ティファニーで朝食を
カポーティ/龍口直太郎訳
目 次
ティファニーで朝食を
わが家は花ざかり
ダイヤのギター
クリスマスの思い出
解説(龍口直太郎)
[#改ページ]
ティファニーで朝食を
ジャック・ダンフィーに捧《ささ》ぐ
私はいつでも自分の住んだことのある場所――つまり、そういう家とか、その家の近所とかに心ひかれるのである。たとえば、東七十丁目にある褐色《かっしょく》砂岩でつくった建物であるが、そこに私はこんどの戦争の初めの頃《ころ》、ニューヨークにおける最初の私の部屋を持った。それは屋根裏家具がいっぱいつまった一部屋で、ソファが一つと、暑い日の汽車旅行を思い出させるような、あの気持のいらいらする、とくべつに赤いビロードを張った、ぼこぼこした椅子《いす》がいくつかあった。壁には漆喰《しっくい》が塗ってあって、それがどちらかといえば、かみタバコ汁《じる》みたいな色をしていた。部屋じゅうのどこにもかしこにも、それこそ風呂場《ふろば》に至るまで、年経《としへ》て茶色の斑点《はんてん》ができた、ローマの廃墟《はいきょ》の版画がかかっていた。たった一つしかない窓は、非常口に向って開くようになっていた。そういうお粗末なところだったが、ポケットの中でこの部屋の鍵《かぎ》に手が触れるたびに、私はとみに元気づくのであった。いかにも陰気臭いところではあったが、それでもそこは、私自身の場所と呼べる最初のところであり、そこに私の書物があり、削る鉛筆が何本も立っている鉛筆立があり、そのほか私がなりたいと思っていた作家になるために必要とすると感じた、ありとあらゆるものがあったのだ。
その当時は、ホリー・ゴライトリーについて何か書こうなどとは夢にも思わなかったし、今だって、もしジョー・ベルと、ある話をしなかったら、おそらく同じことだろう。彼とその話をしたおかげで、彼女についての思い出がすっかりよみがえってきたのである。
ホリー・ゴライトリーもその古い褐色砂岩の建物の中に部屋を借りていた。彼女は私の部屋のすぐ下に住んでいたのだ。ジョー・ベルはといえば、角をまわったレキシントン街で一軒のバーをやっていた。それは今でもまだつづいている。ホリーも私も、一日に六、七回、そこに出かけていったものだが、それはかならずしも酒を飲むためではなく、どちらかといえば、電話をかけるためだった。戦時中は個人的な電話を手に入れるのがむずかしかったからである。そのうえ、ジョー・ベルという男は、電話のメッセージを受けるのが上手だった。これはホリーにとってはたいへんありがたいことだった。というのも、彼女には電話がおそろしくたくさんかかってきたからだ。
むろん、これは遠い昔のことで、先週まで私はジョー・ベルに五、六年間も会っていなかった。その間、ときたま、私たちはおたがいに連絡はしたし、その近所を通ると、私は彼のバーに立ち寄ることもあった。しかし実のところ、私たち二人はホリー・ゴライトリーの共通の友だちであるという以外に、とくべつ親しい友人であったためしがなかった。ジョー・ベルには、彼自身も認めているように、ちょっと気むずかしいところがあるが、それは彼が独身者《ひとりもの》であるうえに、胃の調子が悪いからだという。彼を知るほどの者はだれでも、彼が話しにくい人間だというだろう。もし彼と同じような特別の好みを持ち合せていなければ、とてもやりきれない人間だと思うだろう。現にホリーは、そういう彼の好みに合う女なのだ。そのほか彼の好みのいくつかをいえば、アイス・ホッケー、ワイマール犬、「わがいとしのサンデー」(これは彼が十五年間もラジオで聞きつづけてきた安手オペラの連続ものである)、それにギルバートとサリヴァンである。彼はその二人のうちのどちらか一人と親戚《しんせき》関係になっているといっているが、そのどっちなのだか私はおぼえていない。
そこで、前の火曜日の午後おそく、電話のベルが鳴って、「こちらはジョー・ベルだよ」という言葉を聞いたとき、私はきっとホリーの話にちがいないと思った。彼ははっきりそうはいわないで、ただ「ちょっとこっちにすぐ来てもらえるかね? 大事な話なんだ」といっただけだった。それに、彼のカエルの鳴き声みたいなガーガー声はいくぶん上ずっていた。
私は十月の土砂降りの中をタクシーで出かけたが、その途中、彼女がそこに来ているのかもしれない、再びホリーに会えるだろう、とさえ考えた。
ところが、バーに着いてみると、そこには主人のほかにだれもいなかった。ジョー・ベルの店は、レキシントン街のたいていのバーと比べると、地味なほうで、ネオンもテレビも売物にしていないのだ。二枚の古い鏡が外の通りの天気のぐあいを映している。カウンターのうしろの、アイス・ホッケーのスターたちの写真にかこまれた壁のくぼみには、いつでも大きな花瓶《かびん》が置いてあって、そこにはジョー・ベル自身が、まるでおかみさんよろしくの入念さで、生花を生けておくのである。私がはいってゆくと、彼はちょうど花を生けているところだった。
「そりゃ当り前さ」彼はグラジオラスを鉢《はち》の底深く突きさしながらいった、「もしあんたの意見をききたいというのでなけりゃ、わざわざこんなところまで来てもらやしなかったろうさ。どうも妙なんだ。とても妙なことが起ったんだよ」
「ホリーから、便りでも?」
彼はどう答えてよいか心が決まらぬらしく、一枚の葉を指でいじくりまわしていた。彼はごわごわした白髪《はくはつ》におおわれた、立派な頭をした小柄《こがら》な男であるが、彼よりずっと背の高い男によく似合うような、骨ばった、ほっそりした顔つきをしていた。顔色はいつでも陽焼《ひや》けしたみたいに見えるのだが、このときはそれが一段と赤くなっていた。
「やかましくいえば、あの娘《こ》から便りがあったというんじゃないんだ。つまり、わしにはよくわからんのだよ。だからこそ、あんたの意見をきこうと思ってね。ひとつあんたに何か飲物をこしらえてやろう――新しいやつをね。≪|白い天使《ホワイト・エンジェル》≫と呼ばれてるやつをさ」
そういって、彼はウオツカとジンを半々にまぜ、ヴェルモットをまったく使わないで調合しはじめた。そしてできあがったものを私が飲んでいる間、彼はそこにつっ立ってタムズを吹かしながら、私にどういうふうに話したものかと心の中で思案していた。
それから――
「あんたはI・Y・ユニオシという男をおぼえてるだろうね? 日本から来た人だが」
「カリフォルニアからですよ」私はユニオシさんをよくおぼえていたので、そう訂正した。彼はある絵入り雑誌のカメラマンをしているが、私たちが知りあったころ、あの褐色砂岩の家の最上階にあるスタジオを借りていたのだ。
「まあ、わしの頭を混乱させんでくれよ。わしがきいてるのは、ただあんたがその男を知ってるかどうかってことだけなんだ。よし、あんたは知ってる、と。実は、ゆうべ、ここにワルツを踊るような足取りではいってきた男はと見ると、ほかならぬそのI・Y・ユニオシ君だったんだ。やっこさんにはしばらく、そうだね、二年以上も会っていなかったんだよ。で、いったいその間、彼がどこに行ってたと思うかね?」
「アフリカだろう」
ジョー・ベルはとつぜん、葉巻を噛《か》むのをやめ、眼《め》をほそめて、「それはそうと、どうしてあんたはそいつを知ったのかね?」ときいた。
「『ウィンチェル』で読んだのさ」
事実、そのとおりだった。
彼は金銭登録器《レジスター》をチリンといわせてあけると、マニラ紙の封筒を取出した。
「ところで、これのことを『ウィンチェル』で読んだんだね」
封筒の中には三枚の写真がはいっていたが、それは違った角度から撮《と》った、だいたい同じようなものであった。キャラコのスカートをはいた、背の高い、きゃしゃな黒人の男であって、顔には、はにかみながらも得意そうな微笑をうかべ、両手で奇妙な木の彫刻を見せびらかしていた。その木彫りというのは、女の頭を細長く引伸ばして刻んだもので、その髪はなめらかで、青年の髪のように短く、なめらかな感じの木の眼はあまりにも大きく、先のとがった顔の上につり上がっていた。口は大きく、道化役者みたいに太い唇《くちびる》をしていた。ちょっと見たところ、きわめて原始的な木彫りに似ていたが、よく見ると、そうではなかった。というのも、それがホリー・ゴライトリーの生き写しの姿であり、少なくともこの種のぼやけた木彫りとしては、この上なく実物によく似ていたからである。
「さて、あんたはそいつをどう思うかね?」ジョー・ベルは私の当惑したようすにさも満足したような口調でたずねた。
「彼女に似てるよ」
「いいかね、あんた」彼はカウンターをピシャリと平手で叩《たた》いていった、「たしかにあの娘《こ》なんだ。このわしが半ズボンをはくにふさわしい男であるのと同じくらいまちがいなくね。あのちっぽけな日本人にも、彼女を見た瞬間、あの娘であることがわかったんだそうだよ」
「彼女を見たんですか? アフリカで?」
「いいや、その像を見ただけさ。しかし結局は、おんなじことになるよ。あんたも自分でいろんな事実を読みとってみるんだね」そういって彼は写真の一枚をひっくりかえした。その裏面には次のように記《しる》してあった――木彫。東アングリア、トコカル、S族。一九五六年クリスマス。
「日本人の話はこうなんだよ」と彼はいって、その物語をしてくれた――クリスマスの日、ユニオシさんはカメラをたずさえてトコカルを通りすぎた。そこはジャングルの中の、別に名もない、なんら興味もない一部落で、泥《どろ》でできた小屋が集まり、庭先には猿《さる》が、屋根の上にはハゲタカがいるだけだった。彼はそのままそこを通りすぎようと思ったが、そのとたん、ふと気がついてみると、一人の黒ん坊が、ある小屋の戸口にしゃがみこんで、ステッキの上に猿を刻んでいた。ユニオシさんはその彫刻に感心したので、その男の作品をもっと見せてくれといった。そこで、彼はその女の頭の彫刻を見せられた。それを見たとき、彼は夢の世界に落ちこんでゆくような気がした、とジョー・ベルに語った。しかし、彼がそれを譲ってもらいたいと申出ると、黒人は自分の陰部を片手でかこい(それはどうやら人が胸を軽く叩くのにも似た、やさしい手つきだったらしいが)、だめだと答えた。交換条件として、塩一ポンドと十ドル、腕時計と塩二ポンドと二十ドルなどをもちだしてみたが、相手は一向に動きそうもなかった。そこでユニオシさんは、ともかくその彫刻のできるに至った顛末《てんまつ》だけでも探りだそうと思った。ただそれだけのためにも、持っている塩の全部と腕時計を出さなければならなかった。その出来事はアフリカ語と片言英語と指先言葉で語られた。彼の語るところによると、その年の春、白人三人の一組が馬に乗って森林の中から出てきたらしい。一人の若い女と二人の男である。熱病のため眼を赤くはらした男たちは、数週間、孤立した小屋に閉じこめられてブルブル慄《ふる》えていなければならなかった。ところが、若い婦人のほうは、やがてその彫刻師が好きになり、彼と同じマットの上に寝るようになったというのである。
「どうもその点は怪しいもんだよ」ジョー・ベルは気むずかしそうな顔でいった。「そりゃ、あの娘《こ》が自分の思いどおりに、なんでもするたちであることは知ってるが、まさかそんなことまでするとは思わんね」
「それから、どうしたんですか?」
「いいや、どうもこうもなかったのさ」彼は肩をすぼめた。「やがてそのうち、あの娘はちょうどやってきたときと同じように、馬に乗ってそこを立ち去っていったんだね」
「ひとりでですか、それとも二人の白人と一緒に?」
ジョー・ベルは眼をパチクリさせた。「たぶん二人と一緒だろうよ。さて、その日本人はその地方のあちこちをまわって、その娘のことをきいてみたんだが、ほかにはだれひとりあの娘を見たものがいなかったそうだ」それから、どうやら私の失望感が彼のほうに伝わるのを感じたらしかったが、彼自身はそれをハネ返してこういった。「だが、あんただって認めなけりゃならんことが一つあるよ。それは、これが長い間に手にはいったただ一つの|はっきりした《ヽヽヽヽヽヽ》ニュースだってことだ。さあ、あれから何年たつかな?」――彼は両手の指で数えてみたが、それでは足りなかった――「十何年。わしが望むのは、あの娘が金持になっていてくれればいいってことだけだよ。きっと金持になってるにちがいないさ。アフリカくんだりをあっちこっち歩きまわるとすりゃ、金を持たなきゃならんからな」
「たぶんアフリカなんかに足など踏み入れたことはないかもしれませんよ」私はほんとにそう思っていった。だが、そこに出かけている彼女の姿を目《ま》のあたり見ることができた。いかにも彼女の行きそうなところだったからである。それに、刻まれた彼女の頭がそこにあるではないか。私はもういちど写真を見なおした。
「あんたはなんでもよく知ってるようだが、じゃ、いったいあの娘《こ》は今どこにいるんだね?」
「死んだんだろうよ。それとも精神病院にいるかな。あるいは結婚してるかもしれんよ。たぶん結婚しておちつき、このニューヨークの町に住んでるかもしれないね」
彼はしばらく考えていた。「いや、そんなはずはないよ」そういって彼は頭を横に振った。「なぜだかいおうか。もしあの娘がこの町にいるとすれば、わしはきっとあの娘の姿を見かけているだろうからね。まあ、考えてみるがいい。わしのような散歩の好きな男がだね、十年なり十二年なり、ずっと街を歩きつづけてきて、しかもある一人の人間だけに目をつけていたというのに、その人を見たことがないとすれば、その人間がそこにいないと考えるのが道理というもんじゃないかね? わしはあの娘の面影《おもかげ》をいつも見ているんだ。平べったい、ちっちゃなお尻《しり》とか、足早にまっすぐ歩いてゆく痩《や》せた姿とか――」私がしげしげと彼を見つめているのにテレたみたいに、彼はそこで言葉を切った。「どうだい、わしが少しいかれてるとでも思うかい?」
「まさかあなたがあの女《ひと》に惚《ほ》れてるとは思いませんでしたよ――そんなふうにね」
そういってしまってから、私はしまったと思った。彼はすっかりどぎまぎした。彼は写真を両手でもち上げると、元の封筒の中に収めた。私は時計を見た。別にどこにも行く当てはなかったが、おいとまするほうがよさそうだと思った。
「まあ、待ちたまえ」彼は私の手首をしっかり握った。「たしかにわしはあの娘《こ》が好きだ。だからといって、別にあれに手を触れてみたいなんていうんじゃなかったよ」それから彼はニコリともしないで、こうつけ加えた――「それはわしがその方面のことを考えないというわけじゃないよ。わしのような年輩になっても――この一月の十日には六十七になるんだ。これは妙なことだが、わしは年をとればとるほど、その方面のことがますます気になってくるからね。若造の頃《ころ》だって、そっちのほうのことをそんなに考えたおぼえがないよ。ところが、この頃は一分ごとに、頭に浮んでくるんだ。たぶんだんだん年をとって、自分の思いを実行することがむずかしくなればなるほど、そいつが頭の中に閉じこめられて、重荷になってくるんだろうな。新聞で、老人が年《とし》甲斐《がい》もなくみっともないまねをしたという記事を読むたんびに、そいつはこの重荷のせいだろう、そうわしは思うんだ。しかしだね」――彼は小さなコップにウイスキーを注《つ》ぐと、グッと飲みほした――「わしはそんなみっともないまねだけは絶対にしないね。とくにホリーについては、そんな思いに駆られたことなんか一度もないと誓っていいよ。そういうことをぬきにして人を愛することだってできるもんなんだ。自分の好きな人を他人みたいにしておく――友だちではあるが、同時に他人みたいにね」
そのとき二人の男がバーにはいってきたので、出るのにいい潮時だと思った。ジョー・ベルは戸口まで私のあとについてくると、再び私の手を握って、「あんたは信じるかね?」ときいた。
「あなたが彼女の体《からだ》に触れたくなかったってことですか?」
「いや、アフリカで起ったことだよ」
その瞬間、私にはアフリカでの物語が思い出せないみたいで、ただ馬の背に乗って去ってゆく彼女の姿だけしか頭に浮んでこなかった。「どっちみち、あの女は去ってしまったんですよ」
「そうだとも」彼はそういってドアをあけてくれた。「去っちまったんだよ」
外へ出ると、雨はすでに止《や》んでいて、ただあたりは霧でかすんでいた。私は角をまがると、茶色の石造りの家のたっている通りを歩いていった。そこは街路樹のある通りで、夏ともなれば、舗道に涼しい木影《こかげ》の模様ができるのであるが、しかし今は木の葉が黄色に枯れ、大方はすでに落ちていた。それが雨のためにすべすべになり、足の下でつるつるすべった。茶色の家はその街区《ブロック》の中ほどにあり、青い時計塔が時刻を告げる教会がそのとなりにある。その家は私の時代から後、すっかり小ぎれいに手入れされたらしく、入口のくもりガラスの扉《とびら》がしゃれた黒いドアに代り、グレーの上品な鎧扉《よろいど》が窓にとりつけてある。私のおぼえている人間で今もってそこに住んでいるのは、マダム・サフィア・スパネラだけであるが、この女は毎日午後になると、セントラル・パークへローラー・スケートに出かけてゆく、しゃがれ声のコロラチューラ歌手である。私は入口の階段をのぼって郵便箱を見たので、夫人がまだそこに住んでいることがわかった。私にホリー・ゴライトリーという人間の存在を初めて知らせてくれたのも、実のところ、この郵便箱の一つだった。
私がその家に移ってから一週間ばかりたったある日のこと、二号室に属する郵便箱の名札さしに、奇妙な名刺がさしこんであった。しゃれた字体で印刷してある文字を読むと、「ミス・ホリデイ・ゴライトリー」とあり、その下の隅《すみ》っこに、「旅行中《トラヴェリング》」と記してあった。それは何かの曲みたいに、私の頭にうるさくこびりついた――ミス・ホリデイ・ゴライトリー、トラヴェリング。
ある晩、それも十二時をよほどまわった頃のことだが、私はユニオシさんが階段の下のほうに向って叫んでいる声に目をさまされた。彼は最上階に住んでいたので、その腹立たしそうな、きびしい声は家じゅうを通りぬけた。「ミス・ゴライトリー! 冗談じゃないよ!」
階段の下のほうから湧《わ》き上がるようにのぼってくる声は、若い女の、たわいない、おかしくてたまらぬようなひびきを持っていた。「あらまあ、かわいそうに、すまないわね。あたし、あのろくでもない鍵《かぎ》をなくしちゃったのよ」
「そういつもぼくのベルばっかり鳴らしちゃ困るね。どうかお願いだから、ぜひとも自分の鍵をつくってくださいよ」
「でも、いくらつくらせたって、あたしなくしちゃうのよ」
「ぼくは仕事をしてるんだから、眠らなきゃならんですよ」とユニオシさんは叫んだ。「ところがきみは、いつだってぼくのベルを鳴らして……」
「まあ、そんなに怒りなさんな、いい子だからね。もう二度と再びそんなことしませんよ。それに、怒らない約束をしてくれたら」――彼女は階段を昇ってくるらしく、その声はだんだん近づいてきた――「いつかのお話のあの写真ね、あれを撮らせてあげるわよ」
このとき私はすでにベッドから起き上がり、ドアを一インチばかりあけていた。ユニオシさんの沈黙が聞えてきた。というのも、耳にきこえる息づかいの変化がそれに伴っていたからだ。
「いつ?」
女は笑って、「いつかね」と答えたが、その語尾はぼやけていた。
「じゃ、いつでもいいんですね」彼はそういってドアをしめた。
私は廊下に出ると、相手に見られないでこちらからは見える程度に手すりから身を乗り出した。彼女はまだ階段を昇っているところで、今ちょうど踊り場にさしかかっていた。少年のように刈り込んだ髪の毛の、ボロ袋みたいな色、黄褐色《おうかっしょく》の毛筋、白子《しらこ》のブロンドに黄味をおびた房毛《ふさげ》が、廊下の電灯にてらしだされていた。もう夏に近く、暑い晩だったが、彼女は軽い涼しそうな黒のドレスに黒のサンダルといういでたちで、首には短い真珠の首飾をかけていた。いかにもシックな感じがするほどすっきり痩せていたが、ほとんど朝飯に出る穀物みたいに健康的な雰囲気《ふんいき》と、石鹸《せっけん》とレモンの清潔さと、頬《ほお》のあたりに一段と深まったピンクの色彩とを持っていた。口は大きく、鼻は上向きだった。黒ずんだ光線よけ眼鏡《めがね》が彼女の眼《め》を抹殺《まっさつ》していた。それは少女時代を通り越した顔だったが、まだ一人前の女になりきっていないみたいだった。十六歳から三十歳までの間なら、いくつにでもとれる年かっこうだった。あとでわかったのだが、彼女は十九の誕生に二カ月足りない年齢《とし》だった。
そのとき、彼女はひとりだけではなかった。一人の男が彼女のあとからついてきていた。彼女のお尻《しり》をつかまえようとしている男の、でっぷりした手が、どういうわけか不都合に見えたが、それは道徳的にではなく、審美的に見てであった。彼は小柄《こがら》なでっぷりした男で、髪には太陽灯をかけてポマードをつけ、扶壁《ふへき》形の細縞《ほそじま》の上着の折り返しには、凋《しぼ》みかかった赤いカーネーションを挿《さ》していた。彼女は自分の部屋の戸口に着くと、ハンドバッグの中の鍵をさがすのに気をとられ、男の厚ぼったい唇《くちびる》が自分のうなじにすりよせられていることになど気がつかなかった。だが、ついに鍵をさがし当てると、ドアをあけ、男のほうに向き直って、丁寧な口調でいった――「――ねえ、あなた――お送りくださってほんとうにありがとうございました」
「きみ、ちょっと待って!」ドアが自分のほうに向ってしまってきたので、彼はあわてていった。
「どうしたの、ハリー?」
「ハリーはもう一人の男だよ。ぼくはシッド――シッド・アーバックだ。きみはぼくが好きだろう?」
「アーバックさん、あたしあなたが好きよ。でも、今晩はこれでお別れね、おやすみ」
アーバックさんは、ドアがピシャリとしまると、信じられないように眼を見はった。
「ねえ、きみ、ぼくを中に入れてくれ。だってきみはこのぼくが好きなんだろう。ぼくはだれにだって好かれる男なんだ。第一、今日だって、今まで会ったこともないきみの五人の友だちのために、ぼくは勘定を払ってやったじゃないか? きみがぼくに好意を持つのは当然だよ。ねえ、きみ、ぼくが好きなんだろう?」
彼は初めドアを静かに叩《たた》いていたが、だんだんその音が高くなった。最後には、数歩あとにさがり、背中をまるめ、身を屈《かが》めて、今にもドアに体当りして押し倒さんばかりの剣幕になった。しかし彼はそうする代りに、階段をかけ降り、拳《こぶし》を壁に叩きつけた。彼が階段の下についた頃《ころ》、女の部屋のドアがあき、彼女が首をつき出した。
「あのね、アーバックさん……」
振向いた男の顔には、ほっとしたような微笑が浮んでいた。彼女はきっとからかっていたにすぎないのだろう。
「こんど女の子がお化粧室にはいるこまかいお金がほしいといったら、あたしの忠告をきいて、たった二十セントしか出さないようなことはおやめなさいね」そう叫んだ彼女は、からかうどころか、大まじめだった。
彼女はユニオシさんにした約束を守った。あるいは二度と彼のベルを鳴らさなかっただけかもしれない。その代り、次の晩からは、私の部屋のベルを鳴らしはじめた。ときによると、午前二時とか三時とか四時とかにそうすることもあった。彼女は、玄関のドアをあけるブザーを押すために私がどんな時刻にベッドから叩き起されようと、一向に良心のとがめを感じなかった。私には友人というものがほとんどなかったし、わけてもそんなおそい時刻にやってくる友だちなど一人もいなかったので、私のベルを鳴らすのは彼女にちがいない、といつも思った。しかし最初のときは、何か悪い知らせの電報でも来たのかという気持もあって、戸口に出てみた。すると、ミス・ゴライトリーは下のほうから声をかけて、「どうもすまないわね――鍵を忘れちゃったのよ」といった。
もちろんそれまで、私たちはおたがいに会ったこともなかった。もっとも実際には、階段の途中や外の通りで、しばしば顔を合せることはあったが、彼女のほうでは、私がよくわからないみたいだった。彼女はいつもきまって黒い眼鏡をかけていたし、つねにきちんと身づくろいをしていたので、粗末なものを身につけていても必然的にいい趣味を見せ、たいていブルーかグレーの色を使い、彼女を燦然《さんぜん》と輝かせるような派手な色彩は避けていた。おそらく彼女を見かける者は、彼女がカメラマンのモデルか、若い女優かぐらいに思ったであろうが、彼女が夜、もどってくる時刻から判断すると、あきらかにそのどちらの仕事をする時間もなさそうだった。
ときおり、私は近所でないところで、彼女とめぐりあうこともあった。あるとき、私を訪問してきた親戚《しんせき》の者が、私を「トウェンティー・ワン」というレストランに連れていってくれた。すると、そこの上席のテーブルに、ミス・ゴライトリーが四人の男――その中にアーバックさんはいなかったが、どれもこれも彼と似たり寄ったりだった――に囲まれてすわっていた。彼女はなにもすることがないらしく、みんなの前で髪をくしけずっていたが、いかにもあくびを噛《か》みころしたような表情をしていたので、そんなハイカラなところで食事をすることにたいして私が感じていた興奮は、すっかりさめてしまった。また夏のさかりのある晩、部屋の中が暑くてたまらないので、私は外の通りに出た。三番街を五十一丁目まで下っていったところに、一軒の骨董屋《こっとうや》があって、私はいつもそこのウインドーに飾ってある、ある品物を見て感心するのだった。それは宮殿みたいにつくられた鳥籠《とりかご》で、いくつもの尖塔《せんとう》のついた回教寺院の形をしており、竹造りの部屋は、おしゃべりのオウムに早く住んでもらいたがっているみたいだった。だが三百五十ドルの値段では手が届かなかった。帰途、P・J・クラークの酒場の前に、タクシーの運ちゃんが群がっているのを認めたが、おそらく「ワルツを踊るマティルダ」をバリトンで歌っている、酔眼もうろうたるオーストラリアの陽気な陸軍将校たちの一団にひきつけられたのであろう。かれらはそれを歌いながら、高架線《エル》の下の砂利の上で、一人の女とスピン・ダンスを順番におどっていた。その女というのは、疑いもなくミス・ゴライトリーだったが、彼女はかれらの腕に抱かれ、スカーフのようにフワフワと旋回していた。
しかし、ミス・ゴライトリーが私という人間の存在については、ただドア・ベルを押して
くれる便利な男という以外になにも意識していなかったのに反し、私のほうでは、その夏の間に、彼女については一個の権威といってもいいほどいろいろ知るようになっていた。私は彼女の部屋の外側に置いてある屑籠《くずかご》を観察して、次のようなことを発見した。彼女がいつも読んでいるものは小型《タブロイド》安新聞と、折りたたみ式の旅行案内と、星占いの図表であること、「ピカユーン」と呼ばれる珍しい巻タバコをのんでいること、カテージ・チーズとメルバ・トーストを食べて生きていること、まだら色の髪の毛はある程度まで染めてつくったものであること、など。彼女がVレターを束にするほど受取っていることも、屑籠ではっきりした。そういう手紙は、いつも栞《しおり》みたいに細く引きさいてあった。私は通りすがりに、ときたまその一切れをつまみあげて見たものだ。「忘れないで」とか、「きみに会えないで淋《さび》しい」とか、「雨」とか、「どうかお手紙を」とか、「いまいましい」とかいう文字がいちばんよく書かれていた。そのほか「孤独」とか「愛する」とか。
それから、彼女は猫《ねこ》を一匹飼い、ギターをひいていた。陽《ひ》のよく照る日には髪の毛を洗い、赤毛のトラ猫と一緒に非常階段の上にすわり、毛をかわかしながらギターを爪《つま》びきしていた。その音が聞えると、きまって私は窓べに行って、静かに佇《たたず》んでいた。彼女はギターがなかなか上手だったが、それに合せて歌うこともあった。それは男の子みたいな、しわがれた、かすれ声だった。彼女はコール・ポーターとかカート・ウェールなど映画のヒット・ソングはみんな知っていたが、とくに「オクラホーマ!」のなかの歌が好きだった。それはその年の夏、どこでも新しい歌として人気があった。しかしときたま彼女は、いったいそんな歌をどこで習ったのか、彼女は実際どこから来たのか、と考えさせるような歌をひくこともあった。松林とか大草原《プレーリ》とかを思わせるような歌詞を持ち、甘さを含んだしわがれ声で歌うさすらいの調べ。そのうちの一つはこんな調子だった――
眠りたくもなし、
死にたくもない、
ただ旅して行きたいだけ、
大空の牧場《まきば》通って。
この歌がいちばん彼女のお気に入りだったらしい。というのも、彼女は髪がかわいてしまったずっとあとまで、夕陽が沈み、たそがれの窓べに灯《ひ》がチラホラ見えても、なおそれを歌いつづけていたからだ。
だが、私たちの交友関係は、最初の涼しい秋風が小波《さざなみ》のように吹きぬける九月のある晩までは進展を見せなかった。私は映画に行き、家にもどると、バーボンの 寝 酒 ≪ナイトキャップ≫を一杯飲み、シメノンの最近作をかかえてベッドにはいった。すっかりいい気持になっていたので、自分の心臓の鼓動をきくことができるまでは、なんとなく落着かぬ気分をわれながら理解することができなかった。それはどこかに書いてあるのを読んだことのある気分で、これまで経験したことのないものだった。だれかに監視されているという気持なのだ。部屋のなかにいるだれかに――。それから、出しぬけに窓をコツコツ叩く音――亡霊のように灰色をした姿がちらっと見えた。私は思わず手にしたバーボン酒をこぼしてしまった。窓をあけ、ミス・ゴライトリーに、何の用事かと尋ねてみる気になるまでには、多少の時間がかかった。
「とてもいやな男が下まで追いかけてきたのよ」彼女は非常階段から私の部屋にはいってきながらいった。「酔ってないときはいい人なんだけど、いったんお酒がまわったらさいご、まったく動物みたいになっちゃうの! もしあたしが毛虫より嫌《きら》いなものがあるとすれば、それはひとに噛《か》みつく男の人よ」彼女はグレーのフランネルでできたワンピースの肩をはずし、男が噛むとどんなことになるか、その結果を私に見せてくれた。彼女はそのゆったりしたワンピース一枚しか身につけていなかった。「あんたをびっくりさせたのだったら、ごめんなさいね。でも、あのケダモノがどうにもがまんできなくなると、あたし窓から外にとび出したの。きっとあの人、あたしがお風呂場《ふろば》にでもいると思ってるのよ。もっとも、あんなやつがどう思おうとかまわないけどね。たぶん疲れて寝てしまうでしょうよ。お夕飯前にマティーニを八杯と、象の体《からだ》を洗濯《せんたく》できるくらいたくさんのブドウ酒を飲んだんですもん、それも当然でしょうとも。よくきいてよ、もしあんたがそうしたかったら、あたしを窓の外に追い出してもいいのよ。こんなふうにしてあんたのところに押し入るなんて、あたしもずいぶん図々《ずうずう》しいもんね。でも、非常階段がとても冷たいのよ。ところがあんたときたら、とてもぬくぬくと気持よさそうに見えたでしょ。まるで弟のフレッドみたいだったわ。あたしたち一つのベッドによく四人で寝たもんよ。でも、寒い晩、あたしに抱きつかせてくれたの、フレッドだけだったの。それはそうと、あんたのこと、フレッドと呼んでもいい?」このときには、もう彼女は完全に私の部屋の中にはいっていて、そのまま足をとめると私の顔をしげしげとながめていた。これまで彼女が黒い眼鏡をかけていないところを見かけたことがないが、それが処方箋《しょほうせん》でつくらせたレンズを使っている眼鏡であることが今や明らかになった。それをかけていないと、彼女の眼《め》は宝石屋さんの眼のように、それとわかる程度に斜視だったからだ。それは大粒の眼で、少し青く、少し緑色をおび、あちこちに茶色がまじっていた。つまり、髪の毛と同じく、雑色だったのである。それに髪と同じく、その眼は生き生きとした温かい光を放っていた。「きっとあたしのこと厚かましい女だとお思いでしょ? それとも頭が|どうかしてる《トレフー》とか、なんとかね?」
「いいや、そんなことちっとも」
彼女はがっかりしたみたいだった。「いいえ、そうよ。だれだってそう思うんだもん。でもあたし、気にしないわ。それが役に立つんだもんね」
彼女は赤いジュウタンを張った、ぐらぐらする椅子《いす》の上に脚《あし》を折ってすわり、やぶにらみの眼を一段としかめて部屋の中を見まわした。よくがまんできるわね――こんな恐怖の部屋で?」
「そりゃ、人間てやつはどんなものにも慣れてくるもんさ」といってみたが、そんなことをいった自分に腹が立った。実のところ、私は自分の部屋を得意に思っていたからだ。
「あたしはちがう、どんなものにも慣れるってことないの。そんな人間がいたら、死んだほうがましなくらいよ」彼女は批判的な眼つきで、再び部屋の中を見まわした。「あんたって、こんなとこで一日じゅう何してんのさ?」
私は書物や紙がうずたかく積み重なったテーブルのほうを指さして、「ものを書いてるんだよ」と答えた。
「あたし作家ってとても年とってる人だとばかり思ってたわ。もちろんサロイアンは年寄りじゃないわね。あるパーティーであの方にお会いしたけど、ほんとうに年なんかとっていない」彼女は考えながらつづけた。「もっとヒゲをよくそりさえすればね……ときに、
ヘミングウェイは老人なの?」
「さあ、まだ四十代だと思うね」
「そんなら悪くないわ。あたしは四十二まえの男の人になんか魅力を感じないのよ。あたしはバカな女の子を一人知ってるけど、この子はいつもあたしに向って、あんたは精神病医《サイカイアトリスト》のところにでも行ったほうがいいなんていうのよ。あたしが父親コンプレックスを持ってるからだって。まったくバカげてるわ。あたしは年をとった男が好きになるように自分を訓練しただけのことよ。それが今まであたしのしたいちばん気のきいたことなの。サマセット・モームはいくつ?」
「はっきりしないが、六十いくつかだろうな」
「悪くないわ。あたしこれまで作家と一緒に寝たことないの。いいえ、ちょっと待って。あんたベニー・シャックレットって知ってる?」私が頭を横に振ると、彼女は顔をしかめた。「それはおかしいわ。あのひとラジオの台本をとてもたくさん書いてるんだもん。でも妙な人ね。いったいあんたはほんとうの作家なの?」
「|ほんとう《ヽヽヽヽ》という言葉の意味いかんによるがね」
「そうね、じゃ、だれかあんたの書くもの買う人あるの?」
「まだないね」
「あたしが応援してあげるわ。それにあたしにはそれができるのよ。まあ、考えてもごらんなさい、あたしがいろんな人を知ってる人間をどんなにたくさん知ってるか。あたしはあんたが弟のフレッドに似てるから助けてあげるのよ。ただ、あんたのほうが小さいだけ。十四のときから、あの子に会っていないのよ。それはあたしが家をとび出したときだけど、そのときでも、もうあの子は六フィート二インチもあったわ。ほかの弟たちはもっとあんたに近く、おチビさんだったの。フレッドがそんなにのっぽになったのは、ピーナッツ・バターのおかげよ。あんなに腹いっぱい詰めこむのはどうかしてるとみんな思ったの。あの子ときたら、この世の中で、馬とピーナッツ・バター以外なんにも関心がなかったわ。でも、あたまがおかしかったわけじゃないの。ただやさしくって、ボーッとしてて、とてものろまだっただけよ。あたしが家を出たときには、三年間も八学級にいたわ。かわいそうなフレッド! いったい軍隊では、あの子にピーナッツ・バターを惜しまずにくれるかしら? それで思い出したけど、あたし今お腹《なか》がすいてんのよ」
私はリンゴのはいった果物|鉢《ばち》を指さし、同時に、どのようにしてそんなに若い時分に家をとび出したのか、またどんな理由でそうしたのか、とたずねた。彼女はポカンとした眼差《まなざ》しで私のほうを眺《なが》め、まるでかゆいように鼻のあたまをこすった。その動作がその後たびたびくりかえされたので、それは出すぎた質問であるということを意味するジェスチャーであることが私にもわかるようになった。自ら進んで身辺の情報を提供するのが好きな人たちによく見るように、まともな質問とか、黒白をハッキリさせるようなたずね方に近いことでもすると、彼女は警戒の姿勢をとるのだった。彼女はリンゴをひとかじりすると、こうきいた――「何かお書きになったもののお話ししてちょうだい。物語のところだけでいいから」
「そいつがひとつ困るところなんだ。ぼくのは物語ができるようなやつじゃないんでね」
「あんまりうす汚《ぎた》なくって?」
「まあ、そのうちどれか読ましてあげるさ」
「ウイスキーとリンゴはよく合うのよ。ねえ、何か飲物つくって。そのあとで、あんたがご自分で読んでくれりゃいいわ」
自分の書いたものを読んでくれるようにという誘いに、抵抗できる作家はきわめて少ない――とりわけ、まだ活字で発表したことのない作家においてをやである。私は二人分の飲物をつくり、向い側の椅子に腰をかけて、彼女のために自作を読みはじめた。私の声は|場おくれ《ヽヽヽヽ》と熱意の相半ばした気持で慄《ふる》えた。それは前の日に書き上げたばかりの新しい話で、あのあとでかならず起ってくるはずの、まだ書き足りないといった意識が、まだ起ってくる暇のないものだった。それは同じ家に住む二人の女教師の話であるが、その一人は、もう一人が婚約すると、その結婚を妨げるような悪い噂《うわさ》を、無名の手紙に託してあちこちとまき散らすことになる。私は読みながら、ホリーのほうをチラリチラリと盗み見たが、そのたびごとに、心臓がちぢまる思いだった。彼女は体をもじもじさせていた。また、灰皿《はいざら》の中の吸殻《すいがら》をつっついてほぐしたり、ヤスリでもほしいみたいな眼差しで指の爪《つめ》を眺めたりしていた。さらに悪いことには、ここぞと思う段になると、彼女の眼の上に隠しおおせぬ冷たい色が浮び、まるでどこかのウインドーで見た靴《くつ》を買ったものだろうかどうだろうか、とあらぬことを考えているみたいだった。
「それでおしまい?」彼女はわれに返ってそうたずねた。彼女は何かもっということはないかとさがしもとめた。「もちろんあたしだって|ダイク《ヽヽヽ》そのものは好きよ。ちっともこわくなんかないわ。だけど、ダイクについての話にはまったく閉口するわね。自分をあの人たちの立場に置いてみることなんかできないもん」私がどう見ても当惑しているらしいようすなので、彼女はこういった、「でもね、あんた、もしあれが二人の年寄った男オンナの話でないとしたら、いったいぜんたいなんの話なの?」
しかし私としては、さらに気まずい思いをして説明を加え、自分の作品を読んできかせたあやまちを棒引きにしようなどという気分になれなかった。このような自己暴露に追いこんだと同じ自負心が、こんどは彼女を、鈍感な、頭のない、こけおどしと決めつけることを私に強制したのだった。
「ついでだけど」と彼女はいった、「あんたひょっとして、誰《だれ》かいいレスビアン知らない? あたし同居人をさがしてんのよ。まあ、笑わないで。あたしすっかり破産しちゃって、女中なんかとても雇えないの。ほんとにダイクってすばらしい世帯持ちなのね。どんな仕事でも喜んでしてくれるから、こちとらは帚《ほうき》のことやガラス拭《ふ》きのことや洗濯物《せんたくもの》を出すことなんかに気を使う必要が絶対にないわ。あたしハリウッドでは、ウエスタンで何か弾いていた女の子と同居してたのよ。みんなはその子のことを『孤独な森の番人』と呼んでたけど、あたしにいわせれば、その人がうちにいると、男の人よりよっぽどましだったわ。もちろん人々は、あたし自身もちょっぴりダイクにちがいないと考えないわけにはいかなかったの。むろん、あたしはそうよ。だれだってそうだわ。ほんのちょっぴりはね。だから、どうだっていうの? それが男の人をがっかりさせたなんてことまだないわ。それどころか、かえってかれらを刺激するみたいよ。現にあの『孤独な森の番人』をごらんなさい。二度も結婚したじゃないの。ふつうダイクは一度しか結婚しないし、それもただ名義だけ。あとで、だれそれ夫人だなんて呼ばれると、とてもハクがついていいらしいのね。でも、そんなのウソよ!」彼女はテーブルの上の目覚し時計をじっと見ていた。「まさか四時半じゃないでしょうね!」
窓はだんだんうす青くなってきた。日の出のそよ風がカーテンをかすかにゆすった。
「今日は何曜日?」
「木曜日だよ」
「え、木曜?」彼女は立ち上がった。「あらまあ」そういうと、彼女は呻《うな》り声と一緒に、再び腰をおろした。「まったくぞっとするわ」
私は疲れていたので、なぜそうなのか、きいてみる元気もなかった。ベッドの上に横になって眼《め》を閉じた。それでもなお、彼女のいったことが気になっていた。
「どうして木曜日にはぞっとするの?」
「なんでもないの。ただ、いつ木曜日がやってくるのかおぼえていられないだけのことよ。いいこと、木曜日には、あたし八時四十五分の汽車をつかまえなくちゃならないの。先方は訪問時刻についてとても気むずかしいのよ。だから十時までに着いてると、その男たちがランチを食べるまでに一時間の余裕があるわけね。考えてごらんなさい、十一時にランチをとるのよ。それから午後の二時に行ってもいいし。あたしにはそのほうがいいんだけど、あの人は午前中に、あたしに来てほしいのよ。そうすれば、あと一日じゅう落着けるんだって。ともかく、あたし朝まで起きていなきゃ」そういって彼女は自分の頬《ほっ》ぺたを赤くなるまでつねった。「眠る時間なんかないわ。でも眠らなきゃ、あたし肺病やみみたいな顔色になり、借家の屋根みたいに肩がだらんとさがってくるの。それじゃかわいそうだわ。女の子がシング・シング刑務所へ青い顔で行くわけにはいかないでしょ」
「まあ、いかんだろうね」私は作品に関して彼女に感じていた憤《いきどお》りが、だんだんおさまってきた。再び私はこの女に心をひかれてきた。」
「訪問者はみんな、自分としてはいちばんきれいに見えるようにつとめるのよ。女たちが、いちばんきれいなもんはなんでも、それこそ古いもんでも、ほんとうになさけなくなったもんでも、何もかも身につけようとするその気持、とてもやさしい、あったかいもんだわ。あの人たちはきれいに見え、そのうえ、いい匂《にお》いをさせるために、かわいそうなくらい努力するのよ。だから、あたしあの人たちが好きなの。あたしは子供たちも好きだし、とりわけ黒ん坊の子供が好きだわ。つまり、おかみさんたちの連れてくる子供のことだけど。そこにそういう子供たちがいるのを見るのは哀《かな》しいはずなんだけど、実際はそうじゃないの。子供たちは髪にリボンを結び、靴をピカピカ光らせているから、今にもアイスクリームでも出てきそうな気がするわ。ときによると、訪問者の部屋の中はそういう感じ――まるでパーティーみたい。ともかく、映画にあるみたいじゃないわ。ホラ、あの鉄格子《てつごうし》ごしにこわい顔して囁《ささや》きをかわす、っていったようなもんじゃないの。第一、鉄格子なんてもんはなくって、囚人たちと訪問する人たちの間には、カウンターがあるだけ。子供たちは抱いてもらうために、その上に立つのよ。どの子かに接吻《せっぷん》してやるには、体をかがめさえすればいいのね。あたしのいちばん好きなのは、この人たちがおたがいに会って、とても幸福そうなことなの。話の種をたくさんためているので、退屈するなんてことないのね。みんな笑いつづけ、手を握りつづけている。でも、そのあとはちがうのよ」と彼女はいった。「その人たちをあとで汽車の中で見るんだけど、じっと静かにすわって、河が通りすぎてゆくのを眺《なが》めてるだけなのよ」彼女は一束の髪を口の端までひっぱりおろし、その先を考え深げに噛《か》むのだった。「あんたをねかせないでごめんなさいね。どうぞおやすみください」
「いや、どうかつづけて。ぼくおもしろく聞いてるんだよ」
「きっとそうだと思ったの。だからこそ、眠っていただきたいと思うのよ。だって、もしこの話をつづけるとなると、サリーのこともお話しすることになるから。もしそんなことになると、あの人たちに悪いような気がするし」彼女は黙って髪の毛を噛みつづけていた。「なるほど、あの人たちはそれをだれにも話しちゃいけないなんていわなかったわ――はっきり言葉の上ではね。でも、とてもおもしろい話よ。あんた名前を変えたりなんかして、物語の中に入れたらどう? よくきいて、フレッド」彼女はもう一つのリンゴのほうに手を差伸ばした。「あんた、胸に十字を切って、肱《ひじ》に接吻しなくちゃだめ――」
おそらく軽業師《かるわざし》ででもなければ、この姿勢で肱に接吻することなどできっこないだろう。そこで彼女は、私のとったそれに近い動作で満足しなければならなかった。
「でも」と彼女はリンゴを口いっぱい頬張《ほおば》りながらいった、「この人のこと、新聞でお読みになったかもしれないわね。彼の名はサリー・トマトといって、その英語ときたら、あたしのイディッシュ語よりひどいのよ。でも、なかなか親愛感の持てるお爺《じい》さんで、とても信心深いときてるの。金歯さえはめてなければ、修道士そっくりよ。なんでもこのあたしのために、毎晩お祈りをしてくれるんですって。もちろんその人は、あたしの恋人だったことなんかないわ。その点についていえば、彼と知りあったのは、彼が牢屋《ろうや》にはいってからなのよ。でも今では、あたしこの老人を崇拝しているわ。過去七カ月のあいだ、あたしは毎木曜日、彼に会いに出かけていったし、これから先も、それをつづけると思うの――たとえあの人があたしにお金を払ってくれなくたって。これ、柔らかくってだめね」そういって彼女はリンゴの残りを窓の外に投げすてた。「ついでだけど、あたしは最初、この人と顔見知りになっただけなのよ。あの角を曲ったとこにあるジョー・ベルのバーによく来ていたの。まるでホテル住まいの人みたいに、あそこに来て立ってるだけで、だれとも口をきいたことないわ。でもその頃《ころ》を思い出して、あの人があたしをじっと見すえてたにちがいないことを悟ると、妙な気がするのよ。だって彼が牢屋に連れてゆかれたすぐあと、(ジョー・ベルが新聞に出た彼の写真を見せてくれたわ。黒手団《ブラックハンド》とかマフィアとかいう秘密結社に関係があるんですって。五年の懲役をくらったのよ)一人の弁護士からこんな電報が来たんだもん――あなたの利益のためすぐ彼に連絡されたし≠チていうのよ」
「だれかがきみに百万ドル遺《のこ》してくれたとでも思ったんだろう?」
「ぜんぜん。きっとベルグドルフがお金の取立てでもするんだろう、と思ったわ。だけどイチかバチか当ってみようと思い、この弁護士に会いにいってみたの――もしその人がほんとうに弁護士だとしたらね。その点が少し怪しいのよ。だって連絡場所だけで、事務所みたいなところなんてないらしく、いつでもハンバーグ・ヘヴンで面会したがってるからね。それで、その人ふとってるのよ。だって、そこでハンバーグ・ステーキを十と前菜を二|鉢《はち》、それにレモン・メランゲ・パイをまるごと平らげちゃうんだもん。彼はあたしに向って、ある孤独な老人を慰め、同時に一週百ドル受取るって案があるがどう思うか、とたずねたのね。そこで、あたしは弁護士にこういってやったの――『ねえ、あんた、ミス・ゴライトリーを見そこなっちゃ困りますよ。あたしは片手間にそんなまねをする看護婦じゃありませんから』ってさ。それから一週百ドルの謝礼金というのにもおどろかなかったわ。それくらいのお金だったら、お化粧室に行けばできるからね。ちょっとシックな殿方だったら、連れの女の子がトイレットに行くといえば、五十ドル札ぐらい出してくれるわ。それに、あたしはいつもタクシー代も請求するのよ。それであとの五十ドルができるし。でも、そのとき、弁護士は、彼の依頼人がサリー・トマトだといったのよ。彼のいうところによると、サリー老人は長い間このあたしを|遠くから《ア・ラ・ディスタンス》崇拝してきたのだから、一週に一度、彼を訪問してやるのは一つの善行になるってわけね。それで、あたしとしては、どうしてもイヤといえなかったのよ。あんまりロマンティックなんだもん」
「さあ、どうかね。ちょっとおかしな点もあるな」
彼女はニヤリと笑った。「あたしがウソをついてるとでも思うの?」
「ひとつにはさ、囚人の面会をだれにでも許すというわけにはいかんしね」
「そりゃ、そうよ。いろいろと、とてもめんどうなのね。そこで、あたしはあの人の姪《めい》ということになってるのよ」
「そんなに話は簡単なのかね? たった一時間の会話にたいして、百ドルも払ってくれるってわけかい?」
「あの人じゃなくって、弁護士が払ってくれるのよ。あたしが連絡所に天気予報を置いてくると、すぐにオショーネシーさんが現金を郵送してくれるの」
「いろいろ七面倒なことに巻きこまれるかもしれんぜ」そういって、私は電灯のスイッチをひねった。夜が明け、鳩《はと》が非常階段のところでクークー鳴いていたので、もうあかりの必要はなくなっていた。
「どうして?」
「身許《みもと》をごまかすことについては、法律の本に何か罰則があったようだ。結局、きみはやっこさんの姪なんかじゃないし。それにその天気予報を置いてくるってのはなんだい?」
彼女は口もとを叩《たた》いてアクビを噛みころした。なんでもないのよ。ただオショーネシーさんの連絡所に置いてくる天気予報にすぎないの。それを見ると、彼はあたしが面会に出かけていったことがわかるのね。サリーがどんなことをいったらいいか、あたしに教えてくれるのよ。たとえばキューバにハリケーン起る≠ニか、パレルモは雪≠ニかいったふうにね。だから、あんたなんか心配しなくっていいのよ」そういって彼女はベッドのほうに寄ってきた。「あたしは長い間、自分のことは自分で始末つけてきたんだからね」朝の光が彼女の体を通して屈折した。掛蒲団《かけぶとん》を私のあごのところまで引上げるとき、彼女の体はまるで透明の子のようにほのかに光った。それから彼女は私のかたわらに横になった。「いけないかしら? あたしちょっとやすみたいだけよ。もうなんにもいわないことにしましょうね。おやすみ」
私は眠ったふりをして、寝息を大きく規則的にたてた。隣の教会堂の時計塔の鐘が三十分ごとに時刻を告げた。私に目をさまさせないようにと、彼女がそっと私の腕に手を置いたときは六時だった。「かわいそうなフレッド」と彼女は小さい声でいった。私に話しかけているみたいだったが、そうではなかった。「フレッド、いまどこにいるの? だって寒いんだもん。雪でも降りそうな冷たい風よ」彼女の頬は私の肩にもたれかかったが、それはじっとりと温かい重みだった。
「なぜ泣いてるの?」
彼女はパッとはね起きて、ベッドの上にすわった。「あら、いやあね」彼女はすでに窓から非常階段のほうに向いかけていた。「あたし寝たふりする人、大きらい」
その翌日の金曜日、帰宅してみると、私の部屋の入口に、チャールズ商店の超デラックス籠《かご》が置いてあって、それには名刺がついていた。ミス・ホリデイ・ゴライトリー、旅行中《トラヴェリング》≠サの裏面には妙にぎごちない幼稚な筆跡でこう走り書きしてあった――「ご機嫌《きげん》よう、フレッド。昨晩のことお赦《ゆる》しください。いろいろとご親切さまでした。|かしこ《ミル・タンドレス》。ホリー。二伸――二度と再びご迷惑はかけません」私はさっそく「どうぞご遠慮なく」という文句を記《しる》した紙片を、街頭で買ったスミレの花束につけて、彼女の部屋の戸口に置いた。私としてはその程度のお返ししかできなかったのだ。しかし、どうやら彼女は本気で私に迷惑をかけない約束をしたらしかった。というのは、その後、私は彼女の姿も見なければ、声も聞かなかったからだ。おそらく彼女は玄関の鍵《かぎ》をわざわざ手に入れたのであろう。ともかく、もはや彼女は私のベルを鳴らさなくなったのである。私にはそれがもの足りなかった。そして日がたつにつれ、少し無茶な話だが、私は彼女にたいして、まるでいちばん親しい友だちに見限られたみたいに、ある種の怨《うら》みさえ抱くようになった。何か落着かぬ孤独感といったものが、私の生活の中にはいりこんできたが、そのためもっと古い友だちを求める気にもならなかった。かれらはちょうど塩のきかない、砂糖のはいっていない食べ物みたいに思われてきた。次の水曜日頃になると、ホリーのこと、シング・シングのこと、サリー・トマトのこと、それから化粧室に行く女に五十ドル以上もきばる男たちのことなど、絶えず頭に浮んできて、仕事が手につかなくなった。その晩、私は彼女の郵便箱に一つのメッセージを投げこんだ――「あしたは木曜日です」そのかいがあって、翌朝、彼女からの返事を手に入れることができた。「思い出させてくれてありがとう。今晩六時ごろ、一杯さし上げますからお立ち寄りください」と子供じみた文字で書かれていた。
私は六時を十分まわるまで待ち、それからさらに五分ばかりわざとおくれて、彼女の部屋を訪れた。
一人の男が呼鈴に応《こた》えてあらわれた。彼は葉巻とナイズのオーデコロンの匂《にお》いをただよわせていた。靴《くつ》はかかとが高くなっていた。もしこういう靴をはいていなかったら、彼こそ「小人《こびと》」だと考えられたであろう。禿《は》げてソバカスだらけの頭は、小人のあたまみたいにでっかかった。その頭には、先のとがった、妖精《ようせい》そっくりの耳がつき、その北京人《ペキンじん》みたいな眼《め》は、心持ふくらんで無慈悲な光を放っていた。両方の耳からも、鼻からも、毛が生《は》えており、あごは午後のヒゲで黒ずんでいた。彼は毛皮の手袋をはめたような手で私に握手した。
「あの娘《こ》はいまシャワーを浴びていますよ」彼は隣の部屋で水の音がシャーシャーしているほうに葉巻を向けていった。私たちの立っている部屋は、(腰をかけるものが何もなかったので、私たちはつっ立っていたのだが)今しがた引越してきたばかりみたいだった。塗りたてのペンキの臭《にお》いがしそうだった。スーツケースと、解いてない木箱とが唯一《ゆいいつ》の家具であった。その二つの木枠《きわく》がテーブルの代りをつとめていたのである。一つの上にはマティーニの材料が、もう一つの上には、ランプ、自由電話《リバティー》、ホリーの赤毛の猫《ねこ》、黄色いバラを生けた花鉢がのっかっていた。一つの壁をすっかりふさいでいる本箱には、文学書が半分ばかりつまっていた。私はすぐにこの部屋が気に入ってしまった。いつでも夜逃げができそうなかまえが好きになったからだ。
男は咳《せき》ばらいをして、「お約束があったんですか?」ときいた。
私がはなはだ曖昧《あいまい》なうなずき方をしたのを彼は見てとった。れいの冷たい眼が私をにらみつけたうえ、手際《てぎわ》よく、説明口調でこう切りこんできた――「いろいろの人物がここにやってくるんですが、たいていは約束なしで勝手にくるんですな。あなたはあの娘さんと長い知りあいなんですか?」
「そう長いというわけでは――」
「前から知ってるんじゃないんですね?」
「ぼくはこの上の部屋に住んでいる者なんです」
その返事に、男はホッとしたらしかった。
「同じような部屋を借りているんですな?」
「いや、ずっと小さいんですが」
彼は床の上に灰を叩きおとした。「ここはゴミ捨て場ですよ――まったく信じられんような。しかしあの娘は、たとえ金を持っていたところで、どうやって生活してよいかわからんのですね」彼の言葉はテレタイプのようにグイグイひっかかる、金属的なリズムを持っていた。「それであなたはどう考えますかね? あの娘が、あれだかどうだか?」
「あれとは何ですか?」
「くわせ者ですよ」
「ぼくにはとてもそんなふうに考えられませんね」
「あなたは間違っていますよ。あの女はくわせ者ですぞ。しかし、あなたが正しいともいえますな。あれはくわせ者じゃないです。というのは、あの娘は|本物の《ヽヽヽ》くわせ者だからですよ。彼女は自分の信じているウソをみんな本気で信じている。いくらこちとらでウソだといってやってもだめなんですな。わたしは両方の頬《ほっ》ぺたに涙を流していいきかしたんです。また、どこへ行ったって一目置かれているあのベニー・ポーランも、やってみたんですよ。ベニーは彼女と結婚しようと考えていたんですが、彼女のほうは一向にその気にならないんですな。おそらくベニーは彼女を精神病医《サイカイアトリスト》のところにやるために、数千ドルも使ったと思いますね。ドイツ語しか話せないあの有名な医者までサジを投げたんですよ。こういう問題になると、いくら説いてきかせてもだめ」――彼は手に触《さわ》れないものを打砕くように拳《こぶし》を握った――「そのうち、あなたご自身でやってごらんなさい。あの娘の信じていることを何か話さしてみるんですな。いいですかね」彼はつづけた、「わたしはあの娘が好きなんですよ。だれだってあれには好意を持っていますが、持たない連中だってたくさんいまさあね。わたしは好きだ、心からあの娘を好いていますよ。それも、わたしって人間が敏感なせいでしょうな。あの娘のいいところを知るには、どうしても敏感でなくちゃだめですわい。詩人|肌《はだ》のところがなくっちゃね。だが、ひとつほんとのことをお話ししましょう。あの娘を説き伏せようといくら脳《のう》味噌《みそ》をしぼったところで、馬の耳に念仏というところでさ。一例をあげればですね、いったい今日のあの娘みたいな女は、どういったらいいかな? とどのつまりは、よく新聞に出ている、睡眠薬《セコナル》でも飲んでくたばる手合いと寸分ちがわんじゃないですかな。わたしはそういう例を、十本の指で数えきれぬくらい見てきましたよ。しかもその種の娘っ子は、あたまがおかしかったわけじゃない。あの娘ときたら、頭までいかれてるんですからな」
「しかし、まだ若いですから春秋に富んでいるというところですよ」
「もしそれが将来を意味するのでしたら、それもあなたのまちがいですね。もう二年ばかり前に西海岸で起った話ですが、輝かしい将来を約束するようなことになったかもしれないような事があったんですよ。何か彼女のためになるような事が起っていてみんなの興味を集めていたんですから、彼女の出方ひとつで、ほんとうに運が向いてくることもありえたわけですね。しかしですよ、そのようなものを嫌《きら》ってそっぽを向いたらさいご、二度と再びもどってくるってわけにはゆきませんやね。ルイーズ・レイナーにきいてごらんなさい。それにレイナーのほうはスターになったんですよ。ところが、ホリーはスターになれなかった。スチール部から抜け出ることができなかったんですね。しかしそれも『ワッセル博士物語』以前のことでした。それをやっていたら、ほんとうにスターになることができたんでしょうにね。わたしにはよくそのことがわかっていたんです。というのも、このわたしがあの娘のあと押しをしていたんですからな」彼は葉巻で自分のほうをさし示して、この「O・J・バーマンがですよ」
彼はそういえば、私にだれだかすぐわかってもらえるものと思っていたが、私のほうでも、わかったような顔をしてやってかまわないと思った――実のところ、私はO・J・バーマンなんて名前は聞いたこともなかったのだが。結局、この男はハリウッドの俳優代理人であることが判明した。
「あの娘を最初にみつけたのはこのわたしですよ。西部のサンタ・アニタでですな。あれは毎日競馬場でぶらぶらしていたんですが、わたしはそういうあの娘に目をつけましてね――職業的にですよ。彼女はある騎手に手なずけられ、そのちっぽけな男と一緒に住んでいることがわかったんです。わたしはその騎手をつかまえて、もしおまえさんがそいつをやめなけりゃ、ヨタ者に話をつけてもらうがどうか、っていってやったんですよ。いいですか、あの娘はその当時、まだ十五歳だったんですぜ。しかしスタイルはいいし、これなら大丈夫いけると思ったんですよ。こんな厚ぼったい眼鏡をかけていても、口をあけていてもですね。だが、彼女がいったいヒルビリーなのかオーキーなのかもわからなかったんです。わたしには未《いま》だにそいつがわかりませんが、たぶんあの娘がどこの出身かだれにもわからんでしょうよ。あれはあのようにひどいウソつきだし、おそらく自分でもよくわからんのじゃないですかな。しかし、あの訛《なま》りをなおすには、一年もかかりましたよ。さいごにわたしたちの試みた方法というのは、フランス語のレッスンを授けることでしたが、フランス語のまねができるようになってからは、まもなく正しい英語もまねられるようになったんですね。わたしたちはこの子をマーガレット・サラヴァンふうに仕立てましたが、彼女は自分独特の調子を出すことができるようになり、大物がこの小娘に興味を持つようになりました。とりわけ、人柄《ひとがら》の立派なベニー・ポーランが彼女と結婚したいと思ったんですよ。代理人としては、それ以上のことが望めましょうかね? それから突然、『ワッセル博士物語』の撮影となったんです。あの映画、ごらんになりましたか? キャストはセシル・B・デミル、ゲーリー・クーパーといったところ。わたしが死ぬような思いをしたあげく、やっとすべての配役がきまり、あの娘をワッセル博士の看護婦としてテストしてみることになったんです。ともかく看護婦の一人としてですね。そこへ突然、電話がかかってきて」彼は宙で受話器を手にとり、自分の耳にあてた。「もしもし、こちらはホリーです、と彼女はいうんですな。そこでわたしは、ずいぶん声が遠いみたいじゃないか、というと、あたしは今ニューヨークにいるの、ときた。そこでわたしは、冗談じゃない、今日は日曜で、あしたテストがあるというのに、いったい今頃《いまごろ》ニューヨークくんだりで何をしているんだい、といってやったんですよ。するとあれは、あたしニューヨークに今まで来たことないから来てみたのよ、っていうんだ。すかさずわたしが、すぐ飛行機に乗ってもどってくるように、というと、あたしそんなことしたくない、という。いったいあんたはどういう考えなのか、ときくと、あなたはきっとあの役をうまくやってほしいと思うんでしょうけど、あたしはあんなものやりたくないわ、と答えたんですよ。じゃ、いったいぜんたい何をやりたいのかね、ときくと、それがわかったら、あなたにイのいちばんに知らせてあげるわ、ってくるんだ。これでわたしがさっき|馬の耳に念仏《ヽヽヽヽヽヽ》っていったわけがおわかりでしょうな」
れいの赤猫が大皿《おおざら》の台から跳びおりると、彼の脚に体をこすりつけた。彼はその猫を靴《くつ》の先で持ちあげて、振上げた。ひどいことをする男だと思ったが、どうやら彼は猫の存在を意識していないらしく、ただ自分の気持のいらだたしさに気づいているだけだった。
「あの娘のもとめているのは、こういうことなのかな?」彼は両腕をひろげていった。「つまりですな、いつ何時《なんどき》押しかけてくるかわからんたくさんの連中を相手にするってことさ。やっこさんたちのチップで暮してゆくんです。こういう飲んだくれたちとあちこちうろつきまわってさ。してみると、あれはラスティー・トローラーと一緒になることだってできるかもしれませんよ。もしそうでもしたら、あの娘の胸に勲章でもさげてやるべきじゃないかな?」
彼はねめつけるような眼《め》つきで私の返事を待った。
「残念ながら、ぼくその人を知らないんですが――」
「ラスティー・トローラーを知らないんでしたら、あの娘のこともよく知ってるはずはないですな。相手が悪いですよ」大きな舌打ちをして彼はいった。「あんたならいい影響をあたえてくれると思っていたんですがね。ひとつ、手おくれにならんうちに、あの娘をまともな人間にしてもらいたいもんですよ」
「でも、あなたのお考えでは、すでに手おくれだというじゃありませんか」
彼はタバコの煙で輪をつくり、それが消えてから、やっとニッコリ笑った。それは彼の面相を変え、何かやさしいことをおこさせるような微笑だった。「やり方によっちゃ、もういちど、なんとかできそうに思うんですよ。さっきもいったように、わたしは真底からあの娘が好きなんでね」その言葉には本気でいってるようなひびきがこもっていた。
「ねえ、O・J・ったら、あんたいったいどんなスキャンダルをまきちらしてんの?」ホリーはしずくをたらしながら部屋にはいってきたが、体にはほんの申しわけにタオルを巻きつけ、ぬれた足が床の上に足跡をつけた。
「いつもと別に変りはないよ。きみがどうかしてるってことさ」
「そんなことフレッドはもう知っててよ」
「しかし、きみ自身は知らんぜ」
「ねえ、シガレットに火をつけて」彼女は入浴帽子を脱ぎ、頭を横に振りながらいった。「O・J・、あんたに頼んでんじゃないわよ。あんたってほんとに薄バカね。相変らず黒ん坊みたいに口が軽くって――」
彼女はすくうように猫を抱き上げると、自分の肩の上にのせた。猫は小鳥のようにそこにチョコンととまって体の中心をとっていたが、その前足は糸でも編むように彼女の髪の毛をもみくちゃにしていた。だがしかし、このように愛嬌《あいきょう》たっぷりの道化芝居をやりながらも、それは凶暴な海賊みたいな顔をした、すごみのある猫で、一方の眼はねちねちして盲目状態だし、もう一方は凶悪行為のためギラギラ光っていた。
「O・J・って薄バカなのよ」彼女は私が火をつけてやったシガレットを受取りながらいった。「でも、この人は電話番号だけはおそろしくたくさん知ってるの。ねえ、O・J・、デイヴィッド・O・セルズニックのところは何番だった?」
「いいかげんにしろったら」
「冗談じゃないのよ。あの人を呼び出してほしいの。フレッドがどんな天才か話してやりたいから。この人、とてもすばらしい話を鞄《かばん》に何杯となく書いてるのよ。ねえ、フレッド、顔を赤くすることなんかないわ。なにもあんたが天才だってこと、あんた自身がいったんじゃなくって、このあたしがいったんですもの、さあ、O・J・、フレッドをお金持にするため、あんたどんなことしてくれる?」
「どうだい、その話の結末はフレッドとわたしだけでつけるとしたら?」
「よくって」と彼女は私たちのそばを離れながらいった、「あたしはフレッドの代理人なのよ。それからもうひとつ。あたしが大声で呼んだら、さっさと来て、あたしのチャックをひっぱり上げてちょうだいね。それに、もしだれかがノックしたら、部屋に入れてやってよ」
たくさんの人間がやってきた。それから十五分以内に、男の客がその部屋を占領し、そのうち数人は軍服を着ていた。海軍の将校が二人、空軍の大佐が一人。しかし数の上では、すでに兵役年齢をこえたロマンス・グレーの紳士のほうが多かった。だれも一様に若さを欠いているということ以外に、来客は共通のテーマを持ち合せていなかった。おたがいにまったくのエトランジェだったのである。それどころか、どの顔も、部屋にはいってくるとき、ほかの連中がそこにいるのを見た驚愕《きょうがく》を押しかくそうと、やっきになっていた。どうやらこの女主人公は、あちこちとバーのハシゴをしている間に、招待状を散布したみたいだった。おそらくそれが事実だったのであろう。しかしながら、最初のしかめ顔がすんでしまうと、かれらは文句もいわず、おたがいに話をはじめた。とくにO・J・バーマンはハリウッドにおける私の将来について話しあうことを避けるため、新来の客と熱心に話しだした。私は本箱のかたわらに、独《ひと》りぼっちとり残された形だった。そこに並んでいる本のうち、半分は馬に関するもので、あとはベースボールの書物だった。私は『馬とその見分け方』という本に興味を感じているふうを装っていたおかげで、ホリーの友人たちの品定めをするに十分なだけ自分の時間を持つことができた。
やがて、そのうちの一人がとくべつに目立ってきた。彼はまだ幼児の脂肪を払い落していない中年の子供だったが、腕達者な仕立屋のおかげで、まるまるとふとってピシャリと平手打ちをくらわせてやりたいようなお尻《しり》もなんとか人目に触れないようになっていた。彼の全身には骨など一本もないみたいだった。かわいい小型の造作をちりばめた丸形の顔は、まだ使われたことのない処女性をおびていた。まるで生れてからすぐふくらまされたかのように、皮膚はふくらんだ風船みたいに皺《しわ》ひとつなく、その口もとはいつでも喧嘩《けんか》をふっかけ、かんしゃく玉を破裂させそうに見えても、駄々《だだ》っ子のそれみたいに、かわいらしくすぼんでいた。だが、彼をほかの者と区別するのはその外見ではなかった。幼児をそのまま大人にしたという例は、それほど珍しいものではないからだ。それはむしろ、この男の行動であった。彼はこのパーティーが自分のものであるみたいに振舞っていたのである。ちょうど精力絶倫の章魚《たこ》のように、彼はマティーニをシェーカーで振ったり、紹介役を一手に引受けたり、蓄音器をかけたりした。公平にいえば、彼の行動の大半は女主人公自身によって命じられたのである。「ラスティー、すまないけど――」「ラスティー、お願いだから――」といったぐあいに。もしこの男が彼女に惚《ほ》れていたのだとすれば、彼は明らかに嫉妬心《しっとしん》を抑制していたにちがいない。嫉妬深い男だったら、彼女が猫《ねこ》を片手に、部屋の中をあちこちとびまわりながら、もう一方の手で、あの男この男の、ネクタイの曲ったのを直してやったり、襟《えり》の折り返しについた綿ゴミを払ってやったりするさまを眺《なが》めては、とてもがまんができなかったことであろう。空軍の大佐はすっかりさびついた勲章をさげていた。
その男の名前はラザーファード・トローラーというのだった。一九〇八年に彼は両親を失ったが、父親はある無政府主義者のために殺され、母親はそのショックのために死んだ。こうした二重の不幸のおかげで、彼は五歳にしていっぺんに天涯《てんがい》の孤児、百万長者、有名人になってしまった。以来、彼はいつも日曜付録版にネタを提供してきたが、まだ小学生だった頃、名付親兼後見人を男色の嫌疑《けんぎ》で逮捕させる原因になったために、さらに人気が百倍した。それからあと、やれ結婚、やれ離婚といったことで、いつでもタブロイド判の新聞を賑《にぎ》わしてきた。彼の初めの細君は自分の身柄《みがら》と別居手当をディヴァイン神父の一人の競争相手のところに運んでいった。二度目の細君はどうしたのかわけがわからぬみたいだが、三度目の細君は、関係証拠書類を鞄にいっぱい詰めて、ニューヨーク州の法廷に訴え出た。最後の妻の場合は、彼のほうから離婚したのだが、その主《おも》なる申立ては、細君が彼のヨットの上で上官抵抗を企て、その結果、彼がドライ・トーテューガズ群島に置きざりにされたというのだ。それ以来、彼は独身をつづけてきたのだが、どうやら戦争が起る前、ユニティー・ミッドフォードに結婚の申込みをしたらしい。少なくとも、もしヒットラーがそうしなかったとしたら、彼が結婚の申込みをケーブルで送ったと想像されていた。『ウィンチェル』がいつも彼のことを「ナチ」と呼ぶ理由はこのためであり、また、彼がヨークヴィルの大会に出席した事実によるものといわれていた。
私は別にこうした事柄を人から話してもらったわけではない。ホリーがスクラップブック用に使っていた本棚《ほんだな》でみつけた『ベースボール案内』で読んだのである。そのページの間には、ゴシップ欄からはさみで切りとったものと一緒に、日曜版の特別記事がはさんであった。「ラスティー・トローラーとホリー・ゴライトリー、『ヴィーナスの一触』初演において二人通路にならぶ」とあった。ホリーはうしろからやってきて、「ボストンのゴライトリー家出身ミス・ホリデイ・ゴライトリー、二十四カラットのラスティー・トローラーのため毎日を休日《ホリデイ》とする」というくだりを読みかけている私をつかまえた。
「あたしの宣伝に感心してんの? それとも、あんたがただベースボールのファンだというだけなの?」彼女は黒眼鏡をかけ直しながら、私の肩ごしにちらっとのぞいてきいた。
「今週の天気予報はどうだったっけ?」と私はごまかした。
彼女は私に向ってウインクしたが、ユーモアを含んでいるどころか、警告を発する目配せだった。「あたし馬には夢中だけど、ベースボールなんか大嫌《だいきら》いよ」といったが、彼女のそういう声の裏には、彼女がサリー・トマトのことを口にしたのを忘れてほしいという意味が含まれていた。「あたしラジオでベースボールの放送聞くのは嫌いだけど、聞かないわけにはいかないのよ。だって、それもあたしの調査の一部なんだもん。男の人が話すことのできることって、ずいぶん少ないのね。もしベースボールが好きでないとすると、どうしても馬が好きということになるのよ。それに、もしどちらも好かないとなると、どっちみちあたしが困ってしまうわ。そういう男にかぎって、女の子も好きじゃないもんね。いったいあんた、O・J・とはどんなぐあいにいってるのさ?」
「ぼくらは相互の話しあいで別れましたよ」
「せっかくいい機会にめぐりあったというのにね、ウソじゃないわよ」
「そりゃ、きみのいうとおりだろう。しかしこのぼくには、あの人の使えそうなものなんかなんにも持ち合せがないんでね」
彼女はそれでもひっこまなかった。「あっちへ行って、あの人がおかしな顔などしちゃいないと考えさせるんだわね。フレッド、ほんとうにあのひと頼りになるわ」
「でも、きみだってあんまりありがたく思わなかったようだが」といっても、彼女には何のことかわからなかったらしいので、「ほら、あの『ワッセル博士物語』でさ」とつけ加えた。
「あの人まだくりごといってるの?」と彼女はいって、部屋の向うにいるバーマンにやさしい視線を投げた。「でも、あの人には一つの考えがあるのよ――つまり、あたしに、自分が悪かったと感じさせたいのね。といっても、映画会社の人があたしに役をくれるところだったのにとか、あたしならその役を上手にこなしただろうにとか、そんなんじゃないの。あたしがハリウッドにとどまっていたところで、結局、役などくれなかっただろうし、たとえくれたところで、あたしにはうまくこなせっこないわ。要は、あたしが悪いことをしたと感じれば、あたしがあの人の夢をそのままこわさないでおくからなのね――あたし自身はちっとも夢なんか見ていないのにさ。あの頃《ころ》、あたしはただしばらくの間、何か自分のためにしようと思って男を食いものにしてただけなのよ。あたしは映画のスターになんか絶対なれっこないってこと、知りすぎるほど知ってたわ。それはとてもむずかしいことだし、もしこちらに少しあたまでもあれば、とてもバカバカしい仕事なのよ。あたしにはそれにがまんできるだけの劣等感がない。映画スターになることと、大きな自我を持つこととは並行するみたいに思われてるけど、事実は、自我などすっかり捨ててしまわないことには、スターになどなれっこないのよ。といっても、あたしがお金持になり、有名になることを望まないというんじゃないの。むしろ、そうなることがあたしの大きな目的で、いつかはまわり道をしてでも、そこまで達するようにつとめるつもり。ただ、たとえそうなっても、あたしの自我だけはあくまで捨てたくないのよ。ある晴れた朝、目をさまし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね。あんたも一杯ほしいんでしょ?」彼女は私のからっぽの手を見ていった、「ラスティー!あたしのお友だちに一杯持ってきてくれない?」
彼女はまだ猫を抱いていた。「かわいそうにね」彼女は猫の頭をくすぐりながらいった、「このおバカちゃんはまだ名前ももらってないのよ。名前がないのって、ちょっと不便だわね。でもあたしには、この子に名前をつける権利なんかないの。だれかもらってくれる人が現われるまで待たなきゃなんないわ。あたしたちは、ある日、偶然、河のほとりでめぐりあって仲がよくなっただけ。おたがいにどっちのものでもないのね。この子も独立しているし、あたしもそうなの。いったいあたしって女は、あたしとほかのものがちゃんと一緒にいられるような場所をはっきりみつけるまでは、どんなものにしろ、所有したいなんて思わないのよ。ところが、まだ今のところでは、そういう場所がどこにあるかはっきりしないの。でもね、それがどのようなところか、あたしにはよくわかってるわ」そこで彼女はニッコリと口もとをほころばし、猫を床の上に落した。「それはティファニーの店みたいなところ。といっても、宝石なんかどうだっていいのよ。そりゃダイヤも悪くないわ。でも、四十にもならないのにダイヤなんか身につけるのってみっともないことよ。それに危険でもあるし。ダイヤなんて、ほんとうに年をとった人がつけないと、ぴったりしないもんよ。マリア・オウスペンスカヤみたいに。皺《しわ》だらけで、骨ばって、白髪《しらが》頭だと、ダイヤもひきたつのね。あたしそんなになるまで待てないわ。あたしがティファニーに夢中になっているのは、宝石のためじゃないの。よくきいて。あんただって、あの|いやな赤《ヽヽヽヽ》がはびこった頃のことおぼえてるでしょ?」
「あのブルースと同じやつだろう?」
「ちがうわ」と彼女はゆっくりいった。「ブルースはお腹《なか》があんまりいっぱいになったり、雨が降りすぎたりすると起るのよ。ただ哀《かな》しいだけのこと。ところが、あの|いやな赤《ヽヽヽヽ》ときたら、まったくぞっとするわ。何かに恐れ、汗水流して働くんだけど、いったい自分が何を恐れているかわかんないのね。何か悪いことが起るってこと以外には、なんにもわかんないのよ。あんたもそういう気持味わったことある?」
「よくあったね。ある人たちはそいつを不安《アングスト》と呼んでいるんだ」
「そうね、不安といってもいいわ。だけど、いったいそれをどうしろっていうの?」
「そうだね、酒でも飲めばまぎれるさ」
「あたしもそうしてみたわ。それからアスピリンもやってみたの。ラスティーは、マリファナを飲んだらいいというので、しばらくためしてみたところ、クスクス笑いがとまらないだけなのさ。結局、自分でみつけたいちばんいい方法というのは、タクシーに乗ってティファニーの店に出かけること。そうすると、すぐに気分が落着いてくるのよ――あたりのシーンとした静けさや、誇らしげなお店のようすでね。あの立派な洋服を着た親切な人たちを見たり、銀とワニ革の財布の気持のいい匂《にお》いをかいだりしてると、ひどく悪いことなんかとても起りそうもないのね。だから、あたしをティファニーの店にいるような気分にしてくれる本物の生活のできる場所がみつかりさえしたら、あたしは家具でも買い入れ、この猫に名前をつけてやるわ。あたし考えたんだけど、たぶん戦争でも終ったら、フレッドとあたしで――」彼女はそこで黒眼鏡を上に押し上げたが、その眼の、灰色や青と緑の筋が遠くのものを見すかすような鋭さをおびてきた。「あたしは前にメキシコに行ったことあるの。馬を飼うにはもってこいの国だわ。海の近くに一つの場所をみつけたの。フレッドは馬を飼うのが上手なのよ」
ラスティー・トローラーはマティーニを一杯持ってきた。彼は私のほうなどろくすっぽ見ずにそれを渡してくれた。「ああ、お腹がすいた」と彼はいったが、その声は彼のほかのすべてのものと同じく、テンポがおそく、まるで赤ん坊の泣声みたいなひびきを持ち、ホリーを責めているように聞えた。「もう七時半だよ。わたしは腹がへった。あんたは医者がなんといったかおぼえているだろうな?」
「ええ、おぼえてるわ、ラスティー。お医者がなんていったか――」
「じゃ、この辺で解散して、出かけるとしよう」
「ねえ、ラスティー、お行儀をよくしてちょうだいね」彼女はそうおだやかにいったが、その調子のなかには、家庭教師が子供をおどかすようなところがあった。彼は喜びと感謝の相半ばする妙な気持で顔を赤くした。
「あんたはわたしを愛していないんだね?」彼はまるで二人っきりのときみたいな口のきき方をした。
「お行儀が悪いと、だれもかわいがってくれませんよ」
あきらかに彼女は、彼がまさしく聞きたいと思っていたことを口にしたらしかった。その言葉は彼を興奮させると同時に、くつろがせるのに役立った。それでも彼はなお一つの儀式みたいに、「わたしを愛しているのかい?」といいつづけた。
彼女は彼の肩を軽く叩《たた》いた。「ラスティー、あんたは自分の仕事をしてちょうだい。あたしのほうの用意ができたら、どこでもあんたの行きたいところに行って、食事をしましょうよ」
「南京町《ナンキンまち》かい?」
「でも、甘ずっぱく煮た豚の肋骨《あばらぼね》はだめ。お医者さんの言ったことおぼえてるでしょ?」
いかにも満足げなヨタヨタ足で彼が自分の仕事にもどってゆくと、私は彼女にたいして、「わたしを愛しているのかい?」という彼の質問に、彼女がまだ答えていないことを思い出させないではいられなかった。
「強《し》いて愛そうと思えば、だれだって愛することができる、っていったでしょ。それに、あの人はとてもみじめな子供時代を送ったのね」
「そんなにみじめなもんだったら、なにもそんなものにへばりついてることなんかないだろう?」
「少しあたまを使ってちょうだい。ラスティーはスカートに包まれるよりオムツにくるまってるほうが安全だと感じてること、あんたにわからない? それで事実、オムツのほうを選んだんだけど、あの人はそのことを気にかけすぎるのね。現にあたしが、早く大人になってその問題に直面し、やさしい父親みたいなトラックの運ちゃんをつかまえてママゴトでもはじめたらいいでしょ、っていってやったら、バター・ナイフでこのあたしを突き刺そうとしたのよ。そうこうするうち、あたしが彼をつかまえちゃったのね。害のない人だから、ちっともかまわないの。あの人は、女って文字どおりにお人形だと思ってるのよ」
「ありがたいこった」
「あら、もしたいていの男がそうだとしたら、あたしはありがたいなんて思わないわ」
「いいや、ぼくはきみがトローラーさんと結婚しそうもないので、ありがたいといったんだよ」
彼女は片方の眉《まゆ》をつり上げた。ついでだけど、あたしはあの人がお金持であることを知らないようなふうなんかしないわ。メキシコの土地だって相当なもんよ。さあ」彼女は私に、前のほうに進むよう手振りで合図しながらいった、「O・J・をつかまえましょうよ」
私は少し待ってもらいたいと願いながら尻《しり》ごみした。それから思い出して、「きみはどうして旅行中《ヽヽヽ》なの?」
「あたしの名刺のこと?」彼女はびっくりしてきいた。「あれ、おかしいと思う?」
「おかしくはないよ。ただ、人の興味をそそるだけさ」
彼女は肩をすぼめた。「結局のところ、あたしって、あしたはどこに住むかわかんないでしょ。だから旅行中《ヽヽヽ》ってつけてもらったの。どっちみち、あんな名刺なんか注文したのはお金の浪費だったわ。ただ、|何か《ヽヽ》ちょっとしたものを買ってやらなきゃいけないように感じたのね。だって、その人ティファニーから来たんですもん」彼女は私がまだ手を触れていない私のマティーニのほうに手を伸ばし、二息でそれを飲みほしてしまい、私の手をとった。「尻ごみなんかしないで。O・J・と仲よくするんでしょ」
ところが、そのとき戸口に起ったことが、私たちの前進をはばんだ。一人の若い女が一陣の風のようにはいってきたのだ。それはスカーフとジャラジャラ音をたてる黄金のつくりだした突風みたいだった。「ホ――ホリー!」彼女は人差指を振りながら進み出てきていった、「あんたって、ずいぶん欲張りね――こんな魅力的なト――殿方たちを自分だけで独占してるなんて!」
彼女は優に六フィートを越え、そこに集まっているたいていの男たちより背が高かった。男たちは背筋をのばし、腹をひっこめた。彼女の左右に揺れる上背《うわぜい》に負けてなるものか、とみんなが競争しているみたいだった。
「あんたこんなところで何してんの?」とホリーはきいたが、その唇《くちびる》はピンと張った弦のように一文字にしまっていた。
「別に、なんにも。ウ――うえのユニオシさんのところで働いてたのよ。『バ――バザー』のクリスマス号に使う写真のモデルになっていたの。でも、あんた怒ってるみたいね」彼女は一座の人たちに微笑を散布した。「あんたたちト――殿方は、あんたたちのパ――パーティーにあたしが首をつっこんだからって、別に怒っちゃいないでしょうね?」
ラスティー・トローラーはクスクス笑った。彼は彼女のすばらしい筋肉をあがめるみたいに、その腕を握って、酒を飲むかとたずねた。
「ええ、飲んでもいいわ。バ――バーボンをつくってちょうだいよ」
「バーボンなんかないわ」とホリーがいった。すると空軍の大佐は、自分がひとっ走りしていって一本買ってこようと申出た。
「まあ、そんなオ――大騒ぎするのはやめましょうよ。あたしは炭酸水で結構よ。ね、ホリー」彼女はホリーを軽く小突きながらいった、「あたしのことでシ――心配なんかしないで。紹介も自分でするわ」彼女はO・J・バーマンのほうに身をかがめた。バーマンは大女の前に出た多くの小男みたいに、その眼《め》に礼讃《らいさん》の霞《かすみ》をかけていた。「あたしはアーカンソーのワ――ワイルドウッドから来たマッグ・ワ――ワイルドウッドです。山国からやってきたのよ」
ちょっとダンスのようにも思われたが、バーマンは競争者たちが中に割込むのを防ぐために、風変りな足さばきを見せて踊るかっこうをした。ところが、彼女のどもりがちな冗談口を、鳩《はと》に投げてやったポプコーンのようにむさぼり食べてしまう、カドリルを踊っている相手に、彼女を奪われてしまった。それは大幅の成功だった。彼女は醜さにうち勝ったのである。醜さというものは真の美しさよりも人を喜ばすことがよくあるものだが――たとえそれが逆説を含むからというだけででも。この場合は、用意周到なるよい趣味と、科学的な身づくろいにたいし、欠点を誇張することによってかちえたトリックだった。彼女は欠点を大胆に受入れることによって、それを装飾的なものにしてしまったのである。ハイヒールのかかとが彼女の上背を一段と高く見せ、しかもそれがあまりに険しくそびえ立っていたので、くるぶしがブルブルと慄《ふる》えていた。水泳パンツだけで海岸に出かけてゆけることを示す平べったいタイトのブラウス。ファッション・モデル的なその顔の持つ、ほっそりとした痩《や》せ型を一段と強調するオール・バックの髪。たしかに本物にはちがいないが、それでも多少は装っているドモリまでも有利に展開した。まったくそのドモリこそ最大の武器となったのである。というのは、そのおかげで、彼女の平凡な言葉も、なぜか独創的にひびき、またそれは第二に、憎々しいほどの上背と自信にもかかわらず、男の聞き手のうちに、相手をかばってやりたい気持を起させるに役立ったからである。一例をあげると、彼女が「トイ――トイレットは、どこだかだれか知ってる?」といったために、バーマンは息がつまって、だれかに背中を叩いてもらわなければならなかった。それから終りを全《まっと》うするため、彼は自ら彼女を案内するため腕を差出したのである。
「そんな必要ないのよ」とホリーはいった。「この人は前にもここに来たことあるから、どこだかよく知ってるはずだわ」彼女は灰皿《はいざら》を掃除しているところだったが、マッグ・ワイルドウッドが部屋から出てゆくと、もう一つの灰皿をきれいにした後、溜息《ためいき》まじりに「ほんとうにとても哀《かな》しいことね」といった。彼女はもの問いたげな表情をして自分のほうを眺《なが》めている人々の数をかぞえられるくらい間を置いたが、それで十分だった。「それに、とても神秘的だし。もっと外に出るんじゃないかと思ったけど。でも、どうしたわけか、健康的に見えるわ。それに、なかなか清潔にね。そこが実にふしぎなのよ。どう?」彼女は心配そうにきいたが、別にだれといって特別な相手をきめてたずねたわけでもなかった。「あのひと清潔に見えると思う?」
だれかが咳《せき》ばらいをし、何人かはツバキを飲みこんだ。マッグ・ワイルドウッドのグラスをこれまで持っていた一人の海軍士官は、それを下に置いた。
「だけどそれにしてもさ」ホリーはつづけた、「こういう南部の女のうちには、同じ悩みを持ってるものが多いそうだわ」彼女はお上品に身慄いをして、氷をとりに台所へ行った。
マッグ・ワイルドウッドには、自分がこの部屋にもどってきたとき、とつぜん、みんなの熱が冷《さ》めている理由がわからなかった。彼女が始めた会話は、まるで青木のようにブツブツくすぶるが、パッと燃え上がることをしなかった。さらに赦《ゆる》しがたいことには、人々が彼女の電話番号もきかずに別れを告げるのだった。空軍大佐のごときは、彼女が背を向けている間にこっそり逃げ出してしまった。それはあまりにもひどい仕打ちだった。大佐はさきに彼女を夕飯に招いたではないか。それに涙がマスカラを台無しにしてしまうように、ジンのために彼女の技巧がだめになり、彼女の魅力は見る間に消えうせてしまった。彼女はだれかれと八ツ当りした。女主人公をハリウッドくずれと呼んだ。五十男に喧嘩《けんか》をふっかけた。バーマンに、ヒットラーは正しかった、といった。ラスティー・トローラーの片腕をねじあげ、ワイワイいう彼を部屋の隅《すみ》っこに押しやって、「あんたの身の上にどんなことが起るかわかってるんでしょ? あんたなんか動物園に連れてって、ヤクにでも食わしてやるわ」といったが、その言葉のなかにはドモリの形跡すらみとめられなかった。彼はそうしてもらうことに大の乗り気を示したが、かんじんの彼女自身が床の上にズルズルとエンコして、そのまま鼻唄《はなうた》を歌いはじめたのでがっかりした。
「困ったひとね。立ってちょうだいよ」ホリーは手袋をひっぱってそういった。帰りそこねた連中は戸口にうろうろしていたが、厄介者《やっかいもの》がテコでも動こうとしないのを見ると、ホリーは私のほうを申しわけなさそうにちらっと見やった。「ねえフレッド、お願いだから助けてちょうだい。この人をタクシーに乗せて。ウィンスローに住んでるのよ」
「よして。あたしバービゾンに住んでるのよ。リージェント四―五七〇〇番。マッグ・ワイルドウッドを呼び出してごらん」
「フレッド、どうかお願いよ」
みんな出ていった。私はこのアマゾンみたいな大女をタクシーまで連れてゆくことを考えると、今まで感じていた怨《うら》みもなにもふっとんでしまった。しかしこの難問を解決してくれたのは彼女自身だった。彼女は自力で起き上がると、体をかしげながらも毅然《きぜん》として私をねめつけた。「ストークに行きましょうよ。幸運の風船をつかまえて――」そういったかと思うと、彼女は斧《おの》で切り倒された槲《かしわ》の木のようにドシンと床の上に大の字に倒れた。私はまず医者のところにかけつけようと考えた。しかし調べてみると、脈搏《みゃくはく》もたしかだし、呼吸も正常だった。彼女はただスヤスヤ眠っているだけだった。枕《まくら》をさがし出して彼女の頭の下にかってやると、ゆっくり安眠を楽しんでもらうため、私は部屋から出ていった。
翌日の午後、私は階段でホリーにぶつかった。「まあ、|あんた《ヽヽヽ》だったの」ドラッグ・ストアからの買物袋をかかえ、急ぎ足ですれちがいながら彼女はいった。「あの女はまだあすこにいるのよ、今にも肺炎になりそうになって。こんなところで二日酔いをするなんてね。おまけに|いやな赤《ヽヽヽ》までやってきてさ」この言葉から判断して、マッグ・ワイルドウッドがまだ彼女の部屋にいることがわかった。しかし彼女は、その意外な同情の実態を探究してみる機会を私にあたえてくれなかった。その週末にかけて、神秘の霧が一入《ひとしお》深くなった。まず第一に、私の部屋の戸を叩《たた》いたラテン系の人間がいた。彼はミス・ワイルドウッドをたずねていたので、それはまちがいだった。この男の誤りをただすのにしばらく時間がかかった。私たちの訛《なま》りがおたがいに通じなかったからである。しかし話がわかると、私は彼に惚《ほ》れこんだ。彼という人間は入念に組み立てられていたのだった。その茶色の髪と闘牛士そっくりの姿は一種の精密さと完璧《かんぺき》さをそなえ、何か自然が狂いなく造ったもの、たとえばリンゴとかオレンジとかみたいだった。これに加え、装飾としては、イギリス仕立の背広を着こなし、オーデコロンをすがすがしく匂《にお》わせていた。そしてさらにラテン民族らしくないことには、いかにも内気な物腰だった。その日の二度目の出来事にも彼は登場した。それは夕方で、私は夕飯を食べに出かけるところで彼に出会ったのである。彼はタクシーでやってきたのだが、運転手に助けられ、スーツケースをたくさん持ってよろめきながらアパートにはいってきた。そのため、私にはあれこれと噛《か》みしめてみる材料がたくさんでき、おかげで日曜日までには、あごがすっかりつかれてしまった。
それから映像がだんだん暗く、同時に一段とはっきりしてきた。
その日曜日は小春《こはる》日和《びより》で陽光《ひざし》が強く、私の部屋の窓はあいていたが、非常階段に人声が聞えてきた。ホリーとマッグが猫をはさんで毛布の上に寝そべっていた。彼女たちの髪の毛は洗ったばかりで、だらんと垂れさがっていた。ホリーはせっせと足指の爪《つめ》をみがき、マッグはスェーターを編んで、二人とも忙しそうだった。マッグがしゃべっていた。
「もしあんたがきくんだったらいってもいいけど、あんたってコ――幸運だと思うの。ラスティーにたいしていえることは少なくとも一つあるわ。あの人がアメリカ人だってことよ」
「あの人としては上出来だわね」
「だってね、今戦争でしょ」
「だから戦争が終れば、もうあたしなんかに会わないっていうんでしょ」
「そんなふうに感じてるわけじゃないの。あたしだって自分の国をホ――誇りにしてるもん。あたしのうちの男たちは偉い軍人だったのよ。ワイルドウッドの町のまん真中に、お爺《じい》ちゃんの銅像が立ってるわ」
「フレッドも兵隊よ。でも、彼が銅像になるかどうかは疑問ね。可能性はなきにしもあらずだけど。世間じゃ、バカな人間ほど勇敢だというでしょ。あの子は相当バカなのよ」
「フレッドって、あの上に住んでる男? あの人が兵隊だなんて思わなかったわ。でも、結構バカみたいには見えるわね」
「何かにあこがれてるのね。バカじゃないのよ。物事の内側にはいりこんで、外を眺めたい、そういうことをとても望んでるのね。ガラスに鼻を押しつける人って、よくバカに見えるもんだわ。いずれにしろ、あの人は別のフレッドなの。今いったフレッドはあたしの弟のほう」
「あんたは自分のミ――身内をバカだなんて呼ぶのね?」
「バカなら、身内だってバカでしょ」
「でも、そんなこと口に出していうの、悪趣味だわ。あんたや、あたしや、あたしたちみんなのために戦ってる人のことをね」
「いったいそれ何? 軍事公債でも売ろうっていうの?」
「ただ、あたしの立場を知ってもらいたいと思うだけよ。あたしだって冗談てものはわかるけど、根がト――とってもまじめなのね。だから自分がアメリカ人であることを誇りにしてるのよ。ホセのこと気のどくに思ってるわけはそこなの」彼女は編針を下に置いた。「あんたあの人をとってもハンサムだと思ってるんでしょ?」ホリーはフフンといって、猫のひげをラッカーのブラシできつく払った。「あたしもブラジル人とケ――結婚するって考えをなんとも思わないようになれさえしたらね! そして自分がブ――ブラジル人になるってことをさ。それはとても越えるのに骨の折れる谷間なのよ。ここから六千マイルもあるし、それに言葉がわかんないときてる――」
「ベルリッツへ行けばいいわ」
「なぜいったいポ――ポルトガル語なんか教えるんでしょうね? あんな言葉だれもしゃべらないみたいなのにさ。そうね、あたしにあたえられたただ一つのチャンスといえば、ホセに政治のことなんか忘れて、アメリカ人になるように説き伏せることだわ。ブラジルの大統領になりたいと望むなんて、まったくむだなことよ」彼女は溜息《ためいき》をつき、編物をとり上げた。「あたしきっと首ったけなのにちがいないわ。あんたもあたしたちが一緒にいるところ見たでしょ。あたしが首ったけだって思う?」
「さあね。あの人、食いついたりする?」
マッグは編物の一針を落した。「食いつく?」
「あんたにさ。ベッドの中で――」
「まあ、とんでもない。どうしてそんなことするわけがあるの?」それから、文句がましく、「でも、ゲラゲラ笑うのよ」
「そんならいいわ。あたしユーモアのわかる男が好きよ。たいていの男ときたら、ただもうフーフーいうだけだもん」
マッグは自分の提出した苦情をひっこめた。相手の言葉を、自分にたいするお世辞として受入れたのである。「そうね、あたしもそう思うわ」
「オーケー。あの人は食いつかない、と。ただ笑うだけね。ほかにどんなことする?」
マッグは落した針の目を数え、再び表編み、裏編み、裏編みの順で編みはじめた。
「いま、あたしのいったこと――」
「聞いたわよ。別にあんたに話したくないというのじゃないけど、いちいちおぼえているの、むずかしいでしょ。それにこういうこと、あんまり事こまかにいわないことにしてんの。あんたたちのようにね。みんな夢みたいにケロッと忘れちゃうのよ。きっとそれがふつうだと思うわ」
「そりゃ、ふつうだろうけど、あたしはむしろ自然でありたいのよ」ホリーは猫のひげを赤く染める仕事の手を休めた。「いいこと。もしあんたがあとまでおぼえていられないのだったら、あかりをつけっ放しにしておくのよ」
「ねえ、ホリー、お願いだから、あたしってものを理解してちょうだい。あたしはそれこそほんとうに|ありきたりの《ヽヽヽヽヽヽ》女なんだから」
「バカバカしい! あんたの好きな男を素直に眺《なが》めることがどうしていけないの? 男の人って美しい動物よ。みんなとはいわないけど、そういう人はたくさんいるわ。ホセみたいにね。で、もしあんたが彼をまともに見ようとさえしないのだったら、それこそあの人も冷たいご馳走《ちそう》にしかあずかれないってわけなのね」
「ソ――そんな大きな声を出さないで」
「あんたはあの人にぞっこん惚《ほ》れてるはずないわ。さあ、これであんたの質問にたいする返事ができたでしょ?」
「だめ。だって、あたしってそんなに冷たい女じゃないもん。心の温かい人間よ。根がそうなんだもん」
「まあ、そうしときましょう。温かい心の持主だとね。だけど、もしあたしがこれからベッドにはいる男だとしたら、あんたの代りに湯タンポを持ってゆくわ。そのほうが抱きがいがあるもんね」
「でも、ホセにはなんにも文句なんかないと思うの」と彼女は満足そうにいうと、編物針が陽光《ひざし》の中でキラリと閃《ひら》めいた。「そのうえ、あたしはあの人にほんとに惚れてるのよ。あたしが三カ月足らずのうちに、スコッチの靴下《くつした》を十足も編んだこと知ってる? それに、これ二つ目のスェーターよ」彼女はそのスェーターをひろげて見せると、それからかたわらに置いた。「でも、どうしてスェーターなんかつくるかわかる、ブラジルでスェーターなんて? ほんとうは日除《ひよ》けヘルメットでもつくるべきなのにさ」
ホリーはそっくり返ってあくびをした。「きっとときたま冬もあるんでしょ」
「雨が降るのよ、あたし知ってるわ。暑さと雨とジャ――ジャングル」
「暑さとジャングル。とてもよさそうね」
「あたしよりあんたに向くのよ」
「そうね」ホリーは実際には眠くない眠気をおぼえていった。「あんたよりあたしによ」
月曜日、朝の郵便をとりに下に降りると、ホリーの郵便箱の名刺が変っていた。こんどはミス・ゴライトリーとミス・ワイルドウッドが一緒に旅行中ということになっていた。このことは、もし私の郵便箱の中に一通の手紙がはいっていなかったら、もっと長く私の興味をとらえたことであろう。それは私がかねて一つの短編を送っておいた小さな大学評論雑誌から来たものである。かれらにその物語が気に入った。それをかれらの雑誌に掲載するつもりであるが、原稿料を支払えない点を了承してほしい、というのだった。「掲載する」というのは、「|活字に組む《ヽヽヽヽヽ》」ということを意味していた。私が興奮のために目まいがした、といってもそれは誇張ではないのだ。この事をだれかに話さないではいられなかった。いっぺんに二つの段々をとびこえて、私はホリーの部屋のドアをトントン叩《たた》いた。
私には自分の声がこのニュースをちゃんと伝えられるという自信がなかった。そこで、彼女が眠たそうに眼《め》を細めて戸口に姿を現わすやいなや、くだんの手紙を彼女のほうにつき出した。彼女はそれを私の手にもどすまで、六十ページも読むほどの時間をかけたように思われた。「もしお金を払ってくれないんだったら、あたしなら発表を許しませんね」と彼女はあくびをしながらいった。おそらく私が妙な顔をしたので、彼女にも、私が彼女の意見を求めにきたのではなく、お祝いの言葉を期待していたのだということがわかったらしかった。すると、彼女の口もとはあくびの形から微笑へと移行した。「ああ、そうなの。すばらしいわ。まあ、ともかく中におはいんなさいな。コーヒーでもわかしてお祝いしましょうよ。いいえ、それよりあたし着換えをして、ランチにでもお連れするほうがよさそうね」
彼女の寝室はその居間とよく釣《つ》り合っていて、野外でキャンプをしているような雰囲気《ふんいき》がいつもただよっていた。すぐうしろに法律の手が迫っていると感じている犯人の持物のように、柳籠《やなぎかご》にもスーツケースにも品物がすっかり詰めこんであって、いつでもとび出せるばかりになっていた。居間にはありきたりの家具など何ひとつなかったが、寝室にはベッドそのもの――しかもダブル・ベッド――があり、金色に塗った材に、房飾りのついたシュスを使った、けばけばしいものだった。
彼女は浴室のドアをあけっ放しにして、その中から私に話しかけた。水をジャージャー流したり、ブラシでゴシゴシこすったりする音にもみ消されて、彼女の言葉はよく意味が通じなかったが、その要旨は大体次のようなものだった――マッグ・ワイルドウッドがここに移ってきたことは私も知っていると思うが、それは便利ではないか。というのは、もし同室者を持つとして、その女がダイクでないとすれば、その次にいちばん望ましいことは、彼女が|完全な《ヽヽヽ》バカ者であることで、マッグはまさしくそういう種類の人間だからである。そうすれば、家賃のほうはすっかり彼女にまかし、洗濯物《せんたくもの》も取りにいってもらえるからというのである。
ホリーが洗濯物で困っていることは一見してわかった。部屋じゅう、まるで女子の体操室みたいに下着がちらかっていた。
「――それにいいこと、あの女はモデルとしてとても売れっ子なのよ。ずいぶんおかしな話じゃない? でも、それはいいことなの」靴下留めを直しながら、片足をひきひき浴室からとび出してきて彼女はいった。「だから当然、一日の大半はあたしの邪魔にならないわ。それに男性戦線の方面でも、あんまり問題はないの。だって婚約してるんだもん。おまけに相手はいい男だし。上背がちょっとちがうけどね。一フィートばかり彼女のほうが高いわ。いったいどこに――?」彼女は両膝《りょうひざ》をついてベッドの下をさがしていた。求めるもの――トカゲの皮でつくった靴――をさがしあてたあと、こんどはブラウスとベルトをさがしまわった。このようなガラクタの中でいかにして彼女が所期の目的を達するか、これはまさに一考に値する題目であった。にもかかわらず、彼女はクレオパトラの侍女どもにかしずかれているみたいに、悠々《ゆうゆう》せまらず、納まりかえっていた。「ねえ、いいこと」そう彼女はいって、私のあごの下で手を杯の形に型どった。「小説のこと、あたし喜んでるのよ。ほんとうにうれしいわ」
一九四三年十月のあの月曜日。鳥の軽々と舞うにも似た美しい日。皮切りに、私たちはジョー・ベルの店でマンハッタンを飲んだ。それからジョー・ベルは私の幸運を聞かされると、シャンペンをおごってくれた。そのあと、私たちは五番街のほうにぶらぶら歩いていったが、そこには何かの行列《パレード》があった。風になびく旗、軍楽隊や軍隊歩調も別に戦争には無関係で、むしろ私個人のお祝いのために仕組まれた| 華 吹 《ファンファーレ》みたいに思われた。
私たちは公園の中のキャフェテリアでランチを食べた。そのあと、動物園は避けて(ホリーはなんにしろ檻《おり》の中にはいっているものを見るにたえないといった)、クスクス笑ったり、走ったり、歌ったりしながら、今ではなくなっているが、当時はまだあった、古い木造のボートハウスのほうに向って小道を進んでいった。湖水《レーク》には枯葉がうかんでいた。岸べでは公園係りが枯葉をたいていたが、インディアンの|のろし《ヽヽヽ》のように立ちのぼる煙が、澄みきった秋の空気の中にゆれる唯一《ゆいいつ》のよごれだった。四月という月は私にとって大した意味を持ったためしがないが、秋はいつでもあの最初の季節である春のように思われるのだ。少なくとも、ボートハウスのポーチの手摺《てす》りにホリーと一緒によりかかっていたときの感じは、まさしくそのとおりだった。私は未来のことについて思い、過去のことについて語った。ホリーが私の子供時代のことを知りたがったからである。彼女も自分自身の過去について語った。しかしそれは捕捉《ほそく》しがたい、名もないし、場所もはっきりしないもので、どこか印象派の音楽みたいだった。もっとも聞くほうで受けた印象は、人の期待するものとは反対だった。というのも、彼女は泳ぎや、夏や、クリスマス・ツリーや、きれいな従姉妹《いとこ》や、パーティーについて、ほとんど肉感的とでもいえるような描写をしたからである。要するに、それは彼女の現実とはかけはなれたように幸福にみちたものであり、どう考えても家出をした子供の背景とは絶対に思えぬものであった。
また私は、彼女が十四からこの方、ずっと独《ひと》り立ちしてきたというのはほんとうじゃないだろう、とたずねた。彼女は鼻の頭をこすって、「それはほんとうよ。さっきのはウソだけど。でも、実際あんたは、|自分の《ヽヽヽ》子供時代をたいそうな悲劇につくりあげたのね。あたしにはとても張りあえないわ」
彼女は手摺りからピョンと跳《と》びおりた。「ともかくそれで思い出したんだけど、あたしフレッドにピーナッツ・バターを送ってやらなきゃなんないわ」それからあとの午後の時間を、私たちは東に西にとびまわり、しぶしぶ顔の食料品店員にせがんで、ピーナッツ・バターの缶詰《かんづめ》を吐き出してもらった。戦争のため物資が欠乏していたのだ。半ダースをかき集める前に日が暮れたが、さいごの一缶は三番街のある調製食料品店《デリカテッセン》で手に入れた。それはウインドーに宮殿のような鳥籠を出している古道具屋の近くだったので、私は彼女をそこに連れていって、鳥籠を見せた。その空想のおもしろさは彼女にもわかったが、「それにしても、やっぱり檻だわね」と彼女はつけ加えた。
ウルワースの前を通りすぎるとき、彼女は私の腕をつかまえた。「何か盗もうよ」彼女はそういって、私を店の中へひっぱりこんだ。中にはいると、私たちはすでに嫌疑《けんぎ》を受けている人間のごとく、あちこちからジロジロ監視されているような気がした。「早くいらっしゃい。びくびくしないで」彼女は紙カボチャとハロウィンの仮面《マスク》のならんでいるカウンターを偵察《ていさつ》していた。婦人の売子は、仮面をかぶってみている尼僧《にそう》たちの一団にすっかり気をとられていた。ホリーは一つの仮面をとり上げ、自分の顔にかぶせてみた。さらに別の一つをとって、私の顔にかぶせた。それから彼女は私の手をとり、そのまま店から出た。事はそれほどかんたんに運んだ。外に出ると、私たちは数|街区《ブロック》走った。それは私たちの行動を一段とドラマティックにするためだったと思うが、あとで発見したところでは、およそ上首尾に終った盗みというものは、人の心を軽やかにするからでもあろう。いったい彼女がたびたびこうした盗みをするのか、と私はたずねた。「むかしはよくしたもんだわ。つまり、しないわけにはいかなかったのよ――もし何かほしいものがあるとね。だけど今でも、ときたまそうすることあるの。まあ、手がさがらないようにね」
私たちは家に帰りつくまで、その仮面をずっとつけていた。
私はホリーと一緒にあちこちと歩きまわった日々の、数多くの思い出を持っている。なるほど折りにふれて私たちはおたがいによく会っていたが、概していえば、その記憶はまちがっている。というのは、その月の終り頃《ごろ》、私は仕事をみつけたからである。そのことについては、ほかにつけ加えることがあろうか? おそらく、あまりいわないほうがよさそうだ。ただ、その仕事が私にとって必要であったことと、それは九時から五時までつづいたということ、だけで十分である。そのため、ホリーと私のあいている時間がまるでくいちがってしまったのだ。
彼女がシング・シング刑務所を訪れる木曜日ででもなければ、また彼女がときたまやったように、公園に馬乗りにでも出かける日ででもなければ、私がもどってくる時刻にホリーが起きていることはめったになかった。ときおり、私は彼女のところに立ち寄って、彼女が夜、外出する身支度《みじたく》をしている間、目ざましのコーヒーをわけてもらうことがあった。彼女は夜になるといつも出かけていたが、かならずしもラスティー・トローラーと一緒とはかぎらなかった。しかし、たいていは彼と一緒であり、マッグ・ワイルドウッドとハンサムなブラジル人がその仲間に加わることもよくあった。そのブラジル人の名はホセ・イバラ = ハエガールといい、母親はドイツ人だった。四人組《カルテット》になると、かれらは非音楽的な調べを叩きだしたが、それも主としてイバラ = ハエガールの罪であった。彼はこの一座にはいると、ちょうどジャズ・バンドの中のヴァイオリンのように場ちがいに感じられた。彼は聡明《そうめい》で、男前がよく、自分の仕事にまじめなつながりを持っているように思われた。その仕事というのははっきりしないが、政府と関係があるらしく、なんとなく重要そうであり、そのため一週の何日かはワシントンまで出かけてゆく必要があった。してみると、どうして彼が毎晩のようにラ・リューとかエル・モロッコのようなところに出入りし、ワイルドウッドのドモリがちなおしゃべりに耳傾けたり、ラスティーの赤ん坊のお尻《しり》のような、うぶな顔に見とれたりしていられるのだろうか? おそらく、外国に出かけたたいていの人間のように、彼もまた、自分の国にいるときのように、人々の評価をしたり、自分の絵に適合する額縁を選んだりすることができないためであろう。それゆえに、すべてのアメリカ人をほぼ同等に判断しなければならなくなり、そうした基礎の上に立つと、自分の友人たちが地方色と国民性の、ともかくがまんのできる実例として映ってくるのであった。これで大半の説明はつくであろうが、あとはホリーの断固とした決意に負うというほかはない。
ある日の午後おそく、五番街のバスを待っている間、私は通りの向う側に一台のタクシーがとまって、一人の女をおろすのを認めた。彼女は四十二丁目の図書館の石段をかけあがっていった。彼女は私がその正体をつきとめる前に入口のドアを通りぬけてしまったが、それは赦《ゆる》されて然《しか》るべきことであった。ホリーと図書館とはちょっとかんたんに結びつく要素ではなかったからだ。だが私は好奇心の赴《おもむ》くままに、ライオンの像の間から中にはいったのであるが、その途中もし彼女に出会ったら、あとをつけてきたことを認めようか、それとも偶然そこで出会ったふうに見せかけようか、と心の中で考えていた。しかし結局、そのどちらのこともせず、一般閲覧室の中にはいって、彼女のところからテーブルをいくつかへだてたところに、身をかくすように陣取った。彼女はそこに、黒い眼鏡をかけ、集めてきた本を山のように積み上げてすわっていた。彼女は一つの本から次の本へと大急ぎで眼を走らせ、ときどき、あるページのところでしばらく足踏みをしていたが、そういうときはきまって眉《まゆ》をしかめ、あたかもそのページがさかさに印刷でもされているかのような顔つきをするのだった。彼女は一本の鉛筆を紙の上に宙ぶらりんに持っていた――どうやら彼女の興味をひくようなものがなかったらしいが、それでもときたま、何やらをがむしゃらに走り書きすることもあった。そういう彼女のようすを眺《なが》めているうち、私は学校時代に知っていたミルドレッド・グロッスマンという勉強家の女の子を思い出した。汗ばんだ髪の毛をし、脂《あぶら》じみた眼鏡をかけ、カエルを解剖したり、ピケラインへコーヒーを運んだりして、いつも指をよごしていたし、化学|噸《トン》数を測るためにしか星に向けることのない、味気ない眼を持ったミルドレッド。このミルドレッドとホリーの間には天と地のへだたりがあったが、私の頭の中では、この二人がシャムの双生児みたいに思われ、彼女らを縫い合せる意識の糸が次のように流れていった――ふつうの人間はたびたび再形成されるものであり、われわれの肉体ですら、数年ごとに完全に改造される。それが願わしいことであろうとなかろうと、われわれが変化するのは自然なことである。それはそれで結構なのだが、ここにけっして変化しない二人の人間がいる。その点が、ミルドレッド・グロッスマンとホリー・ゴライトリーの共通しているところだ。彼女たちが変化しないというのは、両者共にあまりにも早い頃、その性格をあたえられてしまったからである。それは急激に富を獲得するのに似て、釣合《つりあ》いを欠くような状態を生みだすものだ。ミルドレッドは頭でっかちのリアリストに、ホリーは均整のとれないロマンティシストに、自分を仕上げて得意になっていた。私はこの二人が未来のレストランにはいった光景を想像してみる。ミルドレッドは依然栄養価を求めてメニューを研究し、ホリーはそこに載っているすべてのものを食べたいと貪欲《どんよく》になる。こういう状態は絶対に変らぬであろう。彼女たちは左側にある断崖《だんがい》などにほとんど目もくれず、同じような断固とした足どりで人生行路を歩みつづけ、そこから出てゆくことであろう。
このような深刻な思索をしているうち、私は自分がどこにいるのかも忘れてしまった。気がついてみると、自分は図書館の薄暗がりの中にすわっていたのでハッとした。また、ホリーがやはりそこにいるのを見てびっくりした。すでに七時をまわっていたが、彼女は口紅をつけ直し、図書館にふさわしいと考えている姿から、スカーフやイアリングなどを身につけることによって、コロニーに適当したと彼女の考える姿へと早変りした。彼女が立ち去ると、私は彼女の本が残っている場所まで近づいてみた。私はそれがどんな書物だか知りたかったのである。『サンダーバード号で見た南部』、『ブラジルの傍道《わきみち》』、『ラテン・アメリカの政治精神』、そのほかであった。
クリスマス・イヴに彼女とマッグはパーティーを催した。ホリーは私に早めに来て、クリスマス・ツリーの飾りつけを手伝ってくれといった。あんな大きな木をいったいどのようにしてあの部屋に持ちこんだのか、私には今もってよくわからない。上のほうの枝は天井にぶつかり、下の枝は壁から壁へとひろがっていた。要するに、それはクリスマスの季節にロックフェラー・プラザで見かける大きなツリーと似ていないこともなかった。そのうえ、これに飾りつけをしようとすれば、ロックフェラーのような大金持を必要とするであろう。というのは、いくら人形や金銀の糸をとりつけてみたところで、まるで融《と》ける雪のようにそれは吸い取ってしまったからである。ホリーはウルワースまでかけつけていって、風船をいくつか盗んでこようといった。彼女はそのとおりに実行した。おかげでツリーはちょっと見られる姿になった。私たちは仕事の成功を祝って乾杯したが、そのあとホリーは私にいった。「寝室をのぞいてちょうだい。あんたへの贈物があるから」
私も彼女への贈物を用意してきた。それはポケットに入れてきた小さな包みであるが、彼女のベッドの上に、赤いリボンで結んで置いてあった四角な物に比べると、さらに一段と小さく感じられた。彼女からのプレゼントというのは、れいの美しい宮殿みたいな鳥籠《とりかご》だった。
「でもホリー! これはまたとてつもない!」
「おっしゃるとおりよ。でも、あんたがほしそうだったからね」
「まあ、金額を考えてみたまえ! 三百五十ドルもするんだぜ!」
彼女は肩をすぼめた。「お化粧室へ二、三度よけいに足を運べばいいのよ。でも約束してね、そん中には生きものを絶対に入れないって――」
私は彼女に接吻《せっぷん》しようとしたが、彼女は手を差出して、それをはばんだ。「まず、それをちょうだいね」彼女は私のポケットのふくらみを叩《たた》いていった。
「残念ながら、そう大したもんじゃないようで」そして実際、大したものではなかった。聖クリストファーのメダルだった。しかし、少なくともそれはティファニーの店で買ったものなのだ。ホリーは物のいかんを問わず、それを長く持ちつづけることのできるような性質《たち》の女ではなかった。だから、今頃はきっと、そのメダルを失《な》くしてしまったか、スーツケースか、どこかのホテルの引出しの中に置き忘れていることだろう。しかしその鳥籠は、今もって私の所有物になっている。私は無理をしてまでそれをニュー・オーリンズやナンタケットや全ヨーロッパやモロッコや西インド諸島まで持ち運んだ。だが、それを私にくれたのがホリーであるということは、めったに思い出さない。ある点において、私はそのことを忘れてしまいたいと望んでいたのだ。私たちはたいへんな仲たがいをしてしまい、そうした嵐《あらし》の眼《め》の中で回転しているものの中には、その鳥籠と、O・J・バーマンと、私の短編小説とがあった。なお、その短編は、大学の評論誌に発表されたとき、私は一部を彼女にやったのである。
二月のある日、ホリーはラスティー、マッグ、ホセ・イバラ = ハエガールと一緒に冬の旅に出かけた。私たちの友情の変化は彼女がこの旅からもどってまもなく起った。彼女の肌《はだ》はヨードチンキのように褐色《かっしょく》になり、その髪の毛は太陽にさらされて亡霊みたいな色に変ったが、とても楽しい時をすごしてきたのだった。「そうね、まず第一に、あたしたちはキー・ウエストに行ったのよ。ところが、ラスティーが何人かの水夫にたいして憤慨したか、それとも水夫のほうであの人に憤慨したか、ともかく大喧嘩《おおげんか》になって、その結果、あの人は一生涯《いっしょうがい》、背骨の添え木をしなけりゃならなくなったのよ。親愛なるマッグもさいごには入院することになったの。第一級の陽焼《ひや》けになっちゃって、まったく目も当てられないのよ。火ぶくれだらけで、シトロネラ油を全身に塗られちゃったわ。あたしたちとてもその悪臭にがまんできなかったの。そこでホセとあたしは二人を病院に残して、ハヴァナに出かけたのよ。彼は、まあ、リオを見るまで待ってくれ、というの。でもあたしとしたら、今でもハヴァナのためならいくらでもお金を出すわ。とても申し分のない案内人にぶつかったのよ。中国人の血が少しまじった黒ん坊だったわ。あたしそのどっちの人種もあまり好きじゃないけど、二つの血の結合がなかなか魅力的だったの。そこでその男に、テーブルの下でニージーをやらせてやったわ。だって正直にいって、あたしはその男を少しも下品だと感じなかったんだもん。だけど、それからある晩のこと、彼はあたしたちをエロ映画に連れていったのよ。それでどうだったと思う? まあ、この男がスクリーンに映っているじゃないの。もちろんあたしたちはキー・ウエストにもどったわ。マッグはその旅の間ずっとあたしがホセと一緒に寝たといってきかないの。ラスティーもそうよ。でも、彼はそんなこと気にかけないで、ただ寝室のことをくわしくききたがっただけ。ほんとをいうと、あたしがマッグと打明け話をするまで、とても雲行きが険悪だったのよ」
私たちは表の部屋にいた。そこでは、もうほとんど三月だというのに、れいの巨大なクリスマス・ツリーが大半の場所を占領していた。ただし、葉は茶色に枯れて匂《にお》いが失《う》せ、風船は年老いた牝牛《めうし》の乳房みたいにしぼんでしまった。一つの目ぼしい家具が、この部屋に加えられていた。それは軍隊用の簡易ベッドだった。ホリーは熱帯焼けを失うまいとして、その上にねそべり、太陽灯にあたっていた。
「で、彼女は納得したのかい?」
「あたしがホセと一緒に寝なかったってこと? そりゃ、そうよ。あたしはかんたんに、自分はダイクだっていってやっただけさ――でも、それがいかにも苦しい告白ででもあるように見せかけてね」
「彼女にはとてもそんなこと信用できなかったろうよ」
「信用しないどころかって。あの人がわざわざ自分で出かけてって、この簡易ベッドを買ってきたのはなぜだと思う? これをあたしに渡しっきりよ。ショック療法ではいつもあたしが上手《うわて》だわ。ねえ、あんた、お願いだから背中に少し脂《あぶら》を塗ってちょうだい」私がこのサーヴィスをやっている間に、彼女はこう語った。「O・J・バーマンはいまニューヨークに来てるのよ。いいこと、あたしは雑誌に載ったあんたの小説を彼に見せてやったの。あの人とても感心していたわ。たぶんあんたって人は援助してやるだけの値打ちがあるだろう、そう考えてるのよ。でも、あんたは方向をまちがえてるともいってたわ。黒ん坊や子供のことばっかり書いてさ。そんな連中のこと、だれが気にかけるっていうのよ」
「まあ、バーマン氏は気にかけまいと思うな」
「ところが、あたしもあの人と同意見だわ。二度読んでみたけど、餓鬼《がき》と黒ん坊のことだけ。それから木の葉のそよぎ。描写ばっかりね。なんの意味もありゃしないわ」
彼女の肌に脂を塗りつけていた私の手は、それ自身の気分を持っているみたいだった。おもむろに身を起して、彼女のお尻《しり》を叩こうと望んでいるみたいだった。「ひとつ例をあげてくれたまえ」私は落着きはらっていった、「つまり、きみの意見で、何かの意味を持つというような作品をね」
「『嵐が丘』みたいなもんね」と彼女はなんのためらいもなくいってのけた。
私の手の衝動はおさえがきかないくらい強くなった。「しかし、そいつは無茶だよ。きみは天才の作品なんか持ち出してくるんだから」
「たしかにそうだったわね。|ああ《ヽヽ》、|わがいとしくも野性的なケイシーよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。あたしはバケツにいっぱいたまるほど涙を流したわ。あれ、十遍も見たんですもの」
「なーんだ」私はありありとわかるように安堵《あんど》の溜息《ためいき》を伴って叫んだ。それから「そうか!」と、軽蔑《けいべつ》するように語尾をつり上げてつけ加えた、「映画のほうなんだね」
彼女の筋肉が固くひきしまり、まるで太陽に暖められた石に触《さわ》っているみたいだった。「だれでもだれかほかの人に優越感を感じないではいられないもんよ」と彼女はいった。「でも、その特権を使うまえに、ちょっとした証拠を見せるもんなのね」
「ぼくはなにもぼく自身をきみと比較なんかしやしないよ。バーマンとだってね。だからきみたちに優越感なんか持っていないさ。われわれはそれぞれ別のものを求めているんだからな」
「あんたお金をもうけたくないの?」
「まだそこまでは考えてないね」
「あんたの小説にはどうもそういうところがあるわ。どういう結末になるかわかんないで書いたみたい。じゃ、いうけど、やっぱりお金をもうけたほうがいいわ。あんたの想像力を満足させるにはお金がかかるから。あんたに鳥籠《とりかご》を買ってくれる人なんて、そうザラにはいないことよ」
「すいません」
「あたしをブン殴ったら、それこそすまないと思うわ。ついさっきは、そうしたかったんでしょ。ちゃんとあんたの手の中にそれを感じることできたもん。それに、今もまたそうしたくなったんでしょ」
私はそのとおりにした。しかもメチャクチャに殴りつけたのである。おかげで、脂のびんの栓《せん》をするとき、私の手と心臓がふるえていた。「いや、ぼくは絶対に後悔なんかしないぞ。ただ、きみがぼくのために金をむだに使ったことだけはすまんと思うよ。ラスティー・トローラーだって、あれだけ稼《かせ》ぐにはちょっと苦労するだろうしな」
彼女はベッドの上に起き上がったが、その顔と、はだけた胸が太陽灯の光を浴びて冷たく青白く見えた。「ここから戸口まで四秒かかるはずだけど、二秒だけ余裕をあげるから、さっさと消えておくれ」
くやしまぎれに私はまっすぐ階段をかけ上がり、れいの鳥籠をとってきて、それを彼女のドアのまん前に置いた。これでなにもかも帳消しだ、と思っていたところが、翌朝、散歩に出かけようとして、ふと見ると、その鳥籠が歩道のわきのゴミ捨ての上にひょいとのっかって、ゴミ屋の来るのを待っていた。てれくさい思いで、私はそれを拾いあげ、部屋へもちかえった。だがやはり、ホリー・ゴライトリーと絶交する決意に変りはなかった。彼女は露出癖のある下品な女で、「のらくらもの」で、「まったくのくわせ者」で、またと口なぞきいてはならぬ女だ、と心に決めていた。
で、しばらくは口もきかなかった。階段ですれちがっても、おたがいに眼を伏せていた。彼女がジョー・ベルの店へはいってくると、私のほうで出てゆくといったぐあいだった。たまたま、一階に住んでいるコロラチューラ歌手でローラー・スケートに熱をあげているマダム・サフィア・スパネラが、ミス・ゴライトリーを立ちのかせたいので連署してほしいといって、アパートのほかの居住者のところへ請願書の用紙をまわしてきた。マダム・スパネラの言い分によると、ミス・ゴライトリーは「素行のいかがわしい人物」で、「絶えず男たちをくわえこんで夜通し騒ぎまわり、ほかの居住者たちの安全と平穏をおびやかす」というのだった。私は署名こそ断わったが、内心、マダム・スパネラの言い分にも一理あると思った。請願は成立しなかった。春も五月に近くなると、夜分も暖かく、どの部屋も窓を開け放しているので、二号室から聞えてくるパーティーの騒ぎや、蓄音器の高い音や、マティーニに酔った笑い声などで耳がつんぼになりそうだった。
ホリーを訪れる者のなかに、いかがわしい人物を見かけることも、珍しいどころか毎度のことだったが、そうした晩春のある日のこと、私はアパートの玄関を出ようとして、ふと、一人の「|きわめて《ヽヽヽヽ》うさん臭い男が、ホリーの郵便受けを調べているのに気づいた。五十をすこし出たかと思える、コチコチした感じの、陽焼《ひや》けした顔と灰色のわびしげな眼をした男だった。古ぼけて汗のシミがついたグレーの帽子をかぶり、痩《や》せこけたひょろ長い体《からだ》に、ひどくだぶだぶの、薄青い安手の背広を着て、茶色の真新しい靴《くつ》をはいていた。男にはホリーのベルを押すつもりもないらしかった。ゆっくりと、まるで点字でも読んでいるように、男は浮彫りになった彼女の名前を指でこすりつづけていた。
その日の晩方、夕食に出かけようとして、またその男の姿を見かけた。男は通りの向いがわの樹《き》にもたれ、ホリーの部屋の窓を見上げていた。不吉な推測が私のあたまをかすめた。探偵《たんてい》だろうか? それとも、彼女がシング・シング刑務所で面会するサリー・トマトとつながりのある黒幕の人物だろうか? いずれにせよ、ただ事ではない――そう思うと、にわかにホリーにたいする怒りが和らいできた。もういいかげんに反目するのをやめて、彼女が、見張りされていることを知らせてやるのがほんとうではなかろうか? 東のほうに当るマディソン街と七十九丁目の角にあるハンバーグ・ヘヴン食堂へ出かけるつもりで街角へ歩いて行くと、私は男の眼がじっとこちらへ注がれているのを感じた。そのうちに、私はあとを振返らなくても、男が私のあとをつけてくるのがわかった。男の口笛が聞えてきたからだ。それもありふれた曲ではなくて、ホリーがときおりギターでひいている、あの哀調をおびた平原の歌を吹いているのだった――
「眠りたくもなし、死にたくもない、ただ旅して行きたいだけ、大空の牧場《まきば》通って」
口笛の音《ね》はパーク街を横ぎってマディソン街へ出るまでつづいていた。いちど、交通信号が変るのを待ちながら、横眼でそっとようすをうかがってみると、男はかがんで毛並のうすいポメラニア犬をなでていた。
「なかなかいい犬をお飼いですなあ」と、男はしゃがれて、田舎《いなか》くさい、間のびのした声で、飼主に愛想《あいそ》をいった。
ハンバーグ・ヘヴンはがらあきだった。にもかかわらず、男は長いカウンターの私のすぐわきに腰をおろした。男はタバコと汗の入りまじったにおいを発散した。彼は注文したコーヒーが出されても、それには手をつけないで、爪楊子《つまようじ》を噛《か》みながら、前の壁鏡に映った私の顔をしげしげと見つめていた。
「失礼ですが」と、私はやはり鏡を通じて男に話しかけた、「なにかぼくにご用でもおありですか?」
そうきかれて、まごつくどころか、男はかえってほっとしたようだった。
「その、実は、相談相手になってもらいたいと思いましてな」
男は懐中から紙入れを取出した。それはなめし革に似た自分の手のようにすりへって、ボロボロになりかけたしろものだった。彼が私に手渡した一枚の写真も、それに劣らずへなへなの、ひび割れた、色のぼけたしろものだった。むきだしの木造家屋の、床板のたるんだ縁側に、七人の人物が寄り集まって写っていた。この男のほかはみんな子供ばかりだった。彼は、目の上に小手をかざして陽の光をよけている、丸々とした金髪の一少女の腰に手をまわしていた。
「これがわしでさあ」と男が自分を指さしていった。「そしてこれがあれなんで……」と丸々とした少女を指先で軽くたたき、「それから、ここにいるのが」と、さらに黄色がかった薄茶色の髪をした少年を指さして、「あれの弟のフレッドなんでがすよ」
私はあらためて「あれ」と呼ばれた少女に目を注いだ。よく見ると、なるほど、ちょっと斜視の、ふくよかな頬《ほお》をした少女に、ホリーの幼い日の面影《おもかげ》をうかがうことができた。と同時に、私はこの男が誰《だれ》であるかに思い当った。
「じゃ、あなたはホリーの|お父さん《ヽヽヽヽ》なんですね」
男は眼をパチクリさせて、顔をしかめた。
「あれの名前はホリーじゃございません。わしと結婚する前はルラミー・バーンズといいやしたんで」と男はくわえた爪楊子を舌で動かしながらいった。「わしはあれの亭主《ていしゅ》でしてな。医者をやっているゴライトリーという男なんです。馬の医者、つまり獣医でがすよ。かたわら、農業もちょっとばかりやっとります。テキサスのチューリップの近くに住んどりますが。おまえさん、なんでそんなに笑うのかね?」
ほんとに笑ったわけではなくて、神経のせいだった。私ががぶりと水をひと口飲んでむせ返ると、男は私の背中を叩《たた》いてくれた。
「いや、まったく笑いごとではござんせんて、あんた。わしはもうくたびれてしまいましてね。なにしろこのところ五年ほどあれの行方《ゆくえ》をさがしとりましたんでな。それで、フレッドが手紙であれの居場所を知らせてよこしますと、さっそくわしはグレイハウンドの切符を買って、ここへやってきたんです。ルラミーは亭主や子供たちのいるわが家へ帰るのがほんとでがすよ」
「子供さんがあるんですか?」
「そうですとも、みんなあれの子供でがすよ」と男は叫ぶような大声でいった。写真にうつっている、ほかの四人の子供のことをいっているのだった。二人のはだしの女の子と、二人の作業ズボンをはいた男の子だった。」
おやおや、きっとこの男はあたまがおかしくなっているのだと、私は思った。
「でも、まさかホリーがそのお子さんたちの母親ってことはないでしょう。お子さんたちのほうが年も上らしいし、体も大きいじゃないですか」
「そりゃあ、あんた、なにも腹を痛めた子といったんじゃごわせんよ、子供らのほんとの母親は――なかなかよくできた女でしたが――かわいそうに一九三六年の七月四日、ちょうど独立記念日に亡《な》くなったんでがす。その年はえらい旱魃《かんばつ》でしてな。それから一九三八年の十二月にわしはルラミーと結婚したんですが、そのときあれは満十四になるところでしたよ。おそらくふつうの女なら、やっと十四になったばかりじゃ、まだはっきりした分別もつきかねると思いますが、あのルラミーばっかりは例外でがしてな。わしの家内になり、子供らの母親になるにつけても、なにもかもようく呑《の》みこんでおりましただね。だのに、あれは、ああしてうちから逃げ出したりして、すっかりわしらにせつない思いをさせてしまいましただ」彼は冷たくなったコーヒーをすすり、探るような真剣な眼《め》をちらと私の顔にあてた。「ところで、あんた、わしのいうことをウソだと思いますかね? 今いったことをまともに受取ってくれますだかね?」
私は彼の言葉をまともに信じた。いかにもすじが通っていて、疑う余地がなかったからだ。おまけに、それはO・J・バーマンがカリフォルニアではじめてホリーに出くわしたときのようすともぴったり一致していたからだ。
「いや、まったく、そのときの彼女は山家《やまが》の娘とも渡り者のオーキーともなんとも見当がつかなかったでがすよ」彼女がテキサスのチューリップから逃げ出してきた、子供っぽい人妻だったことにバーマンが気づかなかったとしても、それは無理からぬ次第だった。
「ああしてうちをとび出したりして、あれはまったくわしらを嘆かしましただよ」と馬の医者はくりかえした。「家出の原因になるようなことは何ひとつなかったんですによ。家事のほうはすっかり二人の娘がひきうけてくれましたで、あれはそれこそ左うちわで、鏡に向っておめかししたり、髪を洗ったりしていればよかったんでがすよ。うちには野菜畑もあるし、牝牛《めうし》もニワトリも豚も飼っとりますでな。あんた、あれはそれこそもうすっかりふとりましてな。それにまた、あれの弟のほうも、ぐんぐん伸びて大男になりましただ。あれたち二人がうちへやってきたときとはまるで見違えるほどにな。あれたちをはじめて家へつれてきたのは、わしの長女のネリーでがした。ある朝、わしのとこへやってきまして、『父《とっ》つぁん、いま二人の子供の泥棒《どろぼう》をつかまえて台所に押しこめてあるだよ。うちの庭でミルクと七面鳥の卵を盗むところとっつかまえただ』というんでさ。それがルラミーとフレッドだったんで。いやどうも、その哀れな姿といったら、ついぞ見かけたこともないほどでがした。肋骨《あばらぼね》は一本一本見えるほどとび出しているし、脚《あし》もか弱くて立っておれぬほどだし、歯の根もガクガクしてろくにものも食えぬようなあんばいでしたわい。話によると、母親が肺病で死に、父親もおなじ病気でそのあとを追うたので、大勢の子供たちはそれぞれ貧しい家庭に引取られることになったんだそうでさ。で、ルラミーとフレッドの二人もチューリップから百マイルほど東にあたる、ある貧しい、つまらぬ家に引取られましただ。そしてあれが弟と一緒にその家を逃げ出したのは、もっともの話だったんでがすよ。だけんど、あれがわしのうちを逃げ出すような原因など、ちっともなかったんでさ。うちでは勝手気ままに振舞ってましたんでな」彼はカウンターの上に両肱《りょうひじ》をつき、指先で閉じた両まぶたのうえをおさえて、溜息《ためいき》をついた。あれはよくふとって、ほんとにきれいな娘になりましただ。それにまた「活溌《かっぱつ》で、カケスのようによくしゃべりましてな。それになにを話しても、それがいちいち気がきいていて、ラジオより上手なくらいでがしたよ。だもんで、わしのほうも、ふと気がつくと、外に出て花をつんでるというあんばいでしてね。あれのためにカラスを飼いならして、あれの名前をいうように仕込んだり、あれにギターをひくすべを教えてやったりしましただ。あれの顔を見てるだけで、わしの眼がしらがジーンと熱くなってくるといったあんばいでがしたよ。あれに結婚を申込んだ晩なぞ、わしはまるで赤ん坊のように声をあげて泣きましただ。と、あれがいうには、『どうしてそんなに泣くの、おじさん? きっと二人が結婚することになったのに、まだあたいのほうが一度も結婚したことがないからでしょ』これにゃ、ついわしもふき出して、あれをぐっと抱きしめてやらずにはおれませんでしたわい」
「|まだ一度も結婚したことがないからでしょ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」そうくりかえして、彼はクスクスと笑い、しばらく黙って爪楊子《つまようじ》を噛《か》んでいた。それから挑《いど》むように、「どうでがす、これじゃ、あれが不幸だなんていえるわけがないでがしょう? うちではみんながあれを眼の中に入れても痛くないほどかわいがりましただ。パイをつまんだり、髪を梳《す》いたり、いろんな雑誌を取寄せたりするときのほかは、それこそ指一本あげないですんだんでがすよ。あれが取寄せた雑誌をカネに見積ると、百ドルにもなると思いますだ。だのに、あれがうちをとび出した原因は何だと思いますかね? 映画を見たり、夢占いをしてもらったりしたのがもとなんでさあ。それがもとであれはだんだん遠出をするようになりましてな。今日は一マイル出かけてもどってくる。あすは二マイル行って帰ってくるというように、毎日すこしずつ遠くへ足をのばすようになり、とうとうある日、行ったきり、もどってこなかったんでがすよ」彼はまた両手で眼をおおった。息づかいも荒くなってきた。「あれにやったカラスが、いきなりあばれだして飛んで逃げましてな。中庭や野菜畑や森の中でひと夏じゅう、鳴いてましただ。あのカラスめ、それこそひと夏じゅう『ルラミー、ルラミー』ってわめきたてましてな」
彼ははるか昔の、そのカラスの鳴き声に耳をかたむけているかのように、背中をまるくして黙りこんでいた。私は二人分の伝票をレジのところへもっていった。払っているまに、彼は私のあとを追ってきた。一緒に店を出て、パーク街まで歩いていった。涼しい、風のある晩で、派手な色をした日おおいがそよ風にはためいていた。二人とも無言だった。しばらくして私がいった。
「で、その弟さんのほうはどうしたんですか? 彼も家出したわけじゃないんでしょうね?」
「とんでもござんせん」といって、彼は咳払《せきばら》いをした。「フレッドは兵隊にとられるまでずっとうちにいましただ。馬を扱うのが上手ないい若者でしてな。いったいどういう了見でルラミーが自分や亭主《ていしゅ》や子供たちを見捨てたのか、フレッドには見当がつきませんでしたよ。でも、あの子は軍隊にはいってからはじめて、姉の便りをもらうようになりましただ。せんだってフレッドがあれの住所を手紙で知らせてくれましてな。それでさっそくわしはあれを迎えにやってきたわけでがすよ。あれもきっと自分のしたことを後悔して、うちへ帰りたがってるにちがいござんせん」といって、どうやら私に合槌《あいづち》を打ってほしそうな顔付をした。そこで、私は彼に、ホリー、つまりルラミーが、いくぶん昔とはちがっているようだとこたえた。
「よござんすか」と彼はアパートの踏段にさしかかったときいった、「わしがあんたに相談相手になってもらいたいといったのも、実は、あれを不意におどろかせたりしたくなかったからでがすよ。いままでぐずぐずしてたのもそれなんで。ひとつわしの味方になって、わしの来たことをあれに知らせていただきたいもんで」
私はゴライトリー氏を、その細君であるホリーに引合せる図を想像すると、愉快でたまらなかった。ホリーの部屋のあかりのついた窓を見上げて、彼女ととくべつな関係にあるいつもの連中がそこに居合せてくれればいいが、と思った。このテキサス人がマッグやラスティーやホセとおたがいにどういう顔で握手をかわすか思うと、なおさらおもしろい気がしたからだ。しかしゴライトリー獣医の、誇らしげで、生《き》まじめな眼つきと、汗に汚《よご》れた帽子に気づくと、私はそんなふざけた考えをいだいたことを気恥ずかしく思った。彼は私のあとについてアパートにはいってくると、そこで待っているつもりで、階段の下に立ちどまった。「このかっこうでいいかな?」と小声でいって、彼は袖口《そでぐち》を払ったり、ネクタイを締めなおしたりした。
部屋にはホリーだけしかいなかった。ノックすると、さっそく返事をした。ちょうど外出するところだった――白いサテンのダンス靴《ぐつ》と、むせるような香水の匂《にお》いが、これから花やかな場所へお出ましになることを物語っていた。
「まあ、おバカさんね」というなり、彼女はハンドバッグで私を打つまねをした。「あたし、とても急いでるから、今ちょっと仲直りしてるひまがないのよ。いずれあしたでも、ゆっくり話しましょうよ、いいでしょ?」
「ああ、いいとも、ルラミー。きみがあしたまでここにいてくれるんならね」
彼女は色眼鏡をはずして、ちょっと斜視の眼をじっと私に注いだ。プリズムが砕けて、青やグレーや緑の光が細かくきらめいているような感じのする眼だった。
「|あの子《ヽヽヽ》があんたにその名前教えたのね」と彼女は小さく声をふるわせていった。「ね、教えて、いったい|どこに《ヽヽヽ》いるの、あの子?」彼女は私のわきをすりぬけて玄関のほうへとび出していった。「フレッド! あんたどこにいるのよ?」と彼女はおどり場から階段の下へ向けて叫んだ。
獣医の足音が階段をのぼってくるのがきこえた。彼の頭が手すりの上に現われると、ホリーはあとずさりした。それはぎくっとしたというより、失望の殻《から》の中に閉じこもろうとするかのようであった。やがて獣医は、見すぼらしい、まのわるそうなかっこうで彼女の前に立った。「ホホウ、ルラミー」といったきり、彼はもじもじしていた。ホリーが、誰《だれ》だろうといったようなうつろな眼で、ポカンと彼をながめ入っていたからだ。
「なんてまあ、おまえ」と彼はいった、「この家じゃ、ろくなもんを食わせねえのかい?そんなに痩《や》せちまってさ。はじめておまえに逢《あ》ったときみてえじゃねえかよ。眼のまわりにもすっかりクマができたりしてさ」
ホリーはそっと彼の顔へ手を当てて、指でそのあごや不精ひげをたしかめるようなしぐさをした。「まあ、あんただったのね」と彼女はしずかな声でいって、男の頬《ほお》に接吻《せっぷん》した。
「まあ、あんただったのね」とくりかえしたとたんに、男はさっと彼女を抱き上げ、肋骨《あばらぼね》も折れるほどきつく抱きしめた。「やれやれ、ルラミー、よかったぞなあ!」
どちらも気づかぬまに、私は二人のそばをすりぬけて、自分の部屋へ上がっていった。また、二人はマダム・サフィア・スパネラがやってきたのにも気づかぬふうだった。マダムがドアをあけてこうわめいた――「お黙りっ! この恥知らずめ。そんなパンパンのまねなんか、どっかよそでやっておくれ」
「あのひとと|離婚した《ヽヽヽヽ》かって? もちろん、離婚なんかしやしなかったわよ。まだ、なんていったって十四になったばかりだったもん。そんなの法律《ヽヽ》が認めるわけがないじゃないの」ホリーはからになったマティーニのグラスでコトコトと音をたてた。「ねえ、ベルさん、もう二つお願い」
私たちはベルの店に腰をすえていたのだ。ジョー・ベルはしぶしぶ注文に応じた。「いまから千鳥足になるのはちと早すぎるぜ」とベルがタムズの先を噛みながらぼやいた。カウンターのうしろの黒檀《こくたん》の時計を見ると、まだ正午《ひる》まえなのに、私たちはもうそれぞれ三杯もあけていたからだ。
「だって今日は日曜よ、ベルさん。日曜ぐらいゆっくりしたっていいでしょ。それにあたしゆうべからまだ寝てないの」と彼女はベルにいってから、こんどは私にそっと、「ほんとに眠らなかったのよ」とささやいた。そしてパッと顔を赤らめ、うしろめたそうに、そっと視線をそらした。ついぞないことに、彼女は弁解の必要を感じているようだった。
「そうなのよ、寝るわけにいかなかったの。あのひとは心からあたしを想《おも》ってくれてるし、あたしもあのひとが好きなの。|あんた《ヽヽヽ》には年をとって野暮ったく見えたかもしれないけど、気立てはとてもやさしくって、小鳥だの子供だのといった、か弱いものをしんからかわいがるのよ。かわいがってくれた人には、だれにだって深い恩義があるもんよ。あたしお祈りをするときには、いつもあのひとのことも一緒に祈るわ。まあ、よしてちょうだい、ニヤニヤ笑ったりするの!」と彼女はタバコをもみ消しながらきめつけた。「あたしだってお祈りぐらいしてよ」
「ニヤニヤなんぞしてるもんか。ただほほえましく思ってるだけさ。きみにはまったくいいところがあるね」
「自分でもそう思うの」といって、彼女はまるで殴られたあとみたいに、朝の光に蒼《あお》ざめて見えるその顔に、晴やかな笑いをうかべ、乱れた髪をなでつけた。髪の色がシャンプーの広告写真みたいにチラチラとかすかに光った。「ひどいかっこうでしょ。でもあたりまえだわ。ゆうべあれからずっと二人でバスの停車場の中をぶらついてたんだもん。いよいよ発車というそのまぎわまで、あのひと、あたしが一緒に帰るもんとばかり思ってたのよ。『でも、あたしもう十四じゃないし、むかしのルラミーでもないのよ』と、いくどもあのひとにいってやったの。だけど――一緒にバスを待ちながら、あたしつくづくそう思ったんだけど――いちばん困るのは、あたしがいまだに七面鳥の卵を盗んだり、イバラの茂みをかいくぐったりしていた昔とちっとも変ってないってことなのよ。ただ、今ではそれを|いやな赤《ヽヽヽヽ》のせいだとごまかしてるだけなのさ
ジョー・ベルがあきれはてたという顔で、あらたにマティーニのグラスを私たちの前に置いた。
「ねえ、ベルさん、あんたは野生の動物なんかかわいがっちゃだめよ」とホリーが忠告した。「だってそれがあのお医者さんの了見ちがいだったんだもん。あのひとときたら、しょっちゅう、なにかかにか野生の動物をうちへつれかえってきてたのよ。つばさを傷《いた》めたタカだとか、いちどは、脚《あし》を折った大きな山猫《やまねこ》をつれてきたこともあったわ。でも、野生の動物はいくらかわいがってやってもだめね。かわいがってやればやるほど、だんだん丈夫になり、そのあげく、どうにかひとり歩きができるようになると、森の中へ逃げこむとか、樹《き》の枝へ飛んでいってしまうとかするのよ。そしてだんだん高い樹に移り、しまいには空へ消えてってしまうのね。それでおしまいさ。ね、ベルさん、あんたも野生の動物をかわいがったりすると、けっきょく空を見上げてため息をつくようなことになるわ」
「だいぶまわってるようだな」とジョー・ベルが私にささやいた。
「そう、かなりね」とホリーがありていにいった。「でも、あのひとあたしのいうことをわかってくれたわ、そっと遠まわしにいったんだけどね。まあ、わかってくれて大助かりよ。握手した手をおたがいにしばらく放さないでいてから、あのひとあたしに、さよならといってくれたもん」彼女はチラと時計を見上げた。「もう今ごろは、きっとブルー・マウンテンズあたりに行っている頃《ころ》よ」
「いったいホリーは何を話してるのかね?」とジョー・ベルが私にきいた。
ホリーはマティーニのグラスをさし上げ、「さあ、二人であのひとのために乾杯しようね」といって、そのグラスを私のと触れ合せた。「さようなら、ほんとにあたしのいいひと!――でも、あんながらんとした、とりとめもない、雷が鳴ってなにもかもけし飛んでしまうような田舎《いなか》に住むくらいなら、空でもながめてるほうがまだましだわ」
ブルックリンの近くで地下鉄に乗っていると、「トローラー氏の五番目の結婚」という見出しが、ふと私の眼《め》についた。それをトップに掲げた新聞はとなりの乗客の読んでいたものだった。私の眼にふれたのは、「かつてナチのシンパとしてしばしば告発された百万長者の伊達男《だておとこ》、ラザファード・トローラー(『通称ラスティー』)は昨日グレニッチへ駆落ちした。相手は美しい――」というところまでだった。それ以上読みたくもなかった。ホリーはとうとうあの男と結婚したのか。なんともなさけないことだ、ああ、おれはいっそこの列車の車輪の下敷きにでもなったほうがましだ、と私は思った。だが、私がそんな気持になったのは、まだその見出しを見ないずっとまえからだったのだ。それにはいくつかの理由があった。数週間まえの日曜日にジョー・ベルのバーで酒を汲《く》み交わして以来、ずっとホリーの姿を見かけなかった。そのあいだに、私にもいろいろ憂鬱《ゆううつ》なことがもち上がっていた。まず第一に、勤めをお払い箱になったことだ。私がちょっと愉快な失敗をやらかしたから、それも当然の報いではあった。それはこみ入った話なので、ここでは省略することにする。そこへもってきて、私の所属管区の徴兵局が、私を兵隊にひっぱりそうな、いやな気配を見せはじめていた。つい最近、ある小都会で軍事教練をのがれたばかりなので、またかと思うと、眼さきが真っ暗になるような気がした。徴兵のほうがどうきまるかわからないのと、とくにこれという技能もないので、あらたな勤め口も見つかりそうになかった。そんな次第で、ブルックリンで地下鉄に乗っていたときも、今は廃刊となったPMという新聞社の編集長に面接し、がっかりして帰ってくる途中なのだった。おまけに、夏の都会の暑さまで一枚加わって、私は精神的にすっかり参っていた。だから、私が車輪の下敷きになりたいと思ったのもまんざら冗談ではなかったのだ。あの見出しを見て、その気持がいっそう強くなってきた。ホリーがあんな「赤ん坊みたいな顔をした間抜け」と結婚する気になるくらいなら、この世の中にはびこっているもろもろの害悪が、どっと私の上におそいかかってきても文句はいえない、と私は思った。それとも、こういうやけくそな気持になるのは――どうやらそうらしいふしもあるが――いくぶん自分がホリーに惚《ほ》れているせいではなかろうか? そうだとしても、それはほんの淡いものだった。というのは、私が彼女に想いを寄せているにしても、それはちょうど、かつて私がうちにいた私の母と同年配の中年の黒人女コックだとか、私がよくそのお尻《しり》をつけまわしていた、うちの近所をまわってあるく一人の郵便屋さんだとか、マッケンドリックという家の子供たちだとか、そういう連中にたいして寄せていた淡い想いとまったく同じ気持だったからだ。しかし、そういうたぐいの淡い気持からでも、けっこう嫉妬心《しっとしん》はおきるものなのだ。
下車駅について、新聞を買い、その記事をおわりまで読んでみると、ラスティーの花嫁というのは、なんと「アーカンソーの丘陵地帯出身の美しい表紙絵美人《カヴァーガール》、ミス・マーガレット・サッチャー・フィッツヒュー・ワイルドウッド」つまり、マッグのことだった! 安堵《あんど》のあまり足もとがふらふらしてきたので、私はその場でタクシーを拾い、アパートまで帰った。
玄関にはいったとたんに、マダム・サフィア・スパネラとばったり顔が合った。逆上した眼つきで手をもみ絞りながら、マダムが叫んだ――「ハ――はやくいって警官を呼んできて。あの女が誰《だれ》かを殺そうとしてる! 誰かがあの女を殺そうとしてるのよ!」
それらしい物音が聞えてきた。まるでホリーの部屋で虎《とら》でも暴《あば》れているようだった。ガラスの砕ける音、何かを引裂く音、何かの落ちる音、家具をひっくり返す音、いやはや、どえらい騒ぎだった。だが、ふしぎと、その大騒ぎの中に、ケンカの声がまじっていなかった。「さあ、はやく」とマダム・スパネラが金切り声をあげて私を小突いた。「警察へ行って、人殺しだといってきてちょうだい!」
私はかけ出した。だが、それは階段をかけ上がってホリーのドアのところへかけつけるためだった。トントン扉《とびら》をたたいてみたが、一向反応がなかった。ところが、騒ぎが次第にしずまって、やがてぴたりとやんだ。いくら中へ入れてくれとたのんでも、返事がなかった。扉に体当りをくれてみたが、結局、ただ肩を痛めただけだった。マダム・スパネラが、またあらたにやってきた人をつかまえて、警官を呼びにゆけと命じているのが聞えた。「うるさいッ! そこ退《の》け」と男の声がいった。
ホセ・イバラ = ハエガールだった。ふだんのスマートなブラジル外交官とは似てもつかぬ、汗まみれの、胆《きも》をつぶしたかっこうをしていた。ホセは私にも、そこを退けと命じた。それから自分の合鍵《あいかぎ》を使ってドアをあけた。「どうぞこちらへ、ゴールドマン先生」と彼はつれてきた人物をさし招いていった。
だれもさえぎるものがいないので、私も二人のあとについて部屋にはいった。なにもかもめちゃくちゃになっていた。長いことそのまま飾ってあったクリスマス・ツリーも、文字どおりずたずたに引きちぎられ、茶色になった枯枝が、引裂かれた書物やぶっこわれた電気スタンドや蓄音器のレコードなどが散乱しているなかに、横たわっていた。冷蔵庫までからっぽになり、中味が部屋じゅうにほうり出され、生卵が壁をつたって流れていた。このような残骸《ざんがい》の中で、ホリーの名なし猫が、床に溜《たま》ったミルクを平気な顔でペチャペチャなめていた。
寝室にはいってみると、香水のびんがこなごなになり、その匂《にお》いで私は胸がむかむかした。うっかりホリーの色眼鏡をふんづけたが、それはすでにレンズも砕け、縁も二つにへし折れたまま床の上にころがっていたのだった。
ホリーはベッドの上に身を固くして横たわったまま、うつろな眼でホセをながめ、医者の姿も眼にとまらないふうだったが、それはおそらく眼鏡をなくしたせいだったかもしれない。医者は脈をしらべてから、小声でつぶやいた――
「あなたはお疲れになっているんですよ。とてもね。おやすみになりたいんでしょう。さあ、静かにお眠りください」
ホリーが額をこすると、切れた指から流れ出る血で、そこが血まみれになった。
「眠るのね」と彼女はいって、疲れきってむずかる幼い子供のようにすすり泣いた。「寒い夜、抱きつかせてくれるのは、それこそこの世であの子ひとりだったわ。メキシコにひとつ地所をみつけておいたのに。馬のたくさんいる、海のそばの――」
「馬のたくさんいる、海のそばの――ですよ」と医者は子守歌を歌うようにいって、真っ黒い鞄《かばん》から注射液をとり出した。
注射針を見るのがこわくて、ホセは顔をそむけた。「このひとの病気、ただ悲しみのためですか?」とホセが医者に舌足らずの英語できいた。本人は大まじめだったが、聞くほうにはそれがなんとなく皮肉にひびいた。「ただ悲しんでいるだけですか?」
「ちっとも痛くなかったでしょう、ほーらね?」と医者が綿のきれはしでホリーの腕を手ぎわよくもみながらいった。
彼女は落着きをとりもどして、じっと医者に眼を注いだ。「どこもかも痛いとこだらけよ。あたしの眼鏡はどこにあるの?」しかし眼鏡は不要だった。彼女の眼がひとりでに閉じてきていたからだ。
「このひとただ悲しんでるだけですか?」とホセがしつこくきいた。
「お願いですから」医者は彼に、木で鼻をくくったような返事をした。「しばらくわたしに患者をまかせておいてもらえませんかね」
ホセは表の部屋にひきさがって、そこへこっそり抜き足さし足でようすをうかがいにきていたマダム・スパネラに、カンシャク玉を爆発させた。彼がポルトガル語で毒づきながらマダムをドアのほうへ追いやると、マダムは居《い》丈高《たけだか》になって、
「わたしの体に手なんか触れると警官を呼ぶわよ!」
彼の形相《ぎょうそう》から察すると、私までも一緒に外へほうり出す気だったのかもしれないが、そうはしないで、彼は私に一杯飲めとすすめた。たまたまヴェルモットのはいったびんがたった一本こわれずに残っていたからだ。「わたし心配でね」と彼が打明けた。「あのひと気が狂ったようになって何もかもこわしました。わるい評判たつこと、わたし心配なんです。わたしの名前、わたしの仕事、とても微妙です。世間にわるい評判たつこと、どうしてもこまるんです」
自分の持物を自分でこわしたところで、おそらく他人に迷惑がかかるわけでもないから、なにも「わるい評判」なぞたてられる気づかいはない、と私がいってやると、ホセはすっかりほがらかになったみたいだった。
「こうなったのも、ただ悲しみが原因なんですよ」とホセはきっぱりといった。「悲しい知らせが来ると、あのひと飲んでいた酒のグラス投げ捨てました。つぎに、びんと本と電気スタンドを投げました。それでわたしはびっくりし、急いで医者を連れてきました」
「しかし、それにしても、ラスティーのことなんかでヒステリーをおこすのはおかしいですね。ぼくが彼女だったら、祝杯でもあげるところですよ」
「ラスティー?」
私はまだその新聞を手に持っていたので、あの見出しをホセの前につきつけた。
「ああ、そのことですか」彼はさげすむように白い歯を見せた。「あの二人がいなくなって、わたしたちとても助かりました、ラスティーとマッグがね。わたしたちそれを知って大笑いしましたよ。この人が悲観するわけないです。いつも早くどこかへ逃げてくれればと思ってたところですから。ほんとです、わたしたち二人で笑ってました。そこへ悲しい知らせがきたんです」彼は何かをさがすように、床に散乱しているものの間に眼を走らせて、黄色い紙片のまるめたのを拾い上げた。
「これです」と彼はいった。
テキサスのチューリップから来た電報だった。「フレッド ガイチニテセンシノシラセアリ オマエノナゲキヲオモイ カゾクイチドウヒタンニクレル イサイフミ ゴライトリー」
ホリーはそれっきり弟のことを口にしなくなった――もっとも、ずっとあとになって一度だけ口に出したことがあるが。そのうえ、私をフレッドと呼ぶのもやめてしまった。六月、七月と暖かいさなかを通じて、彼女はまるで春がいつ来ていつ去ったのか知らない冬眠動物のような生活を送っていた。髪の色も濃くなり、体もふとってきた。身なりもやや投げやりになり、よく素肌《すはだ》の上にレインコートを一枚ひっかけたきりで、食料品屋へかけつけたりした。ホセも彼女の部屋へ引越してきて、郵便受にはマッグ・ワイルドウッドの名にかわって、彼の名前が出された。だが、やはりホリーはひとりでいる場合が多かった。ホセが一週に三日はワシントンに出向いていたからだ。ホセの留守中、彼女は人を招いてもてなすようなことは一度もなかったし、毎週木曜日ごとに、オシニングにあるシング・シング刑務所へ出かけるほかは、めったに部屋から出ることもなかった。
といっても、彼女が生きる興味を失ったというわけではなく、むしろその正反対だった。これまでにないほど落着いて、すっかり幸福にひたっているふうだった。ホリーらしくもなく、にわかに家事に熱中しはじめて、いくつもホリーらしからぬ買物をしたりした。パーク・バーネットのせり売りで、猟犬に追いつめられた鹿《しか》の絵を描いた壁掛を買ったり、もとウィリアム・ランドルフ・ハーストの所有にかかる、陰気くさいゴシック風の安楽椅子《あんらくいす》一対《いっつい》を買いこんだり、全部そろった現代叢書《モダン・ライブラリー》や、棚《たな》にいっぱいになるほどの古典音楽レコードや、メトロポリタン美術館に陳列してある絵画や彫刻のいろいろな複製品(そのなかに石膏細工《せっこうざいく》の中国の猫《ねこ》があったが、彼女の飼猫がそれを見てフーフーといきりたち、とうとうこわしてしまった)や、ウェアリング製のミキサーや、圧力|鍋《なべ》や、ひとそろいの料理の本などを買い集めた。彼女は一家の主婦のように、毎日おひるから夕方までずっと、まるでむし風呂《ぶろ》みたいな狭い台所で、バチャバチャ水をはねかしながら暮した。
「コロニーよりあたしのほうが料理がうまいって、ホセがいうのよ。ほんとに、あたしが生れつきそんな大した腕を持ってるなんて、だれもきっと夢にも思わなかったでしょうね。だって、ひと月まえにはスクランブルド・エッグひとつできなかったんだもん」
だが事実は、そのカキ卵もまだつくれなかったし、ビフテキや、ちゃんとしたサラダといったような、かんたんな料理もできなかったのだ。で、彼女はホセに――ときおりは私にも――ブランデー漬《づ》けの黒ガメをダシに使って、アヴォカドの実の殻《から》に注《つ》いだ奇体《ウートレ》なスープを出したり、キジの丸焼きの中へザクロの実と柿《かき》を詰めこんだ珍料理や、サフラン入りのチキン・ライスにチョコレートのソースをかけた怪しげな新発明の料理を、「東インド諸島の名物よ」なぞといって食べさせたりした。しかし、甘いものとなると、なにしろ戦時中で、砂糖やクリームが配給制だったので、彼女も奇抜な腕を存分にふるうことができなかった。それでも一度「タバコ・タピオカ」とかいう甘味をこしらえてくれたことがあったが、それがどんなものだったか、それはいわぬが花ということにしよう。
また、彼女がポルトガル語を習おうとしてどんなに苦労したかも、くわしくは語らぬことにしよう。それをながながと語るのは、私にとっても彼女の苦労に劣らず面倒なことだからだ。いつ行ってみても、蓄音器の上でシリーズになったリンガホンの語学レコードが鳴っていた。そして、ややともすると、「あたしたちが結婚したら――」とか「リオへ引越したら――」とかを前置きにして、話をはじめるようになっていた。ホセは、しかし、結婚という言葉をおくびにも出さなかった。彼女もそれは百も承知のうえだったのである。
「でも、なんのかんのいったところで、ホセもあたしが妊娠してるの、ちゃんと知ってるんだもん。ええ、そうなのよ、もう六週間になるのよ。なにもそんなにおどろかなくたっていいわ。妊娠したって、ちっともおどろくにはあたらないでしょ。あたしかえってよろこんでるのよ。少なくとも九人ぐらいは子供がほしいと思ってるんだもん。きっとそのうちには、いくらか色の黒いのもいると思うわ――だって、ホセにもちょっと黒がかったところがあるのよ。あなたも気づいてたでしょ? でも、あたしはそのほうがかえって好きだわ。パッチリした緑色の美しい眼《め》をした、黒んぼの赤ちゃんほどかわいいものないもん。でもね、笑ったりしちゃだめよ――あたしほんとに自分が処女だったら、どんなによかったろうかと思うの、ホセのためにね。といったって、なにもあたしが、だれかさんたちのように、そうたくさんの男に添い寝してやったってわけじゃないけどさ。でもね、そんなこといったやつらを怨《うら》む気もないわ。あたしのほうでも、いつもあんなに浮かれ騒いで、男を釣《つ》るみたいなまねばっかりしてたんだからね。そりゃ、こないだの晩はいかにも大きなこといったけど、実のところ、恋人はいままでにたった十一人しかつくらなかったのよ――十三になる前のは、いちおう勘定に入れないことにしてね。だって、結局、そんなのぜんぜん数のうちにはいらないもん。そう、十一人きりよ。それくらいの数で、あたしがパンパンってことになるかしら? たとえばマッグ・ワイルドウッドでも、ハネー・タッカーでも、ローズ・エレン・ウォードでも見てごらんなさい。みんなそれこそ男を何人とりかえたか知れないくらいよ、ほんとに。かといって、あたし別にパンパンを悪くいうつもりなんかないわ。ただね、口先ではうまいこというのもいるけど、みんな腹の底は黒いっていうだけのことよ。つまりね、男と一緒に寝て、その小切手を現ナマに換えてもらったからって、少なくとも自分がその男を愛してるなんて、とても思えっこないってことなのよ。あたしはそんなまねしたことまだ一度もないわ。ベニー・シャクレットとの場合だって、ほかの男たちとの場合だって、そんなこと絶対になかったわ。あたしったら、催眠術にかかったみたいにうっとりとなって、男のいうほんの冗談をすぐ真にうけちゃうのよ。でも、まあ、ゴライトリーもそうだけど、あのひとは別として、こんどのホセとの場合は、あたしにとって、それこそほんとに甘い夢をぬきにした恋愛なのよ。そりゃもちろん、ホセはあたしの最も理想とする男なんかじゃないわ。すこしはウソもつくし、いやに世間体を気にするし、一日に五十回もお風呂にはいったりしてね――男ってすこしは臭いのがかえって魅力的じゃない? あたしの理想の男性としては、あんまり身なりをかまいすぎるし、小心すぎるわ。服をぬぐときも、いつだってあっちを向くし、食事のときも音をたてすぎるわ。それにホセの走るところなんか見てられないのよ。だって、そのかっこうがなんとなく滑稽《こっけい》なんだもん。もし勝手に男性を選ぶことができるとしたら、ホセなんか選ぶもんですか。指をパチンと弾《はじ》いて、さあ、あんたどうぞあちらへ、っていうわよ。インドのネール首相ならちょっと理想的ね。ウェンデル・ウィルキーもそうよ。グレタ・ガルボだったら、あたしいつでも一緒になるわ。結婚なんてだれとでもできるはずよ、相手が男だって女だって何だって――ねえ、もしあんたがあたしのところへやってきて、軍艦と結婚したい、といったら、あたしあんたを見直すわ。そうよ、あたし本気でいってるのよ。恋愛なんて、それでいいんじゃないかしら。だいたいそんなもんだとこの頃《ごろ》わかってきたんで、あたし、すっかり夢中になったのよ。だって、あたしほんとにホセを愛してんだもん――もしホセがあたしにタバコをやめろといったら、あたしいつでもやめるわ。あのひととてもやさしいのよ。あたしのれいの|いやな赤《ヽヽヽヽ》なんか、笑っていっぺんに吹きとばしてくれるわ。もっとも今ではもうときたましかそんな気持になることないけど。また、たとえなっても、鎮静剤を飲んだり、ティファニーへかけつけなければならなくなったり、それほどひどくはなくなったのよ。だってホセの服をクリーニング屋へもってゆくとか、すこしキノコを食べるとかすれば、それで快《よ》くなるんだもん、ちょっとふしぎなくらいよ。
「それからまた、れいの星占いのほうもすっかりやめちゃったの。よくあんなくだらない占星館へ出かけてって、占ってもらうたんびに一ドルずつふんだくられたもんね。まったくうんざりさせられたもんよ。占いの答えはいつも、善良な人間のみつねに善果をうるものなり、にきまってるの。善良っていうより、正直ってことがあたしはもっと大事だと思うのよ。ただし、安っぽい正直じゃないわ――もしそれが今日の日を愉《たの》しむために役立つなら、あたし、墓場荒しをすることだって、死人の眼玉を盗むことだって、やりかねないと思うの――だけど、あたしのいうのはそうじゃなくって、なんじ自身の胸に問うて式の正直のことなのよ。卑怯者《ひきょうもの》や猫かぶりやメソメソした性悪女《しょうわるおんな》やパンパンにだけはなりさがりたくないもんね。不正直な女になるくらいなら、癌《がん》にでもかかったほうがましだわ。といって、それはなにも信心があるからじゃないの。ただ、そのほうが実際の役に立つからなのよ。癌ならまだ助かる道もあるけど、不正直な人間はきっと救われっこないからさ。あらあら、とんだおしゃべりをしちゃったわね――ちょっとあのギターをとってちょうだい、とてもきれいなポルトガル語で『ファーダ』を歌ってあげるから」
夏のおわりから秋のはじめにかけての、それからあとの、さいごの数週間の記憶はぼやけていて、どうもはっきり思い出せない。それはおそらくおたがいの気心がよくわかって、なにかいうよりむしろ黙っていたほうが気持が通い合うほど二人の友情が深まっていたからであろう。静かな愛情が、友情の持つ、もっと派手で、表面的な意味ではもっとドラマティックな瞬間を生み出す、あのせかせかしたおしゃべりだとか、たえずくっつきまわるとかいったような緊張感にとってかわるものだからだ。よく、ホセがワシントンへ出かけたあとなど、(私はいつしかホセにたいして敵意をいだくようになり、めったに彼の名を口にしなくなっていたが)彼女と二人きりで一夕《いっせき》を過したものだ。しかしその間に、二人はものの百語と言葉をかわすことがなかった。いちど、二人ははるばる南京町《ナンキンまち》まで足をのばし、焼きソバで夕食を食べ、提灯《ちょうちん》をいくつか買い、ついでに線香を一箱くすねて、ぶらぶらとブルックリン橋を渡っていったことがある。そのとき二人で橋の上から、船がこうこうと灯《あか》りのついた高い建物が断崖《だんがい》のようにそそり立っている間をぬけて海のほうへ出てゆくのをながめていたが、そのとき彼女はこういった――
「今から何年も何年もたったあと、あの船のどれかがきっとあたし、いいえ、あたしとあたしの九人のブラジル人の子供を、またこのニューヨークへつれて帰ってくれると思うわ。だって子供たちにも、このニューヨークを、このあかりを、この海を、見せてやらなきゃならないもんね――あたしニューヨークが大好きなのよ。樹《き》だって通りだって家だって、何ひとつほんとにあたしのものというわけじゃないけど、でもやっぱり、なんとなくニューヨークが自分のもののような気がするわ。だってこの街は、ぴったりあたしの性《しょう》に合ってるんだもん」
それをきいて、私はこういった――
「もうやめてくれよ」
なんとなく自分ひとりがのけものにされたようで、無性《むしょう》に腹が立ってきたからだ――私はいわばドックにはいっている曳《ひ》き船なのに、彼女のほうはちゃんと行先もきまった、豪華船のようなもので、汽笛を吹き鳴らし、小さな色紙の花吹雪をまきちらしながら、しずしずと港を出てゆくような気がしたのだ。
そういうわけで、このさいごのいく日かの記憶は、まるで秋の木の葉が風に吹きちらされて、かすみの底に沈んでいるように、すっかりぼやけている。やがてついに、私がかつて経験したことのないような厄日《やくび》が訪れてきた。
その日はたまたま九月三十日で、私の誕生日に当っていたが、かといって別にふだんと変ったこともなく、ただ私の生家《うち》からお祝いのしるしに何かカネでも送ってくるだろうと、朝の郵便を心待ちにしていたくらいのものだった。また実際、私は階下へ降りて郵便屋がやってくるのを待っていたのだ。私が玄関でうろうろしていなかったら、ホリーも乗馬に私をさそわなかったことだろうし、またそのあげく、命からがらの目にあうようなことにもならなかったであろう。
「ねえ、いらっしゃいよ」私が郵便屋を待っているのを見て、彼女はそういった。「二人で馬に乗って公園をぶらついてみない?」彼女はもみ革のジャンパーとブルー・ジーンとテニス靴《ぐつ》という身なりをしていた。平手でピシャピシャとたたいて、お腹《なか》が平べったいことを示し、
「なにも乗馬に出かけるからって、子供をおろそうなんていうんじゃないのよ。ただね、あたしの気に入ってるメイベル・ミネルヴァ号って馬がいてね――そのメイベル・ミネルヴァにさようならもいわないでここを去るわけにはいかないもんね」
「さようならだって?」
「そう、こんどの土曜日から一週間したらね。ホセはもうちゃんと二人分の切符も買ってるのよ」
いささか呆然《ぼうぜん》として、私はさそわれるままに通りを歩いていった。
「あたしたち、マイアミで飛行機をのりかえ、それから海の上に出て、アンデス山脈の上を飛んでゆくのよ。タクシー!」
うん、アンデス山脈の上をね。タクシーに乗ってセントラル・パークをつっ切りながら、ふと私は自分も、雪を頂いた峰また峰の危険な地帯をたったひとりでフワフワと飛んでいるような気がしてきた。
「だって、きみ、そんなわけにはいかんよ。じゃ、結局、どうなるんだね、ぼくたちはさ。だって、みんなを置いてきぼりにして逃げ出すなんて、そんなことできるはずないじゃないか」
「あたしがいなくなったって、だれもなんとも思やしないわよ。あたしには友だちなんて一人もいないんだもん」
「このぼくがいるよ。きみに行かれちゃ困るんだ。ジョー・ベルだってそうだ。いや、そのほかにもうんといるよ。たとえば、あの気のどくなサリー・トマトさんだってそうじゃないか」
「あたし、あのサリーってお爺《じい》さん好きよ」といって、彼女は溜息《ためいき》をついた。「もうこのところひと月ばかりあの人に会いにいってないのを、あんたも知ってるでしょ? あたしがブラジルへ行くと打明けたら、あの人まるで天使みたいにやさしい言葉をかけてくれたのよ。ほんとに心から――」といって、彼女は眉《まゆ》をくもらせた。「あたしがアメリカを去るのをよろこんでくれたようだったわ。そりゃそうするのがいちばんいい、あんたがわしのほんとの姪《めい》じゃないことがバレたら、どうせただではすまないから、ってね。そしてあのふとった弁護士のオショーネシーのところからあたしに五百ドル送ってよこしたの、現金でね。サリーからの結婚祝いだといってさ」
私からも、なにかしてやりたいと思った。
「ぼくもなにかお祝いをさせてもらうよ。まあ、かりにきみが結婚するとしたらね」
彼女は笑い声をたてた。「ホセはあたしとちゃんとした結婚式をあげるつもりなのよ、教会でね。ホセのうちのものたちも列席してよ。だから、あたしたち、リオへ行くまでそれを延ばしていたの」
「で、ホセはきみが人妻なのを承知のうえかい?」
「このひと、よっぽどどうかしてるわね。こんないいお天気を台なしにするつもりなの?すばらしいお天気だというのにさ。もうそんな話よして!」
「だけど、万一の場合もよく考えて――」
「そんなことありっこないってば。こないだも話したでしょ。あの結婚は法律上無効だって。だから、そんなことあるはずないわよ」彼女は鼻をこすり、横眼《よこめ》でちらと私をにらんだ。「ねえ、あんた、もしそんなことだれかにいったら、それこそ足先をつかんであんたを逆さに吊《つ》るさげ、ソースでもぶっかけて豚にでも食べさせてやるわよ」
厩舎《うまや》――今ではたしか取払われて、そのあとにテレビ放送局ができていると思うが――は西《ウエスト》六十六丁目にあった。ホリーは私に、ひどく背中のくぼんだ、白と黒のブチになった老いぼれ牝馬《めうま》を選んでくれた。
「心配することないわよ、この馬ならゆりかごより安全だから」
そういわれて、私もやっと安心した。なにしろ幼いころ謝肉祭《カーニヴァル》のときに十セント出して小馬《ポニー》に乗ったきり、それ以来いちども馬に乗ったことがなかったからだ。ホリーは手をかして私を鞍《くら》に押し上げてから、自分も乗った。銀白の毛並みをした馬だった。彼女の馬を先頭に、私たちは並足で、交通のはげしいセントラル・パークの西側を横ぎり、吹き散らされた木の葉が風に舞っている細い乗馬道へはいっていった。
「ほおら、ね」と彼女は叫んだ、「すてきじゃない!」
すると、それはまったくとつぜんだったが、陰影に富んだホリーの髪の毛が、赤黄色い木の葉の光に照り映えてパッとかがやくのをながめているうちに、ふと、彼女にたいする愛情がこみあげてきて、私はあとに取残される自分を憐《あわ》れむやるせなさも忘れ、彼女がそれをしあわせと思うなら、ブラジル行きもいいだろう、という気持になってきた。目立たぬほど静かな歩調で馬が※[#「足+包」、unicode8dd1]《だく》をふみはじめると、そよ風がハタハタと私たちの肩や顔を打った。日向《ひなた》へ出たかと思うと日陰へはいり、浅い水たまりもいくつか渡った。うれしさが、生きていることのよろこびが、ダイナマイトが炸裂《さくれつ》したように私の五体をゆさぶった。だが、それもほんの束《つか》の間《ま》で、次の瞬間には、とんだ悲喜劇が私を待ちかまえていたのだ。
というのは、まるでジャングルの中に身を伏せていた蛮人の一団のように、黒人の子供の群れが路傍の灌木《かんぼく》のしげみの中からいきなりとび出してきて、ワイワイとやじったり、あくたいをついたりしながら、馬の尻《しり》を細い木の枝でひっぱたいたり、石をぶつけたりしたからだ。
私の乗っていた白黒まだらの牝馬は、あと脚で棒立ちになり、ヒンヒンといなないて、綱渡りをする軽業師のようにゆらゆらとよろめいたかと思うと、まるで稲妻《いなずま》のように小道をかけだしていった。私は両足ともあぶみをはなれて宙におどり、鞍にしがみついているのがやっとだった。ひづめに蹴立《けた》てられて砂利が火花を散らした。空が一方にかしぎ、木立や、おもちゃの帆かけ舟の浮んだ湖や、立ち並んだ彫像が矢のようにあとへあとへ飛んでいった。私の馬がすさまじい勢いで近づくのを見ると、子守《こも》り女たちはあわてて子供を助けにかけつけ、浮浪者やそのほかの人たちが、「手綱を引け!」とか「おーい、とめろよ、おーい!」とか、「とび降りるんだ!」などといってわめきたてた。しかし、これらの言葉はあとになってやっと思い出したもので、そのときはホリーのほうにばかり気をとられていた。彼女はカウボーイのようにひづめの音をたてて私のあとを追ってきたが、なかなか追いつけないので、ただいくども、うしろから私をはげます言葉を投げかけてくるだけだった。私の馬はどんどん公園をかけぬけて五番街へとび出してゆき、真昼のラッシュとまともにぶつかり、タクシーだのバスだのがキーッと鋭いブレーキの音をたてて体《たい》をかわした。馬はデューク・マンションやフリック美術館の前を通りすぎ、ピエールやプラザなどのホテルの前をどんどんかけぬけていった。だがホリーもだんだん追いついてきていたし、そのうえ一人の騎馬巡査がさっきからこの追跡に加わっていた。二人は一目散に逃げてゆく私の牝馬の両わきにぴたりと馬の腹を寄せてきて、挟《はさ》み撃ちにするような構えをとったので、私の馬も体《からだ》から湯気を立てながらついに立ちどまった。私が馬の背から転落したのは、やれやれと気がゆるんだその刹那《せつな》だった。私は落ちたとたんに、すっくと立ち上がり、いま自分がどこにいるのかさえあまりはっきりわからないで、ぼんやりその場につっ立っていた。人だかりがしてきた。れいの巡査が弥次馬《やじうま》をどなりつけて追い払い、手帳に私のいうことを書きこんだ。やがて巡査は私の立場にすっかり同情し、白い歯を見せて、こういった――
「きみたちの馬を厩舎《うまや》へ返すほうは、こっちで手配してやろう」
ホリーはタクシーを拾った。「ね、気分はどう?」
「大丈夫だ」
「でも、ちっとも脈が打ってないじゃないの」と彼女は私の手首に触《さわ》っていった。
「じゃ、きっと死んでるんだろうよ」
「なにをバカいってるの。笑いごとじゃないわ。ちょっとこっちを向いてごらんなさい」
困ったことに、私には彼女の顔が見えなかった。いや、もっと正確にいうと、その顔がいくつにも見えたのだ。三重にかさなりあったホリーの顔が、気づかいですっかり蒼白《そうはく》になっていたので、こちらがかえって感動し、うろたえたほどだった。「ほんとにぼくは別になんともないんだ、ただ恥ずかしいだけなんだよ」
「ね、ほんとに大丈夫なの? ほんとのこといってちょうだい。もうすこしで命を失うところだったわね」
「でも、このとおり生きてるよ。ぼくの命を救ってくれて、ほんとにありがとう。きみはすてきなひとだ、またとかけがえのないほどね。ぼくはきみが好きだよ」
「しようのないおバカさんね」といって、彼女は私の頬《ほお》に接吻《せっぷん》した。するとこんどは、彼女の顔が四つに見えだして、私はそのまますっかり気を失ってしまった。
その日の夕方、ホリーの写真が『ジャーナル・アメリカン』紙の夕刊の一面にのっていた。また、次の日の朝になると、『デイリー・ニューズ』紙と『デイリー・ミラー』紙の朝刊にものっていた。掲載された記事は、馬の遁走《とんそう》したこととはなんのかかわりもなく、まったく別の事件に関するものであった。その大見出しには、それぞれ次のように出ていた――
「浮れ女麻薬事件で逮捕さる」(『ジャーナル・アメリカン』)
「女優麻薬を密輸して逮捕さる」(『デイリー・ニューズ』)
「麻薬団摘発されグラマー・ガールつかまる」(『デイリー・ミラー』)
そのなかで『ニューズ』紙にのった写真がもっとも人目をひいた。それはホリーが、いずれもたくましそうな一人の男刑事と一人の女刑事の間にはさまれて、警察本部へはいろうとしている写真だった。こういうみじめな立場におかれると、彼女の服装(もみ革のジャンパーにブルー・ジーンという乗馬に出かけたときそのままの身なりだった)までが、なんとなく彼女をいっぱしのギャングの情婦か何かのように見せていた。色眼鏡、乱れた髪かたち、むっとした顔つきで、ピカユーンの巻タバコをだらりとくわえたようすなどがいっそうその気配をつよめていた。写真の説明にはこう出ていた――
「ホリー・ゴライトリー(二〇歳)、美貌《びぼう》の映画女優、キャバレー社交界の花形と謳《うた》われた女性。地方検事局の申立てによると、彼女は『サリー』ことサルヴァトーレ・トマトなる麻薬密輸業者と結託して国際的な密輸を企てた主要人物なる由《よし》。パトリック・コナーおよびシェーラー・フェゾネッティーの両刑事(左から右へ)に護《まも》られて六十七丁目の所轄《しょかつ》警察署にはいるところ。詳細は三面に掲載」
「神父」のオリヴァー・オショーネシー(ソフトで顔をかくしているのがそれ)と確認された人物の写真を大きく掲げたその記事は、三段抜きで扱われていた。それを適当にいくぶんかいつまんで、ここにお伝えすることにする。
――キャバレーに出入りする常連たちは、今日ハリウッドの花形女優であり、またニューヨークかいわいでもっぱら評判の美人であるホリー・ゴライトリー(二〇歳)が逮捕されたと聞いて唖然《あぜん》とした。……また、同日午後二時に、警察は西四十九丁目のシーボード・ホテルに止宿中のオリヴァー・オショーネシー(五二歳)が、マディソン街のハンバーグ・ヘヴン食堂から出るところを取押えた。地方検事局のフランク・L・ドノヴァン検事の申立てによると、この両人は、政界への贈賄《ぞうわい》のかどで五年の刑を言い渡され、目下シング・シング刑務所で服役中のイタリア人秘密結社の首領「サリー」ことサルヴァトーレ・トマトの率いる国際的麻薬密輸団中の主要人物である由。牧師の職を剥奪《はくだつ》され、犯罪者仲間に「牧師《ファーザー》」または「神父《パドレ》」で通っているオショーネシーは、かつて一九三四年にも検挙され、修道院という名のもとに、ロード・アイランドにおいて、いかがわしい精神修養道場を経営していたかどで二年間服役したことのある前科者である。ミス・ゴライトリーにはなんらの前科もないが、彼女は高級な住宅地帯であるイースト・サイドの豪華なアパートにおいて逮捕された。……ニューヨーク地方検事局はまだ正式な発表をさしひかえているが、確かな筋の語るところによると、つい先頃《さきごろ》まで、いつも千万長者のラザファード・トローラー氏と一緒だったこの金髪の美人女優は、目下収監中のトマトと、彼の一の子分であるオショーネシーとの間の連絡係をいままでつとめていたものである。……ミス・ゴライトリーはトマトの姪《めい》と見せかけて毎週シング・シング刑務所を訪れ、その際トマトから口づてに暗号の指令をうけとり、それをオショーネシーに伝えていたものだといわれる。一八七四年にシチリア島のケファルで生れたといわれるトマトは、かかる連絡方法によって、メキシコ、キューバ、シチリア、タンジール、テヘランおよびダカールの各地に前哨《ぜんしょう》基地をもつ世界的な麻薬密売組織をみずから牛耳《ぎゅうじ》ることができたのである。しかし、地方検事局はこの申立てに関し詳細な理由を発表しないばかりか、申立てを確認することさえさしひかえている。……オショーネシーとホリーの二人が容疑者として取調べをうけるため、西六十七丁目の所轄警察署に連行されると、いち早く情報をかぎつけた多数の新聞記者たちが待ちうけていた。赤毛の大男であるオショーネシーは、なにをきかれても口を緘《かん》して語らず、一カメラマンの腰のあたりをけとばした。ミス・ゴライトリーは服装こそ、もみ革のジャンパーにブルー・ジーンというおてんば娘のかっこうだったが、たおやかな美人であり、その態度は比較的平静であった。「いったいどうしてこんなことになったか、なんてきかないでちょうだい」と彼女は記者団にいった。「だって、|あたしなんにも知らないんだもの《パルスク・ジュ・ヌ・セ・パ・メ・シエール》。そりゃもちろん、あたしサリー・トマトのところへ訪ねていってたわ。きちんきちんと毎週ね。でも、それがどうして悪いの? サリーは神信心もしてるし、あたしだってそうよ」
つづいて、「当人も麻薬常用者であることを認める」という小見出しのもとに、こう書かれていた――「あなたも麻薬を常用しているか?」という一記者からの質問にたいし、彼女は微笑してこう答えた――「あたしもちょっとマリファナは吸ってみたことあるわ。でもブランデーの半分も体に障《さわ》らなかった。おまけに安いしね。だけど、あいにくあたしはブランデーのほうが好きなの。とんでもない、トマトさんはあたしにたいして麻薬の話なんかおくびにも出したことないわ。だから、警察の連中があの人をうるさく責めたてているかと思うと、あたしむしゃくしゃしてくるの。だって細かい点によく気のつく、信心ぶかい、とてもいいお爺《じい》さんなんだもの」
この記事には、しかし、一つ特に大きな誤りがあった。彼女が逮捕されたのは、彼女の「豪華な部屋」の中ではなくて、私の部屋の浴室の中だったからだ。私は落馬による節々《ふしぶし》の痛みをいやすために、浴槽《よくそう》の中で瀉利塩《しゃりえん》を入れた、ひりひりするほど熱いお湯にひたっていた。よく気のつく看護婦のように、ホリーは私がお湯から上がったら、私の体にスローンの軟膏《なんこう》をすりこんだうえ、そっとベッドに寝かすつもりで、浴槽のふちに腰をかけて待っていた。すると、ドアをノックする音がした。鍵《かぎ》がかかっていなかったので、ホリーが「おはいり」と声をかけた。はいってきたのは、意外にもマダム・サフィア・スパネラだった。そのうしろから、私服の刑事が二人ついてきた。その一人は婦人警官で、編んだ黄色いゆたかな髪の毛をハチ巻のようにぐるぐると頭に巻きつけていた。
「ほら、ここにいましたよ、お尋ね者の女が!」とわめきながら、マダム・スパネラはずかずかと浴室へはいってきて、まずホリーを指さし、それから私の裸体をさして、「どうです、大したパンパンでしょう」
男の刑事はマダム・スパネラのけんまくと、この場のありさまに面くらったふうだったが、相棒の女刑事はさも得意そうにキッと顔をこわばらせた――ホリーの肩にパッと片手をおいて、柄《がら》に似合わぬ子供っぽい声でいった――「さあ、一緒にいらっしゃい。行ってもらいたいところがありますから」
そういわれて、ホリーは冷やかに答えた――「なにをくだらない寝言をいってんのさ。そんなガサガサした手であたしの肩なんぞに触らないでおくれ、お婆《ばあ》ちゃん刑事さん」
女刑事はすっかりカッとなって、ホリーの横面《よこつら》を平手でいやというほどひっぱたいた。それがあまりえらい勢いだったので、ホリーの顔が横向きになり、軟膏の瓶《びん》が手からすっ飛んで、タイル張りの床に当ってみじんに砕けた。そこへ私があわてて浴槽からとび出したので、騒ぎがいっそう大きくなり、私はうっかり破片をふんづけて、危うく両方の足の親指を切断されそうになった。私は裸のまま、血だらけの足跡をつけながら、もみあっているホリーたちのあとを廊下まで追っていった。刑事たちは彼女をうしろから追ったてて階段を降りようとしていた。そのときホリーがやっとのことで私に声をかけた――「忘れないで――猫《ねこ》に食べさせることをね」
もちろんこんなことになったのも、マダム・スパネラのせいだとばかり私は思いこんでいた。マダムはこれまでいくどもホリーのことで警察へ苦情をもちこんでいたからだ。これがまさかそんな大事件になろうとは、その日の夕方、ジョー・ベルがとつぜんやってきて新聞を鼻先につきつけるまで、私は夢にも思わなかった。ベルは興奮のあまり、まともに口をきくことさえできず、握りこぶしを打ち合せながら騒々しく部屋の中を歩きまわっていた。私はその間に記事に眼《め》を通した。
やがてベルがいった――「そんなバカなことがあると思うかね? あの娘《こ》がそんなうしろ暗い事件にかかりあいがあるなんて――」
「うん、まあ、あるかもしれんね」
ベルは葉巻をひょいと口にくわえると、私をにらみつけながら、まるで私の骨でもガリガリ噛《か》み砕くように、やけにそれを噛みちらした。「おい、そいつはひでえぜ。それでもあんたはあの娘《こ》の友だちかい。いくらなんでも卑怯《ひきょう》だ!」
「ちょっと待ってくれ、ぼくはなにもあのひとが|事情を知ったうえで《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》この事件に手をかしたといってるんじゃないよ。もちろんそんなことはないさ。でも、やっぱり、手をかしたのは事実なんだ。暗号をつたえたりなんかしてね――」
「こいつは、あんた、ひとつ落着いてじっくり考えなくちゃいかんぜ。とんだことになったもんだ。あの娘《こ》はへたをすると十年、いやもっと長くくらいこむかもしれんな」といって、ベルは私の手から新聞をとりあげた。「あんたはあの娘とつきあっていた連中を知ってるだろ? あの金持たちをさ。これからわしの店へ行って、ひとつ電話をかけてみようじゃないか。あの娘には、わしの知ってるのよりもっとパッとした弁護士が必要になりそうだからね」
私は傷がずきずきするうえに体がふるえ、自分で服が着られなかったので、ジョー・ベルの手をかりなければならなかった。彼は酒場の奥にある電話室の中へマティーニを三杯分と、小銭をいっぱい入れたブランデーのコップを持ちこみ、私の体をささえてくれた。しかし私はだれに連絡したらいいのか心当りがなかった。ホセはワシントンへ出かけていたが、ワシントンのどこへかけたらいいのか見当もつかなかった。ラスティー・トローラーは? あんなろくでなしはだめだ! さりとて、そのほかに彼女の友だちとしてだれがいよう? いつか彼女が友だちなんか一人もいないといったのは、今から思うとほんとうだったのかもしれない。
私は電話局で番号をきき、ベヴァリー・ヒルズのクレストヴュー五―六九五八番のO・J・バーマンのところへ長距離電話をかけた。だれかが出てきて、今バーマンさんはマッサージをしてもらっているので取次ぐわけにいかない。すまないがのちほどまたかけてみてくれ、といった。ジョー・ベルはひどく腹を立てて、なぜ生死にかかわる重大問題だといわなかったのか、と私を責めた。そして私に、ぜひラスティーのとこへ電話しろといった。はじめに出てきたのはラスティーの執事《バトラー》で、主人夫妻はただいま食事中だから、なんでしたらわたくしからご用件を取次ぎますが、といった。と、ジョー・ベルが受話器に向って叫んだ――「もしもし、これは一刻をあらそう問題なんですよ、生死にかかわるようなね」そのあげくは、かつてのマッグ・ワイルドウッドが電話口に出てきて、私は話す――というより、むしろ聞き手にまわることになった。
「いったいあんたたちはゆすりなの?」と彼女はきめつけた。「あんなヘ――へどの出るような、ダ――だらくした女とあたしたちをかかりあいにしようなんてやつがいたら、それこそ主人《たく》もあたしもほんとに告訴してやるわよ。あの女がさかりのついた牝犬《めすいぬ》みたいにふしだらな麻薬の常用者だってことは、あたし前からちゃんと知ってたんだから。刑務所ぐらいがちょうどあの女には向いているのよ。主人《たく》もあたしとぜんぜん同感です。あたしたちほんとに告訴しますから、もしだれかが――」
電話を切ったとたんに、ふと私は、テキサスのチューリップにいる獣医のことを思い出した。だが、彼に電話でもしようものなら、ホリーがカンカンになって、それこそ私を殺しかねないと思ってとりやめにした。
もういちどカリフォルニアへかけてみた。線がふさがっていて、なかなかかからなかった。やっとO・J・バーマンが出てきたときには、私はもう何杯もマティーニを空《あ》けていたので、呂律《ろれつ》があやしくなり、彼のほうから、いったい何の用だときき返す始末だった。
「あの娘このことかい? それならもう知ってるよ。わしからちゃんともうイギー・ファイテルスタインに頼んでおいた。イギーはニューヨークきっての弁護士なんだ。なにぶんよろしく頼む、勘定書はわしのほうへまわしてくれ、ただし、わしの名前だけは伏せておくように、といってね。ま、わしもあの娘にはなにかと世話になってるしね。といっても、ありていにいって、お情けなど一度もちょうだいしているわけじゃないよ。あの娘はすこしどうかしてるね。つかみどころのない女でさ。それがまたハッタリじゃなくって、しんからそうなんだ。ともかく、一万ドルの保釈金さえ出せばいいんだ。心配するにはおよばんよ。イギーの手で今夜あの娘を釈放してもらうから――ひょっとすると、もうぼつぼつうちに帰ってるかもしれんぜ」
ホリーはしかしその晩も帰らなかったし、その翌朝、私が彼女の飼い猫にエサをやりにいったときにも、まだ帰っていなかった。私は彼女の部屋の鍵を持っていないので、非常階段を伝って窓から中へはいったのだった。猫は寝室にいたが、そのほかに、一人の男がそこで旅行鞄《りょこうかばん》のうえにかがみこんでいた。おたがいに相手を泥棒《どろぼう》だと思い、けわしい目つきでしばらくにらみあっていた。男は美しい顔だちと、うるしのようにつややかな髪の毛をしていた。ホセにそっくりだった。そのうえ、男がせっせと詰めていた旅行鞄の中には、ホセがここに持ってきていた衣類などがはいっていた。それらの服だの靴《くつ》だのは、彼女がいつも大騒ぎして洗濯屋《せんたくや》や修繕屋へ出していたものだった。そこで、私はてっきりそうだと思い、こうきいてみた――
「きみはイバラ = ハエガールさんのとこから来たのかね?」
「わたしはいとこですよ」と男は白い歯を見せて、用心ぶかく、やっと聞きとれるような声でいった。
「ホセはいまどこにいるんだね?」
男はほかの国の言葉に翻訳でもするように、私の質問をくりかえした。「ああ、あの|し《ヽ》と、どこにいるかというんですね! あの|し《ヽ》とこの荷物を待っているです」そういったまま、私の存在を無視したように、またせっせと荷造りをつづけた。
そうか、では、あの外交官は逃げ出すつもりなんだな。私は別に意外とも思わなかったし、ちっとも名残《なご》りおしくもなかったが、それにしてもなんという薄情な仕打ちなんだろう。
「あんな男は馬の鞭《むち》ででも打ちのめしてやるべきだな」
いとこと名のる男がクスクスと笑った。私のいったことがはっきりわかったようだった。男は鞄をしめて、一通の手紙を差出した。「わたしのいとこ、この手紙をお友だちに置いてくるようにと、わたしにたのみました。どうぞ渡してくれるね?」
封筒には走り書きで、「ミス・H・ゴライトリーへ――使いに託す」と書かれていた。
私はホリーのベッドに腰かけて、猫を抱きよせ、彼女がどんな気持でこの手紙を読むだろうかと、しみじみ彼女の立場をあわれに思った。
「よし、渡してあげよう」
そうして私はその手紙を受取りはしたが、彼女に手渡す気にはどうしてもなれなかった。さりとて、それを破いて捨てるだけの勇気もなかったし、またホリーが私に、たとえ風の便りにでもホセの消息を聞かなかったかと遠まわしにきくときまで、それをじっと自分のポケットにしまっておくだけのふんぎりもつかなかった。それから二日目の朝のことだった。私はヨードチンキと差込み便器のにおいのする病院の一室で、彼女のベッドのわきにすわっていた。彼女は逮捕された晩以来、ここに入院していたのである。
「まあ、よく来てくれたわね」と彼女は、私がピカユーン一|本《カートン》と、まるく束ねた初秋のすみれの花束を持ってそっとそばに近づくと、挨拶《あいさつ》したのだった。「あたし流産しちゃったのよ」彼女はまだ十二歳にもならぬかと思えるほどあどけなく見えた。淡いヴァニラ色の髪をうしろへなでつけ、めずらしく色眼鏡をとった眼が、雨のしずくのように澄んでいたので、ひどく苦しんだあととは思えぬくらいだった。
しかし、ひどく苦しんだのはたしかだった。「ほんとに、あたしもうすこしで落着きをとりもどすところだったのよ。ところが、冗談じゃないわ、あのふとっちょの女に危うくやられるところだったの。大声でがなりたててひと騒動おこそうとしてたのよ。あの女のことについては、たしかまだあんたにお話ししなかったはずね。だって、あたしがあの女について知ったのは、弟が戦死してからなんだもん。戦死の知らせを受取ると、さっそくあたしは、いったいあの子は、どこへ行ったんだろうか、フレッドが死ぬなんていったいどういうことなのかしら、といろいろ考えてたのよ。すると、ふとあの女の姿が見えたのよ、あたしと一緒にあたしの部屋にいるじゃない。しかもあのふとっちょの、いやらしい赤毛の牝犬みたいな女が、フレッドを両腕に抱きかかえて膝《ひざ》の上にのせ、揺り椅子《いす》の上で体をゆさぶりながら、ブラス・バンドみたいに大声でゲラゲラ笑ってるのよ。人をバカにするにもほどがあるわ! でもね、あんた、あたしたちを待ってるものはそのくらいのところよ。この喜劇女優め、あたしをあざ笑ってやろうと手ぐすねひいて待ってたのね。これで、あたしがカッとなって、なにもかもぶっこわしたわけがわかったでしょ?」
O・J・バーマンが雇ってくれた弁護士をのぞくと、彼女に面会を許されたのは私だけだった。その病室にはほかに、三つ児《ご》のようによく似た三人の婦人患者がいて、知らん顔どころか、大きく好奇の眼を見はって私をじろじろながめまわしながら、イタリア語でひそひそと取《とり》沙汰《ざた》していた。「あたしがこんな羽目になったのも、あんたがあたしを誘惑したからだ、そうあの三人は思ってるのよ」とホリーが説明した。では、きみからよく事情を話してやったら、と私がいうと、彼女は、「できないわ、そんなこと。だってあの連中には英語が通じないんだもん。いいわよ、なんとでも思いたいように思わせておけば――」とこたえた。彼女がホセのことをたずねたのはそのときだった。
私のさし出した手紙にちらと眼をあてたとたんに、彼女はすこし斜視の眼を細め、唇《くちびる》を曲げて、小さな固い微笑をうかべたが、その顔がなんだかとても老《ふ》けて見えた。「ねえ」と彼女は命じるようにいった、「ちょっと、その引出しの中からあたしのハンドバッグをとってくれない。女は口紅をさしてからでないと、こういう手紙は読まないことにしてんのよ」
コンパクトの鏡を見ながら、彼女は白粉《おしろい》をはたいて、その顔から十二歳ぐらいに見える面影《おもかげ》をすっかり消してしまった。一本の紅棒で唇の形をととのえ、別ので頬《ほお》に紅をさした。鉛筆形の顔料で目のふちをくまどり、瞼《まぶた》に青いかざりをつけ、頸《くび》のあたりに四七一一番オーデコロンをふりまき、真珠の耳飾をつけ、いつもの色眼鏡をかけた。こうして化粧をすませ、はげかかったマニキュアをちらと不興げにながめてから、彼女はビリッと手紙の封を切って、便箋《びんせん》の上に眼を走らせた。彼女の唇にうかんでいた固い小さな微笑が、見るみるうちにこわばって消えていった。読みおえると、彼女はタバコを求めた。一服すって、「苦いわね、でもおいしいわ」というなり、手紙をポイと私にほうってよこした。「きっと参考になるわよ、ひょっとして、あんたが裏切りロマンスを書くような場合にはね。ボソボソと読まないで、大きな声で読んでちょうだい。あたし、はっきりとこの耳で聞きたいんだから」
「私のかわいい人よ――」ということばでそれは始まっていた。
読みかけたとたんに、ホリーが横合いから口を出して、ホセの筆跡をどう思うかときいた。別にどうってこともない、きちんとした、とても読みやすい、ペン習字のお手本みたいな筆跡だった。「あのひとそっくりの字ね。キチンとボタンをかけて、息がつまりそうな感じだわ」と彼女はいった。「さあ、先を読んでちょうだい」
「私のかわいい人よ、私があなたを愛してきたのは、あなたがほかの女のひとたちとは違ったところがあると思ったからです。しかし私はあのひどい新聞記事を見て、あなたが、私のような信仰と経歴を持つ人間が、自分の妻として迎えうる女性とはおよそかけはなれたひとであることを知りました。私の失望を想像してください。私はあなたがそのような辱《はず》かしめをうけたことを心から悲しんでいます。だが、世の中の非難を浴びているあなたを、さらに非難する気にはなれません。だからあなたも、どうか私を非難するような気持にならないでください。私には扶養すべき妻子があり、名声があります。私が卑怯者《ひきょうもの》である理由はそういうきずなにしばられているからです。どうか私を忘れてください、美しいひとよ。私はもうアメリカにはいません。本国へ帰ったのです。しかし、私はあなたとあなたの子供がいつまでもしあわせであるように神さまに祈っています。どうか神さまがとくべつのお慈悲を――ホセ」
「どう思う?」
「見方によっては、とても正直そうだし、おまけにホロリとさせられるところだってあるよ」
「ホロリと? こんなとんちんかんなたわごとなんかに!」
「でも、結局、自分が卑怯者だということをみずから認めているんだよ。それに彼の立場からすれば、きみだってわからんわけでは――」
しかしホリーは、わかったことを認めようとしなかった。だが、こってり厚化粧をしているにもかかわらず、赦《ゆる》す気持がそれとなく顔にあらわれていた。「わかったわよ、ホセはたしかに卑劣な男だけど、でもそれには、また事情もあるしね。キング・コングみたいな超特大の食わせものという点では、ラスティーやベニー・シャクレットとおんなじね。でも、ああ、まったく、ほんとに口惜《くや》しいったらないわ」と彼女はまるで赤ん坊が泣き叫ぶように、握り拳《こぶし》を口の中へ押しこんでいった、「あたしほんとにあんな男を好きだったのよ、あの食わせものをね」
三人のイタリア女はそれを恋人の嘆きと勘ちがいし、ホリーがうめき声をたてたのをすっかり私のせいにして、私に向ってさかんに舌打ちをした。私はついうれしくなり、ホリーが私を愛していると人に見られたことを得意に思った。私がもう一本タバコをすすめると、彼女の気持もしずまった。彼女はふかぶかと煙を吸いこんでから、こういった――
「でも、あんたのおかげよ、バスター。あんたが下手な馬乗りだったからよかったのね。あたしがまるで疫病神《カラミティ》のジェーン≠ンたいなお転婆《てんば》なまねをする必要がなかったら、きっといまごろ母子寮かなんかをさがしてるような羽目になってると思うわ。無理に体をつかったおかげで、うまく流産しちゃったのね。だけど、あたしそれをあの女刑事がぶったからだといって、警察の連中の度胆《どぎも》をぬいてやったのよ。まったく、不法逮捕のほかにまだいくつも警察を訴えてやる理由があるわ」
それまで、どちらも彼女のもっと不幸な災難に触れることをわざと避けていたのだったが、彼女が冗談まじりに警察のことを口に出すのを聞いて、私はあきれかえると同時に、哀れな感じがした。自分の前に横たわっている厳《きび》しい現実を見通す眼《め》が彼女にないことを、それはあまりにもはっきりと物語っていたからだ。こいつはおれのほうでよほどしっかりした叔父さんの立場に立たんといかんぞと思いながら、私はこういった――
「ねえ、ホリー、こんどのことは冗談どころの騒ぎじゃないよ。よくこれから先の計画を立てなくちゃいかんぜ」
「あんたはまだ若いんだから、そんなしかつめらしいこといったってだめよ。まだ子供だもん。それに、あんたにはなんの関係もないことでしょ?」
「そりゃないさ。しかしぼくはきみの友だちだからね、やっぱり心配だよ。これからきみがどうするつもりなのか、それが知りたいんだ」
彼女は鼻をこすって、じっと天井を見つめた。「ええと、今日は水曜日ね? じゃ、土曜日までここで十分に休養することにするわ。土曜日の朝になったら、銀行へとんでって、その足で寝巻を一、二枚と、あたしのマインボッヘルの服をとりにちょっとアパートへ立ち寄り、それからアイドルワイルドへ出かけるつもりよ。いつか話したように、あの飛行場へ行きさえすれば、とてもすてきな飛行機の、とてもすばらしい座席がもうちゃんと予約してあるのさ。あんたにもいろいろ親切にしていただいたから、あんただけには見送ってもらうことにするわ。ねえ、よしてよ、そんなに首をかしげるの」
「ねえ、ホリー、そんなことしちゃいけないよ」
「|どうしていけないの《エ・プルクワ・パ》? あんたはそう思ってるかもしれないけど、あたしはなにもあわててホセのあとを追うつもりなんかないわ。あたしの調べたところによると、ホセはちゃんとしたリンボヴィルの市民よ。ただ、あたら上等の切符をムダにしたくないからなのさ。とっくにおカネも払ってあるんだしね。それにあたしまだ一度もブラジルへ行ったことないでしょ」
「いったいきみはこの病院でどんな薬を飲まされてるんだね? きみはいま刑事被告人として起訴されてる身だってことわかんないのかい? もし保釈中のきみが高飛びするところをつかまりでもしたら、それこそもう二度と陽《ひ》の目は見られなくなるんだぜ。また、たとえうまく逃げおおせたにしても、もう二度とアメリカへはもどってこられなくなるんだ」
「なるほど、そりゃちょっとつらいわね。だけどまあ、どこにしろ自分がほんとにくつろげるというところが本国ってもんよ。あたしは、いまもってそういうところをさがしてるんだわ」
「とんでもない、ホリー、バカバカしい話だ。きみはもともと潔白な身なんだぜ。あくまで無罪を主張しなきゃウソだよ」
「そうね、まったくおっしゃるとおり」とひやかすようにいって、彼女はフーッと私の顔にタバコの煙を吹きかけた。しかし、彼女もさすがに心を打たれたようで、私と同じように彼女もまた大きく眼を見はり、鋼鉄張りの長い廊下の両側にならんだ、鉄格子《てつごうし》のはまった監房の扉《とびら》が徐々にしまってゆく刑務所のみじめなありさまを、まぼろしに描いているふうだった。「ちょっと、もうよしてちょうだい、そんなお話」といって彼女はタバコをもみ消した。「大丈夫、つかまりっこないわよ、あんたさえ黙っててくれればね。ほら、そんなにあたしを軽蔑《けいべつ》したような顔しないで――」彼女は片手を私の手の上におき、かぎりない真心をこめて、いきなりぐっと握りしめた。「あたし、どうやらそうするよりほかに仕方がないらしいわ。弁護士ともよく話しあってみたの。もちろん、リオ・デ・ジャネイロへ行くなんてことおくびにも出さなかったけどね――どうせ弁護士なんてもんは、バーマンの積んでくれた保釈金はさておいて、自分の謝礼をフイにするくらいなら、いっそ警察へ密告でもしたほうがましだと思ってるんだもんね。バーマンの親切にたいしてはすまないと思うわ。でも、いつか西海岸で、あたしが加勢してやったおかげで、たった一回のポーカーの勝負で一万ドル以上もうけたことがあるのよ。だから、これでおあいこだわ。あんたが考えてるのとは違って、真相はこうなのよ――警察はただあたしをちょっと二、三日拘留しておいて、証人としてサリーに不利なことをいわせようとしてるだけなのね――なにもあたしを起訴しようなんてつもりはないのよ。だって、あたしは事件にぜんぜん関係がないんだもん。ところで、あんた、いくらあたしの性根《しょうね》が腐ってても、友だちに不利な証言なんてとてもできっこないわ――たとえ、サリーがシスター・ケニーに麻薬を飲ませたという証拠を、警察があたしの眼の前につきつけたとしてもね。あたしは相手の出方によって態度を変えることにしてるのよ。そりゃむろんあのお爺《じい》さんだって、なにもタダであたしに親切にしてくれたわけじゃないわ。たとえば、ちょっとあたしを利用したりしてね。やくざはやくざでも、やっぱりサリーはいい人よ。警察があの人の尻尾《しっぽ》をつかむ手つだいをするくらいなら、あたしあのふとっちょのスパネラに殺されたほうがまだましよ」
彼女はコンパクトの鏡を顔の上にかしげ、曲げた小指で紅棒を平らにしながら言葉をつづけた。「だけど、実はただそれだけじゃないのよ。照明の色合いひとつで女優の顔色が台なしになるように、たとえ陪審の結果があたしに白と出ても、この辺ではもうあたしも芽が出っこないわ。警察はこれからさきもやっぱりラ・リューやペロナの酒場や食堂へかけてすっかり網を張ってるでしょうし――それこそフランク・E・キャンベルさんみたいな待遇をうけるにきまってるわ。ねえ、クッキー、もしあんたがあたしのような特殊の才能で生活すれば、あたしの今いってるような店じまいの意味がおわかりになるでしょ。あーあ、考えただけでもいやだ――あたしがすっかりたそがれて、ウエスト・サイドのあばずれ女たちの仲間入りをし、ローズランドあたりでパンパン稼業《かぎょう》をしてるところなんてさ。それにひきかえ、トローラーの奥方さまときたら、しゃなりしゃなりとティファニーの店にお出入りなすってるというのよ。それにまた、いつなんどきあのふとっちょのスパネラに出くわすかもしれないしね。あたしにはそんなこと、とてもがまんできないのよ」
一人の看護婦がそっと病室にはいってきて、もう面会時間が切れたと注意した。ホリーがぶつぶついいはじめると、さっそく体温計が彼女の口にさしこまれた。しかし私が別れを告げようとすると、彼女は体温計を抜いて、こういった――「ひとつおたのみしたいことがあるの。『タイムズ』かどこかへ電話をかけて、五十人ばかりブラジルきっての金満家のリストを作ってもらってくれない。あたし冗談なんかいってるんじゃないのよ。いいわね、五十人ばかしよ、人種や皮膚の色なんかどうだっていいの。ああ、それからもうひとつ――あたしの部屋をあちこちさがして、あんたからもらった聖クリストファーのメダルをみつけてくれない。こんどの旅行に持ってゆきたいから」
金曜日の夜は稲妻が光り、雷が鳴っていた。明けて彼女が出発するはずの土曜日になると、スコールさながらの土砂降りで、街じゅうがあらしにもまれていた。まるで鮫《さめ》の群れが大空をあばれまわっているようで、飛行機がこのあらしをついて飛ぶことなど思いもよらなかった。
しかしホリーは、私がそう思って心の中で手をたたいていることなどそ知らぬ顔で、旅行の支度《したく》をつづけた――といっても、実のところ、その準備の苦労の大部分を私におしつけたのだった。というのも、本人がアパートに顔を出してはまずい、と彼女が考えていたからだ。それもしごく当然だった。警察か、新聞記者か、他の関係者か、それはわからなかったが、ときには一人きりで、またときには数人で、玄関のあたりをうろつきながら彼女のアパートをたえず監視していたからだ。そこで、彼女は病院を出るとすぐ銀行へ行き、その足でまっすぐにジョー・ベルの酒場にとびこんできた。なるたけ半時間以内に、できればもっと早く、会いにきてくれ、というホリーからのことづてを持って私のところへやってきたジョー・ベルが、こういった――「あとをつけられたようすはないそうだ。来るとき、あの娘《こ》の宝石類やギターや歯ブラシ、それから洗濯物《せんたくもの》を入れる籠《かご》の底にかくしてある百年もたった一本のブランデーを持ってきてくれるようにといってたよ。そうそう、それから猫《ねこ》もね。その猫をほうっとくわけにはいかんのだとさ。でも、はたしてあの娘《こ》の手伝いをしてやるのがいいものかどうか、こいつは考えもんだぜ。あの娘の意に反してでも引留めてやるのが当然だと思うんだ。わしとしては、むしろ警察へでも密告してやりたいような気さえするよ。もしかしたら、これから帰って、あの娘《こ》につぎつぎと酒をすすめ、すっかり酔っ払わせて、出発をとりやめにさせるようにひと骨折ってみるかもしれんよ」
私はころんだりすべったりしながら、非常階段を上り下りして、ホリーの部屋と私の部屋のあいだを往復した。風に吹きまくられ、息を切らし、骨の髄までぐしょぬれになって、(おまけに骨に達するほど爪《つめ》でぐさりとひっかかれた。というのも、猫のやつが無理にこんな悪天候をおかしてまで立ちのくのをいやがったからだ)とにかくどうにかさっさと手際《てぎわ》よく彼女の手まわりの品々をとりまとめ、聖クリストファーのメダルまでみつけだした。それらの品物をひとまとめにして私の部屋の床の上に山とつみ上げ、胸をしめつけられるような思いをしながら、ブラジャーだの、ダンス靴《ぐつ》だの、その他の美しい衣類だのを、ホリーの持っていた、たった一つのトランクの中へ詰めこんだ。しかし、それでもまだはいりきらぬものがどっさりあったので、それらを食料品屋の紙袋の中に入れた。さいごに、どうして猫をつれていったらいいのか思案にくれたが、ふと思いついて、枕《まくら》カヴァーの中にそいつを押しこむことにした。
その理由はきかないでほしいが、私はかつてニュー・オーリンズからミシシッピー州のナンシーズ・ランディングまで、五百マイルちょっと切れるほどの道のりをてくてく歩き通したことがある。しかしそれでも、あらしの中をジョー・ベルの酒場まで出かけたのに比べたら、鼻唄《はなうた》まじりの旅であった。ギターには雨水がいっぱいはいるし、雨でぐしょぐしょになった紙袋が裂けて香水は舗道にこぼれるし、真珠はコロコロと人道と車道の間のみぞの中へころげこむ始末だった。おまけに、風にあおられて猫まで暴《あば》れだし、ひっかくやら鳴きたてるやらの大騒ぎだった――だが、さらに困ったのは、私がホセと同じく臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれて、すっかり怖気《おじけ》づいたことだった。眼にこそ見えないが、街のいたるところに大勢の警官が待伏せしていて、私を無法者を幇助《ほうじょ》したかどで逮捕し、投獄するのではないかという気がしたからだ。
「おそかったわねえ、バスター。ブランデーは持ってきてくれた?」と無法者がいった。
猫は放たれると、さっそくとび上がって彼女の肩にのり、まるで狂想曲を指揮するタクトのように尻尾をふり動かしていた。ホリーまでがウンパーパーと、節おもしろく何か船出の曲でも心の中で口ずさんでいるように見えた。ブランデーの栓《せん》を抜いて彼女はいった。
「これはあたしの嫁入り箱の中へ入れとくつもりだったのよ。毎年、結婚記念日に二人で一杯やるつもりでね。まだ嫁入り箱を買ってなくてよかったわ。ねえ、ベルさん、三杯たのみます」
「二つでたくさんだよ。あんたがバカなまねするのを祝って乾杯なんかできるかってんだ」とジョーがいった。
「でも、ベルさん、そう毎日ご婦人がさよならをするわけじゃないでしょ。たまに乾杯ぐらいしてくれたっていいじゃないの」
彼女が機嫌《きげん》をとればとるほど、ベルはつっけんどんになった。「なにもわしの知ったことじゃないよ。地獄へ行きたきゃ、自分勝手にさっさと行くがいいさ。もうこれ以上のお手つだいは真っ平だ」しかしその言葉は、とぎれとぎれにしか聞えなかった。というのも、彼がそういうかいわないうちに、一台の自動車がバーの前にぴたりととまったからだ。ホリーがいちはやくそれに気づいて、ブランデーのグラスを下に置き、これはてっきり地方検事だというように眉《まゆ》をピクリとつり上げた。私もそうにちがいないと思った。それからジョー・ベルがパッと顔を赤らめたのを見て、さてはほんとに警察を呼んだのかな、と思うしかなかった。しかしそのとき、ジョーが耳の付根まで真っ赤にしてこういった――「なにもおどろくことはないよ。ケアリーのところからキャデラックを一台まわしてもらっただけさ。金はわしが払うよ。あんたたちを空港まで送りとどけてやろうと思ってね」
ジョーは私たちに背を向けると、生花の一つをいじくりはじめた。
「ご親切にどうも――ねえ、ベルさん、ちょっとこっち向いて」
ジョーは頑固《がんこ》に向うを向いたまま、花瓶《かびん》の花をむしりとり、それを彼女目がけて投げつけた。的は外《はず》れて花がパラパラと床の上に散らばった。「さよなら」といいすてると、彼は吐き気でも催したようにあわてて男便所のほうへかけ出した。ドアに掛け金をかける音が聞えた。
ケアリーの店の運転手は如才のない男で、ホリーのぞんざいにつくった手荷物をいともいんぎんに受取り、小降りになってきた街なかを上手《かみて》に向って風を切りながら走る車の中で、ホリーがそれまで着換えるチャンスのなかった乗馬服をぬいで、すらりとした黒のドレスにあたふたと着換えるあいだも、前を向いたまま石のように眉ひとつ動かさなかった。私たちは二人とも黙りこくっていた。口をきけば、また言い争いになるにきまっていたからだ。それにまた、ホリーは何かに気をとられて話などする気がなさそうだった。彼女はひとりで鼻唄をうたい、ブランデーをあおり、前のめりになって、たえずじっと窓の外を見やっていた。それは誰《だれ》かの家をさがしているようでもあり、また見方によっては、さいごの見おさめに、なつかしい街の姿をしっかり眼《め》に焼きつけておこうとしているようでもあった。だが、この推察はどちらもあたっていなかった。「あ、ちょっとここでとめて」と彼女は運転手に命じた。車はスパニッシュ・ハーレムの路傍にとまった。このあたりは映画スターだのマドンナだのの肖像入りのポスターがそこいらじゅうにベタベタと貼《は》ってある、粗野で、いやに派手な、陰気な感じのするところだった。歩道には果物の皮だの新聞紙の屑《くず》などがいっぱい散らかっていて、それが風に舞っていた。雨はやんだが、風はまだ強く、ところどころ雲の切れ目から青空がのぞいていた。
ホリーは猫を抱いて車を降り、頭をなでてあやしながらいった――「どう? ここならおまえみたいなしっかりものには打ってつけじゃないかい。ゴミ箱もあるし、ネズミもどっさりいるしさ。一緒にのし歩く野良猫《のらねこ》の仲間もたくさんいるよ。さ、とっととどこへでもお行き」そういって猫を下におろしたが、猫は立ち去りもしないで、獰猛《どうもう》な顔を上げ、黄色っぽい海賊みたいな眼で、さももの問いたげにじっと彼女を見上げた。彼女は、地団駄《じだんだ》をふんでいった――「さっさとお行きったら!」猫は彼女の脚《あし》に体をこすりつけた。「お行きったらお行きよ」と叫んで、彼女は車にとびこみ、バタンとドアをしめて、運転手にこう命じた――「さ、出してよ、早く、早く」
私はあっけにとられた。「おどろいたね、ずいぶんひどいことをする女だ」
車が一|街区《ブロック》ほど走ってから、やっと彼女が口を開いた――「いつかお話ししたように、あたしたちはある日、河のほとりで偶然出くわしただけのことよ。ただそれだけの縁なの。だから、おたがいにどうしようと勝手ってわけさ。なにひとつ約束しあったってわけじゃないんだからね。あたしたちは一度も――」そこまでいって、彼女は声をつまらせた。ピクピクと頬《ほお》をひきつらせ、いかにも病み上がりらしい蒼白《あおじろ》い色を顔にうかべた。車はとまって信号灯の変るのを待っていた。すると、彼女がいきなりドアをあけて通りへとび出していった。私もさっそく彼女のあとを追った。
さっきの街角まで引返してみたが、猫の姿は見えなかった。通りはガランとしていて、立小便をしている一人の酔払いと、一列になってかわいい声で讃美歌《さんびか》をうたっている子供の群れをひきつれた二人の黒人の尼僧《にそう》がいるきりだった。ほかの子供たちが戸口から顔を出し、女たちは窓から体を乗り出して、ホリーが「ネコちゃん、おまえどこへ行ったの?出ておいで、ネコちゃん」とくりかえしながら、通りをあちこちとかけずりまわっているのをながめていた。彼女がそうしているうちに、顔面のでこぼこした一人の少年が、老いぼれた牡猫《おすねこ》の首すじをつかんでぶら下げながら、こっちへやって来た。「かわいい猫がほしいんだろ、お姉ちゃん? 一ドルにしとくよ」
車も私たちのあとを追ってきていた。私はホリーをそのほうへ連れていった。ドアのところで彼女はどうしようかと迷い、私と、それから猫を買ってくれとしつこくあとについてきた子供の肩越しに、向うをながめていた。「半ドルにするよ。なんだったら二十五セントでもいいさ。そんなら高かないだろ?」
彼女は身ぶるいし、危うく倒れそうになって、私の腕につかまった――「ああ、しまったことしちゃった。あたしたちはどうしても離れられない間がらだったのよ。あの猫はあたしのものだったんだもん」
そこで、私はあとでまたここへやってきて、猫をみつけてやるから、と彼女に約束した。「――猫の世話もぼくが引受けるよ」
彼女はかすかに笑った。これまで見せなかった、弱々しい、影のような微笑だった。「でも、あたしの身はどうなるのかしら?」とささやくようにいって、また身をふるわせた。「あたし、なんだかとてもこわくなってきたのよ、バスター。そうなの、いよいよの土壇場《どたんば》へ来てね。だってこんな心細い気持がいつまでつづくか知れないもん。サイコロを振ってみて初めて自分の気持がわかるのね。いつもの|いやな赤《ヽヽヽヽ》なんて、これに比べたら問題じゃないわ。あのふとっちょのスパネラのことだってそうよ。だけど、この気持は――口がかわいて、どうしてもうまくいい表わせないけど」彼女は車の中へはいって、座席に身を沈めた。「すまなかったわね、待たせて。さ、走らせてちょうだい」
「トマト一味の美女行方不明となる」とまず新聞に出て、それから「麻薬事件の女優、ギャングの犠牲か」という記事がのった。しかし、ほどなくそれは「逃走中の浮れ女、リオへ高飛び」と変った。だが、アメリカの官憲当局がべつだん彼女を引戻《ひきもど》そうとした気配はなかった。やがてこの事件の取《とり》沙汰《ざた》もだんだん立消えになり、ただときおり、ゴシップ欄にのるぐらいなものとなった。それがニュースとしてふたたび取上げられたのは一度だけだった。クリスマス当日に、サリー・トマトがシング・シング刑務所で心臓|麻痺《まひ》のためにポックリ死んだからだ。月日がたち、冬を迎えたが、ホリーからは何の便りもなかった。アパートの持主は彼女の置きざりにした家財道具――真っ白いサテンのような塗りのベッドや、つづれ織りの壁掛や、彼女が大事にしていたゴシック風の椅子《いす》など――を売りはらった。クウェインタンス・スミスという青年が、あらたにその部屋を借り受けた。青年もやはりホリーとおなじように、騒々しい男の訪問客を何人となくもてなしていた――だが、こんどはマダム・スパネラも文句をいわなかった。それどころか、この青年をえらくかわいがって、彼が殴られて眼のまわりに黒あざができたりするたびに、ヒレ肉の料理をもっていってやったりしていた。しかし、春になってやっと一枚のハガキが届いた。鉛筆の走り書きで、サインの代りに口紅がおしてあった。
「ブラジルはひどいところだけど、ブエノス・アイレスだけはとてもすてきだわ。ティファニーほどじゃないけど、まあ、それに近いくらいね。すてきな旦那《だんな》とくっついちゃったのよ。恋かって? そうかもしれないわ。とにかく今どこか落着くところをさがしてるの(なにしろ旦那には奥さんと七人の子供がいるのでね)きまりしだい住所をお知らせします。
|かしこ《ミル・タンドレス》」
しかし、彼女の住居はどうやらきまらなかったらしく、それっきり何の通知も来なかった。これには私もがっかりした。彼女に知らせたいことがいろいろあったからだ。たとえば、私の書いた小説が二つも売れたとか、トローラー夫妻の間に離婚訴訟がもちあがっている記事が出たとか、このアパートにお化けが出るので、近く私がここを出るつもりだとか、そういったようなことだった。しかし、いちばん彼女に知らせてやりたかったのは、れいの猫のことだった。私は彼女との約束を守って、ついに猫を発見したのだった。仕事がすむと家を出て、数週間もスパニッシュ・ハーレムの通りをあちこちさまよい歩いた。その間にいくどだまされてハッとしたか知れなかった――虎猫《とらねこ》の姿をちらと見かけたと思い、急いでかけつけてよく見ると、そうではなかった、というようなことがいくどもあった。しかし、冬の寒い、晴れた、ある日曜日の午後、やっと彼を見つけ出したのだった。両わきに小ざっぱりしたレースのカーテンが下がっている、鉢植《はちう》えの草花のあいだに、彼はうずくまっていた。見るからに温かそうな部屋の窓わくの上であった。彼にどんな名前がつけられたのかしら、と私は思った。安住の場所を得た彼に名前のついていないはずはなかったからだ。アフリカの掘立小屋だろうがなんだろうが、ともかくホリーにもどこか安住の地があってほしいもんだ、と私は心に祈った。
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わが家は花ざかり
「ね、あんたったら、このポート・オー・プリンスで、いちばん果報者だったはずよ」とベイビーがオティリーにいった。「だってさ、あんたの身のまわりにあるもの見てごらんなさい、なにもかも鼻を高くするようなもんばかしじゃないの」
「たとえば、どんなもの?」とオティリーはカマをかけた。彼女は見栄坊《みえぼう》で、豚肉より、香水より、ほめられることが好きだったからだ。
「だいいち、あんたは器量よしでしょ」とベイビーがこたえた。「肌《はだ》は白くてきれいだし、眼《め》もちょっと海の色みたいでさ。おまけに、とっても男好きのするかわいい顔してんだもの――それにまた、この通りで、あんたほどいつもしょっちゅうお客のある者は一人もいやしないわ。だれだってあんたになら、喜んでいくらでもビールをおごりたくなるのよ」
「ま、そういえばそうね」とオティリーはうなずいてニッコリしながら、胸の中で自分の身上《しんしょう》のありたけを一つびとつかぞえあげてみた――絹のドレスが五枚に、緑色のサテンの靴《くつ》が一足、一本が一万フランもする金歯が三本。それに、ジェイミソンさんかだれかが、いまにきっともう一つ腕輪も買ってくれるだろうし……。
「でもね、ベイビー……」彼女は溜息《ためいき》をもらしたが、自分の心の底にある満たされぬものまでは打明ける気になれなかった。
ベイビーとは大の仲好しで、そのほかにロジータとも親しかった。ベイビーは歩くよりコロコロ転んだほうが早いほどふとっていて、中古の指輪をはめたあとが、むっちりした指の幾本かに青々とのこっていた。歯がまるで焼けぼっくいみたいにどす黒くて、笑い声をたてると、お客の船乗りたちが、これならけっこう荒海に出ても聞きとれるわい、というほどその声がかん高かった。
片ほうのロジータは、たいていの男に負けぬほど背が高く、がっしりしていた。それが夜ともなって客のまえに出ると、えらくおしとやかになり、いやに甘ったるい、蚊の鳴くような舌足らずの口をきくのだが、昼間だと、ノッシノッシと大股《おおまた》で歩き、軍人そこのけの低音《バリトン》でベラベラとまくしたてるのだった。
ベイビーもロジータも、ともにおとなりのドミニカ共和国生れだったので、ハイチの女より自分たちのほうがひときわ垢《あか》抜けているのがあたりまえだ、とあたまからきめこんでいたが、おなじハイチの女でも、オティリーだけは別物だと思っていた。
「あんた、あたまがいいわね、オティリー」
ベイビーはよくそういったが、たしかにその点で、彼女はやたらとオティリーに好感をよせているのだった。オティリーはこの二人に、自分が読み書きのできないのをさとられはしまいかと、ひやひやすることがよくあった。
彼女たちが住込みで働いている家は教会の尖塔《せんとう》みたいにひょろ高く、バルコニー一面にからみついたブーゲンビリアで人目をかくした、ガタガタの建物だった。表に看板こそ出していなくても、ここは「シャンゼリゼ」の名で通っていた。
女将《おかみ》はちょっと未婚の年増《としま》といった感じの、息苦しい顔をした、病弱な女で、二階の一室に閉じこもり、そこからあれこれと采配《さいはい》を揮《ふる》っていた。自分の部屋にはいったきり、揺り椅子《いす》で体《からだ》をゆすぶりながら、一日に十本から二十本のコカ・コーラをあけていた。ここでは全部で八人の女を置いていた。
オティリーをのけると、みんな三十を出た女ばかりだった。彼女たちは夕方になるとそろって玄関先へ出てきて、そこでおしゃべりをしながら、とまどった蛾《が》でも羽ばたくようにパタパタとうちわを使っていたが、そのなかでオティリーは、ずっと年上の不器量な姉たちにとりかこまれた、夢見がちな、愛くるしい子供といった感じだった。
母親にはやく死にわかれ、農場をいとなんでいた父親もフランスへ引揚げてしまったので、オティリーは、山里の、がさつな貧農の家で育てあげられた。この一家の息子たちはみんな早熟で、めいめい彼女をどこかの木かげに連れこんで、草をまくらに交わりをむすんでいた。
三年ほどまえ、十四の年に、彼女ははじめて山里からポート・オー・プリンスの市場へ物売りに出てきたのだった。二日とひと晩がかりで、十ポンド入りの穀物袋を背にトボトボと歩いてきた。荷をかるくするため、彼女は途中でその穀物をすこしずつこぼしこぼししてきたので、市場にたどりついてみると、袋はあらかたからっぽになっていた。売上げ金も持たずに帰ったら、家の者にどんなに叱《しか》られるだろう、そう思ってオティリーは泣いた。
だが、それも束《つか》の間《ま》だった。世にも親切なおじさんが現われて、彼女の急場を救ってくれたからだ。その人はココヤシの実をひと切れ買ってくれたうえ、自分の従妹《いとこ》のところへ連れていってくれた。それが「シャンゼリゼ」のいまの女将《おかみ》だったのである。オティリーには自分の幸運が夢かと思えるほどだった。彼女は自分の部屋にある電球がふしぎで、いつまでも飽かずにパチパチつけたり消したりしていたが、ジュークボックスから流れ出る音楽も、サテンの靴も、冗談をとばすお客も、それにおとらずふしぎな驚きだった。
やがて、彼女はこのかいわいきっての美人とうたわれるようになり、女将《おかみ》は客に二倍の玉代《ぎょくだい》をふっかけることができた。オティリーもいきおい取りすましたようすをするようになり、鏡のまえで何時間もあきずに|しな《ヽヽ》をつくったりした。されば、山里のことを思い出すことなどめったになかった。そのくせ、三年たっても、やはり山家《やまが》育ちのところがずいぶんのこっていた。いまだに山風に吹きさらされている感じで、かたく盛りあがったお尻《しり》の肉もやわらかくならなかったし、足の裏もトカゲの皮みたいにコチコチだった。
仲間の女たちが色恋の話だの、かつて自分が熱をあげた男のおのろけだのをもち出すと、彼女は眉根《まゆね》をよせて、
「惚《ほ》れるって、いったいどんな気持なの?」ときいた。
「そうねえ、まあいってみると、心臓のうえにヒリッと胡椒《こしょう》をふりかけられたみたいな――血管のなかで小魚がピチピチはねまわってるみたいな、そんな感じなのよ」
ロジータがうっとりと眼を閉じながらそう答えた。
オティリーはかぶりを振って、
「もしそれがほんとなら、あたいまだ恋なんてしたことないんだわ。だって、うちへ遊びにくるお客さんのだれにも、そんな気をおこしたりしたことなんか一度もないもん」
それからというもの、ロジータの言葉がどうにも気になってしかたがないので、とうとう彼女は、この街のすぐ上の山の中に住む、一人のウンガンのところへ出かけてみた。
オティリーは仲間の女たちとちがって、聖書の画《え》などを自分の部屋の壁に鋲《びょう》でとめたりはしなかった。彼女は、唯一《ゆいいつ》の神ではなくて、いろいろの神さまを信じていた。それは食物、光、死、破壊などの神さまだった。
そのウンガンは、そういう神さまとじきじきに言葉をかわすことができた。祭壇のおくに神々の御魂《みたま》をまつり、カラカラというヒョウタンの音でその御声《みこえ》を聞き分け、御力《みちから》を水薬の中に盛ることもできた。ウンガンは神さまにおうかがいをたててから、そのお告げを彼女にこうつたえた――
「ええかの娘さん、野原にいる蜂《はち》を一ぴきつかまえ、それをじっと掌《て》の中ににぎっていてごろうじろ。それでも刺さなけりゃ、おまえさんにええひとがでけたしるしじゃよ」
かえる道すがら、彼女はジェイミソンさんのことをあたまに浮べていた。彼は五十の坂をこしたアメリカ人で、土木工事に関係していた。いま自分の手首でチャリチャリと鳴っているこの腕輪も、みんなあのひとからの贈物だ。スイカズラの花が真っ白く雪のように咲きこぼれている生垣《いけがき》の横をとおりながら、結局、あたいはジェイミソンさんが好きなんじゃないかしら、と彼女は思った。真っ黒い蜂の群れがスイカズラの上に、花づなのようにとまっていた。
彼女は思いきって、いきなりさっと腕をのばし、花のうえでまどろんでいた一ぴきをひっつかんだ。ジーンと、まるで焼け火箸《ひばし》をつかんだみたいだった。ドスンと思わず膝《ひざ》をついたまま、彼女はおいおい泣きだした。そして、しまいには、掌をやられたのか、眼を刺されたのか、自分でもよくわからなくなってきた。
三月にはいると、どこもかしこも謝肉祭《カーニヴァル》の支度《したく》にかかっていた。「シャンゼリゼ」でも、女たちはせっせと仮装服をぬっていた。手もちぶさたなのはオティリーひとりだった。仮装服なぞいらぬ、と彼女は心にきめていたからだ。前祝いの週末になると、月の出とともに太鼓の音が鳴りわたった。
彼女は窓べにすわったまま、歌い手たちの小さな行列が踊ったりドラムをたたいたりしながら街を練ってゆくのを、うつろな眼でぼんやりながめていた。口笛や笑い声に耳をかしてはいたが、その仲間に加わる気にはなれなかった。
「そんなとこでぼんやりしてたら、きっとだれかがあんたのことをよぼよぼ婆《ばあ》さんだと思うわよ」とベイビーはいうし、ロジータも口を出して、「ねえ、オティリー、どうしてあたいたちと一緒に闘鶏を見にいかないの? だって、こんどのはいつものとちがうのよ」といった。
この島のいたるところから、闘鶏師たちがそれぞれ自慢の軍鶏《シャモ》をかかえて集まっていた。オティリーも出かける気になって真珠の耳飾をつけた。行ってみると、勝負はすでにはじまっていた。大きなテントの中には、山のような見物人が泣いたりわめいたりしていた。そのほかのはみ出した連中は、テントのまわりに黒山を築いていた。しかし「シャンゼリゼ」からお出ましのご婦人がたは、入場になんの苦労もなかった。なじみのお巡《まわ》りさんが一人いて、通路をあけてくれ、リングのそばのベンチに席をとってくれたからだ。
粋《いき》な身なりのご婦人連が思いがけなく自分たちのすぐわきに陣取ったので、田舎《いなか》の人たちはなんとなく間《ま》がわるいらしく、ベイビーの赤くぬった爪《つめ》や、ロジータの挿《さ》した、模造ダイヤの光っている櫛《くし》や、オティリーの光沢のある真珠の耳飾などをそっとながめやっていた。しかし勝負がヤマにさしかかると、かれらもいつしか女たちのことを忘れてしまった。
ベイビーは、こんなはずはないがと業《ごう》をにやして、だれかこっちへ色目を使ってはいないかと、あたりをキョロキョロ見まわしていた。と、いきなり、彼女は肱《ひじ》でオティリーを小突いた。
「ちょっとオティリー、あんたに見とれてるのがいるわよ。ほら、あそこにいる若いのさ。冷たい飲物に見とれるような眼で、あんたばっかり見てるじゃないの」
オティリーははじめ、それがどこかで見たことのある顔だなと思った。相手が、おぼえてるだろうといわんばかりの顔つきで、こちらをじっと見つめていたからだ。でも、あたい、あんなひと知ってるわけないわ。だってあんなすてきな顔をした、あんな脚のすらっと長い、あんなかわいい耳のひとに、まだ一度だって出会ったことないもん、と彼女は思った。
彼女にはひと目で、彼が山里の出だとわかった。田舎風の麦ワラ帽子と、はげちょろけの青い厚手のシャツだけを見てもそれはたしかだった。顔は赤味のさしたショウガ色で、肌《はだ》にはレモンのようなつやと、バンジローの葉のようなすべすべした感触があった。ちょっと首をかしげたところは、両手にかかえている赤と黒の軍鶏のかっこうそっくりで、いかにも利《き》かぬ気らしかった。
ふだんなら、平気で男に大胆な笑顔を見せるオティリーも、こんどは勝手がちがって、ただちらとほほえんだきりで、その微笑さえ、ケーキのこぼれ屑《くず》みたいに、途中でぴったり口もとにへばりついてしまった。
そのうちにやっと中休みがきた。闘鶏の道具立てが取払われると、出られるものはみな、どっとリングに殺到した。と同時に、ドラムと絃楽器《げんがっき》のオーケストラが威勢よくカーニヴァルの曲をかなではじめた。みんなはそれに合せて踊ったり、足拍子をとったりしはじめた。それを待ってたという顔で、さっきの若者がオティリーのそばへ寄ってきた。彼女は、軍鶏がオームみたいに、ちょこなんと彼の肩にとまっているのを見て、思わずふきだした。
「おまえさん、あっちへ行きな」
と、ベイビーがきめつけた。土百姓のくせに、オティリーにダンスを申込むなんてけしからん、と思ったのだ。
ロジータもすっくと居丈高《いたけだか》に立ちあがって、若者とオティリーのあいだに割ってはいった。
「すまんけどな、小母《おば》さん、おらあ、あんたの娘さんとちょっぴり話がしてえんで」
オティリーは曲のリズムに合せて自分の体がふわりと抱き上げられ、自分のお尻《しり》が男のお尻にふれ合うのを感じたが、彼女は少しも気にしなかった。リードされるままに、いちばん踊り手が混《こ》みあっているさ中へ割りこんでいった。
「ちょっとお、さっきのいいぐさ聞いた? あいつったら、あたしをあの娘《こ》のお袋さんだと思ったらしいわ」とロジータがぼやいた。
すると、ベイビーが慰め顔で、苦々しげにいった――
「結局、こっちでためを思ってやるだけムダさ。どうせハイチの田舎もんだもん、あの二人ともさ。あの娘《こ》がもどってきたら、赤の他人みたいにツンとしててやろうよ」
ところが、あいにくオティリーは二人のところにもどってこなかった。
「おらの名はロイヤル、つまりロイヤル・ボナパートっていうだよ。ダンスはもうここいらで切りあげて、どっか静かなところをぶらつくべえよ。さ、おらの手をとりな、連れてってやるから」と若者が誘った。
彼女は相手を妙な人間だとは思ったが、一緒にいて妙な感じはちっともしなかった。自分にも山家《やまが》育ちの気分がのこっていたし、相手もおなじ山家育ちだったからだ。男は女の手をとり、虹《にじ》のような羽根色の軍鶏をゆらゆらと肩にのっけたまま、テントを出て、ぶらぶら白い道をたどり、やがて柔らかい草の生《は》えた小道を伝っていった。道ばたへかしいでいるアカシヤの樹《き》の茂みをぬって、黄金色の鳥がパタパタと飛びまわっていた。
「おらあ、今日はこっぴどい目にあっただ」と男が、ひどい目にあったらしくもない顔つきでいった。「おらが村じゃあ、このジューノが大関なんだけど、この辺の軍鶏ときたら、強くってたちの悪いやつばっかりでな。あのまんまほうっといたら、いまごろジューノはくたばってるにきまってるだ。そんで、おいらは引揚げることにして、村さけえったら、こいつが勝ったと触れとくだ。やい、オティリー、嗅《か》ぎタバコを一服やらねえかよ?」
オティリーが吸うと、くさめまでがなまめかしかった。嗅ぎタバコの匂《にお》いで、みじめだった幼い日のことを彼女は思い出した。郷愁が、遠くから魔法の杖《つえ》でさわられたみたいに、彼女の胸によみがえってきた。
「ねえ、ロイヤル、ちょっと待って。あたいいま靴《くつ》をぬぐから」
ロイヤルはもとよりはだしだった。ほっそりした小麦色の足はいかにも軽快そうで、その足形は、ちょうどきゃしゃな獣の足跡そっくりだった。
「いってえ、なんだってこんな港町なぞに住んでるだ、よりによってこんなところによお。ろくなもんひとつねえし、ラム酒もまずいし、おまけに、どいつもこいつも泥棒《どろぼう》ばっかりの土地によお。どうしておめえ、こんなとこにいるのかよお、オティリー?」
「そりゃ、あたいだってやっぱり、おまえさんとおんなじに、食べてゆかなきゃなんないし、この町にちょうど働き口があったからなのよ。あたいは、あの――つまり、ホテルみたいなとこで働いてんのよ」
「おらは自分んちの畑を持ってるだ、ぐるっと丘のかたわらによお。おらの家はその丘のてっぺんの涼しいところにあるだ。なあ、オティリー、おらのとこへ来て、うちの中でゆっくりしねえかよお?」
「本気、それ? どうせウソでしょ」
と、相手をからかっておいて、彼女はいきなり林の中へかけこんだ。
男は、捕虫網を持って蝶《ちょう》のあとを追いかける子供のように、両手をまえにつき出して、女のあとを追った。肩にのっていたジューノがバタバタと羽ばたき、ケッケッと鳴きながら、地上にパッと飛びおりた。
チクチクする落葉や毛皮のようなコケが、日陰や木陰をひろって小鹿《こじか》のように飛んでゆくオティリーの足の裏をくすぐって、なんともいえぬいい気持だった。そのうちに、彼女は一面に土をはっている紅シダのなかにいきなり足をふみ入れて、かかとにトゲを刺し、どっと地上に倒れた。女は痛さに身をすくめながら、男にトゲを抜いてもらった。男は女の足の裏の傷あとに唇《くちびる》をおっつけた。男の唇は女の両手から喉《のど》へとはい上がっていった。女の体はまるで落葉にのってふんわりと漂っているかのようだった。女は男の匂いを吸いこんだ。暗い清らかな匂いであった。それは大木やゼラニュウムなど、あらゆる生物の根元から発散するあの匂いと同じたぐいのものであった。
「もう、それくらいで、かんべんしてよ」
と、切なそうに口先ではいったが、女はまだシンからたんのうしたというわけでもなかった。女の心臓があわやつぶれそうになったのは、男と一時間ももつれあっていたそのあげくであった。そのときには、男もひっそりとなって、髪の毛のチカチカする頭を女の心臓のうえにやすめていた。
女は眠っている男の眼《め》のまわりにまつわりつくブヨを「シッー!」と声をかけて追い払ったり、また、男のまわりをふんぞりかえって歩きながら空を仰いでトキをつくるジューノを、「シッ、シッ!」と追い払ったりしていた。
そこで横になっているあいだに、オティリーは、こないだ自分をひどい目にあわせた蜂《はち》が群がっているのに気がついた。蜂の群れはアリのような行列をつくって、羽音ひとつたてずにゾロゾロとはいずりながら、彼女からさほど離れていないボロボロの切り株から、出たりはいったりしていた。
彼女は自分の体からそっとロイヤルの両腕を外《はず》して、かたえの地面をならし、その上に彼の頭をおろしてやった。
蜂の通路にあたるところへ手をおくとき、彼女の手はおそろしさにふるえていた。先頭の蜂がころげころげ、彼女の手のひらの上へはいあがった。彼女は手のひらを閉じたが、蜂はべつだん刺すようすもなかった。彼女は、念のために、十かぞえてから、手をひらいた。すると蜂はさもうれしそうに羽根を鳴らして、ぐるぐると螺旋《らせん》を描きながら空へまいあがっていった。
女将《おかみ》はこともなげにベイビーとロジータにいった――
「ほっときなよ、あんな娘《こ》なんか。出て行かしときゃいいさ。なあに、二、三週間もしたら、きっとまた舞いもどってくるわな」
だが、それは負けおしみだった。さっき女将はオティリーに、勝負はこちらの負けだという顔で、こう泣きを入れたばかりのところだった――
「ねえ、オティリー、おまえさんさえうちにいてくれるつもりなら、うちじゅうでいちばんとっときの部屋もあげるし、また金歯も入れたげるし、コダックだって扇風機だって買ったげるよ」
オティリーは、しかし、眉《まゆ》ひとつ動かさないで、自分の持物をせっせとボール箱にしまいつづけていた。
ベイビーもわきから手をかそうとしたが、おいおいとしゃくりあげてばかりいるので、オティリーは手伝うのをやめてもらうしかなかった。だって、花嫁の持物にポタポタ涙をおとされたのでは、縁起がわるいにきまっているからだ。
ロジータにも、オティリーはいった――
「ねえ、そんなところにぼんやりつっ立って、かなしそうに手を絞ってばかりいないで、あたいにお祝いのひとこともいってくれるのがほんとじゃないの」
ロイヤルがオティリーのボール箱を肩にのっけて、彼女をうながしながら、夕やみの中を山道に向ったのは、闘鶏の催しがあってからわずか二日目のことであった。
オティリーがもう「シャンゼリゼ」にいないとわかると、客の中には河岸《かし》を変えるものが多かった。また、あいかわらず通ってきてくれる客も、なんとなく底の気分がしめっぽくなったとこぼしていた。どうかすると、女たちにビール一本もおごってくれる客がないというような、しけた晩さえあった。オティリーはもう店へもどってこないのではないかという感じが、だれの胸にもあたまをもたげはじめた。やがて六カ月をすぎると、女将がいった――
「あの娘はきっと死んじゃったにちがいないよ」
ロイヤルの住居はさながら花でつくられているみたいだった。屋根は藤《ふじ》の花でおおわれ、窓という窓にはブドウの蔓《つる》がすだれのようにしげり、戸口には百合《ゆり》の花が咲きにおっていた。丘の上だったので、遠くかすかに海のきらめきを望むこともできた。山の陽《ひ》ざしは焼けつくようだったが、日陰はひんやりしていた。
家の中はいつもほの暗くて涼しく、壁にはられた桃色と緑色の新聞紙が、サラサラと風に鳴っていた。ひと間《ま》きりで、家具は料理用のストーヴが一つと、大理石の板をのせたテーブルが一脚と、その上にのせたシーソー板式の鏡台と、ふとっちょでもゆうに三人は寝られそうな、真鍮《しんちゅう》のベッドが一つあるきりだった。
オティリーは、しかし、このすてきなベッドで眠らなかったばかりか、その上に腰をおろすことさえ禁じられていた。それはロイヤルの祖母にあたるボナパート婆《ばあ》さんの持物だったからだ。
老婆《ろうば》は小人のように外鰐《そとわに》足で、頭が禿《はげ》タカのようにはげ上がった、焦《こ》げたように色のどす黒い、ずんぐりした女だったが、呪術師《まじないし》として、このぐるり一帯、数マイルにわたって、たいへんにうやまわれていた。この老婆の影が自分のうえに落ちるのさえ、怖《おそ》れているものがたくさんいた。
ロイヤルでさえも、祖母には一目おいていた。彼はへどもどしながら、自分の嫁を連れてきたとつたえた。すると、老婆はオティリーをそばへさしまねいて、彼女の体をところきらわず、ちょいちょいと黒アザのできるほどきつくつねりまわしたあげく、孫に向っていった――
「この嫁はえらくやせこけたおなごじゃの。きっと、初産《ういざん》で母子《おやこ》とも死ぬぞえ」
毎晩、若夫婦は老婆が寝しずまったらしいのを見とどけたうえで、むつびあった。二人ならんで粗末なワラぶとんの上に、月の光をあびながら横になっているとき、オティリーは、たしかに老婆が眼をあけてじっとこちらをうかがっているにちがいない、と思うようなことがときどきあった。いちど、彼女は星の光を宿したような、ねちゃねちゃした老婆の眼が一つ、闇《やみ》の中で光っているのを見たような気がした。だが、それを夫にこぼしてみても、はじまらなかった。彼はただ笑って、
「なあに、年寄りがちょっとぐれえのぞきたがったって、ちっともかまやしねえさ。ばあさまだって若えとき、さんざ身におぼえがあるんで、もう少し見ときたいだろうでな」
なにしろ亭主《ていしゅ》に首ったけなので、オティリーはなにひとつ文句もいわず、老婆にもつとめて腹の虫をころすようにしていた。彼女にとって幸福な日がつづいた。
彼女は親しい仲間たちやポート・オー・プリンスでの生活に、うしろ髪を引かれるようなこともなかった。とはいうものの、やはりそのころの思い出の品々は、ちゃんと手入れをして、大事にしまっておいた。結婚祝いにベイビーからもらった裁縫籠《さいほうかご》を持ち出して、絹のドレスや緑色の絹のストッキングをつくろったりした。だが、今ではそんなものも無用だった。だいいち、そんなものを着てゆくところがなかった。村の酒場に集まったり、闘鶏の催しに出かけたりするのは男たちばかりだった。おしゃべりがしたくなると、女たちは谷川のほとりの洗濯場《せんたくば》へ出かけるのであった。
だが、オティリーは忙しくて、さびしい思いをするひまなぞなかった。夜が明けると、さっそくユーカリの落葉をかき集めて火をたきつけ、食事の支度にとりかかった。ニワトリに餌《え》をやらなければならぬし、山羊《やぎ》の乳もしぼらなければならなかった。そのうえ、しじゅう鼻を鳴らす老婆にも、なにかと世話がやけた。
一日に三度か四度、彼女はバケツにいっぱい飲み水をくんで、家から一マイルほど下のほうのサトウキビ畑で働いているロイヤルのところへ運んでいった。そのたびに夫からずけずけいわれたが、べつだん気にもしなかった。夫が、おなじ野良《のら》で働いているほかの百姓たちの前で、から威張りしているのが見えすいていたからだ。百姓たちはまるで水瓜《すいか》が口をあけたように唇《くちびる》を割って、ニヤリと彼女に白い歯を見せた。
しかし、日が暮れて夫が野良からもどってくると、オティリーはホタルが光の尾をひいてすいすい飛んでいる庭先で、夫の耳たぶをひっぱりながら口をとがらし、昼間のひどい仕打ちをなじり、彼が自分をかき抱いて、思わず顔のほころびるような、なにかやさしいことをいってくれないかぎり、いつまでも夫をいじめるのだった。
結婚して五カ月ぐらいたつと、ロイヤルはまたそろそろ昔のくせを出しはじめた。
「ほかの衆は夕方になるといつも酒場さ出かけたり、日曜にはひがないち日、闘鶏に出あるいてるだに、なんでおめえだけがおらにゴテゴテいうのか、さっぱり合点がいかぬて」とロイヤルがぼやくと、
「お嫁さんをもらったいじょう、絶対にそんなことしちゃいけないのよ、あんた。あたいがかわいかったら、あたいをほったらかしにして、昼も夜も、あんな意地わるのおばあさんと一緒にしとくわけがないでしょ」とオティリーがいった。
「そりゃ、かわいいにきまっとるだ。だけんど、男にゃ男の気晴らしちゅうものもあるでねえか」
夫が外で遊びほうけて、月が中空にかかるころ、やっともどってくるような夜がちょいちょいあった。いつ帰ってくるのやら、さっぱりわからなかった。ワラぶとんの上に横になったまま、男の帰りを待ちわびてジリジリしながら、あのひとが抱いてくれなきゃ、とても寝つけないわ、と女はよく思ったりした。
そこへもってきて、ボナパート婆さんはたいへんな嫁いびりだった。そのうるささには、さすがのオティリーも気が変になりそうだった。煮たきをしていると、かかさず、そのそばにやってきて、よけいなおせっかいをやくし、こしらえた料理が気に入らないと、ひと口ふくんで、それをパッと床へ吐き出した。それに、わざといろんな不始末をしでかすのだった。寝小便はするし、なんでもかんでも山羊を部屋の中につないでおけ、と無理をいうし、なにかに触《さわ》ったかとおもうと、すぐそれをこぼしたり、取落して割ったりする始末だった。そのあげく、ロイヤルに向ってこんな不平をいった――
「いつもうちん中をきちんとしとけんような嫁は、亭主の面《つら》よごしで、おなごの屑くずじゃぞえ」
老婆は昼となく夜となく、嫁のじゃまだてをした。見るから因業《いんごう》そうな、赤く血走った眼がつぶられていることはめったになかった。なかでもいちばんたちの悪い仕打ちは、どこからともなくそっと寄ってきて、爪《つめ》あとがのこるくらい、いやというほどオティリーの体をつねりあげるくせだった。これにはさすがのオティリーもかんにん袋の緒を切って、
「ようし、もう一度やれるもんならやってみな。もしこんどそんなまねでもしたら、庖丁《ほうちょう》をひっつかんで、おまえさんのその胸もとをかっ切ってやるからね!」とおどしたほどだった。
老婆にもそれがただのコケおどしでないことがわかったので、つねるくせだけはやめたが、そのかわり、また悪知恵をしぼって、ほかのわるさをはじめた。たとえば、オティリーがせっかく野菜の種子《たね》をまいておいた中庭の一角を、わざとそ知らぬ顔で、朝晩、運動に歩きまわるといったぐあいだった。
そうしたある日のこと、二つの思いがけない事件がもちあがった。村の郵便局から一人の子供がやってきて、オティリーに一通の手紙をわたした。「シャンゼリゼ」にいたころは、彼女から一夜のもてなしをうけた船乗りや渡り歩きの注文取りたちが、ときおり絵ハガキの便りなどをくれることもあったが、結婚してから手紙なぞもらったのはこれがはじめてだった。
なにしろあき盲《めくら》だし、いまさらそんなものをとっておいて昔を思い出してもはじまらないので、はじめは、いっそ破いてすてようかと思った。しかし、きっとそのうちに文字を習う機会もあるはずだからと思い返して、彼女は手紙を裁縫籠の中へかくしに行った。
ところが、籠の蓋《ふた》をあけてみると、縁起でもないものがはいっていた。ざっくり切りとられた黄色い猫《ねこ》の首が、気味のわるい糸玉のようにそこに転《ころ》がっていたのだ。
ははあ、あの因業婆さん、こんどは新手《あらて》のいたずらを思いついたのね! フン、これであたいに呪《のろ》いをかけるつもりなんだろう、と思っただけで、オティリーはいっこうにびくともしなかった。
彼女はすました顔で、猫の首の片方の小耳をつまんでちょいと持ち上げ、かまどのところへもっていって、おりからグラグラ煮立っていた鍋《なべ》の中へそれをポイとほうりこんだ。
お昼になると、ボナパート婆《ばあ》さんは舌つづみを打ちながらいった――
「おまえさんのこさえてくれたこのスープは、ほっぺたがもげるほどおいしいぞえ」
そのあくる日も、ちょうどお昼の支度にかかるまえ、彼女は裁縫籠の中に、小さな草色のヘビがとぐろを巻いているのを発見した。彼女はそのヘビを細かくミジン切りにして、老婆《ろうば》に出すシチューのうえにふりかけた。こうして毎日のように彼女は料理の腕前をテストされた。クモをパンの中に入れて焼いたり、トカゲのフライをつくったり、ハゲタカの胸肉をグツグツ煮こんだりした。老婆はそのたびにおいしがって、なんどもおかわりをした。
老婆は、もうそろそろ呪いのきき目が現われそうなものをという面持《おももち》で、キョロキョロと眼《め》を光らせ、オティリーの顔色をうかがいながら、しゃがれ声の中にいくらか甘ったるい調子をまじえて、
「おまえさん、ちかごろどうも顔色がさえんようじゃの、オティリー。アリみたように食《しょく》がほそいが――ささ、まあ、ひとつこのおいしいスープでも飲んでみたらどうだえ?」といった。
「だって、おばあさん、あたい、ハゲタカのはいったスープや、クモのはいったパンや、ヘビのはいったシチューなんてきらいよ。そんなもの、ちっとも食べる気しないわ」と涼しい顔でオティリーがこたえた。
ボナパート婆さんはそれを聞いて、ハッと思い当った。老婆はみるみる額に青すじを立てたが、舌がこわばって口がきけず、ブルブルふるえながら立ち上がったかとおもうと、それなりガタンとテーブルの上にぶっ倒れた。日暮れまえに、老婆は息をひきとった。
ロイヤルは泣き男や泣き女たちをかり集めた。村から、近くの山家《やまが》から、ぞくぞくと大勢やってきて、家のまわりを取囲み、夜半ごろまで、オイオイと犬のように泣き叫んだ。泣き婆《ばば》たちは壁に頭をゴツゴツと打ちつけ、泣き男たちは地べたにひれ伏して、なげき哀《かな》しんだ。これは一種の演技で、いちばんうまく感じを出したものが、もてはやされるのだった。お葬《とむら》いがすむと、みんなたんまり駄賃《だちん》にありついたのに気をよくして、ニコニコと帰っていった。
やっと、オティリーの天下になった。もうボナパート婆さんにじろじろとねめまわされたり、婆さんの汚《よご》したあと始末をすることもなくなって、彼女はまえよりひまになった。だが、さてそうなってみると、手もち無沙汰《ぶさた》でしようがなかった。大きな真鍮《しんちゅう》のうベッドに大の字に寝そべってみたり、鏡のまえに長いことボンヤリすわってみたりした。じっとしていると退屈で、ブーンという糸車の音を聞いているみたいに睡気《ねむけ》がさしてきた。彼女はそれを払いのけようとして、「シャンゼリゼ」のジュークボックスで聞きおぼえたいろんな唄《うた》を口ずさむのだった。
宵闇《よいやみ》のなかにたたずんで、ロイヤルのかえりを待ちわびているときなど、彼女はよく、いま時分、「シャンゼリゼ」では、きっとみんな店の玄関先に出て、おしゃべりをしながら、車のヘッドライトが店のほうへ曲ってくるのを待っていることだろう、と思った。だが、サトウキビを刈る三日月形の利鎌《とがま》を小わきにぶらさげて、山路《やまみち》をたどたどしく登ってくるロイヤルの姿をみつけると、そんな思いもいっぺんに消しとんで、彼女は夫を迎えにいそいそとかけだしてゆくのだった。
ある夜のこと、夫のかたわらでうつらうつらしていたとき、オティリーは、ふと、だれかが部屋の中にいるような気がした。と同時に、いつか暗がりの中で見たことのあるあの眼が一つ、キラキラと光りながら、ベッドの足もとのほうから、じっとこちらを見つめていた。ハハア、てっきりこれは、死んだ婆さんの魂がまだこの部屋にさまよっているしるしだな、と彼女は思った。
そういえば、この前にもいちど、彼女がたったひとりでうちの中にいるとき、だれかの笑い声を聞いたことがあったし、またあるとき、外の庭先で、山羊が、まるでそばにだれかが立ってでもいるように、じっとそちらを見上げて、婆さんに頭をかいてもらうといつもそうしてたように、両耳をピクピク動かしているのを、彼女は見たのだった。
「おい、ベッドをゆさぶるのをやめんか」とロイヤルがいった。
「あんた、ほら、あれが見えないの?」
「おめえ、なに寝ぼけてるだ」と夫がいった。
彼女は目標を見さだめてから、キャッとひと声さけんで、その眼につかみかかった。だが、そこには結局なにもなくて、ただ空《くう》をつかんだきりだった。
ロイヤルはランプをともしてから、オティリーを膝《ひざ》の上に抱きしめ、やさしく髪をなでてやった。抱かれながらオティリーは、裁縫籠《さいほうかご》の中に、猫の首だの、ヘビだの、いろんなものが押しこまれていたことや、それらのものでどんな料理をこしらえたかということまで、いちぶしじゅう夫に話して聞かせた。
「ねえ、あたいのしたこと、まちがってるかしら?」
「はて、そいつはな、おらにもどっちともいえねえだが、まあ、とにかく、おめえはその罪ほろぼしをせずばなるめえて」とロイヤルが考えてからいった。
「どうしてあたいが、そんなことしなきゃなんないの?」
「そりゃ、婆さまの気をしずめるためにするだ。そうせんと、婆さまがいつまでもたたって、おめえの気持が休まらねえからよ。それが死霊《しりょう》のたたりというものだて」
夜が明けると、ロイヤルは、ゆうべ妻に話したとおり、荒なわを持ち出してきて、オティリーにいった。
「さあ、これからおめえを中庭の木にしばりつけっから、日が暮れるまで飲まず食わずで、だれにもこんなざまを見られねえように、そこでじっとおとなしくしてるだぞ」
だが、オティリーはベッドの下へもぐりこんで、出てこようともしなかった。
「あたい、このうちから逃げ出すわよ、ロイヤル。あんなでっかい樹《き》なぞにしばりつけたりしたら、あたい、ほんとに出て行っちゃうからね」と彼女は泣きべそをかきながらいった。
「そうなると、おらがまた連れもどしに行かなきゃなんなくなるだ。そのほうがおめえも、よっぽど体裁がわるかんべえが」とロイヤルがいった。
男は女の足くびをひっつかんで、キャア、キャア泣きわめくのを、ベッドの下から引きずり出した。中庭へずるずる引きずっていかれながら、彼女はドアといわず、ブドウの木といわず、山羊《やぎ》のヒゲといわず、なんでも手あたりしだいにひっつかんだが、なにひとつとして彼女をひきとめるささえになどならなかった。
ロイヤルはいさいかまわず、オティリーを立樹にしばりつけ、三カ所でしっかり結び、噛《か》みつかれた手を吸いながら、野良《のら》へ出かけていった。彼女は男の姿が山の端《は》に消えてしまうまで、かつて耳にしたことのある、ありとあらゆるあくたいをば、大声をはりあげて男にあびせかけた。
山羊や、ジューノや、ニワトリの一族に至るまで、なにごとかとばかりにかけ寄ってきて、女主人のあられもない姿をキョトンとながめていた。オティリーは樹の根元にどっかとすわりこみ、そいつらに向けて赤い舌をニュッと出した。
オティリーはコクリコクリ居眠りをしていたので、ベイビーとロジータが村の一人の子供に連れられて、彼女の名を呼びながら、派手な色どりの日傘《ひがさ》を肩に、ハイヒールもよろよろと山道をのぼってきたのを夢かと思い、夢でなら、二人にこんなざまを見られてもかまうものか、と思った。
「おんやまあ、おまえさん、気でも狂ったのかえ?」とベイビーがおどろきの声をあげた。彼女はてっきりこれはという顔で、おそるおそるすこし離れたところから、
「ねえ、ベイビーとロジータだよ、なんとかいっておくれ、オティリー!」といった。
眼をパチクリさせて、クツクツ笑いながらオティリーはいった――
「まあ、二人とも、ほんとによく来てくれたわね。ロジータ、ちょっとこのなわをほどいてくれない。これじゃ、みんなにかじりつくこともできやしないから」
「へえ、じゃ、これはあの男の仕業《しわざ》なのね」といいながら、ロジータはなわ目を引きちぎった。「ようし、いまにどうするか見てろ。よくもおまえさんをぶったり、犬みたいに庭にしばりつけたりしやがったわね」
「あら、そうじゃないのよ。ロイヤルはあたいをぶったりなんぞけっしてしないわ。今日はあの、ちょっと罪ほろぼしをしてただけなのよ」とオティリーがいった。
「おまえさんが、どうしてもあたいたちのいうことをきかないからいけないのよ。だから、こんなひどい目にあうんじゃないの。でも、もとはといえば、みんなあの男がわるいんだよ」とベイビーが日傘をふりまわして、いきりたった。
オティリーは二人の友に抱きついて、接吻《せっぷん》した。
「ねえ、ちょっときれいな家でしょ。どう、まるで荷車に一台分も花をつんできて建てたお花の家みたいじゃない? まあ、日陰にはいりましょうよ。うちの中は涼しくて、そりゃいい香《かお》りがするのよ」とオティリーは二人を戸口のほうへ案内しながらいった。
ロジータは、ウソ、こんな匂《にお》いのどこがいいのかといわんばかりの面《おも》もちで、クンクン鼻を鳴らしながら、ズバリといってのけた。
「そうね、みんな、日陰にはいったほうがよさそうだわ。日向《ひなた》にばっかりいるせいで、オティリーのあたまがすこしおかしくなってきてるようだからさ」
「まあ、あたいたちがやってきて、ほんとうによかったよ」とベイビーが、でっかい手さげの中をさぐりながらいった。「これ、ジェイミソンの旦那《だんな》からの贈物よ。あんたからもよくお礼をいっとくれね。実はおかみさんも、あんたが死んだにちがいないっていうし、こちらで手紙を出してもウンともスンとも返事がないので、あたいたちも、てっきりそうだと思ってたのさ。ところがあの人は――まったくあんなにいい人ってないわよ、あのジェイミソンの旦那ほどさ――あんたといちばん仲のよかったあたいとロジータに、ハイヤーをやとってくれて、ともかくあたいたちの親しくしていたオティリーがどうなったか行って見てこいって、そういってくれたのよ。そうそう、オティリー、この手さげの中にラムを一本入れてきたから、ちょっとグラスをかしておくれ。まあ、みんなで一杯飲むことにしようよ」
二人を連れてきた村の子供は、二人の異人さんみたいな垢《あか》抜けたようすや、都会風のきらびやかな身なりに、すっかりポーッとなって、真っ黒い眼で窓からひょいひょいとのぞいていた。
オティリーとてもおなじ思いだった。なにしろもう長いあいだ、紅《あか》くぬった唇《くちびる》を見たこともなかったし、香水の匂いをかいだこともなかったからだ。ベイビーがラムをついでいるまに、彼女は思い出の、サテンの靴《くつ》や、真珠の耳飾などを持ち出してきて、すっかり盛装すると、ロジータがそれを見て――
「ほうらごらん! だから来る客も来る客も、あんたにビールをひとたるごとそっくりおごってやりたい気にもなるのよ。あんたみたいに引く手あまたのすてきなべっぴんが、こんな人里はなれた山の中で、ひとり苦労をしてるかと思うと、あたしゃ、くやしくて――」
「苦労って、べつにあたい苦労なんかしてないのよ。そりゃまあ、前にはすこしくらいそんなこともあったけど――」とオティリーがいった。
「これさ、もうおよしったら」とベイビーがさえぎった。「もうそんなこと、いわなくたっていいよ。なにもかも、どうせ、すんじゃったことだからね。さあ、みんな、そのグラスをぐっとおほしよ、もう一杯つぐから。むかしのよしみに、そしてまた、これからさきのために。では乾杯! こん夜は、ジェイミソンの旦那が、みんなにシャンペンをごちそうしてくれることになってるのよ。おかみさんも、それをこん夜だけは半額にまけとくっていってたしね」
「まあ、みんなすてきね」とオティリーがうらやましそうにいった。「ねえ、そりゃそうと、世間ではあたいのこと、なんていってる? まだあたいのこと憶《おぼ》えているかしら?」
「オティリー、おまえさんはまるっきりなんにも知らないのね。まだあんたの顔を見たこともない人まで、よく店へやってきて、オティリーはどうした、ときくんで、そのわけをたずねてみると、どう、ハヴァナだの、マイアミだの、そんな遠いところで、おまえさんの評判を聞いてきたっていうのよ。それにまた、ジェイミソンの旦那ときたら、あたいたち、ほかの女なぞには見向きもしないで、ただ、やってきては、店先にしょんぼりすわって、ひとりでちびちびお酒を飲んでるのよ」
「あら、そう」とオティリーはしんみりした調子でいった。「あのひと、あたいにいつもやさしくしてくれたわ、あのジェイミソンさんはね」
やがて陽《ひ》も西にかたむきはじめ、ラムのビンも四分の三がたからっぽになっていた。そのあいだに、さっきちょっと雷雨があって、あたりの山肌《やまはだ》をしっとり濡《ぬ》らしたのだが、いま窓をすかして見ると、それがトンボの羽根のようにうっすらと鈍く光っていた。雨にぬれた花の香をたっぷりふくんだ山の風が、そよそよと部屋へ流れこんで、壁にはった緑や桃色の新聞紙をサラサラと鳴らしていた。
つぎからつぎへと話の種はつきなかった。おもしろい話も出たし、ほんのわずか哀《かな》しい話も出た。「シャンゼリゼ」の店先での、いつもの夜話そっくりだった。久しぶりで聞くその話は、オティリーにも愉《たの》しかった。
「おや、これはだいぶおそくなったようだね。そうそ、夜中までには帰る約束だったっけ――さあ、オティリー、あたいたちも荷造りを手伝ってあげるからね」
オティリーは、まさかこの二人が自分を連れもどしにやってきたとはそれまで思っていなかったが、酒の酔いがまわるにつれて、それもちょっとおもしろい冗談のように思えてきた。かすかな思い出し笑いをうかべながら、彼女は今朝、出てゆくといって夫をおどしたのを心に思いうかべた。だが、二人に向っては、ただこういっただけだった――
「だって、たとい出かけたって、ものの一週間もゆっくりしてられそうもないわ。ロイヤルがすぐ連れもどしにくるにきまってるもん」
それを聞いて、二人とも笑いだした。
「おまえさんたら、よくよくのネンネね。あたしゃ、あのロイヤルが、うちの用心棒によってたかって、のされるところを見てやりたいよ」とベイビーがいった。
「ロイヤルがひどい目にあうようなことがあったら、あたい、だまって立って見てやしないわよ。それに、あたいが出かけたりして、あのひとが迎えにくるようなことにでもなったら、一緒に帰ってきてからが、それこそたいへんだわ。今だって、あのひと、いいかげんあたいに夢中なんだもんね」とオティリーがいった。
「だけど、まさかおまえさん、これからあたしたちと一緒に行かないなんてんじゃないだろうね?」とベイビーがいった。
オティリーはクスクス笑いながら、ほかの者たちには見えないなにものかをそこに見ようとでもするかのように、ぐるりと部屋の中を見まわした。
「そりゃむろん、あたいだって、もし行けるもんなら、一緒に行きたいわよ」と彼女はいった。
目玉をぎょろつかせながら、ベイビーは扇子を取出し、それを自分の鼻さきで、ひょいひょい振りうごかして、
「そんなバカなことってあるもんか」と口をとがらせていった、「ねえ、そうじゃないかい、ロジータ?」
「そんな変なこというのも、さんざいじめ抜かれたあげく、この娘《こ》のあたまがおかしくなったせいよ」とロジータがとりなした。「ねえ、オティリー、荷造りはあたしたち二人でするから、あんた、ベッドですこし休んだらどう?」
オティリーは、二人が彼女の持物をつみ上げはじめるのを、じっとながめていた。二人は彼女の櫛《くし》やピンを集めたり、絹のストッキングをまるめたりしていた。オティリーは、それよりこのほうがよっぽどすてきよといわんばかりに、さっさと盛装をぬぎすてて、無造作にもとの服をひっかけた。それから、さも二人の手伝いをしてるらしいかっこうで、こっそりそれらの品々をひとつひとつ、もとの場所へもどしはじめた。ベイビーはこのありさまを見て地団駄《じだんだ》をふんだ。
「ね、ちょっときいてちょうだい」とオティリーが改まっていった。「あんたもロジータも、ほんとうにあたいの身を思ってくれるなら、おねがいだから、あたいのいうとおりにしてくれない? あたいを、みんながきたとき、しばられてたのとそっくりおなじかっこうに、あの庭の樹《き》にしばりつけてちょうだいよ。でも、あたいの体を蜂《はち》が刺したりしないように、うまくしばってね」
「こりゃまったく正気の沙汰《さた》じゃないよ――」とベイビーがあきれていった。
だが、ロジータはそのことばをさえぎって、
「ま、あんたはだまっといでよ――あたしゃ、どうみてもオティリーがあの男にすっかり首ったけだと思うのよ。だから、むりに連れてったところで、ロイヤルが迎えにくれば、どうせこの娘《こ》も一緒にくっついて帰るにきまってるね。そんなことなら、いっそ店へ帰って、やっぱりおかみさんのいわれたとおり、オティリーは亡《な》くなってました、と、そう伝えるほうが利口じゃない」と、溜息《ためいき》をつきながらいった。
「ええ、いいわ、みんなにオティリーは死んだ、と、そいってちょうだい」いかにも芝居気たっぷりなところが気に入って、彼女は即座にそうこたえた。
そう話がきまると、三人は庭へ出ていった。樹のそばまでは行ったものの、ベイビーはもり上がった胸を波うたせ、中空にうかんでいる昼間の月のように眼《め》をまるくして、
「かんべんしとくれよ、あたいにゃ、とてもオティリーになわをかけるようなまねはできないから」といった。
それで、しかたなくロジータひとりが貧乏くじを引くことになった。
別れにのぞんで、いちばん泣いたのは、オティリーだった。だが、内心、彼女はふたりが帰ってくれたので清々したのだった。ここで別れたがさいご、もう二度と二人のことを思い出したりしないことが自分でもよくわかっていたからだ。二人はハイヒールでひょろひょろとけわしい山道を下って行きながら、ふり返って手を振ったが、いましめの身のオティリーには、それに応《こた》えることもできなかったので、まだその姿が消えぬうちに、もう二人のことをケロリと忘れてしまっていた。
ユーカリの葉を噛《か》んで、息の匂《にお》いをかんばしくしているうちに、彼女はいつしかひんやりとしたたそがれが、あたりにひしひしと忍びよってくるのを感じた。昼間から出ていた月がしだいに黄いろくなり、小鳥たちもオティリーのくくられている庭樹の暗いしげみへ、ねぐらをもとめて飛んできた。
とつぜん、山道にロイヤルの足音を聞くと、彼女は両脚《りょうあし》をくの字にへし折り、首をだらりと垂れ、眼をとろんと奥へひっこませた。これならきっと遠目には、さもあたいが世にも哀れな狂い死にをしたように見えるにちがいないわ。これでひとつ、うんとおどかしてやろう、と彼女は思って、かけ足に変ったロイヤルの足音に耳をかたむけながら、ひとりで悦に入っていた。
[#改ページ]
ダイヤのギター
その刑務所の農場は、いちばん近い町からでも、二十マイル離れていて、その途中には松の生《お》い茂った森がいくつもつづいている。囚人たちが松脂精《テルペンチン》を採る作業に従事するのもこの森の中なのである。刑務所そのものもやはり、赤土の上に深い車のわだちのつづいた道路の行きづまりの、森の中にあり、その塀《へい》の上には、有刺鉄線がツタカズラのようにうねうねとはっている。その中には百九名の白人と、九十七名の黒人と、一名の中国人が収容されている。タールを塗った紙で屋根をふいた緑色の大きな木造建が二棟《ふたむね》あり、それが囚人たちの宿舎にあてられている。一棟には白人、もう一棟には黒人と中国人が収容されている。この二つの宿舎には、それぞれ、大きなだるまストーヴが一つおいてあるが、この土地の冬は寒いので、松が北風にゆさぶられて霜を結んだり、月が凍《い》てつくような光を投げる夜分など、鉄の台にズックを張っただけの粗末なベッドの上に身を横たえはしたものの、寒さで眠られずにいる囚人たちのひとみに、そのストーヴの火影《ほかげ》がチラチラとおどるのである。
ストーヴのいちばん近くのベッドを占めているのは、囚人たちの中の顔利《かおきき》――つまり、一目おかれているか、またはこわがられている連中であって、シェファーさんはその顔利きの一人である。シェファーさん――と、「さん」づけで呼ばれるのは、とくにたてまつられているしるしなのだが――は、痩《や》せこけて、背のぶかっこうにひょろ長い人物で、赤みがかった半白の髪の毛と、細おもてで抹香《まっこう》くさい顔つきをしている。肋骨《あばらぼね》のうごきがすけて見えるほど肉がおち、張りのない、どんよりした眼《め》つきをしている。
彼は読み書きもできるし、何段にもつみかさねた数字を加えることもできる。ほかの囚人たちは、手紙が来ると、シェファーさんのところへ持ってきて読んでもらう。そのほとんどが涙をさそうような、グチまじりの手紙ばかりであるが、シェファーさんはたいていのばあい、手紙の内容をそのまま相手に伝えないで、それを即座の思いつきで、むしろうれしい便りに読みかえてやるのである。白人の宿舎には、彼のほかに字の読めるものが二人いたが、その一人は手紙をもらうと、さっそくシェファーさんのところへかけつける。すると、彼はうまくその内容を読みかえて、相手をよろこばすのである。
ところが、ご本人のシェファーさんのところへは、クリスマスになっても、ハガキ一枚やってこない。娑婆《しゃば》には一人の友だちもいないらしく、また実際、これという友だちもいなかったのである。だが、いちがいにそういう娑婆気のない世捨人とばかりもいいきれぬふしがあった。
数年まえの冬のある日曜日のこと、シェファーさんは宿舎の入口の段々に腰をおろして人形を刻んでいた。その腕前はなかなかのものだった。まず人形の五体を別々に刻み、それを弾力のある針金のきれはしでつなぎ合せるので、腕や脚《あし》も動くし、首もまがる。それが一ダースかそこらできあがると、刑務所の所長が町へ持っていって、雑貨屋へ売りさばいてくれる。こうしてシェファーさんは、キャンディー代やタバコ銭にありつくというわけだ。
さて、その日曜日に、腰をおろして幼い子供向きの人形を刻んでいると、一台のトラックがガタガタと刑務所の中庭へはいってきた。手錠をかけられたまま所長のもとへ送られてきた一人の若者が、トラックから降りて、うっすらした冬の陽《ひ》をまぶしそうに見上げながら立っていた。シェファーさんはそのほうをちらと見やったきりだった。彼はそのとき五十歳で、もう十七年もその農場に収容されていたので、あらたに囚人が送られてきても、べつにめずらしい気もしなかった。日曜は農場も休みなので、しょざいなさそうに中庭をぶらついていた他の囚人たちが、トラックのまわりに寄ってきた。そのあとで、ピック・アックスとグーバーが通りすがりに、シェファーさんに言葉をかけた。
「外国人だよ、こんど来たのはね。キューバからだというが、髪は黄色かったぜ」とピック・アックスがいった。
「短刀で切りつけたんだとさ。所長がいってたよ」と、自分もやはり刃傷《にんじょう》沙汰《ざた》でくらいこんでいるグーバーがいった。「モービールで船乗りを一人傷つけたらしいんだ」
「いや、船乗りは二人だよ。でも、ちょいとした酒場の喧嘩《けんか》出入りで、べつにだれも傷つけたわけじゃないんだとさ」とピックがいった。
「耳を片方切りおとしてもかい? それでまさか傷つけなかったとはいえめえ。二年の懲役だと所長がいってたぜ」
「だが、あいつ、べたに宝石をはめこんだギターを持ってたよ」とピックがいった。
しだいに日が暮れてきて、細工も思うようにできなくなったので、シェファーさんはできあがった人形の手足をはめこみ、小さな手をとって人形をちょこんと膝《ひざ》の上にのせ、くるくるとタバコを巻いた。薄明りのなかに、松林が青くけぶっていた。だんだん暮れてゆく、うすら寒い夕やみの中に、巻タバコの煙がむらさきの輪を描いていた。
所長が中庭を横ぎって、こちらへやってくるのが見えた。さっきの金髪の若い囚人も、ひと足おくれて、そのあとからのこのこついてきた。若者は、星のようにきらめくガラスのダイヤをちりばめたギターを、小わきにかかえていた。囚人服がだぶだぶで、万聖節前夜祭《ハロウィン》に着るお祭りの衣裳《いしょう》のように見えた。
「新入りだ、なにぶんたのむよ、シェファー」
段々の上に足をとめて、所長がそういった。この所長というのは冷たい人間ではなかった。ときおり、シェファーさんを所長室へ招き入れて、新聞に出ていたいろんな出来事について、話しあったりするのだった。
「おい、ティコ・フェオ」と、まるで鳥か歌の名前でも口にするように所長がいった、「この人はシェファーさんというんだ。この人に見ならってさえいれば、まちがいないからね」
シェファーさんはちらと若者を見上げて、ニッコリほほえんだ。だが、はじめはほんの愛想《あいそ》笑いのつもりの笑顔《えがお》が、いつまでも若者から離れなかった。若者の眼が細長い青空のきれはし――つまり、その日の冬の夕空――のように青く澄んでいて、髪が所長の金歯のように黄金色をしていたからだ。彼はまた、いかにも戯《たわむ》れ好きらしい、はしこくて、利口そうな顔つきをしていた。シェファーさんはそれを見て、愉快なお祭り気分を思い出した。
「これ、ぼくんちの赤んぼの妹に似てるな」とティコ・フェオがシェファーさんの人形にさわりながらいった。キューバなまりのある、バナナみたいにやわらかな、甘ったるい声だった。
「その赤んぼもやっぱり、よくぼくの膝にのっかるんだよ」
シェファーさんは、なぜか、ふと、気恥ずかしさをおぼえ、所長に一礼して、すたすたと中庭の木陰に姿を消した。彼は夕空に星が一つまた一つと、花のひらくようにまたたきはじめるにつれて、その名前を小声でつぶやきながら、そこにたたずんでいた。
いつもは、そうして星空を仰ぐのが楽しみだったのだが、今夜はなぜか心がはずまなかった。はてしない星空の永遠のかがやきに比べると、地上の人間の浮き沈みなどものの数ではないという感慨が、星を仰いでも、いつものようにわいてこなかったからだ。星をながめながら、彼の心は、若者の模造ダイヤをちりばめたギターと、その浮世くさい、けばけばしいきらめきを思いうかべていた。
シェファーさんがこの世でほんとに罪らしい罪を犯したのは、あとにもさきにも一度だけといってよかった。一人の男を殺したのだ。しかし、男のほうに、殺されても仕方がないような非行があったことと、シェファーさんが謀殺のかどで、かっきり九十九年の刑を宣告されたことの二点をのぞくと、彼の犯行については別段とりたてていうようなこともなかった。
長いあいだ――それこそもう何年も――彼は娑婆《しゃば》にいたときのことを思い出したことがなかった。その頃《ころ》の記憶は、住むひともなく、造作も朽ちはててしまった家のように、空虚なものだったが、今夜は、その死んだようにシーンとした、暗い部屋部屋にパッと灯《あか》りがともされたみたいだった。それは、ティコが夕闇《ゆうやみ》の中からキラキラ光るギターを持って現われたときから頭をもたげてきた気持だった。いままで一度も寂しいなどと思ったこともなかったのだが、にわかに自分の孤独さに気づき、ああ、おれもやっぱり生きているのか、という気がした。これまでついぞ生きていたいなどと思ったこともなかったからだ。生きているということは、つまり、魚の影が走る褐色《かっしょく》の川の姿や、女の髪におどる陽光《ひざし》を思い出すことなのであった。
シェファーさんはかしらをうなだれた。星のかがやきが彼の涙をさそったからだ。
囚人の宿舎は、いつもなら男のにおいでむうっとするような、はだか電灯が二つともっているきりの、荒れはてた陰気な部屋だったが、ティコ・フェオが現われると、この寒々とした部屋に、まるで南国の暖かい風が吹きこんできたみたいだった。というのも、シェファーさんが星をながめてから宿舎に帰ってみると、やけに派手な場面にぶつかったからだ。
ティコ・フェオはベッドの上にあぐらをかき、細長い指をふり動かしてギターをかき鳴らしながら、チャラチャラと銀貨の鳴るような、ほがらかな調子で歌をうたっていた。スペイン語の歌だったが、わからぬなりにティコの声に合せてうたうものもあり、ピック・アックスとグーバーは肩を組んで踊りまわっていた。チャーリーとウィンクも、別々に踊っていた。みんなのほがらかな笑い声をきくのは、なんといっても楽しかった。やがてティコ・フェオがギターをわきに置くと、シェファーさんもほかのものたちにまじってティコをほめちぎった。
「さすが立派なギターを持ってるだけのことはあるね」と彼はいった。
「ダイヤのギターなんだぜ」とティコ・フェオが、寄席《よせ》の雰囲気《ふんいき》さながらに、きらびやかな光を放っている楽器を片手でなでまわしながらいった。「前には、ルビー入りのやつを持ってたんだけど盗まれちゃってさ。ぼくの姉さんがハヴァナの――ええと、なんてったかな――つまり、ギターを作る工場につとめてるんで、こいつを手に入れたんだよ」
シェファーさんがティコに、女きょうだいがたくさんいるのか、ときいた。ティコ・フェオはニヤニヤしながら指を四本差出した。それから、ものほしそうに青い眼を細めて、
「ねえ、おじさん、ぼくの二人の小さい妹に人形をやっとくれよ」といった。
その翌晩、シェファーさんはティコに人形を持っていってやった。それがきっかけで、ティコと大の仲よしになり、二人はいつも一緒にいて、たがいに、しじゅう相手の身を思いやるようになった。
ティコ・フェオはその当時十八歳で、二年ほど、カリブ海を往復する貨物船に乗っていたのだった。幼い頃、ティコは尼《あま》さんの先生のいる学校にかよい、黄金《きん》の十字架を首にぶらさげ、ロザリオの鎖を持っていた。そのロザリオを、ティコはいまでも緑色の絹のスカーフにくるんで持っていた。スカーフの中には、そのほかにも三つほど彼の大事な品がはいっていた――「パリのたそがれ」という名のオーデコロンの瓶《びん》が一つと、懐中鏡が一つと、ランド・マックナリ社の世界地図が一枚とであった。彼の所持品はこれとギターだけだった。ティコはそれらのものには、けっしてだれにも手を触れさせなかったのである。
だが、いちばん自慢にしているのは、地図のようだった。夜分、消灯まえに、ティコはよく、その地図をさっとひろげて、かつて自分が行ったことのあるいろんな場所――ギャルベストン港だの、マイアミだの、ニュー・オーリンズだの、モービールだの、キューバ島だの、ハイチ島だの、ジャマイカ島だの、プエルトリコ島だの、ヴァージン群島だのをシェファーさんにさし示した。
それがすむと、こんどはこれからさき自分が行ってみたいと思う場所を指さした。それは世界のほとんどあらゆるところだったが、とりわけ、スペインのマドリッドと、北極行きを望んでいた。これにはシェファーさんも、夢をかきたてられると同時に度胆《どぎも》を抜かれた。ティコ・フェオが七つの海に乗り出したり、遠いところへ行ってしまったりするかと思うと胸が痛んだ。彼はそれを払いのけるかのように、ティコの顔を見ながら、心の中でこう思うのだった――「おまえは怠《なま》け者のくせに、ただそんな夢を見ているだけなんだ」
たしかにティコは怠け者だった。あの初めての夜は別として、それからは、せがまれないとギターさえひこうとしなかった。夜明けに、看守がみんなを起しにやってきて、ストーヴを金鎚《かなづち》でガンガンたたくと、ティコは幼い子供みたいに、クスンクスン鼻を鳴らすのだった。ときには仮病《けびょう》をつかって、ウンウンうなりながら腹をさすったりすることもあったが、これは一度も成功したためしがなかった。所長がむりやり彼をほかのものたちと一緒に仕事に出したからだ。
ティコとシェファーさんは、ともに道普請《みちぶしん》の仲間に加えられていた。コチコチに凍った土を掘りおこしたり、南京袋《ナンキンぶくろ》に割栗石《わりぐりいし》をいっぱい詰めて運んだりするつらい仕事だった。看守はティコ・フェオをたえずどなりつづけていなければならなかった。しょっちゅうといっていいほど、彼は何かにもたれかかって、仕事を怠けようとするからだった。
いつもお昼になって、飯盒《はんごう》がくばられると、二人は仲よくならんで腰をおろした。シェファーさんはリンゴだの飴《あめ》ん棒だのを町から仕入れることができたので、その飯盒には、いつもなにかしらおいしいものがはいっていた。シェファーさんはそれを気持よくティコに分けてやった。ティコがとてもうまそうにそれを食べるからだ。それを見ながら、シェファーさんはひとりでこう思うのだった――
「おまえは今が育ちざかりだ。一人まえの大人になるには、まだまだだいぶ間があるからな」
だが、みんながみんな、ティコに好意を持っているわけではなかった。一種のねたみや、もっとばくぜんとした理由から、ティコのことをあしざまにいいふらす者もいた。しかし、ご本人はいっこうそれに気づかないふうだった。みんなに取巻かれて、ギターをひきながら歌をうたっているときなど、自分をみんなの人気者だと思っているようすがありありと見うけられた。だが、たいていのものは彼をちやほやして、夕食と消灯との合間のひとときを首を長くして待ちこがれるのだった。
「よう、ティコ、一ちょうたのむぜ、ギターを」とかれらはよくいうのだった。
だれもそれに気づかなかったが、かれらはティコのギターを聞くと、前よりいっそう憂鬱《ゆううつ》になった。眠気がいっぺんにどこかへふっとんで、ストーヴの鉄格子《てつごうし》の奥でジージー燃えている火影《ほかげ》を、深い思いに沈みながら、じっといつまでも見つめているのだった。みんなのこの気持がわかるのは、シェファーさんひとりだった。自分も痛いほどそれを感じていたからだ。それはティコのギターが、魚の影の走る川の流れや、陽の光が髪の中でおどっている女たちを、みんなの胸によみがえらせたからである。
まもなくティコ・フェオは、みんなのとくべつのはからいで、ストーヴに近い、シェファーさんのとなりのベッドをあてがわれた。シェファーさんはかねてから、ティコが大ウソつきなのを知っていた。だからティコの冒険談だの、女をものにしたとか名士に出くわしたとかいう自慢話だのを聞いても、それを真にうけるつもりはなく、むしろ雑誌などにのっている、見えすいた作り話を読むような気持でおもしろく聞き流していた。暗がりの中で、ひそひそとささやく彼の南国的な声を聞いていると、心の温《あたた》まる思いがするのであった。
二人は肉体をからませあうような行為はしなかったし、したいとも思わなかったが――そういう行為をする者も、この農場にいないではなかったが――それでいて、二人はまるで恋人同士みたいだった。
四季の中でも春がいちばんタガのゆるむ季節だった。若草は、冬のあいだコチコチに凍っていた地殻《ちかく》を破ってもえはじめるし、若芽は、枯れてしまったような枝からふき出すし、寝とぼけたような微風《そよかぜ》が、新緑のあいだをそよそよと渡ってゆくのだった。シェファーさんにとってもやはりおんなじことで、冬のあいだこわばっていた筋肉が、ほぐれるようにゆるんでくるのだった。
一月もおわりに近い頃《ころ》であった。友人たちはそれぞれ手にタバコを持って、宿舎の入口の段々に腰をおろしていた。輪切りにしたレモンの皮のきれはしのような黄色い三日月が中空にかかり、その光で霜柱がカタツムリのはいずったあとのように、ギラギラと銀色に光っていた。このところもう長いこと、ティコ・フェオは、ものかげにかくれて折りをうかがっている泥棒《どろぼう》のように、ひっそりと鳴りをしずめていた。「おい、ギターをひとつたのむよ」と声をかけても、いっこうに反応がなく、彼はただ、エーテル麻酔にかかっているみたいに、うつろな眼《め》をこちらへ向けるきりだった。
「またひとつ、話でも聞かせてくれんか」とシェファーさんが、どうにもティコの気持をはかりかねて、いらだたしげに切りだした。「マイアミの競馬へ出かけたときの、あれがいいよ」
「ぼく、競馬なんかへ行ったことないんだもん」
してみると、数百ドルの大穴を当てたうえに、ビング・クロスビーに出会ったというあの話も真っ赤なウソだったのだ。だが、本人はそんなことなぞどうでもいいといったふうだった。ティコは櫛《くし》をとり出し、むっつりしたまま髪をすいていた。
つい二、三日まえ、この櫛がもとで、どえらい喧嘩《けんか》がはじまったのだった。ティコが櫛を盗んだ、とウィンクがいうと、ティコがいきなりものもいわずに彼の顔へ生唾《なまつば》を吐きかけたのだ。そこでとっ組み合いの喧嘩になり、あちこち転《ころ》げまわったすえ、やっとのことで、シェファーさんといま一人の男が、二人を引分けたのである。
「ぼくの櫛だい。ね、おじさん、やつにそういっとくれよ!」とティコ・フェオがシェファーさんにきつくたのんだが、シェファーさんは落着いた声できっぱりと、
「いや、ちがう、そいつはきみんじゃないよ。きみの友だちのでもないしね」といった。
これを聞いて、ティコもウィンクもがっくりきたらしかった。
「そうか――そんなにほしけりゃ、こん畜生、てめえにそいつをくれてやらあ」とウィンクがいった。
後ほど、ティコは戸まどいしたような自信のない声で、
「ぼく、おじさんのこと、こっちの味方だとばかり思ってたんだけど――」といった。
シェファーさんは胸の中で、「もちろん、きみの味方さ」とつぶやいたが、それを声には出さなかったのである。
「ぼく、競馬へなんぞ出かけたことないんだよ。あの後家《ごけ》さんの話だって、ありゃみんなデタラメさ」
と、ティコはくりかえして、火のついたところが真っ赤になるほど、やけにプカプカとタバコをふかしてから、深く考えこんだ眼をじっとシェファーさんの顔にあてた。「ねえ、おじさん、おカネあるんだろ?」
「そりゃ、ま、二十ドルぐらいならな」
相手がなにをいい出すのかと不安になって、シェファーさんは生返事をした。
「二十ドル――なあんだ、それっぽっちか」とティコはいったが、がっかりしたふうもなかった。「なあに、かまわんさ、二人で船賃がわりに働けばいいんだから。モービールにはフレデリコというぼくの友だちがいるんだ。きっとうまく船に乗っけてくれるよ。そいからさきは、もうしめたもんさ」
お寒くなりましたね、とあいさつでもするように、ティコはそうあっさりといってのけた。
シェファーさんは、ぎゅっと心臓をしめつけられたように感じて、口がきけなかった。
「いくら追っかけてきたって、ここのやつらなんぞにつかまりっこないよ。こっちはとても足がはやいんだからな」
「散弾銃《てっぽう》にゃかなわないよ」と、なかば消え入るような声で、シェファーさんはいった。「それにもうこの年じゃね」
自分の年齢のことを思うと、シェファーさんは胸がつまって吐き気を催しそうな気がした。
しかし、ティコは彼の言葉なぞ聞いてはいなかった。
「向うへ渡っちまえば、もう広い世界だ。それこそ自由の天地――エル・ムンド だよ、ね、おじさん」
ティコは立ち上がって、若駒《わかごま》のように胴ぶるいした。三日月も、コノハズクの鳴き声も、あらゆるものがティコのほうへ近寄ってくるように思えた。息づかいがはやくなってきて、ティコは空へ向けてフーッと煙の輪を吐いた。
「ひとつ、二人でマドリッドへ行こうよ。きっとだれかが、ぼくに闘牛のやり方を教えてくれるよ。そう思わんかね、おじさん?」
シェファーさんのほうも、ティコの言葉はうわの空で、
「この年じゃな――こうやけに老いぼれてはね」とくりかえしていた。
それからの数週間というもの、「自由の天地――エル・ムンドだよ、ね、おじさん」といったティコの言葉が、シェファーさんの耳についてはなれなかった。いっそどこかへ身をかくしたい気がした。よくトイレットの中にかくれて頭をかかえたりしてみたが、やはりすぐにも脱獄できそうに思えてきて、気がいらだってくるのだった。
「まさかとは思うが、まんいちそうなったばあいは、どうしよう? 森をつっきって海岸まで、ティコにおくれをとらずに走りぬくことが、はたしてこのわしにできるだろうか?」と彼は思い、いままで内陸に住みついて、一度も海を見たことのない自分が、船に乗っているさまを心に描いてみたりした。
かれこれしているうちに、囚人が一人|亡《な》くなって、中庭から棺桶《かんおけ》をつくる音が聞えてきた。一本ずつ打ちこまれていく釘《くぎ》の音を聞くたびに、シェファーさんは、「あれはわしのだ、わしの棺桶なんだ」と思った。
ティコときたら、いつになくほがらかだった。ダンサーみたいに、小いきな、きびきびした足どりで歩きまわり、だれに出会っても冗談をとばした。宿舎に帰って夕食がすむと、彼の指は爆竹《ばくちく》のようにボンボンとギターをかき鳴らした。みんなに「オレ」というスペイン語の合の手を教えたりした。なかには調子づいて帽子を宙にうち振るものもいた。
道普請《みちぶしん》ができあがると、シェファーさんとティコ・フェオは、また森の中で松脂精《テルペンチン》をとる作業にまわされた。
二月十四日の聖ヴァレンタインの祭日にも、二人は仕事に出て、松の根もとで昼食をたべた。シェファーさんは、町からオレンジを一ダースほどとりよせていたので、それを一つずつゆっくりとラセン形にむいて、果汁《かじゅう》のたっぷりありそうなところをティコに分けてやった。するとティコは、その種を遠くへプッと吐きとばしては自慢した――ゆうに十フィートは飛ぶのだった。
その日は肌寒《はだざむ》い、からりと晴れた日で、木の間をもれた陽光が二人のまわりで蝶々《ちょうちょう》のようにチラチラおどっていた。森で働くのが好きなシェファーさんは、うっとりと幸福な気分にひたっていた。
するとティコがこういった――
「あそこにいるあのやつよ、あんな野郎になんか、自分の口にはいってきたハエだってつかまえられっこないね」
アームストロングのことだった。豚のように下あごの突き出たその男は、股《また》のあいだに散弾銃をささえて、腰をおろしていた。看守のなかでもいちばん年若で、まだこの農場へ来たばかりだった。
「さあ、そいつはわからんぞ」シェファーさんが見ていて気づいたのは、この新任の看守も、ずっしりして偉そうな顔をしたがる連中のように、すいすいと軽く、気どった歩きぶりをすることだった。「あの看守のほうで、かえってきみを出しぬくかもしれんぜ」
「なあに、ぼくのほうでいまに出しぬいてやるよ」といって、ティコはアームストロングのいるほうへ、プッとオレンジの種を吐きとばした。看守は彼の顔をぐっとねめつけて、ピーッと笛を鳴らした。仕事にかかれの合図だった。
その日の午後、二人はまたひょっこり顔が合った。おなじ木立の中で、松脂精《テルペンチン》を採取するバケツを釘で樹《き》に打ちつけていたからだ。かなり下手《しもて》の森の中を、浅い小川がふたまたに分れて勢いよく流れていた。
「水の中なら臭跡《あと》がのこらなくていいよ」とティコがかつて聞いたことを思い出したかのように、細かい心づかいを見せていった。「ね、川の中を逃げようよ。それから木に登って日が暮れるまでかくれているんだ。わかったね、おじさん?」
シェファーさんは釘を打ちつづけていたが、鎚《つち》を持つ手がふるえてきて、うっかり自分の親指をたたいてしまった。彼はふり返って、ポカンとティコの顔を見つめた。親指の痛みも忘れた顔で、そんなばあいにひとがよくやるように、その指を口へ持っていこうともしなかった。
ティコの青い眼がシャボン玉のようにふくれあがって見えた。松のこずえを渡るそよ風よりもひそやかな声で、ティコはこうささやいた――
「あしただぜ」
そのときシェファーさんの眼には、ただティコのシャボン玉のような眼が大きく映ったきりだった。
「あしただよ、いいかい、おじさん?」
「あしただね」とシェファーさんがいった。
あけぼのの色がしらじらと部屋の壁に映った。ひと晩じゅう、ほとんどまんじりともしなかったシェファーさんは、ティコもすでに目をさましているのに気づいた。ワニみたいなしょぼしょぼまなこで、となりのベッドにいるティコのしぐさをながめていた。
ティコは四つの宝物のはいっているれいのスカーフをほどいて、まず懐中鏡をとり出した。クラゲのような淡い反射光がティコの顔に当ってゆらゆらとゆらいでいた。しばらく、彼は惚《ほ》れ惚《ぼ》れと自分の顔に見とれていたあげく、まるでこれからパーティーへでも出かけるときのように、櫛《くし》で髪をきれいになでつけた。
それからロザリオの鎖を頸《くび》にかけた。オーデコロンの瓶《びん》と地図には手をつけなかった。それがすむと、こんどはギターの調子をととのえはじめた。
ほかの者たちが朝の着換えをしているあいだじゅう、彼はベッドのふちに腰かけて、ギターの調子を合せていた。もう二度と手にすることのないのを百も承知しているはずなのに、腑《ふ》におちぬしぐさだった。
靄《もや》のかかった朝の森を通りぬけてゆくみんなのあとから、かん高い小鳥の鳴き声が追ってきた。十五人ずつ隊を組んで、みんな一列に行進していた。看守が一人ずつ各隊のしんがりについていた。
シェファーさんはまるで陽《ひ》ざかりのように、じっとり汗をかいていた。行進ではとてもティコの足についてゆけなかった。ティコはとっとと先を歩きながら、指をパチンパチン鳴らしたり、小鳥たちに向って口笛を吹いたりしていた。
合図はあらかじめきまっていた。ティコが「時間だよ」と声をかけ、そのまま何食わぬ顔ですっと木陰へ消える手はずになっていた。だが、その声がいつかかるか、シェファーさんには見当もつかなかった。
アームストロングが笛を吹くと、配下の者たちはバラバラっと列をはなれて、それぞれの持場についた。シェファーさんは精いっぱい仕事をしながらも、たえずティコと看守の両方を見張っていられる場所にいるようにと心がけた。
アームストロングは顔をいびつにして、クチャクチャと噛《か》みタバコを噛みながら、銃口を空へ向けたまま、切り株の上に腰をすえていた。トランプのいかさま師みたいな食えない眼《め》つきをした男で、いったいどっちを見ているのかさっぱり見当もつかなかった。
いちど、ほかの囚人が「時間だよ」と声をかけた。シェファーさんは、すぐそれがティコの声でないことに気づいたが、それでもやはりギクッとして、喉首《のどくび》になわでもかけてぐいとひっぱられたような気がした。
だんだんお昼が近づくにつれて、耳がガンガンしはじめ、これではかんじんな合図が聞えないのではないか、とシェファーさんはハラハラした。
陽あしが中天に達した。
「あの怠けものめ、ちょっとそんな気になっただけで、どうせやるつもりなんかないんだろう」シェファーさんも、一時は本気でそう思ったりした。
「まず腹をこしらえてからだ」ティコは、二人が小川のうえの土手に飯盒《はんごう》をおろすと、テキパキした口調でいった。
まるで敵《かたき》同士のように、二人は食事中ひとことも口をきかなかった。食べおわると、シェファーさんは、ティコが自分の手をつかんで、そっと握りしめるのを感じた。
「アームストロングさん、時間だよ……」
シェファーさんはそのとき、小川のほとりにモミジバフウの木が一本生えているのを見て、もうじき春になったら、あれがちょうど噛みごろになるだろうな、と考えていたところだった。
シェファーさんはやにわに、つるつるする土手を、ずるずると川の中にころげ落ちたが、そのさい、カミソリのような岩の角で片方の手の平を引裂いた。だが、すぐに起き上がって、パッとかけ出した。脚が長いだけに、ほとんどティコと肩をならべて走りつづけた。氷のように冷たい水が二人の足もとで水煙をあげた。
森のあちこちで人々の叫ぶ声が、ほら穴の中で聞くように、大きくこだました。三発の銃声が聞えた。どれも狙《ねら》いが高すぎ、まるで雁《がん》の群れでも撃っているようだった。
シェファーさんは、しかし、川の中に丸太が横たわっていたのに気づかず、つまずいてどっと倒れた。自分ではまだ走っているつもりだったが、足のほうでいうことをきかず、ただバタバタと水を打っているきりだった。海ガメが仰向《あおむ》けに岸へうち上げられたのとそっくりだった。
そうしてバタバタやっているとき、ティコの顔がちらと上からのぞいたのを感じたが、彼にはそれが白い冬空の一部のように、じつによそよそしい、こちらをじっと値ぶみしているような顔に見えた。
それも、| 蜂 鳥 《ハミングバード》の影が眼さきをよぎったほどの、ほんの束《つか》の間《ま》のことだったが、彼はその間、もともとティコ・フェオはこちらの脱獄を心からのぞんでもいなかったし、また、こっちが本気になるとも思っていなかったのだ、ということをさとった。シェファーさんはかつて、ティコがおとなになるまでにはまだまだだいぶ間がある、とひとりで考えたことを思い出した。
みんながさがしあてたときにも、彼はやはり、まるで夏の午《ひる》さがりにのんびり水の面《おも》を漂っているかのように、かかとまでしか届かない水の中に横たわったままだった。
その事件があってから、はやくも三年たち、三たび冬を送ったが、そのいずれも例年になく寒い、長い冬だったといわれている。このところ、ふた月ばかり雨が多かったので、農場へ通じている赤土の道路に刻まれたわだちが、雨に洗われていっそう深くなり、農場への往来《ゆきき》がますます困難になっていた。一対《いっつい》の探照灯が刑務所の塀《へい》にとりつけられ、夜どおし、巨大なフクロウのように目玉を光らせていた。そのほかには、そう大した変化もなかった。たとえば、シェファーさんにしても、白髪《しらが》がひときわ目立つようになったとか、足首をくじいたのがもとで、片足を引きずるようになったとかいうような点をのぞくと、見たところ昔とさして変らないのである。
所長が先に立って、シェファーさんが足首をくじいたのは、ティコ・フェオを捕えようとしたためだといってくれた。新聞にシェファーさんの写真まで出て、その下に「脱獄囚を取押えようとして」という見出しがついていた。
その当座、シェファーさんはとても気恥ずかしい思いをしたが、それはなにもほかの者たちに笑われるにきまっているからではなくて、ティコ・フェオがひょっとその記事を読みはしないかと案じたからだった。
しかし、彼はともかくその新聞記事を切り抜いて、それを今でも封筒に入れて保存している。その封筒のなかには、ティコ・フェオに関する報道の切抜きも数枚はいっている――ティコがある独身女の家に押し入って接吻《せっぷん》したという、被害者から警察への訴え出や、モービール付近で彼の姿を目撃したという二回にわたる記事や、ついに彼が海外へ脱出したらしいという報道などである。
シェファーさんがティコのギターを所望すると、みんな文句なしに賛成した。いまから数カ月まえ、一人の新顔がこの宿舎に収容された。その囚人はギターが上手だという評判だった。シェファーさんはみんなに口説かれて、その男にギターをかしてやったが、なにをひいても、さっぱりいい音が出なかった。それはまるで、ティコ・フェオがいよいよおさらばという朝、ギターの調子をあわせながら、それに呪《のろ》いをかけておいたかのようだった。
いま、そのギターはシェファーさんのベッドの下においてあり、ガラスのダイヤもそろそろ黄いろくなりかけている。夜分、ときどき、シェファーさんの手はくらやみの中で、そっとギターをさがしあて、指で絃《いと》をまさぐり、そして、|自由の天地《ヽヽヽヽヽ》に触れるのである。
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クリスマスの思い出
十一月もそろそろおわりに近い朝のようすを想像してください。もう二十年以上も昔のことです。どこかの田舎町《いなかまち》のひろびろとした旧家のお勝手のありさまを考えてみてください。
そこではなんといっても、どっしりした、真っ黒けの料理用ストーヴがいちばん幅を利《き》かせています。だが、そのほかにも、大きな丸い台所テーブルが一つと、まえに揺り椅子《いす》が二つ並んでいる暖炉とがあります。ちょうど今日、この暖炉はいかにも冬らしいゴーゴーという炎の音をたてはじめたところです。
お勝手の窓のそばに、白い髪を刈り上げにした一人の女が立っています。ズックの靴《くつ》をはき、夏向きのキャラコの服のうえに、ぶかっこうな鼠色《ねずみいろ》のスェーターを着ています。チャボみたいに小柄《こがら》で、しゃきしゃきしたひとですが、若い頃|長患《ながわずら》いをしたので、かわいそうに猫背《ねこぜ》になっています。顔だちもなかなか個性的で、風にさらされたり陽《ひ》やけしたりして肉のそげたところなど、ちょっとリンカーンに似ていますが、それでいて、やはり女らしい、上品な顔をしています。眼《め》はあかるいシェリー酒のような色で、いつもはずかしそうにまばたいています。
「おやまあ、フルーツケーキの支度《したく》にかかるにはもってこいのお天気だよ!」
と、おばちゃんは窓ガラスを息で白くくもらせながらいいます。
そうおばちゃんが話しかけているのは、ぼく自身なんです。ぼくは七つで、おばちゃんは六十いくつかです。ぼくたちはいとこ同士で――といっても、間がとても遠いのですが――いままでずっと一緒に暮してきているのです。そういえば、ぼくがまだ物心のつかない時分からずっとそうなんです。
この屋敷には、ほかのひとたちも――やはりこれも親戚《しんせき》ですが――住んでいます。ぼくたちよりずっと威張っていて、ちょいちょいぼくたちを泣かせますが、こちらはふだんそのひとたちのいうことをあんまり気にはしません。
おばちゃんとぼくは大の仲よしです。おばちゃんはぼくのことを「バディー」と呼びます。昔おばちゃんと仲よしだった小さな男の子のことをそう呼んでいたからだそうです。その子は一八八〇年代に亡《な》くなったのですが、そのときはおばちゃんもまだ幼い子供だったのです。でも、おばちゃんには今もって、やっぱり幼い子供みたいなところがあります。
「ゆうべ寝るまえから、きっとそうだと思ってたよ」と、おばちゃんは窓からこちらへふり向いて、まだ出かけぬ先から胸をおどらせているような眼でいいます。「公会堂の鐘がとても寒そうに冴《さ》えかえっていたからな。もう小鳥も鳴かなくなったが、みんな暖かい国へ飛んでいっちゃったんだね、きっとそうだよ。さあさ、バディー、もうビスケットをほおばるのはよしにして、わしらの車をひいといで。はあて、帽子はどこへいったかな? ちょっと一緒にさがしとくれ。なにしろ、これから三十もケーキをこさえなきゃなんないんだからね」
毎年、こういう調子なのです。十一月のある朝になりますと、おばちゃんは大きな声で、
「おやまあ、フルーツケーキの支度にかかるにはもってこいのお天気だよ! さあさ、わしらの車をひいといで。はあて、帽子はどこへいったかな? ちょっと一緒にさがしとくれ」
と、いつもそういうのです。それはまるで、さあ、いよいよクリスマスの季節がやってきたよ、あれこれ考えると、もう胸がわくわくして、じっとしていられない、とでも公《おおやけ》に宣言してるみたいです。
帽子がみつかります。それはもと、あるハイカラな親戚のおばさんがかぶっていた麦ワラ帽子で、一ドルもする、まるで本物のようなビロードのバラの花束がくっついていたのですが、今では麦ワラの色もすっかりあせています。
二人で一緒にわしらの車を――それはぼくが生れたときに買ってもらった、オンボロの乳母車《うばぐるま》のことなんですが――庭からピカン林まで押してゆきます。その乳母車は柳細工なので、編目がそろそろほぐれかけていて、輪も酔っぱらいの足みたいによろよろしています。だが、なかなか忠実なはたらきものです。
春になると、それを森へ押していって、ポーチの鉢植《はちう》えにする花だの、草だの、シダだのをいっぱい積みこみます。夏には、ピクニックのいろんな品だの、サトウキビの釣竿《つりざお》だのを積んで、くるくると小川のほとりまで押してゆきます。冬は冬で、また役に立ちます。トラックの代りをつとめて、中庭からお勝手まで薪《まき》を運んでくれたり、クウィーニーのために温かい寝床の役もしてくれます。
クウィーニーはぼくたちの飼っている小さな、オレンジと白のぶちになった、強くてネズミを捕るのがうまいテリヤです。ディステンパーにかかったり、二度もガラガラ蛇《へび》に咬《か》まれたりしましたが、それでもけっこう助かりました。クウィーニーはいま乳母車のわきをとっととかけています。
それから三時間ほどして、お勝手にもどってくると、ぼくたちは、風で落ちたのを乳母車に山もり拾ってきたピカンの皮むきをはじめます。ながいことかがんで拾っていたので、背中がずきずきします。落葉のつもった下とか霜枯れのこんぐらかった草のあいだとかで、それをみつけるのに骨の折れたことったら!というのも、おもなところは、とっくにピカン林の持主が枝から実をふるい落して売り払ったあとだからです。
パリリッ!
カラを割るたびに、小さな雷みたいな小気味のいい音がします。そしてうちがわに、脂《あぶら》っこくておいしい、象牙《ぞうげ》みたいな白い実がはいっている、黄金色《きんいろ》にふくらんだピカンが、ミルク色の鉢にうずたかくたまっていきます。
クウィーニーがちょっと味ききをというような顔で尻尾《しっぽ》を振りますと、おばちゃんはときたまぼくの眼を盗むようにして、ほんのちょっぴりピカンを犬に分けてやります。そのくせ、人間はぜったいに食べちゃだめだというんです。
「わしらはな、がまんせんといかんのだよ、バディー。いったん食べはじめたらさいご、おいしくてやめられんからさ。だって、これだけじゃ、まだ足りないくらいだもの。なにしろ三十もケーキを焼くんだからね」
勝手もとがだんだんほの暗くなってきます。外が暮れてゆくにつれ、窓ガラスが鏡の役をします。暖炉の火影《ほかげ》に照らされながら、二人でせっせとピカン割りをしていますと、お月さまがぼくたちの姿を映している窓ガラスの中へ、ヌーッと顔を出します。
月が高くなるころ、ぼくたちはやっと最後の殻《から》を暖炉の中へポイと投げこんで、二人は同時にフーッと溜息《ためいき》をつきながら、殻に火がつくのをじっと見まもっています。乳母車はからっぽになり、鉢にはあふれんばかりにピカンがたまっています。
ぼくたちは焼きざましのビスケットと、ベーコンと、木イチゴのジャムで夕食をすませ、それから、あしたの計画についていろいろ話しあいます。あしたはいよいよぼくのいちばん好きな用事――買出し――がはじまります。
サクランボにシトロン、ショウガにヴァニラにハワイのパイナップルの缶詰《かんづめ》、柑皮《ラインド》に乾《ほし》ブドウにクルミにウイスキー。そのうえ、たまげるほどどっさりの小麦粉、バター、数えきれぬほどの卵、香料と薬味《やくみ》――おやおや、これでは乳母車をうちへひっぱって行くのに小馬でもいりそうですね。
ところが、買物をするにも先立つものはおカネです。ぼくたちはどちらも素寒貧《すかんぴん》です。ただこの家のひとたちがときたまくれるスズメの涙ほどのおカネ――十セント銀貨の一つでももらったら、それこそお天気が変りそうです――とか、ぼくたちがいろんなことをして稼《かせ》ぐおカネしかないのです。
二人でガラクタ市をひらいたり、手おけに何杯か木イチゴをつんできて売ったり、手製のジャムやリンゴのゼリーや桃の砂糖漬《さとうづ》けをびんに詰めて売ったり、お葬《とむら》いや婚礼の花輪をこしらえたりするのです。
いちど、全国フットボール大会のコンテストで七十九等になり、賞金を五ドルもらったことがあります。といっても、ぼくたちはフットボールのことなぞなんにも知らず、ただコンテストと聞くと、どんなのにでも応募するだけのことなんです。
いまのところぼくたちは、五万ドルの大懸賞に望みをかけています。新発売のコーヒーの名前の懸賞募集です。A・M・≠ニいう名にして出したのですが、それもさんざやめようかどうしようかと迷ったあげくなんです。というのは、おばちゃんがA・M・≠ニいう商標は『アーメン』というお祈りの文句にも通うので、罰《ばち》が当りはしないかと気をもんだからです。
正直なところ、ほんとにもうかったのは、今から二年まえの夏、ぼくたちが裏庭の薪小屋で、「おもしろいもの・珍しいもの展」をひらいたときぐらいなものです。
「おもしろいもの」というのは、ワシントンとニューヨークのいろんな景色を写したスライドの幻灯なのでした。そこへ見物に行ってきたある親戚のおばさんが貸してくれたものですが、あとで借りた目的がバレてさんざ怒られました。もう一つの「珍しいもの」とは、ぼくたちの飼っている雌鶏《めんどり》の一羽がかえした三本|脚《あし》のヒヨコだったのです。
この近在の人たちが、われもわれもとそのヒヨコを見にやってきました。観覧料は大人五セント、子供二セントということにきめました。そうして二十ドル以上もかせいだとき、あいにく主《おも》な呼びもののヒヨコがぽっくり死んだので、見せもの展をたたみました。
しかしなんとかして、ぼくたちは毎年クリスマスの費用、つまり、フルーツケーキをつくる資金をためました。そしてそのおカネを古風なビーズの財布に入れて、おばちゃんのベッドの下にあるシビンの下の、床板がゆるんだ中へかくしておきました。あらたに預金をするときとか、いつも土曜日ごとに貯金をひき出すときのほか、この安全なかくし場所から財布をとり出すことはめったにありません。
なぜひき出すかといいますと、土曜日には、おばちゃんが映画に行けといって、ぼくに十セントずつくれるからです。おばちゃん自身は、しかし、いっぺんも映画を見にいったことがありませんし、行きたいとも思わないのです。
「おまえから映画のすじを聞くほうがましだよ、ねえ、バディー。そのほうがあれこれと想像ができて、かえって愉《たの》しいからさ。それにもうわしみたいな年寄りは、眼をつかいすぎてはいけないんだよ。神さまがお迎えにいらしったとき、ハッキリお姿が拝めないと困るからね」
おばちゃんは映画へ行かないばかりでなく、飲食店でものを食べたことも、うちから五マイル以上はなれたところへ旅行したことも、電報をひとからもらったりこちらから打ったりしたことも、漫画新聞と聖書《バイブル》以外のものを読んだことも、お化粧をしたことも、悪たいをついたことも、だれかに危害が及ぶように願ったことも、故意にウソをついたことも、腹のへった犬をそのままで追っ払ったこともありません。
おばちゃんがこれまでにしたり、いまでもすることといったら、この地方でもめずらしいほどでっかいガラガラ蛇(合せて十六匹も)をクワで殺したり、(こっそり)嗅《か》ぎタバコを嗅いだり、| 蜂 鳥 《ハミングバード》を指先にとまるようになるまで(ちょっと試《ため》しに)飼いならしてみたり、夏のさなかの七月でもゾクゾクと寒気のするようなお化けの話(ぼくたちは二人ともお化けはいるものと信じているのですが)をしたり、ひとりごとをつぶやいたり、ちょいちょい雨のふる中を散歩したり、この町でもいちばんみごとなツバキの花を咲かせたり、ふしぎなほどよく効《き》くイボとりの薬をはじめ、古くからインディアンの間に伝わっているあらゆる療法を知っていたりするくらいなものです。
さて、夕食がすむと、ぼくたちはこの屋敷のずっとはずれにある自分たちの部屋へひきあげます。おばちゃんの部屋には、小ぎれをはいでつくった掛けぶとんをのせた、おばちゃんの大好きなバラ色に塗った鉄のベッドがあります。
やがてぼくたちはまるで陰謀でもたくらんでいるような秘密のよろこびにひたりながら、こっそりとれいのかくし場所からビーズの財布をとり出して、中味をバラバラと、小ぎれをはいだふとんの上にあけます。
かたく巻いてある、五月の新芽のように緑色をしたお札や、死人の眼をめりこますほどずっしりした、くすんだ色の五十セント銀貨や、チャリンチャリンととても気持のいい音をたてるいちばん陽気でかわいらしい十セント銀貨や、河原の小石みたいにすり減ってつるつるになった五セント白銅貨と二十五セント銀貨などもありますが、その大部分は、ツンとへんなにおいのする、小憎らしい一セント銅貨なのです。
去年の夏、この屋敷に住んでいるほかのひとたちが、ハエを退治すれば二十五匹につき一セントやるといいました。いやはや、八月中に手あたりしだい片っぱしからパタパタとハエをやっつけたことといったら! 昇天したハエの数はそれこそかぞえきれぬくらいでした。しかしどうもこれはあんまり自慢になる仕事ではありませんでした。
いま、すわって一セント銅貨をかぞえていますと、なんだかまたハエの死骸《しがい》を仕分けているような気がしてきます。ぼくたちはどちらも計算が苦手です。ゆっくりかぞえては途中でわからなくなり、またはじめからやり直すといったぐあいです。おばちゃんの勘定では十二ドル七十三セントですが、ぼくのだと、ちょっきり十三ドルになります。
「おまえのがまちがってやしないかえ、バディー? 十三という数にたたられて、縁起でもないことがおきたらたいへんだからね。ケーキがふくらまなかったり、だれかが亡《な》くなったりしてさ。まったく、十三日に寝床から起き出すなんて、わしにはとうてい思いもよらんよ」
まさにその通りでした。おばちゃんは毎月十三日になると、ベッドに寝たきりなんです。そんなわけで、ぼくたちは大事をとり、十三ドルの中から一セントさし引いて、その銅貨を窓の外へポイと投げすてます。
フルーツケーキをつくる原料のなかで、いちばん手にはいりがたく、かつ、高くつくのはウイスキーです。その販売が州の法律で禁じられているからです。だけど、ハハ・ジョーンズさんの店へ行けば、ひとびんぐらい分けてもらえるのを世間ではだれでも知っています。
で、あくる日、ふつうの買物をぜんぶすませてから、ぼくたちはハハさんの店へ出かけます。その店というのは、川のほとりまで降りたところにある(世間のひとにいわせると)「罪の深い」、いかがわしいキャバレーなのです。まえにもやはりいくどかウイスキーを買いにそこへ行ったことがありますが、出てきたのはいつもハハさんのおかみさんでした。おかみさんは過酸化水素液で漂白した、真鍮色《しんちゅういろ》の髪をした、見るからに不精たらしいインディアンの女でした。
ハハさんもやはりインディアンだという話でしたが、実のところ、ぼくたちはまだ一度もその顔を見たことがありません。なんでも両頬《りょうほお》に鋭い刃物でえぐられた傷あとのある大男だそうです。世間では皮肉って、そのひとのことを「ハハ」と呼んでいるのです。まだ一度も笑顔《えがお》を見せたことのない陰気な男だからだそうです。
ハハさんのキャバレーは大きな丸木小屋で、川べりのドブ泥《どろ》のすぐわきに生えている樹《き》の陰に立っていて、その樹の枝からはコケがまるで灰色の霧のようにぶらさがっています。そして家の内にも外にも、いやに派手な色のハダカ電球をつるしたくさりが、モールみたいに飾ってあります。
そのキャバレーに近づくにつれて、ぼくたちの足どりは鈍ってきます。クウィーニーまでが、いままではピョンピョン跳《と》んでいたのに、ぴたりとぼくたちのそばにくっついてきます。
それもそのはずで、ハハのキャバレーでは、いままでに何人もひとがズタズタに斬《き》られたり、頭をぶんなぐられたりして殺されているからです。さいきんおこった事件も、来月裁判にかけられることになっています。
だが、そのような事件のおきるのは、きっと五色《ごしき》の電灯の光をあびて狂ったように影法師《かげぼうし》がおどり、蓄音器がむせぶような音をかなでる夜分にきまっています。昼間はひっそり閑《かん》とした、見すぼらしい建物なんです。
ぼくがノックします。クウィーニーが吠《ほ》えたてます。おばちゃんが声をかけます。
「ハハさんのおくさんはお宅ですか? どなたかいらっしゃいません?」
足音がします。ドアがあきます。とたんに、ぼくたちは胆《きも》をつぶします。出てきたのは、なんとおかみさんではなくてハハ・ジョーンズさんじゃありませんか!
なるほど大入道です。たしかに傷あともあります。まったくニコリともしません。うわさに聞いたとおりです。
ハハさんは苦い顔をして、悪魔《サタン》のように眼《め》じりを上げ、じっとぼくたちを見すえて、おうへいにたずねます――
「このハハになんぞご用かい?」
一瞬、ぼくたちは石みたいに立ちすくんで、口もきけません。そのうちにやっと、おばちゃんが蚊のなくようなか細い声を出して、
「あのう、まことにすみませんが、ハハさん、お宅の上等のウイスキーを一クォートばかり分けていただけませんかしら?」といいます。
ハハさんの眼じりがますます上がってきます。まさかとは思うものの、ハハさんがニコニコしているんですよ。そのうえ、ハハハと声まで出して笑うんです。
「で、その飲み助てえのは、いったい二人のうちのどっちなんだね?」
「いいえ、あの、フルーツケーキをこしらえるのにいるんですよ。ハハさん、それお料理用なんです」
それを聞くと、ハハさんの顔から笑いが消えて、しぶい顔になります。
「上等のウイスキーをそんなことにつかっちゃもってえねえな」
と、口ではいったものの、ハハさんはうす暗いキャバレーの中へとって返して、まもなくフランス菊みたいな黄色いお酒のはいった、レッテルの貼《は》ってないびんを一本つかんで出てきます。陽《ひ》の光にかざしてキラキラするところをたしかめてから、
「二ドルだよ」
ぼくたちは五セント白銅だの、十セント銀貨だの、一セント銅貨などで払いをします。
そのおカネを片手に握って、サイコロでも振るようにジャラジャラいわせているうちに、ふと、ハハさんの頬が和《やわ》らいできます。
「あのね」と、ハハさんがおカネをまたぼくたちのビーズの財布にザラザラともどしながら切りだします、「そのかわり、フルーツケーキを焼いたら一つとどけてくんなよ」
おばちゃんが帰り道でいいます――
「どうして、ありゃなかなかいいひとじゃよ。あのひとにやるケーキには、乾《ほし》ブドウをコップ一杯分だけよけいに入れることにしようね」
石炭と薪《まき》をくべたれいの真っ黒けな料理用ストーヴが、まるでカボチャのちょうちんみたいに真っ赤に焼けています。卵の泡《あわ》立て器がおどり、さじがバターと砂糖のはいった鉢《はち》の中でキリキリ舞いを演じます。
ヴァニラの甘い香《かお》りがあたりに立ちこめます。ピリッとしたショウガの匂《にお》いもまざります。プーンとくるおいしい匂いがお勝手にみちて、屋敷じゅうへひろがってゆきます。さらに、煙突からもくもくと吐き出される煙にのって、となり近所へも漂ってゆきます。
こうして四日目に、やっとフルーツケーキが焼き上がります。ぜんぶで三十一個。しっとりとウイスキーを吸わせたのを、窓わくの上やたなの上で風に当てます。
そんなにたくさんケーキを焼いて、いったいだれにやるのだろうか?
もちろん親しいひとたちにやるのです。といっても、となり近所のひとたちだけとはかぎりません。実際、ケーキの半分以上は、たぶん一度しか会ったことのないひととか、おそらくぜんぜん会ったこともないひとたちとかに贈るつもりでこしらえたのです。つまり、なんとなしに心をひかれたひとたちに、食べてもらうつもりでこしらえたのです。
たとえば、ルーズヴェルト大統領だとか、牧師のJ・C・ルーシーご夫妻だとか、去年の冬この町へきて説教をしたボルネオ派遣のバプテスト派宣教師さんたちだとか、一年に二回ほどやってきて町をまわってあるく小柄《こがら》なトギ屋さんだとか、毎朝|土埃《つちぼこり》のもうもうとしたなかで「ホーイ」と向うから声をかけ、たがいに手を握りあってあいさつをかわすのがならいの、モービールから六時にここへやってくるバスの運転手さんだとか、あの日の午後、車がうちのそばで故障して一時間ほどポーチで愉快に話しあったことのある、カリフォルニアの若いウィストンさんご夫婦(そのときウィストンさんがぼくたちを写真にとってくれました。写真などとってもらったのはこれが初めてなんです)だとか、そういったひとたちです。
こんなふうに見ず知らずのひとたちや、ちょっと会っただけのひとたちが、ぼくたちになんとなくとてもなつかしく感じられるのは、おばちゃんがはにかみ屋で、ろくに顔も知らぬひとたちでないと、人みしりをするからです。てっきりそうだ、とぼくは思います。
またひとつには、ぼくたちの大事にしているスクラップブックには、ホワイトハウスの用箋《ようせん》にしたためた大統領からの礼状とか、カリフォルニアやボルネオからの、おりふしの便りとか、トギ屋さんのくれた一セントの絵葉書とかが貼られていて、それをあけて見るたびに、ぼくらが小さな天窓一つしかあいていないこのお勝手の外の、目まぐるしい世間と、なんとなくつながりがあるように思えてくるからです。
てんやわんやの大騒ぎもすみ、いよいよクリスマスが近づいてきますと、すっかり葉をふるい落したイチジクの枝が、窓にぶつかってサラサラと音をたてています。ケーキも姿を消して、お勝手がガランとしています。きのうさいごの一つを小包にして郵便局へ出したからです。
ケーキを送る小包代ですっかり財布の底をはたき、ぼくたちは文《もん》なしになりました。これにはぼくもちょっとがっかりしましたが、おばちゃんは、びんの底にまだウイスキーが二インチほど残っているから、これでひとつわしらもお祝いをしよう、といってききません。
クウィーニーにもコーヒーを入れた鉢の中へウイスキーをひとさじほどごちそうしてやります――クウィーニーは、チコリの味をきかせた強いコーヒーなのです。
あとのウイスキーをぼくたちはゼリーのコップの中へ半々につぎわけます。生《き》一本《いっぽん》のウイスキーをそのままで飲むのかと思うと、二人ともすっかり怖気《おじけ》づいてきます。ひと口飲んでは顔をしかめ、さもまずそうにぶるっと体《からだ》をふるわせます。だが、そのうちに二人ともだんだん陽気になってきて、一緒に思いおもいの歌をうたいはじめます。
ぼくはうたっている歌の文句がうろ憶《おぼ》えなので、ただ「さあさ行こうぜ、行こうぜ夜の街、みんなの集まる踊り場へ」をくりかえすだけです。歌のほうはさっぱりですが、ダンスはお手のものです。なにしろ映画に出てくるようなタップ・ダンサーになるのが、ぼくの未来の目的なんですから。ぼくの踊る影が壁にチラチラ映り、ぼくたちの歌声が瀬戸物をグラグラさせます。そしておばちゃんとぼくは、眼に見えない手でくすぐられてでもいるように、顔を見合せてはクスクス笑います。
クウィーニーも仰向《あおむ》けに転がり、四本の足で宙をひっかきながら、ニヤニヤ笑っているみたいに、黒い鼻づらから白い歯をニッとのぞかせています。
ぼくは暖炉の中でパチパチはぜている丸太のように、体じゅうがカッカとほてってきて、なんだか身内から火花でもとび出しそうな気がしています。
おばちゃんはまるで夜会服でも着てるみたいに、粗末なキャラコのスカートのはしを指先でちょいとつまみ上げてワルツを踊りながら、暖炉のはたをぐるぐるまわっています。れいのズックの靴《くつ》で床板をキーキーふみ鳴らしながらうたっています。
「うちまで、送って、ちょうだいな――うちまで、送って、ちょうだいな……」
そこへヌッーと親戚《しんせき》のひとが二人登場します。カンカンになり、えらいけんまくで、かみつくような眼と、刺すような舌でどなりつけます。
「こらっ、なにしてるんだ!」と口をそろえてガラガラと雷をおとします、「七つの子供が! 酒くさい息を吐いて! ばあさん、気でも狂ったのか? 七つの子供にウイスキーだなんて! まるで狂気の沙汰《さた》だ! いずれは、ばあさん、地獄ゆきだぞ! 従姉《いとこ》のケイトや、チャーリー伯父《おじ》さんや、伯父さんの義兄《にい》さんのことを忘れたのか? 恥を知れ! 面《つら》よごしめ! みんなの顔に泥《どろ》をぬるやつだ! ひざまずけ! 祈れ! 神さまにおわびしろ!」
クウィーニーは、こそこそと料理用のストーヴの下にもぐりこみます。
おばちゃんはズック靴の先にじっと眼をおとしています。顎《あご》ががたがたふるえています。スカートをつまみ上げて、チュンと鼻をかみ、そのままバタバタと自分の部屋へ逃げてゆきます。
町のひとたちもみんな寝しずまり、柱時計が鐘楽《チャイム》をかなでたり、消えかかった暖炉の火がブスブス音をたてたりしているほかは、屋敷じゅうしんとなりましたが、おばちゃんはそれでもまだ泣きやみません。まるでもう未亡人のハンカチみたいにぐしょぐしょになった枕《まくら》の上に、ポタポタ涙をおとしています。
「よう、泣いちゃだめだよ」とぼくがおばちゃんのベッドのすそに腰かけていいます。フランネルのパジャマを着ていても、まだ寒くて体がガタガタふるえてきます。このパジャマにはまだ去年の冬飲んだセキ止めシロップの匂いがどこかしみついています。「よう、泣いちゃだめだったら」おばちゃんの足指をつねったり、かかとをくすぐったりしながらくりかえします。「おとなが泣いたりしちゃおかしいや」
「うんにゃ」とおばちゃんはしゃくりあげます。「こりゃわしが年をとりすぎたせいだ。年のせいでもうろくしたんじゃよ」
「もうろくなんかしてないよ。おばちゃんはおもしろいや、だれよりもおもしろいよ。ねえ、もう泣くのよさないと、あしたくたびれて、一緒にクリスマス・ツリーを切りに行けないよ」
とたんに、おばちゃんはガバと起き直ります。クウィーニーがベッドの上にとび上がって(ふだんはおばちゃんがやかましくてそこへ上がれないのですが)おばちゃんの頬《ほお》をペロペロとなめまわします。
「わしはちゃんと知ってるんだよ、バディー、ほんとにすてきなモミの木がどこにあるかをさ。ヒイラギのほうもじゃよ、目の玉くらいな大粒の実がなってるのをね。森のずっとおくの、わしらがまだ行ったことのない遠いところだよ。わしの子供の時分に、うちのお父ちゃんが、よくそこからクリスマス・ツリーを切ってきてくれたもんさ。肩にひっかついでよ。もう五十年も昔のことさ。だが、今はもう――わしは朝までじっとしていられなくなってきたね」
やっと夜が明けます。霜で草の葉が白く光っています。オレンジのようにまんまるい、夏の日みたいに黄色い太陽が地平線のうえにヌーッと顔を出しています。朝の光をあびて銀メッキをかけたような冬の森がキラキラとかがやいています。放し飼いの七面鳥が鳴いています。おりから逃げ出した豚も、しげみの中でブウブウと鼻を鳴らしています。
まもなく、深さがひざまでくる急流のほとりに出ます。乳母車はおいてゆくほかありません。クウィーニーが先にたって水にはいります。流れの早いのをぼやくように吠《ほ》えたてながらジャブジャブ水をはねかして渡ってゆきます。まるで肺炎でもひきおこしそうな冷たさです。ぼくたちもそのあとにつづいて、靴や用意の品(手斧《ておの》と南京袋《ナンキンぶくろ》)を頭の上にさし上げてわたってゆきます。
それから先一マイルほどは、やってくるものをこらしめでもするように、トゲだの、イガだの、イバラだのがいっぱい茂って、ぼくたちの服をひっかきます。毒々しい色のキノコや鳥の脱け毛などがからみついて、ピカピカ光っている朽ちた松の落葉がチクチクと足に刺さります。
あちこちで、さもたのしそうな小鳥のさえずりが聞えます。パタパタと飛びまわる姿もチラチラ見えています。ぼくたちはそれを見て、小鳥がぜんぶ南へ飛び去ったのでないことに気づきます。小道はレモン色の陽《ひ》ざしを映している水たまりや、真っ暗なツタカズラのトンネルを抜けてどこまでもうねうねとつづいています。
また小川にさしかかります。斑点《はんてん》のあるニジマスの群れがおどろいて、渡ってゆく足もとの水面をパチャパチャと泡立《あわだ》たせます。お皿《さら》ほどもあるでっかいガマが、たいこ腹をあおってバチャンと水に跳びこみます。ビーバーが建築技師みたいにせっせとダムをきずいています。
向い岸では、クウィーニーがブルルと水を払いおとしてガタガタふるえています。おばちゃんも小刻みに体をふるわせていますが、それは寒いからではなくて、はりきっているからです。おばちゃんが頭をそらせて松の香のたちこめた空気を胸に吸いこみますと、麦ワラ帽子についている、クシャクシャになったバラの一つから、花びらがポロリと一つ落ちてきます。
「やれやれ、どうやら着いたようじゃよ。バディー、あの匂《にお》いがおまえにはわからないかえ?」
おばちゃんはまるで広々とした海のほとりにでもやってきたようなことをいいます。
それもそのはずです。まるで樹《き》の海のようなところなのですから。かんばしいモミの樹の林が見わたすかぎりつづいています。トゲだらけの葉をつけたヒイラギも見えています。真っ赤な実が中国の鈴のようにつやつやと光っています。真っ黒いカラスの群れがカーカーとさわぎながらその上に舞いおりています。
それこそいくつもの窓が飾れるほどどっさりヒイラギの青い葉や赤い実を南京袋につめこんでから、ぼくたちはいよいよモミの木をえらびはじめます。
「子供の背丈《せたけ》の二倍はなくちゃあね。星飾をもっていかれるとこまるからさ」
と、おばちゃんが分別くさい顔をしていいます。
で、ぼくの背丈の二倍もあるのにきめます。三十回も手斧を打ちこんで、やっとミリミリ、ドサッと倒れたほどの、とってもみごとなやつです。
ぼくたちはそれをずるずる引きずって、また長い道中をひっ返しはじめます。五、六メートル行っては引きずるのをやめて腰をおろし、ハアハアと肩で息をします。だが、また、みごとな獲物をせしめた狩人《かりゅうど》のような元気がわいてきます。それともう一つには、モミの木のたくましい、ひんやりした木の香が、うしろからぼくたちをはげましてくれるからです。
町に通じる赤土の往来を日暮れがたにうちへもどってくる途中、このモミの木を見ると、みんなお世辞をいってくれます。だが、おばちゃんは、行きあうひとが乳母車につんだこの宝ものをほめちぎっても、なに食わぬ顔をして空とぼけています。
「みごとな木だねえ。どこで切ってきなすったかね?」
「なあに、ちょいとこの先あたりで――」とおばちゃんは小声でお茶をにごします。
いちど、自家用車がいきなりとまり、お金持の工場主のものぐさなおかみさんが窓から顔をつき出して、鼻声をかけます。
「二十五セント玉ふんぱつするから、その木をゆずっとくれよ」
ふだんなら、おばちゃんはなかなかいやといえないたちですが、このときばかりは、いきなりかぶりをふって、
「一ドルでもごめんですよ」といった。
工場主のおかみさんも負けてはいません。
「え、一ドルだって? まあ、あきれたわね。じゃあ、五十セントはりこむよ。ギリギリいっぱいね。いい値じゃないか、おかみさん、それならどこにだって売ってるよ」
そういわれて、おばちゃんはおだやかに突っぱねます。
「そうですかねえ。わしらにゃ、またとないもののような気がしますけど――」
やっとうちにたどり着きます。クウィーニーは炉ばたにバッタリのびたっきり、グウグウ人間みたいな大いびきをかいて、朝までぐっすり眠りこけます。
屋根うらの物置においてあるトランクの中には、|白テン《アーミン》の尻尾《しっぽ》(もとこの屋敷に部屋を借りていた、妙なおばさんの|観劇用肩マント《オペラケープ》についてたものですが)を入れたボール紙の靴箱と、もう何度もお役をつとめて、よれよれになってピカピカするモールの巻いたのと、一つの銀色の星飾と、オンボロでどう見ても危なっかしいキャンディーみたいな豆電球の短いコードとがはいっています。どれもあまりたいしたものではありませんが、それなりにけっこう立派につかえます。
おばちゃんは、クリスマス・ツリーを「浸礼派《バプテスト》教会の窓のように」きらびやかに飾りたて、枝もたわむほどふんだんに綿の雪をのっけたい、といいます。だが、おカネが十五セントしかないのでは、とても日本製のピカピカした飾りものなど買うわけにいきません。そこで、例年のとおりに飾りつけをすることにします。
はさみとクレヨンと色紙をどっさり用意して、数日間お勝手のテーブルのまえにすわりこみます。ぼくが下絵を描くと、おばちゃんがそれを切り抜きます。こうしてたくさんの猫《ねこ》や、魚(これは描きやすいからですが)や、数個のリンゴや、水瓜《すいか》をこしらえ、ためておいたハーシーの板チョコの銀紙を工夫して翼のある天使を一人つくります。そして安全ピンで枝につりさげます。さいごの仕上げに、そのつもりで八月につんでおいた棉花《めんか》をちぎって枝いちめんにのっけます。
おばちゃんはその出来ばえをとくと眺《なが》めてから、パチパチと自分で手をたたきます。
「まあ、ほんとにバディー、とって食べたくなるほどみごとなできじゃないかね!」
クウィーニーは、ほんとに天使さまを食べようとします。
おもての窓ぜんぶに飾りつけるヒイラギの輪を、編んだり、リボンでしばったりするのがすむと、こんどは家族のひとたちへのクリスマスの贈物を工夫することになります。
おばさんたちへは絞り染めのスカーフ、おじさんたちへは、「風邪《かぜ》をひいたとおもったときや、狩りに出かけたあとで」飲むようにレモンと甘草《かんぞう》とアスピリンを調合した手づくりのシロップを贈ることにします。だが、さていよいよおたがいの贈物をこしらえる番になると、おばちゃんとぼくは、べつべつに別れてこっそり工夫をこらします。
ぼくはおばちゃんに、柄《え》に真珠をちらしたナイフと、ラジオと、チョコレートの衣をかけたサクランボ(いつか二人で食べていらい、おばちゃんはいつも「わしゃあれなら三度々々食事のかわりに食べたっていいね、バディー、ほんとにそうしてもいいよ」といいます。しかもそれが冗談じゃなくて本気なんです)を一ポンドそっくり買ってやりたいのがやまやまですが、そうもいかないので、いま凧《たこ》をつくっています。
おばちゃんもぼくに自転車を買ってやりたくてたまらないのです。(おばちゃんはもういくどこういったかしれません――「ほんとに買ってやれさえすればなあ、バディー。自分のほしいものがもてないほどこの世の中でつらいことはないよ。でも、くやしいけど山羊《やぎ》を売ったくらいじゃとても買ってやれそうもないしね。ちょっと待っといで、バディー、きっとそのうちにいいのを一台見つけだしてな。ま、どうするかはきかんでおくれ。ひょっとするとわしゃかっぱらってくるかもしれんよ」)でも、そうもいきませんので、おばちゃんはきっとまたぼくに凧をこさえてくれているのだと思います――去年もおととしも、そうでしたから。その前の年にはゴムひものついたパチンコをやりとりしました。
ぼくはしかし、凧でけっこうなんです。というのは、ぼくもおばちゃんも凧あげの名人で、船乗りみたいに風向きをよく知っているからです。おばちゃんはぼくよりもっと風向きにくわしくて、ほとんど風がなく、雲がじっとしてるようなときでも凧をあげることができます。
クリスマス・イヴの午後、ぼくたちはありガネをさらった五セントを持って肉屋へ出かけ、クウィーニーにいつもの贈物、つまり、おいしそうな、噛《か》みごろの牛の骨を買ってやります。その骨は漫画新聞にくるんで、クリスマス・ツリーの星飾のそばの高いところにつるしておきます。
クウィーニーはちゃんとそれを知っていて、木の根もとにしゃがみこみ、さもほしくてたまらぬというふうに、うっとりとそれを見上げています。
ぼくも胸のわくわくしてる点では、クウィーニーとそっくりです。寝てからも掛けぶとんをけとばすやら、枕《まくら》をはねとばすやら、まるで夏のねぐるしい夜みたいな暴《あばれ》ようです。そのうちに、どこかで雄鶏《おんどり》がトキをつくります。時をまちがえたのです。だって、太陽はまだ地球の裏がわにいるのですから。
「バディー、眠れないのかい?」とおばちゃんがとなりの部屋から声をかけます。かけたかとおもうと、もうロウソクをもって、ぼくのベッドに腰かけています。「こまったね、ちっとも眠れんのじゃ。胸がおどってな、野兎《のうさぎ》みたいにさ。ねえ、バディー、おまえルーズヴェルト夫人がわしらのこさえたケーキをクリスマスのごちそうに出すと思うかえ?」
おばちゃんもぼくのわきにねころびます。そして、かわいくて仕方ないというように、ぼくの手をぎゅっと握りしめます。
「いぜんはもっとずっと小さな手だったように思うけどな――おまえにもうこれ以上大きくなってもらいたくない気がするよ。大きくなってもやっぱり仲よしでいられるかしらね?」
「そりゃ、いつだって仲よしでいられるさ」とぼくがこたえます。
「だけど、おまえがかわいそうでな。なんとかして自転車を買ってやりたいとおもい、お父さんの形見の|浮彫り《カメオ》を売ろうとしたんだけどさ。バディー――」といいかけて、おばちゃんはいいづらそうに途中で口ごもります。「またことしも凧をこしらえたんだよ」
で、ぼくもやっぱりおばちゃんに凧をつくってやったと白状して、おたがいにふきだします。
ロウソクがもえてだんだん短くなり、手に持っていられなくなります。やがて、炎が消えると、星あかりがまた見えてきます。星が窓べでクルクルと踊っています。クリスマス祝歌《キャロル》をうたいながらすこしずつ夜のしじまを追い払って、朝をむかえ入れるひとびとの姿がまるで眼《め》に見えるような気がします。
たぶん二人ともとろとろと眠ったのだとおもいます。だが、夜が明けそめると、二人とも冷たい水でもはねかったように、パチリと目をさまします。一緒に起き出して、うろちょろしながら、ほかのひとたちが目をさますのを待っています。
おばちゃんがわざとお勝手の床へガチャンとやかんをとり落します。ぼくはみんなの寝室の前で、カタコト、カタコトとタップ・ダンスをやります。
一人ずつみんなが起き出してきます。みんな、ぼくたちをひと思いにひねりつぶしてやりたいというような顔をしています。だが、今日はクリスマスなのでそうもできません。
朝からすてきなごちそうです。ホットケーキやリスのフライをはじめ、トウモロコシのひき割りやハチの巣まで、およそありとあらゆるごちそうが並んでいます。それを見ると、みんなニコニコと上きげんになります。
でも、おばちゃんとぼくだけはちがうんです。実をいいますと、二人ともクリスマスの贈物をはやくあけてみたくて、食事も喉《のど》をとおらぬくらいなんです。
ところが、あけて見てぼくはがっかりします。だれだってそうでしょう。
出てきたのは靴下《くつした》と、よそ行きの学童用のワイシャツと、ハンカチが五、六枚と、出来合いのスェーターと、『小さな羊飼い』という子供向き宗教雑誌の一年分の購読申込証なんです。この雑誌を見ると、ぼくはいつも胸がムカムカしてきます。まったくなんですよ。
おばちゃんのもらった品のほうが、まだいくらかましです。なかでもひと袋のサツマ芋がいちばん気がきいています。おばちゃんは、でも、お嫁にいってる妹さんからの、真っ白い毛糸のショールをいちばん自慢にします。しかし、おばちゃんはこういいます――
「なんといっても、おまえがくれた凧ほどうれしいもんはないよ」
また、実際それはきれいな凧なんです。おばちゃんのくれた凧にはとてもかないませんけど。おばちゃんがくれたのは、青い地に黄金色《きんいろ》と緑色で点々と星形の善行章をあしらい、「バディー」とぼくの名が絵具でかいてあるのです。
「バディー、風が出てきたよ」
風が立ちはじめています。さあ、そうなると、もうなにも手につきません。ぼくたちはうちの下手《しもて》の、クウィーニーがいつも牛の骨を埋めに行く牧場へとかけ出してゆきます――はからずも、それから一年後に、クウィーニーはそこへ葬《ほうむ》られることになったのですが。
牧場に着くと、ぼくたちは腰までとどくガサガサした雑草をかき分けて、二人ともクルクルと凧糸《たこいと》をたぐり出し、風の流れにつれて、魚でも泳がせるようにひょいひょいと糸をあやつります。
すっかり満足し、暖かい冬の陽《ひ》ざしをあびて、ぼくたちは草の上に腹ばいになり、サツマ芋の皮をむきながら、じっと凧の行方《ゆくえ》を眼で追います。
靴下のことも、出来合いのスェーターのことも、たちまちあたまから消えて、ぼくはれいのコーヒーの名前をつけるコンテストでもう五万ドルの大懸賞金をせしめたような、うきうきした気分になります。
「ほんまに、わしって、どうしてこうバカなんだろ!」おばちゃんは、天火《てんぴ》にかけたビスケットをうっかり忘れていたときのように、とつぜん、ハッとなってそう叫びます。「わしがいつも何を考えてたか、おまえにわかるかい?」ふと、思い出したようにいって、おばちゃんは、ぼくでなしに、むこうの空の一点をじっと見つめながらニッコリ笑います。
「人間というものは、さんざ患《わずら》ったあげく死んでからじゃないと、神さまのお姿を拝めんものと、わしはいつもそう思っていたのじゃよ。そしていよいよ神さまがお迎えにいらしったら、ちょうど陽のいっぱいさしこんでいるバプテスト教会の色ガラスの窓みたいに、あたりがこうキラキラと光ってさぞきれいなことだろう、そう思っていたんじゃよ。あんまりキラキラして、日が暮れてもそれに気づかんくらいにな。
「だからたとい死んでも、その光で、暗いうす気味のわるい気持がいっぺんに消しとんでしまうかと思うと、それがいままでわしの心の慰めだったのじゃよ。
「ところが、今になってやっと、そうでないことに気がついたのじゃ。たしかに人間は自分がまだ生きてるうちに、神さまがそのお姿を現わしておいでなのを、この眼で見ることができるもんじゃよ。ありのまんまのこの世――」といいながら、おばちゃんは片手で大きく円を描いて、その中に、雲も凧も草も牛の骨を埋めたあとに後脚で土をかぶせているクウィーニーも、なにもかもいっさいくるめこむようなしぐさをします。
「――わしらがいままでまいにち見てきたもののいっさいが、つまり、いままで神さまを拝んできたことなんじゃよ。今日のこのながめをじっと眼にとめておけさえすれば、わしゃもういつ死んでも、この世に思いのこすことなんかないわいな」
以上が、おばちゃんと一緒にすごした最後のクリスマスの思い出です。
人の世のさだめで、ぼくたちにも別れるときがやってきます。知ったかぶりのおじさんたちがぼくを軍人向きだといって、陸軍幼年学校に入れることにするからです。
はいってみると、たえずラッパの音の鳴りひびく、まるで牢獄《ろうごく》みたいなみじめな生活や、なさけ容赦もない起床ラッパでたたき起される夏の野営がつづきます。なるほど宿舎はあてがわれますが、しかしそんなものは家庭でもなんでもありません。ぼくのうちは、やはりおばちゃんのいるところなのです。だのに、そこへ帰るわけにいかないのです。
おばちゃんはあいかわらずれいのお勝手をあちこちパタパタとかけまわっています。相手といったら、クウィーニーだけなんです。でも、やがてひとりぽっちになります。おばちゃんがいつもの読みづらい走り書きで手紙をよこします。
「バディーへ――きのう、クウィーニーがジム・メイシーの馬にけとばされて死にました。たいして苦しがらなかったのが、せめてもの慰めでした。きれいなリンネルのシーツにくるみ、乳母車《うばぐるま》にのっけてシンプソンさんのあの牧場へ持ってゆきました。あそこなら、いままでどっさり埋めているので、クウィーニーも牛の骨に不自由することはないだろう、そう思って……」
それからも、また十一月になると、おばちゃんはひとりぽっちでフルーツケーキを焼いています。しかしそれもそうたびたびではなくて、もうあといく度でもないのです。もちろんそのたびに、ぼくには「焼き上がったなかで一番おいしいの」を送ってくれます。そしてまた手紙をくれるたんびに、トイレット・ペーパーに小さくくるんだ十セント銀貨が一つはいっています。
「――映画を見て、そのすじを手紙で知らせておくれ……」
でも、そのうちにだんだん、おばちゃんは、ぼくと、おばちゃんの小さいころの仲よしで、一八八〇年代に亡《な》くなったもう一人のバディーとをごっちゃにした手紙をよこすようになります。そしておばちゃんの寝床をはなれないのが、だんだん月の十三日だけではなくなってきます。
十一月の朝がやってきます。木はまる坊主《ぼうず》だし、小鳥の姿も見えない冬の朝です。しかし、おばちゃんはいつものように起き出して、
「おやまあ、フルーツケーキの支度にかかるのにはもってこいのお天気だよ!」
と、うれしそうな声をあげることができないのです。
ぼくにはそれがちゃんとわかっているのです。おばちゃんが亡くなったという通知は、虫の知らせでとっくにわかっていることを、ただ裏書きしただけのことです。
でも、それをさかいに、かけがえのないぼくの一部が切りとられ、それが糸のきれた凧のように、ふわふわとどこかへとんで行ってしまったような気がします。
だからこそ、ぼくは校庭を横ぎりながら、いまだに十二月の、とくにこの朝にかぎって、なにかをさがし求めるように、じっと空を見上げるのです――いくらかハート型に似た、糸の切れた一対《いっつい》の凧が、ぐんぐん天へ向って昇ってゆくのがやがて見えてくるのではないかと。
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解説
[#地付き]龍口直太郎
初版が出てから
Breakfast at Tiffany's≠フ初版が出たのは一九五八年の秋だった。そのころ、私はちょうどニューヨークに滞在していたので、さっそくそれを買いもとめて読んだ。カポーティのそれまでに出した本はたいてい読んでいたが、あまりに幻想的であり、倒錯的であったためか、私にはついていけないものがあった。しかし『ティファニーで朝食を』は、これまでの作品とだいぶ趣を異にしていたので、とてもおもしろいと思った。夢の世界に逃げるのではなく、現実の世界に夢をもちこもうとしているように見えたからである。それに、私自身が、小説の舞台になったニューヨークにいたからでもあろう。
私が翻訳したいと申出ると、新潮社ではさっそく翻訳権を取ってくれた。拙訳の初版が出たのが六〇年の二月だった。
それから、この小説の映画化が行われ、ホリー・ゴライトリーにオードリー・ヘップバーンが扮《ふん》して名演技を見せ、日本でもなかなかの評判になった。とくに映画の主題歌「ムーン・リヴァー」は今日に至るまで、歌でも演奏でも人気をつづけているみたいである。
作者のカポーティは一九六六年の一月、ほとんど八年近い沈黙を破って、ノンフィクション・ノヴェルという新しい型の大作『冷血』(In Cold Blood)を発表し、現実の社会とまったく四つに取組んだ感がある。
映画と原作
映画化の場合よくそうであるように、映画『ティファニー』は、小説『ティファニー』とかなりちがったものになっている。一言でいえば、あまり感心できない通俗化が行われたのである。私は日本で初めて試写会に招かれたとき、小説の|語り手《ナレーター》「私」が、派手な女性デザイナーの|男 妾《おとこめかけ》みたいになっているのでおどろいた。あちらの映画解説にも、この男がはっきりと「ケプト・マン」となっていたので、私はむしろ憤《いきどお》りを感じた。それに、女デザイナーなど原作には全然登場しないのである。無名作家では金を出してくれる女でもいないかぎり食っていけない、というのがアメリカ的発想なのであろうか?
原作とのもっと重大なちがいは、「私」がさいごにホリーと結ばれるように描かれているが、そんなハッピー・エンディングをこしらえると、ホリーのイメージはむざんに破壊されてしまう。彼女はあれからブラジルに渡り、さらにアフリカまで放浪の旅をつづけなければならないのだ。
ムーン・リヴァーの歌
映画『ティファニーで朝食を』を忘れてしまった人でも、その主題歌「ムーン・リヴァー」だけはおぼえている。映画との関係など知らずに愛唱している者もたくさんいるにちがいない。
ご参考までに「ムーン・リヴァー」の歌詞を次に紹介すると――
Moon River, wider than a mile
I'm crossin' you in style some day
Old dream maker, you heart breaker
Wherever you're goin', I'm goin' your way.
Two drifters, off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end
Waitin' 'round the bend
My Huckleberry friend
Moon River and me.
(大 意)
一マイルより広いムーン・リヴァーよ
私はいつの日か、しゃれた姿であなたを渡ろう
古き夢の主《あるじ》、心悩ます者よ
あなたがどこに行こうと、私はついて行こう。
世界を見るため旅立つ二人の漂流者
見る世界はあんなにもたくさんある
私たちは角を曲ったところに待っている
同じ虹《にじ》の果てをもとめている
私のハックルベリーのような友
ムーン・リヴァーと私は。
だが、小説をお読みになればわかるように、こんな歌は作品のどこにも出ていない。別に映画主題歌として、ジョニー・マーサーが作詞し、ヘンリー・マンシーニが作曲したものなのである。
小説のほうには、ホリーがギターを爪《つま》びきながらうたうものが一つあるだけだ――(二七ページ)
Don't wanna sleep,
don't wanna die,
Just wanna go a-travelin'
through the pastures of the sky.
(大 意)
眠りたくもなし、
死にたくもない、
ただ旅して行きたいだけ、
大空の牧場《まきば》通って。
主題歌は、イカダに乗って「オール・マン・リヴァー」(ミシシッピー河)を漂流し、夢を追いもとめて行くハックルベリー・フィンの冒険を思わせるし、小説の歌のほうは、大平原を、空想の大空いつ果てるともなく旅して行く放浪者を頭に描かせる。二者に共通している要素といえば、「夢をあくまで追求する旅行者」といったところであろう。そういえば、ホリーの名刺には「ホリー・ゴライトリー、旅行中《トラヴェリング》」と記《しる》されている。
ティファニー宝石店
Breakfast at Tiffany's≠フ言葉の意味は、「ティファニーの店で朝食をとる」ということであるが、そのティファニーの店(Tiffany's Store)とはどんなところであるか、ちょっと説明しておこう。ここは宝石商ティファニー(Charles Lewis Tiffany, 1812―1902)がニューヨークはマンハッタンの五番街に開いた宝石店で、おそらく世界でも有数の豪華な店であろう。アメリカの作品によく出てくる「ティファニー・ダイヤモンド」がダイヤの親玉だと思われていることでも、それが容易に想像されよう。私は二度ほどその店を訪れたことがあるが、別にダイヤなど買うつもりも、見るつもりもあったわけではない。五番街を北に向って行くと、セントラル・パークに近い右側の角にある、五階建ぐらいの、どっしりとした店で、中にはいって行くと、店員は黒い服を着用に及んだ、中年のイギリス紳士然とした人ばかりである。
映画では、ヘップバーンが朝まだき、黄色いタクシーでその店頭に乗りつけ、ウインドーをのぞきながら、コートのポケットから取り出したコーヒーとパンで朝食をとるように描いていることはごぞんじのとおり。
これは現実的には、ずいぶん滑稽《こっけい》な場面と思われるが、作品で比喩《ひゆ》的に使った言葉を、映画ではどうしても画面にしなければならないため、監督がとった、苦肉の策としていたし方ないであろう。
私がティファニーをたずねたのは、映画以前のことで、その目的は、先にのべたように、ダイヤを買うためでもなければ、また旅行の安全を守ってくれる聖クリストファーの像をさがすためでもなかった。この宝石店に、果して朝食をとれる食堂があるかどうか、それをこの眼《め》で見さだめるためであった。もちろん、私といえども、作品を読んだとき、「ティファニーで朝食をとる」というのが比喩的に使われていることはわかったのであるが、それを確認するためには、どうしてもそこに食堂があるかどうか突きとめておく必要があった。そこで、二度目に訪問したときには、エレベーターで各階にのぼってみたばかりか、エレベーター・ボーイに、「ここには食堂がありますか?」と恥《はじ》をしのんできいてみた。すると、ボーイはいかにもおのぼりさんを軽蔑《けいべつ》するかのような眼差《まなざ》しで、「とんでもない!」と答えた。これで比喩的表現が確認されたので、私にはボーイの侮蔑など問題外であった。
ところが、事実は小説より奇なりというか、事実《ファクト》が小説《フィクション》のあとを追うというか、おかしな事が現実におこった。ティファニーの店の中で、実際に、外部の人が食事をとったのだ。ティファニーの社長が、少年少女向けに、テーブル・マナーの本を出版し、その宣伝のためであろう、ニューヨークの書店の主人たちを店に招待し、会議室を臨時食堂に模様変えしてご馳走《ちそう》をしたのである。もっとも、その席にはオードリー・ヘップバーンは招かれていなかったが――と、それを伝えたアメリカの雑誌は冗談をとばした。これはカポーティの本と、ヘップバーンの映画が大きな成功を収めてからの話である。もしホリー・ゴライトリーことオードリー・ヘップバーンが招かれていたら、映画におけるようにみじめな歩道の立食などでなく、ほんとうに、どっしりとした建物の中で、「いやな赤」などすべての「不安」からのがれ、落着いた朝食をとることができたであろうのに――。
なお、東京に「ティファニー」という名のレストランができたり、ティファニーの社長の御曹子《おんぞうし》が日本娘と結婚するとか、したとかいうニュースが流れたりしたが、私たちには少なからぬ興味がある。
プレーガールか?
ホリー・ゴライトリーを「無軌道なプレーガール」という言葉で宣伝しているアメリカの本がある。近ごろでは、この国でさえ、「プレーボーイ」というシャレた人種が出現し、その昔の「遊び人」とはまたちがったニュアンスをもつようになった。この新しい型のプレーボーイは結婚を欲《ほっ》しない。従来の結婚は相手を独占する代りに、相手にも自分の独占を許すという契約なので、自由を望む者には、あまり好ましい形式ではないからであろう。
トルーマン・カポーティ(一九二四年生れ)も、いまもって結婚をせずに、自由奔放に、ハイ・ソサエティの女性たち(ジャクリン・ケネディ、マリリン・モンローなど)とつきあってきた。恋愛の形をとっているかどうかは不明だが、当人にいわせると、女性のうちに、美と卓越をもとめているのだそうだ。たしかに新しい型のプレーボーイであるといっていいだろう。
アメリカと比べて自由を拘束することの多い日本の社会においてさえ、近ごろでは、この種のプレーボーイの存在が可能になってきた。しかし、女性の場合にはまったく問題が別である。おそらく「プレーガール」というものは、アメリカですら、かなりの抵抗を受けるであろうと思われる。ホリーを称して、「無軌道な」という形容詞をつけざるをえなかったり、「悪い・可愛《かわい》い・善良な娘」などと苦しい呼び方をするのが何よりの証拠である。
そのような社会的抵抗を排して、この作者がホリーという新しいタイプのプレーガールを創造したのはなぜであろうか? 今まで男にはできたが女にはできなかったことを、あえて女にやらせてみたかったからだと思う。しかも、ただ女にできないというだけの事ではなく、心の中で、あるいは意識下の世界で――それを夢と呼んでもよいが――女がやりたいと欲していたことを、現実の世界でやらせてみた――夢を現実にぶつけてみたのである。
たとえ今日のように比較的個人の自由がみとめられている世の中でも、ふつうの家庭環境の下に育った女には、とてもホリーのようなまねはできっこない。そこで、彼女を捨て児《ご》という環境から出発させている。たとえ田舎医のゴライトリーに拾われても、すぐにその庇護《ひご》の下から脱出してしまう。他人に依存する生活には、野生の鳥の自由さがないからだ。彼女が捨て猫《ねこ》をかわいがりながらも、あえて猫に名をつけないのは、それが所有関係をつくり、猫の自由を奪う結果になることを知っているからである。「私」がほしがっていた豪華な鳥籠《とりかご》を「私」に贈りながら、その中に鳥を入れないように頼んだのは、鳥の自由を束縛したくなかったからである。鳥籠はどんなに豪華なものであっても、いや、豪華であればあるほど、それだけよけい自由を拘束する檻《おり》にすぎないからだ。イタリア人の密輸入団のボス、サリー・トマトのところにメッセンジャーの役をつとめるのは、百ドルの報酬がほしかったからばかりでなく、鉄格子《てつごうし》の中に身の自由を奪われたものにたいする同情のためでもあったと考えられる。
しかし、みずから欲するところへ自由に飛翔《ひしょう》してゆこうと願っているホリーとして、ちょっと肯《うなず》けない、いくつかの事柄《ことがら》がある。その一つは、「ティファニーで朝食を」とりたいという願望、もう一つは、ブラジルの外交官ホセと結婚したいという願いである。
安定した住所を持ち、特定の男を選び、その人に所属し、その人にひたすら仕えたいというのは、世のなべての女性の願いであろう。がしかし、それは女の人の持つあわれむべき弱点ともなる。なぜならば、属するものを持つことは、そのものに所有され、自分の自由を縛られることにもなるからだ。
では、あれほど行動の自由を行使したホリーにおいてすら、やはり女性の欠点からは自由になれなかった――と作者は考えたのであろうか?
私は必ずしもそうではないと思いたい。ティファニー宝石店へのあこがれは、世のつねの女性のように、ダイヤへの欲望ではない。三〇年代のアメリカ社会――プロレタリヤ革命の気運が高まった社会的不安――「いやな赤」と彼女は女らしく表現している――にたいする抵抗である。プロレタリヤ独裁の社会では個人の自由などありえないと思った彼女は、ティファニーを、個人の自由を尊重する資本主義イデオロギーのシンボルと感じたのであろう。
ホセとの結婚――これはおそらく本気で考えたにちがいないが、どうやら彼女の夢は結婚そのものにあったのではなく、遠いブラジルという異国にあったのではないだろうか?もし結婚そのものを欲したとすれば、もっと手近に、自分を愛してくれる無名作家の「私」がいたし、とりまきの金持の男がたくさんいた。それに田舎のドックだって、わざわざテキサスからニューヨークまで迎えに来たではないか。
だからこそ、ホセに裏切られても、ホリーはやっぱりブラジルに飛び、さらにはやがてアフリカまで放浪の旅をつづけたのである。彼女の名刺には住所がなく、住所のところに「旅行中」と書いてある。安住の所を欲しないからだ。安住は人と場所に拘束されることを意味し、拘束は自由の大敵なのである。
トルーマン・カポーティ
トルーマン・カポーティ(Truman Capote)は一九二四年九月三十日に、アメリカの南部文化の中心地ニュー・オーリンズに生れた。初めの名前はトルーマン・パーソンズ(Truman Persons)といったが、母親が離婚して、ニューヨークのカポーティという人と再婚し、彼も連れ子として母方にひきとられたところから、トルーマン・カポーティと名乗るに至ったのである。さて、この新しい姓の発音であるが、元はスペイン語で「カポテ」と発音されたのであろうが(スペイン語の capote は英語の cape, cloak に当る)、それがアメリカナイズされて、カポーティ〔kapoti〕となった。私が会見したとき、ご当人はそう発音していたし、批評家のマルカム・カウリーも同じ発音をしていたので、それを決定的な読み方と考えてよいと思う。
なお、血統の面では、自分の中には、スペイン人とイタリア人の血が流れていると私に語ってくれたが、この人の文学の中にヨーロッパ文学の伝統がしみこんでいるのも当然であろう。
学歴は高校中退であるが、知能指数は高く、精神病医学研究所のテストでは「天才」の折り紙を貼《は》られたそうである。学校時代からすでに作品を書きはじめ、彼の崇拝したキャサリン・ウッド先生は、そのころ、彼が書いた短編小説を二、三持っているという。
十七歳のとき、三つの短編が三つの雑誌に発表されたそうだが、その後、オー・ヘンリー賞を二回も受けている。彼の出世作は二十三歳で発表した『遠い声・遠い部屋』(☆☆Other Voices, Other Rooms, 1948)という長編で、これが出たときには、世界の文壇にアンファン・テリブル≠ニして一大センセーションをまきおこした。ついで、中編『草の竪琴《たてごと》』(The Grass Harp, 1951)と短編集『夜の樹《き》』(A Tree of Night, 1956)を、そして一九五八年に中編『ティファニーで朝食を』を出版した。これまで、二、三の短編を除いて、長いものはすべて南部を舞台にし、ほとんど男の子供の世界を扱ってきたが、『ティファニー』において初めて、ニューヨークに舞台を移し、大人の女(少女期を脱したばかりだが)を主人公にしたこと、夢の世界から現実の世界に踏み出したこと、などが一つの成長と見られないこともない。
それから八年ばかり沈黙がつづいて、一九六六年一月に大作『冷血』を発表して、その年のベストセラーのトップにのしあがった。これは一九五九年十一月十五日、キャンザス州ホルカムに起った殺人事件を扱ったもので、その事件の調査と探偵《たんてい》のためにほぼ三年をついやし、かくして集めた資料の整理と小説化のためにさらに三年の歳月を投じて作り上げた、作者のいうノンフィクション・ノヴェル≠ニいう新しい型の小説である。彼が『ティファニー』で半ば取組んだ現実と、こんどは四つに取組んでいるところが注目に値する。
拙訳の底本としてはランダム・ハウス版の初版Breakfast at Tiffany's――A Short Novel and Three Stories by Truman Capote, 1958≠使ったが、その後、シグネット版で五十セントのペーパーバックが出たので、それも参考にした。
[#地付き](一九六八年七月)