ルコック探偵(下)
目 次
第二章 貴族の名誉 八
解説
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裁判があった日のことである。シュパンは証言を終えて城砦を出ると酒場に行った。近くでラシュヌールという名がきこえて、そっちへ注意を引きつけられた。百姓が二人、すでに一瓶空にしている。なかの一人が、ラシュヌール嬢に父親の便りを届けにモンテニアックまでやって来たと話した。この男の女婿がサヴォアから目と鼻の先のサン・パヴァン・デ・グロット界隈《かいわい》で、たまたま令嬢の父親に出っ食わしたというのである。このところ、ラシュヌール氏にかけられた二万フランが頭にこびりついて夜も眠られぬぐらいだったくだんの悪党は、すぐ城砦にとって返し、セルムーズ公爵にとりついでもらった。
『ラシュヌールの隠れ家がわかりました。閣下のご命令により、兵を引き連れ、あいつを捕まえに行かせてください。 シュパン』
公爵は下士官一名、兵八名をシュパンの裁量にまかせ、さらに馬一頭を彼に与えた。
やんぬるかな、ラシュヌール! まさに売るために太らされたアヒル同然だったのだ。
事実、サン・パヴァン・デ・グロツトから遠からぬサン・ジャン・ド・コシュにある旅籠で、シュパンはラシュヌール氏を手中にした。彼は今しも、その旅籠から逃げ出そうとしていた矢先だった。というのは旅籠の亭主もまたラシュヌールの顔を知っていて、さっそく憲兵隊にご注進とばかりに飛んで行った。密告者のかみさんは亭主を裏切ってラシュヌールにこっそり教えてくれたのだった。
しかし、シュパンの一隊とラシュヌールは、旅籠の敷居でハチ合せとなった。ラシュヌールは自分からすすんで、シュパンのほうへ歩み寄った。
「やあ、お前か。またしてもお前か……。マリー・アンヌが時々お前にパンをめぐんでやったことも、忘れてしまったらしいな。わしの血を金に換えるがよい。しかし、お前にはもう二度と幸運はやって来ないだろうね……」
逃亡者は鎖につながれた。小さな部隊が細道を降りかけたとき、息を切らして一人の男が現われた。裏切り者の旅籠の亭主、バルスタンだった。
「賞金にあずかるのはこの俺だ。モンテニアックで最初に売り込んだのは俺だからな」
「お前さんに権利があると思うんなら、然るべき所で申し上げるがいいだろうさ」
「何だと? 権利があればだって……。一体誰がいちゃもんをつけるってんだ? そうか、お前だな、シュパン。この悪党を見つけたのは自分だと言うつもりかい。よくも、いけ図々しくそんなことを」
「そうさ、賞金は俺がいただくのさ」
「この嘘つきの泥棒野郎!」
「泥棒はお前さんだよ。さあみんな、こんなとこでぐずぐずしている暇はないぜ」
シュパンはバルスタンを押しのけた。ピエモンテ人の目にすさまじい憎悪のこもった火花が散った。やにわにバルスタンは、これ見よがしに、かくしから短刀を引っぱり出した。
「聖《サン》ジャン・デ・コシュ、それに聖《サン》ヴィエルジュにかけて、仕返しは必ずするぞ。俺から盗んだつぐないに横腹をぐさりと突いてやるまでは、飯の時も決してナイフを使わないと誓う」
言うなりバルスタンは消えた。シュパンの一隊は再び帰途についた。
真夜中過ぎ二時の鐘が鳴って、ラシュヌールはモンテニアック城砦に身柄を収容された。
ちょうど同じころ、デスコルヴァルとバボア伍長が、逃亡のために悪戦苦闘していたのである。
獄舎の小窓に耳を当てて、シャンルイノーが様子をうかがっていた。デスコルヴァル男爵が自由の身となれば、何らかの合図が送られる手筈《てはず》になっているはずだと思ったのだ。二時の鐘が鳴って程なく、廊下が騒がしくなった。彼は見た。ランタンの灯に照らされてラシュヌールが兵に引き立てられて行くのを、確かに見たと思った。夜が明け初め、あたりが青白くぼんやり照らし出された。シャンルイノーは絶望で頭を抱えた。
「すべて終りだ。手紙は無駄だったのだ」と彼はひとりごちた。
しかし、もしその時城砦の中庭にほんのちらりとでも視線を向けていたら、シャンルイノーの絶望は、一転して飛び上がらんばかりの歓喜にかわったことだろう。起床ラッパが鳴って一時間ほど過ぎたころ、兵営の屯所に百姓風の女が二人あらわれた。塔と垂直になった岩の下を通りかかったら、長い綱が一本ぶらさがっているのが見えた、というのだった。
綱だと! 囚人が一人逃げたのだ! 誰かがデスコルヴァル氏の独房に駆けつけた。藻脱けのからである。監視役を仲間に引きずり込んで男爵は逃げおおせたのだ。
あのやかまし屋のセルムーズ公爵とクルトミュー侯爵が、この失態を知ったら何と言うだろう。とはいっても、報告しないわけにも行かない。曹長が急を告げた。時を置かず二人がマルチアルを伴って姿を見せた。よそ目には怒りに顔も赤らんでいるという風情である。セルムーズ公爵など憤激の余り気も動転せんばかりのありさま。
クルトミュー侯爵が一番冷静で、すぐに段取りよく命令を下した。その言うところ、『恐るべき大罪人』を必ず法の手に取り戻さねばならぬ、というわけである。そして、元セルムーズの司祭ミドン師と、デスコルヴァル並びにその息子の行方を追い、逮捕するように命じた。
ところが呼び集められた士官の中に、一人だけ、そんな捜索よりも脱獄の事情を調査し、責任の所在を明らかにするのが先決だと言い出す者がいた。その『調査』なるひとことに、セルムーズ公爵もクルトミュー侯爵も、かすかな身震いを隠し切れなかった。二人は不安そうな目を見合わせ、マルチアルはその視線を目ざとくとらえた。そこで初めて口を出した。
「わたしは今の中尉の意見に賛成です。確かに、脱獄の事情を調べ査問会を開くべきです」
マルチアルがそこまで大胆に出たのも、自分に累が及ぶ危険は万が一にもあるまいと確信していたからだった。
調査の指揮は誰がとる?……どうせ父親とクルトミュー侯爵に決まっている。マルチアルのそんな計算どおり、彼らはさっそくその仕事にかかった。
マルチアルは、脱獄の詳細な経緯を、罪人たち同様に知り尽しているつもりだった。何しろ、昨夜のお膳立てをしたのは、他ならぬ自分だったのだ。ところがいざ調査が開始されると、マルチアルには何とも説明のつけようがない色々のことが、次々と浮び上がってきたのである。
デスコルヴァル男爵とバボア伍長は、脱出のために、すでに述べたような二段階に分けた降下をやりとげたことは明白だった。
この二段階の操作をやってのけるのに、二本のロープが必要だった。だからロープは二本見つからなければならないのである。ところが一本だけだった。例の、百姓女が見つけた、外壁の出っ張りに打ち込んだ|かなてこ《ヽヽヽヽ》から垂れ下がっていたやつである。房の窓から出っ張りに至るまでに使われたはずのロープは、発見されなかった。
「何ともふしぎだ」とマルチアルはつぶやくしかなかった。
さらに残っていたロープ、つまり二度目の降下に使われたそれを調べたところ、それは単一のものでないことがわかった。マルチアルが持ち込んだ二本のロープの端と端を繋ぎあわせて使ったことは明らかだ。ということは、二本のうち太目のほうは、十分な長さがなかったとしか考えられない。一体どうしたわけだろう? マルチアルは一目見ただけで、ロープがわざわざ短く切りつめられたらしいのに気がついた。だが、牢獄に持ち込むため身体に巻きつけていた間に見たところでは、必要な長さよりたっぷり三分の一も余裕があったはずなのだ。
マルチアルは、クルトミュー侯爵と父に言った。「どうやら、思いもよらない事態になりそうですよ。だが、一体どんなことだろう?」
「ふん、それが何だというのだ!」
マルチアルは、クルトミュー侯爵の言葉には耳をかさず、岩のふもとを調べに行った。ロープのぶら下がった真下の土に、いくつもの血痕がある。
「囚人の一人が落ちたのだ!」彼はびっくりしてさけんだ。「どちらかが、ひどい傷を負ったにちがいない」
「そのとおりだな!」とセルムーズ公爵。「デスコルヴァルのやつ、どうやら骨をくだいたろうな。何とも好都合な次第だ」
マルチアルの顔に血が上った。まじまじと父親をみつめた。
「あなたは、ご自分のおっしゃっていることの意味を、わかっておられない。われわれはデスコルヴァル男爵を救うということで画策したのですよ。彼が死んだということにでもなれば、われわれにとって、とんだ災厄というものです。まったく、えらい災厄なんです!」
「まあまあ……」クルトミュー侯爵が口をはさんだ。「負傷しただけですよ。間もなくわかるでしょう」
その日は死刑囚の処刑の日でもあった。彼らは銃殺されることになっていた。金曜日だった。
正午にすべての出入口が閉鎖され、兵隊は銃の用意をした。三時が鳴ると城砦の扉が開いて、ひとりひとり司祭に付き添われて囚人たちが出て来た。
独房から引き出されたシャンルイノーは、例の手紙が果たして役に立ったのかどうか結果がわからぬまま、不安気に死刑囚の数をかぞえた。その目つきがあまりにも苦悶に満ちていたので、付添いの司祭が耳もとでささやいた。
「いったい誰をさがしているのかね?」
「デスコルヴァル男爵を……」
「彼なら昨夜逃亡したよ」
「ああ! これで思い残すことなく死ねます」
かくしてシャンルイノーは、マリー・アンヌの名を呼びながら刑場の露と消えたのだった。
クルトミュー侯爵とセルムーズ公爵から発せられた捜査命令は、厳しく実行に移された。
そのくせ二人は、デスコルヴァル男爵とバボアが生きたまま捕ったときのことを想像すると、戦慄を覚えずにはいられなかった。
幸いなことに、いくら虱潰《しらみつぶ》しの捜索をしても、一向に二人の行方はわからなかった。しかし全然収穫がなかったわけではない。一人だけだが目撃者がいて、脱獄のあった朝、男と女を混えた十人ほどのグループに出会ったというのである。この一団は何か死体のようなものを運んでいたらしい。マルチアルはそれとは別に、捜査の過程で浮び出たもう一つの手がかりをつかんでいた。逃亡の当夜勤務についていた兵隊の一人が、こんなことを申し立てたのだ。
「ラシュヌールを収容した後、二時半ごろでしたか、わたしのもとに士官が一人やってきました。彼は廊下を通って、デスコルヴァル氏が閉じ込められている房の隣の独房に入り、五分ぐらいして出て来ました」
「お前の知っている士官だったか?」
「さあ、外套の襟を目深かに立てていましたので」
何者だったのだろうか? ロープを置いておいた房に、その士官は何の用があったのだろうか?……この出来事の奥に、マルチアルは、何か自分の好奇心をくすぐる秘密の臭いをかいだ。
「どうも、思いもよらぬことだな」と、彼はにがにがしく思った。「デスコルヴァル氏にしても、無事にいるならいるで、何とか知らせてよこしてもいいはずだ。あれほど人に危い橋を渡らせたのだから、それぐらいのことをしてくれても罰は当るまいに」
彼はシュパンの遣り口をあてにすることにした。内心ではこの男をはなはだしく嫌っていたのだが、背に腹はかえられぬ。
ところでそのシュパンだが、ラシュヌールの血と引換えに手に入れた賞金をふところにすると、セルムーズ家を飛び出してしまっていた。場末の安宿の二階に引きこもり、日がな一日ひとりでいた。夜は戸を固くとざして酒を呑んだ。しかし、セルムーズ屋敷へすぐ来るようにとの命令がやって来ると、さすがに否応は言っていられなかった。
「デスコルヴァル男爵がどうなったか知りたい」マルチアルはいきなり切り出した。「十分払うつもりだよ……」
金のことを言われてシュパンは顔色を変えた。
「あたしを金で釣ろうってんでしたら、宿にじっとしていたほうがましだった」
そしてますます高ぶってくる口調で続けた。
「ラシュヌールを捕えることは王室に尽すことだし、世間のためになることだって話じゃなかったんですか? あたしゃやつをしょっ引きましたよ。そしたらどうです。世間のやつら、まるであたしがもっと大それた大罪を仕出かしたようにぬかしゃあがる。そりゃね、いかにも前は密猟や畑泥棒を|なりわい《ヽヽヽヽ》にしてましたよ。それでも村八分みたいなこともされなかったし、あたしと喜んで一杯つきあおうって連中もいたんでさ。ところが今じゃ、たまたま二万フランを手にすることができてからというもの、どいつもこいつも厄病神みたいに、鼻もひっかけちゃくれねえ。あたしのやったことは、本当にそれほど恥知らずなことだったんですかい? それならなぜ、公爵さまじきじきあたしにお申し付けになったんです? 世間さまに顔向けできねえのはあたしじゃなくて、公爵さまのはずじゃありませんかね?」
「シュパン。ぼくは別に、デスコルヴァル氏を告発する目的で捜してくれと言っているのではない。その反対さ。サン・パヴァンからサン・ジャン・ド・ラ・コシュあたりで、彼の消息を聞き出してくれるだけでいいのだ」
最後の土地の名を耳にしてシュパンは青ざめた。
「あなたさまは、このあたしを殺させようというんですかい?」バルスタンのことを思いうかべてシュパンは声を大きくした。「今は、まだ死にたくはありませんや」
動転してシュパンは逃げ出した。マルチアルはあっけにとられている。
「どうやらあいつ、自分のしたことを悔み出しているらしいな。哀れなやつだ」
しかし、後悔しているのはシュパン一人ではなかった。すでにクルトミュー氏とセルムーズ公爵の間には非難応酬があって、反乱について自分たちがでっち上げた初めのころの大げさな報告や、嘘でかためた裁判のことまで、互いにその責めをなすりつけあっているのだ。ひとたび野心にふくらんだ陶酔が醒めた今、自分たちのおぞましい策略のもたらすであろう結果を想像し、震え上がっていた。もどってくるツケをめぐって、ののしりあいは続く。あまりに多くの血が流れたことも、世間から非難の声が上がっていることも、お互いに相手のせいにしあっていた。
しかし、事件の主謀者はまだ裁判を受けてはいない。シャンルイノーが幽閉されていた隣の房に、ラシュヌールが閉じ込められていて、生ける屍のような無気力状態に陥っていた。魂も肉体もすっかり痛手を負っていた。ただ一度だけ、まっ青な顔に血の色がよみがえったことがある。朝、セルムーズ公爵が訊問のため房にやって来たときのことだ。
「このような運命に陥れたのはあなただ。神がお裁きになるだろう!……」
ラシュヌールは子供たちまで犠牲にして、復讐を果たそうとしたのだった。だから死を目前にした彼には、その子供たちを胸に抱きしめて別れを告げるという、せめてもの慰めさえも残ってはいない。牢番の情けで、ジャンの噂が何もないこと、マリー・アンヌがデスコルヴァル一家と共に外国にいると思われていることだけを、知ることができた。
臨時即決裁判にのぞんでラシュヌールは、弁論の続く間、平静で誇り高い態度を崩さなかった。すべての責任を一身にかぶり、同志の名は一言も洩らさなかった。モンテニアックの市場の縁日に処刑されることになった。その日は雨だったが、ラシュヌールは刑場まで歩いて行くことを望んだ。断頭台に着くと、しっかりした足取りで段をのぼった。数瞬ののち、三月四日事件の二十一人目の処刑者として生命を断たれた。
同じ日の夜、退役士官たちがあちこちでこんな噂を触れまわっていた。セルムーズ公爵とクルトミュー侯爵は、いまわしい事件を忘れるためにすばらしい祝いごとを催すことにしたというのだ。つまり、その週の終りに両家の子息と令嬢の婚礼が挙行されることに決まったのである。
式は四月十七日、セルムーズ城館で行われることに決定していた。ミドン司祭の後釜におさまった新しい司祭によって、小さなセルムーズ村の教会で、この結婚は祝福を受けた。説教のしめくくりに、司祭は若夫婦に向って言った。
「ご両人とも、幸せにならなければいけませんぞ!」
それを信じないものがいたろうか? この二人ほど、地位と財産と、幸福にならねばすまぬありとあらゆる条件に恵まれた者はこの世にいないのだ。しかし、歓びに眼を輝かせる新侯爵夫人に対して、新郎のほうはどことなく屈託あり気だった。
まさにこの瞬間、今までのいつにも増して、マリー・アンヌの想い出が彼の心にまざまざと蘇《よみがえ》っていたのである。彼女は一体どこでどうしているのだろう?
それでも晩餐のころになると、侯爵は心の奥の女の面影を忘れることができた。食事を終って一同テーブルから立ち上がるときには、不吉な予感さえもほとんど消えていた。一人の召使が、仔細あり気な様子で近づいて来た。
「侯爵さま。お客さまが階下《した》でお待ちでございます」と小声でささやいた。
「誰だ?」
「若い百姓ですが、名を名乗りたがりません」
「今日はめでたい婚礼の日だ。どんな人にも会わなければならないだろうね」
笑って陽気に降りて行った。若い男が玄関に立っている。顔色が悪い。相手に気がつくとマルチアルは、驚きの声をおさえることができなかった。
「ジャン・ラシュヌール……なんて無謀なことを!」
若者は近づいた。
「君はぼくを厄介払いできたつもりでいたかも知れないが」と彼は辛辣《しんらつ》な調子で言った。「あいにくこうして遠くからもどって来た。捕えようと思えばそうできるんだぜ」
侮辱されマルチアルは顔を真っ赤にした。
「ぼくに何の用だ?」と冷たく訊ねる。
ジャンは上着のポケットから封筒をとり出した。
「モーリス・デスコルヴァルからだ」
マルチアルは封を切った。一読して青ざめ絶句するばかりだった。
「何という不名誉!」
「モーリスにどう返事をすればいいかね?」とジャンが迫った。
「来てくれ。とにかくついて来たまえ。そして、自分の目でとっくり見てくれ」
再びマルチアルがサロンに姿を現わしたとき、顔がこわばっていた。開いたままの手紙を手に持ち、残る手は若い百姓を引っつかんでいる。
「父上はどこだ?」と、おそろしく調子の変った声で言った。「クルトミュー侯爵はどこにいる?」
通廊のはずれの小部屋で、公爵と侯爵はブランシュ嬢と一緒だった。マルチアルが駆けて行くと、あとから招待客がぞろぞろ尾いてくる。暖炉の傍に立つクルトミュー侯爵のところに、マルチアルはつかつかと歩み寄って、モーリスの手紙をつきつけた。
「お読みなさい!」彼はせき込んで言った。
「わたしには何のことかわからない。いや、わしは知らん……」
セルムーズ公爵とブランシュ嬢がやって来た。
「どうしたのです?」と、二人が同時に訊いた。「何が起ったのだ?」
マルチアルは侯爵から手紙を引ったくり、父親に向って言った。
「読み上げますから聞いていてください」
その場に三百人ほどの人間が居あわせている。しかし静まりかえって、しわぶき一つ聞えないので、マルチアルの声は通廊の一番はしにいる者にまでよくとおった。
[#ここから1字下げ]
セルムーズ侯爵殿。
貴下の死命を制する文書と引換えに、わが父、デスコルヴァル男爵の生命をお救いくださると、名誉にかけて約束なさいました。
貴下はお約束どおり、脱獄を可能にするロープを引渡されました。しかしながらこのロープは前もって切られており、ためにわが父は城砦の岩の高みから落ちたのであります。
貴下は消し難い恥辱によってご自身の御名を汚されました。わたしの身体に一滴の血がとどまる限り、わたしは貴下の卑劣極まりない裏切りに対する復讐を誓うものです。わたしを殺すに至らぬ限り、貴下は自ら招いた汚名を忘れることはできないでしょう。潔くわたしと干戈《かんか》を交えることを了とせられたい。明日、レエシュの荒地にて貴下をお待ちします。時刻をご指定ください。それから武器についても。
もし貴下にして恥を知らざる卑劣漢であれば、憲兵を差し向けてわたしを捕縛するも可能であります。
モーリス・デスコルヴァル
[#ここで字下げ終わり]
セルムーズ公爵は頭を抱えていた。逃亡のいきさつが明るみに出てしまった。おかげで公爵の政治生命は一巻の終りも同然だった。
「なんと、この不孝者め! お前のために、わしらは破滅だ」
「あなたはどうなのです?」マルチアルはクルトミュー侯爵にただした。
「わしには相変らず、わけがわからぬ」
マルチアルはおそろしい剣幕で義父にせまった。
「わたしにはわかりますよ! 今こそはっきりしました。ロープを置いた部屋に入り込んだ士官が誰だったか、それから、彼がそこで何をしていたかもね!」
マルチアルはクルトミュー侯爵の顔に手紙をたたきつけながら、激しい口調で言った。
「これが小細工の報いだ。卑劣漢!」
そこまで言われて、侯爵はへたへた崩折れてしまった。マルチアルはジャン・ラシュヌールをともなってそこを飛び出した。そのとき彼の新妻が立ちふさがってさけんだ。
「いけません。どこへいらっしゃるの? きっとこの若者の妹のところでしょう。またあの情婦に会いに行こうとなさっている……」
「何ということを! お前は好んで最も気高いひとを貶《おとし》めているのだぞ。いかにもそのとおりさ! ぼくはマリー・アンヌに会いに行くんだ。それじゃ……」
彼は立ち去った。
逃げるに際して、デスコルヴァルとバボア伍長が足をかけなければならない壁の出っ張りは狭かった。そこで、一か八か男爵を降ろそうとする前に、バボアは可能なかぎりの注意を集中して、彼が支えるべき体重に引っぱられないようにした。壁の隙間にかなてこを打ち込み、それを足場にして出っ張りに腰かけ、上半身を思い切り反らせると、バボアは自分の身体の位置を確かめ、男爵に声をかけた。
「こうやって支えていますから、すべり降りてください」
突然ロープが切れ、男爵が落ちた。勇敢な伍長は塔の外壁に跳びついた。冷静をとりもどし、じっと考えた。男爵が殺されたことにまちがいはない。ただどうにも合点がいかなかったのは、ロープが自分のすぐ手もとのところで切れてしまったことだった。
一寸先もわからぬ真の闇なので、ロープの切れ口がどんな具合なのか見きわめることはできなかった。そこでバボアは、ロープを手探りでたぐり寄せると、切り口は刃物で切ったような手触りだった。繊維の筋や切れ端が指にまといつくこともなかった。要するに、あまりにもみごとにすっぱりと切れていたのだ。
「悪党どもがロープを切ったのにちがいない。だからこそ男爵はあんな変な音をたてたのだ。それなのにおれは、こうやって押さえているから降りてください、などと言っちまった。まったく何て大馬鹿野郎だ」
ロープの端をかなてこに巻きつけ、力いっぱい、ぐいぐいと引き上げてみた。ロープは三個所で切れているのがわかった。その一部は男爵と一緒に下に落ちてしまっている。残った部分をつなぎ合わせたところで、地上に降りるには足りなかった。
さすがのバボア伍長も、自分の立場がいかに絶望的であるかを思い知らされた。だがふいにある考えが浮んだ。
(まてまて伍長さんよ、よく聞きな……)彼は自分に言いきかせた。(五本に切られたこのロープを繋《つな》ぎあわせ、それにベルトをつぎ足せば、何とか独房に這い上がって行けるぜ。上に着いたら、窓の格子にくくったロープをほどいてこれに繋ぐんだ。そうすれば、いくらよじれてるといっても、たっぷり八十フィートの長さにはなる。それからそいつをただ長過ぎるままにしとかないで、無傷で残しておいた鉄格子に引っかけて垂らせば、二重になってより丈夫になろうってものじゃないか。そいつを伝ってここまで降りたら、ぐいっとそいつを引っぱれば、手もとへもどってこようって寸法だ)
二十分後、伍長は狭い壁の出っ張りまでもどっていた。もっともその二十分間に、前もって算段したとおりの困難きわまる、そして大胆な冒険を実際にやってのけたのである。
彼は地上を見おろした。ずっと下のほうで、小さな火が行ったり来たりしている。男爵の仲間たちは、明りをつけて城砦の窓から見とがめられ、自分たちの存在が知られてしまうのも構ってはおれないらしい。してみると、よくよく何か重大事が突発したのだろう。
伍長は狭い出っ張りの上に腹ばいになって、その淵のほうへと後ろ向きにゆっくり這いはじめた。ロープをつかんだ両手と膝にありったけの力を込めて、すべり落ちぬよう身体を支えた。
手と膝をひどくすりむいたが、あっという間に無事に地上に着いた。しかし塊りが落ちるような勢いで、どすんと地面にたたきつけられたので、思わず、しゃがれた声でうめかずにはいられなかった。しばらくは動けなかった。起き上がるとき、二人の男が袖口をとって支えてくれた。例の退役士官たちだ。
「あ、そっと願いますよ……。わたしです、バボアですよ」
「一体どうしたわけだ」中の一人が非難がましく訊ねた。「男爵は転がり落ちて来たというのに、君はかすり傷ひとつ負わずに降りられたじゃないか」
伍長にはこの詰問の意味するところがわかった。
「ちくしょう! わしが裏切り者扱いされるとは! そいつはあんまりというものだ。まあ、聞いてください」
すぐに伍長は逃亡の顛末《てんまつ》を語った。士官たちは話を信じたらしく、手を固くにぎり、これほどの人物の心を傷つけたことを恥じている様子だった。
「男爵の呼吸《いき》はまだある」と一人が言った。
それは奇蹟のような話で、バボアはあっけにとられているように見えた。
「あそこにいる司祭さんは、勇敢なばかりか、医者としても大したものらしい。デスコルヴァル氏の傷を診ておられる。敵の注意を惹きかねぬ危険を冒して灯りをつけているのも、あの人の指示があったからだ。だがいつまでもここでぐずぐずしちゃおれん」
バボアはそっちへ歩いて行った。マリー・アンヌが提げ持つ明りで、あお向けに地面に横たわっている男爵が見えた。頭はデスコルヴァル夫人の膝にのっている。
顔は傷ついていなかったが、死人のように青ざめ、眼を閉じていた。時々ピクッと痙攣《けいれん》し、ぜいぜい喘《あえ》いだ。満身創痍といってよかった。ミドン司祭は負傷者の傍にひざまずき、血を止め、居合せた男たちのシャツを切り裂いて作った繃帯で、傷口をしばっているところだった。
司祭は、この場で出来るだけの応急手当をすべて終えると、デスコルヴァル夫人の膝の上の頭をちょっと持ち上げた。
「急いで父を、この場から運び去らねばならないと思います」と、モーリスが言った。「少なくとも朝になるまでに、ピエモンテまで行かなければなりません」
「国境を越えて向う側へ移そうとすれば、デスコルヴァル氏を殺すことになる」司祭が答えた。
「ではどうすればいいのですか?」
「一時間半あればクロア・ダルシーの向うに着ける。わしがかねて存じよりのポアニョという百姓がいてな、人柄はわしが保証できる。ラシュヌール氏の作男をやっていた男だ。三人の息子と広大な農地を耕しているのだがね。とりあえず担架を手に入れて、その男の家へ運ぶことにしよう」
「モンテニアックの憲兵隊が、われわれを追跡するに決っていますよ」
「むろん、計算ずみだ」
「男爵が再び逮捕されたら……」
「いやいや大丈夫。ひとまず男爵をポアニョのところに預けたら、誰か代わりの者が担架にのって運ばれ続ける。男爵の一行が、いかにもピエモンテへ急いでいるように見せかけるのだ。国境に着いたら、わざわざヘマをしでかしたような間の抜けた隠れ方をする。追っ手が完全に足取りを見失うことのない程度の手がかりを残しながら、逃げ回るようにするのだ」
誰もがその、一見単純な司祭の案を了承した。問題といえば、クルトミュー侯爵とセルムーズ公爵が差し向けた追手の目をくらますために、囮《おとり》の足跡をどう残すかということだった。
まず差当っては担架を入手することだ。退役士官たちは、どこか付近の農家を叩き起すほかはあるまいと相談をまとめた。そのときバボア伍長が皆を制した。
「ちょっと待ってくださいよ。この近くに知り合いの旅籠《はたご》のおやじがいましてね、何とかしてまいりますから」
五分もたたないうちに、彼は担架を手に入れてもどって来た。薄い蒲団と毛布がのせてある。けが人を抱えて蒲団に横にさせるのも、易しいことではなかった。最大限の注意を払ったにもかかわらず、男爵は痛々しい声で二、三度痛みをうったえた。すっかり用意ができると士官たちが担架をかつぎ、歩き出した。
夜が明けてきた。田舎は眼を覚まし、辺りは活気づいてきた。司祭は行き交う村人たちを避けようとしなかった。だが三時間ほど歩いて、ポアニョの百姓家が見えるところまで来ると、さすがに司祭も用心深くなった。くだんの農家から銃を射てば届きそうなところに、小さな森がある。司祭は一行をその森に入らせ、くれぐれも警戒を怠らぬよう言いふくめ、前もって相手に話をつけるからと走って行った。庭に入ると白髪頭の小男が馬小屋から出て来た。ポアニョおやじだった。
「やあ、司祭さまではございませんか!」彼はうれしそうにさけんだ。「女房がよろこびますよ! 実は司祭さまのご親切におすがりせにゃならんことがあって、困り果てておりましたでな」
そしてポアニョは、言うところの『困り果てた』事情なるものを訴えた。その話によると、あの蜂起のあった夜、ポアニョ夫婦はサーベルで切り傷を負った気の毒な逃亡者をかくまったものの、妻君もポアニョ自身も、そんな深傷《ふかで》をどう手当てしてよいかわからず、さりとて医者を呼びに行くわけにもいかないし、という次第だった。
「その方ってのはジャン・ラシュヌールさま、昔のわしのご主人の息子さんですよ」ポアニョは付け加えて言った。
司祭はおそろしい不安に胸をしめつけられた。もうすでに、おたずね者に転がり込まれているというのに、さらにもう一人同じような人間を、おいそれとかくまってくれるだろうか? だが司祭の説明に、この百姓は首を大きくたてに振ったのだった。
「さあ、デスコルヴァルさんをお迎えに行きましょう。ここにゃ女房と息子三人いるだけで、誰も下手に口を滑らせたりしませんよ」
三十分後、男爵は小さな納屋に寝ていた。そこにはすでにジャン・ラシュヌールがかくまわれている。ミドン司祭とデスコルヴァル夫人は、当局のスパイどもの目をくらますべく、囮の一行がそそくさと遠ざかっていくのを、窓辺に見送った。バボア伍長が男爵の身代わりに担架の上に横たわっている。
憲兵隊は何も見つけることができなかった。逃亡の詳細について無知だったのだ。彼らは、担架に負傷者をのせた六人の一行が、すでに十二キロ以上もの道のりを白昼堂々と旅を続けていたにもかかわらず、詳しい事情は知るべくもなかった。二千人の百姓は残らず、運ばれているのはデスコルヴァル男爵だと思い込んでいた。彼らの中から密告者など一人も出なかったし、うかつに口を滑らせる者もなかった。
だが逃亡者の一行は、国境に近づいて行くにつれて用心深くなった。宿を求めるにしても、夜になってからにした。その旅籠も真夜中に出発した。陽が上るころにはピエモンテの土地に足を踏み入れていた。担架はそこで粉々にし、蒲団の綿も風が運ぶままにまかせた。
「われわれの役目は終ったようです」士官たちがモーリスに言った。「われわれはフランスへもどります、ご無事で……」
モーリスは今や、マリー・アンヌのただ一人の保護者だった。――いや、もう一人傍にバボア伍長がひかえていたが。
「君はどうする?」
「ご一緒します。ここまで来たら、死なば諸共《もちとも》ですよ。これはお父上に誓ったことでしてね!」
マリー・アンヌは自分でも男まさりの勇気が身につきはじめたと思う。こうした逆境の日々にあって、その力と冷静さは周囲の者を感嘆させずにはいなかった。しかし人間には限界というものがある。マリー・アンヌは再び歩み始めようとしたとたん、精も根も尽き果てた感に襲われた。そんな彼女を、モーリスと老伍長は両脇から支えるというより、運ぶが如く進まねばならなかった。やがてとある村の手前で彼らは足をとめた。
バボアが姿を消してすぐにもどってきた。百姓の格好になっていた。彼のやせた顔は、ばかでかい帽子にかくされている。三人がたどり着いたのは、国境を越えて最初の、サリアントという村だった。四軒目に『旅人の憩い』という名の小さな宿があった。女主人にそう言って、マリー・アンヌを部屋に案内させた。
モーリスとバボアは食事を頼んだ。食い物は出ては来たが、宿の者たちは露骨にうさん臭い眼で見た。主人が落着かないそぶりで周りをうろうろしていたが、とうとう二人の名を訊ねた。
「デュボアです」とモーリスが答える。「二階にいる妻と旅行中でね。あ、ここにいるのはうちの小作人ですよ。実は牡ラバを買付けにやって来たってわけです」
話をしながらモーリスは自分の腰のあたりをぱたぱたやった。
金貨の音を聞くと、この太っちょは毛糸の帽子《ボネ》を脱いだ。牡ラバの養牧は、この辺りでは大したかせぎになっていたのだ。見たところ、この商人はどうやらポケットに、金貨をぎっしり詰め込んでいるらしい……。彼にはそれだけで十分だった。モーリスは、こんな時ならぬ朝のうちに歩いてやって来たことも、新妻の病気のせいなのだと、まことしやかに言いつくろった。そして心のうちでは、自分の巧みな芝居にひとりで悦に入っていた。しかしバボア伍長は、モーリスほどには安心していなかった。
「ここは国境に近すぎますよ。あのお嬢さんが歩けるようになったら、すぐ発たなければならないでしょう」と、傍から水をさした。バボアの計算では(モーリスも内心そう期待していたのだが)、せいぜい二十四時間の絶対安静を守れば、マリー・アンヌの体力は回復するはずだった。ところが二人の目算はみごとにはずれた。結局マリー・アンヌが昏睡状態から覚めるまで三日もかかった。
父と教会から出しなに、あのセルムーズ公爵の帰還を知らされた八月の日曜日以来、何と多くの出来事があったことだろう。しかもそれらのすべてが、たった八か月の間に起ったのだ……。
かつて幸福だったころの日々と、安宿の見るも哀れな一部屋に横になっている今現在との間には何という違いがあることだろう。それも、今や脱走兵となってしまった老兵士と、官憲に追われる身の恋人だけに守られて……。恋人? そうだ、わたしの傍らには恋人がいるのだ!
そうした乙女らしい甘美な陶酔に、ともすれば我を忘れそうになりながらも、マリー・アンヌは自分がモラルからはずれてしまった女であるかのような自責の念にさいなまれた。しかし、それは彼女ひとりのせいだろうか? モーリスとマルチアルとシャンルイノーと――あの三人の男たちにとって、自分の存在は一体何だろう? 一体誰が悪いのだろう?……シャンルイノーの名が心に浮ぶと、マリー・アンヌの前に、あの雷の閃光としか思えぬような、最後の面会の時の光景がよみがえる。
シャンルイノー……あのひとは断頭台の露と消えてしまったのだけれど、わたしに一通の手紙を渡して、こう言ったのだ。
「わたしがもうこの世の者でなくなったときに読んで下さい……」
マリー・アンヌは手紙をとり上げ、封を開き、ゆっくり二度読み返し、それからその場に泣き崩れてしまった。案じてモーリスがやって来た。
「一体どうしたの?」と、彼は気づかわし気にたずねた。
彼女は手紙を渡し、
「読んでごらんなさいな」と言った。
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マリー・アンヌ
陰謀はいよいよ実行に移されようとしています。わたしは死ぬでしょう。あなたが、もはやモーリス・デスコルヴァルと結ばれる他はないと知った日から、わたしはすでに死を覚悟していたのです。しかし陰謀は失敗に終るでしょうし、父上とて、おめおめ生きのびるお積もりはないでしょう。それに加え、モーリスと兄上のジャンに万一のことがあれば、あなたはどうなるのでしょうか?
わたしは、そのことだけで頭がいっぱいなのです。考えたすえに、わたしはここに、遺言代わりに書き残しておくことにしました。わたしの所有する財産の一切をあなたに贈ります。――庭と葡萄畑つきのボルドリーの屋敷、ベラァルドにある雑木林と牧場、それにヴァロリエにも土地が五つあります。
以上、これらの財産の詳細とその他こまごましたことについては、セルムーズの公証人に委ねてあるわたしの遺言書をごらんになれば、おわかりでしょう。
最悪の事態が起っても、この土地から離れることのないように、くれぐれも忠告しますよ。ボルドリーの家は、わたしが階下を三部屋に区画されるよう改造して以来、いつでも入居できるようになっています。一番手前の部屋は、モンテニアックの室内装飾屋に模様がえさせておきました。あなたに使っていただけるようにとの心づもりからです。以前、いつの日かあなたの部屋になることを夢見ながら、何もかも最上の調度でととのえるようにさせておいたものです。それから寝室の暖炉の敷石を持ち上げると、ナポレオン金貨が三百二十七枚と百四十エキュの金を隠してあります。
これらの贈与を受けてくださらなかったら、死してのちも、あなたはわたしを絶望的な思いにさせるのだということになりますよ。ご自分のために受けとるのがいやだとお思いなら、せめてわたしの……。いやこれ以上申上げなくとも、わかっていただけると信じます。
モーリスが死なずにすんだら、そして、わたしが彼の身を守り、庇《かば》いおおせることができたら、彼と結婚なさい。そうなれば、モーリスもおそらく、この贈与を受けることに異存はないと思います。彼が否みしりぞけることのありませんように。誰も死んだ者に|やきもち《ヽヽヽヽ》を焼く人間はいないのですから! あなたをこんなに愛したある哀れな百姓が、あなたの眼には何者でもなかったことを、彼はよく知っているはずですね。
では……さようなら、マリー・アンヌ。
シャンルイノー
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モーリスもまた、崇高な情熱が行間にあふれるこの手紙を、二度くり返して読んだ。
「どうやら断るわけには行かないようだね。それじゃかえってすまない気がする」とモーリスは言った。
マリー・アンヌの病気は回復が遅れた。寝たきりで起きあがれなかった。モーリスはサリアントから立ち去ることも考えられず、足もとから火であぶられる思いだった。バボア伍長は、この付近に『もとナポレオン軍の軍医』が見つかるなら、その人に診てもらうのが一番だと主張した。
うまい具合に近くに医者はいた。経験豊かな男で、かつてユージュヌ皇子の宮廷につかえていたこともある。モーリスはこの男に往診を求めることにした。
ある朝、この医者がやって来た。病人の部屋に入る前に、モーリスと長いこと話をした。それから十五分ほどマリー・アンヌと一緒にいて、出てくるとモーリスを小脇に引っぱって行った。
「あのお若い方は妊娠しておりますな」
実は、モーリスが出発をためらっていたのも、内々もしやそうではないかと憶測していたからだった。彼が返答できないでいると、医者は付け加えた。
「あのご婦人は、あなたの奥さんなのでしょうな。デュボアさん……」
医者は、デュボアという名に不自然なほどの力を込めた。その視線には、こちらをたじろがせずにはおかぬ色が浮んでいる。モーリスは顔を赤くした。そして素っ気なく答えた。
「そのようなご質問に対して、釈明しなければならぬいわれはないと思いますが」
医者は軽く肩をすくめて言った。
「そういうおつもりなら、あえてお訊ねしようとは思いませんよ。ただ、あなたはご主人にしては大層お若くお見うけするし、第一、馬の仲買人にしてはいやに上品な手をしておいでだ。おまけにあの若いご婦人に、ご主人のことをお話したら、まっかにおなりだった。それから、あなたのお連れにしても、農夫にしてはこれまた随分ご立派な口ひげを生やしたものだ。おまけにあなたの口から、国境の向う側モンテニアックで、何かいざこざがあったと聞かされたばかりですからな」
モーリスは青ざめた。目の前の医者に、痛い尾っぽをつかまれてしまったことを思い知った。あくまでシラを切るべきか? それが何の役に立つ? 彼はふと、捨て身になることこそ、しばしば最大の防禦手段だということを思い出し、上ずった声で言った。
「ご推察のとおりです。連れもわたしも追われている人間なんです」
モーリスは、サリアントへ逃げて来ざるを得なかったおそろしい事件の顛末《てんまつ》を語り、自分たちの胸の痛むような恋のいきさつも隠さなかった。自分の名もマリー・アンヌの名も包まず話した。
「何かありそうだとは思っていましたがね、合点がゆきましたよ」と医者が言った。
「二日もすれば、あのご婦人は歩けるようになります。そうしたらここをお発ちなさい。ヴィガノで、よろしいかな、正式に結婚なさい」
すべてはこの老医師が約束してくれたとおりに運んだ。ヴィガノの司祭がモーリス・デスコルヴァルとマリー・アンヌ・ラシュヌールの祝言を祝福し、医者とバボア伍長が証人として署名した証明書を交付してくれた。
同じ日の夜、ラバはサリアントに送り返され、逃亡者たちは再び旅路についた。ミドン司祭は、モーリスの一行との別れしなに、できるだけ早くテュランへ行くようにとすすめた。そんなわけでモーリス、マリー・アンヌ、バボア伍長の三人はテュランに向ったのである。
四月のある美しい朝、一行は、とある大きな町の鳥羽口にある旅籠に立ち寄って食事をとった。モーリスがテーブルを離れて女将に金を払っているとうしろで叫び声が起り、彼を呼びもどした。マリー・アンヌが新聞をひろげ、かすれた声で言ったのだ。
「モーリス、ほら、ここを見て!」
二週間前のフランスの新聞だった。テーブルにのっていたものだ。モーリスは読んだ。
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『モンテニアック騒乱の主謀者ラシュヌールは、昨日処刑された。世間をさわがせたこの男は、これまで何度となく示して来たその大胆不敵さを、断頭台で果てる瞬間まで失わなかった。』
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「父は処刑されたわ!」マリー・アンヌは悲痛な声でつぶやいた。「娘のこのわたしが、父の最期を見届けなかったなんて……。ああ、フランスに帰りたい」
モーリスは震えた! デスコルヴァル男爵が大けがをしたと同じ時間に、ラシュヌールも命を断たれたらしいのだ。
「そうだ、出発しよう。もどろう……」
マリー・アンヌは妊娠のことを打明けてしまいやしないだろうか? マリー・アンヌがフランスへ帰れば、男の誘惑にのったふしだらな娘として蔑《さげす》まれるかも知れぬ事態に思い至り、モーリスはぞっとした。そして、彼女に身もとをいつわって身を隠すようにとかきくどいた。
「ぼくたちの結婚証明書が、意地の悪い中傷を封じる保証にはならないと思う。結婚や妊娠のことは誰にも言わないほうがいいね。それに、フランスに帰っても、せいぜい数日だけのことにしなければならないよ」
「おっしゃるとおりにします」マリー・アンヌは同意した。「誰にも、何も話さずにいましょう」
その翌日、即ち四月十七日、一行はポアニョおやじの百姓家に着いた。モーリスとバボア伍長は百姓に変装していた。伍長は口ひげをおとしていた。
ミドン司祭は、デスコルヴァル氏がポアニョ家にかくまわれるのを見届け、追手をごまかす囮の一行が遠ざかるのを見送ると、ほっと安堵の吐息をもらした。男爵の容態は長かった道中にも何とか持ちこたえた。このめちゃくちゃに傷ついた哀れな肉体の中にも、厳として生命への意欲が息づいているのは疑うべくもなかった。この負傷者が必要とする手術用器具と薬品とを、いかにして手に入れるか、それがこれからの最大の問題だった。
司祭は、巡回の折に持ち歩いていた医療具一式の入った袋と、薬品箱のことを思い出した。
暗くなると野良着をまとい、つばの広い帽子を目深かにかぶり、セルムーズに向って歩き出した。そして小さな庭の木戸から忍び込んで我家に入った。誰にも見とがめられずに目的の品物を手に入れることができた。
その夜のうちに、司祭は思い切った荒療治を試みた。やらずにはすませられぬ手術だった。これほど難しい手術は初めてだったにもかかわらず、心は震えても手もとは確かだった。
それから三日目、比較的安らかな夜が過ぎて、負傷者は意識をとりもどしたようだった。最初の一瞥《いちべつ》は妻に向けられ、最初の言葉は息子についてだった。
「モーリスは?……」
「無事ですよ!」ミドン司祭が答えた。「きっとテュランのあたりにいるはずです」
デスコルヴァル氏の唇が細かく震えた。弱々しい声で言った。
「あなたは、われわれすべてにとって命の恩人です。どうやらわたしも、あの世へ行かずにすみそうだ」
実際、誰もがそう思った。その週の終りにジャン・ラシュヌールが姿を見せた。
こうして四十日が過ぎた。四月十七日の夜、ミドン司祭が男爵に新聞を読んで聞かせていた。納屋の戸口がゆっくり開き、ポアニョの息子の一人が姿を見せ、すぐに消えた。普段に変らぬ様子で司祭は外に出た。
「どうしたかね?」司祭は若者に訊ねた。
「ええ、実は司祭さま。たったいまモーリスさま、ラシュヌールのお嬢さま、それから齢とった兵隊が一人、ここに着いたところなのです。お目にかかりたいと申されて……」
ミドン司祭はあわてて階段を駆け降りた。
「何のつもりなんだ! なぜのこのこもどって来たのかね!」とモーリスに言った。「きみのために、父上はあやうく死ぬところだったのだよ。それなのにまたもや姿を現わすとは……密告屋どもに見とがめられて、後を尾けられたらどうする気だ? すぐ発ちたまえ!」
哀れな青年は狼狽し、口ごもった。彼としては、ただ父親に一目会いたい、母親の無事を確かめたいの一心だったのだ。
「きみが姿を見せれば、気持が高ぶって父上を殺してしまうことだって、ないことではない。母上だってきみと会えば、きみたち二人とも嬉しさを隠し切れず、あげくは母上の身まで危険にさらすことになるだろう。さあ、引返してくれ……今夜のうちに国境を越えてくれたまえ」
ジャン・ラシュヌールがその場の様子をじっと見守っていた。
「ぼくもこの土地から離れることにしますよ、司祭さん。しかし妹だけはお許しいただけませんか。マリー・アンヌの居場所はここしかありません。あれを、さすらいの身に追いやることはできません」
「よろしい」と、司祭が言った。「お尋ね者のリストの中に、きみの名は見えない。官憲に追い回されることもないだろう」
こうして妻と別れ別れになることになった。モーリスは彼女とこまごました話をしておきたいと思ったが、司祭はそれも許さなかった。
「早く行きたまえ!」司祭はマリー・アンヌの手をとり、引きもどしながら、モーリスに言った。「無事でな……」
だが司祭はあまりに性急でありすぎた。そのためモーリスは、司祭を相談相手として賢明な助言をしてもらう代わりに、狂おしい復讐心にたけり立ったジャン・ラシュヌールのもくろみに、まんまと乗せられることになったのである。
外に出るやいなや、ジャンは声を大きくした。
「いいですか! すべてはセルムーズとクルトミュー侯爵の一族がやったことなんです。ぼくは、連中が父の遺体をどこへ始末したのかさえ知らないし、きみはきみで、やつらの卑劣な遣り口で陥れられた父上と対面することさえ出来ない身だ。ところが連中のほうは、事もあろうにこの同じ夜、マルチアルとブランシュ嬢の結婚式で、お祭騒ぎをやっているのですよ。ぼくらは当てもなくうろつき回るばかり、向うじゃやつら大笑いの最中なのさ……」
「ぼくは、マルチアルに決闘を申入れてやるよ、今すぐに」
「それはやめたほうがいい。卑怯なやつらのことだ、たちまち捕ってしまいますよ。手紙をお書きなさい。ぼくが届ける」
二人は行き当りばったりにとある居酒屋に入り、モーリスは言われたとおり果し状を書いてジャン・ラシュヌールに渡した。
結婚式のその日、セルムーズ城館のお祭騒ぎを混乱させ、マルチアルとブランシュ嬢の結びつきに何やら不吉な影を投げかけること――それこそがジャン・ラシュヌールの意図するところだった。マルチアルの好意的な対応ぶりは、ちょっとばかりジャンをたじろがせた。しかしモーリスの侮辱的な挑戦状を読んだマルチアルの反応を見ると、すぐ普段の自分をとりもどした。
「やっこさん、痛いところを突かれたな」とジャンは内心ほくそ笑んだ。
マルチアルはジャン・ラシュヌールの手をつかみ、引っぱって行った。
何が起るかな?……ジャンは思いをめぐらせた。
だがその答えはすぐ得られた。招き入れられた小さな客間で、彼は何ともすさまじい内輪喧嘩を見せつけられることとなったのである。彼は、怒り心頭に発してモーリス・デスコルヴァルの手紙をクルトミューの顔面にたたきつけるマルチアルを見た。これほどすさまじく、またこれほど早々と意趣ばらしができようとは、ジャンにとっても意外なほどだった。
新妻ブランシュの止めるのも振り切って、マルチアルはジャン・ラシュヌールの腕をつかんだ。二人はほとんど家具調度のないがらんとした部屋に入った。マルチアル付きの下僕の部屋だった。
彼は一隅の小机に駆け寄って折りたたんだ紙を一枚とり出し、ポケットにねじ込んだ。
「さあ、出かけよう。父と、それに妻も、きっとぼくを追いかけてくるだろうから……。外で話そうじゃないか」
二人は庭園を抜けて、すぐにセルムーズの長い街道に出た。ジャン・ラシュヌールは足をとめた。
「モーリス・デスコルヴァルにどう言えばいいんですかね?」
「何も言わなくていい! ぼくを彼のところに連れて行け。会って話すよ。弁明もする。さあ、行こうじゃないか」
「それはできない相談というもの。われわれは密告者が恐いですからね」
日ごろはあんなにもプライドが高く、気性も激しいくせに、マルチアルはその侮辱に腹を立てた様子も見せなかった。
「信用してくれないのか!」マルチアルは悲し気に言った。「しかし、さっききみが見たり聞いたりしたことからも、デスコルヴァル男爵のロープを切ったのがぼくでないことは納得してくれるだろう?」
「あの卑劣な罠に関しては、確かにあなたは白だと思う」
「あのことでセルムーズの名を巻添えにした卑劣漢に、ぼくがどんな報い方をしてやったかは、きみがその目で見たとおりだ。ところが、今日ぼくが結婚した娘の父親が、あの卑怯者だったのだ……」
「おっしゃるとおりです。でも、やはりわたしの答えは同じだな。あなたをモーリスのもとへ案内するなんてできない相談だ」
激昂するかわりに、マルチアルは最前の紙片を取り出しジャンに渡した。
「きみはぼくの誠実を信じてくれないが、ここにその証拠がある。ぼくはモーリスにそれを提供しよう。きみだって、これできっと……」
「証拠って何です?」
「ぼくが書いた、あの蜂起の日取りを知らせる手紙の下書きだ。父はこれと引換えに、デスコルヴァル男爵の逃亡を承認したのさ。虫が知らせたのか、焼き捨てるのがためらわれたのだ。さあ取りなさい。これでぼくの運命は、きみの胸三寸に握られることになる」
「いいでしょう。これはモーリスの手に渡します」
「同盟の証《あか》しだよ。ぼくはそのつもりでいる」
「同盟の証し? あなたとわれわれの間で随分多くの血が流されたことを忘れたのですか。確かにロープを切ったのはあなたではない。でもそれが何の証しになるというのです? 無実のデスコルヴァル男爵に死刑の判決を与えたのは誰です? セルムーズ公爵でしょうが? まだある。あなた方はわたしの父を絞首台に送り込んだのです。それにあなたは妹を誘惑しようとした。成功はしませんでしたがね。少なくとも妹の評判を台なしにしてくださいましたよ」
「ぼくの名も財産も、妹さんに贈ろうと思う」
「そんなものを受け取ったら締め殺してやる。恨みは決して忘れませんからね。今に思い知らせてあげますから……。セルムーズ家に何か悪いことが起ったら、ジャン・ラシュヌールの仕業《しわざ》だと思っていただいて結構。そのとおり、どこかにわたしの手が加わっているでしょうから」
我を忘れてそう言ったが、やがて冷静にもどった。
「もしモーリスに会いたかったら、明日、レエシュの荒地にお出でなさい。正午に彼がお待ちしますよ。では失礼!」
言うなりジャンは闇に消えた。
若きセルムーズ侯爵は、街道の真ん中に独り残されて身じろぎもしなかった。当てもなく、考えることもできないで……。やがて彼は帰路についた。
翌日、十一時半にはマルチアルは、レエシュの土を踏んでいた。まだ誰も姿を見せない。馬から降り、荒地の一番高い所へ上がってみた。かつてはそこに、ラシュヌールのあばら家があったのだ。今では黒焦げになった四つの壁が残っているばかりだ。
マルチアルがある感動をもって荒れ果てた廃墟を見つめていると、|はりえにしだ《ヽヽヽヽヽヽ》の繁みで葉ずれの音が聞えた。モーリス、ジャン、それにバボア伍長がやって来たのだ。老伍長は腕に布包みを一つ抱えていた。ジャン・ラシュヌールが、モンテニアックのある退役士官から手に入れて来た二振りの剣である。
「お待たせして失礼しましたな」と、モーリスが切り出した。「もっとも、まだ正午には間があるが」
「ぜひ、弁明の機会がほしかったのだ」マルチアルが口をはさんだ。「誤解もあるようだから」
「言い訳を聞く耳など持たない」と、モーリスは断乎たる、乱暴ともとれる口調で応じた。
「お互い、戦うだけだ」
その口調はあまりに侮辱的だった。マルチアルももはや下手に出て理を説こうとはしなかった。
「きみはどうやら、あまりの不運続きに目がくらんでしまったようだ」と、マルチアルは穏かに言った。「ここに見えているラシュヌール君が何もおっしゃらなかったのかね?」
「ジャンはみんな話してくれた」
「それで? わかってくれないのか?」
「わかるもわからないもない」モーリスは、かみつかんばかりの剣幕で言った。「ジャンの話で、きみに対する軽蔑はなくなったとしても、憎しみは前と同じさ。あのセルムーズ村の広場で、ラシュヌール嬢を間にはさんでぼくとにらみ合った時のことは、よもや忘れちゃいないでしょうね。いずれお目にかかって結着をつけよう――そう言ったのは他ならぬきみのほうだ。そして今、お望みどおりわれわれは一対一で相対している。何をぐずぐずしてるんです? もっと侮辱されなければ戦う勇気が出ないとでもいうのですか?」
セルムーズ侯爵の顔に血が上り、剣をとると一歩跳びのいた。
「これはきみのほうから仕かけたことだ!」と、彼は鋭く言い放った。
しかしジャンとバボア伍長が同時に叫び声を上げ、斬合いを邪魔してしまった。
「兵隊だ! 逃げろ!」
一ダースほどの数の兵が、こっちを目がけて駆けて来る。
「卑怯者!」モーリスはさけんだ。「憲兵を連れて来ていたんだな」
彼はうしろに跳びのいて、膝で自分の剣を二つに折った。その一方をマルチアルの顔めがけて投げつけ、言った。
「これがきさまへのお返しだ! 哀れなやつめ」
「そうとも、哀れなやつだ!」ジャンとバボア伍長も口々に言った。
茫然と立ちすくむマルチアルを残して、三人は逃げ去った。
兵たちが走って来た。マルチアルは指揮をとる下士官のもとへ走り寄り、手短かに問いただした。
「ぼくが誰かわかるか?」
「はい、セルムーズ公爵のご子息です」
「よし、ではあの者たちを追跡するのは止めてほしい」
「お言葉に従うわけにはいきません。命を受けておりますから」そして下士官は部下たちに言った。「さあ、みんな! 急げ!」
駆け出そうとする下士官の腕を、マルチアルはむんずとつかんだ。
「誰だ、そんな命令を出したのは?」
「誰ですって? 大佐殿ですよ。昨夜、憲兵司令官のクルトミュー殿から大佐殿へ指令があったのです。われわれは、今朝から罠を張っておりました」
そう言って下士官は部下のあとを追った。マルチアルは酔っぱらいよりも心もとない足取りでよろめいた。そのまま山を降りてモンテニアックにもどった。午後いっぱい、自分の部屋にこもったままだった。
そして同じその日の夜、二通の手紙をセルムーズに送った。一通は父に、もう一通は妻に宛てたものだった。
恐ろしいスキャンダル事件が起った後、ブランシュ・ド・クルトミューはまんじりともしない一夜を明した。
朝になると、純白の婚礼衣裳から黒い服に着がえた。そして肉体のない影のような彼女が、セルムーズ家の庭園をさまよい歩く姿が見うけられた。事実、彼女は影にすぎなかった。
夕方になると召使が、父親と新妻にあてたマルチアルの手紙を届けて来た。ブランシュは封を切って読んだ。
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侯爵夫人
あなたとわたしの間では、すべてが終りました。あなたは自由にしていいのです。あなたがセルムーズの家名を重んじて下さることを信じておりますから、決してわたしのほうからあなたを追い払うことなどあり得ないことを申し上げておきます。わたし同様、訴訟のスキャンダルに比べたら納得ずくの別居のほうがましだと、思って下さるでしょう。
いずれ、わたしの法的代理人があなたの今後の処遇について、よいように取りはからいに伺うことになるはずです。その時は、わたしに年収三十万フランの年金があることを想い起し、せいぜい理性的にふるまわれるよう、ご忠告いたします。
マルチアル・ド・セルムーズ
[#ここで字下げ終わり]
ブランシュは心がゆらいだ。しかし片意地な気持になり、声を大きくした。
「おお、マリー・アンヌ! あの淫売女め! きっと殺してやるから!」
セルムーズ公爵は、息子の手紙が届けられた時、一昼夜というもの、激しい怒りに駆られて気持を高ぶらせていたあととあって、精も根も尽き果てた疲労感に襲われ、ぐったりとなっていた。
マルチアルは何も説明していなかった。妻に通告した訣別についてすら書いていなかった。
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わたしはセルムーズにはもどれません。しかし、父上にお目にかかることは極めて重要であります。
わたしをこれらの決意に至らしめた理由をすっかりお話申し上げます。さすれば、きっとご納得下さることと存じます。
モンテニアックにお出で下さいますよう。それも早いほど有難いのです。
[#ここで字下げ終わり]
セルムーズ公爵は、いても立ってもいられず、できることならすぐにでも息子を探しに出かけたかった。しかし、自分の客として来ているクルトミュー侯爵を、それに息子の新妻を、藪から棒にあんな状態のまま後に残して行くことが出来るだろうか? 公爵は一日だけ出発をがまんしようと決心した。
翌朝、衣服を身につけたころ、クルトミュー父娘かサロンで待っていることを伝えられた。公爵が入って行くと、クルトミュー侯爵はメディの肩にすがって身を起した。ブランシュは顔青ざめ、やつれた様子で進み出た。
「公爵さま、わたくしども出発いたします」冷やかに彼女は言った。「さようならを申し上げようと、お待ちしておりましたの」
「何ですと! 発たれるのか?」
彼女は胸元から別居を申し渡された手紙を取り出し、セルムーズ公爵に差し出した。
「これで事情は万事おわかりのことと存じます、公爵さま」
彼は一息に読んだ。
「わからぬ!……思いもよらぬことだ」
「ほんとに思いもよらぬことですわ!」と若い女は悲し気に言ったが、その口調には苦々しさはなかった。「きのう結婚して、今日は見棄てられたのですものね。……でも、マルチアルにこうお伝えください。わたくしの一生をめちゃめちゃになさったこと、許してさし上げます。お金でわたくしに償いをなさろうという最大の侮辱さえも、恨みがましく咎《とが》め立てするつもりはございません……。わたくし、マルチアルの幸福を願っております。それではお別れですわ、公爵さま」
父娘は出て行こうとした。やっと驚きから立ち直った公爵は、かろうじて戸口の前に立ちふさがった。
「どうか、行かないでくれ」公爵はさけんだ。「わたしがマルチアルと会って来るまで待ってもらえないものか。ひょっとすると、何かそれなりの深いわけがあるのかも知れないのだし……」
「もうたくさんです!」と、クルトミュー侯爵がさえぎって言った。「どんな言い訳があるというのです? せめてあなたの良心が、わたしがあなた方を許すと同様、あなたご自身を許してくれるようにと祈ります。さようなら!」
セルムーズ公爵は茫然として、侯爵とその娘が立ち去って行く姿を見つめていた。彼らがずいぶん遠くなってから、公爵は言ったものだ。
「いったい、こんな茶番を引き起して何が目的なんだろう? あいつは、我々を許す、などとほざきおった。してみると、あれはまだこれ以上に、我々に泣きをみせることができる何かを握っておるにちがいない。何としてもマルチアルに会わねばならん!」
公爵はもはや一刻もぐずぐずしていられなかった。馬車に馬をつける間もじっと待っていられず自ら召使に手をかすと、自分で御者をつとめようとさえした。馬車がモンテニアックに着くや、マルチアルの部屋に乗り込んだ。
「マルチアル、お前は気でも狂ったか?」戸口で公爵はさけんだ。「でなければ、他にどんな言い訳があるというのだ?」
だがマルチアルには、こうした場面に備える用意はとっくにできていた。
「気が狂ったなんてとんでもありません。それどころか、今ほど理性が冴えかえっていたことはないくらいですよ。それより父上に一つだけ質問させてください。モーリス・デスコルヴァルが紳士らしく約束を守って現われたあの場所に、兵隊どもを差し向けたのは、父上のさしがねですか?」
「何ということを言うのだ!」
「すると、あの恥知らずなたくらみも、またもやクルトミュー侯爵のせいだとおっしゃるのですね? さすればあの方は、不名誉な振舞いで二度もセルムーズの家名を汚したわけだ。名誉を守るため、あの男の娘との結婚は御破算にすべきでしょう。だからぼくはそうしました。後悔はしていませんよ。もともとぼくは、自分の気弱さに引きずられて結婚したのです。いずれ結婚しなければならぬ身でしたからね。だから、どうせ添える当てのない、たった独りのあるひとを別にすれば、相手はどんな女だろうとぼくには同じことだったのです」
公爵はやり返した。
「それはセンチメンタルな世迷事《よまいごと》というものだ。お前がこんな真似をしたために、我家の政治的な立場まで危うくしてしまったのだぞ」
「いいえ、むしろその反対に、我家の名誉を救ったのです。モンテニアックの反乱はまったくおぞましい出来事でした。それだけに、父上は責任をまぬかれる機会に恵まれたことを、むしろお喜びになるべきでしょう。父上は、これで犠牲者たちの報復をクルトミュー侯爵のほうへ厄介払いできるし、司令官としての任務を立派に果したという名誉だけを、ご自分のものにしておられればいいのですからね」
公爵は愁眉《しゅうび》をひらいた。息子の計画が奈辺《なへん》にあるかを、漠然とだが察したと思ったのだ。
「なるほど。それも悪くない考えだな。だがこれからはクルトミュー家の者たちを恐れて暮らさねばならんことになるが、それも考えただろうな?」
マルチアルは深い物思いに沈みながら答えた。
「侯爵に関してなら心配はありますまい。気がかりなのは侯爵の娘……ぼくの妻のことです」
熟慮の末、ミドン司祭はモーリスが突然現われたことも、マリー・アンヌが今ここにいることも、デスコルヴァル氏には隠しておこうと心に決めた。衰弱の極みにある男爵に今ちょっとでも動揺を与えたら、致命的になりかねないと判断したからだった。十時になると男爵はうとうとまどろんだ。司祭とデスコルヴァル夫人は階下《した》に降りて行ってマリー・アンヌとつもる話をした。話の半ばにポアニョ家の総領息子がやって来た。ひどくあわてていた。
この若者は、夕食のあと仲間たちとはるばるセルムーズの町の祭り見物に出かけた。それから、その晩持ち上がったふしぎな出来事を、父親のお客になっている人たちに知らせてやろうと、急ぎもどって来たのだった。
マリー・アンヌは顔を赤らめた。彼女にとって、若きセルムーズ侯爵の自分に対する熱い思いの発露は、どうごまかしようもなく意識せざるを得なかった。マルチアルの心にどんな思いが高まっているかを、マリー・アンヌは見抜かずにいなかったのだ。
しかしミドン司祭は、それを洞察するゆとりもないほど、他の心配事にとらわれていた。
司祭も、そして他の者たちも、マルチアルの引き起した騒動で自分たちの立場が、かえって一層危険になってしまったという判断では一致していた。
その翌日、レエシュで起った事件のニュースがもたらされた。ある百姓が、たまたま決闘の幕あきを、遠くから目撃した。二人の若者がそれぞれ剣を構えて向い合ったところで、兵隊たちが走り出て来てモーリスとジャンと、それにバボアを追いはじめた。その日の五時ごろ、この百姓は血相を変えた兵たちにまたまた出っ食わした。下士官の話では、マルチアルの邪魔立てのおかげで、間一髪のところで獲物をとり逃したというのだった。
同じ日、ポアニョおやじが司祭に、セルムーズ公爵とクルトミュー侯爵が内輪もめしているという話を持ってきた。――侯爵は娘を連れて居城にもどってしまった。セルムーズ公爵はモンテニアックに向った……。この最新の報せは司祭を安堵させるものだった。
この時から男爵の容態は目に見えて回復に向った。ミドン司祭の表情から苦渋の影が消えた。
やがて行きずりの行商人の口から、モーリスとバボアがピエモンテに無事逃げおおせたということも知った。ジャン・ラシュヌールについては問題なかった。国外に出たとは考えられないが、その身に危険が及ぶとも誰も思わなかった。当局のブラックリストに、その名は見当らなかったのである。少しして、クルトミュー侯爵が病床に着き、外に出ることもできなくなり、ブランシュ嬢は片時も父親の側を離れないという話が伝わって来た。
もう一つニュースがあった。ポアニョおやじがモンテニアックで聞き込んで来たものである。それによると、セルムーズ公爵はパリに八日間滞在したが、勲章で身を飾ってもどって来たという。明らかに政治的な足場を一層固めたことの証しだった。おまけに、今度の事件に連座した者たちのすべてに、刑の減免措置を施したというのである。このことについて、ミドン司祭は別に思うところはなかった。ただマリー・アンヌだけが、その措置の背後にある真相をかぎとった。
彼女は裏にマルチアルの働きかけがあったものと察していた。秘かな直感といったものが彼女に教えてくれたのだ。つまり事の成行きを、こうした方向へと巧みに持っていったのは、他ならぬマルチアル以外の何者でもあり得ないし、その息子としての影響力のありったけをふるって、セルムーズ公爵の心に働きかけたにちがいないのだ。そして、彼がそんなことをしたのも、誰でもない、彼女自身のためであろうことに思い至ると、彼女のマルチアルに対する反感も薄らいで行かずにはいなかった。かつては、マリー・アンヌから、目くるめくような申し出を、にべもなくはねつけられたマルチアルの、男らしい義侠心のあらわれなのではあるまいか? 父である公爵の政治的生命をも断ちかねないような秘密をあえて暴いたマルチアルの振舞い、むしろ卑劣さの表われと誤解されてしまいそうなその行動を支えた雄々しい正義感を、自分は汲みとることができなかったというのだろうか?
しかし、ポアニョおやじの家にころがり込んでから二か月も過ぎると、かつてあれほど美しく讃嘆の的だったマリー・アンヌは、その美しさの影をとどめぬまでにやつれ果てた。痩せて頬もこけた。日に日に大きな黒い眼のまわりの隈《くま》が濃くなり、時としては、大粒の涙が頬を流れていることがあった。
ミドン司祭は一度ならず彼女に訊ねた。
「辛そうだよ。何があるのかね?」
別に何もないとしか彼女は答えなかった。
それでいて悲しみと苦しさで死んでしまいそうだった。モーリスに無理やりさせられた約束を守って、マリー・アンヌは、法的には無効でしかももはや解消し得べくもない結婚のことは、一切しゃべろうとしなかった。そして明状し難い恐れにさいなまれながら、妊娠の事実が誰の目にも隠しようもなくなる日が近づきつつあるのを、意識していたのだ。
ミドン司祭は一度か二度、すべてを見通しているかのような視線を向けたことがあった。そのたびに彼女は度を失い狼狽した。どうしたらいいだろう? すべてを打明けるべきなのか? まだ初めのころなら思い切ってそうすることもできたかも知れない。しかし今のマリー・アンヌにその勇気はなかった。ここから逃げ出そうかとまで思いをめぐらしてもみた。ところがある日、彼女には願ってもない救いともいうべき事件が起った。
農場では、現金の持合せが底を尽きはじめたのである。逃亡者たちは何よりも密告を恐れねばならぬ立場上、おいそれと金策にかけずり回るわけにもいかず、ミドン司祭はその打開策に頭を痛めた。マリー・アンヌがシャンルイノーの遺言のことを司祭に話し、寝室の暖炉の下に金が隠してあることを説明した。
「夜になったら出かけて、ボルドリーの家に行ってお金を手に入れます。もともとわたしのために遺してくれたお金ですもの」
「誰にも見とがめられないという保障はないし、悪くすればそのまま逮捕される危険もある。シャンルイノーの家は、どこもかしこも封印されているだろうしね」
「では、どうすればいいでしょう?」
「白昼堂々とやるがいい。あなたは別にお尋ね者になっているわけではない。明日ピエモンテから帰ったような様子をして、まず公証人のところに行き、遺産相続の手続きをすませ、それからボルドリーに住みなさい。神の御加護があるだろう。連絡をとり合うのは易しいことだからね。出発前に接触の場所の打合せをしておこう。週に二、三回ポアニョおやじを出向かせるようにするよ。世間が、ボルドリーにあなたが暮していることに慣れっこになったころを見はからって、男爵をそこに移したらどうかと思う。あんな納屋に隠まわれているより向うへ行ったほうが、回復も早かろうというものさ」
こんな次第ですべての打合せがまとまった。まずその夜のうちにポアニョおやじがマリー・アンヌを国境まで送り届ける。そこから彼女は、セルムーズ村を突っ切るコースを往来する駅馬車に乗込むことになった。すべてはデスコルヴァル男爵が、テュラン近辺に潜んでいるかのように世間の目をあざむくためだった。
翌日八時ごろ、セルムーズの村の人々は、停車した駅馬車からマリー・アンヌが降りて来る姿を深い驚きをもってながめた。
「ラシュヌールさんの娘さんが来た!」
この言葉に村中が、それぞれの窓辺に、あるいは戸口に駆けつけた。一人の若者にスーツケースを持たせ、大通りを歩いて来る哀れな娘の姿を、人々は見たのだった。彼女は旅籠屋『牛王亭』に入った。
マリー・アンヌが宿から出る時、群衆が戸口に群れて彼女をまじまじと眺めた。公証人の家まで歩いて行く間も、二十人以上の人間がぞろぞろついて来た。
公証人は、五万フランにものぼる遺産を受けとろうとしているマリー・アンヌを、鄭重に扱った。
シャンルイノーは手際《てぎわ》よく手続きをとっていた。これらの遺産にまつわるあらゆる面倒事を避けるために、海千山千の法律家でもこれ以上に周到な措置を思いつくことはあるまいと思われるほどだった。その夜封印はとられ、マリー・アンヌはボルドリーの所有者となった。
マリー・アンヌは二階の部屋に上がった。シャンルイノーがマリー・アンヌへの情熱のおもむくままに、いわば未来の『神殿』とも夢見ていた部屋である。かつてはタマネギをなすりつけたパンの皮を主食に食事を摂っていた吝嗇《りんしょく》な百姓は、この部屋を、その偶像が寝起きすべき『聖域』にふさわしいようにと、大枚一万二千フランも投じて模様がえさせていたのである。
「これほどまでにわたしを愛してくれていたのね」マリー・アンヌはすっかり心を動かされてつぶやいた。
暖炉の下の石を持ち上げてみると、シャンルイノーが言っていた金貨が出てきた。翌日、目を覚ましたミドン司祭のもとに、その金の一部がちゃんと届けられていた。
そのときからマリー・アンヌに平安がもどった。モーリスの便りがないことを別にすれば、再びかつてのような幸せな日々を取りもどしたとさえいってよかった。あの人はどうしているかしら? なぜ消息を知らせてよこさないのかしら?……親身になって救いの手を差しのべ、世話をしてくれる人がどうしても必要になる日が近づきつつあった。なのに信じて頼れる人間は一人もいないのだった。
こんな風に追いつめられた気持でいて、マリー・アンヌはふと、サリアントで妊娠の事実を確認してくれた老医師のことを思い出した。この老人はヴィガノで結婚したとき証人になってくれたのだった。
「あの方なら力になってくださる! 事情をお話すれば、きっとそうしてくださるにちがいない」
マリー・アンヌはすぐさま老医師にあてて手紙を書き、近隣の若者にその手紙をヴィガノに届けてくれるように頼んだ。
「お役に立てることがあればいつでも伺う……そう先生はおっしゃっていました」若者はもどってくると言った。
その夜、この知られざる友人が彼女の力になるために訪れた。老医師はボルドリーに二週間滞在した。そこを発つとき外套の下に赤ん坊を抱いていた。――男の子だった。老人は、自分の息子として大切に育てると約束した。マリー・アンヌは再びもとの生活にもどった。誰もそうしたことが秘かに行われたことを知る者はいなかった。
十一
平静な態度でセルムーズを立ち去るためには、ブランシュ夫人はありったけの意志力をふりしぼらなければならなかった。そしてマルチアルの仕打ちを許すかのようなつぶやきをもらしながら、心の中では癒《いや》し難い怒りがいや増すばかりだった。
「わしのような人間を侮辱するなんて、セルムーズ公爵はいつかその報いを思い知ることがあるだろう」クルトミュー侯爵が言った。「いつの日か、破滅と失脚の憂き目で、わしの足もとに這いつくばらせてやる。……見ているがいい」
不運なことに、セルムーズでの一件の後三日間、侯爵は病床に伏してしまったので、かつての盟友を破滅に追いやる報告書を書く機会を失くしてしまった。その間にマルチアルは、まんまと侯爵の機先を制してセルムーズ公爵に巧妙な入知恵を吹込み、パリへ旅立たせたのだ。
公爵はパリで何をしゃべっているのか? 拝謁を賜った陛下に何を言上したのか? 少くとも公爵は最初に奏上した報告をくつがえし、モンテニアックの反乱事件を実際の規模より小さな出来事であったかのようにとりつくろったのは確かである。おそらくあの反乱事件に関しては、クルトミュー侯爵の挑発的な態度こそ大いにその原因として責められるべきだ、ぐらいには吹聴したことだろう。何せ侯爵はかつてボナパルトに仕えた身であってみれば、保身のために、ブールボン家への熱烈な忠誠ぶりを印象づけようとあせっていた。こうした論法であまたの血が流された責任の一切はクルトミュー侯爵に押しつけ、己れが中心になって果たした情容赦ない弾圧のことは忘れさせようという虫のよい方針を貫くことにしたのである。
セルムーズ公爵の旅行がもたらしたものは、憲兵司令官クルトミュー侯爵の罷免《ひめん》だった。しかもその発令は、よりによってクルトミューの手になる報告書がパリに届いたと同じ日付だった。それは侯爵をして茫然たらしめるに十分な衝撃だった。
モンテニアックから姿を消していたシュパンが、安全な身の置きどころを求めてセルムーズ城館に現われた。召使たちは狂犬を見るような目で彼を見た。
そのうえセルムーズ公爵は、都合の悪いことはすべて忘れてしまう覚悟でパリからもどって来たので、人々から毛虫のように嫌われているシュパンを黙過しなかった。今後セルムーズに姿を見せないように言い渡し、そのいささかつれない追放措置の償いにと、わずかばかりの金を投げ与えた。だがシュパンは金を受けとることを拒絶した。そして一族郎党を引きつれ、『月夜の晩ばかりじゃあるまい』といったたぐいの悪態をつきながら村を出て行った。
追い出されの、この老いぼれの畑泥棒は、女房と二人のせがれたちの待つ、自分のあばら屋に引っ込んだ。ほとんど外に出ることもなく、ただ稀に、昔から好きだった鉄砲打ちに出かけるぐらいだった。それ以外はいつも、半ば酒漬かりになって生きていた。呑む量はだんだん増えていった。
五月の終りのある晴れた午《ひる》さがりであった。ブランシュ夫人は自分が探していた人間に出会った。クルトミューの森の禁猟区になっている沼地の近くである。シュパンが猟銃に引き金をかけたまま、猟人の通う道の真ん中を進んで来た。
「シュパンさん!」と彼女は声をかけた。
老いぼれのならず者は、ちょっとためらいを見せた。しかし彼は立ち止まって銃床を地面に降ろした。そのまま相手が近づいて来るのを待った。
メディ叔母は驚いて顔青ざめ、そっとつぶやいた。
「まあ、どうしてあんないやしい男を呼ぶの?」
「彼と話したいことがあるの。メディ叔母さま、ちょっとの間離れていてくださらない? 誰か来たら教えてちょうだい」
ブランシュ夫人は、その場にじっと立ったままでいる老密猟者に近寄った。
「シュパンさん、猟をしているの?」
四歩ほどの間をとって彼女は話しかけた。
「何か御用でもおありで?……」
ブランシュ夫人は精いっぱいのきっぱりした口調で応じた。
「そうなのよ。やってもらいたいことがあるの。ほんのちょっとしたことだわ。お金はたっぷり払います」
「あたしみたいな人間に頼み事とあるからにゃ、どうせ汚ない仕事でしょうな」と、シュパンは荒荒しく言った。「それほど|えげつない《ヽヽヽヽヽ》ことを目論んでおいでなら、一つご自分でやってみちゃあどうですかい?」
シュパンは肩に銃をかついで歩き出した。その時ブランシュ夫人の頭に、ぱっと閃いた思いつきがあって、わざと冷やかに言った。
「あなたのことについては、前から色々耳にしているからこそ声をかけたのよ。あなたなら喜んで頼まれてくれると思ったわ。わたし、セルムーズの者たちが憎い!」
「でしょうな。いや全く憎いことでしょうて。やつら、あたし同様にあなたさまを見捨てちまったんですからね。ただ……何ですその、仕事をするとなると、どんな見返りがあるってんです?」
「あなたの条件は?」
シュパンは少し考えていたが、まじめな顔をして言った。
「あたしには色々と敵がいましてね。中でもそのうちの一人は殊のほか剣呑《けんのん》だ。早く言やあ、あたしのあばら家は安全とは言えねえわけで。事がすんだらクルトミューのお城に住まわせてくれませんかね? そうすりゃ何だってやってさし上げますぜ。どうです、約束してくださいますかい?」
「約束するわ!」
シュパンは小腰をかがめ、しわがれ声を出した。
「さて、それじゃ仕事というのを話していただきますか?」
「別に難しいことではないのよ。気づかれないようにうまく、セルムーズ侯爵を監視してくれればいいの。――そうよ、マルチアル、わたしの夫です。ずっと付きっきりで、どんな些細なことでもすべて報せてほしいわ」
「わかりました。それで全部ですかい?」
「さし当ってはね。もともと計画なんてないの。あなたの報告を聞いて、それから考えるわ」
「そういうことなら任せてください。といっても、ある程度の時間はいただかないとね」
「木曜日にここで待っているわ。今ごろの時間に会いましょう」
その時メディ叔母の、気をつけろという合図の叫びが聞えて話をさえ切った。
「一緒にいるところを見られたくないわ。いそいで行ってちょうだい!」
あっという間に老シュパンは姿を消した。クルトミュー家の召使がメディ叔母のところへ寄って来たところだった。ブランシュ夫人は、召使があわただしい口調でしゃべっているのを見た。彼女は二人のほうへ歩いて行った。
「ああ、お嬢さま! あちらこちら三時間もお探しいたしましたよ。お父さまがとてもお悪いのです! 医者を呼びに行っております」
「父が亡くなった!」
「いえいえ、お嬢さま。ただ……。今朝ほど侯爵さまは葡萄園を見まわりにおいでなさいましたが、何となくご気分がすぐれぬご様子でした。ところが、もどっておいでの時は……」
召使は人差し指で額をコツコツたたいた。
「もどっておいでの時は、どうも合点がまいらぬのですが、魂の脱けがらのような状態で……」
ブランシュ夫人はいっさんに城館のほうへ駆け出した。
クルトミュー氏はベッドに腰をおろしていた。二人の召使がその様子をじっとうかがっていた。鉛色の顔、眼は落着きなく動き、唇から白っぽい泡がにじみ出ている。額に汗をかき身体が震えた。何やらわけのわからぬ言葉を口走り、激しい身ぶりをした。それでも娘の顔を認めた。
「ああ、おまえ。待っていたよ」
「お父さま! いったい何が起ったのです?」
侯爵は引きつったような笑い声を上げた。
「いや、それがな……。出っくわしたのだ、あいつめにな! いずれはこうなるとは思っていたよ。森の中でだった。たまたまあいつのことを考えながらもどって来る途中、突然わしの眼の前に当のあいつが姿を現わした。
『やあ、どうしてもまた会わなければならんと思っていたよ』と、あいつが言った。
やつは銃を持っていたんだ。わしに狙いをつけて、それから射った……」
一分ほどの間、ブランシュ夫人は父親の顔を穴のあくほどみつめていた。
「しっかりしてください、お父さま。幻覚にまどわされているだけなのがおわかりになりませんの?」
「いやいや、わしが見たのは、あれは確かにラシュヌールだった。それが証拠に、お互いに若かったころの思い出話までしおった。それもわしとあいつしか知らない思い出だ。九十三年の恐怖時代《テルール》のことだよ。あいつはモンテニアックで飛ぶ鳥を落す勢いだった。わしは追われる身でね。ところがやつはわしをかくまってくれたんだ。パスポートを準備してくれたし、わしの財産もわしの生命も救ってくれた。このわしという人間は、そんなあいつを処刑したのだ。わしはあいつのいる所へ行かねばならん。やつははっきり言いおった。このわしもやつと同じこと――もはや死んだ人間だとな」
召使たちは恐ろし気に顔を見交わした。侯爵のやったことのあまりの破廉恥さを知り、動揺しているのは明らかだった。ブランシュ夫人だけがしっかりしていた。彼女はクルトミュー氏を介抱している召使を身振りで呼び寄せ、小声で言った。
「父を射つなんて、できないことよ」
「お許しくださいお嬢さま。ですが、すんでのところでお命が危うかったのでございます。お召し物を着換えるのをお手伝い申しております時、頭にまだ血が流れているかすり傷を見つけました。すぐにお帽子を調べてみましたが、弾痕が二つありました。鹿射ちで使う銃によるものに相違ございません」
「とすると、誰かが本気で父を殺そうとしたのかも知れない」と、彼女はつぶやいた。「あんなに譫言《うわごと》をいうなんて、よほどおそろしいショックだったにちがいない」
どんな孝行娘といえども、このブランシュが見せた献身ぶりと行き届いた看護ぶりには及ばぬほどだった。夜になって、病室にある長椅子をベッド代わりに、二時間ほどの仮眠をとることを承知したのも渋々ながらのことだった。彼女は世間が自分を哀れに思い、マルチアルを非難せずにいられぬように仕向けたかったのである。しかしこうしてたぐい稀なる『孝女』の役を演じている間もシュパンの一件が片時も心から離れなかった。彼はモンテニアックで何をしているのだろうか?
約束の日、老いぼれシュパンはブランシュ夫人を待っていた。
「さあ、お話しなさいな!」彼女はうながした。
「話はしますがね、これといった収穫はありませんよ」
「セルムーズ侯爵を監視していたんじゃなかったの?」
「そりゃご主人のことで? いや失礼。むろん、影になったみたいにへばりついていましたがね。セルムーズ公爵のパリ行きからこっち、あの家を仕切ってるのはマルチアルさんでさあ。今や暇なしの忙しさ続き、朝いっぱいは手紙書きでつぶれ、昼も過ぎれば客の応待でおおわらわという具合い。とてもとても、外に出る暇もありませんや」
ブランシュ夫人は黙って聞いていた。のどまで出かかった質問をしたものかどうか、ためらっていた。意を決して彼女は切り出した。
「情婦がいないはずはないわ!」
「とうとうお目当てのところへ来ましたね! あのラシュヌールのやつの娘のことをおっしゃりたいんで?」
「そのとおりよ。あの女のことを聞きたかったのよ」
「はてさて……姿も見なけりゃ噂にも聞かねえというわけで。たしかあの淫売は、もう一人の情夫《いろ》だったモーリス・デスコルヴァルと逃げちまったという話でさあ。ラシュヌールの身内でこの辺りに残っているのは、せがれのジャンだけですよ。強盗まがいのことをして食ってます。昼も夜もなく、森の中をほっつき歩いてまさあ、銃を引っかついでね。骸骨みたいに痩せちまって、見るも恐ろしい格好だそうで。もし出っくわしたら、それこそあたしは年貢の納め時ってものでさ」
ブランシュ夫人は蒼白になった。クルトミュー侯爵を射ったのはジャン・ラシュヌールだったのだ。彼女にはそれが疑うべくもない事実だと思えた。
「いいこと! マリー・アンヌはきっとモンテニアックにいます。何とか頑張ってあの女の隠れ家を見つけてちょうだい。月曜にまた落ち合うことにしましょう」
「探してみますよ」シュパンは答えた。
彼は事実、あらゆる手を尽して捜しまわった。結果は、何の収穫もなかった。
しかしついにある朝ブランシュは、得意満面の顔をしたシュパンを眺めることになった。
彼女を見るなりシュパンは大声でさけんだ。
「いい知らせでさあ! とうとうあの売女《ばいた》を見つけましたぜ」
それは、マリー・アンヌがボルドリーに住みついた翌々日のことである。この界隈ではマリー・アンヌがせしめた遺産の話でもちきりだった。そして、シャンルイノーの遺言書自体が、果てしない論議の的になっていた。マリー・アンヌがシャンルイノーにとってそれほどの『お友だち』だったとは誰も知らなかったのである。こうしてこの財産贈与の一件は、数々の疑惑を引き起していた。これだけの大ニュースを、シュパンはブランシュ夫人に語って聞かせた。聞きながら彼女は身を震わせた。
「なんて図々しい!」と、彼女は喉を締めつけられるような声で言った。「ほんとうに、なんて破廉恥な!……でも、それはどこから聞き込んだの?」
「きのう、ボルドリーまで出てみましたんで。鎧戸が開いていて、マリー・アンヌは窓の近くにいましたぜ」
「それじゃあなた、ボルドリーを知っているのね。どこなの?」
「ここから六キロばかり行きましてね。川のこちら岸にある、ロアゼルの風車の真ん前でさあ」
「ああ思い出したわ。どんな家でした?」
「野っ原の真ん中に建ってるんで。手前に庭があって、後ろは生垣に囲まれた大果樹園になってます」
「家の中の様子は?」
「ごくありふれた造りでさあ。タイル張りのでかい部屋が三つあって、台所ともう一つ別な小さい暗い部屋につながってました」
誰も二階のあのみごとな部屋に気づいていなかった。シャンルイノーも、そのことは決して口にしなかったのだ。
「ボルドリーでは、マリー・アンヌは独りなの?」
「今のところは独りでさあ。あたしの考えじゃ、遠からずあの山賊野郎の兄貴がころがり込んで、一緒に住むんじゃねえかと……。さて! これからどうしますかね?」
ブランシュ夫人はびくっとして身体を震わせた。
「今のところは何も思いつかないわ。しばらく考えてみましょう。マルチアルはよく見張っていてね。彼がボルドリーに現われたら知らせて――どうせ行くに決ってるわ……。いずれにしても、あの女に手紙を書いたら、いいえ、どうせ書くにちがいないから、一通でも手に入れてほしいものね。これからは二日おきに会うことにしましょう。眠りこけていちゃだめよ」
シュパンが何と言おうとも、セルムーズ中が、ラシュヌールの娘はピエモンテから舞いもどったと信じ込んでいようとも、ブランシュ夫人は、そんなことはほんの見せかけだという考えを変えなかった。彼女の考えでは、マリー・アンヌがやって来たのはピエモンテからなどではなく、マルチアルが慎重にそれまでかくまっていた隠れ家から、公然と出て来たに過ぎなかった。それは自分に対する侮辱以外の何ものでもなく挑戦に他ならない。
そこで彼女は、巧妙な復讐の手段に日夜思いをめぐらすこととなった。おまけに彼女は、全身全霊をそのたくらみごとに打込めることになった。というのも、クルトミュー侯爵にはもはや付きっきりの看護も必要でなくなったからである。激しい狂気の発作が静まったあと、侯爵は今度は白痴同然の身になっていた。
そんなわけでブランシュ夫人は、二、三日おきにシュパンと会い出した。独りのときもあったが、たいていはメディ叔母と一緒だった。シュパンは例のスパイの仕事に、そろそろ嫌気がさしはじめていた。
「この仕事も危ねえことになってきましたよ」と彼は泣きごとを言った。「ジャン・ラシュヌールがいずれ妹と一緒に住むだろうと思ってたんですがね。とんだ見当はずれでさあ。相変らずあの山賊め銃を持ってほっつき歩き、夜は森で野宿ときてやがる。獲物は何だと思います? むろんシュパンおやじにちがいないんで。おまけに、あたしを恨んでいる例の宿屋の親父が、家を捨てて行方をくらましちまいやがった。どこへ行ったんですかね? あんな剣呑《けんのん》な野郎につけ回されてちゃ、おちおち枕を高くすることもできませんや。しかも相手は二人もいるんですぜ。あぶなくって、うかつに出歩くこともできやしない」
このやくざな老人を特にいらだたせているのは、二か月も注意深い監視を続けていたおかげで得た、ある確信だった。つまり、シュパンの見るところ、マルチアルとマリー・アンヌの仲はもはや、|より《ヽヽ》をもどしようもなくなっているのだ。
しかしそれこそ、ブランシュ夫人が絶対に認めたくないことに他ならなかった。
「あいつらにうまく出し抜かれたってこと、白状しておしまい」
九月のはじめごろだった。彼女はある日シュパンに言った。
「いったい嘘をついてるの? それとも、おまえは能無し?……きのう、マルチアルとマリー・アンヌが、クロア・ダルシーの四辻を十五分も一緒に散歩していたわ」
十二
たった一晩のおしゃべりだけで、ヴィガノの例の老医者は完全にマリー・アンヌの信頼をかち得てしまった。そして彼はボルドリーにひそかに滞在し続け、二週間というもの、自分を頼り切っているこの不幸な女性の不安をとりのぞくべく全力をつくした。何はともあれ、彼女が自分自身の目にも、ある程度もとの元気を回復したと思えるようにさせたかったのだ。
しかしこの医師が行ってしまうと、マリー・アンヌは再び孤独の中にうち捨てられて、心にしのび寄る悲しみに為すすべもない身となってしまった。つまり、いつも自分の良心の呟きに耳をそばだてずにはいられなくなってしまったのである。そして、わたしはもうお終いなのだという考えが絶えず頭から離れず、彼女を打ちのめし、さいなんでいた。
そればかりではなかった。母性愛が激しく彼女の心を襲った。医師が立ち去った瞬間から、この思いがマリー・アンヌを苦しめた。もしモーリスとの思い出がなかったら、どうやってけなげな決意で世間の口さがない噂に耐え、わが子を胎内にはぐくみ続けることができただろう? 誠実で気丈な性格には、孤立無援の絶えざる嘘で塗り固めた己れの生き方が苦痛でならなかったのである。しかし彼女は約束したのだ。何といってもモーリスは主人であり、彼のために、たとえ外見上に過ぎぬ名誉であろうと、それを守らねばならないのだ。
が、そうこうしているうちに、兄のことを思い浮べただけでも、身体中の血が凍りついてしまいそうな思いに襲われるようになってしまった。ジャンがこの近くをうろつきまわっていると知ると、その行方を探そうとつとめた。ある夜ジャンは意を決してボルドリーに姿を現わした。肩にかついだ銃を一目見ただけで、シュパンがあんなに怯えあがるのももっともだと思うような様子をしていた。
その表情は、絶望感からいかにも険悪で、今にも何をしでかすかわからないという感じだった。あんまり痩せこげてしまったせいで、憎しみに光るその目は今までに増して底知れず、黒々と見えた。彼が入って行くと、マリー・アンヌはぎょっとして後ずさった。
「あなたね、ジャン! かわいそうに……」
彼は自嘲を込めて頭から足もとまで、わが姿をしげしげ眺めやってから言った。
「実際、霧の深い森の中で、こんなかっこうのやつにぬっと出っくわしたら、ぼく自身腰を抜かすだろうよ」
「かわいそうなお兄さま。なぜもっと早く来てくださらなかったの? でもよかった、お会いできて!……もうどこへも行かないわね。わたしと一緒に住んでくださるのね」
「それはできないよ、マリー・アンヌ」
「なぜですの?」
「ぼくには、自分の生き方を好きなように決める権利はあるがね、お前を巻きぞえにする権利はないんだ。ぼくたちは互いに見ず知らずの他人でいなければいけないよ。ぼくは今ここで、もうお前は妹でも何でもありはしないと宣言しておく。そうすれば、いつの日かお前もぼくを兄ではないと言えるからね。世間の連中が知らずにはいないような、派手な内輪喧嘩をやろう。こんりんざい兄でもなければ妹でもないと罵りあっておくのさ。そうすれば今後何かあっても、お前やモーリス・デスコルヴァルが共犯者呼ばわりされることは、まずあるまいからね」
身体が麻痺したかのように立ちつくしていたマリー・アンヌは、我に返ると|びくっ《ヽヽヽ》と身ぶるいした。兄の手をつかみ、くだけてしまいそうなまでに強く握りしめた。
「何をしようというおつもりなの?」
「放っといてもらいたいな」ジャンは彼女を振りほどいた。
恐しい、苦痛に満ちた予感が、傷口のようにマリー・アンヌの心をうずかせた。
「よく考えてね。道にはずれるようなことをすれば、きっとよくないことが起るわ。お父さまのことを思い出して!」
ラシュヌールの息子は青ざめ、両の手をぎゅっと握りしめた。彼は妹のほうへ歩いて行って冷やかな口調で言った。
「父を思い出すからこそなのだ――正義は行われなければならない。犠牲者の息子たちが、みんなぼくのような決意に燃えていれば、今ごろあの悪党どもだって大きな面をしてなどいられなかったはずだ。どんな極悪人だって、善良な男をやっつけようとする時こんな考えが浮べば、ためらわずにおれなかったというものさ。(この男をここで殺すのはいいが、今度はこいつの子供たちの恨みを買うことになる。やつらは自分ばかりか、孫子の代まで恨みを晴そうと憑《つ》きまとうにちがいない。そして一族が絶えるまで、自分も身内のものたちもすっかり手も足も出なくなり、びくつきながら家の周りをうろつくハメになるだろう。ドアの隙間から、いつ死や不名誉や荒廃や恥辱が忍び込んで来るかも知れないと、怯え暮すことになるだろう)――セルムーズとクルトミューの家の連中が今になってぼくを恐れているのも、つまりはこの思いにとりつかれているからなんだ」
ジャン・ラシュヌールが言わんとしている意味は、取りちがえようのないほど明白だった。それは腹立ちまぎれに口にした、その場限りの呪咀《じゅそ》などではなかった。マリー・アンヌは自分の涙も祈りも、兄の決意の前にはまったく無力であることを痛いほど思い知らされた。しかし彼女としてはやはり、このまま兄を行かせるわけにはいかない。
彼女は膝を折り、手を合わせた。
「ジャン、お願い。大それたたくらみなど忘れてちょうだい。わたしたちのお母さまの名にかけて、正気に返ってください。あなたが考えていることは犯罪なのよ!……ここに残って。そうしてくれれば、どれほどわたしが幸せかわからないわ! ジャン、わたしがもう大事じゃなくなったの?」
ジャン・ラシュヌールの心はまさに張りさけんばかりだった。涙が睫毛《まつげ》を濡らした。
「ああ行かないでね! 行かないでちょうだい、お願いよ!」
ジャンは必死の思いで自分の感情をおさえた。
「だめだ、だめなんだよ!」
そう言うとすがりつく妹を腕に抱き、彼女を強く胸におしつけた。
「かわいそうな妹。かわいそうなマリー・アンヌ。ぼくだって、お前の願いをはねつけ、別れて行くことがどんなにつらいか、お前には想像もつかないだろう。どうしてもそうしなければならないのだ。モーリスとお前の幸福を祈っているよ。ぼくの戦いにお前たちを巻添えにしたら、それこそ犯罪というものだ。結婚したら、時にはぼくを思い出してくれ。でも決してぼくを探そうとしてはいけないよ」
激情に駆られたかのように、ジャンはマリー・アンヌに口づけした。しかし妹がいつまでも離れようとしないので、椅子のところまで連れて行って突然その腕を振りほどいた。
「さようなら! 今度会うのは、父の復讐が終ったときだ」
……こうして数日が過ぎた。ある夜マリー・アンヌは、かんぬきを閉したボルドリーの家の戸口で、紙切れのようなものが立てるかすかな音を聞いた。誰か来て、ドアの下に一通の手紙をすべり込ませたのだ。彼女はそれを拾い上げて灯りに近寄り、差出人を確かめた。
「セルムーズ侯爵!」彼女は驚きのあまり口ごもった。
マリー・アンヌはマルチアルの筆蹟をそこに認めた。わざわざ彼が手紙を書いてよこしたのだ! 封を切って読んだ。
[#ここから1字下げ]
マリー・アンヌ
今度の一連の出来事に、まったく新しい展開と思いもよらぬ成行きをもたらした人物が誰であるか、あなたにはきっと見当がおつきのことでしょう。もしそうなら、わたしの努力は酬いられたといってよいでしょう。なぜなら、もはやあなたはわたしのことを軽蔑なさりはしないでしょうから……。
しかし、わたしの仕事はまだ終っていません。わたしは、デスコルヴァル男爵に死刑を宣告した裁判が再審に付されるよう、でなければせめて恩赦が与えられるようにと、全力を尽してきました。
デスコルヴァル氏が身を隠しておられる場所は、つとにあなたがご承知のはずです。男爵にわたしの計画をお伝え下さい。そして男爵から再審と、有罪判決はそのままの単なる恩赦と、そのどちらを望んでおられるかを訊き出して下さい。もし裁判のやり直しを受けるおつもりなら、通行券を男爵のために用意いたします。
わたしが今後どうするかはあなたのご返事次第です。
マルチアル・セルムーズ
[#ここで字下げ終わり]
マリー・アンヌは目くるめく思いだった。マルチアルの情熱の深さに驚かされたのはこれで二度目だった。自分を愛する二人の男は、どこまでその愛の深さを競い合おうとするのだろうか?
そのひとり――シャンルイノーは、死んでのちまでも彼女を守ってくれ、もうひとり――セルムーズ侯爵は、名門にありがちな偏見を捨て、彼女のために一門の政治生命まで賭けようというのだ。
それでもなおマリー・アンヌにとって最も愛しいひとは、お腹に宿した子どもの父親だった。もう五か月も別れ別れになったまま、無事でいるかどうかの消息一つよこさぬ、あのモーリスだった。彼女の心におそろしい疑いが湧いた。
(もしマルチアルの手紙が罠だったら?)
この疑惑にとらえられてマリー・アンヌは、いつもポァニョおやじが待っていてくれる約束の会合場所へ赴くことさえ、五日もためらわれてしまった。
やっと意を決してそこへ来てみると、待っていたのはあの質朴な農夫ではなく、ミドン司祭だった。
マリー・アンヌはマルチアルの手紙をそらんじていた。
司祭は彼女にそれを暗唱させ、聞き終ると言った。
「この青年は、貴族らしい悪徳と偏見に染ってはいるが、根は気高く寛《ひろ》い心の持ち主だ」
そしてマリー・アンヌが、罠かも知れないという疑惑を打明けると、それをさえぎって言った。
「マリー・アンヌ、侯爵は確かに誠実な人間だよ。彼の心の寛さを素直に受けないのはまちがいだ。この手紙をひとまずわしに預けなさい。帰って男爵と相談してみるよ。わしらの結論は明日伝えよう」
マリー・アンヌはすっかり心を掻き乱されて司祭と別れた。あの、およそ物に動じぬ司祭ほどの人が、マルチアルの尽力に感動し、敬服さえしている。そんな司祭の賛辞を思い出したマリー・アンヌは、足を止め、急にいらだちながら心につぶやいた。「それが何だというの、……それが何だというの!」
それから二十四時間後、同じ場所でマリー・アンヌを迎えた司祭は、いかにも待ちかねていたような様子だった。
「デスコルヴァル氏とわしの意見は完全に一致したよ。セルムーズ侯爵にわれわれの運命を託してみよう。ただ男爵としては、恩赦など受けたくないと言っておられる。彼を断罪した不公平な裁判のやり直しを受けたいという意向なのだ」
「男爵がそういうお気持なら、わたしからマルチアルに書く返事の下書きを、司祭さまに作っていただかなくては」
「返事を書くのはまずいね。手紙は紛失の恐れがあるからね。セルムーズ侯爵に直接会うべきだよ」
マリー・アンヌはおののき、後ずさった。
「いやです! 司祭さま、いやです!」
「気持はよくわかっている。あなたにしてみれば、かつてセルムーズ侯爵にさんざ付きまとわれて、かれこれ嫌な評判も立てられたことだしね。だが、ためらっている余地はない。男爵が罪せられたのもあなたの父上のとられた行動の結果なのだから、そのくらいの犠牲は払って、あの方の無実を証明してやるべきだよ」
マリー・アンヌはそうすることを約束した。そしてマルチアルに、クロア・ダルシーの辻で会ってほしいと伝えてやった。二週間も前ならば、この会見に心が騒ぐようなことはなかったにちがいない。そのころなら、マルチアルをもう憎んでもいなかったし、彼のことなどまるでどうでもよかったのだから。ところが今は……。
約束の場所へ赴く道すがら、彼女の心を去来する想像はただ一つだった。マルチアルはきっと例のとおりの伊達者《だてもの》めいた貴公子ぶりで、自分を悩ましい思いにさせるだろう。そして自分は自分で、それを憎からず思わずにはいないだろう……。だが彼女の想像は当らなかった。マルチアルは、この再会に心を動かされていたのは確かだが、男爵の件に関わりのあること以外は決して口にしようとしなかった。ただ、彼女が言うべきことを伝え終ったとき、こう言っただけだった。
「わたしたちは友人ですね、そうですね?」と彼は訊いたのだ。
マリー・アンヌは消えも入りそうな声で応じた。
「はい」
それだけだった。マルチアルは召使が手綱をとる馬に跨《またが》って、モンテニアック街道を歩んで行った。その場に釘付けになったまま、喘《あえ》ぐように、ひとときマリー・アンヌの視線はマルチアルを追った。稲妻のような閃光が彼女の心を駆け抜けた。
「ああ!」マリー・アンヌはさけんだ。「わたし、モーリスを愛していないのかしら? あのひとを愛したことなんて一度もなかったのかしら?」
ミドン司祭に会見の顛末《てんまつ》を詳しく報告する時さえ、彼女の声は激しい心の動揺にまだ震えていた。
「わしには、マルチアルがどんなことにも同意するだろうとわかっていたよ」と、ミドン司祭は言った。「彼の心中を十分知りつくしていたからこそ、男爵をあの農場から出発させる準備はすっかりととのえておいたのだ。男爵は陛下の通行証が手に入るまで、あなたのところに身を隠して待てばよい。明日の晩、男爵をあなたの家に移すから準備をしておいてほしい。ボルドリーでみんな一緒に夕食をとることにしよう」
マリー・アンヌは幸せだった。もう独りではないのだ。仲間たちがそろえば、頭にまつわりついて離れぬマルチアルのことをきれいに忘れさせてくれるだろう。こんなわけで、翌日も彼女は、この何か月かの間感じることがなかったほど心楽しい気分だった。
八時が鳴って、ヒュウと一吹き口笛がきこえた。ポアニョの息子だった。病人の肱掛椅子とミドン司祭の医療袋やら薬箱やら、それに本をいっぱい詰め込んだ袋を運んで来たのだ。それらのものをマリー・アンヌは二階の部屋に運び入れてもらった。そこを男爵のためにとっておいたのである。それがすむと彼女は、再びもどってくるはずのポアニョの息子を迎えに行くべく家を出た。
暗い夜だった。マリー・アンヌは急いだ。彼女は気づかなかった。我家の狭い庭の中に動かぬ二つの影がひそんでいたことに……。
ブランシュ夫人に、自分の報告が嘘八百とはいわぬまでも、かなり杜撰《ずさん》なものである証拠をつかまれてしまったシュパンは、実は前の晩、ついつい見張りを怠けてしまったことを白状した。知合いたちにばったり出くわし、そのまま居酒屋に誘われ、いつになく深酒をしたというのである。
それを聞いたブランシュ夫人の口調は、冷ややかで手厳しかった。「いったい、どうやってその|へま《ヽヽ》を償ってくれるつもり?」
「まず差し当って、セルムーズ侯爵のことはうっちゃっておきましょうや。そうすりゃあたしも、あのマリー・アンヌの売女《ばいた》にかかりっきりで見張っていられまさあ。ボルドリーから目と鼻の所にこんもり高い木の繁みがありましてね。今夜から、あたしはそこへ腰を据えますよ。あたしに気づかれずにあの家に出入りするやつがあったら、それこそこの首をとられたって文句はいいませんや」
ブランシュ夫人はポケットから財布をとり出し、三ルイをシュパンに与えた。
「とっておおき。これからは呑んだくれないでおくれ。もしまた、あんな失敗を仕出かしたら、こっちももうお前は当てにしないで他の者を探しますよ」
陽の落ちるのももどかしく、彼女はその夕刻メディ叔母を呼んだ。
「用意してくださらない。ひとつ用をたしに出かけるんです」
メディ叔母が呼び鈴を鳴らそうとするのを彼女は止めた。
「小間使の必要はありません。二人が城館を抜け出すのは誰にも知られたくないの」
「わたしたちだけで? こんな夜に、歩いて?」
「急ぐのです。お待ちしますわ」
メディ叔母はあっという間に身支度を終えた。クルトミュー侯爵は床についたばかりだし、召使たちは食事の最中で、ブランシュ夫人とメディ叔母は誰にも見とがめられることなく、庭園の小さな出入口から野原へと抜け出した。
ブランシュ夫人はボルドリーをめざしていた。わざわざ畑を横切った。こうすれば人に会うこともなかろうと思ったのである。一時間あまり歩いて、とうとうシャンルイノーの屋敷が見えてきた。彼女はシュパンが言っていた例の小さな森まで来て足をとめた。
「着いたの?」と、メディ叔母が訊いた。
「ええ。でも黙ってここにいてね。見つけたいものがあるのよ」
彼女は森の中を歩きまわってシュパンを捜した。シュパンは見つからなかった。あきらめてメディ叔母のいる所へもどり、今度は二人で、ボルドリーの家を正面からうかがえる場所まで近づいた。二階の二つの窓に灯りがちらちら動いていた。明らかに暖炉で火がたかれているのだ。
「なるほどね」とブランシュ夫人が言った。「マルチアルはとても寒がりだから」
もっと近くまで行こうとしたとき、口笛がヒュッと鳴って彼女をその場に釘づけにした。すると街道とボルドリーを結ぶ小道の中ほどに、ブランシュには何とも見分けのつかぬ荷物をかかえた男が一人姿を現わした。ほとんど時を同じくして、女が――おそらくマリー・アンヌだ――出て来てその男のほうへ歩み寄った。彼らはちょっと話をして、一緒に家の中へ入った。やがて荷を持たずに男が出て来て、そのまま行ってしまった。
「いったいどういうことかしら?」ブランシュ夫人はつぶやいた。「もっと近寄ってみよう。窓からのぞいてみたくなったわ」
二人が小庭園に入り込んだとたん、家のドアがいきなり開いた。リラの木陰に身を隠すだけで精いっぱいだった。マリー・アンヌはドアに鍵をかけぬまま小道を下り、街道へ出ると視野から消えた。
「ここで待っていてくださいな」とブランシュは言った。「どんなことが起っても、声を立てないようにね。動かないで。すぐもどります」
そして彼女は家の中にはいり込んだ。一番目の部屋のテーブルの上に、マリー・アンヌは蝋燭《ろうそく》を残したままにしていた。ブランシュ夫人はそれを手にとると、大胆にも一階の隅々まで調べて歩いた。
一見してマリー・アンヌは奥の一間で寝起きしているとわかる。独りなのだ。ベッドがあるのはそこだけだった。窓ぎわに白木の小さいテーブルが置かれ、その上に水入れと、ごくありふれた陶製の洗面器がのっていた。
「夫はずいぶんケチな囲い方をしているらしいわ」と、ブランシュ夫人は考えた。
彼女はマルチアルの洗練された貴族趣味の習性を思い出した。そのマルチアルが、マリー・アンヌにこんな貧乏暮しをさせているのが、何とも合点がいかなかった。
台所では、炉のまだ熱い灰の上に何がしかの料理とシチューがうまそうに湯気をたてている鍋がかかっていた。
「あの女が、自分独りのためにこんな仕度をするはずはないわ」
それから彼女は二階の窓のことを思い出した。灯りが揺れていたはずだ。
真ん中の部屋に階段があった。彼女は上っていって一つの扉を押した。それから怒りの声をおさえかねた。ブランシュ夫人が見たのは、シャンルイノーが狂おしい情熱に駆られて飾りたて、手に入るかぎりの贅沢な調度を買いあつめて準備した、例の部屋だったのだ。
「わたしは何ておめでたい甘ちゃんだろう。階下《した》は誰に来られてもいいようにわざとありきたりの農家らしくしつらえてある。でもここは、この部屋はあの二人だけのものなんだわ。今こそマルチアルの、あきれるぐらいみごとな空っとぼけぶりがわかったわ。あのひとはどうしようもなくあの性悪女を愛している。そのあげく、世間体が心配になったものだから、ここに囲ってこっそり会いに来ることにしたのね。そしてここがあの人たちの秘密の楽園……愛の巣というわけなんだわ」
おまけにマリー・アンヌは誰かを待っていた。火が明るく燃え、暖炉の傍には大きな肱掛椅子。その椅子の前には花模様入りのスリッパ……。マルチアル以外のどんな男を、あの女は待っていたというのか? きっと口笛を鳴らしたあの男が情夫の来たことを知らせにきて、女は飛んで男に会いに行ったのだ。
マントルピースの上に、湯気の立つスープでいっぱいの小鉢がのっていた。マリー・アンヌが口笛の合図を受けた時、飲みかけていたものであることは明白だった。
今夜の発見をうまく利用してどんな風に復讐をとげようかと、ブランシュ夫人は考えた。ふとテーブルの上に開かれたままになっている大型の木箱に目を止めた。ガラスの小瓶がいっぱい詰っていた。特に二個の青いガラス瓶が彼女の注意を引いた。何やら|しち《ヽヽ》面倒くさい文字の上に『劇薬』と書きつけられている。
劇薬!……ブランシュ夫人はその文字を、一分以上もの間、眼を離すこともできないで、魅入られたように見つめていた。
「これを使わないって手はないわ」彼女はつぶやいた。
それから確かな手つきで一瓶とり上げた。栓を抜き、中身を少量てのひらにのせてみた。非常に細かい真白の粉末で、きらきら光り、砂糖によく似ていた。
ためらわず、顔色も変えず、後悔もなしに、彼女は瓶の中身を全部、小鉢の中のスープに落し込んだ。しばらくスプーンでかき混ぜた。それからちょっぴりなめてみた。わずかに苦い味がしたが、疑念を起させるほどではなかった。ブランシュ夫人はほっと吐息をついた。こうして復讐を果たしたブランシュ夫人には、罪に問われるはずもないという確信があった。あとは誰にも見とがめられずにここをうまく逃げ出すだけだった。
彼女は戸口のほうへ歩きかけていたが、折も折、階段を上ってくる足音が響いて彼女を棒立ちにさせた。人が二人のぼって来る。彼女は化粧部屋へ飛び込んだ。マリー・アンヌがもどって来たのである。大きな荷物をかついだ若い百姓が一緒だった。
「まあ、こんなところに灯りが!」入口の傍で彼女は言った。「さっき持って降りて、階下《した》のテーブルに置いたと思っていたのに」
若者が荷物を下ろした。
「これで引越しはお終いです。誰にも見られませんでしたね。さて、あの方はいつでもお出でになれますよ」
「何時にあちらを出られるの?」
「手はずどおり十一時には発たれます。こちらに移られるのをたいそう楽しみにしておいでですよ。十二時にはお着きになるでしょう」
マリー・アンヌはマントルピースの上の時計に目をやった。
「まだ三時間あるのね。暖炉の前にテーブルの用意だけしておくわ。いらしてくださるおかげで、わたしも久しぶりに食欲が出て来そうだと申し上げてちょうだい」
「お伝えいたします。わざわざお出迎えいただいてありがとうございました。おかげで二度の往復も苦労せずにできました。ではご機嫌よう、ラシュヌールのお嬢さま」
「さようなら、ポアニョさん」
ポアニョという名に、ブランシュ夫人は何の心当りもなかった。もし彼女がこの時、デスコルヴァル氏かミドン司祭の名前を耳にしていたら、彼女の復讐の決意もゆらぎ、事態がどう変っていたか知れない。
しかしそうはならなかった。ポアニョの息子は男爵のことを|『あの方《ムッシュー》』と言い、マリー・アンヌも『あの方』としか言わなかったのだ。
ブランシュ夫人はその人物を『マルチアル』と解釈した。彼女にとって十二時にここにやって来るはずの人物は、まさしくセルムーズ侯爵以外ではあり得なかった。どうしてためらったり恐れたりする必要があろうか! 彼女が恐れたのは、自分が見つかりはしないかということだけだった。
ブランシュ夫人はボルドリーの家で二時間半ほど、マリー・アンヌと二人だけだった。犯罪が成功し、復讐が遂げられ、しかも罪に問われる心配のないことを見届けるためには、そのぐらいの時間が必要だったのだ。それに毒殺死体が発見されるころには、自分は十分に遠く離れた場所にいるはずだった。第一、いったい誰が、この殺害と自分を結びつけて考えようなどとするだろうか?
(あの淫売め、なかなか飲んでくれないんだね)と彼女は考えている。
実際マリー・アンヌはスープのことを忘れていた。荷をほどき、椅子に上っては大戸棚にそれを片づけた。整理がすむと戸棚を閉め、夕食の仕度をするために暖炉の前へ小テーブルを引きずって行った。棚の上の小鉢に気がついたのはその時だった。
「忘れていたわ!」マリー・アンヌは笑いながら大きな声を上げた。
スープを口に運んだ。ついに賽《さい》は投げられた! 薬の作用はもはやブランシュ夫人の意志と関係なく、その力を発揮し出すのだ。誰が何といおうとも、彼女は毒殺者だった。
時が過ぎて行った。マリー・アンヌは何事もなかったように夕食の仕度を続けている。テーブルクロスをひろげ、上に食器を並べる……。
(時間がかかるのね!)ブランシュ夫人は思った。(人が来たらどうしよう……)
こうしているところを取りおさえられたら……と思うと、顔から血の気が失せて行くのが自分でもわかった。いや、これまで見つからずにすんでいることさえ奇蹟だし、マリー・アンヌが化粧部屋に何の用事もない様子なのも、まさに奇蹟と言わねばなるまい。マリー・アンヌが灯りを手にして階下《した》に降りて行くのを目にするや、ブランシュ夫人のおののきはさらに高まった。今のうちに逃げ出そうという考えが閃いた。でもどこから? どうやって?
(それにしても、あの瓶のレッテルはとんだ嘘つきだわ)
しかし、マリー・アンヌが再び姿を見せると、その判断がまちがっていたことがわかった。階下にいた五分足らずの間に、マリー・アンヌの様子はおそろしく変り果てていたのだ。顔は青ざめて醜くゆがみ、一面に紫の斑点が浮かび、歯ががちがち鳴った。持って上った皿をテーブルに置く手つきは、むしろそれ以上持っていられず、とり落したというに近かった。
(毒のせいだ。今ごろ効いてきたんだわ)と、ブランシュ夫人は思った。
マリー・アンヌは暖炉の前に立たずんだまま、あぶら汗の浮んだ額をしきりに手の甲でぬぐっている。呼吸《いき》も乱れた。突然よろめいて長椅子の上に力なく倒れ伏し、切ない声を上げた。
「ああ、神さま! なんて苦しいの!……」
半開きの戸口のあたりにひざまずき、首を伸ばして、ブランシュ夫人は毒薬の効果をじっとうかがった。マリー・アンヌは激しい発作に打ちのめされたあと、身体中の力が抜けたようにぐったりとなった。すぐに飛び上るように痙攣《けいれん》し、がたがた震えた。少しずつ顔が土気色に染って行き、眼は赤く充血してきた。苦痛が堪えがたいまでに高じているに違いない。しばらく弱々しい呻きを洩らしていたかと思うと、またもやすさまじい声を上げた。
「ああ、苦しい!……死んでしまいそう……神さま……」
マリー・アンヌは切れ切れの声で、自分が知っているだけの人たちの名を呼んでは救いを求めた。彼女が挙げたのは、デスコルヴァル氏、ミドン司祭、モーリス、兄のジャン、シャンルイノー、そしてマルチアル……マルチアル!――その名前を聞くだけで、ブランシュ夫人の心にのこる憫《あわれ》みの情をすべて消し去ってしまうに十分だった。
「せいぜい呼ぶがいいわ。どうせやって来た時は手遅れになっているんだから」
ブランシュ夫人に同情はなかった。マリー・アンヌはみるみるうちに死の淵へと近づきつつあった。痙攣も弱まってきた。一時的に意識がよみがえる間隔も、ますます早くなっている。やがて苦痛を訴える声さえ出なくなり、眼から光が失せた。苦労してもたげようとした頭を後ろにのけぞらせると、そのまま動かなくなった。
「終ったかしら……」
ブランシュ夫人は起きあがった。膝のあたりがふらついて、ほとんど立っていられなかった。かろうじて仕切り壁に寄りかかった。
復讐の仕上げに他ならぬ自分こそ毒殺者であることを名のって、マリー・アンヌの苦しみをさらに掻きたててやろう……そんな気分ももはや残っていなかった。自分の犠牲者の目にとまることなく、この場から逃げ出したいということしか頭になかった。勇を鼓して化粧部屋のドアを押し開け、寝室に踏み入った。
三歩と歩かぬうちに、いきなりマリー・アンヌが身を起し、手をいっぱいに広げて通せんぼをした。その動作があまりに不気味でおそろしく、ブランシュ夫人は窓ぎわまで飛びのいた。
「ブランシュ……ここにいたの……」と、マリー・アンヌはとぎれとぎれの口調で言った。
そして己れを見舞った苦悶の謎がはじめて解けたらしく、彼女は声を大きくした。
「毒を盛ったのね!……」
こうして見つかってしまった以上、ブランシュ夫人はもはや白《しら》を切るつもりはなかった。彼女は前に進み出て言った。
「そうよ、わたしよ。復讐させてもらったのよ」
そして昔どおり、友だち同士にもどったような口ぶりで続けた。
「あの晩あなたがお兄さんを使って、わたしの夫を横取りするのを、指を食わえて我慢していられたと思うの? 妻であるわたしでさえ、あのひととはもう会えなくなっているというのに!」
「あなたの夫! わたし、何のことかわからないわ」
「彼の情婦じゃないと言い張るつもり?」
「セルムーズ侯爵ね!……でもわたしあの方とは、デスコルヴァル男爵の脱獄以来、きのうはじめて会ったのよ!」
身を起し、立ち続け、しゃべろうとするマリー・アンヌの努力もそこまでだった。彼女は再び椅子に倒れ伏した。
「本当なの!」ブランシュ夫人は言った。「……マルチアルと会っていなかったなんて! じゃ、この立派な家具や絹の壁掛けや、それに絨毯《じゅうたん》も、あなたのまわりにあるこの高価な品物はみんな誰の贈物なの?」
「シャンルイノーよ」
「すると、今夜あなたが待っていたのはシャンルイノーなの? 刺繍入りのスリッパを暖めたり食卓の用意をしたのは、シャンルイノーのためなの? ポアニョという男に衣裳を運ばせたのも、シャンルイノーだというの?」
犠牲者は無言だった。
「それごらん。待ちびとはわたしの夫、マルチアルにきまっている!」
マリー・アンヌは、苦痛を必死にこらえながら考えをめぐらしていた。待っている人の名を言ってしまってよいものだろうか? それを口にすれば彼を危険にさらし、あるいは敵の手に売り渡すも同然ではないだろうか? その時、一つの考えが浮んだ。ドレスのホックをはずしてコルセットを寛《くつろ》げ、折りたたんだ一通の書類をとり出し、消え入りそうな声でやっと言った。
「わたし、セルムーズ侯爵の愛人なんかじゃないわ。モーリス・デスコルヴァルの妻です。ここにあるのがその証拠よ。読んでごらんなさい……」
ブランシュ夫人は、その書類に目を走らせるや否や、マリー・アンヌに劣らず真っ青になった。それはモーリスとマリー・アンヌが神前で結ばれた時の結婚証明書だった。ヴィガノの司祭の署名があった。老医師とバボア伍長が立会人になっているし、聖堂教区の印が押されている。
ブランシュ夫人は激しい衝撃におそわれた。無用の罪を犯してしまったのだ。一人の何の咎《とが》もない女を死に追いやってしまったのだ。やっと我にかえると胸の鼓動が早鐘を打つように早くなり、その声は震えを帯びていた。
「わたしは……誰か助けて、誰か来て……」
十一時が鳴った。みんな寝ている時刻だ。それに最も近い農家でも一キロは離れている。ブランシュ夫人の声は夜の漠々たるしじまの中に空しく呑まれて行った。もっとも、下で待っているメディ叔母には聞えているはずだった。しかしたとえそうであるにせよ、彼女は、二階へ駆けつけて来るぐらいならむしろ殺されたほうがましだと思うまでに怯えきっている。ところがこの痛切な悲鳴を聞いた者がもう一人いたのである。
ある男が足音も立てずに上って来た。彼は救いの手ではなかった。自ら姿を現わそうとはしなかったのである。もっとも誰かがブランシュの呼びかけに応えて駆けつけたとしても、手遅れにはちがいなかったのだけれど。マリー・アンヌには、死が彼女の魂を少しずつ掴みとろうとしているのがよくわかった。
「ブランシュ!……」彼女はつぶやくように言った。「人を呼んでも、どうにもならないわ。このまま静かにしていて……長い時間じゃないから」
「黙って! もう話をしないで。死んではだめよ! もしあなたが死んだら、わたしこれからどうしたらいいの」
マリー・アンヌは答えない。ただ、ぜいぜい呼吸《いき》を喘がせ、その手は麻痺したように力なく、すでに持ち主の意に従おうとはしなかった。
「もうわたしを救えるものは何もないの。でも自分を悲しんだりしないわ。たとえ生きながらえても、いずれどんな死に方をするものやらわかりはしませんもの。生命なんか惜しくない。この一年、ほんとうに苦しんだわ! こうなる宿命だったのね」
その時マリー・アンヌは、死にかかった者に訪れるあの束の間の明析な意識のよみがえりを得ていたのだ。彼女は十分に自覚していた。自分が父の命ずるままに、あの不実と虚偽に満ちた役回りを甘んじて引き受けたからこそ、あのもろもろの罪の実行が可能になったのだ。父の命に従うことで、自分は数々の偽りや人目をあざむく見せかけの下ごしらえをすることになったのだ。今こうなったのも、いわばその報いなのだ。そんな風に考えていたマリー・アンヌは、甘んじて死を受容れるつもりになっている。ところが朦朧《もうろう》となった彼女の意識に、突然一つの考えが電光のように閃いて、声を上げさせた。
「わたしの坊や!……」
マリー・アンヌは、毒の効力もすっかり奪いつくせなかった気力の残りをふりしぼって、長椅子の上に身を起した。顔がゆがんでいた。
「ブランシュ!……」信じ難いほど力のこもった口調で彼女は呼びかけた。「よく聞いて。一生の秘密をあなたに話しておきたいの。誰も思ってもみないことだけど……わたし、モーリスの子を産んだのよ……あの人はどこかへ姿を隠してしまった……彼が死にでもしたら、わたしたちの息子はどうなるのかしら! ブランシュ、どうか誓って。あなたはわたしを殺したのだから、わたしに代わって子供の傍にいてくれると……」
「誓うわ! きっと誓います!」
「よかった……そのことばと引き換えに、あなたを許します。きっとですよ。誓いを忘れないでね! 神さまは死者が復讐することをお許しになることもあるのよ。あなたは誓った。決して忘れないで……」
「忘れないわ。でも、その子は今どこに?……」
「わたしは卑怯者でした。世間の噂が恥かしくて、しりごみしてしまった……。それにモーリスの言いつけでもあったし……子供とは別れてしまったのよ。あなたに嫉妬されたことも、こうして死ななければならないことも、その報いにちがいない。わたしはなんて不幸な女だろう。ブランシュ、今のこと忘れないでね!……」
さらに二こと三ことつぶやいたが、何を言っているのかわからなかった。ブランシュは勇を鼓して、マリー・アンヌの手を強く握った。
「子供は誰に渡したの? 誰に?……どこにいるの?……ひとことだけでもいいわ、何ていう名なの? マリー・アンヌ!」
哀れな女の唇は最期の吐息をもらしただけだった。そのまま、ばったりと倒れ伏した。マリー・アンヌはヴィガノの老医師の名を言いのこせないで死んだのだった。
毒殺者は怯え、顔青ざめ、むやみに眼を大きく開けたまま、部屋の真ん中に立ちすくんでいた。何もかも考えることができず、自分の置かれている立場も忘れ、客が真夜中の十二時に到着するはずであることさえ、頭に思い浮ばなかった。ところが先刻彼女が助けを求めて叫び声を上げたとき、一人の男がやって来てそんな彼女をうかがっていたのだ。
マリー・アンヌが最期の息を引きとったのを見届けると、この男はドアを軽くノックしてから、眉をしかめた顔をのぞかせた。
「シュパン!」ブランシュ夫人は声をつまらせた。
「いかにもあたしでさあ。他のやつらでなくて幸いってもんですぜ。だが、ここに長居はご無用。誰がやってくるかわかったもんじゃない。さあさあ……おや、どうかしましたかね、ご気分でも悪くなりましたかな?」
シュパンは死体をまたいで近寄ると、子供のようにブランシュ夫人を軽々と抱き上げ、部屋の外へ運んだ。老いぼれの畑泥棒は上機嫌だった。この先、心配事はなくなったのだ。今やブランシュ夫人は自分と同じ穴の|むじな《ヽヽヽ》ではないか。生きた空もなかった彼女は外の空気に触れて人心地がついた。
シュパンに屋敷の外に連れ出されたところで、ブランシュ夫人は思い出した。
「メディ叔母さん!」
哀れな叔母はまだ同じところにいた。
「おしゃべりをしている場合じゃありませんぜ」とシュパンが言った。
それからブランシュ夫人の腕をとり、例の小さな森に向った。と、闇の中で出し抜けにかん高い笑い声がして、シュパンの足を止めた。彼はブランシュ夫人の手を突き離して身構えた。
木陰に隠れていた男が飛び出して来て、短剣で四度シュパンを突いた。
「聖母マリアさま、今こそ誓いを果たしましたぜ。これからは、ナイフを使って飯が食えようってもんだ」
「あっ、旅籠の亭主だな!」と言うなり、シュパンはばったり倒れた。
「さあ、早く逃げなくては!」姪《めい》の手を引っぱり、メディ叔母がせきたてた。
シュパンは最後の力をふりしぼって家までたどりつき、扉をたたいた。女房と末っ子は寝入っていた。酒場からもどったばかりの上のほうのせがれがドアを開けた。父親が倒れているのを見て酔っているのではないかと思い、立たせようとした。
「このままにしておいてくれ! おれはもうお終いだ」と、シュパンは言った。「それより、おれの言うことをしっかり聞いておけ。ラシュヌールの娘がブランシュに毒殺された。………そのことをお前に教えておこうと思ってな……こいつは金蔓《かねづる》だぞ……お前が馬鹿でないかぎり……」
シュパンは息絶えた。ラシュヌールを密告して得た金の隠し場所を、言いのこすゆとりはなかった。
十三
ポァニョおやじの家で半年も過ぎたころ、デスコルヴァル男爵は松葉杖の助けをかりて、どうにか歩く練習も始められるようになった。そしてボルドリーのマリー・アンヌのもとへ移り住むという提案を、有頂天になって受けいれた。
引越しの当日は朝から、逃亡者たちが農場に滞在中、何とか掻きあつめることのできた生活物資の荷造りがされた。夜になるとポアニョの息子が引越しを始めた。ついで男爵を移すことになった。荷車に乗せ、細心の注意を払いながら若い農夫が御《ぎょ》して行った。
その後から少し遅れて、ミドン司祭に腕を預けたデスコルヴァル夫人が続いた。あたりは黒々とした闇に包まれていた。セルムーズの元司祭は、正体を見破られる危険なしに、教区のどんな人の目をもあざむく自信があった。髪とひげは伸びるにまかせていたし、頭のてっぺんの剃りあとも今は消えていた。それに、界隈の裕福な百姓たちと変らぬ出で立ちだった。
この数か月以来はじめて、心がのびのびとくつろぐのを覚えた。そして心の中では、遠からず男爵がすっかり元通りの身体になるばかりか、公正な裁判官たちから無罪の判決を勝ちとり、デスコルヴァルの領地で昔どおりの生活をおくれるものと信じ、明るい将来の空想を楽しんでいた。そればかりか司祭自身も、司教区の司祭職に復帰できるはずだった。ただモーリスのことを思い出すと、そうした心のやすらぎにも影が射さずにはいなかった。
(しかし、仮に何か不幸なことが起ったのならそれなりの知らせが届いているはずだ。あの勇敢な老兵がついているのだから、万一のことがあっても、何とかして我々に知らせてくれているはずだからな……)
やがてポアニョの息子が路上に荷車をとめた。彼は数時間前にやったと同じように、一行の到着を告げる口笛の合図を送った。しかし誰も姿を見せない。もう一度、もっと強く吹いた。やはり応じる者はいない。その時デスコルヴァル夫人とミドン司祭が荷車に追い着いた。
「おかしいですね」と、ポアニョの息子は言った。「マリー・アンヌには聞えていないようだが……。彼女が姿を見せるまで男爵を車から下ろすわけにはいかない。そのことは、あのひとも承知しているはずです。そうだ、わたしが呼びに行きましょう」
「いや、眠っているのだろう」と司祭が答えた。「君は馬をみていてくれ。わしが起してくるから」
司祭は別に案じる様子も見せないで小道に入って行った。すべては静まりかえり、沈黙がボルドリーを包んでいる。二階の窓に灯りが一つ点っているだけだった。ただ、戸口が開けっ放しになっていた。
「これはどうしたことか?」と司祭は思った。
一階には灯りがなかった。司祭は手探りで階段をさがした。やっとの思いで階段を上った。だが入口のところで立ちどまり、恐ろしさのあまり化石のように動けなくなった。哀れなマリー・アンヌが倒れていたのだ。彼女は眼をいっぱいに見開き、舌は黒ずみ腫れあがったまま、だらりと口からはみ出していた。
「死んでいる!」司祭は声をのんだ。
司祭は必死に気力をふるい起し、不幸な女の上にかがみ込んで彼女の手をとった。しかしその手は冷えきっていて、腕は鉄の棒のように突っ張っていた。たとえミドン司祭に医師としての長い経験がなかったとしても、事態を見極めるのには十分だった。
「毒殺されている!……砒素だな」
かくなる上は、男爵を農場に連れもどす他はない。問題は、ひどいショックを与えるにちがいないこの惨事を伏せたまま、どうやって男爵に計画の変更を納得させるかである。司祭は駆けもどると男爵にこう説明した。ボルドリーに滞在する予定は変えたほうがいいだろう。怪し気な連中があたりをうろついているのを見かけたし、マルチアル・ド・セルムーズの善意あるはからいが期待できることになった以上、何はともあれ、今まで以上に慎重に振舞うにしくはない……。司祭の説得は効を奏した。
「お考えどおりになさってください」男爵はほっと溜息をついた。「おっしゃるとおりにしますよ」
デスコルヴァル夫人は荷車の上で夫に付添っていた。一行が遠ざかって行くのを司祭は見守っていたが、車の音が聞えなくなるとボルドリーへとって返した。マリー・アンヌの遺体の前で、一人の男がひざまずいて泣いていた。相手がそれと気づく前に、司祭は男の正体を見てとった。
「ジャン!……ジャン・ラシュヌール」
とたんに若者は立ち上がった。青ざめて、挑むように身構えた。
「誰だ?」脅しつける調子で訊いた。
百姓着を着て髭を長く生やしていたので、ちょっと見には元セルムーズの司祭とはわかってもらえず、わざわざ名のらなければならなかった。ジャンは司祭と知ると歓喜の声を上げた。
「神があなたをおつかわしになったのだ。多勢の人を救ったように、妹を救うためにお出になられたのです」
司祭は天を指し示した。そのしぐさを見てジャンはいっそう青ざめた。マリー・アンヌがもはや絶望的であることを悟ったのだ。
「では運命はまだ我々に辛く当ろうというつもりか! マリー・アンヌのことはいつも心にかけていました。ただ、なにしろ離れていた……。今夜も、十分気をつけろ、と言いに来たのでしたが……」
「何だって! 君は何か知っているのかね」
「彼女がとても危険な瀬戸際だったことをね。そうだ、一時間ほど前のことです。セルムーズの居酒屋で夕飯を食っていると、グロレに住んでいるやつが入って来ましてね、こう言うんです。おいここにいたのか、ジャン。マリー・アンヌの家の近くで、シュパンおやじが誰かを待ち伏せしているのを見たぞ。あいつめ、おれに見られたと知ったら逃げ出しやがった、ってね。だからぼくは息せき切ってここまで走って来たんです。しかし、遅すぎた」
ミドン司祭は考え込んだ。
「すると、このことと何か関わりがあるというわけか……」
「いや、待って下さい司祭さん。シュパンはこの犯罪の手先にはちがいないが、やつがこれだけのことを自分で考えつくはずはない。黒幕は他にいるはずです。お目当てにすべきはもっと大物ですよ。人殺しはマルチアル・ド・セルムーズだ」
司祭はジャンの目つきにぎょっとなってたじろぎ、叱りつけるような口調で言った。
「ばかな! 気でも狂ったか」
しかしジャンは頭を大きく横にふった。
「司祭さん、あなたはマルチアルがマリー・アンヌにどれほど夢中だったか、ご存知ないのですよ。やつは妹を情婦にしたがっていました。そんな名誉を彼女はきっぱり断りましたがね。マルチアルは、ラシュヌールの娘が決して自分のものにはならないという、はっきりした証拠を見せつけられたため、妹を毒殺したんです。他の男にとられるぐらいなら、いっそのこと……と思ってでしょう」
司祭は心の中でつぶやいた。(明日、もっと落着いた時に、道理を説いてやらなければな……)
ジャンが黙ったので司祭は言った。
「この不幸なひとを放っておくわけにはいかない。ベッドに寝かせよう、手を貸してくれたまえ」
この痛ましい務めをやり終えると、ジャンは黙り込み、身じろぎもしなかった。ミドン司祭は枕もとにひざまずいた。唇には祈りのことばを上せながら、しかし心のうちでマリー・アンヌはなぜ死んだのかと考えていた。他殺か? それとも自ら選んだ死だろうか?……
朝になると司祭は庭に出て、家の周囲を調べ始めた。その範囲を少しずつひろげて行った。だが手がかりになるようなものは何も見つからなかった。そして、こんな無駄骨折りの捜索を打ち切ろうかと思い出したころ、小さな森へ踏込んだところで、向うの草の上に大きな黒い汚点《しみ》のようなものを発見した。司祭は大急ぎで駆けもどってジャンを呼んで来ると、自分が見つけ出したものを彼に見せた。
「この場所で誰かが殺されましたね」と、ジャンは言った。「同じきのうの夜のことでしょう。血がまだ乾ききっていないし、それに、被害者はすごい出血だった」
「痕跡をたどって行けば、それが誰かわかるのではないかね」
「ぼくがやってみましょう」ジャンは応じた。
その負傷者を追跡する仕事は子供にもできたろう。血の滴りはそれほど鮮かにはっきり残っていたのである。そしてその血の跡はシュパンの家に到って途切れた。畑泥棒の上のせがれが戸口を開けてくれた。そこには異様な光景がくりひろげられていた。密告者の死体は部屋の隅に投げだされたまま、ベッドは引っくり返り、中の藁《わら》もあたりにばらまかれていた。そのうえ死んだシュパンの子どもと女房が、てんでにシャベルや|つるはし《ヽヽヽヽ》を手に、このあばら屋の土間の踏みならされた土を掘っくり返している。宝さがしなのだ……。
「何のご用ですかね」と、寡婦《やもめ》が訊いた。
「シュパンおやじさ」
「ごらんのとおり、誰かに殺《や》られちまいましたよ」せがれの一人が答えた。「やったやつはたぶんあんたのお仲間でしょうがね、まあ、そいつはお上《かみ》にまかせていいこった。……どうですかい、ずらかっちまっちゃあ? 危ないことになるかもしれませんぜ!」
ジャンは無言で立ち去り、ボルドリーへ向って歩いた。
「父を売った裏切り野郎は、この手で息の根を止めてやろうと思っていたのに、復讐の当てがなくなってしまった……。マリー・アンヌを毒殺したあとでマルチアルがやつを殺したんだろうか?」
ボルドリーに着き二階に上がりかけたとたん、奥の部屋から話し声がきこえたような気がした。すぐにミドン司祭が出て来て、行手をさえぎるように後手でドアを閉めた。司祭は顔色も悪く、不安気な様子だった。
「どうしたんですか、司祭さま?」と、ジャンはせきこんで訊いた。
「モーリス・デスコルヴァルが来ている。バボアも一緒だよ」
ジャンはびっくりした。
「どこからやって来たのです? なぜ先に知らせをくれなかったんでしょう」
「わたしにはわからないよ。五分ほど前に着いたばかりなんだ。可哀そうに、父の男爵が助かったことを教えてやると、最初に言ったことばが『マリー・アンヌは?』だった。あの娘《こ》に会えるのを楽しみにもどって来たのだ。わしには真実を告げるのがとても辛い……」
「ああ、なんて運のない!……なんて不幸な男なのだ!」
「こうしてあらかじめ説明しておきたかったのも、そのためさ。いいかね、せいぜい注意深く振舞うのだよ。来たまえ」
二人は連れ立って部屋に入った。モーリスと老バボアはジャン・ラシュヌールの手を握った。レエシュの荒地で決闘をしかけ、兵隊たちに邪魔されて以来会っていなかった。あの時は、お互いにこうして再会する日が来ようなどとは、夢にも思っていなかった。
「やっとまた会えた」モーリスは繰返し言った。
この不運な青年が、こんなに陽気そうに振舞うのははじめてだった。そして快活な口調で長い間便りをよこさなかったわけを、次のように説明してきかせた。
「国境を越えて三日後、バボア伍長とぼくはくたくたに疲れてテュランに着きました。情けないような宿屋へ入りましてね、当てがわれたのはベッドが二つある部屋でした。ところが翌朝、まだ夜が明けるか明けないうちに、そうぞうしい騒ぎに目を覚まさせられました。人相のよくない十二人ばかりの連中が部屋に押入って来たんです。一時間後には、ぼくたちは二人もろともに牢獄入りでしたよ。扱いはとても丁重なものでしたがね。ぼくの所持金に手をつけられることもなかったし、外からちょっとした食い物を買いたいと言えば、喜んで便宜をはかってくれたし、何冊か書物さえあてがわれるという具合でした。モンテニアックに引きもどされ、処刑されるのではないかという懸念すら感じませんでした。ただ手紙を書きたかったのですが、素性を隠している手前、これだけはできませんでした……。そうは言っても、長引くにつれて拘留されていることが堪えられないものになってきて、ぼくたちは監獄当局がうんざりするほど抗議を申し立て、フランス大使の介入を要求してやったんです。効果てきめんというやつで、典獄はいとも丁重にわれわれを釈放しました。何よりも最初にやるべきは大使館に行くことでした。一等書記官が会ってくれましてね、こっちの事情を説明してやると眉をしかめましたが、そのうちえらく厳しい表情になりました。彼はこう言うのです。
『あなたに申し上げられるのは、本国であなたが手配中の身であることとこの国での拘留の一件とは、何の関わりもないということです。ただ、あなたの敵の一人……、それが誰かはそちらでご推察いただきたいが、その人物はこのテュランで少なからぬ勢力を持っていましてな。きっとあなたの存在が、その人物には目ざわりだったのですよ。そこで政治的に手をまわし、あなたを拘留させたというわけですな』」
「ああ、書記官の言ったことには理由があるんだ」ジャンはさけんだ。「モーリス、きみをテュランに拘留させたのはマルチアルだぞ」
「あるいはクルトミュー侯爵だったかもな」と司祭はさえぎって言った。司祭の一睨みで、ジャンは喉まで出かかった言葉をのみ込んでしまった。
モーリスは肩をすくめた。
「やめてくれ! ぼくは過ぎたことなど思い出したくない。父が快方に向っている、そのことがぼくには大事なんです。司祭さまの力を借りて、父を安全に国境を越えさせる方策を何よりも考えたい。マリー・アンヌとぼくの間のことを言えば、ぼくの軽率さから彼女がもう少しで命を失いかねなかったことは、水に流してもらえるでしょう。ぼくたちはイタリアかスイスに住もうと思います。一諸に来ていただけますね、司祭さま。それに君もだ、ジャン。伍長、君は家族の一員のようなものだ……」
ミドン司祭とジャンの表情に、深い苦悩の色が現われた。モーリスは目ざとくそれを見てとり、驚いて訊ねた。
「何があったんです?」
二人は身を震わせ頭をたれて黙ってしまった。
「何が起ったんです?」押し殺したような声でモーリスは畳みかける。「父は助かった、そうでしょう?……すると、マリー・アンヌのことですね!」
「勇気を持つのだ、モーリス」と、ミドン司祭が口ごもるように言った。
モーリスはよろめいて、突然顔色を変えた。
「マリー・アンヌが死んだ!」彼はさけんだ。
ジャン・ラシュヌールとミドン司祭はなおも沈黙を続けた。
「死んだのだ!」モーリスは繰返す。「思ってもみないことだった、死んだなんて!……いつなんです?」
「つい昨夜だよ」と、ジャンが答えた。
「ゆうべ? でも……じゃあ彼女はここにいるのか! どこです? 二階か?」
返答も待たずあっという間に階段を駆け上った。ジャンもミドン司祭も引きとめる間もなかった。三歩で部屋に突進し、まっすぐ寝台まで駆けた。死者の顔を覆う布を私いのけた。モーリスは恐ろしい叫び声を上げて後ずさった。
ジャン・ラシュヌールと司祭が駆けつけてみると、立ちすくんだままのモーリスは、恐怖で目を大きく見開き、死体に向って両手を差しのべていた。
「モーリス、しっかりするんだ。男じゃないか」司祭が言った。
だがその声は彼には届いていないようだった。司祭は心配になった。
(このままでは気がおかしくなってしまうのではないか……)
否応ない口調で司祭は言った。、
「こうなったからといって、自分を駄目にする権利はないのだよ。子供のことも考えてみるがよい」
司祭の勧告が放心状態のモーリスを我にかえらせた。彼はさっと居ずまいを正した。
「そうだ、ぼくは生きなければならない。ぼくの子供……それこそマリー・アンヌだ。連れて行ってください。どこにいます?」
「それがそういかんのだ。実はわしも居場所を知らない」
モーリスの面ざしに、言葉に尽くせない苦悩の色が浮んだ。
「ご存知ないんですね。彼女はあなたに打明けなかったのですか?」
「いやいや、わしも彼女の妊娠の秘密は思いがけず知ったのだよ。それに、これはまずまちがいのないところだが、そのことに気づいていたのはわしだけだろう」
「あなただけですって!……それじゃあ、子供は死んでしまったのでしょうね、きっと。生きてるにしても、誰が教えてくれます? そのとき立ち会った人たちに訊ねてみたい。いったいどんな人たちなんです? マリー・アンヌが死んだとき、その場にいたのは誰です?」
司祭は無言だった。そのときモーリスに閃くものがあった。
「彼女は犯罪の犠牲者だったのだ! その悪魔野郎は、殺さねば気がすまぬほどあれを憎んでいたのだ……」
しばし言葉をとめ、何かを思いめぐらしていたモーリスは、突然、恐ろしい事実に気づいたかのように痛々しい口調で続けた。
「こうしてマリー・アンヌが死んだからには、ぼくらの子供は永遠にどこかへ行ってしまったんですね? ああ、何てことだ!」
絶望のあまり彼は椅子に倒れ込んだ。
(どうやら正気をとりもどしてくれた)と、ミドン司祭は思った。
そして司祭は、モーリスの絶望ぶりに心をうたれ、ただ見守るだけだった。そのときジャン・ラシュヌールが、眼をギラギラ光らせながら司祭を壁のくぼみへ引っ張って行き、かすれ声で訊いた。
「子供、子供って、いったい何のことです?」
司祭の頬が一瞬赤く染った。
「君が聞いたとおりだ」
「マリー・アンヌがモーリスと|でき《ヽヽ》合ってたってことは解りましたよ。彼の子供を生んだこともね。あの聖女のように思ってた妹がそんなことになるなんて!……しかもモーリスはぼくの友だちだし、わが家の家族も同様の人間だった。今になってみると、やつの友情も我々から幸せを奪うためにかぶっていた仮面のようなものだ!……」
ジャンは歯を食いしばってしゃべった。しかしモーリスには聞えなかった。
「子供が生きているのなら、どこにいようともきっと見つげ出してみせる。だがモーリスには、仕出かしたことの償いをさせてやる……」
けれど、そこで言葉を中断しなければならなかった。街道を駆けてくる二頭の馬の足音がして、ジャンとミドン司祭はそれに注意を引かれたのである。窓からのぞくと、小道の前に立ちどまった乗馬姿の男が見えた。馬から降りて、これも馬にまたがった召使に手綱を渡した。それからボルドリーに向って歩いて来る……。その男に気づくなり、ジャン・ラシュヌールは恐ろしい獣のようなうなり声を上げた。
「セルムーズ侯爵! やつがここに!……」
ジャンはモーリスに跳びつき、気違いのように身体を揺った。
「立つんだ!」彼はさけんだ。「マルチアルが来たぞ、マリー・アンヌを殺したやつだ! 立て。やつが来た。この手でつかまえたも同然だぞ!」
モーリスは憤怒にかられ、さっと立ち上がった。ミドン司祭が二人の間に割って入った。
「二人とも早まってはいかん。マルチアルに指一本ふれようものなら、わしが許さんぞ。少なくとも、マリー・アンヌの亡骸《なきがら》の前であることを忘れぬことだ」
司祭の断乎たる威厳のある調子に、ジャンとモーリスはおとなしくなった。マルチアルがやって来た……。
彼は敷居をまたごうとしなかった。その場の光景を目ざとく見てとったのである。すっかり顔青ざめ、声も出なかった。そして言葉でたずねるかわりに指で問いかけた。恐しくゆがみ変り果てた顔のマリー・アンヌを、無言でさし示した。
「彼女は昨夜、卑劣な手段で毒殺された」と、司祭は言った。
モーリスは司祭の制止も忘れ、一歩進み出て言った。
「マリー・アンヌは独りでいたのだ、身を守る何の手立てもなしに。ぼくは自由の身になって二日しかたっていない。だが知っているのだぞ、誰がぼくを拘引させ、牢にぶち込んだかをね。それを教えてくれた人がいるのさ!」
マルチアルは本能的に後ずさった。
「そいつは、君だ!」モーリスはさけんだ。「語るに落ちるとは今の君のことだ!」
この二人の敵同士のあいだに司祭が割って入った。てっきり、今にもマルチアルがモーリスに跳びかかると思ったのだ。だがそれは全くの見当ちがいだった。セルムーズ侯爵は例の辛辣で気位の高い態度をとりもどした。彼はポケットから封筒を一通とり出すとテーブルの上に投げ出し、冷やかに言った。
「これはラシュヌール嬢に渡すつもりで持って来たものだ。まず、陛下のお墨付のあるデスコルヴァル男爵の通行証だよ。たった今から、男爵はポアニョの農場を出てデスコルヴァルに帰ることができる。彼は自由の身なんだ。有罪判決はとり消されるだろう。それからこれは、ミドン司祭の公訴棄却決定書と、セルムーズ教区において司祭に再任するという決定書。最後の一枚は、バボナ伍長の年金支給証書だ」
そう言い終えると、呆然として立ちつくす一同には目もくれず、マルチアルはマリー・アンヌの寝台に歩み寄った。それから死者の上に手を差し伸べ、重々しい決然たる口調で言った。
「マリー・アンヌ、ぼくはあなたの仇に報いることを誓う!」
彼は悲しみに我を忘れてしばらく動かなかった。それからいきなり身をかがめて死者の額に口づけすると、そのまま出て行った。
「毒を盛った人間のとる態度だろうか?」とミドン司祭が声高に言った。
ジャンは怒りを隠さなかった。
「いや、まさしくあいつです! 死んだ妹に最後の侮辱を与えたのです。これは名誉の問題だ、ちがいますか?」
「しかもあいつは父を救ってくれた。そのおかげで、ぼくはやつに指一本触れることができなくなってしまった」と、モーリスがさけんだ。
司祭は窓越しに、マルチアルが馬に乗るのを見ていた。だが侯爵はモンテニアックに通じる街道には出ず、クルトミューの城館に向けて馬を駆った。
ブランシュ夫人は、シュパンが倒れるのを見てすっかり動転した。
メディ叔母は、普段なら城館で飼っている猫が脚を折ってさえ気絶するくせに、今度は悲鳴ひとつ上げなかった。気もそぞろの姪の手をとると引っぱるようにして、時には手荒に小突きさえしながら、クルトミューの城館へ急いで連れ帰った。庭園のしおり戸に到った時、一時半を打つ鐘の音が聞えた。館では、二人の長い不在に気づいた者は誰もいなかった。部屋にもどり扉を固くとざすと、メディ叔母はブランシュ夫人に身体を寄せた。
「説明しなさい、何を仕出かしたの?」
「叔母さまには関わりのないことです」
「三時間以上もあなたを待つ間、ずいぶん辛抱させられたわ。わたしの聞いたあの悲鳴は、あれは何だったの? あなた、どうして助けを呼んだの? それに、まるで断末魔の喘ぎみたいなものさえ聞えたわ。シュパンのような男と、いったいどんなわけで関わりを持ったの? わたしには答えられないの?」
そう問いつめられたブランシュ夫人の心の中では、相反する二つの考えがこもごもに浮んで、せめぎ合っていた。たとえいかに空恐しいものであろうとも、率直に真実を打明けるべきだろうか? それとも、耳触りのよい釈明をでっち上げたものか? 仮にすべてを打明けたとしたら……。わが身の行く末はこのメディ叔母の胸三寸に握られ、左右されることになってしまうだろう。だが嘘をついてみたところでどうなろう? メディ叔母のことだから、ボルドリーでの犯罪が明るみに出たとたん、ショックのあまり無意識のうちにとんでもないことを口走り、かえって自分の嘘を世間の前にさらけ出すことになりはしないだろうか? そう自問を繰返すブランシュには、とるべき最も賢明な道はわかっていた。素直に有りのままに話す他はないのだ。そうすることによって、この叔母にも、やがて来たるべき嵐に備える心構えをしておいてもらうにしくはないのだ。
「わたし、マリー・アンヌがマルチアルの情婦だと思い込んでしまっていたのよ。わたしカッとなって、殺してしまった!……」
いかに世間をせまく暮らしていたとはいえ、それはメディ叔母も十中八、九まで見抜いていたことだった。おまけに彼女は、長年にわたる屈辱的な居候生活に耐えてきたために、世間一般の人がこんなことを聞かされた時に抱くはずの反撥も道徳観も、とっくに失ってしまっていたのである。
「ああ、誰かに知られたらどうしよう?」
そう言うと彼女は泣き出した。ブランシュ夫人の方は少し気が楽になった。自分たち以外によるべのない叔母の沈黙と、絶対的な服従を確信して大丈夫だと思えたのである。彼女は恐ろしい出来事の一部始終を事細かに話して聞かせた。
しかし、例の嫉妬をあとかたないものにした証拠の一件まできて、彼女は突然話を中断した。ヴィガノの司祭の結婚証明書は、あれからどこへやったのだろう? ポケットをさぐってみて、ほっと安堵の声をあげた。証明書はあった! それを引出しに入れて鍵をかけた。
ブランシュ夫人は、メディ叔母にどうぞ向うへ行ってしまわないでくれと懇願した。独りになりたくなかった。彼女はひどくおしゃべりになった。罪ほろぼしに何でもするつもりだ、マリー・アンヌの子を見つけ出すためには、たとえかなわぬことでも何でもやってみると、幾度も繰り返して倦《う》まなかった。死の床での自分の誓いを思い出しては、こんなことを言ったりした。
「つぐないはこれしかないわ。誓ったからには必ずやるわ」
夜はとっくに明けていた。城館のいたる所に、起き出した人々の活気があふれている。ブランシュ夫人はなおも繰り返し、マリー・アンヌの子供を見つけ出し、一年以内にモーリス・デスコルヴァルの手に返してやれるという確信に至ったいきさつを、くどくどと語って聞かせた。しかし彼女はその時いきなり話をやめた。直感的に、急に日ごろの生活習慣を変えることの危険を悟ったのだ。そこですぐメディ叔母を自分の寝室へ引き下がらせた。前夜もいつもどおりそこで寝に着いたようにベッドを乱れさせておくように言うのも忘れなかった。そして自分はいつもの朝どおり、鈴を鳴らして小間使を呼びつけた。
ちょうど身じまいを終えたころに鐘が鳴って、訪問客の到来を告げた。小間使がやって来た。ひどくうろたえている。
「いったい何ごとなの?」ブランシュ夫人はせき込んだ調子で訊いた。
「はい。セルムーズ侯爵さまが小サロンでお待ちでございます。奥さまに、ほんの少しばかりお時間をいただきたいとおっしゃっています」
マルチアルがこの苦痛にみちた会見を決意するまでには、少なからぬためらいがあった。しかし、デスコルヴァル男爵の再審をかちとるために必要な書類を入手するには、ブランシュとの会見も欠かすことのできぬ要素の一つだったのである。
そしてそれらの書類は、他ならぬクルトミュー侯爵の手に握られていたのだ。今になってみると、己れの愚かさにほぞを噛みたい思いだった。クルトミュー侯爵の書類から必要なものを見つけ出すためには、いやでもその娘であるブランシュに協力を請う他はなかった。それが故に、マルチアルはずっと自分に言いきかせてきたのだ。
(さあ、いよいよマリー・アンヌに男爵の通行許可証を持って行くのだ。そのあとクルトミューにも寄らねばならん)
マルチアルは喜び勇んでボルドリーに着いた……しかし、ああ! マリー・アンヌは死んでいたのだ。その時マルチアルが受けた衝撃の深さは疑うべくもない。ましてやその前夜、クロア・ダルシーでこの哀れな娘の心情を痛いほど読みとっていただけに、彼の受けた苦痛はいっそう深いものだった。
かくしてマルチアルは真底から復讐を誓ったのである。それに彼の良心は、この犯罪に自分も責任の一半を負っていることを責めないではいられなかった。なぜなら己が一門の権勢を濫用し、モーリスをテュランで逮捕させたのは、まさしく彼自身だったからである。
しかし自分の恋心をつのらせたあまり、恥ずべき不誠実な振舞いに及んだとはいうものの、彼は愛するひとに振られたことを逆恨みするほど、自らをいやしくおとしめることはできなかった。また、マリー・アンヌが死んでしまった今、せっかく勝ちとった陛下からの恩恵を生かすも殺すも、彼の心次第だった。マルチアルはとてもとても、それをフイにしてしまう気にはなれなかった。侮辱されたと感じた彼は、かえって自分の雅量の深さを見せつけて、侮辱し返してやるつもりだったのだ。ボルドリーを前にしながら心ひそかにこう思ったのも、そんな理由からだった。
(彼女のためにぼくはクルトミューへ行く。彼女の思い出にかけて、男爵は救わねばならぬ)
マルチアルは、青い絹張りの、一階の小サロンに招じ入れられると思わず身震いした。
かつてブランシュと知り染めたころ、そして彼の心がマリー・アンヌとブランシュのどちらを生涯の伴侶とすべきか迷い、決めかねていたころ、ブランシュが彼を応待したのはこの部屋だったのだ。彼がそんな感懐にふけっている間に、ブランシュが入ってきた。彼女があまり打ちひしがれた様子だったのでマルチアルはおどろいた。
「何か辛いことがあるのかい、ブランシュ」マルチアルが言葉をかけた。このひとは何も知っていないと、ブランシュ夫人は信じた。男がすっかり心を動かされているらしいのを見てとると、主導権はこっちにあると思った。
「あなたに疎《うと》まれては、心なぐさむすべもありませんわ」と、喉をつまらせんばかりの涙声で答えた。
「それじゃ、ぼくのことを許してくれるのかい?」感にたえたようにマルチアルは口ごもった。
この女役者は、あたかもその瞳に浮かんだ女らしい弱さの告白を読みとられまいとするかのように、ついと顔をそむけた。しかしマルチアルは、それ以上返答を強いようとはしなかった。そして頼みごとを切り出した。それはすぐに聞きいれられた。マルチアルとしては今はこれ以上、ブランシュと自分の問題について深入りしたくはなかった。
「君さえかまわなかったらまた来よう。明日……いや、いつか別の日に……」
すっかり外に出てから、マルチアルは思いをめぐらした。
(あれは真実ぼくを愛しているんだ。芝居であんなに顔色が悪かったり、やつれたり出来るわけがないからな。何といっても彼女はぼくの妻なのだ。ぼくらの仲がこれ以上ぶちこわれたままでいいという理由はもうどこにもない。クルトミュー侯爵は死んだも同然だし……)
セルムーズの村に入ると、村の者すべてが広場に集まっていた。折しもボルドリーの殺人事件のニュースがもたらされたところだったのだ。予審が開かれたものの、老いぼれの無頼漢の死は裁判所を、その不可解さで大いに悩ませたにちがいない。調査の結果は次のようなものであった。
――マリー・アンヌ家に侵入したシュパンなる男は、女主人の束の間の不在を幸いに、たまたま手もとにあった毒薬を食物に混入したものである。
さらに報告書はこう付け加えている。――その後、時を経ずしてシュパンはバルスタンなる男に殺害された。この者は所在不明である……。
しかしこの地方の人たちには、実はこの殺人事件よりも、マルチアルがブランシュ夫人のもとを何度も訪ねているというニュースのほうが、もっと重大な関心事だった。
それから程なく、セルムーズ侯爵夫妻の|より《ヽヽ》がもどったことが聞えてきた。さらに少し後、夫婦はパリに向けて出発したという話を人々は聞いた……。二人が発った翌々日、シュパンの上のほうの息子が、自分もパリに住むつもりだと吹聴してまわった。周囲の者に、そんな土地へ行ってもいずれ野たれ死するのがオチだと言われると、彼は自信たっぷりに答えたものだ。
「そいつはどうかわからんぜ。それどころか、おれには確信ってやつがあるのさ。あっちに行けば、金に不自由することはねえんだよ!……」
十四
平和なオアゼルの渓谷を騒然とさせた恐ろしい情熱の嵐が去って一年足らずで、もうあのころのことを思い出させるようなものを見つけるのも難しいくらいだった。
これらの事件がすべて現実にあったことを確め得るような手がかりは、何も残っていないに等しい。事件はほんの一年前のことでありながら、早くも昔語りの伝説同様になってしまったのだ。
レエシュの荒地には、炎が焼き尽した黒ずんだ廃墟が残っているだけだ。そして墓地に一基の墓があり、次のように刻まれている。
[#ここから1字下げ]
マリー・アンヌ 享年二十
彼女のために 祈れかし
[#ここで字下げ終わり]
それも村の何人かの古老が覚えているぐらいである。しかしそれにしても、モンテニアックにおける血なまぐさい惨劇を自ら演じた者たちが、すべて不運な終り方をしたという異常ささえ、人々に何の印象も与えなかったのだろうか?
ラシュヌールは断頭台の露と消えた。シャンルイノーは銃殺、マリー・アンヌは毒殺、シュパン――あの裏切者までが闇打ちにあっている。クルトミュー侯爵にしても、まだ生きてはいたものの、それも名ばかりのことだ。しかも全くの痴呆状態にあるとあっては、むしろ死んでいたほうが幸せだったかもしれない。彼は二人の召使に身のまわりの世話をやかれていた。召使たちも気晴らしに外出をするのだが、そのたびに侯爵はその獣めいた吼え声を外の者に聞かれぬよう地下室に閉込められる始末だった。
十二月のある晴れた日の朝、セルムーズ公爵は馬を駆って、付近に出没しはじめたオオカミ狩りに出かけた。夜になってから馬だけがもどって来た。この馬はすっかりおびえていて、胴振いがとまらなかった。ある牧夫が、絶壁の底にボロ切れのように変わり果てた公爵の死体を見つけたと城館まで知らせて来たのは、わずか五日後のことだった。
翌週、ジャン・ラシュヌールは、二度と故郷の地を踏むまいと決心してこの地を去った。彼の突然の旅立ちは、当然ある種の憶測を広まらせずにはいなかった。しかもマリー・アンヌが死んだあとも、その財産を引き継ぐことを初めは拒み続けてきたのだ。ところが、短い間どこかへ姿を消していたあと舞いもどるや、遺産の継承を承諾したばかりか、今度はその法的手続きを急ぎさえしたのである。当然なにかよからぬことを企んでいて、当人はそうした疑惑を晴らそうと一生懸命なのだと思われずにはいなかった。そして事実、自分の行動を正当づけることに骨を折り、複雑な説明や言い訳を、飽きもせずに繰り返していた。
現実に遺産を手にするや、そのことごとくを即金払いの取引きで売り払った。処分しのこしたのは、ボルドリーのあの美しい部屋にあった家具類だけで、ジャンはそれも焼いてしまったのである。
「とうとう気がちがったのだ!」と、人々はうわさし合った。
そしてジャン・ラシュヌールが、たまたまモンテニアックに立寄った旅芸人の一座に加わったことを知るにおよび、もはや誰一人、彼の頭がおかしくなったことを疑う者はなかった。
ミドン司祭もデスコルヴァル男爵も、今や人目を避けて逃げ隠れする必要はなくなった。マルチアル・ド・セルムーズのおかげで、白昼大手を振って歩けることになったのである。司祭は司祭館にもどり、デスコルヴァルは領地に帰った。男爵は再審で無罪となり財産も返還された。それにあの墜落事故が彼にのこしたのは、軽くびっこをひくことぐらいだった。男爵は息子のことを思いやるたびに、胸を突かれる思いだった。この一事さえなかったら、心からその幸福に酔うことができただろう。
「かわいそうなモーリス! マリー・アンヌが死んでどんなに辛い思いでいることか。今のあれには、どこにいるともわからぬ子供を見つけ出すことが、最後に残された生きがいなのだ」
毎日彼は、周辺の土地を巡って一軒一軒たずねて歩いた。だが探索はむなしく、モーリスを失望させるばかりだった。
「ぼくの子供は、生れおちたときには死んでいたのだ」彼は何度も繰り返した。
だが司祭の答えは違っていた。
「いや無事でいるよ。そう信じてもいいわけがある。マリー・アンヌがわしの前からしばらく姿を消していた時期を思い合わせると、子供の産まれたのがいつごろだったか見当がつく。しかも、出産を終えたとおぼしい時点からすぐあと、彼女に逢ったがね、とても明るく晴ればれとしていたよ。……答えは決まっているじゃないか!」
そう言って司祭は、時を稼ごうというつもりだった。いかなる悲しみも時が癒《いや》してくれるということを、彼はよく知っていたのである。しかし、はじめのうちこそ堅かった彼の信念も、その界隈《かいわい》でいちばんおしゃべりなある婦人のために、ぐらつかされるに至った。その老婦人は、このあたりで里子としてあずけられているような私生児に心当りはないと言った。ただ同じことを訊ねられたのがこれで三度目なので、実際にそれに該当する子がいるのかも知れないとも言ったのである。
司祭の驚きは大きかったとはいえ、何とかさりげなさをとりつくろい、なおも老婦人から話を引き出した。そしてそのあげく、司祭自身にとっても何とも奇妙な結論に達せざるを得なかった。つまり、モーリスは別としても、他に二人もその子を捜している人間がいるらしいという事実である。いったい何者なのだろう? ここに至れば、さすがの司祭の洞察力をもってしてもお手上げだった。
シュパンが死んでから、ブランシュ夫人の秘密を握る総領息子はパリに住んだ。セルムーズにはシュパンの後家さんと下のせがれだけが残った。
大枚二万フランはとうとう手に入れずじまいだった。朝から晩まで、あばらやのまわりの地べたに穴をあけ、掘っくり返す二人の姿が見られた。そんなシュパンの次男に、ある百姓のたった一言が、その宝探しをぴたりと止めさせたのである。
「なあ、おい。そんなことをするより、いっそパリに行ってる兄貴に、お宝のありかを訊いたほうが利口じゃねえか?」
シュパンの次男は、そう言われたとたんに獣じみた声で吼えた。
「ちくしょう! まったくあんたの言うとおりだ。馬車賃を工面するとしよう。パリまでひとっ走りして来りゃ、事は簡単だ」
ブランシュ夫人は、ボルドリーの殺害事件がシュパンのしわざということにされ、自分に疑いのかかる心配はなくなったものの、それ以来昼となく夜となく良心の呵責にさいなまされていた。しかしながら、あのマルチアルの訪問を受けた日に心にきめた目的を忘れてはいなかった。ブランシュのしおらしい芝居があまりに巧みだったので、マルチアルは心ひそかに後ろめたさを覚えながらも、それ以後五度も六度も訪ねて来た。そしてある晩、彼女は思い切ってマルチアルに、このままモンテニアックに帰らず自分と暮らしてくれるように頼んだ。
だがこの大勝利も、結婚以来はじめての心踊るような感動も、ブランシュ夫人に再び平和をもたらすものではなかった。時として二人の間に、悶え苦しむあのマリー・アンヌの顔が立ちふさがってくるのだ。夫の帰還が彼女に無残な幻滅を与えたのは確かである。ブランシュ夫人は、心打ちひしがれたこの男に、自分がもはや何の影響力も及ぼし得ないことを思い知らされた。そしてその耐え難い痛みに、さらに胸を刺すような苦しみが積み重ねられたのだ。
マリー・アンヌが死んだ夜のことを話していたとき、マルチアルは彼女のために復讐を誓ったことを打明けた。シュパンがくたばったのは残念だ。我が手でやつを地獄に追いやる喜びを味わうことができたのに。あの卑劣な毒殺者に目にもの見せることができれば、この恐ろしい苦しみも軽くなることだろう。マルチアルは今だに抑えがたい熱情に震える声で、そうまで言い切った。それを聞かされるブランシュ夫人は、夫がもし自分こそ真犯人であることを知ったら……と思うだけで、おそれおののかずにはいられなかったのである。
彼女がいまだ誓いを果たしていないことにやましさを覚え、マリー・アンヌの子供を探させようと決意したのはそのころだった。しかし、それがためにはどこか大きな都市、たとえばパリへでも引越さなくてはならない。そうした大きい街なら、そんな仕事に慣れた人間を見つけることもできよう。問題は、マルチアルがその気になってくれることだけだった。それは公爵の口添えですらすらと運んだ。かくてブランシュ夫人はある日、とても晴ればれした顔でメディ叔母に告げた。
「叔母さま、わたしたち八時には出発しますよ」
ブランシュ夫人は、メディ叔母が以前とは別人のように変っていることに気づかなかった。だからこの出発について、叔母はこの時まで、まるっきりつんぼさじきに置かれていた。彼女はすっかりうろたえた様子で訊ねた。
「出発するって……どこへ行くの?」
「パリよ。わたしたちそう決めたの。あの街こそ夫のいるべき所よ。あの人の家柄、財産、知性、陛下の恩寵……パリでこそ、そうしたものがあの人の将来に物を言うのよ。セルムーズの邸宅も買いもどせるし、すばらしく立派に造作の手を入れることだってできるわ」
「では、わたしは?……」メディ叔母は不服げに訊ねる。
「残っていただくわ。ここの女主人ということよ。父を見ていただかなければならないし……。叔母さまもそのほうが満足でしょ」
「いやですよ」彼女はしくしく泣き出した。
「こんな大きなお屋敷に独りだけ残されるなんて」
「じゃ、どうすればいいの?」
「わたし……一緒に連れて行ってほしい……」
「パリへ! それはできないわ。向うで何をなさるおつもり?」
メディ叔母は絶望の思いを露わにみせた。
「いま言ったとおり、ここに独り残されるなんて我慢できないわ。自分でもどうにもできないの。独りでいたら死んでしまうわ」
「クルトミューの家がそんなにお気に召さないのなら、邪魔はしませんことよ。もっとお好みどおりのお住いをお探しになったら? どうぞお好きなように……」
哀れな叔母は顔色を変え、黄ばんだ歯で血が出るほどに薄い唇を噛んだ。
「するとこういうことね。クルトミューでびくびく怯えながら死ぬか、慈善病院でみじめな死に方をするか、どちらかを選べというのね。ずいぶんご親切なこと! あなたにこんな扱いを受けようとは思わなかったわ」
叔母は顔を上げた。兇悪な意地の悪い光がその二つの眼の中に宿った。彼女は言葉を続けた。
「よろしい。決めました。これほど膝を折って頼んだのに、すげなく見捨てようというのだもの。でも今度はわたしが命令するわ。一歩も後へ引くものじゃない。そう、わたしは行きたいの。わたし、あなたとパリに行きます。行きますとも、かならず……。パリに行って何をするかと訊いたわね。そうよ、きっと楽しんでやるわ。あなたは宮中に出入りをし、舞踏会にお芝居にとせいぜい好い思いをする気でしょ。よござんす、わたしもついて行きます。どんな浮かれ遊びにも一緒に連れてってもらうわよ」
ブランシュ夫人は度肝をぬかれた。思わず口ごもった。
「さっぱりわからないわ。叔母さま。何がおっしゃりたいの?」
「じゃ言うわ。いいこと、わたしはあなたのおかげで、望んだわけでもないのに人殺しの片棒をかつがされてしまったのよ。となれば楽しみも半分ずつ分かちあうのが当然でしょ。もしすべてが明るみに出たら!……そのことを考えたことある? そうよね、あなたは何とか気をまぎらわせようとするでしょ。わたしもそうしたいわ……。わたし、一緒にパリに行きます」
ブランシュ夫人はいくらか気をとりなおし、弱味を見せまいとして反撃に転じた。
「もし駄目と言ったら、わたしを告発するおつもり?」
「それほど馬鹿じゃないわ。それこそわたしの手まで後ろへ回ってしまうもの。……ただね、あなたの旦那さまに、ボルドリーで起ったことを全部お話するわ」
ブランシュ夫人は身体が震えた。どんな脅迫より、この叔母の一言はひどくこたえた。
「いいわ、わたしたちと一緒にいらっしゃい、叔母さま。約束しますわ」
思いどおりになってほっとしたのか、哀れなメディ叔母は口ごもりながら言い訳をはじめた。ブランシュがそれをさえぎって、
「いえいえ、こんな馬鹿げた口争いなど水に流しましょうよ。さあ叔母さま、昔のようにわたしにキスしてくださいな」
叔母と姪は大いなる愛情をこめて口づけをかわした。しかしこの上べだけの、やむを得ぬ仲直りに心を許さなかったのは、抜け目ないブランシュだけではなく、ふだんはお人好しのはずのメディ叔母のほうも同様だった。
(用心しなくちゃね)と、彼女は考えた。(このあたしのことを、死んだマリー・アンヌのお仲間に入れちまうことができれば、ブランシュはどれほどほっとするか知れたものじゃない)
おそらく同じ思いが、ブランシュ夫人の頭をかすめたことだろう。
(わたしはいつも、危険な爆弾と同居しているようなものだわ。彼女がこうと望めば、そのとおりにしなければならない。叔母の気まぐれをみんな我慢するのね。四十年というもの、屈辱的な立場に甘んじて、召使同様のあしらいを受けてきたんだもの、せいぜいその仕返しをしたがるにちがいない……)
何かと必要な準備をととのえるのに、少なからぬ金が要り用だった。ブランシュ夫人は自分だけの才覚で、その金を用意することができた。父の財産の中から、金貨と紙幣で二十五万フランという金額を、まんまと手に入れたのである。それはこの三年来、クルトミュー侯爵が貯めこんだ金で、そんな隠し金のことは誰も知らなかった。そして本人の侯爵の頭が狂ってしまった今となっては、その隠し場所を知ってさえいれば、それをちょろまかすことに何の危険もありはしない。
(これだけあれば、マルチアルに頼まなくても、必要ならメディ叔母を大金持にすることができる)と、ブランシュは考えた。
おまけにそれから後の二人は、一見したところいかにも仲むつまじ気に暮していた。おたがいが絶えず、かゆいところに手のとどくような心くばりと、ほろりとしかねぬ思いやりを見せ合っていたのである。明けても暮れても『ねえ、いとしい叔母さま』『かわいい姪や』でなければおさまらなかった。
とうとう出発の日が来た。数日後には、ブランシュ夫人はパリのセルムーズ邸に住んでいた。グルネル通りに向いていて、年ふりた樹木の繁る庭園がヴァレンヌ街にまで広がる大きなお屋敷だった。ここは数年来、無人のまま放ったらかしにされていたのである。
「全部修理するのに六か月は必要だろうね」と、マルチアルは嘆かわし気に言った。「それどころか一年かかるかも知れない。だがとりあえずは三か月足らずの手入れで、結構住み心地のよいアパルトマンくらいは用意できるだろう」
「少くとも、ここならくつろげそうですわ」ブランシュ夫人はうなずいて見せた。
「それじゃ見ててごらん。職人をいそがせるからね」
セルムーズ侯爵はこのことに専心する決意だった。建築家の話を聞き、請負人とも会った。製造業者のところにも足を運んだ。毎日床を離れるとすぐ外出し、昼食はたいてい外でした。そしてしばしば、夕食のためにのみ帰宅すると言ったほうがいいような具合だった。
ブランシュ夫人は来る日も来る日も、折りからの雨に日がな一日、ホテル・ムーリスに降り込められていたとはいえ、不平を言う気は起らなかった。旅行や生活環境の変化、はじめて目にした景色、パリの騒音、そして新生活のための準備に没頭したことなどが、いつしか彼女からそんな気持を忘れさせていた。ボルドリーの惨劇も良心の苛責の叫びも、濃い霧の彼方に包み隠されてしまった。過去は文字どおり過ぎ去ったものと割切るようになっていた。そして将来のバラ色に満ちた新しい人生の夢で、頭がいっぱいだった。そんなある日、下男が来客を告げた。
「奥さまにお話があるとかで、男の人がお見えです」
ブランシュ夫人はちょうど、メディ叔母が読んで聞かせる新刊の小説本に耳を傾けているところだった。
「男の方?」彼女は訊き返した。「どんな方かしら」
「申し上げようもございません、奥さま。でもシュパンというお名前だそうで……」
メディ叔母は驚きの呻き声を上げた。本はそっちのけにして椅子にへたり込んだ。ブランシュ夫人のほうは跳び上がるように腰をあげた。眼はおびえ、唇は震えていた。
「その男に言って。会いたくもないし、話を聞きたくもないって。出なおして来てもむだよ。わたくし、決して会いませんから……」
しかし彼女は突然その言葉をひるがえした。
「いえ、よく考えてみたら……。その男をこっちへ上げて」
二人の女は顔を見合わせた。身じろぎもできず、狼狽し、恐ろしい予感に胸をふさがれ、のどもとを締めつけられる思いだった。
「あの老いぼれ悪党の息子の一人ね」とうとうブランシュ夫人が言った。
そのとおりだった。父親が死ぬときその秘密を吹き込まれたあの長男だった。上衣のポケットに手を突っこみ、口笛を鳴らしながら、会見申込みの結果やいかんと、下男のもどって来るのを待ちかまえていた。
「お会いになるそうです、どうぞこちらへ」
先に立って歩きながら、下男は好奇心でいっぱいだった。この田舎者の口から何か尻っ尾をつかんでやろうとカマをかけてみた。
「あなたのお名前を申し上げたら、あの方、そりゃあびっくりなさいましたよ、あなたをご存知なんですかね?」
「乳兄妹ですよ」
下男はその言葉を信じなかった。やがてセルムーズ侯爵夫人の部屋の前まで来た。下男はドアを開け、シュパンをそのサロンへ押し入れた。この若い悪党は前もってちょっとした話を用意してきていたのだが、サロンの豪華さに眩惑され、黙り込んでしまった。数刻ののち、ブランシュ夫人が思い切ってその沈黙を破った。
「ご用は?」
小シュパンはおどおどしていたが、別にこわがっているわけではなかった。そして、ありきたりのお追従《ついしょう》をべらべらと並べはじめた。
「要するにどういうことなの?」彼女はじれったくなって声を強くした。
意味のない前置きをさんざんまくし立ててから、シュパンはようやく長ったらしい説明に入った。まわりの連中とのいざこざで故郷《くに》を出なければならなくなったこと、父親ゆずりのお宝を探したが掘りあてることができなかったこと、それがために結局無一文同様であること……。
「ああ、もうたくさんよ!」ブランシュ夫人は話の腰を折った。「でも、いったいどんなつもりで、よりによってわたしのところへ来たのかわからないわ。あなたについては――シュパンの家の者は皆そうだけど――セルムーズじゃいいうわさを聞かなかったわね。もっとも、二度とあそこへは帰らないという条件をのむなら、何がしかの援助はしてあげてもいいのよ」
シュパンはじっとそのお説教を拝聴していたが、きっぱり言い放った。
「施しはいりませんや」
「それはどういう意味なの? わたし、あなたにどんな義理があるっていうのかしら?」
「あっしに対してじゃありませんぜ。死んだ親父にでさあ。親父が|やばい《ヽヽヽ》仕事に首を突っ込んで死んだのは、どこのどなたさまのためでしたかね? かわいそうなのはあのじいさんです! 親父はあなたのお為だけを思っていたんでさあ、いえその点じゃ、あっしもおふくろたちも同じこってすがね。今際《いまわ》のきわに言いのこしたのがあなたさまのことなんで。――よく聞けよ、せがれ。ボルドリーでどえらいことが持ちあがった。侯爵の若奥さまがマリー・アンヌをお訪ねなすって、あの娘に一服盛りなすった。若奥さまは気も動転して、おれがいなかったら捕ったところだ。おれが死んだら、あの一件は全部おれがやったってことにしろ。若奥さまは指一本さされずにすむだろう。そうすりゃ、あの方のこったからせいぜい酬《むく》いてくださるだろうし、お前はよけいなことをしゃべらねえ限り、一生食うにゃ困らねえだろう――そう、あっしに言いのこしたんでさあ」
しかしシュパンがいかに口軽な考え無しだったにせよ、ブランシュ夫人の顔色をうかがったとたん、呆然として口をつぐんでしまった。あまりにみごとな無表情ぶりを見せつけられ、父親の話はでたらめだったのかも知れないと思ったほどだった。この若い女は、一度屈すれば泥沼にはまり込むことを、すでにメディ叔母に受けた報いでよく知っていたのである。彼女は高飛車に出た。
「ひとことで言えば、わたしがラシュヌール嬢を殺したというわけね。そしてわたしがあなたの要求に応じなければ、その筋に告発すると脅迫するつもりなのね?」
シュパンはあけすけにうなずいてみせた。
「わかった! そういうことなら、もう出てって!」
彼女はこれからの一生を左右する危険な賭けに出たのだ。シュパンは当てがはずれた。そのとき窓ぎわに立ってやりとりをうかがっていたメディ叔母が、ふり向いてさけんだ。
「ブランシュ! 旦那さまよ。マルチアルが帰ってきた。……上って来るわ!」
夫がシュパンを見つけ、彼に話をさせたら、すべてが明るみに出てしまう。ブランシュ夫人の頭は混乱し、とっさに手っとり早い道を選んでしまった。財布をシュパンの手に握らせ、奥の出入口を抜けて裏階段まで引っぱって行った。
「これを取っておおき。ほんの内金だよ。また会うからね。くれぐれも、夫には何もお言いでないよ……」
一刻もぐずぐずせず客を追い出したのは賢明だった。彼女がもどると、すでにマルチアルがサロンにいた。腰をおろし手には一通の手紙を持っている。物音に気づいてマルチアルは立ち上がった。眼にそっと涙を溜めている。
「またもや、何か悪いことでも起ったの?」と、彼女は声をひそめた。
|またもや《ヽヽヽヽ》という一語はマルチアルの注意を引かなかった。
「父が死んだよ、ブランシュ」彼は答えた。
「セルムーズ公爵が!……何てことでしょう!……でも、いったいどうして?」
「クルトミューの森で落馬したんだ」
マルチアルの父に対する思いは、息子として父親に払うべき敬意の域を出なかった。それに、父親のほうも自分を愛してはいないことを知っている。それだけに、父がもはやこの世にいないという事実に思い至るにつけ、じわじわと心を締めつけるこの苦渋に満ちた悲しみが、我ながら意外だったのだ。
「速達でこれが届いたところだ。セルムーズではみんな事故だと思い込んでいるらしい。だが、ぼくは信じないぞ……これは殺人にちがいない」
メディ叔母の口からおそろし気な悲鳴がもれ、ブランシュは青くなった。
「そうとも。犯人の名を当てることだってできるさ。クルトミュー侯爵の殺害を企てたと同じやつのしわざだ」
「ジャン・ラシュヌールね」
マルチアルは悲し気に頭をたれた。それは、ブランシュの指摘どおりだと無言で物語っている。やがて妻の問いにというより、自分自身の思いに答えるかのような口調で、マルチアルは続けた。
「セルムーズ公爵もクルトミュー侯爵も、自らまいた種を刈りとらされたんだ。遅かれ早かれ、罪はあがなわれなければならぬものなんだよ」
ブランシュ夫人は身震いにおそわれた。そんな言い方をされると、まるで自分のことを当てつけられているような思いにとらわれずにいられなかったのである。
「我々がセルムーズへ舞いもどるまでは、ラシュヌール一家も平和で、村人から敬われる暮らしをしていた。しかも舞いもどった我々に、気高いまでの誠実さをもってのぞんだ。ところがこちらはあの一族を辱《はずかし》め、その生活をぶち壊し、怒らせ、あんなはめに追いやってしまった……。こうした誤ちは報いを受けるのが当然なんだ。ぼくがジャン・ラシュヌールの立場にいたとしても、同じようにしただろうさ。ぼくだけは、彼の気持が痛いほどわかっているつもりだし、あの男の憎悪の深さもおしはかることができる。もはや我々に復讐することだけが彼の生きがいだったんだよ。ぼくがいつか言ったこと、覚えているかい、ブランシュ? いつの日かぼくたちの家に不幸が訪れるとしたら、その手引きをするのはあのジャン・ラシュヌールだろうと言ったね……」
メディ叔母もその姪もすっかり動転し、物も言えなかった。しばらくは、マルチアルが室内を往きつもどりつする足音のほか、寂として声もない。やがて妻の目の前で立ちどまると、マルチアルは言った。
「馬の用意をするように言いつけておいた。君を独りで残すことを許して欲しい。どうしても、セルムーズにもどらなきゃならん。しかし、一週間以内には帰ってくるよ」
その言葉どおり、数時間のちに彼は発って行った。ブランシュ夫人は、たった独りで事態に立ち向かわなければならぬことを痛感させられた。彼女の苦悶は、あの大罪を犯したあとに迎えた朝のそれにまさるとも劣らぬものだった。ブラシシュの心の中ではシュパンはまだ死んではいない。彼女の耳は今だにあの声を聞いているのだ。マルチアルの不吉な予言は、そんな恐怖をいやが上にも駆り立てずにおかなかった。そうなると彼女は、それまでのいつにもました激しさで、何としてもマリー・アンヌの子どもを探し出したいという思いに、いても立ってもいられなくなったのである。
ブランシュ夫人には、この子どもの存在がいつの日か自分を復讐の手から守ってくれる、ひとたび手中に引きとっておけば、我が身の安全を保障する人質ともなるにちがいないと思えたのだ。しかし、こんな調査を安心してまかせられるような人物があるだろうか。
その時ふと、かつて父がシャフトーとかいう名の男について話していたのを思い出した。その言うところによれば、なかなか目はしの効く密偵で、相応の報酬さえ惜しまねば、どんな仕事でもやってのける腕ききである。しかもこの種の職業には珍しく実直な人柄だとのことだった。もともとは、若くしてその有能さをフーシェに見込まれ引き立てられた警察の密偵だったが、今は正式に警察を退職し、私立探偵の事務所を開いている。
ブランシュ夫人は、この男がドーフィヌ街に居を構えていることもつきとめた。そしてある朝、メディ叔母を連れて、ついにこのフーシェの愛弟子を訪れたのである。シャフトーは、この二人の客をこぢんまりとした応接間で迎えた。ブランシュ夫人は即座に用件をきり出した。自分はサン・ドニに住むさる人妻だが、つい先ごろ姉妹の一人に死なれた。ところが、その妹は生前さる男と道ならぬ関係におちてしまい、自分はその妹の遺児を、どんな犠牲を払ってでも見つけ出したいのだ……。一見して、いかにももっともらしい話にはちがいなかった。
だが警察の元スパイは、ひとことだって真に受けはしなかった。若い女客の話に耳を傾けながら、頭の中では別の話を組み立てていたのである。
「目つきといい、しゃべり方といい、まったく大した役者だ! ……サン・ドニ界隈のブルジョワマダムにしちゃ、何とも|きなくさい《ヽヽヽヽヽ》ご婦人だて」
彼の疑いは、ブランシュ夫人が不用意にも口をすべらせた報酬を聞くに及び、いよいよ深まらずにはいなかった。何せ、成功のあかつきには大枚二万フランを払うばかりか、手付金に、五百フランもくれようというのだ。
「で、奥さまへのご報告はどういう方法で致したらよろしいでしょうかな?」
「そちらから何もしていただくにはおよびません。私のほうが時折こちらへ立ち寄ることにしましょう」
邸宅へ帰る道すがら、ブランシュ夫人は、自分の賢明さを秘かに誇らずにはいられず、メディ叔母に言ったものだ。
「一か月足らずで、あの子を引きとることができてよ。世間に知られず立派に育ててみせるわ」
しかし翌週には早くも、己れの不用心さがいかに高くついたかを、思い知らされるハメになった。再び訪れた彼女を迎えたシャフトーの態度は、ブランシュ夫人が常日ごろからなじみ切った、あの貴婦人に接するうやうやしさそのものだった。度肝を抜かれ、なおも身をいつわろうとする彼女に、探偵は言った。
「手前どもでは、まず何よりも先に、ご信頼くださいましたお客様のご身分を確めさせていただく建前にしております。いえ、こう申し上げたからと言って、公爵夫人におかれましては、何のご懸念にもおよびません。こう見えても、ごく口の堅い男でございます。それに手前どもでは、あなたさまのようなお立場にいらっしゃる高貴のご婦人方のご依頼をうけたまわるのも、珍しいことではございませんからな。結婚前にちょっとした事の行きちがいに逢われるのは、世間によくあることでして……」
シャフトーは、公爵夫人が探したがっているのは他ならぬ彼女自身の子だと決め込んでいたのである。ブランシュは、もはや相手の思い違いを正そうとはしなかった。真相を知られるよりは、そのほうがどれだけましか知れない。
だが反面、自分が逃れようもないクモの巣にからめとられたような気がしたのも事実だった。自分の一生と名誉を左右する秘密を握る人間が、今では三人に増えてしまったのだ。とりも直さず、自分を意のままに操れる主人を、三人も持ったということである。
もはや、かつてのような自由の身ではなかった。マルチアルもセルムーズからもどっていたのだ。こうしていつしか時は容赦なく流れていた。セルムーズ邸での仮住まいも終りだった。これからは、若き公爵夫人の日常も、五十人もの召使たちの目をはばからねばならないのだ。そうなってみると、メディ叔母の存在すら、うとましいよりむしろ重宝ですらあるのを認めぬわけにはいかなかった。ブランシュは新しいドレスをあつらえる都度、メディ叔母にも同じようにしてやった。ブランシュの行く所、メディ叔母は影の形に添うがごとく行を共にした。そして叔母もその有頂天ぶりを隠そうとはしなかった。
例のシャフトーも、もはやブランシュ夫人をたいして悩ませなくなっていた。三か月ごとに『調査費用』なるものをつり上げ、今ではほぼ一万フランにまでなっている。とは言え、請求書どおり払っているかぎり、口をつぐんでいるのも事実だった。問題はシュパンである。
手はじめは二万フランだった。ところがつい最近、弟のほうまで割り込んできたのだ。父親の財産を独り占めしたと兄をなじり、『当然の分け前』を要求して来たというわけだった。あげくはお定まりの兄弟喧嘩となり、シュパンの総領息子が血のにじんだ包帯で頭をくるみ、ブランシュ夫人の前へ現われた。
「親父がどっかへ埋めたと同じ金額を、いただかしちゃくれませんか。そいつを弟のやつにくれてやりてえんでさ。すりゃ、あいつもあっしにかすめとられた分を取り返したと思って、納得するだろうってわけでね……」
この男は、老いた畑泥棒からその悪徳とよこしまな根性は確かに受け継いでいたものの、親父ほどの抜け目なさとずる賢しこさは備えていなかった。周到な用心で身の安全をはかることなど思いもよらず、公爵夫人をスキャンダルにまき込むことに、ただただ獣じみた快感を覚えているらしい。こうして彼は、セルムーズ邸にしつこく出入りすることとなった。だが召使を驚かせたのは女主人の態度だった。あれほどに気位の高い傲慢な彼女が、ふだんのそれもどこへやら、このならず者をいそいそと迎えていたのである。
セルムーズ邸で豪勢な祝宴のあった夜のことだった。シュパンの総領息子が酔いどれて現われ、ブランシュ夫人に、おれさまが来たことを伝えろとわめいた。彼女は肩も露わな夜会服のまま男を迎えた。怒りと屈辱にすっかり青ざめていた。そして彼女が要求を拒むと、ならず者はほえ立てた。
「あんたらがぜいたく三昧の飲み食いをしてるってのに、こっちゃ、腹を空かしてくたばらにゃならねえってんですかい! コケにするのもいい加減にしてもらいてえや。金をもらうか、さもなきゃ、あらいざらい大声でぶちまけるかでさあ!」
公爵夫人はいつものとおり譲らざるを得なかった。男のほうは日がたつにつれますます図に乗る一方だった。
ところがある晩、彼はさるいかがわしい場所で警官に呼び止められた。風体にふさわしからぬ多額の金を所持していたため、てっきり何か犯罪をやらかしたにちがいないとにらまれたのだ。そこでシュパンは、セルムーズ公爵夫人の名を出してしまった。マルチアルがウィーンに旅行中で幸いだった。翌日になると、さっそく警視庁から警部がセルムーズ邸を訪れたのである。ブランシュ夫人も、くだんの男にそんな大金を与えたことは認めぬわけにいかなかった。男の一家を識っていて、昔たいそう世話になったことがあると説明したのである。
シュパンは、しばしばとんでもない思いつきにかられることがあった。そしてある日こんなことを宣言するに至った。セルムーズ邸にしょっちゅう出入りするのも、ほとほと嫌気がさした。何せその度に召使どもからは乞食か何ぞのようにあしらわれ、情けない思いをさせられる。要するに今後はわざわざ足を運ぶのはやめ、用件は手紙で伝えることにするというのだ。そして事実、翌日になると、さっそくブランシュ夫人に手紙をよこしたのである。
「これこれの金額を、これこれの時刻に、しかじかの場所へ持って来てください」
誇り高い公爵夫人は唯々諾々と、言われた時間に指定の場所へおもむくのだった。
それからと言うもの、シュパンはあとからあとから、新しい突飛な条件を持ち出すようになった。そのやり方は、たえず自分の支配力のほどを確め、それを思うさま振うことに異常な喜びを味わっているかのようだった。そんな彼は、いつしかアスパシィ・シャパールとかいう女と知り合うようになっていた。しかも、女は自分よりずっと年上だというのに、結婚したいという気を起したのである。その祝言の費用を出したのも、他ならぬブランシュ夫人だった。……やがてシュパンは一子の父となり、祝言の時と同様、その洗礼式の出費をまかなったのも、ブランシュ夫人だった。
十五
マルチアルが何も気づかず、何ひとつ疑いさえしなかったとは、一見いかにも不思議に見えるかも知れない。
しかし、マルチアルが己れに課した生活方針からすれば、真相を見抜くに至らなかったとしても驚くにはあたらなかったのである。そもそも新婚一年目にしてからが、法的にはともかく、心情においては妻と赤の他人でしかないという関係でスタートしたのだ。妻に対して、しかるべき敬意と思いやりをもって接していたとはいうものの、夫婦関係は名ばかりで、ある種の利害を分かち合う男と女というに過ぎなかった。公爵夫人は邸宅の中でも、彼女だけの『聖域』にたて込もり、自分にだけ忠節な召使たちにかしづかれて暮らしていた。
若冠二十五歳にして、セルムーズ一門の唯一の継承者にして、かつフランスでも十指に数えられる名門の後継ぎであるばかりか、たぐいまれな知性をも兼ね備えた身でありながら、マルチアルは早くも、いやしがたい倦怠の虜《とりこ》となっていたのである。マリー・アンヌの死は彼の青年らしい感性のことごとくを涸らせてしまっていた。己れの人生に、人並みの幸福を見出すことのできなくなった彼は、その空虚さを俗世の活動で満たす他はなかった。かくしてマルチアルは政界に乗り出すこととなったのだ。
同じことはブランシュ夫人にも言えた。彼女とても、日々の出来事をいかにも貴婦人らしい鷹揚《おうよう》さであしらい、何ひとつ不足ない上流婦人の役を演じ続けることとなった。
その秘めたる苦悶がどれほどに深いものであろうと、彼女の美しい容姿に影をさすことは決してなかった。そして、どんな歓楽の機会にも貪欲にとびついていった。ただメディ叔母にだけは、魂の奥底に潜む苦悩を隠さなかった。
「私はね、ギロチンの刃が首の付け根に落ちて来る瞬間を待つ死刑囚みたいなものよ」
ブランシュにとって、ギロチンの刃とは何だろう? いつの日かマルチアルに全てを知られることだろうか? 偶然のめぐり合わせ、何気なくもらすひと言、ほんのささいなきっかけ、あるいはちょっとした運命のいたずら……まさしく、どんなことからマルチアルに真相をかぎつけられるか知れたものではないのだ。かくも世間からうらやましがられ、媚びへつらわれる身のあの美しく高貴な公爵夫人は、それを思うと日夜、戦々兢々と日を送らねばならなかったのである。
とはいえ、時の流れはそんな苦しみをもやわらげずにはいなかった。そうこうしているうちに、シュパンからの連絡が六週間も途絶えたことがあった。その沈黙は嵐の前の静けさと解すれば不気味でなくもない。だがある朝手にした新聞が、その謎を解いてくれた。シュパンは、なんと牢に放り込まれていたのである。ある晩したたかに酔ったあげく弟と大喧嘩になり、鉄の棒でなぐり殺してしまったのだ。
老いぼれの畑泥棒が、その裏切りで流させた犠牲者の血は、そっくりせがれどもの身にはね返ったも同然だった。シュパンは二十年の重労働を宣告され、ブレスト監獄へ送られた。ところがその翌週に囚人の暴動があった。軍隊が鎮圧に出動し、シュパンはその銃弾を受けて即死してしまったのである。しかし公爵夫人は安堵の胸をなで下ろすわけにはいかなかった。くだんのならず者は、その秘かな金づるの秘密を、妻となった女に打ち明けぬまま死んだとは思えなかった。
「遠からず、あの男の女房と称する女が乗り込んで来るにちがいない」
事実シュパンの後家が程なくブランシュの前に現われたが、まるで憐みを乞うかのような態度だった。安酒場を開業するために、ほんのちょっとした資金を融通して欲しいと懇願した。たまたま、十八になるせがれのポリット(シュパンの後家にとって、何ともかっこうな泣き落しの武器だった)が、モントローグに手頃な売り物を見つけたものの、とても高くて手が出ない。せめて三、四百フランでも工面できれば何とかなろう、という話だった。
ブランシュ夫人は、この手に負えぬ食わせ者に五百フランを渡してやった。
それから五日のち、今度はポリットが現われた。店の造作に三百フランほど足りない、そこで母親に言われ、お慈悲深い奥さまにおすがりすべくまかりこした、という言い草だった。いつまでも弱みを見せているわけにいかない、そう心に決めた公爵夫人はきっぱりと断り、ハシにも棒にもかかりそうもないやくざ者はおとなしく引き退がった。明らかに後家となったかみさんもその息子も、どうしてブランシュ夫人が自分たち一家の金づるであるのかを知らないのだ。シュパンは秘密を言いのこさぬまま死んだとみえる。
二月も間もなく終ろうとするころ、メディ叔母は肺炎で死んだ。さる仮装舞踊会から帰る道すがら、風邪を引いたのがたたったのである。
以前はブランシュも、この叔母が早く死んでくれればいいなどと秘かに願ったものだった。ところがいざ実際に死なれてみると、ブランシュ夫人は少なからぬ衝撃を覚えた。かつては心細さにおののくたびに自分を支えてくれた慰め手を失ってしまったのだ。しかも、そんな共犯者を失くしたからと言って、その分自由の身になったというわけにもいかなかった。というのも、ブランシュの身の回りの世話を焼く小間使に、ボルドリーで犯した罪の秘密をかぎつけられていたのである。実は熱にうかされたうわ言に、メディ叔母はあの恐ろしい秘密を口走っていたのだ。その時ブランシュ夫人の傍らに居合わせたのが、その召使たちの中でもとりわけ彼女に忠節だったくだんの女だった。それは、不幸中の幸いとでも言うべきかも知れない。
公爵夫人は、孫子の代までたたってやまないかのごとき宿命の執拗さに、今さらながらおののかずにはいなかった。あの裏切り者のシュパンの息子たちから、彼女自身の父であるクルトミュー侯爵に至るまで、みんな非業の死を遂げている。いや侯爵の場合は、非業の最後と言うのは当てはまらないかも知れない。しかしそれでも、息をひきとるまでの十年というもの、廃人同様の生ける|しかばね《ヽヽヽヽ》の毎日だったではないか。ブランシュ夫人は心ひそかに思わずにいられなかった。
「いまに、私の番が来るにちがいない」
ほんのつい前の年デスコルヴァル男爵が、そして一か月の間をおいて男爵夫人が相ついで亡くなり、あのバボア老伍長もみまかった。ブランシュ夫人が知る限りでは、例のモンテニアックの騒動に巻き込まれた人々の中で、今だに生き残っているのは四人しかいない。法曹界に入ってセーヌ県の地方裁判所で判事補をしているモーリス・デスコルヴァル、そのモーリスを頼って上京し、パリで一緒に暮らしているミドン司祭、そして残る二人はマルチアルと彼女自身だった。
いやそれで全部ではなかった。その名を想い出すだけでぞっとする男がいる。あのマリー・アンヌの兄、ジャン・ラシュヌールだ。ブランシュ夫人の心のどこかで、警戒をうながす心がさけび続けてやまなかった。(あの男はお前のすぐ近くにしのび寄り、復讐の機会をじっとうかがっているのだ)
不吉な予感にとりつかれたブランシュ夫人は、シャフトーに相談してみようと思った。少なくとも、この先どうしたらよいかのヒントなり得たかったのだ。探偵は、この剣呑《けんのん》な男の居場所をつきとめてさし上げようと約束した。言葉どおりさっそく調査にとりかかった。だがジャンの所在に関する証拠をつかみかけたところで、彼の捜索活動は突然終ってしまった。ある日の明け方、短刀で文字通りズタズタにされた探偵の惨死体が発見されたのである。新聞でそのニュースを読んだ時、ブランシュ夫人は身も世もない恐怖にうたれた。あたかも、罪人が己れの逮捕の記事を目にした時に感じるであろうそれだった。
「これで何もかもおしまいだわ。ラシュヌールは、手をのばせば私をどうにでもできるところにいるにちがいない」
公爵夫人の判断はまちがっていなかった。
ジャン・ラシュヌールにとってマリー・アンヌの遺産はただ一つ、至上の目的のためにこそ費やされるべきものだった。その目的のために、彼は一文残らず注ぎ込んだ。旅芸人一座の座長が、月四十五フランの給金でジャンを雇い入れた時、彼にはもはやビタ一文残ってはいなかった。その日から、彼は流浪のしがない旅役者としての暮らしに甘んじることとなったのである。
かねてのもくろみどおりの復讐を遂げるには、何よりも時が、言い換えるならそのための金をため込む猶予が必要だった。しかも、常に飢えを満たすだけの稼ぎさえ得られるとは限らなかった。それでも、当初の望みを捨てるなど思いもよらぬことだった。彼の怨念は時が経つにつれ弱まるどころか、ますます研ぎすまされ、激しくなる態のものだったのだ。彼は、セルムーズ家のいやます繁栄盛りを横目ににらみながら、復讐の機会を待ち続けていた。
こうして十六年も待ち暮らすうち、役者仲間の一人が、ロシアでの仕事口を見つけてくれた。しがない旅芸人でしかなかったとはいえ、ジャンは演劇畑に意外な適性を備えていたと見え、六年足らずのうちに十万フランもの蓄財を作り上げるに至ったのである。
「これだけの金があれば、いよいよ勝負に乗り出せようってものだ」
その考えどおり、六週間後にはセルムーズへ舞いもどった。マリー・アンヌの墓を訪ね当てた時は、従来にもました憎悪の念に燃え、峻厳な裁判官のごとき冷徹さで、復讐の念を心のうちにかき立てていた。
事実、彼がもどったのもその一念にかりたてられてのことに他ならなかった。ところがセルムーズを訪れた日の晩、ある農婦の息子たちが思いがけぬ事実を耳うちした。この二十年来、二人の人物がこの地方である子どもの行方をあきもせず探し回っているという。子ども? いったい誰の子だろう。ジャンはとっさに悟った。もちろんマリー・アンヌののこした子どものことにちがいない。二十年も探して見つからないとはどうしたわけか? その理由もジャンにはわかっている。わからないのは、その子を探している人間が、二人もいるということである。そのうちの一人は当然モーリス・デスコルヴァルに他なるまい。しかしあとの一人とはいったい何者なのだろう?
ジャン・ラシュヌールは、セルムーズで一か月過ごした。、その滞在が終るころ、彼はシャフトーの部下がセルムーズ界隈を何やらかぎ回っているのに気づいた。その線をたどることによって、背後に公爵夫人の存在があるのをつきとめたのである。この発見はジャンを呆然とさせた。ブランシュ夫人は、マリー・アンヌに子どもがいたことをどうして知っているのだろう。もっとわからないのは、それを知るや、かくも執拗にその子の所在を探し出そうとする熱意の異常さだった。
「シュパンのせがれどもをつっつけば何かわかるかも知れない。そのために必要とあれば、うわべだけでもやつらに、昔のことは水に流すふりをして見せることだっていといはしないぞ」
そう思ってはみたものの、やくざな老いぼれのせがれたちはもう何年も前に死んでいる。結局ジャンが会えたのは、長男のつれ合いだった後家と、彼らの息子であるポリットだけだった。二人は、シャトー・デ・レンティエから程遠からぬいかがわしい界隈で、『ポァヴリエール』という名の居酒屋を経営していた。だが、後家もポリットも何ひとつ知らないばかりか、ジャンが名のったラシュヌールという名を聞いてさえ、何の心当たりもない様子だった。
ジャンはあきらめて立ち去ろうとした。ところがその時、シュパン後家はきっと何がしかの金をせびれる相手と見てとったのだろう、自分たちがいかに困窮の極みにあるかを哀れっぽく訴えだしたのである。亭主が生きていたころは、およそ金に不自由をするということがなかっただけに、今の不如意がいっそうつらくこたえる、というわけである。何しろ死んだ連れ合いは、金が要るとなれば、それこそ当座の入り用以上の額を必ず工面してきたものだった。それというのも、さるやんごとないご身分の貴婦人、つまりセルムーズ公爵夫人のおかげあってのことだったのだ……。
ラシュヌールは、ブランシュ夫人が子どもを探している事実と、シュパンに対する気前よさの間に、何か秘密の関連があるにちがいないと見てとった。
そのブランシュ夫人の気前よさこそ、過去の謎を解き明かす鍵に他ならない。
「あの恥知らずの女こそマリー・アンヌを毒殺した犯人にちがいない。例の子どものことだって、妹の口から訊き出したのだろう。あの女がシュパンのやつに気前よかったのもあたり前だ。何せ、シュパンのやつは自分の親父が手をかした毒殺事件の秘密を握っていたんだからな」
そう思い至ると、ジャンはマルチアルがかつて口にした誓いを思い出し、胸の中は抑えがたい歓喜にあふれた。目ざすべき二人のかたき、つまりセルムーズ家の後継ぎとクルトミュー家のそれが、自分の手を下さぬうちにそれぞれの報いを受けていることがわかったのだ。しかも彼らは、我と我が手でお互いの首を締め合っている。だがそれでもなお、確かな証拠が欲しかった。そこで一つかみの金貨を居酒屋のテーブルにぶちまけると、後家とシュパンに言った。
「このとおり、金はいくらでもあるんだ。こっちの注文どおり言うことをきいて、よけいなことはしゃべらずにいられるかね? そうしてくれれば、お前さんたちにひと財産こしらえさせてやるがね」
かくしてラシュヌールはシュパンの後家に、その後の惨劇をもたらすことになる手紙を口述して書かせたのである。
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公爵夫人さま
あす正午から四時の間に、手前どもの店にお越し下さるよう、お待ち申しております。ボルドリーの一件につき、お話し致したきことがございます。もし、五時になってもお越しいただけぬ場合は、公爵さまあてにお手紙をお送り致すつもりです……。
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さすがにシュパンの後家は不安をふっきれず訊いた。
「でも、あの奥さまが本当に来なすったら、どう申し上げりゃいいんでしょうね?」
「何も言うことはないさ。ただ金を無心すればいい」
そう言いながらジャンは胸のうちでつぶやいた。
「本当に来なすったらどころか、あの女はまちがいなく出向いて来るに決まってるさ」
事実、公爵夫人はやって来た。ポァヴリエールの二階にひそみ、床板の割れ目からジャンは確かに見届けたのである。公爵夫人は、シュパンの後家に一枚の紙幣を手渡したのだ。
「ようし、これであの女の尻尾をつかんだも同然だ!……」
「現代名士録」の中で、マルチアル・ド・セルムーズのために割かれた記述の最後の数行が、結婚後の彼の足跡を物語っている。
『マルチアル・ド・セルムーズ……並ぶものなき知力と、感嘆すべき辣腕振りを以って、自らの属する政党の発展に献身した。……フランス史上最大とも言うべき政情の激動期にあって、常に最前線の矢面に立って来た氏は、最も過酷な弾圧の行き過ぎの責任を一身に引きかぶる勇気を、身を以って示した。……世論をあげての指弾の前に引退を余議なくされたものの、氏に対して向けられた怨嗟は、その生涯つきまとわずにはいないだろうと言われている。』
だがその紳士録の記述も、さすがにマルチアルが、政敵の血があまた流されたことに責任があるとまで言い切ってはいなかった。しかし世間の目には、彼が幾多の英雄や殉教者を生み出した狂信的な行き過ぎに、一切言い訳めいたことを言わなかっただけに、なおさらそれらすべての黒幕と映ったのである。
とは言えマルチアルには、実のところ政権への野心すらなかったのだ。
邸宅を暴徒と化した群衆がとり囲み、その投石が窓ガラスを破る事態に至ってさえ、彼は顔色ひとつ変えるでもなかった。腹心ともいうべき従僕のオットーが、変装して身をかくすように懇顔しても、耳をかすどころではなかった。
「そんな真似ができると思うか! 世間の物笑いになる気はないぞ」
やがて群衆の興奮も静まった。邸宅も使用人たちが思い込んだほど危険にさらされたわけではなかった。しかしマルチアルは、しばし所在をくらませる潮時だと感じた。かと言って、公爵夫人にまで自分と行を共にするよう勧めたりはしなかった。
「すべての責任は私一人のものさ。君まで逃げ隠れするいわれはない……。このまま邸にとどまりなさい。いや、むしろそのほうが何かと都合がいいというものだ」
こうしてマルチアルは、オットー独りを連れて屋敷を脱け出した。それというのも、単なる忠実な召使という以上に、この男の頭のよさは頼みがいがあった。もっとも彼としては、いつセルムーズ家を離れても暮らしに困らぬだけの蓄えはあったし、パリを離れたくない事情を数え上げればきりがなかった。だが主人が窮地に立っていることを思えば、行を共にすることに少しのためらいも感じなかったのである。
こうして四年もの歳月、セルムーズ公爵は、心楽しまぬままヨーロッバ中をさまよい歩いた。だがそんなある日、再びパリを見たいというやむにやまれぬ衝動にかり立てられ、舞いもどることとなった。
それは必ずしも賢明なこととは言えなかった。かつての政敵の中でも特に彼を憎む連中が権力の座についていたのだ。しかしもはやマルチアルは、そんな利害得失も念頭になかった。
彼の突然の帰国も変わり果てた風体も、ブランシュ夫人を驚かさずにはいなかった。こうなってはそれまでの気ままな生活も終りだ。しかも、かつては彼女のロマンチックな夢の化身であった夫は、今では苦しみの種でしかないのだ。
そんなある日、マルチアルは奇妙な手紙を受け取った。
「私があなたの立場なら、自分の妻から目を離すことなどしますまい」
(ブランシュに、情人がいるとでも言うのだろうか?)
マルチアルの心は乱れた。かと言って、これといった証拠らしいものすらないのに、いやしいスパイの真似をするなど、とうてい自尊心が許さない。ところがある朝、遠乗りからもどった折のことだった。館から全身黒ずくめの、ごく質素な身なりの女が人目をはばかる素早さで忍び出て行くのを目撃したのである。その体つきは、どう見ても公爵夫人のそれに他ならなかった。
(まちがいなくブランシュだ。だがいったいあの身なりは何のつもりだ?……)
マルチアルはそのまま駒を進め、ブランシュ夫人を尾けてグルネル街へと坂道を昇った。タランヌ街までやって来ると、夫人は折から客待ちをしていたらしい辻馬車に素早く乗り込んだ。御者は車体の扉越しに何ごとか話していたが、すぐに御者台に跳び乗ると、やせ馬に勢いよくムチをくれた。その様子から察するに、気前のよい酒手を約束されたにちがいない。馬車はたちまちドラゴン街の角へ消えた。一方マルチアルはサン・ペール街の角に馬を止めたまま、下劣なスパイ行為への恥とためらいに、すぐには跡を追いかねてぐずぐずしていた。
それでも好奇心がためらいに打ち勝ち、クロア・ルージュの四辻で馬車に追いついた。御者は台の上でそれこそ中腰になり馬どもを駆り立てている。馬車は速足でサン・スルピス広場に沿った狭苦しいヴュー・コロンビエ街を駆け抜け、ボナパルト街とウェスト街を経て外縁の大通りへと出た。適当な速度で追いながら、マルチアルはいぶからずにはいられなかった。
(いったい、何を急いでいるんだろう?)
馬車は、イタリー広場を駆け抜けようとしている。次いでシャトー・デ・ランチエ街へ入ったかと思う間もなく、とある空地でぴたりと止まった。セルムーズ公爵夫人は待ち兼ねたように馬車を降りると、そのまま空地の中へ突き進んで行く。折も折、石材を積み上げた山からほど遠からぬ所で、人相のよくない男が腰かけていた。長い顎ひげをはやし、荷揚人足まがいの上着を着込み、ひさしのついた帽子を目深にかぶっている。そして口にはパイプをくわえていた。
「馬をみていてもらえんかね?」マルチアルが頼むと、男は二つ返事で応じた。
「おやすいご用で」
マルチアルは男に手綱を渡すと、そのまま妻のあとを追った。だが妻の尾行に気をとられていたあまり、彼は重大な事実を見過ごしていた。ふだんの彼なら、この男の唇に浮んだいかにもしてやったりと言わぬばかりの薄笑いに警戒心をよび覚まされたにちがいないし、おそらく相手の正体にさえ気がついていただろう。その男こそ、他ならぬジャン・ラシュヌールだったのである。
公爵に差出人不明の手紙を送りつけて以来、ジャンは公爵夫人がますます頻繁にシュパン後家のもとを訪れねばならぬように仕向けた。そしてそのたびに、ブランシュの到来をこっそりと監視していたのだ。
(こうやっていりゃ、あの女の亭主がのこのこ尾けて来ればすぐ分るってものさ)
ジャンのたくらみが成功するためには、ブランシュ夫人の夫が、ここまで妻の跡を尾けて来ることが欠かせぬ条件の一つだったのである。それというのも、ジャン・ラシュヌールはあれ以来、一つの決意にこり固まっていたのだ。あまたの復讐手段の中でも、最もおぞましく効果的で、セルムーズ家にとって恥辱この上ない方法を選んでいた。
そのもくろみは、あの高慢なセルムーズ公爵夫人が、下劣極まる凌辱の犠牲者となり、怒り狂ったマルチアルが、いかがわしい店で、札つきのならず者どもと、いまわしい流血ざたをひき起こすはめになるようにお膳立てをすることだった。そして、自分の急報でかけつけた警官隊に、セルムーズ夫妻がならず者連中ともども、ひっくくられ連行されていく場面をくり返し思い描いては楽しんでいた。その空想は、ボルドリーでの犯罪が明るみに出されるであろうスキャンダルに満ちた裁判に、そしてマルチアルは徒刑場送りとなり、公爵夫人は女囚刑務所へ収容される日のことへと、とどまることを知らなかった。かくして、セルムーズ家とクルトミュー家の由緒ある名が、永遠の汚辱にまみれてすたれていくことを夢見ていたのである。
ジャンは、金のためならどんな悪事も辞さないという、名うてのごろつきを二人、手なづけておいた。それに、ギュスターヴという名の若者も抱き込んであった。この男は、およそ人生のツキに見離されたような負け犬で、貧乏暮らしと性来の意志の弱さから、ジャンの言うがままに操られることとなった。ジャンがギュスターヴをひき込んだのは、マリー・アンヌの息子の役を演じさせるためだった。
しかし、三人の共犯者たちは、ジャンの隠れた真の狙いなど知る由もない。
シュパン後家とそのせがれにしても、何かうさん臭いものを嗅ぎとったにせよ、わかっているのは、セルムーズ公爵夫人と関わりのあることという一事のみだった。
しかもジャンは、ポリットと母親には、たっぷりと鼻薬をかがせ、莫大な報酬の約束で、万が一にも裏切る心配のないようにしてある。そして、たくらみの仕上げとしてジャンは、マルチアルが妻を尾行し、初めてポァヴリエールへ現われるだろう日に備え、初めから不審を抱かれぬような筋書を考えておいた。つまり、公爵夫人ともあろう者がこんないかがわしい場所を訪れるのも、貧しい者たちへ慈善を施すためだとマルチアルが解釈するようにお膳立てもととのえたのだ。
しかしマルチアルは、店の中へ入らなかった。妻がこのように下品な居酒屋へ、勝手知った足取りで入って行くのを見て唖然としたものの、跡を追ったところで何も真相はわかるまいと考えたのだ。そこで、店の回りを一めぐりしただけで、馬を駆り立て立ち去った。彼にできたのは、妻の行動について考えをめぐらし、好意的に解釈することだけだった。
しかし一方では、何としても真相をつきとめようという決意も固かった。帰館するや直ちにオットーを呼び、様子を探りにやらせた。四時ごろ、この忠実な下僕は、すっかり肝をつぶしたという様子でもどって来た。
「旦那さま、あのいかがわしい店の女将は、何と例のやくざ者シュパンのせがれの後家でございます」
マルチアルも、とっさに事態を悟るだけの世故にはたけている。妻は卑しい手合いどもに何か秘密を握られ、その意のままに従ざるを得ないはめに置かれているのだ。となれば、その秘密というのもよほど致命的なものにちがいない。マルチアルは今も昔も、思い立ったら行動に移るタイプの人間である。そのまま一目散に妻の居室を訪れた。
彼を迎えたのは部屋付きの小間使だけだった。「奥さまは、お友だちの方がお二人見えましたので、たった今|階下《した》へ降りて行かれました」
「よかろう、ここで待つとしよう。すまんが独りにしてくれ」
そのままマルチアルはブランシュの寝室へ踏み込んだ。あたりはすっかり取り散らかされたままだった。公爵夫人はポァヴリエールからもどって着替えをすましかけたところで、客の到来を告げられたのだ。衣裳戸棚の扉さえ開け放したままだった。マルチアルはしだいに冷静さをとりもどした。
(馬鹿な真似をするところだった。いきなりあけすけに詰問したところで、うまく言いくるめられるのがオチじゃないか)
自分の部屋へ引き上げようとした時、マルチアルは、鏡つきの衣裳戸棚の中のものに目がとまった。金細工をはめ込んだ大きな箱で、ブランシュが娘時代から大事にし、どこへ移るにも必ず身の回りから離さない品である。
(これだ。この中にこそ謎を解く鍵があるにちがいない)
暖炉の上に鍵束が投げ出されてあるのに気づいたマルチアルは勢込んでつかみとり、さっそく箱の錠を開けにかかった。四つ目に試みた鍵でふたが開いた。書類がいっぱいつまっている。マルチアルの視線は一枚の請求書に吸い寄せられた。
『S夫人のご子息に関わる調査費……。一八××年九月における費用明細……』
マルチアルは目くるめくような衝撃に襲われた。ご子息だと……妻には、子どもがいるとでも言うのか! それでも気をとり直すとなおも先を読み続けた。『セルムーズへの調査員二名の派遣費用……、小生自身の出張費……各方面への協力謝礼金……云々』総額は六千フランにも及んでいる。そのすべてに同じサインが印されていた。いわく『シャフトー』
今や憤怒の虜となったマルチアルは、箱の中身を床にぶちまけ、次々に色々な書付けを見つけ出していった。金釘流で、こんなことをしたためた手紙がある。『今夜中に、二千フランを持参のこと。さもなくば、ボルドリーの一件を公爵に知らせる』さらに、シャフトーからの請求書が三通出て来た。それから監獄がどうの、良心の苛責がどうのと書きつらねたメディ叔母からの手紙もあった。そして一番最後に見つけ出したのは、マリー・アンヌ・ラシュヌールとモーリス・デスコルヴァルとの結婚証明書だった。ヴィガノの司祭の発行になり、証人として老医師とバボア伍長の署名があった。
もはや真相は疑うべくもないほどに明白だった。マルチアルは空恐ろしさに凍りつく思いだった。それでも何とか気力をふるい立たせ、手紙や書付けをどうにかこうにか拾い集めると、箱ごと元の場所へもどした。
部屋へもどってからも彼は何度もつぶやいた。
(マリー・アンヌを毒殺したのは、誰でもない、あのブランシュだったのだ)
今は己れの妻に納まっている女の極悪さに心を乱され、呆然とさせられるばかりだった。とは言え、真相を知り尽くしたつもりのマルチアルにも、事の詳細の多くは依然として不明のままである。たとえどんな手くだを要しようとも、公爵夫人からであれ、あるいはシュパン後家からであれ、必ず詳しい一部始終を聞き出さずにはおくまい。マルチアルは固く心に誓った。すぐオットーを呼びつけると、ポァヴリエールの常連が身につけるような服を手に入れるように命じた。いかにもそれらしく見えるように、実際に着古されたものでなければならない。もっとも、そんなものを着込んでこの先何をしようというのか、マルチアル自身にさえ、はっきりわかっていたわけではなかった。
今や(それは二月に入って間もない時分だが)、ブランシュ夫人の外出に尾行が付かぬことは決してなかった。彼女のもとに届く手紙にしても、ことごとく夫に盗み読まれるのが常だった。ところが本人は、こうして絶え間なく監視されていることにもまるで気づいていなかった。マルチアルは病気と称し、部屋にこもりきりだったのだ。
だがこんな苦心にもかかわらず、オットーにせよその主人にせよ、何ひとつ尻ッ尾をつかめなかった。要するにこれといったことは何も起らなかったのだ。というのも、ポリット・シュパンが別口の窃盗容疑で挙げられてしまったのである。おかげでラシュヌールのたくらみは思わぬ遅延をみることとなった。そこで決行の日は、告解日《グラ》に当たる二月二十日の日曜日ということになった。
その当日の前夜、シュパン後家はジャンに言い含められたとおり公爵夫人へ手紙を書き、日曜日にポァヴリエールで待っていると伝えた。一方ジャンのほうはそれより先に、この界隈でもことに評判のかんばしからぬ舞踏場であるカフェ・アルカンシェルで共犯者たちと落ち合い、それぞれの役割りを振りあてておいた。この連中がまずひと騒ぎやらかし、ジャンが時の氏神然と登場しようという筋書だった。
(これですっかり準備完了だ。あとは仕上げをごろうじろ)
ところが、すっかり完了したはずの準備は、思惑どおりの仕上げへと進んではくれなかったのである。
ブランシュ夫人は、シュパン後家の指図がましい手紙を受け取るや、ふっとつむじを曲げてみたくなったのだ。何せ、指定された時間といい、場所といい、二の足を踏ませて当然という体《てい》のものだった。それでも夜が来ると、ブランシュ夫人は邸宅をこっそりと忍び出た。カミーユを伴に従えていた。メディ叔母のうわ言をすっかり聞いてしまった、例の小間使である。
公爵夫人とその侍女は、いかにもいかがわしいなりわいの女と見えるようないで立ちだった。事実、二人は、たとえ知った顔に出会っても素性を見破られたり、怪しまれたりすることなど、万に一つもあるまいという自信があった。それでもやはり、一人の男がブランシュたちのあとをちゃんと尾行していた。言わずと知れたマルチアルに他ならない。妻が知るより先に会合の場所を盗み読んでいたマルチアルは、オットーが手に入れてくれた船着場の人足まがいの身なりをととのえ、待機していたのだ。その扮装ぶりは堂に入ったものだった。せいぜい薄汚なく身をつくろい、髪の毛もひげも雀の巣顔負けの乱し方で、両手は泥だらけといったあんばいである。どう見ても、その着ている代物と同様、おんぼろ人生のどん底を排徊《はいかい》する敗北者そのものだ。マルチアルはオットーの同行も断っていた。隠し持ったピストルがあれば身を守るには十分だと言った。だが内心では、オットーが言いつけどおりおとなしく邸で待っているはずもないとわかっていた。
ブランシュ夫人とカミーユが邸を抜け出しタラント街へ入ったのは、十時の鐘が鳴るころだった。辻馬車の溜り場には、たった一台が客待ちしているだけだった。二人の女が乗り込むと、馬車は走り出した。マルチアルは思わず悪態を吐かずにいられなかった。だがよく考えてみれば、妻の行き先はもともとわかっているのだ。別の馬車をつかまえて、女たちに追いつくゆとりは十分にある。事実、程なく一台の空馬車を見つけることができた。御者は全速力でマルチアルをシャトー・デ・ランチエ街まで運んだ。馬車から降り立った折も折、別の辻馬車が近づいて来る鈍い音を耳にした。その馬車は、やや離れた地点でぴたりと停止した気配だ。
(まちがいなくオットーのやつが追って来たな) 頭の隅でつぶやくと、マルチアルは別の空地へ歩を進めた。
雪解けを予告する湿っぽい霧が、厚くあたりにたち込めている。マルチアルは、雪におおわれた地面のでこぼこに何度となく足を滑らせた。しかし、ポァヴリエールの灯が見え出すまで、さして時間はかからなかった。
マルチアルは窓の両開き式になった鎧戸に近寄ると、その片方の蝶番《ちょうつがい》を両手でつかみ、全身の重みをかけて体を持ち上げ店内をのぞき込んだ。
見るからにいかがわしい店の中にいるのは、まぎれもなく彼の妻に相違なかった。カミーユも一緒だ。二人は、暖めた葡萄酒のビンが入った籠を前にして、テーブルにかけている。しかも、うろんなならず者風の男が二人、それとまだ子供っぽさの抜け切っていないような兵隊が一人同席していた。店の中央ではシュパン後家とおぼしい老婆が、小さなコップを片手に、何やらまくしたてている様子だ。
ざっとそれだけのことを見てとるとマルチアルは下へ降りた。毒殺犯人である妻が、罪のむくいにおののいている苦悶のさまがうかがいとれたような気がした。そして、もっとよく確めようと再び同じかっこうでのぞき込んだ。
老婆はどこかへ姿を消している。兵隊が立ち上がって、身ぶりよろしく何事かをしゃべり立て、ブランシュ夫人とカミーユがじっと聞き入っていた。二人のごろつきどもは、テーブルにひじを突いたまま顔を見合わせている。その時ふとマルチアルは、彼らが何か暗黙の目くばせを交わしたような気がした。いや確かにそう見てとったのだ。ならず者たちは『一発やらかす』べく、示し合わせているところにちがいない。
ブランシュ夫人は、履物《はきもの》までぶかっこうに大きい平底靴に換えてくるくらい、変装に細心の注意を払いながら、肝腎のことを忘れていた。豪華なイヤリングを両耳に付けたままだったのである。ラシュヌールの共犯者たちがそれを見逃がすべくもなかった。最前から物欲し気な目で、しきりにそれを盗み見ていたのだ。
打ち合わせどおりラシュヌールが現われるのを待ちながら、二人はそれまで割り当てられた役回りを忠実に務めていた。少なからぬ報酬が約束されていた。……ところが、見事なイヤリングを見せつけられると、約束の報酬でさえ、この宝石の値打ちの前では雀の涙と思え出したのである。かくて二人は目顔で物騒な相談を始めたのだ。
「こいつをいただいちまおうや……。あの旦那を待ってるこたあねえやね。こいつを懐にさっさとトンずらを決め込むに限る」
程なく一人のほうがついと腰を上げ、公爵夫人のうなじをわしづかみにすると、テーブルの上にその頭を押しつけた。けなげにもカミーユが、男と女主人の間に割って入った時にはすでに遅く、イヤリングはもぎとられていた。マルチアルは居酒屋の入口へかけつけると、扉の締め金も吹きとばさぬばかりの勢いでとび込んだ。
「マルチアル!」
「公爵さま!」
ブランシュ夫人とカミーユの口から同時にもれた叫びは、呆気にとられていた無法者たちを我に返らせた。二人は狂暴な怒りにかり立てられ、マルチアルに襲いかかったのである。マルチアルは素早く身をかわしてその攻撃を避けた。その手にはいつしかピストルが握られている。二発の銃声がとどろき、二人のやくざ者は床にくず折れた。その闘いの間も、マルチアルは息を弾ませながら女たちにどなり続けた。
「逃げろブランシュ、早く逃げるんだ。オットーが近くまで来ている。名を、一族の名を、何としても守るんだ!」
二人の女は、裏庭に通じる出口から逃れ出た。それとほとんど同時に、表のドアが激しくたたかれた。マルチアルは超人的な力を振りしぼり、向かって来た男を激しく突きとばした。男はテーブルの角に頭をぶつけ、そのまま死んだように動かなかった。
階下の騒ぎにシュパン後家が降りて来ると、金切声を上げた。ドアの向うでは、これまた誰かがわめき立てている。
「警察だ、開けろ、開けろ!」
マルチアルは、その気になれば逃げおおせることもできただろう。しかし、それではみすみす公爵夫人を見殺しにするも同然だった。すぐ追手がかかるのは目に見えている。マルチアルにためらいはなかった。シュパン後家を手荒くゆすぶり、きびきびとした口調で言った。
「よけいなことさえしゃべらなければ、十万フランやろう」
それから、テーブルを引き寄せると、盾にして身構えた。ドアが打ち破られた。ジェヴロールに率いられた警官たちの一団が、なだれのように押し入って来た。警部がマルチアルにどなった。
「おとなしくこっちへ来い!」
マルチアルは、銃口を警官たちに向けながら、頭の中で素早い計算をめぐらせていた。
(ここでほんの二分でも連中を釘付けにし、時間をかせげれば、ブランシュたちも逃げおおせるチャンスがあるだろう)
そして確かに、その二分間をかせいでみせたのである。それから、やにわにピストルを床に投げ捨てると、我が身の脱出にかかった。建物の裏手を回って来た警官がマルチアルめがけて跳びかかり、床に転がしたのはその時だった。その方向から来るのは味方とばかり思っていたマルチアルは思わずさけんだ。
「何もかもお終いだ。やって来たのはプロシア兵だ!」
たちまちのうちにマルチアルは縛を打たれた。それから二時間後には、イタリー広場の駐屯所にある留置場に収監されていた。
マルチアルは、あくまでも身なりどおりの人物を演じとおした。ジェヴロールでさえも、まんまと乗せられたほどだった。ポァヴリエールのならず者たちは死んでしまったし、シュパン後家の沈黙をあてにしていい確信もある。すべてはジャン・ラシュヌールが仕かけた罠だということも見抜いていた。だが一方では、自分を逮捕した若い警察官のまなざしに、警戒すべき何かを感じていた。他の連中がルコックと呼んでいた例の青年である。
いやしくもセルムーズ公爵と言えば、たとえどんな事態に臨もうとも、司法当局さえ指一本ふれることのできない、当代随一の有力権勢家の一人だった。その公爵が今は孤立無援で留置所にぶち込まれているのだ。事態を切り抜ける巧い思案はおろか、何とかなるだろうという楽観の余地もなかった。
(一族の名をスキャンダルから防ぐには、どうしたらいいだろう?)
その解決策は一つしかない。ここで自らの命を断つことだ。この監房で、いさぎよく死ぬのだ。死んでさえしまえば、素性のわからぬ収監者の身もとなど、誰が好きこのんで洗い出そうなどとするだろうか。早くも彼の頭は、自殺の手段を思いめぐらすことでいっぱいだった。ところがその時、駐屯所の内部がにわかに騒々しくなり、すぐ間近でけたたましい物音が聞こえた。
と思う間もなく監獄の扉が開かれ、巡査たちが男を一人放り込んだ。男は千鳥足で、床につんのめるや否やたちまちいびきをかき始めた。だが、それは見かけどおりの酔っ払いなどではなかった。マルチアルの心に希望の光が差し込んだ。変装し、一見それと見分けもつかないが、このにせ酔漢はオットーに他ならない。あきれるほど大胆な策略だった。それだけに一刻の無駄なくこの機会を生かさねばならない。マルチアルは眠くなったふりをして長椅子に横たわった。もちろん、自分の顔とオットーのそれが、わずか一メートルの間隔で向き合っても自然に見えるようにするためだった。すかさず、オットーが声を殺して話しかけて来た。
「公爵夫人のお身は、もうご心配にはおよびません」
「ま、さし当たってはそうだろうさ。だが、いずれは追及の手がのびずにはいまい」
「とおっしゃいますと、旦那さまはご身分を明かしてしまわれたのですか?」
「まさか……。どいつもこいつも、私を場末のルンペン風情くらいに思い込んでいる。ただし、たった一人を別にすればだが……」
「なるほど、さようでしたか。……それでは、今後ともそのお芝居を通していただかねばなるまいと存じます」
「それが何になる! いずれラシュヌールのやつが、私の身もとを当局にばらすだろう」
だがマルチアルは、この時すでに、ジャンを恐れる必要はなくなっていたのである。これより何時間か前のこと、アルカンシェルからポァヴリエールへ向かう途中の石切場で転倒したジャンは、頭蓋を砕くほどの大けがをしてしまった。マルチアルがオットーとこうして話している今も今、ジャンを見つけた石工たちが、病院へかつぎ込むべく運んでいる最中だったのだ。もちろん、オットーはそんなことは知るべくもなかったが、ジャンの名が出ても一向にたじろぐ様子もなかった。
「旦那さまさえそのお芝居を続けてくだされば、ラシュヌールのことは何とでも始末できます。隠しおおさねばならぬことがたくさんある身に、ひとつやふたつの嘘を吐くことなど、どうということもありますまい」
「だが、当局は私が何者で、これまでどんな暮らしをして来たかとか、根掘り葉掘り追及するだろう」
「旦那さまはドイツ語も英語も堪能でいらっしゃいます。ずっと外国で暮らしていたとおっしゃればよろしいではありませんか。赤の他人に拾われたみなし子で、諸国を渡り歩くような商売をしていた、とでもしておくのです。そう、さしずめ旅芸人の一座にいたなどというのはいかがでしょう? 今のうちに、すっかり示し合わせておくといたしましょう。よろしいですか? わたくしは、このパリにさる女友だちがおります――と申しましても、世間ではわたくしたちの間柄を知っている者など一人もおりません――女はミルナーという名で、大そう頭の働く利口者です。サン・クエンティン街でマリアンブールというホテルを経営しております。旦那さまはきのうの日曜日、ライプチヒからパリに着いたばかりだとおっしゃるのです。汽車を降りるや、このホテルにメイの名で投宿し、スーツ・ケースも預けてある。自分は名前もない、ただのどさ回りの旅芸人だということになさってくださいまし」
こうして、捜査活動をさんざん手こずらせることになった作り話の細部まで、一つ一つ打ち合わせができていったのである。すべては申し分なくととのえられた。オットーは眠りから覚めたふりをして巡査を呼び、そのままいともあっさりと釈放されてしまった。しかも出て行きしなに、女用の室にぶち込まれていたシュパン後家に、小さく丸めた手紙をこっそり投げておくのも忘れなかった。
極秘のうちにパリ警視庁へ身柄を移されたセルムーズ公爵は、予審判事の訊問を受けるべく心構えをととのえていた。ところが、やって来たのは何とモーリス・デスコルヴァルだったのである。二人はとっさに互いを認めた。どちらも負けず劣らず、感懐に胸がいっぱいだった。こうなってはもはや訊問どころではなかった。そしてモーリスが立ち去るや否や、マルチアルは自殺を図ったというしだいである。かつての仇敵に、寛容な扱いなど期待すべくもなかった。だが、翌日になって顔を合わせた予審判事はモーリスでなく、あのセグミュレ氏だった。マルチアルは危機をまぬがれたことを感じとった。
その時から、片や判事とルコック、片や殺人容疑者との間の戦いが始まったのだ。それは言うなれば、勝者も敗者もあり得ぬ戦いだった。マルチアルは、ルコックこそ真に危険な敵手であることを痛感していた。かと言ってルコックを憎む気にはなれなかった。真実をつきとめるためには、何ものにもめげず闘い抜こうとするこの若い警官の鋭敏な洞察力に、感嘆せずにはいられなかった。
一方、外部からマルチアルに差しのべられた援助は、一寸の狂いもない完璧なものだった。ルコックはことごとくオットーに出し抜かれどおしである。この謎の共犯者のしっぽを押さえることはどうしてもできなかった。モルグでも、はたまたマリアンブール・ホテルでも、ポリット・シュパンの妻である『聖女トアノン』、それどころかポリット自身に対してさえ、いたる所でルコックは二時間の遅れをとっている。確かに、謎に包まれた殺人容疑者と外部の通信を抑えたし、驚くべき巧妙さでしくまれたそのからくりもつきとめはしたが、それとても何の役に立ったわけではなかった。それというのも、ルコックが行くすえは自分の上司に出世しかねぬことを見てとったジェヴロールが、肝腎なところで足を引っぱったからだ。
ルコックが、宝石商やアルランジュ侯爵夫人に訊ね回っても少しも得るところがなかったのは、ブランシュ夫人が『ポァヴリエール』へ付けて行ったくだんのイヤリングを金で購ったのではなく、ワットー男爵夫人との物々交換で手に入れていたからである。それに、マルチアルの失踪にパリ中の誰もが不審がらなかったのは、公爵夫人とオットー、それにカミーユの三人がぐるになり、セルムーズ邸の使用人さえ誰一人、彼の不在を気づかなかったせいだった。邸中の者が、ご主人さまはご病気で、寝室にこもっていらっしゃると思い込まされていたのだ。
マルチアルは、重罪裁判所の法廷に引き出され、メイという偽名のまま裁きを受けるものと覚悟を固めていた。ところが、思いもよらぬ逃亡の機会が訪れたのである。彼のような頭脳の持ち主が、そこに何かの罠をかぎとろうとするのは当然だった。しばしためらったのも無理はない。しかし結局は、一か八かの賭けに己れの運命をかけた。その賭けはまちがってはいなかった。その日の夜のうちにまんまと己れの邸の塀を乗り込え、逃げおおせてしまったのだ。そしてルコックの手に獲物として残されたのは、マルチアルが居酒屋で行きずりに拾ったならず者、ジョセフ・クーチュリエだけだった。
ミルナー夫人からあらかじめ知らせを受け、しかもルコックの見当はずれな動きのおかげもあって、オットーは万全の備準をととのえて主人の帰館を迎えることができた。あっという間にマルチアルのヒゲは剃り落とされ、その身は悠々と浴槽にひたった。それまで着ていたみすぼらしい服がすぐさま燃やされたのはいうまでもない。かくして、家宅捜索のルコックを迎えたマルチアルは、余裕たっぷりに声をかけたのである。
「入っていただきなさい、オットー。警察の方々のお邪魔をしてはいかん」
だが、捜査の連中が立ち去るや否や、マルチアルは思わずさけんだ。
「やったぞ! 家名は汚されずにすんだ!……ルコックのやつをまんまとあざむいてやったぞ」
そこへ、公爵夫人の手紙が届けられた。
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あなたは救われました。でも今は、すべてをあなたに知られてしまいました。わたくしは死ぬよりほかありません。さようなら。あなたを愛していました。
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マルチアルは飛ぶように妻の居室へ駆けつけた。寝室のドアは固く閉まっている。ドアを押し破って跳び込んだ。が、遅かったのである。ブランシュ夫人も、マリー・アンヌがそうだったと同じく、毒薬がその命を奪っていた。しかしあの時とちがい、即効性の猛毒を入手しておいたに相違ない。両手を胸の上で組み合わせベッドに横たわっているところは、まるで眠っているかのようだ。マルチアルの眼に涙があふれた。
「かわいそうな女だ……。私がそうしたように、神もお前を許してくださるように。かくも無惨な方法で罪をあがなったのだからな」
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エピローグ
最初の成功
自邸の奥深く、腹心の召使たちに囲まれたセルムーズ公爵は、危機を脱したと知るや思わずさけんだ。
「ルコックのやつをまんまとあざむいてやったぞ」
確かにそう勝ちを誇ってよいだけの理由はある。だが、これであのすばらしく鼻の効くブラッド・ハウンドのような男の追及を、永久にかわし切ったつもりでいたのは、とんだまちがいだった。この若い警官は、挫折にくじけて尻尾を巻くような手合いではなかったのだ。タバレ先生のもとを訪れた時、早くも初めのショックから立ち直っていたルコックだったが、この経験豊かな推理家のもとを辞し去る時は、地球をもさし上げかねない活力が身内にわき上がるのを感じていたのである。
とは言え、内心、上司たちがこれ以上この事件を担当させてくれないかも知れないという危惧を覚えぬでもなかった。第一、メイとセルムーズ公爵が同一人だなどと断言しようものなら、みんなは何と言うだろう? おそらく肩をすくめ、鼻であしらうのが|おち《ヽヽ》だ。ルコックは何度となくつぶやいた。
「何はともあれ、具体的な証拠を手に入れるのが先決だ。……たとえば、セルムーズ邸内で見聞きしたことをしゃべってくれる人間がいるだけでも助かるんだが」
ルコックはふと足をとめ、眉根を寄せた。そんな条件におあつらえ向きの者が見つかるかもしれない。頭の中に、ある光景がよみがえったのだ。マリアンブール・ホテルの女主人、ミルナー夫人の姿をまざまざと思い出した。ルコックが初めてホテルを訪れた時、彼女は椅子の上に乗って、黒い甲斐絹の布きれをかぶせた鳥籠に顔を近づけていた。中のむくどりに、三ことか四ことのドイツ語を、一生懸命教え込もうとしていた。ところが鳥のほうは、馬鹿のひとつ覚えのように同じ言葉をくり返すばかりだった。「カミーユ! カミーユはどこなの?」
突然、ルコックは大声を上げた。「あの鳥をミルナー夫人がずっと飼い育てて来たのなら、鳥のほうもドイツ語で何か言うか、少なくともドイツなまりのアクセントが身についていたはずだ。してみると、あのむく鳥は、ミルナー夫人に飼われるようになって間もなかったってことになる。……元の飼い主はいったい誰かな?」
アブサントおやじが不審顔で口をはさんだ。「おいおい、やぶから棒に、ぜんたい何の話だね?」
「つまりだね。セルムーズ邸に誰かカミーユという名の者がいれば、ぼくは必要な証拠を握ったも同然というわけさ。よし、ひとつさっそく行ってみようじゃないか」
ルコックは、グルネル・サン・ジェルマン街をどんどんつき進んだ。連れのアブサントはその剣幕にひきずられたかっこうである。やがて、酒屋の店の壁にもたれかかった使い走りの男を見つけたルコックは、足をとめて声をかけた。
「セルムーズのお邸へ、ひとっ走りしてくれないか。カミーユさんに会いたいと言うんだ。本人が出て来たら、叔父さんがここで待っていると伝えてくれればいい」
走り使いの男は、たちまちかけ去って行く。ルコックは、カミーユなる人物が、男であれ女であれ、どちらの場合もボロがでないような伝言をこしらえたのだ。二人の警官が酒屋の店内で客のふりを装っているところへ、男がもどって来た。
「マドモアゼル・カミーユには、直接会えませんでした。(そうか、カミーユとは小間使の名だったんだな。とルコックは心の中でうなずいた)邸中は、それこそ上を下への大騒ぎでした。何せ、けさがた公爵の奥さまが急にお亡くなりになってるのが見つかったそうで」
若い警官はつい我を忘れて吐きすてるように言った。
「あの、悪党めが!」(やつは邸へもどるなり妻君を殺害したってわけだな。だが、今度こそやつもお終まいだ。何が何でも、捜査を続行する許可をとりつけてやる)
それから二十分足らずのち、ルコックは裁判所に現われた。セグミュレ氏は、ルコックの意外な発見を聞かされても、思ったほどには驚かなかった。だが、さすがに若い警官のみごとな推理ぶりに耳を傾けながら、一抹のためらいは隠せなかった。その彼を決断させたのは、例のむくどりにまつわる話だった。
「おそらく、真相は君が見抜いたとおりだろうし、わたしも同意見だよ。だが裁判というものはね、確たる事実があってはじめて動きだすものだ。セルムーズ公爵さえもはや否定すべくもないほどの強力な証拠をかき集めるのは、警察、いやつまり君の仕事だよ」
「ですが閣下、上司たちは、とうていそれを許してくれそうもないのです」
「いやいや、わたしがひとこと口添えすれば、彼らとて最大の権限を付与してくれるだろうて」
セグミュレ氏の立場にあっては、こうしたふるまいはいささか勇気の要ることである。裁判所の同僚たちにしても、しがない旅回りの道化が、実は言うところの大貴族の変装だったという話に大笑いをするだろう。それに、物笑いになるのを恐れるあまり、内心はそのとおりかも知れないと思いながら、あえてその信念を曲げる者も少なくなかろうというものだ。
だがルコックは勢い込んで訊ねた。
「で、いつ上司に話していただけますか?」
「今すぐだよ」そう言った判事は、早くもルコックの上司のもとへ赴くつもりになっている。
「実は、もう一つ閣下にお願いしたく存じますが……これまで、実によくしてくださいましたし、何と言っても、私をご信頼くださった最初の方でもありますし……」
「遠慮せず言ってみたまえ」
「では、思い切って申し上げます。実はデスコルヴァル判事へも、お口添えをいただきたいのです。と申しましても、ほんのちょっとした伝言なりを送っていただくだけで結構です。たとえば、例の容疑者が脱獄したとか……ただ、その伝言を伝える役を私にやらせて欲しいのです。そうすれば……」
「よろしい、承知した。来たまえ」
上司の執務室から出て来た時のルコックは、考え得るかぎりの、ありとあらゆる捜査上の権限を手に入れていた。その上ポケットには、セグミュレ氏からデスコルヴァル氏にあてた手紙までしのばせている。警視庁の玄関で、仇敵ジェヴロールとぱったり出くわした。警部はじろじろと探るようにねめつけ、すれちがおうとするルコックに言った。
「ふふん、鯨を獲ろうと勇んで船出した漁師が、河ハゼ一匹釣れずに帰るってのはよくあることだ」
ルコックはむっとしてふり返った。
「それでも、囚人が外部と連絡するのに手を貸す警官よりは、どれだけましか知れませんね」
図星を突かれたジェヴロールは、もう少しで日ごろの尊大ぶった落着きを忘れるところだった。だがさすがに何も言わず、ただ満面を染めた朱色がすっかり白状しているも同然だった。ルコックはそれ以上突っ込むつもりはなかった。嫉妬のあまり人の足を引っ張ることしかできないジェヴロールなどにかかずりあって何になろう。それに、今では立派に見返す立場にいるではないか。かくして翌日デスコルヴァル氏のもとを訪れた時、ルコックはすっかりお膳立てをととのえていたのである。
来意を告げたルコックに、下僕が答えた。
「旦那さまは書斎でお若い方とお話されているところですが、どうぞお通りくださいとのことで……」
ルコックは入った。書斎は空っぽだった。しかし、カーテン扉で仕切られているだけの隣室から、接吻の混ったすすり泣きが聞こえる。若い警官はすっかり困惑してしまった。このまま待つか、いっそ立ち去って出直すかと迷っているうち、執務机の上に開かれたままの手紙があるのに気づいた。ルコックはつい本能的にそれを手にして目を走らせた。
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この手紙をあなたのお手もとに持参する若者こそ、マリー・アンヌとモーリスの間にできた子ども、つまりあなたのご子息です。出生を証明する書類をすべてとり寄せ、そっくり持たせてやりました。哀れなマリー・アンヌの遺産も、他ならぬこの子の養育につぎ込んで来たのです。私が養育をまかせた者たちは、信頼を裏切らず立派な若者に育て上げてくれました。今こそ彼をお返しします。
昨日私の妹、あの哀れなマリー・アンヌを毒殺した性悪女は同じ方法で罪を償いました。思いがけぬ出来事で計画が狂いさえしなければ、もっと恐ろしい復讐を受けていたことでしょう。不慮の事故のため、セルムーズ公爵夫妻は、私の仕かけた罠をまんまとかわしてしまいました。
ジャン・ラシュヌール
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ルコックは呆然となった。今や、シュパン後家の居酒屋で大団円を迎えた一大悲劇の秘密をまのあたりにかい間見たのだ。
(こいつは是非とも、セルムーズに飛ばなくてはなるまい。そうすればすべてがわかるだろう)
ルコックは、デスコルヴァル氏に会わぬまま立ち去った。手紙を持ち去りたい衝動だけはかろうじてこらえた。
その日は、ブランシュ夫人の死んだ日からちょうど一か月目にあたっていた。図書室で書見にふけるセルムーズ公爵のもとへ、オットーが、モーリス・デスコルヴァル氏の使いが訪れた旨を告げに来た。直接手渡すべき手紙を持参したという。
マルチアルは何かに打たれたように立ち上がった。
「まさか! まあいい、とにかくその使いとやらを通しなさい」
赤ら顔の太った男が招じ入れられた。髪も額ひげも赤っ茶け、着古して色あせた青色のビロード服を着ている。男はすっかり堅くなった様子で手紙を差し出した。マルチアルは封を切って読んだ。
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公爵閣下、小生はメイの正体を気づかぬことにして貴兄をお救いしました。今度は、そららがお助けくださる番かと存じます。あさっての正午までに、二十六万フランの金が要り用なのです。
貴兄が名誉を重んぜられる方であると信じ、一筆啓上に及ぶ次第です。
モーリス・デスコルヴァル
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一分以上もの間マルチアルは事態をつかみかねていた。それからやにわにテーブルへ突進し、返事を書き始めた。肩越しに、使いの男が文面を盗み見ていることさえ気づかなかった。
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拝復
あさってと言わず今夜のうちにご用立てします。小生の財産も命も、貴兄のおかげあってのものです。メイのぼろ着の下に旧敵の姿を見ておられながら、黙って立ち去られた貴兄の寛大さに思い至るなら、かく申すも決して大げさとは言えぬと存じます。かつての仇敵は今や貴兄の忠実な下僕《しもべ》であることを知っていただければ幸いです。
マルチアル・ド・セルムーズ
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手紙と一ルイの心づけを使いの男に渡しながら、マルチアルは言った。
「これが返事だ。一刻も早くお届けしてくれ」
だが、使いの男は動こうともしない。手紙をポケットに滑り込ませると、顎ひげと赤髪の|かつら《ヽヽヽ》をとって見せた。マルチアルは死人よりも蒼白になってさけんだ。
「ルコック!」
「そうです。いかにもルコックです。どうしてもしっぺ返しをさせていただきたかった。何しろ、私の将来がかかっていますのでね。そこで厚かましくも、デスコルヴァル氏の筆跡を真似てみました。いや、もちろん、上出来とは申しかねますが……」
かねて野心を燃やしていた地位に任命されたものの、ルコックは(それなりの計算もあってのことにちがいないが)程よいたしなみを忘れず、内心の得意をしかつめらしい表情でおし隠した。だが、その日のうちに印形屋へかけつけ、家名をもじった紋章と、常に座右の銘として守り通した銘句を彫りつけた印形を注文したのである。その銘句にいわく、『常に細心であれ』
そして、例の事件については何も知らないのだと思わせるため、付け加えた。
「ブランシュ夫人も亡くなられた今となっては、ボルドリーで何があったかなどと穿鑿《せんさく》してもはじまらんですよ」
事実それから一週間のちには、セグミュレ氏によって、セルムーズ公爵に対する公訴棄却の決定がなされた。
(……さらに本官は、公爵が事件当夜『ポァヴリエール』に居合わせたことを認めた事実をも厳正なる審理に付したのであるが、やはり公爵が完全に潔白である旨を宣する他はないのである)
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解説
日本で初めてミステリー小説が紹介されたのは、明治二十一年(一八八八年)に今日新聞に連載された黒岩涙香|翻案《ほんあん》の「裁判小説|人耶鬼耶《ひとかおにか》」だったが、原作はエミイル・ガボリオの「ルルージュ事件」で、奇しくもこの作品は世界最初の長編ミステリーの栄誉をになうものであった。
涙香はガボリオの小説をこの作品を含めて続けて四編紹介しているが、その他に大デュマ「モンテクリスト伯」、ユゴー「レ・ミゼラブル」、ボアゴベ「晩年のルコック」など、探偵趣味の大作を翻案し、ことごとくが当時のベストセラーとなった。若き日の江戸川乱歩、横溝正史氏などは、その面白さに魅せられてみずからミステリー作家になったのだ。
涙香翻案の諸作は、いずれも当時フランスにおいて新聞小説として人気をかち得た作品ばかりで、日本のミステリーはガボリオから始まったわけである。
ところで、そのフランスにおいてエドガー・アラン・ポーが紹介されたのは一八四六年である。「モルグ街の殺人」が無署名翻案の形で発表された。しかし本当にポーの真価が認められることになるのは一八五六年、ボードレールのみごとな訳筆による「異常物語」の公刊によってだった。このなかに、ポーの探偵小説五編――「モルグ街の殺人」「マリー・ロジェの謎」「黄金虫」「お前が犯人だ」「盗まれた手紙」のことごとくが含まれている。
ガボリオは、ポーの三つの探偵小説に探偵役として登場するオーギェスト・デュパンに心をひかれた。それというのも、ポーはデュパンを創造するに当り、後述するフランソア・ヴィドックの「回想録《メモワール》」(一八二八〜二九)から着想を得ていたのである。ガボリオはのちにデュパンの魅力(論理的|演繹《えんえき》法)に加うるに、ポーの原点となったヴィドック的密偵の性格を加えて、ルコック探偵とその師タバレ先生を創造したのであった。ルコックはデュパンに近く、タバレ先生はヴィドックに近いが、しかしポーとヴィドックの二つの要素は、混然と二人の探偵に滲透している。
ここで特筆すべきことは、後述するように、フランスでは本格ミステリーが育たなかったけれど、皮肉なことにこの仇花のようにぽっかり咲いたガボリオのルコック探偵もの五冊が英訳され、これを愛読したコナン・ドイルがシャーロック・ホームズを書くきっかけをつくったことである。また、ミステリーには関係がないが、文豪トルストイがルコック探偵の愛読者であったことを考えると、いかにその当時ルコック探偵が読まれていたか、そのベストセラーぶりはわれわれが想像する以上のものであったらしい。
ポーは「モルグ街の殺人」のなかで、ヴィドックのことを「なかなかいい勘を持っているし根気強いのだけれど、残念なことに教養がないので肝腎なところで失敗をしてしまう」とやっつけているし、ドイルは「緋色の研究」でホームズに、「デュパンは十五分ほど黙ったあとで、友人の心中を言い当てる。こけおどかしで浅はかなトリックだ。分析能力はあるが優れた男ではない」と言わせ、また、ルコックに対しては、「黙秘権を使う囚人の正体を探り出すのに六カ月もかかっている。ぼくだったら二十四時間で十分だ」と言わせている。
ドイルは自分が創造したホームズの天才的能力を強調する余り、努力型探偵を軽蔑するような言を吐かせるのだが、根気強く犯人を追う平凡型探偵はその後クロフツのフレンチ警部、フィルポッツのリングローズ探偵(「闇からの声」)、シムノンのメグレ警部などに引継がれ、最近ではこの分野での主流とも言えるレアリズム探偵小説(例えば警察チームワークの活動をテーマとした警察小説)に立派に活躍の舞台を移している。一方ホームズ流の天才型探偵は逆にほとんどその姿を消してしまったのだ。
ガボリオがポーに学んだのは、いわゆる分析演繹法である。すなわち事件の現象を綜合してあらゆる可能性を検討し、次々とエリミネート(消去)して行って最後に残ったものは、それがたとえどのようにあり得ないものに見えても、じじつ不可能と判断されても、それが結論であると判定する方法である。いかに犯人らしくなくてもそれが犯人であるという原理で、ガボリオはこのポーの教訓を金科玉条としてルコックに作中でしばしば語らせており、この「エリミネーション」(消去法)による推理は、ミステリー作家の基本になり今日に至っている。
さて、イギリスではホームズを皮切りに探偵小説が隆盛をきわめたが、フランスにおいてはせっかくガボリオが世界最初の長編探偵小説を書いたにもかかわらず、のちにはその正統をはなれて、いわば犯人側の小説である悪漢小説《ロマン・ピカレスク》系統がさかえ、ロカンボールの人気が後をひき、ルパン、シェリ・ビビ、ファントマなどの冒険小説が主流を占めるに至った。
その源泉をたどれば、警察小説と悪漢小説の二つの要素をもったヴィドックの「回想録」が大きく影響を与えたのである。
そもそもヴィドックとは何者か? この男は一七七五年に生れている。十五歳ごろまでは何不自由なく成長した。十六歳で歩兵連隊に入隊。五年後、軍隊生活に嫌気がさして除隊したが、除隊証明書を受けなかったため脱走兵として逮捕され入獄する。入獄中に贋造《がんぞう》紙幣犯の一味の濡れ衣を着せられ、ブレストの徒刑場で重労働刑に処せられた。それから十年、脱獄と逮捕に明け暮れ、その間徒刑場で多数の重罪犯人と知り合い、暗黒社会の表裏の情報、犯罪手口を詳細に知り、脱獄・変装のプロになる。
果ては徒刑場で得た情報を警察に売る密偵となり、出獄するとパリ警察の手先をつとめた。やがてこの世界で数々の手柄をたて、ついには国家警察パリ地区犯罪捜査局を創設し初代局長となる。まさに波瀾万丈、数奇な運命をたどったというべきである。そのうえ奇しくもこのヴィドックの捜査局は、現在のパリ警視庁の前身となったのだ。
この男は、密告とスパイを常套《じょうとう》手段とする汚ない犯罪摘発方法で成功したが、他方では入手した犯罪者および犯罪手口を分類して厖大なカードを作り、各地の警察に配備するという科学的捜査方法を確立した。のち、捜査局を辞し世界最初の私立探偵事務所を開設したが、その利用者は三千人と記録されている。
ヴィドックの「回想録」は以上のような自らの半生を書き記したものだが、この「回想録」が与えた影響はポーおよびドイルだけではなく、フランスにあっても〈新聞小説〉の隆盛に大いに貢献した。そして、このフランス文学史に一時期を画した新聞小説の大流行こそが、ガボリオのルコック探偵が活躍する舞台だったのである。
「回想録」が世に出て八年後、一八三六年に、エミイル・ド・ジラルダンが「ラ・プレス」という日刊新聞を創刊した。発行部数が極端に少ないそれまでの新聞経営方法を改めて、新聞連載小説に力を入れ、廉価に大量部数を売ろうと計画した。この試みが図に当り、一八四三年には日刊新聞の総発行部数が九百万部になったと記録されている。(この数字はほとんどの家庭で新聞を愛読していたことを示している)
新聞小説の最初のヒット作は大デュマの「ポール船長」(一八三八)であった。以後ユージェヌ・シューの「パリの秘密」(一八四二)、大デュマの「モンテ・クリスト伯」(一八四四)、デュ・テライユ「怪盗ロカンボール」(一八五〇)、ユゴーの「レ・ミゼラブル」(一八六二)、ルブラン「アルセーヌ・ルパン」(一九〇七)、それにM・アランのファントマ・シリーズ(一九一〇)と、つねに人気作に事欠くことがなかった。ルルーのシェリ・ビビもの(一九一三)を最後として、約百年隆盛をきわめた新聞小説は第一次世界大戦が始まるとともに終息する。映画の台頭が新聞小説を衰微させたのである。
新聞小説の内容は毎日毎日、スリルとサスペンス、あるいはお涙頂戴式の家庭悲劇が主なもので、ヴィドックの多彩で異常な生活の記録がこれらの小説の着想源となっていた。その間、純粋の探偵小説的テクニックを使って書いた作家は、エミイル・ガボリオ一人だけであった。ルパン、ファントマ、シェリ・ビビを冒険小説のジャンルに入れることは、今や常識化されている。
従ってルコック探偵は、フランス唯一の探偵小説だと言われるわけであるが、本書の構成を見ると、そこにはまぎれもなく新聞小説のスタイルが駆使されているのである。前半を成す第一部はまさしく純粋な探偵捜査(事件発生→捜査→殺人動機と犯人の確定)に終始するのだが、後半の第二部は事件発生の過程と経過を別個の小説のように描き、新聞小説のパターンどおり家庭の悲劇を延々と叙述してゆく。そして大団円近くなってようやく第一部の犯罪事件につながり、エピローグとして探偵が犯人を逮捕する(倒叙探偵小説の源泉と見られないこともない)に至る……。
この手法は、当時の新聞小説としての最低の条件であった。「ルコック探偵」にしても、第一部の捜査よりも第二部の家庭の悲劇の活劇調ロマンスの方がはるかに読者に受け、分量も二倍ぐらいの長さがあるのだ。最も極端な例は、ルコック・シリーズの第四作「パリの奴隷」(本邦未訳)で、探偵は小説の最後に至ってようやく現れて事件が解決するという、ルコックは単に小説のしめくくりに使われているだけなのである。
ガボリオを愛読していたドイルも、ホームズものの長編「四つの署名」と「緋色の研究」では、ガボリオのこの手法を踏襲している。
ガボリオのもう一つの興味深い点は、職業探偵ルコックの創造であろう。刑事を主人公として登場させたのは、ポーのデュパンを除いて初めてだ。もっとも、デュパンは私立探偵ではあるが――。ルコックに二年遅れて、ウィルキー・コリンズは「月長石」でカフ・ロンドン警視庁捜査課部長刑事を書くが、歴史的にはルコックが初代捜査刑事ということになる。
レジ・メサックの指摘をまつまでもなく、同時代に登場する警察探偵は、「レ・ミゼラブル」のジャヴェール、大デュマの「パリのモヒカン族」のジャカル、あるいはバルザックの諸作にも散見されるが、どれも前科者を執拗に追い、喰いついたら離れない悪玉刑事だった。ルコックはそれらの探偵たちと趣きを異にしている。出身からしてノルマンディ地方の由緒ある素封家《そほうか》の出で、すぐれた素質をもち、立派な教育を受けている。
大学時代に両親を失ったことから自活して学業を続けなければならず、いろんな職業を転々としたあげく、苦心の末にあるプランを考え出した。それは法に触れず電報一本でパリまたはロンドンから巨額の金を手に入れることであった。そのプランを知った当時の雇主である天文学者は、いみじくも言ったものだ。「ルコック君、君は大変に立派な才能をもっている。君のような貧乏人は、盗賊になるか敏腕な探偵になるか、どちらかしかないだろう。いずれを希望するか、それは君の問題だ」こうしてルコックは、盗賊にならずに警視庁に入ったのである。
ここでもルコックはヴィドックの影響を受けている。盗賊も探偵も才能は同じ方向を示していると断定していることだ。
ルコックは青白い顔の、ひげのない、唇の赤い、豊かな髪をもった青年だった。小柄だが身体つきは均整がとれている。神経が鋭敏で精悍である。観察力がするどく、推理を用いる力をもっている男だ。証拠をあつめる。仮説を立てる。帰納法で正しく組立てる。使用されたベッド、コップ、茶碗のたぐい、置き忘れた葉巻――そんなものに注意を向け、石膏で足型をとることもある。正しい証拠と厳しい推理によってこれを分析し、被害者と犯罪を有機的に結びつければ、犯人を逮捕することができる。
ルコックの探偵方法は、デュパンほど野心的でもなければ、さっそうとしたものでもない。ただただ実証にのみたよるものである。この科学的捜査法について、犯罪学者ロカール博士は手ばなしでほめる。――「捜査に推理と訊問とを有機的に結びつけて犯人を逮捕するという方法を実行した探偵は、ルコックを除いて一人もいなかった」
デュパンは足で証拠を集める努力はしていない。この点ではガボリオは近代的捜査方法を創設した先駆者であると言ってよいだろう。
フランソア・フォスカはこう言っている。「同時代のだれよりも先に論理的推理の機能を活用している。ルコックは科学上の諸知識を現場検証に応用している。ルコックとはなんと素晴しい探偵ではないか……」科学的知識を応用したという点では、フリーマンのソーンダイク博士に先行するのである。
ガボリオは、もともと普通小説(家庭のスキャンダルをテーマとした)を書いているので、探偵小説の範疇に入る作品は左の八編と考えられる。(1から5までがルコック・シリーズである)
[1]「ルルージュ事件」L'Affaire Lerouge(1866)
▽明治二十一年、小説館より黒岩涙香訳「人耶鬼耶」▽昭和二十五年、岩谷選書より田中早苗訳「ルルージュ事件」
ガボリオはこの探偵小説を書くまでに、七編の普通小説を連載発表している。最初ル・ペイ新聞に連載されたが、新聞社がつぶれたため、プチ・ジュルナルに引きついで連載された。
伯爵の子が妻と妾に同時に生れた。妾の子は、赤ん坊のとき自分がすり替えられていたことを成長してからある古い手紙で知り、自分が正当な嫡子であると名乗り出るが、赤ん坊すり替えの鍵をにぎるルルージュ未亡人が殺害される。……これが事件の発端で、ルコック氏、タバレ先生が捜査に活躍するが、この小説ではルコックは端役でつきあう。
この作品が近代ミステリーの長編形成をとった世界最初のもので、歴史的に明記されるわけだが、作品が発表された一八六六年はわが国の慶応二年にあたり、明治天皇が即位した年になる。これより先、六年前の一八六〇年にコリンズが「白衣の女」を、ついで一八六二年に「無名」を発表しているが、いずれもミステリー的要素は濃厚ではあるけれど、本格ミステリーの先駆的作品とは言い難い。
[2]「書類百十三」Le Dossier 113(1867)
▽明治二十二年、金桜堂より黒岩涙香訳「大盗賊」▽昭和四年、博文館より田中早苗訳「書類百十三」
[3]「オルシヴァルの犯罪」Le Crime d'Orcival(1867)
▽明治二十二年、丸亭素人訳「大疑獄」▽昭和四年、改造社世界大衆文学全集、田中早苗訳「河畔の悲劇」
[4]「パリの奴隷」Les Esclaves de Paris 続編「シャンドース家の秘密」Le Secret des Champdoce(1867)未訳。
2、3、4の初出年代は乱歩その他の年表と異なっているが、レジ・メサックの「探偵小説、その科学的影響と考察」(一九二九年、シャンピオン刊)の巻末のリストで訂正した。また、「パリの奴隷」については、拙稿「ガボリオとルコック探偵」(「幻影城」昭和五十一年七月号)発表後、原本を入手し、4のとおり二冊本であることが判明したので、今後ルコック・シリーズは五巻とすべきである。
[5]「ルコック探偵」Monsieur Lecoq(1869)
▽明治二十四年、中央新聞連載、南陽外史訳「大探偵」▽昭和四年、改造社世界大衆文学全集、田中早苗訳「ルコック探偵」、および本訳書。
原題の〈ムッシュー・ルコック〉は、ルコック氏、ルコックさんと親しく呼びかけるぐらいの意味だろうが、本書は前から親しまれている「ルコック探偵」というタイトルを踏襲した。「ルパン」にしても原語に近いリュパンではなく、ルパンと言った方が抵抗が少ないのだ。
[6]「首の綱」La Corde au Cou(1873)
▽明治二十二年、魁真楼より黒岩涙香訳「有罪無罪」▽昭和五年、春陽堂探偵小説全集、江戸川乱歩訳「首の綱」
[7]「他人の銭」L'Argent des Autres(1874)
▽明治二十二年、三合館より黒岩涙香訳「他人の銭」
他人の銭とは銀行の預金のことである。
[8]「バティニョールの小男」Le Petit Vieux des Batignolles(1876)
未訳 短篇集。表題の「バティニョールの小男」は中編小説で、ガボリオの作品のなかでもっとも純粋の推理小説に近づいていると言われているが、原本未入手。さらに収録されている短編も純粋の推理小説の手法を使っているという。
ガボリオは、一八三五年に、シャラント・アンフェリュール県ソージョンに生れた。父が公証人だったので、父と同じ職業につこうとして公証人の見習いとなった。二十歳で騎兵隊に入ったが、アフリカで病気になり除隊、パリに出た。
しばらく仲買人の雇人の職をつとめ、二十五歳のとき、ポオル・フェヴァルが主催するジャン・ディアブル週刊紙に入社し、アレクサンドル・デュマと知り合う。ポオル・フェヴァルは当時の大衆小説の大家で、ガボリオはフェヴァルの代作をするようになり、その材料を仕入れるために警察やモルグ回りをしたので、のちに探偵小説を書くようになってからこれらの知識が大いに役立つことになった。
当時の新聞小説は、本紙とは別に別刷の新聞付録文芸誌にも発表の舞台があった。ガボリオもこうした文芸誌に連載小説を発表した。
新聞小説は今日と同じく一日の原稿分量がきちんときまっていて、毎日書かなければならなかった。その一日の分量のなかに必ずヤマをつくり、運命やいかにのサスペンスも織り込まなければならない。
ガボリオが原稿を一枚書くたびに、メッセンジャー・ボーイが印刷所へ運んだそうである。そうした生活が十三年つづき、二十一の長編を書いた。この過労がたたったのか、ガボリオはアフリカ旅行で病を得て、一八七三年四十二歳で死んだ。(この項は、ベルギーのマラブー叢書一九五七年版「ルルージュ事件」の解説からとっているが、乱歩によると、文通のあったマスロフスキーはガボリオの生年を一八三二年としている)
本書はお断わりするまでもなく、ガボリオによって書かれたのが今から百年以上も前のことで、長編ミステリーとしての形態を完成した世界最初の作品である。この作品が発表されてから百年の間に、ミステリーは一九三〇年代に至り本格探偵小説の頂上をきわめ、以後この形態を維持しつつも、幅広いジャンルに広がり、極端な例をあげれば、発表当時冒険小説の性格をもったジュール・ヴェルヌの作品がSFにと発展し、広義のミステリーに入れられるに至り、今やこの分類に疑いをもつものもない現状となった。
しかし、ポーのデュパンが活躍する探偵小説やシャーロック・ホームズ譚が時代を越えて色あせぬばかりか、今でも全世界で愛読されていると同様に、ガボリオのルコック探偵もまた、フランスでは現在でも広汎な読者層に読みつがれている。ルコック探偵シリーズは文学的、歴史的遺産であるだけではなく、当時のフランス大衆小説のなかでも例外の傑作であり、ガボリオの才智と創意、それよりも何よりも、ストーリー・テラーとして面白さの点で群を抜いているのである。新聞小説隆盛の百年の中で最大の傑作といわれるユゴーの「レ・ミゼラブル」、大デュマの「モンテ・クリスト伯」同様、若い読者に本編を一読することをおすすめする。
たとえば、せっかくルコックが犯人のメイを追いつめながら、同じ警察の上役であるジェヴロール警部がメイにルコックの手のうちをばらし、ルコックを窮地に追い込むエピソードなどは、新しいミステリーを読みなれた読者に奇異な感じを与えるかも知れないが、当時のフランスの警察制度から見れば、このエピソードは読者にレアリティを与えたと思われる|ふし《ヽヽ》がある。先に触れたヴィドックは、自分の手柄を誇示するあまり、みずから犯罪をでっちあげ、警察内のライバルを罠におとし入れる手段さえ用いているのである。こうした点を考えれば、その当時の特殊な社会事情がわかって、かえって興味が湧くのである。
「ルコック探偵」のような名作が、昭和四年に翻訳されてから現在までの五十年、なんら改訳の手段がとられずうずもれていた事実こそ、ミステリー界の痛恨事ではなかったかと、筆者はひそかに考えている次第である。
本書は Monsieur Lecoq; Les chefs-d'oeuvre du Roman(一九六〇年刊)の全訳である。本テキストは、一冊本に圧縮された流布本だが、次の理由によりこれを使用することにした。
近年フランスにおいて、大衆小説のリバイバルの風潮が高まったことから、一九七八年、ガルニエ社よりルコック探偵初版本の翻刻二冊本が発売された。この完全版と本書とを校合した結果、分量の点においてかなりの開きがある。しかし今日の小説作法から見れば、筋に関係のない冗長な部分が多く、本書は作品全体から見れば、じつに巧みに刈り込みの手を入れた圧縮版であり、冗長な部分を削除した本書の方が読者に対して適切だと考えられるのである。
しかしながら、作品内容においては田中早苗訳本の約三倍の分量があり、筆者は本訳によって、日本で始めてガボリオの作品が正しい姿で紹介されたと自負している。
訳者として、この「ルコック探偵」には因縁浅からざる思い出がある。訳者が少年のころ、江戸川乱歩から面白いからぜひ読めとすすめられて読まされたことがあった。そのときの本は田中早苗訳のものだったが、乱歩はこの作が気に入っていて、のちに講談社から少年向きに「ルコック探偵」を書き直して出版している。この訳書を乱歩の墓前に捧げたいと思っている。
〔訳者略歴〕
松村喜雄(まつむらよしお) 作家。一九一八年東京生れ。東京外語大卒。外務省に入る。日本推理作家協会々員。主著『白い乱気流』(日本経済新聞社)『緋のコネクション』(ダイヤモンド社)など。ステーマン『マネキン人形殺害事件』など訳書多数。