに、デラ・ストリートは話をつづけた。
「それから、それを作った人間が殺人罪で処刑されたときでも遺書というものは効力を発生するものなのかどうか知りたいそうです。私が、その遺書を作ったのはどなたですか、って訊きますと、その遺書は、これから作ろうとしているので、吠える犬のことで、ぜひおめにかからなければならないのだって言いましたわ」
たちまち興味のいろが、弁護士の眼に輝いた。その顔には疲労のあとが消えていた。
「通してくれ」と、彼は言った。(完)