『アサイラム・ピース』より6編
アンナ・カヴァン
久霧亜子訳
目次
アサイラム・ピース 1
アサイラム・ピース 2
アサイラム・ピース 3
アサイラム・ピース 4
夜に
頭の中の機械
解説
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アサイラム・ピース 1
場面は今しも何か明るく陽気な軽喜劇が始まろうとしている舞台そっくりにしつらえられている。奥の方に大邸宅の一階部分が垣問見え、その左右の扉はテーブルと椅子が何組も並んでいる広いテラスに向けて開いている。正面には庭に続く低い石の階段。淡い色の巨犬な石柱がテラスの屋根を支えている。両翼の端の柱の奥に見える家の壁は、華やかなオレンジと紫の花房をつけた蔓植物に覆われている。満開の喇叭型の花が幾つか風に運ばれて、婚礼の行列の足もとに撤かれたかのように石段に散っている。前景、劇場ならば観客席にあたる場所からは中景の湖のある低地とその彼方の山なみにまで及ぶ壮大な展望が得られる。全景に眩ゆい真夏の陽光が溢れている。
最初は誰の姿も見えない。群をなす鳩が翼を翻えして二度旋回し、上空の蒼に溶けこんでいく。
テラスの右端の扉が開き、大勢の人が現れる。身なりのよい様々な年代の男女で、あちこちに立ちつくし、またグループでテーブルにつく。彼らは昼食を済ませたばかりである。ある者は煙草をふかし、ある者は片手にコーヒーカップを持っている。彼らの最も際立ったところは、その静寂だろう。話をしているのはごく少数で、他の者はあたかも一時的な仮死状態にあるか、あるいは何をするべきか教えてもらうのを待っているかのように、呆然とした様子である。やがて、彼らはゆっくりと漂うようにテラスを横切りはじめ、一人また一人と左手の扉の奥に消えていく。権威者の立場にあるらしい灰色の髪の女が彼らを誘導しているのがわかる。彼女は四人のグループを左端のテーブルに坐らせて一組のカードを渡し、一人がそれを機械的な手つきで配る。
暗色のスーツを着た肥った男がテラス中央の最も坐りごこちのよさそうな椅子を占領している。四十歳くらいで頭が薄くなりはじめており、丸く赤い陽気な顔つきである。彼は新聞を拡げて読みはじめる。何か、明確には指摘しがたい何かが、先ほど去っていった人々と彼とを区別している。おそらく、それは彼が灰色の髪の女の支配外に置かれているという、ただそれだけのことなのだろう。彼は〈教授〉である。
一、二分ののち、左手の扉が開き、三人の新しい登場人物がどこか人目を忍ぶような様子をみせて現れる。三人が巧みに権威者の手から逃れてきたのは明らかである。〈教授〉を見ると彼がそこにいることを予期していなかったらしく、三人は不安気にためらうが、〈教授〉は新聞ごしに笑いかけ、寛大な手つきでそのまま進むよう合図する。安堵した三人が通り過ぎていく時、カードをしている四人は微かな好奇心を見せて視線を向けるが、三人は進みつづけてテラスの最上段、〈教授〉の真正面に腰をおろす。
しばらくの間、三人はそこに無言で坐ったまま、黒眼鏡を通して眩光の奥をみつめている。三人組の真中の人物は黄色い髪の若い女性である。彼女は淡いピンクのドレスを優雅にまとっている。右側にいるのは耳の尖がった若い男で、欝々たる想いに耽りながら半ば悪意のある牧神の表情を浮かべている。反対側にいるのは悲しげなユダヤ人の顔を持つ年長の男であみ。三人の間の不思議な類似性は驚くべきものであるが、これは単に各人が優雅でほっそりとしており黒眼鏡をかけているという外観のみに発するものではない。
カードをしている四人は、一度は曖昧な探索心を表わしたものの、過ぎ行くものに対してそれ以上の関心を示すこともなく、命じられたゲームを無感動に続けており、それぞれが一個の時計の針であるかのように機械的な手つきでカードを配り受け取っている。〈教授〉が音高く新聞をめくる。段上の三人は身動きひとつせず、互いに近接していることによって、また束の間の逃亡という意識によって一種表現しがたい慰めを得ている。
不意に湖に方角から一群の鳩が飛び立ち、輝く翼を閃めかせてテラスの前で低く旋回する。と同時に、その翼のはばたきを見て突然生命を取り戻したかのように、三人は階段から立ち上がり、一体となった同じ悲痛な叫びを上げる。
今こそ三人に共通する恐るべき類似性がどこにあるのかがこのうえなく明白に判明する。華著な優美さと見えたものが実は憔悴の姿であることが暴露される。上を覆う布地の奥から衝撃的に突き出している腰骨、抵抗する肉を今にも破らんとしている頬骨。
関節構造が拡大された三人のマッチ棒のように痩せた細長く力ない手足がひきつり、〈教授〉が笑いを浮かべた人形使いのように急いでコントロールすると、その糸に三人は絶望的に服従する。そして三つの黒眼鏡の奥から大粒の涙が溢れ、彩色されたマリオネットの頬を伝ってゆっくりと石のテラスに滴り落ちていく。
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アサイラム・ピース 2
わたしには友人が、恋人がいた。あるいは夢に見ただけなのだろうか? 数えきれないほどの夢が押し寄せてきて、いまやわたしには真実と虚為とを判別することもおぼつかない。輝く鉱物の洞窟に閉じこめられた光のような夢。熱く重い夢。氷河期の夢。頭の中の機械のような夢。わたしは小人のようなグラスの底に苦い澱の沈んだ薬と裸の壁との間に体を横たえて、夢を想い起こそうとする。
誰かと手をつないで歩いているわたしが見える。感情と精神とがわたしのそれと溶け合って一つとなった人間だ。わたしたちはいっしょに様々な通りを歩いた。陽光に照らされた古いオリーブの樹林の傍らを、雲雀の歌声と共に泉の水飛沫を浴びる丘の斜面を、冷ややかな葉から雨滴がこぼれおちる小路を。わたしたちの間には無条件の理解と破壊しえない平安があった。それ以前は孤独で未完成だったわたしがいまや完全に充足されていた。わたしたちの思考は等しい速度のグレイハウンドのように並んで走っていく。音楽のような完壁さがわたしたちの融合した思考には存在していた。
どこか南の国の宿屋を覚えている。忘却の彼方に去って久しいが、ある危機がわたしたちの生活に訪れたのだ。わたしはただ風にあおられている糸杉の黒い炎と蒼い金属板のような硬質の空を覚えている、そして静かで揺ぎなく完全に安定したわたし自身の確信。「どんなことが起ころうと、わたしたちがいっしょにいるかぎり、それは取るに足りないことでしかない。どんな状況にあろうと、互いを見捨てたり、互いを傷つけたり、互いに誤まちをおかしたりするはずがない」
緩やかな悲しむべき心の冷化を、いったい誰が表現できるだろう? ほんの小さな傷口がやがて地獄よりも深い淵となることに初めて気づくのは、いったいいつの日のことなのだろう? 年月は一歩また一歩と階段を降りていくように過ぎていった。わたしはもはや陽の光の中を歩くことも、空に向けて囀る水晶の泉のような雲雀たちの歌を聞くこともなかった。わたしの手を包む愛のぬくもりにみちた手はどこにもない。わたしの思考は再び孤絶した断片的な調和なものとなり――音楽は消え去ってしまった。わたしは一人きりで快適な部屋で生活し、退屈な時と共と入生があてもなく流れすぎていくのを感じていた、指先からこぼれ落ちていく年老いた娘の人生。わたしは幾つもの花瓶に花を生けた。
それでもなお、わたしは時おり彼と会った。かつてその心も頭脳もわたしと溶け合っていたように思えた友と。わたしはみつめることもなく彼と会った。同じ人物でありながらもはや同じではない彼と。わたしにはまだ、何もかもが救済の希望すら届かない失われた存在になってしまったとは信じられなかった。わたしはまだ、いつの日か世界が色を失い、カーテンが引き裂かれて全てが元通りになるはずだと信じていたのだ。
しかし、いまわたしは孤独の床に横たわっている。体力は衰え、困惑している、筋肉はわたしに従おうとせず、思考は窮地に追いこまれた時の小動物のように異常な迷走を続ける。わたしは置き去りにされた迷子だ。
わたしをこの場所に連れてきたのは彼だった。彼はわたしの手を握った。カーテンの裂ける音が聞こえたように思ったほどだった。この長い月日を通じて初めてわたしたち二人は平安に包まれて共に休んだ。
そののち、わたしは彼が行ってしまったことを告げられた。長い間、わたしにはそれが信じられなかった。しかし、時はたち、一通の便りも届かない。もはや自分自身を欺きつづけることはできない。彼は行ってしまった。わたしを置き去りにして二度と戻ってはこないだろう。わたしはただ一人、永遠にこの部屋にいるのだ。一晩中あかりが灯っているこの場所、専門職の顔をもつ他人の群が半開きの扉からわたしを一瞥していく。わたしは待つ、待っている。グラスに入った苦い薬と壁とにはさまれて。いったいわたしは何を待っているのか? 鍛造鉄の網戸が窓を覆い、わたしの部屋の扉は開いているが、玄関の扉には錠が下りている。あかりは一晩中、その偏見のない眼でわたしを注視している。夜中に何度も奇妙な物音がする。わたしは待つ、待っている。おそらく、今やわたしの真近にまで迫っているはずの数々の夢を。
わたしには友人が、恋人がいた。それは夢だった。
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アサイラム・ピース 3
ハンスはエレベーターを出て診療所のホールを横切る。テーブルに置かれたサーモン・ピンクのグラジオラスの大花瓶の真横まで来て、エレベーターの扉を開けたままにしてきたことを思い出す。あともどりしてごく慎重に扉を閉め、それから改めて広大なホールをゆっくりと歩いていく。彼は小柄な痩せた男でかなり若く、耳が尖がっており、黒髪が額の中ほどまで伸びている。褐色の眼は、本来ならば穏和で悪戯っぽいところがうかがえるのだが、今は穏やかで悲しげだ。全体の印象はいわば辛うじて不安を押さえつけているという感じで、それは、輝く黒い靴の優柔不断な動きにも現れている。彼は、幾分場違いであるとはいえ、暗い色のタウン・スーツをスマートに着こなしている。
白い制服姿の女性が、中央扉の脇のデスタから朝の挨拶の言葉をかける。彼はそちらを見ることもなく、機械的に答える。扉の前で彼はしばしためらう。扉は開いたままなのだが、彼にとってそこを通り抜けるのは難業なのだ、ようやく彼は抑制を克服して外に出す。階段の上で、今度はどの方向に向かうべきか決断しかねて、再度、躊躇する。
太陽は眩しく輝いている。眼前には公園を思わせる緑の拡がりが開け、小さな木立やそれぞれ単独にそびえる見事なウェリントニア樹が点在している。人の姿はない。午前十一時、回復期にある患者はみな工芸室かあるいは種々の庭園で働いている時刻だ。
ハンスは落ち着かなげにあたりに眼を配る。この時刻に工芸室で働くことは彼の日常生活の一部でもある。数日前までは、必ず誰かが彼の不在を調べにきたものだが、今は誰も彼に近づこうとしない。彼が自分の時間をどのように過ごしているか誰も気にしていないようである。この事実は彼に異常に不吉な印象を与える。「兄が手紙を寄こしたに違いない。これ以上ぼくをここに置いておくだけの余裕がない、と。まもなくぼくはこの診療所から追い出されるだろう――そうしたら、いったいぼくはどうなるんだ?」
彼は溜息をつき、この数日間もちあるいてしわくちゃになってしまった手紙をポケットから取り出す。中部ヨーロッパにいる兄からのもので、書かれてあるのは、家族の将来がかかっている工場に関する悪いニュースばかりだ――ストライキ、解雇、原材料の価格高騰。全村がこの工場に依拠しており、従って全村が困窮しているのである。
ハンスは再び深い溜息をついて手紙を折りたたみもせずにポケットに戻す。彼は黒眼鏡を取り出し、漠然とした恐慌をもたらす陽の輝きから自らを隠すため、それをかける。
不意に彼の顔色が変わる。二十歳くらいの若い女性が自転車に乗って近づいてくる。彼女は体操の教官で、数日前までハンスが邪気のない恋愛遊戯を楽しんでいた相手だ。今の彼は強い不安感に捕えられていて、恋愛など考えるどころではないが、それでも無意識のうちに、陽にやけた彼女のあらわな腕と脚の美しい黄金色を嘆賞している。自転車のハンドルに黒い水着がかかっている。
「いっしょに泳ぎに行こうと誘ってくれないものだろうか……」心の内でそう思うと、熱っぽい期待の微笑が顔に浮かぶ、実際に湖で泳ぎたいわけではない。この時、彼が何よりも強く切望しているのは笑いと親交と友情ある言葉なのだ。
娘は彼に並びかける。豊かな縮れ毛が陽をあびて白雲のようへにふくらむ。砂利がきしみ、砂粒の小片がタイヤの下から弾ねあがる。挨拶ときらめく歯と速やかな回転音。彼女は行ってしまう。
ハンスはしばらく立ちつくしたまま、去っていく体操の女教師の姿をみつめている。笑いがゆっくりと顔から消えてゆき、やがて彼は歩きはじめる、当てのなさそうな歩きぶりだが、当然のごとくそれは工芸室の方に向かっている。やがて、幾人かの患者が働いている野菜園にさしかかる。青いオーバーオールを着た患者のうちの二人が、ハンスの歩いている小道に接した乾いた地面に鍬を入れている。傍らにいる一人の男は園丁のように見えるが、実は患者たちを監視している看護人だ。ハンスが立ちどまってみつめても作業者たちはその視線に応じない。地面は焼かれ乾ききっていて、その重労働に、彼らの顔には汗が流れ落ちている。二人の男は互いに話を交わすこともなく、幸福であるようにも見えない。だがハンスは、重労働を嫌っているにもかかわらず、ほとんど羨望に近い気持を抱く。規格的生活という確定した秩序の内にある彼らに対して、ハンスは今やアウトサイダーである自分を感じる。彼はゆっくり歩きはじめ、黒イチゴを摘んでいる別の男の前にさしかかる。黒イチゴの繁みは針金に絡みつくよう植えられてあり、その患者はハンスに背を向けて厄介な作業に専念し、注意深くイチゴを摘んでは籠に入れている。ハンスは話しかけたいと思ったが、男の背の無反応な表情に思いとどまり、沈黙したまま、ぼんやりと小道を眺めながら歩きつづける。
ハンスの思考は、いつもの惨めなパターンヘと後退していく――金銭問題、回復しない健康、不安定な現状。いま一度、彼は指先でポケットの手紙を探る、そう、あの貧相な老いぼれ工場の状態は確かに思わしくない――おそらくもはや臨終といってもいいだろう。父さんがいたら、どんなに心を痛めたことか! 幸せなことに、老人はこうした恐るべき時代を眼のあたりにするまで生きながらえずにすんだ。だが、ハンス自身の事業はいったいどうなっているのか? ささやかな個人事業ではあるけれど、彼一人の力で築き上げてきた仕事。共同経営者がこれほど長い間、なぜ連絡してこないのか、ハンスがその理由を考えてみるのももう百回目にもなる。前に手紙を寄こしてから既に一か月以上たっている。「病気にでもなったのだろうか? ぼくを裏切るつもりなのか? それとも彼は実際に手紙を寄こしているのに、もっと悪いニュースが書かれているために、連中がぼくらに渡してくれないのだろうか? 本当はぼくが出かけて行って、何が起こっているのか見届けてくるべきなのだ。すぐに――明日にでも出発すべきなのだ。これ以上待っていたら手遅れになってしまうかもしれない」しかし、長時間ひとりきりで汽車旅をし、見知らぬ人と話をし、仕事上の問題に専念する、そういった考えは、哀れなハンスには過大にすぎるものである。「ぼくにはできない。無駄なことだ。ぼくのいまの状態では、連中だってぼくにそんなことができるのは考えないだろう。ぼくは病気だ――眠れない、食べられない、決断することもできない。もう、適確な思考をすることさえできないのだ……」彼は絶望的なしぐさで黒い髪を払うように眼鏡を取ったが、すぐに目がくらんで、急いで鼻の上に戻す。
やがてハンスは工芸室に到着する。内部から活気にみちた混然たる騒めきが聞こえてくる。大工作業室で誰かがハンマーをふるっている。またどこか別の部屋の機械が雀蜂の羽音のような微かな唸りをあげている。それら種々の仕事場は全て、ハンスが歩いている小道から幾つかの階段によって通じるヴェランダに向けて開いているが、見上げるだけで、窓や扉の付近にたくさんの顔が見える。その幾人かとハンスは頷きかわす。誰もが製本や革細工や籠編に忙しそうだ、工芸室の担当宮がハンスにいい日好だというだけのために、ヴェランダに出てくる。まるで、診療所内の全員が作業に勤しんでいる時でもハンスが戸外をぶらついているのは全くあたりまえだといわんばかりの振舞である。監視者側のこの態度が若者の最悪の疑念に確信を与え、彼はいそいでその場を立ち去る。
一番端の開いた扉の横に、少女が一人で座って画架のスケッチと取り組んでいる。「あら、ハンス!」彼女は愛らしく呼びかけてくる。
ハンスは足を停めてヴェランダの石壁に寄りかかる。彼女が描いているものを見たいとは思ったのだが、階段を登るのに要求される労力はあまりに大きく、彼はそこに留まったまま、ものほしげな眼差しを向ける。
「あなた、どうしていつもそんな黒い服ばかり着ているの?」彼女が訊ねる。「とても暑苦しそうだし、陰気だわ――まるでお葬式か、退屈な商談の約束にでも出かけるところみたい」
「そう、まあ、そのようなものだね」ハンスは両の掌に石の温りを感じながら、説明しはじめる。「ぼくは、何を着たらいいのか、絶対に決断できないんだ。毎朝、着換えようという時になっていつもありったけのスーツを出して並べでみるんだけれど、心を決めるのに三十分か、もう少し長いか、とにかくそれくらいかかってしまう。靴の場合も全く同じ――ネクタイも――本当に恐ろしいことだった。こんな馬鹿げたことで悩んでいるなんて、考えられないだろうね。こうして、ぼくはとうとう、選択を回避する方法を思いついた。毎日、同じスーツを着ることにしたんだ。これは、ジュネーブでの例のコンサートに連れて行かれた時に着ていた服。あれ以来、ずっとこれを着ている」
少女はもう何も言おうとしない。彼女はハンスの見捨てちれた表情を見ようとしない。おそらく、興味がないのだろう。おそらく、ちょうどその時、絵のほうに心を奪われてしまったのだろう。おそらく、ただ単に、夢の中に落ちこんでいっただけのことなのだろう。
ハンスはそこを離れる。不意に彼は憎悪のまざった羨望を感じる。「彼女は元気だ――少くとも、ばくの病状とは比べものにならないほどだ。それなのに、彼女は好きなだけここに留まっていられる。一方、ぼくはといえば、一、二日のうちに追い出されて、この現実世界に直面しなければならない」
これまでハンスは無為な引き延ばしをつづけてきたのだが、ようやく心を決めて勢いよく歩きはじめる。もう一度、共同経営者に電報を打とう。今度こそ、必ず返事をくれるように書いておこう。ハンスは村に至る埃っぽい公道に出る。外に出る権利は彼にはないのだが、それでどうなるというわけでもない、以前も何度も出ていっていることではあるし、どのみち、この数日間は彼が何をしようとも誰も気にかけたりはしていないようなのである。
ほどなく、熱気のために戸を閉めきった、みすぼらしく薄汚ない家の立ち並ぶ通りにさしかかる。ほとんどの家が牛小舎か馬屋とひとつづきになっている。一軒の家の正面に積まれた堆肥の山に陽があたり、ゆるやかに湯気がたちのぼっている。堆肥の強烈な臭いと熱気、それに急いで歩いてきたことが重なって、ハンスはしばしば目まいを感じる。頭を垂れて静かに立ちつくし、靴を見降ろすが、それは埃のおかげでいまや浮浪者の靴のように真白になってしまっている。無器用な指使いで、上着のボタンをはずす。シャツの正面の小さな裂け目が眼にとまる。「だが、ぼくはボロを着て歩きまわってやる――完全なボロ服で! 次に待ちうけているのは貧民窟だろう」ハンスは乱れた呼吸の下で、一種しいたげられた穏やかな驚きをこめて、そう呟く。
やがて郵便局の前に来る。ハンスは自らを引きずるようにして中に人る。空っぽの部屋には息がつまるような乾いたインクの匂いが漂っていて、窓のすぐ外では、うすぎたない痩せ細った数羽の雌鶏が、伸びほうだいの昼顔の絡みついた針金の囲いの中で地面をついばんでいる。ハンスは既にこのうえもなく近しいものとなってしまったその場所の隅から隅までを嫌悪の念をこめてあらためてみつめる。局長が現れる。前白頭で年配の大鼓腹の田舎者だ。ハンスは慎重に考えぬいたあげく、ようやく用件を書いて、カウンター越しに電報を局長に手渡す。
若者が立ち去った後、局長は巨大な腹に電報を押しつけたまま立ちつくして、半ば発信人が戻って来るのを期待しているがごとく、扉をみつめている。それからようやく、彼は慣れた手つきで電報用紙を細かく引き裂く作業にかかり、やがてひとにぎりの紙きれとなってしまったそれを、開いた窓から無造作に投げ出す。貧欲に眼を光らせた雌鶏どもが、うろこのついた頑丈な脚を動かして殺到し、引き裂かれた細片にとびかかるのだが、すぐにその紙くずが食べられないものであることに気づくと、不快げにそれを見捨て、再び固い大地をついばむ無益な労働に戻っていく。
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アサイラム・ピース 4
初老の男とその妻が主任医師の書斎に立っている。夫のほうは背が高く大柄で、少しばかり腰が曲がりはじめている。しかつめらしく、もったいぶった顔に長い灰色の口髭をはやし、眼の下にたるみがある。ボタン穴に細い赤のリボンをつけている。男は年令にふさわしく堂々たる風采で、明らかに、人を指揮する立場にあることに慣れている人物であるらしい。一方、妻のほうは、漠然とした印象の薄い容貌の女性だ。一見しただけで、彼女が結婚以来、夫の支配下にあり、それ以前は両親の支配下にあったことがわかる。
暑い夏の日の正午過ぎ。会見が終わったところである。デスクの後の主任医師が立ち上がる。医師は訪問客と同じくらい長身だが、整った顔だち、華奢な体つき、そして男盛りといった年代で、灰色の条が適度に走りはじめたばかりの豊かに波打つ髪をかなり長く伸ばしている。美しいシルヴァーグレイのスーツを着て、褐色と白の靴をはいている。広々とした天井の高い部屋には贅沢な家具が並んでいるが、フランス窓に引かれたカーテンのおかげで室内はかなり暗い。オー・デ・コロン・アンブレの明瞭な香りが漂っているが、それは医師そのひとから、発している。訪問者に強い印象を与えるために、どこか神秘的な雰囲気をかもしだす努力が払われているような印象を受ける。花があり、暖昧でアレゴリカルな大きな絵が何枚も並んでいる。
二人連はゆっくりとドアの方に向かう。妻のほうは心にかかっていることがあるらしく、立ち去りかねている。言いたいことがあるのだが、この部屋の雰囲気と、そして映画俳優のように彼女をみつめている医師におびえているのだ。彼女はようやくのことで質問を口にする。
「お願いです、先生、帰る前にほんのちょっとだけでも、あの娘に会わせていただけないものでしょうか。こんなにも遠くから来たのですし――それに、前にあの娘と会ってから、とても長い時が……」その声はまさに予想にたがわず、自己卑下的な憶病さにみちている。哀れな老婦人は長旅に疲れきっていて、今にも泣きださんばかりといった様子で立ちつくしたまま、形のくずれた黒いハンドバックを神経質に握りしめ、探るような眼を医師長に向ける。
「奥様、それは大変な誤ちとなるかもしれません。お嬢さんの心を乱して再発を引き起こすとも考えられます。個人的にはたいへん残念に思いますが、我々は何よりもまず、患者にとって最も益があることを考慮せねばならないのです。違いますかな? これだけは保証いたしますが、お嬢さんは極めて満足すべき状態に落ちついておられる。お嬢さんの回復ぶりにはわたしも大いに感嘆しており、他の医師たちからも同様の喜ばしい報告が届いております。我々の手に任せていただければ、これっぽっちも心配されるには及びません。お嬢さんは元気で幸福で、この共同生活にも驚くほどよく溶けこんでおられます」
医師の教養溢れる声は絹よりも柔らかに響いているが、母親にはこの演説の後半部はほとんど聞こえていない。彼女が理解したのはただ、わが子に会うことを許されないというその点だけである。これほど近くに、おそらく声をかければ聴こえるほど近くにいながら、医療上の権限やら規律やらといった眼に見えない厚い防壁の陰に隠されてしまっているのだ。眼の前に霞がかかり、彼女はもはや、自分の進む方向すらはっきりと見定めることができないが、それもたいしたことではなく、夫が腕を取って安全に彼女をドアの外へ導いていく。
「何事も、先生の言葉に従わなくてはならん」夫はそう言う。それから、彼女には、主任医師の私宅での昼食の招待を断る夫の声が聞こえる。「たいへん有難い御申し出ですが――申しわけありません。ローザンヌ発の特急に間に合うよう、急がなければなりませんもので」
彼女は震えながら、夫の冷厳な腕に支えられて、磨きぬかれた通廊を歩いていく。二人を案内する白い外衣姿の付添人の姿も眼に入らない。この熱気にもかかわらず、彼女は凍りつくような寒気と、そして老いを感じている。いまや、彼女の前には空虚な家に戻る退屈で疲労にみちた汽車の旅以外には何も残されていないのである。
医師長は、年配の二人連から逃れることができて安堵している。当然、昼食をもてなさなければならないことになるだろうと予想していたのだ。二人を乗せた車の音が消え去ると同時に彼はフランス窓を開いて陽光の中に歩みだす。彼の家は少し離れた湖畔にある。そこに向かって歩いていく途中、すれ違う誰もが足を停めて頭を下げ、優雅で機敏な歩調で歩いていく彼に、この整った容貌の頭脳明析な成功者たる礼儀正しい医師に敬服の眼差しを贈る。
一方、マドモワゼル・ゼリは自分の部屋で昼食の仕度にかかっている、二十代前半の肥満した鈍重な容貌の娘で、どちらかといえば、巨大にふくれあがった子供という感じである。彼女の身体は幼ない子供のように扱いにくく見え、顔にはある種の狡猜さをひめた子供っぽい単純な表情が浮かんでいる。顔色は青白く不健康で、髪はシャンプーの必要がある。どこから見ても相当にだらしない格好で、ストッキングには雛がより、背中のところで白いリネンのスカートから水玉模様のブラウスがはみ出して、下着が覗いている。看護婦は窓際に坐って刺繍に專念していたが、ふと眼を向けると跳び上がって、苛立たしげに彼女の服を直す。
「どうして身なりをきちんとしておけないんです。マドモワゼル」看護婦は口やかましく叱りつける。「わたしがちゃんとしてあげたかと思うと、あなたは二分とたたないうちに元通りのひどい格好に戻ってしまう。髪もそう――まだ櫛を入れてないんでしょう。それに、その手――昼食前なのに洗ったの? 見せてごらんなさい――まあ、やっぱりね。さあ、ブラシでよくこすってらっしゃい。爪も真黒じゃないの」そう言って娘を軽くこづき、洗面台の方に追いやる。
ゼリはおとなしく蛇口をひねる。水が洗面台に流れこむ間、彼女は不快げにこの同室者を一瞥する。新しい看護婦である。これまで彼女のもとに長く居ついた看護婦は一人もいない。
「どうしてこの人は、あんなふうにがみがみ言うんだろう?」彼女は考える。「こんな間抜けどもを一日中わたしといっしょにしておくなんて。昼も夜も……いつもいつも間抜けな声ばかり……それも、何もわからないただの田舎女じゃないの――もう我慢できないわ。母さんさえ来てくれたら……母さんに話すことさえできたら……決してごんなことを許すはずがないわ」
水に手をつけて立ちつくしたまま、彼女は何をせよと言われたのかすっかり失念してしまっている。看護婦は、憤慨して当然の状況下でなおも自己を抑制するという悲愴なる表情を浮かべて近づいてくると、水を流してタオルを渡し、きびきびと手際よく髪をととのえる。「さあ、さあ、急がなくては。銅鑼が鳴ったわ――聞こえなかったの?」
ゼリはうれしそうに食堂に入っていく。彼女は食べ物が大好きなのだ。だが、今日は、日頃から嫌っている若いイタリア人の隣に席が定められており、その事実によって彼女の楽しみは損われる。若者と看護婦の間に腰を降ろしたゼリは、斜めから疑念の眼差しを向ける。この細い眼のモジャモジャ頭の若者は意地悪な悪ふざけで彼女を悩ませ困らせるのである。
今日の彼は、ゼリを平穏の内に置いておくつもりであるかのように見うけられる。最初の料理を食べ終えて皿が運び去られるまで、若者は全く何も言わない、そして、ウェイターがおさえた音で新しい皿を並べはじめたその時、彼はゼリの方に身を乗り出して耳もとに囁きかける。「ところで、今日の母上と父上の御気嫌はいかがでした? マドモワゼル」
「わたしの母と父ですって? 二人ともここに来たこともないわ」彼女は空虚な、だが疑念だけは残した輝きのない眼で若者を見る。
「おや、嘘じゃありませんよ――今朝、ここに来ておられましたよ。ぼくが廊下にいると、お二人がドクターの書斎から出てきたんです。ドクターはさよならを言ってました。ぼくはこの眼で見たし、名前もはっきりと聞きました」イタリア人の青年は食物だけにしか関心がないといった様子だが、実は全身、油断なき好奇心の塊と化しているのだ。
ゼリは皿の仔牛肉を一口飲べる。不意にいま若者が言ったことの意味を把む。言葉の内容がようやく理解できたのだ。彼女の手からナイフとフォークが落ちる。「母さんがここに来た……そして行ってしまった……わたしに会わずに!」
彼女の席は二重扉に最も近いテーブルにある。ドアは彼女の椅子のほぼ真後だ。ただ席を立って二、三歩進むだけでいい。こうして、彼女は部屋の外に出る。一瞬、全てが未決状態に留めおかれる。ウェイターたちは皿を差しだしたままの姿勢で立ちつくす。騒めきも混乱も起こらない。その間、誰一人として何が起こったのか理解していないようだ。そののち、娘の看護婦が跳び上がって後を追う。同時に、部屋のあちこちで他の者たちが立ち上がり、外に出ていく。若いイタリア人は自分の皿の上に覆いかぶさるように身を屈めている。口にはいっぱいに食物が詰めこまれ、顎は厳粛に咀嚼運動をつづけている。だが、彼の眼尻には悪戯っぽい喜びの皺が現れている。彼は幸福なのだ。
ゼリはホールを駆けぬけて主任医師の書斎に向かう。牝診療所の玄関の扉は大きく開かれていて、追手たちは当然、彼女がそこから出ていったと思うだろう。ゼリが書斎へ向かったのは追手から逃れようと考えたからではなく、ただ単に、イタリア人が彼女の母をそこで見たと言ったからである。むろん、その部屋には、いまは誰もいないが、フランス窓は医師が出ていった時のまま開け放してあり、ゼリはそこを通りぬける。やがて松林に向けて下っていく草の土手に出る。彼女は、足によくあっていないハイヒールのおかげでつまづき、よろめきながら、ぎこちない足取りで急な斜面を駆け降りていく。林に入ると、彼女はいっそう走りにくくなったことに気づく。松葉は滑りやすく、不安定な根が絶えず足をすくおうとするのだ。彼女は調子を乱し、疲労を感じる。静まりかえった林に彼女の息が悲痛なすすり泣きのように響きわたり、心臓の鼓動が滝のように途切れなく、激しく轟く。もつれた髪が垂れかかっている顔は汗で光り、片方の靴はどこかへ行ってしまっていて、いまや彼女は心身ともに乱れきっている。彼女はもう、自分がなぜ走っているのか、また、どこへ向かっているのかもわからない。ただ一言「母さん! 母さん!」それだけを頭の中で叫びつづけている。
突然、彼女は急停止を余儀なくされる。野獣の群を閉じこめておけるほど頑丈な四メートル近くもある鉄条網が地所の境界としてめぐらされていたのだ。盲滅法に走っていたゼリはこの鉄条網に気づかず、激突してしまう。細かな網目に両手を叩きつけながら、彼女の無様な肉体は揺らぎ、地面に崩れ落ちていく。無表情な樹の下に積もった松葉の山に、ゼリは死んだように横たわる。彼女の粗暴な闖入によって破られた木立のささやかな調和が、ゆっくりと戻ってくる。野鳩が頭上でクークーと鳴きはじめる。その穏やかな夏の音、子供時代にはいつも母親のミシンを思い起こさせたその音も、いまのゼリにはもはや耐えがたい。心臓が高鳴り、彼女は皮膚を刺す鋭い松葉をひとすくい掴み取る。そしで、唾液と口紅で汚れた厚い唇の間から発せられる陰鬱な孤独の叫び、この叫びが、まもなく追手たちを正しい方角へ導くことになるだろう。
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夜に
冬の夜の一刻一刻はなんとゆるやかに過ぎていくのだろう。それなのに、時そのものはさほど長いようにも思えない。教会の大時計は早くも鈍重な田園風の声音で再び時を告げており、その響きは、寒さのために半ば麻痺しているようだ。わたしはベッドに横たわり、充分に訓練を受けた古顔の囚人のごとく、不眠といういつものパターンに身を任ねる。これは、わたしが隅々まで充分に知りつくしている日常事である。
わたしの看守はこの部屋に共にいるが、反抗したり厄介事を起こしたりということでわたしを責めることはできない。わたしは看守の注意を引きたくなく、静かに身を横たえている。あたかもベッドがわたしの棺であるかのように。もし、わたしが一時間動かなかったとすれば、おそらく、彼はそのままわたしを放置して眠らせてくれるだろう。
当然ながら、わたしにはあかりをつけることができない。部屋は暗く、黒ビロードで縁取られた箱を、誰かが凍った井戸の中へ落としてしまったかのようだ。全てが静まりかえったそこで、時おり、霜に覆われた家の骨組がきしみ、屋根から雪の塊がすべり落ちてひそかな溜息のような音だけを残す。わたしは闇の中で眼を開く、目蓋は、涙が氷結して白霜化してしまったかのように硬ばっている。もし、看守を見ることさえできれば、それもたいして悪いものではないだろう。彼がそこで監視をつづけているのを知るだけで、安らぎとなろう。最初、わたしは、彼が黒いカーテンのように扉の陰に立っているような気がする。天井が箱の蓋のごとく部屋の上に持ちあげられ、彼の背が伸びてゆく。楡の樹を越えてなお高く、月の凍れる山々に向かってそびえたっていく。だが、次の瞬間、わたしは思い違いをしているように感じ、彼はわたしのすぐ横の床の上にうずくまっているように思えてくる。
鉄の帯がわたしの頭をしめつけている。そして、ちょうどいま、この瞬間に看守が冷え切ったその金属に音高く響く一撃を加え、わたしの眼窩に疹痛の針を送りこむ。彼はわたしの探求的な思考を承認しない旨を表明しているのだ。あるいは、ただ単に、わたしに対する権威をみせつけたいだけなのかもしれない、ともあれ、わたしはあわてて再び眼を閉じ、息をする勇気すら失せて掛布の下で身を硬くする。
心を動かさないでおくために、わたしは初めて診察を受けに来た時に外国人の医師が教えてくれた処法を一通り試みはじめる。わたしは繰り返し、自分に言い聞かせる。不眠の犠牲になるような音などはしないのだと。わたしが眼を覚ましているのは、思考を継続させておきたいという、ただそれだけの理由によるものなのだと。わたしは、未来も過去もない新生児の皮膚に包まれた自分を想像しようと試みる。いま、看守がわたしの心の中を覗いたならば、とわたしは思う、彼は、そこで生起している事に対していかなる異議を唱えることもかなうまい。船長の顔のようにいかめしく、細く鋭いオランダ人の医師の顔が、わたしの前を通りすぎていく。不意に、近くで鶏が鬨を告げる――この世のものとも思われぬ夢幻的な声で、いまだ闇と霜に閉ざされているこの世界に向けて。鶏の鬨は鋭く開いて燃えあがる三枚の尖がった花弁と化し、夜の黒い荒野の中に、瞬時、赤く輝くイチハツの花を咲かせる。
ようやくわたしは眠りの淵の際に立つ。身体の力が抜けていくのが感じられ、思考が混濁しはじめる。様々な想念は、これといって際立った色彩もない雑草を編んだ糸となって、ゆるやかに波打ちながら無色の水の中にとけこんでいく。
左手がひきつり、わたしは再びはっきりと目覚める。看守の前にわたしを呼び戻したのは、教会の大時計の音だ。五つ打ったか、それとも四つだったろうか? 疲れきっているわたしには確信が持てない。ともかく、夜はもうすぐ明けてしまう。頭の鉄帯はさらにきつく締まり、ずれおちて眼球を圧迫している。それでも、この苛酷な圧迫がもたらす苦痛も、頭蓋内部のどこかから、脳皮質からわきおこってくる疼痛に比べれば、さほどのものとは思えない。病み苦しんでいるのは脳その心のなのだ。その時不意に、わたしは孤独を、腹立ちを感じる。なぜわたし一人が苦悶の夜を過ごすよう定められているのか。世界中の人々が安らかに眠っている時に、不可視の看守を横に置いて。いかなる法によってわたしは審判を受け、有罪の宣告を与えられたのか。身に覚えはなく、さらに、誰がいかなる罪状で告訴したかということさえ知らないというのに、これほど重い判決を受けようとは。荒々しい衝動が突き上げる。抵抗せよ、証言審理を要求せよ、これ以上、こうした不当な扱いを受けることを拒否せよ。
だが、裁判官の居場所すらわからないのに、いったい誰に対して控訴できるというのか。いかなる罪で告訴されたのか、それも全くわからないというのに、どうして自分の無罪を証明しうる希望が持てよう、いや、われわれのような人間に対する審判の場はこの世には存在しない。われわれにできることは、ただ、可能な限り雄々しく苦しみを甘受し、迫害者に恥を知らしめることしかないのだ。
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頭の中の機械
何か物音がする。とてもかすかで遠い音、そのうえ、わたしには何の関りもない音で、関心を払うべき必要などこれっぽっちもありはしない。にもかかわらず、わたしを目覚めさせるには充分でしかもその穏やかならざるやりくちは空襲警報のように激しく荒々しく衝撃的だ。時計がちょうど七時を打っている。わたしが眠っていたのは一時間か、あるいは二時間か。こんなふうに残酷に起こされて跳ねおきてみると、薄れゆく眠りの縁が悪意をもって引きはがされた暗い掛布のように、ベッドの足元をすべり、たちまち閉じた扉の下に消えていくのを、一瞬、視野の隅に捕えることができる。それを追って駈け出しても無駄だし、全くの徒労でしかない。わたしは、思わしくないことにもうはっきりと目覚めてしまったのだ。わたしの支配者、鉄輪は早くも初期活動の震動をはじめている。全機構が、わたしが魂を奪われた奴隷として仕える単調な憎むべき作動を開始しようと準備している。
「停まって! もう少し待って――早すぎる――もう少しだけ猶予を!」全く無益なことがわかっていながら、わたしは叫ぶ。「あと少しだけ眠らせて――一時間――三十分――それだけでいい」
感覚のない機械類に訴えて、いったいどうなるというのか? 歯車が動き、エンジンがゆっくりとはずみをつけていき、低いハム音もすでに知覚できるまでに至っている。どうして全ての音が、難渋する始動音の一つ一つの震えがこれほどはっきりと聞きとれるのだろう? 慣性という忌わしい親近感がその最も悪しき面であり、血液内の疾病同様、耐え難いと同時に逃れられないものなのだ。今朝、それは反抗へ、狂気へとわたしを駆りたてる、頭を壁に打ちつけたい、頭を弾丸で撃ち砕きたい、この機械を頭蓋骨ともども、粉々になるまで打ちのめしてやりたい。
「なんて不公平な!」自分がそう呼びかける声が聞こえる――何に対してか、誰に対してか、知る人はいないだろう。「ほとんど眠らずに、こんなに長い時間働くことなどできるはずがない。わたしがこんなレバーや鉄輪の真只中で死にかけているのを知っている人はいないのだろうか? 心配してくれる人はいないのだろうか? 誰もわたしを救えないのだろうか? 本当に何も悪いことなどしていないのに――ひどく気分が悪い――眼をあけることもできそうにない」
そして事実、頭がおそろしく痛み、わたしは崩壊の一歩手前にいるのを感じる。
不意にわたしは、これほどまでに眼を痛めつけているものが、太陽の発する光であることに気づく。そう、戸外では現実に太陽が輝き、雪のかわりにきらめく露が草を覆いつくし、薔薇の繁みの下には早くもクロッカスが咲き乱れてシンメトリカルな焔を小さく上品に燃えたたせている。冬は過ぎ去って、春が来たのだ。驚いたわたしは窓に駈け寄り、外を見る。いったい何が起こったのだろう。わたしは目妄いを感じ、当惑する。こんなことがありうるのだろうか。わたしはまだ、太陽が輝き、春には草花が咲きほこる世界にいるのだろうか。そのような世界からは遠い昔に追放されたと思っていたのに。わたしは疲れた眼をこすってみる。それでもなお、陽の光はあり、ミヤマカラスが楡の老木の巣のまわりで騒がしく羽ばたいていて、やがてわたしは、その小さな鳥たちのさえずりのあまりの美しさに聴きほれてしまう。しかし、そこに立ちつくしていても、すべての幸福な事どもは遠のきはじめ、夢のプラズマの織物のように透明な幻影と化していく。それを押しのけて現れる滑車や鉄輪や棒軸の凶悪な機械群の外郭、それらはいつもながらの規則正しい非情な展開を示し、徐々に執拗さを増しながら、わたしに注目を強要しはじめる。
遠景に溶け入ろうとする蜃気楼のように、目を凝らすとまだかすかに見わけることができる。陽に照らされた草地、青い青い空のアーチ、そこを遙かな放物線を描いて横切り飛ぶ緑の姿、幻の中に投じられたエメラルドの短剣の亡霊。
「ああ、停まれ――停まれ! もう一分――あと一分だけ、緑のキツツキを見る時間を!」わたしは懇願するが、手はすでに自動的な従順さを示していつもの忌わしい任務を遂行しはじめている。
機械が緑のキツツキのことを気にかけたりするだろうか。鉄輪はさらに速く回転し、ピストンはシリンダーの中をなめらかに往復し、機械類の騒音が全世界を充たしていく。恐怖のあまりに奴隷のごとき服従に陥って以来、わたしは自分の足で立つことすらほとんどできなくなっているにもかかわらず、いまなおある非情なる源からこの苛酷なる労働をつづける力を引き出しているのだ。
磨きあげられた金嘱の表面に、わたしはふと自分の顔が映っているのに気づく。蒼白く、打ちのめされた孤独な顔で、瞳は何も見ておらず、悪夢の世界で孤立した恐怖と脅えの表情を浮かべている。何か、はっきりとはわからない何かが、わたしに子供時代のことを考えさせる。硬い木の机の前に坐っていた小学生の自分、風に豊かな金髪を揺すられながら公園の白鳥に餌をやっていた幼ない少女の自分を思い出す。そしてわたしにとって不思議であり悲しくも思えるのは、そうした幼ない頃の年月のすべてが今日の準備に費されたことだ。今日わたしは誰からも忘れ去られ、疲労しきった顔を見せて、太陽から遠く隔った場所で機械類に仕えなければならない。
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解説
[#地付き]久霧亜子
アンナ・カヴァンは一九〇一年フランス生まれ。少女時代をヨーロッパの数ヵ国およびカリフォルニアで過ごし、ビルマや南アフリカ、ニュージーランド、スカンジナビアなどで暮らしていたこともある。二度結婚。二度離婚・息子が一人いたが、第二次大戦で戦死、本名不詳。(追記:本名ヘレン・ウッズ、その後、最初の結婚でヘレン・ファーガスンとなった。)
二〇年代から三〇年代にかけて、カヴァンはヘレン・ファーガスンという名で伝統的なロマンティック・ノヴェルを書いていたが、三〇年代半ばごろからヘロインを常用しはじめ、それと同時に作品も、ときすまされた感覚によってとらえられた幻想的な内面世思の表現に変わっていった。頭の中の機械、不可視の看守――束の間の救済の幻想を抱いたかと思うと、次の瞬問には全てが否定されてしまう……カヴァンの作品は多かれ少なかれ、このパターンの繰り返しである。オールディスはカヴァンの名に『審判』のKをみているが、それ以上に作品そのもの、そして救いへの希望と絶望に終始したカヴァン自身の存在がきわめてカフカに近いものであるといえるだろう。
12号に掲載した「頭の中の機械』および本号で紹介した五篇はいずれも、Asylum Piece(療養所断片)という短篇集におさめられたもので、これは精神病院に数度入院した経験をもとにして書かれている。ここに描かれた静かな絶望と呼ぶべき救いのなさは、カヴァンの精神存在を何よりも明瞭に語っている。カヴァンは自殺未遂や薬の定量超過事件を何度も起こしているが、死が決して救いにならないことは彼女自身が、最もよく知っていたに違いない。カヴァンにできることは、ただその奥深い世界をさまよい、みつめ、そして書きつづけることだけだったのである。
一九六八年、ロンドンの自宅のベッドで死んだカヴァンの傍には、ヘロインが入ったままの注射器が置かれてあった。
アサイラム・ピース1〜4
夜に
季刊 NW-SF 13号(1977/10)
頭の中の機械
季刊 NW-SF 12号(1976/8)