ジョン・ディクスン・カー/宇野利泰訳
皇帝の嗅ぎ煙草入れ
目 次
皇帝の嗅ぎ煙草入れ
解説
イーヴ・ニールとネッド・アトウッドの離婚訴訟は、問題となるほどの争点もないままに終結した。提訴の理由は、夫ネッドがある有名な女流テニス選手と不貞を犯したことにあったが、それすら、イーヴが心配したほどのスキャンダルにならずにすんだ。
その理由の一つは、二人の結婚がパリのジョルジュ五世街にあるアメリカ教会で行なわれたことから、パリで離婚手続きをとるだけで、イギリスでも法的に有効と認められたところにある。もちろんイギリスの新聞にも報道されたが、それも一行か二行の記事で終った。イーヴとネッドは、その結婚生活のあいだ、ラ・バンドレットの町で暮らしていた。ラ・バンドレットとは『細紐《ほそひも》』の意味で、イギリス海峡に面して銀色の砂浜が細紐のようにつづき、おそらく、平和だった、よき時代のフランスでは、社交人士のもっとも集まる海水浴場であった。したがって、ロンドンの社交界とも多少のつながりはあって、そこかしこで話題の種となったことはいなめないが、とにかくこの事件は、片づいたように思われていた。
しかし、イーヴにとって、離婚訴訟を提起する仕儀《しぎ》に立ちいたったのは、その被告となるよりも、自尊心の傷つく問題であった。
そのような考え方が病的であるのはいうまでもない。だがこれも、離婚問題で神経を磨《す》り減らしたことの結果で、元来は楽天的な性格の彼女が、ヒステリー患者になりかねない状態であったのだ。そして、それからの彼女は、彼女の不幸な美貌に対する世間の判決と闘わなければならなかった。
一人の女がいった。「ネッド・アトウッドみたいな男と結婚したら、この程度の女出入りは覚悟していていいのじゃなくて?」
もう一人の女が答えた。「さあ、どうかしら? 片方ばかり責めるのはどうかと思うわ。彼女の写真をごらんになって? ネッドに負けないことをしているみたいよ!」
当時のイーヴは二十八だった。十九の齢《とし》に父親が死亡して、ランカシャーにあるいくつかの紡績工場その他の資産と、その父親の娘である大きな誇りを相続した。二十五のとき、ネッド・アトウッドと結婚したのだが、その理由は、(a)ネッドが美貌であったこと、(b)彼女が身内もなくて、孤独をかこっていたこと、(c)彼がまったく真剣に、この申し込みを拒絶されたら自殺するとおどかしたことにあった。
お人好しというにちかい善良な性格で、他人を疑うことを知らぬ彼女であったのに、世間からは、つねに男性に泣きをみせる冷酷非情な美人と見られていた。ほっそりとした、からだつきだが、見かけよりは長身で、妖女キルケーを思わせるものがあった。頭髪は明かるい栗色。ゆたかで長いその髪を、エドワード朝スタイルに似た結い方に結っていた。血色のいい白い肌、グレイの目に半ば、ほほえんだ口もとが、妖女めいた印象をさらに強めていた。とくにフランス人はその効果を意識するとみえて、彼女の離婚訴訟を扱った判事でさえ、これは現代に出現した魔女でないかと、ちらっとではあるが、考えたくらいだった。
フランスの法律では、離婚判決を下すに先立って、当事者双方に、判事を除く他人をまじえず、二人きりで話しあう機会をあたえるのが条件となっている。ヴェルサイユの判事室でのことを、イーヴは忘れることができなかった。それはパリに春が訪れたのを知らせる魔力のあふれる温暖な四月の朝であった。
頬ひげなど生やして、見るからに世話やきらしい判事は、実際に真剣だったが、残念ながら、その行動が、ひどく芝居がかったものに見えていた。
「奥さん!」と、判事はいった。「それにご主人! わたしは心からお勧めしますぞ! 判決が下ってしまってからでは、どうなるものでない。もう一度、考えなおしてみたらどうです?」
ネッド・アトウッドはというと……
ネッドは、いとも殊勝な顔つきをして、陽光の輝くその部屋に、誰もが知っている魅力をいやがうえにも発散していた。それはいまのイーヴでさえ、意識しないではいられないものだけのものがあって、二日酔いの気味であることも、いささかそれを傷つけるところがない。後悔のおもいに責められている表情をはっきりとあらわして、その効果に自信を持っているらしい。明かるい色の髪にブルーの眸《ひとみ》。すでに三十代の半ばをすぎているが、永遠の若さを見せて窓ぎわに立ち、判事の言葉を神妙に聞いている。イーヴはそれを見るまでもなく、ネッドが誰の心をも惹《ひ》きつけずにおかぬ美貌の持主であり、彼のひき起こす数多くのトラブルは、すべてこの魅力のなせるわざと承知していた。
判事がまたもしゃべりだした。「結婚生活についてのわたしの考えを、参考までにお聞かせしましょうかな」
「いいえ、それにはおよびません」と、イーヴがさえぎった。「おやめになって!」
「では、やめますが、わたしとしては、お二人がもう一度考えなおされて……」
「ぼくは考えなおす必要なんかありません」ネッドが少し甲高い声でいった。「始めから離婚など思ってもいなかったんです」
小柄な判事はふり返って、頭から押さえつけるように、
「ご主人はおだまりなさい! この原因をつくったのはあなたですぞ! 奥さんのゆるしを乞う立場にあられる!」
「わかっていますよ。謝ってすむのなら、いくらでも謝ります」ネッドはすかさず答えた。「ひざまずいて、ゆるしを乞いたい気持でいるんです」
そして彼は、イーヴに近づいていった。判事は、あごひげをなでながら、これで事態が好転してくれるかと、明かるい表情でながめていた。ネッドは魅力たっぷりである。そしてまた、鋭い頭を持っている。イーヴは一瞬、はたして彼からはなれることができるだろうかと疑った。
判事は内々、ノートをぬすみ見て、「この訴訟の共同被告である婦人――」と、もう一度ノートをあらためて、
「バールミーア・スミスというひとは……」
「イーヴ、彼女はぼくにとって、何でもないんだぜ。誓っていえるんだ! 会いたいとも思っていないのだ!」
イーヴは聞きたくもないといった表情でいった。
「その問題は、さんざん話しあったはずよ。もうやめましょう」
しかし、ネッドはつづけた。「ベッツィー・パルマー・スミスは評判のひきずり女だ。どうしてあんなことをしてしまったか、ぼくは自分で、自分の気持がわからない。もし、君があの女のことを嫉《や》いているんなら……」
「嫉くわけがないわ。でも、この事件の腹いせに、あのひとの腕に煙草の火を押しつけたいのなら、どうぞご自由に。喜ぶかもしれないわ」
お手あげだといった表情が、ネッドの顔に浮かんだ。なんと弁解しても理解してもらえない少年のそれだ。
「あれはぼくの過失さ。いつまでも根に持つほどのことでないじゃないか」
「根になんか持っていませんわ。もう、すんだことにしたいの。お願いよ、ネッド。何もいわないでほしいわ!」
「ぼくは酔っていたんだ。何をしているか、わからなかったんだ」
「ネッド、その話はやめにして。いまさら議論しても始まらないわ。わたし、いったはずよ。あんなことを問題にしているのじゃないって」
「だったら、なぜ、こうまでぼくを責めるのだ?」
彼女は、大きなインクスタンドを載せたテーブルのわきに腰かけていた。ネッドが彼女の手の上に、手を重ねた。二人の会話は、小柄な判事には理解できない英語でつづいていた。判事は咳《せき》ばらいをして、横を向き、書棚の上にかけてある絵に、気をとられている格好を示し始めた。イーヴは急に、彼女の手をつかんでいるネッドの手が気になりだした。その手の力が、彼女を意志に反して、彼のもとにひきもどしてしまうのではないかと。
ある意味では、ネッドのいうところに嘘はなかった。これだけの魅力と如才なさをそなえながら、その一方では、彼自身は意識していないにしても、少年の持つ残忍性を払拭しきれずにいた。
それはもちろん精神上の残忍性で、半ば興味本位のものといってよい。イーヴはこれを、子供にありがちな偽悪者ぶりにすぎないと、無視する態度をとっていたが、離婚の理由としてじゅうぶんなものがないわけではなかった。しかし、不貞の事実を訴因にしたほうが、より早く訴訟が片づくし、決定的でもあった。そこで、訴因はそれだけにとどめておいたが、彼女の観測どおりに、ことが運んでくれた。いずれにせよ、ネッドとの夫婦生活におけるいくつかの事柄を、法廷で公《おおや》けにするくらいなら、死んだほうがましといった気持がイーヴにあったのである。
書棚の上の絵に話しかけるような口調で、判事がいった。「男と女にとって、結婚生活は唯一の幸福の場といえるんですがな」
その言葉をネッドがひきとって、「イーヴ、もう一度ぼくに、夫となるチャンスをあたえてくれないか」
イーヴは、あるパーティで、心理学者にいわれたことがある。他人の言葉に影響されやすく、暗示の力にわけなく動かされる性格だというのだ。しかし、この離婚訴訟に関しては、まったく心の動揺を感じなくてすんだいま、ネッドの手が触れているにしても、彼女の意志は微動もしないで、むしろ、わずかながら、反撥さえ感じていた。ネッドが彼なりの方法で彼女を愛していることはたしかであった。だから彼女の心情は、このわずらわしさから逃《のが》れるために、イエスといってしまおうかと思った。しかし、この肝心なときに弱気を出して、イエスとひと言いえば、またもネッドのもとに、ネッドの生き方に、ネッドの友人たちに、そして、汚れた下着を身につけている気持を味わいつづける生活に立ち帰ることになる。それは彼女の意志が許さない。イーヴは判事の頬ひげを見て、笑いだしてよいのか、泣きくずれてよいのか、判断のつかぬ気持で、
「わたし、先に帰らしていただきますわ」と、立ちあがった。
判事は希望の曙光《しょこう》を見出して、
「すると奥さん、考えなおしていただけますかな?」
「そうじゃないんで」ネッドが代わって答えた。「話しあいはいっこうに進行していませんよ」
彼女はその瞬間、ネッドがここで、いつか癇癪《かんしゃく》をおこしたときのように、手もとにある何かをたたきつけ、打ち砕くのではないかと思った。しかし、いまの彼に、そのような気配はなかった。ズボンのポケットの小銭をじゃらじゃらいわせて、自信満々の目で彼女をみつめている。口をほころばせ、力強い歯をのぞかせて、目尻に微笑のしわをたたんでいるのだ。
「いまだって君は、ぼくを愛しているんだ。それは君自身が知っている」心からそれを信じている様子で、懐疑を知らぬ単純さでしゃべっている。
イーヴはテーブルからハンドバッグをとりあげた。
「ぼくはそれを証明してみせることができる」と、つけ加え、イーヴの表情をうかがって、笑顔をいっそう、はっきりしたものにした。
「ただし、いまここでというわけではない。君には、頭を冷やす時間が必要だ。ウォーミング・アップの時間といってもよい。ぼくは少しのあいだ、この土地をはなれる。しかし、帰ってきたときは……」
そうはいったが、彼は帰ってこなかった。
世間の噂を気にしながらも、近隣の人々にはあえて挑戦する覚悟をきめて、イーヴはラ・バンドレットの町にそのまま腰を据えた。そして事実、彼女は気にする必要がなかったのだ。アンジェ街のミラマール荘に起きた出来事など、誰も心にとめていなかった。ラ・バンドレットのような海水浴場は、シーズンといっても、わずかの期間で、イギリス人とアメリカ人が、カジノで持ち金を捨てにくるだけのこと――いわば好奇心の真空状態が支配していた。イーヴ・ニールはアンジェ街に知人を持たず、その街の住人たちも彼女を知らなかった。
春が深まって、夏が近づくと、ラ・バンドレットには避暑客の群れが集まってくる。異様な形の破風作りで、ペンキを塗った家々は、ウォルト・ディズニーの映画に出てくる町に似ていた。空気に芳ばしい松の香がただよい、道はばの広い通りを無蓋馬車がひずめの音を立て、鈴を鳴らして走りすぎる。カジノの近くに、大きなホテルが二軒あった。ドンジョン・ホテルとブリタニー・ホテルがそれで、どちらも華やかな色の日除けを張り出して、ゴシックまがいの尖塔を空にそびえさせていた。
イーヴは、カジノとバーからは遠ざかっていた。ネッドとの生活に神経を磨り減らし、その後の生活が倦怠感をもちきたし、この二つが結びつくと、危険な状態の生じるおそれがある。孤独を痛感したが、人づきあいはいやだった。ときどき、ゴルフ場へ足を運んだが、リンクに誰もいない早朝にきめて、あるいは、海に近い砂丘の灌木のあいだに、馬を乗りまわすことで、うさを晴らした。
そしてそのようなときに、トビー・ローズに始めて会った。
ローズ家の人々も、やはりアンジェ街の住人で、しかもその家は、彼女のミラマール荘の真正面にあった。そこは道はばのせまい短い通りで、塀をめぐらした庭のなかに、白とピンクの石造家屋が並んでいた。道路が不愉快なほどせまいので、向こう側の建物の窓のなかがはっきりと見てとれる。それは同時に、向こう側からも見られているわけで、不愉快な理由はそこにあった。
ネッドといっしょに生活していた当時、イーヴはこの一家の人々と顔を合わせることが何回かあった。かなりの齢《とし》の老人がいて――あとになって、トビーの父親のモーリス・ローズ卿とわかったのだが――一、二度、奇妙に当惑したような顔つきで、こちらをじっと見ていることがあった。この老人の、親切と峻厳さの同居しているようなところが、イーヴの記憶に強い痕《あと》を残していた。ほかに、赤毛の若い女性と元気のよい老婦人を見知っていたが、トビーそのものとは、ゴルフ・コースで顔をあわせたのが始めてだった。
それは六月半ばにちかい、暑くて静かな朝だった。ラ・バンドレットの町では、目をさましていない人たちも少ない時刻。ゴルフ場のティも、朝露をきらめかせている緑のフェアウェイも、海をさえぎっている松の木のつらなりも、すべて静寂と暑熱のなかに沈んでいた。イーヴは第三のグリーンへのアプローチを仕損じて、サンド・トラップに打ち込んでしまった。
眠れない夜をすごして、いらだちを感じていたこともあって、ゴルフ・バッグを肩からはずして、その場へ投げ出した。ゲームをつづける気持もなくなって、彼女はサンド・トラップの緑に坐りこみ、ポジションをみつめた。そして、まだその姿勢でいるあいだにロングのブラッシー・ショットがフェアウェイを飛んできて、左にそれ、バンカーの上の草に、音を立てて落下した。それはバンカーのはしを越えて、彼女のボールから三フィートとはなれていない砂地へ転がってきた。
「いやあね!」イーヴは大きな声でいった。
一分か二分のうちに、バンカーの向こう側を若い男が登ってきて、青い空を背にして立ち、彼女を見下ろした。
「やあ、失礼しました」彼はいった。「あなたがいらっしゃるとは、ちっとも知らなかったもので」
「いいのよ、気になさらなくて」
「追い越すつもりがあったわけでないのですが――当然、声をかけるべきでしたな。ぼくは……」
いいながら、二ダースからのクラブがはいっている重いバッグを肩からはずして、砂地へ降りてきた。強健そうな体格で、質実すぎて固苦しささえ感じられる青年だが、イーヴがここしばらく見たこともないような明かるい表情を示していた。ゆたかな茶色の頭髪を短く刈り上げて、小さな口ひげがどこか世間通といった感じをあたえるが、それがまた、高尚ぶって、まじめくさった態度と矛盾している。
彼はつっ立ったまま、イーヴを見下ろした。冷静なところを見せようとしているらしいが、顔が赤くなっているのをかくしようがない。押さえようと努めれば努めるほど、いよいよ赤くなってくる。
「お顔は以前から存じあげておりますよ」彼は、はっきりといった。
「あら、そうでしたの?」イーヴはその朝の彼女の顔色が冴えないのを意識していた。
つづいてトビー・ローズは、本来の彼の外交的手腕では数ヵ月を必要とするところだが、その単刀直入の質問で、いっきょに親密さを獲得してしまった。
「ご主人との問題は片づきましたか?」
それから二人は、いっしょにコースをまわった。そして、その日の午後には、トビー・ローズが家族の者に、すばらしい女性と近づきになったと語っていた。この女性は豚みたいな男と結婚したが、誰もが嘆賞せずにはいられぬような方法で、この不幸を解決したというのだった。
それが事実であるのは疑いないが、しかし、このような発表が、一般的にいって、若い男の家族のあいだで歓迎されるものでないのも、たしかである。
世間がどういうものであるかを知っていると自認するイーヴに、この話がローズ一家にあたえる反響を想像できないわけがない。夕食の席での家族たちの態度が目に見えてくる。無表情な顔、思慮ありげな咳ばらいと目の動き。「そういうものかね、トビー?」と何気ない調子でいうのにつづいて、そのようなご立派なご婦人と、わたしたちもお近づきになってみたいよ、とのいやみな言葉がとび出してくる。とりわけ、家族のうちの女のメンバーであるローズ夫人とトビーの妹のジャニスが、上品な言葉づかいのかげに敵意を隠しかねているのが歴然としていた。
だからイーヴは、その後に起こったことに、すっかり驚かされた。
この一家は、彼女を無条件で受け入れたのだ。ローズ家の裏庭でのお茶に招待されて、十語と会話を交わさぬうちに、両者ともこの交際を好ましいものと知り、こんご友情をつづけることにきめた。このような現象が実際に起きるものだ。ネッド・アトウッドのような男の世界でさえ――そして、不幸なことに、われわれの住む世界ではしばしば――それが起きる。イーヴは初め、とまどった気持を味わったが、いつかそれが強い感謝のおもいに変わって、氷のように張りつめていた緊張感も溶けていった。そして、このような幸福感にひたることが許されるのかと、おそれに似た気持すら抱《いだ》くのだった。
トビーの母親のヘレナ・ローズは、イーヴに好感をおぼえたことをあからさまに示した。赤毛のジャニスは二十三歳だったが、イーヴの美しさを、最大限の言葉で褒めちぎった。ベン伯父はパイプばかりふかしていて、いたって口数の少ない老人であるのに、議論になると、かならず彼女に味方した。父親の老モーリス卿にいたっては、自分の収集品のいくつかについて、彼女の意見を求めだした。それは彼女を、家族の一員同様と認めたことを意味するのだった。
そしてトビーは……
トビーは非常に善良で、非常に誠実な青年だった。中傷するわけではないが、彼はときどきひどく気どってみせることがある。しかしこの欠点も、彼の身についたユーモアのセンスが埋めあわせていた。
「けっきょくぼくは、そうせざるをえないのだ」彼は指摘してみせた。
「何をそうせざるをえないの?」赤毛のジャニスが聞いた。
「李下《りか》に冠《かんむり》をたださずというやつで、何事につけ、疑惑を招くような行動は避けねばならない。いやしくも、フックソン銀行のラ・バンドレット支店の幹部社員ともなればだね」――この最後の言葉を口にするのが、トビーには愉快なスリルでもあったのだ――「ぼくは慎重に行動しなければならない。ロンドンの銀行はどこにかぎらず、社員の身持ちに、とてもきびしいんだ」
「あたりまえのことじゃないの」ジャニスが口を出した。「フランスの銀行だって、社員がカウンターの下に金髪娘を隠していたり、勤務時間中にとろんとした目でお酒の匂いをさせているのを許しはしないわ」
すると母親のヘレナ・ローズが、夢見るような口調でいった。「酔っぱらった銀行ね……最高のアイディアだわ。ソーン・スミスの小説なら出てくるかもしれないけど、ほかの者には思いつかないわよ」
トビーは、はぐらかされた格好で、ショックを受けた顔つきになったが、小さな口ひげをなでながら、真剣な表情でこの問題を考え、「フックソン銀行といえば」と、いった。「イギリスでも最古の歴史を誇る名誉ある銀行で、金細工人時代から、裁判所《テンプル・バー》地区のあの場所に店をかまえているんです」そこでイーヴのほうにふり向いて、「ぼくの父の収集品のうちに、当時、あの銀行が紋章に使った小さな金細工品がありますよ」
彼のその言葉は、いつものように、なごやかな沈黙で迎えられた。モーリス・ローズ卿の収集道楽は、ときにがらくた物をつかまされて、家族間の笑いぐさになり、ときには掘出し物を手に入れて、賞讃の言葉を浴びせられるという、どっちつかずの状態をさまよっていたのだ。
収集品は卿の書斎にしまってあった。それは道路に面した二階の大きな部屋で、卿はいつも、夜おそくまで、その部屋に起きていた。ちょうど、イーヴの寝室の窓と向かいあった位置にあたるので、彼女はネッド・アトウッドとの不幸な結婚生活を送っていたころ、その部屋に老貴族のすがたを見かけたことが一、二度あった。老人はカーテンをひかない習慣なので、拡大鏡を手に骨董品に見入っているところがよく見えて、人の好さそうなその顔と、壁に沿って据えたガラス張りのキャビネットが、彼女の記憶に強く焼きついていた。
しかし、そのころの思い出をここで持ちだす必要はない。ローズ一家にとって、ネッド・アトウッドなる男は存在しなかったと同様なのだ。ただ、老モーリス・ローズ卿がそれとない言い方で、ネッドとの問題に触れかけたことがあったが、ちょっと口よどんで、自分から話題をひっこめてしまった。そのとき、イーヴには理解できないおかしな目つきをしたのを、彼女はいまだに覚えている。
そして、七月が末に近づくと、トビーが彼女に求婚した。
彼女は自分で意識していなかったが、心の底では、いつかこの青年をあてにしていた。彼を相手に淋しさを訴えることで、おちついた気持をとりもどし、ほんとうの笑い声をあげてみたかった。その点トビーは好個の相手といえた。ときには彼女を、飾り窓のなかの人形のようにいたわりすぎる気味があるが、それがまた――逆説的に聞こえるかもしれないが――彼女の心に新しい痛みをひき起こし、彼を求める気持を掻《か》き立てるのだった。
そのころ、ラ・バンドレットには、『森のレストラン』という名の手ごろな店があって、木立のあいだに中国風の提灯を吊った庭で、食事をとることができた。その夜のイーヴはとりわけ美しく、まっ白な皮膚にピンク色に血の射した肌のあたたかさを、真珠色のドレスがきわだたせていた。食卓の向こう側にいるトビーは、指のあいだにナイフをひねくりつづけ、いつもの気どり屋ぶりもかげをひそめていた。
彼は直接法でしゃべりだした。「こんなことをいう資格が、ぼくにあるとは考えてもいませんが」――ネッド・アトウッドが聞いたら吹きだしたことであろう!――「しかし、ぼくは、心からあなたを愛しています。かならずあなたを幸福にしてあげられると思うのです」
「やあ、イーヴ」彼女の背後で声がした。
一瞬、彼女はどきっとした。声の主がネッドかと思ったのだ。
しかし、ネッドでなくて、彼の友人の一人だった。『森のレストラン』のような場所で、ネッドの友人に出会うとは考えてもいなかった。シーズン時の人々は、ふつう、十時半ごろに食事をすませ、それからカジノへ出かけていって、夜が明けるまで、小口の賭け事に熱中するものだ。いま、笑いかけているこの顔に、イーヴは記憶があったが、名前までは思い出せなかった。
「踊ってくれませんか?」無名氏は気のなさそうな声で誘いかけた。
「せっかくですけど、今夜はわたし、踊りたくないのよ」
「そうでしたか。それは失礼しました」無名氏はぶつぶつつぶやきながら、遠ざかっていった。その男の目が、彼女にあるパーティを思い出させた。そしてそれが、この男に嘲笑されたような気がしてくるのだった。
「ご友人ですか?」トビーが質問した。
「いいえ」イーヴは答えた。オーケストラがまたも、何年か前に流行したワルツを演奏しはじめた。「別れた夫のお友だちですわ」
トビーはしきりと咳ばらいをくりかえしている。彼の感じている愛情はロマンチックな観念的なもので、実在するわけでない理想の婦人像を胸に描いている。それが、彼女の現実面に接触のある男の出現で、肉体的な痛みを感じとったにちがいない。もともと二人の会話は、ネッド・アトウッドに触れるのを避けていた。したがってイーヴは、ネッドについての真実を、トビーに話して聞かせたことがなく、性格の相違で別れたとだけいっておいた。「たしかにあのひと、好男子ではありましたが」そして、この程度の軽い言葉でも、トビー・ローズの融通性のない心には、強烈な嫉妬の矢となって突き刺さってくるのだった。
トビーの咳ばらいは十数回つづいた。
「話をもとにもどしますが」彼はいった。「じつはその、ぼくと結婚してもらいたいのです。考慮の時間がいるのでしたら……」
オーケストラの音楽が、イーヴの心に流れこんで、不快な記憶を呼びさました。
「ぼくは――ぼくは、こんなことをいうべきでないとは、じゅうぶん承知しているんですが」トビーはナイフをいじったり、おいたり、同じ動作をくりかえして、「しかし、イエスかノーかの返事を、事務的にいってもらえたら……」
イーヴはテーブル越しに両手を差し出して、「イエスですわ」と、いった。「もちろんイエスよ。イエス・イエス、イエスですわ!」
まるまる十秒ものあいだ、トビーは何もいわなかった。くちびるをなめている。両手を彼女の手の上においたが、ステンドグラスに触れるような、おっかなびっくりの格好で、しかも、その次の瞬間、このような場所では人に見られると気づいたのか、いそいでその手をひっこめてしまった。遠慮がちなその様子に、むしろイーヴのほうが、おどろくと同時に、どぎまぎさせられた。そして、このトビー・ローズという青年は、女のことをどの程度に知っているのかがあやしまれてきた。「それで?」と、彼女はきいた。
トビーは考えこんで、
「もう少し飲みましょう」と、決断したようにいってから、ひどく大仰《おおぎょう》に首をふってみせ、「なにしろこれは、ぼくの生涯で最良の日ですからね」と、いった。
七月の最後の日に、二人の婚約が発表された。
それから二週間後、ネッド・アトウッドは、ニューヨークのプラザ・ホテルのバーで、いま到着したばかりの友人から、この婚約のことを聞かされた。数分のあいだ、彼は完全な無言で、椅子にかけたまま、グラスの柄をぐるぐるまわしていた。それからホテルを出て、その二日後に出港するノルマンディ号の船室を予約した。
かくて、当事者三人が何も気づかぬうちに、アンジェ街の一軒の家に、黒い悲劇の影が集結しつつあったのだ。
ネッド・アトウッドがカジノ・ブールヴァールを折れて、アンジェ街へはいっていったのは、夜中の一時十五分前であった。
遠く、大灯台の光が、夜空を移動している。昼間のきびしい暑熱がようやく冷えはじめていたが、アスファルトの街路からは、いまだに熱気が波のように湧きあがってくる。ラ・バンドレットの町は寝しずまって、足音ひとつ聞こえなかった。夏のシーズンが終ったのに、まだこの町をはなれかねている、わずかな避暑客は、全員カジノに集まって、夜が明けるまでゲームを闘わしている。
したがって、いま、目のあらい黒っぽい生地のスーツにソフト帽といった身なりで、若々しく見える顔立ちの男が、アンジェ街へはいっていくのに気づいた者は一人もいなかった。男は歯を噛みしめて、酒に酔ったかのように、目を濁らせていた。しかし、少なくともその夜のネッドは――ある種の感情をのぞけば――酔っていなかった。
イーヴはいまだに、彼を愛することを止めていない。それが彼にとっては、確信できる事実だった。
その日の午後、彼はドンジョン・ホテルのテラスで、彼女をとりもどしにきたと大口をたたいたが――いまの彼自身が認めているように――賢明な態度でなかった。あきらかに失敗だった。当然彼は、いま、イーヴの家の鍵を手にして、アンジェ街をこっそり歩いているように、誰にも気づかれずに、ラ・バンドレットの町にもどってくるところだった。
彼女の住んでいるミラマール荘は、この街筋の中ほどあたりの左側にあった。ネッドはそこへ近づくと、本能的に、道路をへだてた反対側の家へ目をやった。ローズ一家の住んでいるそれは、イーヴのミラマール荘と格好がそっくりで、より大きな規模、四角ばった形、そして、白い石を積みあげ、明かるい赤タイルの屋根を載せた建物だった。それにまた、高い塀をめぐらし、小さな鉄格子の門をそなえ、道路から数フィートさがった位置に建っているのも、イーヴの家と同じだった。
ネッドが見やると、予想どおりの状態だった。階下はのこらず電燈を消して、二階にしても、モーリス・ローズ卿の書斎の二つの窓が明かるくかェやいているだけで、完全に寝しずまっていた。ただ、明かるくかがやく書斎の窓だけは、スチール製の鎧戸を押しあげ、カーテンも引いていない。暑い夜だからであろう。
「ちょうどいい!」ネッドは声に出していって、甘い香りのする夜気を、胸いっぱい吸いこんだ。
老貴族が彼の足音を聞きつけるおそれはなく、支障は何ひとつ考えられないが、それでも彼は音を殺して進んだ。イーヴの別荘をかこんでいる塀の門をあけると、短い小道を玄関にいそいだ。そこの鍵は、幸福だった当時から――いや、ごたごたが多かった日々からというべきか――彼のポケットに収まっていた。それを鍵穴にあてがった。もう一度、深く息を吸いこんで、異教の神々に祈りをささげ、計画どおりに、扉を肩であけた。
イーヴは起きているのか、眠ってしまったのか? 燈火の色が見えていないのは、ミラマール荘の場合、格別の意味はなかった。夜になると、窓という窓のカーテンを閉じてしまうのがイーヴの習慣で、彼はそれを病的な上品ぶりだとからかったものだ。
しかし、階下のホールは実際に電燈が消してあった。フランスの家庭ではどこもそういったものだが、家具磨きのワックスとコーヒーのにおいがただよっていて、それが彼に、過ぎ去った日のこまごまとしたことを思いださせた。彼は手さぐりで階段の場所をつきとめ、爪先立ちでのぼっていった。
それは、はばのせまい優美な感じの階段で、青銅細工の手すりをそなえ、貝殻のような曲線を描いて、壁にとりつけてあった。しかし、段が高いうえに急傾斜で、敷きつめた厚い絨毯《じゅうたん》が、真鍮《しんちゅう》製の古風な絨毯押さえでとめてあった。あのころ彼は、暗闇のなかで、いくどこの階段をのぼったことか! 時計の音を聞いて、いくど胸を騒がしたことか! それというのも、彼女を深く愛していたからで、夜おそく女遊びから帰ってくるとき、彼女もまた、彼に不誠実な行為に出ているのではないかと気にかかったのだ。階段をのぼりきる少し前、イーヴの寝室からあまりはなれていない個所で、絨毯押さえの一つがゆるんでいるのを思いだした。何回となく、そこでつまずいて、一度など、これでは、いのちがけだと、心のなかで呪《のろ》ったものである。
ネッドは片手を手すりにかけてのぼっていった。イーヴはまだ起きていた。正面にある彼女の寝室のドアの下から、光線が細い糸になってもれている。それに気をとられていたので、つまずくなよと心にいいきかせていた問題の絨毯押さえのことを忘れてしまった。そしてもちろん、彼はつまずいて倒れた。
「畜生!」彼は思わず声をあげた。
寝室のなかで、イーヴ・ニールがそれを聞きつけた。
誰であるかを、彼女は知った。
イーヴは化粧テーブルの鏡を前にして、髪にブラシをかけていた。ゆっくりではあるが、しっかりした手つきだった。鏡の上に垂れ下がった電燈が、この部屋での唯一の照明で、彼女の肌のあたたかみを強調している。肩のあたりまで流れている明かるい栗色の頭髪、きらきら光るグレイの目。ブラシの動きとともに、頭をのけぞらすので、惜しげもなくさらけ出した両肩の上に、のどの丸みが見てとれる。白絹のパジャマを羽織って、白|繻子《しゅす》のスリッパをつっかけていた。
イーヴはふり返ることもしないで、頭髪にブラシをかけつづけた。しかし、鏡のなかに、背後のドアがひらき、ネッド・アトウッドが顔をのぞかせたのを見た一瞬、彼女は盲目的な恐怖感におそわれた。
ネッドにしても、いまは完全なしらふといえたが、声はさけびにちかいものであった。
「おい!」ドアをあけきらぬうちから、彼はさけんでいた。「あんなことは許さんぞ!」
イーヴは無意識のうちに、何かしゃべっていた。恐怖感は薄らぐどころか、かえって濃くなりつつあった。しかし彼女は、髪にブラシをかける手を休めなかった。顔の筋肉がひきつっているのを、腕で隠すためだった。
「あなたなのはわかっていたわ」彼女は静かにいった。「でも、またもどってくるなんて、気が狂ったとしか考えられないわ」
「気が狂うわけがあるか! ぼくは――」
「しーいっ! 大きな声を出さないで!」
「ぼくは君を愛している」ネッドはいって、両腕をひろげた。
「鍵をなくしたって、おっしゃってたけれど、あれもやはり、あなたのたくさんの嘘のうちの一つだったのね?」
「いまは些細なことで議論しているときではない」ネッドはいったが、実際に、些細なことと考えているのが明白だった。「君はほんとうに、ローズ家のあのばか息子と結婚する気か?」彼は罵言《ばげん》を投げつけた。
「そうよ。結婚するわ」
そして、二人とも本能的に、道路を見下ろす二つの窓へ目をやった。それはぴったりカーテンが引いてあった。両者とも、おなじことを考えているらしい。
イーヴが先に口をきった。「エチケットを初歩から教えてあげなければならなそうね」
「これも、君を愛しているからだ」
この言葉に嘘はなく、彼はほとんど泣きさけばんばかりだった。これも演技のうちだろうか? イーヴはそれを疑がった。少なくともその一瞬、いつもの彼が示す相手を小馬鹿にしたような冷笑的態度と、自信過剰の傲慢さを裏切るものが、ひらめいた。しかし、それもすぐに消えて、ネッドはふたたび、いつもの彼にもどった。そして、大股に部屋にはいってきて、帽子をベッドの上にほうりだし、肘かけ椅子に腰を据えた。
イーヴは悲鳴をあげたい気持をかろうじて押さえて、
「見えるわよ、道路の向こうから……」と、いいだした。
「わかっている。わかっているよ!」
「何がわかっているの?」彼女はブラシをおいて、化粧テーブルの前の椅子をぐるりまわして、彼と向きあった。
「あのじいさんさ。モーリス・ローズ卿……」
「あら! どうしてあのお年寄りのことを知ってるの?」
「毎晩、道路をへだてて真正面の部屋に起きてるじゃないか。骨董品か何かをながめながら――つまり、向こうの窓からだって、こっちの部屋の様子はまる見えなんだ」
寝室内はひどく暑くて、浴用塩と煙草のにおいがみなぎっていた。ネッドは椅子におさまりかえって、長い脚の片方を椅子の腕に載せ、部屋のなかを見まわした。顔にあざけりの表情が浮かんでいる。それはいつも男らしい美貌というだけでなく、額に、目に、口もとの線に、想像力と知力にめぐまれたところが歴然としていた。
彼は古なじみの壁をながめた。暗紅色の繻子《しゅす》を貼ったかべである。つづいて、数多くの鏡と、彼の帽子が載っているベッドを見、ベッドのわきの電話機に目をやった。照明といっては、化粧テーブルの上の電球ひとつだった。
「彼らはずいぶんまともな人間たちらしいな」ネッドがしゃべりだした。
「彼らって?」
「ローズ一家さ。もしあのじいさんが、夜中の一時に、君が男を寝室にひき入れているのを知ったら……」
イーヴは椅子から立ちあがりかけたが、思いとどまって、また腰を据えた。
「気にすることはないよ」ネッドはかすれたような声でつけ加えた。「ぼくは君が考えているほど卑劣な男じゃないんだ」
「だったら、早く帰ってくださらない?」
男の口調が、とたんにあらあらしいものに変わった。
「ぼくが知りたいのは、その理由だ。なぜ君は、あんなでくのぼうと結婚する気になった?」
「たまたま、あのひとが好きになったからよ」
「ばかばかしい」ネッドは冷静な傲慢さで、彼女の答えを一蹴した。
イーヴがいった。「あなたのいいたいことをいい終るまで、どのくらい時間がかかるの?」
「金じゃないな」彼は考えながら、しゃべりつづけた。「君には、使いきれないだけの資産がある。そうだな、砂糖菓子の魔女さん、この結婚は金のためじゃない。実際は、その逆だ」
「なんのこと? ――その逆って」
ネッドは残酷なほどあからさまにいった。
「あの老いぼれ山羊が、気どり屋の息子を君といっしょにさせたがっているのは、なぜだかわかるか? 君の財産だよ、イーヴ、向こうは金が目当てなんだ。ぼくにとってはありがたいことだが、それだけのことなのさ」
イーヴはブラシをつかんで、投げつけてやりたい気持だった。この男たるや、彼女が試みる計画は、何事であろうとぶちこわしてしまう。いまもまた、せっかく手に入れかけた幸福をたたきこわしにもどってきたにちがいなかった。椅子にふんぞりかえり、目のあらいダークのスーツの、えりもとから、ネクタイをとび出させて、まるで、難問を解くのに苦慮しているような顔つきなのだ。イーヴの胸は傷ついて、泣きだしたいおもいだった。
彼女は彼をにらみつけて「何だか|あなた《ヽヽヽ》、ローズのことにずいぶんくわしいみたいね」と、皮肉をいった。
ネッドはその言葉をまじめに受けとって、
「知ってなんかいないよ。ぜんぜん知っていない。しかし、彼らについての情報だけは、ぼくの力のおよぶかぎり集めておいた。それがこの問題の鍵だと思ったからで……」
「鍵といえば」イーヴがいった。「あなたの手にあるその鍵、返していただくわ」
「鍵?」
「この家の鍵よ。いまあなたが指のまわりで回転させているキイ・リングに嵌めてあるはずよ。こんなふうに困らさせられるのは、これが最後にしておきたいのよ」
「イーヴ、つれないことをいわんでくれ!」
「声が大きすぎるわ、もっと、小さな声で話して」
「君はぼくのところへもどってくる」ネッドは坐りなおして、上半身を直立させた。そして、彼女の顔の表情を見て、その声に怒気がこもってきた。「何があったか知らないが、君は変わったよ」
「わたしが?」
「そうさ。なぜ、こうも急に、お上品にとり澄ますようになったのだ? 以前の君は人間的な女性だったのに、いまは横柄《おうへい》におさまりかえっているじゃないか。それも、あのローズ一家に会ってからのことで、ルクレティア顔負けの淑女ぶりを気取っている。しかし、気取っているだけのことだ」
「そうかしら?」
ネッドは燃えあがる怒りに、爆発寸前の状態にいたが、足を踏み鳴らすことで、かろうじてそれを押さえつけていた。
「そうかしら、だ? それにきまっている。高慢ちきに、淑女めいた口をきいても、腹の底から、トビー・ローズを愛しているといえるわけがない。なぜだか、ぼくの口からいってみてもいい!」
「ネッド! あなた、トビー・ローズに何かうらみがあるの?」
「うらみなんかあるものか。ただ、世間で彼を何といってるか、君に知らせておきたいだけだ。嘘だと思ったら、この町の連中の評価を聞いてみるがいい。紳士ぶった薄のろだと教えてくれるだろう。お人よしかもしれないが、尊大な愚物というのは、まさにあの男のことだ。君にふさわしい男じゃない。よかれ悪しかれ、君にふさわしいのは、このぼくだ」
イーヴは身ぶるいした。
ネッドは、いよいよいきりたって、鏡に向かって、大声でわめいた。「いったい君は、どうなってしまったんだ?」そこで少し口をつぐんでいてから、「思うに」と、彼女が過去の夫婦生活から、胸に深くきざみこまれている言い方でつけ加えた。「ぼくのとるべき行動は一つあるだけだ」
イーヴは思わずとびあがった。
「君のセックス・アッピール――」と、ネッドはつづけた。「とくに、いまみたいなパジャマすがたの君のそれは、隠者だってわれを忘れさせる。そしてぼくは隠者じゃない」
「そばへ寄らないでちょうだい!」
ネッドは急に、がっかりした表情になって、「まるでぼくがメロドラマの悪漢みたいに聞こえる。ぼくの前に、美女が立ちすくんで、悲鳴をあげ、救けを呼ぼうとしているところか……」そして、窓に向かって一人うなずいていたが、急に表情が変わって、「ようし、その悪漢になってやる」と、わるがしこそうにいった。「蛇みたいに忍びよる悪党になって悪いことはあるまい。君はむしろ、それを歓迎するはずだ」
「いいえ、わたしは闘うわ。ことわっておくけれど!」
「結構なことさ。結構以上だ」
「ネッド! わたし、冗談をいってるのじゃなくてよ」
「ぼくだって、そうだ。君は抵抗するだろう。しかし、それは最初だけで、いっこうに気にならない」
「あなたはもともと、相手の気持を考えないことを自認してきた人だけど、それでも、フェア・プレイの精神は尊重するって、いばっていたはずよ。もし――」
「道路の向こうの老いぼれ山羊に聞こえるぞ。そう思わんか?」
「ネッド、何をなさるの! 窓のほうへ行かないで!」
おそすぎたきらいがあるが、イーヴは化粧テーブルの上の電燈に気がついて、頭の上に手を伸ばし、スイッチを切った。部屋はたちまち闇に沈んだ。窓はダマスク織りの厚手のカーテンにおおわれていて、その下にさらに、レースのカーテンがかかっていた。窓自体はあけてあったので、ネッドがダマスク織りのカーテンのひだをつかんで、そのすみを少し引くと、冷たい空気が流れこんできた。いまのところ、イーヴをほんとうに困らせる気持がネッドにあるわけでなく、彼は外に目をやって、安心してよいのを知った。
「モーリス卿はまだ起きてるのじゃない? どうなの?」
「起きてるよ。だけど、この部屋へ注意を向けてるわけではない。拡大鏡を手にして、嗅ぎ煙草入れみたいな品をのぞきこんでいる――おや、待てよ!」
「どうかしたの?」
「まだほかに、誰かいるぞ。顔は見えないが」
「きっとトビーだわ」イーヴのささやき声が、押し殺した悲鳴といったひびきを帯びてきた。「ネッド・アトウッド。窓からはなれてくださらない?」
このとき二人は、電燈が消してあるのを始めて意識した。
アンジェ街から流れこむかすかな光が、ふり返ったネッドの横顔を照らし出した。部屋がまっくらなことに気づいた彼は、子供らしい驚きを率直に示したが、すぐにその口もとを冷笑の色に変えた。そして、レースの網カーテンは引いたままだが、厚手のカーテンを下ろして、部屋に暗闇の蓋《ふた》をした。
部屋はたちまち、耐えられぬほどの暑さになった。イーヴはふたたび、頭の上へ手を伸ばして、吊り電燈のスイッチをさぐったが――みつけることはできなかった。さらにさぐりつづける代わりに、化粧テーブルの前の椅子からはなれて、ネッドとは反対側の部屋のすみに身を避けた。
「イーブ、聞いてくれ……」
「こんなこと、ばからしいじゃないの。電燈をつけてちょうだい!」
「なぜ、ぼくがつけなければならんのだ? 君のほうがスイッチに近いじゃないか」
「それがだめなの。わたし……」
「おお!」ネッドがおかしなひびきの声を出した。
その声の抑揚が、彼女をいっそう、おそれさせた。それは勝利のひびきだった。
現在の彼女が、彼に嫌悪感を抱《いだ》いているのは、彼の理解を超える事実だった。より正確には、彼の単純な|うぬぼれ《ヽヽヽヽ》が、その理解をさまたげているというべきか。状況は厄介なもの以上になった。悪夢の様相を呈してきた。これから脱出する唯一の方法は、救けを呼ぶこと――たとえば大声で女中たちを呼んで、駆けつけてもらうのだが、これはいまの彼女に、できることではなかった。
その理由はいたって簡単で、彼女がどう説明したところで、このようなできごとの場合、誰も信じようとしないのが自明だったからだ。かつて誰も信じなかったように。これからも誰もが信じないであろう。それが彼女の人生経験の教えるところだった。真実をいえば、女中たちに知られるのが、ローズ一家の耳にはいるのにおとらず、彼女には恐怖だった。召使クラスの者の口には戸がたてられない。うわさ話がつぎつぎと広まって、しだいに尾ひれがついていく。たとえば、最近雇い入れた女中のイヴェットは……
ネッドが冷やかな口調でしゃべっている。「君があのローズという男と結婚する気になった理由を、納得いくように説明してほしいのだ」
その言葉にたいする彼女の声が、大きくはないが、闇を突き刺すようにひびいた。
「お願いだから出ていってちょうだい。愛するようになったからだといっても、信じてはくれないのでしょう? でも、それは真実なのよ。とにかく、わたしの行動を、いちいちあなたに説明する必要はないはずよ。いまとなってはだわ。何かわたしに要求する権利がおありなの?」
「あるね」
「どんなこと?」
「そこへ行って、教えてやるよ」
暗闇のなかだが、ネッドには彼女が何をしているのか、手にとるようにわかっていた。衣《きぬ》ずれの音、ベッドのスプリングの|きしみ《ヽヽヽ》。それを聞いただけで、彼女がベッドの|すそ《ヽヽ》においてあった厚いレースのネグリジェをとりあげ、身に着けはじめたのがわかった。彼が近づいていったとき、彼女は最後の片袖に腕をとおそうとして、あせっていた。
もう一つ、イーヴのおそれることがあって、考えないわけにいかなかった。どんな女も――彼女よりもはるかに世間を知っている知人から、つねづね聞かされていたことだが――最初に肉体的関係を結んだ男を忘れられるものでない。彼女は彼を忘れてしまったつもりでいるが、それでも彼は残っている。イーヴはあたたかい血のかよった女で、しかも数ヵ月のあいだ、孤閨を守っている。ネッド・アトウッドは、何といわれようが、女性には魅力のある男だ。もし彼が……?
彼の手がイーヴをつかまえると、彼女はからだをひきはなそうと、はげしく、しかし無器用に、彼をたたいた。
「いや! はなして! 怪我をするじゃないの!」
「おとなしくしたらどうだ?」
「いやよ、ネッド! 女中たちに聞かれるわ……!」
「ナンセンスだ。老いぼればばあのモプシーがいるだけじゃないか」
「モプシーはいないわ。代わりに新しい女中がきて、これが信用できない女よ。スパイじゃないかと考えているくらい……とにかく、お願いだから、おとなしくして……」
「君のほうこそ、おとなしくできないのか?」
「できないわ」
イーヴはわりあいと長身で、彼とは二インチ程度しかちがわなかった。しかし、ほっそりして柔らかなその肉体には、男の力をはね返すだけのものをそなえていなかった。このときの彼女の抵抗には、単なる媚態でなく、必死の気持のあらわれているのが、とりみだしたネッドの頭にも察しとれた。ネッド・アトウッドにしてもばかではなかった。それでいて彼は、イーヴのからだに両腕をからめると、完全に自制力を失なってしまった。
その瞬間だった。電話のベルがけたたましくひびいたのだ。
電話のベルがけたたましくひびくのは、どんな場合でも好ましいものでない。いま、寝室内の闇を突き破るようにして、それが二人の行為を糾弾するように鳴りひびいた。そして、いっこうに鳴りやむ様子がない。二人ともおどろきのあまり度を失なったかたちで、電話に聞かれるのをおそれるように声をひそめた。
「出るんじゃないぞ、イーヴ」
「はなして。もしかすると、あれが……?」
「ナンセンスだ。鳴らしておけ」
「でも、あのひとたちに見られたのだとすると……?」
二人は電話機をおいたテーブルに手のとどく場所に立っていた。イーヴは本能的に受話器に手を伸ばしかけた。その手首をネッドがつかんでさまたげた。そのはずみに、電話機の台が移動して、受話器が鋭い音とともに、テーブルの上に転げ落ちた。けたたましいベルのひびきは中断された。しかし、その沈黙のうちに、受話器の口から男の声が、小さく、しかし、明瞭に聞こえてきた――トビー・ローズだ。
「ハロー! イーヴ?」闇のなかで、声がいっている。
ネッドは彼女の腕をはなして、一歩さがった。一度も聞いたことのない声で、誰のものか、彼には判断がつかなかった。
「ハロー! イーヴ!」
イーヴは受話器を手さぐりでさぐった。それはかべにぶつかって、転がるのをやめたので、拾いあげることができた。彼女のはげしい息づかいはしだいにしずまっていった。無関係な人たちなら、そのような彼女に感嘆の声を惜しまなかったであろう。受話器に向かってしゃべりだした彼女の声は完全に自制されていて、平素のものとほとんど変わりがなかった。
「ええ、イーヴです。あなたでしたの、トビー?」
トビー・ローズは低い声で、ゆっくりしゃべっていた。受話器を通すので小さくなってはいるが、その一語一語が、二人に、はっきり聞きとれた。
「夜中に起こしたりして、悪かったね」トビーがいっている。「だけど、ぼくは眠れないんだ。で、君に電話しないではいられなかった。怒らないでくれるね?」
ネッド・アトウッドはずかずかと部屋を横切って、化粧テーブルの上の電燈をつけた。
その動作で、イーヴが彼をにらみつけるのが想像されるが、そのときの彼女は、それどころでなかった。素早く窓へ目をやって、カーテンが引いてあるかをたしかめたが、そのほかのことは――ネッドがその場に居合わせたことさえ――いっさい気にしていないように見えた。しきりと言いわけするトビーの言葉に、朗らかな口調から判断して、心配することはないと知ったにちがいなかった。しかし、それが全部ではなかった。最高の優しさをこめてしゃべるトビーの声が、自分本位の考え方しかできないネッドをひどくおどろかした。おれのほかにも、こんな調子でしゃべれるやつがいるのかと、グロテスクにさえ感じていた。
そしてネッドは、にやにや笑いだした。しかし、何かに思いあたったのか、おもしろがっているその表情が、さっと消えていった。
イーヴは小声でいった。「トビー、うれしいわ!」
それはまぎれもなく、恋に落ちた女性の声だった。少なくとも、彼女自身はそう思いこんでいるにちがいない。彼女の顔は光りかがやいていた。安心感と感謝の気持が、彼の胸にも伝わってきた。
トビーが聞いている。「夜中に電話で起こして、迷惑じゃなかったかい?」
「そんなこと、あるもんですか、トビー! でも――どうかなさったの?」
「いや、何でもない。ただ、眠れないだけなのさ」
「いま、どこにいらっしゃるの?」
「階下の居間にいる」夢中になっているローズ君は、この質問の異様なことに気づいていなかった。「いままでぼくの部屋で起きていたんだが、君の美しいすがたがずっと目の前からはなれないので、電話をかけずにいられなかった」
「トビー、うれしいわ!」
(「ばかばかしい!」ネッド・アトウッドは口に出していった。他人の感動に駆られた言動を見ていると、誰しもばからしさを感じるもので、自分自身がおなじ感動におそわれるときがあるにしても、このような気持を味わうことに変わりはない)
「それから」とトビーは真剣な口調になって、「今夜見たイギリス劇団の芝居、気に入った?」
(この真夜中に電話をかけてよこして、劇の批評をはじめる気なのか。ばかもいいかげんにしてくれ――ネッドは心に思った)
「とてもおもしろかったわ。ショーのお芝居、あんがい甘いところがありますわね」
(ショーの芝居が甘いのか! こいつはおどろきだ!)
たしかに、いまのイーヴの顔の表情を見て、彼の胸がむかむかしてきたのは当然のことだった。
トビーはいいにくそうな口調で、
「でも、あの劇のある部分はかなり品の悪いところがあるので、君がショックを受けたんじゃないかと、心配した」
(「信じられんね」ネッドは口のなかでつぶやいて、目をみはって受話器をながめた。「ぜんぜん信じられん言葉だぞ」)
「母とジャニスとベン伯父は」と、トビーはつづけた。「優れた作品だといってたが、ぼくにはその理由がわからない」トビーもまた、バーナード・ショー氏の見解には、誇張された当惑の状態に突き落とされる人間の一人なのだ。「ぼくはおそらく、少し旧弊《きゅうへい》な男なんだろう。しかし、それにしてもあの劇には、婦人の――もちろん、育ちのいい婦人のことだが――知る必要のないところが多すぎるように思われる」
「だけど、トビー、わたしはべつに、ショックを受けなかったわ」
「なるほどね」ローズ君はすぐに、彼女の言葉に迎合した。電話線の向こうのはしで、トビーがもじもじしているのが目に見えるようだ。「それだけなのさ――ぼくがいいたくて、電話したのは」
(まったくこの男は、おどろきいった詩人、婦人にいんぎんな騎士だ!)
しかし、トビーはまだ話し足りない様子で、ごくんと唾《つば》をのみこんでからつづけた。「あすのピクニックのことを忘れないでくださいよ。いい天気になりそうだ。それから、父が今夜、新しい品を収集に加えましてね、ご満悦の状態なんです」
(「そうだろう」ネッドはあざ笑った。「つい、いましがた、老いぼれ山羊がよだれを垂らさんばかりの様子をながめたばかりだ」)
「そうね、トビー」イーヴは相槌を打ってしまった。「わたしたちもそれを見て……」
彼女は、うっかり口をすべらしたが、さわぎたてるほどのことではないはずだ。それでいて彼女を、盲目的な恐怖がおそった。目をあげて、ネッドの顔を見ると、底意地の悪い笑いが浮かんでいる。それは小面憎くもあったが、魅力的でもあった。しかし彼女は、ためらわずに言葉をつづけた。
「つまりその、わたしたちが今夜見たのは、すばらしいお芝居でしたのよ」
「そうでしたね」トビーもいった。「しかし、いつまでも君を起こしておくわけにいかない。では、おやすみ」
「おやすみなさい、トビー。あなたのお声を聞いて、わたしがどんなに喜んでいるか、あなたにはおわかりにならないし、想像もつかないことだと思いますわ」
彼女は受話器をおいた。そして部屋は、ふたたび静寂が支配した。
イーヴは、なおベッドのはしに立って、片手を電話機にあてがったまま、もう一方の手で、レースのネグリジェの胸をおさえていた。そして、顔をあげて、ネッドを見た。彼女自身は、グレイの目の下の頬のあたりが、紅潮している。絹糸のような長い髪が、優美な顔を縁どって、ゆたかにそして茶色に光って、ピンクの爪がきらめいて、腕の白さをきわだたせた。すぐそばにいながら、何か遠い存在のような感じ、かくされた情熱が見る者の血を沸きたたせ、どんな男もわれを忘れずにいられぬ美しさだった。
ネッドは彼女を見まもっていた。ポケットから煙草とライターをとり出して、煙草に火をつけ、ひと息深く喫いこんだ。ライターの焔が消えるまえに、彼の手のなかでゆらゆら揺れた。彼の全神経が、かくそうとしても痙攣《けいれん》をつづけ、暑く、重苦しい部屋の沈黙を、時を刻む時計の音も破ることはできなかった。
そして、ネッドはおちつきはらっていた。
「まあ、いいさ」最後に彼はあえていった。もっとも、咳ばらいをしなければならなかったが、「はっきりいえばいい」と。
「はっきりいえって、何をいえばいいの?」
「帽子を持って、出ていけとだ」
イーヴは冷静にくり返した。「帽子を持って、出ていって」
「わかったよ」ネッドは煙草の火をあらためて、深く喫いこんでから、煙を吐き出すと、「ぼくがいては、良心が責められるというわけだな」
それはかならずしも真実ではなかった。しかしそこに、イーヴの顔を赤らめさせるにじゅうぶんな真実のかけらがあったことも事実だった。そしてそれを、ネッドは煙草の火をながめたりして、わざとぐずぐずしながら、悪魔のような探偵的本能で、みきわけようとしているのだった。
「砂糖菓子の魔女さん。君は胸のむかつきを感じたことがないのか?」
「何のことで?」
「ローズ一家といっしょに暮らすことを考えてだ」
「ネッド。あなたにはわからないことよ」
「そうだろう。ぼくはお上品な人間じゃないからな。道路の向こうのばか息子とちがって――」
イーヴは立ちあがって、ネグリジェの前を合わせた。それは腰のところに、ピンク色のサティンの紐を結ぶようになっているのだが、ともすればほどけてしまう。いまもそれを結びなおしているのだった。
「あなたって人は」と、彼女はいった。「すねた子供みたいなことをいわなければ、もっと感じがいいのだけど」
「そのとおりだ。しかし、それは別個の問題で、いやらしいのは、君のほうだ。あの男との会話のスタイル――何だ、あれは。聞いていられたものじゃない」
「そうかしら?」
「そうだとも。君は頭の働く女だよ」
「ありがとう」
「トビー・ローズとしゃべるときは、彼の知能に調子を合わせることにきめたらしいな。おどろいた話だ! ショーが甘いのか! 要するに君は、彼同様のばかになれと、君自身にいいきかせているらしいが、しかしそれも考えものだ。結婚前からあの調子で話していたら、結婚後には、どんなことになると思う?」そこで彼は、口調をやわらげ、「イーヴ、それで君は、胸のむかむかを感じたことがないのか?」
「よけいなお世話だわ!」
「さあ、どうなんだ?」ネッドはもう一度、煙草の煙を吐き出して、「万事に難癖をつける男の言葉は聞かんというのかね?」
「あなたをおそれるわけがないわ」
「君はローズ家のことを、どの程度知っているんだ?」
「その点、わたしとあなたの結婚だって、同じだったわ。わたしはそれ以前のあなたの生活をぜんぜん聞かされていないのよ。自己本位の人だってことのほかは、何も知っていないのだわ……」
「おおせのとおりだ」
「自己本位で、けだものみたいに不道徳で……」
「ぼくの話をしてるんじゃないぜ、イーヴ。知りたいのは、彼らのどこが君の気に入ったかだ。あの一家の社会的地位か?」
「もちろんわたし、社会的地位をほしいと思うわ。女はみんな、そういったものよ」
「ほ、ほう!」
「利口なあなたらしくもない言葉ね。見るとおり、わたしはあのひとたちが好きよ。ママのローズ、パパのローズ、トビーにジャニス、それにベン伯父まで、全部のひとが好きなのよ。みんな、いい人ばかりだわ。きちんとした生活を送っていて、堅苦しい感じがしないのよ。つまりあのひとたちは――」と、適切な言葉をさぐって――「健全なのね」
「そしてパパのローズは、君の銀行預金が好きなんだ」
「よくそんなことがいえたものね!」
「いまのところは、証明することもできぬが、いずれそのうち……」
ネッドはいいよどんで、手の甲をひたいに押しあてた。その格好で、しばらく彼女をみつめていた。彼女でなくても、本物の愛情と受けとりそうなもの。これまでの彼になかった新しい様子。困惑と絶望、そしてやさしささえがあった。
「イーヴ」彼は急にいいだした。「ぼくは君に、こんなことをさせたくないのだ」
「こんなことって?」
「君にあやまちをおかさせたくない」
ネッドはしゃべりながら、煙草を揉み消しに、化粧テーブルのガラスの灰皿へ近よっていったので、イーヴは身をこわばらせた。そして彼をみつめて、なぜか彼が明かるい気分になっているのを知った。彼という男を承知しきっているだけに、それが見てとれるのだった。ネッドは新しい煙草に火をつけて、またふり返った。巻毛の金髪の下の明かるいひたいに、細かな横じわが寄っている。
「イーヴ、ぼくはきょう、ドンジョン・ホテルで聞いたことがあるんだ」
「何を?」
彼は煙草の煙を吐き出し、窓の方をあごで示して、つづけた。「みんなの話だと、パパのローズはかなり耳が遠いそうだ。しかし、それにしても、カーテンをのこらずひらいて、ご機嫌はいかがですと、大声で聞いてみるとしたら……」
沈黙。
イーヴの胃を、船酔いの始まりに似た肉体的な不快感がおそってきて、それが、しだいに拡がって、目の前がかすんでくるかのようであった。すべてが現実とは思われなかった。暑苦しい部屋のなかに、煙草の煙が、息も詰まりそうに立ちこめて、その煙を通し、ネッドの青い目が、彼女を鋭くみつめていた。彼女はそれを見て、思わずさけばずにいられなかった。だが、その声が、遠くかすかに、他人のもののように聞こえるのだった。
「そんな卑劣なこと、できるわけがないわ」
「ぼくにできない?」
「そうよ! わたしがさせないわ。いくらあなたでも、できませんからね」
「しかし、イーヴ。それがはたして、卑劣なことだろうか?」ネッドは静かにいって、彼女に指を突きつけ、「そうだとしたら、君のしていることは何なのだ? 君はぜんぜんやましくないといえるのか?」
「いえますわ」
「だったら、もう一度いうが、君は美徳の典型で、一方ぼくは、君のその程度だけ、悪のほうへ走っているわけだ。だからこそ、この部屋に押し入った。鍵を持っているにしてもね」と、それを掲げてみせて、「ところで、部屋に押し入ったぼくが、ひと騒ぎやってのけたにしても、美徳の典型の君が、何をおそれる必要があるんだ?」
彼女はくちびるが乾いてくるのを感じた。すべてが空虚のうちに位置を変え、そこでは光が分裂し、音が彼女の耳に達するまで、長い長い時間がかかるように思われた。
「ぼくはたたきのめされてしかるべき無作法者だ――トビー・ローズに、ぼくをなぐりつけることができればの話だが。君にしてからが、ぼくを追い出そうとしたくらいだからな。そしてもちろん、君の忠実な友人たちは、君が美徳のかたまりであるのを知っているから、君の話を無条件で信じてしまう。それもよかろう! ぼくには、君の話を反駁する気持など、さらさらない。約束してもいい。君がもし、ぼくを心から憎み、軽蔑しているのなら、そして、あの連中が君のいうようなお人好しばかりなら、ぼくが騒ぎ立てるぞと、脅《おど》したにしても、おどろくことはないはずで、びくびくしている代わりに、大声で助けを呼ぶはずじゃないか」
「ネッド、わたしには説明できないのよ……」
「なぜ、できない?」
「あなたは理解しようとしないからよ」
「なぜ、理解しない?」
イーヴは言葉による説明に絶望して、両腕をはげしくふった。わずか数語で、世界とは何かとの問題を説明するようなものである。
「これだけはいえますわ」彼女は目に涙をためながら、それでも冷静にいった。「あなたが深夜にこの部屋にいたことを世間の人に知られるくらいなら、死んだほうがましだってこと」
そしてネッドは突っ立ったまま、しばらく彼女をみつめていたが、
「ほう! 死んでしまうかね?」というと、ふり返って、急ぎ足に窓ぎわに歩みよった。
イーヴは本能的に、電燈を消そうとした。走り出したとたんに、ネグリジェの厚いひだに足をとられて転びかけ、それと同時に、サティンの腰帯がまたもほどけた。ネッドに向かって、なおも何かをさけんだらしいが、たしかなことは、記憶に残っていなかった。化粧テーブル前の椅子につまずきながら垂れ下がっている電燈のスイッチをさぐった。ようやくそれを探しあてて、よろめく足を踏みしめながら、電燈を消すと、始めて安心感がもどってきて、いまは泣きだすことも自由だった。
しかしネッドが――たとえ、そのときの気持がどんなであったにせよ――実際に道路越しにモーリス・ローズ卿に声をかけるつもりであったとは考えられない。いずれにせよ、そのような行動に格別の意味がない状勢になっていたのである。
彼は錦織りのカーテンを、木製の環をがたがたいわせながら引きのけ、さらにその下のレースのカーテンをひらいて、外をのぞいた。彼がしたことは、それが全部だった。
いまネッドは、道路をはさんで真正面の位置にある――それは五十フィートとはなれていないのだ――モーリス・ローズ卿の明かるくかがやいている書斎の窓をながめているのだった。それはいわゆるフランス窓で、床までひらく様式であり、その外は、玄関の真上の石と鋳鉄でできた小さなバルコニーになっている。このようなフランス窓がそれぞれ半開きの状態で、スチールの鎧戸《よろいど》も下ろしてなく、カーテンも引いてない。
しかし、書斎の内部は、ほんの数分前にネッドがのぞいたときとは、様子が変わっていた。
「ネッド!」イーヴは恐怖にふるえる声でさけんだ。
返事はない。
「ネッド、何かあったの?」
彼は指で示した。それだけでじゅうぶんだった。
イーヴも歩みよって、二人してのぞいた。真向かいの家の書斎は中ぐらいの広さの真四角な部屋で、かべに沿って、各種さまざまな様式を持ったガラス張りの骨董品キャビネットが並べてある。二つの窓から、室内のほぼ全容が見通せた。書棚が一つか二つ、骨董品キャビネットの列に割り込んでいる。紡錘型の調度品は統一してあって、それがいずれも金箔をおき、錦織りの布を張り、かべの白と絨毯《じゅうたん》の灰色ときわだった対照を示していた。ネッドが最前のぞいたときは、デスクの上のスタンド燈がともっていただけだが、いまは天井の中央にシャンデリアがかがやいて、見ている二人が耐えられぬほどありありと、室内の光景を照らしだしているのだった。
左側の窓から、左手のかべにくっつけて据えたモーリス・ローズ卿のデスクが見えている。大型のもので、表面が完全に平らになっている。右側の窓からは、右手のかべに切ってある白大理石の暖炉を見ることができる。書斎の奥はかべになっていて、そこに見えているドアの外は、二階の廊下のはずである。
二人がのぞいたとき、そのドアが、誰かの手で、静かにしまるところだった。
何者かが、書斎をそっと忍び出ていったにちがいなかった。イーヴはひと足ちがいで、その人物の顔を見そこなった。そしてその後、見そこなったその顔が、たえず彼女の目の前を去来する結果をもたらしたのだ。しかし、ネッドはそれを見てしまった。
閉じかけたドアにすがたはかくれていたが、誰かの手が――それはこの距離にしても、小ぶりのものだった――伸びていて、茶色の手袋をはめていた。この手が、ドアのわきのスイッチに触れている。指を曲げて、器用にスイッチを押すと、天井の中央の照明が消えた。そしてつづいて、把手《とって》の代わりに金属製のハンドルのついた白塗りの大きなドアが静かにしまった。
いまはデスクの上の、グリーンのガラス・シェードにおおわれた小型の電気スタンドだけが、左手のかべに押しつけるように据えてある表面の平らな大型デスクに、薄暗い光線を落としている。その光線が、デスクにひきつけた回転椅子までかろうじてとどいて、さらに、いつものように、モーリス・ローズ卿が横顔を見せて腰かけている。しかし、いまの卿は拡大鏡を手にしていなかった。いや、卿はそれを二度と手にすることができなくなっているのだった。
拡大鏡は、デスクの吸取紙の上においてあった。その吸取紙の上に――いや、デスクの上全体に――そこで打ち砕かれた何かの破片が散乱していた。無数の破片。奇妙な破片。透明な破片がピンク色にきらめいて、スタンド燈の光線を反射しているのが、バラ色に染まった雪を連想させた。破片のなかには、金もまじっているようだ。おそらく、ほかの物もあったであろう。しかし、色によって見分けることは困難だった。それというのも、デスクの上からかべにかけて、血しぶきが跳《と》んでいるからである。
イーヴ・ニールはそこに突っ立って、催眠術をかけられたように、動くことができずにいた。吐き気がのどもとにこみあげてくるが、目の前にしている光景を信じられない気持で、いつまでそうしていたかは、後日になっても思いだせなかった。
「ネッド、わたし……」
「だまって!」
モーリス・ローズ卿は、くり返しての打撃で、頭蓋を粉砕されていた。しかし、凶器は見えていない。卿の両膝がデスクの脚のあいだにはさまって、からだが椅子からすべり落ちるのを妨げている。あごを胸に押しあて、両腕をだらんと垂れ、絵具を塗りたくったような顔を、片頬から鼻の下へかけて、血が流れ落ち、いまは動かなくなった頭は、まっ赤な帽子をかぶっているように見えた。
以前はウェストミンスターのクイーン・アンズ・ゲートに、現在はラ・バンドレットのアンジェ街に住みついている勲爵士モーリス・ローズ卿は、このようにして世を去った。
新聞種の少ない時代のことで、多くの新聞がとりあげたことから、卿の死はイギリスのジャーナリズムにセンセーションをひき起こした。実際のところ、卿は忘れられた過去の人物で、爵位を授与された理由はもちろんのこと、その経歴を知る者はいくらもいなかったが、謎の死をとげるにおよんで、たちまち話題の種となり、卿についてのあらゆる事柄が関心の的となった。そしてジャーナリズムの調査の結果、卿の爵位は、古き時代の長年にわたる人道主義的功績への報賞であるのが知られることになった。スラム街の一掃、刑務所の改革、船員の待遇改善といった事業が、卿の活動の中心だった。
紳士録には、卿の趣味を、「骨董品の収集と人間性の研究」と記載してあった。つまり卿は、数年後にイギリス政府の財政を破産状態におとしいれた矛盾にみちた人々の一人であったのだ。これらの人々は、もちろん慈善事業に少なからぬ金額の寄付を行なうが、その一方、社会改良予算を増額せよと政府当局を攻めたて、彼自身は外国に住みつくことによって、所得税を納付する愚行を巧妙に回避する。ずんぐりした小柄な体躯《たいく》で、少し耳が遠く、口ひげと小さな顎ひげを生やし、自分の世界から一歩も出ずに暮らしていた。しかし、親切な人物として世間の評判がよく、明かるい性格が家庭内でも愛せられて、その人柄にふさわしい尊敬を受けていた。要するにモーリス・ローズ卿は、みずから任じるとおりの人物であったのだ。
このような老貴族を、何者かが練りあげた計画と凶悪な残忍性で、その頭蓋を打ちくだいて殺害したのである。その光景を、夜もまだ明けやらぬ時刻に、イーヴ・ニールとネッド・アトウッドの二人が、静まりかえった街路を見下ろす窓ぎわに立って、子供のような恐怖におののきながらながめているのだった。
イーヴとしては、スタンド燈が照らし出す血まみれな有様を見ているに耐えられなかった。そこで、窓の横手に身を避けて、二度と目を向けようとしなかった。
「ネッド、そんなところに立っていないほうがいいわ」
相手の男は返事もしなかった。
「ネッド、あの方はもしかすると……」
「そうだ。少なくともぼくには、死んでいるように思われる。ここからでは、たしかなことはわからないが」
「だけど、怪我をしているだけかもしれないわよ」
こんどもまた、彼女の相手は返事をしなかった。この二人についていえば、男のほうが、女以上にショックを受けているように見受けられた。しかし、それも当然のことといえる。彼は彼女が見なかったあるものを目撃していたのだ。茶色の手袋の男の顔を見ているのである。彼はなおもその場をはなれず、道路越しに書斎の内部をのぞきこんでいた。心臓の動悸がはげしく、のどが砂のように乾いていた。
「|ねえ《ヽヽ》、|怪我をしているだけかもしれないわよ《・・・・・・・・・・・・・・・・・》!」
ネッドは咳ばらいをして、「というのは、ぼくたち二人でたしかめに行くべきだと……?」
「いいえ、たしかめに行くわけにはいかないわ」イーヴは小声でいった。彼女のおかれた立場のおそろしさに思いあたったのだ。「行ってみたくても、わたしたちには――」
「いや、ぼくは――ぼくは行ってみる気なんかないんだぜ」
「それにしても、どんなことが起きたのかしら?」
ネッドは何かいいかけたが、口をつぐんでしまった。この状況は、善悪いずれにせよ、現実とは思われない。言葉も役に立たなかった。彼は、はげしく手をふって、何かの凶器をふり下ろすパントマイムを演じてみせた。二人とも声がかすれて、ささやき以上の声を出そうとすると、言葉が鳴りひびいて、煙突のなかでしゃべるようにこだまするかに感じられて、あわてて口をつぐむ始末だった。ネッドはもう一度咳ばらいをして、
「何か見る道具がないか? 競馬用の双眼鏡かオペラグラスといったものだが」
「どうなさるの?」
「なんでもいい。あるのかないのか?」
双眼鏡――イーヴは窓のそばのかべによりかかって、身をこわばらせながら、その点に思考を集中させた。競馬用の双眼鏡。競馬場。ロンシャン競馬場。彼女がローズ一家と連れだって、ロンシャン競馬場へ出かけたのは、つい二、三週間前のことだ。はなやかな色彩と騒音の記憶がよみがえった。ベルの音、色とりどりの騎手服、白い柵に沿って走りすぎるサラブレットの流れ。そのすべての上に、明かるい太陽がかがやいていた。モーリス・ローズ卿はグレイのシルクハットをかぶって、双眼鏡を目からはなさなかった。ベン伯父は例によって、むやみに賭けては、むやみにすっていた。
なぜネッドが双眼鏡をほしがるのか、その理由が想像もできぬままに、考えてみることもしないで、イーヴは暗闇のなかを、つまずきながら部屋を横切って、脚付きタンスに向かっていそいだ。そして、いちばん上の引出しから、革ケースにはいった双眼鏡をとり出すと、ネッドの手に押しつけた。
いまは真正面の部屋の内部は、天井中央の照明が消えていることから、かなりの暗さにおおわれているが、ネッドが双眼鏡を右側の窓に向けて、焦点をあわせる小さなホイールを動かすと、室内の一断面がくっきりした形をとって、彼の視野にとびこんできた。
右手のかべと暖炉のマントルピースが、ななめに見てとれる。マントルピースは白大理石で、その上の壁面に、ナポレオン皇帝の肖像を打ち出したブロンズ製の円牌《えんぱい》がかかっている。暑熱の八月とあって、当然のことながら暖炉は使用していないので、つづれ織りの布を張った小さな衝立でかくしてあった。しかし、火格子のわきにおいた台に、真鍮の頭のついた火掻き棒、シャベル、火ばしのたぐいがおいてあった。
「ひょっとしたら」彼がしゃべりだした。「あの火掻き棒が……」
「火掻き棒がどうかしたの?」
「まあ、この双眼鏡でのぞいてみたらいい」
「そんなこわいこと、できないわ!」
そのおそろしい一瞬のうちに、イーヴは彼から、面と向かって嘲笑されるかと思った。しかし、ネッド・アトウッドにしても、このような重大局面を前にしては、いつもの皮肉屋でいられるものでなかった。その顔にしたところで、濡れ紙のようにまっ青《さお》であり、双眼鏡をケースにしまいこむ手もふるえていた。
「健全な家庭でも、こんなことが起きるんだな」と彼は、骨董品のあいだに前のめりになっている血みどろの死体をあごで指し示して、
「たしか君は、健全そのものの家庭だといってたね」
イーヴののどもとに、何かのかたまりがこみあげてきて、息が詰まるような気持になった。「あなた、誰かのすがたを見たといってたわね?」
「そうだ。そういったよ」
「押し込みが、あのご老人をなぐりつけるところを見たの?」
「いや、なぐっている現場を見たわけじゃない。そうではなくて、ぼくがのぞいたときは、茶色の手袋が仕事をすませたあとだった」
「では、何を見たの?」
「茶色の手袋が、仕事を完了して、火掻き棒を台にもどすところだった」
「その押し込みに、こんど会ったら、見分けがつくの?」
「その言葉は使わんほうがいいよ」
「どの言葉を?」
「押し込みという言葉」
道路をへだてた書斎で、もう一度、ドアがひらいた。
しかし、こんどのそれは、人目を忍ぶ様子がなかった。ドアは思いきったように、いきおいよくひらいた。そしてその隙間からあらわれたのは、まぎれもないヘレナ・ローズ老夫人の不格好なすがただった。
照明はたよりないものであったが、ヘレナの行動と身ぶりは、すぐそこに立っているように、はっきりと見分けられて、彼女の心のうちの考えまでが読みとれそうに思われた。ドアをひらくにあたって、くちびるが動いた。推理によってか、読唇術によってか、あるいはその両者の結合でか、見まもる二人には、彼女のしゃべった言葉が聞きとれた気がした。
「モーリス、もうおやすみになる時間よ!」
ヘレナ――彼女のことを、レディ・ヘレナといった貴族の夫人のような呼び方をする者はなかった。見るからに頑健そうな体格の女で、背の高さは中ぐらい、快活そうな丸顔で、シルバー・グレイの頭髪を短めに刈りこんでいた。きらびやかな東洋風のキモノすがたで、両手を袖のなかにかくし、スリッパの音を遠慮|会釈《えしゃく》なく立てて歩く。戸口で足をとめて、もう一度、何かいってから、天井中央のシャンデリアにスイッチを入れた。それから、両袖をかき合わせるようにして、スリッパをばたばたいわせながら、背を向けている夫に歩みよって、話しかけようとした。
ヘレナは近眼のこともあって、夫のからだに触れそうになるまで近づいていった。窓のひとつを通りすぎるとき、彼女の影が揺れながら、外の街路に落ちた。そして、そのすがたがかくれたが、すぐに第二の窓にあらわれた。
結婚してから三十年、そのあいだヘレナ・ローズは、とりみだしたところを他人に見せたことがなかった。それだけに、彼女が背後にとびのいて、けたたましいさけびをあげたのは、神経をおののかせずにはおかぬできごとだった。甲高い悲鳴がいつまでもつづいて、深夜の静寂をひき裂き、街筋をつらぬいてひびきわたり、どこの家のどこの部屋に眠っている者も起きあがらずにはいられない、すさまじさだった。
イーヴ・ニールは低い声でいった。
「ネッド、あなたは早く帰ったほうがいいわ。いそいで!」
しかし、相手の男は動こうともしなかった。
イーヴは男の腕をつかんで、「ヘレナがわたしを呼びにくるわ! あのひとはいつもそうなの。それから、警察も呼ばれるわ。いくらも経たないうちに、この付近は警察官でいっぱいになるのよ。いまのうちに出ていかないと、わたしたちはおしまいよ」彼女の声は恐怖の|うめき《ヽヽヽ》に変わっていった。そして、男の手をゆすりながら、「ネッド、さっきのいったことを、実行するつもりではないでしょうね? 大声にわめきたてて、わたしたちの将来を台なしにしてしまうってことをよ」
彼は両手をかかげて、関節の太い指で目の上を押した。肩を前に落として、
「いや、そんな気持があったわけじゃない。とりみだして、心にもないことをいっただけだ。すまなかったね」
「では、帰ってくださるのね?」
「帰るとも、イーヴ。心配させて悪かったよ」
「あなたの帽子はベッドの上にあるわ。こっちよ」彼女はベッドに歩みよって、その上を手さぐりでさぐり、羽根ぶとんをたたき、「暗いから、気をつけて降りてね。明かりをつけるわけにいかないのよ」
「なぜさ?」
「イヴェットよ! 新しく雇い入れた女中よ!」
年をくっているが頭が働き、動きは鈍いが、よく気のつくイヴェットのすがたが、彼女の心に浮かんできた。不必要な言葉はいっさい口にしないのだが、その動きのひとつひとつが、何事かを語っているように思えた。トビー・ローズにたいしても、イーヴには理解できないおかしな態度をとった。イーヴの目に映ったイヴェットの存在は、ゴシップの根源である世間を象徴するものであった。彼女はとつぜん、公廷で証言台に立たされたおのれのすがたを思い浮かべた。
「モーリス・ローズ卿が殺されたとき、わたしの部屋には男がいました。でも、わたしとその男とのあいだには、淫《みだ》らな行為はいっさいありませんでした」
彼女がそのように証言すると、廷内のあちこちに忍び笑いが起こり、それがついには、ロケット爆弾のように、哄笑となって爆発する……。彼女は、声を大きくしていった。
「イヴェットはこの上の階に寝ているの。目をさましているにちがいないわ。いまの悲鳴で、町全体の人が目をさましたはずですもの」
その悲鳴は、いまだにつづいていた。イーヴはふと、いつまでも老夫人がさけびつづけられるものかとあやしんだ。そして帽子をさぐりあてると、ネッドのほうへ投げやった。
「しかし、イーヴ。ぼくは聞いておきたい。正直にいってくれ。君はほんとうに、あのおどろくべき薄のろが好きになったのか?」
「おどろくべき薄のろって、誰のこと?」
「きまっているじゃないか。トビー・ローズのことさ」
「まあ! そんな話をしている場合じゃないでしょう?」
「死んでしまってからなら別だが」と、ネッドがいい返した。「生きているあいだは、恋愛話くらい、おもしろいものはないんだぜ」
そしてネッドは、いまだに動きだす気配を見せなかった。イーヴは彼女自身が悲鳴をあげたい気持だった。そして、両手を閉じたりひろげたり、痙攣的な動作をつづけて、できることなら、意志の力でこの男を、肉体的な力を用いると同様に、ドアの外へ押し出したいと願っていた。
道路の向こうでは、ヘレナのさけびがようやくに止まって、あとは鼓膜に、音のない真空だけを残した。そして、なぜか彼女は、無意識のうちに、いそぎ足に駆けつける警官の足音を待っていた。そのあいだ、窓の外へ素早い視線を投げると、警官のすがたとは別のものが目にはいった。
ヘレナ・ローズのほかに、二人の者のすがたが加わっている。一人は娘のジャニス、一人は夫人の兄のベン伯父だった。二人は室内の光線に目がくらんだような格好で、ドアからはいってきた。ジャニスの赤毛と、ベン伯父の大ぶりな顔に浮かんだ面喰らったような表情が見てとれた。深夜の静寂のうちに、言葉がきれぎれに、道路越しに聞こえてきて、それがしだいに大きくなっていく。
ネッドの声が、イーヴをわれに帰らせた。
「しっかりするんだぜ! しっかりしないと、君自身がヒステリーを起こしかねない。冷静にかまえて、つまらぬ心配をしないことだ。ぼくは彼らに見つかるようなへまはしない。裏口からこっそり帰っていく」
「帰る前に、鍵を返して」
彼は何の話かというように|まゆ《ヽヽ》をあげたが、イーヴは追及をやめなかった。
「わからない顔をすることはないわ。あなたにこの家の玄関の鍵を持っている権利はないのよ。返してちょうだい!」
「ことわるよ。鍵は当分、ぼくが持っている」
「さっき、すまなかったといったのは誰? あなたに少しでも思いやりの気持があるのなら、今夜わたしをこんなに困らせた埋め合わせに、返してくれてもいいのじゃなくて……?」そして、目で見たわけでないが、ネッドがためらっている様子を感じとった。彼は他人を困らせたときには、いつも後悔の表情を示すのだった。「もし、返してくださったら、たぶんわたし――もう一度、あなたにお会いするわ」
「ほんとうか?」
「鍵を返して!」
その一瞬あと、彼女はつまらぬことをいったと、後悔しはじめていた。キイ・リングから鍵をとりはずすのに、ネッドは信じられないほど手間どっているのである。彼女がもう一度会ってもよいといったのは、もちろんその気があったわけでなく、頭が混乱したあまり、何かを約束しないことには、返してもらえないと思いこんでいたからだ。しかし、けっきょくはそれを受けとって、パジャマの胸ポケットにしっかりとしまいこむと、ネッドをドアのほうへ押しやった。
二階の廊下は音ひとつしないうえに、ほとんど暗闇といってよい状態だった。三階に寝ているイヴェットも、どうやら起き出していない様子である。廊下の奥に、カーテンを下ろしてない窓が一つあって、そこから差しこむわずかな光が、手さぐりに階段へ向かうネッドの輪郭をかろうじて見せている。イーヴには、もう一つだけ聞いておきたいことが残っていた。
イーヴはこれまで、不快なことは避けるように心掛けて生きてきた。いまも彼女は、白いかべと金|鍍金《めっき》をして紡錘形の調度品をそろえ、けばけばしいばかりで安手な感じのただよう部屋のなか、火掻き棒で殴殺《おうさつ》されたモーリス・ローズ卿のイメージ、その背後に浮かびあがった犯人の顔、そのような不愉快なもの、ないしは恐怖そのものを、忘れてしまいたい気持でいっぱいだったが、こんどにかぎって、それができなかった。おそらくそれは、彼女の生涯についてまわるのではないか。町役場の大時計塔が目に浮かんできた。その建物には、警察署が同居していて、彼女は署長のゴロン氏の顔を思い出し、灰色の夜明けと、首をたたき切るギロチン台のことを考えた。
「ネッド、あれ、やはり押し込みだったのね」
ネッドは急にいいだした。「それが、何だかおかしいのだ」
「おかしいとは?」
「ぼくが今夜、この家へ忍び入ったとき、この廊下は、君の帽子の黒さにおとらず、まっくらだった。あの窓のカーテンが引いてなかったことは誓っていえる」と、廊下の奥の窓を指さした。考えているうちに、その記憶が確信に強まった。「だからぼくは、階段の上のところでつまずいた。絨毯押さえがゆるんでいるのに気づかなかったからだ。しかし、少しでも光線が差しこんでいたならば、つまずかないですんだと思う。いったいここでは、何が起きたのだ?」
「ネッド、わたしの言葉をはぐらかさないで。あれは押し込みの仕業《しわざ》なんでしょう?」
彼は大きく息を吸って、
「事実は押し込みでないことは、君自身が知っているはずだ」
「押し込みではなかったというの? そんなこと、信じられないわ!」
「ぼくの天使、ばかなことをいわんでくれ」彼はばく然といった。イーヴには、彼の目を見ることができた。それは、くらがりのなかでも、光りかがやくばかりだった。
「よりによってこのぼくが、弱い者を守るために働くことになろうとは、考えてもみなかった。しかし、君は、ぼくの君は……」
「わたしがどうしたの?」
「君は一人でいてはならないのだ。それだけのことさ」
二人の足もとに、急傾斜の螺旋階段が、暗黒の穴をあけていた。ネッドはその手すりに、まるで、それをもぎとらんばかりのいきおいで、片手をおき、こぶしを握りしめることで、かろうじて平静を保ちながら、
「いおうかいうまいか、さっきから迷っていたところだが」と、しゃべりだした。「あえていうと、ぼくは道徳をうんぬんする|がら《ヽヽ》ではない。性道徳についてはなおさらのことだ。しかし、この情勢を見て、これがいまに始まったことでないのに気がついた。かつて、その話を聞いたときは、大笑いをしたものだが、たまたま思い出してみると、現状とそっくりなんだ。ヴィクトリア女王時代に起きたことなんだがね」
「いったい、なんのお話し?」
「君は覚えていないか? 話はだいたい百年以前にさかのぼる。ウィリアムなんとかという貴族が、自分の従者に殺された事件があった」
「でも、お気の毒なモーリス卿は、従者なんか使っていなかったわ」
「言葉どおりに受けとることはないんだよ」ネッドはいった。「想像力を働かすことだ。子供みたいなことをいってると、ひざの上に載せて、尻をひっぱたいてやるぜ。それはともかく、この話を聞いたことがないかね?」
「ないわ」
「殺人の現場を向こう側の家の窓ぎわに立っていた男が目撃したらしいのだ。ただこの男は、その事実を証言して、犯人を摘発するわけにいかなかった。なぜかというに、その男がいたところは、既婚の婦人の寝室で、彼のはいってはならぬ場所だったのだ。そして、無実の男が殺人犯人として逮捕されることになったが、それを知った寝室の男は何をしたと思う?
もちろんこの話は仮空な作りごとだろう。その事件では、犯人の正体はまったく疑う余地がなかったのだ。しかし、この話はまことしやかに伝えられてきた。つまり、男女関係のやかましかったヴィクトリア朝時代のことで、おかしな立場におかれて、しかもそれを容認することのできない男女の窮境が、世間の人たちをおもしろがらせたのだな。ぼくはこれまで、これを喜劇的シチュエーションの一つと考えてきた」
そしてネッドは、そこで少し間をおいてから、つけ加えた。
「しかし、それはおかしな立場なんてものではない。おかしいどころか、おそろしい状況なんだ」
「ネッド、誰がやったの? 誰が殺したの?」
しかし、彼女の相手は昔の事件の古い問題に気をとられて、いま起きた事件の新しい問題についての彼女の質問は、耳にはいらない様子だった。あるいは、わざと聞こうとしなかったのかもしれない。
「ぼくの記憶に誤りがなければ、誰かがこの事件をテーマに、劇を書いたはずだ」
「ネッド、後生だから、犯人の名をいって!」
「まあ、待ちたまえ。ぼくの話を聞くことだ。このほうが重大なんだぜ」彼女は薄くらがりのなかで、彼の白い顔をみつめていた。「その劇では、問題点を回避していた。そのあわれな間抜け男は、匿名の手紙を警察に書き送って、殺人犯人の名前を告げ、それで事件が片づくものと思ったらしい。もちろん、そんなことで片づくわけがない。その難局から抜け出せる唯一の道は、公判廷に立って、真犯人を告発する証言を行なうことにあるのだ」
法廷という不吉な言葉に、イーヴはまたしても彼の腕をつかんだ。しかし彼は、彼女に心配することはないといってきかせた。そのとき彼は、階段を降りかけていたのだが、ふり返って、彼女と向かいあった。そのあとの二人の会話は、他人《ひと》に聞かれまいとするひそひそ声のうちに、悠然とかまえている相手に、いそがねばならぬ情勢を説明するのだが、気持がはやればはやるほど、声をさらに低くしなければならなかった。
「さっきからいってるように、心配しなくていいんだ。君はこの事件に巻きこまれるおそれはない。ぼくがうまくやってのける」
「まさか、警察に話しに行くんじゃないでしょうね?」
「ぼくは誰にも、しゃべりはしない」
「でも、わたしには話してくれていいはずよ。誰がやったの?」
彼は彼女の手をふりほどいて、さらに一歩降りた。向かいあったままなので、あとじさりする格好で、左手で手すりを押さえていた。その顔に、歯だけが光って、暗い霧のなかに消えていく感じだった。
そのとき、イーヴの心にひらめいた考えは、疲れすぎた神経だけが産み出すいまわしい憶測だった。
「いや、それはちがう」ネッドは否定した。腹立たしいことだが、頭の鋭いこの男は、彼女の心を読みとるのに妙を得ているのだ。「つまらん想像で、君自身がいらいらすることはない。あの家族の一人ではないのだから」
「誓ってそういえるの?」
「いえるとも」ネッドは答えた。「その点、誓ったっていい」
「わたしに気をもたせて、楽しむつもりじゃないでしょうね?」
ネッドはことさらに、おだやかな口調でいった。
「その正反対だ。ぼくは君を真綿にくるんでおこうと考えている。君はもともと、そういった女性なんだ。君に会った男はみんな、そのように考える。しかし、それにしてもだ! この世の現実を見る君の目が甘すぎるのにはおどろかされる。君はもう少女じゃないし、人生経験だってある程度積んでいるはずだのに、世の中を甘い純真なものと信じきっているんだな。だが、それはまあ、いいとして」と、息を深く吸い込んで、「君が気にしている男の件だが、おそかれ早かれ、耳にすることになるはずだ」
「待っていられないわ。早く話して」
「最初、ぼくたちがあの部屋をのぞいたときのこと……覚えているかね?」
覚えていないわけがない。忘れようとしても、そのときの光景が目についてはなれないのだ。ネッドの視線を意識すると同時に、左手のかべにくつけて据えた大型のテーブル・デスクが目の前に浮かんできた。そして、小さな顎ひげを生やしたパパのローズ氏が拡大鏡を手にしているすがた。それは幾度も見たものだが、今夜のそれは、頭に血の帽子をかぶっていた。いま、その上に影がちらちらして、輪郭をゆがめている。
「最初にのぞいたとき、老人といっしょに誰かいるようだと、ぼくはいった。しかし、誰であるかは、ぼくにはわからなかった」
「それで」
「ところが、二回目にのぞいたときは、電燈が全部かがやいて……」
イーヴは彼のあとから、階段を一歩降りた。しかし、彼女には、手を伸ばして、彼にはげしい突きをくれる気持など、まったくなかった。そのダメージをあたえたのは、とつぜん、警官の呼子が鋭くひびきわたったからなのだ。
街路に、呼子が吹き鳴らされて、殺人事件の発生を告げ、それが聞こえる距離内の警察官全員に、押し込み強盗の追跡に移れと命じているのだった。呼子の音はくり返され、ひらいた窓を通して、はっきり聞きとれた。イーヴは盲目的なショックにおそわれて、少しも早くネッドを階下に降りさせ、この家を立ち退《の》かせることのほか、何も考えられなかった。彼を押しやり、家の外へ踏み出させれば、それで彼女自身が殺人騒ぎに巻きこまれる危険をのがれられる。
ネッドは声を立てるひまもなかった。イーヴに押されたとき彼は、階段の吹抜けに背を向け、踵は段の端の外に出し、左手を手すりに軽くあてがっているだけの不安定な姿勢だったのだ。よろめいて、あぶないじゃないかと怒りの声をあげ、一足うしろにさがったとたん、ゆるんだ絨毯押さえに、全身の重みがかかった。そしてイーヴが、阿呆のように目をみはった彼の顔を見た瞬間、まっさかさまに階段を落下していった。
人間のからだが、首の骨を折るような急傾斜の階段を、とび跳ねるばかりのいきおいで、十六段も転げ落ち、そのあげく頭を思いきり階段下のかべにたたきつけたとあっては、家鳴り震動にちかい音を立てるのが当然のことである。
しかし、イーヴは後になってひじょうに小さな音しか思い出せなかった。それはおそらく、彼女の受けたショックがはげしすぎたからであろう。それとも、すさまじい音響を予期して、彼女の神経が麻痺していた結果であろうか。それはともかく、ネッドのからだが落下していったのと、彼女が階段を駆け降りて、階段下に倒れている彼のからだのそばに、息を切らせながら、かがみこむまでのあいだに、時間のひらきはほとんどなかったともいえるのだ。
ネッドを傷つける意図は、彼女にまったくなかった。みめうるわしく、性質も善良なうえ、動作のしとやかさとあふれるばかりの性的魅力をかねそなえた女性が、たとえどのような行為に出たにしても、そこに邪悪な動機を疑われるおそれはないのであった。もちろん、現在の彼女が、おそろしいスキャンダルの渦中に生きている事実は、彼女自身がじゅうぶんに承知していた。それでいて彼女は、なぜそのスキャンダルをのがれることができなかったか、その理由を分析してみようとは考えてもみなかった。そして、起きたことは仕方がないと、あきらめに似た境地で毎日を送っていたのであった。
しかし、いまはイーヴの胸の|うずき《ヽヽヽ》がよみがえって、ネッド・アトウッドを殺してしまったものと思いこんだ。螺旋階段の下は、ネッドに歩みよるにあたって、そのからだにつまずいたほどの暗さだった。これこそ、夢魔の最後にふさわしいできごとで、いっそ玄関の扉をひらいて、大声に警官を呼び入れようかと考えかけたとき、死体と見ていたものが動きだし、何やら口をききだした。それを知った彼女は、ああ、よかった! 救われたとの安堵感から、泣きだしたいような気持になった。
「どんな量見で、こんなあくどい|まね《ヽヽ》をした? なんでぼくを突き落とした?」
安堵感の波が、船酔いを起こす波のようにすぎていった。
「立ちあがれるの? 怪我は?」
「いや、大丈夫。怪我はしていない。頭が少しぐらぐらするが、大したことでない。いったい、何があったのだ?」
「しーっ! 大きな声を出さないで!」
ネッドはそこに這いつくばって、少しからだをゆすってから、どうにか立ちあがることができた。声もいつものものと、ほとんど変わりがなく、いくらか言葉がもつれるだけだ。イーヴは身をかがめて、彼が立ちあがるのに手を貸しながら、その顔に触れ、彼の頭髪を両手でなでた。そしてそこに、ぬれた血がこびりついているのを知って、思わず手をひっこめた。
「怪我をしているわ!」
「ばかな! ちょっと頭を打ったが、それだけのことだ。しかし、おかしな気持がするよ。肩のあたりが、とくにおかしい。それにしても、ひどく転げ落ちたものだ。どんな気持で、ぼくを突き落とした?」
「あら、顔に血がついているわ! マッチを持っていて? ライターでもいいわよ。つけて見るわ」
そこでちょっと間があって、「鼻血だよ。感じでわかるんだが、それもまたおかしい。鼻をぶつけたとも思えんのだが。とにかく心配はない。ライターなら持っている。ほら」
ライターの小さな焔が燃えあがった。彼女はそれを受けとって、ネッドがハンケチを探しているあいだに、高くかかげて彼の顔を見た。しかし、髪が乱れているのと、上着がほこりだらけなのを除けば、格別異常があるとは見えなかった。ただ鼻血がおびただしく流れ出ている。そしてイーヴは、彼女自身の手にも血がついているのを知ると、一瞬、身ぶるいをした。だが、ネッドは手ぎわよく血止めの手当をすませて、ハンケチをポケットにしまいこんだ。そして、帽子を拾いあげると、塵《ちり》をはらって、頭に載せた。
そのあいだずっと、ネッドの顔には、かすかではあったが、何か腑に落ちないといった暗い表情がただよっていた。幾度となくくちびるをなめ、つばをのみこみ、異様な味を吟味するかのように、頭をふり、肩を曲げる動作をくり返した。やや青ざめた顔に、うつろにみひらいたブルーの眸《ひとみ》。くちびるをすぼめて突き出しているのが、何かに意識を集中して、考えこんでいる様子だった。
「ほんとうに大丈夫なの?」
「完全に大丈夫だ。ありがとう」彼は彼女の手からライターをもぎとるようにして、火を消した。その動作に、過去の彼が示したはげしく短気な性格の片鱗がちらっとひらめいた。「しかし、おかしい。まったくおかしい。つい数分前、君はぼくを殺そうとした。そのくせいまは、ぼくをここから逃げのびさせようとしている」
そうだ。これがかつてのネッド・アトウッドだ。彼女をおびやかしていた者の幽霊だ。少しのあいだ、彼女はそのような考えに気をとられていた。
無言のうちに、二人は台所にはいって、裏手のドアから、まだ夜の明けはなれていない外へ出た。スプリング錠は彼女があけた。そこから、石の階段を数段のぼると、高い石塀にかこまれた田園風の小さな庭に出られる。石塀に切ってある裏木戸の外はせまい小路で、それがブールヴァール・ド・カジノの大通りに通じている。
裏口のドアは、完全な静寂のなかで、|きしみ《ヽヽヽ》の音を立てた。湿った草とバラの花の匂いに満ちたあたたかい夜気が、まぶたに重く触れて、眠気をさそってくる。屋根屋根のはるか上を、大燈台の投げる光がきらめいて、二十秒ごとに夜空を掃いては消えていく。二人は裏庭に通じる石段の下で、少し足をとめた。玄関前の街路に、人声がざわめいているのは、警官隊が到着したのであろう。
イーヴは男の耳もとで、はげしくいった。「ネッド、ちょっと待って。さっきのあなたの話、終っていなかったわ。誰があんなことを……」
「では、おやすみ」アトウッドはことさらに、いんぎんな口調でいった。
そして、前こごみの姿勢になると、気のないような動作で、彼女のくちびるの上に、おざなりなキスをした。彼女はまたしても、血のにおいを感じた。ネッドは帽子に手をやってから、ふり向いて、石段をのぼっていった。そこでは歩調が少し乱れていたが、裏庭を横切って木戸に向かう足どりはしっかりしたものだった。
見送っているイーヴの心は、不安のあまり、さけび立てたい気持に駆られていたが、ネッドのうしろから声をかける勇気はなかった。そこで、彼女もつづいて、石段を駆けのぼった。ネグリジェの腰帯がまたしてもゆるんできたが、それにはかまわず、気ちがいじみたしぐさで、彼の背後に手をふった。しかし、彼は気がつく様子もなく、彼女は彼女で、自分の動作に熱中していたことから、裏口のドアがかすかな音を立てて閉まるのを聞きもらした。
ネッドが塀の外へ出てしまえば、危険は去るものだと、彼女は考えていた。これでふたたび、自由の息をすうことができる。発見されはしないかとの、息づまるばかりの恐怖感から、ようやく開放されることになるのだ。
しかし、事態は平常にもどってくれなかった。イーヴは、ばく然とだが、彼女自身には名付けることのできぬ源泉から、不安が湧きあがってくるのを意識していた。その源泉がネッドにあることは想像できる。彼女の知っている彼は、皮肉な笑いをたたえて、何をするでもなく遊び暮らしている悪戯《いたずら》っ児めいた男であったのに、いかなる魔法の力によるものか、異常なほどに礼儀正しく、どこか超然として、少し無気味な人物に変わっていた。夜があけかかるころには、その無気味さも薄らぐと思っていたが、いざ、朝となってみると……
イーヴは深く息を吸った。ふたたび、忍び足で石段を降り、裏口のドアに手をかけてみて、彼女の動きがピタッと止まった。ドアが閉まっている。スプリング錠が内側から下りているのだ。
およそこの世のあらゆる人々に、することなすこと、すべて思うようにいかない日が、その原因もわからぬままに訪れるものだ。どうやらそれは、男よりも女が経験しがちのようで、最初は朝食のために揚げていた卵がくずれるといった単純なことから始まる。破局というほどの問題ではないが、婦人にとってはいやらしいことなのだ。つづいて客間で、何かの品をこわす。そのあとはトラブルの連続である。家庭内の紛糾や混乱が、寒いあいだの数週間を冬眠していた蛇が目をさましたように、急にうごめきだして、生命のない物体に底意地わるい悪魔が憑《つ》いたかと思われる。怒ってみても、絶望してみても、どうなるものでなく、とまどった気持で、「こんなひどい目にあうような悪いことをした覚えはないんだけど」と、口のなかで、つぶやくだけなのだ。
それがいまのイーヴの気持で、ドアの把手《とって》をはげしくひっぱっても、スプリング錠がひらくわけがない。
それにしても……
ドアがどうして、ひとりでに閉まったのかしら?
風はまったく死んでいた。夜の戸外は、彼女が考えていたよりはるかに涼しかったが、美しく澄んだ星空と庭の木々の下に、動くものは何一つなかった。
それもいまは問題でなかった。このようないまわしいできごとが、一時におそいかかってくるように、残酷な運命が定めているとしたら、その理由を考えてみたところで、意味のないことだ。それは起きるから起きたにすぎない。彼女が考えなければならぬのは、屋内にもどる方法だけであった。この瞬間にも警官がやってきて、彼女のすがたを発見しないものでもないのだ。
ドアをたたこうか?
そして、イヴェットを起こそうか? しかし、見るからに冷酷そうなイヴェットの顔を思い浮かべただけでも、躊躇させられる考えだった。小さな黒い目がきらきら光り、はげちょろけの毛皮のようなまゆが、ひたいの中央でくっつきあい、怒りに似た不快感をおぼえさせる顔なのだ。そして、容貌の点はおくにしても、彼女はこのイヴェットに、われながら理由のわからぬ恐怖を抱いていた。しかし、女中を起こさずに、どうやったら、家にはいることができる? 窓は利用できなかった。階下の窓は、毎夜、内側から鍵をかけて、鎧戸を下ろしてある。
イーヴはひたいへ手をあてて思案した。すると、またしても、手が血にぬれているのを意識して、いそいでその手をひっこめた。ネグリジェの汚れも気になるので、あらためようとしたが、なにぶんにも外は暗すぎた。ネグリジェの前の部分をあらためるために、比較的汚れの少ない左の手で、そこをつまんでみたとき、パジャマのポケットに、ネッド・アトウッドからとり返した玄関の鍵が入れてあるのに気がついた。
心の一方では、表の道路は警官でいっぱいだ! 玄関へまわるくらい危険なことはない! とさけんでいる。しかし、その一方には、高い石塀が隠してくれるから、道路からは見られなくてすむ、とささやいている声もある。とにかく彼女には、家の横手へまわることができた。そして、音さえ立てなければ、誰の注意もひくことなく、玄関から屋内にはいることができるのだった。
その方針をきめるまでに、ある程度時間がかかった。一秒すぎるごとに、寝巻姿で家の外に立っている現状が強く意識されて、けっきょく、やるだけのことをやってみようと肚《はら》をきめた。建物の外壁にぴったり身をよせて、息を殺し、前庭へ出ていった――そしてそこで、トビー・ローズと顔をあわせる羽目になった。
道路を横切って、トビーが近づいてくる。まだいまのところ、彼女のすがたは見られていない。それが唯一の幸運だった。
予想どおり、ローズ家の人々は彼女を求めている。その役目を引き受けたトビーが、パジャマの上に長いレーンコートをひっかけて、道路を横切り、ミラマール荘の門に手をかけようとしていた。
表道路に面した石塀はだいたい九フィートの高さがあって、鉄格子のはまったアーチ型の門をそなえている。アンジェ街の街燈が、高いところからぼんやりした光を投げて、マロニエの枝々を青白く染めあげている。イーヴの家の前庭は暗い影の底に沈んでいるが、門の外に立ったトビーのすがたは、街燈の光を浴びて、明かるく浮きあがって見えた。アンジェ街が警官でいっぱいだとはイーヴの思いすごしで、げんに彼女が発見される危険を救ってくれたのは、この地区を受け持っている巡査だった。トビーが門まで行きついたとき、その背後で、興奮した声がさけんだ。
「待ちなさい、若い人!」声はフランス語でさけびたてた。「そんなところで、何をしていなさる? この家のイギリス婦人を訪ねなさるのか? え? どうなんだね?」
質問の調子をしだいに高め、足を踏み鳴らすようにして近づいてくる。
トビーはふり返って、両手を大きく拡げ、フランス語で答えた。彼のフランス語は流暢なものだが、どこか気障《きざ》な感じのするしゃべり方をする。イーヴはときどき考えることがあった。彼は自分のフランス語がどんな外国人にも負けないところを見せるために、わざといや味なしゃべり方を身につけたのではないかと。
「ぼくはマダム・ニールの家を訪ねるだけだ!」とどなりかえして、門をたたいた。
「いかんのです、ムッシュー。あんたは家から出るのを許されておらんのです。もどりなさい。さあ、早く、早く、早く!」
「しかし――」
「もどるんです、早く! ばかなまねはせんことですぞ!」
トビーはうんざりした顔つきで、憤激の身振りをしてみせた。イーヴが鉄格子のあいだからのぞいていると、彼が街燈の光の下でふりむいたので、短く刈りこんだ口ひげと茶色の柔らかな髪を持った顔がはっきり見えるようになった。いつもはおだやかなその顔が、いまは緊張しきって、彼自身ではどうにもならぬ強い感情にゆがんでいる。トビーはこぶしをふりあげた。彼の苦悩のすさまじいまでのはげしさは、誰の目にも明らかで、ましてイーヴには、疑う余地のないところだった。
「ムッシュー・アンスペクトール」と、トビーは呼びかけた。フランス語のアンスペクトールは英語のインスペクターとおなじ言葉だが、イギリスで警部を指すのとちがって、フランスでは平巡査の意味なのだ。「ぼくの母のことを考えてみてくれたまえ。母は二階で、半狂乱の状態にある。君はそれを見たはずだ」
「おお!」とだけ、巡査はいった。
「その母が、マダム・ニールを連れてくるようにといっている。母をおちつかすことができるのは、マダム・ニールただ一人だからだ。それにぼくは、無断で姿を消すわけでない。彼女を迎えにきただけなんだ」そして彼は、またも門をがたがたいわせ始めた。
「どこへも行くんじゃありませんぞ、ムッシュー」
「父が死んだというのに、すがたを消してどうなるものか……」
「この地区で殺人が行なわれたにしても、わたしの罪じゃない」巡査は怒ったようにいった。「ラ・バンドレットで殺人事件! これはたいへんなことだ! ゴロン署長の気持が察しられる。カジノで起きる自殺だけでうんざりしておるのに、殺人事件まで起きてはね」そこで、巡査のしわがれ声が、絶望的に高まった。「これはいかん! また一人やってくる!」
巡査の新しい苦痛は、またしても近づいてくる足音によるもので、こんどのそれは、ばたばたと道路を鳴らして駆けだしてくる。その足音の主は、目のさめるような緋色のパジャマ姿のジャニス・ローズで、門のところで二人といっしょになった。長めに結ったふさふさした明かるい赤毛が、パジャマの緋色と死人さながらに青ざめたかわいい顔とに、きわだったコントラストを示している。ジャニスは今年二十三で、小柄でふっくらしたからだつき、きりっとしまった顔かたち、元気がよすぎて、意地っ張りな感じをあたえ、要するに、十八世紀風の容姿と、(ときには)十八世紀風の堅実さを偲《しの》ばせる娘であった。その彼女が、いまは魂がぬけたような顔つきで、泣き声をあげそうな格好でいる。
「どうかしちゃったの?」彼女はトビーに呼びかけた。
「イーヴはどこにいるのよ? こんなところに突っ立っていてはだめじゃないの」
「つまりこの間抜け野郎に……」
「止められたからひっこむの? わたしだったら、おとなしくひき退《さ》がらないわよ」
巡査はあきらかに、英語が理解できた。ジャニスは門の鉄格子から、なかをのぞきこんだ。それでイーヴの目と、真正面から出会ったわけだが、なかは暗いので、イーヴのすがたを見ることができなかった。ちょうどそのとき、また新しく呼子が鳴りひびいて、彼ら三人の神経をくすぐった。
巡査が厳然たる口調でいった。「あの呼子は、われわれの仲間を招集しておるんですぞ。さあ、ムッシュー! マドモアゼルもそうですが、ここはおとなしく、わたしといっしょに、家へもどることだ。それとも護送車を呼びますかな?」
イーヴの見ている前で、巡査は踊るような足どりで、トビーのそばに寄ると、その腕に手をおいた。外套の下から、白く塗った堅ゴム製の短い警棒をひき抜いて、片手でちらちらさせながら、
「ムッシュー!」と、呼びかけた。こんどの口調は、同情のひびきがこもっていた。「お気のどくなことですな。われわれとしても、見るにしのびない思いで、あんたがたの胸のうちは、察するにあまりある。なにしろお父上は、あのすがたですからな」
トビーは両手で目をおおった。ジャニスは急にふり向いて、家のほうへ走っていった。
「しかし、わたしは上司から命じられているんです。さあ、もどってください!」巡査は声に同情をにおわせて、甘い言葉でさそうように、
「我慢できんこともありますまい。ほんの十五分かそこらのことで、主任が到着するまでの辛抱ですぞ。わずか十五分の辛抱! それであんたは、誰に疑われることもなく、この家のご婦人に会いに行けるというものだ。おわかりか? わかったら、ここは一時ひきあげて……」
「そうしますよ」トビーは、がっかりしたようにいった。
巡査はつかんでいた手をはなした。トビーはひきあげる前に、もう一度、ミラマール荘に目をやった。長いレーンコートを着たおかしな格好の彼は、思いがけないことを口にした。角ばったあごの小柄なこの青年は、たしなみに意を用いる気持を失なってしまったとしか考えられない。感情がはげしすぎるので、口を突いて出る言葉がメロドラマめいてひびくのだ。
「この世におけるもっとも美しい心情の持主よ!」
「え? 何ですって?」
「マダム・ニールのことだ」トビーは説明を加えて、そちらを指さした。
「ほ、ほう!」巡査はおどろいて、首を伸ばし、模範的な女性の家をチラッと見た。
「あのような女性は、二人といるものでない」トビーはつづけていった。「昔から存在したことがない。高潔で、純粋で、美しく、そして……」彼はつばをのみこんで、懸命に感情をおさえつけた。その様子が、はなれているイーヴにも感じとれた。「あの家に行くことが許されないにしても」と、赤くなった目を門に向けながら、フランス語でつけ加えた。「電話ぐらいかけても差し支えありますまい!」
警官は少し思案してから答えた。「わたしへの命令は、電話まで禁じろというのではなかった。よろしい、電話をしなさい。これ、これ。だからといって、駆けださんでもいいでしょう」
またしても電話だ。
イーヴは警官がいつまでもそこに立っていて、門の内部をのぞいていないようにと願った。トビー・ローズの電話に出なければならぬ。それには、ベルが鳴るまえに、部屋にもどっている必要がある。彼女はいままで、トビーがこうまで彼女を理想化しているとは思っても見なかった。それにしても、ああまで大げさなナンセンスを並べたてるとは、横面に平手打ちをくらわせてやりたい気持だった。しかし、その一方では、奇妙なふうに心臓がうずきもした。心の一部がじりじりする気持に駆られながら、女性本来の、自己犠牲のうれしさに心の躍る思いから、今夜のいまわしい侵入者のことをトビーに知らさずにすむのなら、どんなことをしてもよいと、自分にいいきかせているのだった。
警官は門をひらいて、首を突っこんだ。イーヴはそれを見て、息のとまる思いを味わったが、さいわいなことに、警官はそれで満足した様子で、道路に足音をひびかせてもどって行き、向こう側の家のドアが閉まるのが聞こえた。イーヴは首をちぢめ、いそいで玄関へ駆けよった。
そのあいだにも、ネグリジェがはだけて風にはためき、腰帯がまたもゆるんでくるのが意識されたが、いまの彼女には、かまっている余裕がなかった。ステップを数段駆けのぼれば、玄関に達することができるのに、仕置きの鞭を浴びながら、無限の道を走りぬける思いで、いつ捕えられるかわからぬ不安におののいていた。扉の鍵穴に、鍵がなかなかはまってくれず、あせればあせるほど、いたずらに鍵がすべって、永劫の時間がすぎ去っていく気持だった。
それでもようやく、屋内にすべりこむことができた。あたたかい暗闇が無性にうれしく、背後の扉が柔らかい音を立てて閉まると、悪魔の手から逃れえたのを感じとった。誰にも見られずにすんだ確信があったが、それでも胸がはげしく波打ち、手についた血がまたも気になり、頭の回転が、にぶい車の動きのように意識にのぼった。少しのあいだ、闇のなかにうずくまって、息をととのえ、心と感情をおちつかせようと努めた。そうしないことには、トビーの電話に、いつもとおなじ調子で話すことができない。やがて、階上で電話のベルが鳴りはじめた。
いまは彼女もおそれる必要がなかった。万事が無事におさまったと、自分自身にいいきかせた。そうでないわけがない。彼女はネグリジェの前を掻きあわせて、足音を立てぬように、階段をのぼっていった。
それからちょうど一週間後、月曜日にあたる九月一日の午後、ラ・バンドレットの警察署長アリスティド・ゴロン氏は、ドンジョン・ホテルのテラスで、友人のダーモット・キンロス博士と話しあっていた。
ゴロン氏の顔つきは暗かった。
「けっきょく、モーリス・ローズ卿殺害事件の容疑者として」と、コーヒーをスプーンでかきまわしながら、秘密を打ち明けるような口ぶりでいった。「マダム・イーヴ・ニールを逮捕することに踏みきりましたよ」
「証拠の点は大丈夫なんですか?」
「不幸なことに、申し分のない証拠がそろっているんです」
ダーモット・キンロス博士は身ぶるいして、「では、その婦人は……?」
ゴロン署長は、その先の言葉を察しとって、「そこまでのことはなくてすむと思いますよ」と、計器の目盛りでも読むように、片目を半分つぶってみせて、「絞首台にのぼらせられるには、首が柔らかすぎて、顔が美しすぎますからな」
「すると?」
「せいぜい十五年間の島流し――そうみておけば、間違いないでしょう。うまくいけば十年の徒刑。ひょっとすると、五年ですむかもしれない。腕達者な弁護士がついて、彼女自身も、あの魅力たっぷりな容姿を百パーセント利用するときはですな。もちろん、五年の徒刑にしたところで、かよわい彼女にとっては、相当の打撃なんですよ」
「そんなものですかな。しかし、マダム・ニール自身は何といっています?」
ゴロン氏はもじもじしだして、「そこですよ、博士」と、コーヒー茶碗からスプーンをぬきとって、「それがこんどの事件で、いちばん厄介なところでして、魅力的なこのレディは、無事に難局を切りぬけえたものと思いこんでいる。容疑をかけられておるなど、露いささか考えておらんのです。そこで、これを彼女に言い渡すわたしの役目が、非常につらいものになってくる……」
警察署長の苦悩には、それだけの理由があった。ラ・バンドレットの町に犯罪の起きることはきわめてまれな現象だけに、たまたまそれが生じると、彼は想像以上に神経をいためることになる。元来、ゴロン氏は福徳円満な性格で、ネコのように人当たりがよく、いつも靴には白いスパッツをつけ、胸のボタン穴に白バラの花を挿すのを忘れたことのない人柄なのだ。そして、ラ・バンドレット警察署長の地位にあるが、警察官としての仕事はめったになくて、町での年中行事や催しごとの主宰者役を勤めるのがもっぱらだった。しかし、それでいてゴロン氏が、鋭い知能の持主であり、優秀な犯罪捜査官であることも否定できない事実であった。
このドンジョン・ホテルのあるラ・フォレ・アヴェニューも氏の管轄区域で、午後もおそいこの時刻には、自動車や無蓋馬車の往き来がはげしくなってくる。ホテルの正面に張り出したオレンジと黒のだんだら縞の日除けが、夕日をテラスからさえぎっている。小さなテーブルを並べてあるものの、客の数は少なかった。ゴロン氏はいくらかとび出した目で、遠来の客の顔をじっとみつめた。
「それにしても、彼女がひどいショックを受けておるのは、一目でわかるんです。このマダム・ニールがですよ。何かにおびえている。ローズ家の誰かと顔をあわせただけで、まるっきり人間が変わってしまう。良心の苛責だと思うんですが、まだほかに、何かの理由があるのかもしれない。しかし、さっきもいったように、証拠が完全にそろっておるので……」
「それでいて、君は」と、ダーモット・キンロス博士はひじょうにたくみなフランス語でいった。「納得しかねるものを感じている」
ゴロン氏は目を細めて、
「さすがにあんたは頭がいい」と、うなずき、「率直にいって、わたしは満足しておらん。全面的に満足することができんのですよ。そこであんたの意見を聞いてみたい気になった」
相手はおだやかな微笑を返した。
このダーモット・キンロス博士という人物は、ちょっと見たところ、一般人と少しも変わった様子がなく、衆に優れたその知能を口で説明するのは容易なことでない。いわば、群衆中の一人といった感じであるが、ひとたびその実力を知った者は、かならずや人間学研究の好対象と考えるにちがいないのだ。外見上、凡庸な人物と見られる原因は、おそらく、容貌にそなわる本質的な寛容の表情にあるので、それが見る者をして、自分とおなじ仲間、自分を理解してくれる相手と思いこませてしまうのであろう。
日焼けのした顔に思いやりと思慮があふれ、学究らしい小じわを少し寄らせ、何かに憑《つ》かれたような黒い目を持っている。濃く、黒い頭髪には、いまのところ、白いものはまじっていない。顔の半面は、大戦に従軍しているとき、アラスで受けた爆弾の傷を、整形外科手術で治療してあるのだが――ある角度からでないと――見てとることができない。ユーモアがあって、軽佻浮薄なところのない才気をひらめかしはするが、必要のないかぎり、力強さを示そうとしない。
博士は紙巻き煙草を喫って、肘もとにウィスキー・ソーダのグラスをおいていた。休暇を楽しんでいる格好に見えるが、そのじつ彼は、これまでの生涯を通じて、休日とはどういうものか知っていないのだった。
「それで?」と彼は、話の先をうながした。
警察署長は声を低めて、
「この婦人に婚約者があって、誰の目にも、申し分のない縁組みと映《うつ》っておるんです。つまりその、マダム・イーヴ・ニールとムッシュー……みんなはトビーと呼んでいますが、正しい呼び名はホレーショウ・ローズですな。理想的な結婚。しかも資産がある。偉大なる情熱と称するやつですよ」
「偉大なる情熱か。あいにくと、現実には存在しないものですな」ダーモット・キンロス博士が断定した。「AがBと適合しないときは、Cといっしょになって、幸福を手に入れるというのが、自然の定めるところですよ」
ゴロン氏はその説に、口には出さぬが懐疑を示して、
「それがあんたの考えですか、博士?」と、いった。
「考えではない。科学的な事実ですよ」
ゴロン氏はなお疑惑をとどめて、「しかし博士。あんたはまだ、マダム・ニールに会ったことがないんでしょう」
「会ってはいませんよ」ダーモットは微笑して、「しかし、会ったことがないにしても、科学的事実は厳として変わることがありませんぞ」
「そういったものですかな」ゴロン氏は吐息をついてから、本題へはいっていった。「一週間前の、きょうとおなじ月曜日、アンジェ街のボンヌール荘の居住者の顔ぶれは、モーリス・ローズ卿、その夫人、娘のジャニス、息子のムッシュー・ホレーショウ、夫人の兄のムッシュー・ベンジャミン・フィリップスで、ほかに召使が二名おりました。
八時に、マダム・ニールと、モーリス卿をのぞくローズ家の全員が芝居見物に出かけた。モーリス卿は同行をこばんだ。ここのところは、記憶にとどめておいてもらいたいんですが、卿はいつもの午後の散歩からもどってくると、おかしなくらい不機嫌になっておったのです。しかし、この不機嫌もけっきょくはなおった。八時半に、卿の知人で、ラ・アルプ街に美術商の店をかまえておるヴェイユ氏から電話がかかってきた。ヴェイユ氏は、すばらしい宝物を入手した。これは疑いなく、モーリス卿の収集品にさらに花を加えることになる。さっそくごらんねがいたいので、これからすぐに、現物持参でボンヌール荘を訪問させていただくというのでした。そしてこの美術商が訪問してきた」
ゴロン氏は言葉を切った。ダーモット・キンロス博士は煙草の煙を吐き出し、それが輪を描いて、あたたかい大気のなかに、ゆっくりと立ち昇っていくのをながめていた。
「で、その宝物というのは、どんな品です?」博士がきいた。
「嗅ぎ煙草入れですよ」ゴロン氏は答えた。
「ナポレオン皇帝の持ち物だったといわれる嗅ぎ煙草入れ」
そして警察署長は言いよどむような顔つきを見せて、
「事件のあとで、ヴェイユ氏からこの品の価格を聞かされたときはおどろきましたよ。とうてい信じられるものでない。おどろいた話だ! 珍しいというだけの品に、そんな大金を投じる連中があるとはね。もちろん、歴史的な興味をはなれて、いくらかは……」と、わざと言葉をにごらせて、「それはそうと、ナポレオン皇帝は嗅ぎ煙草を用いたんですかな?」
ダーモットは笑いだして、
「イギリスの芝居に出てくるナポレオンを見たことはありませんか? どんな俳優でも、ナポレオンに扮するときは、かならず嗅ぎ煙草の箱を手に登場する。せりふのあいだに、舞台一面嗅ぎ煙草を撒き散らさんことには、五分間も演技ができぬものと考えている。皇帝がいつも煙草の粉を撒き散らしたことは、信頼のおける回顧録のたぐいにも載っていますよ」
ゴロン氏は、まゆをひそめて、
「してみると、あの品の真偽を疑う理由はないんですな。それに、品物本来の価値はないわけでない」そして、コーヒーをすすり、目をまるくして見せ、「たしかにすばらしい品で、透明なバラ色|瑪瑙《めのう》を台にして、黄金の帯を巻き、小型ではあるがダイヤがいっぱい鏤《ちりば》めてある。見ればわかりますが、格好はおかしなものでね。そして、本物であることを保証する証明書がついているんです。
モーリス卿はすっかり喜んでしまいました。どうやら彼、ナポレオンの遺品をとくべつ愛好しておったようです。さっそく買いとることにきめて、その夜はおいて帰れ、翌朝、小切手を送るからといったものです。ついでに話しておくと、そういった事情なんで、箱の代金は支払われていなかった。ヴェイユ氏はかんかんになっているそうだが、無理もないことですな。
いまもいったように、その夜マダム・ニールは卿をのぞくローズ家の連中と、劇場へ出かけていった。出し物は『ウォーレン夫人の職業』というイギリスの劇で、帰宅したのが、だいたい十一時前後。そして、みんなは解散して、ムッシュー・ホレーショウ・ローズ青年が、彼女を家まで送って行き、玄関で別れた。ついでながらいっておくと、事件のあと、捜査を担当している予審判事が、この青年に質問してみたものです。ムッシューはそのとき、おやすみのキスをしましたか、とね。すると青年は、剥製のミミズクみたいにからだをこわばらせて、厳粛な顔つきで答えたといいます。予審判事さん、あなたの知ったことでありません、とですよ。その答えが、予審判事の頭に疑惑の種を植えつけた。この二人が喧嘩でもしたのではないかと考えたわけです。しかし、どうやらそのような事実はなかったものらしい」
そこでまた、ゴロン氏は、ためらっていたが、
「ローズ家の連中が帰宅すると、モーリス卿が階段を駆け降りるようにして、迎えに出た」と、つづけた。「金と緑の小箱をさし出して、新しく手に入れた宝物を見てくれというのです。しかし、ミス・ジャニスが、まあ、きれい! とさけんだほかは、家族の反応はいっこうに頼りないもので、おかしなくらい熱がこもっておらんのです。ローズ夫人にいたっては、罪深い浪費だときめつける始末だった。モーリス卿はむっとした面持《おももち》で、平和な気持でいられるのは書斎にひきこもったときだけだと、いい放った。そのほかの者は、それぞれベッドにはいった。
しかし、そのうち二人の人物は、眠ることもできずにいたと思うんです」
ゴロン氏はテーブルの上にからだを乗りだして、しきりとそこをたたいている。話に夢中になっているので、コーヒーが冷めてしまったのにも気づかぬ様子だった。
「ムッシュー・ホレーショウ、つまりこのトビー君は、夜中の一時にベッドをはなれて、マダム・ニールに電話したことをみずから認めている。ほ、ほう! あなたは恋の焔に身を焼いておられたわけですな、と予審判事がいったものです。するとトビーは顔色を変えて、そんなことはないと否定した。たしかに、その証拠はない。しかし、彼の様子から見て、じゅうぶんありうることで、そのような感じがしている。あんただって、そう思うでしょう?」
「さあ、どうかな」ダーモットがいった。
「そう思いませんかな?」
「その問題はあとのことにして、話をつづけてもらいたいですな」
「といったわけで、トビーは階下へ降り、電話をかけ、また寝室へもどって、ベッドへはいった。屋内はまっくらで、何の物音も聞こえなかった。父親の書斎のドアの下から光線がもれていたが、モーリス卿に声をかけることもしなかった。
おなじ時刻に、ローズ夫人も眠れずにいた。嗅ぎ煙草入れ購入がその理由で、おどろきあわてたというほどでもないが、それが気にかかっていたのは事実で、寝つくことができなかった。そこで、一時十五分すぎに――この時刻を頭に入れてくださいよ――夫人は起きあがって、夫の寝室へ出かけていった。表向きは、いつまでも起きていると、からだの毒だと、注意しようというのだが、実際は、彼女自身が白状しているように、バラ色|瑪瑙《めのう》の細工品みたいな高価な品を買い入れる無謀な行為に、それとなく意見をしようという考えだったのです」
ゴロン氏の声はいちだんと高まって、俳優のそれのように鋭いものとなった。
「ところが、それで終りだった!」警察署長はそういって、指を鳴らした。「彼女は夫が、デスクを前にして死んでいるのを発見したんです。
卿は頭をめった打ちにされて死んでおった。凶器に用いられた火掻き棒は、部屋の奥の暖炉用具の台においてあった品で、卿はデスクに向かって、いいかえると、部屋の入口に背を向けた姿勢で腰かけているのを殺《や》られたものらしい。嗅ぎ煙草入れの明細書をつくっているところで、卿の前のデスクの上に、用箋がおいてあった。いや、もうひとつ、話しておかねばならぬのは、故意か偶然かはわかりかねるが、打撃のひとつが、バラ色瑪瑙の嗅ぎ煙草入れに当たって、それを粉みじんに、くだいてしまったのだ」
キンロス博士は口を鳴らした。
ゴロン氏はつづけて、「老人の命を奪うだけではあきたらなかったんですな。そこで、卿の宝物まで打ちくだくことになった。もっとも(くり返していいますが)、卿の頭を打ち損じただけで、ただの偶然であったかもしれない」
ダーモットはしだいに頭が混乱してきて、
「目標が人間の頭のように大きなものだとしたら、打ちそこなって、デスクの上の嗅ぎ煙草入れをたたきこわすとは、ちょっと考えられぬことですな。もちろん……」
「ほう! それについて、ご意見がおありですかな、博士?」
「いや、べつに――話をつづけてもらいましょう」
ゴロン氏は半ば腰を浮かして、賢者の言葉を聞きとろうと、耳のうしろに手をあてがい、少しとび出した目で、博士の顔をみつめていた。しかし、意見を聞かせてもらえないと知ると、また椅子に腰を据えて、
「この犯罪は」と、つづけた。「残忍で、常識をはずれすぎている。ちょっと見ただけでは、気ちがいの仕業《しわざ》としか考えられないが……」
「そんなことはない」ダーモットが少しいらだっていった。「むしろその正反対で、とても個性的な特徴のある犯罪といえそうですよ」
「個性的な特徴?」
「そうですよ。そのタイプの犯罪と考えられる。いや、話の腰を折って悪かった。つづけてもらいます」
「盗まれたものは何もない。夜盗が押し入った形跡もない。つまりこの犯罪は、家の様子にくわしい人物の手でおこなわれている。暖炉のそばに火掻き棒がおいてあること、老人の耳が少し遠くて、背後から近づくからには、気づかれることがないのまで心得ておる。このローズ一家というのは幸福な家族で、フランス人同様の生活を送っている。その家に殺人事件! 彼らが狼狽して、とりみだしたのは当然のことです」
「それで?」
「まずもって、マダム・ニールを呼びにいった。あの一家はマダム・ニールに好感を持っていた。で、聞くところによると、犯罪を発見したすぐあと、ムッシュ・ホレーショウとミス・ジャニスの二人が、マダム・ニールにきてもらうために、彼女の家へ駆けつけた。ところがそれを、担当の巡査に制止された。警部が到着するまで、家族の者は外へ出るのを許さんというわけだ。もっとも、ミス・ジャニスのほうは、そのあと巡査の目を盗んで、もう一度家を忍び出たらしいが、けっきょく、マダム・ニールをつかまえられなかったことに変わりはなかった。
そこに警部が到着して、家族の者に質問を開始した。すると彼らはマダム・ニールに会わせてくれといいだした。そこで警部は、部下の一人に命じて、道路の向こう側の家まで、彼女を迎えにやった。命令を受けたのは、さっき職務熱心なところを見せて、ローズ兄妹に足どめを食わせた巡査だった。そして、幸運なことに、この巡査は明かりを持って出かけた。ローズ家とニール家は、向かいあった位置にあって――ああ、その点は新聞記事で読むか、話に聞いておられるでしょうが……?」
「ええ、知っていますよ」ダーモットは、うなずいた。
ゴロン氏は太い腕をテーブルにつき、顔をひどくゆがめて、「巡査は門をあけて、なかの小径を玄関へ向かった。ところが、マダム・ニールの別荘の玄関で、発見したものがあった」
ゴロン氏はまたも言葉を切ったので、聞き手は、「何を?」と、先をうながした。
「ピンク色をしたサティンの腰帯なんです。女がドレッシング・ガウンかネグリジェの上から巻いている、あれですよ。そして、それに少しだが、血がついておった」
「なるほど」
そこでまた、言葉がとぎれた。
「しかし、この巡査は、ぬけめのない男で、サティンの腰帯はポケットにおさめて、何もいわなかった。玄関のベルを鳴らすと、すぐに、おびえた顔つきの女二人が顔を出した。この二人の女の名前は」――ここでゴロン氏はおそろしく小型の手帳をとり出して、のぞきこみながら――「一人がイヴェット・ラトゥール。これは女主人の小間使。もう一人は料理女で、セレスティーヌ・ブーシェルというんです。
この二人の女が、暗がりのなかで、小声で巡査に話しかけた。くちびるに指をあてがって、声を立てるなと合図すると、階下の一室に連れこんで、彼女たちが見たところを説明したのです。
イヴェット・ラトゥールの話によると、大きな物音で目をさまされたので、部屋を出てみると、ちょうど、マダム・ニールが外からもどってくるところだった。気丈な女なんだが、おどろいたイヴェットは、すぐに料理女のセレスティーヌ・ブーシェルを起こして、二人して足音を忍ばせ、マダム・ニールの寝室をのぞきこんだ。すると、寝室の奥の浴室のドアがひらいていて、かべにはめこんだ鏡にマダム・ニールのすがたが写っている。とりみだした格好で、息を切らせながら、顔と手についた血を洗い落としている最中なんだ。いや、それだけでない。白いレースのネグリジェにはねかかっている小さな血の痕《あと》を、スポンジで拭《ぬぐ》いとっている。そして、ネグリジェの腰帯は、なくなっている」
そこでゴロン氏は、すばやく背後へ目をやった。
ドンジョン・ホテルのテラスはようやく客の数がふえてきた。ラ・フォレ・アヴェニューの反対側の松林に陽が沈むところで、目にまぶしかった。
ダーモット・キンロス博士の目の前には、主人の寝室をこっそりのぞきこんでいる二人の召使のすがたと、いくつかの鏡に幾重にか映っている女主人の興奮した顔とが、耐えられぬくらいの鮮烈さで浮かんでいた。それは警察の領域の、邪悪の闇から生まれたものであるが、同時にまた、博士自身の専門分野である心理の暗がりから浮かんできたものでもある。博士はひとまず、その判断を保留して、ひと言だけいった。
「それで?」
「そこで巡査は、イヴェットとセレスティーヌの二人に、絶対沈黙を守るようにと約束させて、勇敢にも階段をのぼって、マダム・ニールの寝室のドアをノックした」
「彼女はベッドにはいってましたか?」
「ところがその正反対」ゴロン氏はむしろ感心したように、「彼女は外出着に着替えていたんです。それを説明して、ムッシュー・ホレーショウ・ローズからの電話で――つまりそれは、さっきの話の電話のつぎのやつにあたりますよ――呼び起こされて、卿の死を知らされたというんです。そして、電話の前には、何の物音も聞かなんだという。警官の呼子も、往来でのさけび声も、いっさい聞いていないというんです!
しかし、博士。彼女の演技力はたいしたものらしいですぞ。モーリス・ローズ卿の死にざまを話して聞かすと、本物の涙を見せて、おどろいた様子を示したそうですからな。口をぽかんとあいて、目をみひらいてですぞ! どう見たところで、バラ色の潔白だというところだ。白いネグリジェは、衣裳ダンスに吊るしてあって、隣の浴室では、老人の血を懸命に洗い落としていたので、いまだに鏡がくもっておったといいます」
ダーモットはしきりに、からだを動かして、
「それで、君の巡査はどうしました? 何をしました?」
「彼は笑いをかくして、何くわぬ顔で、ご足労ですが、道路を越えてローズ家の人たちを見舞ってもらえんでしょうかといった。そして彼自身は、何かの口実をもうけて、あとに残った」
「捜査のために……?」
「そのとおり、こっそり、ネグリジェを手に入れるためにです」
「それで?」
「女中のイヴェットに、絶対に他言を禁じると言い渡し、マダムから質問されたときは、クリーニングに出してあると答えればよいと知恵をつけた。この作りごとを悟られないために、ほかのいくつかの品をクリーニング屋にわたすことにした。女主人は気にしているであろうか? いや、血痕は洗い落としてあるので、安心しているにちがいない。いうまでもなく、どんな小さな血痕にしろ、化学的検査を行なうときは、かならず顕出するものだが、そこまで彼女が知っておるとは考えられない。ところで博士、ネグリジェのことで、もっとも興味のある問題は、血痕以外のところにあったんですよ」
「ほかのところに?」
「さよう」ゴロン氏は答えて、テーブルを指先でたたき、「イヴェット・ラトゥールはこの警官の目の前で、ネグリジェをていねいにあらためてみた。そしてこのイヴェット・ラトゥールが、バラ色|瑪瑙《めのう》の小さな破片がくっついておるのを見出したんです」
そこで警察署長は、またも一息入れたが、こんどのそれは、彼の芝居気によるものでなく、心に染まぬ結論を導き出さねばならぬ決《き》め手であったからだ。
「一週間かけて、辛抱づよく、粉砕された嗅ぎ煙草入れを組み立ててみたところ、一ヵ所欠けた部分があって、ネグリジェに付着していた破片をあてがうと、ぴったり適合するんです。つまり、マダム・イーヴ・ニールが火掻き棒をふるって、老人をなぐり殺したとき、パッととび散った破片の一つであったのです。おそろしいことだが、決定的な証拠といえる。天罰ですな。そしてこれが、マダム・ニールの生涯に、終末を宣告するものになると思いますよ」
しばらく沈黙がつづいたが、ダーモットは咳ばらいをして、
「で、マダム・ニールはこの容疑にたいして、どんな釈明をしましたね?」と、きいた。
ゴロン氏はびっくりした表情を示した。
「やあ、申しわけない」ダーモットがいそいでつけ加えた。「忘れていましたよ。彼女には何も話してないのでしたな?」
「わがフランスでは」とゴロン氏が、もったいぶった口調でいった。「ゲームが終了するまで、手のうちをさらけ出すのは、利口なやり方とみておらんのですよ。いずれ彼女は、釈明を求められることになりますが、それは予審判事の前にひき出されたときのことですな」
ダーモットは腹のなかで、予審判事の尋問がどんなに不快なものであるかを考えていた。もちろん、肉体的な拷問が実施される時代でないが、精神上の強圧は、だいたいあらゆる形式を法が認めている。尋問者に対抗して、あとで後悔するような言葉を口にしないですますには、よほど強靭《きょうじん》な精神力を必要とするもので、女性にはとうてい無理なことなのだ。
そこで博士は、つぎの質問に転じた。「君がつかんだマダム・ニールに不利な証拠は、一つも本人に知らせてないんですな?」
「その点は、たしかですよ、ムッシュー」
「それはよかった。しかし、二人の召使、イヴェット・ラトゥールとセレスティーヌ・ブーシェルはどうかな? この二人がしゃべって歩きはしませんか?」
「その点はうまくいってるんです。セレスティーヌは事件のショックを口実に、一時暇をとらせて、国へ帰しましたし、小間使のほうは、男まさりの女で、口を閉じたら、絶対にひらかない」そこでゴロン氏は、ちょっと考えてから、「それに、わたしの見たところ、あの女はマダム・ニールに、あまり好感を持ってはおらんようですよ」
「ほう!」
「しかし、ここで一つ、いっておかねばならんのは、ローズ一家のことですよ。あれは、りっぱな家庭で、いくら賞讃しても賞讃しきれんくらいの家族がそろっておる。これがみんな、事件のショックにもかかわらず、われわれの質問のすべてに答えてくれました。そして、マダム・ニールには終始変わらず親切な態度を示して……」
「べつに不思議はないのじゃないかな。それとも、この事件で彼女を疑っておるんですか?」
「そんな気配はまったくない!」
「では、この殺人事件を、どんなふうに考えているんです?」
ゴロン氏は手をふって、「あの人たちには何もわかっていない。おそらく、夜盗や狂人の仕業と考えておるのでしょうな」
「しかし、何も盗まれていないのでしたね?」
「さよう、何も盗まれていません。だが、嗅ぎ煙草入れ以外の品にも手を触れた形跡はあるんです。書斎のドアの左手にあるガラス・ケースのなかに、卿の収集品のうち、とくに貴重なものが入れてあった。ダイヤとトルコ石の首飾りで、これもまた歴史的な価値が加わっている品なんです」
「それが?」
「この首飾りが、事件のあとで、骨董品キャビネットの下のがらくたのなかから発見されて、少し血がついておりましたよ。それから見ても、狂人の仕業としか考えられませんな」
ダーモット・キンロス博士といえば、イギリスの精神病医のうちでも、犯罪心理学の分野では第一人者と見られている存在だが、いま、おかしな表情で、友人の顔をみつめ、
「重宝な用語ですな」と、いった。
「重宝な用語? 何のことです?」
「狂人の仕業という言葉ですよ。で、この狂人の夜盗は、どんな方法を用いて、あの家のなかに忍び入ったのでしょう?」
ゴロン氏は答えて、「さいわいなことに、家人はそこまでのところは考えておらんのです」
「かりにこれがマダム・ニールの仕業だとして、彼女はどうやってはいりこんだのでしょう?」
ゴロン氏はため息をついて、
「思うにそれが」と、いった。「最後の証拠となるでしょうな。アンジェ街には、おなじ建築業者の建てた別荘が四つあって、一軒の家の鍵が、ほかの三軒のドアにも適合するんです」
そしてゴロン氏は、その重たいからだをテーブルにもたせかけるようにして、
「マダム・ニールのパジャマの胸ポケットに」と、つづけて、「重宝きわまりないわがイヴェット・ラトゥールが、ニール家の玄関の鍵を発見してくれたんです。おわかりか! 彼女自身の家の鍵を、パジャマのポケットに入れて持ち歩いておったんですぞ! 何の目的で? ベッドにはいろうとする人間が、何のために玄関の鍵を身につけておる必要があるんです? 誰にだって、合理的な説明ができるものじゃない。いや、その説明がひとつだけある。マダム・ニールはそれによって、道路の向こうの家にはいりこもうとした。この事実が、ボンヌール荘で殺人が行なわれた夜、彼女がその家を訪れたことを示す決定的な証拠といえるのです」
彼女はがんじがらめに締めあげられている。その容疑に疑問の点はまったくないのだ。
「しかし……彼女の動機は?」ダーモットはなおも食いさがった。
太陽は大通りの向こうの木立の背後に沈んだあとだが、空にピンクの焔が残り、大気にはいまだに暖さが立ちこめている。フランスでの陽光は目をくらくらさせるほど明かるく、まぶしさが去っても、人々はなお、その後の薄闇に馴れるまでは、まばたきをつづけなければならなかった。ゴロン氏のひたいには、汗が小さな玉になって残っていた。
ダーモットは腰を浮かして、テーブルのかたわらにある石の手すり越しに、煙草の吸い差しを捨てようとした。だが、投げるのは思いとどまって、手を宙にうかせたままであった。
テラスは地上から二、三フィート高い個所にしつらえてあって、小石を敷いた中庭には、テラスとおなじテーブルが点々と据えてあった。その一つ、手すりのすぐ下のものに、若い娘が一人でついている。彼女の頭は、ちょうど彼らの足もとの位置で、ドレスと帽子の黒みがかった色が、ラ・バンドレットの明かるい色彩と、きわだった対照を示していた。頭を上に向けているので、ダーモットはその目を正面から見ることができた。
二十二か三であろうか、かわいい娘で、頭髪は明かるい赤毛だった。ダーモットは陽光のまぶしさを避けて、庭の方面から顔をそむけていたので、彼女がいつからその席についていたものか、見当がつかなかった。彼女の前のテーブルには、口をつけないカクテルのグラスがおいてあった。彼女の向こうのラ・フォレ・アヴェニューでは、自動車の列がエンジンの唸りと警笛のひびきを立て、そのせわしない動きをやわらげるように、無蓋馬車が鈴を鳴らしながら、のんびりと走りすぎる。殺人事件など起きたことのない、まことに平和な世界であった。
とつぜん娘が立ちあがった。オレンジ色の表面を持ったテーブルに、腰がぶつかって、カクテルのグラスが音を立て、受け皿の上に倒れ、その中身を跳ねかした。赤毛の娘はハンドバッグとすかし編みの黒い手袋をとりあげて、五フラン銀貨をテーブルの上に投げだすようにし、くるっと背を向け、街路へ走り去った。ダーモットはつっ立ったまま、彼女の目の色を思い浮かべ、そのうしろすがたを見送っていた。
ゴロン氏はおやおやといった顔をしていった。
「いやあ、わたしもばかな男ですな。公衆の出入りする場所で、打ち明けた話をするなんて、地獄へ堕《お》ちたほうがいい! あの娘がミス・ジャニス・ローズなんですよ」
「何をいいだすのよ、ジャニス」母親のヘレナ夫人は、娘の気持をおちつかせようとしていった。「あなた、ヒステリーが起きたのね」
そのときのベン伯父は、ティー・ワゴンのそばにうずくまっているスパニエル犬『チャールズ王』の耳をかいてやっていたが、おどろくと同時に、当惑げな表情を浮かべた。そしてそれが、この事件における彼の役割を雄弁に示していた。
ジャニスは即座にいい返した。「わたし、ヒステリーなんか起こしていないわ」低いが、おそろしく早口で、ヒステリーからほど遠からぬ声であった。手袋をぬぎながら、「夢を見ているわけでなく、想像や臆測でしゃべっているんじゃないのよ。はっきりいうけど」――彼女の声がさらに甲高《かんだか》くなった。そして、チラッとイーヴに目をやり、彼女の視線を避けたまま、「もうじき、警察がイーヴをつかまえにくるわ!」
ヘレナ夫人は目をパチパチさせて、
「でも、何のために?」
「警察は、イーヴがやったこととみているんだわ!」
「そんなばかな話を、あなた、ほんとうに聞きこんだの?」ヘレナ夫人はため息をついた。しかし、みなが唖然として、そのあとに沈黙がつづいたことに変わりはなかった。
ありえないことだわ。イーヴは胸のうちで考えていた。そんな事実が生じるとは、夢にも考えぬことであった。
イーヴは機械的に茶碗をおいた。ボンヌール荘の客間は広々とした長方形の部屋で、堅木の床が磨きこんであった。正面の窓はアンジェ街に面し、裏手の窓は、広い裏庭からの黄昏の光を受けて、涼しい緑の色に映《は》えていた。ティー・ワゴンがあって、そのそばから、金茶色の毛をむくむくさせたスパニエル犬が、大きな目でベン伯父を見上げている。ベン伯父そのひとは、中背ながら、見るからに頑健な体躯で、白毛まじりの頭髪を短く刈りこみ、口数はいたって少なく、いつものように微笑を浮かべている。そこにはまた、母親のヘレナ夫人がいた。これもまた、小柄ではあるが丈夫そうな、からだつきで、愛想のよい笑いを絶やさぬ老婦人だが、さすがにいまは、ちょっと息をきらして、バラ色の丸顔によく映る短い銀髪の頭をふって、微笑が奇妙にこわばっていた。
そしてジャニス。彼女はしゃべっている……
無理な努力に、神経質になった顔を、正面からイーヴに向けて、
「よくって、イーヴ」と、いたましそうにいうと、くちびるをぬらした。ジャニスの口は大きすぎるきらいがあったが、だからといって、その顔のかわいらしさを損《そこ》ねるわけでない。「もちろんわたしたち、あなたのやったことでないのは承知していますのよ」
その言葉を彼女は、言いわけのようにいった。もはや、イーヴの顔を見るに耐えられなくなっていた。
「だけど、なぜあのひとたちは――」
ヘレナ夫人がいいだすと、ベン伯父があとをひきとって、
「容疑などかけるのか――」と、つづけた。
ジャニスはマントルピースの上の鏡をみつめたまま、鋭い口調でいった。「あなたはあの晩、家から外へ出なかったのね? からだじゅうに血をつけて、家へもどったなんて嘘なのね? それから、この家のドアに合う鍵が、あなたのネグリジェのポケットにはいっていたことも、あの――嗅ぎ煙草入れのかけらが、あなたの部屋着にくっついていたことも、みんなほんとじゃないのね?」
なごやかだった客間の空気が、いまは麻痺状態におちいっていた。大きなスパニエル犬が、さらに食べるものを求めて、鼻を鳴らした。ヘレナ・ローズは眼鏡のケースをさがして、縁《ふち》なしの鼻眼鏡をとり出すと、鼻にかけて、みなの顔を見まわした。
そして、「言葉がすぎるわよ、ジャニス!」と、きびしい語調でたしなめた。
「わたしのいってることは」と、ジャニスは反駁した。「署長自身の口から聞いたのよ。ええ、たしかに聞いたんだわ!」
伯父のベン・フィリップスは、ひざからパンのくずを払い落としたり、ぼんやり、愛犬の耳をつまんだりしていたが、そこでポケットに手をつっこんで、欠かすことのできないパイプをとり出した。ひたいにしわをよせ、淡青い柔和な目に、疑惑の色を浮かべたが、すぐにまた、そのような考えを恥じるかのごとく、もとの目つきにもどしてしまった。
ジャニスは説明して、「わたし、ドンジョン・ホテルで、カクテルを飲んでいたの」
「まあ、ジャニス」ヘレナ夫人は機械的にいった。「そんな場所に出入りしないでほしいわ」
「そこでゴロン署長がイギリス人のお医者に話している言葉を聞いてしまったのよ。そのひと、犯罪心理学のほうでは、とても偉い大物なの。むろん、ゴロンじゃないわ。そのお医者のことよ。どこかで、そのひとの写真を見たことがあるわ。で、ゴロンがいったの。イーヴがあの晩、血だらけで家にもどって、からだに嗅ぎ煙草入れのかけらがついていたんですって」
ジャニスはあいかわらず、誰の顔も見ないようにしてしゃべっている。ショックがすぎ去った代わりに、恐怖がおそってきていた。
「その話だと、二人の証人、つまりイヴェットとセレスティーヌが、そのようなイーヴを見たといってるそうなの。そして警察はネグリジェを手に入れて、それに血痕がついているのを……」
当のイーヴは、椅子のなかに身をこわばらせて、見ないようにしてジャニスをみつめていた。そして、とつぜん、笑いだしたい気持になった。笑いつづけることで、頭のなかに渦巻いている不吉な音を押し消してしまいたかった。
殺人罪で告発する! 心臓をたたきつけられるようなショックではあるが、あまりにも突飛すぎて、笑いださずにはいられなかった。ある意味では、たしかにおかしい。しかし、『嗅ぎ煙草入れのかけら』が彼女に付着していたことは――混乱の渦が巻いている彼女の頭では、とうてい理解できるところでないが――おかしいですましていられるものでなかった。何かの誤解がある。でなければ、誰かの邪心が彼女を窮地へ押しこめ、殺そうと計画しているにちがいない。もちろん、と彼女は自分にいいきかせた。やましいところのない彼女に、警察をおそれる必要はない。あの気の毒な老人、パパのローズを殺したとの理由で起訴されたところで、反証は簡単にあげられる。ネッド・アトウッドといっしょだったことを説明すれば、ネッドが彼女のアリバイを証言してくれるはずだ。
彼女には、老ローズ卿にかぎらず、どんな人間も殺す機会がなかったのを立証できる。しかし、ネッドの件を説明するとなると……
「こんなおかしな話、わたし、聞いたこともありません!」彼女はさけんだ。「笑いださずにはいられませんわ!」
しかしジャニスは、追及をゆるめずに、「ほんとではないんでしょうね?」と、念を押した。
イーヴもはげしい身ぶりを見せて、
「もちろんですわ! それは――」
が、ためらいが彼女をおそって、声がふるえた。はっきりした心の動揺が、言葉以上のものを示していた。
「そうだとも。そんなことはないにきまっておる」ベン伯父が強い語調でいって、咳ばらいをした。
「そうですよ。きまっていますよ」ヘレナ夫人もおなじ言葉をくり返した。
ジャニスはしかし執拗に、「いまあなた、何かいいかけたわね。『それは』って」
「いいかけたかしら。わたしには――わからないわ」
「たしかにいいかけたわ。そして、くちびるを噛むようにして、やめてしまったけど、『それは』と、たしかにいったわ」
(おお、神さま、何と答えたものでしょうか?)
「署長の話は、全部嘘なのね?」ジャニスはきびしく追及した。「一部分は嘘だけど、ほんとうのところもある、というわけではないのね?」
「ジャニスのいうことにも」と、ベン伯父が、またも咳ばらいをしながらいった。「一理あるといえるな」
そして、三人の視線がイーヴの上に集まった。その目の意味するところが、彼女にははっきり見てとれて、息をするのも苦しく感じられた。
彼女のおかれた立場のおそろしさを知るのに、かなりの手間を必要としたが、それが決定的なものであることに変わりはなかった。それらの事実は、ことごとく嘘であり、誤解にもとづくものであった。いや、もっと悪く、彼女の頭のなかで、彼女を責めさいなむ踊りをくり返している『嗅ぎ煙草入れのかけら』といった悪辣な虚構さえある。しかし、そのいくつかは真実であって、警察は立証することができる。それまで否定するのは、賢明な態度といえないであろう。
イーヴは確固たる大地に足を踏みしめていたい願いで、「正直におっしゃっていただきますわ」と、いった。「わたしがあんなおそろしいことをする女とお考えかどうかを。選《え》りに選ってこのわたしが、選りに選ってあのご老人を……傷つける気をおこすでしょうか?」
「もちろん、そんなことはなくてよ」ヘレナが力づけるようにいった。近眼の目が、祈るような光を浮かべている。「だからあなたは、この話はみんな嘘だとおっしゃればいいのよ。わたしが知りたいのは、それだけのことなの」
「イーヴ」とジャニスがこんどは、静かな口調できいた。「あなたはトビーと会うまえ、どんな生活をしていらしたの?」
それはこの家で、イーヴの個人生活についてなされた初めての質問だった。
「まあ! ジャニス。なんてことをいうの!」母親のヘレナが、さらに、まゆをひそめて、きびしくたしなめた。
ジャニスはしかし、母親に顔も向けなかった。イーヴに歩みよって、向かいあった低いふっくらした椅子に腰を下ろした。赤毛の人間にしばしば見られる透きとおるような白い肌が、感情の昂《たか》まりから、気味が悪いほど青みを加えている。イーヴに据えた茶色の大きな眸に、感嘆と反撥心の入りまじった色があらわれていた。
「あなたを責めているとお考えにならないでね」ジャニスは二十三歳相当の威厳を示していった。「わたしはむしろ、あなたのしっかりした態度に感心させられているのよ。いままでだってそうでしたけど。この話はみんな、警察署長の口から出たのを聞いたんで、申しあげただけなの。つまり、あなたにうちのパパを殺す理由があったかどうかの問題……もう一度、おことわりしておくけど、あなたの仕業といってるわけでなく、そんなこと、考えてみたこともないのよ。でも、あんな話を聞いたとなると、はっきりしておく必要がありますわ」
ベン伯父が咳ばらいをした。
ヘレナ夫人もまた、「わたしたち、もう少し気持を大きく持たなけりゃ駄目よ」と、いった。「パパは死んでしまったし、トビーはまだ帰っていないし――それにしても、きょうのあなたは、どうかしてるわよ、ジャニス!」
ジャニスはその言葉を無視して、イーヴへの質問をつづけた。
「あなたはアトウッドという男と結婚していたのね?」
「ええ」イーヴは答えた。「結婚していましたわ」
「その男、ラ・バンドレットにもどってきているの、ご存じ?」
イーヴはくちびるを噛んで、
「あのひとが?」
「ええ、そうよ。ちょうど一週間前に、ドンジョン・ホテルの奥のバーにあらわれたの。そこで、いろんなことをしゃべったうちに、いまだにあなたが、彼を愛しているという言葉があったそうよ。彼いわく、わたしたちの一家に、あなたの過去を洗いざらい話してもいいから、あなたとの仲を以前にもどすんですって」
イーヴは身動きもしなかった。心臓が一時止まったかと思われたが、つぎの瞬間、おどろくほどはげしい鼓動をひびかせ始めた。そして、予想もしなかった事態の発展に、口をきくこともできなかった。
ジャニスは身を乗り出すようにして、
「覚えていらっしゃる?」と、つづけた。「パパが死んだ日の午後のことを?」
ヘレナ夫人の目がけわしくなった。
ジャニスの追及がつづいている。「散歩から家へもどってきたパパの様子がとてもおかしくて、まるで怒っているみたいだったのよ。不機嫌のあまり、劇場へ行くのはいやだといいだしたの。でも、機嫌が悪くなった理由は何もいわないで、ただ、美術商から、嗅ぎ煙草入れのことで電話がかかってきたので、やっと気持がおさまったらしいの。そして、わたしたちが劇場に出かけるまえに、トビーに何か話していたわ。それでトビーの様子までが、おかしくなってしまったのよ」
「ほう! それでどうした?」ベン伯父は好奇心を起こして、パイプの火皿をみつめながら、ジャニスの話をうながした。
「何をいうのよ」ヘレナ夫人はいいきったが、話が老夫の死亡の夜に触れたので、涙が目に浮かんできて、その丸顔に、微笑の線と色とが消えてしまった。「トビーがあの晩だまりこんでいたのは、出し物の『ウォーレン夫人の職業』が、売春婦のお芝居だったからよ」
イーヴはまっすぐ坐りなおした。
ジャニスはつづけた。「パパの散歩のお気に入りのコースは、ドンジョン・ホテルの裏手にある動物園なの。このアトウッドというひとが、パパの散歩のあとを追って、何か話したとしたら……」
ジャニスはその言葉をわざと完結しないで、顔をまっすぐイーヴに向けて、うなずいてみせてから、
「それがあったから、パパはあんな変な様子で、帰ってきたのよ。そしてさっそく、トビーにそれを話したんだわ。トビーには信じられない話だったわけよ。でも、それでじゅうぶんだったの。覚えておいででしょうけど、トビーは眠ることができないので、夜中の一時に、あなたに電話をしたわ。その電話で、パパから聞いたことを、あなたに話したんじゃなくて? そうだとしたら、あなたがこの家へやってきて、パパと言い争いをして、そして……」
「お待ちになって」
イーヴはゆっくりした口調でいって、話しはじめるまえに、早くなった息をととのえ、
「それであなた方、事件が起きてからこちら、わたしのことを、どう考えていらしたの?」と、きいた。
「何も考えてはいませんよ! 何も!」と、ヘレナがさけんだ。鼻眼鏡に手をやって、それをはずしながら、「あなたみたいないい方はないと考えていた気持は、少しも変わっていませんのよ。わたしたち、人の噂ぐらいで、簡単に気持がぐらつく人間とちがいますもの。ただ、ジャニスが血だの何だのいいだしたのに、あなたは押しだまったまま、はっきり否定してくださらないので……」
「そのとおりだ」ベン伯父もいった。
「でも、それだけじゃないと思いますわ」イーヴはいいはった。「わたしはほんとうのことを知りたいのです。このようなお話しの裏に、どんなお気持がかくされているのか、いままで、わたしに聞かそうとなさらなかったお考えを、うかがっておきたいと思いますのよ。『ウォーレン夫人の職業』はそのまま『ニール夫人の職業』だと、におわせておいでではないのでしょうか?」
その言葉がヘレナにショックをあたえた。
「まあ! めっそうもない! そんなこと、思ってもいませんよ」
「だったら、この質問は何なのでしょう? 世間がわたしのことで、どんな噂を立てているか、知らないわけでありません。少なくとも、これまで、何を噂されていたかを! それはもちろん、ほんとうのことでありません。でも、いつもいつも、おなじ悪口ばかり聞かされていますと、いっそ、それをほんとうにしてしまおうかと考えだしますわ」
ジャニスはそこで、静かにいった。「男のことより、殺人についてのお答えを聞かせていただきたいわ」
彼女には子供らしい純真さがあった。生意気で、跳ねっかえりで、世間づれのしたおとなの態度を猿まねして、同年配の若い娘の楽しみなど小馬鹿にしているお転婆娘のおもかげは、すっかり影をひそめていた。低い椅子に、ひざがしらを抱えこむようにして、茶色の眸をきらめかし、まばたきをくり返し、くちびるをふるわせながら、
「こんな質問をしたくなるのも」と、説明した。「いままでわたしたちが、あなたを理想化しすぎていたからで……」
こんどもまた、言葉のつづきは身ぶりで補っていた。イーヴはあらためて、この一家の人々に好感を抱いたが、それと同時に彼女の立場がいっそう苦しいものになってくるのを知った。
「あなたはいまでも、アトウッドというひとに愛情を感じているのね?」ジャニスの言葉が鋭くなった。
「いいえ!」
「この一週間、何も知らないような顔をつづけていたのね? わたしたちに話してないことがあるんでしょうね?」
「そんなもの、ありませんわ」
「このひとは」とベン伯父がつぶやくような口調でいった。「ちょっとやつれたような顔つきだった。しかし、事件の当座は、われわれみんながそうだった」いいながら、折りたたみ式のナイフをとり出して、パイプの火皿の内側を削りはじめたが、やがて、暗い表情の顔をあげて、ヘレナ夫人を見ていった。「覚えているかね、ドリー?」
「覚えているかとは、何を?」
「わしが車の手入れをしておったときのことだ。ちょっと手を伸ばしたところ、手袋をはめたわしの手が、このひとに触ってしまった。茶皮の作業手袋だよ。するとこのひと、よほどのショックを受けたと見えて、いまにも気を失ないそうだった。たしかに、きれいな手袋とはいえなかったが、それにしても――」
イーヴは両手で目をおおった。
ヘレナ夫人はやさしくいった。「あなたについての噂なんか、わたしたちは、ちっとも信じていませんわ。でも、それとこれとは話が別で、あなたはまだ、ジャニスの質問には答えてくださらないのよ。あの晩あなたは外出なさったの?」
「ええ」イーヴは答えた。
「血がついていたことは?」
「ええ、ほんの少し」
いまや、その大きな客間は、窓に落陽の残照がたゆたっているだけで、耳を垂れて寝そべったスパニエル犬が堅木の床をひっ掻くほか、何の物音もしなかった。パイプの火皿を削るベン伯父のナイフも、動きをとめていた。喪服を着けた三人が――婦人二人は黒いドレス、男はダーク・グレイの服であったが――それぞれ程度の差こそあれ、ショックと懐疑の眸で、イーヴをみつめた。
「そんな目でごらんにならないで!」彼女は悲鳴に近いさけびをあげた。「世間の噂はまったく嘘よ! ご老人を殺すなんて、そんなことをするわけがないわ。パパのローズはわたしの大好きなひとでした。みんな、誤解よ。ただ、わたしの口から説明のできないおそろしい誤解なんですわ」
ジャニスはくちびるまで血の気の失せた顔になって、「ではあなた、あの晩、この家へいらしたの?」
「きませんわ。誓っていえます。ぜったい、きません!」
「だったら、あなたのパジャマのポケットに、この家の鍵がはいってたのは、どういうわけなの?」
「あれはこの家の鍵でなく、わたしの家の鍵でした。お宅とは何の関係もない品なのよ。わたし、あの夜に起きたほんとうのことを、あなた方のお耳に入れておこうと思っていました。事件以来、ずっとそれを考えていたのです。でも、話しだすだけの勇気がなくて……」
「あら」と、ヘレナはいった。「どうしておっしゃれなかったの?」
イーヴは話しだすまえから、追いつめられて打ち明けねばならなくなったことが、運命のもたらす不愉快なほどねじくれた皮肉であるのを知っていた。多くの人々が、おかしな話だと考えるであろう。彼女の運命を支配するのが底意地わるい神々だとしたら、腹をかかえて笑いだすにちがいない。一語一語に、無遠慮な高笑いがひびくことであろう。
「わたしに話すだけの勇気がなかったのは」彼女は答えた。「あのとき、わたしの寝室に、ネッド・アトウッドがいたからですわ」
ムッシュー・アリスティド・ゴロンとダーモット・キンロス博士は、アンジェ街にはいっていった。博士の足どりはせわしなくて、ビア樽のような格好の警察署長には、ついて行くのも容易でなかった。
「とんだことをしてしまった」署長はしきりとこぼしていた。「運が悪かった! あのミス・ジャニスのやつ、さっそくマダム・ニールのところへ行って、この話をしゃべってしまうにちがいない」
「そう考えて、まちがいないでしょうな」ダーモットもいった。
警察署長は、球根のように丸々したからだをいっそう目立たせる山高帽子をかぶって、籐《とう》のステッキをつき、スパッツをつけた足で、長い脚の博士と並んで歩くのに骨を折っていた。
「お願いできんですかな、博士。わたしに代わって、マダム・ニールに会って、その印象を率直に語ってくださると、大いに助かるんですよ。それには、いますぐがいい。この失敗を知ったら、予審判事が怒りだすのが目に見えておる。さっき電話してみたんだが、外出中でした。とにかく、予審判事がこれを知ったら、さっそく手を打つにちがいない。サラダ籠をよこして、今夜のマダム・ニールはヴァイオリンのなかで眠ることになる」
ダーモットは目をパチパチさせて、
「サラダ籠とヴァイオリン?」
「やあ! 失礼した! サラダ籠とは……」ゴロン氏は言葉をさがして、手でその格好を描いてみせたが、あまりはっきりしたものでなかった。
「囚人護送車《ブラック・マスク》のこと?」ダーモットは臆測を口にしてみた。
「それ、それ、それですよ。その用語を聞いたことがある。そしてヴァイオリンとは、イギリスでいうショウキーなんで」
「留置場ならショウキーでなく、チョウキーですよ」
「なるほど。書きとめておくべきだな」ゴロン氏は小さな手帳をとり出して、「これでもわたし、英語に堪能のつもりなんで、ローズ家の連中と話すときは、かならず英語を用いておるんです」
「君の英語はりっぱなものですよ。一つだけ注意しておきたいのは、『会見《インタヴュー》』の代わりに、『|交わる《インターコース》』なんて言葉を用いんことです」
ゴロン氏は首をひねって、「それ、おなじ意味の言葉じゃないですか?」
「おなじ意味ではありませんよ。それどころか……」
ダーモットは歩道で足をとめて、静かな街並みに目をやった。それは夕方の光線のうちに、親しみやすい田園風のたたずまいをうかがわせて、いくつかのマロニエの木が、庭をかこむ灰色の石塀の上に、葉の影を落としていた。
このときのキンロス博士のすがたを、ロンドンの同僚たちに見せたにしても、博士と見てとる者はほとんどいなかったであろう。その理由のひとつは、休暇にふさわしい服装をしていたことで、だぶだぶのスポーツ・スーツに型のくずれた帽子を無造作にかぶったところは、ロンドンにおける博士の印象と、まったく、ちぐはぐのものであった。ラ・バンドレットに移ってきてからの彼は、疲労もかなり回復して、四六時中その頭をはなれたことのない仕事への力強い意欲も、しばらくのあいだ、休息状態にはいっているように見えた。目のかがやきがいちだんと冴えて、ある角度で光線があたるときは、整形手術の痕が見える浅黒い顔にも、生気のあふれがうかがわれた。いうなれば博士は、ゴロン氏からこの殺人事件の詳細なデータを聞かされるまでは、のんびりと、くつろいだ気持を楽しんでいたのであった。
ダーモット・キンロス博士はまゆをひそめて、
「マダム・ニールの家はどれですね?」と、きいた。
「われわれの横に建っているのがそれですよ」ムッシュー・ゴロンは籐のステッキをかかげて、左手にある灰色の高い石塀を指した。「したがって、道路をはさんで反対側の建物がボンヌール荘ということになる」
ダーモットは、ふり返ってみた。
それは白塗りの真四角な建物で、渋味のある赤瓦の屋根を持ち、おちついた感じであった。一階の窓は高い石塀にかくされていたが、ダーモットとゴロン署長は二階へ目をやった。そこには六つの窓が、一部屋に二つの割合で並んでいる。二人の視線が向いたのは中央の二つで、いわゆるフランス窓で、床まで切ってあり、その外が、金属製の手すりをそなえたバルコニーになっている。いま、その窓は、灰色に塗ったスチールの鎧戸が、あらゆるものをさえぎるように、ぴったりと下ろしてある。
「あの書斎の内部を見せてもらえたら、いろいろと興味のあることが、いくつかあると思うのだが」ダーモットがいった。
「そんなことはお安いご用ですよ、博士。しかし――」とゴロン署長は、肩越しに、イーヴの家を身ぶりで示し、「マダム・ニールに先に会ってくれるんでしょうな」と、いった。じりじりしてきている様子だった。
しかしダーモットは素知《そし》らぬ顔で、質問した。
「モーリス卿には、夜間、窓にカーテンをひかずにいる習慣があったのですか?」
「そうらしいですな。ことにあの夜は暑かったし」
「すると犯人は、ひじょうな危険をおかしたわけですな」
「ひじょうな危険?」
「人に見られる危険ですよ」ダーモットは指摘した――「道路の反対側の家々では、二階の窓からのぞきこむことができる」
「しかし、のぞかれたとは思いませんよ」
「なぜ?」
ゴロン署長は上仕立の服の肩をゆすって、
「われわれのこの町は、避暑のシーズンがだいたい終っておるんです。ほとんどの別荘が、住人の引き揚げたあとで、どこの街筋にも、人影が見受けられぬのに気づかれたはずだ」
「それで?」
「ニール夫人の別荘の両隣は、すでに空家になっておる。その点、確実にいえることで、警察は徹底的に調べあげた。のぞきこんだ者があるとしたら、それはマダム・ニール一人だけだといえる。そして、万が一にも、マダム・ニールが犯人でなかったとしても、彼女の口から、真犯人の名を聞きだすことは不可能だ。彼女が見ておったわけでないからで、このマダム・ニールという女性は、夜間はかならず窓のカーテンを下ろさずにいられぬという病的にちかい習慣の持主なんです」
ダーモットは帽子のツバを、ひたいがかくれきるまで低くひき下げて、
「やあ、ムッシュー・ゴロン」と、いった。「君の並べ立てる証拠は、ことごとく気に入りませんよ」
「ほ、ほう!」
「たとえば、マダム・ニールの犯行動機というもの、ばかばかしすぎますぞ。お聞かせしましょうか」
しかし、博士はその先は、いわなかった。ゴロン氏はそれに強い興味をそそられて、立ち聞きする者はいないかと、左右へ目をやったところ、ヴールヴァール・ド・カジノの方向から、大股に近づいてくる男のすがたをみとめたのであった。ゴロン氏は友人の腕をつかんで、イーヴの別荘をかこむ石塀にひらいている門のなかへひっぱりこんで、門を閉じてしまった。
「ムッシュー!」署長は声を殺していった。「あれがホレーショウ・ローズですよ。いきおいこんだあの足どりから見て、マダム・ニールに会おうとしておることはまちがいない。こっちが先手を打つとしたら、いまのうちですぞ」
「しかし――」
「いいですか。足をとめて、ローズ氏を見たりしないでくださいよ。いたって平凡な男とみてまちがいない。まっすぐ進んで、ドアのベルを鳴らすことだ」
しかし、ベルを鳴らすまでのことはなかった。玄関に通じる二段のステップの最初のほうに足をかけたところで、とつぜんドアがひらいた。
二人のすがたに、屋内の人物もおなじようにおどろいた様子で、半暗の家のなかから、悲鳴のような声が聞こえた。戸口に二人の女が立っていて、その一人がドアの把手に手をかけていた。
このうち一人がイヴェット・ラトゥールであろうと、ダーモット・キンロス博士はにらんだ。髪が黒く、顔立ちはきつく、大柄でがっしりした体躯の女だが、人目を避けたがるような感じがただよって、ともすれば屋内の暗がりにすがたを消してしまいそうである。その顔に、最初のおどろきにつづいて、底意地わるい満足感がチラッと浮かんで、小さな黒い目をきらめかしたが、すぐにまた、もとの頑《かたくな》さにもどってしまった。しかし、ゴロン氏をおどろかしたのは、もう一人の女性、二十代の若い女のほうで、警察署長はわれ知らず、まゆを生えぎわちかくまで、ぐっとあげた。
「おや、おや」ゴロン氏は帽子をとって、声にはずみをつけていった。「おや、おや、おや」
「失礼しましたわ」イヴェットもひきこまれて、おなじ調子で応じた。
「なんの、なんの。ちっともかまわんよ」
「これはあたしの妹なんです。署長さん」イヴェットはためらわずに紹介した。「ちょうどいま、帰ろうとしているところなんで」
「さよなら、姉さん」若い女は、いった。
「さよなら、ベイビー」イヴェットは心からの愛情がこもった声で答えた。「気をつけてよ。おっかさんによろしくね」
そして若い女は、ためらうこともなく戸口を出てきた。
いかにも姉妹らしく、目鼻立ちはそっくりだったが、イヴェットに似ているのは顔の造作だけである。
若いほうは、ほっそりしたからだつきで、よい趣味のドレスをスマートに着こなし、少しとり澄まして、ひと口にいえば、シックな女だった。黒い大きな目を遠慮なく、値踏《ねぶ》みでもするように二人に向けて、口もとに笑いを浮かべ、おちつきはらった朗らかさを示しているところは、フランス女だけが身につけているものである。そして同時に、署長何するものぞといった昂然たる態度で、目をことさらにきらめかしているようにも見える。二つのステップを降りてくるとき、香水の匂いがあたりに拡がった。少しつけすぎの気味があった。
ゴロン氏はいちおういんぎんな口調で、「マドモアゼル・プルーじゃないですか」と、いった。
女もまた、「署長さんでしたわね」と、ていねいに答えて、小腰をかがめて会釈をしたが、そのまま小径を歩み去った。
署長はイヴェットに告げた。「われわれ二人、マダム・ニールにお会いしたくて、やってきた」
「あいにくでしたわ、署長さん。奥さまはお向こうの家で、ローズさん一家のお茶に呼ばれておいでです。お会いになるんなら、あちらのお宅へいらしたら?」
「そうだったか。ありがとうよ、イヴェット」
「どういたしまして、署長さん!」
イヴェットはていねいな物腰をつづけて答えた。しかし、ドアを閉めるにあたって、その顔をある種の表情が横切った。ダーモットには、それが何を意味するものか読みとれなかった。あざけりの表情とも受けとれた。ゴロン署長は閉《と》ざされたドアをみつめて、ステッキの頭で前歯をたたいていたが、ようやく帽子をかぶって、
「おや、おやだ!」と、つぶやくようにいってから、キンロス博士に向かって、「あれをどう見ました?」と、きいた。
「あれをとは?」
「この小さなエピソードには、何か意味があるように感じられるんだが、はっきりしたことはわからない」
ダーモットもうなずいて、「わたしもおなじ感じを受けましたよ」と、応じた。
ゴロン署長はつづけて、「たとえば、あの二人の女が何かを企らんでおる。そのにおいが感じとれる。われわれが身につけた捜査本能によってですな。しかし、それ以上のことは憶測となるので、言葉を差し控えざるをえないのです」
「君はあの女性を知っているんですな?」
「知ってますとも。マドモアゼル・プルーというんです」
「で、彼女は……」
「ちゃんとした女か、と聞くんでしょうな」ゴロン氏はくすくす笑って、「あんたたちイギリス人という人種は、いつもきまって、まっ先にそれを質問する!」そうはいったものの、署長はこの質問が気になるように、小首をかしげて、「そうですよ。わたしの知っとるかぎりでは、ちゃんとした身持ちの婦人といって差し支えない。アルプ街に花屋の店を出しておるんです。ついでながら、そこはこの事件にからんでおる古美術商のヴェイユの店と遠くないところです」
「嗅ぎ煙草入れをモーリス・ローズ卿に売りつけた骨董商ですな?」
「さよう。しかし、代金はまだ支払ってないんですよ」そこで、署長はまたもためらって、はっきりと渋面をつくり、「しかし、これがわれわれの仕事に役立つとも思えんので、これ以上、あんたと論じあっても意味がありますまい。マドモアゼル・プルーが姉を訪問してはならんという理由はないんですからな。われわれがこの家を訪問したのは、マダム・ニールに会うためだった。してみれば、道路向こうの家を訪れて、マダム・ニール自身の口から、その言い分を聞いたほうが、ずっと簡単にすむ」
二人はさっそく方向を転じた。
ボンヌール荘の前庭は煉瓦塀の奥に、きれいに刈りこんだ芝生を展開していた。玄関のドアは閉まっていたが、そのすぐ右手に並ぶいくつかの大きな窓は、どれもみな、あけ放してあった。六時をすぎたこの時刻に、夕闇が庭から屋内へと忍びよって、客間のなかは暗い影に包まれていた。しかし、そこではいま、はげしい感情がスパークに似た火花を飛ばしているのだった。ゴロン氏が門を押しあけると、客間の話し声が聞こえてきた。それは若い娘の声で、英語でまくしたてている。ここからでは、すがたが見えないが、若いジャニス・ローズの生き生きした人柄が、ダーモットの目にも、はっきり浮かんできた。
「で、どうなんです?」その声がせきたてている。
少し間をおいてから、相手の声がいった。「わたし――わたしには、話せませんわ」
「そんな顔をなさらないで! 話をとめないで!」ジャニスは追及をやめようとしなかった。「ちょうどトビーも帰ってきたことですし」
「おい、ジャニス!」男の声がさえぎった。あきらかに面喰らったかたちである。「いったい、どうしたんだ?」
「トビー、いまそれを話すわ」
「ぼくはきょう一日、ひどく働かされた。女というものは、男が職場で、どんなにつらい思いをするものか、考えてもみないんだな。いくら働いても、老いぼれ支店長め、満足した顔をみせようとしない。とにかく疲れた。とても、ゲームをする気になれんよ」
「ゲームですって?」ジャニスが声をとがらせた。
「そうさ。ゲームじゃないか。ぼくまで仲間へ入れないでくれ」
ジャニスはしゃべりだした。「パパが殺された夜、イーヴは外出して、もどってきたときは、からだじゅう血だらけだったのよ。この家の玄関の鍵を持ってたし、部屋着のレースに、嗅ぎ煙草入れの瑪瑙《めのう》のかけらがくっついていたんだわ」
ゴロン氏は友人に首で合図をして、足音を立てぬように芝生を横切り、近くの窓からのぞきこんだ。
かなり広い客間であるが、多くの家具がそなえつけてあって、みがきあげた床が、空よりも明かるい湖のように、淡《うす》青く光っていた。居心地のよさそうな部屋で、つねに使われているものと見えて、たくさんの灰皿をはじめとして、こまごました品が、すぐとりあげられる位置においてあった。ティー・ワゴンのそばでは、金茶色のスパニエル犬がまどろんでいる。目のあらい茶色の皮をはった、ひじかけ椅子、白大理石のマントルピース、サイド・テーブルの上には、青と緋色のシオンの鉢――それらの品が、薄闇のなかに、ぼんやりと浮かびあがっている。そして、そこに集まった喪服の人々のすがたは、顔をのぞけば、垂れこめた影よりもさらに暗かった。
ゴロン氏の説明を聞いていたので、ダーモットにはこの人々の見分けがすぐについた。ヘレナ・ローズがいる。ティー・ワゴンのそばで、からのパイプをくわえているのがベンジャミン・フィリップス。そしてジャニスは、窓に背を向けて、低い椅子に腰かけていた。
イーヴ・ニールだけは、トビー・ローズのからだがじゃまになって、見ることができなかった。トビーは喪服用のグレイのスーツを着て、腕に正式の喪章を巻き、暖炉のわきに立っていた。少しぽかんとした表情で、両方の目をおおうように、片手をかかげている。
彼はこの場の様子を理解しかねるように、ジャニスを見、母親を見、そしてもう一度、ジャニスに目を向けた。小さな口ひげまでが、説明を求めているようであった。やがて、彼の甲高い声がひびいた。
「どうしたんだ? 何の話をしているんだ?」
「あのねえ、トビー」母親のヘレナがためらいがちにいった。「いま、説明してもらっているところなの」
「説明?」
「そうなの。イーヴのご主人、アトウッドさんのことを、くわしくうかがっているのよ」
「何ですって?」トビーはいった。
理解できない言葉を聞かされて、はげしいショックを受けたからか、トビーのまゆがあがった。少し間をおいてから、トビーの口から、いたって短い言葉がもれて、夕暮れ時の空気をふるわせた。押し殺した声のつもりであろうが、注意ぶかい耳には、それが嫉妬のこもった意味深長なものであるのが聞きとれたはずである。
「忘れちゃ困りますよ、ママ」トビーはくちびるをぬらしていった。「その男は、イーヴの夫でも何でもないんですよ。とうの以前に別れてしまった」
ジャニスが口を出して、「だけどその男、別れたなんて考えていないのよ。イーヴだってそれを認めているわ。そして彼、このラ・バンドレットにもどってきたのよ」
トビーは、しかし、機械的に答えた。「知ってるよ。彼がもどってきたことは、噂で聞いている」そして、目をおおっていた手をのけて、彼らしくもないあらあらしい動作を示し、「しかし、ぼくは知りたい。何のためにここに顔をそろえて……」
ジャニスは答えた。「アトウッドという男、パパの死んだ晩に、イーヴの家に押し入ったのよ」
「押し入った?」
「つまりその男、イーヴといっしょに暮らしていた当時、家の鍵をあたためておいたのよ。あの夜、それを使って、イーヴの家へ押し入り、二階へのぼって、彼女の寝室にはいりこんだの。イーヴが服をぬいだあとでよ」
トビーは、からだをこわばらせた。
薄暗がりのなかで見るかぎり、彼の顔は無表情といってよかった。一歩さがったとたんに、マントルピースに激突して、われに返るまでのあいだ、ぽかんとしたままであった。しばらくして、イーヴへ顔を向け、何かいいかけたが、思いなおして、しわがれた声でジャニスにいった。
「それで?」
「わたしが話すことはないわ」と、ジャニスは答えた。「イーヴから直接きいたらどうなの? 話してくれるはずよ。イーヴ、トビーがじりじりしださないうちに、何もかも話してしまったほうがいいわ。トビーがいないと思えば、遠慮なく話せるんじゃなくて?」
そこでラ・バンドレットの警察署長アリスティード・ゴロン氏が低い咳ばらいを聞かせた。そして、深く息を吸いこみ、血色のいい丸顔に微笑を浮かべ、肩を落として帽子をぬぐと、すばやく屋内に足を踏み入れた。みがきあげた堅木の床に足音をひびかせて、客間にはいって、
「わたしもまた居合わせないことにして、話していただきますよ、マダム・ニール」と、いった。
その十分後には、ゴロン署長が椅子からからだを乗り出して、ネコのような目つきで、イーヴの話をうながしていた。尋問の開始にあたって、さも得意そうに英語をまじえていたが、気がはいってくると、彼自身理解不能の言いまわしに混乱を感じだして、けっきょくはフランス語一本に変えてしまった。
「で、マダム?」と、指で彼女を突つくような格好を見せて、「それから、どうしました?」
「お話しすることは、みんな話してしまいましたわ」イーヴはついにさけびだした。
警察署長は澄ました顔で、「ミスター・アトウッドはその鍵を使用して、二階まで侵入してきた。なるほど! そして彼は――」そこでゴロン氏は咳ばらいをして――「力づくであんたを――?」
「ええ」
「それはもちろん、あんたの意志を無視してのことですね?」
「もちろんですわ」
「そうでしょうな」ゴロン氏は彼女をいたわるような口調で、「それから、どうしました?」
「乱暴なことをしないで、出ていってくれと頼みました。お向かいの部屋に、モーリス・ローズ卿がまだ起きていらっしゃるから、騒ぎ立てないでくれって」
「すると?」
「彼は窓のカーテンをひきあけて、モーリス卿が書斎で起きていらっしゃるかを見ようとしました。わたしは電燈を消して――」
「ほう! あんたが電燈を消された?」
「ええ、消しました」
ゴロン氏はまゆをひそめて、「やあ、マダム。わたしは頭がにぶいもので、つまらん質問をするようで恐縮ですが、ミスター・アトウッドの意図をくじくにしては、一風変わったやり方ですな」
「さっき申しあげているように、モーリス卿に知られたくなかったのです」
ゴロン氏は考えてから、
「すると奥さんは」と、いった。「彼の暴力を――その、何といったらよいか――あくまでもこばんだのは、みつけられるのを、おそれたからなんですか?」
「いえ、いえ、そんな意味ではありません!」
長方形の客間に、|たそがれ《ヽヽヽヽ》の色が深まってきた。ローズ一家の男女は、あるいは椅子につき、あるいは立ったまま、蝋人形のように動かずにいて、顔の表情にしても、ほとんど読みとることができない。トビーはさっきから暖炉を背にしていたが、いま、そちらに向きなおって、火のないそれに手をかざした。
警察署長は彼女に圧力をかけたり、おどしたりするわけでなく、その表情も暗く、くもっていた。男であり、しかもフランス人であるゴロン氏は、彼を当惑させている状況を理解するのに、全力をそそいでいるだけであった。
「あなたはこのアトウッドという男をおそれていたのですね?」
「ええ、とても」
「しかし、モーリス卿が目と鼻のところにおられるのに、助けを呼ぼうともしなかったんですな?」
「ですから、それができなかったといってるんです!」
「で、そのときのモーリス卿は何をしておられました?」
「デスクの前の椅子にかけて」と、イーヴはそのときの光景をまざまざと目の前に浮かべて、耐えられぬ気持のうちに答えた。「拡大鏡を手に、何かをのぞきこんでおいででした。そしてそこに――」
「そこに?」
誰かがいたとつけ加えるつもりだったが、ローズ一家の人々の前であるし、その事がらの重大性を考えると、声がのどにつかえて言葉にならなかった。ふたたび彼女の目の前に、老貴族のくちびるの動き、拡大鏡、背後にうごめく影、等々が浮かびあがってきた。
「そしてそこに――嗅ぎ煙草入れがおいてあって」とイーヴは力のない声で、その場をつくろった。「ご老人はそれを見ておられました」
「何時ごろのことですか、奥さん?」
「さあ――覚えていませんわ」
「それから?」
「ネッドが近よってきたので、押しのけて、女中たちの目をさまさせないように頼みました」イーヴは一語一語、真実を語っていったが、しかし、最後のひと言に、聞き手の顔色が少し変わった。「わかっていただけますわね。あんなことを、女中たちに知られたくなかったからです。そこに電話のベルが鳴りました」
「ほ、ほう」ゴロン氏は満足そうな表情になって、「それでどうやら、時刻の確定が容易になった」と、顔をトビーにふりむけて、「ローズさん、あんたがマダムに電話されたのは、一時きっかりでしたな?」
トビーはうなずいた。しかし、署長のその質問には一顧もあたえず、何気ない口調で、イーヴに話しかけた。
「すると、君がぼくと話しているあいだ、その男は君の寝室にいたんですね?」
「ごめんなさいね、トビー! あなたには知られたくなかったのよ」
「そうでしょうとも」ジャニスは低い椅子にかけたまま、「だからかくしていたんだわ」
トビーはつぶやくような声でいいつづけた。「君のそばに、立っていたのか腰かけていたのか知らないが、とにかく君は、とてもおちついてしゃべっていた。彼がそばにいても、何でもないことのように……夜中に起こされて、ぼくのことのほか、何も考えられないかのように……」
しかし、ゴロン署長がさえぎって、
「やあ、奥さん。先をつづけてください」
イーヴは説明をつづけて、「そのあと、出ていくように、強くいいましたが、あのひと、そんな素振りも見せようとしないのです。そして、誤りをおかさせたくないからだというのです」
「それ、何のことです、奥さん?」
「あのひと、わたしがトビーと結婚すべきでないと考えていたのです。窓からからだを乗りだして、道路向こうのモーリス卿に、わたしの寝室に男がいると知らせれば、わたしのスキャンダルを――真実でないスキャンダルを――世間に流せると考えました。そのようなことを思いつくと、夢中になってしまうのがネッドの性分ですの。彼は窓に歩みよりました。でも、窓の外を見ますと……」
イーヴはてのひらを上にしてみせた。ダーモット・キンロス博士にしても、アリスティード・ゴロン署長にしても、そのほか誰であろうと、この場の空気に敏感であった者には、そのあとにつづく沈黙が、おそろしく不吉なものと感じられたにちがいなかった。
沈黙のあいだ、部屋は小さな物音がいっぱいだった。ヘレナ・ローズは胸へ手をあてがって、軽い咳をくり返し、ベンジャミン・フィリップスはていねいにパイプを詰めてから、マッチをすった。焔が燃えあがるまえの擦れる音が、意味のある言葉のように聞こえた。ジャニスは身動きもしないでいたが、大きくて無邪気な茶色の目が、イーヴのいおうとするところを、徐々に悟りはじめたように見えた。しかし、最初に口を切ったのはトビーだった。
「窓の外を見たんですね?」
イーヴはいそいでうなずいた。
「いつ?」
「あのすぐあとに……」
それ以上のことはいう必要がなかった。その場の者の全部の口が、ささやくような声で、いっせいに問いかけてきたのであった。まるで、大きな声を出して、伏勢とか幽霊とかをおびき出すのを避けるかのように。
「ごらんになったのね?」ヘレナが最初の質問をした。
「誰かのすがたを?」ジャニスがつづいた。
「何か変わったものを?」ベン伯父も口のなかでつぶやくようにいった。
部屋の片隅で、誰からも少しはなれて、あごをこぶしの上に預けた姿勢で、ダーモットはイーヴ・ニールに目を据えたまま、そのとぎれとぎれの話の底にひそむ重大な意味を、全精神を集中して考えていた。
精神病医としての博士の心は、以下のような診断を下した。「想像力に富み、暗示にかかりやすい。善良な性格で、情におぼれがち、自分の利益を犠牲にしてかえりみない。親切な態度を示す者には、相手のいかんを問わず、誠実をつくす。さよう。この女なら、切迫した状況におかれれば、殺人をおかすことも辞さないであろう」しかし、人間としてのダーモットには、この診断が心を乱すものと感じられた。二十年ものあいだ、感情を押さえつけるために、強靭な皮膚をつくりあげてきたはずであるのに、その皮膚を貫いて突き刺さってくる思いをいかんともしがたかった。
いま彼女は、タン皮の肘かけ椅子に身を沈めて、椅子の腕の上で、手を握りしめたりほどいたりしている。くちびるを噛みしめ、頸筋《くびすじ》の静脈に波打たせ、ひたいに小じわをよせることで、浴びせられた質問との絶望的な闘いをつづけている。そのグレイの眸が、トビーからジャニスへ、ジャニスからヘレナとベン伯父に移り、そしてまた、トビーにもどった。
ダーモットは考えた――この女、嘘をつこうとしている。
けっきょく、イーヴはさけんだ。「いいえ!」と。そして、肚を決めた様子で、からだを緊張させ、「わたしたちは誰も見ませんでした。変わったことも」
「わたしたちか!」トビーはいって、マントルピースの上を強くたたいた。
ゴロン署長はじろりにらんで、トビーをだまらせ、
「しかし、何も見なかったわけではありますまい」と、口調はおだやかだが、鋭く迫った。「モーリス卿は死んでおられたんでしょうな?」
「ええ、そうですわ!」
「その様子がはっきり見てとれた?」
「ええ」
署長はさらに言葉をやわらげて、「そうだとすると、あなたはどうして、凶行の|すぐあと《ヽヽヽヽ》だと知りました?」
イーヴはちょっと間をおいてから、「いいえ、そこまではもちろんわかりませんわ」と答え、グレイの目で、ゴロン氏をまっすぐ見返した。胸がゆっくり上下している。
「わたしはただ、そう思っただけなんです」
ゴロン氏は指を鳴らして、「わかりました。先をつづけてください」
「そこへヘレナがはいってきて、悲鳴をあげはじめました。わたしはこんどこそ、ネッドに強くいって、出ていってもらいました」
「それまでは、あまり強くはいわなかったんですな?」
「いいえ、いいました! とても強く! でも、この最後のときは、わたしがあまりにも真剣だったので、ネッドとしても、引き揚げなければならないと知ったのです。出ていく前に、鍵をとりもどして、パジャマのポケットへ入れました。彼は階段を降りる途中で……」ここで彼女は、その説明の内容が突飛すぎて、異様に聞きとられるのに気づいたらしく、「降りる途中で、足をすべらして、鼻を打ちつけました」
「鼻を?」ゴロン氏はおなじ言葉をくり返した。
「ええ、そうですわ。鼻血が噴《ふ》き出しました。その彼に触れたので、血がわたしの手につき、ネグリジェにはねかりました。あなた方がああまで大仰《おおぎょう》に騒ぎたてた血は、実際には、ネッド・アトウッドの血なんですわ」
「ほんとうですか、奥さん?」
「わたしにおたずねになることはありません。ネッドにおききになればわかることです。あのような人でも、わたしがこんな苦しい立場におかれているのを知ったら、わたしの言葉を裏づけてくれる気持はあると思いますわ」
「そうでしょうか、奥さん?」
そこでまた、イーヴは強くうなずいた。そして、彼女のまわりに立っている人々に、訴えるような眸を素早く投げた。この女性は、ダーモット・キンロス博士の判断をくもらせはじめていた。それは奇怪で、嫌悪すべき現象だった。博士はこれまでの生涯で、このような気持を感じたことは一度もなかった。しかし、彼の脳髄の一部である冷静な理性は、はっきりと彼に告げていた。イーヴはすべて――彼女自身が言いよどんだ個所ひとつをのぞけば――真実を語っていると。
警察署長は尋問をつづけた。「ムッシュー・アトウッドのことですが、階段から足をすべらして、鼻を打ったといいましたな。ほかに怪我はなかったのですか?」
「ほかの怪我? どういうことでしょうか?」
「たとえば、頭に傷ついたとか?」
イーヴはまゆをひそめて、「なんともいえませんわ。そのようなことも考えられます。高くて急な階段ですし、ずいぶんひどい転げ落ちようでしたから。でも、暗闇だったので、わたしには見えませんでした。でも、あの血はネッドの鼻から出たものです」
ゴロン氏はその返事を予期していたものか、それとなく微笑をもらして、
「つづけてください、奥さん」と、うながした。
「わたしは彼を裏手のドアから連れ出して……」
「なんのために裏口にしたんです?」
「外の通りは警察官でいっぱいだったからです。彼は裏木戸から帰っていきました。するとそのとき、あのことが起きました。わたしの家の裏口は、ドアにスプリング錠がつけてあるのですが、わたしがそこに立っているあいだに、風がドアを閉めてしまいました。つまりわたしは閉め出されたのです」
彼女の言葉がとぎれたあいだに、ローズ家の人々は、それぞれおかしな表情を見せて、たがいに顔を見かわした。ヘレナは抗議するような口ぶりで、息を少しぜいぜいいわせながらいった。
「それ、思いちがいじゃありませんの? 風がドアを閉めたんですって? はっきり覚えていらっしゃるの?」
ジャニスも口をはさんで、「あの夜は、一晩じゅう風がなかったわ。劇場にいるあいだにも、その話が出たはずよ」
「そ、そうでしたわね」
「だったら、どういうわけなの?」ヘレナがいった。
「わたしもそれを考えました。ただ、わたしがそれに気づいたのは、あとになってからで、それに気づくと、納得のいく説明を考えて、誰かが――ええ、そうですわ。誰かがわざと閉め出したんじゃないかと……」
「なるほど」ゴロン氏がいった。「誰にです?」
「イヴェットですわ。女中の」イーヴは両手を握りしめて、椅子のなかで、身もだえせんばかりの格好だった。「ですけど、あのイヴェットは、何が理由で、わたしをきらうのでしょうか?」
ゴロン氏はさらにまゆを吊りあげて、
「すると奥さん、こういうわけですか。家のなかからドアを閉めて、あんたを外に閉めだしたのは、イヴェット・ラトゥールの仕業であると」
「はっきり申しあげるわけではありません。わたし自身が、なぜあんなことが起きたか、一生懸命考えているところですわ」
「われわれだって、おなじことですよ。では、興味あるこの問題の検討をつづけましょう。あんたは裏庭へ出られて……?」
「ええ、そこで閉め出されて、家へはいることができませんでした」
「できなかった? それはおかしい! あんたはただ、ドアをノックするか、ベルを鳴らせばよかったんではないでしょうか?」
「そんなことをしたら、女中たちを起こすことになりますわ。それがいちばん避けたかったことです。イヴェットを起こすなんて、考えただけでも……」
「女中二人のうちのどちらかが、すでに目をさましておって、何らかの理由から、あんたを閉め出したというんですな。おっと」と、ゴロン氏は同情を示す声を出して、いい添えた。「お怒りになっては困りますぞ。わたしは何も、あんたを|わな《ヽヽ》にかけようなんて考えておるわけではありません。ただ、その……何といったらよいか……あんたの話が真実かどうかを、たしかめたいだけのことで」
「でも、お話しすることは、それで全部ですわ」
「全部?」
「わたしはパジャマのポケットに、玄関の鍵を入れておいたのを思いだしました。そこで、こっそり表へまわって、玄関からなかへはいりました。その行動のあいだに、腰帯を落とすことになったのです。いつ落としたかは覚えていませんけど、手を洗っているときに、なくなっているのに気がつきました」
「ほう!」
「あの品もやはり、警察がみつけだしたにちがいありません」
「そうですよ。われわれの手でさがし出してあります。ところで、この問題については、うかがっておかねばならぬことが、もう一つあるんです。些細なことですが、いまの奥さんのお話しには出てきませんでした。それは瑪瑙の破片で、奥さんの部屋着のレースにひっかかっておるのを発見してあるんです」
イーヴはおちついて答えた。
「そのことはわたし、何も存じません。わたしの申しあげるところを信じていただくだけです」そして、両手を目の上に押しあてたが、すぐにまた、とりのぞいて、熱のこもった口調で話しだした。その真摯《しんし》さに、聞き手は誰も、心を打たれたに相違なかった。「その問題を聞かされたのは、これが始めてです。誓って申しあげられますが、家へもどったとき、そんな品はついていませんでした。なぜはっきりいえるかといいますと、前々からお話ししてあるように、わたしはネグリジェを、洗うために脱ぎました。誰かがそのあとで、故意にくっつけておいたとしか考えられません」
「誰かが故意につけておいた」ゴロン氏のその言葉は、質問というより断定にちかかった。
イーヴは声をあげて笑ってのけたい気持で、みなの顔をつぎつぎとみつめて、
「とにかく、わたしを殺人犯人と考えることはできないはずですわ」
「しかし、奥さん、率直な言い方をして、お気にさわるかもしれませんが、この思いつきは、少し奇抜すぎるようですぞ」
「でも、わたしには……わたしの言葉の全部を証明できますわ」
「ほう! どんなぐあいに?」署長はいって、マニキュアをほどこした指で、彼の椅子のそばの小テーブルをたたきはじめた。
イーヴは、ほかの人たちに訴えるような目を向けて、
「いままで隠していたことは申しわけないと思っています。それというのも、わたしの寝室にネッドがきていたことをいいたくなかったからで」
「その気持はわかるわ」ジャニスが生彩のない声でいった。
「でも、この尋問は――」――イーヴは両手を大きくひろげて――「何と答えていいかわからないくらい。滑稽すぎて、話になりません。まるで、真夜中にたたき起こされて、見たことも聞いたこともない相手の殺人容疑で責められているみたい。わたしの答弁には裏づけがあるからいいようなものの、そうでなかったら、おそろしさのあまり、死んでしまいますわ」
「おなじ質問をくり返して恐縮ですが、奥さん」と、ゴロン氏がいった。「それをどうやって立証なさるおつもりです」
「きまっていますわ。ネッド・アトウッドにおききねがいます」
「ああ、なるほど」警察署長はいった。
彼の動作が計画的なものであるのは明瞭だった。上着のラベルをひっぱってボタン穴に挿した白バラの花の匂いをかいだ。床の中央あたりをじっとみつめて、軽いジェスチャーをしたが、顔はひたいに縦じわをよせているほかは、まったくの無表情だった。
「奥さん、あんたはこの一週間、この話をつくりあげるのに、考慮に考慮を重ねたようにお見受けするが、いかがでしょう?」
「わたしは何も考えていません。こんな話をうかがったのは、いまが初めてですわ。わたし、ほんとうのことを申しあげているのです」
ゴロン署長は目をあげて、
「奥さん! あんたはこの一週間のうちに、ムッシュー・アトウッドにお会いになっていますね?」
「いいえ、会っていませんわ」
横からジャニスが、低い声で口を出した。「イーヴ、あなたはいまでも、その男を愛しているの? いまでもまだ――?」
「何をいうのよ。そんなことがあるわけがないよ」ヘレナがとりなすように、娘の言葉をさえぎった。
イーヴは老婦人に、ありがとうと礼をいってから、トビーに向きなおって、
「あなたにも、わたしの口からお聞かせしておいたほうがよさそうね。わたしは彼をいみきらっています。どんな男よりも軽蔑しています。二度と顔を合わせたくないと考えています」
「たしかに」と署長が、おだやかな調子で、口を入れた。「二度とお会いになることはありますまい」
部屋の人々は、いっせいに署長の顔を見た。彼はまた、床をみつめていたが、もう一度目をあげて、
「ムッシュー・アトウッドは、たとえその気になっても、証言台に立つことができない。奥さんはそれを知っておられる」署長の声は鋭くなった。「奥さんもご承知のように、ムッシュー・アトウッドはドンジョン・ホテルの一室に、危篤状態で横たわっておる。脳震盪によるものです」
その言葉のあと、十秒ほどして、イーヴは深々した椅子から立ちあがって、署長を見返した。そのとき初めて、ダーモットは気がついたが、彼女はグレイの絹ブラウスを着て、黒のスカートをつけていて、それが血色のよい白い顔とグレイの大きな目によく映えていた。しかし、ダーモットは彼女のからだの全神経と頭のなかの考えを知りぬいているつもりだけに、ここで新しい感情を抱いた。
博士のみたところ、これまでの彼女への非難は、とりあげるまでもないあてこすりにすぎなかった。それがとつぜん、危険な事態が発生した。これが導き出す結果が、彼女にはわかっていた。そうあってはならぬと思うものの、どうしようもない。危険がさしせまっているのが見てとれる。署長のおだやかな身ぶりの一つひとつ、控え目な言葉の一語一語から感じられるおそろしい危険が。
「脳震盪で……?」イーヴがいいかけると、
ゴロン氏はうなずいて、
「一週前、夜中の一時半に」と、つづけていった。「ムッシュー・アトウッドはドンジョン・ホテルにもどってきて、部屋へ行く途中、エレベーターのなかで昏倒しました」
イーヴは両手でこめかみを押さえて、
「ですけど、あのひとにそれが起きたのは、わたしの家を出ていくときのことですわ! 暗かったので、よく見えませんでしたが、階段を転げ落ちたとき、頭を打ったにちがいありません」そして、少し間をおいて、彼女はつけ加えていった。「かわいそうなネッド!」
トビー・ローズは、マントルピースの上をこぶしでたたいた。
皮肉な微笑が、いんぎんな態度をつづけているゴロン署長の顔に、チラッと浮かんだ。
「ムッシュー・アトウッドは」と、彼はつづけた。「昏倒したあとも、わずかな意識が残っていて、その理由をつぎのように説明しているんです。往来で車に跳ねとばされ、歩道とのさかいの縁石に頭をぶつけたんだそうで。それだけいうと、あとは完全な失神状態におちいって、いまだに意識をとりもどしていないのです」
そこでゴロン氏は、指で空中に線を描いてみせ、以下の言葉を強調する気持をそれとなく示した。
「わかっていただけますな。ムッシュー・アトウッドは現在、尋問に耐えられる状態ではないのです。そして、回復の時期も、目下のところは、まったく予想できません」
ゴロン署長は疑わしげな表情を見せて、マダム・ニールに話しかけた。
「このような事実を、あんたの耳に入れるのは、適当でなかったかもしれませんな。いや、たしかに軽率でした。こうまで打ち明けた話を、逮捕に先立って、容疑者に聞かせるのは先例のないことで……」
「逮捕?」イーヴは口ごもりながらいった。
「そうですよ、マダム。その覚悟が必要だと申しあげておきますよ」
いまは感情の動きが極限に達して、誰もがフランス語だけで話しているわけにはいかなくなった。
「そんなまねをさせるものですか!」ヘレナ夫人が目に涙をため、下くちびるを突き出して、挑戦するようにいった。「わたしたちイギリス国民をそんな目にあわすなんて、許されることでありませんわ。死んだモーリスは総領事の親しい友人でしたし、イーヴにしても――」
するとジャニスが、判断に迷いながらもさけびだした。
「それには少し、説明を聞かせてもらう必要があるわ。嗅ぎ煙草入れのかけらのことよ。それから、イーヴがほんとうにアトウッドという男をおそれていたのなら、なぜ助けを呼ばなかったか。わたしだったら、当然、したことよ」
トビーは不機嫌な顔つきで、暖炉の炉格子を蹴とばしながら、
「何にしても、ぼくの電話のとき、あの部屋に男がいたというのはショックだ」と、つぶやいていた。
ベン伯父は何もいわなかった。元来、無口な男で、手仕事を得意としている。車を修理し、おもちゃの船をつくり、壁紙を貼るといった仕事には、本職に負けない腕を持っていた。いまはティー・ワゴンのそばで、パイプをくゆらしながら、ときどきイーヴに、力づけるような微笑を向けるのだが、おだやかなその目は当惑の色にくもって、頭をふりつづけているのだった。
ゴロン氏は英語で言葉をつづけた。「ミセス・ニールを拘禁する問題については……」
「ちょっと待った」と、ダーモットがいった。
彼のその声に、みなはびっくりした。ピアノのそばの薄暗い片隅に、博士が腰かけていることを、誰もが忘れていた。いまのひと声で、イーヴの視線が彼にそそがれた。一瞬、博士は心がはげしく、うずくのを感じた。過去の日の恐怖の再現。顔の半分を失なって、一生を送らねばならぬと知ったときの絶望感。それは不幸だった日の名残りであると同時に、精神障害こそ人類最大の苦悩であると知って、その克服を職業に選んだ日の思い出でもあった。
ゴロン氏がとび上がった。
「これはしまった!」署長は芝居がかりでいった。「すっかり忘れていましたよ。あんたがおいでのことをね。失礼のだんは幾重にもお詫びします。なにぶん、このような状況だったもので……」
そして署長は、一座の人々に手をふってみせて、
「申しおくれましたが、わたしの友人で、イギリスからこられたキンロス博士を紹介させてもらいます。ここにおられるのが、さっき話した方々で、ヘレナ・ローズ夫人、そのお兄さんとご令嬢にご子息。それからこちらがマダム・ニールで」
トビー・ローズが顔をこわばらせて、
「あなたはイギリス人ですか?」と、きいた。
ダーモットは微笑を浮かべて答えた。「そうです。イギリス人です。しかし、おかまいなく」
「ぼくはまた、ゴロン署長の部下かと思いましたよ」トビーは不満な気持を露骨に示して、「そうでないと知っていたら、内輪の話をするんじゃなかった」と、家族の者の顔を見まわして、「聞かれているとは知らないので、何もかもしゃべってしまった!」
「聞かれて悪いことをしゃべったの?」ジャニスがたしかめた。
「申しわけありませんでした」ダーモットはおとなしく詫びた。「口を出して、お話しのじゃまをするのもどうかと思いましたので――」
「わたしが頼んで、いっしょにきていただいたのです」ゴロン氏が説明した。「博士は精神医学界では有名な方で、ヴインポール街で開業しておられますが、警察のお手伝いもなさって、わたしの知ってるだけでも、重大犯人を三人まで逮捕していられます。一度は上着のボタンがちゃんとかかっていなかったことから、そして一度は、口のきき方から目星をつけられた。つまり、内心の動きを捕えるのに妙を得ておられるんですな。そこでわたしがお願いして――」
ダーモットはイーヴにまっすぐ目を向けて、
「わたしの友人のゴロン署長が」と、いってきかせて、「ミセス・ニールにたいする証拠に疑念を持つといいますので――」
「何をいうんです!」署長はあわててさけんだ。友人の軽率な言葉を非難するように、怒りの目を向けている。
「そうじゃなかったかね?」
「なんにしろ」とゴロン氏は、不服の顔つきをはっきりと見せていった。「そこまで打ち明ける必要はありませんよ」
博士はヘレナ夫人に向かって、「わたしがお訪ねしたほんとうの理由は、手をお貸しすることができればと思ったからで、じつをいいますと、わたしは亡くなられたご主人と面識のあった男でして……」
「まあ、モーリスをご存じでしたの?」ヘレナはさけんだ。
「ええ、ずっと昔の話で、わたしが刑務所の仕事をしていた当時のことです。ご主人は刑務所改善事業に深い関心をお持ちでした」
ヘレナはしきりとうなずいていた。予想もしなかった客の訪問に、椅子から立ちあがって、もてなしの動作に移ろうとするのだが、この一週間の心痛に、エネルギーを消耗しつくしていた。そしてまた、いつものことだが、亡夫モーリスの名を聞かされると、目に涙があふれてくるのを、おさえきれなかった。
「モーリスが見せていたのは、『関心』なんてものじゃありませんのよ。いつも、刑務所の人たちの――これ、囚人のことですわ――研究をして、その人たちのことなら、何もかも知っていましたわ。むこうでは、モーリスを知っていないにしてもね。それというのも、夫はその人たちの更生に手を貸しても、なんの代償も求めなかったからですの」そこで、彼女の口調は腹立たしいものに変わった。「まあ、わたし、何をしゃべっているんでしょう。いまさらそんなことを考えても、なんの役にも立ちませんのに」
「キンロス博士」ジャニスが、低いがよく透る声でいった。
「なんです?」
「警察では、ほんとうにイーヴを逮捕するつもりですの?」
「そうならんことを希望していますよ」ダーモットは平静に答えた。
「あなたはそれに不賛成なのね。でも、その理由は?」
「そういうことになると、旧友のゴロン氏と、徹底的に闘わねばならぬ結果が生じますのでね」
「イーヴの話を、どうお聞きになりまして? 信じられますの?」
「信じられますよ」
ゴロン氏の顔に、怒りの表情がチラッと浮かんだが、何もいおうとしなかった。ダーモットのおだやかな人柄が、その周囲に平静な空気を拡げている感じで、神経をとがらせていた人々も、ようやくおちつきをとりもどしてきた。
するとトビーがいいだした。「こんな話を聞かされるだけで、気持が暗くなってくる。ぼくたちみんな、そうだろうが」
「たしかに愉快な話じゃありませんな。しかし――」と、ダーモットがいった。「誰よりもつらい気持を味わっているのは、話し手のニール夫人であるのが考えられませんか?」
「赤の他人がいるところで」と、トビーがいった。「こんな話をするのが、どうかと思うんです!」
「失礼しました。では、おいとまします」
トビーはそれをさえぎるように、「何も、帰ってほしいといいはしませんよ」いつもは愛想のいい顔を、疑惑と不満にはげしくゆがめて、「この話はあまりにも突然すぎます。勤めから帰ってきて、いきなり聞かされる話じゃありません。そこのところを考えてください。ところで、いま考えついたんですが、ぼくはあなたに会ったことのある男を知っていますよ。あなたは……その男を……?」
ダーモットは気をつかって、イーヴに目を向けないようにしていた。
彼女は援助を必要としている。恐怖と不安におののきながら、椅子のわきに立って、両手を握りしめ、トビーの目を求めている。心理学者でなくても、いまの彼女がもっとも望んでいるのは、トビーからの力づけの言葉であるのがわかるはずだ。しかし、その言葉はあたえられなかった。それと知って、ダーモット・キンロス博士の心に、漠然とした怒りがこみあげてきた。
「わたしの率直な意見をお聞きになりたいのですか?」
博士がいうと、内心では望んでいないのだろうが、トビーは身ぶりで、そうだと答えた。
「では、いいましょう」ダーモットは微笑をふくんで、「あなたはこのさい、肚をはっきり決めることです」
「肚を決める?」
「そうです。ミセス・ニールを非難する理由が、不貞の罪によるものか、殺人の罪によるものかです。彼女は、同時に双方の罪をおかすことはできなかったはずです」
トビーはぽかんと口をあけたが、すぐにまた閉じた。
そしてダーモットは、その場の人々の顔をつぎつぎと見まわしてから、それまで同様、重々しく辛抱づよい口調で、トビーに話しかけた。
「忘れておいでのようだが、あなたはいま、彼女に電話したとき、その部屋にアトウッドがいたことを思うと、耐えられない気持になるといわれた。そしてその口の下から、嗅ぎ煙草入れの破片が彼女の部屋着に付着することになったのは、どういうわけか説明しろと迫られた。彼女の友人であるあなたの一家が、双方の気持を同時に満足させようと考えておられるのは、ミセス・ニールにたいして、いささか酷《こく》な仕打ちではないでしょうか。
そこでわたしは、あなたが肚を決められるのを希望するのです。もし彼女が、お父上を殺害しようとして――その納得できる動機は、少なくともこのわたしには考えられませんが――この家まで出向いてきたとしたら、アトウッドは彼女の寝室にいなかったことになり、あなたにショックをあたえた不貞の問題は生じません。そして、アトウッドが彼女といっしょにその寝室にいたとしたら、彼女がお父上を殺しに、この家にきたとの推測は否定されます」いったんここで言葉を切ってから、「で、あなたは、そのどちらを選ぶお考えです?」
皮肉をまじえた博士の洗練された丁重さが、トゲのようにトビーの心に突き刺さった。彼以外の人々も、なるほどと思った。
「博士!」ゴロン署長はしっかりした大きな声でいった。「あんたと少し、二人きりで話しあいたいのだが」
「喜んで」
ゴロン氏はヘレナ夫人に向きなおって、さらに声を大きくしていった。「キンロス博士と話しあいたいのですが、お差し支えなければ、少しのあいだ、ホールを拝借願えんでしょうか?」
彼は夫人の返事を待っていなかった。ダーモットの腕をしっかり握ると、学校教師のような格好で、彼を導き、部屋を横切っていった。ドアをあけると、廊下になっていた。彼をうながして先に立たすと、部屋の人たちに軽く会釈して、出ていった。
ホールはほとんど闇に包まれていた。ゴロン氏が電燈のスイッチを入れると、グレーのタイルをはったアーチ型の玄関が浮かびあがった。そこからホールまで石のステップがつづき、赤い絨毯が敷いてある。警察署長は帽子とステッキを帽子掛けにかけた。彼はこの一家の人々の前では、苦労して英語でしゃべっていたが、ドアが閉まったのをたしかめると、とたんにフランス語にもどって、ダーモットに食ってかかるように話しかけた。
「あんたの態度には失望させられましたぞ」
「すまなかったですな」
「しかもあんたは、わたしを裏切っておる。手助けをしてもらうつもりできてもらったのに、あの態度は何です。わけを聞かせてもらいますぞ」
「あの女に罪はありませんよ」
ゴロン署長はせかせかした足どりで、ホールを行ったり来たりしはじめた。ときどき足をとめては、フランス人らしい謎めいた目をダーモットに向けている。
「それは」と彼は、それでもていねいな口調できいた。「あんたの頭から出た考えか、それとも、感情がもたらした発言か?」
ダーモットは答えなかった。
「いいですか、博士!」ゴロン氏はいった。「わたしはこれまで、あんたのことを科学的事実の商人――これはあんた自身の言葉ですぞ――と見ておった。したがって、マダム・ニールの魅力を目にしても、あんただけは冷静でいられるものと考えた。まったくあの女は公共の敵だ!」
「しかし、君――」
博士がいいかけたが、署長はあわれむような目を向けて、
「やあ、博士、わたしは目先のきく探偵じゃない。とても、とても、そんな力のある男じゃない。しかし、火器みたいに危険なものとなると、話は別ですぞ。どんな形態の機関銃だろうが、三キロもはなれた闇のなかに見出したものだ。あの女はまさに危険な火器だ」
ダーモットは署長の目をみつめて、「わたしの名誉にかけていうが」と、真実をこめていい返した。「彼女が有罪であるとは信じられない」
「あんな話を聞いても?」
「あの話のどこがいけない?」
「やあ、博士! それをわたしの口からいわせることはありますまい」
「いや、いってもらう。アトウッドという男は階段から落ちて、頭を打った。ニール夫人の話はその徴候を完全にいいあらわしている。わたしは医学にたずさわる人間としてしゃべっているんですよ。外傷がないのに鼻から出血する。これが脳震盪のもっとも確実な徴候だ。アトウッド自身は大した怪我でないと考え、起きあがってホテルまで歩いて帰った。そして、たどりつくと同時に昏倒した。これもまた、脳震盪に固有な徴候の一つだ」
固有な徴候との言葉に、ゴロン氏は考えるところがあったようだが、追及する様子もなかった。
「ムッシュー・アトウッドはちがう原因をあげておるが、それでもあんたは……」
「そう考えていけない理由がありますかな。彼はからだの変調に気づいていた。しかし、ニール夫人もしくはアンジェ街のできごとを彼と結びつけて考えられることを防がねばならぬと考えた。その程度の意識は残っていたのだな。つまり彼は、夫人にこの殺人事件の容疑がかかるとは思ってもみなかったわけだ。いや、誰にしたところで、そこまで予測できるものでない。といったことから、彼は自動車にはねられたという話でごまかしておいた」
ゴロン氏は顔をしかめていた。
「ところで」ダーモットは質問を転じて、「血液型は調べてあるんでしょうな。モーリス・ローズ卿の血と、この夫人のネグリジェと腰帯についていた血との比較だが?」
「もちろん調査ずみですよ。双方の血液型は完全に一致していた」
「どんな型?」
「AB型」
ダーモットはまゆをあげて、「それでは完全な調査といえない。AB型はいちばん多いタイプで、ヨーロッパの住民の四十一パーセントはそれですよ。アトウッドの血液型は調べてみたんですか?」
「そこまでは手がまわりませんよ。あのマダムの話を、いま聞いたばかりじゃないですか!」
「では、至急、調べてみることだ。もし、彼の血液型がちがっていたら、彼女の話は当然嘘となる」
「そういうわけだ!」
「しかし、それがやはりAB型なら、少なくともネガチーブな意味で、ニール夫人の言葉を裏づけることになる。いずれにせよ、法の正しい行使としては、彼女を牢獄へほうりこんで苦しめる前に、調査の完全を期すべきではないのかな?」
ゴロン署長はまたしても、廊下をせかせかと歩きはじめて、
「わたしはこう考えたい」と、大きな声でいった。「マダム・ニールはアトウッドが自動車事故で傷ついたのを聞きこんで、それを彼女の釈明に利用した。しかも――いいですかね! ――彼女への愛情に燃えておるアトウッドも、意識が回復するときは、彼女のいうところと全面的に口を合わせるにちがいない」
その点はダーモットとしても、まったくおなじ意見だった。じゅうぶん考えられることで、彼自身の推理が正しいものと確信してはいるが、万一まちがっていたら、どういうことになるか? イーヴ・ニールの魅力が、彼の心を動かしていることを否定できぬだけに問題で、げんにこの瞬間でも、彼女のすがたが目の前に浮かんでくるのだった。
しかし彼は、自分の判断、自分の直感に、絶対的な信頼をおいている。人間性の論理は証拠の論理におとらず重要視してよいはずである。そしていま、駆使できるかぎりの技術をつくして闘わないかぎり、官憲が彼女を殺人犯として被告席につかせることになるのだ。
「で、動機は?」ダーモットは闘いをつづけた。「動機らしいものの|かけら《ヽヽヽ》でもみつかりましたかな?」
「動機なんか問題じゃない!」
「これはおどろいた。君らしくもない暴言ですぞ。さあ、どうなんです? 彼女に、モーリス・ローズ卿を殺害する理由がありましたか?」
「さっきも話したけど」とゴロン氏は反駁した。「理論的にいって、筋のとおる解釈が成り立っておる。モーリス卿は殺された日の午後に、マダム・ニールについての悪い噂を聞きこんで――」
「悪い噂とは?」
「その内容までは知らんですよ」
「だったら、なぜ結論を出すのかね?」
「博士、少し口を出さずに、わたしのいうところを聞きなさい。とにかく老人は、誰の目にもわかるほど不機嫌な顔つきで、散歩からもどってきた。そしてさっそく、その話を息子のホレーショウに――トビーと呼ばれておる青年なんだが――これの耳に入れた。親子二人は興奮状態にあって、ホレーショウ君にいたっては、夜中の一時に、マダム・ニールに電話をし、聞きこんだ事実を彼女に告げた。マダム・ニールもまた、おなじような興奮状態におちいって、モーリス卿に会いにきた。そこで、この問題で言い争いがはじまって……」
「ほう! 君もまた」と、ダーモットは口を入れた。「両天秤をかける気になったのかな」
ゴロン氏はきょとんとした顔で、
「何のことかね?」と、きくと、
ダーモットはつづけて、「そんな事実がなかったことは、君だって知らないわけじゃない。言い争いなんかなかった。荒い言葉が交わされたわけでない。実際は、顔を向きあわすことさえなかったのだ。君自身の話によると、殺人犯人は足音を立てぬように、耳の遠い老人の背後に忍びより、嗅ぎ煙草入れに夢中になっているところを、ものもいわずに、なぐりつけた。たしか、そういう説明でしたな?」
ゴロン氏はためらって、「それはまあ――」と、いいかけると、
「ニール夫人がこのような行動をとったというのが君の説明だった。そうだとしたら、なぜ彼女は、この行動に出たのか? その理由は何か? モーリス卿が彼女に不利な事実をつかみ、それをトビー・ローズに伝え、トビーがまた、電話でそれを彼女の耳に入れた。理由はそこにあるのかね?」
「だいたいそのとおりだが……」
「考えてみたまえ。かりにわたしが、真夜中に君に電話して、こういったとする。『ムッシュー・ゴロン、いま予審判事が知らせてくれた。君はドイツのスパイなんで、いずれは銃殺の刑に処せられることだろう』とだ。これを聞いた君は、すぐに出かけていって、わたしの耳にまではいっている秘密を守るために、予審判事を殺すだろうか? この事件の場合も、まったくおなじだ! 人格を傷つける重大秘密であったにしても、深夜の道路を横切って、ひと言の釈明も求めずに、婚約者の父親を殺すだろうか?」
「女というものは」ゴロン氏は言葉にもったいをつけていった。「常識では考えられんことをするときがある」
「しかし、これほど非常識なことをしますかな?」
こんどはゴロン氏も、廊下のはしからはしまでを測るように、ゆっくりと、いつまでも歩きつづけていた。首をたれているが、内心の怒りをかくしきれない。幾度となく、何かいいかけたが、かろうじて思いとどまった。しかし、けっきょくは両手をひろげて、癇癪《かんしゃく》を破裂させた。
「博士! これだけ証拠がそろったのに、あんたはわたしを説き伏せて、すべての証拠を無視させようと狙っておる!」
「しかし、その証拠のどれもが、疑わしい点を持っている」
「証拠というやつは、とかく疑点をともなうものでね」警察署長は正直なことをいった。
「で、君はまだ、彼女を逮捕する考えでおられるのか?」
ゴロン氏は意外な言葉を聞かされるものだといった顔つきで、「当然のことですぞ! 予審判事が逮捕命令を出すことはまちがいない。ただ、わたしのよき友であるキンロス博士が」――と、目に皮肉のきらめきを見せて――「いまから数時間のうちに、彼女が潔白であることを立証すれば、そのかぎりでありませんがね。どうなんです? あんたは正直なところ、この事件をどうみておるんです?」
「もちろん、わたしなりの解釈をしていますよ」
「どんな解釈?」
ここでまた、ダーモットは相手の目を鋭くみつめて、
「わたしには、ほとんど確実なことと思われる」と、答えた。「この殺人をおかしたものは、あの『愉快な』ローズ一家の誰かだとね」
十一
ラ・バンドレットの町の警察署長は、およそものに動じないことで知られた男であるが、この言葉には唖然とした。目をまるくし、眼球をとび出さんばかりにして、友人の顔を見返した。ややしばらくして、このような非常識な主張には、身ぶりだけでたくさんだというように、指をあげて、閉ざされた客間のドアをさした。
「そうなんです」ダーモットは答えた。「わたしはそれをいってるんです」
ゴロン氏は咳ばらいをして、
「あんたは、犯罪が行なわれた部屋を見たいんでしょうな。見せてあげますよ。いっしょにきなさい。ただし、それまでは」――と、沈黙を要求する、はげしい身ぶりをして――「何もいわんでもらいますぞ!」
そしてゴロン氏はくるりふり返ると、先に立って階段をのぼりだした。何かぶつぶつつぶやいているのが、ダーモットにも聞きとれた。
二階の廊下もやはりまっ暗だったが、ゴロン氏が電燈のスイッチを入れて、正面に見える書斎のドアを指さした。白く塗った背の高いドアで、その奥に謎があり、恐怖もまたあるのかもしれなかった。ダーモットは身をひきしめて、把手に手をかけ、押しあけた。
ドアのなかも、たそがれの薄闇に包まれていた。フランスの家屋にはめずらしいことで、室内いっぱいに絨毯が敷きつめてある。厚手のものなので、ドアをあけたてすると、強くこすれて、そこがけばだった。ダーモットはドアの左手のスイッチをさぐりながら、その事実を心にとめた。
電燈のスイッチが二つあって、上下に並んでいる。上のほうのを押すと、テーブル・デスクの上においてある、緑色ガラスのシェードをかけたスタンド燈がともった。つぎに、下のを押したとたんに、天井中央のシャンデリアがきらめいた。切子細工のガラスが目もあやな光輝を見せて、ガラスの城を思わせた。
真四角な部屋で、鏡板をはった|かべ《ヽヽ》が白く光っていた。正面にフランス窓が二つ。いまはスチールの鎧戸が下りている。左手には白大理石のマントルピース。右側のかべによせてテーブル・デスクを据え、それから少しはなして回転椅子がおいてある。金糸でかざった布張りの背の高い椅子がいくつか。部屋の中央には、おなじ布張りの円テーブル。それらがグレーの絨毯によく映えている。周囲のかべは、一つか二つ書棚が割りこんでいるほか、ガラス張りの骨董品陳列棚がぎっしり並んで、シャンデリアの光輝を反射している。このような場合でなければ、ダーモットはその陳列品に魅せられて、動くこともできなかったであろう。
部屋の内部は重苦しい空気が垂れこめていた。洗剤らしいものが強く鼻について、死そのもののにおいを連想させた。
ダーモットはデスクに歩みよった。
惨劇後の始末は申し分なく、わずかに吸取紙と、モーリス・ローズ卿が死の直前、ペンを走らせていた大型用箋に、古い血痕が錆茶色に変わって残っているだけであった。
打ち砕かれた嗅ぎ煙草入れは片づけてあって、拡大鏡、宝石鑑定用のレンズ、ペンがいくつか、インク、その他の品が吸取紙に散乱して、緑色ガラスの光を受けている。ダーモットは用箋に目をやった。そのわきには、持主の手から転げ落ちた金色の万年筆が横たわっている。用箋の上には、ひじょうに大きな装飾文字が、きちんとした書体で書きつけてある。『時計型嗅ぎ煙草入れ 皇帝ナポレオン一世遺愛の品』そのあとに、きれいな銅版用文字で、説明文が小さく書きこんであった。
この嗅ぎ煙草入れは、一八一一年三月二十日、皇太子ローマ王の誕生に際し、皇妃の父オーストリア皇帝よりボナパルトに贈呈されしもの。直径二インチ四分の一。金側。疑似|竜頭《りゅうず》も金。時計文字と長短両針に小ダイヤを鏤《ちりば》め、中央にナポレオンの頭文字のNが――
ここで文字が切れて、血の飛沫が二つの痕《あと》をつけている。
ダーモットは口笛を吹いて、
「この品は、よほど高価なものでしょうな」と、いった。
「高価も高価」警察署長は悲鳴に近い声をあげた。「値段については、話さなかったかな?」
「しかもそれが粉々にされた」
「見るとおり」ゴロン氏が指摘した。「前にもいったが、ひどく変わった形の品で、そこに書いてあるように、時計に似せてあった」
「どんな時計?」
「ふつうの懐中時計だ!」ゴロン氏は自分の懐中時計をとり出して、かかげてみせ、「実際のところ、家族の人たちも話していましたよ。最初にモーリス卿から見せられたときは、本物の懐中時計と思いこんだってね。蓋をあけてみて……そこで始めて、といったわけでさ、それはそうと、ここを見てもらいますか。デスクの上の木のくぼみ。これが殺人犯人の打撃がはずれて、たたきつけた痕なんです」ダーモットは用箋をデスクの上にもどした。
署長がけげんそうな目でみつめているのもかまわず、彼はふり向いて、部屋を横切り、大理石のマントルピースのわきにおいた暖炉用具台に歩みよった。マントルピースの上には、ナポレオン皇帝の横顔を打ち出した青銅のメダリヨンがかけてあった。犯行に使用された火掻き棒は、用具台から、すがたを消していた。ダーモットは問題となる各調度品のあいだの距離を目測した。どうやら彼の頭のなかは、半分まとまりかけた考えが渦《うず》を巻いているらしい。すでにそこでは、ゴロン氏がかぞえあげた証拠のうち、少なくとも一つは矛盾していることを発見したもののようだ。
「ゴロン君」と、ダーモットがきいた。「ローズ家に目の悪い人がいますかな?」
「おや、おや、またしてもローズ家ですか!」ゴロン氏は両手をひろげてみせて、「いいですか、博士」と、さらに声を低くし、「ここにいるのは、あなたとわたしの二人だけですぞ。聞いてる者は誰もいない。そこでひとつ、はっきり話してくれませんか。なぜそうまで、家族の一人の犯行説にこだわるのか、その主張の理由をね」
「それより前に、わたしの質問に答えてほしい。家族のうちに、目の悪い者がいるのかどうかを」
「わたしにはわかりませんよ」
「しかし、調べればすぐにわかることでしょう?」
「むろんわかりますよ!」しかし、ゴロン氏はあとの言葉をためらって、目を鋭くした。「なるほど、そういうわけか」と、火掻き棒をふり下ろす格好をしてみせて、「これですな。あんたが考えておられるのは? ねらいがはずれて、頭を打ち損ったんで、目が悪いと見当をつけた――そうでしょう?」
「まあね」
そのあとダーモットは、ガラスのケースをのぞきこみながら、ゆっくりした足どりで、室内を一巡した。陳列品のいくつかは、ずばぬけて見事な光彩を放ち、そのほかの品にも、銅版用の書体で記した小さな説明カードがつけてあった。彼は宝石についての知識をある程度そなえているだけで、骨董品収集にはまったく無縁の男であった。しかし、これほどおびただしく並べ立ててあれば、真正の貴重品もかなりの数量まじっているものと推測してよいと考えられた。
磁器があった。扇と聖骨箱がいくつか。珍奇な形の時計が一つ二つ。トレド物の剣をかけてある刀架。それに、往年のニューゲート監獄がとりこわされたとき入手した遺品ばかり収めたケース(これは精緻な美術品のあいだにあるので、無気味な薄汚《うすぎたな》さがいっそう目立った)。書棚に並んでいるのは、宝石鑑定のための専門書がほとんどだった。
「まだ何か調べておくことがありますかな?」ゴロン氏がいった。
「君が話してくれた証拠の一つに、ダイヤモンドとトルコ石の首飾りがあった。盗まれた品は何もないのに、それだけが陳列ケースからとり出してあって、少し血がついたまま、ケースの下の床に落ちていた――そうでしたね?」
ゴロン氏はうなずいて、ドアのすぐ左手にあるガラス・キャビネットをたたいた。それはほかの陳列ケースと同様に鍵がかけてないので、ゴロン氏の指が触れると、正面のガラス戸がなめらかにひらいた。内部の棚もガラス板で、その中央の最上の場所に、ダーク・ブルーのビロードの台を背にしておかれた首飾りが、切子ガラスのシャンデリアの光線を受けて、焔のような煌《きら》めきを見せていた。
「血を拭きとって、もとの場所におさめてあるんです」ゴロン署長が説明した。「言い伝えによると、この首飾りは、王妃マリー・アントワネットのお気に入りだったド・ランバル夫人が、ラ・フォルス監獄の外で、暴徒の手で斬り殺されたとき、身につけておった品だそうで――いや、まったく、モーリス・ローズ卿という老人は、無気味なものへの異常な趣味の持主だったんですな」
「残虐趣味の愛好者はかなりいるものですよ」
ゴロン氏はくすくす笑いながらいった。「そのそばにある品に気がつきましたか?」
ダーモットは首飾りの左に目をやって、「小さな車のついたオルゴールのようだが」と、答えた。
「そのとおり、車つきのオルゴール。それにしても、ガラスの棚にオルゴールをおくとは、あまり賢い考えじゃない。いまでも思い出すが、事件の翌日、まだ故人のからだが椅子についたままのうちに、われわれ警察の手で、この部屋の調査を行なった。そして、警部がこのケースをひらいたところ、オルゴールに手が触れた。とたんにこれが床に落ちて……」
ここでまたゴロン署長は、オルゴールを指さした。それは重そうな木製の箱で、側面をはったブリキ板の上に、いまは色|褪《あ》せているが、絵が描いてある。ダーモットの見たかぎりでは、アメリカ南北戦争の一光景であるらしい。
「このオルゴールが、横ざまになって床にぶつかると、『ジョン・ブラウンの遺骸』を奏《かな》ではじめた。そのメロディ、聞いたことがおありでしょうな?」そして署長は、数小節を口笛で吹いてみせ、「そのあとの騒ぎがたいへんでしたよ。ムッシュー・ホレーショウ・ローズが激昂してとび出してきて、おやじの収集品に手を触れんでくれと、われわれ警察の人間をどなりつけたもんです。そのさいムッシュー・ベンジャミンがこんなことをいっておった。最近、このオルゴールを演奏させた者がある。つい数日前、機械にくわしい彼が、この品の修理にあたって、作業が完了したとき、ネジをいっぱいに巻いておいた。ところが、いま床に落ちると、わずか一、二節演奏しただけで、鳴り終ってしまったが、いじったやつは誰だと、これがまたうるさいんです。そんなちっちゃな問題で、騒ぎ立てることもないのにね。あの連中、何を考えているのやら」
「いや、わたしにはわかる。この犯罪が、きわめて特殊なものだからですよ」
「ほう!」ゴロン氏は注意を集中して、「あんたが何かをつかんでおられるのは知らないわけじゃない。だからこそ、それを話してもらおうと、さっきからせっついておるんですぞ」
「それはつまり」と、ダーモットは答えた。「これが家庭内での犯罪だということです。一見平和に打ちくつろいだ炉辺に起こる凶悪犯罪。家庭内だから見られる現象ですよ」
ゴロン氏は面喰らったかたちで、ひたいを手でこすり、インスピレーションを求めるように周囲を見まわして、
「博士、まじめに話しておるんですか?」と、いった。
ダーモットは部屋の中央に据えた円テーブルのはしに腰を下ろして、きれいに分けた濃い黒髪のあいだを指で掻いていた。黒い目に内心の、はげしい動きがかくされているのだが、何かの考えをまとめあげようと、意識を集中していることは疑いなかった。
「ここに、一度でじゅうぶん息の根がとまるはずなのに、九回も火掻き棒でなぐられて、絶命した男がいるとする。君はそれを見て、こんなことをいう。『残虐きわまる犯罪だ。こんな無意味な凶悪行為は、まともな人間のやることでない。狂人の仕業に相違ない』そこで容疑者の捜査範囲から、家族の者を除外してしまう。おだやかな家庭的雰囲気のうちにある人間は、そんな残忍な行為に出られるものでないと考えるからだ。
しかし、犯罪史を見ると、かならずしもそういえないのだ。少なくとも、アングロ・サクソン民族の犯罪史ではそうでない。なぜその民族のことをいいだしたかというと、この一家がイギリス人だからだ。明確な動機があって、冷静に計画した通常の殺人事件の場合、犯人がこのような残忍性を発揮することがめったにない。その必要がないからで、犯人のねらいは、できるかぎり簡単確実に殺害することだけにある。
しかし、家庭内では、いっしょに生活することが理由で、とかく感情を抑圧しがちなことから、家族関係自体が徐々にわずらわしいものになっていく。そしてそれがクライマックスに達すると、突如爆発して、われわれ通常人には信じることもできぬ激越な行為に出る結果をもたらすのだ。
たとえば、裕福な家庭に生まれ、宗教的雰囲気のうちに育った女性が、漠然とした家族間の摩擦のほかこれといった理由もないのに、手斧をふるって、まず継母を、つづいて実の父親を殺した。しかも手斧を何回となくたたきつけたという。あるいは、中年の保険外交員で、妻に荒い言葉ひとつ浴びせたことのない温和な男が、火掻き棒で妻の頭をめった打ちにしたことがある。さらにはまた、十六歳のおとなしい少女が、継母の顔を見ているのが厭《いや》だというだけのことで、生まれて間もない腹ちがいの弟の|のど《ヽヽ》を掻き切ったとも聞いた。おそらく君には信じられまい。動機というに足るものは何もないのだ。それでいて、このような犯行がおこなわれた」
「見かけはともかく、残忍に生まれついた連中なんでしょうな」ゴロン氏がいった。
「ところが、それと正反対に、君やわたしとおなじに、いたってふつうの人間だった。ニール夫人の件についていえば……」
「それですよ、聞きたかったのは! あのマダムはどうしました?」
ダーモットは友人の顔にしっかり目を据えて答えた。「ニール夫人は何かを見ている。具体的に何であるかは、まだいまのところ、わたしにもわかっていないが、とにかく彼女は、それがこの家の人間の一人であるのを知っている」
「だったら、しゃべってしまえば片づくのに、なぜだまっておるのかね?」
「具体的に誰とわかっていないこともありうる」
ゴロン氏は首をふって、皮肉な微笑をもらし、
「博士、うなずけるだけの理由が見出せませんな。それに正直いって、あんたの心理学なるものにも、大した期待は持たんつもりですぞ」
ダーモットはメリランド煙草の黄色い箱をとり出して、その一本にライターで火をつけ、ライターの火を消すと、ゴロン氏をみつめた。その目の鋭さに、署長は思わずたじろいだ。微笑を浮かべているが、ダーモットが不機嫌なことは明らかで、その微笑にしても、彼の理論の正しさをたしかめえた満足感にすぎなかった。彼は煙草を深く吸って、明かるい電燈の下に、煙の雲を吐き出した。
「君が話してくれた証拠に徴しても、ローズ家の家族の一人が故意に嘘をついていることが明白だ」おちついて、平素と少しも変わるところのない口調でしゃべっているが、その声は強い説得力を秘めていた。「嘘とすぐわかる見えすいた嘘。どの点がそれだと指摘したら、もう一度考えなおしてみる気がおありかね?」
ゴロン氏はくちびるをなめた。
しかし、警察署長が返事をする間もなく、廊下に面したドアが――そのドアをダーモットが指さして、問題点を指摘するところだったが――いきおいよくひらいて、ジャニス・ローズがまぶしそうに手で目をおおいながらのぞきこんだ。
彼女はいまだに、この部屋を無気味に感じている。いまは主のない回転椅子へ、子供のように素早く目をやり、洗剤の不快なにおいを嗅《か》ぎとると、からだをこわばらせたように見えた。それでも彼女は、静かに部屋へはいって、ドアを閉め、それを背にして立った。黒い喪服が、鏡板の白さときわだった対照を見せた。彼女はダーモットに、英語で話しかけた。
「どこへいらしたのかと思ったのよ」と、とがめるような口調で、「廊下へ出て、そのまま――!」あとは身ぶりで、すがたを消したことを非難する気持を示した。
「するとマドモアゼル、このひとに何かご用でも?」ゴロン氏が問いただした。
しかしジャニスは、彼を無視して、直接ダーモットに話しかけた。勇気をふるって、胸に思っていることをいってのけようとするのだが、口を切るまでには、目をしきりと動かして博士の顔をうかがったりしているので、かなりの時間を必要とした。それでもついに、若い娘らしい直截《ちょくさい》さでしゃべりだした。
「あなた、わたしたちがイーヴに苛酷すぎたと考えているのじゃなくて?」
ダーモットは笑顔を向けて、
「いや、ミス・ローズ。あなたは高潔なお気持で、彼女を擁護しておられるとお見受けしました」彼は用心していながらも、あごがしまって、怒りが焔となって燃えあがってくるのを押さえきれなかった。「しかし、それに反して、あなたのお兄さんは……」
「あなたはトビーをご存じないので、そんなことをおっしゃるんだわ」ジャニスはさけぶようにいって、足を踏み鳴らした。
「そうかもしれませんな」
「トビーはあのひとを愛していますのよ。そしてトビーのひたむきな性格は、道徳律一本に凝《こ》りかたまっているんですわ」
「サンクタ・シンプリシタス!」
「そのラテン語、『神聖な単純性』って意味なのね」ジャニスは率直にきいて、ダーモットの顔をみつめた。いつもの天衣無縫ぶりを効果的に利用しようとつとめているが、ねらいどおりにはいかなかった。「わたしがとやかくいうべき筋合いではないかもしれませんが、あなたがたにも、わたしたちの立場で考えてくださることをお願いしたいのよ。とにかく――」
と彼女は、からになった回転椅子を指さしてつづけた。
「――とにかく、父は死にました。いまのわたしたちとしては、そのほかのことは考えることもできない状態なんです。ですから、たとえ、なんの罪もないにしても、嫌疑を受けるような何かの種があったら、弁明ぐらいしてくれてもいいのじゃありません? それを『わたしには関係のないことよ。説明なんかする気にならないわ』といった態度で、よそを向いているのでは、人間らしさが疑われてきますわ」
公平なところ、この娘のいうことは正しいと、ダーモットも、うなずかざるをえなかった。彼女に笑顔を向けたので、ジャニスは急に元気づいて、
「あなたに質問しておきたい気になったのは、そういった理由からです。内密にうかがっておきたいことがありますのよ。秘密を守ってくださるわね?」
ダーモットが答えるまえに、ゴロン氏が如才なく口を入れた。「もちろんですよ――で、マダム・ニールはどこにいるんです?」
ジャニスは顔をくもらせて、
「あのひと、トビーと口喧嘩の最中なの。ママとベン伯父は席をはずしてしまいました。わたしはこの質問があるので――」そこで彼女は言葉をためらって、深く息を吸いこみ、ダーモットの顔をみつめた。「つい、いましがた、あなたはママと、かつてわたしのパパが刑務所改善事業に関心を持っていたことを話していらしたわね?」
ダーモットはある理由から、刑務所改善事業という言葉に、邪悪のひびきを感じた。
「それで?」ダーモットはいった。
「それで、わたし、思いだしたことがありますの。あなたも覚えておいでのはずですけど、父は殺された日の午後、様子がひどく変だったことを、みんなが指摘していましたわね。散歩から、幽霊みたいな青い顔をして帰ってくると、お芝居へ行くのはいやだといいだしたりして、手までふるえていましたのよ。そして、あなたがたにそのことをお聞かせしているとき、わたしは前にも、父があんな態度を見せたことがあるのを思いだしたのです」
「ほう!」
「八年も前のことになりますけど」ジャニスはつづけた。「フィニステアという名の老人が訪ねてきました。お世辞たっぷりのうまい言葉で、父にある取引きの話を持ちこみ、契約させてしまったのです。そしてあとで、それが詐欺だったことがわかりました。どんな取引きだったか、まだ幼かったわたしに、くわしいことがわかるわけはありません。取引き上の問題に興味を持つ齢《とし》ではなかったからで――もっとも、いまだってわたしはそうですけど――とにかく、そのときの騒ぎはたいへんなもので、いまだによく覚えておりますのよ」
ゴロン氏は耳のうしろへ手をやって、熱心に聞き入っていたが、けげんそうな顔をして、
「たいへん興味ありそうなお話しだが、しかし、正直なところ、その騒ぎがこんどの事件とどんな関係にあるのか、わたしにはとんと……」
「口をお出しにならないで」ジャニスは署長の言葉を制しておいて、ダーモット一人を相手に、訴えるような口調で話しつづけた。「パパは人さまの顔をちっとも覚えない性分でしたが、思いがけないときに、ひょいと頭にひらめくことがあったようで、フィニステアと称する男と話しあっていて――詐欺の事実をみつけて、損害をとりもどす話だったかもしれませんけど――急に、その男が誰であるかに気がつきました。
『フィニステア』と名乗っていますが、事実はマコンクリンという囚人で、仮釈放で出獄したまま、すがたをくらました男であったのです。パパはこの男の犯罪に興味を持っていたので、マコンクリンのほうではパパの顔を知らなくても、彼がどういう犯罪者であるかが記憶に残っていたものと思われます。そしてたまたま、マコンクリンがすがたをあらわしたわけです。
マコンクリン、別名フィニステアは素性を知られたことに気づくと、涙を流して、警察の手に引渡さないでくれと頼みこみました。詐欺したお金は返すといいますし、妻子のことを語って、パパの同情をひき、もう一度刑務所へもどさないでくれたら、どんなことでもするといいました。ママから聞いた話ですけど、パパは幽霊みたいな青い顔で、二階へあがって、ご不浄でもどしていたそうです。それもつまりは、いくら犯罪人でも、刑務所へ閉じこめることを、パパは心の底からきらっていたからです。でも、悪いことをした者を許しておくことも、パパには耐えられないことで、実際、弁護の余地のない犯罪を行なったとあれば、家族の一人でも刑務所に入れずにはいなかったと思います」
そこでジャニスは一息ついた。
一気にしゃべりまくったので、くちびるが乾いてきたのだ。彼女は、骨董品陳列棚の並んだこの部屋に、いまでも父親のすがたがあるかのように、室内を見まわして、
「そこでパパは、フィニステアにいいました。『二十四時間の猶予をあたえてやる。そのあいだに逃げのびるがいい。二十四時間たったら、逃げようが逃げまいが、おまえの新しい人生のいっさい、第二の名前で、どこに住んでおるかを、警視庁へ知らせてしまう』そして、その言葉どおりに実行したのです。そしてフィニステアは刑務所で死にました。これもママの話ですが、そのあと数日、パパは食事がのどをとおらなかったそうです。パパはその男に好感を持っていたのです」
ジャニスはその最後の言葉を、確信と意味をこめていった。
「といったわけで、これからお聞きすること、小姑《こじゅうと》根性からとおとりにならないでいただきますわ。わたしにそんな気持はありません。そんなふうに聞こえても、個人的感情でないことを信じていただきますわ。思いついたこのことを、いわなければ、正しい態度と思えないからです」そして、ふたたびダーモットの目をのぞきこむようにして、「もしかイーヴ・ニールは、刑務所にはいっていたことがあるのじゃないでしょうか?」
十二
階下の客間には、イーヴとトビーが残っていたが、たがいに近よろうとはしなかった。照明は黄金色のシェードをかけたスタンド燈ひとつで、それさえ部屋の片隅にあって、二人は顔を合わせるのを避けていた。
イーヴはハンドバッグをさがしているのだが、頭が混乱した現在の彼女には、その程度のことも|はか《ヽヽ》がいかず、意味もなく部屋を歩きまわって、おなじ場所ばかりくり返しつついている。しかし、彼女が戸口へ近よると、トビーはいそいで駆けよって、ドアの前に立ちはだかった。
「帰るんじゃないだろうね?」
「ハンドバッグをさがしているのよ」イーヴは顔も向けずにいった。「みつかったら、帰らしていただくわ。そこをおどきになって。お願いですわ」
「しかし、この問題で話しあいたい」
「まだ話しあうことがありますの?」
「警察の考えは――」
「お聞きになったとおり、警察はわたしを逮捕しようとしています。ですからわたし、早く帰って、荷物をまとめなければなりません。それだけは許してくれると思いますから」
当惑の表情がトビーの顔面を横切った。彼は片手をひたいにあてて、そこをこすった。正義は守られねばならぬ。嫉妬は嫉妬、どんな感情の犠牲をはらおうと、この女性の窮境を救わずにはおくまい。その決意に、昂然とあごをあげ、殉教者よろしく立ちあがったおのれのすがたが、いかに気高く、いかに雄々しく見えることか。
「承知していてもらう」彼はいった。「ぼくはあくまでも君の味方だ。ぼくのこの気持を、一瞬間も忘れずにいてほしい」
「ありがとう」
その声の調子に、皮肉なひびきを感じとることもなく、トビーは床に目を伏せて、
「どんなことが起きようと、君を逮捕させてなるものか。それは大きな問題なんだ。警察にしたところで、その肚がきまったわけでなく、たぶん、おどかしているだけだと思う。しかし、大事をとって、ぼくは今夜、イギリスの領事に会っておく。万が一、君が逮捕されるようなことになれば、銀行だって、いやな感じを抱くにちがいない」
「銀行ばかりでなく、あなた方みなさんに、いやな思いをさせますわ。そんなことのないようにと祈っていますのよ」
「君にはまだ、この問題の重大性がわかっていないらしいな。フックソン銀行といえば、イギリスの金融機関のうちでも、最古の歴史を誇っているもので、それだけにまた、ぼくがつねづね話しているように、行員のスキャンダルをとてもきらうのだ」
イーヴは興奮をかろうじておさえて、
「トビー、あなたは、お父さまを殺したのはわたしだと思っているの?」
彼女はその質問とともに、トビーの顔を見て、いつもは鈍重な感じを受けていたそこに、異様に鋭い光がきらめくのを知って、思わず、がく然とした。平素のトビー・ローズとは打って変わった底深い何かである。
「君は誰も殺してはいないのだ」トビーは答えた。ひたいに暗い影が射している。「この事件の裏には、君の家の女中が関係している。ぼくの目に狂いはない。あの女は――」
「彼女の何をご存じなの、トビー?」
「何も知ってはいないが」と、深く息を吸いこんで、「しかし、この問題は、ぼくに少し苛酷だったようだ」――と、ふたたび声に憤懣《ふんまん》の調子をひびかせて――「せっかく、ぼくたちの結婚が間近にせまって、人生がバラ色に見えてきたというのに、君はまた、アトウッドを部屋へひき入れたりしているんだから」
「そんなことを信じていらっしゃるの?」
トビーは顔に苦悶の表情を示して、
「ほかに考えようがあるかね? イーヴ、正直に話してくれ! ぼくは君が思っているほど、そして、ジャニスがからかうほど、頭の古い人間じゃないんだ。うぬぼれかもしれないが、かなり心の広い男だと自認している。ぼくに会う以前の君の生活については、何も知っていないし、また、知ろうとも考えていない。過去のことは、すべて許して、すべて忘れることができると信じている」
イーヴは足をとめて、男の顔を見たが、何もいわなかった。
「しかし、残念だ!」トビーの言葉に熱がこもってきた。「男は誰しも、なんらかの理想を抱いている。そうだ、理想といってまちがいでない! そして、結婚することになると、相手の女性がこの理想にふさわしい生活をしてくれるのを希望する」
イーヴはハンドバッグをみつけだした。それはテーブルの上に、誰の目にもとまるような状態で載っていたのだ。いくどもテーブルのそばを通りながら、どうして見のがしたのかと、彼女は不思議に思った。とりあげて、口金をはずし、機械的になかをのぞいてから、ドアへ向かって歩きだした。
「おどきになって、帰らせていただくわ」
「いまはよしたほうがいい。警官たちが見張っているし、新聞記者や何かが待ちかまえている。現在の君の心理状態では、彼らに向かって、何をしゃべりだすかわかったものでない」
「わたしがしゃべると、フックソン銀行にいやな感じをあたえるというの?」
「つまらんことにこだわるものでない。こんな事件のときは、現実的な態度で立ちまわるのが大切なのだ。君たち、女には、そこのところがよくわからんらしいが」
「そろそろ夕食の時間になるのよ」
「ぼくはこれに――そうだ。ぼくはこの苦しい試練に耐えぬく自信がある。フックソン銀行でのぼくの経歴だって、無視してみせる。ただ、それには一つだけ、確実に知っておきたいことがある。君がぼくを裏切らずにいてくれるかだ。ぼくはこれまで、何一つ裏切っていないのだぜ。まさか、アトウッドとよりをもどしたとも思わないが、ほんとうのところはどうなんだ?」
「裏切ってなんかいませんわ」
「信じていいものかな。信じたいとは思っているのだが」
「だったら、なぜ、おなじ質問ばかりくり返すの? ――そこ、どいてくださらない?」
「いいだろう。帰りたまえ」トビーは怒りのうちに威厳をつくろって、腕を組み、「それが君の気持なら」と、いった。
そして、わざとらしいほど丁重な物腰で、おもむろに一歩、わきへよった。興奮がかくしきれない。イーヴはためらった。彼女はこの青年を愛していた。はっきりいってきかせて、安心させてやりたいが、いまはいけない。彼の苦悩が本物で、火のようなはげしさを示しているが、いまの彼女を動かすことはできなかった。走るようにして彼のそばを通りすぎると、廊下に出て、うしろ手にドアを閉めた。
玄関の明かるい照明が、一瞬、彼女の目をくらくらさせた。それに目を馴れさせていると、ベン・フィリップス伯父が咳ばらいをしながら近よってきた。
「やあ! お帰りかね?」ベン伯父がいった。
(また一人あらわれて、じゃまをするのか! 神さま、手間どらずにすみますように!)
ベン伯父は煮えきらぬ|そぶり《ヽヽヽ》で、こっそり近づいてきた。人目に触れずに、同情の気持を伝えたいらしい。片方の手で銀髪の頭を掻き、もう一方の手には、どう処置してよいかわからぬといった格好で、しわくちゃになった封筒状のものを持っている。
「うっかり忘れてしまうところでしたよ。あんた宛《あて》の手紙です」
「わたしへ?」
ベン伯父はうなずいて、あごで玄関のドアを指し、「十分ほど前、郵便受けを見ると、これがはいっておったんです。郵便配達人の手によるものでなく、誰かが入れておいたにちがいありませんな。しかし、宛名があんたになっておる」と、淡青い色のおだやかな目を彼女に据えて、「大事な手紙かもしれませんぞ」と、つけ加え、いった。
大事な手紙であろうがなかろうが、イーヴには問題でなかった。受けとって、封筒に彼女の名が書いてあるのを見ると、そのままハンドバッグへ突っこんだ。ベン伯父は口にくわえたパイプを、音を立てて吸っていた。それによって、話しだすまでの準備運動をしているように思えた。
ベン伯父はとつぜんしゃべりだした。「この家でのわしの発言は、あまり重んじられんが、しかし――あんたの味方ですぞ」
「ありがとう」
「いつだってわしは――」いいながら彼は手を伸ばして、イーヴの腕に触れようとした。彼女は本能的に身をすくめた。すると、動きのにぶい老人はからだをこわばらして、顔をなぐられたような表情をみせ、「どうかなすったか?」と、きいた。
「いいえ、べつに」
「手袋のときみたいだな」
「手袋?」
「ほら」といって、ベン伯父はまた、そのおだやかな目を彼女の顔に据えた。「車の修理で、茶色の手袋をはめておったときさ。あんな品が、なぜあんたをおどろかしたか、いまだに不思議に思っておる」
イーヴはふり返って、走りだした。
道路へ出ると、陽が沈みきったところで、夕闇が濃くなっていた。九月のおだやかな天気の日の暮れ方は、春のそれよりは気分を爽快にしてくれる。マロニエの並木のあいだに、街燈の光が青白くきらめいている。ボンヌール荘の客間の蒸し暑さを逃れて、自由の世界に立ちもどりえたと、イーヴ・ニールはうれしく思った。しかし、この自由の世界に、いつまでとどまっていられることか。
茶色の手袋。茶色の手袋。茶色の手袋。
彼女は門を出て、石塀のかげにしばらく足をとめていた。一人だけでいたかった。箱か何かのなかに閉じこもって、あてこすりや探るような目からはなれ、誰からも見られぬ暗闇にいたかった。
おまえは利口じゃない、と彼女は、自分自身をののしった。なぜ出ていって、目撃した事実を話さないのか? あやしい者はあの家のなかにいる。事件の当夜に、茶色の手袋をはめていて、いまは口をぬぐって、何食わぬ顔をしている。なぜそれを話さぬのか? 話したくても、声がのどにつかえて、話せなかった。何が理由で? 彼らへの義理立てか? それを暴露するときは、何倍かの力でおそいかかる巻き返しをおそれてか? それとも、トビーへ忠実でありたいためか? いろいろと欠点はあるものの、正直で率直であろうとつとめているトビーへの愛情からか?
しかし、イーヴ・ニールよ! おまえはあの一家に負い目はない。いまとなっては、露いささかも!
イーヴを何よりも不快に感じさせたのは、彼らのおためごかしの態度だった。だからといって、あの一家の者全部を犯人といいたてることはできない。一人をのぞけば、全員が彼女同様、ショックを受け、困惑している。しかし、ある人物だけは、おのれの犯行を棚にあげて、イーヴに非難の目を向け、彼女の罪をそれとなく告発している。その人物こそ、サラダでも、まぜあわすように、やすやすと殺人行為に出ているのだ。
そして彼らの全員が――それこそ、本質的にいって、イーヴの心にはげしい怒りの火を燃えあがらせた理由であった――彼女を、いまだに前夫を寝室へ引き入れている売春婦同然の女とさげすんでいるくせに、表面ではいとも寛大に、その罪を許す態度を示して、度量の広さを見せつけようとする。それはあるいは、彼女が腹を立てるほど悪質の気持ではないかもしれない。彼らもやはり、とりみだしているのだし、そのような挙動に出る権利がないわけでもない。しかし、慈悲をかけられるのは、イーヴのもっとも、きらうところであった。
そして、そのうちに――?
当然彼女は刑務所行きとなる。
そんなことがあってはならない! とんでもないことだ!
意図的なものか、その場の成り行きからか、どちらとも知りがたいが、とにかく二人の男が、彼女にあたたかい手をさし伸べる親切を示した。その一人は手に負えぬ放蕩者のネッド・アトウッド。彼の口から『やさしい』言葉を聞いたことはなかったが、脳震盪で倒れたとき、彼女をかばう嘘をついたという。もう一人はイギリスからきた精神病医。彼女はその名前を思いだせなかった。どんな顔をしていたかさえ、記憶に残っていない。しかし、彼の表情だけは忘れられない。きらきら光る黒い眸に、ローズ家の人々の偽善者ぶりへの憎悪がうかがわれた。剣のように鋭い知性のきらめき。皮肉をこめた彼の声がローズ家の客間にひびきわたると、虚偽の泡は破裂し、見せかけの姿勢は打ちくだかれるのであった。
問題は、かりにネッド・アトウッドがこの単純明白な事実を証言したにしても、捜査当局がネッドの言葉を信用するかにある。
ネッドは病床に伏している。傷ついて倒れ、いまだに意識をとりもどしていない。「回復の見込みなし」との診断だそうだ。彼女自身に危険がせまっていることで、ネッドのことを忘れていた。常識をはずれた行為かもしれないが、ローズ家一族への反抗から、ネッドの病床へ駆けつけたら、自分の運命もひらけるのではなかろうか。しかし、さしあたっては、電話をかけるわけにもいかぬし、手紙を書いたにしても……
手紙といえば!
アンジェ街の石塀の涼しい蔭に立つイーヴは、ハンドバッグをのぞいて、かなりしわだらけの封筒が入れてあるのをたしかめた。
そして、しっかりした足どりで道路を横切ると、彼女の家の門に近い街路の下で、その手紙をとり出した。グレイの封筒に入れ、封をして、表に彼女の名前がフランス書体で小さく記してある。郵便配達人でない誰かが持ってきて、彼女が住んでいるわけでない家の郵便受けに投げこんでいったのだ。封筒はふつうのもので、異様なところは少しもなかったが、イーヴは胸の鼓動が徐々に強まってくるのを感じ、封を切ったとたんに、のどもとに熱いものがこみあげてきた。中身はフランス語で書いた文面で、署名はなかった。
もし奥さまに、現在の苦境を切りぬけるのに役立つ重大なニュースをお知りになりたかったら、アルプ街十七番地の家をご訪問ください。十時すぎなら、何時でもかまいません。ドアはあいていますから、ご自由におはいりいただきます。
頭の上で、木の葉がざわめいて、グレイの用箋の上に、ふるえる影を落としていた。
イーヴは目をあげた。すぐ前に彼女自身の家があり、そこではイヴェット・ラトゥールが、料理女がいないので、夕食の支度をし、イーヴの帰宅を待っている。彼女は手紙をたたんで、ハンドバッグへもどした。
玄関のベルに手を触れるか触れないうちに、ぬかりのないイヴェットが、いつもとおなじ無表情の顔で、ドアをあけた。
「奥さまのお食事は用意ができています」イヴェットがいった。「支度をすませて、三十分にもなりますわ」
「今夜は食べたくないのよ」
「でも、お食事は召しあがらなくてはいけません。力をつけておく必要がありますわ」
「なぜ?」イーヴがいった。
彼女は女中を押しのけると、時計や鏡のたぐいをかざり立てた宝石箱のような玄関のホールを通りぬけ、階段へ向かって歩きだした。そこでくるりふり返って、質問を投げかけた。イヴェットと二人だけで家にいるのを、これほどはっきり意識したことは、かつてなかった。
「なぜって、きいているのよ」イーヴはくり返した。
「きまってますわ、奥さま」イヴェットはいつもの挑戦的な態度を避けて、あんがいと人の好さそうな声でいった。目を大きくみひらき、レスラーのように、両手を腰にあてがって、「誰にしたって、生きていくためには、からだに力をつけておくのが肝心ですわ」
「おまえ、モーリス・ローズ卿が亡くなられた夜、わたしを家から閉め出したわね。あれ、なんのためなの?」
いまや、秒をきざむ時計の音がはっきり聞きとれた。
「奥さま、なんのお話しでしょうか?」
「聞こえなかったの?」
「聞こえましたが、なんのことだかわかりませんわ」
「警察の人に、わたしのことを告げ口したんだね?」いいながらイーヴは胸が締めつけられ、|ほほ《ヽヽ》がかっかしてくるのを感じた。
「まあ、奥さま!」
「わたしの白レースのネグリジェ、クリーニング屋からもどってこないのはどういうわけ?」
「だって、奥さま。あたしをお責めになるのは無理ですわ。クリーニングには、とても日にちのかかることがありますのよ――で、何時にお食事をなさいます?」
それでイーヴの詰問ははぐらかされて、モーリス・ローズ卿収集の磁器の皿のようにくだけてしまった。
「食事はいらないといったはずよ」そしてイーヴは階段へ足をかけて、「わたし、部屋へ行くわ」
「サンドイッチでもお持ちしましょうか?」
「そうね。そうしてもらうわ。それからコーヒーも」
「承知しました、奥さま。それから、今夜もお出かけになりますか?」
「たぶんね」
そして彼女は階段を駆けあがった。
寝室にはすでにカーテンが引いてあって、化粧テーブルの上の電燈がともっていた。イーヴはドアを閉めた。息切れがする。胸に大きな空洞ができた感じで、心臓の鼓動も力がなく、脚がふるえ、血液が|ほほ《ヽヽ》よりも頭に集まった気持だった。ひじかけ椅子に腰を下ろして、おちつこうとあせった。
アルプ街十七番地。アルプ街十七番地。アルプ街十七番地。
寝室には時計がなかった。イーヴは足音を立てぬようにして廊下へ出て、来客用の寝室の時計を持ってきた。時をきざむ音が、爆弾のようにおそろしく聞こえるので、引出しのなかへ入れた。それから浴室へ行って、手と顔を洗った。もどってきてみると、サイド・テーブルの上に、サンドイッチの皿とフィルター式のコーヒーのポットとが並べてあった。何も食べる気になれないので、コーヒーを飲み、煙草を何本も喫った。そのあいだに、時計の針は匍《は》うようにゆっくり、八時半から九時、九時半から十時へと動いていった。
彼女はパリにいたとき、殺人事件の公判を傍聴したことがあった。ネッドが案内してくれたのだが、彼はそれを愉快な見世物程度にしか考えなかった。彼女をもっともおどろかしたのは、法廷が怒号に満ちていることだった。何人かの判事たちが列席していて、それぞれ胸当てのついた法服を着て、平たい縁なし帽をかぶっているのだが、被告に向かって白状しろと、検事におとらぬ大声でどなりつけているのだった。
そのときは彼女もそれを、不愉快ではあるがもの珍しい光景とながめていたが、被告席に据えられた、よごれた顔の男にとっては、笑いごとですまされるものでなかった。黒い爪で被告席の|てすり《ヽヽヽ》を握りしめ、金切り声で法官たちにさけび返していた。彼が法廷へ連れてこられるとき、通路に面したドアの二つの錠が鳴って、それがひらくと、石炭酸のにおいが流れこんできた。イーヴはいま、そのにおいを思いだしていた。それがこれから起こることを暗示している。このイメージに心を奪われていたので、彼女は外の街路にひびく足音を聞きもらした。
しかし、玄関のベルはいやでも聞こえた。
階下でがやがや人声がして、階段の絨毯を踏む足音が近づいてきた。イヴェットがいつになく早足であがってくるのだ。寝室のドアをノックして、ていねいな口調で報告した。
「階下に、警察の人が大勢きています」その口調に、仕事を満足にやりとげた者の純粋の歓びが、はだかのままひびいて、イーヴはくちびるがからからに乾くのを感じた。
「奥さまはすぐ降りていらっしゃるといっておきましょうか?」
その言葉は終ったあとも、数秒のあいだは、イーヴの耳の底で鳴りひびいていた。
「客間にお通ししておいて。すぐ降りて行くから」イーヴはわれ知らず答えていた。
「承知しました、奥さま」
ドアが閉まると同時に、イーヴは立ちあがっていた。衣裳戸棚から毛皮のケープの短いのをとり出して、頸に巻いた。ハンドバッグに小銭がはいっているかをたしかめると、電燈を消して、廊下へ忍び出た。
ゆるんだ絨毯押さえを踏まないように、足音を殺して、階段を駆け降りた。彼女はイヴェットの動きを目で見るように思い浮かべて、タイミングをはかっておいた。いまは人声が客間のなかから聞こえてくる。そこのドアは半開きのままで、イヴェットがこちらへ背を向けて、警官たちに愛想をふりまいている。警官の一人の目と口ひげがチラッと見えたが、向こうが彼女のすがたを認めた様子はなかった。その二秒後に、彼女は暗い食堂を通りぬけて、さらに暗い台所にはいっていた。
問題の夜とおなじ動作のくり返しで、彼女は裏口のドアのスプリング錠をあけた。外へ出ると、こんどは彼女自身の手で、それを閉めた。石のステップを踏んで、夜露にぬれた裏庭に出た。燈台の投げる光が、頭上の空を掃いている。彼女は足をいそがせて、裏木戸から小路へ出た。どこかの家の庭で、くさりにつながれた犬がけたたましい吠え声をあげるほか、夜のアンジェ街は物音ひとつしない。三秒ののち、イーヴはカジノ・ブールヴァールの薄暗い道路わきで、タクシーを呼びとめていた。
「アルプ街十七番地へやって」彼女はいった。
十三
「ここなの?」
「そうですよ、奥さん」タクシーの運転手が答えた。「アルプ街の十七番地ならこの家でさ」
「ふつうの住宅みたいね」
「ちがいますよ、奥さん。店なんで。花屋なんです」
この通りは新開地で、遊歩道路と海岸に近いこともあって、ラ・バンドレットの町では流行におくれた部分だった。この避暑地をうるおしているイギリスの金持連中は、この地域を軽蔑して、あまり足を踏み入れなかった。というのは、ここらあたり一帯、感じが、ウエストン、シューパー、メア、ペイントン、フォークストンといった土地を連想させ、事実また、それらの町とぴったりおなじであったからだ。
昼間のうちは、せまい通りに雑踏がつづいて、灰色のスレート屋根の家が立ち並ぶ街筋には、みやげ物屋の旗がはためき、おもちゃ屋はシャベル、バケツ、風車のたぐいをかざりたて、写真屋の黄色い看板だの、家族連れ相手の酒場だのが目につく場所だが、夜ともなれば――ことに、秋が深まったきょうこのごろでは――どの家もいち早く灯を消して、闇の底に沈んでしまう。その高い屋並みのあいだに、タクシーは吸いこまれるように走りこんで、灯を消した店の前に停った。イーヴは不安を感じて、降りるのをためらった。
彼女は半ばひらいた扉に手をかけたまま、メーター・ランプのかすかな光に照らされた運転手を見て、
「花屋なの?」と、ひとつ質問をくり返した。
「まちがいありませんよ、奥さん」運転手は答えて、暗いショーウインドーにかろうじて読みとれる白エナメルの文字を指さした。「『エデンの園――選り抜きの花』とあるでしょう? だけど、この店は寝てしまいましたぜ」と、気をきかしたようにつけ加えた。
「そうらしいわね」
「ほかの店へお連れしましょうか?」
「いいえ、ここでいいの」イーヴは車を降りたが、まだためらって、「この店の持主、誰だか知ってて?」と、きいた。
「ああ、持主ですか。そいつは知りませんな」
運転手は考えてから答えた。「持主は誰だか知らないが、店を経営している人なら知ってますぜ。マドモアゼル・ラトゥール――マドモアゼル・プルーともいって、とても品のいい若いご婦人でさ」
「ラトゥール?」
「そうですよ、奥さん。おや、気持でも悪いんですか?」
「いいえ、何でもないの。で、その女の人、姉さんか叔母さんがいないかしら? イヴェット・ラトゥールという名のひとよ」
運転手は彼女をみつめて、
「弱ったな。むずかしすぎる質問ですぜ、奥さん。あたしの知ってるのは、店のことだけで、これは経営者のマドモアゼル同様に、小ざっぱりしてきれいな店なんで。(ここでイーヴは、薄暗がりのなかから、彼女をみつめている好奇心に駆られた目を意識した)ところで奥さん。ここでお待ちしましょうか?」
「いいえ……ああ、そうね。待っててもらおうかしら」
イーヴはさらに質問をしかけたが、思いなおして、くるっとふり返ると、舗道を横切って、花屋の店へいそいだ。
彼女の背後では、タクシーの運転手が鈍感な頭で考えていた。おかしな客だが、なかなかいい女だし、たしかにイギリス人だ。あの奥さんのボーイ・フレンドが、マドモアゼル・プルーとできあったので、文句をつけにきたところだろう。ひと騒ぎ持ちあがるかもしれねえぞ。そのときはこのマルセルおやじの出番となる。クラッチを入れておいて、いつでも逃げ出せる用意がいる。硫酸のぶっかけあいでも始まったら|こと《ヽヽ》だからな。いや、待てよ。イギリス人が硫酸をぶっかけたって話は、聞いたことがねえぞ。だからといって、腹を立てたときのやつらが暴れださんとの理屈はあるまい。げんにおれはこの目で、亭主が酔っぱらったといって、女房ががなり立てるのを見たことがある。まあ、いいや。こっちは命の危険がなくて。けっこう愉快な見ものにお目にかかれるんだ。それに、八フラン四十サンチームの料金をまだもらっていなかった」
しかし、イーヴ自身の考えは、それほど単純に割りきれたものではなかった。
彼女は店の入口で足をとめた。ドアのわきに、きれいにみがきあげた厚板ガラスのショーウインドーがあるが、そこからのぞきこんでも、屋内は暗くて、何も見えない。黒い屋根の上に、月が顔を出しかけて、窓のガラスに反射しているので、かえって屋内を見にくくしているのだ。
『十時すぎなら、何時でもかまいません。ドアはあいていますから、ご自由におはいりいただけます』
ドアの把手《とって》に手をかけてみると、鍵はかかっていなかった。彼女はそれを押しあけたが、その瞬間、頭の上でベルが鳴るのかと考えた。しかし、何の音もしなかった。沈黙。そして薄暗がり。入口のドアはあけ放したままにしておいた。この行動がどんな結果をもたらすか気づかわれるだけに、外の道路にタクシーの運転手がいることを思えば心強い。かくて彼女は、店内に足を踏み入れた。
いぜんとして、何事も起こらない。
冷たくしめった空気が、花の香りをともなって吹きつけてきた。大きな店とは思えない。右手には、ショーウインドーによせて、カバーをかけた鳥籠が、低い天井から、くさりで吊るしてあった。月光の先端が床に達していて、花をかざった店内をおぼろに浮きあがらせ、一方のかべに、葬式用の花輪の影を投げかけている。
イーヴはカウンターとレジスターの横を通りすぎた。さまざまの花の香りがまざりあい、湿気でさらに薄められている。ここまでくると、店の奥に、黄色い光が細くもれているのに気づいた。奥の部屋とのあいだを厚い垂れ布で仕切っていて、光はその下から、店の床に射しているのだ。ちょうどそのとき、垂れ布のむこうで、若い女の溌剌とした声がとんだ。
「誰なの?」声はフランス語だった。
イーヴは進み出て、垂れ布を引きあけた。
そこの情景を一語で表現するには、家庭的と呼ぶのがもっとも適切であろう。場所そのものから、家庭的雰囲気がにじみ出ていた。
こじんまりと整った居心地のよさそうな部屋で、壁紙の好みは感心しないが、家庭の息吹《いぶ》きをただよわせている。
マントルピースは鏡を中心に、仕切り棚のついた寄木細工で、大格子のなかでは、フランス人が鉄丸《プレ》と呼んでいるまるい石炭が赤々と燃えていた。中央のテーブルに、房飾りのついた電気スタンドを据え、ソファには人形がいくつもおいてあり、ピアノの上には、家族の写真が額縁に入れてかけてあった。
マドモアゼル・プルー自身は、おちついた明かるい顔で、電気スタンドのそばのひじかけ椅子におさまっていた。イーヴとしては初めて見る顔だが、ゴロン氏かダーモット・キンロス博士なら、どんな女性か知っているかもしれない。趣味のよいドレスを着ているが、ひどくとり澄ました感じである。彼女は大きな黒い目を静かにあげて、イーヴを見た。そばのテーブルの上に、縫い物籠がおいてあって、彼女は糸を歯で噛み切ろうとしていた。つくろっているのは、彼女の下着のガーター・ベルトで、ゴムひも入りのピンク色をした品である。そして、そのような品のつくろいをしていることが、家庭的なこの部屋の空気に、いっそうなごやかな暖か味を添えているのだった。
彼女の前の椅子には、トビー・ローズが腰かけていた。
マドモアゼル・プルーは、針と糸と下着をおいて、立ちあがると、
「あら、奥さん!」と、活発にいった。「あたしの手紙、受けとっていただけたのね。よかったわ! さあ、おはいりになって!」
そのあと、長い沈黙がつづいた。
イーヴの最初の衝動は、口にするのも口惜しいことだが、トビーの前で、大声に笑ってみせることであった。しかしこれは、おもしろおかしいの問題ではない。少しもおもしろくないのだ。
トビーは身をこわばらせていた。イーヴの視線にひきこまれたように、その目を避けることができなかった。顔の色が、いまに破裂しそうなほどまっ赤になって、ゆがんだ表情から、良心の呵責の程度が読みとれる。見ているほうが苦痛を感じるくらいで、その場にいあわせた者があれば、むしろ彼に同情をよせたことと思われる。
イーヴは考えた。わたしはいま、大声にさけびたい気持だが、ここしばらく、それができない。さけんでよいものではない。
彼女は空虚な心で、口を切った。「あなたでしたの――手紙をよこしたのは?」
「ご迷惑でしたかしら?」プルーは微笑のうちにも、心底からそれが気になる様子を示して、「でも、あれしか方法がなかったもので」と、いった。
それから、トビーのそばへ歩みよって、そのひたいに軽く口を触れてからつづけた。
「このトビーとあたしは、ずいぶんと長いあいだ、親しいつきあいをしていましたのよ。それだのに、あたしの気持はこのひとに通じていなかったようなので、このさい、あなたとトビーとあたしの三人で、はっきりしたことを話しあっておいたほうがいいと考えましたの。いかがでしょうか?」
「結構よ」イーヴは答えた。「ぜひ、どうぞ」
プルーの可憐な顔が、ふたたび平静をとりもどした。自信の色さえあらわして、
「奥さま、最初にいっておきますけど、あたしはいかがわしい商売をしている女じゃありません。ちゃんとした家庭のちゃんとした娘で」と、ピアノの上の写真を指さして、「あれがパパ、こちらがママとアルセーヌ叔父さん。あそこにいるのが姉のイヴェットですわ。一人暮らしの生活が心細く感じられると、この写真を見て……やめましょう、つまらない愚痴は! 本題にはいって、あたしはこういいたいんです。どんな女にだって、人間らしい生き方を主張する権利があるはずだって!」
イーヴはトビーの顔をうかがった。
彼は立ちあがろうとしたが、また腰を下ろしてしまった。
プルーはつづけた。「はっきりいいますけど、あたしたちのあいだには、暗黙の了解がありました……少なくともあたしは信じていました……ムッシュー・ローズの気持はまじめなもので、いつかそのうち、結婚の話が出るはずだと。そこへとつぜん、彼とあなたの婚約が発表されました。いけません! 許せることではありません!」声が怒りで大きくなってきた。「おききしますけど、こんなことがあっていいのでしょうか? 正しいことでしょうか? 恥ずかしくないことでしょうか?」
彼女は肩をそびやかして、
「これが男というものかもしれませんけど、姉のイヴェットは腹を立てて、かならずこの結婚をじゃましてやる。もう一度あたしを、ムッシュー・ローズの腕に抱かせてみせるといきまいていますわ」
「そういうわけだったの?」イーヴにも、すべての事情がわかりかけてきた。
「でも、それは姉のいうことで、あたしはそんな気持になれません。去っていった男なんか、追っかけるものですか! トビーの心が変わったって、男はいくらもいますもの。でも、これだけはいっておきたいわ。あたしに時間を浪費させ、そのあげく、女の心を傷つけた埋めあわせに、少しは代償を支払うのがほんとじゃないかしら。それは奥さんにも、女として、わかっていただけるはずですわ」
トビーは、ようやく声を出すことができて、
「それで君は、イーヴに手紙を書いて……」と、他人《ひと》ごとのようにいった。
プルーもまた、気がないような笑顔を見せただけで、彼を問題にしていなかった。彼女の真の相手はイーヴなのだ。
「そこであたしは、このひとにいいました。このつぐないをしてもらえば、友人として別れることができるって。あたしはこのひとの幸福を祈っていますわ。結婚を祝ってあげる気持でいますのよ。ところがこのひと、お金がないといって、逃げることしか考えていませんの」
彼女の目が、この問題をどう考えているかを雄弁に語っていた。
「そこへもってきて、このひとのパパが亡くなりました。気のどくなことで」――とプルーは、暗い顔つきを見せて――「あたしも一週間ほどのあいだは、お悔《くや》みのほか、何もいわずにすませました。それにこのひとも、パパが死んだからには、ぼくが財産を相続することになるから、君にも満足してもらえるだけのものが支払えるなんて話していました。それがどうでしょう! きのうになると、こんなことをいいだしましたの。父の財政状態はめちゃめちゃで、現金はほとんど残っていなかった。そのうえ、この近くに店を持っている古美術商のヴェイユさんから、こわれてしまった嗅ぎ煙草入れの代金を請求されている。それが信じられないほどの金額で、なんと七十五万フランなんだ――と、こうですの」
「あの手紙は……」
またもトビーがいいだしたが、プルーはイーヴをみつめたままで、
「そうよ、あたしが書いたのよ。イヴェット姉さんは知らないことだわ。みんな、あたし一人で考えたことよ」
「それを書いた理由は?」イーヴがきいた。
「奥さん、おわかりにならないの?」
「わからないわ」
プルーは口をとがらせて、「勘のいいひとなら察しがつくはずだけど」いいながらトビーに近よって、その髪をなで、「あたし、このトビーが大好きなんで……」と、ほほえんでみせた。
問題の紳士はとびあがった。
「それに、ほんとうのことをいうと、あたし、お金がないの」そこでプルーは、暖炉の上の鏡の前で、からだを上下に動かしてみせ、彼女自身の映像を満足そうにながめて、「お金がなくても、きれいにだけはしているつもりだけど、認めてもらえるかしら」
「ほんとにおきれいよ!」
「奥さんはお金持よ。世間の人がそういってるわ。勘がよくて、気がきいていれば、くどくど説明しなくても、あたしのいいたいこと、わかってもらえるんじゃなくて?」
「わたしにはまだ……」
「奥さんはあたしのトビーと結婚なさる。あたしは捨てられて、いい笑いものになる。でも、いいのよ。あたしは一人で暮らしていくわ。誰のじゃまもしないで。ただ、問題が問題なだけに、実際的なとり決めが必要だと思いますわ。つまり、奥さんがほんの少し、つぐないをしてくださる気になれば、それで万事がうまく片づきますのよ」
またしても長い沈黙がつづいた。
「奥さん!」プルーがとつぜん、鋭い声でさけんだ。「何がおかしくて、お笑いになるの?」
「笑ってなんかいませんわ。笑うわけがないじゃないの。腰を下ろしていいかしら?」
「あら、失礼しましたわ。気がつかなくて! さあ、これにおかけになって。トビーがいつもかけている椅子だわ」
捕虜にされた屈辱と、罪を責めたてられる苦しみから、顔をまっ赤に染めていたトビーも、どうにかおちつきをとりもどした様子で、十五ラウンドを闘い終って、うつろの目をみひらいているボクサーではないが、背中をたたいて、「もう大丈夫だ、しっかりしろ」と、力づけてやるまでのことはなさそうに思われた。
しかし、いまだに、からだをこわばらせているところを見ると、怒りが燃えあがってきているらしい。独善的な怒りだが、人間の気持とはそういったもので、困惑の立場に追いつめられていた反動から、こんどは相手かまわず、仕返ししてやりたい思いに駆られているのであろう。
「出ていってくれ!」彼はプルーにいった。
「何っていったの?」
「出ていけといった!」
そこでイーヴが、「あなた、忘れたの?」と、口をはさんだ。トビーがまばたきするほど冷やかな早口だった。「忘れてはいけないわ。ここはマドモアゼル・ラトゥールの家なのよ」
「誰の家だってかまわん。ぼくは……」
それでもトビーは、精いっぱいの努力で、自分をおさえつけた。髪をかきむしり、頭をかかえこんでいたが、またもからだをおこして、荒い息を吐きながら、
「少し、席をはずしてくれ」と、こんどは頼みこむようにいった。「早いところ頼む。このひとに話があるんだ」
プルーの顔から、疑惑の色が去った。ふとい息を吐いて、同情的な態度に変わり、
「奥さんだって、つぐないのことなら、相談に乗ってくださるにちがいないわ」と、明かるい声でいった。
イーヴもうなずいて、「少しのことならね」と、同意の気持をあらわした。
プルーはつづけて、「あたし、勘が働く女でして」と、いった。「奥さんのおやさしいお気持はよくわかりますのよ。あたしの申し出をこころよく承知くださって、こんなうれしいことはありませんわ。正直にいいますと、あたし、お会いするまでは、ちょっとばかり気にしていました。では、あたしはひきさがります。でも、二階におりますから、ご用がありましたら、そこにある箒《ほうき》の柄で、天井を突ついてください。すぐに降りてきますわ。では、奥さん、のちほど。トビー、あんたとものちほど」
ガーター・ベルトのついた下着と針と糸とを、テーブルからかき集めると、プルーは居間の奥のドアへ向かって歩きだした。そこの戸口で、元気よくふり返って、軽く会釈をすると、目、くちびる、歯の可憐をいっそうきわだたせる笑顔で、ドアをあけると、何かの花の匂いが流れこんできた。彼女はそれと入れちがいにすがたを消し、ドアがそっと閉まった。
イーヴはテーブルのそばのひじかけ椅子に身を沈めて、しばらくは何もいわなかった。
トビーはもじもじと、からだを動かしていた。彼女のそばをはなれ、暖炉に歩みよって、マントルピースの上にひじを載せた。花屋の店の奥にある、本来なれば平和であるはずのこの一室に、雷雨の前のような無気味な空気が濃くなりつつあって、それはトビー・ローズよりもさらに勘のにぶい人間にも感じとれるものであった。
いまのイーヴのような立場におかれた女性は、そうざらにあるものとは考えられない。このような苦悩を押しつけられた彼女が、その当然の権利として、報復のさけびをあげるのが、誰にも想像できることである。いま、この小じんまりした部屋にいる二人を、公平な第三者が見るときは、彼女をせついて、思いきり、ののしってやれ、歓呼のさけびとともに、男の尻と|もも《ヽヽ》をなぐりつけるがいいと、けしかけたにちがいない。しかし、それは第三者だからいえることで、彼女自身の心境には、異なるものがあったようだ。
沈黙がいつまでもつづいた。トビーはマントルピースの上にひじをついて、口ひげをひねり、あごを耳のあたりまでカラーに埋《うず》めて立っている。ときどき横目でイーヴの様子をうかがっては、この問題を彼女がどう考えているかをたしかめようとした。
イーヴはひと言だけいった。
「それで?」
十四
「イーヴ!」トビーがとつぜんしゃべりだした。例によって大まじめな口調である。「こんどのことでは、いやな思いをさせて、申しわけなく思っている」
「こんどのこととは?」
「いまみたいな話を君の耳に入れたことさ」
「あなたが、ほんとうにおそれているのは、あの女のことを銀行に知られることじゃないの?」
トビーはちょっと考えてから、
「いや、銀行のほうは心配ない」と、自信ありげにいった。イーヴの方をふり返った彼の顔には、ほっとした気持が強くあらわれていた。「君が気に病《や》んでいたのは、そのことか?」
「たぶんね」
「大丈夫。その点はまったく心配ない」トビーは言葉に力を入れていった。「むろんぼくは、まっ先にその点を考えた。だが、これが君の口からもれて、スキャンダルとならないかぎり、問題にされるおそれは絶対にない。行員のスキャンダルが世間にひろまれば、銀行としてもとりあげないわけにいかないが、それさえなければ、私生活のプライバシーは、じゅうぶん考慮される。ここだけの話だが」――と、左右を見まわして――「支店長のデュフールにしたって、ブーローニュの情婦《おんな》のところへ通っている。ほんとだぜ! 銀行内では知らない者はいない。もちろんこれは、内緒の話だけど」
「わかるわよ」
トビーはいよいよ熱をこめて、
「そこさ、イーヴ。君のいちばんいいところは、ものわかりのいいことだ」
「そうかしら?」
「そうだとも」トビーは彼女の目を避けていった。「しかし、こんな問題は、ぼくたちのあいだで話しあうべきことでない。身持ちの正しい女性、とりわけ、君みたいな人の前では、口にするのもはばかられる。ただ、君とのあいだの垣根がとれたので……そうだ。それで話してみたわけだが」
「そうね。垣根がとれたわね」
「たいていの女は、さっきみたいな話を聞かされると、ヒステリーの発作を起こすものだ。何もかもかくさず話しておく。ここ何週間かのあいだ、そうだ。父が死ぬ前からだった。ぼくがこの問題で、どんなに悩んだことか。一日として、朗らかな気持になれなかったのは、君も気づいていたのじゃないか。あの二階の牝犬には」――その言葉に、イーヴは身を固くした――「ぼくがこれまでに出|遭《あ》った誰よりも頭をなやまされる。ぼくがどんなに苦しい思いをしたか、君には想像もつかないことと思う」
「それだけですの、お話しは?」イーヴはゆっくりといった。
トビーは目をパチパチさせて、
「ぼくの話?」と、ききかえした。
いまでこそイーヴ・ニールは、礼儀正しいしとやかな女性に成長しているが、ランカシャーのルームホールトに、ニール紡績工場を築きあげたジョー・ニールの娘に生まれた事実を忘れてはならない。事情によっては、どんな苦しい思いも耐え忍ぶことができるが、まったく我慢できない場合もないわけでない。
マドモアゼル・プルーの椅子に腰を下ろして、部屋のなかを見まわすと、薄い霧がかかっているように感じられた。マントルピースの上の鏡に、トビーの頭のうしろが映っていて、髪の毛の中央に六ペンス貨ほどの大きさの禿げが目についた。そしてそれが、彼女の怒りに、最後の油をそそいだ。
イーヴは姿勢を正して、
「あなたはこれまで、考えたことがないの?」と、いった。「どんなにあなたが鉄面皮かということを」
面とむかって、はげしい言葉を浴びせられて、トビーは一瞬、耳を疑った。
「ご自分の態度をおかしいと感じたことはありませんの?」イーヴはつづけた。「わたしと顔をあわせると、いつもきまって、やれモラール、やれ理想、やれ節操とお談義ばかり。騎士ギャラハッドみたいな純潔ぶりを示していながら、その一方では、わたしを知ったあとでも、あの娘との糸を切らないで」
トビーは恐慌を感じて、
「誤解だよ、イーヴ」と、さけんだ。「とんでもないことだ!」そして素早く、おびえたような目で、部屋のなかを見まわした。まるで、いまにもこの部屋に、銀行支店長のムッシュー・デュフールが登場するのでないかと考えているように。
「そうよ。あなたのいうとおり、とんでもないことだわ!」イーヴもまた、さけんでいた。「ばかな話よ!」
「君の口から、そんな言葉を聞くとは思ってもみなかった」
「言葉? おこないのほうはどうなの?」
「おこないがどうだというんだ?」
「どうでもないというの? わたしがおなじことをしたら、『許して、忘れてやる』とでもいうの? あなたにそれができたら、手をたたいて、ほめてあげるわ! でも、あなたのいわゆる理想はどうしちゃったの? 純真な青年紳士の高潔な道徳心というものは?」
トビーはすっかり狼狽《ろうばい》してしまった。彼女の剣幕におどろいて、母親ゆずりの近眼の目で、ぼんやり彼女を見返して、
「しかし、それはぜんぜん別個の問題で――」と、ショックにふるえる声で、抗議しはじめた。わかりきったことを子供に説明するような口調である。
「そういうものかしら?」
「そうだとも。そういうものだ!」
「どういうわけで?」
トビーは返事に窮して、言葉をさがした。簡単な言葉を数語用いるだけで、宇宙の構造を説明せよと要求されたような格好だった。
「それはこうなんだ、イーヴ! 男というものは、ときどき、その……衝動に駆られて」
「じゃ、女はそれを感じないと考えているの?」
「ほう!」トビーは素早く口を入れた。「するときみは、あのことを自分で認めるのか?」
「あのこととは?」
「アトウッドとまた会いはじめたことさ」
「わたしはそんなことをいったつもりじゃないわ。ただ、女だって――」
「いや、そんなことはない」トビーは首をふっていった。どんな神よりも豊富な知識をもっているといった顔つきである。「ちゃんとした婦人は、そんな気持を起こさんもので、そこが、君とぼくとの意見の異なるところだ。いったん浮気心を起こしたら、もはや淑女と呼ばれる資格がない。理想の女性とはほど遠いものだ。だからぼくは、君の行ないに唖然《あぜん》としているのさ。
さしつかえなければ、もう少し率直に話しあってみたい。ぼくはもちろん、君を傷つける気持なんかない。それは君も知っているはずだ。しかし、正直なところ、いまぼくの心にあることを、いわずにはいられない。つまり、ぼくは今夜のいざこざから、君を新しい目で見るようになった点だ。ぼくにはまるで――」
イーヴは何もいわずに、彼がしゃべるのにまかせていた。
そして、トビーが暖炉の火に近づきすぎているのを、無関心な目でながめていた。グレーのズボンの|すそ《ヽヽ》のあたりが煙をあげはじめている。あと数秒もしたら、気がついて、怒りだすことであろう。むしろそれを楽しみにながめていたが、あいにくと、さまたげられた。
マドモアゼル・プルーがはいってきたからである。彼女は簡単にノックすると、とびこんできて、いそいでテーブルへ向かった。話のじゃまをして、すまながっている様子で、
「糸を――糸をとりにきましたのよ」彼女は弁解がましくいった。「糸をきらしたので、新しい一巻きを」いいながらマドモアゼル・プルーは縫い物籠をかきまわし始めた。そのあいだに、トビーのズボンの|すそ《ヽヽ》が焦げだして、ふくらはぎに痛みを感じた彼は、とびあがって跳ねまわった。その格好を見て、イーヴの心もまた、スペイン舞踊をおどっているようなはずみを感じてきた。
「ねえ、トビー」マドモアゼル・プルーは、つづけていった。「それから奥さんも、もう少し声を低くしてくださらない? これでもあたしたちは、ちゃんとした生活を送っている人間で、そんな大きな声を出されたら、近所の人たちにあやしまれますわ」
「大きな声を出したかしら?」
「出したどころのものじゃありませんわよ。あたしは英語の知識がないので、何の話だかわからないけど、並たいていの騒ぎでなかったわ」そして、赤い木綿糸の一巻きをさがし出すと、電燈の光にかざして、「まさか、代償の問題で、もめているんじゃないでしょうね?」
「ところが、それなのよ」イーヴが答えた。
「まあ、奥さん!」
「わたし、あなたの愛人をお金で買いとるようなまねをしたくないの」イーヴのこのひと言が、トビーの立場を明確にした。いわば彼を正しい立場においたわけだが、トビーはこの情勢に、イーヴ同様、憤然とした顔つきになった。
しかし、老ジョー・ニールの娘であるイーヴはかまわずつづけた。「わたし、あなたの要求に応じる気持があるのよ。しかも、金額を二倍にして――もしあなたが、姉さんのイヴェットを説得して、モーリス・ローズ卿が殺された夜、わたしを家から閉め出したことを、警察に証言させてくれたらばよ」
プルーはちょっと顔の血の気を失なって、ピンク色に塗ったくちびるとまつげの濃い目が、生き生きと、きわだって見えた。
「姉が何をしているか、わたしにわかるはずがありませんわ」
「さあ、そうかしら? たとえば、わたしが逮捕されるように、イヴェットが工作していることも知らないというの? あれはこのムッシュー・ローズを、あなたと結婚させるためのねらいなんでしょう?」
「まあ、奥さま!」プルーはさけんだ。
(この娘、ほんとうに何も知らないのだわ、とイーヴは考えた)
トビーが口を出して、「君が逮捕されるわけがない。みんな警察のおどかしさ。彼らだって、本気で考えてはいないよ」
「あなたはそういっても、ほんの少し前、五、六人の警官が、わたしをつかまえにきたのよ。わたしは裏口から逃げ出して、やっとここまでたどりついたんだわ」
トビーはカラーをひっぱった。イーヴは英語で話しているのだが、おびえきったプルーには、話の趣旨の見当がつくらしい。さがしあてたもう一つの糸巻を、テーブルの上に投げ出していった。
「警官がここまで追いかけてきますかしら?」
「きても不思議はないわね」イーヴが答えた。
プルーは、ふるえる手で、なおも縫い物籠のなかをさがして、いくつかの品をとり出し、念を入れてあらためてから、テーブルの上においた。木綿糸、ピンの包み、ハサミ。それに、おかしな話だが、靴ベラが一つに巻尺。指輪にからまったヘアーネット。
イーヴがいった。「イヴェットが何かを思いつめているのは気づいていたけど、あなたのためとは知らなかったわ」
「では、わかっていただけたのね、奥さま」
「でも、あなたのねらいは果たされないわ。情勢がそうならないのよ。ムッシュー・ローズ自身の口から聞いたと思うけど、このひとには、あなたと結婚する気なんかないんだわ。その一方、わたしには絞首台の運命が待ちかまえていて、その嫌疑を晴らすことのできる立場にあるのは、イヴェット一人なのよ」
「何のお話しかわかりませんわ。イヴェットはあたしを、ばかな女と考えていて、何も話してくれませんの」
いまはイーヴも必死で、「あなたの姉さんは、あの夜起きたことを残らず知っているにちがいないわ。事件のあいだ、わたしの部屋にムッシュー・アトウッドがいっしょだったことを証言できるのよ。警察はアトウッドの証言を信じなくても、彼女のいうことなら信じるはずだわ。わたしを逮捕させようとはかっている唯一の理由が、あなた可愛さのあまりというのなら、彼女もきっと……」
言葉の中途で、イーヴは何かにおどろいた様子で、椅子から立ちあがった。
プルーは縫い物籠の中身を、ほとんどとり出していた。最後の品がまがいものの装身具で、彼女はそれを、腹立ちと軽蔑の入りまじった表情で、ピンのたぐいと糸巻のあいだに投げ落とした。それとも、まがいものでなく、本物なのか。無色透明な小さな結晶体と、青色にかがやく小さな石とを、古風なデザインの金糸がたがいちがいに綴って、首飾りに仕立ててあった。いまそれが、おかれた場所にとぐろを巻き、電気スタンドの光を受けて、石のひとつひとつが、怨恨の火を思わせる煌《きら》めきを見せていた。
イーヴがいった。「あなた、この品をどこで手に入れたの?」
プルーは、まゆをあげて、
「それですの? そんな品、大したものじゃありませんわ」
「大したものでない?」
「そうですわ、奥さま」
イーヴはそれを、|はし《ヽヽ》を持ってつまみあげ、「ダイヤモンドとトルコ石よ。マダム・ド・ランバルの首飾りだわ! わたしの頭が完全に狂っているんじゃないとしたら、モーリス・ローズ卿の収集品の一つ。書斎のドアをあけてすぐ左側、骨董品陳列棚のなかにかざってあったわ」
「ダイヤモンドとトルコ石? 奥さまのとんだ思いちがいよ」プルーはトゲのある声でいった。「あら、信用なさらないようね。だったら、ご自身でムッシュー・ヴェイユのお店へ行って、どんな価値の品か鑑定しておもらいになるのがいいわ。ここから五、六軒先のお店ですから」
「そういうことだ」トビーがおかしな口調で口をはさんだ。「しかし、君、これをどこで手に入れた?」
プルーは二人の顔を、かわるがわるながめて、
「やっぱりあたし、イヴェットがいうとおりのばかなのね」と、顔に自信のしわをよせて、「見当ちがいなことばかり考えるんだわ。ここでまた、まちがいをしでかしたら、イヴェットに殺されてしまうわ! あんたたち、あたしをだます気ね? そんな手に乗るもんですか! これ以上、何も答えないわよ。とにかくあたし、姉に電話してくるわ」
それだけの言葉を、おどかしにちかい口調でいってのけると、相手二人に止める間もあたえず(止める気持があればの話だが)、いそいで部屋をとび出していった。つづいてハイ・ヒールの足音が、店の奥のドアのうしろにある階段を駆けあがって行くのが聞こえた。イーヴは首飾りをテーブルの上に落として、
「あなたが彼女にあたえたのね、トビー」と、いった。
「とんでもない! そんなことをするものか!」
「ほんとう?」
「もちろん、ほんとだ。それに――」とトビーは急にふり返って、イーヴには背を向け、鏡に映る彼女のすがたにいった。「それに――例の首飾りは、なくなってはいない」
「え……?」
「あの首飾りは、いまもちゃんと、ドアの左手のキャビネットのなかにある。少なくとも、一時間前に、ぼくが家を出たときには、ちゃんとしていた。ジャニスにいわれたので、覚えている」
「トビー!」イーヴがいきなりいった。「茶色の手袋をしていたのは、誰なの?」
錆《さび》色のしみの浮かんだ鏡に映るトビーの顔が、おかしなふうにゆがんだ。
「きょうの午後、警察の人に質問されたとき」とイーヴは、全身の神経を緊張させ、「ほんとうのことを残らず話したわけでないの。ネッド・アトウッドは、あなたのお父さんを殺した人物を見ているのよ。わたしも、もう少しのところで、見ることができたの。
茶色の手袋をつけた誰かが、書斎に忍び入り、嗅ぎ煙草入れを打ちくだき、モーリス卿を殺したんだわ。たぶんネッドは死ぬこともないでしょう。死にさえしなければ」――鏡のなかのトビーの目が少し動いた――「その目で見たところを証言してくれるはずよ。わたしは彼ほどのことを知ってるわけじゃないけれど、これだけは、はっきりいえるわ。犯人が誰にしろ、それはあなたの平和な家族の一人なのよ」
「けしからん嘘だ」トビーはいったが、あまり大きな声ではなかった。
「そうかしら? どう考えようと、あなたのご勝手だけど」
「で、何を見たというのだ、君の……君のボーイ・フレンドは?」
イーヴは彼に説明してきかせた。
「君はそのことを、ゴロンにはひと言もいわなかったじゃないか」トビーは指摘したが、のどが乾いて、声を出すのも苦しそうだった。
「ええ、話さなかったわ。そのわけがおわかりになる?」
「ぼくの口からいわせる気か。あの男との抱擁の事実を知られないためだ」
「まあ! トビー・ローズ! その顔をひっぱたかれたいの?」
「ぼくたちの会話も、だいぶ品が落ちてきたね」
「あなたの話は品が悪くないの?」
「すまなかったね」トビーは目を閉じて、マントルピースの上においた両手を握りしめ、「君にはわかっていないらしいな、イーヴ。いっていいことと悪いことがあるんだぜ。ぼくとしては、母や妹がこの事件に関係があるといわれたんでは、だまっていられるものでないのだ!」
「あなたのお母さまや妹さんのことに、何ひとつ触れてはいないわ。わたしはただ、ネッドなら事実を証言できる。イヴェット・ラトゥールもたぶん、できるでしょうといっただけよ。それに、あなたの気持を傷つけたくないばかりに、何もいおうとしなかったの。そんなふうに考えたわたしがばかだったのね。でも、あなたは高潔な青年紳士で、曲がったことがきらいと知っていたので……」
トビーは天井を指さして、
「君は彼女のことを根に持って、ぼくに当たっているんだな?」
「わたしは何も根に持っていないわ」
「嫉妬か?」
イーヴは考えて、「おかしな話だけど、どう考えても、わたし、嫉《や》けないのよ」彼女は笑いだした。「わたしがこの部屋にあらわれたときのあなたの顔を、あなた自身に見せたかったわ。わたしとしても、警察の人たちに追われて、あなたに食いとめる力がないのを知っているのでなかったら、笑いださずにいられなかったと思うわ。それに、ここのマドモアゼル・プルーが、あの首飾りを持っている事実……」
店と居間とのあいだを仕切る垂れ布は、茶色のシェニール糸で織った厚手のものだった。いまそれを、店の方から手が伸びて、わきへひき寄せて、男の顔がのぞきこんだ。口もとがどうかしているみたいな異様な笑いが浮かんでいた。古びたスポーツ服を着た長身の男で、帽子をぬいで、居間へはいってきた。
「とつぜんおじゃまして、失礼とは思いましたが、問題になっている首飾りを拝見したかったもので」そういったのは、ダーモット・キンロス博士だった。
トビーはふり返った。
ダーモットはテーブルに歩みよって、その上に帽子をおくと、無色と青色の石をつらねた首飾りをとりあげた。電燈の光線にかざして、指を走らせていたが、ポケットから宝石鑑定用のレンズをとり出して、やや、ぎこちない手つきで、右の目をあてがい、もう一度首飾りをあらためた。「ああ、よかった」ほっとしたように、彼はいった。「これは本物でない」
そして、首飾りをテーブルに落とすと、レンズをポケットにしまいこんだ。
イーヴはやっと声を出すことができた。
「あなた、警官といっしょなのね。あのひとたち……」
「あなたを追跡してきた? いや、そうじゃないので」と、ダーモットは笑って、「実際のところ、わたしはラ・アルプ街の美術商ヴェイユ氏に会いにきたんです。この品についての専門家の意見を聞きたかったのでね」
いいながら彼は、内ポケットから薄葉紙に包んだ品をとり出した。包みを解いて、その一端をつまんで、第二の首飾りをぶらさげた。それは、ちょっと見ただけでは、テーブルの上にある首飾りと寸分の相違もなかった。イーヴは唖然として、双方を見くらべていた。
「これは」とダーモットは、薄葉紙に包んであったほうを指でたたいて、説明した。「モーリス卿の収集品のうちのマダム・ド・ランベルの首飾りで、ご記憶のことと思うが、例の犯行のあと、陳列棚の下の床に投げ捨ててあったものです」
「それで?」イーヴがいった。
「なぜ、とり出してあったのか、わたしはおかしく思いました。これは本物のダイヤとトルコ石で」と彼は、もう一度、それに手を触れて、「そこで、ヴェイユ氏の鑑定を求めると、真正の品であることを確認してくれました。しかしこれは、完全な模造品です。これから何が推理できるかは、あなた方にもおわかりのはずで……」
少しのあいだ、ダーモットは空をみつめたままでいたが、やがて、一人うなずいて、本物のほうを薄葉紙にていねいに包んで、ポケットに収めた。
トビーが大きな声で、「何のために、無断でこの家にはいりこんだか、そのわけを聞かせてもらいましょう」と、なじった。
「ここはあなたのお住居でしたか、モーリス・ローズ卿のご子息?」
「ぼくのいう意味はわかっておいでのはずだ。それに、ばかていねいな言い方はやめてもらいましょう、まるで……」
「何です?」
「まるで、ばかにされているみたいだ!」
ダーモットはイーヴをふり向いて、「さっき、ヴェイユ氏の店に向かう途中、あなたがこの家にはいるのを見かけました。いままた、外で待っているタクシーの運転手が、まだおいでだといいますし、表のドアがあいていますので、もはや心配なさることはないとお知らせしようと考えたわけです。警察には、あなたを逮捕する気持はありませんよ。少なくとも、現在のところでは」
「でも、わたしの家へやってきました」
「あれがあの連中の|くせ《ヽヽ》みたいなもので、これからも、たびたび悩まされることでしょう。しかし、今夜のことは、内々でお知らせしますが、彼らの目的はあなたでなく、イヴェット・ラトゥール――警官たちを、よろこんで迎えていたイヴェットにあったのです。あの気丈な女も、いまごろは音《ね》をあげていることでしょうよ。そうでないとしたら、わたしとしても、フランス人というものを見なおしますがね……といったわけですから、しっかりしてください!」
「わたし――わたしは大丈夫ですわ」
「夕食はすませましたか?」
「いいえ、まだですの」
「そんなことと見ていました。さっそく、腹ごしらえをすることです。十一時をすぎましたが、まだひらいているレストランがみつけられるはずです。そうですな。ゴロン君に聞いたら、教えてくれるでしょう。あの男、誰かから、ローズ一家のある人物が故意に嘘をついていると知らされて、ちょっと心境を変化させているんです」
ローズ一家との不吉な言葉で、部屋の雰囲気がまったくちがったものになった。トビーが一歩進み出て、
「あんたもやはり、この陰謀に加担しているんだな」
「陰謀はたしかにありましたよ、ローズさん。しかし、わたしはそれに関係していませんぞ」
「あんたはそこの戸口で立ち聞きしていた」トビーは指摘して、立ち聞きという言葉にとくに力を入れ、「何を聞いたんです? 茶色の手袋とか何とかを?」
「聞きましたよ」
「それで、おどろいたはずだが」
「いや、べつにおどろきもしませんな」
トビーは荒い息を吐いて、口惜しそうな表情をはっきりと示し、左腕の喪章をいじりながら、
「よろしいか」と、つづけた。「ぼくは家庭内の問題を公表するような男でないが、あんたを理性のある人間と見て、聞いておきたいと思う。あんな話を聞かされて、心を傷つけられずにいられるものかどうかを」
イーヴが口を出そうとすると、
「待ちなさい!」と、押さえつけて、「外見上、証言であることに変わりはないが、われわれ家族の者の一人が父を殺したといい立てるのは、陰謀としか考えられない。しかもその言葉が、彼女の口から出ているんですよ」彼は指摘した。「ぼくが信頼していた女性、尊敬さえしていた女性の口から出たんです。
ぼくはきょうの夕方、彼女にいった。これまでとはちがった目で見なければならなくなったようだとね。そしていま、はっきり確認された。しかも彼女は、アトウッドという男と、よりをもどしたことを認めている。これ以上けしからんことがあるだろうか。そして、ぼくがその点に触れると、急にいきりたって、乱暴な言葉で反駁する。ぼくが妻にしようと考えた女性には、およそふさわしくない言葉といえる。
しかし、なぜ彼女がそのような乱暴な言葉を吐いたか? つまりは、あのプルーという女のことから――たしかにあれは、ある意味ではぼくの過失だった。だけど、男というものは、外へ出ると、ときどき、そうした失敗をおかすことがあるのを認めてもらわなければならない。真剣な気持からのものでないだけに、まさかそれを、真剣に非難されるとは思ってもみないのだ」
トビーの声はいよいよ大きくなった。
「だが、婚約した婦人の場合は、話がぜんぜん別で、かりに彼女がアトウッドというやつと、実際に何をしたというわけでなくても、いまだに寝室へひき入れている事実だけで、ぼくとしては疑わざるを得ない。ぼくは名誉を重んじる職業人で、ぼくの妻となる女性に不貞の事実があると、うしろ指をさされることには耐えられない。少なくとも、婚約を発表したいまとなってはだ。絶対、許してよいことでない。いくら彼女を愛しているにしてもだ。ぼくは彼女が以前の男との生活を捨て去ったものと信じて、ぼくの判断を裏づけてきた。しかし、これがぼくに対する彼女の態度だとわかれば、ぼくたちの婚約もこれまでと考えなければならぬものと思う」
イーヴが泣きだしたので、トビーも気がとがめたものか、口をつぐんだ。イーヴが泣いているのは、はげしい怒りと興奮の反動からだが、トビーにそこまでのことはわからなかった。
そこで彼は、「そうはいっても、ぼくは君が大好きなんだ」と、慰めるようにつけ加えた。
十秒ほどのあいだ、深い静けさが支配したので、二階でマドモアゼル・プルーがすすり泣くのが聞こえてきた。ダーモット・キンロス博士は息を押さえて突っ立っていた。いま口をきいたら、わめき立てることになろう。過去の苦悩と屈辱を契機に、英知が生じるはずの心が、彼自身を凶悪な行為にいざないかねない気持だった。
そこで彼は、イーヴの腕をしっかりつかんで、
「ここを出ましょう」と、やさしくいった。「このような話は、あなたのような人にふさわしいものでない」
十五
爽涼《そうりょう》の九月の朝、ピカルディの浜辺の夜明け。水平線がクレヨンで描いた一本の線を思わせて赤く浮かびあがると、水の面が絵具箱の中身をぶちまけたように、目もあやな色に変わってくる。やがて太陽が昇りはじめ、ドーヴァー海峡から吹きよせる風にゆらめく波頭が、小さな光の点となって煌《きら》めきだす。
右手にはイギリス海峡、左手に灌木をまばらに生やした砂丘のつらなりを見て、海岸線なりのアスファルト道路が、川の流れのようにつづいている。いまその道路を、無蓋馬車が音を立てて走ってゆく。馭車台に気の長そうな男が馬を駆り、そのうしろには、二名の客が乗っている。馬具のきしみと馬の蹄の音が、めざめきらぬ朝の静寂を破っては、空虚の空へ消えてゆく。
海峡からの微風がイーヴの髪をみだし、黒っぽい毛皮のケープをそよがせている。目の下に|くま《ヽヽ》ができているが、彼女はほがらかな笑い声を立てていた。
「とうとう夜どおし、おしゃべりさせられてしまいましたわ」
彼女が大声にいうと、
「それでいいんですよ」と、ダーモットが応じた。
シルクハットをかぶった馭者はふり返りもせず、口もきかなかった。しかし、肩を耳のあたりまで持ちあげてみせた。
「ところで、ここはどの辺ですの?」イーヴがいった。「ラ・バンドレットから、五、六マイルは、はなれましたわね」
馭者の肩がもう一度あがって、そのとおりだといった。
「そんなことは問題でありません。それより、肝心なのはあなたの話で――」
「なんでしょうか?」
「もう一度、話していただきたいのです。一語のもれもなく」
「おなじ話を?」
こんどは馭者の肩が、耳よりも上にあがった。このような軽業師さながらは、馭者という職業に従事する人種だけがよくするところで、その姿勢のまま鞭をふるうと、馬車は大きくゆれて、顔を見合わせようとしていた乗客二人を跳ねあがらせて、いきおいよく走りだした。
イーヴはいった。「四回もくり返したので、あの夜起きたことは、どんな些細な点でも、話しもれなんかありませんわ。しゃべりつづけて、声がかれてしまいました。少し、景色を見させていただきますわ」彼女は両手で髪をかきあげ、風が運んでくる湿気を避けるために、グレーの目を細めて、訴えるようにいった。「こんどのくり返しは、せめて、朝の食事をすませてからでは?」
ダーモットは満足そうな顔でうなずいた。
彼は色褪せた座席に背をもたせて、肩のしこりをほぐしていた。睡眠不足のせいばかりでなく、新事実の発見で、いままでは、はっきりしなかった局面に視野がひらけたことから、やや有頂天の気味で、ひげが伸びてむさくるしい顔になっているのも忘れていた。いまは歓喜の瞬間である。全世界をつまみあげて、ひと揺《ゆ》りゆすり、ひょいとほうり出せそうな気分であった。
「これで自信がつきました」彼はいった。「どうやらこれで、あなたの命を救うことができる。肝心な点がわかった。ニール夫人、あなたはひじょうに重要な事実を話してくれたのです」
「どんなことを?」
「犯人が誰であるかを話してくれました」
馬車は飛ぶように走り、イーヴはたたんだ幌《ほろ》の上にからだをささえていた。
「でも、わたしにはぜんぜんわかりませんわ」
「そうでしょう。だからこそ、あなたの話は価値があるのです。もしあなたが、起きた事実を知っていたら――」
彼は横目で彼女を見て、あとの言葉をためらったが、
「昨日のわたしは、いちおうの理論を持っていたものの、自信を欠いた考えで」と、つづけた。「あやまった方面に目が行っているのではないかとの疑念がありました。しかし、昨夜、パパ・ルスのレストランで、オムレツの皿をつつきながら、あなたの話を聞くうちに、真相を見てとることができたのです」
「キンロス博士」イーヴがいった。「あのひとたちのうち、誰がしたことですの?」
「あなたが気になさる必要のないことで」と、彼は自分の胸に手をやって、「ここに関係はないはずです」
「それはそうですけど、でも――誰の仕業か、やはり気になりますわ」
ダーモットは彼女の目をみつめて、
「それはいましばらく、わざとお聞かせしないでおきます」
思わせぶりもほどほどにしてくれと、彼女は抗議の文句をいおうとしたが、相手の目を見て、思わず口をつぐんだ。あたたかい友情のあふれた目。誠実と同情と、火のような力強さとがこもっていた。
「わたしがこういうのは、偉大な名探偵のように、最後の一章で、頭の弱い者をあっといわせるのをねらってのことではないのです。心理学者として考えられる重大な理由があるからで、この問題の秘密は」――と、手を伸ばして、彼女のひたいをさし――「そこにあるんです。あなたの頭のなかにですよ」
「やっぱり、なんのことだかわかりませんわ!」
「あなたは真相を知っておられる。しかし、知っていることに気づいておられない。いまわたしが、それをあなたの耳に入れると、あなたとしても、もう一度考えなおす気になられる。あなた自身の解釈を加えて、できごとの再整理を始めようとなさる。そしてそれは、絶対にしてはならないことです。少なくともいまのところはです。この事件のすべては――よろしいですか。すべてはですぞ――あなたがこの話を、ゴロン君または予審判事の前でも、わたしに語ったのと、そっくりおなじに話すかどうかにかかっているのです」
イーヴはおちつきを失なって、もじもじし始めた。
ダーモットはその様子を見て、「例をあげて説明しよう」と、チョッキのポケットをさぐって、懐中時計をとり出し、かかげてみせ、「たとえばこの品ですが、なんだと思います?」
「何をお聞きになっていますの?」
「わたしの手にある品は、なんでしょうか?」
「懐中時計ですわ、手品使いさん」
「どうしてこれが、懐中時計とわかります? 強い風が吹いていて、時をきざむ音は聞こえないはずですが」
「でも、目で見て、時計だとわかりますわ!」
「そのとおり。わたしの言葉の意味は、まさにそこにあるのです。われわれはまた、この時計によって」と、軽い口調に変わって、「いまが五時二十分すぎであり、あなたは睡眠をとらねばならぬのを知るのです――おい、馭者!」
「なんでしょうか、ムッシュー?」
「町へひっ返してもらおうか」
「かしこまりました、ムッシュー!」
気のながいはずの馭者は魔法にかけられたのであろうか、ニュース映画にときどき見かける早写しのシーンのような素早さで、馬車の向きを変え、街道に電気が通じたかと思われるスピードで走りだした。それが同じ道に蹄《ひずめ》の音をひびかせ、灰青色にかすむイギリス海峡に、白い鴎《かもめ》の群れが鳴き声を立てるのを聞いて、イーヴはまた質問した。
「これから、どうしますの?」
「眠ることです。それから先は、あなたの忠実な奉仕者であるわたしを信頼なさい。本日中にゴロン君と予審判事に会っておくことになりましょう」
「そうですわね。わたしもそう思います」
「予審判事のヴォトゥールというのは、峻烈をもって聞こえている人物です。しかし、おそれるにはおよびません。彼は当然、職種の主張する行動をとります。いいかえると、あなたを尋問する席に、わたしが立ち会うのを拒否するにちがいないのです。しかし……」
「まあ! 立ち会っていただけませんの?」イーヴは泣き声を出した。
「わたしは弁護士でないからです。そこで、弁護士をお雇いになることをおすすめします。サロモンが適当と思いますから、彼に連絡をとらせます」そこで言葉を切って、馭者の背中をみつめながら、「わたしが立ち会うかどうかに、それほどの相違がありますか?」と、つけ加えてきいた。
「もちろん、大きなちがいがありますわ。それに、お礼も申しあげていませんし……」
「そんなご斟酌《しんしゃく》はいりません。それよりも、さっきいったように、あなたの説明を、わたしにお聞かせになった言葉どおりに、できるだけくわしく、話しておくことが肝要です。それが公式の記録にとられれば、わたしの行動が可能になるのです」
「そのあいだ、あなたは何をしていらっしゃいますの?」
ダーモットは長いあいだ無言でいたが、
「犯人が誰であるかを証言できる人物が一人いるのです」と、答えた。「それはネッド・アトウッドですが、あいにく、いまのわれわれの役には立ちません。わたしもおなじドンジョン・ホテルに滞在していますので、機会さえつかめれば、医師の口から、アトウッドの病状を聞き出しておく考えです。しかし――」と、ふたたび言葉を切ってから、「さしあたっては、ロンドンへ行くつもりです」と、いい添えた。
イーヴは坐りなおして、「まあ! ロンドンへ!」
「なあに、日帰りです。十時三十分発の旅客機があります。午後おそくの便でクロイドンを発《た》っても、夕食の時刻までにはもどってこられます。わたしの計画が失敗に終らないかぎり、そのときまでに、決定的なニュースを持ち帰れるはずです」
「それにしてもキンロス博士、わたしみたいな女のために、どうしてそんなに骨を折ってくださいますの?」
「同国人に、刑務所に投げこまれる危険がせまっているのを知って、傍観していることはできませんよ。それとも、できますかな?」
「ごじょうだんばかり!」
「じょうだんとおとりになったか。それは失礼」
言いわけと反対に、微笑が顔を横切った。その顔を、イーヴの目がさぐっていた。無慈悲な陽光を意識して、ダーモットはいそいで手をあげて、頬の傷痕をかくした。古い恐怖症がよみがえって、胸を刺した。しかしイーヴは、気づきもしなかった。疲れきった現在の彼女は、短い毛皮のケープの下で、からだをふるわせ、昨夜以来のできごとが、目の前に大きく広がるのを意識するだけであった。
「くどくどと、わたしの愛情生活の話をお聞かせして、さぞかし退屈なさったことと思っていますわ」
「そうでないことは、あなたご自身がご存じのはずだ」
「始めてお会いした方に、はずかしい話をお聞かせして、このように明かるくなっては、お顔を見るのも、はずかしい気持ですわ」
「話していただくように、わたしが段取りをつけたのですから、気になさることはありませんよ。ところで、うかがっておきたいことが一つあります――初めての質問ですが」
「なんでもお答えしますわ」
「トビー・ローズの件は、どうなさるおつもりです?」
「お考えくだされば、わかっていただけるのじゃありません? わたしは体《てい》よく袖にされた女ですわ。あなたという証人の目の前で」
「しかし、いまだに彼に愛情を抱いていると、考えておられるのではないでしょうか? わたしのこの質問は、愛しておられるかどうかでなく、愛していると|考えている《ヽヽヽヽヽ》のではないかとの意味です」
イーヴは答えなかった。馬の蹄が、道路に強い音をひびかせている。やがてイーヴは笑いだして、
「わたしって、男には恵まれない運命のようね」と、いった。
それから先、彼女は口をつぐんで、ダーモットもまた、この問題の追及を打ち切った。六時ちかくになって、馬車はラ・バンドレットのきれいに掃ききよめられた街路にもどった。そこはまだ、早起きの元気者が乗馬を楽しんでいるほか、人かげもなかった。馬車がアンジェ街にはいると、イーヴは下くちびるを噛んで、顔を青ざめさせた。彼女の家の前で、ダーモットは手を貸して、彼女を馬車から降ろした。
イーヴは道路の向こう側のボンヌール荘に、素早い視線を送った。そこは、二階の寝室の窓の一つを除いては、人の起きている様子がまったくなかった。その一つの窓は、鎧戸があげてあって、東洋風のキモノを着たヘレナ・ローズ夫人が、鼻眼鏡をかけて、二人が馬車から降りるところを見まもっていた。
静かな街筋に、音が大きくひびくので、イーヴは本能的に声をひそめて、
「うしろをごらんになって! 二階の窓を!」
「なるほど」
「声をかけましょうか?」
「やめておきなさい」
イーヴはとたんに真剣な表情になって、
「やはり話していただけないのでしょうか、誰が……?」
「だめですな。しかし、これだけはいっておきます。いまわかったことですが、あなたは入念に計画された冷酷非情なたくらみによって、その犠牲者に選ばれたのです。このような悪辣《あくらつ》な計画を立てる人物に、情けをかけてやる必要はないし、また、かけられるものでもありません。今夜、またお会いします。そして、そのときこそ、この悪がしこい人物を押さえつけることができるはずです」
「いずれにせよ」イーヴがいった。「くれぐれもお礼を申しあげますわ」
彼女はダーモットの手を握ると、門をひらいて、玄関への小径を駆けだした。馭者はほっとしたようなため息をもらした。ダーモットは舗道に立ったまま、馭者が新しい不安を感じだすほどの長いあいだ、彼女の家をながめていたが、ようやくにして馬車にもどって、
「あとはドンジョン・ホテルへやってくれればいい。それでおまえの仕事は終りだ」
ホテルの前で料金を支払い、法外なチップをあたえて、馭者が礼の言葉を急流のように浴びせるのを聞きながして、ステップをのぼっていった。ドンジョン・ホテルのロビーは中世の城の広間を再現したもので、いまは目をさましたばかりのところだった。
ダーモットは部屋にはいると、ポケットから、ゴロン氏に借りたダイヤモンドとトルコ石の首飾りをとり出して、署長に送り返すために、書留小包にし、それに、きょう一日は留守にしなければならぬと書いた手紙を同封した。そのあと、ひげを剃り、頭をはっきりさせるために冷水のシャワーを浴び、服を着るあいだに、朝食を命じた。
電話でフロントのクラークに問いあわせて、ムッシュー・アトウッドの部屋ナンバーは四〇一だとの返事をもらっておいた。朝食をすませると、さっそくその部屋をさがしに出かけた。そこで運よく、ホテル専任の医師が朝の回診の途中で、ネッドの診察をすませて出てくるのに出会った。
ブーテ医師はダーモットの職業用の名刺を見て、顔に敬意をあらわしたが、それと同時に、回診が残っているので、おちついて話しあっていられないことをそれとなく示した。そこで二人は、寝室の外の薄暗い廊下で立ち話をすることにした。
ブーテ医師は力をこめて、「ムッシュー・アトウッドはいまだに意識をとりもどしていません。それだのに、警察の人たちが、入れかわり立ちかわり、日に二十回はやってきて、おなじ質問ばかりするので困っているのです」
「当然のことながら、いつまでもこの状態がつづくものともいいきれんでしょうな。この瞬間にも、急に容態が変わるということもありうるのではないですか?」
「傷の性質からいって、ありうることです。レントゲン写真をごらんにいれましょう」
「それはありがたい。しかし、彼には回復の見込みがあるのですか?」
「わたしの診たところでは、ありえますな」
「何かしゃべりますか? 昏睡状態のうちで?」
「ときどき、声を立てて笑いますが、それだけといえますね。とにかくわたしは、始終付添っているわけでないので、その質問は看護婦になさったほうがよいでしょう」
「病人を見させてもらえますか?」
「いいですとも」
光線を遮断した部屋に、事件の真相を知る男が、死骸同然のかたちで横たわっていた。看護婦はどこかの僧院の修道女で、大きな頭巾が白く塗った鎧戸にシルエットを浮きあがらせていた。
ダーモットは病人を観察した。美貌の悪魔か、と彼は思った。イーヴ・ニールの最初の愛人、そしておそらくは……彼はあわてて、その考えをふりはらった。もしイーヴが、いまだにこの男に愛情を抱いているとしたら、たとえそれが潜在意識的のものであったにしても、ダーモットには手の打ちようがないわけである。彼はネッドの脈をとって、懐中時計の蓋をひらいた。とたんに、時をきざむ秒針の音が、静寂のうちに大きくひびいた。ブーテ医師はレントゲン写真を示して、彼の患者がきょうまで生きながらえているのは、奇跡とみるべきですよと、得意そうにいった。
「うわごとをいうかとのご質問ですが、ムッシュー?」看護婦はダーモットの質問に答えていった。「それでしたら、ときどきつぶやきます」
「どんなことを?」
「それが英語でして、わたしはあいにく、英語がわかりません。とにかく、大声でよく笑いますし、誰かの名を呼びますわ」
ダーモットはすでに、戸口に向かって歩きだしていたが、看護婦のその言葉に、いそいでふり返った。
「なんという名です?」
「しーい!」ブーテ医師が看護婦の言葉を制した。
「それもやはり、わたしには、はっきりしませんの。どの音も似たように聞こえて、口まねも思うようにできません」薄暗がりのなかでも、看護婦の目に警戒の色がただよっているのが見てとれた。「どうしてもとおっしゃるなら、こんどその名を呼んだとき、発音どおり書いておいてもよろしいですわ」
頼んでおいても意味のないことで、ここではこれ以上のことは聞きだせそうもないと、ダーモットは考えた。そのあとは、ホテル内部のあちこちにあるバーをまわって、二、三の質問を試みると、一人のバーテンが、ジャニス・ローズについて熱心に語ったし、また一人は、モーリス卿自身が、事件のあった日の午後、めずらしく、裏手の騒々しいバーにすがたを見せて、バーテンやボーイたちをおどろかせたことを教えてくれた。
そのバーテンはつけ加えて、「あのご老人、妙に凄味のある目つきでしたよ。ここを出たあと、動物園へ散歩に行かれて、猿の檻《おり》の前で誰かと話しておられるのを、ジュール・セズネックがお見かけしたといってました。でも、相手の男は植込みのかげにいたんで、顔までは見えなかったそうで」
それからダーモットは、ラ・バンドレット空港を十時三十分に飛び立つ旅客機の座席をとるため、インペリアル航空に出かけたが、そのあいだのわずかの時間を利用して、彼の法律事務関係の知人、サロモン・エ・コーエン法律事務所のサロモン弁護士に電話した。
それからのダーモットは、悪夢のような一日をすごした。旅客機の上でまどろむことで、その旅行の重要目的にそなえ、元気を回復させるのにつとめた。クロイドン空港からのバスのなかでは、いつまでこの道がつづくのかとじりじりした。そしてロンドンは、わずか数日、休暇をとって、はなれていただけなのに、煤煙と排気ガスのにおいで、息をするのも苦しく感じさせた。しかしダーモットは、タクシーをある個所へ走らせることで、その三十分後には、勝利のさけびをあげるにいたった。
確認すべきことを確認して、彼の目的は果たされた。その日の夕刻、空が黄色く染まるころ、ふたたびラ・バンドレット行きの旅客機に乗込むと、疲労は完全に消え去っていた。エンジンが轟音を立てはじめた。すさまじい風の流れに、飛行場の草が地に伏し、バルンタイヤをはずませて、機体が浮揚しだした。これでイーヴは安全である。ダーモットはひざのあいだにスーツケースをおいて、座席に背をもたせた。蒸暑い客室に換気装置が、うなり声をあげると、イギリスの土地はまず赤と灰色の屋根のつらなりと変わり、つづいて、動く地図となって遠ざかっていった。
イーヴは安全である。そしてダーモットは計画を練った。考慮をつづけるうち、夕闇の下りきる直前、旅客機は空港に着陸した。町の方向に、いくつかの燈火がまたたいている。間隔のせまい並木がつづく道路に車を走らせ、松の香をふくんださわやかな夜の空気を吸うと、ダーモットは苦渋にみちた現在の向こうに、明かるい未来を見て、心がおどるのだった。
ドンジョン・ホテルでは、オーケストラが演奏されていた。ロビーの照明と騒音が、彼の五官に突き刺《さ》さった。フロントの前を通りすぎようとすると、クラークが手をあげていった。
「キンロス博士。きょう一日、ご面会の方がひっきりなしでした。いまでも、お待ちになってる方が、たしかお二人おいでのはずです」
「誰だね?」
「一人は、サロモンとおっしゃる方です」クラークはメモを見ながら答えた。「もうお一人はマドモアゼル・ローズで」
「どこにいるね?」
「ロビーのどこかです」と、ベルを押して、ボーイを呼んだ。「ご案内させますけど、お会いになりますね?」
ダーモットはボーイに案内されて、ゴシック風ロビーと呼ばれている奥まった場所へ向かった。そこは模造石のかべに、やはり模造品だが、中世の甲冑を並べ、中央の小テーブルを、ふっくらした椅子がかこんでいる。ジャニス・ローズとピエール・サロモン弁護士は、それぞれ独自の心配事をかかえているように、はなればなれの場所をとっていた。しかし、ダーモットが近づくと、二人いっしょに立ちあがった。両者の顔に、非難の色が浮かんでいるのを見て、ダーモットは、おどろかされた。
サロモン弁護士は大柄のふとった男で、オリーブ色の顔の色に深味のあるバスの声、堂々たる威容をそなえている。その彼が、ダーモットをおかしな目で見て、
「やあ、博士。もどってこられんのかと思っていたが」と、墓穴のなかからひびくような声でいった。
「当然、もどってきますよ。今夜、お会いするといっておいたはずだ。ところで、ニール夫人はどこにいます?」
弁護士は片方の手の指をながめてから、顔をあげて、
「彼女は警察にいるんです」と、答えた。
「警察に? いまだに? ずいぶん調べが手間どりますな」
サロモン弁護士の表情がきびしいものになった。
「調べはすんで、留置場にいれられたんで、当分そこを出られんものと覚悟をしなければなりますまい。マダム・ニールは殺人の容疑で逮捕されたんです」
十六
「やあ、博士」と、堂々たる体躯の弁護士は、強い関心を示す口調で追及した。「正直なところを話してもらえんものかな。これではあんたにからかわれておるとしか考えられない」
ジャニスも口を入れて、「でなかったら、彼女をなぶりものにしているのよ!」
ダーモットは二人をみつめていった。
「なんのことだか、さっぱりわからない」
サロモン弁護士は指を突きつけて、法廷における反対尋問のときのように、その指をふってみせ、
「あんたはマダム・ニールに、警察で尋問を受けたときは、できるだけ詳細に、それも、あんたに話した言葉をそっくりそのまま、少しも変えることなく話すがよいと、指示をあたえたと聞いたが、ちがいましたか?」
「そういいましたよ」
「おお!」サロモン弁護士は、さもあらんといわぬばかりに、大声でさけんだ。そして、二本の指をチョッキのポケットに突っこんで、肩を怒らせ、「どうかしてますぞ、あんたは! 気が狂ったとしか考えられん!」
「まあ、待ちたまえ……」
「きょうの午後の尋問があるまで、警察は彼女の無罪を信じておった。だいたいのところはね。ところが、あんたはその考えをぐらつかせてしまった」
「というと?」
「しかし、彼女の証言が終ったときは、もう警察ではぐらついていなかった。ゴロン署長と予審判事は顔を見かわして、うなずきあった。マダム・ニールは致命的なミスをおかしてしまった。とりかえしのつかんミスで、その証言を聞いた者は誰でも、彼女の有罪を信じて疑わない。どかんときて、それで終りだ! こうなっては、わたしの技術をもってしても、手のほどこしようがない」
小テーブルの上、ジャニス・ローズの前に、半ばからになったマーティニのグラスと、すでに三杯をあけてしまったことを示す三枚の受け皿が重ねてあった。いままた彼女は腰を下ろして、残りのマーティニを飲み干し、赤い顔をさらに赤くさせた。ヘレナ夫人がこの場に居合わせたら、うるさく叱言《こごと》をいいだしたにちがいないのだが、ダーモットはこの娘の性格のこの面には、いっさい関心を示そうとしなかった。
彼はサロモン弁護士を見返して、
「ちょっと待った!」と、せきこんだ口調でいった。「あんたのいわれる彼女の『ミス』とは、あの品に関係のあることかね? ――皇帝の嗅ぎ煙草入れに?」
「そのとおり」
「嗅ぎ煙草入れについての彼女の説明が?」
「そういうわけだ」
ダーモットはスーツケースをテーブルの上において、
「なるほど、なるほど!」と、くり返していった。皮肉たっぷりの苦々しい口調で、相手二人をたじたじとさせ、「そういうわけだと、彼女の無罪を確信してしかるべき証拠そのものが、彼女を有罪とみる証拠と考えられたことになる」
弁護士は、象のそれのように大きな肩をすくめて、
「なんの意味だか、わたしにはわかりませんぞ」と、いった。
「ゴロンという男は、知性の持主だとみていたが、何を誤解して、そんな解釈をしたのかな」彼は少し考えて、「あるいは、彼女のほうがまちがえたのかもしれないが」
弁護士はうなずいて、「彼女は、たしかにとりみだしておった。その話すところは、当然、真実とみてよいことまで、そのような印象をあたえなかった」
「なるほど。すると彼女、ゴロンの前では、けさわたしに話したように話さなかったにちがいない」
ここでまた、サロモン弁護士は肩をすくめて、
「あんたにどんな話をしたかは、聞いていなかったわたしにわかることでない」
「ひと言いわせていただくわ」ジャニスがおとなしく口を入れた。
そして、カクテル・グラスの柄をくるくるまわしながら、幾度かしゃべりかけては、いいよどんでいたが、ようやくダーモットに英語でいった。
「わたしには、どういう事情になってるのかわからないけど、きょうは一日じゅう、このアピウス・クラウディウスみたいな人の――と、サロモン弁護士の方をあごでしゃくって――動きを追いまわしていたわ。だけど、この人ときたら、大きな咳ばらいをしては、ふんぞりかえっているだけで、大した効果があったとも思えないの。わたしたち、いいかげんいらいらさせられてしまったわ。いまだにうちの連中、ママもトビーもベン伯父も警察に頑張っている始末なのよ」
「ほう! みなさんで?」
「そうなの。イーヴに会わせてくれって、頼んでいるんだけど、警察は承知しそうもないわ」そしてそこで、少しためらってから、「わたし、トビーの話で察したんですけど、昨夜はひと悶着あったようね。きっとトビー、気持がおかしかったんだわ。あのひと、ときどきそんなことがありますのよ。それで、イーヴに何か、荒い言葉をかけたにちがいないの。そしてそれを、けさになって、とても気にしてますの。あんなみじめな顔つきの兄を見たのは、これが初めてなくらい」
いいながらダーモットの顔をうかがったが、それがいっそうけわしさを深めて、危険信号を示しているのを見て、カクテル・グラスの柄をまわす彼女の指先が不安定なものになった。
「この二日間」と、彼女はつづけた。「何もかもめちゃめちゃでした。でも、わたしたちがイーヴの味方であることは、あなた方がどうお考えになろうが、少しも変わっていませんのよ。彼女が逮捕されたと聞いて、わたしたちだって、あなたと同様、雷に打たれたみたいにびっくりしましたのよ」
「それをうかがって、満足しました」
「そんな言い方をなさらないで。まるで――死刑執行人か何かみたいに見えますわ」
「光栄です。そうありたいと願っているところです」
ジャニスはハッとしたように顔をあげて、「誰を死刑になさるおつもり?」と、きいた。
ダーモットはその質問にはとりあわずに、「このまえゴロン君と話しあったとき、彼はいちおう、その効果はともかく、二つの手段を考えていました。その一つは、イヴェット・ラトゥールを責めたてることで、何か糸口がつかめるだろうとのこと。いま一つは、殺人の夜のできごとを証言した人たちのうち、ある人物が故意に虚偽の事実を述べていることです。ところが、この線の追及を簡単に放棄して、イーヴの逮捕に踏みきったのは、どういう心境の変化なのか、わたしの、にぶい頭では、理解に苦しむところなんです」
「それは本人にきいてみるんですな」弁護士がロビーの方向をあごで示していった。「ゴロン氏がいま、こっちへやってきますぞ」
アリスティード・ゴロンが、ステッキの先で床をたたきながら近づいてくる。例によって、柔和なうちにも元気のよい態度で、専制君主のような歩きぶりだが、ひたいには憂慮のしわが深くよっている。
「やあ、今晩は」彼はまずダーモットに、ちょっとバツの悪そうな声をかけた。「ロンドンへ行ってこられたんですな?」
「そうですよ。ところが、帰ってきてみると、すばらしい情勢に変わっているので、おどろきましたぜ」
ゴロン氏はため息をついて、「遺憾なことだが、法は曲げられんのでね。それはあんたにも理解してもらえると思う。ところで、あんなにあわてて、ロンドンなんかへ出かける理由があったんですか?」
「モーリス・ローズ卿を殺害した真犯人の動機をたしかめるためにね」
「何ですって!」ゴロン氏は思わず声をあげた。
ダーモットはサロモン弁護士に目をやって、「この警察署長と、少し話しあいたいことがある。やあ、ミス・ローズ、この二人の紳士と内々で話しあうあいだ、恐縮ですが、席をはずしていただけませんか?」
ジャニスは自分を押さえるのに最大の努力をはらって立ちあがり、
「わたしにすがたを消せとおっしゃるのね」
「とんでもない。サロモン氏との話はすぐにすみますから、氏と警察へおいでになって、ご家族の方といっしょになられたら」
そして彼は、ジャニスが怒っているのか、そのふりをしているだけなのかわからぬままに、彼女が出ていくまで待ってから、弁護士に向かって話しかけた。
「イーヴ・ニールの耳に入れておきたいことがあるのだが、伝えてもらえんでしょうか?」
「やれるだけのことをやってみますよ」サロモン弁護士は肩をすくめて答えた。
「では、お願いする。こういってほしいのです。これからゴロン君と話しあうから、二時間後には、釈放の運びになるはずだとね。それにつけ加えて、彼女の代わりに、モーリス・ローズ卿殺害の真犯人を引渡す約束をするつもりだといっておいてもらいます」
少しのあいだ沈黙があってから、ゴロン氏がマラッカ材のステッキをふりまわしながらさけんだ。
「ナンセンスだ! 言葉の手品もはなはだしい! ばかな話としかいいようがない!」
しかし、弁護士は一礼すると、風をいっぱいに孕《はら》んだ帆船の素早さで、ロビーへとび出していった。そこで、待機しているジャニスに何か話しかけるのが見えた。つづいて彼女に腕を貸そうとして、彼女から拒絶されたが、それでも二人いっしょにロビーを後にして、人ごみのなかに、すがたを消した。それを見定めると、ダーモットは長椅子に腰を下ろして、スーツケースをひらいた。
「腰かけたらどうです、ゴロン君」
警察署長はそり返るような格好をして、「いや、このままでよろしい。腰かけるまでのことはない!」
「しかし、いまいった約束の件があるので――」
「ばかばかしい!」
「――一杯飲みながら、話しあいたいのだが」
「では」とゴロン氏は、もったいぶった態度は、くずさなかったが、椅子に腰を下ろして、いくらかくつろいだ調子でいった。「少しのあいだ、話を聞くか。そして、飲むほうも、小さなグラスで一杯だけ。それでそのヨタ話を……いや、ウィスキー・ソーダを飲むといっとるんですよ」
ダーモットはボーイを呼んで、飲みものを命じた。
「おどろきましたよ。こんな場所で君を見かけたんで」彼はあてつけがましい慇懃《いんぎん》さでいった。「ニール夫人の逮捕というセンセーショナルな騒ぎをひき起こしておいて、なぜホテルなんかへ出かけてきました? わたしはまた、警察署で彼女を質問責めにしているものと思っていた」
ゴロン氏は答えて、「このホテルに用があるからです」と、指でテーブルをたたいた。
「ここに用が?」
「そうなんだ」と、署長は首を動かして、「少し前に、ブーテ医師が電話をかけてきた。ムッシュー・アトウッドが意識を回復した。簡単な質問なら、さしつかえなかろうといってくれたので……」
その言葉に、満足そうな表情がダーモットの顔に浮かぶのを見ると、署長はまたも怒りがこみあげてくる様子だった。
ダーモットはそれと見て、「アトウッドが証言できるとすれば、わたしがいいたいことを、そっくりそのまま語るはずだ。それがこの事件における謎をつなぐ最後の環で、こちらが何もいわぬうちに、彼自身の口から、わたしの言葉を確認する証言がとび出すようなら、わたしの提出する証拠も、とりあげてもらえるんではなかろうか?」
「証拠ですと? どんな証拠?」
「まあ、待ちたまえ」ダーモットはさえぎって、「その前に聞いておきたいことがある。なんで君は百八十度の転換をして、あの婦人の逮捕に踏みきったんだね?」
ゴロン氏はそのいきさつを話しだした。ウィスキー・ソーダをすすりながら、詳細な点にわたって説明した。しかし、彼自身、この処置に全面的な満足を感じていないのは、ダーモットにも見てとれた。署長の抱く疑惑にも、予審判事ヴォトゥール氏の堅い確信にも、理性をくもらす雲がかかっているのが明瞭だった。
「すると」とダーモットはつぶやくようにいった。「彼女は、やはり話さなかったんだ。けさ、睡眠不足のもうろうとした頭で、自分でもそれと気づかず口に出したことを、君の前では話そうとしなかった。彼女の無実を立証し、真犯人が別人であるのを明らかにする、もっとも重要な事実であるのに」
「その事実とは?」
「よろしいか」とダーモットは、テーブルの上でスーツケースをひらいた。
彼が説明を始めたときは、ロビーの飾り時計の針が九時五分前を指していた。九時を五分すぎると、ゴロン氏は肩を落として、もじもじしだした。九時十五分すぎには、完全に口をつぐんで、無言のまま眉根にしわをよせ、両手をひろげてみせた。その動作は、彼の降伏を示すものであった。
「厄介な事件ですな」署長は、うめくような声を出した。「この手の事件には、まったく、いらいらさせられる。やっと片づけたと思ったとたんに、誰かあらわれて、やりなおさなければならなくなる」
「しかし、いまのわたしの話で、以前には困難に思えたことが説明できるのじゃないかな」
「こんどは返事を差しひかえておきますぞ! うかつなことはいえんからね。しかし、正直なところ……説明はつきますな」
「そうとわかれば、この事件は解決したことになる。君は目撃者である男に、一つだけ質問すればよろしい。ネッド・アトウッドに質問する。『それは、かくかくしかじかだったのか?』とね。それに彼が『イエス』と答えたら、君は署長の権限を行使する準備にとりかかって、さしつかえない。しかも、こちらから誘導して、答弁を引き出したとの非難を受けずにすむ」
ゴロン氏はウィスキー・ソーダのグラスをあけ、立ちあがって、
「では二人して、最後の運だめしに出かけるとしますか」と、いった。
ダーモットはその日二度目の訪問に、四〇一号室に向かった。最初の訪問時には、このような好運が見舞ってくれるとは考えもしなかった。善悪二つの力が、イーヴ・ニールの運命をあいだにはさんで、争いあっているのであろうか。
部屋の内部は、電気スタンド一つがおぼつかない光を放っていた。ネッド・アトウッドは、顔色が青く、目がどんより濁っているが、それでも完全に意識をとりもどしていた。力ないからだを起きあがらせようとして、夜勤の看護婦にせがんでいるのだが、イギリス病院から派遣された、頑丈で元気のいい西部出の娘は、彼を押さえつけて身動きひとつさせなかった。
「おじゃましますよ」ダーモットがいった。
ネッドは何回か咳ばらいをしてから、看護婦の腕越しにのぞいて見て、しゃがれ声でいった。「先生ですか。よいところへきてくれました。この女猛者を追いはらってもらいたいんです。彼女、こっそり忍びこんできては、催眠薬の注射をしていくんで、弱ってしまうんです」
「起きてはいけません」看護婦は怒ったようにいった。「あんたは絶対安静中の病人なんです」
「ぼくのからだに何が起きたのか聞かないうちは、おちおち寝てなんかいられるか。安静なんかまっぴらだ。ぼくのいちばんきらいなことなんだぜ。しかし、おとなしくすることは約束していい。どんないやらしい薬でも呑むと約束する。どうしてぼくがここに寝ているのか、そのいきさつを話してくれる親切心が君にあればだ」
看護婦はそれには答えず、外来者二人を疑わしげに見た。そこでダーモットが、心配するような者でないといいきかせたが、
「お名前をお聞かせ願いましょうか。それから、どんなご用でいらしたかも」
「わたしはキンロス博士。こちらがこの町の警察署長のゴロン氏、目下、モーリス・ローズ卿殺害事件の捜査にあたっておられる」
そばで聞いていたネッド・アトウッドの顔が、レンズの焦点が定まってくるように、徐々に鋭さを増していった。理解力がようやくもどってきたのだ。弱々しい息づかいで、半ば起きあがり、両手を背後について、からだを支えた。そして、いま初めて見るように、自分のパジャマすがたをながめ、部屋のあちこちを見まわしていたが、発音に気をつかいながらしゃべりだした。
「部屋へもどる途中、エレベーターのなかで、急にぼくは……」と、のどのあたりへ手をやって、「この状態で、どのくらいのあいだ寝ていました」
「九日間です」
「え? 九日間も?」
「そうなんです。そしてその原因を、ホテルの外で、車にはねられたと聞きましたが、それにちがいありませんか、アトウッドさん?」
「自動車事故? そんなナンセンスな話が、どこから出たんで?」
「あんた自身の口からですよ」
「そんなことをいった記憶はありません。いった覚えがありませんよ」いまは完全に理解力がもどっていた。そして、すべての感情を一語にこめて、「イーヴ!」と、いった。
「そのイーヴですが、アトウッドさん、おちついて聞いてください。彼女は現在、思わぬトラブルに巻きこまれ、あなたの援助を必要としているのです」
看護婦が口を出した。「あなた方、この病人を殺すおつもり?」
「だまっていろ!」ネッドがわめいた。婦人への慇懃ぶりはかげをひそめている。「トラブルですって?」と、ダーモットに問いただした。「トラブルとは?」
その質問に答えたのは、警察署長ゴロン氏だった。腕を組んで、表情を殺し、彼を捕えているかなり複雑な感情をさとられまいとつとめている。
「マダムは現在、留置場にはいっています」警察署長は英語で語った。「モーリス・ローズ卿殺害の容疑で起訴されたのです」
その言葉につづく長い沈黙のあいだ、涼しい夜風が、窓のカーテンと白いブラインドをゆるがしていた。ネッドはいまや完全に起きあがって、相手二人を凝視している。白いパジャマの肩のあたりにしわをよらせ、腕が九日間の臥床《がしょう》のあいだに痩《や》せおとろえて、血の気が見られなかった。脳の障害の患者のことで、頭の頂きの髪が剃り落としてあり、そこに薄いガーゼが貼りつけてあるのが、ブルーの眸と口もとに憔悴《しょうすい》の色が目立ちはするが、色白の整った美貌に変わりはない顔とのあいだに著《いちじる》しい対照を示して、むしろこっけいともいえる印象をあたえていた。
ネッドは急に笑いだして、
「やあ! あなたたち、ぼくをかつごうとしているんですな!」
「いや、真剣な話です」ダーモットが真顔でいった。「彼女に不利な証拠は非常に強力なもので、ローズ一家の人々の証言は、彼女の弁護にまったく役に立たんのです」
「あの連中はそんなものですよ」
吐きだすようにいうと、ネッドはベッド・カバーをはねのけて、ベッドから降りようとした。
それにつづいて、ひと騒ぎもちあがった。ひきとめようとする看護婦の手をふりはらって、ネッドは立ちあがったが、足もとがふらついて、ベッドわきのテーブルにつかまらなければならなかった。その表情に、彼らしい皮肉な笑いを浮かべた。どうやら内心に強い興味をおぼえ、自分一人、この喜劇を愉しんでいる様子だった。
「ぼくもすっかり病人あつかいだな」彼自身、目の奥に、何かがくるくる回転しているのを感じながら、「よろしい。無理をしないように気をつける。さあ、服を出してくれ。何をするって? きまっているさ。警察へ行ってくる。服を着させないなんていうと、あの窓から飛び降りてやるぞ。イーヴが君なら、ぼくのいうとおりにしてくれるんだが」
「だめです、アトウッドさん」看護婦はいった。「無茶なことをなさると、電話で誰かを呼んで、押さえつけてもらいますよ」
「おお、わがいとしき美人よ! 君のその白き手が電話のベルに触れる前に、ぼくはこの窓より飛び降りることが可能なのだ! とにかく、いまのぼくが欲しいのは、服と帽子だ。必要とあれば、帽子のなかへとびこんでみせるぜ」
それから彼は、ダーモットとゴロン氏に頼みこむようにいった。
「ぼくは気を失なったあと、この町でどんなことが起きたか知っていないのです。おさしつかえなければ、イーヴに会いに行く途中、くわしい話を聞かせてくれませんか。この事件には、あなた方の想像以上に裏の裏があるんです」
「そうらしいですな」ダーモットが答えた。
「ニール夫人の口からも、茶色の手袋の人物のことを聞いています」
「しかし、その人物の名前まではいわなかったはずです。なぜかというと、彼女は知らないからです」
「で、あんたはご存じで?」ゴロン署長がきいた。
「知ってますとも」ネッドは答えた。
その言葉にゴロン署長は、山高帽を拳骨で突き破るような格好を見せた。ネッドはテーブルのそばでふらふらしながら、にやにや笑いを浮かべていたが、そのあとすぐに、ひたいに深く横じわをたたんで、
「おそらく彼女は、ぼくたちが道路越しにあの家の窓をのぞいたとき、老人のほかに、もう一人誰かがいたと話したことでしょう。そして、その後にまたのぞいたときは、すでに老人が殴り倒されていたことも。そこに重要なポイントがあるんです。すべてはそれにかかっていて、それは……」
十七
予審判事のヴォトォール氏がいった。
「さあ、さあ、みなさん。むさくるしい部屋で恐縮ですが、おはいりください」
「はいらせていただきましょうよ」ジャニスが低い声で、みなにいうと、
ヘレナ夫人は息をはずませて、「するとこのお部屋で、気の毒なイーヴに会わせてもらえるのね。でも、あのひと、わたしたちのことをどう思っているのかしら?」
「あんまりよくは思っておらんさ」ベン伯父が断定した。
トビーは何もいわずに、両手をポケットに深く突っこみ、暗い表情で首をふっていた。
ラ・バンドレット警察署は町役場の内部にある。これは、はばはせまいが、かなりの高さのうえに、時計台をそなえた石造建物で、中央市場からほど遠からぬ、明かるい公園を前にした場所にあった。ヴォトゥール氏は最上階の広い部屋を占領している。北に向かって二つの大きな窓、西側にもう一つの窓。書類棚がいくつか。これには、ほこりだらけの法律書が何冊か並んでいる。予審判事であるからには、法律家でなければならぬものらしい。あとは額ぶち入りの写真で、なんという名のお偉方であるかは不明だが、レジヨン・ドヌール勲章をかざった礼服を着けている。
ヴォトゥール氏のデスクは、氏がそこに席を占めると、西側の窓に背を向けることになる位置に据えてあった。それからちょっとはなれたところに、氏と向きあうように、だいぶくたびれた木製のひじかけ椅子がおいてあり、その上に、吊り電燈が垂れ下がっている。
訪問者たちは、まだこの部屋には、何かがあると感じとった――何か、子供っぽさと無気味さとを同時に感じさせるものが。
カーテンのない西側の窓から、きらめくような白い光が射しこんで、彼らの目をくらまし、とびあがらせた。白い箒《ほうき》で皮膚をこすられる思いがするが、一瞬のうちに部屋を横切って、泡が消えるように消えていく。要するに、それは燈台が放つ光線で、ヴォトゥール氏と向きあった椅子に腰かけた者は、予審判事の尋問がつづくあいだ、二十秒ごとに、目もくらむばかりの強烈な光線に見舞われることになっている。
「厄介な燈台ですよ!」ヴォトゥール氏は片手をふって、払いのけるようにしながら、光線のとどかぬ部屋の片隅の椅子を示して、「あそこへおかけください。どうぞお楽に」
そして彼自身は、デスクのうしろの椅子にかけて、彼らに向かいあうように、椅子を半分ほどまわした。
予審判事は、きびしい目つきと貧弱な頬ひげを持つ、やせぎすの年輩者で、いまはしきりと両手をこすりあわせて、乾いた音を立てている。
「ニール夫人に会わせてもらえるんですか?」トビーが質問した。
「そうですね……いや」ヴォトゥール氏は答えた。「まだですな、いまのところは」
「なぜ会わせてもらえんのです?」
「お会わせする前に、説明していただくことがあるからで」
またも、窓からのまぶしい光が、ヴォトゥール氏の肩をかすめて流れこんできた。天井の電燈がかがやいているのに、予審判事のすがたをシルエットに変え、その銀髪の一端を燃えあがらせ、手をこすりあわせているところを浮かびあがらせた。この光線の掃射さえなかったら、芝居気たっぷりのこの人物の棲家《すみか》は、いたって家庭的な気分にみちているはずである。時計が時をきざむ音をひびかせ、サイド・テーブルの上には、猫が背を丸めて眠っている。
それでいて訪問者たちは、予審判事の方向から、憤懣《ふんまん》の気持が伝わってくるのを感じた。
「ちょうどいま」と、彼はつづけていった。「同僚のゴロン君が電話してきて、長話を終えたところで、彼はドンジョン・ホテルにおるのですが、新しい証拠について話しておりました。もうまもなく、到着することと思います。彼の友人のキンロス博士といっしょなんです」
そういってヴォトゥール氏は、平手でデスクをたたき、
「彼の話があったところで、わたしはこの処置が軽率だったとは考えません。いまだって、マダム・ニールの逮捕を急ぎすぎたとは考えておらんのです」
「何です、それは?」トビーがさけんだ。
「もっとも、この新しい証拠というのは、おどろくべきものです。これにはわたしも動顛《どうてん》しました。この新証拠の出現で、少し前に、キンロス博士から指摘された点に立ちもどって考える必要が生じたようです。それはいうまでもなく、マダム・ニールの処置にからんで、当然考慮に入れなければならぬ問題で、うっかりしておったことは認めざるをえません」
ヘレナ夫人が、そっとトビーにたずねた。「ゆうべ、何かあったんだね? どんなことが起きたの?」
それから夫人はふり返って、ヴォトゥール氏のほうへ手を差し伸べた。この瞬間では、ローズ一家の人々のうち、彼女がもっとも冷静を保っているようで、あとの連中は、このいきさつに|わな《ヽヽ》を感じとっているらしい。
「ヴォトゥールさん」と、夫人は一息ついてからつづけた。「じつは、トビーが昨夜、とてもおそい時刻に帰ってきました。たいへん興奮していて……」
「そんなこと、お父さんの死と、なんの関係もありませんよ」トビーは必死に、母の言葉をさえぎろうとした。
「わたしは眠りつけなくて、まだ起きていました。で、ココアが欲しいんじゃないかとききましたが、この子、ろくに返事もしないで、寝室にとびこんでしまったのです」ヘレナは顔を曇らせて、「わたしに考えられたのは、この子とイーヴとのあいだに、はげしい口争いがあったのじゃないかということで、それもこの子が、二度と彼女の顔を見たくないといったからです」
ヴォトゥール氏は手をこすりあわせた。そこでまた、白い光が、彼の肩口をかすめて走った。
「なるほど!」予審判事は低い声でいった。「で、奥さん、ご子息はどこに行っておられたか話しましたか?」
ヘレナはけげんそうな顔をして、「いいえ。何もいいません。でも、話さなければならぬようなことがありましたの?」
「ラ・アルプ街十七番地といいませんでしたか?」
ヘレナ夫人は首をふった。
ジャニスとベン伯父の二人は、トビーの様子をみつめていた。注意深い観察者であれば、そのときのジャニスの顔に、意地の悪そうな微笑が浮かび、すぐにまた、それと悟られぬような素早さで、消えていったのを見たことであろう。すきっ腹にカクテルを四杯、たてつづけに流しこんで平気な、当世風の娘だけあって、このような場所では、しとやかにふるまってみせる要領もまた心得ているのだ。ベン伯父はパイプの火皿の内側をポケット・ナイフでけずっていた。ナイフのきしる小さな音が、トビーの神経をいらだたせた。しかし、ヘレナ夫人は何も気がつかない様子で、哀訴するような口調で話しつづけた。
「つまらない口喧嘩がきっかけで、トビーとイーヴの仲に罅《ひび》が入りはしないかと、わたしはそれが気になって、一睡もできませんでした。ですから、夜が明けたばかりのときに、イーヴがあの偉い学者だという、こわいお顔のひとと連れ立って帰ってきたところを見ることになりました。そのあとで、イーヴは逮捕されましたけど、これ、みんな、関連したことですの? お願いできたら、もっとくわしい説明をお聞かせいただけないでしょうか?」
「わしもいっしょにお願いするね」ベン伯父もつづいていった。
ヴォトゥール氏は表情をひきしめて、
「すると、ご子息は、何も話しておられんのですな?」
「さっきから申しあげているとおりですわ」
「では、ニール夫人の口から、告発的な言葉が出たことも?」
「告発?」
「ご家族の一人が、茶色の手袋をはめて、モーリス卿の書斎に忍びこみ、ご老人を殴打して死にいたらしめたというのです」
長い沈黙があった。トビーは椅子に半分尻をのせて、頭をかかえこんでいたが、このようなことをいわれては、だまっていられぬというように、はげしく首をふり始めた。
「いずれは茶色の手袋が問題になると思っておったが」ベン伯父がおどろくほどおちついた口調でしゃべりだした。彼はこれまで、あらゆる局面からこの問題を考えていたものらしい。
「つまりその、彼女は……何かを見たと主張するんですな?」
「見たといったら、どういうことになります、ムッシュー・フイリップス?」
ベン伯父は冷静な笑顔を見せて、「実際に見ていたのなら、あんたもそんな遠まわしな言い方をなさらんはずだ。いまごろ犯人はつかまっておることでしょう。つまり彼女は見たわけでない。家庭内における殺人事件ですか! おどろきましたな」
「おどろくことはないわ」ジャニスがとつぜん口を出した。「わたしたちみんな、おなじことを考えなかったわけじゃないわ」
ヘレナはびっくりして、娘の顔をポカンとみつめ、
「何をいいだすのよ、ジャニス! そんなばかなこと、いつわたしたちが考えた? あなた、頭がどうかしたのね? もっとも、わたしたちみんながそうなのかもしれないけど」
「それは――」と、ベン伯父も何かいいかけて、からのパイプを音を立てて吸った。
ベン伯父は家族の者が寛大な気持から、彼の言葉に聞き耳を立ててくれるのを待っていた。家事上の実際問題だと無視される彼だが、このような問題については、いつもその意見が尊重されるのだ。いま彼は渋面をつくって、その動きにも、強硬な意志をそれとなく示している。
「これ以上、わざとお人好しの様子をつくろっておることはない。もちろんそれは、われわれ誰もが考えておることで、まったく、いやな話だ!」家族の者は、彼の態度が一変したのにおどろいて、そろって緊張した。「礼譲を尊ぶ家族のイメージは、この際捨てることだ、われわれの心に、空気と光線を注ぎこんで、率直に考えれば、真相がわかるかもしれんのだ」
「ベン!」ヘレナ夫人がさけんだ。
「あの建て物の戸締りにぬかりはなかった。ドアも窓も鍵がかかっておった。してみれば、夜盗が忍び入ったとは考えられん。ここまでのところは、名探偵でなくても簡単にわかる。そこで下手人は、イーヴ・ニールか、われわれ家族のうちの誰かとの結論になる」
「だからどうだというの?」ヘレナ夫人は食ってかかるようにいった。「わたしがイーヴに同情すると、赤の他人の彼女をかばうために、血と肉を分けた家族の一人の罪を認めることになるの?」
「そこまでわかっているんなら」ベン伯父は辛抱強く応じた。「偽善者態度を捨てて、彼女のやったことだと、はっきりいったらどうなんだね?」
ヘレナ夫人は狼狽して、
「それはあの人が好きだからよ。それに、財産のある人だから、トビーも仕合わせになれるじゃないの、モーリスにあんな|まね《ヽヽ》をしたかもしれないって考えを追いはらえていたら、トビーとのことも順調に運んでいたんだけど。でも、わたしにはその考えがはらいのけられなかったのよ」
「では、イーヴのやったことと思っているんだね?」
「なんともいえないわ!」ヘレナ夫人は泣き声を出した。
「お待ちなさい」とつぜんヴォトゥール氏が口を出した。冷やかできびしく、断乎とした声であったので、一同は思わず口をつぐんだ。「われわれはここで、くわしい事情が聞けそうですぞ……おはいり!」
西側の窓と向かいあった位置に、廊下に通じるドアがあった。燈台の光が回転するたびに、その扉板の上を掃いて走り、青白くきらめく羽目板に、窓の輪郭を、ほこりのあとまでふくめて、くっきりと描き出す。いま、ドアをノックする者があったのだ。そして、ヴォトゥール氏の声に応じて、ダーモット・キンロス博士がはいってきた。
ちょうど強烈な光線の掃射とぶつかったので、ダーモットは手をあげて目をおおったが、その感情を押さえた冷徹な顔の下に、怒りの火がひそかに燃えているのが見てとれた。危険をはらんだ顔。しかし、見られていることに気づくと、彼はすぐに表情を変え、いつもの柔和な顔つきにもどった。ローズ家の人々に会釈をしてから、部屋を横切って予審判事に近づき、フランス流の握手をした。
ヴォトゥール氏はゴロン署長とちがって、如才なく、ふるまうことを知らなかった。
「あんたとは、昨夜初めてお会いした仲ではあるが、それにしても」と、かなりぶっきらぼうな調子でいった。「例の首飾りを持って、ラ・アルプ街へ行かれたきりで、あとの連絡がありませんでしたな」
「あれからいろいろ事件が起きましたので」
「それはわかっています、あんたのいわゆる新証拠というのがそれですな――いや、たしかに重大な意味のあるものでしょう! とにかく、あんたの希望どおり、関係者を集めておきました」と、ローズ家の人々を手で示して、
「では、さっそく攻撃を開始してもらいます! どうせあの人たちに不快な思いをさせることになるが、それでこの事件もはっきりするんでしょうからな」
ダーモットはローズ家の人々を横目で見ながら、「ゴロン君がマダム・ニールを連れにいっていますが、この部屋へ連れてくることにご異存はありませんな?」
「いいですとも。かまいませんよ」
「それから、首飾りのことですが、ゴロン君の話だと、二つともあなたがお持ちだそうですね?」
予審判事はうなずいて、デスクの引出しから二つの品をとり出すと、吸取紙の上においた。燈台の光がまわってくると、それは二筋の焔の点のつらなりとなってきらめいた。ダイヤモンドとトルコ石の首飾りだが、並べておいても、ちょっと見ただけでは、本物と模造品の区別がつかない。模造品のほうには、小さな札がつけてあった。
「ゴロン氏あてのあんたの手紙の趣旨どおりに」予審判事は苦々しげな口調でいった。「部下をラ・アルプ街に派遣して、模造品を押収させました。それがこれで」
と、予審判事は札に触れてみせた。ダーモットはうなずいた。
ヴォトゥール氏はつづけて、「いまではわたしも、この品の持つ意味がわかりかけていますが、昼間のうちは、マダム・ニールや嗅ぎ煙草入れのことで忙がしすぎたので、ほかの誰にも、そしてこの二つの首飾りにも、頭がまわりませんでしたよ」
ダーモットは、ふり返って、部屋の反対側で沈黙をつづけているグループへ歩みよった。
彼らはダーモットに反感を抱いていた。口に出していえないだけに、いっそうはげしいその反感が、ダーモットにははっきり見てとれるのだが、ある意味では、むしろそれに、興味さえおぼえていた。ヴォトゥール氏が蜘蛛《くも》さながらに背後にひっこみ、燈台の光が白い波を思わせて、かべを薙《な》いで通るところで、ダーモットは椅子をひきよせた。椅子の脚が、リノリュームの床にきしみの音を立てた。彼はローズ家の人々を正面から見すえて、英語でしゃべりだした。
「あなた方のお気持はわからぬことはありません。たしかにこの事件でのわたしは、出すぎた行動をとっている傾向があります」
「それを承知で、なぜ口を出すんです」ベン伯父がいった。
「誰かが口を出す必要があるからです。そうでないときは、この厄介な問題は、解決することがなくて終るでしょう。もちろんあなた方も、例の茶色の手袋の件をお聞きになったことでしょう。だいぶ評判になっていますからな。よろしい! ではまず、それについての、もう少しくわしい話から始めます」
「はめていたのが誰かも話してくださるのね?」ジャニスがいった。
「そのつもりです」
そしてダーモットは、椅子に背をもたせ、両手をポケットに突っこんで、
「記憶をよみがえらしていただきたいのは」と、語りはじめた。「モーリス・ローズ卿が亡くなられた日の、午後から夜へかけてのできごとです。その大部分はすでにお聞きおよびのことと思いますが、重要な意味のあるものを、あらためてここでくり返させていただきます。
あの日、モーリス・ローズ卿は、いつものように、午後の散歩に出かけられた。お気に入りの散歩コースは、ドンジョン・ホテルの裏手にある動物園ですが、その日の卿の行動には、例日とはちがったものが加わっていました。すなわち、この日にかぎって、卿はホテルの奥のバーにすがたを見せて、バーテンやボーイたちをおどろかせておられます」
ヘレナ夫人はふり返って、あきらかに、とまどった顔つきで、ベン伯父を見た。この老人はきびしい目で、ダーモットを見まもっていた。そして、口を切ったのはジャニスだった。丸い顎を突き出すようにして、彼女がさけんだ。
「そんなことがあったの? 初めて聞いたわ」
「そうでしょう。しかし、事実なんです。わたしはけさ、バーの従業員の口から、それを聞き出しました。卿はそのあと、動物園のなかで、すがたを見られています。猿の檻《おり》の前で、誰かと話しあっておられるのを見かけた者があるのです。話していた相手は、植込みがじゃまをして、顔まではわからなかった。この小さなできごとを、記憶にとめておいていただきます。重大な意味があるからで、これが殺人の前奏曲であったのです」
「じゃ、あなた――」ヘレナ夫人は、ごくり、つばをのみこんで、大きな目を丸くして、ダーモットを凝視した。顔に血をのぼらせて、「モーリスを殺した犯人をご存じなの?」
「そうです」
ジャニスが口を出して、「どこからそんなことがおわかりになったの?」
「じつをいうと、ミス・ローズ、あなたのお話しからですよ」
ダーモットはその点を、少しのあいだ考慮してから、
「ヘレナ夫人のお言葉も参考になりました」と、つけ加えた。「あなた方が追求しておられる問題点を明らかにしてくだされたからです。これは頭脳の働きの領域に属するもので」と、ひたいに指の先を走らせ、言いわけめいた顔を見せて、「ここの働きひとつで、小さな事実から、大きな事実をひき出すことができるのです。しかし、それはそれとして、わたしの話をつづけさせてもらいます。
モーリス卿は夕食前に帰宅された。動物園で重大な会見をなされる前、ホテルのバーに立ちよられたときは、バーテンにいわせると、『けわしい目つき』をしておられたが、帰宅なされたときは、顔は蒼白、からだをふるわせておられたという。これは何度も聞かされている事実です。そして、劇場行きを拒絶して、書斎に閉じこもられた。八時に、ご一家のほかの方々は劇場にお出かけになった。それにちがいはありませんな?」
ベン伯父はあごをなでて、
「そうですよ。いまいわれたとおり。しかし、なんでまた、わかりきった話をくり返すんで?」
「示唆するところが大きいからです。あなた方は十一時ごろ、イーヴ・ニールといっしょに劇場からもどられた。その一方、美術商のヴェイユ氏が、八時半に電話してきて、新しい掘出し物があることを知らせてきた。そして、例の嗅ぎ煙草入れを持参して訪問し、それをおいて帰った。しかし、あなた方全員は、帰宅なさるまで、この品については何も知らされていなかった。いかがです? ここまでのところ、わたしの申しあげたことに、まちがいはありませんか?」
「大丈夫」と、ベン伯父がうなずいた。
「したがって、イーヴ・ニールもまた、嗅ぎ煙草入れのことはぜんぜん聞いていなかったとみて、まちがいない。昨日、ゴロン氏から聞いたところでは、彼女は劇場からの帰宅のさい、あなた方のお住居に立ち寄らなかったという。ローズ氏が」と、トビーへあごをしゃくってみせて、「彼女を彼女の家の前で車から降ろし、おやすみといって別れた」
「それがこの事件に――」と、トビーが急にいきりたってさけんだ。「何の関係があるんです? あんたの話は、何をねらっている?」
「ここまでの話に、あやまりはないと思いますが、いかがでしょう?」
「まちがってはいないが、しかし――」
トビーはじりじりする気持を身ぶりにあらわしたが、あとの言葉はつづけなかった。あいかわらず背後に、時間を区切って燈台の白色光が射しこんできて、正面から顔を照らされるわけでないが、神経をいら立たせることに変わりがない。
また、ドアをノックする者があった。ヴォトゥール氏が腰をあげると同時に、ダーモットも立ちあがっていた。はいってきたのは三人で、先頭がアリスティード・ゴロン署長で、つぎが半白の髪をした暗い顔つきの女看守で、サージの制服を着ている。三番目がイーヴ・ニールだが、制服の中年女の手が、意味ありげに、イーヴの手首のあたりをうろついている。もしも、彼女の囚人が逃亡を企てたら、飛びついてでもひっ捕《とら》えるぞ、といった気がまえである。
しかしイーヴは、そんな気配《けはい》も示さなかった。とはいえ、仮借ない白色光に、木製のひじかけ椅子が浮かびあがるのを見ると、身をこわばらせて、一歩あとへ退《さ》がった。女看守の手があわてて彼女の手首をつかんだ。
「その椅子には、二度と腰かけたくありません」それでも彼女は平静にいった。だが、その声の調子で、ダーモットは彼女の思いつめた気持を察しとった。「なんとでも、お好きなようにしていただきますが、それに腰を下ろすことだけはおことわりしますわ」
ヴォトゥール氏が口を出した。「そんなことはいいませんぞ。それにキンロス博士、あんたもおちついてください」
ゴロン署長も彼女の背をたたいて、「大丈夫、大丈夫。その必要はありませんよ。あんたを痛めつける考えなんか、絶対ありはしないので、その点は、このわたしがはっきりいっておきます。それから博士。正直なところ、あんたに出しぬかれるのをおそれたばかりに、自信をもっての処置がとれなかったんです」
ダーモットは目を閉じ、またそれをひらいて、
「どうやら、むきになったのは、わたしのあやまりであったようだ」と、自分をしかるようにいった。「一日やそこら、留置場入りをしたところで、騒ぎ立てるほど傷つくわけでもないのに」
イーヴは彼に微笑を向けて、
「ええ、ちっとも傷つきませんのよ」と、いった。「ゴロンさんからも、あなたは約束をお守りになる方とうかがっていますし、それに――この苦しみを時間の問題と知っていましたので」
「いやあ、奥さん!」と、予審判事がまたも口を出した。「こういった問題は、そう簡単に解決するものでない。自信過剰はいけませんぞ」
ダーモットがイーヴに代わっていった。「どう思おうと、勝手でしょう」
強烈な燈台の光がすぎ去ったとき、イーヴは完全に平静をとりもどして、まるでこれが、彼女自身には無関係な事件のような顔つきをしていた。ゴロン氏がわざわざとり除けてくれた、ひじかけ椅子をひき寄せて、愛想よくヘレナ、ジャニス、ベン伯父に、順々にうなずいてみせた。トビーにも笑顔を向け、最後にダーモットに話しかけた。
「助けにきてくださることは知っていました。形勢がおかしくなって、あの人たちがデスクをたたき、『人殺し女め! すなおに白状せんか!』とさけんだときも」――そういいながらも、彼女の顔は笑っていた――「あなたのご指示の裏には、何かの計算があるものと信じていました。あなたのお言葉を疑いませんでした。でも、とても怖《こわ》くて、ふるえあがりましたわ!」
「そうでしょう」ダーモットがいった。「あなたがこの事件に巻きこまれたのも、原因はそこにあるのです」
「まあ、わたしに?」
「そうです。それがあなたを、この苦しい立場におとしいれたのです。あなたは誰の言葉でも信用なさる。相手はそれを知っていて、利用するのです。たまたま、わたしを信じてくださったからよかったものの、それはしばらくお預けとして」と、ダーモットはふり返って、ほかの人々を見まわし、「これから、わたし自身の質問を行ないたいと考えます。おそらく、あなた方にとっては不愉快な質問だと思いますが、ご異存はないでしょうな?」
十八
誰かの椅子が、リノリュームの床の上できしんだ。
「さあ、始めてもらいましょうか」ヴォトゥール氏が督促した。
「これまでは、事件当夜のできごとの概略を追ってきました。いずれも重要な事実ばかりで、必要とあれば何回でもくり返して述べる考えでいます。ところで、わたしの話は、あなた方が十一時に、劇場から帰宅なさったところでしたね」
と、トビーに目をやって、「あなたは婚約者と、彼女の家の玄関先で別れて、ご家族といっしょになられた。それから、どうしました?」
ジャニス・ローズがけげんそうな目をあげて、兄の代わりに答えた。
「パパがお二階から降りてきて、わたしたちみんなに、嗅ぎ煙草入れを見せました」
「なるほど。わたしが昨日、ゴロン氏から聞いたところでは、警察は犯行の翌日、その破片を収集して、一週間がかりで、原形どおりに組み立てるのに成功したそうです」
トビーはそれを聞くと、咳ばらいをして坐りなおした。希望の光をようやく見出したといった顔つきで、
「もとにもどった?」と、問いただした。
しかし、署長が横から口を出して、「いまでは値打ちなんかありませんぞ、ムッシュー・ローズ」と、警告した。
ダーモットの身ぶりに応《こた》えて、予審判事はまたしてもデスクの引出しをひらいた。そこから、小さな物体をとり出すと、てのひらのうちでも粉々になるのではないかとおそれているように、用心深い手つきで、ダーモットにわたした。
モーリス・ローズ卿がそれを見たら、さぞかし嘆き悲しんだであろう。折りから燈台の光が射しこんで、皇帝の嗅ぎ煙草入れの上を掃くようにすぎていった。バラ色|瑪瑙《めのう》が深みのある色で燃え、文字盤と針とのダイヤがきらめき、金側と疑似|竜頭《りゅうず》が光りかがやいた。それでいてこの品は、(このような言葉を使用してよければ)奇妙にねばつく感じで、くずれた形の印象をあたえた。
ダーモットはそれを、みなの目の前にさし出して、裏返してみせながら、
「膠《にかわ》でくっつけてあるんです」と説明した。
「これだけ入念な作業を完成させるには、職人が目をやられたかもしれませんな。それに、いまでは蓋があきません。しかし、あなた方はこの品を、原形のときに見ておられる」
「そうです!」トビーは平手で|ひざ《ヽヽ》を打っていった。「ちゃんとしていたとき見ましたよ。しかし、それがどうかしたんですか?」
ダーモットは嗅ぎ煙草入れをヴォトゥール氏の手に返して、
「十一時少しすぎに、モーリス・ローズ卿は書斎にもどられました。この新しい収集品に、家族の誰も興味をもたないのを知って、憤懣やるかたない気持でした。そして家族の方々は《おそらく》ベッドにはいられたはずです。
しかし、トビー君は寝つくことができなかった。夜中の一時にベッドを出て、階下の客間に降りていき、イーヴ・ニールに電話をかけた」
トビーはうなずいて、横目でそっとイーヴの顔をうかがった。それは何を考えているか、判断のつきかねる顔だった。トビーは彼女に話しかけたい思いに駆られたが、この顔つきでは、ためらわざるをえないので、黙然と口ひげをひねって我慢した。その間イーヴは、正面に目を据えたままでいた。
ダーモットはその視線を追いながら、
「で、その電話、数分つづいたようですが、なんの話をなさいました?」
「え?」
「なんの話をしたかとお聞きしているのです?」
トビーは視線をダーモットにもどして、「覚えてなんかいませんよ。いや、待ってください――そうです。思いだしました」と、手で口をこすって、「あの晩に見た劇の話をしたんです」
イーヴがちらっと微笑をもらして、
「売春をテーマにした劇だったので」と、説明を加えた。「トビーはわたしがショックを受けたのではないかと心配したのです。あのときはそのテーマが、かなり彼の心を苦しめていたようですわ」
彼女の言葉の皮肉が、トビーの胸に突き刺さったにちがいない。いきり立ちそうになるのを、無理して押さえつけながら、トビーは彼女にいった。「婚約したときに、ちゃんといっておいたはずだ。ぼくはけっして、理想的な夫だとうぬぼれているわけじゃないとね。いろいろ欠点があることを、ことわっておいた。そうじゃなかったか? 君のいまの言葉は、昨夜ぼくがいったことを根に持ってのものだろうが、あのときのぼくは冷静を失なっていて、考えなしに、心にもないことを口にしてしまったんだ」
イーヴは返事もしなかった。
「電話の会話の内容にもどっていただきます」ダーモットがいった。「その夜見た劇の話をなさったんですね。そのほかには?」
「そんなことが、事件に関係するんですか?」
「大いに関係します」
「ええと――ぼくがピクニックのことをいいだした。翌日、一家そろって、ピクニックに行く計画があったからで。もちろん、あの事件のために、とりやめにしましたがね。そう、そう。父がまた、その収集に新しい品を加えたところだとも話しましたよ」
「しかし、どんな品かの説明はしなかったんですな?」
「しませんとも」
ダーモットは彼の顔を見ながら、「あとはゴロン氏から聞いたことを引用します。電話での会話のあと、あなたは二階へあがって、ベッドにはいった。それが一時数分すぎ。そして、寝室にもどるとき、あなたはお父上がまだ起きていられるのに気づいた。書斎のドアの下に、一筋の光線がもれていたからです。そこであなたは、お父上のさまたげにならぬように気をつかわれた。ちがいますか?」
「気をつかいましたよ!」
「深夜まで起きておられるのは、モーリス卿としてはめずらしいことなんでしょうな?」
ヘレナ夫人が咳ばらいをして、トビーに代わって答えた。
「そうですわ。わたしたちは夜おそいといっても、ある人たちみたいに、真夜中まで起きていることはありませんの。モーリスだって、十二時までにはベッドにはいっていましたわ」
ダーモットは、うなずいて、
「そこで奥さまにおたずねしますが、あなたもまた、一時十五分にベッドをはなれましたね。ご主人の書斎へ行って、いいかげんにおやすみになるように、そしてそのあと、嗅ぎ煙草入れの購入に、反対意見を述べようと考えられた。そして、ノックをしないで、書斎のドアをあけると、天井のシャンデリアは消えて、デスクの上の卓上燈だけがついていた。ご主人は戸口に背を向けて、デスクを前に腰かけておられたが、近眼のために何も気がつかず、歩みよって、血が流れているのを発見なさった」
涙がヘレナの目からあふれ出て、「あのときのことを、ここでまたくり返す必要がありますの?」と、彼女はいった。
「一つだけ、その必要があるのです」ダーモットは彼女にいいきかせた。「悲劇は忘れることができますが、事実を無視することはできません。
警察に事件の発生を知らせたあと、トビー君とミス・ローズが、ニール夫人にきてもらおうと、道路を横切って迎えにいきました。それを巡査が呼びとめて、警部が到着するまで、家をはなれんようにいいました。
そのあいだに、ほかの場所で起きていたことを考えてみましょう。最初に、われわれの注意を向けねばならぬのは、したたかもののイヴェット・ラトゥールです。イヴェットは(彼女自身のいうところによると)警官隊が到着して、近所一帯、がやがやしだしたので、目をさましたそうです。イヴェットが自分の寝室を立ちでる。そこにこの事件の謎の核心があります。それが断頭台《ギロチン》の刃《やいば》であったのです。イヴェットはニール夫人が凶行をすませて帰ってきたところを目撃しました。玄関の扉を鍵であけ、血汐に濡れたネグリジェ姿で二階へあがり、浴室で血を洗い落とすのを見ているのです。その時刻が――だいたいにおいて一時三十分」
予審判事がとつぜん手をあげて、
「ちょっと待った」といいながら、デスクのはしをまわって近づいてきた。「どんな新証拠を発見なさったか知らんが、この話が何をねらっておるのか、さっぱりわかりませんぞ」
「おわかりになりませんか?」
「わかりませんな。彼女の自供によっても、これはマダム・ニールの行動と完全に一致しておりますよ」
「そうでしょう。一時三十分の行動にですな」ダーモットが指摘した。
「一時半かどうかはともかくとして、もうちょっとわかりやすく、あんたのいいたいところを説明してくれませんか」
「よろこんで説明しますよ」デスクのそばに立っていたダーモットは、継ぎあわせた嗅ぎ煙草入れを一度手にして、またもとの位置におくと、トビーの前まで歩みよった。そして、意味ありげにこの青年をみつめて、
「あなたの証言のうち、訂正なさりたい個所があるのではないでしょうか?」と、質問した。
トビーは目をパチパチさせて、「ぼくの証言に? いや、ありませんよ」
「ありませんか?」ダーモットはいった。「あなたは彼女を愛していると明言なさった。その愛する女性が救われるというのに、虚偽の証言をした事実を認める気持になれんのですか?」
背後で、ゴロン署長がくすりと笑った。予審判事は、その軽率な態度をとがめてにらみつけた。つづいて判事は、デスクのはしをまわって、おびやかすような足音でトビーのそばに近より、真正面から顔をのぞきこみ、
「どうなんです、ムッシュー?」と、返事をうながした。
トビーは椅子をうしろへ押しやってとびあがった。そのすさまじい力に、椅子はリノリュームの床に横倒しになった。
「ぼくが嘘を?」
ダーモットがいった。「ニール夫人に電話したあと、二階へあがって、お父上の書斎の前を通ったとき、ドアの下から明かりがもれていた――あなたはそのように陳述した」
ゴロン署長が口を入れた。
「昨日、書斎を調べるために、キンロス博士といっしょに二階へあがってみたのだが、そのとき博士はドアを見て、意外そうな顔つきを示した。何をおどろいておるのか、わたしには理解できなかった。とかく、こうした細かな事実は、気がつかずに終ってしまうものだ。しかし、いまはわたしにも、その意味がはっきり呑みこめた。あのドアは――思いだしてみればおわかりのはずだが――絨毯とのあいだがぴったりしておって、あけたてするたびにけばが立って、絨毯がすりきれておる状態なんですぞ」
彼はいったん言葉を切って、手を前後に動かしては、みなの頭に、ドアの動きを思い出させようとした。
「といったわけで、あのドアの下から光線がもれるなんて、絶対に不可能なことです」そこでまた一息ついてから、最後の言葉をつけ加えた。「しかも、ムッシュー・ローズの嘘は、これ一つでなかった」
予審判事もうなずいて、「署長のいうとおり。では、二つの首飾りの件に移るとしますか」
ダーモット・キンロス博士は、この二人とちがって、わなを仕掛けることには興味を持たなかった。相手を窮地に追いつめておもしろがる性格でなかったのだ。しかし、イーヴの顔に浮かんだ表情に気づいて、うなずいてみせた。
「では、茶色の手袋をはめていたのは……」イーヴは悲鳴にちかい声をあげた。
「そうです」ダーモットはいった。「その男は、あなたの婚約者、トビー・ローズであったのです」
十九
ダーモットは説明をつづけた。
「格別めずらしい話でもありませんが、トビー君には、プルー・ラトゥールという可愛い女友達があります。その名でわかるように、イヴェット・ラトゥールの妹です。このマドモアゼル・プルーが高価な贈り物を要求して、よこさないときは、各方面でトラブルを起こしてみせると、|おど《ヽヽ》しました。トビー君のサラリーは残念ながら多額のものでありません。そこでトビー君は、父君の収集品の一つ、ダイヤモンドとトルコ石の首飾りを盗みとることに肚をきめたのです」
「信じられませんわ!」ヘレナ夫人があえぐようにしてさけんだ。その細い声は、すすり泣きそっくりに聞こえた。
ダーモットは考えなおして、
「『盗みとる』と申しあげたのは、正しい用語でなかったようです。トビー君はおそらく、実際に『盗みとる』考えではなく――いまはあのように口がきけない状態ですが、やがては真意を語ってくれるでしょう――要するに、首飾りの模造品を作らせて、これを実物とすり替える。そしてマドモアゼル・プルーの機嫌とりのために、現金か何かとひきかえられるまで、これを彼女に預けておく。いわば、少しの期間『拝借する』つもりであったのですな」
そしてダーモットは予審判事のデスクにもどって、二つの首飾りをとりあげ、
「彼はこの模造品の製作を……」
あとの言葉は警察署長がひきとった。「ラ・グロアール街のポーリエ工房に依頼したんで。ムッシュー・ポーリエが、注文主はこの人だと、いつでも証言してくれますよ」
トビーは何もいわなかった。誰の顔も見ないようにして、素早く移動を開始した。ヴォトゥール氏は、彼が戸口へ向かうものと思いこんで、動くんじゃないと声をかけた。しかし、トビーはそんな考えでなかった。ただ、あらゆる意味で、顔をさらしたくないので、部屋のすみにひっこもうと思っただけなのだ。書類ケースの線まで退却して、そこにみなに背を向けて立った。
ダーモットは首飾りの一つをかかげたまま、話をつづけた。「昨夜わたしは、この模造品がプルーの縫い物籠のなかにあるのを知りました。それで、この品についての調査の必要を感じ、ロンドンへ出発するに先立って、ゴロン氏に手紙を書き、プルーの手からとりあげ、出所をつきとめるように頼んでおいたのです。そしてもちろん、トビー君が彼女にあたえたものでした」
「それをうかがっても」思いがけず、イーヴ・ニールがいった。「正直なところ、わたしはべつにおどろきませんわ」
「ほう、そうですかな、マダム」ゴロン氏がいうと、
「そうですわ。わたしは昨夜、彼女にあたえたのはあなたでしょうと、トビーに聞いてみました。あのひとは否定しましたけど、そのとき彼女に、とてもおかしな目を向けました。その目つきが、『こっちのいうことに口裏を合わせろ』と、はっきり語っているのでした」そしてイーヴは、急に手で目をこすった。顔に血の気がのぼっている。「プルーは要領のいい娘ですから、これをどこで手に入れたとトビーが聞きますと、彼の意を汲んで、だまりこんでしまいましたわ。ですけど、イミテーションの首飾りなんかを、なぜあの女にあたえたんでしょう?」
「それは」と、ダーモットが答えた。「実物をあたえる必要がなくなったからです」
「必要がなくなりましたの?」
「そうです。モーリス卿が亡くなられたので、この青年は、亡父の遺産から、プルーが満足するだけの金をあたえることができると考えました」
またしてもヘレナ夫人が悲鳴をあげた。
それがまた、芝居気たっぷりのゴロン氏とヴォトゥール氏の気に入った様子で、二人は満足そうに夫人をながめた。しかし、ほかには満足している者はいなかった。ベンジャミン・フィリップスは腰をあげて、妹の椅子のうしろに立ち、彼女をしっかり支えるように、その肩に手をおいた。いまやダーモットは、遠慮会釈なくむちをふるう気持になったとみえて、そのむちの音が聞きとれるばかりの気がまえであった。
彼は言葉をつづけて、「気のどくなことにトビー君は、父君が彼同様に、金に詰まっておられるのを知らなかった」
「実情を知らされたときは、相当のショックだったでしょうな」ゴロン氏が口を合わせた。
「その点に疑念の余地はありませんよ。それはともかく、昨夜、プルー自身の口から出たことだが、殺人の起きる直前、彼女は相当うるさいことをいって、トビー君を悩ませた。もっとも、それはいまに始まったことでなく、イーヴ・ニールとの婚約が発表されてからは、ごたごたの連続だった。男の心がはなれたと知ると、気丈な彼女にも、すがりつきたい気持がおそってくる。その気持が脅迫の形をとった。結婚の約束を破ったとの脅迫である。彼女の力のおよばぬところは、姉のイヴェットがひき受けてくれる。紳士顔をしたフックソン銀行の行員たちに、彼女との交情をぶちまけるぞというだけで、この青年紳士をふるえあがらせることができる。ゴロン署長が語っているように、プルーは商売女でなく、堅気の娘であったのだ。
彼は、首飾りをあたえれば、彼女をだまらすことができると考えた。もちろん、本物の首飾りのほうですよ。なにしろ、十万フランの値打ちがある品ですからね。そこで彼は、イミテーションを作らせた。しかし、すり替えるのには躊躇していた」
「なぜですの?」イーヴが静かな声できいた。
ダーモットはにやり笑ってみせて、
「それは、やはり」と、答えた。「彼にも良心があったからですよ」
トビーはなお、口もきかなければ、ふり返りもしなかった。
「その彼が、ついに決意を固めました。あの夜の劇のテーマに影響されたのか、ほかに何かの理由があったのか、それは本人に聞いてみなければわかりませんが、とにかく何かが、彼を最後の行動に追いやったのです。
夜中の一時に、彼は婚約者に電話しました。そして彼女と話しあっているあいだに、彼の将来の幸福は、首飾りを盗みとり、プルー・ラトゥールの|かた《ヽヽ》をつけること一つにかかっていると確信するにいたった。わたしのこの観測は正しいと信じますがね。とにかく彼は、真剣にそう考えた。彼のそのときの気持は、神聖だったといってよい。それが最善の道だと思いこんだ、いやあ、わたしは何も、皮肉のつもりでいっているんじゃありませんよ」
ダーモットはあいかわらず予審判事のデスクのわきに立ったまま、そこで話に息を入れて、
「その仕事に、めんどうはないはずでした。父のモーリス卿は、彼の知るかぎり、そんな夜中まで起きていたことがない。書斎のなかは燈火が消えて、誰もいないはずである。彼としては、こっそり忍び入り、ドアのすぐ左手にある骨董品キャビネットをあけて、実物の首飾りをイミテーションとすり替えればすむことで、あとは愉快に祝杯があげられるというわけです。
そこで、一時を数分すぎたとき、彼はこの仕事を実行しようと決意した。探偵小説の教えるところを守って、茶色の作業手袋をはめた。これは家族の人たちの大部分が使用しているものです。イミテーションの首飾りは、彼のポケットにおさめてあった。忍び足で階段をのぼった。さっきもいったように、書斎のドアは床とのあいだに隙間がないので、なかの燈火はもれていない。彼は当然、室内はまっ暗で、誰もいないと考えた。ところが、なかは暗くもなければ、無人でもなかった。何回も聞かされたことですが、モーリス・ローズ卿は不正が大きらいな性分だけに……」
「おちつくんだぞ、ヘレナ!」ベン伯父が小声でいった。
ヘレナ夫人はベンの手をふりはらってさけんだ。「では、博士! あなたはわたしの息子に、父親殺しの汚名《おめい》を着せようとなさるの?」
ついに、トビーが口をひらいた。
部屋の片隅でうしろを向いている彼の上を、燈台の光が掃いてすぎ、後頭部の小さな禿げを浮きあがらせた。トビーはいま、局面が新しい方向に進展してきたのにおどろいた様子で、こっそり周囲をうかがってみた。そして、みなの者がこのばからしい推論にうなずきかけているのに気づいて、あわてて部屋の中央にもどってきた。
「父親殺し?」信じられぬように、母親の言葉をくり返した。
「というわけですな、トビーさん」警察署長がきめつけた。
「ばかなことをいわんでくれ!」トビーはわめきたてた。しかし、その声はどこかうつろだった。両手を突き出して、みなの者を追いはらうような格好を見せ、「ぼくが父を殺した? そんなことが考えられますか!」
「なぜ、考えられんのですね?」ダーモットがいった。
「なぜ、ですって? 自分の父親を殺すなんて!」驚愕のあまり、トビーはこの問題を考えている余裕がなかった。新しい苦悩に挑戦して、「茶色の手袋にしても、昨夜聞いたのが初めてだ。イーヴも話してくれなかった。それをいいだしたのは、プルーの件があったからで、それだけのことだ!
ばかばかしすぎて、おどろき、あきれるばかり、なんともいいようがない! しかし、昨夜彼女にいったように、ここでもみんなに、はっきりいいきれる。あの『茶色の手袋』は、父の死にも、誰の死にも、ぜんぜん関係がない。よろしいか! |ぼくが書斎にはいったとき《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|父は《ヽヽ》|すでに死んでいたんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
「わかったぞ!」ダーモットは、いって、平手でテーブルをたたいた。
その音が、各自の神経を刺激し、動揺させた。トビーもまた一歩さがって、
「わかったぞとはなんです?」
「気になさることはない。で、あなたは要するに、茶色の手袋をはめたんですね?」
「そ、それは……まあ、そうです」
「そして、盗みにはいったところ、お父上が椅子にかけたまま死んでおられるのを発見したのですね?」
トビーはもう一歩、あとへ退《さ》がった。
「ぼくは盗むつもりでいたのじゃない。あんたが勝手にそういってるだけで、そんなまね、ぼくの大きらいなことだ。それに、ほんとうに不正な行為に出ないで、欲しい品を手に入れる方法がほかにあるだろうか?」
「あら、トビー!」イーヴが感じ入ったような声を出した。「あなたってずいぶん立派な人なのね。考えることはほんとうに立派だわ!」
「まあ、まあ、お待ちなさい」と、ダーモットはデスクのはしに腰を載《の》せて、「道徳的な問題はしばらく、あずからせてもらいましょう。それよりもトビー君、あなたの身に起きた事実のほうをうかがいたいものですな」
真正の戦慄がトビーの全身を走った。虚勢をはりつづける考えでいたのであろうが、いまの彼には、その力もなくなっていた。手の甲でひたいをこすって、
「話すことなんかありはしない。しかし、母と妹の前で、こうまで恥をかかされたからには、胸のなかの気持を洗いざらいぶちまけてしまったほうがいいかもしれない。
そうですよ。ご推察どおりのことを、ぼくはやってのけた。あんたの語ったとおりのことをね。ぼくはイーヴと話しあったすぐあと、二階へあがっていった。家のなかは寝しずまっていた。イミテーションの首飾りは、化粧着のポケットに入れてあった。書斎のドアをあけると、卓上燈がともっていて、おやじが戸口に背を向けた格好で、デスクを前に腰かけていた。
ぼくが見たのは、それで全部だった。ぼくは母と同様、近眼なんでね。それはぼくの目つきから、気づいていたことと思うが」――ここでまた、彼独特の身ぶりを示し、片手で両目をおおい、まばたきをしてみせ――「まあ、そんなことはどうでもいい! つまりぼくは、眼鏡を必要とする人間で、銀行での勤務中は、いつも眼鏡をかけている。といったわけで、ぼくも母同様、父が死んでいることに気づかなかった。
おやじが起きていたんではどうにもならんので、ぼくはいそいでドアを閉め、ひっ返そうと考えた。しかし、すぐに思いかえした。決行して悪いわけがあるか。計画は万全なもので、すり替えるだけで目的が達せられる。いまやってのけないことには、こっちの頭が狂ってしまう。
それが、そのときのぼくの考えだった。うちのおやじは耳がひどく遠くて、そのうえいまは、嗅ぎ煙草入れに夢中になっている。目指すキャビネットは、ドアのすぐそばにある。手を伸ばして、首飾りをすり替えるだけ。気づかれるおそれなんかあるものか! それだけやってのければ、今後はおちついて安眠ができ、ラ・アルプ街の厄介女から責められることがなくてすむ。そこでぼくは手を伸ばした。キャビネットには鍵も掛け金もかけてないので、音も立てずにひらいた。首飾りをつまみあげると、つい、その……」
トビーは一息入れた。
ちょうどそのとき、燈台の白い光が室内を横切っていったが、それを意識する者もいなかった。トビーの緊迫した話しぶりに、誰もが忘我の状態におちいっていたのだ。
「オルゴールに手が触れて、ガラスの棚から落としてしまったんだ」
そこでまた、適当な言葉をさがしてから、
「それは木と錫《すず》で作った大型のオルゴールで、かなりの重さがあり、小さな車がついている。おなじガラスの棚の上に、首飾りと並べておいてあった。ぼくの手がうっかり触れたとたんに、死人でも目をあけるような大きな音を立てて、床に落ちた。いくらおやじの耳が遠くても、気づかぬわけがないほどの大音響だった。
しかし、それだけではなかった。オルゴールは床に落ちると、生き返ったように回転を開始して、『ジョン・ブラウンの遺骸』の一節を奏しだした。真夜中のことなんで、まるで、二十ものオルゴールがいっせいに鳴ってるみたいな音をひびかせる。ぼくは首飾りを手に、動くこともできずにいた。
ところが、おやじを見ると、動こうともしないのだ」
ここでまた、トビーはごくり、唾をのみこんで、
「そこでぼくは、父のそばへ近よった。そして、何を見たかは、あんたたちの知っているとおりだ。たしかめるために、天井のシャンデリアのスイッチを入れたが、息絶えていることに疑いはない。首飾りを手にしたままだったので、そのとき血がついたものと思われる。ただし、手袋のほうは汚《よご》さなかった。おやじは頭を打ちくだかれたわりには、眠ったようにおだやかな死顔だった。そして、その間ずっと、オルゴールが『ジョン・ブラウンの遺骸』を奏しつづけていた。
とりあえず、これをだまらせなければならぬ。ぼくは走りよって、とりあげると、キャビネットのなかにもどした。しかし、首飾りのほうは、こんな状況になっては、とり替えるわけにいかないことがわかった。殺人事件だから、警察が駆けつけてくる。あのときのぼくは、夜盗がやったものと信じていた。それだけにまた、十万フランもする首飾りをプルーにあたえたら、警察がかならず聞き出すはずだ。そして、キャビネットのなかの品がイミテーションに変わっているのを知ったら……
あの場合、誰だってそうなるはずだが、ぼくは途方に暮れて、どうしていいかわからなかった。室内を見まわすと、暖炉用具台の上に火掻き棒が、何ごともなかったような格好でかかっていた。しかし、手にとってみると、血と髪の毛がこびりついている。ぼくはいそいで、もとの場所にもどした。それだけが、ぼくにできたことのすべてだった。少しも早く、この部屋から逃げだすこと。そのほかのことは、考えられもしなかった。首飾りをキャビネットにもどそうとしたが、台のビロードが斜めのかたちなんで、すべってキャビネットの下に落ちた。しかし、とりあげる気にもならず、そのままにして逃げだした。だけど、天井の照明を消しておくことは忘れなかった。それが、死んだ父への礼儀だと思ったからだ」
そのあとの彼の言葉は、細く尾をひいて消えた。
予審判事の部屋は、不吉なイメージに満たされた。
ダーモット・キンロスはヴォトゥール氏のデスクのはしに腰かけたまま、トビーの様子をみつめていた。その顔には、皮肉とも感嘆とも区別のつきにくい表情が浮かんでいた。
「その話は、誰の耳にも入れてないのですね?」
「話すわけがないでしょう?」
「なぜ?」
「ぼくは――誤解されるおそれがあった。あの行動に踏みきった動機がわかってもらえるとは思えなかった」
「なるほど。イーヴ・ニールがそれとおなじ話をしたとき、誰も理解しようとしなかった。しかし、あなたのほうは、理解をわれわれに押しつけている」
「聞きたくもない言葉だ!」トビーはわめいた。「道路をへだてた家の窓から見られているとは、誰だって気がつかんはずだ」とイーヴの顔をちらっと見て、「最初イーヴは、何もみなかったといいきった。あれが嘘なら嘘で仕方がないが、ぼくにもいわせてもらいたい。例の『茶色の手袋』のことは、昨夜まで、ひと言も聞かされていなかった」
「いやあ、あなたのほうも、当然の無謀な冒険について、ひと言だって口にしなかったじゃないですか。それで、あなたの婚約者の無実がはっきりしたのにね」
トビーはきょとんとした顔になって、「何の意味かわからない!」
「ほう! おわかりにならん! では、いいますが、あなたは夜中の一時に彼女に電話した直後、二階へあがって、父君の死を発見したんでしたね?」
「そうです」
「ということは、もし彼女が殺したのだとしたら、午前一時以前の犯行ということになる。一時には犯行を終えて、彼女自身の寝室にもどっていなければならない。それでなければ、あなたの電話に出ることができない」
「それで?」
「彼女は犯行をすませて、一時までには、自分の部屋におさまっていた。そうだとしたら、なぜもう一度、出かけていく必要があったのです? 事実は、一時三十分に、彼女がネグリジェに血をつけてもどってきたのを見られている」
トビーは何かいいかけたが、そのまま口を閉じてしまった。
「二回つづけて出かけて行く必要があったとは考えられない」ダーモットは、肚《はら》のうちはともかく、おだやかな口調で話をすすめた。
「一時三十分における状況は、イヴェットが、くわしく申し立てているところで、犯行を終えた女殺人鬼は、『髪をふりみだし』人目をおそれる格好で、玄関の扉を鍵であけていた。そして、いそいで二階へ駆けあがり、ネグリジェの返り血を洗い落とした。話がおかしすぎると思わんですか? モーリス・ローズ卿は三十分前に死んでいるのに、また外出して、第二の殺人をおかしてきたというのですか? 最初の犠牲者の死のあと、一度帰宅したのだとしたら、つぎに外出する前に、当然、身なりを整えているはずではないですか?」
ダーモットは腕を組んで、デスクのはしに尻をのせ、しばらくは口をつぐんでいたが、
「ヴォトゥールさん、ご納得いただけましたか?」と、きいた。
ヘレナ・ローズは押さえつける兄の手をふりはらって、
「わたし、むずかしいことはわかりませんけど」と、さけんだ。「けっきょく、トビーはどうなりました? わたしが気になるのは、自分の息子のことだけですわ」
「いいえ、それはママの考えちがいよ」ふいにジャニスが口を出して、思いがけないことをいいだした。「イーヴのことも考えてあげる必要があるわ。トビーは何よ! ラ・アルプ街の女とあんなまねをしていて。事件の夜の行動だって、自分で認めているじゃないの。わたしたち、イーヴにずいぶんひどいことをしたのよ」
「おだまり、ジャニス! トビーにかぎって、そんなことを……」
「ママ! トビー自身が認めているのよ!」
「だったら、何かそれだけの理由があったのよ。イーヴのことは考えていないわけじゃないけど、嫌疑が晴れたんだから結構じゃないか。いまのわたしの心配は、それよりトビーの身の上よ。キンロス博士、トビーのいってることは、ほんとうでしょうか?」
「ええ、事実ですね」ダーモットが答えた。
「モーリスを殺したんじゃありませんね?」
「もちろん、殺しません」
すると、ベン伯父が口を出して、「しかし、誰かがやったのだ」と指摘し、周囲を見まわした。
「そうです。誰かがやったのです」ダーモットが答えた。「そこでいよいよ本題に到達しました」
このやりとりのあいだ、口をきかなかった唯一の人物が、イーヴ自身だった。燈台の白い光が、これらの人々のゆがんだ影を、影絵芝居の動く行列のように、かべの上に映し出したが、イーヴは身動きもせずに、靴の先をみつめていた。一度だけ、ダーモットの説明の途中で、椅子の腕を握りしめて、何かを思いだそうとする表情を見せた。目の下が黒ずみ、下くちびるを噛んだ歯の痕《あと》が白く残って、彼女はひとりうなずいた。そして顔をあげ、ダーモットと目を合わせると、
「思いだせたような気がします」と、しずかにいった。「あなたから、忘れるなといわれたことを」
「そのことの意味を説明しておかなかったのをお詫びしておきますよ」
「お詫びなんて、とんでもありませんわ!」イーヴはいった。「思いだせなかったわたしが悪いので、いまそれに気づくと同時に、きょうの尋問の結果、留置場へ入れられるような羽目になった理由もわかりました」
急に、ジャニスが抗議のさけびをあげた。「口を出してなんですけど、出さないではいられないわ! あなたたちの話、なんのことだか、ちっともわからないのよ。何を思いだしたの?」
返事はダーモットの口から出た。「その答えは、殺人犯人の名前です」
「おお!」ゴロン署長もうめき声をもらした。
そのあいだ、イーヴはデスクの上の嗅ぎ煙草入れから目をはなさなかった。それはダーモットの手のわきで、五彩の光輝を放っている。
「この九日間、わたしは悪夢におびえつづけていたのよ。茶色の手袋の悪夢になやまされて、ほかのことにまで頭がまわらなかったの。それが、いまやっと、手袋の主はトビーだったと知って……」
「すまなかった」問題の青年紳士が低い声でいった。
「皮肉のつもりでいったのじゃなくてよ。わたしはただ、頭の働きのことを話しているの。いいえ、わたしにかぎらず、一つ問題ばかり思いつめていると、ほかのことには頭がまわらないどころか、真実でないことを真実だと、自信ありげにいったりするものよ。そうだと考えていることが、実際にはそうでない。疲労がはげしすぎると、頭の働きがにぶって、真実を思い出せないことがたびたびあるらしいわ」
ヘレナ・ローズも我慢しきれなくなった様子で、甲高い声を出した。
「フロイト心理学の話はもうたくさん! それより、なんの話か、それを早く聞かせて!」
「嗅ぎ煙草入れのことですわ」イーヴが答えた。
「それがどうかしたの?」
「あれは犯人の一撃で、粉々にされて、そのすぐあと、破片を警察がかき集めて、持っていってしまいました。あそこにあるのは、あとでもう一度、組み立てたものですわ。ですから、わたしがこの目で見たのは、いまが初めてなんですわ」
「だって――!」またもジャニスが、当惑の表情を示しながらもさけびだした。
そこでダーモット・キンロス博士が、あとの説明を引き受けた。
「あの品をごらんなさい。あまり大きなものでなく、モーリス卿が書き残した紙片にあるように、直径は二インチ四分の一にすぎません。そして、手にとって見るまでもなく、何に似ているかがおわかりのはずです。どう見ても懐中時計――事実、モーリス卿から最初に見せられたとき、家族の方々はそろって、懐中時計だと思いこまれた。そうでしたね?」
「たしかにそうだ」ベン伯父はうなずいて、「しかし……」
「どう見ても、嗅ぎ煙草入れとは考えられませんね?」
「そうですよ」
「そしてまた、殺人の行なわれる前に、イーヴ・ニールに見せるとか、どんな品か話したことはありませんね?」
「ありませんとも」
「そうだとしたら、彼女がそれを、五十フィートもはなれた場所からながめて、嗅ぎ煙草入れと知ったのは、どういうわけでしょう?」
イーヴは目を閉じた。
ゴロン署長と予審判事は顔を見かわした。
「それがこの事件の答えです」ダーモットはつづけていった。「いいかえると、暗示の力です」
「暗示の力?」ヘレナ夫人が大きな声できいた。
「この犯罪は、きわめて巧緻に計画されたものです。イーヴ・ニールを第二の犠牲者にすることで、モーリス・ローズ卿殺害に対する鉄壁のアリバイを、真犯人が獲得できるように組み立ててありました。犯人はほとんど成功したのですが――で、その犯人の名をご承知になりたいでしょうな?」
ダーモットはデスクのはしからすべり降りて、廊下に面したドアへ歩みよった。そして、燈台の白色光がまわってきたところで、ドアを、いきおいよくひらいた。
「犯人は病的なくらい自負心の強い男で、証言のために出頭すると主張して、いくらわれわれが止めてもきかないのです。さあ、はいりたまえ。お待ちしていましたよ」
青白い燈台の光に照らし出された戸口に、みながそろって目をやった。そしてその外に、蒼白な顔に目をみはっているネッド・アトウッドを見た。
二十
その一週間後、ある晴れた日の午後おそく、ジャニス・ローズが大声に、彼女の意見を述べ立てていた。
「つまりその、名誉ある婦人の評判を傷つけることになるとの理由で、口を閉ざして語らなかった見上げた心情の証人が、実際は犯行をおかした本人だってわけなのね。ずいぶん変わった新手の犯罪じゃないの!」
ダーモットはうなずいて、「ネッド・アトウッドはそのつもりでした。一八四〇年にロンドンで起きたウィリアム・ラッセル卿の事件を、ひとひねりしたうえで用いたものです。
彼のねらいは、前にも説明したように、モーリス卿殺しのアリバイを作ることにありました。イーヴが彼のアリバイであり、彼の証人であるように仕組んでおいたのです。最高の説得力を持つ証人となるはずでした。いやいやながらの証人ですからね」
イーヴは身ぶるいをしたが、ダーモットは、かまわず語りつづけた。
「それがネッドの最初の計画でした。まさか、犯行の最中に、茶色の手袋をつけたトビー・ローズがあらわれるとは、夢にも考えていなかったのです。しかしそれで、証人と同時に犠牲者を手に入れることができました。アトウッドはおそらく、これは話がうますぎると、手を打って喜んだにちがいありません。だが、その一方では、彼自身が階段から転げ落ちて、頭を強打するという、予想もしていなかったことが起きました。それで終局的には、せっかくの名プランも、ご破算になりました。いうなれば運命の神は、善悪双方に公平であったわけです」
「そこのところを、もっとくわしく」と、イーヴがとつぜんいいだした。「細かなことまで、残らず説明していただきたいわ」
ちょっとした緊迫感が彼らをおおった。イーヴ、ダーモット、ジャニス、ベン伯父、これだけの人たちが、午後のお茶のあと、イーヴの家の裏庭に顔をそろえていた。そこは高い石塀とマロニエの木のかげで、テーブルは葉が黄ばみかけた木の根もとに据えてあった。
(もう秋だ。あすはロンドンに帰るとしよう、とダーモット・キンロス博士は考えていた)
「おっしゃらんでも、お聞かせするつもりでいました」ダーモットはいった。「ヴォトゥール氏、ゴロン君、そしてわたしの三人が、この一週間、各自の調査の結果を持ちよって、話しあいました」
いいながらダーモットは、しきりと聞きたがるイーヴの顔をうかがった。これから話さねばならぬことが、ひどく不快に思われた。
「どういうわけがあったか知らんが、あんたの口は堅すぎますぞ」ベン伯父がちょっと不服をいった。そして、のどの奥で、おかしな音をひびかせていたが、急に大きな声を出した。
「わしにはいまだにわからんのだが、あの男にモーリスを殺す理由があったのかしら? 動機の見当がつかんのですよ」
「わたしもそうですわ」イーヴもいった。「なぜでしょう? 卿のことを知りもしないのに」
「意識していなかっただけですよ」ダーモットは答えた。
「意識していなかったとは?」
ダーモットは籐椅子に背をあずけて、足を組んだ。マリーランド煙草に火をつけたが、表情がひきしまって、怒りの色を顔にあらわし、平素の彼よりさらに深いしわをよせた。しかし、気づかれないうちにその表情をかくし、イーヴに微笑を向け、
「われわれが発見したいくつかの事実を、もう一度思い返していただきます。あなたがこの家で、アトウッドといっしょに住んでおられた当時は」――この言葉に、イーヴは尻ごみするような格好を見せた――「ローズ家の人たちと交際していなかったのでしょうね?」
「ええ」
「しかし、老人と顔をあわせたことは、何度かありましたね?」
「ええ、そうですわ」
「そして老人は、あなたとアトウッドがいっしょのところを見かけると、鋭い視線で、あなた方二人をみつめたはずです。何かこう当惑したような表情で。つまり老人は、以前にネッド・アトウッドを見かけたことがある。どこで見たのか思い浮かばないので、記憶をよみがえらそうと努力していた」
イーヴはハッとして坐りなおした。急に、彼女の心をいまわしい予感がおそった。インスピレーションに似た推測が。しかし、ダーモットのそれは単なる推測ではなかった。
「そして、トビー・ローズとの婚約が発表されてからは、遠まわしながらモーリス卿は、アトウッドに関することを、あなたの口から聞き出そうとした。しかし、はっきり質問するには遠慮があって、おかしな顔つきで、あなたの注意を惹《ひ》く以上のことはいわなかった。あなたとしても、アトウッドと結婚したものの、彼がどういう人物であるかを、くわしく知っておられるわけでない。彼の前歴、背景、その他、何も知ってはいないといえるのではないでしょうか?」
イーヴは、くちびるをぬらして、
「ええ、何も知ってはいませんわ! おかしな話かもしれませんが、わたし自身、彼にそういってやったくらいです。あの事件――殺人のあった夜に」
ダーモットはつづいて、ジャニスの顔へ目をやった。この娘は意外な話に口をぽかんとあけ、おどろきの表情を見せていたが、ようやく事情がわかりかけてきたように思われた。
「この問題のヒントは、あなたから頂戴したのですよ、ジャニスさん。お父さまが人の顔の覚えが悪いとの話を、あなたの口からうかがいました。しかし、思いがけないときに、何かがきっかけになって、ひょいと記憶がよみがえることがあったそうですね。お父さまはずっと以前のことですが、刑務所改善事業に熱中しておられたので、当然のことながら、犯罪者の顔をひじょうにたくさん見ておられるのです。
モーリス卿がアトウッドの正体に気づかれたのがいつのことであったか、いまとなっては知る術《すべ》もありませんが、とにかく、アトウッドについての記憶が卿によみがえった。彼は重婚の罪で、五年の刑を宣告され、ワンズワーズ刑務所に収容されていた男でした。ところが彼、模範囚でありながら、脱獄を試みて成功しました」
「重婚の罪で?」イーヴがさけんだ。
しかし、彼女は反駁する様子も見せなかった。いま、たそがれの光を浴びたネッドが、芝生を踏んで近づいてくるような錯覚におそわれた。生身の彼のすがた、その笑顔までがありありと見てとれる気がした。
ダーモットはかまわずつづけた。「パトリック・マホーン顔負けの男で、女性の目にはひどく魅力があったのです。イギリスを逃げだして、大陸各地を放浪し、取引詐欺で金をかせぎ、それと同時に、借財を――」
ここでダーモットは、イーヴの前であるのに気づいて、あとの言葉をひかえ、
「とにかくこれで、だいたいの事情がおわかりになったものと思います。あなたはアトウッドと離婚なさった。しかし、正確には、離婚という言葉は使用できません。法律上、結婚していないのですから。ついでながら申し添えますと、彼の名前はアトウッドではありません。そのへんのところは、いつかそのうち、彼の記録をごらんになる機会が訪れましょう。あなたとのいわゆる離婚がすむと、アトウッドはアメリカへわたりました。そこでは、彼の友人たちのあいだで、かならずあなたをとりもどしてみせると高言していて、事実、そのつもりでいたのです。ところが、あなたとトビー・ローズの婚約が発表されてしまった。
モーリス卿はこの婚約に満足しておられた。ひじょうに喜ばれて、この結婚のさまたげになるものは、|断じて《ヽヽヽ》許さぬお考えでした。その点は、ジャニスさんもフィリップスさんもご承知のはずで、卿がそのように考えられた主《おも》な理由は……」
しばらく沈黙があったあと、ベン伯父がパイプを噛みながら、
「わかりますよ」とうなずいてから、「わしもまた、つねにイーヴの味方だった」と、補足した。
ジャニスはイーヴの顔を見て、
「わたしのほうは、まちがっていたわ。あなたに辛《つら》くあたったりして……でも、それはトビーが、あんな自分勝手な男と知らなかったからなの。わたしの兄だけど、はっきりいってやるわ、みさげはてた男だって。それから、あなたのことは、人殺しをするような人だなんて、一度だって考えたことはないわ」
「おや、そうでしたか」ダーモットが笑いながらいった。「イーヴは刑務所にはいっていた過去があるのじゃないかといいだしたときでも?」
ジャニスは彼に向かって、ペロリ舌を出した。
「しかし、あなたは貴重なヒントをあたえてくれたのです。わたしはあなたの口から、フィニステアとマッコクリンの二つの名を持つ男の話を聞かされて、この事件の真相に気づきました。歴史はくり返します。ただあなたは、その解釈をあやまった方向に向けてしまったが、だからといって、非難されることはありません。ところで、ネッド・アトウッドがラ・バンドレットに舞いもどって、ドンジョン・ホテルに泊まっていたことは、街じゅうにある程度ひろまっていたものと思われます。
その日、モーリス卿は午後の散歩に出かけました。そして、どこへ行ったかというと、ドンジョン・ホテルの奥にある酒場でした。その酒場に、誰がいたと思います? ネッド・アトウッドです。彼はここでも、イーヴをかならずとりもどしてみせると、居合わせた人々の前で高言していたのです。そのほか、イーヴについてのあれやこれやを吹聴したことでしょうが、それはこの事件に直接関係がありません。
ジャニスさん、あなたにしても、そのときアトウッドは、モーリス卿と顔をあわせて、話しあったかもしれないと考えておられた。そのとおりのことが起きたのです。お父さまはアトウッドに、『話したいことがある。いっしょにきてくれ』と、いわれた。アトウッドは何のことかわからぬままに、外へでた。そして、卿と話しあった結果、アトウッドはその前歴を、この老人に突きとめられているのを知ったのです。彼のショックと怒りがどんなにはげしいものであったかは、容易に想像できることです。
二人は動物園のなかを歩きながら話しあった。そしてモーリス卿は、からだをはげしくふるわせながら、強い語調で、かつてフィニステアにいったとおりのことを言いわたしたのです。その趣旨は、あなたも覚えておられるものと思います」
ジャニスはうなずいて、そのときの言葉を引用した。
「二十四時間の猶予をあたえてやる。そのあいだに逃げのびるがいい。二十四時間たったら、逃げようが逃げまいが、おまえの新しい人生のいっさい、第二の名前で、どこに住んでおるかを、警視庁へ知らせてしまう」
そこでまたダーモットは、前へ乗り出すようにしていたからだを籐椅子の背によりかからせ、
「これはアトウッドにとって、とつぜん天の一方から舞い下った破局であって、いままで確信を持っていたイーヴをとりもどす計画も、不可能事になったばかりでなく、彼自身の安全無事な生き方までがあぶなくなってきたわけです。ふたたび刑務所へほうりこまれる。動物園のなかで、猛獣の檻の前を歩きまわっている彼のすがたを思い浮かべれば、そのときの彼の心に渦巻いていた考えが想像できるはずです。予想もしなかった老人の出現から、刑務所にひきもどされる。
この破局を防ぐには……
彼はモーリス・ローズ卿を、交際相手の意味では知っていなかったが、ボンヌール荘の住人としてのローズ一家の習慣には明かるかった。数年にわたって、道路ひとつをへだてただけの家に住みついていたからです。
家族の者がベッドにはいったあとの時間を、モーリス卿一人が書斎ですごしておられるのを知っていたのです。イーヴがそうであったように、彼もまた、卿が書斎で起きておられるのを、幾度も見かけているのでした。そしてまた、暖かい季節にはカーテンを下ろさないので、書斎の内部の様子にも通じていました。モーリス卿がどこの椅子にかけ、ドアの位置がどこであり、暖炉用の道具がどこにおいてあるかも知っていて、そして何よりも、イーヴの家の玄関の鍵を彼はいまだに所持していたのです。ご記憶でしょうがその鍵は、ボンヌール荘の玄関にも適合するのでした」
ベンジャミン・フィリップスは考えこむような表情で、ひたいをパイプの柄でかきながら、
「なるほどね。証拠なんてものは、どちらにも解釈できるんだな」と、いった。
「そうなんです。そういうものです」ダーモットは答えたが、あとの言葉をためらって、
「これから先の話は、あなた方のどなたの耳にも、こころよくひびく内容ではありませんが、どうしたものですかな。お聞きになりますか?」
「聞かせていただくわ!」イーヴがさけんだ。
「では、話しましょう。アトウッドは考えました。こうなっては、モーリス卿の口を永久に閉ざしてしまう以外に方法がない。しかし、彼がこの町を立ち退《の》くまでは、スキャンダルがひろまるのをおそれる卿は、口をつぐんでいるはずだと。アトウッドのこの判断は正しかったわけです。それにしても、失敗した場合をおもんぱかって、鉄壁のアリバイを用意しておかねばなりません。彼は動物園のなかを歩きまわり、わずか十分間のうちに、その計画を作りあげてしまいました。狡智にたけたというのは、彼のような男をいうのでしょうな。しかし、いかがです? そろそろ事情が呑みこめてきたのではないでしょうか?
家族の方々の習慣を承知している彼は、アンジェ街をうろついて、劇場からもどってこられるのを待ち受けていました。イーヴは自分の家に、ほかの人たちはボンヌール荘にはいられましたが、彼はなお、あなた方が寝室に行かれるまで、辛抱づよく待機していたのです。屋内の燈火が残らず消えて、明かるいのはカーテンを下ろしてない書斎の窓だけになりました。カーテンが引いてないのは、もとより承知でした。それもまた、彼の計画の一部であったからです」
「道路の反対側の家から見られる危険を感じなかったかしら?」
「反対側のどの家からです?」ダーモットが問い返した。
「わたしには――わたしにはわかりますわ」イーヴが口を出した。「|わたし《ヽヽヽ》の部屋のカーテンは、いつも引いてあります。そして両隣の家は、シーズンが終ったので、みなさん、引き揚げてしまいました」
「そうなんです」ダーモットは、うなずいて、
「その点はゴロン署長が教えてくれました。で、話をアトウッドの巧緻な計画にもどしますと、彼の行動の用意が整いました。彼自身の鍵を用いて、モーリス卿の家の玄関の扉をひらき……」
「それ、何時でした?」
「だいたい、一時二十分前です」
煙草が燃えつきたので、ダーモットは吸殻を地面に捨てて、|かかと《ヽヽヽ》で踏みつけ、
「これはわたしの推測ですが、彼は何か音のしない凶器を用意していたはずです。万が一、火掻き棒が見当らないときに備えてですが、その心づかいの必要はなく、火掻き棒はそこにありました。彼があとでイーヴにいったことから、モーリス卿の耳が遠いことも、彼は心得ていたもののようです。書斎のドアをひらき、火掻き棒を手にして、犠牲者の背後に近づきました。老人は新しく入手した宝物を、夢中で眺めておられます。デスクの上においた用箋に、大きな装飾文字で、『懐中時計型嗅ぎ煙草入れ』と書きつけてあります。
殺人者は火掻き棒をふり下ろしました。一度それをたたきつけたあとは、無我夢中の状態で、狂暴な打撃をつづけたものです」
ネッド・アトウッドの性格を知りぬいているイーヴは、そのときの様子を想像することができた。
「その打撃のうちの一つが、偶然か、あるいはわざとやったのかもしれませんが、よほど高価と思われる品を打ちくだきました。むろんアトウッドも、打ちくだいたのがどんな品かと考えたにちがいありません。デスクの上の用箋に、大きな文字で、『嗅ぎ煙草入れ』と書いてあるのが目につきました。用箋は血によごれていましたが、文字が読めないほどではなく、その最初の文字だけが目をひいたのでしょう。そして、われわれにしてもそうだと思いますが、それが彼の脳裡《のうり》に深く焼きついて残ったわけです。ここのところが、この事件でもっとも重要な部分です」
つづいてダーモットは、イーヴをふり向いて、
「あの夜、アトウッドはどんな服を着ていました?」
「あの――目があらくて黒っぽくて、なんというのか知りませんが、けばだった生地の服でした」
「そうでしょう。それですよ」と、ダーモットはうなずいて、「嗅ぎ煙草入れを打ちくだくと、小さな破片が飛び散って、その一つが、彼の服につきました。彼自身は気がついていないのですが、あとになって、あなたの寝室で、彼が無理やりあなたを抱いたとき、偶然その破片が、あなたの白レースのネグリジェに移ってしまったのです。
あなたもまた、それに気づかなかった。ですからあなたは、そんなものが付いているわけがないと主張して、誰かが故意に仕組んだにちがいないと思いこむ結果になりました。しかし、真相はこのように単純なものであったのです。あの問題はそれだけのことです」と、ダーモットはジャニスとベン伯父の顔を見て、「説明を聞けば、厄介な色瑪瑙の破片も、不思議な謎というほどのものでないのがおわかりのことでしょう。
しかし、わたしの説明は先走りすぎたきらいがあります。これがわたしにわかったのは、前にも一度、におわせたことがありますが、事件を再構成してみて、最初わたしの目に映《うつ》ったのと真相は相違したものだと知ってからのことです。ゴロン君から事件の話を聞かされたときは、犯人はローズ家の家族のうちにいると思いこみました。いや、お怒りになっては困ります。あなた方自身、そのように考えておられたのではありませんか。
最初の日の夕方、イーヴさんがボンヌール荘で、ゴロン君の質問に答えて、事件の夜のできごとを簡単に説明なさったとき、わたしはそれを聞いていて、いくつかの点に迷いを感じました。しかし、おなじその夜、ずっとおそくなってから、パパ・ルス・レストランでオムレツの皿をつつきながら、イーヴさんの口からくわしい話を聞くにおよんで、目がさめたように、あいまいだった考えがはっきりした形をとり始めました。あやまった方向を見ていたことに気がついたのです。イーヴさん、あなたもいまでは、そこの部分がおわかりになったでしょうな?」
イーヴは身ぶるいして、
「ええ」と、答えた。「わかりすぎるくらいわかりましたわ」
「ほかのお二人にも理解していただくために、その点を再構成してみますと、アトウッドはあなたの住居に、一時十五分前にもどり着いて、例の貴重な鍵で玄関の扉をあけ……」
「そういえば、目がどんよりしてましたわ」イーヴが大きな声でいった。「それでわたし、お酒に酔っているのだと思いましたけど、そんなものでなく、精神的な緊張のせいでしたのね。何かこう、目に涙をためているみたいな感じ。あんなネッドを見たのは、あのときが初めてでした。でも、お酒に酔っていたのではなかったのですね」
「そうではありません」ダーモットは答えた。「人を殺してきたところでした。殺人を企て、それを実行するのは、彼のように自信満々の男にも、かなりの精神的な負担だったわけです。凶行を終えると、彼はボンヌール荘を立ち出でて、いったんカジノ大通りへひっ返し、そこを一分か二分ぶらついてから、あらためてアンジェ街にもどり、初めてきたような顔つきで、凶行場所の向こう側の家にはいりこんだのです。それで彼のアリバイ工作は完了したわけでした。
しかし、いまはそこまでのことは考えずに、これまで見てきた事実をもう一度思い返してください。アトウッドはあなたの寝室にはいりこむと、ローズ一家のこと、とくに書斎でおそくまで起きている老人のことを、何やかやとしゃべりまくって、あなたの神経をいらだたせました。そして、あなたが興奮状態におちいるのを見定めて、窓のカーテンをひきあけ、外をのぞきました。あなたはいそいで、電燈のスイッチを切った。そこですよ! そのつぎの瞬間、あなたと彼とのあいだでとりかわした会話を思いおこして、そのときの言葉どおりにくり返してみてください」
イーヴは目を閉じて、
「わたしがいいました。『モーリス卿はまだ起きてるのじゃない? どうなの?』
ネッドがいいました。『起きてるよ。だけど、この部屋に注意を向けてるわけではない。拡大鏡を手にして、嗅ぎ煙草入れみたいな品をのぞきこんでいる――おや、待てよ!』
わたしが、『どうかしたの?』
ネッドが、『まだほかに、誰かいるぞ。顔は見えないが』
わたしが、『きっとトビーだわ。ねえ、ネッド・アトウッド。窓からはなれてくださらない?』」
いい終ってイーヴは深く息を吸いこんだ。あの静かな夜のむし暑かった暗い寝室の様子が、ありありとまぶたのなかに浮かびあがり、彼女は目をひらいて、
「それで全部ですわ」と、いい添えた。
「あなたはその会話の前後に」ダーモットは追及をつづけた。「自分自身で窓からのぞいてみましたか?」
「いいえ」
「のぞかなかった。つまり、彼の言葉をそのまま信じてしまったんですな」ダーモットはほかの二人にふり向いて、「といったわけでして、ここに注目すべき事実があるのです。意外な事実といってもよいでしょう。ネッド・アトウッドが見たといってる品のことです。見てとることができたにしても、五十フィートもの距離をへだてて、その大きさは直径わずか二インチちょっと、形は懐中時計そっくりの品です。それを彼はためらうことなく、『嗅ぎ煙草入れみたいな品』といいました。あのわる賢い男にしてはめずらしい失策で、彼がそれを知っているわけがないのです。知っていた理由を説明するには、自身の凶行を明らかにしなければならなくなるのです。
しかし、彼のそのあとの動きに注目してください!
彼はひきつづき、イーヴも彼といっしょに、窓の外を見たものと、彼女自身が思いこむように仕向けました。つまり、モーリス卿がまだ生きていて、拡大鏡を片手に嗅ぎ煙草入れをみつめている。そしてそこに、おそろしい影が忍びよってくるところだと。
アトウッドはそれに、暗示の力を用いました。その趣旨の言葉をくり返して聞かせました。そこのところは、イーヴの説明を聞けばおわかりのはずです。『いま、ぼくたち二人で見たものを覚えているか』といった言葉をいいつづけたわけです。イーヴが暗示にかかりやすい性格であるのは、かつてある心理学者が、それを彼女に聞かせたそうですが、わたしもまた気づきました。しかもあの時点の彼女は、気持がいらだち、ひどく神経質になっていたことから、どんな暗示にもかかりうる状態にあったのです。そして、その印象を植えつけたところで、カーテンをひきあけ、モーリス卿の死体を見せつけられたわけです。
わたしが気づいたのは、ここのところです。
このゲームのねらいの中心は、イーヴをして、見もしなかったものを見たと思いこませるところにあったのです。いいかえると、アトウッドが彼女といっしょにいるとき、モーリス卿がまだ生きていたと信じさせることです。
アトウッドが殺人犯人であったのです。そして、イーヴの寝室内での行動が、彼の考えついた計画で、一つのことを除いては、だいたいにおいて成功しました。暗示が成功して、彼女は実際に、モーリス卿が書斎内で、彼女がほかの夜に何度も見ている姿勢でいるものと信じてしまったのです。彼女の最初の尋問には、わたしも立ち会っていましたが、彼女はゴロン署長にそのように話していました。あの嗅ぎ煙草入れが普通の形状で、一目でそれとわかるものでしたら、あの頭のいいミスター・アトウッドのことですから、この計画をみごとに成功させたはずです」
そのあとダーモットは、椅子の腕にひじをついて、あごをこぶしの上にのせて考えこんだ。
「キンロス博士、ずいぶん頭がいいんですわね」ジャニスが低い声でいった。
「頭がいい? そうです。彼は頭のいい男です。それに、犯罪の歴史に精通しています。頭の働きが素早いので、ウイリアム・ラッセル卿の事件を知ると、さっそくこれを利用して、誰にも気づかれない手を考えだしました」
「いいえ、わたしがいったのは、それを見抜いたあなたの頭ですわ」
ダーモットは笑った。このような成功の時点でも、得意そうな顔を見せるわけでなく、その笑い声も、苦い薬を飲みこんだようにゆがんだものであった。
「あれですか。なあに、誰にもわかることですよ。女性のうちには、悪辣な男の餌食になるように生まれついた人がいるものでね。
しかし、それはともかく、以上の説明で、わたしたちを混乱におとしいれた第二の動きがあったことがおわかりになったと思います。トビー・ローズが茶色の手袋をはめて、彼の筋書のなかに飛びこんできたのです。天与の賜物《たまもの》とでもいいましょうか。アトウッドはおどろくと同時に、おどりあがらんばかりに喜びました。そのときの彼の様子を、イーヴが正確に伝えていますように、それこそこの殺人事件を現実的な色彩でいろどり、彼の身の安全に最後の仕上げをほどこしてくれるものであったのです。
いまははっきりおわかりと思いますが、彼がこの芝居を仕組んだ目的からして、彼自身が舞台に登場する意図はまったくありませんでした。できることなら、舞台裏にひそんでいたかった。彼とモーリス卿のあいだには、表面上、なんのかかわりあいもありません。だまっていればいるほど身の安全が保てるわけです。ただ、万一の手ちがいにそなえて、アリバイの用意を忘れなかった。彼が完璧な支配力を持つとうぬぼれている女性が、いやいやながらの証言を行なうお膳立て。深夜の寝室内に、男をひき入れていたと見られるだけに、彼女としては名誉を犠牲にしての証言です。だからこそ、このうえもなく強力な証言といえるのです。
彼がその後、ホテルで倒れたとき、自動車にはねられたと嘘をついたのも、彼の口から、あの殺人事件にからんだことは、いっさい話したくなかったからで、それにまた、自分の怪我を、それほどひどいものとは考えていなかったこともあります。
しかし、その怪我が、彼の筋書を根底からくつがえす結果をもたらしました。第一に、たまたま階段から転落したことが、脳震盪を起こすほど強烈に頭を痛めました。第二に、執念深いイヴェット・ラトゥールが、独自の筋書を持って介入してきました。当然のことですが、アトウッドの筋書では、イーヴに殺人容疑がかかるようには書いてなく、彼の予想もしなかったところでした。意識がはっきりしないままに、ホテルの一室に横たわっているあいだ、捜査の進行状態を知りたくて、やっきになっていたものと思われます」
ジャニスがそこで口をはさんだ。「するとやっぱり、裏口のドアを閉《し》めて、イーヴを家から締め出したのはイヴェットだったのね」
「そうですよ。もっとも、イヴェットの行動は、推測以外に知りようがないのです。性来意固地なノルマンディの百姓女で、頑強に口をつぐんで、ヴォトゥール氏があらゆる手をつくしてみましたが、ひと言もひき出せずに終りました。ただ、イーヴを締め出した時点では、殺人が起きたことに気づいていなかったようです。彼女が知っていたのは、アトウッドが訪ねてきたことで、それをスキャンダルの種に仕立てさえすれば、あなたのお堅い兄さんが婚約を破棄するはずだと考えただけです。
しかし、くり返していいますが、イヴェットはノルマンディの百姓女だけあって、イーヴ・ニールに殺人の容疑がかかったと知ると、おどろきはしたものの、奮いたちました。そして、その後の行動にいささかも躊躇せず、世間体も何も忘れたかたちで、イーヴの訴追を成立するために全力をそそいだものです。いうまでもなく、イーヴの結婚をさまたげるに、これ以上の好機はないと見たからです。あの女には善悪の観念などありません。頭にあるのは、妹のプルーをトビーと結婚させる願いだけなのです。
事件がこのような泥沼状態におちいっていた夜、わたしはラ・アルプ街をおとずれて、二つの首飾りを発見し、イーヴの話をくわしく聞きました。そして、彼女の話から、誰が殺人犯人であるかを知ったのです。一度手がかりをつかめば、事件を最初から考えなおして、一つひとつの証拠を正しい個所にあてはめていくのは困難な仕事ではありません。
で、最後の問題は、アトウッドに殺人をおかす動機があったかです。しかし、その答えは明瞭で、モーリス卿の刑務所改善事業にからんでいることが、老夫人および令嬢の話から、容易に推測できました。ことに、フィニステアという男の話が参考になりました。では、わたしのこの推理を、どうやって実証するか? それもまた、いたって簡単な問題で、アトウッドが警察に追われている身のときはもちろんのこと、別の名前で何かの犯罪をおかしているにすぎなくても、ロンドン警視庁の記録課に、指紋が保管してあるはずです」
ベン伯父が口を鳴らして、
「ああ、そうか!」と、坐りなおした。「それでわかった。あんたが急に、ロンドンへ旅客機で飛んだのは……」
「それをたしかめるまで、われわれは行動に移るわけにはいきませんでした。わたしはアトウッドを、ホテル内の彼の部屋におとづれて、脈をとる格好で、彼の気づかぬうちに、その指紋をとっておきました。彼の指を、わたしの銀|側《がわ》時計の裏に押しつけたので、懐中時計というものは、いろいろと役に立つものですよ。余談はさておき、この指紋とおなじものが、ロンドン警視庁の記録課で、ごく簡単に発見できました。ところが、わたしが留守にしているあいだに……」
「情勢がまた、ひっくり返ってしまいましたの」とイーヴが、笑いだしながらいった。
「そうです。あなたが逮捕されました」ダーモットはうなずいて、同時にまゆをくもらせて、「しかし、あのときは、笑うどころではなかったですがね」
いいながら、ほかの二人にふりむいて、
「わたしはイーヴから、あの夜の模様を、細部にわたって聞きました。そのとき彼女は、疲労の極にあったので、心の底にあったことを口にし――潜在意識とはおもしろいものですな――彼女自身はそれと気づかずに、真相を語ってくれたのです。その言葉のうちから、彼女が実際には、窓の外をのぞいたわけでなく、いわんや、生きているモーリス卿を見たのでないのを推測するのは、いたって容易な作業でした。事実、彼女は嗅ぎ煙草入れなど見ていません。彼女が見たといったのは、アトウッドにその言葉を吹きこまれただけのことです。
わたしとしては、彼女の記憶をゆさぶり、反対の暗示をあたえるまでの必要はありませんでした。彼女の語るあやまった記憶こそ、わたしの望んでいるものであったのです。それがアトウッドの罪を活字のように明瞭に示しています。そこでわたしは、ゴロン署長の前でも、それとそっくりおなじに証言するようにと教えました。その証言が記録に残れば、アトウッドの動機を証拠にそれを裏づけ、この事件を解決できるのでした。
しかしそう考えたわたしは、アトウッドが彼女にあたえた暗示の力と、ゴロン君とヴォトゥール氏のフランス人特有のねばり強さを、計算に入れるのを忘れていたわけです。イーヴは尋問に答えて、アトウッドのことを述べましたが、わたしの前での言葉とそっくりおなじに話さなかった……」
イーヴが抗議の声をあげた。
「だって、あのひとたち――わたしの顔へ強い光線をあてたり、あやつり人形みたいにわたしのまわりを歩きまわったりするので……あなたがそばにいてくだされば、心の支えになったでしょうけど」
ジャニスはイーヴの顔を見ていたが、つづいてダーモットに目をやって、おやっと思った。この二人が、ちらっと鋭い表情を浮かべたのだ。まるで、怒っているような奇妙な顔つき。
ダーモットはいそいで、あとの言葉をつづけた。「その結果、彼らもこの問題に気がついたのですが、ただ、アトウッドの失策を、イーヴのそれと受けとってしまいました。モーリス卿の新しい宝物のことは、誰も彼女に話さなかった。どんな格好であるかも彼女は聞いていない。何も聞かされていないはずなのに、懐中時計の外見をしながら、実際は嗅ぎ煙草入れであることを、どうして知ることができたのか? それからあとの彼女の証言は、一つひとつの言葉がすべて、自分の罪をいいつくろうためのものと見られることになりました。その結果、彼女は留置場に投げこまれ、そこへようやく、間抜けなわたしがもどってきたわけです」
「なるほど」ベン伯父がいった。「最初に不幸、つぎに幸運というやつか。まるで、時計の振子みたいだが、よくしたもので、ちょうどそのあと、アトウッドの意識が回復したんですな」
「そうです」ダーモットが苦渋《くじゅう》にみちた顔でいった。「アトウッドが意識をとりもどしました」
彼はひたいに縦《たて》じわを深くよせて、いやな記憶をよみがえらせ、
「アトウッドは熱心に、証言を申し出ました。茶色の手袋をしていたのはトビーだということで、事件をいっきょに片づけようと考えたのです。それはもう熱心なものでした。なにしろただの一撃で、前の妻をとりもどし、恋がたきを刑務所入りさせることができるんですからね。それでなくては、あんな重傷を負ったからだで、ベッドから起きあがり、服を着て、ヴォトゥール氏に会いに行くなんて、できることではありません。しかし、彼はそれをやってのけました。どうしても行くんだといって、きかなかったんです」
「そしてあなたは、それを止めなかった」
「そうです」ダーモットは答えた。「わたしは止めませんでした」
そのあと、しばらく間《ま》をおいて、彼はつづけた。
「アトウッドはヴォトゥール氏の部屋の戸口で死にました。そこで、燈台の光をまともに浴び、廊下に崩折《くずお》れ倒れ、回転する光がすぎ去らないうちに、こと切れました。彼の凶行が発見されたと知って、死んだのです」
午後の太陽が西にかたむいて、何羽かの小鳥がさわいでいる庭園も涼しくなってきた。
「それだのにトビーは紳士ぶって……」とつぜんジャニスがしゃべりだしたが、ダーモットが笑いかけたので、顔を怒りの色で染めた。
「お嬢さん、あなたはお兄さんを理解しておられんようですな」
「あんな恥知らずなトリック、聞いたこともありませんわ!」
「しかし、お兄さんを恥知らずと呼ぶのは酷ですよ。彼はあらゆる意味で、恥知らずな男ではありません。ただ、遠慮なくいわせてもらえば、生長を抑制された典型的な一例でね」
「その意味は?」
「精神的にも感情的にも、まだ十五歳の子供でして、それだけのことなんです。父親の物を盗むのも犯罪だということが、嘘でなく、ほんとうに理解できないのです。性道徳についての考え方にしても、小学校の上級生当時に教わったものを、そのまま持ちつづけているのです。
しかし、世間には、トビーのような人が大勢います。しかも、けっこう無事に生活しています。岩のように堅実で、志操堅固の模範のように見られているのです。ただしそれは、ほんものの危機に見舞われないときのことで、一度、困難な立場におかれると、観念も神経も脆弱《ぜいじゃく》なこの小学児童はひとたまりもなく、めちゃめちゃになってしまいます。ゴルフをやったり、いっしょに酒を飲むにはいい相手ですが、夫としては、はたしてどうか……いや、彼の話はこのくらいにしておきます」
つづいてベン伯父が、「前から考えておったことだが――」と、いいかけて、口をつぐんだ。
「何でしょうか?」
「いや、その、気にかかっていたことがあるんで。モーリスがいつもの散歩からもどってきたとき、ひどく興奮した様子で、からだをふるわしておった。そして、さっそくトビーをつかまえて、何か話しておったが、アトウッドのことだったんじゃないかな」
「ちがうわよ」ジャニスが答えた。「わたしもやはり、パパとトビーが話しあったのに気がついていたわ。でも、トビーの行ないの何かが、パパにみつけられたんだと思いこんでしまったの。で、いろんなことがわかったあと、なんの話だったか、トビーに聞いてみたのよ。ところが、あのときパパは、『わしはきょう、ある人に会った。それについて、あとでおまえと話しあいたい』と、いっただけなんですって。その『ある人』とは、もちろん、アトウッドのことなのよ。だけど、トビーはその言葉を聞いて、ふるえあがってしまったんだわ。いよいよプルー・ラトゥールが動きだしたと思ってね。そこで彼、騒ぎが大きくならないうちに、片をつけなけりゃいけないと考えて、あの晩、首飾りを盗むことに肚をきめたのよ」
そしてジャニスは、さも不愉快そうに首を動かしていたが、急に話を変えて、
「いまごろ、うちではママが」と、道路をへだてた彼女の家をあごでしゃくって、「トビーを慰めている最中だと思うわ。トビーもみんなから、さんざん痛めつけられたものね、だけど、ママだけは別よ。どこの母親でも、みんなあんなものかしら」
「あーあ!」ベン伯父が意味ありげなうめき声をもらした。
ジャニスは椅子をはなれて、おどろくほどの、はげしさでいった。
「イーヴ! わたし、あなたに謝るわ。トビーとおなじに、あなたにあたって。悪かったわ!みんな、わたしが悪かったのよ!」
そして、まだ何かいいたそうな様子だったが、けっきょく何もいえずに、走りだした。庭を駆けぬけ、建物の横手をまわって、すがたを消した。ベン伯父もまた、こちらはゆっくりした動作であるが、腰をあげた。
「お帰りにならないで」イーヴがひき止めた。「ゆっくりしていらして――」
その言葉も聞こえなかったように、ベン伯父はしきりと考えこんで、
「わしはこれを、不幸な結果とはみておらん。わかってもらえるかな。誤解されては困るが、これがけっきょく、あんたにとって、いいことだと考えておる。あんたとトビーの双方にね」そして、彼もまた、あとにつづける言葉に迷った面持で、くるりイーヴに背を向けたが、すぐにふり返ってつけ加えていった。
「あんたに進呈しようと、今週は船の模型を作るのに精を出した。喜んでもらえると思ったもんでね。色を塗ってるところだが、できあがったら、とどけさせますよ。じゃ、またお会いする」
いいおいて彼は、足をひきずるようにして立ち去った。
彼のすがたが消えると、イーヴ・ニールとダーモット・キンロス博士は、長いあいだ、だまりこんでいた。たがいに顔を見かわすこともしなかった。しかし、最初に口を切ったのはイーヴだった。
「きのう、おっしゃったことはほんとうですの?」
「何のことです」
「明日、ロンドンへお帰りになるってこと」
「ええ。いずれは帰らなければならぬわたしです。問題はあなたのほうで、これからどうなさいます?」
「きめていませんわ。それより、あなたになんといって――」
ダーモットはさえぎって、「礼の言葉なら、ご無用に願います」
「まあ、そんなに素っ気なくおっしゃらなくても!」
「素っ気ないわけではありません。ただ、礼をいう気持を、あなたの心からとり除きたかっただけで」
「なぜですの? なぜわたしなんかのために、こんな努力をしてくださったの?」
ダーモットはマリーランド煙草の袋をとり出して、一本を彼女にすすめたが、彼女は首をふってことわった。彼は一本に火をつけて、
「子供じみた気持とみられるかもしれませんが、しないではいられないので動いてみただけです。この気持については、あなたの神経が鎮《しず》まったとき、もう一度お会いして、話しあうつもりでいます。それより、さしあたって、あなたがどうなさるか、それを聞かせていただきましょう」
イーヴは肩をゆすって、
「何もきめていませんの。いま考えていますのは、荷物をまとめて、少しのあいだ、ニースかカンヌで暮らしてみようかと……」
「それはだめです」
「どうして?」
「できることでないからで、あなたというひとは、わたしの友人のゴロンがいったとおりの方ですよ」
「まあ! 彼、わたしのことをどんなふうにいいました?」
「あなたは要注意の最たるもの。行くところ、かならず事件をひき起こす。このつぎはどんな騒ぎになるかわかったものでない――と、こうでした。つまり、あなたがリヴィエラへ行けば、獲物をねらっている男か何かがあらわれて、あなたをして、その男を愛しているように思いこませてしまう。そして……またおなじ問題をくり返すことになる。それより、イギリスへ帰られることです。イギリスでも危険がないとはいいませんが、少なくとも、ある男の目があなたを見まもっています」
イーヴは考えこんで、
「ほんとうのことをいいますと、イギリスへもどることはわたしも考えました」と、目をあげて、「お聞かせくださいません? あなたは、わたしがネッド・アトウッドのことで、嘆き悲しんでいると、お考えなんじゃないでしょうか?」
ダーモットは口の煙草をぬきとり、目を鋭くして、しばらくのあいだ彼女をみつめていた。それから、こぶしで椅子の腕をたたいて、
「それは心理学上の実際問題ですよ」と、いった。「しかし、お望みなら、あなたを信頼して、実際のところをお話してもよい」
「お願いしますわ」
「正確には、わたしがあの男を殺したわけではありません。前世紀の詩人クラフに、『なんじ殺すなかれ。されど、生かさんがための差し出がましき努力は必要とせず』との詩句があります。わたしもまた、ある意味で、彼の死をうながしたといえるでしょう。そうしないことには、いずれ彼が健康をとりもどします。そのときは、断頭台がおなじことを、より効果的にやってのけるはずです。わたしはその行き方を考えなかっただけです」
ダーモットの表情は暗かった。
「トビー・ローズは」と、言葉をつづけた。「あなたにふさわしい男でありません。あなたは孤独で、さびしく、頼ることのできる男がほしかった。その誤ちを二度とくり返してはいけません。そしてわたしが、そのようなことのないように気をくばります。もっとも、殺人事件のようなことが起こらなかったら、情勢はかなり変わったものがあったでしょう。あのアトウッドには――おそらく――トビーとははるかにちがったものがありましたから」
「そうでしょうか?」
「彼は彼なりの方法で、あなたをほんとうに愛していました。その気持を、わたしは彼自身の口から聞いているので、彼は演技をしていたのでないかと疑いたくなるくらいです。だからといってその気持が、あなたをアリバイに使うのをためらわせることにはならず……」
「ええ、そこのところは、わたしにもわかっていました」
「しかし、アリバイに使っても、あなたを思う彼の感情が変わったわけではありません。そしてわたしは、あなたの気持もまた、変わっていないのではないかと考えています。いいかえれば、アトウッドのような男は、あらゆる意味で、それだけ危険な存在といえるのです」
イーヴは身動きもせずに坐っていた。暗くなりつつある庭園で、彼女の目は、ぬれてきらめいていた。
そして、彼女はいった。「わたしとネッドのことは、どうお考えになろうとかまいません。むしろ、いまおっしゃったように考えていただいたほうがいいかとも思います。ただ、ローズ家の人たちみたいな考え方はなさらないで――あの、もう少しこちらにおよりになったら?」
ラ・バンドレット警察署長のアリスティード・ゴロン氏は、アンジェ街の道路を肩で風を切って歩いていた。専制君主を思わせる堂々たる歩きぶりで、ずんぐりした小柄なからだを運んでくる。胸を突き出し、マラッカ材のステッキをふりまわして、わが世の春を謳歌しているといった格好だった。
学識高遠なるダーモット・キンロス博士は、マダム・ニールからお茶に呼ばれて、彼女の家の裏庭にいるはずだと聞かされていた。アリスティード・ゴロンとしても、ローズ家の事件が満足すべき状態で終局したと、この二人に報告するのが、署長としての用務であったのだ。
ゴロン氏はかがやかしい顔で、アンジェ街の街筋を見まわした。このローズ卿殺人事件は、ラ・バンドレット警察の名声を高めることに貢献した。新聞記者、とくにカメラマンの大勢が、はるばるパリから集まってきた。すると、彼には理解できないことだが、キンロス博士がおかしなことをいいだした。この事件に自分の名を出さないでくれ。ことに写真を撮られるのはごめんだという。しかし、誰かのてがらにしないことには……さよう、公衆を失望させることになる。
ゴロン氏は、従来抱いていたキンロス博士の評価を改めなければならなかった。この人物は思考機械で、それ以上でもなく、それ以下でもない。まことに感心な男で、心理的な謎を解くことに生き甲斐を感じている。彼自身が認めているところだが、人間の心を時計同様に分解する時計同様の男といえるのだ。
ゴロン氏は、ミラマール荘をかこむ石塀の門をひらいた。左手に小径があって、建物のわきに沿って、裏手へ通じている。彼はその径を進んだ。
イギリス人といっても、ムッシュー・ローズみたいな紳士顔をした男ばかりでないのを知ったのは、一つの救いだった。イギリス人なるものが、以前よりもだいぶ理解できたような気がした。実際……
ステッキで庭の草をたたき切りながら、ゴロン氏は上機嫌で裏庭へはいっていった。たそがれの光が闇に変わりつつある。マロニエの木のこずえには、そよとの風もない。二人に報告する文句を口に出してみながら進むうちに、前方に当の二人のすがたをみとめた。
ゴロン氏は思わず足をとめた。
目があやうく、眼窩《がんか》からとび出すところだった。
しばらくはそこに突っ立ったまま、彼は目の前のものをみつめていた。しかし、そこは元来、分別に富み、礼譲のなんたるかをわきまえ、他人の喜びを喜ぶゴロン氏である。彼はくるり向きを変えて、もときた小径をひき返しはじめた。しかし、彼はその一方、公明正大な心の持主で、自分もまた公明正大に扱ってもらうのを望んでいた。それがあってか、ふたたびアンジェ街の道路に立った彼は、意気消沈した顔つきで、しきりと首をふっていた。やがて、道路を歩きだした。きたときよりははるかに速い足どりである。自分のほかには聞きとれぬほどの低声で、何やら独り言をつぶやきつづけている。そしてそのうちのひと言、『花火みたいな女』というのが、夕暮れ時の空に、尾をひいて消えていくのだった。(完)
解説
ジョン・ディクスン・カー John Dickson Carr は、一九〇六年にアメリカ、ペンシルヴェニア州のユニオンタウンに生まれた。彼の少年時代の憧れは、だれもがそうであるように、シャーロック・ホームズであり、ダルタニャンだった。だが大学へ進んだ際には、法律を選び、ペンシルヴェニア州のハヴァフォード・カレッジを卒業したのが一九二八年であった。
学窓を出た彼の志は早くも文学に向けられていた。パリに遊学しても、法律の勉強はほとんどはかどらず、文学青年らしい毎日を過ごしていた。ミステリーや歴史的ロマンを書いたが、自信作ができなくて破って棄てたり、また発表される機会があっても反響がなかった。
そこでまたニューヨークに舞いもどり、ホテルで完成したのが「夜歩く」だった。これを知人のいた出版社ハーパー社に持ち込んだ。編集長は作家としての力量を認め、刊行することにきめた。新聞に一ページ広告を載せて、大宣伝するほど熱を入れた。当時の推理小説は初版五千部が普通だったのに、この作品はたちまち五万部売れたほどの評判で、一躍推理作家として知られるようになった。それが一九三〇年、二十四歳のときであった。
同じ年にヴァン・ダインは五作目の「甲虫殺人事件」を、クイーンは二作目の「フランス白粉の謎」を刊行している。またクロフツは「マギル卿最後の旅」を、ビガースは「チャーリーチャンの活躍」を、ハメットは「マルタの鷹」を発表した。本格物ではヴァン・ダインの出現によって気勢が大いにあがり、さらにこれからクイーンが飛躍しようとしていた時期である。しかも一方ではハード・ボイルド派が、ようやく地歩を固めようとしていたのである。
カーは海外旅行の途中、イギリス女性と知りあって結婚した。新家庭がイギリスに築かれたのは、ドイルやチェスタートンを生んだ国に惹かれたからで、とうとう十七年間過ごす結果になった。アメリカにしばらく住んでいた時期もあるが、再びイギリスに帰ったところから見ても、そちらのほうが性にあっていたのであろうか。
第二次大戦中、彼の住居はなんども爆弾に見舞われたが、その都度奇蹟的に助かった。生活条件が極度に悪化したので、一九四八年には家族もろともアメリカに移り、推理作家クラブの会長に推された。だが六、七年もたつと再びロンドンに帰り住んだ。
彼はジョン・ディクスン・カーの本名の他に、カー・ディクスンやカーター・ディクスンの筆名を用いた。彼が創造した探偵も、ディクスン・カー名義のものにはフェル博士、カーター・ディクスン名義にはH・Mすなわちヘンリー・メリヴェール卿がだいたい使い分けられている。ただカー名義の処女作「夜歩く」から第四作までは、パリの名探偵バンコランを起用しているが、それらはパリ遊学の思い出の濃かったころで、舞台もパリであった。
カーは四十年間に六十編余という長編を発表しているから、海外では異例の多作家であった。しかも本格物の真骨頂を極めた伝統主義者であった。
長い年月にわたっての創作活動にまったく変化がなかったわけではない。初期はオカルティズムないし怪奇趣味に依存する度合いが強かったが、次第に普通の純粋推理物に移り、後年は青年時代からの興味を抱いていた歴史・考証と推理との融合に強い関心をそそられるようになった。そういう作風の変遷は見られるにしても、カーは一貫して本格的な謎解きに執念を持続させてきた。
彼の登場してからの四十年間に、推理小説の様相は多彩な変化を示した。論理を主軸とする本格物も、クリスティ、クイーンらは健在であっても、新作家が輩出するというわけではなかった。心理的な社会的な装いをこらした新本格派の潮流も、強烈な個性に恵まれなかった。ハード・ボイルド派作家こそ、その意味では個性があったが、チャンドラー、ロス・マクドナルドを除けば、軽妙な社会風俗の描写と活劇に堕しかねなかった。心理派、サスペンス派も局面の打開を試みるには有力であったが、推理小説の主流を占めるには至らなかった。
やはりその点では、謎解きという土性骨を具えた作品に強味があった。ただそれが千遍一律の繰り返しに終わったのでは、絶えず新鮮な驚きを求めてやまない読者を満足させるはずがない。
カーはその骨格を装飾するのに、怪奇性を強調した。ことにオカルティズムの絢爛たる色あいで染めたがった。処女作の「夜歩く」で狼憑きの恐怖を扱って以来、「絞首台の謎」のギロチン趣味、「蝋人形館の殺人」の蝋人形、「毒のたわむれ」のローマ皇帝カリグラの像、「魔女の隠れ家」の牢獄長官の家に伝わる奇妙な相続の儀式と伝説、「帽子収集狂事件」のロンドン塔、「弓弦荘殺人事件」の甲冑怪談、「剣の八」のタロット・カード、「黒死荘」の降霊術、「三つの棺」の吸血鬼伝説と黒い魔術、「赤後家の殺人」の絞首刑吏、「一角獣の怪」の怪獣伝説、「火刑法廷」の不死の人間、「パンチとジュディ」のテレパシー、「孔雀の羽」の神秘宗教儀式、「曲った蝶番」の自動人形、「死人を起す」の鉄の処女、「読者よ欺かるるなかれ」の遠隔霊能力など、神秘怪奇に倦きもせず取り組んだのである。
カーこそは謎解きの妙味を骨の髄まで心得ている作家である。謎はとうてい解決不可能だと読者に信じこませれば、それだけあざやかに解決したときの感銘は深い。それを十分承知しているからこそ、彼は思いきり大胆な謎を提出するのである。カーは謎の提出にも、自分の趣味や好みを極端に押し出す。あるいは登場人物の言動をこれまた極度に誇張する。この度を越した試みがしっくりしない場合は、ただ作者だけがりきみかえった失敗作になるが、バランスがとれていると、体臭の強い作品となって、極めて印象的である。
あくの強いカーだが、「皇帝の嗅ぎ煙草入れ」(一九四二年)は、その作風を好まない読者にも、異色作として好評をもって迎えられた。江戸川乱歩は物理的に絶対なし得ないような不可能を、不思議な技巧によってなしとげているといい、カーが処女作以来十二年を経ても、トリック小説に旺盛な意欲を持ち続けていたことを激賞した。(中島河太郎)
◆皇帝の嗅ぎ煙草入れ◆
ジョン・ディクスン・カー/宇野利泰訳
二〇〇四年六月二十日 Ver1