ルコック探偵(上)
ガボリオ/松村喜雄訳
目 次
第一章 捜索
第二章 貴族の名誉
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第一章 捜索
一八××年二月二十日のことである。その日は日曜の告解日《グラ》(肉食日)だった。夜もふけた十一時ごろ、警察警備隊の一団が、旧イタリー広場の駐屯所から出動した。連日ふりしきった雪がとけ始め、ひどい霧になっていた。この警官の一団を指揮しているのは、パリ警視庁でも一番といわれる腕ききジェヴロール警部だが、ふだんみんなは彼を『大将』と呼んだ。
一行がシャトー・デ・ランチエ街を通り過ぎようとしたときのことだ。突如どこからともなく、すさまじい叫び声が聞こえてきた。とすぐに、その声を追いかけるようにして、前よりもさらに恐ろしい声があたりに響き渡った。
「おお、あの声はシュパン女将《おかみ》の居酒屋からだ。ポァヴリエールから聞こえてくるぞ」と、大将がさけんだ。「居酒屋はすぐそこだ、急げ!」
警官隊は猛然と駆けた。一分とたたないうちに、空地のなかにひっそりと建っている陰気くさくみすぼらしい居酒屋の前に着いた。絶叫が聞こえて来たのは、この見るからにいかがわし気な建物のなかからだった。さらにものすごい悲鳴が起り、続いて二発の銃声が響いた。
「警察だ、開けろ、開けろ!」と、ジェヴロールが連呼した。
返事がないのでドアを打ち破った。中になだれ込んだ警官隊は、そのうす汚い店の、半地下式になった土間の光景を見て棒立ちになった。ジェヴロールでさえ、あまりの恐ろしさに足が動かなかった。暖炉のなかでパチパチ火が燃え、その近くに男が二人うつぶせになって倒れていた。死んだように動かない。三番目の男は部屋の中央に横たわっていた。その右手の奥まった階段のすそのところに女がうずくまり、呻《うめ》き声を上げていた。そのまた奥の正面のドアは開けたままになっていて、頑丈なテーブルを盾《たて》にして男が一人、威丈高《いたけだか》に立ち構えていた。かなりの年輩で顔いちめんひげが濃かった。服装といえば船場の荷揚人夫の着ているもので、ズタズタに裂けていた。殺人を犯したのは確実にこの男だった。眼を見ても狂人のそれのように兇暴だった。五連発のピストルを手にしている。
「おとなしくこっちへ来い!」と、ジェヴロールがさけんだ。
「あたしは何もしちゃいない」男はかすれ声で言った。「襲われたのはあたしだ。そこの女将にお訊きなさい。あたしは自分の生命を守っただけだ。あたしにもそのぐらいの権利はある」
男はピストルをかまえて威嚇した。
警官隊の一人が、戸口から半身をつき出した格好のまま、ジェヴロールの腕を力まかせに引っぱり、注意をうながした。
「気をつけてください、大将。やつは五連発をもっています。だが、まだ二発しかぶっぱなしていませんよ」
ジェヴロールは、相変らず男のほうへにじり寄っていった。男はテーブルを盾にしながら、隣室のほうをうかがった。裏口から逃げ出そうとしているのだ。しかし一人の警官が、男のそんな作戦をいち早く見抜き、家のまわりをぐるりと迂回して、裏口のドアから隣の部屋に先回りし、待ち構えていた。そして殺人犯の背後からおどりかかり、羽がいじめにした。男はテーブル越しにあお向けにひっくり返り、大声でわめいた。
「何もかもお終いだ。やって来たのはプロシア兵だ!」
警官隊はドッとその男に襲いかかり、とり押さえてしまった。
「さあ、被害者のほうを調べろ」と、ジェヴロールがさけんだ。
暖炉のそばに倒れている二人はすでに死んでいた。三番目の男はまだ呼吸《いき》をしている。被害者の三人のなかでは一番若く、歩兵の軍服を着ていた。
「苦しい……。頭をやられた!」警官が抱き起すと、その歩兵服の男は呻きながら言った。「ラシュヌール、ラシュヌール」
「おい、ラシュヌールとは何者だ?」
「ジャン・ラシュヌールだ。もと役者……ここに誘い出した……」
それ以上続けることはできなかった。この男も、前の二人のあとを追って息を引きとった。
「ふん」とジェヴロールが言った。「まあ、それでも何ほどかの手がかりは残してくれたな。こいつは兵隊だから、外套のボタンに刻んである所属の番号をたどれば、何者か判明するにきまっている」
すると傍から例の警官が、
「そうはいかないと思います」と、微笑しながら口を出した。
「それはまた、どうしてだ?」
「おっしゃるとおり、確かにこいつは兵隊の服を身につけています。服装はそうですが、中身は違いますよ。この男をよく見てごらんなさい。軍隊の規則では、頭髪は短くしておかなければならないはずです。いったい、肩まで髪をたらした兵隊なんているものでしょうかね?」
そう若い警官から指摘されて大将はたじろいだが、すぐに立ち直った。
「ご高説はうかがっておくよ。まあ、おおかた休暇中をいいことに、散髪代を倹約してやがるんだろうよ」
「でも、少なくとも……」
「おしゃべりはもういい。それよりも事の経過を調べなければならんぞ。シュパン女将は幸い死んでいない。ふん、このあばずれ婆め、立つんだ」そう言って、ジェヴロールは、ぺたんと坐りこんだままの女将の肩をゆすった。「おい、この騒ぎはどうして起った?」
「あたしは何も知りませんよ」と、歯の抜けた口でこの性悪女は答えた。「息子のポリットの古着を縫い直していたんだよ。牢屋に放り込まれているんだ。そのとき階下《した》で騒ぎが聞こえてさ、降りてみるとそこにのびている三人が、この罪もない人に喧嘩を吹っかけてるじゃあないか。それ、お前さんたちがとっ捕まえたその人にだよ。それであたしゃ、大声で助けを呼んだってわけでね。他のこたあ何にも知りゃしませんよ」
聞き出せたのはそれだけだった。むろん殺人者からも、いっさい経緯はわからなかった。
「さきほど言ったとおり、あたしは無実だと申し上げるほかに言うことはありません。判事さんから訊かれれば答えはしますがね。だがそれまでは、もう何もしゃべるつもりはありませんよ」
「おおいに結構」ジェヴロールは、それ以上あまりしつこくは訊こうとしなかった。警官隊にてきぱきと命令した。「お前たちのうち二人だけここに残れ。わたしは他の者を引き連れて帰る。警視どのを起して、あとはその命令しだいだ。シュパン女将とこのお客人のご両人には、ご一緒願うとしよう」
ジェヴロール警部の命令に従って、二人の警官がそれぞれ容疑者を連れてこの場を引揚げようとしたとき、例の一番若い警官がジェヴロールの前に出た。
「おい、何だ?」
「大将、この事件をどうお考えでしょうか」
「簡単な事件さ。四人の男が、このいかがわしい場所で落ちあったのさ。そのうち、仲間割れの喧嘩になって、なぐりあいになった。ところがそのなかの一人がピストルをもっていたので、他のやつを殺《や》っちまったのさ。それだけの単純な事件だ。殺人者はいずれ裁かれる。世間から鼻つまみのごろつきが何人か処分できたのだから、かえって喜ばれるさ」
「すると大将は、これ以上の捜査は必要ないと判断されておられるのですか?」
「まるで必要ないね」
若い警官はすっかり考え込んでいるようだった。
「大将、この事件は意外に底が深いような気がしてならないのです。殺人容疑者の物腰、顔つきをごらんになって変だとお思いになりませんか? あるいはわたしの思いちがいかも知れません。でもわたしには、見たままを信じるのはどうかなと思われます。どうも、なにやらピンと来るものがあるんですよ」
「おやおや、具体的に説明してくれんかね?」
「猟犬が獲物の匂いを嗅ぎつけたとでも言うほかに、説明のしようがないのです」
現実主義者の警察官であるジェヴロールは肩をすくめただけだった。
「ひとことで言えば、君はメロドラマ趣味にわざわいされているんだ。大貴族が変装してポァヴリエールに出向いて来て、何者かと秘密の会合をしたとでも言いたいのだろう。シュパンの居酒屋で、そんなことが起るはずがないよ。それとも、君がその証明をしてみせるかね?」
「お許しいただけるのでしたら……」
「よかろう。それほどまで熱心に言うのなら、君に捜査をまかせよう。君の同僚のなかから好きな相棒を選んでいい。その相棒とここに残って調べてもらうことにする。そして、もし何かわしの見落した事実を発見したら、この目玉の節穴ぶりを何とでも言ってもらおうじゃないか」
ジェヴロールが無駄としか思えぬ調査をまかせた警官は、この手のことにかけてはいわば新米だった。名前をルコックという。年齢は二十五、六歳ぐらい。ひげはなく色白で、まっ黒な髪の毛が豊かに波打っていた。小柄ではあるが、均整のとれた体格の持ち主だった。そして、そのちょっとした動作からさえも、並々ならぬ意欲がうかがわれた。目先がきき、頭の回転は抜群で、捜査活動にあたってもあくまで自分独自の考えで判断し、既成の概念にとらわれ、ふり回されるようなタイプではなかった。
ポァヴリエールの建物の前に立ちながらルコックは、警官隊が引き揚げるのをじっと見送っていたが、やがて店にもどると床を足で蹴り大声で言った。「さあこれで二人になったぞ」
ルコックが警官隊のなかから選んだ同僚というのは、頭の働きこそあまりよくはないが、捜査の助手としてこれ以上の人材はなかった。ルコックの言いつけどおり動いてくれる男だった。五十歳ほどの好人物。騎兵隊を除隊してからパリ警視庁に入った。アブサントおやじとよばれている。なぜか理由はわからないが、この名前で通っている。
「君がおれを選んでくれて、ありがたいと思っているよ。連中がこの雪の中で、えっちらおっちらやってるってのに、こっちはぬくぬく居眠りしていられようってものだ」
「冗談じゃないよ」と、ルコックが声を大きくした。「もっと念入りに細々したことを調べるために、ここに残ったんだぜ。手がかりになる証拠を集めるんだ。警視、検屍医、予審判事が来るまで、あと何時間もないんだ。ぼくはそのとき報告書を提出するつもりだ」
「すると君は、大将が見落した何かを見つけだそうというわけか?」
「大将だってまちがうことはあるさ。まず手はじめにおやじさんの意見を聞いておくがね、例の逮捕された男のことをどう思うかね?」
「船場の人足か屑拾いだね」
「教育のない男だというのだね?」
「そうさ」
「よかろう。ぼくはおやじさんの考えと反対の証拠をあげてみせるよ。逮捕されたときにしゃべった言葉を思い出してみろ」
「やって来たのはプロシア兵だ、か。要するにおれたちを罵《ののし》ったのさ」
「まるで違うね。フランスが敗北した、あの恐ろしい事件のことを聞いたことがないとでもいうのか。ワーテルローの戦いのことさ」
「ああ、その戦争のことなら知っている。でも、それとこれと、どんな関係があるんだ?」
「それなら、ワーテルローの戦いは最初フランス側が勝利をかち得るかと思われたことも知っているだろう。イギリス兵は切り崩され、ナポレオン皇帝が『勝利をつかんだ!』とさけんだときのことだ。突然右翼から、一団の兵が姿を現わしてこっちに向って突進して来た。この一団がプロシア兵だった。ワーテルローの戦いはこうして敗れたのだ」
「わかったぞ。するとあの男の言葉は何かの暗示だったのだな」
「ぼくの話を最後まで聞いてくれ。ナポレオン皇帝がそのプロシア兵の出現に呆然となったというのも、その方角からグルーシイ将軍の率いる三万五千の軍隊がやって来るものと期待していたからだ。そこへプロシアの兵隊が現われた。もしあの男の暗示が正しいとすれば、味方が来るのを待っていたところに警官隊が現われた、ということにならないかな」
「なるほど、たいしたものだ。どぎもを抜かれたよ」アブサントがほめた。
「さらにいわせてもらえば、考えれば考えるほどおかしいことばかりさ。たとえばなぜあの男が逃げようとしないで、残ったままで大将と押し問答をしたかということだ」
アブサントおやじは席から立ち上がり、ルコックの話をさえぎった。
「なぜだって? 共犯者がいたんだ。そいつらが逃げおおせるよう、時間をかせいでいたのさ。そうに決まっているじゃないか」
「ぼくが言おうとしたのもそれだよ。そのとおりかどうか確めるのは造作もないことだ。まだ外には雪がつもっているからな」
アブサントが灯りを手に持って、ルコックのあとに続く。二人はドアのほうに急いだ。それは建物の裏手に出られるもので、小さな庭に通じている。そのあたりは、雪がまだ解けていなかった。くまなく地面をおおった白い雪の表面に、無数の足跡が残っている。ルコックはズボンが濡れるのもかまわず、ひざまずいてその足跡を調べた。短い時間ですませ、すぐにルコックは立ち上がった。
「男の足跡ではない。女のだよ」
「なに、女の足跡だって。こいつはすてきな事件だぞ。女がからんでるとはね」
ルコックは答えなかった。ドアの傍に銅像のように立ちつくしていた。たった今の自分の発見に呆然とさせられていたのだ。ただ一言を手がかりに、自分の頭の中で組み立てて来た推理が、足もとから崩されていく思いだった。これでは、謎に満ちた難事件も何もあったものではない。従って水際立った捜査活動の凱歌も、世間をあっと言わせる手柄で名声を博する望みも、もはやこれまでだった。
たった今の乱闘沙汰に二人の女がからんでいたとなれば、事件の全貌は赤子の手をひねるように易々と、説明がついてしまうというものだ。
「おれたちの捜査が、かくも輝しき成果を上げたっていうのに、まだこんな所にぐずぐずしてなきゃならんのかね?」
アブサントの言いぐさは、この上なく苦々しい当てこすりとして若いルコックを傷つけた。
「おい、静かにしてくれ」と、ルコックは声を荒げた。それから、「庭のなかを歩かないでくれ。大切な物的証拠だ、堙滅《いんめつ》したくないから」
このきつい言葉にアブサントは沈黙した。自分などはるかに及ばぬルコックの叡智を心得ているだけに、その言葉にはいつも従うことにしていたのである。ルコックは再び推理の糸をたぐり始めていた。
(事のしだいは、おそらくこんなところだろう。殺人者は城壁のそばのホテルのダンスホール、アルカンシェルでダンスをしてから、二人の女と連れだってここに来た。この居酒屋で三人の酔っぱらいにからまれた。連中は両手に花のあいつを冷やかしたか、でなきゃ、女たちに厚かましいちょっかいを出そうとしたんだろう。で、あの男はひどい怒りようだったに違いない。ところが、酔っぱらいは一戦交えようという構えをみせた。三対一だが、女の連れはピストルをもっていた。カッとなってピストルを射った)
そこでルコックの思考は中断された。そしてすぐ、大きな声でつけ加えた。「しかし、その二人の女は、本当にあの男が連れて来たのかな?」
ルコックは即座に部屋を横切って、さきほどジェヴロールが押し入った人口のドアのあたりを調べた。だが無駄骨だった。雪が少ないことと、大勢の足で踏み荒されているため、何の痕跡も見分けることはできなかった。いまいましさのあまり彼は泣きたい思いだった。
もうこれ以上探り回るのはやめ、警視が乗り出して来るまでは何もせず、帰ってひと眠りしたほうが利口じゃないかという気がした。ところがアブサントおやじは、それまでと打って変った張り切りようだった。もうじっとしちゃおれん、と言わんばかりの口ぶりだった。
「いいかい、こうしている間も時間はどんどん過ぎちまってるんだぜ。何時間かすれば、予審判事もやってくる。それなのに、どの面《つら》下げておめおめと、何の手がかりもありませんなどと報告できるかね? お前さんがのらくらを決め込みたいならそりゃ勝手だがね、おれは独りででもがんばるぜ」
ルコックの口もとに、知らず知らず微笑が浮んだ。
「よしよし、じゃ仕事だ」
ランタン一つを二人で使い、仕事をはじめた。新しい捜査は、二人の女がポァヴリエールから立ち去ったことをルコックに確信させた。
女たちは駆け足で立ち去っていた。相当に大股の足跡が残っていたし、その足跡のつき方からも疑う余地はなかった。二人の逃亡者が残していったそれは、他の足跡とは歴然と区別することができる。
ひとつは小さなかわいい足跡だった。流行のかかとの高い靴の跡だった。それにひきかえ、もうひとつは、大きなずんぐりした足の女がはく、かかとのひくい型の靴跡だった。それがわかるとルコックは元気づいた。
興味をそそられ、雪の上をはっていった。
「おい、アブサントおやじ」と、ルコックが呼びかけた。「片方は男の靴跡だよ。こいつはとても上等な長靴だ。跡がはっきりと残っている。鋲《びょう》の数までかぞえられそうだぜ」
「たしかに君の言うとおりだ。が、待てよ。この足跡は居酒屋から出て来たものではないぞ」と、アブサントおやじがいいところに気がついた。
「なるほど。靴跡の方向を見ると、おやじさんの言ったとおりだ。居酒屋から出て来たのではない。外部からやって来たのだ。しかしぼくたちのいるこの場所からは前に行っていない。爪先立って歩いている。怖くなって逃げたんだな」
「あるいは、やっこさんが来たのを見て、女たちのほうが逃げ出したのかもしれんぞ」
「いや、そうじゃない。女たちが庭から逃げ出してから、そのあとで男が入って来ている」
こう断言されても、アブサントはルコックがいいかげんなことを言っているとしか思えなかった。
「そんなこと、わかるはずがないじゃないか」
「ところがぼくには手にとるようにわかるんだ。確実な方法でだよ。ランタンをここに近づけてくれたまえ。自分の目で確かめることだ。見たまえ、女の小さな靴跡の上を男の靴が踏んでいるから。四分の三ほど、上から消しちまっているよ」
この理路整然としたルコックの説明に、アブサントはただただびっくりしていた。
「この男の靴跡だがね」と、ルコックのおしゃべりが続いた。「この靴跡が、殺人者が待ち望んでいた共犯のものかどうかが問題だね。ピストルの銃声を耳にして、この空地にやって来たどこかの暇人のものではなかろうか。ひとつそれを調べてみよう。来てくれ!」
小さな庭は粗末な板囲いで区切られていた。板囲いの外は空地になっている。さきほどルコックは、殺人者に対し包囲作戦をとるためこの板囲いのところまで来ていた。ここまで来ると、ルコックはひょいと囲いを飛び超えた。その囲いにくぐり戸があるかどうか確めもしなかった。
ところがそれがあったのだ。小さなものだったので目につかなかった。ルコックとアブサントがたどって来た女の足跡は、そのくぐり戸を抜けていた。あたかも、勝手を心得ているらしいその足跡のつき方が、ルコックをはっとさせた。
「この二人の女がポァヴリエールに来たのは、今晩がはじめてではないな」と、若い警官は独り言をつぶやいた。
「どうしてそうだとわかるんだ、ルコック?」アブサントおやじが訊いた。
「十中八九まちがいないね。この家の間取りを知らなければ、こんなくぐり戸があるなんて気がつくはずがないよ。今夜はおまけに霧が深かった。ひと一倍眼のいいこのぼくでさえ、わからなかったんだ」
「なるほど、君の言うとおりだ」
「それなのに女たちは、迷いもせずにここまで来ているんだ。おまけにどうやら、庭をまっすぐに突っ切って来ているんだぜ」
「まいったな! まったく面白い流儀だよ。おれはこれでも古参中の古参だし、捜査に立ち会った経験だって君など足もとにもおよばんくらいさ。だがその長い経験を通しても、君のような男にはお目にかかったことがないね」
「わかったことはまだほかにもある。たとえばこれも断言できるね。つまり二人の女がくぐり戸のことをあらかじめ知っていたとしても、男のほうはそれを実際に見たことは一度もなかった」
「びっくりさせないでくれ」
「べつにびっくりするほどのことでもない。証拠が残っているのだ。男の足跡を見ればわかる。やつはえらく回り道をして、まっすぐ歩いていない。そのうえ、くぐり戸を開けようとして、手さぐりで捜している。ほら、囲い地の上にうっすらと積もった雪の上に手の跡が残っているよ」
アブサントおやじは自分でもよく言うように、我と我が目で確めてみないでは納得しなかったが、ルコックのほうは次の行動に移っていた。
二人は小さな庭から外に出て足跡を追った。足跡は大通りのほうに向っている。パタイ通りに向け、右はじに寄りながら歩いている。ポァヴリエールから百メートルほど離れたところまで来ると、ルコックはうれしそうに声をあげた。
「ちょっと待て! どうやら――ここに、痕跡が残っているに違いない!」
そこは材木置場だった。見るからに大きな材木がところせましと並んでいた。そのなかの、雪の表面がぬぐわれたとある樫の厚板の前で、いろいろな足跡がごちゃごちゃに混じりあっていた。
「ここで二人の女は、くだんの男と出会って何事かを話しあった。ほら、この小さな女の靴跡は、厚板に腰をおろしたことを物語っている。おやじさん、ランタンを貸してくれ。証拠を踏み荒すといけないからじっと動かないでいてくれよ」
ルコックは、広い範囲に届くようにかかげられたランタンの灯りであたりを熱心に調べた。あっちに行ったり、こっちに来たりした。さらにもう一度調べなおした。ポケットから巻尺をとりだして測りもした。やがて仕事が終るとアブサントのところに帰って来た。
「ぼくの見たところじゃ、事の経過はざっとこんなところだね。つまり殺人犯と連れの二人の女が、ポァヴリエールから出て来るのを、仲間の男がこの材木置場で待っていたのだ。そいつは中年の背の高い男だね。一メートル八十ぐらいあっただろう。羊毛ラシャ製の栗色の外套を着て、ソフト帽をかぶっていた。結婚しているね。右手の小指に結婚指環をしているのでわかる」
この細かいところまでいたれりつくせりの人相書を前にして、アブサントはすっかり面くらってしまった。
ルコックの説明が続く。
「その仲間の男の動きは手にとるようにわかるよ。ここでじっと待っていたが、無駄に時間が空費されるだけだった。この樫の木の厚板の前をいらいらして歩いて待っていた。ときには足を停めて耳をすますことがある。しかし、何も聞こえて来ない。じれったくなって、『何をしているんだろう』と言いながら、いらいら足踏みをした。足踏みの回数は三十回にもおよんでいる。ぼくはちゃんとその数をかぞえたよ。そうしているうちに静寂を破った銃声が聞こえ、女が二人ここに姿を現わした」
「そこで、やっと問題の女たちのお出ましってわけか」アブサントが訊いた。
「まさしくそのとおりさ。もっとも証拠があるわけじゃない。あくまでも推測だがね。だがこれだけは確かだと言える。女たちは、あの居酒屋で乱闘さわぎが始まるや否や、すぐその場を逃げ出した。それも例の悲鳴がぼくたちを駆けつけさせる前にね。その二人の女だが、友だちの間柄ではないな。一人が主人で、もう一人が召使だとぼくは考えている」
「つまり、二人の女の足跡の違いから、そう判断したのだね」
「判断の材料の一部にはなっているが、それだけではない。まとめてみると、状況はこんなことになる。シュパンの居酒屋で二人の女は恐ろしい出来事に遭遇した。足の小さな女はよほどこわかったらしく、庭に一跳びに飛び出している。さらにそのあとから飛び出したもう一人の女を、ほら、歩幅の広いほうの女をだね、足の小さな女が引きずるようにして逃げ出している。ぼくにとって意外なのはそのことさ。どうやら、喧嘩騒ぎの恐怖もむろんあったが、自分たちが足を踏み入れた場所のいかがわしさ、スキャンダルとして明るみに出ることへの怖れや、何としてもこの場を切り抜けねばという思いが、思いもよらぬ行動力を呼びさましたんだろう。だが、もともとが、デリケートでかぼそい神経の女たちのことだから、そんな力もほんの束の間しか続かなかった。ポァヴリエールからここへの道のりの半分も来ないうちに、もう初めの勢いもどこへやらで、足までいうことをきかなくなっちまった。十歩も行かぬうちによろめき出した。それでも何歩か踏み出してはみたものの、そこでふらふらっとなってしまったのさ。雪のなかに着衣の裾あとがふわりと軽くついている。そのあとから、平べったい靴の女が追いかけて来た。危うく倒れそうになった足の小さな女を助け起して歩かせた。だから足跡が入り乱れているんだ。足の小さな女が失神しそうになっているのに気がつくと、もう一人の女は頑丈な腕でしっかり抱きあげ、運んだのだろう。その証拠に、小さな足の女の靴跡が消えている」
ルコックのやつ、できすぎちゃあいないか? アブサントおやじはむしろそんな疑いさえ抱いたほどだった。
「ちょうどそのときのことだ。二人の女がやって来るのを聞きつけて、例の仲間の男が駈けつけた。そして、大きな靴の女を助けて小さな靴の女を運んだのだ。ところが、小さな靴の女はひどく気分が悪そうなので、男は、樫の材木のうえに積っていた雪を帽子ではらいのけたが、それでもまだ板が濡れていたので、洋服の裾でもう一度はらいのけている。その丁重なやり方から判断すると、よくよく気障《きざ》な貴公子気取りか、そうでなければふだんからその女に下男みたいにうやうやしくふるまう習慣がついている、そのどちらなのかと頭をひねっていたのさ。だが、少なくともこれだけは確かだよ。厚板の上に寝かされた小さな靴の女が意識を回復するのを待つ間、連れの女は、仲間の男を五、六歩ばかり左のほうへ、この馬鹿でかい石材のところまで引っぱって来たのさ。そこで大きな靴の女のしゃべる話を、男が聞いている。男は石材に最初は手を、そのうちにひじをついて、靴の大きな女と話をしていたのだ。石材の雪に、はっきりとひじをついた跡が残っているよ」
アブサントおやじのようにとりたてて才気があるわけでもない人間は、相手の話をなかなか鵜呑《うの》みにしないものだが、いったん信じたとなると、とことんその信念を変えるものではない。アブサントおやじはすっかりルコック信者になってしまった。
「それで、靴の大きな女と男はどんな話をしたのだ?」
「推測の域を出ないがね。たぶんその女は靴の小さなほうの女に、どれだけ大きな危険がさし迫っているかということを訴え、二人がいかにそれに対処すべきかを話し合ったのだろう。殺人犯からの命令を伝えたにちがいない。事実、女は仲間の男に、ポァヴリエールまでひとっ走りして、その後の様子を探ってくるように頼んだにちがいないんだ。男の足跡はこの石材のところから出発している。走り出した跡が歴然と残っている」
「でもそのとき、おれたちは居酒屋のなかにいたんだよ。しかもジェヴロールのひと言で、おれたちはやつら全部をひっくくることもできたんだぜ。|へま《ヽヽ》をやったものだな!」
ジェヴロールの判断のあやまりをルコックはむしろ喜んでいた。おかげで事件の謎にとりつく端緒を得られたのだし、その謎に挑むべく野心満々だったからである。
「そんなわけで仲間の男はまた現場に姿を見せた。絶望的な事態になってしまったが、おかげで恐怖が先立ち、ひどくあわてていた。警官隊が例の空地をつっつきまわりやしないかと思ってふるえ上がったのさ。靴の小さな女に事態の悪化を知らせ、大急ぎで逃げるように忠告したのだろう。その忠告に従って、靴の小さな女は最後の力をふりしぼって立ち上がり、大きな靴の女の腕に抱かれるようにしてその場から立ち去った。男が逃げ道を教えたのか、それとも女ははじめから心得ていたのか、それはいずれわかるだろう。とにかく、二人の女を無事に逃がそうとしばらくは一緒につきそって行ったにちがいない。しかしその男には、それにもまして果たさねばならぬ役目があった。居酒屋に残った仲間のことが心配だった。そこで、仲間がどうなっているか知ろうとしてこの材木置場にいったんもどり、改めてここから立ち去ったのだ。最後の足跡はシャトー・デ・ランチエ街のほうに向っている。殺人者がその後どうなったか確認したかったのだろう」
アブサントおやじは感歎の念を隠すすべを知っていた。だが若い警官が説明を終わるやいなや、もうその熱っぽい感情のたかぶりを爆発させずにはいられなくなった。
「じつにすばらしい捜査だ。ジェヴロールも大した人物だってことだが、君にくらべれば産まれたばかりの赤ん坊みたいなものさ」
アブサントの賛辞は明らかに大げさすぎてはいたが、それが心からのものであることは疑うべくもなかった。そうしたアブサントを見てルコックはまんざらでもなかった。
「買いかぶらないでくれ。おやじさんはものの見方が甘いのだ。ぼくに神通力などありゃしない。ぼくは中年の男だと言ったね。これはむろんぼくの推理だが、そう見当をつけるのは大して難しいことではない。靴跡が深く食い込んでいたからだ。背の高さだって推定することは易しいのだ。ほら、石材にひじをついていた跡があっただろう。石材の高さをはかったのさ。石材の高さが一メートル六十五だったから、ひじをついた男の背の高さを一メートル八十と推定したのだよ。残された手のあともこの高さを証明している。それに厚板の雪が払いのけてあるのを見たとたん、何を使ってやったのだろうとまず考えた。ところが帽子のひさしの跡が残っていたので、それを使ったのだろうと推理したわけさ。次に外套の布地や色まで推理したことだが、これだって何ていうこともないよ。濡れた材木をふいたひょうしに、材木のぎざぎざした破片に、栗色の羊毛地のケバがくっついて残っちまったんだ。これを見れば誰だってあのぐらいの推理はできる。種子を明かせば子供だましさ。しかしいままでにわかったことだけでも、事件解明の立派な糸口にはちがいないからね。さて、もっと先のことを調べるとしよう」
アブサントおやじは発奮してルコックの言葉を繰り返した。
「うん、先を調べよう」
彼らはいずれ劣らぬ熱意にあおられて、二人の女の足跡を追って歩きだした。ところが、女の足跡はパタイ街にはもどっていなかった。クロア・ルージュ街とよばれる横町のせまい道を抜けて、シュヴァルレ街まで歩いた靴跡が、はっきりと残っていた。けれど、そこでふっつりとなくなっている。ルコックが不意に声を上げた。
「そうか、わかったぞ。おやじさんこれを見ろよ。どう思う? 馬車のわだちの跡があるだろう。そいつが急角度で方向転換をしているだろう? これでいろんなことがわかるよ。二人の女はここまで来ると、こちらに向けて走ってくるパリからもどりの辻馬車のランタンの灯りが目についた。そこで女たちは、辻馬車がここまで来るのを立ちどまったままで待った。目の前まで来ると御者を呼びとめた。疑いもなく、女たちは相当に多額のチップをはずんでいる。それでなければ、もう一度逆戻りする気にはならんだろうからね。まず、辻馬車が方向を変える。その馬車に女たちが乗る。足跡の追跡はこれで終りだ」
「なるほど。そこまでわかっただけでも捜査は前進したってわけだね?」と、アブサントおやじが言った。
「これでは不足だとでも言うのかい? 明日になれば、問題の御者を探し当てられるってものじゃないか。仕事を終えて、空の馬車でもどる途中女たちを拾ったのだから、どうせこの付近の辻馬車にまず間違いあるまい。シュヴァルレ街で乗せた二人の女のことを、御者が思い出せないことはないはずだ。きっと、二人をどこで下ろしたか教えてくれるだろう。と言っても、それ自体は何の意味もない。どうせ女たちは、自分たちの住所を御者に知られるような|へま《ヽヽ》はするわけないからね。でも御者の口から、二人の女の人相や風体《ふうてい》くらいは聞き出せるはずだ。すでにぼくたちが知っていることに加えて、それだけのことがわかれば……」
その先は言うまでもあるまい、と言わぬばかりのしぐさで言葉を切ったルコックは、さらに続けた。
「そうだ。大急ぎで、ポァヴリエールに引きかえさなければならない。大急ぎだ」
昇り坂にさしかかったのでゆっくり歩かなければならなくなった。アブサントはとぎれた会話の続きを始めるいい機会だとばかりに訊ねた。
「口にこそ出さんがね、どう見てもまだ何かが心に引っかかっているようだな」
「とても心配なことがあるんだ。ずいぶん気温があがってきただろう。空を見てみろよ。雲が出ているじゃないか。一時間もたたないうちに雨が降りだすよ。急げ……」
ルコックは駆け出した。アブサントおやじがそのあとを追う。しかし、アブサントはひどく好奇心をそそられはしたものの、何が何やらさっぱりわからないと白状せざるを得なかった。
「捜査がこの泥まみれの雪次第だということがわからないのかい? 生温い雨が二十分も続いただけで、ぼくたちは時間と労力を無駄にしていたことになっちまうんだよ。たったひと降りで雪はとけ、せっかくの証拠は跡かたもなしさ。だから、さあ、もっと急がなくちゃ。ぼくたちがいくら言葉で説明しても、報告に信憑性がなくなる。ぼくたちが予審判事に足跡のことを報告しても、どこにそんな足跡がある? と言われるだろう。何と答えるんだい? ぼくたちが、男と二人の女の足跡を確かに見たことを説明すれば、靴跡の証拠を見たいと言い出すにきまっている。ジェヴロールが、ぼくたちが功をあせり、自分の鼻をあかしたいばっかりに嘘をついているなどと言い出しかねないのは、言わずもがなだ」
二人は全速力で走った。五分でシュパン後家の居酒屋にもどった。
「さあ、おやじさん」ルコックがてきぱきと命令した。「壺と皿と瓶《びん》を大急ぎで集めてくれ。それから水を用意してくれ。それがすんだら、がらくたものを入れておく納屋から、板や箱を集めてくれ」
アブサントおやじがルコックの言いつけどおり必要品をかき集めている間、ルコック自身も瓶の破片で、一階の二部屋のあいだを仕切っている仕切り壁の塗料をガリガリと削りはじめた。塗料の粉が足もとに八握りほどできると、半分を水でやわらかいパテ状に溶かし、残りを皿の上にのせた。
「用意ができたよ、おやじさん。灯りをかしてくれ!」
庭に飛び出すとルコックは、なかでも一番鮮明な靴跡をさがし、その前にひざまずくと、はやる心を抑えながら実験にとりかかった。
まず、雪の上に残った足跡に、かわいた塗料の粉を注意探く幾層にも振りまいて、その上に、やわらかめに溶かした塗料をそそぎ込んだ。幸いなことにこの作業は成功した。石膏型ができ上がったのだ。一時間ほど仕事を続けると、証拠として提出できる石膏型が六個ほど完成した。
そうこうしているうちに、ルコックが恐れていた雨が降りはじめた。
だが、アブサントおやじが集めてくれた板や箱を、雪の上に残った靴跡にかぶせるだけの余裕はあった。応急措置にはちがいないが、こうしておけば数時間ぐらいなら原型をたもつことができるだろう。それだけの時間が稼げれば予審判事に実見してもらえる。
ポァヴリエールとシュヴァルレ街の間は、直線距離にしてもかなり遠い道のりである。それでもルコックとその同僚が外で推理の証拠固めをしていたのは、四時間たらずのことだった。その間、シュパン後家の居酒屋ポァヴリエールは、開けっ放しのままになっていた。二人がこの居酒屋にもどったとたん、自分たちのいない間に何者かが入りこんでいたらしいことを、すぐ見てとった。シュパン後家のエプロンが片すみに捨てられていたが、そのエプロンが何よりの証拠だった。警官の誰一人それには手を触れていなかったのに、ポケットが裏がえしになっている。
ルコックは呆然としてさけんだ。「ここに来たやつは、殺人犯の例の仲間にちがいない。その証拠を見つけなければ……」
ジェヴロールがぶち破ったドアの前で、ルコックはぬかるみの上に残った靴跡に気づいた。庭にかくれて様子をうかがっていた男のそれと、ぴったり符合する。
「そいつだ!」と、ルコックがさけんだ。「ぼくたちは見張られていたのだ。ぼくたちがいなくなったので中へ入りこんだ。その目的は言うまでもないことさ。何かの証拠品を残して来ていたので、とりもどそうとしたんだろう」
突然言葉を切ると、口をあけたまま人さし指で土間を指し示した。それからつかつかとそこへ歩みよると、ひどくちっぽけな何かをつまみ上げた。それは、普通ボタンと呼ばれている耳飾りだった。みごとな大きさのダイヤモンドでできていた。座金《ざがね》は目をうばうような豪華なものだった。ルコックはすばやくあらためただけで、断言するように言った。
「このダイヤは、どう安く見積っても、五千から六千フランはするよ」
「ほんとうか?」
「絶対にまちがいないね」
「そうすると、殺人犯の仲間はこの耳飾りを捜しに来たのだね?」
「そうじゃないさ。もしこの耳飾りが目的だったら、シュパン後家のエプロンなどに触れるわけがない。たぶん手紙かなんかだろう」
アブサントは耳飾りを手にとって調べた。
「ふん、なるほど、一対で一万フランもする耳飾りをした女がこの酒場に来たんだな」
夜が明けはじめたころ、ルコックとアブサントおやじは、ほぼ完全に必要な情報を集め終っていた。もうこれ以上、集めるものはなかった。報告書を書く仕事だけが残っていた。若いルコックにしてみれば、初陣の若武者が功名手柄を上げたという思いだったが、そうした気持を表面に出さないようにしていた。たとえば、報告書のなかに、自分の名前は一切書かずに、ただ『警官』とだけ記した。しかし、ルコックは自分たちが蒐集した栗色の羊毛ラシャ屑、耳飾り、庭で採取した靴跡の石膏などの証拠物は、何一つもらすことなく詳細に書いておいた。
ルコックはわざと被害者の死体には触れなかった。そんなことをすれば、ジェヴロールが怒ることははじめからわかっていた。大将のことだから、自分の見落しを指摘されたように思っていきり立ち、死体をいじくり回して検屍医が正確な所見を立てられなくしたと、わめきちらすに決っているのだ。
ルコックが、書きあげた報告書をもう一度念のために読みかえしていると、ドアの前でパイプをくゆらしていたアブサントおやじがジェヴロールの到着を身ぶりで知らせた。
「やあ、ご苦労」と、ジェヴロールはアブサントおやじに声をかけた。「秘密めかした暗黒世界のメロドラマってのを、話してもらおうかな?」
「わたしがお話することはありません」アブサントおやじが答えた。「しかし、ルコックさんは、あなたのご存知ない色々な事実をお話するでしょう」
老警官が、駆け出しの若い警官ルコックを、|さん《ヽヽ》づけでよんだのが気にくわず、ジェヴロールはわざと怪訝《けげん》な顔つきをした。
「誰からだって? その何とかさんとはどなたかね?」
「わたしの同僚、ルコックさんからですよ」
アブサントおやじは、今やすっかり若い同僚の心酔者になりつつあった。この日を境にルコックは敵にも味方にも、一様に『ルコックさん』と呼ばれることになったのである。まぎれもなく、正真正銘の『ルコックさん』となったのだ。
「なるほど、そうか」と警部はやり返した。「なるほど、そちらの方《かた》が色々な発見をなさったというわけだな、つまり……」
「凡人の鼻では気づきもしないものを、かぎつけたってわけです」
「ふん、今にわかるさ。どんなご立派な鼻をお持ちやら」と、警部はうそぶいた。それが本物の手柄なら、たちまち自分のライバルともなりかねないルコックから、これからは目を離すまいというつもりだった。
ジェヴロールに一足おくれて警察の一行が到着した。ジェヴロールは警視に道をあけるべく、うやうやし気に脇にどいた。
ルコックは報告書を手に立ちあがって敬礼した。
「ご苦労だった。さぞかし、しんどい一夜をすごしたことだろうな」と、警視が部下をいたわった。「捜査してみても、大して変った発見はなかっただろう?」
ルコックは、最大限の如才なさを発揮して答えた。「いや、それでも、まったくの無駄骨折りとも思えません。上司の指示どおり捜査をいたしましたが、その結果いろいろと収穫がありました。たとえば殺人容疑者には友人、でなければ共犯者と申しますか、まあ、そんな人物がいたのは確かです。ほぼ完全に近い証拠をお目にかけることもできます。中年の男で、ソフト帽をかぶり、栗色のラシャ羊毛の外套を着ていまして、靴は……」
「こいつはおどろきだ!」ジェヴロールが顔色を変えた。「わたしが……」
そこまで言いかけると、自分の失言をとりつくろう言葉を探してでもいるかのように、口をつぐんだ。
「君がどうかしたのか」と、警視が訊ねた。
ジェヴロールは今さらあとにも引けず、言い訳めいた口調で答えた。
「ちょっとした出来事がありまして。今朝ほどのことです。殺人犯の身柄をあずけたイタリー広場の駐屯所の前で、警視どのを待っていたときのことです。ルコックがいまわたしたちに説明したとそっくり同じ特徴の男が、遠くのほうからやってくるのを見かけたのです。そいつはひどく酔っていました。塀を両手でたたいていました。そして車道を横切ろうとして中央までやってきて、そこでごろりと横になってしまったのです。そのままにしておけば、馬車にひかれてしまいます。そのありさまを見て、わたしは巡査を呼び、そいつを助け起させたのです。ところが、そいつときたら、グウグウいびきをかいて眠ってしまうものですから、そのままにしておけません。肩をゆすぶって起し、こんなところで寝ちゃいかんと言ってやると、今度はひどく怒って、なぐりかかって来るのです。仕方がないので、駐屯所に引っ張って来ました。ひと眠りさせれば酔いもさめるだろうと思ったので」
「殺人容疑者と一緒にぶち込んだのですか?」とルコックが訊ねた。
「お前は知っているはずだぞ。わが駐屯所には留置場は二つしかない。ひとつは男を収監するやつで、もうひとつは女を入れる室だ。当然ながら……」
「そいつはまずかったな。もうとり返しがつかん」と警視がつぶやいた。
「いや、そうときまったわけではありません。ひとつ、駐屯所に誰か急いで走らせましょう」ジェヴロールがむきになって言った。「にせ酔っぱらいを押さえておくように命じます」
ルコックは手を横にふってやめさせようとした。
「もう無駄でしょう」と、冷静な声を響かせた。「そいつが共犯者でしたら、酔いをさまして、とうの昔に警察から姿を消していますよ」
「では、どうしたらいいのだ?」と、ジェヴロールは、せいいっぱいの皮肉を込めて話しかけた。
「ひとつ、ルコックさんのご意見というやつをお聞かせ願いたいものだ」
「思うに、千載一遇の大変なチャンスだったでしょうね。しかしぼくたちはその最高のチャンスを逃がしてしまったのです。今さらジタバタしないで、またチャンスがめぐって来るのを待つほかはありません」
しかしジェヴロールはすっかりとりのぼせ、警官の一人を駐屯所に急行させることしか頭になかった。警部がその場をはずすとルコックは報告にとりかかった。証拠をもとにして控え目に自分の考えを述べ、断定的な結論を避けながら、手短に説明を続けた。だがその報告は人を納得させずにはおかぬ推理を展開していたので、警視をはじめ検屍官もしきりに、「なるほど」とか「そうだそうだ」と合いの手を入れどおしだった。ただジェヴロールだけが、ルコックに対して嫉妬で顔を青くしながら、肩をそびやかしていた。
「この事件を正しく判断したのは君だけだよ」報告が終ると、警視はルコックを称賛した。「じつは、このわたしも判断をまちがえていた。殺人容疑者にはここに来る前ちょっとだが、訊問をしてみた。だが、君の報告を聞いてあの男の態度を今までと違った観点から考えなければならんな。やっこさんときたら、かたくなに黙否権を行使して、名前さえ明かそうとしないのだ」
そう言って、警視は少し考えてから話を続けた。
「どうも今度のこの犯罪には、われわれの想像では理解できないような、特殊な事情が隠されているようだな。法律の手のとどかない何かがあるような気がする」
ルコックはそう言われて、かすかな微笑が口もとに浮かびかかるのをあわてて抑えた。
警視は二人の検屍官のほうを向いた。
「では、検屍をはじめていただきたい。まず、軍服の男からです。この特務曹長の軍服を兵営にもって行って調べてもらえば、この男の身もとが簡単に割れると思うが?」
たしかにその軍服は特務曹長のしるしをつけていた。しかし、この男は五十三歩兵連隊に所属してなどいないのだ。ルコックの注意は、この兵士の着衣のそれぞれについた登録番号にそそがれていた。ところがよくよく見ると、番号はそれぞれについているが、同じ番号のものはひとつもなかった。疑いもなくこの死者は、払い下げの制服をあきなう古着屋から軍服を買ったのだ。軍人に変装するためにこれを着たのだ。それにその日は日曜の告解日《グラ》だった。変装して、街で遊び歩く日なのである。
死者が特務曹長だという断定は引っ込められ、にせ兵士の所持品が厳重に調べられたが、一枚の紙切れを除いて、手がかりになるようなものは何も発見されなかった。
その紙切れにはこんなことが書いてあった。
[#ここから1字下げ]
親愛なるギュスターヴよ。約束どおり明日の日曜日に、必ず『アルカンシェル』の舞踏会に来てくれたまえ。金がないのならぼくが用意しておく。門番女にあずけておくよ。九時には、『アルカンシェル』に来るようにしてくれ。もしぼくの姿が見えなくても待っていてくれ。長くは待たせないつもりだ。心配は無用だ。
ラシュヌール
[#ここで字下げ終わり]
「なに、ラシュヌールだって?」ジェヴロールが大声を出した。「死ぬ前に、こいつが言った名だ」
「そう、そのとおりですよ」と、アブサントおやじが相槌《あいづち》をうった。
ルコックは黙っていた。警視からその紙切れを受取り、熱心に調べていた。使われた紙は普通どこでも手に入るもので、青インクで書かれていた。紙の肩のところにスタンプが捺《お》してあった。薄くぼやけているが、ボーマルシェとかろうじて判読できた。
(この手紙は)とルコックは考えた。(ボーマルシェ大通りのカフェで書いたにちがいない。いったい誰が? よろしい。ぼくがこれからボーマルシェ大通りのカフェを片っぱしから調べればいいのさ)
警視を中心にして、警察の連中が打合せをしている間に、検屍医が死体を調べていた。傷の状態を医学的に解明しただけで、他には何ひとつ新しい手がかりは発見されなかった。しかし、いくらその死体を探りまわっても、彼らの名前はおろか、身もとを明かすようなものは何ひとつ見つからなかった。被害者は三人とも浮浪者らしかった。
そこで警視があきらめ口調で言った。
「こいつらをモルグに運んでおけ。あそこに陳列しておけば、だれか身もとのわかる者が名乗り出てくるだろう。そうすれば、ラシュヌールが何者か判明するだろう」
「この三人の被害者のなかにラシュヌールはおりますまい」とルコックが言った。「そうでなければにせ兵士があんなことを言うはずがありません」
「警視どの。失礼ですが、本官に言わせていただければですな」と、ジェヴロールが横から口を出した。
「ルコック君の推論は、いささか現実離れし過ぎとるように思われるのですが……」
ちょうどそのとき予審判事が入って来た。
予審判事はモーリス・デスコルヴァル氏であった。
居酒屋の惨劇をなまなましく物語るその場の情景にぎょっとなり、戸口で金縛りになったように立ちすくむと、土間のありさまをひとわたり見渡した。その視線はどんな些細な一点をも見逃しはしなかった。
「重大だ。じつに重大だ」
警視は大きく溜息をついて言った。
「まさしく、言われるとおりの事態ですな」
「検事どのは同行していないが」と、デスコルヴァル氏は我に返って言った。「もともと、いちいち事件の現場に顔を出すというタイプじゃない。わたしの後から、こちらへ駆けつけて来るとも思えないし、さっそく調査にとりかかるとしようか」
そこで警視が口をはさんだ。
「予審判事どのはもう犯人を尋問なさって来られたでしょうし、今さら我々がご報告するまでもないと思いますが」
「いや、わたしはまだ何も知っていない。だから報告を受けたいのです」
デスコルヴァル氏は椅子にすわった。そして、ルコックの書いた報告を読みはじめた。ときどき、頭を大きくうなずかせた。報告書に同意しているしるしだった。悪くないぞ! いいぞ! そんなことをつぶやいている。
ルコックは少なからず悪い気はしなかった。
読み終ると、デスコルヴァル氏は警視に言った。
「この報告書に書かれた捜査内容は、事件の核心に迫る立派なものだ。捜査の方法といい、分析の結果といい、まれにみる傑出した報告だ」
「大層なおほめの言葉をいただきましたが、そのお言葉はわたしが受けるべきではありません」と、警視が言った。
「では、この報告を書いた担当者は誰だね。警部かね?」と、今度はジェヴロールに話しかけた。「この件を、かくもみごとに処理したのは君かね?」
「とんでもありません。わたしの考えは、少しばかりそれとちがうのですが……」ジェヴロールが答えた。
「いや。わたしは、この報告書の推理と仮定にはまったく感心しているのだ」デスコルヴァル氏は断乎言った。「誰だ、この報告書を書いたのは?」
「それは……」腹立たしさで顔を真っ赤にして、ジェヴロールは言った。「ここにひかえている警官のルコック氏です」氏《ムッシュー》という一語を、わざと力を入れて発音した。皮肉を込めたつもりだった。
「ルコック氏、判事どのの前に出たまえ」
若い警官が判事の前に進み出た。
「わたしの書いた報告書はあくまで推測にすぎません。ですが、それなりの確信はあります、判事どの」と、ルコックが言った。
「質問はあとでゆっくりするよ、ルコック君」予審判事はルコックを制した。
それから、書記のカバンのなかから折りたたんだ二枚の書類をとり出し、それをジェヴロールに渡した。
「これは収監状だ。二枚ある。正式に貴官に渡す。駐屯所の留置場に入っている殺人容疑者と居酒屋の女将を、パリ警視庁に連行する。ただし極秘のうちに護送するように」
そう言い終ると、デスコルヴァル氏は検屍医のほうに身体を向けた。ルコックは、取り上げてもらえないかも知れないと思いながら、それでも勇をふるって予審判事に申し出た。
「容疑者二人、警視庁に護送する役目をわたしに命令していただけませんか、判事どの」
「よかろう。君にやってもらおう。ただし、護送が終っても警視庁でわたしが帰るのを待っていてくれ。わたしもここでの用務がすみしだいすぐそっちへ行こう。さあ、行きたまえ」
ルコックは二通の収監状を鷲《わし》づかみにすると外に飛び出した。駆けに駆けて、二十分後にはイタリー広場の駐屯所の建物の前に着いた。
「囚人を二人、パリ警視庁まで護送する命令を受けました」ルコックは駐屯所の夜間隊長に命令を伝えた。
「そいつはありがたい。護送車は一時間以内にこの建物の前にとまる。それでこちらは厄介払いできるというものさ」
「留置場に入っているのは二人だけですか?」
「そうだ。留置場は男女別々だがね」
「もう一人、酔いどれがいたという話ですが、どうしました?」
「帰したよ。酔いがさめたのでね。悪いやつではなかった」
「殺人容疑者と一緒だったのですね?」
「それはそうさ」
「二人は話していましたか?」
「それはなかった。一言もしゃべらなかったよ」
ルコックは信じる気になれなかった。といって、この際どう確かめようもないのだ。
「それはそれとして」ルコックは再び訊ねた。「その男はどんな様子でしたか?」
「その酔っぱらいは大柄な肥ったやつだった。赤ら顔であごひげに白いものがまじっていた。丸顔で小さな眼をしていた。あんまり利口そうじゃなくて、陽気なやつだったな。四十から五十歳どまりだね。帽子をかぶりインバネスを着ていたが、小店《こみせ》のあるじか使用人というところだったな」
「その酔っぱらいは、シュパン女将と何かやりとりをしていませんでしたか?」
「どうやってできるんだ? 婆さんは婆さんで、ずっと女用の留置場に入っていたんだぞ。あのクソ婆め! ひどい声でわめき立てやがった。あんなすごいの聞いたことがないね。あんまりでっかい声だったので酔っぱらいのほうも、だまれ、うるさい! なんて、どなり返していたよ」
ルコックはさすがに怒りを隠し切れなかった。我を忘れて駐屯所の中へ踏み込むと、何が何でも囚人に会わせてくれと要求した。監房の囚人の様子を監視するための隠し穴にぴったり目を押しつけ、例の殺人犯をむさぼるように観察した。
ルコックとしては、監房の中の男が、数時間前にポァヴリエールで見たのと同じ男かどうか確めたかったのである。額が高く、眼光の鋭い、下唇をきっとかみしめていたあの男かどうか、知りたかった。
「どうも見かけどおりの男とは思えないな」ルコックはつぶやき、男に話しかけた。
「どうかね?」
「何もしちゃいませんよ、あたしは」と、しわがれた声で男が答えた。
「そうであればいいんだが。でも、それは判事どのが決めることでね。ぼくはただ、あんたが何か要り用な物でもないかと思って来てみただけさ」
「いいえ、別に何もほしくありません」と一応断ってから、思いかえして、「もっとも、簡単な食い物と葡萄酒の一杯もいただければ、ありがたいですな」
殺人犯は食欲がさかんだった。パンをガツガツ食べ、葡萄酒をうまそうに飲んだ。
「留置場の待遇としちゃ、ずいぶんお情け深いこってすな」
この満足気な言葉を聞いてルコックは内心がっかりした。じつはわざと労働者が飲むような安葡萄酒を差入れたのだ。もしこの男が良い暮しをしてきた人間なら、いやな顔をするにちがいないと、ルコックは試してみたのだった。その作戦も効果がなかった。するとちょうどそのとき、駐屯所の表に、パリ警視庁から差し向けられた囚人護送車が到着した。
さんざん暴れて抵抗し、殺人犯に大声で悪態をわめきちらすシュパン女将を先に護送車に乗せた。その次が殺人犯だった。ルコックは、男が、少なくとも眉くらいはしかめるだろうと期待して様子をうかがった。ところが予想に反して、反応は何も起らなかった。男は恐ろしい護送車に乗せられるというのに、街の辻馬車にでも乗るときのように涼しい顔をしていた。なかに入ってからも、まるでこんなものには乗りつけていると言わんばかりの様子で腰を下ろした。
(ああ、今日という日は、なんて厄日なのだろう)ルコックはくやしそうにぼやいた。
護送車の前部に乗り込むと、ルコックは御者と警視庁差回しの護送係の間にすわった。折しも、彼の頭にちょっとした考えがひらめいたところだった。この殺人犯が隠し続けている何かを、はしなくもさらけ出させることができそうな手段が見つかりそうだった。ルコックは、この男が上流社会に属していた人間にちがいないと相変らず確信していたのである。
パリ警視庁の牢獄に着き、記録係の前に連れて来られた男の態度は、まるで常習犯のそれだった。
「姓名は?」記録主任が書記の立合いのもとに訊問をはじめた。
「メイといいます」
「名は?」
「ありません。いくらお訊きになられようとこれは答えるわけにはいきません。判事に会ってからのことにしてください」
「あんたのそのような態度は、ますますあんたの立場を悪くすることになるよ」
「それは承知していますが、何もしゃべるわけにはいきませんな。あたしにも自分を守る権利があります」
記録係は肩をすくめた。それから靴を脱ぐように命令した。これは身長を測定するために必要な措置だった。男が椅子に腰をかけると、皮製のダブダブの靴を脱いだ。そのばかでかい靴をとった足は、靴下をはいていなかった。
「日曜日だけしか靴をはかないのだな」と、ルコックが質問した。
「どうしてそんなことを言うんですか?」
「足の踝《くるぶし》まで泥まみれになっているじゃないか?」
「汚れた足をしてるのが罪になるんですかい?」
「あんたの足は、本当に汚れているのではない。泥こそついちゃいるが、普段は泥と関係のない、まっ白なきれいな足だと考えるが、どうです? 爪だって始終手入れをしているし、短く切っている」
そういってから「足を椅子の上に乗せなさい」と、ルコックが命令した。
囚人は椅子に足を乗せた。ルコックは、皮膚にこびりついている泥をナイフでゴリゴリとけずり落した。すぐにその作業が終り、ルコックはけずりとった泥の山を新聞紙の上に集めた。それをさらに二つの山にわけた。
ルコックは、その泥の山のひとつを紙に包むとポケットに入れ、もうひとつの泥の山を指差しながら記録主任に言った。
「この泥を、犯人の目の前で封をしてください。この男が、あとで、我々が泥をすりかえたなどと言いたてては困りますからね」
記録主任がルコックの言いつけどおり泥の包みに封をするのを、囚人は横目で見ながらせせら笑っていた。捨てばちとも見える態度をとっているが、この囚人が、内心では針のむしろに坐っているような不安を感じているのをルコックは見抜いていた。
最後に囚人は、服をぬぐようにと命令された。獄衣に着がえるためである。それから囚人は、看手たちの手によって屈辱的な身体検査を受けなければならなかったが、それでも平然とした態度は崩れなかった。
「この男を、独房三号へ連れてゆけ」と、記録主任は看守に命じた。
「図太い浮浪者だ、あいつは」男の姿が見えなくなると、記録主任が声高にさけんだ。
「本当にそう思いますか?」とルコックはあえて訊いた。
「まちがいなく、手に負えない浮浪者だ」記録主任は断乎とした口調で言った。
警察で多年犯罪にたずさわって来た経験ゆたかな人たちでさえも、ジェヴロール同様、一介の浮浪者と見ているのだった。ルコックは何も言わなかった。シュパン後家が連れて来られたので、さらに問いかえす時間がなかったこともあった。シュパン女将は、所定の調査が終ると独房に連れて行かれた。
ルコックは外に出ると、建物の前の河岸で判事の到着を待つことにした。若い警官はそのまま三時間ほどそこにいた。やがてデスコルヴァル氏が書記を連れて馬車で帰って来た。ルコックは判事に走り寄った。
「現場の地面を調査したが、君の主張が正しいことを確認したよ。ところでその後、何か新事実を発見したかね?」
「はい。さして重要とは思われませんが、見方によっては意味深長とも言えるようなことです」
「そうか。あとでわたしに説明してくれたまえ。これから容疑者の訊問をする。なに、訊問といっても、今日のところは形式的な簡単なものだ。君、ここで待っていてくれたまえ」
二十分ほどたつとデスコルヴァル氏が姿を見せた。今度はひとりで、書記を連れていなかった。予審判事はつかつかとルコックに近寄った。
「わたしは急いで帰宅しなければならなくなった。君の説明を開いている時間がない」
「でも……」
「いや、もういい! 被害者の死体はモルグに運んだよ。ひとつ、そっちのほうに目を配ってもらいたい」
「でも、わたしは……」
「明日の九時に官邸のわたしの執務室に来てくれ」
そういうと判事は馬車に飛び乗り、あわただしく帰宅してしまった。
ルコックは牢獄にもどった。容疑者の態度から何かの手がかりを得られるかも知れないと思った。そのため独房の厚いドアにとりつけてあるのぞき窓からそっとのぞき込んだ。殺人犯は簡易ベッドに身体を横たえ、壁のほうに頭を向けていた。ぐっすり眠っているのだろうか? 眠っていなかった。奇妙に身体を動かしている。その動かし方がどうもただごとではない。
「あっ、大変だ!」とルコックがさけんだ。「誰か来てくれ、容疑者が自殺をはかった……」かけつけてくる看守に向ってルコックは言った。囚人は獄衣からバンドを抜きとり、食事のために持ち込まれたスプーンを咽喉《のど》に押しあて、バンドを首に巻いて自分でしめつけ、スプーンの圧力で縊死《いし》をはかっているところだった。
看守が独房になだれ込み、囚人は危うく一命をとりとめたのである。
手当が素早く行われ、やがて囚人は意識をとりもどした。囚人は狂人のような空ろな眼で周囲を見渡していた。質問攻めにしたがひとことも答えようとしなかった。医師は自殺の危険ありと判断して、拘束服を着せるように命令をくだした。
「この男はなぜ自殺するほど絶望しているのか?」ルコックは考えた。
ルコックはその夜ねむれなかった。朝の四時にベッドから飛びだした。五分後に、モンマルトル通りを歩いていた。サン・テュタシュの角のところまで来たとき、三人の部下を引き連れてアールの市場を巡視しているジェヴロールに、ばったり出食わした。
「おや、ずいぶん早起きだな、ルコック|さん《ヽヽ》。相変らずあいつの素性をさぐろうとして歩きまわっているのか。あいつが変装した公爵、それとも、ただの侯爵とでもいうのかな?」
「そのどちらかですね、まちがいなく」
「よかろう。どうだ、君の将来の成功を祝して一杯おごらないか?」
ルコックはこの申し出に景気よく応じた。そんなわけで一同は小さな酒場に入った。
「本当によいところでお会いしました。わたしは、じつは警部どのを捜していたのです。警視庁に出向いてお願いしようと思っていました。今朝からモルグに警官を張込ませろと、判事どのからご注意を受けたのです。今度の事件は大変な評判になったから、大勢の者が押しかけるだろう。連中の様子を観察し聞き耳をたてていれば、思わぬ収穫があるだろうということなのです」
「わかった。アブサントおやじがいいだろう。モルグの店開きまでにはそこへ行っているようにさせよう」
目はしの効いた警官をこそまわすべきなのに、アブサントを派遣しようというのでは、からかわれているも同然だった。しかしルコックは何も抗議めかしいことは言わなかった。
「それにしても、こんなわかりきったことをなぜ昨夜のうちに言わなかった?」と、ジェヴロールが続けた。「おれがもどった時にゃ、君はもうどこかへ出かけちまっていたな」
「イタリー広場で仕事をしていたのです。留置場のほうがどうなっているか、知っておきたかったのです」
そう答えるとルコックは金を払い、挨拶をして先に帰ってしまった。
「じつにおどろきだね。ルコックのやつ、捜査技術の|いろは《ヽヽヽ》も知らないくせに、まったく手に負えぬ男だ。どうせ何も発見できずに、でたらめな報告書をでっちあげるのだろう。おれをコケにすりゃどんなことになるか思い知らせてやる」
ルコックは嘘をついたのではない。昨夜本当に駐屯所まで行き、留置場の床を調べ、ポケットにしまってあった泥と比較したのだった。その結果、彼は、自分の推理を証明する有無を言わさぬ裏付けを得たと信じた。
ジェヴロールとあわてて別れたのには理由があった。デスコルヴァル氏と会う前に、やっておきたい仕事があったからだ。シュヴァルレ街で二人の女が呼びとめた辻馬車の御者《ぎょしゃ》を発見することである。そのためにルコックは、まず、警視庁の馬車貸出し全業者の名簿をたよりにして、フォンテンヌブロー通りとセーヌ河を中心に調べた。何軒か片っぱしに調べていると、トリゴーという名の馬車屋にぶつかった。ここで、捜している御者を発見することができた。肥った小柄な老人で、ずるそうな眼付きをした、パピヨンおやじと呼ばれている男だった。意外にもすらすらと、すべてをルコックに打明けた。警官の思っていたとおり、この古手の御者はシュヴァルレ街で、不意に駆け寄って来た二人の女に呼びとめられた。(それもパピヨンおやじの言いぐさによれば、一見して素性のそれと知られるたぐいの二人だった。身なりからしてもアルカンシェルあたりへ踊りに行く娘たち、といった風体だった)パピヨンおやじは、二人をブルゴーニュ街まで馬車に乗せた。送りとどけた家はよく覚えているときっぱり言った。
「でも、自分の家の前で降りたのではないだろう?」ルコックが異を立てる。
「女たちがベルを鳴らしているところを見ましたよ。それに、あっしが空車でもどりしなに見たかぎりじゃ、ちゃんと中へ入って行くとこでしたぜ」
ルコックには座右の銘とも言うべき信条があった。「もっともらしく思える情報ほど疑ってかかれ。もっともらしくないことこそ信じよ」というのである。犯罪現場から逃げ出した逃亡者が、往来で雇った馬車を自分の家に横づけにするだろうか? そんなことはまずまず有り得ないことだ。それはそうとして、まず、現場を確かめてみることが第一だ。ルコックは馬車に飛び乗ると御者に大声で命じた。
「おい、その場所にやってくれ! 大至急だ」
目的地に向けて馬車が走っている間、ルコックは詳しい事情を御者から聞きだした。それによると、女たちのなかの一人は衣裳も立派だったが、もう一人のほうは粗末な身なりだった。ちょっと奇妙に思われたのは、主人とおぼしき女のほうが、みすぼらしい身なりをしていたことだ。豪華な衣裳のほうが、みすぼらしいほうに、『|奥さま《マダム》』と敬称をつかっている。これで、多少の思い違いもあったとはいえ、とにかく、ルコックの推定は正しかったことが証明された。思ったとおりこの二人の女は階級が違うのだ。ただしかかとの高い靴を履いたほうの女が身分が高いと思っていたのは彼の思いちがいである。平べったい靴跡を残したほうが上であった。御者の話を聞いたルコックは、片方が召使でもう一方の女がその主人だと確信をもった。
ブルゴーニュ街まで来ると、パピヨンおやじは客の入った家を指さした。ルコックは問い合わせようと思い管理人室に行った。そこで判明したのは次のようなことだった。その家に例の二人の女が住んでいないことは確かである。けれどあの晩、彼女らがベルを鳴らし、管理人がドアを開けると玄関に入り込み、ひとたび御者の姿が見えなくなるや、すぐまたどこかへ行ってしまったのである。どうせそんなことだろうと、ルコックが見当をつけていたとおりだった。
ルコックはパピヨンおやじの馬車にもどり、モルグに急行した。無気味な死体置場は、押すな押すなの群衆の山だった。アブサントおやじはその群衆のなかにはいなかった。ルコックが自分の身分を告げると、係員の一人が老警官の残した手紙を渡してくれた。その手紙にはこんなことが書かれていた。
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ルコックどの、小生が命令どおりここで監視を続けていたところ、九時ごろ会社の使用人とおぼしき若者が三人入って来ました。すると突然、そのなかの一人が、ワイシャツの色よりももっと血の気の失せた白い顔色になり、シュパン女将の家で死体となったひとつを指さし、「ギュスターヴだ」とさけびましたが、あとの二人がその男を引っぱるようにして外に出てしまいました。小生はそいつらの後を追いかけたのです。やつらは今、けちな居酒屋にいます。この手紙をしたためているのはその居酒屋です。小生はやつらを尾行します。 アブス。
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「完全だ」とルコックは評した。
それから少したって、ルコックは裁判所の予審部の廊下を歩いていた。守衛をつかまえると、デスコルヴァル氏が自室にいるかどうか訊いた。
「デスコルヴァル氏ですか。これから数か月はおいでにならないでしょう」
「それはまたどうして?」
「昨晩、氏のお宅の前で馬車から降りようとされたとき、運悪く落ちて、脚の骨を折られたのだそうです。」
「なんてこった!」ルコックがぼやいた。「とすると、代わりの判事の方はどなたですか? 一昨夜の事件のことでここに来たのですが」
「一昨夜というと、ポァブリエール事件ですね? それでしたらセグミュレ氏があなたを待っておられますよ。」
セグミュレ氏は肥り気味の人の好さそうな司法官だった。氏の係の書記はゴグユエといい、でっぷりとしていて口もとに微笑をたやしたことがなかった。
「ルコック君だね。デスコルヴァル氏は一件の書類とともにメモを残しておいてくれた。そのメモによると、君はたいそう優秀な警官で、信頼できる人物だと太鼓判を押しておられる」
「いえ、ただただ、日ごろから誠心誠意、仕事にはげんでいるだけです」
「それは謙遜《けんそん》というものだよ。これほど完璧な仕事ぶりにお目にかかったのは初めてだ。今や君の信ずるところ、すなわちわたし自身の確信と断言してはばからないよ。これはわたしだけではなく、デスコルヴァル氏もおっしゃっておられたことだ。どうだね、昨日からの君の活動ぶりを話してくれないかね?」
「はい。少なくとも時間を無駄には使わなかったつもりです」
それだけを前置きにしておいて、ルコックは、ポァヴリエールを飛び出して以来つかんだことすべてを正確に語った。最後に、イタリー広場の留置場で採集した泥と殺人容疑者の足から剥ぎ落した泥を、事務机の上に置いた。そして、なぜそれだけ慎重に泥を採集しておく必要があったかをも説明した。
「君はじつによくやった」判事はゴグユエの顔にうなずいて見せてから言った。「殺人容疑者の否認をくつがえすことがこれで可能になった。君はおそるべき才能の持ち主だな。(そう言いながら予審判事は、証拠物件をことごとく引出しにしまいこんだ。)おかげで、シュパン後家を絞り上げるだけのネタをつかむことができたよ」
「そこでひとつお願いがあるのです。その訊問にわたしも立会わせていただきたいのですが」
「いいとも。いたまえ」
判事がベルを鳴らした。とすぐに、居酒屋の女将が身体を折らんばかりにおじぎをしながら入って来た。この女将は、この裁判所で厄介になるのはこれが初めてではなかった。判事の眼の前に調書が置いてある。その調書には、犯人隠匿と二度の盗みの罪を犯した前歴が書きとめられていた。シュパン女将の息子のポリットは、現在、四度目の有罪の判決を受けて服役中であった。ポリットは、オーヴェルニュ生まれの娘と結婚していた。この娘は意外にも貞淑で働き者だった。しかし、ポリットの虐待がはなはだしかったので逃げ出してしまった。それらを何ひとつ否定しなかった。その代わり、それもこれもめぐり合わせの悪さのせいにすることも忘れなかった。そこで判事は、いよいよポァヴリエール事件に水を向けた。シュパン女将は、その件に関するかぎり何も言うことはないと突っぱった。つまり一切自分のあずかり知らぬことだというのである。女将の申し立てはこうである。確かに日曜日の晩、三人の男と二人の女が彼女の経営する居酒屋に酒を飲みに来た。けれどもこの男女の客は女将の知らぬ者ばかりだった。女将は一同に酒を出すと二階に上って古着のつくろいを始めた。それからちょっとあとになって、さらに見知らぬ男が一人店に入って来た。女将は階下におりて、その男に強いブランデーを給仕した。後から入って来た男はほかの男女と離れて坐っていた。それだけのことを目にとめると女将はまた階上にのぼった。ところが、すさまじい音が響いたのだ。そこで階段を転げ落ちるようにして降りてみると、最初の三人があとに入って来た男に襲いかかり、ものすごい勢いでなぐりつけていた。すると、あとに入って来た男がポケットからピストルをとり出し、射った……。
「最初にあの男のほうから三人に襲いかかったのでないと、どうして断言できるのかね?」セグミュレ氏が|かま《ヽヽ》をかけた。
「でも誓って申し上げます。あたしが、あたしが見たのでございます」
ルコックは内心判事に拍手を送っていた。共犯である証拠はこれで明らかとなった。何か秘密の利益でもなければ、このしたたか者の居酒屋の女将が、あの容疑者をかくも鉄面皮にかばい立てするはずがない。
「どうして、あとから来た男がピストルを射ったと知ったのか?」と、判事がただした。
「お前は自分の部屋にいたと証言していたではないか。殺人犯の言うことをそのまましゃべっているとしか思えない。その男とは以前からの知り合いだろう?」
「いえ、その晩はじめて見た顔です」
女将はあくまでも会ったことはないの一点張りだった。
「兵隊服を着た男、あのギュスターヴはどうだね?」
「いえ、その男も見たことがありません」
「だが少なくとも、ギュスターヴの友人のラシュヌールとかいう名の男の、うわさぐらいは聞いたことがあるだろう?」
「ラシュヌールですって?」その名を聞いて女将はどぎまぎし、上ずった声でもぐもぐ言った。「そんな名前など一度も聞いたことがございません」
女将は落着きをとりもどした。そうなっては判事としてもほかに切り札がないのでお手上げだった。
「よし、結構だ」と、セグミュレ氏がいった。「お前の言ったことは法廷で証言してもらうことになる。証人として……いや、ことによると共犯者としてね」
女将はこの不意打ちにひどいショックを受けたようであったが、判事は知らん顔をしていた。訊問調書が読み上げられると、女将はそれにサインをし、部屋から出て行った。セグミュレ氏はすぐに自分の席に坐り、書類になにやら書き込んだ。それがすむと書記に渡した。
「ゴグユエ君、この指図書を看守長のところに持って行き、殺人容疑者をここに連れて来るようにしてくれたまえ」
セグミュレ氏とルコックは二人だけになると、不安そうな眼で互いの顔を見合った。
「あの海千山千の婆さんは何もかも知ってますよ」と、ルコックが言った。「わたしの考えは動きません。あのにせ酔っぱらいは、シュパンをとてつもない餌で釣って籠絡したのです。金銭《かね》、それも相当な額でしょうね」
書記がもどって来たのでルコックはだまってしまった。書記はポケットから厚い一通の封書を取り出した。看守長からの伝言であった。
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予審判事殿。殺人容疑者メイを訊問するに際しましては、細心のご配慮を以って当たられますよう、願い上げます。当容疑者は、自殺を企て失敗して以来、異常な昂奮状態におちいったため、拘束衣を用い、堅固なる用心に留意し、万全の措置を講じた次第です。しかれども昂奮状態は相変らず続き、眼は一晩中開いたままですが、ひと言も発しようとしません。今朝ほども、食事を与えたのですが、少しも食しようとしません。このまま餓死する覚悟でいることは、まず疑う余地がないものと推測されます。じつに稀に見る危険な囚人であり、いかなる兇暴なふるまいにも及びかねまじき男であると、深く危惧致しております。
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「厄介なやつだ!」書記が大声で言った。
「では、訊問にとりかかるとしよう」セグミュレ氏が言った。ベルを押して、囚人だけをこの部屋に入れるように命令した。
ほとんど間を置かずドアが勢いよく開いて、殺人容疑者が事務室に踏み込んで来た。あやういところで肉屋の一撃をかわし、そのまま屠殺場から逃げ出して来た牡牛さながらのすさまじい野獣性をむき出しにしていた。ゴグユエの顔色は青ざめ、ルコックは判事の身を護《まも》ろうとして一歩前に進んだ。囚人は部屋のまんなかで立ちどまり、突きさすような鋭い眼で部屋のなかをぐるりと睨《にら》みすえた。
「判事はどこにいる?」しわがれた声で囚人がさけんだ。
「わたしが判事だ」と、セグミュレ氏が答えた。
「いや、あんたではない。昨夜、あたしを訊問した判事のことだ」
「事故が起ったのだ。お前の訊問を終え、そのあとで馬車から落ちて足を折られた。それでわたしが代わったのだ」
だが囚人は、そんな説明すら耳に入らぬ様子だった。最初入って来たときの勢いはどこへやら、死人のようになってしまった。身動きもならず気が抜けたようになり、すっかり青ざめてよろめいた。
「椅子にかけたまえ」と、判事が優しくいたわるようにいった。「具合が悪いのならすわってもかまわんよ」
しかし囚人は最後の力をふりしぼって、しゃんと身体をのばした。眼のなかに何やらギラギラするものさえかがやいていた。
「あたしの健康を気づかっていただき感謝します。でも、もうなんでもありません。ちょっとめまいがしただけです」
「ずっと食事をとらないそうだが」
「何も食べちゃいません」と言って囚人はルコックを差した。「あの人が、留置場でパンとハムを差入れてくれたときに食べただけです」
「欲しいものはないか?」
「いいえ何も。できれば水を一杯いただきたいものです」
水が運ばれて来ると一息に呑みほしたが、二杯目はゆっくりと呑んだ。生きかえったようであった。
「どうだね、気分は?」と、判事が言った。
「大変よくなりました」
「では落着いて知っていることを話してくれないか。昨日、自殺をはかったね。そんなことをすれば、大罪の上にもうひとつ罪を追加することになるのだよ」
囚人はいきなり身ぶりで判事を制した。
「あたしは罪になることなどやっちゃいませんよ。襲われてこっちの命が危くなったんで、誰でもやるように自分の生命を護ったのです。まさに正当防衛ですよ。あの独房で我に返ってみるとあたしはまったくの独りぼっちでした。恐くなり、前後の見境いもなく……手前で手前の首をしめるはめになってしまったんです」
「昨夜のふるまいについてはそれで説明がつくとしてもだ、今朝、せっかく出された食事も拒んで食べていない」
暗い男の顔が突然明るくなって、大声で笑い出した。それも元気いっぱいに笑い、よく通る声だった。
「たしかにあたしはことわりましたよ。拘束衣のあたしをつかまえて、看守どもときたら、赤ん坊を養うように食べさせようとするんです。我慢できませんよ、これには」
こういって一層大声で笑い出した。ルコックはそんな男の態度に呆然とした。書記は気を悪くし、セグミュレ氏もおどろきを隠さなかった。
「自殺をはかるようなことをするから、それなりの措置を受けることになるのだ。これからのことにしても同様だ。本当に無実だと言うなら、自由になるか否かも、率直に何でも話してくれるかどうかひとつにかかっていることを、肝に銘じておいてほしいね。ところで、お前の姓名は何というのかな?」
「メイです」
「名は?」
「ありません」
「そんなばかなことが!」
「この質問は、きのうからこれで三度目です。しかし何度訊かれても、ないものはないのだから仕方ありませんや。そりゃま、お望みならピエールとでも、ジャックとでも、出まかせはいくらでも言えますよ。ただね、嘘をつくってのはあたしの性に合いませんのでね。本当にあたしの場合は名がないのです。もっとも、通り名を言えっていうのなら話は別です。それなら、|ごまん《ヽヽヽ》と持ってますからな」
「たとえばどんな?」
「そうですな……。まず、フウガスおやじのところにおりましたときには、アフィロアルと呼ばれていました、それというのも……」
「誰だね、そのフウガスおやじというのは?」
「猛獣使いの名人のことです」
「ふざけるのはいいかげんにしたまえ! お前の年令は?」
「四十四か、五になります」
「生まれはどこだ?」
「たぶん、ブルターニュです」
セグミュレ氏は、からかわれたように思ってむっとした。
「そのような、人を馬鹿にした曖昧な返事ばかりしていると、釈放は大変に難しいことになるぞ。お前の答えは、どれもこれも無礼きわまるものばかりだ」
殺人容疑者の顔は見るからに困り切った表情になった。
「あたしは、別に判事さんを馬鹿にしてるつもりはありませんよ」と男は悲痛な声で言った。「あなたが質問なさるから答えたのです。そうだ。あたしの身の上話をお話すれば、真実を申し上げていることがおわかりになると思います」
「よし、説明してもらおう」
「判事さん、話は四十五年前にさかのぼります。軽業一座の座長、トラングロおやじと呼ばれる男が、曲芸師や競技者たちの旅芸人の一座をひきいて、ガンガップからサン・ブリュークに向けて街道を進んでおりました。二台の大型馬車に、女房、衣裳道具、芸人などいっぱい積んで、シャットロードレンというかなり大きな町を出はずれると間もなく、おやじは堀の近くに、何やら白いものがうごいているのを見つけたのです。そいつは赤ん坊でしてね、かくお話しているあたしだったのですが、そのとき、産まれて六か月ぐらいでした。
トラングロおやじはあたしを女房のところに連れてゆき、ふたりで育てることに相談がまとまったのです。名前が必要でした。ひろわれたときが五月《メイ》の最初の日だったので、あたしはメイと呼ばれることになりました。その日からあたしはずっとメイなんですよ。だから名前なんてないんです……。トラングロおやじは、あたしを自分の籍に入れることもしませんでしたから、法的には存在しない人間でした。法律上無国籍者なのですから、兵隊に召集されることもありませんでしたが、その代わり、自分を証明してくれるような書類なんて持ったこともありません。そのためしばしば監獄にぶち込まれたこともあります」
「何で食べてきたのかね?」
「それなりの、なりわいの道はありました。トラングロの女房が仕込んでくれましたからね。それを頼りに生きて来ました。フランスはおろか、外国で仕事をすることもできました。十六年間シンプソン一座に加わり、ドイツ、イギリスを巡業しました」
「するとお前は、サーカスの座員だったわけだな。それにしてはお前の手は白すぎるし、手入れがゆきとどいている。何もせずに食べさせてもらっていた、というわけかな?」
「とんでもない! ただ、あたしはもっぱら客を前にして、口上をしゃべっていたのです。あたしの口上は天下一品なのです」
「よろしい。ではひとつ、お前のその素晴しい口上の才能というやつを、ここで披露してもらおうか?」
殺人容疑者は演技を披露したのである。身体の動かしようからしてガラリと変った。どことなく聞く者をうきうきさせるような道化役者特有の声音で、地方の祭日でやるサーカスの口上を即興で演じた。ルコックは内心のおどろきを隠し切れぬまま、ドイツ語と英語でやってみてくれと要求したが、これもみごとにやってのけた。
どんなしたたかな囚人にさえ動じぬヴェテランの看守長でさえ、予審判事に書いている。『殺人容疑者メイを訊問するに際しましては、細心のご配慮を以って当たられますよう、願い上げます』ところが実際に訊問してみると、案に相違して危険な悪人どころか、無害で陽気な楽天家で、サーカスの口上屋、つまりほんものの道化師ではないか! これはまったく奇妙な発見であった。
しかし、この発見は同時に判事の心に、若い警官の捜査の進め方に対する賛嘆の念を深めさせた。
「パリにお前の保証人はいるのか? お前の身分を保証できる、しかるべき社会的地位にある者がいるのか?」
「あたしは、十六年もフランスから離れていましたし、もともと街道筋や田舎の祭り目当てのどさ回り専門でしたからね」
「もういい。それじゃ保釈の理由にはならん。お前が使われていた最後の雇い主、シンプソンのことを話してくれ。どんな人物だったのかね?」
「あのひとは金持です。二十万フランを超す財産を持っていますよ。ドイツでは人形芝居を、イギリスでは畸形や動物の見世物をひっさげて、巡業していました」
「それでは彼の所在を探して、あんたの言い分を証明する証人になってもらえますな?」
ルコックは息をはずませた。この質問の返答いかんによっては、ルコックの捜査の方向の正しさが裏付けられるか、それともその推理が、がらがらと崩壊するかの、どちらかなのだ。
「証人として呼び出されれば、あたしの悪口なんて言いっこありませんよ。何しろ名の売れた人だから、居所を見つけるのはいとも簡単です。もっとも、ここへ来させるにゃ相当手間どるでしょうな。たぶん今ごろはアメリカ巡業のため出発しているはずです。あたしがあの人とおさらばしたというのも、実はその旅行が原因したのです。何せあたしは、海ってやつが大のにがてでしてね」
ルコックの悩みはどこかへ吹き飛んでしまった。思わずほっと吐息をもらした。
「ふん、ふん、なるほど」と、判事はいちいち声の調子を変えた。「で、何という船に乗ったのかね?」
「それは聞きませんでした」
「どこで一座と別れたのだ?」
「ザクセン州、ライプチヒです。先週の金曜日でした」
「ほう、金曜日にライプチヒでね。すると、パリに来たのはいつのことなのだ?」
「日曜日の午後四時です」
「では、それを証明してもらいたい」
殺人容疑者のゆがんだ顔に、記憶をよびもどそうとする懸命な努力が認められた。
「どうしたら、証明が出来るかなあ」と、力のない声を出した。「待てよ、パリに着いた時、大型トランクを持っていた。そのトランクのなかに、あたしの名前のイニシアルのついた衣類がいっぱいつまっていた。外套とズボン、仕事のときに着る服が二着入っていた。汽車を降りると、トランクをもって駅のそばのホテルに入った」
そこで言葉を切り、男は目に見えてひどく狼狽した。
「そのホテルの名は?」判事が訊いた。
「それなんですよ、判事さん。一生懸命に思い出そうとしたのですが駄目なんです。建物は覚えていますから、駅の近くまで連れて行ってもらえれば、必ずホテルは捜し出せます」
ルコックは心の中で、正式の調査が始まる前に、北停車場付近一帯のホテルをしらみつぶしに聞き込んでまわろうとひそかに決めた。
「さがしものは、多分見つかるだろうさ」と、判事が言った。「しかし疑問が二つある。四時に着いたばかりの同じ日、夜の十二時にポァヴリエールに行っていることだ。しかもその場所は、悪名高い浮浪者の巣窟だ。パリの地理を知らないお前が、しかも夜中だというのに、よく行くことが出来たな。第二の疑問は、それほどの衣裳持ちのくせになぜ乞食みたいな服装でわざわざ出かけたかということだ」
「こう言えばおわかりくださると思います」男は口もとに微笑を浮かべた。「三等車で旅行すれば、服が汚れて困ります。そんなわけで、あたしは一番汚い服を着ていたのです。パリに着くと、あたしは嬉しさのあまり気違いみたいになってしまいました。金はもっていましたが、日曜日の告解日でしたので、いい娘《こ》をひっかけて浮かれさわぐことしか頭になかった。着がえをすることなんざ、まるで忘れちまっていたんです。昔パリに住んでいたころ、バリエール・デイタリーあたりが大変に面白い場所だと知っておりましたものですから、その辺りに行って居酒屋に入ったのです。そこで食べていますと、あたしの傍で飲んでいた二人組が、アルカンシェルで舞踏会《ダンス・パーティ》があると噂ばなしをしておりました。あたしは、この二人組に、一緒に連れて行ってくれと頼んだのです。二人は承知し、あたしがお礼に一杯おごり、一緒に繰り出しました。しかしそこに着くと、二人の若い連中はあたしを放り出して、踊りに夢中でしたので、こっちは退屈してしまいました。あたしは外に出たものの、行き先かまわず歩いていたので、人家のひとつもない、だだっ広い空地に出ました。そこで引き返そうとしかけた時、灯りが目に入りました。その灯りをたよりに近づきますと、それが例のいまいましい居酒屋でした」
「それからどうしたのかね?」
「大してお話するようなことはありません。店に入って、きついやつを一杯注文すると、たちまち運ばれてきました。腰をおろし、葉巻に火をつけました。何ともひどい所でしたよ。テーブルの一つで三人の男と二人の女が酒を飲みながら、何やら低い声でしゃべっていました。ところが連中には、あたしの存在が気に食わぬ様子でした。おかしいなと思っていると、なかの男のひとりが『おめえ、サツの犬だろう。おれたちをさぐりに来たんだな。おれたちの目は節穴じゃねえ』なんていうのです。あたしがそうじゃないと答えても納得してくれない。要するに、つけひげなんかでごまかしても無駄だと言い張るのです。あげくのはてに、このひげを引っつかむと、引きむしろうとするじゃありませんか。あんまり痛いもので、つい立ち上がって、いきなりそいつをぶんなぐって床にたたきつけてやったんです。すると、仲間のやつが打ちかかって来る。ちょうどピストルを持っていたものだから……。あとは判事さんの御存知のとおりです」
「争いを起している間、二人の女は何をしていたかね?」
「あたしは夢中で争っていたので、女の様子をうかがう余裕なんてなかったです」
「しかし二人を見たことは見たのだろう。どんな様子の女だったのかね?」
「誓って申し上げますけれど、二人とも重騎兵のようにがっちりした身体つきで、もぐらのように真っ黒な、不器量なあばずれ女でしたよ」
「いいかね。お前の無罪を証明するためには、ぜひともその二人の女を見つける必要がある」
「どうすればあの女たちをさがせるでしょう?」
「被疑者の無実を証明するために働くのも警官の義務のひとつだ。そこで訊ねるが、ほかに、女の捜査に役立つような何か、心当りがあったら話してもらいたい」
囚人の唇に微笑が浮んだのをルコックは見落さなかった。
「別に気づいたことはありません」と、冷たく囚人は答えた。
その時、セグミュレ氏は引出しを開け、犯罪現場から発見された耳飾りを取り出し、いきなり男に突き出した。
「女のうちの一人の耳飾りだが、見覚えはないかね?」
囚人は平然と無頓着にふるまい、眉ひとつ動かそうとしなかった。耳飾りを手にとると注意深く調べてから言った。
「まったくみごとな宝石だ。しかし、あのときは少しも気がつきませんでした」
「数千フランもするダイヤモンドだ」
「へえ! そんなに高価なものですか!」
この驚きようは、もっともらしくはあったものの、少しばかりお芝居じみた感じがしないでもなかった。むしろ、素直に見せかけようとし過ぎているところに作為が感じられ、疑惑を抱かせる結果となった。
「ほかにもうひとつ試ねることがある。お前はあの晩、遊びに行くつもりで外出したといったな。遊びに出るのに、なぜピストルをポケットに入れていたのかな?」
「旅行中に持って歩いたものです。ホテルで服を着がえないでそのまま外出したので、持って出てしまったのです」
「どこで買った?」
「記念としてシンプソンからもらったのです」
「お前に都合のいいときはシンプソンだ。まあいい、先を続けよう。ピストルが二発しか発射されていないのに、なぜ男が三人死んでいたのだ? この理由についてお前はまだ説明していないな」
「ああ、そのことですか。相手二人はピストルで射止めました。それから、三人目の兵隊服を着た男をつかまえて投げ飛ばしました。そいつは、テーブルの角に頭をしたたかぶつけて起きあがりませんでした」
「その問題は今のところそれまでにしておこう。次の質問に移る。警官隊に捕縛されたとき、『やって来たのはプロシア兵だ!』と言ったが、その意味を教えてもらいたい。どんな意味かね?」
囚人は困惑気な色を浮かべて言った。
「そんなことを言いましたかねえ」
明らかに言いのがれの時間をかせいでいる。
「五人もの人間がその言葉を聞いているのだぞ」と、判事が返答をせまった。
「まあ、言ったかも知れませんな。ワーテルローの戦いのあとで、もとナポレオンの近衛兵だった老人が、シンプソン一座に入って来てその言葉を口ぐせのようにしてつぶやいていたのでね」
言いわけに時間はかかったけれど、充分に納得のゆく説明であった。
「それはそれでいいだろう。ところで次の質問に移るが、警官隊が踏み込む前に敵をたおしていたのだろう。答えたまえ」
「そのとおりです」
「とすると、裏口から逃げ出すだけの時間の余裕はあったわけだ。しかも逃げ道があるのにも気づいていただろう。それなのになぜ表口のドアのところに残って、テーブルを盾に警官隊を食止めようと、ピストルを突きつけるようなことをしたのかね?」
「あのときはまさに狂人同様でした。ドアをたたいているのが警官隊か死んだやつらの仲間か、それさえ見わけがつかなかったのです」
「警官隊だろうが敵の仲間だろうが、逃げ出すのが常識というものだ。お前は、二人の女が逃げのびるための時間かせぎに、警官隊を阻止したのであろうが」
「見ず知らずのあばずれどものためにですか?」
「失礼だがね、お前には例の二人の女を知らないどころか、反対に前からよく知っていたと信ずるに十分な証拠がある」
「もしそんな大層な証拠があるのでしたら、見せていただきたいものです」と、囚人はあざ笑った。しかしながら、その笑い顔も次の判事の言葉を耳にすると凍りついてしまった。
「必ずわたしが証明してみせる!」
セグミュレ氏はこの囚人の弱点は二人の女にあると思った。しかし今はそれ以上つっ込まなかった。最初の訊問ではいかなる点においても底の底まで追求するのは得策でない、というオーソドックスな捜査理論の信奉者だったのである。判事は鋒先《ほこさき》をかえた。
「居酒屋にいた者には一人も知合いはいなかったと、お前ははっきり言っていたな?」
「誓って一人もおりません」
「では、この一件に関わりのある者の中に、ラシュヌールなにがしなる名前の人間がいるが、一度も会ったことがないというわけかね?」
「あの兵隊が死ぬまぎわにラシュヌールという名をつぶやくまで、ついぞ耳にしたこともありませんね。もと喜劇役者だと言っておりましたが……」
「なぜお前は、訊ねることの何もかも、答えをはぐらかしてしまうのかね?」
殺人容疑者の眼がキラリと光った。
「無実のものを犯人に仕立てるにゃ、たった一つの訊問で十分でしょうが」
それには返事をしないで、セグミュレ氏は木綿の小さな袋をテーブルの上においた。
「これに見覚えがあるかね?」
「はい、知っております。記録主任が封印した包みです」
判事が袋を開いて、なかの土の粉をひろげた紙の上にあけた。
「この泥は、お前の足のかかとあたりまでべっとりとくっついていたものだ。ちがうとは言わさんぞ。ところでルコック君が、お前が入れられていた留置場の土間から、泥をとって持って来てくれた。この二つの泥を比較してみたら面白いことがわかった。まったく同一の泥なのだ。お前のやったことはこれで一目瞭然だな。お前は留置場でわざと足を汚したのだ。一体どんな理由でそんなことをしたのだ?」
「それは、わたしが……」
「言わんでもわかっている。お前は、自分の身分を隠そうとして、そのような姑息《こそく》な手段を使ったのだ。サーカスで働く下層階級の人間に見せかけるためだ。安物の靴をはいていたにもかかわらず、その靴のなかのお前の足は充分に手入れがゆきとどき、まっ白できれいだった。きれいな足をしていては本当の身分を見破られるものと思い、留置場の壺の水で床の泥をこねて、それを足に塗ったのだ」
判事の鋭い攻撃を受けている間、不安と驚愕をないまぜたような顔をしていたが、その反面、おどけと皮肉を混えることも忘れなかった。が、それもしばらくの間のことで、しまいには例のわだかまりのない快活さをとりもどした。
「わざわざ好んで事をこんがらからせたあげく、引っぱり出した推理とやらがそれですかい?」と、囚人がルコックのほうを向いて言った。「しち面倒な捜査はもちろん必要でしょうが、骨折り損ということになりましたね。あたしの足が白いのは、事実はこうなんですよ。あたしが警察に拘留されたのは汽車に乗ってから四十八時間後だったのですよ。そのうち汽車に乗っていたのが三十六時間で、その間靴を脱がなかったのです。そのため足がまっ赤にふくれてひりひりしたものですから、はだしになって足に水をかけました。足の皮膚がやわらかく白いのは、いつも自分でいたわっているからです。あたしのような職業の者は、ふだん、スリッパしかはきません。だから、ライプチヒを発つ時は長靴さえ持ってなかった始末です。だもんで、シンプソンからお古をもらったのです」
(おれはどうしてこうもお人好しなのだろう)と、ルコックは考えた。(この男は長い時間をかけて、どう説明するか、答えを充分に考えていたのだ。この男の足からおれが泥をはぎ落したとき、すでに言い訳を探し、ひねり出していたのだ。公判になれば、陪審員はこの男の言葉を信用するにちがいない)
セグミュレ氏もルコックと同じことを考えていた。
「お前はまだ執拗に頑張るつもりか?」
「はい」
「よかろう。だが言っておくぞ。お前は嘘つきだ」
男の唇がワナワナ顫《ふる》えた。
「あたしは、たったひとつの嘘も申したことがありません」
「なに、ひとつの嘘もだって! ちょっと待て」
判事は、引出しからルコックがつくった靴型をとりだした。
「お前は、女は二人とも重騎兵のようにがっちりした身体つきだと断言したな。ところが、この靴型を見ると決して大きくはないのだ。またお前は、もぐらのようにまっ黒だと主張した。しかしある証人の供述によると、二人のうちのひとりのほうの女はきゃしゃな身体つきで、たいそうかわいらしく、優しい声の持ち主で、目を見張るようなみごとな金髪だったそうだ」
判事はそう言い、男の眼をじっと見て、ゆっくりと次の言葉を言った。
「その証人というのは辻馬車の御者だよ。シュヴァルレ街で居酒屋から逃げ出した女二人を車に乗せたのだ」
この一言は囚人にとどめをさした。顔色はまっ青になり、よろめき、いまにも倒れそうになった。
「どうだ、これでもお前は、まだお前の言ったことを真実だと言い張るのか」判事は情け容赦なく追い打ちをかけた。「ポァブリエールにいた間お前が待っていた男とは何者だ? その共犯の男は、お前が逮捕された後で居酒屋に侵入して、何か人に見られると危険なもの、おそらく手紙のたぐいと思うが、それを持ち去ったのだ。シュパン後家のエプロンのポケットに入っていることを彼は知っていたんだな。その献身的な友人はさらに大胆にも酔っぱらいの真似をして警官をあざむき、留置場にお前と一緒に拘留されただろう。そして弁護に必要な口実をお前と相談したのだ。それもこれも、シュパンの協力ぶりには百パーセントの信頼がおけなかったからさ。これでも、あくまで知らぬ存ぜぬで押し通す気かね?」
しかし、囚人はすでに自分をとりもどし、重々しい口調で反撃した。
「どれもこれも警官の作りばなしです」
「するとお前は、この明白な証拠さえも否定するのか?」
殺人容疑者は銅像のように身体を固くした。
「なにが明白な証拠ですか? まるでいかにももっともらしい作りばなしだ。もっともらしく見える点は認めましよう。ですが真実ともっともらしいことってのは別物なんだ。ところであんたはいま、きゃしゃな金髪の女を二人乗せた御者の話をしましたね? しかしその女が居酒屋にいた問題の女と同一人物であるという、どんな証拠があるんですか?」
「警官が、雪の上の靴跡を追っている」
「真夜中に泥んこの土の上を長い道のり歩いたはずです。それに雨が降り出して来ていたのですよ。そのうえ雪解けも始っていた」
そう言ってからルコックに向ってこぶしを突き出し、軽蔑した顔つきでこう付け加えた。
「あんたはうぬぼれているんだ。それでなければ昇進したさに、いいかげんな証拠をでっちあげて、ひと一人の首を断頭台で切り落そうとしているんだ」
その非難を前にしてルコックは黙っていられなくなった。メイの反撃は肝要な点に触れていたのである。ルコックは場所柄も忘れて憤然と立ち上がった。
「雨や雪どけこそ問題じゃないか! これこそ事件全体の鍵なんだ」ルコックは言葉はげしくさけんだ。
「君はだまっていたまえ、ルコック君」判事がルコックの言葉を制した。
判事は囚人のほうに向きなおった。
「裁判官が、警官の集めた証拠を厳重に審査し、それが確実な証拠であると判断したからこそ、かくのごとく採用したのだ」
「あたしに、その御者と会わせてください」
「もし言い分を変えないというのなら」と判事は続けた。「共犯者というか、友人の協力を得ていたことも否定するのだろうね?」
「あんた方はさっきあたしがシンプソンさんのことを言ったら、まるで架空の人物だとあしらいましたね。じゃ、あたしのほうはあんた方の言うその共犯者ってやつを、どう考えたらいいのかな? まったく警官の皆さんときたら、何とも都合のよいお人好しをでっち上げなさるものですな。この旦那方のお話じゃ、そいつがこのあたしと、そのあとは例の居酒屋の婆さんとしめし合わせたと、ご主張なさる。一体どうやってそんなことがやれたってんですかい? あたしがぶち込まれていたブタ箱からそいつを引っぱり出して、今度はあの婆さんと同じ房に入れ直したってわけですか? 要するに、あたしを有罪にするどんな証拠があるっていうんですかい? たとえば、瀕死の男が口にしたラシュヌールという名前、溶けかかった雪の上の靴跡、御者の証言、確たる証拠もない酔っぱらいへの疑い、それだけですか? それじゃ何ともお寒い話ですな」
「お前の言い分はそれだけか? お前の自信満々ぶりは確かに大したものだが、ついさっき見せた狼狽ぶりも大したものだったぞ。なぜ、そんなに不安になったのかね?」
「なぜかですって?」囚人は顔をまっ赤にして怒った。「あんたはおわかりにならないかも知れないが、あたしにとってこうしているのは地獄の責苦と同じです。あたしは無実なんですよ。それなのにあんた方は、あたしの命をもて遊んでいるんだ」
囚人はじっさい苦しそうであった。これは見ていてもはっきりわかった。額に汗が吹き出し、髪の毛がはりつき、青白い顔に大粒の汗が伝って流れていた。
「わたしは、決してお前の敵ではない」と、やさしくセグミュレ氏がいった。「予審判事は被疑者に対して友人でも敵でもない。真実と法だけに忠実なのだ。事実だけを追求している。そのためにお前が何者なのかを知る必要があるのだ」
「それは、口がすっぱくなるほど申し上げているじゃないですか! あたしはメイです」
「そうではあるまい」
「それじゃ、あたしは何者なんです」
予審判事は立ち上がり、暖炉のそばに行った。そこは囚人のすぐそばであった。
判事は態度と声の調子をがらりと変え、上流社会の紳士らしい口調で、同輩に対するかのように話しかけた。
「どうか、わたしの目を節穴と思わんでいただきたいですな。あなたはしきりに下層階級の人間らしく見せかけようとなさっているが、本当は上流の、それも並ぶ者なき稀有な能力を備えた立派な人物であられることを、見抜くぐらいの洞察力はあるつもりです」
ルコックは、判事のそうした突然の態度の変化につれて、殺人容疑者の顔にとまどいの色が浮かぶのをじっと観察していた。最初囚人は笑おうとしたのだが、それが咽喉《のど》につかえてしまったのか、悲痛なすすり泣きとなり、大粒の涙が二つ頬を伝って流れた。
「わたしはこれ以上、あなたを苦しめるつもりはありません。それにあなたが相手では、質問が微妙な部分に触れれば触れるほど、わたしなどの歯が立つわけもありませんからな。あなたを、有無を言わせずぺしゃんこにできるだけの材料を握るまでは、あなたとお会いするつもりもありません」
そういってから、しばし何かを思いめぐらす風を見せ、判事は一語一語力をこめて続けた。
「ただこれだけは申し上げておく。次にお目にかかる時は、今のような対等の態度でお話をすることは決してしませんぞ。法は厳正には違いないが、それでもある種の犯罪に対しては、花も実もある処置で臨むものです。どうか、すべてを正直に話していただきたい。警官を退室させる希望があれば、すぐそうとりはからいましよう。書記の同室が困るのなら、その処置をはかってもいい」
判事は口をつぐんだ。殺人容疑者は相手の心中を見すかそうとでもするような鋭い視線を、じっと判事の顔にそそいでいた。
「あんたは誠実な人のようだ。けれど不幸なことに、あたしは申し上げたとおりのしがない芸人に過ぎません。見物人に面白おかしく口上を述べる旅芸人のメイなんです」
「あくまでそう言い張るのなら、いたしかたない」と、判事は残念そうに言った。「あなたの供述筆記を読みあげることにする」
ゴグユエ書記は供述筆記を読み上げた。それが終ると看守が入って来て囚人を連れ去った。セグミュレ氏はどっかと椅子に腰をおとしたまま、じっと考え込んでいた。
「なんというならず者でしょう」と、ゴグユエ書記がさけんだ。
「それは違う」判事が言った。「ならず者ではないね。わたしが理をつくして諭《さと》したら、わたしを信頼していいかどうか迷っていたではないか」
「じつに意思の強い男です」と、ルコックが言った。
「わたしの結論を言おう。あの男が言ったように、観客に面白おかしく口上を述べる旅芸人のメイか、それとも上流社会に属する紳士かのどちらかだろう。そのどちらにも属さない中流社会の人間ではないね」
「しかしですね、判事さん。あいつは道化師のメイではありませんよ」
「わたしも君と同意見だよ。したがって、今後いかなる線で捜査を進めるべきかを考えるのは君の役目だよ」
ルコックはうなずいた。
「ところで判事さん。わたしにひとつの考えが浮びました」
「なんだね、言ってみたまえ」
「シュパン女将が息子のことをしゃべっていましたね。たしかポリットとかいいましたか」
「そう、そのとおりだ」
「そいつはまだ罪状が確定しないため、留置場に留置してあるんです。なぜ、そいつを調べようとなさらないのですか。そいつなら、ポァヴリエールの常連の顔を知っているに違いありませんよ。そいつを調べれば、ギュスターヴとか、ラシュヌールとか、あるいは殺人容疑者のことで貴重なネタがつかめるのではないでしょうか?」
「うん、なるほど。君の考えには一理あるね。どうしてそのことに考えがおよばなかったのかな。あすの朝訊問することにしよう。そいつの女房も一緒に調べることにしよう」
そして書記のほうをふりかえると、断乎とした声で命じた。
「大急ぎで手配してくれ、ゴグユエ君。未決囚のポリット・シュパンとその妻を召換するよう、手続きの準備をしておいてくれ。ポリットのほうは看守長に命令書を渡せばいい」
部屋のなかが暗くなって来たので、書記は呼鈴を鳴らし、灯りをもってくるようにと言いつけた。小使が灯りを部屋に持ち込み退出しかかると、ノックの音がした。
小使がドアを開けると看守長が入って来た。
「メイという囚人のことですが、やはり隔離しておくべきでしょうか」
「拘束衣を看せる必要はありませんな。独房のなかで自由にしてやっておいてください。看守のあつかいもできるだけ親切にするように。ただ、囚人の監視だけは厳重にし、行動は充分に見張っていてほしい」
看守長はうなずき、さらに続けた。
「あいつの素性はおわかりになったでしょうか」
「それが、まだわからないのだ」
「となると、やっぱりわたしが見当をつけていたとおりだ。判事さん、我々が相手にしているのは終身徒刑にでもするのがふさわしいしたたか者ですよ。カイエンヌの流刑地で腐ち果てるやつです」
「それは君の思いちがいだろうな」
「まちがっているとは思っていません。パリ警視庁のなかで最も敏腕な警部、ジェヴロール君と同じ意見です。彼の言うとおり、得てして若い警官などは功名心にかられて頭がカッカし、幻影をつくりあげ、それを追っかけているのですからな」
看守長が部屋から出て行った。ルコックは怒りに燃えて立ち上がった。
「お聞きになりましたか。ジェヴロールは嫉妬しているのです」
「たいしたことじゃないよ、ルコック君」と、セグミュレ氏がなだめた。「捜査に成功することが復讐することになるのだ。君が失敗してもわたしがついているよ」
予審判事の部屋を出ると、ルコックは、まず、ジェルサレム街に足を向けた。アブサントおやじを捜そうとしたのだが、警察隊屯所でも消息はわからず、誰ひとりとしてニュースを受けとっている者がいなかった。それどころか、シュパン女将の息子の嫁の居所もわからずじまいに終った。その代わり、警察隊の仲間の同僚から、聞くに耐えない侮辱的な嘲笑を浴びせかけられた。ジェヴロールがルコックの悪口をさんざ言ったために、そのような侮辱を受けることになったのだ。
モルグにも行ってみたが、これといって変ったことは起っていなかった。例の身許不明の死体は陳列されたままで、老刑事は帰って来ていなかった。
ルコックは簡単な食事をとりに行った。食堂を出ると辻馬車に乗り、時間が八時になったころ北停車場のあたりで馬車から降りた。駅の付近にあるホテルの調査が始まった。
ルコックは、パリに着いたばかりの外国から来た労働者風の男を泊めたことがあるか、と訊いて歩いた。しかし、どのホテルでも『そんなお客さまは存じません。見たこともございません』という返事が返ってくるだけだった。もっともルコックとしては、それと反対の答を訊かされたら、かえってびっくりしていたかも知れない。何しろ、自称メイが嘘をついていると決め込んでいたからである。
そうこうしているうちに、サン・カンタン街のマリアンブールというホテルに入った。
眼の高さに吊してある黒い甲斐絹をかぶせた鳥籠に向って、ひとりの女が、何やらドイツ語で同じ言葉を熱心に繰返ししゃべっていた。あまり熱が入って鳥籠に気をうばわれていたので、ルコックは咳払いをしなければならなかった。やっとその女はふりかえってくれた。
「今晩は、マダム。オウムに言葉を教え込んでいらっしゃるのですか」
「いいえ、オウムではございませんの。むくどりです。このむくどりにドイツ語で、『おひるの食事いかが?』と教えているところですの」
すると籠のなかの鳥がはっきりと『カミーユ、カミーユはどこなの?』と、さけびはじめた。
ルコックは籠の鳥にかまっている余裕はなかった。
「このホテルの経営者にちょっとお訊ねしたいことがあってうかがったのですが」ルコックが用談を切り出した。
「わたしでございますけれど」
「それならお訊ねいたしますが、ライプチヒから、最近わたしを訪ねてパリに着いた者がいるのです。職工なんですが。ところが、どうしたわけか、わたしのもとに訪ねて来ないので困っています。もしやその男がこちらに泊っているのではないかと思い、こうしてお訪ねしたのです。名前はメイと申します。そいつは日曜の夜、当地に到着することになっていたのですが」
「待ってください。その職工さんというのは、もしや……」
ルコックは、女主人のこの反応にすっかりびっくりしてしまった。彼女の説明を聞いてみると、まさにその男は捜す相手だったのだ。
「日曜日のお昼すぎのことです。その方はわたしのホテルに投宿なさいました。出来るだけ安い部屋をという御希望なので、あいにくボーイが不在だったものですから、ご自分でトランクをもってお部屋に運びました。その日外出なさって以来、その方は帰っていらっしゃいません。そんなわけで、ともかく、警察にお届けしておかなければと思いまして、雇人にそのことを申しつけておきました。届け出たのは昨日の夕方です」
「なんですって。昨日……。警察に?……」
「そうです。でも雇人に言いつけたことですから、本当にそうしたかどうかは存じません。フリッツに訊いてみましょう」
ルコックは、氷水を頭からぶちまけられたようにぞっとし落着きを失った。女主人が言ったことが事実だとすると、殺人容疑者は本当のことを申し立てたのだろうか。
「フリッツ」と、その場に呼び出したボーイに女主人が訊いた。「警察に行ったかい?」
「行きましたとも、マダム。署長が御不在でしたので、次席のカシミールさんに届け出て、理由をくわしく申し上げましたら、こちらに来て調べてみようとおっしゃっていました」
「まだおいでにならないね。でも、間もなくいらっしゃるでしょう」
ルコックはじっと考え込み、眉をしかめていた。やがて、宿帳を見せてくれと頼んだ。日付が二月二十日の日曜日のところに、こんなことが書きつけてあった。『メイ。姓名なし。ライプチヒから来た旅芸人。身分証明書は所持せず』これは女主人が語ってくれたところでは、まぎれもなく本人自身の書き込んだものである。筆跡を見ても、一目で他の人間のそれとは違う。
ルコックはホテルから引き揚げたが、頭の芯《しん》がひどくおもかった。所轄の警察署に行って身分を明かし、必要な部分だけ打ち明けて協力をもとめた。警部は、マリアンブール・ホテルの女将の言い分を認めた。
「すると、やはり届け出ていたのですね……」ルコックが念を押した。
「昨日だ。仕事がたて込んでいたのでホテルを調べておらん。ところで、役に立つことがあったらなんなりとお手伝いするが」
「では、わたしとご一緒願えますか。例の男の部屋にトランクが残っているはずですから、開けて中身を調べたいのですが、ひとつ立会ってください。それから、錠を開けなければなりませんから、錠前屋の手配をお願いします。ごらんのとおり、予審判事の捜査令状は持っています。これはあらゆる場合に有効なんです。馬車を待たせてあるのでこれから出かけましょう」
馬車が走り出すと、ルコックは警部に話しかけた。
「あなたはマリアンブール・ホテルの女将のことをご存知ですか?」
「もちろん。マダム・ミルナーといってね、まことに身持の正しい未亡人で、近所の人たちからも尊敬されている。ずっと後家を通しているが再婚の気はないらしい。何しろ、そんなことをせずとも気楽で豊かな暮らしをしているからね」
「すると、金をつかまされて金持の犯罪者に肩入れするような女ではないのですね?」
「マダム・ミルナーが金に目がくらんで偽証するだって! はっきり言わせてもらうが彼女は正直者だよ。それに財産家だ」
ホテルに着くと、ルコックはトランクに向って一直線に急いだ。
開けてみると、囚人が語ったと同じものがすべて入っていた。ルコックは化石のように突っ立ったまま呆然として、警部がトランクから出て来た品物を戸棚にしまい込み鍵をかけるのを眺めた。ルコックは外へ出た。失望していた。
その日は火曜日の告解日《グラ》だった。この年はいつもより大変な人出で、ひどくにぎわっていた。
ルコックがホテルを出たのは真夜中だったが、街は真昼のように人の波でごった返して、どこのカフェも客でたて混んでいた。
そんな街中を歩きながら、ルコックはこんなことをボソボソとつぶやいていた。
「出発点に逆もどりだな。明白な証拠の前にゃ、どうしようもないや。ぼくの仮定は結局妄想でしかなかったのか。あとは、もうこれ以上のばかな|へま《ヽヽ》を重ねずに、失点を取り返すだけだ」
ルコックは家にもどった。アブサントおやじが、犬のように泥まみれになり、どんよりした眼をし、口ひげをだらりとたらして、戸口の前で待っていた。
「悪い知らせだよ。やつらは、わしの指の間からするりと逃げてしまったんだ」
「ともかく、なかに入ろう」と、ルコックが言った。「おやじさんの話を聞こうじゃないか」
「バカなことをしてしまったものさ。モルグから、ギュスターヴを知っていたやつを注意深く尾行したのだ。やつらは最初カフェに入ったが、そこを出ると次に居酒屋だった。おれもやつらの後からその店に続いて入った。ドォフィヌ通りの小料理屋で、やつらはそこで玉突きをはじめた。おれは新聞を読むふりをしてやつらを監視していた。すると、おれの傍に大層な身なりの紳士が腰をおろした。その紳士は、読み終ったら新聞を貸してくれと言った。で、おれは貸してやった。そんなことがきっかけで、世間ばなしをすることになった。するとその紳士は、トランプをしようと言い出したのだ。一度二度とくりかえしているうちに酒になった。ブランデー、ビール、ラム酒といったわけだ」
「わかったぞ。最後に寝ちまったってわけだな」
「うん」
「その立派な紳士のことをどう考えるね」
「やつらを尾行しているおれをつけて来たんだ。小料理屋に入って来たのも、おれを酔いつぶすのが目的だったのさ」
「どんな風采《ふうさい》だった、その男は?」
「背が高くて頑丈な身体つき。赤ら顔に平べったい鼻をした、人のよさそうな感じの男だったよ」
「そいつだ!」と、ルコックがさけんだ。「例の共犯者だよ、ぼくたちが靴跡をとった例の男さ。酔っぱらいに化けた悪魔の化身だ。ぼくたちが気がつかなかったら、まんまとぼくたちの目をくらましおおせたやつだ」
じつは、アブサントおやじの告白はそれで全部ではなかった。
「まだ、あとがあるんだ。今さら隠し立てをしようとは思わん。酔っていたのではっきり覚えていないが、あん畜生めがポァヴリエールの殺人事件のことに水を向けたような気がする。で、どうやらおれはおれたちが発見したことや、君のこれからの捜査方針っていったようなことを、すっかりしゃべっちまったらしいんだ」
ルコックがすごい剣幕だったので、老刑事は思わずたじろいだ。
「何てこった! 敵にこっちの手の内を洩らしちまうなんて」
アブサントの失策は取りかえしがつかない。けれど、マリアンブール・ホテルでの出来事をあわせて考えてみると、疑惑はますます大きくなって来た。
「くたくたに疲れて、ぶっ倒れそうだ」と、ルコックがぼやいた。「ベッドにもぐることにしようじゃないか。あんたはマットレスを使うがいいよ、おやじさん」
翌朝、ルコックとアブサントおやじはポリット・シュパンの妻の居所を知ろうと思い、十三区の警察署に行った。警察署で住所がわかった。ビュット・オー・カイユ街に住んでいた。
シュパン女将の嫁はオーベルニュ生れだった。十二のときパリに出て来て、モントルージュの工場の女工になって、そこで真面目に働いた。十年間コツコツと金をためたので、それが積もり積もつて三千フランになった。そしてそのころ、運命のいたずらでポリット・シュパンと知りあいになった。ところが、このろくでなしにぞっこん惚れ込んでしまい、あげくに結婚した。男の結婚の目的は女の金であった。
金のある三、四か月の間は、どうにかこうにか夫婦らしい生活が続いた。この嫁の名はトアノンといった。トアノンは結局一文なしになった。ポリットは売春を強要したが、これだけは言いなりにならなかった。そんなことが度重なるとますます虐待がひどくなったので、ついに子供を連れて逃げ出してしまった。近所の人たちは、トアノンのことを聖女と仇名《あだな》していた。これはいささか大げさでなくもなかったが、その仇名に含まれた賛嘆の念は心からのものだった。
トアノンはまっ四角の屋根裏部屋に住んでいたが、部屋はかなりのスペースがあり、きれいに掃除がゆきとどいていた。ふたりの刑事が入って行くと、トアノンは布袋をせっせと縫っているところだった。自分は粗末なキャラコの服を着ていたが、子供のほうはいたずらっ子らしい眼をし、温かそうなラシャの服を着ていた。
「奥さん」と、ルコックが声をかけた。「シュパン女将の家で、犯罪事件が起ったことは聞いていますね」
「はい。聞いております」
そう言ってからいそいでつけ加えた。
「でも、あの人には関係ありませんわ。監獄に入れられているんですもの」
そのひと言が、はしなくも身も世もない心配ぶりを語っていた。
「おっしゃるとおり、ポリットは監獄に入っていました。二週間前に逮捕されています」
「悪いこともしていないのにね! 誓って申し上げますわ。相変らず悪い仲間にいいように利用されているんです。気が弱いんですよ、あの人は」
間違いなくこの女は今でもならず者の夫を愛しているのだ。ちょっとの間皆だまっていた。沈黙が続いているうちに、この屋根裏部屋のドアがそっと開いた。男の顔がぬっと突っ込まれたが、アッという愕《おどろ》きの声とともにたちまち引っ込んでしまった。と同時にドアが閉められ、外からピシンと錠が掛けられ、足早に階段を降りる足音が聞こえた。
「あいつだ!」ルコックがさけんだ。「共犯の男だ!」
「まちがいない」とアブサントおやじも応じた。「昨日おれを酔いつぶした男だ」
二人の警官は戸口に駆け寄り、開けようとしてガンガンたたいた。びくともしなかった。やっとのことでドアを開け廊下に出ると二人の刑事は、奇怪な行動をとった男のあとを追って転げるように屋外に走り出た。通りに出ると、あたりにいる人をつかまえて問いただした。そのなかの二人は『聖女』トアノンの住む家に入るのを覚えていた。三番目の男は、あわてふためいて家から飛び出して来るところを見ていた。子供たちは、その男がムーラン・デ・プレ街の方向に逃げ去るのを確認していた。
「大急ぎで走れば追いつけるかもしれん」と、アブサントおやじが言い出した。
「無理だよ。ドアを開けるのに手間どりすぎてしまった。十分は無駄にしちまったから、まず捕えることは出来ないな」
『聖女』トアノンはいまの騒ぎがどんなことかわからないでいた。踊り場に立ちつくし、子供を腕に抱いたまま、階段の手すりから身をのり出していた。ほどなく二人の刑事が階段をのぼってくるのが見えた。
「何が起ったのですか?」
ルコックは、廊下で話をすると近所の人たちに聞かれると思い、屋根裏部屋にもどってから答えた。
「あの男はポァブリエールの殺人容疑者の仲間なんですよ。あなたに会いに来たのだが、われわれがいたものだから目的が果せなかったのです」
「殺人犯人がわたしにどんな用があるのでしょうか」
「ご主人の友だちなのでしょう」
「ああ、おそろしい!」
「さきほど、ご主人には悪い知り合いがいると言いましたね。まさかそれだけのことで巻きぞえにもされんでしょうから、安心していいですよ。でも、ご主人の友だちの中であんなことを仕出かしそうな手合いに心当りはありませんか? もしおありなら名前を教えてください」
トアノンはひどくためらっていた。もしよけいなことでもしゃべれば、恐ろしい復讐が待ちかまえていることは、経験上よく知っている。
「二つだけ質問に答えていただけばいいのです。そうすればぼくは退散しますよ。ポァヴリエールの常連のなかに、ギュスターヴという人物がいますか?」
「おりません、きっとですわ」
「よろしい、でも、ラシュヌールという人物は知っているはずですが?」
「その方なら存じております」
「どんな人物です?」元気づいてルコックが訊いた。
「義母《はは》の居酒屋などで酒を呑む連中と身分のちがう方です。わたしは一度しかお会いしたことがありませんが、顔はよく覚えております。ある日曜日のことでした。空地の傍に馬車を待たせて、ポリットとしゃべっていました。その人が帰ってしまったあとで夫は、『あの人を見ただろう。あの人のおかげでおれは一身代できるんだぜ』と、そんなことをわたしに申しました。相当なご身分の方らしい風采でした」
「それだけで充分です。これから判事のところに一緒に行って、いま言ったことをもう一度述べてください。馬車の用意がしてあります。もし、お子さんも一緒というのならそれでも結構です。急いでぼくと一緒に行ってください」
裁判所では、セグミュレ判事が昨夜の決定どおり、ポリット・シュパンの訊問を開始していた。落着きのない眼と狡猾さを印象づける顔つきをしていた。もちろん、このならず者は、ギュスターヴの名前を知らぬと答えた。
「では、ラシュヌールは?」
ちょうどそのとき、判事の事務室のドアが突然開いて、トアノンがルコックに伴なわれて入って来た。彼女は子供を胸に抱えている。その場に夫がいるのを見ると、喜びの叫びをあげてかけ寄ろうとした。しかし、ポリットはすさまじい顔つきで彼女を釘づけにした。
「ラシュヌールなんて全然知らねえ名だ。おれが知っているなんて言うやつがいたら、そいつはおれの敵だ。そうだとも、そんなやつは殺してやる」
ルコックは目の前がまっ暗になる思いがした。このお膳立ての責任者ともいうべきルコックは、その証言が決定的な重みを持つべき哀れな女をせき立てて連れては来たものの、このなりゆきにほぞを噛むばかりだった。このようにポリットが頑強に否定すれば、妻は妻で夫への愛からにせよ、恐怖心からにせよ、もはや何ひとつ証言してはくれないだろう。事態はかくのごとくになった。おどそうがすかそうが、何の役にも立ちはしない。よんどころなくセグミュレ氏はポリットを牢に連れもどし、トアノンのほうも帰宅するように申し渡した。
「わたしたちは、恐るべき強敵を相手にしているのです」二人だけになるや、ルコックは判事に言った。「あのポリットも事件について知らされ、あやつられているのは火を見るより明らかです。その黒幕はいうまでもなく、例の共犯者、わたしたちを五里霧中にさせている、謎の、正体不明の仕掛人です。それにしても、収監中であり、しかも常に監視がゆき届いているはずの男に、どうやって連絡をつけることができたのでしょう? これはどう見ても、監獄そのものにか、でなくば面会所での監視に手心でも加えられていたと思うよりありませんね」
「君の疑念をはっきりさせておきたい」セグミュレ氏がきっぱりといった。「ルコック君、さあ、君も一緒に来たまえ」
二分後に二人は獄舎についた。看守長がジェヴロールと一緒にいた。
「判事さん、被疑拘留者のメイのことでおいでになったのでしょう?」と、看守長が訊いた。
「あいつのことで、ジェヴロール氏といろいろ話しあっていたところです。今も警部にお話していたんですがね、あの男の態度は申し分ありませんな。もう拘束衣を着せる必要もないほど気分が落着いています。食欲もあり、元気で、冗談さえ口にしています」
判事とルコックは不安そうな眼で視線を見交わした。
「外部からは、どんな連絡もとることができないと確実に言い切れるかね?」
「言い切れるか、ですって? それじゃ、ひとつご自分の目で独房を検分されてはいかがです」
「よし。しかし今は、もう一人のほうの容疑者のことを知りたいんだ。シュパンなにがしのことだが、昨日この男に、誰か面会人はなかったか知りたいのだが」
看守長はすぐに部下を呼んで訊きただした。看守は、老婦人が訪ねて来たと答えた。彼自身が面会の手続をし、シュパンを面会所に呼び出したと答えた。その婦人は小柄で丸々と肥り、かなりみごとな金髪のとても律気者らしく見えた。
「すると、ポァヴリエールから逃亡した二人の女のうちの一人でしょうか?」ルコックが言った。
「ロシア皇女かも知れんぞ」と、ジェヴロールが哄笑した。
「ルコック君に冗談を言うのは勝手だがね、警部」と判事が厳しい顔で言った。「その内容によっては、とりもなおさず、このわたしをも侮辱することになる点は忘れんでほしいね」
ジェヴロールはルコックの顔をにらみつけておいてから、判事に不作法を詑びた。しかし、判事はそれには答えず、ついて来いとルコックに目で合図を送ってから、看守長に礼を述べて外へ出た。
「面会を許した係官に会ってきてくれんかね。その婦人が、どんな名目でポリット・シュパンに面会を許可されたのか、調べて来てくれたまえ」
判事は自分の事務室にもどりかけた。と、いくばくもなくしてすぐルコックが追いついた。
「どうだった?」
「またもや例の共犯者の、悪魔のような巧妙さを見せつける証拠を見つけました。昨日使用した面会許可書はシュパン女将の妹のでした。ローズ・アデライド・ピタールという名で、モンマルトルで屋台の果物を商っております。じつはその許可書は八日前に発行されたもので、所轄の警察署長による請願の証明付きのものでした。その理由は、家庭内にゴタゴタが起ったので、意向を聞くために姉と面会がしたいというものです」
「その伯母は、悪党の一味に加担しているのだろうか」
「わたしはそうは考えません。いずれにせよ昨日監獄の面会所に姿を現わした女は、その伯母当人ではありますまい」
「すると、ポァヴリエールから逃亡した二人の女のなかの一人か?」
「そうでもないのです」
「では何者かね。君の意見は?」
「マリアンブール・ホテルの女将ですよ! 上品で、おとなしそうな様子をして、ぼくをたぶらかしたのです」
「するとどんな方法で、許可書の存在を知ったのだろうか」
「大して難しい問題ではありません。イタリー広場の留置場で、シュパン女将と謎の共犯者は、相談のすえ急いで入獄中のポリットと接触することが何より先だということになったのです。その折シュパン女将は、妹がポリットと面会するための許可書を持っていることを思い出し、例の男がなんとか巧い口実をもうけて取り上げ、その許可書を使ったのです」
「それだ! それにしても、もっと確実な情報を手に入れたいものだ」
「わたしがやりましょう。事件の解明に役立つことなら、何ひとつおろそかにはできません。夜になる前に、武装監視員を二人派遣しておきます。ひとりはビュット・オー・カイユ街のトアノン、もうひとりはマリアンブール・ホテルの女将を見張らせるのです。例の殺人容疑者の共犯が、トアノンかマダム・ミルナーのもとに姿を見せれば、ただちに逮捕します。わたしは、これから自由行動をとらせてください。もしわたしにご用が出来たら、廊下に同僚のアブサントおやじを配置しておきますから、これに命令してください。わたしは、ラシュヌールの手紙と耳飾りの二つを手がかりに、これから捜査を始めます」
「さあ、行きたまえ」と、セグミュレ氏が言った。「幸運を祈っているよ」
どこの宝石店で耳飾りを買ったのか、それがわかれば行きづまった捜査の突破口ができると、ルコックは希望を抱いていた。宝石店から宝石店へと聞き込みをして歩いたのでは時間を浪費するばかりだ。幸いなことに、宝石のことになると極めて重宝な人物をルコックは知っていた。オランダ生れのフォン・ニュムセンという名の老人だった。宝石細工、宝石売買について、パリでこの老人ほど詳しい人物はほかにいなかった。
警視庁でさえ、この人物を特別な専門家として捜査の協力をあおいでいた。老人は見るからに人の好さそうな人物で、若い警官を快く迎え、ルコックが持ち込んだ耳飾りを念入りに調べていたが、やがて満足そうな顔つきになり、自信たっぷりの口調で言った。
「この宝石は八千フランほどの値打ちものだ。細工の仕上げは、ド・ラ・ペイ街のドアステーの店だ」
それから二十分後、ルコックはパリでも名のある一流の宝石店を訪れた。店主のドアステーは耳飾りのことを覚えていた。確かに彼の店で扱った品だった。いまから三、四年ほど前、アルランジュ侯爵夫人に売ったのだ。アルランジュ侯爵夫人は小柄な、六十歳をずっと昔に越したと思われる老婦人で、ルコックを愛想よく迎え入れてくれた。年令と身体つきから推測すると、例の居酒屋から逃亡した二人組の女との類似点は少しもなかった。アルランジュ夫人は、耳飾りを所持していたことは認めたが、それはずいぶん昔のことで、ドイツの貴婦人、ワットー男爵夫人に譲ったと語った。
「その男爵夫人は、いまどこにお住いなのでしょうか?」
「ペール・ラシェーズ墓地ですわ。亡くなられたのです」
「でも、男爵夫人の相続人はおいでになられるのでしょう?」
「ウィーンの宮廷にご兄弟がおひとりいらっしゃるだけです。夫人がお亡くなりになると、お妹さんの持ちもの全部を売り払うように言ってよこされました」
失望落胆したルコックは、ホテル・ドルオーに足を向けた。そこで、ワットーが売り立てを行なった際の調書をしらべた。しかし、ルコックが知りたいと望んでいた耳飾りはその調書に記載されていなかった。
こうしてルコックが頼みの綱にしていた線はぷっつりと切れてしまった。
ルコックは帰って寝た。しかし、翌朝になると捜査をふたたび開始した。成功の唯一のチャンスは今後に残されているとルコックには思われた。なにしろ、にせ軍人のポケットのなかから発見されたラシュヌールのサイン入りの手紙がこちらの手中にあるのだ。この手紙は、ボーマルシェ大通りのカフェの名前の入った便箋が使われていることが証明しているように、そのカフェで書かれたものに違いなかった。
訊ね歩いて四軒目のカフェで、その店の備えつけの紙とインクと同じものが使われていることがわかった。しかし、ラシュヌールという便箋の署名者を、店主をはじめ、その妻やこの店のカウンター係の女性からボーイ、さらには常連に至るまで訊ねてみたが、誰ひとりとして知っている者はいなかった。
これ以上打つ手もない絶望的な状態だろうかと、ルコックは考えた。思案しているうちに、いやまだ手がかりはあると判断した。にせ兵士が死ぬ前に、ラシュヌールはもと喜劇俳優だとはっきり断言したではないか。そのわずかな手がかりのことに考えが及ぶと、ルコックはふたたび活動を開始し、劇場を片っぱしから訊いて歩いた。
「ラシュヌールという俳優を知らないか?」
返事はどこでも判を押したように「ノン」だった。
こうして二週間が経過すると、新聞でもあれほど大きく書きたてたのに、シュパン女将の居酒屋で演じられた恐るべき犯罪はもはや、シャルルマーニュ王治政下に起った俗悪な殺人事件ほどにも、世人の記憶に残っていなかった。警視庁と監獄だけがこの事件を覚えていた。ということはセグミュレ氏にしても、ルコックよりも捜査がうまく進行しているわけではないことを物語っていた。数限りない訊問、老練な、そして労を惜しまぬ精密な鑑定、誘導訊問、そそのかし、脅迫、約束と、ありとあらゆる手段を弄《ろう》したけれど、目に見えぬ謎の力の前で、すべて徒労に終った。まさしく沈黙の力とでもいうべきものだ。
シュパン女将、ポリット、『聖女』トアノン、マダム・ミルナーと、誰もが一様に、その謎の力に操られているふうに見える。明らかにこれらの証人はすべて、共犯の男の供述に口裏をあわせ、共犯者である男の信頼に応《こた》えているのだ。そして、しめし合わせたかのように、一致した巧妙きわまる戦術を忠実に守っていた。あらかじめ打合わせてあるらしい彼ら一同が裁判所に対してとった態度には、一糸の乱れもなかった。あの人並みすぐれた人格者たる予審判事さえもが、ともすると、拷問を使えぬことを残念がるほどだった。
ことにメイと名のる殺人容疑者は、連日の厳しい訊問にもかかわらず、その演技に、かえってますます磨きを加えたぐらいである。長期の拘留を予測して、ホテルで発見されたトランクの中身をとりよせると、子供のように手をたたいて喜ぶという始末だった。トランクには金が入っていたので、それを裁判所に預けた。その金で未決囚として許可される範囲内で、小さな贅沢にふけることを喜んでいた。そんなある日、監獄側はメイの申し出を受けて、ベランジェの歌集を買い与えた。メイは一日じゅうその歌集を夢中で読みふけり、ときには大声で唄い出すこともあった。よほどこの歌集が気にいっているらしかった。
しかしその一方では、公式非公式を問わず警視庁から派遣された係官の訊問に、文句言わず応じていた。監獄に収容中の犯罪容疑者三十人ほどに面通しをしたが、誰もメイを見知っている者はいなかった。
メイの写真を全パリの刑務所の徒刑囚全員に確認させたが、これも徒労に終った。
警視庁捜査第二課が公的記録を調査した結果、メイが申し立てた旅芸人のトラングロなる人物が実在していることが確認された。しかし、このトラングロは何年も前に死亡していた。またドイツとイギリスに照会した結果、シンプソンなる人物も実在しており、このほうは興行師としてその社会に相当に名を知られた成功者であることがわかった。このような事実を証明する証拠が集まると、看守長は判事に、『囚人メイは実在する人物で、彼が申し立てたことにまちがいない』と、所見を書いて送った。そして、その結論がジェヴロールのそれと一句違わず符節を合わせていたのはいうまでもない。
囚人メイが収容されているせまい独房の部屋の上に、屋根裏部屋のようなものがある。ルコックは上司の許可をとったうえで行動に移った。ある天気のよい朝のことである。囚人が散歩のためしばし部屋を開けるのを利用して、その屋根裏部屋に腰を据えるべく細工をほどこした。ルコックは床に小さな穴を開けた。この小さな穴から囚人を観察し、声を聞こうという作戦なのだ。
こうして彼は、屋根裏部屋に腹ばいになって、六日六晩囚人を監視していたが、別に変ったことを発見することはできなかった。歌を唄い、食事をとり、ねむる。手と爪を注意深く手入れする。メイ自身が証言したとおり、曲芸団でやっていたと同じ日常生活の繰り返しだった。しかし、若い警官はあきらめるどころではなかった。それどころかルコックは妙なことに気がついた。毎朝、食事どきになり、看守が食事を運ぶのに忙しいときに限って、『ディオジェヌ』という歌を唄うのだ。しかも歌詞はいつも同じだった。
「この歌が合図だ」とルコックは考えた。「窓の傍で何が起ったか、ここからでは見えないじゃあないか」
その翌朝、十時半にメイが看守に連れられて一緒に散歩のため独房を出るように取りはからってもらうと、看守長とともにルコックは囚人の独房に入った。看守長が質問した。
「何をわたしに見せたいんだ、変ったことでもあるのか?」
「何も出ないかも知れない。大いに収穫があるかも知れない」
十一時が刻《とき》を告げると、ルコックはメイが唄う歌を唄いだした。
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ディオジェヌ
お前のマントのなかで……
[#ここで字下げ終わり]
二節目を唄い切らぬうちに、鉄砲玉のように、パンのかたまりが窓から投げ込まれ、足もとにころがった。看守長は呆然としてものも言えなかった。独房の厳重さを誇っていた禿頭には、まさに痛烈きわまるショックだった。何しろ、自分の管理する監獄が、いとも易々とコケにされるところを見せつけられたのだ。
「手紙だ」看守長が驚いてさけんだ。「手紙だ!……」
ルコックは素早くその伝言物《メッセージ》をひろいあげた。
だが彼の、してやったり、という有頂天は、看守長の驚きを憤激に変えただけだった。
「何てこった! わしの目をくらませて、囚人が外部と通信しておったとは。わしの部下が郵便配達の真似をつとめておったのか! こんなことは二度とさせないぞ」
「まあ、静かにしてください」と、ルコックがなだめた。「ここで騒ぎを起したり、このことについてひと言でも洩らせば、真相を発見することは不可能となるでしょう。内通者はかしこいやつですから、露顕したとわかれば二度とやらないでしょう。それよりも監視を厳重にして現場を取り押さえることが肝心です」
「ああ、わかったよ。敢えて目をつぶることにする。では、そのパンのなかに何が隠してあるのか開けてみよう」
「いや、どうせこんなことだろうと、セグミュレ氏に前もってお話しておきましたから、きっとこれを待っておられるに違いありません。疑いもなく、これは新しい手がかりです。せめてものことに、このパンを砕いて通信文をとり出すのは、判事のお手をわずらわすことにします」
ルコックが部屋に入ると、セグミュレ氏と書記は立ち上がった。ルコックの表情にただならぬ気配を感じとったのだ。
「何か新しい手がかりをつかんだな」と、うわずった声で判事が訊いた。
ルコックは返事を口にする代わりに、くだんのパンのかたまりを机の上に置いた。パンのなかから、タマネギの皮と見まちがえてしまいそうな半透明な薄紙を小さく丸めた玉が出て来た。セグミュレ氏はそれをひろげて読んだ。しかし結果は眉をひそめただけだった。
「数字だけしか書いてない」
「こんなことだろうと思っていましたよ」と、ルコックが言った。
彼はその紙片を受取り、数字をコンマで句切られているとおりの順序で読み上げた。
235,15,3,8,25,2,16,208,5,360,4,36,19,7,14,18,84,23,9,40,11,99,……
「これでは、なんのことやらわからない」と、看守長がルコックの手もとをのぞき込みながら言った。
「第三者の手に落ちた場合を考えて、こんな書き方をしているのですな」と、書記が自分の考えを言った。「暗号を解く専門家がいますよ」
「そのとおりです」とルコックが相槌《あいづち》を打った。「このぼくも暗号解読の研究に熱中したことがありますよ」
「じゃ君がこの手紙の暗号を解く鍵を発見することができるというのだね」判事が訊いた。
「はい。囚人と共犯者は、わたしがまちがっていなければ、あらかじめ双方に同じ二冊の本を用意しておき、それで暗号通信を行っていたのです。一方がその本から暗号を組み、受けとる方も、同じ本から暗号を解くのです。どちらか一方が通信したい事態が起ると、こんなふうにやるのです。まず、本をでたらめに開き、そのページを書きとめます。それから、自分が必要とする単語をさがします。初めから二十番目にその単語があれば、20という数字を書きとめます。そして、同じ方法で、必要とする単語が見つかるまで、数字を一からかぞえるのです。仮にその単語が六番目に出てくれば、六の数字を書きとめる、というわけですよ。そうやって、伝えたいことをすっかり文章に組み終えるまで、同じ作業を繰り返せばいい。受けとった側は、その逆に指定されたページを開いて、同じ作業をすればいいのです。一つ一つの数字が、それぞれ単語を示し、それを並べれば手紙になります」
「ごく簡単じゃないか」判事がうなずいた。
「こんな手紙が、囚人でもない自由な人間のあいだでやりとりされていたとしたら、第三者がそれを解読しようとしても、まず不可能でしょうな」とルコックは先を続けた。「この通信はいかにも単純きわまるやり方ですが、部外者の好奇心を打ちくだくには十分安全なシステムというわけですよ。なにしろ、問題の種本がどれかを探り出すなんて、当人たち以外にはまず不可能ですからね。だが、今度のケースはそうじゃない。メイは囚人だし、本は一冊しか所持していません。すなわち、ベランジェの歌集です。我々もこの歌集を手に入れるとしましょう」
「わたしがとって来ますよ」と、看守長が横から口を出した。
「メイには、歌集を持ち出したことを知らせないでおいてください。もし散歩が終ってしまっているなら、何とか口実を作って、また独房から連れ出してください。わたしたちが歌集を使い終るまで、入室させないでおいていただきたいのです」
十五分もたたないうちに、看守長は三二版の小型本をひらひらさせながらもどって来た。ルコックは235ページを開いて単語を数えはじめた。
そのページの15語目は JE で、その3語あとは LUI、8語目は AI、25語目は DIT、2語目は VOTRE、そして16語目は VOLONTE という単語だった。
こうして、最初の6字だけ解読が終った。
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Je lui ai dit votre volonte……
(わたしは、あなたの要求を彼女に告げた……)
[#ここで字下げ終わり]
「巧いぞ、ルコック君」と、判事がほめた。
しかし、ルコックはそれには答えず、懸命に数をかぞえ、手紙の翻訳に夢中になっていた。解読の結果はこんなことになった。
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わたしは、あなたの要求を彼女に告げた。彼女は承諾し、わたしたちの安全は確保された。わたしたちはあなたの命令を待っている。希望をもて! 勇気をもて!
[#ここで字下げ終わり]
手紙の内容は期待はずれだった。簡潔すぎて具体性に欠けていた。一たび解読されれば、当局にとり、この手紙は有力な武器になるはずではなかったのか!
「残念なことだ。せっかくここまで突きとめながら、何の役にも立たんとはね」看守長が皮肉な調子で言った。
ルコックは、いたずらっぽい視線を看守長に投げた。
「ぼくが無駄に時間を空費しているとでも思っているのでしょう。でもぼくは自分では、そうは考えていませんよ。この手紙は囚人の身分について、ぼくの考えが正しいことを証明しているじゃありませんか」
「うん。ジェヴロールとわたしは、もっともらしい見せかけにだまされていた。だが誰にだってまちがいはある。君は初手からちゃんと見抜いていたと言うつもりかね?」
「もちろんですとも! それにこうしてあの容疑者が見せかけどおりのメイではないことがはっきりしたのですから、今後はあの男の正体の究明にもみなさんのご協力が得られるでしょうな」
ルコックの口調に看守長は自尊心を傷つけられた。しかし、これ以上目下の者などと議論をする気はなかったので冷やかに言った。
「君が言うのも一理ある。メイは身分もあり名もある人物に違いない。ただ、わたしが言いたいのは、そのような身分もあり名もある人物だったら、警察の注意も惹かずに忽然と世間から姿をくらますような真似がどうしてできたのか、ということだ。ひとつ、教えてもらえるとありがたいね。名のある人物だったら家庭もあり、両親、友人をはじめとして、つながりのある人間の数も多いことだろう。ところが、メイがぶち込まれてから三週間にもなろうというのに、彼のことで誰一人、警察に行方不明の捜査願いを出した者がいないというのはどうしたことだ。君はそのことを考えたことがあるのか」
セグミュレ氏が仲裁に入った。
「お互い非難の応酬をしてみても、事件解決に一歩も近づくわけではない。それよりも、情況を正しく分析して、最良の手段を発見すべきだ」
「じつは、その手段をみつけたんです」ルコックが微笑した。「この手紙の文句を、すりかえるというだけのことですがね。通信相手を信用しきっていますから、きっと本気で手紙の内容に反応を示すでしょう。どんなふうに? つまり、それをこのわたしが観察し、探り出そうというのです。明日、食事の時間に、メイは合図の歌を唄うでしょうから、それを機に、アブサントおやじに窓からパンのかたまりを投げ込ませるのです。その間ぼくは屋根裏部屋からメイの行動を監視し、その秘密通信をどう処置するかを見とどけようというわけです」
時を移さずルコックは例の手紙にそっくりの紙を手に入れ、テーブルを前にして腰をおろすと、ベランジェの歌集をペラペラとめくり、例の秘密通信に使った数字を真似て、にせの暗号通信を書きはじめた。この仕事は十分足らずで終った。大失策を防ぐため、本物の手紙の単語を使い、ただ全体の文意だけがまるで違ったものになるにとどめた。
文面は、次のとおりだった。
[#ここから1字下げ]
わたしはあなたの要求を彼女に告げたが、彼女は要求を拒絶した。わたしたちの安全はおびやかされている。われわれはあなたの命令を待つ。心配している。
[#ここで字下げ終わり]
ルコックは紙を丸めると、パンのなかに入れた。
「明日が楽しみだな」
その翌日、十一時になると、囚人は歌を唄いはじめた。
[#ここから1字下げ]
ディオジェヌ
お前のマントのなかで
自由で幸福で……
[#ここで字下げ終わり]
第三節を唄い終らないうちに、パンのかたまりが窓から投げ込まれ軽い音をたてて敷石のうえに落ちた。囚人は歌をやめた。ルコックはのぞき穴に眼を押しつけて呼吸《いき》をのみ、じっと見つめていた。囚人の身ぶりはおろか、身震いひとつ見逃しはしなかった。メイは窓の傍に近寄ってじっと空を見あげ、今度は自分の身辺をぐるりと見まわした。まるでパンのかたまりがどこから投げ込まれたのか見当もつかない、と言わんばかりの様子だった。
しばらくしてから、やっと拾い上げる気になったようだった。それから今度はそれを興味深げに点検した。びっくりした表情だった。この様子を見たら誰だって初めて窓から飛び込んで来たものを拾い、おどろいているとしか思わないだろう。やがて唇に微笑が浮んだ。それから、「おれはそんな単純な男ではないぞ」とでもいうように肩をすぼめた。次に、パンを砕いて丸めた紙を見つけると、心配そうな顔をした。
「やれやれ、あのわざとらしさはどうだ!」ルコックは独り言を言った。
囚人は紙をひろげ、なかの数字に目を通したが、何の意味かわからないといった様子だった。だが突然ドアに走りよるとこぶしでドンドンたたき、大声で看守をよんだ。
看守が駆けよって来た。ルコックは足音でそれがわかった。
「どうしたのか?」のぞき穴から看守が訊いた。
「判事さんにお話したいことがあります」
「わかった。すぐ連絡してやる」
「早くお願いします。お知らせしたいことがあるのです」
「すぐ行くから」
ルコックはそれ以上聞いていなかった。ここで起った一部始終を判事に告げようと思い、狂ったような足どりで裁判所に向けて駆け出した。
「これはどういうことなのか?」と、ルコックは考えた。「確かなことは、あの男の急な決心に、ぼくの手紙は何の関係もないということだ。歌集を使わないでは解読できない。男は歌集に手をつけなかった。つまり、やつは手紙を読んでいないのだ」
セグミュレ氏もルコックのはなしに驚愕した。二人は不安な心で監獄に行った。メイは両手で頭をかかえてうずくまっていた。扉のきしむ音に、びくっと肩をふるわせて立ち上がった。
「わたしを呼んだそうじゃないか」と、判事が訊いた。「何か重大な証言をすると言ったのだな、なんだ?」
「話したいことがあります」
セグミュレ氏は、ルコックと看守長のほうをふり向いて、部屋から出るようにと目でうながしたが、囚人はそれを止めさせた。
「その必要はありません。あたしは、みなさんのいる前で申し上げたいんです」
「話してみたまえ」
「こうして来ていただいたのは、あたしが正直な男であることをわかってもらうためです。その証拠をお見せしましょう。まずこの紙きれをごらんなさい。これは少し前にあたしのところに投げ込まれたものです。何か意味ありげな数字が並んでいます。判読したいにも、どうしたらよいかわからないんです」
そして、ルコックが書いた数字の紙片を、囚人は判事に手渡した。
「パンのかたまりのなかから出て来たのです」
不意の強烈な一撃を受け、並居る一同は眼の前がまっ暗になる思いがした。囚人は話を続けた。
「窓をまちがえて、あたしの部屋に投げ入れたのではないかと思います。同じ監獄のなかの仲間を密告するようなことはしたくないですが、こっちも殺人容疑で告発されそうなんで、そうもきれいごとばかり言っちゃおれません。あたしは無実なのですから」
判事はなんとかして立ち直ろうとがんばった。激しい意思の力を眼に集中させて、囚人の顔を睨《にら》んだ。
「この嘘つきめ。この通信はお前に宛てられたものだ!」
「あたしにだって! するとあんたたちにそれを渡しちまうなんて、あたしはとんだ馬鹿者ですな。もしあたしに来たものなら、さっさと隠してしまうはずじゃありませんか。あたしがそいつを受けとったことなど誰も知らないし、気がつくはずもないんですからね」
「お前が嘘をついていることを、このわたしが証明できないとでも考えているのか?」セグミュレ氏が逆襲した。「即座に証明して見せたらどうする? ルコック君、君が通信文をどのような方法で解読したか、その種明しを話してやりたまえ」
突然、囚人の顔色が変った。
「ああ、また例の刑事さんですね」と、声を落した。「で、いったい何を発見したのです? あたしが大貴族だと思い込んでいるお人ですな。そういうことなら、もう何をか言わんやだ。なにしろ警察ってとこは、誰かを有罪に仕立てたいとなると、ちゃんとその証拠なるものを見つけ出してみせるんだから。こいつは世間周知の事実ってやつです。そいつと同じ伝で、囚人が手紙なんか受け取ってないとなれば、昇進をあせるお巡りさんが、代わりにその手紙をでっち上げてみせるってわけなんだ」
ルコックは怒りに燃えて暗号解読を披露した。メイはそのからくりに感嘆してみせたあげく、そんな真似をやってのけられるのは警察しかないと言い切った。
セグミュレ氏はメイの訊問をあきらめ、一同とともに独房から引きあげた。看守長の部屋に入ると、長椅子にどっと腰をおろした。
「まったく手強い相手だ。依然として謎は謎のままというわけだ」
「でも、なぜ、あんなお芝居をしたのでしょうか」看守長が首をかしげた。
それに答えたのはルコックだった。
「つまり、こういうことです。あの男としては、ぼくの主張をくつがえしたくて、例の本物のほうの手紙までがぼくのでっち上げだと、判事どのに思い込ませようとしたかったのです。そうすればぼくの面目が丸つぶれとなり、メイはそのままメイとしていられるからです。それにしても腑に落ちないのは、ぼくが暗号通信を横取りし、様子をうかがっていたことを、どうしてメイが知っていたかということです。どうしてもこの点だけは合点がゆきません」
看守長とルコックは、疑わし気な視線でお互いの顔を睨んだ。
看守長はこう考えている。(抜け目ないこの生意気な刑事は、わしの足もとに落ちた最初の暗号通信だって、でっち上げたのかも知れないぞ。アブサントおやじはあんなにうまく手紙を投げ込めたのだから、最初の時だって同じようにやれただろうからな)
ルコックはこう考えている。(この看守長は、ジェヴロールとぐるなのではなかろうか。嫉妬深いジェヴロールは、陰険なやり方でぼくの計画を妨害したのではないだろうか)
この失敗に終った試みから数日が流れた。その間、ルコックは相変らず精根を込めて捜査に打ち込んでいたが、判事のほうは意気|沮喪《そそう》して元気がなかった。
「これ以上捜査を続けても無駄だ。終りだよ。捜査の方法は何も残っていないのではないか。もうあきらめたよ。囚人はメイという名前でかまわないから公判に付そうじゃないか。もうこれ以上この事件にかかわりたくないよ」
「いえ、やつはぼくたちをいいように翻弄《ほんろう》しています。このままでは、まんまと正体を隠しおおせてしまいますよ。でも、やつの秘密をあばく最後の手段がひとつだけ残っています。やつを逃がすのです!」
「気でも狂ったか?」セグミュレ氏は大声で言った。「囚人を逃がす!」
「そうです、逃がすのです。これがぼくの計画です」
「現実性のない空想だな」
「なぜですか。シャボアソオ夫婦殺人事件のときにも、同じように囚人の一人を逃亡させて、共犯の仲間を逮捕することに成功しているのですよ。こうした前例をよくお考えください。囚人を逃がし、ぼくが尾行するのです。決して見失いはいたしません。あいつの影のようにくっついて離れません」
「あの悪がしこい男が、君の尾行に気がつかないでいるとでも思っているのか。何かの拍子に、偶然姿を見られる危険も充分にあるよ」
「そんなことは絶対に起りません。こちらは変装しますから」
「どうも君は妙な思い違いをしているとしか考えられん。われわれ、すなわちわしも君も、やつが大した推察力の持ち主で、頭がいいことは骨身にしみて知っている。やつのずる賢さは類をみない態《てい》のものだ。それでも、やつが君の罠をまんまとかわしてしまうとは思わないのかね?」
「ぼくは思い違いなどしてはいません。もちろんメイがこっちの手を見破るのは百も承知です」
「よかろう。それで……」
「だからこう思ったのです。釈放されれば、最初のうちは突然の自由にかえってとまどうでしょう。でも、金はもっていませんし、職もないのです。どうして生きてゆけばいいのか。とにかく、食っていかねばなりません。しばらくの間は空腹と闘うでしょう。しかしいずれは疲れ果て、やがて友人に助けを求めます。その機会を待つのです」
「もし君をまいて、姿をくらましたらどうする?」
「そんなことが起らないよう万全を期します。命にかけてもやりとおします」
じっと考え込んだのち、判事はやっと口を開いた。
「ルコック君。君の考えに賛成するよ。わたしは起きなければならない。(この情景は、判事の自宅で行われていた。セグミュレ氏は床についていた。事件が余りにも複雑怪奇であったがため、心労のあまり病床に倒れたのだった。)君と一緒に裁判所に行こう。わたしは検事総長にお会いする。そして充分に納得がゆくように説明し、君の希望が通るように努力しよう。そこで君に訊ねるが、警察側がグルだとわからぬように囚人を逃がす方法があるかね?」
「それは考えてもみませんでした。それに、どうだっていいじゃありませんか。あいつは、自分が厳重に警戒されていることを重々承知している。ぼくが巧妙に逃亡のチャンスを演出したところで、それが巧妙であればかえって、こっちが陰で動いていることに気づいて、罠をすり抜けちまいます。もっとも確実な方法は、変に策を弄さずにただ逃がすことです」
「もちろん、それなりの理由はあるのだろうね?」
「ただひとつ、これだけは欠かせないという配慮が必要です。ぼくが思うに、それこそ、この作戦の成否を振る鍵になるでしょう」
「というと?」
「メイを他の監獄に移す手続きをとるのです。どこの監獄でもかまいませんが」
「なぜ、そうしなければならない?」
「脱走に先立つ数日間メイを外部から遮断して、交信が出来ないようにするのです」
「では君は、監獄の警備が杜撰《ずさん》だとでもいうのか?」
「いいえ、そういうつもりではありません。例の秘密通信の事件以来、看守長は警備体制をいっそう厳しくしたと見受けられるほどです。しかし、殺人容疑者のほうもずば抜けて利口ですし、わたしたちは、その証拠をいやというほど見せつけられています。その上に……」
次の言葉を口にするまえに、ルコックはちょっと考え込んだ。
「その上に、どうしたんだ?」判事が興味をそそられ返事を迫った。
「ぼくは率直にお話します。ジェヴロールは、監獄で自由すぎるほど何でもできるのです。ぼくはジェヴロールを信用していません」
「君、ルコック君……」
「もちろん、これははっきりした根拠があってのこととはいえません。でも、ジェヴロールはどうも危なっかしく思えてならないのです。囚人は、ぼくが屋根裏部屋にいたことも、秘密の通信文を受取ったことも知っています。これは、ぼくのにせ通信文を受取った囚人の態度を見ればわかることです」
「まあ、しかし、君……」
「どうやって囚人は知ることができたのでしょう。どう考えてみても最初からお見通しだったとは思えません。だが、ジェヴロールがよけいなちょっかいを出したのだとすれば、すべての説明がつきます」
セグミュレ氏はルコックの推測に顔を青くして怒り出した。
「もし、そうとわかっていたら……、だが何か証拠があるかね?」
ルコックはうなずいた。
「必要とあれば、数えきれぬ証拠を集めることもできるでしょう。ただそいつを公にしたものかどうか、迷わずにはいられないでしょうね。まかりまちがえば自分の将来をフイにすることにもなりかねません。それに、どんな職業にも、競争者や反対者はつきものではないでしょうか?」
このひとことが、すべてを雄弁に言い尽くしている。
数刻ののち、セグミュレ氏とルコックが馬車に乗ろうとしていると、大家《たいけ》の召使といった身なりの男が二人に近づいて来た。
「おや、ジャンじゃないか」と、判事が声をかけた。「ご主人の容態はどうだな」
「おかげさまでだんだんよくなって来ています。主人の命令であなた様のおかげんをうかがい、事件がどうなっているか訊ねて来いと申しつかりまして……」
「先日手紙を差し上げたが、その後は格別のこともないよ。くれぐれもよろしく申し上げてくれ。わたしも病気がよくなり、このとおり外出ができるようになったとお伝えしておいてくれ」
召使は丁寧に頭をさげた。ルコックは判事の傍に腰をおろした。馬車が走りだした。召使のことはセグミュレ氏が説明してくれた。
「あれは、デスコルヴァル家の召使だ」
「すると、判事の……」
「そうだ。二、三日ごとにあの召使をわたしのもとによこして、メイの取調べがどうなったか訊いて来る」
「デスコルヴァル氏はまだこの事件に興味をもっておられるのですね?」
「大変なご執心さ。もっとも、この事件を担当されていたのだからね。わたしの調査ぶりを残念がっておられるのだろう。自分ならもっとうまくやれるのに、と思っておられるのかも知れないな。だが、できることなら、わたしのほうで代わってもらいたいぐらいのものさ」
しかしルコックは代わってもらいたくないと思った。
ルコックの計画はその日のうちに、細かい打合せとか決行の日を除いて、原則的に採用と決まった。
それ以来セグミュレ氏としては、じっと待っているほかすることはなくなった。復活祭のバカンスに入っていたので、田舎にいる家族のもとに行ってしばしの休息をとることができた。
パリにもどると、判事はヴァカンスの最後の日である日曜日を自宅でくつろいですごした。そこへ一人の男が訪問してきた。暇をとった召使の後釜《あとがま》としてやってきたのだ。四十歳くらいの、赤ら顔で、ふさふさした髪をもち焦茶色の頬ひげに覆われた、どちらかといえば身体の大きな男だった。いかにも肉付きのよい、頑丈そうな体つきが、服をとおして見えるようだった。ノルマンディの田舎ことばで、二十五年前から、学者とか医者とか公証人といった人たちにばかり仕えて来たと自慢した。こうして男がさんざ自分を巧みに売り込むので、判事は身上調査の照会のため、採用するかどうかの返事を二十四時間後に与えることにした。そして、とりあえずの心付けのつもりで、ポケットからルイ金貨をとり出して男にさし出した。するとその男の態度がガラリと変り、大声で笑い出した。
「これなら、メイもぼくだとわからないでしょう」
「やあ、ルコック君か」判事は真底びっくりしていた。
「まさしくルコックです。実はこうしてうかがったのは、メイを訊問するための召喚をお望みでしたら、彼を逃亡させるための手だては完了しておりますことを、ご報告したかったからです。もしよろしければ、明日にでも決行することにします」
九時になると、パリ警視庁の付近を、パリの街なかでよく見かける年寄りの浮浪者が徘徊していた。青ざめた顔、憔悴《しょうすい》した眼、やぶにらみで、無精ひげを生やしている。
その日は四月十四日であった。天気はよく、空気は肌に心地よい。そのごろつきはオルロージュ河岸を行ったり来たりしていた。ときどき道路を横切って、眼鏡をかけ長いあごひげを生やし、絹手袋をした人品いやしからぬ紳士と、何かふたことみこと言葉をかわしている。この紳士のほうは年金生活者風で、眼鏡屋の飾窓を熱心にのぞいていた。
この二人の人物は、もちろん、ルコックとアブサントおやじであった。どんな成り行きになるともわからぬ冒険にそなえ、武器をたずさえて、万般の準備におこたりなかった。
正午ごろになって、囚人馬車がけたたましい音をたてて走って来て、裁判所のアーチの下をくぐって消えた。馬車は十五分間、中庭で待っていた。ふたたび馬車が姿を現わすと、御者は裁判所の建物にそって路上で車を停め、馬の背に覆いをかけ、パイプに火をつけるとそのまま立ち去った。
しばらくの間なにごとも起らなかった。しかしやがて馬車の扉が時間をかけてゆっくりと開き、不安そうな青ざめた顔がのぞいた。メイの顔だった。囚人はあたりをそっとうかがった。誰も通る者がいなかった。するとメイは地上に飛びおり、扉をそっと閉め、両替橋の方向に歩きはじめた。
ルコックとアブサントおやじは二手に分れてあとに続いた。
メイの服装と態度には、脱獄囚のイメージがひとかけらも見受けられなかった。例のトランク――マリアンブール・ホテルに置いてあると本人が主張していたトランクのことだが――それが手もとに届けられてからというもの、予審判事のもとへ呼ばれて行くたびに、いちばん上等の服装に着換えるのが常だった。今日の服装はフロックコートにチョッキ、黒いラシャのズボンという具合だった。知らぬ人が見たら、一張羅《いっちょうら》でめかし込んだ労働者と見えるにちがいない。
メイは、サン・ジャック街まで来ると古着屋に入った。
「わかったぞ」アブサントおやじが、近づいて来たルコックの耳もとでささやいた。「あいつは、着ている服を売って安い服を買い、差額を手に入れようとしているんだ。なんとか現金をつかみたい苦肉の策だね。そういえば君は、メイは金をもっていないからこの尾行計画は成功すると言っていたね」
「まあ、待て」と、ルコックが言った。
しかし内心ではひそかに、自分自身に悪態をついていた。またしても、とんだヘマをやった。敵のやりたい放題のことを、指をくわえて眺めているほかないのだ。しかしその思いも、メイが店から出て来るのを一目見て杞憂にすぎなかったことを知り、ルコックは胸をなでおろした。店から出て来たメイは、入って行った時と同じ服を着ている。囚人は通りへ一歩踏み出すやよろめいた。絶望にうちひしがれ、目的が挫折したことがありありとわかった。古着屋でどんなことがあったか、ルコックはそれが無性に知りたかった。
そこでルコックは口笛を吹いた。あらかじめアブサントおやじと打合せが出来ていた。メイの尾行から離脱する場合の合図だった。従って尾行はアブサントおやじひとりになる。アブサントおやじは了解を口笛で答えた。ルコックは古着屋に入ると警察の肩書のある名刺を示し、単刀直入に質問に入った。
「いまここから出て行った男のことだが、どんなことがあったんです?」
古着屋の主人は、相手が警察官だと知っていささか困惑した。
「ちょっと因縁めいたことのあるお客なのですよ」
「話してください。その因縁めいた客のことを」と、ルコックは相手の困惑ぶりをいぶかりながら訊ねた。
「十二日ほど前なんですがね。小脇に包みをかかえた男が店に入って来て、同郷のよしみでひと肌脱いでくれと言うんですよ。わたしはアルザス人です。そいつが、持参した包みを従弟がとりに来るまで、わたしの店で保管しておいてくれと頼むんです。間違いのないように合言葉を言うから、迷惑をかけることはないというんです。でもわたしはきっぱり断わりましたよ。どうもまともでないように思えたんでね。それでもしつこくねばりましてね。でも、わたしは断わり続けました。するとやっこさん、腹を立てちまって、それも大変なおかんむりで出て行きましたな。ところがついさっき、これまた風変わりな旦那がやって来ました。例の従弟だと名のるんです。合言葉を言って包みを要求するんです。わたしが何もあずかっていないと答えると、リンネルのように顔を白くして、今度は着ている服を買ってくれという始末。しかし、わたしはこれも断わりました」
「その二週間前にやって来たというのは、どんな男でしたか?」
「肥った赤ら顔の男で、頬ひげを生やしていましたよ。会えば一目でわかります」
「例の共犯の男だ! ありがとう。ぼくは急いでいるんでね」
ルコックは古着屋に五分といなかった。しかし外に出てみると、メイとアブサントおやじの姿は見当らなかった。こうした成行きは当然予想されていたことだった。二人のうちどちらかが尾行から離れるような場合、あとに残った者のために、一定の距離を置いて壁なり店の扉なりに、白墨で矢じるしをつけて行先を明示しておくことになっている。
ルコックはショウ・ウィンドウの白墨の矢じるしをさがし、その矢じるしに従って進めばよかった。こうして、オデオン座のところまで来ると、そこでアブサントおやじを見つけた。
「おい、メイはどうした?」心配そうにルコックが訊いた。
「あそこだ」アブサントは視線を人気のない建物の柱列のあたりに送った。
じじつ、メイは石段に腰をおろし頭をかかえていた。そのせいで顔は隠れてわからなかったが、絶望に打ちのめされていることは誰の目にもわかった。疑いもなくこのときメイは、尾行されていることに気がついていたのだ。この、心の底では賛嘆せずにいられぬ男を、ルコックは長い間じっとだまって見守っていた。希望を失い、打ちひしがれている様子を見とどけておいて、アブサントおやじのところにもどって来た。
「ここまで来る間に、あいつは何をしたかね」
「古着屋に五軒ほど入ったが、どれも巧くいかなかった。途中、路上で古着をかついだ行きずりの屑屋にまで声をかけたが、相手は返事もしないで行ってしまった」
メイはのっそりと立ちあがった。ルコックのいるところから十歩と離れていなかったから、その様子をありありと見てとることができた。不幸な男は青白い顔色も冴えず、その風采が男の落胆ぶりを物語っていた。その目つきは、何かを決めかねているようだった。しかし、すぐに無気力を身体から振りおとし、まるで自分の不運に立ち向い、挑戦するかのような身ぶりをすると、オデオン座の石の階段を降り、広場を横切り、ラアンシエン・コメディ通りに入った。今や足どりも元気づき、目的をもった男のようになった。
「どこへ行くのかね?」アブサントおやじがつぶやいた。
「おおかた見当はついているんだ。ここでひとまずおさらばしよう。ぼくのほうは、やっこさんより一足先きに先回りをさせてもらうよ。といっても、ぼくの勘がはずれるってこともあるからね。おやじさんは例の矢じるしを残して尾行を続けてくれないか。ぼくは自分の考えどおり、マリアンブール・ホテルに先回りするが、ぼくの考えがまちがっていることが確認され次第、ここにもどって、矢じるしを追うことにする」
折りしも空の辻馬車が並み足で近づいて来た。ルコックは馬車に飛び乗ると、御者に大急ぎで北停車場に行くように命じた。目的地に着くや、まだ馬車が止まりもしないうちに飛びおりた。そして、一目散に例のホテルへ飛び込んだ。前に訪問したときと同じように、金髪の女将のマダム・ミルナーがいた。女将はこの前と同じように、むくどりの鳥籠の前に椅子をもって来て坐っていた。ホテルのなかに妙な風態の男が入って来るのを見ても、美しい女主人は腰をあげさえしない。
「何のご用?」
ルコックは出来るだけ下手《したで》に出た。
「わたしはパリ裁判所の職員の甥にあたる者です。伯父から代理でこちらにうかがうよう仕事を言いつかったのです。あいにくなことに伯父は、リューマチで身体が思うようにならないため、こちらにこの手紙をとどけるように頼まれたわけです。即刻裁判所に出頭するようにとの予審判事からの召喚状です」
マダム・ミルナーは椅子から立ちあがった。手紙を読んだ。手紙の内容は、ルコックがしゃべったものと同じだった。
「外出の用意をしてすぐ出頭します」
ルコックは一歩さがって会釈すると、ホテルの建物を出て、サン・カンタン街の角の建てかけの建築物のかげに身をかくして待った。
やがて、念入りに化粧した女将が粋《いき》な姿を見せた。
女将の姿が見えなくなると、ルコックはその場所から飛び出し、疾風のようにマリアンブール・ホテルに飛び込んだ。バヴァリア人のボーイが女将のいない間の留守番だった。
女将の椅子にだらしなく身体を乗せ、足をのばして居眠りをしていた。
「おい、起きろ!」と、ルコックがさけんだ。
この声にフリッツはびっくりして立ち上がった。
「おれは警視庁の刑事だ。これがおれの身分証明書だ。おれの言うとおりにしろ」
けなげなボーイは全身をブルブルふるわせた。
「おっしゃるとおりにいたしますが、何をしたらいいんです?」
「いまここに一人の男がやって来る。黒っぽい服を着て長いひげを生やしているから一目でわかる。おれがこれから言うとおりのことをそいつに言うんだ。ひとことでもまちがえたら監獄にぶち込んでやるぞ」
「まちがえっこありませんよ。これでも、記憶のたしかなことでは人後に落ちないんだ」
ルコックの監獄にぶち込むぞという言葉に、ボーイはすっかりおびえていた。神さまに誓っておっしゃるとおりにいたしますと言った。こうなってはルコックの思うままだった。ルコックは、簡潔明瞭に言うべきせりふを教えたあと、つけ加えた。
「やつに気づかれないように見ていたいのだが、うまい隠れ場所はないか?」
フリッツはガラス戸を指した。
「あの事務室ならなかが暗いから、隠れるにはおあつらえ向きですよ。扉を少し開けておけば盗み見もできるし、話し声も聞こえます」
ルコックは事務室に身をかくした。するとすぐにホテルの入口の呼鈴が鳴り、お客がやって来たことを知らせた。メイだった。
「こちらの女将と話がしたいんだが?」
「女将といいますと?」
「あたしがここに来たとき、応対した女将のことだよ」
「あなたがお会いになりたいのは、マダム・ミルナーではありませんか。マダムはもうこの家にはいないのですよ。このホテルを売って、故郷のアルザスに帰られましたよ」
メイは床を踏み鳴らし、何か呪いの言葉を吐いた。
「あたしは女将に、金を払いもどしてもらいに来たんだ」メイはなおも言い張った。
「では、いまの主人を呼びましょうか?」
「新規の持主では埒《らち》があかないだろう」と、メイがわめいた。「じつは、部屋代をもどしてもらおうと思って来たのだ。予約金を払ったが、ここには一晩も泊まっちゃいない」
「それは駄目ですね。予約金の払い戻しは出来ないことになっています」
メイはすごい音を立ててドアを閉め、外に出ていった。
「いかがです、うまく応対したでしょう」と、フリッツが同意を求めるように言った。
「うん、ありがとう」ルコックは事務室から出ながら答えた。
彼は急いでメイのあとを追った。何かよくわからなかったが漠然とした心配に襲われた。容疑者はホテルへ現われる前に、誰かに警告を受けていたのではないかと、ピンと来たのだった。そのことに思い至ったルコックは、ラファエット街でアブサントおやじに接触すると、すぐにこの問題を質問した。
「ホテルに行く途中で、あいつは誰かと会ったか?」
「そう言えば、小ぎれいな女と会ったね。金髪で、肥った女だった」
「しまった!」と、ルコックがさけんだ。「ついていないな! ぼくはやつより先にマダム・ミルナーに会い、メイと会わせないように工作したのに、二人は途中で会っていたのだ」
自称旅芸人はモンマルトル通りに入った。二人の刑事は、雑踏の中でメイを見失うことを怖れ、近づいて尾行を続けた。
「ミルナーという女を拘留して、厳しく訊問してみたらどうかな」アブサントおやじが言った。
「そんなことをして何になる! セミュグレ氏が前にもあの女将を質問攻めにしたが、何ひとつ得るところはなかったじゃないか」
「ちくしょう。こうなったら、あいつをもう一度ぶち込むほかないぜ」
「成果は期待できないね。絶対に駄目さ。しかし、ぼくはどうでもやつらの秘密が知りたいのだ」
そのときメイはタバコ屋に入り、葉巻をくわえて出て来た。
マリアンブール・ホテルの女主人はメイに金を与えたのだ。これは葉巻を買ったことで決定的となった。しかし、尾行の目をくらますことまで打ち合わせていたのだろうか? その点については、容疑者のふるまいからしてその可能性も大いにありうる、という程度のことしか言えない。何しろメイは一度ならず、ああやって態度をがらりと変えているのだ。だいたいついさっきまでは、尾行されているかも知れないなどという懸念はまるで眼中にないかのような様子だったくせに、今はまた、不安そうで落着きを失っている。今やメイは建物にへばりつくようにしながら、伏目がちに歩き、ともすればその角々に隠れるようにしながら、なんとか人目を引かぬようにと苦心している。
メイは並木通りを歩いてヴァンドーム広場に出た。それから広場を横切りタンプル街に入ったところで、ルコックとアブサントおやじは彼が足をとめるのを見た。
店の前を通る人間は、誰も彼もがいいカモだと決め込んでいるかのような、売子たちの呼びかける声に応えて立ちどまったのだ。メイに声をかけた店の女将は、しきりに品物を突きつけて口説いていた。メイは、初めのうちこそ弱々し気に首を横にふっていたものの、とうとう店の中へ入って行った。
メイは服装を変えて姿を現わした。青色の木綿のだぶだぶのズボンをはき、黒い毛の作業服を着ている。格子縞のネッカチーフを首に巻きつけ、ソフト帽を粋《いき》に横っちょにかぶっている。変装したことがだいぶ得意らしい。しかし、今まで着ていた服は売らなかった。小脇に包みをかかえているが、それが服の包みだった。そうすると服を買っただけで交換したのではなかった。古着屋に残してきたのは山高帽子くらいのものである。
ルコックは、できれば古着屋へ行って女将に訊ねてみたかった。だがメイは帽子の位置を直すとタンプル街へと逃げ込もうとしている。いよいよ本格的な追跡戦の始まりだ。
メイはイギリスとドイツに住んだことがあるはずだったが、パリの街の様子もじつによく知っていた。彼はタンプル街とボーブール街の間のグラヴィリエ街に足を向けた。ここは街とは名ばかりで小さく入りくんだ路地がみごとに網の目のように交錯している。よほど地の理に詳しいものでなければ、通り抜けることが困難な場所だった。メイはこの界隈《かいわい》のことを、すみからすみまで熟知しているらしかった。裏表に出入口のある建物、どこかの中庭へ入って行ける路地、いろいろな大通りへ抜けることのできる曲りくねった長い通路に精通していた。
やがて迷路を踏破したメイはグラヴィリエ街に出た。それからは広い表通りを歩き続けた。セバストポール・ブールヴァールに来るとセーヌ河に沿って左に曲り、猛然と走り出した。すさまじい勢いで駆けた。ふりかえりもしないで駆けた。一歩たりとも速度をゆるめずにもう一度セバストポール・ブールヴァールにもどり、シャトレ広場を横切って橋をいくつか渡り、もとのサン・ミシェル・ブールヴァールに出た。
クリュニイ博物館の前に辻馬車がたむろしていた。メイは先頭の馬車に飛び乗った。辻馬車は全速力で走り出した。
しかしメイは辻馬車に乗っていなかった。通り抜けただけだった。たんまり金を受取った御者は、客のいない馬車を発進させたのだ。メイは向う側の舗道に飛び降り、もうひとつの馬車に飛び移った。メイを乗せた馬車は猛スピードで走り出した。追跡をまく策略のつもりなのだろう。彼はこれで完全に自由の身になったと信じたに違いない。しかし、この策略はじつは効を奏していなかったのだ。その辻馬車の後から走ってくる男がいた。ルコックだった。
アブサントおやじは、かわいそうに裁判所の前で力つきて倒れてしまった。けれどルコックは自分のことだけでいっぱいで、そのありさまを見る余裕もなかった。
メイは御者にイタリー広場に行けと命じていた。広場の中央、駐屯所から少し離れたところで馬車をとめるように言いつけた。そのなかの留置場にはかつてシュパン女将とともに拘留されたこともあった。馬車が広場に着くとメイは大急ぎで降り、あたりをキョロキョロ眺めまわした。だが何にも異常は認められなかった。ルコックは突然馬車が停まったのでびっくりしたが、それでも素早い動作で馬車の下に身を隠した。
すっかり安心したのか、メイは御者に金を払うとムーフェタール街のほうにもどりはじめた。ルコックは馬車の下から這い出ると立ちあがった。そして並木通りの樹影の下まで来ると、彼の耳に押し殺した口笛が聞こえた。
「アブサントのおやじさんじゃないか」ルコックはびっくりすると同時に、相棒の元気な姿を見て胸をなでおろした。
「そう、まさしくわしだ」アブサントが答えた。「あそこで倒れているところを辻馬車に拾われてね。おかげでもうすっかり元気をとりもどしたというわけだ」
メイは、ためらってでもいる風に、その界隈に立ちならぶ居酒屋のまわりをうろついた。何かしきりに捜しているような気配がうかがわれた。居酒屋を三軒ばかりのぞいて歩いたが、とうとう四軒目の店に入った。入口の扉が開けっぱなしだったので、ルコックとアブサントは、ガラスドア越しになかをのぞくことができた。メイは部屋を突っ切って一番奥のテーブルに坐った。そのテーブルには先客がいた。がっしりした体格の赤ら顔の男で、灰色がかった頬ひげを生やしている。
「あいつだ。共犯の男だ」と、アブサントが絶句した。
それを聞いてルコックは万に一つもまちがいないという確信をもった。ここでメイと共犯の男が会うことができたのは、マリアンブール・ホテルの女将と偶然会ったとき、打合せをしたのではなかったのか?
(メイは)と、ルコックは考えた。(マダム・ミルナーと出会い、その持合わせの金をそっくり手に入れた。それと同時に、居酒屋に共犯の男が来るようにと頼んだのだ。表でさんざん迷っていたのも、居酒屋の名前まで指定することが出来なかったからだ。メイが正体を見せなかったのは尾行をまいたという確信が持てなかったからで、共犯者は共犯者で、マダム・ミルナーが尾行されやしないかと恐れていたのにちがいない)
共犯の男(それが例の人物と同一人に違いないとすれば)は、ついに変装の必要を感じるに至ったというわけなのだろう。汚れた仕事着《ブルース》を着て、フェルト帽をかぶっている。自信に満ちているというには程遠いが、その顔つきを見ると、こんな店にふさわしい他のいかがわし気な人相のただ中で、かなり人目をひかずにはいなかった。
そのことよりも意外だったのは、ルコックがメイを上流社会の紳士と考えているにもかかわらず、この居酒屋でまるでくつろぎ切った様子を見せていることだった。
「ぼくは入ってみるよ」ルコックがきっぱり言った。「あいつらに近いところにすわって話を聞いてやるんだ」
「もし見破られたらどうする?」アブサントが心配そうに訊いた。
「わかるものか」
「わかればひどい目に会うぞ」
「やつらがぼくを追い払うためには刃物三昧も辞さないだろうぐらいのことは、百も承知さ」
ルコックは扉を押し開け、お目当ての二人が坐っている傍に腰をおろし、ひどくしわがれた声で酒と食事を注文した。メイとフェルト帽の男はなにやらしゃべっている。しかし二人とも|ふり《ヽヽ》の客同士の会話をよそおい、下級社会のスラングでやりとりしている。
フェルト帽の男は、フランスの監獄内の事情を詳しく話している。ルコックは急いで食事をすますとブランデーを注文した。壁にもたれかかり、居眠りした風を装い、聞き耳をたてている。メイがしゃべる番になった。判事に話したとおり、殺人容疑者となり、逃亡するまでの顛末が話の内容だった。上流社会の人間だと思われ、さかんに追求されたことを説明し、じつにばかばかしいことだと笑った。
メイはフェルト帽の男に、そんな目に会いはしたものの、ドイツに帰れさえしたらこれほど自分の運命を呪う気はないのだが、と言った。ところが肝心の旅費がないのだ。服を売ろうとしたがどの古着屋も買ってくれない。そんなわけで服を包みにして持って歩いている。するとフェルト帽の男は、近所に心やすい古着屋を知っているから紹介してもよい。うまく持ちかければ、相当に高価な現金で買ってくれるはずだという。メイはその申し出を受け、その家に連れて行ってくれと頼んだ。二人は連れだって居酒屋を出た。ルコックはそのあとを追った。二人はフェラア・ムーラン街まで歩き、入口のせまい暗い路地に入った。
「駆けろ」二人が姿を消した家を指して、ルコックはアブサントおやじに向ってどなった。「管理人に、この家は通り抜けができるかどうか急いで訊くのだ」
「ムーフタール街に面したこの出入口しかないそうだ」
「しまった、勘づかれたらしい」ルコックが顔色を変えた。「賭けてもいい! メイがぼくを見破ったか、ホテルのボーイが共犯者に内通したかどちらかだ」
ところが案に相違して、メイとフェルト帽の男は廊下の暗がりから姿を現わした。メイは二十スー貨を何枚か手のひらに乗せてもて遊んでいた。しかし、ひどく不機嫌そうだった。
「泥棒みたいなやつだ。まるで臓物《けいず》買いだ!」と、メイが吐き出すように言った。
しかしフェルト帽の男の親切に報いることは忘れなかった。メイが一杯差し上げたいと申し入れた。二人は飲屋の敷居をまたいだ。一時間以上もそこでおごり合ってから、もう一軒別の近くの居酒屋の戸口をまたいだ。その店が閉店になると、近所のまだ店を開けている居酒屋にころげ込んだ。そこを追い出されると次の店というわけで、サン・ミシェル広場に着いたときは午前一時になっていた。さすがに開いている店は一軒もなかった。
二人の男はちょっと立ちどまって相談してから、サン・ジェルマン大通りを、腕を組んで歩いた。酔いがまわったとみえて、足どりもおぼつかなかった。ふらふらとからみ合い、手ぶりをまじえて大声ではなしあった。見とがめられる危険を冒して、ルコックは二人の先まわりまでして、その話の中身を聞きとろうとした。「一か八かの大勝負だ」とか、「女と遊べるだけの金」などと、しゃべる声が聞えてきた。あれほどシケ込んでいた二人がこんなに陽気になるとは、よっぽど確たる|めど《ヽヽ》があるにちがいない。
「これじゃますます、お先まっ暗だぜ」と、アブサントおやじがぼやいた。
「心配しなさんなって!」ルコックが答えた。「そりゃ正直いって、あのしたたかなご連中のやっていることは、何が何だかさっぱりぼくにもわからんさ。だが、見たまえ、ああして二人は完全につるんじまってるじゃないか。今度こそ、やりそこなうなんてことはないよ。ああしていればたとえ一人を逃がしても、あとの一人は必ずこっちのものにできる」
二人の酔っぱらいの足どりは、遅々として進まない。サン・ジェルマンに立並ぶ家々を一軒々々調べている様子だった。どうやら、何か悪い仕事でもしようと相談しているように見えた。ラ・シェーズと眼と鼻のヴァレンヌ街で、広大な庭園を取囲む低い塀の前で足を停めた。フェルト帽のほうは、手ぶりをまじえて何か説明しているらしい。どうやらこの庭園は、こちら側は塀をめぐらしているだけで、母屋はグルネル街にあるようだ。
「いつまで、ばかばかしいお芝居をしているんだ」と、ルコックがぼやいた。
ところがメイは塀を登るつもりらしい。フェルト幅の男に尻を押してもらって、塀の上まで登った。次に、庭園のなかに飛び降りる音をルコックは聞いた。フェルト帽の男はそのまま残って通りの様子をうかがった。
男との距離をはかって、ルコックは猛然と襲いかかった。フェルト帽の男は何かさけび声をあげそうになった。しかしルコックが鉄のような腕力で咽喉をしめあげたので声にならなかった。腰のあたりを膝頭で一撃すると、男は地上にくずおれた。男は息を吹きかえす間もなくしばりあげられ、半ば失神したようになったままラ・シェーズ街まで運ばれた。
「なんてこったい!」アブサントおやじはルコックに手を貸すことも忘れ、ただ呆然としていた。
「そんなことはどうでもいい」ルコックは相手を制した。「おしゃべりは明日だ。それよりも、一刻も早くメイを追っかけなければならない。おやじさんはこの塀のところで厳重に見張っていてくれ。メイが姿を現わしたら逮捕しろ。逃がすなよ」
「わかったよ。しかし、この倒れたやつをどうする?」
「そのまま放っておけ。夜警が間もなく来るだろうから、そいつに引き渡せばいい」
会話はそこでとぎれた。グルネル街のほうから歩調をとった重い靴音が聞こえ、こちらに近づいて来たからだ。
「やあ。夜警が来るぜ」と、アブサントおやじが闇をすかした。
「ぼくが言ったとおりだろう。大助かりだ」
巡査が二人、こっちを怪しい人影とでも思ったのか、駆け足でやって来た。ルコックは手短に事情を説明した。二人の巡査のうち一人が、警察署に捕虜を連れてもどることになった。もう一人の巡査は、アブサントおやじと一緒に、メイが姿を見せたら逮捕しようと塀のところで警戒の目を光らせた。
「ぼくは念のためグルネル街のほうに行ってみるよ。ところで、この塀のなかの庭園はだれの邸宅なのだろう」
「おや、知らないのかい?」と、警戒に残った警官がびっくりした顔をした。「セルムーズ公爵のお屋敷だよ。何千万フランという財産家の有名人さ。以前は……」
「知ってる知ってる」と、ルコックは言った。
「盗っ人め、ヤキが回ったんじゃないかな。今夜はパーティのある日でね。毎週月曜日がそうなんだ。きっとまだ誰も床になど入っちゃいないはずだ」
「そういえば」もう一人の、囚人を護送しようとしているほうの巡査が言った。「まだ、お客も全部は帰っちゃいない。門のところに、五、六台、馬車が待っていたよ」
ルコックは矢のような勢いで走り出した。たった今教えられた事実のために、さすがのルコックもこれまでになく頭が混乱していた。ただ言えることは、メイがこの邸宅に飛び込んだのは盗みが目的ではなくして、追跡者から逃がれようとしていたということだ。今晩はパーティが催されている。人の出入りも多い。やつはその混雑にまぎれて、グルネル街から逃走しようとしているのではないか。
ルコックはセルムーズ公爵邸の表門に回った。あたりは真昼のような灯りで煌々と明るかった。ちょうど最後の馬車が帰って行ったので、灯りを消そうとして召使たちがてんでに梯子《はしご》を持ち出して来たところだった。そしてみるからに頑丈そうな身体つきの門衛のスイス人が、大戸を閉めにやって来た。ルコックはその門衛に近づいた。
「セルムーズ公爵のお屋敷ですね」ルコックが訊ねた。
スイス人はルコックの風体をうさんくさそうに見ながら、ぞんざいな口調で言った。
「早く行っちまえよ。下手な冗談に付き合ってるひまはないんだ」
ルコックは、ポリット・シュパンを真似て遊び人風に変装していることを忘れていた。
「ぼくは決していかがわしい者ではない。パリ警視庁に勤務するルコックという者だ。これが身分証明書だ。じつは兇悪犯を追っていたのだが、そいつが塀を乗り込えてセルムーズ邸の庭園に姿を消したのだ」
「兇悪犯?」
ルコックは、ちょっと大げさに言いすぎたかと後悔したが、いまさら訂正するのも沽券《こけん》にかかわるような気がした。
「そうだ。兇悪犯だ。冷酷無残な悪人だ。三人も人を殺したやつだ。そいつの仲間が塀を乗り越える手伝いをしたのだ。このほうは捕縛したがね」
スイス人の顔はみるみる青くなった。
「ともかく、人を呼びましょう」
「いやちょっと待て、そいつがこの建物を通り抜けて、この門から逃げた可能性はないかね?だとすればどこか遠くへ逃げ去ってしまっただろうから」
「出来っこありませんよ! 庭園から建物に入ることはできません。どこも厳重に鍵がかかっていますから」
「もしそうであればまことに有難いと思うが。よかろう。ぼくたちの手でやつを見つけることができるだろう。使用人たちにそのことを伝えておいてくれ」
しかし結果は徒労に終った。庭園をくまなく捜したが、犬の子一匹見つけ出すことはできなかった。
「殺人犯は、塀を乗り越えて侵入したと同じ方法で逃亡したのでしょう」どっしりした火打石式ピストルをいつでも発射できるように身がまえていたスイス人が、肩をすくめた。
ルコックはアブサントおやじと塀越しに連絡をとり、スイス人の間違いを証明した。フェルト帽の男を留置所に護送してもどっていた二人の巡回警官も、アブサントおやじと同様、誰も見かけなかったと返事してよこしたのだ。これまでのところ、ルコックたちの捜査はいささか行き当りばったりのきらいがなくもなかった。もっと系統だった調査方法をとらねばならないことを認めざるを得なかった。
ルコックはそこで、どんな暗がりもしらみつぶしに探すことにして、協力者たちにそれぞれの持ち場を割当てた。その最中にもう一人の男が現われた。威厳があり、小ざっぱりと身ぎれいな風采の男だった。
「執事のオットーさんですよ」スイス人の守衛がルコックの耳にささやいた。
このもったいぶった男は、公爵さまが――彼は『閣下』とは言わなかった――突然何の騒ぎが起ったのかお知りになりたくて自分をお遣わしになったのだと言った。ルコックの労をねぎらったばかりか、邸内のすみずみまで納得のゆくまで捜査をしてくれてもよい、とまで言ってくれた。
殺人容疑者は依然として見つからなかった。これ以上探し回るのは、子供っぽい意地を張るにすぎない。ルコックは意を決すると、協力者たちに捜索を打ち切らせた。
「庭園には囚人がいないことがわかったから、今度は邸内を調べることにする」と、ルコックはスイス人の守衛にいった。「その前に、ヴァレンヌ街に仲間の警官がいるはずだから呼んでいただきたい。あそこでこれ以上見張っていても意味がないから」
アブサントおやじがやって来た。一階の屋外に出入りできるドアと扉はすべて鍵がかけられていた。蟻一匹も出入りできないことを確かめると、サン・ジェルマン大通りのなかでもっとも豪壮な邸宅であるセルムーズ邸の屋内を、片っぱしから厳重に調べはじめた。
中庭から納屋に至るまで見残した場所はひとつもなかった。ルコックは天窓から屋根のうえまでよじのぼり、とことん調べることまでした。二時間ほど必死の捜査を続けたあと彼は二階にあがった。そのころになると、彼のあとについて来る召使は五、六人になっていた。あとの召使は疲れたのか、あきたのか、どこかに姿を消していた。
「これで邸内くまなくお調べになりました」と、年かさの召使がいった。
「いや、全部ではありませんよ」横から口を出したのは例のスイス人だった。「まだ、公爵閣下と公爵夫人のお部屋が残っています」
「ああ、それなら見なくても結構だ」ルコックが遠慮した。
しかしそのときすでにスイス人が軽くドアをノックする音を響かせていた。この男の片意地なまでの頑張りも、ルコックといい勝負だった。ドアが開かれ、執事のオットーのいかめしく小ざっぱりした洗いたてのような顔がのぞき、召使をぐっとにらんだ。
「何か重大事でも起ったのか?」と、怒気を含んだ声でただした。
「閣下のお部屋に入れていただきたいのです」スイス人が答えた。「脱獄者が逃げ込んでいるか確めたいのです」
「おい、お前は気でも狂ったのか」と、執事が言った。「兇悪犯がお部屋に隠れているなどと、本気で思っているのか。公爵さまのお邪魔になるようなことはわしが許さんぞ。遅くまでお仕事をなさって、やっと今、床に入られたばかりだというのに」
スイス人は思わぬ叱責を受け、くやしそうな顔をした。
ルコックが無礼をわびると、部屋の奥からすずしげな声が聞こえて来た。
「オットー、警察の方の邪魔をしてはならんぞ」
「お許しが出たのであれば仕方がない。お入りなさい」
ルコックは部屋のなかに足を踏み入れた。図書室、事務室、喫煙室と続いていたが、それらの部屋は形式的に素通りしただけだった。寝室を通り抜けたとき、半開きのドアの隙間から、ルコックは大理石を敷きつめたまっ白な浴槽に入っているセルムーズ公爵を垣間見る光栄に浴した。
「犯人はまだ見つかりませんか?」公爵の快活な声が響いた。
「閣下、残念ですがまだです」と、若い警官は答えた。
「公爵夫人のお居間の検証だけは差しひかえていただきたい。女中たちとわたしとで、衣裳戸棚に至るまでくまなく調べましたのでね」
ルコックは、警官たちを引き連れて邸宅を出た。
ツキに見放された思いの青年は、一刻も早く独りになりたかった。メイは逃亡し、消失し、消息を絶ってしまった。そう考えるとルコックは気が狂いそうだった。逃げられる気遣いはないとあんな大見栄を切ったのに、その有り得べからざることが起ってしまったのだ。容疑者の頭のよさの裏をかいたつもりが、まんまと逃げられてしまったのだ。
通りを歩きながら、ルコックは一度だけ歩みをとめた。アブサントおやじと出会ったからだ。腕組みをして、言葉短かにいった。
「公爵邸の出来事をどう考える?」
アブサントは首を横にふり、無邪気に思うことを口にした。
「ジェヴロールが手を打って喜ぶよ」
その冷酷この上ない敵の名前を耳にすると、ルコックは飛び上がらんばかりにはっとした。
「ジェヴロールにまだ負けたわけではない。メイをとり逃がしたのはたしかに手落ちにはちがいないが、そのかわり共犯の男をつかまえたからね。いままで八方手を尽くして捕えることが出来なかった男だよ。神出鬼没なやつだった。メイのために献身的にじつによく働いた。しかしいかなやっこさんでも、懲役刑をちらつかされてまでメイへの忠節をつらぬき通すかどうか、怪しいものさ。やつが強情を張ればまず懲役は逃れられないからね。それに、家宅侵入|幇助《ほうじょ》の件もかぶらなければならんし。いずれ正式にセグミュレ氏が訊問して謎の解明をなさるだろう。署に行こう。とりあえずぼくが訊問してみたいんだ」
朝になっていた。六時ごろルコックとアブサントが警察署に着くと、署長が懸命に報告書をしたためていた。二人が名前を告げると署長はニコニコして立ちあがり、二人と握手した。
「まったく大変なお手柄だったな、昨夜の捕物は」
「お手柄ですって?」二人とも、刑事たちはびっくりした。
「君たちが送って来たやつのことだよ」
「えっ、なんですって?」
「君たちはじつに幸運だったよ。大変なチャンスにめぐまれたものだ。どっさり特別手当がもらえるよ」
「で? われわれが捕まえたのは何者なんです?」と、アブサントおやじが訊いた。
「大変な悪《わる》だよ。脱獄して三か月になる。警察では全力をあげて追跡していた。君たちのポケットに人相書が入っているはずだ。ジョゼフ・クーチュリエだよ!」
この名前を耳にするとルコックは顔色を変えた。誰かが急いで引き寄せてくれた椅子に、倒れ込まんいきおいで腰をおとした。
「ジョゼフ・クーチュリエだって。脱獄したジョゼフ・クーチュリエだなんて!」
警察署長はルコックの落胆もアブサントおやじの狼狽も理解できず、怪訝《けげん》な顔をした。
「まあ、いずれ大変な手柄をたてたということが実感として湧くよ。逮捕したことはたちまち世間の評判になるね。ジェヴロールが聞いたらくやしがるぜ。こいつを逮捕できる刑事は自分だけだと思っていたんだから」
とりかえしのつかない失策にがっくり来ているルコックには、これは手痛い皮肉だった。賞賛やお世辞を浴びせられれば浴びせられるほど、それらは鞭で打たれるように骨身にこたえ、新たな決意で心を燃え立たせた。
「お間違いではないのですか。おそらく、クーチュリエではないのでしょう」
「間違うものか。やつを探し出せという通達に出ていた人相書の特徴と、すべてが一致している。左手の小指が欠けているのが何よりの証拠だ」
「ああ、まさしくやつだ!」アブサントおやじが元気のない声を出した。
「そうだろうが? それにもっと確実な裏づけがあるんだよ。わたしはクーチュリエとは長い顔なじみなのさ」
ルコックは口調をかえた。
「あいつと会って二、三訊問したいのですが、許可していただけますか?」
「それはかまわない。しかしドアはがっちりふさいで、警官を二人立ち合わせるよ。やつにはさんざん煮湯をのまされているからね」
そのとおりの措置がとられると、フェルト帽の男は留置場から連れて来られた。微笑を口もとに浮かべてルコックの前に進み寄った。そいつは一目でルコックだと知った。
「ああ、あんたはわしを逮捕したひとだね。あのおみごとな膝げりと強烈なアッパーカットには、心から敬意を表させていただきたいですな」
「ぼくの質問に答えてくれるかね?」
「どんなことでも。これっぽっちもあんたを恨むつもりはないし、わしはあんたが気に入ったよ。で、どんなことを知りたいのかね?」
「君の仲間のことを教えてもらいたいのだ」
フェルト帽の男は、ルコックのこの質問に顔色を曇らせた。
「どうやら、質問の相手をまちがえているらしい」
「どうしてそう思う?」
「わしはあの男のことを少しも知らないんだ。昨日の晩はじめて会ったんだから」
「信じられないな。昨晩のことだってそうだ。初めて会った男同士のやることではない」
「本当なんだ。わしはじつに馬鹿なことをしたものだ。てっきり、あの男は警察関係のひとだとばかり思っていたもんで、つい手を貸しちまった。そう、わしは罠にはめられたんだ」
「お前は勘違いをしている。あいつは警察の者なんかじゃない。これは断言してもいいことだ」
クーチュリエは鋭い視線でルコックを見守った。
「わかった。あんたを信じることにしよう。昨晩どんなことが起ったか、何もかも話しちまおう。それを聞いたら、わしが早のみ込みをしたのも無理がないとわかってもらえると思う。ムウフタール街を上ったところの小料理屋で、わし一人で食事をとっていたら、わしのテーブルにあの男がひょっこり腰をかけた。わしらはおしゃべりをはじめた。あいつは服を売りたいのだが、どうしたらいいかわからないと言うんでな。そこでわしは知り合いの古着屋に連れてゆき、服を売ったんだ。あいつは何かお礼をしたいというので、一杯ぐらいならつきあってもいいと答えたのさ。わしはご馳走になったお礼に、今度はこっちからさそったりした。そんなわけで、最後の飲屋を出たのが真夜中ごろで、すっかり酔っぱらっちまった。ところがあいつが何か一仕事やろうと言いだして、二人で力を合わせてやればたっぷり金になると相談がまとまった。金持の家を物色して、銀器を盗もうということになったわけだ。
仕事はおれ一人でやる、君はおれが塀に登るのを助けてくれるだけでいい。塀の外で見張りをしてくれと、やつは言うんだな。そうすれば、われわれ二人で持ち切れないほど銀器を手に入れることが出来ると約束したんだ。そう言われちゃ、ついその気になっちまうってもんでしょうが。でも、こっちもすぐに乗ったわけじゃない。どうもまゆつばでクサいと思ってね。するとあいつは言うんだ。この家の習慣はよく知っている。月曜日ごとに大パーティが開かれる。召使は食器戸棚に鍵をかけない。……ちくしょう、やつの口車につい乗っちまったってわけだ」
ルコックの顔が赤くなった。
「お前が言ったことは事実だな」ルコックはせき込んで訊ねた。「あいつは、セルムーズ公爵邸では、月曜日ごとにパーティが開かれると言ったのだな?」
「そうなんで。やつが言わなきゃ、わしが知っているはずはないでしょうが! そう言えば、あんたが言った名前をやつもたしかに口にしていたっけ」
ある一つの考えがルコックの脳裡をよぎった。
(もしかすると、あいつは……。そうだ。メイとセルムーズとは同一人物かも知れない!……) しかし、ルコックは、そう考えるとすぐにそれを打ち消した。そんな風に考えること自体がどうかしていると思った。情況がこんなに単純明快なのに、何を好んでわざわざ途方もない妄想にしがみつこうというのか? メイと名のる囚人がもともと上流社会の人間なら、セルムーズ公爵家の習慣に通じていたところで何の不思議もないではないか。
ルコックはクーチュリエに礼を言った。
彼は署長と握手をすると、アブサントおやじに肩を支えられるようにして警察の建物から出た。
アブサントおやじは若い同僚のひどい落胆ぶりを気づかって訊いた。
「裁判所か、警視庁か、どちらへ行くつもりだ?」
ルコックはこの問いに身体をふるわせた。
「警視庁だって! 何をしに? ジェヴロールの皮肉を聞くためにか。もっとも、セグミュレ氏の前にのこのこ顔を出して、自分の間抜けぶりをうちあける勇気もないがね」
「ではどうする?」
「ああ、ぼくにはわからない」
ルコックはしばらく歩いたが、突然足をとめた。
「ぼくたちを救ってくれる人がいることを忘れていた。あの人ならわれわれが見落しているところも見抜き、ぼくたちのわからないことでもわかる人だ。教えを乞いに行こう」
パリ警視庁の二人の刑事は、ルコックのささやかな住居に行った。そこで彼らは変装を解き、一緒に腹ごしらえをしてからふたたび外出した。
二人はやがて、駅とは目と鼻のサン・ラザール通りに姿を現わした。そして、その界隈でも最も小ぎれいなアパルトマンの一つに入り、門番に訊いた。
「タバレ先生はおられますか?」
「家主さんですかね? ご病気です。痛風で寝込んでおられますよ」
刑事はお互いに顔を見合わせ、門番に背を向けると笑い出した。二階の部屋のドアにとりつけたベルを押したときにも、まだ笑いが口もとに残っていた。ごつい身体つきの小間使が応対に出て、床に伏せったままならお会いできると言った。
「でも、いま、お医者さまが診察をしていらっしゃいますので、お帰りになられるまでお待ちください」
そう断ってから、小間使は二人を立派な書斎に通した。
ルコックたちが相談に来たこの家の主人は、パリ警視庁のなかで犯罪について大変な炯眼《けいがん》の持ち主として名をはせている。
警視庁から事件捜査の依頼があれば喜んで参加し、そうすることを誇りとし、名誉とも思っている。
天才肌のそんな性格の男だから、どうしても敵をつくることになる。なにしろその業績たるや、凡庸な刑事が束になっても及ぶものではなかった。ジェヴロールに至っては、彼の名を聞いただけで痙攣《けいれん》を起しかねないほどだった。
ここジェルサレム街では、何か困ったことがあって、どうしていいかわからなくなると、『解明居士』に相談しよう、というのが常だった。それは日ごろの「何としてもそこを解明せねばならぬ」という口ぐせから、いつか人々がたてまつったニック・ネームだった。そして彼を知る者は誰もがその口から「解明せねばならぬ」と言われたら、必ずそのとおりになることを疑わなかった。
いったん事件の調査にたずさわると、彼の生活はたちまちあわただしくなった。しょっちゅう時ならぬ訪問にわずらわされた。しかし当人はそれらをもすべて、社交上の、いささかハメをはずした『友情』の現われだと称していた。そんなわけで、世間では彼を老いぼれた道楽者と言い、あるいは不良老年とも陰口をたたいた。門番でさえ彼の友人や隣人たちと同様に、すっかりそう思い込まされていた。こんな次第で、事情を知らぬ世間の人は誰一人、『解明居士』と『タバレ先生』なるものが実は同一人物だということを夢にも思わなかった。
医者が帰ると小間使がふたたび姿を現わした。
「お部屋にご案内いたします」
天蓋で蔽われた大きなベッドに偉大なる神託者、ジェルサレム街の『解明居士』にして、サン・ラザール街における『タバレ先生』が悠然と横たわっている。
二人の警官をみとめると、タバレ先生の眼がキラリと輝いた。
「やあ、ルコック君じゃないか。それに、アブサントおやじも一緒か。どうやら、まだこの老いぼれタバレのことを忘れないでいてくれたと見えるな」
「じつは、先生のご意見をうかがいにまいったのです。わたしども二人、ある被疑者に手玉にとられ途方に暮れています」
「いやはや、そんなに手強いやつか?」
ルコックは大きな溜息をついた。
すると、タバレ先生の顔付きががらりと変り、うらやましそうな表情を浮かべた。
「なんだって。えらく智恵のまわるやつとぶつかったので、元気を失ったというのだな。しかし、君たちがなげくのはまちがいだぞ。そうした強敵にぶつかることが出来たのはむしろ好い機会だと喜べ。すこぶるつきの大悪人は最近とんと姿を消してしまった。せいぜい二流三流の小悪党ばかりさ。本気で追い回すほどの値打ちもない小物ばかりが、わんさとあふれとるよ。ところで、君があつかっている犯人《ほし》は何をやったのだ?」
「男を三人殺したのです」と、アブサントおやじが口をはさんだ。
「ほうほう!」タバレ先生がうなずいた。
殺人者と聞いて、当世の小悪党どもへの認識を改める気になったらしい。
「で、現場はどこだ?」
「デブリイの傍の居酒屋です」
「わかった。シュパン後家の居酒屋にいたメイという男のことだろう。『ガゼット・デ・トリビュノオ』紙で読んだよ。それから、ファンフェルロ・レクルイユ探偵がわたしに会いに来て話していたが、そのメイという男の素性がわからないので君が途方に暮れているということだった。そうか、あの件は君の受持ちだったのか? なるほど、そういうことならわたしなりのちょっとしたヒントで、お役に立とうじゃないか」
タバレ先生の意見を聞くために、ルコックは詳細に捜査について述べなければならなかった。とくに新聞で公表されていない事実を含めて、この奇怪な事件の一部始終をルコックは熱を込めて語った。
彼が話している間、タバレ先生の表情が時々刻々とはげしく変化していった。そればかりか、ベッドのなかで身体を動かしさえした。ルコックの話があるところに来ると、手を打って喜び、相槌《あいづち》を打ち、聞きほれることもあった。
「ああ、わたしがその場にいたら」と、タバレ先生は時々つぶやくように言った。
ルコックの話が終ると先生はたいそう満足していた。
「じつにみごとにやってのけたものだ。とくに『やって来たのはプロシア兵だ』という言葉を捜査の出発点としたところなど、ルコック君、じつに見上げたものだ。君は事件を天使のようにみごとに扱った」
「ぼくを阿呆だとおっしゃらないのですか」
「とんでもない。君は実に有能な警官だよ。そのことを君はわたしに証明してみせた。君はこの老いさらばえた心臓に、久しぶりで活を入れてくれたよ。これで、いつでも安心して死ねるというものさ。立派な後継ぎがいるとわかったからね。ああ、あのジェヴロールめが君の足を引っぱりおったか。確かにあの男のやり方はそうとしか言えんな。しかし、やつは君の靴のヒモを結ぶ資格すらないやつさ。
だがね、その反面君が重大な過失を犯していることも事実だ。少なくとも三つはある。この事件を解決するためのチャンスが三回あったが、そのいずれのチャンスも君は逃がしてしまった。これはまちがいのない事実だ」
「そう言われましても、ぼくにはわかりませんが!」
「わからないかね、君。デスコルヴァル氏が馬車から降りるとき足をくじいたと君は知らされているが、そのことを君はどう考えるかね?」
「そう言われたので、ぼくはそのまま素直に信じたまでですよ……」
「つまり、あまりにも、いかにももっともらしいことなので、そのまま鵜呑《うの》みにしちまったのだろう」
「先生がわたしの立場にいたらどうお考えでした?」
「逆にとるよ。まあ一度は君と同じようにまちがえただろうね。だがわたしだったらいわゆる演繹法的推論というやつに身をゆだねてみるんだな」
タバレ先生の結論はあまりに意表をついていて、ルコックはとまどった。
「すると先生は、デスコルヴァル氏が馬車から落ちたというのは、つくりばなしと考えておられるのですね? 足はくじいていないというのですね?」
タバレ先生は急に厳格な顔つきになった。
「想像ではなく、わたしは断言するのだ」
「先生の説によれば、デスコルヴァル氏は傷など負っていないで、二か月間、自分の部屋に引きこもっていたということになります。あの方が最初の嘘を貫きとおすために、そんなに長く寝室にくすぶってなどいられますか?」
「むろん、それなりの理由があるからだ」
「無謀なことをしたものですね。何の目的があって、そんなばかばかしいことをしたのですか?」
タバレ先生は両手を上にあげた。
「どうしてだって! 君のせいだよ。わたしの帰納法の推理原則の後継者である君が、そのぐらいのことがわからないのか。この突飛な問題をわたしに提示したのは君なのだよ。よく考えてみたまえ。これしきの絵解きに助けがいるのかね? 君自身が予審判事だと仮定してみたまえ。そして事件が発生し、捜査を担当することになり、犯人を訊問することになる。その犯人はそれまで身分をうまく隠していたのだが、君は一目で相手の身分を見破った。そこまではいいが、見破った犯人の正体が君にとって一番の親友、あるいは不倶戴天の宿敵だったらどうするかね?」
「たしかに、ぼくが判事だったら苦しい立場に立たされるでしょうね。公務と私情との板ばさみですからね。予審判事として、その事件からおりるでしょうね」
「君だけが相手の素性を知っていた場合、その素性を公表するかね」
質問の内容は微妙な点を含み、答えるのは難しかった。
「ぼくならだまっています。そのために、判事としての職責から外れないように行動しますね」
タバレ先生はさかんに手をこすり合わせた。
「すると何ですか。先生のお考えでは、デスコルヴァル氏はメイの正体をご存知だとおっしゃるわけですか?」
タバレ先生は突然ベッドの上に坐った。
「ひとつ、その証拠というのをお目にかけようか。判事が足をくじいたのと、囚人が自殺をはかったのと、時を同じくして起ったのだ。単なる偶然の一致とでもいうのかね。わたしはそうは思わないぞ。わたしは君のように事件の捜査に従ったわけではないから、自分の目で確認してはいない。けれど、君がわたしにしてくれた話から、情景を再現することはできる。それをするから聞いてくれ。デスコルヴァル氏は、シュパンの居酒屋の検証だけで実地検証を終らせ、監獄に行き、自分からメイの入れられた独房を訪れている。二人の男は知り合いだったのだ。二人だけになる機会があったら、お互いにすべてをぶちまけ合い、今後の打合せもたぶんできたことだろう。しかし不幸にも二人だけではなかった。第三の人物がいたのだ。書記だよ。そのため何も話ができなかった。判事は、ありきたりの、さしさわりのない質問をしただけだった。囚人は困惑するばかりで、とどのつまり、まともな返事は一切しなかった。判事が独房を出てドアが閉じられると、デスコルヴァル氏は(自分が憎んでいる男を、いくらわたしでも公平に裁くことなどできはしない)と思ったのだ。判事は当惑のあまりどうすることもできなかった。そこで彼が出てくるのを待ちかまえていた君につかまると、話は明日にしてくれと、剣もほろろに追っ払ったわけさ。しかも、それから十五分後には判事は馬車から落ち、足をくじいている」
「すると、デスコルヴァル氏とメイはお互い仇敵同士なのでしょうか?」
「もちろんさ! ふたりが親密な友人なら、判事は足をくじくなどという芝居はしないし、囚人の方も自殺をしようとはしなかったはずだ。結果的には、他ならぬ君が囚人を救ったも同然だな。何せ、あの男は君のおかげで命をとりとめたんだ。メイにしてみれば、拘束服を着せられたため、夜の間はどうすることもできなかった。その夜の苦しみといったら筆舌に尽し難いものがあったろう。朝になって予審の取調べに引き出された時は、さぞかし猛り立って取調室へ突進したことだろうな。取調室では、判事の職分を鼻のさきにぶらさげたデスコルヴァル氏と顔を合わさなければならないはずだった。まさか、判事に飛びかかって行くつもりだったとまでは思わないが、少なくともこんなことは言うつもりがあったに違いない。(そうだ、そうだとも! このわたしが、たしかに三人の男を殺害したのだから、あとはあなたがわたしをどう料理しようが、それはあなたの勝手だ。だが、我々の間には死ぬまで消えぬ憎しみがある。だからこそあなたは、蛇の生殺しのようなやり方でわたしを苦しめるわけにはゆかんぞ。自分の有利な立場をいいことに、職権を濫用するようなまねをすれば、それこそ自分で自分を恥知らずの卑劣漢にしてしまうだけだからな)たぶん、これと同じことか、これに近いことを判事に言いたかったに違いない。少なくとも、君がくわしく話してくれたとおり、あの男の表情がこの上ない猛々しい絶望にゆがんでいたとすれば、まずこんなところだろう。しかし、事実はそうはいかなかった。彼を部屋で待っていたのは、勝ち誇って自分を迎えるはずの判事ではなく、あの温厚なセグミュレ氏だった。メイはこれにはびっくりした。その時の彼の目は、敵の意外な寛大さへのとまどいが浮かんでいただろう。そして唇には、何とか切り抜けられるかも知れないという笑みを漂わせた。デスコルヴァル氏が、メイの素性をばらさないことがわかったからだ。ばらさなければ助かる見込みがあったわけだ。
以上、これがわたしの推測だよ」
「やはり先生はすばらしい!」アブサントがさけんだ。
ルコックはだまったままでいた。ひとことも口を差しはさまなかった。差しはさむ余地がないと思ったからだ。
タバレ先生は話を続けた。
「そのほかにもまだ証拠がいるかね? たとえばデスコルヴァル氏が、辛抱強く執事を使いに出しては、訊問のなりゆきを尋ね続けた。たしかにデスコルヴァル氏は自分の職業に徹し、情熱をもって自分の手がけた事件を見守っていると見ることができる。しかしそれはそれでちょっと引っかかるものがないでもない。だが君はそれでもまだ、判事が足の骨を折ったと信じ込んでいたね。いかに判事でも、足の骨を折った人が、たかだか市井の一殺人事件に対してかくも頻繁に、使いを走らせてまで事件の経過を訊くものだろうか」
タバレ先生は大きな茶碗を手にもち、煎じ茶をぐっと飲みほし、唇をぬぐうと話を続けた。
「これはほんの参考程度ということで聞き流してもらいたいのだが、ポリット・シュパンの女房トアノンになぜもっと食いさがらなかったのか、惜しいことだ。すっかり君を信頼し、どんな協力も惜しまぬ気特になってくれた時すかさず、彼女が事件について知っていることを洗いざらい聞き出してしまわなかったのは、君らしくもない|へま《ヽヽ》だよ。君のやり方で押せば、三、四回も事件の性格が解明できるチャンスがあったんだ。その第一のチャンスはポァヴリエールで君が発見した首飾りの持ち主を追って歩いた時だ」
「でも、出所を突きとめるために、ありとあらゆることをやってみたんですよ」
「たしかに、君の努力は認めるがね、完全ではなかった。ワットー男爵夫人が亡くなって、遺産はすべて売り払われたとわかってから、君は何をしたかね?」
「競売を取扱った男のところに行きました。目録を調べましたが、事件に関係のあるような大きなダイヤはひとつもありませんでした。そこで手がかりは途絶え、ダイヤの追跡はあきらめたのです」
「いや、それが手がかりだと考えるべきだったのだよ。そうした高価なダイヤが目録に載っていないことは、そのころすでに男爵夫人の手から離れてしまっていることを語っている。贈りものにしたか売ったのか、どちらかわからないが、ダイヤの所有者は誰だったのか。たぶん、男爵夫人の友人のひとりだろう。もし、わたしだったら、男爵夫人が親しくしていた女友だちを片っぱしに調べて、その使っている小間使にさぐりを入れるね。そうすれば必ず、どこかの小間使が『そのダイヤは主人のものです』と得意げにしゃべるか、顔色を変えて身ぶるいするか、いずれにしても収穫はあっただろう」
「そこまでは、考えがおよびませんでした」
「さて、第二の失策についてだ。メイが自分のものだと称したトランクを手にして君はどうしたね。ご親切にもそっくりそのままやつに届けてやったじゃないか。あのトランクは、仲間の男がマダム・ミルナーにあずけたのだよ。なかに入れてあるものはメイが逮捕されたあとで買入れられたもので、獄中のメイの手に渡るものと計算して用意されたものなのだ」
「知らなかった。しかし、どうしてそれを調べればいいんです?」
「どうしてだって? わたしなら、パリじゆうの古着屋を訊いて歩くね。そうすれば、どこかの店で、『ああそれなら、こんな人相の男が、これこれの寸法の友だちのためだとか言って、服を買いましたよ』と、名乗りあげただろうな」
「ちくしょう」とルコックがさけんだ。「確実で簡単な方法だ! まったく、ぼくという人間はじつに無能な男だ」
「そんなに自分を責めなくてもいいよ。君は無能なのではなく不注意だったのだ。それよりも、許し難いのはメイを逃亡させたあとの尾行の仕方だ」
「万全を期しました!」
「君は普通に警官がやるように、自称メイのあとを一歩一歩平凡に尾行しただけではないか?」
「では、あのまま逃がしてやればよかったのですか?」
「いやそんなことではない。もしわたしが君の立場にいたら、オデオン座の階段のところでメイの腹をみごとに見抜いた時こう考えただろう。『あいつは、マダム・ミルナーのところに行って逃亡の相談をするにちがいない。このまましばらく泳がせよう』ここまではわたしも君と同意見だ。しかしわたしだったら、メイがマリアンブール・ホテルから出たあと、勝手に好きなところに行かせるね。そのかわりマダム・ミルナーを尾行するよ。マダム・ミルナーは、メイから受けた相談を仲間に告げにゆくにちがいないからね。そうすれば自然と謎がとけることになる」
「なるほど、先生のおっしゃるように、マダム・ミルナーは仲間のところに行ったでしょうね。ぼくはそうすべきでした」
タバレ先生は説明したあとで、今度は事件全体について推測を述べはじめた。一歩一歩と核心に迫るという方法で、帰納的推理を展開した。ルコックは、捜査にたずさわった当初はすばらしいひらめきを見せすぐれた天分に導かれて調査をすすめてきた。だが、いつしか自分自身がいみじくも言った『もっともらしく見えるものこそ疑ってかかれ』という自明の理ともいうべき鉄則を踏みはずしてしまっていたのだ。そうした反省に思い至ると、もうタバレ先生の話には上の空で、新たに心に浮んだ考えに夢中になって相手をさえぎった。
「先生、あなたは手も足も出ない状態のぼくをお救いくださいました。ぼくはすべてを失ったものと思い込んでおりましたが、先生のお話をおうかがいしているうちに、なんとか取りかえしがつくような自信が湧いてまいりました。ぼくが手をつけなかったことで、まだまだやるべきことがあることを知りました。幸いなことに、ダイヤの耳飾りとそのほかの容疑者の所持品がぼくの手もとに残されています。それに、マリアンブール・ホテルにマダム・ミルナーが残っていますから、これの監視を厳重にします」
「何を目当てに捜査をするのだ?」
「何をですって? むろん、メイを発見することです」
タバレ先生の口もとに薄い笑いが湧いた。
「君は、道化師だと自称している男の本当の名前が何か、考えたことがないのかね?」
「はあ、考えてもみませんでした」と、ルコックは変に狼狽した口調で答えた。
「君は嘘をついている。わたし同様、君はメイなる人物が、グルネル・サン・ジェルマン街に住んでいることを承知している。その人の名は、セルムーズ公爵だということも知っている」
「冗談がすぎますよ!」アブサントが口を出した。
「そのとおりですタバレ先生」とルコックが言った。「ぼくも同じようにそう考えました。しかし、自分でその考えを打ち消したのです」
「それこそ、せっかく自分で築いた大前提の論理から脱線しているというものだよ。しかし、わたしなら当初の大前提を捨てたりしないね。だからこう思うんだ。『シュパンの居酒屋にいた殺人犯がセルムーズ公爵だとは、いかにもありそうにないことだ。だからこそ自称道化師の殺人犯メイはセルムーズ公爵にちがいない』とね」
それにしても、タバレ先生のその考えがどのような根拠から成立しているのか? ルコックにはそれがとうてい理解できなかった。
「君はひどくびっくりしているね。わたしがしゃべったことが、単なる思いつきだとでも思っているのかね?」
「いいえ、そうは思いませんが、しかし……」
「君は現代史を知らないからそのように驚くのだよ。勉強しなければならんね」
タバレ先生はアブサントのほうを向いた。
「図書室に行って『現代名士録』の二折版を持って来てくれたまえ。右手の本棚に置いてあるよ」
アブサントがすぐにその二折版を持って来ると、タバレ先生は熱心な手つきで、ぱらぱらページを繰った。
「ああここに載っている。デスコルヴァル! 聴いていたまえ、目から鱗《うろこ》が落ちた気になるよ」
タバレ先生は歯切れのよい声で読み始めた。
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デスコルヴァル(ルイ・ギョーム・デスコルヴァル。男爵)外交官にして政治家。一七六九年十二月三日、モンテニアックに生れる。代々法律家を輩出している旧家である。パリに遊学中に革命勃発。当初熱心に革命党に与《くみ》したが、やがて自由という美名のもとに虐殺が行われるのを見て批判的となり、ついには一族の友人の一人ルーデレのすすめにより、反動派に与するに至った。
その後タレーラン閣下によりナポレオン皇帝に推挙され、在スイス特命全権大使として派遣されたが、これが彼の外交官としての輝ける経歴の第一歩となった。次いで、ナポレオンの治下、皇帝の命により、幾多の重要な条約締結に参画した。かくの如く重責に在ったため、王政復古に際してたちまち失脚することとなった。モンテニアックの反乱の際に、男爵は反逆罪で逮捕され、内乱の陰謀に加担したとして軍法会議で死刑を宣告された。しかし刑は実施されなかった。男爵の友人であるセルムーズの寒村の司祭、ミドン師の奔走により一命をとりとめたのである。
デスコルヴァル男爵の一子は、裁判官として名をあげ活躍している。
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「わかりました」ルコックが言った。「デスコルヴァル判事の父上の略歴ですね。しかし、ぼくの捜査の参考になるとは思えませんが」
「この略歴でわれわれは、デスコルヴァル判事の父上が死刑の宣告を受けたという事実がわかったではないか。まあ急がずにもう少し辛抱してくれたまえ」
タバレ先生はそう言ってから、名士録のページをふたたび繰った。
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セルムーズ(アンヌ・マリ・ヴィクトール・ド・タングリ。公爵)政治家兼将軍。一七五八年一月十七日、モンテニアック近郊のセルムーズ城館に生れる。セルムーズ家はフランスでもっとも由諸ある旧家として有名である。ただし『E』の頭文字で一般に表記されるセルムーズ公爵一族とはまったく別の一門であることに注意。フランス大革命が勃発するや国外に亡命、コンデ軍に投じて偉功をたてた。数年後ロシアに招かれてその客となる。数種の伝記の伝えるところによれば、ロシア軍にあってナポレオン軍と戦い、モスクワ退却の際には大いに母国軍を悩ましたと言われる。
ブールボン王朝が復帰するや、その超王党派的言動により、華々しい名声を得ることとなった。かくして広大な旧領地を回復し、外国において受けた爵位をそのまま用うることをも許された。
王命によりモンテニアック師団長に任命されるや、ナポレオンの残党に対し、軍法会議で偏重ともいうべき極端な厳格さで彼らを断罪に処し、その撲滅に功を上げた。
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ルコックの眼がギラギラと輝やいた。
「わかりました。セルムーズ公爵の父上の略歴ですね。その先代のセルムーズ公爵が、デスコルヴァル判事の父上の首をはねようとしたわけですね」
「そのとおりだよ。これだから歴史を学ぶ意義があるというものさ。それから、当代のセルムーズ公爵の項があるから、読みあげるよ」
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セルムーズ(アンヌ・マリ・マルチアル。前掲セルムーズ公爵の嗣子)一七九一年ロンドンに生れる。イギリスで教育を受け、のちオーストリアの宮廷にてひととなる。その経歴により、同宮廷に重要な任務をおびてしばしば派遣された。政見、政敵に対する偏見、さては恨みの深さについての性格は、まさに親ゆずりのものである。並ぶものなき知力と、感嘆すべき辣腕振りを以って、自らの属する政党の発展に献身した。フランス史上最大とも言うべき政情の激動期にあって、常に最前線の矢面に立って来た氏は、最も過酷な弾圧の行き過ぎの責任を、一身に引きかぶる勇気を、身を以って示した。……世論をあげての指弾の前に引退を余議なくされたものの、氏に対して向けられた怨嗟は、その生涯つきまとわずにはいないだろうと言われている。
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タバレ先生は本を閉じ、わざと謙遜したように訊いた。
「わたしの帰納法推理に対して、君の意見はどうだ?」
「ちょうどメイの拘留期間と一致する二か月間も公爵が姿を消していたら、パリじゅうに知れわたるのではありませんか」
「姿を消すくらいどうにでもなるよ。公爵夫人と執事がぐるになってうまく立ち回れば、たとえ一年間公爵が不在でも気づかれることはないよ。邸内の召使たちでさえ気がつくまい」
ルコックは眉に皺《しわ》をよせ、じっと考え込んでいた。
「セルムーズ公爵が、巧みにメイの役割を演じたことは認めることにしましょう。しかしですよ、どうしても腑に落ちないことがあるのです」
「なんだね、その腑に落ちないというのは?」
「ポァヴリエールの殺人犯が真にセルムーズ公爵だったら、なぜ名乗りをあげなかったのでしょうか。不当に攻撃を受けたとして、正当防衛を主張すればいいではありませんか。名乗りあげるだけで監獄から出ることができるのですよ。そうする代わりに彼は首をくくって死のうとしたのです。セルムーズ公爵のような大貴族は、王侯のような生活が保証されているのではありませんか? それなのになぜ自殺などくわだてたのでしょう?」
タバレ先生は、ルコックをからかうように口笛を吹いた。
「君は、名士録の最後の文句を忘れたのか。セルムーズ公爵の背後では、反対派の反感が根強いのだ。自由をかちとるために、彼がいかに高い代価を支払わねばならないか、理解できるかね? できまいな。我々にわかっているのは、彼としてはどうにも手の打ちようのないはめに陥っていたということだけさ。もし本当の身分を名乗ったりすれば、そんな高貴な人間がポァヴリエールなどに何の用があったかを釈明せねばならんし、愛人と覚しき例の女のことも説明しなきゃならん。となれば、何とも体裁の悪い秘め事を明るみに出さなきゃならんのだぞ。恥を忍ぶか、自殺をとるか。公爵は自殺を選んだのだ。名誉を守ろうとしたのだ」
タバレ先生は勢い込んで説明した。ルコックは顔も青ざめ、噛みしめた唇をふるわせながら立ち上った。そして上ずった声で言った。
「先生、ぼくの悪だくみをおゆるしください。じつは、先生がおっしゃったことはぼくも一度は考えたことなのです。しかし、自分で自分を信じることができなくなっていました。おかげでいまは、ぼくが何をしなければならないかをよく知っています」
タバレ先生は両手を大きくあげた。
「かわいそうに」と、先生は嘆息した。
「セルムーズ公爵を捕縛しようというのか。いったん自由になったからには、強力な力の持ち主だ。君が飛びかかっても粉砕されるだけだ。思いとどまるほうが身のためだ。公爵を攻撃でもしようものなら、生命がないものと思わなければならん」
ルコックは先生の言葉にうなずいた。
「決して早まったことはいたしません。いますぐ公爵を逮捕できるなど考えてもいません。しかし、他日必ず公爵の秘密を暴露してみせます。ぼくは危険など怖れるものではありませんが、事をうまく運ぶために身を隠すことにします。秘密に捜査を続行します。この暗黒事件のベールをはぎとってみせます。そのあかつきにぼくは姿を現わします。メイがセルムーズ公爵であるという動かぬ証拠をにぎってみせます。そしてぼくはこの恥辱をそそぐのです」
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第二章 貴族の名誉
一八一五年八月の第一日曜日のことだった。その日の十時きっかり――いつもの日曜と同様――セルムーズ村の教会の堂守が鐘を三回鳴り響かせ、善男善女に司祭がミサのため祭壇に向かうことを知らせた。教会のなかの半分以上が信者で埋まっていた。
ところが、信者は女ばかりだった。男たちはなかに入ろうとしなかった。入口のところで腰をおろすか、教会の前の広場にたむろしていた。てんでにおしゃべりしていたけれど、どの顔も不安そうだった。折しも同盟軍が勝利をかちとり、ルイ十八世が再びチュイルリ宮殿の主として復帰してから一か月足らずであった。セルムーズ村の人たちには、ブールボン王家の名は破滅を意味していた。それというのも、旧貴族から土地を没収し払い下げるという革命政府の恩恵に浴さなかった者は一人もいなかったからだ。そこで亡命していた旧地主どもが有無をいわさずその土地をとりあげるのではないかと、不安におののいていたのだ。
そのとき、セルムーズ街道に馬蹄の音が高らかに響いた。
「シュパンおやじだ!」と、百姓たちの一人がつぶやいた。
シュパンおやじは自分では日雇い稼業だと称している。しかし本当のところは、一日じゅう居酒屋でゴロゴロしていた。じつは泥棒が本業で、それで妻子を養っていた。子供は二人いたが手のつけられないならず者だった。
シュパンおやじは、旅籠『牛王亭』の前で馬を停めた。ゆっくりと地上に降り立った。その顔はまさに厄病神の御使いといった表情だった。人々はシュパンおやじのところに集った。
「どこから来たんだ?」
「街からだよ」
街というのはこの地方の小ぎれいな郡役場の所在地、モンテニアックのことである。ここからは、遠く四マイルほど離れたところにあった。
「オテル・ド・フランスの前を通りかかると、ホテルの主人のロージュロンさんがおれに声をかけた。一エキュ、駄賃をやるぞ。そのかわり、馬に鞍を置いて、セルムーズまで飛ばしてくれ。そして、おれの友人のラシュヌールさんに、セルムーズ公爵が、子息のマルチアル氏と召使二人を連れて、昨夜、駅伝馬車で当地にお着きになったと伝言してくれ。とくに、公爵がセルムーズに十一時には着けるようにと、駅馬車にお命じになっておられたってことを、ラシュヌールさんに伝えるのをくれぐれも忘れんように、とな」
「ここへ何しに来るのだろうか」と、シュパンを取り巻いた連中が口々に質問した。
「わからねえのか。昔の領地をとりもどしに帰って来るのさ。お前たちが買った土地をとりあげるためだ」
「とりあげるだって? 何てことを考えやがる!」シャンルイノーという若者が心配そうに言った。「国家が売却した土地をおれたちが買ったのだ。法律の手続きをして正当に手に入れたんだ」
「それはそうかも知れんな。しかしだよ、セルムーズ公爵は王のお気に入りで、親友の一人だ」
「わかった」と、シャンルイノーが答えた。「それなら、デスコルヴァル男爵さまのところに相談に行こうじゃないか」
「そうだ、それはいい考えだ。みんなして行こうじゃないか」一同は異口同音にさけんだ。
「ちょっと待て」と、百姓の一人が言った。「ブールボン王家の回復以来、デスコルヴァルさまは手も足も出なくなってしまった。フーシェはあの人を追放リストのなかに書き加え、ここに隠棲してからも警察に厳重に監視させている」
この最後の言葉で一同の熱がさめた。
「かまうことはないさ」とさけんだのは、シャンルイノーだった。「デスコルヴァルさまは、たとえうまい思案をさずけてくださらなくとも、やっぱりおれたちのことを考えてくださるだろうし、権利を守る方法くらいは教えてくださるだろう」
「まあ待ちな。今にも身ぐるみはがれるわけじゃなし、そうわめき立てなさんな」と、シュパンおやじが言った。「公爵ともあろう方が、おまえたちのような小百姓のことなど構いなさるものか。おれの考えじゃ、あの人がとりかえしたがっているのは、ご自分の昔の土地だけさ。やられるのはその地所の持ち主に納まってる連中だな。元郡長のラシュヌールさんのことよ。ラシュヌールさんは、もとの公爵領を、ほとんどひとり占めにしているのだからね。それも、城館を含めてさ」
そのとき、教会でミサが終った。信者たちがぞろぞろ教会から出て来た。それらの信徒にまじって、ラシュヌール氏が目のさめるような美女を連れて姿を現わした。娘のマリー・アンヌだった。シュパンおやじはつかつかとラシュヌールのところに進み寄って、何の前置きもなくホテルの主人の伝言を告げた。ラシュヌール氏は顔色を変え、よろよろと足もとが乱れた。それでも気をとりなおすと、娘をせき立ててその場を立ち去った。
セルムーズ村では、かつて公爵の土地が国家によって売りに出され、ラシュヌールがそれを六万リーブルで買い取ったと知った時、いささか意外の感にうたれたものだった。ラシュヌールがどこからそんな大金をひねり出したのかといぶかしくも思われた。事実その金はラシュヌール自身のものではなかった。実は公爵の叔母のアルマンド・ド・セルムーズ嬢は、ラシュヌールの名付け親だったのだが、この未婚の老嬢アルマンドは、公爵が亡命したあと城館にひとり残っていた。折から死の間近に迫ったことを悟り、また一族の領地が見ず知らずの人手に渡ろうとするのを知ると、老嬢は没収された土地を買いもどしてくれと、こっそりラシュヌールに依頼して金を渡しておいた。そこで、ラシュヌールは自分の名前で土地を買い、公爵が亡命先から帰国するまでの間、保管しておくことになった。
ラシュヌールは教会から帰る道すがら、娘にそのことを語り聞かせた。すると娘は、今は亡き老嬢の遺志は何としても守るべきだと言った。しかし父親のほうはためらっていた。
「お前は、公爵家の何世代にもわたる我々住民に対する仕打ちを知らないから、そう簡単に考えるのだ。公爵はせいぜい冷やかに、よくやってくれたな、と言うだけが|おち《ヽヽ》さ。あげくは、わしは昔どおりの小作人に逆もどり、そしてお前は小間使あつかいされるだけだ。そしておまえの兄だって……」
「どんな理由があるにしろ、義務はまもらなければならないわ」マリー・アンヌはきっぱりとそう言い切った。
「わかった」長い沈黙のあとで、ラシュヌールが力のない声で言った。「土地は返すことにしよう。しかし、お前は……」
ラシュヌールがそこまで言ったとき、一人の客が訪ねて来た。二十《はたち》過ぎの青年でなかなかの美男子、どこやら哀調を帯びたやさしい印象を与えていた。入りしなにこの若者の視線がマリー・アンヌに出会うと、彼は顔を赤らめ、娘は恥かしげに顔をふせた。
「ラシュヌールさん」と、若者が言った。「父からの伝言ですが、セルムーズ公爵とご子息が帰国なさいました。お二人はいま、司祭さまのところでご休息なさっておられます」
ラシュヌール氏は立ちあがったけれど、顔色はさえなかった。
「デスコルヴァル男爵によろしくお伝えください。今日わたしと娘で、ちょっと用事を片づけしだい公爵にお目にかかります、モーリス君」
デスコルヴァル青年は、自分が現われたために生まれた重苦しい雰囲気を感じとった。そこで早早に立ち去った。しかしその立ち去りぎわにマリー・アンヌが、小さい声で彼にささやいた。
「あなたの胸のうち、わかっています。モーリス。今晩きっとそのことをはっきりさせますわ」
息子のマルチアルを傍に、セルムーズ公爵はミドン司祭と話していた。公爵は青い大きな眼の頑丈な体格の持ち主で、みごとな金髪がとくに印象的だった。召使のビビアンヌが、ラシュヌール父娘が殿さまに話したいことがあると言って来訪したと言いに来た。
「ラシュヌールだって?」公爵が首をひねった。「司祭、そのラシュヌールというのはいったい何者ですか?」
「ラシュヌール氏は現在、セルムーズの城館の所有者です」
「恥知らずめ!」と、思わず腰を浮かせながら吐きすてるように公爵が言った。「よくものこのこ、どの面《つら》下げて……」
やがて、ラシュヌール氏が娘を連れて姿を現わした。
「セルムーズ城館の持ち主同士のご対面というわけだ……」公爵は最初からラシュヌールをきめつけた。
公爵の口調があまりにもぞんざいだったので、司祭は赤面し、立ちあがるとラシュヌール父娘に椅子をすすめた。
「どうぞご遠慮なくおすわりくださいますように」と、公爵に手本を示すかのような丁重さで司祭が言った。「お嬢さまもどうぞ!」
しかし、父娘は言い合わせたように首を横にふり、司祭の申し出を受けなかった。
「公爵さま」ラシュヌールが呼びかけた。
「わたしは、もとお邸の召使でございました。あなたさまの叔母上にあたるアルマンドさまは、わたしの母をたいそうかわいがられ、わたしが生れたときなど、わたしの名付親になっていただいたほどでございます」
「ふん、なるほど。やっとお前のことは思い出したよ。わしの一族はお前たちの面倒をずいぶんみてきたからな。わしの財産を買い取ったのも、恩返しというわけか?」
「アルマンド叔母さまのご遺言で、わたしがセルムーズの土地を買ったのでございます。叔母上は買入れるに必要な金をこっそりとわたしにお残しになられて、亡くなられました。わたしがこうしてこちらに参上いたしましたのも、ご信頼をいただいておあずかりした土地をお返しするためでございます」
普通ならこの場に居合わせた者はその言葉に心を動かされないではいられなかっただろう。ところが公爵だけは別だった。これほどの誠実さにあふれた行為も、公爵にとってはごく当り前の、当然過ぎることにしか映らなかった。
「なるほどこれで元金のほうはわかった。それはそれとして、さて利子のほうはどうなるのかな。セルムーズの土地は……わしの記憶にまちがいがなければ、年間の収入だけでも千ルイは下るまい。その割で計算するとなるとたいそうな額になるが、その金はどうしたのか?」
この血も涙もない苛酷な要求に、息子のマルチアルが見るに見かねて、かたわらから眼で公爵にやめるように合図したが、公爵は知らん顔をしていた。しかし司祭はだまっていられなくなり、抗議した。
「おお公爵、お言葉が過ぎませんか!」
「収入は」と、ラシュヌールは応じた。「生活費と子供たちの養育費に使いました。しかし、何よりもまず、セルムーズの土地を改良するために相当の金をつぎ込んでいます。現在では収穫が二倍になりました」
「ラシュヌール、要するにお前は二十年来領主におさまっていたのだな。面白い喜劇だ。さぞかし大金持になっただろう」
「とんでもないことをおっしゃいます。わたしは自分の財産を一スーも持っておりません。しかし、ここでお断りしておきますが、叔母上がお亡くなりになりますとき、一万リーブルをわたしに遺贈なさいました。これだけがわたしの財産です。そのほかの八万リーブルは土地の買取りなどのために全部使いました」
「じつにうまく言いつくろったな。では訊くが、その一万リーブルを遺贈されたという確かな証拠があるのか?」
ラシュヌールは何か言おうとしたが、それを口にするのをやめた。すると、そばにいたマリー・アンヌが公爵の前に進み出た。
「土地をお返しすると申し出た父の言葉こそ何よりの証拠でございます。何もかもすべて投げ出して父はお返ししようというのです」
血が顔にのぼり、きらきら輝いていた。マルチアルの心をうばうほど、マリー・アンヌは美しかった。
「すばらしいひとだ!」と、マルチアルは英語でつぶやいた。
この言葉の意味がわかったので、マリー・アンヌは口をつぐんだ。しかし彼女はそれだけでも十分に言うべきことを言っていた。父親は溜飲の下がる思いで聞いていたのだ。ラシュヌールはポケットから書類の束をとりだすと、テーブルの上にたたきつけた。
「これは土地の権利書です。叔母上からわたしが引継いだ法律関係の書類もあります。これをすべてお渡しいたします。わたしはあなたから、ビタ一文もらおうとも思っていません。わたしは二度とセルムーズの土地を踏むことはいたしますまい。一文なしでこの土地に来たのですから、一文なしで立ち去ることにします」
ラシュヌールは客間から出た。マルチアルがあとから追って来た。彼は何とかしてもう一度、この若い娘と相まみえる機会をつくりたいという考えしか頭になかった。マリー・アンヌの美しさが彼の心にのこした印象はそれほど強烈なものだったのだ。
「あなた方にどうしても一言申し上げたくて脱け出してきたのです。ご心配には及びませんよ、わたしが何とかします。マリー・アンヌさん。あなたの美しい眼から涙が流れるのを見るのはたまらない思いです。わたしは父に考え直してもらうようにするつもりです」
すると背後から厳しい声が湧き起った。
「ラシュヌール嬢には、あなたの口添えなど必要ではない」
マルチアルがふりかえると、そこに一人の若者が立っていた。今朝ラシュヌール氏に公爵が帰って来ることを知らせた青年だった。
「ぼくは、セルムーズ侯爵だ」
「ぼくはモーリス・デスコルヴァル」
それだけで、お互いに無言のままじっと相手を見まもっていた。
「今後、必ずどこかでお会いすることがあるだろう、デスコルヴァル君」マルチアルが一歩あとずさりしながら言った。
「そのときは容赦しないぞ」と、モーリスが肩をそびやかした。「きっと相手になるぞ、うぬぼれ屋め」と言い、遠ざかってゆく敵のうしろ姿をじっと睨みつけていた。
マリー・アンヌと父親は、その間にさっさと向うへ行ってしまった。モーリスはいそいで二人に追いつくとラシュヌール氏に声をかけた。
「これから君のお父上のお宅にうかがうよ」と、ラシュヌール氏は素っ気なく答えた。
マリー・アンヌが、だまってと眼で合図したので、モーリスは黙した。そして少し遅れながら案じ顔でついて行った。モーリスは自分の辛い思いをかくして表に出さないようにしていた。だがテラスにいた母親はそんな彼を一目見て、息子の気持を察した。
「ああ、何か悪いことが!……」と彼女は言った。
「どうしたのです、何があったのですか?」と、デスコルヴァル男爵がいきおいこんで訊ねた。
ラシュヌールは司祭の部屋で起ったことを細大もらさず話した。男爵は驚きのため半ば呆然として聞いていた。ラシュヌールが話し終ると手を差し出した。
「わたしはいつも変ることなくあなたの友人でした。だが前にも増して、あなたのような友人を持ったことを誇りに思う。それでは、これからセルムーズ公爵たちに対してどう対処なさるおつもりかな」
「わしの言うことなど、てんで耳を借そうとしないでしょう。少なくともここ当分はね。息子は十八歳になります。パリで何とか独り立ちしてくれるでしょう」
「それで、お嬢さんはこれからどうなさるのですか?」
「マリー・アンヌはわしの手もとに残します。何と言ってもわしらは今のところはまだ地主ですからな。丘の上にあるレエシュの荒地ですよ。粗末なあばら屋だが住む家もあるしそこに小さな庭と痩《や》せた土地があるんです。そこで野菜をつくって、マリー・アンヌに売ってもらおうと考えています」
傍で話を聞いていたモーリス・デスコルヴァルが、突然ラシュヌールの前に進み出た。
「そんなことはさせませんよ。ぼくはマリー・アンヌを心から愛しているんです。お願いします、このひとを妻にいただきたいのです。ぼくはまだ父に相談をしていません。でも、ぼくが幸福になることでしたら、父は決して反対しないと思います」
「賛成するとも。よくぞ言った」
それから男爵はラシュヌールに視線をもどして言った。
「わたしからも、あらためてお嬢さんを息子の嫁として認めていただきたい」
ラシュヌールの眼に、誇らし気な何かがきらりと光るように見えたが、それはすぐに消えて、もとの沈欝な態度にもどった。
「男爵。わしはあなたの友情を大変に有難いと思っています。わしが侮辱を受けた思い出を、あなたのお言葉で忘れることができました。しかし、わしも男です。娘に与えて下さる御厚情に甘えて安楽な生活をむさぼろうという気持はありません」
「なんです!」と男爵は愕《おどろ》いた顔をした。
「結婚の申し入れを拒絶なさるのですな」
「そうです」
モーリスにはこれは晴天の霹靂《へきれき》だった。が、すぐ気をとり直して言った。
「ぼくの一生を滅茶苦茶になさろうとするのですか。ぼくはもうお終いです。マリー・アンヌを愛しているんです。それに彼女だって……」
「マリー・アンヌは……」顔をこわばらせながら、一語一語をかみしめるようにラシュヌールが言った。「自分の義務の命ずるままに生きねばならぬことをよくわきまえています。わしがこんな風にお断りする隠れた理由を知ったら、きっとわしの意には逆らわんでしょう」
話はそこで中断した。どこからかかすかに銃撃の響きが聞こえて来たからだ。一同は顔色を変えた。デスコルヴァルとラシュヌールがテラスのほうに急いだ。しかし、その時あたりはすでに元の静寂にもどっていた。
折しも道の曲りかどに突然、一人の男が姿を現わした。シャンルイノーだった。男爵はシャンルイノーに声をかけて、なかに入るように言った。間もなく客間の扉口に若い百姓が現われた。ひどく動転していた。着ているものは見るかげもなく、ひどいありさまだった。よほどの大事が起ったにちがいない。ネクタイもなく、ワイシャツのカラーは裂け、首のあたりがあらわに見えていた。
「どこで撃ち合いがあったのだ?」と、ラシュヌールが訊いた。「相手はだれだ?」
シャンルイノーは冷笑した。気が立っていた。
「撃ち合いなんてものはないのです。浮かれてるんです。みなさんがお聞きになった銃声は、セルムーズ公爵の名誉と栄光のために発射されたものです。例のならず者のシュパンがお膳立てをしたんですよ。公爵がセルムーズに到着すると、シュパンとその一党は、歓迎の意味をかねて、祝砲のつもりであれをやらかしたんです。公爵はたいそうご満悦で、乞食どもに金をばらまいています。シュパンは金となると眼がありません。司祭の家でラシュヌール氏が公爵に土地を返したことを、広場でしゃべりまくっています。ラシュヌール氏は、城館も、森も、畑も、すべて公爵に返した、というわけです。そのことが明らかになると、国から土地を買った人たちの間に大恐慌が起りました。シュパンはこの哀れな人たちに、土地を取り返されぬためにはせいぜい公爵に華々しい歓迎の意を表わすほかはない、と思い込ませちまったんです。まったく、やつの焚《た》きつけ方をお見せしたかったですよ。それからは、ありとあらゆる武器を持ち出してのばか騒ぎです。みなさんがお聞きになったとおりの発砲騒ぎでね。するとシュパンのやつ『公爵閣下』『公爵閣下』とさがし回り、とうとうその『閣下』がお出ましになった。そして『閣下』は連中を前にこうのたもうた。『諸君が買い入れたわが家の財産について、わしはこれを放棄する。それはそのまま諸君のものだ』いやはや大した大盤振舞いだ。わが家の財産を放棄するですって? ひとにぎりのわずかな土地を、五十家族の百姓が分け合っているのですよ。しかしあの無知なやつらには、そんなカラクリは見えるはずもありません。わたしがセルムーズを立ち去るとき、司祭の家の前に二百人ほどの群衆があつまって、口々に『公爵万歳』とさけんでいましたよ。まさしく、お祭り騒ぎの最たるもんだ。シュパンのやつ、付近の貴族にもこのことを触れ回ったとみえて、連中もセルムーズに駈せ参じて来ました。誰かが、セルムーズ公爵は王の友であると言いました。すると、他の者が手をたたく始末です。公爵はすっかりご満悦で、連中を静めようともしやしない。公爵は得意そうな様子で、クルトミュー侯爵と一緒に広場をのし歩いていました」
「息子のほうはどうしていた?」と、これはモーリスの質問だった。
「マルチアルですか。息子は息子で、クルトミュー侯爵の娘と腕を組んで広場を散歩していましたよ。娘の名はブランシュ。二人とも楽しそうに笑いころげながらね。噂では二人は結婚するんだそうです。今晩、クルトミュー侯爵が主催して、城館で公爵を主賓に食事をすることになっているんですよ」
「お前はまだ、肝腎なことを一つ話すのを忘れていないか。なぜお前の衣服が破れているかということだよ」
岩のようにみごとな体格のこの男が、一瞬返事をためらった。しかしすぐに、決然と語り出した。
「そのことでしたら、すぐに説明いたしますよ。シュパンのやつが村の人たちに勝手なことをしゃべりまくっていたので、こっちもこっちで言いたいことを言ってやったのです。ところがやつめ、すぐ公爵のとこへ告げ口に行きやがった。すると、公爵が広場を横切ってわたしのところに来て、『お前はどうしてそんなに頭が悪いのだ?』なんて言うものですから、わたしは、『頭なんか悪くない。ちゃんと自分の権利をわきまえているだけだ』と言ってやったのです。すると公爵は、わたしのネクタイを鷲《わし》づかみにしてわたしをふりまわし、みせしめのためにわたしの畑をとりあげると言うのです。わたしはカッとなって、やつの胸倉をつかんでやりました。そんなわけで六人がかりでなぐられたのです。それでこっちも、ひと立ちまわりやらざるを得なかったというわけです。けれど、わたしの畑に指一本だって触れさせはしませんよ」
「わしは、これから住むバラックにもどらなければならん」と、ラシュヌールがシャンルイノーに言った。「わしと一緒に来てくれないか。相談したいことがある」
デスコルヴァル夫妻はしきりに、自分たちの邸宅に住むようにとさそった。しかしラシュヌールはさいごまでその好意を受けようとはせず、娘を連れて立ち去った。モーリスはまだ希望をつないでいた。明日、レエシュの丘のふもとの松林のなかで、マリー・アンヌとふたりだけで会う約束ができていたからだ。
モーリス・デスコルヴァルは翌日の十一時に家を出た。レエシュの荒野はオアゼルの丘の反対側にあった。モーリスは目的地に行く途中で渡船場にさしかかった。六、七人の百姓が船を待っていた。百姓たちはモーリスの存在にも気づかずにしゃべり、その話し声をモーリスが聞いていた。
「誰でもないこのおれが」と、肥った若者が陽気な口調で言った。「きのうの晩、シャンルイノーからじかにいわれたんだぜ。あんたを結婚式にお招きするよ。じつは、ラシュヌールの娘と結婚することがきまったんでね、というわけさ」
この驚くべきニュースを耳にすると、モーリスは丸太棒で頭をなぐられたような顔になった。もはや、冷静にものを考える余裕をなくしてしまった。
レエシュの森に着くと、モーリスは時計の針を見た。ちょうど正午を差している。一時間も早く来てしまった。彼はそのあたりの岩に腰をおろし、マリー・アンヌを待っていた。
やがて時間になるとマリー・アンヌが姿を現わした。彼は女のところに駆け寄った。彼女の手を唇にもっていった。しかし彼女はその手を優しく引っ込めた。
「わたしがここに来たのは、モーリス、あなたが|やきもき《ヽヽヽヽ》なさっていると思うとじっとしていられなかったからよ。こうやってあなたと会うことさえ、父の信頼を裏切ることになるのよ。わたし、あなたともうお会いしないと父に誓ったの。聞いていらっしゃるわね。決してお会いしないと。でも来てしまったわ。それはね、これから先あなたの心の奥に、かいのない望みをつながせておくようなことをすべきじゃないと思ってのことなの。今後は離れ離れになって、二度とお会いすることがないからよ。わたし、最後にもう一度お会いして、そのことを、はっきりと申し上げたかったの。お互いに心をしっかりと持ちましょう。エスコルヴァルから離れてください。そして、わたしのことを忘れていただきたいの」
「君のことを忘れろだって、マリー・アンヌ!それでは訊くけど、君はぼくのことを忘れられるかい? ぼくは、君ならきっと父上の心をも動かさずにはおかぬ説得力を持っていると思っていたのに」
「父の足もとに身体を投げだしてお願いしたわ。でも父はゆるしてくれなかったわ」
「君は父上をうまく説得できなかったのだ。しかしぼくなら必ず説得してみせる。ぼくは君を愛している。ぼくの愛をもってすれば、父上だってぼくにはかなわぬはずだ。ぼくなら父上にそれを納得してもらうことができるさ」
すでにモーリスは我を忘れるほど興奮していた。マリー・アンヌはそんな彼の腕をおさえて押しとどめた。
「やめて! 父がなぜわたしたちの結婚に反対するか、わたしにはわかっているの。そのために、わたしが巻きぞえになって死ぬことになろうとも、わたしはやっぱり父の考え方を理解できるつもりよ。このことはもう決まったことだから、父と会おうとなどしないでください。たとえ父が同意しても、わたしは死にもの狂いで抵抗するわ!」
モーリスの頭は混乱した。
「それで、君はシャンルイノーと結婚するというのか。シャンルイノーは君のことを未来の妻だと言っているそうだ」
「そのことでわたしが弁解するとでも思う? わたしが相談さえ受けずに勝手に結婚の相手がきまり、それに従うとでも思っているの? 心にきめた人をあきらめ、別の道をとる理由を、わたしちゃんと納得しているのよ。けっして、あなた以外の人と結婚するつもりなどなくてよ」
「すまない、言い過ぎたことはあやまる」モーリスは力なく言った。
そのとき、二人の近くで何やら物音がしたのにモーリスは気づいた。十歩ほど離れたところに、マルチアル・ド・セルムーズが猟銃で身体を支えて立っていた。
若いセルムーズ侯爵の突然の出現に、モーリス・デスコルヴァルは、『ぼくたちをつけまわし、話を聞いていたのだ。でも、どの程度まで聞かれたのだろう』と、反射的に考えた。
彼は猛然と行動を起した。敵を倒そうと思い、マルチアルに飛びかかる身構えをした。しかし、それを押しとどめたのはマリー・アンヌへのおもんぱかりだった。彼はマルチアルに向って一歩踏み出した。マルチアルに話しかけた声は上ずっていた。
「じつに不思議なところにいらっしゃるものだ。道にでもお迷いのようですな」
マルチアルは、呑気そうに見せかけているポーズをくずそうとしなかった。
「そのとおりですよ。道に迷ってしまったのです。かれこれ一時間以上も、ラシュヌール氏が隠退されたお宅を捜していました。父公爵の使いでやって来たんです」
「ぼくが承知している限りでは、昨日、ラシュヌール氏とセルムーズ氏との関係はすべてたち切られてしまったそうではありませんか」
「たとえそうだとしても、それはぼくたち一族のせいではないと思いますがね」
「この地方の者なら、一人残らず、そんな理屈には納得しないでしょうよ」
「あの人は何と言っているのですか?」
「真実をね……つまり、誇りを持った男なら、忘れることも許すことも決してあるまいほどの侮辱を受けたのですから」
「ラシュヌール氏が、どうか君のように手厳しくないことを祈りますよ。それに君のその気持もいつかやわらぐものと信じたい。だって……」
マルチアルはふとためらって言葉を切った。相手のあまりにももっともな主張の前に、何と言ってよいかわからなかった。そこで今度はマリー・アンヌに話しかけた。
「お嬢さん、すべてはちょっとした誤解から起ったことです。セルムーズ一族は決して恩知らずではありませんよ。わたしたち一族のために尽してくれた友人を、わざと侮辱するなんてことがどうしてあり得ましょう。ましてや、あなた方があんなに立派な態度をお見せになっているというのにですよ。正直に申して、昨日の父の態度は遺憾なものでした。でも、わたしがこうしてうかがったことこそ、父も内心すまなく思っている証拠ではありませんか」
マルチアルが教会の前で初めてマリー・アンヌに近づいた時には、こんな話し方をしなかったのは確かである。だが一切の事情を知った今、彼の口調にはラシュヌール一家への敬意があふれていた。
「昨日、司祭館の小さな部屋でぼくがどれほど苦しんだか、わかっていただけますか。お嬢さん。ぼくはあの時、ラシュヌール氏がどれほど立派な方であるか、はっきり思い知らされました。ぼくがあの時あえて口添えをしなかったのは、あの場でぼくが異を唱えたりしたら、父を気違いみたいに怒らせるだけだ、と思ったからです。でも、あなたが示された親を思う娘としてのこの上なく崇高な心情を見せつけられて、父でさえ心を動かされずにはいなかったのです。あなた方がまだ村を離れてさえおられぬうちに、早くも父はこう言ったほどです。『わしはまちがっていた。わしはこの通りの老人だ。こちらから頭を下げに行くわけにはゆかぬ体面もある。代わりにお前があの人を、追いかけて、今のことは水に流してくれるように頼んでくれ』そうぼくに命じたのです」
マリー・アンヌは目をふせて聞いていた。突然のことなので当惑しきっていた。
「ありがとうございます。父にかわってお礼を申し上げます」
「お礼をいわれる筋はありません。あなたのお力でラシュヌール氏が怒りを解いて、わたしたちのつぐないを受けてくだされば、ぼくのほうこそお礼を申さねばならないのです。あなたがぼくたちのために口添えしてくだされば、きっと父上も折れてくださるでしょう。あなたのその優しい声、まごころあふれる眼に、逆らえるものがひとりとしているでしょうか?」
モーリスがいかに世間智にたけていても、マルチアルの意図がどこにあるか、もはや見当もつかなくなってしまった。こともあろうに、自分が嫌っているこの男が目の前でマリー・アンヌを口説こうとしているのだ。モーリスはマルチアルの腕をつかむとくるりと振り向かせ、ぐいぐいと脇へ押しやり、どなった。
「セルムーズ侯爵、あなたはなんという恥知らずだ! さんざ侮辱を加えておいて今さら何がお礼だ。それこそ計画的にはずかしめ、さらに侮辱の追い打ちをしているとしか思えない。腹が煮え返る」
マルチアルは、猟銃とマリー・アンヌに交互に視線を送りながらいった。
「君には、自分のほうこそよけいなおせっかいでどれほどラシュヌール嬢を困らせているか、どうせわかりゃしないでしょうな。とにかく、いずれまたお目にかかりたいものだ」
「いいとも、いつでも相手になるさ」
「なるほど。ところでさしつかえなければ一つ教えてほしいですね。君はしきりにラシュヌール氏の代弁者然とふるまっておいでだが、いったいどんな資格でそうしているのですか。何の権利で?」
「友情の名においてです。それだけではない。父は昨日、ラシュヌール氏に、令嬢をぼくの妻にいただきたいと申し入れたのだ」
「そしてわしはその申し入れを拒絶した」と、威丈高にさけぶ声が聞こえた。
マリー・アンヌと二人の青年は、ぎくりとしてふりかえった。ラシュヌール氏がそこに立っていた。かたわらに、威圧するような視線でにらみまわしているシャンルイノーがいた。
「わしは申し入れを拒絶した」ラシュヌール氏がもう一度繰り返した。「わしの娘は、けっして父の言いつけにそむくようなことはない。そう誓ったな、マリー・アンヌ? さあ、一緒に家へ帰ろう」
マリー・アンヌはその場から離れた。
「デスコルヴァルさん」ラシュヌール氏がぴしゃりと言った。「娘のまわりを金輪際《こんりんざい》うろつかんでください。すぐ家に帰りなさい!」
モーリスはためらっていたが、ラシュヌール氏は彼の襟《えり》をつかんで、森を横切っている小道まで引っぱって行った。十秒ほどのことにすぎなかったが、その間にラシュヌール氏は以前どおりの親しみをこめた声で、モーリスの耳にこんなことをささやいた。
「行きたまえ! それとも、わしのせっかくの配慮を無にしようというつもりかね?」
たった今ささやかれた言葉に呆然としながら、モーリスはすごすごと立ち去った。それを目で追っていたラシュヌール氏は、モーリスが自分たちの話声が聞えないくらい遠ざかったのを見すまして、マルチアルのところへもどった。
「侯爵さま。シュパンとその息子があなたをさがしていますよ。公爵さまのお使いであなたを呼びに来たのです。公爵さまは、ご一緒にクルトミューの城館におもむくべくあなたのお帰りを待っておられるそうです」
「それはちょっとおどろきですね。だって、父がぼくをここに来るようにしたのです。父の名代としてお宅へうかがうところだったのですよ」
「えっ、わしのところへ?」
「ミドン司祭のもとでとった仕打ちを父は大変に残念がり、しかるべく許しを乞うてくれと申しています」
そういってから、マルチアルは、マリー・アンヌに話した言葉をふたたびくどくどと並べはじめた。セルムーズ公爵は六万フランをいやそれ以上をさえ、ラシュヌールに贈るとも言った。
しかしながら、ラシュヌールはそれには興味を示さなかった。素っ気なく、考えておくと答えただけだった。そしてこの冷淡さに一番おどろいていたのがシャンルイノーだった。マルチアルの姿が消えると彼は、その驚きをおさえておくことができなかった。
「公爵たちのことを、われわれは悪く思い込みすぎているのではないでしょうか」
しかしラシュヌールは肩をすくめただけだった。
「そんな大金をわしにくれるとでも思っているのか。わしの娘の器量にひかれて、大金をちらつかしているにすぎない。娘はあのおっちょこちょいの侯爵どののお目にとまったというわけさ。侯爵は娘を妾にしたいのだ」
シャンルイノーは立ちどまった。眼が炎のように燃えていた。
「何てこった!」彼はさけんだ。「それが本当だったら、この身も魂もあなたに捧げます。あなたがのぞむとおり、なにごともやりとげます」
マルチアルは、セルムーズにもどって行きながらこんなことを考えた。
(マリー・アンヌのような女性には、いままで出会ったことがない。彼女と比較できるほど美しい女はこの世にひとりもいない。彼女を自分のものにしたい。必ず自分のものにしてみせる!)
そのための方策を思いめぐらしているうちに、マルチアルはセルムーズ大通りまで来た。そこでうしろに人の足音を聞いた。シュパンとその息子である。
「侯爵さま」と呼びかけたのはシュパンだった。「ずいぶんお捜しいたしましたぜ、せがれと二人で。公爵さまは……」
シュパンは背後にぴったりついて歩いている。マルチアルに話を聞かせるためである。そしてせきを切ったようにしゃべりたてた。その内容は、もっぱらラシュヌールについて拡まっている悪意のある噂ばなしだったが、シャンルイノーと娘を結婚させるという噂も含まれていた。マルチアルはひとことも言わなかった。ラシュヌールの行動のかげに、何か大きな秘密がひそんでいることは見抜いていた。そしてセルムーズに着くころには、何としてもその秘密をつきとめてやろうと決意を固めていた。父の公爵は今にも出立できる身仕度で息子の帰りを待ちわびていた。
「急いでクルトミュー家にいかなければならん。二度も催促の使いが来ておるのだ」と、公爵が息子に言った。「きわめて重要な政治的協議が行われることになっている」それから、クルトミュー城館へ向う馬車の中で公爵は言った。「お前には言っておきたいことが色々ある。が、まあ今日のところは、クルトミュー家のブランシュ嬢をとくと観察しておくように、とだけ言っておこう」
城館に着くと、クルトミュー侯爵はセルムーズ公爵そしてマルチアルと堅い握手をかわした。
「やっとお出でになられましたな」と彼はそれぞれに言った。「お待ちしておりましたよ。重要な話合いでしてな。陛下に対する上奏文の起草に関してですが……(総督政治になって亡命生活から舞いもどったクルトミューは、わずかの期間とはいえナポレオンの侍従をしていたので、保身のために大わらわにならねばならぬ身の上だったのである)近在の同志はことごとく私の書斎にお集りになっています。いわば、そこが本日の臨時会議室といったわけでして」
さぞかし砂をかむみたいな長口舌のやりとりだろう、そう想像しただけでマルチアルはうんざりだった。
「お嬢さまにご挨拶いたしたいのですが、どこにおられますか?」
「娘なら、あれの叔母と一緒に庭園にいます」
「それは都合がいい。庭園はよく存じております」
ジャスミンのいい匂いの漂う木の葉越しに、ブランシュ嬢の姿が目に入った。彼女はベンチに腰を下ろし、傍の老女に大きな声で手紙を読んでやっていた。
「なんと美しいひとだ、この女性も」と、マルチアルは思った。
ああ! 一見して無邪気な目もとをした十九歳になるこのブロンド娘が、まるで年ふりた宮廷女顔負けの冷やかな心の持ち主だとは……。
マルチアルが近寄ると、彼女は姿を表わした男を認めて、不意を突かれた牡鹿のような動作で立ち上がった。侯爵は深々と一礼し丁重に言った。
「ここへ来ればあなたにお会いできると、クルトミュー氏がうっかり口をすべらせてくださったものですから。それに、ぼくはもう深刻な会議の場にのこのこ出て行く勇気もなくなってしまいました……ですが……」
マルチアルは、ブランシュ嬢が手に持っている手紙を身ぶりで示し、つけ加えた。
「ひょっとすると、とんでもないお邪魔をしてしまったのでは?」
「いいえ、とんでもございませんわ。もっとも、この手紙の内容にとても感動してはおりましたけれど。私がいつも心にかけておりました、ある気の毒なお友だちから届いた手紙なのでございます。その娘はマリー・アンヌ・ラシュヌールと申します」
手紙の主の名を耳にすると、マルチアルはさっと顔色を変えた。その変りようをブランシュは見逃がさなかった。(何か事情《わけ》があるのかしら?)彼女はラシュヌール嬢の手紙をはっきりした声で読み上げながらそう思った。
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ブランシュさま。セルムーズ公爵がご帰還になられたことはすでにご存知のことと思います。その事実はわたくしにとって晴天の霹靂《へきれき》でございました……。公爵がお帰りになられた時から、あなたがお友だちだとおっしゃるこのわたくしは、もはや哀れな田舎娘でしかなくなりました。けれど、わたくしはくじけないで自分の運命を耐え忍ぶつもりでございます。
[#ここで字下げ終わり]
だがマルチアルは、手紙の最後のくだりを読まされていたらもっと心を打たれたことだろう。マリー・アンヌは書いていた。
[#ここから1字下げ]
ブランシュさま。それでもわたくしは生きなければなりません。わたくしはそのために、何の恥じらいも捨ててあなたのご援助を得たいと存じます。実は、今までよりもっと世間に|つて《ヽヽ》を得ることができますなら、刺繍の仕事に生活の糧《かて》を求められようかと思っておりますの。それで今日にもクルトミューへお邪魔し、あなたのご紹介で、お訪ねできそうな方々のリストをあなたにお願いしたいのでございます。
[#ここで字下げ終わり]
ブランシュ嬢は、この心を動かさずにはおかぬ懇願のことには一言も触れようとしなかった。帰る道すがら、彼女はマルチアルに腕をあずけ、訪問客の到来を告げる鐘が鳴り出すまでとりとめなくしゃべり続けた。鐘の音を耳にすると彼女は身震いして男の手から離れた。
「ああ、上でどんなお話が進んでいるか知りたいものね」
ブランシュ嬢の希望はマルチアルには命令だった。セルムーズ侯爵はそれに従った。
(彼女はぼくをお役御免にしたいらしいな)と、マルチアルはつぶやいた。(見えすいた言いぐさだ。でもどうしてぼくを追い払おうとするんだろう?)
なぜなのか? ブランシュ嬢は客の訪れを告げる鐘の音を聞くとすぐ、その客が自分の待っていた『お友だち』だとわかったのだ。彼女はマルチアルとマリー・アンヌが顔を合わせることを、何としても避けたかったのである。思ったとおり、ラシュヌール嬢がサロンで待っていた。
「セルムーズ公爵が」とクルトミュー侯爵の令嬢が言った。「そんなひどい仕打ちをなさるなんて本当に信じられないわ」
「公爵を悪く言ってはいけないわ」マリー・アンヌが答えた。「今朝ほどご子息を通して、考えてみるだけのことはありそうな申し出を言ってよこしたくらいよ」
ブランシュ嬢は|まむし《ヽヽヽ》にでも咬まれたような勢いで立ち上がった。
「そうすると、あなた、セルムーズ侯爵とお会いになったの?」
「ええ、そうよ」
「お宅へ行ったの?」
「私のうちにみえる途中の森の中で、偶然お会いしたの」
ブランシュ嬢は、マルチアルの厚かましい貴公子ぶりを想い出して顔を赤らめた。そんな自分の狼狽ぶりをブランシュ嬢は情けなく思った。しかしマリー・アンヌが帰ろうとすると気をとりなおし、友だちを力強く抱きしめた。悲しさで呼吸《いき》が止まる思いだったが。
(二人が会ったのは一度きりだわ)ブランシュ嬢は考えた。(でも二人は、お互いに忘れられないほどの強い印象を持ったのね! 愛し合うようになるのかしら?)
マリー・アンヌが帰ったあとで、ブランシュ嬢は深いもの思いに沈んだ。マルチアルの才気も人柄も彼女の気に入っていた。野心に満ちた女が望むであろうものは、何もかも備えている……。何としても自分の夫にしてみせる、と彼女は心に決めた。というのは、もう一人の女が自分とマルチアルを張りあうことになるだろうと予感した瞬間から、彼女はマルチアルを自分のものにしたくなったからだ。
一方ラシュヌールの命令に従って、モーリス・デスコルヴァルはレエシュの森から遠ざかっていたが、心は身も世もあらぬほど苦しかった。彼のようなか細い神経の持ち主には、こんな風に希望と絶望の間を行ったり来たりさせられては、たまったものではなかった。家に帰ると高熱を発して床についてしまった。
セルムーズに医者が一人いたけれど大変な藪医者で、土地のものは誰も頼りにしていなかった。唯一信用できるのは司祭で、百姓は病気になると司祭のもとに相談に行くのであった。デスコルヴァル氏も百姓たちと同様、司祭に頼むしか方法がなかった。
ミドン司祭は過去の経験で、医者の免状からは得ることのできない知識を持っていた。司祭は何を置いてもデスコルヴァル家に急行した。男爵は司祭の友人である。デスコルヴァル夫人が、司祭の到着を首を長くして待っていた。着くとすぐにモーリスの部屋へ、手をとって引っ張らんばかりの勢いで案内した。
病状はずいぶん悪かった。しかし、夫人は望みを失っていなかった。
「まあ、何とかなるでしょう」と司祭は微笑みながら言った。
司祭は、ひじの内側から刺絡して血を採り、各種の薬を処方した。
次の週の週末に到って、モーリスはやっと危険な状態から脱することができた。その同じ日にモーリスは父の男爵に、レエシュの森で起った出来事の一部始終を語った。話がすむと父親は息子に訊いた。
「マリー・アンヌは確かにそう答えたのか? たとえ彼女の父が同意を与えたとしても、彼女自身は拒絶すると言ったのか?」
「ええ、そう言いました」
「それで彼女はお前を愛しているのか?」
「ぼくはそう信じています」
その後デスコルヴァル氏は何事かつぶやいたが、息子の耳にまで達しなかった。
しかしそのつぶやきは、
「わたしは明日ラシュヌールに会おう。どうしてこうなったか、理由を説明してもらおう」
隠遁したラシュヌール氏の家は、レエシュの荒野の丘の上にあった。平屋だが三部屋あり、わらぶきの家だった。デスコルヴァル氏が入ったのは、壁を石灰で白く塗った狭苦しい部屋だった。マリー・アンヌは木の腰掛にすわり、刺繍をしていた。訪問客に気がつくと彼女は立ち上ったが、そのまま二人はしばらく何も話しかけようとしなかった。
初めに口をきいたのはデスコルヴァル氏のほうだった。ちょっと非難めいた調子で言った。
「モーリスのことを訊ねてくれないのですか?」
「毎朝たよりを寄越してくれる者があります。もしあの方が危篤だと聞かされていたら、わたしは今日まで生きてなどおりませんでしたでしょう」
「モーリスのことを思っていてくださったわけですな」
「たとえ忘れたいと思っても忘れることはできません。そのことはモーリスがご存知です」
「だがあなたは、父上が結婚に不同意なら父上の言うとおりにすると息子に言ったのでしょう」
「ええ申しましたわ。必要とあらば何度でも申し上げますわ」
「だが、あなたのせいでモーリスは、絶望のあまり死ぬかも知れんのですぞ」
「何て残酷なことをおっしゃるのです。あなたはどれだけわたしをお責めになれば気がすむのですか。どうかモーリスがわたしのことなど忘れ、二度と会いたがったりなさいませんように。あの方を説いて、どこか他所に行くようにはからっていただきたいのです。金輪際ここへはお出でくださいますな。この家は呪われています!」
マリー・アンヌはものに憑《つ》かれたかのような口調でしゃべっていた。その声は隣室に聞えるほど高いものだった。ドアが開いてラシュヌール氏の姿が現われた。
「おや、デスコルヴァル男爵ではありませんか。この家にお出でになられるとは!」
デスコルヴァル氏は力のない声で口ごもった。
「あなたはわたしたちをお捨てになられた。心配のあまり、わたしは……」
もとセルムーズ城館のあるじ、ラシュヌールは、相変らず眉をひそめたままだった。それでも何とか気をとりなおし客を隣の部屋へ誘う口調は、あの得意の絶頂にいたころのそれを思わせるといってよいほどのものだった。その部屋は書籍がうず高く積上げられ、小さな包みがいくつも置かれてあった。中に二人の若者がいた。一人はシャンルイノーだったが、もう一人の方はデスコルヴァル氏の記憶にない人物だった。とても若かった。
「わしの息子です」ラシュヌールが紹介した。「十年前にごらんになったときに比べて、ずいぶん変ったでしょう。(ジャン・ラシュヌールは二十歳になっていたが、疲れ切った風貌をし、若者らしからぬひげを生やしていたので、年より老けて見えた)パリで学業を続けるだけの学費がありませんので呼びもどしました。もっとも、我家の破産はかえってこの子には幸いだったかも知れません。何しろこの子ときたら女軽業師にうつつをぬかし、そやつの気を引こうと芸人の真似事までやる始末でしたからな」
「舞台に立つのが何で悪いんです!」
「父親をだましていたことだけでも十分さ。そればかりかお前は借金をつくった。少くとも二万フランという大金だ。半月ほど前だったら何とかなったかも知れないが、今は文無しだ。セルムーズどののお慈悲にでもすがらなければ、払いようもない大金だ」
あまりにも意外なこの言葉に、男爵は驚きを隠せなかった。ラシュヌールはその様子を見逃さなかった。そしで嘘偽りのないことをまざまざと見せつける口調で先を続けた。
「わしの言うことに驚いておられるようですね? よくわかっていますよ。最初のうちは、わしも腹立ちのあまり馬鹿げたことをつい口走ってしまいましたがね。……今はわしの気持も落着いたのです。ところが公爵はどんな態度に出たとお思いです? 後からまた公爵のご子息とお会いしました。ご子息と一緒に城館へ行き、自分のためにとっておきたい品々を指定さえして来ました。あの方は、それこそ何でも、わしの欲しいものを自由にとらせてくだすった。家具だろうと衣服だろうと下着類に至るまで、わしは選び放題でした。……それをすっかり、ここへ運んでくださることになっているのです。おかげでわしも、何も不自由しないですみます」
「なぜ、よそに家を捜さなかったのですか?」
「なぜって、この家で十分ですよ。侯爵はとても親切でした。わたしたちのために大変気をつかってくださいましたよ」
この最後の言葉に男爵は呆然とした。と同時に、デスコルヴァル氏の胸に、おぼろ気ながら、あるいまわしい予感がかすめた。
(この不幸な人たちは何かたくらんでいるのではないだろうか)と、男爵は考えた。
「あなたにお話しなければならんことがある」突然大声で男爵が言った。
「わしは忙しいのだ」とラシュヌールは、ちょっとためらいながら応じた。
「五分ですみますよ」
ラシュヌールは肩をすくめた。それから息子とシャンルイノーに、部屋から出るように言った。ドアが閉められるや否や、
「男爵」とラシュヌールが口を切った。「あなたはまたマリー・アンヌのことでお出でになったのでしょう。わしがお断りしたために、モーリスが死にかねないほど苦しんでいるのは知っています。だがわしにしても、それは辛い思いでした。しかし結婚をお断りする考えは、変りも揺らぎもしません」
「われわれは友人ではなかったのか?」
「あなたとはむろん友人です」ラシュヌールは情愛のこもった口調で答えた。「わしがこの世で持った最上の友人です。あなたのためなら、どんなことだろうと厭《いと》いはしません。だからこそ、わしはこう御返事するのです。そう、あれたちの結婚には絶対反対です!」
デスコルヴァル氏はラシュヌールのこぶしをつかみ強く握った。
「不幸な人だ!」と沈痛な声になった。
「何をしようというのかね? どんな恐しい復讐を考えているのだね?」
「わしは誓いますよ」
「誓う必要はない。どんな計画か、わたしには解るような気がする。あなたは心底、これまで以上にセルムーズ家を嫌っておられる」
「わしがですって?」
「そうだ、あなたがだ……。あなたがかつての恨みを忘れたかに見せかけているのも、そうすれば向うも同じように忘れてしまうだろうと思っての上なのだ。それというのも、あの人たちのあなたへの不信を一たび眠らせてしまいさえすれば、あとは思うとおりに料理できるという確信があるからだ、それに……」
ドアが開かれ、マリー・アンヌが姿を現わしたので、話は自然にとぎれた。
「お父さま」と、マリー・アンヌがいった。
「セルムーズ侯爵さまがお見えになりましたわ」
熱っぽく、相手の心のうちを絵解きしてしゃべっていた最中に、その名を告げられたデスコルヴァル氏は、そんな自分の解釈が足もとから崩される思いで呆然となった。
「あの青年は、いつもお宅に来ているのですか」とラシュヌールに言った。
「ええ、毎日来るのです。いつもはもう少し遅い時間ですがね」
「すると、お宅では、彼を出入りさせ歓迎しているのかね?」
「むろん心から歓迎していますとも。どうしてあの人の好意を受けとらないでいられましょうか。それにわしらは、セルムーズの土地が然るべき所有主にきちんともどるべく、力を尽くさねばならんのです」
男爵は相手をさえぎって言った。
「わたしは、あなたがわたしにそう思い込ませているとおりの友人として、これだけは言っておかねばならん。セルムーズ侯爵がこの家に出入りするためにとりつくろっている口実に、あなたは欺されているんだ!……用心するがいい、ラシュヌール! 自分の娘をどんなはめに陥れようとしているか、とくと考えてみることだ。一方のシャンルイノーは、お嬢さんを妻にしようと狙っているし、もう一方のセルムーズも、あのひとを手に入れようとしているが、それは……」
「手に入れるというのは、妾にしようということだろう? マリー・アンヌはしっかりした娘だ。そんな中傷をわしは好かん」
デスコルヴァル氏は腹立たし気に言った。
「では言い方を変えよう。あなたは、目的のためには娘の名誉も評判も台無しにしようというのだ」
ラシュヌールはどなり立てた。
「そうか。あなたはそこまで言うのか! わしが娘を道具に使って、計画を成就させようとしているというのだな」
「語るに落ちたな。あなたはセルムーズ家に復讐しようと願っている。そのためシャンルイノーを仲間に引っ張り込んだ」
しかしラシュヌールは唐突に議論を打ち切った。
「わしはそんなことは何一つ認めませんぞ、男爵。そのことについては、これ以上何を言わせようったって無理です。これまでの出来事のために、わしらの間には深い溝ができてしまった。これ以上お会いすることはありますまい。話を続けても、昨日わしがミドン司祭に言ったことを、くどくどとあなたに繰り返すだけでしょう。もしあなたがわしの友人なら、どんな口実であれ二度とここにはお出でにならんでください。この家は不吉なのです。今朝こうしてお見えになったばかりに、あなたの身に何がふりかかるか知れないのです」
ラシュヌールは、これが最後の訣別とでもいうように、デスコルヴァル氏の手を固く握った。そしてセルムーズ侯爵を招じ入れるためにドアを開けた。デスコルヴァルは帰るしかすべがなかった。マリー・アンヌと話すこともできない。シャンルイノーとジャン・ラシュヌールが目を光らせている。引きあげざるを得なかった。
クルトミュー侯爵は、わが娘をマルチアル・ド・セルムーズに嫁がせたいと固く心に決めていた。そんなわけで、公爵と掛合って結婚の約束がとりかわされて間もなかったが、城主はそのことを自分の相続人には一言も話さずにおいた。何せ変り者の娘のことだから、自分がどれほどこの縁組を望んでいるかをしゃべろうものなら、かえって|つむじ《ヽヽヽ》を曲げていやだと言い出しかねなかったからだ。まあまあ、すべてを自然の成行きにまかせておくのが、事を成就させる最良のやり方だと思えたのである。そんなある朝のこと、ブランシュ嬢は父親に向ってこうはっきり言ってのけた。
「あなたのじゃじゃ馬娘が決心をしたのですよ、お父さま。あたし、セルムーズ侯爵を生涯の夫と決めましたのよ」
実はすでに何日も前から、彼女はマルチアルをひざまずかせ求愛させるべく、自分の魅力のありったけを用いて誘惑していたのだ。要するに彼女はマルチアルを相手に、初恋におちた乙女のみごとなお芝居を(それも、あきれるばかりの巧みさで)演じて見せたのだ。しかし彼女は、最も巧みな役者は得てして、自分自身の芝居に自らだまされるものだ、ということには気づいていなかった。彼女がそのことを思い知らされたのは、ある夜セルムーズ公爵のちょっとした冗談口がきっかけで、マルチアルが毎日のようにラシュヌール一家のもとに通っている事実を知らされた時だった。その時彼女が感じたのは胸を突き刺されんばかりの苦痛だった。真っ赤に焼けた刃を押し当てられたような気がした。
ある昼下り、叔母のメディ――クルトミュー家で面倒をみている老嬢だが――を無理に誘って、ラシュヌール家を遙かに見とおすことができるレエシュの森に出向いた。その日はちょうど、デスコルヴァル氏が旧友のラシュヌールに釈明を求めて訪れた日だった。ブランシュ嬢はまずデスコルヴァル氏の姿を認めたが、ちょっとあとで今度はマルチアルが到着するのを見た。見まちがうはずはなかった。
間もなくデスコルヴァル氏が出て来た。ブランシュ嬢はマルチアルが彼に話しかけるのを目撃した。そして安堵《あんど》の吐息をもらした。マルチアルの訪問は、たかだか半時間ほどのものでしかなかった。そして明らかに、もう立ち去ろうとしている。いや、とんでもない。マルチアルは男爵と別れの挨拶をし、ラシュヌール家に入った。
ラシュヌール氏の家具や身の回りの品々を積んだ荷馬車が、何台も到着するところだった。誰も彼もが荷馬車からの荷降ろしに忙しかった。そして若い侯爵は何くれとなく指示をしてまわり、時には自ら作業に手を貸しさえすることもあった。
「まるで自分の家のようだわ」と、ブランシュ嬢は思った。「なんてことだろう、ご立派な紳士だこと!」
ブランシュ嬢は息のつまる思いだった。それでも立ち去りかね、荷物がことごとく家の中へ運び込まれるまでの間、じっと立たずんでいた。馬車が出発するとマルチアルが玄関のところに姿を現わしたが、マリー・アンヌと一緒で何やらさかんにしゃべっていた。マルチアルは帰りたくないようだった。それでもやがて、名残り惜しそうにその場を離れた。戸口ではマリー・アンヌが親し気に手をふっている。
「あのひととお話しなくては!」ブランシュ嬢は声高にいった。「メディおばさん、行くわよ!」
マリー・アンヌの前に姿を現わしたとき、ブランシュ嬢の口もとには精一杯の優し気な微笑が浮んでいた。
「ここまで来るのは一仕事ね。だって、あなたのお住いは山の上ですもの。でもやっとご一緒できたわ。あなたから何のお便りもないままじっとしているなんて我慢できなかったのですもの。その後どうなさっていらして? あたしの推薦が、望んでいらしたお仕事にはお役に立ちまして?」
マリー・アンヌはこの上ない素直さで、自分の奔走が何の甲斐もなかったことを打ち明けた。しかしブランシュ嬢は聴いてなどいなかった。彼女が立っているすぐそばに、セルムーズから運ばれて来た大きな木箱がいくつも転がっていた。その荷物がまた、ブランシュ嬢の怒りを掻きたてた。
「あなた、山の中に住んでいるので忘れっぽくなってしまったのではないかしら? このきれいなお花はどなたから?」
マリー・アンヌは顔を赤らめ小声でいった。
「セルムーズ侯爵さまの御好意ですわ」
ブランシュ嬢はその怒りを、にこやかな笑みにうまく隠した。
「お気をつけてね。そうお願いしておかなくてはね。だって、このお花をあなたに贈った人はあたしの婚約者《フィアンセ》なのですもの」
「何ですって? セルムーズ侯爵が……」
「そうですとも。あなたのお友だちに求愛なさったの。父も同意してくれたのよ。まだ公表はしていませんけどね。つまり、二組同時の婚礼がみんなをあっと言わせることになるわけね。だって、あなたも結婚なさるおつもりでしょう?」
「わたしがですって?」
「ええそうよ。あなたよ。あなたがこの近くに住むある若者と結婚なさることは、誰もが知っていてよ。ええと、何ていうお名前だったかしら。そうそう、シャンルイノーだわ!」
マリー・アンヌは激し過ぎるぐらいの口調で打ち消した。「みんな思い違いをしているのよ。そんなこと。あたし決してそのひとと結婚なんかしませんことよ」
「あら、どうして? 彼は大変なお金持だという噂だわ。いいこと、そんな相手を断るなんてまちがっていてよ」
ブランシュ嬢は嘲笑しながら立ち去った。マリー・アンヌは驚きと悲しみと怒りをないまぜた気持で立ちつくしていた。このとき、彼女の腕に手を置いたものがある。ふり返ってみると父だった。ラシュヌールは顔も青ざめ、眼を暗く光らせていた。
「ああいう娘どもは誰も彼もあんなものさ。自分たちの血管には、わしらなんかより上等な血が流れていると思い込んでいるのだ。しかし我慢しなければな。いつかかならず思い知らせてやる時がくる。あの貴族の娘がどうしてこんな侮辱を与えたか、お前にはわからんだろう。だがわしにはわかるよ。お前がセルムーズ侯爵の情人だとあの娘は思い込んでいるのだ」
マリー・アンヌは口ごもった。「まあ、なんてことを! なんて恥かしいことを!」
「だが、お前だって覚悟していたのではないのか? わしの計画を成就させるために我身を犠牲にして、お前に毛嫌いされ、わしに軽蔑されている侯爵の好意を甘んじて受けていれば、いつの日かこんな目にあうことは承知だっただろうに?」
「でもモーリスが! モーリスが誤解するわ!わたし、どんなことだって我慢できます。でも、それだけは……」
ラシュヌール氏はそれには答えなかった。マリー・アンヌの絶望的な気持を考えると、身を切られるような思いだった。胸がいっぱいになって家の中へもどった。
ブランシュ嬢は中傷を武器に使おうと決意した。おかげで、マリー・アンヌの評判は台無しになってしまった。しかしマルチアルはラシュヌール家の訪問を止めるどころか、かえって足繁く通い、いっそう長い時間をそこで過すようになった。あげくの果ては夜を明かすことさえあった。
そんな風に例によってラシュヌール家を訪れたある夕暮れ時、彼は一人の男が家の中から走って飛び出してくるのを認めた。ラシュヌールの息子もシャンルイノーも不在のはずだった。マルチアルは後を追ったが姿を見失ってしまった。モーリス・デスコルヴァルにまちがいないと思った。
モーリスは父が外出するところを見とがめ、ラシュヌール家を訪れるつもりだと見抜いた。三時間たって帰宅した父の様子を一目見ると、すべてを了解した。今度こそ絶望的だとわかった。いっそのこと死んでしまいたい気がした。けれどすぐにそんな気の弱さを恥じ、父親に会いに行った。
「どうでした?」と訊いた。
「ラシュヌールはわたしの頼みに耳を貸そうとしなかった。ありていに言うと、お前にはもうあきらめてもらうほかはない」
「マリー・アンヌにもお会いになりましたか?話をなさいましたか?」
「ラシュヌール以上に取りつく島もなかったよ」
「あの人たちはぼくを追い払って、シャンルイノーを家に入れるつもりなんです」
「シャンルイノーは一家のひとりと同じ待遇を受けている。その上マルチアル・ド・セルムーズも、客人として温かく受けいれられている。わたしはそれをこの眼で見ている。ラシュヌールは憎しみにとり憑かれて、何かおそろしい復讐を胸に秘めているのだ。何か陰謀をたくらみ、自分がその首領におさまる算段なのかも知れない」
「それだけでは、しつこくぼくを追い払おうとする説明がつきませんよ」
「いや、彼はマリー・アンヌをダシにして、シャンルイノーとセルムーズ侯爵を利用しているのだ。もしあの娘がお前の妻に決まれば、二人ともさっさと彼を見限るだろう。その上あの男はわたしたちに友情を抱いている。だから何としても、わたしたちを巻添えにしたくないのだよ。まあ、これはわたしの推測の域を出ないがね」
「あきらめて、忘れることですね」モーリスはつぶやいた。
彼がそう言ったのは父親を安心させるためであった。しかし内心では全く反対のことを考えていた。
(もしラシュヌールが何事かを企んでいるのなら、仲間が要るにちがいない。どうしてぼくが協力を申し出ていけないことがあるだろうか?彼と危険も希望も分かちあっていれば、マリー・アンヌをぼくの妻にくれないではいられなくなるだろう)
そこまで思いつめれば、ラシュヌールに協力を申し出る決心をするのはた易いことでしかない。そして事実、モーリスはそうしたのである。その瞬間からというもの、彼は一日も早く健康を回復することしか頭になかった。
そうこうしているうちに、九月の二週目に入った。ミドン司祭がモーリスに、もう普段の生活にもどってさしつかえあるまいと告げ、折から気候もよかったので、何がしかの運動が身体のためにもなろうと勧めた。
「それじゃ狩りでもしますよ!」とモーリスは勢いづいていった。
銃を肩にして、ラシュヌール氏の家へとオワゼルの道をたどるその朝ほど、幸せな気分に包まれたことはなかった。レエシュの森に着くと、ラシュヌール家を望見できるあたりで足を停めた。ジャンと、次いでシャンルイノーが出かけて行くのが見えた。二人とも行商人に身をやつしていた。ラシュヌール氏とマリー・アンヌしか家にいないことは確かだった。モーリスは駆けた。
マリー・アンヌと父親は手前の部屋で、盛んに燃えている暖炉の前にうずくまっていた。モーリスの姿を見ると、二人ははっとしたように立ち上がった。
「ここに、何をしにいらしたのですか?」二人は同時にさけんだ。
「わしがあれほど申し上げたのに、またもやお出でになるとは、しつこ過ぎやしませんか、デスコルヴァルさん」と、ラシュヌール氏は声を荒らげて付け加えた。
モーリスは微笑した。落着いていた。踏み込んだばかりの室内のこまかい部分までも、一目見ただけですべてを理解した。火の上に掛けられた大鍋、薪掛けの傍の二つの銃弾の鋳型――。
「厚かましくもお邪魔したのは、すべてをぼくが承知しているからです。あなたの復讐の計画はちゃんとわかっているのです。あなたは仲間をさがしておられるに決っている。いかがでしょう、あなたは、ぼくなど仲間に加えてやる資格はないと思っておられますか」
ラシュヌール氏のほうは、うろたえ、怒ったふりをするのも忘れて口ごもった。
「おっしゃることの意味が、どうも理解できませんね。わしには別に計画などないのだし」
「ではなぜ、この部屋で弾丸など作っているのです? 少くとも、ドアぐらいは閉めておかなければいけませんね。いつ、どんな人間が入って来るか知れたものではありませんよ」
そういってモーリスは戸口のところまで引き返し、閂《かんぬき》をかけた。
「それこそ不用心というものだ。でも、こうしてこの場を見てしまった者に、今さら何をとりつくろっても無駄ですよ」
こうしてモーリス・デスコルヴァルは、謀《はか》りごとに加担することになった。
そんなわけで、セルムーズ侯爵がラシュヌール氏の家から脱け出すところを見つけた人影は、まさしくモーリス・デスコルヴァルのそれだったのである。マルチアルに確信があったわけではない。しかし彼の胸が怒りでいっぱいになるには疑惑だけでも十分だった。
(おれはとんだ三枚目を演じたものだな!)
この男も恋に目がくらんで、正しい情況の判断ができないでいた。モーリスのラシュヌール家訪問に疑惑を覚えはしたものの、それも彼の目から|うろこ《ヽヽヽ》をとる役には立たなかった。
(女の手練手管に操られているのではなかろうか?)と考えた。
そこに思い到るとくやしくて一週間ほどレエシュの森に行くのをやめたほどだった。息子がすねているのを見抜いたセルムーズ公爵は、それをいいことにクルトミュー家との縁談をまんまと承知させてしまった。
「いいですとも! ぼくはブランシュ嬢と結婚しようじゃありませんか!」マルチアルはついにはっきり受けあった。
四十八時間たらずのうちに、正式に交渉がまとめられた。結納が取りかわされ、春に結婚式が行われる段取りになった。
その婚約成立のための晩餐会がセルムーズで催された。セルムーズ公爵は陸軍中将の称号とともに、モンテニアックの陸軍総司令官たる権能を授けられたばかりだった。この地方に蔓延《まんえん》しているブールボン王朝復活への敵意に対処するためだった。
ブランシュ嬢に凱歌があがった。その祝宴が終り、マルチアルが我にかえったときは、夫婦の契りで彼女に縛りつけられていたというわけである。事実、二週間のあいだ彼は言わば一瞬たりとも彼女のそばを離れなかった。不幸なことに、この気位いの高い貴族の令嬢は『侯爵のかつての趣味の悪さ』と自ら名付けた例の一件をほのめかしてからかう誘惑に勝てなかった。そして機会をとらえては、自分はマリー・アンヌの暮しを助けるために、仕事口の世話をしてやっていたとまで吹聴したのである。
マルチアルは、その場は苦笑いでとりつくろったものの、未来の妻の遣り口の下劣さを知ってマリー・アンヌに同情せずにはいられなかった。そしてすぐ翌日、彼はラシュヌールの家を訪ねた。たちまちかつての習慣をとりもどし、訪問は一日も欠かされぬものとなった。ある時シャンルイノーが手紙を書くのにひどく難渋しているのを見て、秘書代りになって手伝いたくなった。
「ぼくの伯父が、娘を結婚させようとしているのです」とシャンルイノーが説明した。
マルチアルはシャルイノーの言うとおりに手紙を書いた。
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わたくしたちはとうとう話合いがまとまり、結婚式の日取りは…月…日に決まりました。ぜひご出席いただけますようにお願い申し上げます。必ずやご来臨の栄を賜わるものと期待しております。そして、ご友人をお一人でも多くお誘い下されば下さるほど、わたくしたちの喜びはいや増すこととなりましょう。祝宴は形式にとらわれぬものに致したく、また非常に人数も多くなりますので、恐縮ですが何がしかの食べ物なり飲み物なりをご持参いただけますなら幸いに存じます。
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もしマルチアルがその時、シャンルイノーが浮べた薄笑いと、式の日取りを空欄にしたまま手紙を折りたたむのをちゃんと見ていたら、自分が罠に陥れられたのに気がついたであろう。
三月四日の四時半ごろ、デスコルヴァル氏とミドン司祭が何やら気がかりそうな顔をして、レエシュの丘に通じる道をのぼっていた。森を出たところで二人は奇妙な光景に出会った。陽はかげりはじめていた。ラシュヌールの家の前に十二人ほどの人影が集まっている。ラシュヌール氏が話していた。男爵にも司祭にも彼が何をしゃべっているのかは聞えなかった。しかし彼の言葉は時折り、この上なく熱烈な歓呼でさえぎられた。程なく彼の指にマッチの光が点った。藁束《わらたば》に火をつけ藁屋根の上にほうり上げた。彼はさけんだ。
「わしの決心は変らない。これが証拠だ!」
五分後、家は炎につつまれた。すると、はるか遠くのモンテニアック城砦の窓の一つが、灯台の光のようにパッと明るくなった。そしてまた地平線の到るところが火事の炎で紅に染った。ラシュヌールの合図に人々が立ち上がったのだ。
片や陸軍部隊の総司令官、片やモンテニアックの臨時即決裁判所長に任ぜられていたセルムーズ公爵とクルトミュー侯爵は、余儀なく自分たちの城館を捨て、ともかくも街に居を据えた。
時に一八一六年三月四日である。セルムーズ公爵がテーブルに着くと、息せき切って一人の男が入って来た。シュパンおやじだった。
「やつらが攻めてきます。こっちへ向っています!」シュパンがさけんだ。
「何者が? 何者が?」と公爵が問いただした。
畑泥棒の老人は一通の手紙の写しをさし出した。マルチアルがシャンルイノーに頼まれて書かされたものだった。セルムーズ公爵が読んだ。
『わたくしたちはとうとう話合いがまとまり、結婚式の日取りは三月四日に決まりました…』
「それで?」と公爵が訊く。
「進軍中です」シュパンは繰り返した。「百姓たちの話を聞きました。モンテニアック城砦をのっとり、ルイ十八世を追放して、『例の人』か、またはそのせがれを王位に着けようというのです」
公爵は呼び鈴を力まかせに振った。召使があらわれた。
「軍服だ! 勲章と軍刀、ピストルも用意しろ! 誰か馬を飛ばせ。息子のところへ行ってここに駆けつけるよう伝えろ。セルムーズへ行ってもどって来るのに、二時間もあれば十分だろう」
シュパンは彼のフロックコートの端を引っぱり、引きとめた。
「侯爵さまをお捜しになられるのは無用だと存じますので」
「どうしてだ。おかしなことを言うではないか」
「ラシュヌールと一緒です」
召使がもどって来たとき、セルムーズ公爵は聞くに耐えないひどい言い回しで、マリー・アンヌを罵っていた。そのあと、さすがに黙って、軍服を着るとシュパンについて来いと命じ、外にとび出した。アルム広場まで来てみると、見渡す限り炎の中だった。
「むほん人どもの合図です!」とシュパンが言った。「手紙にあるとおり、祝言の日時に合わせて立ち上がれという指令だったんで。ですから午前二時にはここにやつらが来るでしょう」
公爵としては、クルトミュー氏と事態について話し合わねばならなかった。きっと怯《おび》えきっているにちがいないと思っていた。ところが彼の友人はうっとりとなっていた。
「来るべきものが来た! 今こそ我らが熱誠のほどを示す絶好の機会だな!」
しかし突然、彼の頭に一つの心配事が浮かんだ。
「ブランシュが今夜来ることになっていた。夕食をすませてクルトミューを発ったはずだ。あの子の身に万一のことがなければよいが!」
百姓たちは前進していた。しかしシュパンが報告したようには速くなかった。ラシュヌールの計画を挫折させた要因は二つあった。彼がすでに馬の鐙《あぶみ》に足をかけたとき、二人の男が目の前に飛び出し、なかの一人が轡《くつわ》を捕えたのである。
「おや、ミドン司祭!」と驚いてラシュヌールは叫んだ。「それにデスコルヴァルさんもご一緒か」
そしておそらく二人の意図を察したのであろう。彼は続けて言った。
「今さら、何のご用がおありです?」
「あなたの無謀な計画を止めさせるために来たのだ。憎悪があなたの気を狂わせた!」デスコルヴァルが言った。「これから何をしでかそうとしているのか、わたしにはわかる。モンテニアックの城砦を占領するつもりだろう」
「あなたたちに何の関係があるというのだ」ラシュヌールは荒々しくさえぎった。
そのとき、シャンルイノーが銃を振りまわしながら話に割って入った。
「つまらんおしゃべりで時間を無駄にしないでください」と彼は大声でさけんだ。
ラシュヌールは二人を振りきり、鞍にまたがった。
「進め!」と号令を発した。
しかし男爵と司祭は馬の鼻先に身を投げ出した。
「ラシュヌール」と司祭はさけんだ。「あんたが流そうとしている血は、やがてはあんた自身の、そして子どもたちの頭にふりかかって来ますぞ!」
その剣幕に、小さな部隊は足をとめざるを得なかった。すると列の中から、百姓に身をやつした仲間の一人が進み出た。
「マリー・アンヌではないか!」司祭と男爵は驚愕してさけんだ。
「そう、わたしですわ」大きな帽子でわからないように顔を隠した若い女が答えた。「わたしはこの人たちと生死を共にします。ご忠告は有難いと思いますがもう手遅れです。あの無数の灯りが目に入らないのですか? モンテニアックから一里ほど離れたクロア・ダルシイの四辻へ、同志が武装して向っている合図です。二時間足らずのうちに千五百人ほどの同志が集合し、父の指揮を待つことになりましょう。指揮者のない集団が考えられますか? 父は行かなければならないのです」
父親と恋人の熱狂がマリー・アンヌにも乗り移っていた。彼女の言葉にどっと喊声《かんせい》を上げると、小さな部隊は荒野を突っ切って進みはじめた。もはや戦うしかなかった。デスコルヴァル氏は呆然となったものの、隊列の中に息子の姿を見出すと、黙って行かせることはできなかった。
「モーリス!」彼はどなった。「気違いどもと一緒に行かないでくれ」
「父上、お言いつけに従うわけにはいきません。わたしは志願したのです。誓ったのです。わたしはラシュヌールを補佐して指揮をとるのです」
ちょうどそのころ、ブランシュ・ド・クルトミューがセルムーズ村を馬車で走りぬけようとしていた。その馬車の中でブランシュは、村中が異様に興奮しているのに気づいた。どの家にも明りがあかあかと点き、酒場は酔っぱらいであふれ、広場にも興奮した群衆が集っていた。だがクルトミューの令嬢にそれが何だというのだ! 彼女がやっとその物思いから我に返ったのは、セルムーズから一里ほどのところへさしかかった時だった。
「何か聞えません? メディおばさま」とブランシュは突然言った。「ほら、聞えるでしょ?」
遠くの方に大騒ぎの気配があった。馬車の窓をあけてブランシュ嬢は御者にただした。
「どうも百姓どものようです」御者が答える。「松明《たいまつ》の火がやけにたくさん見えますよ。きっと結婚式か何かでしょう」
それは、四つか五つの村をも巻き込んでふくれ上がりつつあるラシュヌールの部隊だった。はじめこそ小人数の百姓たちだったが、そのころになると五千人ほどに増えていた。すでに二時間前から、ラシュヌールがクロア・ダルシーで指揮をとっているはずだった。だがデスコルヴァル男爵のおかげで手間取り、おまけにセルムーズで、企ての成功を祝うべくあちこちの居酒屋でおだを上げている百姓たちを掻き集めるために、四倍もの時間がかかってしまった。
突然その一団は足を停めた。そのうちの何人かが、クルトミューの令嬢が乗っている馬車のランタンの灯りを見つけたのだ。馬車は四列縦隊の部隊の中に入り込んでしまった。御者の仕着せがその持ち主を教えている。かまびすしい喊声が馬車のまわりを取り巻いた。
クルトミュー氏は、その貪欲ぶりという点からすると、セルムーズ公爵以上に憎まれていたのである。百姓たちは、その彼を震え上がらせる機会にめぐまれて歓喜した。だから、馬車の中に絹を裂くような悲鳴を上げているブランシュ嬢と、叔母のメディしかいないことに気がついた時の失望は大きかった。
「何をしようというの?」クルトミューの令嬢は声をはげました。
「明日になればわかりますさ」シャンルイノーが進み出て言った。「さし当り今夜は、我々の捕虜になってもらいますよ」
「おまえは、わたしが誰だか知らないのね。だからこそそんな口がきけるのよ」
「いや存じてますとも。存じ上げていればこそ馬車から降りてくださるようにお願いしているんです。そうしてもらわなきゃなりませんよね、え、デスコルヴァルさん?」
「そうなの! ではわたしもはっきり言っておきます。馬車からは降りません。できるものなら引きずり降ろしたらいいわ!」
マリー・アンヌがさけばなかったら、本当にそうなっていたにちがいない。
「お嬢さまには、このまま、今来た道を引き返していただきましょう。近道をして無事にモンテニアックへ帰れるよう、二人の男にクルトミューまでお送りさせるのよ」
一同はマリー・アンヌの命に服した。馬車は回れ右してその場から遠ざかった。しかしそのスピードは、ブランシュ嬢のさけぶ声がマリー・アンヌに聞こえるに十分だった。
「マリー・アンヌ! あなたの寛大ぶった侮辱には、いつか必ずこっぴどいお返しをしてあげてよ!」
この出来事で十分ほど無駄にした。ラシュヌールは、重大な決断の時が来たのを悟った。そこで彼はモーリスとシャンルイノーをよんだ。
「何としてでも、この馬鹿者たちの前進を急がせねばならん。わしはクロア・ダルシーへ駆けつける。我々の計画が成功するかしないかは、いつにかかってクロア・ダルシーの動向にあるのだから」
事実彼は先発した。しかし部隊を五百メートルも引き離さぬうちに、白い街道のずっと先のほうに二人の男の姿が目に入った。二人とも腕をふり、前のめりになりながら走っていた。それが、自分のためにモンテニアックの城門の一つを開けておいてくれるはずの、二人の退役士官だと気づいたとたん、ラシュヌールはいやな予感に襲われた。
「おい、どうしたのだ。何が起ったのだ?」彼はせき込んでさけんだ。
「すべては露見してしまいました!」カルニイ少佐が立ちどまった。
「それで」と士官は続けた。「同志たちに急を告げる一方、あなたにもお知らせすべく駆けつけて来たのです。事は成らなかった!」
「それで匙《さじ》を投げてしまうとは、弱気にもほどがある」ラシュヌールは苦々し気に言った。「いや、まだ敗けとは決まっていない。わしのあとからやって来る連中をここで待っていてくれ。そして連中には、諸君に急いでもらうよう伝えるために派遣されたと言うんだ」
言い捨ててラシュヌールは再び走り出した。
クロア・ダルシーでは人々がラシュヌールをなじっていた。早くも裏切り者とか、煽動者とかいった非難が、そこここに起っていた。すべての軍議はすさまじい馬蹄の響きに中断された。やがて一頭立て馬車が到着した。二人の男が馬車からとび出した。デスコルヴァル男爵とミドン司祭だった。近道をとりラシュヌールの先回りをして来たのだ。まだ間にあうだろうと考えてのことだった。だがここでもレエシュの荒野の時と同様、二人のあらゆる努力も、盲目的な頑固さの前に打ち砕かれねばならなかった。彼らは動きを止めることができようかも知れないという期待を抱いて駆けつけたのだが、かえって火に油を注いでしまったのである。
クロア・ダルシーからモンテニアックまで五十分かかった。間もなく、退役士官らが開けておいてくれるはずの城門が見えて来た。
十一時だった。約束より早かったが、扉は開いていた。これこそ陰謀団に、その城内の仲間が町を制圧しておいてくれたことの証拠ではあるまいか。だが、デスコルヴァル男爵とミドン司祭だけは破局を予感した。
一隊の先頭は跳開橋を渡りはじめていた。そして、一番乗りが城内に足を踏み入れたその瞬間のことだ。ピストルの発射音が響いた。それが合図だった。それに呼応して小銃の一斉射撃が起ったのである。三、四人の百姓が撃ち倒されて息たえた。他の者は恐怖にすくんで足をとめた。誰か臆病な男がパニックに捕われたらしい声を張り上げた。
「裏切りだ! 逃げろ!」
それをきっかけに、事態は急転回した。誰も彼もが恐怖におそわれ、度を失い、逃げることしか頭になかった。
ラシュヌールが全速力でクロア・ダルシーの近くに着いたとき、一斉射撃の銃声が彼のところまで響いてきた。ラシュヌールは耳をすました。
応射する銃声は一つも聞えなかった。殺戮《さつりく》が行われているのに違いない。戦闘などと言えるものではなかろう。ラシュヌールは血みどろの光景を眼に浮べた。
彼は再び馬の腹を蹴った。間もなく逃げ出して来る者たちの一団が目に入った。ラシュヌールは彼らの中にとび込んだ。
「腰抜けめ!」と彼は罵った。「裏切り者め!なぜ逃げるのだ! 敵一人に味方は十人だぞ。進め進め! 我々は絶対勝てる! わしの後から二千人が来るぞ!」
しかし現実にその二千人が目の前になくては、この敗走を食い止めることはできなかった。ラシュヌールは、奔流にもてあそばれる枯れ枝のように潰走《かいそう》者の流れに巻込まれてしまった。
クロア・ダルシーの四辻まで来てやっと、勇気のある者たちが気をとりなおし、踏み止まったものの、他の連中は四方八方へ闇雲に逃げ散って行った。
百人ばかりの人間が、ラシュヌール氏のまわりに集まった。その中にミドン司祭がいた。司祭はパニックのあおりを食ってデスコルヴァル氏とはぐれてしまい、その後一度も顔を合わせていなかった。彼は一同の評議に耳を傾けた。
解散すべきか? はたまた、敗走者がそれぞれの家に逃げ帰る暇を稼ぐために、とどまって抵抗すべきか?
あれこれためらっているうちに、モーリスとシャンルイノーの率いる支隊がようやく到着した。
セルムーズを出発した時は五百人いた部隊も、退役士官の二人を入れて十五人ほどしか残っていない。マリー・アンヌはこの小人数の部隊に混じっていて来ていた。
「戦うために来たのだ」とシャンルイノーがきっぱり言った。
「そうだ、あくまで戦おう!」他の者が応じた。
しかしシャンルイノーはそのまま連中にはついて行かないで、モーリスを離れた場所に連れ出した。
「あなたは家にお帰りなさい」と、シャンルイノーは突然切り出した。
「ぼくは自分の義務を果たすつもりだよ、君と同じようにね」
「あなたの義務はマリー・アンヌをお守りすることでしょう。あなたの生命は、あなたと結ばれるべく宿命づけられた女性のために捧げられるべきです」
「何てことを! 君はまさか本気でそんなことを!……」
シャンルイノーは悲し気に首を横にふった。
「本当のことを言っただけですよ」と彼は応じた。「成るべくして成ったまでです。あなたのせいでも彼女のせいでもない。かつてはあなたを殺してやりたいと思ったこともあった。ほんの目と鼻の先から、あなたに銃の狙いをつけたこともあります。しかし神が引き金を引かせなかった。間もなくわたしはラシュヌールとともに死ぬでしょう。しかし、誰かがマリー・アンヌのそばにいてやらなければなりません。マリー・アンヌと結婚すると誓ってください。たぶんあなた方の行方が追求されることになります。でもわたしはここに踏みとどまって、あなた方が無事に逃れられるよう頑張ってみせますよ」
一斉射撃の銃声がして、話を中断しなければならなかった。敵の軍勢が攻撃して来たのである。
「ちくしょう、とうとうやって来やがった!」シャンルイノーはさけんだ。「マリー・アンヌは?」
彼女を見つけたのはモーリスが先だった。辻の中央に立って、父親の馬の首にとりすがっていた。
「来てください、こちらに!」と、モーリスがさけんだ。
「おねがい、放っておいて……」
「われわれはすべてを失ったのですよ」
「知ってます。すべてをね。名誉さえも。だからこそわたしは残って、死ななければならないのです。こうするより他にないのよ……」
そしてモーリスのほうに身体をかたむけ、小さな声でささやいた。
「恥辱が世間に知れ渡らぬためには、そうしなければなりませんわ……」
すさまじい銃声が炸裂していた。二人がいるのは最も危険な場所だった。今にも銃弾に打ち倒されてしまうのは火を見るより明かだった。そこへシャンルイノーが再び姿を現わした。一言もいわずに、彼はマリー・アンヌを抱え上げミドン司祭の馬車まで運び、中へ乗せた。その馬車は司祭自らが騒ぎの中で探し出し、手もとに置いておいたのである。
「司祭さまも馬車にお乗りなさい。そしてマリー・アンヌお嬢さんを押えていてください」と、シャンルイノーが命令口調で言った。「さあ、モーリス。あなたも乗るんだ」
しかしその時すでに、セルムーズの兵隊が四辻をおさえてしまっていた。暗がりの中のグループに気がつくと襲いかかって来た。すると勇敢な百姓は銃を逆手に持ちかえ、棍棒のようにふり回して敵兵をひるませた。そのすきに、モーリスはマリー・アンヌのかたわらに飛び乗り、ムチをふるった。そして馬車は走り去った。
マリー・アンヌとモーリスがその場から離脱したあと、シャンルイノーは二分ほど激しく闘い、敵の行く手をふさいだ。
だが敵兵の一人が、仲間に銃をあずけると地面に身を伏せ、暗がりに乗じてこの正体不明の勇士の背後から這い寄って両脚をつかまえた。シャンルイノーはどっとその場に倒れた。
四辻の別の一画では、戦闘はすでに終りつつあった。セルムーズ公爵の歩兵が大挙して迫って来た。ラシュヌールは同じ場所に踏みとどまっていたが、生き残った仲間たちが今や最期の時を迎えようとしているのを悟った。
「戦いはこれまでだ! 退却しろ!」と彼は命じた。
命令に従って勇士たちは四方八方に逃れて行った。ラシュヌールもまた、その気になれば逃げることもできた。しかし彼は、敗北のあとまでおめおめと生きのびることはすまいと心に誓っていたのだ。馬を引き寄せ、うちまたがると、公爵の兵たちの群れへと突進した。
一瞬、敵兵はうろたえ混乱した。しかし、間も置かずラシュヌールの馬は銃弾にその胸をさらし、乗り手もろとも、もんどりうって倒れた。兵らはそのまま先へ行ってしまった。馬のむくろの下で、かすり傷一つ負わぬ乗り手が、這い出ようともがいていようとは夢にも思わなかったのである。
一方セルムーズ公爵はこのたびの事件を奇貨として、己れの政治的足場をいっそう固めようともくろんでいた。十五、六人の反逆者を捕えたが、それだけでは十分と考えなかった。軍隊をいくつもの支隊に分け、あらゆる方面にさし向けた。村々を探索し、少しでも疑わしき者あらば、片っ端から引っ捕えるよう命じていた。
そうした手配が終ると、公爵はモンテニアック街道を我家へと急いだ。
邸に着くと息子の部屋に行った。テーブルの上に、血に染った洗面器がのっている。マルチアルが、右胸のやや上方に受けた大きい傷口を洗っているところだった。
「お前はやられたのか?」公爵は声を大きくした。
「そうです……」
「さては、やはりお前も加担していたのだな?」
「加担していた? いったい何のことです?」
「あの賤しい百姓どもの陰謀にだ!」
マルチアルの顔に深い驚きの色が浮んだ。
「父上は冗談をおっしゃっているのですか」
その若者の態度と口調に公爵はいくらか安堵したものの、完全に疑惑がぬぐい去られたわけではなかった。
「それでは、お前を襲ったのは、あのごろつきどもなのだな?」
「ちがいます。決闘をしかけられたので、相手をしたまでですよ」
「誰だそいつは。そんな真似をした悪党の名を言ってみろ」
「言えません。その男に感謝しなければならない筋合いもありますからね。街道で出会ったのですが、むこうはその気になれば、そんな形式ぬきでわたしを殺すこともできたのです。それなのに正式に決闘を申し入れて来ました。それに、むこうはわたしよりももっと深傷《ふかで》を負っていますよ」
公爵はかぶりをふった。
「いずれにせよほめた話ではないぞ。ましてや、お前があの陰謀に一枚かんでいるなどと聞かされたばかりだけになおさらだ」
若者は肩をすくめた。
「ふん、父上のスパイをつとめるシュパンの言いぐさでしょう。息子の話とならず者の報告と、どっちを信じていいのか迷っておられるとは、何とも意外なおはなしですね」
「シュパンを悪く言うな。ラシュヌールのとてつもない陰謀を知らせてくれたのだからな」
「何ですって! 首謀者はラシュヌールなのですか?」
「他に誰がいる? そうとも、やつだよ、侯爵。お前の洞察力も案外当てにならんのだな。あの家に入りびたっていたくせに、何一つ気づかなかったという始末だ。お前の大事な女の父親がはかりごとをたくらみ、女自身もご同様だったというのに、お前ときたらまるで節穴同然だ!」
公爵は今やすっかり安堵すると、今度は息子をちくちく当てこすり、怒らせようとした。しかしそれも無駄だった。マルチアルは利用されていたことを知ったが、いきどおる気持には少しもなれなかったのである。
(ラシュヌールが捕まって死刑を宣告され、もしぼくが彼を救うことになれば、マリー・アンヌも、ぼくの申し入れをいやとは言えまい)マルチアルはそんなふうに考えた。
デスコルヴァル男爵は、モーリスが家を空けていた理由の謎が解けはしたものの、妻には自分の懸念をおし隠していた。もっとも、男爵がこの忠実な伴侶に秘密をもったのはこれが初めてだった。だから、息子の安否を気づかってクロア・ダルシーに駆けつけた時も、むろん夫人に知らせなかった。そんなわけで、食事の時間になっても夫と息子が姿を見せないことを知って、夫人はびっくりした。
召使たちも同じように案じていた。男爵は彼らに慕われていたのだ。誰も彼も、男爵のためなら火の中へとび込むのも厭《いと》わなかった。こうして夜の十時ごろ、彼らは一人の百姓を、引き立てんばかりの勢いで女主人の前に連れて来た。そいつは、そこら中に蜂起のニュースを触れまわっている男だった。百姓はすべて武器を持って立ち上がった、その指導者はデスコルヴァル男爵だ、と男は断言した。
デスコルヴァル夫人は召使たちをしたがえて外に出てみた。折しも一台の一頭立て馬車が中庭に入って来るところだった。早くもミドン司祭とモーリスが地上に降り立ち、クッションの上に横たわっている死んだように動かない体を、引っぱり下ろそうとしていた。マリー・アンヌはひどい状態だった。デスコルヴァル夫人には、男装しているラシュヌールの娘が誰だかわからなかった。ただ夫人にわかるのは、目の前にいるのが夫でないということだけだった。彼女はぞっとする悪寒に襲われた。
「お父さまは……モーリス。お父さまはどこにいらっしゃるの」
「男爵はやがてお帰りになられるでしょう」ミドン司祭が大した確信もなく説明した。
「逃げるのも男爵が一番はやかったのです」
「デスコルヴァル男爵は逃げ出すようなことはしませんわ」と夫人はさえぎるように言った。「ごまかそうなんてなさらないで。夫は事件の首謀者なのです。お仲間は逃げのび、夫は死んだのです!」
ミドン司祭は、これほどに人間の練れた夫人も苦悩のあまり理性をなくしているのだろうと考えた。
「奥さま、あなたは思いちがいをなさっておられる。男爵は今夜の騒動と何のかかわりもないのです。さあお出でなさい。それにモーリス、君もだ」
デスコルヴァル夫人は、セルムーズの司祭のあとに従った。しかし客間に一歩足を踏み入れると司祭の手をふりほどいた。召使たちが手当てをしているソファの上のマリー・アンヌに気づいたのだ。夫人は声をあげた。
「ラシュヌールのお嬢さん! まあまあ、男の|みなり《ヽヽヽ》などして。死んでしまったわ!」
「気絶しているだけです」
マリー・アンヌを診《み》たあとで司祭が言った。
ただ一人、司祭だけが冷静を保っていた。
「わしの言うことをよく聞いてくれ」と司祭は、階段のあたりにたむろしている召使たちに向って言った。「ご主人方の命がお前たちの口の固さにかかっていることを忘れないように。その点、お前たちは十分信頼できるとは思うが」
すべての者が、沈黙を誓うかのように手を上げた。
「一時間もしないうちに兵隊がここに来るだろう。しかし今晩起ったことは一言もしゃべってはならん。わしと男爵が出向き、わし一人が帰って来た。世間にはそれだけのことだと思わせておくのだ。ラシュヌールの令嬢がここにいることも、誰も見なかったことにしておこう。令嬢の隠れ場はこれから考えるとして……兵隊たちにモーリスのことを訊ねられたら、今晩は外へ出なかったと思い込ませておくことだ」
そこで司祭は言葉を切り、まだ忘れていることはないかちょっと考えたあとで付け加えた。
「もう一言いっておこう。こんな時刻に寝床にも入らず起きているものは、誰に限らずうさん臭く見えるにちがいない。だがそれこそわしの望むところだ。変に思われたら、男爵が帰らないし、また夫人の加減がとても悪いので心配しているのだと取りつくろうことにするのだ。夫人にはすぐ床に入っていただこう。そうすれば、万が一の訊問も受けずにすむだろう。それからモーリス、君は大急ぎで服を着換えたまえ。手もよく洗っておいてくれ」
すべてがミドン司祭の指図どおりに備えられた。
と、すさまじい鐘の音が響いて、門の鉄格子を軋《きし》らせ一個中隊ほどの兵隊靴の音が重々しく聞えた。客間のドアが荒々しく開かれると、若い男が入って来た。モンテニアック歩兵大隊の大尉の制服を着ていた。部屋の中を威丈高《いたけだか》にじろりと見まわしてから、ミドン司祭に吹き込まれた一同の説明を、嘲笑の色を浮べて聞いていた。
「バボア伍長」と、士官は部下を呼んだ。
このバボア伍長は、ナポレオンに率られてヨーロッパ中の戦場を駆けめぐって来た古参兵の一人だった。
「バボア」と士官が言った。「わたしは探索を続けなければならん。お前は二人の部下とここに残れ。見聞きしたことはすべてわたしに報告するのだぞ」
若い士官の姿が消えると、伍長は罵《ののし》りの言葉を吐いた。
「ちえっ!」彼は部下に言った。「あの若僧の言いぐさを聴いていたろう。聞耳を立ててろ。怪しいやつは捕まえろ。報告に来い!……か。おれにイヌみたいな汚ねえことをしろとでも言うのか。ああ『あの人』が、ご自分の昔の部下がこんなあしらいを受けるところをご覧になっていたら……」
二人の兵士も低くうなって伍長に同意した。
「あなた方に関しては」元ナポレオン軍兵士が、モーリスとミドン司祭に向って話を続けた。「このわたし、バボアの名と二人の部下の名にかけて、お二人の自由を保障します。決してどなたも逮捕されることはありません。それどころか、このお若い方の父上を窮地よりお救いするのに助っ人が要るとなりゃあ、我々が買って出ますよ。我々に命令していたあの間抜けの目には、我々は今夜、せいぜい大戦《おおいく》さをやらかしたように見えるでしょう。ごらんなさい、わたしの銃の撃発装置を。一度も撃ってはいないのです。仲間たちも、銃に弾を詰め込む前に、みんな空砲にしておいたんです」
「わたしどもには、隠すことなど何もないのですよ」とミドン司祭が言った。
老伍長は、わかっているという顔でウインクした。
「承知ですとも! わたしを疑っておられる。それがまちがいだということを証明してお見せしよう。まず、庭に銃をほったらかしにしておいちゃいけませんよ。あれはどう見てもツグミを撃つ道具には見えませんからね。第二に階上にどなたか隠れておいででしょう。わたしは地獄耳でしてね。第三に病気の夫人の部屋にはもともと誰も居やしない」
「あなたは実に立派な人だ」
モーリスは感動をそれ以上抑えきれず、伍長の手を強く握った。
翌日、ミドン司祭とモーリスはデスコルヴァル氏の安否を確めるために、モンテニアックに行く決心をした。彼らは馬車を使った。モンテニアックで二人は、男爵が負傷こそまぬかれたものの、捕虜になったことを知ったのだった。
街の辻々に高札が立てられていた。
第一条――ラシュヌールを隠まった家の住人は、軍事委員会に身柄を拘引され、銃殺に処せられる。
第二条――生死にかかわらず、ラシュヌールの居場所を届け出た者に対し、賞金二万フランを与える。
そしてセルムーズ公爵の署名が印されていた。
「マリー・アンヌの父親は無事だった!」とモーリスがさけんだ。
ミドン司祭の視線がモーリスを黙らせた。司祭は、二人のすぐ近くで足を停めた男がいることを目顔で知らせた。それはシュパンだった。この老ならず者は、セルムーズの司祭の前に姿を現わし、貪欲なギラギラする目つきをしてつぶやいた。(二万フランか。こいつは一財産だ。終身年金の権利を買いとって一生楽ができるというものだ)
ミドン司祭とモーリスは、オテル・ド・フランスに赴いた。デスコルヴァル男爵がモンテニアックに出るたびに宿にしているホテルだった。持ち主は誰あろう、ラシュヌールの親友ロージュロンなる人物に他ならず、セルムーズ公爵の到着をラシュヌールに、いの一番に知らせたのもこの男だった。彼は手に縁なし帽を持って二人の前に進み出た。蜂起のあった翌日であるだけに、こうした礼儀正しさで応じることは大変勇気のいることだった。
彼はモーリスと司祭に、ひと休みしていくようにと勧め、どんな詮索《せんさく》好きな人目からも安全な部屋へ案内した。
司祭とモーリスは、デスコルヴァル夫人とマリー・アンヌを安心させるべく急使を送り、セルムーズ公爵に接収されている家のほうへ向った。
興奮した群衆が門前に集まっていた。
召使が二人、これら嘆願者たちの人波を押えるのに苦慮していた。ミドン司祭は近づいて行って名を名乗った。しかし他の群衆と同じように押し返された。
「公爵様は陛下への報告書を認《したた》めておられます」
「待つことにしよう」と司祭はモーリスに言った。
同じころ、デスコルヴァル夫人は息子のモーリスが書き送ってきた手紙を、使いの者からひったくるようにして受けとった。マリー・アンヌに読んで聞かせたあとで、ただ一言「出かけましょう」と言った。
デスコルヴァル家には馬が一頭も残っていなかった。隣家の人々は男爵が逮捕されたことを知って後難をおそれ、貸してくれなかった。デスコルヴァル夫人とマリー・アンヌが、歩いてでも行くほかはあるまいと相談していると、バボア伍長が隣人らの臆病さにすっかり腹を立て、そんなことが許されてなるものかと息まいた。
伍長は農耕用の牝馬を一頭手に入れてくれた。そしてくだんの馬にどうにかこうにか馬具をつけると、二人の歩兵とともに『ご婦人がた』を護衛して行くのだと言い張った。モンテニアックの哨兵詰所で、老兵は仕方なく二人と別れはしたが、助けがいるときは何時でも駈《は》せ参じると約束するのを忘れなかった。伍長は城砦の兵営へともどって行った。
十時を告げる時の鐘が鳴るころ、デスコルヴァル夫人とマリー・アンヌは歩いてオテル・ド・フランスの中庭にたどり着いた。そこで二人は、絶望で頭を抱えているモーリスと、すっかり元気の失せた司祭を見出した。
電信で送られて来た命令書が貼り出された。
『……モンテニアックは軍政下に置かれるものとする。軍当局は、施政の全方面にわたり全権能を有するものである。軍事委員会は、臨時即決裁判の権能をも代行することとする。善良なる市民には安寧が保障され、不穏分子には厳然たる処罰をもってのぞむことになろう。此度の騒擾事件の叛逆者らは、法の鉄鎚によって粉砕されるであろう……!』
その翌朝のこと、ロージュロン氏が彼の客たちの前に姿を現わした。この立派な人物は、「軍事委員会」なるものが組織され、しかもそれを牛耳っているのが例のセルムーズ公爵であり、この朝からさっそくその機能を働かせ始めていることを教えに来てくれたのであった。
「行こう! 君のお父上にどのような訊問がなされるか、この耳で確めたい」と司祭はモーリスに言った。
通りで二人はバボアに出会った。すれちがいざまに伍長はこんな言葉を投げた。
「シャンルイノーに会った。デスコルヴァルさんを必ず救うと言っていました」
「開廷!」セルムーズ公爵が宣告した。「罪人どもを入廷させろ!」
公爵は被告とは言わなかった。罪人と決めつけているのだった。
三十人ほどの男が次々に引っぱり出され、着席させられた。シャンルイノーは昂然と頭を上げている。デスコルヴァル男爵は落着き払い威厳ある態度を崩さなかった。二人ともモーリスに気づいていた。男爵はわずかにうなずいただけだったが、シャンルイノーは身ぶりでこう言っていた。(わたしを信頼してください。何も心配することはない)と。
「名前を言え。年齢は?」
「シャンルイノー。ユージェヌ=ミシェルです。二十九歳。自作農であります」
「このたびの叛乱に加わったのか?」
「はい」
「首謀者のひとりではないのか?」
「いかにも。四人の首謀者の一人です」
「他の者は誰と誰か?」
「ラシュヌール氏、氏の子息ジャン、それにセルムーズ侯爵です」
セルムーズ公爵は彼の金色の椅子の上で跳び上がった。
「なんと! この下劣な悪党め!」
シャンルイノーは顔色一つ変えなかった。
「お訊ねでしたから申し上げただけです。わたしの返答が困るというのでしたら、猿轡《さるぐつわ》でもかましたらどうです? わたしは本当のことを述べているんです。全被告がそれを証言しますよ。どうだ諸君、そうだろうが」
デスコルヴァル男爵をのぞいて、シャンルイノーがセルムーズ侯爵の名前を上げたことが、どれほど大胆かつ危険な意味を持つかに思い到った被告は一人もいなかった。彼らは皆うなずいて同調しただけだった。
「侯爵は実に立派な首領でした」とシャンルイノーは続けた。「だからわたしの側に立って勇敢に闘って、名誉の負傷を受けられたくらいです」
セルムーズ公爵の顔は真っ赤になった。
「嘘だ、悪党め、嘘だ!」と舌をもつれさせながらわめいた。
「侯爵をこの場にお連れ下さいますように」静かな口調でシャンルイノーが言った。「負傷しておられるか否か、見ればわかることです」
公爵にとって幸いにも、判事の一人が助け舟を出した。
「この不遜《ふそん》な叛逆者の言いなりにならぬよう希望します。本委員会はかかる申し立てを却下すべきであります」
「むろん、そうでしょうとも。明日わたしは死刑になり、負傷者の傷はすぐに癒え、わたしの申し上げた傷の跡など消えてしまうでしょう。しかし運の良いことに、わたしは他にも、決して消し去ることのできぬ証拠を握っていますからね。わたしの身体が地上六フィートの高さに吊るされるとともに、それはひとりでに明かになりますよ」
「その証拠とは何か?」もう一人の判事がただした。
「それは確実にわたしの手中にあります。必要とあれば陛下のところまでお持ちしますよ。今度の一件において、セルムーズ侯爵が果たした役割をはっきりさせておこうじゃありませんか。あの方が真実われわれの同志であったか、それとも単に煽動者にすぎなかったのか……」
法廷は短い協議の後、この突発事を採りあげないことに決定した。訊問者たちは前にも増した苛烈さで追求を始めた。
「想像力で首謀者をでっち上げるかわりに」と公爵が再び続けた。「騒ぎの本当の煽動者を吐いてしまった方が身のためだぞ。それはラシュヌールではなくデスコルヴァル氏であろうが」
「デスコルヴァル男爵は陰謀のことは何もご存知ありません。誓ってそうです」
「黙れ!」と、検事役の大尉が横から口を出した。
シャンルイノーは、さも軽蔑しきったしぐさと目つきをしてみせた。
「わたしは賭け、そして負けた。どうとでもお好きなようになさればよい。しかし、わたしのまわりにいるこれらの不幸な者たちには、慈悲をもって臨んでいただきたい」
判事たちは、公爵を中心に額を寄せ合い小声で何か話していた。やがてセルムーズ公爵は、この上なく冷酷な満足を隠し切れぬ調子で言った。
「被告デスコルヴァル、立て!」
名を呼ばれると男爵は立ち上がった。威厳を持し、顔色ひとつ変えなかった。
「被告」とセルムーズ公爵は続けた。「名前と職業を言え!」
「ルイ・ギョーム。デスコルヴァル男爵。レジオン・ドヌール三等勲章受勲者。もと皇帝陛下の顧問官」
「下劣な百姓どもの寄せ集めを煽動して、昔の地位をとりもどそうと目論んだのだな!」
「騒動を起したのは下劣だからではない。不幸にして分別を失っただけだ。しかしわたしが彼らに協力していないことは、あなたがご存知のことだ」
「叛従どもの中にいて、武器を手にして捕えられたではないか?」
「武器など持っていなかった。そのことは百もご承知のはずだ。むしろ計画を中止させようとして叛徒のなかにいたのだ」
「騙《かた》りめ!」
この侮辱を受けてデスコルヴァル男爵は青ざめた。が、何も言わなかった。
「デスコルヴァル男爵の言われたことは真実です」ミドン司祭が大音声を張り上げた。「城砦に捕虜となっている三百人がそれを証明します。被告らは断頭台の露と消える刹那《せつな》でさえ、その証言を翻えしたりはしないでしょう。そして、わたしは司祭として、男爵と行を共にしました。神の御名にかけて誓うが、わたしたちがしてきたことは、騒ぎを食いとめるためにありとあらゆる努力を払うことだったのです」
公爵が言った。「さては叛徒の中には僧職者もいると部下が言っていたのは、まちがいではなかったらしいですな。あなたは引っ込んでおられるがよい!」
「わたしが真実を申し述べなければ」とミドン司祭は食いさがった。「わたしは偽証したことになる。共犯者よりもっと悪い。だとすれば、このわたしを逮捕させることがあなたの義務ですぞ」
「いいや、司祭さん。あなたを逮捕させることなどしない。わたしにも、あなたが狙っているスキャンダルを封じるくらいの知恵はある。いい加減に引っ込んでいただこう。さもないと、遺憾ながら非常手段に訴えねばなりませんぞ」
司祭は再びモーリスの隣に腰を下ろした。
「兵士、最初の証人を出廷させよ」
シュパンが現われ、もっともらしい様子で進み出た。
「被告デスコルヴァルを存じておるか?」と公爵が訊ねた。
「この男は謀叛の一味です。証拠があります」
「委員会に対してその証拠を申し立てなさい」
「まず、公爵さまにいやいやセルムーズの城館を返してすぐ、ラシュヌールさんはデスコルヴァルの旦那を真っ先に訪ねました。ラシュヌールさんはそこでシャンルイノーさんと会いました。その日から、陰謀の計画が練られました。以来、被告はラシュヌールさんの家に入りびたりでした」
「全くのでたらめだ」と男爵がさけんだ。「蜂起の計画を断念させようと、一度訪れただけだ」
「おや、どうやら語るに落ちたようですな。すると事前に大それた計画とやらをご存知だったのですね」
「推察していただけだ」
陰謀を隠匿するだけで断頭台である。モーリスもミドン司祭も、この不用心な陳述にはらはらしていた。ところがシャンルイノーひとりは自信のほどを見せて、口もとに微笑を浮かべている。希望はすべて粉砕されたかに見えるのに、彼はどうしようというのか? セルムーズ公爵は、してやったりと卑劣な喜びを隠そうともしなかった。
「よろしい! 証人は証言を続けなさい」
「被告は」老いぼれのならず者は再び口を開いた。「ラシュヌール家での秘密集会には、休まず出ております。証拠をお目にかけましょう。レエシュに行くためにはオアゼルを通らなければなりません。ところが男爵は、通りすがりの者にその夜の散歩を見つけられるのを恐れて、とっくに使わなくなっていた古ボートを修理させました。おまけに、ラシュヌールが謀叛の合図に松明を焚いたときも、被告はそのすぐ傍におりました」
「確かにわたしはレエシュにいた。しかし、それは前にも申し述べたとおり、騒ぎを食いとめようという固い決意で出かけたのです」
「今すぐ、その嘘の皮を引っぱがしてやる」セルムーズ公爵は嘲笑した。
いつの間にかクルトミュー侯爵が席を立ち、証人台の前にちゃんと控えて待っていた。
「貴下の令嬢によって書かれ、署名された供述書を、どうか読み上げていただきたい」と、公爵がクルトミュー侯爵をうながした。
この一幕は、傍聴人への効果を計算して仕組まれたものであることは明らかだった。その死のような沈黙の中で、クルトミュー侯爵は読み始めた。
[#ここから1字下げ]
わたくしこと、ブランシュ・ド・クルトミューは、以下に陳べる事柄が真実であることを誓言いたします。
去る三月四日の夜、十時から十一時にかけてのことでございます。セルムーズからモンテニアックに至る街道を馬車で走っておりますと、わたくしどもは武装した一団に襲われました。その者たちが、わたくしをどうするか議論している最中、そのうちの一人がこんなことを言っているのを耳にしました。「一応、馬車から下ろす必要があるでしょうね、デスコルヴァルさん?」その声は、シャンルイノーと名乗る男のものだと信じております。でも、確信はいたしかねます。
[#ここで字下げ終わり]
肺腑をえぐるような叫びが、侯爵の朗読をさえぎった。モーリスを襲った苦悶は、彼から理性を奪うほど深いものだったのだ。『シャンルイノーが相談した相手はわたしです。わたしだけが一味に荷担したのです』今にも裁判官席に駆け寄り、そうさけぼうとした。だがミドン司祭はモーリスの行く手をさえぎり、その口を手でふさぐだけの分別を忘れていなかった。司祭のすぐ傍にいた例の退役士官たちも、事態を察し、モーリスを取り押さえた。そしてモーリスは、死にもの狂いの力でもがきながらも、外へ連れ出されて行った。
「いったい何の騒ぎだ?」といらだって公爵が言った。「少しでも静謐《せいひつ》を乱す者があれば、直ちに退廷させるぞ。ところで被告、これほど決定的な証言を聞かされても、まだ申し開きがあると言うのかね?」
「何もありません」男爵は力弱く答えた。
「すると、認めるというのだな?……」
公爵はあくまでも、追求の輪の中に男爵をがんじがらめにするつもりだった。モーリスのほうはよほど目障りにならぬ限り、放っておくことにしていたのだ。デスコルヴァル男爵が罪を認めたと誰でも信じるだろう。これだけでもう十分な勝利ではないか? 委員会は合議のため退廷した。十五分後、被告三十人のうち九人が釈放、二十一人が死刑を宣告された。二十一人の中に、デスコルヴァル氏とシャンルイノーがはいっていた。
裁判が終り牢獄に引きもどされると、シャンルイノーは死への恐怖におびえたようになり、果てはぼろぼろ涙を流して泣いた。彼は看守に、自白したいことがあるからと言い、誰か話のできる然るべき人に会わせてほしいと訴えた。『自白』と聞いてクルトミュー侯爵が飛んで来た。侯爵が見たのは、苦悩に打ちひしがれひざまずいて祈る男の姿だった。シャンルイノーは、死刑をまぬかれるためにはラシュヌールを引渡してもいいと語った。
「彼がどこに身を隠しているかは知らないのです。でも、マリー・アンヌが知っています。十分ほど彼女と二人だけにしてもらえれば、父親の秘密の隠れ家はきっと訊き出してみせます」
クルトミュー氏は、試しにやらせてみることにした。バボア伍長をマリー・アンヌのところまでやらせた。しかしその後すぐ牢にもどってみると、つい先程、足もとに這いつくばり、青ざめ身を震わせながら命請いをした卑怯者は、もはやどこにもいなかった。勇敢な若者が、あまりに打って変ったように晴ればれとした顔つきをしていたので、クルトミュー氏は、ひょっとすると何か策略にのせられているのかも知れないと感じた。
シャンルイノーは待った。やがてマリー・アンヌがバボア伍長に伴なわれて入って来た。
「クルトミュー氏が約束なさったんです。二人だけにしてくれませんか」シャンルイノーが声高に言った。
「よかろう。引きさがっていよう」老兵は答えた。「三十分後、お嬢さんを引渡してもらいにもどってきます」
扉が閉められた。シャンルイノーはマリー・アンヌの手をとり、彼女を窓際まで連れて行った。
「よく来てくださいましたね。ありがとう! こうしてまたお会いできて、わたしは初めて心の秘密を打ちあけることができます。今こそはっきり申しましょう。どれほどあなたを愛していたことか……。謀議に加わったのもあなたを愛すればこそでした」
「ああ、なんて残酷なことをおっしゃるの!」マリー・アンヌはさけんだ。
彼女は父が自分に押しつけた役割の意味を痛いほど思い知らされた。そしてそんな父の下心《したごころ》をしりぞけるほどの気力を、彼女は持ちあわせていなかったのだ。
だがシャンルイノーは、マリー・アンヌの叫びを聞いていなかった。もはや自分が何をしゃべっているかさえ意識しなかった。彼は続けた。
「でも、わたしの幻想が粉微塵になってしまう時はあまりにも早く訪れました。あなたにはすでに愛する人がおいでだったのだから、わたしの想いがかなうわけもなかった。父上との取引など御破算にすべきだった。でも、わたしなりにある考えがあったのです。いや勇気なんかとはちがう。つまり、あなたを思いあきらめたあとさえ、やっぱりそのお顔を眺め、そのお声を聞く喜びに勝てなかったのです。何としてもあなたには幸せであってほしかった。だからこそ、恋敵を益するだけだと知りながら戦いに加わったのです。しかしそれも過去のできごととなりました。時はどんどん飛び去って行く。そして苦難に満ちた未来が迫っているのです」
言い終るとシャンルイノーは、歯で下着の袖を食い破った。裏生地と表生地の間から、隠し持っていた二通の手紙を引き出した。
「この手紙は」と彼は声を低くして言った。
「一人の男の運命を左右することができるのです」
マリー・アンヌは、まだ意味が十分にのみ込めないでいた。
「一人の男の運命を左右する……」彼女はオウム返しに繰り返した。
「そうです。この手紙の一通は、一人の男を絞首台から救うことができます」
「まあ、なんてかわいそうなことを! なぜもっと早くそれを使わなかったの?」
「あなたが一度でもわたしを愛してくださることが可能だったでしょうか? もちろん、そんなことはあり得ない。だからわたしはもう命を長らえようとは思いません。それに、ちょうど死刑の宣告を受けていますしね。銃を担ってレエシュの渡し場を出発した時から、わたしには自分がしていることの意味がよくわかっていたのです。ところが判事ときたら、まるで無実の人まで死刑囚にしてしまった。モーリスの父上のことですが」
シャンルイノーは、モーリスという名を万感の思いを込めた語調で口にした。
「わたしはあの方を救えるのです。それができるのです」
「ああ! それは本当なの?」
「できるからできると言ったのです。実はずっと前から、万一事が失敗に終った場合、最悪の事態を切り抜ける奥の手として使えそうな手だてを講じておきたいと考えていました。ところが、あのセルムーズ侯爵の登場で願ってもない機会に恵まれました。同志たちへ決起の日取りを知らせる手紙の件で、わたしはマルチアルさんにその雛型《ひながた》を書いてみてくれ、と頼んだわけです」
シャンルイノーは彼が口述筆記させた手紙を開いてみせた。ただし、蜂起の日付だけは空白になっている。
『わたくしたちはとうとう話合いがまとまり、結婚式の日取りは…月…日に決まりました。……』
「本気であなた、そう思うの」マリー・アンヌは力ない声で言った。「その手紙とやらが役に立つと?……」
「よく聞いてください。確かにこの下書だけでは、一見何の役にも立ちそうにない。でもこいつを大いに利用できる手だてを講じておいたのです。わたしはすでに軍事委員会のお歴々の前で、セルムーズ侯爵は騒擾事件の首謀者の一人だと断言しておきました。この発言は重大です。なぜと言えば、マルチアルが負傷しているからです。……わたしは、彼がわたしのすぐ近くで軍隊と戦い負傷したとはっきり言いました。彼が共謀者の一人であることを、有無を言わさず証明できる裏付けがあると言ってやりました」
「セルムーズ侯爵は本当に武器をとって戦ったのかしら?」
「何ですって! ご存知なかったのですか」彼はすぐに思い直して言った。
「ああ、何てうかつなこった。そういえば、わたしがお話しなければ誰もそれをあなたにお教えできたはずはない。クロア・ダルシーに向ってセルムーズ街道を進軍していたときのことを覚えていますね? あなたの父上は、一足先にと言って馬で駆け去った後だった。先頭はモーリスで、あなたは彼と一緒に歩いておられた。兄上のジャンとわたしは殿《しんがり》だった。突然、後方から速足で駆けてくる馬の蹄の音が耳に入った。わたしたちは足をとめました。すさまじい勢いで一頭の馬がやって来ました。手綱を取りおさえてみると、その乗り手は誰だったと思います? マルチアル・ド・セルムーズだった! そのときの兄上の怒りの激しさをお伝えすることなど不可能でしょう。『ついに出会えたな。この貴族野郎め!』と兄上はさけびました。『父が一切合財を返還したのに追い打ちをかけるような真似をしたあげく、きさまは妹を妾にしようとした。いまその償いをさせてやる。さあ、降りろ。決闘だ!』マルチアルは呆然自失の様子だった。それでもやっと決闘に応じました。わたしがマルチアルに剣を貸す。二人はわたり合いました。ああ、マリー・アンヌ! わたしたちは兄上を誤解していたのです。わたしが目のあたりにしたごとき戦いぶりをするほどのあの人は、きっと気高い心の持ち主だったにちがいない」
「兄は死んだのね!」マリー・アンヌが叫び声を上げた。
「おそらく一命はとりとめたと思ってまちがいないでしょう。けれど、何はともあれすぐ手当てが必要でした。決闘のもう一人の目撃者はポアニョと言って、父上の小作人だった男ですが、彼が負傷したジャンをひそかに自分の家に担ぎ込んだのです。侯爵は、彼も傷を負っていましたが、再び馬に乗ると『仕かけたのはジャンだ!』と言い捨てて立ち去りました」
マリー・アンヌは、今やすっかり事情をのみ込んだ。
「わたしにその手紙をください」彼女はシャンルイノーに言った。「セルムーズ公爵に会いましょう。神さまがわたしをお守りくださいます……」
シャンルイノーは、使いようによっては自分のいのちを救えるかも知れない切札の手紙を、若い娘の手に託した。
「公爵のほうは、よりによってあなたが、よもや自分を怯やかす証拠を握っているなどとは思いもよらないでしょう。だから……」
シャンルイノーは口をつぐみ、鉄格子をゆすった。バボア伍長が現われた。
「三十分経ちました。わたしの立場もありますので」
「さあ行きなさい! すべては終った……」シャンルイノーは小声でささやいた。
そして彼は、二番目の手紙もマリー・アンヌの手に握らせた。
「こっちはあなたに宛てたものです。わたしがもうこの世の者でなくなったときに読んでください。……後生だから、泣かないで! あなたはモーリスの妻になるべき人だ。……幸福になったらあなたをこれほど愛した百姓のことを、たまには思い出してください!」
マリー・アンヌはシャンルイノーの前に顔を近寄せた。
「いけない。わたしにはそんなことをさせてもらう資格はない」と彼はさけんだ。
それから、生れて初めて彼はマリー・アンヌを腕に抱き、青ざめた頬にそっと口づけをした。
マリー・アンヌは急いでオテル・ド・フランスへ帰った。老いた一農夫がラシュヌール氏のニュースを持ってきていた。足を負傷していたけれど、ピエモンテ回りで国境を突破したという報せだった。マリー・アンヌは兄の消息を伝言し、セルムーズ公爵家を訪れた。召使が彼女を客間に案内した。しかし、入って来たのは公爵ではなく息子のマルチアルだった。
「あなたでしたか」マルチアルは彼女に劣らず、どぎまぎしながら声をかけた。「ラシュヌールが逮捕されたので、嘆願にいらしたのですね。父上はぼくの力で何とかお助けします」
「父は逮捕されてなどいませんわ」
「すると、ジャンですか……」
「兄は、生きてさえいればきっとうまく脱れてくれているでしょう」
「そうか。じゃ決闘を挑んだのは彼のほうからだということも、ご存知ですね」
「わたし、何もあなたを非難しませんわ」
「でも、ぼくはあなたほど、自分に対して寛容にはなれません。ジャンの主張には然るべき理由がある。ぼくはいかにもあなたを愛人にしたかった。確かに今まであなたのことをわかっていなかったのです。こんなに貞潔なあなたに対して、そんな下心を持っていたなんて……」
マルチアルはマリー・アンヌの手を取ろうとした。しかし娘は恐ろし気にそれを押しもどし、泣き出してしまった。情熱にまかせてこんな讃嘆の仕方をするとは、何という侮辱であろうか! 何という辱《はずかし》め! 『貞潔』とは、これまた何と皮肉な讃辞だろう。今朝だって胎内に赤ん坊のうごめきを感じさせられたばかりだというのに。
「お怒りはごもっともです」と、マルチアルは興奮した口調で続けた。「しかし、お気を悪くされたのなら、ぼくは一層その償いをさせてもらわねばなりません。ぼくは気も狂いそうです。愛しています。あなたを。ぼくにはもうあなた以外に愛する女はいない。マリー・アンヌ、ぼくの妻になってくれませんか?……」
「一存では何ともお答えできませんわ」
マルチアルの眼の中で嫉妬の火が燃えた。
「今もモーリスを愛しているんだね!」
「ええ今も……」
「それであなたがここに来たわけもわかった。あなたはデスコルヴァル氏を助けたいばかりに、ぼくに会う気になったのだ」
「神に誓って、男爵は無実です」
「父親が無実なら息子が罪人ということになりますよ。それも困るでしょう。……ぼくは力になりたいんだ、マリー・アンヌ」
召使が扉を開いて、相変らず軍人の正装に身をかためたセルムーズ公爵が客間に入ってきた。
「あの悪党の娘が、何の用で来たのだ!」
「ある情報をあなたさまに売ってさし上げるようにと頼まれて参ったのですわ」マリー・アンヌはきっぱりと言ってのけた。
公爵は笑いながら長椅子に腰を下ろした。
「では売ってもらいますかな、お嬢さん。売ってもらいますか!」
「あなたさまと二人だけにしていただけなければ、ご相談も申し上げられません」
父親の目くばせでマルチアルは出て行った。
「これをお読みください。回状でございます。全ての共謀者を一網打尽にできる証拠物です」
「この手の代物は、ポケットに一ダースは入っている」
「誰が書いたとお思いでしょう?」
「デスコルヴァルの先生か、さもなければお前さんの父親あたりだろうよ」
「残念ですが違うのです。御子息がお書きになったのですわ」
セルムーズ公爵は身を乗り出した。眼がぎらぎら光っている。
「何を言うか。言葉をつつしみなさい」
「証拠はいつでもお目にかけられます。マルチアルさまがご自分でお書きになられた回状の草稿をあるひとから、わたくし、いただいたのです。だからこそこうして……」
公爵は跳び上がって息子を呼びつけた。
「もう一度申してみよ」と、公爵はマリー・アンヌに言った。「今お前が申したことを、息子の前でもう一度言ってみろ」
マリー・アンヌは同じ言葉を繰り返した。
「事実か?」公爵が息子にただした。
「事実ですとも!」とマルチアル。「確かに、回状の草稿なるものはあるんです。ぼくが書いたのですからね。大判の粗悪な紙でした。何字か抹消したり書き足したりしたことも覚えていますよ。日付ですって? さあ、いつにしたんだったかなあ……」
「すると、情婦に巧く言いふくめられて書いたというのだな?」
「ラシュヌール嬢はぼくの情婦などではありません」マルチアルは憤然としてきっぱり言った。
「公爵さま」マリー・アンヌは、嫌な用件を早くすませたいといったふうに「もし、わたくしの申し入れを容れてくださらず、デスコルヴァル男爵さまを釈放なさいませんと、明日の朝早く、確かな者を使者としてパリへ出発させることになっております。草稿を、あなたの政敵として知られる何人かの方々に渡すように言われておりましてね。くだんの草稿はレイネ氏またはリシュリュー公爵のお目に触れることになるでしょう」
「ちくしょう! 謀ったな」公爵は顔に朱を注いだ。「何故それを早く、裁判の前にわしに知らせなかったのだ。その時点でならどうにでも手は打てたのに。だが今となっては手遅れだ……。どうとでもするがよい、お嬢さん。お前さんの……その証拠物を、利用するならしてみろ」
「よく考えてください、お父さん」と、マルチアルが言った。「何も前例がないわけじゃありません。四か月以前ラヴァレット伯爵が死刑の宣告を受けました。国王陛下は内心彼を救けたくてならなかった。でも、側近連中がこぞってそれに反対した。で、陛下はどうなさったとお思いです? 陛下は一見どんな助命嘆願にも素知らぬ顔をされ、刑の準備は着々と進められました。ところが、ラヴァレットは処刑されなかったのです。しかも誰一人、責任を追求された者はなかった。もっとも牢番の一人がクビになりましたが……。その男にしても、今ではたっぷり年金をもらって、悠々自適の暮しをしているのです」
「ふん、脱走させるのか」と公爵がうなずいた。「なるほど。だがずいぶん剣呑《けんのん》なバクチだな」
「でも、考えてみる値打ちはありますよ」マルチアルは言い張った。「それに誰にも迷惑はかかりません。刑が執行されるのはいつです?」
「明日だ!」
「すると、今夜しかないわけだな。十時まで城砦に行けば間に合いますよ。お父さんなら誰にも怪しまれる気づかいはない。城砦に誰か気の利いた者がいますか? 下っ端役人で協力してくれる人間がいないとね」
「格好の人物を知っておりますわ」とマリー・アンヌが声を大きくした。「城砦にいるんですの! この人なら信用できます。名はバボア。擲弾兵第一中隊の伍長です……」
「バボア! バボアですね」マルチアルが繰り返した。「父が何とか口実を作って、その男を呼び出すことにしますよ」
それからマリー・アンヌのほうを振り向いて、「男爵は助かったも同然と思っていただいて結構ですよ。だが、ぼくもあなた方の友人と打ち合せをしておかなくてはなりますまい。すぐにオテル・ド・フランスにもどってくれませんか。ミドン司祭に、ぼくがダルム広場でお目にかかりたいと言っていると、伝えてくれませんか」
デスコルヴァル氏が囚われている房は、かつては隣室と行き来できたのに違いないが、現在はふさがれている。それでも、壁石の隙間を塗りこめたセメントは薄く、所々はげ落ちてさえいて、今では向う側の部屋の中が見える程度の隙はあった。男爵は無意識のうちにその隙間に眼を当ててみたが、人のいる気配はなさそうだった。
窓も調べた。鉄格子が二本はめこまれていて、手で動かしたがビクともしない。その鉄格子の間隔も、頭を突き出せるほどの幅はなかったし、地上までの距離を目測することもできない。
陽が落ちた。男爵はよく食べたし、食事を運んできた兵隊と元気におしゃべりもした。
男爵は灯りを残してもらい、紙とインクとペンを頼んだ。デスコルヴァル夫人からもモーリスからも便りがなかったので、こちらから書いて送ろうと思ったのだ。廊下で足音が響いた。
「見廻りかな……」彼は独りごちた。
その瞬間、扉の覗き窓からものが投げ込まれ、房の真中にころがり落ちた。誰かがヤスリを二本放りこんで行ったのだ。はじめ男爵の頭に浮かんだのは、何か罠ではないかということだった。
男爵は立ったまま、そのヤスリを何度も引っくり返し、ためつすがめつした。ヤスリはしっかりとした焼きで、鋭くとぎすまされている。その時彼は小さく折りたたまれた紙片に気がついた。拾い上げて読んだ。
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決してあなたを見捨てたりしません。逃亡の準備はととのいました。窓の格子をヤスリで切ってください。モーリスと夫人が、あなたに接吻をおくります。希望と勇気を持って!……
[#ここで字下げ終わり]
署名はなかった。ただMとあるだけだった。男爵にはミドン司祭の筆跡だとすぐにわかった。
喜びがこみ上げて来た。意を決して仕事にかかった。ヤスリの刃の鋭いほうを選び、さっそく鉄格子に取り組んだ折りも折り、隣房の扉が開く音を聞きつけた。
不安にかられて、男爵は隙間に眼を当てがった。そして、隣房の光景を見ると、彼は思わずあっと小さな叫び声を上げそうになった。一人の男が、大きなランタンの灯に照らされながら、ぐるぐる身体をまわし、その身に巻きつけてあった長いロープをほぐしている。
明らかにこのロープは自分のために用意されたものだった。切断した格子の一端に縛りつけるための……。しかしそれにしてもあの男は、城砦の中だというのに、どんな権限を与えられてこんな場所にまでやって来られたのだろう?
残念なことに、仕切りの隙間の加減で、この味方の顔をはっきり見ることはできなかった。――いや、彼が味方だと判断しただけなのだが。
デスコルヴァル男爵は、仕切りをたたいて問いただそうかと思った。ちょうどその時、男爵が早くも自分の救い主と決め込んだ男がいる独房の扉が、けたたましく開けられた。一人の男が入って来たらしい。相変らずこっちからは見ることができない。その人物は呆っ気にとられたような声でさけんだ。
「ここで何をしている?」
ロープを解きほぐしている男は、その作業を中断しようともしなかった。
「ごらんの通りですよ。このやっかいな代物を身体からほどいているんです」
「ロープをどうしようというんだ?」
「デスコルヴァル男爵をお救いするためですよ。もうヤスリは投げ込んでおきました。逃亡は、今晩実行しなければなりません」
新来者は威嚇する口調でなおも言った。
「何てことだ! わしは許さんぞ!……」
「失礼ですが」とロープの男が相手をさえぎった。「あなたはお許しになったのですよ。シャンルイノーがマリー・アンヌに会わせてほしいと言った時に、そうおっしゃるべきでした。『わしは許さんぞ!』とね。シャンルイノーの下心がおわかりにならなかったのですか? やつはわたしの書いた手紙をラシュヌール嬢に手渡したのです。そいつがひとたび、おかしな連中の手に握られたが最後、父もわたしも、またもやロンドンにでも亡命するしか手がないわけです。そうなれば、あなたの御一家とも永久におさらばということになりますね。それに累はあなたにまで及びかねませんよ、侯爵。確かあなたは、ほんの少しの間とはいえ、あのナポレオンの侍従を勤めておられたのですからね」
すると後から来た人物は大きな溜息をついた。しかし相手はそれにかまわず、なおも畳みかけた。
「ああ侯爵。あなたほどの世智にたけたはずの方が、何でまたおめおめと、百姓風情の策にのせられてしまわれたのですか?……」
今はデスコルヴァル氏にもわかった。そこにいるのはクルトミュー侯爵とマルチアル・ド・セルムーズに他ならなかった。
クルトミュー侯爵は、もはやそれ以上言い争そおうとはしなかった。ただ、がっくりした口調で訊ねた。
「で、その剣呑な手紙とやらは、今どこにあるのかね?」
「マリー・アンヌがミドン司祭に渡しましたよ」
「そこで君が男爵を逃亡させれば、その手紙は取りもどせるというわけなのだな? しかし男爵が救われれば、やつらは同じ脅しをかけて、他の死刑囚のいのちを要求して来るのではないかね!」
「いやいや! 手紙はわたしのポケットの中ですよ。ミドン司祭がわたしとの約束を信じて、渡してくれたのです」
「それは好都合だ。君は証拠を身につけて歩いているというのか! 気違い沙汰だ。そんないまいましい厄病神は、このランタンで燃してしまうがいい。男爵などどうなろうと放っておけ。そして君は素知らぬ顔で早く家に帰り、枕を高くして寝ちまうがいいぞ」
「あなたなら、そんなことがお出来になるというのですか、侯爵?」
「むろん出来るとも。何のためらうこともありゃしない!」
「さてさて! あなたときたらご挨拶の申し上げようもありませんね」
「君はまだ若い、マルチアル君。男爵を逃がせば、いずれ誰が逃亡を助けたのかという点が問題にならずにはすまんぞ」
「たとえそれが問題になっても、わたしの流儀で責任の所在なるものをでっち上げてやりますよ。最初からそれは計算ずみなのです。誰も恐れる必要はありません。ただし、あなたに関しては例外だ。だからこそ人をやってここへ来ていただいたのです。あなたは大変なところをご覧になってしまったが、どうかこのまま、見ざる言わざるでいらしてください。あなたさえ知らぬふりをしていてくだされば、わたしの身も安心だし、男爵は明日になればピエモンテへ逃げているでしょう」
ロープをほどき終ると、マルチアルはランタンをとり、二人で出て行った。
デスコルヴァル氏はまた仕事にかかった。やすりを使うなど生まれて初めてだった。やすりは少しずつ鉄格子に食い込んで行った。だが絶望的なまでにはかどらない。二十分ほど続けてみたが、結果はあまりに微々たるものだったので、男爵はすっかりやる気をなくしてしまった。
そうやってぐずぐずためらっているとき、誰かの足音が聞こえ、彼の独房の前でぴたりと止まった。男爵はあわててテーブルに飛んでもどり、何食わぬ風をつくろって腰を下ろした。兵隊が一人、独房に入って来た。戸口に立ったままの士官がその兵隊に命じた。
「命令はわかっとるな、伍長、片時も目を離すなよ。……ただし、囚人に何か要るものがあればすぐ知らせるのだぞ」
デスコルヴァル氏の心臓は、早鐘を打っていた。クルトミューが司令官に耳打ちして、この二人の監視役が送られて来たのだろうか?
「急がねばなりません」扉が閉まると伍長は言った。
味方だった。この男は援軍だったのだ。
「バボアです。擲弾兵中隊の伍長であります。実は、ある人がとても困った立場に追い詰められている。その人のためにひと肌脱いでもらえないか、と言われましてね。そこでこうして参上したってわけです」
男爵は伍長の手を固く握り、感動に上ずった声で答えた。
「わたしを救うために、こんな危い橋を渡ってくださるとは、お礼の言葉もない」
バボアは大げさに肩をすくめた。
「わたしごとき老兵の命など、あなたのそれに比べたら何程の値打ちもありゃしません。……ですが、必ずお救いしますよ」
言うなり伍長はポケットから、鉄製の|かなてこ《ヽヽヽヽ》と火酒をとり出した。それから蝋燭を手に持ち、窓際まで行って五度振った。
「お仲間に、万事オーケーの合図をしているのですよ。ほら、向うでも応えていますよ」
何やら火花のように、小さな炎が三度点滅するのを男爵は見た。バボアは火酒の栓を抜くと、やすりの刃を瓶の中に浸し、濡れたぼろ切れで柄をくるんだ。
「こうすると大きな音を立てないですむのですよ」
彼は格子を破る仕事にとりかかった。手慣れた手にかかるや、窓の格子は魔法のようにずんずん断ち切られて行く。やすり屑が雨のように降り注いだものの、ほとんど物音らしい音は聞えてこなかった。
四時少し前に逃亡の準備は完了した。格子が何本か抜きとられ、仕切り壁に穿《うが》たれた穴を通して隣の房から差し込まれたロープが、格子の残りにがっちり結びつけられた。バボアは寝台の毛布を扉の覗き穴に取りつけ、錠が回らぬように『細工』をした。脱走は二段階のやり方をとらなければならない。まず、こののっぺらぼうな塔の狭い笠石にたどり着くこと。次いでそこから、切り立った大岩の下まで降りることである。ミドン司祭はマルチアルにロープを二本渡しておいた。そのうちの一本が、大岩を降りる際に使われるべく、他の一本より長いものだった。
「短いほうのロープであなたを縛り、笠石の上まで降ろします。それから、長いほうのロープとかなてこをお渡ししますから、手から絶対に離さないように。もし岩の端に着かぬうちにロープがお終いになったら、あっさり降参するか、あるいは思い切って跳び降りるしかありませんよ。さあ、用意はいいですか?」
デスコルヴァル氏は、両腕を上げて腋《わき》の下にロープを巻いてもらい、鉄格子の間をくぐり抜けた。
下では、城砦を取り巻く広々とした草地に、八人の人間が、バボアの合図を確かめはしたものの、はらはらしながら待っていた。デスコルヴァル夫人、モーリス、マリー・アンヌ、ミドン司祭、それに四人の退役士官たちである。この夜は明るくて、見通しがよくきいた。四時になると、塔ののっぺらぼうな外壁を降りてくる黒い影が見えた。男爵だった。すぐ後にもうひとつの影が続いた。バボアである。危険な行程の半ばは切り抜けたのだ……。
間もおかず、影の一つがゆっくり岩をすべり落ち始めた。デスコルヴァル男爵にちがいない。すさまじい悲鳴が、夜の静寂を引き裂いた。デスコルヴァル氏が五十フィートの高さから墜落したのだ。彼は城砦の真下にたたきつけられた。ロープが切れたのである……。モーリスが走り寄ってロープの切れ端を調べると、これは父を生きて城砦から出さぬよう、あらかじめ仕組まれた罠だとさけんだ。ロープは明らかに刃物で切断されていたのだ。