ジョン・ディクスン・カー/仁賀克雄訳
死が二人をわかつまで
目 次
死が二人をわかつまで
解説
主な登場人物
リチャード(ディック)・マーカム……劇作家
レスリー・グラント……その婚約者
シンシア・ドルー……ディックの女友達
ハーヴェイ・ギルマン卿……著名な病理学者
アッシュ男爵ジョージ・コンヴァース……アッシュ・ホールの主
ホーラス・プライス少佐……事務弁護士
ヒュー・ミドルズワース……医師
ウィリアム・アーンショー……銀行支店長
ミセス・ラックリー……レスリー邸の家政婦
ローラ・フェザーズ……郵便局長
サミュエル・ド・ヴィラ……詐欺師
バート・ミラー……巡査
ハドリー……ロンドン警視庁警視
ギデオン・フェル……名探偵
第一章
あとから考えてみれば、バザーでの夏の嵐、占い師のテントや射的場で起こったこと、そのほかいくつかのできごとは、事件の前兆だったのかも知れないと、ディック・マーカムには思い当たるのだった。
しかし当時は、天候のことなどあまり気にとめていなかった。彼はそれほど有頂天だったのだ。
彼とレスリーがグリフィンとトネリコの紋章で飾られた石柱のある、開放された門を入ると、向こうはアッシュ・ホールの敷地へと続いている。よく刈り込んだ芝生には、ごてごてした屋台と縞模様のテントが並んでいる。背後には樫の木がおいしげり、周囲には赤い煉瓦を積んだホールの低い境界線が長く続いていた。
四、五年もたてば、この光景は苦々しくも懐かしさをもって、ディック・マーカムの脳裏に浮かぶことだろう。みずみずしい緑に燃えるイングランド。白いフランネルと、もの憂《う》い午後のイングランド。このイングランドが、いかなるたわごとのせいであれ、よりよき世界を失うことのないように祈りたい。ヒトラーの戦争がはじまる一年ほど前、そこには潤沢さがあった。その豊かさは、現アッシュ男爵ジョージ・コンヴァースの資産には当てはまらなかったが。しかし、いささか想像力過剰な長身の青年、ディック・マーカムはそんなものにはほとんど目もくれなかった。
「あら、かなり遅れてしまったわ」レスリーは息をはずませ、なかば笑いながらあっけらかんといった。
二人はいくぶん足を急がせていたが、しばし立ち止まった。
暑い午後の大気を涼しい突風が吹き抜け、芝生を激しく荒らしていった。レスリーはうすく透いたピクチャー・ハット〔花や羽根で飾ったつばの広い帽子〕を両手であわてて押さえた。けむりのようなゆるやかに流れる雲で、空は夕方みたいに暗くなった。
「ねえ、いま何時ごろ?」とディック。
「とにかく三時は過ぎたわ」
彼は前方に顎をしゃくった。嵐の影はサングラスを通した日光のごとく、あたりを悪夢にも似た非現実なものに見せている。芝生には何ひとつ動くものがない。突風で人々が落ち着かなくなったせいか、テントや屋台は閑散としていた。
「でも……みんなどうしたのだろう?」
「おそらくクリケットの試合よ、ディック。急がなくちゃ、レディ・アッシュやミセス・プライスがおかんむりよ」
「こんなことで?」
「うそよ」レスリーは笑った。「そんなことはないわ」
帽子の縁に手をやり、笑いながら息をはずませている彼女をディックは見つめた。その笑いを浮かべた口元とうらはらに、やりきれないほど真剣なまなざしを見てとった。すべての想念と感情が褐色の眼に集まっているようだ。その眼は昨夜の打ち明け話を思い出させてくれた。
その上げた腕にもさりげない優雅さがあり、強い風のせいで白いフロックは身体の線をくっきり見せている。彼女のちょっとした唇のわななき、眼くばりにさえたまらない魅力があり、そのたびごと、さまざまな仕草がディックの脳裏に焼きつけられた。
その午後、かたくるしいガーデン・パーティ会場、アッシュ邸の静かな庭園に入ると、レディ・アッシュはうつろな眼で二人を迎えてくれた。うわべだけでもしきたりにこだわるマーカムは、人目もはばからずレスリー・グラントを抱き、口づけする気にはならなかった。
このとき風は庭園を吹きすさび、空はますます暗くなった。二人の会話は(だれも水をさすものがいないので)いささか取りとめのないものだった。
「愛してる?」
「もちろん。きみは?」
昨夜からあきもせぬ同じ睦言《むつごと》のくりかえしだった。ところがそのたびごとに新しい発見があるようで、それを実感してはめくるめく想いに浸っていた。ディックは自分たちがどこにいるかをうつつにさとって、とうとう腕を解くと空を仰いだ。
「ぼくらもあのくだらないクリケット試合に行かなくてはならないのかい?」
レスリーはためらった。極度に高揚した感情が眼から消え、空を見上げた。
「まもなく雨が降ってくるわよ。クリケット試合ができるかどうか。それに……」
「それに、なんだい?」
「占い師に見てもらいたいの」とレスリー。
ディックはそれには答えず、頭をのけぞらすと大笑いをした。彼女のいかにもうぶな態度とあまりに思いつめた様子を考えると、自分の感じたことを表わすには高笑いしかなかったからだ。
「ミセス・プライスの話では、よく当たるそうよ」彼女は急いで断言した。「それで興味を持ったの。あなたのことも洗いざらい占えるといっていたわ」
「きみはもう知っているじゃないか」
「一緒に見てもらいましょうよ」
東の方でかすかな雷鳴がした。レスリーの手をかたくにぎりしめると、彼は芝生に点在している屋台に向かって砂利道を駆けていった。それらの小屋は雑然とちらばっていて統制がとれていなかった。ココナッツ落としから金魚すくいまで、出店のあるじたちは自分の芸術的趣味を誇示していた。そのため占い師のテントも見まちがえようもなかった。
そのテントは他の出店からはなれてアッシュ・ホールの近くにあった。テントのかたちは不格好な電話ボックス状で、すそ広がりに頂上が尖っている。うす汚れたキャンヴァスには紅白の縦縞が入っていた。テントの垂れ幕は「全知全能の偉大なるスワミ、手相鑑定家、水晶透視者」ときれいな字で書かれ、大きなボール紙で作った手型に説明の矢が突き刺さっている。
空はすっかり曇っていたが、ディックには占い師のテントの灯がはっきりと見えた。内部は午後の熱気で息づまる暑さだろう。激しい突風がテントを吹きぬけ、キャンヴァスをぱたぱたさせたので、テントは半分しぼんだバルーンみたいに傾いた。手型がゆれ動いて二人を招いているかのように不気味だった。そのとき声がした。
「おーい!」
ホーラス・プライス少佐が小さな射的場のカウンターの奥で、両手を口にあて行進のかけ声で二人に呼びかけていた。他の小屋はほとんどがひとけがなく、店主たちはそそくさとクリケット試合に出かけていた。プライス少佐はあえて自分の城を守っている。彼は二人の関心をひくとカウンターをくぐりぬけ走りよった。
「あら、耳に入ったのかしら?」とレスリー。
「みんなに筒抜けだよ」ディックははげしい当惑と、はち切れそうなうぬぼれを同時に感じた。「きみは気にならないかい?」
「気になるわよ!」レスリーは叫んだ。「でも……」
「やあ、きみたち!」少佐はツイード帽をしっかりと押さえ、なめらかな芝生を少し横すべりした。「お嬢さん、午後からずっと捜していましたぞ。家内もね。あのことはほんとうかね?」
ディックは風に吹かれたテントを見るようなさりげない眼で少佐を見た。「何がほんとうですか、少佐?」
「結婚だよ!」少佐は感情をあらわに強調した。二人を指さすと、「結婚するのかね?」
「ええ。そのつもりです」
「それはよかった!」と少佐。
彼は声を落としたが、その声は結婚というより葬儀にふさわしい厳粛さだった。プライス少佐は時にまったく当惑するほど感傷的になる。彼は手をのばすと交互に二人の手を強くにぎりしめた。
「ほんとうによかった!」少佐の心からの思いやりある言葉はディックの胸に暖かく迫るものがあった。「まったくお似合いだ。家内も同感さ。で、式はいつ?」
「まだ何も決まっていません。すみませんが、ガーデン・パーティに遅れるもので。ぼくたちは……」
「そうか! そのことで頭がいっぱいなんだな。もう何もいわんでいい」
プライスは職業軍人ではなく、少佐と呼ばれるほど正式な資格はなかったが、第一次大戦中この階級にいたことからホーラス・プライスにふさわしい呼び名として定着していた。
実際は事務弁護士で、かなり目端しの利く男だった。いうまでもなく、なかば田舎のシックス・アッシェズ村では、訴訟の申し立てはハイ・ストリートにある彼の事務所をとおすようになっていた。その言動、巨体、刈りこんだ砂色の口ひげ、丸い顎のしみのある顔、明るいブルーの眼。豊富な知識に劣らず軍事やスポーツにも精通しているところを時々示す。それがプライス少佐を治安判事なみに見せていた。
彼は身体を前後にゆすりながら、両手をもみ合わせ二人に笑顔を見せていた。
「実にめでたい。みんなが祝ってくれよう。わしの家内、レディ・アッシュ、ミセス・ミドルズワース、みんながな! ところで……」
「ところで」レスリーがうながした。「避難したほうがよくありません?」
プライス少佐は眼をぱちくりさせた。
「避難?」
捨てられた紙袋が強風に吹き飛ばされて頭上をすぎていった。アッシュ・ホールの柏の木々は強風にたわみ、キャンヴァスの垂れ幕はいまやハリケーンにちぎれかけた旗を思わせた。
「嵐がきそうだ。小屋は全部吹き飛びかねない。そうしたら隣の郡までちらばってしまう」ディックはいった。
「いや、大丈夫だ」少佐が保証した。「嵐もそれほどでないし、この祭りももう終わりに近い」
「ご商売はいかがですか?」
「大繁盛さ」少佐は淡いブルーの眼を輝かせて商売熱心ぶりを強調した。「客の中には腕のいいのもいてね。たとえば、シンシア・ドルーとか……」
プライス少佐は急に口をつぐんだ。とんだ失態を仕出かしたように顔に血が上った。ディックはうんざりしながら、これ以上シンシア・ドルーの話題が出ないことを願った。
「レスリーは」ディックは大声でいった。「あの有名な占い師にぜひ会いたがっています。まだテントにいるなら、早目に出かけたいのですが」
「いや、待ちたまえ」少佐はきっぱりといった。
「どうしてですか?」プライス少佐は手をのばすとレスリーの手首をしっかりとにぎった。
「占い師にはぜひとも会いたまえ。まだそこにいる。だが、まずわしの出し物をためしてほしいね」少佐はにやりとした。
「射的ですか?」レスリーは叫んだ。
「ぜひともね」と少佐。
「困りますわ。わたしはやめておきます」
レスリーのさしせまった声に驚いて、ディックはふりかえった。しかし強引な押しつけがましさが身上の少佐は気にもとめなかった。
雨粒がディックの額に落ちてきたので、少佐は二人を射的小屋に入るよううながした。せまい小屋は板壁とキャンヴァスの屋根でかこまれ、奥の壁は黒く塗った鉄板で裏打ちされている。そこには滑車で動く六つの小さな標的が吊り下がり、撃ったあとはカウンターまで引き寄せあらためられるようになっていた。
カウンターをくぐるとプライス少佐はスイッチを入れた。乾電池に接続した小さな電球が点き、標的を照らしだした。カウンターには小型ライフルが並んでいる。主に二二口径銃で、シックス・アッシェズ中からかき集めたものだ。
「まずあなたから、ヤング・レディ」少佐はそういうとテーブルの料金箱を指さした。「六発で半クラウンです。高いでしょう。でもこれはチャリティですからな。どうぞ!」
「本当に遠慮します」とレスリー。
「心配ご無用」少佐は小型ライフルをとりあげるといとおしそうに銃身をなでた。「これはすぐれものだよ。ウィンチェスター61、撃鉄を尾筒におさめた型でね。結婚後にご主人を撃つのに最適だよ」彼は大声で笑いながら「ためしてごらんなさい」
ディックは半クラウンを料金箱に入れると、彼女にやらせようとして急に思いとどまった。レスリー・グラントの眼に、彼も知らなかった表情がきらめいた。それは逡巡でも恐怖でもなかった。彼女はピクチャー・ハットを脱いだ。長いボブヘアに編まれた豊かな褐色の髪がゆるやかに肩にかかり、風ですこし乱れた。彼女は真剣になったときが一番美しかった。二十八歳なのに、十八歳ぐらいにしか見えなかった。
「ばかばかしいと思うんですけど」彼女はそのほっそりした指で、帽子をにぎりつぶしながら息をはずませていった。「でも銃が怖いんです。死につながるものがあって……」
プライス少佐の砂色の眉が上がった。
「心配ご無用」彼はいさめた。「人を殺させようとしているのではないからね。ライフルを持って標的のひとつを撃ちぬくだけだ。さあ、やってごらん」
「あのう」ディックが口をはさんだ。「彼女がやりたくないのなら……」
遊びであるのはいうまでもないので、レスリーは下唇をかむと、少佐からライフルを受け取った。まずライフルを片腕で支えようとしたが、うまくいかないのがわかった。あたりを見まわし躊躇した。それから銃床を頬にあて、狙いもさだめず撃った。
ライフルを撃っても、その音は雷のせいで唾を吐いたほどにも聞こえなかった。標的には弾痕はなかった。雷は完全にレスリーの士気をくじいたようだ。彼女はライフルをそっとカウンターにおいた。その身体はふるえ、泣きださんばかりなのにディックは驚いた。
「ごめんなさい。わたしだめなの」
「この世の気のきかない男の中で、ぼくはいちばんだめな男か。知らなかった……」ディックはかみつくようにいった。
彼はレスリーの肩に手をおいた。彼女に触れたいと思う気持ちがあまりに強く、少佐がいなかったら抱きしめていたろう。レスリーは吹き出しそうになり、このせりふは功を奏した。
「もう大丈夫よ」彼女はまじめにうけあった。「ばかなところをお見せしたわね。それだけのことよ」彼女は言葉が見つからず、身ぶりであらわそうと苦労した。そしてカウンターからピクチャー・ハットを手にとった。「これから占い師のところに行きたいの」
「いいとも。一緒に行こう」
「一度に一人しか見てもらえないわ。二人は無理よ。あなたはここにいて射的を楽しんでいてよ。どこへも行かないでね」
「動かないから安心して行っておいで」ディックはまじめくさっていった。
二人はおたがいにしばらく見つめあうと、彼女は出て行った。ディックは彼女と別々になったことでひどくがっかりしたが、彼女にとってはほんの数十ヤードはなれたテントに行くだけのことだった。ライフル射的で彼女を狼狽させたことをディックは反省していたが、少佐もやましい沈黙を気にしていた。
少佐は咳ばらいをした。
「女め!」彼は心から憂鬱そうに首をふった。
「そうです。でも冗談でなく、もっとうまくあしらうべきだった」
「女め!」少佐はくりかえした。彼はライフルをディックに手渡し、ディックは無意識に受け取った。それから少佐はいくぶんうらやましげにいった。「きみは幸運な若者だ、ディック」
「どうしてですか?」
「あの娘は一種の魔女だよ。六か月前にここにやってきて、近隣の男たちの半分を夢中にさせた。金も使わせ、そして……」ここで言葉をにごした。「なあ」
「何ですか、プライス少佐?」
「今日シンシア・ドルーを見かけたかい?」
ディックは彼を見すえた。少佐は眼をそらしてカウンターのライフルをじっと見ていた。
「いいですか。シンシアとぼくとのあいだにはもう何もありません。それをわかってください」
「わかっているとも!」少佐はあわてていかにもさりげなく見せた。「それはそうだとも。だがとかく女どもは……」
「どんな女ですか?」
「わしの家内、レディ・アッシュ、ミセス・ミドルズワース、ミセス・アーンショウだ」
ふたたびディックは少佐の手のこんだ無関心ぶりを見やった。プライス少佐はカウンターに片肘をのせて寄りかかり、その大きなシルエットが標的に映っている。また風が小屋の中でうなりをあげ、ごみをまきちらしキャンヴァスをもち上げた。しかし二人ともそれに気がまわらなかった。
「いましがたご婦人たちは、ぼくらを祝福しているといったじゃないですか」ディックは指摘した。「祝福の雨を降らせるために、ぼくらをあちこち探し回っていると」
「そのとおりだよ、ディック! うそじゃない」
「それなのに?」
「でも彼女たちは感じているんだ――気にしているんだよ。きみに警告だけはしておきたい、ある意味では、あの可哀想なシンシアが……」
「可哀想なシンシアですって?」
「ある意味ではそうだ」プライス少佐は片側に寄り、ディックはライフルを肩にあてて発砲した。それが返事だった。無心の境地をこころがけたが、標的の中心から少し外れていた。ディックも少佐も、よくある用心深い、肚《はら》に一物ある口調で、内輪だけの危ない話を続けた。
しかし、このシックス・アッシェズのささやかな暮らしの背後で囁かれる噂話の力をディックはいま意識した。
「かれこれ二年以上も、全村あげてシンシアとぼくを一緒にさせようとしてきましたね。ぼくらが好むと好まざるとにかかわらず」ディックは苦々しげにいった。
「わかっている。よくわかっているよ」
ディックはまた撃った。
「もう何もありません。そういったでしょう! シンシアには興味も関心もありません。シンシアも知っています。他人がどうしようと彼女は誤解などしませんよ」
「なあ、ディック」少佐は彼を見すえた。「女の子は少しでも関心を示せば、何か裏にあるかも知れないと思うよ。きみの立場は理解できないことはないが、気をつけろよ!」
ディックはふたたび撃った。
「それに周囲を喜ばせるだけの結婚は反対です。ぼくはレスリーと恋愛中です。彼女がこの村にやってきて以来ずっと夢中なんです。それだけのことですよ。だけど彼女はぼくをどう見ているか……」
プライス少佐は含み笑いした。
「まあ、そうだが」彼はすまなそうにいってディックを見なおすと、手をふって打ち消した。「それもきみがこの村の名士のせいだ」
ディックはぶつぶついった。
「もうひとついっておきたいのは、きみはいまこの村の名士ふたりの片割れだ。占い師のことはだれから聞いたのかね?」
「だれからも。占い師の正体はだれですか? このあたりにはその手の人間はいないでしょう。それとも談合の上のペテンですか? でも、みんなよく当たる占い師だといっている。何者ですか?」
カウンターには弾薬の入った箱があった。プライス少佐はなにげなくひとにぎり掴《つか》みあげると、手を開いてまた箱に落としこんだ。記憶を楽しむかのようにじらしていた。
「今日の午後アーンショウに披露したすばらしいジョークを聞かすから忘れないでくれ。アーンショウは……」
「待ってください、少佐。はぐらかさないでください。占い師とはだれなんです?」
プライス少佐は慎重にあたりを見回した。「ここだけの話だ。しばらく他言は無用だよ、本人の希望でね。彼は犯罪学の最高権威の一人なんだ」
第二章
「犯罪学の権威ですって?」ディックはおうむ返しにいった。
「そうとも。ハーヴェイ・ギルマン卿だ」
「あの内務省所属の病理学者の?」
「その男さ」プライス少佐は満足げに肯定した。
ディックは驚くと同時に強い印象をうけた。ふりかえって紅白縞のテントを見つめると、入口のそばのまがまがしいボール紙の手型が風の中でくねり、手まねきしていた。
それは気味悪い影絵芝居に見えた。
いまやあたりは嵐がきたように暗くなり、このけばけばしいテントを引き立てる「全知全能の偉大なるスワミ、手相鑑定家、水晶透視者」の看板がやっと見分けがつくくらいだった。しかしテント内の天辺には明かりがついていた。暗やみの中、その明かりで内部の二人の影がテントに映っている。
鐘形に広がるテントが風にゆらいでいるので人影はにじんで見える。それでも一方が女性のシルエットであり、テーブルをはさんでもう片方は奇妙にふくらんだ頭のずんぐりした影で、手を振っているのがディックにはわかった。
「ハーヴェイ・ギルマン卿ですか」ディックはつぶやいた。
「あそこでターバンを巻いて座り、予言を告げているのがそうさ。一日中大忙しだ」少佐は説明した。
「手相や水晶透視に、どのくらいの知識があるんですか?」
プライス少佐はそっけなくいった。
「ないね。だが人間の性格についての知識は豊富だ。それが占いの秘訣さ」
「ハーヴェイ卿はここで何をしているんですか?」
「夏のあいだポープ大佐の別荘に泊まっている。ギャロウズ・レーンさ。きみのところの近くだろう」少佐はまたくすくす笑った。「警察署長がわしに紹介してくれた。そこでインスピレーションをえてね」
「インスピレーション?」
「そうだ。その正体を最後まで明かさず、占い師を演じてもらおうという名案さ。そのうえ自分でも楽しんでもらおうと思ってね」
「ほんとうに乗り気でしたか?」
「あの小柄で干からびた老人は眼を輝かせてね。予想通りたいそうお気に召した。アッシュ家ではそのいきさつを知っている――昨晩レディ・アッシュを失神させるところだった――あとはドクター・ミドルズワースと、ひとりかふたりしか知らない」
ここでプライス少佐は言葉を切ると、行進の号令口調で通りがかった人に呼びかけた。それはいま話に出た人物の一人で、点在するテントのあいだをぬってアッシュ・ホールに急いでいた。
ドクター・ヒュー・ミドルズワースである。無帽でゴルフバッグを肩にかけ、雨にめげず闊歩《かっぽ》していた。彼はガーデン・パーティのゴルフ係で、即席のティをもうけて短い距離を打たせ、最少の打数でボールをカップに入れた客に賞品を進呈していた。ドクターはプライス少佐のよびかけに激しく頭をふったが、少佐がしつこくくいさがったので、やむなく射的場にやってきた。
ヒュー・ミドルズワースは腕のたつ医師で、この界隈ではなかなかの人気だった。
その人気の理由を特定するのは難しい。彼は口数の少ない人間だった。ひとあたりがよく、口やかましい妻にも、大勢の家族にも献身的だった。
四十代の痩身《そうしん》の男で、禿げた頭の天辺を褐色の薄毛で隠しており、ふだんはやや憂い顔をしている。眼のまわりには隈があり、褐色の短い口ひげをはやしていた。頬骨とこめかみにはくぼみがあった。人と会うと言葉を交わす代わりに、ふと顔を輝かせて思いやりのある笑みを浮かべた。それは無意識ではあったが、人をそらさないこつで、素晴らしい効果を生んだ。
彼はゴルフバッグをもう片方の肩に移しかえ、土を踏み固めるようにこちらへやってくると、驚いた仕草で少佐の顔を見つめた。
「クリケット試合に行かなかったのか?」
「ああ」と少佐はいった。質問も答もいささか言わずもがなだった。「ここでがんばっているんだ。それにそう、占い師を見張っている。ハーヴェイ・ギルマン卿のことはディックに話したばかりだ」
「ふむ」とミドルズワース。彼は何かつけくわえようと口を開けたが、気をかえ口をとじた。
「実をいえば、レスリー・グラントが見てもらいにテントに入っている。レスリーはすばらしい男性に出会い、旅に出ることになろうと、お告げが出れば万々歳だ」少佐はディックを指した。「二人は結婚するよ」
ドクターは何もいわなかった。ただにっこりすると握力の強そうな手を広げた。それが心からの祝福であるのをディックは知っていた。
「そのことは耳にしていた」と彼は打ち明けた。「家内からね」彼はまたやや憂い顔に戻り、ためらいがちにいった。「ハーヴェイ卿だが……」
「この若者は職業柄信じてはいないがね」少佐はディックの肩を強くたたきながら話を続けた。
「信じないわけでもありませんが」ディックは熱心にいった。「ハーヴェイ卿は過去三十年にわたり、有名、無名の殺人事件に専門家として証言してきた人です。ぼくの友人ラルフがベイズウオーターで、卿の近所に住んでおり、時々ガラス瓶に人間の内臓を入れて持ち帰っていたのを見たことがあるといっていました。ラルフは卿を歩く殺人百科事典と呼んでいました。卿の話を聞ければ……」
このときだった、三人がとびあがったのは。
稲妻の閃光が青白くあたり一帯を照らしだし、続いて激しい雷が近くに落ちた。稲光は写真のフラッシュのごとく隅々までまざまざと映しだした。
それは裏庭を、アッシュ・ホールの赤黒い煉瓦壁を照らしだした。細い煙突から縦仕切りの窓までくっきりと。どれも持ち主と同様に由緒はあるが、いかにもみすぼらしかった。騒々しく身もだえする樹々もとらえた。いま占い師のテントのほうに向けられたドクター・ミドルズワースの心配でやつれた顔も、プライス少佐の福々しい表情もうつしだした。雷鳴がやんで、ふたたび暗やみが訪れたとき、かれらの関心はべつのものに向けられていた。
占い師のテントに何か異変が起こっていた。
レスリー・グラントの影がとびあがり、テーブルごしに指をつきだしていた男の影も立ちあがった。明かりにうつるテントにうごめく影絵芝居の気味悪さは、その切迫した様子をまざまざと見せた。
「おーい!」ディック・マーカムはやみくもに叫んだ。
その影の動きは実物さながらに感じられた。レスリーの影がきびすをかえしたかと思うと、本人がテントからとび出してきた。
ディックはライフルをさげたまま彼女に向かって走っていった。彼女――暗やみの白い姿――は立ちどまり気を鎮めている様子だった。
「レスリー! どうかしたか?」
「どうかしたかですって?」レスリーはおうむ返しにいった。彼女の声は冷静でやさしく、いつもどおりだった。
「占い師に何かいわれたのかい?」
彼女の白目がきらきらと輝き、細い眉がつり上がり、褐色の眼は探るように見ているのをディックは感じた。
「何もいいやしないわ!」レスリーは強く否定した。「いいかげんな占い師ね。あたりまえの話だけ。人生は順調で病気のことがちょっぴり。何も深刻な話はないわ。うれしい便りが届くとかよ」
「じゃあ、どうしてそんなに怯《おび》えているんだい?」
「怯えているですって!」
「ごめんよ。テントにうつった影を見てね」だんだんと口論が苦痛になり、ディックは気持ちの整理がつかないまま、思い切ってライフルを彼女ににぎらせた。「これをしばらく持っていてくれないか」
「ディック! どこにいくの?」
「占い師に会ってくる」
「だめよ!」
「どうして?」
雨がそれに代って答えた。大粒の水滴がちらばりはじめた。やがて雨は芝生を走りだし、樹々の怒号が空を切り開く戦車みたいだった。
ディックはあたりを見回した。いままでひとけのなかった芝生に、グラウンドの向こうのクリケット試合から雨を逃がれてきた人々がなだれこんでいた。プライス少佐は急いで手いっぱいのライフルをかき集め、ディックに合図してレスリーを指さした。ディックは彼女の腕にふれた。
「家に入るんだ。ぼくもすぐ行く」そしてテントの垂れ幕を上げるとひょいと中に入った。
声がした。ゆっくりと単調なしゃがれた作り声がひびいた。せまい息づまるテントのなか、あまり近くで聞こえたのでディックはどきっとした。
「残念だが疲れはてたよ。あれが最後の客だ。今日はもう紳士淑女諸君のご要望には答えられん」
「充分ですよ、ハーヴェイ卿。ぼくは占っていただくためにきたのではありません」とディック。
それから二人はたがいを観察した。ディックは喉に言葉がつまるのが不思議だった。
テントの中はほぼ六フィート四方、天井からシェイドをつけた白熱電球が吊り下がっている。光は輝く水晶玉を貫き、小さなテーブルを覆った暗紫色をしたビロードの布にあたり、この息づまる場所に催眠効果を与えている。
テーブルの向こうに占い師が座っていた。五十年配のやせて干からびた小男だ。白いリネンのスーツを着て、色のついたターバンを頭に巻いている。ターバンの下からは尖った鼻、横一文字の口、突き出した顎、醜く皺《しわ》だらけの額をした知的な顔がのぞいていた。その人目をひく眼は皺の奥に鎮座している。
「それではわしを知っているのか」彼は地声でいった。校長風のしゃがれ声だ。何度か咳ばらいをするとあたりまえの声音《こわね》に戻った。
「ええ、ハーヴェイ卿」
「それでは何がお望みだね、お若いの?」
雨滴がドラムのごとくテントの屋根をたたいた。
「ミス・グラントに何をいわれたか知りたいのです」
「ミス・だれ?」
「グラントです。いましがたここにいた若い女性で、ぼくのフィアンセです」
「フィアンセ?」
皺だらけの瞼《まぶた》がぴくぴくした。ギルマン卿はこの商売を楽しんでいると少佐はいっていた。それには人の悪いユーモアが不可欠だ。この風通しの悪いテントで一日中怪しげな言葉をならべ、むかいに座った客をおもちゃにして楽しんでいる光景をディックは想像してみた。しかしいまはそんな楽しげな様子はみじんもない。
「きみの名は、ミスター……?」
「マーカム、リチャード・マーカムです」
「マーカムか」偉大なるスワミの眼は内側を向いているようだった。「マーカム、時々ロンドンで見かける名前だ。芝居を書いている、あのリチャード・マーカムか? 芝居の種類は何といったか」彼はいいよどんだ。「心理的スリラーだったか?」
「その通りです」
「たしか犯罪者の心理や動機を分析していたな。きみが書いているのか?」
「それを素材になんとか精一杯書いています」ディックは急に守勢に立ったのを感じた。
そう、この男は楽しんで|いる《ヽヽ》とディックは感じた。ハーヴェイ卿は口をもう少し開いたら笑いになるような声を出した。しかしそのみにくい額の皺は変わらなかった。
「そうだったのか、マーカム君。きみのいうレディの名前は……?」
「グラント。レスリー・グラントです」彼の言葉は叩きつける風雨のごとく勢いこんだ。風雨はあいかわらずテントの屋根にうつろな激しい音を立てている。ディックはそれに負けず声をはりあげた。「これはいったいどういうことですか?」
「マーカム君、彼女はシックス・アッシェズに長く住んでいるのかね?」
「いえ。まだ六か月です。どうしてですか?」
「婚約してどのくらいになる? ぜひ聞きたいわけがあるんだ」
「まだ昨夜のことですが、しかし……」
「昨夜のことか」抑揚をつけずおうむ返しにいった。テントに吊りさがった電球が少しゆれ、やわらかな光が水晶玉をすべった。ドラムを叩くような雨音は激しい怒号になり、キャンヴァスをふるわせた。水晶玉の背後からは好奇に満ちたまなざしが訪問者を見つめていた。ハーヴェイ卿は手のひらを上に向け、片手の指の関節でビロード張りのテーブルを軽くゆっくりと叩いていた。
「もうひとつ訊きたいのだが」彼は興味深げにいった。「芝居の素材はどこで見つけるのかね?」
こんなときでなければディックも彼と語るのは非常に楽しかったろう。たとえ口先でも、お世辞をいわれるのはうれしかったろう。ところがディックにもこの鋭い鼻の病理学者の気分をそこねると敵に回しかねないことがわかってきた。彼はやりきれなくなってきた。
「失礼ですが、それが何か?」
「どうやって素材を自分のものにするか知りたくてね」ハーヴェイ卿ははじめて人間味をかいま見せた。そして眼をあげると、「レスリー・グラントと名乗る女性の素性を知っているかね?」といった。
「素性ですって?」
「どうやら話したほうがよさそうだ」
深く息を吸いこむと、彼はテーブルのうしろの椅子から立ち上がった。その瞬間ディックはライフルの音を聞いた。
そのあとあたりはたちまち悪夢の世界に変貌した。
その音はあまり大きくはなかったが、ディックの思考はすでに射的場とライフルに結びついており、その予感は現実となった。
テントに小さな弾丸の黒い穴が開いているのをディックは見た。いまや雨がしみこんで灰色になっている。ハーヴェイ卿は殴られたように前のめりになり、それから左肩を下にして横向きに倒れてきた。ディックは一瞬の閃光のあと、病理学者の神秘性が崩れて恐怖の表情があらわになったのを見てとった。
テーブルと人間がもろにディックの腕の中に投げだされた。それらを受けとめるひまさえなかった。ハーヴェイ卿の手はけいれんしていた。テーブル・カヴァーを引っ張ったので水晶玉が芝生の地面にドスンと落ちる。まぼろしの血痕が現実のものとなり、白いリネンのスーツを真っ赤に染めるのをディックが見たとき、表からはっきりとした声がした。
「プライス少佐、どうしましょう!」
それはレスリーの声だった。
「怖かったんです。どうしましょう。ディックがライフルを押しつけていくんですもの。だれかがわたしの腕にふれ引き金に指がかかったんです。それでたまたまライフルが発射されたんです!」その声は少しはなれたところから聞こえた。騒がしい雨音をしのぐ苦悩にみちた、かわいらしくまじめな声だった。「何かに当たらなければよいと思って」
第三章
その夜九時半、六月の闇は窓の外で濃くなっていた。ディック・マーカムはシックス・アッシェズの郊外にある自宅の書斎をおちつかず歩きまわっていた。
考えることはない大丈夫なんだと自分に言い聞かせていた。しかしどうしてもそちらに頭がいってしまう。
ハーヴェイ・ギルマン卿の影はテントにくっきりとうつり、撃とうとする者にとっては絶好の標的となった。
しかし自分が想像するようなことはありえない!
この事件は冷静に考えればまったく簡単に理屈がつくのだが、とディックはひとりごちた。この疑惑のクモの巣をはらいのけるのが先決だった。そのクモが隅々まで這いまわり、みにくくねばっこい糸を頭脳や神経に張りめぐらせているのを彼は感じた。レスリーさえ愛していればいい。ほかのことは一切考えるな。
うそつき。
プライス少佐はこの射撃は事故だと信じている。ドクター・ミドルズワースも同様だった。ハーヴェイ・ギルマン卿が弾に当たって倒れたあと思いがけずやってきた、銀行支店長のアーンショウも同意見だった。自分だけが……
ディックは足をとめて、これまで多くの作品、傑作や愚作を書いてきた書斎をゆっくり見まわした。
テーブルには丸い電球ランプがともり、金色の光が心の休まる乱雑さを照らしだし、庭に開いた菱形の窓ガラスに反射していた。黒い煉瓦の暖炉には白い飾り棚がついている。壁には舞台写真や派手なポスターが額に納まっていた。コメディ劇場、アポロ劇場、セイント・マーティン劇場等で上演された、リチャード・マーカムの芝居だ。
『毒殺者の失敗』が一方の壁に、『家族のパニック』が別の壁に掛けられている。どちらも犯罪者の心理を描くこころみで、犯罪者の眼をとおして生活を見、その感情をもって人生を感じる芝居だった。それらが壁を占めているので、病理学や犯罪心理学の書棚はあまり人目をひかなかった。
机にはタイプライターがカヴァーをしてあった。参考書の回転式書棚もある。厚い詰めものをした椅子や据え付けの灰皿。明るいプリント模様の綿地のカーテンや、足下にはラッグ・ラグ。ここがディック・マーカムの象牙の塔で、シックス・アッシェズ村の世界とはだいぶへだたりがあった。
彼の住んでいる通りの名称でさえ……
ディックはもう一本煙草に火をつけ、頭をほぐすために無理やり深く吸いこんだ。もう一服深く吸いこんだとき電話が鳴った。
彼はあわてて受話器をつかんだので、危なく電話を机から落とすところだった。「もしもし」ドクター・ミドルズワースの用心深い声だった。
咳ばらいをしてディックは煙草を机の端におくと、両手で受話器をにぎった。
「ハーヴェイ卿のご容態は? 大事はありませんか?」
少し間があった。
「ああ、大丈夫だ」
「快方に向かわれていますか?」
「元どおりになるよ」
胸のつかえがおりたような安心感でディックの額に汗がうかんだ。煙草を取りあげると無意識に二服吸って暖炉に投げこんだ。
「きみに会いたがっているよ」ミドルズワースは続けた。「いまから彼の別荘にこないかね? わずか数百ヤードの距離だろう、おそらく……」
ディックは電話を見つめた。
「面会できるのですか?」
「できるとも。まっすぐくるかい?」
「レスリーに電話して、ハーヴェイ卿が無事なことを伝えたらすぐに行きます。彼女は夕方何度も電話してきたんです。いまほとんど錯乱状態なんですよ」
「そうだろう。ここにも電話してきたからな。だが……」ドクターの口調にははっきりとしたためらいがあった。「彼にいわせれば、きみはむしろしないほうがいいと」
「何をですか?」
「レスリーに電話をだ。少し待て。彼は胸中にあることを伝えたいのだ。つまり……」彼はまた言いよどんだ。「きみ一人できてほしいんだ。わたしがいったことは他言せずにね。約束できるか?」
「かまいませんよ。いいですとも」
「誓って約束するね?」
「もちろん」
何か秘密が返ってきそうな気がして、彼は受話器をみつめながらゆっくりおいた。視線は菱形ガラスの窓のほうをさまよった。嵐はだいぶ前に去っていた。外は星のきれいな夜だった。濡れた草花のねむけを誘う香りは彼の疲れた思考力をいやした。
やがて彼は動物的感覚で人の気配を感じふりかえった。書斎の戸口でシンシア・ドルーがこちらを眺めていた。
「こんばんわ、ディック」シンシアはほほえんだ。
ディックは今度彼女に会ったら、これまでのように眼を合わすのを避けたり、つまらないことをして気持ちを苛立せるようなまねはしまいと心に誓っていたのに、それを破ってしまった。
「玄関をノックしたのよ」彼女はいいわけした。「だれも出てこないんですもの。ドアが開いていたので入ってきたの。かまわないかしら?」
「どうぞ、遠慮なく」
シンシアも彼の眼を見なかった。二人の間には干上がった深淵があり、言葉は少なめだった。シンシアは健康で素直な娘だった。よく笑うが、ときには気まぐれな同性たちより複雑なところを見せた。彼女の美しさは否定できない。金髪、青い眼、なめらかな肌、きれいな歯。彼女は書斎のドアのノブをまわした。やがてカチッと音がし、彼女は心を決めた。
彼女が何をいいたいのかだけでなく、どう切り出すつもりかまで推測するのは意味のないことだ。シンシアは彼をまっすぐ見ると深呼吸をした。ピンクのジャンパー、褐色のスカート、黄褐色のストッキングと靴が、彼女をひきたてている。あらかじめ考えていたような動きで進み出ると手を差しだした。
「あなたとレスリーのことは聞いたわ、ディック。喜んでいるわ。ふたりともお幸せにね」
同時に彼女の眼はこう語っていた。
「あなたがこんなことをするとは考えてもいなかった。もちろん問題にもならないけど。わたしをいい慰みものにしたのね。でもあなたもご自分の程度が落ちたことをわかってほしいわ」(ふん!)
「ありがとう、シンシア」ディックは大声で答えた。「ぼくたちはとても幸せだよ」
シンシアは笑いだしたが、すぐに無作法に気づいたようにやめた。
「わたしがここにきたのは」彼女は意に反して顔を紅潮させた。「ハーヴェイ卿の恐ろしい占いのことでよ」
「それで」
「あれがハーヴェイ・ギルマン卿なのね?」彼女は窓の方を向いて早口で続けた。シンシアがこれほどしっかりした娘でなかったら、ただの派手なはねっかえりといわれたろう。「数日前にポープ大佐の古い別荘に入った人ね。背景を神秘的に見せかけながら占い師をやっている人。ハーヴェイ・ギルマン卿でしょう?」
「そのとおりだ」
「ディック、今日の午後何があったの?」
「きみもそこにいたのか?」
「いいえ。彼が死にかけていると聞いたの」
口をはさもうとしてディックは自制した。
「事故だと聞いたわ」シンシアは続けた。「ハーヴェイ卿は心臓のそばを撃たれたんですって。プライス少佐とドクター・ミドルズワースが、彼をかついで車に乗せてここまで運んだんですってね。可哀想なディック!」
「どうしてぼくが可哀想なんだい?」
シンシアは両手を組んだ。
「レスリーは可愛い女の子ね」それが心からの言葉であることを彼は疑わなかった。「だけど、彼女にライフルを渡すべきではなかったわ。ほんとうよ。銃の扱いなど知るわけもないでしょ。少佐の話ではハーヴェイ卿は昏睡状態で死にかけているそうだけど、ドクターからその後のことを聞いている?」
「いや、聞いていない」
「だれしもひどく驚いているわ。ミセス・ミドルズワースの話では、祭りには行っても射的場には行くべきでなかったと。ミセス・プライスは御主人がそこを預かっていたので、特に彼女をかばっている。でもかわいそうね。牧師さんの話ではバザーで百ポンド以上集めたそうよ。このあたりではまったくばかげた噂が横行しているわ」
シンシアはタイプライター机のそばに立ち、散らばっている本を拾いあげては戻し、息をはずませてしゃべっていた。彼女が善意でいっているのはディックにもわかった。ひどく素直で親しみがこもっていた。ただひとつ問題がある。シンシアがかん高い声でしゃべりはじめると、ハーヴェイ・ギルマン卿の問題がディックの神経をさかなでした。
「ねえ、シンシア。悪いけど外出するんだ」
「だれもアッシュ卿に会って、その考えを訊いてはいないのね。でも、わたしたちもめったにお会いできないものね。ところでアッシュ卿はたまにレスリーに会うと妙な目で見ているのはどうしてかしら? レディ・アッシュも……」シンシアは言葉を切るとディックに気づいて「いまなんていったの、ディック?」
「これから外出するんだ」
「レスリーに会いに? そうでしょう!」
「いや。ほかの別荘で何かあってね。ドクターが話があるというんだ」
シンシアはすぐさま手助けを申し出た。「わたしも行くわ、ディック。お手伝いできることなら何でも……」
「ねえ、シンシア。ぼくは一人で出かけるんだ」
それは彼女の顔をひっぱたいたような効果があった。
まったく嫌なやつになってしまった。でも仕方ない。
短い沈黙のあとシンシアは笑いだした。彼をたしなめ、かばうような笑いだった。それは前にも聞いたことがある。テニス場で冷静さを失った男が試合をやめてラケットを投げ出したときのことだ。彼女はまじめに彼を眺めた。その青い眼は心配そうだった。
「あなたは神経質すぎるわ、ディック」彼女はやさしくいった。
「そんなことはない。ただ……」
「もの書きはみんなそうね。そう思われているわ」彼女は自分には理解できないことを特異体質と決めこんだ。「でも、おかしいじゃない? あなたのような人とは結びつかないわ。わたしのいうのは野外活動が好きで、クリケットのすばらしい選手のことよ。つまり……もういいわ。行くわ。いたたまれないもの」彼女はきっと見すえた。青い眼の下に朱が走って、穏やかな顔は驚くほど美しくなった。
「でもわたしは頼りになるわよ」彼女はつけ加えた。
そして出て行った。
いいわけをするには手遅れだった。シンシアが村にたどりついたころまで待って、ディックも家を出た。
彼の家の前には広い田舎道が東西に走っており、樹木と野原の間を曲がりくねっていた。道の片側は低い石垣になっており、アッシュ・ホールの大庭園との境をなしている。反対側には百ヤード以上はなれて、家が三軒建っていた。
一軒目がディック・マーカムの家で、二軒目は空家、三軒目はポープの別荘でいちばん東の離れにあり、あの怪しげな新来者が借り、家具が運びこまれていた。ギャロウズ・レーンにあるこれらの家は訪問者の興味をそそっていた。道路からかなり離れており、コイン投入式電気メーターや、排水口の不足をおぎなう、絵のような美しさがあった。
ディックが道路に出ると、西の教会の時計が十時を打つのがかすかに聞こえた。道路はたそがれていたが、頭上はもっと暗く星が輝いており、井戸の底からのぞいている感じだった。夜の匂い、夜の物音がここでは妙にはっきりしていた。ディックがポープの別荘に着いたときにはしらずしらず走っていた。
暗い。
かなりの闇だった。
ポープの別荘から道をへだてて、鬱蒼とした樺の木が大庭園の境壁の中まで枝を伸ばしている。別荘の脇、道路を少し東に行くと、果樹園が広がっている。昼でも暗い場所で、湿っており、スズメバチの巣もあった。夜なので、ディックには部屋の中は何も見えなかった。ただ道路に面した二つの窓のカーテンが十分ひかれていないので、すきまから光がもれていた。
前庭をつまずきながら横切っているのを、見られたか聞かれたかしたことはたしかだった。ドクター・ミドルズワースが玄関のドアを開け、彼を現代風な広間に通してくれた。
「いいかね」ドクターはまえおきなしに話しはじめた。いつもの穏やかな口調だったが本気だった。「こんな芝居は続けられない。それをわたしに要求するのはまちがいだ」
「芝居ですって? 卿の容態はどのくらい悪いのですか?」
「そこがまさしく問題なんだ。彼はほとんど傷ついていないよ」
ディックはそっと玄関のドアをしめると、くるりとふり向いた。
「ショックで気絶したのだ」ドクターは説明を続けた。「それでだれもが彼は死にかけているか、死んだと思いこんだんだ。わたし自身もここにかつぎこみ、診察するまで自信がなかった。しかし頭か心臓に直接当たらないかぎり、二二口径ライフルの弾丸では、それほどの危険はない」
皺のきざまれた額の下の穏やかな眼には、かすかに楽しんでいるような気配があった。ドクターは片手を上げると額をこすった。
「弾丸を抜き出すと、彼は起き上がって殺人だとわめいた。それにはむしろプライス少佐のほうが驚いた。少佐はそばに付いていると主張するんだ。わたしは彼を遠ざけようとしたがね」
「それで?」
「ハーヴェイ卿はきわめて浅い傷で、出血もそれほどではなかった。背中が数日痛むだろうが、それをすぎればいままで通り元気になる」
ディックはこれを納得するのにしばらくかかった。
「レスリー・グラントがほとんど放心状態なのをごぞんじですか? 彼を殺してしまったと思いこんでいるんです」
ミドルズワースの顔からうす笑いが消えた。
「ああ、知っている」
「それではどうしようと考えているんでしょう?」
「プライス少佐がここを去るとき」ドクターは直答をさけていった。「ハーヴェイ卿は沈黙を守ることを彼に約束させたんだ。卿は自分が昏睡状態にあり、長くはもたないという噂を流布させるのが得策だとほのめかした。しかし少佐の性格を考えると、その秘密がいつまでもつかいささか疑問だな」
ヒュー・ミドルズワースは感情が高ぶっているらしく、驚くほど能弁だった。
「とにかく、わたしは秘密を守れない。それを彼に警告した。それでは専門家とはいえないし、職業的倫理にも反する。そのうえ……」
またしても、ドクターは先ほどのように何かいおうとして口を開きながら思い直してやめた。
「話して下さい、ドクター! どうして口をとざすのですか?」
「彼は少佐にもわたしにも話さなかった。きみになら打ち明けるかもしれない。きてくれ」
いきなりミドルズワースは彼の手をひっぱると、玄関の左側のドアのノブをまわし、身ぶりでディックを先に入れた。その居間は広いが天井が低く、道路に面して上げ下げする二つの窓があった。部屋の中央には大きな書き物机があり、ちょうど真上に吊ってある電灯の明かりが点いていた。机脇の安楽椅子に、ハーヴェイ・ギルマン卿が、椅子に触れないように背中をはなして座っていた。占い師の衣装はもう脱いでいた。
ハーヴェイ卿の顔はひどく険しく、ほかの表情を押し殺していた。パジャマの上にガウンをはおり、ターバンをはぎ取った頭は禿げまるだしで、懐疑的な眼と鋭くとがった鼻、皮肉たっぷりの口元がその下にあった。彼はディックをじろじろ観察した。
「迷惑したかね、マーカム君」
ディックは無言だった。
「わしも迷惑したひとりだよ」彼は背中を反らしたかと思うとかがみこみ、唇をかたく結んでから、話を続けるために開いた。
「ささやかな実験をもくろんだのだ。ドクターは賛成しない。だがきみなら同意してくれるだろうと思った。いや、ドクター、ここにいてくれてかまわない」
書き物机の灰皿の端に吸いかけの葉巻が乗っていた。ハーヴェイ卿はそれを取りあげた。
「わかってくれ。わしは観念的な正義のために人を非難したりはしない。他人を密告することで、自分の道を踏みはずすべきではない。しかしわしには知的好奇心がある。せめて生きているうちに、友人のギデオン・フェル博士を敗北させた、数少ない問題のひとつの答を知りたいのだ。きみがわしの手助けをしてくれるなら、罠を仕掛けることができるかもしれない。そうでなくとも――」彼は葉巻をふって口にくわえ、火が消えているのに気づいた。彼の態度にはとてもささやかなしっぺ返しとは思えないものがあった。「さて、この『レスリー・グラント』という女性のことだが……」
ディックはやっと口をはさんだ。
「さあ、話してください。今度の事件の直前、ぼくに何を告げようとしたんですか?」
「この女性についてだ」彼はおもむろに続けた。「きみは彼女と恋に落ちていると見たのはひが目か?」
「いいえ」
「それはいささか不運だった」ハーヴェイ卿はそっけなくいった。「しかし前に起こったことだ」彼は書き物机のデスク・カレンダーに目をやった。六月十日木曜日の日付をしめしていた。「お祝いかなにかで、今週か、来週中に、彼女の家の夕食に招待されてはいないかな?」
「実は明晩あるんです。しかし……」
ハーヴェイ卿は驚いたようだった。
ディックの心にくっきりと浮かんだのは、シックス・アッシェズの村の反対側にある彼女の家の裏庭で、ご機嫌なレスリーの姿だった。浮き世ばなれして気むづかしいレスリー。どんな自己顕示もきらい、口紅も宝石もつけず、けばけばしい服装を絶対にしないレスリー。しかし性格の強さで支えられてきた引っこみ思案も、恋におちると言動がすべて向こう見ずになった。
彼の心をはなれない情熱とやさしさの化身である彼女の顔が目の前に浮かんだ時、これらのことが頭にひらめいた。そして思いもかけない言葉がとび出した。
「もうこんなことには我慢できません。このばかげた話は何ですか? あなたは何を告発する気なんです? 彼女の名前はレスリー・グラントではないとでもいう気なんですか?」
「わしがいいたいのは」ハーヴェイ卿は答え、眼を上げた。「彼女の本名はジョーダン。毒殺者なのだ」
第四章
十まで数えるくらいのあいだ、だれも口をきかなかった。ディックは反論したが、その言葉もあやふやなものだった。その声に怒りはなく、さりげないとさえいえた。
「それはばかげていますよ」
「どうしてばかげているんだ?」
「彼女はまだ小娘ですよ?」
「小娘なものか、四十一歳だぞ」
ディックの手近に椅子があった。彼は椅子に腰を下ろした。家主のポープ大佐は居間をむさ苦しいが、くつろげる場所にしていた。パイプの煙が白いしっくい壁を灰色に染め、樫の梁《はり》をいぶしていた。壁をぐるりと取りまくのは、十九世紀初期か中期の一連の戦争画である。戦闘や軍服の彩色は時の流れで多少うすれたが、まだ鮮やかである。ディックはこれらの絵に眼をやったが、その色がだんだんとぼやけて見えてきた。
「わしを信じていないな」ハーヴェイ卿は静かにいった。「きみにそれを期待してはいなかったよ。ロンドンに電話をしたところ、明日スコットランド・ヤードから彼女をよく知る人間がくるそうだ。彼女の写真や指紋も持ってな」
「ちょっと、待って下さい!」
「何だね? お若いの?」
「レスリーが何をしたとお考えなのですか?」
「三人の男を毒殺したのだ。二人は彼女の夫だった。金が目あてでね。三人目は……」
「夫ですって?」
「きみのロマンティックな心にはショックを与えたかな? 最初の夫はバートン・フォスターというアメリカの会社の弁護士だった。二番目はデイヴィスというリヴァプールの木綿ブローカー。姓は忘れた。二人とも裕福な男だった。三人目の犠牲者は……」
ディック・マーカムは手でこめかみを押さえた。
「ばかな!」ディックの中でわき出た懐疑、抗議、当惑がそのひと言となって爆発した。彼は耳をおおいたかった。いま聞いた三十秒を人生から消し去りたかった。
ハーヴェイ卿は彼のいらだちを見て眼をそらした。
「すまなかったな、お若いの」彼は火の消えた葉巻を灰皿に捨てた。「だが、それは事実だ」それからディックを鋭い眼で見た。「たとえきみがどう考えようと……」
「何ですって。ぼくがどう考えているか?」
ハーヴェイ卿の口元はいっそう冷笑的になった。
「きみは殺人者の気持ちについて心理学的なたわごとを書いているが、わしはそれを楽しんでいる。それを認めるのにやぶさかではない。仲間うちでも、わしは特殊なユーモア感覚の持ち主と思われている。しかし、詩的正義〔物語の中での因果応報〕のために、わしがその話をでっちあげ、手のこんだジョークを披露しているのだと考えているのなら、それを頭から追いはらいたまえ。わしを信じることだ。意味するものはジョークなどではない」
ディックもすぐ気づいたが、それはジョークではなかった。
「この女性は生まれながらの悪党だ」ハーヴェイ卿は明快にいった。「きみもそれを知ればすぐにあきらめるよ。そうすれば安全だ」
「安全ですって?」
「そのとおり」ハーヴェイ卿の額にみにくいしるしがまた現れた。彼はもっと楽な姿勢をとろうと椅子の中で身をよじった。すると痛みが走ったのか、腹立たしげに身を沈めた。
「だが、それは厄介なことだ。わしの推測では、この女は特に頭が切れるというわけではない。しかし次々と巧みに犯行を重ねた。殺人方法に工夫を凝らしたんだ。そのためわしと同様にギデオン・フェルも敗北を喫した」
『殺人』というにべもない言葉がレスリーに被《かぶ》せられたのは、これがはじめてだった。それは悪の部屋に通じる新しいみぞと扉を開いた。ディックはまだ暗中模索していた。
「ちょっと待ってください。さきほど指紋のことをおっしゃいましたね。裁判沙汰になったのですか?」
「いや。指紋は非公式に入手したものだ。彼女の事件は裁判にならなかった」
「えっ? それでは彼女の犯行だと、どうしてわかったのですか?」
怒りが顔の表情を険しくした。
「わしを信用しないのかね、マーカム君。スコットランド・ヤードの友人がくればわかることだ」
「そんなことをいっているのではありません。それが事実だという理由を聞きたいんです。レスリーが有罪だとしたら、警察が逮捕しなかったのはどうしてですか?」
「それを証明できなかったからだ。三件ともだ! いまだに警察は手も足も出ない」
内務省の病理学者はまたしてもうっかり身体の位置を変えようとして痛い目にあった。しかし今度は話に熱中していて、それにほとんど気づかなかった。当て物をした椅子の肘掛けを指で叩きながら、その猿のように輝く眼はディックにすえられ、かなり冷笑的な表情ながら、いくらかは感心している風情だった。
「警察なら正確な日付と事件の詳細を語れるよ。わしにできるのは個人的な観察から知りえたことだけだ。あまり口をはさまないで聞いてくれたまえ」
「ええ」
「この女性にはじめて会ったのは十三年前のことだ。まだわしも政府からナイトの称号は受けていなかったし、内務省の主任病理学者でもなかった。病理学者というより警察検死医の仕事が多かった。冬のある朝――警察で調べれば日付がわかるが――フォスターというアメリカ人が、ハイドパーク・ガーデンズの自宅の寝室に隣接する化粧室で死体となって発見された。わしはハドリー主任警部――現在は警視だが――と一緒に現場に出かけた。
それは明らかに自殺に見えた。被害者の妻はその夜留守だった。被害者は化粧室の小テーブル脇のソファに座ったまま上半身を横たえていた。死因は青酸、そばの床に転がっていた皮下注射器で、左の前腕に注射されていた」
ハーヴェイ卿は一息ついた。
やや冷たい笑いが口元の皺の中に浮かんでいる。
「きみも調べたことがあるだろう、マーカム君」彼は指を広げた。「青酸のことは。飲みこむと苦痛は大きいが効果は速い。血管に注射すると苦痛は変らないが効果はもっと速い。フォスターの場合、当然自殺と思われた。ふつうの人間なら十フィートはなれても、青酸はきついアーモンド臭がするのでわかる。殺人者におとなしく静脈注射させるはずもない。化粧室の窓は内部から錠がかかっていた。ドアには内側から落とし錠だけではなく、大きな重いタンスが押しつけられていた。召使たちは部屋に入るのにだいぶ苦労したそうだ。
われわれは、帰宅して愕然《がくぜん》とし、意気消沈して涙にくれる夫人を慰めた。彼女の悲しみにひたる姿はまったく痛ましいものだった」
ディックは理性的になろうと努めた。
「それでその未亡人が……?」
「いまはレスリー・グラントと名乗る女さ、もちろん」
ふたたび沈黙が支配した。
「われわれは現実というより誤ってフィクションの世界のものと考えられている偶然の一致というやつに出くわしたのだ。それから五年後の春のことだ。わしはたまたま巡回裁判で証言を求められリヴァプールにいた。ハドリーもまったく別の用件でそこにいた。われわれはセイント・ジョージ・ホールで出会ったのだ。そこで地方警察の署長にも会った。あいさつが終わると署長はいった……」
ここでハーヴェイ卿は眼をあげた。
「『プリンセス・パークで奇妙な自殺がありましてね』と署長はいった。『自分で青酸を注射して死んだ男がいるんです。齢はとっていますがかなりの金持ちです。健康でトラブルもありません。その点では疑わしいところは皆無です。検死審問はいましがた終わりました』彼は建物に顎をしゃくった。すると汚い建物沿いにやってくる関係者の一団の中に黒衣の人影を見た。わしもそのころはかなりタフで若かったので、そうそう驚くことはなかった。しかし振りかえってこういったときのハドリーの表情はいまも忘れない。『なんと、あれは同じ女じゃないか』」
その言葉はあまりにあからさまだった。しかしこの場にはぴったりしていた。
ハーヴェイ卿が言葉を切ると静かになり、ドクター・ミドルズワースは部屋をよこぎり、大きな書き物机をぐるりとまわると、窓際の古ぼけた柳枝製の椅子に座った。
ディックは少し驚いた。ドクターのことはまったく念頭になかった。いまもミドルズワースは沈黙したまま、会話に割りこみもしなかった。彼はただ長い脚をくみ、椅子の肘掛けに骨ばった肘をついて顎を手で支え、書き物机の黄褐色をしたシェイドのランプを考え深げに眺めていた。
「あなたがいわんとしているのは」ディックは声をあげた。「それがまたレスリーだったということですか? ぼくのレスリーだと?」
「きみのレスリーか。そうとも、いささか使い古されてはいるがね」
ディックは椅子から立ちあがろうとしたが、また腰を下ろした。
ハーヴェイ卿にはディックを侮辱する意図はなかった。彼はただ外科医として、ディックの体内の悪性腫瘍を鋭いメスで切り取ろうと考えたのだろう。
「それで警察も捜査を開始したのだ」とつけ加えた。
「結果はどうでした?」
「前と同じだった」
「彼女の犯行ではないと当局が証明したのですか?」
「いや。当局はそれが証明できないと認めたのだ。フォスターの事件では、その妻は当夜家をあけていた……」
「アリバイは?」
「完全なアリバイはなかった。しかしそれは必要なかった」
「というのは?」
「リヴァプールのブローカー、ミスター・デイヴィスは自ら『巣』と呼ぶ部屋の机にうつぶせになっているのが発見された。この部屋もまた内部から鍵がかけられていた」
ディックは額に手を当てた。
「本当ですか?」
「窓は錠がかかっていたばかりか、木製のよろい戸もしまっていた。ドアには二つの掛け金がかかり、上下とも手を加えた跡はなかった。豪壮で古風な大邸宅だった。その部屋は城砦のように内部から密閉され、何者も出入りできなかったのだ。
デイヴィスは以前は薬剤師だったそうだ。青酸の臭いはよく知っていた。彼があやまって青酸を注射したとか、これは害のない薬だといって他人が注射したということはありえない。自殺でないとすれば他殺だ。しかし争った形跡も、薬をのまされた様子もない。デイヴィスは太った年寄りだったが、大男だった。彼が嗅いでもわかる青酸の注射をおとなしく受け入れただろうか。それに部屋も密室状態だった」
ハーヴェイ卿は唇をすぼめ感心したように首を傾けた。
「そのあまりの単純さに警察はやっきになった。当局は確信していたのだが証明しようがなかったのだ」
「いったい」心の中の黒いわだかまりと闘いながらディックは尋ねた。「いったいレスリー……いや、その夫人は何といったのですか?」
「彼女はそれが殺人であることを否定した。当然だ」
「そうでしょう。しかし何と|いった《ヽヽヽ》のですか?」
「彼女はただ眼を見開き、おびえていた。見当もつかないといった。彼女は前にバートン・フォスターと結婚していたことは認めた。しかしどれも恐ろしい偶然か、あやまちだという。そういわれては警察も打つ手がないではないか?」
「警察はどうしたのですか?」
「当然彼女を取り調べた。ところが何も手がかりはなかった」
「それで?」
「なんとかして彼女を告発しようと試みた。しかしむだだった。毒薬の線からは彼女に至らなかった。彼女は偽名でデイヴィスと結婚していた。だが重婚や結婚詐欺ではないので違法ではなかった。ほかには何も疑問点はなかった。それで事件に終止符がうたれたのだ」
「それで?」
病理学者は肩をそびやかし、また身をすくめた。身体の痛みか、それを思い出してまた腹立たしくなったのだろう。「彼女の最近の事件を手みじかに語ろう。わしもハドリーも、その現場にはいなかった。かなりの財産家となった美しい未亡人はただ消えていった。彼女のことは忘れかけていた。三年前のこと、パリに住む友人がフランスの新聞の切りぬきを送ってよこした。以前に古典的犯罪として、あのレディの事件のことを話したことがあったからだ。
その切りぬきはジョルジュ街の不運な自殺者を報じたものだった。そこのフラットに住む、M・マーティン・ベルフォードという若いイギリス人だった。彼はレスリー某嬢――姓は忘れたが――と婚約したばかりだった。
婚約の四日後、二人はそれを祝って彼女の家で食事をした。夜十一時に彼は辞去した。そのときは心身とも健康そのもので、彼は帰宅した。翌朝、寝室で死体となって発見された。どのような状況にあったかいわなくてはならんかな」
「前と同じで?」
「まったくね。広いフランス風の部屋は鍵がかかっていた。静脈に青酸注射の痕《あと》があった」
「それで?」
ハーヴェイ卿は過去を見る目つきだった。「フランス警察ともつながりのあるハドリーにその切りぬきを送った。しかし向こうの頭のかたい連中は自殺以外は受け入れようとしなかった。イギリスよりも自由な書き方を許されている新聞記者たちは、この婚約者を悲劇の女性として書いた。『その美しいイギリス女性はとてもシックで上品だった』。そして彼女がけっして認めなかった恋人同士のいさかいを示唆した。絶望にかられた男は帰宅すると自殺したのだと」
ぎしぎしときしむ柳枝製の椅子に座っていたドクター・ミドルズワースが、パイプを取り出すと軸をたたいた。
それを見てディックは強い不快感がやわらいだ。シックス・アッシェズと常識の象徴ともいうべきドクターの存在が、事件をより奇怪なものにしていた。ミセス・ミドルズワース、ミセス・プライス、レディ・アッシュ、シンシア・ドルーの顔が次々と彼の心に浮かんできた。
「いいですか、すべてありえないことですよ!」ディックは叫んだ。
「そのとおり」ハーヴェイ卿は同意した。「それでも事件は起こったんだ」
「結局はどれも自殺にすぎないと思う」
「そうかもしれん」その声は穏やかだった。「そうでないかも。だが、マーカム君、現実を直視しなくてはならん。事実をどう解釈しようと、この状況はいささか疑わしく、いかがわしくはないか?」
ディックはしばらく無言だった。
「どうかね、マーカム君?」
「ええ、認めましょう。でも状況がいつも同じというのは同意できません。パリの男は……何という名前でしたか?」
「ベルフォードだったかな」
「そうでした、ベルフォード。彼女は彼とは結婚していなかったといわれましたね?」
「いつも個人的なことばかり考えるのかね?」ハーヴェイ卿は冷ややかな興味と、愉しみの眼でディックを見つめた。「死も毒薬もまったく考慮に入れず、ただ他の男の腕に抱かれたこの女性だけをかね」
それは痛いところを突いたのでディックを怒らせた。しかし彼はそれを顔には現わさないようにつとめた。
「彼女はその男とは結婚しなかった。彼の死で何か得になったのですか?」
「いや、一ペニーも」
「それでは動機は何ですか?」
「何をいっているんだ! 彼女がこれまで殺人の衝動を抑え切れなかったのがわからないのか?」
ハーヴェイ卿はぎこちなく慎重に身体を支えると、椅子の肘掛けに手をおき、やっと立ちあがった。ドクター・ミドルズワースは支えようと立ちあがったが、ハーヴェイ卿は手をふって遠ざけた。彼はぼろ絨緞を行ったり来たりした。
「知っているはずだな、お若いの。少なくともきみは知っていると明言している。毒殺者は犯行を途中でやめることはない、やめられないんだ。それはゆがんだより強いスリルを求め――さらに激しい興奮を求める――一種の精神病なんだ。毒物、その力は生と死を支配する。きみだって、それは知ってるだろう」
「もちろんわかります」
「よかった。それでこそわしの話を理解できる」
彼はおそるおそる手をのばして背中にふれた。
「わしは夏の休暇にここにやってきた。疲れているので休養したかった。素姓は明かしてほしくなかった。さもないと自分ではもううんざりしている刑事裁判について聞きたがるばか者が多いんでね」
「レスリーは……」ディックは口を切った。
「まだ話は終わっていない。わしがバザーで占い師を演じれば、素姓の秘密は守ると約束してくれた。それでよかろうかまわんと答えた。実はそういうことは好きだった。人間の心理を読み、愚か者を驚かすにはいい機会だからな」
彼は指さして沈黙させた。
「ところがだ。テントに入ってきたのは、リヴァプールで会った女殺人者ではないか。最初に見かけたときからちっとも老《ふ》けていない。わしはこの機会を利用して、彼女に敬虔《けいけん》の念というものを植えつけてやろうとした。
するとすかさず彼女はライフルでわしを殺そうとした。今度はいつもの密室内の自殺という手段ではなかった。しかし彼女は冷静さを失っていた。なぜか? 女がわしの影に向かって発砲する前から、わしにはわかっていた。それはパーティの席でだれかを毒殺しようと計画していたからだ。そのだれかとは」彼はディックに顎をしゃくった。「きみだ」
ふたたび沈黙が支配した。
「そんなことはありえないといわないでくれ」ハーヴェイ卿は懐疑心をあからさまにし、うさんくさげに首をふった。「そんな考えはちりほども浮かばなかったなんて口にしないでくれ」
「いいえ。たしかにそれは浮かびましたよ」
「いま、きみに話した事件を信じるかね?」「事件は信じましょう。しかしそれはなにかのまちがいで……レスリーはまったく関係が……」
「指紋の証拠は信用するね?」
「ええ。します」
「しかしそれは認めても、彼女がきみに毒を盛ろうとしているとは信じられないだろうな?」
「ええ。信じられません」
「どうしてだ? 自分だけは例外だと思うのかね?」
答はなかった。
「彼女はやっとほんとうの恋を得たと思うのかね?」
答はなかった。
「たとえそれが事実であっても、きみにはまだ結婚の意思はあるのか?」
ディックは椅子から立ち上がった。彼は拳をふりまわして、自分を窮地に陥れ、現実に直面させ、逃げ道をとざすような、その口をふさぎたかった。
「二者択一だな」ハーヴェイ卿は追いうちをかけた。「まずはすでにきみの頭に浮かんでいることだ。そのことで彼女と決着をつけたいだろうね?」
「当然です」
「よろしい。玄関に電話がある。彼女に電話して、それが事実かどうかを尋ねることだ。彼女が否定することを祈るよ。もちろんそうするだろうが。きみに常識が残っていれば、そんなことは一目瞭然だろう。それでは出発点に逆戻りだな」
「もうひとつの選択は?」
ハーヴェイ卿は安楽椅子のうしろで足を止めしばらく口をとざした。そのやせこけた首は古いガウンとパジャマの襟から亀のようにとび出していた。彼は椅子の背を人差し指でたたいた。
「罠を仕掛けることだ」彼はあっさり答えた。「そうすれば彼女がどんな人間か確かめられる。それにわしも彼女の殺人方法を見つけられる」
第五章
ディックはまた腰をおろした。この会話がいまどのように進んでいるか彼にもつかめてきた。
「どんな罠ですか?」彼は尋ねた。
「明晩、あの女性の家で夕食をとるんだね?」
「ええ」
「婚約祝いかい? マーティン・ベルフォードが亡くなる数時間前に、彼女と夕食をとったように?」
冷たいものがディックの胃の腑に忍びこんだ。恐怖ではない。レスリーのことを考えると恐怖にかられるなんてばかげている。でもそれをふりはらうことはできなかった。
「ぼくが帰宅後に部屋に鍵をかけ、翌朝には青酸死しているなんて考えているんじゃないでしょうね」
「そうだとも、お若いの」
「ぼくが自殺すると思いますか?」
「少なくとも結果としてはね」
「しかしどうしてですか? その夕食の席で話されるか、起こるか、暗示されることのためですか?」
「大いにありうる。もちろん」
「たとえば、どんなことですか?」
「わからん」ハーヴェイ卿は手を広げた。「だからこそ、わしはその場にいてこの眼で見たいんだ」
彼はしばらく沈黙して考えこんでいた。
「ぜひ見届けたい。われわれとしても現場に立ち会うのははじめての経験なのだ。推論は何にもならん。ギデオン・フェルはそれをわかっていた。われわれも自分の眼を使うんだ。さあ、『レスリー・グラント』について気づいたことを話してくれ」ハーヴェイ卿はふたたび指を突き出した。「彼女は宝石が好きかね?」
ディックは思案した。
「いいえ。嫌いです」
「それでは自分で宝石を持っていないだろう? それに自宅に大金もおいてないだろうね?」
「ええ。ありません」
「そういえば三人目の被害者の死までに、解明が不十分だったことがある。彼女がアメリカ人弁護士フォスターと結婚したとき、寝室に小さいが性能のよい壁金庫を取りつけた。リヴァプールのブローカー、デイヴィスと結婚したときも、家に壁金庫を作らせている。どちらも夫の考えで、仕事の書類を保管するためだったと彼女は証言している。それには疑わしい点はまったくなかった。ところがだ」ハーヴェイ卿は異常な激しさでつけ加えた。「彼女がパリのホッチ街で独り暮らしだったときにも、自室に同じ型の金庫があった」
「どういう意味ですか?」
「彼女は宝石も金も持っていなかった。どうして盗難よけの小金庫が必要だったのか? 何をしまっておいたのか? 殺人のあとも調べられることはなかった」
雲をつかむような具体性のない不快な推測にディックの心はゆれた。
「何がいいたいのですか?」
彼は顔をまっすぐあげハーヴェイ卿の鋭い眼をさけようとした。しかしあいかわらずこの冷たい老悪魔は別の考えに心を集中してしゃべっていた。
「彼女はいま自宅に金庫を持っているかね?」
「ええ、あります。ぼくはたまたまメイドから話を聞いたんです」ディックは口を濁した。「レスリーは笑っているだけで、金庫には日記が入っているといっていましたが」
彼は一息入れた。その意味する最悪の事態に心が迷っていた。
「日記なんです。でもそれは……」
「事実を直視するんだ。彼女は正常なのか? 毒殺者は人か、物かに罪を打ち明けるようになる。それがふつう日記ではないか? 同時にほかの証拠も見つかるのではないか? まだ毒物も皮下注射器も見つかっていない。それがあるかもしれないし、あるいは……」
「あるいは?」
「もっと不愉快なものが」ハーヴェイ卿は虚空をにらみながら口元をゆがめた。「そう、それにまさる不快なもの。ギデオン・フェルがかつていったのだが……」
しばらく話が中断した。
「今日パブで聞いた話だが」いきなりドクター・ミドルズワースが空のパイプを口から放すといった。「フェル博士はヘイスティングスで夏を過ごしている。そこに別荘があるそうだ」
それはまるで家具の一部が口をきいたかのようだった。ハーヴェイ卿は狼狽し、いらだたしげにあたりを見まわした。ミドルズワースは空のパイプを吸い続け、電灯に思案げな視線をくぎづけにしていた。
「ギデオン・フェルがこの近くに?」ハーヴェイ卿はすっかり満足していった。「それでは彼を呼ぼう。ハドリーはデイヴィス事件のあと、彼に相談していたし、あの密室には彼もお手上げだったからな。となるといよいよ密室の謎の解明にかからねばならん……」
「ぼくの手を借りてですか?」ディックは苦々しげにいった。
「そうさ。きみの手を借りなくては」
「どうしたらいいんですか?」
「きみがすべきことはこうだ。レスリー・グラントと名乗る女性に、わしが昏睡状態で死にかけていると思わせるのだ。そうすれば秘密はもれん。その線に沿ってやってくれないか?」
「わかりました。そうしましょう」
「その女は利口ではない。このすばらしいおもちゃ、毒による殺人を楽しんでいる。とりつかれている。毒殺狂なのだ。彼女はわしを撃つ危険を犯したが、それを事故にしてしまうことで、世間の無知な連中を信用させてしまった。いまだれかを殺すために、彼女は万全の準備をしているところだ。このスリルを彼女からとりあげることはできまい」
ハーヴェイ卿は書き物机の端を指でたたいた。
「マーカム君は夕食に行き、彼女のいうことは何でもし、何でも受け入れるんだ。わしは隣室にいて聞き耳を立てている。きみの協力があれば、その金庫に彼女が隠しているものがわかるだろう。そしてそのとき、このあまり賢くない女性が二か国の警察を、どう手玉に取ったかがわかるはずだ」
「ちょっと失礼」ドクター・ミドルズワースがまた口をはさんだ。
二人ともぎくりとした。
しかしミドルズワースは平然としていた。柳枝の椅子から立ちあがると、二つの窓のほうに歩いて行った。
二つの窓には花模様の目の粗い重いカーテンが下がっていた。花模様も歳月と煙草のけむりで黒ずみうすれていた。カーテンは充分にしめられておらず近くの窓は広く開いていた。ミドルズワースがカーテンを開け放すと電灯の明かりが前庭にこぼれた。頭を窓から突き出すと彼は左右を見た。それから窓枠を下げしばらくじっと眺めていた。カーテンをしめるまでにかなりの時間があった。
「おい、何だね?」ハーヴェイ卿が尋ねた。
「何でもない」ドクターは椅子に戻った。
ハーヴェイ卿は彼をじっと見た。「きみは口数が少ないね」
「そうとも」ミドルズワースは同意した。
「全体的にどう考える?」
「うむ」ドクターはひどく不快そうだった。彼はパイプと古びた靴をながめてからディックに眼をうつした。「これはきみにとってはたわごとだ。こんなことをわたしや他人の前にさらけ出されるのはさぞ腹が立つだろうな。むりもない」
「そのとおりです」ディックはいった。彼はドクターが好きだった。その穏やかで知的な判断に信頼をおいていた。「どう思われますか?」
「正直、何といっていいのかわからない。女殺人者とつきあっていくことはできないだろう。それが常識だが、しかし……」
ミドルズワースはためらい、話を変えようとした。「ハーヴェイ卿の罠はやってみる価値がある。その女性がライフル事件のあと、四十八時間しか経っていないのに、きみにおかしなことを仕掛けるとしたら、完全な狂人だ。さらにハーヴェイ卿がかすり傷だというニュースがもれれば、まったくぶちこわしになる。たとえばプライス少佐はもう知っているし」
ミドルズワースは考え込み、パイプの軸をかんだ。それから安心したようなため息とともに立ちあがった。
「ハーヴェイ卿や全キリスト教国の警察が保証したとしても、すべてがまちがいかもしれない。たんなる可能性の問題だ。しかし要はディック……いまいましいが何としても知ることだ」
「ええ。わかります」
ディックは椅子にもたれかかった。彼は傷つき、敗北を感じた。まだショックで放心状態のため絶望の底には沈んでいなかった。戦争画や黒光りのする樫の梁、飾り棚のベナレス真鍮の装飾品に囲まれた静かな居間も、レスリーの経歴さながらに非現実的に見えた。ディックは両眼を手で押し、焦点が合ったら世の中はどう見えるだろうと考えあぐねた。ハーヴェイ卿は父親の眼でディックを見た。
「それでは、明晩また」
「わかりました。よろしく」
「最後の指示は明朝にな」卿は意味ありげにいった。「このことを口の軽い友人にもらしたり、ほのめかしたりしてはいけない」
「もし彼女が罪を犯していれば?」ディックはいきなり手を眼からはなすとどなるようにいった。「万一彼女が犯人だとして、あなたの罠がそれを証明したとしたら。そのときはどうなりますか?」
「率直にいってそれほど心配していない」
「彼女は逮捕させませんよ。ぼくは偽証してもそうはさせません」
ハーヴェイ卿は片方の眉毛をあげた。「彼女が楽しんで毒殺を続けるほうを、きみは選ぶのかね?」
「彼女が何をしたってまったくかまいませんとも」
「その件については、この実験のあと、きみがどう感じるか見届けてからにしたらどうだ?」病理学者は提案した。「明日の晩まで、このことできみはかなりの反発を感じるかもしれん。あるいは思いこんでいたほど、彼女にうつつを抜かしてないのに気づくかもしれん。友人たちにもらして計画をぶちこわしにしないことを祈るよ」
「ええ、大丈夫です。そのあいだに……」
「そのあいだに」とミドルズワースが口をはさんだ。「家に帰って少し寝たほうがいい」そして、ハーヴェイ卿に向かって、「あなたも休むんだ。睡眠薬はあるといったな。背中が痛みはじめたら、四分の一グレインのむんだ。明朝また手当てに立ち寄るよ。しばらく腰を下ろしたらどうだ?」
ハーヴェイ卿はそれにしたがい安楽椅子に慎重に座った。彼もいささか疲れて見え、ガウンの袖で額をぬぐった。
「寝られないな」彼はこぼした。「何をのんでも眠れない。やっと手口が見つけられる……あの女がどうやって他人ではなく夫や恋人に毒を盛ったのか……」
ディック・マーカムはやっと立ちあがってドアのほうに向かっていたが、その言葉にふりかえった。
「他人ではなく? それはどういう意味ですか?」
「きみがどうして選ばれたのか考えてみたまえ」
「まだわかりませんが」
「いいかい」ハーヴェイ卿は言いかえした。「被害者は彼女と恋におちたか、一方的にのぼせあがった男だ。盲目的。無批判。不合理。実をいうと、いまそれを理論づけているんだ。しかしその選択が偶然や暗合とは考えていないだろうね? 被害者がそうした心理状態にあったことはたしかだ」
「それはどうしてですか?」
「当然、彼女が男を注文通りに扱うためにさ」
「ちょっと待て」考えこんでいたミドルズワースは反論した。彼はすでにサイド・テーブルから帽子と投薬ケースをとりあげ、ディックを玄関に送り出そうとしていたが、そこでふりかえった。
「よく考えてみよう、ハーヴェイ卿。あの女性が『ここに青酸で満たした皮下注射器があるわ。帰宅してあなたの腕に注射してみたらどうかしら?』というとは思えないだろう」
「それじゃあまりに露骨すぎるよ」
「それじゃどうやって?」
「それを見つけるつもりだ。しかし、この密室事件に何らかの手がかりがあるとしたら、わしの考えではそこにあるはずだ。たぶらかされて正気を失った男を使うのだ。ほかの者ではまるでだめだ」
「たとえば、きみやわたしは使えないか?」
「まずむりだね」そっけないぎこちなさで卿は答えた。「おやすみ、諸君。いろいろとありがとう」
玄関に出るときにみると、ハーヴェイ卿は仕事がうまくいったときの笑顔を浮かべ、眠気も去った目つきだった。
ディックとミドルズワースが家を出ると、野原を少し西にいったところにあるシックス・アッシェズ教会の時計が十一時を打った。その音はあたりをおおう沈黙のヴェールを破った。重圧で二人は黙りこんでいた。懐中電灯で照らしながら、ミドルズワースは道路にとめた車に案内した。
「乗っていかないか。きみの家で降ろしてやる」
車のなかでも同じくきびしい沈黙が続いた。わずかの時間だったが、二人ともフロント・ガラスの前方を見つめていた。ハンドルがでこぼこ道でゆれ、ミドルズワースは不必要なほどエンジンを空吹かしした。そしてブレーキをきしらせて、ディックの家で停めた。エンジンがガタガタあえいでいるあいだに、ミドルズワースはかたわらを見ていった。
「大丈夫かい?」
「大丈夫です」ディックは車のドアを開けた。
「きみにはさんざんな夜だったな。睡眠薬をやろうか?」
「けっこうです。だいぶウイスキーを飲みましたから」
「酔っちゃいかん」ミドルズワースはハンドルをきつく握りしめた。「頼むから酔わんでくれ。なあ、レスリーのことを、わたしはこう思うんだが……」
「おやすみなさい、ドクター」
「おやすみ、ディック君」
ミドルズワースはギアを入れると西へ去った。生け垣と向い側のアッシュ・ホール庭園の低い石垣のカーヴのあいだにテールライトが消えていった。そのあいだディックは前庭の垣根の門のそばに立っていた。しばらくそこで身じろぎもしなかった。魂の真の闇、釣鐘の中にも似た暗闇が、車の音が消えていくにつれ彼の上に降りてきた。
ハーヴェイ・ギルマン卿は深い洞察力で彼の心を読んだと思った。最初はまったく殺人について考えていなかった。レスリーが殺したと思われている男たちのことでもない。考えていたのは生きている間に彼女が愛したという男たちのことである。
さきほどぶちまけられた言葉や文句、時にはせりふそのままがまざまざと思い出され、彼の頭をゆさぶり、まるですべてが同時に聞こえるようだった。
「小娘なものか四十一歳だぞ」「意気消沈して涙にくれる」「使い古された」「太った年寄り」「かれらの寝室」「恐ろしい偶然かあやまち」「この状況はいささか疑わしく、いかがわしくはないか?」
幼稚だ。たしかに。子供じみている。そのとおりだ!
彼は自分にそういい聞かせようとした。しかし、これは恋する男にとって切実な感情だった。彼はレスリーを愛しており、そのために腹を立てていた。これらの言葉が慎重に選ばれたのだとしたら、どれもが神経を傷つける小さなナイフでそれなりの効果はあった。
彼は男たちの像を頭の中に描こうとした。アメリカ人弁護士バートン・フォスター。彼はうさんくさい態度で傲慢だが、たやすくだまされる人のいい男として描いた。ミスター・デイヴィスのイメージは簡単だ。豪壮で古風な大邸宅を背景にした太った年寄り。
三人目のマーティン・ベルフォードは、かれらよりおぼろげで嫌悪感が少ない。まだ若い。おそらく警戒心がうすくやさしい男だ。ベルフォードはそれほど問題はなかった。
少しでも理性の眼でそれを見たなら、こんなところに立って、死んだ人間を嫌ったり、いままで会ったこともないし、今後会うこともない人間の肖像を思い描いて、自分を責めたりするのは愚の骨頂だった。犯罪記録の中でもっとも問題にすべきことは、毒薬を満たした注射器というまぎれもない事実だった。
「彼女は自制できない」「精神病だ」「正常な人間ではない」「このスリルを彼女からとりあげることはできまい」彼の頭にまず浮かぶのが、これらの言葉だった。それとともに日記をしまった壁金庫のそばで、ひそかに顔を赤らめている彼女のイメージだった。
事実だろうか? もちろんそうだ。
彼はそんなことはまちがいだと言葉を尽くしてきた。しかし心の奥底ではそれがまちがいであるとは信じきれずにいた。スコットランド・ヤードがそんなまちがいをするはずがない。たとえそうであってもハーヴェイ卿の一連の言葉でディックの神経を痛めつけ、貫き、興奮させたのは、このあとのほうの言葉ではなく、最初のほうの言葉だった。彼女が自分の過去について、うそをついてさえいなかったら……
いや、彼女はうそをつかなかったし、何もいわなかった。
ああ、ちくしょう、どうしてこんなにややこしいんだ?
ディックは門柱の上をたたいた。煌々《こうこう》と輝く家の明かりで、窓下の芝生の露がキラキラ光り、玄関に続くふぞろいな舗装の小道を浮き立たせている。家に向かって足をふみだしながら、彼は、孤独――激しく心をかき乱す孤独感――にさいなまれ、まるで身体の一部が切りはなされたように感じていた。彼はこれまで孤独が好きだと思っていたので、これには驚いた。いまはそれに怯えていた。この家はからっぽの貝殻みたいで、背後で玄関のドアを閉じるとバターンと鳴りひびいた。廊下から書斎に向かい、ドアを開けると思わず立ち止まった。
書斎のソファにはレスリーが座っていた。
第六章
彼女はうわの空で雑誌の頁をめくっていたが、ドアが開くと即座に眼をあげた。
ソファの背後にあるテーブルの丸いランプが顔をあげたレスリーの滑らかな肌を照らしだした。肩に垂れたやわらかい褐色の髪が輝く。彼女は白いフロックをきらきらボタンの光る深緑色の服に着替えていた。『その美しいイギリス女性はとてもシックで上品だった』。すべすべした襟首の皮膚には皺ひとつない。その大きく開いた無邪気な褐色の瞳には怯えが宿っていた。
しばらくどちらも無言だった。おそらくレスリーは彼の表情に気づいたのだ。
彼女は雑誌をわきにおくと立ちあがり、彼に走りよった。
彼は間のわるいキスをした。
「ディック、どこか悪いの?」彼女は静かに訊いた。
「悪いって?」
彼女は一歩退いてそれをたしかめようとした。すなおな瞳が彼の顔を探るように見まわした。
「あなたは消えてしまった」彼女はディックをゆさぶりながらいった。「もうそこにはいないのね。どうしてなの?」それからいきなり訊いた。「あの占い師は? ハーヴェイ卿だったかしら? 容態はどう?」
「想像にまかせるよ」
「それは死にかけているという意味?」レスリーは尋ね、それからはっとした。「ディック、ねえ、どうしてそんな眼でみるの?」そして彼女は恐怖の眼をこらした。「まさかわたしが故意にやったと思っているんではないでしょうね?」
「ああ、そんなことはない!」
(やめてくれ。彼は自分にいいきかせた。口が裂けてももらさんぞ。不注意な言葉やうかつな質問は約束を破ることになる。いたるところ落とし穴でいっぱいだ。自分の言葉は少なくとも耳にうつろで、そらぞらしくうそっぽく聞こえた。彼女の腕を軽くたたきながら、ディックは暖炉わきの壁に眼を向けた。最初に目に入ったのは自分の芝居の一本で、片面刷りの黄ばんだ大判紙のポスターだった。タイトルは『毒殺者の失敗』だった)
「ほんとう?」レスリーは執拗だった。
「そうとも。きみは彼を狙って撃ったのか? まったく初対面じゃなかったのか?」
「ひどいわ!」彼女の眼に涙の膜がかかった。「わたし――わたし、あの人の名前すら知らなかったわ。あとでだれかが話してくれたのよ」
彼は笑おうとした。
「それでは心配することなんかない。忘れることさ。ところで、占い師はきみに何をいったんだい?」
ディックは尋ねるつもりはなかったので内心で舌うちをした。うっかり口をすべらしたのが腹立たしかった。あれほど気をつけていたのに、やむにやまれぬ衝動を抑えられなかったのだ。
「もう話したでしょう! 幸せな生活とかちょっとした病気、うれしい便りとか、あたりまえの話だけ。信じて」
「もちろんだ」
彼女はソファに戻り、彼はあとに付いて行った。彼女とはあまり密着せず、真向かいに座って電灯の下でじっくり観察したかった。それなのに隣に座ってほしそうな彼女の目つきにほだされてしまった。
レスリーは絨緞に眼をおとした。髪の毛が前にたれ、頬の線を隠している。
「あの人が死んだら、わたしはどうなるの?」
「なんでもないさ。事故だもの」
「警察がやってくるとか、そういう意味よ」
部屋は息苦しい沈黙におおわれた。
ディックはソファの背後のテーブルの煙草箱に手をのばした。衝動で手が震え抑えるのに苦労した。二人は書物や絵画、電灯の光の非現実的な空間に浮かんでいるような感じだった。
「審問があるだろうな」
「それは書類上のことでしょう? わたしの名前が出るのかしら?」
「形式的にだよ、レスリー。どうして?」
「意味はないわ。ただ……」彼をじっと見た。怯えているのはたしかだが、口元にはゆがんだ悲しげな笑みが浮かんでいる。「この件でわたしが知っているのは、あなたが教えてくれたことだけよ」
「ぼくが教えたこと?」
彼女は書棚に顎をしゃくった。そこはリンゴに巣を食う虫みたいな奇怪な犯罪史の本で満たされており、紙上で犯罪を扱うときの最高の愉しみである、けばけばしい絵や芝居のポスターがあった。
「こんなことにひどく興味を持っているのね」彼女は笑った。「死は嫌いだけど興味はあるわ。ある意味では心を奪われるの。多くの人々がそのおかしな気持ちを心にとじこめて……」それからレスリーは驚くべきことをいった。「わたしはきちんとした人になりたい!」彼女はいきなり叫んだ。「まともな人間になりたい!」
彼は軽い口調でいった。
「そうなれないのかい?」
「ダーリン、冗談じゃないのよ。わたし自身に罪はないのに、こんな恐ろしいいざこざに巻きこまれてしまって」ふたたびふりかえってせつなそうに訴えられると、彼の論理的に考えようとする気力が失われた。「でもわたしたちのお祝いのじゃまにはならないわね?」
「それは明晩のことかい?」
「そうよ。わたしたちの晩餐のこと」
「ぼくには支障はないけど、ほかに客でもくるのかい?」
彼女はじっと見つめた。
「お客さまを呼んではいけないかしら? 何か具合が悪いの、ディック? どうしてそう身をひくの? これではわたしだっていまにもおかしくなるわ」
「どこも悪くないよ。ただ……」
「わたしたちのために万全を期したいのよ。すべてのことにね。特に(感傷的なのかしら?)、明日のことはね。あなたに話したいことや、見せたいものがあるの」
「えっ? ぼくに話したいことって?」
彼は箱から煙草をとると火をつけた。この質問を発したとき、玄関ドアのノッカーが強く叩かれた。レスリーは叫びをあげて椅子にもたれかかった。
ディックはこの中断を喜んでいいのか、悲しんでいいのかわからなかった。たぶん喜ぶべきなのだろう。情熱がふたたび高まり、彼はレスリーの瞳にくぎづけになっていた。とにかくしばらくこの緊張感をゆるめることができた。彼は急いで玄関へ行きドアを開けた。ドアマットに片足を乗せた訪問者を見て驚き、眼をしばたたいた。
「今晩は」訪問者はいった。「こんな時間にじゃまをしてすまん」
「いいえ。どうぞお入りください」
門の脇にポンコツのフォードが停っており、エンジンをふかしていた。訪問者はフォードの運転手に合図しエンジンをとめた。それから彼はためらいながら玄関に入った。
アッシュ男爵ジョージ・コンヴァース。ディックが面識のある、唯一の上院に議席を持つ貴族である。フィクションでしばしば登場するこうした人物は、常に傲慢で高飛車か、つまらない警句好きか、ウッドハウスの小説に出てくるようなよぼ老人だが、ディックはアッシュ卿にある種の驚きを感じていた。
六十代はじめの中背、針金のようにやせた男で、鉄灰色の髪、桃色がかった顔色、学究的な思索にふける表情をしていた。めったに人前には現れず、延々たる家系の歴史を編纂していると思われていた。その衣服はいつもあまり上等なものではなく、それも課せられる重税と慢性の金欠病を考えれば不思議はなかった。彼は気が向いた時や、止まった時計みたいになっていない時にはよき隣人だった。
アッシュ卿を案内しながら、ディックはその夜はやくにきたシンシア・ドルーの言葉を思い出していた。「アッシュ卿はたまにレスリーに会うと妙な眼で見ているのはどうしてかしら?」
アッシュ卿は書斎の敷居でふいに立ちどまり、いまもレスリーを不審な眼で見つめていた。
レスリーは立ち上がった。
「うむ、そうか」訪問者はつぶやいた。「そうか、そうか!」それから気をとり直して、礼儀正しく一礼し、笑みを浮かべた。「ミス・グラントでしたかな?」明らかに途方にくれた様子でディックをふりかえった。「きみ、あとのたたりが恐ろしいな」
「何ですって?」レスリーは叫んだ。
「いや、何でもない、ミス・グラント」アッシュ卿は彼女をおちつかせた。「誓って、心配することはない。きみに会えてうれしいよ。ここで顔を合わせるとは思いもよらなかったが」
「わ――わたしはたまたま寄っただけです」
「そうか、そうか、そうだろう」彼はまたディックをふりかえって「わしもたまたまでな――」彼は向こうの別荘に顎をしゃくった。「あそこに用事があった」アッシュ卿はその用事を楽しんでいるようには見えなかった。「ところが真っ暗でノックをしても返事がなかったんだ」
「そうでしょうね。ハーヴェイ卿は休んでいるんです」
アッシュ卿は驚いた様子だった。
「医師はそこにいるのかね? 熟練した看護婦は?」
「いいえ。ドクター・ミドルズワースは必要ないと考えています」
「しかし、それで大丈夫かね? ミドルズワースは心得ていると思うが。患者はどうしている? きみは会う人ごとに同じ質問で悩まされたろうな。わしは直接会って聞くべきだと思い、やってきたわけだ」
「患者の容態はまずまずです。あとのたたりが恐ろしいとはどういうことですか?」
「ライフルが盗まれたんだ」アッシュ卿は答えた。
沈黙が降りた。
恐るべき沈黙は陰謀が完全なものになったことを示していた。卿はだぶだぶのツイード・コートのポケットから眼鏡ケースをとりだし、縁なしの鼻眼鏡をかけた。
「ミス・グラント、話して下さらんか。今日の悲しむべき事件でライフルが暴発したあと、そのライフルをどうしたのか覚えておらんかね?」
レスリーは眼を見開いて彼を見つめた。
「プライス少佐にお返ししました。みなさんごぞんじですわ」
「いかにもそのとおりで、みんなが認めている。だがプライス少佐に返したあと、どうなったか覚えておらんか?」
レスリーは首をふると震えた。
「プライス少佐は嵐が来たとき銃を集めていました。それを射的のカウンターに一列に並べました。そのあと恐ろしいことが起こり、わたしはライフルを彼に投げました。彼はそれをカウンターにおいたと思います。はっきり覚えていません。まったく気が転倒しており、ディックに家まで送ってもらいました」
「うむ、そうか。きみはどうだね、ディック?」
ディックは雨、混乱、風吹きすさぶテントの場面を思い出そうとつとめたが、それは遠い昔、別の時代のできごとのように思えた。
「ハーヴェイ卿が倒れたとき、ぼくはテントから首を出し、プライス少佐とドクター・ミドルズワースを呼びました」
「それから?」
「ビル・アーンショウ、ごぞんじの銀行支店長ですが」アッシュ卿がこの名前も知らないほどの隠遁生活を送っているとの漠然たる考えからディックは説明した。「ビル・アーンショウがやってきました。プライス少佐はドクター・ミドルズワースとハーヴェイ卿をドクターの車に運びながら、ビルにライフルに気をつけてくれと頼みました。ぼくに話せるのはそれだけです」
「まちがいない」とアッシュ卿。
「それではどこが問題ですか?」
「プライス少佐は自分がそこにいたあいだ、ライフルに手をふれた者はいないという。ミスター・アーンショウもそこにいたときは、ライフルは無事だったという。それなのにライフルは消えた」
レスリーはためらいながらいった。「わたしが持っていたライフルですか?」
「そうだ」
アッシュ卿の左手の薬指には目だたない印鑑付きの指輪がはまっている。ディックは彼が鼻眼鏡に手をやったときに気づいた。アッシュ卿の来訪以来レスリーがすっかりおちつかなくなったことにも。アッシュ卿はいま、よく知られた癖をだし、動きの止まった蓄音器のようになっていた。
「たぶん重要なことではあるまい」彼はやっといった。針は溝にはまり、レコードはふたたび回転しだした。「しかしプライス少佐とミスター・アーンショウはひどく興奮していた。少佐は午後射的場でミスター・アーンショウにつまらぬ冗談をやってのけた。そしてアーンショウが噂のように仕返しをしたのではないかと疑っている。しかし、それは異常なことだ。ありえないことだ。特にこのあたりに流れている噂を考えてみると」
「どんな噂ですか?」レスリーが尋ねた。手を握り締めている。「お聞かせ下さい! わたしの噂でしょう?」
「それは困ったな、ヤングレディ。そうではない。たとえばわしの聞いたかぎりでは、ハーヴェイ卿は重傷ではない。そう望みたいが。わしの大伯父スティーヴンは南ア戦争でひどい銃創を負ったが元気を回復した。もちろん、その後も生き永らえた。すなわち一生のうちには事故も起こる。ディック君、これで失礼する。えーと、あなたは乗り物をお持ちかな、ミス・グラント?」
「乗り物?」
「家に帰るためのだ」アッシュ卿は説明した。
「いいえ。わたし――わたしは歩いてきました」
「それではわしが送ろう。外にフォードが待っている。パーキンズは慎重な運転手だ」
「ありがとうございます、アッシュ卿。お願いします」
彼女の眼はとどまってもう少し話したいとディックに訴えていた。言葉には出さなかったが、その態度はほとんどヒステリックなほどだった。しかし彼は言葉をかけてやらなかった。
彼女がもう五分いたらうっかり口をすべらし一切をもらしてしまったろう。アッシュ卿の面前なのでなんとか正気と平静を保ち、価値判断はゆれたが正常に戻っていた。一瞬彼は状況を危うく忘れかけた。それからショックでもとに戻った。自分がレスリーを愛しており、その愛は今後も変わらないことをはっきりと認識した。彼はもううんざりして、これ以上我慢ができなかった。
そしてかれらはディックに別れを告げた。レスリーの顔を見ていると、彼の胸は張りさけそうだった。「戻ってくれ。これは本気ではないんだ。聞いてくれ!」と彼が叫びだす前に二人は表に出ていた。
フォードは走り去った。
煙草はもう消えていた。前庭の濡れた芝生に吸い殻を捨てると、高く冷たい星のもと彼は戸口に立ちつくした。それからきびすを返して家に入った。
小さなダイニング・ルームに入ると、グラス、サイフォン、ウイスキー瓶を取り、書斎に持ちこみ、タイプライター机においた。しかし頭は不可解にゆらいでいた。疲れきってめまいがし、瓶のメタルキャップをはずすのも、ソーダ・サイフォンのハンドルを押すのも、どこか調子が狂っていた。
そこで彼は席を立ちソファにねころがった。
「しばらく眼をとじるだけだ。明かりはぼくの眼をめざめさせてくれる。とにかく眠りたくない。ほんの少し眼をとじるだけさ。それから起き上がって一杯やろう」
おだやかな電灯の光が眼にあたる。東の側庭を見わたす菱型ガラスの窓は、小さなドアみたいに開いたままだった。戸外の葉をゆする夜風に、掛け金がカタカタと鳴った。やがて、はなれた教会の時計が十二時を打ったが、彼は聞いていなかった。
窓を通して眼をこらしていた者があったら――だんだんとすぎていく時間の中で、ある顔が見つめていたのはたしかだが――その人間は金髪の青年を見ただろう。顎はがっしりとしているが、額は想像力に富んだ発達をし、グレーのフラノのズボンとだらしないスポーツコート姿で、くしゃくしゃのソファにねころび、蒼白な顔は寝言をつぶやいていた。
彼の夢は恐ろしいものだった。それが何であったかはもう覚えていない。おそらくあとから起こったことのためである。ディックは安眠できず、悪夢に打ちのめされ、現実世界から切りはなされた空白の黒い時間だけが残っていた。やがて何かがそれを貫いた。何かが甲高い興奮した叫びを上げた。
ディックは半ばめざめてころがり、ソファから床に危なく落ちるところだった。
いまやそれが何だかわかった。
電話が鳴っていた。
眼はとろんとし、背中と脇腹がけいれんしていたがなんとか起き上がった。まず頭に浮かんだのは、ひどく不快な夢から脱したことだった。それは夫たちを毒殺したレスリー・グラントの夢で、ありがたいことにもう終わっていた。次に浮かんだのは、自分がソファに寝ていることの驚きだった。明かりがともり、東側の窓は霊妙な桃青色に染まっている。のぼる朝日が窓ガラスに当たっていた。
ずっと電話が鳴り続けている。彼が起き上がると脚の筋肉がしびれており、タイプライター机にやっとたどりついた。受話器をとりあげたときはまだ半分ねぼけた状態だったが、電話のささやき声は彼を現実に引き戻した。
「ポープ大佐の別荘だが」そのかすかな声はいった。「すぐきてくれ。急がないと手遅れになる」
電話は切れた。
ディック・マーカムは頭がはっきりとしてきた。
第七章
「だれだ?」ディックは尋ねた。「何者だ?」
しかし答はなかった。ほんのかすかなささやき声で特徴がなかった。
受話器をおくとディックは眼をおさえ、頭を強くふって意識をはっきりさせようとした。窓の外にはかすかな光が見える。その青みがかった色合いはうすれ、いわくいいがたい色で部屋を満たした。腕時計はとまっていたが、午前五時はまわっているにちがいない。
いまは考えているひまさえなかった。彼は急いで家をとびだし、いきなり静かでうす暗い朝の中に出た。着替えもせず、ひげも剃っていなかった。小走りで道路を東へ向かった。
この静かすぎる世界では、すべての物音が敏感にひびいた。小鳥のさえずり、葉ずれの音、道路をかける自分の足音。それが耳にはっきりと聞こえ、野末の露のすがすがしい匂いが鼻をついた。空き家を通りすぎて、ハーヴェイ・ギルマン卿の別荘の見えるところまでやってきた。そのとき、そこに何かが起こっているのが見えた。
居間に明かりがついた。
前方はまだうす暗かった。彼の左側には道路に沿って石の境壁をおおい隠さんばかりに樺の木が茂っている。右側の数百ヤード前方に、目あての別荘が建っている。前には何も障害物はなかった。前庭の道路からひっこんで、石灰を塗った石壁、黒い梁、勾配のゆるいこけら板の屋根がぼんやりと見える。
その脇と裏側、東側と道路に沿って果樹園がつらなり、道の向い側の樺の林とで樹木のトンネルを作っていた。そのトンネルは狭く、その中にひとすじの桃色の朝日が射しこんでいたが、いまは淡黄色の色合いに染まっている。
朝の光が射しているのはそこだけで道の両側は影につつまれている。そのきらめきは茂った葉叢に残っていた。しかしハーヴェイ卿の別荘のカーテンの開かれている一階の二つの窓、その内部にともる電灯の光はもううすれていた。
まちがいなく居間である。
道路に面した窓のある居間で、昨夜ハーヴェイ卿と話した部屋だ。
ディックはいきなり立ちどまった。心臓がドキドキしており、早朝のからっぽの胃袋は吐き気がした。
彼は自分が懸命に走った理由も、探していたものが何であるかも、まったくわかっていなかった。ハーヴェイ卿が早起きしているのは明らかだった。すでにカーテンを開け電灯をつけていた。ディックはゆっくりと気味悪いうす闇の中を歩き出し、足下に射す日光のトンネルに直面すると、わからないとひとりごとを繰り返した。しかし別荘から三十ヤードほどに近づくと、彼にもやっとわかってきた。
金属を石に打ちつけるかすかな音がし、彼は左側のアッシュ・ホール庭園の境壁ぞいに眼を走らせた。
低い石塀の向こうに何者かが隠れ、ライフルを突き出していた。石塀の上に銃身をおき、向い側にある別荘の明かりの点いた窓の片方に狙いをつけている。
「おーい!」ディックは叫んだ。
しかしその何者かがライフルを撃ったので、彼の声は聞こえなかった。
ライフルの銃声は乾いた鋭い音をたて、木々から鳥が飛び立った。ディックのよい眼は窓ガラスに弾孔をとらえた。そしてライフルが消え、だれかが駆け出した。うす暗い明け方の林、樺の木の間を、おそらく笑い声さえたてながら走りぬけていった。反響が鳥の声を消した。狙撃者は去った。
たぶん十秒ぐらいディックは棒立ちになり、身じろぎもしなかった。
彼はもう走らなかった。事件を目撃したのだという恐ろしいまでの確信があった。雑木林の中に狙撃者を追うのは、そう思っても無理なことだった。
昇りかけた太陽が深緑の木々の向こうから顔を出し、白金の炎のかけらが道路を走った。日光が道路に沿って、まっすぐディックの眼を射た。その銃声を耳にした第三の人物が、東のほうから道路に現れた。
日光はまだ充分に明るくはなく、その人影はしばらくシルエットのままで、こちらに走ってきた。
「何があったの? そこにいるのはだれ?」人影は叫んだ。
その声はシンシア・ドルーで、彼も同時にかけよった。二人はハーヴェイ卿の別荘の前の道で出会った。シンシアは昨夜と同じピンクのジャンパーと褐色のスカートを着ていたが、立ちどまると驚きの眼で彼を見つめた。
「ディック! どうしたの?」
「何かあったようだ。心配している」
「だけど、あなたはここでいったい何をしているの?」
「そういえばシンシア、きみもここで何をしていたんだい?」
彼女はしなを作った。「眠れなかったので散歩してたの」シンシアはスリムなわりにはがっしりしており、おおよそ空想や想像力といったものには縁のない女性だった。しかし彼の表情を見ると胸に手を当てた。背後の太陽が彼女の髪の先を金色に染めていた。「ディック! あなたも聞いたでしょう?……」
「うん。聞こえた」
このときまで、別荘の正面にくるまでは、彼は右側を向いてその家をよく見ていなかった。しかしいまやっとそうすると、そこに予期していたものを眼にした。
道路から三十フィートほどひっこんだところに、手入れのしていない広い前庭があり、その奥に別荘があった。しかし場所柄からすると、まるで小さな軒の低い人形の家で、黒いこけら板の屋根があり、そこから突き出た小さな屋根窓を開けると、二階だった。石灰を塗った石壁と曲がった黒い梁が、東側の果樹園で陰になっていた。一階には玄関ドアのすぐ左側に二つの明かりのついた窓があり、室内が見わたせた。
昨夜、ハーヴェイ卿が部屋の中央にある大きな書き物机のそばの安楽椅子に座っていたことをディックは思い出した。それがいまは、だれかがそこに座って書きものをしたかのように、安楽椅子は机の前に移されていた。たしかにだれかが腰を下ろしている。ここから窓を通してのわずかな視界でも、それがハーヴェイ卿であるのはわかった。しかし彼は書きものをしているわけではなかった。
黄褐色のシェイドをつけた電灯の光が、病理学者の禿頭を照らしている。顎が胸に沈んでいた。腕は椅子の肘掛けに静かにおかれている。窓ガラスを貫き、白い縁のきれいに穴の開いた弾痕に気がつき、その弾道上に禿頭があるのを見れば、それがとても居眠りしている平和な姿などではないことがわかる。
ディックは喉元を突き上げる吐き気を覚えた。しかしこれを抑えつけた。シンシアはかなりしっかりしておちついており、彼の視線をたどった。その歯が下唇をかんだ。
「これで二度目だ。昨日はテントを貫いた弾孔を見た。今日の弾丸は窓に当たっている。しかしこれはそんな生易しいものじゃないぞ。ぼくは……ちょっと待って!」
彼はふりかえって窓の反対側にある石の境壁を見た。その上には鬱蒼とした樺の枝がおおいかぶさっている。彼は大股で三歩、草地を突っきって塀に近づき、向こうのうす暗がりをのぞきこんだ。木の下に何か投げ出されている。狙撃者が逃げるとき捨てていったようだ。
石塀をのりこえると指紋など完全に無視して、ディックはそれを拾い上げた。二二口径でスライド・アクションのライフル、ウィンチェスター61である。それは捜していた銃と同じものであるのは疑いなかった。
昨日の午後、レスリーがプライス少佐に返したライフルで、そのあと射的場から盗まれたものだった。それはアッシュ卿から聞いた話だ。
「やめて!」シンシアが叫んだ。
「何をやめるんだ?」
「そんな顔をしないで」
しかしディックは驚いていたわけではなかった。してやったりという顔だった。これでライフルを盗んだのがレスリーではないとわかったわけだ。
ディックは『事故』のあと、ずっと彼女と一緒にいた。彼女を家に送り数時間とどまっていた。彼女はライフルなど持っていなかった。それが誓えるだけでなく、事実だったことを知っている。
ライフルを地面におくと、ディックは塀をまたいで戻った。少なくともレスリーにはこんな芸当はできない。彼はシンシアをまったく気にとめていなかったので、彼女が何をいっていたのか後で思い出せなかった。そのかわりに彼はハーヴェイ卿の別荘に向かって走り出した。
前庭には柵はなかった。横切って行くと、手入れしてない芝生がワイヤーのごとく靴にからみついた。今日は暑い一日になりそうだった。地面は湿った熱い息を吐き出し、クモの巣の露を蒸発させ、スズメバチは果樹園の周囲を飛びまわり、別荘の前面は古い樹木と石の匂いを発散していた。ディックは弾孔のある窓に近づいた。家に向かって右側の窓だった。彼は汚れたガラスに顔をつけた。
それから両手をかざすと中をのぞいた。
拡がる陽光と対照的にくすんだ電灯の光の下、小柄な病理学者は大きな机の前に身じろぎもせず座っていた。顎がたれ、うす眼を開いた横顔が見えた。ディックは彼が死んでいることを疑わなかった。しかしどこか変だった。かなりおかしい……
「ディック」すぐそばでシンシアがささやいた。「あの弾丸は彼に当たっていないわよ」
それは事実だった。
二人がのぞいている部屋の奥の壁面には暖炉があり、飾り棚にはベナレス真鍮の装飾品がのっていた。その上にウオータールーの戦いのある場面を描いた、大きな着色版画が掛かっている。窓を貫いたライフルの弾丸は、ハーヴェイ卿の頭をかすって絵の下縁に当たり――絵はいま曲がって掛かっていた――壁の中に埋まっている。しかし弾丸は彼に当たっていない。
シンシアの声はけたたましく、当惑していたが、どこかほっとしたようなところもあった。ディックは彼女をふりかえった。
「それではあの逃げたやつは、いったい何をしたんだ?」
「知らないわ」
「ハーヴェイ卿!」ディックは窓に口を当て叫んだ。「ハーヴェイ・ギルマン卿!」
返事はなかった。
ディックはもうひとつの窓も見た。右の窓を調べ、次に左の窓を見た。別荘の土台は低く建てられていたので、窓の敷居は彼の腰のあたりだった。ふつうのサッシ窓で、内側には金属の掛け金がある。彼は外側の敷居に片膝をつき、窓枠に手をかけて自分をひっぱり上げ、両方の窓が内側から施錠されているのを確認した。
極めて恐ろしい考えが、いま心に忍びよりはじめた。
「ここで待っててくれ」彼はシンシアにいった。
急いで玄関の石段を二段上がると、ドアには鍵はかかっておらず、部分的な掛け金だけだとわかった。ドアを開くと、昨夜の記憶のままの現代風な小玄関が現れた。
左側には居間に通じるドアがあるのを思い出した。このドアを開けば、居間に入り机の前に座っているハーヴェイ卿の背後に出る。しかし彼はドアを開けることができなかった。ノブを力いっぱいひねってみたが、内側から鍵がかかっていた。
大急ぎで前庭に戻ると、シンシアはまだ窓からのぞきこんでいた。
「どうもおかしいところがあるわね。顔色も変よ。青みがかっていない? 電灯の加減かしら? 口元も変だわ。泡かしら? それに……ディック! いったい何しているの?」
弾孔は証拠として必要かもしれないと、ディックはぼんやりと考え、右側の窓ガラスには手を触れなかった。その代わりに左側の窓から入ろうとした。芝がのび放題の前庭から煉瓦のかけらを拾い、窓にぶつけると、ガラスが割れ破片が飛び散った。
その息づまる部屋から窓をぬけて、朝の空気の中に異臭が漂った。ほんのわずかだが、アーモンドの香りがした。それはかれらの鼻にも感じられた。そばにいたシンシアは彼の腕に手をおいた。
「こ――これはマニキュアのような匂いね。なにかしら?」
「青酸だ」
こわれた窓に近よると、ディックは手をのばし、窓の掛け金をはずし押しあげた。それから敷居をのりこえると、ガラスの破片の散乱した部屋にとびおりた。
アーモンド臭がいっそうはっきりとした。死体に近づき手をふれるには勇気を要したが、ディックはやってのけた。彼がハーヴェイ・ギルマン卿として知っていた男は死後数分しか経っていないかのように、身体がまだ暖かかった。パジャマとガウンをつけたままだった。ベロア・カヴァの安楽椅子のおかげで、上体は直立しており、腕は肘かけにおかれ、頭だけが垂れていた。青酸中毒のチアノーゼと泡、半開きの眼が、近よるとぞっとする感じを与えた。
ディックは玄関に続くドアを見つめた。
狂ったように彼はそれを調べた。鍵がかかっており、小さいが頑丈な掛け金はしっかりと内部に固定されていた。
二つの窓だけが密室の出入口になっていた。一方の窓はいま彼がガラスを壊したものであり、他方の窓はサッシの合わせ目の下、数インチのところに弾孔がある。両方の窓は内側から掛け金がかかっていたことはまちがいなく、ディックはそれを誓ってもいいが、警察は信じない公算が大きい。
「彼はそんなことが自分に起こるはずはないといっていたよな?」ディックは大声で叫んだ。
彼が何かに気づいたのはそのときだった。
安楽椅子のそばの床に電灯でかすかに光るものがあった。小さな皮下注射器、細いガラス軸とニッケル・メッキのプランジャーである。それは死者のほどけた指から落ちたように、椅子のそばで絨緞に突き刺さっていた。このひどい場面のとどめのしるしだった。一方で青酸の臭いは、息苦しい部屋をさらに耐えがたいものにしており、日光は窓の外で充分に拡がっていた。
またしても自殺だった。
第八章
ディックはドアのそばに立ったまま、混乱した考えをまとめようとした。そのとき窓にこすれるような音がした。シンシアはしなやかな機敏さをいかして部屋にすべりこみ、割れたガラスをネコみたいに軽やかにふんだ。
彼女の顔はおちついてはいるが、気がかりな様子だった。それは椅子のしなびた死体より、むしろディックに向けられていたといってもいい。
「恐ろしいことね」そういってから、その言葉では弱いと感じてか、「身の毛もよだつわ」ときっぱりした口調でつけ加えた。「青酸といったわね、ディック。青酸って毒物なんでしょう?」
「ああ。猛毒だ」
シンシアは椅子に嫌悪の視線を走らせた。
「でもこの人に何が起こったのかしら?」
「こちらにきたら」ディックは誘った。「大丈夫かい?」
「ええ。心配いらないわ」シンシアはこんなことでは驚かない。彼女は勢いこんで言葉を続けた。「でも恐ろしいし、いまわしいし、やりきれないわ。だれかが毒を与えたの?」
「そうじゃない。これを見てごらん」シンシアが書き物机をぐるりとまわると、彼は床に突き刺さった注射器を指さした。それから――鋼鉄の神経が必要だった――彼は死体にかがみこむと、肘かけから左腕をもちあげた。だぶだぶのガウンとパジャマの袖がめくれて、静脈の青く鬱血した細いヒッコリーみたいな腕が現れた。青酸の注射はぞんざいにされたとみえ、二の腕に乾いた血の斑点があった。
「ディック、待って! そんなことをしていいの?」
「そんなこと?」
「窓をこわしたり、物にさわったり、いろいろなことをして? 貸してくれた本には……よくわからないところもあったけど、証拠品にはすべて手をふれてはいけないと書いてあったわ。そうなんでしょう?」
「うん、まあね」彼はそっけなくいった。「ぼくはこんなことをした悪魔を捕まえようとしている。まず事態を知ることなんだ」
青い眼がさぐるように彼を見た。
「あなたはひどく恐ろしい顔をしているわ。昨夜は一睡もしていないんじゃない?」
「いまはそんなことかまっていられない」
「わたしはかまうわ。あなたは適当な休みをとりもしないのね、特に仕事のときは。いまあなたには何か気がかりなことがある。それは昨夜もいったことだけど」
「シンシア、これを見てくれないか?」
「見ているわよ」そう答えたが、眼をそらし、手をにぎりしめていた。
「これは自殺だ」彼は彼女がこわがりそうな言葉をならべて説明し、印象づけようとした。「彼は青酸を満たした注射器をとりあげ――これがそうだ――そして左腕に注射した」彼は腕をまわした。「この部屋が内側から施錠されているのは試せばわかる。それは彼を殺そうとした者がいないことの証明じゃないか?」
「だけど、ディック。彼を殺そうとした者はいたわ。ライフルを撃ったじゃない」
「弾丸は当たらなかったろう?」
「ええ、失敗したわ。でも撃ったことはたしかよ」彼女の胸が上下した。「レスリーはどうなの?」とつけ加えた。
ディックは向き直った。
「レスリーがどうかしたかい?」
「気がかりなのはそのことでしょう」シンシアは女性らしい単刀直入さでいった。
「どうしてレスリーのことを考えるんだ?」
「他にあって?」シンシアは尋ねた。彼女はこの点をあくまで追及した。「あの不快な小男は」と椅子の死体を指さした。「シックス・アッシェズ全体を狂わせたわ。まず昨日のライフル事件。まあ、事故だったけど」つかのま青い眼は思いをめぐらした。「今朝になって、だれかが故意に彼を狙ったのは奇妙なことね。そのうえ何とかいう毒を自分で注射したなんて」
「それはきみも見てのとおりだ、シンシア」
彼女はいきなりいった。「ディック、それだけじゃ充分じゃないわ」
「どういう意味だ。充分でないとは?」
「わからないけど。そこがまさに肝腎な点だけど――プライス少佐とミスター・アーンショウの深夜の口論のこと聞いている? ライフル盗難についての?」
「うん。アッシュ卿から聞いた」ふたたびシンシアは椅子の死体を指さした。
「ディック、レスリーのことを彼は何といっていたの?」
「なにも。どうして彼がレスリーのことを云々したと思うんだ?」
「彼は水晶球を通してみんなの心を読んでいたのよ。レスリーにも何かを読んでいたにちがいないわ。あなたが心配しているのはそのことでしょ」
これまでディックはシンシアのことをやや知性には欠けるが、人のよい女性と考えていた。いま危機をさけるために彼は笑いだしたが、そのうち壁のまわりの戦争画が額ぶちの中でカタカタ鳴りだすように思えた。
「もし何かあるなら」シンシアはなだめすかす母親のように「わたしに話して。話すのよ」
「ねえ、レスリーがこのことに関係があるなんて考えているんじゃないだろうね?」
「あら、そう考えちゃいけないかしら?」シンシアは絨緞の端に眼をやりながら尋ねた。顔に血が上ってきた。「ただ……あまりにおかしくはない? 警察に報告しなくていいの? それとも別な考えがあるの?」
「報告しよう。何時だい?」
シンシアは腕時計を見た。
「五時二十分よ。どうして?」
ディックはぐるりとまわって机の前に歩いていった。片目をうすく開いた死体は地獄であざ笑う死者といった、冷笑的で真にせまる表情で彼をにらんでいた。
「バート・ミラーに電話するよ、もちろん」
ミラーは駐在巡査で、ここにくるには時間を要しない。ギャロウズ・レーンは数ヤード東の野原で終わっている――十八世紀にはそこに絞首台《ギャロウズ》が建っていた。ディックの胃袋はそれを考えるとひっくりかえった――まだそこには野原を通ってゴブリン・ウッドに続く道がある。バート・ミラーはその近くに住んでいた。
「知らせなくてはいけないのは、ドクター・ミドルズワースだ」
「どうして?」
「彼ならほかの事件のことも耳にしている。それでぼくたちは決めたんだ――」
「ほかの事件って、ディック?」
(うっかりして約束を破り、口をすべらせるところだった。たいしたことじゃないが)ディックは気をとり直した。「なあに、一般的な犯罪事件さ」
「でも、これは犯罪事件じゃないといったでしょう」シンシアは指摘した。彼をしっかりと見つめ息づかいも早い。「自殺だって。いまになって、どうしてちがうことをいうのかしら?」
彼がこの質問に答えられなかったのは、窮地に追いつめられたというより、死人の表情にグロテスクさが加わっていることに気を取られていたせいだった。ふたたび彼は死体を調べにいった。今度は反対側からだった。
椅子のわきの絨緞の上に、被害者の左手から落ちたかのように、ピン(画鋲)のこぼれた箱が転がっていた。
厚紙の小箱で、絨緞にはピンがばらまかれている。右手の近くに注射器、左手のそばにピン。それはあまりにうまい取り合わせだ。ディックはピンのひとつを拾いあげると、針先を親指に押しつけてみた。それはぎこちなく使われた注射器と同様に、人間の腕に穴を開けられることに気づいた。
「ディック!」シンシアが叫んだ。
彼は急いで立ち上がった。
「電話してくる」彼女の眼に疑問の色を見てディックは先手を打った。「ちょっと失礼」
電話は広間の外にあったはずだ。彼はドアの錠をあけ、掛け金をはずした。錠の重さとぴったりしまった掛け金を目ではかった。
ミドルズワースに電話をしながら隣室のシンシアとはぎくしゃくしていくのを感じた。長いことベルを鳴らしたあと、ベッドからやっとめざめたばかりの女性の声がした。
「すみません。こんな時間に起こしてしまって、ミセス・ミドルズワース。実は――」
「ここにはいませんよ」怒りをこらえている声がした。「ホールに行っています」
「ホールに?」
「アッシュ・ホールです。メイドの一人が昨夜具合が悪くなり、レディ・アッシュが心配されて。あなたはミスター・マーカム?」
「そうです。ミセス・ミドルズワース」
「伝言がありますか、ミスター・マーカム? あなた、ご病気?」
「いえ、いえ。そんなことではありません。もっと急を要することです」
「そうでしょうね。でもここにはいないのよ」それはいかにも残念でしたという声で、開業医の夫人はこういう場合の返答にたけている。「お急ぎならホールに電話をされたら、さもなければ、前庭を歩いて会いに行かれたら。では、さようなら」
前庭を歩いて会いに行けか。
そのほうがましだと決心した。雑木林をくぐりぬけ、サウス・フィールドをよこぎれば、二分でアッシュ・ホールに着ける。彼は急いで居間に戻った。シンシアは不安そうにピンクの下唇をかみしめている。いやいやのばした彼女の手をディックはとり、かたくにぎりしめた。
「いいかい、シンシア。ぼくはホールへ行ってくる。ミドルズワースはいまそこにいるんだ。十分もかからない。そのあいだにバート・ミラーに電話して、見張りをたのんでくれ。ハーヴェイ・ギルマン卿が自殺をした。ここにくるのに急ぐ必要はないとだけ伝えてくれ」
「でも――」
「彼が自殺したのは知ってのとおりだ」
「わたしを信じてくれる、ディック? あとで例の件教えてね」
「ああ、いいとも」
悪夢の霧の中で信じられる者がいること、シンシアの率直さと行動力はありがたかった。ディックは彼女の手をもういちどにぎったが、シンシアは彼から眼をそらした。そのあと家を出て小路をよこぎると、暗い樺の林を抜け、サウス・フィールドの緑の斜面を上がり、アッシュ・ホールに向かっているころには、シンシアはかなり変わった娘だという印象になっていた。
さて、みにくい現実に直面しなければ。レスリーがこれをやったのだとしたら……
『しかし、シックス・アッシェズの住人に自分の素姓をさとられないために、レスリーがハーヴェイ卿を殺すなどということがあるだろうか?』ディックの常識は主張した。
『そうだろうか?』角のある悪魔の疑念が尋ねる。
『いずれにしろ警察に任せれば、彼女の素姓は明らかになる』と常識が答える。
『そうとばかりいえない』と疑念が問う。『田舎警察に任せれば、目立たない自殺として処理される』
『しかし、ハーヴェイ卿は有名人だ』常識は主張する。『これは新聞種になる。おそらくスコットランド・ヤードの関心をひくことになる』
疑念は邪悪な笑いを浮かべる。
『おまえだってちっとは知られた新進の劇作家だ。おまえの自殺も新聞にのるだろう。ハーヴェイ卿なら、この天使の顔をしたレディが、おまえに毒を盛ろうとしているのは当然のこととして疑いもしなかったろう』
ここで疑念は深く根づいた。ディック・マーカムの妄想の肥大につれ、悪魔は爪をとぎ、しっかりと抱きついてきた。
『ハーヴェイ卿がレスリー・グラントを嫌っていたのは明らかだ。彼女を追及する男がいたとしたら、卿しかない。昨日は彼女の素姓を暴露するところだった。そのときだ、卿が撃たれたのは。ハーヴェイ卿に接する彼女の態度には、やさしさも明るさもなかった。毒殺者の性格がその美しい肉体に隠されているのなら、彼女はさとられない毒殺方法で、卿に反撃を加えたい気分だったろう』
それが最終的な途方にくれるところだった。ハーヴェイ卿はきっと自殺ではない。よりによって警戒していた彼が、欺《あざむ》かれて自ら腕に注射をしたことはありえない。これは誓ってもいい。しかしその一方で何者かが彼を殺すことは絶対に不可能だった。
ディックはやみくもにサウス・フィールドの斜面を歩いた。
彼の前方にアッシュ・ホールの南翼が現れてきた。古い煉瓦が輝く朝の大気の中に黒ずんで見える。まだ厨房から煙は上がっていないが、視界にあるドアはすべて広く開け放たれている。
ディックの眼に映った最初の人物は館の側面から現れたアッシュ卿だった。いつものコール天の古い上着をつけ、庭仕事の手袋をはめ、右手に薔薇の枝切り鋏を持っていた。彼はディックに目をとめて立ちどまり、やってくるのを待った。
「やあ、おはよう」アッシュ卿はとまどった口調で声をかけた。
「おはようございます、アッシュ卿。早起きですね」
「わしはいつもこの時間だ」とアッシュ卿。
ディックの視線はホールの南翼ぞいをさまよった。
「ここではドアも窓も鍵をかけてないのですか?」
アッシュ卿は大笑した。
「盗まれるものがないのでね」彼は鋏を手に身ぶりをまじえ、鼻眼鏡を強く押しつけながらいった。「絵は全部複製だし。長兄のフランクは何年も前に家宝の宝石類を、ある不道徳な女性に進呈してしまった。残っているのは食器ぐらいなものだ。それを持っていくにはトロッコがいるよ」
ここで彼はじっくり考え、また眼鏡をおしあげると、ディックを興味深そうに眺めた。
「きみが何と言いわけしようが、マーカム君、いささか興奮気味だな。どうしたのかね?」
ディックはそれをもろにぶつけてみた。このもの静かな声、血色のよい顔色、鉄灰色の髪をした堅物の反応を見たかったのだ。事態はやがてシックス・アッシェズの住民の耳にも入るだろう。
「ハーヴェイ・ギルマン卿が自殺しました」
アッシュ卿は彼を見つめ直した。
「なんだと!」
「ほんとうです」
「しかし、そんな――」アッシュ卿は鋏をおく場所を捜したが、適当なところがなく手に持ち続けた。「そんなことはありえない!」
「お気持ちはわかります」
「そう考えてみると」アッシュ卿はつぶやいた。「真夜中に銃声を聞いたような気がする。それとも明け方だったか?」彼は記憶を探った。
「ハーヴェイ卿は銃を使ってはいません。青酸です。明らかに青酸溶液を腕に注射したのです。シンシア・ドルーとぼくが三十分ほど前に見つけました」
「青酸か」アッシュ卿はくりかえした。「果樹の消毒に青酸化合物を使っている。ハーヴェイ卿はおそらくそれを入手したのだ。しかし、いったいどうしてだ?」
「わかりません」
「彼は心身とも健康そうだった。あの不幸なできごとが――」アッシュ卿は鋏を持った手で額をぬぐったので、鼻眼鏡や眼が危険にさらされた。「何か気おちすることでもあったのか? 人生に情熱を持っている人間などあまり会ったことはないがね。彼はかつてここで聖書を売っていた男のことを思いださせるよ。ところできみがここにきたわけは?」
「ドクター・ミドルズワースに会うためです。夫人の話ではここにおいでだそうですが」
「おう、ミドルズワースはここにきたよ。メイドのシシリーが昨夜発病したんだ。盲腸炎でね。ミドルズワースは手術の必要はないと診断した。それを『散らす』ことができると考えたんだ。もうここにはいない。さきほど帰った。ヘイスティングスへ行く用事があるといっていた」
ディックが卿の顔を見直す番だった。「ヘイスティングスへ? 朝の五時半に? どうしてですか?」
アッシュ卿は当惑したようだった。
「知らん。ミドルズワースはいくぶん謎めかしていたな」
甘い香りの草、陽光が拡がっていく芝生の輝きはめくるめく感じがする。ディックに対しては次の爆弾が用意されていた。いきなり危険がさしせまった奇妙な感じがし、アッシュ卿が熱心な表情で、注意ぶかく自分を観察しているのを知った。じっと見つめられていると鋭いナイフの刃が当てられているようだったが、やがて元の顔に戻った。
「わしが聞いたところでは」アッシュ卿は穏やかな声で尋ねた。「レスリー・グラントは殺人者だったとか?」
第九章
ミス・レスリー・グラント――と呼ばれる女性――は朝八時十五分に眼を覚ました。その家はシックス・アッシェズのハイ・ストリートの南端に近いファーナムの古い別荘で、アッシュ・ホールの前庭の東面にあった。奥行きのある前庭があり、木陰にかこまれ住み心地はよかった。二階のベッドルームの窓から、斜め左ハイ・ストリートをよこぎりグリフィンとトネリコの紋章を彫った門柱が見える。レスリーがめざめたときには陽光がさんさんと窓から流れこんでいた。
しばらく彼女は死んだようにじっと横たわったまま大きな眼で天井を見つめていた。
ベッドサイド・テーブルの時計の動きが唯一の物音だった。レスリーはわきに眼をはしらせて時間を見ると、すぐ天井にもどした。
彼女は熟睡したようには見えなかったし、実際に睡眠不足だった。あどけない褐色の眼の下にはかすかな隈《くま》があり、褐色の髪は枕に乱れ、口元には奇妙なゆがみがあった。上がけのそとに露出した腕を思いきりのばす。しばらくじっとしたまま時計の音を聞いていた。そのあいだ眼はあたりをさまよっていた。
この居心地のよい部屋はうるさいほどの趣味のよさで統一されている。たったひとつ絵が二つの前窓のあいだに掛かっていた。いくぶんグロテスクなデザインのデッサンで額縁に入っていた。視線がこの絵に当たると彼女は下唇をかんだ。
「ばかげているわ」彼女は声をもらした。
その時彼女を見ている者がいたら、その人目を忍ぶ挙動にいささかこころ穏やかならぬものを感じたろう。しかし幸か不幸か、そこにはだれもいなかった。レース飾りの白絹のナイトガウン姿でベッドをすべり出ると、絵に駆けよると壁から降ろした。
その裏に小さな円形の壁金庫が現れた。アメリカから輸入した鈍色の鋼鉄製金庫である。鍵はなく文字合わせで開き、その組み合わせ暗号は製造元とレスリー・グラントしか知らなかった。
レスリーの呼吸はしだいに浅くなり、胸がシルクのナイトガウンの下でほとんど起伏しなくなった。彼女は金庫のダイアルにふれるとノブを二度まわした。そのとき廊下のはずれの階段に重い足音とトレイにのせた陶器のカチャカチャいう音がした。ミセス・ラックリーがモーニング・ティーを運んでくるところだった。
レスリーは絵をもと通りにして、ベッドにすべりこんだ。ベッドから身体を起こし枕によりかかる。髪の毛をうしろにたらし、息をととのえた。そのときミセス・ラックリーがベッドルームのドアを開けた。
「おめざめですか?」ミセス・ラックリーはいつものように尋ねた。「すばらしい朝ですわ。おいしいティーをおもちしました」
ミセス・ラックリーはメイド兼コック兼家政婦として、その押しつけがましいサーヴィスさえ我慢すれば、主人にとってなくてはならない存在だった。部屋をぐるりと見まわしたあと、きちんとした室内と開いた窓に満足し、ぜんそくでぜいぜいいいながら、床をきしませ部屋をよこぎると、レスリーの膝にティー・トレイを乗せた。そのあとうしろにさがって腰に手をあて、自分に世話を任された相手を眺めた。
「ご気分が悪いようですね」ミセス・ラックリーはいった。
「あら、気分は爽快よ、ミセス・ラックリー」
「そうは見えませんわ」ミセス・ラックリーはきっぱりとくりかえした。そしてなだめすかすように「ベッドで朝食をとられた方がいいんじゃありませんか?」
「いいえ、とんでもない。すぐに起きます」
「かまいませんことよ」あやすようにささやいた。
「でもベッドで朝食はとれませんわ、ミセス・ラックリー」
ミセス・ラックリーは口をすぼめ明らかにこれを悪くとったようだった。首をふり部屋をもういちど見まわした。その眼は椅子の上にきちんとたたまれた衣類でとまった。黒いスカート、白いニット・ジャンパー、スリップ、ストッキング、椅子の背にかけたサスペンダー・ベルト。
「さて、それでは」ミセス・ラックリーは首都警察の巡査を思わす声音でいった。それからいつもの調子でつけ加えた。「昨夜は外出されませんでしたか?」
紅茶をカップに注ぎ、口に持ってきていたレスリーははっと顔を上げた。
「外出?」彼女はおうむ返しにいった。
「昨夜アッシュ様のお車でマーカム様のお宅から戻られたあとですわ」ミセス・ラックリーは説明した。
「とんでもない。おぼえがないわ」
「マーカム様のお宅から戻られたときは、ダーク・グリーンのフロックをお召しでしたわね。よくお似合いだったので覚えていますわ。それがいま……」
彼女は椅子の黒いスカートと白いジャンパーを指さした。彼女の声はとがめるようにきつくなった。
「あなたは傷つきやすいお人ね。わたしの一番下の娘みたい。でも、ああいうことはすべきでありません」
「どんなことかしら?」
「外出です」ミセス・ラックリーはあいまいに、しかし頑固にいいはった。
「外出なんかしていません」レスリーは反論した。肘をぐいと動かしたので、ティー・カップがひっくりかえりそうになった。奇妙な表情が眼をかすめて消えた。しかし頬が紅潮した。「わたしが外出したと、だれから聞いたの? そんなこという人はうそつきです」
ミセス・ラックリーはびっくりした。しかし返答しなかったのは、もっと気をひかれることに気がついたからだった。ミセス・ラックリーが好奇心むきだしで窓のそとを眺めていたので、レスリーはベッドから這い出てティー・トレイを音をたてておくとそばにかけよってきた。
だいぶはなれた表門のそとで、ホーラス・プライス少佐が強い朝日をあび、銀行支店長ミスター・ウイリアム・アーンショウと立ち話をしていた。
プライス少佐の大柄な肥満体は、銀行支店長の直立した痩身と対照的だった。アーンショウが帽子をぬぐと手入れの行きとどいた漆黒の髪が見え陽光にギラリと光った。ここからは遠すぎて話は聞こえないが、二人のあいだには、たしかにただごとならぬものがあった。かれらはたがいに顔を寄せていた。少佐のカラーのほうが少し高いようだった。しかしのぞき見をしているふたりの注意をひいたのは、それではなかった。
ハイ・ストリートの南方を直角に走るギャロウズ・レーンのほうから駐在巡査が自転車でやってきた。
バート・ミラーはこれまでにない猛スピードでペダルをこいでいた。少佐とアーンショウはふりかえった。プライス少佐が挨拶したとき巡査は急に自転車を止めたのであぶなく溝に落ちるところだった。
それからすこし間の悪い無言劇があって、巡査は早口でしゃべり出した。それは二人にかなりの衝撃を与えたようだった。いちどプライス少佐はレスリーの家をふりかえった。彼のしみのある顔が見えた。法律業務にたずさわっているときかぶるソフト帽の下に大きな丸い顔があり、口元が少し開いていた。
会話がとぎれた。プライス少佐は心を決めたように表門を開け小道を家のほうにやってきた。
「ナイトガウン姿では!」ミセス・ラックリーは慌てた。「丸見えですよ! ベッドにお戻りなさい。わたしはお風呂の用意をしますから」
「お風呂のことなどいまはどうでもいいわ」レスリーはミセス・ラックリーの心を読んでいったが、その声は弱々しかった。「下に行って何があったのか聞いてきて。プライス少佐には三十秒もすれば降りていくと」
彼女が降りていくまで実際は十分はかかった。口論になった昨夜の服とはちがうものに着替えていた。ミセス・ラックリーはどこにも見えなかった。少佐から激しい言葉を浴びせられて退散したのは明らかだ。プライス少佐は玄関に立ち、帽子をもてあそんでいたが、彼女を見ると咳ばらいをした。
「いまバート・ミラーと立ち話をしたのだが」
「ええ、知ってます。それで?」
「悪い知らせでな。ハーヴェイ・ギルマン卿が亡くなった」
ひろびろと涼しい玄関は扇形の欄間窓があるのに暗かった。奥の大時計はメトロノームみたいな音をひびかせていた。
「わたし、わざとやったんじゃありません!」レスリーは叫んだ。「故意に狙いなどしません! 昨日のは事故です。誓ってもいいですわ」
「まあ、まあ、お嬢さん」
「許して! でも――」
「撃たれたことは問題じゃない」プライス少佐は話を続け、太い首をソフト・カラーにうずめた。「あの気の毒な男は昨夜みずから毒を注射して死んだようだ。それにしても……どこか話す場所はないかな」
言葉もなくレスリーはドアを指さし二人は静かな居間に入った。緑色に塗った壁、丸石の暖炉がある。驚きのあまり声も出ないレスリーは少佐を案内し身ぶりで椅子をすすめた。彼は向かいに座ると、帽子を慎重に床におき厚い膝に指を広げ、親密なやさしさを見せて身体をかたむけた。
プライス少佐は声をひそめた。
「とりあえずあなたは心配することはない」彼はレスリーをなだめた。「しかし、あなたの法律顧問としては――まだわたしをそう考えていてもらえればだが?」
「当然のことですわ」
「ありがとう」彼は身体をかたむけて彼女の腕を軽くたたいた。「法律顧問としては、二、三の細かい問題点がある。なあに、重要なことではない」身ぶりで否定した。「それをはっきりさせたほうがいい」
「毒物自殺といわれましたね?」レスリーはくりかえした。首を激しくふり、心中の暗雲と戦っているようだった。うっすらと眼に涙が浮かんできた。「まったく理解できません。あの方がどうしてそんなことをしたのか」
「うむ」少佐はうなずいた。「それはささいなことだが、むしろやっかいな点は、この事件全体に関係があることだ。死体は今朝早くディック・マーカムが発見したんだ」
レスリーはすっくと立ち上がった。
「ディックが?」
「そう。ミラーの話では、何者かが電話でディックに知らせたのだそうだ……」
「だれが電話など?」
「彼はわからないといっている。ささやくような声だった。これはミラーから聞いた話だが」少佐は眉をひそめた。「その声は、ディックが急いでポープの別荘に行かなければ、かなりひどいことが起こるかもしれないとほのめかした」
「それで」
「彼は急いでいってみた」少佐は続けた。「別荘が見えるところまできたとき、だれかが居間の明かりをつけた」
プライス少佐は一息入れたが、明らかにこの事件を心に描いていた。砂色の眉毛をよせ鼻息は荒かった。
「間髪をおかず、庭園の仕切り壁の上でライフルを撃った者がいて、弾丸は居間の窓を貫いた。いや、待て。あなたが考えているようなことじゃない。ディックはその場所に急いだ。シンシア・ドルーも一緒だった……」
「シンシア・ドルー? どうしてそこにいたんですの?」
プライス少佐はそれを無視した。
「早朝の散歩か、そんなことだろう。とにかく二人は別荘へかけつけ、弾丸がハーヴェイ卿に命中しなかったことだけは確認した。書き物机の椅子に卿を見つけた。彼は内側から鍵をかけ、自分で青酸溶液を注射したようだ。まったく奇怪な状況だ」少佐はそうつけ加えると、あいまいに首をふった。「すべてがおかしい。彼が自分の腕に毒物を注射したとき――ほとんど同時に――何者かがライフルを撃ったんだ」
長い沈黙があった。レスリーは何もいわなかった。何かいおうとしたが絶望と神経の乱れを身ぶりであらわしたにすぎなかった。
プライス少佐としても明らかにおちつかなかった。咳ばらいをすると中央テーブルの赤い薔薇の鉢に眼をやった。その薔薇はグランド・ピアノや古い銀器とともに、このうす暗く趣味のよい部屋にいろどりを添えていた。彼は眼をきょろきょろさせていたがやがて本題に入った。
「ところで、これは誤解してほしくないんだが、しかし――」
「しかしなんですか?」
「実をいえば、今日はあなたと少し話があってやってきた。ここにこられてからあなたの財産管理をわしに任されたのは結構なことだった。あなたはこうしたことに不慣れだ。だからそれは適切なことだ」彼はひとりあいづちを打った。「いまあなたは結婚されようとしているが――」
レスリーはなおさら絶望的な困惑の表情になった。
「いったい何をおっしゃりたいのですか?」
「さて」古風なプライス少佐はいった。「あなたの将来のご主人は財産管理をどう考えられるかな? それをわしの代わりに自分に託すように望まれるだろうな? 当然のことだ。事務的なことだからな」
「とんでもない! それは困ります」レスリーは叫んだ。「ディックはわたし同様、経理には不案内です。すべて彼の著作エイジェントに任せています。どのくらいのお金を稼いだか自分でも知らないくらいです」
少佐はそわそわしていた。
「しかしいずれにしろ」彼は肝腎な点を避けていった。「とにかく第三者の立場でこれを見てほしい。たとえば……あなたには親戚がいるかな?」
レスリーはびっくりした。
「どうしてそんなことを?」
「あなたについて知っておきたいことがあってね。とにかくできるだけあなたを助けたい――」
「お願い、プライス少佐。遠まわしにいうのはやめて。あなたの狙いが何か説明して下さいません?」
「それでは」少佐は手を膝におとした。「昨日の午後、占い師はあなたに何を告げたか、正確に話してほしい」
部屋はにわかに静まりかえり、玄関の大時計のメトロノームのような音がはっきりと聞こえた。
「さあ、どうかね」少佐は先手をうって彼女をうながした。「占い師の言葉はありきたりのものだったとはいわないでほしい。そうではなかった。ともかくわしはそこにいてあなたを見ている。第三者的に事態を見てほしい。たとえば、わしの家内とか他人の立場でな。占い師はあなたをひどく動揺させることをいった。ディックはそれが何であるか見きわめようととんで行った。ライフルの暴発で――もちろん事故だった――あの老人は倒れた。さいわいにもひどい傷ではなかったが……」
「重傷じゃなかったんですか?」レスリーは叫んだ。
「まあ……そうじゃなかった」少佐は狼狽した。
ふたたびレスリーの眼がひそかに部屋を見まわした。手品師がカードを切るごとくすばやく考えを選び出しているようだった。唇をなかば開き、顔にはっきりと疑いの色が浮かんでいた。
「ディックは知っているのかしら? わたしにはいいませんでした」
少佐は首をふった。
「いや、彼は知らんだろう」
「それはたしかですか?」
「ミドルズワースとわしはハーヴェイ卿を自宅に運んだ。彼は浅い傷であることを秘密にしてくれとたのんだ。正義のためにだといったがね。内務省の病理学者がだ……冗談ではない。わしに何ができる? ディックにあとで話したかどうかはわからない。しかしわしが帰るときハーヴェイ卿がまだ元気だったことは知らないはずだ。
何が起こるか考えてほしい。彼はあなたに関係あるらしい重大な秘密をにぎっていた。それはたしかだ。何者かが例のライフルを盗み、同じライフルで窓ごしに彼を撃った。同時に彼は自分に毒を注射したらしいんだ。とんでもないことだ!」
レスリーは唇をしめらせた。
「『らしい』といわれましたが、疑わしい点があるんですか?」
「個人的にはそうは思わん」少佐はくすっと笑うと砂色の眉毛をあげ、害意のないうす青い瞳を見せた。「鍵のかかった部屋には自由に出入りはできないだろう?」そういってから声を落とした。「何か話すことがあったら、いま聞いてあげよう」
レスリーの指は椅子の肘かけをしっかりとつかみ、まるで真剣な情熱から彼のほうに身をのり出してきそうだった。
「何もありません。信じて下さい」
「占い師のいったこともかね?」
「あの方とは初対面でした」
「あなたのいいたいことはそれだけかね?」
「そうです」
「さてと……」訪問者はつぶやいた。
深く息を吸いこむとあたりをさりげなく見た。帽子をとりあげ立ちあがると、思いをこらしたように天気について一言、二言いった。緊張した居心地の悪い沈黙のなかでレスリーは彼について玄関に出た。
「用事があれば、わしは事務所にいる」プライス少佐がいった。
彼が去ったあともレスリーはしばらく玄関の中央にいた。腕をくみ指は肩をきつく押さえていた。それは当惑に苦悩さえ加わった無言劇だった。
「ちがうわ!」大声を出した。「そうじゃないの!」
大時計の針音が彼女の心に忍びこんだ。もうじき九時になることに気づいた。いつもなら台所からかすかに流れてくるベーコンを揚げる匂いが元気づけてくれるのだが、ミセス・ラックリーは疑問を抱えて、それどころではなかった。
レスリーは急いで二階にかけあがった。夢中でベッドルームにとびこむと、背後でドアをしめ、部屋の鍵をかけると、ほてった顔をドアにあてほっとした。ふと部屋の雰囲気が異なるのに気づき、急いでふりかえった。
白黒のスケッチはもう壁金庫の前にはなかった。床にうらがえしにおいてある。
金庫の前で組み合わせダイアルをいじっているのは、シンシア・ドルーだった。
十を数えるあいだ、二人の女性はにらみあった。強烈な香りとざわめきを連れて、夏は開いた窓からうちよせ、躍動する陽光の中にそれを吐き出した。金髪で青い眼のがっしりした女性と、褐色の髪と眼の華奢な女性は、ヒステリックなほど急に高まった感情で対決した。
シンシアの声が硬直した沈黙を破ってひびいた。
「この金庫に何が入っているか知りたいの。見たらここから出ていくわ。さもないとあなたを殺すわよ」
第十章
その朝ほぼ同時刻――九時――ディック・マーカムはハーヴェイ・ギルマン卿邸の玄関に通じる石段にひとり腰をおろしていた。
そうだな、彼は思案をめぐらした。それだけのことだ。
現実の難題はいま直面していることだった。アッシュ卿との会話を思いうかべた。そして駐在巡査がやってきたときのことを思い出した。バート・ミラーはニュートン農園で酔っぱらいが起こしたトラブルのため、今朝は三度も起こされ、いらだちをひきずっていた。彼が一部始終を調書にとるまで、ディックは何時間尋問されたかわからない。
ディックは自宅のキッチン・テーブルで、向かいに座ったシンシア・ドルーと、あわただしく朝食をとった。彼女は何を気にしているのか聞かせてくれとせまった。
時間が遅々と進むにつれ、ミラーがホークストンの警察署長に電話していたのを思いだした。そしてロンドンから列車でやってくるスコットランド・ヤードの係官を、ロイターリング・ホールトまで出迎える車をとりにミラーは行ってしまった。
ハドリー警視がやってくる。
万事休すだ。
シンシアに執拗に質問され、約束を思い出すよういわれても、ディックはなにも語らなかった。彼は思いきってレスリーのことを話す気になれなかった。
アッシュ卿でさえそのいきさつをはっきりとは知らなかった。「わしが聞いたところでは、レスリー・グラントは殺人者だったとか?」アッシュ卿閣下の爆弾発言も村の女どもの単なるあてこすりの話題だったとわかった。「ライフル事故は別に興味をひくことではなかったのか?」
ゴシップ、ゴシップ、ゴシップにすぎない! その出所をつきとめたり、はっきりさせることはできない。ふたりの婚約のニュースが流れるとゴシップが集まり、それが暗い影を落とし、レスリーへの敵意に似た色合いをおびてきた。しかし一方ではアッシュ卿の意見にはそれ以上のものがあった。アッシュ卿はたしかに自分に何か話すか、伝えるか、示唆しようとしていたとディックは断言できた。
しかしなんだろう?
そしてディックはいまこの別荘の石段に座っていた。シンシアは内密の私用でこの場をはなれていた。彼だけがミラーが戻ってくるまで死体の番をしていた。
彼はレスリーの過去の事実について、シンシアに何も語らなかった。しかし話したところで問題があったろうか?
いや、なかったろう。
村中にふれまわったところで問題はなかったろう。ハドリー警視はまもなくここにくるはずだ。話には不愉快な尾ひれがついて伝わるだろう。ゴシップは長いこと人々の口の端に残るものだ。そのあいだには……
「やあ、そこにいたか」道路から声がした。
もうだいぶ暑くなってきていた。果樹園からスズメバチのブーンという羽音が聞こえてくる。ビル・アーンショウは芝をふみしめ庭をよこぎって家の方にやってきた。
「銀行には遅れるだろうが、まずここにきてみたのだが……」彼の声は尻すぼみになり肩をすくめた。そして家を見やった。「いやな役目だな?」
ディックはうなずいた。
「どこで話を聞かれました?」彼は尋ねた。
アーンショウはふりかえって顎をしゃくった。
「レスリーの別荘の外に立っていると、ホーラス・プライスのばかに声をかけられたんだ」彼の額に影がさし、銀行支店長らしい口調は消えた。「そこにバート・ミラーが自転車でやってきて、一部始終を話してくれたというわけだ」
アーンショウはためらった。仕立てのよい服を着て姿勢はいいが、粋《いき》には見えなかった。顔の血色は悪いがハンサムといえなくもない。四十代半ばだが若く見える。カラーはのりがきいており、アントニー・イーデン〔元イギリス首相〕帽で顔をあおいでいた。黒々とした髪にはナイフで切ったように白い分け目が走り、顔はつるつるによく剃ってあった。
アーンショウは社交界の人気者だった。呵々《かか》と大笑しユーモアのセンスを自慢にしている。立派なビジネスマンでブリッジの名手、スカッシュのプレイヤー、国防義勇軍の将校だった。ピストルやライフルの射撃にすぐれ、ユーモラスで控えめな常識人だった。そのもののいいかたは容易に想像がつくだろう。
「思うに、ディック。このライフルは……」
「ライフルですって!」思いがけず激した叫び声にアーンショウはびっくりして彼を見た。あまりに神経質すぎた。「ぼくは」ディックは訂正した。「ライフルでは撃たれていないといいたかったんですよ、彼は……」
「それはわかっている。しかしだな」アーンショウの黒い眼は別荘の玄関に向けられた。その唇を口笛でも吹くようにすぼめた。「きみは思いつかなかったかね――もちろんわたしがまちがっているかもしれんが――ライフルを撃ったのが何者であれ、事件の中できわめて重要な役割をはたしていると」
ディックは眼をしばたたいた。
「たしかに思いも寄りませんでした。それがどうして?」
「この事件には解《げ》せないふしがある。ハーヴェイ卿はほんとうに自殺したのかと疑われているようだが?」
「自殺です。証拠を見てください。信じられませんか?」
「率直にいって、あまりにおかしなことが多い」アーンショウは笑うと、帽子であおぎながら話を続けた。「何を信じていいかわからない」(シックス・アッシェズの住民の声もそうだった)「ところで」アーンショウは地面に眼をおとすとつけ加えた。「まだきみとレスリーの婚約にお祝いをいっていなかったな。おめでとう、すえ永く幸せに」
「ありがとうございます」
何かがディックの胸に残り、彼をひどく傷つけた。泣き叫ぶわけにはいかない肉体的苦痛を感じた。アーンショウはやや当惑気味だった。
「ところでいま話していた件だが」
「はあ?」
アーンショウは居間の窓に顎をしゃくった。「中をのぞいてもかまわんか?」
「どうぞ。ぼくは警官ではありませんから」
明らかに死者に対する漠然とした敬意の念で、アーンショウはつま立ち歩きで近づくと右側の窓をのぞきこんだ。帽子をかざし内部の有様を調べた。それから気どった嫌悪感をうかべ疑念を明らかにして眉をひそめふりかえった。
「殺人者きどりの人間は」彼は道路の向こうの境壁を指さしながらいった。「狙撃のために壁の向こうに隠れていた。だれかが居間の電灯をつける。チャンスだ。そのときライフルを持った人間には、部屋の中にいた者が見えたということが大事な点だ」
アーンショウは言葉を切った。
ディックはゆっくりと立ち上がった。
「その人間は目撃者だ」アーンショウは続けた。「彼ならこういうだろう。『そうだ。ハーヴェイ卿はひとりだった。青酸自殺を図っているなど知るべくもなかった。それで弾丸をぶちこんだのだ』またこういうかもしれない。『ハーヴェイ卿はひとりではなかった。だれかと一緒にいた』どちらにしろ問題は解決する。どうかね?」
あまりに明白すぎてすぐには理解できなかった。ディックは自分がこれを見おとしていたことを腹立たしく思いながらうなずいた。
アーンショウの生来の慎重さがあらわれた。
「いいかね、これが事実だとはいわないよ」彼はぎこちなく笑った。「それに探偵業をはじめるわけでもない。わたしがミラーのいうロンドンからくる刑事だったらどうするかをいったまでのことだ。目撃者に名のり出るように求めるべきだ……」
「目撃者は名のり出ませんよ。そんなことをすれば殺人未遂で告発されます」
「警察が免訴を約束したら?」
「重罪を示談にするんですか?」
アーンショウは帽子を頭にのせたが、無頓着にななめにかぶったので、粋なものではなかった。彼は両手のちりをはらった。
「わたしは法律条項には暗い」彼の細い顎にそって筋肉が動いた。「訊くことだな」少しためらって、「プライス少佐に。とにかくわたしの仕事の範囲外だ」それから光る黒い眼をしっかとすえてディックを真っ向から見つめた。「しかしそのライフルには多大の関心を寄せている。それがみんなの考えているあの銃であればな。ライフルはいまどこにある?」
「居間に。ミラーが確認しました」
「見てもいいか?」
「ええ。何か特別の理由でも?」
「まず、それはわたしのライフルだ。覚えているだろう、プライスは射的場のためにみんなから銃を借りて歩いた」
「そうですね」
「次に、この地域社会にはわたしの立場がある――」アーンショウは感じのよい外交的笑いをうかべたが、あまり得心のいくものではなかった。「かまわん。中に入ろう」
シックス・アッシェズのシティ&プロヴィンシャル銀行の支店長室ではよく聞こえる笑い声の反響も、居間に入るとさほど効果のあるものではなくなった。
書き物机の上に吊り下がった電灯はだいぶ前にスイッチを切られ、死者は太陽の光と影のあいだにいた。アーンショウは元気を出し上品な無頓着さを装おうとしたが、テーブルをぐるりとまわり死者のなかば開いた冷笑的な眼に出会うと思わずひるんだ。彼はその眼から逃れようと急いでふり返った。そのときディックはライフルをとりだした。
「自由に扱ってかまいませんよ。ぼくがもうやたらと指紋をつけてしまいましたから。やはりあなたの銃ですか?」
「そうだ。ところで」
「待ってください」ディックはうんざりしたようにいった。「昨日そのライフルを盗んだのがだれかと尋ねてもむだです。ぼくは知らないとアッシュ卿にも話しておきました」
「しかし――」
「ぼくにいえるのは」ディックは確信を持っていった。「プライスでもミドルズワースでもないことです。かれらがハーヴェイ卿を運んでいくのを見ていました。もちろんレスリーやぼくでもありません。一緒にいましたからね。あなたがこられて銃の番をするといわれるまで、ほかにはだれもいませんでした」
アーンショウは微笑をたたえていたが、眼や口元の表情は笑っていなかった。
「ライフルを持ちだしたのはプライスだ」
「そんなことむりですよ。ライフルはポケットに突っこんだり上着の下には隠せません」
「いいたいのはそこだ。わたしが眼を光らせているあいだには、だれも近よらなかった。わたしもそんなことをしない。プライスはわたしのせいにするだろうが。自分の銃を盗むか? ばかげている。そうだろう。魔術を使ったなどといわないでくれよ」
ディックは他愛もないと答えるところだった。しかしライフルにはもううんざりしており、ハドリー警視の到着を見こしての動きにもあきあきしていた。それでなだめるようにつぶやいただけで暖炉のそばの壁にライフルを戻した。
アーンショウは笑い、不快感を見せなかった。
「わたしが針小棒大にいっていると思わんでほしいね。しかしいわせてもらえば、わたしにはそれなりの立場がある。この事件は大ごとになるぞ」
「どのように?」
アーンショウはだんだん落ち着いてきた。
「あの男は絶対自殺などしない。きみだってそう思っているだろう」
「どうやって彼を殺したんですか?」
「わからん。探偵小説だね、まったく。死体は錠や掛け金のかかった部屋で発見された。かたわらには」アーンショウはうなずいた。「青酸入り注射器」アーンショウはまたうなずいた。「ピン入りの箱」彼は考えこんだ。「もちろん、ピン入りの箱には特別な謎はない。ここにあるものについては。おそらく家中いたるところにある。ポープ大佐がいたころ、きみはここに住んでいなかったな?」
「ええ」
「ポープ大佐はそれをよくスズメバチに使っていた」
ディックは聞きちがえたかと思った。
「ピンを使ってスズメバチを?」
「スズメバチの巣がある」アーンショウは果樹園の方に顎をしゃくった。「ポープ大佐は夏窓を開け放しておくと、刺されてひどい目にあうといっていた」
「それで? 何ですって?」
「アメリカ製品で網戸というのがある。イギリスにはないが作るべきだな。金網を木枠戸にはめこんだものだ。窓につければ虫よけになる。ポープ大佐は持っていなかったが、それをヒントにガーゼのような布を窓枠の四隅に張り、たくさんのピンでとめた。こまめに毎日やっていた」
アーンショウは書き物机を指さした。
「そのあたりの引き出しを開ければまちがいなくもっとある。しかし死者の手のそばに転がっていたとは、どういうことかな?」
ピンの先はぞんざいに扱われた注射針と同様に穴もあけられるといいたいのをディックはこらえていた。しかしこれは意味のない想像で口に出すのもはばかられた。まだ死者の毛穴からにじみ出る青酸の臭いは居間のむし暑さをましていた。それはアーンショウも感じていた。
「ここから出よう」彼はぶっきらぼうにいった。
かれらがまた前庭に出るとアーンショウはつけ加えていった。
「今朝レスリーに会ったかい?」
「いえまだ」(その話に戻るのかとディックはげっそりした。またくりかえされるのか)「どうしてです?」
「いや、別に」アーンショウは笑った。「彼女はこの件に関係ないと聞いて喜ぶだろう――」今度は居間に顎をしゃくった。「ところでディック、わたしはゴシップには興味がない。心配するな」
「ええ、そうでしょうとも」
「だがレスリーには謎があるとときどき感じる」
「どんな謎ですか?」
「まず最初に会って話をしたときのことを思い出す、彼女は顧客の一人なんだ」
「われわれの大部分はそうですよ。それが何かよくないことでも?」
アーンショウはその質問に関心をはらわなかった。
「きみに話すことはもちろん秘密ではない。彼女は二週間ほど前にシックス・アッシェズへやってきてファーナムの家に泊まった。わたしの支店にやってきて、自分の口座をロンドンのベイシングホール・ストリート支店から、ここに移してもかまわないかと訊いた。わたしは当然のことながら、それはありがたいですなと答えた」アーンショウは満足げだった。「すると彼女は『ここには貸金庫はありますか?』というんだ」
アーンショウはまた笑った。ディックが煙草の箱をとってさしだすと、彼は首をふった。
「ロンドンの大きな支店とちがって、そのようなものはないと答えた。そしてふつう顧客には、支店の警備厳重な部屋の金庫に大事なものを入れておかれるようお勧めしていますといった。彼女は奇妙な表情で、高価なものはありませんが、二、三点、貸金庫のほうが都合がよいものがあるのでといった」
「それで?」
「それからこう訊いた。『その箱に何を入れたかは、報告しなければなりませんの?』そこでそんなことはありません、当方では中身には関知しませんと答えた。お渡しする預かり証にはいつも『内容不明』と書かれていますと。それからこれはちょっとへまをやったかなと心配した。ジョークの意味で『もちろん疑いがあれば調べる義務はあります』といったら、それから二度とそのことにはふれなかった」
「内容不明か」
ディックは煙草に火をつけ煙の輪を見つめた。彼はハイ・ストリートの小さな支店を思いうかべた。机のうしろに座って指先をそろえ、つやつやした頭をかたむけるアーンショウ。価値あるものではないが、人目にふれぬように秘密にしておきたいもの、という彼を悩ませる謎、レスリーの謎は最終段階に達しようとしていた。
「おう!」アーンショウはつぶやいた。
車のエンジンの音が道路沿いに近づいてくる。ドクター・ミドルズワースの汚れたヒルマンが姿を現わし別荘の正面で停った。パイプを口にくわえたミドルズワースが運転席からおりると車の後部ドアをあけた。
「おや、あれは?」アーンショウは叫んだ。
車の後部ドアに小さな瓶から現れた大魔神のようにゆっくりと巨体が現れた。長身肥満で、箱ひだのケープに牧師のシャベル帽をかぶっていた。帽子を頭におさえつけ、幅広の黒リボンのついた眼鏡を鼻にしっかりとめるのはかなり難儀なことだった。狭い車内からやっと抜け出すと、ぜいぜいと息を切らせながら松葉杖のようなステッキにもたれかかった。
やがてその姿は道路に立ちはだかった。ケープと眼鏡のリボンを風になびかせ、別荘をずっと見渡しているようだった。幾重にもなった顎と山賊風口ひげをはやした顔は激しい運動でピンクに染まっている。その恰幅のよい紳士は咳ばらいをすると多重顎をふるわせ大声を出した。
「そうか」ディックは納得した。あの巨人のような姿は絵入り新聞で何度も見たことがある。「ギデオン・フェルだ」
ミドルズワースは昨夜――黙って考えこんではときおりはさむ言葉の中で――ギデオン・フェル博士がさほど遠からぬヘイスティングスで避暑をしていると語った。ミドルズワースはこんな早朝にフェル博士を迎えにいってきたのだ。どうしてだろう?
それはどうでもいい。フェル博士はハドリー警視と同様、この件についてはかなり知っていた。レスリーのことがいま明らかにされる。アーンショウの面前で。ミドルズワースがフェル博士と立ち話をしているのを見てディックは憂うつになった。やがてその巨体の博士はのっしのっしと別荘にやってきた。
フェル博士は内心激しい怒りを抑えているようだった。彼は握りの付いたステッキで芝をなぎはらった。ケープの中味は帆を張ったガレオン船みたいに巨大で、そこにいる人々より頭ひとつ高かった。博士はディックの前にくると荒い息をはき異常な関心を持って彼を眺めた。
ふたたび咳ばらいをした。
「リチャード・マーカム君とお見受けするが?」フェル博士はシャベル帽をぬぐと古風な風格を見せ単調な声で尋ねた。
「そうです」
「よいニュースを持ってきたんだが」
あとに続く沈黙の中で彼はディックに関心を持って眼をしばたたいた。遠くで犬の吠える声がした。
「よいニュース?」ディックはおうむ返しにいった。
「事実は事実としてな」フェル博士は帽子を持ちかえミドルズワースに眼をやった。「ここにくる途中である少佐に会ったが、なに少佐だったな?」
「プライス少佐です」ミドルズワースが口をそえた。
「そのプライス少佐とかいう人物が今朝起こったことを聞かせてくれ、いささかわしの鼻を折ったが、それでもきみにはよいニュースだと思っている」
ディックはフェル博士からミドルズワースに眼を移した。皺をきざんだ額と褐色の薄毛のミドルズワースはいつものようにどっちつかずの態度だった。しかしその目つきや口元の深い皺でさえも当惑気味ではあるが安心したような感じを伝えていた。
「とにかくそれは解決できる」ミドルズワースは口にくわえていたパイプをとると靴のかかとで灰を落とした。彼は居間の窓辺に行くとガラスを軽くたたいた。「フェル博士、あの死者は何者ですか?」
喉の奥をごろごろ鳴らしフェル博士はのっしのっしとやってきて、大きなチョッキの端がふれそうなほど窓に近づいた。眼鏡を調整し興味深げにかがみこんだ。しかしすぐにまたふりかえった。
「だれだかまったくわからん」フェル博士は前と同じように怒りを抑えたような調子で答えた。「だが、ハーヴェイ・ギルマン卿ではない」
第十一章
ショックのあまり感性が麻痺して一種の無感覚状態が生まれ、それがかえっていかにも平静に見えた。
「冗談でしょう?」ディック・マーカムは尋ねた。
彼は三つの顔が一斉に自分を見ているのを意識した。アーンショウは口を開け、ミドルズワースは渋い顔をし、フェル博士は怒りのあまり山賊ひげにふれそうなほど下唇を押しあげている。
「冗談ではない」ミドルズワースが答えた。
そこでディックは大声をあげた。「ハーヴェイ・ギルマン卿ではないんですか?」
「ペテン師だ」ミドルズワースはあっさりといった。「昨夜は疑わしいことをきみに告げることができなかった。あてにもならない期待をかきたてたくなかった。だが……」ミドルズワースははっと気づいた。「ビル、失礼だが」彼はアーンショウにいった。「きみは銀行に行かなくてもいいのかね」
露骨な注意ではなかったし、ミドルズワースのおだやかな口ぶりには攻撃的なものはあまり含まれていなかった。この支店長はただうなずいただけだった。それはアーンショウの律儀さや人のよさゆえだった。
「そうなんだ。すっかり遅れてしまった。すまないが失礼する。あとでまた」
そしてきびすをかえすと夢遊病者のように歩いて行った。とはいっても好奇心はわきたっていたはずだ。アントニー・イーデン帽ときちんとしたダーク・ブルーのスーツが遠くなるまでミドルズワースは見送った。
「お話しください、フェル博士」ミドルズワースはうながした。
フェル博士は勇ましいガレオン船みたいに身体の向きをかえるとディックと顔をあわせた。
「きみはいけにえに仕立てられたのだ。わしの経験の中でもこれほど残酷な悪戯を知らない。きみを安心させてやりたいのは、あのミス……ミス?」彼は眼鏡をしっかりとおさえながらいった。
「レスリー・グラントです」ミドルズワースは助け船を出した。
「ああ、そう」フェル博士の顔は紅潮し頬をふくらませた。「レスリー・グラントは毒殺者ではない。わしの知るかぎりでは彼女はいかなる種類の犯罪者でもない。それをくわしく話そう」
彼は指で要点を数えた。
「彼女はいままで結婚したこともないし、殺人を犯したこともない。実際バートン・フォスターなるアメリカ人弁護士とは何の関係もない。というのは、このような人間は存在したことがないという立派な理由が――」
「何ですって?」
フェル博士は黙っているように手をふった。
「彼女がリヴァプールで年配のミスター・デイヴィスに密室かどこかで毒をもったというのも無実だ。それはミスター・デイヴィスも存在しないからだ。またパリでミスター・マーティン・ベルフォードを自宅へ婚約記念の晩餐に招待し、彼を家まで送って毒殺したこともない。彼もまったく架空の人物だ。手みじかにいえば、ミス・グラントについての物語は最初から最後までうそでかためられたものだ」
あまりのことに呆然としながらもディックは右手の二本の指のあいだに焼けるような痛みを感じた。煙草が燃えつきて指を焼いたことにぼんやりと気がついた。彼は吸いがらを見つめるとなげすてた。
「気をしっかりもつんだ」ミドルズワースの声が霧の中から聞こえるような気がした。
ミドルズワースの気どらない温かな笑顔のおかげで呪縛《じゅばく》がやぶれた。
「それでは、いったいあの男は何者ですか?」ディックは尋ねた。
言葉だけでは心のたぎりを表現できなかった。ディックは子供みたいに身ぶりでしりごみをした。居間の窓、恐ろしい証拠品と、その向こうに眼をむく死体を黙って指さした。
「だれかと問われても、知らないとしかいいようがない」フェル博士は答えた。「わしと知りあいだと述べたようだがはじめて見る顔だ。しかしかなりの代物だな」
「どうしてあんなうそをならべたんでしょう? 何の目的で?」
フェル博士は顔をしかめた。
「すべてが手のこんだ冗談だとは思いたくない」
「冗談ではなかった」ミドルズワースは冷ややかに相槌を打った。「昨夜の彼の顔を見せてやりたかった」
フェル博士はやぶにらみの巨大な顔に慈悲を見せディックをふりかえった。その中にはいくぶん弁解じみたものがあった。
「いいかね、お若いの。彼の作り話はそれなりにひとつの小さな芸術作品だった。それはもっぱらきみに向けられた。きみの鎧《よろい》のさけめ、きみの精神構造が受け入れやすい部分に向けられたものだ」
(そのとおり、そのとおり、そのとおりだ!)
「きみから特別な反応をひきだすために一語一語がよく考えられていた。この若いご婦人にはきみの信じそうな心理的性格をうまくあてはめた。きみをまちがいなく参らせる反語、きみの想像力が受け入れる状況を設定した。それは劇作家が自縄自縛におちいる完全な構図だった。しかし、わしがむしろ驚いたのは……」
フェル博士の大声はとぎれ、眉をひそめた。ディックはささやかなひらめきをとりもどしてミドルズワースを見た。
「ぼくは握手をしたいくらいですよ、ドクター」
「それはよかった」ミドルズワースは当惑気味にいった。
「あなたは当初から彼をおかしいと思っていましたか?」
「うむ。必ずしもそうじゃない」
「しかし昨夜のあなたの態度は……」
「悪いやつとまではいいきれなかったね。しかし気分はよくなかった。プライス少佐がはじめて彼を紹介してくれ、ハーヴェイ卿がしばらく自分の正体をもらさぬよう、われわれに約束させたといったとき――」
「あの男ならやりかねないな」フェル博士は冷たくいった。「いまいましい。しかし本物のハーヴェイ卿なら、きみたちにそんな約束などさせなかったろう」
「興味があったので」とミドルズワース。「彼の扱った有名な事件の一つについて尋ねてみた。それにはうまく答えた。しかしもったいぶって心臓には心室、心房が一つずつあるという。それがちょっとひっかかった。というのはどんな医学生だって、心室と心房が二つずつあることは知っている。その話は昨晩のことだ」
ディックは苦々しげにいった。
「彼は犯罪実話のばかげた話で、ぼくに一杯くわせようとしたのですか?」
ミドルズワースは思案した。
「ばかげてはいない。ありえないことではない。ありそうもないというだけだ。病理学者がロンドンで警察医として仕事を依頼されるとか。リヴァプールでもプリンス・パークのような郊外で起こった事件で、セイント・ジョージ・ホールで検死審問を行なうとか。わたしはただの開業医だが」ミドルズワースはすまなそうに説明した。「しかし――とんでもないことだ」
彼は空のパイプを口に突っこむと吸った。
「とにかく」ミドルズワースは肩をすぼめるとつけ加えた。「フェル博士と連絡をつけたのは名案だった」とおだやかな眼をディックの方に向けた。「気分はよくなったかね」
よくなったかって?
まだ悪夢がとり除かれていないことをどう説明するのか? それにハーヴェイ・ギルマン卿と名のる男の吸いこまれそうな眼は――あまりに催眠的な眼だったことに彼はいま気づいた――まだ彼の心にくいこんでいるのではないか? いま午前十時を告げる教会の鐘が野原を渡って鳴りひびき、ディックはわれにかえった。
「ちょうど十二時間だ」とディック。「この悪夢の中にとびこんでから、十二日も、十二年も経った気がする。レスリーは殺人者ではないし、殺されたという男たちは実在していなかったと考えていいのですね。いかなる青酸毒殺事件も密室も存在しなかった」
フェル博士は咳ばらいをした。
「すまんがね」彼は洗練された礼儀正しさでいった。「青酸毒殺事件も密室も存在した。それは居間を見ればわかる」
教会の時計が鳴り終えた。
三人は興奮して顔を見合わせた。
「フェル博士、この混乱状態は何を意味するのですか?」
フェル博士は長いこと鼻を鳴らしていた。彼は庭をしばらく行ったりきたりしてステッキで芝を払っていた。まぼろしの議会で演説しているように思えた。身ぶりは見えたが言葉は聞こえなかった。二人の仲間に話しかけようとふり向いたとき頭をそらしたので、眼鏡はしっかりと鼻におさまった。「それはだな」彼はステッキを空中にふりまわしながら答えた。「事件の外郭がわしらの前に姿を現したということだ。このペテン師の話は真実ではない。しかし何者かがそれを真実にしたのだ」
「その目的は?」
またフェル博士は歩き出した。
「まだ足下が固まっていない。ペテン師が何者か、芝居の目的は、このいまわしいほら話を持ち出した理由は何か? わしにわかっているのは、マーカム君とミス・グラントが夕食中、この家の中に彼もこっそりひそんでいようとしたことだ。まちがいないかね?」
ディックもミドルズワースもうなずいた。
フェル博士は後者をみて眼をしばたたいた。
「プライス少佐から今朝の事件を聞いたとき、ドクターが示唆してくれたことは核心をついているようにわしには思える。どのような説明をしようが、現在の状況ではミス・レスリー・グラントがまだ陰謀の中心にいる」
ディックはかみつくようにいった。
「それをどう解明しますか?」
フェル博士の眼にまばゆい光が現われ、大きな溶鉱炉の炎のようにピンク色の顔を輝かせた。そしてくすくす笑いがチョッキの端にまで及び、やがて不可思議な厳粛さに戻った。
「すべての陰謀の中心は、まだミス・レスリー・グラントだ」とくりかえした。「さて、そこで重要な質問がある。この密室と注射器についての話だが、ペテン師はきみたち二人以外にその話をしただろうか?」
「知りません」とディック。
「わたしもだ」ミドルズワースも同意した。
「やつがその話をしているあいだ、立ち聞きをしたものがいるだろうか?」
ディックは昨夜の光景を鮮明に思い出した。そまつな花模様のカーテンは窓を完全には隠しておらず、また一方の窓はぜんぶ開かれていた。ハーヴェイ卿の独演会の最中に、ミドルズワースはいきなり立ちあがり、窓から頭をつきだしたのだ。ディックはいまそのできごとを物語った。
「外にだれかいたのかね?」フェル博士はミドルズワースに尋ねた。
「ええ」
「それが何者かわかったか?」
「いや。暗すぎたので」
「二つの考え方がある。ひとつはハーヴェイ卿の仮面を被ってきたペテン師がグロテスクなほら話をでっちあげ、あらゆる準備をし周囲をかためてきた。それが最後には自分で密室にとじこもり青酸自殺した。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。しかしこの男が逃亡した精神病患者でなければ――わしはそうは思わないが――あまりもっともらしい説明にはならない。もうひとつの考え方は――」
「殺人ですか?」
「そう。するとどういうことになるかわかるかね?」
フェル博士はまた歩きはじめ、まぼろしの議会を頭に描いて一席ぶち、ふたたび立ち止まった。
「肝腎な点がここだ。昨夜ここで犯罪が再現された。うまいデッサンみたいによくなぞっている。あの作り話には元になった犯罪は存在しなかった。これはハーヴェイ卿と名のるペテン師の想像が生みだした、一編のまったくのファンタジーなのだ。しかしそれは再現された。なぜか? それはもちろん殺人者が、自分は現実の犯罪を再現していると信じたからだ。
シックス・アッシェズの住民は信じた――まだ信じている――あの男が内務省の病理学者ハーヴェイ・ギルマン卿だとな。ハーヴェイ卿の語る言葉は福音だった。彼が言及した実際の犯罪は現実の事件なのだ。どうして善良な人々がそれを疑おうか? 彼は昨夜青酸事件をこっそりだれかに話したか、立ち聞きされた。それを聞いても、ある者は上の空だったし、ある者は信じた。頭から信じた。レスリー・グラントは三人の男を殺した犯罪者だと。ある者は心中喜んで、いきなりこの不可能犯罪の方法を思いつき実行する。レスリー・グラントが罪をきせられるだろうとの信念のもとに、おちついて犯行に及んだ」
フェル博士は言葉をきり、ぜいぜいと息を吸った。言葉を継いだが雄弁さはかげをひそめた。
「それはおあつらえむきだった。賭けてもいい」
「レスリーを非常に憎んだ何者かが、彼女に罪を着せるために殺人を犯したといわれるのですか?」ディックは尋ねた。
フェル博士は憂鬱そうに見えた。
「動機については何ともいえない。死者の素姓がわかっていない。だれかれに動機があるという前に、調べている被害者が何者か知るのが先決だ」
「それで?――」
「はっきりしているのは、レスリー・グラントが格好のスケープゴートにされたことだ。彼女は毒殺魔なのだから、殺人は彼女のせいにされるだろうことを殺人者は疑ってもみなかったし、この瞬間もおそらく疑っていないだろう」彼はディックに眼くばせをした。「きみだっていままでそう信じていたろう?」
「ええ。残念ながら」
「そんなものだ」フェル博士は喉を鳴らし、いつものくすくす笑いが全身をかけめぐった。「そんなに恥じいったり、ひどく自分を責めたりする必要はない」
「ぼくもそう思います」
「ミドルズワースから聞いたところでは、きみは彼女が何をしたかは問題でないとかばおうとしたそうだな? それは非常に不埒《ふらち》なことでわしは舌うちをした。善良な市民のすることではない。だが、まさしく本当の恋人のすることだ」フェル博士はステッキの石突きで地面を打った。「しかしながら現在の困難なことは……」
「ええ?」
「わしは昨日のできごとのあらましをドクター・ミドルズワースから、今日の事件の輪郭を巡査経由でプライス少佐から、耳にしたにすぎないことを知ってほしいね。しかしひとつ別のことがもちあがった。この犯罪の責任をミス・レスリー・グラントに負わせれば、当然の結果として……」
ふたたび言葉をきると、彼は深いもの思いの底に沈んだ。やがてまた話しはじめた。
「ところで、さきほどまでここにいた紳士はだれかね?」
「紹介するのを忘れました」ディックはあやまった。「あまりにまごついていまして。ビル・アーンショウ、銀行の支店長です」
「ああそう。彼は特に用があったのか?」
「このやっかいなライフルを心配していました。またピンの箱が居間に転がっていたわけを少々説明してくれました」
ディックはアーンショウの情報をざっと話して聞かせた。フェル博士はポープ大佐のピンの使い方にかなり関心をよせた。同時に昨日のガーデン・パーティや、衆目の下でのライフルの不可解な消失にも興味をもった。後者は特にフェル博士の興味をひいたようで、推理をめぐらす恐ろしい顔でディックを眺めた。しかし手のうちを見せる代わりにフェル博士は話題を変えた。
「教えてほしいのだが」彼は思いにふけった。「ペテン師が占い師に扮したとき、それなりに似合っていたかね? 洞察力のある鑑定をしていたかな?」
「彼の鑑定は客を惑わしたようです。その中には――」
針のひとつきのごとく鋭くすばやく、記憶が戻ってきた。レスリーは彼に何かをいわれたが、あとで明らかにうそをついた。フェル博士はこれを見てとった。
「きみはそのいまわしい話を二度と思い出したくないのだな? 彼がそれほどまでほら話できみをだましたのなら、彼女にも同じ手を使ったかもしれないな?」
「レスリーも途方もないほら話を聞かされたと?」
「それが彼の特技だったようだ」フェル博士は指摘した。
あらゆる難問が解きあかされ、だんだんと正気を取り戻したディックは熱意をこめていった。
「巡査が戻ればすぐ見張りをやめてやりたいことがひとつだけあります。レスリーのところへとんでいってあやまりたい」
フェル博士は喜んだ。
「彼女の盾となるためにわびるか?」
「すべてをです。ぼくはなんて嫌なやつかを話したい。すっかり彼女に打ち明けます」
「これから出かけるのであれば、わしが代わりに見張りをしよう。あの部屋を調べるのは非常に興味がある。よかったらあとですっかり話してくれないか」彼は宙をまさぐった。「いまのわしの得た情報は不完全なばかりか誤解もあると感じている。ところできみが戻ってくるころには、わしはおそらくアッシュ・ホールにいるよ」
「アッシュ・ホールに? アッシュ卿はごぞんじなのですか?」
フェル博士はステッキで指した。
「あそこがホールの敷地だろう?」
「ええ。雑木林をぬけて野原をのぼれば近道ですよ」
「アッシュ卿とは知りあいだ」フェル博士はまた語りはじめた。「書簡を通じてだが。彼とは古美術研究で興味が一致した。初代アッシュ卿はエリザベス一世の寵臣、先代は当時悪名高い娼家の女将と組んで、ヨーロッパの半分を仰天させた豪傑だ。アッシュ卿はこの二者間の家系史を書こうと計画した。これはとりもなおさず三世紀半のイギリス史になる。それには金がかかるが……」フェル博士は気がついた。「かまわん。きみの代わりに見張りにつこうか?」
ミドルズワースはディックの腕に触れた。
「きなさい。乗せてやる。十時半に手術があるので戻るんだ」
もう二人のことはいっさい念頭になく、フェル博士はどたどたと石段を上がって別荘に入っていった。ミドルズワースが道路で車の向きをかえながら最後にふりかえると、フェル博士が居間にいるのが見えた。フェル博士はまずもったいぶって左側のこわれた窓を、それから右側の窓の銃孔と掛け金を調べた。
ディックは昨夜とはまったく違う気持ちでミドルズワースの車に乗っていた。ガタガタゆられながらギャロウズ・レーンを走っている間――ここからハイ・ストリートもレスリーの別荘もそれほど遠くない――おたがいに一言しかいわなかった。
「ありがとう」とディック。
「いや」とミドルズワース。
まるで握手を交わしたようなものだった。
ミドルズワースにレスリーの家の前でおろしてもらうと、ディックはしばらく北の方角の静かなハイ・ストリートを眺めていた。悪夢の幻影はいまだ完全に去っていなかったが、彼ははじけるような解放感でダンスを踊り出し、郵便局の窓に石をぶつけたい気分だった。ハイ・ストリートを見てさえうれしく、ほとんど肉体的な喜びをおぼえた。
そこには懐かしい家並みがあった。気性の激しい女性郵便局長がきりまわす切手自動販売機もない郵便局。数軒の商店、パブ「グリフィンとトネリコ」、三、四軒の事務所、煉瓦作りのシティ&プロヴィンシャル銀行。その向こうにはアーサー・グッドフラワー牧師の管理する教会の低い灰色の尖塔がそびえている。時計はいま十時十五分をつげていた。
その音色はディック・マーカムにしかわからないメロディに聞こえた。彼は大股でレスリーの家に向かった。
ベルを鳴らしても返事はなかった。そこでもういちど押してみたあと、玄関のドアがきっちりとしまっていないことに気づいた。
彼はドアを押しあけ、涼しくうす暗く居心地のよい玄関をのぞきこんだ。
「レスリー!」彼は呼んでみた。
いまさらどのつらさげて彼女に会えるだろうか? 昨夜、彼女が天使のような顔をした毒殺者であるとか、壁金庫の中には日記やいまわしいものが隠されているという疑惑を抱いたことを、何万語費やしても釈明できるだろうか? 彼にできる唯一のことは彼女に洗いざらいうちあけ、この悪夢を笑いで吹きとばし終わらせることだった。
それで昨日のライフルの件は結局は事故だったということになる。
レスリーはいまわしい話に驚き――ディックが殺人者に擬せられたとしてもおかしくない――思わずライフルを発射してしまった。ペテン師ギルマンはすぐさま舌先三寸で、この事件を自分の有利なように利用したのだ。
依然として屋内からは応答がなかった。
「レスリー!」ディックはもういちど叫んだ。
玄関の大時計がメトロノームのように時を刻んでいる。ミセス・ラックリーはおそらく買物に出かけているのだろう。しかしレスリーは――。彼はひきかえそうとしてドアをしめかけた。そのとき玄関脇の小テーブルにレスリーのハンドバッグと玄関の鍵がおいてあるのを見つけた。
彼女の名前を呼びながらディックは居間に入った。それから反対側のダイニング・ルームをのぞきこんだ。その奥の台所にも眼をやった。台所の窓を通して裏庭にもいないのがわかった。
心配する理由などないと自分にいいきかせた。散歩に出かけたのかもしれない。蛇口からしたたる水が静けさを破ってうつろな音をたてている、こぎれいな白い台所に立って、ディックはひとりごとをつぶやいた。しかしいまは彼女の姿を一目でも見て安心したい心境だった。
彼女の居そうな最後の場所として、レスリーがよく朝食をとっていた小部屋をのぞいてみた。家具調度は白と明るいブルーに塗った木製で保育室みたいだった。テーブルには高価な銀盆に陶器の皿、ベーコンと卵は冷たくなっている。トーストはトースト立てでかたくなっていた。コーヒーはカップに注がれていなかった。
ディックはその部屋から急いで出ると、玄関に戻り、三段ずつ二階にかけ上がった。
この家では完全な礼儀正しさが要求されたので、彼女のベッドルームの内部は見たことがなかったが、どの部屋かわかっていた。しまったドアの前でたちどまり、ノックしたが返事はなかった。彼はためらいながらドアを開けた。
ベッドルームの二つの窓はハイ・ストリートに面していた。その間の壁に、切り傷みたいないまわしくも重要な壁金庫が大きく開いていた。見えたのはそればかりではない。三歩踏みこむと金庫の中、ビスケット箱ほど広さの空間はからっぽだった。
ベッドの脚下のほうを通りながらディックはふり返った。
ベッドの脚下の床に丸まっているものがある。シンシア・ドルーが絨緞に左頬をつけ横たわっていた。片膝を少し折りピンクのジャンパーから出た両腕は広げられていた。右のこめかみの紫色の傷からは少し血が流れ、頬骨の下でかたまっていた。彼女は身じろぎひとつしなかった。
第十二章
壁金庫はからっぽだった。
シンシアは蝋面《ろうめん》まがいの表情で金髪も乱れている。
ディックは彼女を抱きあげ――シンシアはがっしりした身体で背は高くないのに重かった――ベッドに運んで寝かせたが人形みたいにぐったりとしていた。
彼女が生きていたことは神に感謝するしかない。怪我も大したことのないことを祈った。半開きの唇が動いてかすかな呼吸が聞きとれる。顔色は蒼ざめきれいな肌に傷が痛ましい。
窓の向かいのドアからモダンでしゃれたバスルームが見える。ディックはその中にとびこむと水道の蛇口をひねり、タオルを水に浸し絞った。薬箱に嗅ぎ薬とヨードチンキを捜した。そうこうしながら彼は、洗面台の鏡で自分と向かい合った――まだひげを剃っていないし、顔も洗っていない、これでは上品な人々を驚かすお化けだ。嗅ぎ薬もヨードチンキもなかったが、瓶入りの過酸化水素と脱脂綿があった。
シンシアのところに戻り濡れたタオルを額に当てたとき、階下から玄関ドアの開くうつろなひびきが聞こえた。
レスリー?
レスリーではなかった。彼が急いで階段を数段とばしで駆け降りると、そこにいたのはミセス・ラックリーだった。彼女はくたびれた帽子をかぶり、片手に買物かご、片手にふくらんだ紙袋を持っていた。
「ミスター・マーカム!」ミセス・ラックリーは叫んだ。その眼は「おい、こら!」ととがめる首都警察の巡査みたいに露骨だった。
「ミス・レスリーはどこにいます?」
「ここにおりますが」
「それがいないんだ。ミセス・ラックリー」
「出るときはおられましたよ」そう指摘すると、警告するように玄関のテーブルに包みをドシンとおいた。
「それはいつ?」
「一時間くらい前です」ミセス・ラックリーは時計に眼をやった。「ミス・シンシアは――」
「ミス・シンシアがどうかしたか?」
狼狽したコック兼メイド兼家政婦の買物かごと紙袋の中の包みがまるでビリヤードの玉みたいに転がり出そうになった。
「そう、プライス少佐がここにこられたときでした。ミス・シンシアが裏から入ってきて、裏階段からミス・レスリーの部屋に行けるかしらと尋ねられました。彼女を驚かしたいとかいっていました。行けますと答えますと、彼女は上がって行きました。ミス・シンシアは気だてのよいお嬢さんで、あなたやミス・レスリーにはまったく悪意はありませんから、……もうしわけありませんが、わたしはたしかに」
「それで? そのとき何かあったのかい?」
「お気にさわることでも?」
「いやそんなことはない。続けてくれ」
「そのときプライス少佐がお帰りになり、ミス・レスリーは二階に戻り、そこでお二人が話し合っているのが聞こえました」
「それで?」
「わたしも二階に上がり、ベッドルームのドアを叩いて『ミス・レスリー、朝食の用意ができました』といいました。すると『すぐ降りるわ。あなたは買物に行ってちょうだい』という返事がありました。これまで聞いたこともない激しい調子でした。それですぐにいいつけどおり買物にでかけました」また彼女に新たな罪をかぶせられるのかも知れないとの懸念で、ミセス・ラックリーの辛辣な攻撃口調も、あいまいになった。「ミス・レスリーが朝食を召し上がらなかったとおっしゃるんですか?」
ディックはこれを無視した。
「事故が起きたようだ。ミス・シンシアは倒れて頭をけがしている。できれば――」
それ以上話す必要はなかった。乳房が落ちるのを防ぐように胸の下に手をあてがって、図体の大きなミセス・ラックリーは驚くべき敏捷さで階段をかけあがった。彼女のシンシアへの手当ては万全だった。
傷口を洗い血痕をぬぐったあと、二階から持ってきた気つけ薬をあてがった。シンシアは意識が戻り身体を動かしうめきだした。ミセス・ラックリーは辛抱強くその肩を押さえおとなしくさせた。
「さあ、さあ」ミセス・ラックリーはうながし首をのばした。「どうしますか? お医者さまを呼びましょうか?」
「いや」
「どうしてこんなことになったんですか?」
「彼女は――彼女はすべってころび、ベッドの脚で頭を打ったんだ」
「ここにおられたんですか?」
「ありがとう、ミセス・ラックリー。もういい。しばらく二人にしてくれ。ミス・シンシアと話がしたい……」
「これは気がつきませんでした」ミセス・ラックリーはしかつめらしくいった。
「まず紅茶をのませてやろう」ディックにもそれが正しい判断かどうかわからない。しかしミセス・ラックリーを台所に追いやる効果があった。「熱い紅茶がいい」彼はきめつけた。「砂糖やミルクぬきで。紅茶だけでいい……」
彼女は出て行った。
そこでディックはシンシアのベッドの端に座った。彼女は急いでスカートのしわを伸ばし、起き上がろうとしたが頭が焼けるように痛かった。せわしなく呼吸すると、かすんでいた青い眼がはっきりとしてきた。眼の下が赤くなり、青くなった。
「もう大丈夫だ、シンシア。何があったんだい?」
「ぶたれたの。ばかげているでしょう。でもほんとうにレスリーが殴りかかったのよ。あの鏡で」
「どの鏡?」
シンシアは指さそうともがいた。肩が上がけから出ようとしたとき、開いている金庫に眼がいった。彼女はディックの腕の中で強いめまいを感じた。
「ディック、あの金庫よ!」
「それがどうした?」
「からっぽでしょう。なかに何があったと思う?」
「きみは知っているのか?」
「いいえ。それを見ようとして――」いきなり口をとじた。その顔はやわらいでまったくぼんやりしたものになった。可愛らしさがなかったら牛みたいに鈍重にみえただろう。彼女は軽く笑おうとした。「ねえ、あなた」彼女はテニス場で聞いたあの声でいった。「わたしたち少しおかしいわね。起こしてくださらない」
「おとなしく寝ているほうがいい、シンシア」
「それもそうね」
「そこに何かある、その金庫の中に何かあるだろうって、どこで聞いたんだい?」
「ねえ、リチャード。あの金庫は村中の評判よ。シックス・アッシェズの住民の半分が、その噂をしているわ。わたしたちは手にあまる秘密をにぎっているのよ」またシンシアは慎重になった。「彼女はわたしを殴ったのよ、ディック。わたしはわけを話そうと思って近づいていったの。すると彼女は蛇みたいなすばやさで襲いかかったわ。鏡を持ってね」
ディックはあたりを見まわした。
化粧テーブルに銀色の化粧鏡があった。飾りもない地味なものだが高価でかなり重い。凶器となったその手鏡は放り出されたように化粧テーブルの端においてあった。
ディック・マーカムは自分でも驚いたが、もはや昨日のように精神的に動揺し、薬でも飲まされたような人間ではなかった。邪悪なものからはすでに解きはなたれていた。あるいはそう考えていた。彼はふたたび知性的で機敏な判断力をもつ青年に戻っていた。
「どうして彼女がそんなことをしたんだ、シンシア?」
「話したじゃないの。彼女に金庫を開けてといったのよ」
「彼女はきみの前に立っていたのか?」
「そうよ。化粧テーブルの前に手をうしろに隠して。わたしが動く前に鏡を手に襲いかかってきたの」
「シンシア、その話はほんとうだろうね?」
「あなたにうそをつく必要はないでしょう?」
「たがいに向かいあっているとき、レスリーがきみに鏡で殴りかかったとすれば、レスリーは右利きだから、傷は左のこめかみにつくはずだ。それが右のこめかみにあるのはどうしてだい?」
シンシアは彼を見つめた。
「わたしを信じられないの、ディック・マーカム?」
「信じないとはいっていないよ、シンシア。ここで何が起こったか知りたいんだ」
「そうでしょうね」シンシアは急に苦々しげな口調になった。「あなたは彼女の味方ですもの」そういうといつもは外見を気にする彼女も、背を向けると人目もはばからず激しく泣きだした。
興奮と冷静さの入りまじった感情でディックはうっかり彼女の腕をつかもうとしてしまった。彼女は激しい嫌悪の身ぶりでふりはらった。彼は身をたてなおすと窓辺に行きハイ・ストリートをぼんやりとながめた。
道路を横切って左手のほうにアッシュ・ホールの表門がぼんやりと浮きでていた。ハイ・ストリートを歩いているのは長身で軍人風の男ひとりだった。村では見かけない人間だなとディックはぼんやりと思った。その男は道路をよこぎって郵便局のほうに向かった。
ディックはシンシアが好きだった。レスリーを愛するのと同じ気持ちではないが、好きなことにはかわりなかった。彼の頭を去来する思いはかなり不快なもので、心を冷たくした。シンシアの感情の嵐がすぐおさまったのでなおさらだった。平穏な楽しい気分に戻った彼女は、ベッドから起き上がり床に足をつけた。
「ひどい格好でしょう」彼女は述べた。
彼はくるりとふりむいた。
「レスリーはどこだい?」
「わたしが知るわけないでしょう?」
「彼女はここにいない。家をあけているんだ。きみのいうように金庫もからっぽだし」
「わたしが何かしたと考えているんじゃないでしょうね?」
「いや、そんなことはない。しかし――」
「しかし、そう思っているのね」シンシアは冷ややかに口をはさんだ。「彼女には隠すものがあるのはみとめるわね。金庫の中のものを彼女は持ち去ったのよ。わたしにはわかるわ」
「いいかい。ぼくのいいたいことはこうだ。きみはどんな理由があって、彼女に金庫を開かせたんだい? なにがそうさせたの?」
「あなただって、彼女について噂されているような恐ろしいことを耳にしたら――」
「それだけかい、シンシア? 昨夜たまたま窓の外で立ち聞きしていたんじゃないだろうね?」
「窓ですって、ディック? いったい何のこと?」
いや、そんなことはばかげている。
彼女のおどろくべき率直な態度に、彼はその考えをひっこめた。彼が金庫の小さな扉に触れると、それは静かにしまった。壁金庫の手前にかかっていた絵を絨緞からひろいあげた。壁かけに絵をかけると、ビアズリーのモノクロのデッサンであるのに気づいた。悪をひめたひそかなモザイクのデザインは一見わからないが、気がつくとショックを与えるものだった。
「いったい何がいいたいの」シンシアは叫んだ。
ディックは言いわけを探した。「今朝きみがあそこにいたことをいいたかった。あの別荘のそばにね。何か参考になることを見たり、聞いたりしなかったかい」
彼は深い意味もなくいったのだが、驚いたことにはシンシアの声音が変わった。
「じつをいえばわたし見たのよ」
「何を?」
シンシアの指がベッドのキルトの上がけをひきはがした。
「もっと早くいうつもりだったの。だけど、あんなひどい平手打ちをくらってすっかり忘れていたわ。あまり重要なことではないけど、なにしろハーヴェイ・ギルマンは自殺したんでしょう?」彼女は眼を上げた。
「そんなことはいい。何を見たんだ?」
「だれかが走っていたの」シンシアは答えた。
「いつ? どこで?」
シンシアは思案した。「窓に向かってライフルが発射される一分かそこいら前ね」
「窓に向かってライフルが発射される前だって?」
「そうよ。わたしは東のほうからあの道をやってきたの。覚えているでしょう? そこにあなたが西からやってきた。わたしにはあなたはまだ見えなかった。当然そこで何かあったとは話せなかったわ。でもだれかがわたしの前の道路をよこぎったのを見たの」
「きみの前をよこぎった?」
「そのとおりよ。別荘わきの果樹園から向かいの石塀へ道をよこぎると、石塀をのりこえて雑木林に入っていったわ」
「それが何者か見えたかい?」
「いいえ、影だけ。日の出の逆光で」
「なにか特徴は?」
「ないわ、なにも」
「男、それとも女?」
シンシアはためらった。「なんともいえないわ。ねえ、ミスター・リチャード・マーカム、あなたの不審尋問が終わったら、家に帰りたいんだけど」
「ああ、いいよ。気をつけてな。きみはまだふらふらしている。送っていこう」
「気を使わないで、ミスター・リチャード・マーカム」シンシアは冷ややかな怒りをおさえた、しっかりした声でいった。「わたしが、まるで何も知らないみたいにあなたとハイ・ストリートの表通りを歩いていくと想像したり、こんな状態で両親の家にわたしを連れていこうなんて考えているのなら、どちらもとんでもない思いちがいだといいたいわ。お願いだから、わたしをひとりにして」
「ばかなことをいうな、シンシア」
「どうせわたしはばかよ」
「そんな意味じゃない。ぼくがいいたいのは……」
「あなたは最初からわたしに何の関心もないみたいだった。そうよ。そうじゃない。考えているのは彼女のことだけだった。それは当然でしょうね。そのことであなたを責めるつもりはこれっぽちもないわ。だけどわたしをまずうそつきと呼び、次にばかと呼んだり、人目につくようなことを思いついて、喧嘩を売ろうとするのなら、わたしも本気でいいかげんにしてよというつもりよ」
ディックはいさめるつもりで一歩ふみだした。彼はやさしく道理を説くつもりと、歯をがちがち鳴らすまで彼女をゆさぶってやりたい衝動で、シンシアの両腕をつかんだ。そのときのことはあとでは覚えていないが、シンシアは彼の腕の中にしっかりと抱きしめられ、肩にすがってむせぶ彼女のひきしまったからだを感じていた。
このときミセス・ラックリーが紅茶を運んできた。
「ありがとう、ディック」シンシアは小声でいうと身体をはなしにっこりと笑った。「ありがとう、ミセス・ラックリー。お世話になりました。すっかり元気になったわ。ごきげんよう」
そういうと彼女は去っていった。
ミセス・ラックリーは何もいわなかったが「まあ!」とその眼は語っていた。彼女は音をたててティー・トレイをベッドサイド・テーブルにおいた。
「ミセス・ラックリー、彼女はどこへいったのだろう?」とディック。
「どなたのことですか?」ミセス・ラックリーはさりげなく眼をそらせながら訊き返した。
「ミス・レスリーだ、もちろん」
「そういわれましても、わたしにはお嬢さんの行く先が、あなたにとってどうしてそんなに大事なことなのかわかりませんわ」
「お願いだ、ミセス・ラックリー。きみが見たことをそう悪いようにとらないでくれ」
「ミス・レスリーのために、わたしは何も見ていません。それだけですよ」ミセス・ラックリーは天井の隅に眼をすえたまま説明した。「わたしのいいたいのは、どんなことがあったにしろ過去は過去ですわ。それはわたしには関係ありません」
「何もなかったんだ……」
「聞きたくありません。仕事以外のことは。この紅茶はどなたもお飲みにならないんですか?」
「うん、すまないが。ミス・シンシアが……」
「この紅茶は」ミセス・ラックリーはトレイを二インチほど持ち上げ、それからまたそっとベッドサイド・テーブルにおいた。「たしかご注文でしたわね」
「そうだ。そうなんだ。ぼくがのむよ」
「ミスター・マーカム、あなたをいつも紳士だと思っていました。生まれながらの紳士と、その資格のない紳士とは同じではありません」
まったく女というやつはと悪態の言葉をのみこみながら、ディックは機嫌を直し彼女をなだめようとした。レスリーのことを本気で心配していなかったとしたら、その状況は間の悪いものだったろう。
心配の種はつきなかった。開いた金庫、不可解なからっぽの金庫がそれだ。ミセス・ラックリーが最初に部屋に入ったときはシンシアに気を取られて開いた金庫に気がつかず、二度目に入ったときにはしまっており、その前に絵がかけ直されていた。
レスリーの失踪と結びつければ、それはもはや秘密ではなく危険な穴、いまわしい割れめだった。いくつもの可能性があり、その多くはメロドラマ的だったが、どれも極めて生々しくディックに迫った。心に浮かぶ犯罪史の数々の場面から――まぎれもなくばかばかしい事件だが――もっともその事件にふさわしいのは、警察がフィービ・ホッグの死体を捜しているあいだ、血まみれの応接室でピアノをひきつづけていたミセス・パーシーの挿話だ。ディックは電話を何本かかけるつもりだった。そのとき階下で電話が鳴った。
たびかさなるミセス・ラックリーの抗議を無視して、ディックは彼女より先に電話に向かった。受話器を取りあげる手はふるえていた。電話線がパチパチ鳴って出てきたのはまぎれもなくフェル博士の声だった。
「おっほん」博士は地ひびきをたてるような咳ばらいをした。「やはりそこにいたな。わしはアッシュ・ホールだ。まっすぐこられんかな?」
「レスリーのことですか?」
「さよう」
彼は受話器をしっかりとにぎりしめ、祈るような小声でいった。
「彼女は無事ですか?」
「無事かって?」フェル博士はうなった。「もちろん無事だ。いまわしとここの部屋にいる」
「それでは何ですか?」
「じつはな、大事なニュースがあるんだ」フェル博士は続けた。「死者の正体がわかったよ」
第十三章
アッシュ・ホール一階の北翼、絨緞を敷いたかび臭く暗くせまい廊下沿いに、アッシュ卿が書斎として使っている部屋がある。ディックが到着したとき、ここに四人の人物が待っていた。
緑色フェルト張りのドアが家内の騒音からこの部屋を守っている。暖炉の上にはかなり年代物の肖像画がかかっていた。時代物で黒ずんでおり、日光の点々と射しているところでさえ、奇妙なカラーをつけた細長い脚の幽霊みたいな人物像以外はほとんど見えなかった。一連の細窓には、古い輪環付きの波形の色ガラスがはまっている。そこからはかつての貴婦人たちの休憩の庭、囲い庭が見える。窓には書類でいっぱいの大テーブルが押しつけられ、そこに座っている人間の左肩に日の光が落ちていた。
テーブル前のキーキー鳴る回転椅子には、アッシュ卿が腰かけて半身を部屋の中に向けていた。
彼の向かいにはレスリー・グラントがしゃちほこばって座っていた。
フェル博士は帝王の椅子を思わす巨大な木の椅子に腰かけており、まるで老いたコール王といったところだった。暖炉に背を向けて座っているのは、ディックが小半時前にハイ・ストリートで見かけた長身の軍人風の男で、鋭い眼、いかつい顎で、そっと口笛を鳴らしていた。
レスリーはさっと立ち上がった。
「よろしかったら、お話し中は席を外していましょうか。終わったら呼んでいただければ。話のおじゃまになるといけませんから」
そういうと彼女はほほえんだ。
人間はこちらの予想どおりに動かないものだとディックは思った。
さきほどはいくぶん想像力に欠けると思っていたシンシア・ドルーの信じられないような感情的乱れを見せられた。その日の神経の緊張を考えればレスリーに及ぼした影響はもっと悪いはずだった。しかし事実はそれほどひどくはなかった。
神経の緊張はたしかにあった。しかし安心感から神経の緊張はゆるみ、ほとんど幸福といってよい安堵の輝きがあった。レスリーはまっすぐディックに向かって歩いてきた。
「まあ、ダーリンたら」その褐色の瞳が笑っていた。「わたしのことを殺人者にして楽しんでいたのね」
そしてフェル博士にも、かたどおりのあいさつをした。博士は握り手のついたステッキを振りながら、それに応え爆笑したので咳の発作を起こしてしまった。レスリーはそっと部屋を出ると緑色フェルト張りのドアをうしろ手でしめた。
「ところで諸君!」アッシュ卿はそういうと、深く息を吸った。
「みごとなふるまいだ!」フェル博士はうなった。「すばらしい!」
「ばかげている」暖炉のそばに座った軍人風の男はそっけなくいった。「まったく向こう見ずだ。もっとも女性とはそんなものですな」
ディックは理性的になろうと苦労した。
「異論をとなえるわけではありませんがね、フェル博士。ぼくにここにくるようにいわれましたね。そこでやってきたのです。もしぼくに話していただけるのなら……」
フェル博士はちらっと彼を見た。
「えっ、何をだ?」
「ことの一部始終をです」
「ああ、そうか!」フェル博士はわかってくれた。この巨体の博士は相手を煙にまくつもりではなかった。ただ漠然たる推理に没頭すると、いましがた考えていたことをすっかり忘れてしまうのだった。「ところで、わが友ハドリー警視を紹介しよう。マーカム君、ハドリー警視だ」
ディックは軍人風の男と握手した。
「ハドリーはこの死人を見たとたん、正体を見破ったんだ」とフェル博士。
「サムに死なれたのは残念ですね。ある意味では」ハドリーはだれかをとがめるように歯がみした。「サムにはそれなりの特徴があった。ときにはこの手で殺してやりたいこともあったが」ハドリーはにやりとして「おちつきたまえ、マーカム君。この男の正体を知りたいのだろう?」
「ええ」
「やつはサミュエル・ド・ヴィラというプロの悪党だ。この仕事ではおそらくもっとも腕のいい詐欺師だった」
「想像力があったんだ、ハドリー」フェル博士は頭を振った。「想像力なんて! まったくばかげた話だが」
「それがありすぎて身を滅ぼしたんですよ」ハドリーはやり返した。
「とりこみ詐欺師ですか?」ディック・マーカムは大声をあげた。
「そんなところさ」アッシュ卿の考え深げな声が口をはさんだ。「きみには興味があるだろうが」
ぎしぎし鳴る回転椅子を押し戻すと、机の奥深い引き出しを開けた。やや大きく四角な、ふろしきのように折りたたまれた、黒いビロードの包みをとりだし机に広げた。
「派手ばでしいね?」フェル博士は尋ねた。
『派手ばでしい』とは穏やかな言葉だった。喜歌劇以外でディックは黒いビロードの上に並べられたようなものを見たこともなかった。そこに四つの品物があった。三連のネックレス、ブレスレット、イアリングの片方、カラーまがいのもの。俗悪な美ともいうべき骨董品のよせあつめには目をくらまされた。
ディックはいままで、ある紋章が頭をはなれなかった理由がわかった。アッシュ家の紋章グリフィンとトネリコはホール表門で何度も眼にしてきた。またアッシュ卿がいつもはめている小さな印鑑付き指輪に刻まれているし、この村のパブの看板にもなっている。
これらのジュエリーには囚人服のしるしであるカリマタ矢〔幅広の鏃《やじり》がついた矢〕のように、この紋章がちりばめられていた。ブレスレットの止め金に飾られ、チョーカーのデザインに織りこまれていた。アッシュ家の所蔵品としての印である。
もちろんディックはこの華麗なジュエリーが本物とは思わなかった。真珠の三連ネックレスは窓から差しこむ陽光に乳白光を帯びている。ブレスレットのダイアモンドのかなり悪意に充ちた輝き。古く奇妙な細工のチョーカーにはめこまれたルビーの流れるような赤……
彼の表情を読みとってアッシュ卿は眼を上げた。
「そいつは本物だ」
彼はまずネックレスにそっとふれ、それからブレスレットにさわった。
「これらは十八世紀初期のものだ」そしてイアリングにふれ、「これは現代のまがい物ではないかな。しかしこれは」とカラーを手にとり、「一五七六年にグロリアナからジョージ・コンヴァースに送られた品と由緒書にある」
アッシュ卿は眼をあげて暖炉の上にある肖像画を見た。その黒い肖像画は影のように見えるだけだった。
長い沈黙があった。
部屋の外、石塀に囲まれた庭園には、ぽつんとプラムの木があった。ディックは陽光あふれる庭園と、高くせまい窓を通して射しこむ光がきらびやかなジュエリーに当たるのを、夢の中で見ているような気がした。彼は褐色の書物でかこまれた、くすんだ部屋を見まわした。肖像画に眼をやりながら、毎日のように腕、首、耳をこれらの派手なもので飾った時代のイギリスの雰囲気を感じた。
しかしほとんどはアッシュ卿の顔を見ていた――学者肌と野性味の混じったとらえどころのない眼をしている――その手はジュエリーの上をさまよっていた。ディックはとうとう沈黙を破った。
「あなたのものですか?」
アッシュ卿は首を横にふった。
「そういえるといいんだが」彼は残念そうに答え、眼をあげると笑った。「いまはミス・レスリー・グラントのものだ」
「そんなはずはありません。レスリーはジュエリーなど持っていません」
「すまんがね。たしかに彼女はジュエリーが嫌いだし、身につけたことはないだろう。しかしそれは意に反してそれを所有していることへの反発からだ」
彼はしばらく考えていたが、フェル博士を見つめていった。
「ミス・グラントが今朝わしに説明してくれたことをくりかえしてもかまわんかね?」
「どうぞ」とフェル博士。
「ばかげた話だが。あらましはかわいそうな話だ。この娘の話は――なんといったらよいか――世間体を保つのに懸命だったということだ。マーカム君、リリー・ジュエルなる女性のことを聞いたことがあるかね?」
「いいえ」
それにもかかわらず、彼の心には激しい疑いが起こった。
「妙なことだが、今朝きみにリリーのことを話したばかりだ。ある不道徳な女性という控え目な表現でな。長兄フランクは第一次大戦前に、彼女のために自分とほかの人々を滅ぼした。彼女への贈り物の中に、そのジュエリーがあった。わかりはじめたかね?」
「ええ」
「リリー・ジュエルは数年前に人知れず死を遂げた。変死だった。もうかなりの齢で若いつばめに金を与えていた――」
「はあ」
「彼女は不実を働いた男の一人を銃で脅した。つかみあいの事故で自分を撃ってしまったのだ。彼女とキャプテン・ジュエルという男の間に生まれたのが、レスリー・グラントだ」
アッシュ卿は言葉を切った。
ディックは顔をそむけると窓の外の塀に囲まれた庭園を見つめた。いくたの光景が走馬灯のように頭をかすめた。いままではそれほど意味のなかったさまざまな言葉、ふるまい、屈折したものが急に意味を持ってきた。ディックはうなずいた。
「わしはどちらかというと世間からはなれて暮らしてきた」アッシュ卿は指先をこめかみにあてながら説明した。「今朝彼女がここにとびこんできて、テーブルにこのジュエリーを投げ出してこういった。『あなたに権利があると思うなら、このいまわしい品を受け取ってください』そのときのわしには青天の霹靂《へきれき》だった」
ふたたびアッシュ卿は言葉を切った。
フェル博士が咳ばらいをした。
「母の死後、彼女自身の考えでこれまでの生活から縁をきり、できるだけ母と異なる道を歩もうとした。理解できるかね、マーカム君?」
「はい。よく」
「あの娘はかなり緊張していると思った」
ああ、レスリー! レスリー! レスリー!
「……彼女はここにおちつくと、向かい側に住んでいるわしらの一家に気づいてショックを受けたんだ」
「彼女はそれまで知らなかったんですか?」
「そうだ。まだ幼かったころ、長兄は爵位より、むしろミスター・コンヴァースとか、フランク伯父の名で知られていたんだ。だからアッシュの家柄は彼女には何の意味もなかった。わしの若いころは吹聴しないのがあたりまえだった」アッシュ卿はそっけなくいった。
「それではまったくの偶然で?」
「いや、いじわるな友人のせいだ」
「どういう意味ですか?」
「いじわるな友人がそそのかしたんだ。彼女がヨーロッパをはなれイギリスに住むのなら、シックス・アッシェズという村によいおちつき先が見つかるだろうと。それで彼女はここにやってきた。この場所が気に入り、格好の家を見つけた。数週間住んでからおそらく向かいの家の門の紋章に気づいた」アッシュ卿は手を伸ばしてネックレスにふれた。「そしてこの紋章と比べたんだ」
「わかります」
「彼女はもちろん立ち退くことはできた。しかしここの人たちが気に入っていた。とくに」と彼はディックを見た。「その一人をな。思うに、彼女が望んだのはわしらのような平凡でつつましい生活だった。それを強く願い決してあきらめなかった。彼女を実際に狂わせたのは何か。病的な罪悪感だったと思う。わしらに対する罪悪感。わしの家族だれかれに対する自責の念だ。その理由は断言できない。今朝彼女に話したように、彼女は母親の事件とは関係ないのだ」
アッシュ卿はためらっていた。
彼はまずカラーを、次いでブレスレットを、まるで指先でいとおしむようにおいた。それからネックレスをとりあげると手で重さをはかり、
「そこに問題があったのも事実だ。長兄にはこのジュエリーをリリー・ジュエルに与える権利があったのか。じっさいにはそれらは世襲財産の一部ではなかったか。彼女がリリー・ジュエルの娘であることを村の女性たちが知れば、何といわれるかわからない恐怖に加え、警察が逮捕にやってくるのではないかという、ぼんやりした不安さえもっていた。
だれかがこの品を見て、アッシュ家の紋章に気づくことを彼女はひたすらおそれた。それはもちろんだれでも知っている。しかし手放すことも、銀行に預けるわけにもいかない。そのため壁金庫を利用した。ジュエリーの価値を考えれば現実的な処置だ」
ハドリー警視が質問した。
「どのくらいの価値があります?」
「それは警視」とアッシュ卿はふたたび止まった時計のようになった。「この歴史的価値は……」
「金に換算して?」
「値段はつけられないよ。きみが想像するようにかなりの値だろう」
アッシュ卿はまたディック・マーカムのほうを向いた。
「六か月ほど前、ミス・グラントをはじめて見たとき、わしは彼女がリリー・ジュエルに似ているのに気づいた。それにわしは当惑し悩んだ。誓っていうが、彼女をミセス・ジュエルと関係づけたことはなかった。二人はまったくちがう。まったく――」アッシュ卿は指を宙にふった。「そう、きみたちだってリリー・ジュエルと知り合いだったら、わしのいうことが理解できたはずだ」
「でもレスリーの考えは?」
「わしが自分の素姓を見破ったと考えたのだろう。このささいなばかげた恐怖、噂になるという怯えは、しだいに彼女のなかで肥大していった。彼女はすでに病的な精神状態にあった。昨日のできごとを思い出せばわかる」
ハドリー警視はみじかく哄笑した。
「サム・ド・ヴィラの件ですな」とハドリー。
ディックの眼前のぼんやりした影に、線とかたちが描かれ、色がついてはっきりした画像を成してきた。矛盾した断片が、いまやそのあるべき場所に納まりだした。
「ハーヴェイ・ギルマン卿ことド・ヴィラは、そのジュエリーを追いかけていたんですか?」
「他に考えられるかね?」ハドリー警視は冷笑的に、しかし感嘆したように尋ねた。彼はポケットの小銭をじゃらつかせた。「サムの演技はけっしてうまくなかった。最初にあの別荘に巡査と――名前は何といったかな?」
「バート・ミラーです」
「そう、ミラーと一緒に行ったとき、わたしはフェル博士にサム・ド・ヴィラのこれまでの簡単な経歴を話した」
「たしかに」フェル博士は考え深げにうなずいた。
「サムはとりこみ詐欺師だ。強盗ではない。フロリダ・ブルドッグ製金庫を破るようなことはできないし、企てたこともない。しかしその金庫から口笛でも吹くようにやすやすと、中の品物を手に入れることができる。ミス・グラントが見るのもいやがったジュエリーを手に入れるには唯一の方法があった。それはマーカム君の手助けをうることだ。そしてサムはそうした。彼は芸術家だった」
「芸術家か」ディックは不快そうにいった。「この瞬間も地獄の火にあぶられているはずですよ。話を続けて下さい」
ハドリーは肩をそびやかした。
「実に簡単なことだ。サムはご承知のとおりヨーロッパを稼ぎ場にしていた。彼はリリー・ジュエルの娘を追ってシックス・アッシェズにきた。ここで、ひと芝居うつことにしたわけだ。まず用心深くこのあたりの下見をした……」
「下見を?」とアッシュ卿。
「勉強したわけです。関係者の情報をたくさん仕入れた。作戦のひとつは、まず地味な格好であちこちを回る、たとえばセールスマンとか……」
「聖書だ!」アッシュ卿が大声を上げた。
全員が彼を見つめた。
「失礼した」そういうとアッシュ卿はギシギシいう椅子を動かした。「彼が以前ここで聖書を売り歩いていた男を思い出させると、今朝ディック君に話したところだった。これがきみがサムと呼ぶ犯罪者かね?」
ハドリーはうなずいた。
「聖書売りとはうまい商売だ。家庭用聖書を売りこむことで、セールスマンは家庭の内情を喜んで聞かせてもらえる」
フェル博士は多重顎をカラーに沈め床を見下ろしていたが、何となく不安気だった。がらがら声は山賊ひげに妨げられた。
「なあ、ハドリー」彼は小声でいった。「ぜひ知りたいのだが、彼はここ以外のシックス・アッシェズのほかの家も訪問していたのかね」
「しらみつぶしに回ったと思いますね」警視は冷たくいった。「それが占い師としての大成功につながった。彼はそれを当然のように引き受けた。サムにはユーモア感覚もあった」
「ひどいユーモア感覚だ」ディック・マーカムは心からそういった。
居心地悪い沈黙が続いた。
ハドリーの声は低くなった。
「よくわかるよ、マーカム君」ハドリーは少しふざけすぎたというように笑った。「この手合いはうまいもうけ口があると考えれば、何でも、どんな武器でも使うのはご承知のとおりです。ガーデン・パーティはミス・グラントを仰天させる絶好の機会だった。結果として計画の準備のために、あなたも驚かすことになった」
「ところで彼はレスリーに何をいったんでしょう?」
ハドリーは苦笑しながらつぶやいた。「推理できないかね、マーカム君?」
「この偉大な占い師はレスリーの過去や母親のことも知っていて、それを話題にしたわけですか?」
「そうだ。彼女がそれをきみに話すことはないだろう、少なくともしばらくはという確信をもってね。偉大なる心理学者だったよ、サムは」
「たしかに」
「それにはさらにいまわしい秘密を暗示して、きみを逆上させることだった。ライフルが発射されたときには、その事故が自分に有利に働くとは思ってもいなかった。しかし彼はそれをもうまく利用し巧みな効果をあげた。
きみに話すことがもうそれほどあるとは思わないよ、マーカム君。恐怖の毒殺者、金庫に隠された日記、毒薬といった話は、すべて金庫を開けさせるためのものだ。そうするためにはどのような手を打つか? これは簡単だ。フェル博士から直接聞いた話だが、きみがミス・グラントとの夕食中に、彼はその場に隠れていようとし、それにひどく金庫の中味を見たがっていたそうだが?」
「そうです」
「それから翌朝そのことで、きみに『最後の指示』を与えると?」
「はい。まったくそのとおりです」
ふたたびハドリーは肩をそびやかした。
「そこできみは彼のために金庫の文字番号を彼女から聞き出すことになったはずだ。あの堅牢な金庫の組み合わせ番号を。彼は生きていれば今朝、きみにそのことを話したはずだ」
「待って下さい。レスリーは……?」
「きみに組み合わせ番号を教えたかというんだろう? きみがぜひといえば、彼女がどうしたかはご承知のとおりさ。とにかく今夜の夕食ですべてをきみに打ち明けるつもりだった」
(昨夜彼女が自宅でしゃべった言葉が次々と浮かんできた。「万全を期したいのよ、明日のことはね。あなたに話したいことや、見せたいものがあるの」彼女が電灯の下で思いにふけっている様子が眼にうかんだ)
「そのときまで彼女が話したことを、きみは信じられたかね?」
「いいえ。そうは思いません」
(彼はいまレスリーがここにいないことを喜んだ)
「きみは昼間のうちに組み合わせ番号を聞きだす。そしてきみたちが夕食中に、サムは金庫をからにし、こっそり消える手はずだった。それだけのことだ、マーカム君。ただ――」
「ただ」フェル博士が口をはさんだ。「何者かが彼を殺したんだ」
第十四章
その言葉はずっしりと冷たい重みで落ちてきた。慎重なハドリーは顎を突き出し、おざなりの反論をした。
「ちょっと待った、フェル博士。これが殺人だとは断定できない。いまの形勢ではむりですね」
「ふーん。それではどう考える?」
「わしはきみの疑問にひとつ答えられるよ」アッシュ卿が口をはさんだ。
ハドリーとフェル博士は驚いて、同時に彼をふりかえった。アッシュ卿はまたルビーをはめこんだチョーカーの重さを計りながら、あまり期待するなと警告するように、異を唱えるやかましい音をたてた。
「きみはさきほど訊いていたな。聖書セールスマンのペテン師が、わしの館以外にも訪れたかと。その問題はあまり重要ではないかもしれんが、否と答えておこう。わしは彼について調べたのだ」
「ほう。なるほど」フェル博士はつぶやいた。
ハドリーは疑わしげに博士を見つめた――フェル博士の軽率さのせいで二十五年も、友人である自分も迷惑をこうむってきた――しかしハドリーはなにもいわなかった。
「だが、たしかに諸君は」アッシュ卿は主張するとチョーカーをおいた。「殺人という言葉を使っているな」
「使っている」フェル博士は断言した。
「わし自身はこういった事件についてはほとんど知らない」アッシュ卿はいった。「古い邸宅で起こる奇怪な死を書いた、この手の小説ならよく週末に読んだものだが。さて、ド・ヴィラという男は、ドアと窓に内側から錠のかかった部屋で中毒死していたと聞いているが」
「そのとおりだ」フェル博士はうなずいた。「それゆえ、すべての陰謀の中心は明らかにミス・レスリー・グラントであることを、わしはくりかえし述べている」
「ちょっと待って下さい」ディックは急いでアッシュ卿に訴えた。「レスリーは今朝ここにきて、そのジュエリーを投げ出し、母親についての話を洗いざらいしたといわれたではありませんか?」
「そうとも。わしはいささか不快だったが」
「そんなことをしたわけは?」
アッシュ卿は当惑した。
「シンシア・ドルーが彼女のところにやってきて、毒殺者として告発したからだ」
レスリーはちょうど部屋にすべりこみ、うしろ手で緑色フェルト張りドアをしめたところだった。表面的にはとりつくろっていたがこの会見のために勇気をふるいおこしているのがみてとれた。窓際に立って明かりを背にして一同に向きなおった。
「そのことはわたしがお答えしますわ。話すのは気が向きませんが」すこし唇をゆがめた笑いを見せた。それはディック・マーカムにはたまらない魅力だったが、唇にちらっと現われ、不安気にすぐに消えた。「何でもないわよ、ディック。あなたには後で話すわ。でもわたしはこわかったの」
「シンシアが?」
「そうよ。彼女は今朝わたしの部屋にきたのよ。どうやって入ったのかわからない。でも金庫を開けようとしていたの」
「それはぼくも聞いた」
レスリーは腕をまっすぐ降ろし、胸が波打っていた。
「シンシアはこういったわ。この金庫に何が入っているか知りたい、それを見なければ出ていかないと。何をいっているのと尋ねると、彼女は、そこに毒薬がしまってあるんでしょう、その毒はこれまであなたが愛した三人の男に使ったのねというんです。あきれたわ」レスリーはどうしようもないとのそぶりで両手を開いてみせた。
「まあ、おちついて」
「村中がわたしについて恐ろしいことを噂しているか、少なくとも想像しているとは思ってたの。でもそんなことだとは夢にも思ってなかった。ディックはすべてを知っている、わたしが金庫に毒薬か何かを隠しているので警察がやってくると彼女は言い続け、それでいささか頭が混乱したのよ」
「ちょっと待ってくれ。きみは彼女をなぐったのか?」
レスリーは眼をぱちぱちさせた。
「彼女をなぐるですって」
「化粧テーブルからとった手鏡で?」
「まあ! そんなことしないわ」褐色の眼を大きく見開いた。「わたしがなぐったって、彼女はいったの?」
「何があったんだ?」
「シンシアがわたしに突進してきたのよ。それだけよ。わたしより彼女の方が強いでしょう。どうしたらいいのか分らなかった。それで身をかわすと彼女はつまずき、石炭袋みたいにベッドの裾《すそ》板に倒れた。見ると彼女はのびていたけど、けがは大したことなかったわ」唇をきりっと結び、レスリーはじっと窓の外を見た。「薄情かもしれないけど、彼女をほったらかしにしておいたわ。あなたならそうはしなかったかしら?」
「それで」
「わたしは考えたの。これはあんまりだわ。もうがまんできない。そこで金庫からその品々をもちだすと、アッシュ卿のところにかけこんで真実を話したの。わたしが話しているところに――フェル博士でしたかしら?――とハドリー警視がこられた。そこでみなさんの前で話した方がいいと思ったの」レスリーは唇をしめらせた。「知りたいことがひとつだけあるの、ディック」彼女はきつい口調でつけ加えた。「シンシアには話したの?」
「彼女に何を?」
「三人の夫たちとか、そのほかの恐ろしい話よ」レスリーの顔に血がのぼった。「彼女はくりかえしいったわ。『死が二人をわかつまで、死が二人をわかつまで』と。まるで狂人みたい。それがわたしの気がかりなこと。わたしが心配していることよ。わたしにはまだ打ち明けていない何かを、内緒でシンシアに話さなかった?」
「いや」
「それがうそでないと誓える、ディック? あなたは今朝彼女とぶらついていたでしょう。プライス少佐がそういっていたわ」
「誓ってもいい。ぼくはシンシアに一言も話していない」
レスリーは手の甲で額をぬぐった。
「それならシンシアはこの話をどこで仕入れたのかしら?」
「わしらみんなも興味のあるところだ」フェル博士がいった。
彼は大きなケープのひだの下にある尻ポケットに手を伸ばし、大きなバンダナの赤いハンカチをひっぱりだした。ていねいに額の汗をぬぐったので、白髪混じりのもじゃもじゃ髪が片目に覆いかぶさった。ハドリーの本能を逆なでする理屈っぽい態度で、博士はアッシュ卿の机の向かいにある空いた椅子を指さした。
「お座りなさい」彼はレスリーにいった。
レスリーはそれに従った。
「博士がわれわれに一席ぶとうというのなら――」ハドリーは警戒するようにいった。
「わしは一席ぶつつもりはないが」フェル博士は威厳をみせていった。「ミス・グラントに尋ねたい。この村にかなり恨みを持つ敵がいるかね」
沈黙がうまれた。
「いるはずありませんわ」レスリーは大声で答えた。
「結構」フェル博士はハンカチをポケットに戻した。「その根拠を考えてみよう。サム・ド・ヴィラ――安らかに眠れ――はよそ者としてシックス・アッシェズにやってきた。彼はこの村に」ここでフェル博士はすこしためらった。「だれも知人がいなかった。それはいいな、ハドリー?」
「いまのところでは同意します」
「それゆえサムは、サム本人としては殺人計画の中で重要でなくなるわけだ」
「もしもそれが殺人だったら」ハドリーは静かにいった。
「もしも殺人だったら。ああ、そう、結構。わしらが今朝同意したように、仮想犯罪をすっかり――皮下注射器、青酸毒、密室――再現したのはレスリー・グラントに故意に罪をきせるための試みだったのだ。彼女を殺人者と信じているものがいるのだ。さもなければそんなことをする意味がない」
「待って下さい」ハドリーが話しはじめた。
「そのほかに」フェル博士はおだやかだがきっぱりと訊いた。「きみには何か気づいた点があるか?」
ハドリーはポケットの小銭をじゃらじゃらさせたが何も答えなかった。
「その結果として」フェル博士はレスリーにウインクした。「わしらは疑問に直面した。あなたが殺人罪で告発されるのを見たいほど憎んでいる者がいるか? あるいはもっと範囲を広げて、あなたをきわめて厄介な立場に追いこむことで利益をうる者がいるか?」
レスリーはなすすべもなく博士を見つめた。
「そんな人はいません」彼女は答えた。「そんなことはまったくありえません」
フェル博士は沈着冷静さを保っていた。
「これは事実からひきだされる結論だ。その結論からは……」
「結論があるんですか?」ハドリーは尋ねた。
「あるとも。それは歴然としている」フェル博士はディックを見つめた。「ところで、きみ。わしらはあの別荘にいるあいだ興奮していて、きみに慎重に、きわめて慎重にふるまえと注意するのを忘れていた。今朝わしと別れてからミス・グラントに会いに行ったとき、ミス・シンシア・ドルーに会ったのだな?」
「ええ」
「きみは――えへん――彼女に知らせてやったか? 実はミス・グラントは三人殺害の容疑をかけられるような極悪人ではないと話したのかね?」
「いいえ。レスリーのことはいっさい聞く耳を持たない態度でした。それで何も言いませんでした。当然のことです」
「ほかの人間には?」
「いいえ。ほかにはだれにも会いませんでした」
「きみの友人のドクター・ミドルズワースは? 彼ならミス・グラントは毒殺者ではないと、もらしかねないが?」
「ヒュー・ミドルズワースはどこでもみかけるような口のかたい男です。このことでは特に沈黙を守っています。彼がしゃべっていないことは賭けてもいいですよ」
フェル博士はしばらく考えていた。
「それでは、このほら話を|いまだに《ヽヽヽヽ》信じている人間が手近などこかにいる。その人間がサム・ド・ヴィラを殺し、レスリー・グラントによる殺人を示唆する罠をしかけ、いまその彼だか、彼女だかは大喜びをしている。殺人者がアッシュ卿というありそうもない事態をのぞけばだが」
「けしからん!」アッシュ卿は叫んだ。
ぎょっとした様子で、卿はもてあそんでいた真珠のネックレスをテーブルに落とした。鉄灰色の髪と好対照な黒い眉毛と灰色の眼が、鼻眼鏡の背後で驚きの表情を浮かべていた。口をぽかんとあけている。
「フェル博士得意のユーモアですよ」ハドリー警視はうなった。
「ああ、冗談か。しかし……」
「そのありそうもない事態をのぞけば、真犯人はまだこのほら話を信じていると思うね。さて、きみの賢明なる頭脳を使うか、ハドリー。ひとつの問題を与えられれば、真犯人がどんな手を打つかが当然の帰結として出てくる」
「それで?」
「ええ、ちくしょう」フェル博士はほえるとステッキの石突きで床をたたいた。「犯人はいまにわれわれにひとつの解決を提供してくるにちがいない」
ぜいぜい言いながらフェル博士は一人一人を見回した。
「サム・ド・ヴィラの死体は密室で発見された」博士は強調した。「そこまではいい。レスリー・グラントは殺人者であることが明らかとなり、これを実行した罪をかぶせられるだろう。しかし彼女はそれをどういうふうに実行したか? いいかね。これまでの仮想犯罪は未解決ということになっていた。警察は失敗したとされてきた。結構。しかし今度は失敗はないだろう。たとえミス・グラントに罪をかぶせるとしても、これがどのように実行されたかを解き明かすことができなければ、やはり彼女を追いつめることはできない。彼女に対する殺人者のもくろみは密室がどのように構成されたのか証明されなければ失敗に終わるだろう。わかるかな?」
ディック・マーカムはためらった。「それで博士のお考えは……」
「わしはこう考える」フェル博士は答えた。「ある種の連絡があるだろうと」
ハドリーは疑わしげに眉をひそめた。
「待った」警視は小声でいった。「それが博士がさきほどわたしに尋ねた理由ですか――」
彼はフェル博士がもったいぶった嘆願の目くばせをしたのを見てとった。ディック・マーカムにとって、それはいささかあからさまな警告で尊大な感じがした。表面下で何か知恵比べがおこなわれているような不快感がした。
「『友人』または『支援者』から、細かい点はともかく密室トリックの方法について、何かヒントになる連絡を受けるのではないかという意味だ。警察はこれまで能なしだと思われてきた。それをくりかえす愚はおかすまい」
「連絡といっても――どのように?」ディックが尋ねた。
「電話ではだめか?」
言葉がとぎれた。そのあいだフェル博士はふたたびまぼろしの議会演説を試み、ディックをにらみつけた。
「きみは今朝早く電話を受けた。それがわしには非常に興味があった。ここの警官はきみの証言の要旨を話してくれた。しかしわしはもっと詳しくきみに質問したい。それは……なんてこった! わうわうわう!」
この犬みたいな吠え声が国際的名声を持つ学者の出す声かとアッシュ卿は当惑した。
レスリーは下唇をかんだ。
「わたしはそんなことは知りません」彼女は叫んだ。「それに信じられません、こんな悪意に満ちた話。いったいどうして」レスリーの声にはあらゆる訴えがこめられていた。「だれがわたしにこんな罪をきせようとするのでしょうか?」
「簡単には信じられんだろうな」フェル博士はぼんやりした目を向けた。「そうだ。信じるのは難しい」
「それで、あなたは何をいわんとしているのですか?」
「それこそ、わたしが知りたいことだ」腹を立てたハドリーもどなった。
「実をいうと、この手のことはわしの理解をこえる」アッシュ卿は腕時計を見て、期待するようにつけ加えた。「そろそろ昼食にしないかね?」
レスリーは立ち上がった。
「せっかくですが、わたしは失礼します。リリー・ジュエルの娘ということで、この村でのわたしの立場を考えますと――」
「お嬢さん」アッシュ卿はやさしくいった。「ばかなことをいってはいけない」
黒いビロード布の中央におかれた四個のジュエリーを、彼はふろしきのように折りたたむと彼女にさしだした。
「これをおもちなさい」
「受けとれませんわ」レスリーはきっぱりといった。まるで地団駄ふもうとしているかのようで眼にはふたたび涙が浮かんでいた。「もう二度と見たくもありません。それはあなたのものでしょう? 少なくとも一族の方はいつもそういわれていました。ですからどうぞお引き取りください。お願いです、わたしにかまわないでください」
「ミス・グラント」アッシュ卿はそれでもビロード布を彼女に振った。「ここで所有者の詮議を続けてもしかたがない。そうわしを誘惑しないでくれ。家内には昼食後までそれを見せないほうがいいのなら――」
「奥様にもういちどお目にかかれるとお考えですか?」
「はっきりいえばそうだ」当の奥方の主人はそう答えた。
「村の人々はあの件についてどう思うでしょうか? わたしはすべて終わってうれしいんです。やっと自由になりほっとしました。普通の人間に戻れましたわ。でも、まだ人に会うことは……」
ディックは近寄ると彼女の腕をつかんだ。「一緒にこないか。昼食前にオランダ風庭園を散歩しよう」
「それはいい考えだ」アッシュ卿は賛成した。机の引き出しを開けると、ジュエリーを包んだビロード布をしまった。そのあとで鍵束から小さな鍵をとり、引き出しに錠をかけた。「あなたの財産についての難問はあとで解決しよう。そのあいだに田園の空気で気分がよくなれば、いまわしい考えも吹きとぶさ」
レスリーはくるりと身をひるがえした。
「いまわしい考えですって、ディック! そうかしら?」
「いまわしいナンセンスさ」
「あなたはわたしの素姓が気になる?」
ディックが笑いとばすと、彼女の気おくれも回復してきた。
「シンシアはあなたに何をいったの?」レスリーはしつこく訊いた。「どんな態度だった? 早朝からあなたと何があったの?」
「そんなことは忘れてほしいね、レスリー」
「そのとおりだ。しかし、ひとつだけはっきりしていることがある、マーカム君」アッシュ卿の顔はすこしこわばり、眼に浮かんだ表情はディックには読めなかった。「ミス・グラントには悪意に満ちた友が一人ならずいるのだ」
「それはどういう意味ですか?」レスリーは叫んだ。
「その一人はあなたをこのシックス・アッシェズに送りこんだ」アッシュ卿は指摘した。「いま耳にしたことを信じるなら、もう一人はあなたを絞首刑にしようとしている」
「やめてください」レスリーはディックの腕にしっかりとつかまりながら語気を強めた。「わたしはだれが敵なのか知らないし、知りたくもありません。それほどひどくわたしを憎んでいる者がいるというだけで、身ぶるいするほど恐ろしいんです。そんな話、聞きたくもありません」
アッシュ卿は考えこんだ。
「もちろん、ひょっとしてフェル博士がこの異常な密室犯罪の方法と理由について、何か考えを持っていれば――」
「うむ。そうだ」フェル博士は弁解がましくいった。「わしもそれを何とかできると思っている。ひとつ、ふたつ期待している回答を聞ければな」
新たな危険、隠れた危険が迫っているという感覚がディック・マーカムの神経をつきさした。
ちょっと前ふりむくと、フェル博士とハドリー警視が無言で意思を疎通させているのにディックは驚いた。眉毛をあげ、唇を少し動かしているだけだった。それもすぐに消えてしまい、彼にはその意味がわからなかった。これまでディックは、フェル博士もハドリーも、ここから幻の危険を追い払う同志として、味方と考えていた。かれらがまだ味方であることはたしかだが、同時に……
フェル博士は眉をひそめた。
「きみはわかっているかね。この事件でもっとも重要な考慮すべき事柄を」
第十五章
ギャロウズ・レーンのいまわしい別荘の外で、夕方のことだった。そのときフェル博士はまた同じ質問をくり返したのだった。
アッシュ・ホールでの昼食の後、フェル博士、ハドリー、ディックは村内を歩いてまわった。ディックはレスリーと帰宅したいと思ったが、フェル博士が聞き入れてくれなかった。博士はできるだけ大勢の人に会うことに興味を持っていた。
死者はハーヴェイ・ギルマン卿ではない、警察は自殺を疑う理由を持っている、ということはまだ外部にもれていなかった。これは殺人者への擬似餌であり、落とし罠の誘いで、呼びかけの口笛となるはずだった。村人の興味津々の顔々がかれらの方を向いており、合うとそらす眼も疑問をなげかけていた。ディックはこれまでになかった居心地の悪さを感じていた。
そしてかれらは大勢の人々と会った。
シンシア・ドルーに会おうとしたが、彼女の母親にことわられた。この小柄で悲しげな女性がディックにいいたいことを我慢しているのはたしかだった。母親の話では、シンシアは石段から落ちてこめかみにけがをし、人と面会する状態ではなかった――母親はここで眉毛をつりあげた――だれも彼女に会わせろとは口にしにくかった。
かれらは事務所から出てきたプライス少佐に出会った。ちょうど郵便局に買い物に行こうとしていたアーンショウを紹介された。フェル博士は菓子屋兼煙草屋で、葉巻と本物そっくりのチョコレート葉巻を買った。グッドフラワー牧師とは教会建造物についての意見を交わした。「グリフィンとトネリコ」のバーに入ると、閉店時間まで七パイントのビールで粘った。
村が夕焼けにつつまれるころ、かれらはギャロウズ・レーンにまた戻ってきた。レスリーの家を通りかかると、ディックは彼女の別れの言葉を思い出した。『予定通り今夜の夕食にはきてね』彼は熱をこめて約束した。窓のなかに彼女の顔を捜したが見あたらなかった。かわってまもなく前方に暗い果樹園と、破損した窓に勾配のゆるい屋根のある白黒の家が見えてきた。
ハーヴェイ・ギルマン卿ことサム・ド・ヴィラの死体は、だいぶ前にホークストンの死体置き場に移送されていた。いまはバート・ミラー巡査が前庭に警備のため辛抱強く立っていた。ハドリーは相手がわかる距離までくると先に声をかけた。
「検死報告は出たか?」
「いえ、警視どの。できたら電話で報告をくれることになっています」
「あの電話はつかめたか?」
バート・ミラーには説明を要した。堂々たるヘルメットの下で、その大きな顔は無表情だった。
「どの電話でしょうか?」
ハドリーは彼を見つめた。
「匿名の電話だ。早朝ミスター・マーカムの家にかかった、早くここにくるようにという内容の電話だ。覚えているか?」
「はい、警視どの」
「その電話をつきとめたか?」
「はい。この家からかかった電話でした」
「この家から?」ハドリーはくりかえすとフェル博士を見た。
「そこの電話からです」ミラーは背後に開いた玄関に顎をしゃくった。「朝の五時二分でした。交換手が証言しています」
ふたたびハドリーはフェル博士を見た。
「博士はそれを予想していたといわれるつもりじゃないでしょうね?」ハドリーはそっけなくいった。
「ばかなことを、ハドリー」フェル博士は不満たらたらだった。「わしはここで高僧の呪文みたいなことをいうつもりはないし、サム・ド・ヴィラのように水晶玉の上で催眠術など使ったりもしない。しかし、出てくるものが出てきたことはたしかだ。この事件でもっとも重要な考慮すべき事柄は何だと思うね?」
ハドリーは黙って控えていた。
「いいですか、博士」ディックはいった。「その質問はまえにも持ち出されましたね。われわれが答えようとしたときも、結局博士は自分の答をおっしゃろうとしませんでした。それは何ですか?」
「もっとも考慮すべきことは、わしのささやかな意見では、サム・ド・ヴィラは生涯の最後の六時間を、どのように過ごしたかということだ」
まったく別の答えを期待していたディックはフェル博士を見つめた。
「きみが彼をここに残して去ったのは、昨夜の十一時頃のことだ。きみが彼の死体を――死んだばかりのところを――発見したのは今朝の五時二十分頃だった。そのあいだ彼はどう過ごしていたか? いいかな」
フェル博士はえっちらおっちら入口の石段を二段上った。しかし彼はすぐには居間に入らなかった。玄関に立ったまま大演習中の戦艦よろしく、極めてゆっくりとぐるりを見まわし、ぼんやりした眼をさまよわせていた。
「左側に居間」彼はいちいち指さした。「右側に廊下をはさんで食堂。奥に台所と洗い場。今朝ここで待っているあいだに、わしはすべてを見ておいた。洗い場の電気メーターまでな」フェル博士はひげをしごき、ふたたびディックを見た。「きみが十一時に別れたとき、ド・ヴィラは寝《やす》むつもりだといったね?」
「ええ」
「おそらく彼は寝たのだろう。そのすぐあとにアッシュ卿がけが人の様子を見るために訪ねてくると、この家は真っ暗だった。アッシュ卿はきみにそういったのだね?」
「ええ」
「わしは今朝二階に行かなかった。しかしいま行ってみる価値はあるな」
階段は狭く、無骨な手すりは鋭く直角に曲がり、低い天井の二階に通じていた。こけら板の屋根に押しつけられた熱気でむんむんしていた。表側に面して手ごろなベッドルームが二室、奥には小さなベッドルームとバスルームがあった。居間の真上にあたるベッドルームは使用された形跡があった。
フェル博士は掛け金付きのぴったりしまるドアを押し開けた。むきだしの床にこすれてドアが鳴る。小路に面したななめの壁の二つの窓には午後の日ざしがあたり、向い側の白樺林をくすんだ赤色に染めていた。
部屋の家具調度は白いしっくい壁と同様に質素なものだった。シングル・ベッド、鏡付きのタンス、樫のワードローブ、背もたれのまっすぐな椅子、二、三枚の小さな絨緞。窓が開け放たれているのに、かびくさい臭いがした。室内は早くいえば乱雑だった。ベッドは寝たときのままで、寝ていた者が急いで起きたかのように上がけはしわくしゃだった。
かれらはとりちらかした所持品に目をとめた――ゆるんだカラー、洗面道具、書籍、ガウンの紐といったものが蓋のしめていない二個の大きなスーツケースからはみだしていた。
「彼はここを仮住まいにしていたのだな」フェル博士はステッキで指さした。「金目のものを手に入れたら逐電《ちくでん》するつもりだった。完全なる計画を着々とすすめ、そしてその代わりに……ちょっと待て」
ベッドのそばの床に二、三本の葉巻の吸いがらの入った灰皿があった。その脇によどんだ水の入ったタンブラーと小さな瓶がある。フェル博士の詮索の眼にうながされハドリーは瓶を取り上げた。小さな白い錠剤が数個入っており、彼はそれを窓際に持っていくとラベルを読んだ。
「ルミナール(鎮静催眠剤)の四分の一グレイン錠剤だ」と警視。
「そうです」ディックが口をはさんだ。「昨夜、彼はルミナールを持ってきたといっていました。ミドルズワースは背中があまり痛かったら、一錠のむようにと話していました」
フェル博士は考えこんだ。
「四分の一グレイン? それだけ?」
「とにかくミドルズワースはそういいました」
「彼の傷は痛んだんじゃないか?」
「ひどく痛んだようです。それは見せかけではありません」
「そうじゃない」フェル博士はぶつぶついって激しく首をふると苦い顔をした。「ちがう、ちがう、そうじゃないんだ。これを見ろ、ハドリー。そんな手加減をするのはド・ヴィラの本性じゃない」
「どういう意味ですか?」
「そうさな、もしきみがその立場にいたら? きみが神経質で妄想家で、長い夜を弾丸の傷の痛みに苦しんでいたとしたら? 手近なルミナールを大量に飲んだろう。一錠ではおさえきれまい。十分な量をのみ、痛みを消してから眠ろうとしたのではないか?」
「そうですね」ハドリーも認めた。「同感ですが、しかし――」
「わしらはこの犯罪の序幕を再構成しているんだ」フェル博士は大股でどたどたとドアのところまで行ったり来たりしながらほえた。「いったい何がわかったか?」
「わたしに率直な意見を求められても答えようがありませんな」
「それではド・ヴィラの行動を追ってみよう。客は夜十一時に去った。彼はすでにパジャマに着替えてガウンをはおり、スリッパをはいていた。だから衣服を脱ぐ必要はなかった。彼は二階のこの部屋にあがってきた」
ここでフェル博士のおちつかない視線はガウンの編み紐にいきあたった。それはベッドの足許に落ちていた。博士は下唇をひきそれを見つめた。
「なあ、ハドリー。ド・ヴィラの死体は今朝パジャマとガウン姿で発見された。わしは気づかなかったが、ガウンの紐がガウンに付いていたかどうか覚えておらんかね?」博士はディックを見た。「きみはどうだい?」
「気がつきませんでした」ディックは正直にいった。
「わたしもだ」とハドリー。「遺体はいまホークストンの死体置き場にある。電話して訊くことはできる」
フェル博士は身ぶりでそれを拒否した。
「とにかく殺人にいたるまでのあいまいな時間を再構成してみよう。ド・ヴィラはベッドにつくためにここにやってきた。彼は水の入ったグラスを持ってくる。かなりの量のルミナール錠剤をのみ、ベッドに座って葉巻をふかした――灰皿を見よ――やがて薬が効いてきた。それから……」
ハドリーはふふんと鼻を鳴らしていった。「それから目が覚めると、今朝の五時に階下におりていった?」
「一見そうみえる」
「どうして?」
「それはな」フェル博士が口をはさんだ。「マーカム君がいまここで話してくれるはずだ。階下にいこう」
一階の居間は死体が書き物机に座っているわけでもないので、それほど居心地は悪くなかった。ホークストン警察の鑑識係はすでに部屋の写真や指紋はとっていた。皮下注射器は持っていったが、二二口径のライフルはまだ暖炉のそばに立てかけてあり、こぼれたピンの箱は安楽椅子のそばの床におかれていた。
そこにある品物に触れたり、証拠をいじったりするようなことはないように、ハドリーは強い言葉ですでにディックに伝えていたので、何を見ても口を出さなかった。フェル博士も何もいわず、腕をくみ、二つの窓のあいだの壁に背をもたれていた。横には下枠に弾孔のある窓、反対側には空の窓枠があり、割れたガラスが床に散乱していた。窓の外にはいつまでも行ったり来たりしている、バート・ミラーのヘルメットがぼんやりと見えた。
「マーカム君」フェル博士の厳しい真剣さに、ディックはいささか気おくれを感じた。「ふだんの集中力があるなら、いまそれを見せてほしいな」
「何にですか?」
「今朝見たものにだ」
別に集中するまでもなかった。ディックはあのひどいアーモンド臭が数週間後に消えてしまっても、居間の隅からあの光景がひょっくり浮かんでくるようなことはないだろうか疑問に思った。
「博士、まずはっきりさせておきたいのは、ぼくがうそをついているとお考えですか?」
「どうしてだね?」
「外にいるミラーからハドリー警視やアッシュ卿まで、全員がぼくはうそをついているのか、夢でも見ていたのかと考えています。その二つの窓は内側から錠がかかっていたことははっきりといっておきます。ドアも同じです。お疑いですか?」
「いや、そんなことはない」とフェル博士。
「しかし殺人者は――何といっていいか――ド・ヴィラを殺すために、みずから部屋を出入りしたわけでしょう? ドアも窓も錠でとざされていたにもかかわらず」
「そうだ」とフェル博士。
窓の線をよこぎるミラーの姿はまるで法の影のようだった。
ハドリー警視は安楽椅子を書き物机のところへ持っていくと、死者が座っていたところに腰をおろし、ノートブックを広げた。フェル博士はつけ加えた。
「わしがいいたいのもまさしくそれだ、ハドリー」
「それで」ハドリーは促した。
「まずはじめに」フェル博士はうなり声をあげかたく腕をくんだ。「五時二分の奇怪な電話だが、この家からの電話だといま聞いたばかりだな?」
「ええ」
「それはたとえばド・ヴィラの声ではなかったかね?」
「そうかもしれませんが、だれの声だったか、はっきりはいえません。低い声でしたが」
「いかにも緊急という印象だったかね?」フェル博士は顎をつきだし姿勢をしゃんとした。
「とてもさしせまった感じでした」
「よし。きみは家からとび出すと道路を走った。この家からまだかなりの距離にいるとき、居間に明かりがついたのを見た」フェル博士は眼鏡の奥でやぶにらみの眼を寄せた。「その明かりを見たとき、どれくらいの距離があったね?」
ディックは考えた。
「一〇〇ヤードちょっとでしょうか」
「それでそのとき実際にこの部屋がのぞけたろうか?」
「いいえ、それはむりです。遠すぎました。まだかなり空は暗く、そのとき電灯が点くのを見たんです」
無言のままハドリー警視が立ちあがった。部屋の唯一の明かりは書き物机の上の明るい黄褐色の電灯だった。そのスイッチはホールへ出るドアの脇にある。ハドリーはそちらに歩いて行った。彼はスイッチを消したり点けたりした。それに従って電灯も点滅した。そのあとまた無言で書き物机のノートブックに戻ってきた。
フェル博士は咳ばらいをした。
「それからきみはゆっくりと道路を歩きだした。そうだったね。すこしして石塀の上にこの二二口径のライフルがつきだしているのを見た。いいね。それを見たときの距離は?」
ふたたびディックは考えこんだ。
「さあ……三〇ヤード、もう少し近かったでしょうか」
「この室内はまだ見えなかったかね?」
「ええ。もちろん見えません」
「しかしライフルは見えたんだね?」
「ええ」
「きみはそのとき」フェル博士は右手を伸ばすと窓ガラスを叩いた。「きみはそのとき弾孔さえ見てとった。巡査に証言した印象的なせりふでいえば『弾丸は窓ガラスの中ではねあがった』とね」ディックはお手あげの身ぶりをした。
「それは文学的表現ですよ。ぼくは占い師のテントのことを考えていました。それはほとんど同じでした。ぼくがライフルを見ていると発射されました。そして、その距離でも窓に弾孔があくのが見えたんです」
「きみは視力はいいのか?」
「ええ。たとえば昨日もプライス少佐の射的場で標的を撃ったとき、標的をカウンターに引きよせなくてもどこに当たったかわかりました」
ハドリー警視は口をはさんだ。
「弾孔についてなにかおかしなことを考えているのなら忘れてほしいね。警察ではすべてを実証した。射角、射出力、窓の破損状況などだ」彼は暖炉の上の破損した絵に顎をしゃくった。「壁から掘り出した弾丸を調べた。二二口径のライフルから発射されたもので、ほかのライフルではなかった」
フェル博士の顔がゆっくりと紅潮した。
「何だと、ハドリー」博士は突然その性格からはほど遠い怒りを爆発させたので、ディックばかりかハドリーも驚いた。「頼むから、わしのやり方でこの証人を扱わせてくれんか?」
博士の顔は火のように真っ赤になった。
「きみは首都警察の警視だ。もちろんきみの意向にはなんなりと従う。わしは変わった事件の顧問にすぎないし、率直にいえば、この種の狂ったとまではいわないまでも、奇妙な数々の事件にきみにひっぱり出される老人だ。たがいに殺人と信じるこの事件にも、わしを顧問として使ってくれたのは光栄だ。わしにも質問させてもらっていいかな? それとも?」
窓の外では、バート・ミラーのヘルメットがわずかのあいだ止まり、また動きだした。あの朝ミラーに事件を通報したとき、ディックが詳細に事実をあげて自殺を主張したので、巡査がほかの死因を思ってもみなかったのも理由のないことではなかった。ミラーにとっては、上官の口から殺人という言葉を聞いたのは、これがはじめてだった。
しかしディックはいまほとんどそれには注意を払っていなかった。フェル博士の不満の大爆発で、それはどこかにすっとんでしまった。
「気を悪くされたのなら謝ります」ハドリーは穏やかにいった。「続けてください」
「ふふん。まあ、いいだろう」フェル博士は眼鏡を直し大きな音を立てて空気を吸いこんだ。「発射音を聞くとまた駆け出したんだね、マーカム君」
「はい」
「そして路上でミス・シンシア・ドルーに出会った?」
「そのとおりです」
「きみの視力をもってしても、それまで彼女は見えなかったのかね?」
「それは日光をまともに眼に受けていたからです。道路をまっすぐ走って行くと、彼女は東の方からやってきました。両側のものは見えましたが、道路の先までは見えませんでした」
「ふむ。それならわかる。その時間にミス・ドルーは道路に現れたことを、どう説明したかね?」
「ねえ、博士。あなたは何を考えて――」
「その時間にミス・ドルーは道路に現れたことを、どう説明したかね?」フェル博士はやさしくくりかえした。
広間の外で電話がけたたましく鳴りだした。
三人ともそれぞれの思いで、そのやかましいベルの音に少し驚いていた。フェル博士が望んでいた連絡とはこれだろうかとディックは不審に思った。シックス・アッシェズの穏やかで人なつこい住民の中の、仮面をかぶった殺人者がレスリー・グラントへの憎悪を燃やし、電話をかけてきたのだろうか? ハドリーは急いで電話に出た。彼が低い声で応対しているのが聞こえた。戻ってきたとき彼の顔はかなりきびしかった。
「どうだった?」フェル博士はうながした。
「いまの電話は博士の考えられているようなものではありません」警視は急いでいった。「電話による連絡という考えは役にたちませんな。それはごぞんじでしょう。だれもそんな愚かな危険は犯しませんよ。しかし別の考えなら、わたしは認めても――」
「いまの電話はだれだ、ハドリー?」
「ホークストンの警察医です。検死が終わったところです。それはまた推理をひっくりかえしました」
フェル博士は巨体を壁にもたせかけ山賊ひげの下で口をへの字にまげた。
「あのな、ハドリー。サム・ド・ヴィラは結局青酸で殺されたのではないということか?」
「いいえ。彼はまちがいなく青酸で殺されました。三グレインの無水青酸を、不慣れな何者かの手により皮下注射されたんです。しかし……」
「しかし何だ?」
「胃の内容物です」
「それが」
「死の六時間くらい前に」ハドリーは答えた。「サムは三、四グレインのルミナールをのんでいました」
ふたたびハドリーは机に座るとノートブックを開いた。
「わかりませんか? もしサムが十一時以降の就寝時に大量のルミナールをのんだとしたら、翌朝五時に自分で一階におりることは事実上不可能です」
第十六章
「いいですか」慎重な警視はつけ加えた。「必ずしも不可能だとはいえません」彼は鉛筆をとりあげると芯《しん》を調べた。「強い薬に耐えられる人も、すぐに効果が消える人もいます。われわれにいえるのは、とてもありそうもないということです。しかし少なくとも証拠によれば、サムは今朝一階におりてきたのです」
「一見したところではな」
「そして、マーカム君がうそをついているのでなければ、そのときこの部屋の明かりがついたのです」
「まちがいない」
「それでも博士は推理がくつがえらないとの考えですか?」
「いかにも」フェル博士は答えた。壁に寄りかかっていたので、シャベル帽の前は見えない手でつまみ上げられたようにもちあがっていた。「前言はひるがえさない。やがてはっきりするだろう」博士は顔をしかめた。「もう二、三の関連した問題をわしに任せてくれればな。何度もくりかえすようだが、ミス・シンシア・ドルーがその時刻に道路にいたわけを知りたいね」
ディックは眼をそらした。
「彼女は眠れなくて散歩に出たんです」
「散歩か、ふむ。ギャロウズ・レーンは、このあたりでは早朝の散歩には格好の場所か」
「そうです。それはかまわないでしょう?」
フェル博士は眉をひそめた。「あの道路は、アッシュ卿が教えてくれたのだが、ここから東へわずか数百ヤードで行き止まりになっている。十八世紀には絞首台《ギャロウズ》が実際に建っていた」
「正規の道はそこで尽きていますが、野原を通ってゴブリン・ウッドに続くけもの道があります。そこが散歩道になっています。ミラー巡査は実はその近くに住んでいます」
「そうか」フェル博士はめったに見られない穏やかさでうなずいた。「そう大声をあげんでもいい。よくわかった。肝腎なのはミス・ドルーも犯行現場か、その近くにいたということだ。彼女はわしらの役に立つことを見聞きしたかね?」
「いえ。シンシアは……待って下さい、そういえばあった!」ディックは叫ぶと自分をおさえ、新たな難問に悩んだ。「今朝はこのことにはふれませんでした。シンシアがぼくに話してくれなかったんです。あとでレスリーの家に行ったときに、やっと聞き出しました」
「それで?」
「ライフルが発射される一分かそこいら前、シンシアは果樹園側から向かいの林に、道路を走ってよこぎる人間を見たんです」
彼はそのできごとを話した。
この話はフェル博士にショックを与えた。
「わかった!」博士は大声を上げると宙で指を鳴らした。「なんということだ。これは本当にしては話がうますぎるくらいだ。わかったよ!」
この肥満した老友の様子を見て、ハドリーは安楽椅子を書き物机から押し戻し急いで立ち上がった。椅子の動きで――椅子の脚輪はすりへった褐色の絨緞を音をたてて滑り、ピンをまいた箱を通り過ぎた――思わぬものが明らかになった。
床の上には、それまで人目につかないよう椅子の下に押しこまれていたみたいに、布張りの本が表紙を開いて転がっていた。ハドリーはちょっとした気晴らしに身をかがめて本を拾い上げた。
「あのな、ハドリー」フェル博士は遠くに転がっているピンに眼をとめながら声をかけた。「ピンをふまないように気をつけてくれ。ところで、それはなんだい?」
ハドリーは本を差し出した。それは手あかのついたエヴリマン社版ウイリアム・ハズリット〔イギリスの随筆家〕のエッセイ集だった。余白にサミュエル・R・ド・ヴィラの署名があり、同じきれいな筆跡でかなりの書きこみがあった。フェル博士は興味深げにそれを調べたあと、書き物机に投げ出した。
「サムの読書の教養のほどが察せられるな?」博士はぶつぶついった。
「博士の素人見解では、職業的取りこみ詐欺師はみな、いつも華やかなホテルやバーにいる派手なとりまきなんでしょう」
「そうとも、そうとも」
「サムの学者ぶった態度は、今朝話したように一年に五千ポンドをもたらすものでした。彼の父はイギリス南西部地方の牧師でした。彼はブリストル大学を優等で卒業し、実際に医学を勉強し病理学者と称していましたが、それほどのへまもなかったようです。かつてはフランス南部で、抜け目のないイギリス人弁護士から途方もない大金をくすねていました。それは……」ハドリーは言葉をきると本をとりあげ投げおろした。「そんなことはしばらくどうでもいい。博士の思いつきとは何ですか?」
「シンシア・ドルーだ」とフェル博士。
「彼女がどうかしましたか?」
「彼女が見たもの、あるいは見たといったことは、事件にとどめをさすものだ。だれかがとんでもないへまをしたのだ。さて、きみは」博士はディックに眼をしばたたいた。「道路にうろつく怪しい影を確認してはいないな」
「それはさきほどいったように日光に眼がくらんで」
「日光は万人の眼に入るんだ。あそこを見ろ」
あらゆるものが激突に向かって坂をころがり落ちつつあるような切迫した危機を感じて、ディックは博士が顎をしゃくった窓のほうを見た。ピカピカ光っているが、旧式の黒い二人乗りの車が小路をがたぴしやってきて停った。ビル・アーンショウが運転し、シンシア・ドルーがとなりに座っていた。
「あのレディははじめて見る顔だな」とフェル博士は見てとった。「だが何者かは見当がつく。賭けてもいいがね、ハドリー。彼女はミス・グラントが結局は邪悪な毒殺者ではなかったことを耳にしたんだ。そしてわしらから真実を聞きだしに、恐怖にかられながらやってきたのじゃないか?」
ハドリーは机をぴしゃりと叩いた。
「彼女は何も知っていないと思いますよ」警視は断言した。「われわれとミス・グラントとアッシュ卿以外はだれも知りません。アッシュ卿は他言しないと誓いました。彼女の耳に入ってはいませんよ」
「いや、そんなことはない。アーンショウがいます」ディック・マーカムはいった。
ハドリーは当惑した。
「アーンショウだって?」
「銀行支店長です。いま彼女と車から降りてくる男です。彼は今朝もここにきました。長いこといたので、フェル博士が『あれはハーヴェイ・ギルマン卿ではない』といったのも聞いています。ねえ、フェル博士」
沈黙があり、そのあいだかれらは家に近づいてくるシンシアと、アーンショウの芝生をふむ足音をはっきりと耳にしていた。
フェル博士は声をひそめていった。
「ハドリー、わしは愚か者だ」それは地下鉄のトンネルを吹きすぎる風のような鼻息だった。「とびぬけた阿呆ではないか? あの男のことをすっかり忘れていた。午後に郵便局で会ったのに」
ここでフェル博士はピンク色の額をこぶしで叩いた。
「秘書を雇うべきだな。二分ばかり前に考えていたことを思い出すためにな。あのアントニー・イーデン帽。あの姿勢の正しさ。あのつやのある髪と、歯を見せた笑い。郵便局で彼に会ったとき、わしは前にどこかで見たことがあるのを漠然と感じていた。ぼんやりしていたんだ、ハドリー……」
「まあ、わたしのせいにしないでください」ハドリーは冷たくいった。「しかし郵便局といえば、こいつは博士の別の計画をくつがえしませんか?」
「いや、必ずしもそうではない。しかしやはり別な方法でやったほうがよかったな」
この郵便局をめぐるやりとりの意味は――気性の激しいミス・ローラ・フェザーズ局長は、金網張りのカウンターの向こうから、ささやかな郵政法違反でも大声でしかったものだ――ディックにはさっぱりわからなかった。しかしほかの考えはすべて彼の頭から消え失せ、シンシア・ドルーに関することで頭がいっぱいだった。
「ミラー!」ハドリー警視がどなった。
窓の外でバート・ミラーがふりかえった。彼は自分でも何か話したいことがありそうに見えたが、思いとどまったようだ。
「何でしょう?」
「ミス・ドルーとミスター・アーンショウを通してやってくれ」ハドリーは彼に命じた。「わたしとしては」ここで彼はフェル博士に意味ありげな目くばせをした。「この証人たちに質問してみたいね」
シンシアはアーンショウを従えてホールから部屋に入ってくると石のように動かなくなった。ハドリーがおもむろにシンシアを見ているうちに、感情の高まりが、居間の暑さと同じように感じられた。シンシアは右のこめかみの傷を化粧で何とか隠していたが、ほかのことは隠しおおせなかった。
「ミス・シンシア・ドルー?」ハドリーはさりげなく訊いた。
「はい。そうです、わたしは――」
ハドリーは自己紹介をしてフェル博士をひきあわせた。彼は慎重さと人あたりのよさで応対したが、ディック・マーカムはそれをさしせまった危険信号として受けとった。
「われわれに何か御用ですか、ミス・ドルー?」
「母の話では」シンシアはしっかりと、青い眼を輝かせて答えた。「あなたがたがわたしを捜しておられたとか」シンシアは身をくねらせた。「あなたが家にこられたとき、母は話してくれなかったのです。わたしに不愉快な思いをさせまいと考えたようです。ミスター・アーンショウが立ち寄られて――」
「ああそうですか」ハドリーは明るくいった。「ミスター・アーンショウがね」
「――そこでひとつ、ふたつ話をされて、はじめてあなたがこられたことを知ったんです」シンシアは息をととのえハドリーに目をすえた。「何かご用ですの、ミスター・ハドリー?」
「ミス・ドルー、実はそのとおりです。まずお座りください」
彼は死者が座っていた大きな安楽椅子を指さした。
それが計算された無神経な態度なら効果的だった。しかしシンシアはひるむことなく彼から眼をそらさなかった。
「あの椅子ですか、ミスター・ハドリー?」
「おいやなら、他の椅子にどうぞ」
シンシアは安楽椅子に腰をかけた。
戸口でためらって、笑顔を見せていたアーンショウは咳ばらいをした。
「たまたまシンシアに話したのは――」と彼は話しはじめた。その声は割れ鐘のように大きかったが、すぐに小さくなり消えた。それはみんなの沈黙と、ハドリーとフェル博士の鋭い眼が彼に向けられたためだった。ハドリーは書き物机の端をつかんで向い側のシンシアに顔を向けた。
「お母さんはこういわれましたよ、ミス・ドルー。あなたが石段ですべり、倒れてこめかみに傷を負ったと」
「それは近所の手前をつくろった作り話です」シンシアは答えた。
ハドリーはうなずいた。
「事実はミス・レスリー・グラントが手鏡であなたを叩いたときにできた傷と聞いていますが?」
「そうです。それが真相です」
「それは興味ある話ですね、ミス・ドルー。ミス・グラントは手鏡にしろ何にしろ、あなたを殴ったことを否定していますが」
シンシアは顔をあげた。手を椅子の腕木におくと青い眼を驚いたように見開いた。
「それはまったく事実と違います」
「ベッドの脚下に倒れて側頭部を打ったというのが事実ではありませんか?」
「わたしは……いえ、もちろんそんなことはありません」たがいにさぐりあいの沈黙を続けていると、遠くで教会の時計の音がまた聞こえた。シンシアは続けた。「率直に話し合いましょう。遠まわしにいうのはきらいです。曲がったことはいやなんです。わたしがこちらにきたわけはご存知のはずですが。ミスター・アーンショウの話では……」
アーンショウは先に口をはさんだ。
「もしかまわなければ、このことには関係したくはないのですが」彼は穏やかに毅然としていった。
「それで?」フェル博士は尋ねた。
「わたしは今朝早くここにきました」アーンショウは続けた。抗議をあらわすように無意識に笑顔が消えた。「ライフルについて訊くために。暖炉のそばのライフルです。ここにいるあいだわたしは、ディック・マーカムにこの事件についての仮説を述べました。またいくつかの情報を与えたのです」
「ピンについてかね?」とフェル博士。
「そのとおりです!」アーンショウはいまやよどみなく話していた。「ポープ大佐はいつもガーゼの幕を張るためにピンを使っていました。この家の窓枠に残った跡を調べれば納得がいくでしょう。床に落ちていた箱入りのピンが何に使われたのかはわかりません。まあ、いいでしょう」
ここでアーンショウは手を上げた。
「ここにいるあいだ」彼はフェル博士の方を向いた。「わたしはあることを耳にしました。ハーヴェイ・ギルマン卿のことです。フェル博士から聞いたことですが、秘密を守るように誓わされたわけではありませんでした。そのことをもらさないようにいわれたわけでもありませんが、わたしは黙っていることを決心しました。それはわたしの職業柄で、詳しくわかっていないことですし、慎重にこしたことはありません」
だれもアーンショウの弁舌を止めようとはしなかった。彼は虚空に向かって話しているようであり、隅のフェル博士に向かってしゃべっているようでもあったが、部屋の中央でハドリーとシンシアのあいだに演じられている劇的場面にはまったく気づいていなかった。ハドリーとシンシアの眼と眼が火花をちらす無言の闘争はアーンショウの言葉によって強調され高まっていった。
「さきほど銀行からの帰途に……」
(シンシアはわずかに身体を動かした)
「さきほど銀行からの帰途に、家内からの伝言を告げるためにシンシアの家に寄りました。彼女はわたしを見ると泣き崩れました。そしてまったくいまわしい話を聞かせるのです」アーンショウは高笑いをした。「レスリー・グラントについてのね」
「ほんとうの話です」ハドリーに眼をすえながらシンシアはいった。
「いまわしい話です」アーンショウはくりかえした。「これは放っておけないと思いました。良いも悪いもありません。そこで『その話をどこで聞いたのか?』とただしました」
「非常に興味ある質問ですな」とハドリー。
「そしていったんです、『フェル博士によれば、あのハーヴェイ・ギルマン卿は贋者《にせもの》だそうだ。ミドルズワースもあの男はペテン師だといっている。注意したほうがいい』と」
「あの話はほんとうかしら? レスリーについてのことは?」シンシアは尋ねた。
「ほんとうなんですか」アーンショウの額は蒼白だった。
ハドリー警視は書き物机に両手をおいてしばらく身体を支えていた。その顔は無表情だった。
「ミス・ドルー、それからミスター・アーンショウ。もしわたしがミス・レスリー・グラントについての話はほんとうだといったら?」
「そうだったのか」アーンショウは抑揚のない声でつぶやいた。
シンシアはとうとう眼を伏せた。まるでめいっぱい息を殺していたかのように荒い息づかいだった。
「公式に発表する情報はありません」警視は注意をうながす口調でいった。「多分というやつです。ミスター・アーンショウ、車の中で待っていただけないか、ミス・ドルーともう少し話したいのだが?」
「ええ、いいですよ」アーンショウはそういってディックを見てから、当惑した表情で眼をそらせた。「レスリー・グラントが毒殺者とは――かまいません、考えるのは自由ですから。しかしまったく信じられません、わたしには」
彼は部屋を出るとドアをしっかりとしめた。ホールを歩く足音が聞こえたが、外の芝生に出ると歩調は早くなったようだ。
はじめてシンシアはディック・マーカムと向き合った。
「今朝このことについては話せなかったわね、ディック」彼女は低いがはっきりした声でいった。その眼には同情があった。それが見せかけのものであったとしても、いちずな怖さがディックをおそった。「あなたをそれほど傷つけることはできなかった。いざとなると怖くなったの」
「そうだな」ディックは息がつまった。彼女を見返せなかった。
「午後からずっと彼女を誤解していたのかどうか考えていたの」自分を責めるような声でつづけた。「正直いって、もしこれがまちがいだったら、わたしは土下座して彼女に許しを乞うべきだったわ」
「もちろん、そうだ」
「ビル・アーンショウがその話をしてくれたとき、わたしは一瞬迷った……でもそれが真実なら」
「待ってください、ミス・ドルー」ハドリーは声をおさえた。「あなたは彼がすでに知っていると信じていたが、それを話すことでマーカム君を傷つけたくなかったわけですな? ミス・グラントには話したでしょう、マーカム君はすべてを知っていると?」
シンシアはうす笑いを浮かべた。
「わたしは話すのが下手なのね。そう、彼が聞いていたのは知っていました。でも、そのことで直接彼を責めたり、それを思い出させたくなかったんです。わかっていただけるかしら?」
「ところで、ミス・ドルー、あなたはその話をどこで聞きましたか?」
「あら、いまそんなことが重要かしら? もしその話が事実なら?」
ハドリーは手をのばすとノートブックをとりあげた。
「重要ということはありません」彼は穏やかな声で認めた。「たとえその話が事実でもね。しかしそれはまったくのうそなのです、ミス・ドルー。ハーヴェイ・ギルマン卿と自称する悪党のでっちあげた、うそのかたまりでした」
シンシアは彼を見つめた。
「まさか!」
「いいえ、まちがいありません。わたしは慎重を期して『もし』といいました。だれにでも証言できるようにです」ハドリーは鉛筆をノートブックに持っていった。「その話をどこで聞きましたか?」不信、抵抗、それに真正直な勇敢さが、顔色の青白さや身体のぎこちなさにもかかわらず、シンシアの表情に入り交じっていた。
「そんなばかな!」彼女は爆発した。「もしこれが事実でないのなら、どうしてそんなことをいいふらす人がいます?」
「ミス・グラントを快く思わない人がいるのかもしれない。おわかりですか?」
「いいえ。わたしはレスリーは好きです。あるいは大好きだと思っていました」
「しかし彼女に襲いかかりましたね」
「いいえ。そんなことはありません」シンシアは弱々しく顎をあげ答えた。
「それでは彼女があなたに襲いかかったのですか? いまでもこめかみの傷は彼女に手鏡で殴られたものといわれますか?」
「そうです」
「あの話をどこで聞かれましたか?」
シンシアはまたこれを無視した。
「まったくばかげたことです。事実でもないことをあんなに詳しく話せるでしょうか? いくらかの真実があると思いませんか?」彼女は手を広げた。「あなたはレスリーについて何をご存知ですか? 彼女は何度結婚しましたか? あの金庫に何を隠しているのですか?」
「いいですか、ミス・ドルー」ハドリーはノートブックと鉛筆をおいた。かなり我慢して両手で机の端をつかんでいたが、まるで机を彼女の方に押し出そうとしているようだ。「すべてが事実ではないと、いい続けなければならんのですか」
「でも……」
「ミス・グラントは犯罪者ではない。結婚歴もない。金庫の中にあったのはまったく合法的なものだ。彼女は昨夜も今朝もこの家の近くにはいなかった。さらに話を続けると、この家は昨夜の十一時から今朝の五時まで真っ暗だった。電灯がついたのは五時すぎのことです」
「警視どの!」新しい声が割って入った。
しばらく前からディックは背後に起こっていた異変に気づいていた。ミラー巡査のヘルメットはあいかわらず窓の外を行ったり来たりしていたが、その動きが少し早まっていたのだ。
そしていまミラーがその大きな顔を壊れた窓の木枠からつきだしていた。ミラーに切迫感がなかったら、まるで漫画みたいだった。
「警視どの」彼はハドリーに向かってしゃがれ声でいった。「申し上げてもよろしいでしょうか?」
ハドリーは激昂した。
「あとだ! われわれは――」
「重要なことであります、警視どの」彼は窓から太い腕をつきだして指さした。「このことについてです」
「入ってこい」ハドリーがそういうと、ミラーは庭をまわってホールのドアから入り、直立不動の姿勢をとった。そのあいだ部屋では動く者もなかった。
「前に申し上げるべきでしたが」バートの鼻のほくろが反抗的に非難がましく見えた。「この殺人と呼ばれている事件について、自分にはだれも何もいってくれませんでした」
「それで?」
「自分はゴブリン・ウッドの近くに住んでいます」
「わかった。それで?」
「昨夜は遅くまで外出していました。泥酔者がニュートン農園で騒ぎを起こしていたからです。自分はいつもあたりを巡回し、この道路を通り、林を抜けゴブリン・ウッドに戻ります。自転車でこの家の前を通りかかったのが夜中の三時でした」
沈黙。
「マーカム家には」とミラーはディックの方を向いた。「一部屋こうこうと明かりがともっていました。それがはっきり見えました」
「そのとおりです。書斎のソファで休もうと思い、電灯を点けはなしにしておきました」
「しかしこちらの家の明るさは」ミラーは強調した。「それとは比べものになりませんでした。クリスマス・ツリーみたいにすべての電灯が点いていました」
ハドリーは書き物机から片足を出した。「それがどうしたというんだ?」
ミラーは強情にひきさがらなかった。
「自分は事実を申し上げています、警視どの。すべての窓にはカーテンが引かれていました。しかし内部の明かりは見えました。実際この家の全部の部屋で――少なくとも自分が自転車から見たかぎりでは――室内電灯が点いていました」
シンシア・ドルーは当惑をかくせず、安楽椅子から首をのばしていた。睡眠薬を飲んだ男がひとりきりなのに、家中の明かりがついていたとの証言にはハドリー警視も不審を抱いた。しかしディックの注意はフェル博士が示した圧倒的な満足感に奪われた。フェル博士の「ほほう!」という声は――心から出た劇的な感嘆詞で部屋中に聞こえた――自説にいまや自信満々であることを示していた。
ミラーは咳ばらいをした。
「自分は不審には思いませんでした。この家の紳士はけがをしたと聞いていましたから、看護婦や医師や付きそいの人々がいるのだろうと。家を訪ねてみようかとも思いましたが、あまり遅い時間なので遠慮しました。しかし、警視どの」ミラーはじゃまされるのを恐れるかのように声を張り上げた。「玄関にだれか立っているのに気づきました。少し暗かったので白いブラウスだったか、セーターだったか、よくわかりませんでしたが目にとまりました。そしてたしかに……」
ハドリーは身体をこわばらせた。
「白いブラウス?」彼はおうむ返しにいった。
「はい。それはミス・レスリー・グラントでした」
第十七章
うそをついているのは、シンシアか? それともレスリーか?
決着をつけるときがきた。
ギャロウズ・レーンのたそがれを歩いていくと、鳥たちがねむる前の気味悪いさえずりが聞こえてきた。ディック・マーカムは勇敢に真実に立ち向かおうとしていた。
午後八時をすぎていた。急いで風呂に入りひげを剃ったとしても、レスリーとの夕食の約束に遅れてしまうだろう。これは、こういうロマンチックなことを大切にするレスリーへの小さな裏切りだった。しかし、うそをついているのは、シンシアか、レスリーか?
このいまいましい事件はあまりにも身近なことだった。個人的なことだった。情にからむことだった。一方にレスリー・グラント、もう一方にシンシア・ドルーをおいて、その信頼度を計ろうとした。しかし秤《はかり》の針はまだ揺れ動いていた。
状況から判断すれば、二人のうち一人は澄んだ眼の正直者で、心から誠実に真実を語っている。もう一人はきれいな顔に邪悪な心を隠し、油断をすればまったく別な顔を見せるかもしれない。
二人ともよく知っている。二人とも最近自分の腕に抱かれている――もちろんシンシアは慰めてやっただけだが――しかし二人についてこんなことを考えるのはまったくばかげている。だが、皮下注射器はコブラのようにすばやく毒ある牙をたてた。それは何者かの手に握られ、その人間は大笑いしていたのだ。
レスリーに対する誠意はゆるがなかった。彼はレスリーを愛していたからだ。
しかしもし、結局のところ、もしもだが……
ナンセンスだ! 彼女には動機などあるはずがない。
そうだろうか?
しかしシンシアの場合は分が悪い。彼自身もこれまで抑圧についての学問的たわごとを数多く書いてきたし、芝居や書物においても動機が必要な場合は役に立った。ところがこれが身近に現われ、抑圧が眼の前で爆発したとなると、悪魔主義にちょっかいを出したために、ほんとうに悪魔に骨がらみになってしまったようなものだ。
いずれにしても事件は密室の中で、どのように起こったのだろうか?
フェル博士は明らかに知っている。しかし何も語ろうとしない。フェル博士とハドリーはもう家の奥へ内輪話の席を移していた。大声を上げたり、テーブルをこぶしで叩いたりする音はしきりに聞こえたが、その内容は聞きとれなかった。ディックはその場にはいなかった。そのあいだ彼とシンシアは別々の部屋で、ミラーのきびしい監視にさらされていたのだ。しかしいまは?
ディックはやるせない気持ちで道路を歩いて自宅の門を入った。彼の前には家が暗やみに浮かびあがり、菱形の窓にはたそがれの微光が降りかかっていた。
ちくしょう、急がねばならない。レスリーが待っている。いそいでひげを剃り、しわだらけの服も着替えなければならない……
ディックは暗い玄関に入りドアをしめた。うす明かりで廊下から書斎に入った。本棚と芝居のポスターがかすかに見える。ドアのそばのスイッチにふれた。パチッと入れるとまた戻してみた。しかし電灯はまるで点かなかった。
とんでもない電気メーターだ!
家事をしてくれているミセス・ビューフォードが、いつもこの怪物の餌《えさ》としてシリング貨を入れていた。ところが昨夜ディックは電灯を点けはなしだった。コインは使いはたされ、明かりは消えてしまったのだ。
手さぐりで書斎をよこぎると、ディックは台所をぬけ洗い場に入った。窓は書斎と同じく東側に面していた。幸運にも――珍しいことだが――ポケットの中にシリング貨を見つけた。流しの下に料金メーターをさぐりあて、コインを押し込みながら留め金をひねると、コインが中に落ちる音を聞いた。
するとたちまち書斎に明かりが点いた。
書斎の電灯がともったのだ。
彼はメーターから立ちあがり、洗い場の流しのそばに立つと窓の外に眼をやった。そのとき彼はそれに気づいた。側庭にもあかあかと明かりがこぼれていた。それは十数時間前に見た、あの居間の窓を通して急に現われた光と同じだった。
その明かりはスイッチを入れたので点いたのではなかったのだ。ディック・マーカムは流しの端をつかんだ。
「そうだったのか!」彼は叫んだ。
彼は書斎に戻り、あたりを見まわし、タイプライターに話しかけた。
「きみは知りたいかね、タイプ君。電灯が密室内のスイッチで点いたという錯覚が、どうして生まれるか?」
ディックはその場にくぎづけになった。
玄関ドアのそばに、ホーラス・プライス少佐が砂色の眉をつりあげ、あきれた面持ちで立っていた。
プライス少佐の砂色の口ひげ、青い眼、しみだらけの丸い顔は寛大に見えた。そのおだやかな態度は、タイプライターに友人のごとく話しかけている衝撃的な芝居の作者を見てもさほど驚かなかった。やり方が自分とは相容れなくとも理解はしていた。
「何を話していたんだね?」少佐は尋ねた。
「知りたいですか? 密室の中で電灯を点けたという錯覚が生まれた原因を?」
彼はもう秘密を守ることなど気にかけなかった。このとっておきの秘密を話してしまいたかった。
プライス少佐のつきでた眼にはありありと興味が浮かんでいた。肩ごしにだれも聞いていないのをすばやくたしかめると、少佐は中に入りドアをしめた。ディックはまだ夢中になっていた。
「昨夜考えていたんですが、この通りの三軒は電灯にコイン・メーターをつけています。それを使ったんです。それが、あの家の明かりが夜中すぎまで点いていた理由なんです」
プライス少佐はいらだちを見せた。
「ちょっと待ってくれ。だれが何をしたというんだ?」
「バート・ミラーは昨夜自転車であの家の前を通りすぎ、閉めきったカーテンの裏の明かりが点け放しになっているのを見たんです」
「彼が見た? それで?」
「何者かがすべてのスイッチを入れ、料金が切れるまでそのままにしておいたんです」
「おい、もしよかったら……」
「明かりが消えました。するとその人間は居間のスイッチ以外はすべて切りました。そして早朝の適当な時間に、洗い場にある電気メーターに一シリングを投げ入れさえすればよかったんです。するとまるでスイッチを入れたみたいに、居間に明かりが点きました」
プライス少佐は当惑したようなうす笑いを浮かべた。
壁面の芝居のポスターを見まわしながら――『毒殺者の失敗』『家族のパニック』『私は疑わなかった』。それらの劇はいままでかなり見たがいつもおもしろかった――彼はソファに歩いて行き、くつろいだ格好でどっかりと座った。
「よかったら、くわしく話してくれないか? きみの話はまったく初耳だ」
そのときディックは見おとしに気づいた。
電灯の件は事実だった。フェル博士はそれを知っていた。あの家の電気メーターのことでは特に興味深い言及をしていた。
しかしそれではまだ問題の説明にはならなかった。
「殺人者がサム・ド・ヴィラの死体を残して密室を脱出した方法は解明されていません。あの部屋はいまだに密室です。それに誓ってもいいですが、ぼくが到着した数分前までサムは生きていたんです」
何も変わらない。謎は依然未解決のままだった。
ゆっくりとプライス少佐はパイプと煙草の袋を取り出した。プロシア人のように刈りこんだ砂色の頭を前にかたむけ眼は興味で鋭く光った。
「何者だね」彼は乾いた声で尋ねた。「サム・ド・ヴィラとは?」
ディックは顔を上げた。
「どうもすみません、少佐、ぼくはいま起こったことに興奮して、あまり大声でしゃべりすぎました。じっさいには話す資格はありませんし。その理由をわかってもらえば……」
「それはわしの知ったことではない。もしそれが――」
「もしそれが?」
「当然、わしの顧客の一人に関したことでなければだ」プライス少佐は太い親指で煙草をパイプにつめた。「村の意見は、いま自殺と他殺に分かれているようだ。わしの意見は保留するが」
「これはぼくのふと浮かんだ思いつきです。ものにはならないでしょう。えい、ちくしょう! いまのところ、かなり気のきいた示唆をしたのはビル・アーンショウだけです」
プライス少佐の鯨みたいな背中がかたくなった。
「アーンショウが気のきいた示唆だと?」
「そうです。フェル博士がどうしてそれを調べないのかわかりません。アーンショウがいうには――」
「なあ、きみ」少佐はぎこちなく口をはさんだ。「わしはそれを聞きたいとも思わんが。きみが気のきいた示唆と呼ぶものが、アーンショウから出てきたのは驚きだ」
「ねえ、少佐。あなたとビルはまだ仲たがいしていますか?」
砂色の眉毛が上がった。
「仲たがいだと? そんなもの知らん。だがユーモア感覚を自慢する者が、罪のない冗談を受け入れず、それを個人的問題でかたづけたくないのなら残念なことだ」
「それは昨日、射的場でアーンショウとやりあった冗談ですか? ところでどんな冗談ですか?」
「大したことじゃない。つまらんことだ」パイプに煙草がぎっしりつまってプライス少佐は満足げだったが、感じのよい額には深いしわがよぎった。ソファにぎこちなく座っていた。「そんなことを話しにきたんではない。ここにきたのは実は――もしかまわなければ――」
「かまいますよ、少佐。レスリーとの夕食に遅れているのに、まだ着替えもしていません」
「ごもっとも」そういうと少佐はパイプを調べた。「いま何時だか知っているか?」
ディックは役に立たない腕時計を見た。
「午後八時四十分だ」プライス少佐はディックにいった。「七時半には彼女の家でカクテルをのんでいるはずだったな。ちょっと待ってくれ」ディックが最短コースで二階にかけあがろうとするのを、少佐は手を上げてとめた。「急いでいるのはもっともだ。結構。しかし疑問がある。きみが着いたとき彼女は家にいるだろうか?」
ディックの足がくぎづけになった。
「どういう意味ですか?」
プライス少佐は首をふり、パイプの先に神経を集中した。
「きみたち二人の父親ほどの年配者として、また友人として話したい。とがめるつもりはない。しかしすべてを明らかにし、あやまりのない道を歩んでほしいのだ。本当だかどうか知らないが、今日きみとシンシア・ドルーが、レスリーのベッドルームでよからぬことをしていたのを、ミセス・ラックリーが目撃したそうだが?」
この期におよんで、こんな話はまるで見当ちがいでディックをびっくりさせた。
「そんなことは絶対に……」
「当然ないだろうな。よくわかっている。それでも……」
「ミセス・ラックリーは、それをレスリーにしゃべったのですか?」
「そうとも。それもきみが七時半にも、八時にも、八時半になってさえ姿を見せなかったときにだ。それにもうひとつ」プライス少佐はパイプをくわえた。「シンシアはあそこにいたのかね」彼は向こうの家に顎をしゃくった。「きみとずっと一緒だったのか?」
「シンシアはビル・アーンショウと一時間前に帰りました」
「きみが電話さえかけていたらな」
「プライス少佐、この事件でいくつかかなりの進展がありました。それは事件全体をもう一度ひっくり返すほどのものでした。ぼくにはこれ以上いえません。ハドリーがまもなくレスリーのところにやってくることしか」ディックはプライス少佐の肥満体がこわばるのを見た。「いくつかの疑問点をただしにです」
「ほんとうかね? はじめて聞く話だ」
「ハドリーとフェル博士の議論のさいちゅうに中座しましたので、くわしくは……」
「何の話だ?」
「ひとつは青酸の蒸留について。どの薬局でも買えるふつうの薬品から簡単にできる方法などを。でもそれはほとんど聞きとれませんでした。とにかくレスリーに説明するのは簡単です」
プライス少佐はライターでパイプに火をつけた。
「わしがいえるのは、彼女が動転して半狂乱になっていることだ。今日はひどいめにあったにちがいない。だが彼女は」彼の額に影がさした。「弁護士にもそれを打ち明けないだろうな。彼女の役に立ってやりたいと思うのなら、すぐに行ってやることだ」
「こんな格好で?」
少佐は強調した。
「そうとも。それで結構。電話ではかけひきとしていささか遅いよ」
ディックは出かけた。
ふたたび道路を西に村をめざしていると、背後からかすかな声が近づいてきた。フェル博士とハドリーがまだ討論をつづけていた。
この二人はさらに話を聞くために、レスリーに会いに行こうとしているのだろうか。プライス少佐の話では、彼女はかなり動転し半狂乱になっているというので、ディックはまず先回りしてたしかめることにした。それから――どうするか?
彼にはわからなかった。真夜中に家のそばでレスリーを見たとのバート・ミラーの証言には単純な説明がつくことは疑いなかった。ディックは心をとじ、このことは考えないようにした。自然に説明がつくことで、一日に二回も同じ苦しみを経験したくない。それでも彼は足をはやめた。
三、四分でハイ・ストリートに出ると、レスリーの家はもう目と鼻の先だった。
ピンク色の日没の残映が屋根の背後にのこっており、スレート屋根を微光に染め、煙突の影を落としていた。ハイ・ストリートはもうすっかりたそがれて、あたりには人影もなかった。シックス・アッシェズの住民は「グリフィンとトネリコ」亭にも見あたらなかった。もう帰宅してしまい、九時のニュースのスイッチでも入れているのだろう。
ディックはギャロウズ・レーンのはずれを右折し、道路をよこぎって、ハイ・ストリートの歩道用に敷かれた煉瓦道を大股で歩いて行った。
レスリーの家屋は栗の林の奥に引っ込んでいる。道の両側には芝生がひろがっていた。その厚くおりたカーテンの奥は、二階のベッドルームを除けば明かりがついていない。しかし玄関には小さなポーチ・ライトが点って、ドアを照らしていた。ディックは表門で立ちどまり左右を見た。
近くの住宅といえば(それが住宅と呼べればだが)隣に郵便局があるだけだ。ディックは右を向き、下見板張りの安普請の郵便局に眼をやった。
くすんだ板ガラスの二つの窓、その間にドア、窓の下には郵便物と小包を入れる差し入れ口があり、ハイ・ストリートに面している。ミス・ローラ・フェザーズはこの郵便局と、商売とは思えないみすぼらしい服地屋を兼業していた。荒れた裏の敷地にミス・フェザーズの住まいがあった。郵便局はいつも六時で終わり――六時前にしめると不平をいう客もいる――いましまったところだった。黒いブラインドがドアや窓に降ろされ、敵に反攻する砦みたいに利用客を無視する雰囲気だった。
ディックはおだやかな夏の夕ぐれに、別段の興味もなくそれを眺めた。
どこか遠からぬところで、芝刈り機の音がねむそうに聞こえた。ディックはミス・フェザーズのことを頭からふりはらった。表門を開け、レスリーに会うために小道を歩いて行った。
そのとき郵便局の内部で銃声がした。
同じホテルの回転ドアを外と内から押しつづけ永遠に逢えなかった恋人ふたりの悪夢の物語が、ディックの頭の隅にあった。同じような回転ドアに、またしてもとじこめられる悪夢の場面が、ディック・マーカムの心によみがえってきた。
たしかに銃声だった、まちがいない。ピストルか、ライフルかもしれない。彼はその音が起こった場所を知った。
ディックは逃げたかった。やみくもに駆けだしたかった。永久に彼を追いかけるものから逃れるために。しかしそれが不可能なことははっきりわかっていた。いくところまでいかなければならない、レスリーのためにも。彼は身をひるがえして煉瓦道を郵便局へと走った。自分の足音が乾いた音をたてた。それがハイ・ストリートで唯一の物音だった。
身近に郵便局がせまると、とざされた窓とドアの奥から電灯のかすかな明かりがこぼれて見えた。
「おーい!」彼は叫んだ。「おーい、どうしたんだ!」
返事を期待したわけではない。しかしある意味で反応があった。とじたドアの向こうで床を歩く足音がした。つま先立ちの忍び足で、急いで奥の部屋に消えていった。ディックはドアのハンドルをつかんだ。このドアは六時以降は決して開かなかったが――例外は配達人のヘンリー・ガレットが、夕方の郵便物収集のため九時にやってくるときで、ミス・フェザーズはキャンヴァス袋を用意していた――しかしいまドアには錠がかかっていなかった。
ミス・フェザーズといえば、しゃべることは自分の胃炎と客の品定めだけという通り相場がディックの頭に浮かんだ。思いきってドアを開けると火薬の臭いがした。
郵便局のせまくみすぼらしい内部には埃まみれの電球が点き、右側の針金格子で仕切られた郵便カウンターと、左側の棚のついた服地の商品台を照らしていた。板張りの床は長いあいだにすりへり黒ずんで明かりを反射していた。ディックは奥の居間に通じるドアが開け放しになっているのを見た。そこから沸騰したヤカンが湯気を吹いている音が聞こえる。
しかし彼が最初に見たのはそれではなかった。
服地の商品台と同じ側の窓下に郵便箱があった。その小さな木製扉は開かれていた。おもて通りから差し入れ口に手紙を入れると、内側の郵便箱の中に落ちる。いまも数通が郵便箱に残っていた。
床にはまるで風で吹きとんだかのように、さまざまの大きさの踏みつぶされた封筒がちらばっていた。包装紙でかたく巻かれた雑誌はでこぼこの床でまだ弾んでおり、青い消印はころがって反対側のカウンターに寄りかかっていた。
服地の商品台の背後に身体をゆらし立っているのはほかならぬミス・ローラ・フェザーズだった。
彼女は黒い眼を開けていたが、もうほとんど眼は見えてはいなかった。それにもかかわらず電気ショックのような興奮が残っていた。やつれた顔は灰色の髪を束ね、かたくずれのした黒い服を着て、信じられないほどみにくく、信じられないほどみすぼらしく見えた。近くから発射された弾丸は身体をつらぬき、血まみれの右手の指は左胸をきつく押さえていた。彼女はおぼろげながらディックに気づいたようだ。紙の切れ端をつかんだ左手をふるわせ、死にもの狂いで裏のドアを指さしていた。
一瞬彼女はあえぐように手をふるわせ、指さし話そうと努力したが、すぐに商品台の背後にうずくまって倒れた。
そして静かになった。聞こえるのは奥の部屋で湯気を立てているヤカンの音だけだった。
第十八章
その後長いこと、ディックは夢の中で自分をにらんでいる眼を思い出した。それは哀しい眼つきで、痛ましい現状と、もう生きていられないことを訴えていた。
彼女はすでに息が絶えていた。
眼を大きく開いたまま、商品台の背後に倒れている彼女をディックは見下ろした。散乱した郵便物の吹きだまりに横たわって、左手でまだ前方を指さしていた。その指は少しゆるんでいたが死のけいれんで急ににぎりしめられた。つかんでいた紙片は端に血がにじみ手のわきに落ちていた。
ディックは無意識にその紙を拾いあげた。ミス・フェザーズは魚みたいに身体を反らしたが、すぐ静かに横たわった。どうしてその紙片を拾いあげる気になったのかわからない。しかし潜在意識下で眼をひくものがあった。
紙片は封筒を縦に裂いたもので切手は付いてなかった。封筒の中には便箋の切れ端みたいなものがあった。そこにはタイプライターで打った言葉が並んでいた。
『どうしてそんなにばかなんだ? もしレスリー・グラントが、それをやった方法を知りたければ』
それだけだった。裏側には何も書いてなかった。ディックはその言葉を見つめた。眼の前で文字がだんだんと大きくなっていく気がした。
それは彼のタイプライターで打たれたものだった。
まちがいなかった。曲がっているyの字はいつも手を焼かせるし、黒いwはかすれて打てる。タイプライターはディックの生活の一部だった。どこでも愛用のアンダーウッド製はわかる。しばらく悪夢の紙片に眼を凝らしていたが、やがて別のことに気づいて顔をあげた。
奥の居間のどこかで、忍び足がふたたび走りはじめた。
レヴォルヴァーの弾丸で心臓を撃ち抜かれる寸前だったのを、ディックが知ったのは後のことだった。彼は結果も考えず反射的に動いていた。紙片をかたく握ったまま商品台をとびこえ奥のドアへ走った。
雑然とした三つの部屋が並び、それが一列に彼の前に続いている。最初は壁紙が油でべたべたした居間兼台所で、テーブルには夕食が準備され、暖炉のヤカンはもうもうたる湯気をたてていた。部屋にはだれもいなかった。次のドアはベッドルームに通じている。そこにとびこんでいくと、洗い場に通じる向かいのドアが激しくしまるのを見た。
彼が追いかけているのは殺人者で、それはまぎれもなかった。ベッドルームは暗かった。洗い場のドアの向こうで何者かが狂ったように鍵をまわしている音がした。ディックが入ってくるのを阻止するため、ドアに鍵をかけようと懸命なのだ。
だが鍵はうまくかからない。
ディックはドアに向かって突進したが、勢いあまって目の前の干しもの掛けと一緒に倒れた。瓶にぶつかり、手のひらに破片が刺さって、頭を殴られたような痛みが走った。それでも弾性ゴム製のネコみたいにとび起き、干しもの掛けをけとばした。
洗い場にもだれもいなかった。
よどんだ水と石けん水の臭いがしたが、ベッドルームほど暗くはなかった。板ガラスのはまった裏戸は、ほんの数秒前に何者かが外へとびだしたように、壁に当たってまだゆれていた。逃げられたか?
いや。しかし……
洗い場の暗闇にうす明るい窓の楕円形が浮かびあがっていた。裏口から栗の木の葉ずれがきこえる甘い香りの夕やみに走り出ると、ディックはいま出た場所に気づき驚いた。
このせまい郵便局の奥行きはハイ・ストリートから五〇フィートもあった。敷地をかこむ腰の高さの石塀をこえると、向こうにレスリー・グラントの家の側面と裏口が見える。
殺人者の走る影、その影はぼんやりとかたちもはっきりしないが、すばやく芝生をよこぎっていた。樹木の陰に入りこみ、少しためらっていたが、ゆっくりとレスリーの家の裏口に向かった。その台所には明かりはなかった。殺人者の顔を映し出す光はなかった。裏口の戸が開いてとじ、音もなく人影が消えていくのをディックは眼のすみでとらえた。
レスリーの家の中へ。それはとりもなおさず……
待て!
ディックはあえぎながら境の低い塀をこえた。うす暗がりに眼がなれたので、いくつかの人影がこちらに向かってくるのが見えた。しばらくしてがたがたいう音に気づいた。それは芝の上で逆さまになり、回転している芝刈り機の音だった。
さっき聞いた芝刈り機の音がどこのものかやっとわかった。レスリーの家の庭師マッキンタイアが押していたもので、その長身痩躯はいま裏戸のそばに見えた。左側を見ると家の正面に、まぎれもない巨体のフェル博士がケープとシャベル帽をまとい、小道を玄関に向かうところだった。
フェル博士とハドリーはディックと遠からぬところを歩いていた。かれらも銃声を聞きつけたにちがいない。
ディックの頭がふたたび働きだしたとき有頂天になったのはこのためではなかった。彼は便箋と封筒の紙片を高くかざした。多くのばらばらな事実が突如として頭の中で整理された。彼は喜びと安堵でひとりごちた。ローラ・フェザーズの殺人はとりもなおさず、レスリー・グラントの潔白を示す究極の証拠だった。
彼はそれを証明できる。
しかしそれは新たな危険を示すショックをもたらした。郵便局の裏口からとびだした真犯人は思いがけぬ事態から三方をふさがれたのだ。一方からはマッキンタイアが近づいていた。フェル博士は別の方面から迫っていた。ディックは第三の方向から追っていた。レスリーはミセス・ラックリーと二人で家の中にいる……
ディックは狼狽しながら懸命に芝生を走り裏口に向かった。
「ドアの前で見張っていてくれ!」彼はびっくりしているマッキンタイアに向かって叫んだ。「だれも外に出すな! いいな?」
「はい、しかし――」
彼は立ちどまってマッキンタイアの疑問に答えることはしなかった。裏口のドアを開け、料理の匂いが立ちこめる暗い台所に入ると、食堂に続くドアの下に明かりを見て中へ駆けこんだ。
レスリーは肩にフリルのついた淡緑色のディナー・ドレス姿で、テーブルの向こうからさっと立ち上がった。シャンデリアの光がみがきたてたマホガニーのテーブルに輝いている。丸いレースのテーブル掛けには、陶磁器やナイフやフォークが並べられている。銀の燭台には蝋燭が立てられているが、まだ火はともされていなかった。
レスリーはびっくりして棒立ちになった。つややかな褐色の髪、ふっくらとした顎と首筋、褐色の眼が突然むこうを向いた。
「あなたの食事はそこよ」彼女はディックを見もせず台所に顎をしゃくった。「もう冷たくなっているわ。ミセス・ラックリーには帰ってもらったの。あなたは現実に直面すると、わたし、リリー・ジュエルの娘と食事するのに耐えられなかったのね」
この気まずいやりとりの中でさえ、彼女は自虐の念にさいなまれており、ディックの表情に気づいてなかった。
「レスリー、たったいまだれか入ってこなかったかい?」
彼女は椅子の背をかたくつかんだ。しばらく怒りとなかば涙を誘う混乱を頭からふり払おうとするかのようにそっぽを向き、それから困惑の表情で彼をふりかえった。「この家に? だれもこないわ!」
「裏口のドアを通って。ほんのいましがたのことだ」
「あなた以外はだれも。わたしはここにずっといたのよ。人がくればわかるわ」
「朝食の部屋がある。彼、あるいは彼女は」シンシア・ドルーの顔が一瞬脳裏をかすめた。「だれであれ、きみに気づかれず、そこをぬけて玄関ホールに行ける」
「ディック、いったい何のはなし?」
彼はレスリーを心配させたくなかったが話さざるをえなかった。
「いいかい、ローラ・フェザーズが殺されたんだ。何者かが郵便局に押し入って、ついさきほど彼女を撃ったんだ」レスリーは細い指で椅子の背をさらにきつくにぎりしめ、狼狽のあまりよろめき首をそらした。「それだけじゃない、殺人者はサム・ド・ヴィラを殺したのと同一人物だ。まだこの家にひそんでいるんじゃないかと心配している」
玄関のベルが激しくひびいた。そのベルはこの部屋に通じていた。二人ともガラガラ蛇の音を聞いたみたいにとびあがった。
レスリーは彼を見つめた。
「心配ない」ディックは彼女を安心させた。「フェル博士だ。博士が玄関の道をやってくるのが見えた。ミセス・ラックリーはここにいないといったね?」
「ええ。彼女を見送ったわ。だって……」
「それならぼくと一緒にくるんだ」ディックは彼女の手首をつかんだ。「おそらくもう危険はないだろう。しかしぼくが玄関に出ているあいだ、きみを目の届かないところにおきたくないんだ」
彼の心の中の声がひびく。『おまえはうそつきだ。聖水を嫌う悪魔と同じようにレスリー・グラントを嫌っている人間が、彼女の家に銃をもってひそみ罠をしかけている危険極まりない状況にある。この家のあらゆる隅、カーテンの陰、階段の踊り場で危険が牙をとぎ、毒をもろうとしている』。ディックはさらに強くレスリーの手首をにぎりしめた。レスリーはふりはなそうとしてもがいた。
「やたらにつかまないでよ」レスリーはあえいだ。「あなたとシンシアは――」
「シンシアのことなど聞きたくない」
「あら、どうして?」
なかば彼女を引きずるようにして玄関ホールに出ると、ディックはドアを開けた。そこには期待通りの人物が立っていた。大きな安心感を与えるフェル博士である。
「ローラ・フェザーズは――」ディックはしゃべりはじめた。
「わかっている」フェル博士がそういうとヴェストが上下しぜいぜいいった。彼は声をおさえた。「銃声を聞いてきみのかけこむのを目撃した。ハドリーはいまそこに行っている。きみは悪魔のスズメバチの巣をひっくり返したのかね?」
「まさにそのとおりです。まずレスリーがこの件にはまったく関係ないことを証明できます。第二はそれを証明する必要はありません。手近かにいる警察官に大声で叫べばこの家に殺人者をくぎづけにできます」
手短かに彼はこの事件のあらましを語った。フェル博士はいくらか興味をもった。この巨体の博士は戸口にじっと立ち、頭にはシャベル帽をのせ、両手をステッキのうえにかさね、せわしなく息をついていた。その眼はディックがさしだした二枚の紙片にくぎづけだった。
この不用心な態度に、何者かが階段から狙撃したらどうするんだとディックはいらだった。
「おわかりですか、博士?」彼は我慢をかさねてくりかえした。「この家の中にですよ!」
「ああ」フェル博士はホールの向こうに眼を走らせた。「家の中にか。裏から逃げられないかね?」
「むりでしょう。とにかく庭師のジョー・マッキンタイアが裏口に張っていますから」
「そして犯人は玄関からも逃げられない」フェル博士は巨体をひねって背後を見まわした。「バート・ミラーがそこにいる。もうひとりスコットランド・ヤードの犯罪記録部からきた男がいる。うむ、そうか。ちょっと待ってくれ」
博士は暗がりにのっしのっしと出ていくと、小道にいた二つの人影と立ち話をした。そのひとりは裏口にまわった。もうひとりとフェル博士は戻ってきた。
「ねえ、博士!」ディックは抗議した。「この家を捜さなくてもいいんですか?」
「いまはな」フェル博士は答えた。「きみさえよければ家の中でさしで話したい」
「ええっ、それではそのあいだレスリーをここから出したほうが……」
「ミス・グラントが残っているなら、そのほうがいいよ」
「家の中に殺人者がいるかもしれないのにですか?」
「たとえ殺人者がいてもだ」フェル博士は重々しく答えた。
そして博士は玄関に戻り、シャベル帽をぬぎステッキを小脇にはさんだ。
食堂の明るい灯に彼は興味をひかれた。レスリーとディックに先に行くよう重々しく合図をして、博士はあとから食堂に入った。ぼんやりとした様子で眼をぱちぱちさせ、暑くてかなわんと小声でつぶやいた。ぎこちなく強調したこの弁解で――部屋はそう暑くはなかった――フェル博士は開いた窓の厚いカーテンを左右に押しあけた。
二つの表窓の下にはフィレンツェ製の樫の大箱がおいてあった。フェル博士はステッキで身体を支えながらそこに座った。
「きみが注意してくれた二枚の紙片は当然ハドリーにいくべきものだ。しかしきみの話を聞くと、郵便局で起こった事件の意味に気づいたんだね。手みじかにいえば、あの殺人の意味をかね?」
「はい。そう思っています」
「結構。それは何だと思うね?」
「ええっ、博士! こんなときに……」
「そうなんだ! こんなときにだ」
レスリーはその言葉の意味を何もわかっていないのはたしかだがふるえていた。ディックは彼女の肩に手をおいた。家全体が宙に浮かんでいるかのような、わけのわからないきしみと震動にゆすぶられた。ホールの時計はメトロノームみたいに時を刻んでいる。
「ご希望どおりに」ディックは話しはじめた。「今朝ぼくはアッシュ・ホールでハドリー警視に会いましたが、彼を見たのはそれが初めてではありませんでした」
「おっほん。それで?」
「最初に警視を見かけたとき、ぼくはこの二階にあるレスリーのベッドルームの窓辺にたたずんでいました」ディックは天井を指さした。「彼が道路をよこぎって郵便局の方に向かうのを見ました」
「それから」とフェル博士。
「それから、ホールのアッシュ卿の書斎で会議をもちました。博士はこの殺人計画がレスリーを陥れようとするものであることを説明されましたね――」
フェル博士は口をはさんだ。
「ちょっと待ってくれ。覚えているだろうが、わしはほかに説明しようがあるかと、他の連中に挑戦したんだ。続けてくれ」
「真犯人はわれわれにひとつの問題を与えたと博士はいいましたね。いまやつは解決を与えなければならない。密室の解決を。さもなければ警察はレスリーにふれることもできません。博士はそれで何らかの『連絡』があるのではないかと示唆されましたね」
「さよう」
「博士が話しているとき、ハドリー警視は突然顔を上げ『それが博士がさきほどわたしに尋ねた理由ですか?』といいました。すると博士は急いで彼の口を封じました。それは電話かもしれないということでしたね。
しかしハドリーはその電話をまったく当てにしていなかった。あとから死者の別荘でそういいました。それが非常に危険なことを指摘し、つけ加えました。『しかし博士の別の考えなら、わたしは認めても――』。それをまた博士は打ち切りました。まもなくその別の考えについての話題がもちあがりました。今度は郵便局との結びつきはあからさまでした。ぼくはどうしようもない阿呆でしたね」ディックは苦々しげに緒論づけた。「長いあいだわかりませんでした。もちろんそれは古い中傷の手紙のからくりですが」
レスリーは当惑気に彼を見あげた。
「中傷の手紙のからくりですって?」彼女はくりかえした。
「そう。真犯人が警察に連絡をつけたいと思ったら、そのときは明らかに安全な匿名の手紙という方法を使うだろう。そしてあの郵便局には切手販売機はない。きみも覚えているだろう?」
「ちょっと待って」レスリーは叫んだ。「考えてみると……」
「切手の欲しい者はカウンターでローラから買わざるをえない。ひとりの人間か、あるいは小グループの一員が、きみが殺人を犯したという方法を短い中傷の手紙に書くと今朝フェル博士は信じた」
「あなたのいうのは――?」
「そこで博士は中傷の手紙が出回っているとき、警察ではどのように対処するのかをハドリーに訊いた。郵便局の責任者の協力で切手に目印をつけて、疑わしき購入者に売るんだ。そうすれば匿名の手紙が届いたときに警察は書いた人間を必ず割り出すことができる。
ローラ・フェザーズはこの作戦に喜んで協力したろうか? 彼女ならきゃっきゃっと笑って引き受けたはずだ。フェル博士は殺人者に罠をかけようとこの策を採用した。そしてそれはかなりうまくいった。真犯人はまんまと手紙を書いた。ここにその証拠がある。殺人者はぼくの家に忍びこみ、ぼくのタイプライターでいまいましい手紙を書いた……」
レスリーは彼から身をひいた。彼女はわが耳を疑った。彼女は何かを払いのけるかのように腕をつきだした。
「あなたのタイプライターで?」彼女は叫んだ。
「そうだ。しかし手がかりは何も残さなかった。ぼくは一日中家にいるわけじゃない。とにかく近所の住人の半数はドアをノックもせず出入りできる。シンシア・ドルー、プライス少佐――」
「それにわたしだって」レスリーは笑った。
「冗談をいっている場合じゃない!」ディックはきびしくいった。「殺人者はレスリーを有名な毒殺者だと告発し、おそらくド・ヴィラ殺人の方法を明らかにした手紙を書いた。殺人者はそれを投函した。そこで彼、もしくは彼女は、仕掛けられた罠にはまったんだ。彼、もしくは彼女は、それに気づき、ローラ・フェザーズが函から手紙を回収するまで待ちうけ、何か理由をつけてとりかえそうとした。しかしローラはなかなかの古狐、それが殺人者と知ると、そのことを殺人者に話したんだ。そのために……」
ディックは引き金をひくまねをした。彼はフェル博士をふりかえった。
「これが事実でしょう、博士。ちがいますか?」
フェル博士の顔は真剣だった。
眼をしばたたき眼鏡をはずすと、じっと考えるようにそれを見つめ、鼻筋についた赤い痕をつまみ、また眼鏡をもとに戻した。
「そうとも。それがまぎれもない真実だ」
ディックの筋肉の緊張が去り、肺がほっとした長い呼吸をした。
「それが郵便局での博士の勝負だったんですね?」
「そうとも」フェル博士は考えこんだ。「もちろん一か八かだった」
「どうしてですか?」
「うむ、いまいましいが」フェル博士は不満だった。「中傷の手紙の筆者にあの手を使うのはごく簡単なことだ。かなりの手紙を書くはずだから同じだけの切手も必要だ。だが獲物がポケットか自宅に買いおきの切手があれば、新しい切手は買わないだろう。しかしやってみる価値はある。そして罠はうまく働いた」妙に凶暴な表情が博士の顔をおおった。「どんぴしゃだ。見事に成功した!」
「ぼくには解《げ》せませんが」
「もうまもなくわかる。考えつかんかね?」フェル博士は指を鳴らした。「こんなふうにね。とにかくうまくいった。そして一人の生命が犠牲になった」
「博士はそれを救えなかった」
「どうかな」とフェル博士。
「いずれにしろ作戦はうまくいった。そのひとつがこの二枚の紙片で今晩のできごとがすべてはっきりと証明できます。少なくともそれには同意してくれますね?」
「何にかね?」
「本来の仮説にです。博士は事件を予測し的中しました。レスリーが匿名の手紙で告発されるといわれ、そのとおりになりました。真犯人はこの手紙を書くといって、まさにそうなりました。それ以上何が望めましょう? サム・ド・ヴィラ殺人は、レスリー・グラントに罪をきせるための試みであることが証明されます。博士も同意されますか?」
フェル博士は床に向かって眼をしばたたいた。ステッキをにぎりしめ、巨体を引き締めているようだった。やがて彼は顔をあげた。
「いや」彼は仕方なさそうに答えた。「わしは同意しがたいね」
第十九章
「それはどうしてですか?」
「同意できないのだ」フェル博士は穏やかに説明した。「きみの説明は可能性のひとつにすぎない」
「しかしこれは博士ご自身の説ですよ」
「すまんがね」フェル博士の声はきびしくなった。「さかのぼってよく考え直せば、それがまったくわしの説ではないことに気づくだろう」
「でも博士は明言されました――」
「わしがいったのは」フェル博士は声を張りあげた。「証拠にもとづく必要があるということだ。証拠を考れば、それが到達すべき結論になるといったのだ。提示された事実から別の結論をひきだすようにハドリーを仕向けたんだ」
「それでは、どこがちがうんですか? 同じじゃありませんか?」
「こうもいったのを覚えているかね」博士は穏やかにいった。「そいつは簡単には信じられんと」まったく奇怪で不自然な状況にディックの神経はおかしくなりかけた。
「いったいこの有様は何ですか? 博士の意図はどこにあるんですか?」
「わたしもお訊きしたのよ」レスリーが口をはさんだ。「今朝同じことをね」
「ローラ・フェザーズは撃たれました。博士はドアベルを押した。ぼくはこの家に殺人者が潜伏していることを話しました。殺人者がここに走りこむのを見た――博士が何かしてくれるのを期待したんです。座って話しこむ前にね。まだこの家に殺人者がいるんですよ」
「いるのかね?」フェル博士は尋ねた。
そしていまディックは頭の奥でめざめるものを感じた。フェル博士のもったりした態度はいつもと変わらず、格好をつけていなければ緊張もしていなかった。ディックは何かが動いたり、待ち伏せているような不安にかられ、いまにもすべてがすさまじい音を立ててひっくり返るのではないかとびくびくしていた。
「おそらく暴行傷害のおそれがある」フェル博士の声は遠くから聞こえてくるようだった。「きみはもう少し我慢すべきだね」
「どうしてですか?」
「わしには待っているものがあるんだ」
「何をですか?」
フェル博士はその質問を無視した。
「さきほどきみは郵便局の罠と、そのいまわしい結果から正確な推論を展開した。ほかにも考えはあるかね?」
ディックの喉はからからだった。
「内側から錠をかけられた部屋でも、電灯を点けられる方法を見つけたつもりです」彼は自分の家でのできごとを語った。「これは当たっていますか、博士?」
「ああ、そのとおりだ」フェル博士は興味をよみがえらせて、彼を驚きの目で見た。「もう一押ししてみたらどうだ。さあさあ」フェル博士はステッキの石突きで床を叩いた。「もう一歩推理を進めれば、真実が見えるのではないか――すべての真相――サム・ド・ヴィラ殺人のな」
「そんなことはありません」
「どうして?」
「外の電気メーターに一シリング入れたのが何者であれ、部屋は内側から錠がかけられたままでしたから」
「もちろん、そうだろう。しかしだ……」フェル博士の態度はあいまいだった。博士は頬をふくらませた。「昨日ミスター・アーンショウと、プライス少佐のあいだで口論があったというが?」博士はぶっきらぼうに尋ねた。
「あのことが重要ですか?」
「証拠としてではない。興味ある糸口だ」
ディックは首をふった。
「射的場でビルとプライス少佐が口論したことは聞きました。それは少佐がビルにいたずらを仕掛けたためです。何であったかはわかりません」
「わしはアッシュ卿から聞いた。卿にはほかにも興味深い話をうかがった。ミスター・アーンショウは自分の射撃の腕を買いかぶりすぎているようだな?」
「ええ、そうです」
「彼は昨日の午後、射的場にやってきて、夫人や女性のグループの前で腕前を披露しようとした」フェル博士は鼻のわきを掻いた。「まったくすました顔をしてプライス少佐は空砲のライフルを渡した。ミスター・アーンショウは標的に六回撃ったが当たるはずもなかった」
フェル博士はずっと床に目を落としたままだった。
「プライス少佐はいった。『残念だったな。今日は調子が悪いようだ』。アーンショウはしばらくしていたずらに気づいた。彼はそれを根にもった。あとになってアーンショウは自分の貸したウインチェスター61ライフルを射的場から盗んだと、プライス少佐を訴えたのはきみも知ってのとおりだ。ところが少佐はアーンショウの仕業だとほのめかしている。このやりとりに何か示唆するものはないかね?」
「いいえ。あるとはいえません。プライス少佐のいたずらはいつもの遊びです」
「そうか!」とフェル博士。
「しかしビル・アーンショウについていえば、あの密室に関してもっとも知的な示唆を与えてくれたように思えます。それは今朝博士にあらましを話しました。しかしそれほど関心は払ってくれませんでしたね」
「わしのうかつさを許してくれ」フェル博士はあやまった。「どんな示唆だね?」
ディックは宙でこぶしをふった。
「サム・ド・ヴィラが毒を注射されたとほぼ同じころ、彼をライフルで狙撃したのは何者か? ビルは示唆し――ぼくも同意しました――それが殺人者かどうかは別にしても、ライフルで狙撃した人物はこの事件でもっとも重要な役割を果していると。それには博士も同意しますか?」
「ある意味ではね」
「狙撃者にはあの室内が見えた。あの居間で何が起こっているかはっきりつかんでいた。いいですか。ところが博士はそれが何者なのか知ろうともしなかった。その人物についての質問もしないし、何の興味も見せませんでしたね」
フェル博士は手を上げて沈黙させた。
「さて」博士は満足げに指摘した。「わしらは全体の核心にさしかかった。比喩的にいえば、明かりが消えた地点が見えた。混沌の雲のなかにその地点を特定した(タイムズ紙の見出しみたいに聞こえたら勘弁してほしい)。混沌の雲が刑事たちの知恵をおおい隠し、まちがった方向に追いやったのだ」
博士はステッキでディックを指した。
「きみはいうだろう。『これはまったくの怠慢だ。どうして殺人者をさがすと同様に、ライフルを持った狙撃者をさがそうとはしなかったんだ?』と。そうだ。そのとおりだ。だがわしは胸に手を当てて答えよう。これはむだな努力になろうと」
ディックは博士を見つめた。
「むだな努力ですって? どうして?」
「それはライフルを発射した狙撃者と、ド・ヴィラを青酸で殺した毒殺者は同一人物だからだ」
またしても玄関のドアベルが頭上のブザーから激しく鳴った。ディックの頭はくらくらしていた。フェル博士の言葉は文字通りナンセンスに思えた。博士の考えは狂っている――なんでも可能性がある安手のスリラーみたいだ――サム・ド・ヴィラを撃った奇妙な弾丸には青酸が含まれ、それが被害者の腕を貫通したとでもいうのだろうか。
ドアベルがしつこく鳴る。レスリーは急いで玄関に出ようとした。ディックは腕をつかみ行かせまいとしたが、彼女はそれをふりはらった。彼は眼の隅でレスリーが玄関ドアを開けるのを見ていたが、訪問者がハドリー警視なのがわかってほっとして警戒を解いた。ディックはいま悩みあぐねてフェル博士に神経を集中し、自分だけいつも仲間はずれになっている感じの事件説明に迫ろうと暗中模索していた。
「はっきりといって下さい」ディックは嘆願した。「あなたのいう殺人者は?」
フェル博士は忍耐強くいった。
「サム・ド・ヴィラの殺人者は、彼の腕に青酸を皮下注射したのだ」
「居間でですか?」
「そう、居間でだ」
「それから?」
「それから殺人者は居間から出た……」
「部屋を密室にしてですか?」
「そうだ。部屋にすべて錠をかけた」
「でも、どうやって?」
「まず話を聞きなさい」フェル博士は沈着冷静にいった。「このとらえにくい人物の行動を追ってみよう。殺人者が青酸を注射すると、ド・ヴィラはただちに意識不明になり、一、二分で息が絶えた。殺人者はそれから部屋を出ると――」
(窓もドアも錠がかかっていた)
「――玄関口の電話できみを呼び出した。殺人者はきみがやってくるのを待って、一シリングを電気メーターに入れた。こうして居間に明かりがついた。
明かりがついたのを見はからうと、殺人者は道路をよこぎり石塀のうしろに隠れた。そして盗んだウインチェスター61ライフルで窓をめがけて撃った」
「死人にですか?」
「死人か、死にかけている人間にかだ」
「部屋はすでに内側から錠がかけられているのにですか?」
「そうだ」
「どうしてですか?」
「さもなければ、全体の計画に狂いが生じるからだ」フェル博士は答えた。
「おいおい!」突然怒りの声がとびこんできた。しばらく前からその声はかれらの注意をひこうとしていたようだ。ディックはやっとそれに気づいた。
ハドリー警視が食堂に入ってきた。警視は肩ごしに「待て」というと、うしろ手でドアをしめた。山高帽をかぶったハドリーの表情は冷たくきびしかった。その蒼白な翳でさえディックをまだ怯えさせるものがあった。ハドリーはふしくれだった両手をくみ関節をぼきぼき鳴らした。
「博士、まじめな話かね?」彼はきびしくいった。
フェル博士は昨夜の偽ハーヴェイ・ギルマン卿の催眠術みたいに、ディック・マーカムにじっと眼をすえたまま答えなかった。
「博士はあの女性が殺された場所にきてくれるとばかり思っていた。博士が何をしているかを見にここにやってきたが、その甲斐があったな」ハドリーの顔は蒼白いというより悪意ある灰色を帯びていた。「わたしが見つけたのは――」
「まだだ、ハドリー」フェル博士は首を少し回した。「まだにしてくれ」
「どういう意味ですか、まだとは? ミラーはわたしに……」
フェル博士は立ちあがると、気を鎮めてくれというそぶりをした。博士はハドリーを無視し、しっ! と追いはらい、まるでそこにいないかのようにふるまおうとしていた。そしてまだディックの方を向いていた。
「わしは最初ここへ入ると、部屋がいささか暑いといって、窓のカーテンを開けた。しかしそれがカーテンを開けた理由ではない。いいかね、窓は開いていたのだ。その窓を見たまえ」
その大声はだんだんと早くなった。フェル博士が窓にかなりの関心をもっていることをディックは確信した。博士は窓のほうを向いたり、はなれたりして話し、声を届かせようとしている。どんな話題でもいいようだ。
「窓を見てみなさい」博士は主張した。
「ねえ、博士」ハドリーはどなった。
「窓がどうかしたんですか?」ディック・マーカムが訊いた。三人の大声がぶつかりあって聞きずらかった。
「これは見てのとおり普通のサッシ窓だ。きみ、ハドリー、わしの家にもあるような窓だ。この窓はいま上に開けられている。わしがそれを下ろすと……そら」
窓は静かな音をたててしまった。
「このように窓をロックしていないときは、金属製の掛け金はうしろに倒れたままだ。窓ガラスとサッシの窓枠の合わせ目と平行に右を向いている。だがもし、わしが窓をロックしようとしたら?」
この時点でディックはレスリーが部屋にいないことにはじめて気づいた。
彼女は戻ってこなかった。ハドリーと一緒に入ってはこなかった。警視は灰色の顔色にきびしさを見せ、悪魔と取っ組みあいの勝負を挑もうとしている男みたいに立ちはだかっていた。ディックは首尾よく追い払ったはずの疑いが突如として心に逆流してきた。
「フェル博士、レスリーはどこですか?」
フェル博士は聞かなかったふりをした。おそらく耳もかさなかったのだ。
「もしわしが窓をロックしようとしたら? この掛け金のサム・グリップを持つ。手前に引いて左に回す。このようにな。止め金はぐるりと回ってソケットの中に入る。ほら、サッシに直角にわしの方に突き出す。これで窓は内側からロックされる」
「フェル博士、レスリーはどこに?」
「止め金が手前にまっすぐ突き出したのは見たろう? そのために……」
博士はもう続ける必要もなくなったので口をとじた。この事件の終章は際立った衝撃で家全体を震わせた。かれらが耳にしたのはまぎれもなく銃声だった。
フェル博士の大きな赤らんだ顔が窓の黒光りするガラスに悪夢のように反射していたが、ふりむきもしなかった。かれら三人は一瞬麻痺したように棒立ちになっていた。それからディックはおもむろに眼をあげ天井を見た。
銃声は二階であがったのを知った。ちょうど頭上にあるレスリーのベッドルームからだ。
「まったく話にならん!」ハドリーはほえた。彼はフェル博士をにらみつけ、その眼には疑惑以上のものが宿っていた。「博士のせいですぞ!」
フェル博士の声は窓ガラスに当たってくぐもって聞こえた。
「そのとおりだ。たしかにそうだ」
「自殺ですか?」
「そう思う。ほかに逃れる方法はなかった」
「そんなことはない!」ディック・マーカムは叫んだ。「うそだ!」
彼は動けるかどうか自信がなかった。足はすっかり萎えて視力さえおぼつかない。レスリーの姿、その褐色の瞳、その考え方、彼女への深い愛、自分は彼女を愛し続けるだろう――あの箴言《しんげん》がふたたび鳴りひびいた――死が二人をわかつまで。この言葉に愕然とし、怒りをおぼえ、身のおきどころのない渦巻に投げこまれた感じだった。
そしてドアに向かって走りだした。
ハドリーもつづいた。ふたりはもつれあって戸口に急ぎハドリーがドアを開けた。これはあまりに虚をつかれたできごとだったので、ディックには警視の声さえ上の空だった。
明るい光が玄関を照らしていた。バート・ミラーは体重にもかかわらず身のこなしが軽く、すでに奥の階段へと向かっていた。バートの足音は階段の絨緞のせいで聞こえなかった。あるいはディックが茫然自失だったせいかもしれない。
同じ悪夢のような状態、色も光もぼやけたなかでディックはハドリーを追って階段を上った。バート・ミラーはレスリーのベッドルームのとじたドアの前に口をあけて立ちつくしていた。ミラーもハドリーも大声をださなかった。
「このドアには錠がかかっています」
「それでは打ち破れ!」
「どうしてよいかわかりません。入るべきでしょうが……」
「打ち破れといっているんだ!」
それは薄いドアだった。ミラーはさがると大きな肩をそびやかした。それからドアを調べると名案が浮かんだ。彼がフットボールのキックオフの姿勢をとったので、ディックはわきにどいた。ミラーの十一インチ・ブーツの底はドアのノブ下に正確に当たった。ディックにはその音すら上の空だった。
フェル博士が握り手のついたステッキに身体をあずけながら鼻息も荒くえっちらおっちら階段を上がってきた。博士の前を足取りも軽く上がってきたのはレスリーだった。
レスリーは不意に立ち止まると、階段上の柱に手をおき眼を見開いた。
「ディック!」彼女は叫んだ。「いったい何があったの?」
バーン! ミラーのブーツの底がふたたびドアに激突した。
「どうしたというの、ディック? どうしてそんな眼でわたしを見るの?」
バーン! ふたたびミラーのブーツが当たった。
フェル博士はしんどそうにやっと巨体を階段に押しあげるとひと息ついた。ディックが考えていたことに博士ははじめてうすうす気づいた。博士はぼんやりしたまなざしを、レスリーからディック、またレスリーに戻し焦点を合わせた。山賊ひげの下で口を開き、頭をぐっとのけぞらしたので顎の重なりが見えた。
「おお」博士は巨人がなげくような悲痛な声でいった。「きみは考えてなかったのだな……思い浮かばなかったのだな?」
バーン! ミラーのブーツの最後のひと蹴りが決まった。錠は砕け、うすいドアはたわみ、ふっとぶと跳ねかえった。この衝撃で蝶番もはずれた。
ディックはフェル博士に答えなかった。彼がレスリーに腕をまわすとあまり強く抱きしめすぎたので悲鳴があがった。
フェル博士は靴をきしらせながら廊下をゆっくりと歩き、壊れたドアにハドリーと並んだ。ハドリー、ミラー、フェル博士は一緒にベッドルームをのぞきこんだ。室内の明かりは淡い色あいで、硝煙がのぞいている三人の顔に漂ってきた。フェル博士はどたどたと歩きまわり、また靴をきしらせ戻ってきた。
「きみたちも入って見たほうがいい。そこに横たわっているよ。きみたちがシンシア・ドルーの倒れているのを見つけた同じ場所だ」
ディックがやっと声を出した。
「シンシア! それではシンシアだったのか?」
「いや、そうじゃない」とフェル博士。
ディックのそんな考えに心から驚いたようすでフェル博士は彼の肩をつかんだ。そして彼を明かりがこぼれている戸口へ連れていった。ハドリーとミラーはかれらに道をあけた。フェル博士はディックに入るよううながした。
ベッドルームは掃除され飾りつけられていた。正面の窓のカーテンは夏の夜のため開け放たれており、きれいにかたづけられていた。ベッドの脚下に手足を伸ばし倒れた人影、そばにおかれた三八口径のオートマチック、まだかすかに呼吸している胸に広がる血のしみだけがその場に不似合いだった。フェル博士の声がディックの耳にひびいた。
それはこうだった。「二つの殺人を犯すことのできた唯一の人間がここにいる――ドクター・ヒュー・ミドルズワースだ」
第二十章
それは六月十一日、金曜の夜に起こったことである。十三日、日曜の午後、フェル博士、ハドリー、レスリー・グラント、ディック・マーカムの四人が警察車であの不吉な別荘に集まった。ハドリーは最終報告書をまとめており、細部をチェックする必要があった。そこで全員に事件の一部始終を聞いてもらうことになった。
レスリーとディックは居間に入るまで一言も口をきかなかった。ドクター・ミドルズワースの顔――悩み、耐え、天辺の薄くなった頭、その知的な顔も死んだように冷たくなっていた――がかれらの眼前にちらついていた。
居間に入るとフェル博士はソファを占め、ハドリーは大きな椅子に座り、書き物机にノートブックを広げていた。若いふたりは異口同音にいった。
「ドクター・ミドルズワースは、どうやってあんなことをしたんですか?」とディック。
「ドクター・ミドルズワースは、なぜあんなことをしたんですか? わたしに罪をきせようとするなんて!」とレスリー。
フェル博士は苦労して葉巻に火をつけ、マッチをあわてて消した。
「いや、いや、そうではないんだ」彼は打ち消した。
「どういう意味ですか?」
「ここで理解しておかなくてはならんのは」フェル博士は苦しげにいった。「ミス・グラントに罪をかぶせる意図は少しもなかったことだ。人々にそう信じこませようとしたんだ。そこにわしらもひっかかるところだった。わしらはド・ヴィラの殺人は、彼をハーヴェイ・ギルマン卿と頭から思いこんでいる人物による仕業と考えていた。犯人は被害者を本物の内務省病理学者として受け入れ、レスリー・グラントを毒殺者と信じていたとな。そのため――わかるかな?――最初からハーヴェイ卿を怪しみ、彼がペテン師であることを証明するためにわしを呼んだ人間をみな疑いもしなかった! その点にこの犯罪全体の巧妙さが存在する」
フェル博士は葉巻をくゆらすことはできなかった。博士はもう一本マッチをすって慎重に点火した。
「うむ、そうだ。この事件をきみたちに順を追って説明しよう。証拠が示すとおりにね。
金曜の朝とほうもない早い時間に、穏やかな知性ある男が困惑してヘイスティングスに向かって車をとばしていた。彼はわしをベッドからたたき起こすと、シックス・アッシェズの開業医ドクター・ヒュー・ミドルズワースと名乗った。昨夜のできごとを話して聞かせ、ハーヴェイ卿はペテン師でないかと疑う理由があると語った。
わしがハーヴェイ・ギルマン卿と面識があったかと? いかにも。本物のハーヴェイ卿は五十代の小柄で禿頭の人じゃなかったかな? あまり記憶はたしかではないが。それはそれとしてだ。ミドルズワースはわしにこういった。『このペテン師は友人マーカムをフィアンセのありもしないスキャンダルをネタに脅している。自分とシックス・アッシェズに行き、やつの仮面を暴いてほしい』とな」
フェル博士は暗い顔をした。
「もちろんわしは同意した。騎士道精神がうずいたのだ。わしは立ち上がり獅子吼《ししく》し、いまわしいものに悩む乙女と、苦しむ若者を救おうとした。そこでシックス・アッシェズのハイ・ストリートに彼の車で出かけた。ところが、この家でプライス少佐に迎えられ、ハーヴェイ・ギルマン卿は自分の作り話と同様の状況で死体で発見されたと聞かされた。
さて、淑女紳士諸君。わしはくりかえすが、このときミドルズワースは驚いてみせ、わしもびっくりした」
ここでフェル博士はひどくまじめな表情を見せ、葉巻の先でディックをさし、ソファから身をのりだした。
「いいかね、まず最初の仮説――ミス・グラントが『ハーヴェイ卿』のホラ話を信じた人間からスケープゴートにされたという説――これはミドルズワースから出たものだ。彼とわしは午前九時を少し回ったころこの家に着いた。そこできみとミスター・アーンショウに出会った。わしはその説がミドルズワースから出たものだと公言したのをはっきりと思い出す。きみは覚えているかね?」
ディックはうなずいた。
「はい。覚えています」
「わしはその仮説を受け入れた」フェル博士は両手を広げた。「そして考えてみた。一応は唯一の可能性ある説明に思えた。しかしたったひとつつまらないことがひっかかった。用心深くなり口をつぐむ前にそれに触れておいた。
さて、マーカム君。悪名高い女毒殺者についてのハーヴェイ卿の話はきみのために仕立てあげられたものだ。それはきみに合わせて作られたものであり、直接きみだけに向けられた。それは……その……」
「ぼくがだまされやすいからでしょう」ディックは苦々しげに口をはさんだ。
フェル博士は考えていた。
「だまされやすいからではない。もっと感情的なものだ。このようないまわしい話を聞くと、感情的にたちまち興奮し、絵空事をたやすく信じてしまう性癖。そうだ。それで充分だ。しかしペテン師は地方開業医の前で、こんなホラ話をどうしてさりげなく話せたのか? 医師は感情的な関わりもなく、信じやすくもなく、おまけに計画を台なしにしてしまうかもしれないのに?
ミドルズワースに対する彼の態度はいささか腑に落ちないもので、これはミドルズワース自身もそういっている。彼はきみたちにかけようとした催眠状態をミドルズワースにはこころみていない。ミドルズワースに印象づけようともしていないし、さほど注意をはらった様子もない。彼のことなど眼中になかったようだ」
ディックは立ち上がった。
「それはほんとうです」ディックは木曜夜のこの同じ部屋での場面を思い出してはっきりといった。「ド・ヴィラはミドルズワースを虫けらのように扱ったんです。ミドルズワースが話しだすと苛立って――何といったらいいか?――彼を無視したんです」
フェル博士は瞑想しながら葉巻をふかした。「こうしてわしの低俗な卑しい心にはかすかな疑惑が生まれた。ミドルズワースはうわべだけでなく多くのことを知っているのではないか、早くいえば一種の共犯者ではないかとの疑惑だった」
「共犯者ですって?」レスリーが叫んだ。
フェル博士は手をふって彼女を黙らせた。「もちろんこのときにはペテン師の仕掛けが何であるか推測もつかなかった。しかしミドルズワースについての疑問がたちまち強くなったのは、アーンショウのライフルの件にうながされたきみが」彼はディックをさして、「わしに前日ガーデン・パーティで起こったことを残らず話してくれたときだ。
その話からふたつのことがわかった。ひとつは占い師にふんしたペテン師の大成功で、彼は客に『あなたは性格はよいが気が強い。四旬節のあいだ投機には気をつけろ』などと漠然としたことをほのめかしたこと。いや、まったく、彼は村人についてたくさんの正確な情報や事実を知っていた。ペテン師はどこから膨大な情報を得ていたのか? その秘密に通じた何者かの存在を前提に考えると、早くいえば共犯者がいる。
ガーデン・パーティの話からわかった二番目のことはいくらかその証拠となる。それは消えたライフルの謎だ」
ディックはレスリーの手をとった。
「ライフルの紛失か、いまいましい! 博士はそれを盗んだのがミドルズワースだというんですね?」
「ああ、そうだ」
「でもどうやって? 射的台のそばにいたのはプライス少佐、ビル・アーンショウ、ドクター・ミドルズワース、レスリーとぼくだけだった。そのだれかがライフルを持ち出すことなど不可能だったのは誓ってもいい。ミドルズワースは衆人環視の中でド・ヴィラを運びだしたんですよ。どうやってライフルを持ち出せます? ビル・アーンショウとも話しましたが、ライフルはポケットに突っこんだり、上着の下に隠したりはできません」
「それはそうだろう。しかしゴルフバッグの中には隠せる。それをまったく人目につかず持ち出せる。きみの話ではミドルズワースはゴルフバッグを持っていたな」
長い沈黙が続いた。ハドリー警視は机で調書をきちんと書き終えると顔をあげ笑顔すら見せていた。ディックは重いゴルフバッグを肩にかつぎ、ハザードから戻ってきたミドルズワースをよく覚えていた――人目はひくが、だれも気にしないゴルフバッグ――ディックはバチあたりな言葉を口にした。
「この老人もときにはひとつ、ふたつ当たることもあるのさ」ハドリーはフェル博士を指さした。「それで放し飼いにしてあるんだ」
「ありがとさん」フェル博士はうわの空でいった。やぶにらみの眼を細めて葉巻を見てからディックに視線を戻した。
「ミドルズワースはかなり早い時期だったが、極めておかしな、うさんくさい本性を見せていた。彼はライフルを盗める唯一の人間だった。そしてそれから……きみとミドルズワースは彼の車で村に戻って行った。彼は手術のため、きみはミス・グラントのところへ。わしはこの家に入った」博士はさっと手をまわした。「はじめて犯行現場を見るためにな。ここで発見したのは人間の独創性に対する心からの敬意をかきたてるものだった。密室のトリックが働いた方法をわしははっきり認識した」
「それで?」レスリーは尋ねた。「どのようにして?」
フェル博士はすぐには返答しなかった。
「この部屋のさまざまなものをいじりまわしているあいだにハドリーが到着した。ハドリーは死体を一目見ていった。『なんと、これはサム・ド・ヴィラではないか!』彼はそれからきみがあとで聞かされたように、ド・ヴィラの経歴をざっと話してくれた。彼の話の中のあることで、わしらの追っている人物がミドルズワースなのを確信した。それはサム・ド・ヴィラが実際に医学を修めていたという話だ」
「六か月以内に医師の免許をとる手はずだった」ハドリーは補足した。
ふたたびフェル博士は葉巻をディックに向けた。
「考えてみたまえ。わしは早朝ミドルズワースに尋ねた。わしのいるところで、きみもミドルズワースに訊いた。ハーヴェイ・ギルマン卿はペテン師ではないかと疑いを抱いた最初は何だったのか、とね。覚えているか?」
「ええ」
「ミドルズワースの答えはたしかこのようなものだった。彼は自称ハーヴェイ卿に最近の有名な事件について質問したといった。『ハーヴェイ卿はもったいぶって、心臓には心室、心房が一つずつあるという。それがちょっとひっかかった』ミドルズワースはわしらにそう伝えた。『どんな医学生だって、心室と心房が二つずつあることは知っている』と。それはありえない誤りだった。ハーヴェイ・ギルマン卿をまじめに演じたサム・ド・ヴィラがそんな医学的まちがいを仕出かすはずはない。それはやつらしくない。理屈にあわんことだ。それではミドルズワースがうそをついていたのだ」
「しかしどうしてですか?」
ここでフェル博士はノートブックの頁に鉛筆をころがし続けているハドリーをちらっと見た。
「ミドルズワースの供述書があったな、ハドリー?」
ハドリーは椅子のそばからブリーフケースをとりあげると開いた。青いホルダーからうすいタイプ用紙をとりだした。最後には走り書きの署名があった。彼はそれをフェル博士に手渡した。
明るい陽光が二つの窓を通して部屋にさしこんでいたが、片方の窓はガラスが割れ、もう一方は弾丸の孔が開いていた。フェル博士の表情は憂鬱げに沈み、しかめ面をした。
「ミドルズワースはこれを口述した」博士は説明した。「金曜の夜、亡くなる前にな。いまわしい話といっていい。しかしそれは理解できる、いつわりのない、恐ろしい人間の物語だ」
「そんな!」ディック・マーカムは叫んだ。「なんてことだ。ぼくはヒュー・ミドルズワースが好きだった」
「それはわしもだ。ある意味ではきみが好きなのも当然だ。サム・ド・ヴィラのような悪党を世の中から除いたことは感謝に値する。もっとも血迷って罪もない女郵便局長を撃つようなことをしなければな」
「博士は彼をかばっていたのではと思ったのですが?」ハドリーは冷ややかに尋ねた。「彼を自殺させたのですな?」
フェル博士はこれを無視した。
「ミドルズワースの話はまったく単純なものだった。サム・ド・ヴィラのような手合いは、大きな勝負に出るときは何でも武器に使う。ゆすりもそのひとつだとハドリーがいっていたことを思い出さないか?」
「この事件でゆすりがあったのですか?」レスリーは尋ねた。
フェル博士は手でタイプした供述書の重みをはかった。「ヒュー・ミドルズワースはかなり世間体を保つのが困難な立場にいた。彼は体面をおもんぱかった。あなたと同様に――」フェル博士はレスリーを見て咳ばらいをし、また眼をそらした。「地方で名門の妻を持ち、大家族がいて、多くの負債があった。しかし世間体を維持するのは骨が折れた。シックス・アッシェズにくる九年前、金に困って自暴自棄になり、ある仕事についた。それはロンドンの裏街で、非合法な手術を専門にする私立の産婦人科病院での仕事だった。サム・ド・ヴィラはそれをかぎつけ証拠をつかんだ。
サムはレスリーのジュエリーを狙い、この地にやってきてミドルズワースにくらいついた。ミドルズワースはサムが自分のような医学者とは思わなかった。単なる口先のうまい悪党とぐらいしか知らなかった。
『なあ、おれは名前を変えてシックス・アッシェズにきたんだ』サムはいった。『狙いはあのジュエリーだ。あんたは協力者になってくれ』すでに困惑していたミドルズワースはさらに絶望した。『わたしは協力者になんかなるつもりはない』ミドルズワースはいった。『おまえがジュエリーと消えれば、わたしが関係していたことが噂になる。ほかの秘密をもらされた方がまだいい。だから協力者になどなりたくない』『そうはいかない』サムは冷たくいった。『あんたには助けてもらわなくてはな。まずこの村と住人の秘密を教えてもらおうじゃないか』そういった背景があって、すべてはこの悪賢いミスター・ド・ヴィラの知るところとなった。リチャード・マーカムとレスリー・グラントの熱烈な恋もな。婚約がさしせまっており確実だった。センセーショナルな想像力にみちた若き劇作家。その芝居は殺人者、特に毒殺者の心理を扱ったものだった……
サムは巧妙かつ簡単な計画を編み出した。この家に居を構え、絶対に秘密の条件で、あつかましくも郡の警察署長にハーヴェイ・ギルマン卿として自己紹介した。
ガーデン・パーティの当日がやってきた。レスリー・グラントとリチャード・マーカムの婚約のニュースはあたりに広がっていた。ミセス・ラックリーの口から金曜の晩餐に招待のニュースを聞いた。ガーデン・パーティでサムは占い師を演じ、いよいよ行動のときだと決心した。
自信満々のサムが読めなかったのは、ヒュー・ミドルズワースが自分と同様に頭が切れることだった。ミドルズワースは元気がなく落ちこんでいた。彼は過去を忘れたかった。しかしド・ヴィラはそれをネタに嫌がらせをした。ここにいるかぎりこの悪党に悩まされ続ける。いつも脅迫されていた。安眠を妨げられる悪夢の日々で、自分の体面が常に危機にさらされていた……」
ふたたびフェル博士は不快そうに大きな咳ばらいをし、レスリーから眼をそらした。「その気持ちが理解できるかね、ミス・グラント?」
「ええ」と答えてレスリーは身をふるわせた。
「ミドルズワースは決心した。ド・ヴィラを処分するしかない。木曜の午後、ガーデン・パーティが終わったあとに彼を殺す機会がうまれた。さてその計画の過程を見てみよう」
眼鏡をかけなおすと葉巻の灰をふりおとし、フェル博士はタイプした供述書を手に取り文章に指を走らせた。相当する箇所を探しながらうなった。それから大声で読みあげた。
……ド・ヴィラは占い師のテントでミス・グラントの気持ちをかなり動揺させた。そのあと射的場でプライス少佐がたまたま彼女の腕に触れたので、悲鳴を上げた彼女はライフルの引き金をひいた。それが事故だったことはたしかだ。
「あれは偶然だったわ!」レスリーは叫んだ。
……わたしがすぐにド・ヴィラを診察すると、それは浅傷にすぎなかった。しかし彼はショックで気絶し、みんなは死にかけていると思っていた。もし彼をひとりにできたら、そのときは殺せる方法を知っていた。そこでライフルをこっそりゴルフバッグに入れ、プライス少佐とド・ヴィラを車に運びこむときに、バッグを肩にかけて持ち出した。わたしは彼を自宅に運び、麻酔をほどこして弾丸を摘出し、同じライフルで殺すつもりだった。そうすれば同じ弾丸だから、人は事故死と思うだろう
「そう思いこんだろうな!」ディックはいった。
……しかしことはうまく運ばなかった。わたしがどう説得しても、プライス少佐をその場から追いはらうことはできなかった。そこで別の計画を考えざるをえなくなった。
フェル博士は手中の供述書の重さをたしかめるようにすると、座っているソファのわきにおいた。
「そして彼は別のことを考えた。実際の計画は――やすやすと彼の手中に――納まった。それは、彼とディック、ド・ヴィラがこの部屋に集まった木曜の夜のことだった。サムはまず悪名高い毒殺者の恐ろしい物語を聞かせ、金庫のジュエリーを手に入れる巧妙な計画をすすめた。ミドルズワースは黙ってそばに座っていた。しかしその席でド・ヴィラを殺して取り除く方法をほのめかした者がいた」
「だれがですか?」ディックは尋ねた。
「彼自身だ」
「サム・ド・ヴィラが?」
「ミドルズワースはそう述べている。あの場を思い浮かべられるかね?」
再現するのは簡単だった。ド・ヴィラは黄褐色のシェイド・ランプの光を浴びながら安楽椅子に座っていた。ミドルズワースはからのパイプをくわえながら柳枝の椅子に座り、黙って考えにふけっていた。窓の外は夏の夜で、しめきっていない花模様の粗生地カーテンが風にさらさら鳴っていた。ミドルズワースの思案顔がいまわしいほどはっきりと頭に浮かんできた。
「きみたちは密室について激しく議論した。ド・ヴィラは弾丸がテントを貫通して彼に当たった事件にふれて、壁に弾孔があいているのは密室とはいえないといった。そうだったね?」
「ええ」
「しばらくしてミドルズワースは外で物音を聞いた。彼は立ち上がると窓辺に行きカーテンを開き見た。それから首をひっこめ――きみに背中を向け窓を見つめ立ちつくしていた。それはまるで彼に何か起こったかのようだった。そこまではいいね?」
「ええ」
「ところで」フェル博士はやさしく促した。「ミドルズワースは窓を向いて何を見ていたか?」
フェル博士は苦労して立ちあがった。彼はどたどたと部屋をよぎり、まだ施錠してある窓に向かった。下の窓ガラスにははっきり貫通した弾孔が見え、金属製の掛け金がかかっている。
フェル博士はそれを指さした。
「ご存知のようにポープ大佐はいつも窓にガーゼの幕を張っていた――ときには上の窓へ、ときには下の窓へと――その幕はピンでとめていた。したがって、そこにわしらは何を見つけたか? アーンショウがすすんで指摘したように無数の小さなピン穴だった。窓枠にびっしりとピン穴がうがたれていた。それはいいね?」
「もちろんです。しかし……」
「窓枠に別のピンをさすことはできるね? 引き抜いてもその跡は決して気づかれることがない」
「そうですが、しかし……」
「ミドルズワースは二重のインスピレーションをえた。彼が何をしたか、いまでははっきりといえる。
サム・ド・ヴィラが就寝前に大量のルミナールを飲むことはほぼまちがいなかった。そこでミドルズワースはこの家を出ると車できみを自宅に送った。きみがウイスキーにふれたときだけ警戒の色を見せ、飲まないでくれと頼んだ……」
「どうしてですか?」
「この計画にこよなくきみを必要としたからだ。ミドルズワースは帰宅してからある準備をした。手もとに皮下注射器を持っていそうな人間はだれか? 医師だ。ソドバリー・クロス毒物事件で見たとおり、青酸はそれぞれは無害な素材から抽出できる〔カーの長編『緑のカプセルの謎』参照〕。しかしふつう手もとに青酸を持っていそうな人間は? これも医師だ。これらの準備はそのときには彼に関係なかった。先になすべきことがあった。真夜中を少しすぎたころにはシックス・アッシェズも眠りについていた」フェル博士は供述書をとりあげたが、またおいた。「彼はゆっくりともういちどこの家に向かった。家は暗かったが入るのは簡単だった。ドアに錠はかけていなかったし、窓も同じだった。のぞみどおりサム・ド・ヴィラがベッドルームで睡眠薬をのんで寝ているのを見つけた。こいつはしめた!
彼は居間にいき電灯をつけた。そして部屋の模様がえをはじめた――まずハドリーがいま座っている大きな安楽椅子に目をつけた――翌日夜明けに事件を起こすのがねらいだった。両方の窓をしめたがカーテンは両側に広く開け放した。
次にどんな手をうったかわかろう? ミドルズワースはウインチェスター61ライフルを持ち小路をよこぎると向い側の石塀にのぼった。注意深く位置を定め――そのとき時刻はまだ真夜中を少しすぎたばかりだった――この窓を通して明かりのついた空き部屋に弾丸を撃ちこんだ。
それが実際に撃った時間だった。弾丸は窓を貫通し、暖炉上のウオータールーの戦いの絵を傷つけ壁の中にめりこんだ。
ここは真夜中すぎには近所から孤立している。銃声を聞きつける者がいるとは思えなかった。二階に睡眠薬で眠っているサム・ド・ヴィラもそうだ。実をいえばアッシュ卿は自邸でたまたま真夜中の銃声を聞いていた。きみにはあとで話したと卿はいっておられた」とフェル博士はふたたびディックを見た。「翌朝きみに会ったときだ。しかしアッシュ卿は朝がた五時すぎに聞いたもうひとつの銃声と混同されている。ミドルズワースにとって計画の第一段階は成功だった。この家のすべての窓のカーテンをしめ、明け方前に料金分が使い尽くされるように電灯をのこらず点けた。そのあと急いで帰宅した。
まだ殺人はおこなわれていない。これからだった。
ところがミドルズワースの計画を挫折させそうなできごとが起こった。帰宅して早々に病人が出たという電話を受けたからだ。アッシュ・ホールからでメイドの一人が急病で倒れたというのだ。しかしそれは彼の目的にもってこいだった。彼はそこに目をつけた。
彼は朝五時二十分前にアッシュ・ホールを出た――アッシュ卿にはわざとヘイスティングスに直行するつもりといっておいた――そして車でハイ・ストリートへでかけた。そこでしばらく車をはなれると、歩いてもういちどギャロウズ・レーンに行った。灰色がかった朝靄の中をここにやってきたミドルズワースの姿が眼にうかぶよ。彼の心はその手と同様に冷え冷えとしていたろうな。
もちろんその前にマーカム君の家を電灯の点いた窓ごしにちらっと見て、机にまだ封を切らないウイスキーとサイフォンを並べ、ソファで居眠りをしているマーカム君を見ただろう。ミドルズワースはもういちどたしかめ、それからこの家をめざした。
電灯はだいぶ前に料金切れで消えていた。ここは真っ暗で冷え冷えとしていた。殺人と錯覚の時間だった。ミドルズワースはド・ヴィラがまだ睡眠薬で眠っているのを確認した。被害者が眼をさませば、跡が残らないようにガウンのやわらかな紐で縛り上げ、ハンカチと絆創膏で猿ぐつわをかます準備をしていた。
しかしその必要はなかった。彼はド・ヴィラを階下に降ろし――ド・ヴィラは小柄で、ミドルズワースは大男だ――その安楽椅子にもたせかけた。さきほど撃った弾道上にド・ヴィラの頭をおいた。
そのときちょうど夜明けの最初の妖しい光がこの部屋を照らしだした。彼はド・ヴィラのガウンの袖をまくりあげ、手袋をした手で青酸液をその左腕に注射した」
フェル博士は言葉を切った。
暑い午後にもかかわらずディック・マーカムは心が冷たくなった。夜明けがたに動く影が、この部屋でのいまわしい影が眼にうかんだ。手袋をした医師、けいれんする死体、外のこずえの鳥たちのざわめきを。
「彼は次にこの部屋を密室にした。どうしてそれができたのかわかるかね? いまでは窓に弾孔があったからだ。この密閉された部屋について少し語ろう。実をいえばこれは密室ではなかった。そこが重要な点だ。ド・ヴィラは壁に弾孔があったら密室にならないといったとき、本当のことをいっていた。
ミドルズワースはピンの箱を手に取ると、死者の左側の床にピンをうまく散らした。そしてドアに内側から錠をかけた。最後に彼は……やってもらえるかね、ハドリー」
ハドリー警視は冷たくうなずいて立ちあがると部屋を出た。
「わしは金曜の夜、窓について少しばかりおしゃべりしたが、この特別な窓と弾孔を見てほしい。弾孔は――いまわしが改めたように――二つの窓枠が重なる三インチ下のところ、その右に掛け金がある。もってこいだ。いま手もとにある同じピンを取り窓枠に突き刺す――わしと向かいあいの窓枠部、上下の窓が接した窓枠――弾孔の上で少し左だ。それから黒い太糸を一本、こんなやつだ」フェル博士はたっぷりしたポケットから手品のように取り出した。「これはトリック説明に用意しておいたものだ」
ハドリー警視の姿が窓の外に見えた。ディックは前から気づいていたが窓の敷居の高さは大人の腰くらいだった。
フェル博士はグリップを右に回し、窓の施錠をはずし、もとに戻した。長い糸を掛け金のグリップにくぐらせて輪を作った。糸の先を左側に伸ばし、まるで滑車のようにピンをひとまわりさせた。それから糸の両端を下に垂らし、弾孔をくぐらせて窓の外に出した。
「わしの体重は標準から逸脱しているのでな」フェル博士は弁解がましくいった。「この実験が自分でやれないのを勘弁してほしい。ともかく窓を上げてみよう。こんなふうに」
博士が窓を押し上げると長い糸の輪も一緒に伸びたが、その位置は変わらなかった。「いいかね、ミドルズワースがしたように、わしが窓から出たと考えてくれ。外に出たわしは窓をしめる」かすかなバタンという音がして窓が下りた。「これで準備完了だ。さて、窓の外に垂らしてある糸の両端を握って、ハドリーがしているように下に引っ張るのだ。糸の張力でピンが滑車のような働きをし、窓の掛け金のグリップは外側に、手前の方に、ゆっくりと直角になるまで動き、施錠の位置に納まる。窓は完全にロックされる。
いちどグリップが納まると、非常に強く下方へ引く糸の力がピンの滑車にかかり、ピンは窓枠からはじけ飛ぶ。それは部屋の床に落ち、はずんで転がる。窓の外に蛇のように垂れて手中にある糸の一端を引き回収する。そうすればもう跡も残らない。もちろんピンは部屋の中にあるだろう。しかしあらかじめピン箱からピンを床にばらまいておけば気づかれない。いいかな、ハドリー!」
窓の掛け金のグリップは糸に引かれて施錠位置にすべりこんでいた。窓の外ではハドリーがぐいっと糸を強くたぐった。ピンが引っ張られてゆるみ、敷居の内側に落ち、床にころがった。いまカーペットの上にある……
「よく見てくれ」フェル博士は指さした。「あのピンは金曜の朝、ここで見つけた箱からこぼれたように見える。あの午後ここにいるあいだ、わしがそれに眼をつけていたのを覚えているだろうな。ハドリーは危なく踏んづけるところだったが」
糸の端をにぎったハドリーはいま窓の外で糸を手中にたぐっていた。
「これがミドルズワースの仕掛けたトリックのすべてだ。説明には数分かかるが実行には三十秒もあればいい。こうして部屋は密閉された。ミドルズワースは最後のもっとも大事な作業の準備をしていた――それはきみを納得させることだ、マーカム君。きみがくるまで窓に弾孔はなかったということをな。
彼は玄関の電話で不気味な伝言をささやいた。それはきみを引き寄せるもので、効果はあった。きみがここまでくるのにどのくらいかかるか計算した。そして電気メーターに一シリング貨を入れ、この部屋の電灯をつけっ放しにした。彼は小路をよこぎって逃げ――少しはなれた東の方、果樹園から雑木林へと走った。そこでミス・ドルーに目撃された――それですっかり準備はできた。きみの視界に入ったとき、彼は石塀のそばでライフルをがちゃがちゃといわせ、わざと人目をひく行動をした。きみの注意をひきつけたんだ。きみが狙撃者に声をかけると、彼は窓に向かって撃った……そうだろう?」
「空砲だったのですね」ディックはつけ加えた。
「空砲はプライス少佐のいたずらにアーンショウがひっかかったことにヒントをえている。ミドルズワースはそれを奇貨として利用したんだ。
さて、マーカム君は弾丸が窓の中で『跳ね上がった』といったが、そのとき弾孔を見たと頭から信じこんでいたのだ。金曜の午後きみに尋ねたとき、打破すべきだったのはその点だ。きみに質問したときわしはたぶん少しいらいらしていた。ハドリーが話の要点に口をはさんだときわしは腹が立って、よほど彼の面目を失墜させてやろうとしたくらいだ。
しかし実際にはきみはそうしたものをまったく見なかったのだ。説明を聞いてこれは明らかになった。わしがうながすときみはこういった。『ぼくがライフルを見ていると発射されました。そして、その距離でも窓に弾孔があくのが見えたんです』
見えたといったがそれは別物だ。きみの眼は当然ライフルにいっていたはずだ。撃ったのは見た。それはいい。しかし窓に弾孔があくのが見えたというのには、ライフルの弾丸の速度より早く首を左から右に動かすことが前提だ。これは明らかに不可能なことだ。
わしは心からほっとした。そのあとミス・シンシア・ドルーから道路を走ってよこぎる人影の話を聞いたとき、わしにはこの事件が完全に見えたような気がした。しかしその難しいときにハドリーの妨害が……」
部屋に戻りかけたハドリー警視はしばし怒りで立ちつくした。
「わたしの妨害ですと?」彼はおうむ返しにいった。
「そうだ」
「それをいうなら博士はその前に自分の推理を教えてくれればよかった。そうしたら事態はもう少しうまくいったかもしれない。博士は先走りすぎてはいませんかね?」とハドリー。
フェル博士の葉巻の火は消えていた。眼をしばたたかせてそれを見ると、またどたどたとソファに戻り腰をおろした。
「話すことはもうない。時計の針を金曜の朝十時に戻すことが許されるなら、あいまいな箇所も一掃して終われると思う。ハドリーの到着直前、はじめてこの部屋を調べたときにわしは密室の構成方法を見抜いた。きみにも話したとおり、ハドリーは死者の身元に関する情報をもってやってきたが、わしの関心はすでにドクター・ミドルズワースに移っていた。わしがアッシュ・ホールに出発する直前に……」
「どうしてそれほどホールへ行きたかったんですか?」ディックは尋ねた。
「あの家はメイドの病気で夜通し起きていた。それで何か興味あることを聞いた者がいるのではないか。はたしてアッシュ卿が真夜中すぎに発砲音を聞いていた。そこに行くあいだに村の郵便局長はだれか調べてくれとハドリーに頼んだ……」
「四、五人の村人が買っていた切手にすべて別々のしるしをつけさせるためにね。博士がミドルズワースに的を絞ったのは夜まで気づかなかった。わたしが目をつけていたのはミス・ドルー、でなければプライス少佐か、ミスター・アーンショウか、さもなければ……」ハドリーはうなった。
「わたし?」レスリーは静かに訊いた。
「あるいはアッシュ卿自身を」ハドリーはそういってレスリーに笑いかけた。「村人すべてに罠をかけるこのトリックは――」
「そう、わしはまちがっていたかもしれない」フェル博士は平然といってのけた。「しかしその後のことはすべてわしが正しかったと確信を抱かせるものだった。以前サム・ド・ヴィラが聖書のセールスマンとしてアッシュ・ホールだけにやってきたことをアッシュ卿から聞いた。きみも同席していたな。自分がどう村に受け入れられるか探りにきたんだといっていい。この地区の指導的人物の値踏みも兼ねてな。アッシュ卿と話しただけでは村人の情報をすべて得ることはできない。それでわしは共犯者がいるはずだという信念をかためた。
あの夕方マーカム君と話したあと、わしは事件の真相に到達するためのさまざまな示唆をきみに与えてきた。ミドルズワースの供述書によると、彼はひと綴りの切手を買っていたので切手に仕掛けたトリックに気づいた。気の毒なローラは切手に不器用なしるしをつけていた。
彼はすでにわしや全村人に手紙を送り、ミス・グラントが有名な毒殺者であることを告発し、その犯行方法の手がかり――はっきりとしたものではなくあくまで暗示としてだが――を示唆していた。彼は自分がでっちあげた筋書に根拠を与える必要があった、わかるかね? レスリー・グラントには、いまだにハーヴェイ・ギルマン卿なる人物を信じている敵がおり、彼女を罠にはめようとしていることを見せなければならない。それは彼にできる唯一の方法で――彼の見こみでは――自分自身の疑いをそらすもっともたしかな手段だった。
彼は中傷の手紙を書いた。それから切手の目印に気がついて、必死になって手紙を取り戻そうとした。その結果ローラ・フェザーズが死んだのだ」
「しかしその手紙は実際の殺人方法を示してはいなかったんでしょう?」
「うむ、そうだ。それはあまりにも危険であり、また必要なかった。彼のなすべきことはミス・グラントを罠に陥れようとしている者がいることをくり返し宣伝することだった。しかし切手の目印でつまずいた。現場をなんとか逃れたが別々の方向からきた三人に囲まれて、やむなくミス・グラントの家にとびこんだ。
わしは玄関に向かうときベッドルームに彼をちらっと見た気がした。マーカム君の話はそれを裏づけた。そこでわしはこの家に腰をすえた。彼は逃げ出すわけにはいかなくなった。しかし……彼には話を聞かせた。わしの考えを耳に入れさせた。そして死なせてやったのだ。これで説明は終わりだ」
長い沈黙があった。そのあいだ日光は部屋にねむけを催させるほど暖かかった。
「終わりではありませんよ。シンシアのことがあります」ディックはいった。「木曜の夜に窓の外で聞き耳を立てていた人物。レスリーについてのド・ヴィラの話を立ち聞きしていたのは、シンシアではありませんか?」
「うむ、そうとも。ミス・ドルーはいい娘だが少々変わっている」
「レスリーはベッドルームで口論になったとき、彼女を鏡で殴ったりはしなかったのだろう?」
「もちろんそんなことしないわ」レスリーは叫んだ。
二人はそれほどはなれず椅子に座っていた。ディックは勇気をふるいおこして最後の質問に備えた。
「あなたは」レスリーは尋ねた。「そのあとわたしがどんなことを聞かされたか考えているのね? 夜中の三時にわたしが家を出て、前庭に立っていたのを見た人がいるということでしょう? それで結局わたしが犯人かもしれないという恐ろしい考えにとりつかれたのね」
「うーん……かならずしも犯人とは思わなかったが、しかし――」
「あなたの態度はそうだったわ。いまさら否定するのは卑怯よ」
「わかったよ、レスリー。正直に告白する」
「あなたを責める気になれないわ、ディック。その説明がばかばかしすぎてむしろ悲しかった。でもしかたないわ。そのことが悩みのたねだったの。いつも気がかりだった。大勢の医師にかかったけどみんなくよくよするなといってくれた。緊張しすぎで考えこんでしまい、ささいなことを大げさに扱ってしまう、わたしのような人間にはよく起こることですって。
でもわたしはあの人を殺してしまったと思ってたの。わかるでしょう? ライフルが暴発してハーヴェイ・ギルマン卿を死なせてしまったと。そしてそれを夢にみたの。夢はとめられない。恐ろしい夜だった。目がさめるとぐったりとしていた。それでまたやってしまったと思った。でも何が起こったのか、どこにいたのか、よくわからなかった。別のふだん着が椅子にかけてあるのを見たとき――それはあの朝、眼を覚まし、あれを見たとき」
「ねえ。きみが話していることは……?」ディックはいった。
「それはだめ押しの悪夢だった。ただの夢遊病だけど。わたしがここにきたことはたしかよ。わたしのどこが悪かったのか、彼がどれほどひどい傷を負ったのか知ろうとしたのかも。でも思い出せない。恐ろしいのはわたしが殺人者だったかもしれないということ。たとえそうでも知るよしもなかった。あなたにとってわたしはあまりふさわしい女性でなかったでしょう? リリー・ジュエルの娘で、神経質で、癇癪《かんしゃく》持ちで、夢中歩行に悩んでいて、そのために……」
ディックは彼女に手をさしだした。
「神経過敏なのはきみの性格だ。ぼくはそれが好きだよ。フェル博士の口癖のように、ぼくが胸に手を当てて約束できるひとつのことがある。もうきみは二度と夢遊病に悩まされることはないよ」
「どうして?」
「ぼくが」ディック・マーカムはいった。「きっとそうするよ」(完)
解説
* 作品中のトリックに触れている部分がありますのでご注意下さい。
本書『死が二人をわかつまで』は、第二次世界大戦もようやく終結を迎えようとしていた一九四四年に発表されました。ただし、作中の事件が起きたのはその少し前、大戦直前に設定されています。カー自身のお気に入りの作品でもあり〔一九六三年にスウェーデンのミステリ評論家ヤン・ブロベリから、自作の不可能犯罪物で気に入っている長篇をあげてほしいと頼まれて、カーは『死が二人をわかつまで』『火よ燃えろ!』『囁く影』『青銅ランプの呪い』の四作をあげている〕、九五年に刊行された評伝『ジョン・ディクスン・カー――奇蹟を解く男』の中でダグラス・G・グリーンも推奨している、カー中期の傑作のひとつといえましょう。邦訳は、かつて一九六〇年に『毒殺魔』という訳題で刊行されていましたが、すでに絶版となって久しく、今回の新訳によって初めて本書を手にする読者も多いと思います。
この作品を論じるにあたっては、一九四〇年代におけるカーの作風の変化について触れなくてはなりませんが、そのまえにまず、戦時下のカーの動向について、グリーンの評伝を参考にしながら簡単に紹介してみたいと思います。
[戦時下のジョン・ディクスン・カー]
大戦が始まった一九三九年、カーはイギリスのBBC放送の有力者で探偵小説の著作もあるヴァル・ギールグッドに依頼され、「誰がマシュー・コービンを殺したか」というラジオ・ドラマを執筆しています。このドラマはその年の年末から翌年にかけて放送されますが、これを皮切りに四〇年代のカーは、BBCやアメリカのCBS向けに、ラジオ・ドラマの台本を相当数書くことになります。カーのラジオ・ドラマは百本以上もあり、とくにこの時期のカーにとっては、ラジオの仕事は作家生活の中心をしめていたといってもいいくらいです。
一九三〇〜四〇年代は探偵小説ばかりでなくラジオの黄金時代でもありました。アメリカで一九二〇年に始まったラジオ放送はたちまち大産業に発展し、ニュース、スポーツ中継、音楽番組、ドラマなど、テレビ登場以前の時代における家庭内の娯楽の王座をしめていました。ちなみに、オーソン・ウェルズのドラマ「宇宙戦争」が全米に大パニックを引き起こした有名な事件は、一九三八年のできごとです。
この時代、カーの他にも多くのミステリ作家がラジオ・ドラマの脚本を手がけており、エラリー・クイーン、ドロシー・セイヤーズ、F・W・クロフツ、アガサ・クリスティなどの大御所も名前をつらねていますが、そのなかでもカーのラジオ・ドラマを構成する手腕はひときわ抜きんでていました。彼の劇的な場面を描き出す才能、生き生きとした人物、聴き手の想像をかきたてる雰囲気描写といった長所が、ラジオ・ドラマでは十二分に発揮されたのです。カーが脚本を担当したBBCの「恐怖との契約」シリーズや、CBSの「サスペンス」シリーズは、ミステリ・ドラマの伝説的番組として知られています。その見事な作劇術は、邦訳もあるグリーン編纂の短篇集 The Door to Doom and Other Detections(『カー短篇全集4・5』創元推理文庫)に収録された「B13号船室」他でみることができます。
いっぽう、その間にも戦局は次第に激しさを増し、一九四〇年半ばまでにアメリカは、戦闘区域に住む自国民にたいして帰国勧告をあたえました。しかし、カーはそれを無視してイギリスに踏みとどまりました。その年の九月には、ドイツ軍のロンドン空襲で、カーは家を爆弾によって破壊されますが、そのとき屋内にいたカー夫妻は奇蹟的にかすり傷ひとつ負わなかったといいます。家を失ったカーは妻クラリスをイングランド西部の町キングズウッドの実家に疎開させ、自分はひとりロンドンでクラブ住まいを続けますが、そのクラブもまた爆撃にあい、ついにカーもロンドンを離れクラリスと合流することになります。そんななかで、この年の十一月、次女ボニータが生まれています。
一九四一年から翌年にかけてカーは、BBCでプロパガンダ用のドラマを十二本書いています。たとえば、空襲に注意するようにという政府の勧告に従わなかった都市の壊滅を描く「英国は燃えず」、もぐりの供給元から商品を買うことの危険性を国民に警告した「闇市場」、女性の軍務への志願を呼びかける「四人の賢い少女」といった作品ですが、カーはこうしたプロパガンダ・ドラマにおいても、ストーリーの面白さや意外な結末を忘れてはいませんでした。
一九四二年八月、前年十二月に参戦していたアメリカは、カーにたいして帰国して軍務登録の義務をはたすよう命じ、カー夫妻は船で合衆国に向かいます。アメリカに落ちつくとカーはニューヨーク州クロトン・オン・ハドスンに家を借り、十二月には三女メアリーが生まれました。かねてから文通していたフレデリック・ダネイと対面し、ミステリについての議論をかわし、交友を深めたのもこの時期のことです。以後、ダネイは前年創刊した『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に、カーの短篇・ラジオ脚本をたびたび掲載することになります。そのダネイを通じて、カーは今度はアメリカCBS放送のためにラジオ・ドラマを書くことになります。そのミステリ・シリーズ「サスペンス」は大好評を得て、カーが降りたあとも二十年以上つづいた同局の看板番組となりました。
何度も空襲にあい、転居、大西洋をはさんだ移動をくりかえしながらも、この時期のカーは精力的に作品を発表しています。一九四〇年から四四年の五年間に、長篇十一冊を刊行、加えていまも述べたように相当量のラジオ・ドラマを執筆しています。しかもそのなかには、『皇帝のかぎ煙草入れ』(四二)『貴婦人として死す』(四三)『爬虫類館の殺人』(四四)といったカーの代表作が含まれているのですから、この間の充実ぶりがうかがえます。
これらの長篇のうち半分ほどは、事件の背景を戦前のイギリスに設定していますが、残りはなんらかのかたちで戦争の影を宿しています。とくに『九人と死体で十人だ』(四〇)は、ドイツ潜水艦の襲撃におびえながらニューヨークからロンドンへ向かう船の上で事件が起きる、カー自身の体験をもとにした作品であり、『爬虫類館の殺人』では空襲下のロンドンという状況設定が、トリック成立に大きな意味あいをもっています。現実から遊離した点をしばしば指摘されるカー作品ですが、この時代の作品をみると、なかなかどうして厳しい現実さえもミステリの一部として取り込んでしまう、お話作りの職人としてのしたたかさを感じさせます。
さて、このように仕事の面では大活躍を続けていたカーですが、私生活の面では大きな問題を抱えていました。それは、このころますます顕著なものとなっていた過度の飲酒癖です。もともと少年時代から酒を飲むことを、大人になること、男らしさと結びつけて考えていたふしがあり、その作品中でもたびたび飲酒礼賛を書きつづってきたカーですが、この時期、そのアルコール依存は度を越したものとなっていました。酔っぱらって前後不覚になることもたびたびで、幻覚を見ることさえあったといいます。さらに悪いことに酩酊状態をおさえるために鎮静剤として抱水クラロールを服用していたところ、今度は抱水クラロール中毒になってしまったのです。何か手を打たなければと決心したクラリスは、カーに専門的な治療を受けさせ、なんとか彼を立ち直らせることに成功します(しかし、アルコールの問題は一生彼についてまわることになります)
一九四三年の春、BBCからアメリカにたいして、プロパガンダ用の台本執筆のため、カーのイギリス帰国を認めてくれるよう要請があり、合衆国政府はその申請を認可しました。五月、クラリスをアメリカに残してカーはひとりイギリスへ旅立ちます。ロンドンは相変わらずドイツ軍の空襲に悩まされていました。BBCに復帰したカーは、今度は「恐怖との契約」と題したミステリ・ドラマ・シリーズに取り組み、これも幅広い人気を博します。物語の紹介者として毎回登場する〈黒衣の男〉は、「あらゆるラジオ番組の中で最も有名なキャラクター」になりました。
このロンドンでの単身時代、カーはある女性と同棲をはじめています。それまでにも、つかのまの『情事』は何度かあったようですが、真剣な浮気はこれがはじめてでした。相手の女性はBBCの関係者だったといいますが、いずれにせよ、この結婚生活の危機は翌一九四四年の五月、クラリスがイギリスに到着するとともに終わりを告げます。すべてを知ったクラリスは、きっぱりと関係を清算するようカーに迫り、彼はそれを受け入れました。『死が二人をわかつまで』は、カーが愛人と同棲していた時期に執筆されています。この作品には、二人の異なるタイプの女性の間で揺れ動く青年が登場しますが、あるいはそこには当時のカー自身の精神状態が投影されているのかも知れません。こうした男女間の緊張した関係は、『囁く影』(四六)『疑惑の影』(四九)など、戦後の作品では顕著なテーマとなってくりかえし現われます。
四〇年代前半をとおして、カーは英米両国のラジオ・ドラマによってより広範な人気を獲得し、探偵小説界の巨匠の地位を揺るぎないものにしました。この間に旧作が次々にペイパーバックで再刊され、経済的な意味でも成功した作家の仲間入りをしています。戦時中、公私ともにフル回転で活躍したカーですが、彼は自分がこよなく愛した古き良きイギリスが二度と戻らないであろうこともよく知っていました。本書の冒頭に、戦前のイングランドを懐かしむ胸の痛むような想いが吐露されていますが、これはそのままカーの本音と言っていいでしょう。一九四五年五月七日、カーはドイツ降伏の報をBBCのオフィスでききます。その日、カーはその複雑な想いをダネイに書き送っています。
「私はこの手紙を、それがどのくらい重要なのかいまだにわからない日に書いている。オフィスはほとんどからっぽだ。私がここに座っているのは、別段なにもやりたいことがないからなんだ。私は陽気に浮かれ騒いだりなどしたくはない。……本来なら当然そうすべきなんだろうが、歓声を上げたくなるほどの上機嫌の代りに、私は憂鬱でいささかいらだっている」
戦後のカーは、この時代への違和感を終生抱き続けることになります。
[ラジオ・ドラマから小説へ]
一九四〇年代以降のカー作品には、その中心的アイデアをラジオ・ドラマからとったものが少なくありません。本書『死が二人をわかつまで』も、一九四三年二月二十三日にCBSの「サスペンス」で放送された「客間へどうぞ」 Will You Walk into My Parlor?(砧一郎訳、「宝石」一九五九年六月臨時増刊号所載)をもとにしています。このドラマはリライトされて、一九四七年五月十一日、「吸血鬼の塔」 Vampire Tower のタイトルでBBC「恐怖との契約」シリーズでも放送されました。
「客間へどうぞ」にもやはり、イギリスのある村に最近やってきたばかりで、大地主の青年と婚約した若い女性が登場します。ところが、村の園遊会で占い師に扮した男、実はスコットランド・ヤードの警部が、彼女の正体は毒殺者で証拠がないためいままで有罪にもちこむことができなかったのだと、婚約者に告げます。そして、彼女が再び殺人を犯すまえに罠を仕掛けようともちかけます。結末では、警部と名のった男は彼女の宝石を狙った詐欺師で、すべてはそのための作り話であったことが明らかとなります。
ご覧のとおり、このプロットは『死が二人をわかつまで』の設定にほとんどそのまま生かされています。しかし、ラジオ・ドラマでは、計画があばかれ詐欺師が逮捕されて物語は終わりますが、小説版ではそのまえに、ヒロインを毒殺者として告発した男が、自分が物語った架空の事件と寸分たがわぬ状況で殺されてしまいます。まさに嘘からでた真というべき展開ですが、このあたりのカーのプロットのふくらませ方は見事です。
なお、トニー・メダウォー編集の「ファンジン」 Notes for the Curious(カーの歴史物に付された「好事家のためのノート」にちなんだ誌名)の第一号に掲載された、ニック・キンバーのエッセイによると、この設定にはさらに源泉《ソース》があり、それは一九二九年に雑誌に発表されたアガサ・クリスティの短篇「事故」(田村隆一訳、『リスタデール卿の謎』所載、ハヤカワ・ミステリ文庫)だそうです。この作品にも、警察がその犯行を証明することが出来なかった毒殺者として告発される女性が登場します。村のお祭りが背景となり、占い師の予言も出てきます。この短篇がカーに発想をあたえたことはまちがいないようですが、そのプロットの展開のしかたはカーとクリスティでは大きくちがっています。読み比べてみるのも一興でしょう。
[中期の傑作『死が二人をわかつまで』]
さて、ラジオ・ドラマのアイデアをもとに小説化された『死が二人をわかつまで』は、どのような作品でしょうか。
この作品のテーマはカーが得意とした密室殺人です。しかし、『プレーグ・コートの殺人』(三四)『三つの棺』(三五)などの三〇年代の密室物と比べると、その取扱いには大きな変化がみられます。事件の設定はよりシンプルになり、ことさらに不可能性が強調されることもありません。初期作品に顕著だった怪奇趣味の彩りもここではほとんど抑えられています。
こうした作風の変化は三〇年代末からみられたものですが、この時期の長篇をとりあえず年代順にあげてみましょう。
一九三九年 『緑のカプセルの謎』『*読者よ欺かるるなかれ』『テニスコートの謎』
一九四〇年 『*かくして殺人へ』『震えない男』『*九人と死人で十人だ』
一九四一年 『連続殺人事件』『*殺人者と恐喝者』『嘲るものの座』
一九四二年 『*メッキの神像』『皇帝のかぎ煙草入れ』
一九四三年 『*貴婦人として死す』
一九四四年 『死が二人をわかつまで』『*爬虫類館の殺人』
一九四五年 『青銅ランプの呪い』
〔*はカーター・ディクスン名義の作品〕
こうして並べてみますと、三〇年代後半の作品との違いがはっきりしてきます。『三つの棺』や『火刑法廷』(三七)『曲った蝶番』(三八)で頂点を極めた複雑なトリックや錯綜したプロットは次第に影をひそめ、ひとつのアイデアを中心に長篇を構成する語りのテクニックが目立つようになります。この時期のカー作品では、むしろ単純なトリックをプロットのなかに自然に溶けこませることに大きな注意がはらわれているのです〔カー中期の作風の変化については、松田道弘「新カー問答」(『トリックものがたり』所載、ちくま文庫)を参照のこと。このエッセイは、江戸川乱歩「カー問答」(『別冊宝石』一九五〇年八月)以来のカー観を修正するものとして画期的なものです〕。こうした作風の変化には、あるいは先に触れたラジオの仕事も影響を与えているのかもしれません。
『死が二人をわかつまで』でも、密室を構成するトリック自体は単純なものです。というよりも、「ピンと糸」というおそろしく古典的な、使い古された手段をカーはあえて使っているようにみえます。この仕掛けはすでに『三つの棺』の「密室講義」のなかでも、部屋の外側からドアや窓に錠をかける方法のひとつとして紹介され、その応用例としてヴァン・ダインの作品(『カナリヤ殺人事件』一九二七年)があげられています。
この作品のトリックのミソは、作中でもある人物が指摘するように、現場が正確な意味では密室ではなかった、というところにあります。窓には銃弾による穴があいていたのです。この穴を使ってカーはぬけぬけと、しかも陳腐な密室トリックの代名詞ともいえるピンと糸によって錠をかけています。しかし巧妙なのは、この穴が実際にあいた時刻を巧みなミスディレクションによってずらしているところです。
早朝、謎の電話をうけて被害者の別荘に向かったディックは、塀から突き出た銃身を目撃し、銃声を聞きます。ディックが別荘のほうをみると、窓には銃孔があき、部屋の壁には銃弾のあとが見えます。ディックは(そして読者は)当然のことながら、今目撃した発砲によって窓に穴があいたものと思い込んでしまいます。しかし、ディックが見たのは正確には発砲された銃と、窓にあいた穴であり、銃弾が窓に穴をあけるのを目撃したわけではありません。実際には窓の穴は犯人によって前もってあけられていたもので、ディックの見た銃は空砲だったのです。このようにして最初からあった穴が、毒殺とほぼ同時にあいた穴と錯誤され、完全な密室が成立してしまったのです。
ある行為が行なわれた時間を前後にずらすことで、カーは不可能をあっさり可能にしてしまいます。こうした人間の心理が陥りやすい錯覚を利用したトリックは、『皇帝のかぎ煙草入れ』や『緑のカプセルの謎』でも効果的に使用されています。このあたりの呼吸はカーが愛好した舞台マジックにも通じるものがあります。奇術師探偵グレイト・マーリーニふうにいえば、「先に観念をごまかしてしまえば、早業などは必要ない」というところでしょうか。小さな、使い古されたトリックを組み合わせることによって、新しい驚異を創り出すカーの職人芸を楽しみたいところです。
また、被害者が詐欺の目的ででっちあげた作り話を犯人が利用する、その利用の仕方も面白いと思います。被害者がつくりあげた架空の事件――密室の中で青酸を注射されている死体――をそっくりなぞることで、犯人は自分を容疑の圏外におこうとします。すなわち、密室内の毒殺を再現したのは、毒殺者として告発された女性に容疑をかけるためではなく、それによって詐欺師の話を信じ込んで疑わない人間が犯人であることを示唆し、容疑を自分からそらすことが目的だったのです。
ある人物が残した筋書きどおりに犯罪が進行するというプロットのミステリには、クイーンの有名な作品、あるいは横溝正史の有名な作品といった例がありますが、カーのこの作品では、筋書きの作者が自分の考え出した筋書き通りに殺されてしまうという、意外かつ皮肉なひねりをくわえています。同時に本来なら不自然な状況である密室殺人に(被害者の作り話を再現するためという)必然性をあたえているのです。
本書『死が二人をわかつまで』は、巧みなストーリーテリングとすっきりとした謎の解決が特徴的な、カー中期の代表的な作品です。不自然な設定や複雑なトリック、あざとい怪奇趣味がいやだとおっしゃる、カー嫌いの方にこそお奨めしたい逸品です。(橘かおる)
◆死が二人をわかつまで◆
ジョン・ディクスン・カー/仁賀克雄訳
二〇〇四年一月二十五日 Ver1