ジョン・ディクスン・カー/宇野利泰訳
帽子蒐集狂事件
目 次
一 弁護士の鬘《かつら》をかぶった馬
二 稿本と殺人
三 逆賊門の死体
四 尋問
五 手すりの影
六 土産の鉄矢
七 ラーキン夫人のカフス
八 アーバア氏の雰囲気
九 三つのヒント
十 鏡の中の眼
十一 小さな石膏人形
十二 X十九号について
十三 ミス・ビットンの饒舌
十四 トップハットをかぶって死ぬ
十五 ゴム鼠事件
十六 暖炉のなかに
十七 ビットン邸の死
十八 電話の声
十九 血塔の下か?
二十 殺人者の告白
二十一 未解決
解説
登場人物
ウイリアム・ビットン卿……引退した政治家
レスター・ビットン……ウイリアムの弟、実業家
ローラ・ビットン……レスターの妻
シーラ・ビットン……ウイリアムの娘
フィリップ・ドリスコル……ウイリアムの甥、新聞記者
メイスン将軍……ロンドン塔副長官
ロバート・ダルライ……その秘書、シーラの婚約者
ジュリアス・アーバア……アメリカの書籍蒐集家
ラーキン夫人……女探偵
マークス……ビットン家の執事
ホッブズ……同
ハドリイ警部……ロンドン警視庁警部
フェル博士……私立探偵
ランポウル……その助手
一 弁護士の鬘《かつら》をかぶった馬
いつものフェル博士の事件とおなじように、この物語もまた、酒杯のあいだで幕が落された。
ロンドン塔は逆賊門の石段の下で、男が一人、死骸となって発見される……着ているのはゴルフ服だが、頭の上には、まるで服装とそぐわぬ帽子が載っている……その怪奇な謎を追及するのがこの物語の骨子であるが、解決をみるまでのしばらくの間、ロンドン中はこのために、帽子の呪いに取り憑《つ》かれたかと思われたほどの騒ぎであった。
どう考えてみたにしても、帽子そのものが呪いの種になる理屈はない。帽子店の飾り窓をのぞきこんだところで、誰も危険に襲われるものではない。かりに諸君が、街灯の上に巡査のヘルメット帽が載っかっているのを見つけたところで、あるいはまたトラファルガー広場《スクエア》のライオン像の頭に、銀鼠色のシルクハットがかぶせてあるのを見たとしても、せいぜい酔っ払いがわる気のないいたずらをやったぐらいにしか考えまい。……したがってランポウル青年が、帽子魔騒ぎを新聞で読んだとき、一笑に付そうとしたのも当然だといえよう。
しかし、ハドリイ警部だけは、そう簡単には考えていなかった。
ハドリイ警部とランポウル青年は、ピカデリイ広場《サーカス》の中心に近い、スコットという名の料理店で、フェル博士の登場を待っていた。グレイト・ウィンドミル・ストリートに沿って、社交クラブに似た雰囲気を漂わしたレストランだった。ここはその酒場《バー》であるが、部屋のまわりは茶色鏡板に囲まれて、赤革の肱かけ椅子が豪奢な趣きをみせている。カウンターの奥には、真鍮の|たが《ヽヽ》を嵌《は》めた酒樽が並び、マントルピースの上には精巧な船の模型が飾ってあった。
その片隅で、ランポウル青年はビールのコップを傾けながら、警部の様子を観察していた。彼としては、ロンドン警視庁の主任警部ともあろうものが、なぜこんな馬鹿騒ぎに頭を悩ますのか、それがなんとも、不思議に思えてならぬのだった。実際、今朝アメリカから到着したばかりの彼には、酔狂がいささか度を過ごしたとしか考えられぬのである。
彼はいった。
「僕はときどき考えてみるんですが、フェル博士という方は、一体、どんな地位にあるんでしょう? 外部の者には判りかねますね。難事件というと、何によらず引き受けさせられているようですが」
相手は笑ってうなずいた。
ランポウルが考えるまでもなく、この警視庁の主任警部は、話しあってさえいれば、誰にだって間違いなく好感を持たれる男である。風采はいわゆる男らしいタイプというか、中肉中背だが、がっしりと引き締まった印象を与える。絶えず身装《みなり》に注意を払って、軍隊風の口髭と鋼鉄色の頭髪には、いつも手入れを忘れない。そして、初対面の相手でも、すぐに気のつく彼の特徴は、ものに動じないその沈着ぶりである。何くわぬ顔をしながら、するどく相手を観察していると思われる。動作はおよそ軽率とは縁遠い。その眸《ひとみ》の色を見ても、慎重な彼の性格が推察される。声だって、めったに荒立てることはないのである。
「ランポウルさん。あなたは博士と、相当長いおつきあいなんですか?」ハドリイ警部は、コップの泡を眺めながら訊いた。
「なあに、やっと去年の七月からなんです」
アメリカ人はそう答えながら、案外短期間なのに、われながら驚いた様子である。
「それにしては、ずいぶん長い交際のように思えるんです。でも、考えてみれば無理もありません。僕は僕の妻と、あのひとのお陰で知りあいになったんですからね」
ハドリイ警部はうなずいて、
「そうでしたな。あれはたしか、スターバース事件のときでしたね。博士がリンカーンシャーから電報を打って寄こしましたので、警官を派遣した記憶がありますよ」
八カ月あまり経っているのだが、ランポウルの眼の前には、あのときの怖ろしい場面のかずかずが、昨日の出来事のように浮かんでいた。とりわけ、夕闇が迫って来た田舎駅の構内で、マーティン・スターバースの殺害犯人の肩に、フェル博士の手がおかれたときの光景が、いまもなおまざまざと思いだされてくるのだった。それ以来、すべては平和のうちに、ランポウルは新妻ドロシイとともに、幸福な日を送っていた。そして、この三月の霧深い日に、彼はその後はじめて、ロンドンを訪れたのであった。
警部はもう一度微笑んで、しずかな声で言った。
「それにあなたは、たしかあの事件がきっかけで、奥さんと結婚なさったのでしたね。どうです、驚きましたか。私はこれでなかなか事情通でしょう……なあに、実はみんな、フェル博士から聞いているのです。それにしてもあのときの博士は、素晴らしい手柄を立てたものですな」
そういいさして、ハドリイは急に付け加えた。「しかし、こんどの場合は……」
「おなじように成功するかどうか、疑問だというのですか?」
相手は、はぐらかすように表情を変えて、
「そう簡単に結論は出せませんが、どうやらあなたも、犯罪のにおいだけは嗅ぎあてられたようですな」
「博士の手紙で、あなたとここで会見すると聞いていますんでね」
「その予感は」と、ハドリイ警部はいった。「当っていると思われます。私もやはり、そんな気がしているのです」
彼は、折りたたんでポケットに入れた新聞に、そっと手を触れながら言葉をつづけた。
「しかし、これはちょっと、私が取り扱う範囲とはちがうように思われます。まず、どう見ても、フェル博士の領分でしょうな。ウイリアム卿からは、個人的に助力を求めて来ていますが、警視庁が乗りだす仕事とも考えられんのです。といって、卿の依頼を放っておくわけにもいきませんし……」
ランポウル青年には、相手の言葉の意味がはっきり掴めなかった。警部は思案しながら、絶えずポケットの新聞に手をやっているのは、彼もやはり、何か迷っている証拠であろう。
彼はまた、不意に言った。
「ランポウルさん。あなた、ウイリアム・ビットン卿を御存じですか?」
「あの有名な蒐集家の?」
「やはり御存じだったのですな。フェル博士の話では、あなたもおなじ御専門のようですね。卿は古書の蒐集家なんです。もっとも私は、卿が政界で活躍しておられる頃から存じあげているんですが……」警部は時計をチラッと見て、「約束は二時ですから、もうフェル博士の出現される頃でしょう。リンカーンからの列車は、キングズ・クロス駅に一時三十分に到着する予定です」
そのとたんに、雷鳴のような大声が落下した。
「やあ! しばらくだったな」
声の主は、まだ部屋の外にいた。街路から下りてくる階段を、肥った体でいっぱいに塞いで、ステッキをふりまわしながら叫んでいる。客のたてこまない時間なので、部屋中に響き渡るような声だった。白い上着のバーテンダーは、びっくりしてふりかえった。ほかに客といっては、向うの隅に会社員らしいのが二人、先ほどから低い声で商談をしているだけだったが、これもむろん驚いて目をみはった。仰々しいくらいに派手な、ギディオン・フェル博士の登場だった。
ランポウルはフェル博士の姿を見るや、ビールの大杯をあけ、テーブルを叩いて、談論風発したかつての良き日が思い出されて、わくわくするほど嬉しくなった。さらに一献《いっこん》酒杯を傾けて、愉快に唄をうたいだしたくなったのである……
博士は去年見たときより、また一だんと元気にみえた。つやつやした血色も、黒リボンをつけた眼鏡ごしに、細い眼をキラキラ輝かせているところも、ふとい山賊ひげを動かして、ウワッハッハッと大きく笑うたびに、肥った二重顎がぶるんぶるんと揺れるのも、どれもみな、なつかしいと同時に嬉しかった。頭の上には、いつもの黒いソフト帽が載っている。だぶだぶの黒い上着から、巨きな腹が突き出ているのもいつもながらの彼だった。
まだ階段に立ったままで、アッシュのステッキに片手を突き、片手でもう一本のステッキをふりまわしている。その格好は、サンタ・クロウスかコウル老王様〔童謡に出てくる昔の陽気な王様〕を見るようだった。事実、フェル博士は、園遊会でもあると、好んでコウル老王様に扮装するのが得意だった。
彼は二人の席に近づくや、力いっぱいアメリカ青年の手をふりまわした。
「よく来たな、ランポウル君。実際、よく来てくれた。元気らしいな。ドロシイも丈夫か? ふん、そうか。それは結構だ。わしの家内もよろしくと言っておった。ハドリイが用があるというので、わざわざチャッターハムから出て来たんだが、話がすんだらいっしょに帰ろう。ハドリイ、用事は何かな? ……まあ、とりあえず一杯飲むとするか」
顔を合わせているだけで、こちらの気持まで陽気になってくる相手がいる。フェル博士がまさにその代表的なものだ。彼と向かいあっていたら、何時間たっても気詰りなんか感じることはなかろう。第一、彼自身が、そんな気持はあっさり笑い飛ばしてくれる。その代りまた、いくらこちらが気取ってみせたところで、じきに地金を現させられるにきまっている。ハドリイは彼の言葉を笑顔で受けて、給仕を呼んだ。
警部は博士に、飲物のリストを渡しながら、そのひとつを指さしていった。
「このカクテルはいいものですよ。天使の接吻というのと──」
「え、何だって?」フェル博士は椅子の上で飛び上がった。
「それから、恋の悦び──」
「おい、給仕!」博士はリストを見つめながら叫んだ。「ここの店では、これを客に出す気なのか?」
「はい、左様で──」言いながら給仕も、博士といっしょに飛び上がった。
「天使の接吻に恋の悦びか、まだあるな、これは、幸福な処女とあるようだが──」
博士は眼鏡を拭き拭き、なおも大声で喚きたてた。
「お前たちはなんだな。高貴な伝統に輝くわが大英帝国に、いかに俗悪なアメリカ文化が悪影響を及ぼしたか、考えてみたことがあるのかい? お前たちの良識を疑うぞ。こんな酒の名を聞かされたら、気の弱い愛酒家は顫えだすだろう。ビールを一杯! とか、ウィスキーとソーダだ! とか注文すれば、いかにも学者か紳士らしく聞こえるが、幸福な処女をどうぞなんて、甘ったるい口がきけるかというんだ。アメリカだっておなじことだぞ。バッファロウ・ビル〔カウボーイの英雄〕が、町の酒場に姿を現して、天使の接吻を持ってこいなんて怒鳴れると思うかい? トニー・ウェラア〔ディッケンズのピックウィック・ペイパーズ中に出てくる酒好きの好人物〕がラム酒を注文して、恋の悦びってのを持って来られたら、一体、どんな顔をすると思うんだ!」
「申し訳ございません」給仕はむやみに恐縮していた。
「では、何かほかのを注文なさったら──」ハドリイ警部が取りなすように言った。
「ビールにしてもらおう。大コップで頼むぞ」
給仕がテーブルの上を片付けているあいだに、博士は葉巻のケースを出して、二人にすすめた。そして、彼自身も、一、二度、葉巻の煙を立てるうちに、じきにまた、以前の上機嫌に帰っていた。
しかし、ふいと奥のほうに眼をやって、大仰に葉巻をふりまわして怒鳴りつけた。
「わしはなにも、人寄せのために喋っておるんじゃないぞ」
酒場の奥、食堂との境のドアから、首がいくつも覗いていたが、その声であわてて引っこんだ。最前の会社員風の一人も、グラスに浮かんだ桜んぼを、種子ごとあやうく呑みこむところだったが、いそいでまた、もとの商談に戻った。
「ハドリイ君、きみには一度話したかも知れんが、わしは以前から、『英国における古代よりの飲酒の習俗』という著述をする計画でな。七年間も材料を集めておるんだ。しかし何だな。こうしたおかしな名前の酒があるとなると、付録にでも入れておかんけりゃならん。わしは考えただけで、顔がほてるような気がするよ。どうみたって、婦人の飲料みたいだ。わしは──」
彼はそこで、口をつぐんだ。
給仕がビールのコップを三つ、盆に載せて運んで来たからだ。その尻について、黒ずくめの地味な服装だが、一点隙もない格好の男が近よって来た。どうやらこの料理店の支配人らしいのだが、フェル博士のソフト帽が、マントといっしょに、椅子の上においてあるのを見ていたが、滑稽なくらいおどおどした様子で言った。
「失礼ですが、お客さま。このお帽子には、充分お気をつけくださるようにお願いします」
博士は呆気にとられて、手にしたコップを途中で止めて、相手の顔をまじまじと見つめた。やがて、その血色のよい顔に、にこやかな表情を取り戻して、
「君は見かけによらず親切な男だ。ひとつ握手をさせてもらおうか。こう見たところ、陽気で頭がどうかなったわけでもないようだが──君の注意を、家内に聞かせてやりたかった。いかにもこれは、わし自慢の帽子でな。しかし、それにしても、なぜとくに、この帽子に注意せんけりゃならんのかね?」
男の顔は急に真っ赤になった。しゃちこばった姿勢で言った。
「差し出がましいことを申しまして、あいすみません。お客さまは、とうに御承知と存じましたので、はい。じつは、最近この界隈に、奇妙な騒ぎが起っていますんで、お客さまに御迷惑でもかかってはと思いまして、はい。本当にあの帽子気違いめ──困った野郎で……」
支配人は、うっかり口を滑らして、生地を出しかけたが、すぐにまた、もとの慇懃《いんぎん》な口調にかえって、
「実際、厄介なことでございます。あいつときては、やりそこなったためしがありませんので、一度狙ったからには、逃がしたことがないのでございます」
「一体、何の話なんだ?」
「帽子の話でございます。帽子気違いのことでして──」
ハドリイ警部のくちびるがしきりに痙攣しているのは、笑いを噛み殺すのに懸命になっている証拠である。いそいで逃げだせばとにかく、このままいたら、おそらく笑い死にに死ぬかも知れない。だが、フェル博士は、それには気がつかぬ様子で、大きなハンケチで額の汗を拭きながら、
「ほほう、なかなか愉快な話じゃないか。つまり、こういうことなんだな。この近所に、すこし頭の可怪《おか》しい帽子屋がおって、何も知らずに店先を通る者があると、いきなり奥から飛びだして来おって、そいつの帽子を引ったくるってえんだな。審美的精神に忠実なのも結構だが、そこまで行くと、行きすぎの感がある。しかし、わしはすまして盗られているような間抜けじゃない。第一、ピカデリイの人混みを、眼の色の怪しい帽子屋に追いまわされるのは、辞退させてもらいたいものだ。わしはもう駆けっこをする年齢《とし》でもない。それに、こんなに肥ってしまってはなおのことだ。盗られたくない理由は、これくらいでわかるだろう。もっとわけを説明せいというほど、お前さんもしつっこい男とは思われんが」
支配人はあたりに気兼ねしながら、低い声でしゃべっているのだが、博士のほうは、遠慮会釈もなく部屋中を歩きまわって、喧しいことかぎりがない。カクテルを舐めていた会社員は、口のなかでぶつぶつ言っていたが、外套を引っかけるとそそくさと出ていった。もう一人の会社員だけが、苦い顔をしながら残っていた。
さすがの主任警部も、いささか持てあまし気味で、きつい声で支配人に言った。
「もうわかった。この方はロンドンに着いたばかりで、例の騒ぎは御存じないんだ。あとでおれから説明しておくよ」
顔を赤くした支配人は、いそぎ足に食堂のほうへ去っていった。フェル博士は、頬を膨らませて抗議した。
「何だな君、せっかくわしが、あの男をからかって楽しもうと思っておったのに、追っ払ってしまうとは怪しからんじゃないか。それにしてもわしも迂闊《うかつ》だった。ロンドンの帽子屋ってものが、それほどの敢闘精神を持っておるとは知らなんだ。しかし、洋服屋でなくて仕合せだったな。ピカデリイのまんなかで、ズボンを引っ剥《ぱ》がされでもしたら大ごとだ。たちまち風紀問題をひき起すからな」
彼はビールを一息に呑み乾して、大きな頭に、馬のたてがみのように生えた頭髪を振り立てては笑った。
警部も笑っていた。押えようとはしているのだが、つい吹き出したくなる模様である。
「あんたは元来、派手な騒ぎがお好きなんで、いつまたそれがはじまるかと、さっきからはらはらしていましたよ。しかし、先生、あの支配人がいったことは、のこらず本当のことなんです」
「えっ?」
「正気の話なんです」ハドリイは刈りこんだ灰色の口髭を撫ぜながら繰りかえした。この事件で彼自身、相当焦燥に駆られている気配をチラッとみせた。
「むろんただのいたずらとは思いますが、あまり事件が続きすぎるのです。一個か二個の帽子が盗まれただけで終っていれば、新聞もこんなには書き立てなかったでしょうから、たいした実害もなくてすんだのですが、これではまるで、警視庁に挑戦して来ているようなものです。放っておけば、われわれが笑い物にされるおそれがある。何としてでも、この騒ぎだけはとめねばならんと思うのです」
博士は眼鏡をかけ直して言った。
「というと、ほんとうにこの界隈で、帽子盗人が横行しとるのかね?」
「帽子蒐集狂──というのが、新聞がつけた名前なんです。名付親は、遊軍記者《フリーランス》のドリスコルって若造。例のウイリアム卿の甥にあたる男です。ですから、その筆をとめようとするのは無理でして、下手に抑えにかかれば、かえって藪《やぶ》をつつくおそれがあるのです。騒ぎを大きくするばかりだと思うのです」
フェル博士は、顎を襟に埋めて考えこんだ。彼の精神が緊張して来たのは、眸が光りだしてきたことで察しられる。わざと丁寧に、皮肉な口調で尋ねてきた。
「捕まえたらよさそうなものだが、ロンドン警視庁には、それがお出来にならんのかな」
ハドリイは無理して聞き流して、出来るだけおだやかな調子でしゃべりだした。
「カンタベリイ大僧正の祭式冠《マイター》が盗まれたにしても、こうまでいらいらさせられないですむでしょう。この事件は、われわれの警察力を愚弄する目的かも知れません。笑ってすますことではないようです。それに、犯人を捕縛しても、そのさきがまた問題です。公判でも始まろうものなら、新聞社は面白がって、さっそく飛びついてくるにきまっているんです。
考えてもごらんなさい、その法廷が、どんな滑稽な印象を世間に与えるか──おごそかに鬘《かつら》をつけた検事と弁護士とが、それぞれ立ち上がって、被告を糾弾したり弁護したりする。その内容が何かというと、三月五日の夜、ユーストン・ロード付近で、トーマス・スパークル巡査がヘルメット帽を奪われた。しかもそれは、その夜のうちに警視庁舎の門前の街灯の上に引っかけられていたという──それではもう、裁判の権威なんか、いっぺんに吹っ飛んでしまうのが眼に見えますよ」
「変った真似をしたものだね」
どうやら博士も、興味を唆《そそ》られて来たとみえて、巨きな体を乗りだした。
ハドリイ警部は、ポケットから新聞を取り出して、
「この記事をお読みなさい。例のドリスコル青年が書いたものです。義理にも上手とはいえませんが、ほかの新聞のは、もっと茶化して、おもしろ可笑しく書いてあるんです」
フェル博士は、大声で笑いだした。
「するとハドリイ君。わしをここまで呼びよせたのは、この事件を手伝わさせるためだったのかい。それだったら、お断りしたいな。わしはむしろ、犯人のほうに応援したいくらいだぜ。なかなか愛敬があっていいじゃないか。まさにこれ、現代のロビン・フッドだ。でなければ──」
ハドリイ警部は博士の冗談口にも浮かぬ顔で、
「しかし、これ以上ドリスコルに書き立てさせるのは危険だと思います。下手をすると──」彼はちょっと言い淀んで、何か胸のうちで考えている様子だった。
「まあ、これを読んでごらんなさい。先生はまた、面白がってしまうか知れませんが──」
ランポウルも、博士の肩越しに、のぞきこんでみた。
帽子蒐集狂、またしても現る!
傍若無人の犯人の跳梁《ちょうりょう》に
官憲の威信全く地に堕《お》つ
事件担当、フィリップ・C・ドリスコル
ロンドン発、三月十二日。娼婦殺しジャック・ザ・リッパーの事件以来、ロンドンはふたたび怪魔の跳梁するところとなった。風の如く来たって、風の如く去り、あとにいささかの証跡も残さぬ、帽子蒐集狂とは悪魔か天使か。日曜日の朝、またしても帽子蒐集狂は、警視庁が誇る優秀な捜査陣に挑戦してきたのである。
本日未明、午前五時頃、ジェイムズ・マックガイア巡査が、受持地区レスタア・スクエアを巡回中のところ、同広場の東側に並んでいる辻待馬車のわきで、異様な光景に眼を奪われた。辻馬車が一台、片輪を歩道にあげて、なかから怪音を洩らしているのは、御者が高いびきで寝こんでいるとみえた。馬が(名はジェニファー)胡椒菓子の大きいのを噛んでいたが、通りがかったマックガイア巡査を嬉しそうに見あげた。烱眼《けいがん》な警察官は、そこに意外な事実を発見した。ジェニファーの頭に、大きな白い鬘《かつら》が、その左右を風になぶらせながら、麗々しく載せてあったのだ──弁護士が法廷で用いる鬘である。
マックガイア巡査は、すぐにその由を、ヴァイン・ストリート警察署に報告した。最初は誰も取り合わなかったが、調査の結果、事実であることが判明した。帽子蒐集狂はふたたび活動を開始したのである。
本紙デイリイ・ヘラルドの読者諸君は、先日、トラファルガー広場《スクエア》の、ネルソン記念柱の四隅を囲むライオン像のうち、ホワイトホール街に面したものの頭上に、銀鼠色のトップハットがかぶせてあったのを御記憶であろう。帽子の裏側のしるしで、所有者はカーズン・ストリートに邸を持つ、著名な株式取引所理事アイザック・サイモニディーズ・レイヴィ卿と判明した。
その日の夕刻、霧が濃くなりつつある頃であった。こうした天候の折は、とかく不祥事件が起り勝ちなものであるが、アイザック卿は、孤児救済連盟主催の講演会に出席するために邸を出た。その直後のこと、卿の頭上から、問題のトップハットが風のように奪い去られた。銀鼠色に輝くそれを、つねに頭上にのせて闊歩しているアイザック卿の姿が(少くとも)世人の注目を惹いていたことは否めない、それにしても、盗難にまで遭うとは奇々怪々のことである。
ジェニファーの頭に鬘を載せたのも、警察当局は同一犯人と推定している。現在のところ、被害の届出がないので、所有者の心当りはなく、その結果、種々の臆測も行われているが、いずれも決定的なものとは言えない。二輪馬車の御者エイルマー・ヴァランス君は、熟睡中のこととて、何も気づかなかったと述べている。
警視庁の推定では、マックガイア巡査が現場に現れる数分前まで、帽子蒐集狂はその付近を徘徊していたものと思われる。何故ならば、巡査がジェニファーを最初に認めたとき、馬は胡椒菓子を、まだ三分の一しか齧《かじ》っていなかったからである。更に臆測をめぐらせば、犯人はレスター・スクエア界隈の地理にも明るく、馬の頭に鬘をのせるとき、胡椒菓子をあてがったところからみて、ジェニファーの嗜好にも通じていると思われる。この他には、遺憾ながら警察当局は何らの手掛りも掴んでいない模様である。
この記事は、奇怪な一連の出来事に関して、先週来七回目の報告である。あまりの奇怪さに鑑みて、その根底には政治的陰謀が潜んでいるのではないかとの臆測も行われているが、記者としても、敢えてそれを否定し去るだけの勇気を持たない。
フェル博士は、そこまで読んで新聞をおいた。ハドリイ警部はすぐにいった。
「まだいろいろとあるんです。あったところでかまいませんが、弥次馬式にこう騒ぎ立てられては、私もいささか癇《かん》に障ってならんのです」
フェル博士は気の毒そうな顔をみせて、
「そりゃあ君、警察ってのはそういったものさ。何かといえば新聞から叩かれる。だけど、手掛りは本当にないのかい? わしも手伝ってやってもよいんだが、それより君、腕っこきの刑事を使って、レスター広場《スクエア》付近の菓子屋をしらみつぶしに当らせたら、簡単に判ることではないのかな」
「私はなにも、若い学生か何かのいたずらを問題にして、わざわざチャッターハムから先生の御出馬を願ったわけではないんです。もちろん、ドリスコルがこんなくだらぬ記事を書き立てるのは、はなはだ以て怪しからん次第です。さっそく差止める手配をしてあります。デイリイ・ヘラルド紙さえ抑えれば、あとの新聞はおのずと鎮まることでしょう。
しかし、先生に電報を打ちましたのは、もうひとつの事件が起ったからなんです。例のウイリアム卿の事件なのですが。ウイリアム・ビットンというのは、問題の新米記者、ドリスコルの伯父に当りまして、やつの財布の紐を握っている人物なんですが、このウイリアム卿が所蔵している、非常に貴重な稿本が盗難に遭ったのです」
「ははあ、なるほど。それで?──」
フェル博士は、新聞をわきにのけて、あらためて腕を組みなおした。
「稿本だとか古書だとか」ハドリイ警部は言葉をつづけた。「こうした種類の物が盗難に遭いますと、いつもわれわれは手を焼くのです。普通の窃盗とちがいまして、追及するのが非常に厄介なんです。宝石とか食器類、乃至は名画の盗難となると、極め手がちゃんと用意してあるのです。質屋だとか盗品を取扱う手合いだとかは、素性がすべてわれわれに判っているからです。ところが、今度のような場合は別でして、犯人が盗品を嵌《は》めこむ先は、あらかじめ契約ずみの場合が多いのです。ひょっとすると、最初から買手に頼まれてやっているのかも知れません。いずれにしても、この種の買手となると、まず絶対に口を割らんと言って差支えないでしょう」
主任警部はちょっと口を休めた。
「ところが、さらに厄介なことには、今度の事件というのを、いざ警視庁が乗りだして調べてみますと、ウイリアム卿の手元から盗まれた稿本なるものが、卿自身に所有権があるのかどうか疑問になってきたんです。ますますどうも、複雑怪奇なしろものなんですよ」
「なるほどね。もうすこし、具体的に承《うけたまわ》ろうか」
ハドリイ警部はビールのコップを取りあげたが、あわてて下におろした。ちょうどそのとき、街路に通ずる階段に、またしても荒々しい足音が響いたからである。閑散な午後のいま頃、まさか新しい客が入って来るとは予期していなかった。片隅で静かにコップをあけていた会社員も、びっくりして頭をあげたくらいだった。どたどたいう足音の主は、だぶだぶの外套の裾をはためかして、大股に部屋へ入って来た。バーテンダーは、またかといった顔つきをみせかけたが、新規の客のするどい眼にぶつかると、あわててコップを磨く手を動かして、
「これはウイリアムさま、結構なお天気で──」
「何が結構な天気だ!」
ウイリアム・ビットン卿の御機嫌は、案の定ななめらしい。霧が深くなって来たとみえて、顔が雫で濡れていた。卿は白いスカーフの端で、それをぎゅうぎゅう拭きながら、バーテンを睨みつけるようにして言った。額ぎわに豊かな白髪が、ビールの泡のように盛りあがっていた。
「結構どころか、まるっきりひどい天気じゃないか。やあ、ハドリイ君か! いいところで出会ったな。また君に骨折ってもらわんけりゃならんことが起きたぞ」
彼はずかずかと、三人の席に歩みよった。フェル博士が投げだしておいた新聞に眼をやって、
「君たちはそいつを読んだか? 帽子を盗みまわる馬鹿者の記事を? わしの話というのも、やはりその件なんじゃが──」
がなり立てる老貴族に、ハドリイはあたりに気がねしながら言った。
「まあ、まあ、お静かに、ウイリアム卿。そこにお掛けください。やつがまた、御迷惑なことを始めましたか?」
「迷惑?」
ウイリアム卿は、それでも努めて落着こうとしているらしく、しきりに白髪を掻きあげながら、言った。
「またやられたんじゃ。一時間半ほど前のことで、わしはまだ、腹が立っておる最中なんじゃ。思いだすと、むらむらして来るわ。しかも、わしの邸の門前でだ。車を駐めたまま、運転手は煙草を買いにいっておった。そこへわしが、邸から出て来たんじゃが、広場はもう一面の霧だった。ひょいと車のほうを見ると、こそ泥みたいな怪しげな男が、車の窓から手を突込んでおるじゃないか! わしは、こら! と大声で怒鳴って、ステップに足をかけると、やつもびっくりした様子で、あわてて手を引っこめて──」
ウイリアム卿は、ここで大きくため息をついた。
「わしは今日、ここへ来る前に、先約が三つもあった。そのうちの二つは、実業区《シティ》の用だった。一つはターロッツ卿、一つはわしの甥と会うことにしておいた。まあ、相手は誰にしろ、会いに行くわけにはいかなくなった。帽子がなくなってしまったんだからな。もうこれ以上新調する気にもなれん。いくらなんでも、三度目の三ギニーを支払うのは真っ平じゃからな」
ウイリアム卿は次第に興奮して来た。ついにまた、吼えるような大声に戻って、
「いいか、ハドリイ! やつはまたしてもわしの帽子を盗みおったんじゃ! この三日間に、わしの帽子を三つまでも盗みおったんだぞ!」
片隅の会社員は、なにかぶつぶつ呟いていたが、首を振りふり退散した。
二 稿本と殺人
ハドリイ警部は、テーブルをたたいて給仕を呼んだ。
「ダブルのウィスキーを、この方にお持ちしてくれ──ウイリアム卿、まあ気をお鎮めになって、お掛けになったらどうです。ほかの客から、気違い病院と間違えられますよ──落着かれましたら、友人を紹介させていただきます」
「ああ、そうか、どなたかね?」
相手は不機嫌なままに、頭を下げて挨拶はしたが、すぐにまたキイキイ声で怒鳴りだした。
「実際、腹が立ってならん。気が狂うほど癪に障るこっちゃよ。今日予定しておった訪問も、毎月、判で押したように、きちんきちんとつづけて来たものなんじゃが、とうとう|やつ《ヽヽ》のために狂わされてしまった。わしは、君に文句をいいに来たんだぞ。一体、君たち警察は何をしとるんだ。考えてみてくれ! わしはもう、手持ちの帽子を全部なくしてしまったぞ。古い帽子を先週わしの娘が、執事に下げ渡してしまった。だいぶ汚れおったというんだ。そこで、新しいのを二つ──トップハットとホンバーグ帽〔つばが巻上がって山の中央がくぼんだフェルト帽〕とを新規に買ったんじゃが、土曜日の晩に、帽子気ちがいめが、トップハットのほうを盗みおった。今日の午後はホンバーグ帽のほうが持って逃げられた。わしはもう腹が立って、腹が立って、どうにもならんというのも無理はあるまい」
給仕が盆を持って現れた。卿はじろりとそれを見て、
「おお、ウィスキーか。ソーダ水をちょっと入れてくれ。ああそれでよし……わしの娘に、帽子を盗まれた話をしたら、なぜ追っかけなかったかといいおるんじゃ。馬鹿なことをいうやつじゃよ。わしに追っかけろというんじゃ! 追っかけたところでどうなるんだ。あれもいいかげん馬鹿な女じゃよ」
口に泡を飛ばせてわめき立てていたが、やっと腰をおろして、酒のグラスを取りあげた。ランポウル青年は、黙ってその様子を見つめていた。卿のはげしい気性は、世間の噂で知っていた。右翼の新聞には、しばしば卿の経歴が報道されていた。十八歳で呉服屋に奉公したのから出発して、四十二歳には下院の領袖《りょうしゅう》にまでのし上がっていた。しかし、そのいっこくな性格がわざわいもして、某内閣の軍備拡張計画を立案したのを、その華やかな政治経歴の頂点として、はやくも政治的生命を失った。戦後に起った反動から、軍術縮小が一般世論となった後も、依然としてイギリス大海軍論を堅持していたのが、その失脚の原因であった。その代り熱狂的な愛国者たちからは、いまもなお、偶像のような眼で見られていることも事実である。彼の演説は、つねにドレイク提督〔スペインの無敵艦隊を撃破したエリザベス朝の提督〕の言葉を引用し、往年七つの海に覇をとなえた大英帝国を賛美しては、歴代の軟弱外交を攻撃してやまぬのであった。
とにかく、華やかだった彼の政治的経歴は、終戦とともに終っていた。四十五歳を過ぎたばかりの彼は、政界からの引退を余儀なくさせられた。そして、いまランポウルの眼前に現れた彼は、すでに七十の坂を越えているはずなのだが、なおかつ、その元気は矍鑠《かくしゃく》として壮者を凌ぐものがあった。精悍な風貌も、骨太の体格も、とうてい老人のものとは思われなかった。カラーから飛び出ている長い頸、不気味なほどするどい碧眼《へきがん》、指先は休みなく、いつも何かをたたいていた。額は高く秀いでて、白くなった眉毛は口髭のように太い。くちびるが薄くてよく動くのは──雄弁家の証拠であろう。
急に卿はグラスをおくと、眼を据えてフェル博士を見つめて、ぶっきら棒だが、歯切れのよい口調でしゃべりだした。
「失礼しましたな、フェル博士。さきほどあんたの名を伺ったが、ついうっかりしておったですよ。あんたは高名なギディオン・フェル博士でしたな。お目にかかりたいもんじゃと、以前から考えておったところです。なにしろあんたの名前は、イギリス怪奇小説史上、欠くべからざるものじゃからな。それにしても、この忌々《いまいま》しい帽子事件は──」
ハドリイ警部は、いそいで彼の言葉をさえぎるように、
「帽子の件でしたら、われわれはすでに全部の情報を握っているつもりです。しかし、卿も御存じとは存じますが、表面に現れたところでは、ただ帽子が盗まれたというだけのことでして、警視庁として取りあげるほどの事件ではないのです。それにしても、何かこれには、複雑なものがひそんでいるように思われますので、フェル博士の御出馬を願ったところなんです。いまここで詳しいお話をしている余裕はありませんが、博士にはこれまででも、度々御尽力を願っているんです。私たちは警視庁の者だからといって、局外者の手腕を認めないような、そんな狭量ではありません。ことにこの事件は、博士の領分と思われますので……」
警部は苦悩の色をかくさなかった。ふといため息を洩らしてから、先をつづけた。
「それにまた、いわゆる犯罪捜査専門家としてのわれわれの知識が、それほど完璧なものだとも自惚れておりません。たとえばです。卿にここでお会いするまでは、帽子事件についての情報は、全部私の手元に集まっていると信じていました。ところが、いま伺えば、第二の盗難は、原稿の盗難と何かの関係を持っているように思われます。その原稿の話は、正直に申上げて、いままで全然知らなかったところなんです」
ウイリアム卿は、何か言い出そうとしたのか、頬の筋肉をピリピリと動かしたが、それだけでまた沈黙してしまった。
「わしはさっきから」と、フェル博士は給仕に、からになったグラスを指さして催促しながら言った。「気がついておったですよ。この帽子騒ぎは、学生のいたずらにしてはあくどすぎる。もっと深いわけがあるにちがいないってね。頭の可怪《おか》しな連中は、他人の帽子を蒐集してみようという気持を起さんものでもない。巡査のヘルメット、弁護士の鬘──そういった一風変った冠《かぶ》りものを集めて、友人仲間に得意がってみせる者もおるでしょう。わしがアメリカで教鞭を取っておったころだが、学生のなかに、よく似た癖のやつがおりましたよ。看板だの、標識だのを、ずらっと部屋中に並べ立てておるんです。なあ、ランポウル、そうだったな」
ランポウル青年はうなずいた。
「そうでした。びっくりするほど沢山集めていました。そのうちの一人は、賭をしましてね。ブロードウエイと四十二番街の交差点で、交通標識をまっ昼間奪ってみせると言うのです。そして、まんまとその賭に勝ちました。作業服を着ましてね、ペンキを入れたバケツを片手にぶらさげ、梯子を抱えて、現場に出かけていったのです。堂々と梯子を柱にかけましてね、標識のネジをはずして、悠々と持ち去ったのです。何百人という人々が歩いていたのですが、ひとりとして怪しむ者はなかったそうです」
「蒐集狂ってのは、そうしたものだ」と博士はつづけた。「だけど、こんどの場合はちょっとおもむきが違うようだ。ただの蒐集狂の仕事とも思われん。帽子を盗んでも、かならずどこかへ飾っておく。わざわざ人目につくようにしましてな。これは、たしかに何かの意味がひそんでいる。特別の説明が必要と思われるな」
ウイリアム卿は、うすい唇に冷たい微笑を浮かべながら、若いランポウルと茫漠とした博士の顔とを見つめていた。しかし、その双眼には、つよい打算の光がきらめいているように思われた。
「なかなか奇抜な御意見じゃ。しかし、まじめにそう考えておられるのかな? 稿本がいくら貴重だからといって、それを盗む目的で、まず以てロンドン中を駆けまわって、帽子を盗んで歩きおる必要もあるまいが……まさか、わしが貴重な稿本を帽子に入れて持ち歩いておるわけでもなし。それに、稿本のほうは、わしの帽子が盗まれるよりも数日前に失くなっておるんじゃ」
フェル博士は、駿馬のたてがみのような房々した頭髪を掻きあげながら考えていたが、
「帽子々々と繰り返されるんで、話がちと混乱して来ましたな。さきにひと通り、盗難にあったという稿本のことを御説明願いましょうか。何の原稿ですか、どういう経路で手に入れられたか、そしてまた、盗難にあわれたのはいつのことですか? まさか、コルリッジのクーブラ・カーン〔コルリッジ作、五十四から成る夢幻詩、未完成である〕の続稿を発見されたというのでもないでしょう?」
相手はつよく首を振った。それからウィスキーを一息に飲み乾して、背を壁に凭《もた》せると、フェル博士の顔をじっと見つめた。重たげなまぶたの下で、するどい眸がキラッと光った。とみると、得意そうな表情が顔いっぱいに溢れて来て、うれしそうな言葉が飛び出した。
「ではお話するとしようか。あんたの人柄はハドリイ君から聞いておるから安心して、秘密話を打開けよう。わしがこの貴重な稿本を発見したことは、世界ひろしといえど、たった一人──いや、二人じゃな。二人だけしか知らぬことなんじゃ。一人はもちろんわしさ。あとの一人は、鑑定してくれた男だ。その名前はあとで話そう。とにかく、わしは大発見をしたんじゃよ」
ただでさえ骨ばった顔が、一段と緊張を増した。文人の草稿とか初版本とかに、こうまで狂気じみた熱情を燃やす人種に対面したのは、若いランポウルにとってははじめての経験だった。呆気にとられたように、彼は卿の横顔を凝視していた。
「わしが掘り出したってのは」と、ウイリアム卿は繰り返した。「エドガア・アラン・ポオの原稿なんだ。しかも、絶対に未発表の小説じゃ。わし自身と鑑定した男のほかは、ポオ以外に、見たことも聞いたこともないという代物なんだ。どうじゃ、信じられんほどのことであろうな」
語る彼の顔には、狂気にちかい喜びがみなぎっていた。口をあけずにくっくっと笑って、
「まあ、聞くがよい。この草稿は、ポオの作品としては、世間が知っているどれよりも以前のものじゃ。これも有名な話だが、『モルグ街の殺人』の草稿にしたって、屑箱のなかから発見されたというじゃないか。しかもこれは、あれよりはるかに上位にある作品なんじゃ。たしかに傑作そのものじゃよ。わしはそれを、偶然発見した。が、間違いなくほんものだ。ロバートソン教授が保証してくれた」
卿は坐りなおした。手で、磨きあげたテーブルを、原稿の皺でも伸ばすように、しきりと撫でている。その様子は、稿本蒐集家というよりか、質屋のおやじが質物を鑑定している格好に近かった。
「わしは決して、ポオの原稿を特別に集めておるわけじゃない。当然のことじゃが、この方面ではどうしても、アメリカの連中のひとり舞台になる。しかし、わしの手元にも全然集まっとらなかったわけでもない。ポオがウェスト・ポイントにおったとき、予約出版をしたアル・アーラーフの初版があるし、ボルティモアで編集しおった、南部文学通信も何冊かある。
では、掘り出しのいきさつを話すことにしよう。昨年九月のことだが、わしはアメリカまで、書籍漁りの旅行をしたんじゃ。そのとき、フィラデルフィアの蒐集家、マスターズ博士を訪問した。すると博士が、七番街とスプリング・ガーデン・ストリートの角に、ポオの住んでおった建物があるから、見物していったらどうだと教えてくれたんじゃ。わしはさっそく出掛けていった。むろん一人でな。そのときのことなんじゃ、このすばらしい幸運な拾い物をしたのはな。
貧民窟みたいなところだった。正面は変哲もない煉瓦造りで、裏手には干し物がいっぱいぶら下っていようという場所だった。ちょうど横丁の角に立っておる建物なんだが、近所のギャレジで自動車をバックさせようとして、エンジンを唸らせる音がしておった。建物は昔からちっとも変っておらん様子で、ただ隣家と正面を繋ぎあわせて、二軒を一軒に直してあったようにみえた。わしが行ったときは空家になっておって、手入れ最中のところじゃった。
横丁へ入っていくと、高い板囲いがしてあって、木戸がついておるんじゃ。なかは石を舗《し》いた庭で、枝をくねくねさせた木が、煉瓦のあいだから背を伸ばしておる。台所をのぞくと、むっつりした顔の職人が、封筒の上に何か数字を書きこんで計算しておった。玄関に近い部屋から、さかんにハンマーの音が聞えてくる……
で、わしはその職人に頼みこんだ。この家は昔、有名な小説家が住んでおったのだが、ひとつわしにも拝見させてもらえんかってな、すると男は、いたって無愛想な調子で、勝手に見物なさるがいいといったきりで、また計算に取りかかってしまった。
わしはなかに入っていった。君たちも聞いておるか知れんが、天井の低い、小さな部屋がいくつもつづいた建物じゃった。修理しておった部屋は、アーチ形の火格子を持ったマントルピースを挾んで、天井に届くくらい戸棚が並べてあった。うしろの壁には、壁紙が一面に貼ってある。ポオはこの部屋で、蝋燭の光をたよりに原稿を書いておったのじゃ。バージニアがそばでハープを掻き鳴らし、クレム夫人が馬鈴薯の皮をむいておった……」
ウイリアム・ビットン卿は、あきらかに自分自身の物語に陶酔して来た模様である。聴き手を意識して、その弁舌は生彩を放っていた。学者、政治家、香具師《やし》、それぞれの特徴が、彼の骨ばった顔つきににじみ出して、派手な身振りまで混じえて話しつづけた。
「職人たちは戸棚の配置を変えておるところじゃった」ここで卿は、一段と前に乗りだして、「ところがこれが相当の大仕事でな。戸棚を動かしたあとは、壁がひどく傷んでおるんじゃ。その上から壁紙を貼るような間に合わせでなく、全然新規に塗り直すつもりらしい。職人が二人、壁下地を毀《こわ》しておるところだ。モルタルが崩れおちる埃で、部屋中はもうもうと大へんな煙だった。そこで偶然、わしの眼にとまったものは──
君たち、一体何だと思うね。わしの体は、思わずぶるぶると顫え出したよ──壁下地の板のあいだから、薄い紙を縦に二つ折りにしたのがのぞいておるんじゃ。湿気でしみだらけにはなっておるが、わしにとってはまさに神さまの授けものじゃ。大体、この家の門をくぐったときから、わしには天啓のようなものが感じられた。職人たちが修理しておるのを見たとき、これはきっと、うまい掘り出し物があるにちがいないぞという気がしておったのじゃ。
白状するが、わしは夢中で、職人たちを押しのけて突進した。職人は驚いて、何だね、あんたは! と声をあげた。わしはそんなことはどうでもよい。一目でわかった。完全なほんものなんだ。君たちも知っておるじゃろうが、署名の下に、うねった線をくっきり引いてあるのが、ポオの原稿の特徴なんじゃ。しかし、ここが大切なところだ。めったに軽率に動けんのじゃ。この建物の所有者がどんな人物であるか知らんが、案外原稿の価値を承知しとるかも知れん。それにまた、職人に金を掴ませるにしても、うっかり大金を差し出せば、感づかれて、もっと要求される危険がある」
ウイリアム卿はにやりと笑って、「そこでわしはこう言った。昔この家に住んでいた男に、懐しい想い出があるんで、その記念にもらっておきたいんだ。さあ、十ドル提供するから、譲ってくれんかとな。わしは、これだけ気を使ったが、それでもやつらは気をまわしおった。埋もれた宝物の所在でも書いてあるのかと疑ったらしくて、おいそれと承知せんのじゃ。ポオの亡霊にでも聞かせたら、さぞ喜びそうな話じゃないか」
ウイリアム卿は腕を伸ばして、口のなかでくすくすと笑った。
「で、やつらは、御丁寧に原稿に眼を通しおった。わしははらはらしながら見ておったが、どうやらこいつは小説らしい。しかも、むやみに長たらしくて、むずかしい文句ばかり出て来おる、退屈きわまる作品だと思ったらしくて、二十ドルで手を打ちおった。わしは原稿を掴むと、いそいでそこを逃げだしたよ。
知ってのとおり、現代のポオ研究の権威は、ボルティモアのロバートソン教授じゃ。わしは以前から知っておったので、さっそく発見物を見てもらった。もっとも、最初に彼と話し合って、どんなことがあっても、これから見せる物のことは、決して他言しないと約束してもらった」
ランポウルは警部の顔をうかがった。ウイリアム卿の話のあいだ、ハドリイは──退屈しているとまでは言わぬが、眉根にふかく皺を寄せて、かなりじりじりしている様子だった。で、卿の話が一段落つくと、すぐにハドリイが言った。
「ですが、なぜそれを秘密にしておかれたのです。所有権が、完全にあなたの手に移るかどうかは疑問としても、発見者として、優先的に買取りを主張する権利があるはずです。第一、こんな大発見を、黙って澄ましている法はないでしょう。世間に公表したら、あなたの功績は、大喝采を博すにきまっているではありませんか」
ウイリアム卿はしばらく警部の顔を見ていたが、やがて頭を振って、
「君には判らんのじゃ。説明もしにくいことなんだが、要するにわしは、トラブルを起したくなかったのさ。この発見は大切に胸にひめておきたいんじゃ。ポオとわしとの二人だけの秘密としてな。ほかには誰も、見ていた者はおらんのだからな。どうじゃ? ますます以て、ポオにふさわしい話じゃないか」
卿は言葉に熱情が迸《ほとばし》って、顔色までが青ざめてみえた。もっと力強く表現したいのだが、適当な語彙が見つからないでもどかしいといった様子である。手だけが、しきりに空中に泳いでいた。
「いずれにせよ、ロバートソン教授は名誉ある学者じゃ。そのロバートソンが、決して他言はせんと約束してくれた。もっとも彼もやはり、君のように、公表せいと勧めてはおったが、わしは承知するはずがない──で、原稿を鑑定してもらうと、わしの見込みどおり、いや、それ以上のものじゃと判った」
「で、それは何でしたな?」フェル博士が、ややするどく訊いた。
ウイリアム卿はしゃべりかけたがためらった。二度目に口を開いたときは、咽喉《のど》のおくから、慎重な声をだした。
「ちょっと待った。君たちを信用せんわけじゃないが、どうやらわしは、初対面の方を前にして、すこししゃべりすぎたように思われる──いや、いや、気になさらんでいい。べつにわる気で言っとるわけじゃないんだ。原稿がどんなものかは、いままで話したことから判断がおつきじゃろう。で、まず以てお願いするが、この盗難事件で、わしのためにひと骨折ってもらえるかどうか、さきに、それを聞いておきたいんじゃ。それに、この話で、だいぶ時間を無駄にさせられたし──」
「無駄にしたとおっしゃっても、私たちは、お話を承っていただけなんですが──」
主任警部は、にやにやしながら、かるく抗議した。
そのとき不意に、フェル博士の顔に奇妙な表情が浮かんだ。軽蔑するというわけでもなく、茶化すというわけでもなく、もちろん退屈したわけでもない。いわばその三者がまぜ合わされたといったものだった。眼鏡をかけなおして、勲爵士《ナイト》をじっと見据えた。
「しかし、ウイリアム卿。盗難事件は伺いましたが、誰が怪しいかはまだお話しくださいませんな。容疑者の心当りはないんでしょうか?」
ウイリアム卿はあると言いかけたらしいが、あわてて言葉を濁した。
「盗まれた場所は、バークレイ・スクエアのわしの邸じゃ。盗難の日は、ええと──今日は月曜じゃから、土曜の午後から日曜の朝にかけてのことだ。もうすこし詳しく説明しようか。
わしは、寝室の隣りの部屋を書斎に使っておる。むろん二階でな。元来の書斎と図書室は階下にあって、わしの蔵書の大部分はそこにおいてある。で、土曜日の午後、わしは二階の書斎で、例の原稿を検《あらた》めておったのじゃが、それをそのままそこへ置いて外出した」
「お部屋に鍵はおかけにならなかったのですか?」
と、ハドリイ警部は尋ねた。彼にはまた、職業意識が働きだしたとみえる。
「いや、原稿のことは、誰にも話しておらんのじゃから、べつに用心する必要を感じなかった。薄葉紙《うすようし》に包んで、机の引出しに入れといたんじゃ」
「御邸の方々は、どなたも御存じなかったのですね?」
ウイリアム卿は、頭をひょいと下げてみせて、
「問題はそこさ。わしの口からは言いにくいところだ。正直言って、誰がどこまで知っておるかは、このわしにもはっきり判らんのさ。すくなくとも、もっとよく調べてみるまではな。だけど、わしとしても、家族の連中だけは疑いたくないんだよ」
「ごもっともで──それで?」
「わしの家族というと、娘のシーラと──」
ハドリイ警部はちょっと眉をひそめた。そして、顔をテーブルから上げずに言った。
「いま私が申上げたのは、召使のことなのですが──」
と言ってから、顔をあげると、彼のおだやかな眼は、勲爵士《ナイト》のするどい眼つきと衝突した。
「──娘のシーラと、弟のレスター夫妻じゃ。家内の甥のフィリップはアパート住まいをしておるが、日曜日毎に、わしのところで晩餐をともにすることにしておる。家族といってもそれで全部。あとは、来客が一人宿泊しておる。アメリカの古書蒐集家ジュリアス・アーバア君じゃ」
ウイリアム卿は口を休めて、しばらく指のさきを眺めていたが、無造作に手を振りながら、話をつづけた。
「むろん、家族の者は、わしがアメリカから貴重な原稿を持ち帰ったことを知っておる。だけどな、それがどれほど貴重な宝物であるかはわきまえておらん。あの連中は、大体そういったものには関心を持たんのじゃ。また何か掘出し物をなさったぐらいにしか考えておらんのさ。しかし、そこはわしのことだ。おそらく、口を滑らしておるにちがいないんで、興味を持っておる者ならば、察しはついておると思うのだが、幸か不幸か、わしの家族には、そんな殊勝な心がけの連中は一人だっておらんのさ」
「でも、アーバア氏は?」
ウイリアム卿は、平静に言葉をつづけた。
「わしはむろん、アーバア君には見せてやろうと思った。あれは熱心なポオの初版本の蒐集家だからな。しかし、わしは止めてしまった。いまだに一言も洩らしてないんじゃよ」
「それで?」ハドリイ警部はさきを促した。
「さっき言ったように、土曜日の午後は、まず稿本をもう一度検めた。それも、昼すぎて間もない頃じゃった。それがすむと、ロンドン塔まで出かけていった」
「ロンドン塔へ?」
「わしの旧友のメイスン将軍が、ロンドン塔の副長官なんじゃ。最近彼は、秘書に手伝わして、塔の古文書を整理しておるんじゃが、非常に珍しい記録を発見したといって知らせて来た。なんでもエセックス伯ロバート・デヴェルウ〔エリザベス女王の寵臣、ロンドン塔で処刑された〕に関するもので、ぜひわしに見せたいといって来おったのじゃ」
「なるほど、それで?」
「塔から帰ると、一人で食事をとって、劇場へ出かけた。その間、書斎へは入らなかったし、劇場から帰ったときも、かなりおそくなっておったので、そのまま寝室に入ってしまった。盗難を知ったのは日曜日の朝じゃった。見たところ、外部から侵入した形跡は全然ない。窓はのこらず鍵がかかっておったし、何ひとつ、掻きまわされておる調度もない。それでいて原稿だけが、煙のように机の引出しから消えておるんじゃ」
ハドリイは耳たぼを掴みながら聴き入っていた。彼はフェル博士に眼をやったが、博士も胸に顎を埋めたまま、一言も聞き洩らすまいとしているようだった。
「引用しに鍵は?」ハドリイは訊いた。
「かけなかった」
「お部屋は?」
「いつだって鍵などかけん」
「それから、どうされました?」
「執事を呼んだよ」ウイリアム卿は、骨ばった指でこつこつとテーブルを叩きだした。幾度も長い首をひねってから、言葉に迷いつづけた。「打明けていうと、わしも最初は、この男を疑った。新参者でな、雇い入れてから、まだ三月にしかならんのだ。この男ならば、わしの部屋へも自由に入れるし、誰にも疑われずに、調度に手を触れることも出来る立場じゃ。しかし、考えてみるに、いたってまじめな性質で、犬のように忠実そのものの召使なんじゃ。それに、それほど機敏に立ちまわれる男でもない。職務以外にはさっぱり頭の働かん様子だから、ポオの原稿をどうするなんて、そんな才覚のあるはずはないんじゃ。わしはこれで、人物を見る眼は、自慢できるくらい確かなものと自信を持っておる」
しかし、ハドリイ警部がわきから口を出した。
「誰もがそうした自信は持っているものでして、それで結局、われわれが苦労する結果になるんです」
「君はそういうが、この場合は確かじゃぞ。わしの自信に誤りはなかった。彼を雇い入れたのは、娘のシーラなんじゃが、この男は、故サンディヴァル公爵家で、十五年の間、大過なく勤めあげたんじゃ。わしは念のために、昨日サンディヴァル公爵夫人にお会いしてみた、そして、事情を打明けて伺ってみたところ、そんな嫌疑など、夫人は一笑に付せられた。マークスにかぎって、絶対にそんなことはないと言われるんじゃ。実際、わしが最初尋問したときは、こちらも怪しい眼で見ておったせいか、彼もすっかり取り乱して、返答もしどろもどろの様子じゃったが、それもいまから考えると、元来まじめ一方の、愚鈍にちかいくらいの男じゃから、わしの剣幕に動転しおったのであろう」
「そのとき、執事のマークスは、どんなことを言いました?」
「べつに大したこともしゃべらなかった。第一、わしはあの男に、これが重大事件なんじゃと呑みこませるのに骨を折ったくらいじゃ。失くなった原稿が、かけがえもない貴重なものだということは、ああした手合いには理解できんらしいのさ。その点、ほかの召使もおなじことだが、要するに、わしはあの連中を疑いたくない。どれもこれも、むかしから忠義一途に勤めてくれたやつらでな、わしのほうでも、ひとりひとりの身の上まで心得ておるくらいなんじゃ」
「次に御家族のその日の行動は?」
「娘のシーラは、土曜の午後中、外出しておった。一度もどっては来たらしいが、これもほんのちょっとの間で、すぐにまた出ていった。婚約中の男と晩餐をいっしょにしたのだそうだ。ついでに言っておくが、娘の婚約者というのは、さっき話したメイスン将軍の秘書でな(ウイリアム卿は不自然なほどあわてて付け加えた)ダルライという青年だが、実に娘に好い相手なんじゃ。
ええと、なんの話をしておったかな? そう、そう。当日の家族の行動じゃな。弟のレスター夫妻は、西部地方の友人を訪問して、旅行中だった。翌日の日曜日になって、やっと帰って来たくらいのものじゃ。フィリップ──甥のフィリップ・ドリスコルにしても、やはり日曜になって、始めてやって来たので、それまでは姿も見せなんだ。つまり、原稿の紛失した時刻には、怪しいことは何もなかったというわけになるんじゃ」
「でも、この──アーバア氏はどうなんです?」
勲爵士《ナイト》は、しばらく両手をこすり合わせて考えていたが、やっと口を開いた。その調子は、故意かどうか知らぬが、売立の目録でも読みあげるように、驚くほど抑揚に乏しいものだった。
「この男は、とにかく典型的な蒐集家じゃよ。蒐集は熱狂的だが、そのほかのこととなると、出しゃばるのは一切嫌い。そのくせときどき、ピリリッとわさびのきいた言葉を吐く。つまり学者によくあるタイプなんじゃ。
年齢はまだ若い。四十を出たか出ぬかというところでな──ええと、なんの話だったかな? そう、そう。アーバアのアリバイだな。正直なところ、彼はわれわれの眼が届くところにはいなかった。アメリカの友人から、週末に田舎へ招待されたそうで、そちらへ出かけておった。土曜に出発して、戻って来たのは今朝なんじゃ。しかし、旅行しておったことには間違いない。わしはさきほど、長距離電話で確かめておいたのじゃ」
ランポウル青年は思った。やれやれ御念のいったことだ。しかし、彼はまたこうも考えた──それも無理のないことだ。生命にも代えがたいほど貴重な品を奪われたのだから、外部の者とあれば、誰をも一応疑ぐってみたいであろう。たとえ、彼同様にまじめ一方の書籍蒐集家であるにしても──むしろ、その場合はなお更であろう。しかつめらしい顔をした紳士たちが、子供が玩具に夢中になるように、古ぼけた原稿を追いまわしている姿を想像すると、思わずランポウルの顔には、苦笑の翳《かげ》が浮かぶのだった。が、そのとたんに、ウイリアム卿の冷たい視線を浴びて、あわてて彼は、笑いを噛み殺した。
「それにわしは、こんな問題でスキャンダルを起したくない。そこで、ハドリイ警部、君に会いたかった。事情というのは、こうしたわけさ。ごく単純な盗難事件のようだが、それでいて、いざ手掛りとなると、皆目何も見当らんのじゃ」
ハドリイ警部はうなずいた。腹のなかではしきりと考量しているようだった。
「その点、ウイリアム卿」と、警部はフェル博士を顎で示していった。「御運がよろしいですな。ちょうどフェル博士が、わざわざ上京されたところでした。博士のお力さえお借りできれば、犯人を捉えられることは眼にみえています。この言葉が誤りならば、私は即刻、警視庁を辞職いたしましょう。しかし、ウイリアム卿。その代りに、私のほうにも、卿にお願いがありますので──」
「わしに頼みがある? ほほう、何じゃな? まあ、よい。筋の通ったことなら、なんなりと聞くとしよう」
「御甥さんのことですが──ドリスコル君のことです」
「フィリップか? うん、あれがどうかしたのかな?」
「新聞社に勤務しておられますな」
「それはたしかに勤務しておる。だが、一人前の新聞記者とは言えんさ。見習いとでも言っておくかな。あれを新聞社に入れるについては、わしもずいぶん骨を折ったもんじゃ。だけどな、ここだけの話じゃが、このあいだ、古参の記者たちに会ったら、フィリップの批評を聞かされたよ。どうにか記事を書くには書くが、肝心の新聞記者的センスが欠けておると言うんじゃ。ハーボットル君の批評なんか、もっとも辛辣じゃったよ。おそらくドリスコルは、セント・マーガレット寺院の前を通りかかって、白米が一インチも撒かれておるのを見たにしても、なかで結婚式が行われておることには気がつくまいと言うんじゃ。ハッハッハ。それでいまだに、きまったポストも与えられておらんのじゃそうだよ」
しかし、ハドリイ警部は、顔の表情も動かさずに、テーブルの上の新聞紙を取りあげた。ちょうど口を開こうとしたところに、給仕がそばへ駆けよって来て、その耳もとで何ごとかささやいた。
「なに?」主任警部は叫んだ。「もっと大きな声で言え!……うん、ハドリイはおれだが……そうか、判った」
彼はコップを乾して、顔をあげた。
「おかしなことです。私は役所に、用があってもしばらく呼ぶなと言いおいて来たのですが──ちょっと失礼します」
「何ごとだな?」
フェル博士は瞑想から呼び戻されたように、眼鏡越しに、眼をパチパチさせて訊いた。
「電話だそうです。すぐに戻ります」
ハドリイは給仕といっしょに出ていった。あとは沈黙がつづいた。いまの警部の眸には、ランポウルの胸にまで、奇妙な不安をかき立てさせるものがあった。若いアメリカ人は、ウイリアム卿の顔を見た。イギリスの老貴族も、おなじような不安に駆られている面持ちであった。
二分と経たぬうちに、警部は戻って来た。咽喉のあたりが異常に緊張している。といって、べつにいそいではいなかった。いつものように落着いた足どりなのだが、タイルの床を踏む音が、不思議なほどに甲高く響いた。輝かしい灯火の下に、彼の顔は不気味なほど青ざめていた。
酒場の前で、彼はバーテンに何かいいつけて、それからテーブルに戻って来た。
「みなさんに、もう一杯ずつ、注文して来ました。ウィスキーです。閉店時刻まで、まだ三分あるそうです。お飲みになったら、ここを出ましょう。そして、恐縮ですが、私といっしょにお出でを願いたいのです」
「行くって、どこへだ?」ウイリアム卿が言った。
ハドリイは黙っていた。給仕が飲物を運んできた。
「さあ、みなさん、乾杯!」
ハドリイは叫んで、いそいでグラスを飲み乾した。ランポウルはまたしても、不気味な雰囲気があたりに拡がって来るのを感じた。
「ウイリアム卿」ハドリイは、しずかに相手の顔を見つめて言った。「お驚きにならんようにお願いしたいのですが──」
「何ごとだね?」
老貴族は訊き返したが、もはやグラスに手を出そうともしなかった。
「私どもは、いましがた、御甥さんのフィリップ氏の噂をしていました」
「それがどうかしたのか? はやく言ってくれ、あれがどうかしたと言うのか?」
「申し上げにくいことですが、フィリップ氏は亡くなられました。死体がロンドン塔で発見されたのです。状況からみて、殺害されたものと考えられます」
磨きあげたテーブルの上で、ウイリアム卿の手にしたグラスが音を立てた。うつろに見はった眼だけが、ハドリイの顔に釘づけになって、動かなかった。息も止まったと思うように、卿は動かなかった。長い沈黙のあいだ、街を行く車の警笛だけが耳についた。
卿の腕は、いまだにこまかく顫えている。グラスを手から離さぬために、絶えずそれがテーブルの上で鳴っていた。しばらくして、やっとの思いで、彼はひと言だけ言った。
「わしは──わしの車が待たせてある」
ハドリイがそれにつづけて、
「冗談事だと思っていたのですが、怖ろしい殺人事件にまで発展しました。ウイリアム卿、フィリップ氏はゴルフ服を着ておられたのですが、その頭に、あなたの盗まれたトップハットが載せてありました」
三 逆賊門の死体
ロンドン塔──
白塔《ホワイト・タワー》の上には、三匹の獅子を描いたノルマンの旗が、ウイリアム征服王このかた、はたはたとはためきつづけている。カーンから切り出す石を畳みあげた城壁は、いまもなお灰白色の影をテムズの流れに落している。土地台帳《ドゥームズディ・ブック》の作成に先立つ千年の昔、ローマの兵士たちはここに歩哨に立ち、ジュリアス・シーザー塔の上から、夜毎の時を呼ばわった防塞の跡である。
内外の城壁に囲まれて、十四エイカーの高みに、灰色に拡がった城砦。周囲に濠を繞《めぐ》らしたのは、リチャード獅子王の治世である。黒鉄の甲冑に猩々緋《しょうじょうひ》の陣羽織、歴代の王者の馬上姿が見られた日はすでに遠い、ヘンリイ八世もエドワード鉄槌王も、一度は華やかな姿をこの舞台に登場させた。エドワード三世が貴婦人のために靴下止《ガーター》を拾ったのもここだ〔ガーター勲章の由来〕。トマス・ベケットの亡霊は〔カンタベリイ僧正、ヘンリイ二世との確執に暗殺さる〕、いまもなお聖トマス塔を徘徊するという。城内の広場では、騎士たちが武技を競いあった。ウイリアム大|広間《ホール》には、連夜、宴《うたげ》の灯火が照り映えた。|濠沿いの道《ウォター・レイン》には、八百年の陰惨な歴史が翳を垂れている。数多い塔櫓《とうやぐら》の名を口にすれば、弓箭《きゅうせん》の叫びと軍馬のいななきとが、いまだに耳もとに轟くことであろう。
ロンドン塔とは、宮殿であり、城砦であり、そしてまた牢獄であった。チャールズ・スチュワートが、その長い亡命生活から王座に復帰するまで、ここは国王の宮殿であり、今日もなお王室の所有物であることに変りはない、往時馬上試合の行われたウォターロー兵舎では、日夜、嚠喨《りゅうりょう》と喇叭《ラッパ》の音が轟きわたり、近衛騎兵《スパー・ガード》の軍靴が高らかに鳴りひびく。緑の芝生、立木の陰には、噴水がキラキラと水を吐き、鴉《からす》の群が舞い下りる。とはいえ、この広場こそ、かつては眼隠しをされた男と女が、何段かの階段をしずかに登って、首斬台に首を据えた場所なのである。
曇ってうすら寒い日には、テムズ河から煙に似た霧が這いのぼって来る。靄《もや》というほどうすくはない、霧というほど重くはない。が、その煙霧に包まれると、車馬の響きも間遠にかすみ、円塔の胸壁もおぼろに消えてしまう。河面を航行する船の汽笛が、悲鳴に近い響きをこだまするばかりだ。
空濠を取り巻く鉄柵が、牢獄の歯を思わせて異様な感じを与える。塔丘《タワー・ヒル》の裾を囲む灰色の城壁は、わずかな窓をのぞかせているものの、それも糸のように細い隙間にすぎず、外部を完全に遮断している。古来、このなかに起った数々の悲惨事──幽囚中の幼き二王子が、ランプの光の下で絞殺されるさまも〔リチャード三世、その甥に当るエドワードとその弟を弑《しい》す〕、襞飾りを襟に、鳥毛の帽は華やかだが、顔色は蒼白に変ったウォルター・ローリー〔エリザベス女王の寵臣、武人にして歴史家〕が、ひとり淋しく城門を潜る姿も、血塔《ブラッディ・タワー》の地下深き窖《あなぐら》に、毒を盛られたトマス・オウバーベリイ卿〔十七世紀の著述家、レテイ・エモックスの結婚に反対し毒殺される〕が苦しむ様子も、すべてみな、われわれの想像に残されているのみである。
ランポウル青年は、以前一度ここを訪れたことがある。まだ暑い盛りの頃で、城壁のなかには、木々の茂みや庭草が、緑の光を燃え立たせていた。しかし、今日はすっかり情景が異なっているはずだ。ピカデリイ・サーカスからロンドン塔まで、ウイリアム卿の車が走るうちにも、彼の幻想は次第に陰鬱の色を濃くしていった。
後日、振り返って考えると、スコット料理店でのハドリイ警部の言葉には、ぞっとするような怖ろしい意味が含まれていたのだ。ロンドン塔で人がひとり殺されていたというだけには止まらなかった。ゴルフ服を着た死体の頭に、誰か知らぬが、悪魔の手が、ウイリアム卿のトップハットを載せていたのである。盗んだ帽子を、馬車馬の耳に、電柱の上に、ライオン像の頭にと、次々に人目に曝しておいて、最後にもっとも怖ろしい場面に利用したのだ。若い学生の気まぐれか、冗談半分のいたずらぐらいに考えていたものが、急転してグロテスクな舞台に、重大な役割を持って登場することになった。ロンドン塔の歴史を背景にして、シルクハットで死人の頭を飾るほど、この怪奇な盗難事件の仕上げとして適切なことはないではないか!
目的地にはいつ到着するとも思われなかった。ウェスト・エンドでは、まだそれほどの霧とも思われなかったが、河に近づくにつれて次第に濃くなっていって、カノン・ストリートを通る頃には、前を行く人々の姿も見定められぬくらいになった。ウイリアム卿の運転手は、充分注意して車をすすめていた。うしろの座席では、ハドリイ警部とフェル博士のあいだに挾まれて、ウイリアム卿が暗い顔をみせていた。帽子のない腹立たしさを紛らすためか、やけになったように襟巻を首に巻いて、両手で膝頭をぐっと掴むと、半身を前に乗り出していた。ランポウルは狭い補助席に坐って、車内灯のうす暗い光が、ぼんやりと卿の顔を照らし出しているのを眺めていた。
ウイリアム卿は、ときどきふとい溜息をついた。
「何かしゃべっていないではやりきれんですな」フェル博士から口を切った。「もっとも、ハドリイ君としては、殺人が起ったと聞いて、却って元気づいたかも知れんがな──これでそろそろわしのほうは用ずみになるだろうね?」
「とんでもない。これから先が、ますます先生を必要としてくるんですよ」
フェル博士は頬を膨らませて黙りこんだ。前に突いたステッキの握りに、肥った顎をのせて、黒のソフト帽がその顔に影を落している……
「そうだとすると、ウイリアム卿にもっと伺っておくことがありそうだな」
「では、訊きなさい。遠慮せんでもよいですぞ」
卿は前方の霧を見つめたままで言った。自動車ががたんと、大きく揺れた。ウイリアム卿は首を伸ばすようにして、さらに言った。
「わしはあの男を、ずいぶんと可愛がったものだった」
また沈黙がつづいた。車は狂ったように警笛を鳴らしつづけた。ランポウルの前の席では、三人の背が踊っていた。
「そうでしょうな」フェル博士が気の毒そうな声を出した。「ハドリイ君、電話では、どんな話でした?」
「報告は簡単なものでした。青年が胸を刺されて、死んでいるというのです。ゴルフ服を着て、ウイリアム卿の帽子をかぶっている。それ以上は聞いておりません。電話は警視庁《ヤード》からで、私の手元にまわってくるのは管轄違いなんです。これは地区警察が扱う事件でして、われわれ警視庁の人間としては、特に地方警察から援助を懇請されるか、本庁として介入する必要があると認めた場合でなければ、出動することはできないのです。しかし、この事件は──」
「どうだというのじゃ?」
「予感があったのです。あの馬鹿々々しい帽子騒ぎは、ただのいたずらだとは思えなかったのです。私は部下に命じておきました。帽子騒ぎの件で、地方警察から新しい報告が届いたら、どんなことでもよい、アンダース巡査部長を通して、すぐに知らせろと言っておいたのです。私の命令を、つまらぬ取越苦労だと、部下は笑っていたようですが、やはり予感は当りました。それにしても、もう一歩進めて、本格的な調査を始めておかなかったのが手落ちでした。(彼は口惜しそうな眸を、フェル博士に投げて)しかし、先生には申上げておきましたね。私は決して自分の力を過信していないってことを──いずれにしても、先生に来ていただいて、仕合せでした。この事件は、今後、私が担当することにいたします」
「それは結構だ。だが、その帽子がウイリアム卿のものだと、どうして塔の連中に判ったのかな?」
「それはわしが説明できる」ウイリアム卿が体を乗り出して言った。「わしは晩餐に招ばれるたびに、帽子を間違えて困るんじゃよ。どれもこれもおなじようなトップハットが、ずらりと一列に並んでおってみたまえ。頭文字だけでは、はたして自分の帽子かどうか、なかなか見分けのつくもんじゃない。そこでわしは、礼装用の帽子には、裏側にビットンと金文字を打たせておくことにした。オペラハットやシルクハットにな。そうだ、山高帽にも入れておいた」
彼はやや上の空でしゃべっていたが、話のうちに、急に思いついたことがあるとみえて、口早やに言い足した。
「そうだ、うっかりしておったよ。あれは新調の帽子だった。ホンバーグ帽を買うとき、オペラハットのスプリングが傷んでおるのを思い出して、いっしょに買っておいたものだ。まだ一度しかかぶっておらん。あれは──」
彼は言葉をとめて、眼をこすってから言いつづけた。
「可怪しいな。君はいま、わしの盗まれた帽子という報告だと言ったな。うん、あのトップハットは盗まれた。それにちがいはないんだが、どうしてまた、それが──」
ハドリイ警部はいらいらする様子で、
「私が言ったのではありません。電話でそう言われただけなんです。しかし、報告によりますと、死体を発見したのはメイスン将軍だそうですから、それで──」
「ははあ」と、ウイリアム卿はうなずいて、鼻柱を指でつまみながら言った。「メイスンは日曜日に、わしの邸に来ておった。ひょっとすると、そのときわしは、その話をしておったかも知れんぞ」
フェル博士も、体を前に乗り出した。押し隠してはいるが、あきらかに興奮している様子である。
「すると、新しい帽子だったんですな、新調の?」
「そうじゃ、いま話したとおりさ」
「オペラハットは一度かぶっただけですか。盗まれたのはいつなんです?」
「ええと、土曜日の夜じゃな。劇場からの帰りがけに、ピカデリイからバークレイ・ストリートヘ曲る角じゃった。うっとうしい、蒸しむしするような晩でな、車の窓はみな開けておいた。あのあたりは街灯もまばらで、うす暗い場所なんだ。ええと、何の話をしとったのかな? そう、そう。土曜日の夜のことじゃな。ランズダウン・ハウスの前まで来ると、盲人らしい男が、鉛筆の皿か何か持ちおって、通りを横切ろうとしておるんじゃ。わしの運転手は、それをやり過そうとして、スピードをゆるめたと思いなさい。そのとたんに、物陰から、怪しい男が飛び出して来おったんじゃ。車のうしろの窓から手をさし入れて、帽子を掴むと、一散に駆け去りおった」
「あなたはそれで、どうなさいました?」
「何もしやせん。びっくりしただけじゃ。まったく面食らったよ。第一、空き車でもないのに、どうしてあんな乱暴な真似をしおったか──」
「その男を追跡しましたか?」
「追ったところでどうなるもんでもない。逃げるにまかせておいたよ」
「無理もありませんな」フェル博士が言った。「で、べつに警察にも届けなかったわけですな。その男は、どんな様子でした?」
「あんまり突然じゃったんで、何もはっきり憶えておらん。あっと思うと、もう姿を消しておった。癪には障るが、しかし、なんだ──」
ウイリアム卿は、眼を左右にやって警部と博士を交互に見やりながら、
「わしとしては、帽子などはどうでもよいんじゃ。可哀そうなのはフィリップさ。もうすこし増しな取扱いをしてやっておくべきだった。伜《せがれ》同然に目をかけてはやったものの、金銭の上では、ちょっと喧《やかま》しすぎたようじゃよ。小遣いはぎりぎりにしかやらんで、いつも叱言ばかり聞かしておった。お前みたいな役に立たんやつはないぞ。浪費はつつしまんけりゃいかん。手当はもっと減らしてしまうぞ、なんて言ってな、嚇かしてばかりおったもんじゃ。なぜあんなに煩《うる》さく言ったか、われながら自分の気持が判らんよ。わしはあの男の顔をみると、とたんに説教がしてみたくなるんじゃ。大体あれもわるいさ。金銭のありがたみなんか、全然考えてもみんで、無駄使いばかりしおったので──」
ウイリアム卿は、拳をかためて膝を打った。それから、ゆっくりと付け加えて言った。
「だがもう、その心配もなくなった。あれは死んでしまったんじゃ」
自動車は、煉瓦造りの宏壮な建物が立ち並ぶあたりを、滑るようにして走っていた。窓越しに見える街灯は、すっかり霧の天蓋におおわれて、青白い光をにじませている。一行の車は、マーク・レインを出て、大火記念碑の角を曲り、塔丘《タワー・ヒル》を下っていった。
霧はまったく深かった。ランポウルの眼にも、数フィート先は見えなかった。街灯もぼんやり曇って、テムズ河とおぼしいあたりからは、航行する船舶の鳴らしあう汽笛が、ひっきりなしに甲高い響きをこだまさせている。どこかで、荷馬車の轍《わだち》の音もする……
箱型自動車は、鉄柵のあいだの門をくぐって、城内へと走っていった。窓ガラスが霧に濡れているのを、ランポウルは丁寧に拭きとって、しきりに外をのぞいてみた。水のない濠が、白いコンクリートを舖きつめて、真ん中に近いところにホッケイの網が張ったまま忘れられてあった。
自動車路は左に曲って、木造建物の前を通った。たしかこれは、ランポウルの記憶では、切符売場と喫茶室のはずだった。城門の両袖には、低い円塔が蹲《うずくま》るように続いている。城門の下で、自動車は停止を命ぜられた。前立付の黒帽に、近衛騎兵の灰色の軍服を着た守備兵が、物陰からすっと現れて、胸元に銃を構えた。車は徐行して止まると、ハドリイ警部が飛び下りた。
するとつづいて、その薄明りのなかに、もうひとつの人影が現れた。短い紺の上着を、襟もとまでボタンを掛けて、赤と青の衛視《ビーフ・イーター》の帽子をかぶっている。
「主任警部のハドリイさんですか? 御苦労さまです。どうぞ、こちらへ」
言葉は丁重だが、軍隊式にテキパキとして、なるほど、話に聞いたとおりだと、ランポウル青年を感じ入らせた。ロンドン塔の守備兵は、古参の軍曹のうちから選ばれて、特に特務曹長に列せられているそうである。その行動に無駄な動作がないのは当然であろう。
ハドリイ警部も簡潔に訊いた。
「事件の担当者は?」
「衛視長です。副長官の御命令で担当しております。この方たちは?」
「私の同僚です。こちらはウイリアム・ビットン卿。手配はどんな工合です?」
相手は、ちらっとウイリアム卿を見たが、すぐハドリイ警部に向って、
「経過は守備隊長が説明いたしましょう。死体はメイスン将軍が発見されたのです」
「場所は?」
「逆賊門へ降りる階段の下と聞いております。御承知のとおり、守備兵は搭内警備の全権を持っておりますが、メイスン将軍から、あなたが被害者の伯父に当る方とお知合いと聞きまして、すぐに連絡を取ったわけです。地区警察には知らせてありません。あなた方の御到着まで、死体の管理はわれわれがいたしております」
「現場の処置は?」
「塔の出入りは一切禁じました」
「結構です。あとから警察医が参りますから、これだけは、入れるように御指示ください」
「承知しました」
彼は衛兵に、手短かな命令を残して、一行を案内して、塔内に導いた。
いま立っているのは中塔《ミドル・タワー》と呼ばれるところで、ここから空濠にかかった石の橋を渡ると、もっと大きな塔に通じる。そこは円形の陵堡で、外壁の入口にもなっている。暗灰色の石壁が、ところどころに白っぽい石も混じえて、左右に長々と走っている。強固な城郭を形作っているらしいが、いまは濃い霧に包まれて、入口さえ満足に見られない。
フェル博士、ハドリイ警部、ウイリアム卿と、兵士のあとに従った。ランポウルはあらためて身慄いを覚えた。彼の周囲は一変した。同時に中世であり、同時に現代である、不思議な世界に侵入した感じであった。
次の塔の拱門《アーチ》まで来ると、不意にもう一人の影が、またしても不気味に、霧のなかから浮かび上がった。やや小肥りの、姿勢のシャンとした男だ。両手をレインコートのポケットに突っこんで、ソフト帽を眉の下までひき下げてかぶっている。一行の足音が聞えたとみえて、近よって、霧をすかしてのぞいていた。
「やあ、ビットンもいっしょか? どうして判ったんだ?」
そう言いながら、ウイリアム卿の手をかたく握った。
「えらく世話をかけたようだな、メイスン。死骸はどこにあるんだ?」
相手の人物は、生薑《はじかみ》色の口髭に顎ひげをのばしていた。ひげの先端は霧で濡れていた。赤銅色の顔には、無数の皺が走って、するどく光る眼のまわりにも、深い溝がぐるりと囲んでいた。彼は首をちょっと傾けて、まじろぎもしない眼でウイリアムを見つめていた。がらんとした城内には、物音ひとつ聞えない。耳に入るものは、テムズ河の上で、曳船が鳴らす汽船の響きだけだった。
「この方たちは?」
握手の手を放して、やっと相手が訊いた。
「主任警部ハドリイ君、フェル博士、ランポウル君──こちらはメイスン将軍じゃ。ときに、メイスン。はやく死骸を見たいのだが──」
メイスン将軍は彼の腕を掴んで、
「知ってのとおり、警察が到着するまで、死体には手をつけられん。発見したところにおいたままじゃ。わしらの処置は間違っておらんつもりだが、どうですな、ハドリイ君?」
「仰せのとおりです。で、その場所へ御案内願えんでしょうか? もっとも、死体は警察医が来るまでは、そのままにしておかねばなりませんが──」
ウイリアム卿が、底い声でそっと言った。
「おい、メイスン。誰が──いや、どうしてこんなことになったのだ? 誰がやったんだ? こんなひどいことを──」
「そこまでわしに判るわけはないぞ。わしはただ、見つけただけさ。しっかりしろよ、ウイリアム! さきに一杯飲むとするか?」
「いらん、いらん。わしは大丈夫。しっかりしとる。どんなぐあいに殺されたんじゃ?」
メイスン将軍は、しきりに口髭や顎ひげを撫でていた。それが彼の内心の動揺を示す唯一の証拠だった。彼は言った。
「わしの見たところ、あれは大弓の鉄矢だな。胸に突きささって、矢尻が背中まで抜けておる──いや、余計なことを言ったな。凶器は大弓じゃよ。武器の陳列室によくあるやつだ。心臓をつき抜けておる。即死だな、ビットン。苦しみなんか、全然なかったと思えるね」
警部が口を出した。
「とおっしゃると、射撃されたことになりますか?」
「でなければ、短剣代りに突きさしたことになる。そう見たほうが当っておるかも知れん。まあ、ハドリイ君。あんたによく見てもらうとしよう。あとの処置は君に引き継いでもらわにゃならん──取調べには、衛視の詰所を使用されて結構ですぞ」
「参観人はどうしました? 勝手に帰らぬように命令を出されたと聞きましたが──」
「仕合せなことに、天気がわるかったので、参観人の数はすくなかった。それに、もうひとつ運がよかったことはだ。逆賊門の石段付近では、この霧がとくに深かったので、そこに人が死んでおるなどと、参観人のうちで気づいた者はおらんのじゃ。あの連中は、帰りがけに出口のところで足止めを食ったが、事故が起ったからしばらく待っておるようにと言われただけで、何のことやら判らぬままに、あんたの到着を待っておるんじゃ。もっとも、取調べが始まるまでは一応待遇には気をつけるように言っておいた」
彼はそれから衛視に向って命令した。
「わしはこの方々を現場へ案内してくる。あとは、守備隊長に頼んでおく。さっきダルライ君に、参観人の住所氏名を書きあげとくように言っておいたが、もう出来あがった頃じゃろう──さあ、みなさん、御案内させてもらおうか」
一行の前方には、石畳みの道が真っ直ぐにつづいていた。左手の大きなアーチの奥に、もう一つの円塔が、輪郭だけをおぼろに浮かべている。それを起点に、道路と平行に高い城壁が走っているが、その石壁がつまり内城の防塞にあたるのだ。城郭内にまた城郭があって、内城外城との二つに分れていることになる。右手には外城の壁がつづいて、その外はテムズの河岸である。内壁と外壁のあいだは、幅員二十五フィートから三十フィートの道路で、河に沿って城内いっぱいに走っている。その間ところどころに、青白い光がにじんで見えるのは、瓦斯灯が霧に濡れているのであろう。
内外二つの城壁に挾まれた石畳みは、一行の足音を大きくこだまさせた。右手で灯火が明るく輝いているのは、絵葉書を売っている部屋であろう。そこから衛視が覗いているらしく、前立付の帽子が大きな影を見せていた。その道を百ヤードほど行ったところで、メイスン将軍は足を止めて、右手を指さした。
「これが聖トマス塔。この下が、逆賊門になる」
名からして不吉な響きに満ちていた。塔そのものは、大きなアーチの上に建っているので、あまり目立つこともない。この長い石造のアーチがいわゆる逆賊門で、厚い壁のなかに暖炉を切ったように、不気昧な形を見せている。道路面からそこまで降りるために、十六段の幅広い石段がつづいている。階段の下は広い石畳みで、かつてそこは、テムズの河床だったのだ。逆賊門とは元来、テムズからロンドン塔に通じる水路の入口なのだ。往時は河波が、ひたひたと、石段のきわまで寄せていたものだそうである。城内に囚人を運ぶ護送船は、アーチを潜ってここに纜《もや》った。その当時の関門はいまも現存している。アーチの天井まで届く厚樫の扉がそれだ。舟を繋いだ鉄環もいまにそのままである。テムズ河の堤防工事が竣工して以来、この広い地域は空濠と変貌したのであった。
ランポウル青年は、最初ここを見物したとき、非常に強烈な印象を受けた記憶がある。その宏大なアーチも、あいにくの濃霧にかすんで、はっきりとは見てとれぬ。それを当時の記憶で補足しようとしたのだが、扉の上に備えられている、先端を鋭く尖らせた大釘が、地獄の歯を思わせるのを見るだけであった。いまは石段の下は通行が禁止されていて、降り口に頑丈な鉄柵が繞《めぐ》らされている。その下は、濃霧が渦巻いて、井戸のなかを覗きこんだようにけぶっていた。
メイスン将軍はポケットから懐中電灯を取り出した。衛視が一人、鉄柵のそばに立っているのを見て、懐中電灯の光で合図をした。
「お前は血塔《ブラディ・タワー》の入口を見張っておれ。誰も近づけるんじゃないぞ。さあ、諸君! わしが発見したものはこの下にある。鉄柵を越えて、降りてみなさるか? わしはさっき、一度降りて見たんだが──」
将軍は懐中電灯の光を、次第に石段の下に這わせていった。見ているうちにランポウルは、生理的な悪寒に襲われる感じで、霧に濡れた手すりを握って身をささえた。眼をつぶるか、顔をそむけるかすればよいのだが、それすらが、彼には出来なかった。胸をきゅっと緊めつけられたようで、鼓動だけがはげしかった。そこで、──ついに、彼は見たのだ。
石段を降りきったところに、それは頭を、右側に向けて倒れていた。石段の頂上から転げ落ちたようなかたちだった。フィリップ・ドリスコルの死骸である。厚手のツイードの上着にゴルフズボン。ゴルフ用の靴下、厚皮の靴という服装で、上着はむろん、大柄のチェック縞。生地の色は明るい茶と思われるが、びしょびしょに濡れしょぼれて、すっかり黒ずんでしまっている。といっても、一行の誰もが、それとはっきり見てとったわけではない。明瞭に眼にうつったものと言えば、メイスンの手が投げかける懐中電灯の光に、死体の左の胸のあたりで、鋼鉄らしいものが数インチ、にぶい光を反射させているだけだった。出血は少い模様である。
顔は彼等の方向をむいていた。心臓に太矢が刺さっているのを、わざと示しでもするように、胸をわずかだが反りかえらせていた。青ざめた蝋のような顔は、うすく瞼を閉じている。にぶく膨れあがった表情で、異様な帽子さえかぶっていなければ、それほど怖ろしいものと感じられずにすんだであろう。
このオペラハットは、石段を墜落するあいだにも、潰《つぶ》れないですんだとみえて、フィリップ・ドリスコルの頭には大きすぎるくらいの格好を見せていた。無理にかぶせたものか、無造作に載せただけなのかは判らぬが、眼のあたりまで垂れ下がって、両方の耳がわずかに|つば《ヽヽ》を支えているのが、何よりもグロテスクな感じだった。見るなりウイリアム卿は、あっと叫んだ。憤りの声というよりすすり泣きに近い叫びだった。
メイスン将軍は、懐中電灯を消した。
「見られるとおりだ」暗がりのなかで、将軍の声だけが響いた。「あまり帽子が不気味な格好なんで、わしは脱がせて、ひっくりかえしてみた。それで、所有者が知れたのじゃ。ハドリイ警部、降りて調べてみるかね。それとも、警察医の到着を待つとするか?」
「電灯を拝借させていただきましょう」
警部は口早やに答えて、懐中電灯を受取ると、ぐるりとあたりを照らしてみた。
「しかし閣下。どうしたわけで、こんな場所の死体を発見なすったのです?」
「それにもいろいろ話がある。まず、あの男が塔内に現れた時刻だが、午後そんなおそくない時間だった」
「正確には判りませんか?」
「なんでも、一時二十分過ぎぐらいらしい。そのときはまだ、わしも塔に帰っておらなかった。秘書のダルライが、市内からわしを自動車で運んでくれた。わしらが到着したのは、きっちり二時半だった。車が、|争訟の塔《バイワード・タワー》の下を通ったとき、兵舎の時計がボーンと鳴ったのを憶えておる」
将軍は道に沿って後方を指さして、
「あれがその争訟の塔じゃ。さっきわしがあんたたちに会ったところだ。それからわしらは、|濠沿いの道《ウォター・レイン》──つまりこの道なんだが──これを通って、ダルライはわしを、血塔《ブラディ・タワー》の木戸まで送ってくれた。ほら、あれじゃよ、この正面に見えるじゃろう」
彼らはみな、塔内のうすあかりを透してみた。血塔のわきで、内城の石壁に、木戸が大きく開いている。通路を隔てて、こちらの塔と向いあった形である。墜格子は吊りあげられたままだが、鎗のようにするどい歯がのぞいているのが見える。その先には、小高い丘がかすんでいて、小石を舗いた道路がそれにつづいていた。
「わしの居室は、内城のキングズ・ハウスのなかにある。で、わしは木戸をくぐって部屋へ戻った。ダルライは車をしまいに、|濠沿いの道《ウォター・レイン》を下っていった。そのとき、わしはふと、レオナード・ホールダイン卿に用があるのを思いだした」
「レオナード・ホールダイン卿?」
「宝器室の管理長じゃ。卿の居室は、聖トマス塔のあちら側でな、ちょっとその光を、そちらにむけてみたまえ。そう、そう、逆賊門のアーチの側じゃ。ちょうどその辺にあたる──」
その方向に、霧を透して、重い鉄張りの扉が、頑丈な石壁のなかに沈んでいた。
「あそこの階段をのぼると、礼拝堂があるが、それに向いあった部屋が、レオナード卿の住居になっておる。それでわしは、通路を横切って、この塔へやって来た。霧は深かったし、そのうえ雨まで降り出しておったので、このあたりはすっかり暗くなっておった。あの扉まで行くのに、わしは石段から踏みはずさんように、手すりを手で探って歩いておった。そのとき、わしは何の気なしに、石段の下をのぞいて見た。なぜそんな気になったのか、いま考えてみても、一向に解らんが、六感とでも言おうか、いまどきの者は、そんなことを言うと笑いおるが、これでわしのように、長年職場で、さんざん死骸の数を見てきた人間には、そうした予感が働くものとみえるのだ。とにかくわしは、石段の下を見下ろした。もちろん、何もはっきり見えたわけではないが、どうも見慣れぬものが蹲《うずくま》っておるようなんじゃ。わしは通行止の鉄柵をまたいで、足もとに気を配りながら降りていった。そこで、マッチをすってみると、あれが倒れておったのだ」
将軍の言葉は、おどろくほど冷静で、簡潔だった。話しながら、がっしりした両肩をしきりに揺すっていた。
「それからどうしました?」
ハドリイの質問など、一向に耳に入らぬように、将軍は説明をつづけた。
「あきらかに、殺害されておるようじゃった。どんな気丈な男にしても、自殺するのに、胸に鋼鉄の太矢を突き刺すなんて、考えられんことだからな。ことに、肩胛骨から背中まで突き抜くなんて、そんな真似はとうてい不可能じゃ。それにあんた、ドリスコルはあんなきゃしゃな小男じゃから、どうしたって自分でやれるわけはない……息が絶えてから、かなり時間が経っておるとみえて、体は冷たくなりかけておった。どんなふうにして、ドリスコルがあんな場所にはいりこんだか、それはほかの者に訊いてもらうとしよう。わしは、発見したいきさつだけを説明することにする。
で、そうやっておるところに、ダルライがギャレジから戻って来た。わしはすぐに彼を呼んで──と言って、そのときはまだ、彼には死人の身元は内緒にしておいた。ダルライはドリスコルの従妹のシーラ・ビットンと婚約中なんだから、びっくりさせまいというわしの配慮なんじゃで、わしはダルライに、いそいで衛視に、ベネディクト博士を呼びにやるようにいいつけた」
「ベネディクト博士と言いますと?」
「ここの衛戍《えいじゅ》病院長じゃ。そのあとで、白塔《ホワイト・タワー》にいって、衛視長のラッドバーンを呼ばせた。ラッドバーンはいつも、二時半まで、白塔《ホワイト・タワー》に勤務しておる。
で、わしはラッドバーンにいいつけて、すぐに城門の出入りを禁じて、誰もこの城内から立ち去らんように手配させた。ドリスコルが殺されたときから、相当時間は過ぎておるんで、犯人が逃げだす気なら、とうの昔に逃亡していよう。いまさら手遅れの処置とは心得ておるが、一応、打つべき手だけは打っておいたほうがよかろうと思ったんじゃ」
「ちょっとお待ちになって、メイスン閣下」とハドリイ警部は口をはさんだ。「外壁には、いくつ城門があるのです?」
「城門は三つじゃ。女王門は数える必要がない。この門はもともと出入りを許しておらん。主要な出入口と言うと、中塔《ミドル・タワー》の下の門、つまり、さっきあんたたちが通って来られたところじゃ。あとの二つは、テムズの河岸に面しておる。どれも、この|濠沿いの道《ウォター・レイン》を、ずっと先まで行ったところにある」
「どの門にも、見張りはついているのでしょうね?」
「もちろんさ。城門はすべて、守備隊の近衛騎兵《スパー・ガード》が配置されておる。そのほかに、塔の衛視もついておるんじゃ。
しかし、なんだな。手配前に立ち去った参観人の人相を調べ出すとなると大変なことになるじゃろう。なにしろ、一日にこのロンドン塔の城門をくぐる者といっては、何千人とおるんじゃからな。もっとも守備兵のうちには、退屈しのぎに参観人の品定めをして、悦にいっとる者もあるそうじゃが、あいにくと今日は、一日中霧が深かったし、おまけに肝心の時間には、雨まで降っておったことで、よほど人目を惹く人物でないかぎり、見咎められることは考えられんな」
「それは残念ですな!」ハドリイ警部はため息をついた。「それで閣下、どうなさいました?」
「わしのしたことかな? 大たいそんなところさ。ベネディクト博士は、わしの見解に同意を表された。博士の検屍せられたところでも、ドリスコルはわしが発見した時刻より、すくなくとも四十五分ぐらい以前に絶命しとるそうじゃ。それからさきは、あんたたちの知っとるとおりさ」
そこまで説明して、急にメイスン将軍は言い淀んだ。そして次のような、言葉をつけ加えた。
「ドリスコルが、今日の午後、この城内でなにをしておったか、その行動については、まことに奇怪な、信じられんような話があるんじゃ。あの青年が、気でも狂ったのか、それとも──いや、いや、ハドリイ君。さきにひとつ、君自身の眼で、死体を検めておいたほうがよかろう。あとの話は、衛視の詰所へ行ってからのこととしよう」
警部もうなずいて、フェル博士に向きなおった。
「博士、いっしょに降りてみますか?」
フェル博士は最前から、人々の背後に退って、黙々として将軍の説明を聞いていた。マントの背をせむしのように丸めて、巨体を持てあましたようにしている格好は、誤って山賊が塔内にまぎれこんだのではないかと疑わせた。メイスン将軍にしても、話のあいだに、幾度となく、刺すような視線を彼に浴びせていた。おそらく将軍は、黒いソフト帽を頭にして、黒リボンのついた眼鏡越しに、小さいがするどい眼に光を放っているこの偉丈夫が、一体いかなる人物であるか、そしてまたどういう因縁で、こんな場所に姿をあらわしたのかと、訝《いぶか》しがっているにちがいないのだ。
「やめておくよ」フェル博士は言った。「この鉄柵を越えるのは厄介なことだ。わしはそれほど身が軽くもない。それにまた、わざわざ降りていくだけのこととも思われん。まあ、君に委せておこう。わしはここから眺めておくつもりだ」
警部は手袋をはめると、鉄柵をまたいだ。懐中電灯の光で足もとを照らしながら、一歩々々、石段を降りていった。またしてもランポウルは、力いっぱい手すりを握りしめて眼を凝らした。青い外套に山高帽のハドリイ警部は、しずかに石段を降りきって、冷静な顔で死骸の前に立った。
最初に彼は、死骸に懐中電灯の光をあてて、その位置を確定した。手帳を出して、見取図を描き、それにいろいろと数字を書きこんだ。それがすむと、死骸の前にしゃがみ込んで、手足の関節を曲げてみたり、位置をすこし変えてみたり、手を死骸の後頭部に触れてみたりした。フィリップ・ドリスコルは、仕立屋のマネキン人形のように転がった。その次には、付近の敷石を、舐めるように入念に調べ、それから、死骸の胸に突き刺さった鉄矢を検《あらた》めた。磨きあげた鋼鉄製の丸棒で、弓のつるをつがえる矢筈はついていなかった。霧に濡れて、その肌は曇っていた。
最後にハドリイ警部は、例の帽子をとり除けてみた。生前は道楽者として知られていた青年が、みじめな顔をさらけ出した。あわれとも、愚かとも、言いようのない姿だった。額ぎわに、赤茶けた巻毛が、べったりとこびりついているが、ハドリイ警部は、それを除けてみようともせずに、トップハットのほうばかりを観察した。やがて、一通り調べがすんだとみえて、帽子を手にしたまま、ゆっくりと階段を登って来た。
「どうだったな、ハドリイ君?」
ウイリアム卿は、せきこんで、しゃがれたような声を出した。
鉄柵をまたいで、ハドリイ警部はもとの場所にもどると、しばらく一同の前に突っ立ったまま黙っていた。懐中電灯を消して、それを掌にピタピタとたたきつけていた。うす暗い場所のことで、ランポウルの眼には、その顔ははっきり映らなかったが、警部が外の通路を気にしていることはわかった。
テムズの河面に、霧笛がながい尾を曳いて鳴った。ランポウルは、ぶるぶるっと身慄いをした。
ハドリイ警部は、やがて口を開いた。
「メイスン閣下、あなたの衛戍《えいじゅ》病院長は、ひとつだけ見落しをしていられますね。ドリスコルの頭蓋骨には、底部に打撲傷があるのです。つよく殴打された痕かも知れませんが、私の見ましたところでは、殺害後に、石段を転落した際に受けた傷だと思われます」
主任警部は、そのあたりを静かに見まわしてから、言葉をつづけた。
「おそらく犯人は、ドリスコルがこの手すりのそばに立っているところを襲いかかったのでしょう。手すりはかなり高いほうですから、小男のドリスコルでは、腰よりももっと上にあったと思われます。いくら強く殴ったところで、手すりの向う側に殴り落されたとは考えられません。たぶん犯人は、殺害後に、あらためて抱えあげて、手すりの外に抛り出したのではありませんか」
警部は一語ずつ、考えこみながらしゃべっていた。その間、絶えずおなじ間隔をおいて、懐中電灯を掌にたたきつけていた……
「もちろんこれは、鉄矢を短剣代りに使って、胸を突き刺したものと考えていますが、一応念のためにその本来の用法どおり、矢づるから発射されたのではないかということも検討しておく必要があります。しかし、それはとうてい不可能です。むしろ、馬鹿々々しい考え方といってよいかも知れません。かりに大弓を使ったとすれば、犯人はどうしても、あの複雑な仕掛けを備えた中世の武器を担《かつ》いで、ロンドン塔を歩きまわらねばならなかったわけです。夢みたいな話です。空想以外にはあり得ぬことです。とすれば、犯人はなぜそんな凶器を使用したか?」
「彼はなぜ、帽子なんかを盗んだか?」
かたわらから、フェル博士が口真似のようにして言った。ランポウルの眼に、メイスン将軍の肩が、ぴくりと動いたのがうつった。気ちがいじみた疑問の雲を、何とかして払いのけようとしているらしい。しかし、ハドリイ警部は、フェル博士の声など耳に入らぬように、静かな声で説明をつづけた。
「霧の中のことです。短剣とか棍棒とかで、充分おなじ効果はあげられました。それにまた、この深い霧のことですから、すこし距離があれば、的を狙うなんて無理なことです。矢を心臓に命中させるなんて、考えられることではないのです。
そして、最後にこの帽子です……」
彼は小脇に抱えて来たトップハットを示して、
「何の目的があって、犯人はこのトップハットを、死人の頭にかぶせたのでしょう? ドリスコル君が塔にやってきたときは、こんな帽子はかぶっていなかったはずです」
「もちろんそんな帽子は」と、メイスン将軍が口を出した。「かぶっておらなんだ。中塔《ミドル・タワー》の守備兵も、衛視とおなじような証言をしておる。ドリスコルは鳥打帽をかぶって来たのだそうじゃ」
「その鳥打帽が、現場付近には見当らないのです。しかし、閣下。ここの城門を通る参観人はおびただしい数のはずですが、どうして衛視たちは、ドリスコル君に気がついたのですか?」
「顔馴染だからさ。すくなくとも衛視のほうは、顔さえ合わせれば、挨拶ぐらいする仲なんじゃ。守備兵のほうにしても、始終交代はしておるが、ドリスコルぐらいちょいちょいやって来れば、顔は覚えこんでしまうよ。なに? なぜそんなにドリスコルがあらわれるかと言うんか? それはこうだ。むろん、参観ではない。ダルライに会いに来るんじゃよ。あの道楽者は、これまでたびたび、苦境に陥るたびにダルライに救ってもらいおったんじゃ。今日来たというのも、おおかたまた、金に困ったからなんじゃろう。もっとも、今日来たときの様子は、衛視に訊いてもらおう。わしは直接、あれの姿を見たわけではないんじゃから」
「それで大体の様子は判りました。では次に、凶器の問題に移りますが、その前に、一応たしかめておきたいことがあるのです。
第一に、これだけは疑問の余地がない事実と思われますのは、死因は射殺にしろ、刺殺にしろ、凶行が行われた場所は、この石段付近だということです。凶行現場がほかの場所だとすると、こんなに大勢の衛視が見張っているあいだを、死体を担いで、ここまで運んで来ることになる。そんなことは、とうてい考えられません。それに、この階段付近は、身を隠すにはもってこいの場所です。おそらく巧妙に利用されたものと考えます。
しかし、不可能と思われることでも、一応調べておく必要がありますから、以下、順々に検討してみましょう。
(一)ドリスコルは大弓で射たれたと仮定する。
(二)その場合、死体が石段の下に倒れていたのは、弓勢が非常に強力であったため、射殺されたときのはずみで、被害者が手すりの外に転落したか、あるいはまた、殺害の後に、犯人がさらに死体を投げ下ろしたか、そのいずれかである。
(三)最後に、犯人はドリスコルの頭に、ウイリアム卿の帽子を載せて去った。
といった次第なのですが、もしかりに、以上の仮定が正しいとした場合、果してこの石段付近に、あれだけの鉄矢を発射し得る地点が見出せるでしょうか?」
メイスン将軍は、黙々として顎ひげを撫でていた。ほかの人々も、何も言わずに、通路を隔てた城壁に、ぼんやりと視線をむけていた。血塔の木戸と、そのかたわらの巨大な円塔が、霧のなかに浮かんでいた。濠沿いの道のずっと奥にも、もうひとつの拱門《アーチ》が、大きな口を開いているのが眺められた。
やがて、メイスン将軍がいった。
「発射しようと思えば、やるところはいくらもある。たとえば、この通路の東側でも西側でも、逆賊門のどちら側からでも、やってやれないことはない。ブラディ・タワーの木戸からだって、射る気なら射れるのだ。いや、いや。やるつもりなら、あの木戸からがもっとも可能性があるかもしれん──ここまでまさに、直線コースじゃからな。
しかし、ハドリイ君。そんなことは、考えてみることはない。まるでナンセンスじゃ。取りあげるだけの価値なんぞありはせんぞ。ライフル銃ではあるまいし、大弓を担いで、このロンドン塔を行進できるはずはないんだ。おまけに、あの木戸の向う側は、ウェイクフィールド塔の入口になっておる。これもやはり、参観を許してある場所なんで、いつも衛視が立っておる。見つけられるにきまっておるんじゃ。話は、もっと可能性のあることにしたがよいな。鉄矢の発射なんか、考えるだけ無駄なことさ」
ハドリイ警部は素直にうなずいて、
「困難なことは充分承知しております。しかし、閣下もただいまおっしゃられたように、可能性がないわけでもないと思われます。たとえば、窓はいかがです? 城壁の上からでは、どうなんでしょう?」
「え? なんだって?」
「窓もしくは屋根の上から、射ることは出来ぬかとお尋ねしているのです。お伺いする筋合いではないかも知れませんが、何分私には、この霧のために、はっきりと見定められませんので──」
将軍はハドリイの顔を、穴のあくほど見つめていたが、二、三度、短くうなずいた。とみると、いきなり耳もとで、長年職場で鍛えあげた大声が轟きわたった。ランポウル青年が、びっくりして飛び上がったほど、はげしい怒りが含まれている声であった。
「なるほどそうか、ハドリイ君。ロンドン塔の守備隊のうちに犯人がおるとすると──」
「閣下、それはちがいます。私はなにも、そんな疑念を持ったわけではありません。これはまったく、形式的な質問を申し上げただけのことでして──」
ハドリイ警部は宥《なだ》めるように言い繕《つくろ》った。しかし、メイスン将軍は、レインコートのポケットに両手を突込んだまま、しばらく無言で立っていたが、やがてぐるりと振りむいて、内城の石壁を指さしながら、
「左のほうを見てくれんか。建物が幾棟か、城壁から首を出しておるんじゃが、見えるかな? この霧ではどうか判らんが、天気さえよければ、窓がこちらを向いとるのが見えるはずだ。あれが、キングズ・ハウスの建物なんじゃ。衛視たちとその家族を住まわせてある──わしの住居もやはりあそこにあるんじゃ。
城壁の上は、堡塁《ほうるい》になっておってな、血塔《ブラディ・タワー》と繋がっておる。あのあたりは、ローレイの道と称して、背の低い男では、覗かれんぐらいの高さになっておる。そこにも、こちらの塔を見渡せるように、窓がいくつか開いておるんじゃ。
それから、まだある。血塔《ブラディ・タワー》のすぐ右隣りに、大きな円塔が見えるじゃろう。あれがウェイクフィールド塔といって、宝冠をおさめてあるところじゃ。あそこにも、こちらを向いた窓がある。ただし、衛視が二人、絶えず警備しておるんじゃ。わしの説明は、大体こんなところじゃが、どうだね、要領は掴めたかな?」
「ありがとうございました」主任警部は答えた。「もうすこし、霧がうすくなりましたら、調査させていただきます。では、みなさん。よろしかったら、ごいっしょに、衛視の詰所に参りましょう」
四 尋問
メイスン将軍は、ウイリアム卿の腕をたたいて促した。しかし、卿は無言で、手すり越しに石段の下の闇を見つめたまま、いつまでも動こうとしなかった……が、結局、何もいわずに、将軍と肩をならべて歩きだした。
ハドリイはハドリイで、二、三度うなずいてはみせたが、やはり動こうともしない。例の帽子を小脇にしたまま、懐中電灯の光を手帳にあてて、夢中で何か書きこんでいる。眼を据えて、表情も変えず、むずかしい顔をつづけていた。
一行が歩き出したので、やむを得ず手帳を閉じて、顔をあげた。
「メイスン将軍、ついでにもうひとつ、お訊きしておきたいことがあるんです。凶器になった鉄矢は、この塔内の蒐集品のうちでしょうか?」
「もう訊かれそうなものだと思っておったよ。それはまだ、わしにも判っておらんのじゃ。目下調べさしておるところだが、この塔内には、もちろん大弓だの太矢だのの蒐集はたくさんある。白塔《ホワイト・タワー》の三階には、武器室ってのがあってな、ガラスのケースに入れて、いろいろと陳列してあるんじゃ。だが、あそこの品物が盗まれたってことは、まだ聞いておらん。もっとも、閲兵場の向う側の煉瓦塔《ブリック・タワー》へ行けば、作業場があってな、そこで陳列品の甲冑や武器の手入れをしておる。係の衛視を呼びにやったから、間もなく来ることじゃろう。その男に聞けば、大体の様子は判るかと思う」
「陳列品の大弓が、凶器として役に立つのでしょうか?」
「もちろん使えるとも。手入れは入念にしてあるんだ。実地の武器としても、充分役に立つものなんじゃ」
ハドリイ警部は、歯のあいだをピーッと鳴らして、フェル博士に向っていった。
「博士、どうかなさったのですか? 先生のように話好きの方にしては、気味のわるいほど黙っておいでですね。何かお考えでもあるのですか?」
フェル博士は鼻を大きく鳴らして、
「あるね、もちろん大ありさ。ただしそれは、窓だの弓のことじゃない。あの帽子のことなんだ。ちょっとそのトップハットを貸してみたまえ。明るいところで、よく調べてみたいんだよ」
ハドリイはすぐにそれを渡した。メイスン将軍は一行を|争訟の塔《バイワード・タワー》から左手のほうに導きながら言った。
「衛視の詰所は大小二つあってな、これは小さいほうじゃ。大きいのには、この騒ぎで、足留めの参観人を詰めこんである」
将軍は説明しながら、アーチの下の扉をあけた。
ランポウルは室内に入って、外の寒さがはじめて身にしみた。炉蓋のついた暖炉に、赤々と石炭の火が燃えていた。部屋は円形で、いかにも居心地がよさそうだ。穹窿《きゅうりゅう》形の天井から、シャンデリアが垂れ下がって、壁の天井に近い高さに、窓が十字なりについている。堅い革の椅子と書棚がずらりとならんでいた。
大型のデスクを前にして、かなりの年の老人が坐っていた。シャンと姿勢を正して、両手をきちんと前にそろえている。一行が入っていくと、房々とした白い眉毛の下から、するどい眸をあげてじろりと見た。服装はほかの衛視とおなじ恰好だが、いままで見たどの衛視よりも、数段と上等なものであることに疑いはない。
そのわきに、背の高い、痩せぎすの青年が、紙の上に屈みこむようにしてペンを走らせていた。
「みなさん、そこへ掛けてください」
メイスン将軍がまず口を開いた。
「こちらが衛視長のラッドバーン君。こちらはわしの秘書のダルライ君」
彼は一行に椅子をすすめて、紹介がすむと、葉巻のケースをさしだした。
「何か見つかったかね、ラッドバーン?」
衛視長は首を振って、自分の坐っていた椅子をメイスン将軍にすすめた。
「大したことは見つからんのです、閣下。白塔《ホワイト・タワー》の衛視と作業場の主任に訊いてみましたが、期待したほどの収穫はありませんでした。詳細はダルライ君が速記にとってあります」
青年はパラパラと紙片をめくってみせて、メイスン将軍の顔をうかがった。血色のわるそうな男だが、ランポウルは一目で彼に好感を持った。面長の顔は憂鬱そのものだが、唇だけがわずかに快活を保っていた。赤茶けた頭髪が乱れているのは、むやみに手を入れて掻きまわす癖のせいであろう。人の好さそうな灰色の眼は、かなりの近視とみえて、鼻眼鏡のくさりをいじりながら、眉を狭めてこちらを見ていた。が、それも一瞬、すぐにまた、紙片の上に眼を伏せて言った。
「これは、これは、ウイリアム卿。おいでになったとはうかがっていましたが、何とお悼み申上げてよいものやら──僕の悲しみも、お察しくださるとは存じますが──」
彼は書類から顔もあげずに、それだけを言ったが、あとはいそいで話題を変えて、メイスン将軍に顔をむけて言った。
「書類はここにととのえてあります。武器室からは、もちろん何も盗まれておりません。作業場主任にも白塔の三階を受持っている二人の衛視にも訊いてみましたが、あの大弓の矢は、うちの蒐集品ではないそうです」
「たしかかね? どうして、そうはっきり判るのかね?」
鼻眼鏡の位置を直しながら、ダルライは答えた。
「その点は、ジョン・ブラウンロウが専門なんです。彼の説明によりますと、うちの蒐集品のうちには、こんな古い時代の鉄矢はないそうです。死骸に刺さっているのを見ただけですが、十四世紀後期のものに違いないと言うのです。彼の陳述を読みあげてみましょう。──うちの陳列室にありますのは、比較的時代の新しいものばかりでして、この凶器となったものより、ずっと太くて短かめで、矢筈ももっと大きいものです。死骸に刺さっているのは、かなり細いのですから陳列室のどの品を持ち出したところで、矢筈に合うはずがありません。そう彼は述べております」
メイスン将軍はハドリイを見やった。警部はちょうど外套を脱いでいるところだった。
「あんたがこの事件を担当されたんですな。さあ、警部さん、椅子にかけて、充分に質問してもらうとしましょう。答えられることは、何なりと申し上げる。ただし、鉄矢の件は、発射したものではないようだ。犯人が外部から、大弓を運んで来たとでも言うなら別じゃが、この塔内の陳列室のものを利用したのではないらしい。そういうわけなんじゃな。ダルライ君?」
「ブラウンロウの説明ですと、この陳列室の弓でも、無理に使えば使えぬこともないようですが、矢づるが満足にあわないのですから、とても遠くへ飛ばすわけにはいかぬそうで──」
メイスンはうなずいて、さあ、どうだね、といった表情で、じろりと警部の顔を見た。ランポウルはそのとき、明るい光の下で、始めて将軍の姿を見たのであった。びしょぬれの帽子とレインコートを、無造作に長椅子の上に投げかけて、両手を暖炉の火で温めていた。そういう肩書を持つ人々に見かける、あの尊大振りはまったくなかった。かなり目立った生薑《はじかみ》色の口髭と、尖った顎ひげをのばしているが、額はすっかり禿げあがっていた。そのわりに、眼だけはきびしい光を放って、いまになお若々しい。暖炉の前にうずくまったような姿勢で、肩越しに警部を振りかえって言った。
「さあ、捜査を始めてもらうとするか。何から取りかかるおつもりかね?」
ダルライは書類をテーブルの上におくと、メイスンとウイリアム卿を交互に見やって、
「申し上げておいたほうがよいと思いますが、参観人のなかに、関係者が二人混っておりました。──他の参観人といっしょに、衛視の詰所に入ってもらっていますが、ビットン夫人のほうは、かなり興奮して、ずっと騒ぎつづけておいでです」
「なんだって?」と、ウイリアム卿は、首をあげて叫んだ。
「レスター・ビットン夫人です。奥さんは──」
ウイリアム卿は、銀髪をむやみに掻きまわしては、ぽかんとしたように、メイスンの顔を見て、
「一体、わしの義妹が、何の用があって、こんなところに来たんじゃろう?」
ハドリイ警部はデスクの前に坐りこんで、ノートブック、鉛筆、懐中電灯と、きれいに揃えて並べていたが、ウイリアム卿の言葉に、静かに顔をあげて、
「私もそれを知りたいと思っていました。これから調べてみるつもりですが。しかし、ダルライさん。あなたからは何も訊かずにおいてください。私が直接お目にかかってお伺いするつもりですから」
それから彼は、握りしめた両手を老貴族に突き出して訊いた。
「ウイリアム卿、レスター・ビットン夫人が塔内におられると聞いて、かなりお驚きの御様子でしたが、よほど意外なことなのでしょうか?」
すると相手は、一層狼狽した顔つきで、
「それは君、なんだよ。つまり、その──君はあの女を知らんのだろうが、あれは大体、出歩くのが好きな性分なんだ。しかし、──そうだ、ダルライ君はあれに、フィリップの災難を話したのかね?」
「いずれ申し上げなければならぬことと思いましたから……」
ダルライは素っ気ない調子で答えた。
「で、あれは何と言ったね?」
「気が狂いそうだと言われました。それに、そのほかにもいろいろと──」
ハドリイは、鉛筆のさきで、デスクの上をしきりにつついていたが、そのときまた、ふいに頭をあげた。
「ダルライさん。もうひとりの方といいますと?」
「アーバア氏です。ジュリアス・アーバア氏なんです。古書蒐集家として有名な方ですが、たしかまだ、ウイリアム卿のお邸に滞在中と聞いておりましたが──」
ウイリアム卿の眼が、急に険しくなった。ドリスコルの死を聞いて以来、はじめての尖った表情だった。青ざめきっていた顔にも、血の気がサッと戻って、眸にまで、キラキラ光るものがあった。肩をそびやかせて、ずしんと椅子に、スプリングをきしませて腰を落した。
「何だ、あの男も来ておるんか! それは可怪《おか》しいじゃないか。本当に来ておるんか?」
主任警部も鉛筆を投げすてて、
「おっしゃるとおり、可怪しいですね。しかし、このひともやはり、そっとしておいてください。とりあえず、ドリスコル氏の今日の行動を伺いたいものです。どんなことでも構いません、できるだけ詳細にお話しください。閣下、さっきのお言葉では、お聞きしておくだけのことがあるようでしたね」
メイスン将軍は、暖炉の火から眼を離して、すぐに衛視長に命令を下した。
「ラッドバーン君、キングズ・ハウスヘ行って、パーカアに来るように言ってくれんか」
衛視長はさっそく出ていった。将軍はあとで、説明を加えた。
「パーカアというのはわしの従卒でしてな。ボア戦争のときから、ずっとわしについておるんじゃ、実に忠実な男でね、わしは全面的に信頼しておる、まもなくやって来るだろうが、それまではダルライの話を聞いていてもらうとしよう。ダルライ。警部さんに、今日の奇妙なおっかけごっこの話をしてさしあげるがよい」
ダルライはうなずいた。しかし、その顔には、当惑の色があきらかに浮かんでいた。額に手をあてて、しばらくの間考えていたが、やがて、思いきったように語りだした。
「警部さん、あれは一体、どんな意味が含まれていたか、僕には見当もつきませんでした。いまでもまだ判っていません、ただ誰かが、フィリップに罠を仕掛けたのだとは想像がつきます。話は長くかかるのです。煙草をつけてもよろしいでしょうね」
そう言いながら、秘書は椅子にかけた。足がすこし、慄えているように見えた。シガレット・ケースから紙巻を取りだした。ハドリイ警部は、マッチの火をつけてやりながら言った。
「ダルライさん。ウイリアム卿からうかがいましたが、あなたは卿の令嬢と婚約中だそうですね。そういう間柄とすれば、ドリスコル君のことは、とくによく御存じのことでしょう」
「むろんよく知っています。知りすぎるほど知っているんです」
ダルライは静かに答えた。煙草の煙が眼に染みるとみえて、しきりに瞬きをつづけていた。
「それだけに今度の事件は、僕としても非常な打撃でした。大体ドリスコルは、妙に僕のことを実務家だと過信していまして、何かというと、僕に相談をかけるのでした。あれがまた、トラブルばかり起す人間でして、その度に僕のところへ電話をかけてよこすんです、聞いてみますと、大したことではない。それをあの男は、この世の終りでも来たように騒ぎ立てるんです。僕は決して、トラブルの処理なんかに、手腕などないのですが、それでもあの男よりはよほどましでした。ドリスコルときては、ただもう騒ぎ立てまして、大変だ! 大変だ! とても我慢できんと、むやみにわめきたてるだけなんです。くどくどしゃべりましたが、やはりこれだけのことは、知っておいていただかぬことには、これからお話しすることが理解願えないのです」
ハドリイ警部は、眼をつぶって聞いていたが、そのときちらっと、ウイリアム卿のほうを見ながら訊いた。
「トラブルといいますと、どんな種類のものです?」
ダルライはちょっとためらっていたが、
「金の問題ですよ。いつもきまってそうなんです。大きな金額ではありませんが、その代り休みなしに勘定書に追いまわされているのでした」
「御婦人の問題は?」ハドリイがいきなり訊いた。
秘書は不愉快そうな顔を向けて、
「それはまあ、誰もが憶えのあることで──いや、これは失礼、僕はただ、若い者のことを言っただけなんです。しかし、彼の場合、その方面は朗らかなものでした。いつも真夜中だってのに平気で電話をかけてよこすんです──今夜のパーティで絶世の美女に遭ったぞ。かつて見たこともないような天使なんだ、などと言っては騒ぎ立てるんですが、それがせいぜい一月もつづけばよいほうで……」
「最近別に、こじれた問題はないのでしょうか?」
相手が手を振るのを見て、警部は駄目を押すように言った。
「何分、これは殺人事件でして、動機の問題が一番肝心なんで、こういう立ち入った質問にわたるのも、やむを得んものと御了承頼いましょう」
「木当にありませんよ」
「では、さきへ進んでいただきます。いつもあなたが相談に乗ったとおっしゃるのですね?」
「ドリスコルのやつ、いつも僕をおだてあげるんです。僕としても、シーラの身寄りとあれば、手を貸さんわけにもいきません。そこをいつも、彼に利用されていたんです。まあ、僕ばかりでもないでしょう。誰もが、他人の運命を委せられるとなると、いい気になって乗り出すものなんです。馬鹿な話ですが──とにかく、こういった次第で、これも今日の事件を理解してもらうには、ぜひお耳に入れておく必要があったのです」
しばらく口を休めて、ダルライは煙草を吸っていたが、
「今朝早く、電話をかけてよこしたのです。将軍の書斎の電話でしたが、電話口にはパーカアが出ました。僕はまだ、ベッドにもぐっていたのでしたが、聞くともなしに聞いていますと、ドリスコルのやつ、大分興奮している模様でした。用件は、僕に会いたいから、一時きっかりに、ロンドン塔へいくと言っているようなのです。あまり話のなかに僕の名が出ますんで、とうとう僕はベッドを下りまして、電話口に出てみました。
また始まったなとは思いましたが、元気をつけてやるために、待っているよと言いました。ただし午後には外出の予定があるから、早く来るようにと付け加えるのも忘れませんでした。メイスン将軍から、自動車の警笛が工合わるいから、ホウバンのギャレジまで持っていって、修理しておくようにといいつかっていたからです。電流を通じて鳴らす式なんですが、鳴りだすと、止まらなくなってしまうのです」
「修理場はホウバンにあるのですか? それはまた、ずいぶん遠方まで修理に出すのですね?」
とたんに、メイスンの顔が不機嫌になった。暖炉に背を向けて、股を大きく開いて立っているのだが、ぶっきら棒な声で怒鳴るように言った。
「遠いぐらいは誰でも判っとる。だが、わしの昔の部下が経営しとるんだ。軍曹だったが、よく働いてくれた男なんじゃ。わしの車は、全部そこで修理させることにしてある」
「いや、べつに、どうぞ御自由に。で、ダルライさん、それから、どうしました?」
ランポウル青年は、壁にならんだ書棚を背にして立っていた。手にした煙草に火をつけるのも忘れて、ダルライの話に聞きいっているのだった。が、これが殺人事件の捜査だという実感は、不思議なくらい湧きあがって来なかった。マーティン・スターバース事件のときとは、あまりにも様子がちがいすぎる。むろん今度は、あの事件のときのように、彼自身が渦中に巻きこまれたわけではない。偶然の機会から、オペラハットをかぶった怪死体の捜査に立会うのを許されたというだけで、冷静な局外者としての観察が曇らぬことは判るが、それにしても……
中世紀さながらの一室に、電灯が煌々と輝いていた。デスクの向うには、銅鉄のように剛い頭髪と、短く刈った口髭を反射させながら、ハドリイ警部が控えていた。この烱眼な主任警部は、腹のなかはとにかく、うわべだけは何気ない様子をつくろっている。その右隣りには、ウイリアム・ビットン卿。冷静な眼の底に、例のとぎすましたようなするどさをうかがわせている。左側では、痩身のロバート・ダルライが、ゆがんだような顔つきをみせている。突立っているのはメイスン将軍ひとりだけだ。暖炉に背をむけたまま、緊張した表情を崩そうともしない。一番大きな椅子は、フェル博士が占領して、さきほどから、両手にオペラハットを抱えこんで、それをふくろうのような眼で、眺め入っている。ときどきひっくり返してみては、何かぶつぶつ呟くようだ……
博士のその様子が、ランポウルを妙にいらいらさせた。博士は決して、こんなにおとなしくしている性分ではない。わる気のない毒舌を、絶えず周囲に浴びせかけては、相手の主張を粉砕して喜ぶのがくせなのだ。今日はたしかに様子が可怪しい。すくなからずそれが、若いアメリカ人に不安の感じを与えた。
気がつくと、ダルライがしゃべっている。ランポウルはふたたび緊張した。
「僕はそれを、大して気にもとめませんでした。午前中は忘れていましたが、約束した一時ごろになって、また電話がかかって来ました。パーカアが出ましたが、これもやはりフィリップ・ドリスコルからでした」
ダルライは、吸殻をぎゅっと揉み消してから、言葉をつづけた。
「フィリップは、僕を電話に出してくれというのでした。そのとき僕は、記録室で将軍の原稿に手を入れていましたので、パーカアが電話を切り換えてよこしました。
その声は、朝のときよりも、一層取り乱した様子でした。急に用が出来たので、塔まで行くわけにいかなくなった、理由は電話では言えないが、とにかく出かけられなくなったから、そちらから出向いて来てくれというのでした。例によって、大袈裟な言いかたでした、幾度も聞かされた文句でしたが、生死に関する重大事件だから、何とか都合をつけて、来て欲しいと言うのでした。
僕は迷惑を感じました。仕事で手が離せないんだ。そんなに大切な用なら、君のほうから来たらよいじゃないかと言ってやりました。するとドリスコルは、またしても、おれはいま、生死の関頭に立っているんだ! 友達甲斐に、なんとかしてくれてもいいじゃないかとわめきたてるのです。そして、とにかく市内まで出て来てくれと言ってきかぬのです。彼のアパートは、ブルームズベリイにありました。自動車をギャレジに持っていくとすれば、そこから大した距離でもありません。寄ってみても、それほどの廻り道でもないのです。で、結局、僕のほうから出向くことに妥協しました。すぐ出かけるぜと言うと喜んでいる様子でした」
ダルライは椅子のなかで、しきりに体を動かしながら付け加えて言った。
「たしかに──そうでした。いつもの彼より、もっとずっと真剣でした。真剣すぎて、こんどこそ、本当に気が変になったのかと思ったくらいです。で、僕はさっそく出かけました」
「気が狂うようなことがあったのですか?」
「まさか。いや、ないとも言いきれぬし、どちらにしろ、はっきりしたことは、僕には判りません。よろしく判断してください」
ダルライは、部屋の隅に視線を投げた。そこでは最前から、フェル博士が夢中になって、帽子をいじりまわしている。急にダルライは不安そうに視線を動かした。
「近ごろフィリップは、どちらかと言うと、はしゃぎすぎるくらい上機嫌でした。それだけにまた、様子が急変したのに驚きました。彼は例の、帽子泥棒の記事を書きたてて、得意になっている最中だったのですが──」
「そうのようでしたね」警部の眼にも、急に興味が湧きあがって来たようである。「それで、どうしました?」
「いままでは遊軍記者《フリーランス》だったのですが、この記事が成功すれば、主筆は彼に、適当なポストを与えてくれると約束したそうです。ですから、突然彼が、悲観的なことを言いだしたので、僕は却って面食ったくらいでした。そのとき、僕はこんなことを言ったのを憶えています。
──どうしたんだ、ドリスコル。何か事件でも起きたのか? 僕はまた、帽子気ちがいを追いまわすんで、忙しい最中だと思っていたのに。
するとドリスコルは、奇妙なくらい怯《おび》えた声を出しました。
──それなんだよ。どうやらおれは、追いかけすぎた様子だ。むこうに刺激を与えすぎて、今度はこちらが危くなって来た──」
聞いていてランポウルは、恐怖に近い感じに襲われた。お洒落な伊達者《ダンディ》であるはずのドリスコルが、見栄も外聞もなくまっ青な顔で、電話機にしがみついている姿が、ダルライ秘書の話からまざまざと眼前にうかんで来た。警部も体を前に乗りだして、
「帽子泥棒のことから、危険がドリスコル氏の身辺に及んだというのですか?」
「そんな様子でした。もちろん、僕は笑い飛ばしました。こんなことを言って、訊きかえしたのを憶えています。
──おや、おや。君の帽子まで盗まれそうなのかい?
すると彼はこう言うのです。おそろしくまじめな調子で──」
「なんですって?」
「心配しているのは、帽子じゃないんだ。おれの首なのさ──」
長い沈黙がつづいた。それを破って、ハドリイがしずかに言った。
「それであなたは、城内を出て、彼のアパートヘ行ったのですね?」
「それからが、奇妙な話になるんです。とりあえず、車をギャレジに入れました。ハイ・ホウバンのデイン・ストリートにあるんです。仕事は立て込んでいましたが、修理はすぐにしてくれるというのです。しかし、そのあいだ車のそばで待っている気もしなかったので、さきにドリスコルのアパートヘ寄って、帰りに車をもらいにくることにしました。別にいそいで使う用があったわけではありませんから──」
ハドリイ警部は手帳を取り出して、
「アパートの住所は?」
「西中央区タヴィストック広場《スクエア》のタヴィストック住宅三四番地。部屋は一階の二号でした。ところが、長いあいだベルを鳴らしていたんですが、誰も出て来る様子がありません。それで、なかへ入ってみました」
「ドアはあいていたんですか?」
「いいえ。僕は鍵を持っているんです。御承知のとおり、ロンドン塔の門限は十時なんです。毎晩十時きっかりに、城門はぴたりと鎖ざされまして、その後は、国王陛下でもお入りにはなれないのです。ですから劇場とか、ダンスパーティとかそういったところへ行きますときは、その夜泊る場所を用意しておかなければなりません。そのために、僕がいつも利用しますのは、フィリップの部屋の長椅子でした……ええと、どこまでお話ししましたかな。そうでした。フィリップのアパートを訪れたところでしたね。僕はそこで彼の帰りを待っていました。食事に出ているんだと思ったのです。ところが、事実は──」
ダルライはふとい息をはいた。そして、掌でテーブルをつよく打って、
「僕がロンドン塔を出てから、十五分とたたぬうちに、フィリップ・ドリスコルは僕を訪ねて、将軍の居室へ来ていたのです。従卒のパーカアが、あなたさまのお電話で、いま出かけたところですと伝えますと、フィリップはサッと顔色を変えたそうです。パーカアの話では、それこそ彼は、失神せんばかりに青くなったといいます。そして、それからが大変で、こんどはまっ赤になって、パーカアを罵《ののし》るんだそうです──今朝電話で、一時と約束しておいたはずだ。その後、変更なんかおれはしたつもりはないぞ。なに、二度目の電話だ? そんなものを、おれがかけるはずがあるか! と、おそろしい剣幕でわめきたてたそうです」
五 手すりの影
ハドリイ警部は緊張した。鉛筆をそっとデスクの上においたが、顎のあたりの線はこわばっていた。石をたたみあげた部屋は、暖炉に火がはぜるばかり。ほかの音はみな死んでいた。
しばらくして、警部はいった。
「そうでしたか。で、それから?」
「僕は何も知らずに、おとなしく待っていました。でも、霧はだんだん濃くなってくるし、しまいには雨まで降りだしました。僕はじりじりして、ドリスコルのやつめ、いつまで待たせるんだろうと、無性に腹が立って来ました。そのとき電話のベルが鳴ったのです。
出てみますと、パーカアからの電話でした。内容は、いまお話ししたようなことで、フィリップが待っているから、至急もどって来てくれというのでした。すこし前にも、かけたのだそうです。僕がまだギャレジにいたころなのでしょう。誰も出なかったといっていました。塔では、フィリップがかんかんになって怒っているようすです。といって、パーカアの見たところでは、べつに酔っ払っているわけでもないそうです。とすると、どちらが間違えたものか──しかし、そんなことを議論していたところで仕方がないので、僕はすぐに、ギャレジに引っ返しました。そこで車に乗って、出かけようとしたとき、メイスン将軍の姿を見かけました」
ハドリイは振りかえって、メイスンに訊いた。
「閣下も、市内へお出かけになったのですか?」
メイスンは無言で足さきを見つめていた。やがて、顔をあげると、皮肉な表情を浮かべながらいった。
「そういったところだね。昼飯の約束があったんだ。それから見たい書物があったので、大英博物館まで行った。ダルライの話にあったように、そこで雨に遭った。タクシイを拾おうとしても一台も見つからんのだ。もともとわしは、地下鉄やバスには乗らんことにしておる。人にもまれるのが大嫌いなんでな。で、ふと思いついたのは、ステイプルマンのギャレジさ。まだわしの車があるかも知れん。帰ったあとにしても、ステイプルマンが、一台ぐらいは融通してくれるじゃろう。博物館から遠いところでもないので、わしはギャレジまで歩きだした。その途中で、ダルライに遭ったのだ。彼は車のなかから、手を振っておった。そのさきは、一度もう話した。ここへ戻ったのが二時三十分。そして、そしてわしは、死骸を発見したんじゃ」
ふたたび、長い沈黙がつづいた。ハドリイはデスクの上に肱をついて、指先でこめかみの辺をこすっていた。そのとき、部屋の隅から、太いがらがら声が響いて来た。
「昼飯のお約束は、よほど重要なものでしたか?」
フェル博士の声だった。ぶしつけすぎるほど率直な質問なので、誰もが驚いて振りかえった。博士のまん丸い赧ら顔は、カラーのなかに半ばうずもれて、房々した銀髪が、耳のあたりで乱れている。トップハットを手にしたままで、きょとんとしたような眼を、こちらに向けていた。
将軍も呆気にとられたかたちで、
「あんたの質問の趣旨はよく判らんが──」
「つまりですな。偶然今日、何かの団体の総会か理事会、そういった会合があったのですか?」
「そうなんじゃ」
当惑した顔を、急にまたいきいきと輝かせて、メイスン将軍は答えた。
「考古学会の例会があったんじゃ。毎月第一月曜日に、午餐会を催すことになっておる。わしは元来、あの連中の集まりは好かんのさ。いかにも時代に取り残され化石みたいな存在ばかりだからな。羽の先で払っただけでも、ふっ飛んでしまうような老人の集まりなんじゃ。でも、わしがあの会のメンバーに留っておるのは、何か問題が生じたとき、ああした老人の知識も、まんざら役に立たんものでもないからなんじゃ。そんなわけで、午餐会にはかかさず出席するようにしておる。その代り、会がすめば、さっと引揚げる。今日も、宝冠管理長のレオナード・ホールダイン卿が、車でわしを送ってくれた。あのひとも軍人の出でな。わしの昔の同僚なんじゃ──しかし、君。なんでそんなこと訊かれるのかね?」
「いや、なに、べつにどうということもありませんが、閣下がその会の会員だということは、どなたも御承知のことなんでしょうか?」
「わしの友人は、みんな知っておる。軍人クラブでも評判のようじゃ」
ハドリイ警部は、フェル博士に顔をむけてゆっくりとうなずいて、
「質問の意味は、私には判りました。ときに、閣下、この塔のなかで、ドリスコル氏のお近づきというと、閣下とダルライさんだけでしょうか?」
「そうじゃろうな。レオナード卿とも面識はあると思うが、親しく交際《つきあ》っておるわけではあるまい。衛視のうちにも、顔見知りはいくらもおるじゃろうが。しかし、──」
「尋ねて来る相手というと、あなた方だけですね?」
「そうじゃろうね」
ダルライは何かいいかけたが、すぐにまた、椅子に身をしずめて、拳で腕をたたいていた。
「御質問の趣旨は判りましたよ。つまり、犯人が現れたのは、僕とメイスン閣下が、外出中なのを知っていたからだというのでしょう?」
博士はステッキの先端で、石の床をこつこつ鳴らせながら、ぶっきら棒な調子で答えた。
「むろんそうだ。あんたが外出していなければ、ドリスコル君はあんたのそばにおったであろうし、メイスン将軍がおられれば、将軍といっしょだったにちがいない。殺人鬼は霧のなかにドリスコル君をおびき出して、生命を奪うなんて真似はできなかったはずだ」
ダルライは困ったような顔をした。
「ですが博士、僕が二度目に聞いた電話は、たしかにフィリップの声でした。絶対に聞きちがいではありません、あなたのお考えが正しいとすれば、あの声はフィリップではないことになる。そんな馬鹿なことは考えられません──第一、あの声の主がフィリップでないとしたら、僕と一時に会う約束をしたのをどうして知っていたのでしょう? 自分の首が危険になったといったのは、どこから出た言葉なんでしょう?」
フェル博士は、だが落着いていった。
「だからその言葉が、手掛りとして重要になって来る。だからそこのところを詳しく伺っておきたいんだ。ドリスコル君はどんな調子でしゃべっていました?」
「どんな調子といって──」ダルライはためらいながらいった。「うまく説明はできませんが、要するに、言うことは支離滅裂でした。口より考えがどんどん進んでしまって、言葉がうまくまとまらぬといったふうでした。それに彼は、興奮してくると、声がむやみに甲高くなる癖がありまして──」
フェル博士は、首をかしげ、目を軽くとじてうなずいていた。そのとき、扉をノックして、衛視長が入ってきた。緊張しきった部屋の空気にも動かされないで、巡視のときとおなじように、落着いた足どりで部屋の中央にすすんだ。中世風の、青と朱の制服で、大きな口髭をピンとはねていた。
「ハドリイ警部さんですね? 警察医が到着されました。警察官も数人いっしょです。どう計らいましょうか?」
ハドリイは立ち上がろうとしたが、考えなおして、坐ったままいった。
「特別の指示はありません。規則どおり、検屍するように伝えてください。要領は、彼らがよく心得ております。ただ、死体の写真を、いろいろの角度で撮っておくようにいってください。どこか、検屍をするのに、適当な部屋はないでしょうか?」
メイスン将軍がすぐにいった。
「ラッドバーン君、血塔《ブラディ・タワー》に御案内するがよい。両王子の部屋〔エドワード五世と弟ヨーク公が殺されたといわれる〕が適当だろう……パーカアは呼んでくれたろうね?」
「部屋の外に待っております。それから参観人はどういたしましょう。大分長いあいだ待たせましたので、少々、うるさくなりかけております」
ハドリイ警部が口を出した。
「もうしばらく待たせておいてください。さきに、パーカアを呼んでもらいたいのです」
衛視長がうなずいて立ち去ると、警部はダルライ秘書に向っていった。
「参観人の氏名は、写していただけましたか?」
「ええ、やっておきました。詳しすぎるくらい聞いておきました」
と、いってダルライは、ノートを破った紙片を何枚か、ポケットから取り出した。
「厳格すぎたかも知れませんが、姓名、住所、職業、照会先、全部記入させてあります。外国人の場合は、滞在期間、乗船船名、これからの予定先まで書かせておきました。大部分は観光客なんですが、彼らは何の取調べか知りませんので、手続きが厳重すぎるといって驚いていた模様です。僕の見たところでは、そのなかには、これといって危険らしい人物は見当りません。どれもみな、おとなしそうな連中ばかりです。例外はビットン夫人。それにもう一人の婦人ですが……」
彼は一束の紙片をハドリイの手に渡した。主任警部はするどい眼でそれを眺めていたが、すぐに訊いた。
「もう一人の婦人といいますと? 誰なんです?」
「書類にどんな名を書いたか、まだ見ていませんが、僕はその婦人と言い合いをしてしまったので、名前は覚えこんでしまいました。参観人に真実を書かせるために、僕はまず、役人風を吹かして、高飛車に出てみたのです。男女ともに、僕の手に乗りました。ところが、この女だけは別でして、僕に向って、逆襲して来るんです。──あなたにそんな取調べをする権限がありますの? 裁判所の人ならべつだけど。あたしたち、宣誓させられたわけじゃないんですからね。何から何まで、そんなに洗いざらいいわなけりゃならない義務はないはずよ。あたしの名はラーキン、ちゃんとした身分の未亡人ですからね。それだけいえば、たくさんじゃなくて?
僕はこういってやりました。──それでは奥さまの御自由になさい。その結果、留置場にいっていただくことになるかも知れませんが、僕を恨まんでくださいねって。すると女は、僕を睨みつけまして、しぶしぶ何か書きこんでいました」
ハドリイは書類をかきまわしていたが、
「ラーキンですか。ついでにこれも調べておきましょう。とかく大きな網を打ったときは、当てにもしなかった雑魚まで入って来るもんですから。ラーキン、ラーキンと──あッこれですな。アマンダ・ジョージェット・ラーキン夫人。夫人というところに傍線がひっぱってある。おそろしく念を押したものですね。男みたいな字体で、住所はと──おお、これは!」
彼は書類をおいて眉をひそめた。
「住所はタヴィストック広場《スクエア》、タヴィストック住宅三四番地だ! ドリスコルとおなじ建物じゃないか! 定石どおりになって来そうだな。これはぜひ、調べなければならん。さしあたって──」
ウイリアム卿は、不安そうに顎を撫でていたが、口をはさんだ。
「ハドリイ警部。わしは考えるんじゃが、ビットン夫人をああしておいてはまずくないか? 別の部屋へいれてもらうわけにはいかんのかな? あれは君、わしの義妹なんじゃが──」
しかし、ハドリイは澄ましたものだった。
「まことにお気の毒とは存じますが──パーカアは参りましたか?」
パーカアはおとなしい性分だった。帽子もコートもつけずに、入ってよいと許可のあるまで、外の霧に濡れて待っていたのだ。ハドリイの言葉を聞きつけたとみえて、ノックして直立不動の姿勢で、戸口に立った。
がっしりした体で、ごま塩頭を軍隊風に刈りあげていた。彼の勤務当時、下士官がよくやっていたように、鼻の下に大きな髭をたくわえている。どこからみても従者といった感じではなかった。高い襟でぎゅっと首を締めあげて、銀板写真を撮るときのように押し立てている。質問者の頭上から返事をしている格好だった。
「君はメイスン将軍の──」
ハドリイ警部は、従者といいかけたが、相手が退役軍人であるのに思いついて、
「ええと、メイスン将軍の当番兵だったね?」
パーカアはにこりと笑って、
「はい、左様であります」
「ダルライさんの話では、ドリスコル氏から二回電話があったそうだが、二度とも、君が電話口に出たのかね?」
パーカアは即座に答えた。声はしゃがれていたが、落着き払っていた。緊張した様子をみせているのは、思いがけなく重大事件に主役として登場することになったという意識があるからであろう。
「はい。二度とも、自分が承りました」
「ドリスコル氏と話をしたんだね?」
「はい。長くはお話しませんが、用件だけは伺いました」
「なるほど──で、二回とも、ドリスコル氏の声に間違いなかったか?」
パーカアは眉をひそめて、
「間違いないかとおっしゃられると何ですが、始めてお声を聞いたわけでもございません。たしかにあれは、ドリスコルさまと承知しました」
「そうか。で、ダルライさんは一時すこし前に、自動車で出かけたのだな。ドリスコル氏が来訪したのは、何時だと記憶しているね?」
「一時十五分であります」
「どうして、そう正確にいえるんだ?」
「兵舎の喇叭の音で、時間は正確に申し上げることができるのであります。一時十五分過ぎに相違ありません」
ハドリイ警部は坐り直して、指でしずかにデスクをたたきながら、
「では、君のその正確な知識で、ドリスコル氏が到着してからのことを話してもらいたい。君とのあいだに、どんな話がでた──まずそのまえに、どんな様子だったか、それから聞かせてもらうとしよう。いつもと変っていたかね?」
「非常にいらいらしておられました」
「服装は?」
「鳥打帽に薄茶のゴルフ服、ウーステッドの靴下で、クラブタイを結んでおられました。オーバーコートはお召しになられずに──」
彼はちょっと口をとめて、相手の言葉を待っていたが、ハドリイが何もいわぬので、さきをつづけた。
「ダルライ君はとお尋ねになりますので、あなたさまのお電話で、そちらへお出かけになりましたと申し上げました。そうしますと、馬鹿なことをいうやつだ。おれがそんな電話をするわけがないじゃないか、とさんざん自分をお叱りになるのでした。で、自分は申し上げました──そんなことをおっしゃっても、先ほどお電話がありましたとき、自分が電話口に出ますと、あなたさまは自分をダルライさまと、勘違いなされて、ダルライ、僕を助けてくれとおっしゃったではありませんか。そのときはたしか、こうもおっしゃいました。おれのほうからは行かれなくなった。後生だからアパートまで来てくれないかって──」
パーカアはそこで咳払いした。
「それで、ドリスコル氏はなんといった?」
「どのくらい前に出ていったかとお尋ねになりました。十五分ほど前と申し上げますと、自動車でか? と、すぐに訊かれました。左様でとお答えしますと、それからの愚痴が大変でした──そいつは弱った。この霧では、まだおれのアパートまでついてはいまい。だが、とにかく一応電話してみよう。そうおっしゃって、電話機に飛びつかれて、しきりに呼び出しておられました。が、もちろん返事はありません。パーカア、何か飲むものを持って来てくれとおっしゃいますので、すぐにウィスキーを取りにいきました。戻って来ますと、ドリスコルさまは窓の外を眺めて立っておられました」
ハドリイは、うすく閉じていた眼を、パッと開けた。
「窓から? どの窓だ?」
「ダルライさまがいつも事務をおとりになっておる小部屋のです。キングズ・ハウスの東の翼です」
「そこから、どこが見えるんだ?」
話に熱中して来るとともに、パーカアはいままでの取り澄ました態度をおき忘れてしまった。眼をパチパチさせて、一生懸命、考えをまとめようとしている。
「見えるかとおっしゃいますと?」
「どこが見渡せるかと訊いているんだ。たとえば、その窓から逆賊門は見えないのか?」
「そういう意味でしたか。自分はまた、自分が何を見たかとお訊きかと思いました。重大なことで、うっかり申し忘れたことでもあったのかと──」
「というと、何か君は見たのか?」
「はい。ドリスコルさまがお部屋を出ていかれてからあとのことですが──」
ハドリイ警部は、思わず体を乗りだしかけたが、すぐに坐りなおして、無理に落着こうとするらしかった。
「では順々に聞かせてもらうとしよう。ドリスコル氏が、窓から外を見ていたところまで聞いた」
「はい。いま申し上げます。ドリスコルさまは、それをお飲み乾しになりますと、もう一杯、生のウィスキーが欲しいとおっしゃいます。ですが自分は、ダルライさまにお会いになるんでしたら、すぐにアパートにお戻りになったほうがよいでしょうと申し上げました。マーク・レインで地下鉄に乗りさえすれば、それほど時間がかかるわけではないのであります。すると、ドリスコルさまは、冗談いうな、また行き違いになったらどうするんだ。あいつを捉まえるまで、五分おきに電話をかけてみるからよいとおっしゃるのでした。なるほど、それも、ごもっともだと思いまして」
パーカアはそのときの会話を、しゃがれ声で単調に繰りかえした。聞いているランポウルには、どれがドリスコルを引用して、どれが彼自身の言葉であるのか、その見分けもつかぬくらい、抑揚の全然ない調子だった。しかし、その一語々々が、ハドリイにとっては重大な響きを持っているに相違なかった。
「そうはおっしゃいましたが、しずかに坐ってもおられぬ御様子で、部屋中をぐるぐる歩きまわっておられました。そして、とうとう、とてもおれはじっとしておられん。構内を散歩してくるから、おれの代りに、アパートヘ電話していてくれ──そういいおかれて、出ていかれました」
「その部屋に、どのくらいいっしょにいたのかね?」
「十分ぐらいのものでしょうか。もうすこし、短かかったかも知れません。自分が知っておりますのはそれだけです。ほかにはべつに、何ごともありませんでした。ただ──」
いいかけてパーカアは言い淀んだ。彼の眼はそのとき、ハドリイ警部が何くわぬ顔をしているが、眸の奥にするどい光をひそめていることを、ウイリアム卿が全身を乗りだして来ていることを、そしてまた、ダルライが煙草に火をつけかけて、その手を宙に浮かせたままにしているのを見てとった。急にそれで彼自身の存在が華やかな証明を浴びるに至ったのを意識したとみえて、しばらくは言葉をやめて、沈黙に充分の効果を与えてから、ゆっくりとあとをつづけた。
「実際、皮肉なもんです。霧が薄くて遠眼のきくあいだは、べつに大したことも起らなかったのですから……自分は窓ぎわに立って、霧もかなり濃くなったなと、外をのぞいてみました。すると、窓の下に、ドリスコルさまの姿が見えるのでした」
ハドリイの指が、テーブルをたたいていたのが、ぴたっと止まった。相手の顔をじっと見据えていたが、急にまた、はげしくたたきだした。
「どうしてそれが、ドリスコル氏だと判ったんだ? 霧は深くなっていたといったじゃないか?」
「それはそうですが」と、パーカアは力をこめてうなずいた。カラーの先が、頸をはげしく突ついていた。
「もちろん、お顔ははっきり見えませんでした。あの霧ではあたり前のことです。それでも、お顔の輪郭だけは判りました。たしかにドリスコルさまにちがいありません。証拠はまだあります。背の高さもドリスコルさまです。ゴルフ・ズボンをいつものように、ずり落ちそうな格好にはいて、鳥打帽を横かぶりにしておいででした。で、|濠沿いの道《ウォター・レイン》を、逆賊門の前で、行ったり来たりしておられるんです。歩き振りも、自分はよく存じております」
「しかし、それがあのひとと、断言はできんだろう?」
「いいえ、出来るのであります。なぜと申しますに、逆賊門の前で、ドリスコルさまは手すりに寄りかかられました、煙草に火をおつけになるんです。自分はこれで、眼は誰にも負けんつもりです。マッチがぼっと燃え上がりまして、ほんの一秒ばかりの間でしたが、あの方の横顔が浮かびあがりました。大型のマッチでしたので、たしかに見違いはございません。はい、お請合いいたします。たしかに、ドリスコルさまに違いございません。それから、すぐあとのことでした。変な人物が出て来まして、あの方の肱を突つきましたのは──」
「何だって!」
ハドリイがいきなり叫んだ。あまり突拍子もなかったので、パーカアは自分の言葉を疑ぐられたのかと思った。
「いいえ、警部さん。本当のことであります。逆賊門のわきに、もう一人誰か立っているのでした。それが急に出て来まして、ドリスコルさまの腕をたたきました。もっとも、その点ははっきり申し上げられません。マッチの火が消えたあとでしたから……でも、それはちょうど──」
ハドリイはしずかにうなずいて、
「なるほど判った。君はその人物を見たんだね?」
「いいえ、もうそのときは、すっかりあたりは暗くなっていまして、ドリスコルさまだけは、前からお見かけしておりましたので判りましたものの、それでなければ、誰とも見分けはつかぬくらいでした。何といいますか、ぼうとした人影を見たとでも申し上げておきましょうか」
「その人影ってのは、男か女か?」
「ええと、それがその、はっきりしませんので。見る気で見たのではありませんから、すぐに窓から眼を離してしまいました。それからさきは、何も存じませんのです」
「なるほど。で、そのときは何時だったか憶えているかね?」
パーカアは露骨に顔をしかめた。時間に正確なところを披露できぬのを、口惜しがっている様子であった。
「それがはなはだ残念なんです。御承知のように、塔の時計は十五分毎に鳴るのですが、あいにくとそのときは、ちょうど中間でありました。一時三十分は過ぎていたとは思いますが、それ以上のところは申し上げかねるんです。二時十五分前になっていなかったことはたしかです。なぜと申しまして、十五分前の時計が鳴ったときは、ドリスコルさまのアパートに電話しておりました。ちょうどダルライさまがお着きになったところでした。ドリスコルさまがお待ちです、と申し上げていました」
ハドリイは、頭をかかえて考えこんだ。やがて、顔をあげると、メイスン将軍に向き直っていった。
「閣下、さきほどのお話では、軍医の意見によると、死亡時刻は、閣下が死体を発見されたときより、三十分ないし四十分前と推定されるとのことでしたね。それは大体、いまの説明と符号しますな。手すりのところで、人影が彼に近づいてから、十分か十五分のうちに殺害されたことになるのです。正確なことは、検屍の結果判明しましょう。警察医はその点非常なエキスパートですから」
彼はそれから、黙ってパーカアを見つめていたが、
「ほかに何か、気づいたことはないかね? そう、そう、君はそのとき、ダルライさんが見つかったことを、ドリスコル氏に知らせなかったのか?」
「はい、お知らせしませんでした。あれほど気をもんでおいでなんですから、じきにお戻りになるものと考えていたのです。ダルライさまも間もなくお帰りのことですし……それにしても、ドリスコルさまのお戻りがおそいので、不思議に思ってはおりました、やっといま、そのわけが判ったのですが……」
「いや、パーカア。よく判った。御苦労だった。大変参考になったよ」
パーカアは、靴音も高く、出ていった。
警部はふとい息を吐いて、
「さて、みなさん、お聞きのとおりです。これで大体の見当はつきました。犯人は死体が発見されるまでに、三十分以上逃亡の時間があったのです。しかも、閣下のおっしゃるとおり、雨と霧で、城門の監視は、逃げ出す人物を見きわめることも出来なかったのです。以上の調査を前提として、いよいよ捜査の核心に入りますが、まず最初に──」
と、彼は参観人の名簿を取りあげて、
「参観人の調査から始めます。おそれいりますが、衛視の方を血塔《ブラディ・タワー》へやって、いま到着した巡査部長をお呼びください。たしかハンパア部長が来ているはずです。調査は彼にやらせますが、そのうち三人だけは、私が直接会ってみようと思います。ビットン夫人にアーバア氏、それから、念のために、例のラーキン夫人──この三人は、取りあえず別室においておくように願います」
ダルライがすぐにいった。
「ビットン夫人には、その必要はないでしょう。そんなことをいってごらんなさい。笑われてしまいますよ」
「まあ、いいでしょう。ああ、アーバア氏の名簿が出て来ました。きれいな筆蹟ですな。名刺の書体に負けんくらいです。人柄のきちんとしたところが窺われます。ジュリアス・アーバア。ニューヨーク市パーク・アヴェニュー四四〇番地か。職業はなしとなっています」
「もちろん働く必要はないさ」ウイリアム卿がいった。「大金持なんじゃよ」
「サウサンプトンに三月四日に着いています。イギリス滞在の期間は制限されていません。次の行先は、フランス、ニースのスール別荘。今後の連絡先はロンドン、リンカーン・イン・フィールドのヒルトン・デイン法律事務所としてあります」
警部はちょっと微笑んで、書類をしまいこむと、ぐるりと人々の顔を見まわした。
「これから、参観人の名前を読みあげますから、御存じの名前がありましたら、おっしゃってください。尋問は巡査部長にさせますから──
ジョーン・C・ベッバア夫妻。住所はアメリカ、ペンシルヴァニア州ピッツバーグ、エイルズバロウ・アヴェニュー二九一番地。次はハンツ州グリットン、ハイ・ストリートのシムズ氏──著名な水道工事請負業と自分から書いています。ジョン・スミス夫妻、住所はサービットン。簡単ですが、これで判りますね。サレイ州のですな。次はルシアン・ルフェーブル。パリ、フォシュ・アヴェニュー六〇番地。マドモアゼル・クレマンタン・ルフェーブル、住所おなじく。ミス・ドロシア・デルヴァン・マースネイ。アメリカ、オハイオ州、ミードヴィル、エルム・アヴェニュー二三番地。ミス・マースネイはマスター・オブ・アーツと肩書をつけて、太い線をひいてある、なかなかの御婦人とみえますな。この連中は、まず問題にならんようですね」
扉口で声が聞えた。
「ベッツ巡査部長です」
まじめな顔の青年が、不動の姿勢で敬礼していた。ハドリイは言った。
「ベッツ? ああ、ベッツ部長か──死体の写真は撮ってくれたか?」
「はい、塔内に道具をそろえまして、焼付もすませました。いま乾燥させているところです。二分ほどお待ちねがいます」
「よろしい。印画が出来たら、このリストにある参観人に見せるんだ。連中を入れてある部屋は、衛視に聞けば判る。よいか。写真を見せて、今日この男に会った者はないか調べるんだ。申しでた者があれば、その場所と時刻を明らかにさせる。それから逆賊門のあたりで、怪しげな行動をしていた者を見ていたのがあれば、それを詳しく聞いておく、判ったな……ダルライさん。あなたにもお骨折りが願えるでしょうか。御いっしょにいらっして、重要なことを速記しておいていただきたいんです」
ダルライは、ノートと鉛筆を手に立ち上がった。ハドリイ警部は二人の背中に向けていった。
「ベッツ部長、参観人の行動のうち、とくに一時三十分から四十五分までのあいだが肝心なんだ。その間をよく訊いてくれ。それから、ダルライさん。レスター・ビットン夫人に、こちらへとおっしゃっていただけませんか」
六 土産の鉄矢
ハドリイ警部は、またしても鉛筆、ノートブック、懐中電灯と、デスクの上に丁寧にそろえていた。
「警察医から、ドリスコル氏のポケットに入っていた物を届けさせましょう。凶器も、もう一度、本格的に検《あらた》めてみたいですね。衛視の人たちのうちにも、何か異常に気づいている者があるかも知れません。これは衛視長にお願いして調べてもらいましょう。閣下、このロンドン塔全体で、どのくらい衛視がいるのですか?」
「四十名」
「ドリスコル氏は電話を待っていたのですから、キングズ・ハウスをそれほど離れなかったと思います。したがって、その付近の衛視だけを調べればすむと思いますが──」
メイスン将軍は、葉巻の端を噛んで、
「それは君、塔内の全員に訊きあわせるとしたら、一仕事ですぞ。近衛兵が一大隊駐屯しておるし、そのほか、職工だの雑役だの、召使だのといいだしたら、大変なことになる」
しかし、ハドリイ警部はしずかにいった。
「必要とあれば、その全部でも調べるつもりです。それはそれとして、ビットン夫人の尋問に移るまえに、これまでの事柄を、一応検討してみたいと考えます。さあ、私を中心にして輪を作ってください。それぞれ御意見がありましたら、遠慮なくお聞かせ願いましょう。ウイリアム卿、あなたから始めていただきましょうか」
彼は勲爵士《ナイト》に問いかけた。が、そのあいだも、眼は絶えず、フェル博士の協力を求めていた。しかし、博士はほかのことに気を取られているらしく、妙に苛ら立っている様子だった。
大きなエアデイルテリヤが、びしょ濡れになって入って来た。ひと通りぐるっと室内を歩いてから、フェル博士の前に来てうずくまった。可愛い眼をしていた。邪気のないところが、博士のそれとそっくりだった。博士の膝もとで、耳をピンと立てて、坐っておとなしく頭を撫でてもらっている……
ランポウル青年は、頭が混乱してきたのを整理しようとして、さっきからしきりに努力していた。ほんの偶然が、彼をこの場の騒ぎに巻きこんでしまったのだが、彼としても、何か捜査に一役買っててみたい希望だった。最前ダルライの口から、ドリスコルの命を奪った太矢についての説明を聞いたとき、ひょいと意識の奥に浮かびあがったことがあって、それ以来、妙にそれが頭にこびりついて離れないのだった。死人の胸から突き出ていた、あの磨きあげた鋼鉄の太矢は、たしかに前に一度見た記憶がある。いましがたまた、ハドリイ警部がそれを口にするのを聞いて、そのおもいが一層強くなった。といって、はっきり説明できぬだけに、じりじりするようにもどかしかった。
ウイリアム卿がやっと口を開いた。俊敏な老政治家の風貌はまだ回復していないが、事件当初の驚愕からは、どうやら醒めて来た様子である。
「そんなことは判りきったことじゃ」
ウイリアム卿は、白いスカーフの端をいじりながらいった。
「この事件で、誰もがすぐに気づくことは、動機が皆無ということじゃ。この世の中に、フィリップを殺そうなんて気を起す者は、一人だっているはずがない。あれは格別取り柄のない男だが、誰にも好かれておったことは間違いないんじゃ」
「ですが、ウイリアム卿」と、ハドリイが指摘した。「ひとつだけお忘れになっていることがありましょう。この事件でわれわれが相手にしているのは、ある意味で狂人なのです、これは無視することのできない事実です。帽子盗人が、深い関係を持っているのは否定できません。フィリップ・ドリスコルを殺したかどうかは別として、その頭に帽子を載せたのは彼の仕業と思ってよいでしょう。ダルライさんの話にあったように、ドリスコル氏は、あまりにも帽子狂問題に深入りしすぎたのです」
「ほほう! すると君は、フィリップが帽子泥棒の正体を発見したので、逆にやつに殺されたという意見か? それもちょっと、軽率には同意しかねるな」
「可怪《おか》しい話か知れませんが、追及するだけの価値があると信じます……で、具体的にいって、われわれはどう行動したらよいのでしょうか?」
ウイリアム卿は、まぶたを垂れて考えこんでいたが、
「帽子事件が始まったので、フィリップはさかんに書かせてもらっておる。今朝の新聞にも彼の記事が載っておる。あれはむろん、昨夜のうちに書いたものにちがいないんだ。今朝社に出ておるとすれば、何か主筆と話しあっておると思ってよいのじゃないかな」
「ごもっともです。仰せのとおり、最初にそれを調べましょう。今日は奇妙に怯えていたといいますが、何か脅迫されていたのでしょうか。もし、そうとすれば、脅迫状は社に届いたのだと思われます。でなくても、社に出た際に、誰かに洩らしているにちがいありません。お説のとおり、調査の必要は充分あると思います」
すると、急に大声で笑い出した者がある。ハドリイは不快そうに眼をやると、フェル博士が犬の頭を撫でながら、片眼をつぶって笑っている……
「くだらんこった」
「何がくだらないんです」警部は腹の虫を押し殺していった。「くだらないのでしたら、その理由を聞かせていただきましょう」
博士は、両手を大きく拡げて見栄を切った。
「ハドリイ君、なるほど君は警察としては優秀な人物だ。だけどな、新聞事業については完全な門外漢だ。その点では、わしのほうがはるかに上さ。こういう話があるのを知らんだろう。むかしウェスト・エンドで、平和主義の大会があった。ある新米記者が、最初の仕事にその記事を取りにいったと思いたまえ。夕方になって、その新米君が、憂鬱そうな顔で帰って来た。記事はとれたか? 社会部長がいきなり訊いたもんだ。新米君は残念そうに、それが駄目だったんです。大会はとうとう開会できませんでした。え? なかった? どうしてやめになったんだ! 社会部長が驚いて尋ねると、そのときの新米記者の答が振るっていた──最初の弁士ディンウッデイ卿が演壇に立ちますと、いきなり誰かが煉瓦を投げつけたんです。たちまち、演壇を中心に、大乱闘が始まってしまいました。敵味方がごちゃごちゃになって、たがいに椅子で殴りあっているんです。そのうちに警察から護送車が到着しましたので、これはもう大会どころじゃないと思って、帰って来てしまいました」
フェル博士は、悲しげに首を振って、
「ハドリイ君、きみの言葉は、ちょうどこれとおなじさ。もしドリスコル君が、脅迫状か何か受け取れば、これ以上のニュースはないんだぜ。大きな見出しで書き立てて然るべき記事なんだ──帽子魔ついにデイリイ何とか新聞の記者を脅すってね。彼は喜んで社内に宣伝して歩くよ。好機逸すべからずだ。もともとあの男は、正規の記者になりたくて堪らんところだ。新聞街《フリート・ストリート》にいる以上、どんな新米の記者だって、こんないい材料を逃がすわけはない。当然、今朝の第一面に、でかでかと書き立ててあったにちがいないんだ」
ハドリイ警部も、さすがにむっとしたようだが、そこはおだやかに答えた。
「しかし、ドリスコル氏は臆病そうですから、わざと黙っていたのかも知れません」
ウイリアム卿がすぐに口を出した。
「ちょっと待った。それはちがっておるぞ。あの男の名誉のためにいっておくが、あれは、決して臆病者ではない。今日の彼は取り乱しておったようだが、それは決して暴力を恐れておったからではない。わしが請合う。あれはきっと、ほかの──金かなにかのことからなんじゃよ」
「ですが、ドリスコル氏のいっているところによりますと──」
「そんなことはどうでもよいさ」フェル博士がまたしゃべり出した。「脅迫されたからといって、新聞記事にしては危険だというわけはない。たとえば、ついに犯人の手掛りを掴んだと発表したにしても、あるいはまた、記者が脅迫されたと書いたにしても、どちらにしろ、べつに大したことにはなりそうもない。前の場合は、せいぜい犯人に用心させるだけ。後のほうなんかは、却って犯人を嬉しがらせるかも知れないんだ。なぜって、やつの今までのやり方を考えてみるがよい。むしろ世間が騒ぎ立てるのを望んでいる形跡がある。ドリスコル君にとって、危険なんか全然ありはせん。案外あのひととしても、記事の材料が出来たといって喜ぶくらいのものだ」
「しかし、あのひとは犯人の見当をつけたんでしょうかね」
「ひょっとすると、ついたのかも知れん。新聞社ってものは、警察とは連絡が密なもんだし、ドリスコル君はとくに担当記者だからね。しかし、帽子騒ぎがただの冗談だとすれば、べつに怖れるわけはない。何かもっと、深刻な理由があったとしか考えられん。ウイリアム卿がいわれるとおり、ドリスコル君が臆病者でないことも、わしは信じておる。そのドリスコル君が、何をああ怖れていたのだろう? くどくいうようだが、これには何か理由がある。死骸に帽子がかぶせてあったのを見てもそれが想像できよう。わしもむろん、意見があることはあるが、君も一応、よく考えてみるがよい」
それだけいって、フェル博士はまた、犬の頭に注意を移してしまった。
「私としても、先生に聞いていただきたい意見はあります」主任警部はいった。「しかし、それは後刻のこととして、さきに打合せをすませてしまいましょう。メイスン閣下、御意見を聞かせていただけませんか」
メイスン将軍は、最前から黙々として葉巻をすっていたが、おもむろに口から離して、首を振った。
「わしの意見なんて、別にありはせんよ。ただ、あれだな。あの矢はどう見ても、射ったものじゃないな。突き刺したにちがいないんじゃ。わしは始めから、そう考えておる」
ハドリイ警部は次に、若いアメリカ人が落着かずにいるのに眼をとめて、うながすように頭を向けた。
「ランポウル君、何もおっしゃらんようですが、御意見をうかがわせていただきたいですな」
三人の視線が、一斉に彼に向けられた。平静を保とうとしたが、いやでも緊張せざるを得ない。今日の事件に関して、いわば彼は試験台に立たされたようなものだ。何とか立派な答案を述べたいと、試験官の前に出た若い学生のように興奮した。声がおのずと震えて来るのを意識しつつ答えた。
「僕には僕の意見があります。あるいは、あまり重要なものとはお認めくださらぬかも知れませんが、一言述べさせていただきましょう。凶器として使われた鉄矢は、このロンドン塔の蒐集品ではないとのことですし、形式は十四世紀のものだとの鑑定をうかがいました。しかし、果してドリスコル君は、千三百何十年代かに製作された鉄矢で殺害されたのでしょうか? 僕もいささか武器や甲冑については研究をしたことがあります。この方面で世界最大のコレクションというと、ニューヨークのメトロポリタン博物館にあります。僕はそこで研究したのですが、その年代の鋼鉄は、すでに完全に腐蝕しきった状態にあります、あのドリスコル君を殺した武器のように、するどく光って、しかも硬度も十分だというものは、ひとつだって見られません。それから考えても、あれはどうも新品としか思えません。僕の記憶に誤りがなければ、この塔内の蒐集品では、十五世紀初期のものが、最も古いはずですが、その十五世紀の兜にしてからが、赤錆でぼろぼろになっているものと信じます」
部屋中が緊張した。言葉を発する者は誰もなかった。しばらくして、警部がまずうなずいて、
「つまりあの矢は、最近製作されたものだというんですね。もし、そうだとすれば──」
「もし、そうだとすれば、誰が製作したか? いうまでもなく、現代において、十四世紀の形式の鉄矢を製作できる鍛冶屋は、そう大勢いないはずです。骨董品としてか、慰みに装飾用に作るぐらいでしょう。むろんあれが、このロンドン塔内で製作されたものとは考えられません」
メイスン将軍は微笑みながらいった。
「なるほど、このお若い方のお説は一理ある。あれはもちろん、この城内で作ったものじゃない、ここの作業場で手掛けたものなら、とうのむかしに判っておるはずじゃ」
ハドリイも、黒い手帳に控えていたが、うなずきながらいった。
「御意見は正しいようですね。大へん参考になりました。さて、こんどは、雄弁家の御意見を承る番だ。フェル博士、犬はもうお離しになって、いままでの尋問の結果について、お考えのところを聞かせていただけませんか」
フェル博士は首をかしげて、考えこんでいる様子だった。
「いままでの尋問だって? あいにくわしは、あまり注意して聞いておらなかった。したがって何の意見もいえんのだが、その代りとして、わしのほうから質問させてもらえんかな?」
「結構ですとも。何でしょうか?」
「この帽子さ」
彼はトップハットを取りあげて、振りまわしながらいった。
「あんた方もお気づきのことだろうが、死骸の頭にこれが載っておったとき、道化役者が山高帽子をかぶったように、耳まですっぽりかぶさっておった。むろんあの男は小作りだし、ウイリアム卿は立派な体格だ。といっても、卿の頭の格好は、幅が狭くて前後に長いほうだ。この帽子は卿御自身にも大きすぎるのではないでしょうか?」
「わしにもだって?」相手は当惑した顔つきだった。「そんな馬鹿な。わしの帽子がわしに大きすぎるというのは可怪しいじゃないか? いや、待てよ。憶いだしたぞ、帽子屋でかぶったときは、大きすぎたようだったな。だけど、邸に送って来たのは、ぴったり合っておったに間違いない」
「では一応、かぶってみてはいただけませんか?」
メイスン将軍が、フェル博士の手からそれを受取って、ウイリアム卿に差し出した。卿は急に体をこわばらせて、
「いや、やめておこう。それは勘弁してもらいたい。わしはどうも──それだけは御免じゃな」
「なるほど、無理もないことですな。かぶっていただかねばならんというわけでもなし……」
フェル博士は、簡単に提案をひっこめて、帽子を受取ると、ぽんと平らにたたみこんで、まん丸な自分の顔をバタバタとそれで煽いでいた。
「ついでにお訊きしておきますが、この帽子をお求めになった店はどちらでしょう?」
「スティールじゃよ。リージェント・ストリートのスティール帽子店じゃ。それがどうかしたかな?」
そのとき、扉の外で声がした。
「レスター・ビットン夫人がおみえです」
衛視が扉をあけると、レスター・ビットン夫人が入って来た。足どりも活発に、元気のよい婦人だった。年齢は三十に近い。スラリとした姿体は、水泳選手のように均斉がとれて見事だった。顔はよく見ると、かならずしも美しいとはいえないが、あふれるばかりの健康と若々しさで、誰の眼にも美人とうつった。冬期でも、おそらく彼女は、日焼けの色をさまさぬであろう。輝くような茶色の眼と、よく通った鼻すじ、愛敬があって、しかもきりっと締まった口もと。青い帽子の下から、鳶いろの頭髪がのぞいて、厚い毛皮の襟の下は、ぴったり体にあった服が、豊かに盛りあがった胸もとと、肥り気味の腰部の線をしめしていた。
彼女は、ウイリアム卿の顔をその場に見て、急に落着きを失った。おだやかな眼が、ひきしまったように思われた。
「まあ、お兄さま。お出でになっていらっしたのですか? ずいぶんお早くお着きになりましたのね」
ウイリアム卿の顔を見つめながら、心配そうにつけ加えていった。
「でも、あまり御心配にならないほうがおよろしいわ。おからだに触るといけませんもの」
ウイリアム卿が彼女を紹介した。どうです諸君、現代女性の標本みたいだとは思いませんか、とでもいっている様子だった。ランポウル青年は、彼女の席を、ハドリイのデスクのわきにとって、椅子をすすめた。彼女は悠々とその椅子にかけて、一同の視線を平然と受けとめながら、ポケットの煙草に火をつけた。
「あなたがハドリイさんですの? お噂はウイリアムから聞いておりました」
そういってから、もう一度部屋中の人々を見渡した。フェル博士の顔には、とりわけ注意して眼をそそいだ。
「あなた方はみんな警部さんか何かなんでしょうね? この取扱いは、ちょっと無礼だと思いますわ、もうすこしあの部屋においておかれたら、わたくしひと悶着起すつもりでした。空気の流通はわるいし、隣りにいた女が、しじゅうわたくしの耳のはたで、なにかしゃべっておりますの。でも、あそこにいるあいだ、わたくし何も知らずにおりました。事情を聞いたときも、本当とは思えませんでした。まさかフィリップが……わたくし、とうてい信じることはできませんでしたわ」
表面何気ないように見せているが、そのじつ、はげしく動揺していることはあきらかだった。煙草の灰を、床に払い落して、その上にまた、いくども繰り返して煙草をはたいていた。
ハドリイは無表情にいった、
「では、奥さま。事情はすでに御承知なんですね?」
「うかがいました。可哀そうなフィリップ! わたくし──」
彼女は言い淀んだ。殺害者に、どんな刑罰をあてがったら腹が癒えるかと、そればかりを思いわずらっているように、灰もたまらぬうちから、しきりに煙草をはたくのだった。
「でも、わたくしを呼び出して、お尋ねになるというのも可怪しな話ですのね。なんのためにわたくし、調べられる必要がありますの?」
「これはほんの形式なんです。凶行当時に、現場近くにおられた方は、どなたにもお答えを願うことにしてあります。あなたさまに一番最初にお尋ねしますのも、早くお帰ししたいと思ったからなのです」
「ええ、よく判っておりますわ。わたくし、探偵小説なら、ずいぶんたくさん読んでおりますので、──フィリップはいつ殺されましたの?」
「まもなく判ると思います」ハドリイはあくまで慇懃な態度を崩さずに、「おさしつかえなければ、お尋ねさしていただきます。まず最初にお訊きしますが、奥さまがこの塔にいらしたのは、これが始めてではないと存じますが、もともとこういった歴史上の宝物に、御興味をお持ちなんでしょうか?」
ちょっと皮肉な微笑が、彼女の顔に浮かんで消えた。
「ずいぶん紳士的な質問振りですこと」
彼女はちらっとウイリアム卿のほうを見て、
「たぶん義兄からお聞きになったことと思います。ウイリアムはわたくしのことを、こうした廃墟やかび臭い品物に、興味なんか全然ないように思っているでしょうが──」
メイスン将軍はむっとした様子だった。廃墟という言葉が彼を刺激したとみえる。葉巻を口から離して、
「奥さま失礼ですが……」
と、彼はそれでも、おだやかな声でさえぎった。
彼女もまたおだやかに笑いかえして、そのまま笑顔をハドリイに向けると、
「でもそれは、ウイリアムが何も知らないからなのです。わたくし、実際はそういったものが大好きなのです。子供の時分から、鎧武者だの、馬上試合や一騎打ちといったものが好きでしたの。ただし、むかしの戦争の日付だとか、どの王様がどうしたとかいうことは別ですわよ。そんなことは覚えられもしませんし、また一向に覚えたいと思いません。でも、それはどうでもよいことですわ。それこそ、レスターのいい草ではありませんけど、もう時代おくれのことですもの──お話がよそへそれました。わたくし、そういったものが好きは好きですけど、今日ここへ来ましたのは、塔の見物が目的ではなかったのです。散歩するつもりでまいりましたの」
「散歩ですって?」
「わたくしども近代人は、徒歩運動が不足だと思います。それがわたくしの持論でして、健康には歩くことが何よりなんです。レスターはだんだん、おなかが出張って来ました。それも運動不足が原因しているんです。それでわたくし、都合のつくかぎり、夫を徒歩旅行に連れだすことにしています。昨日も西部から帰って来たばかりです。今日はわたくし、バークレイ・スクエアから、ロンドン塔まで歩く予定を立てました」
彼女の言葉は、ハドリイの胸にすくなからず影響を与えたようだ。しかし、彼女はそれに全然気がつかぬ様子である。
ハドリイ警部も、何食わぬ顔でうなずいていた。
「夫も誘ってみましたが、承知しませんでした。レスターは保守党員でして、農村問題を研究しておりますの。毎朝新聞を見まして、ああ、困ったものだ! と叫んでは、一日中その対策に頭を痛めているのです。胃が痛んでくるまではやめようともしないのです。去年の夏、南フランスヘ徒歩旅行に誘ったんですけど、しじゅうそのことばかりぶつぶつ呟いておりまして、ほとほと弱らされた経験がありますわ。で、今日はわたくし、ひとりでやって来ました。そして、せっかくここまで来たのですから、ついでに見物もしていこうと思いまして」
彼女は言葉に気を配りながら、説明をつづけた。
「そういうわけでしたか」と、ハドリイ警部はいった。「ここへお着きになったのは何時でしたか?」
「はっきり憶えてはいません。でもそれが、そんな大切なことですの?」
「ぜひ伺わせていただきたいと思います」
彼女も体を緊張させた。
「一時だったと思いますが、ひょっとしたら、もうすこし過ぎていたかも知れません。城門のわきの喫茶室で、サンドイッチを取りました。そこで、入場券も買いました。三枚でして、白いのと、赤いのと、それから緑色のでしたわ」
ハドリイはメイスン将軍に眼をやった。将軍はすぐに説明を加えた。
「白塔、血塔、宝冠室の入場切符だ。ひとつ料金でその三つが買えるんじゃよ」
「そうでしたか。で、ビットン夫人、その切符は、お使いになりましたか?」
夫人は紙巻を、唇の前で、くわえもせずに持ったままだった。豊かな胸の動きがはげしくなって、唇の端がぴくぴくと動いた。ハドリイ警部は、依然として無表情な顔で質問をつづけた。
「宝冠室だけ拝観しました。大したものとは思いませんでした。なんですか、ガラス細工みたいでして、あれ、ほんものではないんじゃありません?」
澄ました顔で、遠慮会釈もなくいってのける女だった。聞いているメイスン将軍は、顔にサッと血がさして、日焼けした額が、煉瓦色に染めあがった。咽喉のおくから、首を絞められるような声が飛び出しかけたが、辛うじて自制して、パッパッとはげしく葉巻を吸いつづけた。
「ほかの切符は、なぜお使いになりませんでした?」
「宝冠室だけで、あとは見る気がなくなってしまったんですわ」
ずいぶんくだらぬ質問をするものだというように、ビットン夫人は椅子のなかで、つまらなそうにからだを動かしていた。が、よく見れば、眼だけがきらきら光っている……
「わたくしそれから、内庭のあたりを、すこし散歩してみました。鴉がおりるところですわ。わたくし、兵隊さんの姿が見たかったのです。それから、きれいな格好をしたビーフ・イーター〔ロンドン塔の衛視の俗称〕にも話しかけました」
こんどこそは、メイスン将軍も黙ってはいられなかった。
「ビットンの奥さん」と言葉だけはおだやかに抗議した。「その名称だけはお使いにならんように願いたい。ロンドン塔の管理にあたっている者には、ヨーマン衛視〔昔郷士の子弟をもって組織した近衛兵〕という、ちゃんとした名前がありましてな、ビーフ・イーターとはいわんのです。その名称は──」
ビットン夫人はあわてて訂正した。
「失礼しましたわ。わたくし、ちっとも存じませんでした。みなさんがおっしゃるので、それがほんとうの名前だとばかり思っておりましたの。で、わたくし、その衛視さんに、石の厚板を指さしまして、ここがむかしのお仕置場かと訊きました。こういいましてね──あの、ここが、エリザベス女王が首を斬られたところですの? すると、どうでしょう。そのビーフ、いいえ、あの、衛視さんは、気絶するかと思うくらい驚きまして、二、三度咳払いをしましてから──奥さま、エリザベス女王は、あの、そんな──つまりベッドのなかでおかくれになりましたというのです。それからあのひと、ここで首を斬られた人たちの名を、ずらりと並べ立ててくれました。でわたくし、また訊きました──あのひと、なんで死にましたの?……奥さま、あのひとって、どなたで?──エリザベス女王よ。わたくしがそういいますと、衛視さんは、また奇妙な声をだしました」
ハドリイ警部はさえぎるように、
「ビットン夫人、質問申し上げたことだけにお答え願いたいんですが──何時にそこを出られました?」
「あいにく、わたくし、腕時計を持っていませんの。それでも、閲兵場から血塔《ブラディ・タワー》という大きな建物のアーチの下まで来たとき、階段の手すりの近所に、何人かのひとがかたまっていました。そのなかにもビーフ・イーターが一人いまして、ここに立ち止まらないでくれというのでした。たぶんそれが、フィリップが発見されたときだったのでしょう。で、城門まで行きますと、そこから外へは出してくれませんでした。わたくしの存じていますのは、それだけですわ」
「ドリスコル氏には、お会いになりませんでしたか?」
「ええ、もちろん、会いませんでした。あのひとが来ていることさえ知らなかったんですもの」
ハドリイ警部は、何か考えながら、デスクの上を指でたたいていた。が、急にまた訊いた。
「奥さま、いまのお話では、ここへお着きになったのは、一時近くのようにうかがいましたが?」
「いま申し上げたとおりよ。でも、はっきりはいえませんわ。時計を持っていませんから──」
「一時すぎていたのではありませんか?」
「そうかも知れないわ。過ぎていたかも知れませんね」
「死体が発見されたのは二時三十分でした。奥さまがこの塔を出ようとなさったのは、その時刻よりあとだったはずです。でなければ、出口で足留めさせられるわけもありません。とすると、その一時間と三十分のあいだを、宝冠室の見物と、霧のなかの、いわゆる散歩とに費されたわけですね?」
彼女は平然と笑っていた。が、紙巻の火が指先を焦がした様子で、びくっとして床に落した。眼は、挑戦するように、ハドリイにまともに向けているが、よほど平静を失っているようにみえた。
「わたくしが、このくらいの雨や霧を、おそれるとでも思っていらっしゃるの? おかしいくらいですわ。それともわたくしに、フィリップを殺さなければならぬ必要があると思っていらっしゃるの?」
「職務上おたずねするのですから御容赦願います。時計をお持ちにならなかったとすると、一時半から二時十三分前までのあいだ、逆賊門の近くにおられたかどうかもお判りになりませんね?」
彼女は絹靴下の足を組みなおして、眉をひそめた。
「逆賊門とおっしゃると、どこのことなんですの?」
ハドリイは、夫人のハンドバックを顎で指して、
「そのハンドバックからのぞいている緑色のものは、案内書ではございませんか?」
「こ、これは──あら、わたくし、すっかり忘れておりましたわ! ええ、ロンドン塔の説明書です。切符売場で、二ペンスで買い求めました」
「一時半から二時十五分前までのあいだに、逆賊門の近くに、おいでではなかったのですか?」
夫人はまた紙巻を出して、テーブルでマッチをこすって火をつけた。警部を見つめる眸に、冷たい敵意が、まざまざと現れた。
「おなじ質問を、二度も繰りかえしていただいて、御親切ですこと。死体が発見されたところが、逆賊門の近所でしたら、おあいにくさまと申し上げますわ。わたくし、そんなところでまごまごはしていません。出入りに通ったことはあるかも知れませんが──」
ハドリイはにやりと笑った。静かな、おだやかな笑いだった。彼の表情は、かえってそれで、やわらいだようでさえあった。女の顔は、もともとこわばって、眸も緊張しきっていたのだが、その笑いに気がつくと、反抗的に笑いだして、
「いいわ、ハドリイさん。あなた、勝ったおつもりなのね。でも、わたくし、あなたに足をすくわれるような馬鹿ではありません。あなたがどんなことを狙っても──」
「おい、ローラ」と、ウイリアム卿が顎のさきを撫でながら口をはさんだ。「おまえすこし、興奮しすぎてはおらんか……警部、質問をつづけてよろしいですぞ」
「ビットン夫人。お気に染まぬことを、もうひとつお尋ねします。ドリスコル氏の生命を奪おうとしていた者に、お心当りはございませんか?」
低い、だがするどい声で、彼女は答えた。
「あのひとを殺そうとする人なんて、あるわけがないじゃないの! 考えられないことだわ。フィリップって、すばらしい人ですもの。あんな立派な青年って、考えられるものじゃありませんわ!」
メイスン将軍は身慄いを感じた。ハドリイ警部にしても、たじろいだかたちだった。
「おっしゃるとおりかも知れません。で、奥さまは、いつドリスコル氏にお会いになりました?」
「もうかなり経ちますわ。レスターとわたくしが、コーンウォールヘ立つ前でした。あのひとが尋ねて来るのは、いつも日曜日なんです。でも、昨日だけはみえませんでした。どうしたわけでしたかしら……そうでしたわ。昨日は原稿が失くなったので、ウイリアムがすっかり不機嫌になっていましたし、それを探すので、邸中を掻きまわされていたからでしょう──警部さん、あの件を御存じなんですか?」
「存じております」ハドリイは手短かに答えた。
「ああ、そう、そう。そうでしたわ。わたくし、すっかり忘れていました。あのひとやはり、夜おそく、ちょっとの間でしたけど、邸に寄りました。新聞社に原稿を届ける途中だとか言っていました。馬車馬の頭に、弁護士の鬘が載っていたという話でした……ウイリアム、あなた憶えていらっしゃる?」
ウイリアム卿は額をこすって、
「気がつかなかったな。もっとも、あのときこっちは、ドリスコルどころではなかったからな」
「わたくし、シーラから帽子騒ぎのことは聞かされていましたので、その前の晩にウイリアムの帽子が盗まれた話をしてあげました」
「ドリスコル氏は何か言われましたか?」
「もちろんよ。いろいろと質問しましたわ。盗まれた場所だの時刻だの、さんざん訊いておいてから、いきなり立ち上がると、客間を歩きはじめるのでした。そして、こんなことを叫びました。これでリードが奪えたんだぞって……何のことか訊きただそうと思っていますと、そのまま、飛び出していってしまいました」
ハドリイの質問は、やっと終末に来たらしい。フェル博士は、犬を膝に載せて、すました顔で頭を撫ぜていた。
扉口でノックの音がして、年寄りじみた、くたびれた感じの男が入って来た。ハンケチに包んだものを小脇に抱えている。丁寧に敬礼をして言った。
「ハンパー巡査部長です。被害者の所持品を持参いたしました。警察医もお話があるそうで、いまおいでになるところです」
つづいて人の好さそうな小男があぶなっかしい足取りで現れた。顎のさきに山羊ひげをちょびり伸ばしている。ハドリイの顔を見ると、いきなり言った。
「やあ、ハドリイ! 捜査は進んでいるかい?」
黒皮の診察鞄を持ったままの手で、山高帽をちょいと撥ねあげると、片方の手で、鋼鉄の細長い棒を突き出した。
「これが凶器だぜ、ハドリイ。指紋なんか、ひとつもありはせん、血痕はおれが洗っといた。汚れがひどかったんでな」
彼はひょろひょろとテーブルによって、適当な場所に大弓の鉄矢をどすんとおいた。細長い鋼鉄の棒で、やはり鋼鉄の矢羽のついた、長さ十八インチほどのものであった。
「近頃はずいぶん凶器も変ったもんだな」医師は鼻の頭をこすりながら笑った。
「十四世紀後期の大弓の矢だそうです」
「冗談言いなさるな。馬鹿々々しい」
「え?」
「冗談じゃないといったのさ。ここになんと彫ってある?『カルカソンヌみやげ』〔南仏、オード河辺の城砦都市〕とあるんだぜ。抜け目のないフランス人は、贋せものをうまく作って、土産店で売っておるんだ。こいつァそういった代物さ」
そのとき、ウイリアム卿が、わきから口を出した。
「だが、ドクター──」
相手は卿に、じろりと流し目をくれて、
「これでも名前がありましてね。ワトソンて言うんです。ドクター・ワトソンって言いましてね」
キイキイ声で警察医は言い立てた。
「私の鑑定がちがっておりますかね? 私はおかしな性分でしてね。意見に反対されると、つい文句を出したくなるんです。何しろこれで、この商売を三十年はやっておるんですからね、そのあいだ、いつもこればかりやらされて来ました。いいかげん、うんざりもしていますが、ちょっとでも隅のほうにひっこんでいようものなら、すぐにまた呼び出されてしまうんで、やりきれたもんではありませんや。やれ、あの辻馬車がどうだ、この刻み煙草は何だなんて、意見ばかりを求められる。しまいには、訊きにくるやつを、片っ端から追っ払ってやりたくなりますよ。それにまた刑事の馬鹿どもが、私の鑑定をおとなしく待っていましてね。捜査は一切、それによって進めるとか言って──」
この長広舌に、ローラ・ビットンは一顧《いっこ》もあたえなかった。顔色も青ざめて、身動きもせずに、眼をこらして太矢を見つめていた。その烈しい眸には、さすがのワトソン博士もおしゃべりを止めた。
出来るだけ平静を保つように努めながら、彼女はいった、
「ハドリイさん、わたくし、これはどこにあったものか存じておりますわ」
「前にごらんになったことがあるのですか?」
「わたくしの家にあったのです。レスターといっしょに、南フランスに徒歩旅行したとき、わたくしが買って来たものなんです」
七 ラーキン夫人のカフス
「みなさん、静粛に願いましょう」
ハドリイ警部が叱るようにいった。
「これではまるで、瘋癲《ふうてん》病院と間違えられる──で、ビットン夫人。いまのお言葉に相違ありませんか?」
ビットン夫人は、ぴかぴか光るその鋼鉄棒に、催眠術でもかけられたように見入っていたが、しばらくして、やっと術から解き放されて顔をあげた。坐りなおして、紙巻煙草を取りだしたが、ぎこちない動作だった。
「ええ……でも、絶対にそうかといわれても困りますわね。カルカソンヌヘ行けば、これを売ってる店がちゃんとあって、何百人ってひとが買っていくのですから……」
「それはその通りです。しかし、奥さまが、これとおなじものをお求めになったことはたしかですね。どこに取っておかれましたか?」
「ほんとうのことを申し上げますと、わたくし、それを憶えておりませんの。ここ何カ月も、見たことがないのです。旅行から帰って荷物を解いたときから、なぜこんなつまらぬ物を買って来たんだろうと思ったくらいでした。たしかそのまま、どこかの隅に、つっこんでしまったはずです」
ハドリイは鉄矢を掌にのせて、重量をはかってみた。それから、矢尻と矢羽を検めてから、
「奥さま、矢尻も矢羽も、ナイフのように研ぎあげてありますが、お買い求めになったときも、やはりこんなに光っていましたか?」
「いいえ、ちがいますわ。刃なんか全然ついていなくて、人を刺せるなんて、考えられもしませんでした」
主任警部は、矢羽を持ちあげてみながらいった。
「実際のところ、これは鑢《やすり》をかけ、研ぎあげてあります。ほかにもまだ──どなたか、レンズをお持ちの方はありませんか? ああ、ハンパア、君は持っているだろう」
彼は巡査部長から、小さな拡大鏡を受け取って、矢柄を斜めにかまえて、側面に刻んだ文字を調べた。
「カルカソンヌみやげとあるのを、鑢《やすり》で潰そうとした形跡がある。途中でやめているが、うまく消せぬので諦めたわけでもないようだ。みやげという字の半分は、完全に消してしまってある。やりかけたところに邪魔が入って、中止したものとみえる」
ワトソン博士は、彼の発見から一座がのこらず緊張しきったのを見て、すっかり満悦した顔つきで、ポケットのチューインガムを口のなかに抛りこんだ。
「さあ、私はもう帰りますよ。何か訊いておくことがあったら、いまのうちに頼みますぜ。ただし、どうやって殺したかってことだけは勘弁してもらいたい。あまり専門的に、学者がかったことをいうのは嫌いなのさ。死体を見た人ならば、むろん判っているでしょう。ぐさっと、見事に突きさしてある。しかし、あれには相当の力がいるな。お陰で、完全な即死だよ。そう、そう。打撲傷もあることはある。あれはしかし、階段を転げ落ちるときでも出来ることだし、ひょっとすると、犯人に投げ飛ばされて、そのとき出来たものかも知れん。もっともそれを調べだすのが、君たちの仕事だったな」
「死亡時間は、ワトソン先生? この塔内の医者は、一時半から四十五分までのあいだだといっていますが──」
「ほほう、そんなことをいっとるかね」
警察医は、砲金側の大きな時計を取りだして、耳のはたで振っていたが、またポケットにしまいこんで、
「もうちょっと後だろう。それにしても、感心に、よくそこまで判った。正しくは二時十分前。前後して数分のちがいだ。病院へ運んで解剖してみよう。あとでまた知らせますよ。じゃ、お先に」
黒カバンを振りながら、おぼつかない足取りで、彼は帰って行った。
「おい、おい、君!」
医師の姿が見えなくなると、ウイリアム卿が急に抗議をはじめた。
「死亡時刻ってのは、あんなに正確に判るものかい? こうしたことには、相当幅を持たせておくのが良心的じゃないのかね?」
「彼の場合は別なんです」ハドリイが説明した。「そこが彼の値打でして、二十年間、その推定が、十分と狂ったことがありません。もっとも、これから解剖をするといっていますように、ハッタリを利かせているところもないわけではない。一時四十五分ごろとでもいえば、大体当っているんでしょうがね」
彼はそれから、あらためてビットン夫人に向き直って、
「さきへ進みましょう、奥さま。この矢がお邸にあったことを、どなたが知っておいででしょうか?」
「みんな知っていると思いますわ。わたくし、旅行から戻りましたとき、土産の品は、みなにみせましたから──」
「ウイリアム卿、あなたもごらんになりましたか?」
「憶えておらんね。見たかも知れんが。思いだせん。いま始めて見たような気がするが……待てよ、そう、そうだった。憶えておらんはずじゃよ。お前とレスターが旅行から戻って来たときは、わしはアメリカへ旅行中だった。わしのほうが、お前たちよりあとで帰って来たのだ。見ておらんのは当然のことじゃ」
ハドリイはふとい溜息をついて、
「あとで私は、お邸へ出張して、直接調べさせていただきましょう。奥さま、お伺いすることは、これで終りました。これ以上、おひきとめはいたしません。衛視にお車まで送らせましょう。それともウイリアム卿。あなたがお送りくださいますか?」
彼はそこで、勲爵士《ナイト》の腕に手をかけて、
「といって、ここであなたを、追い払うつもりではありませんから、そこは誤解のないように願います。お残りくださるのは大いに結構ですが、今日はかなりお疲れの様子ですから、ビットン夫人とごいっしょにお引取りになったらと思いましたので──」
「わしはまだ残るさ。君がアーバア君に、どんな質問をするか、それを聞いておきたいんじゃ」
「いや、むしろ、それがあるからお帰りを勧めたのです。お立会いになると、かえってトラブルを起す危険がある。といって、私の口からお帰りなさいと命令することも出来ませんが──」
将軍が横合いから、ぶっきら棒に口をはさんだ。
「ビットン君、わしの部屋へ行っておったらよかろう。パーカアにそういって、葉巻とブランディを用意させておくよ。何か変ったことがあれば、すぐに知らせるから。エセックス伯デヴェルウの記録が、机の引出しにしまってある。それでも見ながら、時間を潰しておったらよかろう」
ウイリアム卿は、大きな体を椅子から上げて、女のほうに顔を向けた。そのとき、ほんの一瞬であったが、ローラの顔に、はげしい恐怖の色が閃いたのを、ランポウル青年は見逃がさなかった。無意識に秘めていたおそれに、ふいと胸を突かれた表情だった。息をとめて、眼を見ひらいた。が、それもすぐに消えた。ハドリイ警部もそれに気づいたか、ランポウルには疑問であった。
「わたくしも残っていましょうか? 何かお役に立つかも知れませんわ」
彼女は訊いた。冷静な、落着き払った声だった。が、小鼻の両わきに、深い皺がきゅっと寄って、息もつまるばかりに緊張しているのが窺われた。しかし、ハドリイ警部は、微笑みながら首を振った。彼女はまだこころのうちで何か思い悩んでいるようすだったが、
「そうですわね。つまらない好奇心は、やめておいたほうがいいかも知れませんわね。わたくし、やはり帰らせていただきます。車にしますわ。今日だけは、散歩を楽しむ気にもなれませんから。では、みなさま、失礼しますわ」
てきぱきと挨拶すると、ウイリアム卿のあとから、部屋を出ていった。
「やれ、やれ」
長い間をおいて、メイスン将軍はいった。暖炉の火が消えかかっていた。将軍は、足でそれを掻き立てようとしたが、ひょいと傍らを見てやめてしまった。そばにハンパア部長が、さきほどから忘れられたように、じっとおとなしく立っているのを見たからだった。
「ああ、そうだったな」
主任警部もやっと気がついたか、咳払いをひとつして、
「待たせてすまなかったな、ハンパア。被害者の所持品を持って来てもらったのだな。そこで開けてみるがいい。そのまえに聞いておくが、衛視長から何か言伝てがなかったか?」
「はい、ございました」
「そうか。だが、それを聞くまえに、アマンダ・ラーキン夫人を調べてしまおう。五分経ったら、連れて来てくれ」
巡査部長は敬礼して出ていった。ハドリイ警部は、デスクの上にハンケチの包みをおいたが、すぐに開けようともしなかった。まずフェル博士のほうを見た。博士はパイプを口に、上着の前をエアデイルテリアの毛で汚したまま、微笑をこちらに向けていた。が、警部の顔の表情は堅かった。
将軍も両足を床にひきずるようにしていった。
「ハドリイ警部、君はあの婦人をどう思うね?」
「ビットン夫人ですか? ぬらりくらりと相当のものですね。罠のあり場所はちゃんと心得ておられます。わざと相手を怒らせて、捜査を横道へずらせる術も承知だし、余計なおしゃべりでごまかす手も知っておられる。なかなかどうして、見上げたものです。閣下はどうごらんになりました?」
「わしは始めて会ったんで、警察官だと間違えられたようだな。もっとも、御亭主のほうは、ビットンを通して、すこしは知っておるんだがね」
「レスター・ビットン氏ですか? どんな方なのです?」
「説明するほどよくは知らんがね。夫人よりはよほど年長らしい。したがって、あの婦人といっしょに、スポーツを付き合されるのは相当つらいことだろう。何か事業で、相当の資産を蓄積した人物らしい。酒も煙草もやらんようで、驚き入った堅人らしいよ」
メイスン将軍は、頬ひげをそよがせながら語った。主任警部はハンケチに眼を移して、包みを解いた。
「これが被害者の所持品です。腕時計のガラスは毀れていますが、止まってはいません。鍵束、万年筆に鉄筆、札束と銀貨、銅貨──銅貨はずいぶんありますね。手紙が一通──うす紫の封筒で、香水のにおいがしている。婦人の筆蹟です」
彼は封筒から中味を取り出した。一枚の便箋だった。ランポウルと将軍がのぞきこんだ。日付も宛名もなく、便箋の中央に、乱雑な字が走っていた。
──警戒せよ。ロンドン塔、一時三十分。監視される。発見のおそれあり──メアリイ
ハドリイは眉を険しくして、読みあげた。
「メアリイ? メアリイという女性を探さなければならんな。消印はロンドン西区、昨夜十時半の投函か。どこか神経に触る手紙ですな」
そのままそれを、デスクの上に投げだして、またハンケチの中味の調査にかかった。
「ドリスコル氏の持物は、部長が残らず集めてくれました。指輪からネクタイ・ピンまで入っています。ルーズリーフ式の手帳があります。黒革の表紙で、これで手掛りでも見つかればしめたものですが──」
手帳を開いて、ハドリイは最初の頁に眼を通していたが、がっかりしたようにデスクに叩きつけた。
「何だ、これは! 何かのメモらしいが、むやみに点線ばかり使って──もっとも、筆蹟はドリスコルにちがいないようです。
──最適の場所は?……ロンドン塔の……帽子を追え……残念なり、トラファルガー……刺し通せず! ……一○……木……柵か垣……調査のこと」
沈黙が流れた。
「さっぱり訳が判らんな」
メイスン将軍がみんなの気持を代弁するように苦情を述べた。
「寝言としか思えん。意味があることはあるのだろうが──」
ハドリイ警部もそのあとから付け加えていった。
「繋ぎの言葉を省いたんです。私も、ときどきこうしたことをやります。これを原文に直すには、省いた言葉を埋めればいいんですが、こんなことにも、かなりの才能を必要とするものです。それでも、これを突きとめれば、帽子狂の手掛りが掴めるかも知れません。どんなものが飛び出すかは疑問ですがね」
「もう一度読んでくれんか!」
急に片隅から、フェル博士が大声を発した。体を乗り出すようにして、パイプを振りまわしながら叫んでいた。主任警部が、ふたたびそれを読みあげると、聞いているうちに、博士の丸まっちい顔が、溌剌とした光に輝きだした。
扉口で、ハンパア部長の声がした。
「ラーキン夫人を連れて来ました」
フェル博士はいまの手帳の内容で、よほど満足した面持で、声を立てずに笑っていた。突き出たチョッキの太鼓腹に、大きな波を打たせているし、細い眼もパチパチ瞬たかせていた。パイプの灰を、傍若無人にあたり近所に撒き散らしている様子は、火を噴く山の精を想像させた。が、次の尋問のために、部長に連れられて、ラーキン夫人が姿を現すと、彼はとたんに鎮まりかえった。ハドリイ警部はいそいで手帳を閉じるし、メイスン将軍は暖炉のそばにひっこんだ。
アマンダ・ジョージェット・ラーキン夫人は、部屋へ一歩踏み込もうとしたが、急に足をとめて、用心深くあたりを見まわした。扉の上に、水をいっぱいはったバケツでもおいてあって、うっかり入ろうものなら、いきなり冷水を浴びせかけられはしないかと怖れている慎重さだった。
それでも、なかに入ると、警部のデスクのわきの椅子が空いているのを見て、おとなしく腰をおろした。背の高い、小肥りの婦人で、黒一色で服装を統一しているところは、つつましいといってよいくらいだった。が、いいかえれば、それだけに魅力もないということになるのである。
ハドリイ警部は、椅子ごと前に乗りだして、質問にとりかかった。
「ラーキン夫人ですか、私は警視庁のハドリイ警部です。御迷惑とは思いましたが、あなたにうかがえば、重大な手掛りを聞かせてもらえるのではないかと考えまして、お呼び立てをいたしました」
ラーキン夫人は、肩をそびやかせてみせてから答えた。
「御質問を受けたにしても、あたし何もお役に立つようなお答えは出来ませんわよ。それでもいいから、質問をしたいというのなら、正式に召喚状をいただくとか、あたしの申し上げることは、一切内緒にするって、約束してくださらなくては……」
ハドリイはそれを聞いて、急に表情をかたくした。
「奥さんは、なかなか法規にお詳しいようですな」
「ひととおりはね。でも、あたしの申し上げたことは、間違っていないと思いますけど──」
「それだけお詳しければ、御説明の必要はないと思いますが、私としましては、いまの御約束はいたしかねます。奥さまのお言葉が、事件に重要な証言であれば、内密にしておくわけにはいかぬからです。それにラーキン夫人、奥さまとは、どこかでお目にかかったことがありますね」
夫人は肩をゆすって、
「あるかも知れませんわね。ですけど、それがどうしたとおっしゃるの。まさか、あたしのことを怪しい女だというのではないでしょうね、あたしはこれでも、れっきとした未亡人ですわよ。ちゃんと遺族年金を、国家からいただいて暮しているんです。証人を立てろとおっしゃれば、何十人でも即座にそろえてみせますわ。どんなことをお尋ねになるのか知りませんけど、あたし何も、参考になることなんか申し上げられません。お話はこれだけです」
しゃべっているあいだ、ラーキン夫人はしきりにカフスを気にしていた。黒いオーバーの下の服は、別|誂《あつら》えの立派なもののようで、カフスの白さが眼についた。左手の袖がずり落ちてくるのか、それともまた、右手の指がそれをいじる癖を持っているのか、話しながらしきりにそれを押しこもうとして、眼に見えぬ苦心を払っていた。
バドリイはそれに気づいているのかいないのか、彼の眼は一向に動こうともしなかった。
「ラーキン夫人。変事が起きたことは、御存じなのでしょうね?」
「ええ、知っていますとも。あちらではもう、みんなが話していますわよ」
「それではむだな説明の時間が省けますね。亡くなられたのは、タヴィストック広場、タヴィストック住宅のフィリップ・ドリスコル氏です。書類で見ますと、奥さまもたしか、おなじアパートにお住まいのようですな」
「ええ、そうですわ。でも、それがどうかしましたの?」
「あなたのお部屋の番号は?」
夫人はちょっとためらったが、
「一号室です」
「ははあ、一号室。では、一階ですね? よほど古くからお住まいなんですか?」
彼女は急に眸をあげて、
「それが何か事件に関係がありますの? わたしが、あのアパートにいつから住んでいようと、あなた方の知ったことではないんじゃありません? お家賃は、きちんきちんと支払っておりますし……何か苦情がおありでしたら、管理人におっしゃっていただいたらよいと思いますわ」
ハドリイ警部は、両手を組んで考えこんだ。
「そうですな。管理人に訊けば、あなたがいつからお住まいだか、すぐに判ることでしょう。しかし、あなたの口から、いま伺わせていただけば、それだけ余計な手間が省けることになります。奥さまとしても、そのために特別面倒な思いをなさることもないでしょう。ここで協力しておいていただけば、いつかまた、こちらもお役に立つことがあると思いますが──」
夫人は、まだすこしためらっていたが、
「何も別に、話さないといっているんじゃありませんわ。あたし、あそこに移って、まだ三週間ぐらいにしかならないんです。そんなことが、何かのお役に立ちますの?」
「ああ、そうでしたか。で、お宅のアパートは、各階に何世帯ずつ住んでいるんです?」
「二世帯です。建物の各階に、それぞれフラットが二つずつありますの。大きなアパートなんですわ」
「なるほど、それではあなたは、ドリスコル氏と通路ひとつをへだててお住まいなんですね? 親しく交際しておいででしょうか?」
「いいえ。ときどき顔を合わせるぐらいのものですわ」
「それは当然、顔を合わせることは多いでしょう。出入りするあいだに、あのひとの部屋に、どんな客が来ているか、自然に眼に入ってしまうことですね」
「お隠ししても仕方がないわ。むろん、気がつきます。見まいとしても見えてしまうんですもの。ずいぶんお客の多い方ですのよ」
「とくに御婦人の訪問客について、お洩らし願いたいんですが──」
急に彼女は、ありありと眸に、敵意の色を示して、しばらく警部を見守っていた。
「ええ、女の人はずいぶんおみえになりますわ。でもあたし別に、何とも思いませんわ。道学者ではありませんからね。生活は各人の自由ですもの。あたし、他人の生活に干渉する気持なんか、これっぽっちもありません。他人から干渉してもらいたくない代りに、あたしも他人の生活に干渉する気はありませんの。そんなわけで、どんな女があのひとを訪ねて来るか、あたしの口から訊きだそうとなさるのなら、それは無駄ですからお止めなさい。あたし、ほんとうに何も知らないのですから」
「たとえばこれです……」
ハドリイ警部は、電灯の下にさらされた、うす紫の便箋をチラッと見せて、
「メアリイという女に、お心当りはありませんか?」
女はたしかにギクリとした。便箋の上に眼がピタッと釘づけになって、カフスをいじっていた手までが止まってしまった。急にそれから口数が多くなってしゃべりだした。
「存じませんわ。さっきから、何も知らないって申し上げているでしょう。事実そのとおりなんです。あのひとの関係で、あたしの知っているひとというと、ひとりだけ。小柄で金髪の可愛いひとですわ。痩せて眼鏡をかけた男といっしょに来ていました。いつでしたか、あたしが外から帰って来ますと、あたしを捉えて、あのひとの部屋に行きたいけど、ポーターはいないかと訊くのです。あのアパートにはポーターはおりません。そのために、エレベーターも自動式になっています。それが初対面でした。名前はシーラ。ドリスコルさんの従妹だといっていました。これだけがあたしの知っていることの全部なんです」
ハドリイは、デスクの上の書類に眼をやったまま、かなり長いあいだ黙っていたが、
「では、今日の奥さまの御行動を聞かせていただきましょうか。どうして、ロンドン塔なんかにお出でになったのです?」
「来たかったから来ただけですわ。それ以上のことはありません。公共建物へ参りますのに、いちいち理由がなければなりませんの?」
警部の尋問に、間髪入れずに逆襲して来た。あらかじめ用意していた言葉と思われた。
「お着きになったのは何時でした?」
「二時は過ぎていたはずです。絶対に正確とはいえませんけど、誓約して証言してるわけじゃありませんから、そんなところでよいのじゃなくて? 大体あっていると思いますわ」
「塔内は参観されたのですか?」
「二ヶ所だけ見物しました──宝冠室と血塔だけで、あとはやめました。飽きて来たからです。そして、帰ろうとすると、足留めされてしまったのです」
ハドリイ警部は、捜査に必要なことを、順々に訊いていった。しかし、手掛りらしいものは何も訊きだせなかった。彼女は聾《つんぼ》で、唖《おし》で、盲人だったのであろうか。ほかの見物人も大勢いたのは知っているが、いまいましい霧だとアメリカ人がぶつぶついっていたほかは、何ひとつ気づかなかったといい張りつづけた。ハドリイも、最後には諦めた様子で釈放した。もっとも、後ほどまたお尋ねするかも知れませんと、断ることは忘れなかった。
ラーキン夫人は鼻を鳴らして、コートの襟を直した。もう一度挑戦的な眸で、ぐるりと部屋中を見まわしてから、黙って出ていった。
女の姿が廊下に消えるのを見定めて、ハドリイは扉の外の衛視にいった。
「至急ハンパア部長を探してください。いま出ていった女のあとを尾けさせたいんです。いそいで頼みますよ! ついでにこういってください。これ以上霧が深くなって、万一、見失いでもしたら、すぐにまた戻ってくるように──」
彼はそれからデスクに戻って、両手の掌を打合せながら考えこんでいた。メイスン将軍が、却って憤懣《ふんまん》を爆発させた。
「何だね、あれは、警部さん? あんな手ぬるい質問ではどうもなるまい、すこしぐらい痛めつけても構いはせんのだ。女め、たしかに何か知っとる。しかも、あいつそのものが、犯罪者のにおいがする」
「そうかも知れませんな。しかし、いまのところでは、あの女を責めつけるだけの材料がありません。それに、自由にさせておいたほうが、情報を探り出す手だてになるのです。しばらく気ままにさせておくつもりです。きっと何か、面白いことが発見できるでしょう。警視庁で、さっきから調査しているのですが、あの女の犯罪記録としては、別に見当らぬようです。ことによると、私立探偵かも知れませんな」
「ははあ!」
将軍は口髭をひねりながら呟いた。
「私立探偵か。そんな気配がするかね? よかったら、説明してもらえんかしら」
ハドリイ警部はまた腰をおろして、デスクの上の品物に眼をやりながら答えた。
「御説明しますとも。私はフェル博士みたいに秘密主義者ではありませんから。私立探偵と睨んだ理由は、いろいろあります。第一、あの女は警察をちっとも怖れていません。ことごとにわれわれに楯をついて来ます。住所はタヴィストック広場ですが、あの土地は、金持が住むにはパッとしませんし、貧乏人には費用がかかりすぎるといった所です。ドリスコルの隣りに住んで、まだ二、三週間にしかならぬといっていますが、それにしては、誰が訪ねて来たか知りすぎるくらい知っています。尋問に答えては、従妹のシーラのことしかいいませんでしたが、それは却って、シーラだけが無関係だと知っている証拠です。かならず、もっと詳しいことを知っているにちがいないのです。
それに──カフスをしきりに気にしていたのに気がつきませんでしたか。あれが証拠のひとつなんです。もっともあれから見ると、大した経験者でもないようです。カフスのことから、探偵だと露顕するのを怖れているのです。衛視の詰所に入れておかれたあいだに、捨ててしまえばよかったのですが、それも、疑ぐられる危険があるので出来なかったのでしょうが──」
「カフスが一体、どうかしたのかね?」
「ああした女探偵てものは、離婚訴訟の材料集めなどに使われるものですが、時間だの場所などを、いそいで控えておく必要が起るのです。ことに暗闇なんかで書き留める必要がね。今日もそうだったとみえて、あのカフスに書きこんだにちがいないんです。それをわれわれに発見されるのを怖れていたのでしょう。おそらく、誰かを尾けて、ここまでやって来たと思いますね」
将軍は感心して聞いていたが、それからしばらくその辺を歩きまわって、
「それが何か、ドリスコルと関係があるのかしらん?」
「ありますね。あの女がデスクの上に手紙を見出して、どんな顔色をしたかごらんになりましたか、文言が読めるほど近くはありませんでしたが、紙の色でそれと判ったにちがいありません。それよりも、誰を尾けていたかが問題です。私の見たところでは──そうだ、さきに博士の御意見をうかがっておきましょう。先生は誰だとお考えです?」
フェル博士はパイプに火をつけた。
「むろん、ビットン夫人さ。君たちが、あの婦人の言葉を注意して聞いておれば、そんなことは、すぐに判ったはずだ」
「ほんとかね!」
メイスン将軍は驚いていった。
「ふーん、もしそうだとすれば、さいわいビットンがここへ来ておるから、注意してやったがよいな。しかし、君の話では、ドリスコルとも関係があるように聞えたが──ふーん、なるほど、それで話はあうようだ。だけど、君の意見には証拠があるのかね?」
「証拠といっても別にありませんが、漠然とそうした疑惑を持っているのです。かりに、その仮説が正しいとして、ラーキンはビットン夫人を尾行していたのだとすれば、どういう結論になるでしょう? ……メイスン閣下、ここでは、白塔《ホワイト・タワー》が一番大きくて、一番中心になる建物ですね。血塔からは離れた位置にあるんですな?」
「そのとおりだ。ぽつんとひとつ、離れて立っておる。内城の中心で、すぐ閲兵場に面しておるんじゃ」
「それから、さきほどの御説明では、宝冠類が蒐蔵してあります塔は、血塔《ブラディ・タワー》に隣接しているそうですね?」
「ウェイクフィールド塔というんじゃ……うん、そうか」
メイスン将軍も次第に興奮して来た。
「判ったぞ。ビットン夫人は宝冠を見にいったといっておった。ラーキンがそのあとを尾けていった。そしてまた、ビットン夫人の話では、血塔《ブラディ・タワー》のアーチを潜って、内城の城壁のうち側を、閲兵場のほうまで歩いていったそうだ。ラーキンも血塔までは尾けていったが、それ以上近よると、見つけられてしまうおそれがある。そこで、血塔の階段を登って、ローレイの廊下に出て、そこからビットンの様子を見下ろしていたのであろう」
「それをお聞きしたかったのです」
ハドリイは拳で、こめかみのあたりを叩きながらいった。
「この霧では、遠くを見通すのは無理だったでしょう。そこで、あの場所から、観光客をよそおいながら、下の様子をうかがっていたと考えられるのです。あるいはまた、ビットン夫人が、血塔《ブラディ・タワー》に入っていったものと思って、そのあとを追おうとしたのかも知れません。どれもみな仮定ですが、ただ、白塔《ホワイト・タワー》へは、二人とも口を合わせたように、行かなかったと申し立てています。それから見ても、あの二人のあいだには、たしかに関係があったとみて間違いないようです」
将軍は指でデスクの上の手紙をさしていった。
「すると、君の推定では、この手紙はビットン夫人が書いたものだというんだな」
「尾行されていたとすると、なおさら事情が符合するのです。手紙になんとありました。『警戒せよ。監視される。発覚のおそれあり』ありきたりの安便箋を使っていますが、ラーキンは一目見てそれと覚りました。昨夜十時半に、ビットン夫人の郵便区から投函してあります。ドリスコルが立ち寄ったあとのことになっています。その日、夫人はコーンウォールの徒歩旅行から戻って来たところでした──三月という悪い時期に、コーンウォールにハイキングに行くなんて、常識で考えられることではありません。おそらく彼女を、ロンドンにおいておきたくなかった理由があったのでしょう。そのまま放任しておいては、究極の段階まで突き進むおそれがあると、心配した者がいたからのことでしょう」
彼は立ち上がって、その辺を歩き出した。メイスン将軍の前までいくと、将軍は黙って、葉巻のケースを差出した。ハドリイは一本とって、すぐに口に持っていった。が、火は一向につけようともしなかった。
「この推定に誤りがなければ、ビットン家の事情は、破局寸前の段階に達していると考えられます。現に、ドリスコルの隣りのフラットには、三週間も私立探偵が見張っていました。しかも、彼女夫妻が旅行中のあいだもそうでした。これにはむろん、意味がなくてはなりません。すべて誰かの計画によるものです。はっきりいえば、夫君のお膳立てと見て間違いないでしょう」
「それにしても、なぜメアリイなんていう名前を……?」メイスン将軍は尋ねた。
「名前は目立たぬものにかぎるのです。筆蹟だって変えようと努めております。誤って誰かの手に渡っても、証拠として責められることのないように、万全の注意を払っているのです。なかなか抜目のない御婦人と考えられますが、それにしても──」
彼はやっと、葉巻に火をつける気になったようだが、また急に思い立ったことがあるとみえて、顔を若いアメリカ人に向けていった。
「ランポウル君、われわれがいま、どんな難問にぶつかっているかお気づきでしょうか?」
ランポウルはすこし躊躇してから答えた。
「疑問はいろいろありますね。この手紙は、今朝はやく配達されたと思われます。僕たちはいままで、ドリスコル君がダルライさんに電話したのは、帽子盗人の件だとばかり想像していました。だが、ドリスコル君の口から、はっきりそうと聞いたわけではなかったのです。たしかそのとき、ダルライさんは冗談まじりに、君の帽子まで盗まれそうなのかと訊いたはずです。それに対して、ドリスコル君はこう答えたそうです──危くなったのは、帽子じゃないんだ。おれの首なのさ……ダルライさんはそのとき、帽子事件のことと信じてしまったのですが、事実は果してそうだったのでしょうか?」
「なるほどね」ハドリイはいった。「しかし、とにかくドリスコル氏は、ダルライさんと一時に会う約束をした。一時三十分に会おうという手紙を受取って、彼はダルライさんの救助を求めた。その後、誰かがわざと、ダルライさんを彼のアパートまで誘《おび》きだした。そのあとで、ドリスコル氏は、心配しきった顔つきでこちらに到着した。|窓からのぞいている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ところをパーカアに見られている。逆賊門のところで、怪しい者に腕を触られたのも見られている」
ハドリイは何本かのマッチを無駄にしていたが、やっと葉巻に火をつけた。平静な表情に返って、みなの顔を見まわしながらいった。
「ドリスコル氏、ビットン夫人、ラーキン、それに第四の人物を加えて、メリイ・ゴゥラウンドが行われたとみてよいのですが、どんな結果をもたらしたのか? こうしてみると、まるで情痴の末の殺人のようにみえますが、果してそう解釈してよいでしょうか? そうだとすると、ドリスコル氏の死体に、ウイリアム卿の手から盗まれたトップハットがかぶせてあったのは、どういうわけなのでしょう? 今日の事件の狂気じみた面を、帽子騒ぎと関連させて考えれば、解釈を許す余地がありますが、そうでないとしたら、一体どういうことになるのでしょう?……博士の御意見を伺いたいものですね」
沈黙がつづいた。フェル博士は口からパイプを離して、やや言訳めいてしゃべり出した。
「まあ、ハドリイ君、落着くんだな。どうも君は、この事件にすこしあせりすぎておるようだ。マルクス・アウレリウスの言葉じゃないが、ことに当るに際しては、もうすこし哲学者的見解を以てすべきだぜ。あせらんでも、大丈夫解決するよ。いつもの君のように、冷静な捜査方針を堅持して進むんだな」
主任警部はにがい顔で聞いていたが、
「詰所においてある連中は、調べるだけのねうちもなさそうです。脈のありそうな証人というと、わずかあと、一人しか残っていません。いよいよそれに取りかかるのですが、さきにブランディを一杯欲しいですな。みなさんもいかがです……そして博士、こんどは役割を変えてみたいんです──私がその、哲学者的見解ってほうに廻りますから、先生がひとつ、主任警部の役をお引受けになりませんか? つまり、ジュリアス・アーバア氏の尋問で、先生のお手の内を拝見したいのです」
「望むところだ。君さえ承知なればだね」
ハドリイは衛視を呼んで指示を与え、フェル博士もやおら立ち上がった。
「わしは始めから、この人物に訊いてみたかったんだ。わしの印象では、事件はこの方面から解決されると思うんだ。なに、どの方面だと訊くのか? では、まずそれから知らせておくとしようか」
「承りましょう。何なんです?」
「盗まれた稿本だよ」
とフェル博士はいった。
八 アーバア氏の雰囲気
フェル博士は、マントを脱ぎ捨てると、ハドリイ警部の椅子に、偉大な腰を無理に押しこんだ。両手で太鼓腹を抑えながら、嬉しそうに、にやにや笑っていた。
ハドリイはそれを見ていった。
「先生にお頼みしたのは失敗でしたかな。なぜって、そう、にやにやされては困るんです。何しろ殺人事件なんですからね。先生のユーモア好きは、この際制御していただかねばなりません。このままでは、私たち二人が狂人と間違えられるおそれがありますよ……メイスン閣下、フェル博士という方は、実にすばらしい才能を持っておいでなのです。しかし、警察がどういう機能を持っているかということになると、映画で見て想像しておられるぐらいのもので、どんなポストでも簡単にやってのけられると考えておいでなんです。おそらく尋問をはじめられたところで、まず頭にあることというと、私の真似を見事にやってのけようというだけじゃないでしょうか。そんなお気持でしたら、結果はどんなことになりますか。私の見たところでは、これからの尋問は、こんな風になるおそれがある。探偵小説狂の小学校教師が、四年生ぐらいの幼い生徒を捉えて、おい! あの階段に機械油を塗ったのはお前だろう。校長先生が食事に降りて来るのを狙って、足を踏みはずさせて殺すつもりだったにちがいない、なんてことをいい出しましてね……」
フェル博士はにが笑いをして、
「なかなか結構な喩《たと》えではあるが、どうやらわしより、あんた自身にあてはまるんじゃないかな。馬車馬のあたまに弁護士の鬘《かつら》が載っていたからといって、眼の色を変えて騒ぎ立てているところなどは、まさに、いまの喩えのとおりじゃないか。わしは立派な探偵さ。第一小学生ってものは、もっと鮮やかないたずらをやるものだぜ。わしにもこんな覚えがある。校長の銅像が出来てな、明日が除幕式だという晩に、そいつをうまくすりかえてしまってね──」
横合いからメイスン将軍が割込んで来た。葉巻の煙が眼に浸みるとみえて、渋面を作りながらしゃべりだした。
「わしのはもっと悪質だった。小学生の頃、夏の休暇というと、いつもフランスで過ごしたもんだが、わしの度胸はあの時代に培《つちか》われたものにちがいない。それにもっとも役立ったことというと、その町は水夫の多いところでな、町長の玄関の扉へ持っていって、淫売屋の看板をぶら下げて来ることだったよ」
ハドリイがにがにがし気にいった。
「さて閣下、この帽子騒ぎが殺人事件にまで発展していなければ、閣下御自身も、帽子を盗んでは飾っておく場所を探して、ロンドン中を歩きまわる仲間に入りかねなかったわけですな」
フェル博士は両手にそれぞれステッキを持っていたが、その一本でテーブルの上をどんと打った。
「注意しておくが、これは決して冗談事じゃないですぞ。この線を──この帽子男の線を追っていけば、一見、わけの判らぬたわ言だと思われることに、ちゃんと意味があるのが判ってくるはずだ。そこから糸がほぐれて、事件全体が解決されることになると、わしは信じて疑わんね」
「先生には、もうそれがお判りなんですか?」
「まず判ったような気がしておる」フェル博士はめずらしく控え目にいった。
メイスン将軍は訝《いぶか》しそうな表情を博士に向けて、
「わしは別に警察官でもないのに、こんなところに口を出すのは恐縮なんだが、まあこれでも、作戦会議の一員みたいなつもりでおるんで、勘弁していわしてもらおう。あんたは一体どういう方かね。お見受けするに、警察に席がある様子もなし、その癖、捜査には預かっておられる。さっきからずっと、わしは不審に思えてならなかったんじゃ。それに、わしはあんたに、どこかですでにお会いしとるな」
フェル博士は、パイプの火皿を眺めていたが、ややしばらくしてから答えた。
「お前はなんだといわれても、ちょっと返事に窮しますな。なかには、あいつは化石だよなんていうやつまである始末です。閣下とは、数年前にお目にかかっております。生物学者のアラートン事件のときですが、御記憶はございませんか」
将軍の手は、葉巻を口へ持っていくところだったが、途中でピタッと止まってしまった。フェル博士は、ふるい記憶を思い出しながら語った。
「立派な生物学者でしたが、イギリスの蝶を研究して、翅の紋様に珍しいのがあると、精密に書き写してスイスにいる友達に送っていました。ところが、あにはからんや、その紋様と見たのが、ソウレント水道〔イギリス南部とワイト島との間の海峡〕の敷設機雷の図面だったのです。符牒をすこし挿入したばかりに発覚してしまいました。彼の本名はシュツルム。たしかこのロンドン塔で銃殺されたと記憶しております。あの事件を解決したのが、この私なんです」
将軍の口から、ふといため息が洩れた。博士はまだしゃべっている。
「シカゴのロウジャア教授事件も担当しました。あの男も根はよい男でした。ちょっと国家意識が足りぬばかりに、ああいう結果になりました。なにロウジャアだったか忘れましたが、チェスの名手で酒好きで、死なすときは、気の毒に思いました。眼鏡のレンズに、眼に見えぬくらいの細い字で情報を認《したた》めるのが、彼の手段でした。
それから閣下は、ルス・ウィリスデイルを御記憶ですか。私はあの女の聴罪師を勤めてやりました。ポーツマス軍港で、自分の写真を撮ったのです。彼女の背後には、新式の大砲が写っておりました。あの女が、その写真を売り込むことまで考えていたとは信じたくありません。ですから、あの事件にからんで、男を射殺するような真似さえしなければ、釈放するように骨折ってやったのですが──」
フェル博士はデスクの上の太い鉄製の矢を眺めながら言葉をつづけた。
「それもみな、戦争中の話です。いまはすっかり老い込みまして、田舎に隠退しておる始末です。それをハドリイが、事件があると引張り出しにかかるんで、実は弱っておるところなんです。時計のなかに鏡を仕込んだロウガンレイ事件のときもそうでした。スターバース事件のときなんかは、脅迫されて連れだされたようなもんです。こうしたことは、つくづくもう厭でしてね……」
そのとき、扉を叩く音が聞えた。ランポウルはハッとしたようにわれに返った。
「いくらノックしましても──」
落着いた声が、すこしばかり刺《とげ》を持って響いて来た。
「一向にお答えがありませんが、お呼びになったのではありませんか? おさしつかえなければ入らせていただきます」
謎の人物、ジュリアス・アーバアから、果してどんな手掛りを期待できようか──ランポウル青年は訝しがった。さきほどスコット料理店で、ウイリアム卿が批評した彼の性格を思い出していた。出しゃばりは一切嫌いで、そのくせ、ピリリッとわさびの利いた言葉を吐く──この言葉からランポウルが、漠然と想像していたのは、痩せて背の高い、浅黒い顔に鷲鼻が垂れ下がった、見るからに、憂鬱な書斎の虫といった感じの男だった。ところが、いま部屋に入って来て、手袋をぬぎながら、珍しそうにあたりを見まわしている男は、色こそ浅黒く、態度も端厳としたところがあるが、それ以外の想像はことごとく裏切られた。
中背だが、どちらかというと肥りぎみの感じだった。仕立ておろしの服を、寸分隙もなく着こなして、チョッキには白いピケの縁をとり、ネクタイピンには小粒の真珠まで光らせている。平べったい顔に太い眉毛が黒々と生えて、その下を華奢な縁なし眼鏡が飾っていた。慇懃な態度で、愛想笑いまで浮かべているが、当の相手にフェル博士を見出したときは、顔の筋肉こそ動かさなかったが、さすがに唖然とした表情は隠しおおせなかった。彼のまわりを包んでいる一種の空気が、やはりその驚きを、無言のうちに伝えていた。
「あなたが、あの、ハドリイ警部さんでしょうか?」
フェル博士も、負けずに愛想よく手を振りながら、
「やあいいんですよ。まあ、そんなところです。どうぞ御心配なく、捜査の全権は、わしに一任されたものとお考えになってよろしい。さあ、そこにおかけください。あなたがその、つまりアーバアさんですな?」
フェル博士には、警察官の威厳を保てといっても無理であった。突き出たチョッキの腹のあたりには、エアデイルテリヤの毛と煙草の灰がくっついていた。犬はまだ歩きまわっていたが、じきに戻ってきて、彼の足もとにうずくまった。アーバア氏はちらっと眉をひそめたが、右腕にひっかけていたコーモリ傘を左手に持ちかえて、椅子の前に立つと、埃《ほこり》を指で払って腰をおろした。銀鼠色のソフト帽を膝の上において、おとなしく質問を待っていた。
「よろしかったら、始めさしてもらいます」
博士はポケットから、つぶれかかったシガレット・ケースを取り出してすすめた。
「おつけになりませんか?」
「結構です。持っておりますから」
アーバア氏は、辞退するにも鄭重《ていちょう》だった。フェル博士が、見るも無残な様子のシガレット・ケースをしまいこむのを待って、精巧な浮彫のある銀のケースを取り出した。蓋をあけると、細長い、コルクの口付が並んでいた。やはり銀製のライターで器用に火をつけると、丁寧にまたしまいこんで、あらためて、質問を待ち受けた。
フェル博士も、おなじように煙草に火をつけながら、細い眼を一層せばめて、両手を腹のあたりにあてがったまま、じっと相手を観察していた。いつまでもそのままの姿勢でいるようだった。アーバア氏は次第にいらいらして来た。その様子を見てとって、博士は咳払いをひとつした。
「おせきたてするわけではありませんが」と、アーバア氏はいった。「今日は私もいろいろな目にあいまして、かなり疲れておりますので、お取調べなさるのでしたら、お早くお願いできませんか。お役に立ちますことならば、何なりとお答えするつもりですから」
フェル博士はうなずいて、
「あんたはポオの原稿をお持ちになっておられるそうですな?」
密輸の捜査に携わっている税関吏みたいな口調だった。あまりにも唐突な質問なので、アーバア氏はハッとしたようだ。ハドリイ警部も低い唸り声をあげた。
「何とおっしゃいました?」
ちょっとためらってから、アーバア氏は訊きなおした。
「ポオの原稿をお持ちではないんですか?」
かすかに、渋面が相手の顔を横切った。
「御質問の趣旨が判りかねますが、ニューヨークの自宅には、エドガア・アラン・ポオの初版本が集めてあります。それといっしょに、彼の草稿もいくつか持っております。しかし、そんなことがあなた方の関心を惹いているとは意外でした。殺人事件の捜査だとばかり考えていました」
「ああ、あの事件ですか!」
フェル博士は、思わず大きな声を出して、手をしきりに振ってみせた。
「そんなことを気づかわれることはありませんぞ、殺人について、お訊きするつもりはなかったんです」
「本当ですか? 私はまた、そのお調べだとばかり思っていました。警察の方達は、当然そこに興味の中心があると考えていたからですが、なるほど、プリニウス〔一世紀のローマの著述家〕がいっていますな。|Quot《クオット》 |homines《ホーミネース》, |tot《トット》 |sententiae《センテンチェ》〔人の顔が変るように、人の意見もさまざまの意〕とか──」
「いいや、ちがいますぞ」
フェル博士がするどくいった。
「はあ?」
「それはプリニウスじゃない。キケロの名言だ。大変な間違いですぞ。いまさらこうした陳腐きわまる文句を引っ張りだすこともないが、どうしても引用したいのなら、せめて、ラテン語の発音だけでも正確にお願いしたい。|homines《ホミネース》の o は、短母音だ。|sententiae《センテンチェ》 に二つ出てくる en は、どちらも短かく、鼻にかからぬように発音すべきです。しかし、まあ、よい。こちらが伺いたいのは、ポオの話だった」
ハドリイ警部は、部屋の隅から、うんざりしたような声を出した。アーバア氏の沈着な顔も、さすがに硬《こわ》ばってきた。何もいわなかったが、彼を包んでいる雰囲気が、憤りの色に染まって、あたりを見まわしながら、しきりに指を眼鏡のふちに触れていた。
ランポウル青年は、彼からきつい視線を向けられたが、がっちりとそれを受けとめて、自分もやはり捜査官の一員であるとみせるつもりか、無理におごそかな顔つきを装いつづけた。しかも彼は、この男に対して高圧的に出ることを、内心楽しんでいる様子だった。なぜかというに、アーバアみたいな人物と向いあうと、妙にじりじりしてくるのが抑えられなかったからだ。歯が浮くような感じを受けるといってもよい。つまりその文化人意識が、堪らなく反感を唆《そそ》るのであった。どんなことでも知らぬということはない。新しいことといったら、何であろうとひけを取らない。こと文化面に関するかぎり、あらゆる点に渉《わた》って一家言を有し、その整然たる知識たるや、彼らの服装や住居とおなじで、一分の隙もみせようとしない。ただしそれが、ことごとく頭脳で獲得したものに過ぎぬのは、やむを得ぬことであろう……大西洋航路に、新しい豪華船が初航海をするとする。その絢爛たる食堂を覗いてみたまえ。かならず適当の席に、彼等の姿を見出すであろう。彼等にとって、他人に笑われるような失敗は、絶対にあり得ない。酒を飲んだって酩酊するところまでいくことはない。要するに、フェル博士や、メイスン将軍、それにランポウル青年自身にとって、全然縁のない人種なのである。
「冗談をいわれているとは思いませんが、何を御質問になっておられるのか、見当もつきかねます。具体的におっしゃってはいただけませんか。警察官としては、稀に見る知識の豊富な方とは判りましたが──」
「言葉どおりのことをお尋ねしとるんです。ポオに御興味がおありかと訊いておるんです。正真正銘のポオの原稿があるとなったら、あんた、それをお買いになりますか?」
突然、質問が一転して、アーバアを現実世界に引き戻した。彼の頬には、かすかな微笑が浮かびあがった。その裏には、烈しい憤りがひそんでいるのも判らぬわけではない。彼はさっきから、生意気な警察官を、ただの一言で、ピシリとたしなめてやりたいものだと、機会が来るのを狙っていたのに、それが逆に、こちらのほうが腰砕けになるような襲撃をくらって、何とか立ち直るきっかけを見出さねばならぬ羽目になったのだ。
「なるほど御質問の趣旨はやっと判りました。このお調べは、ウイリアム・ビットン卿の盗まれた原稿についてなんですね。最初は、何のことやら様子が知れませんので、面食らっておりました」
彼もまた微笑してみせようとしたのであろうが、かすかな皺が、肉づきのよい顔を横切っただけに終った。
「むろん私は、よろこんで買いますね」
「では、なんですな。むろんあんたは、ビットン邸で盗難があったことを知っておられるんですね?」
「ええ、知っております。……この御質問があるところをみると、あなた方のほうでも、私がそのビットン邸に滞在していることを御承知なんですね。つまりその、盗難当時、私が同邸に滞在していたとお考えなんでしょう……明日は私、サヴォイ・ホテルに移ることにきめました」
「それはまた、なぜです?」
アーバア氏はあたりを見まわしたが、あいにく灰皿が見つからなかった。彼は手にした煙草の位置を変えて、灰が落ちてもズボンを汚さぬように心がけた。
「警部さん。率直に話しあいましょう。ビットンが、この嫌疑を誰にむけているか、私にはよく判るのです。むろん面と向って、はっきりいわれたわけではありませんし、あてこすりは聞き流してしまうつもりです。イギリス警察官の正確な知識で、また発音を訂正されるか知れませんが、|Amara《アマラ》 |temperet《テンペレート》 |lento《レントオ》 |risu《リス》〔すべての悲しみを、微笑もてやわらげ。ホラチウス、詩篇、二部一六章〕というところですな。しかし、私としては、余計な紛争を起したくないのです。この気持は、判っていただけるでしょうな」
「盗難に遭った原稿が、どんなものだかということも知っておられるんですな?」
「むろん知っています。実をいえば、私はそれを買い取るつもりでおりましたから」
「ビットン卿から話を聞いたんですな?」
飛んでもない。話なんかする人ですか──アーバア氏の平板な顔は、無言のうちにそう伝えているようだった。まっ黒な髪の毛を、油でピッタリ撫でつけている頭に、そっと手をやってからしゃべりだした。
「あのビットンという人は、いわば子供みたいなものでして、絶対秘密にしておかねばならぬという気持のかたわら、晩餐の食卓なんかで、いざ家族の者を前にするとなると、つい自慢がしたくなってくる。その結果、こんどの掘出し物が、どんなに貴重なものかという所以《ゆえん》まで、つい洩らしてしまうことになるのです。私にしても、はっきり聞いたわけではありませんが、ピンと来るような言葉を、いくどとなく耳にしました。といっても、私は何も、ビットンの言葉で始めて知ったのではないんです。アメリカを立つ前から、すでにあの原稿のことは承知していたのです」
彼は得意そうにくすくすと笑った。始めて彼の口から洩れた、人間らしい響きだった。
「こんなことをいいますと、あの人たちが、まるで子供みたいに単純だと吹聴するようで、いささか私も気がひけますが、とにかく、ロバートソン博士という人は、口の軽い、軽率な人でした」
フェル博士はステッキの柄で、デスクの上においた凶器の鉄矢を突つきながら考えこんでいたが、ふいに笑いを含んだ顔をあげていった。
「アーバアさん。あんたはむろん、チャンスさえあれば、あの原稿を内しょで手に入れてしまう気でいたのでしょうな?」
部屋の隅では、最前からハドリイ警部が、ハラハラしながら博士の尋問振りを眺めていたが、このときついに絶望的な表情を示した。しかし、アーバア氏はすこしも動ぜず、質問の意味を、あらゆる方面から検討している様子で、やがて慎重な言葉で答えた。
「そんな馬鹿な真似をするもんですか。どんな騒ぎになるか判ったものでありません。そんな方法で友情に罅《ひび》を入らせるのは真ッ平です。といって別に、道徳的に怪しからん行為だからというわけではないんですが──」
アーバア氏は、こんどの盗難事件に、被害者に同情しない所以を説き明かそうとするように、ゆっくりと述べたてた。
「つまりビットン卿に、あの稿本を保持する権利があるかどうか、それ自体がはなはだ疑問なんです。私の見たところでは、卿に法律上の所有権があるとは思えぬのです。だからといって、私が極端な行動に出なかったのは、不愉快な騒ぎを起したくなかったからだけなのです」
「じゃあ、誰かが売りたいといったら、買い取る気はあるんですね?」
アーバア氏は眼鏡をはずして、まっ白な絹ハンケチで、レンズを磨きはじめた。そのためには手にした煙草が邪魔になるので、やむを得ず失礼しますといった顔つきで、床に捨てた。いまはすっかり落着きを取り戻した様子で、微笑さえ頬に浮かべていた。黒い眉のあたりに、かすかな皺を寄せていたが、これはむしろ、事件の成行きを面白がっているからとみえた。
「では警部さん。一応御説明させていただきましょう。今後さいわいにして、あの原稿が、無事に私の手許に戻って来たときのためにも、警察の方に、出来るだけくわしい事情を知っておいてもらったほうがよいと思うのです。
私は当地に渡る前に、フィラデルフィアを訪れました。マウント・エアリイ・アヴェニューに住んでおられる、ジョゼフ・マッカートニイ氏にお会いするためでした。
例のポオの草稿が発見された家屋の所有者です。そのまえに、私は三人の職人に会いまして、そのときの様子を聞いておきました。で、マッカートニイ氏のまえでは、その事情を率直にぶちまけました。法律上からいえば、稿本の所有権は、結局、マッカートニイ氏にあることになるからです。
そして私は、その原稿を売ってくれと申し込みました。現在、問題の原稿がどこに存在していようと、三カ月の期間で、売買予約書にサインしてくれれば、いまここで、即金で千ドルを支払う。原稿がわれわれの手に戻って、事実私の希望しているような内容のものであれば、(内容を読んだ結果、売買契約を締結するかどうかの決定権は、私のほうに保留する条件なんです)完全な所有権を譲渡してもらう代りに、なお後《あと》金として四千ドル提供するといいました。こうした種類の取引というものは、なまじしみったれた切り出しかたなんかしては、却って不得策なものなんです」
フェル博士は、いくどもうなずきながら聞き入っていたが、話が終ると、拳にのせていた顎をぐっと前に突き出すようにしていった。
「アーバアさん。その原稿というのは、そんな大変な値打のあるものなのですか?」
「おそらく、一万ポンドと吹っかけられたところで、高すぎるとは考えなかったでしょう」
メイスン将軍はさっきから、渋い顔をしながらアーバアの話を聞いていたが、顎ひげをさかんにひねりつつ、口を出した。
「しかし、何だな。それはちょっと可怪しいな。ポオの原稿ぐらいで、そんな値打があるものなのかね?」
「ところが、この原稿だけは特別なのです。ビットン卿が話しませんでしたか? 私も実は、聞いて驚いたのですが、これは小説史を書き改めるに足るくらいの大発見なんです」
彼はしずかな眼で、ゆっくりと一座を見まわしてから、
「失礼ながら、警察官としては、学識に富んだ方々の前ですから御説明しますが、これは論理的な探偵小説として、世界最初の作品といえるものなのです。ポオ自身の、『モルグ街の殺人』よりも以前のものです。ロバートソン博士の意見によりますと、芸術的見地からみても、デュパンを主人公にした他の三つの作品〔モルグ街の殺人、マリー・ロジェー事件の謎、盗まれた手紙〕よりも、はるかに優れたものだそうです。私はいま、一万ポンドでも高くないと申しましたが、打明けたところ、一万二千ポンドから一万五千ポンドぐらいまでのあいだならば、すぐにでも買い取ると思われる蒐集家を三人も知っております。さしあたっては、せり市に出してみるつもりですが、どこまで値が昇っていくか、実は楽しみにしているようなわけです」
堪りかねたか、ハドリイ警部はデスクのそばまで飛び出して来た。フェル博士の腕をたたいて、自分がその椅子に代って尋問をつづけたい顔にみえた。それでもどうにか我慢した様子で、アーバア氏をじっと見つめながら突立っていた。
フェル博士は咳払いをひとつして、ガラガラ声でさきをつづけた。
「与太話かも知れんし、本当のことかも知れんが、あんた自身が、そうとかたく信じきっておられるのは、どういうわけなんです? 実物を眼で見られたわけでもないようだが……」
「ロバートソン博士の言葉を信用しているからです。あの人は、現代におけるポオ研究の権威なのです。さいわいあのひとは、金もうけなどには無頓着な、善良そのものといった学者ですから何もかも打明けて話してくれました。抜け目のない相手でしたら、私とおなじような計算で、彼自身が勝負に出たにちがいないのです──もっとも、彼の口をあかせるには、私の酒蔵の威力もものをいいました。しかし、考えてごらんなさい。トーケー酒の一本ぐらい、あの貴重な原稿に比べればタダみたいなものです。むろん彼は、翌日酔いが醒めて、軽率を悔いました、他言しないとビットンに約束してあるんだから、手を引いてくれといって来ました。いまさらそういわれたからといって、聞いてしまった以上は仕方がありません」
アーバア氏は、またしても絹ハンケチを取り出して、かるく額の汗を拭った。
「すると、何ですな?」フェル博士はいった。「あんたが狙っておられるのは、その原稿を手に入れるだけではなく、売ってひと儲けするにあるんですな?」
「そういうわけです。その原稿は──現在どこにあるにしても──所有権は私にあるのですから、どう処分しようが私の自由です。その点をよく記憶にとめておいていただきたいのです……さきをお話ししましょうか?」
「どうぞお願いします」
アーバア氏は得意そうに語りつづけた。
「マッカートニイ氏との取引は、ごく簡単にまとまりました。氏のほうがかえって面食らった様子でした。恐喝の材料にでもなるものならとにかく、ただの文書なんかが五千ドルもするなんて、とうてい想像も出来なかった様子です。なんのことはない、氏自身が、探偵小説の人物にでもなったような気持だったでしょう、それから私がとった行動は──」
「ウイリアム卿の邸に招かれるように工作したんですな」
「いえ、いえ、工作なんかしなくても、卿の邸では、いつでも私を歓迎してくれました。ビットンと私とは以前から親しい仲なんです、それにしても、私はロンドンに来たときは、友人の宅へは泊らぬ主義にしているのです。郊外に別荘を持っていますので、夏はそこへ滞在しますし、冬期はホテル住まいということにきめてあります。しかし、こんどだけは別でした。とにかく、彼と私は友人同士ですから、泊ろうと思えば、いつでも差し支えなかったわけです」
アーバア氏は、また銀のシガレット・ケースを取り出した。が、灰皿がないのを思いだしたとみえて、そのまま元へしまい込んでしまった。
「そんなわけですから、ビットンを掴まえて、君の手元にある原稿は、こちらに所有権があるんだから、返してくれんと困る、などと、あけすけにいうわけにはいきません。露骨な態度は友情を傷つけます。私としては、彼のほうからいい出すのを待つより仕方がなかったのです、きっかけさえ解《ほぐ》れれば、だんだんに本題にひき込んで、情勢を説明して、彼のほうから自発的に提出するようにさせたかったのです。むろんその際は、たとえそれが私の所有物だとしても、妥当な価格は提供するつもりでした。争いごとになるのは厭でしたからね。ところが警部さん。これが大変に難かしかったんです。あなた方は、ビットンという人間を御承知ですか? 頑迷|固陋《ころう》とでもいいましょうか。おまけに非常な秘密主義で、自分の発見したものは、誰にも見せずに秘蔵して、内しょでこっそり楽しもうという、偏執狂じみたところのある人物なのです。そうした性格はもとから知っていましたが、ああまで烈しいものとは思いませんでした。もう話しそうなものだと待ちかまえていましたが、一向に口を割ろうともしないのです。いつか私は、それとなくほのめかしてみましたが、鈍感なのか、それともわざとそうしているのか、さっぱり手応えがありません。却って家族の人たちが、不審に思いだしたくらいでした。
しかし、私には判っていました。卿はちゃんと心情を心得ていて、私が滞在している理由も察していたにちがいありません。そのためか、ますます口をかたく閉ざして、一言もそれに触れようとしないのです。で、これは余儀なく、正式に権利を主張しなければならんのかと考えだしたところでした」
いままで悠長にしゃべっていたのが、急に大きな声をはりあげて、
「その代り、その場合は、一ペニイだって支払いません。法律上、自分の所有物に金を支払う義務はありませんからね」
「あんたとマッカートニイ氏との取引は、まだ完了したわけでもないようだが──」と、フェル博士がいった。
アーバアは肩をぐっとあげて、「実際は、手付金を打っただけです、いくら私だって、ロバートソン博士の言葉だけを信用して、見たこともない原稿に五千ドルの大金を支払う気にはなれません。おまけにその原稿は、うかつに私の権利を主張すると、隠匿されてしまうおそれがあります。最悪の場合は、破毀《はき》される懸念さえなきにしもあらずです。どの点から見ても、私に所有権があることだけは、間違いないのですが──」
「所有権があんたにあるってことを、ウイリアム卿に話されたんですか?」
アーバア氏は憤りで鼻をふくらませた。
「もちろんそんなことはいいませんよ。話したとすれば、いくら彼が無茶だといっても、盗難を警察に届けるような真似はしないでしょう。私の立場はかなり困難なものであることが、だんだんに判って来ました。所有権を主張して、単刀直入に請求すれば、ことは荒立つにきまっています。ビットンは言下に拒絶して、私の権利を否定するにちがいないんです。私はむろん、権利の正当なことを主張できます。しかし、そのために起る紛争がどんなに不愉快きわまるものであるか、想像するのも難かしいことではありません。それがこんどは、原稿そのものが盗難にあったのですから、事態はますます紛糾して来ました。おそらくビットンは、警官を呼んで、私を邸から追い出すんじゃありませんか」
さすが沈着なアーバア氏も、しゃべっているうちに興奮して来たものか、憤懣の色が動作に現れだした。メイスン将軍はむやみに咳払いをしているし、フェル博士はことさらに口髭をひねって、口もとがおのずと綻《ほころ》びてくるのを隠していた。
アーバアはコウモリ傘の先で床を叩きながら、語りつづけた。
「事件は一挙に爆発しました。原稿は盗まれました……判っていただけますね。被害者はビットンではない、ほかならぬこの私なんです!」
彼はもう一度、あらためて一座の人々を見まわして、
「で、みなさん。なぜ私が、こうもくどくど申し上げたか、お判りになっていただけたでしょう。問題の原稿が、誰に正当に帰属するか、その所有権を明瞭にしておきたかったからなのです。ビットンは私を犯人と思いこんでいます。どんな風に彼が考えていようが、私の知ったことではありませんし、誤解を解いてやるつもりもありませんが、警察の方だけには、はっきりと事情を呑みこんでいてもらいたいのです。
原稿が盗難にあった週末には、私はロンドンを離れていました。帰って来たのは、やっと今朝なんです。スペングラー夫妻を訪問していたのでした。ゴウルダース・グリーンにある、私の別荘の近くに住んでおられる方です──なるほど、それがあんたのアリバイですな。ビットンは私の顔を見たとたんにそういいました。驚いたことには、スペングラー家に電話して、確かめてまでいるんです。その上、私にいった言葉が怪しからん──自分で直接手を下さんでも、誰か雇えばやれぬことでもないからな……とこうなのです。いくらなんでも、腹からそう考えていたわけでもありますまいが、それにしても、自分の所有物を盗み出す酔狂もいませんからね。しかし、彼はそういっておりますので、そのへんの事情を、あなた方にもよく認識しておいていただきたいと考えるのです」
アーバア氏は演説を終った弁士といった格好で、しずかに椅子に戻った。しばらく、沈黙が流れた。デスクの端に腰かけていたハドリイはうなずいて、
「では、アーバアさん。あなたはその権利を証明する書類をお持ちなんですね?」
「そりゃもちろん持っていますとも。マッカートニイ氏との契約書は、ニューヨークの私の弁護士に作成してもらいました。公認手続も立派にすませてあります。副本はロンドンの弁護士の事務所に預けてあります。お調べになるのでしたら、名刺を書いて差し上げましょう」
ハドリイは肩を突きだすようにして、もう一度口を出した。
「アーバアさん。その御説明で、一切の事情が判りました。ウイリアム卿は、運さえよければ、その貴重な発見を人に知られないでもすむチャンスを握っていたのです。あなたがそれを手に入れたからといって、卿の手を省いただけのことで、別に法律に触れたわけではありません。むろん、道徳的にみれば感心したものとはいえませんし、遠慮なくいわせてもらえば、卑劣な行為と非難されても仕方のないところですが、しかし、適法であることは疑いありません」
聞いているうちに、アーバア氏の胸のうちに、またしても怒気が湧きあがって来たようだ。音を殺して無電のキイを叩いているような、ぶすぶすいぶった怒りの色がみえて来た、彼は顔をあげて、警部をきっと睨みつけるようにしたが、相手の眼の色が、あまりにも冷静をきわめているので、却ってたじたじとなった様子だった。で、無理に落着こうと努めながら、
「いまのお言葉では、まるで盗んだのは私のように聞えますが、社会的地位も持っている者に対していわれるには、ちょっと奇異な感じがいたしますね。ニューヨークの友人たちが耳にしましたら、さぞ大笑いをすることでしょう。ハッハッハ。しかし、適法だということだけは、確認していただけたわけですね」
「殺人に関しない限りはね」
突然、室内を沈黙が領した。底知れぬほど深い沈黙だった。
博士はさりげなくそういったまま、足下にうずくまっている犬の頭を撫でた。鎮まりかえった室内に聞えるものは、暖炉のなかで石炭が燃え崩れる音だけだった。そのうちに、閲兵場のほうから、遠くかすかに、喇叭《ラッパ》が響いてきた。メイスン将軍は、反射的に時計を取り出しかけたが、すぐに思いとどまった。
アーバアは外套の襟に手をあてて、腰を持ちあげながら訊いた。
「え? ──何とおっしゃいました?」
「殺人に関しない限りは、といったんです」
フェル博士は、大きな声で繰りかえして、
「そのまま、そのまま、アーバアさん、お立ちにならんで。これからその、殺人事件のほうに移りたいんです。お差し支えはないでしょう。あんたも最初は、その質問を食うものと考えていたのではありませんか」
そういいながらも、博士はうすく閉じていた眼をカッと見ひらいて、
「アーバアさん、誰が殺されたか、御存じなんですか?」
「あちらで、みなさんが噂しているのを聞きました」
彼も、質問者の眼を見据えながら答えた。
「ドレイクルとかドリスコルとかいってたようです。いっしょになって話しあったわけではありませんから、確かなことは存じませんが──それにしても、ロンドン塔内で殺された男が、私にどんな関係があるというのです?」
「名前はドリスコルです。フィリップ・ドリスコル。ビットン卿の甥にあたります」
その一言で、博士はどんな打撃を狙っていたかは不明だが、充分すぎるくらいの効果があった。アーバアの浅黒い顔は、途端にサッと青ざめて、ふらふらとそこに倒れかかった。文字どおり顔面蒼白だった。眼鏡が鼻の上で踊って、震える手で抑えねばならなかった。この男は、よほど心臓が弱いらしい。いまの一言で、神経が痛めつけられたばかりでなく、肉体的にもひどくこたえたようだ。ハドリイは、心配そうに片隅から飛び出して来た。が、アーバアは、それを押しかえして、
「いや、これは失礼しました。あんまり驚きましたので、つい眼まいがしてきました。……ドリスコル君って、小柄の、ええと──たしか赤毛の人でしたね?」
「そのとおりです。では、あんたは知っておられるんですね?」
「ええ、知っていますとも。つい、先週の日曜日にお会いしたばかりです。ビットン家の晩餐のときでした。ちょうどその日に、私はロンドンに着いたのですが、なにドリスコルさんというのでしたかな? フィル、フィルと呼ばれていたような気がします。ビットンの甥だということも、そのとき聞きました。それにしても──」
メイスン将軍は、尻のポケットから角壜を取り出して、
「あんた、これを飲むがよい。ブランディですぞ。元気を出さなきゃいかん」
「いや、結構です。心配していただかなくても大丈夫です。それにしても、どんな風にして、ドリスコル君は死んだのです?」
「大弓の鉄矢で突き殺されたのです」
フェル博士は、実物の凶器を取りあげてみせた。
「しかもこれは、ビットン家にあったものです」
アーバアは無理におどけたような声を出した。
「お話を聞いて、思わず私は取り乱しました。だからといって、あの青年の殺人事件について、何か私が知っているとお考えでしたら間違っていますよ。私がもし犯人でしたら、顔にあらわすような下手な真似はしません。人を殺せば、かならず素振りに出るものだとすれば、あなた方の仕事は楽で困るくらいでしょう。こんな怖ろしい武器を使うようなやつは、あとでそれを見せられたからといって、気絶しかかるなんて弱い気持はありますまい。私はもとから、心臓に気をつけるように医者から注意されているくらいで、見かけほど丈夫ではないんです。それにしても、気の毒なのはビットンだ。彼には知らせてあるでしょうね?」
「むろんお知らせしました……ところで、アーバアさん。犯人について、お心当りはないでしょうか?」
「いえ、いえ。全然ありません。あの青年に会ったのも、晩餐のとき一度だけです。その後、顔を合わせたこともないくらいで──」
「逆賊門で殺されたんです」フェル博士はうなずきながらいった。「死骸は石段から投げ落してありました。……あんた、この塔内で、何か怪しいことに気づきませんでしたか? 現場の近くにいた人物とか何か……」
「実は最初にお断りしておきたかったんですが、私が事件に巻きこまれたのはほんの偶然のことでして、今日私は、ウォーター・ローリー卿の世界史の初版本が、彼が幽閉されていた血塔《ブラディ・タワー》の一室に陳列されていると聞きまして、それを参観にやって来たのです。着いたのは一時ちょっと過ぎでしたが、まっすぐに血塔へ行きました、まず第一に呆れたことは、こうした貴重本を、こんな湿っぽい霧のなかに平気で曝《さら》してあることでした。
名刺を衛視さんに出しまして、手にとって調べさせてくれと頼みました。しかし、衛視は邪慳なもので、規則一点張りで断るんです。塔内の陳列品は、長官閣下の特別の許可がなくては自由にならないというのでした」
アーバアはしゃべりながら、一同の顔を見まわした。真剣な顔に取り巻かれて、満足そうな顔つきで、言葉をつづけた。
「その上、衛視はいうのでした。かりに長官閣下にお会いになったにしても、許可は下りるかどうか疑問でしょうって。しかし、私は無理に長官室の道順を訊きまして、そして面会を求めに行きました」
「内城の城壁のなかですな?」ハドリイ警部が口をはさんだ。
「え? ああ、そう。そうです。広場と閲兵場に面して、いくつも建物が並んでいるところでした。霧は深いし、扉はたくさんあるし、どれがどれだか判らなくなって、まごまごしていました。すると扉のひとつがあいて、一人の男が出て来ました──」
彼はちょっと言い淀んだ。みなの眼が、急に光り出したのを意識して、本人自身も緊張した模様である……
「ゴルフズボンに鳥打帽の男ですか?」
フェル博士が訊いた。
「はっきり憶えてはいませんが、そういわれてみれば。ニッカアボッカアだったかも知れません。こんなに天候がわるいのに、可怪しな格好の男だと思った記憶があります。ですが、霧が濃かったので、はっきりとは判りませんでした。私はその男に、どの扉を入ったらよいか尋ねたのですが、彼は耳もかさずに、さっさと行ってしまいました。
それから間もなく、別の衛視がやって来まして、この辺は参観人の立入り区域じゃないと注意するのでした。私は理由を説明したのですが、いまは係員が不在だからと、追いかえされてしまいました」
「そのとおりだった」とメイスン将軍がいった。
アーバアは唇を舐め舐め言葉をつづけた。
「あとは簡単に申し上げましょう。私は血塔に戻りまして、衛視に紙幣を握らせて、見せてもらおうとしました。それもやはり、素気なく断られました。とうとう私も諦めまして、帰ることにしました。で、濠沿いの道に出ようとしたところで、若い婦人にぶつかりました、濠沿いの道から門のアーチを潜って、閲兵場のほうへ抜けようとするらしく、急ぎ足に、登ってくるところでした」
「どんな女か、わかっていますか?」
アーバアは完全に落着きを取り戻していた。最前、取り乱したのを恥じるらしく、明快な説明を与えて埋めあわせたいという気持が、彼の表情にありありと窺われた。といっても、自分の話にどこまでの重要性があるのか、そこまでは察しかねる様子で、フェル博士の質問に慎重に考えこんでは答えていた。
「実際のところ、はっきり見てはいないのです。ちらっと見ただけで、記憶に残っていることといえば、毛皮の襟の付いた外套を着ていたぐらいです。何かに気をとられているらしく、上の空で歩いているのでした。それで私にぶつかったりもしたのですが、私は私で、前から腕時計のバンドが緩んでいましたので、落しはしないかと、ハッとした瞬間、女はもう通りすぎていたのでした。で、私は血塔のアーチを抜けて、濠沿いの道に出て──」
「ちょっと待った。アーバアさん。そこが肝心のところだ。よく思い出してくださいよ。そのとき、逆賊門の手すり近くに、誰か人影を見かけませんでしたか?」
アーバアはまた腰を下ろして、
「なるほど、そこがお訊きになりたかったところですな。あいにく私は、手すりのそばへは近寄らなかったのです。しかし、誰も立っていなかったことは間違いありません。絶対に誰もいませんでした」
「その時間を憶えていますか?」
「ええ、判っています。ちょうど、一時三十五分でした」
九 三つのヒント
「しかし、それは──」
と、突拍子もない声を出したのは、いつも冷静で通っているハドリイ警部だった。
「警察医の話では、殺害時刻は一時──」
「騒ぐじゃない!」
吼えるようにフェル博士が叫んだ。ステッキでデスクの上を烈しく叩いた。うす紫の便箋が、はずみでパッと舞い上がった。
「それを知りたかったんだ。わしは、その証言を待ちかねておったんだ。実にありがたい。よいことを聞かせてくださった。アーバアさん、その時刻に間違いないでしょうな?」
アーバアは一躍重要人物に持ち上げられて、くすぐったそうな様子だった。
「むろん間違いはありません。いま申し上げたように、その婦人にぶつかった途端に、時計を落しそうになりましたので、ウェイクフィールド塔の扉のところで、時計のバンドを直しました。ですから、濠沿いの道へ出た時間に間違いはありません」
フェル博士はまた大声を発した。
「みなさん、時計を出してもらえませんか。時間を合わせてみたいんです。この時計は六時十五分だが、あんたたちのはどうなんです?」
「六時十五分? わしのもそうじゃ」メイスン将軍はいった。
「十三分三十秒です」ランポウルの答えだった。
「私のは」最後にアーバア氏がいった。「十五分と三十秒すぎています。この時計が狂うということは考えられません。何しろメイカーが──」
「いいんですよ。三十秒ぐらいのちがいは問題ではないんです。いずれ簡単に確認できることです。お訊きしておきたいのは、あんたはそのとき、塔を出られるところといわれましたね。こうして禁足させられているところを見ると、その後、殺人が発見されたあとまで、塔内に残っておられたのでなければ話があわん。発見された時刻は、二時三十分すぎですぞ。その間の食いちがいは、どういうことになるのです?」
「それを説明しておかねばならぬと思っていました。むろんそのとき、塔を出たのです。ところが、血塔でローリーの初版本を見たとき、手袋をおき忘れて来たのを思い出したのです。五番街のカーターで特別にあつらえさせたもので、ほかに代りといって持って来ていませんので──」
質実なメイスン老将軍はにがい顔をした。アーバアはそれには気づかぬとみえて、膝の上においた、グレイに光るシルクハットを持ちあげて、手袋をみなに示しながら、
「車をストランド街まで走らせてから気がつきました。すぐに引っ返しましたが、塔へ戻ったのは二時四十分でして、そのまま、出られなくなってしまったのでした」
メイスン将軍が口を出した。
「まさか、まだ車を外に待たしてあるんじゃないでしょうな。運転手にまで迷惑をかけさせては、気の毒じゃ。しかし、何よりも気の毒なのは──ちょっと待った、思い出したことがある。あんたに聞いておきたいことがあるんだ」
「何なりとお答えしますが、あなたは一体──」
「わしはつまり、さきほどあんたが会おうとしておった者さ。副長官として、このロンドン塔を預けられておる者じゃ」
将軍は無愛想にいった。
「わしはあんたに頼まれたとしても、ローリーの初版本は特別にお見せするわけにはいかなかった。長官のイアン・ハミルトン卿の方針がそうなんじゃ。おや、何の話をしておったのかな。そうじゃった。ローリーの本のことだったな。あんたはそれを、前に見たことがないといわれたが、ロンドン塔へは始めての訪問かな?」
「ええ」
「それにしては、塔内の名称に明るすぎるようだな。濠沿いの道だとか、広場だとかいっておいでだが、どうしてそれを知っておるんかね? 血塔から先は、まだ行ったことがないような話だったが──」
「それは簡単なことです」
アーバアは、ワトソン博士を説得するシャーロック・ホームズのような口調で説明した。
「いちいち人に案内してもらうのは気が利きませんからね。これがその代りをつとめてくれたんです」
彼はポケットから、緑の表紙のついた案内書を取り出した。
「地図もついておれば、説明も詳しく書いてあります。私はここへ来る前に、これを熟読しまして、完全な知識を身につけておるんです」
こんどはフェル博士が、口髭を引っ張りながらいった。
「もうひとつ質問させてもらって、それで、お引き取りを願うとしよう。あんたはむろん、いま滞在しておられるビットン家の、レスター・ビットン夫人にお近づきはあるんでしょうな?」
「残念ながら、まだお近づきになっていないのです。さっき申し上げたように、私がビットン家に滞在したのは、今回が始めてのことで、私が到着したときは、あいにくレスター夫妻は旅行中でした。昨夜帰られたそうですが、私自身、週末を留守にしてしまって、今朝戻って来たばかりなんです。そんなわけで、いまだに顔を合わせる機会がありません。レスター・ビットン氏のほうは、前に一度会ったことがあります。これも記憶はおぼつかないものです。夫人のほうは全然存じません。ビットン卿の口から噂を聞いたのと、写真を見ているくらいのものです」
「とすると、顔を合わせても判らぬわけですな?」
「おそらくそうと思います」
尋問はそれで終ったようだ。アーバアはほっとした表情で立ち上がった。はやく逃げ出したい気持を隠すように、わざとゆっくり外套のボタンをはめていたが、横合いからハドリイ警部が声をかけた。
「お帰りになる前に、何かいいおいておかれることはありませんか?」
「私のほうから? 一体、何のことです?」
「事件について、解釈のヒントがあったら伺っておきたいのです。盗まれた貴重な原稿はあなたに所有権があるのです。取り返したいとお考えにはならんのですか? 一万ポンドの品物が紛失したにしては、あなたの態度はすこし暢気《のんき》すぎるようですな。手に入れるためにそれだけ骨を折られたのですから、もうすこし真剣に探しまわって然るべきだと思うのです。今日はまたほかの書物を見にこんなところに来ておられるというのは、何としても納得しかねることですね」
ランポウルの見たところ、アーバアはたしかに、この質問を怖れていた様子だった。痛いところを突つかれたのをまぎらすためか、彼はすぐには口を開かずに、帽子をかぶりなおし、手袋をはめ、コウモリ傘を腕にかけた。これだけ恰好をととのえるあいだに、彼はまた以前の、冷静な態度に戻っていた。
「なるほど、あなたのいわれるとおりです。しかし、あなたの解釈には、ひとつだけ見落としがあります。私としてはこの問題で、関係者に不愉快な思いをさせたくなかったのです。この気持を判ってもらえぬと、結局理解していただけぬことになるのですが、つまりその気持から、警察の手を借りるのを、故意に避けていたのです。といって、何もせずにぼんやりしていたわけでもありません。私は私なりに、動いているのです。ただ、あなた方に申し上げていないだけです。私だって、あの原稿を追っかけるのに、出来るだけの手段を尽しているつもりなのです」
その浅黒い顔に、しずかな微笑が浮かんでいた。
「これ以上お尋ねになりたいのなら、サヴォイ・ホテルにお出でください。時間は明日の午後にしていただきたいと思います。では、今日はこれで失礼させてもらいましょう」
彼が出ていったあと、人々はながいあいだ、黙りこんでいた。暖炉の火が燃えつきて、室内はすっかり冷えきっていた。メイスン将軍の顔には、露骨な敵意が浮かんでいた。寄席に出る催眠術師のように、両手をいくども宙に振りまわしながらいった。
「証人調べはこのくらいで打ち切ってもらいたいな。わしはもう、うんざりしたよ。最初が帽子で、次がいろごとか。そのまた次は古ぼけた原稿と来た。そんなものを追いまわしたって、何の役に立つというんじゃ。むだに事態を紛糾させるだけだろう。一体君は、あの審美主義者から、何を引き出そうとしておるのかね?」
ハドリイ警部は答えた。
「証人としてあの人物は、厄介なところもあり、御し易いところもあります。最初は簡単に切り抜けられてしまいました。しかし、殺人事件の内容を聞いたときには、完全に狼狽したところをみせました。しかし、この塔内での行動は、真実を述べているものと確信できます」
「もっと具体的に説明してもらわんと判らんな」
ハドリイはふたたび部屋中を歩きだして、いらいらするように語り出した。
「もちろん私に意見がないわけでもありません。いまのところそれを述べたててみても、却って事態を混乱させるばかりなので黙っていたのです。いいですか。彼が、殺されたのをドリスコルと知らされて、失神するほど驚いたのは、決して芝居だったとは思えません。少くとも、ウイリアム卿の邸で顔を合わせた青年が死んだとは知らなかったのはたしかです。それにしても、あの驚きようははげしすぎた。一体、どんなわけがあったのでしょう?
で、私の意見はこうなのです。アーバアを頭のいい、才智に富んだ男だと見るのです。彼は、極力トラブルを避けようとしている。自尊心を傷つける羽目に陥るのをおそれているのです。ああ見えて、内心はいたって臆病であることは、言葉の端々からでも推察できます。この事件が世間の眼に触れるのを、極度に嫌っているのです。どうです。ここまでの観察は間違っていないでしょう」
「無条件で承認してもよいな」将軍は即座にいった。
「では先へ進みます。さっきアーバアは、原稿盗人の嫌疑をかけられましたが、わざと冗談めかして誤魔化してしまいました。あのアーバアの性格を思い、ウイリアム卿の性格を考えれば、この話が無事にすむはずはありません。アーバア自身も、彼が原稿を要求しだしたら、ウイリアム卿とのあいだに、どんな騒ぎが始まるか承知していました。むろん素直に引渡すような相手ではありません。うるさい手続きを要求するでしょうし、無事に解決するにしたって、いつになることか判ったものではありません。何より厭なことは、世間が面白がって騒ぎ立てることです。口論どころか、最悪の場合は、ウイリアム卿の気質では、アーバアに対して鉄拳を揮《ふる》うことにもなりかねないのです。
しかし、その品物が盗まれてしまったとなれば、ウイリアム卿としても文句のつけようがありません。騒ぎ立てるわけにはいかぬのです。アーバアは縞本を手に入れれば、そうそうにあの邸を引き払って、電話か何かでその旨を知らせればよい。それに対して、いくらウイリアム卿でも、なんとも行動の起しようがありません。訴えてみたところで、事件に出来ぬばかりか、下手をすると、卿自身がとんだ笑い者にされてしまう。実際、この問題を公表するのは、名誉ある前閣僚の一人として、とうてい堪えられることではないはずです」
将軍は手を振って、さえぎるようにいった。
「しかし、何だな。あのアーバア君がそんな極端な行動に出るとは考えられん。第一あの男には、そんな勇気はありはせんよ」
「それは何も、自分で手を下して盗んだとはいいません。誰か彼に代って行動した者がいれば、それでよいのですが……」
「何か君は」と、将軍がまた大きな声を出した。「それではあの──」
「いえ、いえ」
主任警部は、拳で掌をたたきながら叫んだ。
「断定しているわけではありません。が、その可能性もあると申し上げているのです。とにかく、検討してみる価値はあると思いますが、どうでしょう?
アーバアの話で、家族の者も、絶えずポオの名を聞かされているうちに、だんだん事情の察しがついて来たらしいのです。それに輪をかけて、ウイリアム卿自身がまた自慢話をする。しまいには、原稿の話は誰もが見当をつけてしまったと思われます。ことにドリスコルのような抜け目のない青年に、それが判らぬということはありません。アーバアが、それについて一番しゃべった晩餐に、ちょうどドリスコルも来合せていたのでした」
「馬鹿なことをいっては困るぞ」
メイスン将軍がさっそく抗議をした。
「アーバアのように、あれで一儲け企んでいる人間ならどうだか知れんが、ドリスコルが盗みなんか働くわけがあるか! 飛んでもないことだ。絶対にそんな真似をする男じゃない!」
「ですが、閣下。ドリスコル氏は最近金に困っておられたというではありませんか。そのために、伯父のウイリアム卿とも、口論が絶えなかったようです。もちろんあのひとが、たかが古原稿に、それほどの大きな価値があろうと気がつくはずはありません。白伏しますと、私にしてからが、説明を聞くまでは想像も出来なかったくらいです。
しかし、こういうことは考えられませんか? ドリスコル氏がアーバアに向って、こんな質問をしたらどうなんです?
──どうです、ものは相談ですが、朝起きてみて、あなたの枕の下に、その原稿が入れてあったら、あなたはそれに、いくら支払う気になりますかね?
もちろんアーバアは、自分は正当な所有者であるから、大金を払うつもりはないと答えるでしょう。しかし、ドリスコルには、そんなことはどうでもよいのです。最初から、そんな大金を欲しがっているのではありません。アーバアとしても、直接老人から買い取るにしても、一応の金は提供しなければならない。そこは取引です。計算すれば、ドリスコルとのあいだで話をきめたほうが、ずっと安くあがる。ウイリアム卿だけは正しい価格を知っていますが、ドリスコルは全然何も知らない。アーバアはもちろん、抜け目のない商売人です」
「それはちがっとる!」
雷のような声が轟き渡った、ハドリイは驚いて飛び上がった。その声はただの抗議ではなかった。悲痛な訴えともいえる響きがあった。みなが一斉にふりむくと、フェル博士はガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。テーブルの上に両手をべたりとつけて、
「そんなことを考えては困るな。どんなことを想像しようが君の勝手だが、その考えだけは止めてくれ。まじめにそう信じておるのなら、この事件の解決なんか思いもよらんぜ。想像は君の自由だ。盗んだやつはアーバアでもいい。メイスン閣下でもよい。ないしはまたサンタ・クロウスが持っていったにしてもよい。ただ、このドリスコルだって考え方は間違っておるぞ」
「どこが違っているんです? 私としても、絶対にドリスコルの仕業だといいきるつもりはありませんが、そうかといって、それほど強く否定されるのも納得できません──一体、どこが間違っているんでしょう」
博士はまた、腰を下ろした。
「説明して進ぜようか。君は問題の核心をしっかり掴んでおらん。だから、あとが全部、わけが判らなくなってしまうんだ。まず、この部屋で一時間ばかり前に取り交わされた話を思い起してもらいたい……おや、おや。わしのパイプがどこかへ行ってしまったぞ。いや、ありました……ええと、ドリスコルの人物論から始める。さっき、ウイリアム卿が何といった。あの男は、決して臆病者じゃないと、明言しておられたろう。わしもそのとき、こういっておいた。憶えているかな──ドリスコルは、何をああ怖れていたのだろうって──
もう一度、わしのその言葉を思い起して欲しい。あの男は、絶対に臆病者じゃあない。ハドリイ君。きみだって、無鉄砲なくらい向う見ずの青年だと批評しておったではないか。いかにもそのとおりさ。その向う見ずの青年が、ひとつだけ怖がっていたものがある」
「え?」
「伯父さんだよ。ウイリアム卿が怖かったのだ。大体この青年は、あと先の考えなしに、何でも好きなことに飛びつく性格なんだ。道楽が烈しくて、伯父さんの叱言《こごと》なんか、聞こうともしない。ところが、困ったことには、ウイリアム卿に財布の紐を握られておる。新聞記者としては、ほんのまだ駆け出しなんで、社からの収入なんて知れたものだ。道楽の資金は一切伯父さんからの小遣に頼らなければならぬ状態にある。
ところがウイリアム卿は、そんな甘い伯父さんではない。そのために、年中伯父、甥のあいだに口論が絶えない。それというのも、理由をただせば、ウイリアム卿はこの甥が、可愛くて可愛くてたまらぬからだ。知ってのとおり、卿には実の男子がない。で、彼を実の子同様に可愛がっている反面、こんなドリスコルでは、腑甲斐なく感じられてならんのだ。卿自身が立志伝中の人物なもので、この甥にも、もっとどうにかした気概を示して欲しいのだ。その間の消息は、ドリスコルにはむろん判っている。老人が財布の紐をゆるめないからといって、自分がその最大のお気に入りであることには自信を持っている。老人万一の場合には、遺言状に自分の名前がちゃんと書きこんであるものと安心しているのだ。どうでしょう、メイスン将軍? この考えは、間違っておりますかな?」
将軍は、そっと秘密を洩らすような言い方をした。
「わしもちらッと聞いておるが、たしかに遺産も舞い込むらしい」
「こんな立場にいる青年が、危い橋を渡ると思うかね。ポオの原稿は、文字どおりウイリアム卿の最大の宝だ。どんなにそれを、大切にしていたか、君だって知っているじゃないか。もしドリスコルが、それを盗んだってことが判ろうものなら、永久に彼は追放だ。ビットンの気性が、どんなに烈しいものか知っているだろう。あの片意地な老人は、謝ったくらいで許すものじゃない。死んだところで、びた一文だって遺してくれるものではないんだ。
そんなわけで、アーバアのためを計ったって、ドリスコルに得のいくはずがない。相手は商売人のアーバアだよ。三ポンドか四ポンド手に入れれば成功のほうさ。アーバアにしたって、原稿の真の所有者は自分だと自信があるのだから、こんなことをいって誤魔化してしまうのが落ちだろうね──なに、千ギルダーですって? 御冗談ですな。さあ、ここに五十ギルダーある。これを持ってお帰りなさい。うるさいことをいわれると、伯父さんに知らせますぞ──そんな調子で簡単に撃退されてしまうにちがいない。それだけは、ドリスコルは絶対にやらんよ。彼がこの世で一番怖いものは、伯父のウイリアム卿なんだからな」
ハドリイ警部も、なるほどとうなずいた。
「先生のお言葉どおりですな。大変参考になりました。私の意見はさっそく引っ込めましょう。しかし、先生。その件を、なぜそう強調なさるのです? どうしてそれが、問題の核心なんかになるんです?」
博士はふとい息を洩らした。主張が通って、ホッとした顔つきだった。
「それだけ理解すれば、事件は半分解決したも同然さ」
そのとき、扉口でまたノックの音がした。フェル博士は、疲れたような眸をそちらへ向けて、語気だけは烈しくこういった。
「今日の尋問は、もう打ち切りですぞ。六時をまわったようだ。酒場は開いたにちがいない。そろそろ出かけることにしようじゃないか」
そのとき、くたびれきった面持で、ベッツ巡査部長が入って来た。ハドリイ警部の顔を見て、すぐに報告した。
「参観人を取り調べておりますが、まだよほど時間がかかるようなので、中間報告に参りました。しゃべりたがる者ばかりで、大切なことに聞き落しがあってもいけませんので。いちいち書き取ってはおりますが、肝心なことを知っておるのは、一人もおらぬもようです。十人のうち九人までは、白塔《ホワイト・タワー》の見物に時間を使っていたようです。実際、あの建物を見物するだけでも、かなりの時間が要ります。そのためか、一時半から二時までの間、逆賊門の近くにいたという者はほとんどありません。で、怪しいところのない者は、帰宅させておりますが、それで差し支えありませんか?」
「ああ、よろしい。その代り、名前と住所だけは全部控えておいてくれよ」
ハドリイ警部も、疲れたように眼をこすって、あらためて時計を見た。
「なるほど、だいぶ遅くなったな。では、これで帰るとしようか。テーブルの上の品物は、おれが保管する。君とハンパアはあとに残って、衛視たちを調べてくれ、要領は判っているだろうな? 何か発見したら、すぐに本庁に連絡するんだ。おれの行く先はヤードに知らせておく」
彼は外套を取りあげて、ゆっくりと袖を通した。
「今日の捜査は」と、メイスン将軍がいった。「これで終ったんだな。では諸君、わしの部屋まで御足労願おうか。ブランディ・ソーダを御馳走しよう。葉巻もいいものがありますぞ」
ハドリイはためらって、一度時計を見てから、首を振った。
「御親切は感謝しますが、御好意に甘えてもおれません。警視庁へ戻って、片付けなければならん仕事が残っているのです。ここでちょっと時間を使いすぎました。こんな仕事には、手を出さなかったほうが利口だったかも知れません」
彼は眉をひそめてみせて、
「それに、われわれはお伺いしないほうがよいのじゃありませんか。お部屋では、ウイリアム卿が待っておられるはずです。あの方には、御親友の閣下から、事情の御報告を願ったほうが適当と考えます。例のアーバア氏の話ですが、いかがなものでしょう?」
「それは辛い役だな。しかし、やはりあんたの言葉どおり、わしの口からいうのが妥当だろうな」
「今夜、バークレイ広場《スクエア》のお邸にお伺いするとお伝えください、御家族が御帰宅になった頃を見はからってお邪魔します。それから閣下、新聞記者が押しかけて来るでしょうが、何ごともおっしゃらないように願います──目下のところ、発表することはないとだけで、あとはハンパア部長にお委せください。彼が適当に処置するでしょう。その点ハンパアは老練な男です。新聞に対する発表は、私がする考えです」
彼はそういいながら、ドリスコルのポケットにあった品物を残らず集めおわった。ランポウルが引出しから出した古新聞で鉄矢を包んで、外套の胸ポケットにしまいこんだ。
「そういうことなら、無理に引留めもせんが」と、将軍はいった。「一杯だけやっていってもらいたいな」
彼は扉のほうに行って、廊下の誰かにささやいたと思うと、すぐに従卒のパーカアが、ウィスキーの壜とサイフォン、それにグラスを四つ、盆に載せて現れた。
将軍はパーカアが飲物を混ぜるのを眺めながら、
「なかなか実のある半日だった。これで、殺されたのがビットンの甥でなければ、結構楽しい思いをさせてもらったといえるんだが──しかし、何だな。わしには皆目、見当もつかんよ」
ハドリイ警部は、口を尖らせていった。
「楽しい思いとは驚きましたな。私の身にもなってごらんなさい。もっとも、そうはいっても──」
と、主任警部は、グラスを取りあげてじっと見つめながら、短く刈り込んだ口髭の下で、唇をほころばせていた。
「私はこれで、三十年もこの仕事に携っているのですが、それでもまだ、警視庁《スコットランド・ヤード》事件に出動す、なんてニュースを聞くたびに、思わず胸が高鳴ってくるのです。ヤードって名には、妙な魔力が籠っているんですね。私は長いことその一員であり、今日のような日には、ヤードを代表する立場でさえある古強者のつもりですが、それでもなお、事件と聞くと、フェル博士みたいな探偵好きとおなじで、胸がどきどきしてくるんです」
「わしはまた、君は素人探偵を嫌っておるとばかり思っておったが、……で──ああ、パーカア。御苦労だった……むろん、フェル博士を素人というわけじゃないがね──」
ハドリイ警部は首を振って、
「私はさきほど、素人探偵の長所を無視するような馬鹿ではないといいました。ロンドン警視庁が産んだ偉大な人物、バジル・トムスン卿の名言に、探偵という職業は、何ごとによらず通暁して、しかも、何ごとの専門家でもあってはならぬというのがあります。ここにおられる博士に、私が遺憾に思うただひとつの点は、なぜこのひとは探偵小説の名探偵を気取らなければならぬのかということです。いくら、猛烈な愛読者だからといって、こうまで、その真似をしなければ気がすまぬのでしょうか。ごらんなさい。絶対に考えていることを洩らさんでしょう。神秘めかして、ははあ、とか、う、うーんとかいうだけでね──」
「褒めとるのかね?」
フェル博士は皮肉たっぷりにいった。マントを着て、ソフト帽を頭にのせた、巨大な体を、二本のステッキに支えて、論争に飢えたように顔を紅潮させていた。扉のそばで、パーカアからグラスを受け取って、
「ハドリイ! あいかわらず君は、おなじことばかり攻撃するなあ。わしはもう聞き飽きたよ。大体それは、怪しからん攻撃だぞ。文学の高貴なる一分野に対する、まったく根拠なきいいがかりだ。いつか一度、徹底的に論駁してやろうと思っておったところだ。君の説によると、小説中の探偵は、ことさらに神秘めかし、思わせぶりをいうだけで、説明は一切しないというんだろう。それはそうだ。君のいうとおりさ。しかしそれが現実を写し出しておるんだぜ。真の名探偵は、どういうものか知っとるのか? 事実、神秘めいて見えるものなんだ。は、はあというよ。う、うーんというんだ。だが、それだけさ。あとは、犯人は二十四時間内に、かならず逮捕してみせるといって、世間を安心させておくのだ。ただ、残念ながら現実世界では、小説中の名探偵のように、いつも成功するとはかぎらんだけのことさ。警視庁の探偵にしたって、国民に向って見得を切りたいのは山々だと思うね──こんな殺人事件は、わけなく解決してみせますよ。事件の鍵は、このマンドリンだ、乳母車だ、寝室用のスリッパだといってね。それでなくては、国民は何のために税金を払って、警察組織を維持しておるのか、疑問に思ってくるからな。ところが、現実にはそれをしておらん。というのも、思わせぶりをいう力さえないからだ。出来れば、そういって威張りたいんさ。君だってそうだろう。いいかえれば、誰もがポーズをみせている。事件の真相は、とうの昔に判っているような顔をしている。それが、探偵小説の場面のように面白くいかぬのは、下手に生意気なことをいって、失敗したら困るという、ごく平凡だが、いかんともしがたい理由からなんだよ」
「判りましたよ」ハドリイが諦めたような顔になった。「お好きになさい。では、みなさん、今日はこれで、お別れしましょう」
グラスを乾して、下におくと、また彼はいった。
「それで先生、いまのが前置きになって、例の神秘的予言が飛び出るんでしょうね」
フェル博士も杯を上げていたが、その手を宙に浮かしたまま、
「そんなつもりはなかったが、お望みとあれば、ヒントを三つだけ与えよう」
「待っていました。第一は?」
「最初のはこうだ。ドリスコルの死亡時刻については、いろいろ議論があるが、確実なところ、一時三十分から一時五十分までのあいだに殺《や》られた。一時三十分には、逆賊門の手すりのところで、煙草に火をつけたのをパーカアが見ている。一時五十分は、ワトソン博士が推定した死亡時間だ。ところが、アーバア氏の証言によると、彼が濠沿いの道へやって来た一時三十五分には、手すりの近所に誰の人影もなかったそうだ」
メイスン将軍が、ちょっと考えてからいった。
「それにどういう意味があるんかね? アーバアの証言が嘘だとでもいうのかな……で。第二のヒントは?」
フェル博士はますます上機嫌になってきた。グラスをさかんに玩《もてあそ》びながら、
「第二のヒントは大弓の鉄矢ですよ。ごらんのとおり、砥石で磨きあげて、立派な凶器に作ってある。誰が考えても、砥石をかけたのは犯人だと思われる。ところが、それとおなじ手が、カルカソンヌみやげと彫った文字を消しかけている。事実は、三字だけは消しているが、残りの文字はそのままにしてある。なぜ他の文字は消さなかったのか? 死骸が発見されれば、ビットン夫人がカルカソンヌで買って来た代物と当然判ることになっている。しかも、殺されるのがドリスコルとなれば、これは単なる偶然では片づけられんわけだ。繰りかえしていうが、なぜあとの文字が消されなかったか?」
「おっしゃるとおりですな」とハドリイがいった。「私もそれを考えていました。もちろん先生は、その答えを用意しておられるんでしょう。残念ながら、私はまだですが──それで、第三は?」
フェル博士は、腹をゆすって哄笑した。眼鏡の黒リボンがひらひらと揺れた。
「第三のヒントは非常に短い。ただの一言だ。ウイリアム卿の帽子は、なぜ彼の頭にぴたり合ったのだろう?」
頭をのけぞらせて、博士はグラスを、一息に乾した。じろりと一座を見まわしてから、扉を肩で押しあけて、霧の中へ消えていった。
十 鏡の中の眼
ウェストミンスター寺院の大時計が八時半を打った。
ランポウル青年は、ロンドン塔からの帰途、フェル博士と連れだってホテルに寄ったが、妻のドロシイの姿は見えなかった。机の上に置手紙があって、女学生時代の友だちの、シルヴィア何とかという女性から、おなじ友達仲間のパーティに誘われているので、そちらへ出かけるという文面だった。
こうした派手な会合を、ランポウルが病的なほど嫌うのを知っているので、急に夫は病院に入ることになったからといって、自分ひとりで出かけていくというのである。そこまではいいが、その入院の原因たるや、強度のアルコール中毒だというのだから驚かされる。手紙には、こんなふうに書いてあった。パーティに出れば、きっとみんなして慰めてくれると思うわ。どんな症状かって訊かれたら、わたくしこう答えるつもりなの──あのひと、酔っ払うと、猫を目の敵《かたき》にして、皿を投げつけるし、毎晩おそく、石炭の落し口から這いこんでくるし、ほんとに困ってしまうのよって。そのあとに、フェル博士によろしくとしてあった。末尾には次のような注意書まで添えてあった。
──外出するときは、上着の襟にホテルの名を書いた布をピンで留めておくこと。そうしておけば、夜中に往来で酔い潰れても、タクシーの運転手がホテルまで運んでくれるでしょう、云々と。
結婚して六カ月しか経っていないのに、よくこれだけはっきりとものがいえたものだ。とはいえランポウルは、却ってそれを読んで、身内の引き緊《しま》る思いがした。これでこそ本当の妻というものであろうと考えさせられたからである。
彼と博士は、ウォーダア・ストリートの小さなフランス料理店で食事をした。ハドリイ警部はロンドン塔を出たとき、いったん警視庁に帰らなければならぬ用事があったので、後刻この料理店で落ち合うことにして、いっしょにビットン邸を訪問しようと打ち合せたのであった。フェル博士は元来フランス料理が好きだった。もっと適切にいえば、フランス料理とはかぎらない。どこのレストランでもよい、湯気の立っている皿を片っ端から平げ、酒壜をからにして行列させるのが大好きなのだ。ただし、そのあいだは、犯罪の話は禁物になっていた。
その夕、博士の口から語られた冒険の数々は、彼を知りすぎるほど知っているはずのランポウルにも驚きだった。聞いているうちに、ランポウルの眼前には、さまざまの思い出が浮かんで来た。もの静かなリンカーンシャーの片田舎、三方の壁を書籍で埋め尽した小さな書斎、パイプをくゆらしている博士……そしてまた、広つばの帽子で庭を散歩している博士……日時計、鳥舎、白い花が点々と咲いている芝生、その中央で、午後の太陽を全身に浴びながら一睡をむさぼる。これがフェル博士の王国だった。その日たまたま彼が口にした、時計に鏡を仕込んだ男だとか、写真に写った大砲の話だとかは、どう考えてもその平和な王国にはそぐわぬものだった。それでもランポウルは記憶していた。そこから彼が、わずか五文字の電報を打つことによって、警視庁から武装警官が数名、彼の別荘に駆けつける場合もあることも……。
今夜の博士は、犯罪事件には触れようともしなかった。その代り、豊富な話題が次から次と現れて、とどまるところがないようにみえた。第三次十字軍を皮切りにして、クリスマス・クラッカーの始まり、リチャード・スティール卿〔十八世紀の随筆家、「スペクテイター」創刊者〕、メリイ・ゴーラウンド──これは実際、機会さえあれば彼が乗りたがるものだった──ベオウルフ〔イギリス最初の叙事詩〕、仏教、生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー〔進化論者、オルダス及びジュリアン・ハクスリーの祖父〕……話がはずんで、食事が終らぬうちに、約束の時間、八時三十分の時計が鳴った。ランポウルは陶然と酒を楽しんでいたが、さてと、葉巻に火をつけようとしたとき、ハドリイ警部が入って来た。
主任警部は落着きを欠いていた。何か気に病むことがあるらしく、いきなり折カバンをテーブルの上に投げだすと、外套もぬがずに椅子を引き寄せた。
フェル博士に食事をすすめられて、
「サンドイッチとウィスキーをもらいましょうか。いそがしいので、食事をとるのを忘れていました。といって、ここに落着いてもいられませんから──」
博士は、葉巻の煙ごしに、じろりと警部を見て、
「事件が発展したのかい?」
「重大化して来ました。予想もしなかったことが、二つも起りました。そのひとつは、全然理解も出来ないことです」
彼は折カバンから書類を引き出して、
「今日午後四時四十五分頃、ドリスコルのアパートに忍び込んだ者があります」
「忍び込んだ──」
「そうなんです。これがその報告書です。御記憶でしょうが、さきほど塔内で、ラーキンという女を調べました。尋問が終ったとき、そのあとを尾行するようにいいつけておいたのです。ハンパアがうまいことに、腕利きのをまわしてくれました。私服刑事としての新顔なんですが、尾行だけはいい腕なんです。彼はラーキンが城門を出ると、すぐにあとをつけました。女はふりかえりもせずに、タワー・ヒルを登っていくのだそうです。おそらく尾行がついているのは承知なのでしょうが、その刑事──ええと、名前はと、そうだ、サマーズです。そのサマーズを、巻こうともしないのです。
タワー・ヒルを登りきると、まっすぐに突っ切って、地下鉄のマーク・レイン駅に入っていきました。出札口には、かなり大勢行列をつくっていましたので、サマーズは近よって、女の行先を確かめることは出来ませんでしたが、見当でラッセル・スクエアまでの切符を買いました。彼女のアパートには、そこが一番近い停車駅だったからです。
女はキングズ・クロスで乗り換えました。彼は予感が当ったことを知りました。ラッセル・スクエアで地下鉄を降りると、女はバーナード・ストリートのほうに出ました。サマーズはそのまわりを、ウーバーン・プレイスを通って、タヴィストック広場《スクエア》まで尾行していきました。
タヴィストック住宅まで来ると、女は三つ目の入口へ入っていきました。それまで一度もふり返ろうともしなかったのです。サマーズはそこで、女のすぐ背後に、素人のようにぴったり近づきました。しかし、却ってそれがよい結果をもたらしたのでした。
彼の報告によりますと、かなりそれは狭い入口で、照明も不充分なものだそうです。裏口のドアがガラス戸になっているので、そこからかろうじて外光が射しこんでいるくらいなのです。中央の自動エレベーターの扉を挾んで、二つの部屋《フラット》のドアが向いあっています。サマーズが入口に飛び込むと、ちょうど、一号室のドアが閉まったところでした。ところが、それと同時に、二号室のドアが開いて、女が一人、飛び出して来ました。エレベーターの前を通って、短い階段を駆け下りると、裏手のガラス扉から走り去っていったそうです」
「また女の登場か。どんな女だったい?」
「それがはっきりしないのです。具体的には、何の報告も来ていません。といって、無理もないことです。照明はわるいし、おまけにこの霧ですから、ホールは夜も同然だったのです。そこへ不意に飛び出して来られたのですから、女と判ったのがめっけものみたいなくらいです。むろん彼は、いきなり怪しんだわけではありません。ただ商売柄、念のためにドアに寄って、確かめてみただけなんですが、そこで様子を知りました。
ドアの鍵が錐《きり》かねじ廻しのような道具で、こじあけてあるのです。サマーズはすぐに、女のあとを追いました。裏手は広い中庭で、石畳になっていて、そこから自動車道が、往来に通じていました。もちろん、女の姿はありません。それでサマーズは引き返しました。
そのとき彼は、それがドリスコルの部屋だとは知りませんでした。そのアパートには、ラーキンが住んでいることを教えられていただけなのです。でも、マッチをすって、ドアの上の名刺を見て、始めてそれと知ったのです。彼はいそいでドアを開けてみました。
部屋のなかは乱雑をきわめていました。誰かが掻きまわしたのが歴然としています。その詳細はあとで申し上げます。サマーズは管理人を深しましたが、どこへ行ったか、見つけるまでにかなりの時間を無駄にしました。管理人は老人で、かなり耳が遠い様子なのですが、サマーズがドリスコルの部屋に忍び込んだ女がいると話しますと、老人は途端に機嫌がわるくなって、そんなことはないというのです。彼はずっと、何時間も自室にいたのだが、怪しい物音なんか全然聞いておらぬというのです。ただ昼すぎに、若い男が一人、来たことは来たが、これは幾度も来たことのあるひとで、ドアの鍵もちゃんと持っていた。しかも、帰りがけには、自分が出ていって、自動車まで送ったくらいだが、室内はきちんとしていて、掻きまわした形跡なんか、すこしも見えなかったと主張した。サマーズはそこで、ドアから飛び出したのは女で、それも、ついいましがただと説明しても、相手は信じようともしなかった」
フェル博士は、テーブル掛けの上に、フォークでいたずら書きをしながら聞いていたが、そこで訊いた。
「一体、何を盗まれたんだね?」
「そこまでは判っていません。腕のよいのを一人派遣しましたから、まもなく報告が来ると思います。サマーズの見たところでは、机はこじあけられ、引出しは掻きまわされ、書類はのこらず床の上にぶち撒《ま》かれてあったそうです」
「書類か手紙を探したのかな」
「そうでしょう。それから、先生、例の手紙の、メアリイって署名の出所が判りましたよ」
「それはよかった。何だったね?」
「部屋でひとつだけサマーズの目についたものがありました。なぜ目についたかというと、それだけが、部屋の様子とあまりにもかけ離れた感じだったからです。典型的な独身者の部屋でして、狩猟の雑誌、銀杯、スポーツ仲間の写真、そんなものが乱雑に飾ってあるんですが、マントルピースの上に、きれいに彩色した石膏が二つ並べてありました。男と女の人形で、サマーズの言葉によりますと、古い時代の衣裳をつけて、マダム・タッソウ館の蝋人形を見るようだったそうです。それにラベルが貼ってありまして──」
フェル博士は眉をあげて、唸るような声を出した。
「なるほどそうか。フイリップ二世とメアリイ・チューダー〔メアリイ一世はエリザベス女王、エドワード六世の姉。スペイン王フィリップ二世と結婚し、新教徒を迫害し、さかんに焚殺したために|流血の《ブラディ》メアリイと呼ばれる〕の像なんだな。恋人同士が飾っておくには、ちょっと縁起のわるいものだが──。たぶん二人がいっしょにピクニックにでも行ったとき買ってきたのだろう。その思い出に、いまだもって、捨てるに忍びないというんだろう。で──女は誰なんだね?」
給仕がハドリイに、ハム・サンドイッチとウィスキー・ソーダを運んで来た。警部はまずグラスを一息にあけていった。
「今日昼すぎの事件から、大体の見当はつくと思います。それはたしかに、塔内で起きた殺人事件を知っている人物です。ドリスコルが死んだ以上、手紙類がまっさきに調べられるにちがいない。その結果、彼女の名が明らかになるようなことになると──」
「つまりビットン夫人だというんだな」フェル博士はいった。「君の推察は当っているだろう。時間は充分あった。われわれは夫人を、ラーキンを、取調べるよりさきに尋問して、すぐに放免しているんだからね」
「そうなんです。ついでに思い出してみてください。あの婦人が帰りかけたとき──そう、ランポウル君、あなたは気がついたようでしたね」
アメリカ人はうなずいて、
「ええ。そうですね。そのちょっと前に、たしかにあの婦人は、どきっとした表情を見せました。何か思い出した様子でした」
「あのときメイスン将軍が、何と言ったか憶えていますか? 私は婦人の表情を見て、どうしたのだろうと訝《いぶか》りましたが、そのわけは、いまになって始めて判りました。メイスン将軍は、ウイリアム卿に勧めて、自分の部屋へ行って、休息しているようにと言ったのです。そのときの言葉に──わしの机のなかに、デヴェルウの記録がしまってあるからと言いました。それを聞いた瞬間、夫人は胸のうちに、ドリスコルの机に、危険な証拠物件が入っていることを思い当ったのです。警察の捜査で、あれが発見されれば、どんな結果になるか、──夫人は監視されはじめたと知ってから、メアリイという名を使いだしたにちがいないのです」
「しかし、ビットン夫人に」と、ランポウルは言った。「ドリスコルのアパートまで行って、そんな捜索をする時間がありましたかね? ラーキン夫人の取調べは、そんなに手間はとらなかったし、ウイリアム卿が夫人を車にのせたことも確かですが……」
「夫人はタワー・ヒルを登ると、自動車を降りて、地下鉄に乗りかえました。地下鉄にさえ乗ってしまえば、マーク・レインからキングズ・クロスまで、十五分とかかりません。そこからさきは、乗り換えで時間を費すのを怖れて、タヴィストック・スクエアまで歩きました。この霧では、タクシーは却って時間を食うものです。
あの夫人とすれば、ドアをこじあけるくらい何の造作もない仕事でした。管理人が物音を聞かなかったといっても、耳が遠いんですから、不思議ではありません。彼女を発見する可能性のあるのは、隣室に住んでいるラーキン夫人だけなんですが、これはまだロンドン塔で足留めさせられているはずですから、心配することはなかったのです」
フェル博士は、大きな頭を、両手にうずめて、
「それはいかん。ハドリイ君、その考えはいかんよ。とにかくわしは、その象徴《シンボル》という考え方は排斥したいんだ」
「象徴《シンボル》?」
「いま君がいった人形のことさ。おそらく二人が、田舎のお祭りへでもいったとき、ボールを壜にあてる遊びをやって来たにちがいない。しかし、女がその名を使って、メアリイと手紙に署名したと考えるのは、わしにはどうも納得できん。考えてもみたまえ。恋人と二人で、その人形に自分たちをなぞらえるんだとするのなら、ラベルに書いてある名前が、どういう人物かぐらいは知ろうとしたにちがいないんだ。たとえば、ひとつがアベラール、片方がエロイーズとあって、それが何だか判らぬとあれば、調べてみるのが人情だ。そんなわけで、わしは大体、あのビットンという女が、エリザベス女王はここで首を切られたのかなんて訊くのからして、いかにも見えすいていて気に食わんのさ。あの女らしくもないこったよ」
「とおっしゃると、結局どういうことになるんです?」
「この人形は、イギリスの女王メアリイ・チューダーとその夫、スペイン王フィリップ二世の像なんだが、もしこれに何か意味があるとすれば、頭においておかねばならんことが二つある。第一は、メアリイのほうは一生を通じて、その強い旧教的信仰とおなじに、夫フィリップに烈しい情熱を燃やしつづけたこと。それに対してフィリップは、彼女に全然興味を抱かなかったことだ。第二に心にとめておかねばならぬことは──」
「……?」
「女王は流血《ブラディ》のメアリイという異名をとったことだ」
長い沈黙がつづいた。小さな料理店は、客はほとんどからになっていた。時計の響きが、それをはっきり告げるように、耳立って聞えて来た。ランポウルのグラスの底には、ブランディがすこし残っていた。青年はいそいでそれを飲み乾した。
「それはまあ、それとして」と、ハドリイはまた口を開いた。「ほかにも聞いていただきたいことがあるんです。さっきお別れしてから起ったことですが、これがまた、どう判断してよいものか、迷わされましてね。ジュリアス・アーバアのことなんですが──」
フェル博士はテーブルをたたいていった。
「ほほう、それはぜひ聞きたいものだ! 解決の糸口にならんともかぎらん。どうしたんだね、ハドリイ君?」
「彼はいま、ゴールダース・グリーンにいるんですが、話というのは、こうなんです。
われわれが塔を出たときは何も聞いてはいなかったんですが、ハンパア部長が本庁へ電話して知らせてくれました。そこですぐに手を打って、一応調査はすんだのです。アーバアを放免したのは六時二十分過ぎだったと思います。御記憶でしょうが、アーバアの取調べのときに、彼のいう時間が正しいかどうか確かめるんで、時計を比べてみたことがありましたね。あれが六時十六分でして、それから間もなく放免されたのですから、六時二十分すぎというのは、大体正しいところと思います。
で、話は中塔《ミドル・タワー》に戻ります。これがまた、いつも私を途まどいさせるんですが、中塔なんて名前がついている癖に、実際は城内に入って最初の塔なんです。憶えておいででしょうが、アーバアはそこヘタクシーを乗りつけました。運転手はおとなしく待っていましたが、いつまでたっても、彼の姿は現れません。あまり時間がかかるので、さすがの運転手も怪しみだして、様子を見に中塔へ入ろうとしました。すると近衛兵が彼をさえぎって通しません。衛視が出て来て事件が起きたことを説明しました。それを聞いて運転手は、これはしめた、待つ時間だけでも、たっぷり料金がもらえるぞと喜んでいました。そして、待ちも待った、のんびりと三時間余りも待っていたんです。これがつまり、ロンドンの運転手気質というやつなんですかな」
ハドリイはサンドイッチを食べおわって、もう一杯ウィスキーを注文した。煙草に火をつけて語りつづけた。
「そこへ、われわれが尋問を行っている|争訟の塔《バイワード・タワー》から、取調べがすんでアーバアが出て来ました。中塔までの道を歩いて行くのですが、もう暗くなりかかっていましたし、霧もまだかなり残っていました。ですが、石橋の欄干に、ガス灯がともっていたので、運転手と衛視は、すぐに彼を見つけました。見ていると、どうしたことか、よろよろと彼はよろめきまして、ガス灯の下に倒れかかりました。それでもどうにか立ち上がると、なおもふらふらしながら歩き出すのでした。
見ていた運転手たちは、酔っ払っているのかと思ったそうです。そこで、駆け寄ってみますと、顔をまっ青にして、額に汗までにじませて、ろくに口もきけぬ状態なんです。さっき尋問のときも、これとおなじ発作を見ましたが、こんどのほうが、もっとひどいようで、何かにひどくおびえている様子です。タクシーの運転手は、すぐに喫茶室へつれこんで、生のブランディを、タンブラーに半分ぐらい飲ませました。それで、いくらか回復したらしく、運転手に、バークレイ・スクエアの、ウイリアム卿の邸まで行くように命じました。
邸に着きますと、彼はまた運転手に、すこし待っておれといいました。荷造りをして来るから、そのあとで、ゴールダース・グリーンまでやってくれというのです。こんどこそは、運転手も厭がりました。三時間も待たされて、あちこち引っ張りまわされたのに、まだ一ペニイも代金をもらっていないし、この上ゴールダース・グリーンくんだりまで行くのは心配だというわけです。すると、アーバアは、五ポンド紙幣を握らせまして、命令どおりすれば、もう一枚提供するというのでした。
ここまで来ると、運転手が怪しみだしたのも当然でしょう。中塔で待っているあいだに、殺人事件が起きたことを、衛視の口から聞いていたからです。アーバアはじきに出て来ました。旅行カバンと、外套を二枚腕にかけて、出てくるなり車に飛び込みました。ゴールダース・グリーンに車を走らせながら、運転手はだんだん不安になって来たのです」
ハドリイは一息ついて記憶をよみがえらそうとするように、折カバンから書類を取り出して、ひっくり返し、ひっくり返し眺めていたが、眼をタイプの文字に走らせたままで語りつづけた。
「タクシーの運転手を相手にすると、誰でも気やすく話をするものです。ふだん無口な人間でも、どういう心理か知りませんが、不思議なくらい饒舌になるものです。運転手連中は、何を聞かされても、泰然自若としているからでしょうか。私にイギリス国内のスパイ網を組織しろという命令が下りましたら、フランスがスパイを門番に仕立てるように、タクシーの運転手に化けさせようと考えています。余談はそのくらいで、本題に入りますと……」
彼は眉根をよせて、報告書を掌《てのひら》にたたきつけるようにしてつづけた。
「運転手はたまたま塔内で、殺人事件について聞かされていましたし、それにまた、アーバアが車内で不安をまぎらすように絶えずしゃべりつづけていますので、ひょっとすると、自分まで事件の渦中に巻きこまれるんじゃないかと、心配になって来たのです。そこで、アーバアをゴールダース・グリーンまで送ると、その足で警視庁に出頭したのです。面会した係官が、運よく事情を知っていましたので、すぐに私のところに廻しました。この運転手ってのは、ずんぐり肥って赤ら顔の、口髭は白くなりかかっていますが、声のほうはがらがらして、まだまだ元気は若い者に負けないという男です。ふだんはぶすっとして、まるで怒ったように黙りこんでいますが、そこはロンドン児で、いったんしゃべり出したとなると、身振り手振りを取りまぜて、なかなかどうして、派手なものです。椅子の端にちょっと尻をのせて、鳥打帽を両手でいじりながら、アーバアの真似をやってのけました。内心怯えているくせに、尊大すぎるほど勿体ぶって、車が揺れるたびに眼鏡に手をやり、二分おきに前に乗り出しては問いかけてくるアーバアの姿を、見ているように再現してくれました。
最初アーバアは、運転手にむかって、ピストルを持っているか訊いたそうです。運転手は黙って笑っていました。すると彼は、いまに悪漢に襲われるかも知れないと、心配そうにいうのです。それで運転手は、一挺持っているから安心しなさいといってやりますと、こんどはまた、あとを尾行している車はないかと、煩《うるさ》いほど訊くのでした。その間にも、ゴールダース・グリーンに、近所の者しか知らない別荘を持っているとか、ロンドンはニューヨークほど犯罪者は多くないだろうとか、つまらんことをしゃべっていたそうです。そのうちで、運転手が特に記憶していますのは、彼がたえず、声のことを口にしたことでした」
「声って何だね?」フェル博士はおなじ言葉を繰りかえした。「誰の声なんだね?」
「それ以上はいわなかったそうです。ただ、こういうことを訊いていました。どこからかかって来た電話か、あとから突きとめることが出来るかという質問です。『声』に関連しての言葉というと、それだけのことのように思われました。そのうちに、自動車が別荘に着きました。人里離れた淋しい場所でした。すると急にアーバアは、この別荘は数カ月締めきったままだから、すぐになかに入るわけにはいかぬと言い出しました。
そこでまた、運転手は近くの別荘まで行かせられました。そこは電灯もついていましたので、門口の名前を見ておいたのですが、『ブライアブレイ荘』としてあったそうです」
「アーバアの友人のところだね?」
「そうです。それはあとで確かめました。ダニエル・スペングラーという男の家でした。運転手の話というのは、大体そんなところですが、これを先生、どう判断されます?」
「事態は相当|逼迫《ひっぱく》している模様だな。アーバアは非常な危険にさらされていると信じている。わしの予想では、そんなこともあるまいと思うのだが、すくなくとも、本人はそう信じきっておる。その危険は、かならずしもないとは限らんのだから、放っておくわけにもいかんだろう」
主任警部はいらいらしながら応じた。
「私もむろん、放っておけることとは思っていません、ですが、そんなに事態が紛糾しているのなら、われわれのところへ相談に来ればいいと思うんです。われわれ警察官はそのために存在しているんですからね。ところが、誰もがそれと反対の道を辿るもので、危険を感じながら、一番悪い方法を選んでしまうのです。アーバアの場合もそれで、ホテルヘでも行けばよいのに、誰にも見つけられぬところというので、わざわざ選《よ》りに選って、殺人にこの上もないという場所に飛び込んでいくのですからね?」
「で、どう手配したね?」
「すぐに部下を、その家に派遣しました。警視庁《ヤード》には、三十分ごとに電話連絡をとるようにいっておきました。だが、アーバアは何を怖れているのでしょう? 殺人について、彼が知っていることを、犯人が感づいているんでしょうか?」
フェル博士はややしばらく、葉巻をつよく吸いながら考えこんでいた。
「ハドリイ君。これはすこし問題が深刻になりすぎた。わしはすでに、事件の性質を知っておるつもりだから、今日の午後の尋問でも、みなが深刻な顔をしておるのがおかしくてならなかった。事件の大部分は冗談ごとに近いのだ」
「冗談ごと?」
「そうなんだ。冗談にしては皮肉すぎるか知れんが、嘘のようなわるふざけだ。その茶番狂言が、突然、気狂いじみて来た。『チャーリーの伯母』〔ブランドン・トマスの笑劇、一八九二年初演〕の三幕目に、殺人事件が舞い込んだようなものだ。マーク・トウェーンが、自転車に乗るのを稽古した話を知っておるかね?」
ハドリイは気がせくらしく、報告書を折カバンにしまいこんで、
「先生、お講義でしたら、この次にしていただきますが」
「講義じゃないぞ」フェル博士はいつにない真剣さで言いつづけた。「練習中は、石にぶつかって、自転車から投げだされないように注意している。ところが、練習場所ってのが二百ヤードも広い道路だというのに、小さな練瓦のカケラがひとつでも落ちていると、かならずといってもいいくらいに、それに乗りあげてしまったそうだ。人間というものは、自分の欲していないことばかりやってしまうものだという教訓さ。この事件が、ちょうどそのよい例なんだ」
博士は次第に、言葉に熱を持って来た。
「わしはもう、ポーズなんか作っておられなくなった。さっそく行動に移らんければならん。喜劇としての演出と現実社会の醜悪な面から起った出来事とを、至急峻別する必要があるんだ。偶然から事件は始まった。殺人はその結末をつけただけだ。というのが、この事件についてのわしの解釈だ。その区別をみせてあげるから、あとはひとりで、わしの考えが正しかったことを判断できるだろう。しかし、さきに二つ、しておくことがある」
「何ですか?」
「刑事がアーバアの別荘を見張っているそうだが、すぐに連絡がつくのかい?」
「警察署に電話すれば、連絡はとれます」
「すぐ命令してもらいたいんだ。隠れていてはいかんのだ。逆に、なるたけ眼につくように行動しろってな。芝生の上を歩きまわれといってくれ。ただし、どんなことがあっても、たとえばアーバアから声をかけられても、絶対に彼に近よったり、こちらの行動の意味を覚られてはいかん」
「なぜ、そんな妙なことをするんです?」
「わしのみたところでは、アーバアは実際に危険にさらされておるわけじゃない。本人がそう思いこんでおるだけだ。それにまた、自分の居所は警察に知られておらんつもりでおる。あの男は、何か秘密を知っておって、何かの理由で、われわれに隠しておる。そんなわけで、君の部下が、別荘の周囲をうろついているのを見れば、敵が現れたのだと思って、あわてて警察の助けを呼ぶだろう。ちょっと残酷なやり方だが、脅かしておくのが何よりなんだ。君のいうとおり、あれは元来臆病な男だから、遅かれ早かれ君の保護を求めて来るにちがいない。そのときこそ、真相が発見できることになるのだ」
「はじめて先生、指示を与えてくださいましたね。いよいよ活躍していただけると判って、安心しました。さっそく御指示どおり手配することにします」
「そうするんだな。益こそあれ、損はない。事実危険が彼の身に迫っているとしたら、見張りがついていることは、敵を牽制する効果がある。その上、アーバアが警察の助けを呼ぶようなことになれば、警察はその正体を見つけることが出来るかも知れない。怪しい男が君の部下を無視して、その辺をうろついているときはなおのことだ。これだけの手配がついたら、すぐドリスコルのアパートを調べにいくとしよう」
「ですが先生。あの部屋の捜査は、部下を派遣してありますから御心配なく」
「そうはいかんよ。君の部下なんかじゃ、わしが調べたいと思っておるものを捜し出すものか。たとえば、彼のタイプライターなんか検査してくれるとは思えんな」
「彼の何ですって?」
「タイプライターだよ。タイプライターって何だか知らんのか?」博士はじれったそうにいった。「それから、台所も調べてみたい。彼が持っているとすれば、かならず台所にしまってあるにちがいないんだ。さあ、出動だ! 給仕を呼んでくれ。勘定だ」
レストランを出たときは、霧はやっと晴れかかっていた。ウォーダア・ストリートの狭い通りは、群衆でごった返していた。料理店の看板の灯が、薄れかかった霧ににぶく光って、街角では、少年たちに囲まれた男が手風琴を鳴らしていた。どこの酒場からも、賑やかな笑い声が流れてくる。灯火のまぶしいシャフツベリー・アヴェニューまで出ると、ちょうど劇場へ向う自動車の数が殖えだしたところで、ハドリイは車の運転にかなり骨を折った。しかし、オックスフォード・ストリートを横切ったあたりから、やっと車馬の往来も薄れて、大型ダイムラーの速力をあげることが出来た。ブルームズベリーまで来ると、ガス灯の灯が、もの淋しげに霧にけぶっているだけで、人通りはすっかり途絶えていた。はるか遠くで聞える車の響きのほかは、寝鎮まったような静けさだった。グレイト・ラッセル・ストリートを通って、牢獄めいた影を長く曳いている大英博物館の角を左に曲った。
「報告書をカバンから出してください」ハドリイ警部がいった。「たしかサマーズは、広場の西側だといっていましたね」
ランポウルは車の窓から首をのばして、街路標識を探すと、モンタギュウ・ストリートとしてあった。ラッセル・スクエアの前面には、裸の木々と灯火を消した家並がつづいていた。アッパー・ベッドフォード・プレイスまで来て、バドリイは車のスピードをゆるめた。
タヴィストック広場は、大きな楕円形をなして、広さのわりに街灯がまばらだった。西側にだけ、きわだって高い古風な建物が並んでいて、他の三方より堂々とした感じを与えていた。タヴィストック住宅はそのうちのひとつで、四つの入口を持った赤煉瓦の建物だった。四つの入口のちょうどまん中に、アーチ形の自動車道《ドライヴウエイ》が開いて中庭に通じている。ハドリイ警部は、車を中庭まで入れて駐めた。
「この道から、例の女が消えたんだな。これでは誰も気がつかぬわけだ」
彼は車から降りて、あたりを見まわした。中庭には、ぽつんと一本だけ電柱に灯がともっていた。夜が冷えるにつれて、霧は眼に見えて消えていった。中庭を囲む壁に、灯火を洩らしている窓は乏しかった。
「このアパートの住人に、一応女の行動について当らせてみたんですが」と主任警部は愚痴をこぼすようにいった。「あいにくどの窓も、下半分が曇りガラスになっているんで、気づいた者はひとりもいないそうです。もっとも、こんな淋しい場所では、真昼間に、派手な羽飾りつきの帽子をかぶったインディアンがうろつきまわったにしても、怪しまれることはないでしょう。これがホールに通じる裏口のガラス戸です。三つ目のを入ればいいんです。これ、これ。この窓から灯が洩れているのがドリスコルの部屋です。私の部下がまだ残っているんですな。捜査はもう終ったと思っていたが……」
ガラス戸を開けようとして、空鑵《あきかん》に蹴つまずいた。野良猫がびっくりして、ぎゃあと鳴いた。人々は彼に従って、短い階段を登っていくと、褐色に塗った壁に囲まれて、赤いタイルを舗《し》いた床のホールに出た。照明といっては、自動エレベーターのなかの、青ざめた電灯だけだった。ただひとつ、左手のドアの隙間から、細い光線が洩れていた。見ると、ドアはよく閉まっていなくて、鍵の周囲の板が大きく裂けていた。
二号室だ。ランポウル青年の眼は、それからホールを横切って、向いあった部屋のドアに向けられた。その郵便受の蓋の隙間から、いつもラーキン夫人がするどい視線を投げていたことであろう。ホールのなかは、じめじめと肌寒いばかりでここもまた人気はなく、二階の部屋から、ラジオが流れて来るだけだった。
突然烈しい音がした。二号室から洩れていた光が、大きく揺れたかと思われた。響きはエレベーターを突き抜けて、うつろにこだまを返してよこした。音の出所はたしかに二号室のドアからだ。
反響がまだ終らぬうちに、ハドリイはドアに駆けよって、ぐっと押しあけた。その向うに、フィリップ・ドリスコルの居間が展開された。ほんのすこし前に、その乱雑さは聞いたばかりだが、それがまた、一層の混乱を増したようだった。正面の壁に暖炉が切ってある。装飾鏡のついたマントルピースが見えている。その前に、背の高い立派な体格の男が、こちらに背を向けて立っている。前こごみになっているので、その肩越しに、マントルピースの上に載った石膏人形が、おどけたような顔を見せているのが眺められる──明るい絵具を彩った女の人形で、腰をぴちりと緊めつけた服に、銀色のヘアネットをかけている。だが、それに当然並んでいるはずの、男の人形はなくなっていた。その代り、炉石の上に、無数の白い破片が散乱しているので、ついいまし方まで、そこに並べてあったことが察せられる。
その場の光景は、怖ろしいまでの無気味さを告げていた。石膏像が粉砕された音が、いまだに部屋の隅々に尾を引いて漂っている感じだった。うなだれて、前屈みの格好を見せた男の、淋しそうなその背に、却って直前の激情の凄《すさま》じさが忍ばれた。
すると彼は、手をのばして、もう一つの人形を掴んだ。その手を振り上げた途端、首が上がって鏡面に顔がうつった。
「今晩は」
フェル博士が静かに声をかけた。
「レスター・ビットンさんですね?」
十一 小さな石膏人形
後日ランポウルは、事件の経過を回顧するたびに想い起すのだが、人間としての生地そのものを、あれほどまでに剥《む》き出しにした顔を見たのは、彼としても始めての経験だった。ほんの一瞬ではあったが、鏡にうつったレスター・ビットンの顔がそれだ。人間というやつは、いつだって顔に仮面をかぶり、頭のなかではたえず警戒のベルを鳴らしつづけている。ただひとつの例外がここにあった。憤怒に逆上して、ちっぽけな人形を鷲掴みにしたその手とおなじく、われを忘れてぶるぶる震えている顔だった。
ランポウルの頭にいきなり浮かんだ考えは、ふだん街中で会ったなら、これは一体どんな顔に見えるかということだった。バスで乗りあわせるとか、クラブで新聞を読んでいるのを見かけた場合である。要するにレスター・ビットンは、堅実で実利的な、典型的なイギリス実業家のはずだ。仕立てのよい服に、近年肥り出して来た体を包み、きれいに剃った顔は、眼や口もとに小皺が寄りはじめたが、まだ明るくて血色はよい。濃い黒髪にも、白髪が混りだしたが、いつもヘア・トニックのにおいをただよわせて、さわやかな感じを与えている……
よく見ると、やはり兄のウイリアム卿に似たところもある。どちらかというと赧ら顔で、あごのあたりに贅肉が見えるところなど、だいぶ隔りがないこともないが、それにしても、いまの怖ろしい形相は──
やけになったような眼が、鏡のなかから見返していた。拳が震えたかと思うと、指のあいだを、人形が辷《すべ》り落ちた。が、すぐに、もう一方の手で拾いあげて、マントルピースの上においた。彼の荒い息づかいが聞えてくる。無意識に襟もとに手をやって、ネクタイを直し、黒い外套の塵をはたいた。
「いったい君たちは誰なんだ?」
ビットンは咽喉のおくで、しゃがれたような声を出した。がくんと打ちのめされた顔つきだが、何とか陣容をたて直そうと努めている様子である。
「いったい何の権利があって、この部屋に入って来たんだ!」
ランポウルは彼の様子を見るに忍びなかった。いくら殺人事件の捜査とはいえ、あまりにも残酷すぎる、あまりにも思いやりのない仕打である。彼は思わず眼をそらせた。
「落着いていただきましょう」
ハドリイは冷静にいった。
「その説明の必要があるのは、あなたのほうではないでしょうか。現在この部屋は、警察の管理するところになっているのです。殺人事件に個人的感情を介入させるわけにはいきません。遠慮なく調べさせていただきます。あなたはレスター・ビットンさんですね?」
相手は低い声で答えた。
「ビットンです。で、君たちは?」
「私はハドリイ警部といいます」
「ああ、そうか」
彼はうしろ手に、革椅子のはしを探りながら、よろよろと後ずさりして、肱掛けの上に腰を落した。
「ビットンさん。ここであなたは、何をしていたのですか?」
「僕の口から言わせんでも判りそうなものじゃないか?」
ビットンは腹立たしげに言いかえしてから、振りかえって、暖炉の前に砕けている人形を見、あらためてまた、ハドリイ警部の顔を見上げた。
主任警部はあきらかに優位に立っていた。ビットンを見詰めている眼は、冷たすぎるくらい冷たく、その代りまた、無関心に近いほど冷静だった。ゆっくりと折カバンを開くと、タイプに打った書類を取りだした。ランポウルはすぐに、それはサマーズ刑事の報告書にすぎぬと知ったが、ハドリイはそれを利用するらしく、チラッと眺めて尋問に移った。
「私の受取った報告書によりますと、あなたは私立探偵を雇って、奥さんの素行を調査させましたね。探偵社の婦人探偵で、ええと──彼はまた、書類に眼をやって──ラーキン夫人というのを、このホールの向う側の部屋に住み込ませましたな」
「さすがは警視庁《ヤード》の人間だ、感心させられる」
相手はようやく落着いたか、他人事《ひとごと》のようにいった。
「君の言うとおりだ。別にそれが、法規に違反したわけでもないだろう。しかし、もうこれ以上、そんな無駄な費用を使う必要もなくなったわけだ」
「ドリスコル氏は亡くなりましたからね」
ビットンはうなずいた。大きな赧ら顔は、皺こそ深く寄っているが、大体平常の表情に戻っていた。ぎらぎら異様な光を放っていた双眼も、やっと平静に帰ったようだが、神経だけは、まだ針のように尖《とが》っているにちがいない。
「いまのお言葉は、二つの意味に解釈出来ますが、どちらの意味のおつもりでした?」
レスター・ビットンは、いつかいつもの、抜目のない実業家に立ち戻っていた。──動揺せぬ表情、するどい眼、肉づきだけはだいぶ相違するが、まさに兄ウイリアム卿そのものだ。彼は両手を拡げて、
「こうなったら、何でも隠さず話すよ。ええと、ハドリイ君でしたな。聞いてくれたまえ。いま思えば、馬鹿なことをしたものだが、僕は家内に尾行をつけたんだ。実際、何と謝罪してよいものか、家内には怪しいところなんか、これっぽっちもなかったのさ」
ハドリイはにやりと笑って、
「ビットンさん。今夜私は、あなたにいろいろお尋ねしたいことがありましたので、お邸へお邪魔するつもりでいました。ここで、お目にかかれたのが仕合せです。質問させていただきたいと思いますが、いかがでしょう?」
「結構ですよ」
ハドリイ警部はフェル博士とランポウルを振りかえった。博士は、ビットンの尋問などには、全然興味のないような顔で、あたりの様子をじろじろ眺めていた。小ぢんまりと、居心地のよさそうな部屋である。地味な茶色の壁紙、スポーツ雑誌、革椅子。椅子のひとつが引っくり返っていた。壁ぎわのテーブルは引出しが抜き出されて、中味が床に散乱していた。フェル博士はそれを見ると、ずかずかと近よって、屈みこんで眺めた。
「劇場のプログラムに雑誌類、古い招待状に請求書。わしの深しておるものは何もないな。机とタイプライターは、どこか別の部屋にあるんだろう。ちょっと失礼する。ハドリイ君、わしに構わず、質問をさせていただくがいいぜ」
彼は奥のドアから出ていった。
ハドリイ警部は山高帽をぬいで、ランポウルにも椅子をすすめ、自身も腰をおろした。
「ビットンさん。お話は率直にお願いできませんか。奥さまの素行がどうであろうと、あなたがまた何をなさろうと、殺人事件に関係がないかぎり、私の与り知らぬことなのです。いまのお話では、あなたは探偵を使って、奥さまの素行を調査させられた。そこまでおっしゃっておいて、奥さまとフィリップ・ドリスコル氏との関係を、なぜ否定しようとなさるんです?」
「そんなこと、馬鹿々々しいデマなのさ。あくまで君が、それを──そんな根も葉もないことを言い張るつもりならば──」
「べつにいい張るつもりはありませんが、根も葉もないことでしたら、なぜあなたは、そう興奮されて、私立探偵なんかに調べさせたのです? まあ、無駄な時間を費すのは止めましょう。メアリイの手紙は、われわれの手に入っているのですよ」
「メアリイ? メアリイって誰なんだ?」
「御存じのはずです。われわれが、この部屋に入ったとき、あなたはそれを、炉石の上で叩き毀そうとしておられた」
ハドリイは冷やかに、しかし、するどく問いつめていった。
「もう一度御注意申上げます。無駄な時間を潰すのはよしましょう。あなたにしても、他人の部屋に無断で侵入して、マントルピースの飾り人形が気に入らぬからといって、叩き潰して歩いておられるわけでもないでしょう。その人形が意味するところを、われわれが知らぬとでも思っておいででしたら、ちょっと迂潤すぎる話ですな。あなたは男の人形を叩き毀《こわ》された。次に女のも毀そうとされた。そのときのあなたの顔つきは、誰が見たって正気の人間とは考えられなかった。私の申し上げることがお判りですか」
ビットンは大きな手で、両眼をおおった。こめかみのあたりに、曲りくねった静脈が青く浮いた。
「どちらにしろ、それが君たちに、何の関係があるんだ!」
「あなたは、ドリスコル殺害の真相について、どれだけのことを御存じなんです?」
「ほんのすこし──話は、兄から聞いている。ローラのほうは──妻のローラは塔から戻ると、いきなり部屋に閉じこもってしまった。僕は事務所から帰って、家内の部屋をたたいたが、ドアを開けようともしなかった。シーラの話では、家内はまっ青な顔で帰宅したが、一言もいわずに二階へ駆けあがってしまったそうだ。七時半になって、兄が戻って来て、簡単に事情を話してくれた」
「ではあなたは、フィリップ・ドリスコルの殺害事件に関して、あなたの奥さまに容疑が濃いということを御承知なんですね?」
ハドリイはついに、行動を開始したのである。ランポウルははっとして彼を見詰めた。平和な商船が、突如、砲門を舷側に開いたのだ。彼はこれまで、もっとも重大な一点において、証拠の環を欠いていたのだが、ビットンがそれを補ってくれるようだ。主任警部の態度には、今日塔内で尋問を行ったときのような、もの柔らかなところは消え失せていた。指を組合せ、眼をぎらつかせ、口のまわりにきつい皺を寄せて、ビットンに相対した。
「ああ、ビットンさん。何もおっしゃらないで──私のほうから申し上げます。ただし、われわれの推論ではありません。判明した事実をお耳に入れるのです。
あなたの奥さまは、フィリップ・ドリスコル氏と恋愛沙汰を起していました。で、今日の一時三十分に、ロンドン塔で逢おうと手紙を送られた。それが彼の手に届いたことは、彼のポケットから発見されたことでも明らかです。その手紙はまた、二人の仲が露顕して、監視され始めたことも注意していました。それを見て、ドリスコル氏は顔色を変えたにちがいありません。御承知のとおり、彼は相当厳格な、そしてまた、いたって気短かな伯父の補助によって生活を立てている身分なのです。こんな醜聞が伯父の耳に入ろうものなら、即座に遺産を取り消されることがわかっています。怖ろしくなったドリスコルは、奥さんとの仲を断ち切らねばならぬと考えました。これはしかし、私の推察ですから、かならずしも主張するわけではありません。情況上私はそう解釈するのです。
そこで彼は、ロバート・ダルライ氏に電話して、何とか解決の道を講じてくれと懇願しました。ところが、その後、何者かが、またダルライに電話して、甲高い声で、氏をこのアパートまで、おびき出しました。
以上の事実に基づきまして、私は次に、一応の締め括りをつけてみたいと思います。
一、ドリスコルは、困った場合はいつでも、ダルライ氏のところへ駆けつけて相談した。
二、ドリスコルの周囲は、誰もみなそれを知っていた。
三、常識人であるダルライ氏は、ドリスコルを意見して、こうした危険な関係を清算するように説き伏せるにきまっていた。
四、ドリスコルもまた、その意見に順う気配であった。彼のような移り気な若者が、恋人と数週間も逢わずにおれば、心変りがするのも不思議はないのである。
五、一方、彼の愛人は、もう一度彼と二人きりで逢いさえすれば、むかしの仲によりを戻せると信じていた。
六、ドリスコルの愛人は、その朝の電話のいきさつを、シーラ・ビットンの口から聞いている。シーラは、やはりその朝、ダルライ氏に電話しているのである。
七、ドリスコルの愛人は、婦人としてはかなり低い声である。
八、電話の声は早口で、取り乱しているとしか思えなかった。言おうとしている意味もはっきりしないくらいで、誰の声ともとろうと思えばとれた」
ハドリイ警部は、記録を取り扱うような冷静さで、一語々々を読み上げていった。
その間、彼の組合せた指先を見ていると、まるで拍子でもとっている様子だった。レスター・ビットンのほうは、顔をおおっていた手を除けて、椅子の肘かけを力いっぱい握っていた、
「お断りしたように、以上述べたところは、全部私の推察です。しかし、これを裏づける事実に欠けているわけではありません。手紙にある逢曳の時間は、一時三十分。そして、その一時三十分は、ドリスコル氏が生きている姿を見られた最後の時間なんです。そのとき氏は、逆賊門の近くに佇《たたず》んでいました。すると、何者かが近よって、氏の腕に触れたのです。一時三十分には、あなたの奥さまと覚しい婦人が、逆賊門の近くをいそぎ足に通りすぎていました。その婦人は、よほど慌てていたとみえて、真正面から証人にぶつかりました。つまりその証人が彼女に出逢った場所は、この部屋ほども広くないところですから、いくら霧の日だからといっても、彼女の姿をはっきり認めることが出来たのです。
最後に、ドリスコル氏の死体は、逆賊門の石段で発見されましたが、胸を鉄矢で刺されておりました。ところが、その凶器は、昨年あなたの奥さまが、南フランスから買って帰られたもので、奥さまの手元にあったものと考えられているのです」
彼はちょっと口をとめて、ビットンの顔をじっと見つめた。それからまた、低い声でつけ加えた。
「材料はこれだけ揃っているのです。私は一介の捜査官ですが、かりに腕のよい検事に、これだけの材料が当てがわれたとしたら、どういう結果になるでしょうか、ビットンさん、あなたにも御想像はつくと思いますが──」
ビットンは肥った体を起した。両手はぶるぶる震えて、眼のまわりが赤く染まった。
「なんてくだらぬことを考えるんだ! それにしても、僕にさきに逢えたことは、君の仕合せだといわなけりゃならんぞ。そんな了見で、いきなり家内を逮捕したら、とんでもない物わらいになるところだった。さあ、僕のいうことを聞きたまえ。そんなあやふやな憶測は、一言で以て吹き飛ばしてみせるから。いいかね、警部君。この僕は、ある人物を使って、家内がロンドン塔にいたあいだ、ずっとそのあとを監視させておいたのだ。その人物の言葉によっても、家内がドリスコルと別れたとき、相手はちゃんと生きていたことが証明できるんだ」
それを聞くや、ハドリイは立ち上がった。剣士が突きを入れた瞬間のような眸だった。
「あなたが女探偵を使っておられたことは、私にも判っているのです。それだからこそ、あなたは今晩、このタヴィストック住宅へ現れたのでしょう。殺人事件が起ったと聞いて、あなたは便々と女探偵の報告を待ってはいられなかった。その女探偵が、実際に知っていることがありましたら、ここへ連れて来て説明させてください。それが出来なければ、お気の毒ですが、ビットン夫人に対して、一時間以内に逮捕令状を申請しますから──」
ビットンは椅子から飛び上がった。気が狂ったように、鍵の毀れたドアを押しあけて、バタンとまた、叩きつけるように閉じると、そのまま駆け出して行ってしまった。足音が、ホールのタイルを響かせて消えていった。
ランポウルは額ににじんだ汗を拭いた。咽喉がカラカラに乾き、心臓がはげしく鳴っていた。
「僕には納得できませんな。ハドリイさん。どうしてはっきり、ビットン夫人の凶行だと言い切れるんですか?」
ハドリイ警部の口ひげの下には、おだやかな微笑が浮かんで来た。腰をおろして、両手を組合せると、彼はいった。
「しッ! 声が大きすぎる。聞えては困るんだ。だけど、どうです、私の芝居は? 私は別に役者として自信があるわけではないんだが、ときどきこの手を使うんです。今日のは成功のほうですな?」
彼はそういいながら、アメリカ人の顔をじっと見つめていた。
「だけど何だな。いまのあなたの言葉では、どうやら私の演技は、成功の部類に属するとうぬぼれてもよいようですな」
「するとあなたは、かならずしもそう信じているわけでもないんですね?」
「全然そんなふうには考えていませんよ」主任警部は笑いを押しかくすようにしていった。「その考え方は、いろいろと欠点だらけです。ビットン夫人がドリスコルを殺したのだとすれば、頭にかぶせてあった帽子はどういうわけなんです。何もかも、ナンセンスになるおそれがある。ドリスコルは一時三十分に、逆賊門で胸を刺されたというのに、なぜ二時十分前まで生きてうろついているところを見られたのでしょう? ビットン夫人が犯人とすれば、なぜ即刻ロンドン塔を逃げださなかったのでしょう? それどころか、その後一時間近くもまごまごしていて、捜査網に引っかかってしまったとは、どういうわけでしょうか? ダルライにかかった偽電話も、私には自信ある説明がつきかねます。おそらくそれは、ビットンにも、いまのように取り乱していなければ、察しがついたと思います。ダルライが今朝、シーラ・ビットンに電話して、ドリスコルに逢う約束をしたと告げたなんて、まったく嘘のことなのです。私はただ、ここでビットンを叩けば、逆上している彼の口を簡単に割らせることが出来ると思ったのです。この程度の演出は、決して実害がありませんからね」
ランポウルは、炉石に粉々に砕けている石膏に眼をやりながらいった。
「なるほどよい狙いですよ。その方法でなければ、あのラーキンって女は、本当のことをいおうとしないでしょう。あの女が、ずっとビットン夫人のあとを尾けていたとしたら、夫人の行動はすべて承知しているはずですからね。ですが──」
ハドリイは振りかえって、ドアが閉まっているかを確かめてみてからいった。
「あなたのいわれるとおりだ。だけど、あの女には、調べあげたところを警察に通報するなんてそんな気持があるものですか。今日の尋問でも判りましょう。何も見なかったと、あくまでしらを切りとおしたではありませんか。口を割らぬことが、あの連中の商売道徳なんです。警察に対して沈黙を守って、それで自分の身に危険が迫ろうが、それは甘んじて受ける覚悟でいるんです。いや、ことによると、あの女の気持には、もっと現実的なものがあったかも知れません──というのは、恐喝の意図を持っていたことが想像できるんです。その考えは、われわれが叩きつぶしてしまったので、女はやむを得ずビットンに報告をした。ですから、あの女が沈黙を守れば、ビットンのほうで、妻の嫌疑を晴らすために一部始終を語り出すとも思えるのです。われわれとしても、女が事情を打明ける気になれば、いままでの怪しからぬ態度は、一応不問に付してもよいと考えています。いまごろビットンは、女にしゃべらそうとして大骨を折っていると思います。われわれが直接女を責め立てるより、ここしばらくはビットンに委せて、様子を見ていたほうが賢明でしょう」
ランポウルはグッと帽子をあみだにして、
「さすがは、あなたですな! 感心しました。では次は、おなじようにして、アーバアの口を割らせることになるんですね」
「アーバアか!」主任警部は飛び上がった。「すっかり忘れていた。自分の腕自慢に夢中になって、肝心なことを忘れていましたよ。ゴールダース・グリーンに、電話しなければならないんです。さっそくかけなくては……電話はどこにあります? それにしても、刑事にここを見張らせておいたのだが、どこへ行ってしまったのか? ビットンが入りこんでいるのに、なにをぼんやりしておるんだろう。フェル博士にしても、出て行ったきり帰って来ないが、一体、どこへ行ってしまったんだろう?」
彼はつづけざまに、こうした疑問を口走った。途端に、ドアの向う、建物のおくのほうで、何か引き摺るような気配がしたと思うと、ガラガラと金属性のものがぶつかる、はげしい音がした。
「こいつはしまった!」どこか遠くのほうから、そんな声が聞えてきた。「しかし、心配せんでもよいよ。これ以上毀そうにも、人形はもう、ありはせんのだ。いまの音は、台所の棚にある道具箱を落したのさ」
ハドリイとランポウルは、声のする方角へいそいだ。博士が消えたドアを開けると、狭い廊下がまっ直につづいていた。途中でそれを挾んで、二つのドアが開いている。左側のは書斎と寝室に、右側のは浴室と食堂に通じて、台所は廊下の突きあたりにあった。
部屋はひっ掻きまわしてあったが、もともとドリスコルは、あまりきちんとした性分とはいえぬようであった。その上、よほどあわてて書斎を探しまわった人物があったとみえて、足の踏み場もないほどの混乱ぶりである……
床の上には書類が散乱し、書棚の本はほとんど放りだしてある。机の引出しは全部抜きだされているし、携帯用タイプライターはカバーを外したまま、電話のコードとからみあっている。カーボン・ペイパーの上に灰皿の中味が散らかって、インク壜は見事にひっくりかえっている。タイプライターの上を照らしているスタンドは、緑色のおおいがひんまがり、暖炉の鉄格子は外れたままだ。ドリスコルのフラットに侵入した人物は、目標をこの書斎においたことが明らかだった。
ハドリイはいそいで、他の部屋を見てまわった。フェル博士も台所から出て来て、いっしょになった。寝室では、ベッドの支度はしてなかった。ここでも、机の引出しは抜きだされているが、中味はどれも女の写真ばかりだった。これで見ると、ドリスコルという青年は女にかけては相当の人物だったと思われる。もっとも、相手というのは、写真で見受けたところ、どれもみな女中タイプ以上のものではないのであるが……
ここでも捜索は、机の引出しだけに限られたようだ。食堂には、全然手をつけていなかった。ふだんドリスコルは、めったにここで食事をしたことはないのであろうが、もう一方の用途には充分役立っていたようだ。戸棚の上には、大きなソーダ・サイフォンが、二列になって光っている。切子細工の電灯の下で、空になった酒壜だの、汚れたままのグラスだの、カクテル・シェイカー、灰皿、オレンジの皮だのがごたごたと散らばっていた。
ハドリイ警部は、にやりと笑って電灯のスイッチを切った。
そのわきで、フェル博士がいった。
「食堂ばかりじゃないな。台所にしてからが、やはりカクテルを作るために存在したようなものだ。おまけに、ココアと銘打った鑵を開けてみて、なかの怪しげな物を見てしまったので、故ドリスコル君に対するわしの評価は、下落の一途をたどるばかりだよ。居間だけは、案外きちんとしておるが、あれは君、いつ、やかましやの伯父が尋ねて来ないものでもないので、その用心にあるだけのものだ。実際、彼が暮していた場所は、この食堂と台所だけと考えて間違いなかろう」
博士は、台所の戸口に突っ立ったままでしゃべっていた。腕にかけた道具籠の柄が、金属性の音を立てていた。
「道具籠だと言われましたな。何を探しておられるんです? ドアの鍵を毀した鑿《のみ》かねじ廻しでも見つけようとなさったのですか?」
「何をいうか!」博士は籠をガラガラさせながらいった。「女が部屋へ忍び込んでおいて、それから台所まで鑿を探し出しに行って、もう一度念を入れてドアを毀したとでも言うのかい?」
「それは何ともいえません。誰か外部から侵入した印象を与えるつもりだったかも知れませんからね」
「それもそうだな。君のいうことも一理ある。しかし、わしの探しておったのは、そんなものじゃない。全然ちがう種類の道具を探しておったのだ」
「ですが、先生」と、主任警部はせきこむようにいった。「台所を掻きまわしておいでのあいだに、われわれがビットンから訊きだしたことのほうが、はるかに御興味を惹くと思いますが……」
博士は何度かうなずいた。眼鏡の黒リボンが、ひらひらと揺れた。ソフト帽で、顔の上半分が影になっているので、肥った山賊といった感じがますます濃くなった。
「いろいろと判ったろうな。あの男は、私立探偵の報告を聞きたくて、ここまでやって来たんだよ。君は彼を脅して、夫人の行動を聞き出そうとした。で、わしはそれを君に委せておけばよいと考えて、わざと席をはずしたんだ。わしが立ち会うまでのことはないと思ったのさ。どうせ君が、きちんと整理して、報告書を作ってくれるだろうからね。それに、わしはその必要も大して感じないんだ。というのは、あの女のいうことぐらい、わしには見当がついておる。それより書斎を眺めて、ドリスコルの性格でも察してみたほうが効果的だと思ったんだ」
「あいかわらず先生は、自信たっぷりですな」
ハドリイはそういって、それから演説でも始めるように大きな身振りをして、
「先生は──」
「判った、判った」
博士は皮肉な調子でさえぎって、
「どうせわしは、稚気満々といわれるくらいのことは覚悟しておる。法螺を吹いておるわけじゃないぜ。わしの言葉を真面目に考えてもらってよいんだ。問題はドリスコルの性格さ。書斎で見つけたんだが、彼の写真のうちに、はなはだ興味のあるものが何枚かある。その一枚で、彼は──」
そのとき、廊下の静まりかえった空気を震わせて、書斎の電話が、するどく鳴りひびいた。
十二 X十九号について
「いま時分、電話か! 何か新しい手掛りでも見つかったかな。ちょっと待ってください。電話に出て来ます」
ハドリイは書斎にいそいだ。フェル博士とランポウルはそのあとを追った。博士はどうやら、警部を電話口に出したくなかった様子である。ランポウルには、その気持は理解できなかった。主任の警部は受話器を取りあげた。
「もし、もし……こちらは警視庁のハドリイ警部だが……君は? ……ああ、そう……」
彼はふり返っていった。声の調子には、あきらかに、失望の色があった。
「シーラ・ビットンからの電話だそうです」
そのまましばらく、彼は待っていた。
「ええ、よろしいですよ。私も一度、お目にかかっておいたほうがよいと思っていました……構いませんとも、いつお出でになります?」
「おい、ハドリイ、待ってくれ!」
フェル博士はあわてて歩みよった。
「どうかしたんですか?」
ハドリイ警部は驚いて、受話器を手で抑えながら訊いた。
「今夜シーラが、ここへやって来るっていうんか?」
「フィリップの所持品をむこうの邸に持ってかえるように、ウイリアム・ビットン卿からいわれたのだそうです」
「ふーん。誰かいっしょについて来るのか、訊いてくれ」
「そうですか、訊きますよ」
ハドリイは怪訝そうに眉をひそめた。見ると、博士の顔には、電話で相手に正体を知らせずにものをいう場合の、あの意地のわるい表情が浮かんでいるのだった。ハドリイ警部はまた、電話口で話していたが、
「ダルライ氏がいっしょに来るそうです」
「それじゃ駄目なんだ。わしはあの邸のなかの人間に話がしたいんだ。それも、あの邸から離れた場所で話してみたいんだ。これはちょうど、願ったり叶ったりの機会だと思うんで、ぜひ利用したいんだが、──わしに直接、話させてくれんか?」
ハドリイは肩をすくめて、博士と入れかわった。
「ああ、もし、もし……」
博士は婦人向きの、やさしい調子をだそうと骨折っている模様である。が、遺憾ながら相手には、水でもごぼごぼ飲みこんでいるとしか聞えぬらしい。
「ミス・ビットンですか? フェル博士です。ハドリイ君の──その、相棒でしてな……ほほう。御存じですか? なるほど、婚約者から聞かれた。そうでしたか……で?」
受話器のむこうからは、美しい声がひびいて来る。ランポウルは最前、ラーキン夫人が述べた、可愛らしい金髪の方という形容を思い出して微笑んだ。フェル博士は、受話器に向って、写真を撮ろうとするときのように、わざと笑顔を作って見せていたが、やがてまたしゃべりだした。
「ミス・ビットン。お持ち帰りになるという荷物は、相当の嵩《かさ》があるんでしょう……それに、ダルライ君は、十時にはロンドン塔へ戻らんければならんはずだ……誰かほかに、お供をする者はおりませんか? 自動車の運転手はどうなんです? では執事は? 名前は何て言います? マークスですか? なるほど、ウイリアム卿がしきりに自慢しておられた男ですな。その男といっしょに来ていただけますか?……ウイリアム卿はいけませんぞ。お疲れのところを、一層御迷惑をかけることになる。(ここで博士は、うしろを振りかえって、彼女、泣いておるぞ、と言った)なに? 卿はベッドにお入りになっておられる。そうでしょうとも。それがよろしい。では、ミス・ビットン、お待ちしております」
彼は渋い顔で、警部を見て、腕にかけた道具籠を鳴らせてみた。
「なかなかはっきりものを言うお嬢さんだな。わしのことを海象《とど》と呼びおったよ。さしあたって、ここにユーモリストがおれば、海象と大工について、なんて一文を草するところだろうってね」
彼は音を立てて、道具籠をおいた。
「ワトソン先生──」ハドリイ警部はランポウルに向っていった。「あなたのお陰で、忘れずにすみました。ゴールダース・グリーンの警察に電話しますから、席を代ってください」
それから彼は、長いあいだかかって、警視庁《スコットランド・ヤード》を通じて、長距離電話をかけさせ、命令を伝えた。夜勤の巡査部長に、アーバアの別荘を見張っている刑事に連絡がついたら、折返しこちらに電話をさせてくれといいおわったときに、居間のほうに足音がひびくのを聞いた。
レスター・ビットンがラーキン夫人の口を割らせるまでには、かなりの時間がかかったようだ。ビットンは興奮に顔を火照らせて、居間中をせかせかと歩きまわっていた。ラーキン夫人は反対に、ロンドン塔にいたときより、一層表情を堅くして、正面の窓からカーテンの外をのぞいていた。その横顔は、もうこうなったらどうにでもなれと、腹をきめてしまったように見受けられた。ハドリイの足音にふりかえって、冷たい眼つきでじろりと見た。
「やっぱり警視庁の人っていうと、大したものだわね」
そう言う彼女の唇はさすがに顫えていた。
「わたし、このビットンさんに、奥さんのことでは、まだ報告するだけの材料は集まっていないといっておきましたの。ですからこのひと、あんた方から何といわれようと、黙って澄ましてさえいれば、それで結構うまくいったはずですの。うっかり逮捕して、問題になったら大変だという気持を、あんた方に起させることも出来たかも知れない。ところがこのひと、脅されて、しゃべってしまったらしいわね。でもわたし、どっちにしても、謝礼金だけは約束どおりいただくつもりだからいいわ」
ラーキン夫人は、肩をそびやかせながらいいはった。ハドリイ警部は、ふたたび折カバンを開いて書類を取り出した。こんどは駆け引きではなく、折りたたんだ紙片の中央に、本物の手配写真が一枚貼ってあった。その一枚は横顔である。
「アマンダ・ジョージェット・ラーキン。別名アマンダ・リーズ、別名ジョージー・シンプスン。通称エミーと呼ばれ、万引常習犯。主として、大百貨店で宝石類を狙う。最近はニューヨークにて──」
「もうたくさんよ」エミーはさえぎった、「そんなこと、いまのあたしには関係ないことさ。もうきれいに足を洗ったんだから。いまではちゃんと真面目に働いているのよ。このビットンてひとに訊いてみれば、どんなところへ勤めているかだって判るはずよ。立派な職業婦人じゃないの!」
ハドリイ警部は書類をたたんで、もとのカバンにしまい込んだ。
「私立探偵にもいろいろあるがね。まあ、君のやっているのは、真面目なやつだと考えておこう、ただし、ラーキン夫人。今後われわれは、決して君の行動から眼を離さんぜ……それからだ。この事件で、正直にいっさいを話してさえくれれば、ジョージー・シンプスンの前歴については、君の雇傭主である探偵所長には、何も知らせずにおいてあげるよ」
女は両手を腰にあてがったまま、警部の表情を探るように見守っていた。そのうちに、ラーキン夫人の態度は次第に変って来た。昼間はコルセットをかたくはめ、ピッタリ身についた服で、女教師生活で青春をすりきらしたとでもいった様子だったが、いまはその堅苦しさはどこにもなかった。じだらくに椅子に身を投げると、小卓の煙草箱から一本抜き取って、靴の踵でマッチをすった。
「こんどの素行調査は、ずいぶん手間どってね。二人とも──」
「余計なことをしゃべることはないんだ!」
レスター・ビットンは大きな声で叫んだ。
「警察はいま、二人の素行なんか問題にしているんじゃない。このひとたち──このひとたちが騒いでいるのは殺人事件だ」
「そうね。男女関係なんて、どうでもいいわね……で、ハドリイ警部さん、何を話したらいいの?」
「今日の君の行動を、残らず話してもらいたいのさ」
「いいわ、話してあげるわよ。あたしみたいな商売っていうと、まず第一に眼をつけるのは郵便配達なの。あたしはちゃんと、朝早く起きて、配達夫の来るのを待ちかまえているのよ。最初は一号室、つまりあたしの部屋ね──この郵便受けに抛りこんで、それから廊下の向う側へ行くの。あたしは時間を見計らって、ドアの外の牛乳壜を取るふりをして、外へ出ると、ちょうど配達夫が、二号室の郵便物をカバンから取り出すところということになるの。肝心の手紙が来ているかどうか見つけるのは、これもごく簡単な仕事なのよ。だって、X十九号は──あたしはこの符号を使って、例の女のことを報告しているんだけれど、いつも手紙をうす紫の封筒に書いて来るので、どんな離れたところからだって、すぐに見つけることができるのよ」
「それにしても、どうしてその手紙が、X十九号から来たと判ったんだね?」
「つまらないことを訊くんじゃないの。名誉ある未亡人が、合鍵でよその部屋に忍び込んだりなんかするもんですか。湯気で湿《しめら》して封筒をあけているところを見つけられたりなんかしたら、格好がわるいじゃないの。実はあたし、最初の手紙が来たとき、立聞きをしておいたのよ。
とにかく、その朝うす紫の手紙が配達されたことで、X十九号は日曜の夜、ロンドンに帰って来たなと察しをつけたの。それであたしは、今朝からずっと眼を光らせていたわけよ。ただひとつ、あたしのほうでもびっくりしたことは、あたしがその朝、牛乳壜を取りに出ると、ドリスコルも向う側で、牛乳壜を取りあげているじゃないの。あのひとは、大体いつも、十二時前には起きたことがないというのに、そのときはもう、ちゃんと身支度をすませているの。案外、前の晩から寝なかったのかも知れないわ──ドアが開けっぱなしになっているので、郵便受けのなかはまる見えだったわ」
彼女は椅子のなかで向きを変えて、手にして煙草で、ドアについた金網籠をさして、
「ドリスコルはあたしなんかに見向きもしないの。片手に牛乳壜を持ったまま、もうひとつの手を郵便受けに突っ込んで、例の手紙を取り出すと、ちょっと厭な顔をしたけど、封も切らずにポケットに突っ込んで、それから、あたしが見ているのに気がつくと、ハッとしたように、ドアをしめてしまったの。
で、あたしは思ったわ。ははあ、今日どこかで逢曳《あいびき》するつもりだなって。でも、あたしの仕事は、男のほうを見張るのじゃなくて、X十九号の行動をつきとめるにあるんだから──」
「君はそれをずいぶん長いことやっているようだな」
「そうよ。探偵って仕事は、とても、手間取るもんなのよ。それに、正直いえば、こんないい仕事を、そう簡単におしまいにする手はないじゃあないの……でも、本当は、なかなかチャンスがなかったのさ。ひとつだけ、あることはあったけど──それはこうだったわ。二週間前のことだけど、劇場か何かから、二人して帰って来たことがあるの。どちらもかなり酔っていたわ。あたし、向うのドアをじっと睨んでやったんだけど、二時間ばかり、物音ひとつ立てないの。でも、なかでどんな真似をしているか、むろんこっちに、見当はついていたんだけどね。でも、そのうちにドアが開いたわ。女を邸へ送り届けるらしくて、男もいっしょに出て来たわ。ホールは電灯が消えているんで、何も見えないけれど、話し声だけは、ちゃんと聞えたの。さっき以上に酔っ払っていたわ。ええ、女もそうなのよ。男はむろん、ぐでんぐでんだし、それで、そこに立ち止まって、またもやたがいに変らぬ恋を、永遠に誓いあっているという寸法なの。男のほうはこんなことをいってたわ──いまやっている仕事が成功すれば、新聞社でいい席につくことになる。そうしたら、すぐに結婚しよう──なんてことを、いつまでもくどくどとしゃべっているの。
でもね。男って酔っ払うと、きまってあんなことを言うものなのよ。ことにあのドリスコルなんか、信用するほうがどうかしているわ。この間なんかも、X十九号が留守だもんだから、その間に赤毛の小娘を連れ込んだのよ。それもいいけど、全然おなじ文句を聞かせているじゃないの。女が夢中になっているほど、男のほうはX十九号にほれているとは思えないわ。赤毛の女のことなんか、あたしは別に調査を頼まれたわけじゃないんだけど、その晩、部屋に戻ってくると、ドリスコルがその女の腰に腕をまわして、階段をひょろひょろと降りてくるところにぶつかったの。女は男がふらつくのを支えようと骨折っていたけど、男はすべって転んで、畜生! だって──」
「やめてくれ!」
レスター・ビットンがいきなり怒鳴った。彼は窓ぎわに立って、カーテンに体をかくすようにしていたが、堪りかねたか、ふり返って叫び出した。
「報告書には、そんなことは書いてなかったではないか!」
「よこ道へそれすぎたかしら」
ラーキン夫人はそういって、ビットンをじっと眺めていた。女の、線のきつい、角ばった顔は、もう若いとはいえないのだが、といって、中年の婦人といいきるにもまだ気の毒だ。その顔がちょっとゆるんで、耳にかさぶるおくれ毛を掻きあげていた。
「そんな、何から何まで報告しろったって無理よ。大体、ああいう男ってのは、みんなあんなものよ。……旦那ってひとも、そう威張らないと、ほんとにいいひとなんだけどね。
では、いよいよ今日の話に移るわ──あたし、着換えをすませて、バークレイ・スクエアに行ったの。すると、運よく、彼女が邸から出て来るところなのさ。ところが、それからが大変だった。誰だって信じないかも知れないけど、あのひと、バークレイ・スクエアからロンドン塔まで歩いて行ったのよ! あたし、あとを尾けながら、ぶっ倒れるかと思ったわ。でも車に乗ったら、尾行は出来ないし、あんまり離れても、あの霧では見失うおそれがあるし──」
紙巻煙草を押しつぶしながら、ラーキン夫人は話しつづけた。
「あたし、ロンドン塔ははじめてではないの。前の亭主に連れていってもらったことがあるわ。教育上見ておかなけりゃならんところだ、なんていわれてね。で、あたし、見ていると、彼女は塔内の切符を全部買っているの。あたしも仕方がないから、全部買ったわ。どこへ行く気か判らないんですもの。それにしても、あたし、そのとき思ったわ。ランデブーだってのに、ロンドン塔とは変った場所だって──でも、途端にあたし、気がついたわ。なるほど、ここで逢曳していれば、見つかるはずはない。田舎へ旅行しているあいだに、夫に感づかれていることを悟って、逢曳の場所にも苦労しだしたなって──」
「いままで二人は、そこで逢ったことはないのかね?」ハドリイ警部が横合いから訊いた。
「あたしが見張るようになってからは、一度もなかったわ。まあ、あたしの話を聞きなさい。だんだん様子が判ってくるわよ」
女は話しているうちに、次第に態度がおとなしくなった。素直に事情を説明しはじめたのだ。
──ローラ・ビットンが塔に到着したのは一時十分。切符と案内書を買って、喫茶室に入り、サンドイッチと牛乳を注文した。食事をしているあいだ、夫人は絶えず時計見つめ、全然落着きなく、じりじりしている様子であった。
「でも──」とラーキン夫人は説明をつけ加えた。「そのとき彼女は、今日の午後、デスクの上で見たような矢を持っていなかったことはたしかよ。隠していたとすれば、コートのなかなんだけど、あのひと、食事をしおえたとき、コートを開いて、パン屑を払いのけたわ。あたし、その様子を見ていたけど、そんな大きなものなんか、絶対になかったことよ」
一時二十分に、ローラ・ビットンは喫茶室を出て、いそぎ足に塔内に入って行った。中塔のあたりでちょっと立ち止まって、あたりの様子を見ていたが、次にまた、|争訟の塔《バイワード・タワー》の辺で、案内書の地図を開いて、そっと周囲を見まわした。
「あたしには、あのときの彼女の気持は判っているつもりなの」
ラーキン夫人は注釈を加えた。
「そんなところで、いつまでも壁ぎわに、淫売みたいにへばりついているのは厭だったにちがいないわ。でも逆賊門から血塔へ行くには、かならずそこを通らなければならないんだから、そこに立ってさえいれば、男が来るのを見落す心配はないわけよ。だから、離れる気にもならなかったんだと思うわ。
それであのひと、出来るだけゆっくりと、あの道を歩いていたわ。むこうは道のまん中を歩いていくし、あたしはあたしで、霧で姿を見失わないようにと、なるたけくっついていったのよ。そうして、逆賊門のところまで来ると、急にあのひと、右手に眼をやって、足をとめたの」
ランポウル青年は、メイスン将軍の従卒、パーカアの言葉を思い出した。フィリップ・ドリスコルが、将軍の居室の窓から見下ろしていたとき、|濠沿いの道《ウォター・レイン》で彼を待っている女を見かけたようだといったのはこのことだ。それからすぐに、ドリスコルはすこし広場を散歩して来るといって、部屋を出ていったのである……アメリカ人の頭には、霧に煙った陰鬱な光景が、はっきり形をとって現れた。ローラ・ビットンは興奮に頬を染めて、そのあたりを歩きまわっている。茶色の眼は焦燥にくもり、案内書を丸めて掌に叩きつけながら、手すりのそばで、男を待ちわびている。ドリスコルは階段を駆け降り、キングズ・ハウスの外で、アーバアとすれちがった──
ラーキン夫人はなおも言葉をつづけた。
「逆賊門の右扉の前まで来ると、あのひと、急に足を止めたの……あたしもあわてて、見つからぬようにおなじ壁に体をくっつけて、その様子を見守っていたわ。すると、血塔のアーチの下から、ゴルフ服を着た小柄な男が姿を見せたの。あたりをきょろきょろ見まわしながら、それでも急ぎ足に、こちらに近づいて来るの。でも、X十九号には気がつく気配もなかったわ。なぜって、女のほうは、扉に体を押しつけて立っているので、あの霧では、はっきり見ることもできなかったわけよ。
いま思えば、あれがドリスコルだったんだわね。でも、あたし、確かにそうといいきりはしないわ。彼女にしても、最初は気づかなかったようなの。なぜって、男が来るとすれば、反対の方向からだとばかり思っていたにちがいないんだから。それから男は、その辺を行ったり来たりして、最後には手すりのそばまで歩み寄ってみたりしていたわ。それから、何かぶつぶつ、呪いの言葉をつぶやきながら、マッチをする音をさせたの。
ここが肝心なところなのよ。あんたたち、憶えているかどうか知らないけど、血塔から出て来るアーチは、敵を防ぐ木戸にもなっているんで、逆賊門へ降りる石段の辺で、七、八フィートの柱が何本も杭のように突き出ているの。だから、通路からまっ直ぐ見渡しただけでは、その柱が邪魔で、石段の上の手すりは隠れて見えないの。あたしはそれを利用して、向うに見られないように、二、三フィートの近くまで寄っていくことが出来たってわけなの。
近づいて来るのがドリスコルだと、X十九号はすぐに認めて、物陰からついと出ると、角を曲がって手すりのほうに進んでいく、あたしはむろんそのあとを追う。さいわい霧がかなり深いので、気づかれずにすんだというわけ──」
ラーキン夫人は煙草箱からもう一本紙巻をぬきだして、前へ屈みこむようにして語りつづけた。
「あたしは見たとおりを話しているのよ。何にも作りごとはいわないから、そのつもりで聞いてくださいね。そこであたしは、二人の会話をぬすみ聞きしたの。文句は大して長くないし、立ち聞きを憶えておくのは慣れているから、聞いたとおりにお伝えできるわ。最初、男のほうがこういうの──ローラ、どうしてこんな場所で逢うことにしたんだい? ここは僕の友達が何人かいるんだぜ。それにしても、僕たちの仲が露顕したって本当かい?
女がそれに、なんて答えたかは、声が低くて聞きとれなかったけど、たぶんそこで逢うことにした理由を説明していたんだと思うわ。それから男は、もう一度繰りかえして、二人の仲が暴露《ばれ》たってほんとうかって、くどくど訊いていたわ。女はそうよと答えて、それでもあなた、わたしを愛してくださる? とこう訊くと。男の返事──もちろん愛しているさ。それにしても、困ったことになったなと、実際心配そうな様子だったわ。それから、二人の話は、だんだん声が大きくなって、伯父さんて人のことを話しあっていたわけなの。
すると、男は急に話を変えてこういったわ──ローラ、僕はすっかり忘れていたよ。ここに、大切な用事があったんだ。手間どるようなことじゃあないんだが、とにかくすませておかなくては、大へんなことになるんだ……そういう彼の声は震えていたわ。そして、つづけてこういうの──僕たち二人がいっしょにいるところを見られてはまずい。僕が用事をすませているあいだ、ウェイクフィールド塔に入って、宝冠でも見ているさ。それから、ぶらぶら閲兵場まで歩いていくあいだに、僕が追いつくことにする。いまのところ何も訊かずに、僕のいうとおりにしてくれたまえ。言いおわると、歩き出したわ。見つかるといけないから、うしろに退がって、男の立ち去る足音を聞いていたの。それでも男は、大丈夫だから、心配しないでいいですよと、歩きながら女に向って、そんな声をかけていたようよ。
あとで女は、まだ二、三分、その辺をまごまごしていたけど、それから通路のほうに歩き出したの。そのときちらっと、あたしの姿を眼にしたようだったけど、格別気にもとめない様子で、そのまま血塔のほうに足を運んでいったわ。あたしはむろんそのあとを尾ける。でも、男のほうは、どっちに行ったか、判らないの。たぶんまっ直ぐ歩いていったと思うんだけど、とにかくそれが、一時三十分だったわ」
ハドリイ警部は前へ乗りだして、
「あとを尾けたというんだね。そのとき夫人は、誰かとぶつからなかったかね?」
「誰かとぶつかった?」ラーキンは眼をパチパチさせながら繰り返した。「気がつかなかったわね。もっともあたしは、血塔の大きなアーチヘ入っていくのに、なるたけ壁ぎわに沿って歩いていったわ。あのひとが振りかえりでもするといけないと思ったからなのよ。そういえば、誰かと摺れちがったような気もするんだけど、なにしろあの霧ですもの、アーチのなかなんかは、地獄みたいにまっ暗だったわ。
途中であのひと、例のおかしな帽子をかぶった番人に訊いたわ──宝冠室にいくにはどう行ったらよろしいんですって。番人は、すぐそばの扉を指さしたけど、あたしはまた、そこですこし、間をあけるようにしたの」
ラーキン夫人は、煙草に火をつけるために、ちょっと口を休めた。
「それきりで、あの二人は、その後一度も落合わなかったわ。これはあたしが請合ってもいいわ。男は二度と現れなかったのよ。で、誰が殺したのか知らないけど、あのひとでないことだけはたしかだわ。だってあたしがずっとあとを尾けていたんですもの。それに、二人が別れて、女のほうが血塔に歩きだすときに、あたし一度、あの石段を見下ろしているのよ。その前には、血塔に通じるアーチを、首を延ばして眺めていたんだけれど、石段から下の逆賊門に落ちないように、うしろ手で手すりに掴まっていたわけなの。だから、歩き出すとき、一度そこから見下ろしてみたんだけど、でも、死骸なんかなかったわ。
そのあとは、ずっとあのひとを見張っていたのよ。宝冠室へ入ったので、あたしも入ってみると、あのひとは、ろくに宝物なんか見もしないで、気ばかりじりじりするみたいで、窓の外ばかりのぞいていたわ。あたしはそこを、一足さきに出てしまったの。なぜってまごまごしていて、気づかれてもまずいと思ったからなの。それから、ウェイクフィールド塔から血塔に移って、あそこの小さなバルコニーみたいなところで──」
「ローリー卿の道ですね」
主任警部は、フェル博士をちらっと見ながらいった。
「──見下ろしていれば、宝冠室を出て来る人間は、残らず眼にとまるはずなのよ。だって、ほかに出口ってないんですものね。で、あたしはそこで待っていたの。すると、まもなくあのひと出て来て、通路のまん中に立って、しばらく前を眺めていたわ。その道をまっすぐ行けば、だんだん登りになって、結局外の空地に出られるわけなの」
「塔の広場だな」
「そうよ。広場って名だったわね。で、そちらに向って、あのひと歩き出したの。なんだかふらふらして、頼りない格好だったわ。あたしは例によって、そのあとをつけていったけど、さて広場へ出ても、あのひと別に何をするってわけでもないの。あそこは高みになっているので、霧も薄れて、様子はよく見えたわ。番人のひとりに話しかけたり、時計をながめたりして、落着きはちっともないんだけど、それでも根気よく待っていたわ。あたしだったら、とてもあんなに辛抱しきれないわ。濡れたベンチに腰かけて、動きもしないでじっと待っているのよ。三十分以上たって、やっと立ち上がったけど、それからさきは、あんたたちのほうが、よく知っているわ」
ラーキンはするどく、一同の顔を見まわしてから、煙草のけむりをひと吹き吹いていった。
「誰がドリスコルを殺したか知らないけど、あのひとが殺《や》ったんじゃあないってことはたしかよ」
十三 ミス・ビットンの饒舌
ラーキン夫人の話は終ったが、しばらくは誰も口をきかなかった。部屋中は鎮まりかえって、階上のフラットからラジオの音がはっきり聞えるほどの静けさだった。誰かがホールに入って来たとみえて、タイルを踏む足音がして、つづいて自動エレベーターのものういような唸りが伝わって来た。広場《スクエア》の向うの端で、自動車がさかんに警笛を鳴らしているようすだ……
ランポウル青年は、急にこのとき、ぞくぞくする寒さを身に染みて感じて、思わず外套の襟を立てた。暗い死の影が、指で砂を押すように漂っている。いまさらながらフィリップ・ドリスコルが、炉前に散った白い石膏の塵とおなじ存在になったことを感じさせられた。タヴィストック広場から、手風琴の浮きたつような音色が流れて来た。階上で、かすかに物の軋る響きがして、エレベーターが唸るように降りてくるのが聞えた。
レスター・ビットンが、埃《ほこり》だらけのカーテンから離れて、顔をこちらに振りむけた。いつか体のまわりに奇妙なくらいの威厳を取り戻していた。
「ではなんですな、僕にはもう、用もないのでしょうな?」
ラーキン夫人が述べ立てた言葉を、他人を前にして聞かされるのは、ビットンにとって、いかに残酷なものであったかは想像にかたくない。ひとりで聞くにしても耐えがたいことだ。それを彼は、じっと怺《こら》えていた。山高帽を手にして、身動きもせず聞いているのだ。誰も慰める言葉を知らなかった。
最後に、フェル博士が口を切った。革椅子に大きな体をいっぱいにして、犬でも抱くように、膝の上に道具籠をのせていたが、疲れたような眼をあげていった。
「お引き取り下すって結構です。あんたがここへ忍び込まれたことは、正直いって感心できませんが、人形の被害もひとつだけですんだことだし、当然奥さんを非難されて然るべきところを、男らしく弁護までしておられる。まことに見上げた心根と敬服したですな。さあ、お引き取りください。この事件にお名前を全然ださぬというわけにもいかんでしょうが、出来るだけ内分にすむように努力するつもりですよ」
いいながら博士は、ハドリイ警部に眼をやった。警部もすぐにうなずいた。
レスター・ビットンは、しばらく身動きもせずに立っていた。好意ある博士の言葉に、却って途まどったような素振りをみせたが、すぐに大きな手をあげて、襟巻を直して、外套にボタンをかけた。帽子もかぶらず、ずかずかと扉口に歩みよると、ちょっと身を屈めて低い声でいった。
「お先きに失礼させていただく……僕は、──僕は家内を、いままでどおり愛していくつもりです。では、おやすみなさい」
錠の毀れたドアがバタンと閉まって、足音がホールに遠ざかっていった。手風琴の音色が、一段と高くなったが、すぐに消えた。
博士はそれに耳を傾けていたが、
「世間はもっと、街の手風琴を歓迎したらよいと思うんだがな。わしはもう、あれが大好きなんだ。あれを聞いておると、近衛兵にでもなったつもりで、胸を張って歩きたくなって来る。軍楽隊といっしょに行進するつもりでな。まったく、羊肉とビールさえあれば、結構あれで、凱旋気分に浸ることが出来るんだ──おや、話が逸《そ》れすぎた。ラーキン夫人──」
女は身を起して、するどい視線をむけた。フェル博士は、ステッキを持ちあげるようにして言った。
「ビットン夫人とドリスコルとのあいだのことは検屍審問《インクエスト》に持ち出さんことにするよ。あんただって、それをしゃべらん代償として、相当のものを貰っておるんだろう。すでに充分稼いだのなら、これ以上あくどく儲けようとするのは、やめたがええぜ。恐喝罪でひっかかってもつまらんじゃないか。下手な真似をすれば、刑務所へ行ってもらうことも出来るんだぜ。ではあんたも、これで引き取ってもらうとするか」
「これでもう、御用はすんだの?」
ラーキン夫人は、耳のうしろのおくれ毛を掻きあげながらいった。
「もっとあったら、訊いとくといいわ。あんたたちが、あたしに一杯食わせるような真似さえしなければ、あたしだって、いくらでも手伝ってあげるわよ。それにしても、あのビットンて旦那も変り者ね。男なんて、あんなもんじゃないんだけど。もしあたしが、あの女の亭主だったら、眼のふちが黒くなるほど引っぱたいてやるわ。あたしなんか、ずいぶん亭主にぶん殴られたものよ。それでもあたし、あのひとが好きだったわ。ニューヨークの三番街付近の高架鉄道駅で、ピストルの打合いをやって殺されたんだけど、殴られてもなんでも好きだったのよ。ほかの女を平気で連れて歩くし、あたしそれを見て、カッとしてね。二度とこんな男といっしょに暮すもんかと思ったんだけど、それでもやっぱり好きだったわ。それが女を扱う方法だと思うんだけど……、なにしろあの旦那は変っているね。ではさようなら。検審廷でまた逢うわね」
女が出ていっても、誰も口をきかなかった。ハドリイ警部は、また立ち上がって、部屋中を歩きはじめた。
「ビットン夫人は、容疑者のうちから除いてよいようですね。ラーキンのいってることが嘘なら別だが、いまの話は、あの女が知らないはずの事実とも符合しているところを見ると、まず嘘でないと考えてよさそうだ」
「で、どういう結論が出るね?」
「さしあたっては、大した結論も出ませんが、問題は一点にかかっているようですな。つまり、逆賊門の正面で、ドリスコルがビットン夫人にこういった──僕は大切なことを、すっかり忘れていた。そういって彼は、いそいで飛び出していったんですが、あまり遠くへ行かぬうちに、ばったり出逢った者がある──それが、殺人犯人なんです」
「そうらしいな」と、博士は相槌を打った。
「で、第一の問題は、彼がどっちの方向に向ったかということです。ラーキンは見ていなかったそうですが、濠沿いの道を、|争訟の塔《バイワード・タワー》か中塔のほうに戻ったのでないことはたしかでしょう。言いかえれば、ロンドン塔から外へ出ようとして、出口へ向ったのではないことは断言できると思います。その方向には、ラーキンが立っていたので、彼の姿を見かけぬはずはないからです。とすれば、あとは二つの方向しか考えられない」
ハドリイは例の折カバンから、塔内の案内図を取り出して説明した。
「ひとつは、濠沿いの道を、出口と反対の方向に歩いていったことです。そちらへ向ったとすると、百フィートばかり行くうちに、血塔のアーチとおなじ形のものが、やはりおなじ側の内壁に開いていまして、これを潜ると、白塔《ホワイト・タワー》へ出られるようになっています。つまり、城内の中心部へ通じているんですね。
いままでの捜査方針が間違っているとか、われわれが知らなかった事実があるとかすれば別ですが、そうでなければ、白塔なんかに行く用が、彼にあったとは考えられません。士官の詰所や兵営ないしは兵器庫、病院なんかにしてもおなじことで、要するにあのアーチを潜った先には、彼の用のありそうな場所は思い当らんのです。
それに、彼が犯人に出逢ったところも、逆賊門からあまり遠く離れていないはずです。霧の日に凶行を犯すには、何といっても、逆賊門は理想的な場所です。ドリスコルが白塔へ向って行って、逆賊門からだいぶ離れたところで犯人に出逢ったとすると、犯人があの矢で彼を刺し殺してから、かつぎあげて、手すりの上まで背負って戻って来たことになる。それはちょっと無理な考え方でしょう。ドリスコルは小男ですから、かついで運ぶことも出来ぬわけではありませんが、いくら霧の中だからといって、人目を冒してまで、そんな危険を敢てするとは考えられません」
ハドリイは暖炉の前で、稚拙に彩った人形の顔を眺めていた。そのうちに、口のはたに深い皺をきゅっと寄せると、ふりかえって、話をつづけた。
「犯人はこう言ったかも知れません──おい、君。ちょっと話があるんだ。逆賊門の辺まで歩こうではないか……だけど、ドリスコルはこういうでしょう──話があるなら、ここでいいじゃないか。
といって犯人は、途中で手を下すわけにもいかんでしょうから、やきもきしながら、どこか適当な場所に連れていこうとするにきまっている。話はどうも、辻棲が合わなくなって来る。どちらにしても、その方向にはドリスコルは用がなかったとすると、答えはたったひとつしかない」
フェル博士は葉巻を取り出した。
「つまり君の意見では、ドリスコルはビットン夫人とおなじ方角に向ったというんだな」
「ええ。あらゆる証拠が、それを示しているんです」
「たとえば?」
「たとえばですね、ラーキンはこういっています。ドリスコルの足音が消えてから、ビットン夫人はしばらく手すりの前で時間をつぶしていた──|ドリスコルを先に行かせるため《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》にです。ドリスコルは、いっしょにいるところを、他人に見られることを怖れていました。内城に入ってしまうと、高台で霧がうすいので、人目につく心配があったのです。ラーキンもやはり、彼はビットン夫人の前に歩いていったものと信じているようです。そちらに彼が向ったことは、充分うなずける理由があるんです。なぜかといいますに──」
「キングズ・ハウスの方向だからな」
ハドリイ警部はうなずいて、
「彼がなにか用件を忘れてたとすれば、キングズ・ハウスにある将軍の居間にちがいありません。ロンドン塔内で、彼が用があるところといえば、そこだけしか考えられません。彼は、もといた場所に戻ったのです。そこから、誰かに電話をしようとしたのか、パーカアに伝言を頼むつもりだったかなんでしょうが、ただ彼は、|そこまで行きつくことが出来なかったのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「見事な推理だね」
博士は手を打たんばかりにしていった。
「どうやらわしが、適当な刺激材になって、君の意識下のイマジネイションが、次第にはっきりした形をとって来たようだな。あらゆる材料は、徐々に血塔の下のアーチに集中して来るじゃないか。そこで、そろそろ結論を出してもよいと思われるが、どうだろうね? ……この塔の下のアーチは、長さ二十フィートほどの広いトンネルで、かなり険しい傾斜を作って、内城に向っている。天気がよくても、太陽の光線はあまり射し込まんのだから、こんな霧の深い日では、まるっきり暗闇みたいなもんだろう。あのラーキン夫人はうまい形容をしていたぜ。地獄みたいにまっ暗だって。あれであの女、ダンテの神曲を読んでいるとみえるよ」
博士の饒舌を、ハドリイ警部はいらいらするように遮《さえぎ》って、
「先生のおっしゃる結論ってのは、何なんです? 私が一生懸命考えぬいて結論を出しますと、あとから先生が、平然として、そんなことはとうに判っておるなんていわれそうで、張り合いがないことおびただしい。早くその結論を聞かせていただきましょう」
フェル博士はそりかえって威厳をみせて、
「わしはあの、ソクラテス的方法を愛用しとるのさ。討論によって君の考えを導いてな、理論が正しいかどうかを決定するんだ」
すると主任警部は素直にうなずいて、
「私も実は、いまそれに思いあたったところです。探偵小説の探偵ってやつは、先生のおっしゃるようなことをやっていますな。プラトンの対話篇で読むギリシャの哲学者そっくりのことをね──
まず最初、ギリシャの青年が二人登場する。連れだって哲学者を訪れて、|今日は《ボン・ジュール》、哲学者殿──アテネではボン・ジュールとはいわないかも知れませんが、哲学者もまた、こんなふうに答える──今日は、青年たちよ。今日はいそがしい用事がありや? むろん青年たちにいそがしい用事なんかあるわけがありません。ギリシャでは、働かなくても結構生きていかれたんですからね。青年たちにしてからが、哲学者と議論するのが毎日の仕事のようなものだったのです。
そこで、ソクラテスはこんなことをいう──では、そこに掛けたまえ。対話をしようではないか。それから彼は、問題を提出して青年たちに解決を求める。問題といっても、現実的なものはひとつもない。アイルランド問題についての解決策如何とか、今年のアテネ対スパルタの対抗競技の予想はどうだなんてのは、訊くはずがない。もっぱら人間精神についての高尚な論議ばかりです。
ソクラテスが質問すると、青年の一人が答える。この問答が九頁ばかりつづくんです。すると、ソクラテスはおもむろに頭をふって、ちがうと一言、断定を下す。それからもう一人の青年が代って、ここでまた、問答が十六頁に渉って行われます。そのうちに、太陽が西の山に傾いてしまう……
いつまで経っても、結論なんか出てきません。読んでいて私なんかいらいらして来て、梶棒をふるってソクラテスの頭をひっぱたいたらよかろうと思うことがしばしばなんですが、ギリシャの青年は決してそんな無作法な真似はしないのです。つまりこれが、探偵小説の起源ですな。フェル博士。先生のお話も、これで打ち切っていただいたほうが仕合せかも知れませんね」
フェル博士は葉巻に火をつけて、不機嫌な顔をみせた。
「なかなかいうね、ハドリイ。君にそれだけ皮肉を弄する才があるとは知らなかった。ギリシャ哲学についての造詣も驚くべきものがある。学者の気がつかん急所を、ずばりと突いておるよ。だが君、心配せんでもいいぜ。わしはソクラテスより、ずっと気短かなんだ。そんなにいつまで、ひとつ問題をこねまわしておるものか。しかし、この殺人事件だけは、放っておくわけにもいかんだろう」
「ではまた始めましょう。どこまで話は進みましたかしら?」
「ドリスコルはトンネルのなかで殺されたにちがいないという意見を、君が出したところだ。そこが暗いから、凶行場所として適当だという理由さ。しかし君、それなら死骸は、そこへ捨てておけばいいじゃないか」
「そこではまだ、死体がすぐに発見されると思ったのでしょう。トンネル内は、かなり人通りがあるんですよ。犯人が城外へ逃亡する以前に、誰か死体に蹴つまずいて、発見されることになっても困ると思ったのでしょう。そこで彼は、腹話術師が人形を抱きあげるように、ドリスコルの死体をかかえこんで、濠沿いの道に眼を配りながら、アーチを横切って、手すり越しに石段の下へ投げ落したのです」
博士はうなずいた。
「ドリスコルはトンネルのなかに入っていって、犯人と出逢う。ビットン夫人はすこし時間をつぶしてから、ドリスコルがトンネルを出た頃だと思ってその方向に進んだ──というんだね。とすると、ハドリイ君。その結論がどういうことになるか判っているか。トンネルのこちらの端にビットン夫人がいる。真中には、ドリスコルと犯人が──そしてわが友アーバア君が、むこうの端にいたということになるんだ」
「先生が説明を始められると、いつもきまって、問題が紛糾して来ますね。ラーキンの話によると、ビットン夫人がアーチのなかに入っていったのは一時三十五分だという。アーバアが反対の入口で、女とぶつかったのも、ちょうどおなじ時刻だというんですが、どちらかにトリックがありますね?」
「トリックだともいい切れないぜ。ビットン夫人の観察眼はとにかくとして、夫人の背後には、鷹のように眼のするどいラーキンがついていたんだ。殺人者と被害者は、ともにトンネルのなかにいたとしか思えない。外だとしたら、かならず女たちに見られているにちがいない。霧で見透しのきかないトンネル内だから、見咎められずにすんだのだ。ラーキンも、誰かが動いている気配を感じたといっている。まあそれは、アーバアが反対側からやって来たのかも知れない。そのあいだ犯人は、被害者の、死骸を抱いて、いつ発見されるかと、恐怖の汗を額に滲ませながら、その近くにうずくまっていたのだろう。人通りがなくなったのを見澄まして、死骸を運んで、手すりから投げ下ろして逃走したというのだろう。これがつまり、わしが要約した君の結論なんだが、誤解しておるところはないだろうね?」
「大体そのとおりですね」
フェル博士は葉巻のさきをチラッと眺めて、
「そうすると、あの謎のようなアーバアの行動はどう説明できるのかね? おそろしく怯えていたが、原因はなんなのだ? 脅えきって、田舎の別荘まで逃げていったんだが──」
ハドリイ警部は、椅子の腕を、折カバンで叩きながら、
「アーバアは、あのまっ暗なトンネルを通りぬけています。そのあいだに何かあったのでしょうが、さっきわれわれの尋問が終って、タクシーに乗ると、しきりに『声』について口走っていたということですね」
「声か! まさか彼がトンネルを通り抜けるとき、突然闇から犯人が顔を出して、バア! とかいって脅かしたというわけでもあるまい」
「何をおっしゃっても結構ですが、大切な話になるたけ冗談は遠慮していただきましょう。真面目な御意見はどうなんです?」
訊いているが、ハドリイは別に、フェル博士の答えを期待しているようすでもなかった。じっと炉前に砕け散っている人形の破片を眺めていたが、立ち上がって棚の上に残っているもうひとつの人形に眼をやった。眉と眉のあいだに、深い皺がよっていた。博士もその視線を追っていたが、
「ハドリイ。君がいま考えていることを当ててみようか。君の頭には、こんな犯人象が浮かんでいる──膂力《りょりょく》たくましい大男。強力な殺人動機。その心理の動きは、わしら自身がはっきり眺めている。大弓の鉄矢の件をよく知っており、しかもその所在に、簡単に近づける立場。殺人時刻のアリバイが、いままで全然取りあげられていない男──言いかえれば、レスター・ビットンだ!」
「そのとおりです。私もいま、それを考えていたところなんです」
そのとき、フラットのドアが、けたたましい呼鈴を響かせた。短い間をおいて、繰りかえして、何度も鳴った。ランポウルが立ち上ろうとすると、ドアはさっと押し開けられた。
「おそくなりまして、御免あそばせ!」
女の声がいきなり聞えてきた。
「今夜は運転手が遊びに出る日でして、大型の車は使えませんので、もうひとつの車で出掛けましたの。すると、途中で故障して、動かなくなってしまいました。人だかりはしますし、ダルライがボンネットを開けて、修理にかかってくれたんですけど、直るどころか、エンジンが大きな音を立てて、弥次馬はキャアキャアいって喜びますが、肝心の車は動こうともしないんです。で、結局また、大型のほうでお伺いしましたの」
ドアの隙間から、愛くるしい顔がのぞいていた。ずいぶん小柄のほうだが、肉づきのよい、可愛らしい金髪で、くりくりした青い眼が、表情に富んでよく動いた。暗い影なんか、一度だっ彼女には射したことがないであろう。悲しいことを聞かされれば、大きな声を立てて泣き出すだろうが、一瞬の後には、忘れたようにケロッとしているにちがいない。
「あの──ミス・ビットンですか?」
若いアメリカ人は、緊張して訊いた。
「ええ、そうよ。わたくし、ミス・ビットンですわ。それで、自動車の故障のことですけど、ダルライときたらほんとうに不器用で、とうとう直らずじまいなの。この前も、こんなことがあるのよ。お父さまが、わたくしのために、海岸に別荘を買ってくださったの。あれは二年前でしたかしら。それでわたくし、お部屋の壁紙を取り換えたいと思いましてね、壁紙だけは買いました。それは、忘れな草をいっぱいに散らした、とてもきれいな壁紙でしたわ。ところが、それを貼るのを、ダルライに頼んだのが大失敗でしたの。
ダルライと従兄のジョージは、床いっぱいに壁紙をひろげて、練った糊を塗ってくれたんです、騒ぎだけが大きくて、まるで家中がひっくり返るみたいでしたけど、一向に埒《らち》はあきません。二人で議論ばかりしてるんで、喧嘩じゃないかって、お巡りさんがのぞき込んだくらいでしたわ。そして、しまいには、ジョージのほうは怒ってしまって、さっさと出ていってしまいました。近所の人が、なんだと思ったか、考えてみるとぞっとしますわ。でも、これからさきが、もっと大変なのよ。ダルライが壁に貼ってくれたのはいいんですけど、それがすっかり曲っていますの。おまけに皺だらけになってしまって、きれいな模様なんか、全然台なしの始末ですわ。暖炉に火が入って、お部屋が温まりだしますと、壁紙が乾いて、ごそごそ、ごそごそって、変な音を立てますのよ。きっとあれは、糊のなかに、イースト菌なしでも膨脹する粉を混ぜたんだと思いますわ。それ以来、あのひとの不器用は、よく心得ているつもりなんですけど、でも今夜みたいに──」
「シーラ、もうやめたまえ。それだけいえば沢山じゃないか!」
彼女のうしろから当惑したような声が抗議をした。痩せた長身のダルライが、彼女の肩越しに、ドアの外からのぞいていた──赤茶けた頭髪が、横にかしげてかぶった帽子の下に乱れていて、片方の眼の下は、機械油でべっとり汚れていた。ランポウルはその顔を見て、すぐ思い出した。これはいつか映画で見たことのある前世紀の恐竜そっくりじゃないか。
シーラ・ビットンは、大きな眼をクリクリさせて、部屋中を眺めわたしていた。炉前で石膏人形が粉々に砕けているのを見て、はっと驚いたような表情をみせた。ランポウルはすぐに気がついたが、この部屋でいちばん彼女の関心を惹いたものは、この二つの人形であったらしい。
彼女はランポウルのほうを見ていった。
「あなたがまさか──いいえ、ちがいますわね。わたくし、あなたのことはダルライから承っておりますの。フットボールの選手みたいなのが、ランポウルさんですって──でも、あのひとの口から聞いたのより、もっとずっとおきれいでいらっしゃるわ」
相手を面くらわせるくらいじろじろと見つめながら、平気な顔で、そんな評価を下していた。
「で、お嬢さん。私のほうはいかがでしょうかな」
フェル博士が口を出した。
「やはり、海象《あざらし》でしょうか? ダルライ君は、なかなか的を射た批評をなさるようですが、どんなデリケイトな言葉を使って、わが友ハドリイ君を描写されましたな?」
ミス・ビットンは、かわいい眉をあげて、博士を眺めやったが、すぐまたその双眼に、生き生きとした輝きを現して叫んだ。
「あら! あなたむろんかわいい方ですわ」
フェル博士はびっくりして飛び上がった。かわいいといわれたのは、生れて始めての経験にちがいない。この若い女性は、心理に抑制というものを全然持たぬらしい。彼女を相手にしたのでは、さしもの精神分析学者《フロイト》でも、一言質問しただけで、頬ひげを恥かしそうに隠して、こそこそとウィーンさして逃げ帰ることであろう。
彼女は遠慮なしにつづけた。
「ハドリイさんですの? そうね、ダルライはこんなふうにいっていたわ。全然特徴のない平凡な人ですって」
背後ではダルライが、両手を拡げて、ますます当惑の色を濃くしていた。
「わたくし、前から警察の方にお会いして、話してみたいと思っておりましたの。でも、警察の方とお話する機会っていいますと、往来で自動車を走らせているときに、叱られるだけですのよ。方向標がこちら側に出ているのに、なぜあんたは反対側に曲るんだねっていわれましてね。だって、なぜ反対側に曲ってはいけないんでしょう? そっちからは、自動車は一台も走って来ないので、わたくしの車に、スピードを出させることが出来ますのにね。
それからまた、こんなことをいわれて、叱られることもありますわ──お嬢さん、困りますね。消防署の前に、車を駐めてはいかんことを知らんのですか? うるさいものね、お巡りさんって。でも、ほんとうの警察の方って、あんなもんじゃないんでしょう? わたくし、知っておりますわ。あなた方のお仕事って、手足を截《き》ってトランクに詰めた死骸を発見したりすることなんですわね」
そこまでしゃべると、彼女は急に、このアパートまでやって来たわけを思い出したとみえて、ぴたっと口をつぐんだ。誰もがこんどは、彼女の大きな眼から涙がこぼれ落ちるのではないかと心配した。
主任警部はあわてて口を出した。
「まあ、お嬢さん。お腰かけになって、一休みなさったら、そうすればきっと──」
「僕はちょっと失礼して、手を洗って来ますから──」
ダルライはぐるりと部屋中を見まわした。とたんにぞっと総毛立ったとみえて、洗面所へ行くのさえ怖くなった様子であった。しかし、すぐに思い直して、顔の線をこわばらせて出ていった。
「フィリップは気の毒なことをしましたわ」
ミス・ビットンは急にそういって、椅子についた。
しばらく沈黙がつづいた。
「あなた方──どなたかが、暖炉の上の小さなお人形を、お毀しになったのね。あれをわたくし、持って帰りたかったんですわ」
「お嬢さんは、前にもこれを、御覧になったことがあるんですか?」
と、すぐにハドリイ警部が訊いた。不機嫌になっていたのを、一度に吹き飛ばした調子であった。手掛りを見つけたと思ったのであろう。
「きまっていますわ! これを手に入れるとき、わたくしもいっしょでしたもの」
「いつお求めになったのです?」
「お祭りのときでしたわ。フィリップとローラ、それにレスター叔父さまにわたくしと、四人でお祭りに行きましたの。レスター叔父さまは、そんなつまらぬところは厭《いや》だっておっしゃっていましたが、ローラがいつもの調子で勧めまして、やっといっしょに行くことに説き伏せました。でも叔父さまは、ブランコや木馬には、何といっても乗ろうとしません。それで──あら、そんな話はお嫌《いや》ですの。きっとダルライが、わたくしのことをしゃべりすぎるといったのでしょう──」
「いいえ、お嬢さん。かまいませんから、お話しねがいます」
「ほんとう? それでは、申し上げますわ。するとフィリップは、叔父さまのことを、お年齢《とし》のせいだなんて、からかいますの。それがあのひとの悪い癖で、叔父さまは年寄りといわれるのが、一番お嫌いだと判っているのです。レスター叔父さまは、顔をさっと赤くなさって、黙っておしまいになりました。
それからわたくしたち、射的場に入りました。ライフル銃だの何かあるところでした。叔父さまはそれを御覧になって、おい、フィリップ、これこそ大人の遊びだ。ひとつやろうじゃないかとおっしゃいました。フィリップもむろん応じました。でも、これはちっとも上手じゃありませんの。叔父さまはライフル銃の代りにピストルをお取り上げになって、射的場の奥に並んでいる煙草のパイプを、ポン、ポン、ポンと、それこそ眼にもとまらぬ早さで射ち落しておしまいになりました。大した腕前でしたわ。討ちおわると、ピストルをおいて、何もいわずに、さっさと出ていってしまいましたの。
フィリップはあとからやってみましたが、全然当りませんの。あたり前ですわ。でも、それがよほど口惜《くや》しかったとみえて、それからさき、どのゲームを見ても、残らず叔父さまに挑戦していました。ローラまで、いっしょになって騒ぎますので、わたくしもおなじように手を出してみました。でも、詰物の猫にボールをぶつけて、棚から落すのをやってからというものは、わたくしが手を出そうとすると、みんなして止めにかかりますの。え? なぜだっておっしゃるの? 最初のボールを、わたくし、天井の電灯にぶつけてしまいましたの。二番目ので、店番の男の、耳のうしろに怪我させてしまいました。その弁償は、レスター叔父さまがお払いくださったわ」
「で、お嬢さん。人形は一体どうしたんです?」
ハドリイが、気をそらさぬように訊いた。
「あら、そうでしたわね。人形のお話でしたのね。あれは、ローラが取りましたの。二つが一対になっていまして、投げ矢で落す遊びでした。ローラはほんとに器用で、男の人たちより、ずっとお上手なくらいでね、最高点は、結局ローラでした。どの賞品にするかとなると、あのひと、これに目をつけましたの。あら、フィリップとメアリイとしてあるわって。人形に、名前を書いたラベルが貼ってありますの。ローラの中の名前は、メアリイというんですわ。叔父さまは、そんなつまらんものを持って帰るんじゃない。なんて下品な人形だって、とても御機嫌がお悪いの。でも、わたくし、とてもそれが気に入って、持って帰りたいと思ったんですけど、ローラがまた承知しませんの。メアリイとフィリップって人形だから、叔父さまが持ち帰るのをお許しにならなければ、フィリップにあげるんだって言い張りますの。そのときフィリップったら、とてもいやらしい真似をしましたわ。ふざけたように頭を下げて、これを拝領させていただけば、一生大切に保存いたしますなんてね。わたくし、それを聞いて、ぞっとしたくらいですわ! それでもわたくし、フィリップはきっと、わたくしにくれるものとばかり思っていましたわ。
そのあいだ、レスター叔父さまは、一言もおっしゃいませんでした。そして急に、もう帰ろうといいだされました。帰り途でも、わたくし、フィリップを掴まえて、何度もその人形を頂戴ってねだったんですけど、フィリップと来たら、わざとふざけたことばかりいって、ローラと二人で笑っているだけで、とうとうそれを、くれようとはしませんの。
そんなわけがあるので、わたくし、この人形を見て、急にフィリップのことが思い出されましたの。わたくし、あのときは、この人形が、それほど欲しかったんです。で、その翌日──といってもずっとむかしのことですけど、ダルライに電話して、フィリップに頼んでもらったくらいですの。ええ、わたくし、ダルライに毎日電話してもらうことにしていますの。むこうから掛ってこないときは、わたくしのほうから掛けるようにしてますの。でも、メイスン将軍が厭な顔をなさるそうですから──」
彼女は口をとめた。細い眉毛をちょっとあげてハドリイを見た。
「とおっしゃると」と、主任警部は何食わぬ顔でいった。「お嬢さんは毎朝、ダルライさんと電話でお話しになるんですな」
ランポウルは思い出した。さきほどハドリイは、ローラ・ビットンの夫の前で、その妻に対する容疑の数々を述べ立てた。そのとき彼はこういった。ダルライがシーラ・ビットンに、一時にはドリスコルがロンドン塔に来訪することになっていると伝えて来たので、ビットン邸の人々は、誰もがその約束を知っているはずだ──しかし、ハドリイとしては、相手の口を割らせるかけひきでいったにすぎないのだが、はからずもそれが、事実に符号していたのだった。そういえば、レスター・ビットンは、それを聞いても|すこしも疑う様子を見せなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。これはやはり、何かを暗示しているものと考えてよいのではなかろうか。
シーラ・ビットンの青い眼は、ハドリイ警部を凝視したまま動かなかった。
「もう沢山よ。あなたまでまるでお父さまみたいに、わたくしにお叱言をおっしゃるおつもり? 毎日電話するなんて、馬鹿なことだとおっしゃるんでしょう。大体お父さまは、ダルライがお好きでないのよ。それというのも、あのひとにお金がないからなの。それに、ポーカーが好きなのも、お気に召さない原因ね。お父さまは賭けごとくらいつまらぬものはないという御意見なの。わたくしの見たところでは、お父さまはわたくしたちの婚約を破棄する理由を探していらっしゃるんだわ。それで、わたくしたちの結婚を、延ばそう延ばそうとなさっていらっしゃるのよ」
「まあ、まあ、お嬢さん」
ハドリイはわざと冗談めかして遮った。
「私が御意見なんてとんでもないことです。毎朝の電話とは、すてきな思いつきだと考えますね。それはそうと、私はまだ、お嬢さんに伺いたいことがあるんですが──」
「そう? ほんとなら嬉しいですけど」
ミス・ビットンは、事実嬉しそうな声を出した。そういってくれるのは、あなただけだといっているようだった。
「ところが、ほかの連中ときたら、誰もみな、それをからかうの。フィリップなんか、ダルライの声を真似て電話をかけてよこすのよ。ハイド・パークで淫売婦をからかっていたので、警察へ引っ張られてしまった。保釈金を持ってすぐに来てくれなんていいましてね」
「ハッハッハ。それはちょっと、悪どいですね。ハッハッハ。ところで、お嬢さん、お訊きしますが、今朝もダルライさんと、お話しなさいましたか?」
「ええ、しましたわ」
「何時でした。朝でしたか?」
「そうよ。いつも電話する時刻だったわ。だって、メイスン将軍がいないのは、その時間にきまっているんですもの。ほんとにあのおじいさん、頬ひげなんか生やして、いやな年寄りだわ。あのおじいさんがやはり、わたくしの電話を厭がりますの。電話口に、パーカアが出ますと、きまってすぐに、はい、私はメイスン将軍の当番兵ですって、大声で怒鳴りますので、すぐに判りますの。ところが、何にも相手がいわないときは、ついダルライだとばかり思いこんで、わたくし、こういいますの──いかが、今朝の御機嫌は、わたくしの坊や!
そうするとどうでしょう。電話口の向うで、卵を揚げるときのような音がいたしますの。それから、怖ろしい声で──お嬢さん。失礼ですが、こちらはロンドン塔です。育児室ではありませんから。一体あなたは、誰方《どなた》にお話なさるんです? メイスン将軍だったのよ。わたくし、むかしからあのおじいさんが怖ろしいの。子供のときからですわ。困ってしまったわ。何といっていいか判らないんですもの。それでわたくし、わざと泣き声を出しましてね、わたくし、あなたの別れた妻ですの。そういってやりましたわ。あのおじいさん、ますます怒って、何かしきりにいってましたけど、わたくし、さっさと電話を切ってしまいました。でも、それ以来、ダルライのほうから、公衆電話を使ってかけてよこすことになりました」
「ハッハッハ」ハドリイも思わず釣り込まれて笑った。「人情を解せん老人ですな。およそロマンスには縁がなさそうですから、仕方がありますまい。ですが、ミス・ビットン。今朝ダルライさんとの電話のとき、フィリップ・ドリスコルの話が出ませんでしたか? ロンドン塔に一時に尋ねていくということが──」
彼女はまた、悲しい事件を思い出して、サッと眼を曇らせたが、
「ええ、出ましたわ。ダルライはわたくしに、ドリスコルが困っているようだが、どうしたのかと訊いていました。わたくしが知っているはずがないじゃあないのといいますと、では誰にもいわないでやってくれといってました」
「それで、黙っていらっしたんですか?」
「もちろんよ、何にもいいはしないわ!」彼女は叫んだ。「ただちょっと、朝のお食事のとき、におわせたぐらいのことはありますけど、ええ、ほんのちょっとよ。今朝のお食事は、十時になってしまいました。昨夜の騒ぎで、朝お床を離れるのがおそくなったからなの。わたくし、お食事のとき、今日一時に、フィリップがロンドン塔へ行くそうですけど、みなさん御存じ? って訊きますと、誰も知らないという返事なので、わたくし、それっきり何もいいませんでした。ダルライから口どめされていたんですもの」
「それだけおっしゃれば充分でしょう。何か話が、それについて出ませんでしたか?」
「お話が?」彼女はちょっと考えて、「いいえ、なんにも。冗談は出ましたけど、話らしいことはありませんでしたわ」
「食堂にいたのは、誰方《どなた》でした?」
「お父さまとレスター叔父さま、それからあの、いま邸にお泊りになっている、何とかって方。あの方、今日のひる過ぎ、何にもおっしゃらずに出ていかれましたが、怖いみたいな方なのよ。どこへ、何しに行かれたか、誰も知りませんわ。なにしろ、いろいろと取込みばかりあって──」
「ビットン夫人は、食堂に出ておいででしたか?」
「ローラですの? いいえ、あの方は、降りておいでになりませんの。お加減がおわるかったのだと思いますわ。でも、御無理はないの。レスター叔父さまとお二人で、昨夜は一晩中起きていらっしたらしいのよ。話し声が聞えていましたもの」
「だけど、ミス・ビットン。お食事のとき、何か参考になるお話が出たことと思いますが?」
「いいえ、ハドリイさん。何にも出ませんのよ、ほんとうに。それにわたくし、お父さまとあのアーバアさんて怖そうな方とごいっしょにお食事するのは嫌いですの。いつだってお二人で、訳の判らないことばかり話していらっしゃるんですもの。御本やなんかのことなんですけど、面白そうに笑っていらっしゃるのが、おかしくもなんともないのよ。それでなければ、却って怖ろしい話が出てきますの。このあいだなんか、フィリップがレスター叔父さまに、こんなことをいっていたわ。僕が死ぬんなら、トップハットをかぶるような死に方をしたいんですって。ええ、むろん冗談よ。別になんでもないこととは判っているんですけど、死ぬお話なんて厭じゃあないの。え? ああ、そうよ。レスター叔父さまは、今日フィリップとお会いになるようなことをおっしゃっていらしたわ。でも、大した御用なんか、ないみたいでしたけど」
十四 トップハットをかぶって死ぬ
ハドリイは椅子のなかで、ギクッとしたように体を動かした。ハンケチを取り出して、額の汗を拭っていた。
「ハッハッハ──」
彼はまた、何食わぬ顔で笑ってみせたが、こんどはすこし、笑いが空々しく響いた。
「参考になるようなことはお聞きになりませんでしたか。それは残念でしたな。ですが、ミス・ビットン。そのとき格別の意味もないように聞かれたことも、あとで考えると、非常に重大な意味が含まれているのが判ることもあります。お嬢さん、あなたは一体、フィリップ氏の死について、どれだけのことを御存じなんです?」
「大して存じませんわ。誰もわたくしには、わざと話さぬようにしているみたいなの。ローラからも、お父さまからも、何も知らせてもらえませんでしたわ。知らせてくれたのは、ダルライだけなの。フィリップが、帽子泥棒の手で殺されたってことを──」
そのとき、ダルライが手洗いから戻って来たので、彼女はあわてて、口をつぐんだ。
ダルライはやっと、顔の汚れを落していた。
「シーラ」と、彼はいった。「何を取りに来たのか知らないが、早く引揚げたほうがいいようだね。気味がわるいよ。どちらをむいても、フィリップが腰かけているような気がして堪らないんだ。僕はどうも、想像力《イマジネイション》がつよすぎるようだ」
彼は震えていた。機械的に、小卓の上の煙草箱に手を出したが、何かまた思い出したとみえて、煙草には全然触れずに蓋をしめた。ランポウルが自分のケースを差し出すと、これには礼をいって、一本抜いた。
「あら、そう? わたくし、ちっとも怖くなんかないわ」
ミス・ビットンは、下唇をつき出すようにしていった。
「幽霊なんか信じませんわ。あなたは、あのかびくさいロンドン塔にお住まいだものだから──」
「ロンドン塔か!」
ダルライは叫んで、赤茶けた頭髪を掻きむしった。
「さあ、大変だ! すっかり忘れていたよ」彼は時計を引っぱり出すと、「十一時十五分前だ。門限はもう、四十五分も過ぎている。どうしよう? 君のお父さんは、今夜僕を泊めてくれるかしら? もう僕は、ここには怖くて泊まれないんだ」
彼は、壁にそっておかれた革の長椅子に眼をやって、またしてもぞっとした模様であった。
ハドリイ警部はいった。
「ミス・ビットン。よろしかったら、もうすこしお聞かせくださいませんか。最初に、ドリスコル氏の奇抜な希望、トップハットをかぶって死にたいという話から伺いたいんですが……」
「えっ、何ですって? なんの話です?」と、ダルライが叫んだ。
シーラ・ビットンは、微笑みながら説明した。
「こうなのよ、ロバート・ダルライ。あなただって、よく御存じのはずよ──ああ、そうね、あなたは、御存じなかったわ。わたくし、思い出しました。あなたがもう塔へ帰る時間だといい出したときだわ。あなたはいつだって、早く食事を切り上げなければならないんですもの。たしかあれは、アーバアさんがお着きになった晩よ──ちがったかしら? そうね、アーバアさんの着いた晩は、レスター叔父さまはいらっしゃらなかったはずだから、やっぱり別のときですわ。でもとにかく、いつかの晩なのよ」
「かまいませんよ、お嬢さん」主任警部が口を添えた。「正確な日付はお判りにならなくても結構です。で、どうしました?」
「ええ、こうなの。食堂には、お父さまにレスター叔父さま、それにローラとわたくし。フィリップももちろんいっしょでしたわ。あのときも、そういってよければ、それこそ今夜みたいに、幽霊でも出そうな晩でしたの。ああ、そうでした。いまやっと思い出しました。あれは、ローラとレスター叔父さまが、コーンウォールヘお出かけになる前の晩でした。ですから、日曜でもないのに、フィリップがいっしょだったんだわ。フィリップは、ローラを劇場に誘うために寄ったのでした。レスター叔父さまがいらっしゃる予定でしたが、急に御用がお出来になって、おいでになれなくなったからなの。コーンウォールに旅行なさったのも、叔父さまが株か何かで失敗なさって、あまり落胆していらっしゃるので、お医者さまから気晴らしの旅行を勧められたからでした。
いま申し上げたように、まるで幽霊でも出そうな晩でした。みぞれまじりの雨が降っていました。お父さまという方は、食堂に電灯をつけるのをお嫌いになるので、むかしから、蝋燭の光でお食事をすることになっておりますの。蝋燭の光と、暖炉に温く燃える火とが、よき日のイギリス帝国を表わすものだとおっしゃるのよ、
そうしたわけで、建物は古くてぎしぎしいいますし、薄気味わるく感じられたのも無理はありません。そこへ、レスター叔父さまが、死ぬ話をお始めになりましたの。いつもの叔父さまと、まるで変っていらっしゃるの。白いネクタイが曲っていますので、わたくし、直して差し上げようとしますと、その必要はないって、触らせようともなさいませんの。お金なんか、みんななくなったって、かまわないじゃないの──そのときわたくし、そんなふうに考えましたわ。
それで、叔父さま、お父さまにお訊きになりました。どうしても死なねばならぬとしたら、どんな死に方がいいだろうかって。お父さまのほうは、その晩、いつになく御機嫌がよかったので、まず最初に、大声でお笑いになって、それからこんなふうにおっしゃったわ……あれはどこの公爵だったかな。こんなことをいった男がある。死ぬんなら、酒樽のなかで、溺れて死にたいってな。お父さまがそうおっしゃっても、ほかの人たちは、ちっとも浮き浮きなさらないの。ますます低い声になって、何か深刻そうな顔をしていましたわ。外は嵐が吹きつのっておりますし……
とうとうおしまいに、お父さままで真面目な口調になられて、一息吸いこめば、すっと死ねるような毒がよいとおっしゃるし、レスター叔父さまは、一発で頭に弾丸を命中させたいといっていらっしゃるの。ローラはむろん、そんな話には興味がないようで、フィリップ、早くしないと、序幕に間にあわないことよって、しきりに催促していました。で、フィリップも食卓から立ち上がりましたが、それに向って、叔父さまはまだ訊いていらっしたの。君はどんな死に方がいいんだって。するとフィリップは、ちょっと笑って──そうね、いまですからいっておきますけど、あのひと、蝋燭の光で見ると、なかなか美男子なんですわ。白いワイシャツと、きれいに櫛を人れた髪毛が、とても美しく見えましたわ。
その彼が、フランス語で何かいいました。お父さまが、あとでわたくしに、その意味を教えてくださいました。最後も紳士でありたいものだということなんですって。それからあのひと、まだいろいろと、つまらぬ言葉をならべていましたの。要するに、どうやって死ぬにしても、トップハットをかぶったように紳士らしい死に方をして、女性がひとり、墓場で泣いてくれれば、それで満足だというのでした。そういい終ると、彼はローラといっしょに、お芝居に出かけていきました」
外の広場で、手風琴の調べが、またしても流行歌を奏ではじめた。
四人の眼が、シーラの上に釘づけになったように動かなかった。シーラ・ビットンもその視線を感じて、さすがに神経質になったとみえて、しまいにはいらいらして叫びだした。
「お願いですわ。そんなふうに、じろじろ御覧にならないで。わたくし別に、非難されることはないと思いますわ。誰も教えてくれなかったんですもの。それは、話していけないことをしゃべったのかも知れませんけど、それがどうだっておっしゃるの?」
彼女は興奮して、立ち上がった。ロバート・ダルライが、いそいでその肩を抑えた。
「シ、シーラ!」
それだけで、彼は黙ってしまった。何もいう言葉がなかったのだ。彼自身の顔が、まっ青に変っていた。声は摺りきれたレコードのようにかすれていた。
長い沈黙だった。
「ああ、お嬢さん」と、ハドリイ警部が、はじめに口を切った。「お気になさらんでもいいんです。あなたは別に、洩らしていけないことをしゃべったわけではありません。いずれダルライさんが、その弁明はしてくださることでしょう。それよりも、今朝の食堂でのお話をお聞きしたいのです。叔父さまは、フィリップ君にお会いになる用件について、何かおっしゃってはいませんでしたか?」
「そのことでしたら」とダルライが、咳払いをしながら、口をはさんだ。「シーラは何にも聞いていないでしょう。大体あの邸では、誰もがこのひとを子供扱いにしているんです。今日ドリスコルの事件が起きても、ウイリアム卿はただ、シーラ、おまえは部屋にいってなさいというだけで、何の話もなさいません。僕があとから、事故のあったことを知らせたような始末です。そんなわけで、シーラにお聞きになったところで、何にも御説明は出来ぬと思います」
「なるほど、そうでしょうな。ミス・ビットン。いまのお話どおりですか?」
彼女はためらって、ダルライを眺め、唇をしめした。
「ええ。別に何も聞かなかったわ。レスター叔父さまは、今日フィリップに会うつもりだとおっしゃっただけでした。それでわたくしが、フィリップは一時に、ロンドン塔へ行くはずよって申し上げると、それじゃ、午前中にアパートヘ行って来なけりゃならんなとおっしゃいました?」
「それで出掛けましたか?」
「レスター叔父さま? ええ、すぐお出掛けになりました。そして、おひるにはもう、帰っていらっしたわ。お出掛けになるとき、レスター叔父さまからお父さまに、フィリップの部屋の鍵を貸してくれんか、留守だったら、なかに入って、待っているからといっていらっしゃるのを聞きました」
ハドリイは驚いて、
「するとお父さまは、この部屋の鍵をお持ちなんですか?」
シーラはちょっと、頬を膨らませて答えた。
「いまお聞きになったように、お父さまは、わたしたちを子供扱いなさるの。フィリップもそのうちの一人で、いつも怒っていましたわ。でも、お父さまったら、部屋代をわしに払わせたんなら、鍵をこっちに渡しておけとおっしゃるの。ときどき監視にいく必要があるからというわけ。でも、むろんそれは冗談ですわ。それが証拠に、いままでだって、月に一回ぐらいしか、ここにいらっしたことはありませんもの。そんなわけで、お父さまはレスター叔父さまに、鍵をお預けになりました」
ハドリイは体を乗りだして、
「で、叔父さまは、フィリップ君に会ったでしょうか?」
「いいえ。お会いになりませんでした。会わずにお帰りになったところを見ていますから、間違いありません。フィリップは外出中だったそうよ。三十分近く、無駄に待たされたって、叔父さまはずいぶん──」
「お腹立ちでしたか?」
シーラが言い淀んでいるので、ハドリイが先まわりした。
「いいえ。怒ってなんかいらっしゃらなかったけど、ずいぶんお疲れの御様子でしたわ。このところ、叔父さま、おいそがし過ぎましたわ。ただ、ちょっとおかしかったのは、叔父さま、いつになく、興奮なさって、急にお笑いになったりなさいましたの」
「笑った?」
「その話はやめだ!」
フェル博士は、突然大声を立てた。ずり下がってくる眼鏡を、しきりに鼻の上で直しながら、シーラの顔をじっと見つめていった。
「で、お嬢さん。叔父さんは何か持ち帰りませんでしたかな?」
「あら!」
と、彼女はまた叫んだ。
「そんな──怪しんだりなさっては厭ですわ。叔父さまはほんとうに、わたくしのことを可愛がってくださいますの。子供のときから、チョコレートだの人形だの買って来てくださるのは、いつも叔父さまにきまっていましたの。お父さまときたら、そんなくだらんものが、何の役に立つんだなんておっしゃって──」
彼女は興奮して、床の上で足をバタバタさせていたが、急にダルライのほうに、訴えるような視線を向けた。
「ああ、シーラ」とダルライはいった。「質問はそれくらいで止めてもらいなさい。むこうの部屋に行って、持って帰るものを探したらいいでしょう」
ハドリイは何かいい返そうとしたが、フェル博士はあわてて遮って、無理ににこやかな顔を作って話しかけた。
「私は決して、そんなつもりで申し上げたんではありませんから、気になさらんで結構です。ダルライ君のいわれるとおりになさるがよろしい。ただひとつだけ──いや、いや、質問はもう終っています。さきほど電話で申し上げておいた。お供の者はどうされました。執事をお連れねがうように申し上げたはずですが──」
「マークスですの? ええ。わたくし、忘れておりましたわ。外の車に、待たせてあります」
「それはありがとうございました。ほかにはもう、お尋ねすることはありません」
「じゃ、シーラ」と、ダルライがいった。「あちらの部屋で、持って帰るものを深しなさい。僕もあとからすぐに行く。まだすこし、この人たちに話があるんだ」
彼はドアが閉じるのを待っていた。それから、静かにこちらを向いた。頬骨の下に、どす黒い影が浮かんでいた。体はまだ、眼に見えるほど顫えていた。振リ絞るように、無理に声を出して、
「あなた方の疑ぐっておられることは、僕には充分察しがついています。むろん僕は、フィリップの親友です。しかし、また、ビットン氏のこととなると──レスター・ビットン氏です。ビットン大佐のことです──これはやはり、シーラとおなじ気持にならざるを得ないのです。あのひとを疑うなんて、とんでもないことだといわせてもらいたいんです。僕はあのひとをよく知っています。シーラは黙っていましたが、僕たちの結婚は、ウイリアム卿の反対に逢っているんです。それを弁護してくださるのが、ほかならぬレスター・ビットンなんです。
しかし、あのひとは人好きのする方ではありません。その点、うちのメイスン将軍とよく似ています。性格は正反対ですが、人に好かれぬ点ではよい勝負です。そのせいか、将軍はあの人が大嫌いのようにみえます。将軍のほうは、年寄りの頑固一徹、何かといえば大声で怒鳴りつける型。ビットンのほうは、いま御覧になったように、冷静そのものの性格で、すべて物事を実際的に割り切っていくタイプなんです。弁の立つ、敏腕といったところはありませんが、といって何も、あなた方が考えるような──」
急に彼の声は、語尾がかすれて聞きとれなくなった。手だけが焦って、無駄に椅子の背をたたいていた。
ハドリイ警部は、指先で折カバンをポンとはじいて、
「真実をお聞かせねがいましょう、ダルライさん。ビットン夫人とドリスコル氏との件は、われわれすでに確かめてあります。いまさらお隠しになるのも無駄なことです。証拠によって確認しているんですからね。あなた、むろん御承知なんでしょうね?」
ダルライは即座に答えた。
「事実僕は知らなかったのです。信じてもらえぬかも知れませんが、あとになって、噂を耳にした程度なんです」
そういいながら、彼は一人々々、相手の顔を見た。その表情には、嘘のない様子が明らかだった。
「大体フィリップは、そんなことを僕に話すような人間じゃないのです。聞いておれば、僕はむろん、彼をかばったでしょう。いや、それよりも、意見して止めさせたかもしれない」
「ウイリアム卿は御承知だと思いますか?」
「ちがいますね。気のつくような人ではありませんね。あのひとはいつも、書籍とか、政府の老人対策とかで、頭のなかが一杯なんです。しかし、お願いです。フィリップを殺したやつを、一刻もはやく捕まえてください。このまま、こんな状態がつづいたんでは、僕たちみんな、気が狂ってしまいます。はやく、捕まえて!」
「いま捕まえかけておるところですわ」
フェル博士が落着いた声を出した。
「あと二分間ほどお待ちなさい。それにはまず、無駄な枝葉を刈り除くのが第一。それから、事件の核心に突入するんですな。ダルライさん。お手数だが、外で待っておるという執事のマークスを呼んでくださらんか」
ダルライは逡巡して、頭髪を手で撫でていた。が、博士にじろりと眺められて、あわてた格好で出ていった。
フェル博士はステッキで床をたたいて、
「さあ、テーブルをわしの前へ出しなさい。そう、そのテーブルだ。はやいところ頼みますぞ!」
ランポウルはあわてて、重いテーブルを、やっとのことで彼の前に運んだ。
「ハドリイ君、その書類カバンを、わしに貸したまえ」
博士はカバンを受け取って、なかの書類を、テーブルの上に拡げだした。
「困りますな、先生。そんなに散らかして、何をなさるおつもりなんで?」
ランポウルもびっくりして見ていたが、博士はよたよたと歩き出して、大きな電球のついたスタンドを持ち上げた。コードをたぐりながら、テーブルからすこし離れた場所に運んで、下に低い椅子をあてがうと、パチッとスイッチをひねった。ランポウルがふと気がつくと、博士の手には、警部の黒皮の手帳が握られていた。
「さあ、ランポウル。君はわしの左側に坐ってくれたまえ。鉛筆を持っておるかね。うん。それでよろしい。君の役は、わしがしゃべることを、そこで速記してみせるんだ。なあに、真似だけで結構。この手帳に、なんでも好きなことを書いていればよいんだ。しかし、鉛筆は敏速に動かさんけりゃいかんぜ。判ったかな?」
ハドリイはあわてた。貴重な花瓶が、棚の端から落ちかかったときのような表情だった。
「先生、とんでもない! 私の手帳じゃありませんか。それを汚されてどうするんです。困った人ですな、あんたは──」
「煩《うる》さいことをいわんでよろしい。ときにハドリイ君、ピストルと手錠を持って来たかね?」
「馬鹿なことをいっては困りますね、先生。そんなものを、いまどきの警察官が持っていますか。映画か小説に出てくるだけですよ。私なんか、ここ十年も持ったことがありません」
「では、わしのを出そう」
博士は落着いたものだった。
「どうせ君は、持って来んだろうと思っておったよ」
奇術師のような手つきで、尻のポケットから二つとも取り出した。ピストルをいきなりランポウルに向けていった。
「撃つぞ!」
「あぶない!」
主任警部は叫んで、その手を抑えた。
「そんなものを振りまわして! はずみってことがありますよ」
「心配しなさるな。これはにせものさ。いくら君たち警視庁《ヤード》の連中の腕がよくても、これでは自殺も出来やせん。ブリキを黒く塗っただけのもんだ。手錠のほうもそのとおりだ。しかし、実物そっくりだろう。グラスハウス・ストリートの玩具屋で買って来たんだ。君たち、あそこへ行ったことがあるか? 実に愉快なものが、たくさん並んでおるぜ。わしはいつでも、何か買いたくなってしまう。鼠の玩具があったよ。ローラー仕かけになっておってな。押しさえすれば、テーブルの上を駆けまわるんだよ。だが、そいつはさしあたって必要がない。これ、これ。いま必要なのは、こっちのほうだ」
彼はなおも、尻のポケットを探していたが、真面目くさった表情を、大きな赧ら顔に漂わせながら、すばらしく堂々とした金バッジを取り出した。得意そうに襟につけると、
「これから尋問しようとする男には、わしが本物の警視庁のお役人だと思わせんけりゃいかんのだ。なあに、相手は素人さ。簡単に脅かせるだろう。しかし、注意しておくが、わしらはあくまで、このマークスって男の味方だって格好はしておらんけりゃならんぜ。でないと、やつの口を割らせることは出来やせんのだ。さあ、いいかね。テーブルを前にして、きちんと行儀よく、出来るだけ威厳を作っておるんだぞ。大体これで用意はととのったな。そうだ。マークスがその椅子にかけたら、スタンドの光が、まともに顔に当るようにしてくれよ。手錠はわしの前においておく。
ハドリイ君。ピストルは君の受持ちだ。曰くありげに、そいつをいじっておればよい。ランポウル君は、やつの証言を、いちいち書きとめる格好をする。光線はスタンドだけだ。頭の上の電灯は消してしまう。つまり、光線がやつの顔にだけ当って、わしらは全部、影になるんだ。そうだな、わしは帽子をかぶっておることにしよう。よし、よし、これで準備完了だ。記念写真でも撮りたいくらいだな」
博士はすっかり嬉しくなった顔つきで、声を立てて笑っている。
「探偵たるものは、こうあって然るべきだな。ところが本物の警察官は、なかなかこんな格好はせんのでね」
ランポウルは電灯を消しに立って、あらためて二人の格好を見た。なるほど博士のいうとおりだ。海岸の避暑地なんかに行くと、ボール紙の飛行船の上から首を出して、馬鹿みたいな顔で写真を撮らせているのがいるが、ちょうどそれとおなじだった。フェル博士は、厳粛な顔つきで反りかえっていた。ハドリイのほうは迷惑そうな表情で、ピストルの引き金に指をかけていた。そのとき、廊下に足音が聞えた。
「シッ!」
フェル博士が注意した。ランポウルはいそいで電灯を消した。
ダルライは入って来るなり、この活人画を見せられて唖然とした。
「被告人を入れなさい!」
フェル博士は、ハムレットの父王の亡霊を真似て叫んだ。
「誰を入れるんです?」
「マークスを入れるんだ」亡霊はいった。「あと、ドアに鍵をかけなさい」
「それは無理ですな。ドアの鍵は毀れています」
「ああ、そうか。では、入れるだけでよろしい。君はうしろで、見張っていなさい」
「心得ました」
ダルライは、何が始まるか判らぬままに、つい亡霊の台詞《せりふ》に釣り込まれて、厳粛な表情でマークスを呼び込んだ。
入って来た男は、おとなしそうな顔つきで、いうまでもなく、おどおどしていた。きちんとした服には、汚れひとつ目立たず、腹黒い様子はすこしも見られなかった。面長の顔に、薄い頭髪をまん中でぴったり分けて、大きな耳のうしろで撫でつけていた。神経はにぶそうな男だが、完全に怯えきっていた。腰をかがめて、前に進みでた。胸のところに、相当の古物の、しかし、ものだけは上質そうな山高帽をあてがっていた。
この男もまた、活人画を眼の前にして、凍りつくような不気味な気持を味わったらしい。
しばらくは誰も、口をきこうとしなかった。
「あの──私に御用でございますか?」
おずおずと彼はいった。言葉尻が飛び上がるような、奇妙な口調だった。
「そこへ掛けるんだ」
フェル博士がいった。それからまた沈黙がつづいた。そのあいだ、マークスの眼は、テーブルの上の品物を捉えた。気をつけて椅子にかけると、スタンドの光を、真正画から浴びて、眼をぱちぱちさせた。
「ランポウル巡査部長」
博士はおごそかな身振りでいった。
「この男の申し立てることを記録に取りなさい……名前は?」
「シオフィラス・マークスと申します」
ランポウルは、手帳の上に、たてよこの棒を二本引いた。
「職業は?」
「ウイリアム・ビットンさまのお邸で働かせていただいております。バークレイ・スクエアのお邸です。何のお調べか存じませんが、もしやあの、フィリップさまの怖ろしい事件のことでは──」
「これも記録を取るのでしょうか?」
ランポウルは博士に訊いた。
「もちろんだとも」
ランポウルは畏《かしこ》まって、物凄い勢いで、長い輪の列をぐるぐると書きつづけて、最後は派手に、ポンと撥《は》ねた。フェル博士は、うっかりハムレットの父王の声色を忘れていたが、あわててまた、亡霊の台詞に戻った。
「その前は、どこに勤めておったね?」
「十五年間、サンディヴァル卿のお邸で働いておりました」
「十五年間!」
博士は叫んで、片目を閉じた。父王の幽霊が、ハムレットがトランプに耽って、大切な仕事を怠惰《なま》けているのを見つけたような声だった。
「どうして、その邸をやめたんだ? 馘《くび》になったのか?」
「いいえ、ちがいます。旦那さまがお亡くなりになりましたので……」
「ほほう、殺されたんか?」
「御冗談を!」
マークスは不安を感じだしたようだ。亡霊の質問が、次第に現実的になって来たからである。
「よいか、マークス。あらかじめいっておくが、おまえの現在の立場は、非常に危険なところにあるんだ。大体、いまの勤めは、満足すべき状態なのか?」
「はい。それはもう、ウイリアムさまは私に、申し分のない地位を……」
「与えてなんかくれるものか。もしも、わしらがだ、調べあげてあることを、卿に教えて進ぜたら、まずおまえは、馘になるのがよいほうで、下手をすると、牢獄に入ることになるかも知れん。よく考えてみるんだぞ。マークス!」
フェル博士は脅かしながら、手錠をつまみあげてみせた。
マークスはあとずさりして、額に汗を噴かせた。スタンドの灯がまぶしいといった様子で、しきりに手をあげて、眼をおおっていた。
「マークス!」亡霊はいった。「おまえの帽子を見せるんだ」
「私の、なんでございます?」
「帽子だよ。そこに持っておるやつだ。さっさと渡すんだ!」
執事は恐る恐る、山高帽子をさし出した。博士はそれを裏返した。スタンドの光が、白い裏革の上に、ビットンという金文字を大きく浮かび上がらせた。
「それみろ! ウイリアム卿の帽子を盗んでおるじゃないか。これでまた五年食らいこむぞ。ランポウル部長、記録を取っておるかね」
「それはちがいます!」マークスは必死に叫んだ。「盗んだなんて、とんでもない。身の証しは、ちゃんと立ちます。お聞きくだされば判りますが、旦那さまから拝領したものなんです。旦那さまと、頭の大きさがおなじでございまして。最近旦那さまは、新しいのを二つもお求めになりましたので、お下げ渡しくださったのでございます。いつでも証明させていただきますが──」
「ではさっそく、希望どおり証明させてやろう」
亡霊は、不気味な口調でそういうと、手をぐいと、テーブルの上にのばした。そこに載っていた、丸くて平たい、黒色のものを掴むと、音を立ててポンと撥ねて、オペラハットの形にした。
「この帽子をかぶってみろ!」
ランポウルはがっかりした。いまの今まで、この帽子からは、フェル博士の手によって、色あざやかなリボンが数ヤードと、ひとつがいの兎が飛びだすものとばかり思っていたのだ。マークスもびっくりして見つめていた。
「これがウイリアム卿の帽子だ! かぶってみろ。もしそれが、ぴったり合えば、おまえのいうことを信用してやろう」
それだけいって、帽子をマークスの額に向けて突き出した。執事はかぶらざるを得なかった。が、それは、大きすぎた。ドリスコルの頭にのっていたときほどの不調和ではなかったが、やはり大きすぎた。
「どうだ、ちがうじゃないか」
亡霊はわめき立てながら、テーブルのうしろに立ち上がった。興奮して、片手をむやみに振りまわしながら、
「白状せんか、マークス。なんという大馬鹿野郎だ! これで、きさまの罪は明瞭じゃないか」
彼は手で、テーブルをドンと叩いた。マークスは阿呆のように黙りこくり、フェル博士は火のように猛りたった。そのときだった。大きなゴム製の鼠が、まっ白い髭をピンと立てて、博士の掌から飛び出した。テーブルの上を、ハドリイのほうにむかって、ちょこちょこと動いていった。フェル博士はあわてて拾いあげると、いそいでポケットにしまいこんだ。
「どうだ、畏れいったろう!」
亡霊はそういってから、しばらく休んで、あらためていった。こんどこそは、本当にハドリイを、椅子から飛び上がらせる言葉だった。
「マークス! おまえだな、ウイリアム卿の原稿を盗んだのは!」
一瞬、相手は卒倒するかと思われた。
「私──私、そんな、盗みなんかいたしません! 決してそんな、私はなんにも存じません」
「ではわしが、おまえのしたことをいってみせよう」
フェル博士はついに、亡霊の声色を忘れてしまって、生地の声に立ち戻っていた。
「ウイリアム卿が一切の事実を教えてくれたんだ。マークス。おまえは実際、執事としては申し分のない男らしい。しかし、考えてみるに、おまえくらい間の抜けた男もすくないぞ。この土曜日にウイリアム卿は、新しい帽子を二つ買い込んだ。帽子店では、いろいろの品物を出させて、ひとつひとつ頭の寸法に合わせてみたのだが、そのうちのひとつに、特別大きすぎるトップハットがあった。ところが、あとで荷が届いて、配達された包みをあけてみると、ホンバーク帽はよかったが、トップハットのほうは、例の大きすぎるやつが入っていた。一目見て、大きすぎるのが判った。すぐ判るはずだ。おまえは主人とおなじ頭の寸法なんだからな。その夜、ウイリアム卿は劇場へ行く予定になっていた。新調した帽子をかぶった途端、鼻のあたままですっぽりずり落ちたら、あの癇癪持ちがどんなに怒ることだろう。まず最初に被害を蒙《こうむ》るのは、手近にいる人間ときまっている。
そこでマークス。おまえの考えたことは、何とかその帽子を、適当な寸法に直しておくことだった。でなければ、いつ雷が落ちるか判らない。といって、新しい帽子に取り換えている時間もない。あいにくそれは、土曜日の夕方だったのだ。そこで、おまえの取った手段は、むかしから誰もが、帽子が大きすぎるときにやる方法さ。裏革のあいだに、紙をつめることだった。手近にあった、格別必要もなさそうな紙を使ってな──」
ハドリイははっとして、ブリキのピストルをテーブルに落した。
「すると先生、マークスがあの原稿を、帽子のつめものに使ったというんですか!」
「ウイリアム卿は」と博士は、にこにこしながら言葉をつづけた。「はっきりと二つのヒントを与えていてくれた。どんな言葉で聞かせてくれたか、憶えておるかね。あの原稿は、ごく薄い紙で、重ねたまま、縦に何回も折りたたんであるといった。長っぽそい格好になっていたんだ。もうすこし折りたためば、帽子の詰めものには持ってこいの代物だった。もうひとつ。卿が話したところによると、原稿は薄葉紙《うすようし》で包んであったそうだ。マークスはそれをそのまま取りあげて、なかも改めずに使ったにちがいない。かりに拡げてみたところで、ビットンが最初発見したときの職人たちや、その建物の所有者とおなじことで、その薄葉紙のなかに包まれている紙片が、どんな貴重な品物であるかは、マークスごときに判るはずがないんだ」
「だけどビットン卿は、引出しに入れておいたといっておられましたが──」
「そいつもどうも、怪しいもんだな。そうだったかい、マークス?」
マークスはハンケチで、額の汗をしきりに拭いながら、
「い、いいえ。デスクの上にございました。私──私、それがそんな大切な物とは、ちっとも存じませんで、はい。ボール箱のなかの詰めものか何かで、旦那さまがお捨てになったものとばかり思っておりました。お手紙だの書類でしたら、決して手なんか触れようともしなかったのですが──」
フェル博士は手錠をガチャガチャいわせて、
「で、翌日になって、おまえのしたことが、大変なことだったのを知ったのだな。何千ポンドもする代物だと判ったわけだが、ウイリアム卿に詫びるわけにもいかなくなった。肝心の帽子が、それから間もなく盗まれてしまったんだからな」
博士はそこで、ハドリイ警部に向って、
「わしはウイリアム卿の口から、事件のあとのマークスの態度を聞いたとき、大体の様子を察したんだ。あのとき卿は、そうとも知らずにうがったことをいわれたよ──まさか、君たち、わしが貴重な原稿を、帽子のなかに入れて歩くとでも思っておるのかってね」
「ははあ、それで──」
と、ハドリイが思わず頓狂な声を出した。
「ウイリアム卿の帽子がぴったり合ったんですね。それが先生の、いわゆるヒントだったのですか」
「わしは最初からいっておるだろう。この事件では、ナンセンスとしか思えん枝葉はすべて取り除いて、問題の核心に突入すべきだとな。たったひとつ、つまらぬ偶然が起ったばかりに、事件全体が恐ろしい局面を展開してしまったのだ。その偶然の出来ごとがあったために、馬の蹄鉄の釘が抜けたように、事件に対する見通しを困難にさせた。これを確かめるまでは、先に進むわけにいかんので、さすがのわしもまごまごしておったわけだ。といって、わしはいやしくもフェル博士だ。すべての確信を、この予想にかけておった。やっといま、それが正しかったことが証明された。いまこそ事件の全貌は、わしの手に握られたといってよい。今夜ここで、マークスを尋問するに当って、ウイリアム卿がいてはまずいといったわけが判ったろう」
マークスはトップハットをとって、爆弾でも抱くように、そっと胸にかかえた。その顔は青ざめて、生きている空もないようだった。
「いたしかたございません」
それでも彼は、静かに、人並の声でいった。
「とんでもないことをしてしまいました。当然、私の首に関することと覚悟しております。どう御処分なさるおつもりでしょうか? 私は、妹を一人と従妹を三人養っておるのでございますが、それもこうなっては、どうなりますことやら……」
「何だ、マークス。そんなことを心配しておるんか。お前の地位は安泰だよ。気にすることはないさ。黙って自動車に戻って、澄まして坐っておればいいんだ。迂闊なことをしたにちがいないが、馘になるまでのことでもないさ。わしはウイリアム卿には、何にもいいはせんよ」
マークスは烈しくテーブルにすがりついて、
「それはあの、本当でございますか?」
「嘘などついて、どうするんだ」
しばらく無言がつづいた。マークスは立ち上がって、外套のボタンをかけた。
「ありがとうございます。お礼の申し上げようもございません」
彼は、一言、一言、はっきりといった。
「電灯をつけてくれたまえ」フェル博士はランポウルにいった。「それからハドリイ君に、はやく手帳を返してやってくれんか。脳溢血でも起されると、ことだからな」
得意満面といった様子で、博士はテーブルのうしろに反りかえった。おもむろにゴムの鼠を取り出すと、ソフト帽をあみだに直して、鼠をテーブルの上で、ぐるぐる歩かせた。
「こいつのために、危く舞台効果を台なしにするところだった。しかし、惜しいことをしたな。こういう演出をする必要があると知っていたら、鼠を買うとき、つけひげも買っておくんだったよ」
電灯がつくと、ハドリイとランポウル、それに興奮しきったダルライが、文字どおり博士に掴みかからんばかりの様子をみせた。
「はっきり説明してくれませんか。土曜日の晩に、ビットン卿は帽子に草稿を詰めて邸を出たんですね。それを帽子泥棒が奪い去ったというわけで……」
博士は鼠を捉まえて、じっとそれを見つめながら、またおごそかな口調に戻っていった。
「やっと君たちは、悲劇の序幕に到達したのさ。この第一幕に、事件全体を混乱に陥れる原因がひそんでいたのだ。フィリップ・ドリスコル青年が何よりも恐れていたのは、いうまでもなく、伯父の機嫌を損ねることだ。その伯父が、生命に代えて大切にしている原稿を盗むなんて、そんなことは考えられるものではない。それはわしが、眼に涙までためて繰りかえしておったはずだぞ。それにしても、絶対に禁物な行動を結局犯してしまったと知って、どんなに彼が驚いたことか、わしには眼にみえるように思われるね」
凍りついたような沈黙のうちに、フェル博士はゴムの鼠を取りあげて、しずかにまた下においた。仲間の顔をぐるりと見まわして、
「帽子事件の犯人というのは、あのフィリップ・ドリスコルだったんだよ」
十五 ゴム鼠事件
「ちょっと待ってください!」
ランポウル青年が叫んだ。
「あまりテンポが早すぎるんで、僕にはどうもついていかれません。どうしてそんな──」
「──そんな結論になるというのかい?」博士はじれったそうに答えた。「わしはさっきから説明しておるつもりだ。判らんのは、君の頭の働きがにぶいからだぞ。わしの睨んだところに、誤りがないことは始めから判っておった。ただその証拠を、今夜ここで集めてしまおうと思ったのさ。すこし説明して進ぜようかな。ハドリイ君、葉巻を持っておるかね?」
彼は葉巻に火をつけると、悠然と椅子にそりかえった。大きなバッジが、まだ襟元で金色に光っていた。ゴムの鼠をいじりながら言葉をつづけた。
「考えてみたまえ。ここにひとり、すこし頓狂なところのある青年がおるとする。道楽者ではあるが、その知性とユーモア感覚は、充分買うだけのものがある。感心に、なんとか新聞記者として名声を博したいと考えておる。材料さえあれば溌剌《はつらつ》とした記事を書きあげる才能はあるんだが、残念ながら、ニュースに対する感覚を欠いている。主筆がこんなふうに批評していたそうだ。この男は、教会の前に一インチも米が撒かれているのを見ても、なかで結婚式が挙げられておるのに気がつくまいって。
ハドリイ君。彼の性格を言い表わして妙じゃないか。彼の長所は空想力だ。とかく幻想的な人間は、新聞記者には適せんもんだよ。奇想天外な事件ばかり追いたがって、人生の根底にある、平凡だが本質的な事実を忘れがちになるんだ。日常の変哲もない事件を追って歩くのは、彼にはおそらく、堪えがたいことだったのだろうね。つまりドリスコルは、社説だの読物だのを書かせれば、相当のものだったろうが、ニュース集めは、いたって不得手だったというわけだよ。
そこで彼が思いついたことがあるんだ。先人記者たちがすでに手本を示しておることだが、ニュースそのものを創造するんだ。彼の性格を考えあわせれば、何を狙ったか、君たちにも想像ができるはずだ。
あの帽子盗難事件を検討してみたまえ。すぐれた演出家の手になるように、一幕一幕が、皮肉きわまる象徴になっておるんだ。ドリスコルは舞台の上のしぐさを愛した。象徴を好んだのだ。巡査のヘルメット帽が警視庁舎の電柱にかかげてあるのは、つまり、ドリスコルが声高く叫んでいることだ。──警視庁の威力を見よ!ってね。むろん皮肉だよ。青年らしい、バイロン風の痛烈な皮肉なんだ。弁護士の鬘《かつら》が馬車馬の頭に載っていたのは、法律なんて騾馬のような愚かしいものだというバンブ氏〔ディッケンズのオリバー・ツウィスト中の人物〕の意見を表現しているものだ。その次には、有名な戦争成金の帽子が、トラファルガー広場の凱旋塔の上においてあったではないか。これを見ても、ドリスコルの血管には、バイロン卿とおなじ血液が流れていたにちがいないのだ。──見よ!と彼はいったのさ──ああ、この頽廃せる末世よ。大英帝国のライオン像をかざる冠はなにか!」
フェル博士は、さも愉快そうに坐りなおした。ハドリイは呆気にとられて、その顔を見つめていたが、やがてうなずいた。博士はあとをつづけた。
「こんな話に、あまり深入りしておるわけにもいかんな。殺人事件の手掛りのほうにとりかかろう。ドリスコルは、次に新しい手を用意した。もっと現実的で、決定的な効果をあげることのできるやつだ。おそらくこれで、イギリス全土を湧きたたせることも出来るんだ」
博士はくすくす笑いながら、ハドリイ警部の折カバンから、二、三の書類をつまみだして、
「これがドリスコルの手帳なんだ。最初これを発見したとき、わけの判らぬ文言があるんで、驚かされた記憶があるはずだ。いまわしが、もう一度読みかえしてみるが、計画メモだということを忘れんでもらいたい。ラーキン夫人の証言にもあったろう。ビットン夫人と二人で酔っ払った際に、彼が自慢たらたら予言したそうじゃないか。もう一週間も経てば、意外な事件が起って、一躍彼の新聞記者としての名声が高まるということをだ。ビールの酔いに陶然とした画家が、いまに素晴らしい大作をものするぞと吹聴しても、格別おかしいとも思えまい。小説家が、いつか傑作を書き上げて、あっといわせてみるぞと自慢しても、早く読みたいものですな、と返事をすることが出来る。しかし、君。新聞記者が、来週発生する殺人事件について、面白い記事を書いてみせるぞといったとなると、いくら予見の天才だとしても、一体どういうわけなのだと、不審に思わざるを得ないじゃないか。
ところがこのドリスコルの場合は、自分でお膳立てをしているんだから、別に不思議でもなんでもないんだ。簡単な帽子事件から始めて、一歩々々情勢を盛り上げていく。まず最初に、ウイリアム卿から大弓の鉄矢を盗み出しておいた──」
「え? 彼が」
主任警部が叫んだ。ダルライはそばの椅子に、腰を落した。ランポウルは別の椅子を探して来た。
「そうとも。これはぜひ聞いておいてもらいたいことだ。といって、いま始めて話すわけではない。午後にもちゃんと、ヒントは与えておいたはずだ。あれを盗んだのはドリスコルだったのさ」
博士は椅子のわきにかがみこんで、道具籠を取り上げた。なかを掻きまわしていたが、欲しいものはすぐに見つかったらしい。
「これが彼の使った鑢《やすり》だよ。これで矢の先端を尖らせたんだ。使い古した鑢なんだが、ここのところが斜めに白く光っているだろう。矢の先端を磨いた痕さ。ここにもっとまっ直ぐに光っているのは、カルカソンヌみやげという刻印をこすったところだ。そうこうしているうちに、誰かの手で、矢そのものが、ほかの目的のために盗まれてしまったのだ」
ハドリイ警部は、鑢を受け取って、ひっくり返して調べながら、
「で、それから──」
「常識からいっても、鉄矢の先端を尖がらせたのが、殺人のためであったとしたら、証拠になる刻印を、金部消してしまったはずだ。その刻印から、足がつくのを恐れたからだ。ところが事実は、三字消しおわっただけで中絶しておる。なぜだろう? わしはこの、ドリスコルの手帳を開いて、深遠不可思議の文字にぶつかったとき、ははあとその理由を納得することができた。鑢をかけたのは殺人犯人ではなかった。ドリスコルの仕事だったのだ。彼の作業が終らんうちに、犯人が現れて、持っていってしまったのだ。しかし、それはそれとして、この矢こそ、ドリスコルの企んだ大冒険の、重要な道具だったのさ」
「だんだん判らなくなって来ましたな。冒険って、何なんです? 帽子と鉄矢では、何の関連もなさそうですが」
「ところがあるんだ」
博士はしばらく、葉巻の煙をあげていたが、
「ハドリイ君。まずこのイギリスでだな、誰の眼にも、熱狂的な愛国者、代表的な右翼の領袖と目されておる者は誰だか知っておるかね? 公私両生活を通じて、絶えず剣のちからを、弓矢の威力を説いてやまぬ者を知っておるか? 彼は終始変らず、軍備拡張論を唱えて飽きんのだ。国家を不安に陥れる者は平和論者だとして、総理大臣を攻撃しつづけているのも彼である。こうしたその役割にふさわしい人間と、すくなくともドリスコルの眼にうつっていたのは誰だと思う?」
「ウイリアム・ビットン卿のことをいっているんですね」
「御明察だ」
博士はうなずいた。にがにがしい笑いが、口のまわりを縁どった。
「この伯父を利用して、常軌を逸したその甥が、冒険心を十二分に満足させようという計画を思いついたのだ。ドリスコルはウイリアム・ビットン卿の帽子を盗んで、ダウニング・ストリート十番地の、首相官邸の扉に、鉄の太矢を以て、突き立てようとしたのだ」
ハドリイは当然驚かされた。気でも狂ったように、口から泡を吹いていた。フェル博士はその様子を、にやにやして眺めながら、
「どうだい、ハドリイ。さっきメイスン将軍とわしとで、子供のいたずらについて講義を聞かせておいたが、あのとき君は、一向に感心した様子もなかった。子供たちが抱いておる本当の考えを了解するには、彼らの世界に入ってみる必要があるんだ。大体君は、常識がありすぎる。ところで問題なのは、この事件の主人公ドリスコルには、常識なんてものは存在しないことだ。そこで当然、話が食いちがってくる。たとえばこの玩具のピストルとゴム製の鼠だ。君はこれに、何の価値も認めんだろう。そこに君の欠点がある。捜査を困難にさせる原因がある。わしはさいわい、玩具の価値が判るんだ。つまり、わしはドリスコルにもなれるのさ」
博士はドリスコルの手帳を拡げて、
「これさえ見れば、彼が胸に、どんな計画を立案していたかが判るのだ。しかし、まだその計画が完全な形を取るまでにはいってなかった。決定したところは、ウイリアム卿の帽子と、何か戦闘的な武器とを結びつけて、人目につく場所に飾ってやろうということだけだった。そこで彼は、こう手帳に書きこんだ。『最適の場所は? ロンドン塔か?』もちろんロンドン塔は落第さ。仕事は楽だろうが、ロンドン塔に大弓の矢なんか、珍しくもなんともないからな。ニューキャッスルに石炭のカケラを落したようなもんで、人目を惹くはずなんかありはせんよ。
しかし、まず最初に必要なのは道具立てだ。そこで彼は『帽子を追え』と書いた。これは当然のことだ。それから彼の頭に浮かんだものは、トラファルガー広場だ。これは前に、実行ずみのところだからな。だが、ここもまた落第だ。というのは、ネルソン提督戦勝柱に、鉄矢を打ち込むことは無理だからだ。で、彼は認《したた》めた。「残念なり、トラファルガー。刺し通せず!』
といったところで、それほど残念だったわけでもない。彼には天来のインスピレイションがひらめいたのだ。手帳にちゃんと、それを裏書するように感嘆符がつけてある。彼はついに思いついたんだ。絶好の場所は十の番号、ダウニング街十番地、首相官邸だ。次の文句は、すぐに察しがつくだろう。ドアが木製かということだ。鉄板か何か貼ってあろうものなら、彼の計画は実行不能になる。そいつをどうでも、先に調べなければならん。そしてまた、正面に鉄柵でもあってくれれば、往来から仕事がのぞかれなくて好都合なんだが……ああいう場所には、たいてい守衛がいるものだが、そいつもあらかじめ確かめておきたい……危険な冒険であったが、彼はその成功を夢見て有頂天になっていた」
フェル博士は手帳を下におくと、
「以上がつまり、ドリスコルの計画のあらましだ。象徴的に命名すれば、ゴム鼠事件とでもいうのだな。……では次にその結果がどうだったか検討しよう。ハドリイ君。もう大体、見当がついておるだろうね」
警部はまたもや、部屋のなかを歩きだした。ときどき喉の奥で、唸るような大きな音を立てていた。
「見当がついたような気がします。ドリスコルはバークレイ・ストリートで、卿の車を待ち伏せしていたのです。土曜日の晩の出来事です」
「そうだったな。あれは土曜日の晩だった。希望に燃えた青年が、新聞記者としての出世を夢みて、卿の車を待ちかまえておったんだ──思わぬ破綻が前途にひそんでいるとも知らずにな。
この計画には、もうひとつ巧妙なところがあるんだ。たいていの冒険には非常な危険がともなうものだが、お偉方から帽子を盗むというやつは、別に大した騒ぎを起さずにすむものだ。紳士たるものが、帽子を盗られたぐらいで、警察へ届けるやつもあるまい。かりに見つけられても、被害者はそう熱心には追って来ないだろう。これが一番、この計画のわるがしこい点さ。ウイリアム卿のような気性の激しい老人は、ポケットからわずか半クラウンを掏《す》られたといっても、ロンドン中を追いまわすかも知れない。窃盗は許すべからざる犯罪だからな。しかし、品物が帽子だとなると、たとえ二ギニーするような上物にしても、一歩だって追いかけはせんよ。物笑いになるのが厭だからさ。どうだね、ハドリイ君。わしの意見はどうだろう?」
「ウイリアム卿の車をバークレイ・ストリートで待ち伏せしていたんですね。彼の立場になれば、その夜のウイリアム卿の行動予定ぐらい、電話一本で聞きだすことが出来ましょう。ああ、思い出しました。鉛筆売りの盲人が道を横切ったので、運転手は車を徐行させたそうですよ」
「行商人だもの、一シリングもやれば、道を横切るぐらい、喜んでするだろう。そうしてドリスコルは、帽子を手に入れた。ウイリアム卿が追っかけるはずはないと、彼はあらかじめ計算に入れておいた。その予想はやはり当って、彼の企ては、着々と進んでいった……」
彼はそこで、ハドリイの言葉をうながすように、その顔を見た。
「ところが、破局ははやくも、翌日現れたのですね。日曜日の夜、ビットン邸を訪れると、あらゆる彼の罪の報いが、一度にどっと襲いかかって来た」
「そこはいろいろ議論の余地のあるところなんだが、どっちにしろ、大して影響のあることではない。大体わしは思うんだが、彼が望みもしない原稿を盗む結果になったことは、日曜の晩までは気がつかなかったにちがいないんだ。なぜって、帽子の裏革なんて、誰だって気にとめて見るもんじゃあないからね。
しかし、日曜日の晩にビットン邸を訪れたとき、原稿が盗まれた騒ぎを聞かされた。むろん彼は、その原稿がどんなに貴重なものであるかということを心得ていた。ウイリアム卿が話すような話さぬような、おかしな自慢話をさんざん聞かしておったんだからな。
──それはそれで、まだよいのだ。彼にとっては、もっと致命的な打撃が待っておった。ローラ・ビットンとその夫が、コーンウォール旅行から帰宅していた。ローラは二人の仲が露顕したことを告げたのであろう。おそらくそこで、ローラとドリスコルとのあいだに、人に聞えぬようにいさかいが行われたにちがいない。カッとなったドリスコルは、翌日の逢曳の打ち合せもしないで、そのまま外へ飛び出してしまった。そのとき打ち合せさえすんでおれば、例のドリスコルのポケットに入っていた手紙を、ローラは翌日、男に届ける必要もなかっただろう。しかし、ドリスコルは打ち合せの機会を与えなかった。もっともそれが、激情家の彼らしいところでもあるんだがね」
「無理もないでしょうね」ハドリイは呟くようにいった。「スキャンダルが明るみに出れば、伯父のウイリアム卿からの仕送りは絶望になる」
フェル博士はうなずいて、
「こうした場合、ああいう激情的な頭には、何万という妄想が一度に押し寄せるものだ。ビットン夫人との醜聞にさんざん頭を悩ませた末、アパートヘ帰って来てみて、伯父があんなに大騒ぎしていた原稿が、自分の盗んだ帽子のなかにあると知ったとき、彼がどんな気持になったか、誰だって想像に難くないだろう。彼は一体、そのときどんなことを考えたろうか? いや、いや、考えるどころの騒ぎではあるまい。頭は混乱して、何が何だか判らなかったにちがいない。一万ポンドもする原稿が帽子の裏革に詰めものになっていたということだけでも、君自身にしたって、それを知ったらいい加減頭が混乱することだろう。
なにより彼の立場が苦しいことは、話があまり馬鹿げておって、しかも、結果の怖ろしさがはっきりしておることだ。生命にも換えがたいものが紛失したと、うるさい伯父がカンカンになっておる。問題の原稿は、なんと彼の手元に舞い込んでおる──それにしても、どうしてそれが、帽子のなかなんかに入りこんだのだろう? まさかそんなに大切なものを、伯父が進んで帽子につめて、街へかぶって出たとは考えられない。そして一番困ったことは、ドリスコルは原稿の所在を知らされていないことになっておるんだ!
この苦境を脱しようと、あの赤毛の青年は、気違いのようにあがいたにちがいない。つい先刻までは勇敢な冒険家として、肩で風を切って闊歩しておった。まさに安小説の主人公だ。それが一転して、怖ろしいスキャンダルの主人公に転落したのだ。肩で風を切った報いに、気難かしやの伯父貴が控えておる。おそらくその夜は、酔いつぶれるまで酒が飲みたかったことだろう」
「ドリスコルに分別さえあれば」主任警部はテーブルをたたきながらいった。「伯父さんのところへ行って──」
「冗談いうな。どんな分別ある男だって、そんな気になるものか。とにかく相手が、ウイリアム・ビットン卿なんだぜ。ドリスコルに、どんなことがいえるんだ──伯父さん、申し訳のないことをしました。ポオの原稿はお返しいたします。伯父さんの帽子を盗むとき、いっしょに持って来てしまったんです。
そんな台詞が、どの顔下げていえるんだね。かりにいったところで、どんな結果になると思うんだ、さっきもいったが、ドリスコルは原稿の所在は知らされておらんことになっておる。誰も知らんはずなんだ。ウイリアム・ビットンは、自分では非常に抜け目のない人間だと己惚《うぬぼ》れておるんだ。さんざん触れまわっておるくせに、誰にも悟られておらんつもりなのさ。
つまり彼は、ドリスコルの言葉なんか信ぜんのだ。かりに君にしてからが、こんなことを言われたらどう思うね──ハドリイさん。あんたは二階の机の引出しに、千ポンド紙幣を隠しておいたでしょう。私が昨夜、あんたのコウモリ傘を盗んだとき、偶然それが、傘の柄に紐でぶら下がっているのを発見して、持っていってしまったんですが、御返却しておきましょうってね。
君はそれを、文句もいわずに受け取る気になるかね? その上、そのまた仕上げをするみたいに、君の弟がやって来て──おい、ハドリイ。大変なことを発見したぞ。あの野郎、君のコウモリと千ポンドを盗んだばかりじゃない。おれの女房まで攫《さら》いおった。こんな言葉を聞かされたら、一体君は、どんな気になるね。ただ澄まして、相手を許しておけるかね?」
フェル博士は鼻を鳴らして言葉をつづけた。
「あるいは君の言葉のとおり、分別ある人間なら、そういうかも知れない。ところがあいにく、ドリスコルは常識家ではなかった。すくなくとも彼は、落着いてものを考える人間じゃないんだ。彼はのぼせ上がっていた」
博士は体を前に乗りだして、ゴム鼠を指で押した。鼠はぐるぐるテーブルの上をまわって、バタンと床に落ちた。警部もたまりかねて叫んだ。
「大切なところで、鼠をおもちゃにしていては困りますね──それで奴さん、一晩中頭を悩ました末、夜が明けるとさっそくダルライさんの助けを求めたわけですね」
「そのとおりだ」
それまで黙って、二人の会話を聞いていたダルライは、怪訝そうな顔をあげた。
「そうなんでしょうが、それにしては、なぜ直接、僕のところに飛んで来なかったのでしょう? 電話なんか掛けていないで、すぐにロンドン塔へ駆けつけそうなものですが──」
「それはこうさ。彼がすぐに駆けつけなかったことをみても、わしの事件についての見通しは間違っておらんとわかるんだ。つまり彼は、もう一度、ウイリアム卿を襲おうと考えたんだよ」
「なんですって!」
ハドリイ警部はピタリ足をとめて振りかえった。
「そういった情勢で、またも卿の帽子を盗むなんて、そんな矛盾した話はないじゃありませんか。窮境を脱するには、まさに正反対のやり方と思えますが──」
「それはそうだ。しかし、切羽つまった際に考えたものとしては、まあ、あんなところだろうな」
「そうかも知れませんが、それではかえって、事態をさらに悪化させるようなものではありませんか。言い訳はますますむずかしくなってきます。考えてもごらんなさい。こんどは、こんなふうにいわなくてはなりますまい──伯父さん。なんとも申し訳のないことをいたしました。お帽子を盗み、原稿を盗み、レスターの細君を盗み、最初のお帽子だけではまだ不足で、もうひとつ盗んでしまいました」
「黙りなさい。いいかげんに黙らんか。こんどはわしにもしゃべらせてくれ。あの男は、ダルライ君に助けてもらうつもりだった。しかし、それより前に、自分でも出来るだけの手段をつくそうとしていたんだ。最後のあがきかも知れんがね──わしは最初、一時に塔を訪問すると約束したと聞いて、おかしいなと思ったんだ。朝のうちだって、その気になれば、駆けつけられたはずだからな。しかも、二十分もおくれて来たというのは、どういうわけなんだろう? 出来れば、約束の時間よりも早目に駆けつけそうなものなのだ。なぜそんなに手間どったのだろう? つまりその間に、伯父に知られずに、そっと原稿を返しておこうとしたにちがいないのだ。
これは思ったより困難な仕事なのさ。邸内での話によると、原稿の盗難と帽子騒ぎと、全然相互に無関係の事件だと考えられているようだ。ウイリアム卿は、原稿はそれ自体を目的として盗まれたと信じておる。
そこでだ、もしドリスコルが、それを封筒に入れて郵送してみたらどうなるのか? かえってそれは、危険だといわなけりゃならん。あの邸にはアーバアという蒐集家がいる。彼は食卓で、なんの気兼なしに、書籍蒐集の自慢話をやっておる。そこで、最初に嫌疑のかかっておるのは、この男だ、しかし、盗品が郵送で返還されたらどうなるか? ウイリアム卿としても、第一に盗みそうな人物はアーバアだと思うが、それと同時に、いちばん返還しそうもないのもこの男だと信じておるにちがいない。つまり、送り返したことで、アーバアの嫌疑は晴れてしまうんだ──判るかね?」
ハドリイ警部はあごを撫でながら、
「そうでしょうな。アーバアが容疑者のうちから脱けるとすると、怪しまれるのは家族の者ですね」
「そういうわけだ。ウイリアム卿は、はじめから召使は疑ぐっておらん。わしらと話しあったときでも、召使に対する容疑は一笑に付しておられた。とすると、残るのは、レスター・ビットン、ローラ・ビットン、シーラ、ドリスコル──この四人だ。ところが、ビットン夫妻は、盗難があった当時、数百マイル離れたところにおった。原稿の顛末を知っておる者が四人、そのうちの二人はコーンウォールにおった! 残りは二人。そのうち、シーラがまさか、そんな真似をするはずはない。といった具合で、容疑者はドリスコル一人に絞られてくる。良心の呵責に堪えかねて、送り返してきたのだろうが、それもまた、ドリスコルのやりそうなことではないか。
おそらくドリスコルは、このいきさつを承知していたのだろう。原稿を郵送すれば、ただそのことだけで、伯父が自分を疑ぐってくると知っていたんだ。しかし、ほかにどんな方法がある。邸に忍び込んで、そっとどこかに、原稿を突っこんでおく。そうしたところで、ウイリアム卿は置き忘れたなど思うはずはない。大体すでに、真空掃除器で、邸中の紙きれという紙きれは、残らず寄せ集めてあるんだ。その後どこかの引出しから出てきたとしたら、やはり嫌疑が彼に向けられるのは、郵送した場合とおなじことだ」
「なるほど、それはさぞかし、彼も困ったことでしょう。私が彼の立場にたったとしても、どうしてよいのか、判断に迷ったことですな。仕方がない。しばらく静観していて、伯父の嫌疑を、アーバアに向けさせるより手はないでしょう。合理的な方法としては、それくらいが関の山です。それにしても、ドリスコルのように神経質な男には、いつ伯父のウイリアム卿に発見されるかとびくびくしていたあいだは、さぞ怖ろしかったことでしょうな。おそらく彼の気持としては、一刻もはやく、問題の品物が、自分の手から遠ざかるのを願ったでしょう。眼に触れぬところへはやく消えてしまえと祈ったにちがいないのです」
「そのとおりだ」
フェル博士は、ステッキで、床の上をはげしく叩きながらいった。
「それで彼は、完全に理性を失った。自分の手元から、この忌わしい代物をなんとかして遠ざけてしまわねばならん。放っておけば、いつ指先に火がつくか判らん。そこで彼が、どういう行動をとったと思う。当然のことだが、はっきりした腹なんかきまるわけはない。しかし、じっとしてもおられん。あの霧のなかを、追い立てられるように外へ飛び出して、無我夢中で、街のなかを歩きまわった。気がつくと、いつも決って彼の足は伯父の邸に向っていた。逃げても、逃げても自然と足がひきつけられてしまうのだ。
ハドリイ君。わしらがウイリアム卿と酒場で出逢ったのは、何時だったか憶えておるかね。あれはたしか、二時だったはずだ。そのとき彼は、まっ赤になって怒りながら、またしても帽子を盗まれたといっておった。一時間半ほど前にやられたばかりで、わしはまだ、腹が立っておる最中なんだってね。その言葉から計算して、大体の時間が決定できる。一時二十分前ということになるんだ。
ウイリアム卿もいっていたが、卿は月に一度、定期的にまわって歩く先があった。やはりこれも、彼がいっておったことだが、その予定は、めったに変更することはないのだ。今日の予定は、ドリスコルのアパートを訪問することだった。それもやはり、卿があのとき、はっきりと説明しておった。で、卿の自動車が霧に濡れて街角に駐めてあった。運転車は煙草を買いに行っておって、ウイリアム卿はまだ、邸から出て来ない。ドリスコルは、知らず知らずのうちに、伯父の邸前まで辿りついてしまって、物陰からその様子をうかがっていたのだ」
「私はいま、ビットンがしゃべった、いろいろのことを思い出しましたよ」
主任警部は、にが笑いをしていた。「卿が邸から出掛けに、ふいと車に眼をやると、誰か怪しい者が、車の窓から手を突っ込んで、ドアのポケットを探っていたというのでしたね。つまり、ドリスコルは、何か取るために探っていたのではない。逆に彼は、持てあました原稿を、車のポケットのなかに押しこもうとしていたんですね」
「わしもそう思う。ところが、ウイリアム卿が意外に早く現れた。卿のほうは、こいつ泥棒と思いこんで、捕まえる気はなかったが、こらッ! とはげしく一喝した。はっとしてドリスコルは、手を引っこめると同時に、本能的に頭に閃いたものがある。帽子だ! ウイリアム卿の帽子だ。それをひったくると、霧のなかに姿を消した」
「つまり、先生の御意見では──」
「経験から来た直感だね。彼はいままでの経験上、伯父が追っかけて来ないことを知っていたのだ。ウイリアム卿はいつだって、舗道にぽかんと突っ立って、喚き叫ぶだけだったんだ」
ハドリイはしばらくしてうなずいて、低い声でつけ加えていった。
「なるほど、そうらしいですね。だけど先生。ひょっとすると、彼はやはり、車のポケットのなかに原稿を返したかも知れませんぜ。調べてみる必要があるんじゃないですかね」
フェル博士は、そっと床から、ゴム鼠を拾いあげながら、悼《いた》ましそうな表情をみせて、
「君の明察も残念ながら、十一時間ほど遅すぎたよ。さっきウイリアム卿の自動車で、ロンドン塔に急いだとき、わしは如才なく、車のポケットを改めておいた。何もはいってはいなかったよ。ドリスコルはやはり入れなかったんだ。その暇はなかったんだよ」
そのときふいに、ハドリイの顔に、ほんのかすかな微笑が浮かんだ。博士との会話のあいだ、彼は自分の意見をさし控えていた。適当にフェル博士から、必要な説明を引き出しながら、とうとう彼自身の解釈を築き上げてしまったとみえる。
「では次に、お説に従って、私の推理を組立ててみますから、御批判を願いましょう。ドリスコルは今朝、比較的早目に外出したまま、ついに帰宅せずにしまいました」
「そういうわけだ」
「彼は原稿を持って出た。だけど、盗んだ帽子は、この部屋においたままだった」
「そうだろうと思うね」
「そしてまた──大弓の矢もおいたままだ。鍵をかけていたところだから、どうせ人目につくところにあったと思ってよろしい」
「そのとおり」
「そこで──」と、ハドリイは急に深刻な顔に変って、「この事件はやっと解決しましたね。レスター・ビットンが、今朝ドリスコルを訪問しました。あいにく彼は、外出中でした。ですが、レスターは、兄ウイリアム卿から借りた鍵で、なかに入ってしばらく待っていたが、昼近くになって邸に戻りました。帰って来たところは、ミス・ビットンに見られています。そのときの様子を、シーラさんはこう語っています──叔父さまはいつになく興奮なさって、怖い顔でいらっしゃるのに、突然、お笑いになったりするのでした……
ビットン邸から、あの鉄矢を持ちだす機会のあったものというと、それはもちろん何人もいることでしょう。だが、このアパートから持ちだすことの出来たのは、レスター・ビットンのほかにはないはずです。ウイリアム卿のトップハットを盗むチャンスのあったのは、やはり何人もいたでしょう。だが、それをここから持ち出して、ロンドン塔で刺し殺した死体の頭にかぶせ得たのは、これまた、レスター・ビットンのほかにはありません。これで彼は、ドリスコルの希望をかなえてやったのです。ドリスコルはトップハットをかぶって死んで、少くとも一人の女性に、墓の前で泣いてもらえたのですから」
フェル博士は、黒いリボンを引っぱって眼鏡を外すと、両の眼をはげしくこすった。
「君のいうとおりだ」
彼は手と手のあいだから、押しつぶしたような声を出した。
「わしもやはり、おなじ意見さ。これが極め手になると思っておるんだ。それでミス・ビットンに、レスターが帰ってきたとき、何か持っていなかったかと訊いたのだよ」
彼らは、時のうつるのも忘れていた。夜のロンドンは、いまやまったく寝しずまった。裏手のほうから絶えず響いていた、遠い汐騒に似た騒音も、いつの間にかすっかり消えて、夜更けの広場を横切る車の列も絶えたらしい。彼らの話し声が、不気味なくらい大きく聞えるだけだった。
そのとき、閉ざしたドアのむこうで、電話のベルが甲高く鳴りわたった。
シーラ・ビットンが電話口に出たとみえて、きれいな声で答えていたが、すぐに、ドアがはげしく開いて、緊張したシーラの顔がのぞいた。
「お電話です、ハドリイさん。何か、アーバアさんのことらしいわ。あのアーバアさんでしょうね?」
ハドリイはいそいで駆けだした。
十六 暖炉のなかに
シーラ・ビットンは、室内の人々の顔を見て、あまりにも真剣な表情なのに、驚かされた様子だった。彼女自身の表情にしても、いつものたしなみなど、どこかへ置き忘れてしまったかたちで、帽子もオーバーも脱ぎすてて、ふさふさした金髪が、額ぎわに乱れていた。上着の袖を手首の辺でたくしあげている。小鼻のわきに、黒い汚れがついているのは、涙をこすったあとであろう。ランポウルは、ドリスコルの持ち物を、あれやこれやと取り分けている彼女の姿を思い浮かべた。ひとつ取り、ひとつ捨て、そのたびごとに、ありし日のドリスコルを思い出しては、急にその場に坐りこんで、湧き上がる涙にむせていたらしい。
ランポウルははじめて、近親の死に直面したときの女性の心理を認識した。最初のうちは意外なほど冷静で、取り乱したようすは微塵もみえない。それが一転して、ヒステリックな状態になる。しばらく、気持の変化が交互に起ってから、やがて混合した心境に落着くらしい。……
ハドリイ警部は電話口に出ていた。フェル博士もそのあとを追ったが、かつてみたこともない真剣さで、その上、不思議なくらい興奮していた。ランポウル青年にしても、そのときの異様な光景を、生涯忘れることがあるまいと思った。
──ハドリイは、熱心に聞き入っていた。静まりかえった部屋のなかに、電話の言葉が、ほかの者の耳にも聞きとれるほど鳴っていた。肱をテーブルにあて、背をドアに凭せかけて、ハドリイは受話器に食いつくように、ものもいわない。つい今しがた、シーラの荷造りで掻き立てられていた埃も、いつか緑色のスタンドの笠におさまっている。書棚のわきでは、フェル博士がハドリイの様子を凝視している……眼鏡のリボンが黒く揺れて、ソフト帽をぐっとあみだに押しあげたまま、ゴムの鼠を掴んだ手で、絶えず口ひげをつまんでいる。
受話器のむこうから、早口に響いて来る声のほかは、物音ひとつしない。シーラ・ビットンが何かいいかけたが、ダルライがいそいで制した。ハドリイ警部は、ひと言、二言、簡単な言葉をつぶやいてから、受話器を手にしたままふりかえった。
「どうした?」
とフェル博士がせきこんで訊いた。
「計画どおりいきました。アーバアは日が暮れるとまもなく、友人スペングラー夫妻の家を出て、自分の別荘に向いました。スペングラーもいっしょについて行きました。刑事は手配どおり、庭先から二人を脅かす手段に出ました──なんだ、カロル? 先生に報告するあいだ、待っておれ」
彼は受話器をそのままにして、椅子にかけた。
「アーバアは別荘に入ると、屋内の電灯をのこらずつけましたが、同時に、鎧戸も下ろしてしまいました。鎧戸の下のほうに、ダイヤモンド形の穴があいていましたので、刑事はそこから屋内をのぞきこみました。
アーバアとその友人は、前のほうの部屋に腰を下ろしました。室内の家具は、カバーもまだそのままの様子でした、二人は暖炉の前に坐りこんで、チェスの盤をかこみました。そばにはウィスキーの壜がおいてありましたが、アーバアはやはり、不安に取り憑かれたままの状態です。
大体これが、二時間ほど前のことです。これから私の部下は、忙しく仕事に取りかかりました。庭の小石の上を、わざと音を立てて歩きまわり、建物の周囲をうろつきまわったのです。二人はその物音を聞きつけたのでしょう。スペングラーのほうが、鎧戸をあけて、外を見まわしました。刑事はすぐに隠れました。で、スペングラーはまた鎧戸を下ろしてしまいました。
このようなことを何回か繰りかえしているうちに、とうとう二人は巡査を電話で呼びました。巡査はさっそく、懐中電灯を照らして庭中を調べましたが、むろん怪しい者は捕まりません。で、巡査が帰ってしまうと、刑事はふたたび窓ぎわに近づくのです。わざわざ騒ぎを起こそうとしているのです。
ウィスキーの壜が、半分ほど空になったころ、アーバアかスペングラーか、どちらのほうか判りませんが、烈しくチェス盤を叩きました。耳を鎧戸にあてると、アーバアがスペングラーを納得させようとしているのが聞えます。スペングラーはなかなか承知しない様子です。そこで私の部下は、さらにまた、挑発してみました。裏手にまわって、台所口のドアをガタガタさせてみたのです。
次の瞬間、要領よく彼は、自動車車庫のコンクリート壁のなかに難を避けました。先見の明ありといったところで、台所のドアがサッと押し開けられると、拳銃がぐいと伸びて、庭前へ向けて盲滅法に発射されました。半マイル以内の警察官は、その銃声に驚いて駆けつけました。大変な騒ぎになってしまったのです。スペングラーは、拳銃携帯許可証を見せて、陳弁これ努めるという始末でした。騒ぎは鎮まりましたが、お陰でアーバアは疲れ果てて、もうくたくたの状態なんです。後生だから警察へいっしょに連れていってくれ。ぜひハドリイ警部に会えるように手配してくれ、直接話したいことがあるんだといいだしたそうです」
情勢の好転にもかかわらず、フェル博士は一向に浮かぬ額つきだった。
「で、君はどうしようというんだ?」
ハドリイは時計を出してみて、これも浮かぬ顔で答えた。
「十二時を十分も過ぎていますね。だけどこれを、明日の朝まで延ばすのも危険です。夜が明ければ、朝の太陽といっしょに、彼は元気を取り戻してしまうかもしれません。元気が出れば、口を割るような気持は飛んでしまう。何とかして、参っているうちに取り調べる必要があるんです。それにしても、警視庁へ連れて来させるのは感心できません。ああいったタイプの人間は、こちらが威圧的に出ると、口を閉ざして沈黙してしまうものです。といって、これからゴールダース・グリーンまで出向くのも辛いことですし──」
「このアパートヘ連れて来ればよかろう」
「それは名案ですな」
ハドリイは眼を輝かした。それからその眼をシーラ・ビットンに移して、
「お嬢さんは、ダルライさんが送ってくださるでしょう。それがいい。そういうことにしましょう。アーバアは、警察の自動車で連れて来れば、本人も安心すると思います」
「アーバアは電話では話さんのかね?」
「それが駄目なんです。理由は判りませんが、あの男は電話恐怖症に取り憑かれているらしいんです」
ハドリイ警部は、部下の刑事に電話の指示を与えてから、またフェル博士に向っていった。
「先生、彼は何を話したいんでしょうね?」
「わしにはわしで、考えはあるが、いまのところ、まだ話したくないんだ。血塔のトンネルのなかで、両方の入口に、それぞれビットン夫人とアーバアをおきながら、なおかつドリスコルが鉄矢で刺し殺されたと聞いたとき、おなじような疑問が起ったのを憶えておる」
話したくないといいながら、呟くように博士は語りだしたが、ふと、かたわらにシーラ・ビットンがいるのに気がついて、口をつぐんでしまった。ミス・ビットンは、廊下でダルライの陰に立っていたが、いまの会話は耳に入らなかったようだ。博士は廊下をのぞいて、口ひげの端をぎゅっと噛んだ。
「まあ、いいさ。じきに判ることだろうよ」
ハドリイ警部は書斎を調べていた。もともとドリスコルがだらしのない上に、シーラ・ビットンが徹底的に掻きまわしてしまったので、室内は手のつけられない状態だった。床の中央には、彼女の手でこまごまとした品物が積みかさねてあった。銀杯が二個、スポーツクラブの写真、クリケットのバット、ランニングのセーター、陶製のビール杯──それには、誕生日を祝す、シーラよりとしてあった──スタンプ・アルバム、使えなくなった釣針、ガットが延びたテニスのラケット──こうした品物を見ていると、元来荒涼としたこの部屋に、死者の思い出が凝結して、妖異が頭上に垂れ寵めるかに思われた。部屋の主人は死んだのである。
「みなさん、どいていただけません!」
シーラはいらいらするように言った。ダルライを押しのけるようにして前に進んで、
「こんなに散らかして! フィリップって、ほんとにだらしのない人なの。服だって、どれもこれも放りだしたままで、どう片づけていいか判りませんわ。それに、ここにある新調の帽子はお父さまのものなのよ。裏革に、ちゃんと金文字で、お父さまの頭文字がついていますわ。どうして、こんなところに来ているんでしょう」
「え?」
ダルライも、はっとしたように、博士の顔を見た。
「ドリスコルは、一度ここへ戻って来たんでしょうか? 塔へ行くまえに──」
「そうらしいな」
フェル博士は答えた。「例の所業のあとでも、塔へ行く約束の時間には、まだ二十分以上も余裕があったはずだ。それだのに、なお二十分も遅刻しとるんだから、もちろん一度帰って来たと考えてよかろう。かまいませんよ、お嬢さん。その帽子は、ほかの品物といっしょにお持ち帰りください」
「それにしても、みなさん、おどきになっていただきたいわ。ダルライ! マークスを呼んでくださらない? 荷物を自動車に運ばせたいの。わたくし、手を汚してしまったわ。タイプライターの机に、油がいっぱいこぼれているんですもの。おまけに、砥石のかけらが落ちていて、もうすこしで指に傷をつけるところでしたわ」
ハドリイは机に近づいて、入念に調べていた。ランポウルはまたしてもぞっとして眼をつぶった。取り散らした部屋に坐って、みどりのスタンドの下で、自分の胸に突き立てられる矢とも知らずに、せっせと鑢《やすり》をかけているドリスコルの姿を思い浮かべて、肌寒い感じに襲われたのである。
主任警部は呟いた。
「砥石とタイプライターか。ところで先生、道具籠をお探しの様子でしたが、問題の品物は発見なすったんですか? タイプライターも調べておいでのようでしたね。一体、何が欲しかったのです?」
フェル博士は手にした鼠を、さかんに動かしながら、
「ニュース・ストーリーの原稿を探しておったのさ。事件の発生はまだだが、報道記事のほうは書かれておるはずだ。ダウニング街十番地首相官邸における怪奇事件という見出しでね。ウイリアム卿のトップハットが、鉄矢でドアに突き刺さっておったという記事さ。ドリスコルとしては、これで新聞街をあっと言わせる目算だった、それには事件が起るより早く、特種記事をタイプしておく必要があった。この第一級特種で、ロンドン中の新聞社を出し抜けば、彼の手柄たるや、大したものだからな。
タイプ原稿は打ちかけではなかった。すでに出来上がって、机の上においてあったよ。ところが、ほかにも原稿の打ちかけが、山ほど積んであったのだ。やつは小説に手を染めておったんだよ。いずれをみても、おどろおどろしい標題でね。怪奇小説の範疇に属するものばかりだ。ドーアナウエイ家の呪いなんてものでね。旧家の廊下を、深夜幽霊がさまよい歩くといった種類さ。大体ドリスコルは、貴族社会につよい憧れを持っておったんだ。彼はおそらく、ウイリアム卿の爵位が、あいにくただの勲爵士《ナイト》にすぎなくて、一代かぎりで終ってしまうのが残念でならなかったと想像されるよ」
シーラ・ビットンは、じれったそうに足をトントンさせて、
「いいかげんに、どいてくださらない? フィリップが死んだというのに、部屋のまん中に陣取って、おしゃべりばかりなさっていては困りますわ。この部屋の書類が御入用でしたら、いまのうちに言っていただきますわ。わたくし、いま、衣裳箱に入れて持って帰ろうとしておりましたの。お父さまが、きっと見たいとおっしゃるにちがいないんですもの。暖炉で燃やしたのはどうにもなりませんけど、でも、わたくしいま見ますと、タイプでなくて、ペンで書いてあるので、誰の手紙かしらと思って──」
彼女はちょっと頬を赤らめて、
「いつもよくあるもののようですし──それにみんな燃えていましたし──」
「え! なんだって!」フェル博士が叫んだ。
彼の巨体が、転がるように炉ばたに駆けよった。煉瓦を積みあげた暖炉だった。
「懐中電灯だ、ハドリイ!」
跪《ひざまず》いて、鉄の火格子を外した。警部も、顔色を変えて、懐中電灯を突き出した。暖炉のなかには、まっ黒に焦げた紙片が詰まっていた。電灯の光を浴びせると、それでも少しは燃え残って、ねずみ色に燻《くすぶ》ったところをみせていた。
「メアリイの手紙ですね」
と、ハドリイが言った。が、フェル博士は悲痛な顔で、
「肝心なものは、その下にあるんだ」
それを彼は、そっと取り上げた。手を触れたばかりで、灰になって崩れた。無事に残ったのは、煙に黒くくすんだ、数インチの部分だけだった。ごく薄い紙片を、縦に三重に折りたたんである。大切そうに拡げて、彼はそれを掌の上に載せた。ハドリイの懐中電灯に照らしてみると、標題もあったようだが、その部分は煙で色が変って、どうにも読みようがなかった。片隅の作者の署名にしても、おなじように変色して、Eという文字が、派手な書体をみせているだけである。ほんのわずかの部分が褐色に縮れあがりながらも、焔の災禍から免れた数行を残していた。
わが友C・オーギュスト・デュパンの、たぐい稀れな才能については、いずれ日を改めて物語る機会もあると思う。彼は私に、それを筆にすることを禁じたのである。常軌を逸して、奇人とさえ思われる性格を、世に知られることを嫌ったからであろう。さしあたってここには、この事件だけを記録する ──
一八──年のある日、風のはげしく吹きすさむ夜のこと。フォブール・サン・ジェルマン街のうらぶれた私のアパートを訪れる者があった……
誰もが、声も立てずに読んでいった。フェル博士はひざまずいたまま動かなかった。無残に焼け焦げた紙片を、炉辺の神に捧げるかのような姿にみえた。
「これだよ」
長い間をおいて、博士は低い声で呟いた。
「これがその、冒頭の一章なんだ。何気ない筆致の書き出しだが、すでに、怖ろしい秘密を暗示しているではないか。いつも見るように夜の世界。夜風がしきりに吹き募っている。遠い異境の街。事件の日付はわざと空白にされている。もの淋しい街並の、崩れかかったような古アパート──これが君、エドガア・アラン・ポオの手になった、世界最初の探偵小説の書き出しなんだよ」
ランポウルの眼の前に、浅黒い男の顔がチラチラした。冥想的な瞳、尖った顎。不精ひげが口もとに乱れ、肩は痩せてはいるが、軍隊生活の経験を忍ばせて厳《いか》つくみえる。蝋燭の光、貧しい部屋、ほんの数冊の蔵書。ドアのうしろには、うす汚れたシルクハットがひっかけてある。この陰鬱な人物は、一生を賭けて夢に生きたのだ。生前のあらゆる愉楽を、不滅の名声と称する悲しい金貨と交換して……
ハドリイは立ち上がって、懐中電灯を消した。
「これでとうとう、一万ポンドも泡になりましたな。だけど、アーバアとしては、かえって仕合せかもしれません。フィラデルフィアにいる友人に、残金を支払わなくてすむんですからね」
ダルライもつぶやくように、
「ウイリアム卿には、この話はしかねますね。聞いたとたんに、気が狂ってしまうでしょう。それにしても、フィリップのやつ、これだけは残しておいてくれればよかったなあ」
「そうじゃあないんだ!」
フェル博士はするどく言い放った。「君たちはまだ真相が判らんのか。情けない話じゃないか。何が起ったか、察しがつかんのか」
「彼が暖炉にくべた。ただそれだけのことでしょう」ハドリイ警部が答えた。「ドリスコルとしては、戻そうとした途端に、あぶなく捕まりかかったので、すっかり怖じ気づいてしまったんです。部屋へ帰るそうそう暖炉のなかに投げこんでしまったというわけですよ」
フェル博士は、ステッキをちからに立ち上って、急に雄弁にしゃべりだした。
「君たちは、まだ真相を掴んでおらんのだ。何が起ったのか? 誰が、フォブール・サン・ジェルマンの男の扉口をたたいたのか? どんな怖ろしい冒険が前途に控えておるのか? ハドリイ警部、君としては、当然それらのことを考慮に入るべき義務があるんだぞ。
この原稿が、蒐集家と称する鼻持ちならぬ輩の手に入れば、新しい金歯でも見せびらかすように、友人間に自慢して歩くにちがいない。そしてまた、この原稿が世に出るとなれば、文学史家と称する連中が、得々として死んだ作者の心理分析をやってのけるだろう。しかもその際、十九世紀の作品を料理するのに、二十世紀の庖丁を以てする愚を犯すにちがいないんだ。しかも、彼ら馬鹿者は、その矛盾に気がつくはずがない。といって、わしらは何も、そんなことまで気を病む必要はない。大体それが、一万ポンドの価値を呼ぼうが、わずか半ペニイと評価されようが、ないしはまた、未刊行の原稿だろうと、珍しい初版本だろうと、クロス装幀だろうと革表紙であろうと、そんなことは所詮どうでもよいことだ。結局わしらが問題にするところは、あのサン・ジェルマン街の扉が叩かれたことから、どんな壮大な夢が、どんな凄惨な冒険が展開される結果になるかにあるんだ」
「まあ、いいでしょう」警部はにやにや笑いながら言った。「ついでにただいまの雄弁も、所詮どうでもよいことだという結論にしていただけませんか。先生、いささか興奮ぎみですな、つづきを知りたいお気持ならば、ウイリアム・ビットン卿にお聞きになればよい。卿は最後まで読まれたはずですよ」
「馬鹿を言え。わしがそんなことを聞くとでも思うか! この小説の結末は、わしが残りの半生を捧げて、その解決を書きあげたいと望んでおるのだ。永遠につづく、わしのための『次号完結』としてだ」
面白くもない二人の会話に、シーラ・ビットンはついに諦めたものか、自分のほうから寝室に移って、そこでまた、何かごとごとと調度を動かしていた。ハドリイ警部は言った。
「先生の夢は夢として、現実の事件に戻りましょう。この暖炉の様子を見れば、次の事実が確認できますね。ポオの原稿は、メアリイの手紙の下にあったのですから。ドリスコルがまずこれを、ロンドン塔へ出かける前に焼いたのでしょう。それから五時になって、ビットン夫人がこの部屋へ来て、彼女に不利になるおそれのある証拠を、残らず焼き捨てたものと思われます」
「わしも同意見だね」博士もくたびれたように言った。「しかし、何だな。わしもかなり疲れたよ。なにしろ、ここ数時間というもの、一杯の酒も口にしておらんのだからな。そこらを探せば、何かあるだろう」
「ごもっともですな。それをすませてから、私にも一席しゃべらせてもらいましょうか」
警部が先に立って、部屋を出た。人気のない食堂に入って、スイッチをひねると、食卓の真上に、モザイク風の電灯が点った。ランポウルが考えるまでもなく、このアパートを象徴するような照明だった。飾り立てすぎて、醜悪にみえた。金と朱と青と、色が三つ混りあって、不気味な光を投げていた。華やかに見えて、かえってこの家の主人の死を思い出させるのが、この部屋であった。
ランポウルにとって、恐怖はすでに実感にまで高まっていた。この食堂の埃にまみれたマントルピースの上に、大理石の置時計が、文字盤に金文字を煌めかしているが、指針は止まって動かない。ガラスに厚く埃がおおっているところを見ると、止まったのは数日前らしいが、なんとそれが、二時十五分前を指しているではないか。
ランポウルはそれを見た瞬間、逆賊門の石段の下に、白眼をカッと見ひらいて倒れていたドリスコルの顔が思い出されて、思わずぞっと身慄いを感じた。とうていこのアパートで、酒を飲む気なんかになれるものではない。
薄暗い廊下に、いつまたドリスコルが、足音を響かせて来ないものでもない。実感としては、彼が死んだとは思えないのだ。突然、時間に断絶が生じただけではないのか。斧の一撃を食らったように、一定の時間が忘却の淵にたたきこまれたのではなかろうか。急に彼が、いつまた、平気な顔で帰って来ないものでもない。食い残したビスケットが、その歯の痕もそのままに、皿の上に残っている。部屋々々の灯火の光も、彼の帰りを待ちわびている。いつかまた、時間の途切れが埋められて、もとの世界が復活するのではなかろうか。
しみだらけのテーブル掛けの上に、オレンジの皮が散らばっているのを見ているうちに、ランポウルはまたしてもはげしく身慄いをした。
「僕には、ウィスキーなんか飲めませんね。そんな気になれませんもの」
と、ランポウルは言った。
「僕もそうです」ダルライも言った。「親友でしたからね」
彼はテーブルに向って、手で両の眼をおおってしまった。
フェル博士は食器棚をがたがた掻きまわしていたが、きれいなグラスを見つけだした、細い眼を一層細くして、すっかり満悦のていである。
「君もそう感じるかね?」
「感じるって、何をです?」ハドリイは無神経に訊きかえして、「酒壜もありますよ。ほとんど手を着けてないようだ。私は強いのがいいですな。ソーダをあまり入れないで──何の話でした? 感じるって、何をです?」
「彼がここに、まだ生きておるというんだよ」博士が説明した。「ドリスコルがね」
ハドリイは酒壜を前において、
「つまらんことを言うのはやめましょう。あんた方、何をしようというんです。私を脅かすつもりですか? まるで怪談話でも始まるみたいじゃありませんか。さあ、グラスを渡してください。私が台所で洗って来ましょう」
博士は食器棚に体を支えるようにして、おもむろに部屋の四隅に眸を走らせた。
「わしはなにも、怪談話なんかするつもりはないさ。たださっきレスター・ビットンの話を聞いているあいだに、ふっと妙な予感に襲われたんだ。突拍子もない予感だが、うなずける節もないことはない。それだけに、わしには薄気味わるいのさ。夜が更けてくるにつれて、その気持が、ますます強くなって来る。わしとしては、むしろ酒でも飲まずにはおられんのだ。君たちも、やはり酒を飲んでおく必要があるんじゃないか」
ランポウルは不安になって来た。今日一日の緊張が、彼の頭脳を混乱させて来たようである。
「では僕も、一杯ぐっとやることにしましょう」
彼はダルライに眼をやった。これもまた、おなじようにうなずいて、
「博士のおっしゃることは判ります。あのとき僕は立会っていませんが、それでもお言葉の意味は判るような気がします」
「われわれの目下の関心は」とハドリイは言った。「レスター・ビットンに集まっているんですが、で、先生。犯人は彼だと断定して間違いないでしょうか?」
博士はグラスを並べて、ハドリイの手から酒壜を受け取った。グラスは、洗ったほうがよいと誰もが言ったが、そんな言葉は完全に無視して、彼は順々に注いでいった。
「彼のアリバイ次第だな。アリバイさえなければ、大体、公判にまわしても、失敗のおそれはないだろう。しかし、アリバイの点は、わしもあんまり自信はないね。ウイリアム卿に訊いてみたいんだが、時間もおそすぎるし、ちょっと困ったな。ときにダルライ君、あんた、ウイリアム・ビットン卿にはいつ逢われたな?」
「卿にですか?」
ダルライは首をあげて、怪訝そうな顔で相手を見て、
「卿にですか?」と、繰りかえして、「今夜もお逢いしております。メイスン将軍のいいつけで、卿がロンドン塔からお帰りのとき、僕がお送りしましたからね」
「将軍が卿に、原稿の所有権は誰に属するのかって説明しましたかな? つまり、所有者はアーバアだってことをですよ。あんたも原稿のことは、よく知っておられるんでしょう?」
「知っていますとも。ウイリアム卿は、誰を捉まえても話していたのです。これはだれも知らん話だから、絶対に他言は無用じゃぞなんてことを言いながら、結局のところ、誰にでもその秘密をしゃべっていたわけです。あなた方に話されたときも、これは始めて洩らす秘密だがというのが前置きだったでしょう」
「そうでしたな」
「将軍にも、僕にも、やはりおなじ前置きで話しました。僕たちが聞きましたのは、もう何週間も前のことですが、ただ実物は、誰もまだ拝見していないのです──今夜、ここでお目にかかったのが始めてです」
「メイスン将軍から、所有権はアーバアにあると聞かされたとき、ウイリアム卿の返事はどうでしたな?」
「それがおかしいのです。あまり口をききませんでした。そうかと言ったきリで、静かなものでした。簡単に信じたわけでないことはたしかですが、それから卿の言ったことは──」
ダルライはドアの外が気になるらしく、何度も繰り返して視線を投げるが、それだけであとの言葉はつづけなかった。そのとき、電話のベルがけたたましく鳴った。
ベルの音に、異様なものが含まれていたわけではないが、ランポウルは水を浴びせられたような気持になった。ベルはひっきりなしに鳴りつづけるが、誰も動こうとはしなかった。
やがて、フェル博士が言った。
「ハドリイ君、ミス・ビットンは、電話口に出させんほうがいいぜ」
ハドリイは立ち上がって、書斎へ入っていった。残りの三人は、身動きもせずに待っていた。しーんと静まりかえって、廊下の奥の台所で、シーラが動きまわっている音が聞えてくる。ハドリイは、そんなに長く電話で話してはいなかった。まもなく、書斎のドアが開いた。廊下を通る警部の足音が耳に響いた。食堂のドアをうしろ手に閉めて、
「万事おわりました。外套を着てもらいましょう」
「どうしたんだ?」
博士は、低い声で訊いた。
主任警部は、片手を眼のあたりまで持っていって、
「先生の予感が当りました。どんな気持で彼がここを出ていったか、私は当然推察すべきでした。すくなくとも、ミス・ビットンの口から、あのひとの言葉を聞かされたとき、それと気がついて然るべきでした。彼はやはり、自分の望んでいた方法で死んでいったのです」
フェル博士は片手をそっと、食卓の上に下ろして言った。
「それでは」
「そうなんです」ハドリイ警部はうなずきながら答えた。「レスター・ビットンはピストルで自殺しました」
十七 ビットン邸の死
一行は、ハドリイの車で、バークレイ・スクエアのビットン邸に向った。そのあいだ、交わされた会話というと、ハドリイ警部が第二の悲劇について簡単な説明をして、それにともなった、二、三のみじかい質疑応答が行われただけであった。
「事件が起きたのは、電話がかかって来る十分ほど前のことでした。電話で知らせてよこしたのは執事なんですが、今夜は邸中の者が、シーラ・ビットンの帰宅を待って、おそくまで起きていたのでした。その執事は、台所にいて、銃声を聞きました。二階へ駆け上がってみますと、レスター・ビットンの部屋のドアが開けっ放しになっていて、火薬のにおいが、ぷーんと鼻を突くのでした。ビットンの体はベッドのなかに横たわっていました。銃を手にしたままの姿勢で……」
「それでどうした?」
「ホッブズは──というのが執事の名ですが──ウイリアム卿を起そうとしました。ですが彼は寝室のドアに鍵をかけて、睡眠剤を飲んで眠っている様子なんです。いくら呼んでも、起きて来ません。そこでホッブズは、ミス・ビットンがわれわれのところへ来ていることを思い出して、すぐに電話をかけてよこしたのです。どう処理してよいか当惑していたのですが、さいわいその電話で、われわれを捉まえることが出来たというわけです」
「ビットン夫人はどうしたんだね?」
「訊きませんでした」
「ふーん」と、博士はつぶやいて、「そうだな、おそらく自殺だろうな」
ランポウルは、前の席に坐っていたので、博士と警部との会話を、全部耳にしたわけではなかった。車の走るあいだ、馬鹿のように頭を空にして、何ごとも考えなかった。死んだレスターについて頭に浮かんでくることというと、シーラ・ビットンの、子供っぽいひと言だけだった。──いつも叔父さまは、チョコレートを買って来てくださったわ……
開け放した前窓から、冷たく湿った空気が流れこんで来る。タイヤが絶えず歌いつづけ、家並の上には星が瞬いていた。静かな夜だった。ハドリイの心づかいで、シーラ・ビットンには、まだ叔父の死は知らされていなかった。警部は、彼女とダルライをあとに残して、事件の発生は後刻話してくれるようにと、ダルライに頼んでおいたのであった。
「シーラは、邸へ帰さぬほうがよいと思います」
ダルライは言ったのである。「ヒステリーを起すにきまっています。シーラは叔父が大好きだったのです。僕は、シーラの一番の親友が、バーク・レインに住んでいるのを知っています。マーガレットという婦人ですが、今夜は車でそこに送りましょう。それからすぐに、あなた方のあとを追っかけます」
それはそれとして、ランポウルが非常に意外に思ったのは、博士が不思議なくらい執拗に、アーバアとの会見をハドリイに勧めていたことである。
「もし君が会っておる暇がなければ」と博士は、緊張した表情でつけ加えた。「わしが代りに会ってみてもよろしい。あの男は、いまだにわしのことを、ハドリイ主任警部だと信じておるんだ。なまじ本当のところは説明せんほうがよいかも知れんぞ。何しろ、生命の危険に怯えておるときだから、うかつに真相なんか話そうものなら、かえって疑惑を湧き立たせるようなもんだよ」
「先生がお会いくだされば、それも結構です。われわれとしては、彼の口を割らせさえすればよいのですから。あのアパートに引返しましょうか? よろしかったら、お残りになって、彼の到着をお待ちになっていただきます。ですが、私としては、ビットン邸の事件のほうが重要だと思いますので、出来ればあちらに御足労ねがって、アパートのほうは、われわれが戻るまで、ランポウル君に留守をお頼みしたらどうなんです?」
「わしには名案がある。いっそ、彼をビットン邸に連れて来ることにしたらどうだ」
「ビットン邸へですか? それはどうも、まさか先生は──」
「アーバアがどんな態度をとるか見たいんだよ。わしは前から、その考えが頭にあったんだ。マークスをアパートに残しておいて、アーバアが到着次第、連れて戻るようにいいつけておけばよろしい」
博士の指示どおりの手配が行われた。それからまた、ハドリイ警部のダイムラーが、深夜の街を、風のように飛んだ。バークレイ・スクエアに着いたときは、運転台の夜光時計は、一時近くを指していた。
星空の下に、古風な家々が寝静まっていた。ピカデリイのあたりから、ときどき自動車の警笛が聞えてくる。夜更けの道をいそぐ足音が、思ったより高く耳にひびく。昼間の霧の名残りが、街灯の周囲と街路樹の枝に、未練らしく漂っていた。
一行はビットン邸のせまい階段を上って、ハドリイが玄関のベルを押した。
「わしは格言を二つだけ知っておるんだ。そのひとつを君に披露するが、何だと思うね?」
フェル博士は、ステッキの先で、階段の上をトンとついた。うつろな音が、夜空にひびいた。
「罪は告白せざるを得ぬというんだ。いつか告白せざるを得ぬ。告白より逃れ去るには、ひとり自殺あるのみ。自殺もまた告白なりっていうのだよ」
ハドリイはまたベルを押した。
玄関の重い扉が開けられたが、屋内は比較的平静を保っていた。鎧戸は下ろされ、カーテンはひかれ、電灯という電灯はみな点っていた。不吉を思わせる静寂だった。しかつめらしい顔の老人が、一行を壮麗なホールに案内した。切子細工のシャンデリアから、青白い光が溢《あふ》れていた。
「ハドリイ警部さまですか? 私がホッブズと申します。はい、さきほどお電話をさしあげたのは、私でございます。すぐに、お二階へ御案内いたしましょうか?」
ハドリイがうなずいても、彼はまだためらいながら、
「こうした場合は、医者を呼ぶべきだと承っておりますが、御絶命になっておりますことは、はっきりしておりますので、一応、みなさまの御意見を伺いまして──」
「ああ、それでよいんだ。おまえのほうで医者を呼ぶことはないよ。ウイリアム卿はまだお目覚めにならんのか?」
「まだ、お起しできませんので──」
「ビットン夫人は、どこにおいでだ?」
「お部屋においででございます。こちらでございますが──」
ホールの奥、裏階段の近くで、誰かひそひそ、ささやきあっている声が聞えた。それだけで、あとはまた、邸中を深い沈黙が支配した。執事が厚い絨毯を踏んで、一行を案内した。階段を登ったところで、壁がくぼんでいて、青銅の像がいくつか飾ってあった。それからまた廊下。ここまで来ると、火薬の悪臭が立ちこめていた。
片側のドアが開いていて、薄暗いホールに、明るい光が流れでていた。ホッブズは、体をわきによせて、一行をなかに通した。なかに入ると、焦げた火薬が、一段と鼻をついた。しかし、室内はすこしも取り散らされていない。天井の高い部屋で、四方の壁は、濃茶に黄色い縞が細く入った壁紙で、まん中から、シャンデリアが長く垂れ下がっている。簡素な趣味で統一された調度。ベッドのわき、小机の上に、笠をはねたスタンド。机の引出しがすこし抜きかけてあるのが、唯一の異常状態である。暖炉には、電気ヒーターが取りつけてあった。
レスター・ビットンは、寝台の上に、斜めに体を横たえていた。ドアの前に立ったときから、足だけは見えていた。近寄ってみると、服を着けたままだった。銃弾は右のこめかみから、左耳一インチほど上へかけて貫通していた。ハドリイが天井を見上げたので、その視線を追うと、弾丸が食いこんで、板が裂けているのが見えた。死体の顔は、気味のわるいほど平静だった。血も、あまり出ていない。右腕をぐっと伸ばして、手首のところで折り曲げているが、指先に、四五口径標準型陸軍用ウエブリイ・スコット自動拳銃が握られていた。ランポウル青年が、もっとも不快な感じを抱かされたのは、頭髪の焦げた悪臭であった。
ハドリイ警部は、すぐには死体に手を触れなかった。低い声で、ホッブズに訊いた。
「たしかおまえは、台所で銃声を聞いたといったな。すぐに駆け上がって、死体を発見したのだろうが、誰かほかにも、駆けつけた者はないのか?」
「ビットンの奥さまです。私のすぐあとでおいでになりました」
「ビットン夫人の部屋はどこだ?」
ホッブズは暖炉の側のドアを指さして、
「あそこが化粧室でございますが、そのむこうが奥さまのお部屋になっております」
「ビットン夫人は、どうなさったね?」
執事はちょっと用心した様子だが、すぐに無関心を装って、
「何もなさいませんでした。お立ちになったまま、ながいあいだ、レスターさまを見下ろしておいででしたが、ウイリアムさまをお起しして来るように、おいいつけになりました」
「で?」
「そのまま、お部屋にお戻りになりました」
ハドリイは、書き物机のそばに寄って、かたわらの椅子を眺めていたが、ふり返って、
「ビットン氏は夕刻外出されたな。帰宅されたのは十一時ごろと思うが、おまえはその姿を見たかね?」
「はい。レスターさまは十一時すこし前にお帰りになりました。まっ直ぐに図書室にお入りになりました。
ココアを持ってくるようにおっしゃいますので、さっそく持参いたしますと、暖炉の前に腰を下ろしておいででした。それから一時間ほどしまして、また図書室にうかがいまして、何か御用はございませんかと、お訊きしました。そのときもレスターさまは、さっきとおなじように、暖炉の前におかけになったままで、何も欲しくないとおっしゃるのでございます。そして、立ち上がられて、私のわきを通り抜けるようにされまして、そのまま二階へあがっていかれました」
ここではじめて、ホッブズは言い淀んだ。おそろしく態度が慎重な男である。
「それが、私のレスターさまを見ました、最後でございます」
「それから、銃声を聞くまで、どのくらい時間があった?」
「あまりはっきりしたことは申し上げられませんが、五分と経ってはいないと思います。たぶん、もっと短い時間だと考えます」
「様子はおかしかったかね?」
またしばらく、返事が途切れた。
「はい。そのようにお見受けいたしました。ここ一月ばかり、レスターさまは、いつものようではございませんでした。でも、別に、とくにおかしいとか、興奮あそばされておいでとかいうことはありませんが、どうも、いつものレスターさまらしくなかったのでございます」
ハドリイは床を見つめた。けばの深い厚手の絨毯は、人の歩いたあとを、足跡でも辿るように確かめることが出来た。扉口に立って、ずっと眼をやると、レスター・ビットンの、この部屋における行動が、おそろしいくらい判然と窺われた。知ってのとおり、レスターは、巨躯の持ち主である。軽身の人間とは、よほどその点ちがっているのである。
最初彼は、暖炉の前に近よる。それから、暖炉に向いあった小机に歩みよる。開いたままの引出しが、ピストルのあった場所を教えている。さらに化粧箪笥の前に立って、かなり長いあいだ、おのが姿を写していた。そこには、とくに深く足跡がついていた。最後に、ベッドを背にして、まっ直ぐに立った。その上に、倒れるための用意であろう。そして、ピストルをあげて……
「拳銃は、このひとの持ち物か?」
と、ハドリイ警部は訊いた。
「左様でございます。あの小机の引出しに入れてありました」
警部はしずかに、拳で掌をたたきながら、そしてまた、しずかに、しかし、するどく部屋中を見まわした。
「ホッブズ、もうひとつ、訊いておきたいことがある。ビットン氏の今日の行動を知りたいんだ。出来るだけ詳しくな」
ホッブズはズボンのわきをしきりに引っ張っていた。顔だけは──骨ばった顔だけは、それでも平静をつづけていた。
「はい。そのことでしたら、相当詳しく申し上げられます。と申しますのは、私、近ごろ、レスターさまの御健康が心配でございました。どうも、お仕事がおいそがしくて、御疲労ぎみかと案じておったのでございます。御存じかどうか知りませんが、私、ビットン大佐には、長いあいだ御奉公しておるのでございます。で、レスターさまは、今朝十時半頃お出掛けになりまして、正午にはお戻りになりました。フィリップさまのアパートをお尋ねになったものと心得ます」
「帰って来られたとき、何か持ってはいなかったかね?」
「何か持って? ええ、たしかに──と、彼はすこし躊躇したが、──何かの紙包みを持っておいでのようでした。茶色の紙にくるんだ物でございます。それから、十二時過ぎますと、すぐにまたお出かけでございました。ひるのお食事はお取りにならなかったと存じます。なぜと申しますに、月曜日はいつも、ウイリアム旦那さまがお出かけになりますので、お食事の時間が一時でなく、十二時になっておるのでございます。で、一度お戻りになりましたとき、それを、御注意いたしたのですが、ココアをお上がりになりましただけで、ウイリアムさまのお車から帽子が盗まれました事件の前に、お出掛けになってしまいました」
「実業区《シティ》へ行かれたのだろうか?」
「ではないと存じます。なぜと申しますに、ウイリアム旦那さまが、レスターさまのお出かけを御覧になりまして、わしも実業区《シティ》に行くんじゃが、いっしょに乗っていったらどうだとおっしゃいました。するとレスターさまは、今日はオフィスヘは行かぬつもりだとお答えになりました。散歩に出るのだといっておいでのようでございました」
「そのときの様子はどうだったね?」
「落着きのない御様子でございました。新鮮な空気を吸いたいとおっしゃって──」
「帰ってみえたのは?」
「それが、はっきりは判りかねるのですが、ビットンの奥さまが、フィリップさまの怖ろしいお知らせを持ってお帰りになりまして──」
ホッブズは首を振った。唇を噛むようにして、平静を保とうと努めている様子だった。が、やはり声が顫えて、視線がベッドに惹きつけられるのを防ぎきれなかった。
「いや、ありがとう。訊くことはそれだけだ。階下で待っていてくれ。その前に、もう一度、ウイリアム卿を起してもらいたいんだが──」
ホッブズは一礼して、部屋を出ていった。バドリイ警部は、博士たちを振り返って、
「あなた方も、階下で、お待ちになっていただいたほうがよいと思います──私はこれから、死体を検《あらた》めておきますが、そのあいだに、アーバアが到着するといけませんので、そのほうはお二人にお委せします」
フェル博士はずかずかとベッドに寄って、死体の上に屈みこむと、眼鏡をかけ直して、素早く一瞥《いちべつ》した。それから、ランポウルに合図をして、一言もいわずにドアから出ていった。
二人は無言で階段を降りたが、ランポウルは背後のどこかで、掛け金の下りる音を聞いた。と同時に、階上のホールで、人影が動いたような気配を感じた。しかし、彼はすでに、殺人や盗難事件や、その他いろいろと、この古い邸の薄気味わるさに心を奪われていたので、ほとんど注意を払わなかった。
ロンドンの街々のうちで、このメイフェアの界隈ほど、こだまと影に満ちみちた場所はないであろう。いつのことであったか、ランポウルはこの街を、黄昏の薄明のなかで散歩したことがあった。雨のにおいが湿った空気に漂って、どの家にも、人ひとり住んでいないのではないかと思われた。せまい街筋に、ときどき思いがけぬ光景が現れた。なんでもない街角に、不意に、高い煙突を聳えさせた邸が顔をみせたり、鎧戸を下ろした広壮な邸がつづくあいだに、田舎町でみるような、灯火をいっぱい輝かした店が並んだ横町があったり、まったく魔法の国のような妖しさだった。ベッキー・シャープ〔サッカレーの「虚栄の市」の女主人公。貧困に生れたが、美貌と才智を利用して社交界の花形に成り上がる〕が馬車に乗って通っていく姿が眼に浮がぶ。ウォターローの勝報が、このもの静かな街並をどよもしたのも昔のことだ。プラタナスの街路樹がみどりの枝をそよがせ、御用聞きの小僧が、口笛を吹きながら自転車を走らせている。マウント・ストリートの突き当りには、ハイド・パークの鉄柵がのぞいている。バークレイ広場まで来ると、タクシーが二、三台、頑丈そうな車体を並べて、客待ちの灯を掲げている。いつのまにか、雨が落ちだした……
リージェント・ストリートの大通りまで出ると、様相は一変する。赤く塗った大型のバスが、めまぐるしく行きちがっているし、矢をつがえた軍神《エアリーズ》のネオンが煌《きらめ》いていたりする。横町という横町から、ひっきりなしに通行人の列が現れて、ルーレットの玉が中央に転がるように、ピカデリイ・サーカス目ざして流れこんでいく。しかし、このメイフェア付近だけは、そうした喧騒を離れた別世界だ。サッカレーの作品にだけ生きる夢の国だ。サッカレーはそれをまた、アディソンとスティールの文筆から受け継いだのであるが……
ランポウル青年は、一組のトランプから、何枚かのカードを引きぬくように、そうした追憶のひとつひとつを噛みしめながら、フェル博士のあとから階下に下りていった。博士はするどい勘を働かせて、図書室の位置を、すぐに探しあてた。これもまた、おなじように天井の高い、まっ白に塗った部屋である。三方の壁は、窓だけをわずかに残して、全部書籍で埋めつくしてあった。白く塗った書棚の桟《さん》が、どっしりした革表紙の色に冴《さ》えている。第四の壁は、クリーム色の鏡板を張りつめて、中央に白大理石の暖炉が切ってある。その真上には、金色の額縁に嵌められた、ウイリアム・ビットン卿の等身大の肖像がかかっていた。その両側に、大きな窓が庭にむいて開いている……
フェル博士はうす暗い部屋の中央に立って、物珍しげに室内を見まわした。火格子のなかでは、小さな火がちょろちょろ燃えて、ピンクのシェードをかけたスタンド灯から、やわらかな光が、重厚な感じの調度を浮かび上がらせている。窓のそとに、夜空の足と、まっ黒な庭園の茂みとが望まれた。
フェル博士は、低い声でささやいた。
「わしは大へん幸運だと喜んどることがある。アーバアが、いまだにわしのことを、ハドリイ警部だと考えとることをさ。そのお陰で、アーバアをハドリイから遠ざけておくことが出来るんだ」
「それが幸運なんですか? どういうわけです?」
「君のうしろを見るがいい」
ランポウルは、あわててふり返った。絨毯が厚いので、ローラ・ビットンが入って来ているのに気づかなかった。最初は、ビットン夫人であることすらも判らなかった。
夫人は急に、目立って老けてしまった感じだった。昼間、衛視の詰所で、しっかりした足取りと、冷たく光る茶色の眼で、確信を以て立ち振舞っていたおもかげは影も見えない。眼は血走って、頬もひきつるように歪んでいた。青ざめた皮膚に、そばかすの色が濃い。
「わたくし、あなた方が階下にお降りになるのを聞きまして、あとを跟《つ》いてまいりました」
声は奇妙にうわずっていた。夫の死が、どうしても信じられないといった様子である。それから急に、つけ加えて言った。
「あなた、みんな御存じなんでしょう?」
「みんなとは何をです?」
夫人は、思いきった声を出した。それでもすこし気取って、そして、すこし反抗するかのように──
「はっきりおっしゃっていただいて結構です。フィリップとわたくしのことです。もうみんなご存じでいらっしゃるんでしょう」
フェル博士は、首をかたむけて、
「それにしても、彼のアパートに侵入なさったのは失敗でしたね、奥さま。見られてしまいましたよ」
しかし、彼女は、動じる色もみせない。
「わたくしも、見られたとは覚悟しています。鍵は持っていたのですけど、泥棒の仕業と思わせるために、台所で|のみ《ヽヽ》を探して来て、ドアの錠を毀しておきましたの。けれど、駄目でしたわね。すぐに見破られてしまったらしいですわ。でも、それでよろしいの。わたくしいま、申し上げておきたいことが、ひとつだけありますの──」
しかし、夫人は言葉をつづけることは出来なかった。博士と青年を交互に見やりながら、唇を鎖《と》ざしてしまった。
沈黙がつづいた。
「奥さま」博士は、ステッキの上に、かぶさるようにしていった。「おっしゃろうとしていることは、判っておるつもりです。奥さまはその言葉がどんなふうに響くか、それを気遣っておいでなんでしょう。おっしゃりたいことはこうではありませんか──本当は、ドリスコルなんか愛してはいなかった……しかし、奥さまそのお言葉は、ちっとおそかったようですね」
博士の声は平板にひびいた。声に抑揚は全然なかった。が、眼だけはするどく相手を凝視していた。
「夫の手が、なにを握っていたか、ごらんになりまして?」
「ええ、奥さま」と博士は、つぶったままの夫人の眼を見守りながら答えた。「見ましたとも」
「ピストルではなくてよ! もうひとつの手のほうです。夫は、引出しから出したのです。あれはわたくしの写真でした」
彼女はいつか落着いて、茶色の眼に、冷たい光を放たせていた。
「わたくし、それを見まして、そのまま部屋にもどってしまいました。それからずっと、窓ぎわに坐って、外の闇を見つめていました。わたくし、いまさら何の言い訳もいたしません。ですが、ベッドに横たわっている夫の姿を見てから、千も、百万も、数えきれぬほどの幻が、まぶたの上に浮かび上がるのでした。それが、全部夫の姿なんです。あのひとと二人の、長いあいだの生活が、一度にのこらず思い出されたのです。わたくし、でも泣けませんでした。さっき、フィリップの死を聞いたときは泣くことも出来ましたのに、いまは泣こうとしても泣けないのです。こんなことになりましたが、わたくしがレスターを愛していたことは、はっきりと申し上げられます。わたくしたちの、ものの考え方が正反対だったために、とうとうあのひとを傷つけることになりました。世間によくあることかも知れませんが、わたくし、なんという愚かな女だったか、いまさら悔まれてなりません。でも、わたくしがレスターを愛していたことには変りありません。信じていただけるかどうか判りませんが、聞いていただきたくて降りて来ました。では、これで部屋に戻ります──こんどは、たぶん、泣くことが出来ると思います」
彼女は、ドアのところで立ちどまった。手を、乱れた髪にあてて、さらにしずかにいった。
「ひとつだけお聞かせ願えませんか? フィリップを殺したのは、レスターでしょうか?」
長いあいだ、博士は動かなかった。大きな影が、スタンドの光に浮かんでいた。やがて、彼はうなずいた。
「ですが、このことは、奥さまの胸にだけしまっておおきになるんですね」
ドアが、彼女の背後で閉まった。
「といったわけさ。判ったかね?」フェル博士はランポウルに向って言った「この家には悲劇が重なりすぎたよ。これ以上は気の毒だ。レスター・ビットンが死んでしまったからは、ドリスコル事件は終結ということでよいではないか。ハドリイさえ承知すれば、これを公表する必要はあるまい。未解決の事件ということにして、闇から闇に葬ってやりたいのさ。レスター・ビットンは、財政的に行き詰まって自殺したことにするんだ。案外それも、原因のひとつであったかも知れないんだ。ただ、しかし──」
彼はまだ、広い書棚の下に、考えこみながら立っていた。そこに、ホッブズがドアをたたいた。
「失礼いたします。やっとのことで、ウイリアムさまをお起しいたしました。ドアは鍵が内側からかかっておりますので、勝手な処置で恐縮ですが、ねじ廻しで外から毀しました。旦那さまは、フィリップさまが亡くなられましてから、ひどく、御気分がおわるいようでございます。でも、もう間もなく、階下に降りておいでになります。それから、あの、ちょっと変なことが──」
「何だって?」
「いえ、あの、巡査が二人、玄関に来ております。御当家のお客様がごいっしょでございます。はい。アーバアさまとおっしゃる方です。ハドリイさまが、ここへ来るようにおっしゃったそうで──」
「ああ、そうか。いいんだよ。それについて、ホッブズ、おまえに頼みがあるんだ。聞いてくれるかね?」
「はい、何なりと──」
「巡査はどこかの部屋へ入れてしまうんだ。それでアーバア氏を、ハドリイさまは図書室にお待ちかねですといって、わしのところへ案内してもらいたい。ハドリイには内緒なんだぜ。判ったかい?」
「かしこまりました」
待っているあいだ、博士は落着きなく、絨毯の厚い床の上を、何か呟きながら歩きまわっていた。ドアが開いた。博士はするどく向き直った。ホッブズが、ジュリアス・アーバアを案内して来たのである。
十八 電話の声
ランポウルは暖炉のそばにひき退がった。室内はどこも、きちんと片づいて、炉前の敷物も、そのままの位置にある。革椅子だけが火格子のすぐそばまで引き寄せられている。小卓の上に、空になった茶碗が載っている。ココアの残りが底に澱んでいる。レスター・ビットンが、この革椅子に身を沈めて、炉の赤い火を見つめながら、長いことかかってココアをすすっていた証拠である。それから彼は、ひとり淋しく階上へ登っていったのであろう……ランポウルは、青磁の茶碗から眼を上げて、部屋に入って来た男を眺めた。
アーバア氏は、ある程度、平静を装っていた。が、それが見せかけだけのものであることは、すぐに判った。彼は、部屋に入るなり、ウイリアム卿の肖像画を見上げた。うす暗い室内に、ごう然と羽を拡げた白頭の鷲といった形で、見上げているうちに、アーバアの不快さは、じりじりと昂《たか》まって来たようすである。ホッブズがわきから、帽子と外套を受け取ろうとしているが、脱ぐ気配さえみせようとしない。それでも威厳だけは無理につくろうつもりか、口のまわりに、二本の皺を深くよせて、絶えず眼鏡に指をやったり、きれいに分けた黒髪を撫で上げてみたりしているのだった。
「今晩は、警部さん」
帽子を左手でとって、右手をずっと伸ばした。握手を求めているのである。が、フェル博士は澄ましたままだった。
「いや、お早ようと挨拶する時間かも知れませんな──しかし、警部さん。ここへ来るようにといわれまして、実はちょっと驚きました。一度は、お断りしようと思いましたが、とにかく、警部さん、お判りになっていただきたいんですが、あの不愉快な状態で──」
博士はその言葉をさえぎって、暖炉の前の椅子をすすめながら、
「まあ、お腰かけなさい。これはわしの同僚なんだが、あんたとはやはり、さきほどお会いしておる。憶えておいでかな?」
「ええ、ええ。憶えていますとも。で──」と、アーバアは、わざとぼんやり、つけ加えていった。「お話というのは、ウイリアム卿の件ですか?」
「いや、そうではない。まあ、お坐りなさい」
「原稿を私が買い取った話は、たぶん卿の耳にも入っているんでしょうね?」
アーバアは、不安そうな眼を、肖像画に据えていった。
「それはもちろん。しかし、いまとなっては、どちらにせよ問題ではない。誰の物にもならんのだから。燃えてしまったんでね」
眼鏡が落ちかかるのを、アーバアはあわてて抑えた。
「な、なんですって? だ、誰か──それを焼いてしまったんですか? 怖ろしいことです、警部さん! 何の権利があってそんな真似を──私はすぐにでも訴訟を起して──」
博士は紙入れから、焼け残りの原稿を大切そうに取り出して、しばらくそれを眺めていた。
「拝見させていただけませんか?」
アーバアは震える手で受け取って、ピンク色のスタンド灯の下でのぞいていた。裏表交互に、しばらく眺めていたが、顔をあげて叫んだ。
「これです。たしかに、これにちがいありません。警部さん。怪しからん犯罪です。これは──これは私がいただいておきます」
「そんなものに、値打がありますか?」
「そ、それは──」
「どうしてこんな羽目になったか、一応事情を説明しておくとするか。わしがもし、あんたの立場におるとすれば、この紙きれだけをポケットにしまいこんで、それで当分、いきさつ一切を忘れたことにするでしょうな。あんたにしてからが、いまのところ、厄介な問題に巻きこまれておられるはずだ。これ以上のトラブルは御免だと考えなさることだろうに──」
「トラブルですって?」
アーバアは、いささか反抗気味に、反問した。ランポウルの眼にうつった彼の様子は、から元気をつけて壇上に登ったものの、手に持った講演ノートが、がさがさ、ごそごそと音を立てるので、内心の動揺がすっかり露顕してしまった講演者というところだった。
「あんたという人は、一日、二日、留置場で頭を冷やしてもらったがよかろうと、ついさきほどまで考えておったところなんだ。そうすれば、あんたは身の潔白を証明できるであろうが、新聞が放ってはおかん。新聞記者なんて輩《やから》は、思いやりなんて、爪の垢ほどもないんだからな。実際彼らほど冷酷なものはありませんぞ──で、一体あんたは、何のために逃げ出したんです?」
「逃げだした? まさか、私が!」
「隠そうとしても駄目だ。すべてわれわれに見透しなんですぞ」
博士は、意地のわるそうな声を出した。ハムレット父王の亡霊再登場である。
「警視庁《ヤード》には何だろうと判ってしまう。何なら、あんたの行動を、ここでひとつひとつ、いってみせようかね?」
彼はそれから、ロンドン塔以後のアーバアの行動を、逐一《ちくいち》鏡にうつすように述べ立ててみせた。あらゆる細部にわたって正確ではあったが、その話し振りだけ聞いていると、罪人が法網を潜って逃げまわるのを追っかけているといった印象を免れなかった。
「あんたはたしか」と、博士は結論づけた。「直接わしに会って話したいことがあるといっておられた。さあ、伺いましょう。しかし、はっきり申し上げておくが、現在あんたの立場は、はなはだ以てまずいことになっておる。この際お話は、出来るだけ正直に願わんければいかん。でないと、今後あんたの話は一切信用できんことになる。それで、お話というのは──」
アーバアは椅子の背に深くもたれて、荒い息を吐きちらした。昼間から夜おそくまで、殺人事件以後の彼の経験は、緊張につぐ緊張によって、神経を無残にすり潰《つぶ》していた。彼は眼鏡をかけ直し、ウイリアム卿の肖像画を眺め、ひたすら落着きを取り戻そうと努めていた。
「そうでしたね。申し上げますとも、警部さん。ひどい誤解を受けていることは承知しております。こうした立場にいる者としては、当然のことかも知れませんが、ここで何もかも申し上げるつもりですから、御了解のほどをお願いします。まえからそのつもりではいたのですが、ここまで来ては、それ以外に、私の取る方法はないようです。実際私は、二重の意味で危険な立場に追いこまれているのです。警察からも変な目で見られていますし、犯人からも狙われているという始末でしてな」
彼は精緻な浮彫を見せたシガレット・ケースを出して、言葉をつづけるまえに、一息ふかく煙を吸いこんだ。
「私は──書物の世界だけに生きている男でして、その、何といいますか、つまり、世間の喧騒から隔絶して、有閑人種の特権を享楽しておるものです。荒々しい人生の波に揉まれるなんてことはありません。あなた方はまたあなた方で、明けても暮れても、凶悪犯人を追いまわして、絶望的になった彼らと、生死を賭しての決戦なんかを演じているんですから、まるでどうも、ちがった世界の人種が話しあうようなもんで、こんどのようにこんがらがった犯人とぶつかって、私の頭がどんなに混乱させられたかも、理解していただけるとは思っておりません。
ことの始めは、やはりこの呪われたポオの原稿から起ったのです。いまここで、またそれを細部にわたって繰り返す必要はないと思います。今日の午後、詳細に御説明しておいたはずです。私は当地に、ウイリアム・ビットンから原稿を入手する目的でやって来ました。私としましては──ここで彼は、次第に声が興奮にうわずって来た──自分に所有権のある物を入手するのは当然のことですからね。ですが、私は躊躇しました。ウイリアム・ビットンの、常識では考えられんようなエキセントリックな性格を考えたからです。私はとんだジレンマに陥ってしまったのです」
「判りますよ。あんたの気持はよく判る。つまりなんだな、あんたはウイリアム卿の烈しい気性を恐れた。そこで、誰かを雇って、原稿を盗ませたというんですね?」
「とんでもない!」
アーバアはむきになって、抗議した。椅子の腕を掴んでいる手に力が入った。
「そんな真似をするものですか。ですが、そういった眼で見られているんじゃあないかと、実は心配していたのです。さっきも、あなたの同僚の方が、おなじようなことを言ってみえた。そのとき私は──むろん私は、そんな人間を雇いはしないが、かりにいいつけてやらせたにしても、私は正当な権利を行使しているので、何ら法律に違反するものでないと、はっきり申し上げておきました。ですが、警部さん。お断りしておきますが、私は決してそんな真似はしませんよ。誓って申し上げられるんです。実をいえば、そういう考えが私の頭に浮ばなかったわけでもありませんが、まさか、そんな乱暴なことは、私には出来ませんでした。見つかりでもしたら、迷惑を蒙るのは、こちらのほうかも知れませんからね──絶対私は、人を使って盗ませるなんてことはしませんよ!」
彼は両手を大きく拡げて、叫びつづけた。
「原稿が盗まれたと聞いたとき、私の驚きようは、ウイリアム卿以上だったにちがいありません。最初私が、その盗難のことを知ったのは、ウイリアム卿が日曜の夜、私の友人スペングラーのところに電話して、私の居所を確かめてきたときいたときでした。ですが、そのときは──」
彼はフェル博士の冷たい視線を感じて、一層語調を強めた。しかし、彼が真実を語っていることは疑う余地がなかった。
「ところが、おなじ夜に、もっとおそくなってから、また別の電話がかかって来たのです」
「え! なんだって? 誰からの電話だ」
「それが、名前は言わぬのです。ですが、私は声で、はっきり判りました。私の耳は、自慢するだけの価値があるのです。一度聞いた声は、決して間違えることがないのです。その声は、ドリスコル君のにちがいありません」
フェル博士は飛び上がった。するどく彼はアーバアを凝視したが、相手はしかし、たじろぎもせずに睨みかえして、さらに言葉をつづけた。
「あの青年と会ったのは、一週間も前のことですが、そのときのことを思いかえしてみても、私の耳に間違いはないようでした。会ったのは、ビットン邸の晩餐の席でしたが、その席で私は、大胆すぎるくらいに、ポオの原稿についての話をにおわせました。ほかに食卓をいっしょにしたのは、ウイリアム卿とミス・ビットンだけでして、そのとき聞いたドリスコルの声を、一週間やそこらで忘れるはずはありません。
電話の声は、ウイリアム・ビットン卿の手にある原稿を欲しくないかと訊くのでした。私を信用させるために、晩餐の席で私の言ったことを、こまごまと繰りかえして述べるのです。私はむろん、彼と察しました。用件は、原稿を手渡すから、無条件で金が欲しい。いくら出すかと訊くのでした。
私はこれで、敏速な行動の出来る男なんです。即座に腹をきめて、適確に事態を処理する自信を持っております。私の相手にしている人間は、ビットンの家族の一員であることに疑いありません。声を作っていますが、そんなことを見破るのは簡単なことです。家族の者を相手にするのならば、他人を雇って盗みに入らせるのとちがって、事件が発覚しても、スキャンダルの起る心配はないと思ってよいでしょう。いずれにしても、私が告訴されるような惧《おそ》れはないにきまっています。ただ、電話の相手は、私が原稿の所有権を持っていることを知らぬ模様でした。誰にも話してないのですから当然のことです。彼の本当の腹は、私に原稿を渡しておいて、あとでゆっくり脅迫にかかるつもりだったかも知れません。しかし、私は平然と、笑ってすませられるわけなんです。実際、危険を冒すのは、彼のほうだけなんだということは、どうやら気づいていないようすでした。
私は私の立場を、即座に見てとりました。この電話は天の助けのようなものです。この男を利用して、原稿さえこちらの手におさめてしまえば、あとは手紙一本でこと足りるんです。ウイリアム卿に、私の所有権を明らかにする手紙を送り、もしお疑いとあれば、私の弁護士はこれこれの法律事務所ですから、遠慮なくお問い合わせ願いましょう。訴訟なり何なり、御自由になさるがよろしい。それだけ聞けば、まさか卿も騒ぎ立てはしないでしょう。その上──」
アーバアは、いいにくそうにつけ加えた。
「電話の声の要求している金額なんか──」
「五十ポンドもあてがって、あとは空嘯《そらぶ》いておればよいわけだな。わしは元来この原稿の持ち主なのさ。君はなんだ、泥棒じゃないかってね。五十ポンドは、ビットンに支払う場合よりずっと小額だからな」
「いわれるとおりです。はっきり言えば、そういうことになる」
アーバアはうなずいて、煙草をパッパッと、性急にふかした。
「私は電話の主に同意を表して、原稿はすでに入手しているのかと訊きました。相手はすぐに、事実ここに持っているから、いくら支払ってくれるか決定してくれというのです。私は即座に相当の金額をいってやりました。相手のほうが、かえって面食らった様子でした。多いといっても、たかが知れているんです。差し引き私は、ずっと利益になるのです。
彼は喜んで、では翌日、あらためて電話して、原稿を渡す場所や時刻を知らせるからと言いました。そこで私は、連絡はスペングラー家を通じてしてくれるように伝えました。相手はさらに、自分の正体は決して調べないでもらいたい、調べようとしても、判らぬように手配してあるから無駄ですよ──とそうつけ加えるのも忘れませんでした。私はむろん、笑っていました」
「で?」
「電話が切れると、どこからかかって来たのか、確かめようとしましたが、とうとう判らずじまいでした。小説なんかでみると、簡単に判るようですが、実際はむずかしいものですね」
「で、それから?」
アーバアは背後をそっと振りかえった。またしても、不安の念を濃くしたようである。部屋の四隅のうす暗がりが気になるらしくて、膝に煙草の灰がこぼれるのも気づかぬらしい。
「私は事態を楽観していました。万事私に、都合よく運ぶと思っていたのです。翌日──というのが今日なんですが、平常どおり、午前中に用事を片づけてしまうと、今日はひとつ、のびのびになっていた、ロンドン塔の見物をすませてしまおうと考えました。それから先の行動は、さきほどお話したとおりです。殺人事件が起きたと聞いて、塔を出ようとしましたが、足どめを食ってしまいました。当惑はしましたが、その反面、ひとつこの際、ロンドン警視庁の活躍振りを拝見するのも一興だと考えました。どうせ殺されたのは、どこかの貧乏人だろうと思ったからなんです」
そこでまた、アーバアは眼鏡のふちに手をやって、
「警部さん。とうにお察しのことでしょうが、いきなりポオの原稿から尋問されたときは、さすがの私もドキッとしましたね。それでもまだ、正直いって、私はたかをくくっていました。冷静にかまえてさえおれば、なんとか切り抜けられるだろうと己惚《うぬぼ》れていたからです。もちろん、気はつかっていました。どんな手で、攻めて来られるか? その手を落ちなく腹に入れて、どっしりと構えてさえおれば、ボロは出さずにすむと思っていたのです。ところが、死んだ男の名前を聞かされたとき──」
彼は胸のポケットから、絹のハンケチを取り出して、額の汗を拭った。
「心臓が止まったかと思いました。私のこころの動揺がきっとお眼についたものと考えます。まさかと思っていたことが、俄然、怖ろしい事実となってしまったのです。ドリスコルは私の指示どおり、原稿を手渡そうとしていたのでしょうが、殺されてしまいました。そのために殺されたと思うより、仕方のないような状況じゃありませんか。何か凶悪な策謀に操られて、私までが巻き添えになってしまったとしか思えません──それも、こともあろうに殺人事件に」
彼は、はげしく身慄いして、言いつづけた。
「さきほどから申し上げたように、私はこうした古稿本には眼のない人間なんです。原稿にからんだ怖ろしい出来事──それが私に、直接どんな関係があるかは知りませんが、とにかく私の身に、何かの危険が降りかかることは、覚悟しなければなりません。原稿はどこへ行ってしまったのでしょう? ドリスコルは身につけていませんでした。あなた方も、充分捜索はされたのでしょうが、やはり見つからなかったものと知りました。私自身は、出来るだけそれに触れたくなかったのです。下手に動けば、嫌疑は結局、私のところに集まって来るにちがいないからです」
「そこまでのところはよく判る。それから、どうされた?」
ランポウル青年は不思議に思った。博士が事件を究明するとなれば、かならずや、ドリスコルにはアーバアに原稿を渡す意図などないと言明するはずだ。それが、いま見ていると、そのするどい小さな眼を、書籍蒐集家の顔に浴びせかけてはいるものの、まるで無条件に、その言葉を信じ切っているように、いかにもといったふうにうなずいている。ランポウルもまた、アーバアの話を聞いているうちに、おなじように無条件に信じたくなって来た。そこには、可能な説明としては、たった一つしか考えられない。追いつめられたドリスコルは、何とか原稿を自分の手元から遠ざけたいものとの気持から、一度はアーバアと打ち合せはしたものの、その夜が明けて、いくらか冷静を取り戻すと、こんどはまた、そうした場合の危険が心配になって、その方面への行動もまた避けることにしてしまったのであろう。
「で、警部さん──」
と、アーバアは咳払いをひとつして、
「いよいよ話は、一番怖ろしい、信じられないような部分に到達しました。私がこの弱い心臓で、よく卒倒しないですんだと思うくらいの出来事なんです」
「衛視の詰所を出てすぐでしたな」博士はゆっくりと口をはさんだ。「あんたは何か、死ぬほど怖ろしい眼に出逢った。それで、無我夢中で、ゴウルダース・グリーンまで逃げのびた。一体それは、何だったのかな?」
アーバアは絹ハンケチを、胸のポケットにしまった。どうやら話は、飛込み台に載っかったようだ。踏みきるか、踏みきるまいか、アーバアはしきりに迷っていた。
「警部さん。その話に移るまえに、ひとつ、ふたつ、お訊きしておきたいことがあるんです。私が塔内で尋問されたときのことですが、あの部屋にいたのは、誰と誰ですか?」
フェル博士は、探るように、じっと彼を見た。
「あんたと話しておったときのことかね?」
「ええ」
「ふーん。ハドリイ──これはわしの同僚だ。それに、ここにおるランポウル君。メイスン将軍、ウイリ──ちょっと待った。ウイリアム・ビットンはおらなんだよ。あのひとは、メイスン将軍の部屋にいってもらった。あんたに、遠慮なしに質問したかったからだ。で、あの部屋に立会ったのは、都合四人ということになる」
アーバアは眼を大きく見はって、
「ビットンは、塔内にはいたんですね?」
「それはそうさ。ただ、わしらの部屋にはおらなかったのだ。それがどうかしたのかね?」
「もうひとつ、お尋ねします。ええと、何といいましょうかな──質問というより、私の印象みたいなものを聞いてもらいたいんですが、御承知のように、電話で話をするというのは、ある意味では暗闇で話をしているようなもので、ただ声だけが聞えるのです。声以外には、どんな相手だか、その顔や姿と無関係に、声そのものの印象だけが残るのです。後日、その本人に逢ったとしても、それが当の声の主だと判らないことがあるものです。本人の姿かたちが、声の印象を消してしまうからです。ですが、もし彼の声を、暗闇で聞いたとしたら──」
「なるほど、あんたのいう意味が判って来たような気がするね」
アーバアは、ほっとしたように言った。
「それはありがたい。私ははじめ、こうした微妙な問題は──あの、つまり、警察の人たちには、とても理解してはもらえんのじゃないかと、それを心配していたのです──で、私はあのとき、尋問から釈放されて、外へ出ていきました。
尋問されていた部屋のドアは、ぴったりと閉まってはいませんでした。廊下はもううす暗くなっていて、アーチのほうから、霧が流れこんで来ます。私はドアの外で、襟巻を頸に巻き直しながら、眼を外の暗さに馴らすために、しばらくそうして立っていました。私は、ほっとした感じでした。実際、部屋のなかでは戦々兢々としていたのが実情です。よくもまあ、無事に尋問を切り抜けられたものだ。そう思って顔をあげると、すこし離れたところで、衛視が一人見張っているのでした。ドアのなかでは、あなた方の話し声が聞えています。いろいろの声が入り混って聞えていました」
アーバアは拳を握りしめて、体を乗りだすようにしていった。
「すると、警部さん。私はそのとき、一生のうちに、二度と味わうことの出来ないような恐怖に脅《おどか》されました。なかにいたときは、気がつかなかったのです。さっきいったように、顔かたちを見ていたので、耳の印象を消されていたのでしょう。ところがいまは──私は暗闇に立っているのです。ドアのなかから、ささやきというより、ちょっと高いぐらいの声が聞えて来ます。そして、その声が、昨夜おそく、電話で聞いた声とそっくりなのです。ポオの原稿を売りつけようとした声だったのです」
十九 血塔の下か?
この驚くべき事実を聞かされても、フェル博士は動じる色を見せなかった。身動きもせねば、瞬きもしなかった。前屈みに、ステッキで体を支えながら、不思議なくらいするどい眼で、アーバアをじっと見つめていた。長いあいだ、そのままでいて、やがて、ぽつりと一言、訊いた。
「たしかにその声は、部屋のなかから聞えて来たんですな?」
「そ、それは、間違いありません。たしかに、私は聞きました。廊下には、誰もいませんでしたし、その声も、別に私に話しかけたものではないんです。室内の会話の一齣《ひとこま》だったにちがいありません」
「どんなことを言っておったね?」
アーバアは、また緊張した。
「それが、警部さん。どうも思い出せないんです。こんなことを申し上げると、私の言葉を信用していただけなくなるかも知れませんが、話の内容は、どう考えても思い出せないんです。なにしろ、その声を聞いたとき、あまり驚きましたので──」
彼は、拳を握りしめ、ほとんど痙攣的に腕をふりまわしながら、
「もう一度、繰りかえしますと、私の耳には、それはまるで、死人の声のように響きました。電話の相手は、ビットンの甥だと信じました。そのビットンの甥は殺されました。とたんに、あの怖ろしいささやきを耳にしたのです。警部さん、電話の声は、わざとしゃがれたように、作っているものだと思いました。ドリスコルが作り声を出しているのだと信じました。ところが、いま聞いたのは、たしかに|電話の声《ヽヽヽヽ》です。いまでも私は、はっきり断定できます。なんと言ったか憶えていませんが、私はそのとき、思わずふらふらと倒れかかって、辛うじて壁に身を支えました。気が狂ってしまうのかと思いました。部屋のなかに誰がいたのか、思い出そうと努めましたが、どうしても出来ませんでした。誰が口を開き、誰が黙ったままでいたか、それすらがはっきりしないのです。あの声が、誰の口から出たか、とうとう判らずじまいに終ってしまいました。
そのときの私の気持を察してください。何もかも、混乱してきました。私は電話で、ドリスコルと話したものとばかり信じていました。それだのに、またその声を聞きました。私はいままで、部屋で尋問を受けていたのですが、私を調べている、その一人に──犯罪者が、凶悪な殺人鬼がいるのではありませんか!
私はポオの原稿についての、私の権利を明らかにしました。すると、誰だったか忘れましたが、その正当な権利を確保するために、人を雇ってそれを盗ませるという、非常手段に出たのだろう、そうすれば、ウイリアム・ビットンに支払うほどの大金は必要としないからだと言いました。実を言えば、私はそれを聞くまで、考えたこともなかったことです。
しかし、私はそのとき、はっきりと感じました。理由は説明できませんが、その声が、ドリスコルを殺したのだと感じたのです。私はまるで、狂気の世界に抛りこまれたように思いました。自分自身の耳が信じきれぬのです。その怖ろしい声たるや、|警察当局の一員《ヽヽヽヽヽヽヽ》ではありませんか!
でなければ、私はすぐに引き返して、すべての事情を打明けてしまったでしょう。ですが私は、警察に協力するのも、敵にまわすとおなじように怖ろしくなったのです。それからの私は、われながら気狂いじみた行動をとったと思います。でも、それ以外に、どんなことが出来たでしょう。今夜おそく、またしても怪しい者が、私の別荘に侵入しようと企てました。そこで私は、あなたに会う決心をしました。あなたの手で、この苦しみから救っていただきたかったのです。こんな怖ろしい目は、これでもう沢山です。──申し上げることは、これで全部です。警部さん、私には結局、何のことだか判りません。あとはあなたのお力で、一刻もはやく御解決ねがわんければ──」
語りおわって、がっかりしたように、彼は椅子に身をしずめて、ハンケチでまた、額の汗を拭っていた。
フェル博士は、考えこみながら言った。
「しかし、あんたはその声が、わしらの部屋から聞えて来たのだとは言いきることも出来んのじゃろう?」
「それはそうです。でも……」
「それにどんなことをいっておったか、それもやはり、はっきりせんのじゃろう?」
「残念ながら、そのとおりです。でも、信じていただけぬかも知れませんが、あれはたぶん──」
フェル博士は、顎をぐっと引いて、胸を張った。講義でもするように、勿体ぶった顔をして、
「あんたの話は、それで全部かね。では、ひと言だけ注意しておこう。さいわいこの部屋には、わしとランポウル巡査部長のほかに誰もおらん。いまの話は、聞かなかったことにしてあげてよろしい。犯罪に関係がないと判れば、それくらいの裁量は、わしの一存で出来る。しかし、くれぐれも注意しておくが、それをほかの人間にしゃべってはいけませんぞ。あんたはいま、大へんな羽目に陥っておるのだ。刑務所に抛りこまれるか、精神病院に監禁されるか、そのどちらかという窮境にな。わしの言うことがお判りかな?」
彼はステッキを、相手の顔へ突き出すようにして言った。
「あの部屋にいたのは、四人だけと判っているのだ。あんたのいうことが事実だとすると、ロンドン警視庁の主任警部以下、信頼すべき捜査官二人、または名誉あるロンドン塔の副長官を、殺人犯人として告発することになる。あんたがその陳述を撤回して、やはりあの声はドリスコルだったと言わんかぎり、あんた自身が、殺人事件に関係あると見られる羽目になるだろう。あんたの立場は、きわめて危険なところにある。気違い病院か、殺人犯人か──どちらを選ぶといわれるのかな?」
「ですが、私は真実を述べているのです。私は前にも──」
「やめときなさい!」
フェル博士はむきになって、雷の落ちるような声を出した。
「わしにしてからが、あんたが真実を述べておると信じておらんわけではない。あんたの耳に、何かの声が聞えたのは事実であろう。ただし、逆上したあんたの耳にだ。あんたは声を聞いた。問題は、どんな声が、どこから聞えて来たかということさ」
「いいでしょう」諦めたように、アーバアは言った。「ですが、私は一体、どうしたらよいでしょう。この忌わしいポオの原稿なんか、知らなかったらよかったと思います。お陰で私は、生命まで脅されることになってしまいました……だというのに、警部さん、あなたは何を笑っておられるのです?」
「あんたが、あまりつまらぬことに、心配しすぎるからさ。そんなことは、もう苦に病まんでもよろしい。殺人犯人は、判っておるんだ。問題の声は、いまさら何の害も及ぼしはせん。わしが請け合って進ぜるよ。あんたとしても、これ以上この事件には、かかわりたくないでしょうが」
「もちろんですとも! とおっしゃると、犯人は捉まったのですか?」
「アーバアさん。犯人は、あんたの原稿とは関係なかったんだ。もう、その件は、忘れてしまったがよろしい。夜があければ、あんたの恐怖も解消するだろう。わしはくれぐれも忠告するね。利益にならんおしゃべりはせんほうがいい、殺人犯人は死んだんだ。ドリスコルの検屍廷は、ひととおりの手続きだけですむと思う。新聞にしても、大して面白い記事にもならんから、騒ぎたてることもまずないだろう。心配はいらんよ。ホテルに帰って、ぐっすり眠ることですな。電話で聞いた声のことなど、繰り返していうが、はやく忘れてしまうんですな。あんたさえ、秘密を守ってくだされば、警察としても、何も公表せんと約束しますぞ」
「ですが、今夜、私の別荘へ忍びこもうとした男は──」
「あれは、わしの部下ですよ。あんたを脅かして、真相をしゃべらそうとした。わしの作戦でね──さあ、お引き取りなさい。あんたの身に、これ以上、何の危険もありはせんですよ」
「ですが──」
「お帰んなさい! それともあんたは、ウイリアム卿ともう一悶着やってみたいのかね? 間もなく卿は、ここへ降りて来られるはずだが──」
その一言が、何よりも効果があった。ジュリアス・アーバアは、犯人の名前を聞くことさえ忘れて立ち上がった。もっとも、狙われたのが自分でない以上、誰が犯人であろうと、彼にとっては問題でないのだ。もともと彼のからだを包む雰囲気には、そうした俗間《ぞっかん》の血なまぐさい殺人事件などを反撥するものが含まれていたのだ。フェル博士とランポウルは、彼を玄関に送っていった。ホールヘ出ると、ハドリイが立っていた。二人の刑事を引き揚げさせたところとみえた。
「わしらは、これ以上アーバアさんを引きとめておく必要はないと思うね、お話は逐一うかがった。が、別に参考になることもなかったよ。では、アーバアさん、おやすみなさい」
アーバアもやっと体裁をつくろって、
「ホテルまで歩いて帰りましょう。すこし運動したほうがいいと思いますんでね。みなさん、おやすみなさい」
彼はすぐに出ていった。
「ずいぶん早く、釈放したんですね」
ハドリイ警部は抗議したが、格別こころ残りがあるようにも見えなかった。
「ひどく手数のかかる男だが、こちらも無用な騒ぎをやったものですな。何か言っていましたか?」
フェル博士は、くすりと笑って、
「ドリスコルは、彼に電話して、原稿を売りつけようとしたそうだ。そんなこんなであの男は、共犯にさせられたのかと思って心配したらしいんだ」
「だけど、先生はさっき──」
「困惑の極に、盲目的な衝動に駆られてやったんだろうね。ドリスコルだって、そんなことを企んでいたわけではないさ。それも断言できる。君がいうように、原稿を焼いたのも盲目的衝動だった。つまりそれとおなじさ。それから、アーバアはまだ変なことを言っておった。死者の声を聞いたというんだよ。ハドリイ君。あの男は、検屍廷へ呼び出してはいかんぜ。おかしなことばかり言いおって、わしらをみんな、気違いにさせてしまうぞ。格別、大した用もない男さ」
「殺人事件に無関係でしたら、別に召喚する必要もないでしょう。死者の声ですか! 驚きましたな。男のくせに、どこかの婆さんみたいにノイローゼか。私もつまらんことで、時間を費しました。その挙句、おまけにこんな馬鹿な目にあうなんて、踏んだり蹴ったりですな。『声』か! 大体、ポオの原稿というやつが癪にさわりますな。あれのお陰で、さんざん無駄骨を折らされた。犯人の声を確定しようなんてことに持っていかなくて、まだしもでしたよ」
「わしも同感だな」とフェル博士もつぶやいた。
静かな深夜の邸内に、高い天井から垂れ下がったシャンデリアが、不気味な音を立てて揺れていた。どこかで、誰かの足音が、こだまして消えた。
「これで事件も終りました」
ハドリイ警部は、疲れたような声を出した。「一日だけで、全部片づいたのは仕合せでした。あの憐れな男は、最善の道を選んだわけです。あと形式的に、簡単な証言を取って、それで事件を終結したことにしましょう。細君には、どうしても一度、尋問してみる必要がありますが──」
「で、この事件は、どう処理するかね?」
ハドリイはちょっと眉をひそめたが、
「私はこう考えています。未解決で葬ってしまおうと思うんです。新聞社連盟にはあまり書き立てんように通達しときます。検屍廷で大騒ぎされてもまずいですからね。とにかく、このくらいで捜査は切り上げます。悲劇の原因というのは、この邸には相当長い間巣食っているようですがね」
「そうらしいな。しかし、それを発《あば》き立てるのは野暮じゃないか。それはそうと、ウイリアム卿はどうしたね?」
「まだ寝室におりますよ。ホッブズがドアを毀して、やっと起したといっています」
「事情を話したかね?」
ハドリイ警部は、いらいらしながら、ホールをぐるりと見まわしていたが、急にしゃべりだした。
「何分《なにぶん》、私も年齢《とし》でしてね。夜中の二時ともなれば、疲れて来ますよ。もっとも、何も話さんわけではありません。話しかけてはみましたが、睡眠薬がまだ醒めきらぬ様子で、こちらの言うことがさっぱり通じないのです。暖炉の前に坐りこんで、化粧着を肩から羽織って、ぼんやりと馬鹿みたいな格好です。口にすることは、『お客さまに、お飲物をさし上げたか。お客さまにお飲物をさし上げるんだ』そんなことを、繰り返していっているのです。相かわらず、旧家の主人の体面を考えているのでしょう。それとも、夢がまだ醒めないのですかね。あれでウイリアム卿は、七十を越えているんです。お会いしているだけでは、そんな老齢とはみえませんが──」
「で、君はどうする気だね?」
「ワトソン博士を呼びにやりました。例の警察医です。ワトソンが到着したら、卿に一服、頭のはっきりする薬をあてがってもらうつもりです。それから──ハドリイは、悼《いた》ましそうな表情に返って──一切の事情を、話して聞かせることになるでしょう。放っておくわけにもいきませんからな」
煙突のなかで、夜風が狂いまわっていた。ランポウルは、ホールの闇に思い浮かべた──図書室の壁に見た、白い鷲のような顔の老人が、肩を落して立っている肖像を。そしてまた、淋しい邸に、淋しく住んでいる老人の姿を。かつての精悍な巨鷲《きょしゅう》も、いまは炉辺に、化粧着姿でわびしくうずくまり、ちろちろ燃える炎を見つめている……するどい尖った鼻、藪のように伸びた眉毛、雄弁家の唇──卿は結局、過ぎ去った日の、メイフェアを代表する人物にすぎぬ。ウェリントン将軍の凱旋を迎えて、この街のここかしこに、歓迎の旗がひるがえり、太鼓の音が轟きわたった日とともに、いまは遠く忘れ去られてしまった存在なのだ。
ホッブズが、ホールの奥から、姿を現した。
「ウイリアムさまのお指図で、図書室にサンドイッチとコーヒーを御用意いたしました。ウィスキーも持参してございます。およろしかったら、どうぞ」
人々は、ゆっくりとホールを通って、図書室に入った。火格子のなかで、威勢よく石炭が燃えていた。テーブルの上には、布をかけた皿が載っている。
「ホッブズ、おまえはウイリアム卿についておるがよいぞ」ハドリイが注意した。「もし卿が、完全に眼を醒まされたら、おれのところに知らせるんだ。警察医が来たら、すぐに二階へ案内してくれ」
三人は、暖炉の前に腰をおろした。博士はウィスキーにソーダ水を混ぜようと、サイフォンをいじりだした。ハドリイは言った。
「私は最後の証拠を握りましたよ。ちょっと前に、ビットン夫人と顔を合わせましたが、この部屋で、あなた方と話しあったそうですね。あの婦人は言っていました。ドリスコルを殺したのは彼女の夫だと、先生の口から聞かされたと──」
「そう言ったかね? 夫人としては、どんなふうに思っているんだろうな?」
「夫人としては、そうはっきり信じきってはいません。それでも私が一切を話して聞かせますと、やっと納得したようです。実はいままで、二階で話しあっていましたので、こんなに暇がかかりました。夫人の口からは、大したことも聞き出せませんでした。ウイリアム卿とおなじように、夫人もやはり睡眠剤を飲んで寝たので、頭がはっきりしていないようです。そして、その意見では、レスター・ビットンならば、ドリスコルを殺すぐらいはやりかねないが、それにしても、もし彼の所業だとしたら、わざわざドリスコルをあんなうす暗い場所に誘《おび》きよせて、鉄矢を突き刺すなんて悠長な手段に出ずに、相手の部屋に押しかけていって、いきなり首を絞めてしまったであろうというのでした。それにまた、ドリスコルの頭に、帽子を載せておいた理由が解《げ》せられない。彼女が強く主張していますのは、そんな気まぐれじみた考えが、あの理実的なレスターの頭に浮かぶはずがないというのでした」
ハドリイは眉をひそめて、炉の火をじっと見つめながら、指で椅子の腕をたたいていた。
「言われてみて、私は迷ってしまいました。夫人の言葉は、なるほどとうなずかせることばかりです。ビットンの性格にわれわれの想像も及ばぬ、深いところでもあれば別ですが──」
博士はハドリイに背を向けて、飲物をまぜあわせていたが、サイフォンにおいた手を、ぴたっととめた。ながい沈黙の後に、ふりむきもせずに彼は言った。
「君はこの解決に満足しておるようだな」
「それはそうですとも。ほかに該当する人物はいませんからね。それに、その確信を一層つよめる事実があるんですよ──レスター・ビットンに、物真似という特技があったのを御存じですか? 私は知りませんでした。いま夫人から、教わったばかりなんです」
「え?」
「そうなんです。彼はその道の天才だったそうです。近頃はめったに見せなかったそうですが──そうです。年齢《とし》にふさわしくないと思ったからでしょうね。でも、ビットン夫人はよく覚えていました。むかしはよく、ウイリアム卿が雄弁を振るっているところを、巧みに真似してのけたそうです。まるで、本物そっくりだったといいます。してみれば、電話の声をまねるぐらい、彼にはお茶の子だったと思えますね」
博士は急に立ち上がった。奇妙な皮肉な表情が、その顔に浮かんでいた。眼をあげて、ウイリアム卿の肖像画を見上げ、声を立てて笑った。
「ハドリイ君。そいつは何かの前兆だぜ。偶然にしては、おそろしいくらいの暗号だ。信じられんほどだよ。捜査のはじめに聞かせられなくて、かえって仕合せだった。うっかりそんなことを耳にしていたら、混乱させられるばかりだったろう。それにしても、いまとなってはちっと遅すぎるが──」
「一体、何の話なんです?」
「レスターの行動を、君の調べた範囲で話してくれんか?」
ハドリイはチキンサンドをつまみながら、
「はっきりしたもんですよ。レスター・ビットンは旅行から戻ると、ドリスコルを殺そうと決心したのです。むろん、彼の行動を見れば、逆上の結果だということは、すぐに察せられますが、なおその後の所業で、いっそうはっきりとうなずけるものがあるのです。
最初から彼に、こんな神秘めかした衣裳を着せるつもりがあったとは考えられません。彼はただ、ドリスコルのアパートに押し込んで、息の根を止めようと企てたにすぎぬでしょう。で、朝、決心をかためて、ドリスコルの部屋を訪れた。ウイリアム卿から鍵を借りて、何としてでも部屋に入る気で出かけました。むろん、ふつうの訪問とわけがちがうことは、この一事でも察せられます。
彼がついたときは、ドリスコルは外出していました。彼はフラット中を探しまわりました。妻とその愛人との証拠の品を入手しようとしたのです。油と砥石が、ドリスコルの机の上にあったのを御記憶でしょう。ドリスコルは大弓の鉄矢に砥石をかけていたところなので、眼につくところにおいてあったわけです。お判りでしょうが、その矢はレスター・ビットンにとって、重大な意味を持つ品物だったのです──彼とその妻とが、いっしょに買い求めてきたものだったのです」
フェル博士は、額をこすりながらつぶやいた。
「そこまでは気がつかなかったよ。で、それから?」
「それから、トップハットを発見したのです。それで彼は、帽子蒐集狂とはドリスコルのことだと覚《さと》ったにちがいありません。だけど、いまのレスターにとっては、それは大した問題ではありません。いきなりそこで、頭に浮かび上がったのは、死ぬのならば、トップハットをかぶって死にたいといったドリスコルの言葉でした。ここが人間心理のおもしろいところで、ドリスコル自身の帽子に出逢ったのならば、そうまで強い暗示は受けなかったでしょうが、ウイリアム卿の帽子だということが、ドリスコルの言葉をつよく思い浮かばせたのです──舞台装置の材料として、十二分の効果のあるものですからね。
突然そこで、彼の計画は成り立ちました、ドリスコルを殺そうかどうか、いまさら思い悩んでいる必要はなくなったのです。ドリスコルを刺し殺しさえすればよい。自分と全然無関係な場所で殺して、その頭に、被害者自身が盗んだ帽子をのせておけばよいのです。これで彼は、二つの仕事をやってのけたことになります。第一に、殺人の嫌疑は、帽子蒐集狂に転嫁される。しかも、その蒐集狂たるや、ほかならぬ被害者自身なのです。これで警察が、誤って罪のない人間を捕える危険はなくなる。誰にも迷惑をかけずにすむのです。レスター・ビットンは根が善人です。最初、この考えが浮かんだからこそ、最後の行動に移る踏切りがついたのだと信じてやりたいと思います。第二には、これであの、突飛きわまるドリスコルの希望までかなえてやることが出来るのです。
さらに、この考え方を押し進めますと、鉄矢を凶器にしたということは、理想的な選択だったのです。なぜというに、それは元来、重要な意味を持っているものでした。そして、ドリスコルはそれを、こっそり盗み出して来たのですが、|レスターはそうとは取りませんでした《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。堂々と表面から、欲しいといってもらって来たと考えたのです。ドリスコルの机の上に、麗々しくおいてあるのを見ては、そう思うのも無理ではないでしょう。邸の連中は、誰もみな、いまはそれが、ドリスコルのアパートにあるものと思っていると信じてしまったのです。そして、嫌疑は当然、邸の外部に移るものと思った! それが彼の考えだったのです。ドリスコルが、この見かけ倒しのみやげ物をもらって来た以上、内緒にしているとは思えなかったのです。実際は、盗んできたのだとは知らなかったからなのです──嫌疑が夫人にかかっていると聞いたとき、どんなに彼が驚いたことか、あなた方としても、想像に難くはないでしょう」
博士は、ウィスキーをぐっとあおって、
「わしが考えたよりも、ずっとうまく事件を組立てたね。絞首台の綱を引く人間は、その説明をずいぶん面白がることだろう。それからどうした?」
「半ば逆上した頭脳で、彼は計画に熱中した。ドリスコルが、一時にロンドン塔で、ダルライと逢う予定になっているのは知っていた。朝の食事のときに、耳にしているからです。もちろん、ビットン夫人までが、そこへ行くことになっているとは思いもしませんでした。彼の計画のひとつは、塔内でドリスコルと二人きりになる手配をととのえることにありました。ドリスコルが塔へ行く以上、ダルライといっしょになるのはきまっています。これに対する工作が必要です。殺人計画は、あらゆる点まで慎重であらねばなりません。
で、彼がどういう手段をとったか、お判りですか? 彼は、帽子と鉄矢を持って、一たん邸へ戻る。そして、すぐにまた、邸を出ました。一時前でした。公衆電話でダルライを呼び出しました。ドリスコルの声を真似て、ダルライを誘《おび》き出したのです。一時には塔へ行っていました。だけど、ドリスコルは現れません。彼は二十分も、約束の時間におくれて来たのです」
ハドリイ警部は、舌を灼くようなコーヒーを、一口飲んで、茶碗をおいた。拳で掌をたたきながら、説明をつづけた。
「では、この事件の時間表をもう一度見直してみるとしましょう。ドリスコルとローラ・ビットンとは、ほとんど同時に、ロンドン塔に着いたものと考えます。ドリスコルがあとで、夫人のほうが一足早かったのですが、その間、数分というより、数秒の差しかなかったとみてよいでしょう。ドリスコルは、将軍の部屋に入るやいなや、まず最初に、窓から外をのぞいて、ローラ・ビットンが逆賊門のあたりにたたずんでいるのを見つけました。ちょうどその頃、レスター・ビットンがどこか物陰で、ドリスコル殺害の機会を窺いながら、二人がやって来るのを見ていたのです。彼は夫人の前にも姿を見せなかった。彼らは逢曳のために来ていることは疑いもない。それがすむまで、夫人にも姿を見せるのは危険である……
彼は待っていました。ドリスコルのような落着きのない性急な人間が、メイスン将軍の部屋に、いつまでもおとなしく坐っているとは思えません。どっちみち、その辺を歩きまわることでしょう。ローラと逢うために、降りてくるのにきまっています、事実、手すりの前で、ドリスコルがローラと逢ったとき、ビットンは血塔のアーチの下に身をひそめて、二人の行動を見守っていたのでした」
博士は坐りなおして、片手で眼をおおった。暖炉の火が、はげしく燃えだしたのだ。
「レスターが二人の逢っているのを見て、どんなに激しい怒りに燃え立ったことか。おそらく彼は、飛び出していって、二人を殴りつけたい誘惑にさいなまれたでしょう。ローラ・ビットンが、ドリスコルに愛の言葉をささやくのを耳にしたのです。が、もっと激しく彼を怒らせたのは、ドリスコルが素気なくローラを突き放して、血塔のアーチのほうへ歩きだしたことでした。ドリスコルは、彼の妻を奪ったばかりでなく、侮辱さえ加えたのでした。とにかく、そうして、ドリスコルは霧のなかを、彼の隠れている方向にむかって進んで来るのです。鉄矢はビットンの手に握られました」
フェル博士は、眼から手を離そうともしなかった。が、二本の指だけ間隔を開いた。眼鏡のうしろでは、するどい眼が、急に輝きを増していた。
「それではハドリイ。ビットン夫人の話では、ドリスコルは血塔のアーチのなかへ入っていったというのか?」
「はっきり見たわけではないんです。カッとなっていたので、男のあとは見なかったそうです。ですが、それから彼女も通路へ出て、血塔のほうへ歩きだしました。それで、ラーキン夫人が、あとをつけたのでした」
「そうか!」
「夫人もいまとなっては、嘘やいつわりを言う気力はありません。話を聞いていても、機械人形を相手にしているような感じでした。死人か何かがしゃべっているようです。──ドリスコルはアーチの下に入っていったそうです。そこですべては、一瞬のうちに終ったものと思われます。ビットンの手が、彼の口を塞いで、ねじまわしで一撃を加えると、相手は音も立てずに倒れました。すぐそのあとから、ビットン夫人がアーチをくぐっていったとき、彼女の夫は、彼女の愛人の死体を抱いて、壁にぴったり寄り添っていたのです。
女を二人やりすごして、レスターは死体の鳥打帽をとって、トップハットを開きました。仰承知のように、あれはオペラハットで、折りたたみの出来る式なんです。それで、外套の下に、簡単に隠して持って来たのですが、そこで、ドリスコルの頭にかぶせました。帽子が大きすぎるので、眼のあたりまですっぽりかぶさってしまいました。で、彼は足早にもとに戻って、その死体を、鉄柵越しに投げ落しました。後頭部の打撲傷は、そのとき出来たものなのです。それから彼は、わきの木戸から河岸に出て、誰にも見咎められず、鳥打帽を河中に投げこみました──その後は、私の想像ですが、食堂へよって、ココアの一杯で疲労を休めていたことでしょう」
ハドリイ警部は語りおえたが、サンドイッチは口に持っていこうとせず、見たこともないものでも見るように、じっとそれを眺めていた。が、そのまま、下においてしまった。誰もが、何も言わなかった。暖炉のなかで、石炭が音を立てて燃えていた。それは、しかし、夜の静寂をかえって深めるばかりだった。頭の上で、誰かが、ゆるやかな足どりで歩きつづけていた。行きつ戻りつ、行きつ戻りつ……
夜風が、窓の外の、庭園の茂みを吹き抜けていった。時計が鳴った。それから、かすかな声が、玄関のあたりで聞えていたと思うと、大きな扉の閉じる音がした。
その音が、うつろな尾を引いて、邸中にひびいた。階上の足音はちょっととぎれたが、またゆっくりと歩き出した。
「警察医のようですね」
ハドリイは睡むそうに眼をこすって、大きな伸びをした。
「手続きだけ片づければ、帰ってゆっくり寝られますよ。こういうこまかな捜査手続きを、直接自分で手を下すのは……数年振りのことでしてね。かなり疲れさせられますよ」
そのとき、ドアの外で、声がした。
「失礼します。ちょっとお目にかかりたいのですが──」
ハドリイが、思わず振りかえったような声だった。始めはしずかに、とたんにおそろしい調子に変った。死人の声を思わせて、暗闇から、ダルライが顔をみせた。ネクタイがゆるみ、汗が額に噴いている。眼が、ギラギラと燃えていた。
「何も言うんじゃない!」
その顔を見てフェル博士が叫んだ。椅子から飛び出して、青年の腕をつかんだ。
「しゃべってはいかんぞ! もう一度、考え直してみろ。それまで、何も言うんじゃない!」
ダルライは手をのばした。
「もう駄目です」
その眼は、ハドリイ警部を凝視していた。
「一切申し上げたいんです」
声だけは、案外澄みきっていた。
「僕が、フィリップ・ドリスコルを殺したのです」
二十 殺人者の告白
図書室のなかは、死んだように静まりかえった。階上の足音も、この声を聞いて、思わず立ちどまったようであった。暖炉の火が、パッと明るく散って、すぐにまたおさまった。一瞬、その光が、ダルライの青ざめた顔を、黄色く染めあげた。彼は炉の火を見つめたまま、無意識に、カラーを引張りながら、話しだした。
「僕にはむろん、彼を殺す気なんかなかったのです。過失からあんなことになったのです。あとで、隠匿しようとなんか考えたのが誤りでした。そのために、僕の言葉は信用していただけないかも知れませんが、それも仕方のないことです。僕としても、レスター・ビットンに嫌疑さえかからなければ──自殺したのも、彼が犯人だからだと、とんでもない疑いをかけられている様子なので、とうとう僕には、黙っていられなくなりました。あのひとは、僕の真実の友でした。フィリップなどは、自分のことしか考えない、本当に、利己的な男です。それにくらべて、この、レスター・ビットンは──」
彼は眼のあたりをおさえて、
「眼鏡を失くしたので、どうも見にくくて困るのです。腰かけさせてもらえますか? 疲れてしまいました」
誰も動こうとはしなかった。よろめくように、ダルライは炉の前に寄って坐りこんだ。手を、火の前にかざしたとき、体がはげしく慄えていた。
フェル博士は、しずかにいった。
「あんたはあまり、利口とはいえんぞ。何もかも、これでぶちこわしだ。わしは、君のシーラに会ってからというものは、あんたをかばうために、ずっと苦心をつづけておったんだ。それをあんたが、簡単にぶちこわしてしまったのさ。いまさら告白したって、意味はないんだ。この邸に、新しい悲劇を一幕殖やしただけじゃないか」
ハドリイは体をのばした。顔に向って、一撃が下されるのを防ぎとめでもするようだった。しかし、ダルライの顔からは眼を離そうともしない。
それから、ハドリイは咳払いして、
「それは嘘だ。そんな馬鹿なことが信じられるか。ダルライさん。あなたの前にいるのは警察官ですぞ。からかうのにもほどがある」
「一時間前に、僕は深夜の街路を歩いていました。シーラと二人でした」
青年の肩は、いまだに烈しく慄えていた。
「その友達の家の前で、シーラと別れのキッスをしました。それが、彼女と逢う最後だと知りました。次は法廷で姿を見るだけでしょう。真相は秘めよう。僕はそう望みました。しかし、僕にはそれが出来ませんでした。僕は道を踏み外した男です。でも、秘めとおせると考えるほど、踏み外してはいないのです。夜の街を歩きながら、じっと考えてみました。判りません。どうして、よいか判りませんでした。何もかも、めちゃくちゃになってしまいました」
彼は頭を、両手で抱えこんだ。すると、突然、何かを思いついたように、周囲をぐるりと見まわして、
「誰かがいっていたそうですね──何もかも判っているって?」
「判っておるさ」
フェル博士は、不機嫌にいった。
「それにしても、あんたさえおとなしく、口を割らなければ──」
ハドリイ警部は手帳を取り出した。指がかすかに慄えて、声もはっきり聞きとれなかった。
「ダルライさん、一応お断りしておきますが、これから君のいわれることは、すべて──」
「心得ております。僕はのこらず申し上げるつもりです。決して、逆上などいたしておりません。そのおつもりで聞いていただいて結構です。冷静ですとも! 腰はおろしたままでよろしいでしょうね。ああ、それは──」
と、彼はランポウルが手にしている酒のグラスを、ほとんど衝動的にひったくって、
「これは僕に飲ませてください。──あの事件は、ほんのはずみで起ったことだと言っても、いまさらどうにもならぬことでしょう。実際、彼は自分の手で、自分を刺したのです。あのとき、彼のほうから、僕に飛びかかって来たのです。争っているうちに──誓って申し上げますが、僕に彼を傷つけるなんて意図は、毛頭なかったのです。僕はもともとあの男が好きだった。僕はただ──僕はただ、あの原稿を盗もうとしただけなのです」
彼はしばらく、荒い息を吐いていた。
「あるいはそうかも知れない」
主任警部は、意外な表情で、相手の顔を見守りながら、
「だが、無条件にはうなずけぬところもある。二時十分前に、ドリスコルの部屋で電話に出ていながら、それから五分と経たぬうちに、どうしてロンドン塔で、ドリスコルを殺せたのです?」
フェル博士は、ステッキをあげて、マントルピースのふちをぽんと叩いた。
「その考えが、捜査を行き詰らせる原因だったのさ。君としては、問題の核心に触れておることは触れておったのだが、そこから捜査の方向がわきにそれてしまったのだ。ドリスコルはロンドン塔内で殺されたのではない。彼自身の部屋で死んだのだ」
「え?」
ハドリイは、打ちのめされたように言った。「まさか、そんな?」
「ところがそうなんです」
ダルライは、ウィスキーをぐっと煽った。いくらかひと気《け》がついた模様だった。
「まったくそのとおりなんです。どうして彼が、アパートヘ戻って来たか知りません。考えてみても、いまだに判りません。僕は彼を、塔内から離れさせないように、最善の努力を払ったつもりです。偽せの電話を、僕自身にかけたのもそのためです。ですが僕は──それも僕はポオの草稿を盗み出すあいだ、彼を部屋から遠ざけておこうとしただけのことです。泥棒が侵入したとみせかけるつもりだったのです」
彼の手の震えは、いまはぴたりと止まっていた。彼はただ、死ぬほど疲れきっている様子だった。異様なくらい放心した声で、病人のように語りつづけた。
「これでひと気《け》がつきました。いくらか気分もよくなりました。では、説明させていただきましょう。これ以上、胸にしまっているわけにいかないのです。僕は、そういう強い人間ではありませんので──」
「話は最初からお願いします。ポオの原稿を手に入れようとしたところまで聞きました」
「そうです。手に入れる必要があったのです。どうしても僕は、手に入れる必要があったのです」
「必要が?」
「そうなんです!」
ダルライは叫びながら、無意識に、手を眼へあてがったが、眼鏡はそこになかった。
「出来ごころだと言って言えないこともありません。それまで一度も──この邸にあるうちも、そんな気をおこしたことはありません。でも、日曜日の夕刻、ロンドン塔ヘドリスコルから電話があって、叔父の帽子を盗んだはずみに、原稿までいっしょに奪ってしまったと聞いたとき──」
「じゃ君は、ドリスコルが帽子泥棒だと知っていたのか?」
「もちろん、知っていました。あの男は、何でも僕に相談したのです。何ごとによらず、僕の助けを求めるのです。新聞記事の計画も、あらかじめ知らされていました。彼のとっときの企みは、ロンドン塔のヨーマン衛視の鳥毛帽を盗むことでした」
「これは驚いた!」フェル博士も唖然とした様子である。「さすがのわしも、そこまでは考えなんだ。なるほどな。しかし、それは名案だよ。名誉ある帽子泥棒としては、最後は当然、そこまで行くべきだ」
「静粛に願いたいですな、先生」ハドリイはたしなめていった。「ダルライさん、そんなことまで話しあっていたのですか?」
「それから僕は、あの考えに取り憑かれたのです。僕もそのとき、破れかぶれのきらいもありました。僕自身が追われている状態でした。一週間もすれば、万事明るみに出てしまうことがあったのです。で、僕は電話で、ドリスコルに言いました。原稿はそのまま手元においておけ。僕が何とか考慮するから、それまで勝手な行動はするなといってやりました。日曜日の夜、ドリスコルのアパートを訪れて、方法を考えてやるつもりでいました。そして、そのとき──」
彼は椅子に、坐りなおして言葉をつづけた。
「アーバアが週末を過ごしているところを知りました。土曜日の晩にシーラと逢って、あのひとの口から聞いたのです。アーバアがあの邸にいたのならば、いくらなんでも、電話をかける気にならなかったと思います」
「|君がアーバアに電話したのか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
「アーバアからお聞きになりませんでしたか? 僕は彼に、声を覚られてはいないかと恐れていました。今夜彼が、この邸に戻って来たと聞いたとき、思わずはっと驚きました」
ハドリイ警部は、するどい視線を、フェル博士にむけて、
「アーバアはどうして判らなかったのでしょうか? 先生のお話では、彼は電話の声を、ドリスコルだと信じていたようですね?」
「本当にそう間違えたのさ。ハドリイ、君は今夜の、ミス・ビットンの言葉を忘れたかね? ドリスコルはよく、彼女をからかって、ダルライだといって電話をかけてよこしたそうじゃないか。シーラでさえそれにひっかかったらしい。とすれば、二人の声は、相当よく似ておったはずだ」
「僕たちの声が似ていなければ、計画はこんなに都合よく運ばなかったでしょう。もちろん僕は俳優ではありません。ですが、ドリスコルに僕の真似がやってのけられるならば、僕にだって彼を真似られたはずです。電話でパーカアを呼び出して、約束の変更を伝え、僕自身をドリスコルのアパートまで誘い出すことにして──」
「待ってくださいよ!」
ハドリイ警部が口をはさんだ。
「話が飛躍しすぎますね。いま伺ったのは、アーバアに電話して、原稿を渡そうと申込んだところです。まだ君の手元に入手していないうちから──だけど、何のために、君はそれを盗む気になったのです?」
ダルライはグラスを残らずほして、
「僕は、千二百ポンド必要だったのです」
落着いて、彼は言った。椅子に背を凭せかけて、しずかに暖炉の火を見つめていた。荒々しかった息づかいも、次第におさまって来たようである。
「それについて、すこし申し上げねばなりませんが、僕の父は、北部地方で牧師をしております。五人兄弟の末っ子が僕なのです。教育は受けました。しかし、卒業するのに、夜ひる勉強せねばなりませんでした。残念ながら、秀才といわれるだけの頭脳は授かっていなかったからです。もし僕に、人にすぐれたところがあるとしたら、それは僕の、イマジネイションです。創作力です。ですから──笑ってはいけませんよ。僕の望みは、いつか文筆で名声を博したいというのでした。しかし、イマジネイションでは試験をパスできません。まして、首席を維持するなど、なみ大ていの苦労ではありません。でも、比較的恵まれましたのは、ロンドン塔の研究をしていましたので、それが機縁で、メイスン将軍にお目にかかれたことです。あの方は僕を可愛がってくれました。僕もあの方を尊敬しました。それで、僕はあの方の秘書に使っていただくことになったのです。
ビットン家の人たちとお近づきになったのも、将軍のお引き合せでした。僕はドリスコルに逢って、すぐに敬愛するようになりました。あの男には、僕の持っていないところが、全部そなわっているのでした。僕は背ばかり高くて、内気な引っ込み思案。眼は近いし、顔はまずい。スポーツも駄目ならば、女──これはなんです、僕のことを、ずいぶん愉快な方ねといってはくれますが、ただそれだけのことでして、もっぱらほかの男との情事の聞かされ役に廻されているのでした。
ドリスコルは──そうでした、あなた方もよく御承知なんでしたね。風采はよいし、何よりもあの明るい気性です。あれで、道楽の末の苦労なんか、何の苦もなく切り抜けて来たのです。さっきも申し上げましたように、この僕さえも、彼から相談をかけられると、つい喜んで手を貸していたくらいです。そのうちに、僕はシーラに会いました。
なぜあのひとが、僕みたいな者に関心を持ってくれたのか、その理由は、いまだに僕には判りません。ほかの女ならば、気まぐれにもそんなことはしないでしょう。ですから僕は──ええ、何でも正直に申しますが、僕はあのひとが、好きで好きでたまらなくなったのです。お笑いになるかも知れませんが、それが、嘘のない、僕の本当の気持なんです」
彼はみなの顔を見まわした。誰も笑いもせずに聞いていた。
「みんなはおかしがりました。みんなというのは、フィリップの友達連中ですが、僕たち二人のことが喜劇めいてみえるというのです。ある伊達者《ダンデイ》の一人はこんなことを人前で言いました──牧師|面《づら》の陰気野郎と、ビットンの馬鹿娘かって。自分が牧師面と呼ばれるのは構いません。むかしから言われつけているんですから。しかし、シーラのことは聞き捨てになりません。僕はある晩、その男の家へ押しかけました。貴様の顔だって気に入らないぞ! 僕はそう怒鳴って、いきなり殴り倒しました。相手は、一週間も外出できなかったそうです。それでも、世間はじきにまた、僕たちの陰口を始めました。ダルライの奴、あれでなかなか食わせ者だ。あいつ、シーラの財産を狙っているんだぜ。いやな噂です。僕もシーラも、心から愛しあっているのに。その噂はまもなく老人の耳に入りました。
卿は僕を呼びつけまして、世間とおなじようなことを言うのでした。僕は思わずカッとしました。ひどい言葉で言い返したのを憶えております。シーラと僕は、何といわれようと、結婚するつもりだと宣言しました。卿は驚きました。そして、しきりに考え込んでいる様子でした。ビットン大佐が間に入って、取りなしてくれました。
そうした揚句、卿は僕のところへやって来て、顎を撫でながら、こんなことをいうのでした。わしの家庭まで破壊するような真似はせんで欲しいな。シーラはまだ、自分の身の始末さえ出来かねる子供なんじゃ。結婚なんて無理な話さ。もう一年待ってくれんか。一年経っても、やはり二人が、いまのように愛しあっておるというならば、そのときはわしも反対はせん。結婚でも何でも好きにするがよい、とこうなんです。で、僕は、僕ひとりの腕で、新しい家庭を支えてさえいければ、いますぐ結婚したってかまわんでしょうといったのですが──
くどくど申し上げていても切りがありません。フィリップが、何とか金の算段を心配してくれるというのでした。金さえあれば問題はないのです。実際、僕もがっかりしていたところです。ウイリアム卿が一年待てというのも、考えれば怪しいものです。一年経って、どうも君は見込みがない。結婚なんかさせられるか、そう一言きめつけられれば、それで万事終りなんですから、それにシーラにしても、いつまで僕を待っていてくれるか疑問です。あのひとの周囲には、いろいろの男がうろついているんです。どんな良縁が現れるか、判ったものではないのです。
その金の算段から、僕はとうとう大へんな窮境に追いこまれてしまったのです。でも仕方がありません。すべて僕の責任です。決して、フィリップが──」
ダルライはちょっと躊躇したが、
「どちらにしても問題に変りはありません。僕たちは二人で、事件を起してしまったのです。老人の耳に入ったら、僕の身は破滅です。どうしても一週間以内に、千二百ポンドの金が入用になったのです」
彼は椅子に身を沈めて、眼を閉じた。
「おかしな話です。僕のような真面目一方の──牧師面だと悪口をいわれて、カクテルを調合してさえ、おい、見ろよ。ダルライが酒をこしらえているぜと、友人仲間からおかしがられるような男が、フィリップの手から原稿を盗んで、アーバアに売りつけるなんてことを考えたのです。気が狂っていたのかも知れません。おそらくそうでしょう。言い訳ではありませんが、どうしても正気だったとは思えません。現実社会のトラブルに襲われると、僕みたいな人間は、ひとたまりもなく理性を失ってしまうのです。フィリップのことなど、笑えるものではありません。
僕の計画は、すでに御承知と思います。日曜日の夜、翌朝電話するように、ドリスコルにいってやりました。そのとおり彼は電話をよこしました。非常に興奮している様子でした。何かまた、新しい心配事が起ったようなのです。例の婦人のことでしたが、そのときはまだ、僕もそれと気がつきませんでした。
僕はあらかじめ、原稿を隠しておくように、彼にいい含めておいたのです。アパートにおいておくようにいってありました。それを、その電話でも、繰りかえし、繰りかえし、念を押しておきました。アパートからなら、間違いなく持ち出せるからです。
ドリスコルのほうは原稿をウイリアム卿の車に突っ込んでおこうと企てました。その話は、あなた方も察しておられましたね。でも、僕が繰りかえして念を押したので、彼はロンドン塔に来る前に、一度アパートに戻って、原稿を書斎の火格子のなかに隠したのでした。
僕のほうとしては、偽電話をかけるのは簡単な仕事でした。最初の電話は本物でした。第二の電話がかかって来たときは、僕は記録室にいたのです。僕はただ、電話でパーカアを呼び出して、ドリスコルの声を真似ました。パーカアは通話管で、僕のところに知らせるにきまっています。
そこで僕は、立ち上がったとみせて、──やあ、フィリップか、どうしたねと、そんな調子で、僕自身に話しかけて、僕がまた、フィリップの声であとをつづければ、それでよかったのです。これで、段どりは一切ついたと安心しました」
ダルライはしばらく、口を休めた。両手で頭を抱えていた。暖炉の火が音を立ててはぜている。ハドリイ警部は動かなかった。
「あとは敏速に行動すればよいのでした。計画そのものは、いたって単純なので、将軍の自動車をホウバンの車庫に残して、ドリスコルのアパートヘ急ぎ、原稿を盗みだせばよいのです。そのあとの仕事は、窓を開き、部屋中を掻きまわし、何かつまらぬものを持ち出して、泥棒が入ったように見せかければ終りです。原稿を盗みだすのに、何も躊躇することはないのです。フィリップにも嫌疑がかかることはありません。彼が盗んだことは、ウイリアム卿は知らぬのですから、もし、フィリップに発覚の危険があるとすれば、下手にそれを戻そうとするときです。それに、僕としては、卿の手からそれを奪うのに、躊躇する気なんか毛頭ありません──あのにくらしい老人からなら、シャツでも剥ぎとってやるつもりでした。僕のあの老人に対する気持は、もう大かたお判りと思いますが──」
彼はテーブルから、ウィスキーの壜を取り上げて、グラスに半分ほど飲み乾した。眉をぐっとあげて、白い頬に血が射してきた。語りつづけるうちに、反抗心が湧き上がって来たようすだ。酒壜の端が、グラスに当って、カチカチと鳴った。水も割らずに、あおっていた。
「どこからみても、心配する余地はありません。フィリップだって、僕を怪しむきづかいはありません。アパートヘ行くと、彼は外出中でしたから、捜索する時間は充分ありました。深しているとき、パーカアから電話がありました。僕はちょっと、その返事に誤りを犯しました。僕はハッとしました。が、それがかえって、後に僕のアリバイになりました。二時二十五分前のことでした。
僕は、書斎を引っ掻きまわしました。最初は、火格子のなかに隠してあることに気がつかなかったからです。でも、そのうちに発見しました。僕は別に、急いではいませんでした。フィリップは、塔にいるものとばかり思っていたからです。で、原稿を発見すると、丁寧に検《あらた》めた上で、ポケットにしまいこみました。もうすこし、部屋の様子を乱雑にみせかけようとして──
そのとき、僕はぎょっとして、振りかえりました。何か音がしたのです。見ると、ドアのところに、フィリップが立っています。僕のほうをじっと見つめて──僕は気がつきました。彼は、前からそこに立って、僕のすることを見ていたのです」
残りのウィスキーを、ダルライは投げ捨てた。彼は、酔いがまわって来たのだ。ぼんやりと見ひらいていた眼が、急にぎらぎらと光りだした。片手をずっと前に伸ばして、泳ぐような格好になった。
「フィリップが怒ったときの様子を、御存じないでしょうね。まるで、狂人同様になるのです。吐く息も荒々しく、口尻をゆがめて、そこに立っているのでした。僕は前にも一度、こうした姿の彼を見たことがあります。そのときは、彼の服装を笑ったというだけで、ナイフをふるって、その男を刺そうとしたのです。人が変ったように、凶暴な男になるのでした。室内は静寂そのものでしたから、彼のはげしい息づかいと、僕の時計が時を刻む音が耳を衝きました。
とたんに、彼は叫びだしました。事実、僕にむかって叫びだしたのです。そのとき聞いた彼の言葉ほど、恐ろしい呪いの文句を、僕はこれまで耳にしたことがありません。それほど烈しいものでした。何といってよいか、口や筆ではいいつくせないほど、ひどいひどい言葉なのでした。
茶色の鳥打帽を斜めにかぶって、彼は僕を睨むように立っていました。飛びかかって来るな──僕はそう、見てとりました。僕たちは以前、よく拳闘をやったものです。練習用のグローブを使いましてね。僕はいつも、彼を適当にあしらいました。拳闘の腕は、僕のほうがずっと上なのです。で、僕がたくみに、彼の内懐に飛び込みました。すると彼は、ナイフを取り出して、これでやっつけてやるぞと怒鳴るのです。実際、怒りだすと、狂人みたいに危険な男です。前屈みになって、じっとこちらを狙っているのは、いきなりベルトのあたりに、その刃物を突き立てようとしているにちがいありません。
僕は叫びました──フィリップ! 頼むから、馬鹿な真似はやめてくれ──すると彼は、ぐるぐるそこらを見まわしまして、もっと適当な得物はないかと、探しているようなのです。すると、ドアのわきの、書棚の下のところに、大弓の鉄矢がおいてあるのが眼につきました。
彼は飛び上がりました。
あのせまい部屋でそんなものを振りまわされては、避ける余地なんかありません。僕は素早くわきへ飛んで、彼の襟首を掴みました。犬を抑えるときの要領です。レスリングの手で、押しつければ、おとなしくさせられると思ったからです。彼がどたんと倒れる。僕もいっしょに転がる。それから二人ははげしいとっ組み合いになりました。
それから、どうなったか──僕は何も覚えていません。椅子が、音を立てて、床に倒れました。もみあったまま、僕たちは、床の上を転げまわりました。僕が上になったとき、ぐしゃっと、物の潰れるような、にぶい音が聞えました。……そして、その直後に──
妙な音でした。子供のときに、ゴムの人形で遊んだ憶えがあります。押すと、きゅっと奇妙な音で鳴くのでした。僕はあれを思い出しました。音が、奇妙に、あの玩具に似ていました。だが百倍も大きく、百倍もおそろしい音でした。この世のものとは、とうてい思われない音でした。
判っていただけますか? それから、ヒュッという、これもあの玩具が、また空気で膨らむときのような音がしました。彼はそれっきり、動きませんでした。
僕は立ち上がりました。ドリスコルは、鉄矢を胸に突き立てて、僕が転がるとき、その上に体を乗せたものか、矢尻が床まで届いていました。後頭部も、暖炉の火格子にぶつけたようです。血はあまり出ていません。赤鉛筆で書いたほどのものが、口の端から流れていただけです」
ダルライは、両手で眼をおさえた。
二十一 未解決
しばらく彼は黙っていた。無意識に、手でウィスキーのグラスを求めた。ランポウルはちょっとためらったが、すこし注いでやった。ハドリイは無言で暖炉の火を見つめていた。
「僕には──僕には」
ダルライがつぶやいた。
「どうして彼が帰って来たかが判らない」
フェル博士が口を出した。
「それはこうさ。わしが説明してあげるよ。お坐りなさい。あんたには休息の時間が必要ですぞ。……しかし、ハドリイ。君には、なぜ彼が帰って来たか判るかね?」
「それは──」
「つまりこうさ。ヒントは君が与えてくれている。ドリスコルは、ロンドン塔の逆賊門で、ビットン夫人と落ちあった。それが一時三十分。そのとき、彼は、急に何か思い出したというではないか。大慌てにあわてて、どうしても行かんければならんといった。何だと思うね?」
「……?」
「よく考えてみろよ。彼と彼女は、そこで話しあっていた。何か話が、伯父のウイリアム卿に触れたにちがいない。そして、それがドリスコルに、大へんなことを思い出させた。実際、大へんなことだ。そのあとの、彼の行動を見ればよく判る。考えてみたまえ! 君たちはそれを、今日一日でも、何十回となく聞かされておるはずだ」
ハドリイは急に立ち上がった。
「そうだ! 伯父のウイリアム卿が、毎月彼のアパートを訪れる日だった!」
「そのとおり。ウイリアム・ビットンは、実際には訪問を取り止めにしてしまったが、ドリスコルはそれを知らなかった。今日が訪問の日だということを、ここ二日間の事件つづきで、ついうっかり忘れておった。おまけにウイリアム・ビットンは、|彼の部屋の鍵を持っておる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。彼が留守でも、伯父はさっさと部屋に入るにちがいない。なかには、隠しもしないで、伯父の帽子が、二つまでもおいてある。それだけでも困ったことだというのに、もしウイリアム卿が怪しみ出して、室内でも探したらどういうことになる。彼の原稿が隠してあるじゃないか──」
ハドリイ警部はうなずいて、
「ドリスコルとしては、ウイリアム卿が来ぬうちに、飛んで帰る必要があったわけだ」
「彼はそれを、ローラ・ビットンに説明するわけにはいかなかった。思いきってしゃべるにしても、それにはそれで、時間がかかる。ローラはきっと、何やかやと、次から次と説明を求めるにきまっておる。彼はぐずぐずしてはおられんのだ。そこで彼は、男がみんな女を取り扱うように振舞った。突き放すように、五分たったらまた逢おうといった。もちろん、そんなつもりは、全然ありはしなかったのだ。
それからさきの彼の行動は、君にも見当がつくのじゃないかな。ロンドン塔の地図を思い出してもらいたい。メイスン将軍がいった言葉を思い出してもらいたい。ドリスコルとしては、濠沿いの道を、城門のほうに引き返すわけにはいかなかったのだ。そちらへ行けば、外へ出るばかりだから、用件を思い出したという言葉の矛盾を、夫人に勘づかれるおそれがある。そこで彼は、わざと濠沿いの道を逆の方向にむかった。その先には、霧にかすんではっきりとは見えぬが、テムズの河岸に向いた、木戸がいくつか開いておるのだ。それが一時三十分」
博士はダルライを見下ろすようにして、首を振った。
「ハドリイ君。これもやはり、君から、聞いたのだが、地下鉄を利用すれば、塔からラッセル・スクエアまで、十五分とかからんそうじゃないか。ビットン夫人は、夕方五時に、そのコースを利用したんだ。ドリスコルが一時半に、おなじことをしたにしても、不思議はすこしもないではないか。大体二時十分前かそこらには、彼はアパートに戻っていた──警察医が死亡時刻と推定した時間だよ。
ハドリイ君、折角の君の推理が、誤った方向に進んでしまったのは、ドリスコルがロンドン塔から出なかったと思いこんだところにあるんだ。その可能性が、全然君の頭に浮かばなかったのだ。河岸へ向った木戸から出れば、衛視の眼に留るようなことは、まずないといってよいのさ。ただ、塔内の地理に明るくない人間には思いつかんだけのことだ」
「だけど先生、彼が逆賊門のところにいたのを見た者がありますよ! でも、──まあ、それはいい。ダルライ君、話の先を聞こうじゃないか」
「なるほど、そうだったのですね。いま、やっと判りました。僕は、彼が僕を疑ぐって来たものと思っていました。
では、それから僕がとった行動を申し上げましょう。彼は死んでいました。僕はそれを知って、はげしい恐怖に襲われました。頭がカアッとなって、何ひとつ考えがまとまりません。足は震えるし、眼さえ見えなくなったかと思ったくらいでした。
僕は殺人罪を犯したのです。原稿を盗むほうは、充分計画を練っていましたので、あとの処理は万善を期してありました。が、これは殺人です。誰が見ても、過失だとは信じてくれぬでしょう。そのとき僕は、とんだ思いちがいをしてしまいました。ドリスコルは気が変って、もどって来た。そして、塔を出て来るとき、帰宅することを誰かにいいおいて来たものと思いこんだのです。塔の連中は、とうにもう、それを知っているものと考えこんだのでした。そして、僕自身が彼のアパートに来ていることは、パーカアからの電話に出たので判っています。その結果が、どういうことになりましょう。僕もドリスコルも、おなじ部屋にいたと判った以上──」
彼は、ぶるると、身慄いして、
「それでも、そのときふっと、僕の理性が目覚めました。頭脳が、すばらしい速力で回転しだしました。逃げ道はひとつだけある。彼の死骸を、このアパートから担ぎ出して、どこか戸外へ捨ててしまおう。どこか、ロンドン塔へ帰る途中で──そうすれば、彼が塔からの帰途に、危禍にあったと思われるでしょう。
そしてまた、電光のように、僕の頭に閃きましたのは──|自動車でした《ヽヽヽヽヽヽ》。車はほど近い、ホウバンの車庫においてあります。この深い霧ならば、誰にも見咎められずに、中庭まで乗り入れることも出来るでしょう。むろん、座席のカーテンは下ろしておきます。小柄のフィリップは、仔猫ほどの重さもありません。階下にはフラットは二つしかないし、中庭に面した窓は、どれもみな、曇りガラスです。この霧が天の助けだ。見つけられるおそれはまずないと言ってよいのでした」
フェル博士は、ハドリイを見やって、
「君もやはり、そこには気づいておったな。ビットン夫人が、誰にも見られずに逃げ出せたのは、あのアパートの窓が、どれもみな、曇りガラスだったせいだとね。誰かそのとき言ったっけな。アメリカ・インディアンが、戦闘用の帽子で歩きまわったにしても、人目につく気づかいはないってね」
「僕には時間がありませんでした。ホウバンの車庫には、地下鉄で駆けつけなければなりません。それでも都合よく、二分で行くことができました。駅から歩いて十分。車を取り戻して、すぐひきかえしました。
自動車車庫で、どんな怖ろしい顔を、僕は職工たちにみせたことですか……塔へ帰るといって車を出させ、あとは飛ぶようにアパートヘひっかえしました。あのときいっそ捉まっていれば──」
彼は、大きく息を呑んだ。
「僕はフィリップの死骸を担ぎあげて運びだしました。悪夢のような一瞬でした。あんなに階段は低いのに、あやうく足を踏みすべらして、死骸の頭を、ガラス戸にぶつけるところでした。車体のうしろの、腰かけの下に隠しおわると、一度に疲れが出て、手足がまるで他人のものでもあるように、ぐったりしてしまいました。それでも僕は気をとりなおして、もう一度、部屋にひきかえしました。何か見残しがありはしないかと考えたのです。ぐるりと室内を見まわしたとき、ふいに思いついたことがあります。あの、トップハットでした。それを持ち帰って、フィリップの頭にかぶせておいたらどうでしょう。例の帽子気違いが殺したのだと思いはしませんか! 帽子泥棒の正体は、いまだに誰にも知られていないのです。罪とがのない者を巻き添えにするのは気の毒です。実在しない人物を、犯人に仕立てるとなれば、こんな安全なことはないではありませんか」
フェル博士は、そこで口を出した。
「それだけ聞けば、主任警部も、あんたの話を、すぐに理解してくれるだろう。それ以上、くどくど説明することもないように思うな。あんたが来るすこし前に、警部もちょうどおなじような解釈をしていたところだった。このほうはただ、純粋に推理を追っただけだったがね。で、大弓の鉄矢は、どうされたかね?」
「あの矢はそのままにしておきました。抜くことなんか怖ろしくて、出来ることではありません。まさかそれが、ビットン邸にあったものとは夢にも知りませんでした。カルカソンヌみやげの刻印にも、全然気はつかなかったのです。理由ですか。それは別に──隠れて見えなかっただけなんです」
ダルライの鼻筋がきつく緊まった。両手を膝の上で握りしめて、声の調子をぐっとあげた。
「その部屋を出る前に、もうひとつ、思いあたったことがあります。僕のポケットに入っている原稿です。僕は友人を殺した男です。この世でもっとも下劣な男です。誰の眼にも、唾棄すべきものと映っている男です。ですが、この原稿を売ってまで、不正な金を手に入れる気にはなれませんでした。原稿は僕のポケットにあります。しかし、いわばそれは忌まわしい血に染まったものです。それの力を借りれば絞首台から逃れることが出来るにしても、こればかりは利用するわけにいきません。
いまにそのときの光景が眼に浮かびますが、僕はそれを取り出しました。粉々に破いて、ウイリアム・ビットンの顔に投げつけてやろうと考えました。だが、待てよ──と僕は考えました。ここでこれを破れば、散らばった紙片を発見した者は──原稿を盗んだのはドリスコルだと知るでしょう。僕は彼を殺したのです。さらにこれ以上、彼に汚名を着せたくはありません。え? 人を殺したくせに、おかしなことを言うやつだとお思いですか? でも、それがそのときの、偽らない僕の気持でした。貴重な時間が無駄だとは思いましたが、マッチの火で、それを焼きました。あとは、暖炉のなかに投げこんでおきました。
それから、トップハットを取って、平らに潰《つぶ》して、外套の下に隠しました。それで、片づけるものは、全部片づけた。さてと──これもおかしな話ですが、僕は書斎のなかを、ひと通り見まわしました。ホテルを引き揚げるとき、歯ブラシなんかおき忘れないかと、洗面台をのぞいたりするのとおなじ心理でしょう」
「火格子だけは、ちゃんともとに戻しておくべきだったな」フェル博士は言った。「ふつう、部屋のなかを捜しまわっただけなら、火格子が、あんなふうに飛び出しておるわけはないよ。あれは君、ドリスコルとの格闘のあいだに、ああなったのだからな。で、それから?」
「それからは──」
ダルライは、また無意識に、ウィスキーのグラスに手を伸ばして、
「それからあと、僕は二回、ドキッとするような怖ろしい目にあっているんです。最初のやつはこうでした。僕が、ドアを開けようとすると、管理人に出っくわしたのです。それがわずか数分前でしたら、一体僕はどうなったでしょう。何しろ、ドリスコルの体を担いでいるんですからね。そのとき僕が、どんなことを言ったか、まるで憶えておりません。やあ、やあとか何とか言って、何ということなしに半クラウン握らせたと思います。管理人は、車まで僕を送って来ました」
「それ、それ」
とフェル博士が、大きな声を出した。
「あんたが昼間、ロンドン塔で、われわれの質問に答えたときは、車は全然アパートヘ持っていかなかったと言っておる。そのために、アパートを出てから、車庫まで取りに戻らなければならなんだってね。それ以上のことは、さすがにいえなかったわけだな。ところが、ハドリイ君がその後、管理人を調べたところによると、あんたが車を持っていっておらんはずはないことになるんだ──まあ、それもいい。で、それから?」
「僕は、自動車を走らせました。手落ちはないかと、頭が破裂するほど考え抜きました。が、どう考えても、僕は安全です。トップハットをドリスコルの頭に載せればよい。彼の鳥打帽は、僕のポケットに入っている。あとはただ、どこか塔の近くで、人通りのない横町を見つけて、死体を霧のなかに投げ出せばよいのだ。指紋は心配しませんでした。運よく、鉄矢には全然手を触れていなかったのです。こうして、さまざまな計画を胸のうちに反芻《はんすう》しながら、ブルームズベリーを離れようとしたとき──どんなことが起ったとお考えです?」
「メイスン将軍に逢ったんですな」ハドリイが応じた。
「逢った? 逢ったなんてものではありません。いくら僕が迂闊でも、将軍の姿を見たからといって、この非常の場合に、自動車を停めるわけがないでしょう。気がついたときは、将軍はステップに飛び乗っておられたのです。僕の顔を見て、にやにや笑いかけながら、何とわしは運がよいんじゃろう。ひとつ、運転台に乗せてもらうとするかな。そんなことを言って、無理にも割り込んで来るようにみえたのです。
僕はいつか、車を停めていました。これまで何度も、小説のなかで、心臓が止まるばかりの恐怖という表現に出会いましたが、いまはじめてそれを如実に味わいました。自動車全体が、足もとから崩れ去るのではないかと思いました。動かそうとしても、動かすことが出来ないのです。アクセルを踏もうとしても、足が躍るばかりで、車が動きません。窓から首を出して、──こいつは弱った、パンクらしいぞ、そう言おうとしましたが、舌までいうことをきいてくれませんでした。
それでもどうにか、車は走り出しました。メイスン将軍は、しきりに僕の耳もとで話しかけますが、何をしゃべっていたか、全然記憶しておりません。将軍は上機嫌でした。それがかえって、この際は迷惑でした。僕の眼の前には、黒板に書いた字のようなものが浮かんでいました──さあ、牧師面め、しっかりするんだ。落着いて、冷静にな……
フィリップの友人連中が、いまその牧師面に出逢ったら、さぞ驚いて眼をみはることでしょう。僕は、メイスン将軍の背中を、ポンと叩いて、こう話しかけてやりたかった──閣下、うしろの座席の敷物の下をのぞいてごらんなさい。内気な牧師面と罵られる男がこれだけの大それたことをやってのけたとは、閣下としてもかなり意外に思われるでしょうな。
もちろん、そんなことは言いません。考えれば考えるほど、車のスピードがにぶりがちです。あとの車が、どんどん追い抜いていきます。しまいには、将軍までが怪訝に感じだしたくらいです。といって、飛ばせるわけにもいかないではありませんか。車の行手に待っているものは、おそろしい破滅の淵と知れているのですから。それでも車は、ロンドン塔に向っていました。運命の手に曳かれるように、真っ直ぐに進んでいるのでした。方角は変えようとしても、変えることが出来ません……これは、しかし、おかしいですね。この酒は、ちっとも利きませんな。いつもなら、こんなに飲まないでも、酔えますのに──
車を走らせているあいだ──そうです、二十分ぐらいありましたかな。その間、考えに考え抜きました。フィリップが死んでから、もう何時間も経ったように思われます。ですが、時計を見て驚きました。まだ二時八分過ぎなんです。その間、僕の頭脳は、機械工場のように回転していました。将軍とも話していましたが、何を話したか判りません。結局、チャンスはひとつだけあると思いました。このチャンスさえ利用できれば、僕は完全に、アリバイを持つことが出来るのです!
お判りですか。みなさん? 塔内へ車をすべり込ませて、人目につかぬところへ死骸を投げこめば、それで僕のアリバイは完璧なんです。誰だって、まさか僕が、後部座席に突っ込んだ死骸といっしょに、メイスン将軍と同乗して帰塔したとは思いますまい。剣の刃渡りのような、この危険な行動が、はからずも僕の救いの綱となるのでした。僕の頭に電光のように閃めいたのは、ドリスコルが塔から出たことを、誰ひとり知っていないことでした。
最後の思いつきを成功させるために、僕は冷静になる必要がありました。で、わざと不機嫌を装いまして、将軍が話しかけても、返事もしないで黙りこんでいました。口にすることといっては、あとから追い抜いていく自動車に、ぶつぶつ文句を並べてみるだけでした。ドリスコルのアパートまで誘《おび》き出されたという、腹を立てるだけの理由を僕は持っていたのです。
僕たちが塔内に入ったとき、ちょうど二時半の時計が鳴りました。僕はすばやく考量して、必要の場所を定めました。濠沿いの道を前にして、僕はあたりを見まわしました。この道に人影さえなければ、最適の場所はここときまった。博士、あなたも最前おっしゃいましたね。霧の日に死骸を隠すのだとしたら、逆賊門ぐらい適切な場所はないんだよとね。おまけにそこならば、僕は誰にも疑われずに、車を駐めておくことが出来るのです」
ダルライは、体を乗り出すようにして、するどく言った。
「僕は将軍を、血塔に向う入口で下ろす必要がありました。僕は将軍が、アーチの下を抜けて、キングズ・ハウスのほうへ遠ざかるのを見定めまして、それから行動に移りました。後部の扉をあけて、死骸を手すりから下に投げ落しました。そして、すぐに車に戻って走り出させました。
が、際どいところでした。将軍は居室へ戻る途中、聖トマス塔に用があったのを思い出して、引き返して来たのです。そして、死骸をそこに発見しました。それで──それで話は終りました。ほかに申し上げることといっては、ひとつ残っているだけです。僕が借りている金のことです。申し上げるのを、すっかり忘れていましたが、……
話をもとに戻しますと、将軍は僕に、医者を呼んだり、ほかにもいろいろ用件をいいつけました。それをすませて、僕は部屋に戻りました。神経を鎮めたかったのです。精神的の打撃は、やはり大きすぎるほど大きかったのです。テーブルの上に、手紙が載っていました。どうして開けたか、気がついてみると、封を切っていました。片手にブランディ・ソーダ、片手に手紙を持って立っていました。手紙の内容は──」
ダルライはそこで、薬でも口に含んだように、しばらく黙ったままでいたが、
「その手紙の内容はこうでした──もう心配することはない。私が支払っておいた。兄には黙っていたほうがよいと思う。二度とこんな、馬鹿な真似をせぬように──レスター・ビットンと署名してありました」
ダルライは立ち上がって、博士たちと向いあった。顔一面に血をみなぎらせ、眸もかっと、燃えていた。口をきく者はなかった。やがてダルライが、不安に怯えるような異様な表情を示して言った。
「馬鹿だったのです。僕が馬鹿だったのです。最後の瞬間まで、それが判らないなんて、僕はやはり間の抜けた牧師面なんです。レスター・ビットンは、僕の借財をのこらず支払ってくれたのです。しかも、一言もそれを言いませんでした。
今夜、あなた方はレスターを責めました──あのひとは自殺しました──僕が、なぜ告白しなければならないか、これでお判りと思います」
彼はいつか立っていた。眉のあいだに、小さな皺がよっていた。
「僕という男は、豚みたいな下司《げす》な人間です。しかし、悪人ではないつもりです。告白するとなれば、それがどういう結果になるか、もちろん僕は心得ています。絞首台の綱が目の前に下がっているのが見えます。でも、僕は黙ってはおれません。あなた方が、ビットン大佐を責めさえしなければ──真犯人はついに判明せずと発表して捜査を打切ってくれさえすれば、僕はなにも、告白するはずはありません。いつの日か、告白することがあるにしても、いまここで話すわけはありません。なぜって、僕はシーラを愛しているのです。それにしても、僕としては、僕に親切にしてくれた人に、汚名を着せたままですましているわけにはいきません。僕はいままで、あまり他人から、親切を受けたことはないのです。むしろ世間は、僕のことを笑いものにしていました。しかし、どうです! その笑いものの、内気な牧師|面《づら》が、警視庁《ヤード》の脳漿《のうしょう》を絞らせるだけの騒ぎを惹《ひ》き起すとは考えられもしなかったでしょう」
一瞬、彼の頬に血がさして、
「笑いものの──牧師面か!」と、ロバート・ダルライは繰りかえした。
暖炉の火は消えていた。ダルライは、手を握りしめて、うす暗くなった室内を見まわしていた。長い告白だった。庭に向った窓に、朝の気配が忍びよっていた。が、メイフェアの街並は、まだひっそり眠っている……
ハドリイはしずかに椅子から立った。
「ダルライ君。すこしのあいだ、ほかの部屋へいって、休んでいたまえ。じきに呼びにやります。その間、ここですこし相談したいことがある。ひとつだけだがね。君は呼ばれるまで誰とも話をせんようにね。判りましたか?」
「判りました、護送車なり何なり、手配していただきましょう。待っています──そうそう。もうひとつ、話し忘れたことがあります。僕が、アーバア氏を脅かしたことを申し上げませんでしたね。大したことではありませんが、昼間、アーバア氏が尋問を終って出て来たとき、僕は、参観人を押し込んでおいた衛視の詰所におりました。そこで、あなたの部下の巡査部長と話していたのです。アーバアから十フィートと離れていないところでした。尋問のあいだは、僕を前にしても、うっかりしていたようでしたが、そのとき気がついたとみえました。アーバアは気絶せんばかりに驚いていました。……
僕はいま、足も地につかぬ気持です。倒れねばよいがと思っています。牢獄へひかれるというのは、こうした気持になるものでしょうかね?」
肩を落して、よろめきながら、ダルライは出ていった。
「さあ、どうする?」
ダルライの姿が、ドアの外に消えると、フェル博士が、すぐに訊いた。
ハドリイは、軍人のようにいかつい格好で、白大理石のマントルピースの前に、消え落ちようとする火を見つめながら立っていた。手には、ダルライの陳述を筆記したノートを持っていた。
しかし、彼はまだ、何か躊躇している。その眼の下には、ふかい皺が何本も斜めに走っている。彼はまだ、眼を閉じたままである……
「急に年齢をとったようですよ。法は尊重すべし、そんなことはいわんでも判っていますが、それにしても迷いますね。経験を積むにつれて、だんだん判らなくなる一方です。十年以前の私は、峻烈きわまる警察官で鳴らしたものです。陪審員たちは、子供の証言とでもなろうものなら、採ろうともしないのですが、こちらは遠慮会釈なく採用して、事件を片づけていったものです。それが、いまは私も──」
「考えこむこともないぜ」博士はいった。「レスター・ビットンに触れさえしなければ、この事件は未解決のままで終ってしまうんだ。さあ、どうだね、ハドリイ君! ここを法廷と見立てて、この事件の結末は、わしらの解決に委ねてみるつもりはないかね?」
「いいでしょう、先生」
ハドリイは、厳粛な顔つきに戻った。ものの本の賢者めいた奇妙な微笑が、その口もとに浮かんでいた。
「で、フェル博士。先生の答申は?」
「未解決」
「ランポウル君は?」
「未解決」ランポウルも即座に答えた。
消えかかった暖炉の火が、警部の横顔を照らしていた。無言で、彼の手が、サッと動いた。まっ白な紙片がひらめいて、炎のなかに吸いこまれていった。ハドリイの手は、しばらくそのまま、静止していた。賢者めいた奇妙な微笑が、まだその顔に漂っていた。
「未解決」
彼も言った。(完)
解説
一口に探偵小説といっても、その傾向は千差万別である。最近では、ハードボイルド派とか心理サスペンス派とか、普通小説に親近性のある新しいジャンルがあらわれて、すくなくともその出版量の上からは、優勢な状態を示しているようだ。しかし、探偵小説というこの特殊な形式が、独自の存在価値を主張して、広い読者層の愛好を受けている所以は、探偵物プロパーの本質、「不可解な謎とその合理的な解決」に、偏愛に近いものを感じている読者があとを絶たぬからにちがいない。
こうした探偵小説の本道を行く、いわゆる本格物の代表作家を選ぶとすれば、現代ではジョン・ディクスン・カーの名をあげることに、だれしも異存のないところであろう。処女作以来、六十冊になんなんとする著作のうちに、カーは「密室」犯罪を中心に、探偵小説として考え得られるかぎりの技法を駆使して、読者の意表をつくことに奮闘している。
そのプロットが波瀾に富んで、興味津々なのはもちろんであるが、なによりもその本領を、とびきり怪奇な謎の解明においている。開巻第一頁から、不可思議きわまる事件が勃発する。謎が奇抜で、一見したところ、常識的には解決不能と思われれば思われるほど、物語の興趣は深まっていく。彼が不可能犯罪に、終始一貫して無限の情熱をそそいでいる理由はそこにあるのであろう。
彼の作品が持つもうひとつの特徴をいうと、その物語が、すべて神秘主義《オカルティズム》によって包まれていることである。もちろんそれが、発端の意外性、プロットの怪奇性を強調するにあずかって力あることに疑いはないが、ただたんに、作品の効果を高めるための──たとえばヴァン・ダインのそれに見るような──衒学的装飾とは類を異にしている。いうなればそれは、カーという作者そのものに内在する本質的なもので、読者はこれによって、事件をかこむ妖異な雰囲気を愉しむだけにとどまらず、西欧の合理的文明の底に、いまなお根づよい潜在力をもって生きつづけている中世以来の怪奇思想の伝統を、こころゆくばかり堪能することができるのである。
その神秘主義は、あらゆる部門を網羅している。いわく、魔術、錬金術、占星術、心霊現象、吸血鬼伝説、狼憑き、人間消失、不死の人間、生き人形、絞首台の恐怖、鉄の処女の残虐と、これでもかこれでもかとたたみかけてくるところは、気のよわい読者なら、卒倒しかねないほどである。しかもそれが、最後の章にいたると、ことごとく明快に、合理的な解決をあたえられるのであるから、ミステリー文学愛好家としては、心酔しないわけにいかなくなるのである。
彼の略歴を、彼自身が記したものを中心に述べるとつぎのようになる。
「スコットランド系の血をひいて」一九〇六年、アメリカ、ペンシルヴァニア州ユニオンタウンに生れた。父親は一九一三年から一九一五年まで国会議員に選出されたくらいで、一応名家の出身である。父親は彼を、自分同様、弁護士にする目的で、ペンシルヴァニア大学に送ったが、法律は大のきらいで、学業はついにものにならなかった。
そこで父親は、彼が二十一歳のとき、パリヘ遊学を命じた。そこで四年のあいだ、彼は「学業以外」のあらゆることに興味を持った。そしてもちろん学業はならぬままに、一九三一年に帰国したが、その船中で、イギリス婦人と知り合いになり、ニューヨーク到着と同時に結婚した。
その前年、ハーパー社から処女作「夜歩く」を発表した。これが予想外の好評を博したので、彼は探偵小説家として立つことを決意した。
イギリス婦人と結婚したことから、住居を彼女の故国に移して、その後十数年をロンドンに暮らした。その間、イギリス探偵作家クラブの幹事長もつとめ、戦時中はドイツ空軍に、二回も爆撃されながら、BBC放送の台本を中心に、作家活動をつづけていた。アメリカ人であるにかかわらず、一般にはイギリス作家として認められているのは、そういう理由にもとづくのである。
彼の著作は非常に量が多い。一九三〇年に処女作「夜歩く」を発表して以来、一九五八年までに六十三冊の多きを数えている。本名ジョン・ディクスン・カーのほかに、ペンネームを二つ持ち、初期はカー・ディクスン、後にはカーター・ディクスンを使用した。
上記の著作数を細別すると、ジョン・ディクスン名義のものが、短篇集、編纂物を含めて三十八冊、カーター・ディクスン名義のものは二十七冊におよぶ。前者はさらに、パリ警察のアンリ・バンコランが活躍するものと、イギリス人の医師ギディオン・フェル博士が登場するもの、それに時代探偵小説と三種類に分れ、後者名義のものは、元イギリス情報局長官ヘンリー・メルヴェール卿を主人公としたものである。
この訳書「帽子蒐集狂事件」は、カー名義の作品中、代表的と目されているもので、一九三三年に出版されている。陰惨な伝説にみちみちたロンドン塔を舞台にして、ロンドン名物の濃霧。昼なお暗いその構内に、シルクハットをかぶり、中世紀の鉄矢で背中を射られた死骸をめぐる物語である。(訳者)
◆帽子蒐集狂事件◆
ジョン・ディクスン・カー/宇野利泰訳
二〇〇四年三月十日 Ver1