ジョン・ディクスン・カー/長谷川修二訳
青銅ランプの呪い
目 次
青銅ランプの呪い
解説
登場人物
ヘレン・ローリン嬢……考古学者セヴァン伯爵の娘
セヴァン伯……セヴァン伯爵領四代の当主
サンディ・ロバートスン……セヴァン伯の助手、ヘレンに求婚中
H・M(ヘンリ・メリヴェル卿)……英国陸軍諜報部長で老獪《ろうかい》な探偵
マスターズ……ロンドン警視庁犯罪捜査部の大警部
アリム・ベイ……カイロの占い師
キット・ファレル……青年弁護士、ひそかにヘレンを愛している
オードリ・ヴェーン……サンディを愛している
ベンスン……セヴァン伯爵家の執事
ポンフレット夫人……同家政婦
ジュリア・マンスフィールド……グロスター市の骨董店主
リオ・ボーモント……アメリカの骨董狂
エラリー・クイーンに読ませるために
親愛なるエラリー
僕は二つの理由から、この本を君に献げる。第一は、夜の更けるまで二人で推理小説論をたたかわし、推理小説の正しい書き方を論じ合った――この話題は、嬉しいことに、とうてい論じつくせないことを二人は知ったが――あの頃の思い出のためである。第二は、特定の、ここに示す「奇蹟」的難問の形式が――密室ではないのを断わっておくけれど――おそらく推理小説の端緒として一番魅力があろうという点で、二人の意見が合ったからだ。僕はただジェームズ・フィリモア氏と氏の傘に対する隠れた言及をするだけにとどめる。以上をもって君に対する予告とする。
昔と変らぬ友人の
ディクスン・カー
青銅ランプの呪い
カイロの『コンティネンタル・サヴォイ・ホテル』のスイートルームの客間で、若い女と若い男が電話のなるのを待っていた。
それはこの物語の発端ではなかった。が、この恐怖の発端であった。
カイロは近頃ではすっかり変ってしまった、という人が多い。しかし、こういう事柄の起った頃――十年前のよく晴れた暖かい四月の午後――には、人生は昔ながらの愉快な平穏さを伴って、なだらかだった。
エジプト特有の強い青い空を背景に、白い石で作ったこのホテルは、強い明暗度を見せて立っていた。鎧戸、窓ぎわについた小さい鉄製のバルコニーなどはなんとなくフランス式な感じをあたえ、日除けの色がよく映った。シャリ・カミルからオペラ劇場までを電車がやかましい音をたてて走り、旅行者の群がすぐ真下のアメリカ通運の事務所に殺到していた。紫檀《したん》や小さな椰子《やし》に取りまかれたホテルの入口に寄って来る自動車の流れは強い光線を反射した。しかし、昔ながらのカイロの雑音――と臭《にお》い――は、この回教寺院の尖塔の多い市街から空に立ち登っていた。
こういう雑音は『コンティネンタル・サヴォイ』の二階のスイートルームではかすかにしかきこえなかった。鎧戸が降りていて、客間には光線は薄い平らな隙間を通してだけしかはいって来なかった。
そして、青年はこういった。
「後生だから、ヘレン、坐って下さいよ!」
女は歩きまわるのをやめて、ためらうような目つきで電話を眺めた。
「あなたのお父さんは」青年は穏やかにつけ加えた。「なにかニューズがあればすぐ電話をなさいますよ。それに心配することなんか、始めからないんだし」
「そうかしら」女はいった。
「蠍《さそり》に刺されたくらい!」相手はいった。彼の調子は必ずしも侮蔑的ではなかったが、蠍に刺されたのを別に重傷と思っていないのは明瞭だった――それに、医学的にいって、彼の言葉は、もっとも千万なのであった。「つまりね、ヘレン!」
女は鎧戸の一つを半分あけて、も少し光線が部屋にはいって来るようにして、横顔を見せて外を見ながら立った。
彼女を美人ということはできない。しかし彼女は多くの若者を――今彼女を考えこみながら眺めているサンディ・ロバートスンも含めて――たった二杯のウィスキーだけで足をとられてしまわせ、気違いじみたことをいわせる例の資質をもっていた。
性的魅力、という奴? 彼女はそれを持っていた。たしかに。だが、二十代も後期にはいった健康で綺麗な娘は大抵はそれを持っている。知能? 想像力? その長閑《のどか》な朗らかな天性の下に、一朝なにかあれば、危険もかえりみずに荒れるかもしれない隠れた強さが暗示されているから? あるいは、その辺のところが大いに当っているのかもしれない。
彼女は金髪だった。柔らかい黄色に輝く髪はかすかに日に焼けた皮膚といい対照になっていたし、また日焼けのせいで濃いとび色の目の白目《しろめ》の部分がきわだって輝いてみえた。口の幅の広いのは、すぐ目立ったし、どっちかというと、いささか不安定に見える。動きも不安定だ。微笑の始まりのようにみえたとたんに、疑わしくなる。
想像力が強すぎる! 性質が強すぎる!
だが、それは生れつきで、サンディ・ロバートスンなどもそれを変えたいなどとは思っていない。発掘作業だって、シャヴェルを使わせても、雇ったアラビア人にひけは取らない。教儀式目についてだって、カノーポス産の花瓶についてだって、彼女はギルレー教授と同じくらいの学識をふりまわせる。そのくせ、小柄なしなやかな身体は、ブラウズに革ゲートルという格好でも、女らしさを少しも失わない。
一九三四〜五年の頃、ナイル河の西岸にあるビーバーン・エル・ムルーク、つまり王者の墓地、と呼ばれる谷〔いわゆる「王家の谷」〕に世界の注意が向けられたのを読者は思いだすことと思う。英国の考古学者の小人数の一行が、ギルレー教授とセヴァン伯爵を首班として、砂の中に埋っていた一基の墓を発掘したのであった。
十月に始めて、五月の炎熱で中止したので、一行は二季の間作業をした。そして、花崗岩の閉塞物を貫いて、入口の間にはいり、側の間にはいり、それから墓所にはいった。エジプト政府をすら驚かした財宝の中に埋まるようにして、黄色っぽい結晶性の砂岩でできた大石棺のあるのを彼らは発見した。さんざん苦労したあげくに、一行は、アモン神に仕えた高僧で第二十王朝末期〔紀元前一千年頃〕に王者として全エジプトを治めたヘリホルの木乃伊《ミイラ》を明るみに持ち出したのであった。
この報道は全世界の新聞を通じて、どえらい評判になった。
旅行者の群が野営地に流れこんだ。新聞の通信員が日夜出没した。写真が方々に出た。ギルレー教授の写真、セヴァン伯の写真、解剖学者のバッジ博士の写真、サンディ・ロバートスンの写真、それから、なかんずく、セヴァン伯の娘であるヘレン・ローリン嬢の写真が出た。ヘレン嬢が参加しているという点がこの探検にまことに都合のいいロマンティックな興味を持たせたのである。そこへ持って来て、聴き手にはお誂えむきのスリルが現われた。まさに止《とど》めを刺したわけである。
ケンブリッジのギルレー教授は名にしおうこの墓にはいった最初の人物であった。そのギルレー教授が、こともあろうに、二年目の終りに近い頃、手を蠍《さそり》に刺されたのだ……
迷信の囁きの発端になるには持ってこいの事件であった。おまけに新聞ダネにはおあつらえむきだった。
『コンティネンタル・サヴォイ』の、暑い客間の窓ぎわに立って、ヘレン・ローリンはぐいと身体のむきをかえた。彼女は白い袖なしのテニス服を着ていて、真紅と白の絹のスカーフを首にまきつけていた。そして太陽の光線が照らして、彼女の頭のうしろに黄金色《こがねいろ》の後光がさした。
「サンディ。あんた……新聞を見て?」
「あれは」ロバートスン氏は断乎たる口調でいい放った。「あれは君、くだらない妄信ですよ」
「もちろん、くだらないわ! ただ……」
「ただ、なんです?」
「私は明日の切符の予約を取り消した方がいいのじゃないか、と考えていたの」
「なぜ取り消さなければならないのです?」
「私が英国に帰ってしまっていいとお思いになるの、サンディ? ギルレー教授が療養所にはいっているのに?」
「ここにあなたがいれば、何か役に立つんですか?」
「いいえ。なにもできないでしょうよ。でも、やっぱり……」
サンディ・ロバートスンは顔を椅子の背にむけてまたがっていたが、薄暗いところから彼女を仔細《しさい》に眺めた。彼は両手を組んで椅子の背の天辺におき、尖った顎をその上にのせていた。
小柄な、痩せた、筋ばった男で――ヘレンとくらべても幾らも背が違わない――年は三十五なのだが、老《ふ》けてみえる。その代り五十になるまでそのままでいそうなようすだった。髪は――この髪の色からサンディ〔砂のような薄茶色という意〕という綽名《あだな》が出来たのだが――濃くてその上に微かに皺《しわ》のある額と、黒い利口そうな、よく動く目がある。彼の額には例のユーモアにみちた醜さがあって、口の端に皺が一本でるのだったが、こういうのによく女は魅力を感じるものなのだ。
「あなたのお父さんはあなたを帰して家の仕度をしておいてもらいたいのですよ。僕たちも追っつけ帰りますよ」……彼は少し躊躇した……「このエジプト政府との揉めごとを片づけたらすぐに。もう一度いいますがね、ここにいてあなたは何か役に立つんですか?」
ヘレンは窓際にあった椅子にかけた。彼女を眺めるたびに、サンディ・ロバートスンの顔の表情は――彼は薄暗いから相手の目からは全然隠されているのを知っていた――まるで肉体的な痛みのような、醜い興奮の色を見せるのであった。しかし彼の態度のほうはごく上手によそおったさりげない風になって行く。
「それから、英国にお帰りにならないうちに……」
「なァに、サンディ?」
「この間の晩、僕があなたに話したことを少しは考えて下さいましたか?」
ヘレンは目をそむけた。そのときした小さな身振りから見ると、彼女はその話題を避けたいのだが、どういう風にしていいかわからないらしかった。
「僕の財産は」サンディは食いさがった。「ほとんど一文もないのです。もしあなたが光栄にも僕の妻になって下さったら、無論あなたは、僕を養わなければならなくなる」
「そんな風におっしゃらないで!」
「いけませんか? 本当なんですよ」
ちょっとたってから、彼は前と同じ静かな口調でつづけた。
「当り前なら、僕は持ち前の社交的な強みを推進してもいいんです。僕のゴルフやブリッジやダンスは、みんな一流ですからね。僕はエジプト学も少しかじったし」
「かじったどころではないわ、サンディ。つまらない卑下なさるもんではなくてよ」
「よろしい。かじったどころではない。あなたが、それに興味をお持ちだからな。ところが、ほかの物にはあなたは大して興味をお持ちではない。あなたは生真面目ですね、ヘレン。とっても生真面目だ」
何か訳があるのだろうが、生真面目だといわれると、どの女も内心あまり喜ばない。ヘレン・ローリンはいささか弱ったような目つきで彼を見かえした。愛情、疑念、当惑、それからサンディはああいったものの本気でいったのではないに違いないという確信が、彼女の頭の中で相争った。
「そうした根拠があるから」サンディは続けた。「僕はあんたと巧く行くと保証できるんです。そうした根拠があるから、僕はどんな問題にでも熟達してみせますよ。エスペラント語から熱帯魚にいたるまで。僕は……」彼は話をやめた。急に、その半ば暗闇の厳格さをうち破るように、彼の語調が変った。
「いったいなにを僕はやってるんだ」彼はいい足した。「まるでくだらんノエル・カワードの芝居みたいなことをいって!」
「サンディ、お願いよ!」
「僕はあんたを愛しているんだ。それだけでいいんだ。ああ、それから、あんたが僕を『好き』だなんていわないで下さいよ。それはもう知っているんだから。要点は、ヘレン、紋切り型だけれど、ほかに誰かいるか、ということなんだ」彼はしばらく躊躇した。「たとえば、キット・ファレルなんかは?」
ヘレンは彼を真正面から見つめようとしたが、できなかった。
「知らないわ!」彼女は大きな声をだした。
「あんたはキットに会うんだろうな、ロンドンに帰ったらば」
「ええ。会うと思うわ」
サンディはふくれた。また顎を、組みあわせた両手の上におろした。
「人によっては」彼は理屈っぽくなってきた。「クリストファ・ファレル氏をキザッぽいニヤケた男だという。僕はそうはいわないです。彼の真価を知っているんで。でも、こんな間違った話はないんだ! 全部間違っているんだ!」
「どういう意味なの、間違っているって?」
「だって、見てごらんなさい! キット・ファレルをごらんなさい。あらゆる意味で好男子です。一方、僕をごらんなさい。僕の顔では時計を停められないだけではなく――時計は逆にまわりはじめて十三も打ってしまう」
「あら、サンディ、そんなこと全然かまわないじゃないの?」
「いいえ。かまいますよ」
凄く当惑してしまって、ヘレンはまた顔をそむけた。
「彼のような奴こそ社交界に出没していればいいんです」サンディはなおもつづけた。「そして、僕こそ法律事務所でアクセク勉強すべきなのです。でも、事実はそうでしょうか。大違いです。ちょうどその正反対なのです。あいつは何とやら判決録の中の、一八五二年のホイスルビとバウンサの間の訴訟事件に興味を持っている――ひどく持っている。そしてあなたは」彼は、長ったらしい弾劾演説のしめくくりとして、彼女に攻撃の矢を投げた。「生真面目ときている。あなたが一番最近に笑ったのはいつでした!」
彼も恐らく驚いたであろうが、このときヘレンが笑ったのである。
「本当をいえば」彼女は答えた。「たしか今朝だったと思うわ」
「へえ?」サンディはいぶかしげな口調だった。まるで誰か他人が彼女を笑わせたのが腹が立つといった調子だった。
「そうよ。このホテルに泊っている男の人で……」
サンディは額を叩いた。
「よしてよ、馬鹿ね! その男の人は私のお祖父ちゃまになれるくらいのお年の人なのよ!」
「なんという名なんです?」
「メリヴェル。ヘンリ・メリヴェル卿よ」
黒っぽいとび色の目には、まだ不安の色が残っていたが、ヘレンは身体を後ろにもたれかけて、天井の一角を眺めた。思い出し笑いに、顔全体がにわかに明るくなった。
彼女は知らないのであったが、ひとたびヘンリ・メリヴェル卿が現われると、往々にして憤慨したり、また狂暴になったりする場合もあるが、まず一座の厳粛感をなくしてしまうのは必定なのである。
「こちらには静養に来ていることになっているのよ」彼女は説明した。「もっとも、実際には、どこも悪いところはないの。そして、明日出発するとおっしゃるの。こう始終お金をごまかされるのでは、気候のお蔭で得られた、いい効果がすっかり台なしになってしまうから、ですって。そうおっしゃりながら、とても大変な切抜き帳を作っていらっして……」
「切抜き帳?」
「ご自分の活躍の記事なの。ここ何年間かの、新聞の切抜きの大きな束を整理していらっしゃるの。サンディ、その切抜き帳は全然素晴らしいのよ! それは」
グランド・ピアノの側にある小さいテーブルの上で電話が鋭く鳴った。
ちょっとの間、沈黙があった。まるでサンディもヘレン・ローリンも、動くのがいやであるかのようだった。が、彼女がとびあがって電話の方へ駈けた。受話器をとりあげたとき、彼女の顔は蔭になっていたが、その目の輝いているのが、彼には見えた。
「あなたのお父さん?」彼はきいた。
ヘレンは手を受話器の口に当てた。
「違うの。療養所のマクベーン博士なの。父は……こっちに来る途中だって」
彼にはきき取れなかったが、電話はかすかな音をいつまでも続けた。無限に続いて行くような気がして、神経が苛立った。その間に、ほかに三十通話ぐらいできそうな長い時間だった。やっとのことでヘレンは受話器を台の上に戻したのだったが、大きな耳障りなガチャンという音を立てたところからみて、彼女の手が定まっていないのがわかった。
「ギルレー教授がなくなったのよ」
窓の外、遅い午後の光線は褪《うつろ》いはじめた。間もなく、日没の祈祷の時をしらせる『マーグリブ』が、全カイロの寺院という寺院の尖塔からきこえ始め、それが全市にこだまするのだ。この部屋は――今になって気がつくというのも奇妙な話なのだが――つい最近に模様変えをしたものであった。ペンキとニスの匂いがするし、椅子に張った黄色い繻子の布のカビ臭い匂いまでが感じられ、それが肺にはいって、刺激するらしい。
サンディは椅子からとびあがった。
「そんなことはありませんよ!」彼は大声をあげた。
女の子は黙って肩をすくめた。
「だって、ヘレン、そんな事はあり得ないもの! 蠍の刺し傷? あんなものの危険といったら。たかが……たかが……」彼は適当な比較を頭の中で探したが、いいのがみつからなかった。「きっとなにか別の理由に違いない!」
「なくなったのよ」ヘレンは繰りかえした。「だから、きっと、みんなはいろんなことをいい始めるわよ」
「ええ。わかっています」
「あの墓にまつわる呪いについて、もう噂が立っているのよ。あの青銅のランプについて、私に警告している新聞記事も一つ読んだわ」ヘレンは両手を拳《こぶし》に握りしめた。「あれだけ父様が苦労なさったあげくなんだから、少しひどいと思うわ」
遠くで扉が開いて閉まった。スイートルームの控えの間から、ゆっくりした足どりの近づいてくるのがきこえた。客間の扉が開いて、足音の主がはいって、あとを閉めたのだが、その人はこの三四時間でメッキリ老《ふ》けてしまったようだった。
セヴァン伯爵領四代の当主であるジョン・ローリンは中肉中背の丈夫な男で、身体はよく引きしまり、手は節くれ立ち、顔は日に焼けて革のように固くなっている。鉄灰色の髪と短く刈りこんだ半白の口ひげは皮膚の色のせいで鼠色にみえる。頬には二本の太い溝があって、口ひげの両端に、鼻から顎へと走っていて、顔つきを厳格なものにしていたが、天性はそんなのではなかった。伯爵はやって来て、背中を丸くして黄色い布を張った長椅子に腰をおとした。何秒かたって、ようやく目をあげると、穏やかな声できいた。
「マクベーンから電話があった?」
「ええ」
「運が悪かったのだ」セヴァン伯ははげしく呼吸しながらいった。「どうにもならなかったのだ」
「でも、蠍が刺しただけなんでしょう?」サンディが詰問した。
セヴァン伯はいった。「医者のいわゆる耐毒性の問題なのだよ。人によっては、毒蚊に刺された程度で、すぐ治ってしまう。人によっては、致命的になる。ギルレーには、可哀そうに、致命的になったのだ」伯爵は軽い夏服の上着の内側に手を入れて、心臓のあたりを探った。「本当をいうと、ヘレン、私自身も、余り気分がよくないのだ」
二人の顔に驚愕の色が出たのを見て、セヴァン伯は軽い調子に変えた。
「この心臓は」伯爵は心臓の部分を軽く叩いた。「ずい分長い間、動いているんだ。ときには少しはガタガタになるだろうではないか。それに、問題がなにかと多かったことだし。ことに、あの……」その穏やかな目が、不可解な色になって来た。まるで何か信じなければならないことを、どうしても信じたくないようなようすである。伯爵はいい足した。「私は寝室に行って、少し横になろうと思う」
ヘレンが前に走り出た。
「ほんとうに大丈夫?」彼女は叫んだ。「お医者をお呼びした方がよくありません?」
「冗談をいいなさい!」セヴァン伯はこういって立ちあがった。「私はただ疲れたのだ。私は家に帰りたい。あっちをお前が一日も早く整頓してくれるなら、私にはありがたいのだよ」
ヘレンは躊躇した。「実は今、サンディに話していたんですけれど、明日私は出発したほうがいいんでしょうか。今こうして、ギルレー教授がなくなってみると……」
「お前に出来る用事はなにもないよ」父親が指摘した。さっきの奇妙な不可解な色が彼の皺の多い顔に戻ってきた。「おまけに、ある意味で、お前は邪魔になる。お前の今までの手伝いが役に立たないというのではないのだよ! 私のいう意味はただ……」セヴァン伯は弁解するかのような、困った身振りをして見せた。「気の毒なギルレー!」伯爵はいった。「ああ、気の毒なことをした、ギルレーは!」
一ぺんにやって来る熱帯の夜の足の早さを予告する影が、全市の上に集まって来た。ふだんの、遠い雑音と、こもったような噪音が、新しい音に消された。朗々たる音である――勤行の時を知らせる僧の声である。
『アラーこそ最大の神なり! アラーのほかに神のなきを証せん! モハメッドがアラーの予言者なることを証せん! 祈祷に集まれ。救いを求めに集まれ。アラーこそ最大なり。アラーのほかに神はなし!』
細い糸のような音であったが、やがてこれは多くの音となって、空高くあがり、神秘な国土をおおうように落ちて来た。セヴァン伯は窓の方を見やった。
おだやかに、少しうわの空の調子で、伯爵は頭をふった。
「人は誰を信じられるのだ」なにかを引用しているかのような口調で呟いた。「これは大きな問題だ。人は誰を信じられるのだ」
まだ上着の下の心臓のあたりをまさぐりながら、振りむくと、元気のない足どりで寝室の方角へと歩きだした。出て行ったあとで扉がしまった。ヘレンとサンディは困惑した表情で顔を見あわせた。外の黄昏《たそがれ》の中では、僧はまだ呼びかけていた。
翌日の午後の二時半に、中央停車場の外で、特筆大書すべき大喧嘩が起きた。この町は喧嘩や騒動の多いので有名なのだが、アラビア人の赤帽やホテルの守衛の間では、この話はいまだに尊敬の念をもって語り種《ぐさ》になっている。それから、悪いのがタクシーの運転手だったのか、ヘンリ・メリヴェル卿だったのか、の点では、いまだに意見がわかれている。
中央停車場はカイロの北にある。町の中心から、距離の点では、あまり遠くはない。しかし、それはなにに乗って行くかできまる話なのだ。
この町では、電車の通る道が駱駝の通行の邪魔をするし、駱駝の通行が電車の邪魔をする。二頭立ての馬車の馭者は全然道というものを知らないから、わめいて道を教えなければならない。犬や、ロバや、小商人《こあきんど》や、乞食などが下手にコンガラがると、いつなんどき交通がとだえるかわからない。だから、汽車にまにあいたいときには、早く出発するに限るのだ。
という訳で、この日の午後、シャリ・ヌーバール・パシャ通りを一台のタクシーが、警笛を鳴らしながら、ガタピシと北へ向けて走っていた。
このタクシーは、およそ時代物《じだいもの》のフォードで、最初どんな色をしていたのか誰にも見当のつかないしろものだった。屋根の上には大きなスーツケースが二つと小さいのが一つゆわえつけてあった。メーターはついていたが、こわれていた――いや、少なくとも運転手は、こわれている、といった。運転手は皮膚の黒い若者で、正直そうな顔つきをしている。黒いうるんだ目をしていて、ベッドの毛布団から顔を出す毛のようなあごひげを、どうやらはやしはじめてまがないようすで、よごれた白い布を頭にまき、金もうけの夢に余念なかった。
やっとのことで客を拾った。
客は大柄な、がんじょうな、ビヤ樽然とした男で、白麻の服にパナマ帽をかぶっている。つばをすっかりさげた帽子の下に、べっこう縁《ぶち》の眼鏡が見え、そのうしろに猛烈に|ふてぶて《ヽヽヽヽ》しい顔が鎮座ましましている。いかなカイロの乞食も近よるのをはばかりそうな面《つら》がまえだ。
客はごうぜんと腕をくんで、真直ぐ坐っていた。座席のその人の脇には、大きな革表紙のついた本が横たわっていて、小さい金文字で「切抜き帳」としてある。上着の胸ポケットから尖端が突きだしている二つの物件――刃の長い一挺の鋏で、柄が上になっているのと、糊の大きなチューブ――から推察するに、客が汽車の上でどういう風に時を過ごそうとしているかがわかる。
これまでは、運転手と、客の間の会話は英語とフランス語と、客の思い出したアラビア語の断片のマゼコゼでまにあっていた。ところが、ここで客は身体を前にかがめて、運転手の肩を軽く叩いたのであった。
「オイ!」とがんじょうな紳士がいった。
運転手の声は柔らかい、うるんだ、ゴロゴロする猫なで声で、オベッカの典型だった。
「なにかおっしゃいましたか、お若い旦那様?」
「うむ」お若い旦那様は、ひどくうさんくさそうにあたりを見回しながら、いった。それから彼はフランス語でつけたした。「われわれは停車場にむかっているのかね?」
「でも、ごらん下さい!」タクシーの運転手は、手品つかいのように片腕をふりまわしながら、叫んだ。
「お目の前に停車場があるではございませんか! 全速力で来たのですよ、ご親切な紳士」
これを証明するために、彼はグイと速力を増したので、タクシーは金切声を立てながら二つの車輪で走りながら、ミダン・エル・マハッタと名づける広場に走りこんだので、がんじょうな紳士は頭を危うく反対側の窓から突き出してしまうところだった。時速五十マイルで停車場めがけて突進し始めたときには、運転手は出札口のある広場に突入する料簡かと見えたが、彼は最後の瞬間にブレーキをひいた。それから、後をふりむいて、犬のように熱心な目つきで、認可を求めた。
たくましい紳士は何ともいわなかった。
ゆっくりと、つぶれた帽子のつばが目にかかるのをものともせず、ヘンリ・メリヴェル卿はタクシーからはいだした。
「停車場でございます、お若い旦那様! 停車場でございます!」
「うむ」客はおしつぶしたような、ボンヤリした声でいった。「荷物をおろしてくれ。いくらだ?」
運転手は、なごやかな明朗な笑顔をつくった。
「メーターはごらんにならないで下さいまし、ご親切な紳士」彼はいった。「こいつは馬鹿になっていますんで。不調なんでして」
「おれの財政と同じだ」と客がいった。「こんな酷《ひど》いところに一カ月近くもいたんだからな。いくらだ」
「ご親切な紳士ですから、特別に五十ピヤストルにいたします」
「|五十ピヤストル《ヽヽヽヽヽヽヽ》だと?」ヘンリ・メリヴェル卿がいった。
奇妙な紫色が彼の幅の広い顔にひろがりはじめた。卿のしめていた極端に派手なネクタイは、車の震動で上着の外にとび出していたが、その顔色はこのネクタイの紫の部分に較べても遜色なかった。鋏と糊のチューブは胸ポケットから半分とび出していた。例の切抜き帳を小脇に抱えようとしてやりそこなった|H《エイチ》・|M《エム》〔ヘンリ・メリヴェルの頭文字だけをとった略称〕は両手で帽子を深く被りなおした。
「五十ピヤストルとな」彼は深い息をついた。「『コンティネンタル・サヴォイ』からここまでで、十シリングに近いほど取るのか」
「大した料金ではございませんよ」タクシーの運転手は自分自身この控え目のところが気に入らないようすだった。「大した料金ではございませんよ、お若い紳士! でも」彼は顔を輝かした。「チップがございますから」
「おい!」たくましい紳士が相手の顔に指をさしながらいった。「貴様が何者だか自分でわかっているのか?」
「なんでしょう、ご親切な紳士?」
ひどく興奮して、H・Mは内懐に手をつっこんだ。卿はアラビア語の文字が一杯書いてある一枚の紙を取りだすと、運転手の手にそれを押しこんだ。出発の前に、H・Mは友人にたのんで、英国に持って帰ろうと、アラビア語の悪口の精髄を集めて書いてもらったのだった。何杯もウィスキーをのんだあげく、頼まれた言語学者たちは様々な形容詞を書いてくれたのだったが、その下品な点、卑猥な点、色々な侮辱の意味にみちている点、回教徒の心胆を寒からしめるのに充分なのであった。
痙攣が運転手の顔をひきつらした。
「誰が?」彼は表を指さしながら詰問した。
「貴公《ヽヽ》じゃ!」H・Mはまたもや相手の顔を指さしながらいった。
「これが私?」
「それが貴公じゃ」H・Mがいった。
運転手はしゃがれ声で悲鳴をあげた。
「仁慈に満ち、あわれみふかきアラーの大神よ」と彼はアラビア語で叫んだ。「こいねがわくば、私と私の一家にかけられたこの無礼を、ご照覧あれ!」
それから彼は、蛇のように素早く身体を前に曲げると、刃の長い鋏をH・Mのポケットからひっこ抜いた。
西洋人が見ていたとしたら、彼の目的が鋏の尖端を使って単純な攻撃をするのにあった、と考えたところで無理はなかった。しかし、東洋人の心には洗練された術略と狡猾さがある。運転手はもうすでに一点に固定されていた。貪欲に近い色で、彼の視線はH・Mの派手な色のネクタイにむかっていた。今、彼は微笑しながら身体を前にかがめ、鋏を器用にひらめかせると、H・Mのネクタイを結び目の真下からパチンとチョン切った。
「ああ、放蕩な駱駝の子孫め。正当な支払いをこうして誤魔化そうとするのか?」
見ている前で自分のネクタイをチョン切られるという特殊な侮辱をうけた返報としては、相手の行為が考えたあげくの故意の所業である以上、ありきたりの報復では腹が癒えたものではない。単に殴ったり、蹴っとばすような陳腐なことでは復讐にならない。
だから、H・Mのつぎにした行為は当然といわなければならない。
大きな左手がサッと突き出されて、運転手の襟に相当するところをつかんだ。自分のポケットからH・Mはサッと糊のチューブを取りだした。興奮しきっている運転手が、なにが起ろうとしているのかさとらないうちに、彼の運命が頭上におちた。
悪魔のような形相で、チューブを水鉄砲の代りにして、H・Mは液体糊を運転手の左の目に発射した。それから、手首を少しねじると、また同じようにして放ったが、狙いは過たず右の目に命中した。止めを刺すつもりか、署名の飾り書きのつもりか、今度は運転手の顔の上に『ゾロの刻印』を思わせるような模様をかいた。
「ハアー!」とヘンリ・メリヴェル卿がいった。「貴公は金がほしいというのか?」
運転手の唇から、またもや金切り声が出るころには、模様はかき終えた。H・Mは糊のチューブをポケットにおさめ、かわりに英貨の五ポンド札《さつ》を取り出した。そしてその札《さつ》を、政府の印璽《いんじ》のような手で、ペッタリまともに運転手の顔にはりつけた。そして、ちょうど二つのフラッシュがきらめくだけの間に、これだけのことをしたのだが、新聞社の幾多のグラフレックス・カメラがこの光景を後世のために記録したのであった。
「ヘンリ卿!」興奮した女の声が呼んだ。
H・Mは急いで向き直った。
卿も運転手も気がつかなかったのだが、見れば大勢の群集が目を光らせて取りまいていた。広場の向う側からも物見高い見物人がやって来る。宿屋の客引き、金属製の腕章をつけたアラビア人の赤帽などが停車場から駆け出して来た。ほかにタクシーが三台と、そのつぎに辻馬車が一台、例の車のうしろにつながっていて、馬車の馬がやかましくいなないている。そしてヘレン・ローリン嬢が、五六人の新聞記者にはさまれて、哀願しているのだった。
「お願いですの、ヘンリ卿! ちょっとお話しさせていただけまして?」
まだ怒りのために目のくらみそうだったH・Mは、はやる気持を制御した。
「いいとも! いいとも! いくらでも話して結構だ。だが、その前にちょっとおれが……」ここで言葉をとめた。「|おれ《ヽヽ》の荷物《ヽヽ》!」彼はどなった。「|おれ《ヽヽ》の荷物《ヽヽ》を|持って戻って来い《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》! |おれの荷物をおろせ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
タクシーの運転手のアボウ・オワドを弁護するために、彼が一目散に逃げたのは勇気の欠除のせいでない点をのべなければなるまい。
彼のほとんど見えなくなりかけていた目に、本物の五ポンド札が近づいて来るのが見えたからなのであった。提供された形式は、たしかに伝統的なものではなかった。だが、それが自分の顔にはりつけられたという事実は、占有を意味する。だから、客が気をかえないうちに逃げるにしくはない、とアボウ・オワドは結論を下したのである。
鋏を捨て、札の端を少し片目から離すと、彼はとたんに車のギヤを入れ、スーツケースを三つ屋根の上に積んだまま走り出した。五十人ののどから出る、この荷物に対する叫喚が――H・Mのどなる声につづいた――アボウ・オワドはいよいよ興奮してしまった。
車の操縦は機械に委せたまま、彼は身をひるがえすと、猿のように車の屋根の上にのぼった。彼が荷物に手をかけると、五十の声が警告してわめいた。だが、アボウ・オワドは野性的な裸足の姿を青いエジプトの空に映えさせたまま、相手にもしなかった。
最初に彼のほうったスーツケースはアラビア人の赤帽が受けとめた。二番目のがヘンリ・メリヴェル卿のすぐ足もとに落ちたから、卿は怒髪天をついた。三番目のスーツケースは停車場の壁にぶつかって、蓋があいてしまい、シャツやら靴下やら靴やら下着やら化粧道具やら、おまけにラズル〔あまり品のよくない新聞か雑誌らしい〕の一冊まで、舗道の上にばらまかれてしまった。
「お前さんの息子たちが、カニーフで溺れるのを祈るよ!」アボウ・オワドはわめいた――そしてとたんに車の中に姿を消して、さしかかった牛乳車のドテッ腹に危うく衝突する所をかろうじてよけた。
つづく五分間のことには触れないのが一番であろう。
誰か――おそらくアーガス・ニューズ・サービス社だったろう――がH・Mにチョン切られたネクタイの端を渡した。ほかの誰か――たぶん、相互通信だったろう――が、切抜き帳を渡した。アラビア人の赤帽たちが熱心に、こわれたスーツケースに品物を詰め直したのだが、結果は上々吉で、少なくとも銀張りのブラシの一対と金のカフス・リンクスの一対は、それ以来姿を消してしまった。かの偉い御仁《ごじん》は一番線のプラットフォームに立ったときには、格好も多少は何とかなっていた。アレクサンドリアまで三時間で行く急行列車の横に立って、素晴らしく魅力のあるとび色の目をしている灰色の旅行服姿の女を見おろしている。
「あの……お身体はなんともございませんでして?」ヘレンがきいた。
「率直にいうと」偉い御仁が答えた。「いけないのだ。私は今にも心臓麻痺で死んでしまうだろう。脈をさわってごらん」
女の子は従順にそうした。
「たまらん」H・Mは憂欝な声を出した。「殺人的で、燃えるように暑いせいだよ。だが、ひとたびこのろくでもない国から外に出れば……」
「あなたはこの汽車でアレクサンドリアまでいらっしゃいますの? それから飛行機で英国へ?」
「そうだよ」
娘は目を低く垂れた。
「じつを申しますと」娘は告白した。「私……私さっき観光協会の事務ところで、あなたのお隣の席を取ってもらうように頼みましたの。私、ご意見を伺いたいことがありますの」
「いや待ちなさい!」と偉い御仁がいった。彼は穏やかな、哀願的な咳をした。随行の記者の一人が、もう一枚写真をとろうとしているのに気がつくと、帽子を脱いで――そして大きな禿げ頭を見せて――厳格な、もったいぶった、勇ましい顔をしながら、前方の空間をにらみつけ、フラッシュの光って、シャッターのカチリというのを待った。それから卿はまた《かなり》人間的になった。
「なんといっていたのだっけ?」卿はうながした。
「ギルレー教授のなくなられたことは、新聞でお読みになったと思いますけれど?」
「うん」
「それから、ある一つの青銅のランプのことも?」ヘレンはいった。「ほかの発掘品はみなカイロ博物館に今は行っておりますの、もちろん。ですが、エジプト政府がこのランプを一種の記念品として私に下さったんですの」
電気を帯びたような、その『青銅のランプ』という言葉をきくと、輪になって待機していた記者達がまた前に出てきた。
「失礼ですが、ヘレンさん」と、インタナショナル・フィーチャーズ社がおだやかに始めた。
ヘレンは向き直って一同のほうを向いた。彼女はひとたび質問の波がおそいかかったとなると、完全に礼儀正しい質問であるには違いないが、おそらくタコの脚のように執拗であろう、と気遣ったに相違ない。彼女は冷静を保とうとつとめ、微笑しようと試み、これは単に愉快なささやかな送別会だと思おうと努力していた。
「折角ですけれど、みなさん!」彼女は声をはって、また記者の後列の連中にも届くようにと背のびをしながら、いった。「でも、本当に、お話しできることは、他にはなにもありませんの! それに汽車も、もうすぐに出ますし!」
穏やかな声の合唱が哀願した。
「時間はタップリありますよ、ヘレンさん!」
「ありますとも!」
「もう一枚だけ写真を願います、ヘレンさん!」
「その青銅のランプをお持ちになって、それを眺めているところを一枚願えませんか?」
ヘレンは笑い声を立てたが、妙に調子外れな声になった。「折角ですけれど、みなさん! その青銅のランプは荷物の中に入れてしまいましたの」
「英国にお帰りになってからのご計画は、ヘレンさん」
「セヴァン館《やかた》を開けますわ」
「セヴァン館? 今まで閉めてあったのですか?」
汽車の方に少し退りながら、ヘレンは手を傍の一等車の扉のハンドルにかけた。お追従の巧い給仕が前に駈け出して、扉をあけた。彼女はこうして話題が少し変ったのが嬉しいらしくて、にわかに熱心になった。
「長い間、閉めてありましたの!」彼女は大きな声をだした。「あちらに住んでいますのは、執事のベンスン老人一人っきりですの。でも、彼がなんとかして部下を集めるだろうと思いますわ。彼は……」
「でも、ご尊父はカイロにご滞在になる。そうでしたね?」
「父は後からすぐ帰りますの! 父は……」
「ご尊父はご病気で今は動かせられない、という報道は本当なのですか、ヘレンさん?」
砂利を敷き固めた、影と強烈な光の交錯した停車場の雨除けの下が、俄かに静まりかえった。期待に緊張しすぎたので、はるか遠方の列車の汽笛まできこえるようなしまつだった。
「|みなさん《ヽヽヽヽ》! |おききになって下さい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! その報道には絶対になんの真実もございませんわ。私がそう申していたとご引用下さい。私の…私の父は完全に健康でございます。ロバートスンさんがお世話下さっていますの」
アーガス・ニューズ・サービス社がなにくわぬ顔でたずねた。
「では、誰かが世話をしなければいけないのですか」
「つまり……」
「ご病気なのですか、ヘレンさん? あの報道はどうなのです?」
娘は一語一語の強さを計るかのように、深く息を吸いこんだ。彼女の目は、まるで訴えるかのように、記者の群を見渡した。
「もう一度申しあげます、みなさん。その報道は一つも真実ではございませんの。こうした馬鹿らしい、有害な、でたらめな、あの墓地に呪いがついているとかいう報道は、おまけにこの青銅のランプにも……」
また彼女は話をやめて、息をついだ。
「私がこう申したとご引用になって下さい」彼女は続けた。「私が英国に戻りましてから見るのを一番楽しみにしておりますのは、セヴァン館の私の部屋ですの。私はあの青銅のランプを炉棚の上に置くつもりでございますの。それから、私は……少なくとも、私は……この探検の本当の事実の顛末を書いてみるつもりですの。私の部屋に戻りましたらば……」
記者の群の外側の縁からおだやかな声がいった。
こういったのである。
「そのお部屋へは、あなたは決して行き着けませんよ、お嬢さん」
とたんにどぎもを抜かれて一同は静かになったが、記者たちは本能的に首をのばして、彼が通れるように後にさがってやった。そして、その男は誰にもぶつからないように、滑らかに彼らの間を横にすり足をして出た。
その男は、ごく痩せた男で年の頃は定かにはいえないが、四十がらみか、あるいはも少し下かもしれなかった。中背というのよりもずっと高いのだったが、猫背だったので、もっと低く見えた。頭の上には赤いトルコ帽を被っていたが、それには房がついていた。これは昔ならば国籍がトルコという証拠なのだった。でも、ヨーロッパ風の裁断をした見すぼらしい服や、白いネクタイや、英語を発音するときのフランス風のなまりなど、どこを見ても、彼の皮膚の色が白と褐色の中間なのと同じように、どっちとも決められなかった。
というわけで、彼は横這いをしながら一番前に出てきたのだったが、顔には絶えず微笑をたたえ、頭を始終ヒョコヒョコさげてはいたけれど、その目は一度もヘレンの顔から離れなかった。
ヘレンもようやく口がきけるようになった。
「今おっしゃったのはどなた?」彼女は大きな声をだした。
「僕です、お嬢さん」新来の人は、いきなりヘレンの鼻の下に現われると、答えた。と、いうよりも、彼女の頭のすぐ上に現われたといった方がいいだろう。なぜなら、彼女は後にとびさがったのだから。
「あなたは」まったくなんといっていいかわからないので、少し躊躇したが、こういった。「あなたは、フランス語新聞におつとめかなにかですの?」
見知らぬ男は声を立てて笑った。
「残念ながら、違うのです」彼はなんとなくおどけたような格好に、両方の手の平を上にむけた。「そんな立派な人間ではないのです。私は貧乏学者です――しかも混血の――ね?」
とたんに、おどけたようすが一遍に失せた。小さい黒い目から、絶望的な哀願の色がほとばしりでて、彼の蒼ざめた全身がにわかに活気づいた。彼は両手をおろしたが、その前に手を少し彼女の方に向けて伸ばした。その肉づきの悪いのどから出る、柔らかい眠りを催すような声は、今までは低かったのが、鋭くなって、調子も高くなった。
「そして、私はあなたにお願いするのです」彼はいった。「その盗んだ遺宝を国外にお持ちにならないように」
「盗んだ遺宝ですって!」ヘレンが叫んだ。
「はい、お嬢さん。その青銅のランプです」
またもやヘレンは弱りきってあたりを見回した。怒りに涙が出そうになっている。
「あなたの誤解ですわ、えーと……」
「私の名はアリム・ベイと申します」見知らぬ男は答えた。頭を前にかがめると、彼は、指の先を軽く額にあて、それから胸にあてた。「|どうぞよろしく《ナハーラク・サイード》」と彼は儀式ばっていった。〔「ベイ」というのはトルコ地方で使われる一種の尊称〕
「|私こそよろしく《ナハーラク・サイード・ウンバーラク》」と彼女はいった。それから、声をあげて、彼女は荒々しい身振りをみせた。「申しあげて置きますけれど、アリム・ベイ、この『盗んだ』遺宝はエジプト政府が私に下すったのですのよ」
アリム・ベイは両の肩をいからせた。
「失礼しました。政府はそれをあなたに差上げる権限があったのですか?」
「ええ。そう私は思いますわ」
「残念なことです」アリム・ベイがいった。「私達が意見をことにしますのは」彼は両手の掌を合わせ、強く互いに押し当てた。「お願いします、お嬢さん、どうか反省なすってください! あなたは、このランプは、ささいな物だとおっしゃる。私は、違うというのです」
とたんに、彼女を見おろしながら、彼はとめどもなく長広舌をふるい始めた。
「そのランプの光で、闇の夜、アモン神に仕える高僧が死を見て呪いをかけたのです。石棺からあなた方の引き離した遺骸は」――彼は両手で冒涜の身振りをしてみせたが、それは無情な非道な無言劇であった――「あなた方が、木棺さえもから引き離した遺骸は、単なる王ではなかったのです。違うのです。重ねていいますが、彼はアモン神に仕える高僧で、はかり知り得ないほど諸芸に通じていた人物だったのです。彼は快々として楽しまないでしょう」
十ほど数えられよう位の間、誰も一言も口をきかなかった。
アリム・ベイの動く両の手と、記者たちに向けられた狂ったように輝く目は、物凄く真摯な力を放射したので、記者たちは一瞬間思わず真顔《まがお》になった。だが、この最後のいい分はいささか度がすぎた。記者の間から皮肉な抑えた嬉しそうな笑い声があがった。
「ちょっと待って下さい!」アーガス・ニューズ・サービス社が割りこんだ。「つまり……魔術ですか?」
「|本当の《ヽヽヽ》魔術なのですか?」インタナショナル・フィーチャーズが詰問したが、それは深い興味を抱いているのがよくわかった。
「でも」相互プレスが考えこみながらいった。「あのミイラは帽子の中から兎が出せるかしら?」
「あるいは女を鋸で切断できるかしら?」
「あるいは煉瓦塀をつき抜けられるかしら?」
「あるいは……?」
ここで微笑がアリム・ベイの顔にもどったのだったが、その顔はにわかに邪悪な形相をていした。彼も大声をあげてみなの笑いに和したが、その声は顔つきよりもっと醜悪だった。
「せいぜい冗談をおっしゃって下さい。みなさん」彼は別に腹もたてないようすでいった。「しかし、あなた方は私のところへまたおいでになるでしょう! そうです。一週間か、あるいは二週間のうちに、おそらくあなたは私のところへまたおいでになるでしょう……」
「なんのために?」
アリム・ベイは両手を広げた。
「詫びをおっしゃるためですよ、みなさん、この若い女性がまるでかつて存在しなかったかのように塵と化したときに」
駅員の呼子が列車の末端から、細く甲高く響いてきた。扉が二つ三つ閉められて、機関銃のような音を立てた。駅員の声が三カ国語で荒々しく空をかけたが、勤行の時間をしらせる僧の声のような切迫感を与えた。
「クアトル・イエサーフィル! アン・ヴォアテュール! ゲット・イン!」〔どれも「ご乗車願います」の意〕
口の端をグッと引きさげて、荘重な沈黙のうちにこの場面を見守っていたヘンリ・メリヴェル卿が、このときはじめて介入した。
ヘレンの腕をしっかり取ると、卿は彼女を車に押し入れた。その後から卿はよじ登って、扉をバタンとしめた。窓から首を外に出したと思うと、アリム・ベイの顔にむけて、「馬鹿いえ!」と浴びせかけて、とたんに卿は席に腰をおろし、にがい顔をした。ヘレンのほうは窓際に残っていて、頬は少し赤らみ、髪は少し乱れたままの姿で、汽車がすべり出したとき起った別れの挨拶の合唱をきいていた。
「ご機嫌よう、ヘレンさん! ご無事で!」
「色々ありがとうござんした、ヘレンさん!」
「お化けに用心なさい、ヘレンさん!」
「ミイラに食べられては駄目ですよ!」
「あんなお話はみな馬鹿げたたわごとですわ!」ヘレンは、その一群から引き離されて行くかのように、低くおろした窓の端を掴んだまま、叫んだ。「たわごとだということを証明してお目にかけます!」
「彼女は生きてその部屋へ決して行き着けないのですよ」とアリム・ベイがいった。
その声は色々な物音に鈍くはされたが、彼女はかすかに耳にした。彼女は彼を見た――赤いトルコ帽を被って、うさんくさい目つきで、そのくせいやに礼儀正しい姿だった――が、汽車が走るので、とたんに見えなくなった。彼女は窓の端を掴んだまま、しばらくそこに立っていた。
やがて振りかえると、彼女はH・Mの向い側に坐った。ほかには乗客は一人もない。駅を離れると、太陽が強く照りつけた。暑さが加わって来た。ラシャのように刺す。そして車輪のガタガタいう音は低くなって、規則正しくカタンカタンと鳴り始めた。H・Mは例の切抜き帳を脇にひきつけながら、じっとヘレンのようすを見ていた。彼女は腹立たしそうに身体をゆすって、帽子を脱ぎ、短い断髪にしている濃い黄金の髪をさっとうしろに振って、奇妙にヒステリーじみた目つきをしてあたりを見回したが、やがて突然こういった。
「いったい、あの男は何者なんでしょう」
H・Mは鼻をならした。
「知らんね。恐らく、気違い病院からでも逃げ出して来たんだろう」
「まるでかつて存在しなかったように、私が塵と化すなど!」とヘレンは両手を握りしめた。「なんて……馬鹿馬鹿しい!」
「そうだとも。お主《ぬし》は別に」小さい鋭い目が彼女に釘づけになった。「お主は別にそう真剣にとってはいないのだろうな」
「はあ! もちろんですわ!」ヘレンは大きな声を出した。だが、制しきれないと見えて、彼女は泣きだしてしまった。
「これ、これ!」偉い御仁は周章狼狽して、大きな声を出した。眼鏡ごしに応援でも来ないかとキョロキョロしたが、誰も来るはずはない。「これ、これ、これ!」
苦い顔をして、女というものはこうだから困るテ、などと呟きながら、H・Mは重そうに身体を持ちあげると彼女の隣に腰かけた。すぐさま彼女は卿の肩にすがって泣いた。首っ玉にまきついた二つの腕が無性に気になるのだったが、卿はそのまま、厳格な、もったいぶった、勇ましい顔をして、感情の嵐がタネ切れになるのを待った。でも、なだめるのはやめない。
「おれはネクタイなしだ」卿は、悲劇的な口調でいった。「それから血圧がとても調子が悪い。ねえ、おきき! 私の脇ポケットには、鋏が一挺はいっているんだ! 目に突きささるよ! ああ! そんなことになったら大変だ!」
ヘレンは気を取りなおした。
「どうもすみません」彼女はそっと卿の傍を離れて反対側にすわると、涙にぬれた顔で相手を眺めながら微苦笑しようと努めた。「ちょっと神経が起ったんですの。それだけなんですわ。放っておいて下さいまし」
ハンドバッグを開けて、鏡とハンケチを出し、いやな顔をして口を曲げた。
「この日焼けは直ぐ治ってしまいますのよ」彼女は軽くいおうと一生懸命につとめた。「三日か四日で。いつでもそうなんですわ。でも、この」彼女は微笑しようとつとめながら、てのひらを見せた。「この|たこ《ヽヽ》は……まるで土方《どかた》の手みたい!……そう簡単にはなくなりませんわ」
H・Mは苦い顔をして彼女を見た。
「これ、嬢や。お主は私の意見をもとめたいといったな。本当なのか?」
「はい」
「私はおあつらえむきの老人だ」とH・Mがいった。「いってみなさい」
ヘレンは躊躇した。
「ほんとうは、色々の事が重なりましたの。もちろん、私たちの一行がこの二年間なにをしていたのか、ご説明する必要はございませんわね?」
「ヘリホルのミイラを掘ってたのだろ? 無論、その必要はないとも! そして、なにか問題が起きたのかね?」
「公共事業部と問題が起きましたわ! 新聞社とも揉めましたわ! 旅行者でさんざんにてこずりましたわ! 一例ですけれど、このシーズンにあの墓と研究所を見に来た観光者は一万二千人いましたのよ」
「そして、その観光客がなにをしたのだね? 物を盗むのかね?」
「そういうことをしようとした人たちもいましたわ」ヘレンは額に皺をよせながら認めた。「ですが、そうでなくてさえ、そうした貴重な品物を、掘り出したり泥を落したりするのにいった、身を切るような苦労の後で、それの面倒をみる責任が大変で!」
H・Mは彼女をいやな目でみた。
「これ、嬢や。私はヘリホルの財宝の話をさんざん読まさまれたので、胸が悪くなって、気がふれそうになってしまった。あれは新聞がいっているほどの値打ちがあるのかね? 宝石とかなんとかなのかね?」
「今日のわれわれが貴重と考えるような」ヘレンは微笑した。「宝石はございませんの。あの時代の人の使ったのは、遷色ガラスとか、瑠璃とか、方解石とか、黒耀石などだけでしたから。ですが、手まわりの品物や装身具はみな金無垢《きんむく》ですの。おまけに、骨董価値からいいますと……」
彼女は深く息をすった。彼女のとび色の目は思い出すように空間を見つめた。
「アメリカ人でボーモントという人などは」彼女は続けた。「ミイラのつけていた仮面を六万ドルでゆずってくれといいだしましたの。黄金の短刀とか黄金の香合などのようなものにも、同じようなとほうもない値をつけるんですの。それが蒐集家でもなければ、古代学者でもないんですの。ただ、キリスト生誕より千年も前のエジプトの国王の所有品として、ご自分のお宅に飾っておきたいだけなんですの。
「そういうものが私たちの品物ではないから、売るわけにはいかないと、いくら説明してもわからないんですのよ」彼女は考えこんだ。「その点でも問題がいくつかありましたわ。今でもまだ私にはよくわからないのですけれど、父はその点でも頭を悩ましておりましたわ。終いには、私は早くエジプトを飛び出さないと気違いになりそうな気がしまして! それから……」
「なるほど?」H・Mが促した。「それから?」
「あの」ヘレンが告白した。「ひとりの男の人がいまして」
「そうか」H・Mがいった。「そして、お主はその男を愛しているのだな?」
ヘレンが真直ぐに坐り直した。
「いいえ! その点なんですの! 私はその人を愛していないんですの! 少なくとも、自分では愛していないつもりですの」
彼女はじれて頭を振った。自分に対してじれているのだった。そして、窓の外を見た。
「名はサンディ・ロバートスンといいますのよ」彼女はつづけた。「私その人をごく好きなんですの。そして私が逃げ出すのは、そう彼にいって、彼の気持を傷つけたくないからなんですの」
ここでヘレンの目がH・Mに挑戦した。
「愚かしく響きますでしょ? 他人の感情を傷つけたくないだけで、自分が逃げ出すなんて。でも、私達は一生のうちのどの位の時間を、人の感情を傷つけたくないばっかりに、避けてみたり、歪めてみたりして、物事を自分にとって難しくするために使うか、お考えになったことがございます? 私たちになんのいいがかりもいう筋合いのない人々に対しても、ですのよ。
「サンディは昨晩、すべては間違っている、といいだしました。そして、その通りですの、ヘンリ卿! その通りですの! それから、英国に私の大の親友がいますの――オードリ・ヴェーンという名の女なのですけれど。この人はおそらく飛行機が着くとき、迎えに来てくれると思いますが――サンディ・ロバートスンに全然夢中になっています。それを、彼の方は全然かまいつけません。全然、問題にもしません。それから、キット・ファレルという名の男の人がいまして……」
急にヘレンは気持を抑えて、また頭をふって肩をそびやかした。
「とにかく」彼女はいい足した。「それは個人的な問題ですの。構わないことですわ」
「大いにかまう話だな」H・Mがいった。「もし私がお主に意見を述べるのだとしたら」
ヘレンは驚いて相手をみつめた。
「意見を?」大きな声になった。「でも、その点にはご意見を求めておりませんのよ!」
「では、いったいなにを悩んでいるのだね、嬢や?」
「あのね」ヘレンがいった。
二人を乗せた汽車は気持のいい郊外を抜け、日影と冷たい水の平和を物語る田園地帯を通りすぎていた。ほこりですすけた窓ごしのはるか左手には、もうピラミッドの姿が見えるようになって来た。烈々たる太陽の下で見ても、やはり超然と淋しげな姿である。それから、もっと遠方にはリビア山脈が青々と見える。
ヘレンは立った。一杯になっている網棚から彼女は小さいスーツケースをおろし、自分の坐っていた脇においた。ハンドバッグから鍵を出して、その錠をはずし、留め金を開けると、肌着の当て物を二重に当てて大切に納めてあったボール箱を出した。そのボール箱をあけて、今度は詰め綿の中から、彼女は青銅のランプを出した。
大きい物ではなくて、高さは四インチぐらいのものであった。格好からいえば、聖餐杯を平たくつぶしたようで、鉢はまるくて胴がふくらんでいて、内側は雪花石膏になっている。青銅はすっかりくろずんでいたが、博物館ものといえばすぐわれわれが連想するひからびた死んだ感じはぜんぜん見られない。セヴァン卿は清掃するときによほど注意したにちがいない。太陽の光を受けて、鉢全体に隈なく刻《きざ》んであるさまざまな絵が活きているように浮き出して見える。
ヘレンはそれをH・Mに渡した。卿は眼鏡をかけ直して、手の中で回してみた。
長いことたってから、卿はこういった。「この古代の重みだけで、なんとなく気味が悪くなるね。どのくらい古いの?」
「三千年とちょっとですの」
「妙な格好のランプじゃねえか。どういうふうにして使ったのかな?」
「油を一杯入れまして、燈心を浮かせましたの。胴に絵が刻んでございましょう?」
「あるが?」
「『死者の書』の場面なのですわ」ヘレンがいった。「気持のいい絵ではございませんわね」彼女はちょっとの間黙っていた。「これは内棺の中にございましたの。ミイラの手のすぐそばに」
「で、そういうところにランプがあるのは珍らしいことなのだね?」
「そうですの。なにか特別の値打か意義がこれにやどっていたわけでして」
H・Mは片手でランプの重みをはかった。
「せいぜい灰皿ぐらいの大きさだね。重さは大きい灰皿よりとくに重いというほどでもない。なにかこれが夜泣きでもするというのかね?」
「私の知っていますところでは、なんの変哲もございませんの。でも……」
「でも、なんだね?」
「私は感情的なもつれを避けたいと思っていますの」とヘレンはいった。「私はあの新聞記者たちに申しました通りにしようと思っております。ベンスンが支度をすませてくれしだいに、私はセヴァン館に参るつもりですの。私は、その呪いというのがでたらめな証拠に、これを私の部屋の炉棚の上におきますの。私は探検記を書く間、ずっとそこに閉じこもるつもりでおります。私が文学好きだと申しあげたら、お驚きになります?」
「いいや、嬢や。驚かない」
ヘレンは卿を不思議そうに見つめた。とても不思議そうであった。
「でも、なにか私の身の上に降りかかったとしましたらば?」
残忍な、なぐさみっぽい表情がH・Mの顔を横切ったので、ヘレンは真顔《まがお》になって前に乗り出した。
「お願いですわ! 私完全に本気で申しておりますのよ!」
「よろしい。私もだ。お主の身の上にいったいどんなことが降りかかるね?」
ヘレンはどういう風に説明しようかと考えるように、窓の外へ目をやった。
「あの男のいったことをおききになりましたでしょう」彼女が指摘した。
「アリムなんとか、かね?」
「はい。『まるでかつて存在しなかったかのように塵と化す』と。もちろん、そんなことの起り得るはずはございません。それは存じています。それですけれど……」
彼女の声がしだいに消えた。H・Mは急に鋭い興味の目を彼女に投げた。彼女がガラッと変ったからだった。
ヘレンは窓の外を見つめていた。遠くを動いているピラミッドの群のおぼろな線を見ているに違いない。彼女の身体は硬直したようで、微妙な唇は半ばあいていた。なにを彼女が見たのか、またなにに彼女はこれほどまでに驚いて、息もつかずに眺めているのか、それは決定し難かった。やがて彼女は一人うなずいた。ゆっくりと両手をこすり合わせる。向き直って卿の方を見たとき、彼女は晴ればれした面持で、なにかに没頭しきっているようで、ろくろく卿の顔を見てはいないのであった。
「ヘンリ卿」といいかけて、それから咳ばらいをした。
「なんじゃね?」
「私が申し上げていましたことを、みんなお忘れになって下さいまし」
「なんじゃと?」
「ご意見がいただきたい、と申し上げましたわね。それは、三四分前には本当でした。でも、今ではご意見はいただきたくないんですの」とつぜん、怯えたように彼女の声がうわずった。「いただきたくないんです! いただきたくないんです! いただきたくないんです!」
四月の声をきくと〔一月は雪、二月は氷、三月は風、四月は雨、というのが順調な英国の季候〕英国中に冷たい雨が降りつづいて、エジプトの記憶すら洗い流されてしまった。が、およそ冷えびえしたところはセヴァン館だった。
ロンドンからセヴァン館に行くには、自動車を持っているなら、なかなか愉快な旅ができる。しかし汽車で行くには乗換えという難儀がある。三時間ちょっとかかって、スウィントンにパートンを経由して、グロスターへ行く。グロスターでバスかタクシーに乗って、西南にシャープクロスの方にむかって行くと、やがて広い家屋敷を区切っている高い石の塀が見えはじめるが、道に沿って五、六マイルもあろうかと思われるほどつづいているのだ。
開いている鉄門から屋敷の境内にはいり、門番の家を通りこすと、砂利道がえんえんとうねりはじめる。自動車で登って行っても、この長い私道を終点まで行くにはほとんどまる二分間かかる。そこで、人はセヴァン館を見て、仰天するのだ。
こうしたゴシック趣味は、十八世紀の中葉に、ホレス・ウォルポール〔英国の作家。最初のゴシック小説とされる「オトラント城奇譚」が有名〕なる人物が始めた。ウォルポールはトウィックナム〔ロンドン西南方、テムズ河に沿う小都市〕に地味《じみ》な別荘を買ったが、やがて自分のロマンティックな頭で中世紀風と考えた様式にしたがって、しだいしだいにそれを増築し始めた。薄暗い塔の数々を建て、ステンド・グラス――「貧しい窓も、鮮やかな聖者の群で豊かになる」――を入れ、たくさんの昔の甲冑や武具を集めて、そのストロベリー山荘なるところで大いに楽しんだ。やがてウォルポールは「オトラント城」なる小説をものした。そして彼はラドクリフ夫人や「修道士」ルーイスなどの力をかりて一つの文学的な流行を作り、これは十九世紀にはいってもかなりつづいた。
われわれの曽々祖母たちはこういう小説を読んで感激した。ジェーン・オースティン〔英国の作家〕の物静かな諷刺を使って、その一人は熱心に尋ねる。
「恐い? あなた読んだの? 本当に恐い?」
目の優しい女主人公たちは邪悪な伯爵どもに追われて、崩れかけている城の廊下を逃げる。ゴシック風の建築は、心のロマンティックな連中や懐の温い連中の間に一つの流行になった。そして、そうした一人が、一七九四年の頃の話だが、セヴァン伯爵領の初代の主の奥方だったのである。
そこでセヴァン卿夫人は当時ぐんぐん金がもうかっていたご亭主をいびって、新しく授けられた爵位にふさわしい家を建てろといった。セヴァン卿はそうした考えをあまり感心しなかった。平凡な人物だったので、いっそ建てるならむしろ住み心地のいい家のほうが希望だった。しかし、細君のオーガスタ――彼女の絵姿はまだセヴァン館にかけてある――を深く愛していたので、意を決して、いともめでたい建築に没頭した。
できあがってみると、セヴァン館は、当のストローベリ山荘によく似たものになったが、もっと規模が大きく、胸壁も多かった。石の唐草模様があり、中世紀風の隙間の多い部屋があり、ステンド・グラスもついていた。
「ステンド・グラスばかりありやがるんで」と、ヴィクトリア女王の治世のはじめに、二代目の伯爵が嘆いた。「自分の部屋から外を見ることもできやしない」
しかし、この建築は代々の家族の気に入った。手枷足枷までついた偽の土牢――イビキをかく泊り客がポートを三本以上のんだとき、ここに閉じこめておけば、朝になってまっさおになるのを見てやることもできる――はローリン一家の血からいつになってもまったくは抜けなかった想像力を喜ばした。当主の伯爵は何年もこの館を閉めておいたが、それというのも健康状態から外国で長いことすごさなければならないからだけだった。
しかし今や、館は再び開かれようとしていた。
四月二十七日木曜日というこの雨の午後、セヴァン館は火と燈で再び時めいた。調度を整頓するので、召使たちは一時ではあったが夢中で働いた。茶の時間に、食器室で、執事のベンスン氏は、家政婦のポンフレット夫人を優しい目つきで眺めながら、坐っていた。
「新聞!」ベンスンは、頭をふりながらいった。それから、ほとんど溜息をつくようにして、こう続けた。「新聞、新聞、新聞!」
「本当に、ベンスンさん」ポンフレット夫人は素直にいった。
食器室は裏階段の狭い通路の行きづまりにあって、緑色のラシャで張った扉で仕切ってあって、これをあけると大広間の裏に出られる。ベンスン氏は揺り椅子に楽に坐っていたが、ポンフレット夫人は垂直の椅子の端に礼儀正しく坐っていた。
内心、ポンフレット夫人はどういうわけで食器室などに呼ばれたのだろうと不思議に思っていた。まえに方々で勤めたことがあるが、こんなことは一度もなかった。もしかすると、口説かれるのではないかと考えると、気が重くなった。
ベンスン氏はそんな風な人間には見えなかった。でも、誰だってそんな風に見えやしない――のっけからは。
もしベンスンさんがも少し上背があったら、さぞ格好がよかったろう、と彼女は考えた。たしかに、いい執事姿になる。今のままでは、背が低くてズングリしているから、生れついただけの威厳をせいぜい張っていなければならない。
彼は気持よさそうに揺り椅子に深くよりかかって、親切そうな目つきで相手を眺めていた。ベンスン氏の薄い半白の髪はキチンとブラシでねかしつけてあった。淡青《うすあお》い目、桃色の顔の色、横広い口、そうしたものは、すべて同じ親切と威厳の組合わせを、示していた。黒の上着、縞ズボン、立襟のカラに合った黒っぽいタイなど、すべては彼の磨いた爪と同じく小綺麗で本格的であった。なにか考えていたような、重くるしい沈黙がしばらく続いた後で、彼はもう一度いった。
「じつは、ね、ポンフレット夫人」
「はい、ベンスンさん?」
「私は、自分では迷信家ではないつもりなのだが」ベンスンは批判的ないい方をした。
ポンフレット夫人はギョッとしたらしい。
「そうでしょうとも、ベンスンさん!」
「だが、私はホッとした――私も認めるが――お嬢様が英国に帰っていらっしゃったと伺ったときには、ね」
(そら始まった! 打ちあけ話!)
ポンフレット夫人は総身ゾッとした。窓を打つ雨の音のせいでもなければ、そとのズブ濡れの庭を照らした、かすかな白い稲妻のせいでもなかった――でも、こんな日に働かなければならない庭師たちは気の毒だこと! 炉には石炭があかあかと燃えていた。湿気を追出すために、家中の部屋という部屋には、ぼんぼんと火が焚いてあった。焔の光で小じんまりした食器室は明るく、ガラス張りの食器棚のうしろに並べた銀の皿の列がピカピカしていた。
で、ポンフレット夫人は前に乗り出した。
「出過ぎた話ですけれど、一つ伺ってもよござんすか、ベンスンさん?」
ベンスンは両手を火のほうに伸ばした。「いいとも、ポンフレット夫人! いいですとも!」
ポンフレット夫人はきいた。「なぜお嬢様はずっとロンドンにいらっしゃるのですか? 新聞によると、少なくとも私の読んだ新聞だと、もう帰国なさってから二週間近いじゃありませんか」
「正確にいうと」細心なところのあるベンスンは小さい日記帳を内ポケットから出して調べながらいった。「四月の十五日からだ」
「では、なぜすぐこちらにいらっしゃらないのですの。もしなにも恐れていらっしゃらないのなら」
「なにも恐れていらっしゃらないのなら」という不吉な言葉をきくと、ベンスンの態度から親切そうなところが少し消えた。
「こちらは、お住み心地のあまりよくないのは、私にもわかっていますけれど」ポンフレット夫人は食いさがった。「女中たちはぜんぜんだらしのない連中ばかりですし! それから鉛管工は仕事が遅い上に、あんなに無礼ですし! それから、お庭なんかも、こういっては失礼でしょうけれど、手入れがろくろくできていないし! でも、少なくとも……」
「少なくとも?」ベンスンは丁寧に促した。
「だって!」とポンフレット夫人はいったのであるが、自分でもどういう意味だったかわからないのだ。
「人手がそろったのは、やっと三日前なのだもの」ベンスンが指摘した。「それに」彼はここで咳をした。「キット・ファレル様がロンドンにいらっしゃるし」
「あら!」ポンフレット夫人がいった。「うかがってよろしいでしょうか、もしやお嬢様とファレル様は…」
「いや、ポンフレット夫人」親切ではあったが、はっきりした口調だった。「質問しないほうがよかろうよ」
「悪気でいったのではないのですけれど!」
「誰も悪気とは思わんですよ」ベンスンはまた元の通り愛想よくなって、にっこりした。「お嬢様のことについては、ポンフレット夫人、なにもご心配なく。ご自分のいらっしゃりたいときに、こちらにお見えになるでしょう。それからお嬢様のご気性は私はよく存じあげているから保証するが、いらっしゃるときには充分余裕をおいて予告なさ……」
炉の脇のテーブルの上で電話が鳴った。
ポンフレット夫人はいささか気になった。彼が電話に出ようとして立ったときの動作に、なにか少し心配めいたところがあったようだったが。とにかく、彼女はそのときに例の天啓的な予感がしたのだった、と後々まで人に話したものである。
ポンフレット夫人も立って、炉棚の上の時計の後ろにある鏡に自分の姿を写してみた。身だしなみのいい五十代の女で、色香もまだ残っていなくはないし、栗色の髪が実は染めたのだということを知っているのは世の中にもう一人の女がいるだけである。
彼女はベンスンが「電報? すみませんが、読んでくれませんか?」という声をきいた。郵便局でゴールディン氏が一生懸命になって読んでいる声がきこえた。この暖房のききすぎた部屋では、その声はかすかにしかきこえなかった。ベンスンが繰りかえす声がきこえた。しかしエリザベス・ポンフレットは自分も驚き、また大いに気色が悪かったのだが、どんな電報なのか推測してしまっていた。
「『自動車でキット・ファレルとオードリ・ヴェーンと一緒に行く』」ベンスンは受話器を持ったまま一歩さがって、炉棚の上の時間を見た。「『着く予定は…』」彼は言葉を切った。「何時前ですって? 五時前?」
雨をともなった突風が窓を鳴らした。水滴が煙突から落ちて、火に当ってシュッといった。そして炉棚の上の小さい時計は、悪魔の示唆を受けたかのように、五時を打ちはじめた。
「おや、まあ!」ポンフレット夫人がいった。
ベンスンはまだ時計を見ようとして首を伸ばしたっきりであった。
「何時にこの電報は着いたのですか?」彼は詰問した。「かまいません! ありがとう!」
彼は受話器をかけて、電話器をテーブルの上に置いた。彼がまだ電話器を見つめているとき、ベルがまた鳴りだしたので、慌ててまた受話器を取って、とたんに気がついたが、今度のは壁についている私設電話のほうだった。彼がそれに答えたとき、ポンフレット夫人は今度は表門の門番のレナードのもっと重々しい声なのをききわけた。
再びベンスンは受話器を下に置いた。彼の顔色がもっと若い男の顔色のように、赤くなったり青くなったりした。
「慌ててはいけないですよ、ポンフレット夫人!」と彼はいった。「慌ててはいけないです!」
「いったい……?」
「今のは門番でした。ヘレンお嬢様とキット様とオードリ様が今しがた、ご門を車でお通りになったのです。今にもお着きかもしれない」
これは旧式の召使の立場から見て、ごく重大な話であった。ポンフレット夫人は愕然とした。
「ベンスンさん! みんなを集めなくては!」
「その時間はない」まったく人間的になったベンスンがいった。「お嬢様より先にお玄関に行ければ運がいいのだ。急がなくては! 急…」彼は言葉を切って、彼女を厳しく見つめた。「ですが、ポンフレット夫人、これであなたの抱いていた妙な空想はケリがついたでしょうな?」
「空想ですって、ベンスンさん?」
「アリム・ベイという名の占い師が、ヘレンお嬢様は命のあるうちにはこの館に行き着けないといったのです。ところが、だ! お嬢様はお着きになった」
「言葉とがめをするようで失礼ですけれど、ベンスンさん、あの占い師がいったのはそうではありませんでしたよ」
「どういう意味です?」
「あの占い師は、新聞の記事が正しいのだったらば、お嬢様はお部屋へは決して行き着けない、といったのですよ、命のあるうちには」
ベンスンの眉があがった。
「人の言葉尻をつかまえてなんとなさる、ポンフレット夫人?」
「私はただ正確にしようと思っただけですわ、ベンスンさん」
「いったい全体、ポンフレット夫人、いま、お嬢様にどういうことが降りかかるというのです?」
こういうことをいわれては、今度は家政婦の方が眉をあげる番になった。
「おやおや、ベンスンさん。念のために申しあげますけれどね、急がなければいけないとおっしゃったのに、こうして手間どっているのはあなたのせいなのですよ」
「そうです」ベンスンは応じた。「そうだ。急がなくては」
彼は元通りの洗練された老人に戻って、扉へ行くとそれを開き、先に行くように儀式ばった合図をした。しかし彼女が部屋を出ると、彼は呼びとめた。
「ポンフレット夫人!」
「はい、ベンスンさん?」
「あなたほどの経験があれば――それから、こういっては失礼かもしれないが、あなたほどの育ちのかただから――脇からとやかくと忠告する必要もないと思います。だが、ヘレン嬢にご紹介するとき、あなたは、その、こちらへ来て嬉しいという意味のことをおっしゃるでしょうな?」
「もちろんですわ、ベンスンさん!」
「そうでしょうな。こちらが気に入りましたか?」
「率直にいいますと、ベンスンさん、いやなのですの。|怖ろしい《ヽヽヽヽ》お宅ですわ」
ベンスンは正直に驚いた。
「いやなことで一杯ですもの」ポンフレット夫人が説明した。「どこへ行っても、生気という物がなくて、もちろん、お嬢様にそんなことを申しあげようというのではないのですよ。もちろん、ベンスンさん! 私は職務ということはよく存じていますつもりですわ!」
彼女は廊下に進みでた。すると、それと同時に、後ろの扉のガラス板から稲妻がサッと射しこんだ。
それは狭い内廊下で、シュロの敷物が敷いてあって、色のあせた黄色っぽい褐色の壁紙が石の壁をかくしている。いくら風通しをよくしても、かびくさい臭いは取れなかった。正面よりの末端は緑色のラシャを張った扉で、玄関の大広間に通じる。背面の方にはガラスの扉があって、そこから日光がはいる。
稲妻が廊下を走りぬけたとき、壁にかかっている三四枚の肖像画の薄黒い表面が白くはっきり照らされたが、ポンフレット夫人はとたんに足をとめた。
「ベンスンさん! 見てごらんなさい!」
「なんですか、ポンフレット夫人……!」
「なくなっているわ」と家政婦がいった。
「なにがなくなって?」
「大きな絵ですわ。何百年もたった絵があすこにかかっていたのに。お昼の食事のときにはありました。私みましたの。ところが、今みるとないんです」
ベンスンの唇が引きしまった。
「思い違いですよ、ポンフレット夫人」
「思い違いではありませんよ、折角ですけど。もとかかっていたところの壁紙が長っ細くよそより綺麗じゃありませんか。見てごらんなさい!」
「女中の誰かが降したのでしょう」
「私が命令しないのに?」彼女は気を悪くしはじめた。「あなたも命令なさらないのに?」
「後生だから、ポンフレット夫人、急いで下さいよ! もうお嬢様はお玄関にお着きかも知れませんよ。私は認めますが、ヘレンお嬢様のお顔を見るまでは、気が落ちつかないのです。この絵の問題は、もしなにか重大なことだとしても、あとで調べればいいでしょう。どうぞ、私の先を歩いて下さらんか」
「いやな事が起ったこと!」ポンフレット夫人がいった。
ベンスンがわれを忘れて、連れのひじをつかんで前に押しやるほどのことをしたのは、彼のこのときの心境をよく物語る。ポンフレット夫人は口には出さなかったが、それを厭がって、身体をふりほどいた。そして、雨の鞭がガラスを叩き、恐怖がセヴァン館の回りに集まる中を、二人は連れだって緑のラシャを張った扉の方へと歩いて行った。
車は長い、青塗りの、重心の低いライリ車で、乗ったり降りたりするたびに、帽子がつぶれて目の上までかぶってしまう、例のクーペ型であった。セヴァン館の門へと曲った時にハンドルを握っていたクリストファ・ファレル氏は、運転しながら頭をあげないようにしていなければならなかった。
この頃には、キット・ファレル青年は非常に心配していたことを記録しておかなければならない。
前部座席の彼の横にはヘレンがいた。彼はコッソリと彼女を盗み見た。それから、前の風防ガラスに映る彼女のボンヤリした姿を見て満足した。|風防拭い《ワイパー》は小糠雨をカタカタと拭っている。
「さて」と彼は大げさな快活さをみせながらいった。「これで、ほとんど着きましたね」
「ええ」ヘレンが相槌をうった。「ほとんど着いたわ」
車の持主であるオードリ・ヴェーン嬢は、窮屈な後部座席でスーツケースにもたれようと努力していた。
「あなたがたお二人みたいな」オードリは不平をいった。「ひどいうっとうしい人ってみたことがないわ。せっかく、気を晴れさせてあげようとして、ロンドンからずっと面白いお話をして差しあげているのに、ぜんぜんひとっことも聴いていらっしゃらない。どう、これは聞えて?」
「ええ」とヘレンがいった。
「いいえ」とキットがいった。「つまり」彼はあわてていい直した。「着きましたよ」
自動車は爆音高く門を通りぬけて、砂利道にはいった。
ヘレンの顔は蒼くて、目の下には影があった。彼女は真正面をむいて、不馴れな手つきで巻煙草をすっていた。車が急に揺れたのか、手元がしっかりしていなかったのか、彼女はその巻煙草を床に落してしまい、身体を曲げて拾った。
このときの彼女の姿を、どんな細かい点すら、キット・ファレルは忘れなかった。彼女は鼠色の雨外套を着ていて、それを身体にぴったり引きつけていた。彼女はシッカリとボール箱をかかえていた。彼はなにがその箱の中にあるのか知らなかったし、尋ねるのも厭だった。そういえば、彼女は旅行のしょっぱなからずっと抱えこんでいた。彼女が黄褐色の靴下をはいているのも目にとまったし、深紅色と黒のエナメル靴は田舎ではさぞ不調和だろうとも考えたのであった。
右手に門番の家が見えた。小さい八角形の石造りの家で、どの辺《へん》にも窓が一つずつついている。灯の光が格子細工のついているそうした窓から射していた。両手を目の上にかざして見ている門番の、上着をきないシャツ姿と、その半白の髪が見えた。それから、小舎の前を走りすぎるとき、彼が電話器の方へ横っ飛びをするのが、一同の目にみえた。
オードリがいった。「私達の来るのを知ってはいなかったのね」
ヘレンはすこし身体を起し、巻煙草を窓から捨てた。
「あと一週間ぐらいは来ないと思っていてくれ、と私はベンスンにいっておいたの。あの電報をなぜもっと早く打たなかったか、といって、カンカンになるでしょうよ」彼女は振りむいて微笑した。「あなたにはずいぶん退屈なことでしょうね、キット? お仕事を置いて、こちらへ来るのは」
(おやおや、ひとの気も知らないで)と彼は思った。
「いいえ」彼は一種当惑したようなしわがれ声でいった。「いいえ、構わんですよ」
彼はオードリの視線を感じていた。それは愛情のこもった遊びの色をこめて、ヘレンに注がれ、それから彼に注がれる。オードリがなにか冗談を大きな声でいわなければいいが、と彼は思った。
「可哀想なキット」というのが、オードリの実際にいった言葉であった。「法律のご商売はいかが? 依頼人は来て?」
「一人きたんですよ」キットはいった。「二カ月前に。犬の件でね」彼はゆううつそうに告白した。「大して面白くもない事件ですが」
「儲けのほうも?」
「儲けのほうも」
オードリは笑った。
ヘレンより五つか六つしか年長ではなく、キットほどに行っていないのはたしかなのだったが、彼女は二人に対してひどく母親ぶった。オードリは、朗らかな中性的な一九三〇年代式のロンドン社交界の雰囲気をにじみ出していた。ホッソリした、髪の黒い、目の黒い娘で、明るい化粧に、キットですらじつにスマートだと認めたほどの衣裳をつけていたが、彼女は自分の前に坐っている二人の肩にそれぞれ手を置いた。それは軽い、やさしい触り方であった。
「私が、あなたのためにしてあげなければならないのは、キット」と彼女はいった。「それとも、ヘレンがしたほうがいいかも知れないけれど」――彼女がにっこりしたのを彼は反射鏡の中でみつけ、睨みつけた。――「それは、なにか罪を犯すのね。そうすれば、あなたは首席弁護人になれて、名を大いに挙げられるわ」
「首席弁護人になるには、まず勅選弁護士にならなくては駄目なんですよ」
「あら。それなら、あなたが勅選弁護士になれるのは、あと何年ぐらい?」
「十五年くらいかかるんでしょうね」
オードリはひどくしょげた。
「じゃ」彼女は力説した。「誰か大立者の次席になって、名声を横どりするわけには行かないの? 誰か老人の鼻をあかしてはやれない? そうしたら、どうなって?」
「おそらく生涯かかっても勅選弁護士になれなくなるでしょう」
「あなたがた弁護士って、あんまり進取的ではないのね」オードリがいった。「でも、私はやっぱり思うけれど……」
稲妻で空が明るくなって、一同は思わず目をしばたいた。広い私道のうねる上にさしかかっている、オークの並木の梢が空に映えて動いた。新芽はふいているが、まだ葉にのび切ってはいない。一同は黙ってしまって、砂利道の上を行く車輪の音をきいているうちに、いよいよ館が目の前に現われた。
セヴァン館の前には、大きな生垣があって、また黄楊《つげ》や椹《さわら》が並んでいて、それがイタリア式に動物の形やチェスの駒《こま》の形に刈りこんであった。それを通りすぎ、私道の曲るところに、浅い段々が二つあって、その上が石のバルコニーになっている。そして、そのバルコニーの向うに、いかにも十八世紀らしい雄大な格好につみ上げた、ゴシック風の城塞が立っている。これぞセヴァン伯爵領初代の奥方様の夢想の代物なのだ。
蔦が―現代では害虫の巣として知られているが―正面を横切ってのびるように、とくに育て矯《た》めてある。雨に半ば姿は見えないが、時計台がある。去《さ》んぬる昔のロマンティックな人々は、その暗い刻《とき》の音を頭の上にききながら、思索にふけったのである。玄関の尖った石の迫持《アーチ》のしたに見える巨大な扉は、鉄の筋金を入れたオークの板である。頭の尖った多くの窓は超然たる感じを与え、その内側に燈が輝いていたり、ステンド・グラスの色を鋭くしていても、超然たる感じは失せない。一番よく目立つのは、玄関の扉のすぐ上にあるステンド・グラスのはまった窓の一列であった。
「とうとう着いたわ!」ヘレンが突然こういった。
雨降りの冷たい空気の中で新しい大気を吸ったかのように、ヘレンはにわかに活気づいた。車の扉をあけると、彼女は外へとび出して、それから連れの二人のほうをむいた。
「私は必ずやってみせるといったでしょ?」彼女は大きな声を出した。「でいよいよ|する《ヽヽ》のよ」
キットは彼女を見つめた。「するって、なにをです?」
ヘレンの目はなにか緊張してみえたが、顔はにっこりしていた。彼女はボール箱をあけた。
キットもオードリも例の青銅のランプを見るのはこれが始めてであった。しかしなんの説明の必要もなかった。それがなんであるのか二人はよく知っていた。世界中の半分が知っていることだもの。ヘレンは空箱を車にほうりこんで、ランプを両手に持った。雨が一滴その縁に当ったが、それはいかにも小さい感じがして、なんの害も与え得ない、枯れた玩具のように見えた。
「これは私の部屋の炉棚に行くのよ」とヘレンがいった。「それから、キット……! |それから《ヽヽヽヽ》! お先に」
といって彼女は踵をかえすと、足早に二つの段々をかけあがって、バルコニーを横切った。
「ヘレン! ちょっと! 待って下さい!」
そう叫んだのはキット・ファレルの声だった。それが、なぜなのだったか、彼にはついにわからなかった。だが、オードリは優しくいった。
「行かせておおきなさい、キット」
把手の代りになっている鉄の輪をねじると、ヘレンは玄関の大きな扉を押しあけた。一瞬間、彼は彼女の立っている姿を見た――小柄な、とても可愛いい格好で、大広間の燈が髪にさして黄金色に光った――が、すぐに彼女は中にはいってしまって、扉をバタンと軽くしめた。あとはバルコニーの敷石の上をうつ雨の音と、不気味な格好の黄楊《つげ》や椹《さわら》の中に落ちるかすかな雨滴の音しかしなかった。
「さてさて」キット・ファレルは呟いた。彼は車の中からスーツケースを引っぱり出して、ステップの脇にキチンと並べ始めた。
オードリは透明のレインコートを短い銀狐のケープの上にまとった。彼女は引き起し式の前部座席をまたいで外に出たが、その格好のいい、よく手入れのととのった姿は、まるで羽織っているレインコートが、セロファンの蝉の羽根であるかのように見えた。彼は車の後ろに回りながら、彼女の目が面白そうに輝くのを見た。車の後ろには、衣裳鞄が一つと、手提げ鞄がもう二つ、革帯で荷物棚にいわえつけてあるのだ。
「キット」
「え?」
「馬鹿ね」オードリがいった。「なぜあの子と結婚しないの?」
「それよりも、ね、オードリ……」
彼女は彼のあとをついて行って、彼が一番手近な革帯を乱暴にひっぱるのを見ていた。
「あんたはあまりヘレンに参りすぎていて」彼女はつづけた。「今ではほとんど世間迷惑よ。彼女のほうもあなたと同病相あわれむなのよ。おまけに、あんた方は二人とも他人《はた》からわかるのよ。それなのに、あんたは勇気を出さないの? いったいあんたと来たら、どうしたの?」
キットは旅行鞄をじっと見つめ、革帯をもう一度強くひっぱったが、やがて目をあげた。
「駄目なんだ」彼は率直にいった。
「なぜ?」
「稼げないもの」
「あら! サンディ・ロバートスンだって同じよ。でも、彼はぜんぜん平気で……」オードリの声の調子が少し高くなった。「あなたの眉が寄ったのが見えたわよ、キット・ファレル!〔こういうように名前と苗字をつづけていうときには非難と叱責の場合である〕なにかサンディの批評をしようとしたの?」
「大違い」キットは驚いていった。「僕は彼がうらやましいんだ」
「そう?」
「サンディはいつも泊るとなれば必ず一流のホテルだ。西区の酒場やナイト・クラブでは、どこでも顔が売れている。競馬場でも競犬場でも、彼の来ないときはない。僕は」彼はやっと最初の革帯をほどいて、二番目を攻撃しながら、なさけなさそうな声でいった。「僕は彼がどういう風にやってのけるのか知りたいと思う。僕が誰かをサヴォイかバークリへ晩餐につれて行けば、その一カ月というものは、ずっと鰯とビスケットで暮らさなければならなくなる」
オードリは頭を後ろに投げるようにして笑った。
「正直キット、民衆の選良」彼女は好もしそうに批評した。「それは、あなたが払う払うというからなのよ」
「それはもちろん僕が払うといいますよ! それがどうしてそんなに変なんです?」
「その上、サンディは競犬や競馬だってとても運がいいし」
「そういう方面は僕は駄目なんだな、残念だけれど。前に一度、馬の名前が気に入ったので、大きく買ってみたことがあったんです。ところがレースが終ったのに、その馬だけは依然としてダーク・ホースのままでね」
「じゃ、あなたは自分の思っていることもしないのね」オードリは微笑した。「ヘレンがセヴァン伯爵の娘で一年に何万ポンドも収入があるというだけで? ずいぶんそんな話って古風じゃなくて?」
「そうかしら」キットがきいた。とつぜん、自分の気持のはけ口をみつけるかのように、力をこめると、彼は重い衣裳鞄を持ちあげて、ドカンと地面に落した。
「僕にわかっているのは」彼は率直につけ加えた。「結局巧く行かないにきまっている、ということなんです。僕の友人が前に金持の女と結婚したんですよ。この間あったとき、彼女は彼にバス代を渡して、インチキするんじゃありませんよ、といっていた。せっかくだが、僕はご免だな、オードリ。ご免をこうむる」
「ヘレンの身の上になにかが起ったらどうするの」
「|なんのこと《ヽヽヽヽヽ》?」
「つまり、彼女がサンディ・ロバートスンと結婚してしまったら、よ」
キットはしばらく彼女の顔をみつめていた。それから、小さい方の荷物を左の小脇に抱えこんで、今度は大きい方を右の手に持った。
「そのしゃれた帽子がこの雨で台なしになるぜ、オードリ。行きましょう」
二人はなにもいわずにバルコニーを横切った。キットが顎で合図したので、オードリは鉄の輪をまげて、大きな扉を押しあけた。幸福に躍る心、といっては当るまいが、家へ帰りついたという楽しい気持で、キットは彼女のあとから敷居をまたいだ。彼は荷物をドサリと床に置いた。その結果、高い天井から反響が返って来たのだが、気がついてみるとなにかようすが変である。
大広間の真中に、ベンスンとそれから家政婦と思《おぼ》しい一人の女がぽつねんと立っている。キット・ファレルはベンスンにひどく気に入られていて、自分もそうと承知していた。静かではあるがにこやかに笑みをたたえ、頭を前に曲げ、大急ぎで荷物を取りに歩みよってくれるのを期待していたのだ。ところが、ベンスンは突っ立ったままで、淡青い目を丸くして彼を見ているばかりである。
「やあ、ベンスン!」キットはあくまで陽気にいった。天井が穹稜造りなので、彼の声は虚ろに響いた。「この荷物を手つだってくれない?」
「キット様! 私が致します!」そういってから、ベンスンはやっと本能的に前に動き始めた。が、彼は中途で停った。「あの」彼はいい足した。「ヘレンお嬢様はどちらでございましょうか」
「ヘレン嬢?」
「はい」
「会わなかったの?」
「はい」
「でも、ここにはいったんだぜ、ものの三分とたたない前に! まっすぐ二階に行くといっていた! あの忌々《いまいま》しい青銅のランプを居間の炉棚にのっけるのだといって!」
「どうも、そう遊ばされたとは思えませんので」
家政婦の顔には、恐怖によく似たある表情が出ていた。ベンスンも態度が変である。彼は両手を後ろに回し、まるでなにか隠そうとしているかのようだ。キットの声が高くなった。
「おい、ベンスン、いったいこれはどうしたというの?」
「実は、でございます」執事は唇をぬらすと、もう一歩前に出た。ここでは、声と同様に、足音も虚ろに響いた。ベンスンの視線が脇にそれた。「私どもは……いえ、まことに失礼申しあげました! それから、あなた様にも、オードリ様! これは――これはポンフレット夫人でございます」
「ごきげんよう」キットは機械的にいった。「それで?」
「ポンフレット夫人と私は、食器室におりました。門番から電話がございまして、車がこちらへ行ったと知らせて参りました」
「それで?」
「私どもは、廊下を通りまして、あの緑色のラシャ張りの扉を抜けて、この大広間に参りました。ヘレンお嬢様のお姿は見えないのでございました、キット様。その代りに、ここの床の真中に、こういう物があったのでございます」
ベンスンは両手を背から離した。片っ方の手には、彼はまだ雨の滴の落ちるヘレンの鼠色のレインコートを持っていた。もう一方の手には、青銅のランプを持っている。
沈黙。
ここの電燈は間接照明になっていたので、どこにも時代錯誤的な電球の姿は見えなかった。で、光線はもともと淋しげな、飾りのない穹稜つきの円天井に淋しげな飾りのない明るさを投げている。しかし、幅の広い暖炉が二つあって、大広間の両側にむかいあっていた。そのどちらにも薪が燃えさかっていて、石の厳しさを柔らげていた。一方の炉の上手と、それに相対した炉の下手に、ミランふうの鎧が一領ずつ据えてあった。一つは黒く、もう一つは金《きん》が散りばめてある。けわしい階段――石の手すりには唐草模様すら刻んである――が一つ、奥の方に右手の壁に沿ってある。
またもやベンスンは唇をぬらした。
彼はランプの手を上にあげた。「これが、その品物なのでございましょう? もちろん、私は写真だけしか見てはおりませんが」
キットはこれを無視した。
「そういう物はどこにあったの、ベンスン?」
「床の真中に捨ててございました。私が先刻まで立っておりましたところでございます」
キットはわめこうとして肺をふくらませた。
「ヘレン!」彼は大声をあげた。すると、彼の声は木魂になって帰って来たが、返事はない。
「落ちつくのよ、キット」オードリが口を入れた。「こんな馬鹿な話ってないわ!」
「もちろん、馬鹿馬鹿しいですよ。ヘレンはここにいるんだ。僕たちは、はいって行くのを見たんだから。この中にいるに違いないんだ。|ヘレン《ヽヽヽ》!」
「たぶん」オードリはいい張った。「やっぱり彼女は二階にあがったのよ」
一同は頭をきっと向けかえた。階段に足音がしたのである。だが、鋲の打ってある編上靴の重い足音をきいたとたんに、キットの希望は死んでしまった。階段を降りてきたのはずんぐりした、節くれだった、年配の男で、見るから獰猛な顔をしている。彼は汚れた作業服の上に汚れた外套をひっかけ、革の道具入れをさげていた。その姿を見て驚いたベンスンは平生の態度にかえった。
「ちょっと失礼いたします」ベンスンはキットに訴えた。彼は踵をかえすと、階段の中途にいる男のほうへ進んだ。「して、君はいったい誰なのです?」
新来の男はすぐ足をとめた。
「|わし《ヽヽ》かね?」
「そう、君だ!」
気味の悪い表情が男の顔に浮かんだ。彼は、もったいぶった足つきで、一歩一歩、とうとう下へ降りてしまうまで、返事をしなかった。降り切ると、彼はベンスンの方へ歩みよった。
「わしは鉛管工だよ、公爵」彼はしわがれ声でいった。「というわけだ。ビル・パワーズってんだ、公爵。ハイ通り三十七番地よ」
「私がいったでしょう」ポンフレット夫人は声をひそめていった。「横柄と来たら!」
「正面階段を使うのが失礼だというのを知らないのかね?」
パワーズ氏は待っていた。
「わしがなにものだか知っとるかね、公爵?」
「君がなにものであろうと、そんなことは……」
「|わし《ヽヽ》は社会党なんだ」パワーズ氏は説明した。「|わし《ヽヽ》は誰とも同等の資格があるんだ。階段は階段だろ、公爵。どれだって、|わし《ヽヽ》には同じなんだ」
キットはこの議論を無視した。「政治論はやめようよ、君! 君はあの若い女性を見かけた?」
「どの若い女性かね?」
「つい二三分前に、その階段を登って行った若い女性だが!」
「誰もあの階段を登っては来なかったよ、大将」
キットはオードリと視線を交した。オードリは肩をすくめた。
「君、ちょっと待ち給え!」キットは食いさがった。「君はどこにいたの?」
「階段をあがり切った反対側の風呂場さ」
「扉をあけたままで?」
「そうよ」
「家の中に人のはいって来る音をきかなかった?」
パワーズ氏の敵意はしだいに褪《うつろ》い、興味とかわってきた。彼は帽子を後ろに押しやって、油をコッテリつけた胡麻塩《ごましお》頭を指でかいた。
「なる程ね!」彼はつぶやいた。「そういえば、きいたね!」
「では!」
パワーズ氏は、ゆっくりと身振りをした。
「玄関の扉が開いて、それから閉まった。それから、女の声がきこえて――若い声で――なんとかいったが、言葉はききとれなかったね。それから、この石の床《ゆか》の上を歩く音がして、それから……」
「それから?」
「停まった」
「どういう意味? 停まったとは」
「足音が停まったのよ」パワーズ氏は宙を睨んで、思い出そうとしながら、いった。「そのまま、足音がやんでしまったのだった」
再び沈黙が来て、動くのは火影だけ。
ベンスンは気持を持ち前の威厳の下に隠しながら、レインコートとランプを差しだした。キットはそれを受取った。愛するものの着ていた品物には、よしそれが、しわくちゃのレインコートであろうと、強い傷《いた》ましい思い出が宿っているので、愛する者の姿は一層活きいきとしてきた。だが、青銅のランプは違う。信じられないほど古めかしく、火影を受けた部分は悪意に満ちた目くばせをしているかのように見えた……
「ベンスン!」
「はい?」
「僕を早合点だと思ってほしくないのだが」
「はい」
「だが、これは予期しないことではなかったのだ」
ベンスンは身震いした。「何と仰せられます?」
「ある事がロンドンで起ったのだ」キットがいった。「それで、僕は肝を潰しかけた。ヘレンを探してくれないか、ベンスン」彼は、答を待たずに、荒々しい身振りをして、自分にいいきかせるようにいった。「これは何でもないのかも知れないんだ。何も驚くには当らない。何でもない。だが――ベンスン、探しておくれ! きこえるのかね? 探しておくれ!」
八時であった。
誰かが、姿を見せずに、その午後遅く塔の時計の修繕を終えたのであった。二人が待っていると、時を報じる音が微かに陰欝にきこえて来た。二人の待っていたのは、セヴァン館の中で近代風に改装されているわずかしかない部屋の一つ――二階にあるヘレンの部屋だった。
それは奥行のある広い部屋で、寝室と居間を組合わせたようになっていて、大広間の真上に位する一列の窓からは正面の芝生が見おろせた。カーテンを引いて、闇を遮ってしまうと、どう考えてもここがセヴァン館とは思えなくなる。
明るい灰色の木の鏡板で石の壁はすっかり隠されていた。絨毯が一面に敷きつめてある。安楽椅子には華やかな色の更紗がかぶせてある。燈が白い大理石の炉棚や、その上の近代調のエッチングや、その下の真鍮と鉄の灰掻きを照らした。白く塗った、腰の高さの本棚がある。片側にある扉は、同じような装飾をした化粧部屋に通じている。
最初、待つつもりでここに来たとき――それ以来、延々として待ちに待っていたのだが――部屋には火がおきていて、切り立ての黄色い花を生けた鉢が一つ、机の上に乗っているのを発見した。今では、ヘレンの荷物がベッドの足許に積み重ねられていて、それが感銘的である。衣裳鞄も来ている。キットが最初にしたのはその青銅のランプを炉棚の真中に置くことだった。
彼は濃霧のように立ちこめた煙草の煙ごしに青銅のランプを見つめていたが、やがて何十本目かの巻煙草を火の中に投げこんだ。
「オードリ。ヘレンは死んじゃったのではないかしら」
「およしなさい!」オードリは大声で叱って、不安らしく身体を動かした。彼女は斜めに炉に面したソファの上に、膝を曲げて坐りこんでいた。背の高い娘である。少し高すぎるかも知れない。だが、艶のいい黒い髪や、クッキリした睫毛のついた澄んだ黒い目や、溌溂とした赤黒い口などは、炉の火影のせいで、前より柔らかく暖かく見えた。
「そんな事いっちゃ駄目!」彼女は肩を動かしながら抗議した。「どうしてヘレンが死ぬなんてことがあり得て?」
「わからない」
「馬鹿馬鹿しいわ! 彼女に害を与えようなどという人がいて?」
「それもわからない」
キットはまた部屋中を歩き始めた。両手はいささか貧弱な上着のポケットにつっこまれている。もし誰かがオードリ・ヴェーンにむかって、今の瞬間彼女の頭に充満している考えを書いてくれと頼んだなら、きっと何かこういったような事を書きなぐったであろう。
彼は|確かに《ヽヽヽ》魅力がある。あの灰色のアイルランド系独特の目など。とび色の髪を短く刈っている。眉と眉の間に縦の線がはいっている。もちろん、サンディ・ロバートスンのような魅力ではない。サンディの事を考えつくと、あの汚ない犬め、急に身体が苦しくなって、目の後ろが痛み始めた。いや、サンディのようではない。でも、やはり魅力はある。ヘレンにお誂えむきだ――そうだ。ああ、神様、もし何かがヘレンの身の上に起ったら……!
「キット。なにを考えているの?」
考えこみながら、彼はすぐ足をとめた。
「クロイドンでヘレンの飛行機を出迎えた日を覚えている?」
「ええ」
「飛行機は三十分遅れた。単に濃霧で遅れただけだった、もちろん。しかし……」
「あなたは心配しはじめたの?」
「定刻から十分間もたつと」キットは答えた。「僕は、もしや飛行機が墜落したのではないか、と考えはじめた。電話でもかかって来て、もうヘレンとは二度と会えない、とでもいって来たならば、と。この想像があんまり真《しん》に迫って来たので、二十分ほどたつうちに、僕はいよいよ|本当に《ヽヽヽ》墜落したのだと確信しかけたんです。いたるところにヘレンの顔が見えて来たんです。彼女のあらゆる表情を想像出来るようになったんです。だが彼女は来ない。もし誰かが来て、彼女は惨死をとげてしまった、などといったら、どんな気がするだろう、と僕は思ったんです。
「今の場合も同じなんですよ、オードリ。僕達は自分を怯えさせるのをやめなければいけない。僕達の常識を働かせれば、なにか簡単な説明がつくはずですからね」
部屋の扉がソッと開いて、ベンスンがはいって来た。
彼の後ろから、おそらくおさえた興奮にワクワクしながらであろうが、ヒョロ長い、髪の亜麻色の若い男の、運転手のお仕着せをきたのがついて来た。ベンスンも運転手も、まるで長い汚れる仕事の後のように、髪にはブラシを当て、手は洗ったように見えた。
オードリ・ヴェーンはソファから起きかかったが、また坐ってしまった。キットが口をきいても大丈夫と自信をつけたのは二三秒たってからだった。それでも、口をきるのはベンスンのほうが早かった。
「ご命令通りに、キット様」彼は犬でも差すかのように運転手のほうを顎で差した。「リューイスと私は家中を探しましたのでございます」
「そして?」
煙草の煙の立ちこめたのを透かしてみると、ベンスンの顔は醜く歪み、いいわけめいた表情を湛え、うっすらと汗をかいている。彼は咳払いをした。
「まず第一に、ヘレンお嬢様が家の中におはいりになったのは、絶対的にたしかなのでございますか?」
キットは目をまるくした。
「もちろん、家の中にはいったさ! ヴェーン嬢と僕が君にいっただろう?」彼はオードリが笑いはじめたので、話をとめた。「ちょっと待ちたまえ、ベンスン! 君はまさか|われわれの《ヽヽヽヽヽ》話を疑ったのではないだろうね?」
ベンスンは顔色をかえた。「違います。もちろん、そんなことはございません。しかし……」
「しかし、なんだね?」
「あとをおきき下さいますか?」
「すまない。続けたまえ!」
「庭師の助手が」ベンスンはくいさがった。「正面の芝生で仕事をしておりましたんです。その男は、ヘレンお嬢様がおはいりになって、それから旦那様とオードリ様が荷物をお持ちになって、おはいりになるのを見たのでございます」ベンスンは言葉を切った。「それから、また、お嬢様がそれ以来家からお出にならないことも立証されたのでございます」
オードリ・ヴェーンはまっすぐに坐り直した。
「家から出なかったのが、どうしてそう確実なの、ベンスン?」
「ただいま、地面の手入れをさせているのでございます、オードリ様!」
「ええ、それで?」
「で、十二三人の男衆を仕事の終るまで雇い切りにしております」と執事は説明した。「今日の午後は、お館の回りのいたるところで、人が働いておりました。どの扉も、どの窓も、誰かしらの目にふれておりました。それはお信じ下さっていただきたく存じます、キット様。そうした臨時雇いの庭師どもが証言いたします――それに、その男たちはグロスターでは性《しょう》のよく知れた連中で、嘘などは申しません。残念なことには……」
「続けたまえ!」
すると、こんどは一息《ひといき》に言葉が出たが、ベンスンは左右に垂らした手の指をゆがめた。
「残念なことには、ヘレンお嬢様は家の中にもいらっしゃいませんのです」
短い沈黙が来た。
「|なんだって《ヽヽヽヽヽ》?」
「ヘレンお嬢様は」ベンスンは頑強に繰りかえした。「家の中にはいらっしゃいませんのでございます」
「おい、ベンスン。君は気でも狂ってしまったのか」
「違います」
「でも……」
「探せという仰せでございました」執事の声はしだいに大きくなった。「それで探しましたのです、リューイスと私が」彼の投げた視線を追うと、運転手は目玉をキョロキョロさせながら、後ろの方でなにか物をいいたげに歩き回っていた。「私はセヴァン館は子供の頃からよく存じております。それに私どもの探しませんでしたところは――お信じ下さいまし、キット様――一インチもなかったのでございます! ヘレンお嬢様は家の中にはいらっしゃいませんです」
キット・ファレルが最初に感じたのは、恐怖とか心配とかよりも、むしろ気持の悪い、幻惑するような、疑惑だった。
そんなことはないはずだ。そんなことの起るはずがない。たとえば酔っていない真面目そうな人間が君にむかって、君の友人の一人が、椅子から浮かびあがって、なんにも支えられないままフワーッと四階の窓から外に出て行った、ときかされたらば、君の最初に感じるのは、その友人が下に落ちやしなかったかという心配ではないに相違ない。その代りに君は、機転が歯車にでもひっかかったような気がして、頭がコンガラがったような気持になり、それから同時にまた、真面目な顔でまんまとかつがれたと感じるに相違ない。
だが、それはわるふざけではなかった。
キットはオードリのほうを見やった。彼女はソファの上に膝を曲げてまっすぐに坐っていて、片手を炉棚の縁に置いて身体を支えながら、同じように呆然と信じ得られないといった顔をしている。キットは頑強に理性的な語調を採用した。
「ききたまえ、ベンスン。この話はぜんぜん気違いじみている」
「はい」
「ヘレンが青銅のランプを持ったまま家の中にはいって、とたんにシャボンの泡のように消えてしまった、などといっても、僕は信じられないね!」
「はい」
「不可能だ」
「はい。それから、このお知らせも致そうと思って参りましたのですが」ベンスンはつけ加えていった。「お食事は十分以内にお給仕を始めます」
「食事か」キットがいった。「食事!」
「申し訳ございません、キット様」ベンスンの陰険さのない青い目もやはり緊張してみえた。「あの――もちろん、なんでございましたらば、遅らせますが」それからベンスンは胸をふくらませて、不運な運転手のほうへ向き直った。「いったいお前はなんでまだここにいるのか説明しなさい、リューイス」キットは彼が運転手に退るように命じたのをきかなかったが、ベンスンはこう詰問した。「まことに遺憾だよ、リューイス、遺憾千万だ、私の命令がこう続けざまに背かれるのだったならば!」
しかし、さっきから、間のびのした背の高い身体の重心を、片足から別の一方へと移していた若いリューイスは、もう自制し切れなくなった。
「旦那様」彼はキットに訴えた。「私は前に映画で見たんです」
「留めたもうなよ!」ベンスンの冷やかな目がもう一度、運転手のほうに向き直るのを見て、キットが主張した。「なにか話すことがあるのなら、いわせるといい!」
「前に映画で見たんですが」リューイスは説明した。「その中で死体をミイラの上箱《うわばこ》の中に隠したんです」
「なんの死体を?」オードリが恐怖にうたれて大きな声を出した。
リューイスは驚いて口をつぐんだ。
彼は誰かを怯えさせているというようなことは夢にも思っていなかった。ほかの連中のように、彼も新たに雇われた口であった。彼にとっては、ヘレン・ローリン嬢というのは単に魅力のある名前だけだった。彼の考えていたのは殺人だった。新聞でよく読む血なまぐさい種類の殺人なのだったが、きき手の顔に現われた表情を見ると、彼はハッと口をつぐんだ。なんだか胃のあたりが気持が悪くなって来た。
「リューイスの申しておりますのは」ベンスンは重々しい口調でいった。「一階の御前《ごぜん》様のお書斎に、エジプトから参りました石棺が二つ三つあるあれなのでございます」彼はキットに向けて、意味あり気な目くばせをした。「それ以外の暗示につきましては、キット様、ご自分でご判断なさいまし」
「なるほど」キットはいった。「そのミイラの上箱の中は調べてみたの?」
「はい」
「そして、なにか……?」
「いいえ」
「でも、私の申しますのは」運転手は食いさがった。「それを見て、別の考えが浮かんだのでございます。映画のことなんですが。けっきょく、お嬢様はここの中の|どこか《ヽヽヽ》においでになるはずでございますね? そして、そのもう一本のほうの映画で、悪漢たちは死体を誰もみつけられない、秘密の隠れ場所に入れてしまうんです」いい言葉がみつからないので、リューイスは館全体を包含するある身振りをした。「ここを全部探してごらんなさいまし! 私のいう意味がおわかりですか?」
キット・ファレルは希望をすばやく掴んだ。「秘密の隠れ場」彼は叫んだ。「というのは、ごく明瞭な見方だ。きいたかね、ベンスン?」
「はい」
「君はどう思う?」
「もっともらしくございません、キット様」
「なぜ?」
詫び言めいたことを呟くと、ベンスンはキットの脇を通り抜けて、窓の縁の下に取りつけになっている低い本棚に近づいた。一同は黙りこくって彼の一挙手一投足を眺めていたので、火が跳ねて立てる音さえきこえた。べっこうの蔓のついた眼鏡をかけると、彼は身をかがめて、厚い青い表紙のついた本を内気な態度でえらび出した。眼鏡が桃色の皮膚に映えて、何となく素朴な牧師的な格好に見えた。
「これは」ベンスンはその本を差上げながらいった。「ホレス・リネル様の大著述なのでございます」
「で? それがどうしたの?」
「リネル様は秘密の通路や秘密の隠れ場に関する最大の現存する権威である、とうかがっております。この一部分を読み上げさせていただけますか?」
キットはカラに首が締められるような感じがした。
「つまり君は、このセヴァン館には秘密の隠匿場所のような物はない、といおうとするの?」
ベンスンは頭を前に屈した。
「さようでございます。御前様の許可をお取りになって、リネル様はこちらで二週間調査なさいました。はっきりと、ある建築学上の理由から、と申しましても私にはそれは理解できないのでございますが、そうした秘密の隠匿場所はないし、またありえない、とお書きになっています」
その本を開けて、ベンスンはゆっくりと頁を繰った。探していた頁に来ると、彼の指が停まった。
彼は声高《こわだか》に読んだ。「余はかなりの予期をもって本調査を開始したのであったから、こういうのは、まことに遺憾である。セヴァン館は初代セヴァン伯爵夫人オーガスタの願いに基づいて建てられたものであり、この夫人の集めたゴシック風の小説本は現に今でも当館の図書室に収められている。こうした種類の家に、こうした性質の工夫がないはずはないと考えるのは至当であるように思われた。しかし……」
「しかし、なにかあるはずだ!」キットはベンスンが意味ありげに読むのをとめたとたんにいった。「でないのなら、ヘレンはどこにいるんだね」
「存じませんが」
「リューイスのいうように、彼女はこの中のどこかにいるわけなのだ! いくら君が僕に信じさせようとしても――まさか……」
そして本能的に一同は振りかえって青銅のランプを見た。
ランプは炉棚の上にある。ギッシリと人像が鉢の周囲に薄彫りに彫ってある。一同の空想の効果かも知れないが、ランプは毒気を放射して、あたりの空気を汚染し始めていた。毒気は人のもっとも深い迷信的な部分を犯した。毒気は一同の頭の中に流れこんで、カイロの療養所で死んで黒くなってふくれあがっているギルレー教授を思い出させた。そして、ヘレンは?
「『かつて存在しなかったかのように』」オードリが呟いた。「『塵と化した』」
それから、キットの視線をとらえるとオードリは幻想から覚めた。彼女はソファから起き上って、急いで彼の方へ歩みよった。
「私は本当に信じてやしないのよ」彼女は真面目くさって彼に保証した。「実際の話」彼女の黒い目は彼の顔を眺め回した。「私はきっとあなたよりもっと信じていないに違いなくってよ。あなたはこうした事の起るのを半ば期待していて、私はしていなかったんですもの」彼女は、ちょっと躊躇した。「キット。あなたはどういうところから、こうした事が起るのを期待していたの?」
「それは……」
「なにかロンドンで起きた事件以来ね。知っています! あなたからうかがったわ。でも、ロンドンでどんな事件が起ったの?」とつぜん、彼女の機嫌が変った。「いいの! 待って! 私にいわないで! 知りたくないの!」
「興奮しちゃ駄目だぜ、オードリ」
「私こわいの、キット。ああ、こわくて堪らないの! なにがこわいのかときかれても、口ではいえないけれど。でも、私たちはここで寝なければならないのよ、キット。そして、いったいヘレンは、今夜どこで寝るんでしょう」
彼は、彼女の腕をとって、安心させるように抑えたが、彼女の現出させた図は、直面するにはあまりに醜悪であった。
「そのうえ」ひどい恐怖に襲われた女の子は続けた。「いったい全体、私たちはそれに対してどうしようというの?」
「僕は家の中をもう一度捜索してみよう。君を疑うのではないぜ、ベンスン」彼は少年時代からよく知っていて大好きな、年に古《ふ》りた信頼すべき人物のほうを振りむいた。「だが、自分で見てみたいんだ」
「あなたが探してもみつかりはしなくってよ、キット」オードリが確信のあるようないい方をした。「なにかこの話には、おかしな変な恐ろしいことがまつわりついているから、あなたには決して彼女が発見できないのが|私には《ヽヽヽ》わかっているの。そうなったら、どうなって? 警察を呼びこむの?」
「駄目! それは出来ない!」
「なぜ?」
「ヘレンのお父さんが」
「そうね」オードリは認めた。「そうだわ。それがあるわね」
「なにが起ったとしても」キットは一種の烈しさをこめていった。「この話は絶対に新聞に出ては困るんだ」年取って、猫背になったセヴァン卿の、鼠色の髪と両の頬を流れる深い皺が、キットの頭の中に浮かんだ。「あの老人はずっと前から丈夫じゃなかった。彼の夫人はヘレンがまだ子供の頃、敗血症で死んだんです、もしあなたが憶えているなら」
その話は、なにぶんヘレンとの交際がこの五年か六年なので、オードリは知らなかった。彼女はキットを見つめた。
「敗血症? ヘレンのお母さんが?」
「そうです。それから、近頃、彼は心臓の工合が悪くなっている、とヘレンはいっていましたよ。ギルレー教授が死んだあげくに、こうした知らせがあれば、彼は恐らく死んでしまうでしょう。君もそう思わない、ベンスン?」
「はい」とベンスンは答えた。不意にベンスンは向き直って身体を曲げて、青表紙の本を元あったところに戻したが、このとき家政婦のポンフレット夫人が部屋にはいって来た。ポンフレット夫人は、もじもじしていたリューイスをちらと見ただけだったが、それだけで若者は大急ぎで出て行った。するとポンフレット夫人は気持を落着かせようと上半身をゆすった。たしかになにか大急ぎで階段をあがって来たのに違いなかった。
「お邪魔いたしまして申しわけございませんけれど」ポンフレット夫人は部屋中を職業的な目で一わたり眺めながら、キットに話しかけた。「また新たにいやなことが起りましたので、お話し申し上げたほうがいいと存じまして。誰かが新聞社に電話しまして、お嬢様のお姿の見えないのを教えたのでございます」
「新聞社に電話した?」オードリが鸚鵡《おうむ》がえしにいうと、キットの方に向き直って、どんよりした確信のない目で相手を見た。
「はい」ポンフレット夫人は苦しそうに息をした。「新聞社に電話しましたのです。それから警察にも。記者が三人と、土地の警察署長が、今あの門番の小舎に来ておりまして」
「誰が新聞社に電話したのだね?」キットが詰問した。
「それなんでございます。先方も知らないと申しております、男の人で、自分の名前はどうしてもいいませんでしたそうで。太い声で、少し外国なまりがあったそうで。なんでも、いやな調子で笑ってから、いいますには……」先刻から部屋中を見回していたポンフレット夫人は、このとき、炉棚の上のものを見た。彼女はとたんに一歩あとに下った。
「いいますには」と彼女は続けた。「あの青銅のランプがヘレン・ローリン嬢を捕《つかま》えたのだ、と。今申し上げた通りの言葉だったのでございますのよ、ヘレン・ローリン嬢を『捕えた』と。そして、もし信じないなら、セヴァン館に行って調べてみるがいいと、この人間はいいましたそうで」
「そうか!」キット・ファレルはつぶやいた。
彼は手をこめかみにやって、強く押した。考えのまとまる時間を稼ごうと、彼は中央のテーブルへ歩いて行った。テーブルには、雑誌や、黄色いラッパ水仙を生けた陶器の鉢や、甲虫石〔甲虫《スカラベ》の形をした宝石の護符で、古代エジプトではやった〕を蓋にはめこんだ巻煙草入れがあった。キットはその箱をあけ、巻煙草を一本出し、定まらない手つきでポケット用ライターで火をつけた。ポンフレット夫人は責めるように彼にいった。
「なにかご命令下さいませんか、レナードに電話をかけまして、ご門を閉めておくように申してはおきましたが。でも、こういうことがいろいろ起ります上に、そうした人間たちがさわぎ立てましたり……」
「新聞記者をここに入れてはならないんだ、ポンフレット夫人」
家政婦は肩をそびやかした。
「私の口を出すことでないのはよく存じておりますけれど。でも、警察の人に中にはいってはいけないといいますには、どういう風に致しましたものでございましょう」
キット・ファレルは平素の頭にかえって、冷静ながんばりの強い、実際的な難問をあつかう青年となった。
「その反対に」彼は冷やかにいった。「そっちのほうはなんでもないんだ。要するに、ここで犯罪が一つでもおこなわれたわけではないんだもの」
「ないの?」オードリが低い声でいった。
キットの額に血管が太く現われた。「われわれの知るかぎりでは、なんの犯罪もおこなわれてはいない。家の中に入れまいとするなら、警察にどんな強いことでもいってやれるはずだ。ポンフレット夫人、一番大切なのは、この件を出来るだけ長い間セヴァン卿のお耳に入れないでおくことなのですよ」
「あら!」急にポンフレット夫人がいった。びっくりしたようすで、彼女は片手を口にやった。「相すみません! 申しわけございません! でも本当に! あんまり恐ろしいことが次々と起りましたもので! カイロから電報が参っておりました!」
キットは口の巻煙草を離した。
「カイロからどんな電報が?」
「殿様からでございます。郵便局のゴールディンさんが局のしまる六時少し前に電話で送ってくれましたんです。宛名は、あちらでしたけれど」彼女はベンスンのほうに目くばせした。「ちょうどそのときには、まるで探偵のように庭師たちを調べたり、いろんな人に話をしたり、また家中を調べておいででしたので。なにがあっても邪魔してはいけない、とおっしゃったのです。それで私が筆記しましたのですが、ついうっかり……」
といいながら、ポンフレット夫人はひだのついた黒っぽいスカートの腰のあたりを探っていたが、その取り乱した肩の曲げ方を見ていると、まるで裸になろうとしているかのようだった。やがて、メモ帳から破った一枚の紙を取り出すと、彼女はそれをひろげて、のばした。
「私が」ベンスンが穏やかに割ってはいった。
彼は片手をのばしてさっそうと前に出て来た。しかしキットは行儀の悪い話だが、ポンフレット夫人の手からその紙を受取ってしまった。その上に書いてあった事柄は、彼の調えようとしていた、あらゆる計画を一挙に崩してしまった。
ヘレンぶじか。アリム・ベイ新しい予言をする。こちらは平気だが念のため知りたし。今夜そちら時間九時に、コンティネンタル・サヴォイに電話を。 セヴァン
「これですっかりだめね」キットの肩ごしに読んでいたオードリがささやいた。「仕方がないわ、キット。これでは電話をかけるよりほかはないわ」
「そう、仕方がないらしい」
「かけないと」オードリがいった。「向うから掛けて来るに違いないし、そうなったら私達がなんといってみても、なにか事件があったに違いないと信じておしまいでしょう。キット、これは大変よ! 誰かが計画的に……」
「ことをこわしてしまったんだ。そう、僕もそれに気がついていた」
「ちょっと失礼しますよ、ポンフレット夫人」といいながら、ベンスンは威厳のこもった押し戻しといった風に、家政婦を片方に押しのけて前に出た。「新聞と警察の件は私が扱います。たしかキット様、どなたも家の中には入れてはいけないとの仰せでございましたな?」
「誰でも」キットがいった。「われわれの方針のきまるまでは、屋敷の中に入れてはならないのだ。犬が飼ってあるのなら、放すがいい」
「失礼でございますが」とポンフレット夫人はいって、おだやかな口調で、また別の爆弾を投げつけた。
「でも、もうお見えになっている紳士はいかが計らいましょう。その紳士は」三人が彼女の方に振りむいたので、彼女は声を高めて説明した。「記者より前にお着きになりましたのです。だまって車を乗り入れておしまいだったのですよ、ベンスンさん! 表のご門はいつも開けっぱなしですので! 今は下の図書室でご本を眺めていらっしゃいます。でも、その方の仰せになるには……」
この句を終りまでいう必要はなかった。
扉の外でした重い足音は、一同の耳にはいらなかった。しかし、把手をひねる重い手の音はきこえた。戸口に、幅一杯に立ちはだかったこのしろものをひとめ見て、オードリ・ヴェーンは後退りした。
「私は辛抱強い人間だ」その代物は、一人ずついやな目つきで眺めながら宣言した。「だが、あの下の墓所で、あの薄気味の悪い鐘が真《ま》夜中を打つまで坐らせられてはかなわん。君たちのところでは、いつも客をこんな風に待たすんかね? それとも、私をいじめる趣味にすぎないのかな?」
ポンフレット夫人は一方を向いて立った。
「ヘンリ・メリヴェル卿で」
初めは調子が悪かったかも知れない。しかし後では誰一人も――H・M本人さえも――彼の歓迎の温かさに不平はなかった。
彼の名は、理由は違ってはいたが、キット・ファレルにもオードリ・ヴェーンにもよく知られていた。オードリにとっては、彼はカイロでヘレンをいろいろと楽しませた不平ばかりいう人物であった。しかし、弁護士であるキット・ファレルにとっては、彼はまったく別の人物を代表していた。
なぜなら、これは陸軍省にもその人ありと知られた、「老獪」な老悪魔である老大家その人で、もし勝手が許されるのだったら、こういうときにこそ応援してもらいたい当の人なのだった。ヘンリ・メリヴェル卿に今まで会ったことはなかったが、この紳士のさまざまな功績についてはよく知っていた。キットはホッと安堵の祈りを心の中でささやいたのであったが、それは本当は大声で叫びたいところなのであった。
老獪な老悪魔は戸口につっ立ったまま、うさんくさそうな顔で部屋中を見つめていた。とくに記録して置かなければならないが、天気はとくに寒くもなかった。しかし、H・Mは外套を着ている上に、耳蓋までついた極寒用の毛皮帽をかぶっていたが、それが幅の広い顔と丸まっちい鼻の頭へさがった眼鏡の周りを包んだ格好は、見ちゃいられなかったので、ベンスンはびっくりして後に退った。
キット・ファレルがいった。「よくいらっしゃいました」
「ほんとうに!」女の子が相槌をうった。「どうぞお坐り下すって、お酒でも召上って、温まって下さいまし!」
二人は極地探検者に取りついた犬のように忠実に仕えた。二人は急いで火の傍のソファへと招じ、そこに坐らせた。オードリは彼の毛皮帽を脱がせた。彼はそれを取りかえそうともがいたが、その甲斐なく、彼女は帽子を取りあげて、炉棚の上に青銅のランプと並べてのっけてしまった。キットが火の上に石炭をもっとつぎ足したので、とたんに煙がドッと偉い御仁《ごじん》の顔をめがけて立ちのぼった。煙の中から、ピカピカ光る眼鏡と、前よりも一層悪意にみちた顔と、よく磨き立てた禿頭が現われた。
「でもいったい」オードリが続けた。「どういうところからこちらにおみえになりましたの? きっとヘレンがおいでを願ったのでしょうね?」
H・Mの大きな顔が穏やかになった。
「いや、違うのじゃ」彼は認めた。「本当をいえば、私を見れば彼女はあまり喜ばんじゃろ」
「では、どういうところからいらっしゃいましたの?」
「私には良心があるからな」H・Mは不平らしくつぶやいた。彼は鼻をすすった。「何日も何日も、これが気になってならなかったのだ。私はある見方をしていたのだ、わかるかね?」彼はろくろく人の目には留まらない眉をあげて、この言葉を強調した。「もし私の見方が正しかったのなら、万事は結構至極だ。しかし、もし私の見方が間違っていたら……ああ、とんでもないことになる!」ここで彼は言葉をきって、オードリを眺めたが、背の高い、すらっとした姿の暗緑色のフロックにつつまれたのを見るうち、渋い顔で是認し始めた。「定めし、お主《ぬし》はオードリ・ヴェーンなのだろうな?」
「そうですの。そして、こちらはキット・ファレルですの」
「たぶんそうだろうと思っとったよ」H・Mはキットを上から下まで眺めながら、唸るような声を出した。
「さっきおっしゃっていらしたのは、ヘンリ卿?」
「私は自分の良心の話をしとったんじゃ」H・Mが大きな声を出した。「今日の午後、気持を楽にしようと思って、セミーラミス・ホテルに電話をかけた。セヴァン館に向けて出発してしまった、という返事だった。それで……その、ここに来たのだ。しかし、あの子は結局なにごともなくここに着いたのだな」彼は炉棚の上の青銅のランプのほうに頷いた。「今どこにいるね?」
「いないんです」キットがはっきり答えた。「ヘレンは僕達のほとんど目の前から姿を消して、あのランプを下の大広間の床の上に残して行ったのです」
十秒ほどの間、H・Mは相手の顔を見つめていた。彼の顔の筋肉は一本も動かなかった。ディオゲネス倶楽部でポーカーをする人々は、H・Mの表情を読もうと企てるのが、まことに無駄な骨折り損であることを悟っているのだった。
しかし、この冷静さは長くは続かなかった。キットが事態をば簡潔ながら明瞭に話して、最後にリネル氏の著した秘密の隠れ場に関する本の抜萃で結ぶうちに、H・Mの顔つきがしだいにゆっくり変って行った。卿の口はアングリあいた。真実びっくりしたに違いない。
「ああ、これは大変じゃ!」彼は低い声でいった。「これは」彼は力をこめていった。「全部本当のことなのだろうな? お主たちはみんな、私に本当のことを話しているのだろうな?」
四つの声がはっきりと肯定した。
一瞬間、H・Mは黙ったままで、火を見つめていた。それが、立ちあがった。
「拙《まず》いな」と彼はいった。「これ以上は拙く行けないほどに拙い」
「ヘレンの身の上になにかあったのだとお思いになりますの?」オードリがきいた。
「わからんのだ。嬢や、あったかもしれん。老人でも」――彼の次にいったことは、実に驚くべき陳述であったが、H・Mの心配の深さをよく示していた――「老人ですら」彼はいった。「ときには間違うことがあるからな。ほかになにか私に話すことがあるかね?」
「ただ」キットが応じた。「誰かが新聞にタネを洩らしたのです。それでセヴァン伯が電報をよこされて、今夜九時にカイロに電話をかけるようにといってこられたのです」彼はくわしく話した。「要点は、われわれはなにをするべきなのでしょうか?」
長い沈黙がつづいた。
H・Mは深く考えこんでいたが、この部屋の空気が暖かすぎるのに、まだ外套を着こんでいるのを、ぼんやりながら気がついてじれているらしかった。ベンスンは進み出て、外套を脱がせたが、その手つきが、まるで時計をとる掏摸《すり》のように、ごく器用で物柔らかだったので、H・Mは全然気がつかなかった。
再びH・Mはソファの上に腰をおろした。卿の表情が、今度は見る目もいやな相を呈した。ポケットから革のケースを出して、彼はごく貧弱な黒い葉巻を一本抜き出すと、残忍な官能的な顔つきで匂いをかいだが、口につっこんで――ベンスンが肩ごしに火をさし出した――一同がウズウズしながら見守るうちを、ゆっくりと煙を吹いた。
「する?」急に目を醒したかのように、卿はいった。「なにをするべきか知りたいのかね?」
「大いに知りたいのです」
「一番大切なことは」H・Mは、ゆっくりと煙を吐きながら、いった。「セヴァン伯に電話をかけて、この事件をありのまま話すのじゃよ」
「|なんですと《ヽヽヽヽヽ》?」
「お主がきいたじゃないか」H・Mがいった。「で、私は教えとるのだ」
「でもセヴァン伯は……!」
「そう、そう。塩梅《あんばい》がよくない。だが、新聞記者の群がガヤガヤと玄関につめかけているのに、どれくらい長い間、伯に隠しておけるね?」
「記者にはまだ会っておりません。記者たちはなにもたしかなことは知ってはいないのです」
「ああ、若いの!」H・Mは憂欝そうにいった。「いくらかでも経験のある記者なら、なにもたしかなことを知る必要はないよ。お主たちが否定しないとなれば、とたんに感づいてしまうよ。いきなり駈け出して編集長のところへ行ってしまう。ね?」H・Mは恐い顔をして葉巻の頭を睨みながら考えこんだ。「私も自分でセヴァン伯と少し話がしてみたいのだ」
「セヴァン伯と、なぜです?」
「なぜでも構わん」H・Mは厳しい威厳をつくっていった。「お主はただ老人を信頼すればいいのだ。そして、もうそろそろ九時だろうが。電話はどこにあるね?」
ベンスンは注意をひこうとして咳をした。
「外線は二つございます」と彼は答えた。「一本は図書室で、一本は食器室でございます。それから、キット様、何時ごろお食事のお給仕を始めましたらばよろしゅうございましょうか」
その晩、二度目に、キット・ファレルは口を開いて、食事について凄い呪いの言葉を重ねた。しかし、ふと見ればオードリはくたびれた顔をしていて、口の端や目の縁にかすかな線が現われている。彼は自分も疲労しているのに気がつき、軽率だったと知った。で、苛々《いらいら》しているのか。
「ベンスン!」
「はあ?」
「ヘレン嬢のお留守中は、われわれが主人だと考えていいかしら?」
「当然でございます、キット様!」ベンスンがニコリとした。
「図書室に行って」キットは彼に命じた。「カイロの『コンティネンタル・サヴォイ・ホテル』のセヴァン伯あてに本人呼出し電話を申し込んでおくれ。たぶん、つながるまでに時間がかかるだろうから……」
「こうしたほうがよくはなくて?」突然オードリ・ヴェーンが口を出した。「本人呼出し電話を、キット、サンディ・ロバートスン宛にかけたほうがよくはなくって? それは、ヘンリ卿にご異存がなければ、ですけれど」
「私かね、嬢や? 私には異存はない」
「そうすれば、サンディが何となく――その、柔らかく話せると思うわ。それから後でヘンリ卿がご老体にお話しなされば」オードリの話しっぷりはじつに見事に、さり気ない無関心な調子だった。「ことによったら」彼女はつけ足した。「私もサンディとふたことみこと、話せるかも知れないわね?」
キットは頷いた。
「同じホテルのロバートスン氏の本人呼出しにしておくれ。それから、話は別だが、ベンスン、ヘンリ・メリヴェル卿は食事にお残りになって、それから今夜はこちらにお泊りになる。あなたはお泊りになるのですよ」キットはH・Mにむかって、厳しい声でいった。「いやだなどとおっしゃると、仕込み杖で頭をぶちますよ」
「ありがとう」H・Mがいった。「大変なもてなしだな。私は『グロスターーの鐘』に泊るつもりだった。だが、ここに厄介になっても構わない。この件は発展をみせることだろうから」
「発展ですって?」オードリが大きい声を出した。
「うん」
辛うじて、キットは注意力をベンスンの方に戻した。なぜならばH・Mは、葉巻をまるでハッカ棒のように口の真中にくわえながら、ゆっくりとヘレンの部屋を見回し始め、真中のテーブルの上のなにかに、非常に興味を抱き始めたらしいからであった。
「ヘンリ卿を」キットは続けた。「『黒い部屋』にお泊めするのだよ。別の名を『幽霊の間』というあすこに。われわれが電話をすましたら、すぐ食事の給仕を始めて構わない。それから新聞記者を入れないようにね」
「かしこまりました」
「それだけだ。ご苦労だね」
H・Mは葉巻を口からどけた。
「ちょっと待った。ベンスン」彼は優しくいった。
まるで小さい鋭い投槍がベンスンの背中に刺さったかのようだった。彼はポンフレット夫人に自分の先を歩くように遠慮がちに合図しながら、扉の方へ行きかけていたが、そのときにH・Mが呼びかけたのだった。キット・ファレルは、ベンスンのなかば微笑している平静な態度がいささかひるんだように感じた。だがベンスンは辛抱強い敬意を示しながら頭をさげた。
「貴公はベンスンじゃな? そして、お主がポンフレット夫人じゃな? そうだ。私は貴公と話がしたい」H・Mは弁解がましくいった。「この不思議な現象について二つ三つ、な」
「と仰せになりますのは?」
「家の中にはいったとたんに」H・Mはいった。「目撃者の目の前でシャボンの泡のように消えてしまった女の子さ」
ベンスンは危うく爆発しそうになった。「それは致し方ございません! 本当でございます! それは一言の例外もなく真実なのでございます!」
「そうだとも、若いの、そうだとも」H・Mは安心させた。「私は疑うのではない。私の知りたいのはほんのわずかの資料なのだ」卿はちょっとの間、黙ったままでいた。「もちろん、お主はヘレン・ローリン嬢がエジプトから英国へ帰って来たのを知ってたのじゃろう?」
ベンスンの目が大きく開いた。
「もちろんでございます。その上、私はロンドンに行きまして、お目にかかりました」
「おや、そうかい? ホテルでか?」
「はい。セミーラミス・ホテルで」
「では、当然、貴公はきいたじゃろうな」H・Mは手の葉巻で炉棚の上の青銅のランプを差した。「あれについてみんなきいたじゃろうな?」
ベンスンは微笑した。「じつは、この二年の間、お仕事と申しますと、この考古学探検に関係のあります記事を切抜きまして、切抜き帳に分類して貼りますのが専門でございましたので……」
H・Mは電気にうたれたようだった。「貴公は切抜き帳を作るのか?」
「ご一家のでございますか? はい。何年も致しております」
「それはなかなか嬉しい話だ、若いの」H・Mは異常な活気をみせながらうなずいた。「|おれ《ヽヽ》もじゃよ。おれは立派な切抜き帳を持って来とる。今は下の車の中に入れてある」卿はちょっと思案してから、しょうことなしにこの問題を放棄した。「いや、よろしい。その話は待てる」卿は藪から棒に、こうつけ加えた。「今日ヘレン嬢の来るのは知っていたのかね?」
「どう致しまして、存じませんでした! 少なくとも、もう一週間ほどはお見えにならないつもりでおりました」
H・Mは目を閉じたが、また開けた。
「お主は、ポンフレット夫人?」
「すべて準備も」とポンフレット夫人は答え始めたが、長い間黙っていたあげくだったので、妙に上ずった調子になってしまった。「すべて準備やお支度は、ベンスンさんがお決めになるのでございますの。|私としましては《ヽヽヽヽヽヽヽ》、お嬢様のおいでは不意でございました」
「では、不意をうたれたわけだな。そうかな?」
「はい」
「褌を締め直す間もなく、か?」
ベンスンが咳をした。「そう申しても当ると存じます」
「おれの理解するところでは、門番が電話をかけて来て、一行がこっちへ向かったと教えた時には、貴公たちは二人とも食器室にいたのだな? そうか。それから、食器室からまっすぐ大広間に行ったのだな? そうか。大広間に行き着くまでに、どのくらいのとき間がかかったね?」
「さようでございますな。二分間か。あるいは、も少し」
「二分?」H・Mが鋭く繰返した。「あるいはも少し? ただ、裏手から玄関に歩いて行くにしては、ずいぶん長い時間じゃないかの?」
「ポンフレット夫人と私は少し話をいたしましたのでございます。私どもは――少々あわてまして」
彼の想像だったろうか、とキット・ファレルは考えた。それとも、ポンフレット夫人はなにかいうつもりで口を半ば開いたのだろうか? それから、ベンスンの腕が、まるでほんの偶然のように、彼女の腕を掠《かす》めたが?
キットは確信が持てなかった。まさか、H・Mはベンスンないしは家政婦がこの件に連累していると疑っているのではなかろう? ベンスンがなにか後ろ暗いことに関係していると考えることは、あまりにもヘンテコで、むしろ滑稽である。だけれど、あの不気味な、不自然な、この午後の雰囲気がまたもやひしひしと思い出されて来た――椹《さわら》の木の中に落ちる雨滴のしとしという音、稲妻、ヘレン・ローリンの虚無の中への失踪。
「おれのいう意味は、こうなのだ」H・Mは辛抱強く食いさがった。「大広間へ行く途中でなにか起って、それで手間取ったのかな? なんでもいいのだが?」
今度も、たしかにポンフレット夫人はまさになにかいおうとした、とキットは思った。
「なにも起りませんで」ベンスンはハッキリと答えた。
「貴公とポンフレット夫人は、ずっと一緒におったのかね?」
「はい!」執事の答には、いままでの緊張がほぐれたような安堵の色がはっきりしていた。「私どもは、門番の電話を受けましたときから、レインコートと青銅のランプが大広間の床の上に落ちていますのを見つけますまで、ずっとお互いの目の前を離れたことはございませんでした。ポンフレット夫人もそれを確認いたしましょう」
「ファレル青年の証言によると、パワーズという名の鉛管工が、ヘレン嬢のはいって来る音をきいたそうだな」
「はい」
「その男は、玄関の扉が開いて閉まるのをきいた。あの子の声でなんとかいうのをきいた。足音をきいて、その足音の停まるのをきいた。ああ、なんと! 足音が停まったのだ」畏怖の表情がH・Mの顔中に広がった。「お主たちには、このどれかがきこえたかな?」
「いいえ」とベンスンは答え、ポンフレット夫人は勢いよく同意した。
「それはどうしたわけじゃの?」
「それは、食器室は通路の一番端にあるのでございます。通路の一番の表に緑色のラシャを張りました厚い扉がございます。特別に大きな音でございません限り、私どもにはそうした音はきこえませんので」
H・Mは葉巻を、灰皿の縁に、巧く釣合いをとって乗せて、それから身体を前にのり出した。
「だが、よくきけよ! 家には人が大勢いたのに、その鉛管工以外は誰一人として、なにも見もききもしなかったのか? ほかの召使たちはどうじゃ?」
「みんな女中部屋でお茶をいただいておりました。一人、雑役女がおりますが、これは今日は休みを取っておりました。中で働いておりましたのは、この鉛管工のパワーズと、塔で時計を修理しておりました男だけでございます」
これを強調するかのように、塔の遙か上で、重い古時計がかすかにきしって、九時の最初の鐘の音をきかせた。
「ポンフレット夫人と私は」ベンスンがいった。「大広間に参りました。それだけしか申し上げることはないと存じますが」
「でも、くわしくいいなさい、若いの……!」
「ランプがございました」とベンスンはいった。「レインコートがございました。しかし、お嬢様は消えておしまいでした」
その後につづいた休止の間に、九つを報じる最後の鐘は響き終った。また雨も降り始めていた。きっちり引いた鼠と金色のカーテンの向うで、窓ガラスに雨滴の当る音がきこえ、セヴァン館を取巻いた夜に新しい淋しさを加えた。H・Mと反対側の椅子の上に丸くなっていたオードリ・ヴェーンは身震いをして、窓のほうに目をやった。
「それで終りじゃ」H・Mは気のなさそうないい方をした。「さあ早く電話を申し込むがいい」
椅子の背にかけたH・Mの外套と、炉棚の上の名状しがたい毛皮帽を手にすると、ベンスンは軽く一礼して、ポンフレット夫人の後から部屋を出て行った。扉が柔らかいが決定的なカチリという音とともにしまった。H・Mは葉巻を手にとって、椅子の背にもたれた。
「生きているのか死んでいるのか?」キット・ファレルがいった。「生きているのか死んでいるのか? 僕は最初の論点を固執して、ヘレンはどこかにいないはずはない、と主張しますが」
「うん。そういう風に見えるはずだね」
「なにか糸口がお目につきましたか? なにか糸口のようなものでも?」
H・Mは両手で大きな自分の禿げ頭を撫でまわした。
「いや、な。糸口というほどのものはない」彼は見上げた。「お主たちが喋ってくれるなら別だが」
オードリは両腕を組みながらいった。「あなたがなんとなく、こういうことの起りそうなのを期待していた理由を、おききになりたいのよ」
「僕は別に期待していたわけじゃないんですよ」とキットは反駁した。「ただ、心理学者のいう――ええと、潜在意識的な意味のほかには。ただ僕はこうなりゃしないかと心配していたんです」彼は適当な言葉をみつけようとして考えた。「オードリと僕は」彼はつづけた。「ヘレンがエジプトから帰って来たとき、クロイドン空港に出迎えに行ったのです」
「それで?」
「あなたもご一緒だったのですね」キットは急に悟った。「ご一緒だったに違いありません。ヘレンはあなたとご一緒に帰って来るといっていましたから。でも、お目にかかった記憶はないのですけれど」
「会わなかったのだよ。私はパリまで来ると降りてしまったからな。お続け、お続け、続けなさい!」
彼の感じたところをどう説明したらいいだろう。キットの頭の中に、その情景は、いくつもの音のない場面となって、戻ってきた。定期航空機の大きな銀色の姿が、靄のかかった四月の空に映えている。着陸して、方向を変えて滑走して来たときの最後のエンジンの音。係員が移動式の階段を機体の扉のところにつけようと急ぐ姿。柵《さく》の後ろで、新聞記者たちが、その扉から小さい航空旅行客の出て来るのを待っていた……
彼の目に最初にヘレンの姿がはいる。彼女は急いで二人のほうに来る。風が彼女のフロックに吹きつけ、身体の線がハッキリ見えた。オードリがヘレンに接吻した――だが彼は(大間抜けめ)そんなことはしなかった。ただ本能的に両手を差出すと、彼女もそうして、そこで二人とも停まった。ヘレンのとび色の目が上にあがった。確信のない微笑、そして彼女の手が触れた。
それから大きな空港バスに乗って一同は出発した。バスの乗客は、誰も彼も喋っていた。今思い出すと、音を立てずにみな口ばかり動かしている。喧しくてむやみに明るいセミーラミス・ホテルは、宵闇のテムズ河畔の街燈の列を見おろす位置にあった。そして、なににつけても、目に浮かぶのはヘレンの顔ばかり。
キットは説明した。「その日以来、僕は毎日彼女に会っていました。彼女はアリム・ベイの予言について心配していました。していないように装っていました。でも、心配していました。おそらくお気づきと思いますが――いったいなにをいおうとしたのかしら? ヘレンはひどく生真面目になる性質ですから」
H・Mは頷いた。
「そうだよ、若いの、私も気がついていた。それで?」
「彼女は、あの呪いが全くのたわ言であるのを証明するためには、なんでもやっただろうと僕は思うのです――なんでも。その癖、同時に、彼女は恐れていたのです。僕には堪えられなかったのです……つまり……彼女が姿を消したのは今度が始めてではないんで」
H・Mの小さい目は、眼鏡をかけているので拡大されて見えたが、素早く新しい興味に動いた。オードリは坐り直した。
「いや、待って下さい!」キットがいった。「最初のときには、なにも超自然的な話はなかったのです、もしそうしたことを考えていらっしゃるのでしたら」
「あなたは私に、そのことはなに一つ話さなかったのね!」オードリが大きな声を出した。
「ええ」
「なぜ?」
「ヘレンがいうなといったので」
「お続け、若いの」H・Mが気の抜けた声でいった。
キットはオードリにいった。「きっと彼女があなたに、自分でいうだろうと僕は思っていたんです。彼女があなたを信用しない、とかなんとかいうのでは全然なかったのですよ。でも――いったい、今日は何曜日かしら」
「木曜じゃよ」
「僕はヘレンの気を紛らせようと努力しました。ああ、僕はあのホテルの屋根から高飛込みだってやったでしょう、もしそれが彼女を喜ばせたなら。彼女はエジプトの話は一切しようとしないのです。いつでも考えている癖に、エジプトの話だけは構えてしようとしないのです。ところが、月曜にセミーラミスに行ってみますと、彼女はいないのでした」
「いない」オードリ・ヴェーンが呟いた。
「玄関のボーイの話だと、荷物も持たず、行先もいわずに出て行ったのです。でも、僕あてには手紙が残してありました。手紙には、なんの心配もいらない、と書いてありました。誰にもなにも尋ねてはいけないし、誰から尋ねられても答えてはいけないし、まだ彼女がホテルにいるような振りをしていて、訪問客をよせつけないようにしろ、というのです。もし新聞記者でも来たら、とくに。鍵すら置いて行って、僕に彼女のスイートルームの張り番をしていろというのです」
キットは額に皺をよせた。彼はにやりとしようと努め、丈夫な歯を見せたが、それは笑顔にはならなかった。
「僕の身の上もいささか変ったことでした」と彼はいった。「貧乏な親類であるかのように、セミーラミスで坐りこんでいて、ボーイ達がうさんくさい目で見るのを甘受しなければならないのでした。でも、僕はやりました。そして、訪問客はちゃんと追い払いましたが、ボーモントという名のアメリカ人がやって来たときには、ずいぶんてこずりましたっけ。そして、今朝、ヘレンがふたたび現われたのです。朝早くはいって行くと、彼女は寝室の椅子に腰かけているのでした――真青で、レースの部屋着姿で、どこに行っていたのか絶対にいおうとしないのでした。それだけなのです」
口数は少なかったが、情景はまことに活きいきと浮かびあがった。
「では」オードリがいった。「それであなたたちは一日中変な風だったのね? どこに行っていたのか彼女にきかなかったの?」
「もちろんききましたよ」
「それでもやっぱりなにもいわなかったの?」
「ひと言も。彼女は――その、泣きだしてしまったんです」
「馬鹿ね」オードリはあわれむようにいった。「そういうときにこそ、両腕をかけてやって、そして……」
彼の顔の表情を見て、彼女は中途でやめた。キットは前へ出て行って、悪意をこめて火を蹴っとばした。パッと火花が散った。
「でも、キット!」オードリは、深紅の爪をした指で椅子のひじをしっかり握りながら、追及した。「そんな頑強に完全な紳士振りを発揮しなければならなかったとしたら、問題はいったいなんだとあなたは考えたの? なんだと|あなた《ヽヽヽ》は考えたの?」
「ああ、誰か男の人かなにかが現われたのだと」
「馬鹿ね! あんたはよく知っているはずじゃないの……!」
「少なくとも、最初は僕はそう思ったんです。後になってくると、僕はそれほど確実ではなくなって来ました。とにかく、構わんですよ」キットはH・Mのほうに向き直った。「話というのは、ただそれだけなのですが。なにかお役に立ちましたか?」
H・Mの葉巻は火が消えてしまっていた。ソファの片隅に丸くなって、憂欝そうに自分の大きな靴を眺めているうちに、卿は葉巻の消えているのに気がついて来た。なにか深遠なことをいおうとして、卿は二度まで口をあけたが、二度とも渋い顔をしてやめてしまった。内ポケットから古い手紙を出して、端を長く破り、一端を炉に入れて火をつけた。紙がぼっと燃え始めると、焔は炉棚の上の壁に青銅のランプの大きなゆらめく影を投げた。
一同がそれを見ているとき、ベンスンが扉をあけた。
「お電話が通じました」と執事はいった。
一同から半世界ほど離れたところで、カイロの『コンティネンタル・サヴォイ・ホテル』の黄色ずくめの客間で、サンディ・ロバートスンは受話器を握って立っていた。
「そう」と彼はいっていた。「そう、電話がかかることになっています。グロスターシャのセヴァン館のベンスンという名前の男から、そう!なに?」
グリニッチ標準時間の九時はエジプトでは十一時だった。客間の長い窓の外には、深い菫《スミレ》色の空が見えていたが、その星の数の多いことときたら、夜空を渡る暖かい風に揺れてきらめいているかのようだった。セヴァン伯は、両手をポケットに入れたまま、部屋に背をむけて窓の外を見つめた。
「ベンスンが出ました」サンディが呼んだ。「お話しにならないのですか?」
「うん」とセヴァン伯がいった。
「お話しにならないのですね!」
疲れた声が答えた。「うん、今ちょっと」
白い熱帯用のディナ・ジャケット姿のサンディは電話にむかってわめきながら、片ひじでグランド・ピアノにもたれていた。彼の顔は――黒い利口そうな目とかすかに皺のよった額をしたユーモア味のある醜い顔は、もうすっかり取乱していた。セヴァン伯の言葉で完全に意気が沮喪したのだった。
線の途中のどこかで、交換手がギヤを変えていた。耳をつんざくようなカリッという音が何度も起きて、鼓膜をうつので、サンディは受話器を急いで耳から離した。これと同じカリッと鳴る音が、何千マイルも離れたセヴァン館の図書室にいる人々にもきこえた。
セヴァン館の図書室は、むら気に輝く炉の焔が巨大な口からほとばしり出る陰気な部屋であったが、ステンド・グラスつきの窓の下にある電話台には、オードリ・ヴェーンが坐っていた。ヘンリ・メリヴェル卿は彼女のひじ元にいて、キット・ファレルはそう遠くない炉のまん前にいた。
サンディの声を待ち焦れているオードリは、もう熱望の色を隠そうともしていなかった。書物で一杯の不気味な壁にかこまれ、雨は窓を叩き、すきま風が絨毯を持ちあげるというのだから、違う気候を心に描くのは不可能だった。しかし、サンディの姿を心に描くのはなんでもなかった。
「|いったいぜんたい《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ベンスン《ヽヽヽヽ》、|そっちはどんな工合なんだね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
うわすべりした、うわずった、露出した神経のように苛々《いらいら》したその声はみんなによくきこえた。
「あのね、サンディ! 私……」
「出ているのは誰? ベンスンじゃないね! いったい、誰?」
「ベンスンはここにはいないのよ、サンディ。私なの! オードリ・ヴェーンよ」
「ああ、君か」サンディは冷やかにいった。「代ってくれない? そして誰か話のわかる者を出してくれないか」
こういった、故意ではないかもしれない、むき出しの残酷さにあって、オードリの口と目にいやな表情が現われた。
「親切な人間だね、お主の友だちのロバートスンは」H・Mが思った通りをいった。
「本気でいっているんじゃないんです」オードリは受話器を手で覆いながら叫んだ。彼女は彼のいったのが本気ではないのだと、必死になって思いこませようとするらしかった。「ただ……あんな口癖なんです。私たちみんな、あんな振りをするんです。キット! さあ! あなたがお話しになって」
そして彼女は電話から逃げ出した。
「キット・ファレル?」キットが名乗ると、サンディは鸚鵡《おうむ》がえしにいった。「そう来るだろうと思っていたんだ。これだけ返事してくれ、本当か嘘か。ヘレンが塵と化してしまったというのは本当なのかい?」
「塵と化した?」
「やられたということさ! 殺されたということさ! とにかく、この世からいなくなったということさ!」
キットは、まだ消えたっぱなしの葉巻を吸っているH・Mと目くばせを交した。
「どういうところから、ヘレンの身の上に何かあったと思うんだね、サンディ!」
「相互プレスにいる僕の親友が、半時間とたたない前に、ロンドンから電話をかけてきたんだ。ブリストルの通信員から信頼できる内報がはいって、なにかひどく不愉快なことがヘレンの身の上に起きたといって来たんだ。誰も質問に答えようとしないから、本当に違いない、というんだ」
「なるほど!」とヘンリ・メリヴェル卿がいった。
「昼すぎはやく、アリム・ベイがこのホテルに来ていた。セヴァン伯のおられる前で、二人の新聞記者と僕の前で、彼はなにごとかがヘレンの身の上に|起った《ヽヽヽ》と静かにいったのだ。だから、僕たちは電報を打ったんだ。彼は、それから、つぎにやられるのはセヴァン卿なのだ、といったんだぜ」
次にやられる!
こういう言葉は、これまでに一度も使われたことはなかったのであったろう。もっとも、これには、引き続く何日かの間に、それはしだいに高まる恐怖の響を伴って、何度もきかれたものなのだった。
「でも、そんな事は気にしたもうなよ」上すべりした声はどなった。キットに向かってわめいた。哀訴するような口調ですらあった。「そんなことは、みんな出鱈目なんだろ? みんな出鱈目のたわごとだ、といってくれたまえ! ヘレンはまさか……」
で、キットは話した。
「僕には信用できない!」と、その声がいった。
「じゃ、いったい全体、なぜ人にきくんだい? その話は全然本当だというのに!」
彼はサンディ・ロバートスンが一声だけ悪態をつく声をきいたが、それが、耳を覆いたくなるような、すこぶる激しい絶望的な苦悶の調子だったので、思わず電話を切りたくなった。キットは自分の咽喉までが乾いたように感じ、声が震えてきた。彼は我慢できなかった。ちょうど、自分自身感じているところだったからだ。カイロにいる男は、態度にすべての魅力をそなえているあの小柄な男は、オードリ・ヴェーンの胸を切りさいなんだと同じように、自分自身の胸を切りさいなんでいた。キットは、オードリが火影の中に身動きもしないで立ちすくんでいるのを見なかったら、サンディをあわれんだかもしれないのだったが、それから後は、同情心がすっかり混乱してしまった。
「あのな、若いの」ヘンリ・メリヴェル卿が彼の肩に手を触れた。「セヴァン伯がどうしておられるかききたまえ。私があの老人と少し話をしていいかきいてみたまえ」H・Mの声はすごく執拗だった。「きいてみるんだ!」
「あのね、サンディ。ご老体はこの話をきいてどうしていらっしゃる?」
返事がない。
「|サンディ《ヽヽヽヽ》!」
「もしもし、クリストファ」セヴァン伯の穏やかな声がきこえてきた。
カイロの、例の黄色ずくめの客間で、このときサンディ・ロバートスンはグランド・ピアノの前に坐りこんで、気違いのようにわめいていた。セヴァン伯は――片手で電話を持ち、もう一方は上着の下につっこんで心臓をおさえながら――放心したような眼差を天井の一角に投げながら話をしていた。きいている人々には伯の陽に焼けた顔も、額に宿る疲労に苦しんだ気色も見られなかった。しかし、その声の快活な調子は、思わずキット・ファレルの身の毛をよだてさせた。
「どうだね、君は? 元気なことじゃろうね? ロバートスン君は」――伯の声には、このとき、奇妙な軽蔑的な調子がきかれた――「狼狽しているのだよ。私には、ヘレンになにが起きたのかわからないが、しかし心配したまうな。私はあまり心配はしていないのだ。それどころか、私は英国に帰って、この謎を明らかにしようといっているのさ。私も別のある不愉快な用事が英国に出来ていてね」
「ですが! あなたのご健康が……」
「おい、おい!」その声にはいささか当惑の色があった。「冗談いっては困る! それほどに悪くはないのだよ。明日の朝出発の特別機を買い切ってね。ロバートスン君と私は、二三日で君たちと会える。ギルレー教授は――死んだ。ヘレンは――行方不明。その上に、今度の犠牲者は私だというのだからね」
突然、セヴァン伯が笑ったが、それは人の気を悪くしない、穏やかな笑い声だった。
「おやすみ、クリストファ」伯はいいたした。「みんなによろしくね」カリッという音がして、線は切れた。
「セヴァン伯、待って下さい! ヘンリ・メリヴェル卿があなたに……」
キットが受話器をカタカタさせたが無駄だった。はかない連絡は切れてしまった。壁は閉ざされ、じれったい謎はそのままになった。キットは返事のないカーボンにむかって話しかけているまま取り残されたが、H・Mがこのとき、肩に手をふれた。
「かまわんよ、若いの」H・Mが彼にいった。「電話局を叱らんでもいい。私はききたいことはみんなきいてしまった。いや、もっと正確にいうなら、ききたくないと思っていたことはなに一つきかなかったのだ」一瞬間、彼はポケットの小銭《こぜに》をガチャガチャいわせながら渋い顔をしていた。「あの男は自分の娘をごく可愛がっていたはずなのだろ?」
「はず、ですって?」オードリが大きい声を出した。「可愛がっておいで|ですとも《ヽヽヽヽ》。そして、ヘレンのほうは崇めていましたわ! ヘレンが学者ぶり始めるとき、あくまで真面目に応対するのは、あのお父さんだけだったのですから」
「そうだ。私はあの子自身からそう読み取ったよ――学者ぶる」とH・Mは繰りかえして、ゆっくりと電話台から離れた。
彼は気難かしい目で書棚を見回した。天井までの半分ほどが小さい鉄の桟敷になっている。炉口の迫持《せりもち》から流れ出る丸太の赤黄色い焔が、ひどく明るかったので、部屋は相当隅々まで光が行きわたっていた。古びた革張りの長椅子が、火の前に持って行ってあった。H・Mが一時間前まで待たされているときに棚から自分でおろした五六冊の本が、長椅子の傍のテーブルの上に散らかっていた。H・Mはその本をじっと見つめた。
「問題があるのだ」彼がいった。
「なんですか、急に」キットがいった。
キットの顔をば、疑ぐるような暗いいやな目つきで見てから、H・Mは便々たる太鼓腹を先頭に重々しく歩いて行って、長椅子に腰をおろした。
「貴公たちにここで待たされているあいだに、だ」卿は忿懣にたえないといったような口調で続けた。「おれはここをちょっと見回してみるのも面白かろうと考えた」卿は手を振った。「本は山ほどある。有名なゴシック派の物語の収集の一部分もある。そうじゃ」
火の消えてしまった葉巻を火の中に捨てると、卿は本を順々に手にとった。嬉しそうな表情が、卿の顔に浮かび出た。
「『ウドルフォの神秘』」とH・Mがいった。「これは例の気味の悪いモントーニ伯爵と若いエミリが主役になっている。初代殿《しょだいどの》の奥方はなかなかの懐古趣味じゃったのだよ。『英国の老男爵』では城の正当な持主が殺されて床下につっこまれる。『バイロン卿の語った吸血鬼』これは、ところで、バイロンの作ではないのだよ。ポリドーリという名の医者が書いたのだ」
「とても結構でございますわ」オードリは自信なさそうにいって、当惑しながら卿を見た。
「お主もそう思うか」
「でも、いったいそれが私たちとなんの関係がございますの?」
「大ありかも知れんのじゃよ、嬢や」H・Mは真面目くさっていった。彼はもう一冊手にとった。「ああ、なんと! ほとんど十八世紀の匂いが感じられるではないか! 当時の人々の思想、当時の人々の感覚、当時の人々の夢想。この家を見たまえ」卿は図書室の奥にある扉を顎でしゃくった。「たとえばあの扉だが、あの向うはなんだね?」
「セヴァン伯の書斎ですわ。ミイラやなにかで一杯ですの。運転手は」オードリは顔を青くした。「ヘレンがミイラの中に閉じこめられていると思ったのですわ」
「それから、あの正面寄りの、反対側の扉の向うは?」
「絵の陳列室ですわ」
H・Mは骨を折って首をよじって、後ろの大広間に通じる大きな扉の方を見た。
「そして、あの広間の向うは?」
「客間が一つ、音楽室が一つ、それから広い食堂が一つあって、ああ、いろんな部屋が沢山つづいていますの! なぜ、おききになりますの?」
「それはみんな」H・Mは強調しようとして、すごい顔をしながら、唸るようにいった。「ロマンティックな気性を持った一人の女が、蔦の茂った、梟の一杯|棲《す》んだ、秘密の悲しみにみちた城を夢みたから、こういう物が出来上ったのだ」彼は、手の本を開いて、その蔵書票を仔細に眺めた。「『セヴァン伯夫人オーガスタ』か。面白い。うん。いったいどんな女だったのかな」
「ちょっとお待ち下さい!」キット・ファレルが鋭くいった。彼は石畳の床の上を足音高く炉の前の二人の傍へ歩いて行った。「あの有名なオーガスタがどのようだったかは、僕は知らないのです。でも、|どんな顔をしていたか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、お話しできるんです。ヘレンそっくりだったのです」
「そうか!」H・Mは低い声でこういうと、パタリと本を閉じた。「おれの考えたことも案外とりとめのない空想でもないかな。それとも、これも例のロマンティックな伝説の一つなのかな?」
「伝説では全然ないんです。事実なんです」
「そうか!」
「お信じになれないなら」キットがいった。「ご自分でごらんになって下さい。オーガスタの肖像画があるのです。もとは絵の陳列室にかけてあったのですが、絵かきがひどく下手なので、はずしてしまって、それを……」
新しい声がいった。
「それがあの絵でございました。|それがあの絵でございました《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」そしてポンフレット夫人が、驚くほどの軽い足どりで、大広間から駈けこんで来た。この図書室の音楽効果は実に変っていて、実は案外そういう風にわざとしてあるのかも知れないが、その声は囁きの回廊〔ごく小さい声が遠くに伝わるように設計した回廊〕の効果のように、すぐ傍で響いた。それでH・Mはびっくりして飛び上って、首をグイとよじったので、カラで絞めつけられて、危うく窒息しかけた。
「さっき申し上げなければならなかったのでございます」ポンフレット夫人は急いで肩ごしに振りかえりながらいった。「ベンスンさんが、別になにも私どもの手間どるようなことは起らなかったと申し上げましたとき、私はこれを申し上げたかったのでございました。そうでございます! あるいは、それで私どもが『手間どった』とは申せませんかもしれません――私の申します意味がおわかりでしたら。でも、稲妻がガラス扉からさしましたとき、それはかかっていなかったのでございました」
H・Mは片手で額を撫でた。
「これ、奥さん。いったいなんの話をしているのだな?」
「あの絵でございます!」
「それがどうしたのじゃ」
「なくなったのでございます」ポンフレット夫人の答は簡単だった。「私はその絵の顔を、はっきり眺めたことはございません。でも小さい名札がついておりまして『セヴァン伯夫人オーガスタ』としてあって、年代が書いてございました。それはいつもはベンスンさんのお部屋のそばの通路にかかっていたのでございます。誓言いたしましてもよろしゅうございますが、今日の昼のお食事のときにはあすこにございました。でも、五時にはなかったのでございますのよ」
「なかった、と? 誰がはずしたのじゃ?」
「申し上げたいのは山々でございますけれど」ポンフレット夫人が答えた。「申し上げられないのでございます。それから、はずした理由も。ベンスンさんの申しますには……」
ちょうどこのとき、ベンスンが食事の用意のできたのを伝えようと戸口に姿を現わしたが、直ぐ足をとめた。誰も夜の正装に着かえる暇がなかったが、ベンスンはあくまで儀礼通りに着かえている。
「お食事ができましてございます」と彼はいった。それとまったく同じ口調で彼はいい足した。「それから、キット様、もう警察を中に入れないわけには参らなくなりました」
叩きつけられたのが一つのテニス・ボールないしは一つの新しい観念であるならば、打ちかえす姿勢をとるのはたやすい。二つのテニス・ボールないしは二つの新しい観念がいきなり鼻の先に現われたときには、ともすれば慌てて振ってしまって、両方とものがしてしまう。だが、H・Mは混乱しなかった。
「ちょっとその警察の話は待て」彼はおだやかにいった。「この絵の件を先に話そう。お主はおれたちの話していたのをきいたじゃろうな?」
「はい」
「それで? その絵はどうなったのだ」
「存じませんので、ヘンリ卿」ベンスンは相手の詮索する目に平然と対峙した。「私も調べてはみましたが、誰もその件について知っていると申す者はおりませんで。しかし、この警官のほうは……」
「あのね、警察がどうしたって?」キットは興奮していった。「あの署長がまだ頑張っているというのじゃないんだろう?」
「はい、キット様。私の申し上げております人は」ベンスンは生唾をのんだ。「ロンドンの警視庁から見えましたので」
「警視庁?」ヘンリ・メリヴェル卿が叫んだ。
ベンスンは頭をさげて頷いた。
「そして、大変に厄介なお話の模様でございます。私はこの人と話したのでございます。エジプト政府の要請で、この人は役所から派遣されたのだと申されます」
「なぜだね?」
「アモン神に仕えるヘリホル国王の墓所で発見されました黄金の短刀と黄金の香合が、カイロ博物館に届いているはずのところ、紛失しているのが判明いたしましたとかで。その二品の値打はあわせて一万ないし一万二千ポンドになるそうでございますが、要点はこうした違反に対する政府の真剣な見方だそうでございまして」
ベンスンはひどく怒っているか、あるいはひどく恐れているようすだった。彼をよく知っているキットには、それが火の熱のようによくわかった。
ベンスンはつけ加えた。「その品物がエジプトから密かに運び出されたと信じる理由があるそうでございます。お嬢様が」彼はこの言葉に強く力をこめて、官憲に対する軽蔑の意をあらわした。「あの墓所の発掘に力をおかし遊ばしました。お嬢様が主にこういう品物をお取扱い遊ばしました。お嬢様は探検隊のうちで英国に帰ったただ一人のお方でございます。警察はお嬢様にその件で質問したいのでございます」
H・Mがこういう事を予想しなかったのはよくわかった。黄金の短刀と黄金の香合の話で、卿が一心になって築きあげていた構成がこわれてしまった。H・Mはとほうにくれた。さすがの「老大家」もすっかり参ってしまった。キットは考えた。もし卿の友人のマスターズ大警部がここにいたらば、さも嬉しそうにその事実を批評したに相違ない。H・Mはしばらく考えたあげく、頭をあげた。
「警視庁だ、と?」彼はいった。それから、今度は早口に、「なんという名の男をよこしたのじゃな?」
「マスターズでございます。マスターズ大警部で」
H・Mは目を閉じた。
「その位は察しがついたはずだわい」と彼はいった。「あの蛇め、いつまでもおれの後を追いかける……だが、待てよ!」彼の大声が鎮まると、やがて辛抱強い、不吉な快楽の色がゆっくり顔に浮かび出した。
「思っていたよりずっと手ごわいかも知れんて」彼は両手をこすり合わせながらいった。「失踪! 奇蹟! 起り得ないはずのこと! おれが話してやるととたんにマスターズは、暖炉の前の敷物の上で癲癇を起すから見とるがいい。こんどこそ、あの間抜けは、自業自得の目にあう。ここへ連れて来なさい。その間にわれわれはなにか食おう」
「かしこまりました」
「それから、ベンスン、新聞記者どもはまだいるか」
「はい」
「その連中も連れて来なさい」
キットが夢中になって抗議したが、H・Mの尊大な身振りにすぐ圧倒された。
「おれは自分のしている事がよくわかっとる」卿は宣言した。「おれは頭の悪いガサツ者かも知れんし、誰もかれも、おれをひどい目にあわして喜んどる。それがおれの運命だ。だが、みんな引っぱって来いよ、ベンスン。おれはその危険を冒してみる。みんな連れて来い!」
ヘンリ・メリヴェル卿と大警部マスターズが時計塔の陸屋根《ろくやね》の上に立ったのは、それから三日後の日曜、つまり四月三十日の朝であった。
この三日の期間は、マスターズが辛抱強くあらゆる証人に質問して、いよいよヘレン・ローリンが地球上から、またこの世の中から、完全に消失してしまったという証言には、なんの欠点も見当らないことを究明するのに要したのである。あらゆる事実を吟味し、あらゆる証言が真実であると証明されるのに要したのである。その間、三大陸の新聞は空前のセンセーションを起して書き立てた。
しかし、これだけの期間では、この程度の期間では、痛みの癒えるには足りない。
四月三十日の日曜は、例の暖かくて湿気が多くて、夏の息吹をもたらす春の陽気だった。微風と雲が太陽とまざるので、活気もあれば無気力にもなるような、例の一日なのであった。大きな、角《かく》ばった、頑丈に建ててある時計台――胸壁は腰の高さに設《しつら》えてある――の屋根からは、しだいに緑の色増す田園が一望のもとに見えた。西にはセヴァン川が灰色に光っている。遙か遠く東北の方面にはグロスターの町の屋根が見え、グロスター大伽藍の壮麗な角ばった塔が、四隅の尖塔もろとも青空と動かない白雲を背景に高くそびえている。
もっと手ぢかなところでは、真下にセヴァン館の敷地が見える。曲線を描いた屋根のスレートは歳月と煙に黒ずんで見える。棟の数々、煙突の数々、破風の端、古びた窓の列、こういう物が静かな灰色にそびえている。後ろには車庫が並んでいるが、昔はこれは一列の厩舎だった。その前で、運転手が一台の自動車を磨いているのが小さく見える。庭師が二人、薔薇の木のことで揉めている。雑役係の女中――これは奇妙な雑役女で、ほかの女中たちの用をしてやる係で――がスリッパをはいた格好で、洗い流しを入れたバケツを抱えて現われる。遠方で、誰かが褐色の畑を耕している。
というわけで、ヘンリ・メリヴェル卿とマスターズ大警部は早い朝食の後で、空気をすいに、時計台の屋根に登っていた。しかし二人はこういうものを眺めていたのではない。それどころか、この二人を知っている人ならば誰でも馴れっこになっているはずの例の行事をやっているのである。
「これ、これ、マスターズ! 後生だから、そう興奮するでないぞ!」
「そうおっしゃるのはたやすいでござんしょう。ですが、説明がお出来になりますか?」
「出来ん。よし出来たところで……」
「私には話してやらんと? なる程! わかっとります!」
大柄で洗練された人物であるマスターズは、トランプ詐欺師のように温和な人柄で、いつもの紺のサージの服のボタンをキチンとかけている。山高帽に隠れてはいるが、半白の髪を丁寧に撫でつけて、禿げた箇所を隠している。しかし彼のジリジリした目は、目下のところ、洗練された色を呈してはいない。
彼は宣言した。「私はこんなつまらんところにいなくていいはずなんです。飲み屋で飲んでいてしかるべきなんです。でも、そうできますか?駄目ですとも! あなたのご友人の新聞記者達が至るところにいるんですから! 私はこの失踪事件すら扱う必要はないんです。でも、総監殿自身が命令されたとあっては……助かりませんや!」
「貴公はひどくコキ使われとるな、マスターズ。気の毒じゃ!」
にわかにマスターズは深く息をすいこんで、我《が》をはるのをやめた。
「本当のことを申しますと、この事件はなにからなにまで気に食いませんのです。その組立て、といったらいいでしょうか。あの青年の、ファレル氏は」マスターズは躊躇した。「あの人は私は好きです」
「うん」H・Mは何か、気が落着かないようだった。「おれもだ」
「あの男はいまに身体をこわしますね」マスターズは批判的ないい方をした。「毎晩々々、部屋の中を歩きづめなのです。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり! あっちこっちと! 驚いた! ひとわめきわめきでもすれば、気持もおさまるでしょうに!」
「あの男はわめかんよ、マスターズ。まだ、この程度では」
「どういう意味です?」
「あれは典型的なアイルランド紳士なのじゃよ。イングランド系とくらべて、十倍も内気なんだ。だが、ああいう男は、いざとなると……」
「そうでしょうな」大警部は相槌をうちながら、角ばった顎を撫でた。
屋上の空気が余り愉快ではないと悟り始めたとき、風むきが変って煙突の煙が二人のほうに吹きつけた。この風でH・Mの名状できない耳蓋つきの毛皮帽子は平らになった。二人の足の下で、大時計はしきりに時を刻んでいた。重々しい機構である。マスターズが今度は屋上を歩き始めた。怒ったような、計った歩幅である。
彼はこういい足した。「あの青年をひどく咎める気はないのですが。最初こちらに参りましたときには、はっきり申し上げますけれど、この事件はひとっ言も信用できませんでしたよ。ですが、われわれの調べあげたところを見て下さい!」
「後生だよ、マスターズ、その手帳をしまっておくれ!」
「まあ見て下さい」マスターズは手帳を叩きながらいった。「われわれの調べあげたところを。この若い女性は本当に家の中にはいっている。われわれはこの点で意見が一致しますな?」
「そう。なんの喧嘩もなく」
「それから彼女は家からは出ていない。この点を認めるのに、私は三日かかりました。しかし認めざるを得ないのです! この家は単に外から見張られていただけではなかったのです。包囲されていたのです」
マスターズの目は不愉快な色を呈した。
「庭師ども!」と彼はいった。「地面をいくら急いで直すにしても、あんなに大勢の日雇いを雇っているのは、生れて一度も見たことがありませんね。ご自分でもよくおわかりでしょう」彼は腕を振りまわし、下の地面を地図のように差した。「家の傍には木もなければ障害物もありません。あの連中はみんな、誰もあの家を出た者はなかったと誓います――扉からも、窓からも、どこからも、そして、私はそれを認めざるをえないのです」
「よござんす。では」マスターズはH・Mを黙っていさせようと、催眠術師のような手つきをした。「あの若い女性はどこに行ったのですか?」
「地下室に行ったのではありません。地下室に行く唯一の入口は、女中達の部屋を通り抜けなければはいれず、しかも八人の証人が、そこで茶を飲んでいたのです。この屋上に来たのではありません。屋上に来る唯一の道は、この時計台で、時計を修理していた男は誰も上っては来なかったと誓うのです。困ったことです」大警部は、また顎を撫でながら呟いた。「まるで誰かが大勢の人間を家の内外に配置したかのようなのです――あの若い女性が逃げ出せないようにと|念を押す《ヽヽヽヽ》ように!」
「そうだ」H・Mは、とても変な調子でいった。「それについては、おれは木曜の晩にそう感じたのだ。だが、おれの考えたことは間違っていた。正しかったはずはないのだ!」
「われわれに確実だとわかっているのは」マスターズがいった。「彼女が大広間まで行ったということなのです。それから――俄然! 足音は停まってしまった。証拠も同断! なにもかも停まってしまったのです! なにか一つでも別個な手がかりでもおありですか?」
「だが、な」H・Mがいった。「あの絵はどうだね?」
「絵というと?」
「十八世紀にこの家を設計した女の大きな絵が、昼の食事のときには壁にかかっていた。四時間後には、それはなくなっていたのだ。貴公が家の捜索をしたとき、なにかそれについて手がかりはみつからなかったかね」
「いいえ。でも、みつかったらどうなるのですか?」
「ああ、わからんか!」H・Mは暗い声を出した。「つまり、偶然に脇に寄せたのでもなければ、誰かに審美的な苦悶を与えたからでもないのだ。あれには意味がある――いや、意味がなければならないのだ!――このインチキ仕事に関連して。おれの勘では、あの画がどうなったかがわかれば、この事件の全貌が知れると思うのだが」
首を振りながら、H・Mは重い足どりで胸墻《きょうしょう》のところまで行って、いやな顔つきで胸壁ごしに遠くの伽藍の塔を見つめた。
「それからおれは紛失した黄金の短刀と紛失した黄金の香合についても知りたい。そして、その二つがいったいこの事件全体となんの関係があるのか知りたい」
マスターズが手帳を叩いた。
「この間から申し上げているじゃありませんか」彼はいい返した。「私はあなたのご存知な以上を知ってやしないのですよ! エジプト政府が本庁に苦情を持ちこんだのです。それだけなのです。電文には、報告を受けたところと、申し立てのあったところによって、エジプト政府はその短刀と香合が国外に運び出されたと信じる理由がある、と書いてあるのです」
「誰から報告を受けたのだね? 誰が申し立てをしたのだね?」
「セヴァン伯自身です」
「だが、ききなさいマスターズ! あの老人はまさか自分の娘が、それをチョロマカしたと訴えているのではあるまい?」
「私は本当にまだ何も知らないのですよ! 私の受けた命令は、ここへ来て、その若い女性に質問しろ、というのだったのです。私のお話しできるのは、ただそれだけなのです。でも、あなたは間もなく、その答がおききになれるでしょう」
ポケットからマスターズは畳んだ新聞をひっぱり出した。それはデイリー・フラッドライト新聞の土曜の夕刊の最終版であった。マスターズは風に逆らってそれを広げようとしたが、新聞はたちまち彼の顔にヘバリついてしまって、派手な肉太の見出しを曝け出した。
「呪いで人が殺せるか?」という見出しである。
「セヴァン伯は今日英国に帰って見えるはずなんです」マスターズは新聞を顔から剥がしながらいった。「ご自分で伯にお尋ねになればわかりましょう。それから、もし短刀と香合がこの失踪事件となにか関係があるのかも。ですが、今までに」彼は新聞を差しだした。「今までに、こんな風な事件にぶつかったことはおありですか? なにからなにまで出鱈目なのです。なるほど! わかっています! でも、やはり……」
H・Mは首をのばして回りをグルリと見た。
「結局、その話が、あるいはいく分は本当ではないかと貴公は考えているのか?」
「違います」大警部は威厳をこめて答えた。「でも、率直に申し上げますが、ごく大勢の人達はそう思っているのですよ。十年前の事件をお思い出しですか? カーナヴォン伯とトゥタンカメン王の件を?〔一九二二年英国のカーナヴォン伯と考古学者カーター博士が全く原型のままの古代エジプト王の墓を発掘して大センセーションを起した〕」
「そして、彼らが骨を折って出かけて行ったあげくが」H・Mがいった。「単なる蚊の刺した事件じゃったな」悪魔的な微笑が卿の顔を横切った。「あのな、セヴァン老人が今日ここにやって来て、姿を消したとしたら、どうする。そうなったら、貴公はさぞ困るじゃろうな」
「きいて下さい……!」マスターズは口をきった。
派手に力強い一大演説をしようと、彼は肺を一杯にふくらませたが、最後の瞬間に気を変えた。喋る代りに、彼は自分に栓をかうかのように、頭の山高帽をグイと引きさげた。まるで閑を潰しているような手つきで、彼は新聞を丸め、胸壁越しに投げた。風が忽ちそれをさらって、高く綺麗に吹きあげて、持って行ってしまった。
「私は」マスターズは懸命に自分をおさえながら、いい切った。「いいたいことがあったのですが、申し上げないことにします。いいません。なぜいつも、こうしたいやな事件に引きこまれるのが|この私《ヽヽヽ》でなければならないのか、などとも尋ねますまい。ただ、一つだけお願い致したいのです、ヘンリ卿」彼の声は絶望的になった。「後生ですから、実際的になって下さって、もっと実際的な示唆を与えては下さいませんか?」
「よろしい」H・Mが唸った。「ボーモントだ」
「なんですって?」
「ボーモントという奴だ。名前はわからん」
「その男がどうしたのです? なにものです?」
「アメリカ人じゃ」H・Mが答えた。「エジプトで、この発掘隊を訪ねて行って、ヘリホルのミイラのつけていた仮面を六万ドルで譲って欲しいと申し出た男なのだ。それを断わられると、彼は大きな金額を――おれの話をきいているのか?――黄金の短刀と黄金の香合に対して出すといいだした。だが、それも断わられた」
マスターズは平素の彼に戻って、ごく意味の深い調子で口笛を吹いて、一心に耳を傾けた。
「ちょっと待て!」H・Mがいった。「意味を突きとめない内に軽はずみな結論を出してはいかんよ。あの女の子自身……」
「ヘレン嬢ですか?」
「当り前よ。他の誰の話をおれがすると思う?あの女の子自身がその男のことを、カイロとアレクサンドリアの間の汽車に一緒に乗っているときに、おれに話したのだ。その名前を思い出した唯一の理由は、木曜の晩にまた話題に出たからなのじゃ」
「どういう風にです?」
「おや、わからんのかね、マスターズ? 貴公はファレルが、ロンドンであの女の子が三日間不思議な失踪をとげた間、ホテルのスイートルームの番をしていた一部始終を話したのを憶えているだろう? よろしい。その間に、ボーモントという名のアメリカ人がやって来て、女の子に会おうとした、といった。だから、おれはちょっと考えて……」H・Mは話を途中できった。
梯子で屋上と下の時計室をつないでいる重い四角の揚げ蓋が押しあげられ、外に倒れた。キット・ファレルが灰色のフラノのズボンに古いスポーツ上着という姿で登って来て、二人のところへ来た。ネクタイの結び目を見れば、結ぶときに鏡の前にいなかったのが歴然とわかる。
キットの顔は陰気で、ボンヤリしていた。灰色の目は睡眠不足で、風に向かうと一瞬間閉じなければならなかった。肩を少し丸め、拳をあげて全世界と今にも戦いかねまじき一触即発のようすである。神経め! 神経め! 神経め! キットが揚げ蓋を柔らかい音とともにしめる前に、一瞬間、みんなには大時計の重い、執念深い、秒を刻む音がきこえた。
「お早う」H・Mが、キットの目を気をつけて避けながら、いった。「朝の食事をやったかね?」
「はあ」とキットは答えた。「こちらにおいでときいたものですから。これをごらんに入れておいたほうがいいと思いまして」
彼は折った一枚の便箋をH・Mに差出した。それから、塔の表に面した側に行って二人に背を向けて、ごくゆっくりと慎重な手つきで胸壁の頂上を拳で叩きはじめた。神経め! と、その打撃はいっているようにきこえた。神経め! 神経め! 神経め! ところが、彼を見ていなかったH・Mが感嘆の声をあげた。
なぜなら、その便箋には震えてはいるが綺麗な手でこう書いてあったのだ。
申し上げます。
初代のセヴァン伯の奥方の行方不明になった肖像絵はグロスター市大学通り十二のJ・マンスフィールドという骨董店をごらんになって下さいまし。昨日、買物をしておりますとき、他の絵と一緒に床の上にあるのをみつけました。気分が悪くなりましたので、休みますが、さもなければ昨夜お話し申し上げたところでした。
敬具
E・ポンフレット
H・Mはこの便箋をマスターズに渡して、鋭くいった。
「どこにあったのだね?」
「今し方、僕の部屋に届けて来たのです」キットは振りかえらないで答えた。「お目にかけたほうがいいと思いまして」
「いや、マスターズ」H・Mは鋭く大警部の質問の機先を制した。「これがなにを意味しているのか、おれには皆目わからん。だがなんとね!」彼はいやに満足そうな顔つきで息を吸いこんだ。「このJ・マンスフィールドというのと話がしたいものだな。J・マンスフィールドか? J・マンスフィールド?」卿は反芻したが、やがて声の調子をあげた。「貴公はこの男のことをなにか知っているかね?」
「それは女なんです」キットがいった。「ジュリア・マンスフィールドです。お寺の近所に凝った骨董店をやっています。絵の修復もやるんです」
「絵の修復か」H・Mは顔を前よりもっと歪めながら繰返した。「なんなら、マスターズ、これから直ぐ行ってみようか」
「でも今日は日曜です! 店は閉まっていましょう!」
「いえ、それは大丈夫です」キットが二人にいった。「店の裏手に住んでいますから。いらっしゃればたぶん出て来ましょう。ですが……」
キットは振りむいた。歯をくいしばったので、顎のあたりの筋肉の締まるのが二人に見えた。しかし、片ひじを胸壁についたまま、彼は表面《うわべ》は冷静にそこによりかかっていた。不自然な冷静さだった。この塔は高さが六十フィートある、とマスターズ大警部は思案した。そして、高みという物は人の頭に変な影響を与える。空が車のように回るように感じたり、骨さえ空気より軽く感じられてしまう。もちろん、まさかこの青年が……
「ヘンリ卿」キットがいった。「坐って考えてはいかがですか?」
H・Mが目を見張った。「どういう意味かね?」
「あなた方はどうお考えか存じませんが」キットはいった。「でも、僕は色々と考えていたのです。猛烈に沢山考えていたのです。ヘレンのことを」
「そうかね? その結果どう出た?」
「オードリは」キットがいった。「彼女は死んでいると思っているんです」
「|興奮しちゃいかん《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
「大丈夫ですよ」キットは二人に請け合って、それから嬉しそうに大笑いした。彼は自分がこんなに平静なのは生れて以来始めてだ、という印象を与えたかったのだ。彼は続けた。「彼女の生死は僕にはわかりません。でも、このことはわかっています。われわれはエジプトの魔法に悩まされているのではないのです。ヘレンは誘拐されたのです」
マスターズはあごを撫でた。彼は猫のような情愛の塊りになっていた。
「ところで、ですね」マスターズは得意の気持のいい、安心させる口調でいった。「私だって、そういう考え方をしてみなかったものでもないのですよ、色々と考えた内に、ね。あなたはどういうところからそうお考えなのです?」
「だって、証拠があるじゃないですか!」
「というと?」
「ヘレンが失踪して一時間とたたない内に、誰かが警察と新聞社に電話をかけて、彼女が行方不明だと話したのです。それが魔法のなにかだと見えますか? いいえ。立派な誘拐事件に見えるじゃありませんか。ところで、あの電話をかけた者の手がかりはつきましたか」
「いいえ、まだなのです」マスターズは大きな譲歩をするような顔をした。「時間は沢山あります、沢山ありますよ!」
「それから、電話をかけた男は」キットは続けた。「声の太い男で外国なまりがあったそうです。そうしたところから推せば、いかにもこのアリム・ベイという男によく合うではありませんか」
キットは直ぐに返事の機先を制そうとして指差した。
「アリム・ベイは自分のことを学究だといっています。ですが新聞を信じていいとするならば、彼は要するに占い師に毛の生えたようなものなのです。彼は自分で古代エジプトの魔法と称するものを使って、いろいろな予言をして生計を立てているのです。よろしい! このおかげで彼の株は暴騰しませんか? こうしたことを予言して、それを実現させえたならば、世界一の占い師ということになりはしませんか?」
「ヘレン嬢を誘拐して?」
「そうです!」
「困るのは」マスターズがいった。「それには難点があるのです」
「そうでしょうが、大警部! でも……」
「アリム・ベイ氏は」マスターズは穏やかに反対論を破砕した。「あの若い女性の行方不明になった日にはカイロにいたのです。それについては、あなたもおききでしたよ。セヴァン伯とロバートスン氏と二人の新聞記者の前で、もっと予言をしたのでした。そしてしかも、それは誘拐説に関する最大の難点でもないのですよ」
マスターズは憂欝な感慨に耽るかのように首を振った。自分が手も足も出なくなっているので、自分の直面している困難を披瀝すれば幾分気がおさまるような感じがしたのである。手帳を開くと、彼はそれをタネに説教をして自分の気持を清算しようとした。
「まず、この若い女性の失踪後一二分に、あなたはこのベンスンという男に命じて家の中を捜索おさせになりましたな?」
「ええ! でも……」
「そうです。そして、彼は運転手のリューイスという若者と一緒に捜索した。それから」マスターズは手帳のある一頁を指でたどった。「料理番のハンディサイド夫人も一緒に。彼らが探している間に、彼は外に出ていた証人たちに命じて持場を離れないように、また誰も抜け出ないように見張らせた。そうですな?」
「それを僕は疑いはしないのです、大警部! でも……」
マスターズは催眠術をかけるかのように片手をあげた。
「その通りなのです。彼らは命令通りにした。あちらの地下室」彼は指差した。「こちらの屋上」彼はまた指差した。「ともに、証人たちによって除外されました。ベンスン、リューイス、それからハンディサイド夫人は、すべて証言し、探さなかったところは一インチといえどもないといっていますし、他の連中は誰一人として、家から抜け出したり、抜け出たりした者はなかったと誓っています。さて、です!」
ここでマスターズのおだやかな声は悲しそうに高くなった。
「かの若い女性がアリム・ベイ氏によって、誘拐された、と仮定しましょう。いいですか? 彼女がヘリホルかムソリーニかトゥタンカメン王か誰かの手によって誘拐された、と仮定しましょう。それが何者《ヽヽ》であっても構わないのです! いったいどういう風にして、この誘拐者は彼女を家の中から運び出したのですか――それから自分自身も?」
H・Mが穏やかにいった。
「興奮しちゃいかんよ、マスターズ」
重々しい唸り声と回転する音を前触れに、弓の絃のように緊張した打子《ハンマー》がゆっくり戻って、足の下の大時計は金属でつくった竜のように震動しながら時刻を報じた。その反響する音は、それが鳴る段になれば、神経のしっかりした男が、気が落着いていてさえも、びっくりするほどの衝動であった。
そしてキット・ファレルは、この時間だけかも知れないが、気が落着いてはいないのであった。
どういう風に起ったのか、二人は後になっても理解し得なかった。二人は恐らくこの危険と高所のもたらす眩暈《めまい》を過少評価していたのであろう。あるいは、二人の前にいた青年はヘレン・ローリンを少しばかり愛しすぎていたのかもしれない。
重い時計の打子が九時の第一音を打ち出して、灰色の石の塔の窓の隙間から小鳥が啼きながら羽音を立てて飛び立つと、キット・ファレルは一歩後ろにさがった。彼の強い左手が胸壁の頂上をグッと抑えた。二人は彼の顔を見た。今にも跳躍しようと、筋肉が急に無茶に緊張するのを見た。とべば、彼はさかさまに胸壁の向うに行って――頭蓋骨から先に六十フィート下のバルコニーの敷石の上に墜落するにきまっている。
「|あぶない《ヽヽヽヽ》!」マスターズが叫んだ。
だが、その距離をすっ飛んで行ったのはH・Mだった。卿はキットの両肩をギュッとつかんで、時計が九つ鳴り終るまでおさえていた。
「落着くんだ、若いの」H・Mはやさしくいった。
「落着くんだよ!」そしてこだまが消えてしまうまで、二人はその格好で立っていたが、やがて、誰にも起るかも知れない瞬間的な発狂状態は、キットの目から薄れて行った。
「おかしい!」キットがいった。彼は自分のいっていることを全く真面目に信じていた。「僕は急に目まいがしたんです。どうしたのだか自分でわからない。危うく落ちるところだった」
「本当だよ、若いの」H・Mは同じ意見をのべて、彼を一回ししながら、ギュッと揚げ蓋のほうに押しやった。「でも、もう心配はいらない。これからその骨董屋に行って、誰がその絵を持って行ったのか調べるのだ。さあ、下へ降りたり降りたり!」
「はい」キットはいった。「はい。いいです。おかしいなあ」
というわけで、背の高い目の灰色の青年は、まだ頭を振りながら、不思議でたまらないという色を額にたたえながら、説明のできない冷たい戦慄を胸に感じながら、梯子を降りた。H・Mは拳を腰に当てながら、立ったまま彼を見送った。マスターズの赤ら顔は今は真青であった。
「今のは危なかったですなあ」大警部は呟いた。
「なんと!」H・Mがいった。「貴公にもわかったのか? マスターズ、貴公は鈍いなあ」
「わかりました、わかりました。あの男の前で私があんな風にいったのがいけなかったのかも知れませんな。興奮させますからな」
「そして、なぜ貴公は警察がまだあの電話の発信人をつきとめてないのを彼にいったのだね?あの電話の一つが長距離電話なのは、貴公よく知っていて……」
マスターズは考えこんだ。
「ベンスン、ベンスン、ベンスン!」彼は内緒で喋るようないい方をした。「あの紳士をとっちめる本当の証拠が見つかりさえすれば! でも、ファレル氏のことですが。本当に頭の工合は大丈夫ですかな?」
「ああ、大丈夫だ! あの男は、われわれがヘレン・ローリンを探し出せないので、少しずつ神経衰弱になって来ているのだ。だが、神の恩寵のない限り……」
「ですがね」マスターズは考えこみながら、剃刀を当てる必要があるかどうかと顎を探りまわした。「私の内儀《かみ》さんになにか起ったとして、よしそれがまだ私が口説いている時代だったとしても、私はあんな風に気にしたかどうかわかりませんぜ。でも、あの通りと来ている。もう一度だけ念のために伺いますが、ヘンリ卿、この事件についてホンの臆測さえもお立ちになってはいないのですか?」
「もう一度だけいう」H・Mがいった。「答は否《ノー》だよ。木曜の晩には、一つの可能性を考えついたのだった――立派な、よく出来た説だったのだ。ただ困ったことには、そいつは筋が通らないのだ。貴公にむかっておれのいえることは、マスターズ、一つしかない。おれたちはなんとかしてあの女の子をみつけ出さなければならん! ぜひともみつけ出さなければならんのだ!」
ウェストゲート通りを曲ったところにある大学通り十二番地のジュリア・マンスフィールド嬢の骨董店は、日曜のこととて静かに眠っていた。
H・Mの車をマスターズが運転して、H・Mがその脇に、キットが後ろに坐って、その店の前に乗りつけたのは、やっと十時になるかならないかであった。まだ新聞記者たちは彼らをいじめに来てはいなかった。あの空虚な、眠気を催す教会の鐘にも、春の太陽の芳醇な光を浴びた、半ば木造の家が立ち並んでいる古い町は、目をさまさなかった。
行ってみると、大学通りというのはグロスター大伽藍のすぐ蔭に通じる小さな短い往来であった。大伽藍は、緑の並木のうしろに、それから緑の空地を前にして、人間の動機を遙かに超越して、小さい家々の上に聳えたっていた。その黒ずんだ、冷厳な、いかめしい姿は、立ち並ぶ木々を楽しい無用なもののように見せていた。最初の礎石が置かれて以来、ほとんど一千年の歳月がたっている。それは想像力を、暗黒な本当に底の知れないゴシック的な中世期の網に捕えた。この来訪者たちは、三人が三人とも、その姿を目にすると本能的に黙っていた。
「エヘン!」マスターズは車から降りると、咳払いをして扉をバタンとしめて、この沈黙を破った。「ですがね」彼は心配でたまらないような顔でH・Mのほうを向いた。「この店にはいる前に、一つだけしていただきたいことがあるのですが」
「へえ? なんじゃな?」
「その恐ろしい毛皮帽を脱いでいただくんです」
「とんでもない」H・Mは帽子をおさえながらわめいた。「おれの耳は敏感なんじゃ!」
「ご冗談でしょ」大警部がいった。
「おれの耳は敏感なんじゃ」H・Mがいった。「おまけにおれはエジプトに一カ月いたあげく、こんな気候の国へ帰って来たばかりなのだ。こんな気候はゴムで出来た人間だって猛烈なリューマチにしてしまう。この帽子のどこが変だというんだ、いったい?」
「ご自分でおわかりにならないなら」マスターズがいった。「仕方がありませんから、私からお話しします。あなたは威厳ということについて、全然目がおありにならないのですか?」
「おれが?」H・Mは低い声でいった。まるでナポレオン・ボナパルトに向かって、戦闘を見たことがあるか、と尋ねたかのようだった。「威厳?」
「よござんす!」大警部は素っ気なくいった。「ご随意に。でも、われわれはこれから重要な証人に質問をするのですよ。彼女があなたを見てとたんに笑っても知りませんよ」マスターズはぼんやり往来を眺めた。「それに、この話というのも、全然気にくわんのです。ポンフレット夫人の手記によれば」彼はそれをチョッキのポケットからひっぱり出した。「きのう買物に出たときに、骨董店でその絵を見たという。骨董の買物でもしていたというのですか?」
「見てごらんなさい!」キット・ファレルが鋭い声で呼んだ。
店の張出し窓が長く浅い曲線を描いている上に、骨董店J・マンスフィールドという字があった。この張出し窓のガラスの多くは表面が平でない安物であったから、中の品物はまるで水の中の影のように見えた。外側は真白に塗ってあり、よく洗い出してあって、ピカピカになっている。幅の広い窓の左手に、ガラスのはまっている扉があって、脇によく磨いた真鍮の押しボタンがついている。
キットは窓の前に立って、両手を目の上にかざして、薄暗い内部を覗きこんでいた。ほかの連中はなんとなく急いで彼のところに行った。
「ありますよ」キットはいって指差した。
内部にある陳列棚は薄いオークの板で出来ていて、一点のしみもなく拭き浄めてある。最初に見たときには、ウェッジウッド焼の上品な茶道具が一組と、およそ一八一五年のものと見える重い騎兵用サーベルが真鍮と黒革の鞘にはいっているのが一本しかないように見えた。それから目は斜めに進んだ。側面の壁に立てかけて、邪魔にならないように陳列棚の内側に重ねて、額にはいっていない大きなキャンヴァスが三、四枚あった。
そして、初代のセヴァン伯の奥方オーガスタの顔が、デコボコのガラス越しに、斜めにほほえみかえした。
「なるほど!」ヘンリ・メリヴェルが呟いた。
時代のさびと微かな干割《ひわ》れが見え、拙い画家の筆の跡は覆えないが、ヘレン・ローリンに異常なまでに酷似しているのは間違いようもなかった。
肖像の女はヘレンの年である二十五歳だったかも知れない。半身像であって、例の腰の高いガウンを着ている。十八世紀の末葉に流行《はや》ったローマ式スタイルの模倣である。そして、黄色い髪は短い巻き毛にあげてある。
でも、そのとび色の目はヘレンの目だった。額はヘレンの額であった。短い鼻や、やや幅の広い口は、ともにヘレンに生き写しであった。キャンヴァスの上のほこりと汚れと戦いながら、その額はおだやかに彼らを眺めかえすのであったが、ガラスがデコボコなので表情というものは全然見られない。
「ちょっと待てよ」下唇をつまんでいたマスターズがいった。「あの顔は前にどこかで見たことがある!」
「あるとも」H・Mが苦々しげにいった。「何百枚となく新聞に写真が出ていたじゃないか」卿はキットに向き直った。「このジュリア・マンスフィールドは店の裏手に住んでいるといったな?」
「はい」とキットはいったが、まだ絵から目を離せないでいた。
「オイ! 若いの! 目を覚ませ! 貴公はその女と知りあいか?」
「誰とです?」
「このマンスフィールドって女のことじゃないか!」
「見かけたことはあります、ええ。正式に紹介されたことは一度もないのです。見ても多分僕を知らないでしょう。扉の横のベルを押してごらんなさい」
「もし」H・Mは強い悲観的な口調で唸った。「彼女がベルに答えるなら、だ。マスターズ、猛烈に大きく前進できるはずなのだぞ、ただ」彼は悪意をこめて指差した。「ただ、あの絵がどういうわけでここに来ているのか、またどういう風にしてあの家からここへと神隠しされたか、このおれにわかっているなら、だ! ここで運が向いて来ようと望むのは、いささか大それた話らしい」
ところが、大それた話ではないのであった。
ブザーに手を触れると、遠くでベルの鳴るのがきこえたが、そのとたんに、暗い店の後ろで扉があいて、電燈の光が見えた。誰かが軽い足どりで急いで表の扉のほうへ駈けて来た。応答があまり即座だったので、まだなんとなく不満な面持ちで絵を眺めていたマスターズは、驚いて頭をもたげた。
錠の中で鍵がまわり、閂が抜かれて、扉が開かれ、扉の上の鈴が鳴った。
「どうもまことに相すみません!」コントラルトの声がいい始めた。「なにぶんひどい流感で寝こんでおりまして、そして……」
H・Mを見て、彼女は話をやめた。
キットはマンスフィールド嬢を見るのは何年ぶりかだった。実はセヴァン伯が館を閉じて、冬はエジプトへ避寒、夏は南フランスに避暑することにして以来だった。しかしマンスフィールド嬢は全然変っていなかった。ただ変ったのは、前より元気そうで、前より自信がありそうで、もっと事務的になっている。そして同時に、なんだか前より不満らしい点が窺われた。
マンスフィールド嬢は三十四五か七八といったところであったが、もっと若く見えた。とくにどこが優れているというのではないが、いったいに綺麗で、青い目はいい血色を浮き立たせ、柔らかい浅いとび色の髪の結い方はやや地味すぎた。身体つきは頑丈で、愉快な声で笑い、清潔がなにより好きで、目の下のところは、ひどい風邪をひいている。
この風邪のため、彼女の声は濁って、鼻の頭は桃色になってはいたが、さりとてひどく取り乱してもいなかった。厚いとび色のスカートと毛のジャンパーの上に、マンスフィールド嬢は柔らかい革の淡黄色のジャケツをひっかけ、ロシア風のスカーフを首のまわりにまきつけていて、その端をジャケツの前開きにつっこんでいた。片手の指で咽喉を――寒気がしないように――おさえながら、来訪者を一人一人みた。
「はい?」彼女は試しにこういって、咳をした。
そのとき行動に出たのはマスターズで、得意のおだやかな態度とお世辞のいいのによりをかけた。
「お早うござい!」彼はひどく愛想よくいった。「日曜にお邪魔してすいません。まことに恐縮です! ジュリア・マンスフィールド嬢ですね?」
「はあ?」それは答であると同時に、催促であった。
「私は警察の者なのです。恐れ入りますが、二つ三つ質問に答えていただけますか?」
短い沈黙。
マンスフィールド嬢は眉をひそめたが、その表情には少しも驚いた色はなく、ただ不思議だというようすだけが見えた。それから少し笑い出して、口の端の微かな不満の色が消えた。
「警察の方! まあ! 私がなにをしましたんでしょうか?」
マスターズもお追従で一緒に笑った。
「なんでもないのですよ!」彼は保証した。「少なくとも、あなたのご心配なさらなければならないような事では、全然ないのです。はいってもいいですか」
「どうぞ」
彼女は向きをかえ、陳列室の奥の方へと元気な早足で歩いて行った。
われわれの大抵は骨董店というと、ゴタゴタしていて、ほこりっぽく、古着の臭いがして、さわるとさびが手につきそうな品物が一杯あると考える。この店はまったくそうしたものではなかった。往来からはろくに光が射さずに、暗がりを透さなかった。細かいところはほとんど見えなかった。しかし、「凝った」という言葉が再びキット・ファレルの頭に浮かんで来た。
マンスフィールド嬢は部屋の中で商業の匂いのする唯一の物の後ろに陣取った。それは小さいガラスの陳列箱で、中の棚はガラスでできていて、小さい電燈が中についている。マンスフィールド嬢はこの電燈に火を入れた。それは一同が話している陰気な場所を照らす唯一の光になった。
「それで?」彼女は、また身体を真直ぐにして、催促した。「私に質問なさろうとなさいました件は?」
「実は、ですな、一番興味を感じているのは私ではないのです。一番興味を感じているのは、ここにいる私の友人――ヘンリ・メリヴェル卿なのです」
「まあ」とマンスフィールド嬢がいった。肩書を耳にしたので、興味が促進されたのである。肩書ならどんな物でもいいらしい。彼女は燈りをつけた陳列箱の後ろでニッコリと笑った。
「卿が興味を持っておいでなのは」マスターズは続けた。「あちらの窓に出してある絵なのです」
「絵?」
マスターズはゆっくりと店の正面に歩いて行って、オークの手すりごしに絵を持ちあげ、そして持って戻った。
「これですよ」
「あら、まあ!」ジュリア・マンスフィールドが大きな声を出した。「私としたことが!」額に小さい皺が沢山よって、口は弁解がましく半ば微苦笑した。彼女はまた咳こんで、スカーフをもっとピッタリと咽喉元に押しつけた。「あんなところに置いておいたとは、私はなんという馬鹿なんでしょう! でも、ひどく頭痛がしておりましたし、流感がひどくなりかけていましたので、私はただ……」彼女は言葉を切った。「折角ですけれど! この絵は売り物ではないんですの!」
「なる程。われわれもそうだろうと思っていたのです。われわれの知りたいのは、どういう風に、これがここに来たか、なのです」
「どういう風にここに来たか?」
「そうです」
「でも、なんでもありませんわ! 届けて来たのですもの! 修復してくれといって、届けて来たのですわ。私は似たようなお仕事をセヴァン伯からなんども仰せつかりましたわ」
「この絵をここに届けて来たのがいつだったか、ご記憶ですか?」
「もちろん、記憶していますわ。あれは木曜の夕方でしたわ」
「しめた!」とヘンリ・メリヴェル卿がいった。
卿は大きな声でいったのではなかった。でも、卿の思い方があまり強かったので、部屋の感情的温度は急に五六度上昇した。マンスフィールド嬢は訳はわからなかったようだったが、なにか感じるところがあったらしい。彼女の青い目――マンスフィールド嬢自身は自分が理知的だと思い、そう思われたくて堪らないのであったが、その目はとくに理知的とはいえなかった――は混乱した色でマスターズを見つめかえした。
「木曜の夕方ですと? まったくたしかなのですね?」
「ええ、たしかですわ。雨が降って、稲妻がはげしい晩でしたから」
「そうです。木曜の夕方の何時ごろだったのでしょう?」
「六時少し前ですわ」マンスフィールド嬢が即座に答えた。「いつも六時に店を閉めますの。それで、早く六時になればいいと思っておりました。ひどく寒気がいたしまして、とても堪らなくなって来ましたので、それで……」
「そうですか。そして、誰がこの絵をこちらに持って来たのでしたか?」
「それはたやすくお答えできますわ」ジュリア・マンスフィールドは、咽喉元のスカーフを叩きながらいった。「ヘレン・ローリン嬢でした」
沈黙。
その沈黙があまりに深くて不気味だったので、奥の住いに通じるなかば開いた扉の向うにある時計の秒を刻む音までがきけるくらいだった。しかし、それだけではなかった。マンスフィールド嬢がこの三人の男は頭がどうかしたのではないかと考えたとしても無理ではなかったかもしれない。このとき、静けさが無残に砕かれた。
「彼女は生きている」とキット・ファレルがいった。「|ありがたい《ヽヽヽヽヽ》、|彼女は生きているぞ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
いった、というのは当らない。絶叫であった。強い声は上品なこの陳列室に鳴り渡り、ガラスのケースを震動させた。彼が一歩前に出たので、マンスフィールド嬢は一歩後ろにさがった。ヘンリ・メリヴェル卿の手が彼の肩の上にピタリと落ちた。
「落着くんだ、若いの!」H・Mが勧めた。「落着かにゃいかんぞ!」
ジュリア・マンスフィールドの顔が上気して、桃色の鼻の頭と同じになった。
「この若い方は」彼女がきいた。「お酒をあがっているのでして?」それから、不興気にキットを眺めた。「どこかでお目にかかりませんでした?」
用心深い手つきで、マスターズ大警部はその絵をおろして、ガラスのケースに立てかけた。
「おききなさい!」彼は締めつけられたような生真面目な声を出した。「あなたは、ご自分のいっておいでの事柄がよくわかっておいでなのでしょうな」
マンスフィールド嬢は腹を立てたので、せきこんでしまった。
「もちろん、よくわかっていますわ!」
「話して下さい。この二日間あなたはどこにおいででした? この町の誰とも、話をなさらなかったのですか? 新聞すらお読みにならなかったのですか?」
「この二日間」マンスフィールド嬢は気概をこめていった。「私は流感で弱りきっていましたの。部屋から一歩も外へ出ませんでしたのよ。私のお友達は見舞にも来てはくれませんでしたけれど」自己憐愍と不満の皺がまた彼女の口元に戻って来た。「そういう訳で、新聞も全然見てもいないんですの。いったいどうしたというんですの?」
「木曜の五時少しすぎに、ヘレン嬢はセヴァン館から姿を消したのです。ヘレン嬢が館を出なかったことと、出られたはずのないことを、進んで宣誓してもいいという一連の証人がいるのです。それなのに、あなたはヘレン嬢がここに来たという。六時少し前でしたな?」
「はい」
「まさか、それは……エヘン!……あなたの思い違いではないのでしょうな?」
奇妙な横柄さがマンスフィールド嬢の無神経な態度に現われて来た。
「私はまだ一度もヘレン嬢に正式にお目にかかったことはございませんの。ですから、定めし」彼女はこの点およそ確信あり気だった。「ヘレン嬢は人間としての私の存在にお気づきではございますまい。|私は《ヽヽ》いつもセヴァン伯爵と交渉しておりました。ですが私もヘレン嬢の風采ぐらいは知っています。姿を消したと今おっしゃったのは、いったいどういうお話なのでしょうか」
「ほこりと化したのです。フーッと!」とマスターズがいった。「あの若い女性はエジプトのヘリホルの墓から青銅のランプを持って来たのです。ところがヘリホルがヘレン嬢を取り殺してしまったのですよ、悪い男の子や女の子を取り殺すのが商売なのでね」
マスターズの重い皮肉はマンスフィールド嬢にはぜんぜん通じなかった。
キット・ファレルはふと気がついた。超然たる格好で、彼はガラスのケースを見つめているのだった。その黄色い光が半ば彼を魅了してしまった。ガラスの中段の上にある品物のことを考えているのではなかった――それどころか、彼はヘレンのことを考えていた――のだが、心がつまらないものにひかれやすいというたとえに洩れず、そういう物が心を奪ったのである。
象牙でつくったチェスの駒が一組あって、赤い駒と白い駒が、薄い金属の目のついた木の盤に乗っている。金の枠をつけた細密画がある。色のないガラス玉の数珠が一本。嗅ぎ煙草入れが二つ三つ。それから、もっと下の段には……
こうした鈍く光る石の指環は、乱れた模様が彫ってあるから、まごうかたなくエジプトの甲虫指環なのに違いあるまい。それから、あの緑色みたいな塊りは、粘土だか金属だか知らないが、やはりなにか有名な型のランプの一つではあるまいか。だって、そうでないはずはあるまい? ここは骨董店じゃないか。
冷やかな声が彼の耳をうった。
マンスフィールド嬢がきいた。「いったいなにをごらんになっておいでなのですか?」
マスターズ大警部がこれを一蹴した。
「ファレル氏がなにを見ていようと心配するのじゃありません! これについて話して下さい……」
「ファレル!」マンスフィールド嬢が叫んだ。「ファレル! 違いない!」
「これについて話して下さい」マスターズは手帳を出しながらいった。「あなたは木曜の夕方六時少し前にここでヘレン嬢を見たと誓いますか?」
「ええ。誓いますわ」
「そのときの状態を話していただけますか?」
「でも、なにもお話しするようなことはないんですのよ! あれは恐ろしい日でした。雨ばかり降って。その上、あの頃には稲妻まで始まっていました。そして私の流感がひどくなり始めていました。店のベルが鳴ったのをきいたとき、私は行って応対するのも出来そうもない気がしました。でも、ひどく気分の悪いのをおして、この店に出て来ました。そのとき、大きな稲妻の光が窓からはいって来まして、あの女が床の真中に立って私を見ている姿が目にはいりましたの」
マスターズはH・Mのほうをチラと見たが、卿の表情は人間というより木の像のようだった。そこで大警部は鋭く尋ねた。
「ちょっと待って下さい。どんな服装でした?」
マンスフィールド嬢は目をあげた。
「長い灰色のマントで、尖ったフードがついていました。フードは頭と顔をスッポリつつんでいて、まるで」――彼女は渋い顔をした――「わざと顔を隠しているようでしたわ。態度はなんとなく……コソコソしていましたわ」
「でも、はっきりヘレン嬢だとわかったのですね?」
「ええ」
なおも感情的な温度は上昇した。三人の来訪者の注目の度合があまりにも強かったから、マンスフィールド嬢ほどの沈着な人間でなかったらば、定めしドギマギしてしまったに違いない。
「なるほど」マスターズはそういって、咳払いをした。「それからその長いマントのほかに着ていたのは?」
「私、ほかのところは全然見ませんでしたの」
「靴などは?」
「気をつけて見ませんでしたわ」
例の奇妙な横柄さ――頭をもたげ、強い超然たるようす――が、ヘレンについて詳しい話を質問されるたびに、マンスフィールド嬢の態度に現われた。マンスフィールド嬢は女神官のように手の指を陳列ケースの上に、そこにある上品な装身具の上に、ひろげた。彼女の丸くふくれた顎を下から照らす光が、後ろの白塗りの壁に大きな影を投げた。マスターズは苦い顔をした。
「ヘレン嬢を見て、びっくりなさったですか?」
「いいえ、少しも。どうして驚かなければなりませんの? ヘレン嬢がエジプトから帰って来たのは新聞にさんざん書いてありましたもの」彼女の口調の苦々しさは誰の耳にも異様に感じられた。
「続けて下さい! それからどうしました?」
「変な話ですけれど、私がヘレン嬢の声をきいたのはそのときが初めてでした。ずいぶん平凡な声だ、と私は考えました。ヘレン嬢がこういいました。『こちらは絵の修復をなさるんでしょう?』」ここでマンスフィールド嬢は片っぽの肩をあげた。「私はすんでのところでこういってしまうところでした。『お父様におききになればよくおわかりでしょうに、ヘレン嬢』ですが、先方は|私という人間《ヽヽヽヽヽヽ》を全然知らないはずですので、こっちも先方《ヽヽ》を認めてやる必要もないと思ったのですわ」
「ふーん。なるほど。それから?」
「彼女はあの絵を小脇にかかえていました。もちろん、それがあの絵だとは私は知りませんでした。新聞で包んでありましたから」
「なる程! つづけて!」
「彼女はそれをカウンターの上に置いて、いいました。『セヴァン館の品です。後で取りによこさせます』そして、急いで店から出て行きました。私は…」
マンスフィールド嬢は虚空を見つめた。
「実は、私は追っかけて扉のところまで行ったのです」と彼女はいい足した。
「なぜ追っかけて扉のところまで行ったのです?」
マンスフィールド嬢は躊躇した。
「本当にどういうわけか自分にもわかりませんの」彼女は認めた。「私は頭がフラフラでした。本当に気分が悪くて。多分、それが原因だったのでしょう。でも、なにかその……そのこと全体がとても不自然なように見えましたの。
「さっき申しあげましたように、私は扉のところへ行って外を見ました。雨はドシャ降りでした。雷の鳴らない稲妻がまた光りました。それから、お寺の傍に住んでいますので、夜分になりますとときどき変な想像をしますのです。私は出て行くところを見たのですから、あの女はついその前までそこにいたはずでした。ところが、見ますと、往来には人の姿が見えないのでした。とても馬鹿馬鹿しいことをお話し致しましょうか?」マンスフィールド嬢は、指先をガラスのケースに押しあてた。「まるで私は幽霊と話をしていたかのようだったんですの」
店の扉の上の鈴が鋭く鳴ったので、みんなはハッとした。
扉は閉まった。ガラス扉と窓の安物のガラスを透す微かな灰色の光線を背に、肩の張った男のシルエットが浮いた。電気のついているケースの後ろに立っているマンスフィールド嬢の姿しか、気がつかなかったのであろう。その新来の男は自信ありげに前に進み出た。
「ちょっと失礼します」彼はいった。「私はボーモントという者です。リオ・ボーモントです。ちょっとうかがいたいのですが……」
ここまでいうと、彼もピタリと黙ってしまった。
十一
まるで彼女は幽霊と話をしていたかのようだった。
「私はボーモントという者です。リオ・ボーモントです」
そして――?
それはキット・ファレルがその後で何度も思い出した一幅の活人画だった。みんなの目が薄暗がりに馴れるにつれて、白く塗った店とその細部が見えるようになった。H・Mは、耳が暖かすぎて来たかのように急に毛皮帽を脱いで、はるかうしろのほうから眼鏡ごしに、この新来の男を凝視していた。それからマスターズは、振り返りはしなかったが、その名前をきくと一緒に、凄くきき耳を立てて、緊張した。そしてジュリア・マンスフィールドは、また右手を咽喉に持って行った。そして、やがてこの新来者は静かにカウンターの前に立って帽子を脱いだ。
リオ・ボーモント氏のようすを見ていると、一種の性格がはっきり窺われる。強い、押しの強い性格であるが、助かる点は――大抵の強い性格はそうではないのに――ユーモアにあふれているのだった。
しかし彼は少しも出しゃばりには見えなかった。ボーモント氏は強い鼻と強い顎の持主で、骨太だった。中肉中背で、年も中年であった。濃い、艶のある黒い髪をクッキリと分け、ゴマ塩になりかけている耳の上あたりを短く刈りこんでいて、その辺だけは顔の他の部分より皮膚が白い。目じりから細かい皺が外に走っている、猫の目のように緑がかった目は、ユーモアにあふれている。
よく手入れの行き届いた姿で、気楽な態度で、ボーモント氏は軽いバーバリの襟を立てて羽織り、中折帽を手袋をはめた手で持っていた。その発音はアメリカ人らしい。
たしかに一度も会ったことがなかった人だけに、マンスフィールド嬢はハッと思った。
「相すみませんが」彼女は冷たくいった。「店は休んでおります。こちらの警察の方は」彼女はこの言葉を強調した。「お仕事で見えていますの」
見知らぬ人は微笑した。
「実は、ですな」と彼はいった。「私はなにも買いに来たのではないのです。もっとも」彼はマンスフィールド嬢を見つめた。「いろいろな宝物や珍しいものがここにはあるのでしょうが」
「まあ!」とマンスフィールド嬢がいった。なぜなら、この緑色の微笑する目は、ここにある最大の宝はこの女性自身だと明らさまにほのめかしていたからだ。
「私はただ教えていただきたかったのです」ボーモントは食いさがった。「セヴァン館に行く道を。方角をきこうにも、どの店も開いていないし、往来であった唯一の人はとても老人で、なにかモグモグいうだけで私には全然ききとれないので」
マスターズは手帳をしめて振りかえった。
「セヴァン館へいらっしゃるのですか?」
「そうです」ボーモントが答えた。彼は眉をあげたが、丁寧につけ加えた。「失礼ですが、あなたは?」
「私は警察の者です、こちらの若い女性がいわれた通り。ここに身分証明書があります。警視庁の犯罪捜査本部の者です」
「警視庁ですか?」ボーモントは繰返した。彼の目が少し細くなった。
「はい。私はこのヘレン・ローリン嬢の失踪事件を捜査しているのですが、こちらへ来たのは別の……ほかのことなのです。ボーモントさん、私の知っているところでは、あなたはカイロでセヴァン伯とお知合でしたね?」
「どういうところからそれをご存知なのですか?」
「お知合でしょう?」
「よく知っています。えーと……」
「マスターズと申します。マスターズ大警部です。それから、あれはお手にはいりましたか?」
「私が、何を?」
「黄金の短刀と黄金の香合ですよ」マスターズが答えた。「あの例のなんとかいう人の墓から出たしろものですよ。あなたは大金を払おうとお申し出になったそうですが、その品物はエジプト政府の物だといってセヴァン伯は売れないといわれたそうですな」
ボーモントは頷いた。なんの話だか少しもわからないなどといった振りはしなかった。目じりの皺を面白そうに深くさせたが、その目でマスターズをじっと凝視した。異常な透視力を持っているらしい。彼は身動きもしないで立っていた。落着いた静かさだった。彼はもう一度頷いた。
「そうです、マスターズさん。それは本当です。ですが、木曜の出来事以来、もうあの品物はほしくなくなったのです。いいえ、信じて下さい! 私の興味は全然別なものにあるのです!」
「そうですか?」
「私はあの青銅ランプが買いたくなったのです。あの青銅の小さいカケラに、五万ドル出そうというのです」――急にボーモント氏は手を下におろして、軽くガラスのケースの縁を叩いた――「そして、その値で買えれば大いに安いと思っとるのですよ」
「いったいあのランプをどうなさろうというのですか?」
「ああ! それは、私の勝手ではありませんか、大警部?」
マスターズは癇癪が起きてきた。
「そして、あなたはただそれを買うためだけでこちらへいらっしたのですか?」
「そうです」
「失踪してしまった若い女性から?」
「失礼ですが」ボーモントが訂正した。「昨日の新聞で読んだのですが、今日セヴァン伯ご自身が英国に帰ってみえるそうですな。それで私は昨夜ここに来たのです。『鐘』に泊っています。それから、あなたは今朝の九時のラジオのニューズをおききでしたか? きかない? おききになるべきでしたな。セヴァン伯の飛行機は今朝早く着いたのですよ。あなたはおっしゃるだろうし、たぶんおっしゃる通りなのでしょうが、こういうときにすぐ商売の話を持ちかけるのは下品で悪趣味ですかな。お嬢さんが失踪したとたんでは……」
マンスフィールド嬢の唇から、低いけれど鋭い、いらいらした声が出た。
「でも、馬鹿馬鹿しいですわ!」彼女は抗議した。「だって、ヘレン嬢が失踪したなどという話をなさるのは、全く馬鹿馬鹿しいことですわ、事件が起ったということになっている時刻より一時間も後で、私が現にここで会っているんですもの!」
ここでボーモントが帽子を落したのだった。
彼女のほうに向き直ろうとしたとたんに、ひじでもどこかにぶつけたのかも知れない。ほんのわずかの動きだった。ボーモントは帽子を拾おうとして身体を前に曲げたのだったが、今度真直ぐになったところを見ると、その努力でなったかのように、彼の顔は血があがって真赤になっていた。しかし、マスターズ大警部は、ボーモントが全然狼狽しているのだという印象をうけた。
「なんとおっしゃいましたか?」ボーモントはいった。
マスターズは笑った。もったいぶった、気のはいっていない、偽善的な笑い声だった。
「いや、いや! なんでもないのです! 興奮なさるには当りません! どうやら、この若い女性は時間の点で混乱しておられるようですが、ただそれだけなのです」マスターズは振りかえったが、その恐ろしい目つきは、マンスフィールド嬢にハッキリと警告していた。余計なことをいうと、後が恐いぞ、と。彼はまたボーモントのほうに向き直った。「えーと、あなたは『鐘』にお泊りだといわれましたね?」
「そうです」
「変ですな」マスターズは考えた。「ホテルの者が誰にもセヴァン館の方角をあなたにお教えできなかったとは」
「変でしょう?」ボーモントも口を合わせた。彼の緑色の目が、厚い目蓋の下で光った。「ことに、私があの連中に尋ねなかったのですからね」
「と、おっしゃると?」
「よしましょう、警部! それはあまり上手な嵌め手ではなかったですよ」
(いったいこの男の声にこもっている、あの不自然な衒学《げんがく》的な調子はなんなのだろうと、キット・ファレルは不思議に思った。重苦しい、ゆっくり喋る声で、その口は人を見つめる目と連動するようになっているかとさえ思わせる。この声はなにかを連想させるが、いったいなんだったっけ?)
「私は散歩に出たのです」ボーモントは続けた。「立派な古い英国の町の朝を、ゆっくり歩いてみようと思いましてな。ありようは、フーパー司教が焚殺《ふんさつ》された場所を見てみようと思いましてね。それで私はホテルで方角をきくのをすっかり忘れてしまったのです。ところで、セヴァン館に行くにはどう行ったらいいのでしょう?」
「サウスゲート街道でシャープクロス行のバスにお乗りなさい」マンスフィールド嬢がひどく早口にいった。「でなければ、鉱泉街道のミラーの店で車をお雇いなさい。それとも、運動をしてみたいとお思いなら、お歩きになるのもようございましょう」
ボーモントはつやつやした黒い頭をさげた。
「ありがとう。私は実際にはあちらへ行こうとは思っていないのです。セヴァン伯がお帰りになるまでは。ですが、お礼をいいますよ。まだ私にご用でもおありですか、大警部?」
「大いにありますよ、ボーモントさん。まったく! 大いにありますね! でも、それは後でいいのです。それまでは……」
「それまでは、鋲をうった靴で散々に踏みつけようというのですか――気の毒な……マンスフィールド嬢でしたな? いったいなぜなのです?」
「それはお答えするかぎりではないのですが」
「違いないです。そして、私にも暗示はわかります」彼はジュリア・マンスフィールドを見た。「もし素人むきの宝物をお持ちでしたら、また伺いますから取っておいて下さいね。さよなら」
リオ・ボーモント氏は薄ぐらいところに立っていたH・Mにも、キット・ファレルにも、目を一度も向けなかった。事実、彼は二人のいたことに気がついていたかどうか疑わしかった。
軽い、黄褐色の帽子を頭にのせると、彼はつばを片っぽの目の上に少し引きさげた。彼は愛想よくお辞儀をして店を出て行ったが、その後で店のベルが厄払いしたのを喜ぶかのような音をたてた。歪曲鏡の役をするヒン曲った窓ガラス越しに、彼がとまって葉巻に火をつけてから、大伽藍の方角に立ち去るのがみんなに見えた。
「なんとね!」大警部が呟いた。彼がH・Mのほうを眺めると、卿はまだ両腕を拱《こまぬ》いたままじっと立っていた。「あの男をどうお思いになりますね?」
マンスフィールド嬢が泣き声を立ててさえぎった。
「私、風邪をひいていますの」彼女は叫んだ――鼻声なので『カデ』といったようにきこえた――「そしてまだとても気分が悪いんです。それに、本当にこれは少しひどすぎますわ。お願いですから、いったいこれがどういう意味なのか話して下さいません? さっき私がいおうとしたとき、どうして黙らせておしまいになったのですか? 私のお話ししていた、あなたの大切なヘレン嬢の件を信用なさらないのですか?」
返事がない。
「すいませんが、お答えになって下さいませんか、マスターズさん? 私のお話ししていたことを信用なさらないのですか?」
マスターズはまともに彼女を見すえた。
「率直に申し上げると」彼は答えた。「信じるとはいえないのです」
キット・ファレルは失望した。気持が悪くなって来た。
「でも、あなたは彼女を信じなければなりませんよ、大警部!」キットは大きな声を出した。「なぜマンスフィールド嬢はヘレンがここへ来たといわなければならないのですか、もしヘレンがここへ来なかったのならば?」
「ああ!」マスターズは不気味な格好で息をすいこんでからいった。
「それから、誰があの絵をここに持って来たのですか、もしヘレンが持って来たのでないとすると?」
「ああ!」とマスターズは重ねていった。「私はいいましょう」彼は難しい顔をしていった。「この女性は極く可愛いい小さな物語をわれわれに話して下さった。雨の中をやって来た幽霊のような姿、ね。しかし私はあまり幽霊という物を信じないほうなのです、ヘンリ卿からお話もあるでしょうが。万一、ヘンリ卿がなにかおっしゃるのなら」彼はH・Mのほうを睨んだ。「私は、もっともらしい線によって行かなければならないのです。そして、この話はもっともらしく響きますか?」
「響きませんか?」
「まず、ヘレン嬢は決してセヴァン館から外に出ていないと誓言する一群の証人がいるのです。よろしい」マスターズは片手をあげた。「それはしばらく不問に付しましょう。この話自体をとりあげましょう」
「それで?」
「ここに何者かが来て、それをマンスフィールド嬢はヘレン・ローリン嬢であると識別された。が、ヘレン嬢をごく接近して見たり、声をきいたりしたことはそれまで一度もなかったと、はっきり認めるが、顔を半ばフードが覆っていたにも拘らず当の人だと識別された」
「でも、ヘレン・ローリンだったのですよ!」マンスフィールド嬢が叫んだ。そのとき、恐ろしい疑念が彼女の胸を打ったらしい。「いったいあなたは何をいっていらっしゃるのですか? 私がみんな発明したと思っていらっしゃるのですか? そして、誰もここには来なかったのだと?」
マスターズは頭《かぶり》を振った。
「かならずしもそうではないのです。私のいっているのは、こうです。もし誰かがここに来たとしたならば――|もし《ヽヽ》、ですよ、しかも大きな『もし』なのです――その人物は、われわれの求めている女性ではなかったのだ、と。私に続けさせて下さい。つぎにあなたはいった。その来訪者は、あなたのいわゆる『平凡』な声だったと。ああ」彼はキットのほうを向いた。「ヘレンヘレン嬢は『平凡』な声の持主でしたか?」
「とんでもない、違います! つまり……」マスターズの皮肉な懐疑的な目つきにあって、キットは口をつぐんだ。
「それから、その人物のかぶっていたフードつきのマントがあります。もしこの人物がヘレン嬢だったとしたら、そうしたマントはどこで手に入れたのでしょう。いや、マントに限らず、なんであろうと。ヘレン嬢のレインコートは、大広間の床の上に残されていました。荷物は解いてないどころか、現に錠もかけたままになっています。館で着物のたぐいは一つもなくなっていない。もしなくなったらば、すぐ知らせがあるはずです。マンスフィールド嬢、ほかの衣類についてなにも思い出せないというのは、少し変ではありませんか」
「待って下さい!」相手が鋭くいった。それから、彼女は黙ってしまった。依然マスターズのほうは見ないで、部屋の向う側にあるヴェネチア風の鏡に向かって、無雑作な、お高くとまったようすを見せながら、マンスフィールド嬢はつけたした。「実は、今考えてみますと、まだ他に気のついた点がありましたわ」
「ありましたか?」
「靴のことをおっしゃいましたわね。考えてみますと、ヘレン嬢は真紅と黒のエナメル靴をはいていました。サイズは四ぐらいのを」
「あなたは手帳もごらんになるにはおよびませんよ、大警部」キット・ファレルは意地の悪い丁寧な口調でいった。「それに違いないんです。僕は家へ乗りつけるときに、その赤と黒の靴に気のついたのを憶えているんです。それで、ヘレンがここに来たことが証明されはしませんか?」
どうも、証明されないらしかった。
マスターズは彼女を見つめていたが、さっきよりもっと不吉な表情が浮かんで、目蓋の片っぽが下にさがった。なにか仮定が頭の中で形成され始めたに違いない。
「へえ?」彼は尋ねたが、それからいきおいするどく攻めたてた。「なぜ、前にそれをいわなかったのですか?」
「私……思い出さなかったんですの」
「|質問にお答えなさい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|なぜ《ヽヽ》、|前にそれをいわなかったのですか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
「ちょっとお待ち」H・Mがごく静かに口をはさんだ。
店にはいってからH・Mが口をきいたのは、これが初めてだった。マスターズは急いで振りかえった。
部屋の奥のほうに、かすかに斜めに光線がさしていた。マンスフィールド嬢の住いに通じる扉で、それは彼女が閉めないでおいたのが、そのままになっているのだった。何秒間か、H・Mはこの扉を見つめていた。扉の内の、奥まった方角にある何物かを目測していたのであるが、その目つきは「興味」といっては遙かに弱すぎた。
やがて彼は拱いていた腕をほどいて、毛皮帽をだぶだぶの古服のポケットにつっこみながら、マンスフィールド嬢に話をしようと、ドタドタと前に進み出た。
片手をガラスのカウンターにもたせかけ、もう一方を腰に当てて、H・Mはいった。「私は老人です」卿は威厳の徹底するのを待った。「このマスターズは礼儀ということを少しも心得ていないのです。ところで私は―かつて非礼を人に見せたことはないのです。なぜ最初は靴のことをおっしゃらなかったのか、|この私に《ヽヽヽヽ》話してはくれませんか?」
「あの……」
H・Mは彼女をきっと見つめながら続けた。「それは、なにかの理由で、あなたがヘレン・ローリンを余り好きではなかったからですか?そこへ、彼女がここへやって来て、あなたに気がつかなかったか、ないしは故意に気がつかない振りをしたので、あなたはすっかり怒ってしまって、彼女のことなんかを注意して見たりする面倒なことをしたなどと認めてやるもんかと決心したのでしょう?」
(ご名答だ、とキットは思った。まさに的中した)
「本当に私は」マンスフィールド嬢は叫んだ。「あの女を好きに思ったり嫌いに思ったりするいわれはありませんの。私は本当になんとも思ってはいませんわ。彼女の立派な着物だろうが、考古学の探検だろうが、れ――」キットは、彼女が「恋愛沙汰」といおうとして中途でおさえたに違いないと信じた。
「でも、私はこう思いますのよ」マンスフィールド嬢はつけ加えた。「『今晩は、私はヘレン・ローリンです』ぐらいはいうのが普通の礼儀ですわ。それを、まるで私をなんか疑うかのように、あんな変てこな寒気のするような態度をとるなんて。ことに、昔セヴァンの殿様がどんなに私に親切にして下さったかを考え合わせますとね。それから……それから、も一人の紳士のかたも」驚いたようすで、マンスフィールド嬢は頬を染めた。「つまり、そうするのが普通の礼儀だと思うのですのよ。違いまして?」
「私もそう思いますな。たしかにそう思う。昔セヴァン伯があなたに親切だったといわれたが、あれはどういう意味ですな?」
青い目は大きく見張った。
「まあ!」マンスフィールド嬢は叫んだ。「あなたの考えていらっしゃることとは違いますわ!」
「待ちなさい。私がなにを考えているか、どうしてわかります?」
「むろんわかりませんわ。無論! でも……」
「私は心が下劣です」H・Mは弁解がましくいった。「あなたは違うかな?」
「ええ! 違いますとも!」
H・Mは落胆したような顔つきだった。
「私のいった意味はこうなのです」マンスフィールド嬢が説明した。「セヴァン伯はご親切にも、この一年ほどの間に二度か三度お便りを下さいましたのです。ときどき、エジプトから品物を一つ二つお送り下さいます」彼女の指が陳列ケースの一番下の棚を差した。「本当に値打のある物ではありませんけれど、お客にお見せするとき、これは本物で、バーミンガムで作ったものではない、と私が少なくともいい切れる程度のものなのですわ」
ちょっと間を置いてから、彼女はまた手を咽喉にやった。
「私……以前はセヴァン館に|伺って《ヽヽヽ》、あちらで絵の修復を致してまでおりましたのよ」彼女は続けた。「お仕事はセヴァン伯のお書斎でいたしました。一階にありまして、外へは専用の扉がありましたから、家の中を通り抜けて女中たちに見られたりしないではいれましたわ。その書斎で私……」
「その書斎で、あなたは?」
「もう本当に失礼させていただきますわ」とマンスフィールド嬢がいった。「私、本当に気分が悪いんですの」
彼女はカウンターの後ろから出て来た。手の指で強く咽喉をおさえ、スカーフの中に埋めていた。柔らかいとび色の髪は怪しく乱れていた。H・Mが口を開く間もなく、彼女は走るようにして店の奥の扉のほうに行ってしまった。はいると、扉は強い音を立てて閉まった。二秒ほどたつと、扉はまた開いた。
マンスフィールド嬢は冷たい皮肉な調子で三人に呼びかけた。「どうぞ、ごゆっくり」
扉は再び強くしまって、錠が回った。
その物音の震動が、ヴェネチア風の鏡や、古い箱入り大時計の動かなくなった物などのある、緞子を張った椅子やこのよく拭き浄めた白塗りの部屋の中でしばらく続いた。H・Mが鼻をすすった。彼はマスターズを凝視した。
「これ!」卿は警告するように命令した。「いうな」
「なにをですか?」
H・Mが説明した。「なんだか知らないが、貴公がいおうとしていたことだ。貴公は何マイルも的から外れたことをいうだろう。どういうところからあの女がカッとなって、ああしてここを飛び出して行ったのか、貴公にはわかるか?」
マスターズは重苦しい皮肉をいった。「まさか罪の意識のせいではないでしょうね?」
「違うよ! 安心したからだよ」H・Mは首をコックリした。「生一本の、猛烈な、圧倒的な安心のせいだよ。それだったのだ。なあ、マスターズ、おれはこの事件について、今までわからなかった事が沢山わかり始めて来たのだよ。だが、一つだけまだわからんことがあるんだ」
「それを伺って私は嬉しいですね。いったいどういう点なのでしょう?」
H・Mはいった。「どういう風にして、ヘレン・ローリンがあの家から姿を消したか、じゃ」
「でも、問題はそれだけじゃありませんか!」キットがいった。「それから、ヘレンは木曜の晩にここに来たのですか、来なかったのですか? H・M、どうお考えです?」
「わからんのじゃよ」
「マンスフィールド嬢にお話しになっておいでのとき、彼女のいったことを信じていらっしゃったようにきこえましたが。でも、大警部のほうは……」
マスターズはいつも肌身を離さない手帳に輪ゴムをはめ、輪ゴムを引いて皮表紙にパチリと当て、手帳を胸ポケットにしまった。
「お差しつかえなかったら、私は今考えていることを当分は胸に納めておきたいのです。さもないと――失礼――さもないと、あなたにまた無茶を始められることになると困りますから」
「あのね」キットが静かにいった。「一つだけ、わかっていただきたいことがあるんです」
彼は言葉を探そうとして、ちょっとだけ待った。今朝の暗黒がまた彼の頭を襲って来た。
「この一時間というもの、貴方がたをまっすぐにみるのは辛かったです。僕は自分がすんでのところで……その、今朝ほど、ある愚劣なことをするところだったのが、今ではよくわかっています。塔の上で。僕は頭がおかしくなって、塔からとび降りようとしました」
二人はなんともいわなかった。
「信じて下さい。あのときには、僕はなにもわかってはいなかったのです。正直なところ、血が頭に上ってしまったのだと思ったのです。でも、後になって、わかって来ました。梯子を降りはじめたときです。あるいは、僕も本当に跳ぶ気ではなかったかも知れません。そのほうが恥ずかしくないから、そう僕は考えたいですね」
(どうすればこんな言葉が咽喉から出せたのだろうか?)「今お二人に話したいのは、もう万事は片づいたということなんです。僕は二度と同じ愚かなことはしません。前にもいった通り、なんだか血が頭にあがってしまったように感じて……」
「そうなのじゃよ、若いの」H・Mが彼にいった。「なにも詫びることはない」彼は目を怒らせて恐い顔をした。「ただ、あれが自殺の原因になる突発的な無分別なのだと憶えておけばいい。それから殺人の原因にもなる」と卿はつけ足した。
「なぜ殺人とおっしゃるのですか?」
「マスターズにききなさい」
「そうですか、大警部?」
マスターズは咳払いをした。
「事実に直面しましょう、ファレルさん」と彼はいった。「私はあなたにお話ししなければならないのですが、あの若い女性は生きてはおられないと私は思うのです」
「なる程」キットがいった。
「あの靴の件がありますね……なるほど。さよう。もしあれが事実であったとしても、私は驚かないのです」
「どうしてです?」
「誰かが――私はマンスフィールド嬢をその程度には信じておきます――木曜の六時にこの店に来たらしいのです。ヘレン嬢ではなく、|誰か《ヽヽ》です。ヘレン嬢の赤と黒の靴をはいて。なぜ?なんとなく絵を運ぶために。なぜ? お話しします。ヘレン・ローリン嬢が木曜の六時には生きていて、セヴァン館の外にいたという証明を立てるためです。ところが、絶対確実に、ヘレン嬢は実際は死んでいて、館の中にいたのです」
ごく身近で、重々しくまたゆっくりした、グロスター大伽藍の鐘が鳴り始めた。キット・ファレルの耳にはその音がろくろくはいらなかった。
「死んで」彼は繰返した。「セヴァン館の中にいる。なるほど。でも、セヴァン館の中のどこなのです? なぜ発見されないのです?」
「ああ!」マスターズは気味の悪い声を出した。「その点でも、私はいささか仮説を立てているのです。最初からすぐ気がつくべきだったことなのですが、このとりとめのない事件を説明できる、唯一の見方なのです。あれはいいことでした。こちらの署長が、あの家を木曜以来、毎晩監視していたというのは、あれはまことにいいことでした」マスターズは鐘の音に消されまいとして声を張りあげた。「私の見方に賛成なさいませんか、ヘンリ卿?」
H・Mはきいていなかった。卿の目はジュリア・マンスフィールド嬢の住いに通じる閉ざされた扉の上に釘づけになっていた。
「おや?」大警部は急に呟いた。「少し前に、あの扉が半分開いていたとき、あなたはあの部屋の中のなにかにひどく興味をお持ちのようでしたね。あの中になにをおみつけになったのか、お話し願えませんか?」
「ただもう一枚の絵なのだ」太い声は遠くできこえるような感じがした。「今度のは小さい絵だが、銀のフレームに入れて、テーブルの上に置いてあった。それだけさ」
「もう絵の話はやめましょう! ほんの一秒だけ、私のいうことをきいていて下さい! もう一つの件で私に賛成なさいませんか? 殺人者が、男でもあれ女でもあれ、今どういうことをしなければならないかという点で? それから……死体を発見する件で?」
まだH・Mは答えなかった。その日の午後五時になって、最後の恐怖が集まってセヴァン館を撃《う》ったとき、やっと卿はマスターズの質問に答えたのであった。
十二
後でよく思い出したことであったが、そのときはもう四時十五分すぎだった。
オードリ・ヴェーンがいった。「キット、もうそろそろセヴァン伯からなんとかおっしゃって来てもいい頃だと思わない?」
「そんな時刻? ああ、そうですね」
「飛行機は午前中に着いたのよ。クロイドンで記者会見をなすったし、一時のニューズのときにも、談話が放送されていたわ。そのとき……キット、あなたどうしたの?」
「どうしたのだと思う、オードリ? もっとお茶を飲む?」
あんなおだやかな陽気で始まったこの日も、午後になるにつれて、四月の天気特有の変化が起った。雨風がまだカーテンの引いてない窓を叩いて、庭の木々の葉は不穏な揺れ方をした。
キット・ファレルは更紗で包んだ安楽椅子にもたれて目を閉じた。二人のためにお茶がヘレンの部屋の火の前に運ばれていた。例の長い、明るかったがいまや毒気に汚染された部屋で、白い大理石の炉棚があって、その上にはまだ例の青銅ランプがおいてある。低いテーブルの上に置いた銀の茶盆の向う側に、オードリがソファの上に丸くなっている。
というわけで、キットは後ろに寄りかかって目をつむった。今、目をあければ、幾重にも呪いのかけられたあの青銅ランプと視線があうに違いない、と彼は考えた。火の熱が彼を煽り、彼を焙《あぶ》って、ウトウトと寝つかせるようであった。ただ身体を楽にさえすれば、頭はとたんにフラフラになる。
オードリの声は遠くでするようにきこえた。
「ちっちゃいオードリは」小さくないオードリがいった。「あなたのことでとても心配しているのよ、ファレルさん」
「本当、ヴェーンさん?」
「今朝は今朝で、なんだか秘密のご用で館を抜け出しておしまいになって、私の扉を叩いても下さらないし……」
「起さないほうがいいと思ったのさ、オードリ。睡眠不足でいたから」
「睡眠が不足だなんて、人のことがよくいえたわねえ」
「わかった」
(目を閉じていると、ごく平和で気持がいい。目蓋の前に鈍い赤い火照《ほて》りが感じられる。火の熱が彼の身体を探って、彼の心の中にまではいって来て、雨風や思想から彼を守ってくれた)
「とにかく、キット、あなたたちはどこに行ったの? なぜ私に話してくれないの?」
「話せないから」
「正直にいって、キット、なぜ?」
「ある理由で、事実が洩れてしまうと、ヘレンを殺した者に利益を与えることになるからだそうだ」
「ヘレンを殺した者?」喘ぐように息を吸いこむ音がきこえた。オードリが急にソファの上で動いたのか、衣《きぬ》擦れと身動きの気配がした。
「そう。彼女は死んでいるのだと、あの二人は思っている。あんたと同じに。僕があなたに話せる全部は、僕たちはジュリア・マンスフィールドという名の女の店に行って、いろいろなことをきいたというだけなんだ。ああ、それからボーモントという変な男に会った。一方、その殺人者が誰だと二人が思っているのか知りたいなら、それも話してあげられる。なぜなら……」
麻痺したような状態から起され、事実に引かれて、現実に戻されて、キットは薄目をあけた。そして一瞬間、夢を見ているのではないかと思った。
オードリは彼を見てはいなかった。彼女は部屋の反対側を向いていて、ただ虚空を見つめている。だが、彼女の顔には憎しみの色が|しらじら《ヽヽヽヽ》と凝集していて、鈍い盲目の怒りの表情が黒い目に宿っているので、真紅に染めた爪は、今にもソファの更紗のカバーを引き裂くかと見えた。
万能の神よ! 彼は夢を見ていたのかしら? なぜなら、一瞬間後に、チカチカする目をよく開いてみると、見馴れたオードリの均斉のとれた顔が彼を見守っているのだった。彼女の顔は眉を濃くひいたために、少し青ざめて見えた。そうだ、それに長い黒い睫毛にもアクセントがつけてある。もうさめてしまったお茶を注ぎ足そうとして身体を曲げたが、彼女の手が震えた。しかし、それは彼が殺人について述べたことから生じた効果かも知れない。
「ええ、キット?」オードリが続きを催促した。「あの二人が誰を殺人者だと思っているか、私に話せるといったわね?」
「なぜなら、僕の想像にすぎないからさ。マスターズは、僕は聖書に誓ってもいいけれど、ベンスンとポンフレット夫人が共謀して殺したのだと思っているんですよ」
オードリはミルク入れをひっくり返して、慌ててナプキンで拭いた。
「ベンスンが! そんな馬鹿なことないわ!」
「僕だってそう思うけれど」
(オードリの目があんな表情を呈していたと思ったのは夢だったかしら? この怖ろしい事件に関しては、誰一人として信用してはいけないのかしら?)
オードリがいった。「ポンフレット夫人は素性も知れなければ、なにをするかも知れないわ。でも、ベンスンは! ねえ、キット! いったいどういうところからマスターズがそう信じているとあなたは思うの?」
「骨董店で暗示を受けたある事柄によって、ね。それから、われわれが昼の食事のためにここへ戻る途中で起ったもう一つのことによってなんです」キットは誘惑と戦ったが、その非難の性質があまり奇想天外なので、誘惑に負けてしまった。「H・Mがいったんですよ」――ここで彼は老大家の身振りを真似したが、なかなかよく出来た――「H・Mがいったんです。『貴公はおれが調べておけといったことを調べたかね――木曜日にスイゼンを切ったのが誰だか?』」
「なにを切ったんですって?」
「スイゼン。卿はそう発音するんですよ。すると、マスターズがいったんです。『はい、ベンスンでした』って」
「水仙ね!」オードリが繰返した。信じられないような目つきで、彼女は灰色と黄金色の部屋の真中にあるテーブルの上の鉢を見やった。黄色いラッパ水仙がもうしぼみかけている。「でも、花の鉢がこれとなんの関係があるの?」
「僕にきかないでくれたまえよ」
「そしてベンスンとポンフレット夫人はいったいなんの得があるの、そんな……」オードリは身震いした。「……悪いことをして?」
「利益を受ける者はアリム・ベイ以外にはないじゃないか、と僕は思ったのです。もちろん、僕は間違っていた」キットは唸った。「僕はそう思ったので、二人に話したんです。この事件はみんなアリム・ベイが指揮した悪事に違いないって。利益を得るのは、あの不埒な予見と占いを商売にしている男の他に誰がいるでしょうかって。他の誰が青銅ランプをタネに金儲けができるでしょうか、って。ところが、アリム・ベイはカイロにいて、だから……」
「キット」オードリは記憶に駆り立てられたかのように、まっすぐに坐り直した。「あなたは、そこでボーモントという名前の人に会ったといったわね?」
「ええ、何者だか知らないけれど」
「あなたはその名前を前にもいったわよ」オードリは頷いた。「ボーモントという名の誰かが、セミーラミス・ホテルにやって来て、ヘレンに会いたがった、って。でも私は、今までその名前を関連させて考えなかったの。キット!」彼女の声は小さい絶叫であった。「まさかその人は、|リオ《ヽヽ》・ボーモントじゃないわね」
「そうなんだ! その男ならどうなの?」
「リオ・ボーモントっていう名前をきいたことがないというの?」
「一度も。それから、H・Mもマスターズもきいたことがないんだ――僕は自信がある。彼は何者なの?」
「アメリカで一番有名な予言者で占い師なのよ。何百万も儲けているのよ。ロサンジェレスに古代エジプト博物館というのを建てて、大きな商館のようにして経営しているの」
太った小間使のエミリが軽く扉を叩いて、カーテンを引きにはいって来た。外では雨がとてもひどくなって、吹きとばされたほこりのような細かい広がりになって窓の向うを飛んで、時刻はまだ早いのにたそがれどきのように薄暗くした。稲妻が光って、雨脚をはっきり見せたと思うと、とたんに遠くで雷が鳴りはじめた。
「なるほど、そうだったのか!」キットがいった。眠気はすっかりさめた。また神経がいら立ち始めた。彼はいきなり立ち上った。
「そうだったのかって、なんの意味?」オードリが詰問した。
「だからボーモントはあんな変な物のいい方をしたのか! それから、人を見つめるあの目つき! それから全体の雰囲気! ゴシック風の小説の現代版なんだ。まるでボーモントが指をパチッといわせれば、女たちはたちまち輪を抜けて跳びそうな感じを受けたっけ」キットはその話をやめた。「この話をH・Mに話しておかなけりゃ、オードリ! H・Mはどこにいるの?」
また雷鳴が轟いた。エミリが長い窓の列のカーテンを引いたので、輪がサラサラと鳴った。
「失礼でございますけれど」小間使は笑いたいところを押しこらえた。エミリはヨークシヤ生れなので、ここで起った事件くらいでは全然落着いていた。「あの太ったお方のことでございましたら、食器室でベンスンさんとお茶をあがっておいででございます。警部さんもご一緒です。切抜き帳を較べていらっしゃいまして」
キットとオードリは目を見合わせた。
「なにを較べているって?」
「切抜き帳でございます」
あの穏やかな辛抱強いベンスンが、厳重な取調べにあっているという考えは、二人が急いで下に駈けつけたとたんに一掃された。
二人は木魂の強い大広間を横切った。音を立てて燃えさかっている火の火影の中に、鎧が二領つっ立っている。二人は緑色のラシャの張ってある扉をあけて、シュロの敷物のしいてある長い、細い、かび臭い通路を通りぬけた。階段の裏手にある色々な部屋――台所、貯蔵室、肉部屋、女中部屋など――に行く扉も、この通路に面しているのであった。しかし、二人がその場所を知らなかったにせよ、食器室に通じる扉は間違えようがなかった。
扉は半分あいていて、中から声がきこえていた。それはバスの音で、謙遜をよそおった偉そうな奇妙な調子を帯びていた。その声は哀願するように咳こんだ。
その声はこういった。「さて、このおれの写真はぜんぜん悪くないじゃろ。撮《と》ったのは――えーと!――そうだ、おれが自動車競走で大賞をとった年だから一九〇三年だ。よく撮れているじゃろ?」
「たいそうよくうつっておりますでございますな――自動車が」
「自動車じゃないよ! おれだよ!」
「そうでございますか……」
この居心地のいい食器室では、ごく家庭的な光景が進行しつつあった。綺麗に拭いたテーブルの一方に、茶の道具を押しやってヘンリ・メリヴェル卿は大きな革表紙の切抜き帳を前に坐っている。糊づけが拙いので、新聞の切抜きの端が外にはみ出しているのもある。テーブルの反対側にはベンスンが、やはり切抜き帳だが、型のもっと小さいのを持って控えている。
後ろにはマスターズ大警部が立っていたが、こういう緩慢なやり方にすっかり腹を立てている。
「ヘンリ卿、きいて下さい!」キットが始めた。「発見したのですが……」
H・Mはただ片手をあげて、新来の二人を睨んだのだが、その恐ろしい目つきに二人はすっかりひるんでしまった。それから卿は、またすっかり元通りに愛想がよくなって、ベンスンに話しかけた。
「さて、これじゃ」卿は切抜き帳を差出して、指さしながら食いさがった。「これはおれが戦闘艦に命名しとるところだ。ところが、どういう訳だかシャンパンの瓶の工合が悪くての。戦闘艦に打ち当たらずに、ポーツマスの市長の頭をゴツンとやってしまって、気の毒に奴さんは伸びてしまってな」
「さようでございましたか? ひどい怪我はございませんで?」
「いや、なかった。頭を殴られただけじゃもの。でも、こいつはなんとなく、この写真ではヒンガラ目のように写っとるじゃろ?」
「まったくでございます」
「それから、瓶は割れずにすんだので、おれたちはまたそれを使ったよ。左手にいるのがおれだ。新聞の写真班はよくいうが、おれの写真を撮るのは楽しみじゃとよ」
「それは当然さようでございましょう。定めし、思い出のタネになりますような写真を、撮らせておやり遊ばしますのでございましょうから」
「いや、そうでもないて」H・Mは、これを前と同じのもったい振った偽りの謙遜で払いのけたのだが、そんな手には赤ん坊だって乗らないに違いない。「つぎは、これだ」彼は夢中になって前にかがんだ。「これは本当によく撮れているぞ。顔全体の大写しじゃ。これは議会に打って出たときに撮らせた。東ブリストルじゃ。高貴なところと厳格なところを見せようというのが狙いでの?」
狙いは正に当ったらしい。効果がまことに物凄かったので、流石のベンスンもいささか辟易して、身体を後ろにひいた。
「どうかしたか? よく撮れているとは思わんかの」
ベンスンは咳をした。
「率直に申しまして、そうは申し上げられませんが」
「アハ!」H・Mがいった。「きいたかね、マスターズ?」
大警部はなにもいわなかった。マスターズにはそれだけの腕がないのかも知れなかった。彼はただ両手でしっかりと自分の山高帽をおさえた。
「どういうところが似ておらんというのかな?」
ベンスンはまたもや咳をした。
「さようでございます。あなた様のご容貌には、なんと申し上げましょうか、失礼ではございますが、一種のお品《ひん》がございます。それが写真の種板には記録し難いのではないかと存じますが」
H・Mは、彼をじっと見た。なにか言外の意味があるのではないかと、猜疑心を働かしたかのようであった。しかし機転のきく執事はすぐに説明した。
「つまり、そういうお品《ひん》は方々で見うけられるのでございます。ここにございますのが」――今度は自分の番にしてくれようと決意を固めたに相違なくて、ベンスンは自分の切抜き帳をつき出した――「十二年以上の間にお撮りになりましたお嬢様のお写真でございます。疑いもなくお気づきと存じますが……」
「そうだ、そうだ! でもおれが見せていた……」
「……お嬢様は」ベンスンは断乎として言葉をつづけた。「大層お美しいにも拘りませず、いわゆる写真むきではいらっしゃいませんのです。それは色と表情の問題と存じます。お嬢様のお写真は……」
「これは、タージ・マハール〔インドのアグラにある白大理石の霊廟〕に行ったときだ」
「……出来損いますか、あるいは似ても似つかないものになってしまいまして。この最近カイロでお撮らせになりました写真をごらんあそばしますならば、ご一緒なのはボーモント様とかおっしゃる方ですが、すぐおわかりの……」
「これはおれが十字軍の野外劇に出て、隠者ピータに扮したところじゃ」
ベンスンは目をつむった。
「さようでございます。それで、あなた様のお姿をよく似せて撮る件に関します私の次の要点となりますので。私の申しておりますのは、あなた様が付け|ひげ《ヽヽ》のお写真がまことにお好きなようにお見受けされます点で」
H・Mが坐り直した。
「付け|ひげ《ヽヽ》が悪いかの?」卿は詰問した。「おれは付け|ひげ《ヽヽ》が大好きじゃ!」
「さように存じあげます」ベンスンは静かに微笑しながら同意を示した。「私も大好きでございます。とくにクリスマスのジェスチュア遊びなどの場合には」
「それで、なんだというのだ!」
「しかし、ここにございます四枚のお写真の例で申し上げますと、すなわちシャイロックとサンタ・クロースに扮していらっしゃいます分では、あなた様は大層贅沢な付け|ひげ《ヽヽ》をあそばしておいででして、どこでお|ひげ《ヽヽ》が終って、どこからお顔が始まるのか、見わけが困難でございます。これが障害となりまして、生き写しと申しますようには撮れないことがおわかりでございましょうか?」
「そうだな」H・Mは感服した。「うん、そういえば本当だな」
「さようでございます。一方、お館様の場合をごらんあそばしませ。ここに殿様のお写真が一枚……」
「これ、若いの。貴公は自分の一族の話ばかりしようという量見で、おれにはひと言も喋らせない気らしいな。よろしい。貴公の一族の話をしよう。貴公はヘレン・ローリン嬢の写真を沢山持っとる。しかし、ここにおれの持っているようなものは、絶対に貴公は持っておらんぞ」
「さようで?」
H・Mは大きな切抜き帳の一番裏をあけた。そこにはまだ貼りつけてない切抜きが厚い束になってはさんである。彼は、ひとりごとをいったり、何枚も床の上に落したりしながら、それを整え始めた。
「おれの探しているのは」卿はいった。「カイロの中央停車場の外で、つい三週間ほど前に、撮ったものなのだ。実はおれが五ポンド札をタクシーの運転手の顔に貼りつけているところの写真なのじゃが」
これをきいて、ベンスンはびっくりした。
「なんと仰せあそばします?」
「この運転手めがおれのネクタイをチョン切りおったので、おれは五ポンド札を顔に貼りつけてやったのだ」H・Mは念を入れて説明した。「じゃが、あの子もこれにうつっているし、前のほうにいるからハッキリわかるぞ」卿の声がじれて来た。「たしかにあいつは、ここのどっかに入れておいたはずなのだが……ああ! これだ!」卿はかなり大きな新聞の写真の切抜きを束から外した。「これを貴公の収集に入れたいかの?」
「そう願えますなら幸甚でございます」
「よろしい」といって、H・Mは自分でもよく調べるつもりで、頭の上の電燈の真下に持って行った。「このネクタイのないのがおれだ。それから口を開いている、これがヘレン嬢なのだが、よく見ればわかるが、ヘレン嬢は……」
それが突発したのは、このときであった。H・Mの顔の表情がかわったのと同じようにハッキリと、部屋中の情緒と雰囲気の一部に変化が起きた。
H・Mは椅子から肩を浮かして、写真をテーブルの向う側に差出そうとしていたが、このとき、卿はもっとまぢかでそれを見たのであった。写真の中のなにかが急に卿の注意をひいた。卿の目は写真の上にピッタリと釘づけになってしまった。卿はそのまま身動きもしないで、見つめていた。
雨が食器室の窓を叩く音がきこえた。H・Mのぜいぜいいう呼吸が人々の耳を打った。卿の禿頭のいい光沢と、眼鏡の光るのと、太鼓腹を覆っているチョッキを飾る金鎖が人々の目にうつった。卿はこのときにはまったく自分自身のことも忘れ、持っているかも知れない虚栄心や弱点のことも考えてはいなかった。
突然、H・Mは腰をおろしたが、その猛烈な震動で椅子は揺れ、リノリュームで覆ってある床板まで揺れた。口をアングリ開けた卿の顔には、発見にあきれ果てたといった表情が見えた。
「ああ、なんと!」卿は呟いた。「ああ、こいつは驚いたぞ! 今までこれにぜんぜん気がつかなかったとは!」
これはマスターズ大警部のよく理解している気分なのであった。マスターズがすかさずいった。「なにか発見されましたか?」
「ちょっと考えさせてくれ」H・Mが文句をいった。「考えさせてくれ!」
両ひじをテーブルに突いて、拳固をこめかみに当てて、卿は考え始めた。まわりの者はなに一つ口もきかない。一度か二度、卿はなにか思いついたらしく、一人でうなずいた。やがて額の皺がすっかり消えてしまった。広間の時計が五つ打ち始めると、卿は目をあげてベンスンに話しかけた。
「おい、若いの」卿の口調はしごくおだやかであった。「あの青銅ランプだがの。おれの記憶がまちがっていなかったら、あれはまだ二階のあの子の炉棚の上に置いてあるはずじゃな。ちょっとひとっ走り行って、持って降りて来てはくれんか」
一同の間に軽い動揺が起った。ベンスンは躊躇した。まるで、今この場をはずしては拙いのではないかと考えているようだった。しかし、長年の習慣が勝った。
「かしこまりました」
ベンスンは踵をかえすと出て行って、外に出ると気をつけて後をしめた。H・Mはなにか感心しきったような調子で考えこんでいた。
「おれはなんという間抜けだったのだろう!」卿は空虚な声をあげた。「これが可能でないと考えたとは、なんという阿呆だろう! なあ、マスターズ。おれがうしろを見せたら、蹴っとばしたいと思うか?」
「それに増す楽しみはありませんな」大警部は心から保証した。「でも、それは後回しにできます」彼は大きな声を出した。「なんなのですか? なにを発見されたのですか? どうして青銅ランプを持ってこさせるのですか?」
「実はな」H・Mは鼻を鳴らした。「本当に正直なことをいうと、ランプなどはぜんぜんいらないんだ。だが、おれとお主《ぬし》がコンニャク問答をぶつ間、われらが友ベンスンを部屋から追いだしておいたほうがいい、と思ったのでな。というのは、だ」
「はい?」
「わかったのじゃよ」H・Mが答えた。「ヘレン・ローリンがどうなったのか」
十三
キット・ファレルがオードリのほうをチラと見ると、彼女は肩をすくめた。キットは心臓の鼓動が早くなって息がつまりそうな気がした。
「ああ!」マスターズが満足この上ないといった声を出した。「かならず真理を発見なさると思っていました。そして、それは、私の思っていたとおりなのですか?」
「違うんだ」H・Mがいった。
卿は反対論の機先を制して手をあげた。
「一度なにかにぶつかるとな、マスターズ――一つの小さな事実にすぎなくても――全体がきちんと纒《まとま》って来て、どの部分も巧く辻褄があって来るのだ。おれの発見したことから推すと、あの子が大広間の真中で姿を消したことも説明でき……」
「では、やはり大広間の真中で姿を消したので?」
息を深く吸いこむと、H・Mはキットを見た。
「お主はこの件で、ずいぶんひどく悩んだものだったな」卿は優しい口調でいった。「だから、お主にはなにかいってやるのが至当だ。簡単明瞭にいえば、こうなのだよ――もう心配はやめていいのだ」
キットは一歩前に出た。
「ヘレンは生きているのですか?」
「そうよ。それから、まだ話してやることがある。ジュリア・マンスフィールドの骨董店に現われた不思議な女、フードのついたマントを被って、あの絵を抱えていた子は……」
「子は? 誰だったのです?」
「ヘレン・ローリン自身じゃ。マンスフィールドのいった通りに」
「そんなはずは、ありえません!」大警部が大きな声を出した。
「ありえたのじゃ」
「こうしてくださったほうが、簡単ではございませんか?」マスターズは一生懸命に自制しながら、手帳を出して、こう提議した。「ヘレン・ローリンがどうなったのか、お考え通りを話して下さったら?」
「それは出来んのだよ。少なくとも、セヴァン伯がここに着くまでは。着いたら、さっそく話してきかせるが」
「で、それまでは話せないと仰せになる理由は?」
「それはおれだけの秘密ではないからなのだ」H・Mはひどく真面目そうな口調だった。「おれには発表する権利がないからじゃ。事件の真相さえわかれば、マスターズ、おれのこういう意味もすぐに飲みこめるのだ! 長い間待っていろといっているのではないのだからな。ただ、ほんの……」
電話の鳴ったのは、このときであった。
H・Mもマスターズもめいめいの考えに深く沈んでいたから、電話の鳴ったのがきこえたかどうか怪しかった。ベンスンが留守なのだから、本来ならキット・ファレルは電話に出るなどという面倒はしなかったはずなのだが、あまり執拗に鳴って、気が散ってたまらないので、切ってやろうという気になってしまった。彼は急いで炉の脇のテーブル――ちょうど三晩前のこの時間に、あの運命の電話のかかって来たテーブル――に行って、受話器をとった。
受話器から、サンディ・ロバートスンの声が出て来た。
「サンディ!」キットはいつぞやの長距離通話が頭にあったので、こういった。「まだカイロにいるのかい?」
「カイロ?」驚いてサンディはわめいた。「ロンドンにいるんだよ、まぬけだなあ! 今朝、僕は閣下と一緒に帰って来て、一日中かけ回っていたんだ! きいてくれたまえ。伝言をしてもらいたい。老体に伝えてほしいのだが……」
「どの老体?」
「セヴァン伯さ! ほかの誰のことをいうものか。僕は警視庁に行ったんだが、副総監のいわれるには……」
「そんな事をセヴァン伯には伝えられないよ。ここにいないんだから」
「そこに……|なんだって《ヽヽヽヽヽ》?」
この頃には、H・Mもマスターズも、この話の主意を掴んで、立ちあがっていた。マスターズは急いでテーブルのところへかけつけ、H・Mがその後につづいた。二人ともまぢかにいたので、サンディのよくとおる声はよくきこえた。オードリ・ヴェーンはそのまま席を動かなかったが、顔が突然狼狽に歪んだ。
「ここにはいないんだ、サンディ」
「ききたまえ!」ロバートスン氏がさとすような調子でいった。「そっちに行っているはずだぜ! 僕の車を貸してあげたんだもの――君も憶えているだろう、赤塗りのベントリだが?」
「そして?」
「そして伯爵は昼食時間よりずっと前にロンドンを出発されたのだぜ。いずれにせよ、正午をあまり過ぎてはいなかった。なにか故障でも起きないかぎり、そっちへ着いているはずだぜ」
本能的にキット・ファレルは、三晩前にベンスンが例の困惑するニューズを耳にした時にしたのと同じことをした。彼は炉棚の上の白い文字盤のとき計を見ようとして、後ずさりした。時計の針はちょうど五時二分すぎを差していた。
電話がまだ続いている内に、当のベンスンも食器室に戻って来た。ベンスンがカチッと扉をしめたので、一同は彼のほうを向いた。彼の桃色の顔には躊躇の色が濃かった。
「ご命令でございましたけれど」彼はH・Mにいった。「仰せのようには致しかねるのでございます。どなたか、あの青銅ランプをお動かしになりましたでございましょうか」
「なんだって?」
「青銅のランプでございますが」ベンスンは声を大きくした。「お嬢様のお部屋の炉棚の上にないのでございます」
オードリ・ヴェーンは、痩せた身体を硬くして、両手を口に当てた。本能が、窓の外を走った稲妻のように、あるいは続いて起った雷鳴のように、明瞭に、彼女の頭の中に閃いた。
「いいえ!」オードリは叫んだ。「違うわ、違うわ、違うわ! 違うわ!」
彼女はその意味を説明しなかった。声に籠る冷たい恐怖の意味を明らかにしなかった。しかし一同はみんな理解した。
「なんかそっちで、ぐあいの悪いことでも起っているの?」サンディの声が受話器の外にまで聞えた。「僕は出来るだけ早い汽車でそっちへ行くけれど、老体が僕に……」
「それで結構だ、サンディ」キットはそういって、受話器をかけた。
キットは電話をテーブルの上に戻しながら、こうつけ加えた。「あの青銅のランプは、オードリと僕が十五分ほど前こっちへ降りて来たときには、チャンと炉棚の上にありましたよ。二人とも誓言していいです」
一同はたがいに顔を見合わせた。
「落着くんだ!」H・Mはマスターズの示唆的な目と視線が合ったのでどなった。「なにも心配することはない。よく聴けよ! 人が少しぐらい遅れたり、昼の食事の時間が長すぎたからといって、すぐにビクビクするのは悪い癖なのだ。ところで……」卿は話を中途でやめて、ベンスンに話しかけた。「セヴァン伯はここに見えたのかね?」
ベンスンの肩があがった。
「殿様でございますか? 私の存じます限りでは、まだで、ございます。どういうところから、殿様がこちらにお着きとお考えあそばすのでございましょうか」
「いまのはロバートスン青年だ。セヴァン伯は車で五時間前にロンドンを出たといっていた。伯爵がここに着いたならば、貴公にはかならずわかるはずだろうな?」
「たしかにさように存じますが、それに、殿様が車でお見えになりますれば、門番が気がつかないはずがないのでございます。お差支えございませんでしたらば、私設電話でかけてみたいのでございますが」
「私がかけよう」マスターズ大警部がとびついた「この壁についている四角な奴だね? そうだろうと思った!」ベンスンを疑い深そうな目つきで眺めてから、マスターズは私設電話に突進した。彼は『門衛』としてあるボタンを押して、耳を傾け、また押して、今度は鉤をカタカタいわせたが、やがてさまざまな感情が体内で煮えくりかえるといったようなようすで振りかえった。
「この線は通じない」と彼はいった。
一同の気がついたことだったが、ベンスンが幽霊のようにまっさおになった。
「それは外線とは違った仕組みになっているのでございます。たぶん、お天気のせいで――」彼は、震える声をよく制した。「問題が問題でございますから、マスターズ様、私が自分で門番小舎へ参りまして、レナードにきいて見たいと存じますが」
その必要のないのがわかった。ベンスンがオーヴァシューズと傘を戸棚から出しているとき、扉を遠慮がちに叩くと、バート・レナード自身がやって来たのだった。
門番というのは、大柄な筋張った年輩の男で、長年の労働に背は曲り、顔は青ざめ、水の滴れる油布衣を羽織って、暴風雨帽《しけぼう》をかぶっていた。薄い胡麻塩頭は化物のように髪がさか立っていたが、食器室にこんなに大勢の人がいるのを見て、まことにまごついたようすだった。
「ご面倒かけるのもなんですけんど……」彼はしわがれ声でいい始めた。
「だが、貴公の電話はぐあいが悪いのかね?」H・Mがいった。
バートは飛びついた。ベンスンに向かってはひどく窮屈そうだったのが、H・Mに対してはおよそ気楽そうである。彼は卿に仲間同士のような調子でニタリと笑ってみせた。
「ええ」彼は相槌をうった。「ぐええが悪くてな」――サマセット弁だとぐあいがぐええと発音される――「で、いくらなにしても通じねえだよ。それくれえは大したことではねえだ。おらはご門を開けといて、へえりてえ人はドシドシ入れてこませという命令をうけているだ。でも、この旦那はね!」
「どの旦那だね?」
「ご門のところにやって来て、いつまでもブラブラしているだ。で、|おら《ヽヽ》はこう考えただよ。『旦那よ、お前様はなにか企んでいるな』とね。中さ、へえろうとするだ。どうしても行かない。殿様に会いてえと抜かす。『ああ、お留守ですだよ』と|おら《ヽヽ》はいってやっただ。ところが、信じない。手紙を書く、と抜かしてね。こんなものを書いたぞ」
油布衣をヒラリとさせて、部屋の端まで水をとばしながら、バートは白い封筒を出した。
「名前はボーモントといっていたがね」バートはいい足した。
「おい、若いの! ボーモントはどうでもいい。セヴァン伯を見かけたかね!」
バートは驚いた。
「誰だと?」彼は詰問した。
「セヴァン伯爵だ! 今日の午後、あの門を車で通られたかね?」
「でも、殿様だということがどうして|おら《ヽヽ》にわかるね?」バートは責めるような荒い口調でいった。「|おら《ヽヽ》は生れて一度も殿様を見たことがねえもの」
急にH・Mの声が非常に慎重になった。
「一つハッキリさせて置こう」卿は提議した。「木曜の午後、ヘレン嬢はあの女の子と一緒にここに着いた」卿はオードリを指差し「それからこの男と」キットを差した。「貴公は電話をかけて、ヘレン嬢がこっちへ行った、といったな、どういうところからヘレン嬢だとわかったのだ?」
「わかりゃしねえですだよ」バートは理屈っぽくいい返した。「でも、お嬢様はこっちさ見えることになっていただ。そこへ、婦人方を二人のせて、鞄やスーツケースを一ぱい積んだ立派な自動車が来ただ――|おら《ヽヽ》はなんと思うだべえ?」
ここでマスターズ大警部が割りこんだ。
「私たちはセヴァン伯について尋ねているのだ。誰か車で入って来やしなかったかね? 伯爵の車は?」
「伯爵の車は赤塗りのベントリの二人乗りです――番号は思い出せないが――ラジエータの栓にはマーキュリ神の像がついている」とキットがおぎなった。
「あれかね?」驚いてバートは叫んだが、そのようすは不安そうだった。「あれかね? あれなら見ましただよ! 烏打帽にレインコートを着た年輩の旦那が乗らっしゃっていただが。時速五十マイルぐらいでフッ飛ばしゃっただ。あれが殿様かね?」
「では、ここに着かれたのだね?」
「へえ」
「何時ごろだったね?」マスターズがきいた。
「四時半ごろでがした。ああ、そうでがした!四時半ごろでがした」
ベンスンはこの間ずっと、オーヴァシューズを片手に、傘を片手に、身動きもしないで立っていたが、ていねいにそれを戸棚に戻した。彼は戸棚の扉をしめた。
「小舎に帰ったほうがいいな、レナード」ベンスンは元通りの威厳をかろうじて取り戻しながら命令した。「ご苦労だった」
「この手紙はどうしますべえ?」バートは封筒をさしあげた。「それからボーモント様は?」
「手紙は私が預かろう」マスターズが手をのばしながらいった。「ボーモント氏はもうしばらく小舎に待たせておくがいい。さあ行きたまえ!」
バート・レナードが出て行った後、マスターズはその封筒を手の平にのせたまま、目方を計るような格好をいつまでも続けて立っていた。しかし彼は封筒のことを考えていたのではない。
「四時半!」マスターズはいった――大きな声ではなかったが、物騒《ぶっそう》な調子だった。「四時半! そして、あなたも私も」彼はH・Mを見た。「この食器室に四時からずっといたのでしたな。誰か、自動車がここに乗りつけたのを見ましたか?」
誰も答えなかった。
「自動車の乗りつける音をきいた人は?」
「キットと私は」オードリはキットの腕をつかみながらいった。「二階のヘレンのお部屋でお茶をいただいていたんですけれど、なんの音もきこえませんでしたわ」
「これだけの雨と雷でございますから、オードリ様」ベンスンがいった。「お耳にはいらないほうがむしろ……」ベンスンはやめた。そして今度はもっと大きい声で、こういった。「マスターズ様、私もこの食器室に四時からずっとおりましたことを指摘いたしましてもよろしゅうございましょうか?」
「へえ?」マスターズがいった。「だが、どういうところから、それを指摘する必要があると、君は思うのですな?」
「それは」ベンスンは頑張った。「どうも、あなた様が私を妙な風にごらんになっておいでのようでしたので」
「そう見ていたかも知れない」マスターズがいった。「そう見ていたかも知れないです。君はセヴァン伯からなにか便りを受けましたか?」
「いいえ」
「たしかですな?」
「完全にたしかで」
「伯爵はまっすぐ正面玄関に乗りつけられるのでしょうな?」
「いいえ。必ずしもそうとは限りませんで」
「それはどういう意味?」
「殿様のお書斎が一階にございます。ご覧になったと存じますが。横手に扉がございまして、これは私道に向かって開いております。殿様は以前はよくこの…」
マスターズは終るまで待たなかった。彼は五つ跨ぎで部屋を横切った。キットとH・Mが後を追った。
一団になって三人は例のシュロの敷物を敷いた、狭い、かび臭い通路を急いだ。これは木曜にベンスンとポンフレット夫人の通ったのと同じ道である。そして、またもや稲妻が通路を照らして、壁紙のすすけた壁のうえの、黒ずんだ肖像画――未だに一枚だけパックリ抜けているのを見せた。しかし、一同が緑色のラシャをはった扉を押しあけて大広間にとびこんだが、恐怖をもたらすような不愉快なものには出あわなかった。大広間はよく掃除が行き届いていて、なにも目につくものはなかった。
「ききなさい、マスターズ」H・Mが大きな声でいった。「貴公はぜんぜん見当違いをしているのだぞ! 少なくとも……」そして、卿は自信なさそうな目をしながら、額を手で横撫でにした。
「そうでしょうか。あなたでも間違うことがおありでしょう」
「そうさ。おれでも間違う事はあるさ。そして、マスターズ、もしもおれが間違っていたらば……」卿は終りまでいわなかった。
「われわれの考えていた以上に拙いことになるのですか?」
「そうだ」H・Mがうなずいた。「そうなると、われわれの考えていた以上に拙いことになるのだ」
「ヘレン・ローリン嬢は」マスターズは執拗にいった。「殺害されたのです。ヘレン嬢の死体はこの家の中に隠されているのです。私はどうしても探し出す気です。それでなければ、誰かに探し出させます」彼は意味深長なことをいった。「その間に……」
「その間に、なんだね?」
「私が方角を間違えていないのでしたら、あすこにあるのが図書室です。セヴァン伯の書斎に行くには、図書室を通り抜けて、左へ行って、裏側の小さい扉をあければ、そこが書斎になっているのです。さあ、参りましょう」
図書室は暗かった。今日はここには火が焚いてなかったのである。大きなステンド・グラスの窓は夕暮れにほとんど色はわからなかったが、尖った弓形が暗闇に見えた。雨が樋《とい》をつたう音は、ここのほうが大きく響いた。先頭に立ったマスターズは手さぐりで書斎に通じる扉をさがし当てた。彼は把手を回して、この扉を勢いよくあけた。
ここにもぜんぜん火は焚いてなかった。湿っぽい匂いがする。それから、ほとんど感じられなかったが、いい匂いがかすかにする……
だが、まず一同が気のついたのは、暗い書斎の中の物ではなかった。北側の壁間には――つまり一同の右側の壁なのだが――透明なガラスをはめた窓が四つ、近代的な扉を中にはさんで、並んでいた。この扉が一インチか二インチほど開いていて、雨の飛沫がかすかにとび散り、風が触れるたびに少しずつ動いていた。
扉のすぐ外にある二段の石段は、家の北側に沿って曲ってのびている。砂利を敷いた自動車道に通じている。雨で曇った窓を通して、ベントリの二人乗りの、黒味を帯びた赤い色が見えた。屋根に雨をはねかしながら、空《から》っぽのまま自動車道に乗り捨ててある。扉の一つはまだ少し開いていて、庭の濡れそぼたれた木々を前に、淋しい姿であった。
マスターズが薄闇の中でいった。「では、ほんとうに伯爵はここに来たのだな」
「ここには電燈はつかないのか?」ヘンリ・メリヴェル卿が催促した。キットは卿の緊張した語調が気になった。「懐中電燈かなにかもないのか?」
「いえ大丈夫です」マスターズが保証した。「扉の左手にスイッチがございます。今つけますから……」
「なんと!」マスターズが慌ててわめいた。そして、火傷でもしたかのように、パッと後ろに退った。
抑圧された光線で、一同は細長い、やや天井の低目な部屋を見たのであったが、考古学の資料であまりにも充満しているので、最初は細かい物は注意をひかなかった。
もちろん、一番よく目についたのは、三体あるミイラの容器であった。一つは大きく、二つは小さい。考古学者のいわゆる木製の棺で、黒と金色《こんじき》と青ととび色の鈍い顔料で塗ってあって、繃帯で巻いて中に納めてある死者の面影を象《かたど》っている。
その像の目は、とび色に描いてあって黒い輪郭が取ってあるのだったが、生命の宿っていない部屋に置いてあるので、なんとなく生き物のように感じられた。陶器装飾品があって、鈍いとび色のや緑色のが目についた。炉棚の上に黒鷺《くろとき》〔古代エジプトの霊鳥〕の頭が飾ってあるのが目についた。壁には額に入れた写真がかかっていたし、書机の上には小さい猫の像もあった。だが、ともすれば視線は、永久に黒く隈《くま》の取ってあるミイラの像のとび色に見はった目に戻ってしまうのであった。
「セヴァン伯爵!」マスターズは荒々しい声でわめいた。答えるのは雨の音だけであった。彼は両手を口に当てて、わめき立てた。「セヴァン伯爵!」
「無駄じゃよ」ヘンリ・メリヴェル卿がいった。「呼んでもきこえるものではあるまい」
H・Mのぼんやりした表情を見て、キット・ファレルは新しい希望がみんな崩れるのを感じ、彼の全宇宙は再び混乱してしまった。
なぜなら、その部屋は空っぽなのである。セヴァン伯爵領四代の当主ジョン・ローリンは、跡を残さずに姿を消してしまったのだ。
部屋の真中に、擦り切れた古い絨毯の上に、薄ぎたない、山のつぶれたツイードの鳥打帽が落ちていた。キットはセヴァン伯がそれをかぶった姿を何度も見ている。同じように古びた、レインコートと合外套のコンビネーションになっているのが、片方の袖が裏返しになったまま床に落ちていて、帽子はその上にのっているのだった。
その二つの向うに、横ざまに倒れて、例の青銅のランプがころがっている。
十四
さまざまな可能性の想像できたはずに相違ない時間が経ってから、マスターズ大警部は前に進んだ。彼はゆっくり歩いた。少し楽ではないようなぐあいに身体を前にかがめると、彼は片手に外套を取り、別の片手で帽子を拾った。それから書き落してならないのは、ほんのわずかな時間ではあったが、マスターズはよろめいたのだった。
彼は急に大きな声を出した。「まさか、あのなんとかの呪いというのに、実際の力があるんじゃないでしょうな?」
「落ちつけよ! しっかりしろ!」
「なるほど。はい。すみません」マスターズは調子でもなおすつもりか、頭をしきりに振った。気持をとりなおして、彼はツイード帽の裏を見たが、また元の床の上に放り出した。今度は両手で外套をひっくりかえして、内ポケットの縁を下にさげて、服屋のレーベルを見ようとした。
「そういうことはなさる必要はないですよ」キットが教えた。キットは筋肉の力が抜けて頭が重くなったような気がした。「その外套はセヴァン伯のものです」
マスターズは苦い口調でH・Mにいった。「あなたはなにからなにまで解いてしまっておいでだったのでしたな? われわれはなにも心配することはなかったのでしたな。そうでしたな! セヴァン伯がこちらへ着かれれば、すぐなにからなにまでわれわれに話して下さるはずでしたな。あなたのお顔の色から見ると、今はなにかご心配ごとがありそうですね」
「わかった、わかった!」H・Mがわめいた。「また老人をいじめおる! また人の揚げ足をとる!」
「あれはあなたの秘密ではない、というお話でしたな」マスターズは続けた。「でも、説明はお出来になるというお話でした。これの説明がおつきですか?」マスターズはレインコートを床に落した。
「つかないよ」H・Mは認めた。
「それから、あなたは五ポンド紙幣をタクシーの運転手の顔に貼りつけておいでの写真から、すっかりインスピレーションをお受けになったのでしたな。まったくの話が! 冗談は冗談として、これは重大な事件ですよ! いったいどういうことになるのです?」
「後生だ、マスターズ、考える間《ま》をあたえてくれ!」H・Mはキットのほうを盗み見た。「お主もおれをいじめたいのだろうな?」
しかしキットは老大家を信じていたし、簡単に兜を脱ぐ人とも思っていなかったから、ただ歯をくいしばって、返事の代りに笑顔を作ろうとした。
「ヘレンがまだ生きているとさえおっしゃるなら、H・M、僕にはそれだけで結構です」
「ああ! でも、卿は今でもそうおっしゃるでしょうか?」マスターズが尋ねた。
「そうさ、いうとも!」H・Mが大きい声を出した。「おれがほんのちょっと慌てると、すぐこいつはこんなことをいうのだ」卿は両手でこめかみを押さえた。「この件だって、ごくかんたんに説明がつくはずなのだ、もしただ……」
「ごく簡単に説明がつくはずですよ」マスターズは気味の悪い口調で相槌をうった。「これもやはり殺人なんですよ」
H・Mは躊躇した。
「お主はまだあの女の子が、ベンスンとポンフレット夫人にやられたのだと思っているのか?」
(なるほど、キットは考えた。この点は彼の想像が当っていたのだな)
「ただ思っているだけではありませんよ」マスターズがいい返した。「これをごらんなさい!」
マスターズは手を内懐につっこんで手帳を出したのだが、それと一緒に、封をしてある白い角封筒が出て来た。この封筒に彼はちょっと驚いた。いろいろほかのことに没頭していたので、大警部は頭が混乱したらしく、妙な顔でそれを眺めた。「いったいこれはどこで受け取ったのかな?」彼の表情は言葉と同じように明瞭に物語っていた。
「門番のレナードからお受け取りになったのですよ。リオ・ボーモントがセヴァン伯にあてて書いた手紙です」キットが答えてやった。
「なるほど! そうだった! まちがいない」
「ボーモントは」キットはつづけた。「セヴァン伯がまだ見えていないといっても信じなかったのです。老体が車でやって来たのを、見ていたのかも知れませんね――ご存じのように、エジプトでセヴァン伯と会っているのですから――だから手紙を書いたのです。本当にお二人にお話ししたかったのは――僕はボーモントの素性を発見したのです」
H・Mは手を目の上にかざした。
「なんじゃと?」
キットが説明した。「ボーモントはアメリカで有名な予言者で占い師らしいのです。何百万も儲けているそうなのですよ。人を塵と化すような呪いに興味を持つ人があるとしたら、それはボーモントに違いないでしょう。これをお話ししておこうと思ったのです」
「なるほど!」H・Mがいった。
マスターズは信用しがたいといった顔をしていたが、なにか的外れな話だと考えたに違いなかった。しかし、封筒を眺めていた彼は、指をつっこむと破って開けた。
「手紙ではないですぞ」大警部がいった。「名刺だ。フウン! 片面には『リオ・ボーモント』と刷ってある、か。左下の隅には『キャリフォニア州、ロサンジェrルス市、サクメット寺』とある。裏には……」マスターズは名刺を返した。「手で書いてある。なるほど。『あなたは大きな危難にさらされておいでです。過去の意見の相違を忘れて、協調できませんか? 敬具。L・B〔リオ・ボーモントの頭文字〕』」
マスターズはなおも渋面を作りながら、名刺で親指を叩いた。H・Mは深く考えこんだように額に皺をよせながら振りかえって、窓のほうを見つめた。なにかを思い出したのかもしれないようすも見えた。そういえば、顔が急に明るくなった。
「ボーモント氏は待たせておけばいい」マスターズはかたづけた。「私は、占い師などには興味は持っていないのです。もう失踪事件を二つも抱えているのですからな。そして、起りえたことはたった一つしかないのです」
「なんだね! |貴公は《ヽヽヽ》まだそんなことをいってるのか? あれだけ事件を扱っている癖に?」
マスターズの顔ががぜん赤くなった。
彼は無愛想にいった。「私は重ねていいますが、この事件では――この事件では、ですよ――それが真相なのです。あの要領のいいベンスンて奴は……」
「貴公は忘れてはいないだろうな、マスターズ、ベンスンはセヴァン伯が姿を消した時刻には、貴公やおれと一緒に食器室にいたのだが?」
「その通りです」マスターズは、ゆっくり意味ありげにうなずいた。「ですが、ポンフレット夫人はどこにいたのですか? ちょっと失礼します!」
ほかの二人が口を開く間もなく、マスターズは急ぎ足に部屋を出て図書室に行って、書斎の扉をしめてしまった。
キットがいった。「H・M、彼はどう考えているのですか?」
「いろんなことを考えているよ」H・Mは向き直った。「ところが、なぜそう考えるのかおれにはよくわかるのだがね」
「殺人ですか?」
「そうだ。だれかが」――H・Mは強調するような顔をしながら、床を差した。「誰かが故意にこの青銅ランプを二階から持って降りたのだ。門番の小舎に通じる私設電話が、セヴァン伯がここへ着く時間にちょうど故障していたというのも、偶然でもなければ暗合でもない。マスターズの頭がどう動いているか、おれにはよくわかる」
「でも、もしベンスンとポンフレット夫人が共謀して殺したとすると――もちろん、これは荒唐無稽な話ですが!――二人は死体をどこに隠したのでしょうか」
「秘密の隠し場所さ。他の要素がみんな消去されてしまえば、そうに違いないとマスターズなら思ってしまうだろう」
H・Mはいろいろな品物のゴテゴテ置いてある部屋を検分しはじめた。ゆっくり一方を調べ終って、つぎの側にまわる。と、卿の視線が一番大きなミイラの棺にぶつかった。外に通じる扉と四つの窓のある壁の反対側の壁に沿って置いてあって、金箔が鈍い色を見せている。ミイラの棺の右手に、厚いとび色のカーテンがさがっていた。H・Mはこのカーテンのほうに歩いて行った。横木に真鍮の輪で釣ってあるのを、勢いよく一方に動かすと、その向うにもう一つ扉があった。
扉には閂が二つついていて、内側からかかっている。H・Mは指の関節で扉を叩いてみた。
「これはなんじゃね? この扉はどこに通じているのじゃね?」
「内階段です」キットは家の間取りの記憶を調節しながら答えた。「螺旋階段なのです。内壁の間を上って、各階に扉が一つずつ開いています。なぜですか」
「なんということもないのだがね」H・Mは認めながら、閂を試してみたが、しっかりと閂はかかっていた。「ただ念を入れてみたのだ」
両手を打ち合わせながら、不決断な表情で、H・Mは四つの窓と幾分開いた扉のついた壁の方角に向きなおった。雨の飛沫で、この扉の下には水溜りが出来ていた。扉がキイと鳴ったのは、微風が吹いて冷たい湿った空気がはいって来るのであろう。
「一つの点ではおれの正しいことが証明できるのだ」彼はいいたした。「まもなくだ。しかし、それだといって、他のいろいろなことがしだいしだい重なって行くとなると、それが役に立つかしら?」卿は自分にいいきかせているらしかった。「|この《ヽヽ》野郎はどうなったというのだ? 同じことが起ったというのか? で、そのわけは? そして、どういう風にして? そして、はたしてことはこわれてしまうのだろうか、もしおれが……」
そこで卿の調子がかわった。卿の語気は静かだったが、調子は鋭かった。
「電気を消しておくれ!」と卿はいった。「消すんだ、早く!」
その静かな部屋を横切る鋭い声に、キットは狼狽した。二跨《ふたまた》ぎで彼はスイッチのところへ行って、押しさげた。また薄闇が部屋を包んだ。黙っていろという身振りをすると、H・Mは外に通じる扉のすぐ右手の窓へ行った。キットもついて行って、二人は外を見た。
二人のすぐ前に、乗り棄てたベントリがあった。右手には砂利を敷いた自動車道が東のほうに曲線を描いて、館の正面のほうへと進んでいる。道の向う側はオークの並木になっていて、若葉は雨に濡れて光っていた。鉛のような空を枝の間に見せながら、オークの並木は背景を形づくっていた。その前を一人の女の姿が道を彼らのほうへやって来る。
その女は形の崩れたとび色のフェルト帽をかぶっていた。ゆっくり歩いていたが、目を地面に落していたので、二人には顔は見えなかった。しかし、その格好にはなんとなく見馴れたところが見えた。その落着いた身のこなしに見おぼえがある。右手には紙で包んで紐でしばったながっぽそい包みを持っている。
それから、後からついて来る者がいた。
自動車道と並行しているオークの並木の向う側を、濡れた芝生の上を軽やかに足ばやに――誰かが急いで歩いていた。姿を見られないように、先回りしようとしていた。並木の向うなので、しかとは見えないが、男の姿のようであった。まもなく、その姿は女に追いついた。すると、いきなり道に踏み込んで、女に向かいあうと、手を帽子に触れた。
女はすぐ足をとめて、目をあげた。叫ぼうとして口が開いた。ながっぽそい包みが手から離れて、濡れた砂利の上に落ちた。
「落着いていろ、若いの」H・Mが低い声でいった。
H・Mの手がキットの肩をおさえた。
女はこのときには二、三十フィートのところに来ていたので、それがジュリア・マンスフィールドなのが二人にわかった。けれど、それから続いた短い会話は二人にはぜんぜんきこえなかった。内緒の無言劇のように見えたが、なんとなく邪悪な雰囲気が見えた――少なくとも、背を二人にむけて立っている男からは、そうした空気が出ていたようだった。
バーバリ雨外套の襟を立てたその男は、身体をかがめて、落ちた包みを拾った。が、女に返さずに、彼はそれをポケットに入れた。女は抗議しているようすで、唇の動くのが二人に見え、目に恐怖の色の浮かぶのも見えた。男がなにやら答えた。
このとき、ヘンリ・メリヴェル卿が窓をあけた。歪んだ木の枠が軋んだ。
「そこは雨がひどかろう」卿は窓ごしにどなった。「こっちへはいったほうが、少しは気持がよかろうがな」
女は身体を緊張させたが、今度も叫び声をおさえた。男の頭が肩越しに振りかえった。驚いた模様であったが、巧く驚きをおさえたらしい。薄暗かったけれど、二人にはもうわかった。下におろした帽子のつばとバーバリ雨外套の立てた襟の間に、緑色の目と、固定した機械的な笑顔が見えた。リオ・ボーモント氏だ。ちょっとの間、誰もなにもいわず、雨のシトシトいう音だけがきこえていた。
「ありがとう」ボーモントが返事した。
キットにはよくわかったが、マンスフィールド嬢は今にも踵を返して駈け出しそうであった。だが、ボーモントは、自分の先を歩くよう丁寧に合図をして、女を押すようにして道を進ませ、まっすぐに窓のほうへやって来た。低い窓だったので、二人の頭と肩は、H・Mの顔より一フィートか十八インチほど下にあるだけだった。
ボーモントは飛びつくような調子でいった。
「あなたの顔はなんとなく見覚えがありますよ」
「もちろんですわ!」マンスフィールド嬢がいった。「ヘンリ・メリヴェル卿ですもの! 今朝がた警察の方とご一緒に、私の店に見えていらっしゃいましたもの」
「そうだ。ヘンリ・メリヴェル卿」ボーモントは息を吸いこんだ。「ご高名はなんどもうかがっている。だが、こんなところで……!」
「私もだ」H・Mがいった。「つまり、お主がそんな剽軽《ひょうきん》ものだろうとはぜんぜん考えなかった。サクメットの高僧とかいったね? 同じマヤカシでもかなり凝った向きなのだな?」
ボーモントの目蓋が上ったが、すぐまた下りた。
「今度の海外旅行の間」彼はいった。「私は用心して素性を秘密にしていたのです。とくにエジプトで、セヴァン伯とヘレン嬢には。二人は私の動機を理解なさらないかもしれなかったので。いったいあなたはどうして私の素性がわかりましたか?」
「お主の名刺さ」
「私の名刺?」
「封筒に封じこんで名刺をセヴァン伯に届けさせただろうが」
「ああ!」ボーモントがいった。「では、セヴァン伯は|やはり《ヽヽヽ》ご在宅だったのですか!」
「いても別にお主は驚かないじゃろ? お主は伯爵が車で乗りつけるところを見とったのだろ?」
ボーモントの目は、帽子のつばの蔭になってはいたが、それでも烱々《けいけい》と光っていたのだったが、なんとなく慌てて、視線を避けるようになった。
「伯が……車で乗りつけるところを?」
「セヴァン伯爵は」H・Mはスイッチを入れるようにキットに合図しながら続けた。「四時半にロンドンからこちらへ着いた。あの自動車を運転してな。今お主の後ろにある自動車じゃ」ボーモントの目がちょっと動いた。「まるで気違いのように運転していたらしい。大急ぎでな。そして、お主の右手に見えるその側扉からはいって来た。そして……」
「そして?」
「稲妻が」H・Mがいった。「煉瓦の塊のようにガラス天井をつき抜けた。昔のヘリホルが襲って、伯爵を塵と化してしまった。とにかく、伯爵は綺麗さっぱりとこの館から姿を消してしまったのだ。前に伯の娘が姿を消したように。電気をつけておくれ、若いの」
キット・ファレルはスイッチを入れた。
淡桃色の遮光器ごしだったから、光度は弱められていたはずだが、目の痛むほどの強さで光は絨毯のまんなかのグロテスクな堆積を現わした――ツイードの帽子、ぶざまに散らかっているクシャクシャな雨外套、それから青銅ランプ。
「まさか!」ジュリア・マンスフィールドが叫んだ。「まさか!」
窓枠に囲まれていたボーモントの頭と肩が、少し斜めに動いた。手袋をはめた手が拳闘家の突きのように窓からソッとはいって来た。ひじを窓の台にもたせかけ、指を動かしながら、彼は身体をこわばらせて、そのまま立っていた。光線を浴びたので、筋肉の緊張や、唇の歪みや、目の急に輝き始めたのが、強調されて見えた。
H・Mは執拗だった。
「お主はセヴァン伯を見かけたのじゃろ?」
ここでボーモントは夢からさめたように微笑した。瞬間的な、澄んだ微笑であって、一同はずっと後でもこれを思い出したのだった。雨の飛沫が彼を越えて床に音を立てて落ちた。
「ええ」ボーモントは認めた。「見かけましたよ」
「四時半にかね?」H・Mは奇妙な口調で尋ねた。
「四時半です」
「では、はいりたまえ!」H・Mは理解し難い烈しい口調でわめいた。「正午ごろから、ずっと貴公ははいりたがっていたではないか」
「ありがとう」ボーモントは青銅ランプから目を離さないままでいった。「門番小舎で待たされているのに飽きてしまったのです。それに門番が私の名刺の返事を持って来るのに、あまりてまがとれたので。それで私はあえて……」
言葉を切ると、彼は窓のところから姿を消して、石段を二つ上って、軋む扉を開け、二人の前に立った。エジプトの遺宝の山が見おろしている真中で、彼は深く呼吸した。
H・Mはボーモントのポケットの中の包みについてはなにもいわなかったし、まだ外で雨の中に立っているマンスフィールド嬢にも声一つかけなかった。老大家はなにか一芝居うっていたのだ。キットはそれを感じた。感じてみると、空気は電気を帯びて来た。卿がボーモントにいう言葉の一つ一つには、隠れた、包まれた意味があって、それが聴き手の神経をいらだたせた。
「ききなさい!」H・Mがいった。「お主は今でもその青銅ランプがほしいかの?」
ボーモントは前に進み出て、それを眺めた。アリム・ベイとは違って、彼は頭を後ろに引いたり、低い声や鋭い調子で、この部屋に群がっている不吉な感応力などについて述べたりはしなかった。彼はただ実際的を旨《むね》とするようだった。
「ほしいかって?」ボーモントはいった。「むろん、私はほしいですよ。私は商人ですからね」
「お主の神秘の寺に置けば相当の値打が出るのだろうな? 罰当りを二人まで退治したランプだからの?」
「疑いもなく」
「今でもそれに五万ドル出す気があるかね?」
「出さなければならないなら、出しますよ」
「仮にだ」H・Mがいった。「私がお主にそれをただでやるといったら?」
ボーモントは急いで卿を見た。なにか狡猾そうな、なにかきわめて現実的なものが、一瞬間、不用意に緑色の目に現われた。それは職業的な喜びを圧倒した。
「誰の許可によってですか?」ボーモントが質問した。「ヘレン嬢は行方不明です。セヴァン伯は行方不明です。ないしは、居所がわからない。誰の許可によって私はそれをもらえるのですか?」
「私の許可だ」
「どんなわながあるのでしょう」
「わななどない……これ!」ボーモントが身体を前に曲げて青銅ランプを拾いあげようとすると、H・Mは声を荒げた。「さわってはならん! まだ早いぞ」
ボーモントがいった。「ランプに手をふれると危険だとお考えになるのですか?」
「盗んだ遺宝に手をふれれば危険なのは当りまえじゃよ。正当な許可のないかぎりな。ところで、お主は今夜は『鐘』に泊るのかね?」
「そうです」
「私は訪ねて行く」H・Mがいったが、およそ意味深長な目くばせをした。「一時間か二時間したら。まことに満足な取引が出来る案があるのじゃ。それまで……」卿はきき耳を立てた。「どうやらマスターズが帰って来たらしい。お主は帰ったほうがいい。それから、お主もだ、そこの婦人」
H・Mは振りかえった。マンスフィールド嬢は淡桃色の口を半ば開けたまま、窓の外の泥の上にまだ立ったままでいた。形の崩れたとび色のフェルト帽の下で、幅の広い、綺麗な、そしていささか分厚い顔は、ひたむきの恐怖に凍って、仮面のようになっていた。そこでH・Mはあることをしたのであったが、卿の友達はこれを極めて愉快な道化振りと解したに違いない。卿は手をのばして、女が機械的にそれを取ると、それを引きあげて唇のところへ持って行ったのである。
「お主は心配することはない」卿は一心にいってきかせた。「わかったかの? セヴァン伯爵のこともなにも全く心配することはないのだよ! さあ、早くお帰り」
「心配していたのではございませんの!」マンスフィールド嬢がいった。「ただ……」
キット・ファレルは空気の動く気配を感じたのか、それともH・Mがマスターズのことをいったからだったのか、後で考えてみてもぜんぜんわからなかった。だが、彼はふと振りかえって、図書室の扉のほうを見たのである。その扉は開いていた。
扉口に立っていたのはマスターズではなかった。ずっとうしろのほうに、書斎の電燈の光がほとんど照らさないところに、オードリ・ヴェーンが立っていた。カメラのシャッターがカチリと鳴る時間ほどの、ほんの一瞬間、またオードリの顔にあの盲目的ないかんともし難い激怒の色の現われたのをキットは見てとった。今度も、彼は確実にそれを見たかどうか自信はなかった。なぜなら、つぎの瞬間、オードリはあとずさりして、扉を閉めてしまったのだ。
交叉気流! 交叉気流! 交叉気流!
マンスフィールド嬢とリオ・ボーモントが自動車道を急いで下って行くのを見送りながら、今度の新しい動きをキットは尋ねようとしたが、まにあわなかった。マスターズ大警部が鹿爪らしい顔つきながら意気揚々と書斎にはいって来たのである。
「わかりました」マスターズは得意だった。
「え?」H・Mがぼんやりいった。
「つまり、私は……ヘンリ卿! きいていらっしゃるのですか?」
「ああ、きいているとも」ぜんぜんきいてもいなかったH・Mがこう答えた。卿は目に見えない蠅を避けようとするような、うるさそうな身振りを何度もした。「なにが起ったのじゃな? どこへ行っていたのじゃね?」
「女中部屋です」
「へえ? して女中たちはセヴァン伯を見かけたか、声でも耳にしたというのかね?」
「そんなにハッキリした話ではないのです」マスターズは苦々しげに答えた。「女中達はみんな一緒に四時半から五時までの間、お茶をのんでいました。いつもの仕来たりで、いつもの時間なのです。なにか臭いとお思いですか? いえ、いえ! この事件はその位では尻尾のつかめないほど、深慮遠望の計画なのです」
「おれもそう思うよ」
「女中達はみんなお茶をのんでいたのです」マスターズはゆっくり説明した。「ただし、ポンフレット夫人は違います」
「そうか。で、どこにいたのだね?」
「自分の部屋です。一日中ひきこもっていたのです。病気だといっていましてね。四時半のアリバイの弱いことと来たら……その……」比較するいい物が考えつかなかったので、マスターズはその考えを捨てた。彼の顔が赤くなった。「要するに、ですな、われわれはこれからどうしたらいいのです?」
H・Mは考えた。
「それをお主が尋ねてくれたのは嬉しい」と卿はいった。「おれはお主のすべきことをハッキリ話そう。ベンスンとポンフレット夫人をここの警察本署に連れて行くのだ」
誰もひとこともいわない。
マスターズが急いで歩き出したので、H・Mはまた弱ったような身振りをした。
「ちょっと待てというに!」H・Mがいった。「妙なことを考えて駈け出しては困るぞ、マスターズ! ポンフレット夫人はこの件にはなんの関係もない。あの女の子の失踪にも老人の失踪にも、貴公が関係ないのとまったく同じに、関係はないのだ。あの女は名詮自性《みょうせんじしょう》、まったく無実な、中年の尊敬すべき女なのだよ」
「ですが……」
「おれはベンスンとポンフレット夫人を逮捕してくれと頼んでいるのではないぞ」H・Mは彼を沈黙させた。「監禁しろと命令しているのではないぞ。ただ、あの二人を警察に連れて行ってくれと頼んでいるのだ。どんな口実でもいい。そして二時間ほどおれの邪魔にならんように、あっちに留めておいてくれればいい」卿はキットのほうを向いた。「お主にも頼むが、オードリ・ヴェーンを晩餐に連れ出してくれ。どこへでもいい。それから十時まで酒場に引きとめておいてくれ」
マスターズはいまいましそうな目つきで卿をじっと眺めた。
「どういう芝居なのですか?」
「おれは貴公が一つの点だけでは正しいと思う」H・Mは重々しい口調でいった。「どうやら殺人らしいな。そして、猛烈に卑劣な殺人なんだ」
マスターズは両手を打ち合わした。
「私の意見にご賛成いただけて嬉しいです」と彼はいったが、なにか調子がピッタリしなかった。「なるほど! ですが、やはり伺いますが、どういう芝居をお打ちなのです?」
H・Mの表情は固くて、なんとなくポカンとしていた。
「ききなさい。おれは少し時間をかけてこの家の中の捜査がしたいのだ。おれは自分で発見できると考えているあるものを探してみたいのだ――誰も見ていないところで! そうさ、お主も含めてだ! それから『鐘』ホテルにも訪ねて行きたい。それから、その後で……」
「その後で?」
「あった事柄はみんなお主に話してやるよ」H・Mは真面目な顔でいった。
なにしろ名だたる太鼓腹のこととて、身体を前にかがめるには一骨折りだったが、H・Mは青銅のランプを拾いあげた。卿はそれを両手で持ったが、エジプトの遺宝が見張っているためか、およそ慎重な手つきだった。
「それまで、おれはこの代物を預かっとく」物凄い嬉しそうな表情がH・Mの顔にサッと現われ、ランプを両手に持ちながら卿は身体を前後に揺すった。「もし誰かが今度姿を消すとすれば、それはおれのわけだな。だが、このインチキはいつまでもつづきはしないぞ。念のために教えておく! いよいよドカンとぶつかるのだよ、マスターズ。いよいよドカンとぶつかるのだ」
十五
いよいよドカンとぶつかる。
自動車の前燈の前に、白く遠く光って、一条のアスファルト道がライリ型の車輪の下に解けて行った。二人はグロスターからセヴァン館へ帰る途中であった。空は晴れ、空気は湿っぽく、半月が淡く光っていた。真黒な不たしかな外とは違って、ライリ車の内は暖かくて坐り心地がよかった。
操縦しているキットは、ちょいちょいダッシュボードの夜光時計を見やった。
「十時二十分すぎ」と彼はいった。
「あのね」オードリは不服らしい声を出した。そして銀狐の毛皮が彼の隣りの席で動いた。「どうしてこんなに大急ぎで帰りたくなったの? いったいどうしたというの、キット?」
(彼女にはなにもいうな! なにもいってはいけないと警告を与えられているのだぞ!)
しかしキットは自分を制しきれなかった。誰かに話したくてならない気持が強く燃えすぎた。
ニュー・インでオードリと差しむかいで晩餐を認《したた》めている間、それから後で煙草の煙とビールの匂いの強い酒場で投矢遊びをしている間に、その火が強くなったのだった。キットが傷だらけの的板めがけてあまり乱暴に矢を投げ、当ろうと当るまいとぜんぜん構わないので、とうとう他の連中が文句をいい始めた。今は速力に捌け口をみつけ、上り坂を猛烈な勢いでスッ飛ばすので、オードリは玩具の汽車のようにコテンコテンに揺れた。
「H・Mが殺人だと認めているんですよ」彼はいった。「そして今夜なにかが始まるんです」
ちょっと沈黙があった。
「いったいなにが起るの?」
「殺人犯の逮捕ですよ。でなければ少なくとも……」
「あなたの考えていたことが当っていて?」オードリは斜めに彼を盗み見た。「あの人達は本当に本気で信じているの? ベンスンとポンフレット夫人が……その、ヘレンを殺した、と?それから、セヴァン伯爵も?」
「マスターズはそう思っている。少なくとも彼だけは」
「でも、なぜ?」
「マスターズがそう思いこんでしまったのは、本当はあの絵なんです。あの行方不明になった絵の一件をおぼえている?」
「それが?」
「これもおぼえているでしょうが、ポンフレット夫人は絵が一枚消えてしまったとハッキリ僕達の注意をひいた。ところが、ベンスンは、そんなことは全然気がつかなかった、と証言した。マスターズは、僕も同じ意見なんですが、ベンスンは喧し屋で家の中の物は小さい茶匙や灰皿に至るまで、あり場所をよく承知しているはずだ、というのです」
「彼はたしかにそうよ、キット! あなたはご存じのはずだわ。でも……」
「終りまでいわせてくれたまえ。今になると、僕は、H・Mが今日の午後、食器室でヘレンのことで不思議なことをいった訳がわかる。あのときあんたは聴いて、なんのことやらわからなかっただろうけれど。
「今朝早く、オードリ、ポンフレット夫人が僕達のところへ露骨な手紙をよこして、大学通りにあるマンスフィールド嬢の骨董店に行けばその絵がみつかるはずだと教えたんです。僕たちがそこに行ったら、はたして絵はありました。マンスフィールド嬢にその絵のある訳をきくと、木曜の晩方、六時少し前にヘレン自身が届けて来た、というんです」
オードリの口が開いた。
「|なんですって《ヽヽヽヽヽヽ》?」
「でも、それは」キットは続けた。「まったく不可能な話なんだ。ヘレンが牢屋のように見張人も番人もついている家から、まずどういうふうにして出られたか説明できないかぎりね。それは、僕には少なくとも説明は出来ない。
「マスターズの論点だと、アリバイを作るための口実と見るならともかく、あの絵自体はこの件とはなんの関係も因縁もなにもない。では、誰がこの件を操ったか? ベンスンとポンフレット夫人だ、という。二人が誰かをヘレンに変装させて、ヘレンが六時にはまだ生きていて、家からずっと離れたところにいたという証拠を作ろうとしたのだ、と。しかし、実際には彼女は五時少し過ぎに死んで、死体は壁の中の秘密の隠し場所で腐りつつある。その場所はベンスンだけが知っている、と」
キットは話を中途できった。
「この三晩ぶっつづけで、オードリ、僕は夢を見たんですよ……」また、中途できる。
「どんな夢なの、キット?」
「なんでもないんです」
車は眠そうな音を続けた。二人の前の道を、兎が一匹横切った。前燈の光線がその目に当った。ガラスのようにキラッと光ったと思ったとたんに、兎は姿を消した。
キット・ファレルはハンドルを握っていた手を片っぽ挙げて、熱っぽい自分の目をおさえた。彼は夜が怖かった。不眠症の人だけにわかるあの肉体的な恐怖がおそろしかった。あの苦痛の何時間。眠りを催す時計。ウツラウツラする間に去来するあの夢。短い恐怖の気泡。
見馴れた顔が、悪鬼の城に住む悪鬼と化す夢。隣りに坐っていた人が急に姿を変じてしまう夢。それから……
「でもH・Mは」彼は、そういう妄想を追い払いながら、頑張って続けた。「ポンフレット夫人はこれとはまったくなんの関係もない、といっているんですよ。そうすると、ベンスンも潔白になるんです。少なくとも、ヘレンの身の上に起ったことについては、少なくとも」
「そうなって、キット? なぜ?」
「ベンスンとポンフレット夫人は、ヘレンの失踪したときには、ずっと一緒にいたから! 二人のうちの一人がもし有罪でないのなら、他の人のアリバイもそれで成立するんです。わかる?」
「ええ、わかるわ」
「だから、われわれは……」
「|キット《ヽヽヽ》! |危ない《ヽヽヽ》!」オードリが悲鳴をあげた。
ブレーキとクラッチが床で音を立てた。キットは手動ブレーキを強く引いた。車は方向を変え、少し滑って、車輪が小砂利を噛んで、急停車した。キットは、警告がもう一瞬おそかったら大変になるところだったのを知った。広い右手の曲り角に車を入れたのだったが、危ういところだった。セヴァン館の鉄門はしまっていて、閂までさしてあるのだ。
そうだ。閉まっていて、閂までさしてある。
二人の周囲の暗闇からいろいろの声がし始めた。キットとオードリが気がついてみると、自動車の前燈の光が見える。自転車の燈が見える。懐中電燈が見える。そして、まもなく、黒い人影がいくつも彼らに迫って来る。誰かがキットの右側の窓を叩いた。ハンドルを回して、窓ガラスを下げると、ぼんやりした白い顔がそこに見えた。
「お邪魔様ですが」弁解めいた声であった。「僕はイヴニング・レコード新聞のアンドルースです。だのに、僕達ははいれないんです」後ろから、大勢で相和した。「ヘンリ・メリヴェル卿が、いつはいってもいいといわれたんです。でも、はいれないんだ!」
「お気の毒です」キットは始動装置に手をふれてエンジンをまた動かしながらいった。「それについては、ヘンリ卿に掛合って下さい」
「ヘンリ卿はどこです?」
「せっかくですが、僕は知らないのです」キットは窓から頭を出して、門を開けるように、レナードにどなった。
「あなたはファレルさんですね?」
「ええ。そうです」
「ファレルさん、セヴァン伯爵も行方不明だというのは本当なのですか?」
「ええ。本当なのです」
誰かが暗闇の中で、意味のない間投詞を低い声でいったが、それから後はみんな肝をつぶしたかのように誰もなにもいわなかった。これが物の三秒も続いたろうか。やがて雑音が始まった。興奮した声がしだいに高まった。まもなくこの叫喚はこの狭い片隅から広まって、翌朝には大見出しとなって絶叫するのであろう。
人騒がせにはお誂えむきだった。止めが刺された訳である。いよいよ全英国は角の生えた鬼神や夢魔で覆われてしまうであろう。アモン神に仕える神官ヘリホルは、彼の墓の花崗岩と同じように現実的になってしまった。ドスンという音とギーッという音がして、車が揺れた。そして、もう三つの人影が車のステップの上にとびのった。
「|僕は《ヽヽ》セヴァン伯に会ったんだ」騒動の背後で、一人の声が分離してきこえた。「今朝ロンドンで、だ。腹をかかえんばかりに笑っておられたよ。僕が明日の朝―月曜の朝という意味だぜ!――ここに来るなら、呪いの正体をハッキリ暴露して見せる、といってね」
「伯爵は僕にもそういった」
「『伯の挑戦に呪いは再び魔力を示す』か」
「冗談でしょう。僕はまだ信じない!」
「では、伯爵はどこにいるのです?」
キットは窓からはいって来る質問の洪水を防ごうとしていた。
「ねえ、ファレルさん」もっと柔らかい猫撫で声が、闇から現われた悪魔のように彼の耳に囁いた。「この件にはお答えいただけるでしょうね。木曜の晩の話なのですから」
「警察にきいて下さい。僕にはなにもお話しできないのです。警察にきいて下さい!」
「誰かが」と誘惑者は囁いた。「新聞社を三社と警察とに電話をかけたのですよ――外国なまりのある男が。おぼえておいでですね、ファレルさん?――そして、ヘレン・ローリン嬢が姿を消したと教えたのですよ。警察はこの電話をかけた番号をもう突きとめたのですか?」
低い声で外国なまりのある男、そうだ。キットはそれと同じ質問を、この朝、マスターズにしたのを思い出した。マスターズはまだ番号を突きとめてないと答えた。キットはそう答えた。
「では、あなたの前ですが、ファレルさん、ずい分おかしいではありませんか?」
「どうしてです?」
「その内の一通話は、すぐわれわれの手で突きとめたからですよ。二つはぜんぜんわからないのです。でも、三番目は、ファレルさん、ブリストルのイヴニング・ポースト社宛だったのです。長距離です。だから電話局は要点を記録しておかなければならなかったのです。外国なまりの男が使った電話は、セヴァン館の電話だったのですよ」
キットはオードリに目くばせした。
「セヴァン館ですって?」彼は詰問した。「それはたしかなんですか?」
「木曜と今夜の七時の間の、長距離電話の出入の完全な表がここにあるんです」誘惑者は柔らかい声でいった。「木曜日、ブリストルへ向けて一本、カイロへ向けて一本。金、土はなくて、日曜の晩に一本、これもブリストルのイヴニング・ポースト社宛です。外国なまりの男は、今度も電話をかけて、ヘリホルがセヴァン伯までやってしまった、と教えたのですよ」
「それもセヴァン館からですか?」
「いいですか、ファレルさん。なんなら表をごらんになりますか?」一枚の紙きれがヒラヒラとキットの膝に落ちた。「さて、あなたのお説をきかしていただけないでしょうか、それはいったい誰……」
前方で、車の前燈の光の流れの中で、背の高い鉄の門が開かれた。運転手のリューイスと制服を着た地元の警察の警部の応援で、車の通る道をあけようとバート・レナードが姿を現わした。
エンジンの回転が早くなったので、誘惑者の言葉はそれ以上はきこえなくなった。二人は急いで通り抜けた。門はまたガチャリと閉ざされた。それから二人は小砂利の上にタイヤを滑らして、暗い自動車道を走らせた。
「今のをきいた、オードリ?」
「ええ」オードリは先刻の紙きれを拾いあげて、ダッシュボードのランプの光でよく見ながらいった。
「電話はセヴァン館からかけたんだって。それからマスターズはずっとそれを知っていたに違いないんだ。あんなことをいっていたが。そうなると……」
「そうなると? どういう意味になるの?」
「そういうところからもマスターズはベンスンを疑っていたのかも知れない。でも、やっぱり筋が通らないなあ!」
館の外側に車が来るまで、キットは黙っていた。動物やチェスの駒の格好に刈りこんだ黄楊や椹《さわら》の影は、淡い光に照らされて、奇怪に見えた。バルコニーの敷石は骨のように白く見えた。色ガラスのはいった窓が光っているだけで、館は黒く鈍い色にそびえ、不規則な胸壁は月あかりで明るい空にクッキリと影を印していた。大きい角ばった塔の胸壁は一きわ目立った。
このときほどキットは、監視されている気持になったことはなかった。
警察の自動車が一台、もう自動車道に入っていた。リューイスに後で車庫に回させるつもりで、オードリの車をその後ろに乗りすてると、キットはオードリの後からバルコニーにあがった。隠れている監視者の気配、一連の目の気配は一層強くなった。彼は不意討ちでもくわせるかのように早い動作でグルグル回ってみた。
「キット、どうしたの?」
「なんでもない!」
しかし、表の扉をあけようとして鉄の環をねじりながら、キットは家の壁面を覆う蔦に沿って上を見やった。すると、たしかに誰かが塔の頂上に立っていて、彼を見おろしていたようだった。
彼はほとんどオードリを自分より先に押しこむようにして入れて、扉をしめた。その虚ろなしまる音が大広間の天井に反響した。二人の最初に見た人間はマスターズ大警部だった。
大広間の炉には両方とも火がカッカと燃えていた。マスターズは左側の炉の前に立っていて、火に両手をかざしていた。黒い鎧の影が彼の後ろにそびえていた。マスターズの山高帽は頭の上にのっていた。充血した目は緊張していて、不安の色を浮かべていた。
「ファレルさん」彼はいった。「ヘンリ卿はどこですか?」
誰も答えなかった。キットの頭の中にさっとある考えが閃いた……
「いや、いや!」マスターズはその考えを見てとって制した。彼は催眠術でもかけるように手をのばした。「変なことを考えては困りますよ! でも、卿はどこなのです?」
「ご一緒ではなかったんですの?」オードリが大きな声を出した。
「ファレルさんにおききになればわかりますが」マスターズは苦々しげにいった。「私にベンスンとポンフレット夫人を警察本署につれて行って略式に尋問しろと卿がいったのですよ。いやまったく、えらい目にあいました!」大警部の赤い額にはまだ苦労の跡が残っていた。
「ポンフレット夫人は」彼はつけ加えた。「もうこれで一生人前には出られないと金切声をあげるし、ベンスンは平然としてはいましたが、なんともいえない気持の悪い変な薄笑いをしましてね。それから、二人をここに連れて戻ってみますと……」
「いつ頃連れて帰って見えたのです?」キットが尋ねた。
「一時間ほど前です。それから、またほかにもお話しすることがあるんですよ、ファレルさん。女中たちをなんとかしなければならないですよ。明日の朝、いっせいにやめて帰ってしまうというのですが、なにを新聞に喋るかわかりませんからな」
「でも私は」オードリがいった。「あの人たちはこの事件を、いい新鮮な興味のある話と考えて面白がっていたんでしょう?」
「そうです! 最初は。呪いをかけられた貴族の一家の騒ぎに巻きこまれるのは、結構なことで、ロマンティックな話だ、と彼らが考えていた間は。するとセヴァン伯が姿を消された。私はそれが殺人だといわなければならない。すると……」
マスターズは息を深く吸った。
「鸚鵡の家!」と彼はいった。「鸚鵡の家です! 家政婦が料理番を叱りとばします。料理番は小間使を叱りとばします。小間使は奥女中を叱りとばします。奥女中は台所の女中を叱りとばします。台所の女中は雑役婦の小さい孤児アニーを叱りとばします。この児はみんなから攻撃のいい的ですからね。アニーは、ヘンリ卿が土牢の中を、ウロウロしていたというんですが……」
「土牢?」
「冗談の土牢なんです」マスターズがいった。いっこう面白くなさそうな口調である。「例の昔のオーガスタの作った物なんです。足枷せやなんかのような馬鹿な物がみんな整っていましてね。食堂の外の、南側のバルコニーの敷石の一つを持ちあげて、はいって行くんです」彼は話を中途でやめた。「あなた方はこの土牢のことをおききなんでしょう?」
「はあ」オードリは大広間の向うの階段のほうを見ながらいった。「私達、きいたことがありますわ。それから、見たこともあります」
「でも、今はヘンリ卿は土牢にはいないんですか?」
キットが尋ねた。
「いないんです。ぜんぜん」
「『鐘』ホテルに問い合わしてみましたか?」
「ええ。あすこにもいないんです」
マスターズは両手を叩きあわした。
「私にわかっているのは」大警部はつづけた。「卿が私の手提げ鞄を借りて行ったという点だけなのです。あの青銅のランプをその中につっこみましてね。そして家の中のどこかにはいって、そして……」マスターズは身振りをしてみせた。
「まさか!」オードリが叫んだ。「そんなはずはありませんわ!」
「私は心配してはいないのですよ、いいですか!」マスターズがあまり大急ぎで念を押したので、キットは彼がひどく心配しているのを悟った。「ぜんぜん心配などしとらんですよ! してませんよ! あの老人は身を守るすべを知っていますからね。それに、私はもうここに長くはいられないのです」
マスターズは足が冷たいかのように、石の床の上に地団太をふんだ。彼は、蕪《かぶ》みたいに大きい時計をチョッキのポケットから引っぱり出した。
「ロンドンから来る人間がいて、十時三十五分の汽車で着くので、それを出迎えに行かなければならないのです。そして、もう今にも出かけないと間に合わなくなる」
「ロンドンから?」オードリが直ぐ繰りかえした。「サンディ・ロバートスンですか?」
「違うんです。もっともロバートスンさんも同じ汽車で見えることになっていて、あの人にも私は会いたいのですが。別の人間なのです」――時計をチョッキのポケットに戻すと、マスターズは意味ありげにキットを見詰めた――「この別の人間は、ファレルさん、熟練家でしてね、この馬鹿々々しい事件を全部とめてしまいますからね」
「何をしてとめるんです?」
「ああ! それはいささか秘密なんです」
「外国なまりのある男と同じ式の秘密ですね?」キットがいった。「この家から電話した男と?あなたはそれを前からご存知だったのでしょう?」
マスターズは相手を穏やかな目つきで見た。かすかな薄笑いが口のへんに現われて来た。
「われわれ警官は、ファレルさん、知っていることを全部喋りはしないのですよ。もし喋るとすれば、この世の中は犯罪者のいい狩り場になってしまうでしょうからね」彼の口調が変った。「ところで、いったいどこからあなたはそれを知ったのですね?」
「新聞記者の一人からです」
「新聞記者!」マスターズが唸った。「なるほど! われわれはよほど気をつけないと、あの紳士がたはすっかり事《こと》をこわしてしまうでしょうよ。ヘンリ卿の最後の命令は……」
「最後の命令ですって? H・Mもやられてしまったんだとあなたはお思いなんですか?」
「卿の最後の命令は」マスターズは、これを無視して続けた。「記者は一人も入れるな、というのでした。私は屋敷の中を巡視させているのです。とにかく、塀の上には尖ったガラスが植えてあるし、西の塀には小さい裏門もあるが、あれには錠がおりている。人間に対する用心はすべて……」
「ではH・Mはどこなんです?」
マスターズの顔つきから見ると、もうこの議論で時間をつぶす気はまったくないらしかった。彼は大またで表の扉へ歩いて行った。手を環にかけて、開けようとして、また振りかえった。
「あまりあなたに喋るわけにはいかないのです」彼は宣言した。「しかし、これだけは話せます」それからマスターズはすっかり爆発してしまった。「私はこの家で起った事件にはウンザリしちゃったのです、まったくの話が! 勢子《せこ》の話をきいたことがありますか? 草叢にはいって行って、出て来ない獲物を追出す勢子がいるでしょう? そうですか。ご存知ですか。あれが私なのです。おやすみ」
彼の出て行った後、扉は空虚なバサッという音を立てた。オードリはゆっくりと大広間を見回した。洞穴のような石の階段、二領ある鎧――一つは黒くて、一つは金の象嵌がしてある――が、冷やかに、遠く、また残酷な表情で台座の上に立っている。
彼女は呟いた。「いったい今のあの人のいった意味はなんなのでしょう」
キットは肩をすくめた。オードリはマスターズの立っていた炉に近よった。彼女はじっと立っていたが、呼吸のけわしいのがキットにわかった。まことにさり気ない調子で、オードリはハンドバッグをあけ、コンパクトを出すと、それを開けて、鏡で自分の顔をよく見た。
それから、まだ鏡を見ながら、よく光線が当るように頭を動かしながら、彼女は口を開いた。
「キット、今夜がどういう晩だかご存知?」
「四月の三十日。それがどうかした?」
「五月祭の前夜よ」オードリがいった。「悪霊が歩き回ることになっている晩なのよ」
「よしてくれたまえ、あんたまでそんなことを!」
「サンディがいてくれたら助かると思うわ」オードリはまだ鏡を見つめながらいった。「あの薄汚い犬は、あの話にならない豚は、私たちみんな集めたよりもっと頭がいいんだわ! きっとあの人ならば、この……この……」
「オードリ。あのね」キットは躊躇した。「あんたはサンディを深く愛しているの?」
「彼だって私を愛しているわ。ただ……私は彼を満足させるだけのお金がないの」オードリは笑って、パチッとコンパクトの蓋をしめた。「あら、本当なのよ! 否定してもなんにもならないわ。サンディは徹底的な現実派なのよ」
「オードリ、ききたまえ! 僕の知ったことではないんだけれど、しかし……もうあれだけ踏みつけにされれば充分なんじゃない?」
オードリはキッと彼を睨んだ。
「あんただってずいぶん踏みつけにされたじゃないの? ヘレンに!」
「それはまったく違うぜ! ヘレンは仕方がないぜ、もし……もし……」
「誰かが彼女の咽喉笛を切ったとしても?」
「たぶん、僕もそういうつもりだったのだろうけれど」
「誤解しちゃ駄目よ!」黒い目が柔らかになった。「私のいう意味は、あんた後悔してやしない?」
「なにを後悔するの?」
「こととしだいによっては、こうもなったはずだと考えて」オードリがいった。「思い切っていわなかったのを後悔してやしないの? まだいう機会のあるうちに、どんなに愛しているかヘレンに話さなかったのを後悔してないの? してないの、キット?」
「してる」
「ヘレンがどれだけお金があっても、世界中のお金だって、今となってはなんの値打もないじゃない? そうよ、キット。あなただってわかっているでしょう。些細《ささい》な話よ。なんでもないことだわ、本当に大切なことの前には。でも、あなたは強情っぱりの馬鹿だったんだわ。自分がヘレンを愛しているのを認めようとしないの。ところが、もうヘレンはいなくなってしまったんだわ」
「よしてくれたまえ!」
話がとぎれた。
「ごめんなさいね。キット」
「かまわない」
「でも私」オードリはコンパクトをハンドバッグの中に落すと、パチリとハンドバッグをしめた。「私、サンディにもそれを悟らせたいわ。彼はお金の問題を大切だと思っているけれど、そんなものではないということを。サンディは本当に私を愛しているのよ、キット。でも彼はあんなに芝居が上手だし、おまけに凄い嘘つきなの。彼はヘレンのお金に心が動いていた癖に、その間も自分の優越感を満足させるために、あんな恐ろしい淫売たちと遊んでいたのよ……例えば……例えば……」
「例えば誰?」
「ジュリア・マンスフィールドよ」とオードリが答えた。「ジュリアはあんなにお上品振っていて、グロスターのようなゴミゴミしたところは大嫌いで広い世界に出たいなんていっているけれど」
(驚いたが、これでだいぶはっきりして来た。仕合わせな事には、マンスフィールド嬢は全く無害だった)
「だから、オードリ、僕が単に彼女の名前を口に出しただけで、あんなにバジリスク〔一睨みで何でも殺してしまうという伝説的な怪物〕みたいな目で睨んだの? それから、後では、彼女が書斎の窓のところにいたのを見たときにも? 待ちたまえ! どこに行くの?」
「もう寝るの」オードリは、疲れたような口調でいった。「私は気持がおさえられなくなって、恥ずかしいの!」彼女の調子が変った。「いいえ、私と一緒に来て下さらなくてもいいのよ!お部屋ぐらいなら一人で無事に行けるわ! 閉じこもって、鍵をかけてウィスキーを飲むわ。念のために、知らしてもらってもいいわね、もし……」
「もしなにさ?」
「もしH・Mも姿を消してしまったのだったら」
高い踵が石にあたる音を彼はきいた。銀狐のケープが気取った格好に揺れるのと、黒い艶のいい髪が反抗的に揺れるのを見た。彼女は階段のほうへと進んで行った。オードリは急がない足どりで二階にあがって行った。が、中途の踊り場の辺に着いた頃には、彼女の泣いているのが彼にもわかった。火のはねる音のほかは、また大広間の円天井の下には物音一つきこえなくなった。
五月祭の前夜。悪霊が歩き回ることになっている晩。
キット・ファレルは片手を炉棚の石の上に置いたまま、火を見詰めながら、長い間立っていた。やがて、ゆっくりと階段を登って、自分の部屋に行った。
彼の寝室は二階の北側にあって、大体書斎の上に当っていた。キットは部屋にはいって、扉をしめ、電燈のスイッチを入れずに、扉によりかかったまましばらくじっとしていた。
部屋の窓は北向きだった。小さいガラスのはまった窓で、まんなかにセヴァン家の紋章の色が織り込んである。今夜は暖かいので、扉のように開けひろげてある。開いた窓から射す半月の光で床は白く見えた。天蓋のついた大型のベッドと、丈の高い猫足の椅子が何脚かと、それから左側の窓の側に安楽椅子が一つ――居心地のいい家具といえばこれだけだが――あるのが月の光で微かに見える。それから炉の石の覆いの下には火がいけてあって、覆いを取ればすぐ明るくもなろう。
|こうもなったはずだと考えて後悔する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
考えまい。畜生、彼はなにも考えないことにしよう!
キットは手をのばしてスイッチを探ったが、明りのほしくないのに気がついた。明りがつくと、部屋がはっきり見え、真実もおのずとあからさまになってしまう。暗い中ならば、かがみ込んで、自分を保護して、馬鹿な空想を描いてもいられる。
彼は窓の傍の安楽椅子へと手探りで行って、まっすぐに坐った。塔の時計が十一鳴った。
|思い切っていわなかったのを《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|後悔しているのだろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|どんなに愛しているかヘレンに話さなかったのを後悔しているのだろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》――|まだ機会のあるうちに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
くつろぐんだ! くつろがなくてはいかん!
なんの役に立つ? どっち道、眠れないのだ。
キットは立ちあがった。ベッドの上にパジャマと部屋着が並べてあった。彼は服を脱いで、いつもそんなことをしたことはないのだったが、ゆっくりと気をつけてハンガーにかけた。それからパジャマを着て、厚い毛の部屋着を羽織って、スリッパをはいた。それから、窓の下の安楽椅子に戻った。
椅子の傍にオークのテーブルがあって、灰皿や巻煙草やマッチが置いてあり、それから毎晩々々、想像力を殺そうと試みては読んでみた催眠薬の代用品の本が積んである。キットは手探りで巻煙草を一本とって、火をつけた。
|強情っぱりの馬鹿だった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|彼女を愛しているのを認めようとしなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|ところが《ヽヽヽヽ》、|もう彼女はいなくなってしまった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
今夜が今までで一番辛い晩になりそうであった。
巻煙草の端は、小さいオレンジ色のキルクが巻いてあるのだが、巻煙草全体から遊離しているように見えた。彼は口にくわえて一吸いして、また離した。煙も幽霊じみていた。盲人は煙草を吸わない、と世間ではいっている。まず不眠症にかかったという単なる恐怖心を克服して、それから……
キットは筋肉を緩めようとして、椅子に深くよりかかった。目を半ば閉じた。巻煙草の末端を灰皿に入れた。その癖、まだ手から離しはしないのである。
詩を諳誦してみよう。でなければ、音律のある詩の口調で考えてみよう。そうすれば、そうしているうちに眠くなっても来よう。困るのは、思い出そうとすると、すぐにキプリングやチェスタトンのような、調子の早い音律を思い出してしまって、かえって想像力を駆り立ててしまう。これは駄目! なにかほかのもの……なにか……
静けさの住む、この里《さと》
立ち騒ぐものは、ただ
死んだ風音とおさまった波の音、
さだかならぬ、夢の里の夢。
これだ。これに限る! かすかに彼は自分の声が囁くのを耳に感じた。暗闇の中へ、夜の微風に向かって囁いている。単調な、起伏のほとんどない囁きがつづく。
多すぎる生命への愛から、
希望と恐怖から、放たれよ
ヘレン! ヘレン! ヘレン!
短い感謝の祈りをあげよう
よし、神がなんであろうと、
命に限りのあるのは、ありがたい
死者の甦《よみがえ》らないのは、ありがたい
古い疲れた河すらも
どこかで曲って……
「無事に海へたどりつく」という言葉はきこえなかった。キットの手が、手の平を上にしたまま、転がって、オークのテーブルに当ってかすかな音を立てた。だが彼にはきこえなかった。
黒い麻酔薬が彼を持ちあげて、遠くへ運んでしまったのであった。いい気持で彼は旅をしたが、今度はその国には苦痛は一つもなかった。なんの失敗もなく、訥弁に悩みながら演説しなくてもよかったし、こうもなったはずだと思い出させるものもなかった。しかしそれは最初だけであった。やがて風景が変りはじめたからだ。しだいに暗さを増して来た。寒くなってきた。彼は自分が怪物の住む星に近づいているのを知っていた。前と同じ悪夢だ。彼は戻れない。戻ろうとしてみたけれど、なにかが彼を推し進める。彼は四角い塔の頂上に立っていて、下にとぼうとしている。今や……
大広間の時計が一時を打った衝撃が、この霧の中に食いこんで来た。
キット・ファレルは急に安楽椅子の上に真直ぐ坐り直した。両方の肩が痙攣してしまっているし、毛の部屋着を羽織っていたのに、身震いのするほど寒い。彼は椅子にさわってみた。本物の椅子だった。
また夢をみていたのだ。
彼は煙草を吸おうとして手をあげた。巻煙草は二時間前に燃えつきていた。が、彼の手は途中でとまった。
淡青く凄く光りながら沈む月が、ごくかすかな光を投げていた。床の上に、月の光で、窓の小さいガラスの影が淡くついていた。その影は、天蓋つきの、厚い綴れ織の掛け布のかかった、ベッドのところまでのびていた。
そのベッドの足もとに、彼に正面をむけて、ヘレンが立っていた。
十六
夢の一部分に違いない。
なぜなら、ヘレンは姿を消す直前にきていたのと同じ物を着ていた――彼女の姿を見たというのも想像にすぎないのだから、着ていたように見えたというべきなのだろう。
灰色のレインコートは、咽喉《のど》のところまでボタンがかけてある。月の光でみるのだから、色ははっきりしなかったけれど、それからことに赤は判別し難いのだけれど、しかし彼はあの黄褐色の靴下と、赤と黒のエナメルの靴に違いない、と思った。
彼女は頭にはなにも被っていないで、短くした金髪は少し乱れていた。片手を胸に当てている。とび色の目は、疲れと悲しみと憂慮がはっきり見え、過労にやつれていた。微笑しようと努力した模様だったが、口がいうことをきかなかった。彼女が雨の中を急ぎ足に家にはいったときとよく似た姿だった。
やがて、月の光を浴びて動かずに立ったまま、この幻影が口をきいた。
「キット」柔らかい口調だった。
キット・ファレルはつった膝の筋肉を無理して立ちあがった。その瞬間は、どうしても声が出なかった。
もう一度彼はオークのテーブルの表面を指で押して、夢でないのをたしかめた。彼は彼女のほうへ歩き始めた。床《ゆか》は現実的でしっかりしていた。彼は一度ためらったが、彼女が微笑してみせると、また進んで行った。彼女の目は湿ったように光っていた。手をのばして、彼はそれを彼女の肩に置いた。レインコートの粗い織り目が手に感じられ、その下に肩の肉が感じられた。音のしない絶叫が胸に湧いたけれど、キットはまだなんともいわなかった。彼は両腕をヘレンの――本当のヘレンの――身体の回りにまわして、それからギュッと抱きしめた。
それから、彼女の頭を後ろに曲げて、じっと目に見入った。頬の柔らかい線に沿って指を動かして、軽く目蓋に触れてみた。ヘレンの両の目から涙があふれた。彼は彼女の口に、ゆっくりではあったが、強く接吻した。すると、彼女の両腕が彼の首に忍びよって、彼女は接吻をかえした。
「キット、私は馬鹿だったわ!」ヘレンがいった。「私とても――」
「黙っていて。一分間ほど」
もう一度、彼は彼女の顔を仔細に眺め、細かい部分をはっきり憶えていった。髪に手を触れ、指でかいた。ヘレンは万感こもごも来たる――愛と同情と恐れと、そこになにかもう一つの感情が混じっていたのだろう――といったかたちで、なかば気を失いかけながら、一心に微笑しようと努めていた。
「生きていたんだね」キットはいった。「本当のあなたなんだねえ。僕はあなたが世界で一番好きなんだ。そしてあなたは生きている」
「私もあなたを愛しているのよ」ヘレンは簡単にいって、彼を抱きよせた。「だからもう我慢できなかったの」
「なにが我慢できなかったの?」
「あなたがあんな風にしてらっしゃるのを見るのが、それに、父が……」
「こっちへいらっしゃい」
やさしく、彼女が毀《こわ》れてしまうか、また手の下で原子に戻って消えて行ってしまうのを気遣うように、彼は彼女を窓ぎわの安楽椅子に連れて行った。そこに坐らせると、自分はその椅子のひじにとまって、両側から強く彼女をおさえた。まだ月の光のように、非現実的だ! まだ夢の混乱の中をさ迷っているようだ! でもヘレンは生きていた。
「つかまえたぜ、ヘレン。もう二度と放しゃしないから」
「そうよ、キット。明日から後、放しちゃ駄目よ。一生涯!」
「明日から後?」漠然とした、恐ろしい疑惑が彼の頭に忍びこんだ。彼はまた彼女の髪に手をやった。すると彼女はその手をとって、自分の顔に押し当てた。
「おききなさいな」ヘレンがいった。「なんだか、ひどく恐い事件になってしまったようね。私は、一番よくなるようにと思ってしたんですけど! 本当なのよ! でも、残念ながら……あなたは私の力になって下さる?」
「そんなことを僕にきく必要がある?」
「でも、ご存じないでしょう――私のしたことを」
「僕はなにも知っちゃいませんよ、ヘレン」彼はそういう口調に自暴《やけ》な調子を入れまいと努力した。「どうなったの? この間ずっとどこにいたの?」
また前の不確実な色がとび色の目に現われた。
「この家の中よ」彼女は答えた。「それから、外にも出たわ」
「この家の外に出たの?」キットは用心しながらいった。「木曜日に姿を消したとき?」
「そうよ、キット」
「家の各方面を正直な目撃者が注意深く見張っていたというのに?」
「そうよ、キット。家の各方面を正直な目撃者が注意深く見張っていたというのに、よ」
「そして、ご尊父も今日、同じことをなすったんですか?」
ヘレンが顔をあげた。
「違うの、キット。それを、なにか恐ろしいことって私いったのよ。少なくとも、父がどうなったのか私は知らないんですの! でも、恐らく……きいてちょうだい!」
二人はずっと低い声で囁きあっていた。この場の夢幻的性質を弥増《いやま》させる疼《うず》くような囁きであったから、扉の外で誰かが耳を傾けていても到底きこえなかったに違いない。それなのに、ヘレンは手をあげた。この、よく響く家の中を、誰かが平然とないしは密かに歩いているのではなかったか?
ヘレンがさっと立とうとしたので、キットの漠然とした、恐ろしい疑惑の念がまた頭に戻って来た。彼は彼女をまた椅子に押し戻した。
「どこへ行くの、ヘレン?」
「大丈夫なのよ! 本当に大丈夫なの!」
「ええ、でもどこに行くの?」
「あるところへあなたを連れて行くのよ。ただそれだけなの」
ヘレンはそっと彼の腕を振りほどいて、立ちあがった。
「たった三日なんだわ」彼女は、自分もその現実性を疑うかのような手つきで、レインコートの袖をさわりながら、いった。「私はあすこに、まだ三日しかいないんだわ。でも、まるで永久のような気がして」
「ヘレン」彼が急にいった。「どこでそのレインコートをみつけたの? 姿を消したときに後に残っていたんだ。どこでまたみつけたの? それからいったいなぜそんなものを羽織っているの?」
「それは」彼女はちょっと躊躇した。「あるものをあなたに見せたくないからなの。明日の朝になれば、すっかりおわかりになるわ。もう一度接吻して。それから……」
彼女が先に立って二人は足音を忍んで扉へ行った。そっと把手をまわして、彼女は外を覗いた。
二階の廊下は真暗で、月の光が僅かに洩れているだけであった。ずっと前にベンスンが戸じまりをしてしまった。家中はずっと前に眠ってしまっている。ヘレンがポケットから出した細い懐中電燈の光が壁を探った。
彼女は彼を遠くには連れて行かなかった。彼の寝室に沿って扉があって――例のヘンリ・メリヴェル卿がこの日の午後、これについて根掘り葉掘りきいた――壁の中を通っている裏梯子に通じている。鉄で組んださびた螺旋階段で、幅が狭くて、足もとが甚だ心許ない。これを降りきったところは一階のセヴァン伯の書斎の扉の内になっている。そして、上は遙か頭の上の三階の廊下に通じているのである。
ヘレンは、小さい細い光で前を照らしながら先に立ってこの階段を降りて行く。回りを壁に包まれた空間には空気の流れがあった。ほんの囁きでも、降りるはずみでかすかに足をひっかけても、ひどく木魂した。この間が一番夢のようだった。
階段を降り切ったところで、ヘレンは用心しながら扉をあけた。この扉は、キットは思い出したのだが、今日の午後には向う側から閂がさしてあった。だが、誰かが後で閂を抜いたに違いない。二人の出たところはセヴァン伯の書斎だった。「音を立てては駄目よ」ヘレンの囁くのがきこえた。「今誰かに聴かれてしまうと、全部駄目になってしまうから」
キットが最後にこの書斎を見たときから後に、炉に火を焚いてある。今では、薄い灰の膜で包まれた真赤に照る石炭の塊になってはいるが、その芯になっている赤い光線に照らされて、部屋は夢幻的ながらハッキリ見えた。書斎の向う側の、炉に面して外に通じる扉をはさんだ四つの窓には、重いとび色のカーテンがすっかり引いてある。
ヘレンは少し身震いをした。
「ここならお話できますわ」彼女がいった。「父が……姿を消したのはここなの?」
「とにかく、ここで帽子と外套を僕達は発見したのですよ。姿を見た人は一人もいないんです」
「私にはわからないわ! わからないわ! H・Mのおっしゃるには……」
キットは彼女を見た。
「H・Mに会ったの?」
「そうよ、キット」
「いつ?」
「今夜。それとも、昨夜といったほうがいいわね。もう朝なんだから。私あの方にセヴァンには来ていただきたくなかったのよ!」彼女が急に息をはずませていい始めた。「来て下さらないようにしたのよ! 私あの方がこわかったの! 汽車でお目にかかったときも、何週間も前でしたけど、私きっとあの方なら察しておしまいになるだろうと思って……」
「そして、H・Mも姿を消してしまったの?」
赤い燠《おき》の照り返しを受けて、凝視するミイラの容器が見おろしていたり、エジプト産の雑多な品々の散らばっているのを背景に、ヘレンの目が大きくなった。
「なんですって、キット?」
「夕方から誰もH・Mの姿を見たものがないんだ。家の向う側にある土牢の中をウロついていたらしいんだが。マスターズ大警部の話だと、卿はなんとなく『出て行って』しまったらしい。卿も姿を消してしまったの?」
「まあ、大変だわ!」ヘレンが低い声でいった。
彼女は書斎に通じている扉のほうに駈けて行った。扉に閂をすると、ヘレンは電燈のスイッチを押した。
そして、電燈がつくと、夢は消散した。ここには日常生活に見られる人間的な品々があった。これもその仲間に入れるなら、今は椅子の上に放り出してあったが、セヴァン伯爵の帽子と外套もあった。ヘレンの顔の優雅な血色と疲れた怯えた目が再び彼の心を生々《なまなま》しく苦しめた。
「ねえ、キット。私もうあんまり長くお話ししていられないけれど……」
「もう二度と行くんじゃないんだぜ!」
「わずか四時間か五時間だけのことなのよ! 四五時間だけのことなのよ!」
彼女は急いで彼のほうに駈けて来た。彼は女の両肩をとった。
「ヘレン」彼は落着いた声でいった。「もうこれだけで充分行き過ぎじゃない?」
「お願いよ!」
「僕は無理に信用を強《し》いようというのではないんだぜ、ヘレン。もしあなたが、また行ってしまわなければならないのなら、僕は留めようとはしない。でも、世界中のほとんど全部の人間は、あなたが死んでいると思っている。あなたの友だちは、あなたが死んだのだと思っている。僕もそう思っていた」
彼は彼女が唇を噛むのを見た。とび色の目は決断を欠いて瞬いている。
「どうしてもこういうことをしなければならないとしたら、ヘレン――あなたの意志に反してであろうと、そうでなかろうと――あなたはあなたを愛している人達に、なにもすまないとは思わない? 五分間でも、僕達に安心をさせられない? いったいどうしたのか、僕に話せない?それから、どういう風にしてあの広間から姿を消したの? それから以来、どこに隠れていたの?」
「隠れて」ヘレンがいった。「そうなの、そうなの、そうなのよ!」
彼女は彼の部屋着の両の襟を手で撫でた。彼女は探るように彼の顔を見た。彼女の天資の生真面目《きまじめ》さが、いつもつきまとう溌溂とした想像力をまじえた例の優しさと気丈さが、このときのヘレン・ローリンの顔の上に躍動していた。
「私を許して欲しいのよ、キット」彼女は一心をこめていった。「でも、どうしてもこうしていなければならないのよ。わからない? どうしても、なの! それから、あなたに説明しなければいけないのもよくわかっているのよ!」
「それで? 隠れていた場所は?」
ヘレンは笑いだした。それは苦《にが》い笑いだった。恐ろしい声だった。しかし彼女はヒステリーの発作をよく抑えた。
「とても簡単なのよ、キット。あなたも笑ってしまうくらい。そんなこといっては悪いんですけれど、本当なの! 誰にでもできることなのよ! あなたのおっしゃる『私の隠れていた場所』というのは、あなたのお考えになるような場所ではなかったの。私はただ大広間にはいって行ったのよ、青銅のランプを持って。それから、私……」
どこかごく近いところで、夜の沈黙を破って、今までしなかった声がハッキリときこえた。
「|マスターズさん《ヽヽヽヽヽヽヽ》!」と、大きな声であった。
ヘレンの身体が堅くなった。すばやく、しなやかな動きで、踵をかえすと、キットのところからとび退いた。
「|マスターズさん《ヽヽヽヽヽヽヽ》!」と姿を見せないその男は大きな声を出した。「今《ヽ》、|僕はヘレンの声がきこえたんですけれど《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|そして《ヽヽヽ》、|確かにそれはあちらの書斎からきこえたんです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
ここでキット・ファレルにも事情がわかった。厚いとび色のカーテンが四つの窓にキッチリと引いてはあった。間違いなく。だが、その窓の一つは開けっぱなしになっていたのだ。その日の午後、ヘンリ・メリヴェル卿が開けたままになっていたのだ。
彼もヘレンも話に気を取られていたので、何人かの人間が私道から通用扉へと砂利の上を歩いて来る音をききはぐったのだった。だが、キットはカーテンの揺れるのに気がついた。夜風が当るので、かすかにふくらむ。それで、その後ろの窓が開いていたのだ、と気がついたのである。
外の足音が早くなって、駈け足になった。一歩、二歩、三歩、四歩――四歩、強い足音が四つ鳴ると、その連中は扉のところに押しよせた。把手が鳴った。扉はサッと押しあけられた。
扉のところに、息を弾ませながら、サンディ・ロバートスンが立っていた。さっきの大きい声はサンディなのだった。彼の後ろに、マスターズ大警部の背丈の高い姿が見える。それからもう一人、キットが一度も見たことのない男がいる。彼らは、みんな同じ表情を顔に浮かべたまま、そこに立っていた。十秒ほどの間である。緊張した目が部屋中を探った。で、ファレルも向き直ってみた。
彼らのほかには、部屋には誰もいなかった。ヘレンはもう出て行ってしまっている。
最初に沈黙を破ったのはサンディだった。
「そこにいたはずです!」サンディはわめいた。「魔王の六つの名前にかけて、彼女はここにいたんだ! 声がしたんです!」
マスターズは頭を牡牛のように下げて、肩で押して進み出た。
「それは本当ですか、ファレルさん?」
「ええ」キットは答えた。「ここにいましたよ」
マスターズの顔から血の気《け》がサッとひいた。もっとも、目は相変らず充血していて、意地悪そうに光っている。マスターズは一度頷いた。彼は図書室に続いている扉めがけて突進した。扉は内側から閂がかかっている。彼はとび色のカーテンの裏の、階段に通じる扉にかけ寄った。カーテンをはねてみると、扉はしまってはいたが、閂はかかっていない。向うには螺旋階段が闇の中にそびえている。
マスターズは再びうなずいた。彼は外に通じている扉に駈け戻ると、頭を外につき出して、非常呼子をならした。
走る足音がそれに答えた。
「さあ、つかまえたぞ」大警部がいった。「今度こそ本当につかまえたぞ」
キットはわれに返った。「マスターズ! ききたまえ! なにをするつもりなんです?」
「彼女はどこにいるんです、ファレルさん?」大警部は彼の質問を無視した。「さあ、早くおっしゃい! どこにいるのです?」
「知らないんです!」
「ああ! でも、われわれはすぐにみつけ出します!」
「どういう意味なのです?」
「私は間違っていたらしい」マスターズは強く鼻で息をした。「私は死体を探していた。よろしい! 生きた身体でもちょっとも差支えない」
彼は両腕をのばして振りまわした。
「この家は包囲してある。屋根に一人配置してあるし、地下室の入口にも一人張り番をさせてあるのです。なぜだかわかりますか、ファレルさん?」
「興奮しないで下さい、大警部!」
「私はこう考えたからなのです」マスターズはいった。「遅かれ早かれ、闇にまぎれて、殺人者は死体を家から運び出そうとするだろうと。その理由は? 死体は秘密の隠し場所に入れてあるとしか考えられない、と私が考えたからなのです。
「しかし、私はその殺人者ないしは殺人者たちが動き始めるのを待っていようという気ではなかったのです、ファレルさん。私はそいつめらを叩き出すつもりだったのです。燻《いぶ》し出すつもりだったのです。このラザフォードさんがこちらに着きしだいに。ラザフォードさんは」――マスターズは後ろにいる背の高い、むつかしそうな顔をした人間を差した――「ロンドンきっての建築家なのです。この事件に興味を感じられたのです。こととしだいによっては、昼夜ブッ通しで捜査して、その隠し場所を徹底的に探し出して下さると約束なさったのです。そして、その間――わかりますか?――家は完全に取り巻いておいて、われわれが隠し場所の捜索をしている間に、殺人者どもが死体を持ち出せないようにするつもりだったのです。
「というのが私の計画だったのです。ところが、今ではそれよりずっとやさしくなったのです」
マスターズは息がつまったので言葉を切った。
「後生です、大警部、落着いて下さい! 血圧が……」
「血圧など」大警部がわめいた。「すぐチャンと治ってしまいます」
また扉から頭をつき出すと、彼はもう一度非常呼子を吹いて、それから戻って来た。
「では彼女は生きているのですな、ファレルさん」彼はいった。「そして、あなたもこのインチキ芝居に一役買っているのですな?」
「違いますよ! 僕は絶対になにも知らないんです」
「へえ! では、あなたは真夜中にここで彼女となにをしていたのです?」
「その……」
「彼女と一緒だったのは|認める《ヽヽヽ》のですな? お認めになるのですな?」
「ええ! でも……」
「いいです」マスターズはいった。「あなたがこの件に関係しておられようとおられまいと。要点は、彼女がここにいるということなのです。私は自分の耳で彼女の声をききました。彼女はしごくよく出来た隠れ穴にはいっていることなのでしょう。だが、もう逃げられない。われわれは、つかまえたも同然です。逃げ出すことは出来ない」彼は建築家の方に振りむいた。
「ご用意はいいですか、ラザフォードさん」
「いいですとも、大警部」
「こんなに」マスターズがいった。「こんなにお誂えむきの手になろうとは夢にも思わなかった。ヘリホルの呪いに『支払い済』の判を押してもいいですぞ、みなさん。私は、ただの一シリングに対して五十ポンドかけて、かならず一時間以内にこの事件を解決してお目にかけますからな」彼は声を高くした。「よろしい! はいりたまえ!」
すると、警官が侵入して来た。キット・ファレルが生れて以来一度も見たことのないほど大勢の警官が、家の中にはいって来た。
本当に賭けたのだったら、マスターズは損をしたに相違ない。
五時間たって、空に明け方の最初の曙光がさしそめたとき、マスターズは大広間に立っていた。火はもうすっかり消えていた。朝の静けさに、電燈の光がさむざむと見えた。そしてマスターズは狂乱したといってもあまりはずれていない状態に到達していた。最初はみんなのいうことを頑として信じようとせずに、やれ買収だ、やれ盲だ、とさまざまな文句をつけていたが、みんなが根気よく説明したので、とうとう認めざるを得なくなってしまった。
このセヴァン館には、秘密の隠れ場所といったものは、一つもなかったのである。
ヘレン・ローリン嬢は、この家を出てはいない。だが、彼女はこの家の中にもいなかった。
十七
こう記すのは嬉しいことなのであるが、キット・ファレルは口笛を吹きながら朝食に降りて行った。
彼は月曜つまり五月の一日の朝というよりは昼近くに目をさましたのであった。彼は犬のように眠った。死人のように眠った。目を覚ますと、頭を窓から出して、深く呼吸した。日射しが強く暖かい日だった。本当に強い日射しである。
窓から見おろすと、あたりの田園は濃い緑と淡い緑に彩られて展開し、一面に黄金色に光ってみえる。太陽の熱で、古い木と石の匂いが鼻をつく。右のほうに首をひねると、木の梢ごしに東の方角に門番の小舎のスレートの屋根が見えて、また大変な群集が門を包囲しているらしいのが目にはいった。
なによりありがたいのは、脳味噌が頭の中で炒《い》られるような感じのしなくなった点である。彼は生れ変ったようだった。
暖かい空気を吸いながら、彼は声を出していった。
「僕は正真正銘の魔女と恋に陥ちたとは考えない。ヘレンが随意に自分を物質化したり非物質化したりできる、とは考えない。これが彼女の人格のうちの主要な面《めん》だとは、僕は一度も思ったことはない。
「だが、彼女の生きているのは、依然として事実である。彼女はここにいたのだ。彼女の腰かけた椅子がある。彼女は今日は姿を見せると約束した。そして彼女は僕を愛している。ないしは、愛しているという。これが一番不思議千万な事実なのだ。
「それから、わが潜在意識よ、あれが夢だったのだなどとでたらめをいわないでくれ。あれは夢ではない。マスターズが声をきいたという以上、夢ではありえない。
「それなら、なんの心配もいらないじゃないか」
湯を浴びたり顔を剃ったり服を着たりしながら、彼は、こういう風に理論を立てた。しかし、朝食をたべようと下におりようとする途中、マスターズに出あったときには、いささか動揺を感じたことであった。
マスターズの部屋は彼の隣りだったので、二人は正面階段の上で、派手な色に輝くステンド・グラスの窓の下で、バッタリ会ってしまった。瞬間、昨夜の混乱と騒動を思い出して、二人とも黙っていた。二日酔いの男たちは初《しょ》っ端《ぱな》は、飲みっこの話を持ち出すのを躊躇するものである。
大警部はステンド・グラスを通した光線の下では、平素にも増してムッツリ見えたが、狼狽しきった目の色と、疲れきった表情は、見るも憐れだった。自分が客として泊ったのであって、職務で泊ったのでないのを示すために、山高帽は被っていなかった。
彼は咳払いした。
「おっしゃるな、おっしゃるな!」彼は呻《うめ》いた。「十一時十五分です。寝坊したんです」
「僕もです」
「でも、万事を計算に入れれば……」
キットは、今朝は全世界と仲好くしたかったので、友情的な態度を試みた。
「もう一度申しあげますが」彼はいった。「僕はあなたに対して陰謀を働いていたのではぜんぜんないのですよ」
「おっしゃる通りです。認めます」
「そして、今朝の一時に僕の部屋に突然現われるまでは、木曜の午後以来一度もヘレンを見かけたことはなかったのですよ。それから、彼女がどうなっていたのか、いぜんとして僕は知らないのですよ。ただ、あなたのお考えになっているように、殺されたのではなくて、生きているという点のほかは」
正面の扉の上にある尖った窓のステンド・グラスから射す、もっと凄い色の光線を浴びながら、二人は正面階段を降りて行く途中であった。マスターズは足をとめて、振りむいた。
「なるほど。あの若い女性は生きておいでです、たしかに! しかしセヴァン伯爵とヘンリ・メリヴェル卿はどうなったのです?」
キットは返事をしなかった。
「これが」マスターズは畳んだ新聞を二枚脇ポケットから引き出しながら言葉をつづけた。「朝のお茶と一緒にご丁寧に盆にのせてあったのです。ベンスンの仕業に違いありません。私は確信をもっていいますが、新聞は頭に来てしまったですよ!」
「門のところに今大勢押しかけていますがね。窓から見えましたよ」
「これをごらんなさい! 午前四時のギリギリの重大ニューズとして、『信ずべき筋』の話によれば、ヘンリ卿が最後に青銅のランプを手にして、それ以来ずっと姿を消してしまった、とあります。卿はたしかにこの家の中にはおられないのです。どこにいるのですか?」
二人は黙りこくったまま階段を一番下までおりた。
「おまけに」マスターズは新聞で左の手の平を叩いた。「ほかの一連の見出しが続くのですからな。『第二の犠牲者』『セヴァン伯行方不明』『次は誰か?』などと」
「わかっています」
「伺いますがね、ヘレン・ローリン嬢が犠牲者ではないということを、どういう風に記者に説明したものでしょう。『ヘレン嬢は犠牲者ではないのです』と私がいう。『へえ?』と記者たちはいう。『どうしてですね?』『私はヘレン嬢の声がきこえる近距離にいたのですし、ファレル氏は実際にヘレン嬢と話をしたのです。ところが実は、諸君、ヘレン嬢はまた行方をくらましてしまったのです』」
「少し話がヤヤコしいですね」
「ヤヤコしい? いったいこんな話を鵜呑みにする人がいるとお思いですか?」
「でも事実なのですよ」
「事実なのはわかっています! 私はただうかがっているのですよ。新聞がこの話を鵜呑みにするだろうか、世間が鵜呑みにするだろうか、また――ああ!――私のところの副総監が鵜呑みにするだろうか、と」
大広間の暖かいカビ臭い空気の中に立ったまま、キットは横目で相手を見た。
「あなたが本当に心配していらっしゃるのは、H・Mの失踪なのだ。そうでしょう」
マスターズは我《が》を折った。
「そうです」彼は認めた。「そうなのです。こんなに遅くなっていますが、なにか食べる物が残っているでしょうかな?」
「ええ、残っているでしょうよ。ベンスンが」相手が怯《ひる》むのをキットは見た。「気をつけてくれているでしょうから」
そしてベンスンが気をつけてくれていたのは明白であった。
南側のバルコニーに面している南むきの広い食堂にはいると、食器テーブルにはピカピカに磨いたコーヒー注ぎがのっていて、アルコール・ランプが蓋をした料理を暖めていた。部屋には人の姿は見えなかったけれど、二人前の朝食の食べ残しがあったし、椅子が二脚だらしなく後ろに押しやってあった。食堂にはまだ日は射しこんでいなかったけれど、外のバルコニーの敷石の上は日の光が溢れていた。バルコニーには、先の尖ったアーチ形の大きなオークの扉をあければ、そのまま出られるようになっている。今この扉は、温気《おんき》を入れるように、あけ放しになっていた。
暖めてある皿にベーコンを取るうち、マスターズの心配がまた火の手をあげた。
「拙いことになりましたな、ファレルさん、まことに! 今に手に負えない事件にぶつかることになるだろう、と、私は何度もあの老人に警告しておいたのですよ。そして、もし今の件がそれだとすると……!」
「でも卿は、自分の身を守るすべをご存じだとあなたはおっしゃいましたよ」
「そうです! でも、そういう意味でいったのではなかったのです。卿は頭がいいです。まさに! 私はそれを認めますね! しかし卿は実際的な常識という点では赤ん坊同然なのです。おまけに、身を守るといっても相手はなにものなのでしょう。青銅のランプですか?」
われにもなく、キットは咽喉に気持の悪い塊りの上って来るのを感じた。
「あの忌々《いまいま》しいランプの話が出るたびに」キットはいった。「なにか不愉快なことが起るようですね」
「昨夜以来、正直なところをお話ししますと、私もヘリホルがほとんど信じられる気持になって来ましたね。ある瞬間にヘレン嬢があすこにいた。つぎの瞬間、もういなくなっていた。それに、私が現にそこに居あわせたのですから、話はますます真剣です。私はそれを見たのですからね。ヘンリ卿のほうは……」
マスターズは考えこんだ。それから声の調子をさげた。
「私は、当人には絶対にいわないつもりでいるのですよ、ファレルさん。でも、実のところ――正直に申しあげますが――私はあの老悪魔が好きなのですよ」
「そうでしょうとも。決して悪い人物ではありませんからね」
マスターズはこの譲歩を無条件のものと取られまいと思って気をつけた。
「ですがね!」彼は急いで指摘した。「ですが、大将も一度は大失敗を演じたほうが、薬になるのでしょうよ。でも、ぜんぜんいかれてしまったのでは困るんです。ファレルさん! 死んでしまわれては拙いのです! 正直に申しあげますが、まことに困るのです、もし……」
急にマスターズは話をやめた。
声がきこえたので話をやめたのであった。その声は空から響いたような感じがしたけれど、実際のところは南のバルコニーの方角からきこえたのである。この声が控え目の、偽善的な咳をした。
それから、こういった。
「ところで、ベンスン、この写真はおれが東ライスリップ・クリケット倶楽部の会員の前で、暴帝イヴァンを演っとるところなのだがね。大勢の人がこれがおれの最良の役だといっている」
「役の性根がよく生きておりましたのでございましょう」
「そうじゃ。誰もみんなそういったよ。ところで、この写真を見て、おれとわかったかね?」
「お眼鏡があるのでやっとわかりました」
「眼鏡だと?」
「はい。あなた様の切抜き帳に、異様に大きい付けヒゲのあるのをみつけますたびに、私は眼鏡がついているかどうか探します。それであなた様とわかりますので」
マスターズ大警部は目を閉じた。そっと彼はベーコンの皿を食器テーブルに戻した。折も折、手の届くところにあった鋭い肉切り疱丁のほうに彼の手が伸びそうになったのは、真面目な実話なのである。しかし彼はその衝動を克服し、両肩をまっすぐにして、ツカツカとバルコニーへ出て行った。
ごく牧歌的な場面が進行しつつあった。糊のきいた真白なクロスをかけた小さいテーブルを、ベンスンに命じて暖かい戸外に出させ、ヘンリ・メリヴェル卿は日を浴びながら朝食をとっていた。ベーコン、ソーセージ、掻き卵、トースト、コーヒーである。こういう料理をガツガツ食べる相間に、卿は自分の切抜き帳を繰っては、フォークでさまざまな説明を加える。
卿の前にはベンスンが立っていて、同じく切抜き帳を手にしている。
「アハ!」H・Mがいった。あまり面白くなったので、ナイフとフォークを下に置いてしまった。「さあ、これを見なさい、これこそ本当の傑作だ!」
「さようで?」ベンスンは辛抱づよく切りこむ機会を待ちながらいった。
「そうなんだ。これはおれが最後にアメリカ合衆国に行ったときの一連の新聞写真なのだ」
「さだめしあちらの人々は、あなた様のご才能に感銘いたしましたことでございましたろう?」
「まことに貴公のいう通りじゃったよ。これはおれが名誉隊長として消防を指揮している姿じゃ。まあこの帽子を見てみろ」
ベンスンがちょっと眉をひそめた。
「どうも別のお写真をお差しになっておいでかと存じます。これはどうやら暴動の写真のようで」
「実はな」H・Mは弁解がましい声を出した。「少し事件が興奮しすぎたのは事実なのだ。おれは連中を率いて本物の火事場に行きたく思ってな」
「そのお望みはよくわかる気がいたします。手前も……」
「あげくの果てに、余り大きくない火事ならばいいだろう、ということになった。おれたちが一杯か二杯は飲んでいたかもしれない――おれのいう意味はわかるだろ?」
「いかにもわかります」
「そのとき、本当に警報が鳴った。で、おれたちは、鐘を鳴らしながら、エンジンを轟かしながら、堂々と出動した。ロング島のガーデン市の大通りをわれわれは疾走したのじゃが、おれはひっかけ梯子つきの消防車の後部座席にすわってな。実に記憶すべき光景じゃった。ところが、結局、これが大失敗に終っての」
「さようで? 警報が間違いだったのでございましたか?」
「いや、違うのだ。警報に間違いはなかった。ただ、目ざす家に着いて、扉を斧で叩き破って、ホースの水を表の部屋でブリッジをしていた連中にザッザとブッかけたのだが、そのとき、家を間違えて、ぜんぜん火事でない家にとびこんだのがわかったのだ」
「まことに残念でございました」
「全くじゃよ」
「それで、失礼でございますが、その家の持主からはあまり歓迎をお受けではございませんでしたろうと推察いたしますが?」
「物凄い剣幕だった。いつまでも黙らないから、腹にホースを当てがってやった。さて、これはコニ島に行ったときのおれじゃ」
ベンスンの目が控え目ながら光ったので、喜んでいるのがキットにわかった。執事はなに一つ屈託がなさそうだった。
そして、このベンスンの勢力範囲は見る目に楽しかった。黒ずんで白い石の欄干のついたバルコニーの敷石の上に、陽気がいいので、派手なクッションをのせた籐椅子《とういす》が出してある。緩い階段をおりると、そこは格調の正しいオランダ庭園になっていて、幾畝《いくうね》も早咲きのチューリップがもう花を開いていて、ポプラの茂った下にある木球の競技をする芝生まで、ずっと南に続いている。その先には灰色の塀があって、またその向うには、曲りくねった河がある。
しかしマスターズはこんなことには趣味はない。彼は力をこめて咳払いした。
「お早うございます、ヘンリ卿」彼はいった。
彼に背をむけて坐っていたH・Mは、肩ごしに首をグルリと回した。それから、にわかに驚くべきスピードで皿の物を掻きこみはじめ、コーヒーをひどく沢山口に入れて流しこんだ。
「ハーア!」H・Mは深い溜息をつきながらカップを下に置いた。「お早う、マスターズ」
大警部はツカツカ歩いて卿の正面に迫った。
「それから、いつこちらへみえたのですか?」と彼は詰問した。
「おれか? 一時間ほど前かな。そうだったね、ベンスン?」
「そのくらいでございます」
「それから、H・M、どこに行っていらしたのかうかがってよろしゅうございますか?」
「おれか?」H・Mは無邪気に繰りかえした。「ここにはいなかった」
「不思議な話ではございますが」マスターズがいった。「あなたがここにおいでにならなかったのは、私ももう知っておりましたのです。ただいまうかがっておりますのは、いらっした場所なのです」
「ああ、方々《ほうぼう》へ行ったよ」H・Mはナイフとフォークで大ざっぱな身振りをした。「ちょっと用事があってな」
マスターズは法廷に出た弁護士のような物のいい方をした。「大勢の人々があなたも消えてしまったのだと思っているのをご承知なのですか? まだお読みにならないのなら申しあげますが、新聞には青銅ランプがあなたをつかまえてしまったなどという噂が出ておりますが」
「その噂は少々間違っているな。青銅ランプがおれをつかまえたのではない。おれが現につかんでいる」テーブルの下に潜ると、H・Mは時代物の手提げ鞄を取り出した。その中から青銅ランプを出すと、卿はそれを皿と切抜き帳の間に置いた。「おれはこれを持って回っていたんだ。ちょっと用があっての。実は、昨夜は大部分を『鐘』ホテルですごしたのだよ」
「『鐘』にはいらっしゃいませんでした! 私は電話をかけました!」
「そうだ、そうだ。だが受付の番頭に、おれはおらんというように命じとったのだ。リオ・ボーモントと論争するのでいそがしかったのでな。話が長くなるのはわかっていたし、はなはだ危ない芸当のいる話だったのでな。あの男はまことに抜け目のない奴だ。しかしとうとうおれは白状させたよ」
「白状ですと?」マスターズが大きな声を出した。
「そうだよ」
「でも一晩中ホテルにいらっしたのではないのでしょう?」
これにはH・Mは答えなかった。
「ベンスンからきいたのだが」卿はソーセージと掻き卵の残りをすくいあげながら追及した。「貴公は昨夜ここで盛んな会を催したそうだな」おかしくて堪らないように、卿は身体を痙攣させた。「居あわせなくて、まことに惜しいことをしたよ、マスターズ」
「そうでしょうとも!」マスターズがいった。「よございます! たんとお笑い下さい! あの建築家がここに着いたとき、私は事件はまったく解決できるつもりでいたのです。ところがロバートスン氏が建築家と同じ汽車で着いたので、私は手間どってしまったのです。で、私たちは、彼の話をきくために警察に行ったのです」
「なるほど。彼の話でなにか収穫があったかね?」
「取りたてていうほどのこともありませんでした。新聞記者たちは、まずクロイドンでセヴァン伯とロバートスン氏と会見して、それからハノーヴァ広場のセヴァン伯のフラットで会見したそうです。その後で、セヴァン伯はベントリに乗って出発されたのです。伯爵は記者たち全部とこのセヴァン館で今日の昼食の前に会見すると、誠実に約束されたそうです」
ここでH・Mは時計を出して眺めたのだが、まだマスターズの血圧に毒な効果を続けていた。
「ですが、ヘンリ卿、私は昨夜の話をしようとしてお話を始めたのでした。建築家とロバートスン氏と私がこちらへ戻ったのは、一時でした。そして、私達はヘレン嬢がこちらのファレル氏と一緒に書斎におられるのを発見、いえ、ほとんど発見したのでした。ファレル氏はこの秘密に参加してはいなかったと誓言されるのですが、ヘレン嬢が話したことについてはわれわれに話そうとなさらないのです。われわれがヘレン嬢の声がきこえるくらいの近所に迫ったことを、ベンスンからおききになりましたか?」
「ああ」
「それからわれわれは捜査を始めたのです。大捜査を致しましたのです!」マスターズはいった。「よござんす! 私におかまいなく! お笑い下さい!」
「おれは別に笑っていたのではないよ、マスターズ」H・Mはひどく生真面目に念を押した。「おれは本当にここにいたら、貴公に忠告できたと思うのだ。貴公は時間を無駄につぶしていたのだからな」
「時間を無駄に?」
「そうじゃ」
「あの捜査で、この家の中を一インチたりとも、鼠の穴ひとつたりとも、われわれの見逃したところがあったでしょうか? あったでしょうか?」
「それでもやはり時間の無駄じゃよ」
「知ったふりをなさるのも結構です。しかし、ヘレン嬢を見かけたり話をしたりしたのが、ファレル氏だけである点を考えますと……」
「そのいい方は事実から大いに離れているね」H・Mが非難した。「現に、このおれが嬢と話をしているよ」
マスターズが卿の顔を見つめた。
「おみつけになったのですか?」
「そうだよ」
「どこでです?」
「昨日の午後ふと思いついたのだが、そのときに考えたのとまったく同じ場所にいたのだよ」
マスターズはハンケチを出して額を拭いた。
「きいて下さい」彼は割合いに理性のかった口調で嘆願した。「公平は公平で、冗談は冗談です。そして、からかうのはからかうで結構です。しかし、私の今の立場というものがおわかりですか? 新聞記者の大群が門のところに押しかけていますし、本庁からはひっきりなしに電話ですし、こちらはなにも報告することがないというのですからね。私はテッキリ殺人だと推測してしまったのですよ。あなただって昨日は賛成なさったでしょう――少なくとも、われわれがセヴァン伯の話をしていたときには――この事件の意図は殺人である、と」
「そうだよ」H・Mが同意した。「たしかにそうだ」
急に沈黙が来た。日のよく当るこのバルコニーではあったが、いやな気がして、ちょっとの間だが、誰もかも黙りこくった。
キットは横目をつかってベンスンを見ていた。どうもベンスンはこの会話よりもバルコニーの向う側の端にある一つの籐椅子のほうが気になっていたようだ。誰も腰かけていないし、ほかの籐椅子となんの変ったところも見られないのだったから、奇妙だった。
「これ以上はうかがいませんが」マスターズは繰りかえした。「昨夜はどこにいらっしたのですか? それから土牢のあたりをうろついていらっしたというのはどういうわけなのですか?」
「これこれ。別にうろついていたわけではないのだ。おれはあすこである人と話をしたのだ。なかなか静かな場所だからな。ただそれだけなのだよ。それから、後になって、このときの話から案が一つ浮かんで、今朝の小さい冗談を思いついたのだ、落着くがいいよ。マスターズ! 最初、おれはここにいたのだ。それから『鐘』に行った。そこからおれはジュリア・マンスフィールドの骨董店に行って……」
「そこで一夜を明かしたとおっしゃるのですか?」
「違う、違う。それから後、一晩中ずっとおれは病院にいたんだ」
早い慌てた足音が、正面寄りの東側のバルコニーの上に響いた。オードリ・ヴェーンとサンディ・ロバートスンが何やら気にかかるといった面持で、H・Mのテーブルの周囲にいる一団めがけて駈けて来た。
二人はなかなおりしたに違いない、とキットは直観した――もしなにか喧嘩でもしていたのならば。オードリは何日ぶりかで幸福そうに見えた。それから、サンディのほうは、なにか少し恥ずかしそうな顔をしていたが、家の角を曲るときに、相手の手にちょっとさわった。
前の晩の気違いじみた捜査の間、キットはこの二人の姿をほとんど見なかった。だが、二人の夏服――オードリは白いドレスで、サンディはブレザー上着に白いフラノのパンツを穿いていた――にすら、和解の色が濃く察しられた。サンディは急いでH・Mのところに駈けよった。例の瘤のような顎、利口そうな皮肉な目、皺のよった額の下に見える老人くさい顔だ。
「これは……」キットが紹介し始めると、H・Mがやめさせた。
「それにはおよばんのだ。もう一時間ほど前にお互いに紹介ずみなのだ。ところで、なんだね?」
「きいて下さい、先生」サンディは口をきった――初めて会ってから一時間足らずのうちに、こういう馴れ馴れしい言葉使いをする人々はきまってこう呼ぶ――「私達は今、門番小舎から来たのです。門の騒ぎに対して、あなたか大警部になんとかしていただかなければ! あと十分もすれば本物の暴動になって……」
「もしもし」マスターズが制した。「われわれがなんとか処置をとります! 新聞記者の件はよく承知していますから!」
「でも、記者ではないのです」サンディがいった。
「少なくとも、おもな原因は。われわれの旧友の予言者なのですが、門をはいる権利があるといって騒いでいるのです。塀を越そうとしたのです、あのガラスの破片が植えこんであるのに。そして、もしデーヴィス警部が警棒で殴ろうとしてみせなかったら、彼は本当にやったに違いないのです」
H・Mの目が大きくなった。
「こいつは驚いた!」卿は呟いた。「これは新顔が増えた。ボーモントまでが気違いになったのか」
サンディが目をパチクリさせた。
「ボーモント?」
「レナードとデーヴィス警部はたしかに気が狂ったに違いない」とH・Mがいった。「ボーモントが来たらすぐにここへ通すように二人にいっておいたのに。いったい今朝はみんなどうしたというのだろう」
「ボーモント?」サンディが繰りかえした。
「サンディ、よくおききなさいな!」オードリが彼の腕を引っぱった。「あなたやヘレンやセヴァン伯爵が、ただの記念品気違いのアメリカ人だと思ってつき合っていた人は、実は『なんとかの寺院』という、なにか気違い染みた会館のようなものを経営している占い師だったのよ! とにかく、その人はきのうからグロスターに来ているの。なんの目的で来ているのか私にはとうてい……」
サンディは手をあげて黙らせた。
「でも、僕はボーモントのことをいっていたんじゃないんだ!」彼はやっと辛抱したといったような荒い口調で抗議した。「ボーモントなんて、それが何者であろうと、僕はかまやしない。オードリ、すまないけれど、僕のいう意味を説明する間、黙っていてくれないか」
それからサンディはH・Mのほうに向き直った。
「ボーモントではないんです」彼はいいたした。「アリム・ベイなんです」
十八
「アリム・ベイ?」マスターズが鸚鵡《おうむ》がえしにいった。「ちょっと待って下さい! この事件の始まる元になった、奇蹟を売り物の山師じゃないのですか?」
「おやおや!」H・Mはひどく嬉しそうに両手を擦り合わせながら笑った。「貴公のいう通りなのだ、マスターズ。この事件の始まる元はこの男なのだ、全くの話が」それからH・Mは渋い顔をした。「それはとにかく、なんの用があってここへやって来たのだろう」
「私の推測するところでは」サンディが答えた。「予言者としてのアリム・ベイの株は今や暴騰の極致に達しているのです。カイロにいる彼の信者たちがカンパをやって、飛行機で英国に来る旅費を拠金したのでしょう。目的は明らかに」サンディの顔がもっと醜くなった。「青銅ランプが九柱戯のようにみんなを将棋倒しにするときに司会できるようにです。そのテーブルの上のが例のランプでしょう?」
「そうなのじゃ」H・Mはきっとランプを見つめた。
「とにかく、みんなはアリム・ベイをどうしたらいいのか知りたがっているのです。なんといいましょう?」
「まっすぐその男をこちらに通すようにいいたまえ」H・Mが命じた。「貴公が連れて来なさい。おれはまさか来ようとは思わなかったのだが、最後の大詰めであの男と会えるとはまことに嬉しい。ぜひ連れて来なさい」
サンディはさっそくかけ出して行った。オードリは彼の後からついて行こうとしたが、やめてH・Mのほうに戻って来た。
「いま」彼女は躊躇した。「大詰めとおっしゃいましたわね」
「いったよ、嬢や。もう姿を消す者は一人も出なくなるだろう」H・Mは少し声の調子をあげた。「それから、殺人もなくなるだろう」
「殺人《ヽヽ》?」
「そういったのだよ、嬢や」
「でも、そんな……つまり」オードリはいい直した。「もうすっかり終ったと思っていましたのに! 昨夜、みなさんが、この家をひっくり返すほどの騒ぎをなすったとき、みなさんのお話では――あの、ヘレンは生きている、ということで、キットがヘレンの姿を見たって!」
「見たのじゃよ、嬢や」H・Mが同意した。「でも、セヴァン伯の姿を見たのは誰かな?」
「なんと!」マスターズがわめいた。「では、あなたが殺人だと相槌をおうちになったのは、その意味だったのですか! もうこれ以上私はフザケルのは厭です、ヘンリ卿! セヴァン伯の死体はどこにあるのですか?」
「伯の身体は」H・Mは言葉を注意して選ぶかのような口調でいった。「この家の中じゃよ」
悪夢がまた舞い戻って来た。
「この家の中ですか?」マスターズは南側の壁面を見あげながら、繰りかえした。「われわれは隅から隅まで捜索したのでした。そしてヘレン・ローリンヘレン嬢を発見し得なかったのです。では、娘の父御の身体がこの家の中にあって、われわれはそれも発見しえなかったのだ、とおっしゃるのですか? このいまいましい家の中では、死んだ人間も生きた人間と同じように目に見えなくなるのですか?」
ベンスンが咳をした。
そっと、恐縮でございますがといいながら、ベンスンは二人の傍をすり抜けて、大きいアーチ型の扉から食堂にはいって行った。盆を手にすぐ戻って来ると、彼は器用な手つきでH・Mの前のテーブルの上を片づけ始めた。それがすむと、青銅ランプだけが残った。ランプは白いクロスの上に、ポツネンと催眠術にかかったように、鎮座している。
ベンスンがマスターズにいった。「もし朝食を召上りますのでしたら、今おあがりになりましてはいかがでございましょうか。温めすぎました料理は……」
このときマスターズが朝食という話題に関していった言葉は、ここには記録しないでおく。
「僕も大警部と同じ意見ですね」キット・ファレルがいった。「あらゆることが、たとえどんなことであろうと、この家では始まったり終ったりするらしいですね。でも、誰がするのかわからないし、理由も方法もわからない! 電話だって……」
「どの電話だね?」H・Mが鋭く訊ねた。
「外国なまりの男のかけた電話ですよ! ヘレンが姿を消したと伝えた電話と、もう一つはセヴァン伯も姿を消したと伝えた電話です! ここから掛けたんでしたがね!」
眼鏡の後ろの小さい目が彼を射抜かんばかりに見つめた。
「どういうところからそれを知ってるのじゃね、若いの」
「記者の一人が昨夜オードリと僕に教えてくれたんです。木曜から昨夜の七時までの間に、この家にかかって来たのと、この家からかけた通話の表をくれましてね。ブリストルの新聞社に二度通話したと出ているのです」
今度はH・Mの剣幕に彼がとび上った。
「まだその表を持っているのか?」
「いえ。えーと――どうしたか覚えていません。オードリが取ったのだと思いますが」
「そうよ」オードリが相槌をうったが、彼と同じくなんのことやらわからない模様だった。「私あれをハンドバッグに入れましたわ。ちょっと待って下さいな。朝食をいただいた時に、食堂にハンドバッグを置きっぱなしにしましたから!」
行ったと思ったら直ぐに、彼女が皺くちゃの紙きれを持って戻って来たので、H・Mはそれを青銅ランプの傍に持って来て、小さいテーブルの上で伸ばした。
「フム、そうだ。なかなか興味深い」H・Mは顔をあげた。「マスターズ、貴公はけさはまだ警察と連絡していないのだろうな?」
「寝坊しましたので。私もそれを認めます!」
「実はな、マスターズ、おれは連絡したのだ。昨夜もけさも、な。ある質問をするために、だ。貴公はそうした質問には関心を持っていなかった。さもなければ、貴公はそのどれもとたんに悟ったはずなのじゃ。貴公はただ催眠術にかかっていたのだな」
「催眠術ですと? どういうふうにですか?」
「正しい事実を誤った解釈で見たからなのだよ」とH・Mはいった。「坐りたまえ、みんな。これから事件を起ったままに再現して進ぜるからの」
ちょうどこのとき、ジュリア・マンスフィールドが食堂からこのバルコニーに出て来た。
マンスフィールド嬢が食堂でなにをしていたのか、どのくらい前からいたのか、第一どういうふうにして来ていたのか、キットにはぜんぜん見当がつかなかった。だが、彼女の出現はヘンリ・メリヴェル卿にはべつに驚くに足りないらしかった。いつもほど元気ではなくて、なにか多少人前を気にするような態度ではあったが、彼女はなんの説明もしないで、H・Mから少し離れたところにある籐椅子の一つをめがけて進んで行った。ところが、思いもかけず、ベンスンの声が大声にひびいた。
「いけません! 相すみませんが! それでない椅子に!」
マンスフィールド嬢は顔を殴られたかのように驚いた。
(チキ生、とキットは思った。あの男がさっきしきりに見詰めていたのがあの椅子だな! あの椅子になんの曰《いわ》くがあるのだろう)
しかし彼はしだいに気味が悪く感じて来た。このバルコニーに、なにか不思議な力が集まって来るのを感じた。暑い太陽や、囀る小鳥や、食堂の扉のアーチを丸く取りかこんでいる蔦などと不和な勢力である。
「お好きなようにしますわ」マンスフィールド嬢は冷やかにいった。彼女はH・Mに近い椅子にドカリと腰をおろして、膝の上にスカートを整え、指を組み合わせて、まるで傍に人がいないかのように、オランダ式庭園をじっと眺め始めた。青い目は何マイルも向うを見ていたのかもしれない。
「巻煙草あって、キット?」オードリ・ヴェーンが大きな声でいった。
「ある。はい」
しかしオードリは差出された巻煙草を取ろうとしなかった。目にもはいらないようすだった。オードリも籐椅子に腰かけたのだったが、かけたときに鋭く軋む音がした。
(悶着が起きるぞ! 用心用心!)
どうしてこういう小さい物音――あの椅子が軋む音や、燕の囀る声など――が、こんなにでしゃばるのだろう。実に奇妙だ。バルコニーの上の人々が、どういう理由か固唾をのんでいるというのに。マスターズ大警部は釘づけになったように立ちつくしていた。やがて彼も腰かけた。
H・Mは革のケースを出して、その中から得意の黒い葉巻を一本とり、端を歯でかみ切って、その端を親指と人差指ではね飛ばして、それから葉巻を口にくわえた。鋭くパチリという音がしたのは使い魔のようにうしろに控えていたベンスンがマッチを擦ったのであった。
H・Mは深く吸いこんで、それから長い煙の雲をゆっくりと吹いた。
「この怪事件の鍵は……ありがとう、ベンスン」
「どうつかまつりまして」
「この怪事件の鍵は」H・Mは続けた。「ある一女性の理性と情緒の動きにある。一女性とは、ヘレン・ローリンのことじゃ。一つここでヘレン・ローリンを心に描いてもらいたい――ごく気性の烈しい、ごく想像力の強い、オーガスタ・セヴァンの後裔であり、それと生写しであるヘレン・ローリンを、な。まるであの」ここで卿はアーチのほうを顎でしゃくった。「扉から現われて来たかのように、明確にヘレン・ローリンの姿を頭に描いてもらいたいのじゃ」
またH・Mは深く吸いこんだ。
ほかの誰も、ひとことも口をきかなかった。
「一つ四月十一日に頭を戻してもらいたいのじゃ。それはヘレン嬢が帰国しようとして、アレクサンドリア行の汽車にカイロから乗った日なのじゃ。それから中央停車場の一号プラットフォームに頭を戻してもらいたい。この私が辿ったように、ないしは辿ったと思ったように、あの子の頭の働きを辿ってもらいたい。お主《ぬし》たちは、そこには居合わせなかった。誰ひとり。だが、この私はいた。それから、アリム・ベイなる占い師もいた」
H・Mは自分の前のテーブルの上の青銅のランプをチラと見た。
「さて、当時の状況はどんなであったか。呪いの話はもう相当進んでいた。最初にギルレー教授が蠍に刺されて死んだ。それは本当に蠍に刺されて死んだのであって、すべての医者が証言したのだったが、呪いの話をとめることは出来なかった。つぎに、セヴァン伯は身体が悪くて旅行できないという噂が広く伝えられていた――これもヘリホルの仕業だといってな。
「だから大変だ! ヘレン・ローリンはカイロを出る頃には一種の精神状態に陥っていた――この呪いなるものがぜんぜんインチキであることを証明するためには、なんでも――キット・ファレルは後で、|なんでも《ヽヽヽヽ》といったことであるが――しかねない状態なのだ。
「それが、停車場で、アリム・ベイがとび出して来おった。新聞記者の目の前で、彼はまことに驚くべき呪文をかけた。青銅ランプを持って行くな、と彼はいった。さもないと、始めから存在しなかったように、ほこりと化してしまうぞ、と。これが戦闘意識を駆り立てた。汽車が駅を出たとき、最後にヘレン嬢のやったのは、身体を外に乗り出して、記者たちに大声で呼びかけたのだった。『ぜんぜん出鱈目です! ぜんぜんでたらめなのを証明してお目にかけます!』とな。
「ところで、その前にヘレン嬢は私にむかってなにか意見を述べてほしいと頼んでいた。実際、ヘレン嬢は、汽車でも飛行機でも、私の隣りの席を予約していた。だが、私の意見を聞きたいといったのは、なにについてなのであったろうか。
「ヘレン嬢の恋愛沙汰についてではなかった。本人もそういっていた。ヘリホルの墓をあけた時に起きた面倒な事件についてでもなかった。そうしてみると、私になにを頼もうというのであろう。ヘレン嬢はほとんど自分で秘密を洩らしてしまうところだった。それは奇妙な表情で、本当に奇妙な変てこな表情で、私を見て、こういったのだ。『もしなにかが本当に私の身の上に起ったらば』と、な」
H・Mはしばらく口を休めた。
卿は夢を見るような、眠そうな楽しい目つきで葉巻の端を見つめた。
「ごらんの通り」卿は説明した。「私は老人だ。私は名声を博していて、それも過褒《かほう》ではないのだが、今は亡きP・T・バーナム〔米国の興行師でサーカス王〕にも増して、トリックとか趣向とか手品とかいったものを知っているということになっている。それだから、それに決まっていたのだ。ヘレン嬢は私に手品を教えてもらいたかったのだ」
マスターズ大警部が椅子を前に進めたので、鋭い音があがった。
「ちょっとお待ち下さい」マスターズは言葉をはさんだ。「そこがよく飲みこめないのですが」
「ああ、困ったな! もし青銅ランプの呪いが明らかに効いたとしたらどうだね?」
「効きましたら?」
「ヘレン嬢がここにやって来て、アリム・ベイが予言した通りに、そして、明白に、ほこりと化してしまったとしたら? 超自然的な、地上からの消失ということになるだろう! そうなれば、今度はどうなる?
「マスターズ、どうなったか、それを話してつかわそう。新聞がヒステリーを起すに違いない。世界中の人間はその記事を読むに違いない。何百万かの人々は半信半疑であろうが、ほとんど全部の人間はヘリホルの呪いが正真正銘のものだと思いこんでしまう。お化けに用心しろ――あれは本当にあるんだ! 暗闇に住む悪魔的な力はそっとしておくがいい!
「そうなってから、一週間かそこいら、そのままにしておいて、世間に喧々轟々と評判の立つにまかせて置いた、とする。その期間が終って、ある心理学的瞬間に到達したとき……」
偉大な了解の曙光がマスターズの顔に現われた。
「その期間が終ったとき」彼は大声でいった。「ヘレン・ローリン嬢は姿を現わすのでしょう?」
「その通りじゃ。ヘレン嬢は姿を現わして、こういう。『超自然的な消失のタネはこれなのです。どなたにも出来る詰らないトリックなのです。自然界の頭では説明できないと断言なさったのでしたね。でも、説明できます。さあ、どうぞみなさん、エジプトの魔法とか、どこの魔法とかなどといったでたらめをおっしゃるのをおやめになって下さいまし』とね。
「|それが《ヽヽヽ》ヘレン嬢の汽車の中で私に尋ねたかった話なのだ。消失と再現をやってみせられるようなトリックがあるものだろうか、ということを。アリム・ベイの今いったような、青銅ランプの呪いを実現させ、風より高く飛ばせるのは可能か、と。そして、老人と見込んで頼むのだが、私にそうした方法が考えられるか、とね。
「ところが、マスターズ、そこである別のことが発生したのだ」
H・Mは過ぎた日を見つめた。
「われわれの汽車はカイロの郊外を出ようとしていた」卿はつづけた。「そしてヘレン・ローリンは上手にこの話題の核心をさけながら話をしていたが、急にまことに奇妙な表情が顔に現われて来た。そこに腰かけると、まるで石になってしまったように、汽車の窓から外を眺めはじめた。このときにヘレン嬢はこの大きな名案を考えついたのだ。
「今ではわかっているが、そのときにはなにからヘレン嬢がそういう考えに到達したのか、私には推察がつかなかった。どういうわけでヘレン嬢が両手を、こういう風に、擦りあわせたのか、見当がつかなかった」H・Mはゆっくりと真似をして見せた。「どういうつもりなのか、ぜんぜん見当がつかなかったのだよ!」
「ところが、しきりに自分にうなずいていたヘレン嬢は、一分間ほど経つと、にわかにキビキビとした態度で振りかえって、この私に今まで話したことをみんな忘れてくれないか、と頼むのだった。もう私の意見は聞きたくない、という。ききたくない、ぜんぜんいらない、という! いらないのも当然だよ、マスターズ。事実、ヘレン嬢はできるだけこの私を遠ざけたくなったのだ。ヘレン嬢はぜんぜん自力で、自分自身の頭で、この消失トリックを実行する方法を考えついたのだから」
ここでH・Mはクスクス笑い始めた。こんなことはめったにない話である。
キット・ファレルはこの演説の間、少しずつ後ろにさがって、とうとうバルコニーの欄干にぶつかってしまったので、そこに腰をおろした。気がついてみると、ジュリア・マンスフィールドはいぜんこの話になんの興味も感じていないようすである。また、オードリ・ヴェーンがしきりに唇を動かしているのだが、一こう音は出てこない。
そのとき、H・Mが調子を張りあげた。声はバルコニー中にひびき渡った。
「私が強調したいのは、この点なのだ。|ヘレン《ヽヽヽ》・|ローリンは自発的に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|自分自身の自由意志で姿を消したのである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|自発的に《ヽヽヽヽ》、|自分自身の自由意志で《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|また姿を現わす《ヽヽヽヽヽヽヽ》。|青銅ランプは私の左の靴と同じように《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|これとはなんの関係もない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
あるいは息を吸い込む音だったかも知れなかったが、ふとなにか音がしたので、キットは自分の右のほうに目を動かした。サンディ・ロバートスンが立っていた。それからサンディの脇にアリム・ベイが立っていた。
アリム・ベイの写真はそう頻繁には新聞に出なかったけれど、赤いトルコ帽を被っていたからキットにも判別できたはずである。ベイの長い死人然とした姿は、着ているチョコレート・ブラウン色の服のおかげで、血色も引きたたない許りでなく、一層痩せて見えた。爛々とした黒い目は眼窩から飛び出しそうに見える。彼はなにもいわなかったが、きわ立ってめだつ咽喉仏がゴクゴクと発作的に動いた。急に彼は片手をあげた。指は猛禽の爪のように外に広がっている。H・Mがある動作をしたからだ。
なぜなら、H・Mはなんの気なしに身体を前に曲げて、葉巻の灰を落したのである。灰皿に落すような格好で、青銅ランプの中に落したのだった。
「というわけで、私は英国に帰ったときには、こういう風に事態を読んでいたのだ。あの子はなにかトリックを発見したらしく、おそらくそれを使うだろう。もし私の考えが当っているのなら、お主たちに前に話したことだが、万事は大丈夫である。だが同時に、私とても、百パーセント安心していた訳ではないのだった」
卿は渋い顔つきをしてみせた。
「どうやら、われわれ誰にも迷信が少しはコビリついている。それが始終『もしも?』とわれわれに囁く。こんなことは不可能なのだが、しかし、もしも? わかるかな? 私は腰をおろして、考えたのだが、とにかくこいつが邪魔をした。それで、ヘレン・ローリンが今しがたセヴァン館へ出発したという話をセミーラミス・ホテルできいたとき、私自身も木曜の夕方、車でこちらへやって来た。
「キット・ファレルからあの子が消失したと聞いたとき、私はそうひどくは驚かなかった。私の驚いたのは、というよりは、私が気味悪く感じたのは、その消失の環境なのだ。なんと表面だけみると、これこそ正真正銘、まちがいようのない奇蹟だ。
「自発的に、手品としてやったのなら、なかなか鮮やかなものだと私は感心した。そうなら、私はなにかいってヘレン嬢のピッチを狂わしたくない。だから、お主たちにいったように、私はまず電話をセヴァン伯にかけようとした。
「なぜか、わかるかね? セヴァン伯は心臓が弱く、すでに身体の調子も悪ければ意気も沮喪している――この件については、もうじき話すが。ヘレン嬢は父御《ててご》が大好きだった。ヘレン嬢がこういうトリックを演じて、魔法の雷電に打たれたと思わせるには、自分のするつもりの仕事について父御にもう知らせているに相違ないのだ。さもないと、こんな報《しら》せが行こうものなら、伯爵は死んでしまうかもしれない。
「ロンドンにいた間に、ヘレンは航空便を書く時間がたっぷりあった。自分の名案を説明する代りに、こう簡単に書いてやってもいい。『どんな報せをおききになっても心配なさらないように。あの呪いを永久に叩きつぶすトリックを演じようとしているのですから』とね。だから、セヴァン伯と電話で話をすれば、伯のあの報せの受取りかたで、大いに学べるところがあるに違いない、と私は考えたのだ」
オードリ・ヴェーンが椅子にかけた身体を動かした。
「では、そういうわけだったのですか!」オードリが大きな声を出した。
「そうなのじゃ、嬢や。そういう訳だったのじゃよ」
「でも……!」
「少し黙っていて、私にこの話の続きを喋らせてほしいが」H・Mは厳重にいった。「ききたくないか?」
「よござんす。すみませんでした」
「それと同時に」H・Mは続けた。「私はヘレン嬢の部屋でベンスンにさまざまな質問をした。ベンスンと話をすればするほど、ベンスンの返事のしぶりが滑らかになり穏やかになるので、いよいよ私は二つの点に確信が持てるようになった。これは、ヘレン・ローリンの|自作自演の《ヽヽヽヽヽ》トリックだ。そして、信頼された老練のベンスンが共犯なのだ。ベンスンは共謀しているのだ」
「ベンスンが!」オードリが叫んだ。一同は執事を見た。
ベンスンは落着いてH・Mの椅子の後ろに立っていたが、顔には平和な微笑が浮かんでいた。彼はこれに関係しないで、離れている心境らしかった。彼は満足した品位をもって頭をさげ、ただ「ご名答で」とだけいった。
「まず」H・Mは続けた。「ベンスンは昔からの当家の家の子である。ヘレン嬢は彼のことを大いにほめていた。第二に、ベンスンはわざわざロンドンにやって来てヘレン嬢に会った。第三に、ベンスンはたしかに、行方不明になった十八世紀の絵についてなにか知っていた。第四にP夫人が大急ぎで出て行ってヘレン嬢を迎えようというのを、ベンスンは食器室で少なくとも二分間はポンフレット夫人を引きとめた……」
執事が咳をした。「致し方ございませんでした」
「第五に」H・Mがいった。「スイゼンの鉢があった。誰かあのスイゼンを覚えてるかね?」
「覚えています!」キット・ファレルがいった。
「木曜の晩、ヘレン・ローリンの居間に足を踏みこんでとたんに気がついた物の最初の一つは、テーブルの上にある切りたての花をいけた鉢だった。ところが、この館の従業員の頭であり、ヘレンの動きについて知っている唯一の人間であるベンスンは、少なくともあと一週間はヘレン嬢は来ないはずであった、と断言した。だが、歓迎の花を飾らせ――あとでベンスン自身で切ったのがわかったのだが、雨の中をわざわざ自分で切りに行った――のは、ヘレン嬢の帰宅の時間についても相当確信がなければ出来ない話だ。私はこれを見て、大きなヘマをやったな、と思った」
ベンスンは溜息をついた。「いかにも、ヘマでございました」
H・Mはいやな目つきで彼を眺めた。
「最後に、それと同じ晩に」卿は唸った。「キット・ファレルがカイロのサンディ・ロバートスンとセヴァン伯と電話で話をした。私はそれをきいていた。お主もあれを忘れてはいないだろうな?」
「ひとことも」キットは認めた。
「あれで私の確信に、最後の釘がうちこまれたのだ」H・Mがいった。「子を愛している父親で、病人の上に神経質な人間が、娘が行方不明になったときいて、セヴァン伯のとったような態度をとる者がいるなどといっても、私は信じない――もっとも、いつわりの失踪であるのを承知していれば別の話なのだ。
「『もしもし、クリストファ』」H・Mが口真似をした。「『ロバートスン君は狼狽しているのだよ。ヘレンになにが起きたのか私はわからないが、心配し給うな』まるで遊山の話でもするような陽気な口調だった。通話の終りに、もしお主たちが思い出すなら、電話に向かって、まともに笑い出してしまったではなかったかね」H・Mはサンディ・ロバートスンを見た。「お主すらゾッとしたじゃろ!」
しだいに話がわかって来たようすがサンディの目にはっきりと見えて来た。サンディは顎を撫でてコクンと頭をさげて頷いた。
「肝をつぶしましたよ」サンディは認めた。「あのご老体、頭がどうかしたのじゃないかと思いましたね。ひでえ話です!」サンディは取ってつけたようにいった。「|僕にも《ヽヽヽ》話さなかったんですからね!」
「そこで」H・Mは続けた。「私の仮説が絶対にたしかなのがわかった。セヴァン伯はトリックの詳しい内容は知らないのかもしれないが、トリックの行われることをあらかじめ知らされていたのは絶対なのだ……」
マスターズ大警部が立ちあがった。
「もし伯爵がトリックの内容を知っておられなかったとしても」マスターズは精一杯におさえた声でいった。「私どもも誰一人それを知っていた者はありませんのです。もうこれ以上うかがいませんが、|いったいどういう風にしてあの子は姿を消したのですか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
「今それを話すところなのだ」H・Mは答えた。
「只今おっしゃったことを全部認めたとしても! もし、あのベンスンが」執事を見つめるマスターズの目は物凄くなった。「共犯者だったとしても、です。ベンスンがヘレン嬢の姿を消したのではないでしょう?」
「それは違う」
「では、なんの説明にもなりませんな! 私がこの家を、一度は木曜の晩、つぎは昨夜と、二度まで捜索したのに、あの子をとうとうみつけずじまいに終った理由など、ぜんぜん説明がつかないではありませんか――ヘレン嬢が家の中にいるはずなのが私にはよくわかっていたのに!」
H・Mは一度深く吸いこんで、それから問題をあらゆる角度から研究するように、葉巻の雲を吹き出した。
「お主はヘレン嬢を見ればすぐ当人だとわかるという自信があるか?」
「どういうお話でしょう?」
H・Mはこれと同じ質問を繰返した。バルコニーの上の緊張はなにか熱狂じみて来た。ジュリア・マンスフィールドさえ、両腕で籐椅子のひじをつかまえているのをキットはみつけた。アリム・ベイのほうは、赤いトルコ帽を青い太陽の光線の強い青空に映えさせながら立っていた。そして、彼の顔色はセピア一色で描いた絵の程度に薄らいできたが、まだ一言も発してはいなかった。
「当人とわかる?」マスターズが唸った。「どういう意味なのですか、見たら本人だとわかるか、というご質問は? 私はヘレン嬢の写真を何十枚も新聞で見て知っていますよ」
「アハ! ついにそこに来た!」
「なにに来たのですか?」
「その物だよ」H・Mは大真面目でもっと灰を青銅のランプの中に落しながらいった。「昨日の午後五時までおれを盲にし、迷わせ、悩ましていた当の事実なのだ。ちょうどその昨日の午後五時に、おれの大切な切抜き帳が、ベンスンのいった極めて啓示的な言葉のすぐ後で、その神秘をすっかりあからさまにしたのだ。ヘレン・ローリンは写真うつりが悪いのだ」
「とおっしゃる意味は?」
「ああ、困った男だな! ヘレン嬢の写真は、どれもこれも――ベンスン自身でそういったのだ――実に不美人にとれるか、ないしは似ても似つかない顔にとれるのだ。
「いいかな、マスターズ、そのベンスンの言葉をほとんどおれは気に留めずに、危うく忘れてしまうところだったのだ。おれはもっと大切なこと、たとえばおれの写真のほうに夢中になっていたのでな。ところが、一分間ほど経って、おれは偶然に、カイロの停車場の外で撮られたヘレン・ローリンとおれの写真を取りあげたのだ。
「それでおれはなるほどと思ったのだよ、マスターズ。あの子の写真は本人に会ったことのある人間以外にはまったくわからないのだ。それで……ああ、とんだ話だ! それで、雲が開けて、太陽の光が出て来て、あとはなんでもなくわかってしまったのさ」
H・Mは立ちあがった。
クロスを焼かないように、卿は気をつけて葉巻をテーブルの端っこに置いた。もったいぶって、予言者のような格好をして、テーブルと青銅ランプを前に卿は立った。
「これから」卿は宣言した。「一つまじないをしてみせる」
「なんとおっしゃるのですか」
「お主たちにご免をこうむって」H・Mはお辞儀をした、といいたいところであるが、実は腰をピョコンとさげた。「これから、アリム・ベイには非常に興味があるに違いない儀式を執《と》り行う。デタラメ・インチキ・アキレタ・オレタチハマヌケダッタという神秘的な呪文を使って、これからヘリホルの呪いをとき、稲妻に餌食をはき出させる。あれを見い!」
卿は大きなアーチ型の扉を指さした。
オードリ・ヴェーンはなんだかわけのわからないことをわめいた。
戸口に、心配そうな目つきをして、また恥ずかしそうに躊躇しながら、フェルトのスリッパを穿いて、鼠色の木綿のドレスのシャボンの泡だらけなのを着た、だらしのない格好の女が立っていた。そのオドオドした態度、コソコソと後ろを振り返る格好、後れ毛を小さい荒れた手でおさえつけるさま……
「マスターズ」H・Mがいった。「お主はあの女の子を見たことがあるかね? あれは誰だ?」
「はい、たしかに見たことがございます! あれは雑役婦のアニーです。アニーは……」マスターズの声はとぎれた。
「大ちがいだ」H・Mがいった。「紹介しよう、ヘレン・ローリン嬢に。貴公はヘレン嬢が自分の家の雑役婦に変装していたのに気がつかなかったのか?」
翼の擦れ合う音に似た低い溜息がきこえた。
家政婦のポンフレット夫人がヘレンの後からバルコニーに出ようと出て来たのだったが、アッと気を失って扉の内へ倒れてしまった。
十九
「さだめし」H・Mは静かにいった。「ポンフレット夫人は少々驚いたろうて。ここの使用人たちはみんな、何かというとあの雑役婦に当り散らして、見てはいられなかった。水でもブッかけてやって、正気に戻すがいい」
ベンスンは家政婦に手当するために急いではいって行った。
ほかの連中は、なんとなく麻痺したようにボンヤリしていたが、H・Mは腰をおろして、なにもなかったかのように葉巻を拾いあげた。
「お主たちは一度も考えなかったのかね」卿は続けた。「こうした大きい家では、台所の女中とか雑役婦のように、来客の目にはぜんぜん|ふれない《ヽヽヽヽ》使用人がいるものなのだ。そして、そういう者の一人に姿をやつしていれば、ことによると正体を見抜くかも知れない連中には見られないですむものなのだ。
「もちろん、マスターズ、おれは月曜の朝、お主と二人で塔の頂上に立っていたとき、この雑役婦をチラと見た。お主が思い出すならば、雑役婦は洗い流しを入れたバケツをエッチラオッチラ裏庭の向うに運んでいた。だが、それは大変な遠方からだった。それに、警察の捜査係でないかぎり、雑役婦のそばに行くのは……な、嬢や、この話をみんな自分で、みんなに話してやったほうがよくはないかな?」
卿はヘレンのほうを見た。ヘレンはキットを見つめながら、どうしていいかわからないといった格好で立っていた。やがて、ヘレンは前に走り出た。
「仕方なかったのよ、キット!」ヘレンは叫んだ。「こうするより仕方なかったのがわかって下さる? さもないと、この馬鹿馬鹿しい呪いの話をみんながいつまでも話すにきまっているんで。それで……それで……」ヘレン嬢はいい言葉がみつからなかった。「私をひどく嫌って?」
「あなたを嫌う?」
「ええ! こんなことをしたから!」
キットは安心のあまり本当に目が回ってきた。目が見えなくなってきた。耳が鳴ってきて、ヘレンの両手をとったことはとったが、やっと手さぐりでとった始末である。
「嫌う?」彼は自分の耳を疑うようにいった。「言葉を間違えちゃ困りますね。僕はあなたを愛している」
「私はとうとう我慢できなくなって、昨夜あなたに会いに行ったのよ、キット。私がレインコートを着てボタンをみんなかけていたのは、寝間着でも、私がアニーとして着ているものだと、私の正体がわかってしまうと思ったからなの。そして、まだ時期が早いと私は思ったんです……その……その……」
「そんなことは構わないぜ」
「構わなくないわ。私は馬鹿でした。でも、私、あなたを愛――あの、私の気持はご存じだわね! それに、あの呪いの話をした人達をかつぐのがひどく素敵な仕事のように思えたんですの。ね、キット、最初この案を思いついたのは、カイロ発の汽車の中だったの。ベンスンのことを考えているうちに思いついたの」
「ベンスン!」
「そうなの。ベンスンが新しく使用人たちを集めていることなのよ、私を一度も見たことのない人達を。新聞記者が停車場でその事について私にいろいろ質問したの。で、とつぜん、私は台所の女中か雑役婦になってしまえば、姿を消せることに思い当ったの。私の手がこうだからなんです」
「なんですって?」
ヘレンは両手を、手の平を上にして、差し出した。とび色の目は自嘲の色に輝いていた。しかし彼女はひどく真剣で、ぜんぜん自慢そうなところはなかった。
「これを見て下さいな、あなた。土方のような手をしているでしょう。H・Mにも、お話ししたんですけれど、発掘のお仕事のせいなんです。こういう手をしている者でなければ、雑役の経験があるふりは出来ませんもの。でも、私はしたんですのよ、ここで。それから、女中の女中としてなかなかよく働いたつもりよ。みんなは、いつも」ヘレン嬢は目を輝かせた。「私のことを、こんな駄目な、馬鹿な、不器用な女中は見たことがない、といっていましたけれど」
食堂のどこか見えないところで、ポンフレット夫人が金切り声を立てたが、ベンスンがなにやら慰めて静かにさせた。後からベンスンがまた扉のところへ出て来た。彼は籐椅子を前にすべらせた。
「おかけになりませんか、お嬢様」
「ありがとう、ベンスン」ヘレンは礼をいった。「ベンスン、お前は私がそんなに役に立たない雑役婦だったと思って?」
ベンスンは守護天使のようにヘレン嬢の椅子の後ろに立ちながら、この問題を用心深く考えた。ヘレンはキットに手を握られたまま椅子に腰かけた。
「さようでございますね、お嬢様、手前と致しましても、あまり上等の推薦状は書きませんでございましょう――もっとも、勤勉な点は別でございましょうが」
「ええ、そうでしょうね」ヘレンは諦めがよかった。「でも、私はうまくし遂げたのよ、キット。で、ちょっとお考えになれば、どういう風に私達が処理したかわかるでしょう。ベンスンが新しい使用人たちを集めて、ここを開いたのは――いつ? 四月二十四日の月曜なんです。それは私の消失のちょうど三日前ですわね」
「そう!」
「そして、ちょうどその三日間、私は最初の消失のお芝居をして、ロンドンのセミーラミス・ホテルから姿を消していたのをお思い出しになる?」
ジグソー・パズルがしだいに格好がつくように、キットは各々の部分がしかるべき場所にはまって行くにつれて、全体の構想の見当がつき始めた。
「|というと《ヽヽヽヽ》……?」
「そうなのよ、キット。月曜の朝早く、私はここに来て、ベンスンが真面目な顔をして雇ってくれましたの。ベンスンと私はロンドンで全部打ち合わせをすまして、私は父に心配しないようにと手紙を出したんです。三日の間、私は雑役婦アニーとして自分の身元を確立しておきましたの」
「続けて下さい!」
ヘレンの目は父のことにふれたとき、わずかの間ながら曇った。恐怖と意を決しかねる色がまた戻って来た。しかしH・Mがうながすようにうなずいてみせた。
「木曜の朝、夜が明けると一緒に、私はここを出てロンドンに向かいました。すっかり疲れて、私はホテルであなたをお待ちしていました。でも、またあなたとオードリと一緒にここへ自動車で来て、『神秘的に消失』しなければならないので、時間に遅れるわけにはいかなかったんです。私……私……」
ベンスンは手で口を覆って咳をした。「もしご記憶でしたらば、キット様、ヘンリ卿のご質問に答えまして手前は雑役婦が木曜は休暇で出ていると申しあげたのでございました」
「実際の消失は」ヘレンがいった。「一番むつかしいと思っていたんですけれど、実は一番楽でしたの」彼女は身震いした。「ロンドンから車で来たときのことをお思い出しになる? 雨の降っている中を、あの門のところを通ったときのことをお思い出しになる?」
思い出すのなんのって。一瞬間、日のよく当っているバルコニーや、見つめている人々の顔は、みんな消えてしまった。砂利の上を車輪が走って行く音が、またキットの耳にきこえた。セヴァン館の開いた門、レナードが外を覗いている小舎についていた電燈、私道の両側の雨にぬれた木などが目にうつった。ヘレンが青い顔をして隣りに坐っている。灰色のレインコートをピッタリと身体にひきまわし、青銅のランプのはいったボール箱を持っている。彼女が神経質な手つきで巻煙草を吸っているのが目にうつった……
「ベンスンと私は」ヘレンは続けた。「こういう点も相談ずみだったんです。私たちは、使用人たちがみんな裏のほうで一緒にお茶をいただいている時刻を選びましたの。途中で私は電報を打ったのでしたが、私の着く少し前に着くように時間を見計って打ちました。私たちは郵便局のゴールディン老人が電話で送るのも知っていました。ちょうどその頃、ベンスンがポンフレット夫人を食器室に呼び入れておいて、証人にするために引き留めることになっていました。
「私の来たのが『予期』しないことにしておかないと、誰か出迎えに来てしまいます。
「門番のバート・レナードは、|どんな《ヽヽヽ》車でも、車が来たらかならず電話するようにいいつけられていましたから、私をヘレン・ローリンと思おうと思うまいと構わないのでした。が、このわずかでしたが危険なのは、バートはもう雑役婦アニーとして私に会っていましたから、小舎の前を十二三フィートの距離で通るときに、私を見てアニーだと認めるかも知れない点だったのです。
「雨の降る日ですし、キットの向う側に腰かけていたのですから、まずわかる気遣いはないのでした。それから、服や装飾で女は格好が変りますし。それは私はもう実験ずみでした。けれど、私がなにをしたか、思い出せて?」
今まで身体をまっすぐにして坐って、ヘレンの顔をボンヤリと、感心しきったようすで眺めていたオードリ・ヴェーンがすぐに口を開いた。
「|私は《ヽヽ》思い出せるわ」オードリがいった。「あなたは巻煙草をすってた。門のところを走りぬけるとき、あなたは煙草を落して、拾おうとして身体をかがめたわ。レナードには、あなたの頭の天辺《てっぺん》ぐらいしか見えなかったことでしょう」
ヘレンはそれまでオードリの視線をさけていた。ここでヘレンは衝動的に振り向いて、左の手を差しだした。
「オードリ、私、ほんとうにすまないと思っているのよ! キットにもあなたにも、あんなことをするんじゃなかったわ。ほんとうに私って馬鹿よ! でも、一番いいつもりでしたの。ほんとうにそうなのよ!」
「まあ!」オードリは眉の細い三日月を上げて、喜んだ。「まさかあんたは私にあやまっているんじゃないでしょうね。こんなにスリル満点のお話、今までに一度もきいたことがないのよ!あなたもそう思わなくって、サンディ?」
「いいや」サンディ・ロバートスンは静かにいった。「思わない」
「サンディ!」
声の調子は静かだったけれど、サンディの静かなのは憤怒の静けさであった。両手を深くブレザーのポケットにつっこんで、身体を前後にフラフラ動かしている。何分間も、彼の目はヘレンとキットを見つめていたが――つないだ手と互いに交した視線は雄弁だった――その目には失望の色が濃かった。
「あんたが僕の意見をきくからいうけれど、オードリ」彼は無雑作な調子でいった。「実に汚い、人の感情を無視した企みだと、いわざるをえない」
「サンディ!」
彼の声がほんの少し甲高くなった。「僕の意見は、この事件に実際に関係している者からは、誰からも求められないのだ。昔の仲間に対して、歓迎のご挨拶すらない。しかし、僕は不平をいうのではないですよ。僕は単に、一通りの月並な意味でいうんだが……」
「ちょっとお待ち下さい!」マスターズ大警部が気味の悪い態度でさえぎった。「このお若い女性はわれわれをさんざんお困らせになったです。私も同じ意見です。が、私は残りのお話を伺いたいのです。続けて下さい。ヘレン嬢。この家にヴェーン嬢とファレル氏とご一緒に車でいらしった。それから?」
ヘレンはサンディを見ながら、少しためらった。
「お話し、嬢や」H・Mが無表情な声を出した。
「ロンドンから――ロンドンから来ます途中ずっと、私は女中の服の上にレインコートを羽織っていましたの」ヘレンは目を、自分の薄汚い、しみだらけの服の上に落した。肉体的というよりは精神的な厭気がその目に現われた。今ではこの仮装全体が厭でたまらないようすだった。「ですからピッタリと身体のまわりに引き回していたんです。家の正面に車の停まったとき、私はいきなり先にひとりでとび降りて、青銅ランプを持って中にかけてはいったのでした。
「表玄関の扉は昼間はいつも錠がおろしてないのです。おりていたにしても、ベンスンが気をつけていてくれたはずです。もうベンスンは大勢の臨時の庭師を雇って家のまわりに配置して――グロスターの人達で、家の定雇いではないのです――後で、私が家から抜け出したはずはないと証言させる用意をしていました。
「中にはいってしまうと、私は消える仕事を続けました。私はあまり興奮していたので『とうとう巧く行った!』とかなんとか、大広間はどんなに音が響くかに気がつかないで、いってしまいました……」
「なーるほど!」マスターズは苦い顔をしながら相槌をうった。「パワーズという名の鉛管工が二階であなたのお声をきいたのです。それから?」
「私のしましたのは十秒でできることでした。私はレインコートを脱いで、青銅ランプと一緒に床に置きました。靴と靴下を脱いで、かねてレインコートのポケットに入れておいた女中用のフェルトのスリッパを穿きました……」
オードリ・ヴェーンが指を鳴らした。
「それから私は図書室を横切って、書斎にはいって、それから屋根裏へと――そこに私の寝部屋がありますので――壁の中の螺旋階段をあがったのです。私は靴と靴下を手にさげていたのでしたが、それをベッドの下の鍵のかかる鞄の中にしまいました。
「今度は裏梯子から私は下の女中部屋におりて行きました。他の女中達はお茶をのみ終るところでして、ちょうどベンスンとポンフレット夫人が表の扉のところへ着いた頃でした。もちろん、私に時間を充分に与えようと思って、ベンスンはポンフレット夫人を引きとめたのです」
「着物と名前が」ヘレンは力をこめていい足した。「女を作る、と私はいいましたでしょう?十分たって、ベンスンが勢いよくはいって来まして、ヘレン・ローリン嬢が行方不明になったと話し、家中の捜索をするのだからといって、運転手のリューイスを呼びに来ましたとき、一人として私のほうを見るものもいませんでした。雑役婦のアニーは今日は一日中映画を見て楽しんで来た――ただそれだけなのでした」
ヘレンは面白くないようだった。
「それで私の冒険はおしまいになるはずだったのです」彼女はいった。「あの初代のセヴァン伯夫人の肖像画の件さえなければ。私はあれで大失敗してしまいましたの」
ベンスンは弱った顔をした。
「失礼でございますが、お嬢様、|それは違います《ヽヽヽヽヽヽヽ》。あれは手前の失敗でございました。イカサマな仕事は致しつけておりませんし……」
マスターズが「ハ、ハ、ハ」といった。
「……いささか慌てましたので、あれにつきましても、花と同じようにヘマをやってしまいました。手前が話しましてよろしゅうございますか、お嬢様?」
「もちろん」
「今朝ヘンリ・メリヴェル卿がこちらへお戻りあそばしましたとき」ベンスンは説明した。「この仮装で手前の致しました役について、お叱りをいただきまして……」
「ちょっと待った!」マスターズはH・Mを睨んだ。「ヘレン嬢がご自分の家の雑役婦に化けているのにお気づきになった最初は、いつだったのでしたか?」
「ああ、マスターズ! 私は木曜の晩、さっき話した理由から、この消失のトリックは――それがどんなものであろうと――ベンスンとこの子が一緒にやっているのだと決めたのだよ」
「それで?」
「それで、さ! そして、雑役婦が執事からとくに許されて休みをとった、という話をすぐきいた。いそがしい最中だし、雇われて以来三日しか働いていないのに、だ。
「もしヘレン・ローリンが雑役婦になったり、少なくともなにかの形で女中になったとしたら、まことに頭のいい趣向だ、と私は思ったのだ。なぜって、それはどの女にでも出来るトリックだからだ。大きな演技力をぜんぜん要しない。たとえば」H・Mは控え目に咳をした。「私がハムレットを演じるとか、暴帝イヴァンを演じるときに示すような演技力は、な。ヘレン嬢はただ女中の服を着て、お上品なアクセントを捨てて、田舎弁を三つ四つ混ぜればいいのだ。
「だが、そう考えついたとたんに、マスターズ、私はそれはぜんぜん論外でありえない話だときめて、捨ててしまったのだ。なぜかわかるかね?」
「女中達は一人としてヘレン・ローリンに会ったことがないにせよ、写真は見ているはずだ、と私は考えたのだ。新聞、写真新聞、雑誌など、みんなこの何週間というもの、ヘレン嬢の写真をベタベタ出していた。雑役婦という触れこみで女の子が現われて、それが直ぐに行方不明になる女と生き写しだとする。女中達は気がつくはずだ。警察にいうはずだ。警察はいろいろと質問し始めるだろう。そこで化けの皮がはげてしまう。
「こういうわけで、私は謎が解けずに弱っていたところが、写真を見ただけでは恐らく誰もヘレン嬢と識別できまいということに、がぜん気がついたのだ」
「その通りでございます」ベンスンは相槌をうった。「しかし初代のセヴァン伯の奥方様の肖像画は別でございます」
執事はマスターズのほうを向いた。
「あの肖像画は、マスターズ様、召使たちが日常始終通ります階段裏の通路に、目立つようにかけてございます。幸いに、誰もまだ克明に眺めたものはおりません。けれど、大いに危険でございました。とくに、お嬢様が失踪あそばしまして、警察が見えましたとき、誰かが壁に雑役婦アニーと生き写しの絵が大きくかかっているのに気がつく恐れがございます。
「手前がこれに気がついて、ギョッといたしましたのは、もう木曜の午後も大分遅くなってからでございました。この計画を立てますとき、ヘレンお嬢様も手前もあの肖像のことはまったく忘れておりましたのです。で昼食とお茶の時間の間に、手前は肖像画をはずしまして、食器室の戸棚の中に隠したのでございます。
「あの絵が不思議に紛失してしまっているのを、ポンフレット夫人が一番拙いときに気づきませんでしたら、万事うまく運んだことでございましたろう。この紛失を彼女は大変に気にしておりました。後で騒ぎ立てるに相違ございません――事実、騒ぎ立てたのでございましたが。白状いたしますと、手前は大層弱ったのでございます」
「おわかりになりません?」ヘレンが大きい声を出した。「私達はあの絵を家の中から巧く運び出さなければなりませんでしたの」
「なるほど」マスターズがいった。「わかりましたよ! それで?」
ヘレンは微苦笑した。
「私は名案を考え出しましたの。考え出したつもりでしたの」ヘレン嬢がいった。「グロスターに絵の修復をする小さい店のあったのを思い出しました。ごく自然に見える隠しかたは、店自身さえなにも不思議に思わないような隠しかたは、修理に出すに限りましょう?
「誰かが大急ぎでそこへ持って行かなければなりません。ベンスンが自分で行ったのでは、ことをこわしてしまいます。おまけに、ベンスンは、私が行方不明になったことになっていますので、私を探さなければなりません。その相間に、食器室から新聞社や警察に電話をかけて、ヘリホルがヘレン・ローリンを捕えたと吹聴しなければなりません」
マスターズの憤怒がまた沸騰し始めた。
「では、|君だった《ヽヽヽヽ》のか?」彼はベンスンにいった。「私の思った通り、あの外国なまりの男というのは君だったのか?」
ベンスンは静かに満足そうにほほえんだ。
「適当に声を変えましてございます。お嬢様は失踪を出来るだけ早く、出来るだけ評判になるよう、お望みでございました。しかし、マスターズ様、手前がただ無邪気に……」
「無邪気だと?」
「……致しましたことを、なにか不埒な目的があったようにお取りになったごようすでございました。お嬢様、どうぞお続けになって下さいまし」
「ベンスンは自分では絵を持って行けませんでした」ヘレンがいった。「けれど、アニーを使いに出すのはなんでもなく出来ました。家の後ろを見張っています庭師たちは、私がアニーとして他の女中たちと一緒に女中部屋におりましたのを見て知っていましたし、なにか怪しい点があろうとは夢にも思っておりませんでしたので」ヘレンは唇をかんで、椅子を動かし、視線がテーブルに向かっているH・Mの脇に行くようにした。「あなたはジュリア・マンスフィールドさんでしょう?」
青い目の下に熱の華が出来ているマンスフィールド嬢のようすは、見れば見るほど興味が湧いた。超然とお高くとまったところはすっかり消えてしまっていた。今では椅子のひじにギュッとつかまっている。彼女の気持を今支配しているのが果して怒りなのか恐怖――どういうわけだか、キットにはこう見えたのだが――なのか、なんともいえなかった。
「はい、私はジュリア・マンスフィールドでございます」慌てて制御しようとしたが間にあわなくて、妙に調子外れの高い声がでてしまった。「それは前から、ヘレン嬢、おわかりのはずと思っていましたけれど」
「でも、まさにその点なのよ!」ヘレンは力をこめていった。「もちろん、あなたが父のお友達なのは知っていましたわ……」
「はい」ジュリア・マンスフィールドがいった。
「でも、お目にかかってお話ししたことは一度もないでしょう? ですから、万が一にもあなたが私とおわかりになることはあるまいと思っていたんですの。ことに、『アニーの』頭巾のついた古いマントを着て、頭巾を目深にかぶって、アニーの怪しげなロンドンなまりで話せば」
「あのときのお声が変なのに気がつきました」マンスフィールド嬢がいった。
「五時半に」ヘレンがマスターズに向かって熱心にいった。「私はグロスター行のバスに乗ったのですが、あの絵は新聞紙でキチンと包んで抱えて行きました。あのお店に行ったとき、私はアニーだとも誰だともいわなかったのです。ただ、その絵がセヴァン館の品ということ、後で取りに来るということだけ、いったのです。そしてそのまま外に出てしまったのです。少しは胡散くさく見えたかもしれませんけれど……」
「お見えでしたわ」マンスフィールド嬢がいった。
「でも」ヘレンは不審げに相手の顔を見た。「そんなことは二度と思い出すようなことはなさらないと思っていましたら! 気にもお留めにならないと思っていましたわ。あの画は忘れられて、そして……」
「普通ならば」ヘンリ・メリヴェル卿がいった。「お主の思い通りになったのじゃ。ところが世の中というものは、まことに意地悪く出来ている。普通の在り来りの店ならば、それでお主の計絵は巧く行ったはずだ。ところが、決定的なつながりがあったのじゃ。この骨董店と、それから……」卿は言葉をとめた。
「続けて下さい」マスターズがうながした。「この骨董店と何の間につながりがあったのですか?」
「黄金の短刀」H・Mが答えた。卿の言葉は険悪な、おそろしい明確さで発声された。「黄金の香合。それからセヴァン伯の殺害」
沈黙。
「殺害」というひとことがなみいる人々に与えた影響は物凄かった。ヘレンは急に椅子から立ちあがって、キットの握っていた手を振りほどいて、正面を向いたまま後ずさりし始めた。
アリム・ベイは牛乳を入れすぎたコーヒーのような顔色で、光る黒い目はH・Mにピッタリと吸いついたままだったが、二度までなま唾をのみこんだ。ゆっくり彼は前にすすみ出た。ここで初めて彼は口をきいた。例の低い、死人のような声である。
「私は貧乏な学究です」彼は手の平を上にしてみせた。「私は何も人に害を加える意志はない。なぜ私はこうして悪ふざけの犠牲にならなければならないのですか」彼はひじを曲げ、握りかためた拳を空中に振りまわした――たしかに滑稽な身振りではなくて、激烈なまた恐ろしい性質を帯びていた。「神かけて!」彼はわめいた。「エジプトにいる私の友達に私を嘲らせたいのですか?」
バルコニーを隔てて、ヘレンが鋭く身体を向け直した。
「アーラン・ワ・サーサン、アリム・ベイ! 前に会ったことがありましたね?」
「ええ。前に会ったことがあります」
「あなたは、私が未だかつて存在しなかったかのようにほこりと化す、といったでしょう。今はなんとおっしゃる?」
「お嬢さん、魔術はその力を嘲られはしない、といいます。そんな戯れをしたため、あなたはなにも失わなかったのですか?」
「何一つ!」
「あなたは父御《ててご》をなくされた」アリム・ベイはいった。
ヘレンはまっさおになった。しかし、H・Mがなにか意味の隠れている警告の一べつを与えたので、なにかいおうとして口まで出ていた言葉をおさえた。
「冗談が手に負えなくなったのは、本当じゃ」H・Mがいった。「玩具のピストルに本物の弾がはいっていたのだ。誰かが兇暴になって、殺人を企てた。その人間は今われわれの中にいるのじゃ」
敷石の上をノンビリ歩く足音がした。リオ・ボーモント氏が家の正面の方から、鄭重な愛想のいい態度で一同のほうに近よって来た。
帽子なしで、よく身体についている灰色のスーツを着ていた。ヘレンの姿を見ても、少しも驚いた風を見せずに、ほかの連中に対するのと同じようにお辞儀をした。両の目尻にただよっている悪戯っぽい線は口の用心深さで帳消しになっている。
「みなさん、お早うございます」ボーモントがいった。「青銅ランプをいただきに来ました」
キット・ファレルの身体の筋肉が硬直した。なぜだか自分にもわからなかった。
「これで予言者が二人になったな」H・Mがいった。
「昔風の派手なの」卿はアリム・ベイを差した。「それから当世流の事務家タイプのと」卿はボーモントを差した。「われわれがセヴァン伯がどういう風に失踪したかという問題を解決する上に、どんな力になってもらえるか、一つ試してみるとしよう」
H・Mはしばらく黙ったまま、指先で葉巻を弄んでいた。
「きのうの朝、つまり日曜の朝だな」卿はつづけた。
「私は二組の事実に関して盲滅法に手捜りをしていた。第一は、ヘレン・ローリンがどういうふうに失踪したのか。第二に、黄金の短剣と黄金の香合はどうなったのか。
「合わせて一万か一万二千ポンドの値打のある短刀と香合が、ヘリホルの墓所から出た大量の発掘品の中から姿を消してしまったのだった。エジプトの警察は、この二品は国外に持ち出されたと発表した。訴えた当の人はセヴァン伯だった。この件については、私は前にヘレン・ローリンからきいていた。
「この件に関して、なんだか詳しいことは知らなかったが、父御は弱っておられる、と嬢は話していた。それから、セヴァン伯自身も、カイロとわれわれが長距離電話で話をしたときに、娘が失踪したからだけではなくて、ある『不愉快な用件』を処理するために、こっちに帰って来る、といっていた」
「興味がある。まことに!」
「日曜の朝、行方不明の肖像画の跡を追って、マスターズとキット・ファレルと私はジュリア・マンスフィールドの骨董店に行った。ところで、マスターズはあの肖像画を初めて見たとき、いささか驚いて、この顔は前にどこかで見たことがある、といった。それなのに私は――まだ目が開いていなかったので!――前に見たヘレン・ローリンの写真に似ているのだろう、といった。しかしマスターズはそれだけでは満足しなかった。もちろん、雑役婦のアニーの顔で記憶があったのだ。
「とにかく、私は骨董店のベルを押した。すると、とたんに――いいかね、日曜の午前だというのに、とたんに、だよ――ジュリア・マンスフィールドが応答をするために駈けて出て来た。
「彼女の最初の言葉から、誰か来るのを予期していたのがわかった。われわれをではない。だが、誰かなのだ。
「彼女は最初はあまり心配してはいなかった。ただ不思議に思っていただけだった。ヘレン・ローリンがあの肖像を届けて来たくだりをまず説明し始めた頃は、別に怯えてもいなかった。だが、ファレル青年がケースにはいっていたエジプトの装身具を、指環やらランプやらだったが、仔細に眺めているのを見たとき、にわかに騒ぎはじめた。別になんという動機があって眺めたわけでもないのに、彼女はわけがあるのだと思ってしまった。なぜだろう?
「そのとき店の扉が開いた。客がはいって来たが、その客には女主人の姿のほかはなにも見えなかった。彼は躊躇する色もなく、自分はリオ・ボーモントというもので、ちょっと尋ねたいが……
「発矢《はっし》! 彼はわれわれを見て、とたんに口をつぐんでしまった。まもなく、彼はていねいな態度で、実はセヴァン館へ行く道をきこうと思って立ちよったのだと説明した。それは」H・Mは気味の悪い口調でいった。「まことに下手な弁解だった。店にはいって方角をきくのなら、このおれなら最初に名前をいったりなどはしないからな。
「彼女の予期していたのがボーモントらしいようすが濃く見えた。とくに彼女が最初に彼にいった中に、マスターズは警察官だという警告の言葉が含まれていたからだ。
「おまけに、われわれの帰る前に、彼女はすっかり慌てたところを見せてしまった! あまり慌てたので、セヴァン伯のことまで喋り始めた――この一年に何度も便りをよこしたとか、あまり金目《かねめ》|ではない《ヽヽヽヽ》装身具などをエジプトからときどき送って来たとか、なんだとかね。そんな話はなに一つわれわれは尋ねなかったのに、彼女がそういうことを喋ってくれたので、われわれは大いにわかってしまった。それに、もう一つほかの点で私の発見したあることを加えると、どうも……」
ヘレンは先刻から当惑した緊張した面持ちでいたが、両手を強く押し当てた。
「何を暗示していらっしゃるのでして?」ヘレンは叫んだ。「ボーモントさんがそこへいらっしたのは、あの……?」
「黄金の短刀と黄金の香合を受け取るためじゃ」H・Mがいった。やがて「それとちょうど同じ時刻に、ある人物はその品が原因で殺人を犯そうと準備していたのだ」と、いい足した。
太陽が頭の上に来て、西へ回りかけていたので、バルコニーの上は暑くなった。
リオ・ボーモントは心持ち青ざめた顔で指の爪先を調べていた。
「その啓示の多かった日の出来ごとの話をつづけよう。セヴァン伯は英国に戻って以来、一分ごとに死に近づいていた。その午後、雨が降りはじめた。一台の赤塗りのベントリが、一人の人間を乗せて、こことロンドンの中途のどこかを走っていた。リオ・ボーモントは、四時半には、あの門のあたりに粘っていた…」
彼は手をつき出した。
「それで?」マスターズがいった。「つづけて下さい!」
「その頃、お主とおれは、マスターズ、食器室にいた。まもなく五時というとき、切抜き帳のおかげで、おれは啓示をえて、ヘレン・ローリンがどういう風に『消えた』か、掌《たなごころ》をさすようにはっきりとわかった。おれは嬉しかった。まことに嬉しかった。おれは自信満々と、あの子はぶじだと宣言した。彼女の恋人はなにも心配しなくてもいい、と。
「その直後に――一大恐慌が起った。電話がかかって来て、セヴァン伯は昼前にロンドンを出発したから、もう着いているはずだ、という。二階の居間から青銅のランプが姿を消した。バート・レナードがやって来て、四時半にベントリ型の自動車が着いたと知らせた。帽子、外套、それから青銅ランプがそろって書斎の床の上にあった。が、セヴァン伯の姿は見えない。
「やっとのことで消失幽霊を退治できたと思ったとたんに、グラン・ギニョール〔怪奇趣味の操り芝居で、ひところパリで評判になった〕式の恐怖がまた押しよせて来た。参った!
「おれはヘレン・ローリンが無事にこの家で女中に化けて住んでいることを証明できた。おれはなんの雑作もなく証明できるつもりでいた。しかし、これは親父さんには巧く当てはまらない。同じ一巻きの布《ぬの》から隠れ服を二着とるわけには行かない。これは恐ろしい衝撃だったのだよ、お主たち頭の悪い連中にはわからなかったろうが。万一、おれが間違っていたら……
「だが、おれは間違ってはいなかった。
「この消失には殺害の意図がはっきり書いてある。作者の署名が読めた。黄金の短刀と黄金の香合がこの事件でどういう位置をしめているのかもおれにはわかった。それはリオ・ボーモントとジュリア・マンスフィールドが雨の中をやって来るのを見たとたんだった。おれはボーモントと二分間話しあった。おれは電話の機構を思い出したのだ……」
ジュリア・マンスフィールドが急に立ちあがった。
「私が、こ……ここに来ましたのは」彼女の舌はややもつれた。「私に向けられた実にひどい不平手段を暴露するお手伝いのためだったのですわ。そんな暗示をなさるなら、私もう我慢できません。いかにも、私かボーモントさんがセヴァン伯爵の死と関係があったかのような!」
しかしH・Mは彼女の顔もボーモントの顔も見ていなかった。卿は手をのばして、意地悪く指さした。
「貴公の用のあるのはあの男だ、マスターズ。すべては彼の企みなのだ。恩になった人物を絞め殺すのをなんとも思わない若い悪漢はあれだ。今は少し青くなっているが、われわれが取調べを終る頃には、もっと青くなるだろう」
オードリ・ヴェーンが悲鳴をあげた。
なぜなら、H・Mが指差しているのは、サンディ・ロバートスンなのだった。
二十
「気でも狂ったのですか?」サンディがいった。
「いや、違う」H・Mがいった。
サンディは欄干に背をもたせて立っていて、上体を前にかがめ、両手で両側の石を掴んでいた。唇は乾き切って、皮膚の割れているのも見えた。堅い笑みを浮かべてはいたが、いかにも取ってつけたような感じで、さすがのサンディも初めて不愉快な印象を与えた。
「貴公の前に三人の婦人がいる」H・Mは続けた。「ヘレン・ローリン。オードリ・ヴェーン。ジュリア・マンスフィールド。その一人一人に貴公は愛を表白した。一人一人をいろいろな意味で貴公は利用した。みんな金を手に入れるためだ。貴公はそうして暮らしていたのだろう。そうだな?」
H・Mはリオ・ボーモントのほうにまた体をしゃくった。
「さて、若いの! ご苦労だが、昨夜ホテルでおれに話したことを、もう一度いってくれるかの?」
「いいですとも」ボーモントが答えた。ボーモントの態度はテキパキしていて、迷うところがなかった。が緑色の目は油断がない。「カイロで、四月の第一週に私は短刀と香合を買ったのです」
「誰から買ったね?」
「そこにいるロバートスン氏です。氏は」ボーモントは躊躇した。「墓から発掘された沢山の遺宝の中からそれを抜くというのでした。セヴァン伯が気のつくのは相当たってからに違いないと彼は思いこんでいたのでした。そうなったら、セヴァン伯に――伯は事務家ではなく、おまけにひどくウッカリした性質なので――紛失してしまったのだといいくるめられる、と彼は信じていたのでした」
「貴公がセヴァン伯と取引に失敗したので、それでこの男が条件をもって貴公に近づいたのだな?」
「その通りです!」
ボーモントの顔が堅くなった。
「私は三万ドルを払うことになりました。彼は巧くあの品をエジプトから持ち出してくれると保証しました。その半額はあれを密輸出した日に払いました。残りの半額は、英国に私が来て、短刀と香合を受け取ったときに払う約束だったのです」
「そして、彼はどういう風にしてエジプトから持出すつもりだったのかね?」
「|私が《ヽヽ》お答えしてよろしゅうございます?」ジュリア・マンスフィールドが叫んだ。
H・Mはサンディのほうをみた。
「貴公は」卿はマンスフィールド嬢を指差した。「こんな女は一度も会ったことがない、というつもりではあるまいの? 日曜日に、骨董店で、彼女はセヴァン伯が親切だったという話をしていた。それから『それからもう一人の紳士も』といって、口ごもって、それから真赤になった。
「もう一人の紳士? 彼女の居間の、一番お誂えむきの場所に、貴公の写真が銀の額にいれて置いてあったのだ。あの写真を見たとき、おれはこの黄金の短刀と黄金の香合の事件が貴公の巧みな筋書にもとづくものだと大体感づいた。前に貴公がカイロの『コンティネンタル・サヴォイ・ホテル』を肩で風をきっているのを見たことがある。その頃から貴公の面は気にくわなかったよ」
ここでH・Mはキット・ファレルを睨んだ。
「貴公は想像がつかなかったのか? オードリ・ヴェーンが貴公に話して、あの女はロバートスン氏が靡《なび》かせたい人だと教えただろうが。少なくとも、ベンスンのいうところでは、昨日大広間でオードリの話すのをきいていたら……」
「ご前《ぜん》様!」ベンスンは驚いて、大きな声でたしなめた。
「とにかくだ」H・Mがいった。「あの品をエジプトから密輸出する件で……」
マンスフィールド嬢はサンディのほうを見ようとしなかった。
目の下の熱の華をのければ、相変らずまっさおだった。両手は硬直させたまま両脇にたれている。怒りと屈辱としだいに増す当惑に、顎を引いていたので、彼女はみんなに命令するような格好になった。
「遺宝をエジプトから密輸出するのは」彼女は平静な声で話そうと努めた。「普通の方法では絶対にだめなのです。少しでも不当な小包は、カイロ博物館の封緘《ふうなつ》がしてあって古器物省の証明のある送状がないかぎり――もう必ず港でおさえられるにきまっているのです」
彼女は口ごもったが、気を取り直して続けた。
「でも、セヴァン伯のような有名な古代学者はみなさん輸出免状をお持ちなのです。そうした方々はよく、あまり値打のないコマゴマした品物をお友達にお送りになります。セヴァン伯が私にお送りになったように。そして、そういう場合には、始終でもないのでしょうが、役人は小包の中身を検査しないまま、封緘《ふうなつ》して許可ずみの印を捺すのです。
「ジョージ・アンドルー・ロバートスン氏は」彼女は憎悪の色をこめて、サンディの本当の洗礼名に力をこめていった。「セヴァン伯の右腕ともいうべき人として知られていました。彼はセヴァン伯の筆蹟をまねて偽の申告書を作って役人のところに持って行きまして、これはやすっぽい金物で、セヴァン卿が私のところへ送るのだ、といいましたのです。|私へ《ヽヽ》ですのよ。
「前にもそういうことがありました。役人は小包を開けてもみませんでした。ジョージ・アンドルー・ロバートスン氏は」――この名前を口にするだけでも彼女は腹が立ってたまらないようすだった――「ボーモント氏に、たやすくできるといいました。英国に馬鹿な女がいて――つまり私のことです――彼の頼むことならなんでもきく、といったのでした」
ジュリア・マンスフィールドは頭を低くした。
「そうでしたでしょう、ボーモントさん?」
「そうです」ボーモントがいった。「遺憾ながら、その通りでした!」
サンディ・ロバートスンはやっと口が利けるようになった。
「なにを二人とも馬鹿なことをいうんだ!」と彼はいった。この攻撃で狼狽しているというよりは、こういう無茶な陳述を二人がするという事で驚いてしまっていたのである。彼にはそれが理解できなかった。
「君たちは」サンディが金切り声をあげた。「余計な無駄口を叩くとどういうことになるか知っているのか? 君たちは二人とも牢屋に行きたいのか? 君達は共犯で起訴されるぞ、この……」
ボーモントの声が彼を遮った。今度はおよそ鋭い口調であった。
「大丈夫」ボーモントはいった。「起訴はされない。僕はヘンリ・メリヴェル卿にある証拠を提供する約束をした。それに対して卿は僕にある約束をして下さったのだ。その約束の一つは、いっさい刑事問題にはしないということだったのだ」
マスターズ大警部が慌ててこの口論に割ってはいって来た。「ちょっとお待ちなさい! 私は警察官です! 重罪を示談で解決することは出来ませんぞ! ヘンリ卿はそうした権限はお持ちではなく……」
「いや、持っとるのだ」H・Mは静かにいった。「一分か二分で、その理由がお主にもわかるだろう」
H・Mは意地悪な目でサンディを再び見すえた。
「これまでに調査したところにもとづいて、事実をありのままに話そう。セヴァン伯はふと密輸出のトリックに引っかかったのに気がついた。それは貴公と彼がまだカイロにいた頃だ。貴公は否定した。伯爵はその小包を許可したカイロ博物館の役人を連れて来た。もっとも、貴様の悪業を役人に暴露はしなかった。
「そこで貴公は大芝居をした。この事件を表沙汰にして仮面を剥がないでもらえないかと哀願した。二三日のうちに一緒に英国に帰る、と貴公はいった。品物はまだジュリア・マンスフィールドの骨董店にあるはずだから、それを取って来て返すから――ぜひ穏便に、と平蜘蛛のようになって詫びた!
「『よろしい!』セヴァンはいう。『だが、私は君から離れないでいよう。われわれはあの骨董店に一緒に行く。君がまたなにか不正なトリックでもすると困るから』」H・Mは回りを見まわした。「なあ! 貴公たちも覚えているだろう、セヴァンがカイロから電話で話したときの口調を。『ロバートスン氏』のことを話したときの、あの刺すような侮蔑的口調を。
「貴公とセヴァン伯爵は金曜の朝の飛行機でカイロを離れた。貴公たちが出発する前の日……いや! 実に奇妙な話だ! アリム・ベイがまた現われて、もう二つ予言を発表した」
アリム・ベイが一歩後ろに退った。
「おれは考えていたのだ」H・Mがうなった。「アリム・ベイがどの程度のインチキ漢なのかと。この子がほこりと化すという彼の最初の予言は、新聞記者の目の前で熱をあげて、金のいらない宣伝をしようとしたのに過ぎないのは、おれがここに保証する。
「彼はたんに、今も昔も占い師はこういうものなのだが、一か八か当てずっぽをいったのにすぎなかった。万一なにかが、なんでもいい、この子の上に起れば――ヘレン嬢が玄関先の靴拭いにつまずいて、ドスンところんだくらいでも――彼は、あれはヘリホルが怒りの光線を投げたのだ、と後でいえる。占い師などという者は、みんなこうして暮らしているものなのだ。
「ところが木曜日に彼は二つの発表をしたのだが、これはみごとに的中しているのだ。彼は、ヘレン・ローリンが木曜日に消失したといった。セヴァン伯がつぎに消える番だといったが、正に……」
アリム・ベイが声を高くしていった。「今度はなんといって私を責めるつもりなのですか?」
「やり方が古風すぎるというよ」H・Mがいった。「貴公がこの発表をしたのは、セヴァン伯がコッソリ教えて、そういえといったからなのだ。これ、そうじゃろうが?」
「|そんなことはない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
「よし、よし」H・Mは宥めた。「セヴァン伯は自分の娘の始めたペテンを、一層確立しようとしていたのだよ。そして、いざとなったら例の噂をこっぱ微塵にしてやろうと思ってだ。伯爵は娘が木曜日に失踪するのを知っていた。娘は手紙に書いて、教えて来たのだ。
「伯が英国に帰る目的が二つあった――呪いをうち破るのと、短刀と香合を取り戻すことだ。しかし、自分は知らなかったが、実は自分も手をかしてこしらえた|わな《ヽヽ》のほうにまっすぐ歩いていたのだった。つまり、伯は本当に犠牲者とされるべく狙われていたのだ――サンディ・ロバートスンに。
「あの人ざわりのいい青年は」H・Mはまた指差した。「進退きわまっていた。老人を生かして帰すわけには行かなかった。第一、まだ一万五千ドルもらえることになっている。第二に、自分がなにをしたかを聞かれてしまうと、ヘレン・ローリンと結婚する機会が多くなるわけでもない。第三に、泥棒をしたなどと世間に暴露されるのは彼の趣味にあわない。英国の土を踏んだとき以来、セヴァンは死んでいるも同様だったのだ」
「死んで」ヘレンが低い声でいった。
娘は両手を目の上にかざした。サンディは本能的にヘレン嬢のほうに進もうとした。間に大きい距離があったのに、ヘレン嬢は後ろに退ろうとした。
「ああ!」サンディは自分に表現できない苦悶からほとばしり出たようにいった。「ヘレン、これは嘘だ!」
「そうか?」H・Mが尋ねた。「では、これだけ話してもらおう。セヴァン伯は貴公の車を借りて、一人でこっちにやって来て、四時半に着いた、ということになっている。貴公はそのときどこにいたのだな?」
「僕がどこにいたかご存じのはずでしょう! ロンドンにいましたよ! 五時にキット・ファレルと電話で話をしましたもの!」
「そうか。では貴公はロンドンから電話をかけたのか?」
「当り前です!」
「違うぞ」H・Mは折った紙きれをひろげながらいった。「ここにキット・ファレルが新聞記者の一人からもらったリストがある。これは木曜の晩から日曜の晩の七時までの間の、長距離電話の表なのだ――かけた通話と、|かかって来た《ヽヽヽヽヽヽ》通話の、な。もし貴公がロンドンからかけたのなら、かかって来た通話を電話局が一つも記録していないのはどういうわけなのだな?」
卿はその紙きれをテーブルの上に落した。
「いかさまだ!」H・Mは、こうした不手際が本当に腹が立つ、という声を出した。「あの女の子から少し知恵をかりたほうがいいな。あの子は実に頭がいい。セヴァン伯がいかにもパッと書斎から姿を消して――ベントリ社の自動車と、外套と帽子を残したまま――しまったとき、貴公が『ロンドンからかけた』電話の件がすぐ頭に浮かんだ。
「電話局は長距離のときにはいつも『マグルトンの〇〇〇一番ですか? ロンドンからお電話です』」と最初にいうが、あのときにはなんともいわなかった。いきなり貴公の声が受話器から飛び出して来たのだ。
「もう一つの方面でもヘマな点があった。キット・ファレルとおれが、セヴァン伯の消失の後で、書斎で待っているとき――マスターズは女中たちを悩ましに行った後――そこに来訪者があった。ジュリア・マンスフィールド嬢が雨のなかを、紙包みを抱えて、やって来て……」
H・Mはしだいにゆっくり喋りだした。卿の声はうながすようでもあり、記憶を呼び起すような調子でもあった。マンスフィールド嬢が代って喋り始めるように仕向けたのである。
だが、彼女は強い身振りをしただけで、また椅子にグッタリと坐ってしまって、顔をそむけた。
「その小包には」H・Mがいった。「例の短刀と香合がはいっていた。確実にはわからないのだったが、頭を働かせれば推測できたのだ。彼女は怯じ気がついて来ていた。もうあれ以上手許に置いておくのに堪えられなくなった。それでコッソリとセヴァンの書斎に放りこもうとして来たのだった――その書斎というのが実は因縁もので、彼女は何年かまえ最初に、サンディ・ロバートスンにあすこで会ったのだ。
「ところが、突如、雨の中から現われて彼女の前に姿を現わしたのが、われらの|うろつき《ヽヽヽヽ》の名人ボーモントだった。猫のように、ひとりでうろついていたのだ。彼女は包みを取り落した。彼はそれを拾って、ポケットに入れた。短刀と香合か、というのか? そうなのじゃ! そして、五ポンド払っておったよ!」
「ジョージ・アンドルー・ロバートスン氏から手紙が来まして」マンスフィールド嬢は振りむきもしないでいった。「ボーモント氏が取りに来ると知らせてきましたのです。大丈夫だから渡せ、と書いてありました!」
そういい終ると、我慢できなくなったと見えて、彼女は拳で椅子のひじを叩き始めた。
「私は一味ではありません」彼女は叫んだ。「私は一味ではございませんのよ!」
「落着きなさい」H・Mがいった。「私はそれから、心配するなといったじゃろうが」
卿はマスターズに向かっていった。
「ようすがわかったのは、マスターズ、それからおれがまだ書斎の窓の外に立っているボーモント氏と話をした結果じゃったのだ。いいかな、ボーモントは四時半には門のところにいたのだ。必ず赤塗りのベントリでセヴァン伯がはいって来るのを見たに相違ない。名刺の上に用件を書いて渡したくらいだからな。
「その癖、その名刺の話をしたところ、彼が最初にいったのは『ではやはりセヴァン伯はご在宅なのですか』という言葉だった。それも、息をはずませて、口笛でも吹きたいような驚いた口調なのだ。まるで僥倖をたのんで名刺を届けさせたかのように。それから、おれがつぎに単刀直入に質問をしたのを、なんとかハグらかさなければならなくて、大いに驚いていた。
「なぜ驚かなければならなかったのだろう、マスターズ?
「それからおれは、セヴァン伯はここに着いたのだが、とたんに外套だけ残して、硫黄の煙とともに消えてしまった、といった。それから電燈をつけた。外套と帽子と、青銅ランプのあるのがボーモントに見えた。彼は大いに喜んでいた――大きな猫のように、窓に取っついて、大いに喜んでいた。
「で、おれはつぎに単刀直入に質問した。『貴公は、セヴァン伯爵の姿を見たのじゃろ?』すると、マスターズ、彼はサッと微笑した……見てみい、今もそれと同じに笑っている!……そして、見た、といったのじゃった。
「彼がそういったのは、そうなれば超自然的な消失が二度起ったことになるからだ。ほしくてたまらない青銅ランプの評判がもっと高くなるからだ。青銅ランプの功徳はいや増しに高くなる。ボーモントはアリム・ベイと選ぶところのないインチキ師での……」
ボーモントはちょっと軽く動いた。彼の身ごなしにはなにか猫のようなところがあって、爪のある手が感じられた。
「……もっとも」H・Mはいった。「少し巧妙な点で勝ってはいるが。なぜなら、彼が見たベントリに乗って門の中へはいった人間は、セヴァン伯ではなかったからだ」
「父では……ございませんでしたの?」ヘレンがきいた。「では、誰でしたの?」
「サンディ・ロバートスンじゃ」
言葉がきれて、サンディが文字通りに気持が悪くなりそうに見えはじめた。H・Mは続けた。
「きのうの正午少し過ぎに、セヴァン伯は実際にあの車に乗ってロンドンを出発したのだ。だが、伯爵は一人ではなかった。ロバートスンが一緒に乗っていた。最初は――ないしは、少なくともセヴァンはそう思っていたのだが――二人はグロスターの例の骨董屋に向かっていた。あの短刀と香合を取るために、だな。
「ロバートスンは殺人を犯さなければならないのを知っていた。だが、いったい全体どういう風にして犯跡をくらませるだろうか。唯一の方法は……
「一大啓示が頭に浮かんだ! もしセヴァンも『消失』すれば、娘と同じように!
「いいかね。ロバートスンは娘が本当はどうなったのかぜんぜん知ってはいなかったのだ。そうした事情のもとだから、セヴァンとしてもそんなことを彼に話すはずもないし、また事実話さなかった。ロバートスンは彼女がどうなろうと本当は構わなかったのだ。ただ、大部分の人が考えていたように、彼女が死んでしまっていたのなら、彼女と結婚する機会がフイになる、とだけしか思っていなかったのだ。
「要点は、セヴァンがつぎの犠牲者だと宣告されていたところにある。もし伯爵が青銅ランプに殺《や》られたにせよ、この青銅ランプの背後にどんな人間要素があったにせよ、誰からも疑われないですむのはサンディ・ロバートスンだけだった。娘の消えたときには、たしかにカイロにいたという証拠があるのだから。
「どうやら彼はこの計画のために何日も知恵を絞っていたのだろう。きのうの午後、ついに彼はそれを決行した。
「あたりは薄暗く、おまけに雨がひどかった。セヴァンを隣りに坐らせて、彼はグロスターめざして全速力で走らせた。彼はここから西に当る川沿いの道を取った。川沿いの道の一番淋しいあたりで、彼は車を停めた。彼は自分をエジプト警察の手から保護してくれた人間の首を絞めた。
「本当は絞めるというほどでもなかった。相手の心臓が弱っていたから、ちょっと圧迫して、少し呼吸をとめただけで用は足りた。グッタリなったところに、車の修理道具を重しにつけて川に沈めた。後で、よし発見されようと、誰のものやらわかるはずのない骨になっている訳だ。おまけに彼は敷地の境界の塀ぎわの一点を選んだ。詳しくいえば、塀についている小さい裏門の際だ。まだ実際に見たことがなくても、マスターズからこの裏門の話はきいているだろうな。
「彼はセヴァン伯の帽子と外套と鍵束は取っておいた。だが、すぐには彼はこういう物を使わなかった。
「彼はまず歩いて偵察にやって来た。誰も彼をみつける者はいなかった。臨時雇いの庭師たちは、もうみんな引きあげてしまっていた。もう用事はなくなっていたのだ。警察は夜だけしか警戒していない。
「で、ロバートスンは予想していたところを確認した。門はセヴァンの昔からの習慣通りに、あけ放してある。門番小舎には一度も見たことのない門番がいる。彼のしなければならなかったのは、小舎と母屋の連絡を断つことだけだった――つまり、食器室の窓の外の電線を切ればいいのだった。
「こういうことを全部するのに、なにしろ広い屋敷の中を徒歩で行くのだから、相当時間がかかった。しかし、無事に車に戻った。彼は車を正面に回して、正門を時速五十マイルの速力で弾丸のように通り抜けた。バート・レナードの目には、薄暗い雨降りなので『年輩の』顔――彼は、歩きぶりと髪と全体の若々しさを無視すれば、五十がらみに見えるじゃろ?――が、深くかぶった烏打帽と襟を立てた外套の間から出ているところが、チラッとうつっただけだった。
「いいかな。後から車に乗っていたのはこの男だと確認する者は一人もいなかったのだ。それに、バート・レナードは一見いかにも若々しい男と、ブレザー上着をきてフラノのズボンをはいて、身体を今ゆすぶっている男と、それを後で結びつけそうに思われない。
「後はもう別に話すことはないのだが、ただ一つかなり思いきった放れわざを彼はやってのけたのだった。彼は母屋に車を乗りつけ、横手の扉をあけて、帽子と外套を床に放り出した。どの新聞もこの一つの事実は筆をそろえて書いていた――キット・ファレルがヘレン嬢の初志を守って、青銅ランプを彼女の部屋の炉棚の上に置いた、と。だから彼は青銅ランプのあり場所を知っていた。彼は壁の中の螺旋階段を駈けあがって、ランプを持って来て、またもや青銅ランプの怪事件を指示するようにそれを書斎に置いて、雨の中を家を後に出て行った。
「五時前に、彼はグロスターの自動車協会から電話をかけた。ロンドン発の夜行列車が着いたときに、また姿を現わせばいい。おれの質問したい点は、あと一つしかないのだ。ボーモント氏!」
「はい、ヘンリ卿?」
「きのうの午後、四時半に、あのベントリで誰かが門を走り抜けたのを、お主は見たかな?」
「見ました」落ちついて、いつも微笑をしていて、めったに言質を人に与えない、少し面憎《つらにく》いところのあるボーモントが、油で固めた頭を傾けた。
「貴公の見た人間は誰じゃったな?」
「ロバートスン氏でした」ボーモントが答えた。彼は手をのばした。「では、よろしかったら、青銅のランプがいただけますか?」
なにか恐怖に似た衝動がキット・ファレルの身体中を走った。サンディが言葉をなさないわめき声を立てたからだけではなかった。
「ヘンリ卿は」ボーモントが説明した。「きのうの晩、解決方法をお立てになったのです。ヘレン嬢は発見なさったのでしたが、親御さんのほうは、なくなられたに相違ないと思うと告白なさいました。それから、卿は僕のホテルに会いに来られたのです。卿は――これは本当なのですよ――僕がなにもかも知っていることを洗いざらい話すなら、告訴されないようにする、と説明なさったのですが――僕に青銅ランプが手にはいるようにする、とおっしゃったのです」
「青銅のランプが?」ヘレンが鸚鵡《おうむ》がえしにいった。息をはずませ、綺麗な顔は不満に歪んだ。「まだほしいのですか?」
「とうぜんでしょう?」
「私が――みんな|私が《ヽヽ》したのですのよ! 最初に考えた通りの事を証明したのに? つまり、この呪いが全部根拠のないでたらめなのを証明したのに?」
「親愛なるお嬢さん」ボーモントがニッコリした。「あなたはその正反対を証明なさったのですよ。ごく真実な力に公然と反抗なさろうとして、今では世間の目には愚かしい危険なものと見られている冗談をなすった結果、あなたはご自分の親御さんの死をお招きになったのですよ。アリム・ベイが今しがた、あなたにそうお話ししましたね。母屋の角を回って来るとき、僕にきこえたんです。青銅ランプをいただけますか?」
「カッタル・アラー・ケイラー!」アリム・ベイがわめいて感極まるあまり、両手で胸を叩いた。
「受け取れよ」H・Mがいった。
いいかげんに放った青銅ランプは、空中に弧を描きながら、熱い日の光を受けてきらめいた。ボーモントは毀れ物を扱うような手つきで受け留めた。
「これには血がついている」彼はいった。「遠からぬ先のある朝の八時に、あのわめいている青年が、つまりロバートスン氏が、死刑執行人のところにつれて行かれるとき、もっとこれは血にまみれるでしょう。出入口の長《おさ》は、終局が死であって目的が罰でさえあれば、その発動力がなんであろうと気にかけるでしょうか? 僕は新聞記者に向かって、そういってやります。新聞記者に向かって、そういってやったのです」
サンディ・ロバートスンがバルコニーの敷石の上に、うつ向けざまに長く倒れた。そのまま、恐怖の苦悶に身をよじりながら、拳で敷石を叩くさまは、怪奇でもあり、また恐ろしくもある光景だった。
「僕をつかまえさせないでおくれ、オードリ」と彼のいうのを一同は耳にした。「後生だから、つかまえさせないで!」
ボーモントがヘレンを見た。「|あなたの《ヽヽヽヽ》仕業ですよ、お嬢さん」
「それはなにを意味するのじゃな?」H・Mは柔らかい、重い口調でいった。「新聞記者にもう話したという件は? おれは貴公が自分の素性を秘密にしていたと思っていたが」
「その瞬間までは、おっしゃる通りでした」ボーモントは穏やかに同意した。「ですが、こんな立派すぎる商売の好機は逸しられませんからね。昨夜、あなたが僕のホテルをお出になってから、死人の声が僕に話しかけたのです」
「おれがあれについてみんな話してきかせてやった後でか? セヴァン伯が死んだのを貴公が知った後でか?」
「その死人は」ボーモントが答えた。「あなたにはとうてい理解できない力の媒介によって僕に話しかけたのです。もう新聞に出ていることと僕は信じます。僕はこの青銅ランプの力の使いかたを知っているのです。あなたには異議の申立の出来ない沢山の啓示が、セヴァン伯に関して僕に与えられたのです」ここで彼の口調がかわったが、口と目はなおも笑みをたたえていた。「ランプのおかげでね、馬鹿な爺さま。さよなら」
「ちょっと待った」H・Mがごくおだやかにいった。
その調子がなにか気になったらしく、ボーモントはクルリと振りかえった。その向う側にいたアリム・ベイは、正式な敬礼をしている最中、そのまま動きをとめた。
「ベンスン!」
「はい、ヘンリ卿様?」
「なにかお主のする用があったのじゃろ」
「かしこまりました」
正気とはいえない放心状態で、キットは眺めていたが、ベンスンはある一脚の椅子のほうに歩いて行く。空の籐椅子である。さきほどから、ときどき、ベンスンはこれを盗み見していたのであった。
ベンスンはこの椅子をずっと後ろにさげた。
バルコニーの平らな平面は、ここで割れていた。敷石の一板が、おそらく一ヤード四方もあろうか、揚げ蓋のように一端が六インチか七インチあげてある。煉瓦がかってあって、とめてあるのだった。今まではこの椅子があったので隠れていたのである。
それは十八世紀にオーガスタ・セヴァンが気に入っていた偽の土牢に通じる入口なのである。よく知っている癖に、キットはすっかり忘れていた。ところが、今これが役に立ったのだから、オーガスタがいたら、手を打って喜んだに違いない。
セヴァン伯爵領四代の当主ジョン・ローリンが、傾斜の急な内梯子をゆっくり登って姿を現わした。皮膚は日によく焼けていたが、顔色はまっさおだった。足元は乱れがちで、絶えず片手を上着の内側につっこんで、心臓のあたりをおさえていた。しかし、まがうことなく生きている。
セヴァン伯爵に向かい合った一団の人々は、坐っているのも立っているのも合わせて、九人だったが、誰も筋肉一本動かさなかった。ただ、サンディ・ロバートスンが急にひじをついて半身を起した。この緊張しきった沈黙の裡に、H・Mの声がおだやかに、低い調子で、さり気なく、起った。
「どうだの」卿はボーモントにいった。「青銅ランプの魔力じゃが。お主はなんといっとったかな……」
セヴァン伯は――荒々しい息づかいは誰の耳にもきこえた――ゆっくりサンディ・ロバートスンのほうへ歩いて行った。
「立ちなさい」伯はいった。「告訴はしない。しかし、出てお行き。出るのだ。|出て行け《ヽヽヽヽ》!」
H・Mは火の消えた葉巻の匂いをかぎながら、なおもボーモントを眺めていた。
「こうなのだよ」卿はいった。「昨夜お主のホテルを出たとき、おれは本当にセヴァン伯は死んでいると思っていた。本当の話なのじゃ。
「で、おれはジュリア・マンスフィールドの骨董店に行って、今日ここに来ていろいろなことを証明してくれるかどうか頼んだ。おれがあすこにいる間に、彼女に電話がかかって来て、誰かに殺されかかった中年の紳士を二人の百姓が川からひきあげた、としらせて来たのだ。ひどい心臓の発作を起していて、彼女の骨董店について、なにやらわからぬことを口走ったのだそうな。とにかく、その男は病院に運ばれたのじゃ。
「おれたちは行ってみた。ロバートスンの殺しかたが不充分だったのだな。彼はビクビクしすぎていたのだ。医者たちは驚いたが、セヴァン伯はぜひとも今朝おれと一緒にここに来て、おれの手配した細やかな実験に顔を出したいという。マンスフィールドの姐ちゃんもやって来た。で、おれはブラインドをおろした車に乗せて、二人を人目にふれずにここへ連れこんだのじゃよ。時間があったから、ゆっくりベンスンと二人で段取りをきめて、それからヘレンに、親父さんは弱ってはいるが、死んではいないのだ、と念を押したのじゃ」
H・Mは身体を前にかがめた。相変らずおだやかな目つきでボーモントのようすを見ている。
「おれはの、お主がこんなような芝居を打つだろうというのは、こころえていたのだ。それから、ロバートスン青年はこっぴどくこらしめられる必要があった。で、お主はあの短刀と香合を、この町から出て行く前に、セヴァン伯爵に返したがいいぞ。さもないと、お主は牢にやられることになる。ところでな、お主があれだけ新聞に喋ったあげくだが、まだその青銅のランプがほしいかの?」
ボーモントはランプを手の平にのせたまま、身動きもしないで立っていた。
ちょっと左に身体をひらくと、神秘的な予言者というよりむしろ野球選手を思わせる手の振り方で、彼は投げた。ランプは欄干を越えて、長い弧を描いた。軽い音を立てて、それは地面に落ちて、オランダ式の庭のかすかな傾斜をころげて行った。ボーモントは軽く頭をさげ、一同に背を向けると、大手を振って出て行った。後からアリム・ベイがついて行く。
サンディ・ロバートスンは両手を目に押しあてながら、あぶない足どりで、先の尖った扉を通り抜けて食堂にはいって行った。オードリ・ヴェーンは、白い顔に憎悪の色をたたえて、一同をチラと見やってから、サンディの後を追った。オードリが腕を彼の腕の下にさしこむさまが一同に見えた。
ヘレンはキット・ファレルの傍に来た。キットは両腕を身体にまわした。セヴァン伯はにこやかに笑いながら、手をヘンリ・メリヴェル卿に差し出した。
「ベンスン!」
「はい、ご前《ぜん》様」
セヴァン伯爵は振りかえって執事を見た。
「新聞記者諸君をご案内していいよ」と伯爵はいった。(完)
解説
ヴァン・ダインやエラリー・クイーンが、戦前はなばなしくもてはやされたのに対し、わが国のカーについての認識は実にわびしい限りであった。戦後ようやく本格推理小説待望の機運が生れて、今では欧米でも数少ない本格派の巨匠であるカーが、改めて注目を浴びることになった。
先に東京創元社から刊行された「エラリー・クイーン作品集」は、従来の抄訳・悪訳によって面目を誤り伝えられていたクイーンについて、精密な完訳に新紹介作品を加えて、長年の渇《かつ》をいやしてくれたのは、推理小説愛好家にとり大きな福音であった。こんどは六十篇におよぶカーの著作から、その精髄を選んで作品集が編まれることになった。現在刊行中の「世界推理小説全集」や、「現代推理小説全集」「クライム・クラブ」の横断的な秀作の集大成に対し、クイーンやカーなどの巨大な業績を系統的に総覧し得る作品集の刊行は、両々相まって欧米の本格推理小説の成果の正当な評価に資する点が大きい。
さてその「カー作品集」の刊行に際して、著者の略歴を紹介しておこう。彼は一九〇六年、ペンシルヴァニア州のユニオンタウンに生れた。父親は郵便局長をつとめたことがあり、また一九一三年から一五年まで国会議員に選出されたことがある。
少年時代にはご多分に洩れず、シャーロック・ホームズやダルタニャンに憧れた。大学では法律を学んで、一九二八年にそのペンシルヴァニア州のハヴァフォード・カレッジを終えた。それからヨーロッパに遊学したが、法律の勉学は一向進まず、文学青年としての生活を送った。その間にミステリーや歴史的ロマン小説を書いたが、意に充たず破棄したり、発表されても世評にのぼらなかった。
結局ニューヨークに帰り、一九三〇年、二十四歳のとき、推理小説の処女作「夜歩く」を刊行、これがすばらしい反響を起した。その後、海外旅行を試み、途中イギリス人の女性と知り合い結婚したが、新夫婦はイギリスで家庭をもった。彼はアメリカに生れながら、ドイルやチェスタトンを生んだイギリスを愛し、十七年間を過ごした。しばらくアメリカに移住したが、再びイギリスに戻ったところを見ると、よくよくのイギリス好きで、イギリス作家といってもよいくらいである。
戦争中は何度も彼の家に爆弾が落ちたが、そのたび奇蹟的に助かった。しかしロンドンの生活がいよいよ厳しくなったので、一九四八年には家族とともにアメリカに移り、アメリカ推理作家クラブの会長に推されたほどであるが、六、七年を過ごしてロンドンに舞い戻っている。
ジョン・ディクスン・カー John Dickson Carr は本名で書いたものの他、カー・ディクスンを用いたり、カーター・ディクスンの筆名を使ったりした。そしてそれに登場する探偵も、ディクスン・カー名義ではフェル博士、カーター・ディクスン名義ではH・Mすなわちヘンリ・メリヴェル卿がほとんどである。ただしカー名義である処女作の「夜歩く」を初めとして、続く「絞首台の秘密」「髑髏城」「蝋人形館の殺人」にはパリの名探偵バンコランが活躍し、第五作の「毒のたわむれ」にはロンターという青年が推理力を働かせる。フェル博士の登場は第六作「妖女の隠れ家」からということになる。
カーは主として二つの名を使い分け、それぞれ主役の探偵を創造して、六十篇におよぶ長篇を執筆した。一年に二作の割だから、海外作家としては異例の多作家であった。しかも彼は本格派中の本格派ともいうべき、推理小説のもっとも典型的な正統派である。彼の筆を執り始めた一九三〇年には、ヴァン・ダインは第五作の「甲虫殺人事件」を、エラリー・クイーンは第二作の「フランスデパート殺人事件」を書き、他にクロフツの「マギル卿最後の旅」や、ビガースの「観光団殺人事件」などがあったが、一方すでにダシール・ハメットが第二作の「マルタの鷹」を発表している。本格派はヴァン・ダインやクイーンが万丈の気焔を吐いてはいたものの、いわばその最盛期を過ぎようとしており、ハード・ボイルド派がようやく地歩を固めつつあったときである。
その後のカーの活躍はたしかに目覚ましいものがあった。しかしそれは本格派の伝統を最後に固守しようとする孤高の存在であったといえないことはない。クイーンは国名シリーズの作品で窺えるように、謎解き挑戦小説をもって自他ともに許す本格派であったが、戦後の作風にはいちじるしく変化があった。いわば盟友ともいうべきクイーンの変化に対して、カーがあくまでも従来の作風を改めなかったのは、ある意味ではかたくなであり、また成長や進展の見られぬ固陋《ころう》さを感じないでもないが、これほど本格推理小説を愛し、これに殉じようとする気魄を覚えさせる作家はない。
彼の作風については、おいおい述べるつもりであるが、ここでは本書「青銅ランプの呪い」The Curse of The Bronze Lamp についてだけ触れよう。一九四五年に刊行された本書に先立って、すでに四十篇に近い長篇を書いていたわけだが、カーは相変らず「不可能興味」に真正面からとり組んでいる。神秘的な失踪をとり扱っている本篇は、謎のおもしろさはもとより、小道具、背景にいたるまで、こまかに工夫がこらしてある。邸宅に帰った女性が二人の友人を残して、先に玄関の扉を押しあけてはいる。ものの三分とたたないうちに執事と家政婦が彼女の姿が見当らないと言い出す。レインコートと青銅のランプが床の真中に残っているばかりである。彼女は二階へ上がって行ったはずだが、ちょうど階段を下りて来た鉛管工は誰も上がって来ないという。家の中は隈なく探したが見当らない。建築の専門家まで出張して秘密の箇所を調べたが絶対にない。しかも建物の回りには十数人の庭師が仕事をしていて、出入りしたものはないというのである。準密室ともいうべき構成で、その上、背後にはエジプトの古墳から発掘した青銅ランプに対する呪いがあるのだから、謎は一段と強烈になる。
このランプを手にした考古学者の伯爵令嬢が、故国へ向けてカイロを出発しようとする間際に、生きては部屋に行き着けないことを予言される。符節を合わせたように彼女の姿はこの世から消え失せ、さらに父親の伯爵も姿を隠してしまう。カーはこういう神変不可思議の謎を提出しながら、至って合理的に解いてみせる。H・Mの明敏な考察をきいてみると、不自然で非合理的であったことごとくに、きちんとした説明が与えられ、些細な事柄が謎を解く鍵になっていたことが分る。いわばカーこそ二十世紀の魔術師であった。
この書の冒頭にクイーンへの献辞が掲げてある。夜の更けるまで二人で推理小説論をたたかわした思い出のためだという。本格派の権化ともいうべき二人が、若い人々同様、情熱を傾けて論議に耽るようすを思い浮かべただけでもたのもしい。EQMMにも二人の交友ぶりが書いてある。食事のときも、乗物の中でも、歩きながらでも、絶えず推理小説のことばかりを話しあったし、そろって推理小説の古本をあさり歩いた由である。推理小説についての見解がほぼ一致し、共鳴するところの多い二人のうち、一方が他の方に献じたのだから、その自信のほどが察せられよう。両人の交誼を語るものとしても興味のある一巻である。(中島河太郎)
◆青銅ランプの呪い◆
ジョン・ディクスン・カー/長谷川修二訳
二〇〇四年四月二十五日 Ver1