ジョン・ディクスン・カー/平井圭一訳
黒死荘殺人事件
目 次
一 黒死荘
二 痩せた男の話を聞いて、乗りこむ
三 四人の信徒
四 教祖のおののき
五 疫災記
六 教祖の死
七 カルタと麻薬
八 五人のうちの誰?
九 石の密室
十 事件の証言
十一 短剣の柄
十二 暁に消えたもの
十三 ホワイト・ホールの思い出
十四 死んだ猫と死んだ妻たち
十五 心霊の殿堂
十六 殺人第二弾
十七 チョコレートとクロロホルム
十八 妖婆の告発
十九 仮面をかぶった人形
二十 真犯人
二十一 事件の終局
解説
一 黒死荘
口も八丁、手も八丁、それのまるでかたまりみたいな老メリヴェール卿が、先日来、例のごとく陸軍省のデスクの上に、両足をでんとのせて納まりかえりながら、だれか黒死荘事件のてんまつを書くやつはいないかねと、しきりとぼやいているが、どうせそれが自分の名声に箔《はく》をつけたいためであることは、いわずともわかっている。このところ、かれの株も、だいぶ下り坂になっていた。勤務先の役所も、いまはもう諜報局とは呼ばれなくなって、たんに情報部と名前がかわり、そこでの仕事といったところで、まず、ネルソン記念碑を写真に撮るよりも、まだしも危げが少ない程度のものになっていた。
わたしもかれも、おたがいに警察に縁故があるわけではなし、それにこっちは数年前に、すでにかれの配下からは身を引いていることだしするから、いまさらそんなお鉢《はち》を持ちこまれる筋合はない、ごめんこうむりますよと、わたしははっきり当人に、いっぽん釘をさしておいた。だいいち、われわれの友人であるマスターズ――この男は、げんざい、ロンドン警視庁の犯罪捜査課の主任警部になっている――にしてからが、あの事件はあまり書きたくはあるまい。そんなわけで、けっきょく、では君が書くべきか、それとも誰かほかの人間に書かせるべきか、ひとつ掛け値のないトランプの勝負できめたらどうだと、一も二もなくわたしは手詰めの雪隠場《せっちんば》に追いつめられてしまった。ほかの人間というのが誰だったか、今ちょっと忘れたが、とにかく、ヘンリー・メリヴェール卿でなかったことだけは確かだ。
わたしがそもそもあの事件にかかりあうようになったのは、あれは一九三〇年の九月六日の雨のそぼ降る晩、ノース・クロス・クラブの喫煙室へ、ディーン・ハリデーがのっそりはいってきて、あの驚くべき話を聞かしてくれたときに始まる。ここで一つ、声を大きくしてぜひいっておかなければならないことがある。それは、かりにもし、ディーンの家の血統に流れているあの忌《いま》わしい業病《ごうびょう》の筋がなく、また、かれがカナダを何年か流浪していた間に、むちゃ酒をあおった祟《たた》りからくる、あの発作さえなかったら、よもやあんな危険な神経状態におちいらなくてもすんだろう、ということだ。クラブで見かけるかれは、赤茶色の口ひげをはやした、年齢《とし》のわりにふけた顔の、髪の毛が赤く、広い額の下に皮肉な目を光らし、痩《や》せて骨ばった体つきにしては、元気によく動きまわる男だったが、でもその元気なかげに、どうもいつ見ても、なんとなく暗い影が――昔の痕跡《きずあと》みたいなものがどことなくまつわりついている、といった感じがした。そういえば、いつであったか、クラブで仲間が寄り集まって、世間話に花を咲かしていたとき、誰だかが精神病患者に関する新しい学術語について、ながながと一席ぶっていたところ、ハリデーが話の最中に、いきなり横あいから話の腰を折って、「君たちは知らないかもしれんが、げんにぼくの兄貴のジェイムズがそれでね――」といって、声をたてて笑っていたことがあった。
わたしはかれと昵懇《じっこん》になる少し前から、かれの身の上はあらまし知っていた。クラブの喫煙室では、せいぜい世間ばなしをするぐらいが関の山で、おたがいの身の上話までは出ない。ハリデーに関するわたしの知識は、ことごとく、偶然にもかれの伯母にあたるベニング夫人という人と懇親《こんしん》だった、わたしの姉から仕込んだものであった。
なんでも姉の話によると、ハリデーは、ある茶の輸出商人の二男坊とかで、父親はすでにありあまる巨富を占めたので、そのころはもう商売にもさして身を入れず、じじつまた、店も輸入商としては、だいぶもう時世遅れなものになっていたとみえる。頬ひげ豊かな、七面鳥そっくりの鼻つきをした父親は、同業者の連中には鼻つまみで通った、名代《なだい》のやかましやだったそうだが、伜《せがれ》たちにはけっこう甘いおやじだったらしい。もっとも、ハリデー家の事実上の家長ともいうべきは、当の老人の姉にあたるベニング夫人で、この人が何かにつけて目を光らしていたのである。
ディーンは若いころから、ずいぶんいろいろの世間を渡ってきた男だった。大戦前のケンブリッジ大学出身者としてのかれは、ごくもう凡庸な卒業生の一人にすぎなかったが、卒業と同時に戦争が勃発《ぼっぱつ》すると、同窓のだれかれたちと同じように、横のものをついぞたてにもしなかったようなお坊ちゃん育ちのかれが、一躍して、ヘーエあの男がと誰もが驚くような、りっぱな模範兵になった。やがて勲何等章だかと、榴散弾の幾片かを体内にみやげにもらって除隊すると、たちまちそれから本気にぐれだした。もめごとは起こす、いかがわしい手どり女から、約束不履行のかどで訴訟はおこされる。――本家の面々は、いずれも腫《は》れものにさわるように、怖じ毛をふるうという有様。で、とどのつまり、身状《みじょう》の悪いのは他国へ修行に出せば治るという、イギリス人一流ののんき千万な楽天主義から、ディーンはカナダへ遠島《おんとう》になったのである。
とこうするうち、兄のジェイムズは老父の死に会って、これはハリデー家の跡目を継いだ。このジェイムズという男は、伯母のベニング夫人の大の気に入りで、寵愛すこぶる厚く、何事につけジェイムズはこうだった、ああだったと、諸事まるで清廉謹直《せいれんきんちょく》のお手本みたいにいわれていたが、ナニそのじつは、この男、芯《しん》の腐った、見栄《みえ》っぱりのけちくさいお体裁屋にしかすぎなかったのである。よく商用を口実に、近県旅行などにでかけると、あちこちのなじみの女郎屋に酒びたりで二週間もぶん流し、そのあげく、髪などなでつけて何食わぬ顔で、ランカスター・ゲートの本宅へこっそりもどってくると、どうもこのごろ体の調子が悪くて……と、いとまことしやかに狸《たぬき》をきめこむ。――そういった男であった。わたしはこの兄のこともうすうす知っているが、いつもにこにこしながら、そのくせしじゅう何か屈託のありげな、ひとつ椅子に長く腰をおろしていられない、こそこそそわそわと落ちつきのない男であった。もっともそれも、最初から良心というものを持ち合わさない人間なら、べつに仔細もなかったのだが、なまじちっとばかりの良心があるばかりに、その良心がついには、わが手でわが首を締めるようなことになったのであった。ある夜、かれは自宅にもどると、ピストル自殺をしてしまった。
ベニング夫人は、いやもう狂乱の体《てい》であった。彼女は弟のディーンが大嫌いだったのである。それこそうっかりすると、ジェイムズが不慮の死をとげたのは、ディーンのせいだ、ぐらいなことは内々考えていたかもしれない。――しかし、ことここにいたっては、その大嫌いなディーンを九年の勘当から、いやが応でも、家長として呼びもどさなければならなくなった。
ディーンのほうは、これはいつのまにかすっかり真面目な、おちついた男になっていた。でも、昔の飄々《ひょうひょう》とした、どこかとぼけたようなところは、今でも多分に残っていて、それがよい友達(なかには、どうかと思うようなのもあったが)をつくるのに役だった。九年という年月のあいだには、かれも多くの人間と土地のなかでもまれ、人前であくびを噛みつぶす程度の我慢気も、むろん身につけていたし、だいいち、生きのいいその元気と、持って生まれた明けっぱなしの気性は、ランカスター・ゲートあたりの眠ったようなお屋敷|気質《かたぎ》とは、大きに反《そ》りがあわなかったにちがいない。白歯をみせてニヤリと笑うかれの笑顔は、だれもが憎めなかった。好物は――ビールに、推理小説に、ポーカー。……ともあれ、この帰れる蕩児《とうじ》にとって、はた目には万事しごくいい調子に運んでいるように見えた。が、そのじつ、当人は案外孤独だったようである。
そんなところへ、ある問題がおこった。わたしはそのちょっと前に、姉から話をきいていたので、かくべつ驚きもしなかったが、ディーンに婚約の話がととのったのである。相手のひとの名前がマリオン・ラティマーだとわかると、わたしの姉はさっそくその日のうちに、ターザンもどきのすばしこい目を働かして、先方の家の家系をしらべだした。系図の枝葉のそのまた枝葉まで、すっかり洗いつくすと、姉は両手を組んで暗い笑みをうかべ、何やら不吉めいた面もちでカナリヤの籠をのぞきながら、――このご縁談、ぶじにうまく運べばいいけどねえ……といっていた。
ところが、ここにもうひとつ問題があったというのは、いったいハリデー家は、世間によくある家風のばかにやかましい家であった。ディーンは、クラブへきてはべつにふだんと変わりなく口をきいていたけれども、われわれにはいわず語らずのうちにピンとくるものがあった。もっとも、それを当人の前で、あけすけに口に出していうものは一人もなかった。ディーンはわれわれの顔色をうかがいうかがい、わざと陽気にふるまっていたが、かげではほとほと困《こう》じ果てたという様子であった。大きな声で笑っても、どこかしらに無理があった。好きなトランプなどをしていても、うわの空で手もとをよく見ないから、札を切りこぼすことがよくあった。怏々《おうおう》としたそんな一、二週間がすぎたとおもうと、まもなくかれは、ぱったりクラブへ姿を見せなくなってしまった。
ある晩のこと、わたしはクラブで食事をすませたあと、喫煙室でコーヒーを注文し、何をするともなくひとりでぼんやり坐りこんでいた。誰の顔を見ても、いっこうに気分がさえない、そんな退屈気分の泥沼に、わたしは身も心もどっぷり沈めたまま、いまさらのようにこの都会生活の目まぐるしさ、来る日も来る日も判で捺《お》したような、しかつめらしい毎日毎日、よくもこんな無意味なくだらなさに食傷《しょくしょう》せずにいられたものだ、いいかげんになぜ見切りをつけないのかと、そんなことをこと新しく、不思議な思いで考えこんでいた。雨のそぼ降る晩で、茶っぽい色のレザーを張った広い喫煙室には、わたしのほかに人気《ひとけ》もなく、暖炉のそばで新聞を読むでもなしに、ひとり惘然《もうぜん》としているところへ、ディーン・ハリデーがひょっこりとはいってきたのである。
わたしはちょっと居ずまいを直した。――ディーンのはいって来かたに、何か常とちがうものがあったからである。へんにためらいがちに、かれは喫煙室へはいってくるなり、あたりをうそうそ見まわしながら立ち止まって、「やあ、ブレーク」とわたしに声をかけると、そのまま少しはなれた席に座をしめた。
二重に気まずい沈黙がきた。先方が何を考えているか、それは相手のそぶりや様子で、本人がじっと見入っている暖炉の火よりも明らかであった。かれはわたしに何か頼みたいことがあって、それがうまくすらすらいいだせないでいるのだ。よく見ると、靴やズボンの裾《すそ》に、まるで遠道でも歩いてきたような泥のハネがたくさんついていて、指にはさんだ巻煙草の火が湿って消えたのにも気がつかずにいる。くぼんだ頬、張りでたおでこ、がっしりした顎《あご》の線にも、ふだんの気軽な、剽《ひょう》げた様子は微塵《みじん》もなかった。
わたしはガサガサ音をたてて新聞をたたんだ。あとで思いだしてみると、そのとき新聞の第一面の下の方の欄に「×××……の奇怪な盗難」という見出しが、ちらと目をかすめたような気もするけれども、とにかくそのときは、それなりわたしはその記事を読みもせず、それ以上気にもとめなかった。
ハリデーは胸を大きく張るようにして、わたしの方へ顔をあげると、いやにせかせかした調子でいった。
「ブレーク、ぼくはね、君という男は、なかなか思慮分別のある男だと思ってるんだがね――」
「何をまた改まって、そんなことをいいだすんだね?」とわたしは相手の気をひいてみた。
「いやね」とかれは椅子の背に身をそらすと、わたしの顔をまともに見すえて、「君にぼくは、あいつ口の軽い薄のろだとか、婆あみたいな愚痴っぽいやつだとでも、思われやしないかと思ってさ」
わたしが首を横にふってみせると、相手はあわててそれを押し返すように、
「まあ待ってくれよ、ブレーク。ちょっと待てよ。ぼくから話すまえに、ひとことだけ君に尋ねさしてくれ。――あのな、当然君なんかから見たら、それこそみすみすばかくさいようなことでもだよ、このぼくが手を合わせて頼んだら、君、ぼくに一|臂《ぴ》をかしてくれるかね? というのは、君にぼくはぜひ……」
「いいから、いってみたまえな」
「うん、そのね――ひと晩君に、幽霊屋敷で夜明かしをしてもらいたいんだ」
「なんでまたそれがばかくさいことなんだね?」わたしは今までの退屈がいっぺんに消しとびかけたのを、つとめて色に現わさないようにしながら、そういって聞き返した。内心、こいつはちょっとおもしろいことになりそうだぞ、という予感がした。相手も目ざとく、わたしのそうした気持をいちはやく見抜いたようであった。
かれは初めて笑い声をあげて、
「いやあ、ありがと、ありがと。案ずるより産むが易かったよ。君にへんなやつだと思われたくなかったんだ。以前からぼくはそうだったが、ああいう冒涜《ぼうとく》的なことには、まるっきり興味ないんだがね。あの連中がもとへもどるかもどらないか、そいつはわからんけど、ただわかってることは、今のような状態で、このまま事態をほっぽいておいたら――誇張でも何でもなく、二人の人間が破滅してしまうんだ」
放心したような声で、暖炉の火を見つめながら語っているうちに、次第にかれは落ちつきを取りもどしてきたようであった。
「それがね、ほんの半年ほど前には、てんではやお話にもならんくだらんことだと、ぼくは思っておったんだよ。伯母のアンが、あちこちの霊媒《れいばい》のところへかよっていたことは、ぼくも知っとったし、その伯母がマリオンを説き伏せて、いっしょに連れて行き行きしていたことも、知っておったんだ。畜生! いま考えるとじっさいしゃくなんだが、そのときは、まさかそれが悪い結果になるなんて、考えもしなかったからね」といって調子を変え、「かりに考えたとしてもさ、せいぜい玉転がしか切り抜き絵合わせ程度の、ほんの気晴らしの遊びぐらいにしか考えなかったろうよ。だから、マリオンだってきっと茶目っけ気分でやってるんだろうと、こっちはたかをくくってたわけさ」といって顔をあげて、「そこがこっちの手ぬかりだったんだな。――どうだね、ブレーク、話に乗ってくれるかね?」
わたしは、これだという確かな証拠があれば、すぐにも話に乗れるが、今の話ではまだちょっとそれがつかめない、と答えた。
「これぞという証拠?」とディーンはひとりごとのようにつぶやいて、「何だね、そりゃ?」短かめに刈った茶色の髪が、二すじ三すじ額に垂れ、怒りに目を血走らせ、口をへの字にキッと結んでいたが、「あの野郎はぼくは大山師だと思ってるんだ。それに違いないんだものな。だけど、とにかく不吉な家へ、ぼくは一人で行ってみた。――一人でだぜ。――しかし、誰もいなかった。ぼくの行くことは、誰も知らなかったんだから……。
ブレーク、君ね、お望みとあれば、ぼくは洗いざらい話すよ。目かくしをして君を歩かしたんじゃ、話にならんからね。ただしだ、今のところは君のほうから、何も聞かずにおいてほしいんだ。それでね。今夜君に、ロンドンのある屋敷へいっしょに行ってもらって、向こうで君が見聞したことについて、純正な立場から、正直な君の意見を聞かしてもらいたいんだよ。目的の家へはいるのは、ちっともむずかしいことはない。うちの家作なんだから。――どうだね、行ってくれるかね?」
「よし、行こう。何か目当てはついているんだな?」
ハリデーは首をふって、「そいつはわからん。とにかく君が承知してくれたんで、こっちはお礼の言葉もないくらいだ。君だって、こんな経験は生まれて初めてだろう?……古い空き屋敷。そこへもってきて、怪しい一件。――いやね、これでぼくがもっと顔のきく人間なら、君よりもっとインチキ山師にくわしい人を引っぱっていけるんだけどさ……何がおかしいんだよ、笑ったりなんかして」
「いいから、君は強い酒でも一杯ひっかけろよ。ぼくは笑ってなんかいないぞ。それより、今そういうことにうってつけの人物を一人考えていたところなんだよ。――君に異存さえなければね」
「異存?」
「それがね、ロンドン警視庁の警部なんだよ」
「いや、そりゃ困る。冗談じゃない」ハリデーは気色《けしき》ばんで、「ほかのことならいざ知らず、警察さんだけはごめんこうむろう。せっかくだが、そいつはあやまる。マリオンだって、ウンというまい」
「いや、警察の人といっても、ぜんぜん役目をはなれての話なんだぜ。マスターズ警部は、こういうことを道楽にしている男なんだよ」
ものに動じない、沈着果敢なマスターズ、幽霊退治が大好きなマスターズ。体は雲突くように大きく、頑丈で、そのくせ都会人らしい|きめ《ヽヽ》の細かさがあり、腰の低いことはいかさまカルタ師のごとく、白眼冷酷な点は稀代の大魔術師フーディニのごときマスターズ警部の人柄を、わたしはふとそのとき考えて、思わず微笑した。戦後、イギリスに心霊ブームがおこったときに、かれは当時巡査部長で、おもにそういうインチキ霊媒の検挙にあたり、それが縁となってそれ以来、その方面に対する関心が(自分ではしきりと弁解しながらも)、ついに道楽の域にまで昂《こう》じ、ちかごろではハムステッドにあるささやかな自宅の書斎で、子ども相手にお座敷手品の新手のくふうに浮き身をやつし、当人はすっかりもうご満悦のていで、やにさがっているというふうだった。
そのしだいをひと通りハリデーに説明してやると、最初のうちはこめかみの辺の髪の毛をもしゃもしゃにして、ムスッとしていたかれも、しかめた顔をだんだんに輝かして、膝をのりだしてきた。
「ねえブレーク、その人、すぐにつかまえられるかい? ただね、念のために断わっとくが、おれたち今夜、霊媒狩りに行くんじゃない、幽霊屋敷へいくんだぜ、いいね」
「そこの家へ幽霊が出るって、いったい誰がいってるんだい?」
しばらく沈黙があった。窓のそとでは、行きかう自動車の警笛がけたたましくきこえていた。
「誰がいってるって、オレがいってるのさ」とハリデーは落ちつきはらったものだった。「とにかく、その探偵さんにすぐ連絡がつくかね?」
「電話してみる」わたしは新聞紙をポケットにねじこみながら、立ちあがった。「そうだな、行く先をおしえてやらないといけないな」
「何でも話しちまってくれたまえ。いや、待てよ。先方がロンドンの幽霊にくわしい人なら――」ハリデーはニヤリと笑って、「『黒死荘』だといってもらおう。そういや、たいがいやってくるよ」
黒死荘! ……電話をかけにロビーへ出ていきながら、わたしはどこかで聞いたことがあるような記憶がうごきかけたが、はっきりとは思いだせなかった。
マスターズ警部のゆうゆうとした太い声が、電話を通すと、いかにも心さわやかにひびいてきた。
「ああ、あなたですか、ご機嫌よう。しばらくお目にかかりませんな。「や、大きに――何かご用ですか?」
「それがね、大ありなんですよ」久闊《きゅうかつ》をのべたのち、わたしはいった。「あなたにね、ひとつ幽霊退治に行っていただきたいと思って。ごつごうがよければ、今夜」
「ほう」とマスターズは、芝居の誘いをうけたほどにも驚かずに、「そいつは一本急所を突かれましたな。それで、こちらの都合はまあつくとして、いったいどういう事件なんです? 行く先はどこです?」
「行く先はね、『黒死荘』といえと、そういわれたんですがね。内容は、よくまだぼくにもわからないんだけど……」
相手はちょっと息を入れたあと、口笛みたいに息を吹く音が、受話器のむこうからはっきりときこえた。
「黒死荘! 何かあったんだね?」とマスターズは鋭く尋ねた。声の調子が、驚くほど職業的になっていた。「それね、ロンドン博物館の事件と何か関係ありますか?」
「さあ、おっしゃることがよくわからないが、ロンドン博物館がどうかしたんですか? こちらの話はね、今夜ぼくの友達が、幽霊屋敷の調査にいこうとぼくを誘いましてね、誰かその道に経験の深い人に同道してもらいたいと、こういうんですよ。すぐに来ていただけるなら、そのときくわしい話を申し上げますがね、何ですかその、ロンドン博物館というのは?」
「あんた、きょうの新聞をまだ見ておらんの? 見ておらん。そう、じゃ見てごらんなさい。ロンドン博物館の事件の記事が出ているから、お読みになればわかりますよ。新聞には『痩せた猫背の男』と出ておるけど、これは誰かの想像だろうと思うですな。でも、あるいはそうでないかもしれんですがね。……ええ、そう、地下鉄で行きます。ノース・クロス・クラブでしたな? あ、よろしい。一時間ほどしたらうかがいます。ぼくはこういう事件は苦手だよ、ブレーク君。大嫌いだな。……じゃ、後ほど」
二 痩せた男の話を聞いて、乗りこむ
一時間ののち、応接間でマスターズさまがお待ちですと、クラブの給仕が知らせてきたとき、ハリデーとわたしは、その日見落とした朝刊の記事の話をまだ話しあっている最中であった。新聞の記事というのは、『現代|奇譚《きたん》』という連載もので、その第十二回目のものであった。
ロンドン博物館の奇怪な盗難
「死刑囚監房」から凶器紛失
「痩せた猫背の男」とは何者か?
皇居ステーブル・ヤード内ランカスター公館のロンドン博物館で、昨日午後またもや記念品蒐集狂の犯行による陳列品の盗難事件がおこったが、今回の事件は従来とは事情がちがい、異例の謎解きものとして憂慮されている。
この著名なる博物館の地下室には、ソープ作のロンドン市の模型を飾り、昔からの血と悪行の歴史がずらりと陳列されている。
そのなかの大きな一室は、おおむね、昔の牢獄の遺品の陳列にあてられ、旧ニューゲート牢獄の死刑囚監房から移した鉄格子、古材などを用いて、実物大の模型がつくられている。壁はもとのままのものではないが、そこにかけてあった刃渡り八インチ余、骨製の柄《つか》にL・Pと刻印の入った、荒作りの短剣が、昨日午後三時から四時までの間に紛失したが、犯人は今のところまだ不明である。
わが社記者はただちに現場に急行したが、死刑囚監房をさながら目前にほうふつさせたその克明な写実ぶりにはさすがに一驚したという。室内には陰惨な気がいたるところにみなぎり、天井は低く、採光も暗く、その格子状の鉄扉は一九〇三年にニューゲートから移されたもので、赤く錆《さ》びた鉄棒のはまった堅牢なもの。手枷《てかせ》、足枷、ぼろぼろに錆び朽ちた大きな鍵、錠前、鉄の檻《おり》、その他拷問道具の数もおびただしく、一方の壁面には、数世紀にわたる古い死刑執行令状、大判の布告書など、いずれもきれいな額入りで掲げてある。それらはみな黒枠つきの、油じみた木版活字で印刷され、絞首役人の姿をあらわした粗末な版画に、「国王陛下万歳」の敬意を表した結び文句がついている。
博物館の一隅に建てられているこの死刑囚監房は、児童向きのものではないから、同房にしみついている本物の牢獄さながらの臭気、朽廃《きゅうはい》したあなぐらの恐怖と絶望感については多くを語らぬことにして、ここではただこの室に顔を入れたとたんにすぐに目につく、破れた獄衣を着てベッドから起き上がろうとしている、皺《しわ》だらけの顔をした蝋人形の製作者の腕前に、絶賛を送るだけにとどめておこう。
同博物館に十一年間守衛をつとめる元巡査部長のパーカーさんはこう語る。
「午後三時ごろでしたろう。きのうは『入場無料デー』だったので、子供の入場者が多く、それがいくつもの群れになって各室を歩いてまわるその騒ぎはえらいものでした。
わたしは監房からすこしはなれた窓ぎわに坐って、新聞を見ていましたが、霧の多いどんよりした日で、同室には自分のほかに誰もいなかったように思う」
守衛のパーカーさんは、そのとき虫が知らしたものか、へんな予感がしたので、ほかに誰もいないとは思いながら、念のために新聞から顔をあげてみたという。
「すると、隣の監房室の入口に一人の紳士が立っていて、こちらへ背を向けながらなかをのぞきこんでいた。
えらく痩せた男で、黒っぽい服を着ていたという以外には、よく憶えていない。伸びあがるようにして室内をのぞきこむその様子が、どうも首のへんに不自由なところがあるような様子だった。足音もしないし、どうやってはいってきたのか不審な気がしたけれども、あるいは別の入口からはいってきたものかとも思い、また新聞へ目をもどしたが、どうもさっきの予感が気になるので、子供たちがドヤドヤはいってこないうちにと思って、念のために立って行って監房室をのぞいてみたのです。
最初見たときには、べつに異状はないように思えたが、よく見ると蝋人形の上の壁にかけてある短剣が見えないので、はじめてびっくりしたようなわけで、むろん先刻の男の姿はどこにももう見えず、それでその男が盗み去ったのだと気づき、そのとおり報告しました」云々《うんぬん》。
同博物館長リチャード・ミードブラウン卿は、次のように語る。――
「わたしは本誌を通じて、今後重要文化財に対する無謀な行為を防止するための、公衆の協力をひろく訴えたいと思う」
なお、リチャード館長の語るところによると、盗難にあった短剣はJ・G・ハリデー氏の寄贈品として同館目録に記載されている品物で、一九〇四年に寄贈者ハリデー氏の所有地から発掘されたもののよし。推定によると、一六六三年より六五年までタイバーン市の絞刑吏に在職したルイズ・プレージという人の所蔵品だったよしであるが、その真偽には疑問があるので、今日までその由来は公表しなかったものという。
犯人の踪跡《そうせき》は目下のところ不明。ヴァイン街のマクドネル巡査部長が捜査中である。
以上は、むろん、報道人が急場に書いた記事で、霧の深い、ぱっとしない日に一行一ペニーの安稿料で書きなぐった聞き書きである。わたしはマスターズ警部に電話をかけてから、クラブのロビーでこの記事を立ち読みしたのだが、ハリデーに見せたものかどうか、ちょっと迷った。
しかし、喫煙室に引き返すと、そのままわたしは新聞をかれの手に渡して、相手の読み入る顔つきを見まもった。
「しっかりしろよ!」
とわたしがいったのは、新聞を読んでいるかれの顔色がしだいに変わって、そばかすがはっきり地肌に見えてきたからだ。かれは椅子からよろめくように立ち上がると、わたしの顔をしばらくじっと見つめていたが、やがて何を思ったか、いきなり手にしていた新聞を暖炉の火のなかへ投げこんで、
「なあに、大丈夫さ。心配するこたあないよ。かえってこれで気が落ちついたよ。けっきょくさ――こりゃ君、人間のしたことだろ? そうだろ? ……ぼくの心配してるのは、もっとほかのことなんだ。この背後には、あのダーワースという霊媒がいる。あいつがどんなことをたくらもうが、けっきょく人間のするたくらみだ。新聞のいってることなんか、あてになるもんか。あの記者は、いったい何をいおうとしているんだね? ――死んだルイズ・プレージが、手前の短剣をとり返しにきたとでもいうのかね?」
「マスターズ警部はじきに来るそうだよ。どうだね、それまでにひと通り話を聞いといたほうが、よさそうに思うがな」
ハリデーは顎をキッとひきしめた。
「それがだめなんだ。さっきもそういったろう。君は約束したじゃないか。今はまだ話したくないんだ。先方へ出かける途中で、ぼくはちょっと家へ寄って、君にいいものを渡すよ。そいつを見れば、だいたい事件の輪郭はわかるはずだ。だけど、渡してもすぐにその場で見ちゃ困るぜ。……ときに、やつらはこういうことをいってるんだが、君なんかどう思うね? ――下品《げほん》の魂は悪霊で、こいつはしじゅう悪《わる》がしこくつけねらっている、というんだな。そういう死者の悪霊は、つねに生きている人間の体にのりうつる機会をねらっていて、家のなかを荒らしまわりながら、のりうつった人間の頭を低能にしてしまうんだとさ。考えられるかい、君、人間に悪霊がのりうつって、そして……」
あとの言葉を、かれはいいしぶった。わたしは炉あかりのなかにつっ立っているかれから、目をはなさずにいた。その顔には何ものかを非難するらしい、嘲《あざけ》るような微笑がたたえられ、茶色の目には烈しい凝視がこらされていた。
「何だか知らんが、君のいってることはだいぶへんだぞ」とわたしはきめつけてやった。「しどろもどろだぜ。悪霊が何にのりうつるんだね?」
「ぼくにのりうつるのさ」とハリデーはケロリとしている。
おい、君に必要なのは幽霊退治じゃなくて、神経科の専門医だぞと、わたしはいってやって、それからクラブのバーへ引っぱっていって、見ている前でウィスキーを二杯飲ませてやった。かれはおとなしくわたしのいうなりになっていたが、そのうちに冷笑的な気分のはしゃぎを取りもどしてきた。が、話がまた新聞の記事にもどると、またしても、もとのようなひとりよがりの因循《いんじゅん》した自分に逆もどりしていくふうであった。
そこへマスターズ警部がきたと聞いたので、わたしはほっとした。さっそく行ってみると、警部は応接間に立っていた。大柄な、むしろ堂々たる体格の、おだやかなうちにもどこかキビキビした面がまえで、地味な黒っぽい外套を着て、まるで軍旗の行進でも見送るような格好で、山高帽を胸高にささげもっていた。そろそろ白いものの目だつ髪を、禿《はげ》かくしにぴったりとなでつけ、この前会ったときよりもだいぶ顔が老《ふ》けこんで、顎のあたりにもめっきりたるみが見えたが、しかし目だけは若々しかった。そう目だちはしないが、やはり警察《さつ》の人らしく、歩みつきにも重みがあり、人の顔をジロリと見やる目つきにも鋭さがあったが、そうかといって昔の護民官を連想させるような、あの根ほり葉ほりのしつこい煙ったさは微塵《みじん》もなかった。みるみるうちに、ハリデーもすぐにうちとけ、相手の実行的な手堅さに、すっかり安心したような様子であった。
「いやあ、あなたですか」とマスターズ警部は紹介がすむと、ハリデーにいった。「幽霊を退治したいとおっしゃるのは」まるでラジオの取りつけでも訊くような尋ね方であった。そしてニコニコしながら、「ブレーク君からお聞き及びでしょうが、わたしは今でも幽霊には興味をもっています。前からそうでしたがね。ところで、黒死荘のことですがね」
「お見受けしたところ、もう何もかもご存じのことと思いますが」とハリデーがいうと、「いやあ」とマスターズは頭へ手をやって、「知っておるたって、ほんのわずかですよ。たしか何でしょう、あの屋敷は百年ほど前にお宅の持ち物になったんでしたな。あなたの御先々代が一八七〇年ころまであすこにすんでおられて、その後きゅうにあの家を出られて、それっきりあすこへもどろうとはなさらなかった。……それ以来、ずっとあすこは空き家で、お宅の方はどなたも、あれを人に貸しも売りもなさらずに来られたんだが、税金がたいへんでしたろう。損なことをしましたなあ」マスターズの語調が、きゅうにもの柔らかな、しかし頭から説得するような調子になって、「ところでハリデーさん、ご安心ください。及ばずながらお力になりますよ。いやいや、お礼には及びません。これはしかし、あなたのほうとしては、もちろん堅く非公式が望ましいのでしょう?」
「そう願いたいんです。相当大物がかかると思うんですがね」
「いや、大きに。……そうすると、きょうの新聞はもうごらんになったですな?」
「ええ」ハリデーはニヤリと笑って、「ルイズ・プレージ再び現わるの記事でしょ? あれ、あなたなんかどうお考えです?」
マスターズ警部は穏やかな微笑をかえしながら、声を落として、「いやね、ありていにいって、あんた、あの短剣の盗難に関係のありそうな人物に、だれか思い当たる人物がありますか? むろん、生きている人間でですよ。これがまず第一にあんたにうかがいたいことなんだが、どうですな?」
「なるほどね」とハリデーは相手の言い分をもっともと認めた。そしてテーブルの端に腰をのせて、しばらく何ごとか考えこんでいるふうであったが、やがて息を深く吸いこむと、マスターズの顔を見つめて、「では警部、その前に、ぼくのほうからひとつ反対尋問をさせてください。警部は、ロジャー・ダーワースという人物をご存じですか?」
警部は顔の筋肉ひとつ動かさなかったが、内心はしたり顔で、
「ハリデーさん、あんたのほうこそご存じでしょう?」
「ええ、知ってます。でも、ベニング伯母ほどには知りませんよ。ぼくの婚約者のマリオン・ラティマーだの、彼女の弟だの、フェザートン老人なんかのほうがはるかにくわしいですよ。あの連中はダーワース党ですから。頑として反ダーワース党のぼくなんかには、とても手出しはできない。いくら口でたてついたって、それこそのれんに腕押しでさ。むこうはすましてニヤリニヤリ笑って、あんたなんかにゃわからないのよ、と来るんだから」そういって、巻煙草に火をつけ、マッチをふっと吹き消したハリデーの顔は、冷笑にゆがんでいた。「どうなんです、警視庁じゃ、ダーワースのことを多少は知ってるんですか? あいつと、赤っ毛のあの弟子のことは?」
双方、たがいに目と目を見かわして、いわず語らずのうちに無言の言葉をかわしていたが、やがてマスターズが慎重な調子で答えた。
「ダーワース氏に対する嫌疑らしいものは、われわれのほうには何もあがっておらんですね。ぜんぜん白紙ですな。あの人にはわたしも会ったことがあるが、ばかに愛想のいい紳士でしたよ。人柄も温厚だし、べつにてらっているようなところも見えなかったな。つまり、人気取りめいたところがなかったという意味ですがね。……」
「おっしゃる意味はよくわかるんだ」ハリデーは相槌をうって、「じっさい、ぼくの伯母なんか、夢中になっているときには、あのインチキおやじを『聖者』みたいだなんていってますからね」
「そうでしょうとも」とマスターズはうなずいて、「ところで、はなはだ微妙な質問で恐縮なんだが、あんた、その二人のご婦人のことをね……えへん……?」
「……甘っちょろい――とぼくが考えてるというんですか?」ハリデーは警部の咳ばらいにかぶせて、先を越していった。「とんでもないですよ。まるで反対だな。アン伯母は、うわべはあの通り虫も殺さないようですが、あれでどうして、芯《しん》は筋金入りでしっかりしたもんです。それからマリオンだって――あれだってひとかどの女です」
「なるほどね」と警部は大きくうなずいていた。
クラブの玄関係がタクシーを呼んでくれたとき、議事堂の大時計《ビッグ・ベン》が半を打った。ハリデーは自分の部屋から取ってきたいものがあるからといって、パーク・レインの住所を運転手におしえた。戸外は肌寒く、雨がまだ降っていた。暗い街路は、流れる灯火を映して、まばゆく光っていた。
ほどなく、自動車《くるま》はパーク・レインのひっそりとしたなかにそびえ立つ、新建ちの(現代好みの本棚にどことなく似た)白い石造の、グリーンとニッケル装飾のアパートの外に横づけになった。ハリデーが室内へ駆けこんでいったので、わたしは車を降りて、電灯の明るい天蓋庇《てんがいびさし》の下をブラブラした。雨は暗い公園のほうから横なぐりに吹きつけていた。何といったらいいのか、正面から見た建物が、まるでわたしには夢のなかに浮かんでいるように見えた。新聞に書いてあった刺激的な露骨な映像《イメージ》に、知らぬまに影響されていたのだろう。――猫背の痩せた男が、うろうろ首をのばしながら、死刑囚監房の模型をのぞきこんでいる姿。守衛がその男のことを『紳士』と呼んでいただけに、わたしはよけい不気味な気がした。ハリデーにうしろから肩をたたかれて、わたしはビクンと飛び上がるほど驚いた。見ると、かれは茶色の紙に包んで紐でくくった、平べったい紙包みを持っていて、それをわたしの手に渡した。
「これね、今あけちゃだめだぜ。ルイズ・プレージに関する妙なことが書いてあるんだ」
そういって、ハリデーは、どんな天気の日にも愛用している、薄手の防水コートのボタンをかけると、帽子を斜めに目の上までグイと下げて、にやにやしながら、光力の強い懐中電灯をわたしに貸してくれた。マスターズはすでにその用意をしてきていた。車のなかでわたしの脇に坐ったとき、ハリデーのズボンのポケットに、何だか固いものがはいっているのが感じられた。懐中電灯だと思ったのはわたしの勘違いで、それはピストルだった。
雑沓するウエスト・エンドあたりでなら、気味の悪い話も気らくに話せるけれども、灯火のちらほらしかないあのへんへ来ると、正直のところ、わたしも少々不安になってきた。車のタイヤが濡れた路面に滅入《めい》るような音をたてていく。何かしゃべってでもいなければ我慢がならないような気分になってきた。
「ねえマスターズ、ルイズ・プレージのことを君はまだ何も話してくれなかったね」とわたしはまず口をきった。「新聞の記事で、だいたいの見当はまあつくけど……」
マスターズはのどの奥でただ「うん」とうなずいただけだったが、ハリデーは、「うん、それで?」と話の水を向けてきた。
「こりゃまあ月並な想像だけどさ」とわたしは前置きをしておいて、「ルイズは絞首刑吏だったんだから、世間からは恐れられていたろう。あの短剣だって、おそらくあれは、受刑者の首綱を切り落とすのに使ったものなんだろう。――まあ、事の起こりはそんなところなんじゃないかね」
ハリデーはにべもなく答えた。「だとすると、君は両方とも間違ってるよ。そういう単純な、月並なものであってもらいたいくらいなものだ。そりゃいいとして、いったい恐怖というものはどういうものなんだろうね? ドアをあけたとたんみたいに、いきなり襲ってくるものなのかしらね? 胃袋がキューッと冷たくなって、そいつにさわられるのを逃れるために方角もわからず盲滅法に駆けようとするが、体が綿みたいにいうことをきかないで、どうすることもできなくて……」
「ほう!」とマスターズが座席からしゃがれ声で、「まるで自分で怪しいものを見たことがあるような話しっぷりですな」
「見たことあるんですよ」
「へえ、そう。その怪しいものは何をしました?」
「べつに何もしなかったな。ただ窓の外に立って、じっとこっちをのぞきこんでいただけでしたよ。……それはそうと、さっきルイズ・プレージの話が出たけどね、ブレーク、ルイズは絞首刑の役人じゃなかったんだよ。とてもそんな度胸の男じゃなかったんだ。むろん、罪人があんまり長く綱にぶらさがって苦しんでるようなときには、刑吏の命令で、足ぐらいは引っぱったろうけどさ。何というか、まあ刑吏の下役みたいなものだったんだろうな。罪人の臓腑をえぐりだしたり、死体を八つ裂きにしたり、そんなときにはそういう道具を使うが、それがすむと、あとは死体でも洗ってたんだろうね。そういう役なんだよ」
わたしはのどがひっつくような心持がした。ハリデーはさらにわたしのほうへ体を向けて、
「短剣もね、君の説は違うんだ。あれは正確にいうと、短剣じゃないんだ。そういう目的には、最後まで使われてないね。自分の仕事につごうのいいように、当人はあれをくふうしたんだな。新聞には刃先のことは書いてなかったけど、刃先はちょうど鉛筆ぐらいの太さの丸い棒でね、その先がとがらしてあるから、要するに、突錐《くじり》の太いようなものなんだよ。ルイズはそれを何に使ったと思う?」
「わからんな」
ハリデーは、あはははと大きな声で笑った。そのとき車が徐行して止まった。運転手が首をねじ向けて、
「だんな、ニューゲート街の角ですが、どうなさいます?」といった。
われわれは料金をはらって車を下りると、しばらく下りたところに立って、あたりを見まわした。どの建物もまるで夢の中のようで、見上げるように高く、ゆがんで見えた。はるか後方のホルボーン陸橋のあたりの夜空がボーッと明るく、深夜の自動車の警笛の音とわびしい雨の音がきこえるだけであった。やがてハリデーが案内役で、ギルトスパー街のほうへ歩きだした。町並みを出はずれたなと気がつく前に、われわれはいつのまにか、両側を煉瓦塀にはさまれた、狭いじめじめした小路にはいっていた。
世間には『密室恐怖症』とかいう妙な病名のついた病気があるそうだが、人間は自分を遮閉《しゃへい》してくれているものに安心感をもっているばあいは、かえって狭いところへ押しこめられていることを好むものだ。偶然にえたそんな経験を、人が話しているのを耳にはさんだことは、誰にもあることだろう。高い煉瓦塀のトンネルみたいな小路のなかで、ハリデーが突然足をとめた。――先頭がかれで、わたしがすぐそのうしろにつづき、しんがりがマスターズだったが、三人が三人とも、自分たちの足音だけしか聞こえない闇の中で、申し合わせたように、いっせいにぴたりと足を止めたのである。
ハリデーが手早く懐中電灯をパッと照らし、三人はまた歩きだした。懐中電灯の光の矢が照らしだしたものは、きたない煉瓦塀と、舗装した道の水たまりだけであった。おいかぶさるような軒端《のきば》から落ちる雨だれが、バシャバシャ水たまりに音をたてているところがあるかと思うと、やがて行く手に、大きく開いている高い鉄の門扉《もんぴ》が見えてきた。三人とも、なぜかしらないが、妙に足音を忍んでいた。たぶん、目の前にある屋敷が、人けもない寂しいところに、森閑と物音をひそめているように見えたせいだろう。三人とも、きゅうに何物かにせき立てられるように足を早めて、そこの高い煉瓦塀のなかへはいっていった。何かグイグイ引き寄せるものがあって、知らず知らずにそれに引きずられていくといったあんばいだった。屋敷は――わたしの見たかぎりでは、白ちゃけた石を畳みあげた堂々たる造りで、いまでは風霜《ふうそう》にすっかり黒ずみかえっていた。外見は、まるで頭のぼけた老人みたいに老い朽ちているくせに、分厚い軒蛇腹《のきじゃばら》にキューピッドとバラの花と葡萄が、ばかにまた派手に彫ってあるのが、なんだか白痴の首に花輪でも飾ったような、ひどくちぐはぐな感じであった。窓は鎧戸《よろいど》のしまっているところもあれば、代わりに板を打ちつけたところもあった。
屋敷の裏手は高い塀がたっていて、広い裏庭をかこんでいた。そこは立ち木も何もない、ごみ捨て場になっている泥濘《ぬかるみ》の空き地で、その空き地のずっと奥に、ひと棟はなれて小さな建物の立っているのが、雨間の月の光をうけて、夜目にもそれと見えていた。石造りの長方形をした、まるで住み荒らした燻製小屋みたいな小さなかまえで、小さな窓にはどれにも頑丈な鉄格子がはまっている。荒れた庭のまんなかに、その建物だけがぴょこんと一棟立っていて、そのそばに、何の木だか曲がりくねった樹が一本はえていた。
ハリデーのあとについて、われわれは雑草のはえた煉瓦敷きの道を、玄関のポーチへと歩いていった。玄関の扉は高さ十フィート以上もあり、扉の横木から赤|錆《さ》びたノッカーがぶらさがっている。案内役のハリデーの懐中電灯の光が、扉のあちこちを照らすと、湿気をくってふくれた厚いその樫板の表には、屋敷の荒廃と老朽をいいことに、もの好きな人たちが彫り刻《きざ》んだとみえて、種々雑多な頭文字がいちめんに刻まれていた。
「玄関はあいてますよ」とハリデーがいった。
そのときであった。家の奥で、誰かが悲鳴をあげた声がきこえた。
われわれはこの気違いじみた事件に関係してから、何度か胆を冷やすようなことに出会ったけれども、まず最初のこのときくらいドギマギしたことは、後にも先にもなかった。そのときの悲鳴の声は、たしかに本物の人間の声であった。しかもその声は、まるでよぼよぼに老いさらばえた魔女さながらのこの古屋敷そのものが、ハリデーにさわられたために、キャッと悲鳴をあげたかのようであった。マスターズ警部が息をはずませて、いきなりわたしをかきのけて前へとびだしたのと、ハリデーが玄関の扉を押しあけたのとが、同時であった。
玄関をはいると、そこは湿っぽい大きなホールで、左手の部屋の入り口から灯影《ほかげ》がもれていた。そのあかりで、それとなくわたしがハリデーの顔を見ると、かれは妙にうち沈んだような、すっかり固くなったような顔をして、その部屋をじっとにらみつけながら、押し殺したような低い声でいった。
「あの部屋で、いったい何が始まってるのか?」
三 四人の信徒
われわれがそのとき、何を見ようと予期していたか、それは自分にもよくわからないが、とにかく、何か悪魔めいたものが見られると思っていたことは確かだった。例の痩せた猫背の男がこちらへ顔を向けた姿でも見られると思っていたのかもしれない。しかし、そんなものがすぐにそのとき現われるはずもなかった。
マスターズとわたしは、ちょうどハリデーの両脇を囲むような形で寄り添っていたから、なんのことはない、護衛みたいな格好に見えたにちがいなかった。われわれの目に映ったのは、天井の高い、広い部屋であった。いかにも昔の豪奢が偲《しの》ばれるような、りっぱな部屋だったが、何だかあなぐらみたいなにおいが鼻をついた。壁の腰板のはずれたところなどは、下の石材がむきだしになっており、その上の部分は、もとは純白の繻子《しゅす》張りだったらしいが、今はその繻子が黒くなって、ぼろぼろに剥《は》がれてぶらさがり、それへクモの巣がいっぱいにかかっていた。大きな暖炉だけが、ありし日の形のままに残っているが、それとてまわりの薄肉彫りの石の唐草模様は、よごれたり欠けたりしていた。その大炉のなかには、ほんのしみったれな火がプスプスくすぶりながら燃えていた。炉棚の上の腰高な真鍮《しんちゅう》の燭台に、ろうそくが六本燃えており、ひんやりとした湿っぽいなかでチラチラまたたくその灯影で、暖炉の上の破れ裂けた壁紙の残りが、むかしは紫に金をはいた豪華なものだったことがうかがわれた。
部屋の中には、二人の人間がいた。二人とも女であった。女だけに、それがいっそうその部屋に、なにか妖気めいた不気味さをそえていた。二人のうち、一人は火のそばに腰かけていて、半分立ちかけた腰を浮かしていたが、もう一人のほうは、これは二十四、五の若い婦人で、鎧戸のしまった正面の高い窓の縁に片手をかけたまま、われわれのほうへキッとふり向いた。
「やあ! マリオン――」とハリデーが声をかけた。
すると、女は緊張した声で答えた。すんだ美しい声だったが、どことなくヒステリックな、うわずったような響きがあった。
「まあ、ディーン、あなたなの? ほんとにあなたなのね?」
わたしはへんなことをいう女だと思った。どういう意味でいったのか、女のいった言葉をそのまま受けとると、何だかハリデーのほかに別のハリデーがあるように聞こえた。
「ぼくだよ、もちろん」とハリデーは吠えるような声でいった。「何だと思ったのさ? ぼくは――いつだってぼくだよ。ルイズ・プレージじゃないぜ、今のところはまだ。……」
ハリデーが部屋のなかへはいったので、わたしとマスターズも、そのあとについてなかへはいった。ところが妙なことに、今しがた玄関の敷居をまたいだとたんに、何かホールのあたりにもやもやしていた、息のつまるような圧迫感みたいなものが、室内へ足を入れると同時に、きゅうにスーッと軽くなったのをわたしは覚えた。三人とも、足早になかへはいると、思わずいいあわせたように若いマリオン嬢に視線をこらした。
蝋燭の灯影のなかで、マリオン・ラティマーは身動きもせずに、棒立ちに立っていた。その足もとで、黒い影がゆらめいているように見えた。痩せがたちの、古風な、やや冷たい美人型の女で、それだけに顔も体つきもどことなく角《かど》張ってみえる。すこし長めの顔に、くすんだ金髪をぴったりと波打たせ、色の深い碧《あお》い目が物に憑《つ》かれたような光をおびて、何となく人の心をかきみだすものがあった。鼻は小さく、感じやすい口もとがきりりと締まっている。それが片足びっこみたいな格好をして、腰をかがめて立っていた。痩せぎすな体をつつむ、茶っぽいツイードのポケットに片手をつっこんで、われわれをじっと見すえながら、窓の縁からはなした一方の手で、きつい襟《えり》もとをちょっと直したが、痩せてしなやかなその手は、美しい手だった。
「そうよ。それはもちろんそうですけど……」と彼女はつぶやくようにいって、つくり笑いをした。そして片手をあげて、額の髪をかきあげると、もういちど襟もとを直しながら、「わたくしね、お庭のほうで何か物音がしたように思ったんで、鎧戸の隙間からそっとのぞいて見たんですの。そしたら、ちらっとさした明かりで、あなたのお顔が見えたので、びっくりしちゃって。――どうかしてるわね、わたくし。でも、どうして今ごろここへいらっしたの? ――ねえ、どうして……」
女には何かの力が作用しているようだった。感情を押し殺しているのか、あるいは霊的なものを追い求めるその緊張からか、それとも未婚の女や性悪女《しょうわるおんな》によくある空とぼけなのか。とにかく、目にも、姿態にも、角ばった顎のあたりの線にも、妙に生き生きとしたものがあった。人の心を惑乱させる女。――そんな言葉よりほかに、わたしには考えようがなかった。
「でも、あなたはこんなところへいらっしゃらないほうがよかったのよ。危険ですもの、今夜は」
すると暖炉のそばから、抑揚《よくよう》のないしずかな声がいった。
「そうだともね、危険だよ」
われわれが声のほうをふり向くと、プスプスいぶっている火のそばに、小柄な老婦人が腰をかけてニコニコ笑っていた。いやにおしゃれな婆さんだった。白い髪はボンド街の一流美容師が丹精こめて結ったものらしく、そろそろ黒い|しみ《ヽヽ》の出はじめた、肉のたるんだ襟もとには、黒いビロードのきれを巻いていた。小ぶりな顔は蝋細工の造花を思わせ、目の縁以外には皺《しわ》ひとすじなく、しかもそのうえに、たいへんな厚化粧である。目もとはやさしいうちにも、どこかきびしいものがあった。われわれに愛想のいい笑顔を向けながらも片足はしずかに床をたたいているのは、明らかにわれわれが飛びこんでいったことに狼狽している証拠で、椅子の腕木にのせた宝石だらけの両手を、何かのしぐさを始めるきっかけみたいに、曲げてみたり裏を返したりしながら、じっと息をつめている様子だった。まずどこから見ても、ワットーの画に出てくるフランス十八世紀の侯爵夫人そっくりと思えば、まちがいはない。見たところはばかに現代風だが、とんちのきく婆さんである点は、ワットー画中の老婦人にほうふつしている。それに、鼻がいやに大きい点も。
「ディーン、おまえどうしてここへ来なすったんだい? ごいっしょに見えた方たちは、どういうお方?」
声は細い声だった。本来はやさしい声なのに、なにか探りを入れるような調子があった。わたしは何ということなく身ぶるいがでた。黒目がちな目をハリデーの顔にじっとすえたなり、機械的な笑みをたたえている様子が、何ともはや、気色の悪い婆さんだった。
ハリデーは姿勢をシャンとすると、思いきっていいだした。
「伯母さん、あなたはご承知の上かどうか知らないが、ここはね、ぼくの家ですぜ」(ベニング夫人はハリデーに対しては、いつもこうなんだろうと思うが、このときも相手の言葉を軽く受け流して、目を遠くに遊ばせながらニコニコしていた)「そのぼくがここの家へくるのに、いちいち伯母さんの許可がなければいけないというわけはないでしょう。この人たちは、ぼくの友人ですよ」
「おまえからご紹介をなさい」
ハリデーは、われわれをまずベニング夫人に、それからラティマー嬢に、一人一人ひき合わせた。蝋燭の灯影とクモの巣だらけの、まるで墓穴みたいに湿気くさいこんな部屋で、型通りの紹介をするのも、ずいぶんへんてこなものだったが、相手の婦人は二人とも、――炉棚の前に立っている冷たい感じの若い美人も、赤い絹の袖なしを着てうなずいている、蛇みたいな擬《まが》い侯爵夫人も、――あきらかに敵意をもっていた。われわれはいろいろの意味で闖《ちん》入者だったのである。というのは、先方のご両人は、ちょうどそのとき、前に一度味をおぼえたのか、あるいはもう一度それを味わいたいのか、いわば自己催眠ともいうべき一種の陶酔境にはいって、心しずかに、ある心霊的な経験を待ち設けていた最中だったのだから。わたしは横目でマスターズの様子をそっとうかがったが、かれはふだんと変わらぬ穏かな顔を崩さずにいた。ベニング夫人が静かに目をひらくと、わたしにいった。
「おや、そうすると、あなたはアガサ・ブレークの弟御さんでいらっしゃるのね。アガサさんとはお親しくしておりますのよ。あちらのカナリヤはほんとにおみごと」きゅうに声の調子が変わって、「そちらの方は、あたしどなたか存じ上げないね。……ところでディーン、おまえ今夜何でここへ来たか、いってごらん」
「何で来たか?」ハリデーは鸚鵡返《おうむがえ》しにいった。声がしゃがれていた。こみあげてくる怒りに身をもみながら、かれはマリオンに手をさしだして、「何で来たかって? あんたがたね、二人ともよく自分のことを考えてみなさいよ。ぼくはもう、こんなもやもやしたことは我慢ができない。ぼくはこの通り正気の人間です。あんたがたは、ぼくが何用あってここへ来たか、こんなばかくさいことをなぜ止めだてするのかとお尋ねだが、よろしい、そのわけをいいましょう。われわれはね、この毒気にみちた化物屋敷の調査にきたんです。しなびた蕪《かぶら》の化物を、われわれの手でひっとらえて、木ッ葉みじんに叩っ挫《くじ》いてやるために、やってきたんだ。きっとやってみせるから! ……」
吼《ほ》え猛《たけ》るような声がガンガン反響した。見ると、マリオン嬢の顔が蒼白になっていた。部屋の中がもとの静けさに返ったときに、マリオンがいった。
「ディーン、あなたね、あの悪霊たちにさからったりしちゃだめよ。ねえ、よくって。あの悪霊たちにさからっちゃだめよ」
ベニング夫人は、また先刻のように椅子の腕木の上で五本の指を曲げたり伸ばしたりしながら、目を半眼に閉じて、ひとり合点をして、
「ディーン、おまえ誰か人さまにすすめられて、ここへ来たのだろう?」
「何をいってるんです。ぼくは自分で勝手に考えてやってきたんです」
「それでおまえ、お祓《はら》いをするつもりかい?」
「お祓いだか何だか知らないが」とハリデーは渋面をつくって、「ええそう、それをしにきたんです。――それはいいが、あんた方はいったい何でここの家へきているのか、そのわけをまだ聞かないな」
「ディーンや、わたしたちはね、おまえがかわいいからこそなんだよ」
いっとき、座がしんとなった。暖炉の火が青い炎をパチパチ立て、秋雨の音がしめやかな足どりで、屋内を通りぬけていった。ポタリ、ポタリとあらぬところで雨|漏《も》りの音を陰《いん》にこもらせながら。ベニング夫人はいいようもない甘ったるいやさしい声で、言葉をつづけた。
「ディーン、おまえね、ここにいればこわいことはちっともないよ。あの連中はこの部屋へは来られないんだからね。そのかわり、ほかのところで取り憑《つ》きますよ。げんにおまえの兄さんのジェイムズは、悪霊どもに取っ憑かれたんだから。だから、ピストル自殺をしたのだよ」
ハリデーは、おちついた、低い、厳粛な声でいった。
「伯母さん、あなた、このぼくを気違いにするつもりですか?」
「何がおまえ、わたしはおまえを助けてあげようと思ってさ」
「そいつはありがたいしあわせですな」
ハリデーのしゃがれた声が、またしてもいつもに似ぬ調子になった。そして、石のように固くなった人々の顔を睨《ね》めまわした。
「あたしはジェイムズを愛していた」ベニング夫人がいいだした。顔にきゅうに皺が深くなった。「あの子は強かった。でも、悪魔どもにはかなわなかった。こんどはおまえの番だよ。おまえはジェイムズの弟なんだし、そうやってピンピン生き残っているんだからね。ジェイムズがわたしにそういったよ。あの子の霊は、いまだに安まることができないでいるんだとさ。だからね、あの子に安息をさずけてやるのさ。おまえにじゃないよ、ジェイムズにだよ。ジェイムズもおまえも、今夜のこのお祓いをしないうちは、安らかに眠ることができないんだよ。
おまえ、今夜ここへきて、ほんとによかった。こうしてお仲間のなかにいれば、もう安全。でもね、きょうはルイズ・プレージのご命日だから、安心はならないんだよ。ダーワースさんは今ご休憩中だけど、夜なかになると、おひとりで石|室《むろ》へお籠《こも》りになって、明け方までにすっかりお祓《はら》いをしてくださる。石室へは、お弟子さんのジョゼフでさえ、入室はできないの。あのお弟子も、なかなかたいした力があって、感もいいんだけど、お祓《はら》いまではまだまだ修行をつんでいない。あたしたちは、今夜はみんなこの部屋でお籠りをするんだが、ここで円座を組んでいれば、ぜったいに悪霊は近寄れないから、大丈夫ですよ」
ハリデーは婚約者の顔を見て、荒びた声で尋ねた。
「君たちは、ダーワースと三人でここへ来たのか?」
マリオンは薄い微笑をもらした。彼女はハリデーのことが少し不安だったが、しかしハリデーの来てくれたことは、やはり嬉しいらしく、そばへ寄って、ハリデーの腕をとると、
「ええ、そうよ」といったが、その声は、文字通り呪われた不吉なこの屋敷へきて、わたしがはじめて聞いた人間らしい声であった。
「だいたいあなたは地声の高いほうだけど、でも今のようなあなたのいい方を聞いてると、わたくし、何だかまるで何もかもが変わってくるような気がする。自分からこわがらなければ、こわいことなんか何もありゃしないのよ。……」
「だって、あの霊媒は――」
マリオンはハリデーの腕をゆすって、
「ディーン、わたし何度も申し上げたように、ダーワースさんは霊媒じゃないのよ。あの方は心霊学者よ。心霊現象よりも、その因《よ》って来たるものに関心をもってる方なのよ」そういって、彼女はわたしとマスターズのほうを見た。顔色には疲れた色が見えたが、つとめて気軽な、冗談めいた調子で、「みなさんは定めしディーンよりも、そういう方面のことはおくわしくておいでなんでしょうから、霊媒と心霊学者の違いを――つまりジョゼフとダーワースさんの違いを、この人によく教えていただきたいわ」
マスターズは、ときどき立っている足を換えながら、無表情なブスッとした様子で、手に持った山高帽をクルクルまわしながら突っ立っていたが、ふだんのかれを知っているわたしは、いやに神妙に我慢している慎重なその様子に、いつにもないものを嗅《か》ぎつけた。
「いや、わたしはねお嬢さん、ダーワースさんという人は、そういう――いわゆる実演を自分でやる人ではないぐらいのことは知ってますが、その程度ですな」
「あの方をご存じでいらっしゃいますの?」とマリオンはせきこんで聞いた。
「いや、くわしいことは知らんのですよ。どうも差し出たことを申したようで、どうかあなたのお話しのつづきを、どうぞ」
彼女は怪訝《けげん》な顔をして、マスターズの顔をじっと見つめた。わたしは心配になった。こちらの目から見れば、かれが警察の者だということは、看板をかけているも同然に明白である。それをマリオンが見抜きはしないかと、わたしは不安になったのである。冷静な、すばしこい目つきで、彼女は警部の顔色を探っていたが、いいあんばいに気がつかない様子だった。
「ねえディーン、ほんというと、わたしたち、ダーワースさんとジョゼフとだけでここへ来たんじゃないのよ。べつに何でもないことだけど……」
(それに対して、ハリデーが何か嵩《かさ》にかかってひとことふたこといったのを、マリオンがしらばくれた態度で、騒ぎ立てる相手をツンとして眺めていたのは、あれはどういうことだったのだろう?)
「べつに何でもないことですけどね」と彼女は重ねて念を押すように断わりながら、肩を上げて、「ほんとは、テッドと少佐もここへ来てますのよ」
「えっ、君の弟さんと、フェザートン少佐もかい? へーえ、こりゃ驚いた!」
「テッドは――信じています。ですから、そのつもりでお気をつけになってね」
「そりゃ姉さんの君が信じてるからさ。それに違いないさ。ぼくもあの年ごろにはケンブリッジにいて、同じような経験があるもの。血気さかりの青年は、毒に染まりやすいものなんだ。神秘的な霊感――吊り香炉。――自分の身をつつむ神の愛と栄光。きっと君の弟さんも、オックスフォードにいる時分にかぶれたんだよ」そういって、ハリデーはひと息ついて、「で、どこにいるの、二人は? まさか心霊になって消えちまったんじゃあるまい?」
「いま二人とも石室にいます。ダーワースさんがお籠りをなさるんで、火を焚きにいきましたわ」彼女はつとめて気軽に話そうとした。
「ここの暖炉も弟が焚きつけたのよ。あんまり上手じゃないことね。――あら、何をなさるのよ、あなた」
ハリデーが大股に部屋のなかをあちこち歩いたので、蝋燭の灯がそのあおりでゆらめいた。
「おっと、そうだった。このご両人は屋敷の中を見たがっていたんだっけ。そうだ、ついでに裏庭のその奥の院もひとつ拝見して……」
「ディーン、あなたもあすこへいらっしゃるおつもり?」
ディーンの赤茶色の眉がピクリと上がって、
「もちろんさ。ぼくはゆうべもあの石室の表にいたんだから」
「まあ、そんなことをしたら、いまに頭がばかになってしまうよ」ベニング夫人が目をつぶったまま、やさしい声でおだやかにいった。「でも、おまえがどんなことをしようと、わたしたちがご守護していてあげるから、行くなら行っておいで。ダーワースさんがちゃんとご守護してくださるから」
「じゃ行こうや、ブレーク」ハリデーはそっけなくうなずいていった。
マリオンは止めだてするような、しないような、どっちつかずの身ぶりをしたが、どこかでそのときキリキリ、キリキリと、何か擦り合わすような音が聞こえたのは、ベニング夫人が椅子の腕木を指環でなでた音であった。まるでそれが、壁のうしろで鼠がたてた音みたいに、気味悪く聞こえた。厚化粧をした夫人の顔は、夢でも見ているように、ハリデーのほうをポーッと見ていたが、わたしはそのポーッした顔から、いかに彼女がハリデーを憎んでいるかを見てとった。
「断わっておくけど、ダーワースさんのお邪魔をしてはいけませんよ。そろそろもうお時刻だからね」
ハリデーが懐中電灯をとりだしたのをしおに、わたしとマスターズはかれの後についてホールへ出た。ギシギシ音のする客間の扉は、把手《ノッブ》が落ちていて、その穴へハリデーが指をつっこんで締めるという始末だった。廊下の湿っぽい闇のなかに立って、三人は懐中電灯をいっせいに照らした。ハリデーはまずわたしの顔を、それからマスターズの顔を照らして、
「やい魔物! さっさと退散しろ!」とおどけた調子でいって、「どうです、この六ヵ月間、ぼくがどんな暮らし方をしてきたか、およそこれでわかるでしょう?」
まともに顔を照らされて目をパチクリさせながら、マスターズは山高帽をかぶると、慎重な調子で、「ハリデーさん、どうせ案内していただくんなら、ひとつ前代未聞というところへお願いしたいですな。そりゃもう、今夜こちらへご同道していただいただけでも、ありがたいとは思ってますが、ま、欲をいえばね」
懐中電灯の光がそれたとき、わたしはマスターズの笑顔を見た。あたりを照らしてみると、ホールは客間よりもさらに荒れ果てていた。床は平石を敷きつめた上に、昔は板を張ってあったのが、その床板は客間の腰板と同様に、とうの昔に剥がされて、荒れ果てた墓穴みたいになっていた。つきあたりに大きな階段があり、ホールの両側には三つの扉口がついていた。鼠が一匹、懐中電灯の光のなかをチョロチョロッと横ぎったと思うと、階段の近くへ逃げこんだらしい音がした。マスターズは懐中電灯の光で探り探り、一人でどんどん先のほうへ歩いていった。そのあとから、ハリデーとわたしは、できるだけ足音を忍ばせながらついていった。ハリデーがわたしにささやいた。
「ねえ、また何だかへんな感じがするね?」
わたしはうなずいた。相手のいう意味がすぐにピンときた。ぐるりから、またしても何か怪しいものが、つい目のはなへ迫ってきている感じだった。ちょうど水中へもぐって、すこし長く沈んでいると、きゅうにこのままもう水面へ出られないのではないかという恐怖に襲われることがあるが、あれに似た感じと思えばいいだろう。
「おーい、だめだよ、バラバラになっちゃ」
マスターズが一人で先のほうへ行って、階段のそばでうろうろしているのを見て、ハリデーがいった。そのマスターズが、階段の脇の腰板の前でいきなりハタと立ち止まったので、こっちは思わずギクリとした。相手は立ち止まったまま、じっと足もとに見入っている様子である。当人の照らす懐中電灯の光で山高帽と肩はばの広いうしろ姿が、影絵のようにくっきりと浮かんでいる。そのうちに何を思ったか、そこへ片膝をついてしゃがみこんだと思うと、何か驚いたような声をあげたのが聞こえた。
階段わきの床石の上に、何やら黒いしみがついていた。そして、そのまわりの少しばかりの範囲のところだけ、積った埃《ほこり》がきれいになっている。マスターズは手をさしのべて、腰板をなでてみた。その腰板は、階段下の低い物置の板戸なのであった。マスターズがその板戸をグイと押してみると、とたんに物置のなかで鼠どもがガサガサ騒ぎだした。二、三匹外へ飛びだしたやつもあるし、一匹はマスターズの足へのぼりついたが、それでも片膝ついた姿勢は崩そうともしなかった。懐中電灯で照らした光で、わたしはきたない物置のなかに、ピカピカに磨いた靴が片っぽ転がっているのを目にした。
マスターズはじっと目を凝らしていた。黴《かび》くさいじめじめした空気に、何だか息がつまりそうだった。やがて警部が無造作な声でいった。
「いやあ、何でもないですよ。あんまり気持のいいものじゃないけど、猫ですよ」
「猫?」
「ええ、猫がのど首を切られてやがる!」
さすがのハリデーも、思わずうしろへ飛びのいた。わたしは警部の肩ごしに、物置のなかを照らしてみた。誰かが――あるいは何者かが、人目からかくすために、こんなところへつっこんでおいたのだろう。まだ死んでまもない死骸で、しかもあおむけに転がっているから、のど笛《ぶえ》を切られたざまがよく見える。まっ黒けなカラス猫で、苦悶のためにつっぱった体が、死んでからグニャリとよじくれて、埃《ほこり》まみれになっていた。半分開いた目が、靴のボタンみたいだった。死骸のまわりで何か動いているものがあった。
「ブレークさん、わたしも何だかそろそろへんな心持になってきましたぜ」とマスターズは顎をなでながら、「こりゃどうやらここの屋敷には、何か悪霊みたいなものがいそうだよ」
さすが無神経のかれが、さも忌《いま》わしげに物置の戸をバタンとしめると、腰を上げた。
「だけど、いったい誰がこんなまねを――?」ハリデーはいいながら、そっと肩ごしにうしろをふり返った。
「さ、それですよ。誰のしわざか? 何のためにしたのか? 計画的な残虐行為の一部なのか、それとも何かわけがあってしたことなのか? ねえブレークさん、どうです?」
「ぼくは今、謎の人物ダーワースのことを考えていたんですがね。あんた、奴のことを話してくれるはずだったね。どこにいるんです、あの男は?」
「しっ――!」マスターズが手をあげて制した。
家のなかを、話し声と足音がこちらへ近づいてくるのが聞こえた。明らかに人間の声だった。しかもそれが、石造家屋の迷路のなかの反響のぐあいで、壁づたいに耳のすぐうしろでボソボソささやくように聞こえるのである。はじめはくぐもったような声のなかに、きれぎれな言葉が聞きとれた。
「……黒んぼの迷信の肩なんか持ちなさんな。……おんなじじゃ。……。ばかくさい。……どうもこの……」
「ええ、そりゃそうです!」そういう相手の声は低い声だったが、前の声よりもうわずった声だった。「だけど、どうしてそんな感じがなさるんです? ぼくが自分の神経に浮かされて催眠術にかかるような、そんな甘っちょろい耽美《たんび》派に見えますか? そりゃあなたの杞憂《きゆう》ですよ。汝自身を信ぜよ? かりにもわれわれは近代心理学を学んだものですよ……」
足音はホールの奥の、低い拱門《アーチ》の先のほうからやってくる。誰かが手のひらで囲っている蝋燭の灯影と、その灯影で白く塗った煉瓦敷きの廊下の床が見えてきた。やがて一人の人影がホールへはいってきて、われわれのいるのを見つけた。人影ははっとしてうしろへ身をひくと、あとから来たもう一人の人影にぶつかった。こちらとはかなり距離がはなれていたが、それでもよほど驚いたと見えて、うろたえたけはいがそれと感じられた。先方がかざしている蝋燭の灯の上で、あいた口から白い歯が光って、「あっ!」と低い声が叫んだ。その声に応じて、ハリデーがざまを見ろといわんばかりのそっけない調子で応酬した。
「蝋燭を消しなさんな、テッド。ぼくだよ」
先方の男は蝋燭を高く上げて、こちらを見透かすようにうかがった。まだごく若い男で、蝋燭の炎の上に、イートン風の地味なネクタイ、若々しい頬、りっぱな口髭、四角ばった顔の線がつぎつぎに浮かんだ。上着も帽子も雨でびしょ濡れであった。その男が気短からしい声でいった。
「ひどいな、ディーン! あんまりおどかさないでくださいよ。だいいち、困るな、こんなところをウロウロされちゃ……」息づかいがはずんでいるのが聞こえた。
「誰じゃ、そこにいるのは?」あとから来たつれの男がどなった。新来のこの人物を見るために、われわれが懐中電灯を向けると、目をパチクリさせて「まぶしい!」とどなりつけられたから、急いで光を足もとにそらした。この二人の人物のほかに、もう一人そのうしろに、髪の毛の赤い、痩せた小さな男が立っていた。
「今晩は、フェザートン少佐」ハリデーが挨拶の声をかけた。「べつにびっくりなさることはありませんよ。どうもぼくは人に会うと、野兎みたいに相手を飛び上がらせる、へんな性分があるらしいな」と声高な調子で、「顔のせいなのかな? ぼくなんかより、ダーワースと口をきくほうが、よっぽど寒けがする。あんた方は誰もそう思わないんだからな」
「こら! 誰がわしが驚いたといった!」と少佐がいった。「君のそのボテボテにふくらんだ頬ぺたが、わしは好きなくらいじゃ。わしが驚いたと誰がいった? 断わっておくが、わしは誰の前でも公言しとるように、公明正大、曲がったことはない人間じゃ。人から誤解をうけることもなし、保守的な旧弊人じゃからというて、――つまり、こういうところへ来ておるからというて、嘲弄の種にされる理屈はどこにもないぞ」
まっ暗闇のなかで、少佐の声は、まるで解体した新聞の活字みたいに響いた。下腹のべんべんとつきでた少佐の体が、すこしうしろへよろめいた。地図みたいに皺だらけな頬と、死人のようにドロンとした目と、夜会服をコルセットでもはめたようにキリキリに締め上げて着ている、齢八十に近い老いぼれた伊達《だて》おやじのぶくぶく太りのていたらくを、わたしは一目で満喫した。
「いや、こんなことをしておったら、またリューマチを引き起こしてしもうわ」と少佐は気弱らしく、いいわけめいた文句をぼやいて、「じゃが、ベニング夫人から応援を頼まれてみれば、男の名誉として断わるわけにもいかんテ」
「どういたしまして」ハリデーはわざと見当はずれな相槌を打って、息をひとつ呑みこむと、
「こっちも今、ベニング夫人に会ってきましたよ。友だちといっしょに、あんた方の幽霊退治を拝見しようと思ってね。これからあっちの小屋を見にいくところですよ」
「そりゃだめだ!」とテッド・ラティマーがいった。この青年は狂信者じみた相貌をしていた。口もとにひきつったような薄笑いをうかべ、顔のしまりがたるんだような顔つきで、「そりゃだめですよ!」と重ねて念を押すようにいった。
「今ね、ダーワースさんをあすこへおいれして、もういいから引き取ってくれといわれたから、こっちへやってきたんです。これから徹夜のご祈祷が始まります。まあ、行くのはよされたほうがいいな。だいいち危険ですよ。そろそろ悪霊が現われますからね。きっと現われます――」姉によく似た、痩せて角ばった熱っぽい顔が、腕時計をのぞいて、「ほら、もう十二時五分過ぎだ」
「へっ!」マスターズがばかいうなという調子で、吐き出すようにつぶやくと、ひとりでさっさと歩きだした。その足音が、ホールの奥の腐った床板にミシミシ鳴った。そのへんは、床板がまだ床石からあげてなかった。こうして今これを書きながら思い返してみると、つまらないことをよくごたごたと憶えているものだと思うが、何でもその残っていた部分の床板は、りっぱな樫木だったように憶えている。油に指のよごれたテッド・ラティマーのきたない手が、袖口からニュッと出ていたことも憶えているし、そのうしろの蝋燭の灯のとどかない陰に、髪の毛の赤い、見ばえのしない若僧が頭をなでたり、顔をべロンコしたりしていた姿が、何ともいいようのない気味の悪い無言劇みたいだったことも、はっきり記憶にのこっている。
その若僧のほうへテッドがふりむいた。蝋燭の灯が痩せた鼻のあたまにちらちら映った。
「ねえ、客間へいきませんか? あすこなら悪霊がこないから、安全ですよ。ねえ、行きましょうよ」
「そうしましょうよ」と、しけた声が答えた。「ぼくもそう教わってるの。悪霊はまだ見たことないけどさ……」
この若僧がジョゼフだった。りっぱなその名とはまるで月とスッポンの、そばかすだらけの、でれりぼうとした面《つら》がまえである。蝋燭の灯がグルリともとにもどったので、若僧は陰になってしまった。
「ねえ、どうですか?」とテッドがきいた。
「えらいこっちゃ!」フェザートン少佐がそばから何の意味もなく、唐突にいった。
ハリデーはさっさとマスターズの先に立って歩きだしながら、「ブレーク、行こう」とわたしに声をかけた。「ちょっと見てこようや」
「あれ、ちょっと、心霊がもう出てますったら」とテッドが叫んだ。「心霊はそういうことを忌《い》むんですよ。もう寄ってきてますから、危ないですよ!」
フェザートン少佐が、君たちが行くなら、自分は紳士としてまたスポーツマンとして、いっしょに行って安全な行動をさせる義務があると強情にいいはるのを、ハリデーはあっさり断わって、さもいや味らしく頭を一つ下げると、大きな声で笑った。テッドは必死でハリデーの腕にとりすがり、少佐は少佐で客間のほうへ引っぱっていこうと躍起になったが、もうそのときには、こっちはもたつく少佐、あわてるテッド、のそくさいいなりにうろうろしているジョゼフをあとに、さっさと先へ動きだしていた。三人一列になって、各自が懐中電灯で足もとを照らしながら進んだ。濃い闇が三人のまわりを水のように包んだ。白く塗った狭い廊下を曲がると、そこから雨のしぶいている外へ出られる。……
「あっ、危ないっ!」
だしぬけにマスターズ警部がどなったと思うと、ハリデーを横ざまに突きとばした。
闇のなかで、ドスンと何か落ちて割れた音がした。懐中電灯の光がサッとすっ飛んで、すぐに消えた。えらい地響きの音で、耳がまだガーンとしている中で、こっちをふり向いたテッドが蝋燭を高くふり上げながら、目を皿のように見はっているのを、わたしは見た。
四 教祖のおののき
わたしが照らした懐中電灯の光のなかで、ハリデーは床の上に尻餅をついて、両手をうしろについたまま、目をキョロキョロさせていた。いま一つの光――マスターズの懐中電灯は、ディーンをチラリと照らしたのち、すぐと探照灯のように、まっすぐに天井を照らした。それから階段を這いずるように照らし、手すりをつたって、やがて階上の踊り場を照らした。踊り場には人影もなく、がらんとしていた。
マスターズは、ホールの隅に固まっている三人のほうを向いて、
「怪我はなかったですよ。あんたがた、早く客間へひきとったほうがいいね。ご婦人がたが心配してたら、そういっといてください。――五分もすれば、そっちへ行きますからって」
三人の男たちは、文句もいわずに客間へはいると、扉をガタピシ音をたててしめた。
マスターズはクスクス笑いながら、
「へん、人騒がせをさせやがって。人を食った奴らだよ、ねえ」とまるで寛仁大度《かんにんたいど》のご本尊みたいな、おちつきはらった顔をして、「あんな手は、それこそ大時代の、使い古した子供だましの手ですよ。ハタキという手でね。なに、もう安心してよござんすよ、ハリデーさん。これで奴の正体がつかめた。いや、とうからインチキ野郎だとは思ってたんだが、これで正体がつかめた」
「ま、ちょっと待ってくださいよ」とハリデーは帽子をかぶり直しながら、「いったい、何がどうなったんですか?」声はしゃんとしていたが、さすがに肩がぴくぴく動き、床の上をキョロキョロ見まわしながら、「ここんとこに立ってたら、いきなり何かが懐中電灯を手からはねとばしたんだが、いい加減に握ってたのかな」――床に腰を落としたまま、手を握ってみて、「まだこら、手がしびれてる。何だかしらないが、いきなり何か飛んできて、ドサッと床の上へ落ちましたぜ。はははは、おかしいね。わけがわからないや。気つけに一杯欲しいところだな。ほっ!」
マスターズは笑いながら、懐中電灯を床に向けた。ハリデーの坐りこんでいる二、三フィート前のところに、こわれた鉢のかけらが散乱していた。厚手の鉢だから、散らばっているかけらの数は少なく、三分の一ばかりもとの形のまま残っていた。灰色の石でできた植木鉢で、時代がついて黒くなっているが、口径が三フィート、深さは十インチもある大きなもので、もとは草花でも植わっていたのに相違ない。マスターズは笑いをやめて、目をまるくした。
「どうですまあ、こいつがもう少しで、あんたの頭を蜜柑みたいにグシャッと潰《つぶ》すところだったんだな。運がよかったよ。むろん、あんたに当てるつもりじゃなかったんだろうが、――まさか奴らそんな魂胆まではなかったんだろうが、それにしたって、もう一フィートか二フィート左へ寄っていたら、それこそ……」
「奴らって、――奴らって誰のことです?」ハリデーが立ち上がりながら尋ねた。
「ダーワースと弟子のジョゼフですよ。奴らは悪霊の力がいよいよ我慢しかねて暴れだした、ということを見せるつもりだったんだね。あんたが石室へ行くといってきかないもんだから、悪霊がわれわれに挑戦して、それで植木鉢を投げつけたと、こう思わせたかったわけだ。とにかく、誰かをねらったんだな。……まあ、上をちょっと見てごらんなさい。もう少し上。――ほーら、あの階段の上の踊り場ね、あすこから降ってきたんですよ」
考えると、さすがにハリデーの腰はガクガクした。思わずそこへヘタヘタとしゃがみこんでしまった。そのうちに、内心の怒りが、立ち上がるのに力を貸した。
「ダーワースと弟子? 畜生、あのペテン師野郎」とハリデーは階段の上を指さして、「あすこに――あの踊り場に立ってて、落としゃがったんだな」
「しっ、声がちっと高いよ、ハリデーさん。――いや、恐縮恐縮。だけど、ダーワースはさっきのあの三人が石室へ入れてきたというんだから、石室にいることは疑いないと思うね。踊り場には誰もいない。これはね、若僧のジョゼフのしわざですぜ」
「いや、そうじゃないと思うな」と、わたしはいった。「だって、さっきぼくはずっと彼奴に懐中電灯をあてていたんだぜ。だもの、ジョゼフにできるわけはないよ」
警部はおとなしくうなずいた。お嫁にいった晩という様子だった。「なるほどね。だけど、あれはトリックのひとつなんですよ。わたしはべつに学のある人間じゃないが」と、ちょっと警察官らしい態度で開き直って、「しかし、あれは明らかにトリックですよ。しかも古いトリックでね。一六四九年にジャイルズ・シャープがウッドストック・パレスで使ったし、一七七二年にはアン・ロビンソンがヴォクスホールで使ってます。わたしの資料帳の中に、ちゃんと載ってますよ。大英博物館にいる人で、その方面にくわしい人からいろいろ聞いたんですがね。ああいう真似をああいう連中が、いかにとっさの間にやるか、ひとつお話ししましょうかね。――その前に、ちょっと失礼して……」
と警部は、まるで大家の執事みたいな物腰で、おそるおそる腰のポケットから、安物の砲金製の小瓶をとりだすと、それをていねいにふいて、
「ハリデーさん、一杯いかが? わたしは飲めない口だけど、こういう事件と取っ組むときには、かならずこいつを携帯するんです。けっこう役に立ちますよ。人さまの役にね。家内の友だちで、しじゅうケンシントンの霊媒のところへかよってるのがいましてな――」
階段にもたれながら、ハリデーはにやにやしていた。顔はまだ青ざめていたが、元気は取りもどしたようすであった。
「やい、ペテン師! やるなら、もっとやれ、やれ!」踊り場を見上げて、かれは突拍子もない声を出してどなった。「畜生! やれよ! もう一丁、投げてみろ!」と拳《こぶし》をふって、「その手はわかったぞ。驚きゃしねえや。案じるほどのことはねえや。……警部、お礼をいいます。これでもね、お宅の奥さんのお友だちほどには、ぼくはまだいかれちゃいないつもりですよ。だけど、今はちょいと危かったな。それ、一口ちょうだいしましょう。……ところで問題は、これからさてどうするかだな。――」
マスターズが、あとからついてこいと合図をするので、われわれはミシミシ鳴る床板を渡って、もうひとつ先の黴《かび》臭い廊下の暗闇へ出た。ハリデーの懐中電灯が、今の騒ぎでこわれてしまったので、わたしが自分のを貸そうというと、かれはいらないといった。
「まだ罠《わな》があるかもしれないから、用心してください」と警部がしゃがれ声でささやいた。「敵はおそらく屋敷じゅうに、度肝《どぎも》をぬくような仕掛をしてますぜ。眼目《がんもく》はそれなんだから。あの一味は何かたくらんでいますよ。とにかく、何かどえらい理由で、やつら、ひと芝居うつ魂胆だな。その理由なるものを、何とかしてあばいてやりたいと思うんだが、しかし敵地へ踏んごんでダーワースの奴をやっつけるのは、まずいな」とひとり合点をして、「奴が石室から外へ出ないことが確かめられ、そしてあの若僧のジョゼフから目をはなさずにいれば……そうだ、よし。――」
いいながら警部は、たえず懐中電灯であたりをくまなく調べていた。廊下は狭いが、かなり長くて、ところどころ太い梁《はり》で補強してあった。両側に戸口が六つばかりあり、どの部屋も、廊下から中がのぞけるように、鉄格子のはまった窓が壁に切ってある。十七世紀の中ごろに建てられたこの屋敷で、こんな部屋が何の目的に使われていたのだろうと、わたしは考えてみたが、どうも商売用の倉庫だったのではないかと思う。
鉄格子の一つから中をのぞいてみると、(そこは帳場だったらしい)水のない水槽みたいにガランとした荒れ放題の部屋のなかには、使い残りの薪が散らばっていた。今でもおぼろげな記憶の底に、染めつけの陶器だの、アラビアの布地、杖、嗅《か》ぎ煙草入れ、――そんな見たこともない珍しい品々が、ぼんやり残っている。そのとき、息のつまるようなあたりの不安な空気のなかから、わたしの目の前に、とつぜん怪しい影がもうろうと現われた。顔も姿もないもので、それが煉瓦敷きの床の上を、フワフワ、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。人間のようにも思えたが、むろん人間ではなかった。着物だけの幽霊であった。あたりの不潔な空気で、自分の頭がへんになりかけているのを自分でいまいましく思いながらも、古い屋敷のなかにただよう瘴気《しょうき》がしだいに脳のなかにしみこんでくるようであった。湿気にふくれた周囲の壁を見まわしながら、わたしは、なぜこの屋敷を『黒死荘』と呼ぶのだろうかと不審な気がした。
「おーい!」
マスターズ警部の呼ぶ声に、わたしは急いでハリデーのあとを追いかけた。
警部はすでに廊下のはずれの出口のところから、表をのぞいていた。雨はだいぶ小降りになっていた。廊下の右手に、また小さな廊下がわかれていて、その先は火の消えた火床みたいな、まっ暗な台所になっており、廊下の左手の戸口が裏庭へ出る口である。マスターズが懐中電灯を上に向けて、何かを指さして見せた。
見ると、釣鐘であった。シルクハットぐらいの大きさの錆《さ》びた鐘が、鉄の枠で吊られて、裏庭へ出る戸口の上の低い軒先にぶらさがっていた。むかしこの屋敷で、何かを知らせるときの知らせ鐘に使ったものらしく、べつに何の変哲もないものと思ってわたしは見たが、マスターズがかさねて懐中電灯をさしつけるので、なおよく見ると、釣鐘の横腹のところに新しい針金が一本、鈍く光りながら張りわたしてある。
「何だ、またトリックか?」とハリデーがしばらく考えてからいった。「ふーん、こりゃ針金だね。鐘の横腹からこの窓の板をつきぬけて、庭へずっと張りわたしてあるな。これもやっぱり、何かの仕掛けなのかな?」
「おっと、手をふれないで!」
ハリデーが手をのばすと、マスターズがそういって注意して、外の闇をすかすようにうかがった。冷たい風が、泥のにおいとへんなにおいを運んできた。
「あっちにいる連中に気どられたくないから、懐中電灯もなるべく用心してください。……この針金、ほら、ここから向こうの石室まで張り渡してある」
われわれも、ともどもに、まっ暗な外を眺めた。雨はほとんど小止みになって、樋《とい》をチョロチョロ流れる雨水の音と、雨だれの音がポトンポトンと身近にきこえていたが、裏庭のほうではまだポシャポシャと音をたてていた。夜空が低くたれ、裏手の地所をあらかた囲っている高い塀ぞいに、建物がぎっしり立ちふさがっているので、暗さは暗し、視界がよくきかなかったが、問題の石室は、われわれのいるところから約四十ヤードほどはなれたところにあった。灯火がたった一つ、軒下の窓……というには小さすぎる、鉄格子のはまった銃眼みたいな小さな穴から、ちらちらもれていた。主屋《おもや》とは縁が切れて、それ一棟だけがポツンとはなれて立っており、曲がりくねった立ち木が一本、すぐそばに生えている。
と、そのとき、石室の灯影がゆらゆらと動いた。そのゆれ方が、何かおびきよせるような薄気味の悪いゆれ方だった。ぬかるみの庭をショボショボたたく雨の音が、まるで何十匹もの鼠どもが一度に駆けまわるようにきこえた。
ハリデーが寒気でもするようにブルブルと身ぶるいをして、
「よくわからないが、どうもこりゃ、だいぶ念の入ったいたずらのようだな。常識をはずれてますね。猫ののど笛《ぶえ》をかっ切ったり、釣鐘に針金をしばりつけたり、三十ポンドもある植木鉢が誰もいないのに頭の上に降ってきたり。……なんですか、この持ってまわった繁雑さ加減は? いっそ繁雑が売物の役所勤めでもして、手のうちを教えてもらいたいもんだな。そういえば、この廊下にも何かいましたぜ。――たしかに何かいましたよ」
「だけど」とわたしはいった。「何も釣鐘に針金を巻きつけてあるからといって、べつに何てこともないと思うがな。このとおり、誰が見たって、すぐわかるようにできているんだし。おおかた、何かことのあった場合の知らせに、ダーワースがあの連中とこしらえたものでしょうさ」
「なるほどね。だけど、どんな場合だろうな?」と警部はひとりごとのようにいいながら、何か物音でも聞きつけたのか、右手のほうへキッと目を向け、「じつはね、それが知りたいんで、こっちは今までいろいろ準備をしとったんです。奴ら二人に見張りをつける必要があってね――あなた方は失礼だが、尾行なんてことはご存じないだろうが、ひと月ほど前から極秘裡に、ダーワースの奴を尾行させてあるんですよ」
「あれ警部、あんたは反ダーワース派じゃないんでしょう」ハリデーは怪訝《けげん》な顔で警部の顔をのぞきこみながらいった。「どういうんです? ダーワースには手も足も出ない、あの男は、一ギニー抛《ほうって》やればタンバリンをがちゃがちゃ鳴らすようなジェラード街の運勢見とは違うと、さっきそういわれましたね。あいつの商売はね、人から頼まれれば心霊研究をやったり、自分の家で降霊会を催したりするのが商売なんですぜ。奴をあばくなんて、それこそ――」
「そうです、その通りです」とマスターズは相槌を打って、「それが奴の用心深い、抜け目のないところなんでね。さっきラティマー嬢もいってたでしょう。――あの人は面倒なことにはけっしてかかり合いません。単なる心霊研究家にすぎませんと。どうです、自分は熟練した霊媒の後見にすぎないという用心深さですよ。そうしておけば、何かことの起こったときには、奴はインチキ霊媒にひっかかったということになって、奴の心証は、悪質の霊媒を紹介したという以外には、何の問題にもならんですからな。金はふんだくり放題。おんなじ手を繰り返していりゃいいんだから。ところで、失礼なことをうかがうようですが、ベニング夫人は資産家でいらっしゃるでしょう?」
「ええ」
「ラティマー嬢は?」
「やっぱり、そうでしょうな。だけど、奴の欲しいものが金ならば――」と吐きだすようにいったが、ふと口をつぐんで、いおうと思ったことをすり変えて、「奴の欲しいものが金なら、奴が手を引くことを条件に、五千やそこらの小切手はいつでも切ってやるがな」
「いや、そういう取引は、奴はしますまい。それより、今夜こそ天の与えた絶好のチャンスですよ。今夜奴が何かすれば――あたしがここへ来てると知らずに何かすれば……」マスターズは意味ありげな含み笑いをして、「うまいことに、あの若僧はわたしの顔を知らないんだ。会ったことがないんだから。――とにかく、ちょっと失礼して、さきに様子を偵察してきますから、あんた方ここでしばらく待っててください。あたしがもどってくるまで、ここを動かないように願いますよ」
こっちがウンともスンとも返事をしないうちに、マスターズはさっさと庭へ二、三歩下りたと思うと、たちまち姿が見えなくなってしまった。見上げるような大男のくせに、足音ひとつ立てない。十秒ほどしてから、やっと泥濘《ぬかるみ》をグチャリグチャリ歩く音が聞こえるまで、まるでどこかそこらに立ち往生でもしてしまったように、コソリとの足音もしなかった。
しばらくすると、裏庭の右手のはるか先のほうで、懐中電灯がパッと光った。ハリデーとわたしは、石室の窓にゆれている赤く濁った怪しい灯影とは似てもつかないその光を、そぼ降る雨音のなかに黙って見まもった。光はしばらく地面の一ヵ所をじっと照らしていたが、やがてすばやくパッパッパッと三度明滅したと思うと、ひと休みして、それからこんどは前よりも長く光って、消えた。
ハリデーが何かいおうとしたから、わたしは肘《ひじ》をつついて、黙っていろと注意した。闇のしじまを縫う雨音ばかりの短い時がすぎ、やがて返事があった。マスターズ警部のいる見当から、懐中電灯が今のと同じような点滅をした。
と、かなたの闇のなかで何か動くけはいがしたと思うと、まもなくマスターズの巨体が息せき切りながら、すぐ目の前の踏段の上にあらわれた。
「今の、合図だったんですか?」とわたしはきいた。
「あれね、われわれの仲間なんですよ。だから、こっちも応答してやったんですがね。信号ですよ、あれ。仲間の誰なのかな?」
いってるところへ、「こんばんは――」と、ふいに踏段の下から声がかかった。「声で、てっきりあなただと思いました」
声の主を黙って上へあげると、警部は相手を廊下へつれこんだ。懐中電灯の光で見ると、痩せた神経質らしい若い男だった。知的な容貌で、学生みたいな生真面目《きまじめ》な感じに好感がもてた。ぐしょ濡れの中折れ帽を目深《まぶか》にかぶって、ぐしょ濡れのハンケチでしきりと顔をふいている。
「やあ、バートか? ――みなさん、この男、マクドネル巡査部長です」マスターズはいい心持で、「前にわたしがやっていたのと同じ仕事をしてますが、わたしと違ってこの男は大学出でね、新人ですよ。しかも、なかなかの野心家でしてね、新聞ですでに名前はご存じでしょうが、例の盗難にあった短剣の捜査に当たってる男です」といってから、きゅうに荒っぽい語気で、
「バート、ところでどうなんだ? ひと通り聞かせろ」
「そうくるだろうと思ってました」と相手はいんぎんに答えて、顔をつづけざまに拭いながら、目を細めて警部を正視して、「簡単に申し上げます。いやもう、ひどいドシャ降りのなかを、二時間ばかりあすこにいたんですが、主任の大嫌いなダーワースは、あすこにいますよ」
「うん、それで」とマスターズはそっけない調子で、「おい、君も役づきたけりゃ、上司のいうことは忠実に守れよ、なあ」と妙なことをいってから、しばらく息を荒くして黙っていたが、「スティープリから聞いたが、君は一ヵ月ほど前から、ダーワース事件にまわされているんだってな。例の短剣事件にも関係してるそうだな?」
「はあ。どうも両方いっぺんに来ちゃって……」
警部はマクドネルの顔をじっとのぞきこんで、
「けっこうじゃないか。君は使える人間だから、おれが頼んどいたんだ。――そんなことより肝心の話が先だ。石室は調べたんだな? どんなぐあいだ?」
「手ごろな広さですね、中は。すこし長っ細いかな。石の壁で、床は煉瓦敷き。屋根の裏がそのまま天井になってて、四方の壁のまんなかより少し高めに、鉄格子のはまった窓が四つあります。入口は、ちょうどここから見える、あの窓の下です」
「ほかに出入口は?」
「ありません」
「いや、どこかこっそり抜けられるような口はないかというんだよ?」
「そんなものはないでしょうな。考えられませんね。ダーワースは石室からは出られませんよ。入口に、ここの連中が南京錠をかけちまいましたから。外からかけろといって、ダーワースが命じたんです」
「臭いな、そいつは。何か手品があるぞ。そうなると、中をよく調べてみたいな。煙突はどうなんだ?」
「煙突もすっかり調べました」と答えながら、寒さに体がガタガタするのをこらえて、「煙突の中には、暖炉の焚き口のすこし上のとこに、鉄格子がはまってます。それから窓の鉄格子も頑丈に石にはめこんでありますし、格子の目は、鉛筆一本つっこめないくらい小さいんですよ。それにダーワースの奴は、入口の中側の閂《かんぬき》もおろしたんだそうです。失礼ですが、主任のお尋ねの主旨も、そのことだと思いますが……」
「ダーワースが石室から脱け出ることか?」
「いえ、そうじゃないんです」マクドネルは落ちついて答えた。「石室へ誰かが、あるいは何者かが忍びこもうとしているんだと思うのですが」
いい合わしたように、われわれはいっせいに闇のなかをふり返って、チラチラ人を招くようにゆらいでいる石室の灯影に目をこらした。十文字の鉄格子のはまった小窓は、一フィート平方たらずのもので、それが中にともっている淡い灯影でくっきりと闇の中に浮かんでいた。と、そのとき、小窓に人の頭の影が映った。影は鉄格子から外をのぞいているようであった。
わたしは、なぜかふいに、頭から水を浴びせかけられたような恐怖をおぼえた。いくらダーワースが背高のっぽだって、あの小窓までは背はとどくまい。きっと椅子か腰掛にのって、外をのぞいたのに違いない。頭の影法師はゆっくり動いていたが、どこか首のあたりにたりないところでもあるような格好だった。……
あとの連中もそれを見たかどうかは、わたしは知らない。灯影がきゅうにそのとき暗くなったし、それにマスターズがしきりと荒っぽい声で、何かいっていたから。わたしもそれはみなまで聞いたわけではないが、何でもマクドネルが何かヘマなことをやらかしたのを、貴様が弱腰だからといって、警部が頭ごなしに叱りつけていたようだった。
「主任、恐縮ですが……」とマクドネルはそれに対して、どこまでも下手《したて》に出たが、わたしはその声の調子に、何かうわべだけの慇懃《いんぎん》めいたものを感じた。「わたくしの話をひと通りお聞き願えませんか。わたくしがなぜここへまいったかという……」
「来たまえ」警部はそっけない調子で、「あっちで聞こう、その南京錠の話を。君の話をきいてから、おれは現場を見にいく。誤解しちゃいかんよ、君!」
警部はそういって、われわれをひとまず廊下へ上げると、懐中電灯であてずっぽうに照らし出した扉口のひとつへ、われわれを連れこんだ。そこは昔の台所の一部だった。マクドネルは雨に濡れて型のくずれた帽子をぬいで、はじめて一服つけ、マッチの火ごしに緑色の鋭い目で、ハリデーとわたしのことをジロリと見た。
「この方々は心配ない方々だよ」マスターズはそういっただけで、われわれの名前はついに出さなかった。
「ちょうど一週間前でした」マクドネルはやや唐突に、いきなりいいだした。「はじめてわたしは、この事件の手がかりをつかんだのです。ご承知のように、ダーワースの身辺の内偵をわたしが命じられたのは七月でしたが、ぜんぜん何も得られませんでね。インチキ師みたいではあるが、そうかといって――」
「そりゃ始めからわかってる」
「はあ」とマクドネルはちょっと息を入れて、「でも、わたくしはこの事件に魅力を感じましてね。ことにダーワースには興味をもちました。これは主任もご承知のことと思います。そこで、ダーワースに関する情報集めにかかったわけです。奴の自宅のまわりに張りこんだり、顔見知りの連中に聞きこみをかけたりしたんですが、いっこうにだめなんですな。というのは、ダーワースという奴は、ごく少数の限られた連中以外には、心霊研究のことはぜったいに口外しないのです。信者はみんなすごい金持ばかりでしてね。わたしの知人で、ダーワースのことを知っていて、あいつは悪い奴だと口をそろえてけなしている連中でも、奴が心霊学にこってることはぜんぜん知らなかったくらいですからな。……
そんなわけで、わたしも一時は腐ってしまって、いいかげん仕事をおっぽりだしていたところへ、偶然、大学時代に知り合った男に、何年ぶりかでひょっこり会ったんです。ずいぶん親しくしていた友人なんですが、久しく会わずにいたので、いっしょに飯を食いながら話し合ったところが、そいつが心霊学の話を始めましてね。名前はラティマー――テッド・ラティマーという男です。
テッドは、学校時代からそういう傾向のあった男で、べつに夢想家でもないんですが、何かこう、ものの核心にぐんぐんはいりこんでいく男で、――そう、十五、六のときにコナン・ドイルの書いた心霊学の本に熱中して、何とかして自分で降霊の無我の状態にはいりたいと思って、いろいろやってみたそうです。失礼ですが、わたしも主任と同じように、お座敷手品が道楽だもんですから、先週その男にめぐり会ったときには、こいつはいい話相手が見つかったとばかりに、先方から飛びついてきたようなわけでしてね。
で、いろいろ話しているうちに、おれの知人がすばらしい霊媒を見つけてねといいだしたのを聞くと、ナント、その知人というのがダーワースなんですな。ところで、こっちは警察官という身分を、そのときはまだ相手に明かしてありません。あとで考えると、どうも卑怯なようで、いわばペテンにかけるようで後口《あとくち》が悪かったんですが、こっちはダーワースがいったいどんな真似をするのか、いっぺん見ておきたい一心で、相手をいろいろ説き伏せましてね、その逸物《いちもつ》にぜひ一度会わしてくれといって持ちかけたんです。するとテッドがいうには、ダーワースという人は|フリ《ヽヽ》の人にはぜったいに会わない、自分の研究を人に知らせるのを非常にいやがっているから。しかし、あすの晩、自分の伯母の友だちのフェザートンという人の家で、小人数の晩餐会を催す、それへダーワースが見えるはずだから、ひょっとしたら君をよんであげられるかもしれない、とこういうんですな。そんなわけで、わたくし、ちょうど先週の今夜、先方へ行ってみました。……」
マクドネルの巻煙草の火が、ポーッと赤くなって、また暗くなった。そのあとを、妙にいいしぶっているので、マスターズが促した。
「それでどうしたんだ? おい、気を持たせるつもりか?」
「いえいえ、とんでもない。――霊媒がどうしたのかその晩、来ませんでね。それでちょっと今考えていたんですが、あのジョゼフという白痴ですな、あいつはダーワースの、――何といったらいいかな、まあ看板みたいなもんですな。あの小僧がどうもわたしは気になるんですが、当人はどういうことをしてるんだか、自分じゃわかっていないらしいんですよ。どうもあいつの昏睡状態は、ありゃあダーワースに一服盛られる麻薬の昏睡状態らしいですね。あのばかは、自分じゃ霊媒だと思いこんでるらしいけど、そのじつは、ダーワースが手前で勝手に心霊現象をあらわしている間、あいつはただ無心に操《あやつ》られている人形の一種にすぎないようですな。……」
マスターズはもったいぶってうなずくと、「なるほどね。それが本当なら、誰かつけておかにゃならんが、しかしどうかなあ、それは。麻薬の一件はありそうなことだが、もしそうだとすると……まあいい、話をつづけたまえ」
「ちょっと待ってください、マクドネルさん」とわたしは横あいから口をだした。「あなた今、今夜は何か怪しいことがありそうだといわれましたね。何か超自然なことが起こりそうだ、というふうに聞きとれましたよ。警部もそんなことをいってたが」
マクドネルの煙草の火が、闇のなかで動かなくなった。それが上のほうへ動いて、いっとき息づくように赤く光ったのち、ふたたびボーッと暗くなったところで、いいだした。
「それはこちらからいちおう説明を申し上げたいところです。超自然とは申し上げなかったと思いますが、誰かが、あるいは何ものかがダーワースをねらっていると申したんです。いろいろ調べてみると、どうもそうなんです。それが誰だとまでは、まだ正体が指せませんが。……
その話を申し上げましょう。
さっき申したフェザートン少佐ですがね――ご存知でしょうが、今夜ここへも見えていますが、――この人はピカディリーに住んでいます。そこは幽霊なんかにはぜんぜん縁のない、当人もご自慢の近代的なアパートでしてね、ご当人は暇さえあれば、エドワード王時代は世並みがよかった、今とは雲泥の違いだと、昔の自慢話ばかりしている老人です。この老人の部屋へわれわれ六人の者が集まったんです。――ダーワース、テッド・ラティマー、テッドの姉のマリオン、それからベニング夫人という、いやにしゃらくさい婆さん、それに少佐とわたくし。で、その晩の印象は――」
「おいおい、バート」とマスターズが横あいから、腹にすえかねたように、「いったい、何の報告をしようてんだ? 君の印象なんか聞かんでもいい。こんなとこにつっ立って、寒さにガタガタふるえながら、そんな話を聞く暇がどこにあるか!」
「いや、ぼくは聞きたいな」とハリデーが横あいから勢いこんでいった。(鼻息がそばにいて聞こえた)「そいつはまさにぼくの聞きたいことなんだ。マクドネルさん、かまわないから話をつづけてください」
マクドネルはややしばらく口をつぐんでいたが、やがて闇のなかで軽く一礼した。わたしはそのとき、ふと妙な夢幻的な気持におそわれた。なぜだかわからない。懐中電灯が床を照らしている中での会談が、何だか夢の中のような心持にさせたのだろう。マクドネルはいやにもったいをつけているような調子で、
「さようですな。わたくしの印象では、ダーワースはだいぶラティマー嬢に関心をもってるようでしたな。ほかの連中は、ぜんぜんそんなことは気《け》どっていないようでした。何ごとによらず、あけすけにものをいわないダーワースのことですから、こっちはただ様子からそう察したんですが、どうもあの男には、普通の人間にはない、自分の心持を人に通じさせる妙な力があるようですね。ほかの連中は夢中になってるから、気がつかずにいたようですが――」マスターズがきゅうにゴホンゴホン長い咳をせいたが、マクドネルはいっこうに気にかけずに、「同席の皆さんも、わたしに親切にはしてくれましたが、しかしけっきょくやっぱり仲間はずれでしたな。ベニング夫人は、ときどきテッドが突拍子もないことをいいだすもんだから、ほとほと困った顔をして、にらみ通しでした。そんなことから、ははあ、今夜は降霊会があるんだなと、ピンときたわけです。しまいに、みんなテッドのことを相手にしなくなりました。しばらくしてから、みんなちょっと気まずい思いをしながら、客間へ席を移しました。ダーワースは……」
その話の間、わたしは先刻石室の窓に映った、あの気味の悪い影絵のことを思いだしていた。今このまっ暗な部屋にいても、あの影絵がありありと目の底にあって、どうしてもふりはらうことができなかった。そこで尋ねた。
「ねえ、ダーワースは背の高い男ですか? どんな様子の男です?」
「様子ですか……そうねえ、まあいや味な精神病学者といったところですかな」とマクドネルは答えた。「顔つきも、話しっぷりも、とんとそれですよ。いやもう、いけ好かない奴で……や、こりゃ失礼を」と口に手をあてて、「横柄《おうへい》ぶってましてね、相手にうむをいわせないようなところがあります。それが癇《かん》にさわった者はもちろんのこと、あいつに惚れこんだ者でも、一発ガーンと食らわせてやりたくなるくらいですよ。女と見れば、みんなおれのものだてな顔をしやがって、すぐに手を握ったり、しなだれかかったり……女関係は相当あるという噂です。……そう、背は高いほうですな。茶色のやわらかい顎ひげなんかたくわえてからに、にやにや薄笑いをうかべた、でっぷり太った男ですがね……」
「いや、わかりました」とハリデーがいった。
「はあ。――ところで、さっきの話のつづきですが、一同別室へ移ってから、話はベニング夫人がフェザートン少佐にすすめてむりに買わせたとかいう、何ですか新鋭派のすごい絵の話に落ちましてね。むろん少佐はそんな絵は大嫌いで、だいぶ迷惑らしい顔をしていましたが、ベニング夫人がダーワースに頭が上がらないように、少佐も夫人の前へ出ると、てんではや手も足も出ないらしいですな。それからまもなく、新顔のわたしがいるのに、話題は心霊学のことに落ちて、けっきょく、ダーワースに自動書記の実験をやってもらうことになったのです。
ところで、そこにじつは、インチキとはっきり証明できないインチキがあるのです。さもなければ、ダーワースが何でそんなものに手を出すものですか。最初に、出席者の気持を寄せるために、奴はかんたんな講義を一席ぶちましたが、正直のはなしそれを聞きましてね、こりゃよっぽどこっちがしっかり自制していないと、灯火《あかり》が消えたらこわくなりそうな気がほんとにしてましたな。いや、ほんとですよ!」とマクドネルはマスターズの顔を見やって、「だってね、まわりの連中があんまり神妙な顔をして、まんまとインチキ説教にひっかかって、咳ひとつせずにしんと静まり返ってるんですから。……
電灯が消えると、部屋の照明は炉あかりだけになりました。みんな円座をつくって、ダーワースだけが少しはなれた、小さな円《まる》テーブルの前にひかえています。テーブルの上には紙と鉛筆がのっています。ラティマー嬢がしばらくピアノを弾いてから、やがてこれも円座の中へはいりました。ほかの連中はたしか手をつなぎ合ってたようでしたな。ダーワースは万事自分の思う壷どおりに運んだから、これはすこぶるご満悦で、電灯が消えた寸前に、奴がニヤリとほくそえんだのを、わたしははっきり見ました。
だいたいわたしは、初めから奴と向かい合いになるような位置に席をとっておいたんですが、なにしろ灯火は炉のあかりだけなんですから、ほかの連中の影にさえぎられて、わたしのところから見えるのは背の高い椅子にもたれている奴の頭と、うしろの壁にちらちら映っている炉のあかりだけなんです。奴の頭の上には、緑色に塗った、へんな格好をした裸体画の大きな額がかかっていました。そういう部屋のなかに、炉あかりだけがゆらゆらゆれているのです。
円座の一同は、だんだん不安になってきたようでした。ベニング夫人はときどきうめくような声をあげて、ジェイムズとか何とか、そんな名前をしきりと念じていました。するとね、やがて部屋の中が、だんだんこう寒くなってきましてね。わたしもずいぶん今までほうぼうの降霊会に顔を出しましたが、あんな体験はいちども会ったことがありません。何かこう、いきなり立ち上がって、大きな声でどなり立てたいような、そんな気がムズムズしてきましてね。見ると、ダーワースの首が椅子の上のほうで、ぐらぐらゆれているんです。
そのうちに、鉛筆が紙の上をサラサラ走りだしました。奴の首は、依然としてゆれつづけています。部屋の中は水を打ったようです。ただ気色《きしょく》の悪い首の運動と、紙の上を走る鉛筆の音が聞こえるだけです。
二十分――三十分。どのくらいの時間がたったのか、よくわかりませんが、テッドがいきなり円座の中から立って、電灯をつけました。みんなもう辛抱しきれなくなったんでしょうな。わたしがアッと声を立てたのといっしょに、みんないっせいにダーワースのほうを見やりました。うむもいわずに、わたしは奴のところへ一足飛びに駆けよりました。
小さなテーブルがひっくり返って、ダーワースは片手に紙きれを持ったまんま、椅子にのけぞって固くなっているんです。顔がまっさおでした。
あのインチキ師の顔が、自分の頭の上にかかっている猥画の色とまるで同じ色でしたな。しばらくして正気に返りましたが、ガタガタふるえていましたよ。フェザートン少佐とわたしがそばへ寄って、手を貸そうとすると、奴はこっちを見上げて、あわてて手に持っていた紙きれをまるめたとおもうと、椅子からフラフラ立ち上がって、その紙きれを暖炉の中へポイと投げこんだものです。さすがに曲者《くせもの》ですな、平気な顔をして、『どうも残念だが、ぜんぜん白紙だったね。何でもルイズ・プレージに関するつまらんことだったが、いやまたそのうちに、実験をやり直すことにしよう』としゃあしゃあとしたものです。
ところが、そいつはまっかな嘘でしてね。紙きれにははっきり字が書いてありました。わたしはこの目でそれを見たんですから。フェザートン少佐も見たようでした。もっとも、ほんのチラッと見ただけですから、初めのほうはよくわかりませんでしたが、終わりの文句ははっきり読めました。――」
「何と読めました?」とハリデーがせきこんで尋ねた。
「終わりの文句はね――『あと七日間の命だ』」
マクドネルはそういって、まだ火のついている煙草を床に捨てると、靴の踵《かかと》で踏み消した。と、そのとき、家の奥のほうから突然女の泣き入る声が起こり、つづいて、「ディーン! ディーン!」と女の叫ぶ声が聞こえた。
五 疫災記
三人の懐中電灯がいっせいに光った。マスターズはあたりに目をくばり、マクドネルの腕をグイとつかんで、
「ありゃラティマー嬢の声だぜ。みんなむこうの客間にいるんだ。――」
「知ってます」とマクドネルも口早に、「テッドから聞きました。今夜はわたくし、あの連中の見張り役ですから」
「そうすると、君がここにいることを彼女に知られちゃまずいな。君はここにいろ。おれが呼ぶまで姿をかくしてろ。――だめだよ、ハリデーさん、待ちなさいよ!」
入口から暗闇の中へとび出ようとしていたハリデーは、呼びとめられて振り返った。ハリデーの名が呼ばれたとたんに、なぜかマクドネルがあっと低い声をあげて、指をパチリと鳴らしたのを、わたしは耳にした。
「弱るな。五分でもどってくると約束してきたのに、こんなとこでグズグズしていて」とハリデーはいきまいた。「彼女、きっと気もそぞろになってるぞ。誰か懐中電灯貸してくれないか?……」
「ちょっと待ってやったら!」マスターズは、わたしがハリデーに懐中電灯を貸してやると、あわてていった。「待ってくださいよ。こっちのいうことをよく聞いてくださいよ。とにかく、あなたは客間へいって、マリオンさんのそばにいて、安心させてあげなさい。そのかわり、あの若僧のジョゼフを、わたしが用があるからといって、すぐにここへよこしてください。よんどころなければ、わたしが警察の者だということを明かしてもいいですから。もうこうなりゃ、いつまでもかくしとくことはないから」
ハリデーは合点をすると、急いで廊下を駆けていった。
「わたしはね、実地の経験だけでやってく人間だけど」とマスターズはわたしにいった。「でも、自分の勘だけは自信があるんだ。どうも臭いと思ったよ。バート、今の話を聞いてよかったよ。なあ、君もわかったろうが、あんな自動書記なんてものはな、幽霊が書いたものでも何でもないんだ。同じ部屋にいた奴が、ダーワースが書いたように手前で書いて、そいつを奴に渡したのさ」
「そうなんです。わたしもそう思いました」とマクドネルはもっともらしく相槌を打って、
「だけど、そこにまたひとつ穴があるんですがね。だいたいダーワースほどの海千山千が、インチキ幽霊の書いたものなんかにおびやかされるなんて、とても本気にゃ考えられませんよ。信じられませんよ。たいがいのインチキの手にゃビクともしない奴ですもの」
マスターズは何かひとりごとをいいながら、部屋のなかを歩きまわっていたが、何かに体をぶつけて、いてえ! と叫んだ。
「おい、灯火《あかり》が何とかならんかな。まっ暗がりじゃどうにもならん。かんじんの話が見えない。――」
「ちょっと待ってください」マクドネルはそういうと、どこかへ出ていった。いっとき、廊下で懐中電灯がチラチラしていたが、やがて大きな蝋燭箱をかかえてもどってきた。
「さっきね、ダーワースの奴は石室へいく前に、ここでひと休みしてたんですよ。それをテッドと少佐が石室の暖炉に火を焚いてもどってきて、むこうへ連れてったんです」とマクドネルはわたしに懐中電灯を返して、「きっとこの蝋燭は、ダーワースのですよ。箱にまだ何本かかはいってますから、お使いになったほうがいいでさ」
さっそく三、四本の蝋燭をともしたが、部屋のなかはまだ薄暗かった。それでもおたがいの顔が見えるようになったから、暗闇からくる薄気味悪い感じは、だいぶ少なくなった。鼠のあばれまわる音が、しきりときこえた。マクドネルはどこからか、大工の使う仕事台みたいな、ぶっこわれの長テーブルをさがしだしてきて、それへ蝋燭を立てた。腰掛には、荷箱の古いのをひとつ見つけてきて、それをマスターズにすすめた。わたしとマクドネルは台所の煉瓦敷きの床につっ立ったまま、相対した。昔は白く塗ってあった台所の壁は、今はまるで火床《ひどこ》みたいにまっ黒に煤ぼけ返っていた。そういうところで、わたしはマクドネルの顔かたちをはじめてしみじみと見た。痩せがたちの、どこか鼻の下の長いような男で、まだ若いくせに、そろそろ頭が抜け上がっている。鼻が長く、ときどき下唇を親指と人さし指でつまむ癖がある。まじめくさった顔をしているが、緑色の目の上に瞼《まぶた》のたれているぐあいが、どこか皮肉っぽいところがあって、それでよほどとっつきがよくなっている。情報情報で、ピシピシたたかれた顔である。
灯火がともっても、どうもわたしはその場の空気が不気味で、肩ごしに、二度もそっとうしろをうかがってみたくらいであった。待つ身がほとほと辛気《しんき》くさくなった。
額に八の字をよせて、マスターズがそっと前へ出たと思うと、腰掛がわりの荷箱をいきなり持ちあげてふるい、チョロチョロと這いだしたクモを靴で踏んづけてから、改めて荷箱に腰をおろし、さてポケットから手帳をとりだして、
「どうだ、バート、こうして三人寄ったところで、ひとつじっくり考えてみようや、そのインチキ自動書記のことを」
「けっこうですな」
「ところで」とマスターズは、自分の考えを引きだすように鉛筆でテーブルをコツコツたたきながら、「現在のところ、どういう状況になっとるかだな。まず、四人の神経病患者がこの家におると」神経病患者という言葉が、自分でも意外だったらしく、舌の上で反芻《はんすう》するふうで、「テッド・ラティマーに、ラティマー嬢。フェザートン老人はまあ除外するとして、それからベニング夫人だろう。妙な取り合わせだよ。ところで、トリックはいろんなやり方ができたわけだな。前もって文字を書いた紙を用意しておいて、電灯が消える前に、そいつをダーワースに渡す紙の中へまぎれこましておくとかな。――奴に紙を渡したのは、誰なんだ?」
「それがですな、フェザートン老人なんですよ」とマクドネルは声を落として、まじめくさって答えた。「便箋から何枚かはぎとって、渡していました。むろんダーワースは、あんな古臭い術は、百も承知ですよ。自分で書かないことは承知のうえで、ぬけぬけとやってるんですから」
「それに、室内は暗かったんだしな」マスターズはさらにつっこんで、「誰か用意した紙をもって、そっと円座から抜け出してさ、テーブルのとこまで忍び足で――そうだったな――忍び足でそっと出ていって、書いた紙を上へ置いてもどってくることだって、わけなくできたわけだ」
「そうなんです」マクドネルは下唇をつまみながら、「大出来ですとも。だけど、そこがまたおかしいな。ダーワースがインチキ師なら、その紙がインチキなことは百も承知でしょう。それなのに、なぜ奴は気を失うようなことになったんですかね。何度もいうようですが、それがどうも腑《ふ》に落ちませんな」
「お話し中《ちゅう》だけど」とわたしは話のなかへ割ってはいった。「あんたね、その紙きれに『あと七日の命だ』という文句のほかに、何か書いてあったのは憶えていませんか?」
「それなんですよ、ここ一週間わたしが考えぬいているのは」とマクドネルは顔の筋肉をピクピクさせながら、「もちろん、ほかにも何か書いてありました。でも、何と書いてあったか憶えていないですな。なにしろ、チラッと見ただけなんで、しまいの紙は少し字が大きくなぐり書きしてあったんで、それでやっと読めたんですが、……そう、ほかに人の名前らしいものが書いてあったな。たしかに大文字で書いてあったようでした。でも、これはほんのわたしの当て推量ですよ。そう、それからね、どこかに『埋めた』という字があったようだったな。もっとも、それもはっきりとは申せませんがね。主任でしたら、フェザートンに尋問なすったでしょうが……」
「へえ、人の名前と『埋めた』という字ね――」わたしは鸚鵡《おうむ》返しにいいながら、ふと、ある恐ろしい考えが閃いた。――今いう四人の信徒のうちで、誰か一人がダーワースの大ぼら吹きとインチキを知ったら、いったいどうするだろう? ちょうどそれを考えていたやさきだったが、わたしはしかし、まだ見当もつかない、雲をつかむようなそんな話は、口に出すのを控えて、「そりゃダーワースの奴がうまくばつを合わして、ルイズ・プレージのことに引っかけていったんだな。おそらくあの男は、それで自分の肚《はら》にあることをもらしたんだよ。そりゃいいが、この屋敷のどこかに、何か埋めてあるものか人間があるんですか?」
マスターズの大きな顔がにっこりとほころび、おだやかな目つきでわたしのほうを見て、「ありますさ。埋めてあるのは、ほかでもない、ルイズ・プレージですよ」
わたしはそれを聞いて、じつは内心腹が立った。この屋敷で昔どういうことがあったか、みんなはそれを知ってるらしいのに、誰もかれも申し合わせたように言葉を濁して、すこしも真相を話してくれないじゃないかと、少し文句をいってやると、
「いえ、そのことはね」とマスターズが受けて、
「大英博物館にある書物に、ちゃんと載ってるんですよ。――そうだ、あんたさっきハリデーさんから、何か本みたいな包みを受け取ったでしょう?」マスターズは、わたしがポケットに手を入れて、忘れていた茶色の紙包みをとりだすのを見て、「ええ、それそれ。今夜、あとで暇があったら、読んでごらんなさい。それを読めば、『黒死荘《プレーグ・コート》』というここの名称の由来が、ルイズ・プレージから転訛《てんか》したものだということがわかりますよ。通り名になるくらいなんだから、よっぽどプレージという男は変わり者だったんでしょうな。なかなかどうして、ひと癖もふた癖もある男だったらしいですよ」マスターズは多少|褒《ほ》める気味でいったが、べつに心からそう思っているわけでもなさそうだった。「ところで、話はまたもとへもどるが、バート、いったい今夜は何があったんだ?」
マクドネルは、わたしが紙包みを手に持ったまま思考している間に、てっとり早く要点を語りだした。それによると、何でもかれはテッド・ラティマーから情報をえて、どうせ徒労とは知りつつ、さいわい門があいていたので、先刻から裏庭に張りこんでいたのだという。十時半に、ダーワース、ジョゼフ、ベニング夫人、テッド・ラティマー、その姉、フェザートン少佐と、この六人がやってきた。六人は、しばらく主屋にいてから(マクドネルには屋内の様子は見えなかったが)やがてテッドとフェザートン少佐が裏口の扉をあけて、石室の支度を始めだしたのだという。
「と、あの釣鐘は?」とマスターズがきいた。「そこの廊下に吊るしてある――?」
「あれですか。あの細工を二人がやりだしたときには、いや、面食らいましたよ。ダーワースの指図で、テッドがあの鐘へ針金をとりつけると、裏庭へその針金をずーっと張り渡しましてね、その先を石室の窓へ、空き箱の上へのっかって通したものです。ダーワースの奴は指図をして引き返してくると、どこかそこらの部屋にひと休みしていました。テッドと少佐は、石室で暖炉の火を焚きつけたり、蝋燭をともしたり、椅子だのテーブルを並べたり、――こっちには中まで見えませんでしたが、何だか大騒ぎをやってたようです。あの鐘は、どうやらダーワースが何か手を借りるときに、知らせに鳴らすんじゃないかと思いますが……」とマクドネルは苦笑して、「それからまもなく、石室から二人がもどってくると、ダーワースは、ではそろそろ始めるかなといって、べつに何の恐れる様子もなく出かけていきました。それからあとのことは、ご存じのとおりです」
マスターズは、ややしばらく考えこんでいたが、やがて立ち上がると、
「おい、行こう。ハリデーさん、困ってるんじゃないかな。とにかく、おれはあの霊媒の小僧を、あの連中のそばへ置かないようにする。それに、ちっと聞きだしたいこともあるんだ。バート、君もいっしょに来い。ただし、見えないように、陰にかくれていろ」
そういって、警部はわたしの顔を見たから、わたしはいった。
「よければ、ぼくはここに残っていて、この紙包みの中身を見たいけどな。――用があったら、呼んでください」
ナイフで紙包みの紐を切るわたしの手もとを、マスターズは好奇の目で眺めながら、
「どうです、何かピンと来るものがありますか? この前のとき、そういう虫の知らせがあれば、あのときこっちは逮捕ができたんだけど……」
いやいや、とんでもない、ピンともツンとも感じませんよ、とわたしは答えた。そんな返事は耳にも入れずに、マスターズは顎でマクドネルに合図をすると、二人はさっさと部屋を出ていった。ひとりになると、わたしは上着の襟を立て、今まで警部の腰かけていた荷箱に腰をおろして、紙包みを膝の上におき、包みを開く前に、まずパイプに火をつけた。
二つの考えがわたしにあった。けれどもそれは、明らかに相矛盾する考えであった。かりにダーワースが、インチキ自動書記なんかへいちゃらな人間だとすれば、何者かにネタは知ってるぞといって脅迫されるか、ばらしてしまうぞといっておどかされるかして、それでビクビクおびえているということが、いちおう考えられる、その何者かは、あるいは幽霊みたいに超自然のものかもしれないし(わたしとしては、今のところ、まだそういうものとまでは考えていないが)、さもなくば、マスターズがいってたような、何かちょっとした小手先の手品みたいなもので現われるものかしれないが、いずれにせよ、何かそれは破壊的な、恐ろしい力に相違ないし、それにまた、そんなぐあいに現われるということが、いっそう気味の悪い恐怖感を募らせることにもなるのだろう。しかし、一方からいうと、どうもそれはここの屋敷には、――というよりも、ここの屋敷に現在起こりつつあることには、関係がないようにも思われる。
べつに深い根拠があるわけではないが、ここの屋敷に関係のあることでおどかされて、それでダーワースが震駭《しんがい》しているのだとすると、今夜かれがここで行なっているような振舞は、まずしまいとわたしには思われる。マクドネルもいってたように、ダーワースはひとりで落ちつきはらって、自信満々たる様子だったという。暗闇のなかにたった一人で控えて、いい心持で自分の傀儡《かいらい》どもを、せっせと働かしていたという。自動書記の紙きれに書いてあった文句が、この『黒死荘』に実際に関係のあるものだったら、当然あのとき、同席の連中にもそれを見せそうなものではないか。あの連中にはここの屋敷が鬼門で、自分にはそうでないからこそ、奴は『黒死荘』の名前を持ちだしたのではないか。
だが、この推理には、見ればおわかりのように、大きな矛盾がある。だいたいダーワースの信者たちのわけのわからない恐怖は、ことごとく、この屋敷にまつわっているのである。かれらはこの悪因縁ふかい不吉なこの屋敷には、何としても一度お祓《はら》いをして浄めないと、人間がとり殺されるような恐ろしい悪霊がとりついていると信じているのである。ところで、ベニング夫人が先刻われわれに語った話のなかには、心霊学の本来の規則に違反するような、とんでもない妄言《もうげん》があった。おそらくダーワースは、神がかりみたいな得体《えたい》のわからぬ世迷い言をいって、かれらを惑わしているのだろうし、その得体のわからぬものでまた、よけいかれらを戦々|兢々《きょうきょう》とさせているのに違いない。そんなものは、もともと神秘主義者のダーワースを脅かすはずもなし、かえって頭の冷静な実際家のハリデーのほうが、それの毒気にあてられた形だったのである。
パイプの煙が蝋燭の灯のまわりに立ち迷うのを眺めていると、何だか暗い部屋じゅうが不気味な言葉をヒソヒソささやいているような気がした。わたしは肩ごしに自分のうしろをキッと見まわしてから、紙包みの紙をひろげてみた。包みの中身は、書物みたいな厚いボール表紙のついた綴じこみで、紙がガサガサしていた。
綴じこみには、三つの書類がはいっていた。一枚は折りたたんだ大判の薄様《うすよう》紙で、これは古びて狐色になっていた。それと新聞の切り抜きと、もうひとつは合判紙にしたためた手紙の束で、これも薄様紙と同じ古いものであった。手紙の筆跡は、ところどころ黄いろいしみがあったりして、ちょっと判読しかねるほど色|褪《あ》せていたが、そういう個所は新しく普通の文字で書き直したり、綴じた紐《ひも》の下にべつに書き入れてあったりした。
大判の薄様紙は、破くといけないから全部はひろげてみなかったが、これは契約証書であった。初筆《しょふで》に、細長い文字が大きくのたくっているので、ははあ、これが買い手の名前なんだなと、すぐにわかった。
タマス・フレデリック・ハリデー、当屋敷をシーグレーヴのシーグレーヴ卿こと、ライオネル・リチャード・モールデンより購入のこと。右実証なり。一七一一年三月二十三日
新聞の切り抜きからは、「有名実業家の自殺」という大きな見出しが、まず目をひいた。高いカラーをつけた、写真嫌いらしい、目のグリグリした男の写真が載っていた。この写真がジェイムズ・ハリデーであった。例の有名な殺人鬼クリッペン博士にじつにそっくりで、博士と同じように二重レンズの眼鏡をかけ、同じようなドジョウひげをはやし、同じような兎の目によく似たつぶらな目を、きょとんとすえている。切り抜きの記事は、かれとここの屋敷との関係をかんたんに報じていた。――伯母なるベニング夫人の家でピストル自殺をしたこと。平生からここの屋敷にまつわる何ごとかを探索していたらしく、数週間ひどく思い悩んで意気消沈していたこと。事件は深い謎につつまれ、ベニング夫人は審理中に二回も卒倒した、などのことがしるされてあった。
その切り抜きはわきへおいて、わたしはさらに紐をほどいて、あとの書類をひっぱりだしてみた。折り目のついた、色|褪《あ》せた古い文書で、その上紙に、
書簡。――シーグレーヴ卿より執事兼土地差配人ジョージ・プレージに宛てたるもの。並びにその返書。一八七八年十一月七日。J・G・ハリデー手写。
と書いてある。
わたしは荒れはてたわびしい部屋の薄暗い蝋燭の灯をたよりに、もとの文章を照らし合わしながら、その書簡を読みにかかった。あたりは寂として、古い大きな屋敷につきものの不気味なけはいのほかには、こそりとの物音もしない。ただ、手紙を読んでいる間に、二度ばかり、何者とも知れぬものが部屋のなかへはいってきて、肩ごしにうしろからのぞきこんだような気がした。
ローマ、デ・ラ・トレビア別荘にて
一七一〇年十月十二日
プレージ殿
病中つれづれなるままに一書|呈上《ていじょう》つかまつり候《そうろう》。そこもと息災にまかりあり候や。さっそくながらこのたびの凶事、ただただ驚き入るばかり、何にても実情至急申しおくりくだされたくたのみ入り候。じつは昨日J・トルファー卿より来翰《らいかん》、舎弟チャールズこと自邸において自決せし由、知らせくれ候えども、これには何か仔細あるよしとのみにてその間の事情つまびらかならず、かの屋敷にまつわる巷説《こうせつ》などを思いあわせ、余が胸中はほとんど狂するにちかく、かてて加えて愚妻の容体日ましにおもわしからず、待医は日ならず本復なさるべしと申しおることなれど、今のところ帰国の儀はとうてい相かなわず、よって当家には親の代よりつかうる子飼いのそこもとに、折り入って委細を報じてくれるよう頼み入るしだいにござ候。このうえはトルファー卿が親書の誤りならんことをひたすら祈るばかりに候。何卒《なにとぞ》何卒主人とよりも朋友とおもい、あからさまなる事情腹蔵なく申しこしくださるよう重ねて頼み入り申し候。
シーグレーヴ拝
拝復
このたびのご不幸の段々、旦那さまをはじめわれら一同、降りかかりたるこの災厄を神のみめぐみをもって他へふりかえること相かない候わば、かくまで筆も渋らずやすやす申し上げらるべきに、さりとてはまことにままならぬことにござそうろう。かりそめのご災難とのみ思い候こと、今にいたりてかりそめならぬことを相知り申し候うえは、この辛《つら》きつとめもわが身の罪障の深さを神のしろしめしたもうものと観念つかまつり、以下ご下問の条々に加えて、亡父がご奉公中のかの大疫のときのことども、あらあら申し上ぐべく候。
さてまず、ご主人チャールズ様ご逝去のおんもようより申し上ぐべく候。ご承知のとおり若旦那さまはご性来もの静かなご勉学好きのおん方にて、ご気性やさしく皆皆様のご敬愛ことのほかあつきものこれあり候いき。しかるに当九月六日水曜日ご逝去の日より約一ヵ月ほど前より、なんとなくご血色すぐれず、おちつかぬご様子見受けられ、何分ご勉学のすぎたるせいとわれら推察いたしおり候ところ、お側づかえのビートンと申す者の話に、若旦那さまには毎夜|盗汗《ねあせ》の症はなはだしく、ある夜ビートンは若旦那さまご苦悶の声に目さまし候ところ、大そうお苦しみのごようすにて寝台の帷《とばり》をしかと握りしめられ、お首のあたりをしきりとかきむしりおられ候よし、ただし翌朝になればケロリとあそばされ、昨夜のご苦悶などとんとお憶えなきご様子なりしと、その者より聞き及び申し候。
それよりのち、平常帯剣もあそばされぬに、ご平服のお腰のあたりをばしきりと気になされ、なにやら探るがように絶えずそわそわとそのあたりを尋ねられるなど、ご血色いよいよすぐれず、ご疲労日ましにいや増すかに相見え、そのころよりご寝所の窓べにひねもす坐り通され、ご邸内裏庭をただぼんやりと眺め暮らさるること目にみえて多くなり、わけても日の暮れぎわ月の出の刻限にはかならず窓べにたたずまれ、あるときなどはにわかに大声を発せられ、おりから窓下を通りすがりし乳しぼりの女中をさして、かの者は五体のうちと腕とに大きなる腫物《はれもの》があるゆえ、早々に監禁すべしと、むたいに騒ぎたてられるなど、いぶかしきことどもようやく多く相なりまいり候。
さてここに、ご邸内裏庭の小亭《あずまや》と並びたてるかの石室について、ちょっとお思いおこしのほどを願いあげ候。
そもそもかの石室は、このところ約五十年あまりも空家にて、いっさい使用いたさず、これは先々代大旦那さまより、かの建物はあやまりて汚水溜めの上に建てたるものゆえ、貯蔵の品|何品《なにしな》によらずみな湿気をくいてよろしからずと仰せこれあり候ためとやら聞き及び候。なれども、まことはさせることもこれなきまま、かくべつ汚水溜めの瘴気《しょうき》をおそれて取り壊しにもおよばず、ただ藁《わら》、穀類、麦などのほかの品の納入をばひかえまいり候しだいにござ候。
時あたかもそのころご当家に奉公中の若衆に、ウィルバート・ホークスと申すものこれあり、このものはもと小揚げ役なれど、面体《めんてい》醜き上に、傍輩とも仲|悪《あ》しく、そこもとらとはひとつ部屋には寝られぬなどほざき候ため、おのれひとり別の寝間に追いやられたとやら、このこと後日に至りて耳に入り申し候。この者の申すには、かの石室はかくべつ悪臭もせぬことゆえ、汚水溜めなどありようはずなしとうそぶき返り、ご当家のきまりとしては、奉公人はすべて清らかなる藁床にやすませるが規定なり、ましてやかの石室は厳禁の場所なりと傍輩衆よりかたがた言いふくめ候えども、当人はいっこうにききいれず、「なに、夜になればプレージ親方のかけておく鍵束から錠前の鍵を借り、朝になればまた返しておくからいいさ」と平然と申しおり候いき。
たまたま風雨つよき霖雨《りんう》の候《こう》にて、翌朝、どうだよく寝られたか、寝床のぐあいはよかったかと尋ね候ところ、「あい、寝床のぐあいは申し分なかったが、夜なかに誰か戸をあけようとしてたたいたり、小屋のまわりをうろうろ歩いたり、窓からのぞきこんだりするやつがあるには恐れた。まさかプレージ親方がそんなまねはすまいに」と申すゆえ、みなみな大いに笑い、こやつ嘘をつけ、あの高窓から顔をのぞけるような背高のっぽは、ご当家にはひとりもおらぬわとなじり候ところ、当人は見る見る顔色蒼白となり候よしにて、それよりのちは夜分使いに出ることをいやがり候えども、傍輩衆の笑いものになるのはいやとみえ、ひきつづき石室には毎夜寝泊まりいたしおり候いき。
さて九月初めは連日風雨はげしく、若旦那チャールズさまは先にも申し上げ候とおりご調子すぐれず、ご当家の侍医ハンス・スローン先生じきじきにご看病にあたられ申し候。
おりしも九月三日の夜、家人ども口々に申すに、ご邸内に何者とも知れねど怪しき者のありて、お廊下の暗がりにてすれちがいたれど、正体とんと分明《ぶんみょう》せず、あまつさえそのあたり何となく息のつまるほど苦しく気色《きしょく》悪しとて、みなみな訴えおり候いき。
越えて九月五日の夜、たまたまメアリ・ヒルと申す女中、暗くなりてのちゼラニュームの石鉢に水をそそぎやらんとて、倉庫とお帳場へまいる渡り廊下へまいり候。石鉢はお廊下のなかの窓台においてあり、そのあたりは近年はまったく人の気なく寂しきところなれば、女中は蝋燭と水差しを手にもちてこわごわまいり候ところ、いかがいたせるにや、時へてもいっこうにもどりこぬゆえ、皆々おどろきて騒ぎあうところへ、それがし偶然に行きあい候ところ、かの女中生きたる顔色もなく、その場にうちたおれて正体もなきありさまに、一同唖然としてただただ驚き入るばかりのしだいにござ候。
さっそく傍輩の女中両名をつけさせ、ねんごろに介抱つかまつり候ところ、翌朝までひとことも口をきき申さず、やがてようやくうちあけ候ところを聞くに、目のまえの窓格子よりとつぜん手が一本にゅっとつきいで、うす汚れし痩せたるその手には、口をあけたる大粒の吹き出ものいちめんにくずれおり、ゼラニュームの花をしわしわとかきわけて、女中の手にせる蝋燭をうばいとらんとする横あいより、いま一本の手が突錐《くじり》か小刀ようのえものを逆手ににぎり、窓をこじあけんとするさまを見て、女中はその場に気をうしない、あとは何もおぼえぬと申しおり候いき。
さて、その翌晩九月六日夜の出来事を、以下|逐一《ちくいつ》に申しあぐべく候あいだ、お聞きくだされたく候。
真夜中すぎ、かれこれ一時近くとおぼしきころおい、お屋敷の表方にあたりて突如きこえし悲鳴の声に、みなみな夢より目をさまし候。ともあれ、ピストルと角灯を手にいたし、お庭先にとびいで、家人たちを下知《げち》してご邸内各所をくまぐまあらため候ところ、かの石室の扉、内側より堅く閂《かんぬき》をおろせるを、中に寝《やす》みたるかのホークスと申す若者、やがてその扉を中よりあけ候ゆえ、みなみな口をそろえて安否を尋ね候ところ、若者はろくろくものもえいわず、ただとりすがるごとくに「後生だ、あれを入れてくれるな、あれを入れてくれるな」とのみ口走り、あれが突錐《くじり》で閂をこじあける、顔もはっきり見えたと喚《わめ》くばかりにござ候いき。
以上がチャールズさまご自害の当夜――ビートンがその筋の方々に申し候とおり、その朝方の出来事のあらましにござ候。若旦那さまのおん死顔とおんむくろに見え候|浮腫《むくみ》は、女中衆がご納棺の支度をするまでにはすでに跡方もなく消えおられ候につき、このことはなにとぞご放念のほど願いあげ候。……
ふと気がつくと、わたしは動悸《どうき》が高ぶっていた。部屋のなかは湿っぽいのに、体は妙にカッカとほてっていた。古い手紙のなかの人物は、今もみな眼前にありありと生きていた。――窓ぎわに坐っている顔色の青ざめた若者、悲痛な思いで聞き書をしたためている執事……手ずれた古い時代のおぼろな影が、いまわしいこの屋敷のなかに、ふたたび朦朧《もうろう》とよみがえってくるようであった。ディーン・ハリデーのあのものにとり憑《つ》かれたような恐怖の気持が、やっとわたしにもわかりかけてきたようであった。
そのとき、ふと誰か廊下を歩いてきて、台所の入口の前を通りすぎたような気がして、わたしは思わず足がビクンとして、立ち上がった。まなじりにチラリと影がさしたように思ったが、気になるので入口までわたしは出ていってみた。窓に植木鉢は? ――わたしは先刻ホールで上から落ちてきた石の鉢を思いだしたが、もちろん植木鉢なんかそこにはなく、廊下はがらんとしていた。またもとの席にもどって、何ということもなく外套で手をふきながら、わたしはマスターズを呼んで、この記録を読ませてやろうかと思ったが、ひとりでもっと先を読みたいという気持のほうが強くはたらいた。
……さても思い悩みて心は千々《ちぢ》にさだまらず候えども、大慈無量《たいじむりょう》の神のみこころのまにまに、われらが蒙《こうむ》りしかの大災厄のもとすえことわけて記し侍《はべ》らんことこそ、わが本分と相こころえ、以下あらあら申し述べるべく候。なれども、わたくし儀一六六五年の大疫災の年には齢《よわい》いまだ十歳にござ候えば、多少は目《ま》のあたりに見たることもこれあり候とは申せ、おおかたは後年にいたりて亡父より聞きおよび候ことの多きは、これまたやむをえざることとあらかじめお含みおきのほど願いあげ候。もっとも当時都よりのがれず、幸い生きながらえて今もなお矍鑠《かくしゃく》たる人々も多かることに候えば、さようの古老よりすでにお聞き及びのこと多々にあるべしと拝察つかまつり候。
亡父ことは性来心ばえやさしく、かたがた敬神の念もあつきほうゆえ、つねづねわが子らを膝下《しっか》にあつめては声高らかに、「爾《なんじ》夜の恐怖をおそるることなかれ。あるいはまた白夜飛びきたる矢をば恐るることなかれ。あるいはまた闇中におそいきたる悪疫をば恐るることなかれ。あるいはまた日輪《にちりん》高きおりに荒れ狂う破壊をおそるることなかれ。百千の人ら爾の左に倒れ、千万の人ら爾の右に倒るといえども、災禍《わざわい》爾に近づくことなかるべし」と聖書の読誦《どくしょう》をいたしくれたること、今もなお忘れず脳裏にこれあり候。その年、秋八月九日は酷暑はなはだしく、まことに凶年にて、一家中堅く門戸をとざして一室に蟄居閉籠《ちっきょへいろう》いたしおり候いき。おりしも市中は闃《げき》として物の音うち絶え、その静寂を破りて近隣の家々の高窓よりもれいずる女どもの泣きさけぶ声、いまもなお耳朶《じだ》にのこりおり候。ある日妹と二人してひそかにわが家の屋上にはいいで、眼くるめく高みより四方を眺めわたし候ところ、灼《や》くるがごとき、炎熱の空陰々として、家々の煙突より立ちのぼる煙ひとすじすらもなく、往来をばものに追わるるごとくあたふたと急ぎゆく行人の影、さては家の戸口に赤き十字をべたりとしるしたるうえに、「神よ、恵みを垂れたまえ」との文字をかかげし前に、赤き杖もちて立てる監視の役人の姿を見かけ申し候。われら疫病車というものを見たるは、後にも先にもただの一度きりにて、ある夜ひそかに窓べにより候おりから、かの車家の近くにとどまり候いて、触《ふ》れ役の男警鈴をふり鳴らしつつ、とある二階の家の窓にむかいて、荒びたる声にてなにごとをかわめけば、監視の男どもわれもかれもいっせいにそれに和し、ひとしきりどよめきさわぐうち、松明《たいまつ》もちたる男の高だかとかかげし火《ほ》明りによくよく見れば、車上には五体いちめんに痘瘡《とうそう》のふきいでたる死骸累々と積みあげたるを目賭《もくと》いたし候。その夜よりのち、疫病車の音は毎夜欠かさず耳にいたし申し候。
なれども、これらは後にも申し上ぐるごとく大分後のことにて、聖ジャルズ街をば皮切りに発生したる疫病が、この界隈までひろがりてまいるには相当の長時日がかかり候ことゆえ、町内の人々もよもやここまではまいるまじと口々に申しおり候しだいにござ候いき。愚按《ぐあん》ずるに、われら拙き命をとにもかくにも全《まっと》うしえたるは、亡父の予見に負うところ多きものありと信じ申し候。亡父はかねてより神の異言には世のつねの人よりも深く心をもちい、かの大彗星のあらわれたるおりにも、夜空に妖しく尾をひく星のかたちを見るより、ただちにご先々代リチャード卿おんもとに参じて、かくかくとつぶさに私見を言上いたし候しだいにござ候。これはその年の春四月のことにござ候。
当時ご先々代リチャードさまのご商事室は、お帳場・倉庫とははなれたる前記石室をこれにあてられ、そこにて取引先の顧客たちとねんごろにご商談あそばされ、向寒《こうかん》のみぎりは石室の炉ばたに、また好天のおりは屋外の木かげに席を設けてご款語《かんご》あそばさるを常となされ候いき。大かつらを召され、お首には金ぐさりをかけられ、厚げなる裘《けごろも》はおられしその堂々たるご威容は、まことに偉魁《いかい》あたりをはらうの趣《おもむ》きこれあり候いしが、亡父の進言だけは何ごとによらず虚心にお聞きとどけにあいなり候いき。
亡父はそのおり、おのれがいずこやらにて聞き及び候オルダースゲートに住めるさるオランダ人一家のとりし予防策を大旦那さまにおすすめいたし、食料をじゅうぶんに蓄えて家に閉居し、災厄《さいやく》の去るまで家人の出入りはいっさい厳禁するよう進言いたし候しだいにござ候。リチャード卿は亡父の話をひと通りききおわり、顎を撫《ぶ》してしばらくは深くご思案のおんもようなりし由にござ候。と申すは、ご内室さまちかぢかにご出産のこともあり、かたがたご愛嬢マーガレットさま、ならびにご愛息オーエンさまのこともあり、とつかつ思いめぐらされ、なるほどそこもとの建策には一理あり、なれどもいまは身重の妻の上も案じられることなれば、早々に都をはなれるというわけにもまいりがたし、さればいま半月ほどへてなお疫病の終息せざるおりには、そこもとの申すようになすべしと仰せられ候よしにござ候。
疫病は、ご承知のとおり、もちろん下火になるはおろか、気候温暖となり蝿のようやくいずるにつれて猛威いよいよはげしく、(鳥どもはすでに都内よりいずこへか姿を消し候)病威しだいに北をさし、ホルボーン街よりストランド、フリート街へと蔓延《まんえん》し、しだいにお屋敷近くに迫りまいり候。いずこの街衢《がいく》も、家財道具を車馬につみ恐怖の町よりのがれんと狂奔する人々あふれたち、それらの群集《ぐんじゅ》みな先をあらそいて市長官邸に殺到せるは、それなくしては他町村へ転入もならず、また旅館はたごにも投宿のできぬ健康保証書の下付を請願するためにござ候。病症はあるものには緩慢にきたり、はじめ疼痛《とうつう》と嘔吐をもよおし、やがて全身に痘瘡《とうそう》発疹し、七日をいでずして激烈なる痙攣《けいれん》をおこし、ついに死にいたり申し候。また急症なるは、外見にはなんの兆候らしきものも見えず、たちまちに襲われてたちまちに路上にたおれ、そのままこと切れるものもこれあり候。
かくしてリチャード卿も、ことここにいたりて始めてお屋敷閉鎖の旨を仰せいだされ、こと欠かれぬ下男|婢女《はしため》にかぎりてお手もとにかかえおかれ、番頭その他は一時ご解雇あそばされ候うえ、ご令嬢ご令息は当時いちはやくハンプトンにご避難にわたらせられ候宮廷御用邸にお預けあそばさるるおん心組のところ、お子さまがたお二方とも何としてもお聞き入れにあいならず、そのためやむをえず家人の外出を厳重に禁じられ、わずかにお庭うちのおひろい歩きのみをお許しになり、没薬《もつやく》と鬱金《うこん》をば常時口中にふくむよう、お申し渡しにあいなり候。ずいぶんごきゅうくつなるお暮らしにて、ご不自由さぞかしと思うにつけても、亡父はおのれの進言を大旦那さまがお聞きいれ遊ばしたることを、一身の名誉とおもい、心より感涙にむせび候いしが、ただここにひとつ、それさえなくば一身の冥加《みょうが》これにつきしことならんに、さてもとかく心に雲の晴れやらぬは、亡父が異母弟ルイズ・プレージのことに候いき。
まことやわが夢のなかにまでもあらわれて、われらを脅かし候かの叔父のことは、筆にかくだに胸悪しきここちせられ候。われらかの叔父の姿見かけしことは、わずかに前後両三度にござ候。あるときこの叔父図々しくもお屋敷にまかりのぼり、ご当家執事職をつとむる兄人たる亡父に面会を強要せしに、取次のもの日ごろの叔父の行状人となりを知るものから、体よくその場をはずしてものかげに身をかくし候ところ、叔父はおりからそこに居あわせたるわが妹をひっとらえ、むたいに腕をねじあぐるところへ、おりよく兄なる亡父の出できたりしを見るより、からからと打ち笑い、なおも罪なきわが妹にむかいて威《おど》し顔に、おのれがその日タイバーンの刑場にて罪人の首を絞めたるありさまを、さも手がら顔に語り申し候。(ご承知かは存ぜねど、この叔父ことは絞首刑吏の下回り助人《すけにん》にて、亡父はそれをばつねづね蛇蝎《だかつ》のごとく忌みおそれ、かつは身の不面目に思いおり候ことゆえ、かねてよりこのこと大旦那さまのお耳にはひたすら入れまじと、千々に心をくだきおり候しだいにござ候)なれども、みずから刑吏局へわざわざ出向く勇気も手だてもこれなきまま、ついついそれなりに打ち捨ておき……
このへんは読みとばしてもいいと思ったが、いやいや、やはりひととおり読んでおかねばと思い返して、わたしはこくめいに読んでいった。
……亡父は日ごろより、あのような男は食えなくなると悪念生じ、とても世の常の人のようには死なれぬ奴だと口癖のように申しおり候いき。そのルイズ・プレージなる人は、顔のむくみし小柄の男にて、頭髪|蓬々《ぼうぼう》たる頭の横っちょに垢《あか》じみたる帽子をピンでとめ、帯剣のかわりに自慢の手製の太き突錐《くじり》ようのおかしげなる匕首《あいくち》を腰にぶらさげおり候。この匕首はみずから『ジェニー』と呼び、タイバーンの刑場にて平素用いおりし刑具にござ候。
しかるに、ルイズは痘病|猖獗《しょうけつ》して以来とんと姿を見せず、じつのところ、あのような男はいっそ疫病にかかり死んでくれればよいと、内々亡父が思いおり候やさきへ、八月某日、たまたま亡父は所用ありて外出し、夕刻出先より帰宅せしところ、義弟|厨房《ちゅうぼう》にありて妻のかたえに頭をかかえてかしこまりおり候。亡父はその日ベージングホール街のとある小路にてルイズの姿を見かけ候よしにて、道ばたにうずくまり例の突錐《くじり》ようの獲物にて、しきりと何やらを突きさしておる様子。見ればそのかたわらには、猫の死骸をつみあげし手車おきあり候よしなり。(ご承知のごとく、市長および市参議役より、豚・犬・猫・鳩などの罹《り》病せるものは家に飼うべからず、即刻捕えて殺すべしとの発令あり、そのためそれら家畜の殺生役人あまた召しかかえられ候仕儀にござ候)
この文句を読みながら、わたしはふと何か確信をつかんだように、おもわず「なるほど!」と合点した。この触書《ふれしょ》をどこかでわたしは見たような気がした。黒枠にかこまれたその触書が、居酒屋の表に立てられたのに大ぜい人がたかって、がやがやいっている光景が目に浮かぶ。
……それを見て、亡父が急ぎ立ち去らんとせしところ、ルイズは『おい兄貴』と呼びとめ、『なにも恐がることはねえじゃねえか』と打ち笑いつつ、もだえ苦しむ猫の首をば足もてグイと踏みつけざま、ちびたる帽子を黄土のごとく濁れる空になびかせ、泥沫《はね》だらけのよれよれの風体にて、小路よりうそうそ出できたり候ゆえ、どうだ、そんなことをしていて疫病が恐くないのかと亡父が尋ね候ところ、何が恐いものか、おいらはサウスワークのあらかたなまじない師から受けた魔除け薬をのんでるから、おかげで疫病なんざ歯も立たねえよとうそぶきおり候よしにござ候。
なるほど当時世上には、魔除けの薬やら疫病よけのご神水やら、さては護符、妙薬なんど、その数おびただしく、いかがわしき医師《くすし》どももそれに打ちまじり、ずいぶんぼろい金儲けをいたし候と聞き及びおり候えども、人の命はいっこうに救われず、ほかならぬその疫病除けの護符とやらを首にかけたるまま、死骸運搬車に投げこまれゆくもの、算《さん》なきありさまにござ候いき。ルイズもこの狂える世に命のみはつつがなく、ほとんど狂せるごとく死者・瀕死人のあいだを、敢えてかかる賎業に奔命しているところを見れば、どうやらかれの護符やら守り札は、厄神《やくしん》悪魔のそれらしく存ぜられ候。されば当のルイズは、あたかも疫病の化身のごとくに人より忌《い》み嫌われ、いずこの飲み屋居酒屋も、この男だけは、門《かど》より中に入れぬことわりにござ候。
越えて八月二十一日、ご先考オーエンさま夕|餉《げ》のおん席よりお立ちのみぎりより俄《にわ》かのご発病、亡父もそれなりことにまぎれ、義弟ルイズのことはとんと打ち忘れ候しだいにござ候。
大旦那リチャードさまは何ごとにまれお手まわし機敏なるおん方に候えば、他の者に疫症の感染することを恐れられ、オーエンさまをば石室へただちにお移し遊ばさるるお心ぐみにて、ご寝台も極上のつづれの錦をもて仕立てられ、漆塗りのおん箪笥《たんす》、金銀の什器《じゅうき》など目もまばゆきばかりのご調度の品々ととのえられしなかに、オーエンさまはご呻吟のていにて打ち臥《ふ》され申し候。さすがの大旦那さまもこの時ばかりはおん胸のうちそぞろにて、その筋の達しには相そむくことながら、おおやけには罹《り》病の届け出をださず、亡父とともどもに枕べにつきそわれ、極秘のうちに侍医をお招きに相なり候。
その月いっぱい、大旦那さまと亡父のご看護はそのままつづけられ、たしかオーエンさまご発病より数日後に、大奥さまはご死産あそばされしことと記憶いたしおり候。侍医は連日診療にかよいきたり、おん頭《つむり》を丸坊主に剃られしオーエンさまはそのつど吐血《とけつ》やら灌腸やら、さらにおん呼吸苦しきおりは一時間ほどずつお床の上に身をおこしまいらせ候。九月に入りて月の初旬《はじめ》ごろは病勢もっとも激しく、ホッジス侍医の申さるるには、病症ようやくこれにて峠をこえたれば、これよりおいおい快方に赴《おもむ》かるべしとのことにござ候いき。
その節は大旦那さまをはじめとされ、ご産後の大奥さま、お嬢さま、いずれも嬉し泣きに手をとりあいてご感涙あそばされ、われら下様《しもざま》もともにひざまずきて心より神に感激をささげ申し候。
さて九月六日の夜、亡父は夜半に起きいで、松明を手にしてオーエンさまご看護にまかり候ところ、ご後庭にさしかかるおり、何者か石室の入口にうずくまりて、しきりと扉をかき鳴らす者あり。石室の中におられし大旦那さまは、音のぬしはてっきり亡父と思召され、何心なくうちらより扉をあけんと立ち出でられ候ところ、怪しき人影よろよろと扉の前に立ち上がり、こなたを振り向きしを亡父が見れば、こはそもいかに、男はルイズ・プレージなり。ルイズ、何やら首根のあたりを怪しげに動かすを、よくよく見ればことわりなり。咽喉もとに大きなる痘瘡《とうそう》花のごとくに口をひらきいて、とこう見るうちに、さらに新しき痘瘡、ふつふつと顔面にも吹きいでてまいり、ルイズはたちまちあれよと怪しき声をたまぎり叫び候。その声に、大旦那さまは何ごとぞと問いたまいつつ扉を明けたまいしとひとしく、ルイズはものもいわず闇雲《やみくも》に室内に押し入らんとするゆえ、亡父は獣をおどすがごとくに松明を相手の鼻先にさしつくれば、ルイズはその場にあわやと転《こ》けまろび、「兄貴、おぬしはおれを見殺しにする気か」とわめきたつ。さすがの大旦那さまもあまりの恐ろしさに、しばしは茫然として扉を締めるすべもあらぬおんありさまなり。亡父は声はりあげ、「うぬ、疫病小屋へさっさと行って失せい! さなくばその着ているものに火をかけて、疫病を追いはらってくりょうわ!」とののしりたければ、ルイズも負けてはおらず、「どいつもこいつも薄情ものよ! 寄ってたかってこのおれをどづきゃあがる! まともにおれの顔を見もしねえ! こうなりゃ溝《みぞ》へはまって、おっ死《ち》ぬばかりだ!」とわめきたつ。中へは入れじと亡父が手だてをすれば、ルイズはやにわに立ち上がり、腰の短剣ぬきはなち、戸口に躍り入らんとす。このとき早くかの時おそく、大旦那さまははたりと扉を締めたまい候いき。
ルイズはなおも腹|癒《い》せに裏庭を荒れまわれば、亡父もいまはせんかたなく、方々《かたがた》いでよと助けを呼べば、声に応じて松明手に手にかかげし屈強のもの三、五名、たちまち狼藉者をば追いだしてくれんずとばらばらと馳《は》せつけ、わめき駆けるルイズをば松明《たいまつ》かかげて追いまわしたり。とかくするうち、ルイズの喚声はたと聞こえずなりしと見れば、こはそもいかに、とある木の根方に倒れて息絶えけるとなり。
さて死骸を疫病車にひきわたせば、ご邸内に疫病患者ありしこと分明《ぶんみょう》し、監視の役人ご門前に立つこと必定《ひつじょう》なり。また往来に死骸を遺棄すれば、それを目撃してその筋に訴うるものあらんとて、ここに家人ども相寄り計らいて、かの立ち木の根方七尺あまりを掘り、かしこに死骸を葬り候しだいにござ候。
ルイズいまわのきわに裏庭を逃げまどいしおり口走りしことば、亡父が聞き候ままに申しあぐべく候。――「おいらはきっとまたここへきて、石室へ忍び入り、おいらがこの手でのら猫を殺したように、中にいる奴をきっと殺してやるぞ! おれにそれだけの力がなくば、この屋敷の持主にきっととりついてやる!」
同じ夜、ご先考オーエン様もご病床のうちにて、ルイズが大きなる蝙蝠《こうもり》のごとく扉にへばりつき、突錐《くじり》にて扉をこじあけんとする物音を耳になされ、かつはルイズの姿をもごらんあそばしたるよしにござ候。
ご下問により、以上恐ろしきご災厄のあらまし申し述べ候えども……
ここまで読んだとき、ふいに何ものかが、わたしの目を書類のおもてから引きはなした。けれども、それが何もののしわざだったやら、今もってわからない。不吉な幻影が陰湿な部屋の空気と入りまじって、わたしは自分がそこにいることも忘れて、何だか十七世紀の昔に自分が生きているような心持がした。で、思わず立ち上がって、われにもなくあたりを見まわしてみた。
そのとき、裏庭で人の足音がした。廊下の外でも、床板のきしる音がした。
とたんに、まるで死にもの狂いでひっぱりでもしたように、廊下の釣鐘《つりがね》がけたたましく鳴りだした。
六 教祖の死
これが事件の序幕であった。とにかく、この釣鐘の音によって、現代におけるもっとも驚奇《きょうき》な謎の殺人事件がはじまったのであるから、これからわたしが述べる話は、誇張や誤認を避けるためばかりでなく、すくなくとも轍《てつ》を踏みあやまったわれわれの愚を二どとくりかえさぬために、よくよく注意をして聞いていただきたい。あるいはそこから諸君は、一見解決不可能とみえるこの謎の事件に、ご自分の知恵を十二分にはたらかせるような機縁をつかまれるかもしれないからである。
はじめ、鐘はそう強くは鳴りださなかった。長年使わないために錆《さび》がかたくこびりついていたせいか、かなり手に力を入れて針金をひっぱっても、そう高い音は出なかっただろう。最初、キイキイいう音がして、それから低い音でコーンと一つ鳴り、さらにそのあと弱くきしるような音がしたのち、ボーンと蚊の鳴くようなかすかな音をたてたと思うと、それきり鐘の音は止まってしまった。けれども、それがわたしには、家じゅうに警報を知らせるようにガンガンけたたましく鳴るよりも、かえって薄気味悪く感じられた。わたしは胃の奥がキューッとつまるような心持で、いそいで立ち上がると、とっさに廊下へ出る扉口へ駆けよった。
と、出あいがしらに、懐中電灯の光がパッと顔を照らした。わたしの懐中電灯とマスターズの懐中電灯の光がキラリと交叉した。マスターズは裏庭へ出る戸口に立って、肩ごしにわたしのほうをふりむいていたが、その顔はまっさおであった。わたしを見るなり、どら声でどなった。
「ぼくについて来なさい。ぴったり後について。……あ、ちょっと待った!」
待ったの声がきゅうに低くなったのは、長い廊下のむこうから、ゆらゆらする蝋燭の灯影と急ぎ足の音が、こちらへ近づいてきたからであった。太鼓腹に目をグリグリさせたフェザートン少佐を先頭に、そのあとからハリデーとマリオン・ラティマーが、やってきた。そのうしろから、マクドネルが赤っ毛のジョゼフの腕をがっちり捉えたまま、先にきた三人を押しわけて前へ出た。
「何があったんだ?」とフェザートン少佐が胴間声でいった。
「どいた、どいた、みんな」マスターズが叱咤《しった》するような大きな声で、「あんたがた、みんな向こうにいてください。わたしがいうまで、勝手に動いちゃだめだな。何があったんだか、こっちもわからないんだ。バート、この方たちを見張っててくれ。……じゃ、行きましょうぜ」とわたしを促した。
マスターズとわたしは、石段を三段駆けおりると、裏庭へ出て、懐中電灯で行く手を照らした。雨はすこし前にやんで、庭はところどころでこぼこしながら、いちめんの泥濘《ぬかるみ》の海であった。二人の立ったところから向こうは、いくぶん爪《つま》下がりになっているので、いいあんばいに水たまりはほとんどない。
「あの石室へ、こっちのほうから行った足跡がまるでないな」とマスターズがだしぬけにいった。「ねえ、ほら! そのくせ、ついさっきまでぼくはここにいたんだがな。……とにかく、行ってみましょう。わたしの足跡を踏んでいらっしゃい。……」
すぐ目の前の、誰にも踏み荒らされていない泥濘を、二人は抜け目なく調べながら、グチャリグチャリ裏庭をつっきっていった。
「ダーワースさーん!」とマスターズが大声で呼んだ。「そこにおいででしょう! 入口をあけてくれませんか?」
返事がなかった。懐中電灯の光が高窓のあたりを照らしたが、その光はさっきよりもだいぶ弱くなっていた。二人は最後の二、三歩を駆けるようにして、石室の入口へ行きついた。入口の扉は低いが、えらく分厚《ぶあつ》だった。厚い樫《かし》板のへりを錆《さ》びた鉄の金具で締めてあり、把手《とって》はこわれていて、かわりに新しいかけがねに南京錠がかけてある。
「ちょっ、この錠のことを忘れてたよ」マスターズは南京錠をひねくりながら、嘆息して、広い肩をドンとぶつけたが、扉はびくともしなかった。
「おーい、バート! ここのなあ、錠前の鍵を誰か持ってたら、借りてきてくれ! ……そのひまに窓を調べましょうや。……ほら、ごらんなさい、あすこんとこに釣鐘の針金がはいってるでしょう。だいぶこりゃ高いな。ラティマーはきっと、空き箱か何かを踏み台にして、あすこへ針金をつっこんだんだな。――踏み台ない? 弱ったね、そいつは。まあ、いいでしょ、なきゃないで……」
二人は石室の外壁をぐるりとひとまわりしてみたが、二人の歩いていく先に、足跡らしいものはひとつもなかった。針金のさしこんである窓は、一フィート角《かく》で、地面から十二フィートあまり高いところにある。勾配《こうばい》のゆるい、厚い丸瓦ぶきの霧|除《よ》けは、壁から大して長くはつきでていない。
「よじ登るたって、手がかりも足がかりもないしなあ」マスターズは音《ね》をあげた。かれはいささか面食らった形で、フーフーいっていた。だいいち、うっかりしたことをすれば危険であった。
「どうもやっぱりラティマーは、あすこまで背のとどく大きな箱を踏み台にしたんだな。――ねえ、ちょっと手を貸してくれませんか。ちっと重いけど、ちょっとの間だから……」
マスターズの体重を支えるとなると、これはひと踏んばりしなければならない。わたしは石壁へ背中をぴったりつけて、両手の指をガッチリ組んで、相手の足がかりにした。重い体重にグイとひっぱられて、肩の骨がぬけそうであった。双方、しばらくのあいだウンウンいってもみあったが、やがてマスターズの指が窓のふちにかかったので、やっとのことで念が通った。
あたりは水をうったようである。
泥靴がギリギリ指に食いこむのを、わたしは壁にへばりついて我慢した。ものの五分もたったであろうか。そっと首をあげて、下からマスターズの顔を見上げると、懐中電灯のどぎつい光に照らしだされた顔には、見すえた大きな目玉がギョロリと光って。……
「よーし!」と低い声でマスターズはいったが、なんだかあいまいな心もとない声だった。
わたしはフーフーいいながら、かれを地べたへおろした。泥濘《ぬかるみ》のなかで足もとがよろつき、かれはわたしの腕につかまると、上着の袖でむやみと顔をこすってから、やっと口をひらいた。太い、しっかりした、おちついた声だった。
「殺《や》られてます。――だけど、あんな多量の出血、見たことないな」
「と、奴さん――?」
「死んでますね。中でのびてます。どうやら……滅多斬りにされてるらしい。ひどいもんだ。死体のわきに、ルイズ・プレージの短剣が落ちてますよ。でも、ほかには誰もいないね、見たところ――」
「そりゃしかし」とわたしはいった。「そんなことは不可能でしょう」
「そう、不可能です。誰にもできっこないですよ」とマスターズは不確かなうなずきかたで、「こうなりゃ、南京錠の鍵をもってきたって、むだだな。扉の内側を見ると、閂《かんぬき》がかかってて、太い横木が渡してあります。ブレークさん、これはトリックですぜ。とにかく、トリックと思うよりほかないな。――おーい、バート! 奴、どこへ行きゃがったのかな?」
石室の横手を転《まろ》ぶようにして、マクドネルが駆けつけてきた。懐中電灯の光がふたたび交叉した。マクドネルは妙におどおどしていた。パッと照らしつけた光に、とっさに閉じた緑いろの目の玉と、細面の顔がゆがんでいるのとで、それがわかった。目の上まで斜めにさげた、粋《いき》な帽子のかぶり方とは、およそ似てもつかない顔つきだった。
「遅くなりました。錠はテッドが持っていました。これです。――何か……?」とマクドネルは片手をさしだした。
「うん、こっちへくれ。やってみるから。――何だ、そっちの手に持ってるのは?」
マクドネルは目をパチクリさせ、自分の手を見て、「ああ、これですか? こりゃべつに何でもありません。カードです。トランプ遊びの……」といって、いかにもへんなところへへんなものを持ってきたといった、照れかくしらしい剽軽《ひょうきん》なしぐさで、手に持っていたトランプの札を見せて、「これ、あの霊媒の小僧が持ってたんです。さっき出ていかれるときに、奴に目をはなすなとおっしゃったでしょ。奴さん、婆抜きをしようといいましてね……」
「婆抜き?」
「はあ。あの小僧、ちっといかれてますな。へんですよ、頭が。この札を出してきましてね……」
「おい、目ははなさなかったろうな?」
「え、もちろん」マクドネルは顎をしゃくるようにいった。やっと目がおちついて、はっきりとすわってきたようだった。「そりゃ大丈夫です」
マスターズは何か吐きだすような捨てぜりふをいいながら、相手の手から鍵をうけとった。が、あいにくその鍵は、かんじんの入口の錠には合わなかった。そこで、三人の肩で、同時に体当たりをしてみたが、扉はビクともしなかった。
「だめだな」マスターズはフーフー息をきらして、「よし、斧でいこう、斧で。斧なら大丈夫だ。――え? ダーワースか? ダーワースは死んだよ。――余計なことを念を押さんでもいい。おれはひと目見りゃ、死体はわかるんだ。でも、いくらわかったって、中へはいらんことには、どうにもならん。だから、早いとこ、もういっぺんむこうへ行って、薪小屋をさがしてよ、なるべく太そうな薪を持ってこい。掛矢のかわりにそいつを使えば、この扉、板にだいぶ腐れがきてるから、メリメリといくだろうと思うんだ。――早いとこ、ひとつ頼む!」
マスターズはいささか息のきれる気味合いだったが、しかしさすがに手なれたもので、てきぱきそういいつけると、自分は懐中電灯で庭をひとわたり照らしてみて、
「入口の近くには、足跡がぜんぜんない。――ひとつも足跡がないね。これがどうもへんだな。だいいち、あたしはここにいたんだからね。ちゃんと見張りをしてたんだものね……」
「何がどうしたんですか?」わたしは尋ねた。「ぼくはあすこであの書類を読んでいたから……」
「そうでしたな。――そうだ、あんたあすこにどのくらいの時間いたか、わかるかな?」とマスターズはブスッとした調子でそういうと、ポケットから手帳をとりだして、「あれをつけておけばよかったな。鐘の音を聞いた時刻は書いといたんですよ。一時十五分だったかな。――ほら、ここにこれ、つけてある。――『鐘の音を聞く。一時十五分』――あんた、あすこにだいぶおられたから、何か気がつかれたことあるでしょう? かれこれ四十五分もおられたんだから……」
「いや、べつになんにも見も聞きもしなかったな。――あんた今、裏へ出ていたといわれましたね。そうすると、出ていかれるときには、ぼくのいたあの部屋の入口の前を通られたわけですね?」
小脇にはさんだ懐中電灯の光を、手帳の上にあてたまま、マスターズはクルリとわたしのほうをふりむいた。泥だらけの手が何か書きこむのをやめた。
「あんたのいた部屋の前を通った? それはいつです?」
「いつだかわからないけど、とにかく、あの手紙を読んでたときですよ。誰か廊下を通ったと思ったから、わざわざぼくは立っていって、扉の外を見たんですよ。でも、人の影は見えなかった――」
「ふーん」警部はこわい顔をして、「待ってくださいよ。そりゃ事実でしょうな? つまり、どんな弁護士でもゆるがすことのできない、絶対に確固たる事実であるか、それとも、ただそんな気がしたという程度のことか、どっちですか? そういう気がしたなんてことは、こりゃ誰にでもあることでね」
わたしは絶対に確かな事実だと答えた。マスターズはこれを手帳に書きとめた。
「こうくどく念を押すのは、そこを通ったのがわたしじゃないからなんですよ。わたしは玄関から出て、主屋《おもや》の横手をぐるっとまわったんです。ところで、あなたが聞いたという足音だが、どんな足音でした? 男の足音か女の足音か、急ぎ足だったか、ゆっくりしていたか、いえませんか? 証拠のたしになるようなことを何か?」
これはむりな注文だった。場所が煉瓦敷きの床だったし、足音といったって、こっちはジョージ・プレージの手記からかもしだされる幻影や叫喚の声で、耳が半分つんぼになっていた最中なんだから、そうはっきり聞いたわけではなかった。しかし、いかにも人に見られることを恐れて逃げていくような、そわそわした急ぎ足だったことだけは確かだと、わたしは警部にいった。
「なるほど。……それでね、バートとわたしがあの部屋を出てから後のことは、ここに書いてあるんですよ。書いておいてよかった。いずれ客間にいる連中は尋問を受けることになるから、そのときはこれでギューという目に会わしてやれます。……あんたね、あれから三十分ばかりの間、あの連中が何をしておったか、わかりますか?」マスターズは改まった調子で尋ねた。「まあ、およその見当はつきますわな。暗闇のなかで、みんなで円座をつくって、――つまり、一週間前の晩、例のインチキ文字を書いた紙を誰かが便箋にまぜて、ダーワースをびっくりさせた、あときと同じですさ。とてもわれわれは手出しなんかできやしない」
「降霊会ですね。なるほどな、それでジョゼフはどうしていました?」
「いや、それがね、降霊会じゃないんだな。なにか祈祷なんですよ。ところがね、よく考えると、どうもおかしい点があるんだな。連中はジョゼフを同席させたくないんだね。ベニング夫人が、だいぶそのことで文句をいっとった。夫人のいうには、ジョゼフは非常に勘のいい霊媒だが、祈祷のときにはかえって邪魔になるから、そういう席には出さないほうがいいと、ダーワースからとくに注意を受けてるんだそうでね。われわれにはわからんが、とにかく、わたしとバートが代わって、あの小僧を手もとにひきつけておいたんです。そんなわけで、当人のジョゼフからも、あすこにいる連中からも、べつに得るところは何もなかったんですがね。あの連中、てんで話をしてくれないんだ」
「警察の者だと、あなたあの連中にいったんですか?」
マスターズは鼻を鳴らして、「うん、いいましたよ。いってばかを見た。なんにも手出しができないんだ」としばらく考えこんでから、「ベニング夫人が手を開いたり握ったりしながら、『わたくしもさきほどそう思いましたのよ』といっただけでさ。それからあの若い男――ラティマーですか、あれは火掻き棒をもって、わたしのことを追いだしかねない剣幕でしたよ。当たりがやわらかだったのは、フェザートン少佐だけだったな。いやもう、祈祷の席からはわたしはのけものでさ。はっきり先方がそういうんですものね。ハリデーさんがいなかったら、こっちはてっきりつまみだされるところでしたよ。――おーい、バート、ここだ、ここだ!」マスターズは主屋《おもや》のほうへどなった。「おいバート、君とハリデーさんでその丸太を持って、あとの連中にはもどってもらってくれ。おい、もどってもらえって。……聞こえんのか!」
裏口では、なにかいい争う声にまじって、文句をいいたてる女の高い声もきこえていた。男の連中が高くかかげている蝋燭の、おぼつかない光を背にうけながら、マクドネルが裏口の石段から、太い丸太をゴロン、ゴロンころがし落とした。その落とした丸太の片棒を、ハリデーがかついで、マクドネルと二人してよっちら、おっちら、こちらへやってきた。
「何が始まるんです? マクドネル君のいうには――」とハリデーがいうのにかぶせて、マスターズは権柄《けんぺい》づくに、
「奴は何もいいませんよ。丸太をしっかり持ってください。そうそう、両側からね。それでね、この扉のまんなかをねらって、まっ二つにぶち割ってみてください。懐中電灯はポケットにしまってさ、両方の手を使わなくっちゃ。……いいかね、わたしが声をかけるからね。……それっ!」
メリ、メリ、メリと板の割れる音が、塀がこいの庭のなかにひびいて、あたりの窓ガラスがビリビリ鳴ったようであった。四たび、丸太は扉に打ちつけられた。泥濘《ぬかるみ》に足をすべらしながら、マスターズの掛け声にあわせて、打ちつけては引き、引いてはまた打ちつけた。バリバリという音がしたと思うと、扉の板よりも先に、古い鉄の金具がポッキリ折れた。五度目に、マスターズの懐中電灯が、まっ二つに割れた扉の板を照らした。
息をはずませながら、マスターズはいきなり手袋をぬぐと、ブランブランになった扉の板をもち上げ、そこから這うようにして石室のなかへもぐりこんだ。つづいて、わたしもそのあとから、中へもぐりこんだ。扉のまんなかには、太い鉄の棒が横に渡してあって、その両はしは受け穴にはめこんである。その下へわたしが頭をこごめると、マスターズが扉の内側に懐中電灯の光をあてた。扉は鉄の横棒がはめてあるばかりでなく、十七世紀ごろの家屋にはそれが定式だった鉄の長い閂《かんぬき》が、赤い錆《さび》をふいたまま、いまでも内側に掛けてある。マスターズは手袋をはめた手で、しきりとその閂を調べていたが、拳に力をこめてグイグイやっても、錆《さ》びついた閂はいっかな動こうとしなかった。扉には錠も鍵穴もなく、外側に釘で打ちつけた、飾りの手かけがついているだけであった。扉の枠が戸口にきっちり合っていたから、そのために縁金はみんな折れたり、めくれたりしてしまった。
「よく見てくださいよ」マスターズがどら声でいった。
「いいですか、今立っているところで、ぐるりとひとまわりして。――ほら、中に誰もいませんね」
いわれるままに、わたしは体をひとまわりしてみた。じつは今、中に這いずりこんだときに、部屋のなかのさまはチラと見たのであるが、とても気の弱いものにはふた目と見られない光景であった。煙突の吸いこみが悪いせいか、室内の空気は濁っていた。大きな暖炉には、ダーワースがくべたものとみえ、薫香のにおいがしているなかに、髪の毛の焦げるにおいもまじっていた。
左側の壁、――部屋は長方形で、その狭いほうの部分にあたる壁――に、マスターズがのぞいて死体を見つけた窓があいていて、その下に暖炉があった。火はもう下火になっていたが、うずたかく積もっているまっかな|おき《ヽヽ》は、まだかんかんにほてっていて、ときおりあおられるように炎の舌をちらつかせている。それが妙に悪魔めいたものに見えた。その暖炉のまえに、一人の男が、ほとんど|おき《ヽヽ》のなかへ頭をつっこむようなかたちで、のびていた。
背の高い、生きていたときには品のよかったらしい男だが、変わり果てたいまは見る影もなくなって、こころもち右を下にして背を折り曲げ、ちぢこまったような格好をしている。よほど苦しんだものらしい。片頬を床につけて、いまわのきわに懸命に顔をあげて、何かを見ようとしたらしく、首を入口のほうへねじむけていた。が、生きていたところで、とても見えはしなかったろう。前へガクンとつんのめったさいに、金鎖で耳にとめていた眼鏡が割れて、それが目の玉につきささっている。その目から、一条の血が顔をつたわって、苦悶にゆがんだ口のなかの歯に流れ、さらに血痕は絹糸のようなやわらかい茶色のあご髯のなかまで流れこんでいる。茶色の長くのばした頭髪が、耳のうえに化物みたいにばっさりかぶさり、白髪がだいぶ目に立つ。右の腕を、暖炉のわきへぐったりと伸ばしているのが、われわれに何か哀訴でもしているようなふうに見えた。
ときおり息づくように明暗する炉あかりのほかに、室内には灯影がなかった。外から見たより、中はだいぶ狭く見える。奥行二十フィートに間口十五フィートぐらいもあるだろうか。四方は、青い粘土で目塗りをした石壁で、床は煉瓦敷き、天井は樫材のしっかりしたもので穹稜《きゅうりょう》に組んである。つい近ごろ、ざっと掃除をしたらしく、箒とぞうきん棒が壁にかけてあるが、長年のあいだの汚れは、とてもそんなことぐらいではきれいになりっこはない。部屋のなかには、湿気の多い、むしむしした部屋にありがちな、鼻もちのならない、胸のむかむかするような臭気が充満していた。……
死体のそばへ歩みよるマスターズの靴音が、煉瓦敷きの床に反響した。ふとそのとき、わたしの頭にわれながら妙な言葉がうかんだ。そしてそれを大きな声で口に出していったあとも、その言葉は妙に心の奥に尾をひいて、いつまでも残っていた。
「ねえ、いったいこんな老人に、こんなに多量の血があるものかしらねえ?」
マスターズがわたしのほうをふり向いた。わたしのいい方は、スコットランドの貴族の妻がいったのを、そのままなぞったようないい方だったかもしれない。マスターズは何かいいかけて、口をつぐんだ。靴の音がまた床に響いた。
「あれが凶器です」とマスターズは指さして、「見えましょう? そこのそら、死体のむこうに転がってるでしょう? いうまでもなく、ルイズ・プレージの短剣ですよ。テーブルや椅子はひっくり返ってるが、誰も隠れていないな……あんた、たしか医学の心得もちっとおありでしたな。ちょっと死体を見てくれませんか。……おっと、靴に気をつけて。泥だらけだから」
血の海をよけて歩くことは、むろん不可能だった。床、壁、暖炉といわず、あたり一面の返り血のなかに、背を曲げた死体は、まるでフェンシングの稽古人形みたいに滅多斬りにされて、髪の毛を暖炉のなかにつっこんだまま、のたうち倒れていた。被害者《がいしゃ》は何者かに襲われて、その手から逃れるために、めくらめっぽう夢中で――ちょうど蝙蝠《こうもり》が部屋のなかから逃げだすように、石室のなかをグルグル、バタバタ死にもの狂いで逃げまわったらしい。服の破れ目から、深傷《ふかで》を負った左の二の腕、横腹、太股などが見えた。いちばんひどくやられているのは背中であった。ダラリと投げだしている死体の手の先を見ると、炉棚のわきのところに、釣鐘につないだ針金の先に重石《おもし》にくくりつけた煉瓦のかけらがぶらさがっているのが見えた。
わたしは死体の上にかがみこんだ。明るくなったり暗くなったりする炉の火が、そのたびに死体の顔つきを変え、まるで死人が口をあけたり閉じたりするように見える。血にまみれた死体のカフスボタンは金だった。わたしが確かめたところでは、背中に四ヶ所の突き傷があり、上部の三ヶ所は浅傷《あさで》だが、左の肩胛骨の下を刺した傷が心臓をつらぬいていて、それが致死傷になっていた。そこの傷口には、混乱のなかですでに黒ずんだ色になった小さな気泡が一つ、ブクリと浮いていた。
「死後、まだ五分ぐらいしかたっていませんね」とわたしはいった。(のちに、この診断は正確だったことが判明した)「だけど」とそのあとへ一言つけ加えざるをえなかった。「警察医の診断がおくれると、厄介なことになりそうですぜ。死体が暖炉の火のまえに倒れてるもんだから、体温が血液の温度よりずっと高くなっているんでね」
じっさい、暖炉の火は焦げるように熱かった。わたしはすべりやすい煉瓦の床の上を、少し後にさがったくらいであった。死体の右腕は、背中のほうへ二つ折りに曲げられており、その先の手の指は、刃渡り八インチもある刃物をしっかりと握っていた。刃物には、粗末な細工の鍔《つば》と骨製の柄《つか》がついていて、柄に彫ってあるL・Pという頭文字が、血にまみれたなかにかろうじて読まれる。これで見ると、どうやらダーワースは、死ぬ直前に、相手からこの凶器をもぎりとったもののようである。わたしはあたりを見まわして、いった。
「だけどね、マスターズ、こんなことはまず不可能なことだな」
マスターズはグイとこちらを振り向いて、
「だって、げんにこうしてここに起こっているんですぜ。あなたのいわれることは、わたしにもわかりますよ。窓や入口からは絶対にはいれないんだから。だけど、今もいうように、現実にここにこうして起こっているんだからね。だからわたしは、ごくあたりまえの正攻法で、この犯人を挙げるつもりです。その線で、ひとつあなたも協力してください」警部の大きな肩がぐったりと下がって、温厚な顔がきゅうに影ふかく、老《ふ》けたように見えた。「これはね、どこかにきっと抜け道があるんですよ」と強情にくりかえした。
「床か天井かだな。まあ、しらみつぶしに捜すんですな。ひょっとすると、窓格子がどこか一本はずせるのかもしれん。あるいは――いや、わからんな。でも、きっとありますよ。……すみませんが、今ちょっと中へはいらんでください!」
ハリデーの顔が、入口の扉の割れ目から見えたので、警部はそちらへ手をふっていった。
ハリデーは床の上の死体に、ちらりと目をそそぐと、傷口にさわられでもしたように、ギクリとしてたじろいだ。そして、マスターズの顔をじっと正視した。顔がまっさおであった。やがて早口でいいだした。
「警部、おまわりが……いやその、警官が見えましたぜ。さっき丸太ン棒でひと騒ぎやったもんだから、あの物音をききつけて――」ハリデーはいきなり指をさして、「そこに――そこにいるの、ダーワースですね?」
「そうです。でも、今ちょっとここへははいらんでください。それから、主屋《おもや》へも行かんでください。警官はね、マクドネルにそういって、ここへ連れてくるように。その先生、報告書を作るんだろうから。とにかく、冷静にしてくださいよ!」
「こっちは大丈夫でさ」ハリデーは、片手を口にあてて、「うふっ、まるで銃剣術の稽古でもやったようなざまだな」
そのとき、ふとわたしの頭に、さっきの不吉な想念がうかんだ。わたしは薄暗い石室の中をもういちど見まわしてみた。この荒れはてた部屋のなかで、そのむかし、リチャード・シーグレーヴ卿の、ベイユー産のつづれの錦だの、日本製の漆塗りの用箪笥だのが飾りたてられていたころの豪華の跡を、今わずかにしのぶものといったら、それは太い樫材で組んだ頑丈な天井だけであった。そんなことを考えながら、ふと見やると、マスターズがしきりと何やら、物品の明細書みたいなものを丹念に手帳に書きとめている。そこで、わたしもかれの目を追いながら、石室のなかにある什具を一つ一つ目おぼえしていった。――(一)暖炉から六フィートほどはなれたところにひっくり返っている、飾りのない樅《もみ》製のテーブル一脚。(二)ダーワースの外套がかかったまま、同じくひっくり返っている台所椅子一脚。(三)ダーワースの死体のかげの、血の海のなかに落ち散っている万年筆と紙きれ。(四)床のまんなかに転がっている真鍮《しんちゅう》の燭台と消えた蝋燭。(五)(六)前に述べた釣鐘の針金にくくりつけた煉瓦のかけら、それと入口のわきの壁によせかけてあるぞうきん棒と箒。……
炉のなかにくべてある薫香は、藤の花のにおいらしく、それが室内に甘ったるい、むっとするようなにおいを立ちこめているのが、よけい何だか気味の悪い感じを濃くしていた。……すべての状況、すべての雰囲気、何から何までが矛盾のからみあいになっていて、それが目前の事実のなかに、何かまともでないものがあることを強く物語っていた。
「――ねえ、マスターズ」とわたしは先刻の話のつづきのように、「もうひとつあるんだがな。こんなにやられていながら、ダーワースはなぜ声をたてなかったんだろうね? 釣鐘をひっぱってさ、そのうえに悲鳴をあげるとか、騒ぎたてるとか、なぜしなかったんだろう?」
マスターズは手帳から顔をあげて、
「それはしましたね」と妙にあいまいな返事をした。「そりゃ当然でしょう。声は立てましたよ。げんにわたしは聞いたんだから」
七 カルタと麻薬
「それがね」とマスターズは咳ばらいをひとつしてから、話の先をつづけた。「あれは何とも気味が悪かったな。それほどはっきりした声じゃなかったけど、へんだなと思ったから、すぐに表へ飛びだしたんですよ。大きな声じゃなかったけど、声がだんだん早くなって――何かこう、話しているみたいに聞こえましたね。そのうちに、それがこんどは、人にむかって何か哀願するような声に変わったと思ったら、あとはうめき声と泣き声みたいになりましてね。あなたのいたところからは聞こえなかったでしょう。わたしは主屋の横をまわったところで、表にいたから聞こえたんだが……」
と、そこで言葉をきって、あたりを見まわし鼠色のダブダブな木綿《めん》手袋で額をふいてから、
「いや、わたしも驚きましたよ。でも、こりゃ何か奴の芝居だと思ってね。声はだんだん早く、甲高くなって、何か追っかけまわしているような影も、窓に見えるしね。あの赤い灯影のなかで、気味の悪いったら。正直いうと、こっちはどうしようかと迷いましたよ。よくほら、ゲームなんかしていて、この手はまずいなと思いながら、ふんぎりがつかずに、そのまま手を打たずにおいて、あとで、あの時ああ出ておけばよかったと思って、悔やむことがありまさね。あれですよ」と白髪まじりの大の男が、両手を握ったり開いたりして、話につい熱がはいったのに気づいて、どんよりした目であたりを見まわし、「これで役が落ちなきゃ、よくよく仕合わせもんだな。声を聞いて、ぼんやりその場につっ立ってたんだからね。そしたら、あの鐘が鳴ったんです――」
「どのくらいたってからです?」
「そうねえ、騒ぎがやんでから、一分半ぐらいたってからかな。いや、ヘマやったね」といかにも苦々しげに、「まったくヘマやったな」
「騒ぎはどのくらいつづいていたんです?」
「そうさな、二分ちょっとかな」そういって、何か思いだしたことを手早く手帳に書きとめた。大きな顔に深い皺がきざまれた。「とにかく、あすこの裏口のところに、ばかみたいにポーっとつっ立ってたんだからな。いえ、ほんと! 何かにこう、ガッチリ押さえられてるようだったな。――え? いや、もちろん様子を探りにいったんですよ、玄関から外へ出て……」
こわれた入口の扉がメリメリ音をたてた。マクドネルが巡査をつれて、もぐってはいってきたのだった。巡査のヘルメット帽と雨合羽が、部屋じゅうをしめたような格好だった。巡査はべつに驚く様子もなく、マスターズに一礼すると、きびきびした警官特有の棒読み口調で、
「は、地区警察の報告が必要でありますので――」といって手帳をとりだすと、大きな雨合羽がガバガバ波を打った。それをしおに、わたしは部屋の外へ出た。
狭苦しい部屋のなかの濁った空気を吸ったあとで、庭の空気はせいせいした。雨はいつのまにかあがって、星のかげが見えていた。すこしはなれたところに、ハリデーが煙草をふかしながら立っていて、
「あの豚も、とうとうおだぶつだね」とさりげない調子でいった。べつに気がかりな様子も、感慨めいた様子もないのが、わたしにはちょっと意外だった。煙草の火で、目尻に皺をよせた、嘲笑するようなまなざしが見えた。
「しかも、ルイズ・プレージの短剣ときた。万事、あつらえどおりだぜ。その意味では、ブレーク、今夜という晩はぼくにとってはすばらしい夜だったよ」
「ダーワースが死んだからか?」
「いや、何もかもが怪しげな三文芝居だったからさ」とレインコートの肩をそびやかして、「そういや、君はあの謎の手記を読んだんだな。警部から聞いたが、だいぶご熱心だったそうじゃないか。まあね、われわれはあくまでも理性的にいこうぜ。断わっとくが、おれはね、物の怪《け》にとりつかれるとか、中有《ちゅうう》に迷う幽霊とか、そんなくだらんものはいっさい信じないぜ。そりゃそういうものでおどかされることはあるだろうさ。が、とにかくこれではっきりしたよ。何がはっきりしたかというと、三つの点がはっきりしたんだ」
「なるほど!」
ハリデーは煙草の煙を深く吸いこんで、しばらく考えこむふうだった。マスターズとマクドネルが何かいいながら、石室のなかをドタドタ歩きまわっている靴の音が、うしろで聞こえた。
「まず第一はだね、今夜のインチキ幽霊は、ダーワースを殺したことによって、幽霊の面目をまる潰れにしたということだよ。幽霊なんてものは、フワフワ現われたり、窓をガタガタいわしたりするからこそ、人間がこわがるんだろう。それが君、しごくありきたりの凶器をもって、人間の体に穴なんかあけたんじゃ、こりゃ君、笑いもんだよ。そこがまずおかしいやね。これがだよ、幽霊がフラフラはいってきてさ、いきなり斬ってかかったんで、ダーワースが恐怖のあまりに死んだというのなら、話がわかる。これならたいへん効果的だ。だけど、人間を突き殺す幽霊なんてのは、心霊現象としては大いにけっこうなのかもしれんが、おれはあんまりいただけないね。ばかげてるよ。まるでネルソン将軍の幽霊が、セント・ポール寺院の納骨堂からのこのこ迷いでてきて、手にした望遠鏡でおのぼりさんをぶちのめしたようなもんだぜ。そりゃまあ、こわいといえばこわいさ。人間わざとは思えん殺しかただからな。いずれどなたかが処刑されるだろうが、でもあの幽霊は……」
「わかった、要点は。で、第二はどういうんだ?」
ハリデーは石室の屋根をにらむように首をかしげて、のどの奥でクスクス笑いかけたが、かりにも人一人が死んだ際とて、それは控えて、
「それは簡単明瞭さ。おれは自分に幽霊のとっつかないことは、自分で承知してたからね。ここで騒ぎのあった間、むこうのあのまっ暗な客間で、ガタガタの椅子に腰かけて、ご祈祷のまねごとをしてたんだよ。ご祈祷だぜ、おい!」ハリデーは自分の口にした言葉に、きゅうに愉快になったように、「ダーワースのために、おれは祈ってやったよ。からかってやろうと思ってさ――。
と、そうしているうちに、第三の点がわかってきたんだ。それには、あの部屋にいた連中の話をしなきゃならないが、とくにマリオンとアン伯母のことだけどね。いや、君にあの場の空気を見せてやりたかったよ。まず驚きだったろうぜ。あの連中ね、芝居をうってたんだよ。どうだい?」
「芝居を?」
「そうさ」ハリデーは勢《きお》いこんでわたしのほうへ振り向いたが、煙草の吸殻をポイと捨ててから、わたしの顔をまともに見て、
「君ね、あの連中が、ダーワースのしくじりをどう思っていたと思う? ダーワースは果たして殉教者であったか? みんなかれに心服していたか? それが君、大違いなんだ。じつは、ダーワースがしくじって、みんなはホッとしたんだよ。死ぬまでダーワースに心霊力があると思いこんでいたのは、まあ、テッドぐらいなもんだろう。ほかの連中は、みんなホッと胸をなで下ろしたのさ。催眠術からでもさめたようにだ。ところでブレーク、そうなるとだよ、この事件のそういう狂った心理は、いったいどういうんだろうね? どういう……?」といいかけたとき、マスターズが石室の入口から首を出して、何かわからないが迷惑顔で、文句をいいだした。
「ハリデーさん、われわれはすることがまだ山ほどあるんですがね。検死もやらにゃならん、現場写真もとらにゃならん、報告も書かにゃならん。忙しいんだ。だいいち、目下まだ調査中なんだしね。だから、すまないがあんた、むこうへ行ってあの連中と話でもしていてくれませんか? ただし、あの連中を取り調べたりせんようにね。勝手にしゃべらしておいてください。わたしが行くまであすこへ引き止めておいてくださいな。それでね、ダーワースが死んだという以外には、何もいわんでください。そこは何とかうまくごまかしてさ、ね、いいですか?」
「いったいどうなってるんですか、警部?」ハリデーはおだやかに反問した。
「もちろん、殺人ですよ」警部はきゅうに開き直って、重重しく答えた。「あんた、失礼だが、尋問を受けたことありますか? ああ、そう。いや、べつにあんたが怪しいというんじゃないが……」
ハリデーは、きゅうに肚《はら》をきめたように、つかつかと石室の入口まで歩いていき、警部の面前に立つと、それが癖の肩をキッとそびやかして、やや鈍重な茶色の目で相手を見すえ、
「警部」といって、あとちょっと間《ま》をおいたところは、いちばん演説でもぶちそうなけしきであったが、やがて早口で一潟《いっしゃ》千里にやりだした。
「警部、どうでしょうな、ぼくら捜査にかかる前にですな、おたがいによく諒解しあっておきたいと思うんですがね。殺人であることはわかってますよ。そう思っていたんだから。それでね、今後われわれがどうでも経験しなくてはならん悪評とか、不愉快なこと、不潔なこと、また検死官の審問のときに見せつけられる、あのうぞうむぞうどものばかばかしさ、それもぼくは承知してますよ。だから、そこはですな、われわれだけではひとつ大目に見てはいただけんですか? そりゃぼくだって、盲目じゃありませんよ。あそこにいた連中のうちの誰かが、ダーワース殺しの嫌疑をうけるぐらいのことは心得ていますよ。その点は本職のあなたのほうがご存知でしょうが、犯人はね、ダーワースの弟子のなかにはいませんぜ。では、誰が殺したか? むろん、このぼくは除外しての話ですがね?」とハリデーは親指でおおうように自分の胸をさしながら、目をむいて見せた。
「うん、まあそうね。しかしハリデーさん、わたしにはわたしの義務があるんでね。たとえ誰にしろ、大目に見るなんてことはできませんね。まさかあんた、自分が犯人とは思っちゃいないだろうが……」
「とんでもない。ぼくのいうのは――」
「じゃ、まあ失敬」マスターズは首をひっこめながら、「まだ仕事が残ってますから」
ハリデーは歯をくいしばった。かれはニヤリと笑って、わたしの胸をとると、主屋のほうへさっさと歩きだした。
「なるほどな、警部はたしかにわれわれの中の一人に目をつけてるな。だけど、おれはへいちゃらだ。気になんかしねえや!」まるで天に向かって哄笑《こうしょう》するように、ハリデーはそういって首をのけ反《ぞ》らしたが、いやに愉快そうに張りきっているそのかれの体が、ブルブルふるえているのをわたしは感じた。「なぜへいちゃらか、そのわけを教えようか。さっきね、むこうの客間の暗がりに坐っていた、あれが運のつきだよね。マスターズはまずジョゼフの小僧にねらいをつけるだろうが、その切先がはずれるというと、あとの連中のなかから槍玉にあがる奴が出てくるね。当然そうなるだろうが。マスターズはきっというぜ。――あの暗闇の二十分間に、誰かあの部屋から出ていった者があるかと……」
「誰だい、それは?」
「知らんね」ハリデーはいやに冷やかに答えた。「誰だか椅子から立った者は、たしかにあったよ。音がしたもの。扉があいてしまった音もした。それだけは断言できるな」
この言葉から推すと、ハリデーは、ダーワース殺害の状況が、不可能犯罪(あるいは難解犯罪といってもいいが)であることは、まだ承知していないらしい。しかし、いま聞いた話だと、事態は幽霊沙汰なんてものよりも、もっと悪質な要素をふくんでいることがわかる。わたしはこれはと驚いた。
「なるほどね、そいつは笑いごとじゃないね。外見から判断して、どうも理性のある人間のすることじゃないな。人の大ぜいいる部屋で、そんないちかばちかの危険を冒すなんて、まあ気違い以外にはないな。ガヤガヤ騒いでいるときなら、また別だが――」
「そうなんだ。……いや、それがね――」というハリデーの顔色は、星あかりで幽霊みたいに青白かったが、それでもへんにうきうきしたところがあった。それがきゅうに首をうなだれると、まじめくさった顔になって、
「――それがね、マリオンとぼくは、暗闇のなかで手を握りあっていたんだよ。審理法廷でこんなことをいったら、それこそ笑いものだろうさ。クラパムの連中が総出のなかで、クスクス笑う声がきこえるようだな。だけど、話だけはしなくちゃ。これが肝心のアリバイの証拠になるんだから。ところでね、どうもおれの考えるには、ほかの連中には容疑はかからないで、どうもおれに容疑がかかってきそうな気がするんだ。かかったって、いっこうかまわんがね。こっちは生命の栄光のあらんかぎり、無罪の栄光はこの額《ひたい》にあらわれてるんだから。ま、フェザートン少佐でも、アン伯母でも、好きなやつを縛り上げるがいいさ」
そのとき、行く手に誰か呼ぶ声がした。ハリデーは「おう」といって、急いで走っていった。廊下には、わたしがさっき例の書類を読んでいた台所から、つけっぱなしにしておいた蝋燭の灯影が、あいかわらずもれていた。その灯影を背にして、長い外套を着た若い女が、裏口のところに影絵みたいに立っていた。石段を危い足どりで降りるその女を、ハリデーが腕のなかに抱きかかえた。
すすり泣くような女の声がきこえた。
「ディーン、あの方、おなくなりになったのね。ねえ、おなくなりになったんだわね。あたしね、当然悲しい気持にならなきゃならないはずなのに、ちっともそういう気持が起こらないのよ。どういうんでしょうねえ」
体がふるえているので、声もふるえていた。ちらちらゆらぐ蝋燭のあかりが、不気味な裏口と古色蒼然たる主屋を背景にして、マリオンの黄いろい髪の毛をチカチカ照らしていた。ハリデーは何かいおうとしたが、いうかわりにマリオンの肩を軽くゆすったあとで、何やらいい渋るように、
「外はひどい泥濘《ぬかるみ》だから、とてもこの靴じゃ出られないよ」
「大丈夫よ。わたくし、ゴムの上履をはいてるから。どこかそこらで見つけたの。――わたくしね、あなたにお願いしたいことがあったから、ここまで出てきたんだけど、あなたね、あちらへいらして、みんなに話してあげてくださらないこと」
顔をあげたとたんに、わたしのいるのを見て、彼女はすかすように目を見すえた。薄暗い灯影のなかなので、その場の光景はきれぎれにしか見えなかったが、影になった顔、白い歯、しなやかな挙作《きょさ》――まさにマリオン・ラティマーのものであった。彼女はハリデーからつとはなれると、
「ブレークさん、失礼ですが、あなた警察のお方でいらっしゃるんでしょ?」としとやかに尋ねた。「警察のお方でいらっしゃらなくても、その方面のお方ですわね。ディーンがそう申していました。あの、ご足労でもディーンとごいっしょにいらしてくださいましな。さきほどそこにお見えだった恐《こわ》らしい方よりも、あなたにおいでが願いたいですわ」
三人は石段をあがった。足に大きすぎる重い上履をはいているために、マリオンはおぼつかない足どりをしていた。台所の入口の前で、わたしはちょっとといって、二人の足を引きとめた。ジョゼフが思いがけずちょこなんとそこに腰かけていたので、ふっとわたしは気が動いたのであった。
見ると、ジョゼフは先刻わたしが腰かけていた木箱に腰かけて、作業台に肱《ひじ》をついて、ぼんやり頬杖をつき、目を半眼に閉じて、かすかな息づかいをしていた。四本の蝋燭の灯が、顔と、痩せた手と、細い首筋を、薄闇のなかにくっきりと照らしだしていた。
子供っ気《け》のまだ抜けない顔で、小さな目鼻だちもどことなくあどけなく、平べったい鼻すじと、しまりのないやや大きな口もとにかけて、濁った肌にそばかすが浮いている。あかりの影になっている短く刈りこんだ赤い髪の毛が頬ぎわに垂れており、歳は十九か二十なのだろうが、見たところは十三歳ぐらいにしか見えない。目の前の作業台の上には、さっきわたしの読んでいた書類がひろげてあるが、それを読んでいるでもなかった。書類のむこうに、よごれたカルタ札が扇なりに撒《ま》いてある。ジョゼフは蝋燭の灯をぼんやり見すえながら、体をゆらりゆらりゆすっている。しまりのない口をモグモグ動かしていたが、何をいうのでもなかった。派手なまっかなチェックの服が、この若者をいっそう薄気味悪いものに見せていた。
「ジョゼフ!」とわたしはそっと声をかけてみた。「ジョゼフ!」
ジョゼフは何を思ったか、作業台を平手でピシャリとひとつたたくと、体をグーッとまわして、うかがうように目をあげた。その顔は、けっして愚かな顔ではなかった。もとは利発だったらしいその片鱗が、どこかに残っている顔であった。両眼が薄い膜でもはったように、どんよりと曇り、瞳孔はほとんど視力がないまでに収縮して、虹彩が黄いろみをおびていた。その瞳の焦点が、わたしの顔の上に合ったとたんに、かれはハッと身をちぢませた。それから大きな口もとに、ニヤリと微笑がうかんだ。さきほどホールで懐中電灯の光で見たときにも、いやに元気のない、おっとりとした、無関心な様子に見えたけれども、しかしあのときはこれほどではなかった。
わたしは重ねて名を呼んでから、しずかにそばへ行って、「ジョゼフ、大丈夫だ、安心おし。わたしは医者だからね」
「さわらないで!」と大声でいわぬかわりに、かれはひょいと体を退《すさ》った。作業台の下へもぐりこむのかなと思ったくらい、その動作は大げさであった。「このまま、そっとしといて!……」
わたしは相手の目をじっと見つめながら(催眠術をかけるように)痩せた手首に指をあてた。ふるえながら、ジョゼフはなおも尻ごみをした。脈搏を見ると、どうやら誰かに麻薬を打たれて、まだそんなに時間がたっていないようである。が、麻薬は常習になっているとみえて、危険な症状はべつになかった。
「ジョゼフ、君は病人だね。ちょいちょい病気になるんだろう? それで麻薬を打つんだな」
「どうか、もう……」かれはちょっと頭を下げると、お愛想らしい目つきをして、「どうぞもう。おかげで、気分もよくなりましたから。放してください」といったと思うと、きゅうに勢いづいてべラべラしゃべりだした。まるで小学生が先生にあやまるような調子である。「ぼく、わかってるんです。それがおわかりになればいいんでしょ。すみません、べつに悪気があったわけじゃないんです。今夜は薬を打っちゃいけないといわれてたんですが、薬の箱のしまってある場所を知ってるんで、つい打ってしまって。でも、ほんの少し打ったんです、ついさっき。ほんの今しがたです……」
「薬は腕に打つのかね?」
「ええ、そうです」自分が白状したことを洗いざらい見せてしまえば、それで罪がいっそう軽くなると思う子供みたいに、ジョゼフは急いで片手をふところにつっこんで、「見てください、ここんとこです」
「薬はダーワースさんからもらうのかね?」
「ええ、そうです。降霊会のあるときは、ぼく霊媒になるんです。薬を打つと心霊力が出るといわれてるんだけど、でもぼくには何にも見えないから、よくわからないな」ジョゼフは何を思ったか、きゅうにゲラゲラ笑いだして、「こんなこといっちゃいけなかったっけな。いっちゃいけないといわれてたんだから。あなた、どなたなんですか? ぼくこの薬好きなんでね、今夜の倍ぐらいをいっぺんに打てば、もっと気分よくなるんだけど、二回に打って二度いい気持になりたいと思ったもんだから。ねえ、そうですよね」ねばっこいような目が、べったりひっつくようにわたしを見すえた。
この場の様子を、ハリデーとマリオンがどう思って見ているのかと思って、わたしはそれも気にかかったが、でもジョゼフを見放すわけにはいかなかった。あとから余分に打った薬の力で、かれはいま舌にはずみがついているときなのだから、真相を吐かせるのにこの機会を逃すわけにはいかなかった。
「そりゃそうさ、ジョゼフ」とわたしが相槌をうつと、かれは拝むような目つきをした。「君が悪いんじゃないさ。ところで、君の名前は、ジョゼフ何というの?」
「知らないんですか? じゃ、お医者さまじゃないな」といって、ちょっと身を引いたが、また思い直して、「おぼえといてくださいよ、ジョゼフ・デニスです」
「どこに住んでいるね?」
「そうか、あなた新米のお医者さまですね。そうでしょ。ぼくの住所は、ブリクストン・ローボロー・ロード、四〇一番地」
「両親はあるの?」
「スウィーニー夫人がいますけど――」とあやふやな返事だった。「親のことなんか、考えたことない。いつもお腹いっぱい食べなかったというほか、憶えてないな。そう、憶えてるのはね、ぼくのいいなずけだった髪の黄いろい女の子がさ、いっしょに家にいたんだけど、あの子どうしたかなあ。ぼくたち、まだ八つだったんだから、むろん結婚なんかできっこないもんな」
「ダーワースさんとは、どうして知り合いになったの?」
この答はちょっと手間がかかった。ジョゼフの話を総合すると、スウィーニー夫人なる人はこの子の後見人で、この人が前にダーワースと知り合っていたのである。ジョゼフに心霊力があることをダーワースに教えたのも、このスウィーニー夫人であった。ある日夫人は、ダーワースを自分の家へつれてきた。ダーワースはそのとき、毛皮の襟のついた外套を着て、光ったシルクハットをかぶって、ボンネットに鴻《こうのとり》のついた大型の自動車にのってやってきたそうである。ジョゼフのことについては、そのときすでに双方の間に下相談ができていて、「あの子はぜったいにゆすりなんかしない」と保証した人があったのだそうだ。それが三年前のことだとジョゼフはいう。
ローボロー・ロード四〇一番地の家の客間には、入口に水玉模様のカーテンがかかっていて、テーブルの上には金《きん》の止め金のついた聖書がおいてあるよと、ジョゼフが問わず語りにそんな話をしている間に、じつはわたしはハリデーとマリオンをかえりみて、聞きたかったのだ。ダーワースが怪しい人物であるこの歴然たる証拠を、かれの信者たちはいったいどう考えるかと。しかし、肝心のこのジョゼフに、あとでもう一度いってみろと強要してみたところで、今いった通りいうかどうか、それはわからない。まず、むずかしいだろう。
それに、そろそろもう薬がきれかけてきているから、かれの饒舌《じょうぜつ》にも、限界がきているようだ。もう二、三分もたてば、がっくり元気がなくなって恐怖心がおこり、狂暴になりかねない。わたしは言葉おだやかに、やんわりといいきかした。
「ジョゼフ、君はね、なにもダーワースのいうことなんか、くよくよ気にしなくてもいいんだぜ。君がどうしても打たなきゃならなかったから、薬を打ったんだと、あの人にはいっておいてあげるよ」
「あー!」
「薬を打たなければ、あの人のいいつけたことができなかったんだと、いっといてやるから、安心しなさい。そりゃいいが、いったいダーワースは君に何をしろといったんだね?」
ジョゼフはまっ黒な爪を噛みまがら、ダーワースの声色《こわいろ》でもまねるつもりか、気味のわるいほど低い声で、
「『いいか、立ち聞きをするんだぞ。いいな、立ち聞きだぞ』――こういいました」といって、ひとりでうなずき、どんなもんだという顔をしてみせた。
「立ち聞き?」
「あっちにいる皆さんのいうことを盗み聞きしろというんですよ。あの方たちといっしょにいてはいけない。いっしょにいろといわれたら、断わって、そして立ち聞きしろと、こういうんです。先生は、どうも誰かわしのことを殺そうとして、忍んでくる者があるような気がするからと、おっしゃっていました」
ジョゼフの目に、だんだん霞がかかってきた。おそらくダーワースは、怪しい者の忍んでくる模様を、ジョゼフにくわしく話したことだろう。それに、あれだけの奴だから、むろん催眠術の心得だってあるに違いない。
「その忍んでくる人が誰なのか、それを見破るのがぼくの役だったんです」
「うん、それで?」
「先生は、おまえにはこれまでいろいろ尽くしてやったし、おまえのためにスウィーニー夫人にも、ずいぶんお金を出してある。その大恩が身にしみていれば、おまえは当然、おれをねらっている怪しい奴の正体をつきとめなければならん……といわれるんです。ところがね、ぼくは薬を打つと、むしょうにトランプがしたくなるんですよ。やり方はよく知らないんだけど、ただ札がいじりたくなってね、札に書いてある絵を見てると、みんなあれが生きてるように見えてきちゃって。赤いクイーンがあるでしょ、あれなんか灯火にかざして、クルクルまわして見てると、今まで見えなかった色が見えてきてさ……」
「ダーワースさんは、誰か怪しい者が忍んでくると思っていたんだね?」
「うん、そういってたけど――」
薄弱な頭脳が、なにかを模索しているふうであった。上体を向こうに向けたまま、カルタを手にもって、しきりと札を選り分けていたが、やがて痩せ細った手にダイヤのクイーンを抜きだすと、こちらへ顔を向けて、わたしのことをうそうそした目つきで見ていたが、
「すみません、ぼくもう話すのやめた」とベソをかいたような声でいった。そして、腰掛から立ちあがると、後ずさりをして、「ぶたれたってたたかれたって、もう話さないや」
荷箱をそっとどけて、カルタの札を手早くつかむと、ジョゼフは暗がりへ逃げこんだ。
ふりかえると、マリオンとハリデーが体を寄せ合って立っていた。マリオンはハリデーの腕に手をかけていた。二人とも、壁ぎわへ逃げこんだジョゼフの青ざめた顔を、まじまじと見ていた。ハリデーは目を細め、口もとに憐憫と侮蔑の色をたたえながら、マリオンを抱きよせたが、マリオンはわなわなふるえているようだった。ほっとして気落ちがしたのだろう。暗がりのなかで、目もどうやら慣れてきたらしく、ウェーブのかかった金髪にも、四角ばった顔にも、だいぶやわらかみが出たように見えた。ところが、二人のうしろを見やると、いつのまにか見物が一人ふえていた。
入口に誰か人影が立っていた。
「なるほどねえ!」ベニング夫人のとげとげした声がいった。
上唇が意地わるくまくれていた。ウェーブをかけた銀髪と、襟にまいた黒いビロードの首巻の品のよさとはまるでうらはらに、夫人の顔には、醜い、どす黒い皺がたたまれ、黒い目がわたしのほうをにらみすえていた。雨傘を杖について、腰を曲げているかっこうは、およそこの人らしくないものだったが、何を思ったかいきなりその雨傘を握って身がまえをしたと思うと、うしろの廊下の壁を、いやというほど傘でたたいて、「さあ、あっちの部屋へおいで!」と金切り声をあげた。「われわれのうちの誰がロジャー・ダーワースを殺したか、それをひとつ調べてもらいましょう。……おお、ジェイムズ! ジェイムズ!」といいながら、ベニング夫人は、いきなりその場にわっと声をあげて泣き入りだした。
八 五人のうちの誰?
客間で、わたしは五人の人たちに会った。
そのとき、不思議なことに気づいたのは、あのつんとすまし返っていた自信ありげなベニング夫人が、蝋細工の造花のようなその平静さを、まるで粉々に砕き散らしてしまっていることだった。転んだまま起きあがることができない、といった格好だった。もっとも、それには心の傷手ばかりでなく、そのかげに、じつは肉体的な故障もあることはあったのである。いくらかびっこの気味で、足が病《や》めるらしいのは、多少中風の気がありそうだとわたしは見たが、炉ばたの隅に坐りこんで、まっかな上っぱりをはおり、こくりこくり舟をこいではいるものの、さすがはこの人で、小柄ながらに貫禄はじゅうぶんにあった。しかし立ちあがると足もとがよたよたするあたり、いかにもかわいがっていた甥をなくして、がっくりと気落ちのした、へそ曲がりの手の焼ける婆さんという風情《ふぜい》ながら、まだまだほかの連中にくらべれば、ひと節もふた節もあるてこずり婆さんであることはまちがいない。といったところが、まずわたしの印象であった。
荒れはてた部屋の、六本の蝋燭がともっているなか、とうに燃えつきてしまった燻《いぶ》りくさい暖炉のそばで、彼女はさっきと同じ椅子にひかえていた。ハンケチも出さずに、腫れぼったい、目やにのでた目をじかに手でおさえ、大きな息をつきながら、ものをいおうともしなかった。そのそばに、フェザートン少佐がつっ立って、わたしのほうをにらみつけていた。テッドは暖炉のむこう側で、これまた妙にけしきばんで、火掻き棒を手に握っていた。
この連中と対決するのは、べつに何でもなかったが、しかし何だか居ごこちが悪かった。部屋に足を入れたとたんに、わたしはピンとそれを感じたのである。それは恐怖感であった。誰もの肩のうしろに、恐怖が立っていたのである。
「さて――」とフェザートン少佐が、さっそく仕事にとりかかる意気ごみで開口一番したが、何を思ったのか、それなり黙ってしまった。
蝋燭のあかりに照らしだされた少佐の姿は、なかなか堂々たるものであった。太鼓腹を何とかかくすように仕立てさせた外套を、さもきゅうくつそうに着こんで、すこし反《そ》り身になり、酒やけのした肉のたるんだ顔、大きな鼻、ものをいうときにカラーの上にはみだす顎《あご》、それとはおよそ不釣合にテラテラに禿げた頭をおつに傾《かし》げて、演説でもぶつときみたいに片っぽの手を背中にあて、あいた片っぽの手でしきりと白いひげをしごいている。太いごましお眉毛の下から、水色の目でわたしのことをじろじろ見ながら、から咳をひとつして、妙にとりすました顔つきで、今にも「えへん」とか何とかやりだしそうな様子に見えたが、それをいいだしかねている裏には、あきらかに当惑と、同時に八方に気をかねる、正直でもの固いイギリス人|気質《かたぎ》が邪魔をしているのである。そのうちに大将、たまりかねて「おい、誰かしゃべらんかね」と本音を吐くだろうと、わたしはたかをくくって見ていた。
ベニング夫人が、ハーと泣きじゃくるような息をひいたので、少佐は夫人の肩に手をかけてたまっていた不服をもらすようにいいだした。
「ダーワースが死なれたんだそうですな。いや、困ったことになった。まったく困ったことじゃ。いったい、どういうことでそげんなことになったのかね?」
「刺し殺されたんですよ、あそこの石室の中で」とわたしはいった。
「何でです?」テッド・ラティマーがやつぎ早に尋ねた。「ルイズ・プレージの短剣ですか?」
テッドは椅子を一脚前へひっぱりだすと、それへどっかり腰をおろすなり、両足をあとへグイと引いて股を割った。何とか気を落ちつけようとしている様子だった。ネクタイが曲がり、きれいになでつけた黄いろい髪には、何か煤《すす》みたいなものがついていた。
わたしはそうだとうなずいた。
「けしからん! まあ聞け!」フェザートン少佐がベニング夫人の肩からいったん上げた手をまたそっと下ろして、どら声でどなった。「よいかね、だいたいわしが気にくわんのはだな、ディーンが友人じゃいうて紹介した、マスターズとかいうあの男は、ありゃ警察官だというじゃないか。――」
ハリデーがどこ吹く風といった顔つきで、煙草に火をつけたので、テッドがにらみ返したが、その目が姉の目とあうと、テッドはあわてて蝿でもはらうように、自分の顔の前を手ではらった。
「けしからん。君にも似合わんことだぞ、ディーン。あきらかにこれは身分侵害じゃ。それにな――」
「いや、そのことなら、ぼくは先見の明があったと申し上げたいな」とハリデーは相手の言葉をさえぎって、「いかがです。ぼくのしたことが正しかったとお思いになりませんかね?」
フェザートンは口をパクパクさせて、「まあ待て! わしはそういう詭弁《きべん》は苦手じゃ。わしは公明な人間で、いつだって自分の身分と立場は心得とるぞ。ご婦人がたの前じゃが、これは嘘ではない。ああいう卑怯なやり方は、わしはぜったいに認めん。従来もそうであったが、今後もぜったいに認めん!」
だいぶいきりたった様子だったが、ふとベニング夫人を見下ろすと、少佐は年甲斐もなく少々いいすぎたと思ったらしく、こんどはわたしのほうへ舌鋒《ぜっぽう》を向けてきた。
「そこでじゃ、けっきょくまあ、わしら内輪の人間として話をしたいのじゃが、そこはそれ、ベニング夫人は貴公のお姉さんとも昵懇《じっこん》のことであるし(そのいい方には、何か恩着せがましいものがあった)それにディーンの話だと、あんたは陸軍諜報局第三課に関係があったそうじゃが、諜報局はわしもよう知っとる。あんたとこの課長は、たしかマイクロフトというとったかな、あの男などもわしは別懇《べっこん》だしの。そういったわけじゃから、あんたもこの事件の究明で、わしらをつまらん渦中に巻きこむようなことはないじゃろう?」
わたしは、とにかくこの連中には、何もかもぶちまけてしまったほうがいいと思ったので、逐一《ちくいち》事情を打ち明けて話した。話がおわったところで、少佐が咳ばらいしていった。
「よろし。そう打ち明けてもらえれば、何もいうところはない。いや、よくわかりました。あんたが警察の者でないとなれば、くだらん尋問などはされんだろう。そうするというと、あんたは警察のおせっかいを手伝おうという……」
わたしはその通りだとうなずいた。マリオンが何か思いだしでもしたのか、青い目に妙な色をうかべて、わたしの顔をしげしげと見ていたが、やがてすみとおった声でいった。
「それで、今おっしゃったお話し――つまり、わたくしどもとダーワースさんとの関係をお調べになることに、この事件の鍵があると、あなたはお考えなんでしょ? たとえば過去に――」
「そんなばかな!」テッドは吐きだすようにいうと、まるで窓ガラスをこわして逃げるときの腕白小僧みたいに、高い声で笑いたてた。
「そういうことです」とわたしはマリオンに答えた。「しかし、それをうかがうまえに、ひとつだけ皆さんにお聞きしたいことがあるんですが、これはひとつ正直に、ありのままをおっしゃってください」
「ああ、何でも聞いたらいいでしょう」とテッドがいった。
わたしは一座を見まわして、「では、どなたでもよろしいですが、皆さんは、ダーワースが何か超自然的な力で殺されたものと考えておいでですか? どなたでもいいです、正直におっしゃってください」
よく子供のする遊びに、「何個、何個、いくつ?」というのがある。ニヤニヤしている相手の手の内を当てる遊戯だが、これは成人して大人になってからも、よく仲間同志でこれと同じようなことをやって、その結果をいろいろの角度から観察して興ずる。相手の目と手、もののいいぶり、話のしかた、婉曲《えんきょく》にいう嘘、うっかり見せてしまう肚《はら》のうち、――そういう点をよく見ていくと、だいたいその人の気質・性格がわかるものだ。……今わたしは自分で問いを出したあとで、この子供のする「何個、何個、いくつ?」の、すこしむずかしい問題を自分が出したような気がした。
一座の連中は、いっせいに顔を見合わせた。ベニング夫人は固くなっていた。宝石のきらめく片方の手で、さっきから目がしらを押さえていたが、あるいはそうしていて、指の間からみんなの様子をうかがっていたのかもしれない。そのうちに、体が小刻みにふるえだしてきたと思うと、うめくような、しゃくり上げるような声をあげて、派手な赤いマントをうしろへはねのけた。
「いや、わしは思わん!」とフェザートン少佐が爆発的にどなった。
それで、一座の緊張がほぐれた。ハリデーが低い声でいった。「いよ、おみごと! さあマリオン、あんたもいいなさい。洗いざらいしゃべって、幽霊なんかふっ飛ばしちまいなさい」
「ええ。でも、わたくしよくわからないのよ」マリオンは暖炉のそばで、うさんくさい片笑いをもらしながら、「ほんとに、正直のところ、わたくしわからないのよ。だって、そう思っていないんですもの。そんなこといって、わたくしたちみんながばかに見えるような羽目に、ブレークさん、あなたが追いこんだのよ。――待ってください、わたくし別のいい方をするわ。幽霊というものを、わたくし自分で信じているかどうか、それは知りませんけど、でもわたくし、こちらのお家には何かあるような気がしますわ」といって、部屋の中を見まわして、「自分でそういうものを見たわけじゃありませんけど、でも何かこう、気味の悪い、普通でないものが、こちらの家にはあるようですわ。それとは別に、ダーワースさんをインチキ師と思っているかというお尋ねでしたら、わたくしイエスとお答えしましてよ。ジョゼフからわたくし聞いたんですもの……」彼女は身をふるわしていた。
「ほう、これはしたり、ラティマー嬢」と少佐が顎をなでながら、うなるようにいった。「あんたもか――」
「ええ、そうですわ」彼女はしずかにいって、にっこり笑った。「わたくし、あの方が嫌いでしたの。大嫌いでしたわ。あのお話しっぷり、あのご様子――何ていったらいかしら。ただわたくし、いろんな方が、あの方の力のとりこになったというお話しはうかがっていました。あの方は、いってみれば、人様に毒気を吹っかける名医さんなのね。ですから――」といって、彼女はハリデーのほうへチラリとくれた目を、すぐにもとへ返して、「――おおいやだ、お話しするさえこわいわ。あの方、あなたの知ってる人や、愛している人に、そーっと這いよってくるのよ、蛆虫《うじむし》みたいに。しかもそれが、物語や小説にでてくる、何か神がかりの魔力みたいなものなんだから、じつに不思議なのよ。でも、その方が亡くなられたんですから、わたしが望んでいたとおり、これで皆さんも自由になったわけですわ」
顔を上気させて、はずみのついたしゃべり方だった。テッドがふいにいななくような高笑いをして、
「姉さん、ぼくならそういういい方はしないな。それじゃまるで、自分で殺人の動機を披露してるようなもんですよ」
「おい、おい」ハリデーはくわえ煙草を捨てると、「君は横っ面をひとつ見舞われたいのか?」
テッドはその顔をじっと見返したが、さすがに若い知識人だから、ちょっと身をひいて、黙って高慢そうにはねあがった口髭をひねっていた。
この男も、その目に狂信的な敵意さえなければ、けっこうとぼけた愛嬌のある男なのだが。
「でも、そうなれば、ここにいる人たちは一人残らず、それぞれ動機をもっていることになりますよ。ぼくはむろん例外だけど。……ところが、あいにくとぼくが告訴されると、どうも異議を申し立てる根拠が薄弱なんでな。……」
いかにもチェルシーの生まれらしい冷静さだった。そういってから、きゅうにハッと顔色を固くしたところを見ると、かれはハリデーの苦りきった顔を見たものと見える。あとは早口になって、
「だけどね、警察では誰も逮捕はできませんぜ。ぼくは今でもダーワースのことは信じているな。どうですか、警官に来てもらったら。ぼくはある意味でそれを歓迎するな。これが警察問題になればですよ、世間一般、それと科学の進歩を頭から阻止しようとするばか者どもに、真理の何たるかを表示することになりますからね」ゴクリと唾をのんで、「ええ、けっこう。こっちは気違い呼ばわりされようが、真理が世の中に表明されるんだから、いっこうかまいませんさ。人間の生命なんて、科学に比べたら何ほどの価値があるか……」
「ほう、そうかい」とハリデーがいった。「君は人間の死後の生命について、興味をもってるらしいな。前にぼくもそれについては、ずいぶんばかげた話を聞いたことがあるがね」そういって、相手を見つめて、「そりゃいいが、いったい君は何を攻撃してるんだ?」
テッドは顎をグイとしゃくって、椅子の背を指の先でゆっくりたたきながら、首をふりふり、それとない嘲笑を顔にうかべて、
「もちろん、今夜のことですよ。われわれはみんな正気ですよ。警察の人があすこの扉をたたきこわした音も、何をいったか、何を考えたかも、みんな聞きました。……まあ、ぼくは警視庁からダーワース殺害の顛末《てんまつ》をきかされるまでは、自分の意見はいっさい保留しておきます」
そういって、テッドは何の気なしに炉ばたのほうを見て、おやっと目を細めた。ベニング夫人がしゃんと居ずまいを直したからである。これには一座の者が、みんな吐胸《とむね》をつかれた。
涙はすでに乾いていたが、ひどく元気のない老夫人の顔は、螺鈿《らでん》をちらした豪奢な黒のレースのガウンに、いやに不似合いなものに見えた。フェザートン少佐が何を感じたのか、腰をかがめて夫人の肩に赤いマントをかけてやったのを、わたしは今でも憶えている。赤い裏地の色が姿を消したおかげで、夫人はきゅうにくすんだ地味な姿になった。ただ腕環だけが、椅子の腕木に肱をついた腕にキラキラ光り、肉のたるんだ顎を指でささえながら、消えつくした暖炉の余燼にでも見いるように、じっと下を見つめていた。やがて夫人は、大儀そうに肩をあげると、いった。
「ありがとう、少佐、いつもご親切にしていただいて。――ええ、おかげでもう気分がよくなりました」
フェザートンは胴間声《どうまごえ》で、「どこぞ具合でも悪ければ、わしが――」
「いいえ、もう大丈夫」夫人の片手があがると、少佐の肩がしずかに持ち上がった。喜劇か悲劇か、それはどちらでもよいとして、夫人は目を落としたまま言葉をつづけた。「ブレークさんか、ディーンか、マリオンに聞いてごらん。ご存じのはずだよ」
「とおっしゃると、奥さん」とわたしはいった。
「ジョゼフがわれわれ三人に話したことをおっしゃるんですか?」
「まあ、そうでしょうね」
「ではうかがいますが、奥さんはこれまでダーワースをペテン師だと疑っておいでだったのですか?」
わたしがこう聞いたとき、家の外で人の呼びあう声がきこえて、ガヤガヤ近づいてくる足音がした。先頭の声が、「三脚持ったか? 何だ、ここはゴミ捨て場か?」というと、それに誰かの答える声がして、ワイワイガヤガヤ、足音は主屋の横手をまわっていった。ベニング夫人がいいだした。
「疑っていた? わたくしどもね、ダーワースがペテン師だとは夢にも思っておりませんでした。よしんば、あの方がペテン師であっても、ひとつだけ確かなことがございます。心霊はペテン師でも、インチキ師でもございません。あれは正真正銘、実在しております。あの方はその心霊にさからったために、殺されたのです」
一座はしんとして、息をのんでいた。夫人はそのけはいを感じて、ふいにわたしのほうへ顔をあげて、
「ブレークさん、わたくしはね、もうごらんの通りのこういう婆あです。もうたいして楽しいこともございません。ただわたくし、あなたにおせっかいをお願いしたおぼえはありませんですよ。それをあなたは、そんな大きな長靴でづかづかはいっておいでになって、あんなジョゼフみたいな子供をおからかいになったり、庭を踏み荒らしたりなすって。……もうもう後生だから、これ以上何もなさらんでいただきたいわね」
夫人は両手をしっかり組むと、プイとむこうを向いてしまった。
わたしはいった。「奥さん、そりゃまたずいぶんひどいお言葉ですな。あなたは、ほんとうに亡くなられた甥御さんが、何かにとりつかれて、悪魔みたいに暴れまわると、お考えなんでか? そうお考えになられると、お気が安まるんですか?」
それに答えるかわりに、夫人はハリデーにむかっていった。
「ディーン、おまえさんはたしかにおしあわせだね。若くて、裕福で、おきれいな若い娘さんもおいでだし……」ベニング夫人は、意地の悪い猫なで声で、まるで緞帳《どんちょう》芝居に出てくるシャイロックみたいに、ひとことひとことにげんこつをつきだしていった。「体は丈夫だし、お友だちはあるしさ、夜は寝床でしずかに寝られるし。それにひきかえて、かわいそうにジェイムズをごらんな、寒いお墓のなかでふるえているわね。ちっとはおまえも考えたら、どうなんだい? 心配ぐらいしてやってもよさそうなものじゃないか。そこにおいでの、そのお人形さんみたいな、口もとや体つきのお美しいお嬢さんだって、そうですよ。ちっとは胸を痛めたって、よかろうにねえ。まあまあ、たんと可愛がってやるもいいが、せいぜい体にも気をつけてやるがいいよ。これはこの婆あの老婆心だけどね。……あたしの案じているのは、おまえじゃないの。あたしはジェイムズのためを思って、こうして案じているのさ。ジェイムズはね、ここの家から悪魔が退散するまでは、寒いところでは迷っていなければならないんだよ。ひょっとすると、悪魔はジェイムズなのかもしれないよ。……」
「いやいや、アン」とフェザートン少佐がいった。「そんなことはない」
「ところでね」とベニング夫人はちょっと開き直って、「ロジャー・ダーワースは、あたしのことをだましていました。そうともね、もっと早くに気づけばよかったよ」
ハリデーが、怪しいものだという目つきで、伯母に何かいいかけようとしたのを、わたしは引きとっていった。
「奥さん、あなただまされていらっしたんですか?」
いわれて夫人は、ハッとわれに返ったように、すぐには返事が出なかったが、やがていった。
「ええ、あの人がペテン師だったら、あたしはだまされていたわけね。ペテン師でなかったとすれば、お気の毒だが、あの人にはここの家のお祓《はら》いができなかったわけよ。どっちみち、悪魔にとり殺されるんですわよ。みごと失敗したわけよ。ですから、あたしをだましたことになるわけですよ」
そういって、夫人は椅子にのけぞると、なにか当意即妙の陽気な返答でもしてのけたというふうに、体をもんで笑いこけた。やがて笑い涙をふいて、
「まあ、あたしすっかり忘れてしまって。ブレークさん、まだ何かほかにお尋ねの筋がおありだったんでしょ?」
「ええ、皆さんごめいめいにうかがいたいことがあるんです。……たしか一週間前の晩、フェザートン少佐のお宅で、非公式の会合がおありだったそうですな。その席上で、ダーワースさんが自動書記の実験をやられたそうですが、それは事実ですな?」
老婦人はふり向くと、フェザートン少佐の外套をひっぱって、
「ほーらね、やっぱりそうでしたろ?」と意地悪く勝ち誇ったような調子でいった。「ねえウィリアム、あたしのいった通りでしょ。いいえ、わかっていたのよ。さっき警察の方がここへ見えたときに、若い男をつれてきたでしょ。ジョゼフを張っていた男よ。あの男、顔をかくしていたけど、あたしは、あああの男だなとすぐにわかったの。あれね、あたしたちのとこへ差し向けられた警察のスパイだったのよ。そうとは知らずに、こっちはお友だちとして迎えたんだからね」
それを聞いて、テッドが飛び上がった。「そ、そんなばかなことが! バート・マクドネルでしょ。いや、わかってますよ。さっきぼくは闇のなかで、奴が丸太ン棒をかついできたときに、すぐにわかったから声をかけたら、返事はなかったけど……いや、とんでもない、そんなことがあるもんですか! バートが警察の者だなんて、そりゃでたらめだ。思いすごしですよ。――ねえ、まるで嘘ですねえ?」
わたしはこれ以上話を脇道にそらしたくなかったので、何もかもマスターズのせいにしてその場をいい抜けた。マリオンが何かいいかけようとしたのを、ハリデーが制していたようだった。それを尻目に、わたしはフェザートン少佐の顔に視線をすえたまま、自分が聞いて知っているあの晩の模様を、かいつまんで述べた。少佐はソワソワしだしたようであった。
「それでダーワースは、何でもその紙きれに書いてある文字を見たら、えらくふるえ上がったと聞いてますがね」といって、わたしは一座の顔を見まわした。
「そう、それはその通りだ」とフェザートンは手袋をはめたこぶしで、一方の手のひらをたたきながら、「まっさおになって、ふるえとった。あの男があんな顔をしたのは、わしゃ後にも先にも見たことがない」
テッドは、少佐のその発言には頓着なく、「そうだよ、ありゃたしかにマクドネルだったよ」とひとりごとのようにつぶやいていた。
「それでね、どなたかその紙きれに何が書いてあったか、ごらんになった方がありますか? ありましたら、どうぞ――」
だいぶ長い沈黙がつづいた。こりゃ失敗したかなと内々思ったくらい、その沈黙は長かった。ベニング夫人はいっこうに気のりしない様子で、ひとりでまだブツブツひとりごとをいっているテッドの顔を、あざわらうような目《まな》ざしで冷やかに眺めていた。
「いや、むろん何かつまらんことじゃよ」と少佐はまずそう前置きをしておいてから、二三度咳ばらいをして、「そう。――あんなもの、しょむないもんじゃが、しかし、初めの文句は憶えとる。――アン、まあそんな目つきをしてわしのことをにらみなさんなて。わしはな、あんたの愚にもつかんたわごとには、もうこりごりした。だいいちだな――話が出たついでじゃから申すがね。だいたいあんな絵をわしに買えと、やいのやいのいうてからにだな、――ふむ、そうよ、わしゃ今考えとるところなんだ。夜が明けたら、あんな絵、いっそのことに火にくべて焼いてしまおうかと思うてな。……いや、何の話じゃったか? おお、そうそう、初めの文句じゃったな。――そう、あれははっきり憶えとるよ。――『エルジー・フェンウィックがどこに埋められているか、わたしは知っている』――こう書いてあった」
ふたたび沈黙が領《りょう》した。そのあいだ、少佐はうしろ向きにつっ立って、ぜいぜい息をきらしながら、喧嘩腰に反り身になって、口髭をひねっていた。部屋のなかは、この老人の喘息《ぜんそく》の息づかいのほかに、何の物音もしなかった。わたしは少佐の今いった言葉を大きな声でくりかえして、一座の顔を見渡した。誰も返事をするものがなかった。わたしは、この五人のうちに腕のすごい役者が一人いるか、それとも紙きれのその言葉は、この人たちにはぜんぜん意味がないのか、二つのうちのどっちかだと思った。約三分ばかりの間に――それがどんなに長く思われたことか――ものをいったのは、たった二人だけだった。一人はテッドで、これは「エルジー・フェンウィックって誰ですか?」ととんだ筋違いのことが飛びこんできたのに文句をつけるといった調子で、突っかかるように尋ねたのである。そのあとへ慎重な声で、「そんな名前、聞いたことがないね」といったのは、ハリデーであった。一同は総立ちになって、少佐に視線を集中した。少佐の酒やけした赤黒い頬はますますぶちになり、フーフーいう息づかいがいよいよ烈しくなった。まるで自身の正直さに文句でもつけられたような格好であった。そして、わたしはわたしで、今自分の目前にいる五人のこの人たちのうちの一人が、ロジャー・ダーワース殺害の真犯人にちがいないぞと、だんだん確信をもつような気持になりだしてきた。
「どうじゃね?」フェザートン少佐がだしぬけに沈黙を破った。「誰か何とかいわんかね?」
「ウィリアム、あなたそのことは、今までひとこともわたしたちにおっしゃらなかったわね」とベニング夫人がいった。
少佐は柄にもなく、ちょっとあわてたようなこなしで、「だって、女名前じゃからね」だからどうだという確たる考えもない様子で、「おわかりじゃろう? 女名前ですぞ」
テッドは、まだ見たこともない女の面影が見えでもするように、いやに興ありげに一座の顔を見まわした。ハリデーがメディア人かペルシア人かと、名前のことで何かゴソゴソつぶやいているそばで、マリオンは「あら、まあ!」といって、これも明るい興味ありげな顔を輝かしていた。ベニング夫人だけが、ひとり気むずかしい顔をして、マントを襟もとにひっぱりながら、ハリデーの様子をジロジロ見まもっていた。……
そのとき、廊下の外に重い足音がきこえたので、みんなそのほうに気をとられた。扉を押して、マスターズが部屋のなかへノシノシはいってきたとたんに、室内の緊張はまたもや冷たい敵意に逆もどりをした。
それに対して、マスターズも同じく敵意をもって応酬した。このときくらい不機嫌な、心痛ありげな、けわしい顔をした彼を、わたしは後にも先にも見たことがない。服は泥だらけ、帽子をあみだにかぶって、かれは入口に仁王立ちに立ったまま、おもむろに一同をジロリと眺めまわした。
「どうですか?」とテッドが甲高い声で尋ねたのが、そのばあい、挑戦というよりも、子供がまるで駄々をこねているように聞こえた。「ぼくたち、もう家へ帰ってもいいでしょう? いつまでのんべんだらりと引きとめておくつもりなんです?」
マスターズはそれでもまだ、部屋のなかをジロジロ見まわしていたが、ふいに微笑をうかべると、とってつけたようにうなずいて、
「では、改めて皆さんに申し上げます」といって、泥だらけの手袋をていねいにぬぎ、外套の内ポケットにそれをしまい、やおら懐中時計をとりだして、「ただ今ちょうど三時二十五分過ぎであります。じつはですな、われわれは明るくなるまで、こちらにお邪魔をします。皆さんごめいめいの申し立てがおすみになったら、各自お引きとりになってけっこうであります。――むろん、宣誓の必要はありませんが、ただ正直にひとつお願いします。……
陳述は、各人別個におこないたいと思います。いま部下の者が、あちらの部屋を片づけておりますから、名前を呼ばれた方は、一人ずつおいでになってください。そのあいだ、この部屋には巡査を一名配置して、どなたにも危険のないように、よく監視をさせます。とにかく、みなさんは重要な証人なのでありますから、その点をひとつ、とくとご勘考のほどを願って……」
警部の顔がきゅうに固くなって、
「うん、それからブレークさん、あんた恐縮だが、ちょっと顔を貸してくれませんか。内密でお話ししたいことがあるから」
九 石の密室
話をするに先だって、マスターズは先刻の台所へわたしを連れこんだ。作業台はぐるりと向きをかえて、入口の正面にすえてあった。その上に蝋燭がずらりとともっている。その二、三フィート前のところに、椅子が一脚、証人席としてひっぱりだしてあるところは、さながら判事審議室の光景をほうふつとさせていた。
台所の裏手の庭は、人声がガヤガヤしていて、目を射るような閃光がしきりと明滅していた。石室の屋根に、誰か人がよじ登っていた。写真のフラッシュが一閃パッと光ると、小屋、塀、曲がりくねった立木などが、まるでドレの絵みたいに怪奇なものに見えた。じき近くのところで、「ラミー、撮れたんだろうな?」とはばかるような声が聞こえた。べつの声が「うう……」と答え、誰かがマッチをすった。
マスターズは、そのガヤガヤ騒いでいる戸外を指さして、
「いやあ、どうも弱りましたよ。今のところ、まったく手も足も出ないな。そいつは認めてはばからんです。なにしろ、起こりようのないことが起こったんですからな。どんな奴だって、あの石室を出たりはいったりすることは絶対にできないことは、明白な状況証拠が歴然とあるんだからね。それなのに、ダーワースは死んどる。こりゃああんた、ひどいですよ。……ところで、そちらは何かつかめましたか?」
わたしは自分の知りえたことを、ひと通りかいつまんで話した。話がジョゼフのことに及ぶと、マスターズは皆までいわせず、ニヤリと笑って、
「ほう、あの小僧に会われましたか。そりゃよかったな。わたしも会いました。巡査を一人護衛につけて、少し前、車で家へ送りとどけておきましたがね。たぶんもう危険はないと思うが、しかし、――」
「危険?」
「そう。それがね、初めのところは、うまく筋が通ってるんですよ。ダーワースは、幽霊のためにここの屋敷を恐れていたんじゃない。幽霊なんか、あの男は平気です。かれが恐れていたのは、何者からか身体的な危害を受けることだったんですよ。それでなきゃ、あんた、あの入口の扉に、あんなふうに頑丈に閂だの鉄棒だのを支《か》うわけがありませんよ。幽霊を防ぐのに、鉄棒なんか支ったって、どうにもならんでしょう。そうではなくて、奴は心霊研究の仲間のうちの誰かが、自分をねらっていると思っていた。それが誰であるかはわからなかった。ジョゼフを今夜あの連中から、はなしておこうとしたのは、つまりそのためなんですよ。あの小僧を見張りにして、相手をつきとめるつもりだったんですな。例の自動書記のときに、怪しい手紙をさしこんだのは、あの晩同席していた連中よりほかにないわけだから、これは自分をねらっているのは、あのなかの一人だと悟ったわけですよ。そうでしょう? 何かある、誰かいる――奴はそいつを恐れていた。で、相手の手がかりをつかむには、今夜が絶好のチャンスだというんで、それにはあの石室なら安全だと、奴さん考えたわけでさ。……」
わたしは、フェザートン少佐の証言をマスターズに告げた。
「『エルジー・フェンウィックが埋められている場所を、わたしは知っている』か――」マスターズはわたしの教えた言葉を繰り返し、大きな肩をひきしめて、目を細めた。「聞いたような名前だな。いや、たしかに聞いたことがあるぞ! それも、ダーワースに関係のある名前ですよ、たしか。でも、奴の一件書類を見たのは、もうだいぶ前のことだから、どうも確信がないな。そうだ、バートが知ってるだろう。エルジー・フェンウィックか! 何か出てきますね、ここから。きっと出てくるな」
親指の節を噛みながら、ややしばらく、マスターズはひとりごとをいっていたが、やがてわたしのほうに向いて、「ところでね、われわれが現在落ちこんでいるこの難場をご披露するとね、犯人がどうやってあの犯行をおこなったかということの説明がつかんと、いくら相手を犯人とにらんだって、そいつをドンピシャリまで持っていけんのでね。そうでしょう? これじゃ法廷にも出られませんよ。いいですか、よく聞いてください。
第一が、あの石室。壁は石壁です。一ヵ所も割れたところも、鼠穴もありません。部下の一人が苦労して、天井へも上がってみましたが、天井はまるできょう張ったようにがっしりしていて、破れ目ひとつない。床もくまなく調べました。が、やはり――」
「警部、大丈夫ですか、時間のほうは?」
「いやあ!」とマスターズは、とっておきの自尊心をちょっとつぶされたという顔つきで、「いかに警察だからといって、まさか朝の三時に警察医をたたきおこすわけにゃいかんですよ。――ところで、床も、天井も、壁も、すっかり調べたんだが、人の気のつかんような蝶番《ちょうつがい》も、かくし戸も、抜け穴らしいものも、ぜんぜん見当たらんです。調査の結果は、部下のものが署名して、報告書を出すはずですがね。
つぎは窓ですが、これもお手上げです。あの鉄格子は、石にしっかりはめこんであるから、こりゃもう問題にならんです。だいいち、格子のこまが小さくて、とても短剣なんか通らんですよ。ためしにやってみましたがね。それから煙突も、人間が抜けられるほど大きかないし、よしんば燃えてる火の中へ下りていったとしても、中途に太い金網がはってあるから、これもだめでさ。それから扉ですが……」といいかけて、警部は裏庭をすかし見て大きな声でどなった。「おーい、屋根へ上がってるやつ、下りろ! 誰だ、屋根にいる奴ア? そんなことは朝まで待てといっといたじゃないか。わからんのか!」
「主任、新聞社のもんです」と暗がりから声が答えた。「巡査部長がいいといわれたんで……」
マスターズは裏口の石段をとび下りると、たちまち姿が見えなくなってしまった。しばらく石室の見当で、ガヤガヤ雑多な声が聞こえていたが、まもなく、警部は息をきらしてもどってきた。
「いや、たいしたことじゃなかったです」とむっつりした顔つきでいって、「えーと、それで話のつづきは――扉か。そう、扉はあんたも知ってる通り、閂がおりてたうえに、心ばり棒がかけてありましたな。あの閂には、べつに仕掛けはないし、だいいち、さっき中からごらんになったように、とても固くてはずせやしませんや。……
最後に、怪しい点がひとつあるんですが、こいつはしかし朝まで待たんと確言できないから、現在わかっていることだけいうと、あすこの足跡ですよ。あんたとわたしがつけた足跡は、これは別として、それと、そのあとで、われわれの足跡の上を気をつけて歩いてきた奴らの足跡以外には、ぜんぜん、足跡らしいものがないんだな。――石室のまわり二十フィート以内に、ほかの足跡はひとつもないんだからな。ねえ、最初われわれが歩いていったときには、ずっとあすこまで、足跡はひとつもなかったですよね」
たしかにそうであった。思い出すまでもなく、あの膠《にかわ》を薄く流したような泥の海には、われわれの歩いていった方角に、足跡はひとつもしるされていなかった。しかし、わたしはいった。
「だけど、マスターズ、考えてみると、宵のうちに、客間にいるあの連中が大ぜいあすこを歩いていたでしょ。雨のなかを出たりはいったりしたはずですよ。だのに、なぜ庭の泥が踏み荒らされていないのかなあ? ぼくらが出ていったときに、どうして足跡がなくなっていたんだろう?」
マスターズは手帳をとりだすと、鼻の頭をつまんで、顔をしかめ、
「どうもあすこの土壌に何か関係があるらしいですな。地層か何かにね。よくわからないけれども、いちおうそういう結論になりましたよ。マクドネルとブレイン医師が、そのことでしきりと何か話していましたが、バートのいうには、あの医師室は台地みたいな場所に立っているから、雨がやむと、あすこから泥が下へ流れて、砂になって庭のほうへたまるんだそうです。ちょうど左官がこてで漆喰を塗るように。そういえば、あの庭、へんな臭いがしたでしょう。雨がやむと、あすこはチョロチョロ、チョロチョロ、下水みたいな水の音が聞こえますよ。バートの考えでは、どこかに水はけがあって、雨水が地下の穴へ流れこむんだろうというんですがね。……いずれにせよ、ダーワースは雨のやむ十五分ぐらい前に殺害されたんだが、そのときは庭の泥は、いちめんにゼリーみたいになっていたわけですよ」
マスターズは顔をべロンコしながら、台所へもどってきて、作業台のうしろの荷箱の上に、どっこいしょと腰をおろした。殺風景な部屋のなかで、泥にまみれた審問官の異様な姿は、いかにもあたりの風情に似つかわしかった。
「とにかく、頑丈だ。破れもせんし、不可能だよ。――いや、何を話していたんだっけ?」マスターズはひとりごとのようにいって、「わたしも年をとったんだね。眠いや。――えーと、石室に近づいていった足跡はないと。扉も、窓も、床も、天井も、壁も、石の箱みたいにがっちりしとると。それでいて、どこからか出やがったんだな。まさかなあ。……」
マスターズは、作業台の上のジョージ・プレージの手記と新聞の切り抜きに、目をおとし、興味なさそうにパラパラとそれをめくってから、もとどおり綴じこみ帳にそれをはさんだ。
「こんなもの」と手にもった綴じこみ帳をやけに振りながら、「何が真《ま》に受けられるもんか」
「そりゃあんたにかかっちゃ、幽霊はかたなしさ。警察に踏みこまれたんじゃ、ルイズ・プレージもお気の毒のいたりさね」わたしはふと、ベニング夫人が身をねじ向けて、わたしのことをにらみながらいった言葉をおもいだした。「それはいいとして、何か決定的な手がかりらしいものはあるんですか?」
「指紋係がいま調査中だし、検死医からはざっと報告を聞いたけど、まあ完全な報告書ができ上がるのは、明朝になるでしょうな。ベイリーの現場撮影がすみしだい、警察の運搬車で死体を運ぶことになっています。……あーあ!」話の途中で大あくびをして、「早く夜が明けてくれねえかなあ、われわれ警察の人間は、昼間はどうも苦手なんですがね。……まあ臭いと思われる点は、そりゃよく見れば、どこかしらにありますさ。じつは、その点でもヘマをやったなあ。副総監なんかにいわせりゃ、あすこへ後から来た者に足跡をつけさすべきじゃなかったと、きっとダメを出すにきまってますよ。板を敷くとか何とかしてね。ところが、そんなことができますかよ。自分でその場にぶつかってみりゃ、よくわかるんだ。とてもね、そんな順序通りにゃいかないということがね。……手がかりですか? 手がかりはぜんぜんないな。ハンケチが一枚見つかったきりでさ。ダーワースのハンケチです。頭文字のはいった――死体の上に落ちてました」
「便箋と万年筆が床に落ちていましたね」わたしはそれとなくいった。「何か書いてありましたか?」
「そうは問屋が卸《おろ》さんのですよ。ただの白紙でした。なんにも書いてない。さっぱりしたもんでさ」
「で、これからいったいどうなるんですか?」
「これからね――」マスターズは元気を出して、「これからあの連中を引見します。バートが外で見張ってるから、邪魔ははいらんでしょう。……ちょっと待ってくださいよ、手帳の控えをいま見るから。――えーと。……うん、これだ。バートとハリデーとわたしの三人が、これを――このイカモノ文書を読んでいるあなたをここへ残してだね、玄関から表へ出たのが、あれがざっと十二時半でしたろう。玄関ホールまでいくと、ハリデーの身を案じたラティマー嬢が出てきて、ハリデーをつかまえたから、われわれはバートを外に待たしておいて、連中のいる客間へいったんはいって、ひと通りわたしからみんなに説明をしたんです。つまりその――」
「失敗をしたと?」
「まあ、そんなことでしたな。そうすると、あの婆さんがね、――ここんとこは冷静に聞いてください。――あの婆さんがわたしにですよ、みんなが腰かけられるように椅子を探してこいと、こうぬかすんだ。このくそ婆あ、と思ったけど、まあいいやと思って、いわれたとおりに椅子をさがした。家のなかの様子をさぐるにはいい機会だと思ってね。それで、ぶっこわれた椅子を何脚だったか、客間へかつぎこんだ。かつぎこんだら、ご苦労さまともいわずに、そのまま扉をピッシャリさ。驚いたね。そのかわりに、こっちはジョゼフを拾って、バートと二人して、廊下のむこうのひと間へ連れこんだんです。何だか知らんが、その部屋にもガラクタがいっぱいあったな。それから蝋燭をともして、その部屋でジョゼフと話をした。……」
「そのとき、ジョゼフはもう麻薬がまわっていましたか?」
「いや、まだでした。でも、打ちたがっていたな。しばらくおとなしく坐っていたけど、そのうちに、きゅうにヒョイと立ちあがって、何をいっても受けつけないんだ。いま考えると、やっこさん、あのとき麻薬を打ったんですな。部屋のなかがむしむしするといって、いきなり暗がりの窓のところへ行って、窓に打ちつけてある板をはずすふりをしていたが、なあにそうじゃない、あのとき注射したんですよ。あたしが追いかけて捕まえたら、やっこさん、急いで何かポケットへしまったもの。――凶器はべつに持っていなかったけどね」といったあと、マスターズはいかにも胡乱《うろん》そうにつけ加えた。「だけど、あのときわたしはにらんだね。――こいつ、ほんまのばかかいなと。よーし、こんどひっつかまえたら、化けの皮|剥《は》いでやるから。……そう思って、あとはバートに預けて、こっちは出てきたんだけど、バートはね――」とちょっと息をついで、
「あの男は本庁でも、なかなかの腕っこきでしてね。……それで、わたしは屋敷のまわりをひとまわりしに、その部屋を出て――それが一時十分前か、もうすこしだったかな。とにかく、そんなに時間は食わなかったです。
廊下へ出ると、五人のいる客間はしんとしていました。まっ暗でね。ところが、玄関の扉が少しあいているんだ。ほら、われわれがここへ来たときにはいった、あの大扉が――」
マスターズの目に何か不吉なものが見てとれたので、わたしはいった。
「そんなばかなことはないでしょう! まさか警察官が廊下を歩いているのに、そんな大胆なまねをする奴はないでしょう。それに、あの玄関の大扉は、ぼくらが来たときにもあいてましたぜ。おそらく風か何かで……」
「いや」警部はどら声でそういうと、胸をひとつトンとたたいて、「わたしもそう思ったんです。だが、こっちはダーワースのことだけを目に置いて、何とかして奴の悪計を暴いてやろうと思っとったから、客間の連中にはあまり注意していなかったんでね。……で、大扉をぴったりしめてから、その足で二階を調べに行ったんです。あすこの裏梯子の窓から見ると、石室がさらによく見えると思ったんでしたが、これはだめだったな。それから階下へおりてくるというと、また玄関の大扉がすこしあいているんですよ。それから懐中電灯で照らしてみた」
マスターズはテーブル代わりの作業台をげんこでドンとたたいて、「いいかね、あんた、こっちはぼんやりそこへ突っ立って、しばらく考えこんだよ。どう考えても、風があけたなんてことはありっこない。とすればだ、これが誰かがダーワースの奴を……こう思ったから、急いでわたしは玄関から表へ出た」
「あのへんも、ずっと泥濘《ぬかるみ》でしたね。足跡がありましたか?」
「ないんだ、ひとつもないんだ」マスターズは言葉しずかにいった。
二人は顔を見合わせた。――すでに警察の手がはいって、さかんにフラッシュをたいているし、新聞記者の連中はタネ取りに先を争っているというのに、この古い屋敷には、わたしが読んだ手紙のなかに書いてあったことよりも、さらに気味のわるい怪異が、そこらじゅうに充満しているようであった。
「それでね、主屋《おもや》の横手をまわって」と警部は話をつづけた。「あすこで見たり聞いたりしたことは、さっき申しあげた通りです。――石室のなかの人の影、ダーワースのうめき声、哀訴する声。――それから例の釣鐘の音と」
ひとくぎり、そこで息を入れた警部は、最後にひと息にあおった酒にむせた人みたいに「フー」と大きな息をついて、
「ところでね。――ところでですよ、わたしはあんたにうかがいたいことがあるんだ。あんたはさっき、この部屋でこの手紙を読んでおられたときに、ここの前の廊下を誰か通った音がしたといわれましたね? それはどっちへ向かって行きました? 裏庭のほうへ出ていったか、それとも、裏庭からもどってきたか?」
わたしにいえる答は、「わからない」の一語につきた。
警部は息をはずませて、「つまり、そいつが主屋のほうへ――いいですか、ここが肝心ですよ――主屋のほうへ帰ってきたんなら、そいつはダーワースを殺して、引きあげてきたんですよ。……ねえ、いいですか、わたしは主屋の横手をまわって、裏庭へ出たんですよ。そのときここの裏口は、この台所からもれる蝋燭のあかりで、よく見えたんです。裏庭も、こっちに寄ったところは、見えたんですからね。――そうするとですよ、玄関から外へ出て、足跡をのこさずに、泥濘の裏庭へ通って、石室のなかでダーワースを殺して、そしてもどりにはこの裏口から、姿も形も見せずに、蝋燭のあかりのなかをスーッと通っていったものは、こりゃいったい何者ですね?」
沈黙がしばらくつづいた。その間に、マスターズはちょっと会釈をして、入口まで出ていった。五人の連中の見張りに配置しておいた巡査と、何か話していたようである。ベニング夫人をこの尋問室へ連れてくるようにいいつけている声が、ぼんやり聞こえた。わたしはわたしで、考えこんでいた。――さっきフェザートン少佐が、ちょっと大物だといっていた諜報局のわが親分、メリヴェール卿だったら、この複雑怪奇な事件を、いったいどう考えるだろう……?
「さあこりゃ、いったい何者でしょうかねえ?」わたしは、マスターズが大股でもどってきたのを見上げて、いった。
マスターズはそれには答えずに、
「あの婆さんが、また、さっきみたいな曖昧《あいまい》な申し立てをしたら……」といささか心配の様子であった。
何やらかれはもじもじとしているようだったが、やがて片手をそっとポケットにつっこむと、例の砲金製の小瓶をとりだした。何ごとによらずかゆいところへ手のとどくたちのかれは、降霊会などで気の弱い信者たちの便宜のために、いつもそれを気つけ薬に携帯しているのであった。掌《てのひら》で小さなその瓶をころがしながら、かれは妙にとりつく島のないような目つきをしていた。と、そのとき、廊下のほうから、こちらへ近づいてくるびっこの足音と、足もとの注意をあたえている巡査の太い声がきこえてきた。
「マスターズ、いいからあんた、一杯ひっかけておきなさいよ」とわたしはいった。
十 事件の証言
われわれがそのとき聴取した証言の、一語一語そのままの記録を、つぶさに残すことができたのは、ひとえにマスターズ警部の行きとどいた徹底ぶりのおかげであった。だいたいマスターズという男は、かんたんな手控えなんかには信をおかない男である。かれの分厚いノートブックには、尋問した相手のしゃべった一語一語が、速記文字で明細に記してある。もちろん、明らかに誤りとわかることは、この限りではない。こうして採った記録は、あとで速記文字を翻訳して、すっかり整理したうえでタイプに打ち、審理の当初に供述書として提出されるのである。わたしはかれの許しをえて、この調査の写しを何部か入手したが、それには、尋問のさい記入しなかった事項も、いっぱいあとから書きこんであった。
したがって、この記録は、尨大《ぼうだい》なる玉石|混淆《こんこう》の談話からの抜き書にすぎない。その点、体裁はわざと不完全なものにしてあるけれども、そのかわりに、謎解きの好きな方々には興味深いものがあろうし、また、そのなかのある陳述には重要な意義をもっているものもあるので、あえてここに掲出《けいしゅつ》することにしたのである。
まず冒頭には、こう書かれてある。――「ベニング夫人。未亡人。イギリス軍人、故アレクサンダー・ベニング卿妻」――これでは、あの殺風景な台所で、ワトー画中の侯爵夫人が、蝋燭の灯をなかにマスターズと相対し、時計の針はまさに午前四時になんなんとし、うしろの暗がりには直立不動の警官がもうろうと立ち、表ではダーワースの死体を黒い運搬車につみこむ騒ぎが騒然と聞こえていようという、あの雰囲気はいっこうに伝えられていない。
ベニング夫人は、さきのときよりも、さらにいっそう烈しい敵意をあらわに見せていた。出された椅子に腰をおろし、赤いマントの裏も色あざやかに、宝石をちりばめた両手を膝の上にしかと組み、威儀を正してしゃんと控えていた。なにかそれは、意地わるくつんと気どってかまえているというふうであった。そして、どこかにマスターズの痛いところはないかと、相手の弱みを探るように、しきりと首をあっちに動かし、こっちに動かしていた。腫れぼったい目を半眼にとじた瞼には、よく見ると、深い皺がよっていた。そして、笑顔だけはあいかわらず柔和にたたえていた。その彼女に、何でも自分がつき添って出るのだといい張った少佐は、尋問室からむりやりに追いかえされたが、そのほかは、だいたいみな文句なしに、べつにいがみあいもせず、型通りの尋問をすなおに行なったようであった。今でも、夫人が瞼をそっと上げたり、片手をそっと動かしたりした様子や、鈴のような細いりんりんした声などが、まだありありとわたしの目にも耳にも残っている。
問 奥さん、ダーワースとはいつごろからお知り合いになったのですか?
答 さようですね。はっきりとは申せませんが、八ヶ月――そうねえ、かれこれ一年になりますかしら。
問 どうしてお知り合いになったのですか?
答 じつは、テオドル・ラティマーから、ダーワースさんが心霊術にご関心があるということを聞きましてね、それであの人が手前どもへ連れてまいりましたの。
問 なるほど。それで、あなたがそういうことにじきに乗りやすい方だということがわかりましたよ。そう考えてよろしいですか?
答 そういう失礼なご質問には、お答えいたしかねます。
問 ああ、そうですか。ダーワースについて何かご存じですか?
答 はあ、存じております。たとえば、あの方が紳士でいらっしゃるとか、教養がおありだとか……
問 いや、あの人の過去について何か、とお尋ねしたのですが……
答 それは存じませんです。
問 こういうことを、あの男は申しませんでしたか?――自分は霊媒ではないが、強い霊感力をもっている。あなたは何か大きな悲しみにおあいになっているが、心霊はあなたにしきりと触れたがっている。あなたを救ってあげられる霊媒が一人、自分の手もとにいる。――こんなふうなことをいったでしょう?
答 (しばらくいいしぶってから)はあ。でも、お初《はつ》のときには、そういうことはおっしゃいませんでしたよ。しばらく過ぎてからおっしゃいました。あの方、ジェイムズにはたいへん同情してくださいましてね。
問 それで、霊媒の出席する降霊会が催されたわけですな?
答 はい。
問 どこでしたか?
答 チャールズ街のダーワースさんのお宅でした。
問 その後、そういう会合は何度も行なわれましたか?
答 はあ、なんべんも。(このへんから、証人はソワソワしだす)
問 ジェイムズ・ハリデーさんとは、どこで感応なさいました?
答 後生ですから、わたくしを苦しめるのはおやめになってください。
問 これは失礼しました。でも、これがわたしの役目だということもご理解ください。ダーワースさんは、会合のときには円座に加わりましたか?
答 めったに加わりませんでした。円座に加わると、心気が乱れるとおっしゃっていました。
問 そうすると、降霊の部屋にはぜんぜん出なかったわけですか?
答 はい。
問 霊媒については、何かご存じでしたか?
答 いいえ。(いいしぶる)知能が遅れているということ以外には、何も聞いておりません。ダーワースさんは、霊媒のその知能のことで、ロンドン慈善協会の精薄患者担当のお医者さまにご相談なさったところが、そのお医者さまがジェイムズのことをたいそうお褒《ほ》めになったそうでございますの。ジェイムズはほんとに皆さんから慕われておりました。慈善協会には、あれも毎年五十ポンドずつ寄付をしておりましたものですから、金額は少ないが、りっぱな善行だとダーワースさんもおっしゃっておいででした。
問 なるほど。ダーワースさんの身もとをお調べになったことがおありですか?
答 いいえ、ございません。
問 金をおやりになったことはおありですか?
答なし。
問 相当の額でしたろう、奥さん?
答 そんなことは、あなたのお仕事に関係ないことだと思います。
問 黒死荘をお祓《はら》いしなければいけないと、最初にいいだしたのは誰ですか?
答 (語気強く)わたしの甥のジェイムズでございます。
問 いや、こちらが尋ねているのは、――つまり、証人として呼び出せる人のなかで、誰が最初にいいだしたか、というのです。
答 あら、あいすみません。それなら、わたくしです。
問 ダーワースさんは、そのことをどう考えました?
答 はじめは、そういうお気持はございませんでしたね。
問 じゃ、あなたが強引に承知させたのですな?
答 (証人、答えず。ただ、ひとりごとのように、「そうでもしなければ、やっていただけなかったもの」といいしのみ)
問 エルジー・フェンウィックという名前に、お心当たりがありますか?
答 ございません。
この対話は、わたしの記憶するかぎりでは、マスターズのノートに書いてあったものと、まったく同じ内容である。夫人は尋問中、二、三答えにつまったけれども、話をわきにそらしたり、枝葉にわたったりすることはなかった。言葉のやりとりは、警部よりも彼女のほうが、役者が一枚上であった。マスターズは内心ムラムラしていたようである。「では、話を今夜のことに移します」とかれがいったとき、わたしは夫人がさだめし緊張するか、あるいは用心深くなることを予想したのだが、かくべつそういう様子も見えなかった。
問 奥さん、さきほどブレーク君とジョゼフ・デニスがここで話をしておったときに、あなたはここへ見えて、「話がすんだら客間へ行って、ダーワースを殺したのは、このなかの誰であるか究問してくれ」といわれましたな?
答 はい。
問 あれはどういう意味だったのですか?
答 警部、失礼ですが、あなたは皮肉とか人を諷《ふう》する言葉とか、そういうものを聞いたことがおありにならないんですか? わたしはただ、警察の方なんて、あんなことしか考えないんだろうと思って、申しましたのよ。
問 そうすると、あなたご自身はそうは思わんのですな?
答 そうって、どうですの?
問 はっきりいえばですな、客間におった五人のなかの誰かがダーワースを殺害したと、あなたは思わんのかというのですよ。
答 思いませんです。
問 なるほど。では奥さん、あなたがた五人の方が、あの客間の扉をしめて、中でご祈祷(この文字は、ノートでは、いったん書いたものを消して、書き直してある)をしている間に、あすこでどんなことが起こったか、話していただけませんか?
答 なんにも起こりませんでしたね、心霊的な意味では。みんな円座を作ってはおりませんでしたもの。ただ暖炉のまわりに、勝手に腰をかけたり、跪《ひざま》ずいたりしていただけでございますもの。
問 おたがいが見えないくらい暗かったですか?
答 そう。そういえば、暖炉の火が消えておりましたわね。わたくし、よく気がつきませんでしたけど。
問 気がつかなかったというと?
答 もうよしましょうよ、ばかばかしい。あたしはね、ほかのことに気をとられておりましたの。どんなご祈祷か、あなたご存じなんですか? ほんとうのご祈祷というものを、あなたご存じなの? ご存じなら、そんなあきれた愚問はなさらないはずですよ。
問 ああ、そうですか。そうすると、あなたには何も聞こえなかったのですな? ――たとえば、椅子がギシギシいう音とか、ドアのあく音とか、誰か立ちあがったけはいとか?
答 ええ、聞こえませんでした。
問 ほんとですな?
答なし。
問 その間、ご祈祷がはじまって、あの鐘が鳴るまでの間に、誰かものをいった人がありましたか?
答 なんにも聞こえませんでしたね。
問 しかし、まるっきり何も聞こえなかったとは、いいきれんでしょう?
答 ええ、それはできませんわね。
問 よろしい。では、つぎの尋問にお答えをねがいます。――五人の方はどんなふうに坐っていたか? つまり、あなたがたの腰かけていた椅子は、どういう順に並んでいたか?
答 (ここで、異議および否認の発言二、三あり)そうですね、あたしは暖炉のすぐ右手にいて、甥のディーンがあたしの隣で、それからマリオンでしたかしら。あとの二人は、はっきり憶えておりません。
問 現存している人で、ダーワースに危害を加えたがっていた者をご存じないですか?
答 存じません。
問 ダーワースはインチキ師だったとお思いですか?
答 そうだったかも知れませんですね。でも、それは事実とは――真実とは関係ございませんでしょう。
問 ダーワースに金をおやりになったことは、まだ否認なさいますか?
答 さきほどからわたくし、それを否認したおぼえはございませんですよ。(きゅうに苦々しげに)否認すれば、それをあたしが承認したとお思いになるんでしょう? あたし、それほどばかですかしら?
尋問から解放されると、ベニング夫人は、どんなもんだといわんばかりの様子だった。フェザートン少佐が呼ばれて、夫人の腕をとって客間へもどっていった。マスターズは押し黙っていた。その顔は謎につつまれていた。つぎはテッド・ラティマーを呼ぶように命じた。
テッドの証言ぶりは、これはちょっとまた違っていた。かれは反抗的な、高慢ちきな態度でブラリとはいってくるなり、最初からマスターズの取り調べを撹乱《かくらん》しようとかかってきた。まるで酒でもはいっているようなそぶりであった。マスターズも見て見ないふりをして、手帳をのぞいて考えこんでいるふりをしていた。水をうったようにしんとしている中で、テッドはわざと椅子をガタピシいわせて引きよせ、それに腰をおろすと、自分で自分の苦りきった顔を意識しているように、やけに顔をしかめていた。人を見くだしたようなこの態度を、かれはいつまでもつづけようとしていたが、かんじんの証言はダラダラ冗漫なものになるばかりであった。そのために、供述書にはところどころに点線が引いてある。
問 ダーワースさんと知り合ってから、どのくらいになります?
答 そうね、一年そこそこですな。おたがいに現代美術に関心をもっているもんだからね。あんた、ボンド街のキャデラック画廊、ごぞんじ? あすこで知り合ったんです。レオン・デュフォールの石鹸芸術の展覧会がありましてね。
問 何芸術ですって?
答 (証人、おもしろくなってきたらしく、すこし気がらくになる)いや、失敬失敬。石鹸ですよ――石鹸の彫刻。ダーワース氏は、とても大きな岩塩の置物が気に入ってね、それを買い上げましたがね。なかなかの力作だったな、あれは。でも、デュフォール独特の線の繊細さには欠けていましたね。
問 いやどうも、そういう方面のことは、こっちはいっこうにわからなくて。……ベニング夫人から、ダーワース氏と知り合いになられたいきさつや、その後のことを今うかがいましたが、だいぶあなたは親密のようですな?
答 ええ、なかなかおもしろい人物なんでね。あのくらい教養の豊かな人は、ちょっとイギリスでも珍しいほうでしょうな。ウィーンのアドラー博士――むろんご存じでしょうが――あの博士について勉強した人で、彼自身も優秀な心霊学者ですよ。おたがいに世界の違う人間として、いろいろおもしろい話を交換しましたよ。
問 あの人の過去の生活について、何かご存じですか?
答 あんまり憶えていないな。(いいしぶる)じつはね、ぼくは前に、チェルシーのある若い女性と熱烈な恋愛をしましてね。それがあるよんどころないことから、その人を家にいれることができなくなりましてね。そのとき、ダーワース氏がぼくの難局を打開してくれたんです。ダーワース氏の解釈によると、ぼくの心労は、その女性がぼくの少年時代の家庭教師に似ているので、それからくる恐怖コンプレックスだというんですな。その一言で、ぼくは豁然《かつぜん》とあるひとつの心境が開けましてね、それから数ヶ月後に、ぼくとその女性はみごとに結ばれたんです。そのとき、ダーワース氏は、自分にも以前妻があって、その妻はすでに死んだけれども、その亡妻にやはり同じような経験をしたことがある、といっていたのを憶えています。
この挿話には、いろいろまだ枝葉があって、テッドはひとりでいい気持になってしゃべっていたが、マスターズは明らかにおどろいたようであった。が、それ以上の事実は、何も聞きだせなかった。でもテッドはしだいにマスターズに好感をもってきたらしく、ほとんど肉親に対するような、なごんだ気分になってきた。
問 あなたはダーワース氏をお姉さんに紹介されましたな?
答 ええ、すぐに紹介しました。
問 お姉さんはダーワース氏に好感をもたれたですか?
答 (いいしぶる)そう見えましたね。だいぶ気に入ったようだったな。いやね警部、うちの姉は妙な女でしてね、ありゃまさに発育不全ですよ。だからぼくは、姉が自身の感情をよくわかるように、ダーワース氏が説明してくれればいいと思ったくらいですよ。
問 なるほどね。ハリデー君にもあなたが紹介したのですか?
答 ディーンにですか? いや、ディーンに紹介したのは、姉ですよ。いや、ベニング夫人だったかな。どっちか忘れましたが、直接ぼくからじゃないことは確かです。
問 ディーンさんとダーワース氏とは、うまくうまが合いましたか?
答 それがぜんぜんだめなんだ。ディーンという人は、ごらんの通りの好漢ですが、惜しいことに、いささか戦前派でしてね。それに……(マスターズの記録には、ここの文字が妙な綴りに書いてあるが、たぶん |bourgeois《ブルジョア》 だろうと思う)
問 何かこれというトラブルでもあったんですか?
答 さあ、あれをトラブルといえるかどうかわからないけれども、ある晩ディーンがダーワースに、貴様の横っ面をひとつはりとばして、あの天井のシャンデリアへぶらさげてやりてえや、と毒づいたそうです。ところが、ダーワースとじゃ喧嘩にならない。あの人は、どんなことがあっても、けっして腹を立てない人だから。ときどき見ていて、こっちがじれったくなることがよくありましたよ。
(話のつぎ穂がきれて、テッドは何かゴソゴソ口の中でひとりごとをいっていたが、マスターズにうながされて、また先をつづけた)
答 じつをいうと、その喧嘩はぼくも見たかったんだ。ディーンはミドル級のアマチュア選手としては、ちょっと右に出る者がないくらい、すばしこかったですからね。ぼくは前に、かれがトム・ラトガーをのしたところを見ましたがね。……
はしなくも見せた彼のこの正直な態度に、この青年に対するマスターズの評価がぐっと上がったことは、はたで見ていてもよくわかった。それから尋問はトントン拍子に進んだ。テッドの話によると、ダーワースはそれからさっそく降霊術にとりかかったらしい。ジョゼフを霊媒にした第一回の降霊会では、黒死荘で迷っている霊と、ジェイムズ・ハリデーの霊の苦闘が出た。
このことがダーワースに伝えられると、かれはますます深い興味を抱くようになって、たびたびマリオン・ラティマーとベニング夫人、――とくにマリオンと打ち合わせを重ね、ハリデー所蔵のプレージ書簡も借覧し、ついにベニング夫人の要請で今夜の実験を試みることになったのであった。この話に少々時間をかけすぎたのは、おそらくマスターズの誤算だったかもしれない。だいたいテッドという男は、どんな場合にも、すぐと神がかりみたいな状態にはいれるたちの男であった。そういう男だから、ダーワースのにこやかな微笑の姿が、たちまちかれの前に巨人のごとくになり、怪物めいた異形なものになっていったのも道理である。その巨大な姿は、当のダーワースが死んだのちの今でも、なおかつ、われわれを愚弄しているようである。自分だけの怨みと夢を抱きつづけているあの頑固婆さんや、椅子にふんぞり返ってマスターズをにらみかえしていた、この軽佻《けいちょう》な青年、こういう人たちにあの男が働きかける、気味のわるい妖異の力は、われわれもそれを感じ、懸命にそれと闘ったのであるが、ついに打ち破ることができなかったわけである。
この闘いは、尋問がテッドに浴びせられるそのたびに、だんだん烈しくなっていった。ある尋問では、かれはまったく狂気のようになった。凄味をおびた顔をしきりとひっこすっては、椅子の腕木をピシャピシャたたき、大声で笑いだすかと思うと、きゅうに泣き入るような声になったり、まるでダーワースの幽霊が、肌のゾクゾクする夜明けのこの時刻に、どこかそこらに立っていて、この若い男をヒステリックに導いているかとさえ思われたくらいだった。そうなると、マスターズも躍起となって、破鐘《われがね》みたいな声でがなりたてた。
問 よろしい! それならば、君があくまでダーワースは人間に殺害されたのではないと信じているなら、ジョゼフ・デニスのいった、ダーワースがここの屋敷で誰かに危害を加えられやせんかと恐れておったという、この陳述を君はどう考えるかね?
答 あんなことはまっかな嘘だ。あんな麻薬患者のいうことを、まともにあんたは取り上げるつもりなのか?
問 すると君は、あの小僧が麻薬患者だということは知っとったんだね?
答 たぶんそうだろうと思っていた。
答 それでいながら、霊媒のかれは信ずるのか?
問 それはおのずからまた話が別だよ。麻薬はかれの心霊力には影響しやしないさ。あんた、わかってるのかな? たとえば、画家だの作曲家だのは、麻薬やアルコールをのむからといって、天賦の才能を失ないはしませんぜ。困った人だね、どうも。目が明いてるのかな? そういうのを明きめくらというんだ。
問 まあ、そう興奮せんで。――ところで、あんたはあの客間の暗闇のなかにおったときに、誰か自分の席から立って、あの部屋を出ていった者があることは、否認しますか?
答 否認する。
問 そういう者は誰もなかったと断言しますか?
答 断言する。
問 では、あの部屋で、椅子がガタキシ鳴って、扉があいてしまった音を聞いた者があったとしたら、どうなるね?
答 (しばらく、ためらう)誰がそんなことをいったか知らんが、そんなことは嘘っぱちだね。
問 慎重に答えてください。確かですね?
答 ええ、確かですとも。そりゃ椅子のなかで体ぐらい動かした者はあったかもしれませんよ。ガタキシ鳴るなんて! だけど、そんなことは何でもないことでしょう。ためしに暗闇に坐っててごらんなさい。そこらじゅうでミシミシ、ガタキシしますぜ。
問 おたがいの席は、どのくらいはなれていました?
答 さあ、わからんな。二、三フィートもはなれていたかな。
問 とにかく、何か物音は聞いたんだね? とすれば、誰かが席を立って、石の床を、誰にも気づかれないように出ていったかもしれませんやね?
答 そんな者は誰もいなかったと、今いったでしょうが。
問 あなたがたはご祈祷をしておられたんですね?
答 冗談じゃない! ばかも休み休みいいなさい。ご祈祷! とんでもないよ。このぼくが、迷信家のメソジスト信者に見えますか? ぼくはね、この地上を祓い浄める霊に力を授ける、その伝達の設定につとめていたんですぜ。自分の全力を傾倒して、精神を統一していたんですよ。頭が割れそうでしたよ。それをご祈祷なんて!
問 どんな順序に坐っていました? 並びかたは?
答 さあ、はっきり憶えていないな。ディーンが蝋燭の灯を吹き消したときには、みんなまだ立っていたんだな。それから、手探りでめいめい自分の椅子をさがしたんだが、何でも暖炉の左の端に自分が坐ったことだけは、わかってるな。そうね、みんなウロウロしてたな。
問 鐘が鳴ったときには、皆さん総立ちになったんでしょうな?
答 いや。なんだかまっ暗闇のなかで、あっちでもこっちでもガサコソやってましたよ。蝋燭をつけたのはフェザートン老人でした。老人、ひとりで何だかガミガミいってたな。それからみんなして、入口へ出ていったことは知ってるけど、誰がどこにいたなんて、そんなことはわからないな。
マスターズはテッドを放免した。自宅までお送りしようかと警部はいったが、テッドは疲れきっているし、もう夜もまもなく明けるから、ほかの連中が帰るまで待っているといって、かたく辞退した。
マスターズは頭をかかえて、考えこんでしまった。
「どうも、ますますこんがらがってきたな。みんな興奮したり、ヒステリックになったり、おかしな奴らだ、ま、何でもいいから、もうちっと明確な証拠をつかまんことには……」
そういって、筆記で痺《しび》れた指を伸ばしたりちぢめたりしていたが、やがて大儀そうに、フェザートン少佐を呼ぶように巡査にいいつけた。
ランカシャー歩兵第四連隊、退役少佐、ウィリアム・フェザートンに対する尋問は、しごく簡単だったが、途中からだいぶ有力な情報がえられた模様だった。あの初めのうちの威張りくさった高飛車な態度も、いつのまにやら影をひそめて、よどみのない話し口で、てきぱきと簡潔な答弁ぶりだった。まるで軍法会議にでも臨んだように、椅子にしゃんとひかえ、灰色の眉の下から、どんよりとした目でマスターズを正視しながら、たまに咳きこむか、首をかしげてハンケチで襟もとをぬぐうとかするときだけ、いうことがとぎれた。わたしはそばで見ていて、ベニング夫人を除けば、この人だけは潔白であるような感じがした。
――ダーワースのことは、自分はあまりよく知らない。ただベニング夫人と昵懇《じっこん》なところから、ついこんなことに引きずりこまれただけの話であって、したがってダーワースにはほとんど会ったこともないし、その人となりもよく知らない。……そんなことを前置きにして、少佐はあの男も、むろん誰も彼もから好かれるような人物ではないにしても、奴に怨恨をいだいていたような人間は、自分は寡聞《かぶん》にして知らない。もっとも、二、三のクラブからは入会を拒否されていたようだ、というようなことをひととおり語った。
問 ところで、今夜のことですがね。
答 何でもよろしい、尋ねていただこう。あなたのご不審は、わしなどばかげたご不審だと思っとるが、自分の義務は義務で、ちゃんと心得ておるつもりじゃから。
問 いや、どうも。おっしゃる通りで、ところで、あちらの客間の暗がりに、およそどのくらいおいででしたか?
答 さようさ、二、三十分じゃったね。ときどき時計を見とったから。夜光時計だから、よう見える。こんなばかげたまねが、いつまでつづくのかいなと思うとったで。
問 では、精神統一をなさっていたのではないのですか?
答 そうさ。
問 では、暗闇に目がおなれになったら、何かお見えになったでしょう?
答 それがな、警部、なにせ真の闇でな。それに近ごろわしも、とんと目がきかんようになって、まるでもうだめじゃよ。あまりたいして見えなんだ。せいぜい、ものの形ぐらいかな。
問 どなたか席を立ったのをごらんになりましたか?
答 いや、見なんだ。
問 席を立ったけはいは、お聞きになりましたか?
答 それは聞こえた。
問 そうですか。その模様をお話しくださいませんか。
答 (しばらく、ためらってから)そいつはむずかしい注文じゃな。さよう、まず初めに、居ずまいを直すようなけはいがして、椅子の鳴る音がしたな。いや、そうではなかった。椅子を誰かうしろへ押しやったようで、それで床が鳴ったんだったな。そのときはわしもさして気にもとめなんだが、そのあとで、よいかね、どこやらで誰やらかの足音がきこえたように思うた。なにせ暗闇の中じゃから、音の判断はなかなかしにくいて。
問 そのあとでとおっしゃっるのは、どのくらいたってからで?
答 わからんな。じつをいうと、わしはそのとき「おい!」と声をかけようとしたんじゃが、アンから前もって、何があってもものをいうたり動いたりせんようにといわれとったし、みんなそういうことはせんと約束した手前があるから、わしゃ黙っとったんだ。初めはわしも、誰か煙草でも吸いにいくのかな、心なしなことをする奴ちゃと思うとったがね。すると、扉がギーと鳴って、スーッと風がはいって来よった。
問 扉があいた音ですか?
答 (証人は烈しく咳き入り、やがてひと息入れてから)それがの、どうも大扉が――玄関の大扉があいたようなんだな、さもなければ、あんなぐあいに廊下へ風ははいって来よらんよ。しかし、断言はできん。よいかね、警部、わしはただ事実を申し述べとるんじゃよ。常識人として。そんなことはどうでもいいとは、いいきれんわな、そうじゃろう。どうもしかし、誰か出ていったということは、認めざるをえんようだな。
フェザートン少佐は、ここまで語って、はじめて狼狽しだした。最初はそこまで話すつもりはなかったのに、ついそれ以上のことをしゃべってしまって、相手に悪い印象をあたえた、とでもいったような狼狽ぶりであった。それを隠そうとして、やれまだほかにもいろんな物音がしたとか、やれ自分の思い違いかもしれないとか、いろいろいいわけめいたことを並べたてていたが、そのあと二、三つっこんだやりとりがあったのち、マスターズは、この点に関する尋問を打ち切ってしまった。おそらくマスターズは、少佐が検死審判でふたたびこの点の証言をするかどうか、あてにならないと思ったのだろう。そこで、すぐにそのあと、椅子の配置についての尋問に移った。
答 ベニング夫人は、はじめにおった暖炉の右手にやはりおった。それがおかしいんじゃよ。わしがその隣りへ坐ろうと思うて、坐りかけたら、彼女、何を思うてか、わしを押しのけおった。それでハリデーがそこへ坐った。だもんで、わしゃすんでにハリデーの膝の上へ転《こ》けかけたよ、ははは。そこへもってきてからに、蝋燭を吹き消されたから、こっちはあんた、そこらを這いずる騒ぎさ。ハリデーのわきへラティマー嬢が坐って、その隣りへわしがかけたが、テッドはたしかわしのこちら隣りじゃったな。あの男は立たずにおったから。
問 椅子をうしろへずらす音は、どちらのほうから聞こえましたか?
答 さ、それがさて難物だて。なにせ暗闇の中の音じゃから、どことは指《さ》せんし、どことも聞こえるし、かといってまた、そうでもないような……
問 あなたのそばを、どなたか通り抜けたような感じは、なさいませんでしたか?
答 せなんだな。
問 椅子はどのくらい間隔をおいておりましたか?
答 よく憶えんな。
何本かの蝋燭が、ほとんどもうとぼりかけていた。消えぎわの焔《ほのお》が広がって、ゆらゆらゆらめいていた一本は、少佐が椅子から立った拍子に、そのあおりで消えてしまった。
「少佐、もうけっこうです。ご苦労さまでした」とマスターズは元気なくいった。「ご自由にお宅へお引きとりください。ベニング夫人もお連れになったら、いかがです。それから、これは申すまでもないことですが、尋問は今後もまだあるはずですから、そのおつもりでいらしてください。……お使い立てして恐縮ですが、ラティマー嬢とハリデーさんに来るように、そうおっしゃっていただきます。べつに重大なことでもないかぎり、五分とはかからないからと、そういっていただきます。いや、ありがとうございました。大きに助かりました」
フェザートンは入口で足をとめると、巡査がすすみ出て、シルクハットをうやうやしく手渡した。まるで少佐が、今しがた市街戦で戦果を上げたようなものものしさだった。少佐は受けとったシルクハットを袖でこすりながら、部屋のなかを見まわしたとたんに、うす暗い窓ぎわに控えていたわたしに初めて気づいたらしく、青筋の浮いた頬をプッとふくらますと、洒落人らしくシルクハットをスポリと頭にのせ、帽子の天井をポンとたたいて、
「いよう、ブレーク君! そうだ、貴公の住所を、すまんがちょっと教えてくれんか?」
妙なことをいうと思いながら、わたしが住所を名のると、
「ほう、エドワーディアン・ハウスかね? 明日あたり、そちらのご都合がよければお訪ねしますぞ。じゃ失敬。諸君、ごめん」
おつに気どった様子で、少佐はコートの肩を直しながら、廊下へひと足出たとたんに、出会頭にはいってきたマクドネル巡査部長と、あやうくぶつかりかけた。
十一 短剣の柄
マクドネルは困憊《こんぱい》しきった顔つきで、目の下に深い疲労の皺がくっきりときざまれていた。鉛筆で何か書きとめた紙の束を片手に持ち、片手には大きな角灯をさげていたのを、床の上に置いた。
そのとき初めてわたしは、部屋の中がしんしんと寒いのと、寝不足のために目の皮や節々が固く凝っているのに気づいた。半刻《はんとき》ほどたったあいだに、裏庭の騒ぎも、いつのまにかひっそりと静かになっていた。人声や足音もきこえなくなり、自動車のギアの音も遠ざかって、物音の絶えた、しっとりとした時のきざみのなかに、夜明けの大気がしんとにおっていた。街灯はまだともっていたが、都心からは早くも汐騒《しおさい》のような朝のどよめきがおこっていた。
マクドネルのおいた角灯が、煉瓦敷きの床の上に、車の輳《や》のような光の輪を投げている。目の前がチラクラするようで、その光の上に、鼻のとがったマクドネルの顔が、薄気味わるく浮き上がっていた。緑色のかれの目が、額に握りこぶしをあててうつむいているマスターズの顔を、じっとのぞきこみ、あみだにかぶった帽子から、髪の毛が目の上へばさりと下がっている。やがてマスターズの注意をひくように、角灯を足の先でガチャリと鳴らした。
「主任、いいかげんに放免していただけませんか? ほかの連中は、みんなもう引きあげましたよ。ベイリーは、明るくなったらもう一度写真を撮りにくるといってましたが……」
「バート」と警部は顔もあげずに、元気のない調子で、「君はダーワースの担当だったな。エルジー・フェンウィックというのは何者かね?」
マクドネルはビクンとして、「エルジー……?」
「まさか知らんとはいえまい。名前だけはおれも知ってる。ダーワースに関係のある――それも何かいかがわしいことに関係のある名前だということはわかってるんだが、どんな関係だったか、そいつが思い出せないんだ。君のいってたことは、今フェザートンから吐かせたが、例の紙きれな、あれの第一行は、『わたしはエルジー・フェンウィックの埋めてあるところを知っている』というんだそうだ」
「えっ、何ですって?」とマクドネルは目をまるくすると、それなり蝋燭をいつまでも見つめているので、マスターズはじれったそうに作業台をたたいた。
「いや、どうも。あんまり重大なことなんで、つい。そいつはまさしく、奴の不正行為の確証ですよ。そもそもエルジー・フェンウィックは」と巡査部長は語気を強めて、「われわれ警察の連中が、ダーワースに目をつけたきっかけになった女ですよ。もう十六年も前のことで、自分なんかよりずっと昔のことですが、自分はダーワースのことを掘っくり返していたときに、古い書類でそれを知ったんです。みんなきれいさっぱり忘れていたんですが、ダーワースがまた何か秘法をいじりだしたと聞いて、第八課の連中が、どうも臭いぞといいはじめたんです。エルジー・フェンウィックというのは、ダーワースの最初のかかあですよ」
「それだっ!」マスターズが声をあげた。「そうだ、それに違いない。やっと思いだした。そういや、そんな事件があった。エルジー・フェンウィックというのは、すごい金持の婆さんだったよな。たしか、死んだかどうかしたんだ――」
「いえ、そうじゃないんですよ。警察では、彼女が死んだ確証をあげようというんで、奔走したんです。確証があがれば、ダーワースをとっちめられるというんで。ところが、かんじんの女の行方があがらなかったんです」
「おい、その事実をひと通り聞かせろや。簡単でいい」
マクドネルは手帳をとりだすと、パラパラとめくった。
「えーと、ダーワースと。……おっと、これだ。――エルジー・フェンウィック、空想好きな老婦人、心霊術にこる、資産家、身寄りなし。片っぽの足だか肩だかが、脱臼でもしたのか骨の形が変わっていて、まあ肩輪ですね、それが六十五といういい年をして、年下のダーワースと結婚したんですな。既婚婦人財産法のできる前のことですよ。そこへ大戦が勃発《ぼっぱつ》して……ダーワースは兵役を忌避して、そのみっともないかかあと女中をつれて、スイスへ逃げだしました。
スイスへ逃げて、一年ばかりたったある晩のこと、亭主のダーワースが気違いみたいになって、十マイルもはなれた医者のところへ電話をかけてよこして、家内が急病で苦しんでいる、胃潰瘍のひどいのらしい、すぐ来てくれと知らせてよこした。ところが、細君はふだんから丈夫なたちで、医者がいったときには、生命は心配なく、いいあんばいにその医師は評判の名医だったもんだから、うろたえた亭主が心配したほどのこともなくて、いちおう手当てをすましてから、医者はダーワースと世間話をしていると、『先生、胃潰瘍ってこわいもんですな』というから、医者はダーワースの顔を見つめて、『冗談いっちゃいけない、奥さんのは砒素《ひそ》中毒ですよ』といったそうです」
マクドネルはそういって皮肉そうに片方の眉をあげた。
「そんなわけで、あとがまずいことになったんですな。そう、それで厄介なことになりましてね。とんだ醜聞になるところを、細君についていた女中が、奥さまがご自分で毒薬をおのみになるところを見ましたと証言したので、ダーワースの奴はうまく助かったんです」
「ふん、その女中がべっぴんとくるんだろう?」
「さ、そいつはどうですか。とにかく、ダーワースという男は、金に詰まったら、何をしでかすかわからない奴ですよ」
「で、かみさんはどういってたんだ?」
「かみさんは何もいわないんですよ。ダーワースの肩を持って、――つまり許したんでしょうな。このへんまでが、終戦までのダーワース夫婦の行状です。戦争がおわると、夫婦はイギリスへ帰ってきて、腰をおちつけました。ところが、また、ダーワースがある日血相を変えて警察へとびこんできて、家内が失踪したと訴えて出たものです。当時夫婦は、クロイドンの郊外に住んでいましたが、ダーワースの訴えによると、家内は汽車で町へ買物に出かけたきり、帰ってこないというんです。最近かみさんが神経衰弱が昂じて、気鬱症がひどく、多少記憶喪失の気味もあるといって、医師の診断書も持っていました。――奴は学がありますからな。最初は本庁でも、奴のいうことをまともに受けて、普通の失踪調査の手続きをとったんですが、そのうちに、どうも臭いぞという者が出てきて、それから身もとを洗ってみたところが、果たして砒素事件が浮かんできたものだから、さあ面倒になってきましてね。……あとで完全な報告書をお手もとへ差し上げましょう。ここで話していると、長くなりますから。結果だけ申し上げておくと、けっきょく、警察は虻蜂《あぶはち》とらずに終わってしまったんです……」
マスターズはげんこで作業台を軽くたたきながら、わたしのほうへジロリと視線をくれて、
「なるほどな。おれもよく思いだしてみないといかんが、ところどころ憶えとる。十九年には、バートンがその方面をやってたんで、あの男から話だけは聞いた。たしかダーワースは、身に覚えのないことで侮辱されたといって、えらく怒って、告訴するといっておどかしたということだったな。そうだ、憶えとる。それで、どうなったんだ? ダーワースは、細君の死亡確認の法的手続きをとったのか?」
「いや、それがね、当然とったものと思ってたら、とっておらんのですよ。ですから、時効にかかるまで、七年間待っておったわけですな。だから、奴さん、ひとつもじたばたしないで、金はまんまとふところへ転がりこんだというわけですよ」
「ふーん」マスターズは顎をなでながら、「さっき君、『最初の妻』とたしかいったな。そうすると、奴は、その後またかかあをもらったわけだな?」
「ええ、そうです。だけど、夫婦仲はうまく行ってないようですね。かみさんはリヴィエラかどこかに住んでいます。まあ、男のほうからポイした形でしょう」
「どうせそれも、金のためなんだろう?」
「ま、そんなとこだと――」
いいかけて、マクドネルは入口のほうを見やった。廊下で足音がして、誰か聞こえよがしに咳ばらいをしたからである。
見ると、入口にマリオンとハリデーが立っていた。とっさにわたしは、ははあ、この二人は今のマクドネルの話を廊下で立ち聞きしていたなと、ピンと感じた。マリオンの顔が固くこわばって、何か軽蔑するような色があり、ハリデーは困ったような顔をして、彼女の顔色をうかがいながら、二人して中へはいってきた。
「警部、とうとうあんたのいわれた通り、徹夜でしたな。もうかれこれ五時ですよ。今ね、あんたのとこのあの巡査に袖の下をつかませて、夜明かし屋の屋台へコーヒーにサンドイッチでも買いに行こうと思ったら、いやてんでだめ、許してくれないんだ」とハリデーは顔をしかめて見せ、「ひとつ、お早いとこ放免ということに、お頼《たの》ン申しますよ。ぼくら、いつ何時でもお役に立つつもりではいるけど、どうもここの家はゾッとしないんでね……」
「いやあ、手間はとらせませんよ。そのつもりで、お二人ごいっしょにお呼びしたんだから。そのほうが時間の経済になるでしょう。それにこのありさまだしね」と警部はくだけた調子で、
「ただし、ちとぶしつけと思われるようなことをお尋ねするかもしれませんから、そのおつもりで。お二人とも、今のダーワース夫妻の話はお耳にはいったと思うから、ひとつそれから行きますかな」
マリオンは、金髪に渋い茶色の帽子を目深にかぶって、コートの襟を立て、背をすこしかがめ気味に腰かけて、濃い青い目でマスターズのことを冷やかに眺めていた。そのうしろにハリデーが立って、煙草に火をつけた。
「はあ?」とマリオンはすみとおった声でいったが、警戒の色をあらわに、「何でもお好きなことをお尋ねになっていただきますわ」
ハリデーはニヤニヤしていた。
マスターズは、二人がダーワースと知り合いになったいきさつを手短かにきいてから、
「そうすると、マリオンさんは相当かれのことはおくわしいようですな」
「はあ」
「自分の経歴はあなたに話しましたか?」
マリオンはじっと目《まな》ざしをすえたまま、「何でもずっと以前に、ある方と結婚なすって、その方とあんまりおしあわせでなかったようなお話しでしたわね。その方、今どうなさっているか、わたくし存じませんけど、たしかお亡くなりになったようにうかがいましたわね」声がいくらか嘲弄の気味をおびて、「このお話しが出ると、とても悲痛な目つきになって、まるでバイロンみたいに……」
マスターズはちょっとあてがはずれたようであったが、しかしどんな場合でも、みすみす自分に不利なものでも、それをすばやく自分に有利なように展開することに、かれは妙をえている男であった。
「今の細君を、あなたご存じですか?」
「いいえ。そんなことわたくし興味ございませんもの。お尋ねしたこともありませんわ」
「なるほど」マスターズは、とっさにまたスイッチを切りかえて、「ところで、ディーン・ハリデーさんの健康と将来が、この黒死荘に――何というか、……縛られていると、ダーワースがあなたにいったのですね?」
「ええ、そうです」
「そのことを何度もいいましたか?」
「ええもう、しじゅう」ひとりでに口をついて出たような答え方だった。「わたくし、自分がダーワースさんのことをどう思っていたかは、さきほどブレークさんに申し上げましたけど」
「ああ、そう。それでね、あなた頭痛がして困ったとか、神経が撹乱されたとか、そういう目にあわれたことがおありですか?」
彼女は閉じた目を少し明けて、「そうですねえ、よくわからないけど、……そうね、そういうことは確かにございましたわね」
「そういうとき、あの男は、催眠術を医学的に正しく使えば、それは治るといったでしょう?」
マリオンはうなずいた。ハリデーが首をつき出して何か言おうとしたのを、マスターズが目顔で制して、
「いや、ありがとござんした。ところで、ダーワースは自分でなぜ心霊術を使わないのか、そのわけをあなたに話したことがありますか? あなたがたは、かれに偉大な力があると信じているくせに、かれが心霊学研究会の正会員になっているかとか、あるいはその方面の学術団体に関係しているかとか、そういうことはどなたも聞かれたことがないんですな。……いえ、つまり、わたしのうかがいたいのはね、なぜかれが自分の能ある爪を隠しているか、そのわけをいわなかったか、ということですよ」
「あの方は、こういうことをいってました。自分の関心は、もろもろの霊を救い、人々に安寧《あんねい》をあたえるのが……」
その先をマリオンがいいしぶったので、マスターズはどうぞと手をあげてうながした。
「……自分の力量は、あるいは世間で評判になることがあるかもしれないが、そんなことには自分は関心をもっていない。それより、自分の関心事は、じつをいうと、黒死荘に関するあなたの不安を取り除いてあげることだと、こんなことを申しました」そこまでは無心でしゃべっていたのが、きゅうに早口になって、「そう、それからこんなこともいってましたわね。――それはたいへん危険なことなんだから、よほどあなたに感謝してもらわなければ……と、そんな意味のこともね。――ねえ警部、わたくし、何もかもぶちまけたところを申し上げておりますのよ。これが一週間前でしたら、とてもこんな気持にはなれませんでしたけど」
そういって、彼女が顔を上げると、ハリデーはいやな顔をして、何かいいたいのをつとめて我慢するふうに、巻煙草をパイプの吸口みたいに口の中へ押しこんだ。
マスターズは何か思いついたらしく、のっそりと立ち上がると、しんと静まり返った部屋のなかで、ポケットから時計の鎖をひっぱり出した。鎖の先には、小さなピカピカ光ったものがさがっていた。かれはニヤニヤしながら、
「マリオンさん、これね、ごらんの通り、新しい鍵です。どこの家にもある品ですわ。わたし今ふっと思いついたんだが、おさしつかえなかったら、これでちょっと実験をしてみたいと思ってね……」
マスターズはグルリとまわってきて、床の上の角灯を手にとりあげた。マリオンは警部が自分のほうへ寄ってくると、身をひいて、腰かけの横をギュッとつかんで、相手の顔を下からじっと見あげた。マスターズは彼女のそば近く寄ると、角灯を彼女の頭の上に高くかざした。仰向いたマリオンの顔の上に光の矢が流れ、そばに雲つくようなマスターズの影法師がヌッと立っている光景は、ちょっと不気味なものであった。マリオンの目の上三インチほどの高さのところに、警部のぶらさげた小さな鍵がキラキラ銀色に光っていた。
「いいですか、この鍵をしっかり見ていてください」と警部は低いかすれ声でいった。
すると、いきなりマリオンが椅子をずらして、ぴょいと立ち上がった。
「いやですわ、そんな! 何をなさるの。そんなもの見つめていると、いつもわたくし頭が……」
「そうですか」マスターズは掲げていた角灯をおろしながら、「いや、わかりました。もういいです。どうぞおかけになって。……いえね、ちょっとためしてみたかったんでね」
ハリデーが何をするかといわんばかりに、ずいと前へ出たので、マスターズは急いでもとの作業台の前へもどって、苦笑を返しながら、
「まあまあ、お静かに! ハリデーさん、あんた、ほんとはわたしに礼をいうべきところですぜ。とにかく、今ので幽霊を一匹退治してあげたんだから。あれがね、相手の心をまるめこむダーワースの手のひとつなんですよ。あれで相手が催眠術にかかりやすい人なら……」
マスターズは息をはずませながら、腰をおろして、「マリオンさん、ダーワースはあなたの頭痛を治そうとしましたろう?」
「ええ」
「そのうえ、あなたにいい寄ったでしょう?」
この問は、何でもない前の問のあとへ、間髪を入れずにスパリと出されたものだから、マリオンもついうっかりして「ええ」と本音を吐いてしまった。マスターズは大きくうなずいて、
「結婚してくれといいましたか?」
「いいえ、そうはっきりとは。――こちらのお家のお祓《はら》いがうまくいったら、お願いするつもりだといってました。へんなことをいうと思ったんですけど」マリオンはそういうと、息を深くのみこんで、ヒステリックに目を輝かして、
「あとで考えたら、まるでモンテ・クリストとマンフレッドをまるめてひとつにした人みたいに思われて……へんに陰気で、孤独そうで、まるで安っぽい映画に出てくる人物みたいな気がして。でも、あなたはあの人をご存じないんでしたわね」
「あの男は不思議な男ですな」警部は冷やかにいった。「自分に近づいてくる相手しだいで、気分や性格を変えられる男なんですな。……まあしかし、その男もとうとう殺されてしまいました。われわれが今ここで話し合いたいのは、そのことなんです。誰が考えたって、催眠術や暗示なんかで、あの石壁を何者かに通り抜けさして、閂をはずさせて、そして自分を滅多斬りにさせるなんてことは、こりゃできるわけがありませんよ。ところでね、ハリデーさん、むこうの客間で灯火を消したあとの模様なんですがね、それをあんたにうかがって、そいつをラティマー嬢に確認していただきたいと思ってね」
「ああ、いいですとも。間違いないところを話しますよ」ハリデーはうなずいて、「ぼくもそのことは、ゆうべ一晩じゅう考えていたんですよ」そういって、息を深く呑みこんでから、マスターズの顔をジロリと見やって、「ほかの連中にも、むろん聞いたでしょうが、みんな客間で誰か歩く音がしたといってましたか?」
「自分の話をしなさいな」マスターズは大きな肩をそびやかして、注意した。「あんたがた、むこうで協議でもしていたんじゃないんですか? 証人がここへ呼ばれている留守に?」
「協議かどうか知らんが、一戦やりかねない空気でしたぜ。みんなあなたに証言したことを否認してるんだ。テッドは気違いみたいになるしさ。いっしょに帰ろうといいだす者は一人もなくて、みんなめいめい別々の車で引きあげていきましたよ。アン伯母なんか、通りまでフェザートンが送るというのを断わって、ひとりで帰っていきましたよ。とんだ和気あいあいたる会合でしたね。それはまあいいとして、客間でこういうことがあったんですよ。
アン伯母がダーワースを助けるんだといって、円座をつくって、みんなで行《ぎょう》をしようといいだしてね。ぼくはそんなことはまっぴらだったんだが、マリオンが、そんな駄々をこねないでとしきりと頼むもんだから、しかたがない、よし来たといって承知をした。で、暖炉の火が消えているから、火をたきつけようと思ったんです。なにも寒い部屋でまるくなってブルブルしてることはないからね。ところが、テッドが、薪が生で湿ってるから、どうやっても燃えつかないんだ。ひよっ子じゃあるまいし、このくらいの寒さが何だというから、勝手にしやがれてんで、そのまま、みんな思い思いの席についたわけですよ」
その席順についての尋問がマスターズからあって、マリオンとハリデーは前の証人の申し立てを確認した。暖炉の右手がベニング夫人、それからハリデー、マリオン、フェザートン少佐、いちばん端がテッドという順序である。
「椅子はどのくらいはなれていました?」
ハリデーはちょっと考えこんでいたが、「そうね、かなりはなれていたな。あすこの暖炉は、あのとおりでかいですからね。炉棚の上の蝋燭を吹き消すのに、爪先で立たなきゃ消えなかったからな。片手を伸ばしても、隣りの人にはさわらなかったんじゃないかな」といって、マスターズの目をチラッと見て、「ただし、マリオンとぼくは例外でしたがね」
マリオンはきまり悪そうに床に目を伏せた。そのマリオンの肩にハリデーは手をかけて、話をつづけた。
「こっちは気をきかして、この人の椅子のほうへ自分の椅子をこころもち寄せておいたんです。アン伯母が鷹みたいな目をして見張っていたから、ぴったりくっつけはしなかったけど。何もあんな目をして人のことを見なくてもよさそうなもんだけどね。
で、そうやって坐って、ぼくはこの人の手を握ってたんだが、あれでどのくらいたったかな。とにかく、まっ暗闇なんで、だんだんこう気が落ちつかなくなってきてね。べつに、ダーワースのことなんか気にもとめなかったけどさ」そういって、ハリデーはへんな白眼で一座を見まわした。警部はうなずいた。「するとね、誰だか知らないが、何だかゴソゴソ口のうちで唱えている者があるんだ。おんなじ言葉をなんべんもなんべんもくり返していってるのが、いやに耳ざわりでね。それと時々椅子のなかで誰かのったり反《そ》ったりする音が、ゴソゴソ、ガサガサするんですよ。正直、こっちも少々こわくなってきちゃってね。
それからどのくらいたったか、よくわからないけど、誰か席から立ったけはいがして……」
「音が聞こえましたか?」マスターズが膝をのりだした。
「それがね、どういったらいいのかなあ。……あなた降霊会へ出席したことがありますか? あれば、おわかりだがな。こう、何かの動きを感じる。――たとえば、息づかいだとか、裳裾《もすそ》のきぬずれの音だとか、暗闇のなかで何かが動く感じですよ。そうさな、まあ、いってみれば、自分のすぐそばに何かがいるという感じですね。そのまえに、椅子をずらす音もきこえました。とにかく、誰かが立ちあがったことだけは――いや、だけどしかし、そうとはっきり断言はできないなあ」
「うん、それで?」
「そう、そのとき、ぼくのうしろで、ふた足、足音がはっきり聞こえました。ぼくはこれでも耳はいいほうなんでね。ほかの連中には、それが聞こえなかったらしいな。そしたら、マリオンがビクンと体を固くして、ぼくの手をギュッと握ったんですよ。あのときは、ぼくも実際ギクリとしたな。この人の手が、ソーッとぼくのほうへ伸びてきてさ、この人、ブルブルふるえてるんですよ。そのときなんだ、この人のすぐそばを、何だか知らないがスーッと通って、この人にさわったんですとさ。――マリオン、ここのことは君から話したほうがいいよ」
マリオンは、さっきからつとめて自制をたもっていたが、そのときのこわさがふたたびもどってきた。足もとの角灯が、そっと上げた彼女の白い、美しい、緊張した顔に、ギラギラした光を投げた。――
「わたくしのこの首筋のところへ、短剣の柄《え》がスーッとさわっていきましたの」と彼女はいった。
十二 暁に消えたもの
作業台の上にともっていた最後の蝋燭の灯が、溶けくずれた蝋涙《ろうるい》のなかで消えた。部屋のそとの廊下には、灰色のほのかな光線がしのびこんできていたが、台所部屋のなかはまだ闇が濃く、マリオン・ラティマーの元気なく沈んだ顔の下で、角灯の芯《しん》がしずかに燃えていた。鶏鳴《けいめい》に夜明けの空が白む前、マリオンの最後にいったことばが、その夜の恐怖のクライマックスといってよかった。部屋の隅の暗がりのなかで、ほとんど姿の見えないマスターズとマクドネルを、わたしは見まわした。妙なことに、ふとわたしはそのとき、ホワイト・ホールの何階だかにある部屋の、がっしりした官庁の家具調度にかこまれたなかで、デスクに両足をのせてふんぞり返りながら、赤本小説を読んでいる太った人物のことを思いだした。そうだ、一九二二年からこっち、わたしはあの部屋を見ていない。……
「ねえ、そうでしょ」と、しばらく黙っていたあと、マリオンがおそるおそるいいだした。「することに事欠いて、あんなまっ暗闇のなかで、いっしょにいた中の誰かがうろついていたなんて、考えただけでも気味が悪くて……」
マスターズが息をのんで、「そのね、短剣の柄だということが、どうしてわかりました?」
「そう感じたんですの。――たしかに柄でしたわ。鍔《つば》もさわりました。スーッとかすったんですもの。間違いありませんわ。持ってた人は、刃のほうを持ってたに違いないわね」
「わざとさわったみたいでしたか?」
「いいえ、そうじゃないと思います。さわったとたんに、びっくりして、うしろへ飛びのきましたもの。暗闇のなかで方角をまちがえて、ぶつかったというふうでしたね。とにかく、そのあと一分ほどしてから――正確な時間はわかりませんけど、――足音が聞こえましたの。これは確かですの。お部屋のまんなかへんから来たようでしたわね」
「足音はあんたにも聞こえましたか?」マスターズはハリデーに尋ねた。
「ええ、聞こえました」
「それから――?」
「それから、扉がギーと鳴ったな。そしたら、風がスーッと床を吹いてきました。いやだぜ、ほんとに!」ハリデーはいかにも気味悪そうにいった。「いや、みんなもそう思ったに違いないな。あなた方だって、あれは気味悪いと思いますよ」
「そうかなあ。……ところで、鐘が鳴ったのは、それからどのくらいたちました?」
「いえね、そのことでさっきもマリオンと話し合ったんですよ。この人は、十分ぐらいあとだというんだ。ぼくはかれこれ二十分ぐらいたったと思うんですがね」
「部屋へもどってきた足音は聞こえましたか?」
ハリデーは、巻煙草が指先まで燃えてきたのに気がついて、あわてて吸殻を床に捨てたが、その目が何かうつろだった。
「その点のはっきりした証言が聞きたいんでしょう、警部。誰か腰をおろした音はしましたよ。鐘の鳴る前だったが、どのくらい前だったかなあ。とにかく、何もかもあてずっぽうなんだけど……」
「鐘が鳴ったときには、皆さん腰かけておったんですね?」
「それがわからないんですよ。みんないっぺんに入口へ殺到したし、マリオンと伯母は悲鳴をあげるし……」
「あら、それはわたくしではないことよ」とマリオンが抗議した。
マスターズは、二人の顔をゆっくり見くらべていた。
「客間に皆さんが集まっていた間は、入口の扉はしまっていましたね。それはわたしも見たんだ。鐘が鳴って、ドヤドヤと出ていったときには、扉は開いていたんですか、しまっていたんですか?」
「そいつはわからんな。懐中電灯を持っていたのは、テッドだけでしたからね。マリオンとぼくは、テッドのあとから入口へ駆けよったんだから。ぼくのは電池がなくなったんで、それでテッドが自分のをつけたんですが、なにせドサクサの場合だから、よく憶えていないな。ただ、フェザートンがマッチをすって蝋燭をともして、『おい待て、待て』とか何とかどなったんで、そう入口へいっぺんにドヤドヤ出て行ったってしようがないと、みんな気がついて、誰が一番先にとび出したか知らないけど、とにかく羊が先達《せんだつ》のあとについていくように、そのあとからゾロゾロ出て行ったんでしたよ。だから――」といいかけて、ハリデーは手をふって、
「そりゃいいが、警部、ぼくら一晩じゅうしゃべりどおしだったんだし、マリオンなんか、この通りもうヘトヘトなんだから、どうですか、このへんでもういい加減にしていただきたいですな」
「そうね、それじゃ、もういいでしょう」マスターズはふいと顔を上げて、「いや、ちょっと待ってくださいよ。――テッド君だけが懐中電灯を持っておったんですね? あんたのはこわれておったと。しかし、マリオンさんが廊下でわれわれを呼び止めたときに、ブレーク君が自分のをあんたに渡したはずですぜ?」
ハリデーは、いっとき警部の顔をジロジロ見ていたが、やがて笑いだして、
「あんた、まだぼくのことを疑ってるんですか? そう、そりゃその通りですがね、こと懐中電灯に関するかぎりは、ぼくは完全に白ですぜ。ブレーク君から借りたやつを、テッドが貸してくれというから、ぼくはテッドにそれを貸してやったんだから。嘘だと思ったら、テッドに聞いてごらんなさい。……じゃ、これで失敬しますよ」といったが、そのままハリデーはすぐには行かずに、わたしのそばへきて、手をさしだして、「さよなら、ブレーク君。どうもとんだ中へ君をひっぱりこんじゃって、ほんとにすまなかったよ。まさかこんなことになろうとは思わなかったんでね。えらい道草を食わしちゃったよ」
……マリオンと二人が裏口から出ていったあと、われわれは思い思いに、みんなポカンとしていた。まわりの町は、どこもみな朝の目覚めに忙しい最中なのに、この幽霊屋敷だけは火の消えたようであった。やがてマクドネルが作業台の前へ出てきて、鉛筆で書いた手控えの整理をはじめだした。
「ねえ君」とマスターズがわたしに声をかけた。「どうです、そちらの頭の働きは?」
いや、さっぱりあかんね、とわたしはいってから、念のためにいいそえた。「証言の食い違いは、ある程度説明がつかんこともないな。三人は、部屋のなかを誰か歩いた者があるというし、二人はそんなことはなかったといってますね。だけど、否認しているベニング夫人とテッドは、精神統一だかご祈祷だかに夢中になっていたんだから、聞こえなかったんでしょう」
「しかし、鐘の音は、みんないやに早く聞きつけているからね。そんなに大きな音でもなかったくせに」
「そうね、その点がちょっとね。……いやあ、誰かが嘘をいってるんですよ。みんな嘘の名人らしいもの」
マスターズは立ち上がって、「もう七面倒な話は打ちきりましょうや。こんななまくら頭じゃ、どうしようもないや。泥濘《ぬかるみ》のなかを足跡もつけないで歩いていった奴より、まだ大きな穴がこの事件にはありそうだが、ま、そいつもはや忘れるべし。西の海へサラリ、といいたいところだけど、どうもしかし虫が知らせるというか、何かこう予感みたいなものがあるな。わからんな、何だろう、この予感は?」
「それはね、主任」とマクドネルがいった。「わたしの今までの経験ですと、そういう予感というやつは、たいがい、自分の考えてることが当たっていないんじゃないかと、自分でひとり相撲をとってる場合が多いようですな。ゆうべ一晩、あの連中と過ごしましたが、たとえば――」
「もういいよ、そういうことはもう聞きたくないよ。おれは今夜の事件で半病人だ。濃いコーヒーが一杯飲みてえな。それとぐっすり寝たいや。そして――おい、バート、何だい、その報告書は? 何かあるのか? 見せろよ、ちょいと。いや、今でなくてもいいが……」
「これですか。警察医の報告です。――『死因は鋭利なる凶器による刺傷。凶器はL・P短剣と推定される。傷の深さは……』」
「そういえば、あの凶器はどこへやった?」話の中途で、マスターズはふと思い出して尋ねた。「ありゃ保管しておかにゃ。君、持ってきたか?」
「いえ、あれはベイリーが現場のテーブルの上で写真に撮ってましたよ。われわれが現場調査をしたあと、写真班がテーブルを持ってきて、その上にあれをのせて、パチパチやってました。まだ現場に置いたっぱなしでしょう。とにかく、刃先は針の先みたいに研《と》いであって、妙に気味わるいものでしたね」
「よし、おれが行って取ってくる。また『猫背の男』にでも盗まれたら、ことだからな。その警察医の報告書は、それでいいけども、指紋のほうはどうした?」
マクドネルはしぶい顔をして、「ウィリアムズの話ですと、短剣には指紋がなかったそうです。使ったあとふきとったか、それとも手袋をはめてやったか、ほかに考えようがないといってました。さもなければ、どこかしらに残っているわけですからな。ほかのとこから、ダーワースのほかに、二種類の指紋が検出されたそうで、写真はけさでき上がってくるはずです。石室のなかは埃《ほこり》だらけで、足跡はやたらにありましたが、血痕のついたのは片足だけのがひとつあったきりで、これはブレークさんのものらしいです」
「そうか。これから石室へ行って、足跡はよく調べてみるが、ダーワースのポケットからは何が出たかね?」
「たいしたものはなかったですね。手がかりになるようなものは何もありませんでしたね。書類らしいものもないし」そういって、ポケットから新聞紙に何かごちゃごちゃ包んだものをとりだし、「これですがね。鍵束に、手帳、時計と鎖、それに銀貨がちっとばかり。――それだけです。あ、それからね、妙なものがあったんですがね……」
マスターズは、相手が言葉を濁すのを聞きとがめて、「何だ、妙なものって?」
「いえね、煙突から誰か降りてきた奴でもあるんじゃないかと思いましてね、みんなで暖炉の中を調べていたら、巡査が発見したんですが、ガラスのかけらなんですよ。火の中にあったんですがね。かなり大きな壷か罎《びん》のかけららしいんですが、火で灼《や》けて、もとの形がわからなくなってるところを見ると、そうとうの時間火の中で燃えていたんでしょうな」
「ガラス?」マスターズは鸚鵡《おうむ》返しにいって、目をすえた。「溶けちゃいないのか?」
「ええ、割れて、めちゃめちゃになってました。おそらく……」
といいかけたのを、警部はドラ声で引きとって、「ウィスキーの瓶だろう、ダーワースの気つけ薬の。そんなものはたいしたものじゃないさ」
「むろん、そうでしょうが――」とマクドネルはいちおう相槌は打ったものの、どことなく物足りないものがあった。顎の先を指先でたたきながら、部屋のなかを意味もなく見まわして、「だけど、へんじゃないですか? 中身のからになった瓶を、火の中へおっぽりこむなんて、普通やることじゃありませんがね。そんなまねをする人間を、ごらんになったことがありますか? どうもへんだと思うんですが――」
「もういいさ、バート」マスターズは吐き出すようにいうと、顔をしかめて、「もうたくさんだ。どれ、それじゃ明るくなったところで、お別れにもういっぺん見て、それで引きあげるとしよう」
裏庭へ出ると、冷たい朝風が寝不足の瞼《まぶた》をなでた。灰色の光がぼーっとかすんで、あたりが水底のように見えた。裏庭は、昨夜想像したよりもはるかに広いようで、半エーカーはじゅうぶんにありそうであった。夜明けの薄明かりのなかに、不気味にうずくまっている、鎧戸をおろした窓々の見下ろす、崩れかけた煉瓦建ての古い建物にかこまれた裏庭は、気味のわるいほど荒涼としていた。ここへは教会の鐘の音も、町を流していくオルガン弾きの音も、人の世の楽しい団欒《だんらん》の声も、絶えてとどくことはあるまいとおもわれた。
ほぼ長方形の空地の三方を、高さ十八フィートもありそうな煉瓦塀がかこんでおり、その塀ぎわに、枯れかけたスズカケの木が何本か、へんに媚《こ》びるように枝をくねらせているのが、いや味に見えた。ちょうどそれは、主屋の軒蛇腹《のきじゃばら》についている飾りの花輪やキューピッドが、十七世紀のひねったデザインでひからび褪《あ》せているのと同断であった。裏庭の片隅には、何年も使わない古井戸があったり、昔はそこで牛乳をしぼっていたらしい小屋の礎《いしずえ》が残っていたりした。が、何といっても、なかでいちばん不吉な感じをあたえるのは、裏手の塀ぎわに、一棟はなれてポツンと立っている、問題の小さな石室であった。
入口の扉がこわれてパックリと口をあいていて、全体がくすんだ灰色をした、いかにもいわくありげな建物であった。屋根の勾配には、もとは赤瓦だったらしい古瓦が波をうち、背をかがめてうずくまっているような、まっ黒けな煙突の先には、道楽者のかぶった帽子みたいな煙出しがついていた、石室のすぐそばには、前にもいった、枝のくねった立ち木が一本はえていた。
ただそれだけのその石小屋のまわりは、四方べったらの泥の海で、そのなかを、大ぜいの人々の踏みならした道が、かなりの広い幅で、入口までつづいていた。その道から、二組の足跡――マスターズとわたしの足跡が、石室の外壁のすぐきわに沿うて、さきほどわたしが馬になって、マスターズに初めてダーワースの死体をのぞかせた高窓の下までつづいていた。
われわれは無言のまま、裏庭のへりをつたって、石室のまわりをひとまわり歩いてみた。ゆうべ、闇のなかで見落としたと思われる個所を、いちいちよく見てまわっていくと、謎はますます深まるばかりであった。そのくせ、見落としたところも、手を抜いたところも、取り違えたところもなく、何もかもが、あのときそう見え、そう思った通りなのである。ぜったいに入口からも、窓からも出入りのできない、石の箱みたいな建物。どこにひとつ秘密の入口もなし、マスターズとわたしが見にいったときには、近くに足跡はひとつもなかった。これが文字通りの真相である。
マスターズにすれば、もうこれでよしという最後のきりをつけるために、何とかして残る手がかりをつかみ、それできれいさっぱり解決をつけようというつもりなのであった。二人は石室の裏側――つまり、主屋の裏口から見て、石室の左側――へまわっていくと、ふいにマスターズが足を止めて、葉の落ちた立ち木をじっと眺めてから、塀のところまで引き返してきていった。
「ねえ、あの木をよく見てごらんなさい」あたりのひそまり返ったなかで、マスターズの声がへんにガラガラ響いた。「ほかの点はともかくとして、足跡がないわけは、あの立ち木で説明がつきそうですな。身の軽い者なら、あすこの塀にのぼって、塀からあの木へ飛び移って、それから石室の屋根へ降りられますね。やろうと思えば、できますぜ。塀も、木も、屋根も、大してはなれちゃいないものね」
マクドネルがうなずいた。そして冷やかにいった。「そうなんです。ベイリーとわたしも、まずそれを考えたんです。そこへちょうど梯子を持ってきた者があったので、ためしにあすこへ行って、自分で塀に登ってみたんです」といって上を指さして、「ほら、あすこに折れた枝がありましょう? あの枝で、危く首の骨を折るところでしたよ。木がすっかり枯れてましてね、モロモロになってるんです。わりかし、わたしは身の軽いほうなんですけど、さわるとメリメリときて、とても乗れないんです。ためしてごらんになるといいです。……どうもあの木は、なにかいわくがありそうですな」
警部はふり向いて、じゃんじゃら声で、「えらいことをいいだしたな。いわくって何だね?」
「ほかの木はみんな切ってあるのに、あの木だけが残してあるのは、どういうつもりだろうと思いましてね」とマクドネルは片っぽの目に手をあて、怪訝《けげん》そうな、落ちつきのない片っぽで、立ち木の根方の地面をじっと見ながら、「そうしたら、ははあとわかったんです。あの木の根方から六フィート下に、ルイズ・プレージが葬ってあるんですな。それであの木は、みんながいじるのを忌《い》むんでしょうな。つまらん迷信といえば迷信ですが……」
マスターズは、足跡も何もない地面をのしのし歩いて、立ち木のそばまで行き、癇癪をおこしたように枝をグイとひっぱると、枝はポキリと折れた。
「そうさ、くだらん迷信だとも。とんだ君もお人よしだな、ええ、バート」マスターズはもいだ枝を地べたにたたきつけると、きゅうにむかっ腹が立ってきたような調子で、「いいかげんにしろよ。はり倒すぜ、ほんとに。ダーワースは殺害されたんだぞ。こっちは今その手口を調べてるとこなんだ。そんな迷信くさいことをつべこべいうと――」
「いえ、わたしはまた犯人がどうやって石室へきたか、それがどうしてもわからないんで、それでひょっとしたらと思いまして――」
「ばかいえ!」マスターズはそういってどなりつけておいてから、わたしのほうを向いて、「とにかく、どっかに道がありますよ」とやや強引な調子でいった。「そうでしょ。あんたとここへ来たときには、ここへ向かっている足跡はひとつもなかったからね。それは確かでしたよね。そうなると、困っちゃったね、どうやってここの入口まで犯人が来たか?……」
「てんでわからない」わたしははっきりいった。
マスターズも合点をしていた。三人はふたたび無言のまま、石室の正面へと引き返してきた。石室は謎をつつんだまま、あいかわらず、しんとひそまり返っていた。三人とも、黎明《れいめい》からようやく朝に移るこの刻々を、まるで生き馬が目を抜かれたような、手も足も出ない人間になってしまったようであった。そして、この古い屋敷がまたもとの昔に返って、塀から外をのぞいたら、それこそペンキで赤い十字を書いた上に「神よ恵みを垂れたまえ」としるした家々の入口が、ついそこに見えそうな気がした。バラバラにこわれた石室の入口から、薄暗い中へとマスターズが足を踏み入れたときには、わたしの重い頭は、なぜかかれが中で見そうなものを、まざまざと想い描くことができた。
マクドネルがいった。「わたしはこの事件を担当するなんて、考えてもいませんでしたよ。ヴァイン街が管轄だもんですからね。ま、この事件は、たぶん本庁扱いになるでしょうな。だけど……」といいかけて、きゅうにうしろをふり向いて、「主任! どうしましたか?」
石室のなかで、さっきからしきりとガタピシ音がしていたが、わたしは考えごとをしていたので、気にもとめずにいた。マスターズのフーフーいう鼻息がきこえ、懐中電灯の光があちこち照らしていたが、やがてのっそりと入口へ姿をあらわして、
「どうもおかしいな。ちょうど詩だの歌の文句が頭に浮かぶと、それが頭をはなれないで、いちんちじゅうなんべんもその文句が口に出てきて、止めようと思っても止まらんことがあるだろ? そして、忘れた時分になって、またそれを繰り返す。――つまり、あれだな……」
「何を口のうちでブツブツいってるんです? 口に出していったらどうです?」とわたしがいった。
「いや、そのね」とマスターズは首だけこちらへ向けて、「ひとりごとをいうのは、わたしの癖でね。まあ、気休めなんですな。こりゃうっかりすると、寝言にまでいいそうだぞ。『お蔵にとうとう火がついた!』……ちえっ、どうしてくれる、いったい!」吐き出すようにいうと、鉄の閂をげんこでひとつガンとたたいて、「新聞は待ってましただよ。『猫背の痩せた男』だか、どこの馬の骨だかしらんけど、畜生、またぞろ盗みゃがった! 短剣がないんだ。盗まれたね。――どこにも見えんもの。野郎、またあれを使う気だな。……」
マスターズはそういって、うろたえた目つきで、わたしとマクドネルの顔を睨《ね》めまわした。
しばらくの間、誰も言葉が出なかった。そのうちに、いきなりマクドネルが大きな声で笑いだした。マスターズと同じような、うわずった笑い声だった。
「は、またひとつ仕事がふえちゃったね!」
マクドネルはそういうと、パーティーの終わった朝の舞踏室のような寂しい裏庭から、黙って立ち去っていった。
朝焼けの空に、セント・ポール寺院の円屋根が、ほのぼのと紫いろにそびえていた。
マスターズは足もとの空鑵を蹴とばした。ニューゲート街の方角で、自動車の警笛が織るように鳴りひびき、オールド・ベイリーの法曹学院の円屋根の、金ぴかの正義の像の下を、早くも牛乳車がガラガラ音をたてて走っていた。
十三 ホワイト・ホールの思い出
わたしが自宅へもどったのは六時過ぎだったが、午後の二時ごろ、こっちは前後不覚でぐっすり寝こんでいたところを、誰かカーテンをあけて、朝食がどうしたとかこうしたとかいってる声に、目をさまされた。
寝ぼけ眼《まなこ》に気がついて見ると、ここのハウスの召使中のきけ者のホプキンズが、プロシャの青年将校みたいな金ピカのボタンのついた服を着て、小脇に数種の朝刊をかかえこんで、ベッドの裾《すそ》に立っていた。そして、わざわざ断わるまでもないというふうに、黙って新聞をさしだすと、お朝食の卵とベーコンはいかがなさいますか、お風呂はお召しになりますかと、すこぶる慇懃《いんぎん》丁重にたずねた。
あの当時、イギリスにいた方なら、「黒死荘の恐怖」というでかでかの見出しで、ひろく人心を寒からしめた新聞記事を、どなたもご記憶のことと思う。殺人、謎、怪奇の三つどもえに、桃色事件までがからんでいるという、新聞街の理想的な献立に何一品不足のないこの事件について、あの当時わたしはよく記者クラブで、報道陣の立場から見た意見を聞かされたものだった。しかも、その話が出ると、きっと甲論乙駁《こうろんおつばく》のはげしい議論がまきおこったものだ。あのころはまだ、こんにちほどアメリカ流のタブロイド版の新聞は普及していなかったけれども、その朝、ホプキンズから受けとった新聞紙のいちばん上に、タブロイド版がのっていた。新聞社に事件のはいった時間が、締切り時間すれすれだったために、朝刊には記事が間に合わなかったかわりに、正午版の第一面に、二段抜きの特号活字で、でかでかと掲載されたのである。
わたしはベッドの上に起きあがって、外には雨のそぼ降る、電灯のついた薄暗い部屋で、全部の新聞に目を通し、何とかしてこれが真相だといわれるものをつかもうとしたが、それはむずかしかった。浴室では、浴槽に湯をはる単調な音がしていた。時計、鍵、財布は、いつものとおり化粧台の上にのせてある。ベリー街の狭い坂をおりていく自動車の音と、雨の音がきこえるばかりである。
新聞の第一面は、「殺人鬼またまた黒死荘に出没」という大見出しの下を、ほとんど写真だけで埋ずめつくしていた。中央の挿絵を楕円形にかこんで、各関係者の写真がずらりと並んでいたが、どれも新聞社の参考資料室から出た古い写真ばかりであった。殺人容疑者として並んでいるそれらの顔のなかには、わたしの顔も出ていた。ベニング夫人は、鯨のひげで襟を立てた古風な服に、鍔《つば》の大きな帽子をかぶって、生娘みたいにはにかんでいたし、フェザートン少佐の勲章を帯した軍服姿は、今どきめずらしい浮世絵でも見るようで、好きなビールの鑵《かん》でもさしあげて、万歳でも唱えそうなかっこうだった。ハリデーは、どこかの石段を下りるところを、知らないうちにパチリと撮られたとみえ、首をそっぽに向けて、片っぽの足が宙に浮いていた。マリオンだけがどうやらほんものに似ていた。ダーワースの写真は一枚もなく、そのかわりに楕円形でかこんだ写真のまんなかに、挿絵画家が腕をふるって、頭巾をかぶった幽霊が匕首《あいくち》を逆手にふりかざしている殺しの場が、きびきびした一筆描きで描いてあった。
ダーワースの写真が欠けていることは、むろん、誰かの不注意だったにちがいない。警視庁は、新聞記事にはそうとう強く干渉する権限をもっているから、もしこの記事に誤りがあったとすれば、おそらくそれは、マスターズ警部が自分一個の考えから、故意に事件の怪奇な面を強調したかったのではなかろうかと、わたしはそんなことも考えてみた。事件のあらすじは、だいたい無理なく、まず正確に書いてあったが、われわれ関係者の容疑の点については、ヒントらしいものが何ひとつ書かれていなかった。
不思議なことに、わたしは怪奇な点をいやに強調しているそれらの記事を読んで、それに同調するよりも、かえって何か白々しい感じがした。午後になって、昨夜の黒死荘の余韻や湿っぽさからようやく抜けて、頭がすこしはっきりしてくると、ひとつだけ明白になってきたことがあった。ほかの人は何と思うかしらないが、あのときあの屋敷にいたものは、おそらく一人残らず、どうせ殺《やっ》た奴は死刑になるにきまっている、あんな見事な殺人事件を目《ま》のあたりに見るなんて、まったく千載一遇のことだ、まあまあ運がよかったと、めいめいが思ったにちがいない。もっとも、問題は、そういうことに遭遇したということ自体にあるだろうが。
遅い朝食のあと、そんなことを漫然と考えているところへ、電話が鳴って、フェザートン少佐が階下に見えていると知らしてよこした。わたしは、ゆうべ少佐が約束したことを思いだした。
少佐は、何となく屈託《くったく》ありげな様子だった。雨天にもかかわらず、モーニングを着てシルクハットをかぶり、目を見はるようなネクタイをしていた。剃りたての顎が蝋細工みたいに光って、ひげ剃り石鹸のにおいがしていたが、腫れぼったい目をしていた。
少佐はわたしの書き物机の上にシルクハットを置くなり、そこにあった新聞の自分の写真に目をとめると、さっそく例の調子で、どなりだした。やれ告訴をするとか、新聞記者なんて奴は、その貪欲なことはハイエナにも比すべき輩《やから》だ、ハイエナのほうがまだしも道義心があるとか、さらに、今しがたここへ来がけに「軍人クラブ」でいわれてきたことに、だいぶ激しく食ってかかっていた。話をきくと、なんでも「軍人クラブ」で、どうだ、また降霊会でもやれやれと、みんなから面とむかって太鼓をたたかれたらしく、ある剽軽《ひょうきん》な旅団長などは、わざわざ少佐のうしろへやってきて、ポンと肩をたたき、「大いにやれ、やれ。けっこう小使い稼ぎぐらいにはなるぞ」てなことをいったらしい。
お愛想に、コーヒーをいれて出すと、少佐は辞退したので、ブランデー・ソーダを出してやったら、そのほうには手を出した。
「この写真はな、わしが軍旗に敬礼しとるところじゃよ。けしからん!」
わたしは葉巻を一本おごってやって、やっとのことで椅子におちつかしてやると、少佐は痰《たん》のからんだゼロゼロ声でいった。「どうも弱ったよ、どこへも顔を出すことができゃせん。みんなこれもアンのおかげじゃて。まったくもってこまった。どうもヘマをやってしもうて、われながらどうしてよいか、見当がつかん。それで、こうしてまあご相談に上がったようなわけじゃが……」といって、ブランデー・ソーダをすすり、しばらく考えこんでから、「いえね、けさアンに電話をかけたんじゃ。ゆうべは何や知らんがガミガミいうてな、とうとう家まで送らせんのじゃよ。ところが、けさはだいぶ風向きが変わりよって、えらくうろたえておった。なんでもわしが電話する前に、マリオンから電話があって、あんたは騒動起こしだ、自分もハリデーも、今後もうあんたにはお目にかからんからと、頭からぶっつけにそういって来たんじゃそうだが、それはまあそれとして……」
あとの言葉をわたしが待っていると、少佐はしばらく息をついてから、
「ところでな、ブレーク君」といったが、そこでまたしばらく咳に暇どって、「わたしは昨夜、だいぶいわでものことをしゃべったようじゃったな?」
「客間で物音をきいたという、あのことですか?」
「そう、そう、それじゃ」
「そうですね、あれが本当ならば……」
少佐は苦い顔をして、いやになれなれしくなり、
「いや、あれは真《ほん》のことじゃよ。しかし、あんなことは肝心かなめのことではありゃせんさ。そうじゃろが。要するにじゃ、そのうちみんなもそう思うようになろうが、誰が見てもわかるとおり、まったくばかげたヘマを。われわれのなかの一人がヘマをやったのさ。あんなこと、よせばよかったよ」
「そうすると、あなたの解決はどういうのです?」
「いや、それは困る。わしは何も探偵じゃありゃせん。わしはただ公明な人間で――ただわしの考えるには、わしらのなかの一人が――」少佐は椅子に身をそらして、すこし小馬鹿にしたような、もったいぶった身振りをして、「ま、わしの考えでは、わしらの知らんどこぞの奴が忍びこんだか、さもなくば、あの霊媒の小僧とわしゃにらんどる。なぜというて、考えてもみい、わしらのなかにあんな大それたことをする者は、一人もありゃせんし、だいいちじゃな、あれだけ大ぜいの人間がおった部屋で、あんな危い綱渡りをやる奴が、どこにおるかね? ばかばかしい! それにじゃ、返り血ひとつ浴びずに、あれだけの仕事はできゃせんぞ。わしは黒人が歩哨兵を小刀《しょうとう》で殺しにかかるのをよう見たが、ダーワース老人をあんなふうに斬れば、かならず返り血をべっとり浴びるはずじゃよ。いやあ、そのはずじゃとも」
葉巻の煙が目にはいったのか、少佐はしきりと目をこすっていたが、やがてやおら身を起こすと、膝に両手をついて、
「そこで、わしの申し上げたいことはじゃな、この際、誰ぞ適当な人物の手に、事件を依頼するのがいちばんの道じゃと、こう思うてさ。その人物の目星も、わしにはついとるんだ。貴公もご存じの人物よ。しかし、なにせ手のつけられんものぐさな男じゃからな。もっとも、先方の身分を立てて、ひとつよろしくといって頼みこめば……」
わたしは久しい以前のことを、ふとそのとき思いだして、立ちあがった。
「あなたのおっしゃるのは、H・Mのことでしょう? 元諜報局長の? あだ名がマイクロフト……」
「さよう、ヘンリー・メリヴェール卿じゃよ。その通り」
本庁の事件にのりだすH・M。……わたしはまたしても、一九二二年以来訪ねたことのないホワイト・ホールの階上の一室を思いだした。無類のものぐさで、いつも眠そうな目をして、ニタリニタリしながら、大きな腹の上に両手を組み、机の上に片足をのせて、椅子からずり落ちそうな格好をしている、無類の饒舌家。趣味の第一は、赤本小説を読むこと。不平の第一は、世間の人間が自分のことをまじめな人間にあつかってくれないこと。弁護士の資格ももっていたし、医者の資格ももっていたが、一方また、無類の毒舌家でもあった。位階は従男爵、ヘンリー・メリヴェール卿、しかも終生闘志満々たる社会主義者であった。底抜けのうぬぼれ屋で、また、しゃべらせたらいくらでもタネのつきない猥談の大家でもあった。……
わたしはフェザートン少佐を眺めながら、ひと昔前のことを思いだした。メリヴェール卿がマイクロフトと呼ばれはじめたのは、かれがイギリス諜報局長をしていた時代のことであった。新参の若手の部下たちは、かれのことをヘンリー・メリヴェール卿などと呼ぶのが、何となく板につかず、くすぐったかったのであろう。マイクロフトという仇名を献じたのは、ジョニー・アイルトンという男で、この男はコンスタンチノープルからよこした手紙のなかで、こんなことを書いてきた。――
「ベイカー街の隼《はやぶさ》のような顔をした紳士の物語のなかで、最もおもしろい人物といえば、これはシャーロック・ホームズではなくて、その兄のマイクロフトです。ご記憶のことと思いますが、マイクロフトは弟のシャーロックよりも、はるかに推理力に長じ、ただものぐさゆえにそれを用いなかっただけで、大きな図体をして、動作ものろく、椅子からおいそれと腰を持ちあげようともしない男です。たしかかれは、政府のある秘密部門に籍をおく要人で、自宅――クラブ――役所、これがかれの軌道であって、この軌道だけをかれは往来していました。シャーロック・ホームズの物語には、たしか二篇だけに顔を出しているはずですが、ダイオゲニス・クラブの窓べにシャーロックとマイクロフトが立って、おりから下の街を通る一人の男について、おたがいの推理を交換しあうという、みごとな場面がありましたね。二人ともしごく何気ないふうなのに、それを見た気の毒なワトソンのほうが、かえって目がくらんでしまう、といった情景だったと思います。……そこで申し上げたいのは、わがヘンリー・メリヴェール卿が、もう少々品位をたもち、ネクタイをつけることをつねに忘れず、タイピストの大ぜいいる部屋を、いかがわしい歌なんか鼻唄にうたいながらブラブラまわって歩かなければ、りっぱなマイクロフトになれるはずです。頭脳だって、ほんもののマイクロフトに劣らぬほどの持主なんですから……」
こういう手紙だったが、ところが本人のH・Mは、この名誉ある仇名を使うことに、あまりいい顔をしないどころか、少々おかんむりの気味でさえあった。「おれは人の模造品なんかにゃならねえぞ」そういって、ぼやいていた。
わたしは一九二二年に役所をやめてからのち、H・Mには三度しか会っていない。そのうち二度は、わたしが何かのことで招ばれていったダイオゲネス・クラブの喫煙室で会ったのだが、二度ともかれは居眠りをしていた。三度目は、メイフェアで大きな宴会のあったときだったが、そのときには夫人にひっぱり出されてきたらしく、どこかにウィスキーをやるところはないかと、ダンス場からフラフラ抜け出してきて、執事の食器部屋のあたりをうろついているところへ、ひょっくり出会ったのである。だいぶ閉口している様子だったから、わたしはレンディン大佐を誘って、三人でポーカーをやったが、そのときの大佐とわたしの負けが、合計十一ポンド十六シリングだったと記憶している。そのときも、昔の話がいろいろと出たが、当時は陸軍情報部に首をつっこんでいるらしかった。太い親指で、カードをパチリ、パチリとはじきながら、「いい時代はもう過ぎたよ。当節の世の中は、頭のある人間には、退屈でしようがねえや。そんなわけで、おれもこのごろはだいぶみみっちくなってな、エレベーターに乗るのを倹約して、近衛騎兵隊の馬場の見える五階の部屋まで、えっちらおっちら階段を上がっていく始末だぜ」と苦笑まじりに、そんなことをもらしていた。
フェザートンがさっきから何かしゃべっていたが、わたしは半分うわの空で、若かりし日のことどもをあれやこれやと思いだしていた。あの時分は、一日二十四時間を、青春はつくづく楽しいものと思いながら、ただもうへちゃむちゃに毎日を過ごし、ドイツ帝国の双頭の鷲の尻尾の羽根を、一枚でも二枚でももぎとるのが、最大の愉快とも義務とも考えていたのである。……
雨はあいかわらず、単調な音をつづけている。フェザートンの声が高調子になった。
「……どうしますかな、ブレーク君。車を拾って、まっすぐに行かんかね。電話なんかかけたら、今忙しいからと断わるにきまっとるよ。断わっておいてからに、また小説本に逆もどりじゃ。どうじゃね、出かけようて。――」
この誘惑は大きかった。
「ええ、すぐ出かけましょう」とわたしはいった。
雨は本降りになっていた。われわれの車はペルメル街を走り、いかにもイギリスの街らしい風格のある、どっしりとした家並の間を五分ほどで通りぬけると、やがてエンバンクメントとホワイト・ホールをつなぐ、木立の多い道路をしばらく走っていった。雨に濡れた庭園にかこまれて、陸軍省の建物も、きょうは陰気に見えた。人の出入りのせわしい正面玄関から少しはなれた、庭先の石塀に接したところに、ちょっと人目につかない通用門がある。そこをくぐって、小さな薄暗い入口から中へはいると、そこは目をふさがれたようにまっ暗で、そこから二階へ階段をのぼっていくと、書類戸棚をギッチリすえた、タイピストのいっぱいいる、電灯のこうこうとついている部屋がいくつも並んでいる。湿っぽい石材のにおいと煙草のにおいのしみこんだ、この古びた石室みたいな建物のなかで、そこは驚くばかり近代風であった。(ちなみに、ここは旧ホワイト・ホール宮殿の一部である)ほかは、なにもかにもが昔のままだった。いまだにそこらの壁には、二十年前の色あせた戦争のポスターなどが貼ってあった。人は老い、時はなお静かにそこにたたずんでいる無量の感慨に、思わずわたしは胸が熱くなった。――うら若い士官たちが佩《はい》剣をかかえては、口笛を吹きながら昇り降りしたこの階段。河岸《かし》のほうから流しの手風琴の曲などがきこえてくると、みんなそれに合わせて、陽気にタップを踏んだものだ。いまのぼってきしなに、階段の上に煙草の吸殻が踏みにじってあったが、あれだって、世が世だったら、ジョニー・アイルトンかパンキー・ナップ大尉が捨てたものだったかもしれない。そのアイルトンは、メソポタミアで熱病にかかって戦病死してしまったし、ナップ大尉はメッツの戦線で、小銃隊に襲われて、これもあえなくなりにけりだ。してみると、おれなんか運がよかったんだなと、ふだんは考えてもみないことに、わたしはしみじみ自分で気づいた。……
四階へいくと、そこの受付に、これも昔なじみのカーステア曹長がいた。受付室から体をのりだして、ご法度《はっと》のパイプをくわえているこの曹長も、昔と少しも変わっていなかった。おたがいに頭を下げあうのも異なものだったが、一別以来の挨拶をのべてから、メリヴェール卿に会う約束がしてあるんだというと、曹長は嘘っぱちと承知しつつも、昔のよしみで、そうかとうなずいてくれたが、何やら怪訝《けげん》そうに、「だけど、それにしちゃおかしいな。今へんな奴が下から上がってきたぜ」曹長は、その「へんな」を片目にいわせて、「警視庁の奴だそうだ」
フェザートンとわたしは、顔を見合わした。カーステアに礼をのべて、われわれは急いで暗い階段をのぼっていった。踊り場のところで、その「へんな奴」が、メリヴェール卿の部屋の扉をノックしようと手を上げているところを、わたしは見つけた。
「マスターズ、へんなまねをしなさんなよ。副総監から文句が出ましょうぜ」
マスターズはちょっとムッとしたようだったが、すぐに顔色がなごんだ。さすがに陸軍省の煉瓦の建物の中だけに、髪もきちんと分け、身のこなしも重々しく、いつもの飾り気のない、頑固一徹のかれがそこに立っていた。昨夜のあの取り乱しようを話したら、それこそこっちもびっくりするし、当人もさぞ驚くだろうと思われるほどの変わりようであった。
「やあ、あんただったのか。おや、フェザートン少佐もごいっしょ? よくおいででしたな。こっちは副総監の許可はちゃんともらってきてありますよ」
踊り場のうす暗い光線のなかに、わたしはなつかしい扉口を見ることができた。「サー・ヘンリー・メリヴェール」としるした厳めしい標札の上に、「忙中謝客」と白ペンキででかでかと書いてあるのも、昔の通りである。その下に、あとから思いついたとみえて、「コレハオマエノコトナリ」と断わり書が添えてある。マスターズはそんなことはおかまいなしで、扉の把手《とって》をまわすと、ずかずか中へはいっていった。
部屋のなかも、昔とちっとも変わっていなかった。天井の低い部屋で、庭園と河原を見おろす大きな窓が二つあり、室内は昔のとおり散らかし放題で、書類、パイプ、図面、反古《ほご》袋などが山になっている。大きな事務用のデスク、その上も同じく紙屑だらけで、そのむこうの皮張りの椅子のなかに、メリヴェール卿の大きな体がすっぽりとめりこんでいた。電話器ののっているデスクの上に、白い靴下をはいた大きな足を片っぽ、デンとのせ、鵞鳥の首みたいな屈折自在なスタンドに灯がともっているが、スタンドの首をグッと低く曲げてあるので、光線はデスクの上だけを照らしていた。うしろの影になっているなかに、あるじのうすぎたない禿げ頭が前こごみにうつむいて、べっこう縁の太い眼鏡が、鼻のあたまにずるっこけていた。
「やあ、こんちは!」フェザートンが扉の内側をたたいて、しゃがれ声をかけた。「おい、ヘンリー! あのな――」
メリヴェール卿は片目をあいて、
「こらっ、出て行け!」と身がまえして、どなりつけた。その拍子に、膝の上から何か書類らしいものが床の上にすべり落ちたので、なおもかさにかかって、どなりたてた。
「出ていけというのに! 忙しいのがわからんのか! ……出て行け!」
「貴公、眠っとったな」とフェザートンがいった。
「ばかいえ、眠っとりゃせんぞ。沈思黙考しとったんだ。ものを考えるときには、いつだってそうする。それとも何か? この部屋には、心の閃きに思いをいたすほどの安住がないとでもいうのか?」
メリヴェール卿は、やっとのことで皺だらけの無表情な顔をこちらに向けると、今まで怒っていた顔が、たちどころにフニャフニャと変わった。大きな口がニヤリとまくれ、まるで朝食のゆで卵でもかぐような顔をして、大きな腹のうえに両手を組んだまま、眼鏡ごしにわれわれのほうをジロリとうかがい、打診するような口調で、
「おいおい、誰なんだ。そこにいるのは? ……何だ、君か、マスターズ。いや今ね、君の調書を読んでたところなんだ。もうしばらくそっとしておいてもらえたら、何か知恵が出たのかもしれんが、まあいいさ。来たんならこっちへはいりたまえ」と胡乱《うろん》な顔つきでこっちをのぞいて、「おい、いっしょにそこにいるのは、誰だい? 今忙しいから、帰ってもらおう。またゴンチャレフ事件か。それなら、ヴォルガ河へ身を投げろと、そういってやれ。こっちにゃネタが上がってるんだから」
フェザートンとわたしが来意をのべに顔を出すと、メリヴェール卿はあきれたような声を出して、きゅうに相好《そうごう》を崩した。
「何だ、君たちなのか。君たちなら、かまわんよ。さあ、ずっとこっちへきて、そこらへかけてくれたまえ。……何はともあれ、一杯いこう。ブレーク、支度をしろや。いつものところにあるから、勝手に出してくれ」
こっちは心得ていた。壁にかけてある写真とトロフィーの数が、いくつかふえているほかは、何もかもが、昔のままだった。赤くなった|おき《ヽヽ》がカンカンしている白い大理石の暖炉の上には、あいかわらず、フーシェの描いた、メフィストフェレスめいた肖像画がかかっている両脇に、日ごろ、おのれの拙《つた》ない文才を多少でもあやかりたいと念じている二人の作家、チャールズ・ディケンズとマーク・トウェインの小影がかけてある。暖炉の両脇の壁は、書物を乱雑に詰めこんだ書棚で、その一方の書棚と向かいあいに、鉄の金庫がすえてある。金庫の扉には、主人一流の茶目っ気で、「重要機密書類、手ヲ触ルルべカラズ」と白ペンキで書きなぐってある下に、同じ文句をドイツ語、フランス語、イタリア語、ロシア語で書きそえてある。ここの主人は、部屋のなかにある調度類に、何でもおもしろ半分にそういう貼紙をする癖があった。だから、ジョニー・アイルトンなどは、あの部屋へいくと、まるで、「不思議の国のアリス」の国へ行ったようだと、よく言い言いしたものである。
金庫にはいつも鍵がかかっていないから、勝手知ったわたしは扉をあけて、中からウィスキーの瓶とサイフォンと、薄よごれたグラスを四人分とりだした。わたしが酒の支度をしている間も、メリヴェール卿はひとりでさかんに何かしゃべりまくっていた。抑揚のない、この人特有ののべたらな語り口であるが、きょうはなぜかいつもよりも、だいぶ虫の居どころが悪そうであった。
「おれはね、ここんとこずっと葉巻はのまんでおるんだ。甥のホーレスが――フェザートンはご存じだろう、レッティーの伜だよ。まだ今年十四歳の小伜だが、そいつがおれの誕生日に、クレイの葉巻を一箱祝ってくれたのさ。(まあ、そこへかけたら、どうだね。絨氈《じゅうたん》に穴があいとるから、足もとに気をつけて。みんな来る奴が足をひっかけるんで、だんだん穴が大きくなる)だけど、おれはその葉巻をのまんのだ。どうも手が出ない。なぜってか?」H・Mは手をあげてマスターズを指しながら、こわい顔をして、「じゃ、そのわけを話そう。つまりだな、その葉巻がドカンと爆発しはせんかと、おれは思ったのさ。むろん、確かなことはわからんがね。かりにも甥ともあろうものが、叔父に爆弾をしかけた葉巻をくれるなんて、そんなばかなことがあるものかといって、誰も真《ま》に受けてくれんのだな。それでおれは、よし、それならと思って、その葉巻を内務大臣にくれてやったよ。今夜あたりまでに何ごともなければ、また返してもらおうと思ってるが、そんなわけで、今のところはパイプをやってるんだ。どこかそこらにあるだろう。……」
「ところでな、ヘンリー」しばらくぜいぜいいいながら、相手の様子を眺めていた少佐が、たまりかねていった。「わしら、火急《かきゅう》の用件があって来たんじゃがね――」
「まあまあ、いいさ」とH・Mは片手をあげて、「いいから、まあ待てって。まず一杯やってさ」
これがこの人のおきまりであった。少佐はじりじりしているようであったが、わたしはグラスを配って、めいめいに注いでまわった。マスターズはまじめくさった顔をして、落としたら大変だというような格好で、グラスをしっかり握っていたが、いかにもありがた迷惑な様子であった。H・Mはいやにもったいぶって、「おほん」とひとつ咳ばらいをしてから、ひと息にグラスを飲みほすと、ほっとしたように机の上の足を直して、フーッと息を吐いた。それからまっ黒けなパイプを手にとって、椅子にふんぞり返ると、田地田畑《でんちでんぱた》何でも持ってけといった、欲も得もない格好になった。顔つきはべつに変わらないが、まずは美味を腹いっぱい食べたあとの中国人といったていたらくであった。
「ようやくちっといい心持になってきた。……君たちが何でやってきたか、そんなことはわかっとるさ。ちょうど退屈で困っとったところだ。ところで――」と小さな目をパチクリさせて、一座の顔をひとわたり見渡してから、「副総監の許可はもらってきたのか?」
「はあ、この通り、直筆でもらってきました」とマスターズがいった。
「そうか。じゃ、ここへ出しなさい。フォレットはあれでもののわかった男だからな」としぶしぶ認めて、「君の部下なんかとは、だいぶ違うさ」そういって、小さな目でマスターズの顔をじっと見すえたのは、君の日ごろの人の使い方は知ってるぞ、という表情であった。「そうか、フォレットにいわれて、おれのところへやってきたのか。君のやり方を――事件の煮詰め方を、大将、手ぬるいと見たんだな?」
「まあ、そんなところです。副総監のお考えは――」
「あの男は間違ったことはいわんよ」H・Mは大きくうなずいて、「君が手ぬるかったのさ」
長い沈黙がつづいた。雨はしきりと窓をたたいていた。わたしはスタンドの黄いろい灯火が照らしている机の上に目をやった。机の上には、タイプで打った分厚な調書と、パイプの灰殻がいっぱい散らかったなかに、濃い青鉛筆で何か書きなぐった大判の罫紙《けいし》がひろげてあり、罫紙の頭には、H・Mの筆跡で「黒死荘」という題がついていた。なるほど、マスターズ警部がすでに調書を提出したのなら、事件の内容は何もかも承知のはずだと思ったから、わたしは尋ねてみた。
「何かお考えがおありなんですか?」
H・Mは大儀そうに机の上の足を動かし、その足で罫紙をたたいて、「考えはいくらだってあるさ。ただ、そいつがまだどうも一本にまとまらないんだ。君たち三人から、いろいろ話を聞きたいと思ってるが、こりゃしかし、なかなか厄介な事件だぜ。いちど、あの屋敷を見に行かなくちゃならんかもしれんな。……」
「ええ、どうぞ」マスターズが元気よくいった。「電話をちょっと拝借すれば、三分以内に車をこちらへまわさせます。ここからなら、十五分もあれば黒死荘へ――」
「話の途中で、つべこべ口を出すな、ばか!」H・Mはきびしい口調でいった。「黒死荘だと? 冗談いうな、誰が黒死荘だなんていった? おれのいうのは、ダーワースの自宅のことだ。せっかくこのぬくぬくした椅子を立って、何がほかのとこへなんか手間をかけるか? ばかな。世間がそう思って見てくれれば、おれもうれしいんだがね」と先太《さきぶと》の指をひろげて、あいかわらずの渋面で、しばらく自分の掌を見つめていたが、またプリプリした声になって、「だいたいだな、イギリス人の悪いところは、だいじなことをまじめに考えんことだよ。じっさいもう、ほとほと愛想がつきるな。おれがフランスへいってたときには、むこうの奴らは、おれに勲章をやるといって、さかんに提灯をもってくれたぞ。それにひきかえて、これがわが血肉をわけたイギリス人だったら、いったい何をすると思う? ひとつうかがいたいもんだね」と一座を見まわして、「この国の奴らは、おれの勤め先をきくと、妙な顔をしやがるんだ。おれのそばへそっと寄ってきやがって、不思議そうにおれの顔をジロジロ見やがって、桃色のべロア帽をかぶった怪しい外人の正体は、もうわかったかの、国会議事録二号に関して、2XYは何をしているかの、それの偵察に、K14をヴェールをかぶったテュアレグ人に変装させて、バルキスタンへ送ったかのと、そんなことをうるさく聞きゃあがるんだ」
H・Mは咳ばらいをして、さかんに手をふり、目を輝かしながら、「もっとひどいのになると、中国人にいくらか金をつかませて、名刺を持たせて、ここへ使いによこす奴なんかがある。……いや、先週なんざ、階下の役所から電話がかかってきて、アジア人の紳士がおれに会いたがっているといって、名前まで教えてきやがったから、おれは電話口でどなりつけてやったよ。そんな奴は追い返しちまえと、受付のカーステアに怒ったところが、あとでそいつが中国公使館からきた、フー・マンチョー博士とわかってね。チャンチャン大使がうるせえことになったもんだから、こっちは君、北京へ陳謝の電報を打つ騒ぎさ。それからまだある。――」
フェザートンがたまりかねて、ゴホンゴホン咳き入りながら机をたたいて、咳の中からやっと声を出していった。「おい、ヘンリー、わしゃさっき、火急の用件だといったろう。その火急の用件を、貴公に依頼しようと思うて、わざわざこうしてやって来たんじゃよ。このブレーク君にも、ついさっき、わしゃいうたんじゃ。『この事件は、ひとつヘンリーに依頼しよう。あの男なら、イギリスの支配階級はグウの音も出んから』というてな。――」
案の定、H・Mは目をむいて、文字通りプーッとふくれだした。この頑固一徹の社会主義者を「うん」をいわせるには、フェザートン老人のいい方は、たしかに相手をおびきだすやり方ではなかった。
風雲急なりと見たから、わたしはあわてて横あいからいった。
「冗談冗談。少佐はからかっておいでなんですよ。少佐だって、あなたの考えは心得ておいでですよ。いえね、ほんとはこういわれたんです。おたがいに、少佐もわたしも、あなたを最後の綱と頼んでいる点では同じ意見なんですが、でもわたしの見るところでは、ヘンリー卿は、とてもこの事件にはお乗り出しにはなるまい。まるっきり畑違いの事件なんだから。あの方が、こんな事件に首をつっこむなんて、それこそ考えるだけでもばかくさい……」
「おい、ブレーク」とH・Mはジロリと流し目をくれて、「貴様それ、本気で賭けるか?」
「じゃうかがいますがね、あなた、そこにあるその調書は、全部お読みになったんでしょうね?」とわたしは念を押した。
「うう。けさマスターズが送ってよこしたんだが、どうしてなかなかりっぱな調書だよ。まず第一級だな」
「その自供のなかに、何かおもしろい、手がかりになるようなものがございましたか?」
「あったね」
「たとえば、誰の証言にです?」
H・Mは、またもや自分の手の指に眺め入りながら、口をとんがらかして、目をぱちぱちさせていたが、やがてぶっきらぼうな声でいった。
「うん、まず第一にラティマー姉弟、マリオンとテッドのいったことに注目してもらいたいな」
「あの二人が怪しいと?」
フェザートン少佐が食ってかかった。H・Mの無表情な目が、少佐の上に動いた。そして、何やら考えこんでしまった。どうやら自分の頭のなかへそっと閉じこもって、中から錠をおろしてしまった、というふうであった。いつもこうなのだが、いったんそうやって閉じこもってしまったら、しばらくの間、好きなように部屋のなかをぐるぐる歩かしておくよりほかに、手はない。やがて頭の扉があいたとみえて、口をきりだした。
「いや、怪しいかどうか、まだいえんさ。要は、あの二人とじかに話し合ってみたいというのさ。しかし、この部屋からのこのこ出ていくのは、ごめんだぞ。警視庁に花を持たせてやるために、だいじな靴の底を減らしたかないからな。とにかく、どっちへ転んでも、厄介なこった」
「それはしかし、せっかくですが、もうできませんな」とマスターズが重々しい声でいった。声の調子に、思わずみんなに顔を見つめさせるものがあった。警部の胸中に何があるのか、事件に何か新しい進展が生じて、それで気をもんでいるのか、それらはすべて、つぎに答えたかれの短い言葉のなかに包含されていた。
「できないって、何が?」
「テッド・ラティマーに会うことがです」とマスターズは身をのりだしていった。声がいくらかふるえをおびていた。「奴、逃げました。ドロンしました。鞄をひとつ持って」
十四 死んだ猫と死んだ妻たち
誰もものをいわなかった。フェザートンが何か文句ありげに居ずまいを直したが、それもただそれだけであった。雨の音が、静かな部屋のなかに、しだいに大きくなってきた。マスターズは、胸の重荷をやっとおろしたというおももちで、大きな息をひとつ吸うと、手帳と書類のいっぱいはいった封筒をとりだして、中身の書類の仕分けをはじめだした。
「そうか、逃げたか?」H・Mは目をしばたたきながら、「そいつは――おもしろいな。何かわけがあるかもしれんし、あるいはないかもしれん。いちがいにはいえんわな。でも、おれがもし君の立場だったら、何もそうあわてて飛びつくようなことはせんぞ。――ふん、それでどんな手をうったんだ?」
「わたしに何ができるもんですか。検死陪審で殺人の情況も申し立てられんものに、殺人の逮捕状が出せますか? 残念ながら、出せませんよ」マスターズは不愛想にいった。その顔は、この二十四時間をぶっ通しで寝なかったことを、まざまざと現わしていた。かれはH・Mの顔を正視しながら、「警察の者としては、これ以上失敗をくり返さんこと、捜査を遅延させんこと、これがわたしの考えです。新聞には『犯罪捜査課の警部が、心霊学にうつつをぬかしているまに、つい目と鼻の先で凶悪な殺人が行なわれたとは、いやはや何ともうかつ千万』といってたたかれるし、そのうえ、つい鼻の先で短剣を盗まれたことまで、でかでかと書き立てられたんじゃ、まったくもう立つ瀬がないですよ。けさも副総監にまっこうからそいつをつきつけられたです。それで、あなたに何かお考えがおありでしたら、ぜひひとつご教示願いたいと思いまして……」
「いや、弱ったね、どうも」H・Mはしゃがれ声でそういって、自分の鼻の先にじっと目をすえていたが、「だけど、君はいったいそうして何を待ってるんだね? どんどん話を進めたら、いいじゃないか? 事実を述べたまえな。ぐずぐずしてる奴があるかよ。――きょう、君のしたことを話してみたまえ」
「すみませんです」マスターズは書類をひろげだした。「多少手がかりになることはつかんだのです。本庁へ帰ると、すぐにダーワースに関する古い記録を出してきて、調べてみました。その一部はすでにあなたにも報告いたしましたが、この件はまだ申し上げてありません。ダーワースの最初の妻、エルジー・フェンウィックがスイスにおったときの毒殺未遂事件、それにつづく失踪事件、これはお読みになりましたな?」
H・Mはのどの奥で「うん」とうなずいた。
「ところで、その事件には、一人の女性が関係しておるのです。重要人物かどうか、見ようによってはそうのようでもあるし、あるいはそうでないかもしれませんが、その女は女中でしてね、この女中が、エルジーが服毒するところを見たと証言して、ダーワースの危いところを救ったのです。わたしはこの女中に好奇心をもって、いろいろ調査してみますと」と警部は赤く濁った目を書類から上げて、「この通り、いろんなことが出てきたのです。毒殺未遂事件は、一九一六年の一月にベルンで起こっておって、女中の名前はグレンダ・ワトソンと申しますが、このグレンダは、エルジーが一九一九年の四月十二日に、サレーの新居から行方不明になったときも、同家におって、エルジーにつき添っております。その後、この女はイギリスを去って……」
「うん、それで?」
「じつは、今朝八時に、ダーワースの第二の妻について、フランスの警察へ照会の電報を打ってみました。あちらは、ご承知のとおり、犯罪者はもちろんのこと、住民はいちいち住民登録にのっておりますのでね。これがその返事ですが――」
警部は一通の電報をH・Mにわたした。H・Mは、ろくすっぽ見もしないで、わたしにそれをまわしてよこした。
ジョチュウ ノ ナ ハ グレンダ・ワトソン。一九二六・六・一、パリシ ダイニク デ・ビーユリョカン ニテ ロジャー・ゴードン・ダーワース ト コンイン サイキン ハ ニースシ エドワール七 デイヴリソウ 二 キョジュウ ノ ヨシ イサイコービン
パリ ケイシチョウ デュラン
「どうだ?」H・Mは目をぱちぱちさせながら、わたしに尋ねた。「君はどう思う? ――なあマスターズ、おれはね、どうも君がとんでもない見当違いをやらかしてるように思えるんだがね。グレンダ・ワトソンという名前は、どうも本名じゃなさそうだぞ。そんな気がするな。ニースの山手あたりに、グレンダという女の正体を知ってる奴が、誰かしらいるだろう。――しかし、えらいな、よくそこまで調べたな。ブレーク、君はどう思う?」
わたしはいった。「一九二六年の六月一日というと、七年何ヶ月かかっていますね。奴ら、法律にはものすごく明るいんだから、エルジーの死亡が法的に確認されるときまで待っていて、そのうえで奴ら、結婚したんですよ、これは」
「わしはそうは思わん」とフェザートンが体をゆすり上げるようにして、横あいからダメを出した。「わしの思うには……」
「あんたは黙っていなさい」とH・Mが峻厳《しゅんげん》な声でいった。「そりゃブレークのいう通りだ。合法的なものにしたのさ。そこがまた興味ある点でもあるな。グレンダという女が、それほどまでにする値打ちのある女だったのかな? つまり、ダーワースはいくらか金をつかんだのかな?」
マスターズがニヤリとした。さっきよりも、だいぶ確信がもててきたように、
「金をつかんだかとおっしゃるのですか? ははあ、まあ聞いてください。こんどの事件が新聞に出たあとすぐに、ダーワースの弁護士からわたしのところへ電話があったのです。偶然というか、運がいいというか、スティラーというその弁護士は、わたしの熟知の男なんですよ。で、さっそくとんでいくと、先生、窓から外を見ながらエヘンとかオホンとかいって、しきりにもったいつけていましたが、けっきょく問いつめたところが、ダーワースには二十五万ポンドの地所が遺産としてのこされておるというのです」
フェザートンはヒューと口を鳴らして驚いた。マスターズはどんなもんだといわんばかりの顔つきで、一座を見わたしたが、ところがこの報告は、H・Mにはまったく予想以上の反応をあたえたようであった。かれは魚のような鈍い目をまんまるくしたと思うと、いきなり眼鏡をはずして、やけにそれを宙で振りまわした。今にも机の上から足がすべり落ちるか、椅子がうしろへひっくり返るかしそうで、わたしはそばで見ていて、ハラハラした。
「してみると、金じゃなかったんだな」とH・Mはいった。「見ろ、やっぱり金じゃなかったんだ! あたりまえさ」にこりともしないが、いかにも満足そうな顔つきで、まっ黒けなパイプを眺めていたが、火をつけるのが面倒なので、そのまままたドタリと椅子にのけぞると、腹の上に両手を組んで、「マスターズ、いいから話をつづけた、話を。その先が聞きたい」
「何かお目当てがあるんですか? ――それでね、スティラー弁護士からじかに聞いたんですが、ダーワースには他に親類縁者は一人もないので、遺産は全部妻が相続するんだそうです。その女のことを、スティラー君は何とかいってたな。――『女中タイプではなく、ちょっとあか抜けのした、髪の黒い女』だとか何とか……」
「よし、ストップ!」とH・Mはいった。「それで君は、その女がやってきて、金のためにダーワースを殺害したと、こういうのか? ウフッ、冗談じゃないぜ。自分でわざわざやってきて、名義人をばっさり殺《や》るなんて、そんなのは探偵小説にもならないぜ。これはね、誰かわれわれの知らない奴で、事件に関係のない奴がいるんだよ。まあ、そううなることはないさ。なぜってか?」とマスターズにパイプをつきつけて、「それはな、この犯行を計画した人物は、探偵小説の筋書を考えて仕組んだんだ。じつに巧妙だよ。このおれが感心するくらいだものな。あの密室の趣向なんてものは、じつに手に入ったものだ。しかも、水ももらさない完璧さで、そいつをズバリやってのけてさ、あとはこっちに首をひねらせるというんだから、たいしたものだよ。ありゃあ幾月もかかって練り上げたんだな。ちょうどあすこの屋敷へ、ああいう目的で大ぜい人が集まるときを見こんで、万事をジワリジワリと持っていったのさ。……しかもだ、あの晩の連中が、しぜんと犯人の身代わりになるように仕組んである。たとい計画が|ぐれはま《ヽヽヽヽ》になったところで、そのときは、ちゃんとジョゼフに容疑がかかるようになっている。あの霊媒が、あの晩あすこにいたのは、そういうわけさ。でなければ、あの小僧は必要がなかったわけだよ。いったいあの小僧が、ダーワースに気づかれずに、ダーワースからモルヒネを必要分だけ、ちょろまかされると思うかね? ダーワースが知って知らないふりをしていたからこそ、盗めたんじゃないか? そうだろう?」
「ですけど――」とマスターズが異議をはさみかけた。
「まあ待て、ちょうどいいから、もう少しそこんとこをほぐしてやろう。――ジョゼフは麻薬中毒患者で、しじゅう薬をちょろまかしては、自分で注射を打っていたと。これはよろしいな。しかも、あの小僧は、いつもいっしょにいたと。ところで、麻薬患者という奴は、自分のしたことを、ちゃんと筋道を立てて話すことができない。これが麻薬患者の識別法だ。こんなことは、イギリス人なら誰でも知ってら。ところで、ジョゼフは、そういう麻薬患者であるうえに、さらに霊媒ときているんだから、こりゃもう、どっちみち、嫌疑の圏外にいられるわけだ。君たちだって、お膳立てがすっかりできあがったあとへ飛びこんだあの小僧のことは、局外者としか見えんだろう。それはつまり、今いったようなわけだからさ」
ふだんより少し早口だったが、まるで居眠りしながら電話でもかけているような、変化のない語り口であった。
「ちょっと待ってください。バス、ストップ!」とマスターズがいった。「今うかがったことですがね、『あの連中がしぜん犯人の身代わりになる』といわれましたね。それから、ダーワースのことも、何とかいわれましたね。そしてその前に、これは誰かが探偵小説の筋書通りに仕組んだことだ、とおっしゃったようでしたが……」
「そうだよ、そういったよ」
「では、それを誰が仕組んだとお考えなんです?」
H・Mの小さな目が、キョロリとした。顔は渋い顔の立て通しで、組み合わせた両手の親指を、チョッキの上でクルクルまわしていたが、目だけはおもしろがっているふうであった。その目をパチクリ動かして、
「よし、ではいって聞かせる」とH・Mは、急に自信をもつことを決意したようにいった。「それを仕組んだ張本人はダーワースだ」
マスターズは、鳩が豆鉄砲をくったように、口をパクパクさせて、H・Mの顔を穴のあくほど、まじまじ見つめた。一座が鳴りをしずめたなかで、階下の扉がバタンとしまる音や、河岸を走る自動車の爆音がきこえた。やがてマスターズは、何を思ったかお辞儀をひとつすると、思慮を踏まえる覚悟をきめた人のような、おちつきはらった調子でたずねた。
「そうすると、あなたは、ダーワースが自殺をしたとおっしゃるのですか?」
「いや、違うさ。自分で背中へ三ヶ所も深い突き傷を突いて、さらに返す手でとどめを刺すなんて、そんな器用なまねが人間わざでできるかね? できっこないさ。……だから、どこかしらに、ただごとでないことがあるというのさ」
「と、なにか災難ごとみたいな?」
「ばかいいなさい。災難ごとで、あんなふうに人間が滅多斬りにあうかよ? 短刀がコックリさんみたいに、ひとりでに動くとでも思うのか? そんなわけないだろうが。ただごとでないことが、どこかにあると、おれはいったんだぜ。――ちょっと、誰かマッチ貸してくれ。……うん、すまん」
「どうも乱暴じゃな……」フェザートン少佐はあきれ返って、咳きこんだ。
H・Mは咳き入る少佐をジロリと見やってから、話をつづけた。
「まだ、もう少しいえるぞ、マスターズ。もっとも、例の足跡がひとつもないことやあの密室の謎は、おれにもまだ解けんが、これもいずれ解いてみせる。しかし、ちょっと気味が悪いな、あれは。みんなあれを幽霊のしわざと思ってるようだな。
ところで、君はダーワースが昨夜、何か心霊的な芝居を打つつもりだったと考えたんだね。そうなんだよ、奴はそのつもりだったんだ。あれが奴の仕組んだ通りにいけば、それこそ奴は、世界中の大評判になったはずだ。そのうえ、マリオン・ラティマーをあれでおどかして、手も足も出なくさせて、命乞いまでさせたあげくに、まんまと自分のものにしたはずだよ。それが奴の望むところだったんだから。え? いや、おれは何も君に、この話を押し売りしているわけじゃないぜ。君のほうに思い当たるふしがないというんなら、もういっぺん調書を読み返してみな。……
ダーワースには共謀者がいるね。あの暗闇に坐っていた五人のなかの一人が、かれの芝居の演出を手伝うことになっておった。ところが、その共謀者が筋書通りに動かなかった。かねての手はずどおりにしないで、共謀者はあの石室へいって、奴をバッサリ殺《や》った。――ダーワースが筋書を考えて、道具立てもちゃんとそろえておいたんだから、殺人は何の支障もなく、トントン運んだはずさ。……」
マスターズは身をのりだして、机の縁を両手でつかんでいった。
「やっとわたしもわかりかけてきたようです。そうすると、あの密室は、ダーワースの意志から出たのだとおっしゃるのですな?」
「そうさ、奴が自分でしたのさ」H・Mはプリプリした調子で答えると、パイプを吸うつもりでマッチをすったが、つけた火はすぐに消えてしまった。それでもパイプに火がついたつもりで、平気でパッパッ吸っているので、マスターズが見かねて、新しくすったマッチをテーブルごしにさしだした。警部が火のついたマッチをさしだしているのに、H・Mはそんなことにはおかまいなしで、しゃべりつづけた。「そうでもしなければ、奴は幽霊のしわざだということを、世間に示せないからな。奴の思うツボをよ」
「その、奴の思うツボというのは、いったい何だったのですか?」とマスターズは尋ね返した。
H・Mは、机の上にのせていた片っぽの足をやっとこさで下へドタリと下ろした。そして、警部のさしだしていたマッチから火をもらったときには、マッチの棒はすでに指を火傷《やけど》するほど短くなっていたから、パイプはこんどもまた消えたままだったが、当人はそんなことにはいっこう頓着なくしきりとパッパッやりながら、両肱を机に立てて、大きな頭を両手でかかえこんで、目の前の書類を見ながら、なにごとか考えこんでいた。戸外はようやく暮れなずんできて、雨の音もだいぶ静かになってきていた。灰色に煙った霧のなかに、カーブをえがく河岸の外灯が首飾りみたいにチラチラまたたいて、橋の上の灯が黒い水のおもてにキラキラ映っている。並木のかげを、バスが赤い灯をちらつかせて通っていく。そのバスよりも高い並木の下を、トラックや車が蛍火のように這っていた。議事堂の大時計が、びっくりするほどの近さで、すぐ頭の上で鳴りだした。それが五時を打ちおわると、H・Mはまたしゃべりだした。
「おれはね、きょうはいちんちここに坐りこんで、この調書を読んでいたんだが、事件の鍵をさぐりだすのは、たいしてむずかしくなかったね。つまり、こうなんだ。ダーワースのマリオンに対する恋着《れんちゃく》は、これはどうして、なかなか崇高なものだったんだな。ただ誘惑したいぐらいのことだったら、奴はとうの昔にやってのけて、こんな面倒な事件は起こらずにすんだんだよ。それがね、奴は、ベニング夫人やテッドなんかを相手にするのにあきがきたのか、それとも、あの婆さんからたんまり金をまきあげたのか、とにかく、もっとうまい仕事に乗りだす気になったんだな。どうしてそういう気になったのか、そいつがまだおれにはわからないんだがね。どうもしゃくだよ」
H・Mはほとほと情ないような調子でいうと、顔をうつ向けたまま、癇癪でもおこしたように、頭をかきむしった。
「奴の手口は、べつに頭をひねらなくても、だいたい見当がつくさ。最初にまず、ベニング夫人の愁嘆に目をつけたんだな。こいつを利用しようとかかったところなんざ、なかなか目のつけどころがいいよ。そこでベニング夫人と、ラティマー、ハリデーと、この結びつきを知って、それでテッドをねらったんだな。このへんのことは、君たちもご存じの通りさ。黒死荘伝説は、いつごろから知ったのかわからんが、とにかく、頭のいかれたジェイムズの霊魂というものを、うまくそこへからませれば、わが田へ水を引くにも、この幽霊ばなしはしごくあつらえ向きだと、そこへ目をつけたわけだ。そこでマリオンに会った。ここでズドン! ――大勝負がスタートをきったというわけさ。……
この勝負で、奴は妻を手に入れるつもりだった。そこで、せいぜい顎ひげに手入れをして、バイロン気取りで、袋の中からあれやこれや心理の手品をとりだして、マリオンの心を痺《しび》れさしたわけだ。いや、奴の手口をよく見てみたまえ、きわどいことまでやってるぜ。あれでハリデーという男さえいなければ、願望成就だったんだが、あれがあったばかりに、『憑《つ》きもの』なんていう古い手で、マリオンをだましたわけだ。むろん、ここまで仕上げるには、そうとう長いことかかったろうさ。奴は、マリオンが今まで考えたこともないような考えを、さかんに吹きこんだ。目の前で、あの手この手の踊りを踊って、だましたり、すかしたり、たらしたりして、しまいには催眠術まで持ちだして、発狂すれすれのところまで女を追いこんだわけだ。その間どういうわけだか、ベニング夫人が奴にずーっと手を貸していたんだから、妙さ。……」
H・Mはそういって、しきりと頭をたたいていた。マスターズがそばから口を添えた。
「いや、それは多少嫉妬の気持もあったんでしょう。――でも、黒死荘の『お祓《はら》いをする』ということが、奴の最後の大勝負の眼目なんでしょう?」
「そうさ、あれが決定打だ。急所さ。あれがボイーンとうまくはいっていれば、女は自分のものになったんだよ。そりゃそうとも」
「ええ、それで?」警部は先をうながした。
「いいか、これはね、おれがここに坐りこんで考えたことだぞ。――おそらく、奴は、いちかばちかの危い離れ業をやろうとしたんだろうな。そうに違いないさ。急所がはずれれば、全部の計画がいっぺんにガラガラと崩れちまうんだものな。そりゃ君、誰の目にも見えない偽幽霊なんか出すよりは、ずっと派手で、見ばえがするものな、芝居としては。たとえば、あの鐘さ。あれは単なる舞台効果をねらったものだったかもしれんが、あるいはまたそうではなくて、事実何か気味の悪い、恐ろしい危険があったから、あれを釣っておいたのかもしれんぜ。いずれにしろ、あの鐘は、あれを鳴らして、みんなを石室へ呼ぶことを奴があらかじめ考えていたことを物語っている。奴は石室のなかから南京錠をかけさして、そのなかへ自分はこもった。どうもこのへんのことが、ただのトリックだとは思えんのだがなあ。しかも、中から閂をさしたり、心ばり棒をかったりしているんだからね。……奴は、幽霊以外は誰もはいれない部屋のなかで、ルイズ・プレージから襲われるという、にせの幕を出すつもりだったんだな。
くどいようだが、これはおれがここに坐っていて考えたことだぜ。
そこで、おれは自問自答してみた。――『まず第一に、奴はどうやってその幕を出すつもりだったか? 第二は、ひとりでそれをやるつもりだったか?』と。
この調書を読むと、君はあのとき一人で外へ出て、主屋の横手をまわって、四、五分したら、あの鐘の音を聞いたと書いてあるね。それから石室の中で妙な物音がきこえた。奴の声も、君は聞いている。『誰かに哀訴するような声で、それがうなるような、泣くような声に変わっていった』と書いてある。どうだね、これでみると、急激に襲われたとは聞こえんな。かなりの傷は受けているとしても、格闘の音も聞こえんし、普通の人間ならそういう場合当然あげるはずの、どなったりわめいたりする声も聞こえない。これはねマスターズ、奴は苦しかったんだよ。苦しかった証拠だよ。苦しいのを、奴は我慢してたんだぜ」
マスターズは、片手をあげて頭をガリガリ掻いたが、そのくせいいだした声は、いやに低い声だった。「というと、ダーワースは、おとなしく斬りさいなまれていたのですか?」
「その話は、まあもう少し後にしよう。それより、共謀者がその場にいたかいないかだ。どうもおれには、いたように思えるな。めったな場所では、あんな傷は負わされないはずだが、あの密室の中なら、いくらでも思う存分にできたろうからな」
「それで?」
「それでね、あの石室の記事のところをくわしく読んでみると、どうもおかしなことだらけなんだな。まず第一に、あのものすごい多量の血は、あれはどういうんだ? なるほど、ダーワースは君のいうように、救世主じみた気違いだったかもしれんよ。世間に虚名をあげ、マリオンを手に入れ、我欲を満たすためとなれば、手前の体までよろこんで突き刺す男だからな。しかし、奴は金はしこたま持ってるんだぜ。ある意味では、自分の本音を抑制できない、自分を甘く見ている、抹香《まっこう》くさいインチキ予言者さ。……とにかく、くどいようだが、あの血は多過ぎたね」と顔をあげて、小さな目でマスターズを見つめたH・Mの鈍重な顔に、はじめてそのとき、珍しく微笑らしいものが浮かんだ。それが、いかにも毅然とした、力量のある人という感じをおこさせた。
「そこで、ふっとおれは思いだしたんだ。思い当たったことが二つあった。ひとつは、あの暖炉のなかに、あんなとこに用もない大きなガラスの瓶が、粉々に欠けてはいっていたこと。もうひとつは、主屋の階段の下に、咽喉を切られた猫の死骸がころがっていたこと。――この二つだ」
マスターズが口をヒューッと鳴らした。フェザートンはいきなり椅子から立ち上がったと思うと、すぐとまた腰をおろした。
「うん、そう。それでね、おれはさっき君んとこの分析係に、さっそく電話をかけておいたんだ。あの血が猫からとった血でなかったら、おれはかぶとをぬぐね。あすこは、なかなかあれで見所《みどこ》のところだぜ。犯人がじっさいにダーワースを追っかけまわして斬りつけたのなら、血痕のついた指紋か足跡があるはずだろう。それが、そんなものはひとつもなくてだな、ただ血だけがあんなに多量にあるんだから、こりゃ君、おかしいさ。だいたい、これでわかったろう。
それからね、おれはこういうことも考えたんだ。『石室のなかに、なぜあんなに火がカンカンたいてあったのか?』とな。ダーワースは、殺した猫の血を瓶に入れて、そいつを外套の下にかくして、あすこへ持ちこんで、そして舞台効果をあげるために、その血を手前の体や床へぶん撒くまでに、そんなに時間はかからなかったはずだが、それでも用心して、血が凝固しないように、しばらくの間、血液の温度をたもっておかなければならなかったわけだ。……まあ、おそらく、石室の暖炉に火がカンカンたいてあったのは、そのためだったんだろうな。
とにかく、あの謎を考えて、おれは自分でこういってみた。――被害者《がいしゃ》の服はズタズタに裂かれている。当人は血だらけだ。床の上につんのめったときに、ガラスの破片で目に傷を受けた。しかし、道具立てにはじつにみごとにできているけれども……」
「ちょっと待ってください、H・M!」とわたしは話の途中へ割りこんだ。「そうすると、猫を殺したのはダーワースだとおっしゃるんですか?」
「うう?」H・Mは横あいから口を出した人間が誰だか、それを確かめるために、近眼の目を細くした顔をこちらに向けた。「何だ、ブレークか。そうだよ。猫を殺したのはダーワースさ」「いつ殺したんでしょう?」
「奴は、テッドとこのフェザートン少佐を、石室の準備に向こうへやったね。支度にかなり暇をくっている。そのあいだ、奴は主屋で休んでいた。その間にこっそり……」
「だけど、猫の血を浴びなかったかしら?」
「そりゃ浴びたろうさ。けど、べつに困りゃしなかったろうさ。どうせあとで、自分でそれを体にぶっかけるつもりなんだから。血痕が多けりゃ多いほど、いいわけだろう。そのときは、外套と手袋でちょいとかくしていたのさ。ここで注意すべきは、奴はそれきり、みんなのいる客間へは顔を出していない。灯火の暗いところだって、ジロジロ見られちゃ困るからな。で、そのまま急いで主屋をとびだして、石室へ駆けこんで、錠をおろしてしまっている。それはさっきもいったように、血を生《なま》のまんまにしておくためさ」
H・Mは、そこでひと息入れて、小さな目をひとところにじっとすえていたが、やがておもむろに「いやはや」といいながら、机の上に両手を握り拳にしてのせ、
「おい、みんな何とかいわんかよ、張り合いのねえ奴らだな。おれはまた今考えたことがあるんだが、待てよ。こりゃしかし、まずいな。まあいいや。先を話そう。どこまで話したっけな?」
「そう話を散らかしては、困るな」とフェザートン少佐はステッキで床をたたきながら、ぜいぜい声でいった。「どうも、じつにあきれた話じゃ。まあしかし、先をつづけなさい。ダーワースの傷の話だったぞ」
「ああ、そうか。そこでね、おれは考えたんだ。――『こいつ、道具立ては揃っているが……』とね。だいたい君たちは、あの血と服の破れを見て、ただダーワースはえらい殺され方をしたということばかりいってるようだが、あの致命傷になった突き傷ね、あれを除いたら、ほかにどんなえらい傷があるかね?
いいかね、よく聞きたまえ。あの短剣の刃先は、あれはものを斬る刃先じゃないぜ。どんなに先が尖っていようが、突錐《くじり》じゃ人は斬れないぜ。ダーワースがあの短剣を使ったのは、ルイズ・プレージの幻影を生かすためだったんだ。ところが、実際にはどういうことが起こったかね? おれは検死調書をとりよせて、すっかり調べてみたよ。
左の腕と、腿と、足に、三ヶ所の浅い傷がある。こいつはまず、どんな気の弱い人間でも、自分の手でつけられそうな、深さ半インチもない、ほんのチクリとやった浅い傷だ。おれが考えるに、おそらくこれは、ダーワースが一世一代の勇猛心を奮いおこして、自分でつけた傷だろう。それで奴さん、恐くなったもんだから、背中の傷は、共謀者にうしろから突いてもらったんだな。うめき声がしたのは、たぶんこのときだったんだろう。それまでは、そんなに高い声は出さなかったにちがいない。
神経が緊張しているから、これまでのは、そんなに深傷《ふかで》にならなかったんだな。ところが、共謀者が与えた傷は、自分でやったような、そんななまぬるい傷じゃなかった。一つは肩胛《けんこう》骨の上をズブリと刺し、もう一つは、背中から脇腹へかけて浅くはらった傷だが、これは共謀者がやったものらしい。……」
そのとき、机の上の電話がけたたましく鳴った。みんなビクンとしたようであった。H・Mはいまいましそうに拳固をふり上げ、舌打ちをしながら受話器をとり上げると、破鐘《われがね》のような声で、いまイギリス帝国の興廃に関する重大用件で忙しい最中だからと、ガミガミいっていたが、先方のキンキンした甲高い声に圧倒されて、ややしばらく相手の話をきいているうちに、顔に満足らしい色がひろがってきた。「何? 塩酸エオカインだと?」そんな言葉がつい口をすべってとびだした。
「やっぱり、そうだった」受話器をおくと、目を輝かしながらいった。「今のはブレイン医師からの電話だが、どうやらおれの思った通りらしいな。ダーワースの背中のどこかに、多量の塩酸エオカインが注射してあったそうだ。歯医者の治療をうけたものは、ノボカインという局部麻酔剤を知ってるだろう。哀れな奴だよ、ダーワースという男も。普通じゃ痛みは止められないから、麻酔を打ったら、心臓が先にいかれちゃったんだ。ばかな奴さ。もっとも、自分で打ったんじゃなくて、誰かがやった仕業だがね。考えてみると、おもしろいな。奴みたいに、自分でこうと思ったことは何でもやってのける、猫っかぶりの抜け目のない奴でも、いざというときになると、チョロリ、してやられるかと思うとな。はははは。――ちょっと、マッチ貸してくれ」
「そうなると、その浅い傷のほうも、共謀者がやったのかもしれませんな」と、さきほどからしきりと何か手帳に書きとめていたマスターズがいった。
「いや、違うよ。共謀者が深いほうの二ヶ所の傷を、いきなり突いたんだよ。突かれて、はじめてダーワースは気がついたんだ。共謀者は、横腹に近い背中をひと突き刺して、それから肩の下をズブリとこうやったのさ」
大きな手で、H・Mはそのかっこうをやって見せた。その顔には、何か悪鬼のような、人間ばなれのしたものが貼りついていて、目つきがこっちの考えていることを見抜いているようで、思わずわたしは目をわきへそらした。
「なるほど、よくわかりましたが、しかし、今のお話しだけでは、べつにどうということもないようですな」マスターズは自説を固執した。「密室の説明がまだ出ないようですが、共謀者があったとしますと、ダーワースが扉の閂をあけて、共謀者を中へ入れたことになりますが……」
「共謀者が足跡をつけずに、主屋から三十ヤードもある、あの泥んこの裏庭を歩いていったのかい?」
とわたしがダメを出すと、マスターズは、
「ちょっと今、まぜっ返さないでくれよ」と、まるで頭の上へ水を張った桶でものっけて、中心をとってでもいるようなこなしをして、「わたしはただ、ダーワースが共謀者を部屋の中へ入れたのはわかる、といっただけの話で、何もそう……」
「まあまあ、落ちつけったら」とH・Mが仲裁にはいって、「よく考えてごらん。あの扉は、外から南京錠がかかっておったんだったな。その鍵は、誰が持っていたんだ?」
「テッド・ラティマーです」とマスターズが答えた。
一座は、それでまた鳴りをしずめた。
「なるほど、よしよし」一座の沈黙をほぐすように、H・Mはいって、「あるいは、そうだったかもしれん。しかし、そうまだ結論へ一足飛びにとびつくのは早いぞ。そういえば、マスターズ、君はあのとき、何かヘマをやったとかいうとったな? その説明がまだ出ないぞ。出ないといえば、いやまだまだ、聞きたいことは山ほどあるが……」
警部は上目使いにジロリと見あげて、「それはですな、犯人がどうやって足跡をつけずに、石室へ出たりはいったりしたかということさえわかれば……」
「おれね、こういう小説を読んだことがある」とH・Mが、教室のいちばんうしろにいる腕白小僧みたいな調子で、いきなりいいだした。「あれはちょっとおもしろかったな。シルクハットの上へ知らずに腰かける奴を、わきから見ているなんてもんじゃなかったぞ。六インチも積った、足跡もない処女雪にかこまれた一軒家で、殺人がおこるんだ。犯人はどうやってその家へ出入りしたか、というんだ。その種を明かすとな、犯人は竹馬に乗って出入りをしたんだとよ。あははは。警部は、竹馬の足跡を、兎の足跡だと思ったんだそうだ。あははは。なあ、マスターズ、君だってあの石室から、竹馬に乗って出てくる奴を見たら、胆をつぶすだろう。考えたもんだよ、合理的だものな。うふふふ。
ところがね、いいかね、あの石室の密室の情況の根本的なむずかしさはね、これは逆に、合理的でない点なんだ。まず何だね、大奇術師ハウディニーの、箱抜け奇術ぐらいの奇々怪々なるものはあるな。いや、それ以上だな。つまり、ふつうの場合なら、どんな殺人犯人だって、物語が一巻の終わりとなってさ、それでもまだ種がわからないような、こんな巧妙無類の手品を編みだす奴は、まずどこを探したってありゃしないぞ。……どうもおあいにくさまだが、この事件はよっぽど変わってるよ。われわれはダーワースという人物にぶつかった。こいつは全精神をあげて、人を惑わし世をあざむく奇術にうつつを抜かしている奴で、この男が非常に合理的な目的のために、とんでもない不合理な芝居をうとうとしておったと、こういうわけになる。――どうだい、マスターズ、これでだいぶ筋が通ってきたろう。つまり、奴は殺されるつもりは毛頭なかったんだ。犯人が、奴の考えた計画をうまく利用して、奴を殺したのさ。――その殺し方で、おれは首をひねってるんだがね」
「わたしのいいたいところも、それなんです」とマスターズが応酬した。「足跡のないわけがわかれば、扉の閂も、心ばり棒も、説明がつくんですがね」
H・Mは、そういうマスターズをにらみつけるように見すえて、手きびしくたしなめた。
「おいマスターズ、でたらめはいうなよ。おれは口から出まかせのでたらめは大嫌いだ。それじゃまるで、屋根へ登れりゃ、塀へ登るのもわけはない、というようなもんだ。……まあいいや、その先をいえ。君の考えの出所と、頭の閃きのお手並みを拝見しよう。説明がつくって、どう説明がつくんだね?」
そこまで突っこまれても、警部はあいかわらず、いっこうに無神経だった。
「いえ、ただわたくし、ふっと考えたんですが、ひょっとすると、犯人が行っちゃってから、ダーワースが自分で閂を締めたり、心ばり棒をかったりしたんじゃないかなと、そんな気がしたものですから。ダーワースが傷をつけてもらうことは、これは前からの計画だったんでしょう。まさか自分がほんとに死ぬとは思わないから、計画どおりにやらせたんでしょうな」
「おい、いまさら断わるまでもないことだが」とH・Mは、またしても頭のうしろへ両手を支《か》いながら、「犯人からあれだけの傷を受けたんでは、ダーワースは三歩と動けやせんぜ。釣鐘の針金をひっぱって、前へつんのめって、瓶のかけらを目につっ通すぐらいが、せいぜいだぜ。だいいち、死体から入口の扉のとこまで、当然あるべきはずの血の跡が、ひとつもついていないじゃないか。心臓を刺された人間が、よくよくの力持ちでなければ動かせない。あの重い鉄の閂を持ちあげたり、心ばり棒を支ったりするなんて、ここでつべこべ論ずることもなかろうさ。だから、けっきょく、べつの説明を求めなければならんと、おれはいうのさ。……
そこで事実だ。事実をもっと詳細に知る必要があるんだよ、警部。どうだ、君がきょうとった行動と、それとあのラティマー青年のことを、洗いざらい話してもらいたいな。さあ、ひとつ話してくれや」
「は、かしこまりました。では順序をたてて申しましょう。だいぶもう遅くなりましたから、要点だけ申し上げますが。弁護士のスティラーと話をしてから、二人してダーワースの自宅をちょっとのぞきに行きました。家というものは、どうも人を追い返す癖があるのは、ありゃおもしろいものですな。われわれが中へはいったとたんに、ばったり出っくわしたのが……」
そのとき、好奇の色を顔にうかべながら、身をのりだしているH・Mの耳もとで、またしても電話がけたたましく鳴った。
十五 心霊の殿堂
受話器を耳にあて、にらみつけるように目をすえて、H・Mは早口でどなった。
「違う! 違う! 番号ちがいだ! ……ばか、そっちのかける番号を、こっちが知るもんか。だいいちだな、電話をかけたら、そちらは何番ですかと聞くのが礼儀だろう。それを聞かんような不作法な奴にゃ、びた一文やるもんか。……いや、違うったら! こっちはミュージアムの七番じゃない。ホワイト・ホールの七〇〇〇番だ。ラッセル・スクエア動物園だよ。……何、ラッセル・スクエアに動物園はあるさ。おい、もしもし、どうしたと……」(このとき、階下の交換台から、入れ代わって若い女の声がはいってきた)「こらっ! 金花糖《ロリポップ》!」とH・Mは、その女の声にどなった。「なぜあんなうるさい電話を切らんで、つないでよこすんだ!」とどなりつけたあと、また冷厳な声にもどって、「いや違う、君のことを金花糖といったんじゃない。……」
「わたしのとこへかかってきたんでしょう」とマスターズがそそくさと立ち上がって、「いや、どうも。用があったら、ここへかけるようにいっておいたので。どうも勝手なことをしまして……」
H・Mは、電話口でにらみつけていた目を、マスターズに移した。電話のベルがチリンチリン鳴った。「わっはっはっは!」H・Mは、マスターズが急いで受話器をとりあげても、まだ笑いが止まらなかった。マスターズはすぐに通話をはじめた。
「ああ、もしもし。……いや、今からかったのは秘書じゃないよ、ヘンリー・メリヴェール卿だよ」雑音で声がとぎれた。「いや、そう思うのはむりもない。バンクス、それで用件は何なんだ? ……ほう! ……いつ? ……車でか? 相手の男は見たのか? ……車の番号は? いや、参考までにさ。……うん、たいしたことじゃなかろう。怪しい点はないのか? ……ない。まあしかし、目ははなさんようにな。……君の良心が許す範囲内で、固めておけよ。……ああ、よろし。……」
電話を切ってから、マスターズは、ちょっと気がかりに迷うふうで、もういちど受話器に手をかけようとしたが、そんなことよりまだほかのことがギッチリ山積しているので、思い直して手をひっこめると、自分の席にもどった。H・Mはここぞとばかり、一席お談義でもするような調子で、
「どうだ、わかったろう?」と不機嫌ながらも満足の様子で、マスターズのことを指さして、
「君ね、今のなんか、おれのかんにさわる第一級の見本だぜ。それでいて、おれのことをみんなして『変人だ、変人だ』と折紙をつけやがる。考えてみるがいい! 勝手なときに、人の部屋へズカズカはいってきたり、電話をかけてきたりしやがって、それでこっちが『変人』もねえもんだ。……ブレーク、もう一杯ついでくれ。……だからね、何とかしてそういう俗物どもを寄せつけない工夫をと思って、この扉へさ、エール錠のいちばん手のこんだ奴を、この間とりつけたんだよ。ところが君、まっさきに締め出しを食ったのは、ほかでもない当人のこのおれでさ、カーステアに扉をぶっ壊してもらうという始末さ。あははは。いまだにおれは腑に落ちんのだが、どうもあれは、誰かがおれのポケットから鍵を盗みよったにちげえねえな。ばかにしてやがる。だいいちだ、秘書の金花糖《ロリポップ》嬢までがおれのいうことをきかんで、この机の上を片づけよる。目がはなされんよ。……ところで、今の男は何をしようというんだい?」
マスターズは、まるですべり止めのついた車のハンドルでも握っているみたいに、両腕を「く」の字に曲げながら、ひとり呑みこみ顔でニヤニヤしていた。万事わが方寸《ほうすん》にあり――その方寸にあるものを、しばらく暖めておこうという肚《はら》である。あんまり褒《ほ》めたやり方ではないにしても、この際それもひとつの手ではあった。わたしはわたしで、秘書のロリポップ嬢のことから、昔懐しいしんみりした気分になって、ありし日のことをいろいろ思いだしていた。――そう、ロリポップといえば、いつでしたかバンキー・ナップと二人で、お門《かど》を通ったのでお寄りしたら、あなたがロリポップに何か手紙の口述をなさっているところでしたっけね、とわたしがいうと、それがてきめんに効いたとみえ、H・Mはマスターズをふり返って、
「おい君、おれは君から手を貸してもらうつもりでなければ、こんな事件はとうに電話で断わってるところだぞ。いいから、先を話せよ。ダーワースの家へ行った話だったぞ。あのつづきを聞かせろよ」
H・Mはふと口をつぐんで、ジロリと目をあげた。フェザートン少佐が何を思ったか、いきなり立ち上がったからである。少佐は、もう堪忍袋の緒が切れたという面持で、シルクハットをかぶって、いやに大見得をきってつっ立っていた。わたしのほうからは、薄暗いスタンドの灯影のなかに、顔だけがもうろうと見えただけであるが、どうやらこちらの話のこみ入り方に、少佐は業《ごう》を煮やしたらしく、決然たる覚悟を、聞き直った言葉にこめて、
「メリヴェール!」
「ああ? ……まあ、かけろて。ねえ、かけなって。……どうしたんだ?」
「わしはな、メリヴェール」と少佐は切り口上で、がなりだした。「貴公のところへ援助を頼みにきたんじゃぞ。ええかな。それでな、わしは貴公が頼みをきいてくれるものと思うとった。それがどうじゃ、さっきから聞いておれば、やくたいもないことばかりしゃべりおってからに――」
「そりゃそうと、ご老体」とH・Mは眉をひそめて、「あんた、いつごろからそういう咳が出なさる?」
「咳?」
「そう、咳。そのゴホンゴホンという咳だよ。さっきからその咳で、だいぶそこらじゅうに埃《ほこり》をたてていなさるが、昨夜はどうだったね?」
フェザートンは目をまるくして、「おう、昨夜も咳は出よった」まるで咳の出たことが自慢みたいに、まじめくさった顔をして答えた。「いやしかし、そんな咳がどうたらこうたらいうようなことを、論じとる場合じゃあるまいが。ヘンリー、わしゃそう思いたくはないが、どうやら貴公にわしゃ裏切られたわい。もうこれ以上聞かんでもええ。もうたくさんじゃ。わしはこれからバークレー街に会があるでな。ちと遅れたかもしれん。では皆さん、お先に失礼する」
「まあ、いいじゃないか。もう一杯|飲《や》っていけや」H・Mは、ほんの口先だけのうわの空で、
「いやか? そりゃあいにくだな。――そうか、じゃ失敬」
扉がバタンとしまると、H・Mは入口を見やって、梟《ふくろう》みたいに目をまるくした。それから、頭のどこかにひっかかっている考えを、うまく穴の中へ落としこみでもするように、二、三度頭をふってから、いきなりとってつけたように鼻唄をうたいだした。
「なんですか、そりゃ?」マスターズがいった。
「いやなに、今ちょっと考えとったんだ。いいかね、おれは七十一年の生まれだからね。そうすると、ビル・フェザートンは六十四年か五年の生まれだな。なあ、元気なもんじゃないか。奴さん、あれで今夜あたり、晩餐クラブでダンスぐらい踊る気でいるんだぜ。『ここに一人の若人あり……』か。ま、よしとこう。マスターズ、話をつづけろや。何とか弁護士とダーワースの家へ行ったところまでだったな。その話を聞こう」
マスターズは、さっそく語りだした。
「チャールズ街の二十五番地、そこへスティラー弁護士と、マクドネル巡査部長と、わたしと、三人で行きました。鎧戸をあらかたしめた、ひっそりとした、りっぱな家でした。ここの家に、ダーワースは、かれこれ四年住んでいたそうです。執事兼召使の男と、二人きりで住んでいたらしいですな。以前は運転手もおいていたが、この二、三年は自分で運転していたようです」
「その執事は、今もいるんだね?」
「いや、いません。ご参考までに申し上げますとね、その男は、同じやっぱりメイフェアで前に奉公していた家から、ダーワースの死んだことが新聞に出るとすぐに、またもとの古巣へ帰ってこないかと話がきたんだそうです。これはわれわれの手で裏づけをしてきましたから、正真正銘の実説です」
「うふっ、おれんとこの家内みたいなことをいうな。君もそうとうの金棒引きだな。――うん、それで?」
「というわけで、あんまり時をはずすと、そいつが古巣へ舞いもどると思ったので、訪問客や降霊会のことをざっと聞きとりました。執事の話によると、ダーワースは心霊術にはたしかに興味をもっていたそうで、ただし、降霊会の集まりの晩には、執事はいつも用をかこつけて、家から追っぱらわれていたそうです。
家のなかは、まるで博物館みたいに陰気で、火の気はなし、人のいる部屋はなし、ただ、へんな絵だの彫刻がいっぱいありましたな。われわれは二階にあるダーワースの寝室へ行って、化粧室の壁金庫をスティラーがあけてみましたが、書類などはダーワースが用心深くどこかへ始末してしまったと見えて、たいして目ぼしいものはなかったですな」
「それから、降霊室というのへ行きました」マスターズは、これから話は佳境に入るという顔つきで、「降霊室というのは、屋根裏の大きな部屋でしてね。羽根みたいにフワフワした黒い絨毯《じゅうたん》が敷いてあって、霊媒の坐る入《い》り込みの席にはカーテンがおりていました。ところが、そのカーテンをひょいとまくったら、こっちはギョッとしたんです。その椅子にはね、首をのけぞって、どこか怪我でもしたように、首をウズウズさしている女が、窓からさしこむ鈍い光線のなかに坐ってるんですな。それがね、じつに思いもかけない……」
「誰だったんだ?」とH・Mも目をあいて、尋ねた。
「それをさっき申し上げたようと思ったら、電話が鳴っちゃって。――なんと、それがベニング夫人なんですよ。彼女、ウンウンうなってるんです」
「ふーん。ベニング夫人が何をしてたんだ?」
「それがわからないんですよ。――ここはジェイムズの部屋だから、出ていってくれ、とか何とかわけのわからないことをいってましてね。ポーター――さっき申し上げた執事ですが、この男は、彼女を家へ入れたおぼえはないというんです。何だか知らないが、あの婆、われわれにえらく毒づきましてね。いやどうも、気持が悪かったですよ。あの通り、身なりや何かはりゅうとしているし、それにあの年齢《とし》でしょう、なおいけませんや。あれじゃ誰だって弱りますよ。しまいには、こっちも気の毒になってきました。だってね、立ちあがったところを見ますと、あの人、たいへんな跛《びっこ》なんですな。でも、人の手は借りずに、自分でまた腰をおろしましたが、こっちは時間が惜しかったから、そのままにしといて、さっさと部屋を調べにかかりました」
「部屋を調べるって、どう?」
マスターズは、ここでまた一番、得意の微笑をちょっぴり浮かべて、「いや、それがですな、わたしも今までずいぶんいかがわしいものは見てきたつもりですが、しかし、あんなのは初めてでしたな。どうやってあんな仕掛けをしたのか、見当もつきませんが、やはりダーワースの性格が、あすこまでことを運んだんでしょうな。あれで一度も家宅捜査をされなかったんだからな。……ひと部屋ぜんぶ、電線なんです。心霊が合図をするテーブルには、電気コイルと電磁機をそなえ、シャンデリアには、何でもしゃべった言葉が残らず別室できこえる送話機がとりつけてあります。その別室も見ましたが、そこは心霊室と同じ階上の、トランクみたいな小さな部屋でしてね。そこへダーワースが控えて、降霊会をあやつるところなんです。霊媒の坐る入り込みの腰板の裏側に、そういう電気装置がかくしてありました。マイクロフォンがそなえてあって、それを通じて、ダーワースの声が四方八方へ通じるようになっているんです。それから、霊媒から放出される超常的物質をキャッチする黒い紗の布、空中に浮かぶ顔を幻灯で映しだす薄い紗の布、電気じかけのタンバリン、濡れ紙をぎっちり詰めたゴムの手袋――」
「そんな道具調べは、どうでもいいさ」とH・Mがじれったそうにいった。
「はあ。――それで、わたしはマクドネルと二人がかりで、その部屋をめちゃめちゃにぶちこわしにかかりました。ベニング夫人は、われわれのすることをじっと見ていましたが、妙なもんですな、物の音を聞くとあんなふうになる人間もあるんですな。こっちが電線をひっちぎったり、そこらをバリバリぶっこわすたびに、ベニング夫人はハッと体を固くして、そのたんびに目をつぶっていました。霊媒室から無電装置をひっぱり出して、テーブルの上へ持ちだしたときには、婆さん、涙をポロポロ出して泣いていましたっけ。そのまた泣き方が、普通の人間の泣き方じゃないんですよ。ただ涙をポロポロこぼすだけで、声もあげなきゃ、目ばたきひとつ、顔ひとつしかめないんです。そのうちに、また立ちあがって、フラフラ外へ出てきました。こっちはハラハラして、後から追いかけて行って、奥さん、いいからわたしにつかまって、階下へおろしてあげるから、車にお乗んなさいというと、そのときはすなおにわたしの腕につかまって、階下へ降りてきましたがね――」
そのときの回想が、マスターズを動揺させた。かれはしきりと顎をなでながら、事実を伝えるというよりも、そのときの「印象」をどう言葉で伝えたものかと、それに思い悩んでいるふうであった。そのためであろう、きゅうに居ずまいを直すと、いやに木に竹をついだような、改まった、警察官らしい態度になって、棒読み調でべラべラまくしたてはじめた。
「証人を階下へつれていきますと、証人はわたしのことを見あげて、『あなたはわたしの着ているものまで剥《は》ぎとる気か?』というのですな。『着ているもの』という言葉に、いやに力を入れおったです。証人が何をいおうとしておったのか、わたしにはさっぱりわからなかったんでありますが、とにかく妙な衣服を着ておりましたな。婆さんに似合わしからぬ、派手な色合いの……そして紅やおしろいなどもゴッテリとつけておりましてね……」
わたしはそのとき、H・Mの指図で、みんなのグラスに酒をつぎおわったところだったから、H・Mもわたしも、のどしめしに一杯と、警部に目くばせをした。炭酸水のシューシューいう音も、まるで向こう河岸の火事同然に、警部はいっこう気にもとめないで、
「そういう次第で、わたしが車を呼んで、証人をそれへ乗せてやりました。すると、車の窓から顔を出しましてな……」と警部は手帳をとりだして、「そう、ここに書いてある。証人がこういうのです。『警部さん、わたしはけさ、かわいい甥の婚約者にも申したのですが、あなたはもうちっとあの人たちに目をつけるべきでしたね。ことに、テッドに逃亡のけはいがあったんですから……』」
H・Mはうなずいたが、たいして興味もなさそうだった。
「いや、待ってくれよ」とわたしはいった。
「フェザートン少佐も、けさベニング夫人に電話をかけたといっていたが、夫人はそんなことをいわなかったらしいぜ」
「そりゃむろん、明るいニュースじゃないからね」といって、マスターズは話をつづけた。「そういうことを証人から聞いたから、わたしはすぐと家の中へ引き返して、ラティマー家へ電話をしたんです。マリオン嬢が出ましたが、えらくオロオロしていました。いろいろ突っこんだことを聞いたんですが、彼女は多くを語りませんでね、ただ、自分はけさ六時過ぎに帰宅したが、(家はハイド・パーク・ガーデンですが)テッドは自分よりひと足先に帰ったとみえて、玄関に外套と帽子があったから、そのままそっとしておいて、自分は寝床にはいった、とこういっとったです。
で、けさ起きてみると、女中が弟からことづかったといって、置き手紙を持ってきた。それには、『調査のため出かける。心配無用』とだけ書いてあった。女中の話によると、弟はけさ十時ごろ、旅行鞄をひとつぶらさげたまま出かけたそうで、マリオン嬢が置き手紙を受けとったのが十一時でした。なぜそれをわたしのほうへすぐに連絡してくれなかったんだと聞くと、連絡しなかったのは自分が悪かったが、ふだんから気まぐれな弟のいつもの伝《でん》で、晩にはたぶん帰ってくるだろうから、どうか気にかけないでくれと、こういうのです。最初は、たぶんベニング夫人のところへでも行ったんだろうと思って、電話してみたが、そこにはいない。知り合いの家へ片っぱしから電話をかけてみたが、どこにもいない。そういう話でした。
で、わたしはこちらへうかがう約束がありましたから、尋問のほうはマクドネルをさし向け、マリオン嬢には、念のため弟さんにはいちおう召喚状を出しておく。これは逃亡をくわだてた者を逮捕する法的な安全措置なんで、全国の警察網に無電を通じて指名手配が行なわれるから、そのつもりでいるようにと、因果をふくめておきましたがね」
マスターズは、そういって手帳を閉じた。わたしがついで出した飲み物を、かれは出されたまま飲みほすと、グラスを卓上において、すこしどぎつい言葉でいいそえた。
「わたし個人の考えでは、あの青年は犯人か、あるいは頭が狂っておるか、どちらかだと思いますな。あんな逃亡のしかたをするところを見ると、その両方かもしれんですな。奴が石室の南京錠の鍵を所持している以外に、なにか証拠のきれっぱしでもつかめれば、犯人容疑ですぐに挙げますがね。しかし、これでもし、またぞろ間違いでもやらかすと……」
「やらかしそうだな、そいつは」とH・Mがいった。「かれが容疑者と目されて、召喚状を出されたのは、かれの行動がその理由だろ。おかしいじゃないか。君の知ってるのは、今いっただけのことか?」と鋭く詰問した。小さな目がクルクルまわった。
「まだほかにとおっしゃるなら、完全な記録がとってありますが」
「へーえ、そうかい。だけど、何かそれは目こぼしがあるぞ。とにかく、今の君の話だけじゃだめだな。おれはそんな気がするな。……早い話が、ダーワースの家のことだがね、君が気づいたほかに、何かなかったかな? よくひとつ考えてみてくれ。早いとこ、どうだ、何か思い出さんかな?」
「そうですな、あとはダーワースの仕事部屋ですがね」と警部は答えた。H・Mのいつもの癖の、相手の心を読みとるような、木像みたいな無表情な顔つきに、つい引きもどされたというかっこうであった。「でも、わたしはまた、あんなインチキ降霊術師のインチキな仕掛けなんか、お聞きになりたかないだろうと思ったもんですから」
「かまわんから、話してみなさい。こっちがストップをかけたら、そんときは名案の浮かんだときだからな」
「地階にもうひと部屋ありましてね。そこが奴の手品箱をこしらえる工房でした。奴は外部からはぜったいに種を仕込まなかったんですよ、危険ですからな。自分の手で、何もかも作っていました。手先がじつに器用なんです。わたしもご存じのとおり、道楽でそういうものを作るほうなんですが、奴の工房には、剃刀の刃みたいな精巧な電気旋盤がすえつけてありました。何だか白い粉がこぼれてたところを見ると、最近なにを作ったものですか……」
H・Mは、口まで持っていきかけたウィスキー・グラスを、途中で止めた。
「……何ですか細かい計算を書いた紙が散らかっていましたが、そんなものはたいして気にもとめませんでしたが、それよりもね、人間の面《めん》をすごく上手に作ってありましたね。これはしかし、案外やさしいものでしてね、わたしもやってみたことがありますが、面をとろうと思う人の顔にワセリンを塗りましてね、その上へ、ゆるめに溶かした石膏を流すんですが、これはすぐ固まります。固まったら、眉毛がくっつかないように、うまく型を剥《は》がしましてね、そして剥がした型の内側へ、新聞紙をドロドロに溶かしたやつを貼っていくんです……」
わたしはH・Mの様子を、よそ目にじっと見まもっていた。ここで大将が、驚いたような声でもあげて、自分の額をピシャリとひとつたたきでもすると、またこれ例によって、聞きたくもない余計な枝道へ話がそれるところなんだが、見ていると、いいあんばいにそれをしないで、少し息をはずませていたが、おとなしくチンと控えていた。そして、ウィスキーをひと口あおると、机の上から足をおろして、警部に話の相槌をうちながら、自分は調書をとりあげて、
「いや、それだけじゃないんだぞ」と、まるでひとりで議論でもしているようなけんまくで、「あの石室の中では、暖炉で何か抹香《まっこう》でも焚いたようなにおいがしていたんだな」
「はあ?」
「いやね、おれはここへ坐って考えとってさ」とH・Mは組み合わした両手の親指をクルクルまわしながら、大きな肩をそびやかすように一座を見わたして、「なぜあすこで抹香の匂いなんかしたのかと思って、いちんちここで考えとったんだ。そこへ今、君の話で、白い粉がとびだしたろう。……どうせおれは尻尾のまがった雑種犬だがね」と低い声で自賛するようにいって、「クンクン、どうやらこいつぁ臭いぞ。ははは」
「そ、そうなんです。それで、どうお考えですか?」とマスターズが膝をのりだした。
「ほ、君やブレークの考えは、おれにはちゃんとわかっているさ。いつだったか、おれは密室をあつかった推理小説を読んだことがあるんだ。密室ものはおれも好きで、ずいぶん読んだが、その小説では、犯人が学問上まだ知られていない毒ガスを、部屋の外から鍵穴を通して吹きこむ。部屋のなかの男は、その毒ガスを吸って、たちまち頭がへんになって、自分でのどをしめて死んでしまうというんだ。ははは。それからまだある。睡眠中にやはり毒ガスを吸って、きゅうに体にえらく元気がついて、ベッドの上でえいととび跳ねたら、天井のシャンデリアの先に頭を突き刺して死んでしまう、というのも読んだが、こんな坐り高跳びの記録保持者みたいな奴が出てくるようなのは、二度とごめんこうむりだ。……
まあ、そんな話はおいて、事件の話にもどろう。――われわれの犯人Xは、石室へ忍び入って、ダーワースを刺し殺した。これがまず問題だ」H・Mは被害者の受けた傷口のことをおもいだしながら、顔をしかめて、「学問的に不明だったり、痕跡をあとに残さない毒ガスが出てくるような小説は、ありゃ反則だということにしておかんといかんよ。ああいうのは困る。あんな苦しまぎれの空想を許すということになれば、犯人が何かの薬品をのむと、毒ガスのかわりに、自分が鍵穴からスルスル出たりはいったりできるといったような、そういうばかばかしいことまで通用させていいことになってしまうからな。もっとも、考えようによっては、それもおもしろいな」H・Mは自分の思いつきに興じながら、「早い話が、こんどの事件だって、これを詩的に比喩的に考えれば、犯人の手口を的確にいうとすると、鍵穴からこっそり忍びこんだともいえるからな」
「でも、鍵穴は、あの石室にはどこにもないです」とマスターズが反駁した。
H・Mは、得たりという顔つきで、「そんなことは承知さ。それだから、おもしろいのさ」
「いや、比喩的なお話はもうけっこうです」マスターズはしばらく黙っていたあとでいった。そして、腹の虫を我慢しながら、分厚な書類をもとの封筒のなかへしまいだした。「わたしにすれば、洒落や冗談ごとではないんですからな。フェザートン少佐と同じ心持で、あなたのご助力を仰ぎにやってきたんであって……」
「まあまあ、そうむきになるなよ」H・Mはたしなめにかかった。「おれだって真面目だぜ。自分の名誉にかけて、話をしているんだぜ。つまりだな、まずもって何よりも先に解決してかからにゃならん問題を、おれはいま問題にしておるんだぜ。それを解決せんことには、犯人が誰であるかもきめられんし、どういう処置をとったらよいかも、まるで方角がつかんのだよ。君はおれをここへ坐らせておいて、『犯人は、あの男か、あの女か? 殺人の動機は何か?』――これを考えろと、こういうんだろう?」
「何かあなたにお考えがおありになるんだろうと思って」
「お望みとあれば、いくらでもしゃべるがね、しかしその前に、おれはダーワースの家をいっぺん見たいから、君のほうの車をここへまわすように、頼んでくれんかな」
警部は、よそ目にもほっとした様子で、それはもう願ってもないことでといって、さっそく電話にかかった。電話をかけおわると、われわれはみないっせいに新しい緊張をおぼえた。外はいつのまにかもうすっかり暗くなって、退庁する人たちのざわめきや物音がきこえていた。
「ところで」とマスターズは話をまた本筋にもどして、「わたしには犯人の目星はついております。あの晩いた連中のなかの一人だとにらんでいるのですが――」
「まあ、待ちなさい」H・Mは苦い顔をして、
「そうすると何かい、何か新事実でもあったのかね? それとも、おれが調書を読み違えたのかな? あの証言によると、犯人は三人に絞れるわな。そのうち、二人には完全なアリバイがある。ハリデーとマリオンは、暗闇のなかで手を握りあっていたんだから――」
警部は妙な顔をして、H・Mの顔を見つめた。水ももらさぬ堅固なかこみを、思いもかけないところから崩された、といった格好だった。
「ほう! まさかあれをまともに信じておいでなんじゃないでしょうな?」
「いやに疑い深いね。じゃ、君はあれを信じないのかね?」
「わたしは半信半疑ですな。信じられる点もありますけど。なるべくわたしは、あらゆる面から考えることにしているので……」
「すると君は、あの二人がダーワース殺しを共謀しておきながら、おたがいに口うらを合わせて、嘘をいっているというのかね? おい、でたらめも休み休みいえよ。そいつは悪い勘ぐりだぞ。異議がいくらでもある」
「いや、まあよく聞いてください。そんなことをいってやしませんよ。わたしの申すのは、マリオンは完全にハリデーの味方ですし、こういうことになれば、なおのことそうでしょう。ですから、たとえハリデーがじじつ席から立ったことを彼女が知っておっても――また、ハリデーの所持しておった短剣の柄が、彼女の襟首をかすめてでもですな、席からは立たなかったと口うらを合わせるように、マリオンにいい含めておいたろうというのですよ。殺人が発覚してから、二人が談合する時間はじゅうぶんあったんですから」
警部が身をのりだしていきまくと、H・Mは目をパチクリさせて、
「それで君は、テッドをあまり重要視せんのだね? なるほどね。それが君の結論か?」
「いえ、そこのとこなんですが、それが正しい結論だとは申しませんよ。ただ可能性をわたしは考えておるのです。正直いいますと、ハリデーという男は、どうもわたしは虫が好かんです。軽薄で、信用できんですな。わたしの今までの経験ですと、むこうから寄ってきて、『さあ、おれを逮捕しろ。たいした手柄にもなるまいが、さっさとしょっ引いてくれ』と、こういう奴は、たいがい、鼻の先の強がりでうそぶいているのが多いですからな」
「ふーん。そうすると君は、数多い容疑者のなかで、事件にいちばん関係の薄い人間に、目をつけているわけか?」
「そういうわけでもないですが――なぜですか?」
「いや、おれの推理によるとだな、ハリデーはダーワースの共謀者としては、もっとも縁の遠い人物になるんだがね。考えてみたまえ、いいか、ダーワースがだよ、ハリデーにだな、『おい、どうだい、おれたち二人で、ひとつあの連中をからかってやろうじゃないか。そいつが一番当たれば、おれは当代随一の霊媒として世間に認められ、おまけに君の女まで、おれのふところへ転がりこんでくるという寸法だ。どうだい、半口乗らねえか』というと思うか? そんな卦《け》が出るようじゃ、マスターズ、この水晶占いは、まあ失敗だな。そのうえに、犯人は鍵穴から忍びこんだときちゃ、こりゃ話にならねえや。そりゃね、かりにダーワースがハリデーに、何分かの助力を頼んだとしてね、そのばあい、あるいはハリデーは、相手の計画を暴露してやるつもりで、ひと肌ぬぐふりをしたかも、それはわからんよ。しかしね、ハリデーに手を貸してくれといって頼むのは、警察に手を貸してくれと頼みこむようなもんだぜ。ダーワースともあろう者が、そんなまねをするわけがないや」
「はあ。どうまあお考えになろうが、そちらのご自由ですけども、わたしの申したいのは、どうもこの事件には、われわれにわからん深い謎があるようです。たとえばですな、ハリデーがブレーク君とわたしをですよ、あの屋敷へひっぱっていったことが、これがそもそも臭いですよ。ちょうど時が時、情況が情況でしょう、どこから見たって、これは怪しいですよ。あれは初めから計画した仕事ですよ。それに、その動機が……」
H・Mは浮かぬ目つきで、机の上の自分の足をにらんでいたが、
「ようよう、やっと動機が出ておいでなすったな。おれはね、マスターズ、君がむだ骨を折ったことに対して、べつに兄貴風を吹かせるわけでは毛頭ないよ。動機にはおれもすっかりまいってるんだ。かりにハリデーに殺人の動機があったとすると、エルジー・フェンウィックはいったいどういうことになるかね? おれはこのほうが気になってるんだがね」
「ですから、あの『わたしはエルジー・フェンウィックを埋めた場所を知っている』という問題の文句は、あれはダーワースを脅迫したものだと思うのです」
「それはそうさ。その通りに違いないよ。ただおれは、君がそのむずかしさに気づいておらんらしいので、それが心配なのさ。つまり、こうなんだ――」
このとき、またしてもうるさい合の手がはいった。が、こんどの電話のベルには、H・Mはべつに何も文句はいわず、「車がきたそうだ」というと、七転八倒の騒ぎのあげくに、やっとのことで椅子から起きあがった。起きあがると、背丈はせいぜい五フィート十インチたらず、撫で肩で、顔にも生気はなかったけれども、でっぷり太ったその体躯は、部屋を圧するように見えた。
御大《おんたい》よせばいいものを、何でもかんでもシルクハットをかぶっていくんだといって、いうことをきかなかった。シルクハットをかぶるのはけっこうなんだが、困るのは帽子そのものが、ひと通りもふた通りも変わっているのである。普通のピカピカ光った絹のやつは、あれは王党趣味で、あんなものは猿が烏帽子《えぼし》をかぶったみたいで滑稽でいかんといって、つね日ごろ、くそみそにこきおろしている。ところで、そういう夫子《ふうし》ご自身がご着用のやつは、山のおっそろしく高い、しかも天井へいって鉢のひらいた、そのうえ長年かぶっているからお色は剥げちょろけているという、どう見たって歴然たる七つさがりのしろもので、また因果なことに、これをわが家のマスコットにして、行往坐臥、大事にしているのである。それからまた、虫の食った毛皮の襟のついた長外套、これがやはり同じで、これを虎の子のように大事にし、ちっとでも何かいわれるのを無性に嫌って、陰口止めにはいかがわしい由緒書までがひねってつけてある。わたしもなんべんか聞かされたが、(一)ヴィクトリア女王からの御下賜品。(二)一九〇三年の第一回自動車競技で、みごとかちえたグランプリ賞。(三)名優故ヘンリー・アーヴィング卿の遺愛品。――そのときそのときで、ざっとこういったいわく因縁、故事来歴が纏綿《てんめん》としてついているのである。ほかの品物は、見栄っぱりのくせに、いっこう無頓着であったが、この帽子と外套だけは別格であった。
マスターズが電話に出ているあいだに、H・Mはくだんの二品を戸棚からだいじそうに出してきた。わたしが横からつくづく顔を眺めていると、御体《おんたい》は口をへの字に結んで、帽子を念入りに頭にのせ、外套の袖にもったいぶって手を通して、
「さあ、行こうぜ」とマスターズに声をかけた。「何をくどくど運転手としゃべってるんだ」
「……そりゃへんだな。……」と、電話口でマスターズは、何かもどかしそうに通話していた。「……でも、ほかに何かあったのか? ……大丈夫かな? ……こっちはこれからダーワースの家へ行くところだ。……ああ、くわしいことは、むこうで会って聞こう。マリオン嬢の出先がわかったら、来られるかどうか、都合聞いておけよ。……」
しばらく迷ったのち、やっと受話器をおいたマスターズの顔は、気づかわしげに曇っていた。
「これだから、いやになる」マスターズは吐きだすようにいった。「そろそろまた何か起こりかけているような気がするなあ」
一片の空想だにもたぬ、実際家の警部の口から出ると、その言葉はよけい不気味にひびいた。かれの目は、卓上ランプの明かりにじっと見入っていた。雨はあいかわらず窓ガラスを小止みなくたたいており、古い石造の建物のなかに、滅入るような反響の音をこもらせていた。
「例の短剣が二度目に盗まれてから、これで電話は二度だな」マスターズは片手を握りしめて、「最初がバンクスから、今のはマクドネルからですが、奴のいうには、けさ早くラティマー家へ妙な電話がかかってきて、テッドと通話しとったというんですがね。相手の声が気味の悪い声だったとかで、してみると、あるいはこれは――」
部屋の中には、シルクハットに毛皮の襟のついた外套姿の、すこし猫背かげんのH・Mの黒い影が、入道のように立っていた。キラキラ光る小さな目。大きな口、肉の厚い鼻、――まるでどこかの老優の似顔絵そっくりであった。
「どっちも気に食わんな」H・Mはふいと身ぶりをして、濁《だ》み声でいった。「おれもご同様にイカモノだからな、霊感ぐらいはあるよ。厄介ごとぐらいは嗅ぎつけられるさ。……まあいいさ、ご両人、そろそろ出かけようや」
十六 殺人第二弾
ロンドンは退《ひ》け時であった。一日の労務から解放された人たちが、ピカデリー・サーカスのまぶしい灯火に誘われて殺到しているざわめきが、手にとるようにきこえていた。黄と赤でひと刷毛《はけ》刷いたような夜霧のなかを人影が流れて、自動車が電光広告さながらに右往左往に走り、そのなかを警笛が疲れたようなもの悲しい音を鳴らしていた。一行の乗った警察自動車が、ヘイ・マーケットを通りすぎると、前方につづいている高台が見え、灯火をつけたバスの波がむこうから押しよせてきては、警笛とともにコックスパー街のほうへとくだっていった。バスの大嫌いなH・Mは、車窓にもたれながら、すれちがうたびに向こうのバスに罵倒をとばした。街角を曲がるときにはバスはもっと速力を出すべきだというのが、かれの持論で、さっきからさかんに毒づいているのは、そのためであった。ウォータールー・プレースまでくると、故障したトラックが一台、路傍にえんこしていた。すれちがいざまに、交通巡査をH・Mが野郎呼ばわりで面罵したものだから、さすがのマスターズも苦い顔をして、この車は警察の車ですから、警視庁が無茶をやってると世間から思われると困りますから、お手やわらかにひとつ願いますといって、懇請していた。
ピカデリーの雑沓をぬけて、やがて車がセント・ジェイムズ街へ曲がり、どこも鎧戸をおろした、ひっそりとした都北の静かな家並みへはいると、車中もやっと静かになった。バークレーを過ぎるとき、ふとわたしは、フェザートン少佐がバーの高い腰掛に御輿《みこし》をすえて、おもしろ半分に老人のダンスの相手をしてくれている若い婦人に、父親みたいな罪のない笑顔を送っている光景を想像した。その相手の若い婦人は、古い風俗画の点景人物然たるベニング夫人の古怪な容姿とは、およそ月とスッポンであるに相違ない。「そろそろ何か起こりかけていそうだ」という警部の予言は、気味のわるいくらいひっそりしたチャールズ街には、およそ不向きな言葉と思われたが、案に相違して、それがそうでなかった。――
チャールズ街二十五番地の家の玄関先には、われわれよりもひと足早く、先着の客があった。客はベルを押す間もまどろこしいらしく、しきりとノッカーをせわしなくたたいていた。われわれの車がその家の前にとまると、その客は石段を駆けおりて、街灯の下まで出てきた。われわれは雨のなかを待ちくたびれていたマクドネル巡査部長に、ここでまためぐり会ったわけであった。
マクドネルはいった。「玄関でいくら呼んでも、いっこうに返事がないんです。また新聞記者がきたとでも思ってるんでしょう。きょうはいちんち、新聞記者攻めだったでしょうからね」
「マリオンは、どこにいた?」とマスターズがどなった。「いったい、どうしたんだ? ――当人が来ないというのか、それとも、君が遠慮しすぎて、圧力がきかんのか?」(部下に会うと、警部の態度は今までとはガラリと変わった)「ヘンリー卿が彼女に会いたがっておられるんだ。いったいどうしたというんだね?」
「彼女、自宅におらんのですよ。テッドを探しにほうぼう訪ねまわって、まだ帰らんのです。弱りましたよ。こっちはユーストン駅まで追っかけていって、そこから引き返して、何とかして会おうと思って、三十分も待っておったんです。正直、あの怪電話のことで、彼女もわたしも躍起でした。――」
H・Mは、車の窓から亀の子みたいにヌッと首を出した拍子に、だいじな帽子をどこかへこましたらしく、不機嫌な顔で何かいっていたが、事情がわかると、「そうか」といって、這いだすように車から下りると、玄関の石段をヨチヨチ登っていって、
「おいっ! ここをあけろっ!」
とバークレー街じゅうに響きわたるような声でどなると、肥満した体を扉へ体当たりにドシンとぶっつけた。これがてきめんにきいたとみえ、入口の電灯がポッとともると、顔色の悪い中年の男が扉をあけて、新聞記者が警察の方に化けて見えたのではないかと思いまして……と、おっかなびっくりでいいわけをのべた。
「大きにな」H・Mはきゅうに大儀そうな声になって、「おい、椅子」
「は?」
「椅子だ。腰かけるもの。――ああ、ここでよろしい!」
中へはいると、天井の高い、狭い玄関ホールには、ピカピカに磨きたてた樫木の床に、くたびれた小さな絨氈《じゅうたん》が二枚、ゴルフ場の障害物みたいなかっこうに敷いてあった。なるほど、マスターズが博物館みたいだといっていた通り、掃除のゆきとどいた家のなかは、いやにきちょうめんに片づいていて、人|気《け》がなく、薄暗いなかに多くもない家具調度がきちんと置き並べてある。なげしのかげにかくされている弱い照明が、黒い布張りの椅子のうしろにニュッと立っている、何だか蛇みたいにくねくねした白い彫刻を照らしだしていた。ダーワースという男は、ムードを出すコツは人一倍こころえていた男とみえて、ここなども、幻妖な心霊術をおこなう控え室としては、薄気味悪い効果をじゅうぶんに出していた。H・Mは、そんなものにはいっこうに無頓着で、さっそくもう黒い椅子にふんぞり返って、荒い息をしずめていた。マスターズは、これも気が早く、すぐさま仕事にとりかかりだした。
「ヘンリー卿、この男、わたしのほうの巡査部長のマクドネルという者です。なかなかの野心家で、わたしも嘱目《しょくもく》している男なんですが――」
「ほう!」H・Mは記憶をたぐりながら、「そうだ、君のおやじさんをおれは知っとるよ、グロスビーク老人を。大将、おれが国会へうって出たときの競走馬でな、おかげでおれは勝ったけれども……まあ、おれの知らん人間はまずないね。いつぞや君にも会ったっけな。……」
「マクドネル君、報告を」マスターズがせっかちらしくいった。
「はっ、かしこまりました」マクドネルは不動の姿勢をとって、答えた。「では、主任の命令で、ラティマー嬢の自宅へまいりましたところから、ホワイト・ホールへまわりましたところまで申し上げます。
ラティマー家は、ハイド・パーク・ガーデンの大きな邸宅に住んでおりまして、家族が小人数なわりには、少々大きすぎるほどのかまえでありますが、司令官であった老主人が亡くなり、未亡人が郷里のスコットランドへ隠居してからは、ずっと姉弟二人してそこに暮らしております」といって、マクドネルはちょっともじもじいいためらっていたが、「その未亡人というのが、ちょっと頭がへんな人でしてね、テッドのあの変調子は、このおふくろから筋を引いたものかどうか、そこはよくわかりませんが、前にわたくしはあの家へ一度まいったことがあるのです。でも、マリオン嬢とは、妙なまわり合わせで、先週初めて会いましたので……」
そんなことはいいから、要点だけ話せと、マスターズに注意されて、マクドネルはその意を含んで、話をつづけた。
「で、本日訪ねていきましたところが、彼女、何ですかケンもホロロのあつかいで、わたくしのことをスパイ呼ばわりをしましてね」と苦い顔をして、「そりゃまあ、そういわれても仕方ないでしょうが、でも彼女はすぐとそのことは忘れて、テッドの友人としてのわたくしに、いろいろ訴えました。わたくしが電話したあと、すぐとまたほかから電話がかかってきたそうです……」
「誰から?」
「それがですな、先方はテッドだといっていたが、声がどうも違っていたと彼女はいってました。あるいはテッドかもしれないが、どうもおかしいというのですな。テッドのいうには、今ユーストンの駅にいるから、心配しないでくれ。自分はある人を尾行しているので、帰りはあすの午後になるだろう、というんだそうです。彼女が、警察ではおまえの行方を捜索しているといったら、電話はそれなり切れてしまったそうです。
で彼女はわたくしに、これからすぐにユーストン駅へ行って、テッドが汽車に乗ったか、まだ乗らずに駅にいるか、とにかく探し出して、へんなまねをしないうちに家へ連れもどしてくれといいました。それが三時二十分過ぎごろでしたが、電話がもし誰かのいたずらならば、自分のほうで心当たりの友だちに連絡して、こちらはこちらで何とか手をうつからという話で――」
シルクハットをあみだにかぶって、目を半眼に閉じ、顎を撫していたH・Mが、いきなり横あいから、いった。
「ちょっと待った。ラティマー青年は汽車に乗るといっとったのか?」
「いや、それは姉がそう考えたのです。鞄ひとつぶらさげて、けさ家を出て、駅から電話をかけてよこしたんですから――」
「そりゃちっと早呑みこみすぎるな」H・Mはしぶい顔をして、「まるでそれが本命みたいだな。まあいい、それでどうしたね?」
「それでユーストン駅へこちらは駆けつけて、一時間以上かかって、駅をしらみつぶしに探しました。マリオンから写真ももらって、さんざっぱら探したんですが、けっきょくむだ骨でした。駅員にきくと、あるいは三時四十五分発のエジンバラ行きの急行に乗ったんじゃないかというんで、それから、切符売場で調べてもらいましたが、それらしい手がかりがつかめないうちに、汽車は発車してしまいましてね。こっちは途方に暮れてしまって、あるいはいたずらの電話だったのかもしれないと思ったりして……」
「エジンバラの署へは連絡したのか?」とマスターズがきいた。
「はあ、照会しました。それと電報も――」
「電報?」
「公用電報じゃありませんが、テッドの母親がエジンバラにおるもんですから、そこへ電報を打ったんです。テッドはわたくしよく知っておりますんでね。行ったとすれば、何の用で行ったのか、そいつは見当がつきませんが、とにかく、出先の署へ挙げられないうちに、早いとこロンドンへ呼びもどしたほうがいいと思ったもんですから。……で、駅からいったんラティマー家へ引き返してきましたら、そこでまた妙なことを聞きましてね」といって、薄暗いホールを見まわしてから、マクドネルは話をつづけた。
「召使の一人が、けさ明るくなったころ、誰かがテッドに話をしている声をきいたというんですな。なんでも甲《かん》高い妙な声で、ひどく急《せ》きこんで何か話していたというのです。声は、テッドの部屋か、部屋のそとのバルコニーのあたりに聞こえたそうですが」
飾りも何もないこの話は、さむざむとしたホールに、いちまつの新しい鬼気をもたらした。マクドネル自身それを感じ、マスターズまでが思わずちり毛の寒くなるのをおぼえた。声のみで、顔のないまぼろしが、そこに揺曳《ようえい》した。H・Mは腕組みをして坐りこんだまま、しきりと目をパチパチさせていたが、この話でそろそろ腰をあげそうなものだと思って、わたしはそれとなく様子をうかがっていた。
「声って、誰の声なんだ?」マスターズがきいた。
「それがどうもよくわからないんですよ。……じつは、けさ初めにラティマー家へ行ったときに、マリオンが朝召使の聞いた声のことをわたしにいって、調べてくれといったんですが、それをわたしはそのままにして、駅のほうへ先に行ったのです。駅からもどってみると、マリオンはすでにどこかへ出かけた後だったので、それでわたしは召使を集めて聞いてみたのです。
主任も憶えておいででしょうが、テッドは昨夜黒死荘を引きあげるときに、いやにソワソワしておりましたね。ところが、けさ四時ごろに、ラティマー家の執事のサークという男が、――これは堅い男ですが、自分の部屋の窓に誰か小石を投げた者があって、その音に目をさましたんだそうです。屋敷は往来からかなりひっこんでいて、ぐるりに庭があって、高い塀がめぐらしてあります。執事が窓からのぞくと、外はまだまっ暗で、すると表のほうでテッドの呼ぶ声で、鍵をなくしたから玄関をあけてくれと、どなっているのが聞こえるのですな。
で、執事が玄関をあけてやると、とたんにテッドが転げこむようにしてはいってきて、玄関の床へバッタリと倒れて、何か口のうちでいっているから、びっくりしてよく見ますと、蝋燭の油煙で顔がまるで煙突掃除みたいにまっ黒で、目がうわずっていて、手に十字架を握っているんだそうで。……」
あんまりできすぎた気味の悪い話なので、マクドネルは、きっとどこからかヤリが出るだろうという顔つきで、ひと息入れていると、案の定、H・Mからヤリが出た。
「十字架? こりゃ新事実だな。テッドって奴は、そんなに信心深い男なのかい?」
するとマスターズが、味もそっけもない声でいった。「なあに、さっきも申したように、頭がポーッとなったんでしょう。信心気なんてものとは、およそうらはらなものですな。昨夜もわたしが、君はご祈祷をしたのかと尋問しましたら、人を侮辱するにもほどがあるといった顔をして、『ぼくがメソジストの凝り固まり屋に見えるか?』といって、食ってかかってきたくらいな男です。……よし、その先。どうしたね、それで?」
「いえ、話はそれだけなんですがね。なんでもテッドは、だいぶ長道を歩いて、オックスフォード街まできて、やっと車を拾ったと、執事にいってたそうです。マリオンはひと足遅れたから、おっつけ帰るだろうといって、自分でブランデーを大きなコップに一杯ついであおると、そのまま床についたそうです。
そのあとのことは、何でも六時ごろに起こったんだそうですが、女中が火をおこしに起きて、三階からおりてきて、テッドの寝室の前を通りかかったんですな。表はまだ暗くて、ひっそりしていて、庭には靄《もや》がおりていたそうです。で、テッドの部屋の前まできますと、部屋のなかで、テッドが何か低い声でボソボソいってるんで、寝言でもいってるんだろうと、女中は思ったんですな。
ところが、テッドのほかに、べつのまた声が聞こえるんだそうです。
女中の証言によると、聞いたことのない声だといってます。しかも、女の声なんですな。それが何ともいえない薄気味の悪い声なんで、女中はあやうく気絶しそうになったくらいで、それもひどく何か早口にしゃべっていたということです。女中はやっと気をしずめて、ふとそのとき、あることを考えたんですな。というのは、一年ほど前に、ある晩テッドがグデングデンに酔っぱらって帰ってきたことがあったんですが、そのときガール・フレンドをいっしょに連れてきて、家の横手からバルコニーへ梯子をかけて、女を寝室へつれこんだ、それを女中は思いだしたんです……」
そういって、マクドネルは両手をひろげてみせた。
「結論はかんたんで、女中は、またどこかの女を連れこんだんだろう、ぐらいにあっさり考えていたところが、あとになって殺人事件のあったことを聞かされて、ちょうどテッドの帰ってきた時刻やその他のことを思い合わせると、さあ気が気でなくなってきたから、いっさいがっさいを執事に打ち明けて話した、と女中はいっておりました。とにかく、その女中にいわせると、彼女の聞いた声というのは、まるで考えても考えのつかぬような、これこそ『背筋のゾーッと寒くなるような、何ともいえない気味のわるい声』だったそうです」
「何を話していたか、話の内容は聞きとれたのか?」
「それをわたくしも聞いてみたのですが、なにしろ女中はおびえきっておって、何が何やらさっぱりわからんのですよ。ただ、これは女中から直接聞いたのではなく、女中が執事に話したのを、執事からまた聞きした話ですが、主任などがお考えになったら、まるで愚にもつかん夢みたいな話だとおっしゃるかもしれませんが、女中のいうには、類人猿がものをいったら、あんな声を出すだろうといってましたな。ただ女中の耳にひとつだけ残っているのは、『あなたは疑ったことなど、一度もないんでしょう?』という言葉だけだそうです」
長い沈黙があった。気がつくと、ここの家の執事がわれわれの話を、さっきから立ち聞きしていたので、マスターズが大きな声で、部屋から出ていけと命じた。
「女の声ね――」とマスターズは考えこんだ。
「まんざらほら話でもないようだな」とH・Mは掌に見入りながら、「神経質の人間は、男でも女でも、声がつくり声になるもんなんだ。ふーむ、類人猿に似ているとは、おもしろい、うがった形容だな。――だけど、テッドはなぜそんなにあたふた、旅行鞄ひとつ持ったきりで家をとびだしたのかな? ふーん。……」
H・Mはしばらく思案に暮れながら、眠そうな目でホールをジロジロ見まわしていたが、
「なあマスターズ、おれはあんまり気は進まんが、とにかく、ひとまずここのとこは、君の意見にいちおう加担しておくよ。目下のところ、この町には、闇の晩には出っくわしたくない殺人魔が、野放しで横行しているわけだ。ねえマスターズ、君はド・キンシーを読んだことがあるかね? ド・キンシーの作品に、ある家で殺人魔が家人を皆殺しにする現場を、物陰にそっとかくれて見ていた哀れな男を書いたものがあるが、憶えていないかな? 階段をそっと這いおりて、外へ出ようとするが、凶漢は玄関わきの部屋にとぐろを巻いている。奴さん、階段の上で、歯の根もあわずに、ガタガタふるえながらうずくまっていると、階下の部屋をギューギュー音を立てながら歩いている、犯人の靴の音がきこえる。靴の音だぜ。……われわれの場合が、ちょうどそれだ。靴の音だよ。どうなるね、いったい。――」
そういって、ややしばらく大頭をかしげて、額をたたいていたが、やがて気が烹《い》れたように立ち上がると、「まあいい。どうだって、どうにもなりゃせん。やるこった。やるよりほかに手はないよ、マスターズ!」
「はあ?」
「おれは階段はのぼらんぞ。階段ののぼり降りは、もうたくさんだ。それより、君とブレークはダーワースの仕事部屋へいって、さっきの話の計算数字を書いた紙きれと、旋盤機のそばにこぼれていた白い粉を、袋に入れて持ってきてくれ」そういって、H・Mは、何か思案ありげに鼻の頭をなでていたが、「そうだ、念のためにいっておくがね、君たち何か思うことがあっても、その白い粉は、ぜったいになめたりしちゃいかんよ。これだけは注意しとくぞ」
「と、あの白い粉は――?」
「いいから、さっさと行きたまえ」H・Mは胴間声で命じた。「ところでと、おれは何を考えていたんだっけな? あ、そうだ、靴だったっけ。さてと、誰にするかな。ペラムか。いや、あいつはうるさいからだめだ。そうだ、ホースフェイスがいい。――ところで、電話はどこかな? どこの家でも、おれが電話というと、きまって隠しておきゃあがる。――おーい、電話はどこだ?」
声に応じて、この家の執事が、どこからともなく魔法のごとくに現われると、ホールの奥の食器戸棚をゴソゴソあけだした。H・Mは時計を出してみて、
「うん、もう勤め先にはおらんな。自宅のほうだろう。マクドネル君! おお、そこにいたのか? すまんがね君、ちょっと電話をかけてくれんかな。メイフェアの六〇〇四番だ。ここへかけて、ホースフェイスが在宅かどうか、聞いてみてくれ。話したいことがあるからといって……」
さいわい、ホースフェイスという人は、わたしも知っている人だったから、マクドネルにあらましの話をしておいて、わたしはすぐとマスターズ警部のあとを追って、ホールの奥へと急いだ。
H・Mがこうと指図したことには、いつだって寸分の狂いもあったためしはない。だから、ハーレー街の名接骨医、ドクター・ロナルド・メルドラム・キースの自宅へ電話をして、ホースフェイスの在否を聞いたところで、べつに何の不思議もないわけである。自分のまわりにいる俗物どもが育ってきた、なにごともつけ焼刃の、おつに取りすましている世界、それを心から憎んで、そういう連中を忌み嫌っているというわけでもなかった。はじめから、そういう連中は眼中においてないのである。そんなH・Mが、お高くとまったハーレー街の人間に、いったい何の用があるのか、わたしなんかには見当もつかなかったが、マスターズがホールの奥の扉をあけているときに、わたしはやっと、ははあ、御体《おんたい》はわれわれの圏外の人間に何か用があるんだなと、図星がついた。立ち上がったH・Mは、ちょうどホールの左手のカーテンのたれた扉のほうへと、のしのし歩いていくところだった。
マスターズはわたしの先に立って、途中の廊下や部屋の電灯をパチパチつけながら、地階の階段をおりて、乱雑にとり散らかっている地下室へとはいっていった。正面に板じきりの小部屋があり、そこの扉におりていた錠を、警部は器用にはずした。かれのあとから中へはいったとたんに、わたしは思わずギョッとして飛びあがった。天井からさがっている緑色の笠をかけた電灯が、陰気な光を投げ、石油ストーブのほとぼりがまだ残っている狭い部屋のなかには、ペンキ、膠《にかわ》、木材のにおい、そのうえに湿気くさいにおいがムーッとこもっていた。一見して、まるで玩具工場みたいな部屋の光景だった。しかも、製作している玩具は、どれを見ても、奇々怪々なものばかりだった。多種多様の面がこちらをにらんでいる。壁にずらりと干し並べてある、おびただしいそれらの面の下には、仕事台、道具箱、ペンキ壷、薄板をはめた額縁などが、足の踏み場もないほど、ごったに置いてある。そのまた面が、気持のわるいくらいどれも生きているようで、青味がかった乳色の肌に、片目をつぶり、片方の眉をつりあげ、厚い眼鏡ごしにじっと、伏目に見おろしているのがあるかと思うと、とうに故人になったが生前見知っている人にそっくりの顔が、虫の食ったような八字髭をはやし、人に媚びるような横目をジロジロつかって……
「ねえ、この旋盤ですよ――」マスターズがちょっとうらやましそうな顔つきで、機械に手をかけながら、「この旋盤がね――」そういって、機械の下の鉄の棚から紙きれを一枚ひきぬくと、削り台から白い粉をかきよせて、それを封筒のなかへすくい入れ、それから機械の性能のよさをしきりと説明しだした。まるで事件の謎などはケロリと忘れて、すっかり安心しきったような様子で、「ほう、あんたそのお面に感心しているんですか? なかなかどうして、いい出来ですよ。わたしも前にね、ナポレオンの顔をつくってみたことがあるが、とてもこうはいかなかったな。これなんか天才ですよ」
「いや、感心なんてもんじゃないな、これは。たとえば、あすこにあるあのお面なんか……」
「ああ、あれね。あれよくごらんなさい、ジェイムズ・ハリデーですよ」
マスターズは、いきなりわたしのほうを振り向くと、ときにあなたは、発光塗料を塗った紗張りの心霊発現の仕掛けを見たことがあるかと尋ねた。
「あれはね、郵便切手ぐらいの小さな包みにして、霊媒の内股へ貼っておけるんですよ。バーラムの霊媒女はいつもそうしていたから、事前に探せたんだってね。着ている服が、胸の上と下の二枚になっていてね、そいつを目にもとまらぬ早さでさっとやるから、かならず発見できるといってましたよ」
階上で、玄関のベルの鳴る音がした。
わたしはしばらくそこにそうして、ジェイムズ・ハリデーの複製の面や、椅子の背にきちんとたたんでかけてある、ダーワースの麻地の作業前掛けなどを眺めていたが、そういう品をそこで眺めていると、とび色の絹糸めいた顎ひげをたくわえたダーワースが、眼鏡をかけて、一癖ありげな微笑をうかべながら、ついそこの目の前にある仕事台に向かって製作している姿が、まざまざとそこに現われてくるような心持がした。そこらに散らかっている、インチキ心霊術の道具の玩具も、インチキものとしてみると、なんだかますますもって気味の悪いものに見えてくるようであった。しかもダーワースは、これらの遺品のほかに、殺人狂という世にも恐ろしい遺産を、この世に残していったのである。
ふと頭のなかに、けさ未明にテッドの部屋の前を通りすがった女中が、「あなたは疑ったことがないでしょう」といった怪しい人物の声をきいたときの模様が、いやにはっきりと浮かんできた。
「ねえ、マスターズ」とわたしは面を眺めながら、警部にいった。「けさ、テッドの部屋にいた奴というのは、いったい、何者だろうね? 何のためにテッドの部屋へ忍びこんだんだろう?」
警部は、そんな問いには耳もかさずに、
「あんたね、石板細工の面を見たことありますか? これがそうですぜ。こいつはちょいと失敬していきたいくらいだな。いや、実際のはなし。店で売ってるのは高くてね、とても手が出ないんですよ」といってから、こちらへ向き直って、「テッドの部屋にいた奴ですか? それはこっちが知りたいとこですよ。それがわかればね。いや、じつはね、すこし心配になってきているんだ。けさテッドのとこへ来た奴が、あれと同じ人物でなければいいが……」
「あれと同じ人物って?」
警部は声をひそめて、「――いえね、ほら、きょうさ、ジョゼフ・デニスのとこへきて、ブリクストンの例の家へジョゼフを連れ出して、肩をたたいていたという男ですよ」
「いったい何の話ですか、それは?」
「ほら、さっきの電話。ヘンリー卿がラッセル・スクエア動物園がどうのこうのと電話でからかってたでしょう。あのときの電話。――あの電話はバンクスがかけてよこしたんですが、ヘンリー卿が何だか電話のことをゴチャゴチャいわれたんで、わたしもそれをいう暇がなかったんだが、でも、どうせたいしたことじゃないですよ。だから、こっちも昨夜のような締めあげかたはしないつもりでいます」
「どんなことなんです?」
「なあに、つまらんことですよ。――じつは、スウィーニー夫人の家を、バンクス巡査部長に厳重に張りこましておいたんです。ちょうど夫人の家の向こう前に食料品店があって、奴さん、そこの前に立って、食料品屋の主人とむだ話をしておったところへ、車が一台やってきた。食料品屋にいわれたので、見ると、その車からジョゼフと、もう一人、ジョゼフの肩をたたきながら降りてきた男があって、その男が先に立って、塀の門からジョゼフを中へ連れこんで行った。……」
「何者です、その男?」
「それがね、あいにく雨中で霧が濃くて、おまけに車にさえぎられて、よくわからなかった。ただ、ジョゼフを押していく手だけが見えたんだそうでね、車が走り去ったときには、もう二人とも塀の中へはいってしまっていたというんですよ。ばかな話でさね。ただの客だったのかどうか、わたしにも何ともいえないんだ」
そういって、警部はわたしの顔を見まもっていたが、やがて二階へ行ってみましょうといった。わたしも今の話には、べつに何とも意見はいわず、ただ、かれのいう通りであればいいがと思っただけであった。地下室からあがる階段の中途までくると、玄関ホールから新規の声がきこえた。見ると、マリオン・ラティマーが青ざめた顔をして、火の気のないさむざむとしたところに立って、クシャクシャの紙きれをさしだしていた。息づかいがせつなそうで、ホールの奥から出てきたわれわれの姿を見ると、ちょっと驚いた様子だったが、そこのどこか近くから、電話をかけているH・Mの大きな声が、言葉はよく聞きとれないが、聞こえていた。
「――相手は、テッドがエジンバラへ行くことを知ってたに違いありませんわ」とマリオンがマクドネルにいっていた。ほとんどとりすがるような調子だった。「でなければ、こんな電報打ってよこすわけがありませんもの」
昨夜、黒死荘のあの薄暗い客間でも、なかなかの美人だなと思ったくらいだから、今このダーワースの家の悪趣味にこったホールを背景にして見るマリオンの美貌は、目もくらむばかり、いちだんと立ちまさって見えた。黒の光った服に、黒の帽子、それに白い毛皮の襟を大きくつけているのがいかにも映りがよく、青白い顔に生気をつけるために、いくらか化粧はしていたろうが、おっとりしたやさしい目もとが、いちどしおれたあとまた水を揚げて立ちなおった、とでもいうような、何か人の心に訴えるものがあった。あわててわれわれのほうに慇懃《いんぎん》に会釈《えしゃく》をすると、彼女はいった。
「わたくし、どうしてもこちらへうかがわずにはいられませんでしたの。マクドネルさんがここへお見えになるときのお言伝てで、何かわたくしにご用があるようなお話しだったもんですから。それに、これを皆さんにぜひ見ていただきたいと思ったので。――エジンバラの母からまいった電報ですの。母はただ今あちらにおりますもんですから――」
電文は次のようなものであった。
セガレ トウチ ニ オラヌ ユクエ ハ ワカルマイ
「ああ、お母さんからですか? どういう意味なんですか、これ?」とマスターズがいった。
「わかりませんの。皆さんにお聞きしたらと思って。……これで見ると、弟はあちらへまいっておりませんね」マリオンは不審のこなしで、「どうしてまいらなかったのでしょう?」
「失礼ですが、テッド君は――」とマスターズは高飛車ないい方で、「今まで何か困ったことがあると、すぐお母さんのとこへ行く癖があったですか?」
マリオンは警部の顔をにらみかえして、「母のところへまいっては、いけませんのですか?」
「いや、そういうことはありませんが、こちらはただ、殺人事件ということを考えるのでね。お母さんのご住所なども、詳細にお聞きしなければなりません。警察ですからな、どうもやむをえんのですよ。この電報は、そうだな、ヘンリー卿にいちおう見てもらいましょう」
「ヘンリー卿?」
「ヘンリー・メリヴェール卿です。本事件を手がけている方です。いま電話に出ておられますから、しばらくここで、お待ちを……」
電話室の扉がギーッと締まって、煙草のけむりがあおられて外へ出るのといっしょに、古ぼけたパイプをくわえたH・Mが、のっそりと出てきた。いまにも雷が落ちそうな苦い顔をして、何かがなりつけようとしたのを、マリオンの姿を見ると、ガラリ顔つきが変わって、きゅうに腰の低い、ものやわらかな態度になった。そして、パイプを口からはなすと、無遠慮な、とろけるような目つきで、穴のあくほど彼女をまじまじうち眺めながら、
「これはまたお美しい、妖精のような方でいらっしゃるな。こういう方を拝見すると、どうもわれながらカッカとしてくるね。そういうお方ですぞ、あんたは」(嘘もかくしもないところ、これがH・Mにすれば、精いっぱいの慇懃《いんぎん》なる社交的辞令のつもりなのである。はたの者は、ときどきこれを食らって、ヒヤリとさせられる)「いや、この間見た映画のなかに、あんたにそっくりなのが出てきた。映画の中ほどで、その女が着ている物を脱いだがね。ごらんになりましたろう、あの映画? 題かね? 題は忘れたな。なんでもその女が迷ってね、決心がつきかねてるあんばいでね……」
マスターズが見かねて、エヘンと大きな咳ばらいをして、
「あの、こちらマリオン・ラティマー嬢です」
「うん。だからさ、さっきからお美しい妖精のような方だと思ってるんだよ」H・Mはいやにその点に拘泥《こうでい》するかのように答えた。「あんたのことは、いろいろうかがってますよ。いちどお会いして、この事件を解決したいわれわれの意のあるところをよくお話ししてね、ご舎弟を無事にお手もとへお返ししたいと、こう思っておるんだ。……ところで、何かわたしに見せたいものがあるとかいうことだが……」
マリオンは、ややしばらく相手の顔をじっと眺めていた。が、相手がまじめなことは、ひと目でそれとわかるので、当節の「卿《サー》」なるものの実態を、とやかく責めるわけにもいかなかった。そこで彼女は、いきなり相手にしっペ返しを食わせた。
「おもしろいお爺さまでいらっしゃるのね」
「そう」H・Mは平然たるもので、「わたしは何でもあけっ放しだよ、うん。ところで、何だね、これは?」無駄口止めに、マスターズが電報をさしだしたのを受けとって、「何? セガレ トウチ ニ オラヌ……」読み終わると、うーんとうなって、「これは、あんたに来たの? いつ来ました?」
「まだ三十分にもなりません。家へ帰ったら、来ておりましたの。お願いです、教えてくださいまし。それでわたくし、急いでこちらへまいったのです」
「まあまあ、気をおちつけて。この電報はこちらへおあずかりしておこう。事情はお話ししますよ」とうちとけてきた。「あとで、あんたとハリデー君に、ゆっくり話したいんだが……」
「あの人、いま表の車の中におります」マリオンはのりだすようにして、「ここまで乗せてきてくれたんですの」
「ああ、そう。いや、今でなくてもよろしい。こちらはまだいろいろすることがあるんでね。火傷の跡のある男も探さにゃならんし。――そこで、どうだろう、明朝十一時ごろ、あんたとハリデー君に、わしの役所までご足労願えんか。マスターズ警部を迎えに出すから、かれといっしょにきてもらって、そのときいろいろ話すことにしようて」
気軽な調子でそういいながら、マリオンを玄関口へと追いやったその裁き方は、じつに手に入ったものであった。
「ええ、おうかがいします。きっとおうかがいします。ディーンもきっとまいります……」
マリオンは唇を噛んで、すがるような視線をわれわれに投げてから、扉をしめた。そのまましばらく、H・Mは、しまった扉口をじっと見送っていたが、まもなく路上で車の走りだす音が聞こえると、おもむろに部屋のなかへふり向いて、深く考えこむけしきでいった。
「あのねえちゃんが、ああやっててきぱき動いてくれなかったら、誰かさんがそれこそ手も足も出なくなっていたんだぜ。自然て奴は、そこだけポカンと穴のあくことを嫌うからね。穴があいたんじゃ、むだだからな。しかし、どうもへんだな……」とかれは顎をなぜた。
「しかし、ばかにまたあっさりと追っぱらいになりましたな」とマスターズがいった。「ところで、ホースフェイスとかいう専門医の方からは、何か吉報がございましたか?」
H・Mはマスターズのほうをチラリと見やったが、その顔つきには何かがあった。
「いや、違う、違う。ホースフェイスに電話をかけたんじゃないんだ」
さむざむとしたホールに響きわたるような声で、H・Mはいった。
しばらく沈黙の領《りょう》したなかで、みんなかれの言葉に不安の思いを誘われた。マスターズは思わず拳を握った。
「今のは、警視庁からの電話だったんだ」とH・Mは重々しい、おちついた調子でいった。
「マスターズ、君はきょう、午後の五時にジョゼフを訪ねた者のあったことを、なぜおれにいわなかったんだ?」
「とおっしゃると、まさか、あの……?」
H・Mはうなずいた。そして、黒い椅子のなかへめりこむように、ドッカリと腰をおろした。
「おれはべつに君を責めるわけじゃないぞ。おれが自分で知ろうとしなかったんだからな。……そうだよ、お察しの通り、ジョゼフは殺されたよ。ルイズ・プレージの短剣でな」
十七 チョコレートとクロロホルム
新聞が大々的な活字で『幽霊殺人』と形容した人物――なるほど、『幽霊殺人』という言葉は、事件の恐怖感をじゅうぶんに伝えていたし、情況の印象も正しく伝えていた――この幽霊人物による第二の殺人事件をもって、黒死荘事件は、まだその最後の、もっとも恐ろしい幕をおろしたわけではなかった。去る九月八日、あの石室の椅子に坐っていた傀儡《かいらい》人形を、われわれが監視していたあの晩のことを回顧すると、今までのことはすべてみな、まだ事件のほんの序曲にすぎないことが、わたしのようなものもはっきりわかる。いっさいの出来事が、どうやらことごとく、ルイズ・プレージに還元していくようであった。かりに今日なお、ルイズ・プレージがこの事件を見守っているとしたら、おそらくかれは、事件の終局に、おのれの運命がふたたび働きかけるのを見たことだろう。
それにしても、この第二の殺人事件は、とくに犯人の行動の点で、じつに残虐きわまるものであった。事件の報知がはいるやいなや、H・Mとマスターズ警部とわたしの三人は、とるものも取りあえず、ただちに警察自動車に便乗して、遠くブリクストンの現場まで長駆した。H・Mは後部座席に長々とのけぞって、火の消えたパイプをくわえながら、自分の聞きとった事件の模様を、われわれにざっと語ってくれた。それによると――
巡査部長タマス・バンクスは、マスターズから、問題の家の所有主スウィーニー夫人と霊媒ジョゼフの動静を、できるだけくわしく調査するように命ぜられ、その日はいちにち、界隈《かいわい》を聞きこみに歩いていた。問題の家には、あいにくと誰もおらず、スウィーニー夫人は人を訪ねに出かけて留守、ジョゼフも映画見物に出かけて留守だった。問題の家と、そこの居住人について、知られているわずかな材料を提供してくれた、人のいい食料品店のあるじの話によると、ちょうどその日は、スウィーニー夫人が自分で訪問日と定めている日で、朝早く彼女は「メリー女王ふうの帽子に、黒い羽根の襟のついた外套を着て」出かけたそうである。あるじの知っているところでは、彼女は自分も以前は霊媒をしていたことがあったらしく、ふだんからいやに上品ぶってお高くとまり、あまり人とつきあわず、隣近所とも口をきかなかったということだ。四年ほど前に、ジョゼフを連れてきて住むようになってから、あすこの家は化物屋敷だという噂がたち、誰も寄りつかぬようになった。ときたま、長いこと家をあけて留守にしていることもあり、そうかと思うと、時によって、紳士ののったりっぱな自動車が横づけになることもあったりした。
その日、午後五時十分ごろ、バンクス巡査部長は、一台の自動車が霧雨のなかを走ってきて、その家の前にとまったのを見た。車にのっていたのは、一人はジョゼフで、もう一人のつれの男は、ジョゼフをせきたてて煉瓦塀のほうへ押していく手だけしか見えなかった。この情報を、バンクスが電話でマスターズに知らせると、良心に抵抗を感じない程度で、中へ忍びこんで探査しろという命令であった。そこでバンクスは、両名が門内にはいったのち、しばらくたってから、道路をこえて行ってみると、門はあいていて、邸内はべつに何ごともない様子であった。平べったい二階建の家で、踏み荒らされた芝生に狭い裏庭がついており、階下の横手の部屋に灯火がついていたが、カーテンが引いてあるため室内は見えず、中の話し声も聞こえなかった。平生、あまり冒険ごとを好かないバンクスは、きょうの仕事は、これでひとまずけりにしようときめたのである。
この家からいくらもはなれていない、ルーボロー街とヘイザー街の角のところに、『キング・ウィリアム四世』という飲み屋があって、その時間にはもう店をあけていた。
「バンクスがその飲み屋を出たのが、六時十五分過ぎだった」とH・Mはパイプを噛みながらいった。「奴さん、その店へ一ぱい飲みに寄って、かえって運がよかったんだよ。帰りのバスにのると、ちょうどジョゼフのいる家――『マグノリア荘』とか何とかいったったな。――そこの前を通る。ちょうど百ヤードばかり手前までバスがさしかかると、いきなりその家の塀の門から、一人の男が夢中でとびだしてきて、何か大声でどなりながら、ルーボロー街のほうへ駆けていくんだね。……」
マスターズは、水色の車の上でしきりと警笛を鳴らしていた。さっき来た道を、車は逆に疾走しているわけである。運転台からうしろの席へ、かれは大きな声でいった。
「じゃ、それが――?」
「まあ、待て。黙って聞いとれ。――で、バンクスはその男を追いかけて、やっとのことで捕まえた。捕まえてみると、その男は日雇い人足ふうの男でな、まっ青な顔をして、自分は警官を呼びに走ったんだという。で、話を聞くと、ただ『人殺しだ、人殺しだ』というだけで、とんと方角がつかん。巡査がやってくるまで、その男は、バンクスのことを警察の者とは思わなんだらしい。で、巡査と三人して、『マグノリア荘』へ引っ返したわけだ。
その男は、その日スウィーニー夫人に頼まれて、車に一台泥と漆喰《しっくい》を運んで、裏庭のどこかを修理することになってたらしいんだな。ところが、あいにく前からの仕事の都合で、その日は帰りが遅くなったもんだから、材料の泥と漆喰だけを先に裏庭へ運んでおいて、修理の仕事は明日来てしようと思ったんだ。奴さん、化物屋敷だというもんだから、おっかなびっくり裏門からはいって、そこから表のほうへまわって、暗くなったから仕事は明日にしますからと、スウィーニー夫人にいちおう断わっておこうと思って、玄関まできかかると、地下室の窓に灯火の影が見える。……」
車はウェスト・エンドをまっすぐに走っていた。雨に濡れた道を、マスターズは危い横すべりを何回もしながら、ヴォクスホールの前をすっとばし、やがてホワイト・ホールを過ぎ、大時計を左に切れて、ウェストミンスター橋を渡っていった。
「……で、何の気なしに、ひょいとのぞいてみると、地下室の床に、ジョゼフが血の海のなかにのけぞって、まだ身もだえをしながら両手をピクピクさせて、のたうちまわっている。うつ伏せになった背中に、短剣の柄がズブリと突き立っている。人足が外からのぞいているうちに、ジョゼフは息が絶えたらしい。……
ところがね、歯の根がガタガタしたのは、これだけじゃなくて、まだほかにもあったんだ。地下室に、ほかにまだ誰か人がいる様子なんだな」
話の中途から、わたしはうしろを振り向いて、H・Mの顔の様子から何かを読みとろうとした。おりから渡った橋の電灯の、チラチラする光りで見たH・Mの表情は、めずらしく荒びた色をおびていた。
「いやあ、だめだめ」H・Mは皮肉な調子で、
「君の考えてることは、こっちにゃわかっているよ。……靴が見えただけなんだ。またまた、靴だぜ。|げんくそ《ヽヽヽヽ》の悪い。怪しい男を、バンクスはひと目も見ないんだよ。なんでも、かまどの中をひっかきまわしていやがったそうだがね。
だから、おれはいってやったのさ。バンクスのいうには、そのかまどというのは、地下室のまんなかにすえてある暖房用のものなんだそうだが、人足が窓からのぞいたのは、ちょうどかまどの焚《た》き口の扉の反対側からだったんで、どんな男だか見えなかったわけだ。それに、蝋燭が一本ともっているきりなんだしね。でも、窓のガラスが割れていたんで、シャベルが焚き口へぶつかる音だの、石炭をしゃくって焚き口へほうりこむ音は、人足にも聞こえたそうだ。その音を聞いて、奴さん、夢中ですっ飛び出たんだが、そのとき、かまどのわきから怪しい男の影がチラリと見えたんで、それで『人殺し!』と大きな声でどなったものらしい。
まあ、黙って聞きなさい。質問はあとまわしだ。――それでね、バンクスの話では、巡査とその人足と三人で、『マグノリア荘』へ引き返して、窓をぶちこわして中へはいってみると、かまどの焚き口から、ジョゼフの足が片っぽニュッとつき出ているという次第さ。かまどのなかは火がボンボン燃えているので、急いでバケツの水をぶっかけて、それからジョゼフを引きずり出すという騒ぎだ。まだ息のあるうちに、石油をぶっかけて、かまどへぶちこんだらしいと、バンクスはいってたがね。……」
車がランべス街の暗いところへはいると、河岸の灯影も薄くなり、やがてケニントン通りの先の陰気な町並へはいると、あたりはますます暗くなった。このへんも、昼間はけっこうにぎやかな区域なんだろうが、夜はどこまで行ってもまっ暗な、だだっ広い、ガス灯もまばらにしかない、人通りもまれな寂しい通りで、棟の低い二階建の、紅白の色ガラスを市松模様にはめこんだ玄関口から、中の灯影がぼんやりさしているといった家並が、城壁のようにギッシリ立ち並び、たまさか映画館の灯か酒場の灯か、軒を並べた小店舗の、そこだけポッカリ島のように明るい区域があるので、ホッと息をつくくらいのもので、そんな通りを電車がくたびれたようにキイキイ走り、目に入る人影といえば、みんな自転車にのっている人たちばかりであった。
今でもわたしは、自転車のベルの音をきくと、あの小体《こてい》な家――近所隣り、みんな同じようなかまえの、頑丈な破風に紅白のガラス入りの玄関扉があって、ただ、いくらか小広い自分の地所に、一戸建てになっている点だけがよそとは違う、あのささやかな家のことを思いだす。――やがて、われわれの車は、その家のまえに横づけになった。夜霧ににじんだ街灯の青い光のなかに、野次馬たちが「マグノリア荘」の塀外にたかっているのが見えた。群集はおとなしくて、まるで死について瞑想でもしているように、何もいわず何もせずに、じっと舗道を見つめて立っていた。その前をひっきりなしに自転車のベルが走りこえていくほか、暗い往来はひっそりかんとしていた。ときおり、巡査が人垣をかきわけて、「さあ、どいた、どいた!」と申しわけばかりの制止の声をかけると、群集はお義理にちょっとザワザワ動くだけで、そのままやはり同じ場所にとどまっている。
われわれの乗ってきた車を見て、巡査が道をひらいてくれた。「おや、あの爺さんは誰だい?」と誰かが小声でささやいていた。巡査は職業柄、いやに四角ばって、鉄の門扉《もんぴ》をしずかにひらいた。われわれが煉瓦の敷き道をはいっていくと、野次馬のなかからささやきの声がおこった。玄関をあけて顔を出したのは、赤ら顔の、体のがっしりした若い男で、これがマスターズに敬礼をした。見るからに、まだ平服も着こなれない、新米の巡査部長であった。
「ご苦労、バンクス」マスターズはぶっきらぼうにいうと、「あれから何かニュースあったか?」
「はあ、老夫人が帰宅しました」と、バンクスはちょっと気がかりなふうに顔をふいて、「スウィーニー夫人です。少々手の焼ける女ですが、応接間へ入れておきました。……死体は、まだ地下室においてあります。かまどのなかから引きずり出しましたが、凶器はまだ背中に刺さったままにしてあります。あとはひどいもんです。あの凶器は、あれはたしかルイズ・プレージの短剣ですな」
巡査部長は、一行を陰気なホールへ請《しょう》じ入れた。廊下には、きのう料理した羊料理のにおいがまだ残っていた。ほかにもう一つ、異様なにおいがただよっていたが、それはここではいわないでおく。階段わきのガスの灯口に、だいぶお疲れ筋のマントルがともっていて、床に張ったオイル・クロースがひび割れだらけだし、花模様の壁紙は湿気で汗をかいているようだった。ビーズ玉ののれんのさがっているいくつかの扉口に、わたしはそれとなく目をくばった。マスターズは、死体を最初に発見した男を呼ぶように命じたが、その男がいったん自宅に帰されたと聞くと、にわかに不機嫌になりだした。
「その男は、両手をえらくやけどしまして」と、バンクスはよそ目にも固くなって、「いやしかし、じっさいよく働いてくれたです。わたしも一、二ヵ所やけどをしましたが、あの男はほんとに正直な男でして、家はついこの先にあって、生まれ落ちたときから、ずっとそこに住んでいるんだそうで」
「うん、よし」とマスターズはどなりつけるような声で、「ほかに何か新発見は?」
「はあ。時間がなかったので、まだ。……それより、死体をごらんになるのでしたら――」
マスターズはH・Mのほうを見やった。H・Mはムスッとした顔つきで、しきりとホールを見まわしていたが、
「おれか? おれはよす。君、行って見て来たまえ。おれはほかの仕事をする。ちょっと表へ行って、舗道の連中と話してこよう。警察のやつらは、野次馬というと、なぜああ目のかたきにして追っぱらうんだろうな? あの連中はね、警察が近所を聞きこんで歩くかわりに、むこうからわざわざこっちへ出向いてきてくれる連中だぜ。手間がはぶけて、願ってもないことなのに、どうも君たちはあの連中を活用しようとしないんだな。まあ、おれは庭のほうを見てくる。あとでまた」
H・Mは鼻をくんくんいわせながら、フラフラ外へ出ていった。しばらくすると、「よう、皆さん、どうですな、景気は?」と、表の連中に呼びかけている声がきこえてきた。野次馬はあっけにとられたにちがいない。
H・Mが出ていったあと、バンクス巡査部長は、まずわれわれを小さな食堂に案内した。そこは、炉棚の上のケースに飾ってある、剥《はく》製の鱈《たら》のギョロリとした目つき同様、どこを見ても、胸のむかつくような感じのする部屋だった。しみだらけのテーブル・クロースの上に、ブドー酒の罎が一本おっ立っていたが、グラスはひとつしか出ていなかった。そのむこうの、ジョゼフがいたらしい席には、五ポンド入りのチョコレート箱が出ていて、中身のいちばん上側は、食べ荒した跡があった。だいたいこれで、事件の模様は見当がつく。ジョゼフが誰かにもらったチョコレートを、ひとりでむしゃむしゃ食べているその向こうで、犯人はチビリチビリ、ブドー酒を飲《や》りながら、相手の様子をうかがっていたのであろう。マスターズは、しきりと鼻をヒコヒコさせて、部屋の空気を嗅いでいたが、
「バンクス、君が最初に灯火を見た部屋というのは、ここなんだな? なるほど。――へんなにおいがするな。――」
「はあ、クロロホルムのにおいです。地下室に、それを泌みこました海綿がありました」バンクスは気がかりらしく、手の甲でまたもや額をふいて、「犯人は、被害者のうしろへまわって、海綿をかがせ、それから地下室へ引きずりおろして、ばっさり片づけたらしいですね。血痕はどこにもないですから。――まさか死体が出てくるとは、予想もしなかったですな。犯人は死体を消すつもりで、かまどのなかへ押しこんで、それからずらかるつもりだったのだと思います。ところが、たまたまジョン・ワトキンズに現場を見られたので、奴、泡をくって逃げたんですな」
「そうかもしれん。じゃ、地下室を見よう」
地下室には、われわれは長くもいなかった。じじつ、わたしはひと目見ただけで、階上へ上がってきてしまった。かまどの火を消したために、地下室は水びたしになっていた。かまどはまだプスプス燃えていて、ときどき赤い炎をメラメラ上げ、白い煙が床をいちめんに這っていた。何かの木箱の上に、蝋燭が一本ともっていて、そのわきに、ちょっと見ると腐ってまっ黒になったような、よく見ると火の粉でボロボロに焼け爛《ただ》れたものが横たわっていた。はいている靴が焼け焦げている、二本の足がそれとわかるだけで、あとは見分けも何もつかなくなっていたが、背中に突き刺された短剣の柄は、まぎれもなくわかった。派手な格子縞の服のきれっぱしが、明け放してあるかまどの焚き口の鉄扉の上に、焦げたままひっかかっていた。煙のにおいと、人間の生身の焼けたにおいばかりでなく、凄惨なその現場を見ただけで、わたしはもう、とたんに胃のぐあいがへんになってきたので、羊の肉くさいホールのほうがまだしもだと思って、早々に上へ引きあげてきてしまったのである。
わたしがホールへ引き返すと、今しがたまで誰かそこからのぞいていたと見えて、いくつかある扉口のひとつがすばやく締まって、ガチャリと把手のまわる音がきこえた。先刻バンクスが、スウィーニー夫人を階下の応接間へ入れておいたといっていたが、ふだんから、そういう陰険な女なのだろう。しじゅう忍び声と忍び足で、物陰にばかりひそんでいて、出会い頭にでもぶつからないかぎり、姿というものをいっこうに見せない女なのだろう。それにしてもジョゼフは、(あの殺風景な食堂で、ボーボー鳴るガス灯の下でチョコレートをむしゃむしゃ食べながら)自分の前に坐ってニヤニヤ様子を見ていた男が、いきなり立ちあがって、ゆっくりと自分のうしろへまわったときには、何を果たして考えていたことだろう? ――
マスターズ警部の靴音が、階段をドシン、ドシンのぼってきた。バンクスがしきりと話のむし返しをやりだしたが、べつに新しい話もないようで、マスターズは二、三それを手帳に書きとめてから、スウィーニー夫人に会いに応接間へのりこんでいった。
スウィーニー夫人は、大柄な、さえない顔をした女だった。床に蝋をひいた、ここの家ではどうやらいちばんましな応接間の、小さな丸テーブルの前から立ち上がると、彼女はつかつかとこちらへやってきた。顔だちは悪くはない。賄《まかな》いつきの下宿屋にちんまりと坐りこんで、編物でもしている婆さんといった風情《ふぜい》の女、といいたいが、それより柄が大きくて、体が頑丈で、どこか小狡《こずる》いようなところのある女だ。半白の髪を耳の上で大きく束ね、襟に羽毛のついた黒のコートを着て、金鎖のついた縁なしの鼻眼鏡をかけていたが、その眼鏡の金鎖を、さもさも今まで暇つぶしに卓上の聖書をひもといておりましたといわんばかりのこなしで、胸からはずした。
「さあ、どうぞ!」といって、濃い眉をグイと上げて、かぶっていた面でも持ちあげるように、鼻眼鏡をすこし上へあげ直すと、何かいいがかりでもつけるような切り口上で、「ご存じのとおり、手前どもでとんだまあ恐ろしいことが持ちあがりましてねえ」
「そう、まったくね」と、警部は「つべこべいうな!」といわんばかりの調子で、手帳をとりだして、「姓名を、どうぞ」
「メランダ・スウィーニー」
「職業は?」
「ひとり者の気ままな身分ですの」と、まるで世間のおせっかいどもをふりはらうかのように、厚い胸を一つブルンとゆすったが、何だかミュージカル・コメディーでコーラスが演ずるしぐさみたいに見えた。
「なるほど。それで、亡くなったジョゼフ・デニスとの関係は?」
「関係なんてございませんの。その点を、はっきりわたくし申しあげておきたいと思います。わたくし、あの可哀そうなジョゼフのことは、ずいぶん可愛がってやりましたんです。当人は、わたくしのすることを、何でもかんでもおせっかいだ、よけいなお世話だと申して、いやがっておりましたけど。昨晩、凶漢にむごたらしい目におあいになったダーワースさんが、あの子をわたくしどもへお連れになったので、それでおあずかりしたようなわけなんですが、それ以来、ほんとにわたくし、寝る目も寝ないで可愛がってまいりましたんですの。あの子は天分がございましてね――霊媒の力はほんとに天才的でございましたね」夫人は聖書をげんこでたたきたたき、いった。
「ここには何年ぐらいもうお住まいです?」
「足かけ四年になります」
「ジョゼフ・デニスは何年ぐらいいましたか?」
「たしか――そうでございますね、たしかこの秋のミカエルマス、まる三年になると思いますが。……わたくしもね、人一倍世話好きな性分だものですから。……」
なぜか彼女は、つとめて気軽な調子で話そうとしているようであった。ふとわきを向いた彼女の額に、汗の玉がガス灯の光をうけてキラキラ光っているのを、わたしは見て、内心はひどくおびえあがっていることがわかった。ものをいわずに黙っているときには、息づかいの音さえ聞こえた。
「ダーワースさんとは、ご昵懇《じっこん》だったのですか?」
「いいえ、昵懇というほどでもございませんでしたが、ひところ、わたくし心霊研究にこりましてね、それであの方にお目にかかったのですが、でも近ごろはもうそのほうはやめております。とてもあれは疲れましてねえ」
こんな尋問が、ごくありきたりに、トントン運んだ。マスターズは、まだ尖鋒《せんぽう》をあらわしていなかった。証拠がすっかりそろってから、ほんとうの審理をするつもりでいるのだろう。尋問は、さらにつづけられた。
「ジョゼフ・デニスに関して、何かご存じのことがありますか? たとえば、両親のこととか――?」
「まるっきり存じません」といってから、ちょっと思いなおして、「そういうことは、ダーワースさんにおうかがいになれば、よござんしたのにねえ」
「おい、おい!」
「申しあげること、何もございませんもの。あの子は捨て子でしてね、小さい時分は、それこそ食うや食わずのひどい境遇だったらしいですわ」
「ジョゼフが人にねらわれていたような心当たりはありませんかね?」
「ありませんですね。でも、ゆうべ帰ってまいりましたときは、だいぶ様子がへんでございましたよ。むりもございませんけど。ところが、けさになりましたら、ケロリとしておりますから、これはてっきり、ダーワースさんのお亡くなりになったことを、皆さんがあの子にお明かしにならなかったんだろうと、そう思いましてね。……きょうは映画を見にいくんだとか申しておりましたから、たぶんまいったんだろうと思います。わたくしはけさ十一時に宅を出たきりで……」
といって、彼女はあとをいい濁らしたが、いきなり聖書を握ると、こんどは夢中でまくしたてだした。ところどころ、しどろもどろなところがあった。
「ねえ皆さん、聞いてください。皆さんは、きょうのこの凶事のことで、わたくしの知っていることを聞き出そうとしておいでですね。わたくしはけさ宅を出ましてから、きょう一日の自分のことは、一分一秒の狂いなく、はっきり申し上げられます。まずわたくし、きょうはいちばんはじめに、日雇い人足のジョン・ワトキンズのところへまいりました。裏の井戸側のセメンがこわれて、水がもって困るので、その修理を頼みにまいったのです。そこから、クラパムにいる友だちのところへまっすぐにまいりましてね、あのへんあちこち寄ったりして、いちんち向こうにおりましたんです。……」
そういって、彼女はマスターズからわたし、わたしからバンクスと、三人の顔を順々に見渡したが、そのくせ、もしや自分に嫌疑がかかっていはすまいかと、それを案じるらしいけはいは少しも見えなかった。それよりも、何かほかに心配の種があるようだった。そのせいか、どうもいうことがまことらしく聞こえない節があった。オーバーな身ぶりや、見えすいた話っぷり、あれはいったい何だったのだろう?
「帰ってきたのは、何時でした?」
「クラパムからバスに乗ったのが、六時ちょいと過ぎでしたかしら。家へもどりましてからのことは、ご存じですわね。帰りました時刻は、こちらの方に聞いていただきます」
そういって、彼女はもとの座にもどると、テーブルのむこうの馬の毛入りのクッションのついた椅子に腰をおろした。そしてハンケチをだして、おしろいでもたたくように顔をたたいていたが、「警部さん。――おたく、警部さんなんでしょ?」と追いかけるように念を押してから、「話は別だけど、あなたまさかあたしを、今夜ここへ罐詰にするつもりじゃないでしょうね? ねえ、お願いしますわよ」われながらちと派手すぎたかと思ったほどの|しな《ヽヽ》をつくり、きゅうにとってつけたような切り口上で、「あなた、あたしの知人たちのことも調べるんでしょうが、みんなりっぱな人たちばかりですよ。あたし今夜、そっちへ行って泊まっちゃいけませんかしら?」
「いいでしょう、そりゃ。だけど、どうしてそんなことをするんです?」
「こわいのよ、わたくし」
マスターズは手帳を閉じた。そしてバンクスにいった。
「ちょっと、ヘンリー卿を探してきてくれんか。さっきわれわれといっしょに来られた方だ。この証人に、ちょっと会って話してもらいたいといってな。……おいおい、ここの家は、二階や何か、ひと通りもう調べたんだろうな?」
この問いは、じつはスウィーニー夫人に対して発せられたようなものであった。見ている前で、彼女はギクリとしたようだったが、すぐとハンケチをふって何食わぬ顔でごまかしていた。
「二階はしらみつぶしに調べました。本官が見てもわかりませんが、こちらの奥さんが見たら、紛失品の有無がわかると思いますが」
バンクスといっしょに、わたしも廊下へ出て見た。われわれは三人とも、どうもここの家とスウィーニー夫人が臭い。臭いというよりも、事件に何か重大な関係をもっていそうだ。――そんな勘があった。何か夫人には臭いところがある。ただ嘘をついているというだけではないようだ。とにかく、芝居をしていることは確かだ。それがこわいせいか、それとも後ろ暗いことがあるせいか、あるいはただの気病みのせいか、それはわからないが、とにかく彼女の演技は過剰だった。H・Mがこの証人をどうあつかうか、わたしはぜひとも見たかった。
H・Mは、門の外にはいなかった。野次馬も、もうだいぶまばらになっていた。警備にあたっていた恰幅《かっぷく》の堂々たる巡査にきくと、H・Mは『キング・ウィリアム』という飲み屋へ行って、野次馬たちと|おだ《ヽヽ》を上げているということだった。そのことをマスターズに知らせに門内へ引き返していったバンクスが、玄関で大声でどなっているのをあとに、わたしは『キング・ウィリアム』なるその飲み屋へ、H・Mを探しにいった。人のいいマスターズは、きっとげんこをふるってぢだんだ踏んでいたことだろう。
軒灯のついている入口から、煙草のけむりがもうもうと往来へ流れている、小さなかまえのその飲み屋は、だいぶ客がこみあっていた。壁ぎわの腰掛けには、真鍮のカラーボタンをつけた、赤ら顔の常連たちがわがもの顔に席をしめ、射的場の人形みたいに目白押しに並んで、いいご機嫌のまっ最中であった。そのなかで、H・Mはジョッキー片手に、ごひいきの連中にとりまかれながら、傷だらけの板に矢投げの矢を投げているところだった。しかも先生、矢投げの合間に、例によって一席ぶってござる。
「諸君、われわれは自由なる大英帝国国民として、現政府が労働者を搾取することによって、われわれに犯したるこの侮辱を、断じて許しては相ならん。将来もまたしかりである。――」
わたしは酒場の入口から首だけつっこんで、合図の口笛を鳴らしてやった。H・Mは、さかんに鯨飲《げいいん》していたジョッキーを下におくと、演説をやめて、誰彼の会釈なく、手あたりしだいに酔っぱらい連中と握手をすると、ドッという歓声に送られながら、フラフラ外へ出てきた。
夜霧のたちこめた往来へ出ると、かれの顔つきはガラリと変わった。外套の襟をふかぶかと立てたその姿は、わたしみたいに日常のかれをつぶさに知っている人間でなければ、おそろしく神経質な、用心深い人に見えたにちがいない。
わたしはいってやった。「先生、十八番の手はうまくいったようですね。何かわかりましたか?」
大丈夫、金《かね》の脇差《わきざし》だ――そんなふうに聞こえる言葉を、例のガラガラ声でいっていたが、千鳥足で五、六歩あるいてから、ハンケチではなをチンとかむと、
「うむ。ダーワースのことやら、ほかのことやら、いろいろとな。おい、よく憶えておけ。話を聞き出したいと思ったら、古くからいる土地の奴らをつかまえりゃいいんだ。近所の飲み屋にとぐろを巻いてりゃいいのさ。あすこの家へは、ときどき女が訪ねてきたそうだぞ。
えい、なぜ早くにそれに気がつかなんだか。さっき、ダーワースの家におったときに、おれはどうも臭いぞと思いはじめたんだが、いや面目ない、おれは一生一代の不覚をやらかしたらしいぞ。……なあに、まだ後の祭というほどのことはあるまい。安心しろ。運よくば、そうさな、あすの晩――いや、もうちっと遅れるかな――ま、できればあすの晩あたり、おれはな、世にも冷酷無比、頭脳|犀利《さいり》なる凶悪犯人を、君たちに引き合わしてやれるぞ。……」
「相手は女ですね?」
「そんなことは、おれはいわなんだぞ。まあまあ、黙って見ておれ。おれたち以上に、あの家のことをよく知ってる奴がいるんだ。ダーワースを殺《や》ったのも、そいつだし、ジョゼフはそいつの邪魔をしたんで、殺されたんだ。それからな――」
いいかけて、H・Mは、『マグノリア荘』と反対側の舗道に足をとめて、たたずんだ。傾いた鉄の門、その間から見える雑草のはえた煉瓦敷きの道、――その前の往来の街灯の下を、見張りの巡査が行ったりきたりしている『マグノリア荘』は、夜目にも空家のように荒れはてて、不気味なけはいであった。それをH・Mは指さして、
「あの家もね、一時ダーワースの持ち家だったんだとさ」と、何気ない調子でいった。
「といいますと――?」
「スウィーニーという女がはいる前に、何でもだいぶ長いこと、空家になっていたんだな。ところが、貸家の札も、売家の札も出さんので、誰も手を出すことができない。口のうるさい年寄りの話によると、そういえばダーワースらしい人相の男が、よくあの家へ出入りをしていたということだ。接骨医のホースフェイスがいうとったが、人間の骨は、特殊な骨質のものでないかぎり、何十年何百年たとうが、死体を掘りだせば、誰だということはちゃんとわかるそうだよ。ひょっとすると、あの家がエルジー・フェンウィックを埋めた場所かもしれんぞ」
ヘイザ―街の角をまがって、一台の警察車がサイレンを鳴らしながら、ヘッドライトを光らして走ってきた。H・Mもわたしも、いい合わせたように、何かあったなと思いながら、道路をむこうへ渡りだした。警察車も舗道のわきで急停車した。車の中から、平服の男が三人おりてきた。そこへマスターズが、門内の煉瓦道を駆けてきて、急いで門扉をあけると、車から今降りたなかの一人が、緊迫した声でいった。
「マスターズ警部!」
「おう、何だ?」
「ここにおいでとは知ってましたが、電話がないもんで、連絡がとれなかったです。至急本庁へ帰られるようにということで……」
マスターズは、片手で門の鉄柵を握ったままそこへ凍りついたようになったが、数秒ののち、やっと口をきった。
「何だ、また何かあったのか?」
「それは存じませんが、パリから電話がありまして、あいにく渉外課の連中が帰ったあとだもんで、それに先方がばかに早口でペラペラやるもんですから、交換手が半分しか話がききとれませんでね。――九時にもう一度、むこうから電話するそうです。ただ今かれこれ八時半です。何ですか殺人に関する重大用件のようでして……」
「よし。じゃ、いつもの通り、写真、家宅捜査、指紋検出の手配をしておけ」マスターズは、手短かにそういって、帽子をひっかぶると、急いで車のところへ駆けていった。
十八 妖婆の告発
それは、ベニング夫人があの驚くべき告発をした日の、前夜のことであった。それまでの約十五時間、その間にわたしは、まったく偶然にも、この事件の謎にほとんど解決の鍵をあたえるような出来事に逢着《ほうちゃく》したのである。
今わたしがここに書いているこの手記が、かりに事実の報告以外のものだったら、当然わたしは、あんな尋問――ものも食わず睡眠をとらずに、つぎの日の朝まで徹夜をしたような尋問はごめんをこうむって、そのまままっすぐに町へ引き返していく場面を、ひとこま書かなければならなかったろう。しかし、小説や物語とちがう現実の殺人事件は、公式通りにはなかなかいかないものだ。難題に悩み、謎解きに苦しみ、とうの昔に曇りのかかっている鏡に、むなしく息ばかり吹きかけているような連中に、ああ、こんなことをしている間にも、人生の運行は相も変わらぬ循行をつづけているのだなと、ふっと気づくときがある。――たとえば、その晩、わたしは晩餐の約束があった。姉のアガサとの約束で、このおとなしい姉には、ふだんからみな一目を置いていたから、同族の者でこの姉との約束を破るようなものは、一人もいなかった。その晩も、自分でこりゃ遅くなったわいと気がついたときには、着がえをせずにそのまま駆けつけても、一時間はたっぷり遅れていたので、自分としては気が気じゃなかったのだが、約束をケロリ忘れてしまった手前、顔だけでも出さなければ義理が悪かったのである。
マスターズは、車でわれわれを都心まで送ってくれ、明朝十一時に、H・Mの役所でまた落ちあおうという約束をした。かれはブルック街までH・Mを送り、わたしはピカデリーで降ろしてもらって、そこからケンシントン行きのバスに乗り、ようやく姉の家へ駆けつけた。人前に出るのに、あんまりみっともないふうもできないからと思って、身なりを整えるために、内玄関からそっと上がっていくと、意外なことに、客はアンジェラ・ペインひとりであった。わたしの未来の妻になるはずの令嬢である。それが姉の家の客間の、カットグラスを飾りたてた暖炉のそばに坐って、晩餐会の席なんかだったら、客の目を見はらせるに違いない玉《ぎょく》のパイプをくわえながら、妙におちつかない様子をしていた。わたしと違って、アンジェラはえらくモダンな娘で、襟足がまる見えになるほど、髪を短く刈り上げている。
姉の家へ足を踏み入れたとたんに、わたしは考えた。こんどの殺人事件では、いちおう自分はくわしいニュースを握っている重要人物のわけだから、今夜は聞き上手の二人から、だいぶ絞られそうだと。あるいは、ほんの内輪だけの小人数だったのもそんなせいだったのかもしれない。姉は、わたしの遅刻をべつにとがめもしなかったかわりに、食卓について、すましのスープが出ると同時に、攻撃は早くも開始された。まるでそのスープは、手品師が高座でいろんな壷の中から、見事まいりますればお慰みと、見物の目の前で取って出すために用意されてたようなものであった。こっちはスウィーニー夫人の問題で、ひどく悩んでいたときだから、姉の打ちだす質問の矢を、何とか体よくあしらっていると、姉はそれが肚《はら》ではおもしろくないらしく、アンジェラに向かって、「むろん弟は、わたしたちに明かしてしまえないわけが、きっとあるんでしょうよ。でも、わたしに対する礼儀としてもよ、今夜遅くなったわけぐらいは、当然説明したっていいはずよねえ。……」
魚の料理が出たころに、こんどはアンジェラが卓上にともっている燭台の間から、質問の矢玉を射かけてきた。審理はいつ行なわれるのか、といって聞くから、明日だとわたしは答えた。
「そうするとお気の毒に、ダーワースの奥さまも、それには出席なさるわけね?」と彼女はいった。
この問いが、姉のアガサには意外だったらしい。
「あら、ダーワースという人には、奥さんがおありなの?」
「わたくし、その方、存じ上げていましてよ」とアンジェラは得意顔でこたえた。
わたしもそれを聞くと、酒の酌をちょっと待ってもらって、膝をのりだした。
「そうね、おきれいな方よ」とアンジェラがいった。「もっとも、ああいうタイプのひとは、男の方は好き好きがあるかもしれないけれど。痩せぎすな、背のすらりとした、髪の黒い方ですわ。でも、そういっちゃ何だけど、生まれは低い方なんですって。なんでも小さい時分には、曲馬団だの、旅まわりの見世物だの、そんなものに出ていたという話よ。でも、芸はとても達者だったんですって。あの方なら、きっとそうでしょ。……」
「あなた、個人的に知っておいでなの?」
「いいえ、そうじゃないのよ」アンジェラはアガサに語りだした。「わたくしが存じ上げたのは、ずっと前のことよ。このごろは、きっとあの方、お肥りになったんじゃない? ほら、憶えていらっしゃらない、ニースの冬のこと? 二三年だったか二四年でしたかしら、べローズの奥さまが、ひどいアル中にかかった年よ。誰だったか特等席の桟敷の手摺りから落ちて、天井桟敷のお客が大笑いをしたことがあったじゃない、あの年よ。あのときに、イギリス公演団の興行で、新聞がベタぼめしたでしょ。出しものはシェイクスピアものに――」と、まるで溺死者を蘇生させた話でもするような調子で、「そう、それとウィッチ――あら、ごめんなさい、ウィッチャリーの時代物――」
「ほら、しゃっくりなんかしないで、アンジェラ」アガサはズケズケいって、「それで――?」
「あの方は、たしか『十二夜』だったか『正直者』だかで、すばらしい演技だったんですって。わたくしはそのときのは見なかったんだけど、ずっと後になって、あの方が中年の女教師か何か旧弊《きゅうへい》な女役をやったのは見たことがあるの。……ブレーク、あなた聞いていらっしゃるの?」
わたしは耳の穴をほじって聞いていた。
「スウィーニー夫人だ。――その女こそ、スウィーニー夫人にちがいない。――」
その晩、わたしは義理をすまし、たいして絞られもせずに姉の家を出ると、途々スウィーニー夫人の謎を考えながら、家まで歩いて帰った。――かりにスウィーニー夫人がダーワースの妻、グレンダ・ワトソンだとすると――どうもそのように思えるが、――遠い過去にのびている筋をたどって、いろいろのことが明らかになってくる。グレンダ・ワトソンの経歴は、海千山千といいたいくらい、数奇をきわめているが、ふしぎにもそれが、いつの時にも彼女に有利に役立っている。遠く、ダーワースが金持の先妻を毒殺しようとくわだてて失敗した当時から、偶然か、それとも魂胆あってのことか、おそらくその両方から、ダーワースの身辺に、影の形に添うごとく、へばりついてきた女である。ダーワースが先妻エルジー・フェンウィックと晴れて夫婦になって、本国のイギリスへ帰国したときも、彼女はエルジーの付添いだったのだから、もちろんエルジーの失踪には、かならず一役買っていたにちがいない。まもなく、ダーワースはブリクストンのあの家を買い入れて、あの古井戸のなかへ先妻を埋めた。それが彼女にすれば、絶好の恐喝の種になったのである。付添いの女中がたちまち居直って、「ちょいと、口留め料をお出しなね!」となったわけだ。おそらく、「それがいやなら、あたしをおかみさんにおしな」ぐらいのこともいったことだろう。とにかく、もとを洗えば奥様づきのお小間使いが、ダーワースの金でリヴィエラに別荘を一軒買ってそこへおさまり、芝居だ遊山だでおもしろおかしく暮らしながら、時節の来るのを待っていたわけである。なにしろ、法律上時効にかかるまで結婚もせず、といって罠の輪っかを締めもせず、それこそ鳴かず飛ばずでじっと我慢をしていたんだから、偉いものである。……
やがて彼女は、甘っちょろい世間のぼんくらどもから、ごっそりまきあげてやろうという新しい計画をもって、再びさっそうと姿を現わしたのであるが、さて今でも、ダーワースの首根っこは握っていたのだろうか? むろん、握っていたはずだ。たとえ、法律上きめ手になるような、エルジーの遺骨が発見されなくても、なに、二、三本何かの骨でも証拠に提出すれば、ちょうどユージン・アラムが、洞穴のなかでダニエル・クラークを刺し殺してから十一年目に処刑されたと同じ伝で、法的証拠確実な彼女の恐喝の前には、ダーワースの罪状はどう抗すべくもなかったのだから。
さて、そこでどうなるか? ――わたしは今でも思いだすとおかしくなるが、それを一途に考えながら、パイプを口にくわえたまま、通りすがりの人が妙な目つきでジロジロ見るのもかまわずに、ハイド・パークの柵に沿うて、夢中でとっとこ歩いていたのである。……さて、そこでどうなるか? ……どうもわたしには、グレンダ・ワトソンが、ダーワースの陰謀磁力のかげにかくれて、参謀役をつとめているように思われてならなかった。おそらく彼女は、資金面で、ダーワースの腕を利用しようとかかったのだろう。いったい、ダーワースが、手に乗りやすい金持連中を餌食にしだしたのは、いつごろからのことなのだろう? おそらくそれは、今から四年前、かれがパリでグレンダと結婚した直後、つまりスウィーニー夫人がブリクストンに隠れ家を持ったときからであろう。グレンダは金が目当てであった。であるから、べつに表向きダーワースの妻の役をしなくたって、なにも文句や不満はなかったのである。そのうえ、ダーワースという男は、もともと女性には持てる男なんだから、その点でも、これはロマンス・グレーの独身者《ひとりもの》にしておいたほうが、かえって値打ちがあったわけだ。
だが、果たして彼女が、こんな縁の下の力持ちみたいな脇役で、おさまっていたであろうか? わたしはふと思い当たることがあって、いや、おさまってはいなかったはずだと考えた。われわれがさっき聞いた話によると、ブリクストンの家は、長いこと留守になっていたということだ。してみると、そのあいだ、ダーワースはインチキ心霊術から一時息を抜き、スウィーニー夫人はふたたびまた、奸佞《かんねい》にたけたグレンダ・ワトソンに逆もどりをして、二人はニースのディプリー荘で、幾月か中休みの時を送ったのであろう。夫婦は着々と身代を築きあげ、警察の手がはいったときのことまで抜け目なく計算に入れて、ちゃんとジョゼフといううすばかの身代わりまで仕立てておいたのである。……
しかし、これも残念ながら、われわれには何のたしにもならなかった。その晩、わたしはまるで二マイル競走の選手みたいに、汗みずくになって家にもどったとき、よっぽどマスターズに連絡しようかと思ったが、まあ待て待てと思い直して、それはやめにした。なるほど、わたしの考えたことは、おそらくすべて事実だったにしても、犯人のきめ手ということになると、これだけでは、目下行き悩んでいるリストに、ただもう一名容疑者の名前を加えるだけに終わってしまう。あの女の殺人動機は、いったいどこにあったのだろう?
アヒルと黄金《きん》の卵のたとえ話もあることだ。
わたしはあきらめて、床にはいった。翌朝寝すごしたことは、申すまでもない。
翌九月八日の朝は、空がくっきりと晴れあがって、秋らしいさわやかな朝であった。約束の十一時に間にあうどころか、目がさめたのが十一時近くであった。朝食をいそいでかっこむと、ホワイト・ホールへ急ぐ途々、新聞をひろい読みしながら行ったが、どの新聞も、『黒死荘の二重殺人事件』の記事で、ほとんど全ページを埋めていた。河岸通りへまがると、近衛連隊の大時計がちょうど半を打っているところだった。陸軍省の裏庭のところに寄せて、紫色のオープン・カーが一台止まっていた。
こっちは新聞に気をとられていたので、その車の後部座席にのっていた誰かが、ひょいと身を隠したような印象を受けなかったら、おそらく、そんな車がいたことにさえ、気がつかなかったろう。車の尻は、わたしのほうを向いていたから、うしろの窓から誰か外をのぞいていた目のあったことには、たしかに気づいていた。しかし、こっちは急いでいたから、そのままH・Mの部屋へ上がる狭い入口の前で、車に背を向けていざ扉をあけようとしたら、出合いがしらに中からマリオンがゲラゲラ笑いながら、ハリデーを従えて降りてきたのである。
二人の様子を見ると、心に暗いものがのしかかっているとは、ぜんぜん見えなかった。マリオンは相変わらずあでやかだったし、ハリデーも、ここ数ヶ月にない、いい血色をしていた。ピカピカに磨いた靴の先から、赤ちゃけた口髭の手入れにいたるまで、身だしなみも満点だし、厚ぼったい瞼の奥の目にも、以前のような生彩がもどっていた。巻いた雨傘を高くさしあげて、元気のいい会釈をしながら、
「よう! こりゃまた何と! ほっ!」
挨拶のかわりに、やたらと奇声をあげて、
「どうしたい? まるで第三の殺人事件発生という顔つきじゃないか。早く上へいって、ご両人にその顔を見せてやれよ。H・Mはご機嫌ななめならずだが、マスターズのほうは、殺人狂にでもなりかねないご容態だぜ。ははは。おれはきょうは朗らかだぜ」
何だ、さんざん油を絞られてきたくせに、とわたしが応酬してやると、マリオンは笑いをこらえながら、ハリデーの肱をつついて、
「およしなさいよ、往来で、そんな……。ブレークさん、あなたも今夜ヘンリー卿から晩餐のご招待をお受けになって? ディーンはうかがうつもりですの。場所は黒死荘ですって」
「そろそろ行こうか。おれたち、これからハンプトン・コートまで車でいって、昼飯を食うつもりなんだ。今夜のことなんか知るもんか」と雨傘を高くふって、「じゃ、失敬。おれは逮捕されないらしいぜ。おい、行こうよ」
「ほんとによござんしたわ」マリオンはわたしにそういうと、往来をちらりと見渡した。くすぶったロンドンの敷石一つ一つが、彼女を楽しませているかのようであった。「ヘンリー卿が元気をつけてくださいますわよ。あの方、ほんとにへんな方ですのね。わたくしの顔さえ見れば、裸になる映画女優のことばっかりおっしゃって。でも、嘘でなく、万事うまく運んでいると、おっしゃってたから、大丈夫ですわよ。きっとテッドの居所もわかると思いますわ。ただね、この人が手に負えないので、ほんとに弱りましたわ」
通りを横ぎっていく二人の後姿を、わたしはしばらく見送っていた。ハリデーがしきりと雨傘をふりまわしていたのは、きっとマリオンにロンドンの美観を講釈していたのだろう。葉の黄ばみだした街路樹の下をぬけて、二人は柵のかなたに鈍く光っている河岸のほうへ歩いていった。二人とも、紫色のオープン・カーには気がつかぬ様子で、しきりと仲よく笑いあいながら。……
H・Mの部屋へ上がっていくと、そこでもわたしは、いつにない変わった光景を見せられた。H・Mは、きょうはネクタイもつけずに、例によって、片っぽの足を机の上にのせて、眠そうに葉巻をくゆらしていた。その向こうで、マスターズが渋い顔をして、窓から外を眺めていた。
「ニュース、ニュース。ビッグ・ニュースですぜ」をわたしは部屋へはいるがいなや、いった。
「ねえ、ゆうべ思いがけないことから、スウィーニー夫人の前身がわかったんです。――」
H・Mは葉巻を口からはなして、
「おいブレーク、気をつけなよ」と眼鏡ごしに葉巻の先をジロリと見入りながら、「君がおれの考えてる通りのことをいうんだと、警部からコテンコテンの目にあわされるぞ。なあ、マスターズ、そうだろう? ――ときに、フランス人って奴ア、へんな人種だな。われわれの国なら、かりにこの部屋で小さな声でいっても、たちまち誣告《ぶこく》罪に問われるようなことを、奴ら堂々と新聞で書き立てるんだからな。イギリス人の胆を冷やしゃあがるよ」といって、手に持った一枚の新聞紙をふりながら、「こいつはラントランジャン新聞だがね、まあ聞け、こんなことを書いてくさる。――『黒死荘の怪事件。恐るべき謎。わが警視総監ラヴォアジュ・ジョルジュ・デュラン氏ならば、こんなものは朝飯前の仕事である』……どうだい、朝飯前のお手並みってやつを、ひとつうかがいたいだろう?」とせせら笑って、「役所が解決にひと役買って出たわけだ。へっ、とんだおせっかいな話さ……」
といってるところへ、デスクのブザーが鳴った。H・Mは応答のブザーを押すと、机の上の足をやおらおろした。顔つきがきゅうに変わって、
「まあ、そこへかけろよ。ベニング夫人のご入来だそうだ」
マスターズが、いきなり窓ぎわからクルリと振り向いて、「ベニング夫人? 何の用できたんでしょう?」
「たぶん、犯人の告発でもしにやってきたんだろうさ」
誰もひとこともいわなかった。すりきれた敷物の上に、鈍い日ざしがさしこんでいるなかを、埃《ほこり》がキラキラ舞っていた。ベニング夫人という名前を聞いただけで、みんないちまつの寒気のようなものを感じた。ここにいるかと思えば、どこにでもいる。まるで幽霊みたいな婆さんで、目には見えないが、ちゃんとそこにいる。……待ってる時間が、ばかに長く感じられた。やがてホールの階段を、コツ、コツと足音が上がってきたと思うと、いっぺん中休みをして、それからまたコツ、コツ。とうとう彼女も杖をつくようになったらしい。ふとわたしは、往来に駐車していた紫色のオープン・カーを思いだした。あの婆あ、今しがたマリオンとハリデーがいかにも幸福そうに、車の側をにぎやかに通りすがっていったのを、黙って中からうかがっていたのにちがいない。……杖の音が近づいてきた。……
誰しもこの老婆を見れば、第一印象としてまず哀れを先に感じる。あながちそれは、よぼよぼした点からばかりではなかった。マスターズが扉をあけてやると、彼女はにこにこしながらはいってきた。おとといの晩は、それでも六十そこそこに見えたのに、今見ると、だいぶそれより老《ふ》けて見えた。相変わらずワトーの画中人物然とした風貌であったが、きょうはまた頬紅も口紅も、ややどぎついくらいに一段と濃く、眉もうっすらと引いていた。笑みを含んだ、いやにキラキラ光る目で、室内をキョロキョロ見まわしながら、
「まあ、みなさんおそろいで――」とすこししゃがれた疳《かん》の高い声でいってから、品のいい咳ばらいをして、「ちょうどいいところへうかがいました。ほんとにいいところへ。……失礼して、かけさしていただきます。あら、恐れいりますこと」
大きな帽子の下から、ウェーヴをかけた白髪のはみでた頭を、何度もうなずかせたが、帽子のかげになっている顔は皺だらけであった。「ヘンリー卿、あなたさまのお噂は、亡くなりました主人からよくうかがいましたですよ。きょうはまたお忙しいなかを、ご親切にこうしてお会いいただいて、ほんとにもう……」
「で、ご用件は、奥さん?」とH・Mは、相手にハッパをかけるよな調子でいったが、ベニング夫人はただにこにこして目をパチパチさせるばかりなので、さらに一歩踏みこんで、「何か話したいことがおありのようなお話しでしたな?」
「はあ。失礼でございますが、ヘンリー卿、あなたさまは――いえ、皆さんは」と杖から片手をはなして、机の上にしずかに指をついて、「皆さんは、あの、お盲目《めくら》でいらっしゃるんでしょうか?」
「盲目?」
「いえ、皆さんのようなご聡明な方々が、おわかりにならないのかと申し上げておりますの。こんなこと、何もわたくしの口から申し上げるまでもないことでございましょう? 皆さんには、なぜテッドがあんなふうに、まるで気でも狂ったようにあわてふためいて母親のところへ飛んでまいったのか、そのわけがおわかりにならないのですか? 恐怖のためなのか、それとも、話したくないことを話さなければならない羽目に落ちたのか。あなた、テッドが何を考えていたか、現在何を知ったか、ご存じございませんの?」
H・Mの眠そうな目がまばたいた。ベニング夫人はいきなりH・Mのほうへ身をのりだすと、まるでダーワースの不気味な玩具の一つ――たとえば奇怪不吉なビックリ箱の蓋が、パチンと開きでもしたように、声を落としていった。
「あのマリオン・ラティマーという女は、あれは気違いでございますよ」
みんな息をのんだ。……
「そうですとも。わたくしにはちゃんとわかっております!」ベニング夫人はきめつけるようにそういって、一座を睨《ね》めまわした。「あなたがたは、いっぱい食わされていらっしたんです。そりゃそうでしょう、先は若くてきれいだし、殿方が冗談いえば笑って受けるし、それにあの丈夫な足で泳ぎもやるし、飛びこみもやるし、テニスもやる。だから、正気だとお思いなんでしょう? そうでしょ? そうなんでしょ?」と念を押して、また睨めまわし、「いいから、これからわたくしの申し上げることを、ぐずぐずいわずにお信じなさい。わたしはこの通り年をとってますから、あなたがたよりはものごとがよく見えます。ですから、わたくしのいうことをお信じなさい。理由はそれだけ。
だいたいね、メリシュ家の人たちは、みんな気違いの筋なんですよ。先だっても申し上げたでしょう、マリオンの母親のサラ・メリシュは、エジンバラでは要注意人物になっています。……わたしの申し上げることを信じてくださらないなら、皆さんはあの明白な証拠もお信じにならないんでしょう?」
「へーえ、どんな証拠?」
「きのうの朝、テッドの部屋で聞こえた、あの声ですよ」そういって、にやりと笑ってうなずいていたところを見ると、どうやら彼女は、H・Mの顔色から何か見てとったものにちがいなかった。「あれが、外から忍び入った者の声だと、皆さんはどうして簡単にお考えになりますの? 考えてもごらんなさいまし、朝のあんな時刻に、外から来た者がバルコニーにいるなんて、そんなことがありますものかね? あのバルコニーはね、ごらんのとおり、あすこの家のまわりをグルッととりまいていて、マリオンの寝室の前も通っているんですからね。でもね、ヘンリー卿、女中があの声にだまされたのは、むりございませんの。女中は、あんなふうなもののいい方を今まで聞いたことがなかったんですから。あれがマリオンのほんとの地声なんですよ。それでなくって、ほかに誰が『おまえは疑ったことがないんだろう?』なんて申すもんですか」
わたしのうしろで、荒い息づかいが聞こえたと思うと、いきなりマスターズがわたしを掻きのけて、H・Mの机の前へとびだした。
「奥さん、あなたそうおっしゃるがね――」
「まあマスターズ、君は黙っていなさいて」とH・Mがおだやかに制した。
「それに、あなたがスパイにおよこしになった、あの甘っちょろい巡査部長のマクドネルさんがね」とベニング夫人は、机の上についた手を上げたり下げたりしながら、厚化粧の顔をニョロリとまわして、話をつづけた。「なんでもきのう、妙な時刻に、マリオンを訪ねて見えたそうでしてね。そこは抜け目のないマリオンのことだから、うまくまいたそうです。出かけるやさきだったんでね。そうなんですの、マリオンはもうひとつ、大事な仕事があったんですの」
ベニング夫人はクスリと笑って、斜《しゃ》にかまえた。
「たしか、今日《こんち》審理が開かれるはずでございましたね。わたくしね、ヘンリー卿、自分の義務は果たしますですよ。証人台に立って、堂々と、ロジャー・ダーワースとジョゼフ・デニスを殺した真犯人はマリオンだといって、わたくし告発してやります」
かなきり声で、こう宣言したあとの沈黙は、H・Mのおちついた声で破られた。
「いや奥さん、たいへんそれはおもしろいお話しだが、きょうはちょっとそれができんな。申し遅れたが、審理は延期されましてな――」
それを聞くと、ベニング夫人は、またしてもとびかかるように身をのりだして、「まあ、あなたはわたくしの申すことを信じてくださるんですね? いいえ、そのお顔でちゃんとわかります。ねえヘンリー卿……」
「しかし、おもしろいね、お話しをうかがってると、あんたのご意見はすこし変わってるようですな。わたしはその場にはいなかったが、調書を読んでだいたい知ってるつもりだが、あんた、たしかあのときは、ダーワースは幽霊に殺されたとおっしゃったっけね?」
ベニング夫人の小さな目が、ガラスのかけらみたいに、キラリと光った。狂信者の形相であった。
「思い違いをなさらないでくださいましよ。かりに幽霊を使ってダーワースさんを殺したんでしたら――」
季節おくれの眠ったような蝿が一匹、机のへりでブンブンいっていた。ベニング夫人の黒い手袋をはめた手が、いきなりサッと前へ出たと思うと、次の瞬間、彼女は死んだ蝿をソッと床の敷物の上へはらい落としていた。そして、両手をポンポンとはたいて、H・Mの顔を見てにっこり笑い、それからおちついた調子で話をつづけた。
「わたくしがあのときそう思いましたのは、こういうわけでございますの。あの運の悪い大ばか先生が殺されたとき、幽霊はちゃんと妖力をもってそばに立って、人間が人間を殺すところを見ておりましたんですよ。ある意味では、幽霊が指図をしたんだとも申せましょう。そうでございますよ、幽霊というものは機械でございますから、何かいたしますときには、人間の力を借りていたしますんですの」机ごしにヌ―ッと体をおこすと、ほとんどH・Mの顔すれすれにまで自分の顔を近づけて、夫人は不気味なくらい熱っぽい目で、H・Mを穴のあくほどじっと見つめた。「いかがです、わたくしの申すこと、お信じになりますか? ねえ、お信じになりますでしょう?」
H・Mは迷惑そうに額をなでながら、「そうだ、そういえば思いだした。マリオン嬢とハリデー君は、手を握りあっていたんだったな……」
彼女もばかではなかった。多くを語らぬことの価値をこころえていた。しばらく、H・Mの顔をしげしげと眺めていたが、どうやら満足したもようであった。相手の顔いろから、長居は無用だと悟ったらしい。勝ち誇った得々とした色が、薄霜のおりたように、彼女をキラキラ包んでいた。やがて立ち上がったので、H・Mもわたしも、ともどもに立ち上がった。
「では、ごめんあそばせ、ヘンリー卿」と入口のきわで、夫人はいんぎんにいった。「お邪魔をいたしました。そう、それから手を握っておりましたことですけどね」とまたクスリと笑って、こちらへ指を一本ふって見せ、「わたくしどもの甥は、マリオンがこうしろと申せばその通りにする、あれは紳士でございますからね。そりゃまあ、紳士の作法ではございますけど、甥もやはりだまされておりましたのかもしれませんですね」小狡く媚びるような笑い方をして、
「何があなた、わかるものですか。マリオンがいなければ、わたくしの手を握っておりましたかもしれませんもの」
扉がしまり、杖の音が廊下をゆっくり、コツ、コツと去っていくのが聞こえた。
「まあ、いいから、じっとしておれ」
飛び出そうとするマスターズに、H・Mがいった。客の立ち去ったあとのしんとしたなかで、この命令は雷のように響いた。
「おちつけ、ばか。跡なんか追うんじゃない」
「と、あの女のいう通りだとおっしゃるのですか?」
「こうなりゃ、仕事をさっさとやらにゃいかんというんだ。まあ、そこへ坐って、葉巻でも一服やって、気をしずめなさい」そういって、H・Mはまたもや机の上に片足をのせると、気だるそうに葉巻のけむりを輪に吹きながら、「ときに警部、君はマリオンを臭いと思ったことがあったかい?」
「正直に申します。そんなことは考えたことすらありません」
「そりゃいかんな。それを逆にいうとだな、容疑からもっとも遠い人物、必ずしも白とは限らんからな。ものごとはそう簡単なもんじゃないぞ。いちばんそれらしくない人物を見つけて、囚人護送車を呼ぶ手だってある。それらしくない人物だからといって、あんまり信用しちまうと、そいつが罠になる。まあしかし、それとは別に、今回の事件では、いちばんそれらしい奴が犯人だよ」
「誰ですか、いちばんそれらしいのは?」
H・Mはのどの奥で笑いながら、「この事件で厄介なのは、そこだて。今のところ、まだ誰だかわからん。でも、今夜の集まりのときには、たぶん判明するだろうさ。……おう、ブレークはまだ知らなんだな。今夜ね、正十一時に、黒死荘で、男ばかりで集まってもらうことになってるんだ。来てもらうのは、君と、ハリデー君と、フェザートン少佐だ。……マスターズ、君は来んでもいい。君には、あとで頼むことがある。臨時の手伝いが三、四名必要なんだが、これはおれのほうの課から来てもらおう。君のほうからは、『ちびさん』がいたら、あの男に来てもらいたいんだが……」
「承知しました」とマスターズは、待ってましたとばかりに答えた。「何でもおっしゃってください。犯人にさえ引き合わしていただけるんなら、どんなことでもします。いや、実際のはなし、こっちは少し頭へ来てるんですよ。スウィーニー夫人にゃまんまといっぱい食いましたからな。あのあと、どうもいけませんや」
「と、君はあのこと知ってるのか?」とわたしは横あいから、急いで自分の聞いてきた話をぶちまけようとすると、マスターズはうなずいて、
「いや、わたしはね、どんな小さなことでも、手がかりさえつかめれば、待ったなしでバリバリ始めますよ。むろん、知ってます。あれはデュラン氏の脳波のおかげですわ。パリから料金先ばらいの長距離電話をかけてきたんだす。デュラン氏は、グレンダ・ダーワースのことを追いましてね、彼女が長い期間ニースにいなかったことが判明したんです。それを聞いたときには、こっちはワクワクしちゃって……」
H・Mは吸いさしの葉巻をふりまわしながら、「ははは、それで君は有頂天になったんだな。そして凱歌をあげてスウィーニー夫人にとびかかったところが、どうも様子がおかしい。鬘《かつら》もないし、ふくみ綿もなし……」
「とんでもない、あの女はもう若かないですよ」とマスターズは抗弁した。「変装する必要なんかないですよ」
H・Mはラントランジャン新聞をとって、マスターズにつきつけた。それには『ダーワース夫人』と名前を出した大きな写真がのっていた。
「ここに体重・身長がすっかり出ているぞ。八年前に計ったものだが、八年は長いといったって、その間に茶色の目が黒くなったり、鼻や口のかっこうが変わったり、身長が四インチも伸びたりするこたあ、あるまい。なあ、ブレーク。マスターズは、ちっとそそっかしかったよ。スウィーニーのほうが役者が上だわ。そこへデュランから、けさおれんとこへ、別にまた警視庁ばらいの長距離電話がかかってきて、『いやどうも、すっかり見限られました。あの名案も、どうやらお蔵《くら》になるらしい。ダーワース夫人がパリの新居から自身電話をかけてよこして、大たわけの警視庁を告訴してやるといってきました。ほんとに不手際な話で……』といって電話が切れたと思ったら、とたんに交換手が出て、『通話料、三ポンド十九シリング六ペンス、おはらいください』とぬかしゃあがったぜ。あははは!」
「なるほどね」マスターズは苦い顔をして、「まあ、いいでしょう。それより肝心の話のほうですが、あなた、エルジー・フェンウィックはマグノリア荘に埋められているとおっしゃったですね」
「そうだよ」
「と――?」
「まあ、それも今夜わかるさ。手がかりはそれなんだ。しかし、君の考えているのとは違うぜ。問題はパリやニースにあるんじゃなくて、われわれのお膝もとのこのロンドンにあるんだ。そいつをたどっていくと、君たちが会って話をしたことのある人物が浮かんでくる。しかも、君たちがいっぺんも嫌疑をかけなかった人物だぜ。そう、いちおう怪しいとは思われたが、たいしたことにはならなかった人物だ。そいつが、例の短剣を使い、かまどの中へ死体をつっこみ、この事件の最初からうまく仮面をかぶって、われわれのことを笑ってた奴なんだ。……
それでね、おれは今夜、ダーワースが殺害されたのとまったく同じ手口で、ある人物を殺してお目にかけるつもりだ。君たちにも、それに立ち会ってもらうわけだが、突くのは君たちの目の前でするがね、ちょいとわからんだろうな。みんな立ち会うぜ。ルイズ・プレージも出てくるぞ」
H・Mはそういって、大頭をふりあげると、うしろから射しこむ白っぽい日ざしが、その巨体を鬱然《うつぜん》と、てこでも動かぬような黒い影絵にくっきりと浮かびあげた。
「まあ、問題の人物も、もういつまでも笑っちゃいられねえさ」
十九 仮面をかぶった人形
こうこうたる月が、小さな石室の上にかかっている。寒い晩だった。物の音がピーンと響くような寒さで、月の光のなかに吐く息が、吐くそばから白い息になって凝《こ》った。月光は、黒い建物に囲まれた黒死荘の、井戸底のような裏庭に照りわたって、平たい影をくっきりと地面に落とし、われわれの踏んでいく小径の上にも、故木の影を横たえていた。
明け放してある石室の入口から、人の顔がこちらを見ていた。青ざめた、石のような無表情な顔で、片目で何か合図をしているようであった。
肩を並べて、わたしといっしょに歩いていたハリデーが、いきなりアッと声をあげて、うしろへ飛びしさった。フェザートン少佐も、低い声で何か口走ったようであった。三人とも、しばらく息をのんだまま、そこに立ちつくした。
遠くのほうで、どこかの街の大時計が、陰にこもって十一時を打ちだした。石室の入口にも、窓にも、暖炉の火があかあかと映っていた。そして、暖炉のまえの椅子には、両手を膝の上に組んだ人が、身じろぎもせずに端然と腰かけていた。うつむき加減な青白い顔に、気味のわるい薄笑いをうかべながら、口髭を八の字にたらし、埃よけの眼鏡をかけた片方の眉をキュッとつりあげている。額には汗の玉がふいているようであった。
たしかにその人が、こちらを見てニヤリと笑ったように思われた。
夢でも何でもない。いきなり目のまえに、降ってわいたようにそれが現われたのである。――ガタキシ音のする黒死荘の廊下をわたって、こわれかけたあずまやのわきを通り、暗い裏庭をぐるっとまわったあとで、われわれはそれに出会ったわけだが、あたりの闇や月光と同じように、夢でも何でもない、たしかにそれは、正真正銘の現実のものであった。
「おい、あれね、あの気味の悪いもの――」とハリデーは大声で指さしながら、「あれとそっくりなものを、おれ一人でここへきた晩に、見たぜ!」
といったとたんに、石室のなかで、大きな影が暖炉の前から、ゆらりとこちらへ動いたと思うと、誰か別の人が表をのぞいて、こちらへ何か声をかけた。それといっしょに、青白い顔をした人は、その人の陰にかくれてしまった。
「よーし」といったのは、H・Mの声だった。「どうだい、これでだいたい、けさ君たちがいったようになったと思うんだがな。この人形にジェイムズの面を使ったのも、じつはそのためさ。実験に使うのは、この人形なんだよ。――さあさあ、はいりたまえ。ずーっと奥へ通ってもらおう。ちっと風通しがよすぎるがね」
毛皮の襟のついた古外套を着こみ、大時代なシルクハットをかぶった、H・Mの象みたいな大きな姿が、不吉な石室の不気味な空気をいっそう濃くしていた。暖炉にはものすごい大火が焚かれ、炎の舌がまっ黒な煙出しへと、ゴウゴウうなりをあげて吸いこまれていた。その前のところにテーブルがすえてあって、まわりに台所用のまるい腰掛けが五つ出ており、そのうちの一脚だけが背もたれのついた椅子で、その椅子に、麻袋に砂を詰めてぞんざいにこしらえた、等身大の人形が、テーブルにもたせかけるようにしてすえてあった。上に体裁よく古い上衣と古ズボンを着せ、顔のところには彩色したお面をかぶせ、頭にはよれよれのフェルト帽子がかぶせてある。お祈りでもしているように合掌させた両手には、白い木綿の手袋をはめさせ、そいつを袖口に縫いつけてあるのが、これがまた何ともいえない、不気味な感じを出していた。
「どうだ、うまいもんだろう」とH・Mは得意満面であった。読みさしの赤本小説のページに指をはさんでいたが、自分の席はテーブルの正面に押しやってあった。「子供の時分、十一月五日のガイ・フォークスのお祭の人形を作らせたら、ロンドン中でおれがいちばんうまかったんだぜ。この人形は、時間がなかったんで、できが悪いが、なにしろ、えらく重いんだよ。大人の目方ぐらいあるよ」
「こりゃジェイムズ兄貴ですね」とハリデーは片手で額をふいて、むりに笑って見せながら、
「へーえ、すっかり写実なんだな。これをいったいどうなさるんですか?」
「これを殺すのさ」とH・Mはいった。「テーブルの上に、例の短剣もあるだろう」
両手をニュッとつきだして、暖炉の火にかざし、口髭の下にうす笑いをうかべながら、大きな眼鏡の奥からギョロ目を光らしている人形から、わたしは目をほかへ移した。テーブルの上には、人形の坐っているまん前に、真鍮の燭台に蝋燭が一本ともっており、ほかに数葉の白紙と万年筆が出してあり、なるほどそのそばには、この前の事件のときの火で、握りから刃先までまっ黒にいぶされた、ルイズ・プレージの短剣もおいてあった。
「何じゃこれは、ヘンリー」フェザートン少佐が咳ばらいをしていった。少佐は、今夜は山高帽子にツイードのズボンといういでたちで、まるで人が変わったようであった。武張った重々しさもぐっとなくなり、酒焼けで顔の赤くなった、喘息《ぜんそく》持ちの、ただのせっかち爺さんといった風采で、しきりとゴホンゴホン咳きこみながら、
「こんな子供だましみたいなものを持ちだしてからに。人形だ短剣だなどと。……わしゃ筋の通ったことなら、何も文句はいわんが――」
「その床にあるしみは、気にせんでもいいよ」H・Mは少佐の顔をまじまじ眺めながら、「それから、壁のしみもな。みんな乾いとるから」
いわれて、みんな申し合わせたように床と壁を眺めたが、その目をしぜんまた、不気味に笑っている人形にもどした。何といっても、人形がいちばん不気味だった。暖炉は猛烈な熱気で、あかあかとあたりを照らす炉あかりが、人形の影を壁の上にゆらゆら動かしていた。……
「すまんが、誰か入口の扉に閂をかけてくれ」とH・Mがいった。
「はあ、何ですか?」ハリデーが聞きかえした。
「誰か入口の扉に閂をかけてくれ」H・Mは眠たそうな調子で、強情に同じことをくり返して、「ブレーク、おまえしめろ。――ああそうか、みんな入口の扉を修理したのに気がつかんのだな? いや、きょうね、おれんとこの役所の若い連中が直したんだよ。不細工だが、まあこれで間にあうさ。おい、早くしめろや」
入口の閂は、あの晩もぎりとったので、前よりも固くなっていた。わたしは扉をしめてから、満身の力をこめて閂をさしこみ、あげてある鉄の心ばり棒をげんこで五、六回たたいて、やっと穴にギュッとはめこんだ。
「さあ、これで、あの晩幽霊が見とどけたように、われわれはここへひと晩閉じこめられたわけだ」とH・Mがいった。
それを聞いて、みんなそれぞれに、いささかギクリとした。H・Mはシルクハットをあみだにかぶって、暖炉のそばで、炉あかりに眼鏡を光らせながら、大きな顔の筋ひとつ動かさずに立ちはだかったまま、口をへの字にキッと結び、小粒な目で一座の顔を順に見わたして、
「ところで、君たちの坐る席だが、フェザートン、あんたは暖炉の左手に坐ってくれたまえ。その腰掛けをもうすこしはなして、……そうそう、そこでよろしい。ズボンなんか気にせんと、いう通りにすればいいんだ。それからブレーク、君はその隣りに、フェザートンから四フィートほどはなれて坐んなさい。そうそう。その隣りが人形だ。こいつは今こうやってテーブルの前に腰かけているが、君たちのお仲間入りをさせて、こうぐるっと向きをかえて、暖炉のほうへ向けてやろう。それからハリデー君、君はテーブルの向こう側だ。それで、おれがここへ坐ると、これで小さな半円形ができあがるという寸法だ」
そういって、H・Mは自分の腰掛けを、ハリデーからすこしはなれたところへ引きずってくると、一座がひと目に見わたせるような、ちょうど煙出しの隅のところへ、それを横向きにすえた。「うむ。これでよしと。――いいかね、これで一昨夜の情況とぴったり同じになったわけだ。ただひとつだけ、例外はあるが――」H・Mはそういって、ポケットに手をつっこむと、何だかきれいな色をした箱をとりだして、箱の中身をいきなり暖炉のなかへ投げ入れた。
「おい、何だ、それは?」とフェザートンがどなった。
暖炉のなかでは、最初まず火花がパチパチはねていたと見るまに、青い炎がメラメラ燃えあがり、やがて濃い煙がモクモク出てきたとおもうと、何だか胸の悪くなるような強い匂いが流れだし、煙は床の上を渦を巻いて這いはじめた。なんだか毛穴にしみこむような匂いだった。
「これをしないとだめなんだ」とH・Mはそっけない声で、「おれの好みじゃなくて、犯人の好みだからな」
そして、フ―フ―息をはずませながら、自分の席に腰をおろすと、一座を見わたした。
みんな押し黙っていた。わたしはそっと人形のほうを眺めやった。人形は、黒い帽子を耳の上まで深くかぶって、暖炉の火を横目ににらんでいた。わたしはふと、この怪物がほんとに生きていたら、どんなだろうと考えたら、きゅうに肌がゾッと鳥肌立った。人形のむこうには、ハリデーがいやにおとなしくなって、顔に冷笑をうかべながら、ひかえていた。テーブルの上には、人形とかれとの間に蝋燭がゆらゆら燃え、へんな匂いの立ちのぼるなかでまたたいていた。その蝋燭の灯影で、室内は何となく凄味をおびてきた。
「さて、これでわれわれは、こうやってまあ、何とか居ごこちよくここへ立てこもったわけだから、これからひとつ、一昨夜の事件の説明をしていこうと思う」狭い石室のなかで、H・Mのガラガラ声はよく響いた。
ハリデーは、一服するためにマッチをすったが、マッチの頭が折れてしまったので、それなり一服するのをやめてしまった。
H・Mは、眠たそうな声で話の先をつづけた。「これで諸君は、一昨夜のこの場所にいるものと思っていただきたい。さて、そこでだ、話をさかのぼって、あの晩、あの連中がどこにいたか、そいつをひとつ考えていただこう。まず最初に、ダーワースをとりあげるとして、――いいかね、この人形が奴の身代わりをつとめるんだよ、いいね」といって、時計をポケットから出して、手をのばしてテーブルの上にそれを置き、「今夜、あとでここへやってくる男があるんだが、時間はまだたっぷりある。――
あの晩、ダーワースは何をしたか? ――これはすでに諸君にも話しておいたね。ブレークとフェザートンには、きのう話したし、ハリデー君とラティマー嬢には、けさ話したね。――次に、ダーワースに協力した人間が何を計画したか? ――これもひと通り話したとおもう。……
それで今夜は、ダーワースが猫を殺したところから、始めることにする。あの調書を読んで、いろいろおれが考えはじめたのが、ちょうどそのへんからなんだよ」
「お話し中《ちゅう》ですが」とハリデーが口をはさんだ。「今夜、どなたが見えるんですか?」
「警察のもんだよ」とH・Mは答えた。
ちょっとそこでひと息いれ、ポケットからパイプを出してから、また先をつづけた。
「ところで、ダーワースがルイズ・プレージの短剣で、あの猫ののどを突き裂いて殺したことは、すでに確証したね。で、そのあと、奴は猫の血をそこらへまきちらし、自分の体へもなすりつけたと。外套を着て手袋をはめていたんだから、誰にも出っくわさなければ、そのまま暗がりを気づかれずに通っていかれたはずだ。で、フェザートンとテッドが、せきたてるように奴を表へつれだして、この石室へ閉じこもらせた、というわけだが、ところで、問題は、奴がそのとき短剣をどうしたか、ということだ。ねえ、そうだろう?
奴にできることといえば、次にいう二つのことしかない。(一)自分でこの石室へ持ちこんだか、でなければ、(二)協力者の手にそれを渡したか。この二つだ。
まず第二の方を先に考えてみよう。協力者の手に渡したとすると、その協力者というのは、テッドか、さもなくばフェザートンか、そのどっちかでなければならないことになる。……」
ここでH・Mは、当然よこやりが出るのを待ち設けるように、眠たそうな瞼を少しばかり上げた。
が、誰もものをいうものはなかった。聞こえるものは、テーブルの上の時計のコチコチいう音だけであった。
「だって、短剣を渡せるのは、ダーワースといっしょにいた、この二人だけなわけだからね。ところが、あのダーワースが、そんな間抜けなまねをするとは、どう考えたって理屈に合わんよ。短剣を協力者の手に渡すのに、わざわざ主屋まで取りにいって、そいつをまた表へ持ちだすなんて、そんな手間をかけるもんかね。だいいち、そんなことをすれば、協力者に手渡すところを、一味でない者に見つかるという危険があるし、それよりまだもっと危険なことは、協力者が血刀を下げてうろうろしているところでも、客間の連中に見つかってみたまえ、それこそせっかくの計画が、水の泡になってしまうものな。そんなことをするはずは、絶対にないよ。奴は、短剣を自分でここへ持ちこんだのさ。それなら理屈にあう。
奴が自分でここへ凶器を持ちこんだことは、またもうひとつ別の理由からも考えられるけれども、そいつはまあしばらく置いておこう。……どうだ、誰かいうことはないかね?」H・Mはきゅうに厳粛な顔つきになって、「いまの話から、何か考えついた者はないかね?」
ハリデーは、卓上の懐中時計をぼんやり眺めていた目をあげると、一座の顔を見まわして、
「だけど、そうすると、あの一件はどうなるんです? マリオンの襟もとにさわった短剣は?」
「うむ、そりゃいい質問だ。そうなんだ、あれはいったいどうなるか? いいかね、誰が見ても矛盾していると思われるこの点が、じつは大きな難点を解決するんだがね。――あのとき、誰かが暗闇のなかをうろついていたわけだが、その男は別の短剣を持っていたんだろうか? かりにそうだとすると、相手は男だか女だかわからないが、じつに妙な持ち方を――不自然な持ち方をしたことになるわけだぜ。そんなへんてこな短剣の持ち方をした者は、まず天にも地にもいないだろうよ。……いいかね、マリオン嬢の襟もとにさわったのは、短剣の刃先ではなくて、柄《つか》と握りだったんだぜ。してみると、それを持ってた奴は、柄を下にして、刃先を手に握って歩いていたことになる。刃物を持つのに、そんなおかしな持ち方をする奴が、どこの世界にある? ……ところで、短剣みたいな形をしたもので、暗闇のなかでとっさに短剣だと勘違いするようなものは、いったい何があるんだろうね?」
「さあてねえ……」
「十字架だよ。十字架だったのさ、あれは」
「と、テッド・ラティマーだな――?」といったわたしの声は、石室じゅうに雷のごとく響いた。「テッド・ラティマーですね? ――」
「おれはね、前にもいったように、おれの部屋に坐りこんで考えながら、テッド・ラティマーの心理的な迷いというものを、いろいろ考えてみたんだよ。ほら、あの朝、十字架を持って家へ帰ってきたといったろう。あれを聞く前にもおれは考えたんだが、聞いてから、もういちど考えてみたんだ。
いいかね、あの半分頭へきている青年はね、犯した罪をかくすというよりも、自分が十字架なんかを持っていることを、君たちに見られたくなかったんだよ。あの通り、おれは知性人だといううぬぼれが鼻の先へぶらさがっている男なんだから、その教養の高い自分が、十字架ごときものをあがめ奉っていると思われたんじゃ、知性人の沽券《こけん》にかかわるとまじめに考えていたんだろうし、おれはそんなまねはしないぞと自分でうそぶいてもいたんだろうな。……これがね、いわゆる現代人というやつの、軌道をはずれた、でたらめ千万な迷妄なんだよ。奴らは、キリスト教教会のような偉大なものを嘲笑しながら、その一方では、占星学なんかを信じている。神は天上にありと説く牧師のことばは信じないかわりに、その天上の星から、電光ニュースみたいに未来を読もうというような、突飛なことは信じるんだな。神なんか信ずるのは、頭の古い田舎のおやじどもだと考えながら、そのくせ自分は、この世に死霊がうようよしていることは認めている。そりゃなぜかというと、理由は簡単だよ、死霊は学問上の専門語で擁護されているからさ。
そんなことはまあ、どうでもいいとして、肝心なことは、テッド・ラティマーが、ダーワースの祓《はら》い浄めようとした地上の悪霊というものを、狂信的に信じていたということだよ。それでかれはのぼせ上がって、ひとりで無我の境にはいっていった。で、ここの屋敷には、その悪霊がうようよ集まっているものと信じこんでいるから、何とかして自分もその仲間にはいって、ぜひその悪霊どもに会いたいと思った。それで、あの客間から出てはいけないといわれていたのに、安全なその部屋から抜けだして、悪霊どものなかへ出ていかなければならんという気持になって、それであの円座のなかからそっと抜けだしたんだな。そうして、その抜けだすときに、昔から悪霊から身を守る護符とされている十字架を持って出たと、こういうわけさ」
フェザートン少佐が喘息《ぜんそく》声でたずねた。
「すると、テッドが一味の協力者だというのかね? 外へ出ていったのは、かれだというのかね?」
「あの十字架というものを考えた場合、どうだね、そう思えんかね? 出ていったのは、テッドさ。誰か出ていくけはいが聞こえたと、あんたいっとったね。それが、かれだったのさ」
「ふーん。そうすると――」ハリデーはぽかんとしたけしきで、「じゃ、その出ていったことを、なぜかれは、あとでわれわれに話さなかったんでしょうね?」
H・Mは身を伸ばして、卓上の懐中時計を手にとりあげた。解決のいとぐちがそこにあるようなあんばいだった。コチコチと時をきざむ時計の音といっしょに、何物かの力が、四方から集まってきつつあるかのようであった。……
「それはなにかが起こったからさ」とH・Mはしずかにいった。「ダーワースは幽霊に殺されたんじゃないという、何かの証拠を見たか、あるいは聞いたか、気づいたかしたからさ。……あのあとで、かれ、妙にがさつな態度やふるまいをしたろう? あれを君たちはどう考えるね? かれ、へとへとに疲れておったね。そして、しきりと甲高い声をあげて、君たちに信念を叫んでおったね。ベニング夫人は、マスターズがダーワースの降霊室から電線をひっぱりだして、ジェイムズの幽霊の正体を暴露したときに、目がさめた。テッドはまだあのときはダーワースを信じておったから、目がさめていなかった。しかし、どんなことが起ころうと、『真理』はダーワースなどより偉大なものだとは、考えていたんだな。だから、かれにすれば、この事件で世人の目に『真理』の偉大さを立証できるものなら、ダーワースは悪霊のために怪死したと、世間に信じこませたほうが好都合なわけだ。それで奴さん、この事件は世の中に真理をもたらすものだ、それにくらべれば、人間の生命のひとつやふたつは何でもないと、しきりにいってたろう? まるでヒステリックになって、口角泡をとばして力説していたじゃないか。なるほどなと、おれは思ったよ」
「いったい何ですか?」とハリデーがのどのつまったような声でいった。「そのテッドが見たか、聞いたか、気づいたかしたことは?」
暖炉の火があかあかと燃えている部屋のなかに、H・Mの大きな体がヌーッと立ち上がった。「それをおれに教えろというのかい?」とかれは反問した。「よろしい。そろそろそのお時間だ」
石室のなかは、暖炉の火気で息が苦しく、ぼーっとして眠くなるようであった。室内にたなびく香のけむりと、ゆらめき動く炉あかりと蝋燭の灯は、人形の顔を、ニヤリニヤリ楽しんでいるような表情に見せていた。まるでロジャー・ダーワースが自分の死んだ場所にヒュー、ドロドロと出てきて、麻袋と砂の人形のからだのうしろから、われわれのいうことにじっと耳を傾けているかのようであった。
「ブレーク」とH・Mがいった。「そのテーブルの上のルイズ・プレージの短剣を手に持ってみろ。ハンケチ持ってるか? よし。ダーワースの死体の下に、ハンケチが落ちていたのを憶えているだろう? ……いいかな、その手に持った短剣でな、その人形に三ヵ所、ギューと傷を負わせるんだ。いいか、力いっぱい、人形の服を引っ裂け。左の腕と、腰と、足だぞ。さあ、やれっ!」
人形の重量は、かれこれ九十キロはあったにちがいない。わたしはH・Mが命じたとおりにやってみたが、人形はまるで生きているように、ガクリとテーブルにのめっただけで、ほかはビクとも動かなかった。くしゃくしゃの帽子の下の顔が、すこし横にずれて、ちょうど人形がうつむいたような格好になった。砂がこぼれて、手にザラザラかかった。
「さあ、こんどは、服をすこし切れ。ただし、下の麻布を破くな。――そうだ、どこでもいいから、五、六ヵ所切れ。……よーし! さあ、これで君は、ダーワースがやった通りのことをやったわけだ。では、ハンケチで柄の指紋をふきとって、それからハンケチを床に捨てて……」
このとき、ハリデーが低声《こごえ》でいった。――「誰か石室のまわりを歩いてますよ」
「……よし、短剣をもとのテーブルの上に置け。――さてそこで諸君、みんな暖炉の火をにらんでもらおう。おれのほうを見ずに、まっすぐに前を見て。犯人がこれから、ここへやって来るところなんだからね。……
血は出ないから、安心しなさい。砂がちっとばかりこぼれるだけだ。――これでだいたい、この犯罪の巧妙な点は、ルイズ・プレージの短剣がああいう突錐《くじり》みたいなものであったこと、それをダーワースがちゃんと心得ていたこと、それと、猫の血と自分で破いた服の擬態、これにあるということがおわかりになったろう。それと、このガンガンした火気と強い香のにおいさ。これじゃ、ほかの匂いは匂わんよ。……さあ、暖炉の火をよく見て。おれのほうだの、おたがいの顔だの、人形のほうだのを見たらだめだぜ。暖炉の火の燃えているぐあいを見てるんだぜ。……いいかね、そうしているうちに、ひとりでにこの事件の解決がついてくる。……」
そのとき、石室のなかのどこからか、それとも石室のどこか近くなのか、何かミシミシいう音と、どこかガサガサひっかくような物音が聞こえた。わたしは人形にばかり気をとられていた。なにしろ、さわろうとおもえばさわれるくらい近いところにあるので、こっちはまるで断頭台のそばに立っているような心持だった。暖炉の火はパチパチ音をたてて、息づくように燃えさかっている。そのなかで、H・Mの懐中時計の時をきざむ音だけが、コチコチ、コチコチときこえている。ミシミシどこかでいう音が、だんだん大きくなってきた。……
「おい、わしゃもう我慢ができん!」とフェザートンが痰持ち声で音《ね》をあげた。横目でそっと見ると、少佐は目をカッとひらいて、顔が怒気を含んだようにまっかになっていた。「おい、わしゃもう……」
と、そのとたんに、思いもかけないことが起こった。
H・Mがポンポンとかしわ手を打った。いくつ打ったかよくわからなかったが、とにかくそれと同時に、人形が椅子からムクムクと立ち上がって、立ち上がったひょうしに、テーブルの上の蝋燭をひっくり返したのである。人形はハッとためらうように、ぐらりとゆれると、そのままうつぶせにドサリと床の上に倒れ、帽子を暖炉のそばへはねとばし、砂袋の頭がむきだしにさらけでた。それといっしょに、ルイズ・プレージの短剣が、ガチャンと音をたてて、倒れた人形のすぐわきの床の上に落ちた。
「わっ! こりゃどうしたことだ!」
ハリデーが大声をあげて立ち上がりざま、炉あかりだけになった部屋のなかを、キョロキョロ見まわした。われわれも、みんな総立ちになった。
考えてみると、先刻から誰も身動きをしたものはない。人形にさわった者は、誰もない。しかも、部屋のなかには、われわれのほかに誰もいないのである。
ふたたび席についたとき、わたしの膝はガクガクふるえていた。わたしは服の袖で自分の目をこすって、倒れた人形がもたれている片方の自分の足を引いた。人形の背中からこぼれた砂で、床はザラザラになっていた。人形の背中の傷は、ひとつは肩胛骨をズブリとつらぬき、ひとつは肩先と背骨のわき、もう一ヵ所は左の肩胛骨のま下、麻袋の心臓部をえぐっていた。
「さあ、みんなおちついて!」H・Mは持ち前の、さものんきそうな、気軽な声でしずかにいった。そして、ハリデーの肩をたたいて、
「自分でよく見てごらん。そうすりゃわかる。血こそ出ないが、種も仕掛けもべつにないぜ。いいかね、この人形をだな、ダーワースの魂胆も、ルイズ・プレージの短剣にまつわる因縁話も、事件のいっさいの手がかりも、そういうことはいっさい知らんつもりで、よーく調べてごらん。……」
ハリデーがふるえながら前へ出て、そこへしゃがみこんで、
「はあ。それで――?」とうかがいをたてた。
「だからさ、たとえばね、致命傷になった傷口――つまり、心臓を貫通した傷口を、よく見てごらん。それを見たら、こんどはルイズ・プレージの短剣を手にとって、その傷口へ当てがってごらん。……どうだね、ぴったり合うかね? そう、そう。なぜ合うんだろうね?」
「なぜ合うたって――!」とハリデーは飾りもなげにいった。
「傷口がまるいからだよな。そして、短剣の太さと同じだからだよな。……しかしね、この短剣を見たことがなくて、短剣なんていう考えがぜんぜん浮かばないとして考えてみたら、その傷口は、何でやったと見える? 答えてごらん、誰でもいいから。――ブレーク、どうだ?」
「そうですね、弾痕みたいに見えますね」とわたしはいった。
「いや、だって犯人は発砲しなかったんだぜ」とハリデーが叫んだ。「射殺なら、傷口から弾が出るはずだけど、警察医は何も発見していないぜ」
「それはね君、ひじょうに特殊な弾を使ったんだよ」とH・Mはおだやかな調子でいった。
「その弾は、じつは岩塩の弾だったのさ。……岩塩でつくられた弾なら、血液の温度で、四分から六分で溶解してしまうからね。だんだん冷たくなっていく死体の場合だったら、もうすこし時間がかかるだろうが、とにかく、イギリス中でこんな熱いのはないというくらいの暖炉の前に、死体は背中を向けて転がっていたんだからね。……しかし、こりゃべつに目新しいことでも何でもないぜ。げんにフランスあたりの警察では、とうから岩塩の弾を使っとるよ。塩は防腐剤だし、泥棒を撃ったって、あとで弾を摘出する世話もないしな、溶けちまうんだから。だけど、いくら岩塩の弾だって、心臓を貫通されりゃ、こいつは鉛の弾と同じに、撃たれた奴は死んじまうさ」
そういって、H・Mはくるりと体の向きをかえると、片手で傷口をさして、
「ルイズ・プレージの短剣は、三十八口径のピストルの弾と、太さがぴったりなのかねえ?
そこのところは、おれにもよくわからんが、とにかく、ダーワースが一ミリの狂いもなく、同じ大きさに弾を削ってこしらえたのに違いないよ。奴の家にあるあの旋盤機で、その岩塩の弾を自分の手で作ったのさ。その材料はね、例の岩塩の彫刻――テッドがマスターズとブレークに、何の気なしにしゃべったあの岩塩の彫刻から削りとったのさ。だから、旋盤機に、岩塩の削り屑がのこっていたんだよ。犯人は空気銃か、――おれなら、空気銃を使うがね――あるいは、ふつうの防音装置のついたピストルを使ったんで、それで音がきこえなかったんだろうな。でも、この狭い部屋に、強烈な香が焚いてあったところを見ると、どうも火薬のにおいのする、ふつうのピストルを使ったんだろうと、おれは思うがね。……最後に、ではどこからそれを射ったか? 鍵穴ということもいちおう考えられるが、それよりも事実としては、この部屋の四方の窓の鉄格子の目が、三十八口径の銃口にぴったりなんだ。誰だったかもいってたようだが、ここの窓は、屋根のすぐ下の高いところにある。かりに――かりにだよ、犯人が屋根に登れば……」
そのとき、表の庭で、とつぜん、何か叫び声がきこえたと思うと、つづいて悲鳴の声があがった。「警戒!」とマスターズがどなるよりも早く、H・Mがテーブルをわきへ押しやり、入口へ向かって歩みかけたとたんに、銃声が二発パンパンと鳴った。
「おい、今までのはダーワースの計画だったが、今の銃声は犯人だぞ」とH・Mがどなった。
「ブレーク、扉をあけろ。犯人が逃げると、ことだ!」
わたしは入口の閂をあけ、心ばり棒をはずして、大扉をひらいた。庭は交錯する光で、目がくらむようだった。月光のなかを、背の低い人影がこちらに向かって走ってきたが、われわれが外へ雪崩《なだ》れでたのを見るや、風をくらって逃げていった。とたんに、針が飛びでたほどの閃光がピカッと閃めき、すぐ目のまえで銃声がとどろいた。硝煙の流れるなかを、角灯を手にしたマスターズが、裏庭を稲妻型に逃げていく人影を追っていく姿が見えた。H・Mのどなる声が、叫喚のなかに、ひときわ高くきこえた。
「ばか野郎! 身体検査をしなかったな!」
「逮捕とはうかがわなかったもんで。……おい、前へまわれ! 包囲しろ! ――よし、それで庭からは出られん。追いつめてしまえ!……」
数名の人影が、懐中電灯を明滅させながら、石室の横手へドッと駆けこんだ。
「つかまえたか?」闇のなかで、誰かが叫んだ。「隅へ追いつめろ!」
「畜生! そんなことさせるもんか!」と闇のなかから、はっきりした細い声がきこえた。
わたしはいまでもありありと目に浮かぶが、女が最後の弾を自分の額に打ちこんだときの、ピストルの閃光で照らし出された顔の、口を引きゆがめた勝ち誇ったような抵抗を、わたしはこの目ではっきり見たのである。こねかえした泥濘《ぬかるみ》のなかを、ルイズ・プレージの埋められた立ち木のそばの塀へと、何かドサリと倒れたものがあった。……庭はしばらくの間しんと静まり返り、月かげのなかに白い硝煙がただよい、人々のゾロゾロ近寄る足音だけがきこえた。
「ちょっと、その角灯をかせ」H・Mは重々しい声でマスターズにいった。「諸君!」と得意のうちにも苦々しげな調子で、「みんなそばへ寄って、古強者のこのおれを悩ました、べっぴんの犯人を見てやってくれ。――ハリデー君、この角灯を持った。……何もこわがることはないさ!」
そういって、手にもった明るい角灯をふった。角灯の光が、塀ぎわの泥濘のなかに横伏せに倒れている、白い顔を照らした。その唇は、まだ冷笑をとどめながら、すこし開いたままになっていた。
ハリデーは前へ進みでて、のぞきこんだ。
「だけど――だけど、誰ですか、これ? こんな女、見たことがないな」
「いや、見たことがあるさ」とH・Mはいった。
わたしはふと、新聞にのっていた写真を思いだした。早取りのぼやけた、あまりはっきりしない写真だったから、あまり自信はなかったが、
「ねえH・M、この女……これ、グレンダ・ダーワースでしょう、奴の二度目の妻の。でも、ハリデーのいうとおり、ぼくら会ったことはないですよ」
「いいや、会っておる」とH・Mは重ねていった。そしてすこし声を大きくして、「君たちは気がつかなんだが、この女がジョゼフに変装しとったのさ」
二十 真犯人
「おれが何よりいちばん弱ったのはね」とH・Mは、役所の事務室の隣りの流し場で、使用してはならないことになっているガス台で湯をわかしながら、本音を吐くようにいった。「もう一日早く、この事件に手をつけていなかったことだったね。これにいちばんまいったな。君たちが知ってたことを、おれが何もかも知ってさえいればさ。なにせ、マスターズからいちぶしじゅうを聞いたのが、ゆうべからけさにかけてだろう。――いや、もうきのうになるか。それから死物狂いで始めたんだろう。それこそ神業に近いこったよ」
時刻は、午前二時に近かった。一同は、ひとまずH・Mの役所に引きあげて、夜警の男をおこし、四階までの階段をふらふら上がって、やっと梟《ふくろう》の巣みたいな部屋にたどりついたのであった。夜警の男が火を焚きつけてくれ、H・Mはさっそく、めでたい祝い酒だからウィスキー・ポンチをこしらえようといいだした。ハリデーとフェザートンとわたしが、H・Mのデスクのまわりの古ぼけたレザー張りの椅子に腰をおろしていると、やがてかれは、煮えたぎった湯をもってもどってきた。
「あれで君たちが、ジョゼフがグレンダ・ダーワースだという、根本の手がかりをつかみさえすれば、あとは雑作《ぞうさ》なかったんだ。ただ、厄介なことは、この事件にはよけいな綾だの、すじりもじりがくっついているもんだから、そいつをほぐすのに、ゆうべまでかかっちゃったな。今になってみればわかるが、いろんな邪魔がはいったよ。……」
「まあ、そりゃいいとして」とフェザートン少佐が葉巻に火をつけるのに骨を折りながら、「どうもおかしいよ。わしが知りたいのは――」
「まあまあ、その話は一杯やってからにしようて。この水はな、アイルランド人は、『雄叫びの水』というてな。――ちょっと待て、その砂糖を入れてさ……」
「ですけど」とハリデーがいった。「あの女がどうやってあの庭へはいったんですか? あの窓からダーワースを射ったのは、いったい誰なんですか? 犯人がどうやって屋根へ登れたんですか?」
「いいから、まあ飲めよ」といって、H・Mが自分でまず毒味をして、「うん、こりゃあ上出来」と自画自賛して、いっそうご機嫌になった。そして、卓上電灯が見えないほど、椅子にでんと深く尻を落とすと、どっこいしょと掛け声をして、片っぽの足を机の上に長々と伸ばした。それからチビリチビリやりながら、話をはじめた。
「いやね、おかしかったのは、このブレークとパリ警察のデュランの大将が、正面の人間にばかり気をとられたもんだから、とんでもない思い違いをしてさ、そのために、全体の解釈がへんなほうへずれちゃってね、二人とも、スウィーニー夫人に目をつけたんだ。こりゃしかし、無理もないと思うよ。なにしろ、まごう方ないジョゼフが背中を短剣で突かれて、ボロボロに焼けただれて、死体公示所にころがっていたんだものな。
根本的には、あの推理は絶対に正しかったんだよ。グレンダという女は芯のしたたかな女でね、人の財布を絞るだけ絞りあげるという奴で、ダーワースの黒幕だったわけだ。自分たちの勝負のためとあれば、チェロキー土人の役でも何でもしようという女だよ。あのスウィーニー夫人を、君たちはちっと買いかぶりすぎた、ということが、厄介をまいた種だったんだな。どうしてかというと、あの女は事件の渦中へはけっしてはいらなかった。他人の行動に目をつけて、陰でこっそり戦略的な行動をとるような立場には、いなかったんだ。ただ、家のなかに坐りこんであの頭の弱い子の世話を見る、ひとかどの家政婦になっていれば、それでよかったのさ。ところが、ジョゼフは――そう、君たちがそういう役割をする怪しい人間を考えるとなると、いきおい、君たちの前へ、ジョゼフがとびだしてくるわけだ。奴は霊媒だから、いつも事件のただなかにいたさ。奴らにすれば、ジョゼフをそうしておかなければまずい。そういう意味で、ジョゼフはなくてはならない存在で、したがって、奴が知らんで起こったことは、ひとつもなかったはずだよ。ところで、ブレーク、君は例の女友だちから聞いた、グレンダが大当たりをとったという芝居の話から、ご名答をえたわけだが、あの芝居の外題《げだい》を憶えているかい?」
「一つはシェイクスピアの『十二夜』で、もう一つはウィッチャリーの『正直者』でした」とわたしは答えた。
ハリデーが口をとがらして、「ヴィオラだ!――待ってくれ! 若者に変装して主人公を追っかけるあのヒロインは、ヴィオラというんじゃなかったかな?」
「うふっ、おれはさっき石室で待っている間に、ウィッチャリーの『正直者』をざっと読んでみたんだがね」H・Mはクスクス笑いながら、
「や、本をどこへやったかな?」とポケットを探して、「あのなかへ出てくるフィデリアというヒロインが、やっぱり同じことをするんだよ。あの芝居は、娯楽劇としてはまれに見るいいものだぜ。一六七五年に、スコットランドでああいう爆笑をやってたんだから、驚くよ。ブラックエーカーという後家さんが、変え玉になって、女中から話を聞きだすんだがね。へへへ、まあそう気をまわすなよ。しかし、あの二つの芝居は、偶然の一致とはいえないくらい、ところどころいやによく似ているよ。君ももうちっと学があったら、もっと早くにグレンダの正体がつきとめられたのになあ、惜しいことをしたよ。それにしても――」
「話を本筋にもどして――」と少佐からヤリが出た。
「おっと承知。とにかく、少々手遅れだったことだけは認めるね。――それでは、話を最初にもどして、はじめにおれはジョゼフに失敗したが、そこから何を引きだしたかというあたりから、順を追って話していこう。グレンダ・ダーワースがジョゼフだとは、みんな知らなかった。いや、知らないといえば、何もかも知らなかったな。こっちはただ坐りこんで、事件の事実だけを考えていたんだから。
で、ダーワースには協力者があると、目星をつけた。そいつが奴に手を貸して、ルイズ・プレージの幽霊に襲われるという芝居をうとうとしていると、こう考えた。この協力者が博物館へ行って、短剣を盗んだときに、監視人の目をひくように、ルイズ・プレージの格好をまねて、わざと首を動かすという手なんか使いやがってね。ダーワースは、新聞が大きく書きたててくれるから、手前の計画はおかげで世間へパッと知れると、百も承知さ。じゃあ、実際の殺人はどうやって行なわれたか、それを考えてみた。何者かが石室の屋根にのぼって、あの窓格子から岩塩の弾を撃ちこんだ、ということになったが、あれでもし、ダーワースが旋盤をきれいに掃除しておいたり、テッドがうっかり口をすべらして彫刻の話をしなかったら、おそらくこっちは、船が河底へついちゃってたね。いや、まったく!」H・Mはうなるようにいうと、ポンチをグイと一口飲んで、「おれも気が気じゃなかったが、でも、君たちが何とか自分で見つけだすかなと、じつはハラハラしてたんだ」とジロリと一座を見まわして、「こっちの縄張りを荒らされたら、こっちは手を引かなきゃならんからな。おかげで、君たちがこの古強者を自由にさしといてくれたんで、助かったよ。それでなきゃ、手も足も出ないからな。そう、おれはあの時マスターズに、その白い粉はなめるんじゃないぞといったね。かれ、塩とはわかったんだろうが、どうもそれから先へは頭が働かなかったらしいな。あははは。
というようなまあ次第で、このへんから犯人のメドがつきだした。
そこで見まわしてみると、どうも協力者は、われわれと顔をつきあわしている奴のなかにいるらしい。で、いちばん臭い奴はジョゼフということになったんだが、そのジョゼフになぜわれわれは嫌疑をかけなかったのか。なぜスポットライトの下へ引きずり出さなかったのか?
第一の理由は、奴がダーワースのいいなりに動く低能児の麻薬常習者で、事件のあった直後も、モルヒネの気が多分にあったという、ごらんの通りの子供だったからだ。
また第二の理由は、奴はダーワースの傀儡《かいらい》で、ほんの仕事の表看板みたいな存在で、当人は何も知っていないからだ。
第三の理由は、奴には完全なアリバイがある。事件のあいだ、ずっとマクドネルがついていて、トランプをしていたんだからね」
H・Mはしゃっくりをして、えらい苦労をしてパイプに火をつけると、さもうまそうに一服吸ったが、さて一服吸ってしまうと、またどんよりした目をあらぬ方にすえて、
「なあ諸君、じつに頭のいい段取りだよ。初めに見ると、誰の目にも一見して明らかなことを、いろいろの思わせぶりや事実でぬりかくして、『ジョゼフは可哀そうに。いいようにはめこまれている。きっとそうだ』と誰でもそう思うように仕組まれている。おれも最初はそう思ったもの。しかし、しばらくしてから、こりゃ待てよと考えはじめた。それから調書を読み返してみて、こりゃおかしいと思ったのは、あの客間にいた連中が、かれこれ一年近くもジョゼフと知り合っているのに、あの晩まで奴が麻薬患者だということを誰も疑ったものがないんだな。じじつ、それがわかって、誰もがショックを受けている。そうしてみると、相当むずかしいことだろうが、とにかくその間、ジョゼフとダーワースはそれをうまくかくしおおせてきたわけだが、果たしてそんなふうにだましつづけておく必要があったのか。そんな必要はなかったように思うね。霊媒に出る前に、なぜ多量のモルヒネを打っていたのか? ただ眠らせるためなら、薬屋からもっと安い、副作用のない薬が手にはいるのに、なぜあんな高い、しかも危険な品を使うのか? そのために何の得るところがあるのか? たわごとをしゃべって、ドタバタ騒ぎまわる麻薬患者を、一人こしらえるだけじゃないか。だいいち、相手はばかなんだから、普通の睡眠薬でも与えたらよさそうなものじゃないか。つまらんことに、いやにまわりくどい、へんな方法を使うなと、それが頭にピンときた。けっきょく、ダーワースが降霊術のからくりをやる間、奴を霊媒室にそっと寝かしておけばいいんだからね、ただそれだけの目的で眠らしておくのに、あの薄ばかにモルヒネを打つこともないじゃないか。
そこで、おれは自問自答した。『待てよ、いったいジョゼフが麻薬患者だといいだしたのは、誰なんだ?』と。最初にそれをいったのは、この事件を捜査していたマクドネル巡査部長で、あとでジョゼフが麻薬の作用をはっきりあらわして、べチャクチャしゃべりだすまでは、ほかの者は誰も知らなかったんだ。
そこでまた、おれはピンときた。この事件で今まで聞いてきたことは、どれもみんな矛盾だらけで、腑におちない、怪しいことだらけだが、そのなかで、いちばんひどいのはジョゼフの話だと思った。まず第一に、奴はダーワースからモルヒネと注射針をこっそり盗んで、自分でもって注射をしたといってるが、考えてみると、こいつは誰が見たってまゆつばものだろう……」
フェザートン少佐が白髯をしごきながら、ヤリを入れた。
「しかしな、ヘンリー、貴公はいつぞやここのこの事務室で、ジョゼフはダーワースの黙認のもとに麻薬を常用しとったと、そういうとられたぞ。……」
「何だ、あんなつまらんことを真に受けてるのか?」自分の思い違いをむし返されるのが大嫌いなH・Mは、そういって切り返しておいてから、「よろしい、わかっとる。あのときはおれもまだ、そこまでは考えとらなかったんでな、そう声を大きくしてはいわなんだはずだぞ。――ジョゼフによると、ダーワースは、自分に危害を加えるものがあるかもしれんから、ジョゼフに見張りを頼んだと、これがブレークとマスターズに、ジョゼフが自分の口からいった話だ。いいかね、自分の見張りをさせておく奴に、勝手に麻薬を打たせておくなんて、こんな理屈に合わん、べらぼうな話があるかね? どう見たって、おかしいやね。本当とは思えんさ。しかし、また別の解釈もある。あんまりわかりきった、簡単な解釈なんで、おれもついうっかりしてたんだが、つまり、ジョゼフは麻薬患者ではなかったという考え方さ。そうなると、こっちはジョゼフのいった言葉に、まんまといっぱいひっかけられたことになる。この話は嫌疑をそらすための作り話だったということになる。奴があのとき、ほんとにモルヒネを打ったとすれば、体にあらわれる薬の効目《ききめ》はかくせなかったはずだ。麻薬中毒患者の兆候というのは、手が痙攣したり、目がすわらなかったり、べラべラしゃべったりすることだが、こりゃ上手な役者がやればできないことはないだろうが、しかし、中毒患者でもないものを、中毒患者だとぬかすような人間は、勘《かん》でわかるな。心理学も使いようによっちゃ、悪くないさ。
以上は、机上で考えていたことだ。
そこで、また自問自答してみた。『かりにその推定を有力なものとして取り上げるとして、それをささえるものが何かあるか?』そう考えていくと、ジョゼフという奴が、奴が装っている白痴なんてものとはおよそほど遠い人間で、ひと皮むいてみると、だいぶ危険色の濃い人物に思われてきたんだな。
奴の話を、もういちどよく考えてみよう。奴は、ダーワースがあの晩の連中の誰かからねらわれているのをたいへん心配していた、といってたね。ところが、誰の証言を見ても、ダーワースはそんなけぶりはいっこう見えずに、平気で石室へ夜明かしのお祓いにいったといっている。してみると、ダーワースに何か心配があったとしても、それは石室の中ではなかったらしいことがわかる。それはまあいいとして、さっきもいったように、ダーワースの計画も、奴を襲うという偽芝居をうつ協力者のあることも、おれにはわかっていた。かりにその協力者が、あの客間の連中の一人だったとすると、なにもジョゼフに身辺の監視を頼むことはあるまい。ジョゼフが協力者を見つけて騒ぎたてでもしたら、せっかくの計画はおじゃんになってしまうじゃないか。ジョゼフの話は、どっちから考えても、まゆつばものだよ。しかし、奴が協力者でさ、手を貸すかわりにダーワースを殺して、犯行のあとアリバイを作るためにモルヒネを打ったというなら、こりゃ自分を擁護するために話した話として、筋が通ってるがね。
まあ、もう少しこの気色の悪い人物に目を向けることにして、われわれが奴に嫌疑をかけなかった二番目の理由を、ひとつ考えてみることにしよう。つまり、ジョゼフはただの表看板で、ダーワースが失敗したときにその責任をひっかぶる役だという意見ね。これをわれわれにいいだしたのは誰かというと、かねてからジョゼフのことを内偵していたマクドネルで、この意見はジョゼフもその通りですといって認めている。われわれはそいつを、そのまんま鵜呑みにしたわけだ。いやもうすなおにそのまんまちょうだいして、ダーワースがあの仕事をしている間、ジョゼフは何も知らないで、ぼんやりただうろついていたものとばかり、こっちは思いこんでいたわけだ。
ところで、ここでおれが思い出したのが、あの石の植木鉢さ」
われわれの吸っているパイプや葉巻の煙が、ポンチの鉢の湯気とまじって、部屋のなかにもやもや立ちこめていた。卓上ランプの光のむこうに、H・Mの皮肉な顔がぼーっと浮かんでいた。河岸を走っていく夜明かしタクシーの爆音が、夜明けの静けさのなかにやかましく聞こえた。ハリデーがいきなり身をのりだして、
「それなんですよ、ぼくが知りたいのは! 天井かどこからか落ちてきたあの植木鉢で、ぼくはもう少しで頭を割られるとこでしたからね。マスターズはしごく簡単に、あんなのは古いトリックだよなんて片づけていたけど、とんでもない、こっちはその古いトリックで命をしまうところでした。あれがジョゼフの野郎の――いや、グレンダ・ダーワースかな、――あの女のやった仕事だとすると――」
「むろん、彼女のやった仕事さ」とH・Mはもったいぶったような身ぶりをして、「おい、すまんがフラーティ神父の神薬を、もう少々ここへくれんかね? うむ。いや、ありがとう。……ではね、あのときのことを思いだしてごらん。君とブレークとマスターズの三人が、あの時は階段のすぐ脇に立っとったんだったね? 君は階段に背を向けていたんだったな。そこへ少佐とテッドがやってきて、その少しあとからジョゼフがやってきたと。そうだったね? そこでうかがうがね、あすこの床は何でできておったね?」
「床ですか、石でしたね。石か煉瓦か、いや、石だったと思うな」
「いや、おれのいうのは、ホールの奥の床だよ。君たち三人が立っとった、――古い床板をまだおっぺがしてない、あすこの床のことをいっとるんだよ。厚い板じゃなかったかね? だいぶガタガタになった、歩くと階段がグラグラするような?」
「ええ、そうでした」とわたしが代わりに答えた。「マスターズが歩くと、ミシミシいったのを憶えてます」
「階段の踊り場は、ハリデー君の頭のま上だったんだね? その踊り場には、欄干があったんだな? よしよし。それは昔のアン・ロビンソンのトリックだよ。よく古い家のホールなんかで、グラグラする階段があるのを知ってるだろう? どうかしてその階段の下の床を踏むと、階段がいっしょにミシミシゆれたり、踊り場の手摺りがガタガタゆれたりする。そんな階段の踊り場の欄干へ、重いものでも重心をとってそっとのせておくと、ほんのちょっとのゆれでも落ちるんだよ」
しばらく黙っていたが、やがて話の先をつづけた。
「テッドと少佐が先にやってきて、ジョゼフは二、三歩後からきた。そのときジョゼフは、わざとガタガタの床板を踏んだのさ。
どうもジョゼフという奴を、仔細に見ていけばいくほど、だんだんこの男が、何も知らずに踊らされている人形とは思えなくなってくるんだよ。よく見てみたまえ。奴は、あの年ごろの男にしては、いやに痩せているし、背もそれほど高くはない。どっちかというと、小男なくらいだ。首筋に皺があって、髪は短く刈ってるが、目に立つほどの赤っ毛だ。そばかすがあって、鼻がぺしゃんこで、口がすこし大きい。そして、声は、子供の声みたいに細くて、弱々しい。それよりも――これはよく憶えておってもらいたいが――あの遠くからでも目立つ、派手な格子縞の服だよ。体重は九十ポンドぐらいもあるか、とにかく、若者というよりも、多分に子供だよ。
それからね、これは植木鉢の落ちてくる直前に、マスターズが気づいたことなんだが、妙なことがひとつあるんだ。ほかの諸君も見たかな? 両手をね、こう顔をなでるかいじくるかするような、妙なふうに動かしていたんだそうだが、懐中電灯で照らしたら、きゅうにそれをやめてしまったそうだよ。……
そこで、おれは考えた。『待てよ、こりゃ変装というようなこともありうるな』と。君たちも知ってるだろうが、ジョゼフは帽子をかぶらずに、雨のなかに出ていたんだ。それでおれは、首をかしげたんだ、これはひょっとすると……」
「ひょっとすると?」
「うん。――ひょっとすると、そばかすが雨で消えたんじゃないかと、こう勘ぐってみたんだ」とH・Mは答えて、「こりゃしかし、ほんの推理の土台でね、まだ海のものとも山のものともつかない。それからまた坐りこんで考えているうちに、あの裏庭の木のことを思いだしたんだ。あの木、知ってるな? マスターズがいってたね、ごく身の軽い人間なら、塀の上からあの木へ渡って、それから石室の屋根へおりるのは造作ないだろうって。そしたら、マクドネルが、いや、あの木は枯れて、ぼくぼくに腐ってますよといって、ためしに枝を折って見せたね。……そりゃなるほど、普通の目方の人間が乗ったら、折れるだろう。マスターズもかれの意見を認めていたように、おれもそう思うよ。ただしだ、あの枝を折らずに、あの木へ登りつける身の軽い人間が、あの晩あの屋敷のなかに、たった一人だけいた。ほかでもない、そいつは『白』と目されていたジョゼフさ。
ところで、じゃあジョゼフは、あの木へ登って、あの石室の窓からねらい撃ちをして、あれだけ正確な傷をあたえるだけの腕前と身軽さがあったかというと、あの薄ばかの麻薬中毒の子供に、そんなまねができるわけがない。そこで、しばらくおれは考えた。――これはジョゼフは、見てくれ通りのものではない。まさしくこれは、変装しているにちがいない。こう考えて、おれは自分に尋ねてみた。『待てよ。えーと、ちちんぷいぷい、この爆弾あられが鑵のなかで、こうガラガラ鳴ってる間に、なんとか考えてと。……奴がダーワースを殺したということになると、動機はいったい何だい? ベニング婆さんとその仲間をだまくらかす仕事を、ダーワースといっしょにやってた彼奴《かやつ》が、その計画から抜けて、ダーワースを射殺するというのは、いったいどういうんだ? どうも、することがちっととんまなようだな。むろん、あれは過失でやったことじゃない。ことに最後の二発なんか、あの顎ひげのインチキ師を殺《ば》らすつもりで撃った弾だ。自分の金の穴をなぜ殺すんだろう? ダーワースの遺産を相続するのは、かれの妻だけじゃあ……
妻! そうだ、妻だ! この老いぼれ爺の頭のなかに、ピカッとそのとき閃いたものがあったのに、君たちは『へーえ』といってびっくりするだろう。……いいかね、いったいダーワースが、そもそもこの芝居をうつ目的というのは、何なんだい? 心霊術の真理を世の中に宣言して、自分の名を挙げるんだと、奴は協力者にはそういったろうさ。だけど、そうじゃないさ。おれは自分にいった。『とんでもない。奴はラティマー嬢に惚れていて、近々求婚するつもりでいた。ところが、ニースに本妻がいる。――こいつは頭の鋭い、したたかな女で、ほどよい時期を見はからって、いやおうなく奴に結婚をしいた、いわば押しかけ女房だ。亭主の昔のよくない身状《みじょう》は、知りつくしている女だ。この女が、こんどの仕事を、いったいどう考えていたろうか?』」
といって、H・Mは、まるで誰かの姿を眠りのなかで描きだすかのように、やたらにパイプを宙にふりまわしながら、
「写真で見ると、なかなかあだっぽいべっぴんだね。痩せぎすで、年齢《とし》は三十をちょっと出てるかな。そろそろ小皺の出ようという年ごろだ。せいは高からず。もっとも、ハイヒールをはけば、高く見えるだろうがね。おい、君たちゃ結婚したのか? ヒールのない靴をはいたときの女房を見るてえと、はじめはいやにチンチクリンに見えるもんだぞ、知ってるか? ――うむ、それから髪の毛で相《そう》が変わるし、そのうえ化粧で化ける。そこでおれはまず考えたね。『おせっかいのようだが、おれならあの女に、よくよく用心しなよと忠告してやるな。だって、ダーワースの奴は、今までにすでにかかあを一人、毒殺だか、のど笛を斬るかして殺しているんだからな。おれがダーワースのかかあだったら、ベッドの下をちょいちょいのぞいてみるね。暗くなったら、横町なんかうっかり歩けやしねえや』」H・Mは鼻から息を一つ深く吸ってから、われわれの顔をグッとにらんで、ひとりごとのようにいった。
「手前のほうから、あっさり奴を片づけてないぶんにはな」
そういって、われわれのほうにパイプをつきだして、
「そうだ、誰だったか、グレンダ・ワトソンが十五の時分にどんな暮らしをしてたか、君たちに話してくれた人があったっけね? 旅まわりの曲馬団だの、見世物に出ていたという話だったね? それだもの、塀や木によじ登ったり、中口径のピストルを使いこなしたりしたって、べつに驚くにゃ当たらないやね。万能女史だよ、彼女は! 才腕《タレント》はあるし、お色気はあるしさ、でなけりゃ、ダーワースから金を絞りとってニースで劇団の幹部をやってたときに、何が世間がかつぎ上げるもんかな。その彼女が、ジョゼフの役を演じている数年間は、自分の性的魅力をも犠牲にしなきゃならなかったはずだよ。もっとも、ロングランで演じたわけじゃないけどね。……考えてみりゃ、哀れなものさ。丈なす黒髪を短く切り、まっかに染めてさ、気晴らしにどこかへ出かけるときには、地髪のかわりに、黒い鬘《かつら》をかぶっていたわけだ。ほら、君たち憶えてるだろう、『マグノリア荘』へ怪しい女が出入りしたのを見かけたという人があったね? 彼女もダーワースの妻として、愛情をまっとうしなけりゃならんという一義もあったわけさ。それと……」
「話はそれきりか?」フェザートン少佐が雷声を発した。「それじゃいっこうに進まんぞ。のう、くどいようじゃが、貴公の乗りこえられん難点が、ひとつここにあるで。彼女にはアリバイがある。彼女が石室におるダーワースを殺しに出ていっとった時刻には、ちゃんと信頼でける人の監視のもとに、彼女はあったのだ。この確固たる事実はまげられんぞ。そのうえ、わしら廊下をへだてたすぐの部屋におったんじゃが、むこうの部屋はガタリともせなんだったぞ。――彼女と巡査部長とは、客間のすぐ向こうの部屋におったのに、何の音もこちらには聞こえなんだぞ」
「そりゃそうだったろう」H・Mは従容《しょうよう》としていった。
「その通りだよ。君たちは向こうの部屋からは、ささやき声ひとつ聞かなかった。さ、そいつがそもそも怪しいのさ。
まあ、ガソリンもはいったことだし、ここでひとつ、諸君の活発な頭を働かしていただこう。この事件では、いろいろ奇妙な暗合が、あとからあとから続出しておるんだよ。……まず第一に、犯行の直後に、新聞社の写真班が、石室の屋根へのぼることを許されておる。こりゃ君、当然よさせるべきことだし、またあの場合、これはできたはずだ。あれじゃ屋根の上に犯人の足跡が残っていたって、まるでめちゃくちゃにされちまわあ。第二に、あの立ち腐れの枯れ木を調べるんだといって、誰だか塀の上を歩きまわりやがって、ここも足跡をめちゃくちゃにしちゃった。第三に、マスターズが骨を折ったにもかかわらず、この事件が、不可解にしてまさに超自然的な幽霊殺人、ということになって、新聞に大々的に発表された。……」
そのとき、ハリデーが椅子からそっと立ち上がった。
「第四は、たいへんご聡明な方が、ダーワースの動静監視をいいつかっておったがね、この男は、われわれが感づくずっと前に、ブリクストンに住んでおる『ジョゼフ』が、じつはあの狐のダーワース夫人だということを発見する機会が、多分にあったはずだ、ということ。それから第五は……」とつづけるH・Mの声が、だんだんはっきりしてきた。「君たち、ここにいるこのビル・フェザートンの家で催された、あの降霊会のときの自動書記のことは、忘れてやしまいな? あのときの会には『ジョゼフ』は出席していなかったな? あのとき、『わたしはエルジー・フェンウィックが埋められているところを知っている』と書いた紙きれが、ほかの紙の間にさしこまれていたのを見て、ダーワースがガクンときたのは、自分の妻のほかに、あの秘密を知っている人間が――誰だかそれはわからんが、たしかにこの中にいる。……ダーワースの考え方だと、誰とも知れぬ、目に見えない、恐ろしい人物が、このなかにいる、と感づいたからこそ、あんなふうに愕然としたんだよ。『ジョゼフ』があんな紙きれをさしこんだって、何が奴が驚くわけはないさ。『ジョゼフ』は、始めっからそれを承知してるんだものな」そういって、いきなり机ごしに身をのりだすと、「じゃいったい、ダーワースにあの紙きれを渡せた人間は、誰なのか? あんな手品使いみたいなまねができた人間は、いったい誰なのか?」
水を打ったように、しーんと鳴りをしずめた深い沈黙のなかで、ハリデーはげんこで自分の額をたたいていたが、
「あの、今のお話しは、マクドネルのことですか――」
H・Mは、またしても、うつらうつらしたような声でつづけた。
「むろん、バート・マクドネルは、殺人は犯さなかった。共犯者さ。しかし、たいして重要な共犯者ではないね。あの晩思いがけなく、マスターズが黒死荘へ姿を現わさなかったら、あの男もグレンダにとって、べつに用のない人間だったろうな。そいつがガラリ破れた。マクドネルはただ、手違いのないように、裏庭で張り番をしていたんだが、マスターズが現われたもんだから、奴さん、事件に手を出さなきゃならなくなってきたんだ。ジョゼフを、マスターズの目のとどかないところへ置いとかなけりゃならん。で、あっちへ気をつかい、こっちへ目を配って、あんまりハラハラしたもんだから、奴さん、もう少しでやり損《そこ》なうとこだった。ジョゼフを自分が尋問する間、マスターズに二階へ行って見張っているようにとかまをかけたのは、いったい誰だったかね? うまく解決の曙光が見えだすと、そのつど、わざと見当違いの方向へ誘導したのは、誰だったね? あの裏庭の枯れ木は、どんな目方の人間がのっても折れてしまうと主張したのは、誰だったね? こっちが聞きもしないのに、あの木の下にはルイズ・プレージが埋められているからなんて、屁理屈をくっつけたのは、誰だったね?」
そういって、H・Mは一座の顔色を見まわして、渋い顔をした。
「あの若僧も、心からの悪人じゃない。女は奴が必要だと思ったときだけ、あの男を使ったというだけのことさ。だから、奴は、女がテッド・ラティマーを殺して、殺したテッドに、あの目のくらむような派手な服を着せて、炉のなかへほうりこむつもりでいたことなんか、ぜんぜん知らなかったさ」
「な、何ですって?」ハリデーが大きな声で叫んだ。
「うん、まだ君たちには話さなかったっけね?」とH・Mはおだやかな調子でいった。「そう、ジョゼフはね、どうしても消えなきゃならなかったのさ。グレンダ・ダーワースは、もうこれっきりで人殺しはよすつもりでいた。このままあっさり姿を消して、警察には失踪と思わせておき、ほとぼりのさめた時分に、こんどはグレンダ・ダーワースで姿を現わして、二十五万ポンドの遺産を請求する肚《はら》でいた。ところが、あの晩、テッドは客間をそっと抜けだしたときに、偶然、ジョゼフの正体を見てしまったんだ。なあ、それでテッドは命を落とす羽目になったんだよ」
二十一 事件の終局
ハリデーは座から立って、あてもなく部屋のなかをグルグル歩きまわっていた。こちらへ背を向けて、暖炉の火に見入っていたが、
「それじゃあ――それじゃあマリオンの息の根を止めるようなもんだ……」
「気の毒だがね」とH・Mはぶっきらぼうにいった。「じつは、今夜の勝負にさしつかえるかと思ったんで、今まで君たちに話すのを控えていたんだが、まあ君たちも、このところ、ずいぶんつらい火の中水の中をくぐったわけだけども、これでもうしあわせになると、おれはそう思った。なにしろ、ダーワースはだしのあの半気違いの伯母さんがついていて、君たちの幸福なのを見て、犯人に告発しようとまでしたんだからね。でも、それももう、青天白日になったから、心配ないさ」
といって、手の指をひろげて、ムッツリした顔つきで眺めながら、
「そう、テッドは死んだ。背格好や体つきが『ジョゼフ』にそっくりだったからね、それであんなことになってしまった。ワトキンズという人足《にんそく》が、地階の窓からのぞきこんで、犯行の現場をかいま見たときには、もう顔も何も、ほとんどわからなくなっていたんだ。それで、ジョゼフが死んだということに確認されてしまったわけだ。ワトキンズは、うつむいていた犯人のうしろ姿と、それから死体のあの派手な服装――ジョゼフが毎日着ていたね、あれを見たきりなんだ。窓ガラスは埃だらけだし、蝋燭がたった一本ともっているだけなんだから、こりゃ誰しもジョゼフと思っちまわあね。……いや、じつに抜け目のない女だよ。死体に石油をぶっかけて、そいつを炉のなかへ押しこむなんて、要もないことをするんだからね、なんぼ死体の見分けをつかなくするたって、いらざる残虐行為だよ。そんなわけだから、出てきたものは、黒焦げになったジョゼフの服のきれっぱしと、靴だけさ。犯人はしめしめとばかりに、そいつを利用したわけだ。テッドにクロロホルムを嗅がしたのは、ありゃなぜだと思うね? それはね、短剣で刺すまえに、テッドの服を着替えさせる必要があったからさ。だから、テッドが炉のなかへ押しこまれるまでには、そうとう、あの家のなかで時間を食ったわけなんだ」
ハリデーがクルリとこちらを向いて、「すると、あのマクドネルという奴は――?」
「まあ、落ちつけよ。……じつはね、今夜おれは、ここへの来がけに、マクドネルにじつは会ってきたんだ。あれのおやじ――グロスビーク老人とは、おれはむかし昵懇《じっこん》だったんでね」
「それで、どうしました?」
「マクドネルは、犯罪の計画のあったことなんか、ぜんぜん知らなかったといっとった。ダーワースの殺されることも知らなかったというんだ。そのことを耳に入れておこう。
おれはマクドネルのところへ行って、『おい、いま非番なのか?』ときくと、『そうです』というから、どこに住んでいるというと、ブルームズベリの貸部屋だというんで、一杯おごれよといってやると、奴、こりゃへんだなとピンときたらしい。で、先方へ行って、ドアの鍵をあけて電灯をつけると、『さあ、どうぞ』といって中へ入れた。そこでおれはいった。『マクドネル、おれは君のお父さんのことを考えて、それでこうして今日ここへやってきたんだがね。君はあの女に、いいようにだまされてるぞ。それ、自分で気がついてるのか? あの女は吸血鬼中の吸血鬼だぜ。悪魔の化身みたいな女だぜ。テッド・ラティマーをマグノリア荘で釜焼きにしたとあっては、もうそのへんのことは君も承知とは思うが、どうだね?』と、そうおれはいってやった」
「そしたら、どうしました?」
「べつにどうもせんさ。ただ、そこにじっとつっ立ったまんま、おれの顔を穴のあくほど見つめていたが、顔色は変わっていたな。しばらく両手で目をおおっていたが、やがてそこへ腰をおろすと、とうとう白状しおった。『ええ、知ってます』
おれは黙ってパイプをふかしながら、奴の様子を見ていたが、しばらくしてから、『なぜそれをおれにいわなかったんだ?』といってやった」H・Mは大きな手で顔をひとつべろんこして、「すると奴さん、どうしてですかと聞きゃあがるから、そこでおれはいってやった。『君の友人のグレンダはな、きのうテッド青年を殺害すると、すぐに女の身なりに着替えて、ドーヴァー・カレー間の夜の航空便で海峡をわたって、ゆうべ遅くパリへ着いたはずだぜ。あとくされのないように、家のなかをきれいに片づけて、けさはパリで、ダーワース夫人に早変わりさ。おれの依頼で、ダーワースの顧問弁護士が、彼女に遺産手続きのことですぐにイギリスへ来るように電報を打ったら、折り返し、今夜九時半ヴィクトリア駅に着くと、彼女から返電があって、こちらは彼女が駅に着く時刻に、マスターズ警部が迎えに出て、そのまま警視庁へ連行し、そのあと十一時に、おれが黒死荘で催すちょっとした披露の席へ、彼女も証人として出席することになっている。そんなわけだから、もう逃れられない。今夜、あの女は逮捕されるよ』といってやったんだよ。
そしたら、ややしばらく、両手で目をおおったまま、じっと坐っていたが、『そんなことをおっしゃっるが、彼女が有罪だというきめ手があるのですか?』というから、『きめ手のあるもないも、君は承知のはずだろう』といってやると、やがて奴は、コクリ、コクリと二度ばかり首をうなずいて、『じゃ、もうわたしたちもおしまいです。何もかも申し上げてしまいましょう』と観念して、それから話をした」
ハリデーは机のそばへ歩みよって、「それで何を話したんです? 奴はどこにいるんです?」
「ま、話をきいたらいいだろう」とH・Mはおだやかな調子で、『そこへ坐んなさい。話せといえば、ひと通り話すから。……
だいたいのことは、みんなも知ってると思うが、あの女とダーワースがぐるになって、ここ四年ばかりの間に、――その間には中休みもあったけれども――いろんな人たちから、だましちゃ金を絞りとっていたのは、ありゃあみんなあの女のさしがねだったんだよ。もっとも、マクドネルには、ダーワースがやれ、やれと言うんで、しょうことなしにやったと、しじゅう口癖のようにいってたそうだがね、なあに、おたがいに狐と狸のだましっくらで、二人が組んでやってたことさ。ダーワースはロマンス・グレーの独り者という押し出しで、これは女をひっかける役。グレンダのほうは、ダーワースの女友だちどもにへんな目で見られないように、これはもっぱら霊媒役。というわけで、万事好調にトントンいっていたのが、はからざりき、ここに二つのことが降ってわいたんだな。一つは、ダーワースがマリオンに恋着したこと。もう一つは、去年の七月に、警視庁の命令でダーワースの動静調査にのりだしてきたマクドネルに、『ジョゼフ』の正体を見破られたこと。
それがね、ほんの偶然のことからなんだな。マグノリア荘から、女の服装をした『怪しい女』が出てきた。そこで、マクドネルはその跡をつけた。それから二人がどういうことになったのか、そこんとこが奴の話じゃはっきりしないんだがね、察するところ、女は口止めに、まあその、お家芸の四十八手を、あまねく用いたんだろうな。その後まもなく、マクドネルは休みの日に、ダーワース夫人といっしょにニースの別荘へ行ったらしい。……そうともさ、口説き上手のグレンダのことだ、ここをせんどとお色気戦術のありったけを尽くしたわけさ。そういえば、マクドネルは話の合間に、『あの女の美しさは、あなたにはとてもおわかりになりっこありません。あなたは男に化けたときの彼女きりしか、ごらんにならないんだから』としきりにいうとったが、何やいいわけめいたこんな弁解の言葉を口にするのを聞いとると、ちょっとこう、鬼気迫るものがあったな。机のひきだしから、写真をいっぱい持ち出してきたりしてな、犯行の話をするんだが、それを聞きながら、おれはだいたい察しがついた。
何をおれが察したか、わかるか? 女がいかに自分の思うがままに男を手なずけるために営々として苦心をしたか、ということさ。そのころ、女はそろそろダーワースの下心に感づきだしていたんだな。ダーワースは、もともと黒死荘にまつわる因縁故事をうまく利用して、ベニング夫人から金を絞りあげようという魂胆だったが、グレンダはマリオンのことを知って、それで肚をきめることになったわけだ」
「ダーワースをブスリとですね?」とハリデーが苦い顔をしていった。「へ、たいした女だね。ダーワースが彼女のコーヒーに毒を盛ろうとしたから、逆にそのお返しに二十五万ポンドふんだくろうというんですね? ……なるほどね。こりゃあマリオンにぜひ聞かしてやらなくっちゃ。彼女、きっと喜びますよ……」
「腹は立てないさ。――というわけで、ダーワースから黒死荘の計画を聞かされたときも、彼女はすっかりダーワースの話を真に受けているふりをして、マクドネルの耳には、自分が板ばさみになって困っているような話を吹きこんでおいた。しかし、ダーワースの圧倒的な意志の前には、彼女も従わざるをえなかった。これはなぜかというと、彼女はダーワースを恐れていた。なにしろ、初めのかかあを殺しているんだし、へたなことをすれば、自分もいつ殺されるかわからないという恐れがある。――」
「それで、マクドネルは、すべてそういう話を信じていたんですね?」とハリデーが話の横あいからいった。「何ともはや、ばかな話だね!」
「君、そういうけどもね、君はこの半年ばかりの間に起こったことを、自分は信じていなかったと、果たして確信をもっていえるか? あんまり口から出まかせのことをいいなさんな。……それで今の話のつづきだが、ダーワースがいつどういう考えを起こすか、じっさい危なっかしくてならない。前のかみさんを片づけたように、いつなんどき、枕で窒息させられて、死骸をどこかへ埋められるか知れたもんじゃない。といって、そんなことは誰にもしゃべれやしない。まあこの二人は、おたがいに、人知れず静かな、お上品な、殺人ごっこをやってたようなものなんだな。あのとき、もしマリオンがダーワースをもっとけしかけたならば、奴はとうにグレンダをズドンとやってたろうな。それでグレンダは悩んだのさ。ぎりぎりのところ、ダーワースをひと思いに突き殺してしまう以外に、もうこのごまかしの生活は、つくづくいやになったんだね。ダーワースのほうじゃ、まさかグレンダから肉体的な襲撃を受けようなどとは、夢にも思っていない。せいぜい、昔のことをばらすといって脅迫するぐらいが関の山だろうと、奴はたかをくくっていた。
そんなこんなで、ダーワースが黒死荘幽霊の一件を思いついたときには、グレンダもヒュードロドロの役を一役踊らなければならなくなった。『これでかたきの女も片がつくのね』とか何とかいって、彼女はダーワースにしなだれかかって、『よう、まさかあなた、あたしを痛い目にあわせたりなんかしないわねえ?』ぐらいなことはいったに違いない。ダーワースのほうじゃ、毒薬をごっそり胃の腑にしこんだグレンダの死骸を埋める光景を頭に描きながら、女の髪をやさしくなでてやって、『あたりまえじゃないか。誰がそんなまねをするものかね』というと、グレンダは男の上衣のボタンを、さもいとしげにいじくりながら、『よかったわ。そんなまねをなされば、かえってあなたのためになりませんものねえ』『もういいから、そんな話はやめよう。おまえも曲馬団だの旅芝居にいたことは、いいかげんに忘れなさい』『だってさ』と女は色っぽい目で下から見上げて、『エルジー・フェンウィックを殺したことを知ってる者が、誰かほかにあるらしいのよ。ですからさ、わたしの身に万一何か起こりでもするとさ……』
――てなぐあいで、もし自分にへんなまねでもしたら、その分にはおかないよと、グレンダは暗にダーワースをきめつけたわけだが、ダーワースはグレンダのいうことなど信じもしなかったが、それでも、さすがに気にはなったらしい。もし秘密を知ってる者でもあれば、せっかくのマリオンに対するこっちのおもわくも、水の泡になってしまうし、それでなくても、このてこずりかかあがうっかりしゃべりでもすれば、十二年前の一件で、こっちは御用になるかもしれない。……」
「ふーん、してみると」と、さっきからしきりと髯をしごいていたフェザートン少佐がいった。「わしとこで、いつぞやあの紙きれをダーワースに渡したのは、あれはあの女がマクドネルにさせたんじゃな」
「そうなんだ」とH・Mはうなずいて、「あのときはジョゼフが席にいなかったろう? そうれみなさい。――あのとき、ダーワースがどうしてあんなに青くなって驚いたか、へんに思いなすったろう? それはね、あの連中のなかに――ほかならぬ自分がたくらんでうかがっている連中のなかにだよ、自分の身状を知ってる者がいて、こいつが陰でニヤニヤ笑ってるなと、奴さん、そう思ったからだよ。こりゃ奴にすれば、それこそ、うしろからいきなりぼんのくぼをガンとやられたほどに驚いたにちがいないさ。自分のことをあがめ奉っているはずの帰依者《きえしゃ》の一人が、自分と同じような、うわべは虫も殺さないようでいて、そのじつ、いつどうひっくり返るかわからない猫っかぶりときたんじゃ、こりゃうっかりしちゃいられないものな。この反動で、奴は一刻も早く、黒死荘の芝居を打ち上げてしまわなければと、あせりだしたわけだ。そりゃそのわけだよ、自分の計画を邪魔する奴が出てきたんだから。奴としては、ここは一番、マリオンを感動させるために、とっておきのあざやかな手を打って見せたいところだ。それにしても、いったい誰があの紙きれを出して置いたんだろう? 誰か顔を知らない人間がまじっていたかなと考えてみると、そういえば、いた。たぶん彼奴《あいつ》だろうと眼《がん》をつけて、それとなくテッド・ラティマーにマクドネルのことを聞いてみると、いや、あれはぼくの学校時代の旧友で、べつに危険人物でも何でもありませんよという答えだ。それでもいちおう嫌疑をかけてはみたものの、さてどうしてみようもない。念のためにいっとくが、マクドネルがテッドに偶然めぐり会ったことも、フェザートンの家へうまくよばれていったことも、これはダーワースの死が偶然でないのと同じように、すべてマクドネルの計画したことだったんだ。
ダーワースは、自分で仕掛けた罠に自分ではまりこんだわけだ。その次第は、すでに知ってる通りさ。マクドネルは、グレンダがダーワースを殺すつもりでいたとは、自分も気がつかなかったといっとるがね。奴の話によると、ダーワースはグレンダに、こんどのこれで、おれももうインチキの詐欺芝居は打ち止めにするから、おまえの手を借りるのもこれが最後だ、あとはおまえの自由にさせてやると、そういって約束したそうだ。そんなわけで、おとといの晩、マクドネルは張りきって、あすこの裏庭で待っとったわけだ。なにもそんなことをする必要はないし、筋書にもなかったんだが、奴さん、万一の場合を考えたんだね。ところが、思いがけないマスターズの姿を見たから、奴さん、ギョッとした。こいつはしまったと思った。とにかく、まずいけれども、主任の前へ出て説明しなけりゃならない。そこで、わざと事実を曲げた申し立てをしたわけだ。あのとき、奴がしきりと『ジョゼフはダーワースの看板にすぎない』といっていたのを、君たちも憶えてるだろう?」
「だけど、ジョゼフが麻薬患者だなんて、どうしてまたいったのかな?」とハリデーが尋ねた。
「うん、そりゃグレンダから、誰か人に聞かれたばあいには、そういっておけと教えられたのさ。いわれたときには、マクドネルにもその意味がわからなかったが、あとになって、ははあとわかったわけだ。……
マクドネルが今夜おれにいったところによると、――全部そのまんま話すがね、奴はあのとき、何とかしてマスターズを部屋から追い出そうとして、苦心したそうだ。警察の手がまわったから、インチキ幽霊なんて気違いじみた計画はやめろと、グレンダにくれぐれも忠告したんだが、彼女は聞き入れずに、マスターズもいってたように、自分から秘密をもらすようなことさえした。マスターズがあすこにいる間に、グレンダは、マクドネルと二人でふさいでおいた窓の板が、ゆるんでいないかどうか、こっそり調べてまわったというんだ。……」
「窓の板?」ハリデーが話の中途できいた。
「そう。君は、あの黒死荘の主屋の窓から三フィートばかり隔てて、高い塀が屋敷のぐるりにまわしてあったのを、忘れたかい? あの窓はかなり高いけれども、身軽な者なら、あの窓からひと飛びで塀の上へ飛びのぼれるぜ。あの女が足跡を残さずに、屋敷の裏手をぐるっとまわれたのは、つまり、塀の上を歩いていったからさ。ねえ、これでわかったろう。マスターズが二階へいってる間に、グレンダはマクドネルを台所へ置いたまんま、ひとりで外へ出て行ったのさ。ピストルを撃つのは、三分か四分あればじゅうぶんだからな。グレンダとダーワースは、前の晩に、すっかり手はずを打ち合わせておいた。ハリデー君、君も前の晩、あすこへこっそり下見に行ったんだったね。あのとき君は二人がいるところへ行ったんだよ。奴らが君にどんな幽霊を見せて、その場をごまかしたか、おれは知らんが、とにかく、敵は成功したらしかったな。
ところが、ここへまた予期しない人間が一人とびだしてきたために、よけいな番狂わせが生じて、おかげでこっちまで迷惑をこうむるようなことになった。テッド・ラティマーが席を立って、こっそり客間をぬけだしたことさ。だいたい想像すると、こんなことだろうと思うんだ。――台所でブレークが例の古文書を読んでおった、あの灯火が見えたもんだから。
テッドは裏口へまっすぐに行かずに、玄関から外へ出て、家のまわりをぐるっとまわれば、見つからずにすむと考えたんだな。ところが、玄関の石段を降りかけたとたんに、いや待てよ、家のなかには悪霊どもがいっぱいいるんだから、そのなかをまっすぐに通り抜けていかないと、こっちが臆病みたいに思われて、悪霊どもになめられやしないかなと、妙なことを考えて、それで先生、また思いなおして、あともどりをしてホールへ引っ返した。そのとき、玄関の扉にかけがねをかけるのを忘れて行ったんだね。
ところで、ブレークのほうは、これもおれの想像だがね、テッドが台所の扉のそとを通ったときには、足音が聞こえなかったらしい。そして、裏口から裏庭へ一歩出たとたんに、テッドは見たんだよ。
何を見たってか? それは、テッドが死んでしまった今では、確実なことはわからんし、グレンダも、マクドネルにはそのことを話さなかったらしいが、おそらくテッドは、そのとき、石室の窓あかりのなかに、手にピストルと防音器をもって、石室の屋根からおりてくる『ジョゼフ』と見たんだろうな。防音器というが、ありゃぜんぜん音がしないというもんじゃないからね。掌をくぼまして、ポンとかしわ手をうつような音がするよ。ところで、テッドは悪霊を見るつもりで表へ出てきたんだ。自分がいま目撃したものを自分の心に納得させようとしたが、どうしても納得がいかない。……
そこで、じっとそこに隠れて、様子を見ることにした。ところが、グレンダのほうは、テッドが裏口へ出てきたところを見たんだな。そして、その瞬間から、テッドはグレンダにつけねらわれることになったのさ。テッドに見られたかどうか、そいつは女にもはっきりしなかったが、とにかく恐ろしい瞬間だったことはまちがいない。
その間に、一方ではどんなことが起こっていたかというと、マスターズが二階から下りてきた。最初二階へ上がるときに、玄関の扉が風であおられていたので、それをしめて、かけがねをかけておいたのだが、それが今下りてきてみると、しめた扉がまた開いている。これは、マスターズが二階にいる間に、テッドがそこから出ていったからで、そのときマスターズが、そのまま『ジョゼフ』とマクドネルのいる台所へまっすぐに行っていれば、べつに何のこともなかったんだが、いったん自分がしめた玄関がまたあいているから、こりゃへんだと思って、夢中で外へ飛びだした、が、もちろん、家の横手には人の歩いた足跡はひとつもない。へんだなと思って、念のために家の横手をぐるっとまわってみたときには、もう『ジョゼフ』は仕事をすまして、家の反対側から台所へもどったあとだった。そのとき、マスターズはダーワースのうめき声を耳にした。おそらくダーワースは、そのときはまだ、自分の協力者に殺《や》られたとは気づかずにいたんだろうと思うね。でなければ、あんなに大きな声でうなるわけがないさ。
一方、テッド・ラティマーは、裏口を出たすぐ外のところに立っていて、マスターズが家の横手をまわってくる足音も、ダーワースのうめき声もきいた。むろん、かれは、それがどういう意味のものだか、まだなんにもわかっちゃいなかったが、マスターズがこっちへ急いでやってくる足音をききつけて、こりゃ何か変事でも起こったのだ、とすると、こんなとこにいてはこと面倒だと思ったから、そのまま足音を忍ばせて、もとの客間へもどったそのとたんに、ダーワースが例の釣鐘の針金をひっぱったのさ。
そのあいだに、グレンダはもとの台所にもどっとった。そして、前の晩ダーワースと二人で、あらかじめ用意しておいた床板の下へ、ピストルと防音器をかくした。マクドネルの話によると、グレンダが台所へはいってきたとき、自分はトランプを並べていた。そこへ彼女がはいってきて、自分の前に坐った、といっとったが、これはまさにその通りだったろうな。グレンダの顔が赤く上気して、目が輝いておったそうだ。それからコートの袖を腕まくりして、おもむろにモルヒネのアリバイにとりかかりだしたのを、マクドネルは放心して見ていたというとった。『ねえ、あたし一つ手違いをしたらしい。殺したことは確かだけど……』そういって、彼女、にっこり笑ったそうだ。
マクドネルが台所からとびだしたときに、ほとんど気が狂ったようだったのも、考えてみれば、むりなかったわけだ。片手にトランプをつかんで、気違いみたいになった、あんな人間の姿は見たことがなかったと、マスターズもいってるくらいだ。
あとは、みんなもだいたい知ってると思うが、ただ疑問におもう点は、テッドが果たしてどういったろうかさ。みんなも知ってる通り、かれは多くを語らず、けっきょくあれは幽霊殺人だといって、君にかみついておったね。ありきたりの銃殺なんかより、嘘にしても幽霊殺人のほうが、世間の聞こえがいいという考えに、かれはとらわれていたんだろう。とにかく、死因については、テッドはしまいまで迷っていたな。ひとつは君たちがこぞって、ダーワースは短剣で殺されたと確認したからにもよるぜ。その証拠には、君に最初に質問したかれの言葉は何だったね? 『ルイズ・プレージの短剣か? 何ですか?』というんだったろう? それっきりかれは黙否してしまって、最後に幽霊殺人説を持ちだしたんだったよ。
ところで、これからあとのことは、これはもう永久に想像の域を出ないだろうな。だって、テッドをブリクストンに誘い出したいきさつを知ってるはずの二人の人物は、二人とも死んでしまったんだからね。……一方、グレンダは、もちろん大至急でことの始末をしなければならなかった。あの刻々に気の変わりやすいテッドのことだから、どうまた風向きが変わって、しゃべる気にならないとも限らない。『ジョゼフ』がこれこれだったと、ひと言でももらされたら、それでもうこっちはお手あげだ。そこで彼女は、いざとなればテッドの家まで行って、じかに口止めをする覚悟で、マスターズに家へ帰してもらうように頼んだ。モルヒネを多量に打ったので、眠くてたまらないからといってね。だが、彼女は自宅へは帰らなかった。
で、このとき、彼女の頭に、一世一代の名案が浮かんだ。これはもう先刻ご存じのはずだが、つまり、『ジョゼフ』をそろそろもうここらで消そうという考えだ。それには、『ジョゼフ』が殺害されたことにしたら、どんなものだろう? しかし、それよりも彼女にとって急務なのは、テッドを早く始末することだ。何とか一時口止めの策を考えて、早いとこ『マグノリア荘』までおびきだそう。
そこでグレンダは、テッドの帰宅を待ち伏せした。おそらく、黒死荘の近くだったろうが、ところがここに困ったことができたというのは、テッドは二人目に尋問を受けたくせに、すぐに家へ引きあげずに、ほかの連中が帰るまで待つということになったので、途中の待ち伏せはだめになってしまった。
そころが、遅くなったおかげで、グレンダは、君たちが台所にねばっていた間に、さらに考えを練って、例の短剣をもういちど盗む機会をつかんだわけだ。
そんなこんなのうちに、テッドはひと足先に腹を立てて帰ってしまった。グレンダはちょっと出し抜かれた形になったが、それでも彼女はへこたれなかった。ここがどうも、あの女の、何ともはや、驚くべきところなんだな。自分が『ジョゼフ』として何度か行ったことのある、テッドの住居へ押しかけていってさ、あらんかぎりの機知と工夫の力をしぼって、テッドが自室に一人でいるところをつかまえ、相手が精神もうろうとして理性を失っているところにつけこんで、とうとうその翌日、自分と会うというところまで話をこぎつけたんだから、えらいもんだよ。かりに彼女がぐずぐずしていて、相手が翌朝まで自分で感づかずにいたら、そりゃあるいは、おとなしく黙っていることにしたほうがいいと相手も考えたかもしれないが、警察はテッドを臭いと見ているんだしね、その嫌疑の圧力でギューギュー押されたら、何をしゃべるかわかったものじゃないよ。おそらく自分で反省がつけば、自分の知ってることをテッドはしゃべったろうからな」
「グレンダはテッドに、どんなことをいったんでしょうな?」とハリデーが尋ねた。
「それは神のみぞ知るだね。しかし、姉に置いていった置き手紙に、『調査することあり』と書いておるところから見ると、どうやら『ジョゼフ』が、あれは幽霊殺人ではない、その証拠は『マグノリア荘』へくれば見せてやる、とでもいったんじゃないのかな。『あなたは疑ったことがないんでしょう?』といったのは、『ジョゼフ』が客間にいた連中のなかの一人を犯人に挙げて、テッドにそういった言葉だったんだろうさ。そして、裏口で運わるくテッドに見られたあのときは、ちょうど自分がダーワースを助けに行ったときだったのだといって、そこはうまくいったろうが、けっきょくダーワースは斬り殺されていたんだから、明らかに犯行の場所にいなかった『ジョゼフ』は『白』のわけでね、その点テッドをいいくるめるのは、わけないことだったろうよ。『ピストル? 何をおっしゃるのよ! あなたの目はどうかしてるわね。あたしは先生が殺されるところを、見てたのよ。犯人は誰だと思って?』グレンダが挙げた犯人は、ベニング夫人だろうとおれは思うね。『あたし、窓のそばにいて、すっかり見ちゃったんだから』――どうも、ジョゼフとグレンダの話は、男と女がこんがらかって、ややこしいな。まあ、かんべんしてくれ。
えーと、何をいってたのかな? ああ、そうか。それでね、むろんテッドを消すについては、慎重に考慮したにちがいないよ。なぜといって、テッドの失踪が、マグノリア荘に関係があるとわかっちゃ、こりゃまずいものな。怪しい焼死体が、人相も判別つかなくなって炉のなかから発見されたり、テッドがその付近をうろついていたという証拠が出てきたりすれば、疑い深い人たちは、『おい、どうだね、炉のなかの死体は、ありゃほんとにジョゼフの死体かね?』というだろうからな。
ここでまたおれは、彼女礼讃のために脱帽しなきゃならんよ。じつに抜け目のない女だな、あれは。あわてず騒がず、テッドをブリクストンまでおびきだして、こっそりと料理したんだからね。ラティマー家の内情に通じているところから巧みににせの失踪を捏造《ねつぞう》して、テッドがスコットランドへ逃亡したように匂わせたなんぞは、じつに憎いくらいあざやかなお手並みだよ。スコットランドには、ちっと頭へきているテッドの母親がいる。この母親が、テッドはこちらへは来ない、べつに当方でかくまってもいないといえば、警察では十中八九まで、おふくろのやつ、嘘をいってるなと思うにきまっている。では、その目的は何かというと、死体が発見されて、それがジョゼフと確認されるまで、マグノリア荘から嫌疑を封じておこうという魂胆なのさ。警察では、テッドが高飛びをしたということになれば、じゃ彼奴《あいつ》が犯人だということになって、奴を狩りだしにくいからね。
そこで、どこかユーストンの駅の近くでないところから、にせの声でにせ電話をかけた。このにせ電話で、最初から、エジンバラへ行くといってしまうと、相手が先方へ行かなかったことがすぐにばれてしまうから、それで、ただ「調査に行く」とぼかしておいたのにちがいない。ところが、皮肉なことには、マクドネルがここでもまた一役買っているんだな。奴はテッドのおふくろのところへ電報を打った。おふくろからは折り返しマリオンのところへ返電がきて、テッドは当地にはいない、来たらとめておく、といってきた。
その日、午後の五時に、グレンダはいよいよ計画遂行の準備ができた。テッドはそのときはすでに、家のなかの目立たぬ裏のほうへ入れてある。スウィーニー夫人は、ちょうど出かけて留守だ。……」
「ちょっとうかがいますがね」とわたしは口をはさんだ。「スウィーニー夫人は、この事件にはどういう関係があるんですか? 事件の進行を知っていたんですか?」
H・Mは下唇をつまんで、
「あの女は、知らんというだろうね。それはこういうわけだ。ダーワースがあの女のところへ『ジョゼフ』をつれてきたというのは、これが嘘でも何もない事実だ。スウィーニー夫人というのは、むかし霊媒をやっていた女でな。マスターズの調べたところによると、前にいちど刑務所行きになるところを、ダーワースに助けてもらったことがあるんだな。それ以来、ちょうどグレンダがダーワースの尻を押さえているのと同じ格で、ダーワースには頭が上がらんわけだ。ダーワースのほうでは、ブリクストンのあの家を隠れ家にしておきたい。そんなわけで、ジョゼフと二人で、スウィーニー夫人にさんざんおどしをかけたわけだな。初めのうちは、『ジョゼフ』を男の子だといって、うまくごまかしていたんだろうが、四年も一つ家に住んでいりゃ、そうそうごまかしきれるもんじゃない。そろそろ夫人が感づいてきたらしいのを見て、グレンダはいったそうだ。『おばさん、おまえさんだって、たたけばほこりの出る体だろう。うちのダーワース先生がひとこといえば、おまえさんは刑務所送りだよ。おまえさん何を見たかしらないけどね、そんなことは、見て見ないふりをしてればいいじゃないか。ねえ、わかったわね?』――おれも当人の口から聞かなきゃ、真相はわからなかったろうよ。グレンダはもう死んじまったしさ。……むろん、ダーワースも、ブリクストンのあの家には、留守番かたがた誰か一人、自分の威令のきく、飼い殺しの人間がいてほしかったわけだが、それにはスウィーニー夫人は、それこそもってこいの家政婦だったわけさ」
「すると、グレンダがテッドを殺して、自分の身代わりにしたことも、彼女は知ってるんでしょうかね?」
「そりゃ知ってたさ。知ってなきゃ、自分から進んで、われわれに話すわけがないさ。ほら、憶えてるだろう、あの女が『あたし、こわいんです!』といっとったのを。その通りだったんだ。グレンダはね、テッドを片づけたあと、いちんち家をあけて留守だったスウィーニー夫人が帰ってくるのを待っていて、これも殺《ば》らしてしまう計画だったんだぜ。驚いたもんじゃないか。ところが、あいにく、人足に窓からのぞきこまれたんで、さすがの彼女も、すっかりおびえ上がってしまったし、スウィーニー夫人も、帰ってきたのは六時過ぎだったんで、命拾いをしたわけだ」
議事堂の大時計が、物音の絶えた街に、大きな音で四時を打った。H・Mは、冷たくなった飲みのこりのポンチと、火の消えたパイプとを、未練たらしく見くらべていたが、しんしんと肌寒い部屋のなかの空気に、ちょっと身ぶるいをすると、フラフラ立ち上がって暖炉の前へ行って、中の火に見入った。
「いやあ、疲れたなあ。この分じゃ、一週間ぶっつづけに眠れるぞ。ま、これで全部話したと思うが……さっきおれはあの石室で、ちょいとした余興をごらんにいれたろう。あれはね、おれの友人で、通称『ちびさん』といってる人に手伝ってもらったんだが、この男は今じゃ堅気な暮らしをしてるが、昔は射撃の名人でね、あの黒死荘の枯木ぐらいよじ登るのは、朝飯前というくらい身の軽い男なんだ。それが万端やってくれたんだがね。その男がひと足さきに行って、あすこの台所の床下から、グレンダの使ったピストルと防音器を見つけてくれてね。見つからなけりゃ、別のを使うつもりではいたけど。……で、十一時ちょっと過ぎに、マスターズと部下の一行が、何もいわずにグレンダを黒死荘へ連行してきた。グレンダもいやというわけにはいかないんで、大手をふってやってきたよ。すぐと客間へ連れこんで、マスターズが床下から出てきたピストルを、黙って出して見せた。グレンダは何もいわない。マスターズも無言だ。それから、護衛つきで裏庭へ連れ出した。『ちびさん』がピストルをマスターズから受け取って、グレンダの見ている前で、石室の屋根へよじ登っていった。……
『ちびさん』が屋根から、犯人が撃った通りに弾を撃ちこんだときに、あの女はどんな思いがしたかさ。彼女がそこで何をしたかは、君たちも知ってるな。警察の奴らはばかだから、前もって身体検査をしておかなかった。それをしておけば、怪我人を出さなくてもすんだんだよ」
煙草のけむりが、灯火のまわりによどんだように漂っていた。わたしはいいようのない疲れをおぼえた。
「そうだ、まだうかがわないけど」とハリデーが遠慮のない声でいった。「それでマクドネルはいったいどうなったんですか? 無罪、なんてことはないでしょう? 奴はグレンダと同罪ですよ。……ねえ、まさか逃がしてやったわけじゃないでしょう?」
H・Mは、消えかけた暖炉の火をじっと見おろしていたが、そのとき背中をグイとねじると、怪訝《けげん》そうな目をしばたたきながら、みんなの顔を見まわした。
「逃がしてやったと? ふん、汝《わり》ゃ何にも知らねえな?」
「何をです?」
「むろん、逃がしはせんさ」H・Mは沈んだ声でいった。「われわれはあの不吉な裏庭には、そんなに長くはいなかったはずだが、……君は見なかったんだな。……
逃がしたなんて、とんでもないぜ。おれはな、マクドネルの部屋にいたときに、こういってやったんだ。――『さあ、もうおいとましましょう。ときに、君は職務用のピストルを持ってるだろうな?』というと、『はあ、持っております』というから、『そうか。じゃ、おいとまするが、おれはね、君がうまくいけば刑をのがれられると思っているんだったら、こんな忠告はせんよ。わかるな』といってやると、『いろいろ、ありがとうございました』と奴は礼をいうとった」
「自決しろとおっしゃったんですね?」
「おれは奴がそうすると思っていたんだ、そのときの様子ではな。それから、いってやった。『今おれにいったことは、出るとこへ出たら君はいえんだろう? 隠しているように見られるぞ』といってやると、かれもうなずいていた。
ところが、グレンダという女は、じつにたいした女だよ。あのばか者が何をしたと思う? 奴はグレンダ逮捕の仲間に参加しやがったよ。もっともマスターズに聞いたら、女に言葉をかけるほど近くには近寄れなかったそうだがね。マスターズもそのときは、まだ奴のことは何にも知らなかったんだから。われわれもあのとき、警官隊といっしょに庭へ出たが、君たちは、あのときの銃声の意味がわからなかったろう? 『ちびさん』が皮切りの実演をすると同時に、警察の連中が裏庭へドッと出た。そのとき、マクドネルがピストルをかまえて前に出て、いった。『グレンダ、横町の角にタクシーが待たしてある。それへ乗って逃げろ。こっちはおれが引き受けた!』なんてばかな奴だろう! 野郎、冷然と見得をきって、捕手《とりて》の連中に筒先を向けやがった……」
「と、あのときの二発は、マクドネルが撃ったんですね?」
「いや、そうじゃないんだ。グレンダは奴のことをじっと見ていたが、警官の目をうまくごまかしていた自分の銃をとりだすと、マクドネルに『ありがとう!』といいながら、奴の頭へ二発|撃《ぶ》ちこんでおいて逃げだした。
あの女も、考えてみりゃ、おあつらえの場所で死んだのさ。ルイズ・プレージといっしょに、二人とも、あすこが死に場所だったのさ」(完)
解説
ジョン・ディクスン・カー John Dickson Carr は、一九〇六年にアメリカ、ペンシルヴェニア州のユニオンタウンに生まれた。彼の少年時代の憧れは、だれもがそうであるように、シャーロック・ホームズであり、ダルタニャンだった。だが大学へ進んだ際には、法律を選び、ペンシルヴェニア州のハヴァフォード・カレッジを卒業したのが一九二八年であった。
学窓を出た彼の志は早くも文学に向けられていた。パリに遊学しても、法律の勉強はほとんどはかどらず、文学青年らしい毎日を過ごしていた。ミステリーや歴史的ロマンを書いたが、自信作ができなくて破って棄てたり、また発表される機会があっても反響がなかった。
そこでまたニューヨークに舞いもどり、ホテルで完成したのが「夜歩く」だった。これを知人のいた出版社ハーパー社に持ち込んだ。編集長は作家としての力量を認め、刊行することにきめた。新聞に一ページ広告を載せて、大宣伝するほど熱を入れた。当時の推理小説は初版五千部が普通だったのに、この作品はたちまち五万部売れたほどの評判で、一躍推理作家として知られるようになった。それが一九三〇年、二十四歳のときであった。
同じ年にヴァン・ダインは五作目の「甲虫殺人事件」を、クイーンは二作目の「フランス白粉の謎」を刊行している。またクロフツは「マギル卿最後の旅」を、ビガースは「チャーリーチャンの活躍」を、ハメットは「マルタの鷹」を発表した。本格物ではヴァン・ダインの出現によって気勢が大いにあがり、さらにこれからクイーンが飛躍しようとしていた時期である。しかも一方ではハード・ボイルド派が、ようやく地歩を固めようとしていたのである。
カーは海外旅行の途中、イギリス女性と知りあって結婚した。新家庭がイギリスに築かれたのは、ドイルやチェスタートンを生んだ国に惹かれたからで、とうとう十七年間過ごす結果になった。アメリカにしばらく住んでいた時期もあるが、再びイギリスに帰ったところから見ても、そちらのほうが性にあっていたのであろうか。
第二次大戦中、彼の住居はなんども爆弾に見舞われたが、その都度奇蹟的に助かった。生活条件が極度に悪化したので、一九四八年には家族もろともアメリカに移り、推理作家クラブの会長に推された。だが六、七年もたつと再びロンドンに帰り住んだ。
彼はジョン・ディクスン・カーの本名の他に、カー・ディクスンやカーター・ディクスンの筆名を用いた。彼が創造した探偵も、ディクスン・カー名義のものにはフェル博士、カーター・ディクスン名義にはH・Mすなわちヘンリー・メリヴェール卿がだいたい使い分けられている。ただカー名義の処女作「夜歩く」から第四作までは、パリの名探偵バンコランを起用しているが、それらはパリ遊学の思い出の濃かったころで、舞台もパリであった。
カーは四十年間に六十編余という長編を発表しているから、海外では異例の多作家であった。しかも本格物の真骨頂を極めた伝統主義者であった。
長い年月にわたっての創作活動にまったく変化がなかったわけではない。初期はオカルティズムないし怪奇趣味に依存する度合いが強かったが、次第に普通の純粋推理物に移り、後年は青年時代からの興味を抱いていた歴史・考証と推理との融合に強い関心をそそられるようになった。そういう作風の変遷は見られるにしても、カーは一貫して本格的な謎解きに執念を持続させてきた。
彼の登場してからの四十年間に、推理小説の様相は多彩な変化を示した。論理を主軸とする本格物も、クリスティ、クイーンらは健在であっても、新作家が輩出するというわけではなかった。心理的な社会的な装いをこらした新本格派の潮流も、強烈な個性に恵まれなかった。ハード・ボイルド派作家こそ、その意味では個性があったが、チャンドラー、ロス・マクドナルドを除けば、軽妙な社会風俗の描写と活劇に堕しかねなかった。心理派、サスペンス派も局面の打開を試みるには有力であったが、推理小説の主流を占めるには至らなかった。
やはりその点では、謎解きという土性骨を具えた作品に強味があった。ただそれが千遍一律の繰り返しに終わったのでは、絶えず新鮮な驚きを求めてやまない読者を満足させるはずがない。
カーはその骨格を装飾するのに、怪奇性を強調した。ことにオカルティズムの絢爛たる色あいで染めたがった。処女作の「夜歩く」で狼憑きの恐怖を扱って以来、「絞首台の謎」のギロチン趣味、「蝋人形館の殺人」の蝋人形、「毒のたわむれ」のローマ皇帝カリグラの像、「魔女の隠れ家」の牢獄長官の家に伝わる奇妙な相続の儀式と伝説、「帽子収集狂事件」のロンドン塔、「弓弦荘殺人事件」の甲冑怪談、「剣の八」のタロット・カード、「黒死荘」の降霊術、「三つの棺」の吸血鬼伝説と黒い魔術、「赤後家の殺人」の絞首刑吏、「一角獣の怪」の怪獣伝説、「火刑法廷」の不死の人間、「パンチとジュディ」のテレパシー、「孔雀の羽」の神秘宗教儀式、「曲った蝶番」の自動人形、「死人を起す」の鉄の処女、「読者よ欺かるるなかれ」の遠隔霊能力など、神秘怪奇に倦きもせず取り組んだのである。
カーこそは謎解きの妙味を骨の髄まで心得ている作家である。謎はとうてい解決不可能だと読者に信じこませれば、それだけあざやかに解決したときの感銘は深い。それを十分承知しているからこそ、彼は思いきり大胆な謎を提出するのである。カーは謎の提出にも、自分の趣味や好みを極端に押し出す。あるいは登場人物の言動をこれまた極度に誇張する。この度を越した試みがしっくりしない場合は、ただ作者だけがりきみかえった失敗作になるが、バランスがとれていると、体臭の強い作品となって、極めて印象的である。
そういう作風の代表作の一つが「黒死荘殺人事件」で、カーター・ディクスン名義の第二作である。ロンドン博物館の中に、死刑囚監房の原寸模型がある。そこに飾られてあった死刑執行人の短刀が盗まれたのが事件の前奏曲であった。この死刑執行人は十八世紀初頭の黒死病流行の時期に、恨みをのこして死ぬが、その怨念は復讐を予言する。その因縁つきの家が「黒死荘」と呼ばれている。そこが心霊実験の舞台であり、不可解な殺人現場ともなるのだから、けばけばしい装飾だくさんの事件といえよう。
建物の由緒を語るにしても、当時の書簡の写しを持ちだしてくる。荒れ果てた部屋の不確かな蝋燭の光の下で綿々と語られるおぞましい物語は、怪奇性、不気味さを盛り上げるうえで効果満点である。
そういう場所を選んでの心霊実験が惨劇におわるわけだが、それがまた神秘性を濃厚にするにはうってつけだ。環境といい、雰囲気といい、亡霊や悪鬼のしわざとしか考えられないような事件だが、こういう不可思議な謎を提出して合理的に解こうとするのが、カーの常套手段である。
カーは怪奇性をおびた事件の解決役に、本編のH・M卿だとか、フェル博士といった戯画化した人物を配して、息苦しい空気を和らげようとしている。H・M卿は、ホームズの無精な兄の名を借りてマイクロフトのあだ名で呼ばれる型破りな人物である。この愛すべき卿の風格のおかげで、事件の陰惨な空気が、からりと吹き払われる。緩急よろしきをえた技法はたしかに心憎いものがある。(中島河太郎)
◆黒死荘殺人事件◆
ジョン・ディクスン・カー/平井圭一訳
二〇〇七年三月五日