アンナ・カヴァン
野作正也訳
第1章
私は道に迷った。既に日は暮れていた。私はもうすでに何時間も車を走らせており、ガソリンはほとんど切れかかっていた。暗くわびしい丘の上で立ち往生するのかと思うと、ぞっとした。だから、標識を見つけたときは心底ほっとして、ガソリンスタンドまで降って行った。店員に話しかけようとして、窓を開けると、ひんやりとした空気を首筋に感じた。彼はタンクにガソリンを満タンにたしながら、天気について話してくれた。
「この月にこんなに寒いのは初めてだ。川が凍ってしまうよ」
私は、軍隊に入ったり、僻地を探検したりして、ほとんどの生活を海外で過ごしてきた。そして、熱帯地方から戻ってきたばかりで、凍りつくということがどんなことか実感できなかったけれども、彼の口調の陰気な調子に衝撃を受けた。運転のことを気にしながら、これから行こうとしている村への道を訊ねた。
「こんな暗闇では道を見つけられない。道に迷うのが関の山ですよ。凍りついている時の山道は危険です」
こんな時に運転するなんて、と軽蔑の表情で彼は言った。
支払を済ますと、氷に気をつけて、と彼が叫ぶのを無視して、私は車を走らせた。
今ではもうすっかり暗くなっていた。私はすぐに絶望的になった。彼の忠告を聞き入れるべきだったと悔やんだけれども、同時に、彼と話をしなければよかったとも思った。というのは、理由はよく分からないが、彼の表情が私を不安にしたからだった。それは私のこれからの旅行全体の悪い徴候のように思われた。私は旅行に出たことを後悔し始めていた。
旅行全体が疑わしくなってきた。私は前日に国に到着したばかりなので、田舎の友達に会いに行くより、町をぶらつく方がよかったのではないかと思っていた。私は少女に会いたいという強迫観念を持っていたが、なぜそうなのか、自分でも理解できなかった。彼女と離れているときはいつも、彼女のことを思っていた。しかし、私は彼女に会うために戻ってきたわけではなかった。わたしはこの地域で今にも起ころうとしていると噂されているミステリアスな出来事を調べに戻ってきたのだった。しかし、私はこの地に戻って来るや否や、彼女のことが頭を離れなくなった。私は彼女の思いに囚われ、今すぐにでも彼女に会わなければならぬ、と思い始めていた。他のことは何も手につかなかった。もちろん、それが全く不条理なことなのは分かっていた。それが現在の不安の原因だった。別に悪いことが私の身に起こりそうだというのではなかった。しかし、車を走らせていくに従って、不安はだんだんと増してきた。
私にとって、現実とは、いつも訳の分からぬ何かだった。時々そのことが私を悩ませた。例えば、私は今、以前に彼女と彼女の家を訪問した時のこと思い出している。彼女たちの家の周りの、平和に満ちた見晴らしの良い田園風景が生き生きと思い出だされた。しかし、鞍馬を走らせている間、誰一人ととして出会わなかったし、村はありそうになかったし、どこにも電灯の光が見られなかったので、思い出は急速に色あせていき、現実感覚を失っていき、最後には不確かで曖昧模糊としたもになってしまった。空は暗かった。そして、荒れ放題の生垣が空を背景にして聳え、空をいっそう暗くしていた。ヘッドライトが時々道路わきの建物を照らし出したが、そこは、人が住んでいるにしてはあまりにも暗すぎて、廃墟のようになっていた。私が不在にしていた間に、その区画全体が朽ち果ててしまったかのようだった。
この荒廃の中で彼女を見つけることができるだろうか不安になってきた。ここでは秩序のある生活が営まれているとは思えなかった。災厄が村を破壊し、農地を荒廃させたかのようだった。私が見る限り、復旧作業している跡は見られなかった。人は誰も見えないし、動物すら一匹も見当たらなかった。道もでこぼこで舗装が必要だった。排水路も、放置された生垣の下で、材木に覆われていた。地域全体が見捨てられ、荒れ果てていた。
小石ぐらいの大きさのあられがほんのわずかであるが降ってきて、窓ガラスをたたいたのには驚いた。私はようやく、北国の冬のただ中にいるのに気づいた。あられはまもなく雪に変わり、視界は狭くなり、運転がさらに困難になってきた。大気は非常に寒く、この寒さのために不安な気持ちになったのだろうかと思った。ガソリンスタンドの店員が、この時期こんなに寒いのは初めてだと言っていたのを思い出した。私は氷や雪に覆われる冬の季節はまだ先のことだと思っていた。突然、私の不安は激しくなり、もと来た道を引き返し、街へ戻りたいという衝動に駆られた。しかし、道路はあまりに狭くて、果てしなく曲がりくねった道をアップダウンしながら、物音ひとつしない暗闇の中を突き進むしかなかった。道路はさらに悪くなり、険しくなり、いたるところで滑りやすくなっていた。氷でスリップするのを避けるために目を凝らして運転していると、今までに経験したことのない寒さのため頭痛がひどくなってきた。車はスリップし、コントロールを失いかけた。ヘッドライトが時々道端の廃墟と化した建物を一瞬照らし出し、私はギョッとした。よく見ようとする間もなく、車は闇の中に姿を隠した。
生垣に積もった雪がこの世のものと思えないほどの白く美しかった。山道を通過しながら、あたりに注意を配っていた。一瞬、ライトがサーチライトのように少女の裸の姿を照らし出した、子供のようにほっそりしていて、死んだような雪の白さを背景にして、象牙のような白い姿が浮かび上がった。彼女の髪はガラスの繊維のように輝いていた。彼女は私の方を見ていなかった。彼女は動きもせず、壁の上を見つめていた。その壁は、ガラスのように光を反射させた、硬く凍った氷の輪をなして、彼女の方へゆっくりと迫ってきていた。彼女はちょうどその真ん中にいた。まばゆい光が彼女のはるか頭上の氷の壁から光った。足元では、もうすでに氷の縁が彼女に届いていた。彼女の足と足首を氷はしっかりと被った。氷は彼女の体を登っていき、膝や腿を被い始めた。彼女は口を大きく開いた。白い顔にぽっかりと黒い穴が開いた。彼女はかすかな苦悶の悲鳴をあげた。私は彼女に哀れみを感じなかった。それとは逆に、彼女の苦悶の表情を見て、言い難い喜びを覚えた。私は自分の冷酷さを認めたくなかったが、しかし、それが事実だった。私に情状酌量の余地はなかったかもしれないが、それにはいろんな要因が絡んでいたのだった。
私はある時彼女に夢中になっていた。彼女と結婚したいとさえ思っていた。皮肉なことに、私の目的は世の中の冷酷さから彼女を守ることだった。私は彼女のおどおどした態度とすぐにでも壊れそうな姿に同情したのだった。彼女は過度に敏感で、過度に緊張していて、他人を恐れていた。彼女のサディスティックな母親が、彼女をいつもおびえさせていて、彼女の人格はすっかり損なわれてしまっていた。だから、私が最初にしなければならなかったことは、彼女の信頼を勝ち取ることだった。だから私は、彼女に対していつも紳士的に振舞った。私は自分の感情を現すのを控えめにするように気を使っていた。彼女はあまりにもほっそりしていたので、彼女とダンスを踊る時、彼女を強く抱きしめてしまい、彼女を傷つけはしないかと恐れるほどだった。彼女の尖った腰骨はあまりにももろく、私にはなんとも魅力的であった。彼女の髪の毛は銀髪で、真っ白で月光に輝き、さながら月光で輝くベネティアンガラスのように私を魅了した。私は彼女をガラスでできた少女のように扱った。時々彼女は現実の存在ではないような気がした。次第に、彼女は私を恐れなくなってきた。子供のような愛情を私に示しさえした。内気で、いつも一人でいることを好んでいたけれども。彼女は私を信用し始めたのだと思った。私は急がずに待とうと思った。未熟さのために、彼女は、私へ真剣な感情を持ち始めてきたことに気づかなかったけれども、彼女は私をほとんど受け入れようとしているように思われた。しかし、全く突然に、彼女は他の男と結婚してしまい、私を捨てた。しかし、私は彼女の私に対する気持ちは見せ掛けではなくて、本物だったと信じている。
それはもう昔のことだ。しかし、それ以後、私は不眠症と頭痛に悩まされるようになった。そのために服用する薬の副作用で、おそろしい夢をみることがあった。そこでは、彼女がいつも救いのない犠牲者となって現れるのだ。彼女のもろい身体は破壊され傷つけられていた。これらの夢は睡眠中に限らなかった。嘆かわしいことに、私はそれを楽しむようにさえなったのだった。
視界はよくなってきた。夜の闇は相変わらずだったが、雪は止んでいた。険しい丘の頂上に要塞の残骸が見えた。そこにはただ塔が残っているだけで、他には何もなかった。建物の中は空っぽで、空虚な窓が、あたかも大きく口を開けて闇をのぞかせているように見えた。その場所は少しばかり見知っているような気がした。歪んだ記憶のために。私はそこへ行ったことはないが、知っているような気がしたのだ。しかし、確信はなかった。夏にここへ来た時には、ここは全く違ったふうであった。
あの時、私は彼から招待されたのだった。彼が招待したいと申し出た時、私は何か隠された意図があるのではないかと疑った。彼は絵描きだったが、それを遊びや道楽でやっていた。彼は、仕事をしていなくても、いつもお金に不自由しない金持ちの類の一人だった。多分。彼は決まった収入源を別に持っていたのだろう。しかし、彼は他に何かをしているようには見えなかった。彼の温かいもてなしに私は驚いた。私は招待中ずっと身構えていた。
少女はほとんど口を開かなかった。いつも彼のそばに立って、大きな眼を見開いて、長いまつげの中から私を横目で見ているのだった。彼女の姿をみると、なぜか分からないが、私は動揺した。私は彼ら二人に話しかけるのは困難だった。彼らの家はブナ林の真ん中にあった。家は、多くの木々によって、すぐそばまで囲まれていたので、窓から見ると、密集して揺れている木々の緑の葉の中に。家は包まれているようだった。私には、彼らが、熱帯地方の島の奥深くに住んでいて死滅しかかっている、歌を歌うキツネザルの一種であるインドリのように思えた。 ほとんど伝説のような生き物の優しく愛情のこもった仕草や奇妙な歌うような声に、私は強い印象を受けていた。私はそれらについて話し始めていた。その話題に夢中になってわれを忘れて話し続けた。彼は興味を示しているようだった。彼女は黙ったまま、昼食の準備をするために立ち去った。彼女がいなくなると、私たちの会話は急に容易になった。
そのときは真夏だった。気候は非常に暑く、風にそよぐ木の葉が涼しげで心地よい音を立てていた。男の親密な態度は続いていた。私は彼を見誤っていたと思い始めた。彼に疑惑を持ったことに困惑した。彼は私が来てくれて嬉しいと言い、少女について話した。
「彼女は非常に内気で神経質なんです。外の世界の誰かに会うのは、彼女にとって良いことですよ。彼女はここではあまりにも孤独だから」
彼は私について何を知っているのだろうかと思った。彼女は私について彼に何を話したのだろうか。警戒していたことがばかばかしくなった。愛想の良い彼の話への、私の応答の中には、まだ警戒心は残っていたけれども。
私は彼らのところに数日滞在した。彼女は私の邪魔にならないようにしていた。私もまた、彼と一緒にいるとき以外に、彼女を見ることはなかった。非常に暑い気候が続いた。彼女は丈の短い薄い生地の全くシンプルなドレスを着ていた。肩や腕を露出し、ストッキングもはいていなかった。子供用のようなサンダルをはいていた。日の光で彼女の髪はまばゆく輝いていた。彼女のその姿を忘れることはできないだろうと思った。私は彼女の中に変化が現れるのに気づいた。彼女は私を信頼し始めたように思えた。私は彼女が微笑むのを見るようになったし、あるときには庭で彼女が歌っているのを聴いたことがあった。男が彼女の名前を呼んだ時、彼女は走ってきた。彼女が幸福そうに見えたのは、そのときが初めてだった。彼女が私に話しかけるときにはまだ、少しばかり硬い表情をしていた。私の訪問が終わりに近づいたとき、彼は私に彼女と二人きりで話しことがあったかかどうか尋ねた。私はないと言った。
「立ち去る前に、彼女に一言話をしてくれますか。彼女は過去について悩んでいます。彼女があなたを不幸にしたのではないかと思って」と彼は言った。
そう、彼は知っていたのだ。彼女は彼に私たちの間にあったことすべてを語ったに違いなかった。それは多くはなかったけれども。私は過去に起こったことについて彼と話し合うつもりはなかったので、言葉を濁した。機転を聞かして、彼は話題を変えた。しかし、しばらくすると話題を戻した。
「彼女の気持ちを楽にしてくださると嬉しいのですが。彼女と二人きりで話をする機会を設けさせてください」
翌日、私は立ち去ることになっていたので、彼がどうするつもりなのか、私には分からなかった。そして、翌日の午後私は立ち去った。
その朝は、訪問中で一番暑かった。雷が空中で光った。食事中でも、耐え難いほどの暑さだった。驚いたことに、彼らは外出することを提案した。私はその地方の美しい場所を見ずに立ち去るつもりはなかった。素晴らしい景色が見える丘があるということだった。私はそれを聞いたことがあった。私が出発の話をすると、ちょっとしたドライブで行けるということだった。そこへ行っても、私が荷物をまとめる時間を十分見込んで戻って来られるということだった。彼らが準備をしていたので、私は同意した。
はるか昔に侵入者の恐怖から逃れるために建てられた、すでに廃墟と化している古い要塞の近くで、私たちは昼食をとった。道は森の奥深くへと続いていた。私たちは車から降りて、歩いて行った。確実に増してくる暑さのために、私はゆっくりと進んだので、彼らからはるか彼方に遅れた。私は木の茂みが続いている最後のところへ来たので、木陰で休んだ。彼は戻ってきて、私を引っ張り起こして、言った。
「一緒に行こう。一見に値するよ」
彼が熱心に勧めるので、日差しの強い険しい坂を登って行った。すると、すばらしい視界が開けた。だが、彼はまだ満足しないで、廃墟の塔の頂上から眺める素晴らしい景色を見なければならないと主張した。彼は興奮し、ほとんど熱に浮かされているかのようだった。塔の内部の暗闇の中を彼の後に続いて登っていった。彼の体が光を遮り、私は何も見えず、足を踏み外して首の骨を折るのではないかと思うほどだった。頂上には手すりがなかった。私は山積みになった煉瓦の上に立った。私と下の地面との間に遮るものは何もなかった。彼は、見晴らしの良い展望のあちこちを指差しながら言った。
「この塔は何世紀も目印になっていたんですよ。ここからは、丘全体を見ることができる。向こうに海が見える。あれが大聖堂の頂上。向こうの青い線が入り江」
私は細かいところに興味を持った。積み重なっている石や巻かれている針金や煉瓦のブロックなど、来るべき戦いに備えて作られたものに興味を持った。来るべき危機がどのような性質のものかを知るための手がかりのなるものがないかと探した。私は、遮るものの何もない足元を見下ろした。
「注意して!」 彼は笑いながら警告した。
「ここは滑りやすく、バランスを崩しやすいから。殺人にはもってこいの場所さ」
彼は奇妙な音を響かせて笑ったので、私は振り向いた。彼は私に近づいてきて言った。
「私があなたをちょっと押すと、このようにね」
私は押される前に、後戻りしたが、私は足場を失い、よろめき、足元の石や煉瓦が崩れ落ちた。彼の笑い顔が覆いかぶさってきたので、ぎらぎらした空の視界の中で、眼の前だけが暗かった。
「ここから落ちたら、事故と見なされる。そうでしょう? 目撃者はいないから。私のことばだけが頼りになる。足元がいかに不安定か見て、目眩をしないように」
私たちが降り始めた時、私は汗をかいており、衣類は埃で覆われていた。
少女は、胡桃の木の木陰の草の上に食べ物を並べていた。 彼女はいつものようにほとんど話さなかった。私は訪問が終わろうとしているけれど、悲しくはなかった。あまりにも緊張が大きすぎたのだった。彼女がそばにいると私は落ち着きを失った。食事をしている間中、私は彼女を見続けていた。銀色に輝く髪、青白い、ほとんど透き通たような肌、尖った壊れそうな腰骨。彼女の夫は最初の活発さを失って、何かむっつりとしていた。彼はスケッチブックをもって、あたりをぶらついていた。わたしは彼の気持ちを理解しかねた。どんよりした雲が遠くに現れた。私は空中に湿気を感じた。まもなく嵐がやってくるだろうと思った。私のジャケットは傍に広げておいてあった。私はそれをたたんでクッションの中に押し込んだ。そして、それを木の幹に立てかけ、その上に頭を乗せた。彼女は草の生い茂った盛り上がったところに身体を伸ばしていた。それはちょうど私の目の前だった。額の上に手を置き、私の視線を避けていた。彼女は全く静かだった。全く話さず、少しざらざらした感じの陰になった脇の下が見えた。そこには、汗の粒が霜のように光っていた。薄いドレスの上から、子供のような体の線が見えた。彼女はドレスの下に何もつけていなかった。
彼女は少しばかり坂になったところの下の私の前で、からだを曲げた。彼女の体はほとんど雪のように白かった。氷の絶壁がいたるところに接近していた。蛍光性の光が輝いていた。冷たく一様な氷の光のために影がなかった。太陽もなく、影もなく、生命もなく、死の冷たさだけがあった。われわれは前進してくる輪の中心にいた。私は彼女を救わねばならなかった。私は叫んだ。
「ここに来て。早く!」
彼女は振り向いたが動かなかった。彼女の髪は一様な光の中で光沢のない銀色に輝いていた。私は降りて行って言った。
「怖がらないで。きっと助けるから。塔の頂上に逃げなければ」
彼女は理解していないようだった。近づいてくる氷の転がる音のために、多分聞こえてはいなかったのだ。私は彼女を掴み、坂を引っ張りあげた。簡単だった。彼女の重さをほとんど感じなかった。破滅から逃れて、私はしっかりと彼女を抱きしめて、辺りを見回した。これ以上高くへ行っても無駄だと分かった。塔は崩れ落ちる寸前だった。それは何百万トンの氷の下ですぐに崩壊し、粉砕されるだろう。冷気が肺に入り込んできた。氷はすぐそこまで来ていた。彼女は激しく震え、肩はすでに氷で覆われ始めた。私は彼女を身近に引き寄せ、両腕でしっかりと彼女を抱きしめた。
ほとんど時間は残されていなかった。しかし、少なくとも、私たちは共通の目的を分かち合っていた。氷はもう既に森を飲み込んでいた。最後に残っている木々の並びが倒れていった。彼女の銀色の髪が私の口に触れた。彼女は私にもたれかかってきた。と思うと、彼女の姿はかき消えた。私の手はもはや彼女に触れることはなく、空をさまよった。氷の衝撃で数百フィート上空に折れた木の幹が舞い上がっていた。光が一瞬閃いた。すべてが揺れていた。私のスーツケースは、ベッドの上に 半ば荷物が詰められた状態で放置されていた。窓が大きく開いており、カーテンは風のために部屋の中へと大きく揺れていた。 外では梢は風の音を立てていた。空は暗くなっていた。雨は降っていなかったが、雷が光り、音がした。私は再び、光が閃くのを見た。気温は今朝以来数度下がっていた。私は急いでジャケットを着て、窓を閉めた。
結局、私は右側の道を進んで行った。頭上まで伸び放題の生垣のためにトンネルのようになっているところを過ぎると、今度は、暗いブナの木の森が、曲がりくねって続いていた。その先に目指す家があった。光は見えなかった。その場所は、私が通過してきたところと同じように、見捨てられ、誰も住んでいないかのようだった。私は数度角笛がなるのを聞いた。そして待った。もう遅かった。彼らは寝ているに違いなかった。しかし、彼女がここにいるのなら、私は会わねばならなかった。それがすべてだった。少しばかり待っていると、男がやって来て、私を屋内に入れてくれた。彼は私を歓迎しているようには思えなかった。彼はドレスガウンを着ていた。
家には電気が来ていなかった。彼はたいまつに火をつけた。居間の火が暖かくなり始めていたけれども、私はコートを着たままだった。驚いたたことに、ランプの明かりで見ると、私が海外に行っている間に、彼がすっかり変わってしまったのがわかった。彼は以前より、重々しく、気難しく、タフになっていた。以前の温厚な表情は消えていた。彼が着ていたのはドレスガウンではなくて、ある種のユニフォームで、たけの長いオーバーコートだった。そのために、私は彼に親しみを感じなかった。以前に抱いたことのある疑惑が戻ってきた。ここには、災厄がやってくる前でさえも、それを利用して大儲けした人がいたということだった。彼は親しげな表情を見せなかった。私は、道に迷って遅くなったことを謝罪した。彼は酒を飲んでいる最中だった。ボトルとグラスが小さなテーブルの上に置かれていた。
「ようやくやって来た」
彼はそう言ったが、その態度にも声にも親しさは感じられなかった。冷笑的でさえあった。
彼をそのように感じるのは初めてだった。彼は私に酒を注いでくれて、座った。長いオーバーコートが膝から垂れ下がっていた。コートの下にポケットやふくらみのような物を探したが、そういったものはなかった。私たちは一緒に酒を酌み交わした。私は、少女が出てくるのを期待しながら、旅行の様子を話した。少女が出てくる様子はなかった。それどころか、私たちが立てる音以外は、部屋の中で音が一切しなかった。彼は彼女について何も言わなかった。彼の意地悪く楽しんでいるような表情から、彼は、彼女のことを話すのを慎重に避けているのだと分かった。私が記憶にある部屋は魅力のあるものだったが、今では、掃除も十分になされず汚くなっていた。漆喰が天井から落ちていた。壁には深いひびが入っていた。私は我慢ができなくなり、彼女はどうしているかと訊ねた。
「彼女は死にかけている」
私の絶叫に、彼は意地悪く笑いながら言った。
「ここは私たちだけさ」
それは、私を困らせようとした、冗談だった。
彼は、私たちが会うのを、妨げようとしているのだと思った。
私は彼女に会う必要があった。それは決定的なことだった。
「今は、お暇しましょう。あなたは休んでください。だけど、その前に、何か食べ物をいただけませんか。昼から何も食べていないものですから」
彼は部屋を出て行き、乱暴で横柄な調子で、彼女に食べ物を持ってくるように叫んだ。外で起こっている破滅が、すべてのものに伝染し、影響を与えているかのようだった。彼らの関係や部屋の様子すべてに破滅の陰が落ちていた。彼女はパンとバターと一皿のハムをトレイに乗せて、運んできた。私は彼女の外観もまた変わったのかどうか知りたくて、じっと見つめた。彼女はただ以前よりほっそりして、以前にもまして肌が透き通るようになっていた。彼女は黙っていた。彼女に最初会ったときのように、怯えていて、人を避けているように思われた。私は尋ねたかったし、二人きりで話をしたかった。しかし、チャンスはなかった。男は飲み続けながら、私たち二人を始終観察していた。酔いのために、かれは怒りっぽくなっていた。私が飲むのを断った時、かれは怒った。私に喧嘩を売ろうと決心したようだった。私は、立ち去るべきであるのは分かっていた。しかし、私はひどく頭痛がして、動くのが億劫になっていた。私は眼や額の上を手で押した。少女はそれに気づき、部屋を出て行き、数分間すると、彼女の手のひらに何かを持って戻ってきて、ささやいた。
「アスピリンです」
ごろつきのように、彼は叫んだ。
「おまえは、何をひそひそ話しているんだ」
彼女が心配してくれたのを知って、私は感謝以上の気持ちを表したいと思った。 しかし、彼の悪意あるしかめっ面を見て、私は立ち去らねばならなかった。
彼は見送らなかった。私は壁や家具のために暗闇になっている通路を、手探りで進んだ。外に通じるドアを開けると、薄明かりの雪景色が眼に入って来た。外は寒かったので、私は車の中へ飛び込み、ヒーターをつけた。ダッシュボードから見上げると、彼女が何かを言うやさしい声が聞こえた。彼女は、「約束」とか「忘れないで」などと言っているのが聞こえた。ヘッドライトをつけると、彼女が戸口のところでほっそりした腕を胸のところで組んで立っているのが見えた。 彼女は犠牲者の表情をしていた。それはもちろん心理的なものであって、子供時代に受けたいじめの結果なのだが。眼や口元あたりの極端に繊細な白い肌の上に、かすかに傷がついているのが見えた。ある意味で、それは私を狂おしいほど引きつけた。車が動き始める直前に、辛うじてその光景を捉えることができたのだった。私は機械的にアクセルを踏んだが、凍っていて、動くとは期待していなかった。そのとき不意に、幻覚を見た。家の暗い内部から黒い腕が伸びてきて、彼女を襲い、乱暴に掴んだ。恐怖で歪んだ彼女の白い顔は、粉々に砕け飛んで、彼女は暗闇の中で震えていた。
私は彼らとの関係の悪化を克服することはできなかった。彼女が幸福であったときには、私は彼女から離れていて、彼女と無縁だった。そして今、彼女の状況が悪くなった時、私は再び彼女との関係に巻き込まれるようになったのだった。
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第2章
少女が突然家を出たという噂を聞いた。誰も彼女の所在を知らなかった。夫は、彼女は外国に行ったに違いないと思っていた。しかし、それは推測に過ぎなかった。彼もまた彼女についての情報を持ってはいなかった。私は興奮して数知れない質問を彼に浴びせた。しかし、具体的なことは何も分からずじまいだった。
「私はあなた以上に情報を持っているわけではない。彼女は消えてしまった。彼女は好きなところへ行く権利を持っている。彼女は自由な21歳の白人だから」彼はおどけた調子で言った。
彼が真実を言っているのかどうか、私には分からなかった。警察は犯罪の疑いを持っていなかった。彼女が事件に巻き込まれたり、誘拐されたと考える理由はなかった。彼女は自分の行為を自分で決まられる年頃に達していた。毎年数百人の人が家出していた。そして、決して戻ってこなかった。彼らの多くは女性であって、不幸な結婚をしていた。だから、彼女が、今では従来よりも幸福に過ごしているのは、ほとんど確かだった。トラブルを起こさないで家を出たかったのだ。これ以上捜査をすると、彼女に迷惑がかかるだろうし、かえって、彼女にトラブルが生じるだろう。これが警察の見解だった。
これは安易な見方だった。ただ、そう考えることによって、捜査をこれ以上しなくてすむ弁解にはなった。しかし、私は納得していなかった。彼女は幼少の時から従順であるように教育されていた。組織的な抑圧によって、彼女の独立心は破壊されていたのだ。彼女が、自分の意志で決定的な一歩を踏み出すことができるとは、私には信じられなかった。私は、なにかの圧力が彼女にかかったのではないかと疑った。彼女をよく知っている誰かと話をしたかったが、彼女には親しい友達がいなかった。
夫は、不可解な仕事のために、町へやって来たとき、私は馴染みのクラブへ昼食に誘った。私たちは2時間ほど話し合ったが、何の手がかりも得られなかった。彼は事件全体を軽く見ていた。彼女がいなくなってほっとしている、とまで言った。
「彼女の神経質な振舞いのせいで、私は気が狂いそうになるほどだった。私はいろいろやってみた。精神科医に見てもらうことを勧めたけれど、彼女は行かなった。結局、一言もなしに、私のところから立ち去った。理由も言わずに、警告もなしに」
彼は彼自身が被害者側であるかのような話し方をした。
「彼女は私を見捨てて、自分の道を行ったのさ。だから、私は心配なんかしていないよ。彼女は戻ってこない。それだけは確かさ」
彼が家を不在にしている間に、私は彼の家に車で行き、彼女の部屋の持ち物を調べる機会があった。しかし、手がかりになるようなものは何も見つからなかった。取るに足りない小物ばかりだった。陶器性の鳥、模造真珠の壊れたネックレス、古いチョコレートボックスに入ったスナップ写真などといったものだった。それらの中の一枚に、湖に彼女の顔と輝くような髪が映っている写真があった。私はそれを私の財布にしまった。
とにかく、私は彼女を見つけねばならなかった。事実だけがが残されていた。私が海外から戻ってきた直後に、私は衝動に駆られて、彼女のいる田舎へと私を真っ直ぐに行ったが、同じような脅迫的な衝動が、またやってきた。合理的な理由は存在しなかったし、私にはその理由を説明することはできなかった。しかし、それは満たされなければならぬ一種の渇望だった。
私は関わっていた仕事をすべて放棄した。それ以後、私の仕事は彼女を探すことだけだった。他には何もなかった。利用できる情報源はまだあった。ヘアドレッサーや運送記録をつけている事務員など、彼女に接触していた人が何人かはいた。私は人々がよく集まる場所へ行って、スロットマシンをしながら、彼らと話をする機会を待った。お金が役に立つ。直感的にそう思った。手がかりは少しはあった。迫り来る災厄のために、彼女を見つけることは緊急事態であった。彼女のことが頭を離れなかった。しかし、彼女を連想させるようなどんなものも、見出すことはできなかった。最初の訪問の時、私たちは居間でインドリについて話し合った。インドリは私の大好きな動物だった。男は私の話に聞き入っていた。彼女は花を生けるために、行ったり来たりしていた。衝動的に、私は彼らはキツネザルに似ていると言った。木々の中で幸福に暮らしている親しげで魅力のあるキツネザルに。彼は笑った。彼女は恐がって、フランス窓から走り去った。銀色の髪をなびかせて。裸の脚は青白く光っていた。人里はなれた日陰の多い庭、そこは人々から隔離され静寂の中にあり、夏の暑さから逃れて心地よい涼しさがあった。突然、それは非現実的な恐ろしいほどの寒さに変わった。辺りの密集した群葉が刑務所の壁となり、通り抜け不能の丸い緑色の氷の壁となった。それが彼女に向かって押し寄せてきた。彼女が閉じ込められる寸前、私は恐怖で輝いている彼女の目を捕らえた。
ある冬の日に、彼女はスタジオにいた。彼のために、彼女はヌードになり、ポーズをとっていた。彼女の腕は優雅に持ち上げられていた。長い間そのポーズを続けるために、彼女は緊張を強いられていた。彼女がどうして動かずにいられのか不思議だった。彼女は紐で腰と足首を縛られていたのだった。部屋は寒かった。窓枠には霜が厚く積もっていた。外では雪が降り続け、積もっている雪が徐々に高くなっていった。彼は長いユニフォームコートを着ていた。彼女は震えていた。
「休ませてください」彼女の声は哀れっぽく震えていた。
彼はしかめ面をして、時計を見た。パレットを置いて、言った。
「オーケイ。少し休もう。ドレスを来ていいよ」
彼は彼女を縛っている紐をほどいた。紐は白い肌に赤く痛々しい輪の跡を深くつけていた。寒さのため、彼女の動作は緩慢でぎこちなかった。彼女は震える手でボタンをはめ、サスペンダーをつけた。これらの動作が彼をイライラさせたようだった。彼は素早い動作で彼女に背を向けた。彼の顔はいらついていた。彼女は神経質そうに彼を見続けていた。彼女の口は頼りなげに開いていた。彼女の手の震えは止まらなかった。
また、ある時、二人は寒い部屋にいた。いつものように、彼はロングコートを着ていた。夜だった。凍てつく寒さだった。彼は手に本を持って、読んでおり、彼女は何もしていなかった。彼女は、裏地が赤と緑のチェック柄の灰色をした厚手の防水用コートをかぶって、寒くて惨めに見えた。部屋は静寂で緊張感が漲っていた。彼らはどちらからも長い間、話しかけなかった。窓の外では、雪の重さでパキンという音をひびかせて枝が2つに折れた。彼は本を置いて、レコードをかけるために立ち上がった。すると、彼女は抗議し始めた。
「オー、それは駄目。その恐ろしい歌はやめてください。後生ですから!」
彼は彼女を無視して、レコードをかける準備をした。ターンテーブルは回転し始めた。それは私が彼らにプレゼントしたレコードだった。それはキツネザルの歌を録音したレコードだった。私にとって、この驚くべきジャングルの音楽は、愛らしくて、神秘的で、魔術的だった。しかし、彼女にとって、それを聴くことは、一種の拷問であるかのようだった。彼女は手で耳を被った。彼女は、その高音に体をびくつかせ、徐々に取り乱し始めた。レコードが終わると、彼は間をおかずに再びレコードをかけ始めた。彼が打ったかのように、彼女は叫び声を上げた。
「いや! これ以上は聞きたくない!」
プレーヤーに向かって身を投げ出してので、歌は急に止った。そのため、異様なすすり泣きのような声となって、それは終わった。彼は怒って彼女を睨みつけた。
「ちくしょう! 何するんだ。気でも狂ったか」
「私がその恐ろしいレコードに耐えられないのを、あなたは知っているじゃない」
彼女はほとんどわれを忘れてわめいた。
「私がそれを嫌っているのを知っていてかけている。わざと」
涙が彼女の眼からほとばしり、彼女は無造作に両手で頬をぬぐった。
彼は彼女を睨みつけて言った。
「どうして何時間も黙って座っていなくちゃならないんだ。お前はちっとも喋らない」彼の怒った声は、敵意に満ちていた。
「私がなにか悪いことをしたか? ここ数日の間、なぜ、お前は普通に振舞うことができないんだ?」
彼女は答えずに、自分の両手に中に顔を埋めた。涙は両手の間からこぼれ落ちた。彼は彼女を嫌悪の表情で睨みつけた。
「私はお前と一緒にいて孤独にさせられるよりは、本当に一人きりでいるほうがましだ。もうこんな生活に我慢できない。もう十分だ。お前は病気だ。お前のやり方に疲れた。自分を治せ。さもなければ。・・・」
あたりを睨みつけながら、彼は出て行った。彼はドアをバンと音を立てて、背後で閉めた。沈黙が続いた。彼女は子供のように黙って立ち続けた。涙で頬がぬれるのを拭おうともしなかった。しばらくして、彼女は意味もなく部屋の中を言ったり来たりした。そのうち、窓の傍で立ち止まって、カーテンを引っ張って開いた。そして、驚きの悲鳴をあげた。
暗闇がいつのまにか、空一面の火事に変わっていた。信じがたい氷河時代の夢のシーンだった。虹が火色をして、冷たく煌き、頭上で脈打っていた。いたるところに山のように硬い氷が聳え立ち、反射する白熱光の放射によって空は輝いていた。家の周りの木々は氷に包まれて、しずくが滴り落ち、神秘的なプリズム形をした宝石のように輝きが乱反射していた。氷山の上の方では、流れ落ちる花火の滝のように、光が映っていた。見慣れた夜の空に代わって、北極のオーロラが燃え上がり、強く色を放つ頂上は凍りつき、振動していた。その下では、大地はそこにいる全ての生きものと共に、輝く氷の絶壁によって閉じ込められていた。世界は逃走不可能な北極の刑務所と化していた。全ての生きものは、まばゆく光る氷の甲冑の内部で、死に絶えている木々と同じように完全に閉じ込められ、動けなくなっていた。
絶望的に彼女は当りを見わたした。彼女はすさまじく巨大な氷の壁によって完全に取り囲まれていた。まばゆい光の放射のために、氷は溶けて流れ出ていた。そのため、聳え立つ氷は、液体のように絶えず流動し、移動していた。土砂降りの雨のように氷片が降りしきり、雪崩が大波のように起こり、凶運に見舞われた世界のいたるところで氷の洪水があふれかえっていた。彼女はどこを見ても、恐ろしい包囲しか見えなかった。空では氷が舞い上がり、ぶつかり合い、冷たいがしかし赤く輝く巨大な波の輪がほとんど彼女を押しつぶさんばかりだった。氷から流れ出る死ぬほどの冷気によって凍え、水晶のような氷に反射された光によって眼が眩み、彼女は自分が北極の光景の一部と化したかのように感じた。彼女の身体は氷と一体化した。彼女は輝き光る死の氷の世界を運命として受入れた。 彼女は氷河の勝利に屈服し、世界の死に身を任せたのだった。
私は、どうしても彼女をすぐに見つけなばらなかった。状況は警告的であり、緊迫していた。災厄は今にも起こりそうであった。外国が密かに侵略を行っているとの噂が広まっていた。しかし、誰も真偽のほどは分からなかった。政府もまた真実を報道しなかった。私は、放射能の汚染が急激に高まっているということを個人的に聞いた。核爆弾がどこかで爆発したらしかった。それは未知のタイプのものであり、被害がどの程度に及ぶのかは予測できないということだった。磁極が変化する可能性すらあるとのことだった。太陽熱の収束によって気候が変化する可能性もあった。南極の氷が溶け出し、南太平洋や大西洋に流れ出すと、広大な氷の地帯が出現し、太陽光線を反射し、大気中に放射され、地球全体の温暖化が起こる可能性があった。町では、すべてが混乱しており、矛盾に満ちた情報が溢れていた。海外からのニュースが傍受され、旅行は制限されることなく放置されていた。規制が行われたが、それらは互いに矛盾しており、かえって混乱は増幅された。規制は行き当たりばったりに、実施されたり、解除されたりした。事態を解明する一つの方法は、世界で起こった出来事を一覧表にすることだった。しかし、外国からのニュースの傍受が政府によって禁止されたために、これは不可能になった。政府は冷静さを失っているように思えた。政府は近づく危険に対して、どう対処してよいかわからないみたいだった、事態の本質がどこにあるのかを考えようともせず、ただ治安を保とうとしているだけだった。
疑いもなく、人々の不安は増大していった。他国で何が起こっているかを知ろうと努力するようになった。しかし、燃料不足や停電や輸送の渋滞や商品の闇市への流入の拡大といったことは、まだ起こっていなかった。
異常な冷寒が止む兆しはなかった。私の部屋はかなり暖かかったが、ホテルの暖房は最低限まで低くされた。公共のサービスが気まぐれに制限されたために、私の調査は順調に進まなくなった。河川は何週間も凍りついたままだった。波止場はほとんど麻痺し、深刻な問題が生じてきた。日常品の供給が不足していた。しかし、少なくとも、燃料と食物の配給がまだそれほど遅れてはいなかった。電力の供給は不評だったけれども。
ここから出て行ける人は皆、ここより良い環境を求めて去っていった。今や交通は利用不可能になった。海や空でさえも。船や飛行機を待っている人のリストは長くなっていた。少女が既に外国に脱出しているという証拠はなかった。むしろ、彼女がどうにかしてこの国を脱出できたということはありそうになかった。漠然としたさまざまな思いが頭の中をかけめぐるうちに、彼女はある船に乗り込んでいるという予感がした。
港ははるか遠くだった。そこに辿り着くためには長く困難な旅行を覚悟しなければならなかった。旅行ははかどらず、夜中中かかって、出航の一時間前にやっと辿り着いた。乗客は既に乗船していた。デッキは見送りの人々でごった返していた。私は先ず船長と話をつけなければならなかった。船長は異常なほど話し好きだった。彼は、お上が過剰乗船を認めたことについて不平を言い続けていて、私はだんだんと我慢できなくなってきた。彼が言うには、それは彼自身にとっても、会社にとっても、乗客にとっても、保険会社にとっても、公正ではないということだった。しかし、そうすることが彼の仕事だった。私は乗船の許可を取るや否や、私は船の中をくまなく探した。しかし少女の痕跡を見つけることはできなかった。
私は絶望的になって船を降りて、外に出た。あまりにも疲れ果て、あまりにも意気消沈していたので、あたりの人々の群れを押しのける気力もなく、押しつぶされそうになりながら、手すりの傍に立っていた。その時突然、事態全体を忘れてしまうほどの思いが襲ってきた。少女が船上にいると想像することに何の合理的な理由もなかった。根拠のない推測だけでこれ以上探し続けることは、無意味で、狂気に近いように思われた。特に、私の彼女への態度は漠然としすぎていた。私にとって彼女が必要不可欠であるという感情は、私自身の失われた部分に対する感情と同じ種類のものだった。その感情は愛というよりは、何か説明し難い異常な感情、それにしたがって生きるのではなく、むしろ根絶すべき性格上の欠陥のなにかであった。
その時、背中の黒い大きなかもめが、羽の端っこがほとんど私の頬をなぜんばかりに、横切っていった。私はつられて、カメもの飛んで行った方向にある船のデッキの方を見上げた。突然、彼女がそこにいるのが見えた。ここからはかなりはなれていたけれど。つい先ほどまではそこには誰もいなかった。興奮の波が打ち寄せ、今の思いが吹っ飛び、彼女への渇望が戻ってきた。顔は見えなかったが、私はその姿が彼女だと確信した。そのような眩い髪を持っている少女は世界中で彼女だけだった。あまりにもほっそりしていることが、厚地の灰色のコートの上からでも分かった。私は彼女のところへ行かなければならなかった。それ以外のことを考えることはできなかった。かもめの飛翔が妬ましかった。彼女から私を隔てている群集を押しのけながら突き進んだ。しかし、まもなく船は出航するはずだった。訪問者は既にデッキを立ち去りつつあった。私はその人の流れを横切らねばならなかった。私の考えは、なんとか間に合うように船のデッキに辿り着くことだけだった。不安に駆られながら、群集を押しのけて突き進んだ。群集は敵意を示し、こぶしを振り上げる人がいた。私は緊急事態であることを邪魔になっている人々に弁明したが、彼らは聞こうとしなかった。3人の頑強そうな若者が手を取り合って輪を作り、私が進もうとするのを妨げようとした。彼らは私を威嚇した。私は怒らせるつもりはなかったが、どうしてよいか分からなかった。私はただ彼女のことで頭が一杯だった。突然、スピーカーからアナウンスが流れ出した。
「訪問者は岸へ降りてください。通路は2分以内に閉鎖されます」
汽笛が耳をつんざくようなひと吹きの音を立てた。群集は一斉に岸へと向かった。通路へ殺到して出て来る人々の群れに逆らうことは不可能だった。私は殺到する群れの中に閉じ込められ、引っ張られ、船の外へ、埠頭へと放り出された。
水際に立つと、私は頭上はるかに彼女がいるのが見えた。船はすでに岸から離れ始め、刻々とスピードを増していた。もはや飛び越えることが不可能なほど岸からはなれた。やけくそになって、彼女に気づかせようと思って、私は、叫び声を上げ、手を振った。しかし、それは無駄だった。私の周りの何千という手が波のように揺れており、数え切れない感情豊かな声が叫ばれていた。彼女が連れに話しかけようとして向きを変えるのが見えた。同時に、彼女はフードを頭の上まで引っ張り上げ、彼女の髪は隠れた。私は疑念に襲われ、垣間見た光景によって増幅された。結局、彼女は私に相応しい少女ではない。彼女はあまりにも利己的のような気がした。しかし、そのことには確信がなかった。
港から出て行こうと、船は今向きを変え始めていた。港を背にして波のない海に進行の跡を、刈られた草の跡のように残しながら進んでいた。私はその跡を眼で追って立ち続けていた。寒さのため、乗客はデッキから立ち去りつつあり、彼女の姿を見る望みはほとんどなくなっていた。私は、彼女の姿を捉える直前まで思っていたことを、夢の中の出来事であったかのように、ぼんやりと思い出していた。もう一度、彼女を探さねばという強迫的な思いが襲ってきた。私は結局、強迫観念的な渇望に捉えられているのだった。それは私自身の失われた本質であった。他の全てのことは、私にはもはやどうでもよかった。
私の回りにいた人々は、氷に足跡を残しながら、今では歩き去っていった。私は群集が立ち去るのに気をとめなかった。私にとって、水際を去るなどということは考えられないことだった。船の消えゆく姿を見続けていた。私は全くの痴呆状態であった。私は少女を確認することもできずに船を行かせてしまったために、自分自身に腹を立てていた。今では、船上の女性が本当に彼女かどうか、分からなくなっていた。もし彼女だったとしたなら、この先、私はどのようにして彼女を見つけられることができるのだろうか? 悲しみに沈んだ調べを汽笛が海を渡って運んできた。船は港の保護区域の外に出つつあった。船首は大海のほうを向いていた。既に沖合いの高波にぶつかり、船は水平線からやってくる大波の中に姿を隠そうとしていた。馬鹿馬鹿しいほど小さくなり。おもちゃの船のようになった。そして見失った。私は再びそれを見つけることはできないだろう。それは回復不能な喪失だった。
もはやあたりに誰もいなくなっていた。私一人だけがそこにいた。そのとき、二人の警官が並んでやって来て、標識を指差した。「海岸立ち入り厳禁:陸軍」と書かれていた。
「どうしてここにいるんだ? 字が読めないのか?」
私が見ていなかったと言っても、彼らは信じなかった。彼らは恐ろしく背が高く、ヘルメットをかぶっていて、私の両脇に立った。あまりに近かったので、銃のケースが腰に当ったほどだった。身分証明書を見せるように要求された。私の身分証明書は正規のものだった。私には何の問題もなかった。それにもかかわらず、私の行動に不信をもたれた。名前と住所を書くように要求された。私は馬鹿なことをして注意を私自身に引きつけてしまったのだった。私の名前は記録に残るだろう。私はどこへ行っても警察官に知られることになるのだった。私の移動は観察の下に置かれ、彼女を探すのに大変不利になるだろう。
私は2人の警官によってゲートを押し出された。気配を感じて見上げると、背中の黒いかもめが列を成して壁に止まっていた。風が吹いてくる方向に顔を向け、海の方を見ていた。なにかのメッセージを伝えるために、剥製にされて、そこに止められているかのようだった。ビザが切れないうちに。直ぐにでも、この国を立ち去ろうと思った。捜査は、どこで始めても同じことだと思った。懐疑がかけられているところで、捜査を始めても失敗を招くだけに違いなかった。
警察の記録が広報される前に、私は直ちに立ち去らなければならなかった。通常の方法では不可能だった。ある方法によって、私はなんとか、数人の乗客しか乗せない北へ向かう貨物船に何とか乗せてもらうことができた。船の後部の部屋を申し込んだ。しばらく考え込んだ後で、パーサーが自分の部屋を譲ろうといってくれた。翌日、旅行の最初の港で、到着の風景を見るために、デッキに行った。下のデッキには多くの人がかたまって、下船を待っていたので、私は、過剰定員について聞かされていたのを思い出した。12人が乗客の正規の定員だった。どうしてこんなにたくさんの人が乗船していたのか不思議だった。
極端に寒かった。大量の氷の破片が緑の海に漂っていた。あらゆるものに霧がかかり、曖昧模糊としていた。桟橋は完全に閉鎖されていた。防波堤の端に立っている建物は形がぼんやりとして現実のものとは思えなかった。フードつきの濃い灰色のコートを着た少女が乗客から少しはなれたところに、手すりにもたれかかって立っていた。時々風でコートが裏返り、キルティングされたチェックの綿の裏地が見えた。それは私が探している女性が着ていたのと同じコートだった。だが、それは、女性の間では、寒くなり始めた頃には、ほとんどだれもが着るコートで、どこでも見られたものだった。
霧は晴れかかっていた。太陽はまもなく輝き始めるだろう。凹凸の多い海岸線が現れ、多くの入り江と尖った形をした岩が見え始めた。背後の山は雪に覆われていた。多くの小さな島があった。島のように見えたものの幾つかは、浮かんでおり、雲だった。雲や霧が形をなして降りてきて海の上を漂っていた。一面、雪で白い景色が下のほうに広がり、霧がかった白い光が空を被っていた。東洋の神秘の世界のようだった。形の定かなものはなにもなかった。すべてが流動していた。跡形もないほど崩れた町が現れた。満ち潮で崩された砂の城の町だった。大きな町の防壁がいたるところで壊され、いくつもの小さな壁が並んでいるようになっていて、両端は海に沈んでいた。その場所はかつては重要な働きをしていたのだった。その要塞は何世紀もの間破壊されたままだった。しかしそれは、現在でも歴史的興味を引きつけていた。
突然当りは沈黙した。エンジンがストップしていた。船はまだ慣性で前進していた。舷側で波を切る音がかすかに聞こえた。水鳥のもの悲しげな鳴き声が、北の方で聞こえた。その他は沈黙していた。行き交う車の音も、人声やベルの音も、陸からはやって来なかった。破滅した町は、雲が垂れ込める山のふもとで、全く沈黙したままだった。私は細長い古代の舟を思った。羽のついたヘルメットや酒を入れる角や金や銀でできた重量のある装飾品や化石化した人骨などと一緒に古墳の中に保存されていた戦利品のひとつとしての船だった。そこは既に過去の町だった。死の町だった。
橋の上から叫び声が上がった。埠頭の上で、むっつりした顔をした一群の人々が地面から立ち上がった。彼らは制服を着て武装していた。黒いひざ当てをして、腰にはきつくベルトを締めて、長いブーツをはいて、毛皮の帽子をかぶっていた。ベルトにさしたナイフが彼らが動くたびに光っていた。彼らは異国風の様子をしており、周りを威嚇しているようにに見えた。彼らは総督の部下たちだ、と誰かが叫ぶ声を聞いた。しかしそれは何を意味しているの分からなかった。総督については何も聞いたことがなかった。私的に武装することは禁じられていたので、彼らの出現に驚かせた。ロープが投げられ、彼らはそれらをつかみしっかりと固定した。通路で何かが落ちたような大きな音がした。下船する人たちは、持ち物を手に持ち、パスポートや身分証明書を取り出して、足を引きずるようにしてゆっくりと設置されている改札の方へと進んでいたが、彼らの中に動揺が広がった。
灰色のコートを着た少女だけが上陸するのに無関心だった。彼女はその場所を動かなかった。他の人々が前の方へ移動するにつれて、彼女は一人とり残された。私は興味が湧いてきた。私の視線は彼女に釘づけになった。彼女が全く動かなかったことが、最も印象的だった。若い女性が、そのような受身的な態度をとるのは、抵抗したり、拒否するということが日常的に不慣れであるためのように思われたが、それは若い女性に似つかわしくなかった。彼女は手すりに縛られているかのように動かなかった。かさばったコートは容易に拘束具を隠すことができるだろうと思った。
輝くブロンドの、ほとんど白に近い髪の毛のたばがフードから出ていて、風に吹かれていた。突然、私の胸は高まった。しかし、北国の人々の多くはブロンドの髪なのを思い出した。それにもかかわらず、私の関心は切迫し、彼女の顔を見ることを切望した。私の願いがかなえられるためには、彼女が私の方を向いてくれなければならなかった。
乗客は前進するのを遮られた。制服を着た人々が乗船してきて、有無を言わせぬ口調で、総督の前を開けるようにと命令しながら、彼らの前にいる乗客を一掃した。背の高い男のために空間が空けられた。その男は、黄色い髪の毛をして、整った顔立ちをしていて、がっしりした体格で、タカのように鋭い北方特有の風情をしており、近くの人々から頭ひとつ突き出ていた。他人の感情を無視した彼の傲慢な態度に、私は不愉快になった。彼はそれに気づいたかのように、一瞬私を一瞥した。彼の瞳は、明るい青色をした氷の一片のように光を放っていた。彼は灰色のコートを着た少女の方へ向かって進んだ。彼女は彼を見ていなかった。他の誰もが彼を見つめていた。彼は声をかけた。
「ここで何をしている? 眠っているのか?」
彼女は恐怖にびくついて、体が揺れた。
「急いで! 車が待っている」
彼は彼女に近づいて、体に触れた。彼は微笑んでいたが、声や態度には脅迫的な様子がかすかに見てとれた。彼女は振り向き、いやいや彼に従ったように思われた。彼はまったく親しげな様子をして彼女と腕を組んでいたが、しかし実際には彼女の意志に反して彼女を強制的に、見守る乗客の中を通って、連れ去った。彼女はうつむいたままだったので彼女の表情が見えなかったが、彼の鉄のような手が彼女のほっそりした手首をしっかりと掴んでいるのが想像できた。彼らは他の人に先立って船を降りて行き、真っ直ぐに進み、大きな黒い車に乗りこんで、去って行った。
私は石と化したかのように、そこに立ち続けていた。突然、決心した。チャンスを利用する価値があると思った。彼女の顔を見てはいなかったけれども、とにかく、私は他に利用すべき何の手がかりも持っていなかった。
私はキャビンへ降りて行って。パーサーを呼んでもらって、私は計画を変更したことを彼に話した。
「私はここで降りようと思う」
彼は私の気がふれたのではないかと私を見つめた。
「どうぞご自由に」
彼は肩をすくめて関心なさそうに言った。軽蔑したようなニヤニヤ笑いをしていた。彼は既にほとんどのお金を受け取っていた。今、彼は、これからの航海に対して二番目のお客を募ることが出来るだろう。
私は急いでそこらに散らかっている持ち物をスーツケースに詰め込んだ。
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第3章
スーツケースを持って、私は町へと歩いて行った。沈黙が当りを支配していた。動くものは何もなかった。荒廃は船上から見た以上にひどかった。無傷の建物は一つもなかった。かつて家のあったところに瓦礫が積み重ねられていた。壁が崩れ、階段が途中でなくなっていた。門が開いたままだったが、深い裂け目があった。ほとんど修復の跡は見られず、全体は破壊されたままだった。幹線道路だけは瓦礫が取り除かれていた。それ以外は完全に破壊されたままだった。動物の足跡のように見えるが、実際は人間によって作られたに違いない、かすかな足跡が瓦礫の間に曲がりくねってつけられていた。誰かが私の方にやってこないかと探したが無駄だった。何もかもが荒れ果てていた。列車の汽笛が私を駅へと導いてくれた。そこには小さな間に合わせの建物が建てられていて、破壊からの救助物資があった。私は、一連のフィルムが捨てられている風景を連想した。たぶん、列車は今立ち去ったばかりだけれども、ここでさえも、生きている兆しはなかった。この場所が現実に機能しているとは思えなかった。しかし、現実にそれは機能しているのだった。私の回りのものすべてが、いや私自身さえもが、現実ではないかのようだった。ここでは、はっきりした輪郭を持った物はなにもなかった。すべてが霧やナイロンで作られているかのように輪郭があいまいだった。そして、その背後には何もなかった。
私はプラットホームへ向かって歩き続けた。人々が、線路の上の瓦礫をダイナマイトで爆破していた。町の外へ向かう一本の道があった。それは前方の広場を横切ってもみの木の森の中へと続いていた。辛うじて生きた世界と繋がっているこの道も、人々の信頼を取り戻すことはなかった。道は森へ入るとすぐに途切れているようだった。森の背後には山がそびえていた。私は叫んでみた。
「だれかいませんか?」
どこからともなく人が現れてきて、脅すような身振りをして、言った。
「よそ者は。出て行け!」
私は船から下船したところであり、ホテルに部屋を見つけたいのだと説明した。彼は、敵意をむき出しにして、疑い深く、無礼な態度で、無言のまま、私を睨みつけた。私は幹線道路へ行く道を尋ねた。彼は二言、三言なにか言ったが、衣擦れのようなしわがれた声だったため、ほとんど聞き取れなかった。私が火星からでもやって来たかのように、彼はずっと私を睨みつけていた。
私はバッグを携えて歩き続け、人々が行き交う広場にやってきた。男たちは黒いひざまで届く長い上着を着ていたが、それは既に見たことがあった。それを着ている人たちはほとんどナイフか銃を携えていた。女性も黒服を着用していて、陰鬱な印象を与えていた。皆無表情で黙りこくっていた。最初見た幾つかの建物には、人が住んでいるようだった。窓にはガラスが入っていた。露天市場があり、小さな店もあった。壊れた建物の瓦礫をかき集めたその上に、木作りの小屋や差し掛け小屋が立てられていた。広場の隅にカフェがオープンしていた。映画館もあったが、閉まっていて、古いプログラムのポスターが貼られていて、破れていた。ここは明らかに町の中心街だった。他の場所は、まったく死滅しており、過去の町だった。
私はカフェのマスターを招いて一緒に飲み物を飲んだ。仲良くなって、ホテルを教えてもらいたかったのだった。人々は皆、見知らぬ人に対して、心が狭く、猜疑心が強く、敵意むき出しだった。私たちは地元特産のブランデーを飲んだ。それはプラムから作られており、強くて燃えるようだったが、寒い気候には良い飲み物だった。彼は大きくてがっしりしており、百姓よりは良い身なりをしていた。最初は、彼は一言も喋ろうとしなかったが、二杯目を飲み乾すと、幾分かリラックスして、私になぜここへ来たのかと聞いた。
「誰もここへやってこない。ここには外国人に魅力のあるものは何もない。あるのは破滅だけ」
私は言った。
「この町の破滅は有名だ。それが、私が来た理由です。私は学会でそれを研究している」
私は前もってそう言おうと決めていた。
「外国の人が興味を持っているだと?」
「確かに、この町は歴史上重要な町だ」
私が期待したように、彼はへつらって言った。
「それは確かにそうだ。われわれは輝かしい戦争の記録を持っている」
「そして、輝かしい発見の記録もある。つい最近、あなたの国の丈の長い船が大西洋を渡って、最初に新大陸へ到達したことを示す地図が発見された。知っていましたか?」
「あなたは、瓦礫の中にその証拠を見つけ出すことができるかもしれない」
私は信じてはいなかったが、うなずいて、言った。
「もちろん。そのためには、ご存知のように、私は許可を取らなければならない。すべてが適法になされなければならないから。だが、不幸にして、私は誰のところへ行って頼めばよいのか分からない」
間髪を入れずに、彼は言った。
「あなたは総督に話さなければならない。彼はすべてを支配している」
予期せぬ大幸運が続いた。
「どのようにすれば、彼に接触できますか?」
私は、彼が鉄のような手で少女のほっそりした手首をしっかりと掴んで、もろい突き出た手首の骨を押しつぶさんばかりだったのを思い出した。
「簡単さ。ハイハウスで秘書の一人を通してアポイントメントを取ればよい」
私はこの幸運を喜んだ。私は男に会うための機会を得るための計画を考えながら、機会が来るのを待っていた。すると、最初の機会が向うからやってきた。
残りの用件は難なくうまく行った。私は一連の幸運に恵まれていたのだった。マスターは自分の部屋を貸してくれなかったけれど、近くに住んでいる彼の姉が空いている部屋を貸してくれるかもしれないということだった。
「彼女は未亡人で余分なお金を必要としている。分かるだろう」
彼は彼女に電話するために出て行った。少しばかりすると戻ってきて、部屋は準備が整っているとのことだった。彼は私に二度の食事を用意するといってくれた。朝食は部屋まで持ってきてくれることになった。
「あなたが働いている間、雑音に悩まされることはない。全く静かですよ。家は道路から離れており、海に面している。誰もそっちの方には行かないから」
彼の協力が必要だったので、私は会話を続けようとして、人々はなぜ峡湾の近くに行かないのかと尋ねてみた。
「海の底に住んでいるドラゴンを恐れているから」
私は、冗談を言っているのかと思って、彼を見つめた。しかし彼の顔はまったく真顔だったし、彼の声も真剣だった。私は、電話を持っている人で、ドラゴンの存在を信じている人に、今まで出会ったことはなかった。そのことが私を面白がらせ、また私の非現実的な感覚を刺激した。
部屋は暗かったし、心地よくも、便利でもなかった。暖房も不足していた。しかしながら、ベッドはあったし、テーブルや椅子などの基本的に必要なものはあった。その他の設備は使えなかったけれども、必要品が使えることができて幸運だった。彼女は年取っていたし、彼ほど知的ではなかった。だから、彼は長い間電話していて、彼を泊めるように説得しなければならなかったのだった。彼女は自分ひとりで住んでいる家に、外国人を入れるのは気が進まないのだった。彼女は不信感と嫌悪感を隠そうとしなかった。トラブルが起こるのが嫌だったので、彼女が要求した通りに高額なお金を支払った。それも一週間分を前払いで支払った。
私が外出するためには、部屋と家の2つのキーが必要だったので、それらを要求した。私は自由に出入りしたかった。彼女は2つのキーを持ってきたが、私には部屋のキーのみを渡して、もう一つのキーを手のひらに隠していた。私はもう一つのキーも手渡すように要求した。彼女は拒否した。私は主張した。彼女は頑固だった。彼女はキッチンに引っ込んでしまった。私は追いかけて行って、力づくで取り上げた。私はその種の行動をすることに気にしていなかったが、そこには私の基本的な態度が現れていた。彼女はそれ以来再び私に反対することはなかった。
私は外出して、歩き回り、町を探索した。比較的平常に戻っている地域でも、小道は、朽ち果てて形が崩れてしまっている瓦礫の間を通っていて、人影はなく静かだった。海に突き出ている要塞は破壊されており、大きな階段のある巨大な壁があったが、それも崩れていた。偏在する破滅、朽ちた要塞、戦争の残虐な証拠がいたるところにあった。私は最近作られた建物がないかと探した。何もなかった。人々はこの地を去り、人口が減少していた。残っている人々は、軍の支配権の届かない瓦礫の中で生活していた。彼らは住んでいる場所が住居不能になったら、別の場所に移動した。コミュニティは徐々に死滅していき、毎年、その数は減少していった。そうなる必然的な要因があった。私は最初の頃、人の住んでいる建物を見分けるのが難しかった。そのうちに、人の住んでいる徴候を見つける方法を学んだ。修復されたドアや板で補強された窓などがあれば、それは人の住んでいる徴候だった。
私はハイハウスの総督にアポイントメントをとることができた。それは有名な町の最も高い場所に建てられた大きな要塞のような建物だった。その日、私は、そこへと通じる唯一の険しい道を登って行った。外観は、軍隊の要塞のような様子をしていた。非常に広く、分厚い壁、窓はなく、上の方には、銃を置くためと思われる狭い隙間が開いていた。砲列が門の側面の道路上に、整備されて置かれていた。特に時代遅れには見えたわけではないけれども、昔の軍事行動の記念品かなにかのようだった。私は秘書に電話していて、黒く長い上着を着た四人の武装した護衛兵に出迎えられた。彼らに守られ、長い廊下を下っていった。前に二人、後ろに二人だった。頭上高くには城壁の隙間を通して光が入ってきていて、様々な高さのところに、通路やギャラリーや階段や橋のような踊り場があるのが見えた。光は様々な方向を照らし出していた。天井は見えないほど高くて、建物の頂上まで突き抜けていた。彼方で何かが動いた。少女の姿だった。彼女が階段を上り始めたとき、私は彼女に向かって突進した。階段を一段一段上るごとに、彼女の銀色の髪は空中で揺れて、闇の中でほのかに光った。
その短い急な階段だけが部屋への道だった。部屋は広くて、家具がまばらに配置され、床はダンスフロアのように磨かれていたが、何も敷かれてはいなかった。不自然に沈黙していた。奇妙な静寂の中で、彼女が動くとき、ネズミが何かを引っ掻くときのような音をたてた。外部からも他の部屋からも音は洩れてこなかった。私は困惑した。部屋は防音装置が施され、そこで何が起ころうとも、音は壁の向うに洩れるとはないのだった。なぜ、この奇妙な部屋が彼女に割当てられたのかの理由が分かった。
彼女はベッドに入っていたが、眠ってはいないで、何かを待っていた。彼女の傍のランプがかすかなピンク色の光で辺りを照らしていた。大きなベッドは檀の上に備えつけられていた。ベッドと檀は同じような羊皮で覆われていて、鏡の方を向いていた。鏡はほとんど天井まで届いていた。ここでは、誰も彼女の声を聞かないし、彼女は誰の声も聞くことはなかった。彼女は全ての接触から遠ざけられていた。男は、ノックもしないで言葉もかけないで自由に入ってきた。男は冷たく明るいブルーの眼で、鏡を見つめている少女を捕らえた。彼女はうずくまり、黙って鏡を見つめていた。それはあたかも催眠術にかけられていたかのようだった。彼の眼は、人をすくませる力を持ち、彼女の意志を破壊することができた。何年間もの間にわたって不断に従うようにと、母親によって教育され続けていたために、彼女の意志は既に衰弱していた。子供時代から犠牲者のように、物を考えたり、行動するように強いられていた彼女は、彼の攻撃的な意志に、逆らう術を知らなかった。彼は彼女を完全に所有することができた。それが起こるのを、私は見た。
彼はゆっくりとした足どりで彼女に近づいて行った。彼が彼女の方に屈みこむまで、彼女は動かなかった。彼女は、逃れようとするかのように、急に体をよじり、枕に顔を埋めた。彼は手を伸ばして、肩の上を撫ぜた。あごを掴んで、顔を上に向かせた。指は力を込めて下あごの骨を掴んでいた。彼女は、突然恐怖に襲われ、激しく抵抗した。体をねじって、激しく向きを変え、彼の力に逆らった。彼は全く何もしなかった。彼女に抗うままにさせていた。彼女のか弱くもがいている様をみて、彼は楽しんでいた。彼は彼女の抵抗が長くは続かないことを知っていた。半ば笑みを浮かべながら眺めていた。その間ずっと、わずかな力で、しかし、彼女が逃れられないだけの力で、彼女の顔をしっかり掴み、顔を上げさせていた。彼女は力尽きた。
突然、彼女は屈服した。疲れ果てて、打たれて。彼女はあえぎ、顔は涙で濡れた。彼は掴んでいる手に少しばかり力を込めて、彼をまっすぐ見るように、彼女の顔の向きを変えさせた。ことを終わらせようと、彼は、傲慢で氷のように冷たいブルーの眼で、彼女の見開いた眼の中を、容赦なく、無理やり覗きこんだ。それは彼女の降伏の瞬間だった。この時、彼女の抵抗は崩れ去った。彼女は、冷たい、ブルーの魅惑的な瞳の中に落ち込み、溺れたかのようだった。
彼はさらに体を傾けて、ベッドの上に膝をついた。手を肩にかけて、彼女を押し倒した。意志を失い、彼女は彼のなすがままだった。彼の体に合わせるように少しばかり体を動かしただけだった。彼女は見つめられていた。彼女は自分に何が起こったのかほとんど分からなかった。彼女の正常な意識状態は中断され、失われていた。彼女の屈服が何を意味するのか、彼女には理解できなかった。彼はただ自分の楽しみのためにのみ行為した。
その後、彼女は動かなくなった。彼女は生きている徴候を示さなかった。葬儀場の死体置き場の上でのように、壊れたベッドの上で彼女は裸で横たわっていた。シーツと毛布が床に散らばり、壇の端に覆いかぶさっていた。彼女の頭はベッドの端から垂れ下がっていて、暴力の跡を示すように首は少しばかり捻じ曲げられていた。彼の手によって輝く髪はロープの中にねじ合わされていた。彼は座って、彼女は彼の獲物だと主張するかのように、手を彼女の体の上にて置いていた。彼は指で、腿や胸をまさぐりながら、彼女の裸の体の上をすべらせた。その間、彼女は苦痛と嫌悪感で震え続けていた。それから再び動かなくなった。
彼は片方の手で彼女の頭を持ち上げ、彼女の顔を一瞬覗き込んだ。それから頭を離して枕の上に落とした。彼女はなすがままだった。彼は立ち上がって、ベッドから離れた。彼の足はたたまれた毛布に触れたが、それを蹴飛ばして、ドアのほうへ向かった。彼は、部屋に入ってきて以来、一言も言葉を発していなかった。音一つ立てずに去って行った。ドアを閉じる時、かすかにカチッという音を立てただけだった。彼女にとって、この沈黙こそ、最も恐ろしいことだった。ある意味で、それこそが彼女を支配する力だった。
私はどこへ連れて行かれるのか不安になった。広場にやって来て、通行人が行き交っていた。私たちは、岩盤をくりぬいて作られた小部屋の地下牢への上げぶたを開いて通り抜けた。小部屋の壁には、異臭をはなつ滲出物の混じった水が流れていた。危険な階段がさらに下にある地下牢へと続いていた。私たちは幾つかの対になった大きなドアを通過した。私を先導する護衛兵が鍵を開け、後ろにいる護衛兵が背後でドアを閉める音が聞こえた。
総督は垢抜けた部屋で私を迎えてくれた。そこは広く、高価な家具が調度されていた。床は木でできており、ほの暗い古いシャンデリアで光っていた。窓は町と反対の方向を向いていて、公園の向こう側に、遠くのフィヨルドへ通じる坂道が見えた。彼は黒色の膝上まである長い上着を着ていたが、上着は完璧に体にあっていて、最高級の材質でできていた。彼はまたブーツをはいていたが、それは鏡のように輝いていた。彼は色とりどりのリボンをつけていたが、その階級を私は知らなかった。このとき、私の彼への印象は悪くはなかった。以前ほど、私の嫌いな傲慢な態度は、顕著ではなかった。彼は生まれついての支配者であり、一般的な基準に基づいて人を裁くのではなく、彼自身の法律で人を裁いていたのは、明らかだったけれども。
「私にできることがありますか?」
彼は私に丁寧に形通りの挨拶をした。
彼はブルーの眼で私の顔を真っ直ぐに見ていた。私は前もって準備していた話を話した。彼は直ちに調査するのに必要な許可を与えてくれて、必要な書類にサインしてくれた。私はその書類を明日にももらえるはずだった。彼は自分から、私の調査に役立つ書類を加えるように指示してくれた。私にとってそれは有りがた迷惑だった。彼は言った。
「あなたはここの人々を知らない。彼らはいつも法律を無視するし、生まれつき外国人が嫌いなんです。彼らのやり方は暴力的で、古臭い。私はもっと近代的なやり方をとるようやってみたが難しかった。しかし、過去にこだわるのは無益だ。塩柱になったロットの妻のようにね。しかし、あなたは彼らを過去から離れさせることはできない」
私は彼に感謝した。同時に、私は護衛兵について考えた。それは彼の知的な風貌に似つかわしくなかった。
彼は私が訪問するのに変な時間を選んだと言った。私は理由を尋ねた。
「氷がまもなくやってくる。港は凍りつき、われわれは閉じ込められるだろう」
彼はブルーの眼で私を一瞥した。そこには語られぬ何かがあった。彼は明るい眼を瞬きしてごまかした。青い炎が放射されたかのようだった。彼は続けた。
「あなたは予定より長く滞在することを余儀なくされるかもしれない」
また鋭い容貌になった、言外の意味が含まれているかのようだった。
「私は一週間かそこらしか滞在するつもりはありません。新しいなにかが発見できるとは期待していません。状況が分かればもっといいのですが」
反発したい気持ちがあったにもかかわらず、私は突然、彼ともっと接触したいという奇妙な感覚に捉われた。あたかも私たちの間になにか個人的な繋がりが存在するかのように感じられた。その感情は思いもよらないもので、説明不能な感情だった。混乱して、付け加えた。
「どうか私を誤解しないでください」
私は自分が何を言っているのか分からなかった。彼は満足の表情を見せて、微笑んだ。そしてすぐに、より親しげになって言った。
「そう。私たちは同じ言葉を話しています。いいことです。あなたがやって来てくださって、私は嬉しいですよ。われわれは、この国に滞在している知的な国民ともっと接触する必要があります。これがその始まりです」
私たちが話している事柄はまだいくらかあいまいなままだった。私はお暇するために立ち上がって、彼に再び感謝した。彼は手を振って言った。
「また来てください。いつか夕食をご一緒しましょう。他に私に出来ることがあったら、言ってください」
私は喜色満面だった。幸運はまだ続いていたのだった。私にはすでに目的が達成されたも同然と思われた。私が少女に会うチャンスを得ることは確かだった。食事の招待が具体化しなかったとしても、私は彼の最終的な申し出に頼ることができた。
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第4章
総督がサインした許可書が翌日届いた。総督は、自身で文章の先頭に一文を追加していて、私はあらゆる援助を申し出ます、と書かれていた。これはカフェのマスターを感心させた。私はそのメッセージを回覧するように彼に渡した。
私は町についてのノートをつけ始めた。私の振舞はもっともらしく、また十分なものでなければならなかった。私は時々、魅惑的な歌を歌うキツネザルについて書いてもいいと漠然と思った。記憶が薄れる前に記述するには、今がいい機会だった。毎日、私は周囲のことについて少しずつ書いていった。他の主題についてはもっと多くのページを割いた。他にすることはなかった。仕事がなければ、私は退屈していただろう。私は夢中で仕事をし、数時間没頭し続けた。時間は驚くほど速く過ぎていった。ある意味で、私は、祖国にいるときよりも快適な生活を送っていた。気候は極端に寒かった。しかし、部屋の中は暖かかった。くべるべき丸太は十分供給されていた。ここでは燃料不足の問題はなかった。近くに大きな森があった。まもなくやって来る氷についての思いが、いつも私を悩ませていた。現在はまだ港は開いていた。時々船が出入していた。そのため、カフェで美味な食べ物にありつくことができた。カフェで出る食事は量的には十分であったが、いささか品数が少なかった。私は居間から出て、少し引っ込んだ小部屋で食事をとるようにした。そこは、雑音も煙もなかったし、十分プライバシーの時間を保つことができた。
破滅の中を調査をして歩いていることになっていたので、私は疑われずにハイハウスを観察し続けることができた。時々総督が、ボディガードを伴って出てくるのを見ることはあったけれども、私は決して少女の姿を見つけることはできなかった。彼はいつも足早に大きな車のところへ真っ直ぐに行って、乗り込み、驚くほどのスピードで出て行った。私は、政治上の敵対者による暗殺を恐れているのだと思った。
2、3日たつと、私はいらだってきた。私はどこへも行かなくなり、行ってもすぐに戻って来た。彼女は決してハイハウスを出ることはないだろうと思ったので、私はそこへ入り込まなければならなかった。しかし、招待状はやってこなかった。総督に近づくためのもっともらしい口実を考えていたとき、彼がランチを一緒にとるために護衛兵の一人を迎えによこした。昼ごろ、私がカフェに行く途中に男がやってきたのだった。私はその無神経さが嫌いだった。私を呼び出す彼の傲慢なやり方が嫌いだった。招待というよりは命令だった。抵抗の意を表すために、私は、もうすでに食事が準備されていて、私を待っているので、招待を受けられないと言った。私に返事をする代わりに、護衛兵は大声を上げた。二人の黒い膝上までの長い上着を着た男がどこからともなく現れた。そのうちの一人がカフェのマスターのところへ説明に行った。もう一人は私の傍に立っていた。私は二人の護衛兵と一緒にいるしかなかった。もちろんそうすることがいやではなかった。それはわたしの望んでいたことだった。しかし、私は彼の高圧的な態度は好きではなかった。
総督は私を大きなダイニングホールに真っ直ぐに案内した。そこには、20人ほどの人が座れるテーブルが置かれてあった。彼は最上位の位置に、座を占めていた。堂々としていた。私は彼の脇に座った。三番目の席が私の反対側に置かれてあった。私がそこを一瞥したのを見て、彼は言った。
「あなたと同じ国から来た若い友人がここに滞在している。あなたは彼女に会いたいかもしれないと思ったものでね」
彼は私を覗き込むように見つめた。
私は嬉しいとだけ返事した。心の中では興奮していた。それが本当ならあまりにも幸運すぎた。これ以上の幸運はなかった。もはや彼女に会うために見せ掛けの仕事をしなくて済む。
つや消しされた水入れに入れられてドライマティーニが持ってこられた。その後すぐに誰かが入ってきて、何ごとかをささやき、彼にメモを渡した。2、3語読むや否や、彼の顔色が変わった。彼は紙を、ズタズタに引き裂いた。
「若い人は気が進まないそうだ」
私は落胆したが、適当なことを丁寧につぶやいて、悟られないようにした。彼は怒りで顔をしかめつらをしていた。彼の最もささやかな要求が断られたことに、彼は耐えられなかった。彼の怒りは周囲に及んだ。もはや私に口も聞かずに、彼女のために置かれていたものを下げさせた。グラスやナイフやフォーク類が取り下げられた。食事が持ってこられたが、彼は皿に盛られたものをほとんど口にしなかった。粉々になった紙切れをこぶしで握り締めて座っていた。彼が私を無視し続けていたので、私はいらだってきた。彼が私を向かいに来た傲慢なやり方を思い出し、これまでの彼の全ての無作法さに腹が立ってきた。私は立ち上がって出て行きたかった。しかし、それでは、ここでの彼との関係が駄目になってしまうことが分かっていた。気持ちを落ち着けるために、私は少女のことを思った。たぶん、彼女が来ないということは、私に責任がある。彼女が全く知らされていなかったにしても、彼女は私が誰かを予想したに違いない。彼女がひとりで上方にある防音室にいるところ想像した。彼女は数マイルも遠くにいる、夢の中の人のように感じられた。接近不能で、現実ではないかのようだった。
総督は、許し難い表情を浮かべていたけれども、次第に冷静になってきた。私は自分から話しかけようとはしなかった。彼が私の存在に気づくのを待った。若い羊の肉が切り取られ、私たちがそれを食べていた時に、彼は、急に私の調査に触れた。
「私は、あなたがわたしの周辺の破滅しか調査しないのに興味を持っている」
私はあわてた。私は見張られているとは知らなかった。幸運にも、答えを用意していた。
「ご存知のように、ここには行政上の建物がありました。それで、関心が他のところよりもここに集まります」
彼は何も言わなかった。彼はゲームで相手が疑問手を打ったときのような声をあげた。彼が私の返答に満足したのかどうか分からなかった。
コーヒーがテーブルの上に置かれた。驚くことに、人々を皆部屋から退室させた。私は恐くなった。彼が私と二人きりで何を言おうとしているのか想像がつかなかった。彼の態度はこわばっていた。彼は人をぞっとさせるような様子をしていた、冷酷で、よそよそしかった。つい先ほどまで、彼が親しげだったのが嘘のようだった。
「私に罠をかけるやつは後悔する。私は簡単には騙されない」
彼の声は自制されていて、穏やかだった。以前なら、そこに親しみを感じていたが、今は、威嚇されているように感じた。私にはあなたが言いたいことが理解できないと、言った。思い当たるふしがなかった。彼は長い間威圧的に私を睨みつけていた。私はその間に冷静さを取り戻した。危険のオーラが彼から出ており、何か企んでいるに違いなかった。
コップを脇に押しやり、彼は肘をテーブルにつき、顔を私のまじかに持ってきた。一言も喋らないで私を凝視した。彼の眼は輝いていて、私を支配しようとしていた。威圧に圧倒されないのは困難だった。彼の態度は、はったりに違いなかった。しかし、私は抵抗するのに努力を要した。彼が少しばかり怒りが静まったので、私はホッとした。彼はぶっきらぼうに言った。
「私を助けてくれればありがたんだが」
「一体全体、私に何ができるんです」私は驚いた。
「聞きなさい。ここは小さな、貧しい、資源のない後進国だ。エネルギーに関しては、大国の援助なしではやっていけない。不幸にして、大国が興味を持つには、国が小さすぎる。あなたの国の政府を、わが国と交易すると有益であると、説得して欲しい。地理的にもいい位置にある。あなたは政府に影響力を持っている方だとお見受けしている」
私はかつてはそうであったかも知れなかった。しかし、今ではそうではなくなっていた。私はそのようなことが言われるとは思いもよらなかった。私の直感はそれとは反対のことを予想していた。
「その種のことに、全く私は関係していないので」
彼はいらいらして遮った。
「あなたの国の政治家に私の国と協力関係を持つと、有利だと指摘してくれるだけでいい。簡単なことです。地図を見せていただければいい」
私が何か言う前に、彼はさらにいらだちながら、彼の意志を押しつけてきた。
「やってくれるでしょう?」
彼の権力と人を引きつける力に抗して、それを拒否することは不可能だった。しぶしぶ、私は同意した。
「よろしい。契約成立だ。もちろん、あなたは報酬を受け取るでしょう」
決着がついたかのように、彼は立ち上がって、手を差し出して、つけ加えた。
「下準備をするために、すぐにでも手紙を書いてください」
彼は小さな銀のベルを取り上げて、力いっぱい鳴らした。人々が群れをなして部屋の中に突進してきた。彼は彼らの方へ近づいていくとき、親しげにうなづき、私を立ち去らせた。私は当惑し不安になった。しかし、この場所を去ることが出来て嬉しかった。私はこの新たな展開を好まなかった。私の幸運も変わりそうだった。
1、2日後に、彼の大きな車が私のところにやってきて、止まった。彼は顔を出したが、高価な毛皮のオーバーコートを着ていた。彼は、私にハイハウスへ来ないかと、一言言った。私が乗り込むと、車は猛スピードで、入口へ向かった。
私たちは、彼と話をする目的で集まって来ている人々のいる部屋に入っていった。護衛兵が彼らを後方へ追いやって、私たちが向うの部屋に行くことができるようにしてくれた。私は彼がつぶやくのを聞いた。
「5分間遠慮しくれないか」
彼は護衛兵を向うへ行かせた。私に言った。
「あなたは、我々の契約に関して然るべき人に手紙を書いたと思うんだが」
私は何か言い逃れを言った。彼は全く口調を変えて、私を激しく非難した。
「郵便局はあなたがまだ誰にも手紙を送っていないと言っている。私はあなたが約束は守る男だと思っていた。見損なったみたいだ」
口論を避けたかったので、彼の侮辱を気にしないで、冷静に返答した。
「私はまだ契約から私は何を得ることができるのか聞いていなかったので」
彼は、ぶっきらぼうに、条件を言えと言った。私は率直に、単純に話そうと決心した。彼の敵意を少しでも和らげようと思いながら。
「私の望みはささやかなものです。今となっては」
私の望みは彼の敵意のない笑みだということを彼に知らせた。
「あなたのところにいる友人は、私と旧知の間柄かもしれない。その点を確かめるために、私は彼女と会いたい」
私は、私の強い願望を悟られないように言った。
彼は無言だった。彼は沈黙していたので、私の申し込みに反対しているのように思えた。彼が私にランチを招待したときとは、明らかに態度の変化があった。もはや彼は、私に会おうとしないだろうと思った。
突然、私は時間が気になって、時計を見た。面会の時間は5分過ぎていた。彼の命令に従って護衛兵が私を連れ出しに近づいて来るまで、待つつもりはなかった。立ち去ろうとした。彼は私と一緒にドアのところまでやって来て、ノブに手をかけながら、私が去るのを妨げようとしていた。
「彼女は気分が優れない。人に会うのに神経質になっている。あなたに会うかどうか聞いてみようか?」
私は彼が会わせないだろうと確信していた。再び時計を見た。1分しか残されていなかった。
「行かなければならない。もうすでに十分あなたの時間を使わせました」
彼の急に笑ったので、私は驚いた。彼は私が何を考えていたか知っていたに違いない。突然、彼の態度が変わった。彼は親しげになり、私は一瞬彼といっそう近づきになれるかもしれないと、かすかに思ったほどだった。彼はドアを開いて、護衛兵たちに立ち去るよう示唆した。彼らは挨拶して、出て行き、回廊を進んで行った。彼らのブーツが磨かれた床でカチャかチャと音を立てた。彼はそれから私の方を向き、善意を示すかのように、言った。
「もしよければ、今彼女のところに行こう。しかし、前もって彼女に知らせておかなければならない」
彼は私を連れて、彼を待っている人々がいる部屋へ戻った。人々は彼の回りに押し寄せ、取り囲んで、彼に熱心に話しかけた。彼は近くの人と、笑顔で親しげに一言二言話しをした。大きな声で、待たせたことを、さらに少しばかり我慢してもらわなければならないことを、詫びた。追って、全員の話を聴くだろうと約束した。部屋中に聞こえる調子で、命令口調で言った。
「音楽はないの」
それから、きつい口調で従業員に言った。
「ここにいる人々はお客だということは分かっているはずだ。待たせている間は、もてなすのが最低限の義務だ」
弦楽四重奏曲の調べが部屋中に響き始めた。私は彼に続いてそこを出た。
彼は私の前に立って、多くの護衛兵の前を通り過ぎ、風が吹いている回廊を大またで歩いて行った、一続きの階段をいくつか昇ったり降りたりした。私は彼についていくのに精一杯だった。彼は私よりはるかに条件が恵まれていた。彼は、その事実を示すのを楽しんでいるかのようだった。私を振り返りながら、笑いかけたり、彼の優越した身体を見せびらかした。私は彼のこの突然のユーモアを全く信じていなかった。私は、彼の広い肩幅や上品で細いウェストをした運動家のような頑強な身体を賞賛した。道のりは決して終わらないと思われるほど長かった。私は息切れがした。とうとう、私は彼を待たせるほど後れてしまった。彼は、短い階段の上で私を待っていた。そこは深い影の中にあった。ドアの形をかろうじて識別できた。部屋へ通じているのは、その階段だけだった。
彼は、少女に事情を説明したいので、私に数分待っているように言った。悪意のある笑い顔で
「ここで少しばかり体を冷やしてください」と言った。
ドアのノブに手をかけながら、続けて言った。
「ご存知のように、彼女次第ですから。彼女が会いたくないと言ったら、どうしょうもない」
彼はノックもなしにドアを開けて、部屋の中に姿を消した。
そこは薄暗かった。私は気が滅入り、いらだった。彼は私を罠にかけようとしているのだった。彼によって用意された彼女との出会いは見せかけのものだろう。可能性は皆無に等しかった。彼女が私を拒否するのか、彼が会わせるのを邪魔するのかは分からなかった。いずれにしろ、私は彼のいるところで彼女と話をしたくなかった。彼女は彼の支配の下にあるのだから。
私は聞き耳を立てた。しかし防音装置の壁からはなにも聞こえて来なかった。しばらく待って、私は階段を降りて行った。暗闇の通路で迷っていると。使用人に出会ったので、出口への道を教えてもらった。私の幸運続きもこれで尽きたかと思われた。
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第5章
窓からは、空虚な風景が広がっていた。動くものは何もなかった。家はなかった。眼に入るのは崩れ落ちた壁の残骸や荒涼として広がる雪原やフィヨルドやもみの木の森や山だけだった。色彩に乏しく、闇から死のような極度な白い雪原へと移り変わる単調な灰色の光景が広がっていた。川は流れていず、死滅しているように静寂だった。いたるところで黒々として木々が並び、辺りを陰鬱にしていた。突然、動きがあった。音もなく灰色の単調な光景の中で、赤と青の服装をした人々が叫び声をあげた。私はオーバーコートを掴み、声の聞こえた方へと走っていき、ドアを目指した。しかし、急に考えが変わり、窓のところへ戻った。窓はしっかりと閉じられていた。私はそれを何とか持ち上げて、外の瓦礫の集積の上へと出た。それから窓を締めた。凍った草の上を滑りながら、私は坂を降りて行った。それが最も早い方法だった。また、私の動きをいつも監視しているらしい主婦の視線を避けたかったからでもあった。フィヨルドにそって巡っている狭い道には誰もいなかった。しかし、私が追っている人はそんなに遠くへ行っていないはずだった。道は森の中へと続いていた。森の中は寒く、暗かった。木々は密集して、頭上では枝が絡み合い、重なっていた。足元の方では根っこがもつれあっていた。20人ほどのの姿を見せない人々が私の傍にいる気配がした。もみの木々の間で灰色のコートを着た人たちが幽霊のように見え隠れした。時々、チェックの模様をしたリネンが一瞬見えた。その人は帽子を被っていなかった。彼女の明るい髪がちらちらと光った。それは森の中では鬼火が点滅しているように見えた、彼女は森から出ようと一生懸命走っていた。森全体が悪意を示しているように思われ、彼女はいらだっていた。密集した木々は彼女から逃げる気力を奪い、周りを暗い壁のように被い、彼女を閉じ込めた。もうずいぶん前に日は沈んでいた。彼女は遠くへ来すぎており、急いで戻らなければならなかったのだった。彼女はフィヨルドを探して当りを見回したが、見えなかった。彼女は方向が分からなくなっていた。突然、恐怖に襲われた。鬱蒼とした森の中の夜に捉えられ、怯えた。この地方は彼女にとって恐怖だった。彼女が親切さというものを経験していたならば、また違った気持ちになっていただろう。彼女は、木々が奸知に長けて彼女を妨害しているような気がした。彼女は自分の生活が、犠牲者として運命づけられていると思っていた。今や、森は敵意をむき出しにして彼女を破滅させようとしているかのようだった。絶望的になりながら、彼女は走ろうとしたが、草に隠れていた木の根っこにつまずき、倒れそうになった。髪が枝に絡みつき、彼女は背後に引っ張られた。髪がほどけると、枝は、反作用で勢いよく彼女にぶつかった。頭から抜けた銀色の髪の毛が針状葉の間できらめいた。それは彼女を追いかけている者の手がかりになるに違いなかった。彼女は何とか森から抜け出すことができ、フィヨルドが見えた。そこでは、禍々しい生き物が水面から立ち上がっていた。原始の、野蛮な、生贄を求めて、飢えた何ものかが立ち上がっていた。
数秒の間、彼女は立ちすくんた。ぞっとするような沈黙とわびしさに彼女はとり囲まれていた。景色全体が、見たこともない獰猛な容貌を示していた。夜の帳に包まれつつあった。森の木々が、いたるところで野営している軍隊の一団のように見えた。山は壁となり、その上の木々は彼女を狙う銃だった。下の方では、フィヨルドが太陽から盗んできた火を噴出する、想像を絶する冷たい火山のようだった。
黄昏が深まり、そこには、あらゆる種類の恐怖があった。彼女は恐怖であたりを見ることすらできなかった。水面からぼんやりとした姿が立ち上ってきた。気配を感じさせずに、それは、彼女の方に滑るように近づいてきた。彼女はパニックになって逃げ出したが、それは彼女に追いつき、やわらかく、冷たく湿ったねばねばした、心霊体のような半透明の帯のなかに彼女を包み込んだ。息のつまったような悲鳴をあげて、彼女は逃れようと暴れた。めくら滅法に、半狂乱になって、喘ぎながら走り続けた。彼女は悪夢に閉じ込められ、もはや考えることはできなかった。最後の明かりが消えて、見えない岩につまずき、膝や肘を傷つけた。棘が彼女の腕を引き裂き、顔を引っ掻いた。彼女は飛ぶように走ると、フィヨルドの端の薄い氷が割れて、彼女は凍れる水の中で溺れかけた。呼吸するたびに苦しく、鋭いナイフが胸を刺し続けるようだった。背後から迫ってくる大きな足音が恐ろしくて、彼女は一時も止まろうとも、速度を緩めようともしなかった。心臓が苦悶に脈打っていたが、彼女は気にしないで走り続けた。突然、彼女は雪の吹き溜まりの中で足を滑らせ、顔から深い雪穴に倒れこんだ。雪が口いっぱいに入り込み、疲労困憊して動けなかった。彼女はもう決して起き上がれなかった。もはや走ることは不可能だった。張り詰めた筋肉は引きつり、抵抗し難い運命の磁力にひきつけられ、もがき続けるだけだった。彼女は幼少の最も傷つきやすい時期に、組織的ないじめにあったために、彼女の人格は歪められ、自分は犠牲者の運命にあるものと諦めていた。ものによってか、あるいは人間によってか、または、フィヨルドや、森によって、彼女は破壊される運命にあった。いずれであるにせよ同じことだった。とにかく、彼女は逃れることは不可能だった。回復不能な危害が長い間加えられ続けたので、彼女の運命は避けがたいものになっていた。
黒々とした岩の塊が前方に現れ、丘や山や明かりのない要塞が、黒いもみの木の茂みの間から、姿を現した。彼女の弱々しい手は震えて、ドアを開けることはできなかったが、運命の力が彼女をドアの中へと引き入れた。
敵意をむき出しにした、凍えるような寒さの中で、彼女はベッドの上に体を横たえた。壁の向うでは敵が聞き耳を立てているように感じられた。全くの沈黙と孤独の中で、彼女は横になったままで鏡を見ていた。運命に身を任せていた。長く待つ必要はなかった。彼女には分かっていた。この防音装置の部屋で恐るべき何かが起こるであろうことを、彼女は知っていた。誰も彼女を助けに来ることは出来なかったし、また、出来たとしても来る人はいなかった。部屋はいつものように敵意に満ちていた。壁は彼女を守らないし、あたり一面に冷淡な敵意が漂っているのを彼女は感じていた。何もすることはなかった。助けを求める人もいなかった。見捨てられ、助けもなく、彼女はただ結末がやってくるのを待っているだけだった。
女性がノックもなしに入ってきて、戸口に立った。彼女は、全身黒装束で木が聳えるように背が高くて、容姿端麗で、近づきがたい姿をしていた。彼女の後ろからぼんやりした姿が続き、彼女の背後に影を作っていた。少女は直ちにそれが処刑執行者であることを悟った。彼女はいつも悪意を感じていた。あまりのも無知なために、あるいはあまりにも夢見心地であったがために、それがなぜだか理解できず、原因を推測することもできなかった。今や、冷たく輝く無慈悲な眼が鏡の奥深くに浮かんでおり、犠牲者を射るように見つめていた。彼女の目は大きく見開き、黒い瞳が恐怖に満ち、起ころうとしている悪夢を見ていた。避けられぬ運命として彼女はそれを受け入れた。彼女の精神は幼児へと退行し、耐えざる虐待によって脅かされ続け、従順になった、怯えた子供になった。怯えながら、女性の命令的な口調に従って、彼女は起き上がり、ふらつく足どりで、檀を降りた。彼女の顔は紙のように蒼白だった。腕を掴まれたとき、彼女は叫び声をあげ、自由になろうともがいた。手で口を塞がれ、彼女の頭上には数人の姿が現れた。彼女は両側から手首を掴まれ、荒々しく持ち上げられ、部屋から連れ出され、手を背後で縛られた。
木の茂る中で、さらに暗くなっていき、私は道に迷ってしまった。ついには、全く道が分からなくなってしまい、別の場所に出てしまった。私はは壁に囲まれていた。そこは誰も足を踏み入れたことのないような、強く印象づけられる場所だった。壁の両端に配置されている歩哨兵の黒い影が見えた。彼ら2人は互いに近づいてきて、私の傍で行き交うだろうと思った。私は黒い木の影の処にじっと立っていたので、見つけられることはなかった。彼らは足音高く歩いていて、硬く凍りついた霜のために、足音はよけいに大きく響いた。彼らは向き合うと、足踏みして、合言葉を交換した。そして再び離れていった。私は歩き続け、足音がほとんど聞こえなくなった。複数の飛行機の中で同時に生活しているかのような奇妙な感じに襲われた。これらの飛行機は重なっているために、私の思いは混乱しているのだった。家ぐらいの大きさの大きな丸い岩が転がっていた。それは切り落とされた巨人の頭のように見えた。それらはずいぶん昔に山から落ちてきたのに違いなかった。突然声が聞こえた。辺りを見回したが誰もいなかった。声は巨石の間から聞こえてきたような気がしたので、そちらの方へ行ってみた。暗闇の中で明かりが黄色い花のように光っていた。私は巨石の間に小屋を見つけた。内部で人々が話しをしていた。
わめき声や何かがぶつかる音や馬の怯えたようないななきや争っている音などが一緒になって聞こえてきた。槍が空を飛びかっていた。戦闘用の棍棒で殴りあう音がした。金属がぶつかる音がした。奇妙な服装をした男達が連帯を組んで壁の所にやってきて、短剣を口にくわえ、手足を使って壁をよじ登っていた。ゴリラのように俊敏な動作だった、何千人と集まってきていた。しかし、いくら多くても、撃退された。新しい連帯が次々とやってきて波状攻撃をかけていた。とうとう、壁の上の防衛者は絶滅した。2列目の防衛者は退却を余儀なくされた。侵入者の一部は既に門を開き中に侵入していた。残りの侵入者も、潮が引くように、建物の中へと入り込んで行った。建物の中で、人びとは体を盾にしてバリケードを作った。町中が全く混乱していた。狭い通りで、人々は取っ組み合って戦っていた。野生の獣の咆哮のような叫びが壁の間で、無意味に木霊した。よそ者が、男であろうと、女であろうと、子供であろうと、出会ったすべての人々を虐殺し、ワインを喉に注ぎながら、狂ったように町中を駆け巡っていた。ワインが口から流れ落ち、汗と血と交じり合い、彼らは悪魔のように容貌なっていた。雪が少し降り始めた。それがまた彼らを余計に狂暴にするかに見えた。彼らは狂人のように笑い、落ちてくる雪の破片を食べようとしたりした。馬に乗った戦士たちが三角旗や羽をつけた槍を持ってやってきた。槍の頭には、切り落とされた首が突き刺さっていた。それが子供や犬の首こともあった。いたるとことろで大火事が起こっていて、昼のように明るかった。大気は燃焼によって起こる悪臭やこげた木の臭いで満ちていた。すすで大気は真っ黒だった。家からあぶりだされた人々は、敵によって虐殺された。多くの人々が炎の中で死んでいった。
私は武器を持っていなかった。身を守ることのできるものを探した。死んだ馬がバリケードを作るために、路上に積み重ねられていた。そのうえで人が殺されていた。剣を抜く機会すらなかったようだった。剣は鞘の中に収まっており、鞘には複雑で美しい模様が刻み込まれていた。私は突き出ている柄を力を込めて引っ張ったが、動かなかった。死んだ馬は大急ぎで積み上げられたらしく、剣を引き抜こうとすると、崩れ、死体は、下まで転げ落ちた。私がバリケードを直す間もなく、騎兵隊の一団が騒ぎ立てながら、槍を波のように揺らし、意味もなく大声を上げて、駆け足でやって来た。彼らに気づかれないように、私は地面に身を伏した。しかし最悪の事態を覚悟した。彼らが近づいてきた時、彼らの一人が前方の死体に槍を突き立て、乱暴に取り除いたので、それが私の上に落ちてきた。結果的に、私は身を隠すことになり、助かった。血走った、狂った、獣のような眼で当りを見回しながら、一団は通り過ぎて行った。完全に行き過ぎるまで、私はじっとしていた。
彼らが去った後、私は死体を押しのけ、立ち上がって少女を捜した。彼女を見つけられるだろうとは期待していなかった。略奪されている町にいる彼女の運命は分かっていた。死者の剣は自由になっていたので、私は簡単に引き抜くことができた。私は今までにそのような武器を使用することは決してなかったし、人を切りつけようと思ったこともなかった。それは重くて腰につるして歩くのが難しかったが、歩くに従って、バランスのとり方が分かり、慣れてきた。戦いの多くは、街の下の方の港から突き出ている要塞の辺りで起こっていた。私は人をみかけると、見つからないように身を隠した。ハイハウスは既にほとんど燃え尽くしていて、骨組みだけが残っていた。煙と炎が空一面に広がっていた。内部はいたるところで白熱していた。私は出来る限り近づこうとしたが、煙と熱によって近づくことはできなかった。中へ入ることは全く不可能だった。とにかく、地獄のように燃えている中では、誰も生き残ることは不可能だった。私の顔は焦げるほど熱く、髪の毛は火花でくすぶった。
私は偶然にも彼女に出くわした。それほど遠くないところの石の上に、うつ伏せになって横たわっていた。血が少しばかり口から滴っていた。彼女の首は不自然にねじれており、それは生きていればあり得ない曲がりかただった。首は折れていた。彼女は、髪の毛がロープのようなもので結ばれて、引っ張られていた。髪は鈍い銀色に輝いてた。血が背中に流れていて、まだ鮮血だった。それ以外のところでは、既に黒ずんだ血が白い肉体の上で凝固していた。片方の腕には、歯型がはっきりとついていた。前腕は折れていて、骨の一部が引き裂かれた手首の肉の間から突き出ていた。私は何かには騙されたような気がしていた。私だけが優しい気持ちで死体を破壊することができたのだし、私だけが傷つける資格があるはずだった。私は前かがみなり、彼女の冷たくなった肌に触れた。
私は小屋の窓の所へ行って覗き込んだ。中から見られることを気にしなかった。大勢の人々が煙の充満した小さな部屋に集まっていた。彼らの顔は火の光に照らされて輝いていた。さながら、中世の地獄絵のようだった。その異様さに言葉を失った。彼らはぺちゃくちゃ喋っていた。その中に女性が一人いた。異常に長身で、近づき難いような美人だった。ハイハウスで見たことがあった。彼女は父と呼んでいる男性と一緒に座っていた。彼は私からそれほど遠くないとこりにいたので、彼の声が聞こえた。彼はフィヨルドの伝説に関係した話をしているらしかった。毎年冬至になると、水中深くに生息しているドラゴンのために美しい少女を生贄として捧げなければならなかった。他の人々の声は徐々に低くなっていき、彼は儀式について説明し始めた。
「彼女を岩の上に連れて行くとできるだけ早く彼女の縄をほどかなければならない。彼女は少しばかりもがくに違いない。そうしなければ、ドラゴンは私たちが死んだ少女を生贄に捧げたと思うかもしれない。水面が底の方から泡立ってくると、鱗に覆われた怪獣が大きく渦を巻きながら現れる。そのとき、彼女を投げ入れる。フィヨルド全体の水面が渦巻き、あらゆる方向に血と泡立ちが広がっていく」
生贄についての議論が活発に続けられた。いろいろな人がかわるがわる発言した。それは、あたかもライバルのチームとのフットボールの試合について話をしているかのように活気に満ちていた。誰かが言った。
「われわれはそれほど多くの美少女を持っているわけではない。なのになぜ、その中の一人をドラゴンに捧げなければならないのだ。なぜ、われわれと関係のない外国の少女を生贄にしないのだ」
声の調子で、話し手が、特定の女性を名指しているのが分かった。その名前は全ての人が知っていた。父親は反対意見を述べ始めた。娘に同意を求めたが、娘は黙ったままだった。彼は悪意のある非難を言い始めた。私はそのうちの一部しか聞くことができなかった。
「ガラスでできているような青白い少女……。粉々に砕け……。私は粉々にするだろう」大声で締めくくった。
「私は彼女を岩の上から自分で投げ落とそう。誰もそれをしないのならば」
私は嫌な気持ちになってその場を去った。人々は野蛮というよりは残酷だった。私は手と顔の感覚が鈍くなるほど、凍えていた。私はなぜこんなくだらない無駄話を聞くために立ち止まっていたのか、自分でも訳が分からなかった。どこか悪いのではないかと漠然感じた。それが何なのかは分からなかったけれども。しかし、その思いは一瞬心を乱しただけで、直ぐ忘れてしまった。小さな月が、空高くで、冷たいが明るく輝いていて、風景全体を照らし出していた。フィヨルドが見えたが、景色は見えなかった。高く垂直に聳える岩が、水面から真っ直ぐに伸びていて、水泳の高飛び台のような水平な岩を支えていた。岩の間を手が縛られた少女を引っ張りながら、人々が現れた。彼女が私の傍を通り過ぎるとき、彼女の哀れな表情が見えた。彼女は恐ろしさで子供のようにおびえていた。彼女に近づいて、縄を解いてやろうと思い、前に出て行った。誰かが私の方へやって来た。私は彼を突き飛ばし、彼女に近づこうとしたが、彼女は引っ張られて行ってしまった。私は人々の中へと突進し、大声で叫んだ。
「人殺し」
私が近づいた時には、彼らはすでに彼女を岩の上に放り投げていた。
私は、水平な岩の上の彼女に近づいて行った。そこでは私たちだけだった。私の背後でざわめきが聞こえていたので、多くの見物者がいることは分かっていた。しかし、彼らは私たちに関心を示さなかった。震えている姿を見つめた。岩の先端で、膝をつき、うつむくようにして、暗い水面を覗き込んでいた。彼女の髪は月光に照らされてダイヤモンド・ダストのように輝いていた。彼女は私を方を見てはいなかったけれども、私は彼女の顔を見ることができた。その顔はいつもは真っ青だったが、今は、骨の髄まで真っ青だった。彼女は極端にやせ細っていて、両方の手のひらで、彼女を抱きしめることができ、胸を隠せるほどだった。輝く月光のもとで、彼女の肌は白いサテンのように一面白く、陰の部分は全くなかった。 手首につけられた縛られていた跡が昼間では赤かったが、今では黒色に見えた。どのようにしたら彼女の手首を掴み、か弱い骨を折ることができるのかを想像した。
私は身を乗り出して、彼女の冷たい肌、太もものくぼみに触った。雪が彼女の胸の窪みに降り注いでいた。
武装した男達が上がってきて、私を後ろに押しのけ、彼女の壊れそうな肩を掴んだ。氷の小片かあるいはダイヤモンドのような大粒の涙が、彼女の眼からこぼれ落ちた。私は動かなかった。涙は現実のものとは思えなかった。彼女自身が現実とは思えなかった。彼女の肌は青白く、ほとんど透明だった。彼女は、私が夢の中で密かに楽しんでいる生贄だった。私の背後の人々は待たされるのに我慢できないという様子で、ぺちゃくちゃ騒いでいた。男達はもはや待たずに、彼女を海へ投げ込んだ。彼女の体は哀れな悲鳴を上げながら落ちて行った。紙袋が破裂するように、夜の闇が破裂した。大きな水しぶきが水面から噴出した。波が岩にぶつかり、飛沫が岩の上まで届いた。私はずぶぬれになり、凍えたが、気にせずに、岩の端から水面を覗き込んだ。鱗に覆われた姿が、静かな水面から、渦を巻いて現れ出た。白い姿が狂ったように一瞬もがいたが、鎧で武装したような硬い顎の中に呑み込まれていった。
私は急いで自分の小屋に戻った。寒さのために、手足の感覚はなくなり、顔は強張り、頭痛が始まっていた。暖かい部屋の中で少しばかり感覚が元に戻ってくると、今見てきたことを書きとめた。もちろん主要な話題は、インドリであったが、町について興味のあることを書いている振りをしていた。護衛兵が私のノートをあえて読むとは思っていなかったが、私が外出している間に、そうしようと思えば容易にできたはずだった。キツネザルについての記事を、この地方の事件の記事と一緒にして書いていたので、少なくとも何にも好奇心を示す家の持主である女性を欺くことはできた。
穏和で神秘的な歌を歌う生きものについて書けることに、私は非常な満足感を覚えていた。書き進めるに従って、理解が深まっていった。うっとりするような別世界の声と共に、その陽気で愛情あふれた無邪気な振舞は、私にとって、人間による破壊や暴力や残忍さに満ちている地球において、生命の象徴だった。私はたいして努力もしないで、心に浮かんでくるままに文章を書くことができていたので、楽しかった。私の頭の中で、文章自身が自分の意志で次の文章を作り出していたかのようだった。しかし、今では全く違っていた。私は適切な言葉を見出すことはできなかった。私は明確に表現することはできなかったし、正確に想像することもできなかった。数分後には、私はペンを置いた。そして直ぐに、煙に満ちた部屋に集まっていた人々の姿を想像した。そこで立ち聞きした内容を総督に知らせるべきだと思った。それと同時に、その場面は現実のものと思われなかった。夢を見ていたかのようだった。少女が危険な目にあったのだということを思い出しても、それが実際に起こったことだとは信じられなかった。それでも、私は立ち上がり、電話のところへ行った。電話をすると、一言一句をもらすまいと、女性が立ち聞きするのではないかという根拠のない疑いを抱いたために、結局、私は電話をかけるのをやめて、コーヒーを飲みにカフェに行くことにした。
私は家を出ると、非現実的な感覚に私は圧倒された。白熱の強い光が、真昼のようにはっきりと全ての光景を照らし出された。眩くて私は何も見ることができないほどだった。しかし、驚いたことに、いつもは眼には見えないような細かなものが見えた。雪はかすかに降り続けていたが、雪片の模様までもがはっきりと見てとれた。それは優美な星のような、花のような、はっきりとした形をしていて、宝石のように輝いていた。私は辺りを見回し、いつも見ている崩壊した建物の姿を探した。しかしそこにはもはやなかった。見慣れた破滅の光景が失せて、今では、全くの別世界になっていた。どこにも破滅した町の痕跡は存在しなかった。建造物は解体され、全く平になっていた。あたかも、巨大な地ならし用のスチームローラーが当たり一面を押しつぶして平にしたかのようだった。ひとつふたつの垂直に立っている残骸が、意図的に残されていた。その残骸があるために、地面が平であることが余計にはっきりと分かるのだった。夢を見ているような気分で、私は歩き続けた。誰にも会わなかった。生者はもちろん、死体にも出会わなかった。大気には甘ったるい、不快なにおいに満ちていて、その臭いが手や衣類にまといついた。なにかガスらしきもの臭いに思われた。火が見られないので不思議だった。燃えているものは何もなく、煙も見られなかった。白いミルクのような液体が瓦礫の間をかすかに流れていて、ここかしこに水溜りのようなものを作っていた。この白い液体の溜まりは、触れるものは全て飲み込みながら、周辺を侵食していくように、広がり続けていた。液体が流れ出てからどのくらいたっているのかわからなかったけれど、透明になっていくのに魅せられて、私はしばらくの間、そこに立ち続けていた。
私は少女を捜さなければならないのを思い出した。私は、絶望的になりながらも、果てしない瓦礫の間を探し続けた。私ははるか彼方に彼女の姿が見えた気がした。叫び声を上げながら走った。彼女は向きを変え、姿を消した。そして、蜃気楼のように、彼女ははるか彼方に姿を現した。それからまた、彼女は姿を消した。残骸の堆積の上に、少女の腕は突き出ていた。私は手首を掴んでそっと引っ張った。腕は残骸から抜け出て、私の手の中に残った。突然、背後で声がした。人が動く気配を感じた。素早く振り向くと、さえずるような声を出して、生きものがすべるように動くのが見えた。全く奇妙な形をしており、人間のように見えるが、SF小説に出てくるミュータントのような姿をしていた。それらは私を気にかけないで、全く無視していた。私はそれらに近づかないようにして、急いで彼女の後を追った。
私はあたりに死体が横たわっている場所にやって来た。わたしは立ち止まって、そこに彼女の体がないかどうか調べた。私はすぐ近くにある死体に近づき、注意深く調べた。しかし識別できなかった。骨と骨にくっついている残肉体はリン光を発していた。他の死体を調べることは時間の無駄だったので、私はその場を後にした。
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第6章
家の持主は、私が部屋の前を通り過ぎる音を聞いて、ドアを開けて、私を見てしかめ面をした。私は彼女に気づかないふりをして、玄関へ急いだ。玄関のドアは開かなかった。何か障害物にぶつかっているらしかった。力を込めて押すと、雪の塊が飛び散って開いた。凍えるような風が吹いてきて、背後で何かがガラガラという音を立てた。
「気をつけて!」怒りの声が聞こえてきたが、私は無視した。
外では、降り続ける雪の多さに辟易した。旧い町は、白い幽霊のような姿に変っていた。か弱い光が当りを照らし出していた。破滅した町の姿が厚い雪に覆われ、崩壊した建物の輪郭がぼやかされていた。何もかもの輪郭が覆われ、ぼんやりとしていた。大雪の影響のため、正確な位置が分からなくなっていた。私が抱いている旧い町の印象はそこにはなく、情景はナイロンに覆われたように半透明で、その背後には何もないかのようだった。最初は、少量の雪が空中に舞っている程度だったが、しばらくすると、吹雪が吹き始めた。雪はほとんど地面と並行に降っていた。凍えるような向かい風が吹き始めたので、頭を低くして歩いた。乾いて凍りついた雪が足元で渦巻いていた。にわかに雪が激しく降り始め、大量の雪が大気中を舞い始めた。私はどこにいるのか分からなかくなった。時々当りを見回したが、馴染みのあるところにいるようでいて、全体の光景が歪んで見えた。それは現実のものとは思えなかった。私は混乱した。外部世界が現実に見えないのは、私自身の心の状態が歪んでいるからに違いなかった。
努力して考えようとした。少女が危険な状態にいること、またそのことを知らせなければならいことを思い出した。カフェを探すことを諦めて、真っ直ぐに総督のところへ行こうと決心した。要塞のように大きな建物が町の上方に姿を現していた。
町の中心の広場を除いて、日の暮れた街には人通りがなかったにもかかわらず、多くの人々が険しい丘を登って行くのを見て、驚いた。ハイハウスでディナー・パーティーか祝賀会が催されるというのを聞いたことがあるのを思い出した。それが丁度今夜のはずだった。人々の集団に続きながら、もう数歩で入り口というところまで来ると、砲列と思しきものがあったので嬉しかった。それらがいなければ、ここが私が来るべきところかどうか確信がもてなかっただろう。というのも、雪が当りの風景を全く変えてしまっていたから。両側に1つずつの2つの雪に覆われた小山があって、それが砲列だった。その他にも雪に覆われた小山があったが、それらが何かは分からなかった。剣のように鋭く先の尖ったツララの束が大きな正門の上にあるカンテラから垂れ下がっていて、薄暗いところで、猛々しく閃いていた。私の前を歩く人々は入場が認められたので、私は前進し、彼らと一緒に中に入っていった。私は一人だったけれども、守衛達は私を中に入れてくれそうだった。これが簡単に中に入る方法だった。
誰も私にほとんど注意していなかった。私は入場の許可が与えられる必要があったが、誰もが私を無視した。見知った顔の人が近づいてきて通り過ぎて行ったが、私に一瞥もくれなかった。うす暗い広場はすでに群集で一杯だった。私が一緒にやってきた人々が最後の集団だった。これは祝賀会だったけれども、奇妙なほど静かだった。全ての顔がいつものように陰鬱だった。笑い声はもちろん、話し声すらほとんど聞こえなかった。おしゃべりがあったとしても、あまりに低すぎて、話の内容は聞き取れなかった。
回りを気にするのをやめて、少女に近づく方法を考えた。以前に、総督は私を部屋の入口まで連れて行ってくれたが、案内人なしでは、その道を見つけることができなかった。誰かが助けてくれなければ、私はそこへ辿り着くことが出来なかった。しかし、誰に助けを求めれば良いのか分からなかったので、部屋から部屋へと歩き回った。すると、巨大な丸天井の部屋に出た。そこには架台式テーブルが設けてあって、その上には水入れとワインとお酒のボトルが、肉とパンの乗った大皿の間に等間隔で置かれていた。人に見つからないように、隅の暗がりに立って、召使が食事を乗せた皿を持ってきて、テーブルの上に配置するのを観察した。ほとんど熱病に罹ったように、少女のことを心配しているにもかかわらず、彼女を見つけようとしないで、何もしないでそこに立ち続けていた。考えが支離滅裂になっていた。
数百のたいまつが燃え上がり、巨大な部屋を照らし出していた。勝利を祝うための宴会が準備されていた。私は、捕虜達を見るために、召使達に伴われて真っ先に移動した。それは指揮官の伝統的な特権だった。女性たちは柵の後ろに集められていた。彼らはすでにわれわれからできる限り遠くに集められていたが、われわれがやってくるのを見ると、さらに後退し、壁にぶつかった。彼らは私に対して攻撃してこなかった。私は彼らに語りかけなかった。苦しみのために、彼らは皆同じ表情をしていた。広場のほかの所では、大きな音が起こっていたが、ここは静寂だった。嘆願する声も罵りの声も悲嘆の叫びもなかった。捕虜たちは唯黙って見つめていた。揺らめく赤い松明の火が、裸の手足や胸を照らしていた。
松明はロケットの束のように、アーチ型の屋根を支えている柱に固定されていた。若い少女が少し離れたところで柱にもたれて立っていた。輝く髪以外には何も身につけなかった。彼女の白い顔には、死にたいという願望が表れていた。彼女は子供のようにほとんど動かなかったし、私たちの方も見ていなかった。彼女の眼は夢の中を彷徨っているかのようだった。皮を剥かれた魔法の杖のような腕、銀色の流れる髪……雲間から姿を覗かせている新月のようだった。私はここに留まって、彼女を見つめていたいと思った。しかし、彼らは私を前面の舞台へと導いた。
彼の座っている椅子は華麗な黄金の椅子で、英雄たちとその子孫が活躍している姿と彼らの顔が彫刻されていた。彼の壮麗な外套はクロテンの毛皮で縁取られ、金で刺繍がしてあった。彼は彫刻のようにしっかりと足を組んでいたが、外套は膝まで覆っていた。火花が松明からこぼれ、彼の長く、細い、落ち着きのなく動く、冷たく白い手が火照っていた。彼のブルーの眼から発せられるひらめきは、彼の腕を飾っている巨大なブルーの宝石が発するひらめきと呼応していた。私はこの宝石が何という名前なのか知らなかった。彼の手も彼の眼も今は動かなかった。ブルーのひらめきだけが一定の方向を攻撃するように光り輝いていた。彼は私を他の場所へ行かせなかった。私を彼の脇に立たせたままだった。私は軍隊の勝利を導いたので、私は彼から輝く勲章を贈られたけれども、私はそれを欲しくはなかった。私はすでにも多くの勲章をもらいすぎていた。私は彼に言った、ただ少女を欲しいだけなのだ、と。喘ぎ声が辺りから起こった。彼の周りの人々は私が殴り倒されるのを固唾を呑んで待った。私は無関心だった。私は人生の半ばを生きてきた。欲しいものはほとんど経験してきた。私は戦争が嫌になっていた。戦争と殺戮以外にはなにも好まない、この気難しく、危険な主人に仕えるのが嫌になっていた。彼の戦争の行為には、一種の狂気が伴っていた。征服するだけでは満足しなかった。彼は壊滅し尽くす戦争を欲した。全ての敵は例外なしに虐殺された。誰も生き残る者はいなかった。彼は私を殺したかった。しかし、彼は戦争なしに生きることができなかったにもかかわらず、戦略を立てることができなかったし、町を占領することもできなかった。私がそれをしたのだった。だから、彼は私を殺すことが出来なかった。彼は私の戦術を必要とし、同時に、私が死ぬことを欲した。彼は恐ろしい表情で私を睨み、私を傍に立たせ続けた。しかし、同時に、彼の回りにいる人々を近くへと呼び寄せた。彼の周りに人の輪ができたが、私の立っているところだけ、輪が壊れていた。小男がすべり寄って来て、私の腕の下をくぐりぬけ、今にも噛みつかんばかりの猛々しい犬のように、長鼻の顔を上げて、主人の前で縮こまり、私に向かって、うなり声を上げた。今や輪は閉じられた。しかし、私はまだ、きらめくブルーの指輪を見ることができた。神経質な手振りや、彼の長く細い白い指や、長く鋭い爪を見ることができた。指は、絞め殺された人の指のように、奇妙な形をして内側に曲げられていた。ブルーの石は曲がった指の骨に固定されていた。彼は何か命令を発した。それはあまりにも低い声だったので聞くことはできなかった。最初は、彼は私の戦術能力と勇気を異常なほどほめたたえて、立派な報奨を約束してくれていた。私は名誉ある彼の客人だった。私は彼をよく知っていたので、どのような褒章を私にくれることになっていたのか容易に想像することができた。私はすでにそのための準備をしていた。
6人の護衛兵が軍人の外套に包まれた彼女を彼のところへ連れてきた。この男達は傷をつけないで、きつく掴む方法を習っていた。私はそれを知らなかったし、それがどのような仕方でなされのか分からなかった。一瞬、彼の動きが止まった。衆目の中で寛大さが示されたのではないか、と思った。その可能性がないわけではなかった。
その時、私は彼の手が彼女の方へ伸びるのを見た。肉食獣のような曲がった指と宝石の輝く青色が見えた。大きなリングを髪から乱暴に引き剥がした時、彼女は息の詰まったような小さな叫びを上げた。私が彼女の声を聞いたのはそのときが初めてだった。彼女の手首と踝につけられたリングがかすかに音を立てて、彼女は彼の膝の上に激しく倒れた。私は動かなかった。無表情に眺めていた。冷酷な、厳しい、狂気の、殺人者のような男。彼女の若々しく柔らかい体と夢見るような眼……哀れな悲しげな……姿。
私は、長テーブルの周りで忙しく立ち働いている召使の一人に近づこうとした。私はおずおずした表情をした農家の女の子で、最も若くて、のろくて不器用で、明らかに新人と分かる子を探した。彼女は虐げられて、怯えていた。他の人々が彼女を苛めていて、彼女は打たれ、あざけりを受け、間抜けと怒鳴られていた。彼女は涙を流し、間違いをおかし続け、何度もものを落とすのを、私は見た。彼女は身構えていた。私は彼女が通らなければならない戸口にたって待った、彼女を掴むや、口を手でふさいで、隅の方に引っ張って行った。幸運にも、通りかかる人は誰もいなかった。私は彼女に危害を加える気はないこと、彼女の助けが欲しいことを伝えたが、彼女は恐怖の表情を浮かべて私を見つめているだけだった。彼女の赤い眼は涙であふれ、震えていて、あまりにも愚鈍なため、私の話しを理解しないのではないかと恐れた。直ぐにでも人々が彼女を探しにやってくるので、時間がなかったが、彼女は口をきこうとしなかった。私は彼女にやさしく話しかけ、説得し、彼女の体を揺すった。彼女に札束を見せた。しかし、全く反応はなく、リアクションもなかった。さらにお金を増やして、彼女の顔の前に持っていって、言った。
「このお金で、あなたを苛める人たちから自由になれる。これでしばらくの間、働かなくてもよい」
結局、彼女は事情を飲み込み、私を部屋に連れて行くことに同意した。
われわれは出発したが、彼女の足はあまりにも遅く、躊躇していたので、彼女が本当に道を知っているのかどうか疑わしくなった。私はいらだち、彼女を殴りたくなって、自分を抑えるのに苦労した。彼女の足はあまりにも遅すぎた。総督に言いつけるぞ、と脅かした。もうパーティが始まっていたので不可能であっただろうが。夕方のパーティでは、最初の方には総督は出席したことがないということを聞いて、私は安心した。およそ2時間くらい経過して、食事と酒宴が終わった頃やってくるのが普通だった。とうとう、私は最後の急な階段のところへやって来た。彼女は頂上を指差すや、私が準備したお金をしっかり掴んで、やって来た道を駆け足で戻っていった。
私は階段を登って行って、1つしかない扉を開けた。防音室は暗かったが、踊り場からのかすかな光が背後から部屋を照らしていた。少女がドレスを着てベッドに横たわっているのが見えた。傍らには1冊の本があった。少女は本を読みながら眠りに落ちたのだった。私は、彼女の名前をそっと呼んだ。彼女は、驚いて起き上がり、髪がきらめいた。
「誰?」声には恐怖が感じられた。
私は、背後からの鈍い光が顔に当たるように、体を動かした。彼女は直ちに私に気づいて、言った。
「ここに何しに来たの?」
私は言った。
「ここにいては危険です。あなたを連れ出しにきたのです」
「なぜあなたと一緒に行かなければならないの」
彼女は驚いていた。
「どうでもいいわ――」
そのとき、階段を昇ってくる足音が聞こえた。私は後戻りし、体が凍りつき、息を呑んだ。ドアの外からのかすかな光が消えた。私は暗闇の中で立っていた。彼女が私を追い出さない限り、私は見つかることはなかった。
男は乱暴に彼女を掴んだ。
「ドアの外にあるものを早く着なさい。直ちにここを出よう」
彼の声は低かったが命令的だった。
「出る?」彼女は彼を見つめた。
彼が暗闇の中でさらに暗い影のように見えた。彼女の冷たい唇はつぶやいていた。
「なぜ?」
「黙って。言う通りにしなさい」
従順に彼女は立ち上がった。ドアからの隙間風のために彼女は震えていた。
「暗闇の中でどうして見つけたらいいの? 明かりはないの?」
「いいや、見つけられる」
彼は直ぐに松明に火をつけた。
彼女はくしを取り上げ、髪をとかし始めた。彼はくしをひったくり、言った。
「それはいい。コートを着て。急いで!」
彼が我慢のならない苛立ちを撒き散らしたので、彼女の動作は余計に緩慢に、臆病になった。暗闇の中を探して、彼女はコートを見つけたが、そこへどうして行ったらよいかわからなかった。とりにくい場所においてあった。彼は怒ってそれを引っ掴み、彼女の腕を袖に通させた。
「来なさい! 音を立てないで。誰もわれわれが去るのを知らない」
「どこへ行くの?こんな夜になぜ出発しなければならないの?」
彼女は答えを期待していなかった。彼がささやいたことを正確に聞き取ったかどうかさえ確信がなかった。
「この機会しかない」
氷が近づいていることについて、彼はさらに何かを言った。
彼は彼女の腕を掴み、踊り場を横切って階段のところへ行った。松明の光が断続的に暗い坂を照らし、彼の陰鬱で抑圧された表情が浮かび上がった。彼女は夢遊病者のように後に従った。彼らはいろんな道を通って、雪で覆われた厳寒の夜の中へと出て行った。
雪は激しく降っていた。黒い車の中には誰もいなかった。それは全くの空っぽだった。誰もここを通らなかったし、人の姿は見えなかった。彼女は震えながら車に乗り込み、黙って座った。その間に、彼は素早くタイヤの鎖を調べた。窓の前方の真っ白い雪の中に長方形をした黄色い染みがついていた。ライトの光が通り過ぎるたびに大気中の雪が黄金のシャワーに変わった。居間のホールから混乱した声や食器の触れあう音がしていて、車が出発するときの音が掻き消された。彼女は尋ねた。
「あなたを待っている人たちはどうするの?あなたはあの人たちに会わないつもりなの?」
すでに、苛立ちの頂点に達していたので、彼はその質問に怒りを爆発させて、ハンドルから手を上げて、彼女を打つようなしぐさをした。
「喋るなと言ったのが分からないのか!」彼の威嚇するような声で言った。
彼の眼は車の暗闇の中で光った。彼女は打たれるのを避けようとして素早く体を動かしたが、彼の手の届かないところまで動くことが出来なかったので、うずくまり、手を上げて身を守った。しかし、彼の一撃は音もなく彼女の肩を捉え、彼女をドアに押付けた。彼女は黙って縮こまっていた。しばらくすると、彼の怒りは静まっていった。
外では雪がすべての音を消していた。車の中も静寂だった。彼はライトもつけずに運転し、眼は猫の目のように、暗闇の雪の中を見通していた。眼に見えない、沈黙した、幽霊のような車が、破滅した町から脱出したのだった。雪に覆われた古代の要塞が通り過ぎ、雪の中に消えていった。壊れた壁も背後に消えていった。前方の森が暗い壁のようにぼんやりと現れた。幽霊のように白い雪山の山頂は、砕ける波の頂上から吹き出る霧のようなもので覆われていた。彼女は黒いもみの木が倒れるのを期待したが、それは起こらなかった。外では、雪と森の静寂が広がっているばかりだった。車の中では、彼は沈黙しており、彼女は不安に怯えていた。彼は決して話しかけようとはせずに、彼女の方を見もしなかった。強力な車を、彼は、でこぼこの多い凍りついた道を乱暴に運転した。彼の意志の力でそうするかのように、全ての障害物の間を猛烈なスピードで突き進んでいった。車は激しく揺れ、彼女は投げ出された。彼女は席についているのは軽すぎたのだった。彼のところへ投げ出され、彼のコートを掴まなければならなかった。コートが燃えてでもいるかのようにビクッとして離した。彼は無視した。彼女は忘れられ、見捨てられたかのように感じていた。
この異常な突進するような運転を彼女は理解できなかった。森は永遠に続くかと思われた。沈黙もまた続いた。雪は止んでいたが、寒さは相変わらずだったが、黒い木々から滴り落ちる氷が地面で凍りついたかのように、寒さは増してさえいた。何時間も車は走り続けた後で、やっと日の光が木々の枝の間からかすかに洩れてきた。その間、陰鬱なもみの木が密集している以外何もなかった。それらは枯れていたが、生きている木々は互いに絡まっていて、鳥が枝に捕らえられたようにして死んでいた。彼女は身震いした。彼女は死んでいる鳥を犠牲者としての自分自身の姿であるかのように感じた。黒い枝の網に捕らえられたのは彼女だった。木の枝が軍隊のようにあらゆる方角から彼女を取り囲み、彼女の方へ近づいてきた。雪が再び窓の前を通り過ぎるようになり、白旗が振られているかのようだった。彼女はずいぶん昔に降伏した一人だった。彼女は自分に起こったことを何も理解できなかった。車は空中に跳ね上がり、彼女は投げ出され、負傷している方の肩をドアにぶつけた。反対側の手で支えようとしたが無理だった。
男は日中ずうっと猛々しく車を運転し続けた。彼女にとって、薄明かりの中でのそれは恐怖以外の何者でもなかった。静寂と寒さと雪があるばかりだった。それに彼女の隣には横柄な男がいた。彼の眼は、ヘルメスのように魅力的ではあるが、氷のように冷たく威嚇的だった。彼女は彼を憎悪しようとしたが、それは簡単だった。木々が少しずつまばらになっていったので、やがて、空が現れ、日没寸前の薄日が見えた。突然、2つの丸太小屋が見え、その間の門があり、道を遮っていた。門が開けられなければ、彼らは通り過ぎることが出来なかった。紋は有刺鉄線と金属板で補強されていた。車はとてつもない勢いで門を引きちぎらんばかりにぶつかっていって、狂ったような金属性の音を立てた。窓ガラスが壊れ、彼女に降りかかってきた。彼女はとっさに首をすくめた。と同時に、先のとがった銀色をした長い棒が頭上を掠めた。車は激しく揺れ、転覆した。しかし、技術によってか、力によってか、まったくの意志の力によってかわからないが、奇跡的に、ドライバーは車を元に戻し、何事もなかったように、運転し続けた。
叫び声が彼らの背後で聞こえた。2、3発の銃のはじけるような音がしたが、当たらなかったし、届きもしなかった。彼女は振り返ると制服を着た人たちが追いかけてきていた。そのうち、追いかけてこなくなった。道路は国境の付近に来ると良くなってきたので、車はさらにスピードがでて、走りやすくなった。彼女は座っている場所をずらして、壊れた窓から流れ込んでくる霧状の雪を避け、膝の上のガラスの破片を払った。手首からは血が流れていて、両手もまた切れていて、血が出ていた。他人の手を見ているかのように、驚いて見つめていた。
私は階段を下りて行き、通路を進んでいった。正門が見えると、陰に隠れて、守衛している人を観察した。パーティーはさらに盛り上がっていて、居間のホールでは、酒を飲み、歌を歌っていた。寒い通路のところで、誰かが外に出てきて守衛と大声で話をしていた。男たちは頭を寄せ合って話をしていたと思うと、持ち場を離れて、私のそばを通過し、他の人々のところへ行った。誰も見ていなかったので、私は、本来なら守衛がいるはずの門から外へ出た。
雪は激しく降っていた。私は最も近くの瓦礫でさえ識別できなかった。それは、降り続く雪の彼方に見える静止した白い影にすぎなかった。窓からの光の周りで、雪片がハチの群れのように黄色に変わった。私の前には一面雪景色だった。総督の黒い車の跡が黒い穴を開いているかのように見えた。いろんなところが白くこんもりとしていたが、それは家来の車だということが分かった。それらは雪に深く埋もれていた。最初に見つけた車のドアを開いてみたら、鍵がかかっていなかった。車は屋根まで雪に覆われていて、車輪やフロントガラスに雪が積もっていた。ドアを開けたとき、雪が私に降りかかってきて、私の袖は、窓ガラスを拭いたかのように、雪で一杯になった。スターターはうまく働かないだろうと思ったが、とにかく、車はゆっくりとではあるが前進し始めた。車輪を制御するのに十分なだけエンジンは回復した。ほとんど見えなくなった総督の車の跡を追った。しかし、その跡は新しい雪によってすぐに消され、壁の外では、跡は消えていた。私は森の入口のところで彼らを見失った。私はやみくもに木々の中を、木の皮をこすり落としながら、車を駆った。 しばらくすると、車は止まり、動かなくなった。車輪がスピンして、雪を虚しく蹴散らしていた。外に出ると、枝の上の雪の塊が落ちてきて、衣服は雪に覆われて固まってしまった。私はモミの木の枝を折って、車輪の下に入れて、車に戻り、再スタートさせた。しかし、無駄だった。タイヤは空転し、タイヤはスピンし、シューという音を立てた。私は片側によって、ブレーキを引いて、雪の吹溜りの中へと真っ直ぐにジャンプした。私は雪の中に肩の下まで埋まった。私が動くたびに雪は崩れてきて、首のところからシャツの中へと入ってきて、臍の辺りまで入ってきた。雪から脱出しようともがいたが、体力を消耗するばかりだった。出来るだけ体力を消耗しないようにしながら、さらに多くの枝を取ってきて、それらを車の下に敷いた。うまく行かないだろうし、諦めなければならないのは、分かっていた。天候が全く悪かった。どうにかこうにかして、私は何とか車を動かし、街へ戻った。この悪天候ではそれが唯一可能なことだった。
壁の処へ戻ってきた時、車はまたスリップし始め、コントロールを失った。突然、前の車輪がクレータの端に崩れ落ちるのが見えた。次の瞬間、私はクレータの上にいた。眼の前に穴が見えた。足でブレーキをかけた。車は右回りにスピンし、完全な円を描いていた。私は外へジャンプすると、車はゆっくりと、雪の下へと消えていった。
私は凍え、疲労困憊し、震えが止まらず、ほとんど歩くことさえできなかった。しかし幸運にも、私の宿泊先はさほど遠くはなかった。滑りながら、よろけながら、何とか宿泊先に辿り着いた。凍った雪を払いもせず、歯をがちがち鳴らしながら、ストーブの前にうずくまった。震えがあまりにも激しく、コートを脱ぐことさえができなかったので、無理やり引き剥がして下へ置いた。同様に、凍りついた衣服を、非常な努力の後に、なんとか全部脱ぎ、ガウンに身を包んだ。それから、私は海外からの電報が来ていたので、封を破って開けた。
情報提供者は、2、3日以内に危機がやってくると報告していた。空と海の交通機関は運行を止めていた。しかし、午前中に私をヘリコプターで連れ出してくれる手筈になっていた。理由がよく分からない電報を手にして、私はベッドに入って、毛布に包まって震えていた。総督は朝早くにニュースを受け取っていたに違いなかった。彼は自分自身だけを救い、部下たちを運命に委ねたのだった。もちろん、そのような行為は非難されるべきであり、醜い行為であった。しかし、私は彼を非難しなかった。私が彼の立場にいたとしても、彼とは異なった行為をとるだろうとは思えなかった。彼は、たとえ残ったとしても、国のために何もできなかったであろう。彼が危機的状況を国民に明らかにしても、パニックが起こるだけだったろう。道は渋滞し、誰も逃げられなくなっただろう。いずれにしろ、私の経験から判断すると、彼が国境に到着する可能性は非常に少なかった。
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第7章
港は遠かったけれど、飛行機で行ったので、船が出港する前に港に着くことができた。私は熱に苦しめられ、震えが止まらず、頭痛がし、無気力になっていた。車の後部席に座って、波止場に急いだ。頭がぼうっとしていたので、外の景色を見ることなく乗船した。波止場に辿り着いた時には、船はすでに動き始めていた。私は真っ直ぐにキャビンへと進んだ。そこで見た光景は、私にはショックだった。私は足を止めて、眺めた。港が陽に照らされて、私の前を横切っていった。忙しそうな町だった。街路は広く、人々は立派な服を着ており、近代的なビルが立ち並び、車が走り、青い海にはヨットが浮かんでいた。雪も、破滅も、護衛のための軍隊も、なかった。奇跡だった。夢を見ている気がした。夢に見た何かが現実になったような気がした。これが現実であって、その他のことは夢だったということが分かったときの激しい目覚めの感覚もまたショックだった。突然、最近まで過ごしていた生活は現実ではないかのような気がしてきた。それは、もはや信じられなかった。救われたような気がした。長くて暗く冷たいトンネルから太陽の輝くところへと急に抜け出たような感じだった。起こったことを忘れたかった。少女のことも、私が従事していた無意味な、欲求不満の追跡も忘れたかった。ただ未来のみを見つめていたかった。
しばらくして熱が去っても、私の感情は変わらなかった。過去から逃げ出すことができたことをありがたいと思いながら、インドリを探しに行こうと思った。熱帯地方の島は私の故郷だった。キツネザルは私のライフワークだった。私は残りの生活をキツネザルの調査に捧げようと思った。それらの歴史を記し、それらの奇妙な歌を録音しようと思った。私の知る限り、誰もそれに成功していなかった。それは、私には充実感のある仕事であり、やりがいのある仕事であるように思われた。
船上の店で、大きなノートブックとボールペンの束を購入した。私はすでに仕事のプランを持っていた。しかし、それに集中することはできなかった。結局、私は過去から逃げ出してはいなかった。私の思いは、過去の少女へと彷徨って行った。彼女を忘れようと願ったとは信じられなかった。忘れようと思ったことは、途方もなくあり得ないことだった。同時に、私はインドリを見つけにも行きたかったので、対立する思いが、心の中で葛藤していた。彼女の姿が、私がインドリに行くのを妨害して、私を抱きしめて放さなかった。
私は彼女のことを考えるのをやめて、無垢で穏和な奇妙な歌を歌う生きものについて考えようと努力した。しかし、彼女への思いが私の心を離れなかった。彼女の顔がしばしば頭に浮かんだ。彼女の長いまつげの瞬き、おずおずとした魅惑的な微笑み、表情の変化、傷ついた表情、恐怖と涙へと変わる急激な変化、これらは、私が想像上で産み出したものだった。強い誘惑が私に警告していた。執行人の振り下ろされた黒い腕。彼女の手首をつかんでいる私の手。私は夢が現実になることを恐れた。生贄と恐怖を必要としているところに何かがあった。彼女は私の夢を堕落させ、行きたいとは思っても見なかった暗い場所に私を連れて行った。私たちのどちらが犠牲者なのか、もはや私には分からなかった。多分、私たちはどちらも互いに犠牲者なのだった。
私は、以前の状態に戻ってしまったことを思うと、絶望的になった。私はデッキの上をうろついて、起こったことを考えた。総督は無事に逃亡したのだろうか。彼女は彼と一緒にいるのだろうか。船の上ではニュースは聞けなかった。私は待つしかなかった。不安と苛立ちの中で。下船して情報を得ることのできる港に着くまで、待つしかなかった。とうとうその日がやって来た。乗務員が私のスーツをプレスしてくれ、赤いカーネーションの飾り花をつけて持ってきてくれた。花の濃い色が薄い灰色の服の素材によく似合っていた。
丁度、キャビンを出ようとしていたとき、ドアを激しくノックする音が聞こえた。地味な服装をした警官が、私の返事を待つことなく入ってきた。彼は帽子も脱がずに、上着を開き、警察バッジを見せた。脇の下にはピストルを携帯していた。私はパスポートを手渡した。彼は軽蔑した表情で、パスポートをぱらぱらとめくり、尊大な態度で私を上から下まで見渡し、赤いカーネーションを非難の眼差しで見つめた。彼は来る前から私に悪い印象を持っていて、私の外観すべてがそれを確証させたらしかった。何のために尋問しているのか、聞いたがが、彼は答えずに、軽蔑的した態度で沈黙していた。私は二度と聞こうとしなかった。彼は手錠を持ち出して、私の前でぶらぶらさせた。私は何も言わなかった。彼は手錠を弄ぶのに飽きると、それを脇の置いたので、わたしの国への配慮から、それは用いられないだろうことが分かった。私は彼と一緒に下船することを許された。私は彼に逆らわないほうが良かった。
太陽が輝き、誰もが下船していた。群衆の中で、警察官が私にぴったりくっついていた。私は気にしなかった。なにかが起こったのだ。私を取り調べることが必要なのだと思った。どのような質問が訊ねられるのかは分からなかった。また、彼らがどのようにして私の名前を調べたのかも分からなかった。制服を身につけた警官が、埠頭から離れた道の片側でわれわれを待っていた。彼らは私に、窓が黒ガラスの武装した車に乗るように命令した。少し行くと、四角い広場の大きな地方自治体の建物の前で止まった。鳥が鳴いていた。会場の生活の後だったので、鳥の鳴き声が新鮮だった。
通行人が少しいたが、私たちを気にとめなかった。ただ、2、3ヤードはなれた片隅に立っていた少女が、少しばかり興味を持って、私の方をちらちらと見ていた。彼女は春の花を売っていたのだった。キズイセン、小さなアイリス、野生のチューリップなどを売っていたが、その中に混じって、私のつけているのと同じようなカーネーションの束があった。警官の一人が腕で私を抱えるようにして、建物の中へと連れて行き、私たちは長い階段を下りていった。
「前進しろ」
私の肘を強く掴んでいた手が私を押して進ませた。
両開きのドアが開き、ホールの中へと入って行くと、劇場でのように人々は列をなして座っていた。裁判官が彼らに向かって席についた。
「中に入れ」
多くの人々の手が、私を引っ張り、押して、席に着かせた。
「止まって」
彼らは手早く右に左に足踏みした。私は辺りを見回した。周りの状況から自分だけ取り残されているように感じた。天井は高く、窓は閉じられ、陽光は入らず、鳥の鳴き声も聞こえなかった。私の両側に立っている人は銃を持っていて、どこでも主役を演じる顔をしていた。人々はささやき、つばを呑み込んだ。陪審員は疲れているように、あるいはうんざりしているように見えた。誰かが私の名前と住所を読み上げたが、全て正しかった。私はそれらを認め、宣誓した。
事件は少女の失踪だった。誘拐か殺人の可能性があるとのことだった。少女を知っている人が疑われ、尋問された。少女を知っていて、ここにいない人は訴えられた。少女の名前が告げられ、少女を知っているかどうか訊ねられた。彼女を数年前から知っていたと答えた。
「あなたは彼女と親しかったですか?」
「私たちは古くからの友達でした」
笑い声が起こり、誰かが尋ねた。
「彼女とあなたの関係はどんなでしたか」
「古くからの友達だと言ったでしょう」
さらに笑い声が起こり、係りの人が静かにするよう注意した。
「あなたがしていたことを何もかも中断して、外国までも彼女を追いかけていったのに、急にその計画をあなたは変更したという。われわれが信じるとでも思っているのですか?」
彼らは私について何でも知っているようであった。私は言った。
「でも、本当なんです」
私は、ベッドに座って煙草を吸いながら、髪を櫛ですいている彼女の顔を、鏡の中に見ていた。青白く輝く髪が、肩の上に垂れ下がっていた。彼女は前かがみになり、自分の姿を見ていた。鏡にはふくらみ始めたばかりの小さな胸が映っていた。彼女が呼吸するたびにふくらみは動いた。立って行って、彼女の背後に回り、腕を彼女の前に回し、胸を手で被った。彼女は私から身を引き離そうとした。彼女の怯えた表情を見たくなかったので、彼女の顔に煙草の煙を吹きつけた。彼女は抵抗し続け、私は陽のついた煙草であることをしたいという衝動に駆られたが、煙草を床に捨て、脚で踏み消した。それから彼女を私の方に引き寄せた。彼女はもがいて、叫んだ。
「触らないで。私を放っておいて。あなたなんか嫌い。残酷で不誠実な人。人々を裏切り、約束を破り……」
私は我慢ならなかった。彼女を放し、ドアに鍵をかけようと、そちらに行った。私がドアに辿り着く前に、何かの音がしたので振り返った。彼女はオーデコロンの瓶を頭上に持ち上げて、私に殴りかかろうとしていた。私は瓶を下に置くように言った。彼女は聞き入れなかったので、私は戻って、彼女の手から瓶を取り上げた。彼女は抵抗するには力がなすぎた。彼女は子供よりも力がなかった。
彼女が衣服を着ている間、私はベッドに座っていた。互いに口をきかなかった。彼女はコートを着て、外出の用意ができた。突然、ドアが開いた。いらだっていて、私はドアに鍵をかけるのを忘れたのだった。男が入ってきた。私は彼を放り出そうとして、飛び掛った。しかし、私がいいないか、見えないかのように、彼は私を無視して、通り過ぎた。
その男は、長身の、スポーツマンのような、傲慢な態度をした、自信満々の態度をしていた。彼の瞳は、ブルーで、異常に明るく輝いていたが、そこには危険な徴候が見られた。彼は私を見ていなかった。少女は、彼をみると茫然自失して、何もすることが出来なかった。私もまた何も出来ずに、ただ眺めているだけだった。それは全く私らしくなかった。彼は連発銃を携えて、ある目的を持って、入ってきたのだった。そして、誰も彼の行為を止めることはできなかった。彼は私たちを撃つつもりなのか訝った。もしそうならば、どちらを先に撃つのだろうか。あるいは、どちらか一人だけを撃つのだろうか。そういった思いが私の頭をよぎった。
彼は彼女を自分の所有物と考えているのは確かだった。私は彼女は私に属していると考えていた。われわれ二人の間では、彼女は独立した存在でもなかった。彼女の唯一の意味は、我々のどちらに属しているかということだった。彼の顔つきは、いつも私を受け付けない極端にまで傲慢な表情を表していた。突然、私は彼に一種の血を分けたような名状しがたい親しみを感じた。 私は混乱して、われわれは二人なのかどうかさえ、分からなくなるほどだった。
私は尋問された。
「あなたがあなたの友達に会ったとき、何が起こったのですか」
「私は会わなかったのです」
そのときまで押さえつけていた感情が爆発した。役人が静粛を求めた。発声法を学んだ俳優のような声で言った。
「証人は精神異常者だということを言いたい。だから、彼の言うことは信用できない」
誰かが遮った。
「精神科医に診断してもらおう」
芝居がかった声が続けた。
「私は繰り返して言う。次のことを強調しておきたい。この男は精神異常者として知られている。だから、信用できない。われわれは、無垢で純粋な若い少女に対する残虐な犯罪を捜査している。私はあなた達に彼の不自然な無関心さ、無表情に注意するようお願いする。この場でボタン穴に花を飾っているとは、何たる皮肉か! 神聖な家族生活や品のいい感情に対して、彼はなんと傲慢で軽蔑的な喋り方をしていることか! 彼の態度は異常なだけではなくて、我々が神聖とみなすすべてのものに対する堕落した恥ずべき冒涜なのだ……」
部屋の上の方のどこかで、私は見ることはできなかったが、ベルが鳴った。傲慢で冷静な声が叫んだ。
「精神異常者の証言は信用できない」
私は連行され、17時間独房に入れられた。朝早くに、私は釈放された。釈明はなかった。その間に、船は、私の荷物を乗せたまま出港してしまっていた。私は着の身着のままで立ち往生した。幸運にも、パスポートも財布も取り上げられなかった。財布には十分なお金が入っていた。
私は髯をそり、顔を洗い、鏡に映る自分の姿を注意深く眺めた。清潔なシャツが必要だったが、店はまだ開いていなかった。後ほど、買い物をして、小銭を作ろうと思った。枯れたカーネーションを取り除くと、わたしの外観はまあまあ見られるようになった。理髪店を出るとき、カーネーションを溝に投げ入れようとしたら、外から少年が寄って来て、靴を磨かせてくれるようにと言った。彼に靴を磨かせているとき、どこかに良いカフェがないか訊ねた。彼は同じ通りの先の方を指差した。私は歩き続けると、それらしきものに出会った。太陽が照りつけている屋外のテーブルに座った。その時間には、人はほとんどいなかった。当番の給仕は一人だけで、コーヒーとロールパンをお盆に載せて運んできて、テーブルに置くと、奥の暗い部屋の中へと引っ込んだ。私は一人取り残された。コーヒーを飲み、次になすべきことを考えながら、道行く人々を眺めていた。早朝のため、通行人はまだ多くはなかった。
少女が花の入ったバスケットを持って私の前を通った。私はカーネーションを捨てそこなったことを思い出し、それをボタン穴から引き離そうとしたが、茎がピンでしっかりと止められていた。襟の折り返しを裏返して、覗き込んで、ピンがどこにあるかと探した。
「私にやらせてください」という声がした。
見上げると、花売りの少女が微笑んで立っていた。彼女の顔に見覚えがあるような気がした。彼女を既に知っていて、好意を抱いているような気がした。カーネーションをきれいに取り除いて、バスケットから全く同じカーネーションを取り出してつけてくれる準備をしていた。その必要はない、と言おうと思ったが、急に気が変わって、黙った。彼女は新しいカーネーションをボタン穴にしっかりと取りつけてくれ、私の傍に立っていた。支払を待っているかのようだった。わたしの判断は正しかったようだったが、間違ってはいけないと思い、何も言わなかった。
「何か他に手伝うことがありますか?」と彼女が尋ねた。
わたしは正しかったのだということが分かった。辺りを見回した。他のテーブルに人はいなかった。歩道の人々には、ここからの声は届かなかった。彼女はバスケットを椅子の上に置いていた。一枝ずつ取り出しながら、私は花を調べるふりをした。私を見ている人々は、たとえ、双眼鏡で見ていたとしても、ごく普通のことをしているよう見えたであろう。私は言った。
「確かに」
私は彼女がどの程度知っているのか分からなかったが、直ぐにでも、ここで何が起こっているのかを知らなければならなかった。
「私は乗船していて、この地域のことをよく知らない。いろいろ教えて欲しい」
最近の出来事についての無知を悟られないように注意しながら、私は尋ねた。祖国の状況ははっきり分からないが、危険な状態にあるのように思われた。正確な情報は伝わってこなかったし、災厄の全体の様子はまだ知られていなかった。北国の総督は奥地へ逃走して敵対意識のないいろんな将軍と連合を結んでいた。
私はいろんな質問を彼女にした。彼女はいつも丁寧に親しげに答えて、私を助けようとしてくれた。しかし、彼女の返答はあいまいになり、言質を与えるのを恐がっているようになった。一人、二人とカフェに人がやって来て、私たちの近くに座ったとき、彼女はささやいた。
「あなたはこれらの問題についてもっと知識を持った人と話をした方が良いでしょう。私が紹介しましょうか?」
私は無視した。彼女がそれをできるとは思えなかった。彼女は私に待つように言って、バスケットを持って通りへ走り去った。多分もう彼女に会うことはないだろうと思ったが、もう一杯コーヒーを注文して、彼女を待った。するべきことは何もなかった。総督の逃亡について彼女が教えてくれたことに、私をある点まで、ほっとした。確かではないけれども、彼は少女を連れていったように思われた。しばらく立つと、多くの人々がやって来た。情報提供者が戻ってくるのを待ちながら、通りを眺めていた。彼女はもう戻ってこないだろうと諦めかけた時、通行人の間を私に向かって急いでくる彼女を見つけた。彼女は私のテーブルにつくと、叫んだ。
「あなたが必要とするスミレの花がありました。私はそれを探して市場のあちこちに行かなければなりませんでした。ただ、それがかなり高くつくのが心配ですが」
彼女は息を弾ませていたが、声ははっきりとして、周りの人々を楽しませるような陽気な響きをしていた。これ以上、彼女をここにとどめるのはよくないと思ったので、訊ねた。
「いくら?」
彼女は額を言ったので、私はお金を手渡した。彼女は魅力的に微笑んでお礼を言い、走り去り、視界から消え去った。
スミレの茎は紙で包まれ、それにメッセージが添えられていた。そこには、私を助けてくれるかもしれない人の名前が書かれていた。メッセージを直ぐに破り捨てた。私は手提げが皮製の布服をさげ、他の必要品を手に持ち、ホテルへ行き、宿泊を予約した。私は風呂に入り、服装を整え、紙に記されていた男のオフィスへと向かうと、彼は直ちに私を見つけた。彼もまた赤いカーネーションを身につけていた。私は用心深くしなければならなかった。
私は真っ直ぐに要点に入った。ごまかす必要はなかった。総督が命令を出している町の名前を言って、私は、そこへ行くことができるかどうか尋ねた。
「無理です。戦争がその地域で起こっています。町では夜襲があります。外国人が入ることは認められていません」
「例外はないのですか」
彼は首を振った。
「とにかく、役人以外にはそこへ行くことは不可能です」
返事が全て否定的だったので、私は次のように言うことができただけだった。
「それでは、あなたはわたしに諦めろと?」
「公式的には、イエスです」
彼は私をいたずらっぽく見つめた。
「しかし、必ずしも」
彼は勇気づけるように言った。
「私があなたを助けることができるチャンスがひとつだけあります。とにかく、成り行きを見ましょう。しかし、当てにしないでください。私が報告を受け取るまでに、多分、2、3日すれば分かるでしょう」
私は彼にお礼の言葉を言った。私たちは立ち上がり、握手した。彼は情報が入り次第直ちに私に知らせると約束してくれた。
私は退屈していたが、落ち着かなかった。何もすることがなかった。表面的には、町の生活に変わるところはなかった。水面下では、次第に行き詰ってきていた。北からのニュースは乏しく、混乱しており、恐ろしいものだった。破滅は大規模になるに違いないと思った。ほとんど生き残る者はいないだろう。地方の放送局は、陽気に振舞い、から元気を出していた。それは政府の方針であり、人々を安心させる必要があった。実際、国民は、自国が破滅から逃れられるだろうと信じていた。私はどの国も安全でないのを知っていた。たとえ、当面の破滅から遠い国にいても、破滅は広がり続け、ついには地球全体を覆ってしまうはずだった。一方では、全体的な不安は不可避であった。小規模であったかもしれないが、既に戦争が始まっているという最悪の徴候があった。より責任のある政府は全力をあげて交戦国を静め、状況の爆発を抑えて、現在の大惨事が増大して全面戦争にいたるのを抑えようとしていた。少しばかり安心していた少女に対する心配が蘇ってきた。彼女が破滅した国から逃れても、全面戦争を行っている別の国に行ったのなら、何にもならなかった。総督が彼女を安全な場所に送り届けるだろうことを信じたかった。しかし、彼をあまりにもよく知っていたので、それを信じることはできなかった。私が彼を知っているということが決定的であった。そうでなければ、彼女に何が起こったのか分からなかっただろう。噂話を聞くために、夜はバーを梯子して過ごした。国民に対する裏切り者として彼の名前がしばしば、話題に上っていた。それ以上にしばしば、力のある、戦争に対して影響力を持つ、新興の未知の重要人物として、話題に上がった。
朝一番に、私の部屋の電話が鳴った。誰かが私に会いたがっているということだった。役所からのメッセージを期待して、その人に来てもらうようにと言った。
「今日は」
花売りの少女が笑みを浮かべて、気取らない態度で入ってきた。私が驚いたのを見て、彼女は言った。
「もう、私を忘れたの?」
私は彼女がここに来るとは思っても見なかったのだと、言った。その時、彼女は驚いた様子を示した。
「あなたに花を毎日持ってくるのが、私の仕事の一つだということを、あなたはご存知のはずなのに」
彼女がカーネーションの花を取り替える間、私はじっとしていた。彼女が属している組織について、何も知らないことが、ことを進め易くしていた。私はそれに好奇心をそそられたが、わたしの正体がばれてしまうのを恐れた。彼女と一緒にもっと時間を費やせば、質問することもなく、もっと情報を得られるのではないかという考えが頭に浮かんだ。その上、彼女は若くて魅力的だった。私は彼女の自然で、実際的な行動が好きだった。また、そうすることで、退屈から救われると思われた。
私は彼女を夕食に招待した。彼女は愛嬌のある気取らない、魅力的な態度で振舞った。その後、私たちは2軒のナイトクラブへ行って、踊った。彼女は楽しいパートナーで、レラックスしていて、自由に話しているように思われた。しかし、既に私が知っていること以外には何も話さなかった。私は彼女をホテルへ連れて戻ると、ポーターは、私たちが一緒に入ってくるのを変な目で眺めた。私はかなり酔っていた。彼女のスカートが床の上に落ちて、輝く輪を作っていた。朝早く、私がまだ眠り込んでいる間に、彼女は花の市場に行き、新鮮なカーネーションを持って、朝食時に戻って来た。彼女は、眼は輝いていて、楽しそうで、生命に満ちていて、夜の時よりも一掃魅力的だった。私は彼女と一緒にいたいと願った。彼女の存在を通して、私自身を現在に結び付けていたかった。しかし、彼女は言った。
「いけません。私は行かねばなりません。私にはしなければならない仕事があります」それから、親しみげに微笑み、夜に一緒にダンスを踊ることを約束してくれた。しかし、私は二度と彼女を見ることはなかった。
私が新聞を呼んでいるとき、役人が私を迎えに来た。私は急いで彼のオフィスに駆けつけた。彼は神秘的でいわくありげな態度で、私を迎えた。
「あなたのために準備を調えました。少しばかり急いでください」彼はにやっと笑い、楽しそうに、どのようにして出来事を作り出したのかを説明した。私は驚き、興奮した。彼は続けた。
「新しい通信機に置き換えるために、トラックが、今日、われわれに側の国境へ向かって出発します。そこはあなたが行きたい町の近くです。私はあなたを外国人のコンサルタントして連れて行きます。あなたは行く途中で勉強しなければなりません。その資料ここにあります」
彼は私に紙の挟まれた厚いフォルダーを手渡した。一番上に、旅行許可証があった。一時間以内に本局の郵便局のところに来るようにと言った。
私は丁寧に礼を言った。彼は私の腕を叩いて言った。
「どういたして。お役に立てて嬉しいです」
手を引っ込めて、ボタン穴の花に触ったので、驚いた。彼は何か気づいていたのか? 彼の組織について私は何も知らないとしても、少なくとも、彼の組織は非常な力を持っていることは分かった。彼が微笑して
「急いで戻って、荷物をまとめてください。どんな理由でも遅れてはいけません」
と言ったので、私はほっとした。運転手は時間厳守で出発するはずだった。彼は誰も待とうとしないはずだった。
部屋は暗くなった。嵐が突然やって来たのだった。彼は手を明かりに伸ばしたとき、青白い稲妻とガラガラと言うつぶれるような音が一緒にやって来て、雨が激しく窓を打ちつけた。制服の長いコートを着た男が入ってきて、彼に明かりを触らないようにと言った。彼は大きな太った体型をした男だった。彼のがっしりした体型はどこか見覚えがあった。部屋の片隅で、彼は低い声で喋った。何を言っているのか聞こえなかったが、議論は白熱しており、私が話題になっているのが分かった。と言うのは、彼らは私の方をちらちらと見ていたから。私は非難されているのが分かった。新しく入ってきた男の顔は見えなかったが、雷鳴のなっていないときに、何を言っているのか分からなくても、彼の声が罵っているのが分かった。相手はすでに私を信用しないように説得されていた。彼は明かりの近くに立ち、落ち着きのない、疑っている様子を示していた。
私は不安になってきた。彼が私に敵対するようになったら、私の立場は不利になるからだった。私は総督に会う望みがなくなるばかりでなく、偽者として赤いカーネーションを悪用したことが分かってしまうだろう。私は再逮捕され刑務所に再び入れられるという重大な危険性があった。
私は時計を見た。30分の内の数分が過ぎていた。早く部屋を出なければと思った。こっそりとドアの方へ移動して、手を背後に回してドアを開けた。
恐ろしい稲妻が空気中を閃き、一瞬明るく突風を照らした。オーバーコートが翻り、銃を持っているのが見えた。私が手を上げた時、半ば振り向きながら、雷がとどろいている中を、話し相手に、雷の音を上回る声で叫んだ。
「なんだって?」
瞬間、彼の注意がそれたので、私は彼の足めがけて飛び掛り、学校で学んでいた方法でタックルした。撃たれた弾は頭上に外れた。私は彼を倒すことはできなかったが、彼は、長いコートに足をとられてバランスを失った。彼が再び狙いをつける前に、連発ピストルを彼の手から叩き落し、部屋の外へと蹴り出した。彼は真っ直ぐに私に向かってきて、敵意むき出しで、私に全体重をかけてぶつかってきた。彼は私よりもはるかに重かったので、私は倒れかかったが、ドアにぶつかり、助けられた。私は通路をやって来る人の足音を聞いた。役人に銃をとってくるように言いながら、相手は再び私に襲いかかってきた。彼が銃を持ったら、私はおしまいだった。やけくそになって、彼をドアに押しつけ、全体重をかけて彼に殴りかかったら、幸運にも彼はうずくまった。私は向きを変えると、2人の男が立ちはだかっていた。彼らを見ることなく、一人に体当たりし、さらにもう一人に体当たりした。一人は叫び声をあげて倒れた。ドアにぶつかる音が聞こえた。もはや誰も私を止めようとはしなかった。振り向かずに、私は階段を駆け下りて、建物の外に出た。雷に感謝した。銃声はもはや建物からは聞こえてこなかった。
嵐は私の味方をしていた。外では、誰も私に注意を払わなかった。誰もが激しい雨から避難しなしていた。通りは冠水していて、私は直ぐにずぶぬれになった。浅瀬の小川を走るかのように、水しぶきをあげながら、できる限り早く走った。幸いにも、郵便本局は真っ直ぐ言ったところにあるのが分かっていた。部屋をそのままにして置くようにと、ホテルに電話した。とにかく、私はそこに行く時間がなかった。旅行のための資料を振って合図したながら、私が辿り着いた時には、出発する時間だったので、トラックの運転手はエンジンをかけ始めていた。彼は私を罵り、後ろに乗るようにと親指で指差した。私は最後の力を振り絞って、トラックの上によじ登った。硬い床に座った。雨や日光をさえぎるためのものがあった。トラックは急に傾き、私は投げ出された。息が切れ、打ち傷だらけで、ずぶぬれだったが、私は勝利感を味わった。
トラックの中は私を含めて4人だった。そこは暗くて騒々しくて心地よくなかった。座るために厚板が引かれた一種のテントのようなものだった。天井は低くて、頭をまっすぐにして座ることはできなかった。各々の厚板に2人ずつ座った。狭い暗闇の中に、形や大きさが様々なケースが、荷造りされて積み重ねられていた。その間で、われわれは顔をつき合わせて座っていた。トラックはがたがた揺れれて体が痛かったが、気にしなかった。トラックの中にいて、現実に目的地を目指しているとうことだけで救われた気持ちになった。狭くて居心地が悪くて揺れていたけれども、そこでは誰にも見られる心配はなかった。嵐は次第に静まっていったが、雨は相変わらず土砂降りで、布壁を通して洩れてきた。しかし、私の気持ちは晴れ晴れとしていた。もう十分に濡れていたので、これ以上濡れることはなかった。
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第8章
私は同乗しているに人たちと友達になろうとした。若い人たちは技術の専門学校を出たばかりだった。彼らは私と話そうとはしなかった。私が外国人だという理由で、彼らは私を信用してなかった。私が尋ねても、彼らは私を疑わしげに眺め、何とか理由をつけて秘密にしようとした。彼らには秘密にするほどの情報を何も持っていたいことが、私には分かっていた。彼らは疑い深い性格だった。私は自分が彼らとは別世界の人間であるかのように思えたので、黙ることにした。しかし、徐々に、彼らは私を気にしなくなりだして、仲間内で話しはじめた。彼らは仕事について話していた。通信機を組み立てることが難しいということなどを話していた。物資が不足しており、技術者が不足しており、資金も不足しているということだった。技術力がなくて、信じられないエラーが発生するということだった。妨害行動という言葉が時々話されるのを聞いた。スケジュールは大幅に遅れているとのことだった。通信機は月末には完成するはずだった。ところが、今では、いつ完成するのか誰にも分からないほどだった。疲れてきたので、聞くのをやめて、眼を閉じた。
時々、奇妙な言葉が聞こえてきた。彼らは、私を話題にしていたのだった。彼らは私が眠っていると思っていたのだった。
「彼は我々のところへスパイとして送りこまれたのだ」
彼らの一人が言った。
「われわれが信用できるかどうか、確かめるために。彼に何も知られてはいけない。彼の質問に答えるな」
声は低くになり、ほとんどささやき声になった。
「僕は教授が言っているのを聞いた……彼らは説明しない……。他の人々がいるというのに、なぜわれわれを危険地帯へ送り込んだと思う……」
彼らは不満を抱いており、いらだっていて、私に情報を提供しようとはしなかった。彼らの間で時間を浪費するのは無駄だった。
夜遅くに、私たちは小さな町に泊まった。私は店主をたたき起こして、石鹸やらカミソリやら下着の着替えやら必需品を少しばかり手に入れた。そこには、ガソリンスタンドが1つしかなかった。朝、出発する前に、運転手はガソリンを店にある分全部買いたいと言った。店主は腹を立てて、駄目だといった。供給は限られていて、店主はこれ以上入手することは出来ないのだった。わが男はそれを無視して、貯蔵タンクを空にするように言うと、店主は怒りを増して言った。
「黙れ。さっさと行きやがれ! これは命令だ」
彼のそばに立っていたので、ここでガソリンを補充するために男がやってきたら、困ることになるだろう、とやんわりと注意した。彼は私に軽蔑的な視線を送って、言った。
「やつは、どこかにもっと隠している。彼らはいつもそうなんだ」
荷物の背後に、ガソリンの缶が詰め込まれ、私たち4人が座る場所がなくなりかねないほどだった。私は後輪の基軸の上の最も乗り心地の悪い場所に移った。
荷物を入れるためのフラップが巻き上げられのを、私たちは見届けた。遠くの森へ向かって車は走っていった。その背後には山々が連なっていた。町から数マイルいくと、砂利の敷かれた道は終わっていた。今や、車輪の通るところに二本の細い線のように舗装されているだけの道に変わっていた。車体の幅が広かったので車輪はそこを走ることが出来なかった。内陸の気候のせいで、前進するに従って、寒くなってきた。森は端の方は見えていたが、それが徐々に近づいてきて、耕作地は少なくなっていき、人々や村もまた少なくなっていった。私は、ガソリンを購入した意味が分かり始めた。道路は、確実に悪っていき、わだちや穴ぼこだらけになってきた。これ以上進むのは難しくなり、速度は落ち、運転手は罵り始めた。線状に舗装されたところでさえ、無くなっていた。私は前かがみになり、彼の肩をたたいて、運転を交代しようかと申し出た。驚いたことに、彼は肯いた。
私は彼のとなりの座り心地のいい席に座ったが、トラックが重くて運転するのに苦労した。今までこんなに重いトラックを運転したことはなかったので、慣れるまで、運転に集中しなければならなかった。道を邪魔している小岩や木の幹を道路から取り除くために、定期的に運転を中止しなければならなかった。それが最初に起こったとき、背後の荷台から人々が飛び降りて、障害物を取り除こうとしてたので、私も手伝うために降りようとした。すると、運転手が私の肩を軽く叩いたので、振り返ると、運転手は降りなくてもよいというふうに頭を振った。運転できるということは、そのような雑事をすることよりはるかに価値があることだった。
私は彼に煙草を提供した。彼は受け取った。私は道路の状態について意見を述べた。通信機は貴重品であって、しょっちゅう運搬するのであるから、なぜ道路を舗装しないのか、理解できなかった。彼は言った。
「われわれはその余裕がない。通信機を提供している連合国に頼んだのだが、断られた」しかめ面をして、私が同情の表情をしているかどうかを確かめるために、横目で見た。私は無表情な調子で、それはフェアではないと言った。
「我々の国は小さくて、貧しいので、いつでも軽くあしらわられる」
彼は怒りを抑えられなかった。
「われわれが提供しなかったら、通信機機はこの国では決して組立てられないのに。われわれが全部やっているんだということを、やつらは思い出すべきなんだ。 そのために、われわれの領土の一部を犠牲にしているのに、見返りは何もない。われわれが侵略されても、軍隊を送ってもくれなかいだろう。やつらの非協力的な態度にはむかつくよ」
彼は苦々しく話した。彼は、大国に恨みを抱いているのだった。
「お前を外国人だから。こんなことを言うべきじゃなかった」
彼は心配して私を見た。私は情報提供者ではないといって、彼を安心させた。
彼は話しをしたがったので、私は彼自身のことを話してくれるようにと頼んだ。その方が、私が関心を持つ話を聞き出しやすいと思ったからだった。この仕事が始まった頃は、運転手はもっぱら作業員を運んでいたということだった。彼らは途中でよく歌を歌ったものだった。
「あなたは覚えているか、言い古された諺を――『善意の人は団結して世界を回復し、破壊する力に立ち向かう』。彼らは言葉を歌の一部のように変えて、男も女も皆一緒になって歌っていた。それを聞くと、勇気づけられた。あの頃は、建設に夢中になっていた。しかし、今ではなにもかもが全く違っている」
私は何が起こったのか尋ねた。
「あまりのも多くの妨害や遅延や失望が起こった。物資が不足していなかったら、とっくの昔に、仕事は終わっていただろう。しかし、物資はすべて外国から輸入しなければならなかった。それも、測定単位の異なる国々からだった。そのため、しばしば、部品のサイズが合わないということが起こった。部品が丸々返品されるという事態も起こった。これが、若い人々が熱中している仕事に、水を指すことになったのは、分かるだろう」
異なった考え方の間で、接触しないで事をなそうとしたときに起こる、ありがちな間違いと混乱だった。事実を率直に話してくれたことにたいして、私は彼に感謝の意を示した。会話は弾んで、旧い諺の話に戻った。「接触することが、人々がよりよく理解するための第一歩」
私は彼の信頼を勝ち取ったと思った。彼は、私を友達のように、女友達について話した。彼女が犬と一緒に写っている写真を見せてくれた。お金を持っているのを知られるのはよくないと思い、話題を道路に関することに変えながら、素早く写真を財布から取り出した。それは、少女が湖のほとりに立っている写真だったが、まだ持っていた。その写真を彼に示して、彼女が行方不明になり、私は探しているのだと話した。特別な感慨もなく、彼は言った。
「きれいな髪。君は幸運だ」
私は、女友達が地球上から消えてしまっても、幸運と思うか、と訊ねた。彼は少し困惑した表情を示した。私は写真を脇へ置いて、このような髪をした少女を見たことがないかどうか、訊ねた。
「いいや。見たことはない」
彼は力を込めて首を振った。
「ここのほとんどの女性は黒い髪をしている」
彼女について彼に尋ねたのは無駄だった。
私たちは交代した。運転に疲れて、私は眼を閉じた。再び眼を開けると、彼は銃を膝の上に置いていた。何を撃つつもりなのかと訊ねた。
「国境の近くに来ている。ここは危険地帯だ。いたるところ敵だらけ」
「しかし、この国は中立なのでは?」
「中立ってなんだ。それは言葉だけだ」
彼はミステリアスに付け加えた。
「その上、敵にも様々な種類の敵がいる」
「どんな」
「破壊工作員、スパイ、強盗。混乱に乗じて私服を肥やすあらゆる種類の悪者がいる」
トラックは攻撃されると思うかと、尋ねた。
「以前に攻撃されたことがあった。運んでいる物資を彼らは必要とする場合がある。その場合に、彼らがわれわれが通る事を聞いていたならば、彼らは。われわれのトラックを止めようとするかも知れない」
私はオートマティックを取り出すと、彼はそれを興味深げにチラリと見たが、明らかに、彼は外国人の武器に強く印象づけられたようだった。車は森の中へと入って行った。彼は神経質になっていた。
「さあ、危険な地域にやってきたぞ」
高い木の枝からコケが長い灰色の髯のように垂れ下がっていて、それが光を遮断するスクリーンの役割をしていた。身を隠すのに丁度良い場所だった。光が入ってこなくなり始め、道路だけが照らされていた。隠れている眼が私たちを観察していると想像することは容易だった。銃を持った敵がいるかと探した。しかし、考えていることは別のことだった。
私は総督について、運転手に尋ねた。彼は新聞で読む程度の知識しか持っていなかった。通信機の置かれている場所から本部までの距離は20マイルだった。
「そこへ行けるだろうか?」
「そこへ行く?」
彼は私を無表情に見つめた。
「もちろん、行けない。そこは敵の国だから。彼らは道路を破壊し、通路を遮断している。とにかく人の住んでいる処は多くはない。夜には銃の撃ち合う音が聞こえるだろう」
彼は明るいうちに目標地に到着したがった。
「暗くなる前に、森を出なければ。何とかいけるだろう」
彼は猛烈に運転した。トラックは石ころを踏みつけてバウンドし、スリップした。
私は憂鬱になり、もはや話し続けることはできなかった。状況は絶望的だった。 私には少女が必要だった。彼女なしでは生きていけなかった。しかし、私は決して彼女を見つけることは出来ないだろう。町への通路は存在しない。私は決してそこへ行くことが出来ない。そこへ行くことは不可能だった。とにかく、そこは四六時中砲撃が行われて、破壊され続けているに違いなかった。そこへ行く意味がなくなった。彼女がそこをすでに去っていたかもしれないし、ずいぶん前に殺されていたかもしれなかった。私は絶望した。すべてなすことが虚しく感じられた。
通信機の置かれている場所は、注意深く選ばれていた。山を背にして、森に囲まれていた。地上からの攻撃に対して防衛しやすくなっていた。建物の周りは、整地されていたが、木々に囲まれていた。私たちはプレハブ式の建物に住んでいたが、雨がまともに当り、触れるものすべてが湿気を含んでいた。床はコンクリートだったが、いつも泥で汚れていた。私たちが行くところ、どこも沼地になっていた。人びとは皆、意心地の悪さと食べ物のまずいことに、不平を言っていた。
天候が悪くなっていった。いつもなら、暑くて、乾燥していて、日照りが強いはずだった。しかし、始終雨が降り、じめじめして冷えていた。厚い霧が、森の木々の頂上に白っぽくかかっていた。空は雲という大なべから昇っている蒸気で満ちているかのようだった。森の生きものは、正気を失っていって、常軌を逸した行動をとっていた。野生の大や猫が人間を恐れなくなり、建物の近くまでやって来て、通信機の周りをうろついていた。奇妙な格好をした鳥が頭上を飛びまわっていた。われわれが解き放った未知の災厄を察知して、鳥や獣たちが、保護を求めて人間のところにやってきたのではないかという気がした。
暇つぶしに、また、何かをやりたかったので、私は通信機の仕事に参加しようと思った。それは完成からは程遠く、従業者たちはやる気をなくしており、無関心になっていた。私は彼らを集め、将来について話をした。好戦的な人々は、私のはなしが部分的に真実を伝えていたので、感銘を受けたようだった。議論が進むにつれて、人々は信念を回復し出した。平和は回復されなければならない。世界が衝突する危機は避けなければならない。これが彼らの仕事の最終目標であるはずだった。一方で、私は彼らをチームに分けて、競わせた。最もよく働いた人には報奨金をだした。まもなく、放送開始のための準備が整った。私は両チームの出来事を平等に正確に記録した。世界平和のためのプログラムを提案し、休戦を主張した。大使は私に手紙をよこして、私の仕事に対して、感謝の意を表した。
国境を越えていくべきか、それともここに留まるべきか、決心がつかなかった。少女が破壊された町で生きていられるとは思えなかった。彼女がそこで殺されていたのなら、そこへ行くことに意味はなかった。どこか別のどこかで生きているとしても、いずれにしろ、そこへ行くことに意味はなかった。そこへ行くことにはかなりの危険が考えられた。たとえ、交戦がなかったとしても、スパイの嫌疑で撃たれる可能性があった。あるいは、無期限に刑務所に入れられるかもしれなかった。
しかし、すべてが順調に進んでいたので、ここで仕事をするのに飽きてきた。降り続ける雨の中で、物を乾かし続けるのに飽きてきた。氷に襲われるのをただ待っているのが嫌になった。日に日に、氷は、山や海をものともせずに、地球の表面を被い続けていた。被い尽くす速度は速まったり遅れたりすることなく、同じペースで確実に、近づいてきていた。町にやってくると、町は氷に押しつぶされ、平らになった。沸騰する溶岩が流れ出ているクレーターでさえも氷で埋められた。巨大な氷の連隊が進行して来るのを押しとどめる術はなかった。それは着実に、世界を横断し、前進を阻むあるあらゆるものを押しつぶし、被い尽くし、破壊し尽くした。
私は、それにもかかわらず、総督のいるはずの処へ行こうと思った。誰にも告げずに、土砂降りの中を、いたるところに障害物のある道を車を走らせた。そこからは行くべき道が、山のふもとの木々の向うまで続いているの分かった。私が頼ることが出来るのは、携帯用の磁石だけだった。山を登り、雨に濡れた植物のところを通過して、国境の駅に到着するのには、数時間かかるはずだった。そこで、警備員によって引き止められるだろう。
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第9章
私は、総督のところに連れて行ってくれるように頼んだ。彼は最近になって本部を他の町に移していた。装甲車で私をそこへ連れて行ってくれた。2人の軍人がマシンガンを持って、「私を守るために」と称して、同乗していた。雨はまだ降り続いていた。私たちは土砂降りの中を車を走らせた。重く垂れ込めた雲のため、既に日暮れのようになっていた。私たちが町へ入ったときには、夜の帳が降りていた。ヘッドライトが見慣れた光景を照らし出した。大破壊、瓦礫、崩壊、空き地、すべてが雨に濡れできらめいていた。通りは、軍隊であふれていた。破壊の少ない建物は兵舎として利用されていた。
軍隊が厳しく守っている場所に連れて行かれ、小さな部屋に取り残された。そこでは2人の人が待っていた。われわれ3人以外に誰もいなかった。彼らは私を見たが、何も言わなかった。私たちは黙って待っていた。外で雨が打つちつける音以外は静寂だった。彼らは1つのベンチに座っていた。私はもう一つのベンチに、コートで身を包んで座った。部屋にはそれ以外の家具はなかったし、部屋は汚かった。すべてのものに、埃が厚く被っていた。
しばらくすると、彼らはひそひそ声で話しはじめた。私は、彼らが空いたポストのためにやってきたのだと推測した。私は立ち上がって、体を前後に揺らした。私は落ち着かなかったが、長い間待たねばならないのは分かっていた。私は彼らが喋っていることを聞いてはいなかったが、ひとりの人の声が大きくなったので、いやでも聞くことになった。彼が仕事を得ようとしているのは確かだった。彼は自慢した。
「私は手で人を殺すことを習った。私はどんな強い人でも、3本の指で殺せるよ。私は、簡単に人を殺せる急所を知っている。手の甲で木を折ることだって出来る」
彼の言葉を聞いて、私はがっかりした。彼は、まさに今必要とされている男だった。二人の男は会見のために呼び出された。私は一人残された。私は長い間待たねばならないだろうと覚悟を決めていた。
ほどなくすると、守衛がやって来て、私を将校の集まっている部屋へ連れて行った。総督が背の高いテーブルの上座に座っていた。他に長いテーブルがあって、そこには、将校たちが肘を接して座っていた。私は総督と同じテーブルに座らされたが、彼の近くではなく、はるか遠くの端であった。私たちは普通に話すには遠すぎた。私は席に着く前に、彼のところへ行って挨拶した。彼は驚いた様子をしたが、挨拶を返さなかった。彼らは首を寄せ合うようにして座り、小さな声で話し始め、こっそりと私を盗み見ていた。私は気持ちのいいものではなかったが、彼が私が誰なのかを思い出そうと思っても、分からないのだと思った。彼に私との関係を思い出させることは、もっと悪いことになるかもしれないと考えて、何も言わずに、私は与えられた席に着席した。
彼が近くの将校たちに愛想良く話しかけているのを聞くことが出来た。会話の内容は捕虜と逃亡の話だった。彼が自分自身の戦争の話しになるまでは興味がなかった。大きな車のことや雪嵐や前門が破壊されたことや砲弾や少女のことが話題にされた。彼は私の方を見ようとしなかったし、気にしてもいなかった。
時々、外を軍隊が行進して通りすぎる音が聞こえた。突然、爆発が起こった。天井の一部が落下し、明かりが消えた。台風用のランプが持ってこられて、テーブルの上に置かれた。ランプが、皿の中には壁土が散らかっているのを照らし出した。食べものは、ぐちゃぐちゃになり、埃や残骸に覆われて、食べられなくなっていた。それらは取り払われた。長く退屈な時が続いて、それからゆで卵の入った容器が持ってこられて、私たちの前に置かれた。断続的に爆発が起こり、建物を揺るがし、埃が空中に舞い上がり、あらゆるものを汚く汚した。
驚いたことに、総督は私を知らない振りをしていたのだった。食事の終り頃に、私を手招いた。
「あなたの放送を楽しみにしていました。あなたは一種の贈り物を与えてくれたのです」
驚いたことに、彼は私が何をしていたのか、知っていたのだった。彼は他の人たちに接するのと同じように、親しげに私に話しかけて、私たちはしばらくの間話しを交わした。私は漠然とした感情ではあるが、彼に親密な感情を抱き、仲間のように感じた。彼は、私が到着したのは、良い時期だと言った。
「我々の通信機は間もなく稼動します。そうすると、あなたの放送は聞こえなくなる」
私は当局に対して、もっと強力な設備が必要であることを話していた。現存の設備による放送がより強力な設備によって放送妨害されるのは時間の問題だった。彼は、私が間もなく戦争が起こるだろうことを知っており、そうなったら、私は相手側につくだろうと、思っていた。彼は、私に彼のための宣伝放送をしてもらいたがった。彼が私のために何かしてくれたら、私は同意するつもりだった。
「まだ同じ事をしているのですか?」
「そうです」
彼は私を興味をもって眺めたが、眼には疑惑の表情が一瞬現れた。しかし、彼はさりげなく言った。
「彼女の部屋は上の階にあります。彼女のところに訊ねて行きましょう」
彼は先頭に立って出て行った。
「個人的なメッセージを手渡さなければなりません。私は一人で彼女に会えますか?」
と聞いたが、彼は答えなかった。
私たちは通路を下っていき、階段を上がり、別の通路に出て歩いて行った。明るい松明の光が、あたりにごみが散らばっているのを照らし出していた。床はほこりに覆われていて足跡がついていた。私はそこに少女のと思われる小さな足跡を見つけた。彼はドアを開き、ぼんやりと照らし出された部屋の中を覗きこんだ。彼女は跳び上がった。跳び上がった時の白い顔、輝く髪に包まれて私を見つめた大きな眼が、そこにはあった。
「またあなたなの」
彼女は固くなり、自分を守ろうとするかのように、前にある椅子の背に手を置いた。手はねじれて、指の関節のところが白くなっていた。
「あなたは何が望みなの?」
「ただあなたと話したいだけです」
私たち二人を交互に見て、彼女は非難する口調で言った。
「あなた達は同じ仲間ね」
私は否定した。しかし、奇妙なことに、彼女の言葉には真実が含まれているように思われた。
「もちろん、あなたは……彼はあなたを他のどこかへ連れて行こうとはしないでしょう」
総督は微笑を浮かべながら、彼女に近づいた。そのときの彼のやさしげな表情を、私は今まで見たことがなかった。
「いらっしゃい。そんな態度は、旧知の友達に挨拶するのに相応しくない。もっと親しく話ができませんか。あなた達はどのようにして知り合いになったのかを、私に話してくれませんか」
彼が、私たちを二人だけにするつもりがないのははっきりしていた。私は黙って彼女を見つめた。彼の前では彼女に話しかけることは出来なかった。彼の支配力はあまりにも大きすぎて、彼の影響はあまりにも強すぎた。彼の前では、彼女は怯えて、自分の意志とは反対の振舞をするだろう。障壁が張られた。私は混乱した。彼が微笑んでいるのも当然だった。私は彼女を見つけなかったほうが良かったのだ。遠くで爆発音が起こり、壁を揺るがした。天井から降ってくる白っぽい埃を彼女は眺めていた。とにかく何かを言うために、爆弾が恐くないかと尋ねた。彼女は無表情で、ただ髪だけが輝いていた。彼女は黙って、あらぬ方へ視線を動かした。なにも見てはいず、何も意味してはいなかった。
総督は言った。
「彼女をもっと安全な場所に行くように説得しました。しかし、彼女は行こうとしない」
彼は得意げに微笑んで、私に、彼女に対する支配力を見せつけた。容認し難かった。私は辺りを見回した。椅子と小さな鏡とベッドとテーブルがあり、テーブルの上にはペーパーバックの本がおかれていた。他には何もなかった。そして、それらすべては埃にまみれていた。床の上には、壁土が厚く積もっていた。彼女の厚手のコートは留め金につるされていた。くしと銀紙に包まれた長方形をした食べさしのチョコレート以外には、人の気配を感じさせるものはなにもなかった。私は男から彼女へと向きを変え、彼がいないかのように、真っ直ぐに彼女を見て、話した。
「ここは、居場所のいいところではない。なぜ、戦闘からもっと離れたホテルに移らないんですか。」
彼女は答えずに、肩を少しばかりすくめただけだった。沈黙が続いた。
軍隊が窓の下を通過して行った。彼は部屋を横切って窓のところへ行き、よろい戸を音を立てて開け、下を見下ろした。私はその隙に急いでささやいた。
「私はただあなたを助けたいだけなんです」
私は手を彼女の方に差し出した。彼女はその手を振り払って言った。
「あなたは信頼できない。あなたの言うことを信じません」
彼女の眼は大きく見開き、反抗的に私を見つめた。彼が部屋にいる間は、決して説得に成功しないだろうことが分かった。これ以上いても、得られるものはなにもなかった。私はそこを去った。
ドアの外に出ると、彼の笑い声や床を踏みつける足音や彼の話し声が聞こえてきた。
「あの人に何をそんなに怒っているの」
彼女の声は変わり、涙声になり、ピッチの高い、ヒステリックな調子で言った。
「彼はうそつきよ。彼があなたと一緒になって何をしようとしているのかは分かっている。あなた達は同じよ。利己的で、嘘つきで、残酷で。あなた達のどちらにも会いたくない。二人とも憎むわ。きっといつか、ここから出て行くわ。そしてあなたは二度と私に会うことはない……決して!」
私は通路を下って行った。瓦礫に躓き、それらを蹴散らしながら歩いた。私は松明を持っていないことを気にしなかった。
次の数日の間、彼女を彼のもとから連れ出し、どこか中立国に連れていくことを考えていた。理論的には、それは全く可能だった。船がまだ時折この地方の港に寄港していた。ただ急がねばならなかったし、秘密裏にタイミングよく事を運ぶ必要があった。成功するためには、総督に追いつかれる前に、海に出ていなければならなかった。私は用心深くあちこちに当たってみた。色々な返事が返ってきた。問題は誰の言葉を信用してよいのか分からないことだった。情報を得るために私がお金を払っている人は、総督に雇われている誰かに、私を密告することも出来ただろう。そうなるとは計画全体が窮地に陥ってしまう。私は神経質になり、そのような危険を冒す勇気がなく、行動ができなくなった。それにも関わらず、危険はさし迫ってきた。
秘密の声がささやいた。名前、住所、行き先、出発地、「……へ行きなさい……。に頼みなさい。いつでも行けるように準備しておいてください。記録、証明書。十分な資金……」さらに計画を進めるためには、彼女に打ち明けなければならなかった。私は彼女の部屋へ行った。銃声が聞こえたが、注意を払わなかった。銃声は通りでは頻繁に起こっていた。男が現れて、背後でドアを閉めた。私は彼女に会いに来たのだと言った。
「それは出来ない」
と彼は言って、ドアに鍵をかけ、それをポケットにしまい、テーブルの上にピストルを置いた。
「彼女は死んだ」
ナイフが私の体を貫いた。世界で起こる他の全ての死は、私にはどうでもよかった。ただこの死だけが私の心身に衝撃を与えた。私自身が銃剣で突き刺されたかのようだった。
「誰が彼女を殺したのか」
彼女を殺すことができるのは、私以外に考えられなかった。
「私がやった」
という彼の声を聞いたとき、私の手は動き、銃に触れた。銃身は熱かった。私はそれを掴み、彼を撃とうと思えば、撃つことができた。簡単だった。彼は身を守ろうとして動く気配はなかった。じっと立ったままで、私を見つめていた。私は彼を見返した。彼の傲慢な顔立ちをした顔を見た。私たちの目は会った。
名状し難い方法で、私たちは縺れあった。私は自分自身を見ているような気がした。突然、極度の混乱に陥って、私たちのどちらがどちらか分からなくなった。私たちは、不可思議な形で共生している、一つの存在の半身ずつであるかのようだった。私は自分を保とうと努力した。しかし、全ての努力もむなしく、彼から私を引き離すことは出来なかった。私はもはや私自身を見つけられず、ただ彼だけしか見いだせなかった。その瞬間、実際に私は彼の衣服を着ているような気がした。私は何がなんだか分からなくなり、部屋を飛び出した。後になっても、何が起こったのかわからなかった。あるいは何かが起こったとしても、分からなかっただろう。
別のケースでは、彼はドアのところで私に会い、直ちに言った。
「あなたは遅すぎる。鳥は飛び去った」
彼はニヤニヤ笑い、彼の表情は悪意を露骨に表していた。
「彼女は去った。逃亡して、消えてしまった」
私はこぶしを握りしめた。
「私を彼女に会わせないように、逃がしたのだな。お前は故意に私たちを引き離したのだな」
怒りに任せて、私は彼に向かって突進した。それから、再び私たちは縺れ、混乱がやって来た。さらに大きな混乱が広がり、自分が分からなくなっただけでなく、どこにいるかも今がいつなのかも分からなくなった。黄金のブルーの眼が閃き、絞殺死体のような曲がった冷たい指にはめられた指輪からブルーの閃きが放射した。彼は熊と戦い、素手で絞め殺した。私は戦わなかった。私がそこを去ったとき、嘲り笑う彼の声が聞こえた。
「なんと賢明なこと」
私は誰もいない部屋へ入って行った。心を落ち着けるのに時間が必要だった。私はあまりにも混乱していた。私は少女を切望していて、彼女を失うことは耐えられなかった。私は彼女と一緒に旅にでるプランを想像した。しかし、もはやそれは決して起こらないだろう。顔は雨に濡れ、滴が口に入ってきて、しょっぱかった。ハンカチで眼を拭った。非常な努力をして、心を平静に保った。
また、彼女を求めて、いたるところを探し回らなければならなかった。呪いにかかったように同じことの繰り返しだった。私は、戦争から遠くはなれた、穏やかな青い海や静かな島を想像した。幸福な生きものであり、人生における平和のシンボルであるインドリを想像した。私はここを去って、そこへ行くことも出来た。いいや、それは不可能だった。私は彼女に縛られていた。氷が、死の影を投げかけながら、地球を横断してやってくることを思った。氷の絶壁が夢の中に現れ、言い尽くせぬような轟音を立てて砕け散った。氷山が瓦解し、氷の巨岩が、ロケットのように、空中に飛び出した。眩い氷が、星のように光線を放射し、地上を照らし出し、大地にぶつかって炸裂し、大地を貫き、地球の核を死のような冷却で冷やし、前進してくる氷を一層冷たくした。そして、地表を、破壊することの不可能な氷の巨大な塊が前進し続け、誰にも押しとどめることの出来ない力で、全ての生命を破壊していった。私は、その執拗な圧力の恐怖に捉えられた。無駄に過ごす時間がなかった。もう十分に時間を浪費していた。私と氷の競争だった。彼女の色素を欠いた白い髪が私の夢の中で輝き、月光よりも明るく夢の中を照らしだした。月光が氷山の上でダンスを踊っていた。それは世界の終末を示しているかのようだった。そこで彼女は、彼女の輝く髪の天幕の中から外を眺めていた。
私は眠っている時も目覚めているときも、彼女を夢見ていた。私は彼女の叫びを聞いた。
「いつの日か、私は行く……あなたはもう二度と私を見ることはない……」
彼女はもうすでに私から去っていた。彼女は逃走していた。彼女は未知の町の通りを急いだ。彼女はいつもとは異なって見えた。いつもほど不安げではなく、いつもよりも自信に満ちていた。彼女は自分がどこへ行こうとしているのか正確に知っていた。彼女は一度たりとも躊躇しなかった。巨大な役所の建物の中を、彼女は真っ直ぐに、人々で込み合っている部屋に向かってまっすぐに進んでいいたが、彼女はドアを開ける力がなかった。ただ、彼女の極端にまでほっそりした体のために、多くの長身のむっつりした人々の姿の間をすり抜けていった。彼らは不自然なほど沈黙しており、想像できないほど背が高かった。彼らは彼女から視線を逸らしていた。彼らが彼女の上に塔のように聳えたち、暗い木々のように彼女を取り囲んだ時、彼女に不安が戻ってきた。彼女は自分が本当に小さく、彼らの間で迷い子になったかのように感じ、恐怖に襲われた。彼女の確信は消失した。それは決して現実ではなかった。今や、彼女はただその場所から逃げ出したかった。彼女の視線はあちこちに移した。ドアはなく、逃げ出す道はなかった。彼女は罠に捕らえられた。無表情な黒い木々の姿が彼女を取巻き接近してきた。腕が枝となって広がり、彼女を捕らえようとした。彼女は下を向き、閉じ込められた。ズボンをはいた脚が木々の幹となり、彼女の周りに根を張った。床は、木の幹と根っこで満たされた地面に変わった。顔を上げて、窓をみると、網状になった白い雪が見えるだけだった。そこから世界は閉め出されていた。彼女の知っている世界はそこからは排除され、現実は消去されていた。雪の中で成長したもみの木のように高い、木々の形をした幽霊の悪夢に脅かされて、彼女は一人だった。
全体的な状態は一層悪化していた。破壊が止まる兆しはなかった。容赦なく破壊が進行したために、モラルが全体的に低下していた。実際に何が起こっているのかが分からなくなっていたし、何を信じて良いのかも分からなくなっていた。情報は信頼できなかった。破壊についての情報は海外からはほとんどもたらされなかった。かつて支配的であった地域が今では例外なく没落していた。色々な原因から、無気力に沈黙した地域が広がり、公共的な士気の基盤が崩壊していった。
ある国々では、市民が不穏な動きを見せたために、軍隊が地域を制圧するということが起こった。ここ数ヶ月で、世界的な規模で、軍国主義的な風潮が広まっていき、身勝手で残酷な出来事が起こった。市民と軍隊との間でしばしば衝突が起こった。警察と軍隊によって、報復的な処刑が行われることが日常茶飯事になった。
真実を知らせるニュースが存在しないために、非現実的な流言が人々の間をかけ巡っていた。遠くの国で、伝染病が広範囲に流行しているとか、ひどい飢饉が生じているとかいう噂が広まっていた。常識では考えられない出来事があちこちで起こっていた。熱核爆弾の倉庫が破壊されたというニュースが、ある種の権威筋から定期的に流された。生命のない物体を破壊しないで、生命のあるものは、すべて破壊するような自動装置のコバルト爆弾のスイッチが、既に入って、どこかに置かれているという噂も流された。スパイや二重スパイがあらゆるところを徘徊していた。あらゆる国で物資不足がますますひどくなっていた。実際それが理由で暴動が起こっていた。法律を無視した輩が徘徊し、まともな人たちは襲われた。略奪に対して死刑が科せられたが、抑止にはほとんど効果がなかった。
私は少女についてのニュースを間接的に聞いた。それによると、彼女は他の国のある町で生きているとのことだった。その場所は、非常に危険な地域であることはほとんど確かだった。進行して来る氷の話をすることは禁じられていたので、そのことを調べることは不可能だった。しかし、しつこく探し求め、また広範囲に賄賂をばら撒いたおかげで、私は何とかそちらの方に向かう船に乗船することが出来た。船長は手っ取り早くお金を手に入れたがっていて、大金を積んだので、私の欲する港に寄港することに同意した。
私たちはある早朝にその港に到着した。信じられないくらい寒く、明かりをつけても信じられないくらい暗かった。空も、雲も見えず、降り続く雪によって隠されていた。それはいつも見る朝とはまるで違っていた。それはすべてを凍らせ、昼間を闇に変え、春を北極の冬に変えた。気が変わって、下船するのを止めるのかと聞いた船長に、さようならを言った。
「さっさと行け。われわれをこんなところに釘づけにするな。」
彼は怒って言った。われわれはそれ以上何も言わないで分かれた。
私は一級航海士と共にデッキに出た。空気は硫酸のような臭いがして、鼻を刺した。北極の氷原で呼吸しているかのように、ほとんど呼吸をすることが出来なかった。肌は傷つき、肺は焼けるようだった。しかし体は間もなく慣れてきた。大量の雪のために、上空は霧が被っているように奇妙に輝いていた。闇で覆われた空から絶え間なく降り続ける雪片のために、すべたものの輪郭はぼやけていた。避けようとしたが避けられなくて、凍りついている船の構造の一部に手が触れてしまったとき、あまりの冷たさに凍傷ができた。辺りは静かだったが、船底ら伝わってくるリズミカルな振動を感じて、同伴者に話しかけた。
「エンジンは止まっていないのですか」
ある理由から、それは驚くべきことのように思われた。
「そう思いますか。船長は一刻も早く船の向きを変えたいのです。彼はここ数日間、あなたが船をここに寄港させたと言って、罵っていました」
彼もまた船長と同じように私に敵意を示した。そればかりでなく、私が下船することに理解できないでいたが、好奇心を示していた。
「一体全体、悪魔はどんな理由であなたをこんなところへ来させたのだ?」
「これが私の仕事だから」
よそよそしく黙りこくったまま、私たちは欄干のところへやって来た。欄干は分厚い氷で覆われており、縄梯子がそこからモーターの音のする下の方へと垂れ下がっていた。私がまだ下を見る間もなく、彼は欄干をまたいだ。
「港は凍っている。あなたを岸まで届けなければならない」
彼は素早く、造作もなく、縄梯子を降りていった。私は、両手で縄梯子を掴んで、雪のために辺りが見えないなかを、慎重に彼の後に続いた。誰かが私を引っ張って揺れる小船に乗せてくれ、私を押すようにして席に座らせてくれた。そして直ちに小船は動き出した。後ろ足で立ちあがった馬のように、船首を起こしながら、フルスピードで岸に向かって突っ込んでいった。小さな客室の屋根一面に水しぶきがあがった。あまりにも騒音がうるさくて、話し声は聞こえなかったが、船上の人々の殺意を含んだ敵意を感じた。安全な航海中に、彼らをこのような危険な目にあわせたので、彼らは私を憎んでいたのだった。彼らにとって、私の行動は邪悪で全く無意味な行動として映っていた。体がしびれるほどのひどい寒さの中で、コートに身を包みこんで座っていると、私がやっていることに意味があるのかどうか、私自身分からなくなってきた。
大きな声が突然して、それが長く引きのばされて聞こえてきたので、私は驚いた。それは犬の遠吠えよりも不気味だった。一等航海士は飛び上がり、メガホンで後ろの方に叫んで、座った。
「片側通行」
私が理解していないのをみると、彼はつけ加えた。
「別の航路にいる多くの船がいる」
そして前方を指差した。
そこでは船が姿を現らわしていて、不明瞭で混乱した騒動が起こっていた。船は静止していたが、周りを小さなボートが密集してとり囲んでいた。彼らは、狂ったように競って、乗船するための位置取りを争っていた。新たな船が入り込む余地はなかった。見物者が船の欄干に群がって、競技を見物するかのように、ボートが衝突し、転覆するのを見ていた。ボートに乗っている人たちは、苦労した経験がないらしく、危険に慣れていない人たちだった。というのも、彼らは命を危険に犯すには、やり方が下手だった。彼らは、さかさまになって海に落ちたり、無意味にぶつかり合ったり、押し合ったりしていた。あるボートでは、海からはい上がろうとして、狂ったようにボートにしがみつこうとするので、ボートがひっくり返った。また別のボートでは、人々が押し合い圧し合い、殴ったり、蹴ったり、ボートにしがみつく手を踏みつけて、溺れさしたりしていた。どんなに泳ぎの得意な屈強な者でも、凍てつく海の中では長くは生きて入られなかった。あまりにも多くの人たちが一箇所に集まり、しかも舵取りの下手なため、ボートがいくつか、転覆し、沈んでいった。また、衝突したために沈んだボートもいくつかあった。浮かんでいる残りのボートの上の人たちは、ぶつかって、倒れた人たちを踏みつけたりして、過剰にパニックになり、オールにしがみついている者を追い払ったりしていた。死にかけている人たちでも、殴られたり打たれたりした。降り続ける雪に隠れて見えなくなってもなお、くぐもった怒りの叫び声やどたんばたんという重い音や水の飛び散る音がしばらくの間聞こえていた。私は、人々が必死で、災厄に襲われている国から安全地域へと逃げようとしているとことを告げる落ち着いた声が空中をやってくるのを思い出していた。
凍てつく港は一面白っぽい灰色をしていて、その中を黒々としたものが点々としていた。それはうち捨てられた残骸が氷の中で凍りついていたのだった。凍りついた岸は、どす黒い淀んだ流れをした小さな川に接していた。氷柱が歯のように見え、あたかもニヤニヤ笑っているかのようだった。私は岸に跳び移るとき、雪が扇がたに飛び散った。小船は視界から消えていた。さようならすら言わなかった。
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第10章
それはどこかの国のどこかの町だった。私は何一つ見分けることができなかった。雪が一面を被い尽くしており、どこもかしこもただ真っ白なだけだった。建物は名のないただの絶壁に変わっていた。
混乱した騒動や叫び声や木々が折れたりガラスの割れる音が、通りの一方から聞こえてきた。そこでは略奪が行われていたのだった。群集が店の中になだれ込んでいた。リーダーもいなくて、確たる目的もなかった。彼らはまさしく暴徒と化し、興奮と獲物を求めて集まり、恐怖に襲われ、腹をすかし、ヒステリックで、暴力的になっていた。彼らは仲間同士で争い、武器になるようなものを拾い上げ、互いに戦利品を取りあった。手当たり次第なんでも、役に立ちそうでないものでさえも、略奪した。そして、いらなければ、捨てて、他の略奪物を求めて、走り去った。彼らは、持ち去ることが出来ないものは破壊した。彼らは意味もなく破壊する破壊することに楽しみを覚える変質者になっていて、切れ切れに引き裂き、粉々につぶし、押しでつぶしたりしていた。
上級将校が通りに現れて、警笛を鳴らして警察を呼んだ。略奪者の方に近づいていって、大声を出し、厳しい軍隊口調で、命令し、警笛を強く繰り返し鳴らした。上質のオーバーコートのアストラカン織りの襟で囲まれた彼の顔は、怒りで陰鬱な表情をしていた。彼を見るや、多くの群衆は逃げ出した。しかし、他の群集よりずうずうしい輩はなおも残骸を漁り続けていた。怒りを顕にして、彼は大またで彼らに近づいて、鞭で脅し、退散するように言い、睨みつけた。最初、彼らは無視していたが、やがて輪を作り、数グループが同時に、あちこちから彼の方へ近寄ってきた。彼は連発銃を引き抜いて、彼らの頭上を目指して撃った。間違いだった。彼は暴徒を狙って撃つべきだった。彼らは彼を取り囲んで群がり、武器を奪い取ろうとした。警官はまだ来ていなかった。取っ組み合いが始まり、そのうちに、偶然か故意かは分からないが、銃が排水溝の中に落ちてしまった。所有者は50代後半の、長身の、精力旺盛な男だった。しかし、彼は息を切らしていた。暴徒は若くてタフで、邪悪な表情をしていた。彼らは巧妙に攻撃した。手には、金属製の棒やガラスの破片や、壊れた家具など、手に入るものは何でも持っていた。彼はそれらを鞭で振り払いながら、壁を背にして防戦した。彼らは大勢で執拗に攻撃をしかけていたので、彼は次第に疲れ果てていき、動作は緩慢になった。石が一つ投げられと、石が雨のように投げられた。それらの一つが彼の帽子を吹っ飛ばした。彼の禿げ上がった頭を見て、暴徒は下品な罵り声を上げた。一瞬、彼の顔に不安げな表情が浮かんだ。彼らは立場が優位になったのを見てとり、さらに近づき、狼の群れのように、彼の上にのしかかった。彼の顔からは血が滴り落ち、壁についた。彼はまだどうにかこうにか彼らを追い払おうとしていた。そのとき、光るものが見えた。ナイフだった。服が裂け、さらにナイフが突き立てられた。彼は胸を押さえて、前の方によろめいて、ふらふらとに歩いた。背後の壁がなくなったので、暴徒はあらゆる方面から彼に襲いかかった。暴徒は彼を打ち倒し、彼の上で飛び跳ね、コートを引き裂き、頭を凍りついた地面に打ちつけ、体を踏みつけ、体を蹴り、鎖で顔を殴った。とうとう、彼は雪の中で動かなくなった。彼にはもはや絶対的に望みがなくなった。殺人が行われたのだった。
それは私には無関係だったが、そう思うことはできなかったし、何かしないではいられなかった。彼らは社会の底に沈殿したおりだった。彼らは平常の時なら、将校に触れることはおろか、近寄ることすら出来なかっただろう。小男があざけりの声をあげて、男のオーバーコートを着て、ダンスを踊り、引きずっているコートの縁を踏んでよろめいた。私は嫌悪感に一杯になり、憤怒がこみ上げてきた。抑え切れない怒りで、彼に突進し、コートを剥ぎ取り、彼の腕を捻り上げ、一撃を食わし、殴り、歩道に投げ飛ばした。顔が壁にぶつかり、悲鳴を聞くのと同時に、頭の砕ける音がして、私は満足感を覚えた。振り向くと、男が体を捻って私の脚を払おうとしているのが見えた。鋭い痛みが脚に走り、よろめいた。私は直ぐに体勢を立て直すと、彼が弧を描いて私へ向けて腕を降りぬくのが見えた。私は訓練通りに、反応した。仰向けに倒れて、片足で彼の足首をロックすると、ナイフが落ちるのが見え、動けない膝の皿をもう一方の足で、砕けるまで蹴りつけた。そのとき、一団が私の上に群がろうとしていた。ナイフを持った集団に襲われては、将校が助からなかった以上に、助かるチャンスはなかった。しかし、私はやられる前に、相手にダメージを与えようと思っていた。突然、拳銃が鳴り、叫び声が上がり、走ってくる足音が聞こえた。警官がやっと到着したのだった。私は警察が略奪者を、他の通りに通じるコーナーへ追いつめるのを見た。それから、地面に倒れている男を引きずっていった。
彼は仰向けになっていた。いたるところに傷があり、血が流れていた。彼はまだ、人生の最盛期をそれほど多く過ぎたわけではなかった。印象的な顔をしており、背が高く、活力があり、堂々たる風情の男で、魅力のある身体をしていた。しかし、もはや、鼻はぺちゃんこになり、口の端は切れており、目玉は眼窩から半ばとび出していて、顔全体と頭は血で黒ずみ、汚かった。原型は失われ、歪んでいた。血跡がいたるところについていた。右手はほとんど千切れていた。彼は動かなかった。息をしているようには見えなかった。私は跪き、上着を開いて、シャツを引き上げ、胸に手を置いた。動悸を感じることは出来なかった。手は血でねばねばした。ハンカチで拭い、コートを探しに行って、それを彼の上にひろげて、彼を被い、傷だらけで醜くなっている体を隠した。彼から威厳が失われるのを欲しなかった。私は彼と面識はなかった。しかし、彼は私と同類の人間だった。私たちはあのような暴徒の輩ではなかった。彼らが彼を殺したのは、暴行だった。彼らは、彼の意志の強さと力に敬意を表して、彼の前に跪くべきだった。もはや若くもなく、不利な立場にいるにも拘らず一人で戦っている彼を捕らえたとき、彼らはそうするべきだったのだ。彼らにもっと罰を加えなかったことを後悔した。
私は拳銃を思い出し、排水溝の上に屈みこんだ。指を入れるだけの隙間があったので、私はそれを引っ張り上げ、ポケットに閉まって、その場を去った。私は足を引きずっていて、足は痛かった。突然誰かが大声を上げた。銃声が聞こえ、銃弾が通過していった。私は止まって、警官が追いつくのを待った。
「お前は誰だ?ここで何をしている?なぜ体に触ったのだ?それは禁じられている」
私が答える前に、きしる音がして、一階の窓が無理やり開けられた。積もった雪を振り払いながら、私の傍で婦人が頭を突き出した。
「この男は勇敢な人よ。彼は表彰するに値するわ。私はここで起こったことを見ていたの。彼は暴徒の中に突っ込んでいって、一人で取っ組みあいしたの。暴徒はナイフを持っていたけど、彼は素手だったのよ。私は窓からすべてを見ていたんだから」
警官は彼女の名前と住所をノートに記した。
彼らの態度は親しげになった。しかし、彼らは私を警察署に連れて行き、記録を取らなければならないと主張した。彼らの一人が私の腕を捕らえた。
「そこは次の通りにあります。一言助言してくだされば、済むと思います」
私は行かなければならなかった。不運だった。私は私自身のことや私の行動や動機について説明したくなかった。その上、拳銃を持っているのを、気づかれたら、具合の悪いことなりかねなかった。彼らは拳銃の形に気づくに違いなかった。私はコートを脱ぐ時、膨らみが現れないように注意した。彼らは応急手当をしてくれて、脚に絆創膏を貼ってくれた。手を洗い、ラム酒の入った濃いコーヒーを飲んだ。主任が一人で私を尋問した。彼が私のパスポートを一瞥したが、何か別のことに心を奪われている様子だった。前進してくる氷について彼が何か情報を持ってるかどうか尋ねたかったが、出来なかった。私たちは煙草を交換して、食べ物について話し合った。配給品が不足していて、個人の地域への貢献度に従って、物資は配給されるとのことだった。
「働かざるもの、食うべからずですよ」
話している間、彼の顔には緊張が現れていた。危機は想像以上に緊迫しているに違いなかった。質問の内容に気をつけながら、避難者について尋ねた。氷の地域からの脱走者が飢えた略奪者になっているのが、破壊されていない全ての国々の共通の問題だった。
「彼らに働く気があるなら、われわれは彼らの滞在を認めるのだが。われわれは人手不足で、働く人を必要としている」
私は言った。
「彼らは自分で障害を作り出しているのではないですか。あなた達はどのようにして彼らを住まわせるのですか」
「男性のためにはキャンプを設営します。女性には簡易宿泊所を提供します」
私はこの点まで話を進めると、専門家が関心を抱いている振りをして、尋ねた。
「それらの地域の一つを調査したいのだけれど、許可されると思いますか」
「どうして許可されないんですか」
彼は微笑んだが、その笑顔は疲れていた。彼が問題意識をもっているためのそう言ったのか、ただ無関心なためにそう言ったのか、分からなかった。別れる前に、彼は住所を教えてくれた。事態は想像以上に良い方に向かっていた。欲しい情報を手に入れたし、連発式銃も手に入れた。
私は彼女を探すために歩いた。雪はまた降り始めていて、風は以前より冷たく強くなっていた。通りは荒れ果てていて、人影はなかった。私は一軒の家を見つけたが、人の住んでいる気配はなかった。多分遅すぎたのだった。なぜか分からないが、衝動が働かなくて、私はあまりのも長く待ちすぎたのだった。家の前を通り過ぎるとき時、通りに面したドアを開けてみたが、全てに鍵かけられていた。
ある家のドアが開いた。躊躇せずに中に入った。中には何もなく、傷んでいた。施設のような感じだった。部屋は寒かった。彼女は灰色のコートを着て座っており、脚はカーテンのようなもので包まれていた。私を見るや否や、それを脚から払いのけ、立ち上がった。
「あなたね! 彼があなたをよこしたのでしょう? メッセージを読まなかったの?」
「誰も私をよこしたりなんかしない。どんなメッセージです?」
「私を探さないで、というメッセージよ」
私はそれを受け取らなかったと言った。しかし、受け取っていたとしても、同じだっただろう。彼女の大きな不信の眼が私を凝視した。憤怒していたが、恐がってもいた。
「私は、あなた達のどちらとも一緒に行きたくなんかない」
私はそれを無視した。
「ここに一人で留まることはできない」
「なぜいけないの?私はうまくやっていける」
私は彼女が何をしているのかと尋ねた。
「仕事よ」
「彼らはあなたにいくら払ってくれます?」
「食べものをくれるわ」
「お金じゃなくて?」
「特に厳しい仕事の場合には、時々お金もくれるわ」
身構えながら、さらに続けた。
「厳しい仕事をするには、やせすぎているの。スタミナがない、と彼らは言うの」
わたしは彼女を観察していた。彼女は半ば飢えていた。しばらくの間、彼女は満足に食べていないようだった。彼女のほっそりした腕はいつも私を魅惑した。私は眼をそこから逸らすことはできなかった。それはかさばった袖口から棒のように伸びていた。彼女が従事している仕事の内容を聞く代わりに、これからどうするつもりなのかと尋ねた。彼女は怒って言った。
「なぜそれをあなたに言わなければならないの」
彼女に計画はないのは分かっていた。私は、私を友達として見て欲しいと切に願っている、と言った。
「なぜ? どうしてなの? 私は友達なんか欲しくない。私は一人でやっていけるわ」
私は彼女に、彼女をもっと生活しやすく、もっと気候の良いところに、連れ出すために、やって来たのだ、と言った。彼女が気弱になり始めているのを感じた。私は窓を被っている分厚い霜を手で拭った。雪はまだ全体の半ばの高さまでしか積もってはいなかった。
「あなたは寒くありませんか?」
彼女はもはや不安を隠さなかった。彼女は両手を捻り合わせた。私は付け加えた。
「その上、ここは危険です」
彼女の顔は苦しみの表情に変わった。彼女は次第に自制心を失っていった。
「どんな危険?」
彼女の瞳は大きく見開かれた。
「氷が……」
私はそれ以上言わなかったが、それで十分だった。彼女の身体全体が恐怖を表現していた。震え始めた。
彼女にさらに近づいて、彼女の手を取った。彼女は手を引っ込めた。
「そんなことしないで」
私は彼女のコートの折り目を持っていた。裏切られた子供のような、怒ってはいるが怖がってもいる彼女の表情を見つめた。長い間泣きじゃくり続けた子供のように、眼の辺りがかすかにあざになっていた。
「一人にしておいて」
彼女は私の手から重たいものを引き離そうと努力しているかのような動作をした。
「向うへ行って!」
私は動かなかった。
「それじゃあ、私が行くわ!」
彼女は私から自分自身を引き離して、ドアの方へ走って行き、全体重をかけてドアに体をぶつけた。ドアは勢いよく開き、彼女はバランスを失い、倒れた。輝く髪が床に広がった。どんよりして汚い、死んだような床の上で、水銀のようにきらめき、生きているかのように輝いて、髪は広がっていた。私は彼女を助け起こした。彼女はもがき、喘いだ。
「私を行かせて! あなたを憎むわ。憎むわ!」
彼女には全く力がなかった。もがいている子猫を掴んでいるかのようだった。私はドアを閉めて、鍵をかけた。
待つことは困難だったけれども、私は数日間待った。時は過ぎた。大規模な災厄が到来するので、時間を無駄にすることは出来なかった。政府は事態を隠そうとしていたにもかかわらず、情報はリークされていた。扇動的な活動が突然、町に広まった。窓から外を見ると、若い男が家から家へと、恐怖のメッセージを手渡しながら、走っていた。瞬く間に、ほんの数分の間に、通りは、鞄や荷物の束を持った人々で一杯になった。人びとは恐怖の表情を浮かべて、ばらばらに、大急ぎで、出発した。ある人はある道を通って、またある人は別の道を通って、出発した。彼らはどこへ行くかという具体的なプランを持っている訳ではなそうだった。ただ、急いで町から出なければという思いだけだった。私は政府が何も手を打たないのに驚いた。効果的な避難計画を作成することができなかったのに違いなかった。そのために、事態を成り行きに任せることにしたのだった。無秩序な集団移動を観察していると、不安になった。今まさにパニックが起こらんばかりだった。避難の準備をしないで、軽食堂に座っているなんて、狂気の沙汰だと人々は思っているに違いなかった。彼らの恐怖は伝染した。破局が切迫しているという雰囲気が私を不安にした。私は望みのある内容のメッセージを得ていたのを感謝した。船が間もなく氷の向うの港の外に停泊するだろうということだった。これが立ち寄る最の船だった。一時間だけ、停泊するということだった。
私は少女のところへ行き、これが最後のチャンスだということを、だから彼女は行かなければならないことを話した。彼女は拒否した。立ち上がることを拒否した。
「私はあなたと一緒にはどこへも行かない。あなたなんか信じない。私はここに留まるわ。私の自由よ」
「何のための自由? 飢えるための?凍えて、死ぬための?」
私は彼女の体を椅子から持ち上げて離し、脚で立たせた。
「私は行きたくない。強制しないで」
彼女は後ずさりして、眼を見開き、壁を背にして立った。彼女を助けてくれる誰か、あるいは何かを待っているかのように立っていた。私は忍耐力を失い、彼女を強引に建物から連れ出し、腕を掴んで、歩き続けた。私は彼女を引っ張るようにして連れて行かねばならなかった。
通りの反対側が見えないほど雪が激しく降っていた。荒涼とした、真っ白な、死のような、北極の光景だった。極寒の風がおびただしい雪を巻き上げ、羽のように、私たちの傍を通っていった。歩くのが困難になり、吹雪のため、雪が容赦なく顔にぶつかった。あらゆる方向から雪はぶつかってきて、私たちの周りで、狂ったように螺旋の輪を描いた。。全てのものが靄で包まれ、ぼんやりとして、あいまいだった。人の姿は見られなかった。突然6人の警察が、吹雪の中から馬に乗って現れたが、ひづめの音もくつわの音も聞こえなかった。
「助けて!」
彼らを見て、少女は叫んだ。彼女は彼らが助けて、自由にしてくるだろうと思って、懇願するように、自由な方の手を振った。私は彼女をしっかりと掴み、ぴったりと体を寄せていた。警察たちは笑いながら通りすぎるとき、私たちに向かって口笛を吹き、ふきつける白い風の中に消えていった。彼女は泣き出した。
ベルが鳴っているのが聞こえた。その音はゆっくりと近づいてきた。年老いた司祭が曲がり角をのろのろ歩いていた。黒い僧侶の帽子を被り、体を二つに折り曲げて、風に向かって歩いていた。集団を引き連れていた。ベルは校庭から子供たちを呼び寄せるためのものと同じだった。彼は歩きながら、それを弱々しく鳴らし続けていた。腕が疲れると、しばらくベルの音は止んだが、震え声で叫んだ。
「壊滅!」
彼の後ろから何人かの人が続いて叫び、葬送歌のように繰り返した。ドアのところへ来ると、通り過ぎる前に、1、2分たたずみ、ドアをどんどん叩いた。いくつかの家から、何人かの人々が集団に加わるために、這い出してきた。私は彼らがどこへ行こうとしているのか不思議に思った。彼らが遠くへ行けるとは思えなかった。彼らは皆年老いており、弱々しくよぼよぼだった。若くて体力のある者たちは、彼らを残してはるか先の方に行ってしまっていた。彼ら行列を作ってよろめきながら、弱々しくよたよた歩いて進んだ。彼らの動作はばらばらで、彼らの皺の被い顔は吹雪のため赤らんでいた。
今では、少女は深い雪の中でよろめいていた。私も息ができないほどだったけれど、彼女を半ば運ぶようにして連れていかなければならなかった。雪の冷たさのために、ほとんど息ができなかくて、息をするためには立ち止まらなければならなかった。吐く息は凍りつき、襟のところで氷柱となった。鼻の粘膜が凍りつき、鼻は氷で詰まった。口いっぱいに極寒の空気を吸うたびに、咳き込み、喘いだ。港に着くには数時間かかると思われた。ボートを見え出すと、彼女は再び弱々しくもがき始め、叫んだ。
「私は行かない……」
私は彼女をボートに押し込み、彼女に続いて乗り込んだ。オールを掴み、ぐいと押して、全力を振り絞ってこぎ始めた。
背後から人々の悲鳴が聞こえたが、私は無視した。彼女のことだけを考えていた。水路はかなり狭かった。両側は凍りついており、氷の壁を作っていた。異常な大声やものが壊れる音や銃音や雷鳴のような音が、分厚い氷に覆われた港から聞こえてきた。顔はひりひりし、手は真っ青になり、寒さのために凍傷になっていたが、船に向かってこぎ続けた。ブリザードで舞い上がる雪の中を通って、舞い上がる飛沫の中を通って、音の反響する氷の中を通って、金切り声やぶつかって壊れる音や血の流れるところを通って、ひたすら船に向かって進んだ。私たちの近くで小さなボートが沈んだ。半狂乱になってもがく手足が水を打つたびに、水面が大きく波打った。溺れる指で、船の側面を引っ掻いたが、私は彼らを追い払った。恋人同士が浮かんでいた。凍える腕でしっかりと抱き合い、浮き沈みしながら水の中を必死に泳いで通り過ぎて行った。突然ボートが激しく傾いた。私はよろめき、連発銃がはずれた。何が起こったのかは分かっていた。私の背後で、人が船の側面を登ってきたのだった。私は撃った。彼は水の中に沈んでいき、水面が赤く染まった。船の側面が私たちの頭上に絶壁のようにぼんやりと姿を現した。
非常な努力をして、なんとか、私は少女を木の階段に押し上げた。彼女の後から私は階段を昇っていき、彼女をデッキに押し上げた。私たちは乗船することが許された。他には誰も許可されなかった。船は直ちに出港した。成功した。
私たちは船から船へと移って旅をした。彼女は厳しい寒さに耐えられなかった。彼女は震え続けていて、ベネチアンガラスのように粉々になるかと思われた。バラバラになるのが想像された。彼女は一層やせ細り、一層青白く、一層透き通るようになり、さながら幽霊のようだった。私は興味深く彼女を見つめた。彼女は必要な時以外には全く動かなくなった。彼女の手足はあまりに脆いので、使いものにならないように思われた。季節は移り変わるのを止めた。永遠の冬がやってきた。氷の絶壁が輪郭の不確かな姿を現し、雷鳴が鳴り響いた。それは、時の静止した、輝く、この世のものとも思えない、氷の悪夢だった。日中の陽光は氷山で反射されて、身の毛のよだつような輝きを放っていた。蜃気楼を見ているかのようだった。片腕で、彼女を暖め、支えた。もう一方の手は処刑者の手だった。
寒さがほんの少し和らいだ。私たちは岸に上がって、別の船を待った。その国は戦争中で、町は甚大な被害を受けていた。使える施設はなかった。ホテルが一つだけ再建されていて、まだ一階だけが使用できるようになっているだけで、部屋は満室だった。私は、宿泊するために、頼み込むことも、賄賂を使うこともできなかった。旅行者は嫌われており、望みはなかったが、そういった状況では仕方のないことだった。町のはずれに作られた外人用の一種のセンターに滞在することができると教えられたので、破滅した郊外を通り抜けて、車で、そこへ向かった。景色からは、木々や庭などのの跡はまったく消えてしまっていて、全てが平らになっていた。立っているものは何もなかった。その向うはかつては戦場だったが、今では荒野になっていて、残骸に覆われていた。
かつては農場だった場所に、私たちは連れて行かれた。見渡すところが名状し難いほどごちゃごちゃしていた。運搬車やトラクターや乗用車や機械の壊れた破片があたりに放置されていて、古タイヤやわけの分からない器具や粉々に壊れた武器や戦争のための使用品の残骸が散らばっていた。私たちを連れてきた人は用心深く歩き、爆発していない地雷に気をつけるようにと言った。建物の内部も、あらゆる残骸の破片で散らかっていて、原型を想像することが不可能なくらい潰されていた。彼らは私たちをある部屋に連れて行ったが、そこは、床が地面であり、家具は何もなく、壁には穴が空いていて、屋根には板が張られているだけだった。人が3人いて、地面に座り、壁にもたれていた。彼らは黙ったまま、動かず、ほとんど生気がなかった。彼らに話しかけても気にすらしなかった。後になって、彼らは耳が聞こえないのを知った。彼らの鼓膜は破れていたのだった。この国ではいたるところにそのような人々がいた。命を奪うほどの烈風によって、彼らの顔は歪み、唇は裂けていた。重病人が薄い毛布を被って横になっていたが、髪の毛の大きな房が抜け落ち、手と顔の皮膚が剥がれていた。咳き込む度に、櫛の歯が抜けたように歯の抜けた口をがたがた言わせて、どす黒い血の塊を吐き出した。彼は咳き込み、うめき、血反吐を吐き続けた。衰弱した猫たちが出たり入ったりして、うろつき、小さなピンクの舌で血を舐めた。
私たちは船が来るまでここに泊まらねばならなかった。私は何か集中できるものを探した。外にも内にも何もなかった。野原も、家も、道路にも、何もなかった。ただ巨大な石と残骸と死んだ動物の骨があるばかりだった。あらゆる形をした、あらゆる大きさの石が、あらゆるところに転がり、地面は2、3フィートの下に埋まっていた。石が丘の上を被い、大きな山のようになっているところもあった。私は何とか馬を一頭手に入れて、島の奥10マイルほどの所へ行ってみた。しかし、恐ろしく何もない景色が広がっているばかりだった。あらゆる方向に、石のような残骸が、広い範囲に広がっていた。生命や水が存在する徴候は見られなかった。国全体が生命のない灰色の石で出来ているかのようだった。丘はすべて石で埋まっていた。自然の外形さえもが、戦争によって破壊されていたのだった。
少女は旅行で疲れ果ててしまい、消耗しきっていた。彼女は旅行を続けることを欲しなかった。彼女は休ませて欲しいといい続けていて、私に、彼女を残して、ひとりで旅を続けてくれるようにと頼み続けた。
「これ以上私を引っ張りまわさないでちょうだい!」
彼女の声は怒りに震えていた。
「あなたは私を苦しめるためにだけ旅をしているのよ」
私は、あなたを救おうとしているのだと返事した。彼女の眼には怒りが顕になった。
「あなたがそういうから。私は馬鹿だから、初めはそれを信じたわ」
私は彼女を喜ばせるために、あらゆる手を尽くしたにもかかわらず、彼女は私を裏切り者とみなすことをやめなかった。これまで、私は彼女を慰めたり、理解しようとしたことはなかった。今では、彼女の長い間持ち続けた敵意のために、私はかなり疲労していた。私は彼女に続いて小さな船室に入って行った。彼女は努力したが、彼女の占める余地はなかった。小船は揺れ、彼女は寝台から落ちた。彼女は肩を床に打ちつけ、柔らかい皮膚は裂けた。彼女は叫んだ。
「けだもの! あなたはけだものよ! あなたを憎むわ!」
私を打とうとして、もがいた。私は彼女を下に押さえつけて、硬くて冷たいところに押しとどめた。彼女は叫んだ。
「殺してやる!」
すすり泣き、ヒステリックにもがき始めた。私は彼女の頬を平手でぴしゃりと叩いた。
彼女は私を恐れていたが、彼女の敵意は変わらなかった。彼女の白い、強情な、怯えた、子供のような顔をみると、私はいらついた。気候は、少しずつ暖かくなっていたけれども、彼女はまだ寒がっていた。彼女は私のコートを着るのを拒んだ。そのため、私はいつも彼女が震えているのを見る羽目になった。
彼女は衰弱していった。肉が溶けて、骨が現れるのではないかと思われるほどだった。髪は輝きを失い、髪さえも彼女には重たくなりすぎ、彼女は頭を垂れるようになった。彼女は俯いて、私を見ようとはしなかった。元気なく、隅っこに隠れて、私を避けていた。船の中をよろめくようにうろつき、躓いた。彼女の弱い脚では、バランスが取れないのだった。私はもはや欲望を感じなかった。彼女に話しかけるのを諦めた。総督の沈黙を真似た。話しかけないことが、どれほど悪意に満ちたことであるのかは、分かっていたが、それしか私の選択がないように思われた。私はそこからいくらかの満足を引き出していた。
私たちの旅は終わろうとしていた。
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第11章
陽気で破壊を受けていない町。光で眩く、色彩豊かで、自由で、危険がなく、暖かい陽差しに満ちた町。人々の顔は幸福で輝いていた。逃亡は成功し、満足感で一杯だった。過去は忘れられた。長く、困難な、危険に満ちた航海と、それに先立つ悪夢は、記憶から消えた。それが続いている間は、悪夢だけが現実であるような気がしていて、それ以外の世界は失われて、それこそが幻想か夢であるかのような気がしていた。世界は、いまや回復されて、ここに、確かな現実として存在した。劇場があり、映画館があった。レストランがあり、ホテルがあった。あらゆる商品が揃った店があり、自由に買えた。クーポンは必要なかった。その対照は驚異的だった。この変化に圧倒された。ギャップは大きすぎた。一種の興奮状態が生じ、気狂いみたいに陽気になった。人々は通りで歌ったり踊ったりして、見知らぬ人たちがお互いに抱き合っていた。町全体が、祭典が来たかのように飾られた。いたるところに花があり、東洋のちょうちんや豆電球が木につるされた。建物には煌煌と明かりがつき、公園や庭には、色とりどりの明かりがきれいに飾られていた。ダンス音楽のリズムが途絶えることなく鳴っていた。毎夜、花火大会が催され、夜通し、星型の花火やロケット花火が夜空に打ち上げられ、暗い港を照らしながら海に落ちていった。お祭り気分が続いた。お祭り、花合戦、球技、ボートレース、コンサート、行進などが連日催された。誰も他の国で起こったことを忘れたがった。外部からやって来る噂は、法律と秩序を維持する責任ある人以外には、領事の命令によって秘密にされた。 現状維持が最重要課題だった。破局の話をすることは、新しい規則では罪になった。規則は人々に知らせないという選択をしたのだった。
後になって私がどのようにして過去を忘れたがっていたかを振り返ってみると、盲目的な幸福状態が強制的に作り出されていたのが分かった。私は大多数の人々が喜んだ催しに参加しなかった。私は陽気にはなれなかった。私はダンスをしたり、花火を見学したりして時を過ごしたいとは思わなかった。まもなく、遊んでいる一団やきらびやかなドレスを身にまとっている人たちを見るのが嫌になった。少女は陽気なことはなんでも愛した。彼女は変わってしまった。彼女の生活は奇跡といってよいほど全く新しくなった。彼女からは、弱々しさや頼りのなさが消え去り、彼女は店に走っていって、衣服や化粧品を買いまくり、美容院へ行ったりした。彼女は全く別人になった。もはや内気ではなくなり、私の知らない多くの人たちと友達になり、彼らが彼女の周りに集まってくるので自信をもち、一人で色々なことをし、朗らかになった。私は彼女のかつての面影をほとんど見ることはなかった。彼女は私の処へ、ただお金をせびりにだけやって来たが、私はいつも彼女の要求に応じた。私はそれが不満だった。それが終わることを願っていた。
私は世界の他の場所で起きていることに無関心でいることはできなかった。私はこの星の運命に巻き込まれていた。私は起こっているどんな事件にも積極的に関心を持ち、積極的に行動した。ここでの終わりのない祝祭にはうんざりし、何か不吉な予感さえした。それは、ペスト流行の始まりを思い出させた。その当時と同様、今では、人々は自分自身を欺いていた。わがままで身勝手な考えによって、安全だと思いこんでいたのだった。彼らが実際に災厄からの逃亡に成功するとは信じられなかった。
私は気候を注意深く観察した。晴れて、暖かい日が続いたが、暖かさは十分ではなかった。特に、日没後の気候の変化に注目すると、日没後には寒さが増した。それは悪い徴候だった。そのことを話すと、寒い季節に向かっているからだと聞かされた。同様に、日差しはもっと強くなければならないはずだった。辺りを観察して見ると、他にも気候の異常な変化の兆しを見つけた。熱帯庭園の植物が病気になり始めたので、そこで働いている人に理由を尋ねた。彼は疑惑の眼差しで私を眺め、いい加減な答えを呟いた。なおもしつこく質問すると、上司に聞くために呼びにいく振りをして、逃げて行った。私は、変わったもので身を包んで歩いている町の人たちに、私が観察した夕方の冷え込みについて話した。彼らはこの穏和な寒さに対しても慣れてはいずに、適当な衣服を持ち合わせていなかったのだった。彼らは返答に困り、驚いて私を見た。彼らは私を新体制における囮と考えたらしかった。
私の知識は、政府によって公式に採用されて、飛行機の給油は取りやめることになった。私は政府の代表に会って、他に何か変わったことが起こっていないかと質問した。彼は話そうとはしなかった。私には理由が分かったので、無理強いはしなかった。彼は私の身元を確認できなかったからであった。誤りは避けねばならなかった。絶対的な信頼が必要だった。軽率な発言は避けなければならなかった。いったん誤解が生じれば訂正は不可能だった。ともかく不承不承ではあるが、彼は彼が群島のいずれかの島にいく時には、私を同乗させると約束してくれた。私は地図を見てみると、インドリが住んでいる島はここから遠くはなかった。私は元の職業に戻ろうと思っていたけれども、軍事活動の現場に行く前に、キツネザルのいる島へ小旅行を企てようと決心した。
私は少女に計画を知らせに行った。早朝、通りの交差点で、行進が通り過ぎていくのを待っていた。彼女は行進の先頭にいた。彼女は先頭を走るニオイスミレで飾られた大きなオープンカーの運転手の傍に立っていたのだった。彼女は私の方を見なかった。見る理由もなかった。彼女の髪は陽射しで青白い炎のように輝いていた。彼女は微笑み、スミレを群集にばら撒いていた。彼女が私と一緒に旅をした少女であるとは信じられなかった。私が彼女の部屋に入って行ったとき、彼女はまだスミレで飾られたドレスを着ていた。繊細な色彩のドレスは彼女の壊れそうな青白い姿に似合っていた。彼女は非常に魅力的な姿をしていた。銀とスミレに飾られた彼女の髪は輝きを放っていて、色合いに調和が取れていて、ほっそりした幻想的な雰囲気が特に魅力的だった。
後で開けるようにと言って、彼女に、欲しがっていたブレスレットの入った小さな包みをプレゼントした。
「私はあなたによい知らせを持ってきました。私はさようならを言いに来ました」
彼女はまごついて、それがどういう意味かを尋ねた。
「私は今晩出発するつもりです。飛行機で。嬉しくありませんか?」
彼女はただ黙って見つめていたので、私は続けた。
「あなたはいつも私がいなくなればよいと言っていたでしょう。私はとうとう行ってしまうので、あなたは嬉しいに違いない」
一瞬の間のあとで、彼女の声は冷ややかで、腹を立てていた。
「あなたは私になんて言って欲しいの?」
私は彼女の言い草に困惑した。彼女は私を冷ややかに眺め続け、突然、痛烈に言った。
「あなたは自分がどんな人間だと思っているの?」
皮肉な調子だった。
「なぜ私があなたを信用しないか、分かったでしょう。あなたはいつも私を裏切るのが分かっていたから。今度もまた……行ってちょうだい。私を残して。前にもそうしたように」
私は抗議した。
「それはまったくフェアじゃない。私が行くからといって非難するのは間違っている。あなたがそう言ったのだ。あなたが私と一緒にいようとしないのははっきりしている。ここに来てから、私はほとんどあなたに会っていない」
「あー!」
嫌悪の叫び声を上げて、彼女は私に背を剥けて、数歩離れた。
スカート全体が渦を描き、月光がスミレの花を照らしたように、絹がちらちら光り、嵩のある髪が揺れ、スミレの花に光が当たったようにきらめいた。私は追いかけていき、指先で髪に触れると、命がさざなみをうっていた。彼女の腕は柔らかく、つややかで、光沢があった。肌は滑らかで、かすかな香がした。ほっそりした手首にはスミレが輪を作っていた。私は背後から彼女を抱き、首筋にキスをした。否や、彼女の全身は硬直して、激しく抵抗し、彼女は体を捻って逃げた。
「私に障らないで! どんな神経しているの……」
彼女の声は泣きだしそうになりながら泣かずに、かすかな声で言った。
「あなたは一体何を望んでいるの? なぜ行かないの? 今度は戻ってこないで。二度とあなたに会いたくない。思い出すのもいや!」
彼女は私が贈った時計と指輪をはずして、私の方へ投げつけた。ネックレスを外そうとして手を首の後に回そうとして腕を上げた姿は、現実には存在し得ないようななまめかしさがあった。彼女を再び抱きしめたいという欲望を努力して抑え、哀願した。
「怒らないで。このような別れ方をしたくない。いつも私はあなたにどんな感情を持っていたのか分かって欲しい。どんなに苦労して、私はいつもあなたの後を追いかけていたか。また、どんなに苦労して、あなたを強制的に連れてきたのか、あなたは知っている。しかし、あなたはいつも私を憎いと言っていた。私と一緒にいたくないと言っていた。結局、私はそれを信じるほかなくなった」
私は半ばしか真実に言わなかったが、それは分かっていた。私は遠慮がちに彼女の手を取った。手は硬く無反応だったが、引っ込めようとはしなかった。彼女は私にされるがままになりながら、私をじっと見つめた。疑惑や非難や責めの表情が彼女の眼にあった……。真剣な、無垢な、陰りのある眼をしていた。きらめく髪とスミレの香が私の手のすぐ近くにあった。威厳のある声で、彼女は言った。
「もし私がそのようなことを言わなかったら、あなたは私と一緒に留まってくれましたか?」
この時、残りの真実を話さなければならないと私は思った。しかし、私には何が真実であるのか分からなかった。ただ確かなことは次の言葉だけのように思われた。
「分からない」
彼女は怒りを爆発させて、私から手を引き離した。もう一方の手でネックレスを引きちぎると、ビーズが床に飛び散った。
「あなたはどうしてそんなに薄情になれるのですか? そしてそんなに厚かましく! 誰もあなたほど恥ずべき人はいない……。だけど、あなたは……あなたは感情を持っているふりさえさえしない……恐ろしすぎる、憎たらしい……人間とは思えない!」
私は謝った。彼女を傷つけたくはなかった。私は彼女の憤怒が、理解できなかった。私は何も言うことができないように思われた。しかし、私の沈黙がさらに彼女を怒らせた。
「向うへ行って! 出て行って! 行って!」
彼女は突然私に襲いかかり、予期しない力で私を押した。私は後ろによろめいて、肘をドアにぶつけ、痛みが走った。いらだって、私は尋ねた。
「なぜそんなに私に部屋から出て行って欲しいのです? 誰か他の人が来るんですか? あなたが乗っていたオープンカーの持主が?」
「なにを言うの。あなたなんか嫌い。軽蔑するわ! 何を知っているの!」
彼女は私をまた押した。
「出ていって、なぜ出て行かないの? 行って、行って、行って!」
彼女は大きく息を吸い込み、私を突いた。私の胸をこぶしで連打した。彼女はあまりに力を入れすぎたので、疲れてしまい、直ぐにあきらめて、壁にもたれかかり、頭を垂れた。彼女の陰になった顔には、傷つけられた感情が現れたが、直ぐに輝く髪が垂れ下がり、顔を隠した。一時の静寂が訪れた。しかし、それは、冷ややかな感情が私に戻ってくるのには十分すぎる長さだった。彼女のいない人生の虚しさ、失望……
不愉快な感情を追い払うためには、行動しなければならなかった。私はドアのノブに手をかけて、言った。
「分かりました。今、出て行きます」
この瞬間でも、半ば引き止められることを期待していた。彼女は動かなかったし、口もきかなかった。何の兆候もなかった。ただ、私がドアを開けた時、かすかな音が彼女の喉からもれた。すするような、むせるような、咳き込むような音が聞こえたが、そのいずれかは分からなかった。私は通りへ出た。ドアを閉めて足早に去って、私の部屋に戻った。
まだ時間は少し残されていた。スコッチの瓶をとってきて、座って飲んだ。私は自分自身が2つに分裂したかのように不安な気持ちになった。鞄はすでに荷造りされ、階下に運んであった。数分後には、行かなければならないだろう……。私が計画を変更しない限りは。結局ここに留まることになるだろう……。私はさようならを言っていないのを思い出した。戻るべきかどうか決心がつかなかった。いかなければならない時間がきてもなお、決心がつかなかった。
飛行場へ行くためには彼女の家の前を通らなければならなかった。私は彼女の家の前で数分間躊躇した。それから彼飛行場へ急いだ。もちろん、私は出発した。狂人のみが、出発するこのほとんど奇跡的なチャンスを無駄にすることが出来ただろう。私にはそれ以外の選択肢はなかった。
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第12章
飛行機の中でニュースを聞いて、私は、予想した最悪の事態が起こったことを確信した。世界はいまや最終局面に入っているように思われた。私自身の故国も含めて、多くの国々が消滅した。そのため、残った大国は軍国主義となるのを誰も止めることが出来なかった。小国は分割され、大国の属国になった。2つの大国の指導者は、相手を死滅させるに十分な殺傷力の何倍もの核兵器を所有した。そのため、恐怖のバランスが表面上保たれた。しかし、小国の中にも熱核反応の兵器を所有している国があるということだったが、所有しているのがどの国かは分からなかった。この不確かさのために、緊張が高まり、危機が増大し、最終的な破壊がより早まるように思われた。さらに、死や破壊を求める気違いじみた衝動が群衆の間に発生し、これが人類の滅亡への2番目の可能性になりかねなかった。最初の可能性がまだ起こっていなかったけれども。私は心のそこから落胆し、何か恐ろしいことが起こるのを、一種の大量殺戮が起こるのを、私たちはただ待っているだけのような気がしていた。
私は自然界を観察してみた。すると、自然界は、迫り来る運命から逃れようとすることは虚しい試みであるという私の思いを共有していると思われた。海は荒れて、波は水平線の方に向かって無秩序に広がっており、海鳥やイルカやトビウオは狂ったように空中を飛び跳ねていた。島はざわめき、透明になり、水蒸気のように海面から上昇して、空中に消えていこうとしているかのようだった。しかし、逃亡は不可能だった。防御を持たぬ大地は破局がやってくるのをただ待っているだけであった。氷の到来による破局か、あるいは爆発が連鎖的に起こり、空を星雲のように被い、全てのものが木っ端微塵になる破局か、そのいずれであるかは分からなかったけれども。
私は、インドリを探しに、ただ一人で森を抜けて行った。その魔術的な力が、私たちを襲う死の圧力を少しは軽くしてくれるかも知れないと思った。私はインドリを実際に見たのか、それとも夢で見たのかは分からなかったが、どちらでも良かった。その日は暑くてむしむししており、太陽の狂ったように強い光が赤道上に位置する全てのものの上に降り注いでいた。頭痛がひどくなり、体力を消耗しつくした。私は、もはや太陽の燃えるような暑さに耐えられなかった。木陰で横になり眼をつぶった。
突然キツネザルが近くにいる気配を感じた。あるいは、それらが近くにいるために、絶望や不安の感覚が私から消えたのだろうか? 私は、別の世界からの希望のメッセージを受け取ったような気持ちになった。その世界では、暴力や残忍さは存在しない、絶望とは無縁な世界だった。私は何度そのような場所を夢見たことだったろうか。そこでの生活は地球上の生活の何千倍も感動的で価値あるものだった。今では、そこで生活している生きものが私の傍にいるような気がした。それは私に微笑みかけ、私の手に触れ、私の名前を呼んだ。その顔は穏やかで、公明正大で、時を越えて知的で、善意に満ちて、誠実な表情をしていた。
その生きものは時空間という存在が幻想であることや過去と未来が融合し、すべてが現在になるということを話してくれた。そのため、私たちは全ての時代を往来することが出来る。その生きものは、私が望むならば、私をその世界へ連れていこうと言ってくれた。そこに住んでいる生きものは、地球の終末を、すなわち、人類の終末を既に知っていた。人類は死に瀕していた。民衆の中には死の願望が広がっていた。自己破壊へ向かう致命的な衝動が人々の中に広がっていた。しかし、生命が生き残る可能性はあった。地球上での生命は終わりを告げた。しかし、生命は異なった場所に移って生きつづけることができた。私たちがそれを選択しさえすれば、私たちはより偉大な生命の一部となって生き続けるのだった。
私は理解しようと努力した。その生きものは、ある意味で人間だった。いや、人間以上の存在だった。その生きものは、私とは本質的に異なった存在だった。その生きものは、究極の真理である優れた知識を所有していた。その生きものは、その世界だけに存在する自由を私に経験させてくれた。それは私の最奥の自我が切望しているものだった。私は想像すらしたこともなかった経験に興奮した。人間が破滅し、死滅する運命にある世界から、別の、新しい、永遠に生き続ける、無限の能力を持つ世界を垣間見た気がした。ほんのしばらくの間であるけれども、そのすばらしい世界で、より高度なレベルの存在となっていき続けることが出来ると信じた。しかし、私は少女のことや総督のことや地球を覆いつつある氷や戦争や殺戮について考えると、その世界は私の能力をはるか超えたところであるのが分かった。私はこの世界の一部であり、地球上の出来事や人々にどうしようもなく巻き込まれているのだった。私の心の最も奥深いところで欲していることをあきらめることは、心が張り裂けるような思いだった。しかし、私のいるところはこの場所であり、死の宣告を受けた世界であるということを、私は知っていた。しかも、ここに留まって、終末を見届けるようになるであろうことも分かっていた。
これが白昼夢であろうと、幻覚であろうと、あるいは、実際に起こったことであろうと、いずれであっても、それは今後の私に強い影響を与えた。私はそれを忘れることができなかった。最高の知性と夢みるような高潔な風貌を忘れることが出来なかった。私は虚しさと喪失の思いの中に取り残された。私は貴重な何かを理解したかのように思えた。しかし、私はそれを頭から振り払った。
私が現在行っていることは重要であるとは思わなかった。私は暴力に加担していたし、自分のやり方を変えることは出来なかった。私は何とか島の中心部へと辿り着いた。そこではゲリラ戦が行われていた。彼らは、西洋の貨幣で支払われる報酬のために参加しており、あらゆることに無関心だった。われわれは、沼地の、潮の満ち引きする川のデルタ地帯で数ヶ月戦った。いつもほとんど、腿の辺りまで泥に埋まっていて、敵に撃たれて死ぬよりも多くの人が、泥の中で死んでいった。結局、われわれは退却した。敵と戦うよりも氷と戦っているようなものだった。氷は確実に近づいてきていたし、死の沈黙で世界を被いつつあった。それは恐るべき真っ白な死滅した平和の光景だった。われわれは、戦争をしていることによって、生きることの証しを求めていたのであったし、地表を這うように迫ってくる氷の死と戦っているような気になっていたのだった。
私は何か恐るべきことが起こるの前の、奇妙な一時休止の状態に入っているような気がしていた。感情障害が起こっていた。私は私の中に私とは別の人間がいるような感じをしていた。食物を求めて起こす暴動を鎮圧するために、われわれは、機関銃で暴動者と無害な歩行者を無差別に撃ち殺した。私はそれについて特別な感情を持たなかったし、他の人たちに無関心だった。人びとは見物人のように傍観していて、負傷者を看護さえしなかった。私は、しばらくの間、同僚5人と眠るためのテントを共有しなければならなかった。彼らは想像を絶するほどの勇気を持っており、命を危険に晒すという考えや死ぬという考えを持ち合わせていないとさえ思えるほどだった。彼らは肉とジャガイモからなる暖かい食事に毎日ありつけさえすれば、満足していた。私は彼らと話することは出来なかった。オーバーコートを衝立のようにつるし、その背後で眠らずに横になっていた。
私は総督がまた何かアナウンスし始めたのを聞いた。彼は西の方角の本部にいて、重要なポストについていた。私は彼が大きな権力を持つ国と協力したがっていたことを思い出し、彼が希望を成就した事を賛嘆した。しかし、彼の事を考えると不安になった。私の最後の日々を雇用兵として過ごしているのは馬鹿げているように思われた。私は彼にもっと希望のもてる仕事を世話してくれるように頼みに行こうと思った。問題は彼にどうしたら近づくことができるかだった。われわれの上司は、もっと高い識見のある人に直接接触できる唯一の人だったが、彼は私の頼みを断った。彼は自分の昇進しか関心がなかった。数日間、われわれは、強力な防御体制を持つ建物を攻撃していた。そこには秘密文書があるという噂だった。彼は応援を求めずに、助力なしでその場所を占領して、信頼を勝ち得ようと目論んでいた。私は、ちょっとした策を弄して、彼が建物を占領できるようにし、文書を本部に送れるようにした。そのために、彼は私を非常に賞賛した。
私の才能に感心して、彼は私を飲みに誘い、昇進を約束してくれた。翌日、彼は私のために個人的報告書を書くつもりだと言った。私は昇進よりも、本部へ連れて行ってくれる方が言い、と言った。彼は私を連れて行く余地がないと言った。私は彼に酒をおごり、彼は半ば酔っ払っていたので、わざと、彼が酔いつぶれるまで飲ませた。朝になって、彼が出発しようとした時、連れて行ってくれるのを彼が約束した振りをして、私は彼の車に飛び乗った。前日の夜は酔いつぶれていたので、彼が言ったことを忘れているだろうと期待してのことだった。それは卑劣な瞬間だった。彼ははっきりと疑っていた。しかし、彼は私を車から放り出すことはしなかった。私は彼と一緒に本部へとドライブしたが、私たちのどちらも、道中一言も喋らなかった。
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第13章
本部は戦場から遠く離れたところに建てられていた。それは、大きくてきれいな新築の建物で、大きくてきれいな旗がはためいていた。石とコンクリートで出来ており、屋根の低い、古びて、壊れそうな木造の家々の間にあって、頑丈で、嵩高く、高価で、破壊不能な外見をしていた。正門の歩哨兵を別にすると、戦争を連想させるものは何もなかった。他に護衛兵はいなかった。内部では、安全性のための警備がなされているようにはまったく見えなかった。私は指揮官の酔っ払った時の言葉を思い出した。多分、彼らは戦争するには優しすぎる。最高の技術力を持っており、また国が大きくて、豊かなために、彼らは現実に戦うことで自らの手を汚す必要がないと思っている。そのためにはより劣った人々を雇えばいいのだから。
私は真っ直ぐに総督の部屋に向かった。その場所は空調が聞いていた。エレベーターは揺れもなく、音もしないで、速いスピードで上がっていった。分厚い絨毯が広い廊下の端から端まで敷かれていた。私が住んでいるむさくるしく居心地の悪いところと比べると、ここは贅沢なホテルのようだった。外ではまだ太陽が輝いていたにもかかわらず、明かりがつけられ、部屋全体は隅々まで照らし出されていた。窓は密閉されていて、開かなかった。そのため少しばかり現実とは思えない雰囲気を醸し出していた。
制服を着た女性の秘書が、総督は人に会うことが出来ないと告げた。彼は査察の旅行に出ようとしており、数日は帰ってこないとのことだった。私は言った。
「彼が出かける前に、お会いしなければなりません。緊急の用件です。特別に、はるばるやって来たのです。一分もかかりません」
彼女は口をすぼめて、首を振った。
「絶対に駄目です。彼は重要書類にサインをしているところですし、誰も部屋に入れないように言われています」
彼女の整った顔は頑固で、事情を理解しない様子だった。それは私を悩ました。
「ちくしょう! 私は彼に会わなければならない! これは個人的な問題です。分かりませんか?」
私は彼女をゆすぶり、人間としての感情を顔に出させたかったが、そうする代わりに、声を低くして言った。
「少なくとも、彼に私が来たと伝えてください。彼が私に会うかどうか尋ねてください」
私が、ポケットの中を探して身分証明書取り出し、メモ用紙に名前を書いているとき、陸軍大佐が出て来た。秘書はそちらへ行って、彼にささやいた。話が終ると、彼は彼自身がメッセージを伝えようと言い、名前を書いた紙をとって、今出てきたのと同じドアを通って、部屋に入って行った。彼が総督にメッセージを伝える気はないのが分かっていた。行動をためらったら、彼に会えないだろう。直ぐに行動しないと間に合わない。
「あのドアはどこに通じていますか?」
秘書に部屋のもう一方の端にあるドアを指差して聞いた。
「ああ、それは個人用のドアです。そこへ入ることできません。それは禁じられています」
彼女は冷静沈着さを失い、どぎまぎし出した。彼女はまっすぐに問いただしてくる人に対してどのように対応しら良いのかが分からなかった。そのような訓練は受けていなかったのだった。私は言った。
「じゃ、私はそこから入ります」ドアの方に近づいた。
「駄目です!」
彼女はドアの前に跳んできて立ち、私の通路の邪魔をした。彼女の国は力の論理で物事を解決することができると信じていたので、国民は、それがどんなに小さなことであっても、人が実際とは反対のことをするということに慣れていなかった。私は微笑して、彼女を脇へ押しやった。彼女は私の衣服を掴んで引っ張り戻そうとした。ちょっとした小競り合いが起こった。私は、ドアの直ぐ向うから聞き覚えのある声を聞いた。
「そこで何をしている?」
私は中へ入って行った。
「おう! あなたか?」
彼は特に驚いているようには思えなかった。秘書は入口ではや口で弁明し、誤っていた。彼は彼女に向うへ行くように手を振った。ドアは閉められた。私は言った。
「お話があります」
豪華な部屋には、私たちだけだった。寄木細工の床にはペルシャ絨毯が敷き詰められ、時代物の家具が設置され、壁には有名な画家によって描かれた、彼自身の等身大の肖像画が飾られていた。私の着古した安っぽいアイロンのかかっていない制服とは対照的であり、彼の上品で、壮麗な姿が一層強調された。袖口と肩には金の記章が、胸元にはいろんな順位のリボンがつけられていた。彼は立ち上がった。彼がそんなに背が高いとは思わなかった。彼がいつも身につけている堂々たる態度は、私がこの前に会った時よりも一層目立つようになっていた。私は不安になった、私はいつものように彼に圧倒された。私たちの間に、それほどはっきりした違いがあったので、漠然としてはいるが、彼に接触するという考えは不適切であるようなきがして、困惑した。
「ここでは、あなたのやり方は通用しませんよ。私はちょうど出て行くところなんです」
と彼は冷ややかに言ったとき、私は戸惑い、ただ繰り返すことが出来ただけだった。
「私は先ずあなたに話さなければなりません」
「不可能です。もう遅すぎます」
彼は腕時計を一瞥して、ドアの方へ進んだ。
「ほんの少し待ってください!」
不安になって、急いで彼の前に出た。私はもっと良く彼の事を知っているべきだった。彼の眼はきらりと光り、表情は怒りに変わった。私はチャンスを投げ出してしまったのだった。私は自分の馬鹿さかげんを呪った。多分、彼は私の意気消沈した姿を面白がったのであろう。ともかく、彼の態度は突然変わった。彼は半ば微笑みながら言った。
「私はあなたと話をするために、戦争を止めるわけにはいかない。話したいことがあるなら、私と一緒に来なさい」
私は嬉しかった。
「いいんですか? 素晴らしい!」
私は大げさに感謝し、突然笑い出した。
彼が車で通り過ぎるとき、空港への道路は、彼を一目見ようと人で人垣ができていた。人々は道端に立ったり、庭や窓やバルコニーや木の上や板塀の上や電柱柱から覗いていた。長い間待っていた人々もいた。私は彼の民衆への直接の影響力の大きさに感心した。
飛行機の中で彼の傍に座っていると、他の同乗者の好奇の視線を感じた。空から下を見て、地球を眺めるのは不思議な感じだった。平でもなく、緩やかなカーブを描いていたわけでもないが、視界は球体の一部だった。海は明るいブルーで、大陸は黄緑色であった。頭上は、暗いブルーの夜であった。飲み物が持ってこられ、カチャカチャ音のするコップを手渡された。
「氷だ! なんと言う贅沢!」
彼は私のぼろぼろの制服を眺めて、しかめ面をした。
「英雄になりたいのなら、贅沢を諦めなければならない」
彼は私をからかい、魅力のある微笑を浮かべた。彼は私に親しみを感じ、興味を持ったらしかった。
「あなたは、なぜ突然、我々の英雄的戦闘者の一人になろうとしたのですか?」
私は仕事について話すべきなのは分かっていた、しかし、そうしないで、他の理由を説明した。私のうつ病を治すために、なにか劇的なことをしなければならなかったということを彼に話した。
「おかしな治療方法だ。あなたを殺した方がもっとよかったのに」
「多分、それが私が欲していたことだったのでしょう」
「いいや、あなたは自殺するタイプではない。とにかく、なぜ悩むのです? 翌週にでも、われわれ全部が殺されようとしているというのに?」
「すぐに?」
「文字通りではありません。しかし、確かに間もなくですよ」
彼の眼が瞬きしたので、私は彼が罠にかけているのだと分かった。明るいブルーの瞳が眩い青い光を反射したかのように、閃いた。それは、何か重要なことが言われていないというサインだった。もちろん、彼は秘密の情報を持っている。彼はいつも他の誰よりも先に情報を得ていたのだった。
豪華な食事が出された。それはあまりにも多すぎて、私は半分も食べることが出来なかった。私は豪華な食事をするのをやめた。しばらくして、私はやってきた目的を言おうとしたが、適切な文章を頭の中で組み立てることが出来なかった。私は彼について考えると、私が来たことにほとんど驚かなかったことに気づいた。
「あなたがやって来るだろうと思っていましたよ」
彼の表現は奇妙だった。
「あなたは、何ごとかが起こる直前にやって来る」
彼は全く真面目に話していた。
「あなたは一週間かそこらで、破局がやってくると思っているのですか?」
「そうだと思いますよ」
窓のブラインドは閉められ、空は見えなくなった。映画が上映された。彼は私の耳もとでささやいた。
「スクリーンに出てくる次のお知らせまで待ってください。そのとき、私はあなたにもっと興味深いことを教えましょう。それは秘密ですよ」
私は好奇心を持って待った。私たちは席を静かに立って、ドアを通り、ブラインドの開いている窓に向かった。私の中で時間が混乱した。頭上全体は夜だった。しかし、下ではまだ昼だった。雲はなかった。私は海に散らばる小島を眺めた。それは何の変哲もない空から見た光景だった。しかし、何か異常なものが世界に現れていた。虹を作りだしている氷の壁が、海から突き出し、空中を横切って水の分水嶺を上方へ押し上げていた。あたかも青く平たい海の表面が、巻き上げられた絨毯のようだった。それは不吉ではあるが、しかし、魅惑的な光景だった。それは見てはならぬもののように思われた。私はそれを見ていたが、同時に他のものも見ていた。氷は世界を被って、広がっていた。氷の山のような壁が少女を囲んでいた。月光のもとで、彼女の肌は月のように白く、髪はダイヤモンドのように輝いていた。死滅した月の眼が、世界の死を見つめていた。
私たちが飛行機を降りると、それははるか遠くの国だった。その町を私は知らなかった。総督は重要な会議に出席するためにやって来たのだった。人びとは、最重要課題として、彼が来るのを待っていた。彼が私を残して急いで行こうとしているようには思えなかったので、私は彼を賞賛した。彼は言った。
「あなたは辺りを観察するべきだ。ここは興味のある場所です」
その町は責任者が変わったばかりだった。軍隊が町を破壊しなかったのかどうか尋ねた。答えが返ってきた。
「我々の中には礼儀正しい人がいるのを忘れないでください」
立派な制服を着て、彼は私と一緒に、黒と金色をした制服を着た護衛兵に伴われて散歩した。私は彼と一緒にいることが誇らしかった。彼は美しい容姿をしていて、あらゆる方法で、自分自身を最高の状態に保つように努力していた。全ての筋肉はアスリートのように鍛えられていたし、彼の知性やセンスは思慮深く鋭かった。彼は非常な優越性を示していた。その上、肉体的にも非常に活気に満ちていた。溢れる生命力があった。彼の力と成功のオーラが当りを満たしているように思われた。それは私のところまで広がってきているような気がした。小さな滝を通り過ぎて、そこから小川が流れ出ている、ゆりの花が咲いている小池にやって来た。巨大な柳の木から緑色の葉のついた枝が水中にまで垂れていて、緑色の葉で作られた涼しい、魅力的な洞窟のような木陰を作っていた。私たちは石に腰掛けて、カワセミが放物線を描いて、宝石を散りばめたように飛んでいるのを眺めた。あちこちの浅瀬に、英雄の像が影を作って立っていた。それは、私的で、平和な、田園の風景だった。暴力とは、まったく無縁の世界だった。この平和な美しさを楽しむことが許されていない可哀そうな民衆のことを思ったが、口に出しては言わなかった。彼は私の心を見通したかのように、話した。
「決められた日にここは公開されていました。しかし、破壊されかる危険性があったので、公開は中止されました。軍隊が行わなかった破壊を、ならず者が行いました。彼らに芸術を鑑賞することを教えることは出来ない。彼らは人間ではありません」
川の遠くの反対側に、ガゼルのような生き物の集団が水を飲みにやって来て、優雅な角を持った頭を上げ下げしていた。護衛兵は遠くに立っていた。彼と一緒にいて、以前にもまして、彼に親近感を覚えた。私たちは兄弟のようだった。一卵性双生児のようだった。かつてよりも一層彼に引き寄せられたので、私の感情を言葉にした。どんなに彼の親切に感謝しているのか、どんなに彼が友達であることを名誉に思っているのかを、彼に伝えた。何かが間違った。彼は微笑まずに、私の賛辞に感謝もせずに、急に立ち上がった。私もまた立ち上がった。反対岸の動物達は私たちの動きに驚いて逃げ去った。辺りの雰囲気は変わった。それは突然冷ややかになった。ちょうど、暖かい空気が氷の上を通り過ぎたかのようだった。私はこの突然の変化に、理解し難い恐怖を覚えた。それはちょうど、悪夢の中で何かが崩壊する直前にやってくる感覚に似ていた。
彼が私の方を向いた瞬間、彼の眼はブルーに閃き、危険を感じさせた。
「彼女はどこにいます?」
彼の言葉は厳しく、ぶっきらぼうで、冷ややかだった。それは、彼は拳銃を取り出して、私に狙いをつけたかのようだった。私は恐ろしくなった。彼の感情が、ある感情からまったく別の感情へと突然変化して、混乱して、私はただ愚鈍にも口ごもっただけだった。
「彼女はどこかへ去ったと思います」
彼は私に冷たい一瞥を与えた。
「あなたは知らないと?」
彼の鋭い調子は凍りついていた。私はぞっとして答えることは出来なかった。
護衛兵が近づいてきて、私たちを取り囲んだ。顔に陰を作り、表情を読み取られないようにするために、あるいは人を不安にさせるために、彼らは制服の一部としてひさしを被っていて、マスクのように顔の上部を被っていた。彼らは非常にタフで、暴漢や人殺しに鉄拳を下したが、彼らは主人への絶対的な忠誠のために裁かれることはない、ということを聞いたことがあるのを漠然と思い出した。
「それでは、あなたは彼女を見捨てたんだ」
ブルーの氷の矢が吹雪の中を飛んできたように、彼の視線は私を突き刺した。彼の眼はすぼめられ、私を射た。
「あなたがそんなことをするとは思わなかった」
彼の声に含まれる底知れない軽蔑に、私はたじろぎ、呟いた。
「ご存知のように、彼女はいつも私に敵意を持っていました。彼女は私を追い出したのです」
「あなたは彼女の扱い方を分かっていない」
彼は冷ややかに言った。
「私は彼女を育て上げた。彼女には訓練が必要だった。彼女は人生においても、ベッドにおいても、タフであるように教えなければならない」
私は話をすることが出来ず、精神を集中することができなかった。私はショックから立ち直ることができないでいた。
「あなたは彼女についてどんな計画を持っていましたか」
と彼が聞いた時、私は何も言うことができなかった。彼の眼は始終激しい軽蔑とよそよそしさの表情を浮かべて私を見つめていた。それは私をあまりにも苦しくまた惨めにした。彼の眼のブルーの輝きのために、私は考えることができないように思われた。
「それでは、私が彼女を連れ戻しましょうか?」
この短い渇いた言葉の中に、彼は彼女の未来を自由にしようとする意志が読み取れた。そこに彼女の意志はなかった。
この瞬間、私は彼に以前にも増して興味を持った。私たちは同じ血を分けた兄弟であるかのように、彼とつながっているように感じた。私は彼から疎遠にされることが耐えられなかった。
「なぜあなたはそんなに怒っているのです?」
私は彼に一歩近づき、袖に触れようとした。しかし、彼は私から体を離した。
「それは彼女のためにだけですか?」
私はこれが信じられなかった。彼と私の間にある絆はそれほど強いはずであった。それに比べると、彼女は私にとって何でもなかった。現実においてさえ何でもなかった。彼女を私たちの間で共有することも出来た。私はその種のことを言ってもよかった。彼の顔は石の彫刻のようであった。彼の冷たい声は鋼も切断できるほど十分硬かった。彼は数千マイルも遠くにいるかと思われた。
「私に時間が出来ればすぐに、彼女を連れ戻しに行こう。そして、彼女を私のところに留めておこう。あなたは再び彼女に会うことはないでしょう」
絆はなかった。かつてもなかった。それがあったのは、私の想像の中でだけだった。彼は私の友達ではなかったし、かつても決して私に近い人ではなかった。私と彼が同じ種類の人間であるというのは、幻想以外の何ものでもなかった。彼は私を軽蔑すべきものとして扱った。私は自分を取り戻すためのかすかな企てとして、私は彼女を助けようと努力したと言った。彼は恐ろしく険しくブルーの眼で私を見つめた。私はほとんど彼の眼を見ることができなかった。彼の顔は石像のように、変化しなかった。私は勇気を奮い立たせて、彼の顔を見つめ続けた。ものを言うために、彼の口だけが動いた。
「それが可能なら、彼女は救われるだろう。しかし、それはあなたによってではない」
それから向きを変えて、金の肩章をつけた威厳のある制服を着た彼は、あたりをぶらついた。数歩歩くと立ち止まって、私に背を向けたまま煙草に火をつけ、私に一瞥もせずに、またぶらつき始めた。私は、彼が手を上げて、護衛兵に何かサインを送るのを見た。
マスクをつけた顔が無表情なまま、彼らは近づいてきた。私はゴム製の棍棒で突かれて、急所を蹴られた。私は頭から倒れ、座石の所で頭を打ち、気を失った。これは私にとって幸運だった。意識のない体を殴っても、楽しくないだろうからである。正気に戻った時、彼らがいる兆しはなかった。頭はずきずき傷み、ガンガン鳴り、眼を開けるのにも恐ろしく努力を要した。体のあらゆるところが痛かったが、骨は折れていなかった。痛みで頭が混乱し、何が起こったのか分からなかった。長い時間が経過し、いろんな出来事が起こっていた。私は混乱して、こんなに軽い処置で解放されたのが理解できなかったが、護衛兵たちは仕事を続けるためにやってきた。彼らは放置したところと同じところで私を見つけたけれども、私がほとんど動けなかったので、私を引きずって川の下まで引っ張って行った。全てのものが私の回りで揺れていた。川の流れに落とされた。私はしばらくの間顔を泥まみれにして横になっていた。
遠くで音がした時、ほとんど暗かくなっていた。遠くから半円をした黒い影が、何かを探しているように、ゆっくりと近づいてきた。恐怖を覚えた。私を探しているのだと思って、動かなかった。しかし、それらは放牧されている動物に違いなかった。というのは、私が顔を上げた時、いなかったからである。ショックが私を現実に戻してくれた。私は体を動かした。私は這って、川べりまできて、川の流れに負傷している頭をつけ、頬骨のところの深い傷を洗い、体についている血と泥も洗い落とした。
冷たい水が私を生き返らせた。とにかく、何とか、私は公園の門のところまで辿り着き、通りに沿って歩き始めたが、少し行ったら、倒れた。騒々しい若者で満杯の車が祝祭から戻ってくる途中に、私が道路に横たわっているのを見つけて、何ごとかと車を止めた。彼らは、私を祝祭で酔いつぶれた一人だと思っていたのだった。私は彼らに病院に連れて行ってくれるように頼んだ。そこで、医者に診てもらった。傷の出来た原因を何とかでっち上げて、救急病棟のベッドに寝かせてもらった。私は2、3時間くらい眠った。勤務交代のベルが鳴るのを聞いて、目覚めた。担架を運ぶ人が重い足どりで入ってきた。動くことは非常に困難で、まだ、横になって眠り続けていたかった。しかし、それは危険すぎるのが分かっていた。これ以上、留まるつもりはなかった。
夜間勤務者が到着した時、私は横のドアから暗い廊下へすべるように出て、病院を立ち去った。
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第14章
頭痛がして、あらゆることが私の内部で混乱していた。私には日が明ける前に、町を出なければならないということだけは、分かっていた。私は考えることが出来なかった。一瞬の迷いが次の現実を失うことになるのだった。狭い小道を通って、高い家々の間の道一杯を占めて、車はすさまじい勢いで私をひき殺そうと走ってきた。私は、指の関節から血を流しながら、ドアからドアへとよろめいた。ドアには鍵がかかっていた。轢かれかかった瞬間に、ドアを体当たりして破り、中へ入った。制服に身を包み、堂々とした容貌をした総督が、彼の大きな黒い車に乗って通り過ぎて行った。少女が彼と一緒だった。彼女の髪は、雪の上の木陰のように、ちらちら光っていた。彼らは一緒に雪の中を、白い毛皮の絨毯のような下をドライブしていたのだった。それは部屋のように広く、雪の吹き溜まりのように深く、ルビーで縁取られたようだった。
凍りついた火が輝いているようなオーロラの下で、彼らは、氷山の間を歩いていた。極寒の猛吹雪が吹雪いて、辺りは真っ白だったが、北極星の下で、彼の骨白色の額と氷柱のような眼と、彼女の氷花がつき霜で覆われたようになっている銀色の髪が見えた。氷山の中で雷鳴が轟いた。彼は北極熊と戦い、手で絞め殺した。彼女をタフにするために、すばらしくよく切れるナイフで皮をはぎとることを教えた。それが終わると、彼女は暖をとるためにその中に入った。巨大な獣の皮は彼ら二人を多い、長く白い毛の先には血がこびりついていた。雪のように白い毛皮が彼ら二人の姿が隠し、獣の分厚い皮の先から血が滴り落ち。雪を赤く染めた。
彼女が夢見るような眼をして、松明の明かりに照らされて立っていた。私は彼女を見た。彼女が欲しかった。彼女を連れ去りたかった。しかし、別の人が彼女を所有していた。彼女の白い少女のような体が、くすぶる松明の煙の中を。彼の膝の間に倒れこんだ。私は彼女を捜しに外に出た。略奪者が町を略奪していた。私はいたるところ探し回ったが、彼女を見つけることはできなかった。瓦礫の中で彼女に躓いた。彼女の頭は曲がっていた。大気は煙と誇りに満ちていたが、それを通して彼女の白い肌が汚らしい瓦礫の上に見えた。血は最初は白い肌の上で赤かったが次第に黒ずんでいった。髪が引っ張られているために彼女の頭は横向きに捩れ、ほっそりした首は折れていた。子供時代に受けつづけた迫害のために、彼女にとって、迫害を運命として受け入れることは容易だった。私が何をしようとしまいと、彼女に降りかかる運命は変わらなかったであろう。彼女をそこに放置しておくのもひとつのやり方ではある。彼女をあの男にゆだねるのも、また別のひとつのやり方である。しかし、そのいずれも私にはできない選択だった。
彼が到着する前に、彼女のところへ行かねばならなかった。しかしそれは困難極まりないことだった。交通手段が存在しないために、賄賂を使ってなんとかするしか方法はなかった。あるいはもっと悪い方法であるが、騙すしかなかった。氷は海を渡って、いろんな島へと、地図上で確認したわけではないが、特にこの島へと向かってきているところを想像した。私たちがいろんな方向から彼女に近づきつつあった時、彼女は島の中心にいるだろうと思っていた。彼女が取り囲まれているのを知らなかった。私はある方向から彼女に近づき、彼は別の方向から近づき、そして氷がまた別の方向から彼女に近づいていたのだった。私が最初に彼女に到達する可能性はほとんどないように思われた。1マイルごとに、近づくのが遅くなり、困難になっていった。彼は、その気になりさえすれば、飛行機を使って、たった2、3時間で到達することができただろう。私は、彼が例の重要な会議に今なお出席していて、さらに他の軍事上の重要な懸案が彼を引きとどめてくれるのを願うことができるだけだった。しかし、私は楽観的にはなれなかった。
頭の負傷や顔の切り傷は直り始めていたが、正常に戻りつつあるとは思えなかった。頭痛はまだ四六時中続いたし、恐ろしい幻覚に悩まされた。それは、爆発する災厄のために世界は暴力的な死に向かい、宇宙が破滅する幻覚だった。私は処刑されに行くようなものだった。私自身の死が重大事だったけれども、私は生きていたし、仕事をしていたし、世界で起こることを見ていた。私は年老い、知性を失い、そして体力が落ちるのを恐れた。私は、彼女にもう一度会いたいという脅迫的な衝動に駆られていた。彼女のところに最初に到達するのは、私でなければならなかった。
私は非常に長い距離を旅行しなければならなかった。私はあからさまに国境を横切る危険を侵すことができなかったので、二日かけて、徒歩で、荒れ果てた地域を通過しなければならなかった。身を守るものも、食物も水もなしにであった。その後で、ヘリコプターであるところまで連れて行ってもらえるチャンスに恵まれた。そのヘリコプターの側面には、等身大の裸の女性が天然色で描かれていた。戦争の真っ最中のポップアートだった。それを描いた人は処分された。私は同乗するチャンスを失うつもりはなかった。幸運が続くはずがなかったから。狂気のようになって、私は射殺された死骸を探した。絵の具の塗られた顔が私に向かって瓦礫の間でにたにた笑っていた。頬にはピンクの丸い輪が描かれ、黒い眼は描かれた人形のように澄み切っていた。
戦争中の田舎で、私は戦争から遠ざかっていようと努力した。トラックに満杯になって乗っている軍隊や労働者が、騒いでいたけれども、それを除けば、私がやって来た町は静かだった。どんよりした曇った日に、どんよりした灰色の町で、弱々しい女性たちが汚い洗物を平たい石のうえに無気力にたたきつけていた。私は疲れきっていて、元気をなくし始めていた。ある種の輸送がなければ、私の旅は終わることができなかった。ここでは元気づけてくれるようなものは何もなかった。私が通行人を見ると、彼らは眼をそらした。彼らは外国人に対して疑い深かった。私は、疲れた表情をし、着古した、破れた、泥まみれのゲリラの服装をしていたので、彼らは私を見ると不安になった。私は話のできる誰かを探そうとしたが、そのような人は見つからなかった。私はガソリンスタンドのオーナーに話しかけ、お金を渡して、テレスコープつきで外国製の新品のライフルを手に入れたいといったら、彼は警察を呼ぶぞと私を脅した。
たそがれ時に雨が降り始め、夜になるにしたがって、雨足は強くなった。禁止令が公布されていて、家からは明かりが見えず、通りには人影はなかった。私は危険を覚悟して野宿したが、気をつける元気すらなかった。遠くでサイレンが鳴り響き、すさまじい音がした。それが一定時間続きその後銃声がするといったことを繰り返しながら、それが次第に近づいてきた。雨が一面に降りしきり、道路は川のようになっていた。アーチが上を覆っている道路に非難し、震えていた。何をすべきかを考えることすらできずに、気持ち悪くて、頭は麻痺していた。私は絶望てきになり、自暴自棄になっていた。
大きな軍の車が音を立てて疾走してきて、道路の反対側に止まった。鋼鉄のヘルメットを被り、オーバーコートと長靴に身を包んで、がっしりした運転手が降りてきて、家に入っていった。緩慢な砲撃はまだ続いていた。静かにしている必要はなかった。私は、捨て鉢になって、花崗岩の丸石を持ち上げ、それを一階の窓めがけて投げつけ、手を中へいれ、窓を押し上げ、窓敷居の上へと体を押し込んだ。足が床に着く前に、部屋のドアが開き、車に乗っていた人と顔が合った。突然大きな爆発音が起こり、すべてのものが揺れ動き、暗い部屋は激しい炎に包まれ、頬骨や眼球が熱くなった。男は負傷し、倒れ、血がほとばしり、暗い川のように流れた。私は負傷者の服をはがし、私のぼろぼろの衣服を着せた。幸運なことに、われわれは大体同じ背格好だった。私は急いで壊れた部屋に行って、家具を投げ飛ばし、鏡を壊し、引き出しを開き、絵をナイフで引き裂き、略奪者がそれらを壊し、家の主人に撃ち殺されたように見せかけた。私が被るには金属製のヘルメットは重すぎたので、それを手に持ち、制服を着て外に出たて、軍の車に乗り込み、去った。私は制服から血を完全には拭うことは出来なかったが、毛皮で縁取られたコートには汚れこびりついたので、分からなかった。
町外れの関門所で車を止められた。爆弾が付近に落ちていた。事態は混乱していて、護衛兵が尋問する余裕はなかった。私はでたらめを言って、車を走らせた。彼らが私の答えに満足していないで、疑っているのは分かっていた。しかし、彼らは忙しすぎて、私に関わっていられないだろうと思った。私は間違っていた。2、3マイル走行すると、サーチライトが私の車を照らし出し、背後から強力なオートバイのうなる音が聞こえた。ライダーの一人が、私に止まるようにに命じながら追い抜いていった。ちょうど私の前にきて、激しくブレーキをかけ、道路の真ん中で、またがったまま止まり、銃を私に向けた。銃弾が飛び出してきて、あられのように道路で弾んだ。私はスピードを上げ、真正面に突っ込んだ。背後を見やると、暗い影がオートバイのハンドルを越えてもんどりうち、もう一台が横転し、その後ろの二台が横滑りして、破損し、折り重なるのが見えた。射撃が少しの間続いたが、誰も追いかけてこなかった。負傷しなかった護衛兵は、暴動を一掃するためにそこに留まり、私に車を走らせる時間を与えてくれるのを期待した。雨は止み、戦いの音は治まった。私はリラックスし始めた。しばらくすると、私の車のヘッドライトが、急いで道路から離れていく制服姿の男を捉えた。パトロールカーがそこに止まっていた。誰かが前もって電話したのに違いなかった。私は、何故、これらの人々が追いかけるほど私が重要人物とみなされているのか、不思議だった。重要人物が車に乗って逃走しているという情報を、彼らは得ているのだろうと、推測した。彼らは発砲し始めたので、私はアクセルを踏んで加速した。総督が車が障害物をティッシュペーパーのように破壊して、国境を突破したという物語をぼんやりと思い出していた。さらに多くの射撃が後ろからなされたが当たらなかった。まもなく射撃は止み、静かになった。道路を走っているのは私の車だけになり、もはや追ってくる兆しはなかった。私がそれから30分後に国境を越えたとき、私がまったく安全になったのを知った。
追跡をかわすことができて、私はさわやかな気持ちになった。独力で私に対して行われた軍隊組織の攻撃を打ち破ったのだった。 私はスリリングで興奮を掻き立てるゲームに勝ったかのように興奮した。興奮が静まると、私は正常な状態に戻ったが、私はもはや今までの私ではなかった。もはや助けを必要とする絶望的に弱い旅行者ではなくなり、強くて独力でことをなすことのできる、能力のある人間に変わった。私は、機械が持っているような力を所有し、制御することが出来るようになったのだった。私は車を止めて、調べた。いくつかの凹みと擦り傷があったが、それらを除いて、車はどこも不具合なところはなかった。ガソリンはタンクに4分の3ほど残っていた。トランクにはガソリンの缶が数多く詰められていて、私が目的地に着いてもあまるほどだった。私は食物の入った大きな袋を見つけた。ビスケット、チーズ、卵、チョコレート、りんご、それにラム酒のビンが1本入っていた。私は食物やガソリンを得るために悩む必要はなくなった。
突然、私は旅の最後の周回にいることがわかった。成就不能と思われた困難にも拘らず、私の目的はほとんどゴールに近づいていた。私は成功を喜び、そのようなことを成し遂げることができた自分自身に喜んだ。私は殺されるとは思わなかった。私が別様に行動していたならば、私はここに辿りつくことはできなかったであろう。とにかく、死が迫っていることがかすかではあるが予期され、まもなく、すべての生き物は死滅するだろうと思われた。世界全体が死へと向かっていた。すでに、氷は数百万の人を埋め尽くしていた。生き残っている者も気の狂ったように戦争や破壊活動を行っていた。しかし、私たちはいつも分かっていたのだ。眼に見えぬ敵が進行しつつあり、私たちがどこへ逃げようとも、氷はそこへやって来て、最後には征服者になるということを。私たちに残された唯一のことは、瞬間瞬間に、できるだけ多くの満足を人生から引き出すということだけだった。私はこの強力な車で夜中を疾走して、浮かれた気分になっていた。また、私は自分の運転テクニックを楽しんでいた。興奮と危機感を同時に感じていた。私は疲れたときに、車を道端に寄せて1時間かそこら眠った。
寒さで夜明けに眼が覚めた。夜中、凍りついた星々が、地球めがけて凍りついた光線で集中砲撃していた。それは地表を貫き、薄い地表の下に貯蔵された。亜熱帯地域でも、大地が霜で覆われ白くなり、足元が凍りつくようになり、例年では考えられない異常現象が生じているという印象を人々は受けた。私は朝食を手早く食べ、ギアを入れてエンジンを動かし、水平線の方へと、海の方へと、急いだ。道路が良かったので、時速90マイルのスピードで運転して、荒廃している地域を、たまに、家や村が残っていたが、疾走した。私は誰にも会わなかったが、瓦礫の中から私を見ている眼を感じていた。人々は軍の車を見ると、音を立てないようにして姿を隠していたのだった。彼らは、隠れている方が安全なのを経験から学んでいたのだった。
徐々に寒くなり、空は暗くなっていった。背後の山々の向こうの方では、不吉な黒々とした雲の塊が、海の上に集まっていた。私はそれらの雲を見て、その意味が理解できた。黒々とした雲の集まりの下では、厳寒の死が広がっているのだった。それは一つのことだけを意味していた。氷河はすぐそこまで来ているということを意味していた。まもなく、私たちの世界に代わって、氷の、雪の、死の、静寂の世界がやってくるだろう。もはや暴力はなく、戦争もなく、犠牲もなく、凍てつく沈黙以外には何もない、生命の欠如した世界。人類の究極の到達点が、自己破壊ではなく、生命全体の破壊だった。生命の世界から死滅した惑星へと変わるのだった。
雲ひとつなく、燃えるような青い空の中に、薄暗く巨大な災厄の前触れの雲が、無表情に、ただ不吉に、人を怯えさせるように集まっていた。それはちょうど破局の前触れとしての巨大な崩壊が、途方もない頭上から垂れ下がっているようであった。氷の結晶体がフロントガラスの上で花のような形を取り始めた。私は、自然の不思議さに、迫り来る破局の冷ややかさに、頭上につるされている崩壊の前兆に、これまで起こったことの破壊行為に、これまで私たちが犯してきた罪の重さに、圧倒され、憂鬱になった。恐るべき犯罪が、自然に対して、宇宙に対して、生命に対して、行われてきたのだった。生命を殺戮することによって、太古からの秩序を破壊し、世界を破壊し、今やあらゆるものが、崩壊の中に墜落せんとしているのであった。
かもめが、近くを飛び、鳴いていた。私は海に辿りついたのだった。塩の匂いをかき、水平線まで広がる暗い波を見渡し、氷壁がないのを確かめた。しかし、空気は死のような氷の冷たさに満ちていて、氷壁はそれほど遠くではないことを感じさせた。何もない荒涼とした地域を50マイルほど疾走して、町へと向かった。そこでも、雲が低く垂れ込め、いっそう暗くなり、いっそう不吉さをまして、私が来るのを待っていた。寒さのために私は震えた。おそらく、それはすでにそこに来ていた。人々がかつて夜中踊っていた町に入っていった時、これが同じ陽気な町だったとは、ほとんど信じられなかった。町はまったく荒廃していて静かだった。車も、花も、音楽も、明かりもなかった。港には難破船が停泊していた。建物が破壊されて、店やホテルは閉められていた。明かりは暗くて寒々としていて、気候はこれまでとは全く異なっていた。もはや別世界だった。いたるところに、新氷河時代の切迫した脅威が感じられた。
私は視界に入るものを眺めた。すると、少女が見えた。彼女の姿はいつも私と一緒だった。それは財布の中にもあったし、私の想像の中にもあった。今や、彼女の姿は私の視界のいたるところに現れた。彼女の青白い、血の気の失せた顔が、2つの大きな瞳と、邪悪な雲の下での松明の火のように、色素を失って青白く輝く髪が、いたるところに現れ、磁石のように私の眼を引きつけた。彼女は崩壊のただ中で、輝いていた。彼女の髪は、暗い日中で光っていた。いじめられ怯えた子供のような彼女の大きな眼は、破壊された窓の黒い穴から私を非難するように見つめていた。誤解された子供のように、彼女は走り去って、大きな眼で私に懇願した。私は彼女の苦しむ姿を眺める楽しみを味わった。それは、私の願望の最悪のイメージだった。彼女の顔が幽霊のようにかすかに光り、私を影の中へと誘った。彼女の髪は光る雲であった。しかし、私が彼女に近づくにしたがって、彼女は向きを変え、逃げた。肩の上の銀色をした髪が突然月光で煌く滝にように映った。
道路上にバリケードの残骸が積まれていたので、以前泊まっていたホテルの入り口へ車で行くことはできなかった。私は車を降りて、歩いて行かなければならなかった。残酷なほど冷たくて強い風のために、氷の破片が私の方へとまっすぐに吹き飛んできて、私は息をするのも困難なほどだった。濃い灰色をした海を一瞥して、氷がまだやって来ていないのを確かめた。ホテルの一階の外観は変わっていなかったが、上の階の方では壁のあちこちに大きな裂け目や穴があいていて、天井は陥没していた。私は中に入った。冷たくて暗く、暖かさも明かりもなかく、そこはカフェーであったのか、破損した椅子やテーブルが、並べられていた。金箔で飾られた破損物が瓦礫の真ん中に残っていたけれども、私はそこがどこか見分けることができなかった。
調子の乱れた足音と杖のこつこつという音が聞こえ、見覚えのある誰かが近づいてきた。若い男は漠然とした親しみの表情を浮かべていたが、最初、暗がりの中では、誰か分からなかった。私たちが握手しているとき、突然記憶が蘇えった。
「もちろん、あなたはオーナーの息子さんですね」
彼の足が不自由になっていたので、私はいやな気持ちになった。彼はうなずいた。
「私の両親は死にました。爆撃にやられたんです。公には、私もまた、死んだことになっています」
私は何が起こったのか尋ねた。彼はしかめ面をして、足をさすった。
「それは避難中に起こりました。そして、すべての負傷者は後に残されました。私は殺されたと報告されたと聞いたとき、否定しようとは思いませんでした……」
彼は話を中断して、神経質な目つきで私を見た。
「一体全体、なんのためにあなたは戻ってきたんですか。あなたはここに宿泊することはできません。お分かりのように。私たちは直接的な危険地域にいます。すべての人が避難するように言われています。ただ私たちのような古くからの居住者が少数残っているだけです」
私は彼を見つめた。彼が何故私に神経質になっているのか理解できなかった。私がかつてここで会ったことのある人々はほとんど随分前に出て行った、彼はと言った。
「戦争が起こる前に、彼らのほとんどは出て行きました」
私は少女に会うためにやってきたのだと言った。
「しかし、私は少女が出て行ったことに気づくべきでした」
私は彼が総督について何か話してくれるのを期待した。しかし、彼はそうしないで、彼は話し始める前に、臆病な、躊躇するような態度を示した。
「実際、彼女は出て行かなかった非常に数少ない人々の一人です」
私はそれを聞いて、数秒の間感情が乱された。動揺を隠して、また私の安心が間違っていないことを確かめたくて、彼女について問い合わせがあったかどうか訊いた。
「いいえ」
彼は無表情に答えたが、それは本当のことを言っているように思われた。
「彼女はまだここにいますか?」
「いいえ」
再び同じ答えが返ってきた。彼は続けた。
「われわれはここをレストランとして使用しています。しかし、建物全体は安全ではありません。ここを修理できる人はここには残っていません。とにかく、それに、何の利益があるのです?」
私は、氷の接近が、そのようなすべての活動を無効にしていることに同意した。しかし、私はただ少女にのみ関心を抱いていた。
「彼女は今どこにいるのですか?」
彼は躊躇しているような様子だった。そしてその様子が長引くほど、躊躇していることが明らかになっていった。彼は質問に明らかに困惑していた。しかしとうとう彼が答えが、そのとき直ぐに、私は困惑の意味が分かった。
「まったく近くにいます。海岸の家に」
私は彼を見つめた。
「そうですか」
今やすべてが明らかになった。私はその家を思い出した。それは彼の家だった。彼はそこに両親と住んでいたのだった。彼は不愉快そうに話を続けた。
「彼女にとって、その方が都合が良かったのです。彼女はここで仕事をしていているのです」
「本当に?どんな仕事をです?」
私は不思議に思った。
「レストランの補助ですよ」
それは漠然とした言い逃れの答えだった。
「ここで客の給仕をしていると言うのですか?」
「そうです。時々ダンスもします……」
話題を避けるように、彼は言った。
「彼女が他の人たちと同じように安全な場所へ避難しなかったのは、まことに残念なことでした。それはまだ可能なのですが。彼女には彼女を連れて行ってくれる友達がいました」
私は返事した。
「明らかに、彼女には友達がいました。でも彼女はここに残る方を選んだのです」
私は彼をじっと見つめた。しかし、彼の背中がかすかな明かりを隠していたために、彼の顔は陰に隠れ、彼の表情を読み取ることができなかった。
突然、私はいらだった。私はすでに多くの時間を彼と過ごしすぎた。彼女こそが私が話しかけなければならない唯一の人だった。ドアの方へ向かいながら、私は尋ねた。
「私はどこで彼女に会うことが出来ますか?」
「彼女は彼女の部屋にいると思います。ここでの仕事は後ほどですから」
彼は足を引きずり、杖をつきながら私の後をついてきた。
「庭を横切って行く近道を教えましょう」
私は彼が時間を稼ごうとしているように思えた。
「大いに感謝します。でも、私は自分で道を見つけられると思います」
私はドアを開けて外へ出た。彼が何かを言う間もなく、私たちの間のドアを閉めた。
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第15章
外に出ると、氷のように冷たい空気の流れが体を包んだ。夕闇が帳を下ろし、風のため、凍りついた雪は平らになっていた。私は近道を探さがさずに、海岸へ通じるすでに知っている小道を選んだ。以前は育っていた外国産の植物は、霜にやられて枯れていた。やしの葉がしなびて、枯れかかり、黒ずみ、閉じられた傘のようにしっかりと折りたたまれていた。私は気候の変化に慣れていたはずだったが、私はまた日常生活から逸れてしまい、非日常的な奇妙な地域へと移ったように感じた。このすべてが現実であり、それは現実に起こったことだった。しかし、まったく現実ではないような気がした。それはまったく奇妙なことが起こったことによって生じた異様な現実だった。
雪は激しく降り始め、私の顔には極寒の風が吹きつけてきた。寒さのために皮膚は凍傷になり、息は凍りついた。雪が眼に入るのを防ぐために、私は重いヘルメットを被った。雪が縁にくっつき凍りつき、ヘルメットはさらに重くなったが、そのうちに、海岸が見えてきた。白い雪のカーテンを通して前方に家がぼんやりと現れた。しかし、その向こうに氷群が広がっているかどうかは分からなかった。風に逆らって、そこへ辿りつくのは困難だった。雪は厚く積もり、激しく降っていた。死滅しつつある世界の表面を、すべてを不毛にする白い雪が広がって、覆っていた。暴力とその犠牲者をもろとも巨大な墓の中に埋め尽くし、人類とその功績の最後の足跡を消した。
突然、撹乱している白い風景を通して、少女が私から氷の方へ逃げ去るのが見えた。私は叫んだ。
「待って! 戻って!」
しかし、極寒の空気に喉がやられ、声はかすれ、風にかき消された。雪の粉が霧のように私の周りに吹きつけてきた。私は彼女を追いかけた。彼女の姿はほとんど見えなかった。彼女が視界から消えてしまった。私は一旦休み、眼球にくっついている氷の結晶体を苦労して取り除いた。それからまた追いかけた。殺人的な強風のために、私は後ろに飛ばされた。雪は白い丘のように積もり、火山のようにそこから雪煙が立ち昇って、その先が見えなくなった。恐ろしいほどの死の冷たさの中で、よろめき、ふらつき、躓き、滑りながら、感覚のない手で彼女を掴んだ。
遅すぎた。私にはチャンスがないのがすぐに分かった。辺りに聳え立つ蜃気楼のような極寒の輝き、超自然の、この世のものと思えぬ氷の建造物。巨大な胸壁や虹橋が空に満ちていた。私たちは丸い壁、幽霊のような処刑執行者によって閉じ込められた。それは、私たちを破滅させるために、ゆっくりと、しかし情け容赦なく、前進してきた。私は動くことが出来ず、考えることも出来なかった。処刑執行者の吐く息は脳を麻痺させ、愚鈍にした。これ以上ないほどの冷たい氷が私に触れ、雷鳴が轟き、まばゆいエメラルド色の光を放って氷壁は2つに分裂した。頭上高くでは、氷河がブーンと言う音を立てて振動し、今まさに崩壊せんとしていた。霜が彼女の肩の上で輝き、彼女の顔は蒼白で、長いまつげが彼女の頬を撫でた。私は彼女を抱きしめ、山のような氷の塊が落ちてくるのを彼女が見なくてすむように、彼女を私の胸にしっかりと押し付けた。
厚手の防水布で出来た灰色のコートを着て、ビーチハウスを囲んでいるベランダに立って、誰かを待っていた。最初、彼女は、私がやってくるのを待っているのだ、と思った。それから、彼女の視線は別の道を見ているのに気づいた。私は立ち止まって、彼女を見つめた。彼女が待っているのが誰なのかを確かめたかった。ホテルマンは、私がここにいるのを知っているので、今やって来るとは思えなかった。彼女は今や孤独ではないように感じられた。彼女は辺りを見回し始め、私を見つけた。私は、彼女の顔のなかで眼を大きくまた黒く見せている、大きく見開いた瞳を見分けるほどには、近くにはいなかった。しかし、私は彼女の鋭い叫びを聞き、彼女が向きを変えたとき、髪が渦巻き、輝いたのを見た。コートについているフードを頭の上に引っ張り上げ、海岸の方へ走っていった。彼女がベランダから出て行ってしまうと、彼女を見えなくなった。彼女は雪の中に身を隠そうとしたのだった。突然、恐怖が彼女を襲った。魔術的な力をふるって、彼女から意志を奪い取り、彼女を幻覚と恐怖の中に投げ込む、氷のように冷たくブルーの眼をした男の姿が、彼女の頭をよぎったのだった。いつも彼女と共にあり、日常生活の背後に潜んでいる恐怖が彼によって呼び出されたのだった。彼にはもう一人の人が結びつられていた。彼らは同じ仲間だった。あるいは彼らは同じ人間だと言ってよかった。
彼らは二人とも彼女を迫害した。彼女にはその理由が理解できなかった。しかし、彼女は、起こったすべとのことを受け入れてきたように、彼女はこの事実をも受け入れた。彼女には分かっていた。彼女は、未知の力かまたは人間の力によって、手荒く扱われ、犠牲者とされ、最後には破滅させられるのを知っていた。彼女の誕生以来、運命がいつも彼女を待ちかまえていた。 愛のみが彼女を運命から救い出すことが出来た。しかし、彼女は決して愛を求めなかった。彼女は耐えることを選んだ。そのことのみが彼女が知っていたことであり、受け入れることができることだったからであった。運命は彼女に忍従を強いた。彼女には分かっていた。彼女は誕生以前から既に打ちのめされていたのを。
彼女が数歩も行かないうちに、私は彼女に追いつき、ベランダに連れ戻した。顔から雪を払い落としながら、彼女は叫んだ。
「あなたなの?」
驚いて私を見つめた。
「誰だと思ったんです?」
私は制服を着ていたのを思い出した。
「とにかく、この服は私のではない。借りものです」
彼女から不安が消え、ほっとした表情を浮かべた。彼女の態度は変わり、落ち着きを取り戻した。人々や環境が彼女にとって安全だと分かったとき、彼女は自信と独立心のある態度をとるのを知っていた。ホテルで若い男は彼女のためにそのような環境を作ったに違いなかった。
「早く中に入りましょう。何故ここに立っているの?」
彼女は普通に、私が戻ってくるのは予定されていて、予期されていたかのような口調で、言った。この状況に、変わったところは何もないというかのように。その言い方が私を悩ませた。結局、私はずうっとそれで悩んでいたのだった。彼女の言い方は、私がとるに足らぬ人物であるという口調だった。
彼女はドアの方へ行き、私を社交的な態度で招き入れた。小さな部屋には何もなく寒かった。流行遅れの暖防具がかろうじて部屋から冷たさを取り除いていた。しかし、部屋はきれいに掃除されていて、片付けられていた。細部まで注意が行き届いているのが分かった。海岸から拾ってきた流木や貝殻から出来た飾りものが置いてあった。
「居心地が悪いのではと、心配です。あなたの基準からすると、粗末な住まいです」
彼女は私をからかうような言い方をした。私は何も言わなかった。彼女はコートを脱がなければ、フードをとって髪を自由にすらしなかった。髪は長くて、生きもののように輝き揺れていた。コートの下には、高価そうな灰色のスーツを着ていた。私はそれを彼女が着ているのを、今まで見たこともなかったが、それは、彼女を品よく見せていた。彼女はお金を持っているはずがなかった。彼女の魅力的な様子が、また、彼女の着ている高価なドレスが、また私を悩ませた。
彼女はホステスのような口調で話した。
「いろいろな旅行から戻ってきて、居場所があるなんて素敵でしょう」
私は彼女を見つめた。私は彼女を見つけるためにはるばるやってきたのだった。多くの死者や、多くの危険や、多くの困難に出会いながら。今やついに、私は彼女のところにたどり着いたのだった。そして、彼女は私に、未知の他人のように話しかけた。それはひどすぎた。私は傷つき、後悔した。彼女の無作法な態度や、私の到着を無意味なものにする態度に憤慨して、私は威厳を保って言った。
「何故あなたはこのような態度をとるのですか? 私は行きずりの訪問者として扱われるために、はるばるやって来たのではありません」
「あなたは私に赤じゅうたんを敷いて迎えろとでも言うのですか?」
彼女は苛立って、からかい気味の返事をした。私の中で怒りが爆発した。もはや、自分をコントロールできなかった。また、からかい気味に、気のない調子で、私が何をしていたのかをたずねたとき、私は冷ややかに答えた。
「私はあなたのご存知の方と一緒にいました」
そう言って、意味ありげな難しい顔をしてじぃっと彼女を見つめた。彼女は直ちに理解した。彼女からわざとらしさがなくなり、不安な表情が浮かんだ。
「私が最初あなたを見た時……私は思った……彼かと……彼がここにやって来るなんて、なんて恐ろしい」
「彼はすぐにでもここにやって来るでしょう。それを言いに、私は来ました。他に計画をお持ちならば、あなたに警告するために。彼はあなたを連れ戻すつもりです」
彼女は私を中断した。
「いいえ。決して!」
彼女は激しく首を振ったので、髪がフードから、水しぶきのように輝いて流れ出たほどだった。私は言った。
「それでは、あなたは直ちに立ち去らねばなりません。彼がやってくる前に」
「ここを立ち去る?」
それは残酷だった。彼女は困惑して辺りを見回した。彼女が飾りつけた家を見回した。海から持ってきた貝殻が飾られた小さな部屋は、彼女をほっとさせ、安心させる、地球上での唯一の場所だった。ここでは、彼女は自分自身を取り戻すことが出来たのだった。
「しかし、何故? 彼は決して私を見つけることができない……」
彼女のもの欲しそうな、哀願するような声も、私の心を動かさなかった。私は毅然として、冷ややかに言った。
「何故、見つけられないんです? 私はあなたを見つけました」
「そうです。しかし、あなたは知っていました……。」
彼女は私を疑惑の目で見つめた。私は信用されていなかった。
「あなたは彼に教えなかったんでしょう。そうですよね?」
「もちろんですとも。私はあなたが私と一緒に来て欲しいのです」
突然、彼女は自信を回復し、以前の人を見くびるような態度に戻った。私を嘲笑的な視線で眺めた。
「あなたと一緒に? だめです! 私たちはやり直すことはまったく出来ません」
当てこするように言って、大きな眼で上目遣いをした。彼女はわざと侮辱したのだった。私は頭にきた。彼女の見くびった調子のおかげで、彼女のところにやって来るための命がけの努力が無駄になってしまった。彼女のために耐えてきたすべてのことが馬鹿馬鹿しくなってしまった。突然、激しい怒りがこみあげてきて、私は彼女を荒々しく掴み、激しく揺すぶった。
「やめなさい。なにを言うのですか! これ以上耐えられない! こんなにひどく侮辱するのは止めてください。私はあなたのために地獄のような経験をしてやってきたんですよ。ひどい状況の中を数百マイルも旅をしたんですよ。想像もつかない危険の中を通り抜けてきたんですよ。私はほとんど殺されかかったこともあります。あなたにはほんの少しの評価の気持ちも見られない……感謝の一言も……あなたは私を普通に見られる……丁重にさえ扱わない……私はただ安っぽい冷笑を受けただけ……見事な感謝! 見事な振る舞い!」
彼女は一言も口を利かないで、じっと私を見つめていた。彼女の眼は、ほとんど黒い瞳ばかりになった。怒りはまだ少しも収まらなかった。
「今でさえ、あなたは謝ろうという礼儀さえ持っていない」
まだ怒りが収まらず、私は彼女に悪態をつき続けた。彼女を、高慢ちきな、無礼な、横柄な、無作法な女だとののしった。
「いつか、あなたは、親切にしてくれる人に感謝することのできる一人前の市民になるかもしれない。親切にしてくれる人を笑うような思い上がった無作法さを示す代わりにね」
彼女は打ちのめされ、押し黙っていた。私の前で、頭を垂れて、黙って立っていた。自信の痕跡は跡形もなくなっていた。ついには、彼女は、大人の偏見によって傷つけられ、意気消沈した、怯えた、不幸な子供ようにになった。
彼女の首根っこがぴくぴくしだした。何かが皮膚の下から逃げ出そうとしているかのように、激しく脈打ちだした。以前にも、彼女が怯えたとき、同じようなことが起こったのを知っていた。私は大声で言った。
「なんて馬鹿なことを、あなたを悩ますようなことを言ったんだろう。私がいなくなるとすぐに、ボーイフレンドのところに移り住んだと思ったものだから」
彼女はすばやく私を見上げて、不安げに口ごもった。
「それはどういう意味ですか」
「あなたは理解できない振りしている。なんて腹立たしい」
私の声は攻撃的になり、喋るほどに大きくなった。
「もちろん、家のオーナーのことですよ。あなたが一緒に住んでいる仲間。私が来たとき、べランダで待っていた人です」
自分の声が大きいのが分かった。大声が彼女を怖がらせた。彼女は震え始め、口はぴくぴくしだした。
「私は彼を待ってはいませんでした」
彼女は話を中断して、私がしていることを見た。
「ドアの鍵を閉めないで……」
私は既に鍵を閉めていた。私の中ですべてが、鉄のように硬くなった。氷になった。硬く冷たく、しかし燃えるような渇望になった。私は彼女の肩を掴み、私の方へ引き寄せた。彼女は抵抗し、叫び声を上げた。
「私から離れて!」
彼女は蹴り、もがき、鉢から飾りつけられていた形の良い貝殻を引き剥がして、投げつけた、床にあたって粉々になった。私たちの足がそれを踏みつけ、それは色とりどりの粉になった。私は彼女を押し倒して、血塗れた上着の中に押し込んだ。制服のベルトの鋭いバックルで彼女の腕が切れ、やわらかい白い肌の上を血が流れ落ちていたのだった。私の口の中で、血の鉄分の味がした。
彼女は黙って横になったまま動かなかった。私を避けるために、顔を壁の方に向けていた。多分、私は彼女の顔を見えなかったために、彼女が私の知らない人のような気がした。私は彼女に何の感情も抱かなかった。彼女に対するすべての感情が消え去っていた。これ以上耐えられない、と彼女に言った。それは本当だった。私は続けることが出来なかった。それはあまりにも屈辱的であり、あまりにも苦痛だった。私は彼女とのこれまでの関係を終わらせたかった。しかし、今までそうすることは出来ないでいた。今こそがその瞬間だった。この私が行っている惨めなこと全体を終わらせるために、今や、立ち上がって、去っていくべき時であった。私はあまりにも長い間同じことを繰り返していた。いつも苦痛で報われなかった。私が立ち上がった時にも、彼女は動かなかった。私たちのどちらも一言も口をきかなかった。私たちは偶然に同じ部屋にいる、見知らぬ他人同士のようだった。私は考えていなかった。私が欲しているすべてのことは、車に乗って、ここでのすべての事を忘れてしまえるほど、はるか遠くまで、ドライブを続けることだけだった。私は彼女を見ることなく、声をかけることもなく、部屋を去って、極寒の外に出た。
外は真っ暗だった。ベランダで一休みして、眼が暗闇に慣れるのを待った。雪が降っているのが、次第に、見えるようになった。雪は燐光のようにチラチラと微光を放っていた。風のうつろなうめき声が、静寂の中で、断続的に、破裂するように、起こった。雪片が気が狂ったように、あらゆる方向に舞っていた。夜は空虚な混沌に満たされていた。私は心の中に、それと同じ熱に浮かされたような混沌を感じていた。私の中で何かが、闇雲にあちこちへ突き進んでいた。狂ったように舞う雪片は、私の人生全体を象徴していた。彼女のイメージは過去のものとなり、銀色の流れるような髪は、混乱の中へと消え去った。錯乱したダンスの中では、どちらが暴力者でどちらが犠牲者か、区別するのが不可能だった。とにかく、死のダンスの下では、区別することは無意味だった。すべてのダンサーは無の淵にまで来ていたのだから。
処刑が近づきつつあるのだという思いが次第に強くなってきた。遠くには何ものかが存在しているという想像に私はよく捕らえられていた。しかし、今では、それが突然、私のところまで広がってきて、私のすぐそばまでやって来て、もはや想像ではなくて、現実のものとなり、それはまさに起こらんとしていた。私は衝撃を受け、みぞおちの辺りが本当に痛くなった。過去は消え去り、無と化した。未来も、すべてが絶滅した無と化し、もはや考えることが不可能になった。存在するものは、たゆまなく縮み続ける、今と呼ばれる、時の断片だけだった。
頭上では、月が冷たく光る暗青色の空が真夜中に広がっているのを、足下では、虹を作り出している氷壁が大海を移動し、地球上のあらゆるところへ広がっているのを思っていた。青白い崖がぼんやりと現れ、死のように冷たい光を放射していて、幽霊のような復讐者が、人類を絶滅させようとやって来ていた。氷が私たちの所まで来ていることが分かっていた。私自身には不吉な動く壁が見えていた。一瞬ごとに、氷は近づいてきていた。すべての生命が絶滅するまで、氷が前進し続けるだろうことは、分かっていた。
私は部屋に残してきた少女のことを思った。子供っぽい、大人になりきっていない、ガラスのように壊れやすい少女。彼女は何も見ていなかったし、何も理解していなかった。彼女はただ自分が運命から逃れようのないということを知っていた。彼女の運命がどのようなもので、それに対してどのように立ち向かえばよいのかを知らなかった。誰も彼女に独力で生きていくことを教えなかった。ホテルのオーナーの息子は、特に信頼できるとも、安心できるも思えなかった。むしろ、彼女を支えるのは無理であり、能力がないように思われた。危機がやって来たときに、彼が彼女を守ることが出来るとは信じられなかった。私は、破壊し尽くす氷山の真ん中で、彼女が誰にも見守られずに、怯えて立ちすくんでいる姿を想像した。崩壊する轟音と雷鳴に混じって、彼女のか弱い哀しげな叫びが聞こえるのが想像出来た。私は自分がなすべきことを知ってながら、彼女をひとりで、助けのないところに、残しておくことは出来なかった。彼女があまりにも多くの苦しみを受けることになるだろうことは確実だった。
私は戻って、部屋に入った。彼女は動いたようには見えなかったが、私が部屋に入ったとき、彼女は辺りを見回し、私に気づいて、体をねじって逃れようとした。彼女は泣き叫び、私に見られないように、顔を隠した。私はベッドに近より、彼女に触れないで、そこに立った。彼女は悲しみと寒さで震えていた。彼女の肌は、貝のように、かすかに藤色をしていた。彼女を傷つけることはあまりに容易だった。私は静かに言った。
「あなたに尋ねなければなりません。どれほど多くの人とあなたは寝たかは、気にしない。それはどうでもいいことです。私はあなたが何故私を先ほどひどく侮辱したのかを知りたいのです。何故、あなたは、私が到着してからずっと、私を侮辱しようとしていたのですか?」
彼女は顔を上げようとしなかった。答えるつもりがないのだ、と思った。しかし、そのとき、彼女は切れ切れにことばを吐き出した。
「私は、私……自身の……戻って……来て……欲しい……」
私は異議を唱えた。
「しかし、何のために? 私はちょうどここにいました。私はあなたに何もしませんでした」
「私は知っていました……」
涙声で、訴えるように話すのを聞くために、私は彼女の上に屈まなければならなかった。
「あなたに会うといつも、あなたは私を苦しめる……私をけったり、……私を奴隷のように扱ったり、……一度ならず、一時間も二時間も、次の日も……あなたは確かに……いつもする……」
私は驚き、ほとんど衝撃を受けた。それらの言葉は、自分でも認めたくない私の願望を示していた。私は急いで話題を変えた。
「あなたはベランダで誰を待っていたのです? ホテルの仲間でないとすれば」
またもや予期しない返事が返ってきて、私を困惑させた。
「あなたを……車の音が聞こえた……思った……分からなかった……」
私は仰天し、信じられなかった。
「しかし、それは本当ではあり得ない。あなたがそのように言った後では。その上、あなたは、私がやって来ることを知らなかったのだから。私はそれを信じることは出来ない」
彼女は体を荒々しくねじって起き上がった。青白い髪の塊が背後へと揺れ動いた。彼女の顔は、索漠とした犠牲者の顔だった。泣き崩れた顔。傷ついた黒い眼。
「本当です。あなたが信じようと、信じまいと! 何故だか分からない……あなたはいつも私を怖がらせる……私は待っているのを、私だけが知っている……あなたは戻ってこないのではないかと思った。あなたは何の伝言もくれなかった……しかし、私はいつもあなたを待っていた……ここに留まって。他の人たちが去って行った後でも。あなたが私を見つけることが出来るように……」
彼女は一人の絶望しきった子供だった。すすり泣きながら真実を告白した。しかし、まだ彼女の言ったことは信じられなかったので、私は言った。
「それは不可能です。それは本当ではあり得ない」
顔は痙攣し、涙で咽び、声は喘いだ。
「まだ十分じゃないの?まだいじめるのを止めることが出来ないの?」
突然、私は恥ずかしくなり、呟いた。
「ごめんなさい……」
私は今までに言ったことと行なったことを取り消したかった。彼女は再び、顔をベッドに伏せて倒れ込んだ。私は立ったまま、彼女を見つめた。何を言っていいのか分からなかった。何を言っても、彼女を慰めることは出来ないと思われた。やっと、私はただ次のように言うことができるだけだった。
「私はこのような質問をするためにだけ、戻ってきたのではないのです。分かっているでしょう」
反応はまったくなかった。彼女は私の言葉を聞いていたのかどうかさえ分からなかった。私は、彼女が啜り泣くのを止めるまで、待った。彼女の首がぴくぴくと引きつるのが分かった。そして、それが早くなりだした。私は手を差し出し、そっと、指先をそこに当てた。それから、手の平で触れた。白いサテンのような肌だった。髪は月光のように輝いていた。
ゆっくりと、彼女は頭を私の方に向けた。一言もことばを発しなかった。彼女の口が、輝く髪の中から現れ、それから、濡れた明るい眼が、現れた、長いまつげの間で煌いていた。今や、彼女は泣き止んでいた。しかし、時折、身を震わせ、声を出さずに嗚咽し、息が出来なくなってむせいだ。まだ心の中では、泣きじゃくっているようだった。彼女は何も言わなかった。私は待った。時が過ぎて行った。私はもはや待てなくなって、そっと尋ねた。
「私と一緒に来ませんか? あなたをこれ以上いじめないと約束します」
彼女は答えなかった。しばらくして、やむを得ず付け加えた。
「それとも、私に出て行って欲しいですか?」
急に、彼女は姿勢を正して座り、取り乱したような動作をした。しかし、まだ何も話さなかった。私は再び待った。手を差し出してみた。長い沈黙の時間が過ぎた。その間、手は差し出したままだった。とうとう、彼女は私に手をとらせた。私はそれにキスした。髪にキスして、彼女をベッドから抱き上げた。
彼女が準備をしている間、私は窓際で、雪の降る外を眺めていた。彼女に、私が見た災厄、海を渡って近づいてくる氷壁について話すべきかどうか迷った。さらに、私たちを、すべての生きものを、最後には死滅に追いやることを、話すべきかどうか迷った。私の思いは混乱し、決心できなかった。私は結論を引き延ばすことにした
彼女は準備が出来たと言って、ドアの方へ向かった。そこで立ち止まり、振り返って、部屋を眺めた。彼女は心が傷ついた表情を浮かべていた。極端に傷つき、言葉にならない恐怖を浮かべていた。この小さな部屋はくつろげて、安心できる彼女の唯一の場所だった。彼女にとって、部屋の外にあるすべてのものは恐ろしく、不可解な存在だった。巨大な異邦の夜、雪、破壊する厳寒、脅かす未知の未来がそこにはあった。彼女の眼は、私の方を見て、私の顔を探した。憂鬱で、疑わしげな、非難するような表情をしていた。同時に、訴えるような、質したいような表情を浮かべていた。私は、彼女を悩ますもう一つ別な存在だった。彼女が私を絶対的に信頼する理由はなにもなかった。私は微笑み、手を取った。彼女の唇はかすかに動いた。別の環境でならば、それは、微笑みになったかもしれないような動きだった。
私たちは一緒に外に出て、大量の雪の中を、真っ白に渦巻く雪の中を、逃げ出す幽霊のように漂った。明かりはなく、雪のかすかな燐光のような輝きの中で、道を見つけるのは難しかった。背後から吹きつける風でさえも、歩くのを重労働にした。車までは予想外に遠かった。彼女の腕を掴んで、歩くのを助けた。彼女がよろめくと、腕を体に回し、しっかりと支えた。厚手の防水コートを着ていても、彼女の体は氷のように冷えていた。彼女の手は、私の分厚い手袋を通してでも、凍っているのが分かるほどだった。手をこすって暖めた。しばらくの間、彼女は私にもたれかかって休んだ。彼女の顔は、暗闇の中で月長石のように輝いていた。まつげの先端が雪で白かった。彼女は再び歩き始めた。私は、彼女を元気づけ、励まし、腕で腰を支え、車までの道を歩んだ。
車の中に入った時、真っ先にヒーターをつけた。内部は一分も立たないうちに暖かくなったが、彼女は体を硬くして、私のそばに黙って座り、緊張していた。彼女が横から疑惑の目で私を見ているのに気づいて、私はまだ非難されているのを感じた。私が今まで彼女に対して行ったことを考えると、彼女が疑っているのはまったくもっともだった。今では彼女に親切にすることに、私が喜びを見出してることを、彼女が知るはずがなかった。お腹がすいていないかと尋ねた。彼女はうなずいた。私はチョコレートを食物袋から取り出し、差し出した。長い間、民衆にはチョコレートは手に入らなかった。彼女がある銘柄のチョコレートが好きだったのを思い出した。彼女は疑わしそうにそれを見つめて、断ろうとするように見えた。それから突然リラックスして、それを手に取り、おずおずとありがとうといって、かすかに微笑を浮かべた。彼女に親切にするのに、何故こんなにも長い間かかったのか不思議だった。もうほとんど遅すぎた。私は最終的な運命についても、氷壁がすぐそこまで近づいてきていることも、何も語らなかった。その代わりに、私たちが赤道に到着する前に、氷は接近してくるのをやめるだろうと話した。私たちは、そこで安全な場所を見つけることが出来るだろうと話した。私はわずかの可能性もあるとはは思わなかったが、彼女が私の言ったことを信じたかどうかも分からなかった。終末がどのようにして来ようとも、私たちは一緒にいるべきだった。私は少なくとも、それを早めることが出来たし、彼女にとってそれが楽しいものにすることが出来たのだった。
厳寒の夜中、大きな車でドライブしていて、私は幸福だった。私は、これとは違った世界を切望していて、それを失うことになったけれども、後悔はしていなかった。私の世界は、今では雪と氷の中で終わろうとしていた。残されるものは何もなかった。人間の生活は終わりを告げ、宇宙飛行士は氷の重さによって大地に埋められ、科学者たちは別の災厄によってこの世界からいなくなった。生きているのは私たち二人だけになったので、大吹雪の中を車を走らせながら、浮かれていた。
外の景色が次第に見え難くなっていった。窓にできる氷花が拭いされる度に、次にできる氷花はより透明なもになっていき、最後には完全に透明になり、降り続ける雪しか見えなくなってしまった。無限の雪片が蝶の幽霊のように、いずこから来て、いずこへ立ち去るのでもなく、舞い続けていた。
世界は既に死滅しているように思われた。しかし、それは問題ではなかった。車の中が私たちの世界だった。狭いけれども、明るく、暖かい部屋だった。私たちの家は、広大無辺で、無関心な、凍りついた宇宙の只中にあった。私たちの身体によって生み出された暖かさを失わないように、私たちは互いにしっかりと身を寄せあった。彼女はもはや緊張もせず疑ってもいなく、私の方に身をもたれかけさせていた。
氷と死の恐ろしいほどの冷たい世界が、私たちの生の世界に取って代わった。外部では、氷河時代の荒涼とした寒さの凍てつく空間が、広がっていた。生命は無機物の結晶体に還元されてしまった。しかし、この明るい私たちの部屋では、私たちは安全だったし、暖かかった。私は彼女の顔を見つめ、微笑んだが、触れなかった。恐怖はなかった。悲しみも、ここには、今は、なかった。彼女は微笑み、私にしっかりと体を押しつけてきた。私たちは自分たちの家にいた。
私は全速力で車を駆った。逃れるかのように、あるいは逃れることができる振りをするかのように。氷から、あるいは、時間は残り少なくなり私たちを閉じ込めようとしていることから、逃亡することが、不可能なのは、分かっていた。私は一瞬一瞬を最大限生きようとした。数マイルと数分が過ぎ去った。ポケットの中の拳銃の重さが私を安心させた。
[#地付き](『氷』完)
[#改ページ]
アンナ・カヴァン『氷』の改訳を終了して
(1)翻訳の経緯
アンナ・カヴァン『氷』につては、今年2月ごろ、古本で、原書を手に入れて、一読。私の好きな作品だが、現実と幻想が錯綜して、よく分からない。それが、翻訳してみようと思うようになった、動機です。どうせ翻訳するなら、ブログで掲載しようと思い、ブログ開催となった。5月末のゴールデン・ウィーク明けごろから翻訳を始めた。そして、翻訳していていて、よく分からないところ、変だな、と思ったところがあったが、とりあえず、前に進むのが重要と、翻訳を進めた。8月末に、一応、翻訳を終了し、9月は休んで、10月から気にかかったところを読み直し、改訳をはじめて、12月5日に終了した。変だなと思ったところは、大体、私の読み間違いだった。あと、日本語として、直訳過ぎるところを直した。改訳に際して、全文を逐一検討したわけではないので、間違っているところ、思い違いしているところは、まだあるとは思う。しかし、一応、『氷』については、これで終了としたい。ともあれ、ブログという形式がなければ、ここまでがんばれなかったと思う。思えば、今年1年の私の自由時間は、『氷』の翻訳で終始したように思う。少数ではあるが、興味を持っていただいた方に感謝したい。『氷』の翻訳は近々出版されるらしいので、そちらを期待しましょう(もちろん、私の翻訳ではありません)。
(2)『氷』を読んでの感想
この小説は、アンナ・カヴァンがヘロイン中毒で死に、死の間際に書いた遺作であるということを抜きにしては、語れない作品だと思う。それだけの特異性を考慮しなければ、存在しえない、作品であろう。しかしながら、ヘロイン中毒になったから、これだけ孤独な作品がかけたのか、孤独だったからこそ、ヘロイン中毒になったのかと言えば、おそらく後者であろう。つまり、彼女にとって、ヘロイン中毒になったのは、偶然ではなく、必然だったのである。だからこそ、ヘロイン中毒を抜きにしては語れない作品なのである。
結局、彼女はどうしようもなく、孤独だったのだ思う。そのため彼女は自殺するように、ヘロイン中毒になり、その中で、現実とも幻想ともつかぬ情景が彼女には見え(現れ)、それを書き綴ったのが、『氷』とう小説だったのだったのだと思う。だから、これはある意味で、彼女の現実そのものだということが出来るだろう。
さて、ではそれは、これを読んだ人にとっての意味はなにか。それは各自異なるのであって、一般的に語ることは無意味である。そこで、私にとっての『氷』について、簡単に語りたい。
では、『氷』は私に対して、どのような現実を告知したのか。精神的な意味では、おそらく〈氷〉はすぐそこまでやって来ている、あるいはもうやって来てしまっているのかも知れない。ほとんど毎日と言っていいほど、繰り返される殺人事件。それも異常な殺人事件。親が子供を虐待し、子供がたいした理由もなく、親を殺す。そして、いじめ。いじめに対しても、学校側も県の教育関係者も、文部科学省のお役人も、責任回避に終始する世の中。ある意味で、それは〈氷〉の世界ではあるだろう。現代の日本社会は、ある意味で、すでに家庭や学校のクラスというコミュニティが崩壊しているのであるかもしれない。あるいは、近い将来、決定的な狂気が人類を襲う前触れであるのかも、知れない。人類は、あるいは先進国文明は、すでに狂気への第一歩を、それも後戻りできぬ第一歩を、既に踏み出しているのかも知れない。あるいは〈氷〉は精神的な意味だけでなく、物理的にもそうであるのかも知れない。たとえば、世界の破滅を描いた映画「The Day after Tommorow]は、ペンタゴンから流出されたレポートに基づいて制作されたという。そのレポートによると、破滅は決定的である。問題はいつかということである、と言われる。これが本当なら、比喩でもなんでもなく、〈氷〉はそこまでやって来ているのである。
しかし、そのことよりも、私に考えさせられたのは、現実とは、本当は<夢でしかあり得ない>のではないか、という疑問である。現実が時として夢に思えるのではない。そのような経験なら、誰しも思い描いたことがあろう。だが、私が言いたいのは、そうではない。そうではなく、<私たちが生きているこの世界は、本当は夢でしかないのに、なぜ現実だと思ってしまうのだろう?>という逆説的なことである。私は、『氷』を読んでいて強くそのことを感じさせられ、また、そのことを強く感じながら、この小説を翻訳していた。この世界は夢でしかないのだ。しかしながら、それを現実として生きるほかない。この現実から逃れるすべはない。この現実こそ、夢を現実にしてしまう力こそ、『氷』の正体だ、そう、アンナ・カヴァンは言いたかったのではないだろうか。だから、〈氷〉がやってくるのではない。この現実こそ〈氷〉の只中にある、〈氷〉に取り囲まれた世界なのだ、そうアンナ・カヴァンは感じていたのだろう。そして、その光景をヘロイン中毒の中で、彼女は見ていた、その見ていたままを『氷』で描いたのだ、と私には思えるのだ。
ともあれ、私のアンナ・カヴァンの『氷』は、これで終わりたい。
私の翻訳に興味を持ってくださった、少数のかたがた、本当にありがとうございました。
来年は、SFを控えて、もう1つの趣味である哲学の方に、努力を移したい。素人の哲学論文が学会誌に掲載されるのは、不可能に近いけれど、来年はそれに挑戦して、運良く掲載されることがあれば、ブログにも掲載するつもりです。
では、良いお年をお迎えください。
[#地付き]野作正也