異邦人
カミユ/窪田啓作
目 次
異邦人
第一部
第二部
解説(白井浩司)
年譜
[#改ページ]
異邦人
第一部
きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。
養老院はアルジェから八十キロの、マランゴにある。二時のバスに乗れば、午後のうちに着くだろう。そうすれば、お通夜《つや》をして、明くる日の夕方帰って来られる。私は主人に二日間の休暇を願い出た。こんな事情があったのでは、休暇をことわるわけにはゆかないが、彼は不満な様子だった。「私のせいではないんです」といってやったが、彼は返事をしなかった。そこで、こんなことは、口にすべきではなかった、と思った。とにかく、言いわけなどしないでもよかった。むしろ彼の方が私に向かってお悔みをいわなければならないはずだ。が、彼が実際悔みをいうのはもちろん明後日、喪服姿の私に出会ったときになろう。差当たりは、ママンが死んでいないみたいだ。埋葬が済んだら、反対にこれは処理ずみの事柄《ことがら》となり、すべてが、もっと公《おおやけ》のかたちをとるだろう。
私は二時のバスに乗った。ひどく暑かった。いつもの通り、レストランで、セレストのところで、食事をした。みんな私に対して、ひどく気の毒そうにしていた。「母親ってものは、かけがえがない」とセレストは私にいった。私が出掛けるとき、みんな戸口まで送って来た。エマニュエルの部屋へ、黒いネクタイと腕章を借りに登ってゆかねばならなかったから、私は気が気じゃなかった。彼は、数カ月前叔父をなくしたのだ。
私は出発に遅れないように走った。私がまどろんだのは、きっと、こんなにいそいだり、走ったりしたためだった。それに加えて、車体の動揺やガソリンのにおいや、道路や空の照り返しのせいもある。ほとんど車の走るあいだじゅう眠り続けた。眼《め》がさめたときには、軍人に寄りかかっていた。彼は私に微笑して、遠くから来たのか、と尋ねた。別に話したくもなかったから、私は「そうです」といった。
養老院は村から二キロのところにある。私はその道を歩いた。すぐにママンに会いたいと思ったが、門衛は院長に会わなければならない、といった。彼の手がふさがっていたので、しばらく待った。その間じゅう、門衛が話しかけて来た。それから院長に会った。その事務室で彼は私を迎えた。小柄な老人で、レジオン・ドヌール勲章を着けていた。明るい眼で、彼は私を見た。それから私の手を握り、どうして手を引っ込ませようかと困ったほど長く、離さずにいた。彼は書類を見て、「マダム・ムルソーは三年前にここに来られた。あなたはそのたった一人のお身寄りでしたね」といった。何か私をとがめているのだと思い、事情を話し出したが、彼は私をさえぎって、「弁解なさることはありません。あなたのお母さんの書類を拝見しました。あなたにはお母さんの要求をみたすことができなかったわけですね。あの方には看護婦をつける必要があったのに、あなたの給料はわずかでしたから。でも結局のところ、ここにおられた方《ほう》が、お母さんにもお幸せでしたろう」「その通りです、院長さん」と私はいった。「ここには同じ年配の方、お友だちもあったし。そういう方たちと、古い昔の思い出ばなしをかわすこともできたし。あなたはお若いから、あなたと一緒では、お母さんはお困りになったでしょう」と院長は付け加えた。
それは事実だ。家にいたとき、ママンは黙って私を見守ることに、時を過ごした。養老院に来た最初の頃《ころ》にはよく泣いた。が、それは習慣のせいだった。数カ月たつと、今後はもしママンを養老院から連れ戻したなら、泣いたろう。これもやっぱり習慣のせいだ。最後の年に私がほとんど養老院へ出掛けずにいたというのも、こうしたわけからだ。それに、また日曜日を|ふい《ヽヽ》にすることになるし、――バスに乗ったり、切符を買ったり、二時間の道のりを行くことが面倒なせいもあったのだが。
院長はなおも話し続けたが、私はほとんど聞いてはいなかった。やがて、「お母さんにお会いになりたいでしょう」と彼がいった。私は何もいわずに立ち上がった。彼は先に立って戸口へ向かった。「死体置場の小部屋へ移して置きました。他《ほか》のひとたちに刺激を与えないようにするためです。在院者の誰か一人死ぬたびに、他の連中は、二、三日神経を立てます。すると、ことが面倒になるので」と、階段で彼は説明した。われわれは中庭を横切った。そこには大勢の年寄りがいて、少しずつかたまり合って、しゃべっていた。われわれが通るとき、彼らは黙ってしまったが、われわれが通り過ぎると、またおしゃべりがはじまった。ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ、鸚鵡《おうむ》のおしゃべりみたいだった。小さな建物の戸口のところで、院長は私と別れた。
「ここで失礼します。ムルソーさん。御用は何でもおっしゃって下さい。私は事務室におりますから。原則として、埋葬は朝の十時と定《き》まっています。あなたもお通夜をなされるでしょう。それからもうひとこと、お母さんはよくお友だちに、宗教に則して埋葬されたい、と希望をお漏らしになったようです。手はずは万端整っております。ただそれをあなたにお伝えしておきたかったので」私は彼に礼をいった。ママンは、無神論者ではなかったが、生きているうちは決して宗教のことを考えていなかった。
私はなかへ入った。大層明るい部屋で、石灰が白く塗られ、ガラス屋根に覆《おお》われている。椅子《いす》とX型の脚の台が置かれていて、部屋の中央に、その台の二つが、ふたのしてある柩《ひつぎ》をささえている。申しわけばかり打ちこんだネジが、きらきら光り、くるみ塗りの板からとびでているのだけが眼についた。柩のかたわらには、どぎつい色の布《きれ》を頭に巻きつけた、白い上っ張り姿のアラビア人の看護婦が一人いた。
このとき、私の背後に門衛が入って来た。走って来たに違いない。少し吃《ども》りながら、「こいつはふたがしてあるが、あんたが御覧になれるように、ネジを抜こう」という。彼は柩に近よったが、私は彼をひきとめた。「御覧にならないですか」というから、「ええ」と私は答えた。彼はやめた。こういうべきではなかったと感じて、私はばつが悪かった。ちょっとして、彼は私を見つめ、「なぜ」と尋ねたが、いかにも不思議だという様子で、別に非難の色はなかった。「理由はありません」と私はいった。彼は白いひげをひねりながら、私の方を見ずに、「わかるよ」とはっきりいった。明るい青の、美しい眼をしていて、顔色はやや赤味がかっていた。彼は私に椅子をすすめ、自分も私の少しうしろに腰掛けた。看護婦が立ち上がって、出口の方へ向かった。このとき、「あの人は腫物《はれもの》ができているんだ」と門衛が私にいった。私はわからなかったので、看護婦を眺《なが》めた。眼の下に繃帯《ほうたい》をしていて、それが頭を一まわりしているのが、わかった。鼻の高さで、繃帯は平らになっている。その顔は、繃帯の白さしか、眼に映らなかった。
看護婦が出て行くと、門衛は「あんたをひとりにしよう」といった。自分がどんな仕ぐさをしたか知らないが、彼は出て行かずに、私のうしろに立っていた。この私の背中の人影が、私は気になった。部屋には午後の終わりの美しい光があふれていた。二匹のモンスズメバチが、ガラス屋根にぶつかって、うなっていた。そして睡気《ねむけ》がひた寄せて来るのを感じた。門衛の方を振り向かずに、私は「ここに来てから大分になりますか」といった。即座に彼は「五年でさ」と答えた。まるで、ずっとこの問いを待ち受けていたかのように。
それから彼は大いにしゃべった。この男に、マランゴの養老院で、門衛として終わる、といいでもしたら、定めし妙な顔をしただろう。彼は六十四歳で、パリっ子だった。この時、「ああ、あなたはこの土地のひとではないんですね」と私は彼の言葉をさえぎった。それから、私を院長のところへ連れてゆく前に、彼がママンのことを口にしていたのを思い出した。――いそいで埋葬せねばならない。野原は暑い、この国では特に暑いから、と彼はいっていたのだ。また、この男が、かつてパリで生活したことがあり、パリ生活を忘れかねている、と私にうったえたのも、そのおりだった。パリでは三日も四日も、死者と一緒にいることがあるが、ここではその暇はない。柩車《きゅうしゃ》を追って走らねばならぬということしか考えられない。このとき、女房が門衛にいった。「お黙んなさい。この方に申し上げるべきことじゃないよ」老人は赤くなって、失礼したといった。私はなかに入って、「いや、構わないよ。構わないよ」といった。彼の話は正当だし面白い、と思った。
死体置場の小部屋で、彼は困窮者として養老院に入って来たのだと私に告げた。まだ達者だと思ったので、この門衛の仕事を申し込んだのだ。要するに彼は一人の在院者にほかならないな、と私は念を押して見た。彼は、違う、といった。自分より年少の者も相当いるのだが、その在院者たちについて語るとき「あの連中」とか「他の連中」とか、もっとまれには「老人連」とかの言葉を使うのが、ひどく印象に残った。しかし、それはもちろん同じことではない。彼は門衛なのだし、ある程度まで彼は他のひとたちの上にちからを及ぼすのだ。
このとき看護婦が入って来た。夕暮れがにわかに降りて来た。じきに夜がガラス屋根の上に厚くかぶさった。門衛がスイッチをひねると、急に光がはねかかって来て、眼が見えなくなった。門衛が食堂へ行って食事をするようにすすめた。が、腹がへってはいなかった。そこで彼はミルク・コーヒーを持って来ようと申し出た。私はミルク・コーヒーが大好きだから、承知した。しばらくして彼はお盆を持って戻って来た。私は飲んだ。今度は煙草《たばこ》をすいたいと思った。が、ママンの前でそんなことをしていいかどうかわからなかったので、躊躇《ちゅうちょ》した。考えて見ると、どうでもいいことだった。私は門衛に一本煙草をやり、われわれは煙草をくゆらせた。
しばらくして、「あの、あんたのお母さんのお友だちも、お通夜に見える。そういうしきたりなんで。椅子とブラック・コーヒーをとりにいかなきゃならない」と彼はいった。明りを一つ消していいかと私は尋ねた。白壁のうえの、光のきらめきが、私を疲れさせたからだ。彼はそれはできないといった。配線がそういう風になっているのだ。全部つけるか、全部消すかだ。私はもう彼の方へ大して注意を向けてはいなかった。彼は出てゆき、戻って来て、椅子を並べた。その一脚の上に、コーヒー沸しをまんなかにして、茶碗《ちゃわん》を積み重ねた。やがて、彼は、ママンの向こう側、私の正面に腰をおろした。看護婦も、部屋の奥に、背を向けて、腰かけた。彼女が何をしているのか、わからなかった。が、腕の動きようからして、編物をしているのだろうと思われた。穏やかな陽気と、コーヒーで体が暖まった。開け放たれた戸口から、夜と花とのにおいが入って来た。少しうとうとしたと思う。
すれ合う音で、眼がさめた。眼をつぶっていたため、部屋は、よけい白い光にきらめくように見えた。私の前には、影ひとつなかった。どの物体も、どの角度も、いずれの曲線も、眼を傷つけるほど鮮明に描き出されていた。ママンの友だちが入って来たのは、この時だ。全部で十人ばかりで、黙ったなり、このまばゆい光のなかへ、すべりこんで来た。彼らは腰はおろしたが、どの椅子も全然きしむ音を立てなかった。私はこれまで誰にも会ってなかったから、彼らをよく見た。顔付きや服装のどんな細かな隅々《すみずみ》までも、見のがしはしなかった。けれども、声が耳に入らなかったので、現実に彼らがそこにいるとは、信じにくかった。女はほとんどみなが前掛けをしていた。胴体をしめつける紐《ひも》が、つき出た腹を一層目立たせていた。私はこれまでばあさんたちの腹がどれほどつき出ているか、気に留めたことはなかったのだ。男の方は、ほとんどみんなやせて、杖《つえ》をついていた。その顔だちで注意をひいたのは、そこには眼らしいものが見つからないということで、皺《しわ》また皺のまんなかに、わずかに、にぶい光があるだけだった。彼らが腰をおろしたとき、大部分は私をながめ、窮屈そうにうなずき、歯のない口で唇《くちびる》を深くかみしめていた。彼らがあいさつをしたのか、単なる習慣的な痙攣《けいれん》なのか、私にはわからなかった。やはり彼らは私にあいさつしたのだと思う。このとき、彼らがみんな、私の真向かいにすわって、門衛を囲んで軽く頭をゆすっているのに気がついた。彼らが私を裁くためにそこにいるのだ、というばかげた印象が、一瞬、私を捕えた。
すこしたって、女の一人が泣き出した。彼女は二列目で、仲間のひとりの陰にかくれて、私にはよく見えなかった。小さな声で、規則的に、泣いた。泣きやむときを知らぬように見えた。他のひとたちは泣き声を聞かない振りをしていた。しおれ切って、陰気で、黙りこくっていた。彼らは柩だの、自分の杖だの、他の何かをながめていた。それだけしか眺めていなかったのだ。女は相変わらず泣き続けていた。その女を知らないので、私は大層驚いた。もう泣き声を聞きたくないと思った。でもそれをあえて女にいい出す勇気はなかった。門衛が女の方へ身を傾けて、話をした。が、女は頭を振り、口ごもりながら何かいい、そして、同じ規則正しさで泣き続けた。門衛がこのとき私の方へ来て、側《そば》にすわった。かなりたってから、私の方を見ずに、彼はこう教えてくれた。「あの女はあんたのお母さんと親しくしていた。お母さんがここではたった一人の友だちなので、もうこれで友だちがなくなってしまったといっているんだ」
私たちは長いことこうしていた。女の溜息《ためいき》やすすり泣きもだんだん間遠くなった。女はひどく鼻をすすった。が、やがて、それもとうとう聞こえなくなった。私はもう眠くはなかったが、疲れて、腰が痛んだ。今となると、これらのひとたちの沈黙が、私を苦しませた。ただ間を置いて、奇妙な音が聞こえたが、それは何だかわからなかった。しまいに、数人の老人が、頬《ほお》の内側をしゃぶって、この変な舌打ちをやっていることがわかった。彼らは自分では気づいていなかった。それほど自分の考えのなかに引きこまれていたのだ。彼らのまんなかに横たわるこの死者は、彼らの眼には何ものをも意味しないのではないか、という気すらした。が、これは間違った印象だった、と今では思う。
門衛の手で配られたコーヒーを、われわれはみんな飲んだ。それ以後のことは、もう覚えてない。夜が更《ふ》けた。ふと私が眼をあけて、老人たちが互いにもたれ合って眠る姿を見たのを、覚えている。ただ、一人だけ、杖を握りしめた手の甲にあごをのせて、まるで私の目覚めるのを待っていたかのように、じっと私の方を見つめていた。それからまた私は眠った。ますます腰が痛んで来たために、また眼がさめた。ガラス屋根の向こうに陽《ひ》がのぼっていた。しばらくして、老人の一人が眼をさまし、ひどく咳《せ》いた。彼は大判の格子縞《こうしじま》のハンカチのなかに痰《たん》を吐いた。痰を吐くたびに引きむしるみたいだった。この老人のおかげで、他のひとが眼をさました。門衛が出掛けようといった。彼らは立ち上がった。このやっかいな通夜のために灰色の顔をしていた。出てゆくとき、驚いたことには、ひとり残らず私の手を握った――まるで、一言もかわさなかったこの一夜のために、われわれの親しみが増したかのように。
私は疲れていた。門衛が自分の部屋へ連れて行ってくれたので、ちょっと身づくろいをすることができた。私はまたミルク・コーヒーを飲んだ。大へんうまかった。私が出掛けたとき、陽は上り切っていた。マランゴを海から隔てる丘々の上に、空はすっかり紅を帯びていた。丘々を越える風が、ここまで塩のにおいを運んで来た。これから美しい一日が開かれようとしていた。久しいこと私は田舎へ行ったことがなかった。ママンのことがなかったら、ぶらぶら歩くのは、どんなにうれしかろう、と私は感じた。
しかし、中庭のすずかけの木の下で、私は待った。さわやかな大地のにおいをかいだ。もう睡気はなかった。事務所の同僚のことを思った。こんな時刻に、みんなは仕事にゆくために起きるのだ。私にとって、それはいつでもいちばんつらい時刻だった。なおしばらくこんなことがらを考えていたが、建物の内部に鐘が鳴りわたると、われに返った。窓のうしろでごたごた動く音がしていたが、やがてすべては静かになった。太陽はいよいよ上り、私の足もとをあたためだしていた。門衛が中庭を横切って来て、院長が呼んでいるといった。私は彼の部屋へ行った。彼は私に数通の書類に署名をさせた。彼が縞ズボンに黒い服を着ているのを見た。彼は電話を手にとって、「葬儀屋がしばらく前から来ています。柩をしめさせようと思いますが。その前にお母さんにお別れをなさいますか」と私に尋ねた。いいえ、と私はいった。彼は、声を低くして、「フィジャク、出掛けてもいいといいなさい」と電話で命じた。
それから院長は自分も埋葬に立ち会うといった。私はお礼を述べた。彼は机の後に腰をおろして、短い足を組んだ。あなたと自分と付添いの看護婦だけでゆくのだと彼は私に告げた。原則として、在院者は埋葬に参列してはならない。院長は通夜だけは許したのだ。「これは人情ですからね」と彼は力をこめていった。しかし、ママンの年老いた友人≪トマ・ペレーズ≫には、葬列に従う許可を与えていた。ここで、院長が微笑した。「おわかりでしょう。少々子供っぽい感情です。でも、彼とあなたのお母さんとは、しょっちゅう一緒でした。養老院では二人をからかい、ペレーズに向かって、『あれがあなたの許嫁《いいなずけ》だ』などといったものです。彼は笑っていましたし、これはふたりを喜ばせたのです。そして、マダム・ムルソーの死が彼に深い印象を与えたことは事実です。この許可を拒絶すべきだとは思いませんでした。が、巡回医師の勧めに従って、昨日のお通夜は彼に禁じておいたのです」と彼はいった。
われわれはかなり長いこと黙っていた。院長が立ち上がって、事務室の窓からながめた。と、間もなく、「そら、マランゴの司祭がお見えだ。早目に来られたのだ」といった。村の教会に行くには、歩いて少なくも四十五分はかかるだろうと、彼は前もって私にいい渡した。われわれは下へ降りた。建物の前には、司祭と合唱隊の二人の子供がいた。その一人は香炉をささげ持ち、司祭は銀鎖の長さを調節するためにその子の方へ身をかがめていた。われわれが着いたとき、司祭は身を起こした。彼は「わが子よ」と私を呼び、二言三言いった。彼は入って来た。私は彼につづいた。
柩《ひつぎ》のネジが深く打ち込まれ、部屋には四名の黒い服の男がいるのを、私は一目で悟った。車が道で待っていると院長が私に伝えるのと、司祭が祈りをはじめるのとを、同時に聞いた。このときから、万事|速《すみや》かに進んだ。男たちが布の掛かった柩の方へ進み出た。司祭とそのお伴《とも》、院長と私とは外へ出た。戸口の前に、私の知らない婦人がいた。「ムルソーさんです」と院長がいった。この婦人の名は聞かなかった。ただ受持の看護婦だということだけを了解した。彼女は微笑も見せずに、骨張った長い顔を傾けてお辞儀をした。それから死体を見送るために、われわれは並んだ。われわれは人夫の後に従い、養老院を出た。戸口の前に、車がいた。塗り立てて、細長くピカピカしたその車は、筆入れを思わせた。そのかたわらに、葬式の宰領がいた。おかしな服を着た小男だ。それから、いかにもぎごちない恰好《かっこう》の老人が一人。それがペレーズ氏だと私は悟った。彼は、天辺《てっぺん》のまろく、縁の広いソフトをかぶり(柩が戸口を通るときにはそれを脱いだ)、その服はといえば、ズボンの裾《すそ》が靴《くつ》の上までたれさがり、おまけに、白い大きな襟《えり》のついたシャツに対して、黒いネクタイの結び目は、あまり小さ過ぎた。黒い斑点《はんてん》いっぱいの鼻の下で、唇が震えていた。細い白髪のあいだから、たるんで、縁のくずれた、妙な耳がのぞいていた。蒼白《そうはく》な顔のなかの、この耳の血のように赤い色が、印象的だった。宰領がわれわれの位置を定めた。司祭が先に立って歩いた。それから柩車。その回りに四人の男。うしろに院長と私。行列の終わりに、受持の看護婦とペレーズ氏。
空には既に陽の光が満ちていた。それは大地にのしかかって来て、暑さは急速に増した。なぜだかわからなかったが、われわれは歩き出すまでに、ずいぶん長く待った。喪服を着ていて、暑かった。小柄《こがら》の老人は帽子をかぶっていたが、また改めてそれを脱いだ。私はちょっと彼の方を向いていた。院長が彼のことを話し出したとき、私は彼を眺めていた。しばしば母とペレーズ氏は、夕方、看護婦に付き添われて、村まで散歩に出た、と院長はいった。私は自分の周囲の野原をながめた。空に近く、丘々まで連なる糸杉の並木、このこげ茶と緑の大地、くっきりと描き出された、まばらな人家――これらを通して、私はママンを理解した。夕暮れは、この地方では、憂愁に満ちた休息の一刻にちがいない。今日、あふれるような太陽は、風景をおののかせ、非人間的に、衰弱させていた。
われわれは歩き出した。このとき、ペレーズが軽く足をひきずることに気づいた。車はだんだん速度を増し、老人は遅れた。車についた男の一人もやはり追い抜かれて、今や私と並んで歩いていた。太陽が空にのぼるその速さには驚かされた。ずっと前から、野原は虫の声と葉ずれの音にざわめいていたのに気づいた。汗が頬を流れた。帽子を持たなかったので、ハンカチであおいだ。葬儀屋がそこで何かいったが、私にはわからなかった。同時に、彼は右手で鳥打帽の端を持ちあげながら、左手につかんだハンカチで、あたまを拭《ぬぐ》った。「何です?」と私はいった。彼は空の方をしめしながら、「ひどい照りだ」と繰り返した。「うん」と私はいった。しばらくして、彼は「あれはあんたのお母さんかね」と尋ねた。「ええ」とまた私はいった。「年とっていたかね?」正確な年齢を知らなかったから、「まあね」とだけ答えた。それから、彼は黙ってしまった。振り返ると、五十メートルばかりうしろにペレーズ老人の姿が見えた。手にもったソフトを振りながら、いそいでいた。つぎに院長をながめた。彼は何一つ無駄《むだ》な仕ぐさをせず、威儀を正して歩いていた。汗のしずくが額に玉をなしたが、彼はそれを拭わなかった。
行列はすこしいそぎ出したように見えた。私の周囲は、相も変わらず、陽の光の満ちた、どこまでも同じ輝かな野原だ。空のきらめきは堪えがたい。われわれは、最近修復された部分の道路を通った。太陽はタールをきらきらさせた。足が道にはまりこんで、きらめくタールの肉を押しひろげた。車のうえの、御者の煮しめたような革帽子は、この黒いどろのなかでこねられたかに見えた。青と白の空や、むき出たタールのねばっこい黒、喪服の陰鬱《いんうつ》な黒、車の漆塗りの黒――こうした色彩の単調さに、頭がすこしぼんやりした。太陽、車についた皮や馬糞《ばふん》のにおい、ニスのにおい、香のにおい、通夜の疲労――こうしたすべてが、私の視力と思考とを乱した。私はもう一度振り返った。ペレーズは遥《はる》かかなたに見え、熱気の雲のなかにかすんでいたが、やがて見えなくなった。あちらこちら眼《め》でさがすと、彼は道をはなれて、畑のなかに入りこんだことがわかった。私はまた、自分の眼の前で道が曲がっているのを認めた。この辺の地理に詳しいペレーズが、われわれに追いつくために、近道をしたことがわかった。曲がり角で彼はわれわれと一緒になった。それからまた彼はわれわれから離れた。彼は再び畑のなかへ入ったのだ。こんな風に何度もした。私は、こめかみに血が脈打っているのを感じた。
それからあとは、すべてごく迅速に、確実に、自然に事が運んだので、もう何も覚えていない。ただひとつだけ、記憶がある。村の入口のところで、受持の看護婦が私に語った。彼女はその顔付きにつり合わぬふしぎな声をしていた。音楽的な震えるような声だ。「ゆっくり行くと、日射病にかかる恐れがあります。けれども、いそぎ過ぎると、汗をかいて、教会で寒けがします」と彼女はいった。彼女は正しい。逃げ道はないのだ。この一日について私はなお若干の印象を忘れてはいない。例えば、村近く、最後に彼がわれわれに追いついた時の、ペレーズの顔。疲労と苦痛からの大粒の涙が頬にあふれていた。が、皺があるため、流れ落ちはしない。涙は広がったり、集まったりして、このぼろぼろの顔の上に、ニスみたいに光っていた。また、教会や、歩道に立つ村びとや、墓石のそばの赤いジェラニューム、ペレーズの失神(関節のはずれたあやつり人形みたいな)、ママンの柩の上に散らばった血のような土の色、土にまじっていた草木の根の白い肉、それから、そこいらのひとたち、声、村、喫茶店の前で待ったこと、エンジンの絶え間ないうなり、そして、バスがアルジェの光の巣に入ったときの、私の喜び、そのとき、私はこれで横になれる、十二時間眠ろうと考えた。
二日間の休暇を願い出ると主人が不機嫌《ふきげん》な顔をしたわけを、眼をさましたとき私は了解した。それはきょうが土曜だからだ。私はそのことを忘れていたのだが、起きたとき、それに思い到《いた》った。主人は、もちろん、私が日曜と合わせて四日間休みをとると考え、それで、面白くなかったのだ。しかし、一方では、ママンの埋葬をきょうにせずに昨日にしたのは私のせいではないし、他方、どっちにしても、土曜、日曜は私のものだ。もちろん、そうだからといって、主人の気持がわからないわけではない。
昨日の一日で疲れていたので起きるのがつらかった。ひげをそるあいだ、これから何をしようかと考え、泳ぎにゆくことに決めた。電車に乗って港の海水浴場へ行った。そこで、入江にとび込んだ。若い人が多かった。水のなかでマリイ・カルドナに再会した。もと事務所にいたタイピストで、当時から私は憎からず思っていた。彼女の方もそうだった、と思う。だが、しばらくして、彼女がやめ、われわれには暇がなかったのだ。彼女がブイに登るのを手伝うと、その拍子に胸に触った。彼女がブイの上に腹ばいになったときに、まだ私は水のなかにいた。彼女は私の方を向いた。眼のうえに髪の毛がかぶさり、彼女は笑った。私はブイの上の彼女のそばによじのぼった。天気はよかった。ふざけたような振りをして、頭をそらし、彼女の腹の上へ載せた。彼女は何もいわず、私はそのままでいた。眼のなかに、空の全体が映った。それは青と金色だった。うなじの下で、マリイの腹がしずかに波打つのを感じた。われわれは、半ば眠ったように、ブイの上に長いことじっとしていた。太陽があまり強くなると、彼女はとび込んだ。私はそれに続いた。私は彼女をつかまえ、腕をからだにまわして、一緒に泳いだ。彼女はひっきりなしに笑った。岸で、からだを乾かしているとき、彼女が「あなたより黒いわね」といった。夜、映画に行かないか、と私は尋ねた。彼女はまた笑って、フェルナンデルの出る映画が見たいといった。われわれが服を着たとき、私の黒いネクタイを見て、彼女は驚いたようだった。私が喪に服しているのかと尋ねた。私はママンが死んだといった。いつ、と彼女がきいたので、「昨日」と答えた。彼女は驚いてちょっと身を引いたが、何もいわなかった。自分のせいではないのだ、と彼女にいいたかったが、同じことを主人にもいったことを考えて、止《や》めた。それは何ものをも意味しない。いずれにしても、ひとはいつでも多少過ちをおかすのだ。
夜、マリイはすべてを忘れた。映画は面白おかしいところもあったが、そのうちに全くばからしくなった。彼女は足を私の足にすり寄せていた。私は胸を愛撫《あいぶ》した。映画の終わりごろ、彼女に接吻《せっぷん》したが、うまくゆかなかった。映画館を出て、彼女は私の部屋へ来た。
眼がさめると、マリイは出て行ったあとだった。彼女は叔母のところへ行くつもりだといっていた。きょうは日曜だなと考え、いやになった。私は日曜は好きではない。そこでベッドへ戻り、長枕《ながまくら》のなかに、マリイの髪の毛が残した塩の香を求めた。十時まで眠った。それから煙草《たばこ》を数本すい、続けて正午まで横になっていた。いつもの通り、セレストのところで昼食をするのはいやだった。きっと、あそこの連中が質問するだろうが、私はそんなことがきらいだからだ。自分で、卵をいくつも焼いて、鍋《なべ》からじかに食べた。パンが切れていたが、部屋を降りて買いに出たくなかったので、パンは我慢した。
昼食のあと、すこしたいくつして、アパルトマンのなかをぶらぶらした。ママンがここにいたときは便利だった。今では私にはひろ過ぎるので、食堂の机を私の部屋へ運び込まなければならなかった。私はもうこの部屋でしか生活しない。すこしくぼんだ藁《わら》椅子《いす》と、鏡の黄色になった衣装|箪笥《だんす》と、化粧机と、真鍮《しんちゅう》のベッドとの間に。そのほかはどうでもよかった。しばらくたって、何かしなければならないから、私は古新聞を手にとって、読んだ。クリュシエンの塩の広告を切り抜き、古い帳面にはりつけた。新聞のなかで面白いと思った事がらをそこに集めておくのだ。手を洗った。最後にバルコンへ出た。
私の部屋は、この場末町の大通りに面している。午後は晴れていた。しかし、舗道はねばねばしていた。人影はまれで、おまけに、せわしそうだった。最初に来たのは散歩に出かける家族連れだった。膝《ひざ》の下まである半ズボンをはいた、セーラー服の二人の少年。――こわばった服装に幾分困っていた。それから、大きな薔薇色《ばらいろ》のリボンをつけ、黒エナメルの靴をはいた一人の少女。彼らのうしろから、栗色《くりいろ》の絹のローブの、えらく大柄な母親。それから父親。これは、ひよわな小男だが、顔見知りだ。彼はかんかん帽をかぶり、蝶《ちょう》ネクタイをつけ、杖《つえ》を手にしていた。奥さんと一緒のところを見て、界隈《かいわい》で彼のことを≪お上品な≫ひとだというわけが、のみこめた。しばらくして、場末町の青年たちが通った。ぺったり髪に油を塗り、赤ネクタイをつけ、縫いとりのあるハンカチをのぞかせ、ひどく腋《わき》をくり込ませた背広を着、尖端《さき》の四角な靴をはいていた。中心区の映画館へゆくのだろうと私は考えた。それだから、彼らはこんなに早く出掛け、ひどく笑い興じながら電車に向かっていそいでいたのだ。
彼らが過ぎると、通りは次第に寂しくなった。思うに、どこの見世物小屋も開《あ》いたのだろう。もう通りには店番と猫《ねこ》しかいなかった。通りを縁どる無花果《いちじく》の木の上に、空は、澄んでいたが、きらめきを欠いていた。正面の歩道に、煙草売りが椅子を出し、戸口の前にすえた。両腕をその背にのせて、椅子にまたがった。今しがた満員だった電車は、ほとんど空《から》になった。煙草屋のそばの小さなキャフェー「ピエロ軒」では、給仕が人気のない広間で鋸屑《おがくず》を掃いていた。全くの日曜日だった。
私は椅子の向きを変えて、煙草屋のしたように置き直した。その方が便利だと思ったからだ。煙草を二本くゆらし、チョコレートを一|片《きれ》とりに部屋へ戻り、また窓へ出て来てそれを食べた。しばらくして、空が暗くなったので、夕立が来るのかと思った。けれども、次第に雲は消えた。ただ、雲が通ったあと、街にはパラパラと雨の前ぶれらしきものが降り、そのため通りは一層暗さを増した。私はながいことそこにいて空をながめた。
五時に、音たてて電車が着いた。それは、郊外の競技場から踏段や手摺《てすり》にしがみついた鈴なりの観衆を運んで来た。続く電車は、その小さな鞄《かばん》で見分けがついたが、選手たちを運んで来た。彼らは、われらがクラブは敗れずと、胸一ぱいわめいたり歌ったりした。何人も私に合図をよこした。一人は「勝ったぞ」と私に叫びさえした。私は頭を振って、「そうだね」といった。この頃《ころ》から、自動車があふれ出した。
日は、なお少し傾いた。屋根屋根の上に、空は赤味を帯び、夕闇《ゆうやみ》とともに、通りは活気づいて来た。散歩する連中がだんだん戻って来た、その人群れのあいだに、例のお上品な男の姿が見分けられた。子供たちは泣いたり、引きずられたりしていた。間もなく、界隈の映画館が観客の波を通りへ押し出した。そのなかで、青年たちはいつもよりも張り切った様子を見せていた。彼らは冒険映画を見たのだろうと私は考えた。町の映画館から戻って来る連中は、もう少し遅く着いた。彼らはもっと重々しい風に見えた。相変わらず笑っていたが、時々、疲れて、夢みるように見えた。正面の歩道を行ったり来たりして、なお通りに残っていた。界隈の娘が、帽子をかぶらず、腕を組み合っていた。青年たちはわざとそれにすれ違うようにした。青年が冗談をなげつけると、娘たちは頭をのけぞらせて、笑った。娘のうちの、私の知り合いの何人かは、私に挨拶《あいさつ》した。
街灯がこのとき突然にともり、夜のなかに上った、最初の星々を青ざめさせた。こんな風に、歩道とその上の人影や光をながめることに、私は眼が疲れるのを感じた。街灯は粘つく舗道をきらめかせ、電車は、規則的な間隔をおいて、輝く髪や微笑や銀の腕輪の上に、光を映した。やがて、電車の数がいよいよ減り、木々や街灯の上に夜が濃くなると共に、町はいつの間にか空虚になり、猫が一匹再び人気の絶えた通りをゆっくりと渡ってゆく。そこで、私は夕食をとらねばならぬと考えた。椅子の背に長いこと載せていたために、少々首が痛んだ。私はパンとめん類を買いに降りてゆき、自分で料理をし、立ったままで食べた。また窓のところで煙草をくゆらしたいと思ったが、空気が冷えていて、私はすこし寒かった。窓ガラスをしめて、戻って来ると、机の端が鏡のなかに映っているのを見た。その上にはアルコール・ランプがパン切《きれ》と並んでいた。日曜日もやれやれ終わった。ママンはもう埋められてしまった。また私は勤めにかえるだろう、結局、何も変わったことはなかったのだ、と私は考えた。
きょうは事務所でよく働いた。主人は御機嫌《ごきげん》だった。私が疲れ過ぎてはいないかと彼は尋ね、また、ママンの年をきいた。私は誤りを犯さぬように「六十ぐらいで」といった。なぜだかわからないが、彼は安心し、これで事が済んだ、と考えるように見えた。
私の机の上には、積み上げられた船荷証券が山をなしていて、その全部を私が点検せねばならなかった。昼食にゆくため事務所を出る前に、手を洗った。正午の、このときが大好きだ。夕方にはこれほどの喜びを見出《みいだ》さない。みんなが使う回転式の手拭《てぬぐい》がすっかりしめっているからだ。あれは一日中使われるのだ。ある日主人にそのことを注意した。主人は、自分もそれを遺憾に思うが、何分にもつまらぬ些事《さじ》に過ぎない、と私に答えた。しばらくして、十二時半に、発送部に働くエマニュエルと一緒に、外へ出た。事務所は海に面しており、われわれは、太陽に燃え上がる港のなかの貨物船を眺《なが》めて一瞬ぼんやりした。このとき一台のトラックが鎖の音と爆音けたたましく、やって来た。エマニュエルが「やるかな?」ときいた。私は走り出した。トラックはわれわれを追い越し、われわれはそれを追って突進した。私は物音とほこりにつつまれた。もはや何一つ見えず、クレーンや機械、水平線に踊る帆柱やわれわれが沿って走った船体のさなかに、走りたいという滅茶苦茶《めちゃくちゃ》な熱情だけしか感じなかった。まず私がつかまり、荷台にとび上がった。それから、エマニュエルが腰掛けるのを手伝った。われわれは息を切らしていた。トラックは塵《ちり》と太陽とにつつまれ、波止場の不揃《ふぞろ》いな敷石の上ではね上がった。エマニュエルは息がとまるほど笑った。
われわれは汗びっしょりでセレストのところへ着いた。太鼓腹と前掛けと白いひげとともに、相変わらず彼はそこにいた。「どうにかいってるかね」と彼は私に尋ねた。私はうんといい、腹がへったといった。私はいそいで食べ、コーヒーを飲んだ。それから、自分の部屋へ帰った。ブドウ酒を飲み過ぎたので、少し眠った。眼がさめると煙草がほしかった。遅かったから、走って電車に乗った。私は午後ずっと働いた。事務所では大層暑かった。夕方、表へ出て、岸に沿ってゆっくりと帰るのが愉《たの》しかった。空が緑で、愉快に感じた。それでも、じゃがいもをゆでる料理をしようと思ったので、まっすぐに家へ帰った。
暗い階段を登りながら、同じ階の隣人、サラマノ老人とゆき会った。彼は犬と一緒にいた。八年前から犬と一緒にいる。そのスパニエル犬は、(赤毛だと思うが、)皮膚病にかかり、そのためすっかり毛が抜けて、褐色《かっしょく》の瘡蓋《かさぶた》だらけなのだ。この犬と一緒に、狭い部屋に二人きりで生活したため、サラマノ老人はついに犬に似てきた。彼は顔に赤味を帯びた瘡蓋があり、毛も黄いろくて、薄い。犬の方では、その主人から、鼻面《はなづら》をつき出し、首をのばした、猫背の姿勢を学びとった。彼らは同族みたいな様子だが、互いに憎み合っている。一日に二回、十一時と六時に、老人は犬を散歩に連れてゆく。八年来、その道筋は変わらない。ひとはリヨン街に沿ってこの二人の姿を見ることができる。犬が人間を引っぱっている。時にはサラマノ老人がつまずいてしまう。すると、老人は犬を打ち、ののしる。犬はおじけて、はいつくばい、ずるずると引きずられる。今度は老人が引っぱる番だ。犬の方で忘れてしまうと、また主人を引きずり出す。するとまた打たれ、ののしられる。そういうとき、二人は歩道に立ちどまって、互いに顔をながめ合う、犬の方は恐怖をもって、人間の方は憎悪《ぞうお》をもって。毎日毎日がこの通りだ。犬が小便がしたくても、老人はその暇を与えない。彼が引っぱるから、スパニエル犬は、自分のうしろに、点々と続く滴《したた》りをまくことになる。たまたま犬が部屋のなかでやろうものなら、また打たれる。八年間これが続いているのだ。セレストは「みじめなことだ」といつもいう。が、ほんとうのところは誰にも知られない。階段で出会ったとき、サラマノはその犬をののしっている最中だった。彼は「畜生、くたばり損い奴《め》」といい、犬はうなっていた。私は「今晩は」といったが、老人はののしり続けていた。そこで、その犬が何をしたのか、と彼に尋ねた。彼は私には答えず、「畜生、くたばり損い奴」とだけいった。彼が犬の上に身をかがめて、何か首輪を直しているところらしかった。私は声を高めた。すると、振り向きもせずに、怒りを抑えた調子で、「こいつはくたばりもしないんだ」と答えた。それから、彼は動物を引っぱって外へ出た。犬は四肢《しし》を踏んばりながら引きずられ、うなっていた。
ちょうどこのとき、同じ階のもう一人の隣人が入って来た。界隈では、女を食い物にしているという。職業を尋ねられると、それでも、「倉庫係」だといった。一般に、あまり好かれていない。が、よく私には話しかけて来るし、時には、私が彼の話を聞いてやるので、しばらく私の部屋で過ごしたりする。彼の話は面白いと思う。それに、彼と話をしないという理由がない。彼の名前はレエモン・サンテスという。彼はかなり小柄《こがら》で、肩幅広く、拳闘家《けんとうか》の鼻をしている。いつも非常にきっちりした身なりだ。彼もまたサラマノについて「みじめじゃないか!」といった。あれを見ていやな気がしないかと彼は尋ねたが、私は、しない、と答えた。
われわれは登った。彼と別れようとすると、「部屋に腸詰とブドウ酒があるんだが、一緒に少しばかりやらないか」と私にいった。そうすれば自分で料理しないで済むと考えて、私は承諾した。彼もまた一部屋しかないが、窓のない台所が付いている。ベッドの上の方には、白と薔薇色の石膏《せっこう》の天使像や、選手の写真やらと、二、三枚の女の裸体写真やらが、かかっている。部屋は汚く、ベッドは乱れていた。まず石油ランプを灯《とも》し、それから、ポケットからきたならしい繃帯《ほうたい》をとり出して、右手に巻いた。どうしたのかと私がいうと、彼に因縁をつけた奴《やつ》と喧嘩《けんか》をやった、と彼はいった。
「わかるだろうね。ムルソーさん」と彼はいった。「おれが悪いせいじゃない。おれはただ気が短いだけだ。相手のやつが、『男なら電車から降りろ』というから、『おい、おとなしくしろ』といってやった。すると、『おめえは男じゃない』とおれにいう。そこでおれが車を降りて、『いいかげんにしろ、その方が身のためだぞ。さもないと、たっぷりお見舞いするぞ』というと、やつは『何だと?』と答えた。そこで、おれが一発くらわした。やつは倒れた。おれは起こしてやろうとした。ところがやつは寝たままでおれをけり上げたんだ。それでおれは膝で一発やった上、面《つら》に二つくらわせてやった。やつの顔は血まみれだった。どうだ、参ったか、とおれが尋ねると、参った、とやつはいった」こうしている間、サンテスは繃帯を直していた。私はベッドに腰かけていた。「おれがやつに因縁をつけたわけじゃないんだ。やつの方が、仕かけて来たんでさ」と彼はいった。それはほんとうだ。私はそれを認めた。すると、彼は、この事件について、あんたに意見を求めたいのだと述べ、また、あんたは男であり、人生を知っており、自分を助けることができるし、そうなればおれはあんたの仲間になるだろう、といった。私が何もいわずにいると、自分の仲間になりたいかと、また私にきいた。どちらでも同じことだ、というと、彼は満足したようだった。彼は腸詰を出してきて、ストーブで焼き、コップ、皿、フォークの類とブドウ酒二本を並べた。この間ずっと黙ったままだった。我々は席についた。食べながら、彼はそのいきさつを語り出した。最初は少しためらった。「ある女を知っているんだが……それが、つまり、情婦《れこ》なんで……」彼となぐり合った男は、この女の兄だった。彼が女を養っていたのだといった。私が何も答えなかったので、すぐさま彼は、界隈で何かいってることぐらい承知しているが、しかし、自分はやましいところはない、ほんとに倉庫係なのだ、といい足した。
「例のいきさつに戻れば」と彼はいった。「だまされていることに気がついたんだ」彼は女に暮すに足るだけのものはやっていた。女の部屋代を払ってやり、毎日食費として二十フランやっていた。「部屋代三百フラン、食費六百フラン、時々|靴下《くつした》を一足、これで千フランになる。ところが、あいつは働こうとしない。しかも、これではぎりぎりだ、あんたからもらうものではやってゆけない、とぬかした。それでおれはいってやった、『なぜお前は半日でも働かないのだ。身のまわりの品ぐらいは自分でかせいでもよさそうなものなのに。今月はアンサンブルも買ってやった。お前に毎日二十フラン払っている。部屋代も払っている。それなのに、お前は午後、女の友だちとコーヒーを飲むだけだ。お前はあいつらにコーヒーと砂糖をおごり、おれはお前に金をとられる。お前にはずいぶんよくしてやっているが、お前のお返しは十分でないな』しかし、あいつは働かず、相変わらずやってゆけないといっていた。こんな具合で、何かだまされてると気づいたわけなんだ」
そこで彼は、女の手提《てさげ》に一枚の宝くじ券を見出したところが、女はどうして買ったのかその説明がつかなかった次第を語った。しばらくして、彼は、女の部屋で、腕輪二個を質入れしたことを証拠だてる、質屋の≪札≫を見つけた。それまでは、その腕輪のあることすら知らずにいたのだ。「だまされていることがよくわかった。そこで手を切ることにしたんだ。おれはまず女を引っ叩《ぱた》いて、それから、あいつの正体をきめつけてやった。自分の|あれ《ヽヽ》でたのしむこと、お前の望みはそれだけなんだ、といってやった。『お前にはわからないんだ。世間というやつは、お前がおれから受ける幸福をうらやんでいるんだ。もうすこしたったら、お前の持っていた幸福がわかるだろうさ』とね、ムルソーさん、おれはいってやったもんだよ」
彼は血を見るほどに女をなぐった。それまで、なぐったことはなかったのだが。「あいつをたたいてやったさ、ほんのお手やわらかにね。あいつはすこし泣き声を立てた。おれは鎧戸《よろいど》を閉めた。そこで、終わりはいつものごとしさ。でも、こうなって見ると、笑い事じゃ済まされない。それに、おれとしたって、まだ女を懲《こ》らし足りない」
そこで、相談に乗ってもらいたいのは、このことなんだが、と彼は説明した。彼がいぶっているランプの芯《しん》をかきたてたので、言葉がとぎれた。私はといえば、相変わらずじっと聞き入っていた。一リットル近く飲んでいたから、こめかみがひどくあつかった。自分の巻《まき》煙草《たばこ》を切らしたので、私はレエモンのを吸った。最後の電車が通って、町の響きもいまや遠く消え去った。レエモンは続けた。困ったことには、「まだあの女の体にいくらか未練を感じて」いた。でも、彼は懲らしめてやりたかったのだ。彼がまず考えついたのは、女をホテルに連れ込み≪風紀係≫を呼び込んでスキャンダルを起こし、女をカードへ載せてしまうことだった。それから、やくざ仲間の友人のところへも相談に行ったが、知恵を貸してもくれなかった。レエモンが私にいったことだが、やくざづき合いなんて大したものではない。レエモンが仲間にそう毒づくと、仲間は困って、女に「痕《あと》をつけよう」といい出した。が、これは彼の望むところではなかった。彼はよく考え直そうとした。そこでまずあることを私に頼もうと思った。それにしても、頼みごとをする前に、この話を一体どう思うかと尋ねてきた。私は、別にどうとも思わないが、なかなか面白い話だと答えた。だまされていると思うかと尋ねられたが、私から見ても、確かにだまされているように見えた。もし懲らしめてやらねばならぬと思うか、そんな場合、この私ならどんな風にするかと尋ねた。どんな風にするかは、誰にもわからないだろう、と私は答えたが、とにかく、彼が懲らしめてやりたい気持はよくわかった、といった。私はなお杯を重ねた。彼は巻煙草に火をつけて、その企《たくら》みを打ち明けた。女にあて、「足蹴《あしげ》をくれるようで、同時に、何か悔恨を感じさせるような」手紙を送り、その結果、女が戻って来たら、一緒に寝て、「いよいよ終わりというときに」女の顔につばを吐いて、女を、おもてへほうり出すというのだ。これならば確かに女は懲らしめられたことになろう、と私は思った。ところで、レエモンは、自分では適当な手紙が書けないように思うから、あんたにその文句を作ってもらうことを考えているのだ、といった。私が何も返事しなかったので、すぐにそれを書くのはいやだろうがと彼は尋ねた。いやではない、と私は答えた。
すると、彼は一杯酒を飲みほしてから、立ち上がり、皿と、われわれの残した、わずかばかりの冷たい腸詰とを押しやり、防水の卓布を丁寧に拭《ふ》いた。一枚の方眼紙と、黄色の封筒と、赤い木製の小型ペン軸と、紫インクの角瓶《かくびん》とを、ナイト・テーブルの引き出しから出した。女の名前をいわれたとき、それがモール人だということがわかった。私は手紙を書いた。多少いい加減なところもあったが、それでも、レエモンに満足を与えるように努力した。というのは、彼を満足させないという理由は、別になかったからだ。それから、その手紙を私は声を上げて読んだ。彼は、煙草をくゆらせ、うなずきながら聞き入っていたが、やがて、もう一度読んでくれと頼んだ。彼はすっかり満足していた。「お前には、世の中のことがよくわかっている、それがおれにはよくわかるよ」と彼はいった。最初、彼が私を「お前呼ばわり」したことに気がつかなかったが、「こうして見ると、お前はほんとの仲間だ」といわれたとき、その言葉が、はじめて私をびっくりさせた。彼は何べんとなくその言葉を繰り返した。私は「そうだな」といった。彼の仲間だろうと、そうでなかろうと、私にはどうでもいいことだったが、彼の方は本気で仲間になりたがっている風だった。彼は手紙の封をして、われわれは酒を切りあげた。それから、二人とも一言もいわずに、煙草をくゆらしながら、しばらくじっとしていた。戸外は、全く静かで、すべるように自動車の過ぎる音が聞こえた。「遅くなったね」と私はいった。レエモンもそう思っていたのだろう。時間が早く過ぎる、といった。ある意味では、これは真実のことだ。私は眠かったが、立ち上がるのは大儀だった。私は疲れた風に見えたに違いない。というのは、レエモンが、やけになっちゃいけない、と私にいい出したからだ。はじめ、私には何のことやらわからなかった。そこで、彼は、ママンの死を知ったということ、しかし、それはいずれはやって来るはずのものだということを、説明した。私の意見も同じだった。
私は立ち上がった。レエモンは強く強く私の手を握り、男同士の間なら、いつだってわかり合えるものだ、といった。彼の部屋から出て、ドアを閉めると、私は、一瞬、踊り場のやみのなかにじっとしていた。家じゅうがひっそりと静まり、階段の底から、暗い湿った風が登って来た。耳もとに、血がどきんどきんと脈打つのが、聞こえた。私はなお動かずにいた。サラマノ老人の部屋で、犬が低いうなり声を立てた。
まる一週間、私はよく働いた。レエモンが来て、例の手紙を出したといった。エマニュエルと一緒に、二度映画に行ったが、スクリーンの上で何が起こっているのか、一向にわからない男だから、説明をしてやらねばならない。昨日は土曜日で、打ち合わせどおり、マリイが来た。私はひどく欲望を感じた。紅白の縞《しま》の綺麗《きれい》な服を着て、革のサンダルをはいていたからだ。堅い乳房が手にとるようにわかり、陽《ひ》に焼けて褐色になった顔は、花のように見えた。われわれはバスに乗って、アルジェから数キロの、岩と岩とのはざまにあって、岸は葦《あし》で縁どられた、ある浜辺へ出掛けた。四時の太陽は暑すぎることはなかったが、それでも水はなまぬるく、長くのびた、ものうげな波が、低くうちよせていた。マリイがある遊びを教えてくれた。泳ぎながら、波の頂上で水を含み、口に水泡《あぶく》をいっぱいにためこんでおいては、今度は、あおむけになって、その水を空へ向けて噴き上げるのだ。すると、泡《あわ》のレースみたいに空中に消えて行ったり、生あたたかい滴《しずく》になって、私の顔の上に降って来たりした。でも、しばらくすると、私は口のなかが塩からくて焼けるように感じた。そのとき、マリイが私に追いついて来て、水のなかで私のからだにへばりついた。マリイはその唇《くちびる》を私の唇に押しあてた。マリイの舌が、私の唇をさわやかにした。しばらくの間、われわれは、波のまにまにころげまわった。
浜で服に着換え終わったとき、マリイはきらきらした眼《め》で、私をながめた。私は彼女に接吻《せっぷん》した。このときから、二人はもう一言もかわさなかった。私は自分のそばにぴったりと彼女を抱き寄せていた。われわれはいそいでバスを見つけ、帰途についた。自分の部屋に着くと、早速ベッドに飛び込んだ。私は窓を明けはなしておいた。夏の夜気が、われわれの褐色の体の上を流れてゆく――その感じは快かった。
この朝、マリイは帰らずにいた。一緒に食事をしようと私はいった。私は肉を買いに町へ降りて行った。部屋へ戻って来るとき、レエモンの部屋で、女の声がしていた。ほんのしばらくして、サラマノ老人が犬を叱《しか》った。木の階段のところに、靴底の音と爪《つめ》でひっかく音とが聞こえ、それから、例の「畜生、死に損い奴《め》!」という声が聞こえた。彼らは町へ出て行ったのだ。私はマリイに老人の話をしてやった。彼女は笑った。彼女は私のパジャマを着ていたので、袖《そで》をたくしあげていた。彼女が笑ったとき、私はふたたび欲望を感じた。しばらくして、マリイは、あなたは私を愛しているかと尋ねた。それは何の意味もないことだが、恐らく愛していないと思われる――と私は答えた。マリイは悲しそうな顔をした。でも、食事の準備をしたりするうち、ほんのつまらぬことにも、彼女はまた笑い声を立てたので私は接吻してやった。レエモンの部屋で、いさかいの物音が破裂したのは、このときだった。
最初に聞こえたのは女の甲高い悲鳴だった。つづいて、「だましゃがったな、だましゃがったな。さあ、このおれをだますと、どういうことになるか、よく教えてやろう」というレエモンの声。鈍い物音がすると、女がわめいた。そのわめきようがあまりものすごかったので、すぐさま、踊り場はいっぱいの人だかりになった。マリイと私も部屋から出て見た。女は相変わらず叫びつづけ、男はなぐりつづけている。マリイが、ひどい、といったが、私は返事をしなかった。マリイが巡査を呼びに行ってと頼んだが、巡査はきらいなんだ、と私は答えた。それでも、とうとう配管工である、三階の下宿人と一緒に、一人巡査が現われた。彼がドアを叩《たた》くと、もう物音は聞こえなくなった。巡査がなおも強く叩くと、しばらくして、女が泣き出し、レエモンが戸を開けた。彼はくわえ煙草で、とぼけた顔をしていた。女は戸のところへ飛び出して来て、レエモンがなぐった、と巡査にいいつけた。「君の名前は?」と巡査がいい、レエモンがそれに答えた。「返事をするときぐらいは、くわえ煙草をやめたまえ」と巡査がいった。レエモンは、もじもじして、私の方に眼をやって、また煙草を一服した。すると巡査は、いきなり、分厚い重い平手で、思い切り、頬《ほお》つらを張りとばした。煙草は数メートル先まで飛んで行った。レエモンは血相を変えたが、その場では一言も言いかえさず、やがて、吸殻《すいがら》をひろっていいか、とへり下った声で、尋ねた。巡査はひろってもいいと答えたが、それに付け加えて、「この次には、巡査ってものが道化じゃないことを、君も思い知るだろうな」といった。この間、女は泣き続け、「この男になぐられた。こいつは女衒《ぜげん》なんだ」と繰り返した。――そこで、レエモンは、「警察の旦那《だんな》、男を女衒呼ばわりすることは、法律で許されているんですかい?」と尋ねたが、巡査は「無駄口《むだぐち》たたくな」と命じただけだった。レエモンは今度は女の方へ向かって、「いいな、また、お眼にかかろうぜ」といった。巡査は、黙れ、女は出て行ってよいが、レエモンは署からの呼び出しがあるまで、自分の部屋にじっとしておれ、といった。更に巡査は付け加えて、レエモンが、今みたいによろよろするほど酔っぱらっていることも、恥じねばならんといった。これに対して、レエモンは、「旦那、あたしは酔っぱらっちゃいないんで……、ただここに、あんたの前にいるので、震えているんだが、当たり前のこっちゃないか」といった。彼が戸を閉めると、みんな散り散りになった。マリイと私とは、飯の支度を終えたが、彼女の方は、腹がすいていないので、ほとんど私一人で食べた。彼女は一時に帰った。私はすこし眠った。
三時|頃《ごろ》、戸をたたく音がして、レエモンが入って来た。私は横になっていた。彼は私のベッドのふちに腰をおろした。しばらく彼の方が口を切らずにいるので、私は例の騒ぎはどうしたことかと尋ねた。彼の話では計画どおりにやったところ、女の方から彼に頬打ちをくわしたので、ついに、はり倒したのだという。その後のことは、私の眼にしたとおりだ。それなら、女は十分|懲《こ》りたと思うから、君も満足すべきだと私がいってやると、彼の方も同意見だった。警察が、どんなにじたばたしようとも、女がぶんなぐられたという事実は、どうともしようがない、といっていた。巡査連中をよく知っているし、どんな風にあしらうべきかも十分心得ている、と彼は付け足した。そして、あの巡査の頬打ちに対して、彼が、これに応ずることを期待していたかと、私に尋ねた。私は、全然何にも期待していなかったし、それに自分は警官というやつがきらいなのだ、と答えた。レエモンは大層満足そうな様子だった。彼は一緒に外へ出ないかと誘った。私は起き上がって髪に櫛《くし》を入れ出した。すると、自分のために証人になってもらいたい、といい出した。私としてはどうでもいいが、何といったらいいのかわからなかった。レエモンによれば、女が自分を裏切ったと言明すれば足りるという。私は彼のために証人となることを承知した。
われわれは一緒に外出した。レエモンは私にブランデーをおごり、それから、球を突いたが、私は惜しくも負けた。更に女を買いに行こうと誘われたが、そんなことは好きではないので、いやだといった。それでわれわれはゆっくり家に帰って来たが、彼はその情婦にうまく制裁を加えたことに、どんなに満足しているかを、私に語った。私に対しては、彼は大層やさしいように思われた。これは楽しいひとときだ、と私は考えた。
遠くの方から、私は、入口の閾《しきい》のところにいる、何か興奮した様子のサラマノ老人に、気がついた。近づいて見ると、老人が犬を連れてないことがわかった。老人は四方八方を見渡したり、くるくる回って見たり、廊下のくらやみを突っ走ったりした。とぎれとぎれの言葉をぶつぶつつぶやき、血走った小さな眼で、何度も何度も通りを捜していた。レエモンがどうしたのかとたずねても、すぐには返事ができなかった。「畜生、くたばり損い奴」とつぶやいているのが、ぼんやり私にもわかった。相変わらず老人は興奮していた。犬はどこにいるのかと私が尋ねると、出し抜けに老人は、それがいなくなったのだと答え、それから、急にせきを切ったように、しゃべり出した。「例のごとく、あいつを練兵場へ連れて行った。小屋掛けの見世物の周りには人だかりがしている。立ち止まって、『脱走王』というやつを見ていて、それで、出かけようとすると、もうあいつがいないんだ。ほんとに、大分前から、もう少し小さい首輪を買ってやりたかったんだが。あの死に損いがこんな風に姿をくらまそうとは思ってもみなかったんだ」
レエモンは、そこで、あの犬は迷子になったのかも知れないし、そうだとすれば帰って来るだろう、といい聞かせ、その主人と再会するために、数十キロの旅をした犬の例など、いろいろ、引いて見せたが、一向に効《きき》めなく、老人はいよいよ興奮するばかりだった。「とにかく、あいつは私の手からとり上げられる、ね、そうでしょう。もし、誰かが引き取ってくれたら。でも、そんなことはありえない。あんな|かさっかき《ヽヽヽヽヽ》では、誰からだって嫌《きら》われるんだ。巡査があいつを連れて行ってしまうよ。それに違いない」そこで、私は、警察の野犬|繋《つな》ぎ場へ行ったらいい、幾らか料金を払えば、犬を返してくれるだろう、といった。老人は、その金額は相当張るのかと尋ねたが、私は知らなかった。すると、「あの死に損いのために金を出すなんて! ああ! くたばりゃいいんだ!」と、怒り出し、いろいろののしりはじめた。レエモンは笑って、家のなかへ入った。私も彼のあとにつづき、二人は階段の踊り場のところで別れた。しばらくすると、老人の足音が聞こえ、戸をたたいている。私が戸をあけると、老人は、ちょっと、しきいのところに立ち止まって、「ご迷惑じゃないかね」といった。なかへ入るようにすすめたが、老人は入ろうとはせず、自分の靴先を見詰めていた。瘡蓋《かさぶた》だらけの手が震えていた。顔を伏せたまま、老人はこう私に尋ねた。「連中があいつをとり上げることはないだろう、ねえ、ムルソーさん。あいつを私に返してくれるね。さもないと、この私はどうなるんだ?」野犬の繋ぎ場は、飼主の意思を待って、三日間は犬を預かっておくが、そのあとでは適当に処置するのだと、私はいった。老人は黙って私の方を見つめていたが、やがて、おやすみ、といった。老人は自分のドアを閉めたが、行ったり来たりする足音が聞こえた。そのベッドがきしきし鳴った。仕切りの壁越しに、かすかに、変な物音がしたので、彼が泣いていることがわかった。なぜだか知らないが、私はママンのことを考えた。しかし、翌朝は早く起きなければならない。腹もすいていなかったから、食事をせずに寝床についた。
レエモンが私の事務所の方へ電話を掛けて来て、彼の友人の一人(そのひとには私のことを既に話してあった)が、アルジェ近くのちょいとしたヴィラで、日曜日一日を過ごすように誘ってくれたという。私は、もちろん大へん結構だが、実はその日女友だちと約束がある、と答えた。レエモンは直ちにそのひとも一緒に行けばいいといった。その友人の奥さんは、男ばかりの仲間のなかに女一人でなくなるから、きっとよろこぶだろう。
主人は町からわれわれのところへ電話のかかって来るのを好まない。それを心得ているから、私はすぐに受話器を掛けようとした。が、レエモンは、ちょっと待ってくれと頼み、この招待の件については、夜にでも伝えることでよかったのだが、別の件をあんたの耳に入れておきたかったのだといった。彼は一日中、例のもとの情婦の兄を含むアラビア人の一団につきまとわれたのだ。「今夜、帰りに、家の近くでそいつらを見かけたら、知らせてほしい」私は承知したといった。
すこしして、主人から呼ばれた。主人がもっと電話の回数を減らして、もっと仕事に身を入れろというのだろうと考えて、途端にうんざりしたが、全然そんな話ではなかった。まだまことに漠然《ばくぜん》とはしているが、ある計画について話したいのだと主人はいった。彼はその問題について、ただ私の意見を徴するつもりだったのだ。主人はパリに出張所を設けて、その場で取り引きを、しかも直接大商社相手にとり結ばせたい、という意向を持っていて、そこに出かける気があるか、と私に尋ねた。そうなればパリで生活することになろうし、また一年の何分の一かは旅をして過ごすことになる。「君は若いし、こうした生活が気に入るはずだと思うが」私は、結構ですが、実をいうとどちらでも私には同じことだ、と答えた。すると主人は、生活の変化ということに興味がないのか、と尋ねた。誰だって生活を変えるなんてことは決してありえないし、どんな場合だって、生活というものは似たりよったりだし、ここでの自分の生活は少しも不愉快なことはない、と私は答えた。主人は不満足な様子で、君の返事はいつもわきへそれる、といい、君には野心が欠けているが、それは商売にはまことに不都合だ、といった。そこで、私は仕事をすべく席に戻った。私だって、好んで主人を不機嫌《ふきげん》にしたいわけではないが、しかし、生活を変えるべき理由が私には見つからなかった。よく考えて見ると、私は不幸ではなかった。学生だった頃は、そうした野心も大いに抱いたものだが、学業を放棄せねばならなくなったとき、そうしたものは、いっさい、実際無意味だということを、じきに悟ったのだ。
夕方、マリイが誘いに来ると、自分と結婚したいかと尋ねた。私は、それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むのなら、結婚してもいいといった。すると、あなたは私を愛しているか、ときいてきた。前に一ぺんいったとおり、それには何の意味もないが、恐らくは君を愛してはいないだろう、と答えた。「じゃあ、なぜあたしと結婚するの?」というから、そんなことは何の重要性もないのだが、君の方が望むのなら、一緒になっても構わないのだ、と説明した。それに、結婚を要求してきたのは彼女の方で、私の方はそれを受けただけのことだ。すると、結婚というのは重大な問題だ、と彼女は詰め寄ってきたから、私は、違う、と答えた。マリイはちょっと黙り私をじっと見つめたすえ、ようやく話し出した。同じような結びつき方をした、別の女が、同じような申し込みをして来たら、あなたは承諾するか、とだけきいてきた。「もちろんさ」と私は答えた。マリイは、自分が私を愛しているかどうかわからないといったが、この点については、私には何もわからない。またしばらくの沈黙が過ぎると、あなたは変わっている、きっと自分はそのためにあなたを愛しているのだろうが、いつかはまた、その同じ理由からあなたがきらいになるかも知れない、と彼女はいった。何も別に付け足すこともなかったから、黙っていると、マリイは微笑《ほほえ》みながら私の腕をとり、あなたと結婚したい、とはっきりいった。君がそうしてほしくなったらいつでもそうしよう、と私は答えた。そこで、例の主人の申し入れの件を話してやると、マリイはパリの街を知りたいといった。私はしばらくの間パリで生活したことがあるのだと教えてやると、どうだったと、尋ねたから、「きたない街だ。鳩《はと》と暗い中庭とが目につく。みんな白い肌《はだ》をしている」と私はいった。
われわれは大通りを選んで、街をぶらぶら歩いた。女たちが美しかった。マリイにそれに気がついたかと尋ねると、ええといい、あなたの気持がわかる、といった。しばらくの間、二人は、もうしゃべることがなくなったが、それでも、彼女に自分のそばにいてほしかったので、セレストのところで一緒に食事をしようといった。彼女の方もそうしたいのはやまやまだったが、彼女には用事があった。私の家の近くまで来てから、彼女にさよならといった。彼女は私を見つめながら、「あたしの用事が何なのか、知りたくはないの?」私はもちろんそれを知りたくなった。それまではそこに思い及ばなかったというだけのことなのに、そのことで何か私をとがめている風だった。そこで、すっかり弱り切った様子を見せると、彼女はまた笑い出し、いきなり私に向かって全身でとびついて来て私に口を差しのべた。
私はセレストのところで晩飯をたべた。既に食べはじめていると、小柄《こがら》の変わった女が入って来て、私のテーブルにすわってもいいかときいた。もちろん、差支《さしつか》えない。その仕ぐさはひどくせかせかしていて、小さな林檎《りんご》みたいな顔に、きらきらした眼が光る。女はジャケットを脱いで坐《すわ》ると、熱にのぼせたように品書《しながき》を眺《なが》め、セレストを呼びつけて、即座に、はっきりしているがあわただしい声で、自分の料理を一どきに注文した。前菜の来ないうちに、ハンドバッグを開いて、四角の紙片と鉛筆とをとりだし、あらかじめ足し算を行ない、それから、胸もとから、チップを加えた正確な金額を引き出して、目の前にならべた。このとき、前菜が運ばれて来たので、女は大いそぎでそれをのみこんだ。次の皿を待つうちに、またハンドバッグから青鉛筆と今週のラジオのプログラムの載っている雑誌とをとり出し、細心の注意をもって、一つ一つほとんどすべての放送に印をつけた。雑誌は十二ページほどあったから、食事のあいだじゅう、女は念入りに、この仕事をつづけていた。私が食事を終えても、女はなお同じ熱心さで印をつけていた。やがて、女は立ち上がると、同じように、ほとんど機械的な正確さで、ふたたびジャケットを着て、出て行った。何もすることがなかったから、私もまた外へ出てしばらく女の跡を追った。女は歩道の縁の石畳に立ち、ほとんど信じがたいほどの速さと確実さで、自分の道を外《そ》れもせず、振り向きもせずに歩いていた。その姿を見失ってしまうと、私はもと来た道を戻った。あれは風変わりな女だと考えたが、じきに忘れてしまった。
私の戸口の踏段のところで、サラマノ老人に会ったので、部屋へ入ってもらうと、老人は、犬はどこにも見つからない。野犬繋ぎ場にもいないのだと告げた。そこの連中は、恐らくその犬は車にはねられたのだろうといったので、老人は、それなら警察に行けばわかりはしないかと尋ねて見たが、そんなことは何の記録も残していまい、何しろ毎日毎日よくあることなのだから、――という返事だった。私はサラマノ老人に、別の犬を飼えばいいといったら、老人は、自分はあの犬と慣れ親しんでいたのだから、と言いつのった――これは理のあることだ。
私はベッドの上に蹲《うずくま》り、サラマノはテーブルの前の椅子に腰掛けていた。老人は私と向き合い、両手を膝《ひざ》の上に置いていた。古ぼけたソフトをかぶったままだった。黄ばんだくちひげのかげに、言葉尻《ことばじり》がのみ込まれて、よく聞こえない。私は多少退屈もしたが、何といってすることもなかったし、眠くもなかったのだ。何かいうとなると、例の犬の件を尋ねることになった。老人の話では、その犬は、女房が死んでから飼ったのだという。彼はかなり晩婚だった。若いうちは、芝居がやりたくて、連隊にいた頃は、軍のヴォードヴィルに出ていた。でも、とうとう鉄道に入ってしまったが、それを悔やんではいない。今日わずかながら恩給が入るからだ。その女房と幸福には行かなかったが、とにかく全体的に見て、その女房にすっかり慣れ親しんでいた。だから、女房が死ぬと、ひとりぼっちになった気がした。そこで、犬を一匹工場の仲間に頼み込み、ほんの子犬のうちに、あれを引きとった。はじめはミルクで育てなければならなかった。ところが、犬の寿命は人間より短いから、ふたりは一緒に老いぼれることになった。サラマノはいう、「あいつは性《たち》がよくなかったから、ときどき、けんかをしたもんだ。それでも、とにかく、いい犬だった」私が、あれは血統のいい犬だった、といってやると、サラマノは大層満足の様子で、「それに、あんたは病気前のあれを御存じないな。あいつのいちばん良かったのは、毛並みなんだ」と付け加えた。犬が皮膚病になって以来、毎朝毎晩、サラマノは軟膏《なんこう》を塗り込んでやった。が、老人の言によれば、その本当の病気は老衰だというし、老衰では直りようがないのだ。
このとき、私があくびをしたので、老人はもう帰るといった。私がまだいてもいい、その犬の話には厭《あ》きてしまっただけだというと、老人はお礼を述べた。ママンがあの犬を大層かわいがっていたと彼がいった。ママンの話をするとき、「あなたのお母さん」と呼んだ。老人は、お母さんが死んで以来、あんたは非常に寂しくなられたに違いない、と述べたが、私は何も答えなかった。すると、いいにくそうに大へん早口で、この界隈《かいわい》では、母を養老院へ入れたために、あんたの評判がよくないことを知っているが、しかし、私はあんたをよく知っており、大へんママンを愛していたことを知っている、といった。いまだになぜだかわからないが、私はそれに答えて、そんなことでとやかくいわれているとは、今日まで知らなかったが、養老院の件は、ママンを十分看護させるだけの金が私になかった以上、ごく当たり前なやりかただと、自分には思われたのだといった。「それに、もう大分前から、ママンは私に話すこともなくなっていて、たったひとりで退屈していたんだよ」と私がいい足すと、彼は「そうだよ。養老院にいれば、少なくともお仲間はできるからね」といった。それから、老人は帰るといった。ねむくなったのだ。今や彼の生活は変わってしまったのだが、今後どうしてゆくのかはあまりよくわかっていなかった。老人と知りあってから初めてのことだが、こそこそした仕ぐさで、私に手をさし出した。私は彼の皮膚の鱗《うろこ》を感じた。老人はにやりと笑い、部屋を出る前に、私に向かって「今夜は犬どもが吠《ほ》えないといいんだが。そのたんびに、うちの犬じゃないかと思うんだよ」といった。
日曜日、私はなかなか眼《め》がさめず、マリイが来て何度も私の名を呼び、揺すぶり起こさねばならなかった。われわれは早くから海に入りたいと思っていたから、食事もしなかった。私はげっそり力の抜けたような気分で、すこし頭が痛かった。煙草《たばこ》を吸うと苦い味がした。マリイは「沈鬱《ちんうつ》な顔」をしているといって、私をからかった。彼女は白いローブを着て、髪は結わずになびかせていた。綺麗《きれい》だなと私がいうと、うれしそうに笑った。
降りがけに、われわれがレエモンのドアをたたくと、今降りてゆくと答えた。通りへ出ると、私の疲労のためと、またそれまで鎧戸《よろいど》をあけずにいたせいで、もうすっかり明るくなった陽《ひ》の光がまるで平手打ちのように、私を見舞った。マリイは楽しそうに小躍りしながら、いいお天気だ、と何度も繰り返していった。いくらか気分がよくなると、空腹なことに気づき、そのことをマリイにいってやった。マリイはわれわれ二人の水着とタオルとを入れた、防水袋を私に示した。私は待つよりほかはなかった。やがて、レエモンがドアを締めるのが聞こえた。彼は青いズボンと半袖《はんそで》の白シャツを着ていた。ところが、カンカン帽をかぶっていたので、マリイがふきだした。その前腕は真っ白だったが、黒い毛が生えていた。それが少し、いやらしかった。彼は口笛を吹きながら降りて来たが、大した御機嫌だった。彼は、「よう、とっつぁん」と私にいい、マリイを「マドモアゼル」と呼んだ。
前の日、われわれは警察に行って、私は例の女がレエモンを「裏切った」と証言した。レエモンは警告だけで済んだ。誰も私の証言をとやかくいわなかった。戸口の前で、われわれはレエモンと話し合い、バスで行くことに決めた。浜は大して遠くはなかったが、そうした方が早く行けるからだ。レエモンは、その友人もまたわれわれが早く着くのを喜ぶだろうと考えていた。われわれが、まさに出発しようとしたとき、突然、レエモンが正面を見ろと合図をしてきた。見ると、アラビア人の一団が、煙草屋の店先に背を寄せかけている。じっと黙ったままわれわれの方をながめていたが、それも実に、やつららしい仕方で、まるで、われわれなんぞ石か枯木同然とでもいう風だった。左から二番目のが例のやつだ、とレエモンがいったが、何か気懸りな風情《ふぜい》だった。レエモンは付け加えて、それでも、今では済んだ話なんだが、といったが、マリイはよくわからないので、どうかしたのかとわれわれに尋ねた。あのアラビア人どもがレエモンに恨みを持っているのだ、と私がいうと、彼女はすぐにも出発したがった。レエモンは気をとり直して、いそがなけりゃならん、といいながら、笑った。
われわれは少し離れたバスの停留所へ向かった。アラビア人たちはわれわれの跡を追って来ないとレエモンが私に知らせた。私は振り返って見た。彼らは相変わらず一つところにたたずんでおり、われわれのいた場所を、同じ無関心な態度でながめていた。われわれはバスに乗った。レエモンはすっかり安心したと見え、しきりとマリイに冗談をいうことをやめなかった。レエモンはマリイが気に入ったらしかったが、マリイの方はほとんど彼に返事をしなかった。時どき笑いながら彼を見つめるだけだった。
われわれはアルジェの郊外で降りた。浜はバスの停留所から遠くはなかったが、海を見おろし、浜へ向かって下りになっている、小さな丘を一つ越えなければならなかった。丘は黄いろい小石と真っ白なしゃぐまゆりとにおおわれて、既にきつい青をたたえた空の高みに浮き出ていた。防水袋を振りまわすと、花びらが散るのを、マリイはうれしがった。われわれは緑や白の柵《さく》をめぐらして立ちならぶヴィラの間を縫って歩いた。ヴィラのあるものは、ベランダごとタマリス(御柳《ぎょりゅう》)のかげにうずまり、またあるものは、石のあいだに裸の肌《はだ》をのぞかせていた。丘のへりに出るまでに、既に不動の海の姿が目の前にあらわれ、遠くには、澄んだ水のなかに、どっしりとして睡《まどろ》むような岬《みさき》が一つ、見えた。モーターの軽快なひびきが、しずかな大気を縫って、われわれのところまで上って来る。はるかかなたに、小さなトロール船が、きらきら光る海のさなかを、かすかに進むともなく進んで行くのが、見えた。マリイはいちはつを何本も摘んだ。海の方へくだる坂道からながめると、既に何人か水に入っているのが知られた。
レエモンの友人は、浜のはずれの木造のヴィラに住んでいた。家は岩を背にしていて、家の前面の支えをする杭《くい》は、水に漬《つ》かっている。レエモンはわれわれを紹介した。友人の名はマソンといい、背丈も肩幅もがっしりした大男だった、その小柄な女房はまるまるとしてやさしい女でパリ風なアクセントでしゃべった。マソンはすぐわれわれに気楽にしてほしいといい、自分がその朝|釣《つ》った魚の揚げものがある、といった。大へん結構なお住居《すまい》ですね、と私がいうと、彼は、土曜日曜、それに休みのあるごとに、ここへ来て過ごすのだといい、「女房とは気が合ってね」と付け足した。彼の女房はマリイと顔を見合わせて笑った。私は、恐らくこれがはじめてだったろうが、自分が結婚するのだということを真剣に考えた。
マソンは水に入りたがったが、彼の女房とレエモンとは行きたがらない。そこで、三人だけで降りて行くと、マリイはそのまま水にとび込んだ。マソンと私とはしばらく待った。彼はゆっくりゆっくり話をするのだが、なんでも自分の述べたことについて、「おまけに」といい足すくせのあるのに気がついた。実際は自分の言葉の意味に何も付け加えるところのないときにも、そうするのだ。マリイについては、「あの娘《こ》は素晴らしい、おまけに、魅力があるよ」とマソンはいった。やがて、私はこうした彼の癖に注意を払わなくなった。というのは、私は太陽によって爽快《そうかい》になるのを感じ、それに気をとられていたからだ。足もとの砂があたたまってきた。水に入りたいという欲望をなおしばらくこらえていたが、とうとうマソンに「入らないか?」といった。私は飛びこんだ。マソンはしずかに水に入り、足がたたなくなってから、身を投じた。彼は平泳ぎで泳いだが、あまりうまくないので、私は彼をひとり残して、マリイに追いつこうとした。水は冷たく泳いでいて気持がよかった。マリイと二人で遠くまで行ったが、いろんな仕ぐさや満ち足りた気持のうちに、二人がぴったり一つになっているのを感じた。
沖に出て、われわれは浮き身をした。顔を空へ向けていると、私の口もとまで流れて来る、水のヴェールを、太陽が払いのけてくれるようだった。マソンが岸へ戻り、長々と身をのばして陽に当たるのが見えた。遠くからだと、彼はすばらしく巨大に見えた。マリイが一緒に泳ぎたいという。そこで、マリイのうしろへまわって、胴をつかまえ、マリイが腕の力で進んでゆくのを、私は足をはたらかして助けてやった。ぴたぴたいう水音が、朝のうちじゅうわれわれについて回り、私は終《つい》に疲れを感じたので、マリイを残して、規則正しく泳ぎ、十分息を入れながら、戻った。浜へ帰ると、マソンのそばに腹ばいになって、砂のなかへ顔をつっこんだ。「いい気持だ」というと、彼もそうだといった。しばらくして、マリイが来た。私は振り返ってマリイの進んで来るのをながめた。体じゅう塩水でべとべとさせ、髪の毛をうしろにたらしていた。彼女は私のそばにぴったりくっついて身をのばした。マリイの体のほてりと、太陽の熱とのせいで、私はすこしうとうとした。
マリイが私を揺りおこして、マソンはうちへ戻ってしまったし、昼めしにしなければ、といった。私も空腹だったから、すぐに起き上がったが、マリイは朝から一度も接吻《せっぷん》をうけていないという。事実そのとおりだった。私も接吻したいとは思っていたのだ。「水へ入りましょうよ」マリイがいったので、われわれは駆けて行って、低い磯波《いそなみ》のなかへ身をのべた。われわれはしばらく平泳ぎで泳いだが、彼女はぴったり体を私にすりよせて来た。その足が私の足に巻きついているのを感じると、私はマリイに欲望を感じた。
われわれが戻ると、マソンが呼んでいた。大へんおなかがすいたと私がいうと、マソンはすぐ女房に、このひとが気に入ったといった。パンがうまかったし、私は自分の分の魚をがつがつたべた。それから肉や揚げたじゃがいももあった。誰もかも、ものもいわずにたべた。マソンはよく酒をのみ、いくらでも私についだ。コーヒーになると、私はいくぶん頭が重たく、しきりに煙草をふかした。マソン、レエモンと私とは、金を出し合って、八月を一緒に海岸で過ごすという計画を練った。突然マリイが、「今何時だか知っていて? 十一時半よ」といった。われわれはみんなびっくりした。マソンは、食事をするのがはやすぎたようだが、食事の時刻というものは、腹がすく時刻なのだから、ちっとも変ではない、といった。なぜだかわからないが、それを聞くと、マリイは笑いころげた。マリイは少々飲みすぎていたのだと思う。そのとき、マソンが、一緒に海岸を散歩しないか、と私に尋ねた。「女房は昼めしのあとには、いつも昼寝をするんだが、私はそんなことはきらいだ。歩いた方がいい。健康にはその方がいいんだ、といつも女房にいってやるんだが、まあ、とにかく、それはあいつの勝手だから」マリイはマダム・マソンを助けて食器類の片付けをするから、あとに残るといい出した。小柄のパリジェンヌは、そうするためには、男連中を追っ払う必要がある、といった。われわれは三人だけで浜へ降りた。
太陽の光はほとんど垂直に砂のうえに降りそそぎ、海面でのきらめきは堪えられぬほどだった。浜にはもう誰もいなかった。丘を縁どって、海の上に突き出たあちこちのヴィラのなかでは、皿やフォークやスプーンなどの食器類の音が聞こえた。地面から立ち上る石の熱気で、ほとんど息もつけなかった。はじめ、レエモンとマソンとは、私のあずかり知らない事柄や人物について、いろいろ話し合っていた。二人が知り合ってからもう大分になること、また一時は一緒に生活したことさえあることが、わかった。われわれは水ぎわへ進み、海に沿って歩いた。打ちよせる磯波が、時に、長くのびて来て、われわれのズックの靴《くつ》をぬらした。私は何一つ考えられなかった。帽子なしの頭に直射する太陽のおかげで、私は半分眠ったような状態だったから。
このとき、レエモンがマソンに何かいったが、私にはよく聞きとれなかった。それでも、ほとんど同時に、浜の端っこの、ずいぶん離れたところに、菜っ葉服を着た二人のアラビア人が、われわれの進む方向へむかって来るのに、気がついた。私がレエモンの方を見ると、彼は「あいつだ」といった。われわれは歩みをつづけた。マソンが、どうしてやつらはここまでわれわれを蹤《つ》けることができたろう、と尋ねた。彼らはわれわれが防水袋をさげてバスに乗り込むところを見たに違いない、と私は考えたが、別に何もいわなかった。
アラビア人たちはゆっくり進んで来て、もう大分近づいていた。われわれの方も歩調を変えはしなかったが、レエモンは、「一騒ぎ起こるようだったら、マソン、お前は二人目のをやってくれ。おれは、例のあいつを引き受ける。ムルソー君は、別にもう一人現われたら、そいつをやってもらおう」といった。私は「ああ」といい、マソンは手をポケットにつっこんだ。熱くなり過ぎた砂は、今、私には赤く見えた。われわれは同じ足どりでアラビア人に向かって進んだ。われわれの間の距離は、規則的に縮まって行った。互いに数歩というところまで来て、アラビア人が立ちどまった。マソンと私とは歩みをゆるめたが、レエモンは、例の男に真っすぐ向かって行った。レエモンが相手にいった、その言葉はよく聞きとれなかったが、相手は頭突きをくらわせようとする気配を見せた。すると、レエモンの方が先に一発なぐりつけて、すぐにマソンに声をかけた。マソンは前もって目あてのやつに向かって行き、力まかせに二度張りとばした。相手は水のなかへ伸びてしまい、顔を泥《どろ》に突っこんだ。男は、頭のまわりから、水の面《おも》てへあぶくをたてて、しばらくそのままでいた。一方、レエモンもまたなぐりつづけ、相手の顔は血まみれになった。レエモンは私の方を振り向いて、「やつがどうするか、よく見てろ」といった。私は「気をつけろ、やつは匕首《あいくち》を持ってるぞ!」と叫んだが、そのとき既に、レエモンは腕をえぐられ、口を切られていた。
マソンが前に躍り出たが、もう一人のアラビア人も立ち上がって、武器を持った男の後に隠れた。われわれは身じろぎもしなかった。アラビア人はわれわれからじっと目をはなさず、匕首でおびやかしながらじりじりとあとずさり、十分距離ができたと見るや、一散に逃げ出した。この間、われわれは烈日のもとに釘《くぎ》づけにされ、レエモンは血のしたたる腕をかたくにぎりしめていた。
マソンが早速、日曜ごとに丘の別荘へ来る医者がいるというと、レエモンはすぐそこへ行きたがった。しかし、レエモンがしゃべるたびに、口の傷から血のあぶくがふき出る。そこで、われわれはレエモンを支えて、大いそぎでヴィラへ戻った。ようやく着くと、レエモンは傷は浅いから医者のところへ行けるというので、マソンと一緒に出かけた。私はあとに残って、女たちに、その事件のはなしをした。マダム・マソンは泣きつづけ、マリイは真青《まっさお》だった。私はといえば、それ以上二人に説明するのが面倒になった。とうとう黙り込んでしまい、煙草をふかしながら海をながめていた。
一時半ごろ、レエモンはマソンと一緒に帰って来た。彼は腕に繃帯《ほうたい》をし、口の端に絆創膏《ばんそうこう》をはっていた。医師は大したことはないといったのだが、レエモンは陰鬱《いんうつ》な顔をしていた。マソンが笑わせようと努めて見たが、レエモンはいっこうに口をきこうとしない。浜へ降りるといい出したので、私がどこへ行くのかと尋ねると、風に当たりたいのだと答えた。マソンと私とが、一緒にゆくというと、レエモンはすっかり怒り出して、われわれを罵《ののし》った。マソンは逆らってはいけないといったが、私はそれでもレエモンについて出た。
われわれは長いこと浜を散歩した。太陽はいま圧倒的だった。砂の上に、海の上に、ひかりはこなごなに砕けていた。レエモンがどこに行くのかあてがあるような気がしたが、それはもちろんあやまりだった。浜のはずれに出て、われわれはついに、大きな岩のうしろに、海に向かって砂地を流れている、小さな泉にぶつかった。そこで、われわれは例の二人のアラビア人に逢《あ》ったのだ。二人は油だらけの菜っ葉服を着て、横になっていた。ごく穏やかな、ほとんど落ち着いた様子だった。われわれが現われても、何も変わるところはなかった。レエモンをやっつけた方も、何もいわずにレエモンをながめていた。もう一方も小さな葦笛《あしぶえ》を吹き、われわれの方を盗み見しながら、その楽器でやれる三つの音を繰り返すことをやめなかった。
こうしているあいだ、ここには、太陽と、――泉のせせらぎと葦笛の三つの音を含むこの沈黙とのほかには、何一つなかった。やがて、レエモンは尻《しり》のポケットに手をかけたが、相手は動こうともせず、互いにじっと見つめ合ったままでいた。私は、笛を吹いているやつの足のゆびが、えらくひらいているのに気がついた。ところが、レエモンは敵から眼を離さずに、「やるか?」と尋ねた。私がよせといったら、彼はひとりで逆上してしまい、きっと撃ち込むに違いない、と思ったから、「あいつはまだ何もいい出さないぞ。それなのにこのまま撃ち倒すのは、きたないな」といってやった。沈黙と熱気とのさなかに、相変わらず、水と笛とのひびきが、かすかに聞こえていた。やがて、レエモンは「それじゃあ、やつを罵ってやる。何かいい返したら撃っちまうさ」というから、「そうさ、だが、相手が匕首を抜かなかったら、撃たなくてもいい」と私は答えた。レエモンは少し興奮してきた。相手は相変わらず笛を吹きつづけていたし、二人ともレエモンの仕ぐさをいちいち監視していた。「いいや、素手で向かいたまえ。そのピストルはこっちへ渡しといたらいい。もう一人が加わったり、あいつが匕首を引き抜いたら、撃っちまおう」と私はレエモンにいった。
レエモンがピストルを私に渡すと、陽のひかりがきらりとすべった。それでも、われわれは、一切がわれわれの周りに閉じこめられてでもいるかのように、なおじっと動かずにいた。われわれは眼も伏せずに互いにながめ合った。ここでは、すべてが、海と砂と太陽、笛と水音との二つの静寂との間に、停止していた。この瞬間、私は、引き金を引くこともできるし、引かないでも済むと考えた。ところが、出し抜けに、アラビア人があとずさりして、岩のうしろへ逃げ込んだ。そこで、レエモンと私とは、もと来た道を戻った。彼は気分がよくなったらしく、帰りのバスのことを話した。
私はヴィラのところまで一緒に行った。レエモンが木の階段をよじのぼってゆくあいだ、上り口のところへたたずんでいた。陽のひかりにやられて、頭ががんがんしていたし、木の階段をのぼり、また女たちのそばへ帰ってゆく、そんな努力がいかにも億劫《おっくう》になったのだ。ところが、空から降って来るきらめくような光の雨にうたれて、ここにじっとしていても、やっぱり堪えられぬほどの暑さだった。ここに残っていても、出掛けて行っても、結局同じことだったが、しばらくして、私は浜へと向き直り、歩き出した。
さっきと同じように、すべてが赤くきらめいていた。砂のうえに、海は無数のさざなみに息づまり、せわしい呼吸《いき》づかいで、あえいでいた。私はしずかに岩の方へ歩いて行ったが、太陽のために額がふくれあがるように感じた。この激しい暑さが私の方へのしかかり、私の歩みをはばんだ。顔のうえに大きな熱気を感ずるたびごとに、歯がみしたり、ズボンのポケットのなかで拳《こぶし》をにぎりしめたり、全力をつくして、太陽と、太陽があびせかける不透明な酔い心地とに、うち克《か》とうと試みた。砂や白い貝殻《かいがら》やガラスの破片から、光の刃が閃《ひらめ》くごとに、あごがひきつった。私は長いこと歩いた。
ひかりと波のしぶきのために、眩《きらめ》くようなまろい暈《かさ》に囲まれた岩の、小暗い影が、遠くから見えた。私は岩かげの涼しい泉を思った。その水のつぶやきをききたいと思い、太陽や骨折りや女たちの涙から逃れたいと思い、それから、影と憩《いこ》いとをそこに見出《みいだ》したいと願った。ところが、そばまで行ったとき、私は、例のレエモンの相手がまた来ているのを見た。
彼はひとりきりだった。くびのしたに手を組み、顔だけを岩かげに入れ、からだは陽《ひ》をあびながら、あおむけに寝て、憩《やす》んでいた。菜っ葉服は暑さのために煙をたてているようだった。私は少々おどろいた。私としては、もう事は済んだと思っていたから、そのことは考えずに、ここに来たのだった。
男は私を見つけると、少しからだを起こし、ポケットに手を突っこんだ。もちろん私は、上着のなかで、レエモンのピストルを握りしめた。そこでまた、彼はポケットに手を入れたままあとずさりして行った。私はかなり離れて、十メートルばかりのところにいた。彼の半ばとじた瞼《まぶた》の間から、時どき、ちらりと視線のもれるのが、わかった。でも、ひっきりなしに、彼の姿が私の眼《め》の前に踊り、燃えあがる大気のなかに踊った。波音は正午よりもっともの憂《う》げで、もっとおだやかだった。ここにひろがる同じ砂のうえに、同じ太陽、同じひかりがそそいでいた。もう二時間も前から、日は進みをやめ、沸き立つ金属みたいな海のなかに、錨《いかり》を投げていたのだ。水平線に、小さな蒸気船が通った。それを視線のはじに黒いしみができたように感じたのは、私がずっとアラビア人から眼をはなさずにいたからだった。
自分が回れ右をしさえすれば、それで事は終わる、と私は考えたが、太陽の光に打ち震えている砂浜が、私のうしろに、せまっていた。泉の方へ五、六歩歩いたが、アラビア人は動かなかった。それでも、まだかなり離れていた。恐らく、その顔をおおう影のせいだったろうが、彼は笑っている風に見えた。私は待った。陽の光で、頬《ほお》が焼けるようだった。眉毛《まゆげ》に汗の滴《しずく》がたまるのを感じた。それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。あのときのように、特に額に痛みを感じ、ありとある血管が、皮膚のしたで、一どきに脈打っていた。焼けつくような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、一歩体をうつしたところで、太陽からのがれられないことも、わかっていた。それでも、一歩、ただひと足、私は前に踏み出した。すると今度は、アラビア人は、身を起こさずに、匕首を抜き、光を浴びつつ私に向かって構えた。光は刃にはねかえり、きらめく長い刀のように、私の額に迫った。その瞬間、眉毛にたまった汗が一度に瞼をながれ、なまぬるく厚いヴェールで瞼をつつんだ。涙と塩のとばりで、私の眼は見えなくなった。額に鳴る太陽のシンバルと、それから匕首からほとばしる光の刃の、相変わらず眼の前にちらつくほかは、何一つ感じられなかった。焼けつくような剣は私の睫毛《まつげ》をかみ、痛む眼をえぐった。そのとき、すべてがゆらゆらした。海は重苦しく、激しい息吹《いぶき》を運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾《ろう》する轟音《ごうおん》とともに、すべてが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の異常な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。
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第二部
逮捕されるとすぐに、私は何度も尋問を受けた。が、これは身許《みもと》確認の尋問であり、長くは続かなかった。最初警察では、私の事件は誰の興味もそそらないように見えた。一週間たったのち、予審判事の方は、これに反して、好奇の眼《め》をもって、私を観察したが、はじめは、私の名と住所と職業、出生の日付と場所を尋ねただけだった。それから、私が弁護士を選んだかときいた。私が選ばなかったことを認め、一人つけることが絶対必要なのかと質問すると、彼は「なぜか」といった。私の事件は大へん簡単だと思うと答えると、彼は笑いながら、「それも一つの考え方だが、しかし、法の定めというものがある。もしあなたが弁護士を選ばなければ、われわれは職権をもってそれを選任しなければならない」といった。私は、裁判上そんな細かい点まで規定のあるのは、まことに便利だと思い、判事にそういうと、彼も私に同意し、法律というものはよくできている、と結論した。
最初、私は彼の言うことを真《ま》に受けてはいなかった。彼はカーテンをおろした部屋で私を迎えた。その机にはたった一つだけランプが載っていて、私のすわらせられた肘掛《ひじかけ》椅子《いす》を照らしていた。一方、彼の方はずっと闇《やみ》のなかにすわっていたのだ。以前こうした描写を書物のなかで読んだことがあったが、すべてゲームのように見えた。ところで、話をすませたあとで、じっとながめると、この男が細おもてで青い眼は落ちくぼみ、丈が高く、灰色の口ひげを長くのばし、半白の髪をあふれるように波打たしているのに気づいた。彼はものわかりもよく、また、口をひきつらす神経質な癖はあったけれども、とにかく、感じは悪くなさそうに見えた。部屋を出るとき、私は彼に手を差しのべようとさえしたが、ちょうどそのとき、自分がひと殺しをしたことを思い出した。
翌日、弁護士が刑務所へ会いに来た。まるまるした小柄《こがら》な男で、まだ若く、髪を丁寧になでつけていた。暑かったが(私は上着をぬいでいた)、彼は、黒っぽい服を着て、固い折カラーをつけ、黒と白の太い縞《しま》の、変わったネクタイをしめていた。脇《わき》にはさんでいた書類カバンを私のベッドの上へ置くと、名を名乗り、それから、私の書類を検討したといった。私の事件はデリケートだが、もし彼を信頼するならば、訴訟に勝つことは疑いない。彼に礼をいうと、「さあ、問題の要点に入りましょう」といった。
彼はベッドに腰をおろし、私の私生活についていろいろ情報をとっていると述べた。私の母が最近養老院で死んだことがわかり、そこでマランゴへ調査の手が向けられた。予審判事側は、ママンの埋葬の日に、私が「感動を示さなかった」ことを、知っていた。「あなたにこんなことをお尋ねするのは、すこし具合が悪いんですが、これは大事な点です。これに対して私がうまい答弁ができなければ、告訴の有力な材料となるでしょう」と弁護士はいった。私が彼に協力することを望んでいたのだ。弁護士はその日私が苦痛を感じたかと尋ねた。この問いはひどく私を驚かせた。もし私が誰かにそんな質問を呈さなければならぬとしたら、ひどく困ったろうと思われた。けれども、私は自問するという習慣が薄れてしまっているから、ほんとのところを説明するのはむずかしい、と答えた。もちろん、私は深くママンを愛していたが、しかし、それは何ものも意味していない。健康なひとは誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ。すると、弁護士はここで私の言葉をさえぎり、ひどく興奮した風に見えた。そんなことは、法廷でも、予審判事の部屋でも口にしない、と私に約束させた。一方、私は、肉体的な要求がよく感情の邪魔をするたちだという、説明をした。ママンを埋葬した日、私はひどく疲れていて、眠かった。それで、起こったところのことを、よく了解できなかったのだ。私が確信をもっていいうることは、ママンが死なない方がいいと思ったということだけだ。ところが、弁護士は満足した風がなく、「それは十分ではない」と私にいった。
考えた末、彼は、その日私が自然の感情をおさえつけていた、といえるかと尋ねた、「言えない。それはうそだ」と私は答えた。彼は、私にいくぶん嫌悪《けんお》を感じたかのように、変な眼で、私をながめた。いずれにしても、養老院の院長や職員が、証人として、喚問されるだろうし、「それは困った結果にならないとも限らない」と、ほとんど意地悪く、私に向かっていった。そんな話は私の事件とは何の関係もない、と注意してやったが、弁護士の方は、明らかに、あなたは裁判所と交渉をもったことがないようだ、とだけ答えた。
憤慨した様子で、彼は出て行った。彼を引きとめて、同情を得たいと望んだが、それもよりよく弁護されるためではなく、言って見れば、むしろ当たり前にやってもらうためなのだ。のみならず、彼にいやな感じを与えてしまったこともわかっていた。彼は私を理解していなかったし、私のことを、いくぶん憎んでさえいた。私は自分が世間のひとと同じだということ、絶対に世間の尋常なひとたちと同じだということを、彼に強調したいと願った。が、こうした一切は、結局のところ大して役に立たぬことでもあったし、面倒くさくなって、私はそれをあきらめてしまった。
しばらくして、私は再び予審判事の前に呼び出された。午後の二時だった。今度は、彼の部屋は、薄い窓かけでわずかに濾《こ》された光線にあふれていた。ひどく暑かった。彼は私をすわらせて、慇懃《いんぎん》丁寧に、弁護士は「支障があって」来られない、と述べた。けれども、私には、彼の尋問に答えずにいて、弁護士が助けに来るのを待つ権利があった。ひとりでも返事ができます、と私はいった。彼は机の上のボタンに指を触れた。若い書記が来て、私のすぐ背中のところに腰をおろした。
われわれは二人とも、肘掛椅子に坐《すわ》り込んでいた。尋問がはじまった。まず判事は、私がひとから口数が少なく、内に閉じこもり勝ちな性格だと見られているといい、そのことをどう考えているか、と尋ねた。「いうべきことがあまりないので、それで黙っているわけです」と私は答えた。判事は最初のときのように微笑して、それはもっともな理由だとこれを認め、「それに、これは大したことではない」と付け加えた。彼は黙り込んで、私を眺《なが》めていたが、やがて出し抜けに体を起こしながら、「あなたというひとは、面白いひとだ」と早口にいった。彼のいうところの意味がよくつかめなかったので、私は何も答えずにいた。彼は付け加えて、「あなたの振舞には、私にはわかりかねる点が多々あるが、あなたが私を助けて、それをわからせてくれることを、確信しています」といった。すべて簡単なことばかりだ、と私は答えた。彼は、私の例の一日を物語るように催促した。私は、既に彼に向かって話したことを、もう一度述べ直し、彼のために要約した。レエモン、浜、海水浴、争い、また浜辺、小さな泉、太陽、そして、ピストルを五発撃ちこんだこと。一言話すたびに、彼は、「ああ、そう」といった。横たわった死体のところまで進むと、彼は、「もうよろしい」といって、それを確認した。私はといえば、こんな風に、同じはなしを繰り返すことに疲れ切っていた。こんなにしゃべったことは、かつてないように思われた。
しばらくの沈黙ののちに、彼は立ち上がって、私はあなたを助けたいと思う、あなたは面白いひとだし、神の加護により、あなたのために何かしてあげられよう、と私にいった。でも、その前に、彼はなお二、三の質問をしたいといった。引き続き同じ調子で、母を愛していたか、と彼は私に尋ねた。「そうです。世間のひとと同じように」と私は答えた。すると、書記は、それまでは規則的にタイプをたたいていたのだが、キイを間違えたらしかった。彼はすっかり混乱して、後戻りを余儀なくされたからだ。相変わらず、はっきりとした論理的脈絡なしに、判事は今度は、五発つづけてピストルを発射したか、と尋ねた。考えた末、私は、最初一発だけ撃ち、数秒の後、あとの四発を撃った、と確言した。「第一発と第二発とのあいだに、なぜ間をおいたのですか?」と彼はいう。もう一度、私は赤い浜を眼にし、焼けつくような太陽を額に感じた。が、こんどは何も答えなかった。これに続く沈黙のあいだ、判事は興奮した様子だった。彼は腰をおろし、髪の毛をかきみだし、机に肘をついて、奇態な風で、私の方に少し身をかがめた。「なぜ、なぜあなたは、地面に横たわった体に、撃ち込んだのですか?」それでもなお、私は答えるすべがなかった。判事は両手を額にあて、声までいくぶん変わりながら、「なぜです? それを私にいってもらわなければならない。なぜなのです?」と繰り返した。私は相変わらず黙ったままだった。
にわかに彼は立ち上がると、大またに、部屋の端の方に歩みより、書類箱の引き出しを開いた。そこから銀の十字架を抜き出して、ぶらぶら振りながら、私の方へ戻って来た。そして、普段とは違った、慄《ふる》えるような声で、「あなたは、これを、こいつを知っていますか?」と叫んだ。「もちろん、知っていますとも」と私は答えた。すると彼は、大そう早口に、激した調子で、自分は神を信じているといい、神様がお許しにならないほど罪深い人間は一人もいないが、そのためには、人間は悔悛《かいしゅん》によって、子供のようになり、魂をむなしくして、一切を迎えうるように準備しなければならないという、彼の信念を述べたてた。彼は体全体を机の上に乗り出して、その十字架を、ほとんど私の真上で振りまわしていた。実をいうと、私は彼の理屈に全然ついて行けなかった。第一、私はひどく暑かったし、彼の部屋には大きな蠅《はえ》がいて、私の顔にとまったりしたし、また、彼が少し恐ろしくもなったからだ。それと同時に、少々|滑稽《こっけい》にも認められた。というのは、せんずるところ、罪びとはこの私なのだから。彼の方はそれでもなお語りつづけた。彼によれば、私の告白には曖昧《あいまい》な点は一つしかない、ピストルの第二発目を撃つのに、少し間をおいたという事実がそれだ、――ということが、どうやら私にはわかりかけた。その他の部分については、はっきりしたものだ。しかし、そのことだけが、彼にはわからなかった。
あなたが自分の意見を固執するのは間違いだ、と私はいってやろうとした。この最後の問題は、それほど重大なものではないのだ。ところが、判事は私をさえぎり、重ねて私をうながし、すっかり立ち上がって、私が神を信ずるか、と尋ねた。私は信じないと答えた。彼は憤然として腰をおろした。彼は、そんなことはありえない、といい、ひとは誰でも神を信じている、神に顔をそむけている人間ですらも、やはり信じているのだ、といった。それが彼の信念だったし、それをしも疑わねばならぬとしたら、彼の生には意味がなくなったろう。「私の生を無意味にしたいというのですか?」と彼は大声をあげた。思うに、それは私とは何の関係もないことだし、そのことを彼にいってやった。ところが、彼は、机ごしに、クリストの十字架像を私の眼の前に突き出し、ヒステリックなようすで叫んでいた。「私はクリスト教徒だ。私は神に君の罪のゆるしを求めるのだ。どうして君は、クリストが君のために苦しんだことを信じずにいられよう?」私のことを「君呼ばわり」していることに気づいたが、私はもううんざりだった。暑さはますますひどくなって来た。いつもそうするのだが、よく話をきいてもいないひとから逃げだしたいと思うと、私は承認するふりをした。すると驚いたことには、彼は勝ちほこって、「それ見ろ、君は信じているんじゃないか。神様にお任せするというんだね?」といった。断固として、私はもう一度あらためて、違う、といった。彼はふたたび肘掛椅子に倒れ込んだ。
判事はひどく疲れている風だった。彼はしばらく黙っていたが、その間も、タイプは、二人の会話を追うことをやめず、なお最後の方の言葉を打ちつづけていた。それから、彼はいくらか悲しみの色のこもった眼で、じっと私を見つめ、「あなたほど強情な魂は、見たことがありません。私のところへ来る罪人たちは、この苦悩の絵姿を眼にすれば、きまって、涙をながしたものです」とつぶやいた。私は、まさにそれが罪人たちだったからそうなのだ、と答えようとした。ところで、この私もまた彼らと変わりがない、と私は考えた。これは私の慣れがたい観念だった。そのとき、判事が立ち上がった。それは尋問が終わったことを意味するように見えた。彼は、少し疲れたような同じ調子で、自分の行為を悔いているか、とだけ尋ねた。考えた末、実のところ、悔恨を感ずるよりもむしろ、うんざりしている、と答えた。彼には私の気持がよくわからないような印象をうけた。しかし、この日、事はこれより先には運ばなかった。
その後、何度も予審判事に会った。ただ、そのたびごとに、私は弁護士に付き添われていた。先立つ私の陳述の若干の部分を、私に確認させるに止《とど》まった。さもなければ、判事は私の弁護士と訴訟費用について話し合った。が、実のところ、この際には、二人とも全然私のことなど構ってはいなかったのだ。とにかく、少しずつ、尋問の調子が変わった。判事はもはや私に関心を持っていないようだし、いわば私のケースは整理ずみになってしまったかに見えた。もう私に向かって神のことを語らなかったし、またあの第一日目のような彼の興奮した姿を再び見ることもなかった。その結果、われわれの会談は、だんだん打ちとけたものになった。若干の質問、弁護士とのわずかな会話、それで、尋問は終わりになった。私の事件は、判事の表現を借りれば、軌道に乗って行った。時として、会話の内容が一般的話題にわたるような場合には、私もそこに加わった。私は息をつき出した。こうしたときには、誰ひとり私に悪意を示すものはなかった。すべてが、まことに自然で、まことに規則立っていて、しかもまことに地味に演ぜられていたので、私は「家族の一員になっている」ようなおかしな印象をうけた。こうした予審の続いた十一カ月が過ぎると、判事がその部屋の戸口まで私を送って来て、私の肩をたたき、「今日はこれで終わりです、反クリストさん」と打ちとけた様子でいいかける、あの瞬間を除いては別に何にも楽しみを見出《みいだ》さないのに我ながら驚くほどになっていた、ということができる。そこで私の身柄は憲兵の手に渡された。
断じて語りたくなかったことがらもある。刑務所に入って、数日たつと、私は自分の生活のこうした部分を語りたくないということが、わかった。
しばらくすると、こうした嫌悪の念に、私はもう大した意味を認めなかった。実際において、最初のうちは、現実に刑務所にいたとはいえなかった。私は漠然《ばくぜん》と何かの新しい出来事を期待していた。すべてがはじまったのは、マリイの、最初にして最後の訪問を受けてから後のことだ。マリイの手紙をもらった日から、(マリイは私の妻ではないから、もう面会の許可はおりないだろうといってきた)その日から、自分の独房にいて、わが家にいるように感じ、自分の生活がそのなかに限られていると感ずるようになった。私が逮捕された日には、先《ま》ず、数名既に留置されている部屋に入れられたが、大部分は、アラビア人だった。連中は私の方を見ながら、笑った。やがて、何をしたのかと尋ねてきた。アラビア人を一人殺したのだ、というと、連中はひっそり黙ってしまった。が、しばらくして、黄昏《たそがれ》がおりてきた。連中は、寝床にする、筵《むしろ》をいかにつかうべきかを教えてくれた。一方の端を巻いておくと、長枕《ながまくら》として用いることができるのだ。一晩じゅう、南京虫《なんきんむし》が顔のうえをはいまわった。数日たってから、独房へ隔離され、板の上に寝た。便器用の桶《おけ》と、鉄のたらいとがついていた。刑務所は街の高みにあったから、小窓からは海が見えた。ある日、格子《こうし》にしがみついて、顔をひかりの方へつき出していると、看守が入って来て、面会人があるといった。マリイだなと考えた。それはほんとにマリイだった。
応接室へゆくために、長い廊下を渡り、階段を通り、それから終わりに、もう一つ違う廊下を過ぎた。広い窓から光のさし込んだ、大きな部屋へ入った。それを縦に断ち切る二つの大きな格子で、この部屋は三つに仕切られていた。二つの格子の間には、八メートルから十メートルの距離があり、それが面会人と囚人とを引き離していた。私は正面に、縞柄のローブを着て、陽焼《ひや》けした顔の、マリイを見出した。私の側《そば》には十名ばかりの囚人がいたが、大部分はアラビア人だった。マリイはモール女にかこまれ、二人の面会の女の間にはさまれていた。その一人は、唇《くちびる》を固く結び、黒い服を着た、小柄の婆《ばあ》さんだ。もう一人は、かぶりものなしの大女で、大仰な身ぶり仕ぐさをして、声高にしゃべっていた。格子と格子との距離があるので、面会人も囚人もともに大声で話さなければならなかった。なかへ入ってゆくと、この部屋の広い裸の壁にはねかえる人声のざわめきと、空から窓ガラスへと降りそそぎ、広間にほとばしる、あらあらしいひかりのために、私は何かめまいのようなものを感じた。私の独房はもっと静かで暗かった。この場所に慣れるのに、数秒を要した。が、しまいに、白日のなかに浮き出した各人の顔を、はっきりと見られるようになった。一人の看守が、二つの格子の間の通路の端にすわっているのに、気づいた。大部分のアラビアの囚人も、またその家族の連中も、向かい合いにうずくまっていた。アラビア人は大声をあげない。この喧噪《けんそう》のなかでも、彼らは低く話し合って、しかも意思を通じ合うことができる。地面の方からはいあがってくる、アラビア人の鈍いつぶやきは、彼らの頭上で交差する話し声に対して、引きつづき、いわば一種の低音部をなしていた。こうしたすべてに、私はすぐさま気がついた。私はマリイの方へすすんだ。格子にはりついて、マリイは一所懸命に私に微笑《ほほえ》んで見せた。私は大そう綺麗《きれい》だと思ったが、それを彼女にいってやることはできなかった。
「いかが?」と高い声でマリイがいった。「この通りさ」――「丈夫なのね。ほしいものは別にないわね」――「ああ、別にない」
われわれは黙り込んだ。マリイは相変わらず微笑していた。大女は私の隣の男に向かって喚《わめ》いていた。恐らくその夫なのだろうが、率直な眼《め》をした金髪の大男だった。それは既に始まっている会話の続きだった。
「ジャンヌは預かろうとしないのさ」と彼女は声をかぎりに叫んだ。「そうか、そうか」と男がいった。「あんたが外へ出たら、かならず引きとるって、いってやったんだよ。それでも、あの娘《こ》は預かろうとしないのさ」
マリイは向こう側で、レエモンがよろしくいっていた、と叫んだ。私は、ありがとうといったが、私の声は、「あいつの具合はどうかね」と尋ねる隣の男の声で、打ち消されてしまった。その女房は「とてもいいよ」といって、笑った。私の左側にいた、ほっそりした手の、小柄《こがら》な青年は、一言もいわなかった。彼は小さな婆さんと向かい合い、二人とも異常な激しさで、互いに見つめ合っていた。しかし、私はこの二人をこれ以上見守るひまがなかった。マリイが、希望を持たなくてはいけない、と私に向かって叫んだからだ。私は「そうなんだ」といった。同時に、私はマリイを眺め、そのローブの上から肩を抱き締めたいと思った。この薄ものを欲情した。そして、この薄ものの外《ほか》に何を期待すべきか、私にはよくわからなかったが、それこそもちろん、マリイのいわんとするものだったのだ。マリイはずっと微笑をつづけていたからだ。私にはもう、歯のきらめきと、眼もとの小皺《こじわ》しか、見えなくなった。「あなたが出たら、結婚しましょうね!」と、またマリイが叫んだ。「ほんとかね?」と私は答えたが、それは何かいわねばならぬと思ったからだった。するとマリイは、早口に相変わらず高い声で、本当よ、といい、あなたが放免になったら、また海水浴へゆこうといった。ところが、もう一人の女も、向こう側でわめき立て、書記課にかごを預けてきたといい、入れたものを、一つ一つ数えあげた。その中身は高くついたから、確かめておく必要があったのだ。もう一方の隣人とその母親とは、相変わらず見つめ合っていた。アラビア人のつぶやきは、われわれの足もとで、続いていた。おもての光線は、窓に向かってあふれて来るように見えた。ひかりは、顔という顔の上を、新鮮な液のように、流れた。
私はすこし具合が悪いような気がし、むしろこの部屋を出たいと思っていた。騒音のために気分が悪くなったのだ。が、他面、私はなお、マリイのいるこの一刻《いっこく》を有益に用いたいと思った。それからどれほどの時がたったか、私は知らない。マリイは自分の仕事について語り、絶え間なく微笑を見せていた。つぶやき、叫び声、会話が入りみだれた。私のわきの、互いに見つめ合っているあの小柄な青年と婆さんのところが、たった一つの沈黙の個所だった。だんだんとアラビア人が連れてゆかれた。最初の一人が外へ出てゆくと、ほとんどすべての者が黙り込んでしまった。小さな婆さんが仕切格子に近づいた、と同時に、看守が息子に合図した。息子が「母さん、さよなら」といった。婆さんは、二つの格子の間に手をさしのべて、息子に、ゆっくり長々と、小さな合図を送った。
婆さんが出てゆくと、一人の男が、帽子を手にして入って来て、自分の席についた。一人の囚人が導かれて来て、二人は活発に話し出したが、その声は低かった。この部屋が再びしずかになっていたからだ。私の右隣の男を呼びに来ると、その女房は、まるでもう大声をはりあげる必要のないことに気づかなかったかのように、声を低めず、「あんた大事にしてよ。気をつけてね」といった。それから私の番が来た。マリイは接吻《せっぷん》の仕ぐさをした。私は姿を消すまえに振り返って見た。マリイは、顔を格子に押しつけ、引き裂かれ、引きつったような同じ微笑をたたえて、じっと動かずにいた。
マリイが手紙をよこしたのは、その直後のことだった。そして、その時から、私の断じて語りたくないことどもが始まったのだ。いずれにしても、誇張は慎まねばならないが、私には、他の人よりも、やり易《やす》かった。留置されて最初のうち、それでも、一番つらかったことは、私が自由人の考え方をしていたことだった。例えば、浜へ出て、海へと降りてゆきたいという欲望に捕えられた。足もとの草に寄せてくる磯波《いそなみ》のひびき、からだを水にひたす感触、水のなかでの解放感――こうしたものを思い浮かべると、急に、この監獄の壁がどれほどせせこましいかを、感じた。これが数カ月続いた。それから後は、もう私には囚人の考え方しかできなかった。私は、中庭での毎日おきまりの散歩や、弁護士の訪問を待っていた。残りの時間はうまく処理した。その頃《ころ》、私はよく、もし生きたまま枯木の幹のなかに入れられて、頭上の空にひらく花をながめるよりほかには仕事がなくなったとしても、だんだんそれに慣れてゆくだろう、と考えた。そうすれば、過ぎてゆく鳥影やゆきちがう雲の流れを待ちもうけるだろう。今ここで、弁護士の妙なネクタイの現われるのを待っているように。また、あのもう一つの世界で、マリイの体をだきしめるのを期待しながら、土曜までがまんしていたように。ところで、よく考えて見ると、私は枯木のなかに入れられたのではない。私より不幸なものだってあったのだ。これはまたママンの考え方で、ママンはよく口にしていたものだが、人間はどんなことにも慣れてしまうものなのだ。
それに、普通は、そんなところまでゆくことはなかった。最初の数カ月はつらかったが、まさに自分の努力の結果、それもようやく過ぎた。たとえば、女に対する欲望で苦しんだ。若かったから、これは当たり前のことだった。特にマリイを思ったことはない。しかし、私はしきりに、一人の女を、女たちを、また、私の知った女たちを、愛撫《あいぶ》を与えたあらゆる機会のことを思い、ために私の独房は、女たちの顔に満ち、私の欲情で一杯になった。ある意味では、そのことが私のこころを乱したが、またある意味では、それが時を殺してくれたのだ。私はついに、食事のときに料理場のボーイについて来る、看守長の同情を克《か》ちうるに至った。最初私に女の話をしたのは彼だ。他の連中が訴えて来る最初のことはこれだ、と彼がいった。私は、自分もみんなと同じであり、こんな待遇は不都合だと思う、といった。「けれど、あんたがたを牢屋《ろうや》へ投げ込むのは、これあるがためでさあ」――と彼がいった。――「どうして、これがためなのさ?」――「確かにそうでさあ、自由ってのは、すなわちこれですよ。あんたがたは自由をとりあげられるんでさあ」私はこんなことは考えたことがなかった。私は彼に同意を示して、「ほんとだな、そうでなかったら懲罰とは何だろう?」といった。「そうさ、あんたというひとはものわかりがいい。他の連中はわからないね。でも、結局連中は自ら慰んでいますよ」看守はこういって立ち去った。
煙草《たばこ》のこともあった。刑務所に入ると、ベルトや靴《くつ》の紐《ひも》やネクタイはとられ、またポケットにいれているものいっさい、特に煙草は、とりあげられてしまった。一度独房で返してほしいと頼んだが、それは禁じられている、といわれた。最初の何日かはひどくつらかった。私がいちばん打撃をうけたのは、恐らくこのことだったろう。自分のベッドの板をはがして、その木片をしゃぶった。一日中、たえまなく、吐きけがついてまわった。誰にも害を与えぬものを、なぜとりあげられてしまうのか、わけがわからなかった。あとになって、これもまた懲罰の一部をなしていることがわかった。しかし、そのころには、煙草をすわないことに慣れてしまい、この懲罰は私にとって懲罰たることをやめていた。
こうしたつらさを別にすれば、そうひどく不幸ではなかった。問題はかかって、もう一度いえば、時を殺すことにあった。追憶にふけることを覚えてからは、もう退屈することもなくなってしまった。時には、自分の部屋に思いをはせたりした。想像のなかで、私は部屋の一隅《ぐう》から出て、もとの場所まで一回りするのだが、その途中に見出されるすべてを、一つ一つ心のうちに数えあげてみた。最初は、すぐ済んでしまったが、だんだんとこれを繰り返すたびに、少しずつ長くかかるようになった。というのは、私はおのおのの家具を思い出し、その一つ一つの家具については、そのなかにしまってある一つ一つのものを思い出し、一つ一つのものについては、どんな細かな部分までも思い出し、その細かな部分、象眼やひびや縁のかけ落ちたところなどについては、色あいや木目《きめ》を思い出したからだ。同時に、私は自分の財産目録の手がかりを失わないようにして、完全な一覧表を作り出そうと試みた。その結果、数週間たつと、自分の部屋にあったものを一つ一つ数え上げるだけで、何時間も何時間も過ごすことができた。こういう風にして、私が考えれば考えるほど、無視していたり、忘れてしまっていたりしたものを、あとからあとから、記憶から引き出してきた。そして、このとき私は、たった一日だけしか生活しなかった人間でも、優に百年は刑務所で生きてゆかれる、ということがわかった。そのひとは、退屈しないで済むだけの、思い出をたくわえているだろう。ある意味では、それは一つの強みだった。
また睡眠のこともあった。はじめは、夜もあまり眠れず、昼間は全然眠れなかった。だんだんと、夜は眠りやすくなり、昼間でさえも眠るようになった。ここ数カ月は、毎日十六時間から十八時間眠ったということができる。したがって残りは六時間となるが、食事や用便や思い出やチェコスロバキアの出来事などで、これを過ごした。
藁布団《わらぶとん》とベッドの板との間に、実は、一枚の古新聞を見つけたのだ。すっかり布にはりついて、黄いろく、裏がすけていた。その紙きれは、頭の方こそ欠けていたが、チェコスロバキアに起こったらしいある事件の記事を載せていた。一人の男が金をもうけようと、チェコのある村を出立《しゅったつ》し、二十五年ののち、金持になって、妻と一人の子供を引き連れ、戻って来た。その母親は妹とともに、故郷の村でホテルを営んでいた。この二人を驚かしてやろうと、男は妻子を別のホテルへ残し、ひとりで母の家へ行ったが、男が入って行っても、母にはそれと見分けがつかない。冗談に、一室かりようと思いつき、金を見せた。夜なかに母と妹とは男を槌《つち》でなぐり殺して、金を盗み、死体は河へ投げ込んだ。朝になって、男の妻が来て、それとは知らずに、旅行者の身許《みもと》を明かした。母親は首をつり、妹は井戸へ身を投げた。私はこの話を数千回も読んだはずだ。一面ありそうもない話だったが、他面、ごく当たり前な話でもあった。いずれにせよ、この旅行者はこうした報いをうけるに値した、からかうなんぞということは断じてすべきでない、と私は思った。
眠りの時間、思い出、記事を読むこと、光と闇《やみ》との交替――こうしたことのうちに、時は過ぎた。牢獄にいると時の観念を失ってしまう、ということを確かに読んだことがあったが、これは私には大した意味を持たなかった。どうして、日々が長くて同時に短くなるのか、私にはわかっていなかった。もちろん、生きてゆくには長いものだが、ひどくふくれあがっているので、日々は互いにあふれ出してしまうのだ。日々は名前をなくしていた。私に対して意味を持っているのは、昨日とか明日とかいう言葉だけだった。
ある日、看守が来て、私がここへ来てからもう五カ月になるといったときにも、その言葉は信じたが、よく理解できなかった。私にとっては、絶え間なく、同じ日が独房のなかへ打ちよせて来、同じ努力をつづけていたに過ぎない。その日、看守の出て行ったあとで、私は鉄製の椀《わん》にうつった自分の姿をながめた。私の肖像は、それに向かって微笑んでやろうとしたにもかかわらず、なおまじめな顔をしているように見えた。私はそれを眼の前で揺り動かした。微笑したが、顔の方は、相変わらず、厳《いかめ》しく悲しげなようすだった。日が暮れかけていた。これは私の語りたくない時刻だった。この名のない時刻に、沈黙を連ねた刑務所の各階という階から、夕べのものおとが立ち昇ってゆく。私は天窓に近より、最後のひかりのなかで、もう一度自分の姿をうつしてながめた。相変わらずまじめな顔だったが、このときなお、私がきまじめだったからといって、何の驚くことがあろう? しかし、それと同時に、またこの数カ月来はじめてのことだったが、私は自分の声音《こわね》をはっきりときいた。その声が、もう長いこと私の耳に鳴りひびいている声だと聞き分け、この間、ひとりごとをいっていたのを了解した。そして、ママンの埋葬のとき、看護婦がいった言葉を思い出した。ほんとに抜け道はないのだ。そして、刑務所内の夕べ夕べがどんなものか、誰にも想像がつかないのだ。
要するに、その夏ははやく過ぎて、またじきに次の夏が来た、ということができる。最初の暑気の上昇とともに、私についても何か新しい事態が到来することを、私は知っていた。私の事件は、重罪裁判所のいまの会期に記録されていて、この会期は六月をもって終わるはずだった。弁論がひらかれた、その頃には、戸外は、太陽のひかりがみなぎっていた。弁論は二、三日以上は続くまい、と弁護士が私に保証した。「それに、あなたの事件は会期中のいちばん重大なものではないから、裁判所もいそぐでしょう。すぐあとで、親殺しの事件をやるでしょう」と彼はいい足した。
朝の七時半に、私を呼びに来て、護送車で裁判所まで連れてゆかれた。二人の憲兵が、日陰のにおいのする小部屋へ私を通した。われわれは戸口のそばにすわって待ったが、その扉《とびら》のうしろからは、さまざまな声や、呼出しや、椅子《いす》の音や、また、あの界隈《かいわい》の祭りを思い出させる、さわがしい物音が聞こえていた。そんな祭りのときには、演奏のすんだあとで、踊れるように広間を片付けたりするのだ。憲兵は開廷には間があるといい、その一人は私に煙草を一本さし出したが、私は断わった。その男はすこしして、私に怖気《おじけ》づいたか、と尋ねたが、私は、そんなことはない、と答えた。それに、ある意味で、裁判を見ることに、興味もあった。私はそれまでの生涯《しょうがい》に、そんな機会を持たなかったから。「そうだ」と、もう一人の憲兵が、いった。「けれども、しまいには疲れてしまうよ」
しばらくたって、小さなベルの音が法廷のなかに鳴りわたった。憲兵は私の手錠をはずし、扉をあけて、被告席に私を入れた。法廷はぎゅうぎゅう詰めだった。陽よけはおりていたが、太陽はところどころから漏れ入り、空気は既に息づまるようだった。窓ガラスはしめ切ったままだった。私が腰をおろすと、憲兵がまわりを囲んだ。私の眼の前に、一列をなしている人の顔に気がついたのは、このときだった。誰もが私をながめていた。これが陪審員だということを、私は理解した。しかし、その一人を他から区別していた特徴をいうことができない。私にはただ一つの印象しかなかった。それは私が電車の座席の前に立っていて、その名も知れぬ乗客という乗客が、何かおかしなところを見つけ出そうとして、新しく乗って来た客を、じろじろうかがっているというようなものだった。この場合、彼らがもとめているのは、おかしな点ではなくて、罪なのだから、これが馬鹿《ばか》げた思いつきだということは、私もよく承知している。とはいうものの、その差異は大きなものではないし、とにかく、こうした考えを私は思いついたのだ。
この締め切りの法廷の大へんな人いきれのために、私はやはり少々ぼんやりしていた。また法廷のなかをながめわたしたが、どの顔も見分けがつかなかった。最初、たしかに私は、このひとたちがみんな私の顔を見ようとひしめいていることを了解してなかった、と思う。いつもなら、ひとびとは私なんぞに関心を向けはしない。私がこうしたざわめきの原因だということを理解するには、努力を要した。「何という大勢の人だろう!」と憲兵にいうと、これは新聞のせいだ、と答え、陪審員席の下の、テーブルのそばに陣取った一団を示した。「あそこにいるよ」と彼はいった。「誰がです?」と尋ねると、「新聞さ」と繰り返した。憲兵は新聞記者の一人と知り合いだったが、このとき記者が憲兵に気づいて、われわれの方へやって来た。もうかなり年配の男で、少ししかめ面《つら》をしていたが、感じがよかった。彼は大そう熱っぽく憲兵の手を握りしめた。このとき、私は、みんなが、まるで同じ世界のひとたちの間で相会うことを楽しむ、あのクラブにでもいるかのように、互いに見つけ合い、尋ね合い、話をかわしていることに、気づいた。また、自分が何か闖入者《ちんにゅうしゃ》みたいに、余計なものだという奇妙な印象を、ひそかに受けた。けれども、記者は、微笑《ほほえ》みながら私に話しかけて来た。彼は、万事私に有利にゆくことを期待する、といった。私が礼をいうと、「御承知のように、あなたの事件を、少々持ち上げました。夏は、新聞にとっては種切れの季節でね。それで、何かバリューのあるものといったら、あなたの事件か、親殺しの事件しかなかったんで」と彼は付け加えた。それから、彼がそこから抜けて来たグループのなかに、黒い縁の大きな眼鏡をかけて太った|いたち《ヽヽヽ》みたいに見える、小柄な好人物を指して、パリの新聞の特派員だといった。「あなたの件で来たわけではありません。けれども、あのひとは、親殺しの裁判を報告することになっているから、同時にあなたの事件も電報するように頼まれたんです」すると、私はまた、あやうく彼に礼をいいそうになった。が、これは滑稽《こっけい》だな、と考えた。記者は、私にむかって、ちょいと手をあげて打ちとけた合図をして、われわれを離れて行った。われわれはなお数分間待った。
弁護士が法服を着け、大勢の同僚に囲まれて、あらわれた。彼は記者たちのところへ行って、握手した。彼らは冗談をいったり笑ったりして、全く気楽な様子だったが、そのうちにベルが廷内に鳴りわたった。みんな自分の席へ戻った。弁護士は私のそばへ来て、手を握り、そして、質問をうけたら手短に答えるように、こちらからイニシアチブをとらないように、また、その他のことについては自分に任せてくれるように、と勧めた。
左手に、椅子を後へ引く音が聞こえ、鼻眼鏡をかけ、赤い服を着た、やせぎすな長身の男が、注意深く法服を折って、腰をおろすのが見えた。それが検事だった。廷吏が開廷をしらせた。同時に、二つの大きな扇風機がうなり出した。その二人は黒い服を、三人目は赤い服を着た、三人の判事が、書類を手にして入って来て、部屋から一段高くなっている壇の方へと、足早に歩いた。赤い法服の男は中央の肘掛《ひじかけ》椅子《いす》にすわり、眼《め》の前に縁なし帽子を置き、小さな禿頭《はげあたま》をハンカチで拭《ふ》くと、開廷を宣した。
新聞記者たちは既に万年筆を手に握っていた。連中はみな同じように、冷然として、少々皮肉な様子をしていた。けれども、そのうちの一人、青いネクタイをして、灰色のフランネルの服を着た、大分若そうな青年は、万年筆を眼の前に置いたなり、私の方を見つめていた。多少|不均斉《ふきんせい》なその顔のなかで、私は明るい両の眼しか見ていなかった。その眼はじっと私の方を食い入るように見ていたが、はっきり言葉にしうるものは何一つ表わしていなかった。そして、私はまるで自分自身の眼でながめられているような、奇妙な印象をうけた。恐らくこうしたことのせいで、また、私がこの場所のしきたりを知らなかったせいもあって、続いて行なわれたすべては、あまりよくはわからなかった。陪審員の抽選、裁判長の、弁護士、検事、陪審員(そのたびに、陪審員の顔という顔は、同時に法廷の方へと向けられた)に対する質問。公訴状のすばやい朗読。――そのなかで、私は、さまざまな地名と人名と、また弁護士に対する新たな質問とがわかった。
しかし、裁判長は、ここで証人の呼び出しにかかりたい、といった。廷吏は幾つかの名前を読みあげた。それは私の注意を引いた。今しがたまでごっただった傍聴人のなかから、一人一人立ち上がって、横手の扉から消えるのが見えた。養老院の院長、門衛、トマ・ペレーズ老人、レエモン、マソン、サラマノ、マリイ。マリイは心配そうに小さく合図を送ってよこした。私はそれまでこの連中に気がつかなかったことに驚いていた。そのとき、最後に、名前を呼び上げられて、セレストが立った。彼のそばに、いつかレストランにいた小柄《こがら》な女が、覚えのあるジャケットを着て、例の正確で断固たる態度で控えているのが見えた。彼女は食い入るように私をながめていた。が、裁判長がまたしゃべり出したので、私は考える暇がなかった。彼は、これから正式の弁論がはじまるといい、傍聴人に静粛を命ずるにも及ぶまい、といった。裁判長の意見では、自分の務めは一つの事件の弁論を公平に運ばせることであり、これを客観的にながめたい、といった。陪審員の手による裁決は、正義の精神に基づいてなされなければならない。一寸《ちょっと》でも騒ぎが起こったら、傍聴は禁止されるであろう、といった。
いよいよ暑さは上っていた。部屋のなかで傍聴人が新聞で風を入れているのが見え、皺苦茶《しわくちゃ》の紙のたてる、小さな音が、絶え間なく続いていた。裁判長が合図をすると、廷吏が麦藁で編んだ三本のうちわを運んで来た、三人の判事はすぐにそれを使い出した。
尋問はじきに始まった。裁判長は、私に向かって、ごく穏やかに、ほとんど一種打ちとけた調子で(――私にはそう思われた)、尋ねかけた。またしても私は自分の身分を名乗らせられたので、苛々《いらいら》したが、内心、当たり前なことだと考えた。一人の人間を他の人間ととり違えて裁判するのは、あまりにも、重大なことになるからだ。やがて、裁判長は、私のやった行為を話し出したが、途中何度も「この通りですね?」と、私に尋ねた。そのたびごとに、私は弁護士に教えられた通り、「そうです、裁判長」と答えた。裁判長はずいぶん細かなことまで話のなかへ持ち込んだので、なかなか終わらなかった。この間《かん》、新聞記者はペンを走らせていた。記者のなかの年若の青年と、例の小柄な機械人形の視線を、私は感じていた。電車の腰掛みたいな座席は、みんな裁判長の方へ向いていた。裁判長は、せきばらいをして、書類の頁《ページ》をめくった。そしてうちわを使いながら私の方を向いた。
裁判長は、今や、この事件に一見無関係なように見えるが、実は恐らく大いに密接な関係にあると思われる問題に入らなければならない、といった。またしても彼がママンのことに触れようとしていることがわかったが、同時に、ほんとに厭《いや》だなあと思った。裁判長はなぜママンを養老院へ入れたか、と私に尋ねた。それはママンに看護婦をつけたり、治療をしたりする金がなかったからだ、と私は答えた。裁判長は、その費用は私がひとりで負担せねばならなかったのか、と尋ねたから、ママンも私もお互いに何一つあてにしていなかった、のみならず、他の誰からも何一つあてにしてはいなかった、と答え、また、われわれは二人とも新しい生活様式に慣れて行ったのだ、と答えた。すると裁判長はこの点について、こだわるつもりはない、といい、検事に向かって、別に質問があるか、と尋ねた。
検事はなかば私に背を向けた。そして、私の方を見ずに、裁判長の御許可があったら、自分は、私がアラビア人殺害の意図をもって、たった一人で泉の方へもどって行ったかどうかを知りたいと述べた。「違います」と私はいった。「それなら、なぜこの男は武器をたずさえていたのか。なぜ、正にあの場所へもどったのでしょうか?」それは偶然だ、と私はいった。すると、検事は意地悪い調子で、「さし当たりはこれだけにしておきましょう」といった。それからは、すべてが、少しごたごたした。少なくとも私にはそう見えた。何かひそひそと打ち合わせたあげく、裁判長は閉廷を宣し、午後は証人尋問に移る、と述べた。
私は考える暇がなかった。私は連れてゆかれて護送車に乗せられ刑務所へもどり、そこで食事をした。ほんのしばらくして、疲れたな、と感じたちょうどその頃《ころ》、早くもまた私を呼びに来た。すべてがまた始まった。私は同じ法廷の、同じ顔の前に、自分を見出《みいだ》した。ただ、暑さだけが一段と猛烈になっていて、まるで一つの奇跡のように、どの陪審員も、検事も、私の弁護士も、新聞記者たちも、いずれも麦藁のうちわを手にしていた。若い記者も、小柄な女も、相変わらずそこにいた。しかし、その二人だけはうちわを使わず、相変わらずものもいわずに私を見つめていた。
私は顔じゅうにふき出た汗をぬぐった。そして、養老院の院長の名が呼ばれるのを耳にしたとき、はじめて、いくぶん場所の意識と、自己の意識とを、とり戻した。ママンが私について不平をいっていたか、と尋ねられると、院長は、確かに不平はいっていたが、しかし、身よりの者の不平をいうのは、在院者の狂癖《マニア》みたいなものだ、と答えた。裁判長は、ママンが養老院に入れたということで私を非難していたかどうかを、確かめると、院長は、また、そうだといった。しかし今度はそれに何も付け加えなかった。もう一つの質問に対して、院長は、埋葬の日にこのひとがいかにも冷静だったのには驚いた、と答えた。冷静とはどういう意味なのか、ときかれた。院長は、そこで自分の靴《くつ》の爪先《つまさき》に視線を落とし、それから、私がママンの顔を見ようとはしなかった、一度も涙を見せなかった、埋葬がすむとママンの墓の上に黙祷《もくとう》もせずに、すぐさま立ち去った、といった。院長を驚かしたことはもう一つあった。私がママンの年を知らなかったと、葬儀屋の一人から、告げられたことだった。一瞬の沈黙が来た。裁判長は院長に向かって、あなたの話は確かにこのひとのことなのか、と尋ねた。院長にはこの問いの意味がわからなかったので、裁判長は「これは法律上必要な質問です」と院長にいった。やがて、裁判長は検事に向かって、証人にききただすことはないか、と尋ねると、検事は、「もうありません。もう十分です!」と叫んだ。私に向けられたこの叫びが、あまりに猛烈な勢いで、且《か》つ、検事の視線は全く勝ちほこった調子なので、この数年来はじめてのことだったが、私は泣きたいというばかげた気持になった。それは、これらのひとたちにどれほど自分が憎まれているかを感じたからだった。
陪審と私の弁護士とに、何か質問はないかと尋ねたあとで、裁判長は門衛の供述を聞いた。彼についても、他のひとたちのように、同じ儀礼が繰り返された。席に着くとき、門衛は私をながめ、それから眼をそむけた。彼は与えられた質問に答えた。門衛は、このひとはママンの顔を見たがらなかった、煙草《たばこ》を吸った、よく眠った、ミルク・コーヒーを飲んだ、といった。私はそのとき、傍聴席の全体を憤激させているあるものを感じ、そして、はじめて自分が罪人だということを理解した。門衛は、ミルク・コーヒーのはなしと、煙草のはなしを、もう一度しゃべらされた。検事は、眼に皮肉な色をたたえて、私をながめた。このとき、弁護士が、門衛に、あなたもこの男と一緒に煙草を吸わなかったか、と尋ねた。しかし、検事はこの質問をきくと、荒々しく立ち上がって、「ここでは誰が罪人であるか。証拠を消そうがために、証人を弾劾《だんがい》しておとしめようとは、何という方法だ! この証拠が決定的なことは、変わりがないぞ」と叫んだ。とにかく、裁判官は問いに答えるようにと門衛をうながした。老人は困った様子で、「私が悪いことは承知しています。けれども、あの方がすすめて下さった煙草は断わり切れなかったのです」といった。最後に、私に対して、何も付け加えることはないかと尋ねられたので、「何もありません。ただ証人には悪い点がないことを申し上げます。私が彼に煙草をすすめたというのは事実です」と答えた。すると、門衛は、多少の驚きと、一種感謝の色のこもった眼で、私をながめた。躊躇《ちゅうちょ》した末、彼は、ミルク・コーヒーをすすめたのは自分だ、といった。私の弁護士は勝ち誇ったように声をあげ、陪審員たちは十分それを評価するだろう、と述べた。しかし、検事はわれわれの頭上に蛮声をとどろかせて、「しかり、陪審員の方々は十分評価されるでしょう。陪審員方は、他人ならばコーヒーをすすめて差支《さしつか》えない、しかし、息子の方は、生命を授けてくれた母親の遺体を前にしては、それを断わるべきだ、と結論されるに違いない」といった。門衛は自分の腰掛にもどった。
トマ・ペレーズの番が来ると、廷吏は証人台まで彼をささえてゆかねばならなかった。ペレーズは、自分は私の母を特によく知っていたが、私にはたった一度だけ、埋葬の日しか会ったことがない、といった。その日この男は何をしたか、と尋ねられると、彼は「おわかりでしょうが、私自身あまりつらかったので、何一つ目にしませんでした。私が見ることができなかったのは、苦痛のためだ。あれは私にとってはもう大へんな苦しみだったのだから。私は失神したくらいです。それで、あの方を見ることもできなかったのです」と答えた。検事が、少なくとも、涙をながすのを見たかと尋ねた。ペレーズは、見ない、と答えた。すると今度は検事の方で「陪審員の方々はこの点を考慮に入れていただきたい」といった。しかし、私の弁護士は憤慨して、ペレーズに向かい、いかにも大げさな調子で、「このひとが泣かないところを見たのか」と尋ねた。ペレーズは、見ない、といった。傍聴人は声を立てて笑った。弁護士は一方の袖《そで》をからげながら、断固たる調子で、「これがこの裁判の実相なのだ。すべて事実だが、また何一つとして事実でないのだ!」といった。検事は無表情な顔をして、記録の見出しを鉛筆でつついていた。
五分の中休みの間に、弁護士は万事うまくゆくだろう、と私にいった。休みが済むと、被告側で呼び出したセレストの供述を聞いた。被告とは、すなわち私のことだった。セレストはちらりちらりと私の方へ視線を投げ、手のなかでパナマをまわしていた。新調の服を着ていたが、それは、ときどき日曜日に、私と一緒に競馬に行くときに着たものだった。しかし、カラーはつけていなかった。というのは、真鍮《しんちゅう》のボタン一つでシャツをとめていたからだ。この男はあなたの顧客《とくい》だったかときかれると、彼は「そうです。また友人であります」といった。私のことをどう思っているか、ときかれると、男だ、と答えた。男とはどういう意味か、ときかれると、それが意味するところは誰でも知っている、と述べた。この男が内に閉じこもり勝ちなことに気づいていたか、ときかれると、意味のないことはしゃべらない、ということだけを認めた。検事が、まかないの金をきちんと払っていたか、と尋ねると、セレストは笑って、「それはわれわれの間だけの内証事です」と述べた。重ねて、この犯罪をどう考えるか、と尋ねられると、彼は証人台の上に手をついた。何か言おうと用意してきたことが、誰にもわかった。「思うに、あれは不運というものだ。不運というものが何かは、誰でも知っています。それは防ぎようのないものだ。ああ、確かに、私の考えるに、それは不運というものです」彼はもっと続けようとしたが、裁判長は、それで結構だ、といい、どうも御手数でした、といった。すると、セレストはあっけにとられた様子でいたが、もっと供述を続けたい、と述べた。彼は、手短にやるようにと命じられた。それで、セレストは、またもや、あれは一つの不運というものだ、と繰り返した。裁判長は「よろしい。それは判《わか》りました。しかし、われわれは、この種の不運を審判しようとして、ここにいるわけです。どうもありがとう」といった。もはや、彼の知恵も、善意もつき果てたかのように、そのとき、セレストは、私の方を振り返った。その眼はきらきら輝き、その唇《くちびる》は震えているように見えた。これ以上何か自分にできることはないか、そう私に問いかける様子だった。私はといえば、一言もいわず、何の仕ぐさもしなかったが、このとき生まれてはじめて、一人の男を抱きしめたい、と思った。裁判長は証人台を離れるようにと、重ねて命じた。セレストは法廷を歩いて席へもどった。そのあとずっと、彼はじっとそこにいて、少し前こごみになり、膝《ひざ》に肘《ひじ》をつき、パナマを手に握って、とりかわされるすべての言葉に聞き入っていた。
マリイが入って来た。帽子をかぶっていて、やはり美しかった。しかし、私は髪を結ばずに散らしているときの方が好きだった。私のいる場所からでも、あの乳房の軽やかな重みが、手にとるようにわかった。下唇が相変わらず少しふくらんでいるのが見えた。大そう神経を立てている様子だった。すぐに、マリイは、いつからこの男を知ったかときかれた。彼女はわれわれのところで一緒に働いていた時期を示した。裁判長は、どういう関係なのかと尋ねると、女友達《アミイ》だと言った。別の質問に対して、彼女はほんとにこのひとと結婚するはずだと答えた。書類の頁をめくっていた検事が、出し抜けに、いつからわれわれの関係がはじまったか、と尋ねた。マリイはその日付を示した。検事は素しらぬ風に、それはママンの死の翌日のように思われる、と指摘した。それから、皮肉な態度で、こうしたデリケートな状況にこだわりたくはないし、またマリイの心配はよく了解しているが、しかし、(ここで彼は一段ときびしい調子になった)自分の義務からして、通常の礼儀を踏み越えざるをえないのだ、といった。そこで検事はマリイに、私が彼女の体を知ったその一日を、あらまし述べるように命じた。マリイは話したがらなかったが、検事がしきりにいい張るので、われわれが海水浴へ行ったこと、映画へ出かけたこと、二人で私の部屋へ帰ったこと、を述べた。検事は、予審におけるマリイの供述に従って、この日の映画のプログラムを調べておいたがといい、マリイ自身の口から、このとき何の映画をやっていたか、をいってもらいたい、と付け加えた。ほんとうに、絶え入るような声で、マリイは、それがフェルナンデルの映画だった、と述べた。彼女がいい終わったとき、沈黙が場内に満ちみちた。すると、検事は立ち上がって、いかにも深刻に、事実感動したような声で、私の方を指しながら、ゆっくりと、こういい放った。「陪審員の方々、その母の死の翌日、この男は、海水浴へゆき、女と情事をはじめ、喜劇映画を見に行って笑いころげたのです。もうこれ以上あなたがたに申すことはありません」相変わらずの沈黙のさなかに、検事は腰をおろした。と、突然、マリイは声をあげて泣き出した。それはほんとうではないのだ、別のこともあった、自分が考えていたこととは反対のことをいわせられてしまったのだ、自分はあのひとのことをよく知っている、あのひとは何も悪いことをしてはいないのだ、といった。しかし、廷吏が、裁判長の合図によって、彼女を連れ去り、証人審問は更に続けられた。
それからマソンの番になって、あれは律儀《りちぎ》な男だ、あえていうなら、誠実な男だ、と述べたが、もう誰もほとんどきいてはいなかった。ついで、サラマノが、私が例の犬の件で親切だったことをしのび、また、私の母と私とに関係する質問に答えて、私がママンとは話すことがなかったので、そのために養老院へ入れることになったのだ、といったりしたが、いよいよ誰も聞いてはいなかった。「わかって下さい。わかってもらいたいものだ」とサラマノはいっていたが、誰一人理解したとは見えなかった。彼も連れ去られた。
続いてレエモンの番が来た。彼が最後の証人だった。レエモンはちょっと私に合図をし、いきなり、彼に罪はない、といった。しかし、裁判長は、彼に求めているのは、判定ではなく、事実だけだ、と述べた。裁判長は、彼に、質問を待って、それに答えるように、と促した。彼と被害者との関係が問いただされた。レエモンはそれを利用して、自分が被害者の妹をはり倒してから、被害者が恨みを抱いていたのは自分に対してだ、といった。裁判長は、しかし、被害者はこの男を憎む理由がなかったのか、と尋ねた。レエモンは、この男が浜辺にいたのは偶然の結果だ、といった。すると、検事は、ドラマの発端をなす例の手紙が私の手で書かれた、そのいきさつを尋ねた。レエモンは、それも偶然だ、と答えた。検事は、この事件においては、偶然が、既に良心の上にさまざまな害をなしているのだ、と反駁《はんばく》した。レエモンが情婦をはり倒したときに、この男が間にはいらなかったのも偶然か、この男が警察で証人に立ったのも偶然か、また、その証言の際のこの男の供述が極めて好意的になされたのも偶然か、と検事がきいた。終わりに、何で生計を立てているか、とレエモンに尋ねた。そして、「倉庫係だ」と答えると、検事は陪審員に向かって、証人が女衒《ぜげん》を業としていることは周知の事実だ、と言明した。私はその共犯者であり、友人だったのだ。これは最低級の放埒《ほうらつ》のドラマであり、おまけに、そこには恐るべき人非人《にんぴにん》が一役買っていただけに始末が悪い、というわけだ。レエモンは弁明したいと申し立て、私の弁護士が抗議したが、検事に終わりまでしゃべらせるべきだ、という声がかかった。検事は「もう少し付け足すことがあります。この男はあなたの友人ですか?」といって、レエモンに尋ねた。レエモンは「そうだ、おれの仲間だ」といった。すると、検事は同じ質問を私に向けた。私はレエモンをながめたが、彼は眼《め》をそらさなかった。私は、そうです、と答えた。そこで検事は陪審員の方へ向き直って、「母親の死の翌日、最も恥ずべき情事にふけった、その同じ男が、つまらぬ理由から、何ともいいようのない風紀事件のけりをつけようとして、殺人を行なったというわけです」と言明した。
検事はそこで腰をおろした。しかし、私の弁護士は、たまりかねて、両腕を高くあげて、大声を立てた。そのため、袖がさがって来て、糊《のり》のついたシャツの折り目があらわになった。「要するに、彼は母親を埋葬したことで告発されたのでしょうか、それとも一人の男を殺害したことで告発されたのでしょうか?」傍聴人は笑い出した。しかし検事はふたたび立って、その法服に威儀をつくろって、この二つの事実の間に、根本的な、感動的な、本質的な関係が存することを感じないためには、尊敬すべき弁護人のような純真さを持たなければならない、と申し立てた。「しかり、重罪人のこころをもって、母を埋葬したがゆえに、私はあの男を弾劾するのです」と、彼は力をこめて叫んだ。この言明は、傍聴席に対して著しい効果を与えたように見えた。私の弁護士は肩をそびやかし、額をおおう汗をぬぐった。しかし、彼自身も動揺したようだった。事が不利に運んでいることを、私は悟った。
それからあとは、万事|速《すみや》かに進んだ。法廷は閉じられた。裁判所を出て、車に乗るとき、ほんの一瞬、私は夏の夕べのかおりと色とを感じた。護送車の薄闇《うすやみ》のなかで、私の愛する一つの街の、また、時折り私が楽しんだひとときの、ありとある親しい物音を、まるで自分の疲労の底からわき出してくるように、一つ一つ味わった。すでにやわらいだ大気のなかの、新聞売りの叫び。辻《つじ》公園のなかの最後の鳥たち。サンドイッチ売りの叫び声。街の高みの曲がり角での、電車のきしみ。港の上に夜がおりる前の、あの空のざわめき。――こうしてすべてが、私のために、盲人の道案内のようなものを、つくりなしていた。――それは刑務所に入る以前、私のよく知っていたものだった。そうだ、ずっと久しい以前、私が楽しく思ったのは、このひとときだった。そのとき私を待ち受けていたものは、相変わらず、夢も見ない、軽やかな眠りだった。けれども、もう何かが変わっていたのだ。明日への期待とともに、私が再び見出したのは自分の独房だったから。あたかも、夏空のなかに引かれた親しい道が、無垢《むく》のまどろみへも通じ、また獄舎へも通じうる、とでもいうように。
被告席の腰掛の上でさえも、自分についての話を聞くのは、やっぱり興味深いものだ。検事と私の弁護士の弁論の間、大いに私について語られた、恐らく私の犯罪よりも、私自身について語られた、ということができる。それにしても、両者の言い分はそんなに違うものだったろうか? 弁護士は腕をあげて、有罪を認めたが、ただ、それに言いわけをつけた。検事は手をのばして、有罪を告発し、ただ、それに言いわけをつけない。それでも、あることが漠然《ばくぜん》と私を困らせていた。私は十分注意はしていたものの、時には口を入れたくなった。すると、弁護士は「黙っていなさい。その方があなたの事件のためにいいのです」といった。いわばこの事件を私抜きで、扱っているような風だった。私の参加なしにすべてが運んで行った。私の意見を徴することなしに、私の運命が決められていた。時どき、私はみんなの言葉をさえぎって、こう言ってやりたくなった。「それはともかくとして、一体被告は誰なんです。被告だということは重大なことです。それで私にも若干いいたいことがあります」しかし、よく考えて見ると、いうべきことは何もなかった。それに、ひとびとの心を占めるということは長くは続かぬことを認めなければならない。たとえば、検事の弁論はじきに私を退屈させた。私の心をうち、私の興味を目ざめさせたものは、断片か、仕ぐさか、あるいは、全体から切り離された、長広舌《ちょうこうぜつ》そのものだけだ。
検事の考えの根本は、私の理解が正しいとするなら、私が犯罪を予謀した、ということだった。少なくとも、彼はそれを論証しようと骨折っていた。彼自身こういった。「それを証明しましょう。私はそれを二つの面から証明します。第一には、犯罪事実のきらめくような明るみの下に。第二には、この凶悪な魂の心理からくみとれる暗いひかりのなかで」検事は母の死以来の数々の事実を要約した。私が感動を示さなかったこと、母の年齢を知らなかったこと、翌日女と海水浴へ行ったこと、フェルナンデルの映画、最後に、マリイをつれて部屋へ帰ったこと、を思い出させた。このとき、私は彼の言葉を理解するのに暇がかかった。彼が「その情婦」といったからだが、私にとっては、彼女はマリイなのだ。続いて、レエモンの事件に移った。この事件に対する彼の見方は明晰《めいせき》さを欠いてはいなかった。彼のいうことは、もっともらしかった。私はレエモンと打ち合わせた上、その情婦をおびきよせ、「いかがわしい」男のひどい仕打ちにゆだねるために手紙を書いた。私は浜辺で、レエモンの敵を挑発《ちょうはつ》して、レエモンがけがをした。私は彼のピストルを要求した。それをもちいるためにひとりで出掛けた。計画どおりにアラビア人を撃ち倒した。しばらく待った。「仕事がうまく片付いたことを確信するために」、なお四発の弾丸を、落ち着き払って、確実に、よくよく考えて撃ち込んだ。
「諸君、以上のとおりです」と検事はいった。「私はここに、この男が十分事情を熟知して殺人を行なうに至った、事件の流れを跡づけました。私はその点を強調します。思うに、これは、通常の殺人、情状により酌量《しゃくりょう》の余地のある、衝動的な行為ではない。この男は、諸君、この男はインテリです。この男の陳述をお聞きになったでしょうな。彼は答え方を心得ている。彼は言葉の価値を知っている。それゆえ、自らのなすところを理解せずして行為した、とはいいえないのです」
私はよく聞いていた。自分がインテリだと思われたこともわかった。しかし、一人の平凡人の長所が、どうして一人の罪人に対しては不利な圧倒的な罪になりうるのか、私にはよく理解しがたかった。少なくとも私の気にかかったのは、その点だった。それで、私はもう検事の言葉を聞いていなかった。しばらくして、またその声が耳に入った。「悔恨の情だけでも示したでしょうか? 諸君、影もないのだ。予審の最中にも、一度といえども、この男は自らの憎むべき大罪に、感じ入った様子はなかったのです」このとき、検事は振り向いて、私を指しながら、続けて痛烈にまくし立てたが、実際私にはその理由がよくわからなかった。恐らく、私は彼に道理があると認めざるをえなかっただろう。自分の行為を大いに悔いていたわけではないが、しかし、これほどの熱狂が私を驚かしたのだ。真実何かを悔いるということが私にはかつてなかった――そのことを、親しく彼に、ほとんど愛情をこめて説明してみたいと思ったのだが。私はいつでもこれから来たるべきものに、たとえば今日とか明日とかに、心を奪われていたのだ。しかしもちろん、私の置かれたような状況では、こうした調子では、誰にも話すことができなかった。私には、情愛深い自己を示す権利、善意を持つ権利がなくなっていたのだ。検事が私の魂について語り出していたので、また私はこれに聞き入ろうとつとめた。
検事は、あの男の魂をのぞき込んで見たが、陪審員諸君、何も見つからなかった、といった。実際、あの男には魂というものは一かけらもない、人間らしいものは何一つない、人間の心を守る道徳原理は一つとしてあの男には受け入れられなかった、といった。更に「恐らく」と彼は付け加えた。「われわれは彼をとがめることもできないでしょう。彼が手に入れられないものを、彼にそれが欠けているからといって、われわれが不平を鳴らすことはできない。しかし、この法廷についていうなら、寛容という消極的な徳は、より容易ではないが、より上位にある正義という徳に替わるべきなのです。とりわけ、この男に見出《みいだ》されるような心の空洞《くうどう》が、社会をものみこみかねない一つの深淵《しんえん》となるようなときには」それから、私の母に対する態度を論じた。検事は弁論中にすでに述べたことを、また繰り返したが、それは、私の犯罪について述べたところよりも、ずっと長かった。あまり長々しくて、しまいには、この朝の暑さを私が感じなくなったほどだった。そのうちに、検事はいったん言葉を途切り、一瞬の沈黙ののちに、またごく低い浸《し》み入るような声で言葉をついで、「この同じ法廷で、明日は、最も憎むべき大罪、父殺しの審判が行なわれます」といった。彼によれば、このような残虐《ざんぎゃく》な犯罪は想像も及ばぬほどの恐ろしいものだった。検事は、人間の裁きが、臆《おく》するところなく処罰することをあえて期待する、といった。しかし、あの犯罪のよびおこす恐ろしさも、この男の不感無覚を前にして感ずる恐ろしさには、及びもつかないだろうと、はばからずにいい切った。同じく彼によれば、精神的に母を殺害した男は、その父に対し自ら凶行の手を下した男と同じ意味において、人間社会から抹殺《まっさつ》さるべきだった。いずれにせよ、前者は後者の行為を準備し、いわばそれを予告し、正当化していたのだ。「諸君、私は確信しておりますが」と声高に彼は付け足した。「この腰掛にすわっている男が、明日この法廷が裁くべき殺人事件についても、また有罪だと申すとしても、私の考えがあまりに大胆すぎるとはお思いにならないでしょう。この男はその意味において罰せらるべきです」ここで、検事は汗にきらきらした顔をぬぐった。最後に、自分の義務は苦しいが、断固としてそれを遂行したい、といい、あの男はその最も本質的な掟《おきて》を無視するがゆえに、社会に対して何のなすところもない、また、その最も基本的な反応を知らないがゆえに、人間的心情に向かって訴えかけることもできない、と言明し、「私はこの男に対し死刑を要求します。そして死刑を要求してもさっぱりした気持です。思うに、在職もすでに長く、その間、幾たびか死刑を要求しましたが、今日ほど、この苦痛な義務が、一つの至上・神聖な戒律の意識と、非人間的なもの以外、何一つ読みとれない一人の男を前にして私の感ずる恐怖とによって、償われ、釣合《つりあ》いがとれ、光をうけるように感じたことは、かつてないことです」
検事が腰をおろすと、かなり長い沈黙がつづいた。私は暑さと驚きとにぼんやりしていた。裁判長が少し咳《せき》をした。ごく低い声で、何かいい足すことはないか、と私に尋ねた。私は立ち上がった。私は話したいと思っていたので、多少出まかせに、あらかじめアラビア人を殺そうと意図していたわけではない、といった。裁判長は、それは一つの主張だ、と答え、これまで、被告側の防御方法がうまくつかめないでいるから、弁護士の陳述を聞く前に、あなたの行為を呼びおこした動機をはっきりしてもらえれば幸いだ、といった。私は、早口にすこし言葉をもつれさせながら、そして、自分の滑稽《こっけい》さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった。廷内に笑い声があがった。弁護士は肩をすくめた。すぐあとに彼は発言を許されたが、もう遅すぎる、自分の陳述は数時間を要するから、午後に延ばしてもらいたい、と述べた。法廷はそれに同意した。
午後も、大きな扇風機が相変わらず廷内の暑苦しい空気をかき混ぜ、陪審員たちの色とりどりな小さなうちわが、みんな同じ向きに動いていた。弁護士の弁論は私にはいつ果てるとも見えなかった。けれども、ふと私は耳をすました。「私が人殺しをしたのは事実です」と彼がいったからだ。それから彼はこの調子で続けた。私のことをいうたびに、彼は「私」という言葉を使った。私は大そう驚いた。私は憲兵の方へ身をかがめて、そのわけを尋ねた。憲兵は黙っていろといい、少しして「どの弁護士もそうしている」と付け加えた。私としては、それは私をまたしても事件からとり除《の》け、私をゼロと化し、ある意味で、彼が私の身替わりになっているのだ、と思った。しかし、すでにそのとき私はこの法廷から遠く離れていたように思う。それに、弁護士も私には滑稽に見えた。彼は手短に私の挑戦的な態度を弁護し、それから、彼もまた私の魂について語ったが、検事に比べるとずっと才能に乏しく思われた。「私もまたこの魂をのぞきこみましたが、卓越せる検察側代表の御見解に反し、私はそこにあるものを見出しました。開かれた書物のように、私は読みとった、と申し上げることができます」といった。私が律儀《りちぎ》な男であり、使われていた会社に忠実で、規則正しく、勤勉な勤め人であり、誰からも愛され、他人の不幸には同情深かったことを、彼はそこに読みとったのだ。彼からみると、この私は、力の及ぶかぎり長く母親を扶養した、模範的な息子だった。おしまいに、私は、自分の資力では授けられないような安楽な暮らしを、養老院があの年寄りにかなえてくれることを、期待していたのだ。「例の養老院をめぐって、あんなに大騒ぎをなさったことに、諸君、私は驚いています。思うに、ああした施設の効用と重要性を証明せねばならぬとしたら、それらに補助金を下付しているものは国庫それ自身であることを、いわねばならぬでしょう」と彼は付けたした。ただ、埋葬については、語らなかった。彼の弁論にはそれが抜けていることを、私は感じた。しかし、これらの長広舌、また、私の魂を云々《うんぬん》した、あの全日程や、はてしれぬ長い時間のゆえに、私は、一切が無色透明の水となり、そこにめまいを覚えるような気がした。
私はただ一つ覚えている、――終わり頃《ごろ》に、弁護士がしゃべり続けているさいちゅうに、街の方から、この法廷のひろがりを渡って、アイスクリーム売りのラッパの音が、私の耳もとまで届いて来たのだ。もはや私のものではない一つの生活、しかし、そのなかに私がいとも貧しいが、しつこく付きまとう喜びを見出していた一つの生活の思い出に私は襲われた。夏のにおい、私の愛していた界隈《かいわい》、夕暮れの空、マリイの笑い声、その服。この場で私のした一切のことのくだらなさ加減が、そのとき、喉《のど》もとまでこみ上げて来て、私はたった一つ、これが早く終わり、そして独房へ帰って眠りたい、ということだけしか願わなかった。終わりに当たって、弁護士が、陪審員方は一瞬の錯乱によって破滅した一人の誠実な勤め人に死刑をのぞむはずはないと大声をあげ、最も確かな罰として、既に永遠の悔恨を引きずっている一つの犯罪に対し、情状酌量を要求するといっていたのも、ほとんど私の耳には入らなかった。法廷は審問を停止し、弁護士は精根つきはてた様子で腰をおろしたが、同僚がやって来て彼の手を握った。「りっぱなものだ、君」という声がした。その一人は私の証言を求め、「ね、そうでしょう?」といった。私は同意した。が、あまり疲れていたので、私の賛辞には心がこもっていなかった。
ところで、戸外では時は傾き、暑さも衰えていた。耳に入る街の物おとから、私は夕暮れのなごやかさを感じていた。われわれは、みんな、そこで待っていなければならなかった。そして、みんなが一緒に待ち受けていたものは、私にしかかかわりのないものだ。私はまた傍聴席をながめた。すべて第一日と同じすがただった。私は灰色の背広を着た新聞記者と、機械人形みたいな女の視線に出会った。そのことが、訴訟の間じゅう、マリイを眼で追わなかったことを、思い出させた。マリイを忘れたわけではないが、あまりなすべきことが多すぎたのだ。セレストとレエモンの間に、彼女の姿が見えた。「やっとね」というかのように、小さな合図を送ってよこした。いくらか心配そうなその顔が微笑《ほほえ》むのが見えた。しかし、私はこころが閉じるのを感じ、その微笑に応《こた》えることさえできなかった。
法廷は再開した。すぐさま、陪審員らに対し、一連の質問が朗読された。「殺人の罪」……「予謀」……「情状酌量」というような言葉が聞こえた。陪審員は出て行った。私は、前に待ったことのある小さな部屋へ連れてゆかれた。弁護士が私に追いついた。彼は大いに雄弁になり、かつて見せたことのない、打ちとけて、信頼した様子で、私にしゃべった。万事うまくゆくだろう、私は数年の懲役または徒刑で済むだろうと、彼は考えていた。判決が不利な場合に、破毀《はき》する機会があるか、と私は尋ねた。弁護士はないといった。陪審員の気を悪くさせないように、結論を述べずに置いたのは、彼の戦法だった。彼は、何ということもないのに、判決を破毀するものではない、と私に説明した。それは私にも明白だと思われ、彼の理屈を承服した。事を冷静に観察すれば、全く当たり前なことだった。そうでないとすれば、無用の書類が山をなすばかりだろう。「いずれにせよ、特赦請願があります。しかし結果は悪くないことを確信しています」こう弁護士はいった。
われわれは大そう長いこと待った。四十五分ほどだったと思う。ようやく、ベルが鳴り渡った。弁護士は「陪審長が答申を朗読します。あなたは判決の言い渡しのときにしか入れてもらえないでしょう」といって、私を残して行った。方々の扉《とびら》が音を立てた。ひとびとが階段を駆けていたが、それが近いのか遠いのか、わからなかった。やがて、廷内で低い声が何か朗読するのが聞こえた。再びベルが鳴り、被告席の扉がひらかれたとき、私の方へ押しよせたのは、廷内の沈黙だった。沈黙と、例の若い新聞記者が眼《め》をそむけたのを確認したときの、あの異様な感じだった。私はマリイの方は見なかった。私にはその暇がなかったのだ、というのは、さっそく、裁判長が奇妙な言葉つきで、あなたはフランス人民の名において広場で斬首《ざんしゅ》刑をうけるのだ、といったからだ。そのとき、私は顔という顔にあらわれた感動が、わかるように思われた。それは、たしかに尊敬の色だったと思う。憲兵たちは私にやさしかった。弁護士は私の手首にその手を載せた。私はもう何も考えてはいなかった。しかし、裁判長は何もいい足すことはないかと尋ねた。私は考えてみた。私は「ないです」といった。そのとき私は連れてゆかれた。
三たび、私は御用司祭の面会を拒絶した。何もいうべきこともない。しゃべりたくもない。そのうちに会うことにしよう。今私の興味を引くものは、メカニックなものからのがれること、不可避なるものに抜け道がありうるかを知ることだ。独房が変えられた。その部屋で長く寝そべると、空が見える。そして空しか見えない。その空のおもてに、昼から夜へと移る色彩の凋落《ちょうらく》をながめることで、一日が過ぎてゆく。横になり、手枕《てまくら》をして、私は待っている。無慈悲なメカニズムをのがれ、処刑の前に姿をくらまし、警戒線を突破した、死刑囚の例があったろうか、といくたび私は心にたずねたかわからない。そのとき、私はかねて死刑執行の話に十分注意を払わなかったことが、悔やまれた。ひとはいつもこの問題に関心を持たねばならないだろう。何が起こるか知れたものではないのだから。みんなと同じように、私も新聞の記事としては読んだことがある。しかし、私にはどうしても調べて見ようという好奇心が起こらなかったのだが、確かに、それに関する特殊な書物があったはずだ。そのなかには、恐らく逃亡のはなしも見つかっただろうが。ある場合には少なくとも車輪がとまり、押さえがたい事件の進行のなかで、偶然とチャンスとが、たとえ一度でも、何かを変えてしまった――ということを知っただろうに。ただ一度きり! ある意味で、それで私には十分だったろう、と思う。その余は私の心がおぎなっただろう。新聞は、しばしば、社会に対する責務ということを語っていた。新聞によれば、それは償わねばならないのだ、しかし、それは想像力に語りかけない。大切なものは、希望の一切の機会を与えるところの、逃亡の可能性であり、無慈悲な儀式の外へ飛び出すこと、狂人のように疾走することだった。もちろん、希望といったところで、街の片隅《かたすみ》で、走っているさいちゅうに、飛んで来る弾丸に当たって撃ち倒される、というだけだ。しかし、よく考えて見れば、こんな贅沢《ぜいたく》を私に許すものは何もない。よってたかってそんな贅沢を禁止しており、メカニックなものが私を捕えていたのだ。
私の善意にもかかわらず、私はこうした傲然《ごうぜん》たる確実性を受けいれることはできなかった。というのは、要するに、確実性に基礎を与えた判決と、判決が言い渡されてからの、その冷酷な施行とのあいだには、滑稽な不均衡があったからだ。判決が十七時にではなく二十時に言い渡されたという事実、判決が全く別のものであったかも知れぬという事実、判決が下着をとりかえる人間によって書かれたという事実、それがフランス人民(あるいはドイツ人民、あるいは中国人民)の名においてというようなあいまいな観念にもとづいているという事実、――こうしたすべては、このような決定から、多くの真面目《まじめ》さを、取り去るように思われた。それでも、そうして宣告がなされるや、その効果は、私が体を押しつけているこの壁の存在と同じほど、確実な、真面目なものになることを、私は認めざるをえなかった。
そんなときに、私はママンから聞いた父のはなしを思い出した。父は、私の記憶にはない。父について私が正確に知っていたことといっては、恐らく、ママンがそのとき話してくれたことだけだろう。父はある人殺しの死刑執行を見に行ったのだ。それを見にゆくと考えただけで、父は病気になった。それでも父は見にゆき、帰って来ると、朝のうちは吐きに吐いたのだ。それを聞くと、私は少し父がいやになった。しかし、今となると、それがごく当たり前だということが、わかった。死刑執行より重大なものはない、ある意味では、それは人間にとって真に興味ある唯一《ゆいいつ》のことなのだ、――そんなことがどうしてこれまでわからなかったのだろう! いつか刑務所を出たとしたら、私はありとある死刑執行を見にゆこう。いや、こうした可能性を考えるのは、間違いだったと思う。というのは、ある朝早く、警戒線のうしろに、いわば向こう側に私が自由な姿をあらわすことを考え、見に行ったそのあとで吐いたりするかも知れぬ一人の見物人になることを考えると、押し殺されていた喜悦の波が、胸にのぼって来たからだ。しかし、これは道理にあわなかった。こうした仮定に身を任せたりするのは間違いだった。なぜなら、そのすぐあとで、恐ろしく寒気がして、私は毛布の下に体をちぢめていたのだから、堪《こら》えようがなくて、私はカチカチ歯を鳴らしていた。
しかし、もちろん、ひとはいつでも理性的であるわけにはゆかない。あるときは、たとえば、私は法律の草案を練って見た。刑罰を改革したのだ。重要なことは死刑囚にチャンスを与えることだ、と私は気づいていた。千に一つ、それで事をおさめるには十分なのだ。こうして、それを飲むと、受刑者は(私は|刑を受ける者《ヽヽヽヽヽヽ》と考えていたのだ)十のうち九つは死ぬというような化学薬品の組合わせを、見つけることもできるように思われた。受刑者はそのことを知っている。それが条件なのだ。よく考えて、事を冷静にながめると、あの斬首装置において不都合な点は、それにはチャンスがないこと、正《まさ》しく絶対にないことだ、ということがわかった。結局、断固として、受刑者の死は確定してしまう。それは処理済みであり、決定的組合わせであり、協約成立であり、そこに取消しの余地はない。何かの拍子で、やり損じがあったとしても、やり直すだけだ。したがって、たまらないことだが、受刑者は機械が故障なく動くことを望むほかはない。その点が不都合だと私はいうのだ。ある意味で、それは真実だ。しかしまたある意味では、りっぱな組織の秘密というものはそこにあることを、私は認めざるをえなかった。要するに、受刑者は精神的に協力せねばならない。すべてが支障なく運ぶということが、彼の利益になるのだ。
私はまた処刑ということについてそれまで正確な観念をもっていなかったことを、認めざるをえなかった。長いこと私は――なぜかわからないが――ギロチンにかけられるには、階段をのぼって、断頭台へあがらねばならぬ、と信じていた。それは一七八九年の大革命のためだろうと思うし、また、それは、この問題についてひとが教えてくれたり、見せてくれたりしたすべてのもののおかげだといいたい。しかし、ある朝、ある噂《うわさ》高い処刑の際に新聞に載った一枚の写真を思い出した。現実には、機械は、ごく単純に、地面にじかに置かれていて、思ったよりずっと幅が狭かった。私がもっと早くそれに思いつかなかったのも、ずいぶん妙だった。この写真にうつった機械は、完成した、きらきら光る精密な仕掛けに見えたので、私は胸をうたれた。ひとはいつも、知らないものについては誇張した考えをもつものだ。ところが、実は、すべてがごく簡単なものだということを認めざるをえなかった。機械はそれに向かって歩いてゆく人間と同じ高さに置かれている。男は誰かに出会うとでもいった調子で歩いて行き、それにぶつかる。ある意味では、これもまたたまらないことだった。断頭台へ登ってゆくこと、空のなかへ昇ってゆくこと、――想像力はそうした考えにすがりつくかも知れない。ところが、やはり、メカニックなものが一切を粉砕するのだ。ひとは、わずかばかりな羞恥《しゅうち》と、非常な正確さをもって、つつましく殺されるのだ。
なお二つのことが、絶え間なく私の頭を占めていた。夜明けと特赦請願とが、それだ。しかし、私は自分にいって聞かせて、もう考えまいとした。横になって、空をながめ、そこに注意を集めようと、つとめた。空は緑いろになっていた。夕暮れだった。自分の思考の向きを変えようとして、更に努力した。自分の心臓の音に耳をすました。あれほど久しい前から私についてまわっているこの音が、いつか絶えることがあろうとは、想像できなかった。私にはほんとうの想像力というものがない。それでも、この心臓の鼓動が、もうつづかなくなる、あの瞬間を、頭に思い描こうと試みた。が、だめだった。夜明けと特赦請願のことが、待ち構えていた。私はとうとう、我慢しないのがいちばん賢明だと考えるに至った。
彼らがやって来るのは夜明けだ。私はそれを知っていた。結局、私の夜々はあの夜明けを待つことだけに過ごされた。私は驚かされることがきらいだった。何かが起こるときには、身構えていたい。そういうわけで、私は昼間少ししか眠らず、夜は、夜もすがら暁のひかりが空のガラスのうえに生まれ出るのを、辛抱づよく待った。いちばん苦しいのは通常彼らのやって来ることを私の知っている、あのどうもあやしい時刻だった。真夜中を過ぎると、私は待ち構え、見張っていた。私の耳がこれほど物音に敏感になり、これほど低いひびきを聞き分けたことはなかった。のみならず、この間、決して足音が聞こえたことはなかったのだから、ある意味で私には運があった、ということができる。人間は全く不幸になることはない、とママンはよくいっていた。空が色づいて来るときや、暁のひかりが私の独房にしのび込んで来るとき、ママンの言葉はほんとうだと思った。というのは、足音が聞こえたとしたら、私の心臓は破裂しただろうから。どんなかすかなきしみにも戸口のところへ飛んでゆき、板に耳をおしつけて、夢中になって待ち構えていたので、しまいには自分の息づかいが聞こえて来て、しかも、それが嗄《しわが》れて、犬の息切れに似てはいまいかと気になったりした。――そんなこんなはあったにせよ、結局のところ、心臓は破裂しなかったし、私はまた二十四時間を手に入れたのだ。
日中はずっと、特赦請願のことを考えた。私はこの考えを、もっともよく利用したと思う。私は自分の財産を計算し、自分の反省から最大の利回りを手に入れたのだ。私はいつも最悪の仮定に立った。即《すなわ》ち特赦請願却下だ。「そのときは死ぬときだ」他のひとより先に死ぬ、それは明白なことだが、しかし、人生が生きるに値しない、ということは、誰でもが知っている。結局のところ、三十歳で死のうが、七十歳で死のうが、大した違いはない、ということを私は知らないわけではない。というのは、いずれにしたところで、もちろん他の男たちや、他の女たちは生きてゆくだろうし、それにもう何千年もそうして来たのだから。要するにこれほど明らかなことはないのだ。今であろうと、二十年後であろうと、死んでゆくのは、同じくこの私なのだ。このとき、こうした推論のなかで多少私を苦しめたのは、それは、これから先の二十年の生活を考えたとき、私が胸に感じたひどい興奮だった。しかし、それは、二十年たって、やっぱりそこまでゆかねばならなくなったとき、自分がどう思うかを想像することによって、息の根止めてしまいさえすればよかった。死ぬときのことを、いつとか、いかにしてとかいうのは、意味がない。それは明白なことだ。だから、(難しいのは、この「だから」という言葉が推論上表わすところのいっさいを、見失わないということだ)だから、私は特赦請願の却下を承認せねばならなかったのだ。
このとき、このときだけ、いわば私はその権利を持っていたのだが、第二の仮定に近づくことを自分に許した。私の赦免のことだ。たまらないのは、ばかげた喜悦で私の眼をチクチク刺激する、あのはやりたつ血と肉の衝動を、静めなければならなかったことだ。この叫びをおしつぶし、この叫びを説得することに骨折らねばならなかった。第一の仮定における私のあきらめを、十分もっともなものとするためには、この第二の仮定においても、私は当たり前な顔でいなければならない。私はそれに成功して、一時間ほどの平静をえた。それは、とにかく大したことだった。
御用司祭の訪問をまたもや拒絶したのは、こうしたときだ。私は横になっていた。空の黄金《こがね》いろに染まるのをながめていて、夏の夕暮れの近いのがわかった。今しがた私は特赦請願を却下したところで、私の血液が規則正しく体をめぐるのが感じられた。私は御用司祭に会う必要がなかった。ほんとうに久しぶりで、マリイのことをしのんだ。もう何日も手紙もくれずにいた。その夕べ、考えた末、マリイも死刑囚の恋人たることに、疲れたのかも知れない、と私は思った。彼女は病気かも知れない、死んだのかも知れない――そんな風にも考えられた、それは当然なことだった。今や離れ離れの二人の肉体以外に、われわれを結びつける何ものもなく、またお互いを思い起こさせる何ものもないのだから、そんな消息をどうして私は知りえただろう。それに、このとき以来、マリイの思い出はどうでもよくなった。死んだとしたらマリイは、もう私の興味をそそらなかった。私はそれが普通だと思った。私が死んだらひとびとは私を忘れてしまう、そのことをよく承知していたから。ひとびとは、私に対してもうどうすることもできないし、私の方は、それは考えるだに堪えがたいということさえできないのだ。結局において、ひとが慣れてしまえない考えなんてものはないのだ。
まさにこのとき司祭が入って来た。彼の姿を目にすると、私はちょっと身震いした。司祭はそれに気づいて恐れないようにといった。いつもは違う時間に来るのに、と私がいった。司祭は、これは私の特赦請願と何の関係もない、全く友人としての面会であり、特赦請願については何も知らない、と答えた。私の粗末なベッドに腰かけて、彼は自分のそばに来てすわるようにすすめた。私は拒絶した。それでも彼は大へん穏やかな様子だった。
前腕を膝《ひざ》に置き、うなだれて、彼はしばらくそこに腰かけたなり、自分の手を見つめていた。その手はほっそりと、筋張っていて、敏捷《びんしょう》な二匹の獣を思わせた。司祭はしずかに両手を互いにこすり合わせた。それから、相変わらず頭をたれたまま、じっとしていた。それがあまりながかったので、ふと、私は彼のことを忘れていたような気がしたほどだった。
しかし、突然司祭は頭をあげて、私を真正面からながめ、「なぜ私の面会を拒否するのですか?」といった。神を信じていないのだと答えた。その点確信があるのか、と彼が尋ねたので、私は、それをくよくよ考えるようなことはしない、そんなことはつまらぬ問題だと思う、といった。すると彼はうしろに反りかえって、平手を腿《もも》に置き、壁に背をもたせかけた。ほとんど私に話しかけるという風でなしに、自分では確信があるような気がしていても、実際はそうでないことがあるものだ、とつぶやいた。私は何もいわずにいた。司祭は私をながめて、「どう思いますか?」と尋ねた。私はそうかも知れない、と答えた。とにかく、私は実際何に興味があるかという点には、あまり確信がなかったが、何に興味がないかという点には、十分確信があったのだ。そしてまさに彼が話しかけて来た事がらには、興味がなかったのだ。
彼は眼をそむけ、相変わらずその姿勢を変えずに、絶望のあまり私がそのように話をしないのか、と尋ねた。私は絶望しているわけではない、と説明した。私はただこわかっただけだが、これは当たり前のことだった。「そのとき、神様があなたを助けて下さるでしょう。私の知るかぎり、あなたのような場合には、どんなひとでも、神の方へ向かって行きました」と司祭がいった。それはそのひとたちの権利だ、ということを、私は認めた。それはまた、そのひとたちに時間があったことを示していた。私はといえば、誰にも扶《たす》けてもらいたくなかったし、また私に興味のないことに興味を持つというような時間がなかったのだ。
このとき、彼の手がいらいらした仕ぐさを示したが、彼はからだを起こして、その法衣の皺《しわ》を直した。やり終えると、私を「友よ」と呼んで、話しかけて来た。彼がこのように私に語りかけるのは、私が死刑囚だからではない。われわれはすべて死刑囚なのだ、と彼はいった。しかし、私は彼の言葉をさえぎって、それは同じことではない、のみならずそれはどんな場合にも慰めとはなりえない、といった。「確かにそうです」と彼は、同意した。「しかし、あなたはじきに死なないとしても、遠い将来には死ななければならない。そのときには同じ問題がやって来るでしょう。この恐ろしい試練に、どうして近づいて行けるでしょうか?」現に、私が近づいているように、正確にそれに近づいて行けるだろう、と私は答えた。
この言葉を聞くと、司祭は立ち上がって、私の眼のなかを真っすぐに見た。これは私のよく知っていた遊戯だ。私はよくエマニュエルとかセレストとこの遊びをしたものだ。たいてい、彼らは眼をそむけてしまった。司祭もまたこの遊びをよく知っていたのだろう、私にはすぐそれがわかった。彼の視線は震えなかったからだ。そして、「それではあなたは何の希望ももたず、完全に死んでゆくと考えながら、生きているのですか?」と彼は尋ねたが、その声もまた震えなかった。「そうです」と私は答えた。
すると司祭はうなだれて、また腰をおろした。あなたを気の毒に思う、といった。そのように生きることは人間には堪えがたい、と彼は思ったのだ。私はただ、司祭に対してうんざりしはじめたのを感じた。今度は私がわきを向いて、天窓の下に行った。私は肩を壁へもたせかけた。謹聴してはいなかったが、司祭がまた私に向かって問いかけはじめたのが耳に入ってきた。彼は不安げな、切ない声でしゃべっていた。彼が感動していることがわかったので、私は少し身を入れて聞いた。
司祭は、あなたの特赦請願は受理されるだろうが、しかし、あなたはおろさねばならぬ罪の重荷を負うている、という彼の信念を、語った。人間の裁きは何でもない、神の裁きがいっさいだ、と彼はいった。私に死刑を与えたのは、人間の裁きだ、と私がいうと、それはそれだけのものであって私の罪を洗い清めることはない、と彼は答えた。罪というものは何だか私にはわからない、と私はいった。ただ私が罪人だということをひとから教えられただけだ。私は罪人であり、私は償いをしている。誰も私にこれ以上要求することはできないのだ。このとき、司祭はまた立ち上がった。この狭い独房では、彼が動こうとしても、選択の余地がない、と私は考えた。彼はすわるか、立つかしなければならなかった。
私は床に目を伏せていた。司祭は一歩私に近よったが、それ以上前へ出る勇気がないというように、立ちどまった。彼は格子《こうし》を通して、窓をながめ、私にいった。「わが子よ、あなたは間違っています。あなたにこれ以上の要求をすることもできます。恐らくあなたは要求されるでしょう」――「一体何をですか?」「見ることをあなたに要求するのです」――「何を見るのですか?」
司祭は周りを見まわし、急に疲れ果てたような声で、答えた。「すべてこれらの石は苦しみの汗をかいています。私はそれを知っている。私は苦痛を感ぜずに、それらをながめたことはありません。しかしこころの底では、私はまた、あなた方のうちのどんな悲惨なひとびとでも、心の闇《やみ》の底から、神の顔が浮かび出るのを見た、ということを知っています。あなたに見ることを求めるのは、この神の顔です」
私は少し興奮した。何カ月も前から、この壁をみつめている、と私はいった。この世でこれ以上私がよく知っているものは、何一つ、また誰一人なかったのだ。恐らく、ずっと前には、私もそこに一つの顔を求めていただろう。しかし、その顔は太陽の色と欲情の炎とを持っていた。それはマリイの顔だった。私はむなしくそれを追い求めた。が今ではそれも終わった。いずれにしても、私はこの石の汗から、何一つ現われ出《い》でるのを眼《め》にしなかったのだ。
司祭は一種悲しげな眼で私をながめた。今や、私はすっかり壁に背をもたせかけていたので、日光は私の顔の上を流れた。彼は何かいったが、私の耳には入らなかった。また、早口に私に抱擁を許してくれるかと尋ねたので、「いやです」と私は答えた。彼は振り返って、壁の方へ歩みより、しずかに壁に手を置いて、「一体あなたはそんなにこの世を愛しているのですか?」とつぶやいた。私は何も答えなかった。
司祭はかなり長いことわきを向いたままでいた。彼の姿が私には重荷になり、私をいらいらさせていた。私は彼にもう帰って、私をひとりにしてほしいといおうとしたが、そのとき、私の方を振り向きながら、不意に彼は大声で、あふれるようにしゃべり立てた。「いいや、私はあなたが信じられない。あなただってもう一つの生活を望むことがあったに違いない」もちろんだ、しかし、金持になったり、早く泳いだり、形のよい口許《くちもと》になることを望むのと同じように、意味のないことだ、と私は答えた。それは同じ次元に属することなのだ。しかし彼は私の言葉をとどめて、そのもう一つの生活というものをどういう風に考えているのかと尋ねた。そのとき、私は「この今の生活を思い出すような生活だ」と叫び、すぐ付け加えて、もう飽き飽きした、といった。彼はなお神について語りたがっていたが、私は彼の方へ進んで行って、もう一度、自分には時間が残り少ないことを説明しようと試みた。私は神のことで時間をむだにしたくなかったのだ。彼は話題を変えようとして、自分のことを「ムッシュウ」と呼んで、「わが父」と呼ばないのは、なぜか、と尋ねた。それが私をいらいらさせた。あなたは、他のひとたちにはそうかも知れないが、私には父ではない、と答えた。
「いいや、わが子よ」と彼は私の肩に手を置いて、いった。「私はあなたとともにいます。しかし、あなたの心は盲《めし》いているから、それがわからないのです。私はあなたのために祈りましょう」
そのとき、なぜか知らないが、私の内部で何かが裂けた。私は大口をあけてどなり出し、彼をののしり、祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞ、といった。私は法衣の襟《えり》くびをつかんだ。喜びと怒りのいり混じったおののきとともに、彼に向かって、心の底をぶちまけた。君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来たるべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、その後は? 私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうっと待ち続けていたようだった。何ものも何ものも重要ではなかった。そのわけを私は知っている。君もまたそのわけを知っている。これまでのあの虚妄《きょもう》の人生の営みの間じゅう、私の未来の底から、まだやって来ない年月を通じて、一つの暗い息吹《いぶき》が私の方へ立ち上ってくる。その暗い息吹がその道すじにおいて、私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、私に差し出されるすべてのものを、等しなみにするのだ。他人の死、母の愛――そんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命――そんなものに何の意味があろう。ただ一つの宿命がこの私自身を選び、そして、君のように、私の兄弟といわれる、無数の特権あるひとびとを、私とともに、選ばなければならないのだから。君はわかっているのか、いったい君はわかっているのか? 誰でもが特権を持っているのだ。特権者しか、いはしないのだ。他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。人殺しとして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、それは何の意味があろう? サラマノの犬には、その女房と同じ値うちがあるのだ。機械人形みたいな小柄《こがら》な女も、マソンが結婚したパリ女と等しく、また、私と結婚したかったマリイと等しく、罪人なのだ。セレストはレエモンよりすぐれてはいるが、そのセレストと等しく、レエモンが私の仲間であろうと、それが何だろう? マリイが今日もう一人のムルソーに接吻《せっぷん》を与えたとしても、それが何だろう? この死刑囚め、君はいったいわかっているのか。私の未来の底から……こうしたすべてを叫びながら、私は息がつまってしまった。しかし、すでに司祭は私の手から引きはなされ、看守たちが私を脅かしていた。でも司祭は彼らをなだめ、一瞬黙って私を見た。その眼には涙があふれていた。彼は踵《きびす》を返して、消え去った。
彼が出てゆくと、私は平静をとり返した。私は精根つきてベッドに身を投げた。私は眠ったらしかった。顔の上に星々のひかりを感じて眼をさましたのだから。田園のざわめきが私のところまで上って来た。夜と大地と塩のにおいが、こめかみをさわやかにした。この眠れる夏のすばらしい平和が、潮のように、私のなかにしみ入って来た。このとき、夜のはずれで、サイレンが鳴った。それは、今や私とは永遠に無関係になった一つの世界への出発を、告げていた。ほんとに久し振りで、私はママンのことを思った。一つの生涯《しょうがい》のおわりに、なぜママンが「許婚《いいなずけ》」を持ったのか、また、生涯をやり直す振りをしたのか、それが今わかるような気がした。あそこ、幾つもの生命が消えてゆくあの養老院のまわりでもまた、夕暮れは憂愁に満ちた休息のひとときだった。死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、全く生きかえるのを感じたに違いなかった。何人《なんびと》も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない。そして、私もまた、全く生きかえったような思いがしている。あの大きな憤怒《ふんぬ》が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空《から》にしてしまったかのように、この|しるし《ヽヽヽ》と星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪《ぞうお》の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。
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解説
[#地付き]白井浩司
『異邦人』は、フランスの旧植民地アルジェリア生まれの、中央文壇とはなんの関係もなかったひとりの文学青年を、一躍文壇の寵児《ちょうじ》にしたすぐれた小説である。この一作によってカミュは、短いが、まことに栄光に満ちた文学的|生涯《しょうがい》にむけて出発した。彼の発表した小説のうち、あるいは『ペスト』を、あるいは『転落』を最上とする批評家がいるにちがいないが、『異邦人』は、あらゆる処女作がそうであるように、作者の内的音楽を最もあからさまに伝え、カミュ的問題の根本を私たちに示している。したがって、文学に対してほとんど正反対ともいえる考え方を抱懐するふたりの文学者、一方はいわゆるアンチ・ロマンの作家アラン・ロブグリエと、マルキシズムを批評方法の根底に据《す》える評論家リュシアン・ゴールドマンとが、そろって『異邦人』をサルトルの『嘔吐《おうと》』とともに、ここ二、三十年間のフランス小説史上の傑作であると見なしているのは、理由のないことではない。ムルソーはロカンタンと同様、作者が非常な愛着をもって造形した人物であるが、そればかりではなく、一九三〇年代の青年たちの歓《よろこ》びや苦しみを一身に具現している典型的人物なのだ。いやそれ以上のものさえある。彼らの悲劇性は、二十世紀ヨーロッパの暗さの反映でもあるが、同時に、人間とはなにかという根源的な問いかけに発したもので、それ故《ゆえ》に、国がちがい、環境がちがうわれわれに対しても強く訴えかける力を持つのである。昭和二十六年、広津和郎《ひろつかずお》氏と中村光夫氏との間で、いわゆる「『異邦人』論争」なるものが行なわれたが、これは『異邦人』の国際性を証してあまりあるものであり、すでにこの小説は、英、米、独その他世界の十七カ国で翻訳された。
アルベール・カミュは一九一三年十一月七日、アルジェリアのモンドヴィで生まれた。ボルドー生まれの曾《そう》祖父《そふ》が十九世紀半ばごろアルジェリアに入植して農業に従事し、その孫にあたるアルベールの父は、北アフリカ産|葡萄酒《ぶどうしゅ》の輸出業者ジュール・リコム社の社員となった。父は第一次世界大戦に応召、緒戦において戦傷死した。生後十一カ月のアルベールは、母や兄とともに、アルジェ市の場末町ベルクールの祖母のアパルトマンに転がりこんだ。この住居は三間だけで、叔父がひとり同居していた。「……私が自由を学んだのはマルクスのなかではなかった。私は自由を、たしかに貧困のなかで学んだ」とカミュはのちに書く(『時事論集I』)。五人の者が三間の部屋にひしめいているという貧しさだけでなく、彼の家族の肖像は異様である。スペイン領ミノルカ島の出身で一九〇七年以来未亡人の祖母は気取り屋で横柄《おうへい》だった。葡萄酒の樽造《たるづく》りを職業としていたその息子は障害者、そしてカミュの母は、ほとんど耳が聞こえず極端に無口だった。また彼らは、カミュの言によると、読み書きができなかった。そのため家には一冊の書物もなく、新聞、雑誌のたぐいもなかった。カミュはこの状況を三人称で書いている。
「彼らは五人で暮していた。祖母と、下の息子と、上の娘、その娘の二人の子どもである。息子は唖《おし》に近く、娘は病身でもうなにも考えることができなかった。二人の子どものうち一人は、すでに保険会社で働いており、二番目のはまだ学業をつづけていた。七十歳になってはいたが、祖母は未《いま》だにこの一家を支配していた」(『裏と表』)。
多くの場合貧困は、人びとに羨望《せんぼう》と不満を植えつける。だがカミュ一家は慎み深く控え目で、なにも羨《うらや》んだりはしなかった。そして地中海のきらめく風土が彼の救いとなった。「私の少年期を支配していた美しい太陽は、私からいっさいの怨恨《えんこん》を奪いとった。私は窮乏生活を送っていたが、また同時に一種の享楽《きょうらく》生活を送っていたのである。私は自ら無限の力を感じていた。……この力の障害となるのは貧困ではなかった。アフリカでは、海と太陽とはただである。さまたげになるのは、むしろ偏見とか愚行とかにあった」と、彼は一九五八年『裏と表』に新たに付した序文のなかで述べている。ムルソーがそうであるように、彼は自然の移り行きに敏感だったはずだ。カミュと同じく幼いときに父を失ったサルトルが、祖父の慈愛をうけて、いわば書斎人として成長したのと対照的に、カミュは自然児として成長する。
カミュは、小学校で早くも優れた資質をあらわし、その才能を惜しんだ担任教師ルイ・ジェルマンは、彼に対して特別に個人教授をほどこした。ノーベル文学賞受賞後の最初の講演が本になって出版されたとき、カミュはこの書物をジェルマンに捧《ささ》げて、旧師に対する深い感謝を表明している。アルジェ高等中学校に進んだカミュは、優秀な成績をあげて給費生に推薦された。彼はサッカーチームでゴールキーパーとして活躍していたが、十七歳のとき肺結核の最初の発作に襲われた。彼がのちに、大学教授資格試験を断念せざるをえなかったのもこの病気のせいである。
高等中学校の上級で彼はジャン・グルニエという哲学教授に出会った。カミュはグルニエから深い思想的影響をうけ、『反抗的人間』や『裏と表』を彼に捧げ、グルニエの著書『島々』(邦訳は『孤島』)に序文を寄せている。アルジェ大学に進学してから、改めてカミュはグルニエの教えをうけたのであるが、グルニエの、実存に関する皮肉で詩的な説明や懐疑的調子は、カミュの思想的エッセーに深い影を落している。
一九三四年、二十歳で結婚するが、二年ほどして離婚する。また、翌年、共産党に入党し、回教徒に対する宣伝の職務を受持つが、数年後に関係を断つ。この問題については諸説あるが、原住民で構成されている人民党と共産党との間に意見の相違が生じ、カミュが板ばさみの状態におかれ、一九三七年に共産党による除名措置がとられたというのが、最も妥当な経緯のようである。
アルジェ大学の学生時代、彼は奨学金をもらっていたものの、さまざまなアルバイトに従事しなければならなかった。大学の気象班に属して、南部地方の気圧の状況を調査したり、自動車部品の販売をしたり、ムルソーのように海運業者に雇われたり、市庁の事務員になったりした。こうした体験は彼の作品中に、直接あるいは間接に取りいれられるであろう。哲学士の称号をとるための論文は、ギリシアの哲学者プロティノスと、聖アウグスティヌスとを通じて、ヘレニスムとキリスト教との関係を考察したもので、「キリスト教形而上《けいじじょう》学とネオプラトニズム」という題名だった。卒業後、パスカル・ピアの推挽《すいばん》により、日刊紙「アルジェ・レピュブリカン」新聞社にはいって、雑報記事から論説まであらゆる部門を手がけたが、カミュの文才はこのように時事問題との直接の接触によって磨《みが》かれて行くのである。この間彼は、アマチュア劇団の一員になり、二枚目として舞台を踏み、さらに演出を行ない、また戯曲『カリギュラ』を書く。一九三七年には『裏と表』、三九年には『婚礼』(邦訳は『結婚』)をそれぞれ少部数刊行したが、この二篇の随想は小品ながらカミュの感受性の豊かさと根源的思想傾向をあきらかにするものである。「私はといえば、私の源泉が『裏と表』、貧困と光のこの世界のなかにあることを知っている。私はそこで長い間暮したが、その思い出はいまなお、あらゆる芸術家を脅かす二つの相矛盾する危険、すなわち怨恨と満足から私を守ってくれるのだ」(『裏と表』の序文)という彼の言葉は、これらの初期作品の重要性を証するものであろう。
第二次大戦が勃発《ぼっぱつ》すると、カミュは兵役を志願したが、健康上の理由で許可されなかった。一九四〇年にオラン生まれのフランシーヌ・フォールと再婚するが、のちに彼女との間に双生児が生まれる。大戦勃発後に「アルジェ・レピュブリカン」紙に載せた、彼の執筆による反戦的論調の記事が当局の忌諱《きい》に触れ、結局カミュはアルジェから追放される形となったが、またもやピアの紹介によって「パリ・ソワール」紙の記者になることができた。『異邦人』はこの年の五月に、「『異邦人』の哲学的翻訳」(サルトル)といわれる『シシュフォスの神話』は翌年の二月に、それぞれ書きあげられ、前者は四二年六月に、後者は同年十二月にガリマール社から刊行されたが、『異邦人』はたちまち評判をえ、四〇年以来の最大傑作と絶讃《ぜっさん》された。戦時中彼は、「コンバ」紙の編集に携わり、抵抗運動の精神を鼓舞したが、戦後はサルトルとならんでフランス文壇を代表する最も輝かしい作家と見られるに至った。
日本においてもそうであったが、フランスにおいてさえカミュはサルトルと同じ種類の実存主義者と見なされた一時期があった。ふたりがそろって戦後に一躍脚光を浴び、それぞれの作品が似たような絶望感を漂わせているところからこの混同が生まれたのであろうが、一九四五年十一月十五日付のノートにカミュはこう記している。「いや、ぼくは実存主義者じゃない。サルトルとぼくは、いつもぼくたちの名前が組合わされるのを見てびっくりしている。ぼくたちはいつか、ちょっとした広告をだそうかと考えてさえいる。そこで、署名者であるわれわれには、なんら共通点がないこと、お互いに借りをつくるような借金に応じるわけには行かないことをはっきりさせるためだ。……サルトルとぼくは、すべての本を、われわれが知りあう前に発表したのだ。ぼくたちが知りあったとき、ぼくらはお互いの違いを確認した。サルトルは実存主義者だ。そしてぼくが発表した唯一《ゆいいつ》の思想書である『シシュフォスの神話』は、いわゆる実存主義の哲学に反抗する方向にむけられていた」
思想も、生い立ちも、資質も、感受性も、小説の方法や小説観や文体においてさえも、カミュはあきらかにサルトルとは異なる。ただこのふたりは、別々の仕方で、人間の不条理を描いてみせたのだ。
一九四七年に彼は『ペスト』を刊行するが、これは『異邦人』以上に彼の名声を高めた。戯曲では、『カリギュラ』につづいて『誤解』、『戒厳令』、『正義の人びと』などを上演し、五一年に評論『反抗的人間』を発表する。左にも右にも偏せぬ中道精神を説いたこの書物は、世界平和の危機が叫ばれていた当時において、たしかに生ぬるいものであり、サルトルの主宰する「現代」誌は、鋭くカミュを批判したが、これを契機に十年近くつづいたふたりの友情に終止符が打たれた。この論争においてはカミュの方が歩が悪く、そのことをカミュ自身も自覚していたと思われる節があるが、これは必ずしもカミュの不名誉にはならないであろう。サルトルが稀《ま》れにみる論争の巧者であるということもあるが、いまにして思えば、カミュは自己の世界をこれほどまでに尊重していたということになろう。しかし、やはりカミュは、論争後、いくつかの翻案劇を上演したにとどまり、文学上、政治上しばらく沈黙を守った。漸《ようや》く彼が新しい作品を上梓《じょうし》したのは、五年後の五六年であって、それはあの苦渋に充《み》ちた中編『転落』である。五七年には短編集『追放と王国』が刊行され、この年彼は、ノーベル文学賞を授与された。カミュは四十四歳、フランスの受賞者中、最年少者である。このようにフランスを代表するばかりでなく世界的栄光に包まれた彼は、新しい長編小説『最初のひと』の構想を練り、一部分を書きはじめていたとき、思いがけぬ自動車事故によって、四十六年と二カ月の短い生涯を閉じた。それは一九六〇年一月四日のことだった。
小説『異邦人』についてはサルトルの見事な解説がある(『シチュアシオンT』に収録)。サルトルはそこで、『シシュフォスの神話』と『異邦人』との関係に触れ、前者が後者の「正確な注釈」であり、「哲学的翻訳」であること、しかし『異邦人』はテーゼ小説ではないから『神話』で語られる不条理の理論がそのまま忠実にムルソーにあてはまるわけではなく、不条理の光に照らしてみても、その光の及ばない固有のあいまいさをムルソーは保っているとし、これは彼が生きているなによりの証拠であり、「小説的濃密さ」を具《そな》えているためであると指摘する。ムルソーは、「不可能な超越の作家」カフカの主人公とはまったく逆で、カフカ的不安を少しも持っていない。カフカにとって宇宙はしるしに満ちているが、カミュの見方は地上的である。「朝、明るい夕べ、灼熱《しゃくねつ》の午後」、これがムルソーの好みの時刻であり、「アルジェの永遠の夏」、これがそのお気に入りの季節だ。夜は彼の宇宙ではほとんど場所を持たない。「自然の頑固《がんこ》な盲目性は、もちろん彼をいらだたせはするが、慰めもする。……この不条理な人間はユマニストだ。彼はこの世の善しか知らぬ」とサルトルは結論する。アンチ・ロマンのナタリー・サロートは評論集『不信の時代』のなかで『異邦人』について語り、ムルソーがいかにカフカ的人間からは遠く、かえってフランスの伝統的小説の主人公に近いことを指摘する。このふたりの共通した見解は、一応正しいものと認めてもよいのではなかろうか。
ムルソーが、作者の傀儡《かいらい》に堕すことなく、固有のあいまいさを具えているのは、カミュの手腕に帰せられるべきであるが、もう一つの理由として、ムルソーにモデルがいたという事実が挙げられる。一九四四年の大晦日《おおみそか》の夜、ジードの所有するアパルトマンに住んでいたカミュは、大勢の人を招いてパーティを催した。ボーヴォワールはサルトルとともに参加したが、パーティの間、ずっと沈黙を守っていたひとりの男を指さしてカミュが、「あれがムルソーのモデルなんだ」といったと、ボーヴォワールが回想録『事の成行』(邦訳は『或《あ》る戦後』)のなかに記している。ムルソーは、サルトルが巧みに指摘するように、たとえば「愛」と呼ばれるような一般的感情とは無縁の存在である。人は、つねに相手のことを考えているわけではなくとも、きれぎれの感情に抽象的統一を与えて、それを「愛」と呼ぶ。ムルソーは、このような意味づけをいっさい認めない。彼にとって重要なのは、現在のものであり、具体的なものだけだ。現在の欲望だけが彼をゆり動かす。そういう欲求が起きれば、動いているトラックに飛び乗るほどの力をふるう。ムルソーがこのような人物であるとすると、私たちは、『婚礼』のなかにちらりと姿を覗《のぞ》かせる青年のことを思い浮べざるをえない。カミュは書いている。「わが友ヴァンサンは、桶屋《おけや》でジュニア級の平泳ぎの選手だが、明快な見識を持っている。彼は喉《のど》が渇くと飲み、女を欲すれば共に寝る。女を愛するなら結婚するだろう(まだそんなことにはならぬが)。これでいい、というのが彼の口癖だ」
パーティの男とヴァンサンとが果して同一人物であるかどうかは知る由《よし》もないが、いずれもムルソーのある面を彷彿《ほうふつ》とさせる人物である。しかしムルソーは、モデルとなった人物以上に魅力があり、実在感を与える。ちょうどフローベールの『ボヴァリー夫人』がそうであるように。これが名作の名作たる所以《ゆえん》であろう。
カミュの死後発表された『手帖《てちょう》』によると、『異邦人』以前に、『幸福な死』という習作が書かれている。これは一九三七年に一応完成したものの発表されなかったが、主人公はメルソーと呼ばれた。メルソーとは、フランス語の「海」と「太陽」とを組合わせてつくられた名詞であろうが、ムルソーはまさしくメルソーの後身であり、これは「死」と「太陽」との合成語である。そしてこの名前は、きわめて暗示的で、ムルソーの生涯を象徴する。
さて、広津、中村両氏の論争は、『異邦人』をどう読むべきか、という点にあったと思うが、絶望的な外観を呈しているにしてもこの小説は決して絶望の書物ではない。それについては、カミュが、『異邦人』の英語版に寄せた自序(一九五五年一月)が、明快な解明を与えるであろう。
「……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘《うそ》をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑《くず》ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう……」
ムルソーは、否定的で虚無的な人間にみえる。しかし彼はひとつの真理のために死ぬことを承諾したのだ。人間とは無意味な存在であり、すべてが無償である、という命題は、到達点ではなくて出発点であることを知らなければならない。ムルソーはまさに、ある積極性を内に秘めた人間なのだ。
作品そのものの出来栄《できば》えについていえば、テーマの発想から完成まで、約四年の歳月を要したという事実からいって、カミュがこの一作に、なみなみならぬ努力を傾注したことは十分に推察できる。『手帖』を見るならば、三八年の秋、早くも彼が『異邦人』の書きだしの部分をノートしていることがわかるのであるが、たしかにこの小説は、「不条理に関し、不条理に抗してつくられた、古典的作品であり、秩序の作品」(サルトル)であろう。『ペスト』においてカミュが現代の古典になったというのが通説であるが、すでに『異邦人』が、彼を古典派に組みいれたのである。
なおこの解説は書肆《しょし》の求めに応じ、パリ在住の訳者に代って、新しく執筆したものである。
(昭和四十年十月十九日)
今回『異邦人』の改訂版が刊行されるに伴い、三十年前に執筆した右の解説にもいくつかの訂正を施した。カミュ家が曾祖父の時代に、普仏《ふふつ》戦争を避けて、アルザス州からアルジェリアに入植したという話をカミュ自身が信じ、これが通説になっていたが、H・ロットマンの『伝記アルベール・カミュ』(一九七九年刊)によってこの話が虚妄《きょもう》であることが判明し、上述のごとく訂正した。
つぎに、この小説の末尾でムルソーが、「わがことすべて終りぬ」と呟《つぶや》いていることに注目して頂きたい。この文句は、ヨハネ福音書のみに見られるイエス・キリストの臨終の言葉だが、これをムルソーに呟かせたのは、彼の処刑がキリストの磔刑死《たっけいし》と同様、「無実の罪」によるものだと作者が考えているからだろう。なお作者は、戯曲『カリギュラ』、小説『転落』のそれぞれの主人公にも同じ言葉を呟かせており、評論『シシュフォスの神話』の中でもそのことに言及している。
もう一つの問題は、ムルソーの回想のごとき体裁を取っているこの小説が果してムルソー自身によって執筆されたのか否か、ということである。カミュは絶妙な手法を発見してこの問題を解決した。ここでは筆者の結論だけを申上げるが、この小説は、法廷でムルソーが視線を交した、ひとりの新聞記者による聞き書きである、という仮説を立てている。大方の読者の御批判を仰ぎたい。
(平成七年五月十五日)
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年譜
一九一三(大正二)年 11月7日、アルジェリアの一寒村モンドヴィ近くのサン = ポール農場に生れる。父リュシアン・オーギュストはフランスからの入植者の家系で、葡萄酒輸出会社に勤める貧しい労働者、母カトリーヌ・サンテスはスペイン系、耳が不自由で寡黙《かもく》だった。四歳上に兄が一人。
一九一四(大正三)年 1歳 8月、第一次世界大戦|勃発《ぼっぱつ》。父はアルジェリア兵として召集され、マルヌの最初の戦闘で負傷し死亡。母は二児を連れ、厳格な祖母、障害者の叔父の住む、アルジェの場末町ベルクールの、わずか二部屋のアパルトマンに移住。大人三人は文盲だった。
一九一八(大正七)年 5歳 オームラ街の公立小学校に入学、教師ルイ・ジェルマンに出会う。ジェルマンは母親に、カミュの高等中学校《リセ》進学を勧め、奨学金が得られるよう尽力。
一九二〇(大正九)年 7歳 国家保護を受ける戦災孤児に認定される。
一九二四(大正十三)年 11歳 リセ・ビュジョーに給費生として入学、半寄宿生となり、フランス語とラテン語中心の教職のコースを選択。
一九二八(昭和三)年 15歳 アルジェ大学体育会のジュニア・サッカーチームの正ゴール・キーパーとして活躍。
一九二九(昭和四)年 16歳 父方の叔父アコーの勧めでジッドの『地の糧《かて》』を読む。
一九三〇(昭和五)年 17歳 リセの最上級クラスに進級、生涯の師、友となる哲学教師ジャン・グルニエを識《し》る。グルニエの薦めで、アンドレ・ド・リショーの小説『苦悩』を読み、文学に開眼。
一九三一(昭和六)年 18歳 1月、最初の喀血《かっけつ》。医師のすすめで叔父アコーのもとに引き取られる。同人誌〈ル・シュッド〉に、P・カミュの筆名で「ある死産児の最後の日」という短文が掲載される。祖母死亡。
一九三二(昭和七)年 19歳 6月、大学入学資格《バカロレア》取得。〈ル・シュッド〉誌に評論的小品を五編発表。
一九三三(昭和八)年 20歳 1月、ヒトラーが政権を掌握。グルニエのエッセイ集『孤島』を読んで深く感動、作家を志す。10月、アルジェ大学文学部に入学、ルネ・ポワリエとグルニエに指導を受ける。「読書ノート」をつけ始める。この頃《ころ》発表の小品は初期作品集『直観』(一九七三年ガリマール社刊)に収録。
一九三四(昭和九)年 21歳 6月、友人の婚約者だったシモーヌ・イエと結婚。シモーヌは麻薬中毒症の治療中だった。結婚反対の叔父アコーの家を出、この夏以降さまざまなアルバイトをする。グルニエのイドラの家をよく訪れる。
一九三五(昭和十)年 22歳 創作ノート『手帖』を書き始める。5月、哲学の文学士号取得。夏、病状悪化し、生涯愛した海辺の町チパザで静養、リセの女子学生を集め家庭教師をする。秋、共産党に入党、アルジェで回教徒への宣伝活動に従事。共産党の「文化会館」運動に加わり、その一環として劇団「労働座」を創設。
一九三六(昭和十一)年 23歳 1月、未完の小説『幸福な死』(一九七一年ガリマール社刊)の創作準備に着手。「労働座」でマルローの『侮蔑《ぶべつ》の時代』を脚色上演。3月、二年前のスペインでの内乱を題材にした『アストゥリアスの反乱』の上演を総督府が禁止。この頃新しい地中海文学を標榜《ひょうぼう》する運動が若い世代にあったらしい。5月、フランス本国に人民戦線内閣が成立。7月、スペイン内戦勃発。カミュは非暴力、反ファシズムの思想を強く形成。卒業論文の審査に合格、高等教育修了証書を受ける。夏、妻と友人とで中央ヨーロッパ旅行、帰国後離婚を決意。秋、女子学生ジャンヌ・シカール、マルグリット・ドブランらとアルジェの丘に家を借り、「世界をのぞむ家」と名づけ共同生活をする。
一九三七(昭和十二)年 24歳「ラジオ・アルジェ」に一年契約で雇われ、俳優として各地を巡演。戯曲『カリギュラ』着想。2月、「文化会館」で新地中海文化について講演。5月、エッセイ集『裏と表』三百部を友人経営のシャルロ社より刊行。翌年創刊の同社の雑誌〈リヴァージュ〉の編集委員となる。健康上の理由で大学教授資格試験を断念。夏、初めてのパリ旅行中健康を害し、サヴォワ地方で療養。9月、「世界をのぞむ家」の女友達とイタリア旅行。オラン郊外の小さな町の哲学教師に任命されるが、単調な生活への埋没を恐れ、辞退。12月、アルジェ大学付属気象学研究所に就職。この年、反仏闘争家メッサリ・ハジ(回教宗教家)のアルジェ人民党を支持したことで共産党を離党するが、「仲間座」を結成し「労働座」の活動を継承させた。「仲間座」が『カラマーゾフの兄弟』を上演、カミュはイワン役を演じる。
一九三八(昭和十三)年 25歳 6月、フランシーヌ・フォールと知り合い婚約。10月、気象学研究所を辞《や》め、パスカル・ピア主宰の日刊新聞〈アルジェ・レピュブリカン〉の創刊に参画、記者として活躍。12月、友人フレマンヴィルと「カフル出版」を共同経営。秋頃の『手帖』に『異邦人』の冒頭を記す。
一九三九(昭和十四)年 26歳 3月、「仲間座」がシング作『西の国の人気者』を上演、大成功を博す。5月、小品集『結婚』をシャルロ社より刊行。9月、第二次大戦勃発、軍隊に志願するが、徴兵審査会で不合格となる。〈アルジェ・レピュブリカン〉紙にルポルタージュ「カビリア地方の悲惨」など署名記事が次々に掲載され、大きな反響を呼ぶが、10月、当局の弾圧と用紙不足のため同紙廃刊。これにともないカミュは夕刊紙〈ソワール・レピュブリカン〉紙を創刊。
一九四〇(昭和十五)年 27歳 1月、〈ソワール・レピュブリカン〉紙発禁処分。2月、裁判所が離婚を許可。3月、当局の退去勧告によりアルジェを去りパリに移る。ピアの紹介で大衆日刊紙〈パリ = ソワール〉の編集庶務係となる。5月、『異邦人』完成。6月、フランス、ドイツに全面降伏。〈パリ = ソワール〉紙の疎開に従い、国内を転々とする。12月、リヨンでフランシーヌと再婚。人員整理にともない新聞社から解雇。
一九四一(昭和十六)年 28歳 1月、妻の郷里アルジェリアのオランに転居、私塾で教鞭《きょうべん》を取る。2月、『シーシュポスの神話』完成。『ペスト』を構想。4月、ピアとマルローの奔走で、パリ、ガリマール社に「不条理の三部作」『異邦人』『シーシュポスの神話』『カリギュラ』の原稿が届く。しばしばアルジェを訪れ、「仲間座」の復興に努力。
一九四二(昭和十七)年 29歳 春、再び喀血、左肺も冒される。ドブランの持家の古い農場で静養。6月、ガリマール社より『異邦人』刊行、大きな反響を呼ぶ。8月、フランス、シャンボン = シュール = リニョン近くの小村ル・パヌリエで療養。11月、連合軍の北アフリカ上陸作戦のため、アルジェリアの家族との連絡を絶たれる。この間戯曲『誤解』と『ペスト』を並行執筆。12月、ガリマール社より『シーシュポスの神話』刊行。
一九四三(昭和十八)年 30歳 2月、〈カイエ・デュ・シュッド〉誌にサルトルの「『異邦人』解説」とグルニエの短評が載る。どちらも絶賛。6月、パリでサルトルの『蠅《はえ》』の舞台|稽古《げいこ》を観《み》てサルトルと知り合う。この年、マルロー、ボーヴォワール、レリス、クノーらの知遇も得る。11月、パリに居を定め、ガリマール社に部屋をもらって原稿審査の仕事(プレイヤッド賞など)に携わる。
一九四四(昭和十九)年 31歳 ピアに代わりレジスタンスの地下出版〈コンバ〉紙の編集を引き受ける。「全国作家委員会」の秘密機関誌〈レットル・フランセーズ〉の運営委員会に加わる。6月、パリ、マテュラン座で『誤解』を上演。8月、パリ解放。〈コンバ〉は日刊紙となり、カミュは編集長として、紙上で対独協力者の粛清を主張、10月、この件でキリスト教的寛容を説くモーリヤックと論争。妻、ジッドと暮らすカミュに合流。
一九四五(昭和二十)年 32歳 1月、対独協力者の作家ブラジヤックの特赦請願書に署名。5月8日、終戦、アルジェでジッドと共にその知らせを聞く。前後してアルジェリアに暴動が勃発、全土を歩き回り、〈コンバ〉紙に状況を報告。9月、エベルト座で『カリギュラ』初演、大成功を収める。妻、双子を出産。
一九四六(昭和二十一)年 33歳 2月、叔父アコー死亡。3〜6月、外務省の「文化交流機関」から派遣され、アメリカ、カナダを講演旅行、若い世代の熱狂的歓迎を受ける。7月、レジオン・ドヌール勲章受章。11月、〈コンバ〉紙に「犠牲者もなく、死刑執行人もなく」(後にガリマール社刊『時事論集』に収録)。セギエ通りのアパルトマンに引っ越す。この年、ガリマール社の「希望」叢書《そうしょ》を監修、ヴェイユらの作品を出版。
一九四七(昭和二十二)年 34歳 1月、ブリヤンソンで療養。6月、経営難航、ピアとの確執などから、〈コンバ〉紙から手を引く。『ペスト』がガリマール社より刊行され、クリティック賞を受賞、ベストセラーとなる。8月、グルニエとブルターニュに旅行、初めて父の墓参をする。夏、アヴィニヨンで、生涯の友となる詩人ルネ・シャールと知り合う。10月、『反抗的人間』執筆。
一九四八(昭和二十三)年 35歳 5月、「文化交流機関」からの派遣でイギリスに講演旅行。10月、マリニイ座で『戒厳令』を上演、公演は不評に終わった。11月、世界市民を名乗るゲーリー・デービスを支持。
一九四九(昭和二十四)年 36歳 3月、『カリギュラ』の公演を機にロンドンに行く。6〜8月、「文化交流機関」からの派遣で南米講演旅行、健康を損ね、鬱《うつ》状態に陥り、自殺の衝動に駆られる。10月、喀血。絶対安静を余儀なくされ、ガリマール社から一年の病気休暇をもらい、南仏カブリで静養。12月、エベルト座で『正義の人びと』上演。
一九五〇(昭和二十五)年 37歳 この年、パリとカブリを行ったり来たりして過ごす。
一九五一(昭和二十六)年 38歳 10月、〈アール〉誌上でブルトンと論争。『反抗的人間』をガリマール社より刊行。11月、手術を受けた母の見舞いにアルジェリアに行き、チパザを訪れる。
一九五二(昭和二十七)年 39歳 5月、サルトル主宰の雑誌〈タン・モデルヌ〉でフランシス・ジャンソンが『反抗的人間』を批判、カミュ=サルトル論争に発展。サルトルとの友情に終止符が打たれ、パリの文壇で次第に孤立。11月、「スペイン共和国友の会」で演説。12月、チパザ再訪の後、サハラのオアシスの町ラグアットとガルダイアに旅行。
一九五三(昭和二十八)年 40歳 6月、アンジェの演劇祭を指揮、翻案劇『十字架への献身』『精霊たち』を上演し、成功させる。様々な破綻《はたん》で失意の日々を送っていたカミュだが、これを契機に演劇への情熱が再燃する。夏、妻が倒れ、レマン湖畔で静養。10月、ドストエフスキーの『悪霊』の脚色を構想。11月、パリで回顧展「アルベール・カミュの記録」が開かれる。「アルジェリア小説大賞」の選考委員となる。この年、自伝的小説『最初の人間』を着想。
一九五四(昭和二十九)年 41歳 「アルジェリア小説大賞」が総督府後援と知り、委員を辞退。妻の容体悪化、カミュ自身も精神的に執筆不能となる。10月、オランダ旅行。11月、原住民の武装|蜂起《ほうき》からアルジェリア戦争勃発。イタリア旅行。
一九五五(昭和三十)年 42歳 4月、ギリシア旅行。妻の容体好転。6月、リベラルな週刊誌〈エクスプレス〉で執筆を再開。夏、シャモニーで静養したあとイタリア旅行。9月、フォークナーがパリ訪問の折、『尼僧への鎮魂歌』翻訳を契約。
一九五六(昭和三十一)年 43歳 1月、アルジェで休戦アピールの講演集会を開くが、現地の反応は冷たく、以後アルジェリア問題に沈黙。〈エクスプレス〉誌への協力も断る。5月、ガリマール社より『転落』を刊行。9月、マテュラン座で『尼僧への鎮魂歌』上演、好評を博す。
一九五七(昭和三十二)年 44歳 3月、ソ連のハンガリーにおける占領と弾圧に抗議。ガリマール社より短編集『追放と王国』刊行。6月、アンジェ演劇祭を指揮、翻案劇『オルメドの騎士』、『カリギュラ』上演。10月、ノーベル文学賞受賞、12月、ストックホルムの授賞式に出席し、講演。
一九五八(昭和三十三)年 45歳 3月、序文を付して『裏と表』をガリマール社より再版。ド・ゴールを訪問してアルジェリア問題を協議。6月、ド・ゴール内閣成立。ミッシェル・ガリマールの家族とギリシア旅行。9月、グルニエゆかりの地、南仏ルールマランに家を購入。
一九五九(昭和三十四)年 46歳 1月、アントワーヌ座で『悪霊』上演、思い入れは強かったが、公演は成功しなかった。ルネ・シャールに手紙で娘の病気と自分の鬱状態を訴える。カミュがテキストを書いたテレビ番組「クローズ・アップ」の第一回放送。5月より主にルールマランに滞在。夏頃から死の直前まで『最初の人間』を執筆。12月、グルニエに最後の手紙を書く。
一九六〇(昭和三十五)年 46歳 1月2日、パリに戻る妻子をアヴィニヨンの駅まで送る。3日、ガリマールの家族と車でパリに向かう。4日、ヴィルブルヴァン近くで車が道路ぎわのプラタナスに激突、即死。6日、ルールマランに埋葬される。
[#地付き]編集部編