審判
フランツ・カフカ
飯吉光夫 訳
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筑摩eブックス
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目次
第一章 逮捕・グルーバッハ夫人との対話・ついでビュルストナー嬢
第二章 最初の審理
第三章 からの法廷・学生・裁判所事務局
第四章 ビュルストナー嬢の女友だち
第五章 笞刑吏
第六章 叔父・レーニ
第七章 弁護士・工場主・画家
第八章 商人ブロック・弁護士解約
第九章 大寺院《ドーム》のなかで
第十章 最期
解説 『審判』とカフカ 飯吉光夫
審判 DER PROZE§
主要人物
ヨーゼフ・K 銀行の業務主任
女家主グルーバッハ夫人
二人の男 突然闖入して来る。
ビュルストナー嬢 同じアパートの住人
女 最初は裁判所のある建物で洗濯をしている。
学生 最初は裁判所内で女といちゃついている。
廷吏 女の亭主
Kの叔父カール
レーニ 病気の弁護士の付添婦。手に水かきがある。
画家ティトレリ 裁判所の内情に通じている。
僧教誨師 「掟」の話をする。
二人の紳士 処刑に訪れる。
第一章 逮捕・グルーバッハ夫人との対話・ついでビュルストナー嬢
だれかヨーゼフ・Kを誹謗《ひぼう》したものがあるにちがいない。なぜならK自身はなにも悪いことをしたおぼえがないのに、ある朝逮捕されてしまったから。毎朝八時ごろ朝食をはこんでくる女家主グルーバッハ夫人の炊事婦は、この朝にかぎって来なかった。これまでにはついぞなかったことだ。Kはもうしばらく待ってみようと、枕に頭をうずめたまま、むかいの家の、いつもとはうってかわった様子でじっとこちらを見ている老婆の姿を眺めていた。やがてそれも興ざめると、空腹を感じ、呼び鈴をおした。するとドアにノックの音がしてこのアパートでは見かけたことのないひとりの男が入ってきた。やせてはいるが頑丈そうな体つきで、ぴったりとあった黒服を着ていた。この黒服はさまざまな襞、ポケット、止め金、ボタン、ベルトなどのついた、みるからに旅行服ふうの実用的なものだった。「どなたですか?」Kはベッドに半身を起こしてたずねた。男はそんな質問には知らん顔で、自分があらわれたのは当然だといわんばかりに、「呼び鈴をおしたのはあんたですかい?」とたずねた。「アンナに朝食をもってきてもらいたかったのです」とKは答えたが、この男はいったいなにものなのか、当分は黙ったまま観察や推測をつづけていようと思った。ところが男はいつまでもKの視線に身をさらしてはいず、ドアのほうをむくとそれを細目にあけ、すぐうしろにいるらしいだれかにむかって、「アンナに朝食をもってきてもらいたいのだとよ」と言った。ふくみ笑いをする声が隣室で聞こえた。何人いるのかはわからない。こちらの男はなにも聞きとった様子はないのに、ものを伝える調子でKに、「だめだとさ」と言った。「それはおかしい」とKは言ってベッドからはねおき、服を着た。「だれが隣の部屋にいるのか、グルーバッハ夫人はこんな押しいりをなんと思っているのか、きいてこよう。」すぐさま、大きな声で言うのではなかった、これでは見知らぬ男の監督権を認めることになる、と気がついたが、いずれたいしたことではあるまいと思いなおした。ところで男はいなおってしまったらしい。Kにむかって、「あんたはここにいたほうが身のためだよ」と言った。「いたいとは思いませんし、それにあんたがだれであるかもわからないうちに、さしでがましい口はきいてもらいたくありませんね」とKは言いかえした。「悪気があって言ったんじゃないんだ」と見知らぬ男は言って、今度は自分からドアをあけた。Kはゆっくりと奥に入っていったが、そこはちょっと見たところ前の晩となんら変わっていなかった。家具、敷き物、陶器、写真が一杯つまっているこのグルーバッハ夫人の居間は、もしかするといつもより空いた場所が多くなっていたかもしれない。しかしKがそれには気がつかなかったのは、もっと大きな変化があったからだ。ひとりの男が、本を持って、あけはなった窓ぎわにすわっていた。Kが入っていくと、本から目をあげた。「あんたは部屋にいなければならなかったのだ。フランツがそう言わなかったかね?」「言いましたが、それがなんだというのです?」そう言いながらKは、視線をこの新顔から戸口に立っているフランツへ、さらにまた新顔へと向けた。窓のむこうにはまたさっきの老婆が眺められた。老婆は年寄りじみた好奇心から、なにが起こっているのか見とどけようと、こちらの部屋の真向かいに移ってきたらしかった。「グルーバッハ夫人にぜひ会って――」と言いながらKは、離れたところに立っているふたりをふりはらうような身ぶりで、先へ進んでいこうとした。「だめだ」窓ぎわの男がそう言って、本を机のうえにほうりだし、立ちあがった。「この場を離れてはいかん。あんたは逮捕されてるんだ。」「どうもそうらしい」とKは言って「しかし、いったいなぜなんです?」「そんなことに答えるために来ているんじゃないんだ。さっさと部屋にかえって、待っていたらどうだ。訴訟はもうはじまっているんだ。くわしいことはいずれお達しがあるはずだ。だいたいこんなに親切に話しかけているのからして違反なんだが、ここにいるのはフランツだけだし、またこのフランツという男が規則違反など眼中にないほど親切な男だからな。あんたはほんとにいい監視人にめぐりあったぜ。これからさきもこんないい運についてまわられりゃ、万事心配なしだ。」Kはどこかにすわりたいと思った。窓ぎわの椅子にしかすわる場所のないことに気がついた。「そうだということが、じきにわかることさ」とフランツは言って、もうひとりの男とKのそばに来た。とりわけもうひとりの男はKよりはるかに背が高かった。ときどきKの肩をたたいた。ふたりはKの寝巻きをあらため、もっと粗末なシャツに着がえなけりゃならん、この寝巻きはほかの下着といっしょにあずかっておこう、裁判の結果が白とわかり次第、返すことにしよう、などと言った。「倉庫にあずけるより、わしらにあずけたほうがましだ」とふたりは言った。「倉庫だといつの間にか持って行かれることがしょっちゅうだし、それにある期間たつと、裁判のおわるおわらぬにかかわらず、全部売っぱらわれちまうからね。それに最近では、裁判は長いと相場がきまっている。売り上げ金は返してもらえるが、品物より賄賂《わいろ》で売れて行くもんで、もともと安いところにもってきて、手から手へ、年々歳々売り渡されて行き、額は減っていく一方でさ。」Kはこんな話にはほとんどかまわなかった。持ち物をどう処分するかはこちらの権限だろうけど、そんなことを今とやかくいう気持はなかった。それよりも、この現在がいったいどうしたことなのか、知りたかった。こういう人間のいあわせるところではおちおち考えることもできなかった。ふたり目の監視人――ふたりとも監視人にちがいなかった――の太鼓腹が文字どおり親しげにKをつっつき、はなれた。見あげると、どうしてこんなふとったからだのうえに? と思われるような顔が、かさかさに、骨ばって、まがった鼻とともについていた。それがKの頭ごしにもうひとりの監視人と話しあっているのだった。いったいどういう連中なのだろう? なにを話しているのだろう? どこの役所から来たのだろう? Kの住んでいるここは法治国家であり、いたるところ治安がゆきとどき、法は遵守されているはずだ。それをだれがKの住居をおそうようなまねをしたのか? Kはこれまで、物事はできるだけ気軽に受けとめること、最悪の事柄はその時になってはじめて考えること、どんなに心配事があってもとりこし苦労はしないこと、などを信条としてきたのだったが、今度ばかりはそれが通用するとも思われなくなってきた。すべてを冗談に帰することももちろんできた。銀行の同僚連中がなにかの動機から、ひょっとするときょうがKの三十歳の誕生日だということからでも、Kに悪質ないたずらを仕かけてきたのかもしれない。大いにありうることだ。この監視人たちを見つめながら笑ってでもやればいいのかもしれない。そうすれば監視人たちも笑いだし、事は一挙に解決ということになるだろう。このふたりはたぶん、そこらへんの、ちょっとした使用人にすぎないのだ。表面からしてそういうふうに見える。――最初、監視人フランツを見たときからして、Kはこのような優越を感じていたのだが、今はできるだけそれを黙っていようと思った。あとで他人に、「冗談も解さなかったやつだ」といわれる可能性もある。かれはこれまでにいくたびとなく――経験から学ぶなどということはかれの柄ではなかったが――たいした事件ではなかったにしても、用心ぶかい友だち連中より不注意にふるまって、あとで天罰てきめんな目にあったことがよくあるのだ。二度とそのようなあやまちをくりかえしてはならない。今度こそそんなことがあってはならない。演じられているのが喜劇なら、自分もそれを演じるまでだ。
まだ自由な身の上だった。「ちょっと失礼」と言って監視人たちのあいだをとおりぬけ、自分の部屋にとってかえした。「だいぶものわかりがよくなったようだ」とうしろで言っているのが聞こえた。部屋に入るなり、机の引き出しをかたっぱしからあけた。どこも整然とおさまっていたが、目ざす身分証明書だけが見つからなかった。やっと自転車許可証を見つけだして、これを持って監視人のところに行こうかと思ったが、あまりに浮薄に思われたのでやめにした。さらに捜していると出生証明書が出てきた。それを持って隣部屋にもどったとたん、グルーバッハ夫人が反対側のドアから入ってこようとしているのと鉢あわせになった。しかしそれは一瞬で、夫人はあきらかにあわてて、あっ、失礼、と言ったきり、またそっとドアをしめた。「いや、お入りください」と言うひまもなかった。Kは証明書を持ったまま部屋の中央に立ちつくし、もうひらこうともしないドアを見つめていた。監視人たちに声をかけられてわれに返ったが、ふと見ると、ふたりとも窓ぎわの机に陣どって、Kの朝食をむしゃむしゃと食べていた。「グルーバッハ夫人はなぜ入ってこないんだろう?」とKは言った。「入っちゃいけないんだ」と背の高いほうが答えて、「なにしろあんたは逮捕されてるんだからね。」「なぜ逮捕されているんです? こんなやりかたって無茶じゃないですか。」「また繰返しか!」と背の高い監視人は言って、バター・パンを蜜の壷にひたした。「そんなことには答える必要がないんだ。」「答えてくれないとこまります」とKは言って、「これがわたしの身分証明書です。あんたのほうも身分証明書と、それから逮捕状とを見せてください。」「あきれかえったやつだ」と監視人は言って、「なにもそうじたばたすることはないだろう。わしらはおまえさんの身のまわりでは一番親身になれている人間かもしれないんだ。なにもそう、つっかかってくることはないだろう!」「そのとおりだ。言うことをききな」とフランツが言って、手にしたコーヒー茶碗は口もとにはこぼうともせず、しばらくじっと物言いたげな、しかもなんのことだかはさっぱりわからぬ視線でKを見つめていた。Kはフランツと目を合わせていたが、気をとりなおすと、証明書を人さし指でたたいて、「わたしの身分証明書はこれです。」「そんなもの、なんの関係があるか!」背の高いほうがやにわに叫んだ、「まるで赤子のやることじゃないか。どうしようってんだ? まさか証明書や逮捕状をひねくりまわして、あっさり裁判沙汰をおわらしちまおう、というんじゃあるまい。わしらは下のほうの役人で、身分証明書のことなんか知っちゃいないんだ。ただあんたを、日に十時間も見張りしていりゃいいんだ、お給金はいただけるんだ、それだけのことさ。だがね、わしらにもそれぐらいのことならわかるんだが、わしらの上のほうの役所ではだれかを捕まえるとき、その訳や逮捕者の身もと調べぐらい、しっかりしてるよ。絶対にまちがいっこない。しかもわしらの役所では――もっともわしらの知っているのは下級のほうばかりだが――無理にも罪を探しだそうっていうんじゃないんだ、法律にも書いてあるとおり、裁判所が罪のほうにすいよせられて、わしらはそこに派遣されるってわけだ。それがいつもさ。絶対にまちがいっこないんだ。」「そんなしきたりは知りませんね」とKは言った。「お気の毒に」と監視人は答えた。Kは、「あんたの頭のなかだけに書かれてあるんじゃないですか」と言いながら、できればこの監視人たちの頭の中についてまわり、それをうまくあやつったり、相手の考えかたに自分からとけこんだりしたいものだ、と思った。ところが背の高いほうの監視人はそんなことにはいっこうにおかまいなく、「いまにわかるさ」と言ったきりだった。フランツが横から口を出して、「なあ、ヴィレム、この御仁は法律のことは何も知らないと言っておきながら、一方で、自分には何の罪もない、と言うんだからな。」「そのとおり。どうしてもわかっていただけないわけだ」ともう片方が言った。Kはなにも返事をしなかった。自分はどうして、とかれは考えた、こんな下っぱの係官――かれら自身がそう言っている――の饒舌に右往左往しなければならんのか? 連中のしゃべっていることときたら、連中自身にもわかっていないのだ。しかも連中がそういうふうにしゃべるのは、連中が馬鹿なせいだ。もし自分と対等に話せる人間だったら、やつらの話す何分の一かの時間で、ずっと明快に話しおえてしまうだろう。Kは部屋の空いた場所を行ったり来たりした。むこうがわの老婆を見ると、さらに年上の老人を窓ぎわにひっぱってきて、抱きかかえるようにしてこちらを見せてやっているのだった。見世物になることはやめなければならない。「あんたがたの上役のところにつれていってください」とKは言った。「上役がいいというまではだめだ」とヴィレムと呼ばれた監視人が言った。「さて」と監視人はつけくわえて、「部屋にかえって、おとなしく待つんだ。言っておくが、あまりあれこれ考えてもためにならんぜ。いずれ、いろいろとご沙汰があろうからね。せっかく親切をつくしてやったのに、わしらに対するあんたの態度はそれにふさわしかったとはいえんぞ。わしらはどんな人間にしろ、すくなくとも今のところは、あんたより自由な人間だ。それをあんたは忘れとる。これは大きなまちがいだぞ。しかしだ、もしあんたが金を持っとるなら、むこうの喫茶店から軽い朝食を取りよせるぐらいはしてやる。」
Kはこんな申し出には返事もしないで、しばらくそこに立ったままでいた。隣の部屋のドア、いや控え室へ行くドアをさえひきあけても、このふたりはなにも言わないかもしれない。いっそ思い切った行動にでるほうが事は簡単に解決するのではないか? だがやはり、このふたりがとびかかってくるということも考えられる。もしふたりに床にたたきつけられでもすれば、せっかくこれまでたもってきた優越感が台なしになる。というわけでやはり無難にかまえて、自分の部屋にもどることにした。かれも監視人たちもそれ以上一言も言わなかった。
ベッドにからだを投げだすと、洗面台からりんごをとった。それはきれいなりんごで、昨晩、今日の朝食のために買っておいたものだ。いまはこれだけが唯一の朝食となった。一口噛みついて考えてみると、このりんごのほうが監視人のお情けの、汚い深夜喫茶店などからとりよせた朝食よりいいことはたしかだった。ゆっくりと落ち着いた気持になれた。銀行にはまだ行きださないが、かれぐらいの身分になれば言いわけをすることは簡単だった。それにしても、あったままを言うべきだろうか? そうするつもりでいた。だれも真にうけないという場合も考えられたが、それならばグルーバッハ夫人か、あのいまちょうどまた向かいの窓に移動しつつあるにちがいない老人二人を、証人として呼べばよい。この部屋にひとりぽっちになったことは、すくなくとも監視人の立場から考えれば、不思議だった。これでは自殺をすることもできるではないか。だがどうして自殺なのだ? Kは自問自答した。監視人たちに朝食を食べられたからか? まさか? あまりにも馬鹿馬鹿しい。とうてい自殺などできない。監視人たちの頭のわるさがあれほど一目瞭然としてなかったら、かれらも同じように考えてKをひとりぽっちにしたのだ、と考えることもできただろう。監視人たちが見ていようがいまいがそれには構わず、Kはいま上等のブランデーを飲むために戸棚に近づいていった。一杯目は朝食がわりに、二杯目はこれからの元気づけに飲んだ。――後のほうはこれからその必要があると仮定してであったが……。
突然、大きな声が隣部屋からして、Kはコップに歯をかちあてた。「監督どののお呼びだ!」というのだった。この短い、ぶっきらぼうな、軍隊調の叫び声が思わぬフランツの喉から出たと知って、Kはおどろいた。しかし、命令としては待ちに待ったものだった。「やっとですか!」とKは叫びかえして、戸棚をしめ、すぐ隣部屋へいそいだ。監視人たちは戸口のところに立っていたが、Kを見るととんでもないといった様子で部屋へ押しもどした、「なんてこった!」とかれらは叫んだ、「シャツのままで監督どののまえに出ようっていうのか! こっちにまで笞《むち》をくらわせようっていうのか?」「放せ!」洋服箪笥のところまで押しかえされてきたKは叫んだ、「朝はやく寝こみをおそっておきながら、正装して前に出ろもないだろう?」「そんなことを言ったってだめだ」と監視人たちは言ったが、かれらはKが一度わめくごとにだんだん言葉すくなに、悲しげにさえなったので、Kは気勢をそがれ落ち着きをとりもどしたほどだった。「どうしてそんなに格式ばらねばならないのです?」Kはこう言いながら椅子から上着をとりあげ、これはどうだと言ったふうに監視人たちの目のまえにつきだした。監視人たちは首を横にふった、「黒でなけりゃいかん」とかれらは言った。Kは上着を床になげすてると、「でも、まだ本当の裁判ではないのでしょう?」と言ったが、自分でもなにを言ったのかわからなかった。監視人たちはうすら笑いをうかべ、Kの意見にはとりあわず、ただ「黒でなけりゃいかん」とくりかえすだけだった。「それで事がはかどるのならそうしましょう」とKは言って、自分から洋服箪笥をあけ、しばらくなかを捜していたが、やがて以前知人たちのあいだで胴まわりの線がいいと好評だった、とっておきの黒の背広をとりだした。シャツも別なのをひっぱりだして、丁寧に身につけはじめた。そうしながらも、監視人が風呂に入れとまでは勧めないのがまだしもだ、と思っていた。監視人のほうを見ても、別にその気配はなかった。そのかわりヴィレムは、Kはいま着がえ中です、という報告をフランツにもたせ監督のところにやっていた。
すっかり着てしまうと、ヴィレムの面前をとおり、だれもいない隣の部屋をよぎって、そのまた隣の部屋に行かせられた。部屋の両びらきのドアはすでにあけられていた。この部屋にはしばらく前からビュルストナー嬢というタイピストが住んでいることをKはよく知っていたが、彼女はいつも朝早く出勤し、夜も帰りが遅いので、Kは彼女とは二三言挨拶をかわしたことがあるだけだった。いま、このビュルストナー嬢のナイトテーブルが取り調べ用の机として部屋の中央にひきだされ、そのそばに監督がすわっていた。足を組み、椅子の背に片肘をかけていた。
部屋の片すみに三人の若い男があつまり、壁布にとめられたビュルストナー嬢の写真を眺めていた。白いブラウスが窓の把手にぶらさがっている。向かいの窓には例の老人夫婦があらわれていたが、そのうしろにまたひとり、シャツの胸をはだけた男がひときわ身をのりだして、指の先で赤味がかったとんがりひげをつかんだりひねったりしていた。「ヨーゼフ・Kだな?」落ち着かないKの視線をこちらにむけるためらしく、監督はこうたずねた。Kはうなずいた。「今朝の出来事にはおどろいたか?」監督はそう言いながら、机のうえの蝋燭、マッチ、本、針山などあまり数多くはない品物を、まるで訊問に必要なものででもあるかのようにひとつひとつ手もとにあつめた。「おどろきました」とKは答えたが、これでやっと話のわかる人間にめぐりあえたというよろこびがこみあげた。「もちろんおどろきました。しかし、それほどおどろいたわけではありません。」「それほどはおどろかない?」監督はききかえしながら蝋燭を机のまんなかに立て、ほかのものはそのまわりにならべた。「誤解のないよう申しあげますが」Kはいそいでつけくわえ、さらに「いま言った意味は」とまで言って目で椅子を探した。「すわってはいけませんか?」「いかんことになっておる」と監督が答えた。「いま言った意味は」とKはすぐくり返した。「おどろくことはおどろいたが、ひとは三十歳にもなれば、それもわたしのように自力で進まなければならない人間であれば、おどろくことにもなれてしまって容易にはおどろかない、ということなのです。ことに今日の場合なんかはそうです。」「どうしてそうなのだ?」「なにも全体が冗談事めいているというのではありません。それにしてはお膳だてが大きすぎますからね。アパート中のものが加わっているようですし、おまけにあなたがたまでご出勤ときては、冗談の域を越えていますからね。だから、冗談だといっているのではありません。」「それはそうだ」と監督は言って、マッチ箱のなかにマッチがなん本あるかを数えていた。「しかしまた一方からいうと」とKは言葉をつづけながらみんなのほうを見た。写真のまえにいる三人をもこちらに向かせる方法はないものかと思った。「しかしまた一方からいうと、こんなことがまさか重要な意味をもつはずはないのです。早い話、わたしは告訴されているらしいのに、なにが理由でそうなのか、さっぱりわからないではないですか。それはいいとしても、では、だれがわたしを告訴しているのです? 訴訟手続きをおこなっているのはどこの裁判所なんです? あなたはいったい役人なんですか? 制服らしい制服は」と言って、フランツのほうを見て、「このひとが着ているものを制服と呼ばないかぎり、どなたも着ていないじゃないですか。しかもこのひとのはむしろ旅行服だ。さあ、いま言った点をすべてはっきりさせてください。そうすれば、おたがいすぐにでも気持よくお別れできると思います。」監督はマッチ箱を机のうえにおろした。「あんたは大変な思いちがいをしておる」とかれは言って、「ここにいるものはみんな、あんたの事件なんかとはたいして関係ないんだ。いやそれどころか、まったく何も知らんぐらいだ。わしらはみんなお揃いの制服を着ることだってできるが、そうしたからといっておまえさんの事件が変わるわけじゃない。あんたが訴えられてるかどうかはわしには言う権利がないし、大体が知らないことだ。知ってるのはあんたが逮捕されることだけで、それならまさしくそのとおりだ。監視人たちが別なふうに言ったのだったら、それはただのおしゃべりだ。これであんたの質問に全部答えたことになるかどうか。いずれにしろわしらについてあれこれ気をつかわんほうがいい。考えるなら自分のことを考えることだ。あまり無実だ、無実だ、と騒ぎたてんほうがいいぜ。あんたは外見はそうはわるくないほうなんだから、それでは損になるばかりだ。それから口はもうすこし慎まなきゃならんよ。あんたがこれまで言ったことはほとんど全部、ほんの二三言ありゃ足りたことで、あとはあんたの態度からでも読みとれたんだ。といって、その態度がとびっきりよかったというのじゃないがね。」
Kは監督を見つめた。年は自分より下らしいこの男から、どうしてこのような学校教師じみたお説教を受けなければならないのか? 率直に話したことがかえっていけなかったのか? 逮捕の理由や命令の出所については結局のところなにも分らない。Kはすこし気を昴《たかぶ》らせて部屋のなかを行きつもどりつした。だれも制しようとはしなかった。Kはワイシャツの袖を服のなかにたくしこんだり、胸に手をあてたり、髪をかきわけたりした。三人の男のうしろを通りがてら、「つまらんまねはやめろ」と言った。三人はこちらをふりむき、Kのご機嫌をうかがうように、しかし真剣な表情で、Kの顔を見た。Kは監督の机のまえまで来てやっととまった。「ハステラー検事はわたしの仲のよい友人ですが」と言って、「かれに電話をかけてもいいですか。」「ああ、いいよ」と監督は答えて、「だがなんの意味があるのかね。なにか個人的な用件というのなら別だが。」「なんの意味があるかですって?」腹がたつというより気ぬけがしてKは叫んだ、「あなたこそなんです。なんの意味だなどと言っておきながら、まるで無意味なことをやってるじゃありませんか? あまりにばかげているじゃありませんか? あのふたりときたら、はじめにわたしを襲っておいて、今度は周囲をうろちょろしてお節介を焼き、わたしにあなたの面前で高等馬術でも演じさせてるみたいです。逮捕されてるこのわたしが、検事に電話をかけてなんの意味があるのか、ですって? まあ、いい。それでは電話をかけるのはやめにしましょう。」「いや、いや」と監督は電話のある控え室のほうを指でしめしながら、「電話はかけてくれてかまわんよ。」「いや、もうかけたくありません。」Kはそう言って窓ぎわに歩みよった。むこうの窓には依然として三人の見物人があらわれていたが、三人は、Kが窓に近づくと、かなり動揺したようだった。老人ふたりは立ちあがろうとした。うしろの男がそれをおしとどめた。「あんな見物人たちもいるんです」Kは大声で監督にどなって、人さし指でしめした。「そこをどけ!」と三人にむかって叫んだ。三人はすぐさま数歩後退した。老人ふたりは男のうしろに身をかくし、男は大きな体でふたりをおおいながら、なにやらわけのわからぬことを叫んでいるのが、その口の恰好から読みとれた。しかし三人ともすっかり姿を消したわけではなく、おりを見はからってまた窓辺にしのびよろうとしているようだった。「なんて図々しい、無作法なやつらだろう!」部屋のなかをふりかえりながら、Kはこう言った。監督がうなずくのを横目で見たような気もしたが、あるいは監督にはなにも聞こえなかったのかもしれない。監督は手を机におしつけて、指の長さを一本一本くらべていた。監視人ふたりは模様入りの毛布でくるんだトランクに腰をかけ、手で膝をこすっていた。三人の若い男たちは腰に手をあてて、きょろきょろとあたりを見まわしていた。どこか、ひとの入らなくなった事務室という感じだった。「さあ、みなさん!」とKは叫んだが、一瞬ここにいる全員の重みをしょいこんだ気がした。「お見うけしたところ、わたしに関する件はもうこれでけりということでよろしいですね? あなたがたの行為が正しかったか、まちがっていたか、それはもう不問に付して、ただこうやって握手して、気持よく水に流してさしあげてよろしいわけですね。もしご異存がなければ――」と言って監督の机に近づき、手をさしだした。監督は目をあげ、唇をかみしめながらKの手を見た。握手してくるだろう、とKは思った。だが監督は席を立つなり、ビュルストナー嬢のベッドのうえにあった硬くてまるい帽子をとりあげ、ためすように両手でそっと頭にのせながら、「なんて単純なことを言うんだ!」と言った、「気持よく水に流す? それは無理だ。もちろんそう言ったって、あんたを絶望させる気はないがね。それにそうだ、あんたはただ逮捕されたにすぎんし、わしとすればそれを告げに来たのが目的だから、今その任をはたし、あんたがそれを受けとった様子もわかれば、あとは用はないわけだ。きょうはこれでお暇乞いできるというわけさ。といっても、そう長くお別れしているわけではないがね。それにあんたはこれから銀行に行かなきゃならんのだろう?」「銀行に?」とKはききかえして、「逮捕されたものとばかり思っていたのに。」わざとつっかかるような調子で言った。握手こそ受けいれられなかったが監督が立ちあがったそのときから、自分とこの連中とのあいだがこれで縁切れになる気がしていた。かれはこの連中とたわむれているつもりだったのだ。帰るというのであれば、玄関まで見送っていき、逮捕の件はもうよろしいのですか、ときいてやるつもりだった。そこでもう一度、「逮捕されているのにどうして銀行に行けるのです?」ときいた。「ああ、そのことか」すでにドアのところまで歩みよっていた監督は答えた、「それはあんたの思いちがいだ。あんたを逮捕したのはたしかだ。しかしなにも職業の邪魔までしようって気持はないんだ。生活はふだんのままでかまわないんだ。」「ほほう、すると逮捕されるのもそれほどひどいことじゃないですね」こう言いながら監督のそばに近づいた。監督は、「だからはじめからそう言ってるじゃないか」と言った。「それなら逮捕を知らせに来ることだってそれほど必要じゃなかったことになりますね」とKは言って、もっと監督のほうに近づいた。ほかの男たちも近づいてきて、全員がせまいドアのところにかたまった。「それがわしの役目だったんだ」と監督が言った。「たいした役目じゃありませんね」とKは遠慮なく言った。「そうかもしれん」と監督は答えて「いつまでも、こんなむだ話でおちおちしてはおれん。あんただって銀行に行かなくちゃならんのだろう。言葉尻を捕えるあんたに言うことだが、わしはあんたに、別にどうしても銀行に行けとは言っておらんのだよ。あんたが行きたいのではなかろうかと思ったまでだ。あんたが銀行に行きやすいように、銀行に着いたとき目だたんですむように、あんたの同僚を三人連れてきてある。」「え?」とKは言ってその三人の顔を見た。この取柄のない、血色のわるい、これまで写真のそばの男たちとしてしかKの念頭になかった若者たちは、まぎれもなくかれの銀行の行員たちだったのだ。かれらはKの下役なのだから同僚というのは言いすぎで、監督はかならずしもすべてを知っていないことをしめしていたが、それにしてもKはどうして気がつかなかったのだろう? 三人にも気がつかないほど、監督や監視人たちのほうにばかり気をとられていたのだろうか? 背をしゃちこばらせ両手をふっているラーベンシュタイナー、目のくぼんだ金髪のクリッヒ、それと慢性の顔面神経痛のためにいつもうすら笑いをうかべているように見えるカミーナーではないか! 「おはよう」われにかえったKはそう言って、かしこまってお辞儀をする三人に手をさしのべた。「まるで気がつきませんでした。それでは、出かけましょう。」三人はにっこりと、さも待ちうけていたように、しきりにうなずいてみせた。出かけようとしたKが帽子を自分の部屋に忘れてきたのがわかると、三人はそれとばかり駆けだした。この動作にはあきらかにてれ隠しが見てとれた。Kはじっと立ったまま、二つのあいたドアのむこうに消えていくかれらの後姿を見送った。一番最後を走っていくのはいうまでもなく、あのものぐさのラーベンシュタイナーだった。かれはいかにも駆け足の恰好をやっているだけだった。とってきた帽子をさしだしたのはカミーナーだったが、Kとしては、銀行でよくよくあるように、この男のうすら笑いはわざとではない、わざと笑みを浮べるはずなんかはない、といく度も自分に言いきかせなければならなかった。部屋を出るところで、グルーバッハ夫人が玄関の戸をあけてくれたが、彼女はどこといって後ろめたさを感じていない様子だった。例によって、ふとい胴体にエプロンの紐を不必要にきつくくいこませており、それだけが気になった。路上に出るとKは時計を出してみた。銀行に行くにはもう半時間ばかり遅くなっていた。これ以上遅れないようにと、タクシーを呼ぶことにした。カミーナーが町角にむかって駆けだした。他のふたりはKの気持をとりなすのに大わらわだったが、クリッヒが突然むかいの家の入口を指さすので、そちらを見ると、あのブロンドひげの大男があらわれていた。男は自分がいますっかり体ごとあらわれてしまったことに勝手がわるくなったらしく、うしろの壁の方に身をひくと、そこにもたれかかった。老人たちも階段の途中まで来ているのだろう。Kとすれば、もう見なれており、また出てくるにちがいないと思っていたブロンドひげの男にクリッヒがことさらな注意を促したのが腹だたしかった。「そちらを見るな!」と同僚ふたりにどなったが、一人前の男たちにむかってこのような言葉が、どれほど滑稽かは気がつかなかった。それにしても弁解めいたことを言う必要はなかった。ちょうど自動車が来て、それに乗りこみさえすればよかったから。Kはそのときになって、監督や監視人たちが家を出ていく姿を見なかったのに気がついた。さきほどは監督がいたために三人の行員を見のがし、今度は三人の行員がいたために監督を見のがした。あまり注意力がたしかとはいえない、これからはもっと注意して物事を見よう、と思った。あるいはまだ監督や監視人の姿が見えはしまいかとうしろをふりむき、いつのまにか自動車の後部から身をのりだしていた。しかしまたすぐにもとにむきなおり、車のすみに身をうずめた。もうだれを探そうとも思わなくなった。おもてにこそあらわさなかったが、なにか気やすめがほしいところだった。しかしほかの三人はみな疲れきっている様子だった。ラーベンシュタイナーは車から右がわを見、クリッヒは左がわを見ていた。カミーナーだけがいつものうすら笑いをうかべながら正面を向いていたが、このうすら笑いを気やすめの対象にすることは、気がとがめた。
この春のあいだ、毎晩、仕事のあとにまだ時間があれば――仕事はたいてい九時ごろまであった――Kはひとりであるいは行員たちとしばらく散歩をし、そのあとはあるビヤホールへ行って、大半は年輩の常連客たちと夜十一時ごろまで歓談しているのがだいたいのならわしであった。もちろん例外もあった。たとえばKの手腕を買って信用してくれている支店長が、かれをドライヴだとか、別荘での夕食会だとかに呼んでくれたときがそうであった。このほかにも週に一度、ある酒場の女給で、夜どおし朝もおそくまで働き、昼はベッドのなかからしか訪問を受けないエルザという女のところにもかよっていた。
この日の夕方にかぎってKは――昼間は忙しい仕事や、まわりから敬意あるいは親しみのこもった誕生日祝いの言葉をかけられることでかまけていた――はやく家に帰ろうと思った。仕事のちょっとした合い間にはそのことばかり考えていた。頭がぼんやりしているままに、今朝の事件によってグルーバッハ夫人のアパートは大混乱に陥ったにちがいない、その混乱をとりしずめるにはどうしても自分が必要だ、と考えていた。それをとりしずめさえすれば、ごたごたはなくなって、すべては元通りになるだろう。あの三人の行員に関してはなにも心配することはなかった。三人は銀行の大人数のなかにまぎれてしまい、まるで目だたなかった。Kはかれらの様子を見るのが目的で、いく度か、ひとりずつ、あるいは三人いっしょに、自分の部屋に呼んでみたが、結果はいつも同じで、満足して部屋のそとに出すことができた。
九時半ごろ、アパートのまえに帰ってくると、家の入口にひとりの青年がいた。足をふんばり、パイプをふかしていた。「どなたですか?」とKはとっさにたずね、男に顔を近づけた。玄関のあたりはうす暗く、見さだめがつかなかった。「門番の息子です」と青年はパイプをとって答え、わきへのいた。「門番の息子?」Kはききかえしながら、持ったステッキでいらだたしげに床を突ついた。「なにかご用ですか? 父を呼んできましょうか?」「いや」とKは答えたが、その声には、青年がなにか悪事をしていたがそれをゆるしてやるんだ、といった調子がふくまれていた。「いや、結構」Kはそう言って先へ進んだ。階段のところでもう一度ふりかえった。
まっすぐ自分の部屋に帰ってもよかったのだが、グルーバッハ夫人と話をしたい気持もあったので、夫人の部屋のドアをたたいた。夫人は毛糸の靴下を手にし、机のまえに腰かけていた。机のうえには一山の古靴下がのっていた。Kはとりとめのない口調で、こんなおそくにうかがって申しわけない、とことわったが、グルーバッハ夫人はそれにはかまわず、いえ、いえ、どうぞ、あなたでしたらいつでもかまいません、あなたがわたしにとっての一番よい下宿人だぐらいご存知でしょう、と言うのだった。Kは部屋を見まわしてみた。すっかり元通りになっていた。今朝がた、窓のそばの小卓にのせてあった食事のあとも、きれいにとりかたづけられてあった。「女性の手は知らぬ間にいろんなことをやってのけるものだ」とかれは考えた。自分なら癇癪まぎれにその場で食器をたたきわって、部屋のそとに運びだすことなど、とうていできなかったにちがいない。Kは一種感謝のまなざしでグルーバッハ夫人を眺めた。「どうしてこんなおそくまで仕事をするのです?」とたずねてみた。ふたりは机をはさんで腰をかけ、Kはときどき靴下の山に手をつっこんだりした。「仕事が多くて」と夫人は答えて「昼間はアパートの人々の世話をしているでしょう。自分の仕事をするとすれば夜しかありませんわ。」「おまけにきょうは余分な仕事をさせたことになりますね。」「え、なぜです?」グルーバッハ夫人はつくろい物を膝におきながら、いくらか真顔になってたずねた。「今朝ここに来た男たちのことですよ。」「ああ、あのことですか」夫人は落ち着きをとりもどして言った、「余分な仕事なんかではありませんわ。」夫人がまた靴下をとりあげるのを、Kは見まもっていた。夫人はかれがそのことを話すのをおそれているらしい、そのことを話してもらいたくないらしい、とKは思った。それならなおのこと、話をする必要がある。こんな話は老婦人相手でなければできないことだ。そこで「いや、やはり大変だったでしょう」と言って、「でももう二度と起こりっこありません。」「ええ、もう二度とは起こりっこありません」と夫人は相づちを打つように言って、悲しそうなほほえみをKに向けた。「ほんとうにそうお思いですか?」とKはたずねた。「ええ」と夫人は小さな声で答えて、「でも、あまり気になさってはいけませんわ。この世のなかには起こらないことなんてありませんもの。あなたがあけひろげにおっしゃってくださるのでわたしも申しあげられますが、Kさん、わたし、ドアのうしろで何もかも聞いておりましたのよ。それから監視人たちからもすこしばかり話をききました。わたし、あなたの家主にすぎませんから、出すぎたことだったかもしれませんが、あなたの幸不幸にかかわることとなると、気になってしまいますもの。それですこしきいたわけなのですけど、でも、Kさん、とりたててどうってほどのことじゃありませんよ。そうです、逮捕されたにしても、まさか泥棒のようにじゃありませんわ。泥棒のように捕まったんでしたら、問題になりますけど、あなたの場合は――そう、こんな馬鹿を言ってお気をわるくなさらなければ、なにか学問的な逮捕のされ方ですわ。わたしにはわからないし、 またわかる必要もありませんが、 何か学問的な感じの逮捕のされ方ですわ」
「馬鹿な考えなんかであるもんですか、グルーバッハ夫人。わたしにしたってだいたい同じ意見ですよ。ただ、わたしはもうすこしいじわるな見方をして、こんなことは学問的などころか、全く意味のないことだ、と考えています。ちょっとした隙につけこまれたにすぎません。今朝目がさめたとき、アンナなど来ていようがいまいがすぐ起きあがって、そこにいた邪魔者なんかには目もくれずあなたのところに行き、きょうだけは台所ででも朝食をとる、着物はあなたにとってきていただく、というようなもっと気のきいた立ちまわり方をしていれば、もともとなにごとも起こらなかったはずなのです。すべて未然に防げたはずなのです。その点、ぬかっていました。銀行でならこんなことは起こるはずありません。自分の給仕がついていますし、机のうえには内外に通じる電話がのっています。部内者や部外者のゆききはしょっちゅうです。それにいつも仕事がありますから、頭の働きは活発です。そんなことが銀行で起これば、よい笑い草だったでしょう。しかしもうすんだことですから、とやかく言ってもはじまりません。わたしとしてはただあなたの意見、立派な婦人の意見を聞きたかったまでです。それがわたしの意見と一致したのですから、この上もない喜びです。どうか握手をしてください。これほど意見が一致すればあとは握手をするだけです」
グルーバッハ夫人は握手しないのだろうか? 今朝の監督は自分に握手をしようとしなかったが、とKは考えてこれまでとは別の探るようなまなざしでグルーバッハ夫人を見つめた。Kが立ちあがると、グルーバッハ夫人も立ちあがった。Kの言ったことがよくのみこめないらしく、どことなくぎごちない様子だった。このぎごちなさから夫人は心にもないことを言ったが、それはこの場にまったくそぐわないことだった。「あまり大げさに考えないでください、Kさん」こう言うなり、夫人は涙にくれて、握手のことなどもちろん忘れてしまった。「大げさになんか考えていません」とKは答えたが、急に体がぐったりして、こんな女性と意見が合ったところで仕方がない、と思った。
戸口のところまで来て、「ビュルストナー嬢はお部屋ですか?」とたずねた。「ちがいます」とグルーバッハ夫人は答えたが、それだけではあまりにそっけなかったことに気がついてあわてて笑顔になりながら、「劇場ですよ。なにかご用でしたら、お伝えしておきます。」「いや、なに、ちょっと話したいことがあったものですから。」「お帰りの時間はきいていませんのよ。劇場のときはたいていおそくなりますの。」「それはどうでもいいのですが」うなだれた首を出口のほうにむけながらKは言った、「今朝あのひとの部屋を使ったことで、お詫びしようと思ったのです。」「そんなご心配はいりません、Kさん、あなたはあまりにお気をつかいすぎますよ。ビュルストナー嬢はなにもご存知でありませんよ。今朝お部屋を出てからもどっておられませんし、部屋のほうなら、すっかりきれいにかたづいています。ほら、このとおり、ごらんなさい。」こう言って、ビュルストナー嬢の部屋へ行くドアをひらいてみせた。「結構です。わかってます。」そう言いながらもKはひらかれたドアのほうに近づいていた。暗い部屋に静かな月の光がさしこんでいた。見わたしたところではどこも元通りになっており、窓の把手にかけたブラウスももう見あたらなかった。ベッドのクッションがことのほか高く見えたが、その一部は月光に照らされていた。「ビュルストナー嬢はおそくなることが多いんですね」とKは言って、それがグルーバッハ夫人のせいでもあるかのように、夫人を見つめた。「若いひとはどうしてもね!」とグルーバッハ夫人は弁解するように言った。「それはそうですが」とKは言って、「でも度がすぎるといけませんから。」「そうですとも」とグルーバッハ夫人は言って、「ほんとうにそのとおりですよ、Kさん。ことにあのビュルストナー嬢の場合はそうです。あんな気だてのよい、可愛らしい娘さんを、あんなに親切で、きれいずきで、整頓家で仕事熱心で、なにもかもわたしの気にいっているビュルストナー嬢を中傷しようというのではありませんが、ただひとつだけ、もうすこし慎重にわきまえをもって行動してもらいたいと思うのです。わたしは今月にはいって二度までも、ビュルストナー嬢がとおい町通りで、その都度別な男のひとと歩いているのを見かけましたよ。わたし、たまらない気持でした。こんなことをお話するのは、Kさん、ほんとうにあなたひとりだけです。でも、いずれあのひとにも忠告せねばなりますまい。首をかしげたくなることって、これだけではありません。」「あなたはあのひとを誤解しておられますよ」Kは憤慨をつつみかくさずに言った、「おまけにわたしがビュルストナー嬢について言ったこともまちがってとっておられます。わたしはそんな意味で言ったんじゃないんです。はっきり申しあげておきますが、ビュルストナー嬢に忠告めいたことをなさるのはおやめなさい。あなたは全然見当ちがいをしておられますよ。わたしはビュルストナー嬢を知っていますが、あなたがおっしゃるようなことはみんな嘘です。わたしの言葉はすこしきつすぎるかもしれません。まあ、どうしてもおやめなさいというのではありません。あのひとに言いたいことがあるなら、言ってくだすって結構です。それではこれで、おやすみなさい。」「Kさん」グルーバッハ夫人は歎願するように呼びかけて、Kのあけたドアのところまで追いかけてきた、「まだあのひとと話すつもりはないのです。そのまえにもっとよく観察しなければなりませんもの。あなたにはわたしの知っていることをお話しただけです。それに、アパートに悪い噂が立たないようにしておくのは、下宿人全部のかたの利益でもありますものね。わたしが願っていますのはそれだけなんです。」「悪い噂が立たないようにしておくですって?」まだ少しあいているドアの隙間からKはこう叫んだ、「アパートに悪い噂が立たないようにしておくんだったら、まずわたしを追いだしたらどうです!」こういうと戸をばたんとしめた。しばらくかすかなノックがつづいていたが、Kは耳もかさなかった。
眠気が来なかったので、この機会に起きていて、ビュルストナー嬢はなん時に帰るのか、確かめてやろうと思った。あまり適当な時間とはいえないが、二三言、言葉をかわすぐらいならできるだろう。窓ぎわに横になって、疲れたまぶたをこすったとたん、グルーバッハ夫人をこらしめるため、ビュルストナー嬢と相談して、同時に下宿をひきはらってしまおうか、という考えが頭をかすめた。しかしすぐ、すこし極端すぎる、と思って考えなおした。今朝ぐらいの事件で下宿をひきはらうなんて、頭がよほどどうかしていないか。まるで無意味である上に徒労、かつ愚劣ではないか。
人通りのない路上を見ているのにもあきて、ソファーのうえに横になった。この家に入ってくるものがあればすぐ気がつくようにと、控え室がわのドアを細目にあけておいた。十一時ごろまでは葉巻きを吸ってそのままの姿勢でいたが、それからあとは我慢がならなくなり、そうすればビュルストナー嬢の帰宅がはやめられでもするかのように、控え室に足を運んだりした。ビュルストナー嬢に別にどうといって想いをかけているわけではなかった。姿さえよく思いだせなかった。ただ、話をしてみたかった。彼女の帰宅がおくれたため、きょうという日にまだ不安とたゆたいが残っていることが、 心をそそった。まだ夕食をとらず、 行こうと思っていたエルザのところにも行っていないのは、いずれもビュルストナー嬢のせいなのだ。もちろんこの両方とも、これからエルザの働いている酒場に行けば一挙に解決することだった。ビュルストナー嬢との話し合いのあとにでもまた出かけてみようか、とKは思った。
十一時半過ぎだった。だれかが階段をあがってくる足音がきこえた。物思いにふけって控え室のなかを自分の部屋のように歩きまわっていたKは、あわてて自分の部屋のドアの後にかくれた。やって来たのはビュルストナー嬢だった。ドアに鍵をかけると、寒さに身ぶるいしながら、絹のショールを細い肩にひきよせた。次の瞬間にはもう、この真夜中どきKには立ちいることのできない、彼女の部屋に入ってしまうだろう。それならいま、話しかけなければならない。ところがKはあいにくと自分の部屋の電気をつけていなかった。まっ暗な部屋からとびだせば、襲いかかったものとまちがわれるか、よくて、相手をおどろかせるだけだろう。とっさのことで判断がつかず、Kは戸の隙間からささやくように言った、「ビュルストナーさん。」それはむしろ訴えかけるような調子だった。「だれがそこにおられるのですか?」ビュルストナー嬢はたずねて、目をこらした。「わたしです」とKは進みでて答えた。「ああ、Kさんでしたの。」ビュルストナー嬢は微笑をうかべながら言った。「ようこそ」彼女は言って手をさしだしてきた。「ちょっとお話したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」「今ですか?」ビュルストナー嬢はききかえした、「今でなければいけませんの? すこしおかしな時間だとお思いになりません?」「九時から待っていたのです。」「それは、すこしも存じませんでした。劇に行っておりましたものですから。」「きょう起こったことについてお話したいのです。」「お話相手になること自体はすこしも反対でありませんのよ。ただ、ひどく疲れていますものですから。でも、あと数分もしてからいらしてください。ここではどっちみち、お話はできませんわ。アパートじゅうのひとを起こしてしまいでもしたら、そのひとたちには迷惑な上に、わたしたちのほうも傷ついてしまいますわ。ここでしばらくお待ちください。わたしの部屋のあかりをつけますから、そうしたらここを消してくださいな。」Kはそのとおりにしたが、ビュルストナー嬢がもう一度部屋からそっと呼びかけてくるまで、待っていた。「さあ、どうぞお掛けください」ビュルストナー嬢は長椅子を指さした。疲れたと言っていたのに、自分は、ベッドの枠のよこに立ったままだった。たくさんの花かざりのついた小さな帽子も取ろうとしなかった。「で、なんのお話でしょうか? ぜひうかがわせていただきますわ。」ビュルストナー嬢は足を軽く十字に組んで、言った。「あるいは」とKははじめた、「なにも今すぐ話さなくとも、とおっしゃるかもしれませんが――」「わたし、前おきは聞かないことにしております」とビュルストナー嬢は言った。「それですといっそう話しやすくなります」とKは言って「実は、あなたのお部屋が、今朝、多少はわたしのせいでもありますが、荒らされてしまいました。わたしなどの見もしらない他人の仕業なのですが、いま申したとおり、多少はわたしのせいでもあるのです。それで、お詫びにあがりました。」「わたしの部屋が?」とビュルストナー嬢は言って、部屋のなかは見まわそうともせず、Kを怪訝そうに見た。「ええ、そうなんです。」このときはじめてふたりの視線が合った、「どうしてそれが起こったかは、本来言うにあたいしません。」「でも興味がありますわ。」ビュルストナー嬢が言った。「そんなことはありません」とKは言った。「では結構ですわ」とビュルストナー嬢は言って、「どうしても、とは申しません。興味のないことでしたらよろしいんですの。それからお詫びということでしたら、全然かまいませんわ。だって、そんな形跡はすこしもないんですもの。」ビュルストナー嬢は腰につよく手をあてて部屋を一巡した。写真をとめた壁かけのまえまで来ると、立ちどまった。「おや」と叫んで「わたしの写真がだめにされていますわ。なんということでしょう。本当に、やはりだれかが入りこんだんですね。」Kはうなずいた。無意味な狼藉をはたらいたカミーナーがにくらしくなった。「おかしな言いかたですけど」とビュルストナー嬢が言った、「ご自分でもしてはならないと思われることは、やっていただきたくありませんわ。留守中にわたしの部屋に入られたことですけど……」「申しあげますが」とKも写真のほうに近づいていきながら、「あなたの写真に手をかけたのはわたしではないのです。そう言っても信用していただけなければはっきりと申しますが、裁判所の委員会がわたしの銀行の三人の行員をここに連れてきたのです。そのうちのひとりをわたしは今度うちの銀行から引っぱってきてやりたいと思いますが、その男がこの写真を手にとったにちがいないのです。そうなんです、裁判所の委員がここにやってきたのです。」最後の言葉はビュルストナー嬢が不審そうな顔つきをしたのに答えて、そうつけたした。「あなたに関係のある事件のためにですか?」とビュルストナー嬢がたずねた。「そうです、わたしに関係のある事件のためにです」とKは答えた。「そんなことって考えられませんわ。」ビュルストナー嬢は声をたてて笑った。「いや、そうなんです」とKは言って、「でも、わたしを無実だと信じてくださいますか?」「無実といっても……」とビュルストナー嬢は口ごもって「すぐには申しあげられませんわ。わたし、あなたをよく存じあげませんし、それに裁判所が委員会を送るとなれば、よほど重い罪なんでしょう? それが、お見うけするところ、落ち着いておられるし、牢獄から逃げてこられたようにも見えませんわ。こんなに歩きまわっておられるんですから、罪をおかした方だなんてとても考えられませんわ。」「それはそうです」とKは言って、「裁判所の委員会のほうも、わたしが無実なこと、どう考えても罪のないことに気がついたらしいのです。」「ええ、きっとそれにちがいありませんわ」とビュルストナー嬢は慎重に言った。「ところで」とKは言って、「あなたはあまり裁判には知識がおありにならないようですね?」「ありませんわ」とビュルストナー嬢は答えて、「でも、そのことで残念に思ったことはこれまでにいくたびもありますのよ。わたし、なんでも知りたいと思っていますし、裁判のことには今、とても関心がありますの。裁判って人をひきつける独特の魅力がありますわね。でもそのうち、この方面のことにも知識の埋めあわせがつくんじゃないかと思っています。なぜって、わたし来月からある弁護士事務所で働くんですもの。」「それは、願ったりかなったりです」とKは言って、「そうなれば、わたしの訴訟にもある程度ご助力ねがえましょうか?」「結構ですわ」とビュルストナー嬢は答えて、「どうして、お助けしないことがありましょう。わたし、自分の知っていることなら、よろこんでそれでひとさまのお役に立てようと思っていますの。」「こちらも本気なのです」とKは言って、「それとも、あなたのお気持の半分ぐらいは本気、ということかもしれません。というのは、弁護士を引っぱりこむにはこの事件は小さすぎるのですが、かといって、助言者がいらないほどではないのです。」「わかりましたわ。でもわたしに助言者になれとおっしゃるのでしたら、訴訟のあらましはおききしておきませんと……」ビュルストナー嬢はそう言いきった。「そこがむずかしいところです」とKは言って、「実はわたしにもよくわかっていないんです。」「では、やはりわたしをおからかいになっていらしたんだわ。」すっかり気おちした様子でビュルストナー嬢は言った、「なにもこんな夜おそくお話することはなかったんですわ。」そう言いながらKといっしょに立っていた写真のまえをはなれた。「それはちがいますよ、ビュルストナーさん」とKは言って「あなたをからかってなぞいません。どうか、それだけは信じてください。わたしの知っているかぎりは申しあげました。知っている以上を申しあげたかもしれません。なぜって、審問委員会なんてものはそもそも存在しなくて、それは、わたしがそれ以外に呼び名を知らないためつけた名前にすぎませんから。審理なんかは全然おこなわれていないのです。逮捕があっただけです、それも、ある委員会の……」ビュルストナー嬢は長椅子に腰をおろしていたが、また笑いながら言った、「で、それはどんなふうでしたの?」「ひどいものでした」とKは答えたが、思い出そうとはせず、ビュルストナー嬢の姿に見とれているばかりだった。ビュルストナー嬢は片手で頬杖をつき――肘は長椅子のクッションにうずまっていた――もう片方はゆっくりと腰のあたりをさすっていた。「それでは返事になりませんわ」とビュルストナー嬢は言った。「なんの返事ですか」とKは言って、はっと思いあたり、「では、そのときの様子をくり返してみましょうか?」と言った。体を動かそうとしたが、その場をはなれたくなかった。「わたし、もう疲れてしまいました」とビュルストナー嬢は言った。「お帰りがおそいから」とKが言うと、「最後にやっとお説教を頂戴しましたわね。でもそのとおりですわ。ですから、あなたをお入れすべきでもなかったんです。その必要のなかったことが今わかりました。」「いや、必要だったのです。これからでも、おわかりになりますよ」とKは言って、「あのナイトテーブルをこちらにずらしてよろしいですか?」とたずねた。「どうなさいますの?」とビュルストナー嬢はたずねた。「いいはずがないのですが……」「あのときの様子をお見せできないのです。」説明できないとひどい打撃になる、といわんばかりにKは興奮して言った。「そうですの? 様子を見せてくださるためにいる、とおっしゃいますの? それでしたら、どうぞ、動かしてください。」しばらく間をおいたあと、消えいりそうな声で、「疲れきっておりますから、もうどうぞご随意に。」Kは机を部屋のまんなかに引っぱり出して、その背後に腰をかけた。「人物の配置をよく考えていただかなければなりません。とても興味がある芝居です。わたしが監督だとします、するとそこのトランクのうえには監視人がふたり腰をおろしていて、写真のところには若い連中が三人かたまっているのです。それからこれは余談になりますが、窓の把手のところには白のブラウスがかかっていました。さて、ここから事ははじまります。おっと、わたし自身を忘れていました。この件の最重要人物であるわたしは、この小さな机のまん前に立っています。監督は無頼漢よろしく足を組み、片腕はこの椅子の背ごしにたれ、いともここちよげにすわっています。さて、ここで実際がはじまったわけです。監督はわたしを目ざまさんばかりの大声でどなります、どなりたてるのです。それをあなたにおわかりいただこうと思えば、ご迷惑ながらやはりどなりたてるより仕方がありません。どなったのはわたしの名前なのですけれど。」ビュルストナー嬢はこれまでほほえんでいたが、あわててKがどなるのをとめようとした。口に人さし指をあてがってみせた。しかしもうおそかった。Kはそれほど自分の役にひたりきっていたのだ。ゆっくりと間のびした調子で、「ヨーゼフ・K――!」とどなった。心配したほど大きな声ではなかったが、それでもいったん出されたあとでは、部屋じゅうにこだましているぐらいの大きさはあった。
と、隣の部屋のドアがコツコツと、強く、短く、規則的にノックされた。ビュルストナー嬢は真っ青になり、胸に手をあてた。Kはそれでもしばらくのあいだ、今朝の事件のことと、自分がそのまえで演じているビュルストナー嬢のことしか念頭になかった。それで、はっと気がつくと、いっそうおどろき、ビュルストナー嬢のもとに駆けよった。手をとって、「こわがらないで」とささやいた。「わたしが責任をとりますから。でもいったいだれなんだろう。隣の部屋にはだれも泊まっていなかったはずなんだが。」「そうではありませんのよ」ビュルストナー嬢はKの耳もとに口をよせて、「きのうの晩からグルーバッハ夫人の甥御さんの大尉が寝泊まりしてますの。ほかに部屋がないものですから。それをわたしは忘れていました。でも、あんなに大きな声をおたてになるなんて! わたしこまってしまいますわ。」「ご心配にはおよびません。」Kはそう言ったが、ビュルストナー嬢がクッションにすわりこんでしまったのを見ると、やにわにその額に接吻をした。「やめてください、やめてください」とビュルストナー嬢は言って、あわてて椅子を立った。「出ていってください、出ていってください。なにをなさるのです。あのひとがドアのところで聞いています。みんな聞こえてしまうのです。なんということをなさるのです。」「わたしは出ていきませんよ」とKは言った、「あなたがもうすこし落ち着かれるまでは出ていきません。部屋のむこうのすみにまいりましょう。あそこなら聞こえないでしょう。」彼女は連れていかれるままになっていた。「それはもちろん」とKは言った、「あなたにとってはこんなこと、ご不快かもしれません。しかし危険はないのです。大尉がグルーバッハ夫人の甥であるというのならなおさらのこと、グルーバッハ夫人だけに気をつけていればよいことになりますが、夫人はわたしを奉っていて、わたしの言うことならなんでも信用するのです。それにかなりの額の貸しもありますから、わたしには頭があがらないのです。わたしたちがいっしょにいたことでなにか説明の仕様がありましたら教えてください。グルーバッハ夫人にそれを言って、かならず、うわべだけでなく本心から、信じさせるようにします。わたしのことならご心配ありません。もし、わたしがあなたを襲ったということにするのがよいのなら、グルーバッハ夫人にそう申します。グルーバッハ夫人はそれを信じるでしょうが、だからといってわたしへの信用を失うということはないはずです。わたしにはそれほど頭があがらないのです。」ビュルストナー嬢はすこしからだをくずして、床のひと隅を見つめていた。「わたしがあなたを襲ったのだとグルーバッハ夫人が信じたって、いっこうにかまわないのです」Kはつけくわえた。目のまえにはビュルストナー嬢の赤味がかった髪が、きれいにわけられ、ゆるやかなふくらみをもたせて束ねられてあった。こちらをむくか、と思った。しかし、そのままの姿勢で、「ごめんなさい。ノックがあまりに不意だったものですから。大尉がいてどうこうではないのです。あなたが大声で叫ばれたあと、急に静かになって、そのあとノックがしたものですから、わたし、おどろいてしまったのです。ドアのところにすわっていたものですから、すぐそばでたたかれた気がしたのです。さきほどのお言葉はありがたく存じますが、そんなことは伝えていただかなくて結構です。相手がだれであれ、自分の部屋で起こったことぐらいには、自分で責任をとるつもりです。それにさきほどのお言葉のご親切はよくわかるのですけど、それが同時にわたしをも侮辱するものであることをなぜおわかりにならないのかと思います。でも、もう部屋をお出になってください。わたしをひとりにしてください。こんなことになったのですからなおさら、お願いいたしますわ。はじめはほんの数分と言っておられたのに、もう半時間以上にもなってしまいました。」Kはビュルストナー嬢の手を、ついで手首を、とった、「お気をわるくなさったのではないでしょうか?」ビュルストナー嬢はKの手をふりほどいて、「いえ、いえ、わたし、どんなひとにも気をわるくなどいたしませんのよ。」Kはまたビュルストナー嬢の手首をとったが、ビュルストナー嬢はそれにはさからわず、Kに手首をとられたままドアのところまで歩いていった。Kは部屋を出ようと決心した。しかしドアのまえまで来て、こんなところにドアがあったのかといったふりで、ちょっと立ちどまった。と、そのとたん、ビュルストナー嬢はKの手からすべりぬけ、ドアをあけ、控え室に逃げこんだ。そこから小さな声で、「ほら、来てごらんなさい。そら、あっち」と言った――指はあかりのもれている大尉の部屋のドアをさしていた――「あのひと、あかりをつけたんですわ。わたしたちのことをおもしろがってるんですわ。」「さあ、つかまえたぞ」Kはとびこんで、彼女をつかまえた。その口といわず顔といわず、渇した獣が長いあいだ求めた泉に口をつけるように、いたるところに接吻をした。最後に咽喉もとに接吻をし、そこに長いこと唇をおしつけていた。大尉の部屋に物音がして、やっと顔をあげた。「では、おいとまします。」できることならビュルストナー嬢の洗礼名を呼びたかったのだが、それは知らなかった。ビュルストナー嬢は疲れはてた様子でうなずき、半分むこうを向いたまま、ぼんやりと手に接吻されるままになっていた。やがて身をかがめ、自分の部屋に帰っていった。そのしばらくあとKはベッドに横になっていた。やがて眠りこんだが、そのまえにしばらく自分のとった行為について思いかえしていた。満足だった。どうしてそれ以上満足を感じないのか不思議なぐらいだった。大尉がいたばかりに、ビュルストナー嬢の身の上が案じられた。
第二章 最初の審理
Kのところに電話で、今度の日曜日あなたの件で簡単な審理がおこなわれますから、との通知があった。審理は今後とも、毎週とはいわないにしても、一定期間をおいて続けられますという注意もあった。裁判の審理は、一般の利益からいっても、早くおわらせなければならない、と同時に、あらゆる面において手ぬかりがあってはならず、しかもやはりあまり遅れてはならない、こうした事情から審理を矢継ばやに、しかも毎回短くおこなう方法がとられたのです、その日が日曜日にあたったのは、Kの仕事をさまたげたくないという配慮からです、おさしつかえないことと思いますが、もしほかの日がよろしいということでしたら、できるだけご希望にそうようにいたします、夜でもよろしいのですが、その時刻ではつかれておいでになりましょうから、そこで、特別のご異存がないかぎり、日曜日ということにいたします、申しあげるまでもありませんが、当日はかならずお越しねがわねばなりません。――行かなければならない住所が告げられたが、それはKがまだ行ったこともない遠い郊外の所番地であった。
Kは返事もしないで受話器をおろした。日曜日には出むいて行こう、とすぐに決心がついた。そうするより仕方がない。訴訟がすでにはじまってしまった以上、それに対抗する手に出て、できれば一回でうち切らせでもするほかない。Kが考えこんで、電話のまえに立ったままでいると、うしろから支店長代理の声がした。電話をかけようとしてやってきたのだが、Kがいるため通れないのだ。「なにかよくない知らせでもありましたか?」特にきこうというのではなく、ただKにその場所からのいてもらいたいばかりにそうきいてきた。「いや別に」Kはそう言いながら場所をあけたが、そこを立ちのきはしなかった。支店長代理は相手が出るまでのあいだ、受話器に耳をあてたまま、「Kさん、ひとつおききしたいのですが。今度の日曜日、午前中からわたしのヨットでごいっしょする気はありませんか。かなりな人数になる予定です。ハステラー検事などあなたのお知り合いのかたもおられます。いかがでしょう、来られるお気持はありませんか?」Kは支店長代理の言うことを理解しようとした。支店長代理は決していい加減なことを言っているのではない。これまで一度としてうまの合ったことのない支店長代理がこんな誘いをもちかけてきたについては、内心Kと和睦をとりむすびたいという気持があるからで、このことは最近Kが銀行内でどんなに重要な人物になってきたか、この銀行で二番目の地位の支店長代理にとって、Kの協力あるいは中立的態度がどんなに不可欠か、をしめすものだ。なるほどこの勧誘は、受話器片手の、通話を待つあいだのものではあるが、支店長代理にしてみればひとつの屈辱的行為であることにはかわりない。ところでKは、この支店長代理に第二の屈辱をあたえなければならなかった。「お言葉はありがたいのですが、日曜はあいにくと先約がありまして。」「それは残念です。」支店長代理は答えて、ちょうどつながった電話に向きをかえた。決して短い通話ではなかったはずだ。しかしKはそのあいだ、ただぼんやりと立っていた。支店長代理が受話器をおろしてはじめて気がついて、おどろいた様子なので、Kは「さっきの電話で、どこかに来いということだったのですが、先方がうっかりして時間を言うのを忘れたものですから」と言いわけを言った。「もう一度きいたら?」と支店長代理が言った。「いやそれほどたいしたことではありません。」Kはそう答えたが、これで言いわけがますます変なものになったことには気がつかなかった。支店長代理は立ち去りがてら、そのほかのことについてしゃべった。Kは答えようとはするものの、頭のなかはただ、日曜日に行くときは午前九時にむこうに着くように行けばいいだろう、たいていどこの裁判所でも平日はこの時間にはじまるのが普通だから、などと考えていた。
日曜日は曇り日だった。前晩、行きつけの酒場で常連の客たちと騒いでいたKは、あわや寝すごすところだった。この一週間考えてきた対策をとりまとめるひまもなく、あわてて服を着ると、朝食もとらないで、指定の郊外へむかった。あたりを見まわしてゆくゆとりなどなかったが、あの三人、ラーベンシュタイナー、クリッヒ、カミーナーに会ったのは不思議だった。ラーベンシュタイナーとクリッヒは、Kのゆくてをよこぎっていく電車に乗っていた。カミーナーは喫茶店のテラスに腰をかけ、Kが来かかると、不思議そうに手すりから身をのりだした。三人ともKを見送っていたが、どうして自分たちの上役が乗り物にのらず、急ぎ足でゆくのか腑におちないようだった。Kが乗り物にのらないのは一種いいしれない自尊心からだった。この訴訟に関しては、わずかばかりの他力をかりることもいやだった。他人に相談をもちかけるなどもってのほかだった。しかも、しごく几帳面にふるまって裁判所のご機嫌をとりむすぼうというのでも全然なかった。とはいえ、Kは今のところ、別に時間をきめられているわけでもないのに、九時の時刻にできるだけ間にあおうと駆けだしているのだった。
特にどのようなめじるしとはいえないが、たとえば入口のまえに特別な人の動きがあるとかで、当の建物はすぐにわかるだろう、とKは思っていた。ところがいざ件《くだん》のユリウス通りに着いて、町かどから両側を眺めわたしてみると、どれも同じ灰色をした貧乏人向きのアパートばかりだった。日曜日の朝なので窓ぎわにはたいてい人が立っていて、男たちがシャツ姿のままよりかかってたばこをすったり、自分の子をそっと窓ぎわに立たせてやったりしていた。かと思うと蒲団が高く積みあげられ、髪を乱したままの女の顔が見えたりした。道ごしに声をかけあったりもしている。Kが通りかかるとやおら笑い声に変わったりした。長い道路には、ほぼ等間隔をおいて、種々の食糧品を売る店があった。道路からは、道路の面よりひくく、数段の階段で通じていた。女たちが出たり入ったりしており、なかには階段の途中で立ち話をしているものもあった。果物売りが窓のほうを見あげながら品物を売ってあるいていたが、不注意で、あわやKを荷車ではねとばすところだった。突然、もう少し高級な地区からのお古らしい一台の蓄音器がすさまじい音でがなりたてはじめた。
Kはその通りを前方へと入っていった。もういそぐことはない、どこかそこらへんの窓から予審判事がこっちを見て、Kは来たなと思っているかもしれない――こう考えながらゆっくりと歩いていった。九時をすこしまわっていた。建物まではかなり距離があった。異常なほど場所をとった建物で、通用門が特に高く、幅もひろかった。銀行の取り引きの関係上いくつかはKも知った商標のついた倉庫が、扉はとざして、ひろい中庭のぐるりにあった。それから察すると、通用門はトラックをとおすためのものであるらしい。Kは、いつにもなくこのようなこまごましたところにまで気をはらいながら、しばらく中庭のまえに立っていた。かたわらで男がひとり、はだしで、木箱に腰かけて新聞を読んでいる。ふたりの男の子がリヤカーを使ってシーソーごっこをしている。モーター井戸のかたわらにパジャマ姿の女の子が立って、容れ物に水を注ぐあいだ、こちらを見ている。中庭の片隅では窓から窓へ洗濯物のかかった紐が張りわたされようとしていた。ひとりの男がその下に立ち、掛け声をかけて指図している。
Kは審理の部屋に行くのに階段をあがっていこうとしたが、中庭からはほかにもまだ三つの階段が通じているのに気がついて立ちどまった。それ以外にも細い通路が、別の中庭に通じているらしい。どうしてもっとはっきりと部屋の在り場所を通知しないのかと腹立たしかった。これではいい加減、無責任もはなはだしい、こっぴどく詰問してやろう、と思った。しかし、気をとりなおすと、階段をのぼりはじめた。監視人のヴィレムが、裁判所は罪にすいよせられる、と言っていたのを思いだし、ではどの階段をのぼっても裁判所がすいよせられてくるにちがいない、と不思議な考えにとらわれていた。
階段の途中にたくさんの子どもたちが遊んでいて、そのあいだに割りこんでしまった。邪魔された子どもたちは怒って、Kをにらみつけた。「このつぎ来るときは」とKは心に思った、「砂糖菓子を持ってきてご機嫌をとりむすぶか、でなければステッキでけちらかすかだ。」二階の少してまえのところで、球が前を通りきるまで待っていた。その間じゅう、一人前の浮浪者のようなひねこびた顔をした子どもがふたり、Kのズボンをつかんでいた。無理にふりはらえば相手が痛がって泣くにちがいないので、そのままにしているよりなかった。
二階につくと本腰で部屋をさがしはじめた。審問委員会をきくわけにはいかないので、建具屋ランツというのを考えだし――それはグルーバッハ夫人の甥の名からすぐに思いついた――建具屋ランツはここですか、ときいてまわることにした。そうすれば、どの部屋のなかも見てまわれるだろう。だが、それほどまでにする必要のない場合がほとんどだった。たいていの部屋のドアはあけはなたれており、子どもが出たり入ったりしていた。小さな、窓ひとつの部屋ばかりで、大半が炊事の最中だった。赤ん坊片手の女たちがもう片方のあいた手で炊事をしている。半ばおとなになりかけた年頃の女の子たちが、見たところ上っ張り一枚の姿で、かいがいしく立ちはたらいている。どの部屋にもまだベッドに寝ている人間がいて、病人や、朝寝のものや、服を着てねそべっているものなどだった。Kは扉のしまっている部屋があると、いちいちノックして、建具屋ランツのお宅はここではありませんか、とたずねた。たいていは女が応対に出て、ふりかえると、むくむくと奥のベッドで動く人影にむかい、「建具屋のランツさんだってよ」とたずねるのだった。「建具屋のランツ?」ベッドから声がかえってくる。Kは「ええ」と返事をしながらも、内心はもうここが審問委員会のあるところではなく、したがって自分には用のないことがわかっていた。Kが懸命に建具屋ランツをさがしている、と思いこむ人間が多く、じっと長いあいだ考えこんだすえ思いあたったのが全然別の建具屋の名前だったり、ほんのすこしばかり似かよった名前であったりした。隣家にききに行くものもあれば、それらしい人物が又借りで住んでいるという部屋に連れていってくれたり、自分たちよりはくわしい人間がいるという部屋に案内してくれたりするものもいた。とうとうK自身はきいてまわる必要がなく、ただ階段から階段へと、あちらこちらを連れまわされた。最初は効果があるように思えていた方法がだんだんにむだに思われてきた。六階まで来てもうやめようと思い、もっと先まで連れていってくれるつもりの若い親切な職人に礼を言って、下におりはじめた。ところが、途中まで来て、これほどまでしても徒労だったのかという無念さがこみあげて来て、六階にとってかえし、まずとっつきのドアをたたいた。なかはせまく、大型の柱時計がすでに十時をさしているのが目にとまった。「建具屋のランツさんはこちらですか?」「どうぞお通りください」たらいで子どもの下着を洗っていた、黒いきらきらした目の若い女がそう答えて、ぬれた手で隣の、あいた戸口を指さした。
なにかの集まりの会場に入っていくような気がした。種々雑多な人間が――だれひとり入ってきた人間にかまわなかった――窓がふたつついた中ぐらいの大きさの部屋にすしづめになっていた。天井すれすれに桟敷席がめぐらしてあり、そこにもぎっしりとつめかけていた。頭や肩が天井につかえるため、身をこごめて立っていた。Kは息苦しくなり、またおもてに出た。さっきはなにかの思いちがいだったのだろうと思って、さきほどの女に、「建具屋ランツの住まいをおたずねしたのですが」ときいてみた。「ええ」と女は言って、「どうぞお入りください。」それからこちらに近づいてきて、ドアの把手をとって、「しめます。もうだれも入れません」と言った。そう言われていなかったら、Kはなかに入っていかなかっただろう。「なるほど」とKは言った、「もう満員ですからね。」Kは気をとりなおして部屋に入った。
ドアのすぐそばで話し合っていたふたりの男のあいだから――ひとりは両手を前につきだして金を数えるまねをし、もうひとりは相手の目を食いいるように見ていた――一本の手がKのほうにのびた。頬を赤くした少年だった。「こちらです、こちらです」とKにむかって呼んだ。Kがそのままついていくと、この人ごみのなかにも細い通路があって、それが群衆を左右同形のグループに分けているらしいのがわかった。その証拠に、左右の前方の数列からはだれひとりとしてこちらを向くものがなく、みなむこうを向いたまま、自分のグループの人間とばかり話をしたり、身ぶりをかわしたりしていた。大部分が黒ずくめの服装で、だらんとした古びた礼服を着ていたが、この服装さえなければKは、これはなにか地区の政治集会にちがいない、と思っただろう。
Kが通されていった広間の正面には、やはり人がぎっしりとつめかけた、背の非常に低い演壇があった。小卓がひとつ横向きにおかれて、そのうしろには、演壇のはしとすれすれになりながら、ひとりの男が腰かけていた。小柄のでっぷりした、息をふうふういわせている男で、うしろの男と――この男は椅子のもたれに肘をつき、足を組んで立っていた――大笑いしながら話し合っていた。腕をふりかざして、だれかのまねをしているらしい。Kを案内してきた少年はKをこの男に取りつごうとして躍起になった。もう二度も背のびをしてなにかを伝えようとしていたが、男はこちらを見ようともしない。壇上の人間に注意されてはじめて少年に気がつき、身をかがめて少年の耳うちを聞きとった。それから時計をとり出し、急にKのほうを向いて、「一時間と五分まえに来てくれなくては」と言った。Kはなにか返事をしようとしたが、返事するひまがなかった。男が言葉を言いおえぬうちに、広間の右半分から一斉に不満の呟き声が起こったからだ。「一時間と五分まえに来てくれなくては。」男はもう一度、声をいく分高くしてくりかえした、それからすばやい視線を、広間にくばった。広間の呟き声は一層大きくなったが、男がそれ以上なにも言わないでいると、やがて静まった。Kが入ってきたとき以上に静かになった。ただ桟敷席の人間だけが呟きをやめなかった。上のほうのうす暗がりと煙霧と塵埃のなかでも見さだめのつくところ、この桟敷席の連中は一階の人間よりずっと身なりがわるかった。蒲団を持参しているものがあったが、かれらはそれを頭と天井のあいだにはさみこみ、頭を怪我しないようにしているのだった。
しゃべるよりは相手の出かたをうかがおう、とKは決心した。遅刻についても弁解がましいことを言うのはやめにして、ただ簡単に、「遅刻かもしれませんが、来ることは来ました」と言った。今度は拍手が、また広間の右半分から起こった。気のいいやつらだ、とKは思った。ただ自分のすぐうしろにあたる左半分がだまったままなのが気にかかった。ほんのまばらな拍手が起こっただけだった。満場の人間を一どきに、それがだめならせめてしばらくのあいだでよいから左半分をもいっしょに、こちらのものにできないだろうか、そうするにはなんと言えばよいだろうか、とKは考えた。
「なるほど」と男はいった、「しかし、いまとなってはこちらにもきみを訊問しなければならん義務はないわけだ」――また不平の呟き声が起こった、しかし今度のは、男がそれを手で制止したあと次のように言いつづけたため、誤解とわかった。――「まあきょうのところは例外的に許すとして、この次からこのような遅刻は絶対に許さん。では、まえに来て!」演壇のひとりが下へとびおりると場所がひとつあき、そこへKがあがった。うしろからの群衆でからだが机におしつけられるため、予審判事を机もろとも下へ落とすまいと思えば逆にぎゅうぎゅうおし返すよりやりようがなかった。
予審判事のほうはそんなことには気をとめず、椅子にのんびりとすわったまま、うしろの男にしめくくりの一言を言いおえると、机のうえにただひとつあった小冊子に手をのばした。学習帳まがいのもので、古びており、いく度も繰ったために型がくずれていた。「では」と予審判事は言ってページをめくり、念をおす調子で、「きみは室内塗装工だったね」とたずねた。「ちがいます」とKは答えて、「ある大銀行の業務主任です。」すると下の右側のグループから哄笑が起こった。真底からおかしそうな笑いだったのでKまでが笑いだしてしまった。みんなは両の手を膝につき、はげしく、せきこむように、からだをふるわせて笑っていた。桟敷席にも笑っているものがいた。予審判事は激昴して立ちあがった。が、階下のものらに対しては無力らしく、かわりに桟敷席をにらみつけた。これまでは目だたなかったかれの眉毛が、もぞもぞと、黒く、太く、目のうえによりあつまった。
広間の左半分は依然沈黙していた。列をつくってならんだまま、顔は演壇に向け、そこでとりかわされる対話や、右グループの騒がしさにじっと聞きいっていた。自分のグループのなかに他のグループと調子を合わせるものがいても、黙っていた。左グループは数のうえでは右グループより少ないので、とりたててどうということもないはずだったが、なにしろかれらの沈黙していることはいかにも意味ありげに思われるのだった。Kは自分の陳述をはじめるにあたって、できるだけこの連中の気にそう線で話を進めようと決心した。
「予審判事殿。室内塗装工か、というわたしへのおたずねは――おたずねというより頭ごなしのきめつけですが――この件の裁判手続き全般に通じる見当はずれなものです。あなたはきまった裁判手続きなどというものはない、とおっしゃることでしょうが、それは事実そのとおりです。なぜなら、こちらがそれを裁判手続きと認めないかぎり、裁判手続きは存在しないからです。でも、今のところはさしあたり、裁判手続きはあるものと認めておきましょう。ある程度そちらに同情してです。でなければ、このようなものをどうして裁判手続きと認められましょう? わたしはなにもずさんな裁判手続きだと言っているのではありません。しかし一応そういう言いかたもあることをおふくみおきください。」
Kはここで言葉を切り、広間を見おろした。ずいぶん手ひどいことを言ってしまった、意図していた以上に手ひどかった。しかしそれは事実なのだ。当然、そこここから拍手があってよいところだ。しかし、拍手は起こらなかった。しいんとひそまりかえっていた。もしかすると息をこらして、Kの次に出る手を待っているのかもしれない。この静粛の次に来るものは大きな爆発で、それがすべてを解決してしまうのかもしれない。と、そのとき、広間のすみのドアがあいて、洗濯をすませたらしいさっきの若い女が入ってきた。忍び足で入ってきたらしいのだが、たちまち周囲の視線をあつめてしまい、Kには迷惑千万だった。ただ予審判事だけはKの言葉にすぐさま衝撃をうけたらしく、Kをてきめんに喜ばせた。かれはKの第一声におどろかされ桟敷席をにらんで立ちあがったとき以来立ったままの姿勢でいたが、いまKの言葉がおわると、ゆっくりと、目だたぬように腰かけはじめた。顔の不安を隠すためか、ノートをかざそうとした。
「だめですよ、予審判事殿」とKは言葉を続けた、「そのノートにしたって、わたしの言うことの裏づけにしかなりません。」このはじめて来た会場に響きわたっているのが自分の落ち着きはらった言葉だけなことにすっかり満足したKは、あっという間に判事のノートをとりあげ、中程のページをけがらわしいものにでもさわるかのように指先でつまみあげたので、一杯書きこみのしてある、しみだらけな、ふちの黄色くなったページが両がわにだらりとたれた。「こんなものが予審判事殿の裁判記録なのですかね」と言いながら机のうえにほうりなげた。「さあどうぞお読みつづけください、予審判事殿。なにが書いてあるのか知りませんが、こんな学習帳なんかこわくともなんともありませんよ。なにしろこうやって二本指でつまめるんですからね。まさか全部の指でつかもうとは思いませんが……」予審判事は机に落ちたノートをひろいあげ、しばらく具合をなおしてから、また読みなおすふりをしはじめたが、それはかれの屈辱の深さをあらわしてあまりあるものだった。
一列目の男たちの顔があまりに緊張しきって自分に向けられているので、Kもしばらくそちらのほうばかり眺めていた。どれも年輩の顔ばかりで、白いひげを生やしたものもいた。もしかするとこの男たちこそ集会の最終決定権をにぎっているものたちで、それだからこそかれらは、目のまえで予審判事がこれほどの屈辱にまみれていても、泰然自若としていられるのかもしれなかった。
「わたしの身にふりかかったことは」とKはまえよりいく分声を落として話を進めた。一列目の顔をうかがいながら話したので、すこし上ずった話しかたになってしまった。「わたしの身にふりかかったことは、もちろん単なる個人の事件でして、そのかぎりではわたし自身もさして気にとめていませんから、たいしたことではありません。しかしこれはまた、多くのひとびとに対して適用されている訴訟手続きの一例でもあるのです。このひとびとのためにわたしはここに立ちました。わたしひとりだけのためではないのです。」
思わず声が高まっていた。どこかでだれかが手をさしあげて拍手をし、叫んだ、「万歳! そのとおりだ。万歳! 万歳!」そこここにひげに手をつっこんでいるものもいる一列目の男たちは、だれひとりこの叫び声にふりむいてみようとしなかった。Kとしてもこんな叫び声には重きをおいていなかった、ただ元気づけられはした。みんなが拍手をしてくれなくともよいとKは考えた。一同がこの事柄について考えをめぐらし、たまにひとりでもこちらの言うことに共鳴してくれるものがあればよいのだ。
こう確信したKは、「演説の効果をあげようというのではありません」と言って、「そんなことは望むべくもありません。それでしたら予審判事さんのほうが商売がらずっとお上手でしょう。わたしが望んでいるのは、ただ、このような公開の席で公務上の不正行為について論議をつくすことです。まあお聞きください。わたしは十日ばかりまえに逮捕されました。逮捕された事実そのものが滑稽千万なものなのですが、まあここではそれはさておくとして……わたしは朝早く、まだ寝ているところを襲われました。わたしを――予審判事殿のおっしゃったことから十分うかがわれますが――わたし同様無実にちがいないどこかの室内塗装工とまちがえて、捕まえてしまったのでしょう。隣室はふたりの、あらくれものの監視人に占領されていました。わたしがなにかの凶悪犯であったとしても、だれもこれほどにまで適切な処置はとれなかったでしょう。この監視人たちはおまけにとんでもないならずものでした。わたしに散々話しかけて賄賂《わいろ》を出させようとし、下着や洋服類までかたりとろうとしたそのうえに、わたしの朝食をしゃあしゃあと平らげてしまったのです。そうしておきながら、朝食を運んできてやるから金をよこせと言うのです。それだけではありません、わたしは三番目の部屋の、監督のいるところに連れこまれました。その部屋はわたしがたいそう尊敬しているある婦人の部屋ですが、それが、もともとわたしのせいでもないのに、わたし目当ての監視人や監督の闖入《ちんにゆう》によって大いに冒涜《ぼうとく》されるのを、わたしはだまって見ていなければならなかったのです。とても落ち着いて見ていられるものではありませんでしたが、平静だけはなんとかたもっておりました。それからわたしは監督に向かって、落ち着きはらい――監督がここにいれば認めてくれるでしょう――わたしが逮捕されたのはなぜかとたずねました。するとこの監督がなんと答えたとお思いです? いま言った婦人の椅子にふんぞりかえって、高慢ちきにかまえていた監督の様子が目にうかぶようです。みなさん、監督はまるでなにも答えられなかったのです、事実、なにも知らなかったのかもしれませんし、ただわたしを逮捕しただけで満足していたのでしょう。おまけにわたしの下役の三人の行員をこの婦人の部屋に連れこみ、この三人は婦人のものである写真などに手をふれてごちゃごちゃにしてしまいました。この三人を連れこんだのにはもっと別のわけがあるのでして、わたしのところの女家主や女中ともども、かれらにわたしの逮捕の噂をひろめさせて、わたしの社会的名誉を失墜させ、ことに銀行での地位を動揺させようとしたのです。ところが、こんなことはなにひとつ成功しませんでした。ごくあたりまえの女性であるわたしの女家主――その名を敬意をこめてあげさせていただければ、グルーバッハ夫人です――このグルーバッハ夫人でさえ、こんな逮捕は監督不行届きの少年たちが路上でやらかす襲撃ごっこに異ならないことを心得ていました。くりかえし申しあげますが、こんな些細な事件は、もしそれがそれ以上わるい尾を引くのでなかったら、わたしにとってその場かぎりの不愉快や腹立ちにこそなっておれ、このようにまで関心をひくことにはなっていなかったでしょう。」
ここで言葉を切り、さきほどから黙ったままの判事をちらりと見た。そのとたん、判事が群衆のなかのだれかにむかって目くばせしたらしいのが目についた。Kは微笑をうかべながら、「ただいまわたしのすぐそばから予審判事殿が、あなたがたのどなたかにむかってひそかな合図を送られました。とすると、あなたがたのいく人かはこの壇上から指図を受けておられるようです。舌うちの合図か拍手の合図かは知りませんが、それを見破り弾劾する権利は、わたしは、いまこうやって真相を申しあげることによって放棄することにします。そんなことはわたしの関心外です。また予審判事殿に対しては、あなたのさくらの役人どもにこそこそと合図など送らないで、堂々と大声で『舌うちしろ!』だの『拍手しろ!』だの言ってくださるようお願いします。」
たじろいだのか、いらだったのか、予審判事は椅子のうえでもじもじしだした。さきほど判事のうしろで話していた男が前かがみになって、判事に励ましか忠告の言葉をあたえていた。下の人間たちは、小声ながらしきりと話をかわしていた。あれほど意見が対立しているように見えた両グループがいまではたがいに入りみだれていた。なかにはKを指さしているもの、予審判事を指さしているものもあった。部屋に立ちこめた煙霧はことのほかわずらわしく、遠くに立っている人間がよく見えなかった。桟敷席にいる人間にとっても、それが特にさまたげになったのだろう、裁判のくわしい模様を知ろうと、裁判官の目をぬすみぬすみしながら階下の参列者たちにそっときいていた。返事も、両手を口にあてがって、そっとかえされるのだった。
「わたしの話はすぐにおわります」Kは言って、鈴《りん》がなかったので、こぶしで机をたたいた。予審判事と助言者はとびあがり、くっつけていた頭が離ればなれになった。「わたしはふだん、こういった方面には関係がありません。だからなおさら冷静な判断がくだせると思うのですけれど、この裁判所なるものがもしあなたがたにとってなにがしかの意味をもつのなら、わたしの話に耳を傾けてくださり、そこから役にたつ点をひきだしていただきたい、と思うのです。それから、お仲間同士の話し合いは、のちのちにしていただきたいと思います。わたしは時間もありませんし、早々においとましなければなりませんから。」
たちまち静かになった。Kの存在はもうすっかり会場の空気を支配していたのだ。声を発するものも手をたたくものもいない。みなが一心にKの言葉を待ちかまえている。
「うたがいもなく」とKはきわめて低い声で言った。会場全体がしんと聞きいっている様子が、うれしいほどだった。軽い動揺が聴衆のあいだに生まれると、それは熱狂的な拍手以上に心をそそった。「うたがいもなく、この裁判という厄介な見てくれのうしろには――わたしの場合ですと、逮捕とこの訊問のうしろには――ある大きな組織がひそんでいるのです。そこに働いているものは不正な監視人、無能な監督、引っ込み思案な予審判事たち、そればかりでありません、上下さまざまな地位の裁判官たち、かれらの部下である傲慢な廷吏たち、書記、警吏、それに首斬り人までが含まれているのです。さて、ではこの大組織がやっていることといったらなんでしょう? 罪もないものを捕まえ、その人間たちに対して無意味な、たいていはわたしの場合のように無益な手続きをふませることがそれです。このような意味もないことからすべてがなりたっているのですから、そこに属している役人たちがどうして腐敗していないことがありましょう? 一番上の裁判官ですら堕落をまぬがれることはありません。監視人たちは逮捕したものから着物をはぎとろうとし、監督は他人の部屋に入りこんで無実な人間を訊問するばかりでなく、他の人々のまえで恥をかかせるのです。監視人から聞いたところでは、どこかに逮捕者の持ち物ばかりをしまっておく倉庫があるそうで、そこでは、逮捕者の汗と涙の結晶である財産が、盗癖のある倉庫役人たちにぬすまれるのでもなければ、むなしく朽ちはてていくばかりだというのです。」
そのとき部屋のすみに甲高い声が起こって、Kは話を中断された。部屋の煙霧に薄い光があたってつくっている白い反射のため、Kは手をかざして見なければならなかった。見えたのは、あの、入ってくる姿を見るなり迷惑に思っていた洗濯女だった。その女に落ち度があったのかなかったのか、はっきりしない。ただ、ひとりの男が彼女をドアのちかくの片すみに連れていき、自分の胸にひきよせたのが見えた。しかも、叫んだのは女でなく、男のほうだった。男は口を大きくあけ、天井を向いていた。ふたりのまわりにはすこしばかりの人だかりがしていた。そこから近いところにいる桟敷客たちは、Kが深刻にしてしまった法廷の雰囲気が、こうしてまたこわされるのを喜んでいるようだった。Kはとっさのことで駆けだそうとした。ふたりをとりしずめ、少なくとも部屋のそとに連れだすのが他の連中ののぞみでもあろう、と思った。ところが目のまえの列は、じっとしているきりだった。だれひとり動こうとしない。Kを通りぬけさせようとしない。それどころか邪魔をするものまであらわれ、腕また腕がKのまえにひろげられ、ひとつの手などは――Kはふりかえっておられなかった――Kの襟首をつかまえまでした。Kはもうふたりのことなど考えておられなかった。自分の自由が拘束され、ほんとうに逮捕されてしまうかもしれない。夢中で演壇からとびおりた。群衆とむきあいになった。自分はこの連中を思いちがいしていたのだろうか? 演説の効果をあてにしすぎたのだろうか? この連中は話のあいだ猫をかぶっていて、さていま、かれが話をしめくくる段になって、正体をあらわしたのだろうか? なんという顔、顔だろう! 小さな黒い目がきょときょとしている。頬が酔っぱらったようにたるんでいる。長いひげが、ごわごわとまばらに垂れており、それをしごこうものなら、しごいているのではない、爪を逆立てているのだ、と思われるていのものだった。ひげの下には――まさに大発見であったが――さまざまの大きさや色をした徽章が、襟のところにつけられてあった。見まわしたところ、どの人間の襟にもこの徽章がついていた。右と左のグループにわかれていると見えたのは外見だけで、実際はみな同じグループに属していたのだ。Kがはっとしてふりむくと、手を膝にして冷ややかに見おろしている予審判事の襟にも、同じ徽章がみとめられた。「そうか」とKは大声で言って腕を高くさしあげた。霧が晴れたようなわかりかたが、このような動作をとらせたのだ。「あんたがたはみな同じ裁判所の役人なんだな。さっき攻撃してやった腐敗した一味徒党なんだな、聴衆兼スパイでこの部屋につめかけ、うわべはふた手にわかれて、一方に拍手をおくらせなどし、このわたしをたぶらかそうとしたのだな。無実のものをどのようにしておとしいれることができるか、ためそうとしたのだろう。わざわざのお集まりがどうやらむだでなかったようで、おめでとうさまだ。あんたがたに無実の援護を期待したものがあるなんて、あんたがたもご満悦のことだろう。それに……近よるな! 打つぞ!」――すぐまえにせりだしてきたひとりの老人にむかってこう言った。老人はすくみあがった――「それにあんたがたがためしてみたことも十分成果があったようで、商売繁昌おめでとうさまだ。」机のすみにのせておいた帽子をひきつかみ、唖然として声も出ない一同をかきわけて、出口のほうへ進んでいった。しかし、どこから早まわりをしてきたのか、予審判事のほうがさきに戸口に着いていた。「ちょっと、きみ」とKに呼びかけた。Kは立ちどまったが、予審判事のほうは見ず、つかんだドアの把手を見たままだった。「注意までに言っておくが」と予審判事が言った、「きみはきょう――まだ気がついていないだろうが――被告人にとって有利な、訊問という条件をみずから奪いとってしまったのだ。」Kはドアを見たまま笑った、「なにを言うか! 訊問なんかどいつにでもくれてやる」そう言いすてざま、ドアをおしひらき、階段を一散に駆けおりた。うしろでは会場のざわめきがまた一段と盛りあがったようだったが、それはどうやら、これまでの顛末を学生のように討論しはじめたのであるらしかった。
第三章 からの法廷・学生・裁判所事務局
それから一週間というもの、Kは毎日また新たな通知が来るのを待ちつづけた。訊問を返上すると言った言葉を相手が真に受けたとはどうしても考えられなかった。そこで土曜日の夕方まで待ってもとうとう来ないと、自分は同じ場所に同じ時刻に呼ばれているものと、ひとりぎめしてしまった。あくる日曜日、Kは出かけた。今度はまっすぐ階段をのぼり廊下を進んでいった。かれの顔をまだおぼえている住人たちが戸口から挨拶したが、もうだれにきく必要もなかった。そのまま目的のドアのまえに来た。ノックするとドアは開いたが、そのよこに立っている例の女には目もくれず、まっすぐ隣の部屋に進んでいこうとした。「きょうは法廷はお休みです。」女が言った。「どうして休みなのですか?」信じられないといった顔つきでKはたずねた。女はだまって隣室のドアをあけ、なかをしめした。ほんとうにからっぽで、からのため先週より一層貧寒として見えた。壇上には前回同様机がおかれ、そのうえに本が数冊のっていた。「見ていいですか?」好奇心からというより、ここに来たのがむだ足にならないよう、Kはたずねた。「だめです」と女は答えた。あけたドアをまたしめた。「許可されていませんから。その本は予審判事さんのものです。」「ああそうですか」Kはうなずいて、「たぶん法律の本なんでしょうが。この裁判所ではひとを無実なばかりか、無知識のままでもさばいてしまうようですね。」「そうでしょうか?」女はあまりはっきりしない調子で答えた。「それでは帰るとします」とKが言うと、女は、「なにか予審判事さんにおつたえしておきますか?」とたずねた。「あなたは予審判事とお知り合いなんですか」とKはきいた。「もちろん知り合いですわ」と女は答えて、「主人が裁判所の廷吏をしてますから。」このときになってKは、この部屋が以前は洗濯だらいをおいたきりであったのに、いまはすっかり居間のようになっているのに気がついた。女はKのいぶかりに気づいたらしく、「ええ、ここはわたしたちの部屋ですけれど、裁判のある日にはあけなければならないのです。夫の職業には損な点もありますわ」と言った。「部屋のことは別として」とKは言って、怒りをはらんだ目つきになって、「あなたにご主人があったとは意外です。」「このまえの法廷で、あなたのお邪魔をしたことを言ってらっしゃるの?」と女はたずねた。「もちろんです」とKは答えて、「おわったことを言っても仕方がありませんが、あのときはほんとうにどうしようかと思いました。しかも夫のある身だと、ご自身でも言っておられるじゃありませんか。」「あのお話は途中でおやめになってよかったのです。あとでひどいことを、みんなが言っていましたよ。」「そうかもしれません」とKは話をそらすように、「でも、だからといって、あなたのなさったことが正しいとはかぎりません。」「わたしのことは、みんながみとめてくれているのです」と女は言った、「わたしに抱きついたあの男は、いつもわたしを追いかけまわしているのです。わたしみたいな女に、たいした魅力のあるはずはないんですけど、あの男にだけは別らしいのですわ。どうにも仕様がなくて夫もあきらめてますわ。職を失うまいと思えば、そうするより仕方がありませんもの。あの若い男は法律の学生ですので、いずれは大きな権力をふるうようになるかもしれないのです。なにしろわたしにつきまとってばかりいて、さきほども、あなたの来られるちょっとまえに、出ていったばかりです。」「この裁判所にはいかにもありそうなことですね」とKは言って「さしておどろきはしません。」「あなたはこの裁判所のなにを改善なさろうとしていらっしゃるんですの?」女は自分にもKにも危険なことをきくように、ゆっくりと念を入れてたずねた。「そのおつもりはもうあなたのお話からわかっておりましたわ。あなたのお話、とても気にいりましたの。はじめのところは部屋におりませんでしたし、おわりのほうは学生と床に寝そべっていましたから、全部は聞いていませんけど……ここはほんとうにいやなところですわ。」最後はちょっとつけたすように言ってから、急にKの手をとった。「でも、改善できるなんて本気で思っていらっしゃるんですか?」Kはちょっとほほえんで、女のやわらかい手につかまれた自分の手を少しうごかした。「もともとは」とかれは言った、「改善しようなどと思っていません。それはあなたのお言葉ですし、例の予審判事にでも言えば、大笑いされるか厳罰をくらうにきまっています。わたしだってなにもすきこのんで、こんなことに嘴《くちばし》をつっこんでいるんじゃありません。裁判所を改善しようなどとはゆめさら思ったことがありません。それがなまじ逮捕されたばかりに――わたしは逮捕されているのです――裁判所の事柄に干渉し、わが身の安全をはからねばならなくなりました。しかし、それがあなたのおためにもなるというのなら、うれしいことです。大いに頑張りましょう。ただし、単なる隣人愛からではなくて、あなたのご援助も十分いただけるということを当てこんで……」「でも、どのようにしてご援助できますかしら」と女がたずねた。「たとえばその机のうえの本を見せてくださればよいのです。」「それでしたら、かまいませんわ」と女は言って、Kの手をひっぱって机のところまで行った。それは古い、すりきれた本で、背表紙はほとんどとれかかり、細い糸でかろうじてつながっていた。「ここのものは、どうしてなんでもこうきたないんだろう?」とKが首をひねりながら言うと、女は本の塵を、Kの手が本にとどくよりさきに、エプロンでひとあたりはらった。Kは一番上にのった本をあけてみた。いかがわしい挿絵があらわれた。裸の男と女がソファーのうえに腰をかけている。描いたもののいやしい心根がさらけだされているようだったが、なにぶんにも技がつたなく、不自然な正座、遠近法のあやまり、などもあって、ふたりはただ露骨に描かれているだけで、むきあっているのさえかろうじてわかる程度であった。Kはもうそれ以上ページをめくることはせず、次の本の扉だけをあけてみた。『グレーテが良人ハンスよりうけし仕打ち』というのだった。「ここではこんな法律書が読まれているのか」とKは言って、「そんな人間どもにさばかれるのだからなあ。」「あなたをご援助しますわ」と女が言った。「本当ですか? 危険をともなうのではありませんか? さきほども、ご主人は上役のおぼしめし次第だ、とおっしゃっていたばかりじゃありませんか。」「かまいませんわ」と女は言って「さあこちらへいらしてください。そのことでお話しましょう。でも危険のことなんか、よしにしましょう。そのときになってみなければわからないのですから。さあ、いらっしゃい。」女は演壇を指さし、そのあがり段に誘った。すわると、「あなた、黒いきれいなお目をしていらっしゃいますのね」と言って、下からKの顔をのぞいた、「わたしもきれいな目をしているって言われますけど、あなたのほうがずっとすてきだわ。あなたのことはここにいらしたはじめから、気に入っていましたの。ですから、わたし、あなたの入られたあとで会議場に入っていきましたの。ふだんならそんなことしませんし、入ってはならないと言われているのですけど……」ほほう、とKは思った。この女はおれに色恋をもちかけようとしている。裁判所のやつら同様、腐敗しきった女だ。無理もないことだが、裁判所の連中には愛想をつかして、よそから来たものに、あなたお目がきれいだわね、などと言ってとりいろうとするのだ。Kはだまったまま、しかしいまにも思っていることをはっきり言って女を自分からわけへだてるようなそぶりで、立ちあがった。「あなたにご援助していただけるとは思えません」とまず言ってから、「わたしをご援助くださるには、上のほうの役人連中とのつながりが必要です。ところがあなたときては、そこらへんのつまらない下っぱ役人ばかりとのおつきあいでしょう。なるほどあなたはこの連中となら昵懇《じつこん》の間柄で、この連中に働きかけていろいろなことをやってのけられるかもしれません。しかしそれは、たとえ最大の成果をあげたとしてもしれたもので、いざ裁判の大詰となってみると、つゆほどの値うちもないのです。そのようなことであなたに味方を失わせたくはありません。これまでどおりのおつきあいをお続けなさい。それがあなたには一番よいことです。わたしだって口惜しい気持なしにこう申すのではありません。これはおかえしの言葉になりましょうが、わたしのほうとしてもあなたが気に入っているのですから。ことにそのように悲しそうに見ていてくださると……。ただどうしてそのように悲しそうに見ておられるのか、まったくいわれがないのですけど……。あなたはわたしがたたかわなければならない社会の人間です。そこにあなたは安住しておられる。学生を愛してさえおられる。たとえ愛しておられないとしても、ご主人よりは好いておられる。それはあなたの言葉のはしばしからうかがわれます。」「ちがいます!」と女は叫んだ。すわったまま、Kの手をつかんだ。Kは手をひこうとしたが、おそかった。「このまま行ってしまわないで。わたしのことをそんなにまちがってお考えにならないで。それでも行っておしまいになるつもり? もうほんのわずかでも待っていただけませんの? そんなにつまらない女でしょうか、このわたしは?」「誤解しないでください」とKは言って腰をおろした。「どうしてもここにいろと言われるのでしたらおります。時間はありますし、きょうはもともと審理があるとばかり思ってやって来たのですから。さきほど申しあげたのは、わたしの訴訟のためでしたらなにもしないでいていただいて結構、ということなのです。それがあなたを傷つけることにはまさかならないでしょう? 訴訟の結果はわたしにとっては、つまるところ、どうでもよいことです。有罪の判決を聞いたって笑うばかりでしょう。それに、はたして訴訟が最後まで行きつくものやら、はなはだあやしいことです。今だって役人の怠慢や不注意から、ことによると怖気づきからさえ、裁判手続きはすでに中断されたのではないか、近い将来中断されるのではないか、と思っているのです。もちろん、なにか相当な額の賄賂でもあてこんで、裁判をのばしのばしにしているということも考えられます。しかし――これはいまからでも断言できることですが――まったくむだなことです。わたしには賄賂などをおくる気はさっぱりないからです。そうそう、もしあなたが予審判事あるいは裁判所のふれまわり役に、わたしは断じて賄賂はおくらない、どんな誘いをかけてきてもその誘いにはのらないと伝えてくださったら、それもわたしにひとつご援助してくださることになるでしょう。その際、そんなのぞみはまったくないのだ、と伝えてくだすってもかまいません。ことによると、あの連中、もうこのことに気がついているのかもしれません。たとえ気がついてないとしても、そういそぐことはありません。ただ、いま知っておいてもらうほうが手間がはぶけるし、わたしにとっても余計ないざこざがなくなってよかろうと思われます。ただし、そのいざこざはひとつびとつが同時に相手に対する打撃にもなるわけですから、場合によってはこのままでもよいわけです。相手に打撃になるように、とはわたしがひたすら念じているところです。ところであなたは、予審判事をご存知のようですね?」「知っていますとも」と女は答えた、「予審判事さんのことは、あなたをご援助しましょうと言いましたとき、すぐ初めに考えました。予審判事さんが下っぱの役人だとは初耳ですけど、あなたがそうおっしゃるんですからほんとうなのでしょう。でもあのひとの提出する報告が無価値だとはとても考えられませんわ。あのひとの書く報告は大変な量です。あなたは、役人を怠けものだとおっしゃいましたが、みんながみんなそうとはかぎりませんわ、ことにあの予審判事さんはちがいます。このまえの日曜だってそうでした。裁判は夕方ちかくに終わって、ほかのひとたちはみんな帰ってゆきました。ところがあの予審判事さんはちがいます。広間にいつまでも残っていて、わたしは判事さんのところにランプを持ってゆかなければなりませんでした。台所用の小さなランプでしたけど、あのひとはそれでも満足して、すぐに書きはじめました。そのうちに、休暇日でそとに出かけていた宅の主人も帰ってきました。ふたりで家具をはこびいれて部屋を元通りにしました。そのあと近所のひとたちが遊びにきましたので、蝋燭に火をともして話し合っていました。なにやかやで、判事さんのことはすっかり忘れ、そのままやすみました。もう夜もよほどふけたころでしょう、突然目をさまして横を見ますと、予審判事さんが立っていました。夫の顔に光があたらないよう、ランプに片手をかざしていました。でも、それはいらない心配だったんですわ。夫は熟睡家で、ランプの光なんかではとうてい目をさましませんもの。わたし、おどろいて、あっと声をたてそうになりましたの。すると判事さんがわたしの気分をしずめてくれて、小さな声で、これまで報告書がきをしていました、ランプをどうもありがとう、寝ておられるあなたのお姿を拝見したことはいついつまでも忘れないでしょう、とおっしゃるのです。話が長くなりましたが、予審判事さんは要するに、とても長い報告を書いていらしたのです。それももっぱら、あなたの件についてですわ。なぜって、あの日の法廷ではあなたに対する訊問がなによりの大問題だったんですもの。あれほどの長い報告書がなんのたしにもならないなんて、とても考えられませんわ。それから、これはもう今のお話からお察しかと思いますが、予審判事さんは今のところ、わたしにとても思いをかけているのです。まだ日数のたたない今のうちなら、わたしの言うことをなんでも聞いてくれるでしょう。わたしを思っているらしいまだほかの理由は、きのう、あのひとの信頼している助手兼学生をとおして、絹の靴下を贈ってくれたことですわ。いつも部屋を提供してくれるお礼に、ということですけど、そんなことただの口実にすぎませんわ。なぜって、わたしたちの部屋はいつもあけわたすことになっていますし、主人はそのためにお給金をもらっているのですもの。とてもきれいな靴下ですのよ。ほら、ごらんなさい」――足を前に出してスカートを膝まであげ、自分でもじっと見いっていた。「きれいですわ、でもあまりお上品すぎて、わたしむきではありませんわ。」
突然話すのをやめると、Kの気持をしずめるように手をKの手のうえにおいて、「だまって! ベルトルトがこちらを見ています。」Kは顔をそっとあげた。会議室の戸口に若い男が立っていた。小柄で、足がすこし曲がっていて、短いまばらな赤ひげをたえずなでまわしながら、威厳をつけようとしている。Kはめずらしいものを見るかのようにこの男を見つめていた。あの不思議な法律学を修めている学生に出あうのはこれがはじめてだ。しかもこの学生はいつの日にかは高い役人の職にまでのぼろうというのだ。学生のほうは別にKに気をとめている様子もなかった。指をちょっとひげから離して女に合図すると、窓ぎわに歩いていった。女はKのほうにかがみこみ、小声で「ごめんなさいね、おこらないでくださいね、おねがいですから。これからちょっとあのひとのところへ行ってこなければなりませんけど、どうかわるくおとりにならないで。なんていけすかない学生でしょう、あんなに曲がった足をしているくせに。でも、すぐにもどってきますわ。そうしたらどこでもあなたのお好きなところへ連れていってくださいね。あなたのおっしゃることならなんでもいたしますわ。こんなところにはもうすこしもいたくはありませんわ。できればずっといなくなってしまいたいぐらいですわ。」まだしばらく、Kの手をなでていたが、いきなり立ちあがると、窓のほうへ走っていった。Kは思わず女の手をつかもうとしたが、まにあわなかった。女に誘惑されかかっていたことはたしかだった。しかし、あの女に誘惑されてならないという理由はどこにもなかった。もしかすると裁判所のために自分を懐柔しにかかっているのかもしれないという疑いが生じたが、それもすぐに消えた。この自分が裁判所に懐柔されることなど、絶対ありえない。自由の身であるこの自分は、すくなくとも自分の件に関するかぎり、裁判所をたたきのめしてやろうと思っているほどではないか。それぐらいの自信ももうなくしてしまったのか? 女が、ご援助しましょう、と言った言葉は嘘のないものだった。きっと役にたつことだろう。それに、予審判事ならびにその取り巻き連中に対して、この女を奪いとってやるぐらい、いい気味な復讐がまたとあろうか? そうすればある晩、Kの件についてのでっちあげ報告書の作成に忙しかった予審判事が女のベッドまでやってくると、そこがからだったということもありうるわけだ。どうしてからなのかといえば、Kがあの女を自分の手にいれたから、あの窓ぎわに立っている、粗い厚地の黒服につつまれた、豊満な、しなやかな、ほてった肉体がすっかりKのものだから、ということになるのだ。
こうして、女に対するあやぶみもうすらぐと、窓ぎわの話が急に長いものに思われだした。演壇を指の関節で、ついで拳骨でたたいた。学生は女の肩ごしにちらとこちらを見たが、かまわぬ様子で、女をなおのこと強くひきつけ抱きしめた。女は男の話す言葉にうなだれているようだったが、男は話をさして中断しもしないで、その首すじに音高い接吻をした。Kは、女のほのめかしていた学生の暴君ぶりとはこれだなと思った。立ちあがり、部屋のなかを行ったり来たりした。ときどき学生のほうを横目で見ながら、どうしたら手っとりばやく部屋から追いはらえるものか、と考えていた。そこで学生が、Kの踏みならさんばかりの足音にたまりかねてこう言ったときは、渡りに舟だった。「あんた、じっとしていられないんだったら、さっさと出ていったらどうなんだ。だれも文句を言うものなんざいやしないんだ。さっさと出ていってくれりゃよかったんだ。そうだ、おれが入ってきたとき、あんたはさっさと出ていくべきだったんだ。」この口ぶりにはあらんかぎりの激情がこもっていたが、同時に、未来の裁判官が気にくわぬ被告に対して口にする尊大な調子も、あきらかに読みとれた。Kは学生のそばに来かかると立ちどまり、微笑をうかべながら、「じっとしていられないのはそのとおりですが、それが気になるなら、むしろあなたが出ていってくださればよいのです。でももしあなたがご勉強のために――学生さんだとうかがったものですから――ここがお入り用だとおっしゃるのでしたら、わたしはよろこんで、この婦人と出てゆきましょう。あなたは裁判官になるために、まだまだご勉強が必要なんでしょうね? わたしは法律のことはよくわかりませんが、あなたがもう立派に弄《ろう》しておられる罵詈《ばり》暴言、それだけではまだたりないだろうというぐらいはわかります。」「こんなやつをほっつきあるかせておくことはなかったんだ」と学生は女の手前、勿体《もつたい》をつけるように言った、言いわけがましく、「処置をあやまったんだ。これは予審判事にも忠告したんだが、この男はたとえ取り調べをおこなわないときでも、せめて禁足ぐらいにはしておくべきだったんだ。予審判事のやることはときどき、まったくわからない。」「へらず口ですね」とKは言って女のほうに手をさしのべ、「さあ行きましょう。」「ふむ」と学生は言って、「だめだ、だめだ、だれが渡すものか。」どこにそんな力があったのかと思われるような力で女を腕にかかえ、背をまげて女をいとしげに見あげながら、出口へいそいだ。Kに対して怖気をふるっているらしい様子もあったが、ことさらにあいているほうの手で女の腕をさすったりおさえたりして、Kの気をひいた。Kは二三歩男について歩きながら、すきがあればとびかかって首をしめてやろうと思った。と、女が、「いけません! わたしは予審判事さんのところに連れていかれるのです。あなたとはご一緒できません。この小さなおいたさんが」と言って学生の顔を手でなでまわしながら、「この小さなおいたさんがわたしをはなしてくれないのです。」「あなたのほうでもはなされたくないと思っているんでしょう!」Kはそう言いながら学生の肩に手をかけた。学生は歯でかみつこうとした。「いけません!」女は言って、両手でKをおしとどめた。「いけません、いけません、それだけはおやめになって。どうしようというんです。そんなことしたらわたしがだめになってしまいます。さあ、後生ですから、その手をおはなしになって! このひとは予審判事さんの命令でわたしを連れていくのです。」「それでは勝手にお行きなさい。そのかわりもう二度とお目にかかりませんよ。」Kは気おちしたように言いすてると、学生を背後からひと突きした。学生はちょっとよろけたが、自分がころばなかったとみるとこおどりして、女をかかえたまま、なおさら高くはねて部屋を出ていった。Kはふたりのあとをゆっくりと追ったが、裁判所がわの人間から受けるこれが一番最初の敗北であることはあきらかであった。だが、そうはいっても、不安がることはなかった。負けたのは、ことさらにたたかいをいどんだからで、もし普通に家にじっとしていたら、こんな人間たちよりは千倍も優越して、よせくるものらを一蹴できただろう。Kはここで、学生についてできるだけ滑稽な情景を思いえがいてみることにした。たとえばこのみじめったらしい学生、青二才のくせにへらず口だけはたたく、脚のひんまがった、ひげっつらの男が、エルザのベッドのまえにひざまずき、両手をあわせて慈悲を乞うている姿だった。するとこの想像はいたくKの気にいったので、このつぎになにか機会があれば、男をエルザのところへ連れていってやろう、と思ったほどだった。
Kは好奇心から戸口のところまで走りよった。女がどこへ運ばれていくのか見きわめようと思った。まさか路上にまで女を抱いたままで行きはしないだろう。ところが、行き先は、すぐ目と鼻の先だった。部屋のすぐまえにせまい木の階段があって、途中で曲がっているので先は見えないが、屋根裏の部屋に通じているらしかった。学生はここを、女を抱いたまま、のぼっていったのだった。もうそこまで行っただけで疲れたらしく、息をきらせながら、ゆっくりと、のぼっていった。女はKのほうを見て、手をうちふったり肩を上下したり、いかにもこうやって連れていかれるのは自分の責任ではない、というふうだった。しかしそれにしても、それほど残念そうな様子ではなかった。Kはうつけた表情で、見しらぬ人間を見るように女を見まもっていた。失望しているとも、容易に失望を克服しているとも、見られたくなかった。
ふたりの姿はもう見えなくなった。だがKは戸口に立ったままだった。女はKをうらぎったばかりでなく、予審判事のところへ連れていかれると嘘をついたのだ。予審判事がどうして屋根裏部屋などに待っているはずがあろう。しかし、木の階段をみつめているだけではわかるはずがなかった。と、昇り口のところに、紙が貼ってあるのが目にとまった。近づくと、『裁判所事務局・昇り口』と書いてあった。では、このアパートの屋根裏に、裁判所事務局があったのか? あまり畏敬の念をおこさせる場所がらとはいえない。だが裁判所の事務局が、もともと最下層に属するこのアパートの住人たちでさえがらくたをほうりこむような屋根裏部屋にあることは、この裁判所がどれほど財政的に不如意かをしめしていて、被告にとっては気のやすまることだった。といっても、かならずしもこの裁判所が貧乏かどうかわからない、金は十分あっても、裁判上の目的につかわれるまえに、役人たちが横領してしまうことだって考えられる。これまでの見聞から考えて、これは十分にありうることだ。なるほど裁判所のこのような腐敗ぶりは被告にとって尊厳を傷つけられることであるが、また一方、裁判所が単に貧乏である場合よりも、気のやすまることでもあるのだ。Kには、裁判所が最初の聴取のとき、被告を屋根裏に召喚するのを恥じて、むしろまずその住居におし入る手段をとったのがよくわかる気がした。銀行にいけば控え室つきの大きな個室をもち、ひろびろとした窓ガラスからにぎやかな広場を見おろしておれるようなKが、どう身をひくくして屋根裏の裁判官などとむきあいになれよう! Kの場合はもちろん収賄や横領による副収入はないし、女を給仕の腕にのせて自室に連れてこさせるということもなかった。しかしそんなことは、すくなくとも現世の生活では、なくてもよかった。Kがなおも貼り紙のまえに立っていると、ひとりの男が階段をあがってきた。あいたドアから居間とその続きになった会議室とをのぞいていたが、やがてKにむかって、ついいましがたここで女を見かけなかったか、とたずねた。「あなたは廷吏さんでしょう?」とKはきいた。「そうです」と男は答えて、「ああ、Kさんですか、いま気がつきました、いかがです?」思いがけなく握手の手をさしだした。だまったままのKに対して、「きょうは別に裁判の予定はないのですがね」と言った。「わかっています」とKは言って、廷吏の着ている私服を見た。普通のボタンとならんで、昔の将校マントからとってきたらしい金ボタンがふたつ、いかにも官吏のしるし然とついている。「あなたの奥さんとはさきほどまでここで話していたのですが、もうおられませんよ。学生が予審判事のところに連れていってしまいました。」「そうだろうと思った」と廷吏は言って「いつも連れていってしまうのです。きょうは日曜日でわしは休みなのに、ここにおらせまい、と思ってわしを使いに出すんです。それも早く帰ればちょうどまにあうぐらいの場所に! わしはすたこらかけだして、いいつけられた役所のまえまで行き、戸口から用向きをどなります。息がはあはあ切れてますから、相手がわかったかわからなかったかは知らぬこと、そのまま家に戻ってみると、また学生が先まわりしている始末。なにしろあいつはわしより道のりが近くて、ただ屋根裏の階段をおりてくりゃいいんだから、簡単ですよ。首になる心配さえなけりゃ、あんな学生なんかとっくに壁にたたきつけてやっているんだが。この貼り紙のわきの壁でもいいですよね。見る夢はいつもそればかりです――あの学生がこの床のすこしむこうのところにたたきつぶされている、腕はひろげっぱなし、指はのばしっぱなし、がにまたの脚がねじくれて、まわりには血が点々、とね。だが、これはいまのところまだ夢にすぎません。」「もっとほかにやりようはないのですか?」Kは笑いだしてたずねた。「ありませんね」と廷吏は答えて、「しかも最近はますます目にあまるんだ。あの学生め、まえは自分のところに誘いこんでたのが、このごろは予審判事のところに連れていくんです。まえまえからくさいとはにらんでいましたが。」「奥さんのほうにも落ち度があるんじゃありませんか」とKはきいてみた。にわかに嫉妬心がわいて、自分をおさえつけなければならないほどだった。「大ありでさあ」と廷吏は答えて、「一番あるぐらいですよ。だいたいがあんな学生に気があるのからして、変です。あの学生ときた日にゃ、女という女の尻を追いかけまわしていて、これまでにもここのアパートだけでもすでに五回、しのびこんだ先からおっぽりだされてるんです。それにまた、うちの女房はアパート中で一番の別嬪《べつぴん》ときてますから、始末におえませんや。」「なるほど、それではどうにもなりませんね」とKは言った。「なにがどうにもならん?」と廷吏はききかえして、「卑怯ものの学生なんか、この次うちのやつに手をつけようとしたら、どうか散々にうちのめしてやってください。わしではだめ。ほかの連中も、あいつの権力をこわがっているからだめです。それができる人間といったらあんたぐらいなものですよ。」「わたしがですか?」Kはおどろいてたずねた。「あんたは被告人ですからねえ」と廷吏は言った。「被告人だからなおさら、学生が裁判の大詰とはいわぬまでも予審に影響力をもっていることを警戒しなければならないでしょう?」「それはそうです。」廷吏はしごく当然というふうに、「でもね、ここの訴訟で、見こみのない訴訟というものはまずないのでさあ。」「そうは思いませんが」とKは言って、「でも、あの学生をやっつける分には大いにやってみましょう。」「それはありがたいしあわせです。」廷吏はいくらか紋切り型に言ったが、自分の最高の夢がかなえられるとは、とうてい信じていない様子だった。「おそらくまだほかにも」とKは続けて、「おなじようなこらしめを受けなければならない役人が沢山いることでしょう。もしかすると全部の役人がそうですか?」「それ、それ」と廷吏はわが意をえたりというふうに言って、これまではたとえ親しげであっても決して見せなかったうちとけたまなざしでKを見て、「どこにでも不満な人間はいるもんですね」とつけくわえた。すると話が急にいやになったらしく、「これから事務局に報告に行かねばならんのですが、どうです、一緒に行きませんか?」とたずねた。「行っても別に用は……」とKが言うと、「事務局を見れまさあ。だれもあんたのことなど気にしますまいて。」「見ておもしろいところですか?」とKはためらいがちにたずねたが、内心行ってみたい気もあった。「そりゃあ」と廷吏は言って「おもしろくなかろうはずがないと思うんですがね。」「そうですか」とKは決心がついて、「では、一緒に行きましょう。」階段をのぼっていくKの足は、廷吏よりはやかった。
踏みこんだとたん、あやうくころぶところだった。ドアのうしろにもう一段、階段があったからだ。「あまり一般の客のことを考えていませんね」とKは言った。「考えてなんかいるもんですか」と廷吏は言って、「ここの待合所を見てごらんなさい。」そこは長い廊下で、粗い木づくりのドアがひとつひとつ屋根裏事務室との間をへだてていた。直接光の入るところはないにもかかわらず、廊下はくらくはなかった。というのは、事務室の廊下がわの壁は板張りだけではなくて、木の格子が天井までとどいているところもあり、そこから光がもれていたからだった。机でものを書いている役人や格子の合間から廊下の客を見ている役人が見うけられた。日曜日だからだろう、廊下の客は意外に少なかった。ひどく貧相な印象だった。客たちは廊下の両わきの長いベンチにほとんど等間隔をおいてすわっていた。顔つき、挙動、口ひげ、その他もろもろのこまかな点からいって、上流の階級に属する人間たちであることはたしからしいのに、服装だけはだらしがなかった。帽子かけがないせいか、めいめいたがいを見ならってベンチのしたに帽子を置いていた。Kと廷吏が入ってきたのをみとめて、ドアに一番近いところにすわっていた男たちが立ちあがると、ほかの男たちも立ちあがった。敬意を表さなければならないと思ったらしく、ふたりが通りすぎていくあいだ、全員が一斉に立ちあがっていた。といっても、直立不動の姿勢ではなく、背をまるめ膝を折って、さながら乞食の行列に似ていた。Kはうしろから来る廷吏をちょっと待って、「なんて卑屈な連中なんでしょう」と言った。「まあね」と廷吏は答えて、「ここにいるのは全部被告人ですからね。」「なんですって?」とKはききかえした、「それじゃあ、わたしと同じじゃありませんか。」すぐわきのやせて背の高い、髪の毛のほとんどまっ白になった男にむかって、丁重に、「ここでなにをお待ちですか?」とたずねてみた。男は思いがけない質問にどぎまぎしたが、それは、男が一見世なれした人間で、ほかの場所では決して取り乱したりはせず、むしろ他人に対して優越した態度をとるだろうと思われただけに、一層みじめだった。この場所では、そんな簡単な質問にも答えることができない。だれか自分の答えるのを助けてくれるものはいないか、助けてくれるのが当然の義務だ、それがなければ答えることもできない、といったような面もちであたりを見まわしていた。すると廷吏が進みでて、男の気持を静め元気づけるつもりで、「この旦那はあんたがここでなにを待っているのかきいているだけなんだ。さあ、返事をしなさい。」廷吏の声は男になじみがあったらしく、いくらか元気づいて「わたしは……」と言いかけたが、すぐにまた口ごもってしまった。はじめを切り出せばあとは楽に出ると思ったらしいが、つづかなかった。そのうちに待っている数人があつまってきて、三人はとりかこまれてしまった。廷吏は、「さあ、どくんだ、道をあけるんだ!」と言ったが、かれらはすこしばかりひきさがりはしたものの、もと居た場所にはかえろうとはしなかった。質問を受けた男はそのあいだに落ち着きをとりもどし、微笑さえ浮かべながら、「わたしはひと月まえ、ここに証拠物件の提出をおこないました。いま、その返還を待っているのです。」「ずい分ご心配のようですね?」とKはたずねた。「そうです」と男は答えて「なにしろ自分の事件ですから。」「でもみんながみんな、あなたみたいに心配しているわけではないでしょう?」とKは言った。「たとえばこのわたしですが、あなたと同様被告の身であっても、これまで一度も証拠物件を提出したことはないし、なにかそれ以外のことをやったこともありません。本当にそうなのです。あなたは一体そんなことを必要とお考えなんですか?」男はまたどぎまぎしてしまい、「わたしにはよくわかりません」と言った。からかわれていると思ったのだろう、もうこれ以上へまを言うまいと、前言をそっくりそのままくりかえす手に出たが、Kのいらついたまなざしに出あって、ただ、「わたしとしては証拠物件の提出をおこないましたまでで……」とだけくりかえした。「あなたはわたしが被告ではないと思っておられるのでしょう?」とKはたずねた。「いえ、いえ、そんなことはありません」と男はそう答えながら、身をすこしわきにずらせたが、この答えのなかには信用以上に不安があった。「わたしの言うことをどうしても信用しないのですか?」男のおどおどした態度につりこまれて、どうしても信じさせてやるんだというふうに、思わず相手の腕をつかみながら、Kはそう言った。腕をつかんだのはほんの軽くで、痛かろうはずもなかったのだが、男は火箸でつかまれたように悲鳴をあげた。この滑稽きわまりない悲鳴にはさすがのKも辟易《へきえき》した。信じないなら信じないでいい。自分は裁判官とでも思われているのだろう。最後の挨拶がわりに、男の腕を今度は本当にきつくつかみ、ベンチにつきもどして、まっすぐ前に歩いていった。「被告というものはみな、ああ怖気づいてますよ」と廷吏が言った。背後では男がやっと悲鳴をやめ、そのまわりを、待っているほとんどのものがとりまいていた。事の顛末を問いただしているらしい。Kの行く手からひとりの監視人がこちらへやってきた。腰につっているサーベルで監視人とわかるのだが、その鞘《さや》は、色合いからして、アルミニウムらしい。Kはあきれた表情で、その鞘にさわってみさえした。監視人のやってきたのは悲鳴をききつけてであったらしい、いったいなにが起こったのか、とたずねた。廷吏が二三言話して安心させようとしたが、監視人はどうしても自分で見るのだと言って聞かず、一礼すると、足早に、といっても、その一歩一歩は痛風のために制限されているらしく、せまい歩幅で、その場を立ちのいていった。
Kは廊下のなかほどまで進んできて、その右が行き当たりにドアのない曲がり角になっているのに気がついた。監視人や廊下に待っている人間のことはもうすっかり念頭になかった。こちらに曲がるのかと廷吏にきくと廷吏はうなずいたので、そこを曲がっていった。廷吏がいつも一二歩あとをついてくるのは、わずらわしくてならなかった。場所がらもあって、これではまるで逮捕されて引きたてられていくようだ。そこでいく度か立ちどまり廷吏を待ったが、廷吏はその都度自分のほうも立ちどまるのだった。Kはたまりかねて、「だいたいの様子はわかりましたから、これで帰ることにします」と言った。すると廷吏は、「まだ全部は見てませんよ」といとも無邪気に言った。「全部を見ようとは思いません」Kは芯から疲れきってそう言った、「帰ることにします。出口はどちらですか。」「もう路がわからなくなったのですか?」廷吏はあきれたように言って、「つきあたりの角を右にまっすぐ、ドアのところまで行くんです。」「一緒についてきてください。通路が多すぎて迷いそうです」とKが言うと、「通路はひとつきりっきゃありませんよ」と廷吏はかなり非難がましく言った。「一緒に行くわけにはいきませんよ。報告をせねばならないし、これまであんたのためにずいぶん時間をとってますからね。」「一緒に来てください!」Kは相手の嘘を見つけたときのような鋭い口調で、こうくりかえした。「そんなに大きな声を出さないでくださいよ。」廷吏は声をひくめて言った。「ここら辺は事務所ですからね。どうしてもひとりで帰るのがおいやなら、もうしばらくわしと一緒に来るかここで待っているかにしてください。報告がすみ次第、喜んで一緒に帰りますよ。」「だめ、だめ」とKは言って「待てませんよ、さあ一緒に来てください。」これまでまわりの様子に気をとめなかったが、ふと沢山あるドアのうちのひとつがあいて、そちらに目をむけた。若い女が、Kのかん高い声におどろいて出てきたものらしく、こちらに歩みよって、「なにかご用ですか?」とたずねた。女のうしろからは、もうひとり男が、暗がりから歩みよってくるのが見えた。Kは廷吏の顔をあなのあくほど見た。だれもKのことなどかまいはしないだろう、とこの男は言ったのに、現に、もうふたりの人間が、出てきてしまったではないか! さっそくにも役人にとりかこまれて、ここに来た目的はなにか、などときかれるだろう。次の取り調べの期日をききに来た、とでも答えれば一番手っとりばやいだろうが、そうは答えたくなかった。それは嘘でもあるし、Kがここに来た第一の理由は、はたしてこの裁判所の裏がわが外がわにおとらず見さげたものであるか、を確かめたい好奇心からであったのだが、といって、まさかそれを裁判所の役人に言いかねた。見たいだけのものはだいたい見てしまった。ほぼ予想していたとおりだった。もうこれ以上奥には入っていきたくなかった。ひとつひとつのドアから立ちあらわれるかもしれない役人どもに会いたくなかった。廷吏と一緒にそとに出たかった、それがだめなら、ひとりででも……。
Kが黙ったまま答えないのが、よほど奇異であったらしい。若い女と廷吏はKの顔をいまにも変貌していくものかのように、この変貌のありさまをなにひとつ見のがすまいというかのように、じっと眺めていた。戸口のところには奥から出てきた男が、ひくい鴨居につかまって、待ちきれない観客のようにいらいらと、足のかかとを上下させていた。若い女は、Kがこのような奇異な態度をとっているのはどこか気分がわるいためとさとったらしい、椅子を持ちだして、「おかけになりませんか?」とすすめた。Kはすぐに腰かけて、もっと楽にすわれるよう、椅子の肘かけにもたれた。「いくぶん目まいがなさるんでしょう?」と女がきいた。すぐ目のまえにきた女の顔つきは、適齢期の女性にありがちな、きつくひきしまった表情だった。「あまり気になさらないほうがいいですわ」と女は言って、「ここではよくあることです。はじめて来たひとはとかく気持がわるくなるものですわ。ここへ来られたのははじめて? それでは無理もありませんわ。屋根に太陽が照りつけて、蒸れた梁材が空気をこんなにむしむしさせているんですわ。ここの場所はいろいろといい点もありますけど、あまり事務所にむいているとはいえませんわ。なにしろ、連日お客さんが立てこむと、息もつけないぐらいですものね。おまけにアパートのひとたちが洗濯物を干すものですから――とめてもとめられないのです――すこしぐらい気持がわるくなっても不思議でありませんわ。でも、そのうちにだんだんと馴れてまいりますよ。このつぎ二度めか三度めに来てごらんなさい、むしむしするのはそれほど気にならなくなっていましてよ。お加減、いくらかよくなりました?」Kは返事をしなかった。急にこんな状態になって、ここの人間をわずらわすことがやりきれなかったし、気分のわるくなったわけを聞き知ったことが、さらに気分をわるくしてしまったからだ。女はそれにすぐに気づいたらしく、壁にもたせてあった鉤つきの棒をとりあげると、Kの真上についている明りとりの窓を回転させ、外の空気をとおした。と、もうもうたる煙がなかに入ってきて、すぐにまた窓をしめ、ハンカチでKの手の煤を拭いてやらなければならなかった。Kにはもうなにをする元気もなかった。できれば、ある程度力のつくまで、ここでじっとしていたかった。しかしそれには、あまりかまわれてはかえってだめだった。それを知ってか知らずか、女は、「ここにいたのではだめです。通るひとの邪魔になりますし」と言った。なにが邪魔だ、とKがにらみすえると、「医務室に連れていってあげましょう。ちょっと手をかしてくださいな」と女は戸口にいる男に声をかけた。男はすぐによってきた。ところでKは医務室へは絶対行きたくなかった。それだけはごめんこうむりたかった。奥へ行けばなおさら気分がわるくなるにちがいない。そこで「もう歩けます」と言うなり椅子から立ちあがったが、これまで楽にすわっていただけに一層、足もとがふらふらした。立ちつづけていることはできなかった。「やはり、だめです」そう言うと首をふって、ためいきとともにすわりこんだ。廷吏なら簡単に連れだしてくれるだろうと思ったのに、その姿はもうどこにも見えなかった。目のまえに立った若い女と男のあいだをとおして見ても、見あたらなかった。
「わたしの考えでは」と男が言った。男はなかなか瀟洒《しようしや》なみなりで、縁先《へりさき》の長くとんがった灰色のチョッキがことのほか目だった、「この方の気分のわるいのは空気のせいなのだから、医務室よりむしろ外にお連れしたほうがいいでしょう。」「そう、そうなんです」とKは夢中になって叫び、男の話を横どりしてしまった、「わたしは、すぐにきっと、よくなります。それほど弱っているわけではないのです。腕の下をちょっと支えていただければ十分です。あまりご面倒はかけません。それほど長い距離ではないのですから、この建物の出口のところまで連れていっていただければいいのです。そうすれば階段のところで気分をなおします。こんな状態になったのはまったくはじめてです。思いもかけませんでした。わたしも勤め人で、こうした建物の空気には馴れているのですが。さっきおっしゃっていたとおり、ここの空気はまた特別なのですね。ともかく出口まで連れていっていただけないでしょうか? 目まいがして、ひとりではどうにも立ちあがれないのです。」手をさしいれてもらえるように、両腕をもちあげた。
しかし男は応じようとせず、ズボンのポケットに手を入れたまま大声で笑って、「それご覧なさい」と女にむかって言った、「いま言ったとおりでしょう。この方はここの空気が苦しいだけで、ほかにどこといって悪いところはないんですよ。」女もほほえんだが、男のKに対するなれなれしい態度をたしなめるかのように、男の腕を指先でかるくつついた。「さて、どうしましょうか」と男は笑うことをやめずに言って、「わたしはこのお方をおのぞみどおり外にお連れしようと思うのですが。」「結構ですわ」女はそのきつい顔をすこしうつむけて言った。Kにむかって、「笑ったりして、気になさらないでくださいな」と言った。Kはひとりつくねんと前を見つめていた。「こちらのひとは――あなたをご紹介してもいいでしょう?(男は手でいいと返事した)――事務局の案内係のひとです。来られたお客さんがたにいろいろの知識を提供するのです。この裁判所は一般にはあまり知られていませんから、わからないことがなにやかやとあるのです。このひとはどんな質問にも答えられます。一度きいてみられるといいですわ。それに、まだほかにも見どころがあって、それはみだしなみがとってもいいってことなんです。わたしたち――というのは、ここの職員一同ですが――は前に一度、たえずお客さんがたと接触しそれもいの一番に顔を合わせる案内係はきれいな服装をしていなければならない、と話しあったことがあるのです。一般の職員は――早い話、このわたしからしてそうですけれど――みな質素な昔ながらの服装をしていて、もちろんそれはそれでかまわないのです。服装なんかにお金をかけたって、わたしたちはめったに事務局のそとに出ませんし、ここに寝とまりすることさえあるのですから。でも、いま申しあげたとおり、案内係には立派な服装がいるって考えました。この裁判所はおかしなところで、そんな経費の出所もありませんから、募金をすることにしました。外から来るお客さんも醵金《きよきん》してくださいましたわ。とうとうこのようなきれいな洋服やらそのほかのものを買いました。感じのよい印象をあたえる条件はこれでみんなそろったはずなのです。ところがこのひとはいまみたいに、大声で笑ってお客さんをおどろかせたりして、なにもかもをふいにしてしまうのですわ。」「そうです」男はふざけたように言って、「でもね、お嬢さん、あなたがどうしてこの方になにからなにまでそう洗いざらいしゃべってしまうのか、腑におちませんね。それは押しつけっていうもんですよ。なぜならこの方はそんなことはなにひとつお聞きになりたくないんだし、ほら、このように自分のことだけで精一杯で、すわっておいでになるじゃありませんか。」Kは返事しようにも、返事する元気がなかった。女は、察するところ、Kの気をまぎらせよう、ほかに注意をむけて気分を回復させよう、としているらしかったが、その効果はなかった。「この方にあなたの笑った理由を説明しようと思ったのですわ」と女は言った。「あまりに失礼ですもの。」「外にお連れするほうが、さらに失礼を申しあげるよりいいと思うんですがね。」Kはなにも言わなかった。見あげようともしなかった。ふたりが自分のことについてまるで第三者かなにかのように話すのを、じっと黙って聞いていた。そのほうが気楽だった。と、突然、案内係の手が自分の一方の腕に、女の手がもう一方の腕にかけられるのを感じた。「さあお立ちなさい! 弱虫どの!」と案内係が言った。「ありがとう」Kは急にうれしくなって言った。ゆっくりと立ちあがりかけると、一番心もとないところにふたりの手がかかってくるのを感じた。「もしかして」と女はつきあたりへ行く途中、Kに耳うちして言った、「このひとのことをあまりよく言いすぎたかも知れませんが、それは本当なのです。このひとは気持のつめたいひとではありません。気分のわるくなったお客さんを外につれていく義務なんかないのですけれど、このとおりやっていますものね。それに、わたしたちだってみんな、心がつめたいわけではないのです。ただ裁判所の職員だということで、そう見られるだけですわ。本当に心外ですわ。」「ここにちょっと腰をおろしませんか?」案内係が声をかけた。三人はもうさっきの廊下のところに出て、例の被告人のところに来かかっていた。Kは顔から火の出るようなおもいがした。さきほどはあれほどふんぞりかえってこの男のまえに立っていたのに、いまはふたりに支えられ、帽子は案内係のひろげた手のうえにのり、髪はみだれて汗ばんだ額のうえにたれているのだ。ところで例の被告人はKの様子に気づいていないらしかった。そちらにちょっと一瞥をくれた案内係のまえにおずおずと立ち、そこにいる理由を懸命に弁明しはじめた。「も、もちろん」と男は言った、「きょうはまだ証拠物件を返していただけないことはわかっています。それでもなお、ちょっと来てみただけなんです。待っていてもよいだろうと思ったのです。きょうは日曜日ですから、ひまはあるんです。それにここで待っていても、邪魔にはなりませんから。」「そう言いわけするにはおよびません」と案内係が言った。「あなたのお気づかいは見あげたものです。用もないのにこの場所を占めておられるわけですが、自分の訴訟の逐一を見きわめようとなさるあなたのおこころがけをあえて邪魔したくはありません。命令を守らないものが多いこのごろ、あなたのような方にはなんでもしてさしあげたいと思いますね。」「このひと、お客さんにずいぶん丁寧でしょう?」と女がささやいた。Kはうなずいた。だが案内係にもう一度、「ここに腰かけませんか」と言われると、うろたえてしまった。「結構です。休みたくありません」と言いきったが、すわれるものならすわりたかった。船酔いのような気持だった。時化《しけ》にあったようだった。波が板壁にあたり、廊下の奥からどよめきが押しよせてくる。横ぶれし、両わきの客は上がったり下がったりしているようだった。それだけに、かれを支えて進んでいく男と女が落ち着きはらっているのが不思議でならなかった。Kはいまこのふたりに身をあずけっぱなしだった、ふたりが手を離せば、Kは一枚の板きれのように倒れてしまうだろう。ふたりの小さな目からは鋭い視線がそこここにくばられた。ふたりが歩調正しく歩いていくのをKははっきりと感じていた。ただし、K自身の歩調はそれに合ってない。なぜなら、Kは一歩ごとにほとんど抱きかかえられていくのだったから。ふたりが自分に話しかけようとしているらしいのに、最後に、気がついた。しかしなんであるかわからなかった。聞こえるのは耳を聾するような騒音で、それをつらぬいてただひと筋、サイレンのような高音《たかね》が鳴りひびいていた。「もっと大きな声で言ってください。」頭をたれたままKはつぶやいてみたが、ふたりは十分大きな声で話をしているのに自分だけがそれを聞きとれないのだ、と思うと恥ずかしかった。とそのとき、やっとのことで、まるで壁が打ち破られでもしたように、新鮮な風が吹きわたってきた。自分のよこで、「あれほど外に出たいと言っておきながら、出口ですと百ぺん言ったって通じないんだからな」という声が聞こえた。自分が若い女のあけた出口の手まえに立っていることに気がついた。元気が一度によみがえってくるのを感じた。外気にふれようと一歩ふみだし、階段のうえに立った。体をのりだしているふたりに別れをつげようと、「ありがとうございました」とくりかえして言って、ふたりの手をかわるがわるにぎった。にぎりながら、事務局の空気に馴れきったふたりが、階段からふきつける新鮮な空気にむしろたえがたそうにしているのを見てとって、手をはなした。ふたりは返事さえできそうにない状態だった。戸をすぐにしめたからよかったものの、さもなければ女は倒れてしまっていただろう。Kはしばらくそこに立ったままでいた。ポケットから手鏡をとりだし髪をなおし、階段の踊り場に落ちていた帽子をひろい――案内係が投げてよこしたものらしかった――それから一散に、階段を駆けおりた。ぴょんぴょんと、いく段もひとまとめにして、とんでおりた。あまりの元気に自分でもおどろいたほどだった。健康であったこれまで、一度として、これほどの突発的な気分にみまわれたことはない。もしかしてからだが変調をきたし、これまで健康であったのとひきかえに、なにか新しい状況をひきおこそうとしているのではなかろうか? 近いうちに医者にいってみよう、という決心をすてかねた。いずれにせよ――これだけは自分自身にも相談できた――今後いかなる日曜日であれ、きょうよりはもっと有益につかうことにしよう。
第四章 ビュルストナー嬢の女友だち
ここしばらくのあいだ、Kはビュルストナー嬢と口をきけないでいた。いろいろと口実をもうけて近づこうとしたが、その都度たくみにかわされてしまった。いつも銀行から早く帰り、あかりもつけないままに部屋にとじこもると、ソファーのうえに腰かけて控え室の様子をうかがった。たまたま女中が通りかかり、なかにだれもいないと思ってドアをしめていくと、Kはまた立ちあがってそれをあけにいった。朝は、出かけるまえのビュルストナー嬢にあえるのではないかと、一時間早く起きた。このようにしていろいろやってみてもだめだった。ついでKは、ビュルストナー嬢の部屋と勤め先にあてて同じ手紙を書き、そのなかで先日のふるまいの詫びを言って、このつぐないはどのようにでもしてする、あなたのさだめられる限界は決して越えないつもりだから、ぜひもう一度会ってほしい、お会いしないことにはグルーバッハ夫人に対してもどう手を打ったらよいかわからないから、などと綿々と書きつづり、最後に、今度の日曜日は一日じゅう部屋にこもってあなたのご返事を待ちます、どうかご吉報をくださるか、せめて、これほどまでにしてもお聞きとどけねがえない理由をお聞かせください、と書いた。手紙は両方とも返送されてこなかった。直接の返事もなかった。そのかわり、日曜日になって、じゅうぶん明確といえる回答があった。まだ朝はやいうちだったが控え室にただならぬ気配があり、鍵穴をとおして見たKには、それがなんであるかすぐにわかった。フランス語の女教師をしているドイツ人で、モーンタークという姓の、一見ひよわそうな、顔色のわるい、すこしびっこぎみの娘が、これまでの自分の部屋からビュルストナー嬢の部屋に移ってこようとしているのだった。なん時間ものあいだ、足をひきずりながら控え室をとおりぬけていくのが眺められた。そのたびに、忘れた洗濯物、毛布、本などがあって、それをいちいち取りにかえっては、こちらに運ぶのだった。
グルーバッハ夫人が朝食を運んできたとき――Kを怒らせてからというもの夫人はどんな些細な用事も女中まかせにしなかった――Kは五日ぶりにこう話しかけた。「きょう、控え室があんなにうるさいのはどうしたわけなのですか?」とたずねて、コーヒーを注ぎながら、「やめさせるわけにはいかないのですか。なにも日曜日にあんなにどたばた掃除をしないでもいいでしょう。」Kはうつむいたままだったが、グルーバッハ夫人がほっと息をついたのがよくわかった。Kのこのような言いかたのうちにも、夫人は宥和《ゆうわ》、あるいは和解への第一歩を読みとりたがっているのだ。「別に掃除ではありません、Kさん」と夫人は言った、「モーンターク嬢がビュルストナー嬢のところに引っ越しするのです。」夫人はそれ以上なにも言わず、自分の話をKがどう受けとめるか、その先をきく気があるかどうか、うかがっていた。Kは物思いにふけった面もちでコーヒーをかきまぜながら、グルーバッハ夫人をためしてみようと黙ったままでいた。やがて、おもむろに夫人を見あげて、「このまえのビュルストナー嬢に対するうたがいはもうお晴らしなすったのですか。」「Kさん!」とグルーバッハ夫人は叫んだ。この質問を待ちうけていたらしく、両手を組んでKのほうにさしのばし、「ほんのちょっと申しあげただけのことを、そんなに大げさにとっておいでなんですか。わたし、あなたに対してもそのほかの方に対しても傷つけようとはこれっぽっちも思いません。もう長いおつきあいなんですから、それぐらいのこと、おわかりいただいてもいいんですのに。ああ、この数日間、わたし、なんと苦しんだことでしょう。このわたしがアパートのひとの悪口を言っただなんて! しかもKさん、あなたがそうお思いになるだなんて! わたしにあなたを追いだしてしまえだなんて! 追いだせだなんて!」最後の言葉はもう涙声で聞きとれなかった。エプロンを顔におしあて、グルーバッハ夫人はさめざめと泣いた。
「泣かないでください、グルーバッハさん」とKは言ったが、目は窓のそとを見て、ビュルストナー嬢のこと、ビュルストナー嬢がほかの娘を部屋に入れたことを考えていた。「泣かないでください。」ふりむいてもまだグルーバッハ夫人が泣いていると、Kはもう一度そう言った。「わたしだって悪気があってそう言ったのではありません。おたがいに誤解だったんですよ。旧知の仲にもよくあることです。」グルーバッハ夫人はおしあてたエプロンを目のしたまでずらして、はたしてKに和解する気があるのかうかがって見た。「たいしたことではありません。」Kはそう言って、グルーバッハ夫人が大尉からはなにも聞いていないらしいので、思いきって、「あなたは本当に、わたしがあんな大して知りもしない女性のことで、あなたと喧嘩をするとでも思っていらっしゃるのですか」とつけくわえた。「そのことなんです、Kさん」とグルーバッハ夫人は答えたが、ちょっとした気のゆるみからすぐにまた、言わなければいいことをまた言ってしまった。「わたし、いつでも自分の胸にききますのよ、Kさんはビュルストナー嬢のことになると、どうしてああいつもむきになられるんだろう、どうしてあんなひとのことでわたしと喧嘩などなさるんだろう、わたしが、ほんの悪口ひとついわれても、夜も眠れなくなる女であることを、よくご存知のくせにって。わたし、ビュルストナー嬢のことについては、この目で実際見たことしかお話してませんのよ。」
Kは黙りこくったままだった。最初のひとことからして、グルーバッハ夫人を部屋から追いだしてよかったところだ。しかし、そうまではしなかった。コーヒーをすすって、夫人にここにいることの余計なことを思いしらせてやるにとどめた。そとにはモーンターク嬢が足をひきずって来る音がまた聞こえた。控え室を横切った。「ほら、聞こえますか」とKは言って、ドアのほうを指さした。「聞こえますわ」とグルーバッハ夫人は答え、ためいきをついて、「わたしや女中が手伝うと言っても聞かないんですわ。なんでも自分でやるんだと言って……勝気なひとですわ。あのモーンターク嬢にはわたしが部屋を貸しているだけでも気骨が折れるのに、引きとって一緒に住もうと言うのですから、ビュルストナー嬢にはほとほと感心しますわ。」「まあ、それほど気になさることもないでしょう」とKは言って、茶碗のなかの角砂糖の残りをスプーンでつぶした、「それとも、なにか損をなさることでもあるんですか?」「いいえ、そんなことは」とグルーバッハ夫人は言って、「むしろ得なぐらいですわ。部屋がひとつあいて、甥の大尉をそこにいれることができますもの。わたし、ここ数日、あの子をあなたのお隣に住まわせたことで、気が気ではありませんでした。あまりはたの迷惑を考えるほうではありませんから……」「なんということをおっしゃるんです!」とKは言って立ちあがった。「そんなことはまったくありません。あなたはわたしのことを神経過敏とでもお考えなんじゃありませんか? わたしがあのモーンターク嬢の行ったり来たりに――ほら、こんどは帰っていきます――いらいらしているものだから。」グルーバッハ夫人はおろおろしてしまった、「もしなんでしたら、Kさん、あの娘《こ》の引っ越しはまたこんどにするように言いましょうか。すぐにでも申しますけど。」「しかしあの娘《こ》は、ビュルストナー嬢のところに引っ越すっていうんでしょう?」とKはたずねた。「ええ」とグルーバッハ夫人は答えたが、Kがなにを言おうとしているのかわからないようだった。「それじゃあ」とKは言った、「あの娘は荷物を運ばざるをえないじゃないですか。」グルーバッハ夫人はうなずくばかりだった。黙りこまれるとなおさらそれが反抗のようにも見えてきて、Kはいらだった。窓とドアのあいだを行ったり来たりして、あたりまえなら帰れるグルーバッハ夫人を、帰りにくくした。
Kがなん度めかにドアに近づいたとき、ノックする音がした。あけると、女中で、モーンターク嬢がなにかお話しすることがあるそうです、食堂でお待ちいたすとのことです、と伝えた。Kは女中の言うことをじっと聞いていたが、女中が言いおわるとグルーバッハ夫人のほうをふりかえり、それみたことかといわんばかりに、ほとんど冷笑的にさえ、夫人の顔を見た。夫人はおどろいてしまった。Kのまなざしは、かれがこの招待を予期していたこと、このまえの日曜の朝、グルーバッハ夫人の下宿人たちからあんなひどい仕打ちを受けたからこそ、こんな呼びだしもあるのだということ、を語っていた。Kは、すぐにまいります、という返事をもたせて女中を送りかえし、服を着がえに箪笥に近づいた。グルーバッハ夫人は、なんて厄介なひとなんだろう、などとつぶやいていたが、Kは気にもとめず、ただ、もう食器をさげてください、と言った。「ほとんどなにも食べておられないじゃないですか」とグルーバッハ夫人が言った。「なんでもいいからさげてください」と大声でKは言ったが、そこらじゅうのものにモーンターク嬢の気配がまつわりついているようで、いやだった。
控え室をとおって行くときに、ビュルストナー嬢の部屋のしまったドアのほうに目をむけたが、招かれていたのはそこではなかった。Kはまっすぐ食堂に行き、ノックもしないでドアをあけた。
縦に長く、幅のせまい、窓がひとつあるきりの部屋だった。ドアよりのほうは戸棚をふたつ斜《はす》に置けるぐらいの幅しかなく、そのほかの場所は、ドアのそばから大きな窓におよぶ長い食卓でほとんど一杯に占められていた。そのため窓のところまで行くのも容易ではなかった。食卓にはすでになん人分もの食事が用意してあった。日曜日なのでほとんどの下宿人がここで昼食をとるのだ。
Kが入っていくと、窓ぎわにいたモーンターク嬢が、食卓のそばをすりぬけてこちらに近づいてきた。ふたりは黙ったまま挨拶をした。そのあとモーンターク嬢が、いつものことながら首をひどく直立させたまま、「わたしのことをご存知かどうか知りませんが」と言った。Kは目をこらした。「存じております」と言って、「このグルーバッハ夫人のアパートにはもうよほど長いことお住まいですか?」ときいた。「でも、あなたさまはこのアパートにはあまりご関心がおありにならないのでしょう?」とモーンターク嬢はたずねた。「ありません」とKは答えた。「おかけになりません?」とモーンターク嬢がすすめた。ふたりは食卓の一番はしにある椅子をひきだして、黙ったまま向きあいになってすわった。しかしモーンターク嬢はまたすぐ立ちあがった。窓しきいのうえに忘れてきたハンドバッグをとりに、部屋のはしからはしへ、足をずらせるようにして進んだ。ハンドバッグをとると、うち振りながらかえってきて、こう話をきりだした、「友人ビュルストナーの依頼で、すこしばかりお話しさせていただきたいと思います。本人がまいれば一番よかったのですが、あいにくと風邪をひき、気分もあまりすぐれませんので、どうかこのわたしでお許しください。本人がまいっていても、申しあげることはわたしとさしてちがわなかったと思います。むしろ、わたしのほうがとらわれない立場におりますから、いろいろとお話できるかもしれません。あなたさまもそうお思いになりませんこと?」
「思います。」モーンターク嬢の目がこちらの唇にじっとそそがれていることにやりきれなくなったKは、そう答えた。その目つきはこちらの言おうとすることをはじめからなめてかかっている様子なのだ。「たぶんビュルストナー嬢は、わたしがおねがいしておいた個人的な話し合いを、お受けくださらなかったのですね?」「そうとも申せますが」とモーンターク嬢は言った。「そうでないとも申せます。あなたさまはあれかこれかのはっきりしたおっしゃりようをなさいますが、話し合いというものはもともと、どちらか一方が受ける受けないではございませんでしょう? でも、ひとつの話し合いがむだということはございましょうし、いまの場合がちょうどそれにあたります。先にきりだしていただいて楽になりましたが、あなたさまはわたしの友人に、直接または書面の話し合いをお申しこみになりました。ところがわたしの友人は、このわたしにも推測されますところ、この話し合いの問題点がなんであるかを心得ておりまして、こればかりはわたしに見当のつかない理由から、この話し合いは無益なものだ、という確信に達したのでございます。ついでに申しあげますと、わたしの友人がそれをわたしに告げましたのはまだ昨日のことで、それもごく表面的に告げたにすぎません。で、そのとき申しておりましたのには、この話し合いはあなたさまとしても決して本気なものではあるまい、ただの気まぐれから思いつかれたことで、いずれは、こちらからとやかく申しあげるまでもなく、その無益なことをさとられるだろう、というのです。わたしとしても特に別の意見のあるはずはなく、ただ、ご返事だけはちゃんとさしあげなければ、とすすめました、使いの役もかってでました。友人ははじめのうちこそためらっておりましたが、やがて、それでは、ということになったのでございます。こうしたことがあなたさまのおためにもなったのだったら、と期待いたします。どんなに些細なことでも、おぼつかないということはいやでございますからね。この場合のように容易に解決のつくときは、すぐに解決しなければなりません。」「お骨折りありがとう」とKはすぐに言って、おもむろに立ちあがり、まずモーンターク嬢を、ついで机のうえを、つぎに窓のそとを――向かいの建物には日があたっていた――と、順々に眺めたあと、足をドアのほうにむけた。モーンターク嬢はKを信じきれないといった面もちで二歩三歩ついてきた。が、ドアのまえまで来ると、ふたりは後ずさりをした。ドアがあいて、大尉のランツが入ってきたのである。すぐそばで見たのはこれがはじめてだった。四十がらみの長身の男で、顔は日やけし、肉づきがよかった。Kへのつもりもこめて会釈《えしやく》をひとつすると、まっすぐモーンターク嬢のほうに歩みより、その手にうやうやしく接吻をした。その身ごなしはいかにもこなれきったものだった。Kがさきほどモーンターク嬢にとった態度にくらべると、これは雲泥の差があった。それでも別にモーンターク嬢はKをうらんではいないらしく、すすんでKを大尉に紹介しようとした。Kは紹介してもらいたくなかった。大尉やモーンターク嬢と親しくしようという気持はどうしても湧かなかった。大尉がモーンターク嬢の手に接吻するさまを見ていると、かれらが表面だけはさりげなくふるまっていても、実は結託してKをビュルストナー嬢から引きはなそうとしているのではないかと思われるふしがあった。そればかりではない、Kには、モーンターク嬢が妙な両刃の剣をあやつっているように見えたのだった。モーンターク嬢はビュルストナー嬢とKとのかかわりあい、わけてもKがたのんだ話し合いの意味を誇張し、そうすることによって同時に、すべてを誇張しているのはKだ、ということにしてしまったのだ。その手にはのらないぞ、とKは考えた。自分は誇張などしない、ビュルストナー嬢は所詮、一介の女タイピストであり、いつまでもこちらの思いどおりにならないはずがない。こう考えながらも、グルーバッハ夫人が話していたビュルストナー嬢の件についてだけは、意識的に考えをさけていた。あれやこれやで、挨拶も忘れたまま、いつのまにか部屋を出ていた。まっすぐ自分の部屋に帰るつもりでいたが、うしろの食堂からモーンターク嬢のくすくす笑いが聞こえてくると、あのふたり、モーンターク嬢と大尉を、出しぬいてやろうという気持がむくむくと湧いた。あたりを見まわし、周囲の部屋から邪魔は入らないかと、聞き耳をたててみたが、どこも静かだった。食堂からふたりの話し声が聞こえるのと、炊事場に通ずる廊下からグルーバッハ夫人の声がしているだけだった。絶好の機会だった。ビュルストナー嬢の部屋のドアのまえに行き、かるくノックした。物音ひとつしなかった。もういちどノックした。が、やはり返事はなかった。眠っているのだろうか? 本当に気分がわるいのだろうか? それともこんなにそっとノックするのはKよりほかにないと知って、居留守をつかっているのだろうか? きっとそうにちがいない。もっと強くたたいてみた。いくらたたいてもきりがないので、無意味で後ろめたいという気はあったが、ドアをそっと押しひらいた。部屋のなかはからだった。しかも、このまえ見たときとはまるで見ちがえるようだった。壁ぎわにベッドがふたつ縦にならべられ、ドアちかくにおかれた三脚の椅子には、それぞれ上着やら下着やらがつみかさねられてあった。戸棚があけっぱなしになっていた。ビュルストナー嬢は、Kが食堂でモーンターク嬢と話しこんでいるあいだに出かけてしまったものらしかった。Kはそれほど失望もしなかった。そう簡単にビュルストナー嬢に会えるものとは、はじめから期待していなかった。モーンターク嬢の鼻をあかしてやれと思ったまでのことだ。それだけに、ドアをしめながらふと見たとき、食堂のドアがひらきっぱなしになっていて、そこにモーンターク嬢と大尉とが立ち話をしていたのには、身も世もない気持だった。さっきKがここのドアをあけたときから、もうそこに立っていたらしいのだ。ふたりはひそひそ話をかわしながら、見ているそぶりこそあらわさないが、話の途中ぼんやりとよそ見をするふりをして、Kの挙動をたどっているのだ。この視線はKにとって、やはりつらいものだった。壁づたいに、急いで、部屋にかえった。
第五章 笞刑吏《ちけいり》
それからいく日かたったある夕方のこと、Kが銀行の自室から中央階段に通じている廊下をとおっていくと――そのときかれはたぶん家に帰る最後のひとりで、まだ残っているものといえば、発送課のほのぐらい電燈のもとで立ちはたらいている給仕ふたりぐらいであった――ふだんは物置きとばかり思ってまだ一度ものぞいたことのないドアのうしろから、ふっとためいきがもれるのを聞いた気がした。おどろいて立ちどまり、聞きちがいではなかったかと、もういちど耳をすませてみた――しばらくしずかだったが、また、ためいきが聞こえた。立会人をつけたほうがいいかとも思い、給仕をひとり呼んでこようとしたが、にわかな好奇心をおさえがたく、文字どおりさっと、ドアをあけはなった。そこは思っていたとおりの物置きだった。敷居のうしろには、反故《ほご》同然の書類だの、ひっくりかえったインクのあきびんだのがころがっていた。部屋自体のなかにはしかし、三人の男が、頭をひくい天井につかえそうにしながら、立っていた。蝋燭が一本、棚のうえに立てられ、三人をてらしていた。「こんなところでなにをしてるんだ?」おどろきのあまり勢いこんで、しかし落ち着いた声で、Kはたずねた。ほかのふたりを折檻《せつかん》していたらしい、えりぐりの深い、袖なしの黒い革服を着た男が、まず目にとまった。この男は返事をしなかった。そのかわり、あとのふたりが、口々に、「旦那! わしらはあんたが予審判事に言いつけなすったために、打たれようとしているんですぞ」と叫んだ。そういわれてはじめて、このふたりが監視人のフランツとヴィレムで、あとのひとりはこのふたりを打つために、笞《むち》を手にしているらしいことがわかった。「ほう?」とKは言ってふたりを見つめた、「わたしは言いつけなんかしませんよ。自分の部屋で起こったことを述べたまでです。それに、あんたがたのやったことだって、あまりほめたものじゃありませんでしたよ。」「旦那!」とヴィレムは、うしろのフランツが第三の男をさえぎっているまに言った、「もしあんたがわしらがどんなに安くやとわれているかを知ったら、もうすこし別の判断をくだしてくださいましょうよ。わしは家族を食わせていかなきゃならんし、ここにいるフランツにしたってそのうち結婚しようとしとります。ふところをこやしたいのは山々だが、あたりまえに働いていたんじゃ、らちがあかない。そこで、あんたのとびっきりの下着にもつい手が出たというわけで、そりゃあそんなことを監視人たるものがしてはならないということはわかっております。しかし、下着が監視人のものだということも昔からきまったことで、考えてもごらんなさいましよ、逮捕されるほど不幸なもので下着のことなんかにかまっておれるものがあるもんですかい。そりゃあ、口に出して言われれば、罰せられるにきまってます。」「それは初耳だし、わたしだってあんたがたを罰してもらうつもりはなかったんです。あたりまえのことをしゃべったまでなんです。」「フランツ」とヴィレムはもうひとりの監視人にむかって言った、「だから言っただろう? この旦那はわしらが罰せられることをおのぞみじゃなかったんだ。それに、罰せられることなど全然知らなかった、ともおっしゃってるじゃないか。」「そんなやつらの言うことなんか聞かないでくださいよ」と三番目の男が言った、「罰は当然だし、避けられないものでもあるんですから。」「やつの言うことなんか聞かないでください!」とヴィレムが言って、そのとたん、笞のひと打ちを手にうけた。その手をあわてて口に吸いながら、「わしらが処罰されてるのは、あんたが訴えたためなんで……。そうでもなけりゃあ、たとえわかっても、罰せられるはずがないんだ。それでもこの罰が正当だなんていえますかい? わしらふたりは、ことにこのわしは、ながいこと監視人として立派につとめあげてきたんだ――あんただって、裁判所がわの目からみれば、わしらの見張りぶりが立派だったってことを認めてくれるでしょう?――わしらはいまに出世してこの笞刑吏《ちけいり》のようにもなれたんだ。こいつは運のいい野郎で、だれからも訴えられたことなんかありゃあしない。大体がそんなこと、これまでにあったためしがないんだ。ところが旦那、わしらはこのとおり散々なめにあっております。出世もふいなら、いまに監視人などよりずっと下の仕事をやらなきゃならんでしょう。それに痛い笞もしたたか頂戴するっていうわけだ。」「本当にそんなに痛いんですかね?」とKはたずねて、笞刑吏のふりまわしていた笞をあらためてみた。「裸にならなきゃあならんのです」とヴィレムが言った。「ああ、そうか」とKは言うと笞刑吏のほうを見た。船乗りのようにまっ黒に日焼けした、荒々しい、精悍そうな男だった。「笞を免除してやることはできませんかね?」ときいてみた。「だめですな。」男はうす笑いをうかべながら首をふった。監視人たちに「服をぬげ」と命じた。Kにむかっては、「あんたはこんなやつらの言うことを信用しちゃあいけませんよ。こいつらときた日にゃあ、笞が恐ろしいばかりに、もう少々頭がおかしくなっているんですから。早い話がこの男の――と、ヴィレムを指さして――出世話など妙ちきりんなものでさあ。このふとりかたをごらんなさい――笞で打ったって、一発めは肉にのめりこんでしまいまさあ――なんだってこんなにふとったかご存知ですか? 逮捕したものの朝飯をかたっぱしから食べてしまうんです。あんたもひょっとして、そんな目にあいませんでしたか? そら、言ったとおりだ。ところで申しておきますがね、こんな太鼓腹をした男は決して笞刑吏になんかなれるもんじゃありません。とんでもないことです!」「太鼓腹もいるにはいるよ」と、ちょうどズボンのベルトをゆるめにかかっていたヴィレムが主張した。「なにを言うか、こいつ!」笞刑吏の笞がたちまちヴィレムの首すじにとんで、ヴィレムははげしく身をひきつらせた。「余計な話など聞いてないで、さっさと服をぬぐんだ!」「ふたりを放してやってくれませんか、お礼は十分しますけど……」Kはそう言って、笞刑吏の顔は見ようともしないで――こうした仕事はおたがい視線を伏せあったほうがはかどりがよい――紙入れをとりだした。「そうしておいて、こんどはわしを訴えようというんでしょう?」と笞刑吏は言って「笞の刑を受けさせようというんでしょう。だめ、だめ!」「もうすこし話がわかってくださいよ」とKは言った、「わたしが裁判のとき、本当にこのふたりを訴えたのだったら、いまこうやって、ふたりを助けてやろうとはしませんよ。ドアをしめて、さっさと出ていってしまうでしょうよ。ところがそうはしないのは、わたしが本当にこのふたりを助けてやりたいからです。ふたりが罰せられる、いや罰せられるなどということがありうると知っていたら、なにも法廷でこのふたりの名前など言いはしなかったでしょう。わるいのはこのふたりではない、それは組織です、裁判所の高級官吏たちです。」「そうだ!」監視人ふたりがそう叫んで、たちまち裸の背に笞をくらった。「もし笞を受けているのがえらい裁判官ならば」とKは言って、ふりあげられた笞をおしとどめながら、「あえてやめろとは申しませんがね。それどころか、そのような善行は大いにやれ、と言って賞金をだすでしょう。」Kの介入がよい結果をもたらすことを期待してだろうか、もうひとりの監視人フランツはこれまでひきさがったきりであったが、いまズボン一枚のままでドアのほうに進みでてくると、膝を折ってKの腕にすがりつき、こうささやいた。「もしふたりとも助けてくださるのがだめでしたら、せめてこのわしなりを助けてください。ヴィレムはわしより年よりで、ずっと鈍感ですし、なん年か前にもいちど、軽い笞の刑を受けたことがあるんです。そこへもってくるとこのわしなどは、罰を受けたこともなし、こんどのこともよきにつけあしきにつけ先輩であるヴィレムのまねをしたまでなのです。銀行の階段をおりたところではいま、わたしのあわれな許嫁《いいなずけ》が、事の次第はどうなることか、と待ちうけております。わしはまったく、恥ずかしくてなりません。」こう言いながら涙でぐっしょりになった顔をKの上着でふいた。「もう待っておれん」と笞刑吏は言うと、笞を両手でつかみ、フランツに打ってかかった。ヴィレムは部屋のかたすみに腰をおろし、みじろぎもしないで見まもっているだけだった。叫び声があがった。フランツの声だった。一筋に、切れめなく、人間が発した声とはとても思われない、機械が拷問にあったような声だった。廊下じゅうにひびきわたり、建物じゅうに聞こえたにちがいなかった。「声をたてるな!」とKが叫んだ。叫ばずにはおられなかった。給仕たちが走ってきはしまいかと緊張してそちらを見たとたん、フランツにけつまずいた。さして強くはなかったが、気が遠くなりかけていたフランツは転倒し、身をのたうちまわらせながら、手で床をまさぐった。ふりおろされる笞をさけることはできなかった。床のうえでもたたかれたのだ。笞の先が上へ下へと規則的に運動し、それにつれてフランツも身をよじった。給仕の姿がひとつ、むこうに現われた。ついで第二の給仕がその数歩あとにつづいた。Kはいそいでドアをしめ、中庭に面した窓のひとつに近づくと、それをおしあけた。叫び声はすっかり聞こえなくなっていた。給仕たちをこちらに来させまいと、「わたしだ!」と大声で呼びかけた。「ああ、業務主任さんですか」と返事がかえってきて、「どうしました?」「いや、なんでもありませんよ」とKは答えた、「中庭で犬が吠えただけです。」給仕たちが立ちどまったまま動かなくなったのを見て、「仕事をつづけていてかまいません。」もうそれ以上話すまいと、窓から体をのりだした。しばらくしてまた見ると、給仕たちの姿はもうなくなっていた。Kはしかし窓ぎわにとどまったまま、物置きへひきかえすでも、家へ帰るでもなかった。見おろしている中庭はせまい四角な形で、まわりはどこも事務室になっていた。どの窓もまっ暗で、一番上の列だけ、月に照らされていた。Kは目をこらして闇に包まれた中庭の一角を見すえた。数台のリヤカーがひとつところにかためられてあるのだった。あの笞刑をとどめられなかったことがKの心をさいなんでいた。だが、それをとどめられなかったのはかれのせいではない。フランツが叫びさえしなかったら――もちろん痛かったにはちがいない、しかしひとはここぞというとき、我慢ができなければならない――かれが叫びさえしなかったら、Kはおそらくなんとかして笞刑吏を説得できたはずだ。下級役人どもはすべてやくざなのだから、どうしてこのもっとも非人間的な職務をつかさどる笞刑吏だけが、例外なはずがあろう。札束を見たときのこの男の目がきらりと光るのを、Kはたしかに見たのだった。男がなまじい笞をふるったのは、賄賂の額をもっとつりあげようとしてのことだったかもしれない。それならそれでKは、すこしも出しおしみする気はなかったのだ。本心から監視人たちを救いたかったのだ。裁判所の腐敗に対するたたかいをいったん開始した以上、こうしたところから手をつけるのもまた一策だった。それなのに、フランツが叫び声をあげたため、すべてがだめになってしまったのだ。Kとしては、物置きの連中と話しているときに、給仕やそのほかの駆けつけてきた人間に割って入られるのは、たえがたかった。それほどまでして他人を助けてやる気はなかった。それならいっそ裸になって笞刑吏の前に身をさらし、監視人たちの身代わりになってやるほうがましだった。とはいっても、笞刑吏がそれを許すはずはなかっただろう。なんの利益にもならないし、Kに手を触れることは裁判中の身柄のものに対して手を触れることになって、裁判所の役人としては二重の違反を犯すことになっただろうから。もちろん、このような裁判所のことだから全然別の規則が通用しているかもしれない。いずれにせよ、Kにできたことといえば、まずさしあたり用心のため、ドアをしめることだった。ただ、その際フランツをつき倒してしまったことは、かえすがえすも残念だった。あわてていた、としかいいようがない。
遠くのほうにまだ給仕の足音が聞こえていた。かれらの注意をひかないように、窓をしめ、中央階段のほうに歩いていった。途中物置き部屋のまえで立ちどまり、なかをうかがった。ひっそりとして物音ひとつ聞こえなかった。監視人たちは笞刑吏にされるままになっていたから、打ち殺されてしまったのかもしれない。Kはドアの把手《とつて》に手をかけたが、またひっこめてしまった。助けたくとも助けることはできない、給仕たちがすぐ駆けつけてしまうだろう。しかしこの件は十分に糾明しなければならない。真に罪のあるのは、まだそのだれひとりとして姿をあらわさない高級官吏たちなのだが、この高級官吏たちこそを糾弾し、正当な罰を受けさせなければならない。銀行の表階段をおりながら、道路のうえの人々の顔をひとつびとつ丹念に眺め、だれか人待ち顔の若い女はいないかと探したが、そんな顔はどこにも見あたらなかった。フランツが、許嫁が待っている、と言ったのは、すこしでも同情を受けたいがための、わかってやれないこともない嘘と知れた。
あくる日になっても、Kは監視人たちのことで頭が一杯だった。仕事の最中も頭が留守になりがちで、残った仕事をかたづけるために、前日より長く銀行にとどまっていなければならなかった。帰る段になってふたたび物置き部屋のまえにさしかかり、馴れた手つきで、そのドアをひきあけた。まっ暗とばかり思っていたのが、なかの様子に茫然としてしまった。前日ドアをひきあけたときとなにひとつ変わっていなかった。敷居のむこうに書類の山とインクびんがころがり、笞をもった笞刑吏と上半身裸の監視人たちが立ち、棚のうえには蝋燭がのっていた。監視人たちはあわれっぽい声で、「おお、旦那!」と叫びはじめた。Kはあわててドアをしめて、さらによくしめようとでもいうように、うえからどんどんと拳固でたたいた。泣きたいばかりの気持で給仕たちのところに走っていき、「物置きのなかをすこしはかたづけてはもらえんかね!」とどなった。給仕たちは謄写版《とうしやばん》を刷っていたが、その手を休め、あっけにとられたようにKを眺めた。「がらくただらけになるじゃないか!」給仕たちは、明日になったらやります、と答えた。Kはうなずいた。きょうこれからというには、もう遅すぎて無理だった、本当はそれに越したことがなかったのだけれど。給仕たちをまだしばらくここにひきとめておくために、ちょっと腰をおろし、さも謄写版の刷りあがったのを調べるように、ぱらぱらとめくったりした。それから、給仕たちがもう一緒に来ないのを見すますと、疲れきった体を、ぼんやりと、家に運んだ。
第六章 叔父・レーニ
ある午後のこと――郵便の締め切りまぎわで、Kはてんてこまいをしていた――書類をはこんでいるふたりの給仕をかきわけて、田舎で小地主をしているKの叔父カールがとびこんできた。叔父の来ることはまえから聞かされていたので、Kはそれほどおどろきはしなかった。叔父が来る、ということは、もうひと月ほどもまえから、Kの脳裏にきざまれていた。そのころからすでにKには、叔父がすこし背をかがめ、くぼんだパナマ帽を左手に、右手は遠くからこちらにさしのべて、邪魔になるものはみなつきとばしながら、机ごしにがむしゃらに握手をしてくる様子が目にうかぶようだった。叔父はいつもせかせかしていた。予定してきたことは一日の上京期間中にすべてすまさなければならない、しかも、偶然にふりかかった用事、面会、娯《たの》しみごとはそのどれひとつもとり逃がしてはならない、というおそるべき観念にとりつかれていた。Kは昔、後見人としての叔父から受けた恩義もあって、そうした場合は必ずなにくれとなく面倒をみ、夜は自分のところに泊まらせもするのだった。「田舎から来るお化け」とかれは叔父のことを呼んでいた。
挨拶をすますかすまさないうちに――椅子にすわるようにすすめても、叔父は落ち着こうとしなかった――叔父はKに、ちょっとふたりだけで話したいことがあるから、と申しでた。「どうしてもそうしてもらいたいのじゃ」と叔父は唾をやっとの思いでのみこみながら言った、「そしてわしを安心させてもらいたいのじゃ。」Kは給仕にすぐに部屋を出るように言い、なかにだれも入れないように命じた。「わしがなにを聞いたと思う? ヨーゼフ。」叔父はふたりきりになると、机のうえに腰かけ、すわりごこちをよくするために、あたりの書類を勝手かまわず尻のしたにおしこんだ。Kは黙っていた。来るべきものがついに来た、と思っていた。ただし、これまでの激務から急に解放されてみると、ここちよい疲労感がおそってきて、ぼんやりと、道のむこうの、この席からは二つの陳列棚のあいだにはさまれて小さな三角形にしかくぎられて見えない空虚な、家壁の一部を眺めていた。「おもてを見たりしとって!」叔父は両腕をふりあげて叫んだ、「さあ、ヨーゼフ、しっかり答えるんだ! 一体本当なのか、そんなことってあるのか?」「叔父さん」とKは言いながら、放心状態から身をもぎはなして、「わたしにはなんのことだかわからないのですが。」「ヨーゼフ」と叔父はさとすように言って「おまえは嘘はつかない子じゃったはずだ。だが、そんなことを言うようじゃ、やはりあやしいと思っていいのか?」「大体の見当はつきます。」Kはしおらしくそう言って、「訴訟のことなんでしょう?」「そうじゃ」と叔父はゆっくりうなずきながら、「訴訟のことなんじゃ。」「一体だれからお聞きになったのです?」とKはたずねた。「エルナが書いてよこしたのじゃ」と叔父は言って、「おまえはあれとはゆききがない。あまりあれのことをかまってやってくれんようじゃが。だがあれは、それでも、聞きつけおったんじゃ。きょうわしは手紙をもらって、あわててかけつけてきたんじゃ。そのほかには別にこれといって理由はないが、それだけでも立派な理由じゃ。あれがおまえについて、書いた部分をよんでやろう。」紙入れから手紙をとりだして、「これじゃ。あれはこう書いておる、『ヨーゼフにはもうながいこと会っていません。先週いちど、銀行へ行ってみたのですけど、多忙とのことで、なかに通してもらえませんでした。一時間あまり待っていたのですけど、ちょうどピアノのレッスンがあった日なので、帰りました。あのひとと会えればよかったと思います。でもいずれまたその機会があるでしょう。あのひとは、わたしの洗礼日に、大きなチョコレートの箱を送ってくれました。なんて親切な思いやりのあるひとなんでしょう! このまえのときはそれを書くのを忘れていましたが、お父さまのお手紙ではじめて思いだしました。どうしてって、チョコレートなんて、寄宿舎ではすぐになくなってしまうんですもの。チョコレートをいただいたって思うまに、もうあとかたもなく、なくなっています。ところで、ヨーゼフのことといえば、もうひとつだけ書いておきたいことがあります。いま申したとおり、ヨーゼフに会えなかったのは、ヨーゼフがお客さまと話をかわしている最中で、なかに通してもらえなかったからです。わたしはしばらく待ってから、給仕のひとに、お話し合いはまだ長くつづくんですかってたずねました。すると給仕さんは、まだ長くつづくかもしれません、なにしろ業務主任さんのかかわりあっていらっしゃる訴訟のことが話題らしいですからね、と言うのです。わたしは、なんの訴訟です? なにかのまちがいではありませんの? とたずねました。すると給仕さんは、まちがいではありません、本当に訴訟です、それもかなり厄介な訴訟だとか聞きましたが、くわしいことは知りません。業務主任さんは心のまっすぐな、やさしいお方なので、できればお助けしたいと思っているんですが、なにしろ、どう手をつけたらよいのかわかりません。だれか力のある方が主任さんをお助けできたらと祈っています。でも、きっとうまくいくでしょう。よい結果になるにきまっています。ただ、今のところ、あまりかんばしくはないらしいです。主任さんのご様子を見るとそうらしいのがわかります、給仕さんはこのように言ったのです。わたしはそんな話はとても真にうけることができませんでしたから、お人よしでお馬鹿さんにも見えた給仕さんにむかって、そんなこときっとありませんわ、でも、ほかのひとにはあまり言わないようにしてください、と頼みました。わたし自身としては、みなただの噂話にすぎないと思っております。でも、お父さま、この次むこうに行かれたときは、このことを確かめてくださいね。お父さまなら、くわしいことはすぐにおわかりになるでしょうし、まさかのときには、いろいろ偉いひとにも頼んでおあげになれましょうから。でも、そんなことって、きっと、いらない心配ですわ。そうとわかったら、わたしうれしくってうれしくって、こんどのとき、きっとお父さまを抱きしめてしまいますわ』――なんていい娘《こ》じゃ!」叔父は手紙を読みおえるとこう言って、両のまぶたから涙をぬぐった。Kはうなずいた。ここ数週間ものあいだ、忙しすぎて、エルナのことはすっかり忘れていた、洗礼日のことも忘れていた、エルナが手紙にチョコレートのことを書いたのは、叔父叔母にKのことをよく思わせようとしたためだろう、それは胸のあつくなるほどのことだった、これから先は規則的に、きちんきちんと、芝居の切符を送ってやろう、と思ったほどだった。いや、それではまだたりない、だが、かといって、この十八歳の小娘をその寄宿舎に訪ねていって、いろいろと話をかわそう、という気にもなりかねた。「それで、おまえの言い分はどうなんだ?」と叔父はたずねたが、さきほどまでのあわてぶりや興奮は手紙を読んでいるうちに消えうせて、どうやらもういちど手紙をくりかえして読んでいるようだった。「ええ、叔父さん」とKは答えた。「それは本当です。」「本当?」と叔父は叫びかえして、「なにが本当じゃ? なんだってまたそんなことがほんとうじゃ? で、いったいなんの訴訟じゃ? まさか刑事訴訟じゃあるまいが?」「刑事訴訟です」とKは答えた。「刑事訴訟をかかえて、こんなところにのんびりしておれるのか?」叔父は次第に声高になりながらたずねた。「のんびりしていればいるほど、裁判の結果にはいいんです」とKは答えた。「そんなことではとても安心できんよ!」と叔父は叫んで、「ヨーゼフ、なあヨーゼフ、おまえや、おまえの身うちの名誉は、それでいったいどういうことになることか考えてもみい。これまではわが一族のほまれであったおまえが、家名をけがすようなことがあってはならん。だいたいがおまえの態度からして」と首をかしげながらKを見て、「わしの気にいらんのじゃ。まだ自由の身の被告が、そんなに悠長にかまえておるもんじゃない。さあ、はやく、なんの事件だかいうんじゃ。いまならまだ助けてもやれようから。もちろん銀行に関した事件じゃろうが……」「ちがいます」とKは言って立ちあがった、「叔父さん、声がすこし高すぎます。ドアのうしろで給仕にでも立ちぎきされると、おもしろくないことになります。どうです? おもてに出ませんか? おもてでなら、どんな質問にでもお答えします。わたしとしても家のみんなに弁明しなければならないぐらい、わかっています。」「そうだ!」と叔父が叫んだ、「それがいい。すぐに出よう、ヨーゼフ、いそぐんだ!」「まだちょっと、言いおきをしておかねばなりませんから」とKは言って、電話で自分の代理の男を呼んだ。男はすぐに入ってきた。叔父はせっかちにKを指さして、呼んだのはむこうだというふうな動作をしてみせたが、これはまったくあらずもがなだった。Kは机のまえに立ち、この冷ややかにはみえても、細心にKの話に耳をかたむけている青年にむかって、自分の留守中にかたづけておくべきことを、いろいろ書類などを取りだしながら、小声で説明した。叔父は聞いているわけでもないのに、はじめのうち、目玉だけをぎょろつかせたり、口をもぐもぐさせたりして、大いに会話のさまたげになったが、やがて部屋のなかをあちこちとうろつきはじめ、窓ぎわや額縁のまえにとまっては、「まったくもってなんのことだかわからん!」とか、「さあ、さっさと言ってくれ!」とかわめきちらした。青年はまったく知らないふりで、Kの話を最後まで聞いていた。メモをとったりもしていたが、やがてKと叔父に一礼すると部屋を出ていった。叔父は青年にお辞儀をされたとき、ちょうどむこうを向いていて、両手でカーテンをもみくしゃににぎりしめながら、窓のそとを見ていた。ドアがまだしまりきらないうちに、大声で、「やっとこさで出ていきおったぞ、あのしゃっちょこばりめ! さあ、これでわしらもやっとそとに出られる、やっとな!」とどなった。
ロビーには行員や給仕たちがたむろしていた。また、そこをちょうど支店長代理がよこぎりもしたのに、Kは、しつこく訴訟のことをきいてくる叔父をとめだてできなかった。「さあ、ヨーゼフ」と叔父は周囲からの挨拶にかるい会釈でこたえながら、切りだした、「つつみかくさず言っとくれ、なんの訴訟なんだ?」Kはわけのわからないことをつぶやいたり、しいて笑顔をつくったりしながら、やっと階段のところまで来て、叔父に、あんな人間たちのいるところではなにもしゃべりたくなかったのです、と説明した。「なるほど」と叔父は言って、「じゃが、ここではもうよかろう、さあ話してくれ。」首をたれ、葉巻きをふかしながら、いかにも聞かんかなの態勢だった。「叔父さん、まずお断わりしておきますが」とKは言った、「これは普通の裁判所の訴訟じゃないのです。」「それはいかん」と叔父が言った。「なんですって?」とKは叔父の顔をのぞきこんだ。「それはいかん、と言っとるのじゃ」と叔父はくりかえして言った。ふたりは通りにおりる表階段に立っていた。守衛が聞いていそうな気がしたので、Kは叔父をひっぱった。通りの雑踏がふたりをのみこんだ。Kの腕をつかんだ叔父はあまり執拗にきこうとしなくなった。しばらくのあいだ物も言わずに歩きつづけた。
と、突然、「またなんだってこんなことになったのじゃ」と叔父は言って立ちどまったので、あとから来たものがとびのいたほどだった。「こんな事はけっして急に起こるもんじゃない。順序があってだんだんに起こるものじゃ。なにか前触れがあったじゃろうに、どうしてそれをわしに知らせなかったのじゃ? おまえのためにならわしがなんでもするぐらい、わかっとるじゃろうに。わしはいまでもおまえの後見人のつもりでおるし、おまえを自慢にも思っとるのじゃ。もちろん、今となっても、助けはする。じゃが、訴訟がもうはじまったとなっては、少々遅すぎやせんかとも心配なんじゃ。いずれにせよ、しばらくの期間、休暇をとって、わしらの住む田舎に来たらどうじゃ? 見たところかなりやつれてもおるし、田舎へ来て元気がつけば、これからまだまだ体をつかわなきゃならんおまえとしては、結構なことじゃないか。それに、田舎でなら、裁判所の追及もいくらか逃れられようというものじゃ。ここにおっては、裁判所の思うままになってしまう。ところが、田舎に行けば裁判所は係官を派遣するか、手紙、電報、電話などで連絡をとってくるよりない。そうすれば、むろん効果はよわまって、おまえは自由の身とはならんまでも、ゆっくりと一息つけるじゃろう。」「でも相手はわたしがここを離れることを妨害するかもしれませんよ。」叔父の話につりこまれて、Kはこう言った。「妨害はせんじゃろう」と叔父は仔細ありげに言って「おまえが旅にでたところで、相手の面子《メンツ》がつぶれるというほどのことはないはずじゃ。」「叔父さんは」とKは、立ちどまった叔父の腕をとってうながすようにして、「こんな事件にはわたし以上に関心がおありにならないかと思っていましたが、ずいぶん深刻にとっていらっしゃるんですねえ。」「ヨーゼフ!」と叔父は叫んで、その場から動きだすためKの腕をふりほどこうとしたが、Kははなさなかった。「ヨーゼフ、おまえはひとが変わったようだぞ。以前はちゃんとした分別のある子じゃったが、今このような大切なときになって、だめになってしまったのか? 訴訟にやぶれてもよいというのか? どういうことになるのかわかっておるのか? おまえはあっさりと抹殺されてしまうのだぞ。そればかりか一族郎党ことごとく、巻きぞえをくうか、どんなによくしても汚辱にまみれるのじゃ。ヨーゼフ、しっかりせい。おまえのなげやりな態度を見ておると、わしは気ちがいになりそうだぞ。それではまるで『はじめから、負けがきまった訴訟沙汰』の言葉そのままじゃ。」
「叔父さん」とKは言った、「あせることはお互いに禁物です。あせったってなんにもなりません。わたしはこれまで叔父さんの実際上の経験を、たとえそれが不可解に思われるときでも、尊重してきました、今でも尊重しています。ですから、わたしの経験もすこしは尊重してください。あなたは今、訴訟があると身うちのものすべてが迷惑する、とおっしゃいました――わたしとしてはまったく理解に苦しむことなのですが、それは別として――それじゃあわたしは叔父さんのおっしゃることならなんにでも従いましょう。ただ、田舎にひきこもることだけは得策とはわたしには思われないのです。なるほど、この地にいれば、裁判所がつけまわす事はあります、しかし、それだけに事を処理していくこともできるのです。」「そのとおりじゃ。」叔父はやっと話が通じたというように言った、「田舎に行けと言ったのは、おまえがそんななげやりなふうでは、たとえここにおっても、事態をわるくするばかりだ、それならば、わしが代わって事をすすめてやろう、と思ったからだ。だが、おまえが自分でやるというのなら、それに越したことはないわけだ。」「では、その点では意見が一致したわけですね」とKは言った、「なにをやったらいいか、よいお考えはありませんか?」「それはわしも考えてみにゃあわからん」と叔父は答えて、「なにしろこの二十年というもの、田舎ぐらしばかりでな、その方面の勘もにぶってしまった。その方面にくわしい、いろいろな人間たちとのつながりも、もう昔のものになってしまった。おまえはわかってくれるじゃろうが、田舎におってはどうしてもひとりぽっちになるからのう。その不自由を、こういうときになって思いしるわけじゃ。それに、おまえの事件はまったく突拍子もないものじゃった。エルナの手紙でいくらか虫がしらせたが、おまえの顔を見てやっとはっきりしたわけじゃ。だが、もうそんなことはどうでもよい。即刻とりかからにゃならん。」叔父はこう言っているうちにも背のびをして、タクシーを呼びとめた。運転手に行き先を言うと、Kをなかにひきこんだ。「これからフルト弁護士のところに行こう」と叔父は言った、「学校時代、一緒だった男だ。名前は知っとるだろう? なに、知らん? おかしな話だ。弁護士としては聞こえた男だ。貧民擁護の弁護士としてな。わしはやつの人物にとりわけ信用しておる。」「おじさんのなさることならなんでもかまいません」とKは言ったが、叔父のせっかちで強引なやりかたにはいく分嫌気がさしていた。しかも、貧民擁護の弁護人のところに行くなど、被告人としてはあまりうれしいことではなかった。「思いもよりませんでした」とKは言った、「こんな場合にも弁護人を頼めるなんて……」「あたりまえじゃないか」と叔父は言って、「頼めなければ不思議なぐらいだ。さあ、これまでにあったことを全部、わしに話してくれ。事件の内容をよく知っておかねばならんからのう。」Kはすぐさま、なにひとつ隠すことなく、話しはじめた。あけひろげに話すことだけが、訴訟は一門の恥だという叔父の考えに対抗できる手段であった。ただし、ビュルストナー嬢の名前だけは軽くいちどふれるにとどめた。別段、話全体のさしさわりにならないばかりか、だいたいがビュルストナー嬢は、訴訟そのものとはなんの関係もなかったからである。話をしながら窓のそとを見ると、ちょうどあの裁判所事務局のほうに車が走っているのがわかった。叔父にそれを言っても、さほど気にとめている様子はなかった。車は、夕闇につつまれた建物のまえにとまった。叔父は一階のすぐとっつきのドアのまえに立つと、ベルをおした。待つあいだ、歯をむきだしてにんまり笑いながら、「八時か。弁護人をたずねる時間としてはふさわしくないが、わしならフルトはわるくとるまい。」ドアの覗き窓から、大きなふたつの黒目がのぞいた。しばらくふたりを見ていたが、やがて消えた。だがドアはあこうとしない。叔父とKとはたがいに、ふたつの目を見たことを確かめあった。「新しい女中で、見たことのない人間をこわがっておるのじゃろう」と叔父は言って、もういちどドアをノックした。また同じ目があらわれた。どこか物憂そうな表情をたたえていたが、それはふたりの頭のすぐ上で音をたててもえているガス燈のにじんだ光のせいだったかもしれない。「あけるんじゃ」と叔父はどなって、拳でドアをたたいた、「弁護士の友人じゃ。」「弁護士は病気ですよ」と、うしろのほうから小声がした。せまい廊下のいちばんはしのドアのところに、寝巻き姿の男がひとり立っていた。この男が声をひくめてそう教えたのだった。待つ間いらいらしていた叔父は、くるりとふりかえると、「なんだ? 病気だと? あの男がか?」と叫びながら、まるで男が病気そのものでもあるかのように、にじりよっていった。「もうあきましたよ。」男は弁護士の部屋のドアをさしてそう言うと、寝巻きをからげて姿を消した。ドアはほんとうにあいていた。ひとりの若い女が――さっき見た黒い、すこしとびだした目だった――ながい白エプロン姿で、片手に蝋燭をもって、玄関口に立っていた。「こんど来たときはもっとはやくあけてくれたまえ。」片膝をついて一礼する女に、叔父は挨拶ぬきでそう言った。「ヨーゼフ、さあ、来るんだ」と女のよこでもじもじしているKにむかって言った。「弁護士さまはお病気です。」叔父が勝手かまわず奥に入っていこうとするのを見て、女は言った。Kは感にたえぬようにこの女の顔を見まもっていた。が、女はむこうを向き、玄関のドアをしめにいった。それは人形のようにふっくらした顔で、血の気のない頬や顎ばかりでなく、こめかみや額の生えぎわまで、まるみをもっていた。「ヨーゼフ!」と叔父はまた叫んで、女にむかっては、「弁護士は心臓がわるいのか?」とたずねた。「そうだと思います」と女は答えたが、そのすきに蝋燭をもったまま先にたち、部屋のドアをあけていた。蝋燭の光がまだとどかない部屋のむこうで、長いひげの顔がむっくりとベッドのうえに起きた。弁護士だった。「レーニ、お客さまはどなただい?」と、蝋燭の光がまぶしくて客が見わけられないらしく、たずねた。「ほら、アルベルトだよ、昔の友達の」と叔父が言った。「ああ、アルベルトか。」この友人には気がねすることがないといったふうに、弁護士は枕のうえにまた身をたおした。「そんなにわるいのか?」と叔父は言って、ベッドのはしに腰をおろしながら、「それほどにも見えんが……また例の心臓の発作で、そのうちにおさまるんじゃないか?」「そうかもしれん」と弁護士はひくい声で言って「だが、これまでになくわるいんだ。息が苦しいうえに夜も眠れず、毎日弱っていくような気がする。」「ふむ」叔父は大きな手でパナマ帽を膝におしつけながら言って、「それはおもしろくないな。看護はちゃんとできておるのか? この部屋はどうも暗くてうっとうしいな。このまえ来たのはもうだいぶまえじゃが、あのときのほうがずっと感じがよかったぞ。ここにおられるお嬢さんもあまり明朗ではないようだ。それともお体裁ぶっておられるのかの?」女は蝋燭をもったまま、ずっとドアのそばに立っていた。あちこちとぼんやり視線をさまよわせながら、自分のことを言った叔父よりも、Kのほうを見ているらしい。Kは女のそばに椅子をずらせて、そこにもたれかかりになった。「これほど病気がおもいと」と弁護士は言った、「絶対に安静にしておらなきゃならんのだ。部屋がうっとうしいわけじゃない。」すこし間をおいてから、「それにレーニの看護もなかなかゆきとどいておる、やさしい娘《こ》じゃ。」叔父はなにも答えはしなかったが、この付添婦に対してはなにかふくむところがあるらしく、女がベッドのところへ行き、蝋燭をナイトテーブルのうえに立て、病人のうえに身をかがみこませ、蒲団をなおしながら病人と小声で話しているあいだじゅう、けわしい目つきでその動きを追っていた。病人に対する気がねなど忘れてしまったらしく、立ちあがると付添婦のうしろをうろつきまわって、いまにもそのスカートをつかんでベッドからひきはなしそうにした。Kとしてはこうした一切を静かに見まもっているほかなかった。弁護士の病気はかれにとって、かえって都合がよくなかったこともない。叔父がこれまでかれの事件のために尽くしてくれる熱中ぶりには手のつけられないものがあったが、それがいま、K自身はなにも手をくだすことなしに、はぐらかされていくとなれば、むしろありがたいことだった。と、叔父が、たぶん付添婦へのいやがらせのためだろう、「お嬢さん、ちょっとの間でよいから、わしらだけにしてくださらんか? 立ちいった用件で話し合いたいことがあるから」と言った。付添婦は、まだ病人のほうに身をかがめたまま、壁がわのシーツをなおしたりしていたが、ちょっとこちらに顔を向けると、叔父の激しい口調や口ごもりとは打ってかわった平静な調子で、「ごらんのとおりの病人ですから、立ちいった用件でのお話し合いはご遠慮ねがいます」と言った。同じ言葉をくりかえして言ったのはただなんの気なしであっただろうが、はたで聞いていても胸にこたえるほどで、叔父はもちろん烈火のごとく怒った。「このあまっこめ!」はじめはなにを言っているのか、興奮してうわずった声のためにわからなかったが、Kは気がつくとおどろいて、その口をおさえにかかろうと叔父にとびついた。ちょうどよい具合に病人が付添婦のむこうで起きあがった。叔父はいくらかは平静をとりもどし、にがりきった顔をして、「これでもわきまえはあるつもりじゃ。無理なことなら、はじめから頼みはせん。さあ、部屋を出ていってくれ!」付添婦は叔父のほうに正面からむいたまま、胸を張って立っていた。片方の手は、どうやら、病人の手をなでているらしい。「レーニのまえでは、なにを言ってもらってもかまわんのだ。」弁護士はあきらかに哀願するように言った。叔父は「わしの用件じゃないんだ」と言ってさらに、「わしのための秘密じゃないんだ」とつけくわえた。もうこれ以上話しあうつもりはないが、しばらくのあいだ猶予時間だけはあたえようといった調子で、うしろを向いてしまった。「ではだれの用件なんだ?」と弁護士は絶えいらんばかりの声でたずねて、身をベッドにかえした。「甥の用件なんだ」と叔父は答えて、「ここに連れてきておる。」それから紹介した、「業務主任のヨーゼフ・Kだ。」「これは、これは。」病人は俄然活気づいて、手をさしだしながら、「失礼しました。そこにおられるとは気がつきませんものでしたから。レーニ、しばらくむこうに行っておりなさい。」そう言いながら、まるで長の別れでもするように付添婦に一方の手をさしのべた。付添婦はそれ以上さからわなかった。「そうすると、あんたは」機嫌をなおしてそばによってきた叔父にむかって、弁護士は言った、「わしの見舞いに来たのではなくて、なにか用件があって来たのだね。」これまでは見舞いだとばかり思ってめいっていたのが、急に活気がでたというふうだった。無理な姿勢であるにちがいないのに片肘をついたまま、顎のひげをひねりなどしていた。「あの魔女が出ていったら」と叔父は言った、「きみは見ちがえるほど元気そうになったぞ」急に言葉をとめて、「立ちぎきしてるにちがいない!」ドアのところにすっとんでいったが、だれもいなかった。すごすご引きかえしてくるでもなく、顔だけはしかめっつらで、ドアの背後にだれもいなかったのはなお一層の侮辱だ、とでも言いたげだった。「きみはあの女をとりちがえてるよ」と弁護士は言ったが、それ以上女のかばいだてをする必要はないと思ったのだろう、黙っていた。むしろずっと身の入った調子で、「甥ごさんの件は、そうした大問題にぶつかれるだけの体力がわしにあれば、と思う。一抹の不安がないでもないが、ともかくやれるところまでやってみよう。わしでだめとわかれば、そのときはだれかほかの人間を頼んでもよいわけだ。正直なところ、この事件は非常に面白い事件だから、手ばなすにはちょっと惜しい気がする。わしの心臓がもたないというのであれば、そのときはそれでやめればいいのだ。」弁護士がなにを言っているのだか、Kにはさっぱりわからなかった。怪訝《けげん》そうな顔つきで叔父の顔を見たが、叔父は蝋燭をとってナイトテーブルに腰をおろし、その上にのっていた薬びんが床にころげ落ちてしまったのにも知らん顔で、弁護士の言うことにいちいち相づちを打っては、Kにもそうだろうというふうに目くばせしてみせるのだった。叔父は弁護士に訴訟の件を話してあるのだろうか? だが、それは、ありそうにもないことだった。いままでのいきさつから考えても、ありうるはずがなかった。それでKは、「なんのことかわかりかねますが……」と言った。「思いちがいでしたかな?」と弁護士はあっけにとられたようにたずねた。「早合点でしたかな? ご用件というのはいったいなんだったのです? わたしは訴訟のことだとばかり思っておりましたが。」「むろん、そうじゃよ」と叔父は言葉をさしはさんで、Kのほうにむきなおり、「なんだというんじゃ?」「ええ、それはそうですけど。でも、どこからいったい、訴訟のことをお聞きになったんです?」「ああ、そのことですか。」弁護士は笑顔になりながら、「わたしは弁護士ですからね。裁判所の人間との交際はありますよ。いろいろな事件について話を聞きますが、とりわけ友人の甥の事件となれば記憶にとどまりますよ。不思議はないでしょう。」「おまえはいったいどうしたというんじゃ?」叔父はまたKのほうをむいて、たずねた、「なにをそんなにそわそわしておるんじゃ?」「あなたは裁判所の人間と交際しておいでになるんですか?」とKは思いきってたずねた。「ええ、交際していますよ」と弁護士が答えた。「なにを子どもみたいなことをきくんじゃ」と叔父はKに言った。弁護士は「専門の人間とつきあうんじゃなかったら、だれとつきあうんです?」とつけくわえた。あまりに当然で、Kにも答えようがなかった。できれば、「でも、働いておられるのは立派な裁判所のなかで、まさか屋根裏部屋の裁判所なんかではないのでしょう?」とたずねたかったのだが、そうもできかねた。弁護士は、こんなことは言うまでもないことだが、といった口調で、「念のため申しそえておきますが、こういった交際から得られる利益は、弁護依頼人にとっても、なかなか馬鹿にならないものです。どういう面にわたってかはなかなか一口には言えませんが……。もちろん、今のわたしのように寝ておっては思うにまかせない点もありますが、裁判所のいい友達はしょっちゅう訪ねてくれて、いろいろと話を聞かせてくれるのです。ひょっとすると、一日じゅう裁判所につめかけている健康な連中より、わたしのほうがずっといろいろなことを知っているかもしれません。そういうわけで、きょうもひとり、仲のよい知り合いがここにみえているんです。」弁護士はうす暗い部屋の一角を指さした。「えっ、どこに?」とっさのことにおどろいて乱暴な口調になりながら、Kはたずねた。あたりを見まわした。小さな蝋燭のあかりはとうていそこまで達していなかったが、壁ぎわにむくむくと動く影があった。叔父が蝋燭をかざすと、小さな机をまえにして、かなりな年輩の男がすわっていた。やむをえず立ちあがろうとしていたが、自分のほうに注意をむけられたのが不満らしく、両手を小鳥の羽根のようにうちふって、どんな挨拶も紹介もごめんだ、というふうをしてみせた。あなたがたの邪魔は絶対にしたくない、だから自分ももとの暗闇にかえしてくれ、といっているふうに見えた。しかし、いまとなっては、もうひっこみがつかなかった。「あなたがおられてみんなびっくりしています。」弁護士はとりなし顔で言って、男を招きよせようとした。男はおずおずあたりを見まわしながら、ゆっくりと、しかも威厳だけはたもって、歩みよってきた。「こちらの事務局長は――ああ、これは失礼、紹介するのを忘れておりました。こちらが友人のアルベルト・K、こちらがその甥の業務主任ヨーゼフ・K、そしてこちらは事務局長――事務局長はわざわざ拙宅まで足をお運びくだされたのです。これがどんなにありがたいことかは、事務局長の仕事がどれほど山積しているかを知っている当事者だけにしかわからんでしょう。ともかく事務局長は足をお運びくだされたのです。わしらは、病人であるわたしのからだにさわらん程度に、歓談をしておりました。客の来る予定もなかったので、レーニには別になんとも言っておきませんでしたが、本当のところ、そのままずっと話をしていたかったのです。そこへ、アルベルト、あんたの戸をたたく音だ。事務局長さんは椅子と机をもって部屋のすみに退避なされた。でも、いまいったんこうなってしまった以上は、お望み次第では席を同じくして、共通の問題を論じあうことも、わるくないでしょう。――事務局長、どうぞこちらへ。」弁護士はいかにも卑屈な笑いをうかべながら頭をさげ、ベッドのそばの肘かけ椅子にさしまねいた。事務局長は、「もうほんの数分しかおれませんが」と物柔らかな口調で言いながら、ゆっくりと肘かけ椅子に腰をおろし、時計をとりだして見た。「仕事が待っているものですから。でも親友のお知り合いとあれば、お近づきになれる機会をとり逃がしたくなく思います。」そう言いながら叔父のほうに対して軽く頭をさげた。叔父はこのような思いがけない知己を得られてひどく喜んでいる様子だったが、なにしろ生まれつきの性分から感情を素直にあらわすことができず、ただ相手の言うことにおべっか笑いをしているだけだった。なんという醜態だろう! Kはだれの注視も受けていないので、ゆっくりとこうした光景を眺めていられた。事務局長はいつもの癖らしく、いったん話の仲間入りをしたとなると、どんどん自分で話を進めていった。弁護士が病気と称していたのは客をよせつけたくないためだったらしく、かれはいま、耳に手をあてて、熱心に聞きいっていた。叔父は蝋燭の管理役をつとめ、蝋燭は叔父の膝の上であやうく均衡をたもっているのだった。弁護士はときどき心配そうにそのほうを眺めやった。叔父は先刻来の緊張もとけて、事務局長の話しぶりや波形をつくる手のしなやかな動きに、心を奪われていた。Kはベッドのはしにもたれていたが、事務局長からはどうやら故意に無視されているらしく、老人連中の聞き役にすぎなかった。しかもかれは上の空でしか聞いていなかった。頭のなかは、あの付添婦のこと、叔父があの付添婦にひどくあたったこと、それに、ひょっとしてこの事務局長はどこかで見かけたのではないか、あの最初の審理の会場にでも居あわせたのではないか、などと考えていた。たとえそうでなかったにしても、この事務局長があの最前列のまばらなひげをはやした老人たちのなかにまざっていても、すこしも不思議はなかった。
そのとき、物のぱりんとわれるような音が控え室で聞こえた。みんなは聞き耳をたてた。「わたしがみてきましょう。」なんなら引きとめてもらってもいいという恰好で、Kはゆっくりと部屋を出ていった。控え室に足を踏みこみ、暗がりに目をならすため立ちどまっていると、まだドアからはなれていないKの手にそれよりずっと小さい手がのせられて、そのままそっとドアをしめた。付添婦だった。「なんでもありませんわ」と彼女はささやいた、「あなたを呼びだそうと思って、お皿を一枚、壁にぶつけたんですわ。」Kはこわばった調子で、「わたしもあなたのことを考えていたのです」と言った。「それならなおさらよかったわ」と付添婦は言って、「さあ、いらっしゃい」とさそった。数歩あるくと曇りガラスのドアに行きあたり、付添婦はそれをあけた。Kにむかって、「さあ、お入りなさい」とすすめた。弁護士の書斎らしかった。月あかりが三つの大きな窓のそれぞれを通して、小さな四辺形を床のうえにおとしていたが、そのあかりにすかしてみると、この部屋の家具はどれもいかめしく、古色蒼然たるものであるらしかった。「こちらにおかけなさい。」付添婦はそう言って、木彫りの肘かけのついた黒い長櫃《ながびつ》を指さした。Kは腰かけながら、部屋のなかを見まわした。天井の高い大きな部屋で、貧民弁護士の客たちならひどく心細い思いがするにちがいない。かれらがおずおずと、でんと据えられた弁護士の机に一歩一歩進みでる様子が、目に見えるようだった。しかし、次の瞬間、Kはもうそのようなことを考えていなかった。自分の隣に腰かけた付添婦をじっと見つめていた。付添婦はKを長櫃の肘かけに押しつけんばかりにぴたりと身をよせてきた。「わたしは」と彼女は言った、「あなたが、こちらから呼ばないでも来てくださるとばかり思っておりましたのよ。おかしなかた! 入ってくるなりあんなにわたしを見つめておいて、あとはほったらかしにしておくなんて! わたしのこと、レーニと呼んでください。」一瞬の間でもむだにすまいというように、彼女は一足とびにこうつけくわえた。「わかりました」とKは答えて、「でも、おかしいといったって、それにはそれなりの理由があるのです。まず、わたしは老人たちの話を聞いていたのですから、そうおいそれと出てこれようはずがないじゃないですか。それにわたしはあつかましやというよりは、むしろ臆病者なんですよ。大体が、レーニ、あなただって、そうとっつきやすい様子ではなかったじゃありませんか。」「そんなことより」とレーニは片方の腕を肘かけにもたせかけてKを見つめながら、「わたしがお気に召さなかったのにちがいありませんわ。いまだってお気に召してないんでしょう?」「気に召すなんていうものじゃありません。」Kはレーニに気おされた感じでそう言った。「まあ!」とレーニは言ってほほえんだが、Kがそう言い、またレーニ自身そう小さく叫んだことで、レーニはにわかに優位に立ってしまった。Kは不興げにしばらく黙ったままでいた。部屋の暗さに目が馴れたためか、なにがどこにあるのかはっきりと見わけがついた。ドアの右手にかけられた大きな絵が特に目をひいた。もっとよく見ようと、Kはからだを前にのりだした。裁判長服を着た男の絵だった。玉座まがいの高い椅子に腰をかけている。その椅子の金色がひときわ派手に塗りたくられていた。奇妙なのはこの裁判官に落ち着きと威厳がそなわっていない点で、かれは左腕を椅子の背と肘かけに押しつけ、右腕は手が肘かけをにぎっているだけで宙にういたまま、あたかも次の瞬間には激怒して立ちあがり、なにか決定的な宣告、ことによると判決でも下しかねない様子だった。被告席はおそらく階段の下にでもなっているのだろう、画面には階段の上のほうの、黄色い絨毯をしきつめた数段だけがあらわれていた。「もしかすると、これはわたしの裁判官かもしれない。」Kは絵を指さしながらそう言った。「わたし、このひとを知っていますわ」とレーニは言って、彼女も絵を見あげた。「よくここにやって来ます。これはあのひとが若いときの肖像ですわ。でも、あのひとがこの絵のとおりだったとはとても信じられません。あのひと、実際はとてもおちびさんなんですもの。この絵ではうんと丈をのばして描かせたんですわ。裁判官ってみんなとても見栄坊なのね。でもそんなこといえば、わたしだって見栄坊なのよ。お気に召さないだなんて心外ですわ。」おわりの言葉に対してKは黙ってレーニをひきよせた。レーニはKの肩に顔を伏せたままじっとしていた。前半の言葉に対しては、「この裁判官はどれぐらい偉いんです?」ときいてみた。「予審判事ですわ」と彼女は答えた。肩にまわされたKの手をとり、指の一本一本とあそんでいた。「また予審判事か。」Kはがっかりしたように言って、「もっと偉い役人たちは、かくれていていっこうに出てこないんだな。でも、この男が身分の高いもののすわる椅子に腰かけているのはどうしたわけなんです?」「なにからなにまで嘘っぱちですわ」とレーニはKの手のひらに顔を近づけながら言った、「ほんとうは、台所の椅子のうえに古くなった鞍かけをたたんで、すわっているのですわ。でも、あなたって、どうしてそういつも裁判のことばかり考えていなければなりませんの?」あとの言葉はゆっくりとつけたすように言った。「いや、それほどでもありません。考えすぎないぐらいです」とKは答えた。「でも、まだまだいけないところがあるんだって聞きましたよ」とレーニは言って、「あなたってとても強情なんですって?」「だれがそんなことを言いました?」Kはレーニのからだが自分の胸もとにあるのを感じながら、そのかたく巻かれたゆたかな黒髪を見おろして、たずねた。「それは言えませんわ。口をすべらせることになりますもの」とレーニは答えて「名前はどうかきかないでちょうだい。それよりか、もうどうかあまり強情になさらないで。あの裁判所に対しては、さからうだけむだなんですよ。白状してしまうのが一番ですわ。ですから、この次は、白状しておしまいなさい。そうしないととても逃れることはできませんわ。白状したあとでも人の助けはいりますが、それならわたしがしてさしあげます、心配はいりません。」「あなたはここの裁判所の事情やかけひきにとても通じているんですね。」Kはそう言って、彼女があまりしつこく身をよせてくるので、膝のうえに抱きあげてしまった。「さあ、これでいいわ」とレーニは言って、スカートのしわをのばし、ブラウスのずれをなおした。それから両手でKの首にぶらさがりながら、身をのけぞらせ、Kの顔をじっとみつめた。「で、もし白状をしなければ、助けてはもらえないわけですか?」とKはたずねてみた。自分は女の協力者ばかり募っているようだ、まず第一にビュルストナー嬢、ついでグルーバッハ夫人、そして最後にこの付添婦だ、とKはほとんど奇異の感にうたれて考えていた。この女は自分に対して見さかいのない情熱をよせているらしい、こうやって自分の膝のうえに抱かれている様子を見ると、まるでそこが唯一の、一番安心できる場所だといわんばかりではないか! 「助けてあげられませんわ」とレーニはゆっくり首をふりながら答えた、「白状しないことにはだめですわ。でも、あなたって、わたしの助けなんかいらないって思ってらっしゃるんでしょう? 強情で、ひとのいうことなんか聞こうとなさらないお方だから。」しばらくしてから「恋人はおありになるの?」とたずねた。「いや」とKは答えた。「いえ、きっとおありになるにちがいないわ」と彼女は言った。「うん、あるにはあるが」とKは言って、「でも、もういやになってしまって、ただ写真だけはこうやって持ってあるいてるんです。」取りだすと、レーニはかれの膝のうえで身をまるくしてエルザの写真に見いっていた。スナップ写真で、エルザがワルツを一曲踊りおえたところを撮ったものだった。場所は行きつけの酒場で、スカートが旋回中の襞形《ひだがた》のままひるがえり、両手を締まった腰につけ、首はまっすぐに立てたまま横を見て笑っていた。だれがその横にいるのか、写真からだけではわからなかった。「ずいぶんコルセットをきつくしめているのね。」レーニはそう言って、ここがそうだといわんばかりにさししめしてみせた。「この女《ひと》、わたしはあまり気にいらないわ。いかにもぎごちなさそうで、やぼなんですもの。でも、あなたにはきっと親切にしてくれるんでしょう? 写真を見ただけでもわかるわ。こんなに大柄で無骨な女は、やさしくて親切にするより能がありませんものね。でも、この女、あなたのために身をなげだしてくれるかしら?」「身なんかなげだしてくれるもんですか」とKは言った、「親切でもなし、やさしくもなし、わたしのために身をなげだしてくれるなんて思いもよりません。わたしだってそんな要求はしたこともありません。その写真にしたって、わたしはあなたがいま見ているほどによく見たことはないんですよ。」「じゃあ、こんな女のことどうでもいいのね?」とレーニは言って、「恋人なんかじゃあないのね?」「いや、一応は恋人なんです」とKは言って、「さっき言ったことを取り消しはしませんよ。」「じゃあ、恋人でもいいとして」とレーニは言った。「いまこの女を失うとか、だれかほかの女、たとえばこのわたしにとりかえたって、あまり惜しいとは思わないわけね?」「それはそうです」Kは顔をほころばせながら言った、「そういうことはあり得ます。でも、この女にはあなたとくらべてひとつだけ取柄があるんですよ。わたしの訴訟についてなにも知らない点です。たとえ知ったとしても、気にやむことなどあまりないでしょう。わたしに、強情を張らないで、などとは言わないでしょうよ。」「そんなことは取柄でもなんでもないわ」とレーニは言った、「それぐらいの取柄しかないんだったら、わたし勇気百倍よ。その女、どこかに、片輪なところ、ありまして?」「片輪なところ?」とKはききかえした。「ええ、そうよ」とレーニは言って「わたしはちょっと片輪なところがあるの。ほら。」彼女は右手の、中指と薬指とのあいだをひらいてみせた。短い二本の指のほとんど第一関節のあたりまで小さな水かきがついていた。Kははじめそれがなんであるのか、部屋が暗いためにわからなかったが、レーニがKの手をそこへもっていってさわらせると、「これは不思議だ!」と叫び声をたてて、レーニの手全体を見ながら、「すばらしい鳥の足だ!」Kは賛嘆しながら二本の指をひろげたり、とじたりし、最後には軽い接吻までしてようやくはなしたが、レーニはそのあいだじゅう、ほこらしげに見まもっているだけだった。しかし、接吻をされるとすぐ、「まあ、接吻をなさったのね」というなり、口をあけたまま、Kの膝のうえをよじのぼりはじめた。Kはあっけにとられてレーニを見あげた。まぢかから胡椒のような刺激的な香りがただよってきた。レーニはKのうえにかがみこむと、その首筋を噛み、接吻した。髪の毛までを噛んだ。「わたしにとりかえたんだわ!」と、とぎれとぎれに叫んだ。「ねえ、わたしにとりかえたのね。」そのとたん、小さな叫び声とともに膝がすべって床におちそうになった。Kがとめようとすると、その手はかえって下方に引かれた。「もうわたしのものね!」とレーニが言った。
「これがこの家の鍵ですわ。いつでもいらしてね」といったのがレーニの最後の言葉だった。投げキスが立ちさってゆくKの背中になげられた。玄関を出ると、こまかな雨が降っていた。窓ぎわにレーニの姿が見えはすまいかと、道路のまんなかに出ようとしたとき、これまでは気がつかなかった、家のまえにとまっていた自動車から叔父がとびだしてきた。Kの腕をつかみ、まるではりつけにでもするかのように、玄関の壁にぎゅうぎゅうおしつけた。「たわけものめ!」と叔父はどなった、「なんということをやらかしたんだ! せっかくうまく進んでおった話を台なしにしてしまった。あのけがらわしい小娘と部屋をぬけだしおって、いつまでも帰って来ん。あれはあきらかに弁護士のいろじゃないか。口実をもうけるでもなし、こっそり出ていくでもなし、大っぴらにあれのところに駆けだしていって、いく時間もとどまっておる始末だ。わしらはそのあいだじゅうすわったきりじゃった。おまえのために身を粉にしておるこのわしと、協力してもらわねばならぬ弁護士と、それに事件の今の段階ではもっとも重要な人物である事務局長とじゃ。どうやったらおまえを助けることができるかについて、わしらは協議をしておった。わしは弁護士のご機嫌をとらねばならんし、弁護士は事務局長のご機嫌をとらねばならんし、おまえはすくなくともこのわしの後おしをせねばならんかったとこじゃ。それをなんじゃ、ぬけだしたりしおって。いつまでたっても帰ってこんもんじゃから、みんなはとうとうさとってしもうた。それでもあのご両人は世間なれのしたわかった方々じゃから、黙ってわしをかばってくれた。それでもじゃ、とうとう話すことがなくなって、しかもみんな、そのことにはふれまいと思うものだから、口をつぐむより仕方がなくなった。時間がどんどんたつあいだ、黙りこくって、いまにもおまえが帰ってきはすまいかと、聞き耳をたてておったんじゃぞ。ついにだめじゃ。事務局長が立ちあがって、わしには気の毒そうな顔つきで、ではこれで、と言いおった。もともと予定より長くおったんじゃからむりもない。ところで、どうしてそうまで親切にしてくれるのか合点がいかないのじゃが、事務局長はドアのところまで来て、なおしばらく待ってくれてたりもしたんじゃ。それからやっと帰っていった。帰ってもらってわしもほっとした。まったく息がつまるかと思ったぞ。病気の弁護士にはもっとひどくこたえたようじゃった。あのかわいそうな男は、わしが家を出ようとするとき、もう口もきけんほどじゃった。おまえはあの男の破滅に手をかし、一番頼りにせにゃならぬ人間であるのに、その死期をはやめてしもうたのだぞ。それに、この叔父を見ろ! 雨のなかにいつまでも待たせておいて――このとおり、びしょぬれじゃ――わしは心配で、どうなることかと思うたぞ。」
第七章 弁護士・工場主・画家
ある冬の日の朝――外はにぶい日ざしのなかを雪が降っていた――Kはまだそんな時間でもないのに、疲れきって、オフィスの椅子に腰かけていた。せめて下役のものたちとは顔を合わせないですむように、ボーイには、忙しいため面会謝絶と言いつけておいた。だが、仕事をするでもなく、椅子ごとくるくるまわったり、机のうえの道具をゆっくりと整頓したりしていたが、いつのまにか片腕を机にのばし、首を下にうつむけたままの姿勢になっていた。
訴訟のことばかり気になっているのだった。これまでにもういく度となく、弁護書類を作成して裁判所に提出するほうがいいのではないか、と考えてきた。この弁護書類には自分のこれまでの略歴を書き、その都度の出来事に対して、なぜ自分がそれをしたか、それはいまから考えてまちがっていたかどうか、そう考える理由はなにか、などを書きそえるつもりでいた。それほど信用のできない弁護士のなんの変哲もない弁護文より、このような書類のほうがすぐれていることはまちがいなかった。実際の話、Kには、あの弁護士がなにをやっているのか見当がつかなかった。いずれたいしたことはないだろう。もうこのひと月というもの、一度も連絡してこないし、それより前、弁護士と会って話しているときでも、この男が自分のためになんかの役にたってくれようとはどうしても思われなかった。なによりも物をたずねようとしないのだ。たずねることは山ほどあり、そうしなければ事ははじまらないのに、たずねようとしないのだ。
こういうときのたずねかたぐらい、Kには自分でもできそうな気がした。それを弁護士は、全然たずねようとせず、自分の話にばかり夢中になっていた。かとおもうと、むっつりと向かいあったまま、耳が遠いせいもあろうが、机のほうにすこし前かがみになって、ひげをしごきながら、目は絨毯の、ちょうどKがレーニと横になっていたあたりをぼんやりと見つめたりしていた。ときおり、子どもにするようなつまらないお説教がくりかえされた。長々しい、なんの役にも立たない無駄話で、Kはこんな話には、あとで謝礼のとき、びた一文も支払うものかと思うのだった。Kがぐったりしてくると、弁護士はすこし励ましにかかるのがつねだった。これまでにもう――とかれは切りだすのだった――おなじような訴訟にいく度となく勝ったり、すくなくとも部分的には勝ったりしている。そのどれもが、実際はこんどほどむずかしい訴訟ではなかったにせよ、はるかに望みうすにみえたものだ。その訴訟の一覧表はこの引き出しのなかにはいっているが――こう言いながら、かれは、机の引き出しのひとつをたたいた――職務上の機密にふれるため、残念ながら、見せてはさしあげられない。しかし、わたしがこういった訴訟で積みあげてきた経験は、かならずやあなたのお役にたつだろう。必要なことには、もちろんもう取りかかってある。最初に提出する訴願はあともうじきでできあがる。審理の雲行きは弁護人がわが与える第一印象で決まってしまうことが多いだけに、この訴願は実に大切だ。しかも、これは知っておいてもらいたいが、せっかく裁判所に訴願を提出しても、まるで読まれないことがよくある。ほかの書類と一緒くたに放置されて、裁判所としては、さしあたり、被告の訊問や保護観察のほうが重要だというのだ。訴願者が執拗に追及すると、あの訴願は最終判決より前に全部の資料の出そろいしだい、ほかの書類ともども検討されるはずだとの返事を受けるが、それが事実であったためしは残念ながらまずない。だいたいは移管されるか散佚《さんいつ》してしまうかで、最後まで保存されたとしても――これはあくまで聞いた話であるが――読まれることはまずないということだ。全く情ない話ではあるが、かといって、相手に全然言い分がないわけでもない。なにより、この裁判所の審理が公開のものでないことを忘れないでいただきたい。もちろん裁判所がその必要をみとめさえすれば、公開にすることもできるのだが、ひとまず法律では非公開とされているのだ。そのため、裁判所がわが作成する文書、特に起訴状は被告および弁護人にとって皆目《かいもく》見当のつかないものだ。したがってかれらが書く訴願にしても、そもそもの当初からあてずっぽうに書かれたものが多いため、それが事件の核心にふれる内容をふくんでいるということは、まず皆無にちかいのだ。真に有効で核心をついている訴願を書こうと思ったら、起訴事実の細目や理由が被告人に対する訊問がすすむにつれて明確になるか、すくなくとも察知できるようになるまで待たなければならない。こうしたわけで、弁護人がわの立場もなかなか厄介で不利なものだ。しかし、これもしかたがないといえばしかたのないことで、それというのももともとは、弁護人という職業が法律の上では確認されておらず、かろうじて黙認されている程度であることに起因しているのだ。しかも、その黙認ということさえ、法律の該当箇所からはたしてそのような解釈がくだせるものか、いろいろな論議があるのだ。といったわけで、厳密にいえば、裁判所公認の弁護士なるものはひとりも存在しない。この裁判所に弁護士と称して登場するものはみな、結局のところ、もぐり弁護士にすぎない。このようなことでは、そもそも弁護士たる権威すらないわけで、なんならあなたはこんど、裁判所事務局に行かれたときにでも、弁護士控え室をのぞいてみられるがよい。そこにとぐろをまいている連中の品のわるさにおどろかれるだろうが、そればかりでなく、狭い、天井の低い控え室そのものが、かれらに対する裁判所の蔑視をあらわしていることに気がつかれるだろう。そとの光がはいるところといったら、小さな明り取りの窓しかない。しかも、この窓は非常に高いところについているため、もしそとを眺めようと思えば、そのすぐまえにつきでている煙だしの煙で鼻や顔を煤だらけにすることは覚悟の上で、なにより背中をかしてくれる同僚をさがさなければならない。それからこの部屋の床には――こういった実情を説明するためもうひとつ例をあげると ――もうこの一年あまりまえから、穴がひとつあいたきりになっている。人ひとりが落ちこむほどではないにしても、片足を一本つっこんでしまうぐらいの大きさは十分にある。さて、弁護士控え室は屋上二階にあるため、いまだれかが足をつっこむとすると、その足は屋上一階につきぬけて、しかもそこは、ちょうど訴訟関係者たちの待ちあわせる廊下にあたっているというわけだ。弁護士の仲間うちでは、こうしたすべてを屈辱的な取り扱いだとしているが、それも決して言いすぎではない。当局に苦情を申しこんでもききめはいっこうになく、かといって自費でこの部屋を改良することはかたく禁じられているのだ。しかし、弁護士に対するこんな仕打ちにもわけはあるので、裁判所としては、できれば弁護士をしめ出してしまいたいとのぞんでいて、あとは被告ひとりがやればよいと考えているのだ。それもまた一理ある考えかただ。しかし、だからといってこの裁判には被告の弁護人はいらないと考えるのはあやまりで、むしろどこの裁判所をみても、ここの裁判所ほど弁護士が必要なところはない。ここの裁判内容は、原則として一般に公開されないばかりか、被告人に対してすら公開されない。もちろんそれにも限度はあるが、その限度というのがなかなかこちらの具合のいいようにはいかないのだ。それというのも、被告は裁判記録をのぞきこむことまではできないため、たとえ訊問を受けても、それから裁判記録の中身を類推することなどは、被告人が緊張したり落ち着けなかったりしたらなおさらのこと、できようはずがない。ところで、まさしくこのようなときにこそ、弁護人の買って出る余地がある。かれは訊問に立ち会えないのが通則だから、訊問の終わり次第、それも被告人がまだ部屋を出るか出ないかのうちに、被告人をつかまえて訊問の内容をきき、とかくうろ覚えの相手から、弁護に必要な資料を聞き出す必要がある。そのほかにもまだもっと大切なことがある。というのは、有能な弁護人なら以上のようなことにかけても人後に落ちないだろうが、しかもこんなやりかただけでは、たいした情報入手は期待できないからだ。では、一番大切なものはなにかといえば、それはやはり弁護士が持つ個人的なつながりで、その点にこそ弁護士の真の価値はあるのだ。ところで、K自身もこれまでいろいろ見聞してご存知のことと思うが、あの裁判所は下層部に欠陥が多く、賄賂を受け取る不正役人どもがいるために、さしもの水ももらさぬ組織にも穴があいている。幾多の弁護士どもがここぞとばかりつけこんで、やれ収賄だの、やれ情報提供だのと頻繁に不正がおこなわれるもとになるのだ。ひと昔まえは、裁判記録の盗み出しまであったという話だ。このやりかたが、さしあたってめざましい結果を被告人にもたらしていることは、否定できない。だからこそあのもぐり弁護士どもが跳梁をつづけ、つぎつぎと新手の客を獲得もするのだ。しかし、このようなやりかたも、訴訟がある程度以上さきへ進むと、なんの役にも立たないか、思わしくない結果さえ生むようになる。そうした場合、ではなにが本当にまちがいないかといえば、それはやはり堅実な個人的なつながりで、それも身分がいく分高い役人とのつながりが――といっても、もちろん、下のほうの身分の高い役人でいいのだが――必要なのだ。こうしたつながりだけが裁判の進行を、最初はめだたないにしても次第にはっきりと、変えてゆくことができる。このようなつながりを持つ弁護士といっては実に微々たるもので、その点Kは本当に運がいい。この種の弁護士は、このドクター・フルトを除いて、あと一人か二人しかいないだろう。これほどの弁護士になると、例の弁護士部屋の連中とのつきあいはまっぴらで、それだけに役人たちとの結びつきも緊密なわけだ。もぐり弁護士どものように裁判所に出かけて行き、予審判事控え室で判事が現われるのを待って、そのときの判事の気分次第で色よい返事をきいたり、きかなかったりということはまるで必要がない。それどころか、K自身も目のあたりに見たことだが、役人が、それも身分の高い役人が、むこうから、出むいて来たりさえするのだ。実に気やすくおおっぴらに、あるいはすぐに推測がつくように情報を伝えてくれる。次回の数件の訴訟について論じあい、場合によっては、こちらの意見に賛成したり、それを採りいれようとまで言ってくれたりする。とはいっても、このあとの場合はあまり当てにはならないので、役人は口さきでは、弁護士のために便宜をはかるようなことを言っておきながら、そのあとまっすぐ事務局に帰り、次の日の裁判のため、さっき言ったのとはまるで反対の最終判決を、場合によっては意見を変えたなどといっていたときよりもさらに苛酷な判決を書くかもしれないのだ。こればかりはどうにもならない。ふたりのあいだの話はあくまでふたりのあいだの話で、弁護人がわとしてはそれが裁判所がわにうったえる最後の手段であったにせよ、そのまま公《おおやけ》の場にもたらすことは所詮できないのだ。ところで、裁判官たちにしても、なにも親愛や友愛の情からばかり弁護士と――といっても、権威ある弁護士にかぎるが――つきあっているわけではない。むしろ、かれらのほうから弁護士を頼りにしている点があるのだ。こうした点にこそ、はしなくも、開設の当初から秘密裁判制をとってきたこの裁判所の組織的欠陥があらわれている。役人たちと大衆とのあいだにつながりがないのだ。普通の中程度の訴訟ならほうっておいてもひとりでに進捗《しんちよく》し、ところどころほんのはずみを与えてやりさえすれば解決がつくのだから問題はない。問題は、あまりに単純すぎるか、ことのほか複雑な訴訟の場合で、役人たちは日ごろ、昼夜をわかたず法律の世界にひたりっぱなしで、人と人との関係などにはまるで正常な感覚を欠いているため、こんな場合そのむくいを受けてすっかり立往生してしまう。そこで弁護士の助言が必要となるわけで、かれらは弁護士のところに、ふだんは門外不出の機密書類をかかえた廷吏を後ろにしたがえてやって来る。ここの窓ぎわにも、これまでもうなん人という思いがけない人物たちが、弁護士がなにか名案はないかと机にむかって書類を調べなどしているあいだ、途方にくれて窓外をぼんやりと眺めなどしていたものだろう。そのようなときその場にいあわせば、裁判官たちがどんなに自己の職務を真剣に考えているか、それが、持って生まれた性分の悲しさ、どうしても対処できない問題に突きあたったとき、どれほど深い絶望につきおとされるか、まざまざと見ることができるだろう。裁判官のそうした立場だって決して楽なものではない、楽と思ったら大まちがいだ。裁判所の等級、段階といったものは複雑きわまりない、専門家にさえ判別のつきがたいものだ。しかも裁判所の各段階における審理は下級の役人にも秘密にされており、役人たちは自分が取り扱っている事件についてすらその経過がどうなるかわからないありさまだ。事件は、どこからともなく立ち現われどこへともなく消えさる。役人たちが審理の各段階、結論、論証などを知って、そこから教訓を得ようとしても無理である。かれらは法律のさだめた一部分を審理するだけであり、それ以上のこと、つまり自分のやった仕事の結末については、裁判のおわるときまで被告にかかりきりになっている弁護士たちほどにも知らないのがほとんどである。したがって、そうした点でも弁護士からまなぶことが多いのだ。このような事情を考慮するならば、よく役人たちが訴訟当事者たちに対してする腹立ちまぎれの非礼な仕打ちも――だれしもがその被害をこうむっている――まんざらわからないわけでもない。役人は、どの役人もが、冷静にみえる時でさえ、いらいらしているのだ。その被害を一番受けているのはいわずとしれたもぐり弁護士たちだ。たとえば次のようないかにもありえただろう話がある。ひとりの年とった役人で、性質は善良かつ穏和な男がいたが、あるときむずかしい、それもとりわけ弁護人がわの提出した訴願のために紛糾してしまった事件と取り組んで、一昼夜寝もやらず調べものをしていた――役人たちは実際、他ではちょっとまねのできないくらい勤勉なのだ――さて朝になって、二十四時間働きづめに働いてしかもあまり成果のあがらなかった仕事のあとで、玄関先に行った。そこに身をひそめ、やって来る弁護士たちを来るものごとに片はしから階段の下にうっちゃり投げた。弁護士たちは階段口に集まって、ひそひそと相談をした。かれらには裁判所のなかに入れてもらう権利は全然なく、したがって、この役人に対してなんらかの法的処置を講ずる可能性は全くないのだ。それに役人を敵にまわすなどという不手際は、前に言ったこともあって、厳に慎まなければならない。ところで一方、もしこの一日を裁判所で送れないとなると、かれらはまる一日をみすみすむだにすることになるのだ。どうしてもなかに入らねばならない。こうしてついに、あの老人を疲れさせてしまえ、ということに衆議が一決した。弁護士が次から次へとくり出され、階段をのぼって行ってはできるかぎりの消極的抵抗を試みて、投げ出された。下では待ちかまえた同僚たちが受けとめるという案配だった。これが、ものの一時間も続いてから、だいたいが夜なべ仕事に疲れているところにもってきてこんなひどい目に遭った役人は、すっかり疲労困憊《こんぱい》し、自分の部屋に引きこもってしまった。下のものたちはまだ半信半疑で、最初にひとりを送って、はたしてドアのうしろにひとがいないか、うかがったりしていたが、やがて安心してなかに入っていった。役人に対して憎まれ口のひとつもたたくでなかった。弁護士たちは――どんなにおろかなもぐり弁護士たちでも、その点の分別はあって――裁判所を改善したり改革したりしようとは金輪際《こんりんざい》思わぬものだ。これにひきかえ被告たちは――どんなに単純な被告たちでもきまってそうなのだが――訴訟にかかわりあったその第一日目のうちにも、裁判所に建白書を提出しようとし、むだな時間や金銭を費やしてしまう。裁判所にはあまりさからわないのがなによりなのだ。個々の点で改革が達成できたとしても――そう信じること自体、迷信であるが――それはあくまで将来のための捨石になったというだけで、当の本人は執念ぶかい役人たちに一斉に目をつけられることになり、はかりしれない損害をこうむるのだ。役人などに絶対に目をつけられないこと! どれほど気にさわることがあっても、黙っていること! この大きな裁判機関はいわば永遠にたゆたいつづけるものであり、ひとがみずからの立っている箇所を勝手に改善しようとでもするならば、それはつまり自身の足場を引きはらうことであって、真っ逆さまに転落してしまう。しかも当の裁判機関はすぐに代わりを持ってきて、少しも変わりはしない。いや、ことによるとますます結束を固めて、警戒の目をつよく光らせ、苛酷に、悪質にならないものでもない。わたしがいまさらとやかく言ったところで仕方がないのだが、あなたはあの事務局長に突拍子もないことをしでかして大変な損をしているのだ。Kのために尽力してくれそうなひとのリストにあの有力な人物の名前を加えることは、もうほとんどできない。事務局長はあれ以来、なにかちょっと訴訟に関したことを言っても、そっぽを向いてしまうのだ。役人というものはまったく子どものようなもので、実にたあいのない出来事にも――Kの無礼は残念ながらこのうちには入らない――腹をたて、たとえ親友の間柄でも言葉をかわさなくなり、会えば顔をそらし、ことあるごとに邪魔をいれるといった具合である。かと思うと、なにかちょっとしたはずみに言ったことが、それが苦しまぎれの冗談であっても、相手を笑わせ、思いがけなく仲直りできるということもあって、役人との付き合いというものはまったくむずかしくもありやさしくもありだ。一貫した原則などありはしない。ただ平凡な、生活の知恵で結構やってゆけると知って、おどろくこともある。しかももちろんだめな時はだめなので、そういうときはだれしもが、成果はなにひとつなかったような気がし、成果が期待できるのははじめからよいときまった訴訟だけだ、そのような訴訟はもともと援助など必要としなかったのであり、そのほかは、どんなに奔走してみたところで、せいぜいぬかよろこびにおわるのだ、という気になるのである。そうなるとなにもかもがおぼつかなくなる。たずねられかたいかんでは、この訴訟はもともと順調にはこんでいたのだが、自分が嘴《くちばし》をさしはさんだばかりにかえってわるくなってしまった、と答えたくもなる。ある種の自負からこう答えてしまうのだが、こんな自負など自負のうちに入らない。この種の発作には――たしかにそれは発作であって、発作以外のなにものでもない――実は弁護士が一番とらえられやすいのである。はじめのうちは順調に進んできた訴訟が、突然弁護士の手から奪い去られたような時がそれである。これほど弁護士にとっていやなことはない。被告人が奪い去ってしまうというのではない。そんな例は絶対に起こりっこないことだ。いったん弁護士を定めた以上、被告人はなにが起ころうが弁護士を離れることはできない。いったん他人《ひと》に依頼しようという気をおこしたものが、その先どうしてひとりでやってゆけよう。そんなことは絶対に起こりえないことだ。むしろ起こりうるのは、訴訟が突然方向転換をして、それに弁護士がついていけなくなったときだ。訴訟も被告人もなにもかもがあっさり弁護士から奪い去られてしまう。役人たちとの密接なつながりも、なんにもならない。なぜなら、役人たちさえそれを知らないからだ。このようなとき訴訟は、はたからとやかくしてもなんにもならず、ただ法廷だけが遠くでとりはこんでいる、被告は弁護士にさえ手がとどかない、といった状態に進入することになる。こういったある日、家に帰ってみると、机のうえにはあれほど念入りに期待をこめて作成した関係書類が載せられてある。返却されてきたのだ。訴訟の新しい段階に持ちこむことはもうできないから、紙くず同然だというのだ。だが、そうした場合、だからこの訴訟が負けてしまったということには断じてならない。すくなくともそう結論する理由はない。ただ単に、訴訟がわからなくなった、これからもわからないだろうということなのだ。しかも都合のよいことには、そのような場合はまずまれであって、Kの訴訟にその心配があるとしても、さしあたっては、そんな段階までには進んでいないのだ。弁護士が活動する余地は十分残っている。自分としてもそれを活用しつくすつもりでいるから、どうかご安心ねがいたい。訴願のほうは、まえにも言ったが、まだ提出していない。そういそぐことはない。むしろいそがなければならないのは重要な地位にある役人たちとの話し合いだろう。しかし、そちらのほうはちゃんとやってある。実をいうと、すでにいろいろな成果が得られてある。いちいち話すのもいいが、それだとKが影響されすぎて、必要以上に喜んだり不安がったりしてはいけないから、やめておこう。それでもすこしほのめかすとすれば、ある役人たちは非常に好意的に協力を約束してくれ、ある役人たちはそれほど好意的ではなかった。が、さりとて、協力を拒否したのでもないということだ。まあ一応よかったと思っていいだろう。ただし前交渉はどれも似たりよったりで、その真価は裁判が進行してみなければわからないのだから、あまり早合点な結論は下さないでほしい。ともかく、まだ負けたわけでもなんでもなく、それでもあの事務局長の歓心を買うことだけは早くやらなければならないが――そのための手はもう打ってある――それさえうまくいけば万事、外科医がいうところの「きれいな傷口」で、手をこまねいて見ていても大丈夫なのだ。
弁護士のこういった話にはとめどがなかった。Kは行くたびに同じ話を聞かされ、事は進展しているというのだが、どのように進展しているのかいっこうに聞かせてもらえなかった。訴願はいつも、もう手がつけてあるというくせに、できていたためしがなく、その次のとき行くと、この前のときは思いもかけなかったが、いまは提出の時期として一番不適当とわかったので、訴願はできていなくてちょうどよかった、などと言われた。話にうんざりしたKが、たまに、いくら困難な訴訟にしても事態のはかどりかたがおそすぎますね、と水をむけると、おそすぎやしない、だがKがもっと早く自分に頼んでくれていさえすれば、訴訟はもっと早くはかどっていただろうし、なにしろそれをあやまったばかりに、いろいろな困難なことが起こっている、これからもきっと起こるだろう、と返事されるのだった。
このような訪問でただひとり、ちょうどうまいころに話のあいだに入ってくれるのはレーニであった。頃合いをみはからって、茶を持って、部屋のなかに入ってくる。茶を置きおわるとKのうしろに立ち、弁護士がかがみこんで茶を注ぎ飲む様子を見ているふりをしながら、自分の手をそっと、Kに握らせているのだった。みんな沈黙していた。弁護士は茶を飲んでいる。Kはレーニの手を握っている。そしてレーニはときおり、大胆にも、Kの髪の毛を撫でつけたりするのだった。「おまえ、まだそこにおったのか?」茶を飲みおわった弁護士がこうたずねる。「あとをお下げしようと思いまして」とレーニは答えて、もう一度Kの手を握りしめる。弁護士は口を拭いおえ、ふたたび勢いこんでKを説得にかかる、といった具合だった。
慰めようとしているのか絶望させようとしているのか、Kには弁護士の気持がわからなかった。が、いずれにしても、あまり優秀とはいえぬ弁護士の手にかかっていることだけは確かだった。弁護士の話したことはどれも本当だろう。ただし、話の途中、弁護士は自分を押しだそう押しだそうとし、しかも一方では、自分はこれまでKの事件ほど大きな訴訟を手がけたことはない、などと告白しているのであるが。役人たちとの個人的なつながりを言いたてるのもあやしかった。はたして役人が、ひたすらKのためだけを思って尽力してくれるものかどうか。弁護士は、身分のひくい役人たちのことだ、とつけくわえるのを忘れなかったが、ということはまた、身分の非常に不安定な役人たち、ということでもあって、そういう役人にとっては、訴訟のちょっとした局面打開が出世のもとにもなるかもしれないのである。とすると、役人たちは、このような被告にとってはまちがいなく不利な局面打開を獲得するのが目的で、弁護士を利用しているのではなかろうか。といっても、あらゆる訴訟をそのような目的に悪利用しているわけではあるまい。むしろ、弁護士に対するお礼として便宜をはかってやっている訴訟もあるはずだ。そうでなければ、その弁護士の評判が落ち、役人たち自身にとっても面白くないことになるだろうから。さてそこでKについての訴訟の場合は、役人たちはどちらの手に出るだろう? 弁護士の話では、Kの事件はきわめてむずかしい、したがって重要な事件で、裁判の始まったすぐそのときからきびしい警戒の目が向けられたということだ。とすると、役人たちの出かたに疑いようはない。そのなによりの証拠に、訴訟はもう何か月もまえからはじまっているというのに、最初の訴願ひとつまだ受けとられていないではないか。弁護士の話でも、なにもかもまだもとのまま、というのだから、これは被告人を眠りこませ無抵抗にし、時機をねらって突然判決を言いわたすとか、被告にとって不利な結果におわった予審を上級の裁判所にひきつがせるむね言いわたすとかに、ぴったりのわけだ。
K自身が乗りだしていくことが絶対に必要だった。疲れきった冬の日の午前中、すべてが無気力に頭をかすめさってゆくなかにあって、このような確信は次第にぬぐいがたいものとなった。以前訴訟に対して抱いていた軽蔑も、もう通用しなくなった。自分だけがこの世に生きているのだったら――もっともそれだと訴訟などあろうはずがないのだが――訴訟を軽蔑するのもよいだろう。だが、いまではもう、叔父がかれを弁護士のところまで引っぱっていっているのだ。親戚への気がねもある。こうなった以上、自分の存在は訴訟の成り行きいかんともう切り離しがたい。訴訟のことを自分にも不可解な衝動に駆られて、いく人かのまえですでにしゃべってしまった。どこからか聞きつけてきた人間もいる。ビュルストナー嬢とのこれからの関係にしても訴訟の成り行き次第だ。こうしたわけでもはや訴訟をしりぞけることはできない。すでにその渦中に立っているわけで、防ぐよりしかたない。精根尽きればそれまでである。
といって、さしあたり、あまり心配しすぎることもないだろう。かれはこれまで銀行で、比較的短い期間に現在の地位までのぼりつめた。周囲のものに認められ、この地位をたもちつづけている。いまはこれと同じ能力を、訴訟のほうにすこしばかりふりむければよいのだ。成功まちがいなしだ。ただ自分のほうに罪があるのではないかという考えだけは、すこしでも成功しようという気があるなら、断然はらいのけなければいけない。こちらに罪などありはしない。訴訟とはいっても、自分がこれまで銀行のためにやってきた大取り引きと変わるところはないはずで、そのなかにはいろいろの危険性もかくれていようし、それをとりはらうことこそ肝要なのだ。このためにもあまり罪などという考えにわずらわされてはならない。ひたすら自分の利益のみを念じていればよいのだ。こうしたことからあの弁護士も、できることなら今晩早速にも、断わってしまったほうがいい。弁護士自身の話によれば、それはとんでもないはなはだ失礼なことであるらしいが、自分が訴訟でこれほど苦しんでいるときに、それを邪魔しているのがどうやら当の弁護士であるらしいのなら、どうして我慢ができようか。だが、いったん弁護士を断わってしまうとなると、訴願は自分で、すぐにでも提出して、それを見てくれるよう役所に毎日、かけあわなければならなくなるだろう。そのためには、あたりまえに廊下に待ちあわせて帽子をベンチの下に突っこんだりしていたのではだめで、KかKの使いのものかが毎日役人のところに出かけていって、役人に、ぼんやり格子からのぞいていたりせずに、落ち着いて腰をおろしKの訴願を読んでくれるよう頼まなければならないだろう。これをたゆまずくりかえさなければならない。しかも秩序だてて、組織だててやることだ。あの裁判所も一度は自分のような、自己の権利を守ることを使命とこころえる被告に出くわすべきだ。
さてこういったすべてに手をつけるとして、訴願を作成するむずかしさはまた格別だった。訴願を書くなど恥以外のなにものでもない、と一週間ほどまえまでは思っていたのが、それがおまけにこれほど苦渋をきわめようとは、思いもよらなかった。いつであったか、仕事に追われていた午前中、目のまえにあるすべてを突然おしのけて用箋綴りを取りあげ、これにあののろまな弁護士にしめすための訴願を下書きしてやろうか、と思ったことがある。ちょうどそのとき支店長室の戸があいて、支店長代理が大声で笑いながら入ってきた。知りもしない訴願のことを笑ったはずはないので、支店長代理はただ、たったいま聞いてきたばかりの株についての洒落を笑っていたのだが、Kにはそれがたまらなく癇にさわった。その洒落を説明するには紙に書かねばならないらしく、支店長代理はKから鉛筆をもらいうけ、机のうえにかがみこむと、Kが訴願を書こうと思っていたその用紙のうえになにか絵を描きはじめた。
きょうはもう恥のことなどかまっていられなかった。訴願はどうしても書かなければならない。もし銀行では書けないのだったら、帰宅後、夜になってでも書かなければならない。それでもまだなお足りないとなれば、休暇をとるまでだ。中途半端なところで足ぶみをしてしまわないこと、それは商売の上ばかりでなく、いつどんなところでも、一番おろかしいことだった。といっても、いざ訴願を書きはじめてみると、これはほとんど無限に近い仕事ではないか、と思われてきた。それほど心配性でない人間でも、これはとても不可能なことだ、と思いこんでしまうだろう。あの弁護士の場合は怠慢か邪悪な下心から訴願の作成をおくらせていたにちがいないのだが、こちらが書く段になると、裁判所がわの起訴状の内容やこれからまだふえることも考えられるその分量のこともわかっていないままに、自分のこれまでの生涯のこまごまとした出来事をすべて思いだし、書きつらね、あらゆる方面から検討を加えなければならない。これはまた、なんというやりきれない仕事だろう。退職し子どものような心境になった老人が長の一日の暇つぶしをするにはむいていたかもしれない。それをいまKのような仕事に忙しい人間、あたかも上昇期にあって支店長や支店長代理を脅《おびや》かすほどの存在になっているおりから、一刻一刻が矢のように過ぎてゆき、しかも若い身空を夜な夜なわずかばかりの享楽のうちにも過ごしたいとねがっている人間が、どうしてこんな訴願の作成なんかにかまけておれよう? Kの思いはまたしても嘆息に変わっているのだった。それをふりきるように、控え室に通じる呼び鈴を指で押した。押しながら、時計を見た。十一時だった。二時間という貴重な時間を夢想に費やしてしまったのだった。しかも体は、まえよりずっと疲れている。時間は無駄でなかったかもしれない――大切な決心がついたのだから。給仕たちがいろいろの郵便物と一緒に、さきほどから待っているという客の名刺を二枚持って入って来た。銀行にとってはきわめて大切な客で、本来なら待たせるなどという筋合のものではないのだ。だがそれにしても、ずいぶん迷惑なときに来たものだ。――するとドアの背後で、あの几帳面なKとしたことがどうしてこの一番大切な執務時間を私用なんかに使っているのだろう、と客たちが言っているような気がした。Kはもうすでにぐったりとし、これからさきのことにもうんざりしていたが、椅子から立ちあがり、まず最初の客を迎えいれた。
それは小柄でぴちぴちした、Kもよく知っている工場主だった。お忙しいなかをお邪魔しまして、と工場主は断わった。Kも、お待たせしまして、と詫びを言った。ところでKの言ったこの詫びからして、ただ機械的な、あやうく抑揚をとりちがえそうな調子のものであったので、工場主が商売のことで頭が一杯になっていなかったら、きっと不審の念をおこしたことだろう。工場主はそれには気がつかないで、そこここのポケットから計算書やら図表をそそくさと取りだした。Kのまえにひろげると、ひとつひとつの項目について説明をはじめ、自分でも見ているうちにちょっとした誤りが目にとまると、あわてて書きなおしたりした。一年ほどまえ同じような契約を取り結んだことがありましたね、とKの気をひいて、さらに、今度の事業についてはもうひとつ別の銀行からも犠牲的出資の申しこみがありましてね、とつけたしておいてから、さてKの答えを待とうと黙りこんだ。Kははじめのうちこそは工場主の話のあとを追い、その事業が重要なものであることにも納得がいっていたのだが、長続きはせず、やがて話から考えがそれてしまうと、それでもしばらくは工場主の声がひときわ高いところで相づちをうったりしていたものの、ついにはそれもやめ、ただぼんやりと机にかがんだ工場主の禿げ頭を見おろしていた。いつ工場主は自分の話のむだなことに気がついてやめるだろうかと、思ったりしていた。工場主が黙りこむと、これはこっちに聞く気がないことを打ち明けさせようとしてくれているのだ、と本気になって思った。そこで工場主の目を見ると、それはあきらかに次の回答を待ちうけている様子で、それではやはり話は続けなければならないのかと、がっかりした。Kは命令を聞いている人間のように首をたれ、鉛筆をとって、書類のそこここに走らせては一箇所にとめて、じっと数字を見つめたりした。工場主はそれをなにか咎めだてされたものと感ちがいしたらしい。それとも実際に数字がまちがっていたか、ただ暫定的な数字であったりしたのかもしれない、片手で書類をおおい、Kのすぐそばに身を近づけると、事業のあらましについてもう一度はじめから説明しはじめた。「複雑ですねえ」とKは口をすぼませながら言ったが、頼みの書類が手でおおわれてしまったので仕方なく、椅子の背にぐったりともたれた。支店長室のドアがあいたとき、Kはそっと薄目をあけてそちらを見やっただけだった。薄いヴェールをへだてたようにぼんやりと支店長代理の姿がそこにうかびでた。しかしKは、支店長代理があらわれたことはそのままにしておいて、その結果起こったきわめてよろこばしい反応のほうに目をとめていた。工場主が椅子からとびあがり、支店長代理のほうへ駆けよっていったのだ。支店長代理がまたドアの背後に引っこむかもしれない、十倍ぐらいはやく駆けよっていったらいいのに、と考えていた。だが心配はいらなかった、ふたりは無事出会《しゆつかい》をとげ、握手の手をさしのべあい、やがて連れだってKのほうに近づいて来た。工場主は、業務主任さんにはあまりこの事業に乗り気になっていただけません、とKのほうをさしながらこぼした。Kは支店長代理の視線にさらされながら、また書類のうえに身をかがめていた。さて、ふたりが机によりかかり、工場主が支店長代理を説得にかかると、Kには頭のすぐ上で、なみはずれて大きいふたりの男が自分のことで言いあっているように思われるのだった。上目づかいにうかがいながら、手さぐりで机の上の書類を一枚つかみとった。それを手のひらにのせ、ゆっくりと、ふたりの男の高さまで持ちあげた。それにつれて自分もゆっくりと立ちあがった。別にそうもくろんでやったわけではなく、厄介な訴願書が仕あがればこのようにして持ちあげもしようかと思ってやったまでである。話に夢中の支店長代理はそんな書類には目もくれなかった。また、業務主任に重要な書類など支店長代理にとって重要なはずがないからだ。Kの手から書類を受けとると、「ありがとう。よくわかってます」と言っただけで、また机にもどしてしまった。Kはむっとして横合いから眺めているだけだった。支店長代理はそんなことを知ってか知らずか、あるいはそれを知ってかえって上機嫌になったためだろうか、話の合い間にいく度も爆笑し、毒舌で工場主を困らせては、次に自分から自分をやっつけて工場主の急場を救ってやりなどした。最後に、わたしの部屋にいらっしゃい、話のけりをつけなければなりませんから、と工場主をさそった。「重要な問題ですからね」と支店長代理は工場主にむかって言った。「実に重要な問題だということがよくわかります。業務主任には」――こう言いながらも顔はやはり工場主のほうを向いたままで――「業務主任にはこの問題を免除してあげるほうがかえってよろしいのではありませんかな。熟考を要する問題ですし、業務主任はきょうのところ、かなり疲れているらしいですから。それに控え室にはお客さんがまだ数人、もう何時間となく待っておられもするから……」Kは支店長代理のほうにむけていた顔を工場主のほうにむけ、愛想のよい、しかしこわばった微笑を送ってみせた。それぐらいの余裕はまだあったのだ。しかし、それだけが精一杯で、あとはからだを少しかがめて頬杖をつき、役場に陣どった書記よろしく、ふたりの男が談笑しながら書類を取り上げ支店長室へ消えさっていくのを見送っていた。工場主はドアのところまで来て、振り返り、まだお別れするわけではありません、話し合いの結果をお伝えしたいし、それにまだそのほかにもお話したいことがありますから、と言った。
やっとひとりになれた。その次の客を招きいれようなどという気にはさらさらなれなかった。部屋のそとのものたちはかれがまだ工場主と話しているものと思っているらしく、給仕までもが入って来ようとしない。これはなんといういい気持だ、とKは考えるともなく考えていた。窓ぎわに近づき、窓べりに腰かけて、手は窓の把手《とつて》をつかんだまま、ぼんやりと広場を眺めていた。雪は降りしきる一方で、やみそうな気配はなかった。
長いあいだその姿勢でいた。いったいなんの心配事があったのかも忘れていた。ただときどき控え室のほうで物音がしたような気がしてはっとおどろき、振り返った。しかしだれが入って来る様子もないので安心し、そのまま洗面台のところまで歩いて行って、冷たい水で顔を洗い、さっぱりした頭でまた窓ぎわまでもどって来た。弁護を自分の手でやろうと決心したことが、最初思っていたより一層重荷に思われだした。弁護士にまかせきりにしていたあいだは、まだ直接の被害をこうむらないですんだ。遠くから訴訟の進行具合を見ていればよかったし、裁判所から遠いところにいて、いやならほっておき、気がむけばまたとりかかればよかった。だがいったん弁護を引き受けるとなると――少なくともここ当分は――裁判にすっかりかまけていなければならない。成功したときには晴れて無罪の身となることもできよう、だがそうなるためにはこのさき、いままでにはなかったほどの大きな危険に立ち向かっていかなければならないのだ。この危険という点がまだはっきりしていないというのなら、さっきの支店長代理や工場主との同座がなによりのよい例だろう。たかが弁護を引き取ろうと決心したぐらいのことで、どうしてああ放心してすわっていなければならなかったのか? そんなことでは今後いったいどうなるのだ? 毎日をどうやってきりぬけていくのだ? はたしてきりぬけられるだろうか? 万全を期した弁護をやっていくからといって――中途半端な弁護は意味をなさなかった――それはほかの人間たちからできるだけ離れて生活してゆくことを意味しないだろうか? そんなことがはたして可能だろうか? しかも銀行にいてそんなことができるだろうか? 多少の憂慮はともなっても、休暇ぐらいはとれるとして、問題は、それですむ訴願の作成ばかりではない。いつおわるとしれぬ訴訟全体が問題なのだ。なんとした災難がKの経歴に突然投げこまれたことだろう! しかも、いま、銀行のために仕事をはじめろというのか?――かれは机のほうを見やった――いま、ここに客を通して話し合いをはじめろというのか? 訴訟が進められており、屋根裏部屋では裁判所の役人どもが裁判書類をとりまいてすわっているというのに、こちらは銀行の仕事などにかまけていなければならないのか? これではまるで裁判所斡旋《あつせん》の拷問《ごうもん》、訴訟があるかぎり永遠についてまわる拷問ではないか? それからまた、銀行のなかでの自分の仕事ぶりをみるのに、この特殊な状況を考慮に入れてくれるものがあるだろうか? 絶対にありはしない。自分の訴訟がまだだれにも知られていないというのではない。だれがどれだけ知っているかそんなことはわからない。ただし噂は、まだあの支店長代理まではとどいていないらしい。もしとどいていたなら、あの人情も友情もない支店長代理のことだ、たちまちKをおとしめにかかるだろう。支店長はどうだ? かれならKに好意を抱いているから、万一訴訟のことを知ったら、いろいろと便宜をはかってくれるはずだ。だがそれも結局は無駄におわるだろう。なにしろいまのところ支店長の勢力は、支店長代理とはりあうKの力が弱まるにつれ、支店長代理に押されぎみで、しかも代理は、支店長の病弱を自分の勢力の拡張に利用しているのだ。ではあと、なんに期待できるというのか? こんなことを考えてゆけば気が弱くなるばかりだろう。だが現状をごまかさず、できるだけはっきり事態を直視することも、また大切なことだ。
別にこれといった理由はなかったが、さしあたってまだ机にかえりたくないばかりに、窓を開けた。はじめはなかなか開かなかった。両手を使って把手をまわした。すると煙をまじえた霧が窓いっぱいに流れこんできて、部屋をくすぼったいにおいで満たした。雪片も舞いこんできた。「散々な秋ですね。」いつのまにか工場主が、支店長代理のところからもどって来ていて、Kのうしろで言った。Kはうなずいて、工場主が手にした鞄を、そこからいまにも支店長代理との話し合いの結果をしめす書類が取りだされるのではないかと、不安そうに眺めていた。Kの視線に気がついた工場主は、鞄はあけないで、上からはたくだけで、「話し合いの結果をお知りになりたいのでしょう? このなかに入っているのはもう取り決め書も同然です。おもしろい方ですなあ、あの支店長代理は。でもなかなか隅におけないところもある。」工場主は笑いながらKに握手を求め、Kをも笑わせようとした。だがKには工場主が書類を見せないことがまたしてもあやしく思われたし、そのうえ工場主の言ったことのどこひとつとして面白くなかったのだ。「業務主任さん」と工場主が言った。「こんな天候のせいか、きょうはずいぶんふさいでおられるようですね?」「ええ」とKは答えて、こめかみのあたりをおさえた。「頭痛がするんです。家庭に心配事がありまして。」「そうでしょう、そうでしょう。」工場主は早のみこみをする男で、ひとの話を最後まで聞いているゆとりはとてもなく、「だれにでも背負わなければならない十字架はあるものです。」Kは工場主を送りだそうとして、ドアのほうに一歩踏みだした。すると工場主は、「業務主任さん、まだお話したいことがあります。なにもいますぐお話する必要はないのですが、これまで二度来て二度とも忘れて帰ったものですから……。これ以上延ばして、値打ちがなくなってしまっては残念です。そう無益なお話でもありませんので。」Kが答えようとしないうちに、工場主はそばへよってきた。指の関節でKの胸をかるくたたき、声をひそめて言った。「あなたは裁判にかかっておいでなのでしょう?」Kは後ずさりすると、すぐ大声で、「支店長代理からお聞きになったのですね!」「いや、とんでもない」と工場主は言って、「支店長代理がどうしてそんなことをご存知なものですかね。」「ではどこからお聞きになったのです、あなたは?」Kはいくらか落ち着きをとりもどしてたずねた。「裁判所のことは聞く機会が多いものですから」と工場主は答えて、「あなたにお話したいと言ったのもこのことなのです。」「裁判所に関係のあるひとが多いのですね。」Kは下をむいたままそう言って、工場主を机のまえに導いた。ふたりがもとの位置に腰かけると工場主が、「といって、それほどたくさんお話できるわけではありません。ただ、こういったことはどんなに小さなことでも見のがしにはできませんでね。わたしとしては多少なりともお役にたちたいという気持が先立ちまして。なにしろ古くからのお馴染みですから。ところで――」Kはさきほどあのような態度をとったことを詫びたいと思った。しかし工場主は話の途中を邪魔されたくないらしく、時間がないというしるしに鞄を小脇にかかえこむと、言葉を続けて、「あなたの訴訟について聞き知ったのは、ティトレリという男からなのです。画家をやっている男で、ティトレリというのはただの雅号です。本名はなんというのか全然知りません。ところでこの男は数年まえからしょっちゅうわたしの事務所へやって来ます。小さな絵を持ってきて、買ってくれろと言うのですが――まるで乞食です――わたしはほどこしものをしてやっているようなものです。絵のほうはまあまあで、たとえば荒野の風景といったようなものです。おたがいのあいだの絵の売り買いはもうなれっこになって、面倒もなくなっています。それでもあるとき、画家の来るのがあまりに度かさなったものですから、わたしは注意をしてやりました。むきあっての話になり、かれの身のうえを聞くことにもなったのですが、それは興味のある話でした。絵だけで暮らしているというのですが、その主なお得意先が裁判所と聞いておどろきました。『裁判所の画家をやっています』と言うのです。『なんの裁判所だ』とききかえしました。すると裁判所の話を始めたのです。それを聞いてわたしがどれほどおどろいたか、あなたならおわかりいただけましょう。それからというもの、かれの来るたびに、なにかしら裁判所の新しいことを聞き知りました。聞き知るうちに裁判所の内部の事情にもすっかり明るくなりました。とはいえ、あれはおしゃべりな男ですし、嘘もつくうえ、わたしのほうとしても自分の仕事で精一杯でとてもほかのことまで気がまわりませんから、ときには門前ばらいをくらわせてやったりもします。おっと、これは余計な話になりました。さてそこで――とわたしは考えたのですが――ティトレリはあなたさまのお役にたつのではないかと思うのです。ティトレリ自身はたいした力を持ちませんが、いろいろな裁判官を知っていますから、だれかれのところへ行けばこれぐらいの力にはなってもらえるなどと教えてくれるでしょう。それがあまりたいしたことではなくても、あなたさまなら存分に活用なさるだろうというのがわたしの意見です。そうですとも、あなたはもう立派な弁護士です。業務主任のKさんはもう弁護士同然だってわたしは会うひとごとに言っているんです。ええ、そりゃあもう、わたしはあなたの訴訟に心配などしていません。でもやはり、ティトレリのところへはおいでになりますか? わたしが紹介状を書けば、かれもできるだけのことはするでしょう。ええ、行かれたほうがいい、と思います。なにもきょうすぐでなくて結構です。いつかおひまなおりに。むろん――これだけは申しあげておきますが――強要いたしているわけではありません。むしろティトレリなどお入り用がないのでしたら、そのほうがよろしいのです。あなたのほうにもきっとあなたなりのご計画がおありになるでしょうし、ティトレリはその邪魔になるだけかもしれません。そうですとも、それならむしろはじめからお出かけにならないほうがよろしいのです。あんなげすな男に教えを乞うなんて気がひけなくもないのです。まあ、いずれどちらでもおよろしいように。紹介状と住所はここに置いておきますから。」
Kはがっかりした表情で書状を受けとり、それを服のポケットにしまいこんだ。この紹介状のもたらす利益はどんなによくしたところで、工場主がKの訴訟を知ってしまったことや、画家がそれを言いふらすかもしれないことの不利を上まわるものではないだろう。ドアのほうに歩きかけた工場主に二三言礼を言おうという気持にもなれなかった。ドアのところに立って別れるきわに、「行ってみましょう」と言いかけて、「それとも、このとおり忙しいので、手紙を書いてこちらに来てもらうことにしましょう。」「いずれにしてもあなたが」と工場主は言った。「一番よい方法をとられるだろうとは思っております。ただまさか、ティトレリのような男を、訴訟のことについてお話し合いになるために銀行にお呼びになるとは、思ってもいませんでした。それにあんな男に直接手紙をお書きになるなんて、あまりお身のためになるとも思われません。でもそれはあなたのご判断の上に立ってのことですから、こちらがとやかく申す筋合いではありません。」Kは首をひとつうなずいて、工場主を控え室の出口までともなった。見かけは平静そうにしていたが、心のなかは動顛《どうてん》していた。ティトレリに手紙を書くかもしれない、と言ったのは、工場主に対して仲介の労を謝し、ティトレリとの面会をすぐにでも考えてみよう、とほのめかしたにすぎない。しかしティトレリと会うことがやはり有益だとわかれば、手紙は本当に書いていただろう。それが危険とは、工場主にそう言われるまで気がつかなかった。自分の頭は本当にもうそれほどあてにならなくなっているのか? 疑わしい人間に正式の書面を送って銀行に引っぱりこみ、支店長代理の部屋とはドアひとつしか隔てていないところで訴訟についての意見をきく、そういうような無茶なことをやってのけるというなら、これまでにももう、数々の危険を見落としたり、すでにそのなかに陥ちこんだりしているのではなかろうか? いつも自分の横にだれかがついていて警告を発してくれるとはかぎらないのだ。しかもいまが一番、自分の足でしっかりと立たねばならないときだ。まさにそういうときになって、これまで考えたこともない注意散漫の徴候があらわれてきたのか? 銀行の仕事をかたづけようとするとかならずおそってきた散漫な気分が、今度は、訴訟の場合にもおそってくるのか? ここまで考えてきたときKには、自分がさっきどうしてティトレリに手紙を書くなどと言ったのか、およそ不可解になっていた。
Kがまだ頭をかしげているところに、給仕が入ってきて、控え室ではまだ三人のお客がベンチに腰かけておられます、と注意した。三人ともしびれをきらしているのだった。給仕がKと話しているあいだにも、席を立ち、われがちに入ってこようとした。銀行がわがそれほど長く待たせたのだから、自分たちとしても遠慮することはないだろうというふうだった。「業務主任さん。」はやくもひとりが口を切った。しかしKは給仕にオーヴァーを持ってこさせ、うしろから肩にかけさせながら、三人にむかい、「みなさん申しわけありません。残念ですがお会いしているひまはないのです。失礼とは思いますが、どうしてもすませなければならない用事があって、これから出かけねばなりません。前の客に手間どったりもいたしましたもので。それで、もしおよろしければ、明日かあさってにでも、またお越しねがえませんか。それとも電話でお話し合いすることにいたしましょうか。いまご用件を簡単に言っていただいて、のちほど書面でくわしくお答えさせていただくということでもよろしいのですけれど。もっとも、またお越しねがえるのでしたら、それにこしたことはありません。」Kのこの申し出は三人の客をおどろかせた。それではすっかり無駄に待っていたことになるのかと、三人は、たがいに顔を見あわせた。「ではそうさせていただきます。」Kは帽子を持ってきた給仕のほうに振り返りながら言った。部屋のひらいたドアをとおして、戸外はますます雪がふりしきっているらしいのが見えた。Kはオーヴァーの襟を立て、襟もとのボタンをかけた。
ちょうどそのとき、隣部屋から支店長代理が入ってきた。外套姿のKがまだ客と言いあっているのをにやにやしながら眺めていたが、やがて、「お出かけですか?」ときいた。「ええ」とKは答えて、胸をそらしながら、「用事がありますので。」支店長代理は客たちのほうに向きをかえていた。「この方がたは?」と言いながら、「もう長いことお待ちだったと思いますが。」「話はもうついているんです。」Kはそう返事したが、客たちが黙っていなかった。Kをとりまき、口々に、こんなに待っていたのは用件が重要だからこそだ、早急に膝をまじえて話す必要のない用件だったら、なにもこんなに長いこと待ちはしなかっただろう、などと言いたてるのだった。支店長代理はかれらがひとしきりしずまるのを待って、Kが片方の手に持った帽子のところどころから塵をはらうのを眺めやりながら、「まあまあ、みなさん、それほどのことでもありません。この件は、もしみなさまがたにご異存がなければ、わたしがお引き受けいたしましょう。みなさまがおいそぎだということはよくわかります。わたしもみなさまと同じ実業人ですから、時間の観念ははっきりしております。で、よろしければ、こちらの部屋においでになりませんか?」そう言いながら自分の部屋の控え室に通じるドアをあけた。
Kがやむをえず放棄しなければならなかったものを、支店長代理はなんと如才なく手に入れてしまうことだろう! Kは放棄しすぎたのではあるまいか? あまりあてにもならない画家のところに出かけているうちに、銀行におけるかれの信用はがた落ちになってしまうのではあるまいか? いまこの外套をぬぎすてて、支店長代理の控え室で待たせられているにちがいない、あの、あとのふたりの客をとりかえしにいったほうがいいのではあるまいか? Kは事実、そうしようかと思った。するとそのとき、部屋のなかにまた支店長代理が入りこんできていて、本立てのあたりをなにかわが物顔に探しまわっているのが目にはいった。憤然としたKがドアから一歩近づくと、「ああ、まだお出かけじゃなかったんですか」と言って顔をこちらに向けた。そこにきざまれた皺は、年齢というより活力をしめしている。支店長代理はそのまま探しものを続けて、「契約書を探しているのです。あの商会の社長さんがあなたのところにあると言うものですから。一緒に探してくれませんか。」Kが近づくと、「ああ、ありました」と言って、契約書ばかりかほかのいろいろな書類もふくまれているにちがいない大きな束をかかえて、部屋を出ていった。
「いまのところあの男にはかなわない」とKはひとりつぶやいた、「だがそのうち例の一件がかたづいたら、なによりまずあの男を痛い目にあわせてやろう。こっぴどくやっつけてやろう。」こう考えると元気づいて、廊下に出るドアをおさえたままの給仕に、支店長には自分が所用で出かけたと伝えるように、と言い残すと銀行を出た。あとは思う存分自分のために時間が使える、と思って心がはずんだ。
まっすぐ画家の住居にむかった。やはり郊外だったが、裁判所事務局とは真反対の方向であった。事務局のあたりよりさらにさびれた界隈《かいわい》で、家並みも陰気くさく、路地にはとけた雪のうえをごみが浮んでいた。画家の住むアパートは大きな扉の片方があいているだけで、もう一方の下には穴があいていて、Kが近づいたときちょうど、黄いろい悪臭のする汚水があふれ出て、おどろいたねずみが二三匹そばの溝《どぶ》へ逃げこんだところであった。階段の下には子どもがひとり腹ばいになって泣いていた。ただし、その泣き声は、入口の向かいがわにある鉄工場のすさまじい響きのため、すこしも聞きとれないのだった。鉄工場の戸口はあいており、三人の職工がなにかしら工作器具のようなものをてんでにハンマーでたたいていた。壁にかかった大きな金属板のはなつ光がふたりの職工のあいだをぬって、顔や仕事着をほのじろく照らしていた。Kはこれらのものをちらと見たにすぎない。できるだけ早くここを引きあげたい、画家に二三言たずねたらすぐにでも銀行にもどりたい、という気持のほうが先に立っていた。ここでうまくいけば、銀行に帰ってからの仕事もはかどるにちがいない。建物の四階までのぼって来て歩みをすこしゆるめなければならなかった。階段全体もその一段一段も法外に高く、息ぎれがしたうえ、しかも画家の住んでいるところは最上階の屋根裏部屋だということだった。空気がひどくこもっていた。階段は独立しておらず、両側から高い壁がせまって、ところどころずっと上のほうに小窓がついているばかりであった。Kが立ちどまったとき、数人の女の子がひとつの部屋からとび出してきて、笑い声をたてながら階段をかけのぼっていった。Kはゆっくりとそのあとをついてのぼった。女の子のひとりがつまずいておくれたのに出あうと、一緒にのぼりながら、「ここに絵かきのティトレリというひと住んでいる?」とたずねた。女の子はまだ十三ぐらいの、いくらかせむしぎみの子だったが、答えるかわりにKを肘でつっつき、横からKを見あげた。年端のゆかない片輪な子なのに、もうこんなすれっからしになっている。微笑ひとつうかべず、きついいどむようなまなざしで見あげていた。Kは知らぬ顔で、「絵かきのティトレリさんを知っている?」とたずねた。すると女の子はうなずいて、自分のほうからも、「あのひとになにかご用なの?」ときいた。Kはあらかじめ、すこしでもティトレリについて知っておきたいと思って、「肖像画を描いてもらおうと思ってね。」「絵を描いてもらうの?」女の子は口を大きくあけてそう言って、なにかとんでもない野暮なことを聞いたかのように手でかるくKを打った。それからただでさえ短いスカートを両手でつまみあげ、叫び声が上のほうに遠のいていった女の子たちを追って、一目散に階段をかけのぼっていった。だが次の曲がり目のところでもうKは、全部の女の子が居合わせているのに出会った。Kの来たわけをせむしの女の子からきかされて待っていたらしい。Kが通れるように、みな階段の両がわにぴったりと身をくっつけ、手はスカートのしわをのばしていた。どの顔にも、こんな人垣をつくっている様子にも、子どもっぽさとずるさとが同時にあらわれていた。Kが通りぬけると、女の子たちはどっと喚声をあげながらまた一緒になったが、案内役はあのせむしの子がつとめた。迷わず行けたのはこの女の子のおかげだ。まっすぐのぼっていこうとするKに、この子が、ティトレリさんのところはこの分かれ目をのぼるの、と教えてくれたからだ。そちらの階段は非常に長細く、曲がり目もなく、まっすぐ見あげられるようについていた。つきあたりがティトレリの部屋のドアだった。このドアはそのななめうえにある小さな明り取りの窓のために、階段のほかのところより明るく照らされていた。ニスの塗ってない板張りで、そのうえには朱の太書きで「ティトレリ」と書かれてあった。子どもたちをあとにしたがえたKがまだ階段の途中までしかさしかからないとき、にぎやかな足音におどろかされたのだろう、上のドアが少しあいて、寝巻き一枚の男が首を出した。大ぜいがあがってくるのを見て「うわっ」と言い、またドアの背後にかくれた。せむしの女の子は手をたたいて喜び、ほかの女の子たちもKをせきたてて、はやくのぼらせようとした。
まだのぼりきらないうちにドアがすっかりひらかれて、画家が深いお辞儀をしながらKを迎えいれた。しかし女の子たちは入れようとしなかった。その子たちがどんなにせがみ、どんなにむりやりに押し入ろうとしても、だめだった。ただせむしの女の子だけは画家の腕をかいくぐって部屋にとびこんだが、画家に追いまわされ、スカートのはしをつかまれてきりきりまいをしたあげく、そのままドアの背後のほかの女の子たちのところにおろされた。ほかの女の子たちは、画家が持ち場を離れているあいだ、敷居をまたぐことさえできなかった。Kにはなんのことやらわからなかった。ふざけているのだとしか思えなかった。せむしの子が画家の手のなかでじたばたやっているあいだじゅう、ドアのそとの女の子たちはかわるがわる背のびをし、Kにはわからない冗談を画家にむかって投げつけていた。画家はやっとドアをしめると、Kのまえでもう一度お辞儀をし、手をさしのべながら、「画家ティトレリです」と自己紹介した。Kは女の子たちがひそひそ話をしているドアの背後を指さしながら、「あなたはここでは人気者なのですね」とたずねた。「ああ、あのおてんばどものことですか」と画家は言いながら、寝巻きの首のボタンをかけようとしていたが、なかなかうまくいかなかった。足ははだしで、黄ばんだ幅ひろの麻ズボンをはいているが、締めたベルトのはしがはみだして宙ぶらりんになっていた。「あのおてんばどもにはほとほと手を焼きます」と画家は言葉をつづけたが、寝巻きのほうは一番上のボタンがとれてしまったのであきらめて、椅子をひとつKのまえに持ちだした。「まえにあの連中のひとりを――きょうは来ていませんが――描いてやったことがあるのですが、それからというものわたしはつきまとわれっぱなしです。わたしがここにいるあいだは、いいと言わないかぎり、絶対に入ってきませんが、外出すると、かならずひとりは中に入りこんでいるのです。合い鍵をつくっておたがいに貸しくらをしている状態です。それで、たとえばわたしが絵を描いてくれというあるご婦人と家に帰って来るとします、鍵でドアをあけて入ってみると、せむしの女の子が机のまえにすわりこんで絵筆で唇をまっ赤にぬりたくっており、そのそばでは女の子が番をしなければならない弟や妹が部屋中をとびまわり、あちこちを汚なくしている、といったしまつなのです。またこれは昨晩あったばかりのことなんですが、夜、帰りがおそくなって――そのためこんな恰好で、部屋もとりちらしておりますが、どうかお許しください――さて、ベッドにのぼろうとすると、下からわたしの足をつねるものがあるのです。おどろいてのぞくと、下に女の子がひとり隠れていて、それをやっとこさでひっぱりだすといったしまつです。どうしてそうつけまわされるかわからないのですが、わたしがあの子たちを誘っているのでないことだけは、さきほどごらんになってもおわかりのことと思います。それはもちろん、仕事にとってもはなはだしいさまたげです。このアトリエが無料でもなければ、とうに越しているところです。」このときドアのうしろから、可憐なおずおずした声が、「ティトレリさん、もう入ってもいい?」と呼んだ。「だめだ」と画家が返事した。「わたしひとりでもだめ?」とまたきいた。「ひとりでもだめだ。」画家はそう答えながらドアに近づき、鍵をかけた。
Kはそのあいだに部屋を見まわしてみた。これがアトリエだとは思いもよらなかった。縦にも横にも、大股で二歩とふみ出せばつかえてしまう。床、壁、天井、すべてが板張りで、板と板とのあいだに隙間がいくつもあいていた。Kの目のまえにはいろとりどりの寝具をつみあげたベッドが壁ぎわにおかれてあった。部屋のまんなかには絵が画架《がか》にのっていたが、それにはシャツのおおいがかけられ、袖が床までたれていた。窓はKのうしろにあった。そとを霧が立ちこめ、隣家の雪のつもった屋根だけが見えていた。
鍵をまわす音が、早く帰るつもりであったことを思いださせた。ポケットから工場主の手紙を取りだし画家に渡しながら、「お知り合いのこの方の紹介で来たのですが」と言った。画家は手紙にちょっと目を通しただけで、すぐベッドにほうりだした。工場主があれほどはっきり、画家は自分の知り合いで、自分のほどこしものに甘んじて生きている貧乏人だ、と言ったのでなければ、この画家が工場主を知っているとはとうてい思われなかっただろう。あるいは画家は、工場主のことを思い出せないのかもしれない。いずれにせよ画家は、こんなことをきいてきた。「絵はお買いになりたいのですか、それとも、ご自分の肖像画をおのぞみなのですか?」Kは、あっけにとられて画家の顔を見た。手紙にはいったいなんと書いてあったのだろう。自分が訴訟のことについて知りたがっていることを書いてくれたものとばかり思っていたが、思いちがいだったのだろうか? しかしなにか返事をしないわけにはいかないので、横の画架を見ながら、「一枚描いておられるところのようですね?」とたずねた。「そうです」と画家は答えて、画架にかかったシャツをはらいのけ、さきほど手紙をほうったベッドのうえに、投げやった。「肖像画です。うまく行ってるんですが、まだできあがりません。」よくしたもので裁判官の肖像画らしく、裁判所について話す絶好の機会だった。しかしそれにしても、弁護士の書斎にかかっていた肖像画に実によく似ている。とはいっても、全然別の裁判官で、この裁判官は黒いもじゃもじゃしたひげをあごのずっと上まで生やしていた。また、前の絵は油絵であったのに、こちらは淡彩のパステル画だった。しかし、その他の点では実によく似かよっていた。この絵でも裁判官は椅子の肘かけをつかんでいまにも立ちあがりそうにしている。Kは「裁判官ですね」と言いかけて思いとどまり、もっとこまかい点を見ようとしてそばに近づいた。椅子の背のまんなかについている大きな像がなにかわからなかったので、画家にきいてみた。そこはまだ手を加えなければならないんです、と画家は言いながら、机からパステルを一本取って来て、像のまわりにぼかしをほどこしなどしていたが、Kには依然なんであるのかわからなかった。「正義の女神ですよ」と、画家がついに言った。「ああ、それでわかりました」とKは声をあげて、「これが目隠しの布、これが秤《はかり》でしょう。でもかかとに翼が生えて、飛んでいるように見えるのはなぜですか?」「それなんですがね」と画家は答えて、「注文でそうなったんです。正義の女神と勝利の女神がひとつになったというわけです。」「それはまた無理なとりあわせですね」とKは吹きだしながら、「正義の女神はじっとしているものでしょう。そうでないと秤が動いて、正しい判断ができなくなる。」「注文主の希望にしたがっているだけなんです」と画家は言った。「それはそうでしょう」自分の言葉でひとを傷つけたくないKはそう言って、「この像はもとから椅子についていたままを描いたのですか?」「ちがいます」と画家は答えて、「像も椅子も見たことのない想像です。ただし、注文主の指示によるわけですけど。」「なんですって?」Kはことさら不審そうにたずねた、「でもこの裁判官の椅子にすわっているのはやはり裁判官でしょう?」「そうです」と画家は答えた。「ただしこんな立派な椅子にすわったこともないような身分のひくい裁判官なんです。」「それなのにこんないかめしい様子で描かせるんですか。これではまるで大裁判官じゃないですか。」「そうです、この連中は大変な見栄っぱりです」と画家は答えて、「しかし、こう描かせてよいという許可はえているのです。どの裁判官にも自分が描いてもらってよい恰好がきめられています。残念なことにこの絵では、パステル画のために、服や椅子のこまかい点が出ていませんが……。」「そうですね」とKが言って、「またどうしてパステルなんかで描くんですか?」「裁判官の注文なのです」と画家は答えて、「ある婦人に贈るためのものです。」絵を見ているうちに興がわいてきたらしく、画家は腕まくりをしてパステルを数本取りあげた。Kが見ていると、画家のパステルの先端が小刻みに動くにつれ、薄紅の影が裁判官の頭のまわりにぬられていき、それが次第に放射状にひろがって画面の縁に消えていった。この影はいつのまにか裁判官の頭をとりまく装飾か光輪のようなものになった。ところで正義の女神のまわりはごくうすい色調で、女神像はそのため一層きわだって、正義の女神や勝利の女神というよりは、むしろ狩猟の女神というふうに見えた。Kは思いのほか画家の仕事に気をとられていた。しかしついに、ここに長くおりながらまだすこしも用件をすませていないことに腹がたってきて、やにわに、「この裁判官はだれですか?」ときいた。「それは言えません」と画家は答えた。カンバスに深く身をかがめて、さきほどあんなに丁重に迎えた客をいまはまるで忘れてしまったようだった。Kは画家の気まぐれとのおつきあいはいやだった。「あなたはひょっとして裁判所のおかかえではありませんか?」すると画家はパステルをおき、背のびをしたあと、揉み手をしながらKを見て、にやりと笑った。「さっさと言っておしまいなさい」と言ってから、「あなたは、紹介状にもあるとおり、本当は裁判所のことをお聞きになりたいのに、まずわたしにとりいろうと絵の話をなさったんでしょう。でもわたしは別にそれで腹をたてるつもりはありませんよ。そんなことをするべきではないということを、あなたはご存知なかったのだから。いや、いや、結構です。」Kがなにか言いわけをしようとすると、画家ははねつけるように言って、すぐに言葉をつづけ、「それはそうと、わたしのことを裁判所のおかかえでないかとおっしゃったのは、まったくそのとおりです。」Kにすっかりのみこませるかのように、画家はちょっと言葉を休めた。ドアのむこうで、また女の子たちの話し声がはじまっていた。鍵穴のまわりに押しかけ、戸板の隙間からなかをうかがっているらしい。Kは、弁解がましいことを言って画家の話をわきにそらさせたくない、と考えた。かといって、このまま画家につけあがられ、手がつけられないほどに牛耳られるのもいやだった。そこで一応くいとめておくつもりで、「裁判所のおかかえというのは正式の地位ですか?」ときいた。「いや」と画家は答えた。この一言で打ちきられてしまいそうだったので、Kはあわてて、「でも非公式の地位のほうが公式の地位より幅をきかせる場合だってあるのでしょう?」と言った。「そうです。わたしの場合がそうです」と画家は答えて、眉間にしわをよせながら、「わたしはきのう、工場主とあなたの件について話しました。工場主が、あなたを助けられるだろうか、というので、一度来ていただくといいでしょう、と返事しました。それが、こんなに早く来られたなんて、うれしいかぎりです。だいぶご心配のようですが、むりもないことです。まあ、ともかく、オーヴァーをおぬぎになりませんか?」Kは早々に退散するつもりで来ていたのだが、オーヴァーをぬがないかという画家のこの勧めはうれしくなくもなかった。それに、部屋の空気がむしむししていた。ときどき部屋のすみの小さなストーブを眺めたりしたが、火はあきらかに入っておらず、この蒸し暑さは説明がつかなかった。Kが外套をぬぎ上着のボタンもはずしているあいだ、画家は申しわけがましくこう言った。「部屋の温度を一定にたもっておかねばならんものですから。でもここはけっこう気持がいいでしょう? その点でこの部屋はよくできているのです。」Kはなにも答えなかったが、気分が不快なのは暑さのためというより、むっとこもった息もつまりそうな空気のせいらしかった。この部屋は長いあいだ換気されていないにちがいない。不快な気分は、画家が、自分は画架のまえのこの部屋ではひとつきりしかない椅子に腰かけておきながら、Kにはベッドのうえにすわるよう勧めたとき、ますますつのった。Kがベッドのほんのはしに腰をおろすと、画家はそれを別なふうにとったらしく、「さあ、どうぞ、どうぞ」と勧めながら、それでもなおKがためらっていると、すぐそばまで寄ってきて、むりやりに蒲団やマットのなかに押しこんだ。やっと自分の席にもどり、これまでとはうって変わった問いを発したが、これはまた、Kを茫然とさせるくらいよろこばせたものであった。「あなたは無実ですか」と画家はたずねた。「ええ。」まったくの素人《しろうと》に、したがってなんの義務感もなく、こんなことを答えられる幸福にKは酔いしれた。まったく、これまでだれひとりとしてこんな質問を発してくれたものはない。この喜びをかみしめていようと、もう一度、「まったくの無実です」と、つけくわえた。「ふむ」と画家は言って頭をたれ、思いにふけっているようだった。突然頭をあげると、「無実なら事は簡単です。」Kは顔をくもらせた。この自称、裁判所のおかかえは小さな子どもの言うようなことを言う。「無実だからといって事は簡単になりませんよ。」そう言ってみたが、むしろおかしさがこみあげてきて、頭をゆっくりとうち振った。「この裁判にはいろいろと複雑なことがあるのです。しかも、とどのつまりは、まったく身におぼえのない濡衣を着せられるのです。」「そうですとも、そうですとも」画家はKがいらぬ邪魔だてをするというように言った。「ともかく、あなたは無実なんですね?」「もちろんですとも。」「それを知りたかったのです。」この男は反問などをまるでとりあおうとしない、毅然とした態度でいるのだが、それが自信から出ているのか無関心から出ているのか、はっきりしなかった。Kはそこのところを確かめておこうと、「あなたは裁判所のことについては、きっとわたしなんかよりはよほどご存知でしょう。わたしの知っていることといったら、他人から、それもあれこれの人間から聞き知ったことにすぎません。しかしそのさい、だれもが一致して言うことは、告訴は軽々しくおこなわれるものではない、しかも裁判所はいったん告訴をした以上、被告の有罪を確信していて、容易なことでこの確信をくつがえすものではない、というのです。」「容易なことではくつがえさない?」画家は鸚鵡《おうむ》返しに言って一方の手をさしあげた。「それどころではない。絶対にくつがえしはしませんよ。いまわたしがカンバスに裁判官たちの肖像をずらりと描いて、あなたがそのまえで弁護をするとします、そのほうが法廷なんかで弁護するよりずっと楽なぐらいですよ。」「そうですか。」Kはぼんやりと言った。もともと画家には軽く当たってみるぐらいの気持でしか来なかったことをすっかり忘れていた。
ドアのうしろでまた女の子がたずねた。「ティトレリ、あのひと、まだ帰らないの?」「うるさい!」画家はドアの方にむかって叫んだ、「お客さまとお話し中なのがわからないのか。」ところが女の子は黙りこもうとはしないで、「お客さまを描くの?」ときいた。画家が答えないでいるとまた、「ねえ、描いたらだめよ、そんないやなひと。」がやがやとそれに同調する声がした。画家はドアにとびついてゆき、少しだけ隙間をつくると――そのとき、女の子たちの拝むように組んでさしだした手が見えた――、「黙らないとみんな階段の下に突き落としてしまうぞ。そこの階段のところにすわって、みんなおとなしくしているんだ!」それでもすぐには言うことをきかなかったのだろう、画家は命令口調で、「すわれというのに!」と言った。するとやっと静かになった。
「どうも申しわけありません。」Kのところまで引き返してくると画家はこう言った。Kはこのときまであまりドアのほうを見ていなかった。画家が自分に忠義だてをしてくれようがくれまいが、知らん顔をしていた。すると画家がKのほうにかがみこみ、そとには聞こえないように、耳もとでこうささやいた、「あの子たちも裁判所のものですよ。」「なんですって?」頭を横にかたむけ画家の顔をのぞきこみながら、Kはこうききかえした。画家は椅子にまた腰をおろして、冗談とも説明ともつかず、「なにもかも裁判所のものっていうわけです。」「まるで知りませんでした」Kはあっさりと言った。画家が「なにもかも」とひっくるめて言ったので、女の子たちに対する不安感もやすらいだ。それでもちょっとだけドアのほうをうかがった。女の子たちはドアのうしろの階段のうえに腰をおろしているはずだ。ひとりだけ戸板のすきまに麦わらを通して、上下に動かしている子がいた。
「裁判所がどのようになっているかもあまりご存知ないようですね」と画家が両脚を大きくひろげ、足先で床をたたきながら言った、「でも無実なら知る必要はないでしょう。なに、このわたしひとりでやってのけてあげますよ。」「どのようにやってのけてくださろうというんです?」とKは言って、「さきほども裁判所に対して異議の申し立てが効かないとおっしゃっていたばかりじゃありませんか。」「裁判所に異議を申し立てたってだめです」と画家は言って、Kには本当のところがまだよくわかっていないのだというように人さし指を立てて、「ただし、裁判所の舞台裏、たとえば談話室だとか、廊下だとか、このアトリエだとかで工作する分には別です。」Kには画家の言うことが嘘には思えなくなってきた。これまでにほかの人間たちから聞いていることとも話がよく一致する。頼み甲斐があるように思った。裁判官との個人的なつながりが弁護士の言ったほど重要ならば、この画家の見栄っぱりと裁判官たちとのつながりも大いに珍重すべきだし、決して馬鹿にしたものではない。そうなるとこの画家もKが身のまわりに集めている協力者たちの一員にすることができる。Kは以前銀行で、ひとを統率する能力のあることをほめられたことがあったが、いま自分ひとりで闘わなければならないときになって、この能力を十分に発揮する絶好の機会が到来したわけだ。画家は自分のしゃべったことがKにどんな影響をあたえたか、しばらく見まもっていたが、やがて急に不安げになって、「あなたはわたしがまるで法律家のような口のききかたをするとお思いになっているのではありませんか。裁判所の人間たちとつきあいが多すぎるためです。むろんいろいろと利益はありますが、芸術的意欲のほうはほとんどだめになってしまいます。」「はじめはどういったことで知り合いになったんですか?」画家を協力者の一員に加えるまえに、まずその内情をきいておこうと思ったKは、こうたずねた。「なんでもありませんよ」と画家は答えて、「このつながりは親からゆずられたものです。父もまた裁判所おかかえの画家でした。この職業は世襲的なものですから、新手の人間が要るということはありません。各階級にわたる役人を正しく描きわけるにはいろいろ複雑な細則があって、しかもそれは絶対に秘密にされていますから、決してある家柄より外に知れるということがありません。たとえばここの机の引き出しのなかには父のノートが入っていますが、裁判官専門の画家にはこの秘密のノートを見たものしかなれないのです。ただし、わたしはこれらをもうおぼえこんでいますから、万一それがなくなったとしても、だれもわたしの地位に文句をつけることはできません。どんな裁判官も描いてもらうときには、昔の偉い裁判官たちのように描いてもらおうとしますから、それができるものといったらこのわたしのほかにいないのです。」「それはうらやましいことです」とKは、銀行における自分の地位を思いうかべながら言った、「あなたの地位は不動なわけですね。」「そうです、不動な地位です。」画家は肩をそびやかしながら言った、「だからこそ、訴訟沙汰になっているあわれな人間を助けてやることもできるのです。」「それをやる場合、どういうふうにするのです?」あわれな人間と言われたのは自分のことではないかのように、Kはこう言った。だが画家はそんなことには無頓着で、「たとえばあなたの場合ですが、無実とおっしゃるのですから、次のようにやりましょう。」再三無実をくりかえされるので、さすがのKもいやになった。それに、これを聞いているとまるで、画家が訴訟はどっちみち勝つときめこんで助力を申し出ているように思われる。それではいっこう助力にもならないわけだが、Kはこの不審をおさえて、画家の話の腰を折らないようにした。画家の助力をことわろうという気はまったくなかった。この点でははっきり気持がきまっていたし、また、この画家の支持のほうが弁護士の援助よりはるかに信頼がおけるように思われた。陰にこもらずあけっぴろげである点だけでも、弁護士よりずっといいように思われた。
画家は椅子をベッドに近づけて、ひくい声でこう続けた。「あなたはどんな放免をおのぞみなのか、まずそれをおききするのを忘れていました。三種類の放免があるのです。真の放免、仮の放免、それと引き延ばし、です。むろん、真の放免が一番いいにきまっていますが、この解決法には残念ながらわたしの力は全然およびません。だいたいが、真の放免をはたらきかけられる人間など、わたしの考えでは、ひとりもいようはずがなく、ここで決定的な力を持つのは、被告人が無実だという事実以外にないでしょう。あなたはご自分が無実だとおっしゃるのですから、ただそれのみを頼みにすることもできるわけです。でもそうなると、わたしの助けも、だれかほかのひとの助けもいらなくなるわけです。」
この理路整然とした話のはこびにはじめKはとまどわされていたが、やがて、画家以上にひくい声で、「あなたのお話には矛盾があるように思います。」「どうしてですか?」画家は微笑さえうかべながら、平然と椅子の背にもたれた。Kはこの微笑を見たとたん、自分が指摘しようとしている矛盾は、画家の話のなかにではなく、裁判手続きそのもののなかにあるのではないか、という疑いにとらわれた。だが、ひるむことなく、「あなたははじめ、ここの裁判所には異議の申したてがきかない、とおっしゃいました。ところがそのつぎには、ただしそれは公式の場にかぎったときだけだ、とおっしゃり、そして最後には、無実のものは援助はいらない、とおっしゃるのです。これがまず矛盾です。つぎに、あなたははじめ、裁判官は個人的なつながりでどうにでもなる、とおっしゃっておきながら、今度はそれをひるがえして、真の放免は個人的なつながりなどではとても手に入れられない、とおっしゃるのです。これがふたつめの矛盾です。」「そんなことはすぐにでも説明がつきます」と画家は言った。「要は、法律に書いてあることと、わたしが個人的に経験して知っていることとのちがいにあるので、それを混同していただいてはこまります。法律にはもちろん――読んだことはありませんが――無実のものは放免される、と書いてはありますが、だからといって、裁判官をまるめ込んではならない、とは書かれていないはずです。むしろ、わたしは、それとは正反対のことを見聞しています。真の放免はこれまでにあったためしがなく、放免はどれも裁判官へのはたらきかけによるものです。もちろん、わたしの見聞した訴訟には無実の場合がひとつもなかったのだとも考えられます。でも、いったいそんなことってあるでしょうか? こんなにたくさん見聞きした訴訟のどれひとつにも無実の場合がなかったなんて? わたしは子どもの時分から父親が訴訟のことをしゃべるのを聞いていました。アトリエにやってくる裁判官たちも訴訟のことをしゃべりましたし、だいたい、わたしの身辺では、訴訟のことしか話題にのぼらなかったのです。裁判所に行けるようになると、わたしはあらゆる機会を利用して、かぞえきれないほど多くの訴訟の重要段階をそれぞれ傍聴しましたし、ひとつの訴訟をできるかぎり追っかけてもみました。しかし――本当の話――真の放免はひとつもなかったのです。」「ひとつもなかった。」Kは自分自身と自分の期待とに言いきかせるように言った。そして、「すると、それはわたしが裁判所について考えていたことの裏がきになります。こうした面から考えても、裁判所の存在はむだなものです。首斬り役人がひとりいるだけで十分でしょう。」「あまり極端なことを言わないでください。」画家は気分を害したように言った、「わたしは自分の見聞したかぎりで、ものを言っているのですから。」「それで十分ですよ」とKは言って、「それとも昔は無罪放免があったとでも言うのですか。」「あったということです」と画家は答えて、「しかしそれを確かめることは容易でありません。裁判所の最終判決は公表されず、一般の裁判官たちさえそれを知ることはできません。そのため昔の裁判の判例はただ言いつたえのかたちでしか残されていません。しかもこの言いつたえのなかには真の放免の例がいくつかふくまれているのですが、われわれはそれを信じることはできても、証拠だてることはできないのです。これらの言いつたえで見のがすことのできない点は、それらがある種の真実を物語っていることでして、その美談のいくつかをわたしはこれまで絵に描いたこともあります。」「言いつたえだけでは証拠になりませんね」とKは言って、「しかもその言いつたえは法廷では引合いにだせないのでしょう?」画家は声をたてて笑って、「だめです。」「それじゃあ、そんなことについて話してもなんにもならないじゃありませんか。」Kとしてはさしあたり、たとえ画家の意見が本当らしくなくて、ほかの話と矛盾する場合でも、一応耳はかたむけて聞こうと思った。画家の言うことをいちいち反駁《はんぱく》したり詮索したりするひまはなかったし、それにすでに画家をうごかして、なんとか援助してくれるよう約束させた以上、所期の目的は達せられたというべきだった。そこで、「真の放免についてはもう結構です。あとふたつ放免の方法があるとおっしゃってましたね?」すると画家は、「仮の放免と引き延ばしです。それだけしかありません」と答えてから、「でも、まず上着をおぬぎになりませんか? とても暑そうですよ。」「ええ」とKは答えたが、これまでは画家の話に気をとられて忘れていたのが、急に暑いだろうと言われたので、額から汗がふきだした。「とてもたえられないほどです。」画家はそうだろうというようにうなずいた。「窓をあけてはいけませんか?」「だめです、あけられません」と画家は答えた、「ガラス板を一枚はめこんだだけの窓ですからあけられません。」いままで無意識に、画家か自分のどちらかが窓ぎわに行って窓をあけないものか、と思いつづけていたことにKは気がついた。口をあけて霧を食べてもいい、と思っていたのだ。それがいま、そとの空気に触れられないとわかると、めまいがしてきた。手でベッドをたたきながら、絶えいりそうな声で、「でも、それじゃ不便だし、健康にもわるいでしょう?」「いや、そんなことはありません」と画家は窓を弁護しながら、「あけられないためにかえって、ガラス張り一枚でありながら、二重窓などよりはずっとよく部屋の温度をたもてるのです。換気は、板の隙間からいくらでも風が入るので必要じゃありませんが、もしそれ以上をのぞむのなら、ドアをひとつでもふたつでもあければよいわけです。」Kはこの説明にすこしほっとしたが、もうひとつのドアというのはどこにあるのだろうとあたりを見まわした。画家はそれに気がついて、「あなたのうしろです。ベッドのむこうになってます。」言われてみるとなるほど、そこの壁に小さなドアがついていた。「この部屋はなにもかも小さすぎて、アトリエむきではありません」と画家はKに言われないまえに言った。「配置をいろいろと考えたのですけど、ベッドをドアのまえにおいたのは失敗でした。たとえばわたしがいま描いている裁判官ですが、かれはいつもそちらのドアからなかに入ってきます。留守のときでも待っていてもらえるよう、鍵を渡してあるのですが、たいていの場合は朝はやく、それもまだわたしが寝ているうちにやってきます。ドアをさっとあけられると、どんなによく眠っていても眼がさめてしまいます。裁判官はベッドをのりこえて入ってきますが、この裁判官にむかってわたしがどんな罵声を浴びせかけるかをお聞きになれば、それまでの裁判官に対する敬意などけしとんでしまうでしょう。鍵をとりあげることもできるのですが、そうするともっとひどいことになるでしょう。なにしろここの蝶番《ちようつがい》ときたらどれも、ちょっと持ちあげただけではずれてしまうのですから。」Kは、この話のあいだじゅう、上着をぬごうかどうしようかとばかり考えていたが、ついに、このままではとても居きれないと思うと、上着をぬぎ、しかも話が終わったらすぐまた着られるようにと、膝のうえにおいた。ぬいだとたん、女の子たちのひとりが叫んだ。「上着をぬいだわよ!」するとこれを見ようとした子どもたちが戸板の隙間のまえにひしめいた。「あの子たちは」と画家が言った。「わたしがあなたを描くので上着をぬいだとばかり思っているのです。」「そうですか」とKはうかぬ顔のまま言った。シャツ姿になりはしたものの、いっこうにすずしくならないのだった。つっけんどんなほどの調子で、「あとふたつの方法は、なんといいましたかね」とたずねた。またもや忘れてしまったのだ。「仮の放免と引き延ばしです」と画家は答えて、「どちらをおえらびになるかはあなたのご随意です。どちらもわたしが取りなしてさしあげられるものですが、難なくという具合にはまいりません。その点でのちがいを申しあげると、前者がその都度集中した努力を必要とするのに反して、後者はそれよりは少ないが、しかし持続的な努力を必要とすることです。ではまず、仮の放免のほうをお話しましょう。あなたがこの放免をおのぞみになりますと、わたしはまず用紙一枚に、あなたの無実を証拠だてる事柄を書きます。その書式は父から教えられたとおりの完全無欠なものです。わたしはこれを持って裁判官たちのあいだをまわるのですが、まず、いま肖像画を描いている裁判官をおとずれるとしましょう。今晩にでも会議のあるころをみはからって、例の証明書を渡します。渡しながらあなたが無実なことを説明し、その保証人となります。この保証は決して単なる形式的なものではなく、本当に連帯責任をともなうものなのです。」こんな重荷を背負わして、という非難めいた表情が画家の目のなかにうかんでいた。「どうもすみません」とKは言って、「で、裁判官はあなたを信頼するとします。しかも、わたしは無罪放免にならないのですか?」「なりません。まえにも言ったとおりです」と画家は答えて、「つけくわえておきますが、裁判官のひとりのこらずがわたしを信頼してくれるとはかぎらないのです。場合によってはあなたを連れてこいということがあります。そういうときは、一緒に来ていただかなければなりません。でも、そういう場合はかえって、事は半分以上成ったようなものです。裁判官のまえでどうふるまえばよいか、よく教えておいてあげますから。こまるのは――きっとそういう場合があると思いますが――最初から受けつけようとしない裁判官たちの場合です。こちらとしてもやれるだけのことはやりますが、そういう裁判官は、結局、あきらめるより仕方がないのです。またそれでもよい、というのは、個々の裁判官についてはそうした場合どうでもよいからです。さて、この証明書に十分な数の裁判官の署名がえられたら、わたしはそれをもってあなたの事件を担当している裁判官のところへ行きます。うまくいくと、この裁判官の署名ももらえるかもしれません。もらえれば事はますます順調にはかどるでしょう。あとはたいして心配はいりません。被告人にとっては一番安心していられる時期です。不思議なことですが、この時期のほうが放免された後より安心していられるのです。もうなんの苦労もいりません。証明書にたくさんの裁判官の保証があるので、裁判官は安心して無罪の宣告をくだせます。もちろんまだ手続きの関係上、いろいろと煩瑣《はんさ》な形式をふまなければなりませんが、わたしやその他の知り合いの手前からいっても、裁判官はかならず無罪の宣告をくだすでしょう。そうするとあなたは晴れやかに裁判所を出られるというわけです。」「晴れて無罪の身になるというわけですか?」とKはいく分疑わしそうにたずねた。「そうです」と画家は言って、「ただしそれは仮の放免、もっとわかりやすい言いかたでいえば、ここしばらくの放免です。それというのも、わたしたちが知っている下級の裁判官たちには最終的な無罪宣告をする権限がなく、その権限はただ最上級の裁判所、あなたにもわたしにも、わたしたちすべてにも、まったく手のとどかない裁判所にだけ属しているのです。それがどのようなものであるかをわたしたちは知りませんし、ついでに申せば、知ろうとは思いません。こういうわけでわれわれの裁判官には告訴を無効にするような大きな権限はありません。そのかわりに、告訴を緩和する権限はあるのです。これはつまり、あなたが無罪の宣告を受けたとしてもそれはあくまで当座であって、告訴そのものは依然存続し、いつなんどき、上部の裁判所の命令があって効力を発するかもしれない、ということを意味します。これはわたしが裁判所の内情に通じているために申しあげられることですが、裁判所事務局の規定を見ると、真の放免と仮の放免とははっきりと区別されているのです。真の放免の場合は、裁判記録は完全に廃棄されます。記録はすべて消滅して、起訴も審理も、無罪宣告さえも、すべて消滅してしまうのです。仮の放免の場合は別です。裁判記録は無罪証明の分、無罪宣告の分、無罪宣告の理由の分が増しこそすれ、もととかわらず存続します。裁判手続きからとり除かれることはなく、裁判所事務局の活発な動きのなかで、上級の裁判所にまわされたり下級の裁判所にもどされたり、大ぶれ小ぶれ、行ったり来たりをくりかえしています。どこにあるのか見当もつきません。はたから見ると、事件はすっかり忘却され、記録は紛失し、無罪宣告も決定的なものと思われがちですが、専門家はそうは信じません。記録は失われておらず、裁判所が全部を忘れてしまうということはないのです。ある日のこと――思いもかけず――ひとりの裁判官が訴訟記録をとりあげます。しばらく読んで、この告訴はまだ有効であることを発見します。すぐさま逮捕状が執行されるというわけです。今の場合は無罪宣告と再逮捕とのあいだに一定期間がおかれた場合ですが――実際そういう例がよくあって、わたしもいろいろの実例を知っていますが――これと同じ程度に、無罪宣告を受けたものが家に帰ってみるともうそこに再逮捕の役人が待っていた、ということもありうるのです。この場合、放免はむろんそこまでです。」「そしてまた訴訟が始まるというわけですか?」信じられないという顔つきでKがたずねた。「そうです」と画家は答えて、「訴訟がふたたびはじまるのです。でも前回同様ふたたび仮の無罪になる可能性があるのですから、気をたしかにもって、決してくじけてはなりません。」おわりのほうの言葉は、Kがかなりがっかりした様子なのを画家が見てとって、そう言ったらしかった。「でも」とKは画家の先をこすように、「今度の無罪は最初のときよりむずかしいのではありませんか?」「さあ、その点は」と画家は言って、「なんとも申しあげられません。かさねて逮捕されると、今度は裁判官が被告にとって不利な宣告をくだすのではなかろうか、とお考えなんでしょうが、それは当たりません。裁判官たちは、最初の宣告のときからこの逮捕を見こしているのです。したがって不利な宣告ということはありません。ただし、それとは別の事情から裁判官の心証が変わっているということはありえますから、その間の事情をよくみて、前回同様の努力をする必要はあります。」「しかも今度の無罪宣告も最終的なものではないのでしょう?」やりきれなさそうに頭をふって、Kはこうたずねた。「もちろんちがいます」画家はそう答えて、「第二の無罪宣告には第三の逮捕、第三の無罪宣告には第四の逮捕というようにかぎりなく続きます。それが仮の無罪宣告というものです。」Kは黙ってしまった。「仮の放免はあまりあなたむきではないようですね」と画家は言って、「引き延ばしのほうがいいでしょう。それを説明しましょう。」Kはうなずいた。画家はゆったりとうしろによりかかり、はだけた寝巻きの合わせ目に手をつっこんで、胸や脇の下をなでていた。「引き延ばしというのは……」とそこまで言って、なにか的確な表現を探しているように、ぼんやり前方を見つめた。「引き延ばしというのは訴訟がいつまでも最初の段階でとどめられていることです。このためには被告や協力者、ことに協力者が裁判所とたえず個人的な接触をたもちつづけることが必要です。くりかえし申しますが、この場合、仮の放免のときほどの労力はいりません。しかし、それにもました神経のつかいかたが必要です。訴訟から目を離してはいけません。裁判官のところへは、たびあるごとに行って、十分歓心を買っておかねばなりません。個人的に知りあっていない場合は、自分が知っている裁判官に話してもらって、しかも、会わずにすますというようなことがあってはなりません。この点でぬかりがなければ、訴訟を最初の段階からさきに進ませないことは、ほぼ確実にやってのけられましょう。訴訟はおわりません、被告人は宣告がないままにいつまでも無罪同様の身の上でおれるのです。この引き延ばしは、仮の放免とちがって、被告人の暮らしを不安定にしないのが取柄です。突然の逮捕を心配する必要がなく、仮の放免にはつきものの、時ならぬ緊張や興奮を強いられることもありません。こうはいっても、引き延ばしにも被告にとって不利な点があるにはあるので、それを見のがすわけにはいきません。被告がいつまでも無罪になれないことばかりではありません。それなら仮の放免だって同じわけですから。そうではなくて、もっと別な欠点です。だいたい、訴訟がある一定段階を出ないためには、なにかそれなりの理由がなければなりません。表面だけでもなにかしら起こっていなければならないのです。さまざまな通達が出されなければなりません。被告人の喚問や訊問がくりかえしおこなわれます。こうして訴訟は、人為的につくられた輪のなかで堂々めぐりをはじめるわけです。被告人にとってはまったくやりきれないことです。しかし、あまり心配なさるにはおよびません。どれもこれもおもてむきだけなのですから。早い話、訊問といっても簡単なものです。ひまがなかったり行きたくなければ断わることもできます。これからさきの指令について裁判官とあらかじめうちあわせておくこともできます。要は、被告である以上、ときおり裁判官のもとに出頭するということだけです。」
まだ話のおわらないうち、Kは上着を腕にとって立ちあがった。「立ちあがったわよ!」とそとで声がした。「もうお帰りですか?」と画家も中腰になってたずねた。「ここの空気がやりきれなくなったのでしょう。残念です。まだいろいろとお話し申したいこともありましたのに。ごくあらましだけしかお話できませんでしたが、おわかりいただけたと思います。」「わかりました」とKは答えた。あまり緊張して画家の話を聞いたため、頭痛がしていた。画家は、帰ってゆくKに慰めをあたえることにでもなると思ったのか、あらましだけだったという話にまたしめくくりをあたえて、「あとふたつの方法は判決を下させないという点で共通してます」と言った。「しかも、真の無罪判決まで下させないことにしてしまうのでしょう?」こんなことにまで気がついて恥ずかしい、というようにKは言った。「そういうことにもなります。」画家はあわてて言った。
Kはオーヴァーに手をのばしたが、まだ上着さえ着ていなかった。できることならこのまま、手にすべてをひきつかんで、新鮮な空気のなかに駆けだしたかった。女の子たちが口々に、あのひといま服を着るわよ、とせっかちな叫び声をあげていたが、依然服を着る気にはなれなかった。画家はKの胸中をなんとか探りたいらしく、「わたしの申しあげたことでまだ決心がついておられないようですが、無理もありません。わたし自身、すぐに決心なさるようにとはお勧めしません。それぞれ一長一短があるのですから、十分お考えねがわねばなりません。といって、あまりいつまでも考えておられるのは感心できませんが。」「また今度来ます。」Kはこう言うなり上着を着こみ、オーヴァーを肩にひっかけて、ドアにむかった。そのむこうがわで女の子たちがまた叫びだした。叫んでいる様子がドアごしに見えるようだった。「ぜひそうなさってください」と画家はあとをついてこようともせず、言った、「さもなければ、こちらから銀行にうかがいます。」「鍵をあけてください。」把手《とつて》をまわしたときの反応で、女の子たちがそとからおさえているのがわかった。「女の子たちに邪魔されますよ」と画家が言った、「むしろこちらのドアから出られたほうがいいでしょう。」ベッドのうしろのドアを指さした。Kはとびのいてベッドのところにひきかえした。しかし画家はドアをあけるでもなくベッドのしたにもぐりこむと、そこからこう言った、「ちょっと待ってください。わたしの描いた絵をもう一枚見ておゆきになりませんか。おゆずりしてもかまいません。」あまりすげなくもできない、とKは考えた。画家はかれの願いをききいれ、今後の協力を約束してくれたのだ。それに、うっかりしていて、謝礼のことをまだ話していなかった。アトリエをとびだしたいのはやまやまだったが、画家の絵を見ていくことにした。画家はほこりのたまった、額縁のない絵をひとかさねベッドのしたからとりだした。一番上をふっと吹くと、ほこりが濛々《もうもう》と立ちのぼって、Kは息もできないほどだった。「荒野の風景です。」そう言いながら画家は絵をさしだした。ひょろひょろとした木が二本、はなればなれに暗い草むらのうえに立っている。背景は多彩な日没風景だった。「きれいですね」とKは言った。「いただきましょう。」あまり簡単すぎたかとも思ったが、画家が気にする様子もなく次の絵をとりだしたので、ほっとした。「これはまえの絵と対《つい》です」と画家は言った。どこが対なのか、まえの絵とまったく同じであった。ここに木があり、草むらがあり、むこうに日没がある。Kにはもうなんでもよかった。「きれいな風景ですね。ふたつとも、いただいてオフィスにかけましょう。」「モティーフがお気にいりのようですね」と画家は言いながら三つめの絵をとりだして、「ちょうどいい案配に、似たようなのがもうひとつありました。」似ているどころかまったく同じ絵だった。画家は昔描いた絵を売りつけているのだ。「それもいただいておきましょう」とKは言って、「三つでいかほどですか?」「そのことは今度にしましょう」と画家が言った、「おいそぎのようですし、これっきりのご縁でもないのですから。それにしても、気にいっていただいてうれしいかぎりです。この下になっている絵も全部さしあげましょう。どれも荒野の風景ばかりです。これまでに何枚となく描いてきました。こういう絵は陰鬱だから、と嫌うひともありますが、あなたのように気にいってくださるかたもあって。」いまさら画家の体験談を聞く気はしなかった。「みんなつつんでおいてください。」画家の話をさえぎりながらKは叫んだ、「あす使いのものがとりにきますから。」「いや、その必要はありません」と画家が言った。「じきに運搬人をやとって、おともさせます。」ベッドのむこうに身をかがめるとやっと鍵をあけた。「かまいません。ベッドのうえにのってください。みなそうするんですから。」Kはいわれるまでもなくそうしていただろう、現に片足は、ベッドのまんなかにかけられていた。あけられたドアのむこうを見て、足をひっこめた。「あれはなんですか?」と画家にたずねた。「なにをおどろいておられるのです?」むしろ画家のほうがおどろいてたずねた。そして、「ああ、裁判所事務局ですよ。ここにあることをご存知なかったんですか? 裁判所事務局はどこの屋根裏にもたいていありますから、ここにあったって別に不思議はないでしょう。わたしのアトリエも、もとをいえば裁判所事務局の一部で、わたしはそれを借りているにすぎないのです。」こんなところにまで裁判所事務局があったのかとおどろくより、自分はなんと裁判所の事柄について知らないのかと、そのうかつさにKはおどろいていた。Kはこれまで被告の心構えとして、つねに心の準備ができていること、決してあわてないこと、右をむいているとき左がわに裁判官がいてもおどろかないこと、などを信条としてきたのだったが、実際は、それに反してばかりだった。正面には長い廊下がのびていた。そこからただよってくる空気にくらべれば、このアトリエのなかの空気のほうがまだ新鮮なくらいであった。Kの事件を受けもっていた裁判所事務局と同様に、ここでも廊下の両がわにベンチがおかれている。事務局の施設はどこでもきまっているらしい。いまの時間、当事者たちの出入りはあまりなかった。ひとりの男がベンチに体をくずし、顔を腕にうずめていた。眠っているのだろう。廊下のつきあたりの薄暗がりのなかにももうひとり男が立っていた。Kがようやくのことでベッドをのりこえると、画家も絵をかかえて後にしたがった。やがてひとりの廷吏に出あうと――私服のボタンにまじってついている金ボタンで、どんな廷吏でも見わけられるようにKはなっていた――画家はその廷吏に絵をもってKのおともをするようにいいつけた。Kはハンカチを口におしあて、歩くというよりはよろめく調子で進んでいった。出口のすこしまえに来ると、あの女の子たちがどっとおしよせてきた。さけることはできなかったのだ。女の子たちは、反対側のドアがあいたことに気がついて、ひとめぐりしてこちらがわに駆けつけたらしい。「もうご一緒できません!」女の子たちにとりまかれながら画家が笑ってこう叫んだ、「では、ご機嫌よう! あまりいつまでも考えておられないように!」Kはふりかえりもしなかった。外に出ると、出あいがしらに来た馬車をとめた。廷吏の金ボタンがKにはことのほか目ざわりで、はやく追いはらってしまいたかった。廷吏はお役目大事とばかり馭者台にまでのぼってこようとしたが、Kはついに追いかえした。銀行のまえに馬車がつくと、時間は正午をとっくにすぎていた。絵は車のなかに置きざりにしたかったが、このつぎ画家に会ったときに、あれはどうしたときかれるのがつらさに、やむをえず事務室のなかにはこびこませた。すくなくともここ数日間支店長代理の目をかすめておくために、机の一番下の引き出しにしまいこんだ。
第八章 商人ブロック・弁護士解約
弁護士を断わってしまおう、という決心がついに固まった。それがはたして賢明な行為であるかどうかについては疑いがのこったが、そうしないではいられない気持のほうが強かった。弁護士のところへ行こうと決めた当日、この決心がKの仕事の手をにぶらせて、いつまでも銀行に残っていた。弁護士の家の戸口に立ったときには、すでに十時をまわっていた。ベルを押しながらも、電話かあるいは手紙で通知したほうがよかったのではないか、面とむかっての解約では不都合なことになりはしないかと考えていた。それでもKはとりやめようという気にはならなかった。ほかの方法で通告したのでは、返事はかえってこないか、よくて、ただ二三言形式的に書いてよこすだけだろう。そうすれば、レーニの偵察でもないかぎり、弁護士がこの解約通知に対してどのような反応をみせたか、またこのような解約は、弁護士のけっしてばかにならない意見によれば、どのような結果を生むことになるのか、ついにわからずじまいになるだろう。だがもし、Kが弁護士に面とむかいあって話しあうことになれば、おどろいた弁護士がつとめて平静をよそおっても、Kの知りたいことは、その顔つき、その挙動からたやすく読みとれるだろう。そればかりか、弁護はやはり弁護士まかせにしたほうがいいと説得されて、解約通告を引きさげるといった場合も十分に考えられた。弁護士の部屋のベルを鳴らしても、最初は例のごとく反応がなかった。「レーニはなにをぐずぐずしているのだろう」とKは考えた。しかし、今度の場合、例の寝巻き姿の男のようなわずらわしい相手がいないだけでもましだった。Kはもう一度ベルを押しながら他のドアを振りかえってみた。きょうは閉まったままだった。ようやく弁護士のドアの覗き窓に二つの目があらわれたが、それはレーニの目ではなかった。何ものかが鍵をあけたが、ドアは押えたまま奥の部屋に向かって、「かれだ!」と叫んだ。それからはじめてドアを開けた。Kはこの時までドアを押しつづけていたが、それは他の部屋でドアの鍵があわててまわされているのが聞こえたからであった。ドアが開かれるやかれは控え室に飛び込んだ。するとドアを開けた男の叫び声を聞きつけたレーニが、部屋の間の廊下を肌着のまま走りぬけるのが見えた。Kはその後を見つめていたが、やがて振りかえってもう一度男のほうを見た。顎ひげをはやした小柄で貧弱な男で、片手に蝋燭を持っていた。「あなたはこの家に雇われているのですか?」と、Kはきいた。「ちがいます」と、男は答えて、「わたしはここのものではありません。弁護士はわたしの代理人で、ある事件のために、わたしはここに来ているのです。」「上着も着ないで?」とKはたずねて、男の上着なしの服装を指さした。「ああ、これは失礼!」と、男はいって、はじめて自分の身なりに気がついたように、蝋燭で自分を照らしてみた。「レーニはあなたの恋人ですか?」と、Kはいきなりたずねた。かれは足を心もちふんばり、帽子を持ったまま手をうしろで組んでいた。Kは上等のオーヴァーを着ていることだけでも、このやせた小男に対して優越感をおぼえていた。「とんでもありません。」男はおどろいて、片手をさえぎるように顔のまえにあげた。「そんなことあるはずがないじゃありませんか。なにをおっしゃるのです?」「なるほど」とKは微笑をうかべながら言って、「それにしても。まあ、いらっしゃい。」帽子で合図して、先に歩かせた。「名前は?」と、途中でたずねてみた。「ブロックです。商人のブロックといいます」小男はそう言いながらKのほうをふりかえり、立ちどまろうとしたが、Kはそうはさせなかった。「本名ですか?」ときいてみた。「本名ですとも」と男は返事をして、「どうしてまたお疑いになるのですか?」「本名は都合がわるくて言わないのじゃないかと思ったものですから。」とKは言った。かれは実にのびのびとした気分だった。こんな気分は、どこか旅先の土地で身分のひくい連中と話しあっているときにしか、味わえないだろう。自分のことは棚にあげて、もっぱら相手に関することばかりを、おだてたり、やっつけたりしながら、まくしたてるのである。弁護士の書斎のドアのそばを通りかかると、Kは立ちどまってそのドアをあけた。「そういそがないで! ここをちょっと照らしてみてください」と、まっすぐ先に進んでゆこうとする商人に呼びかけた。レーニが隠れているかもしれないのだ。しかし、男にどこを探させても、部屋はからだった。裁判官の絵のまえのところで、Kは男のズボンつりをうしろからつかんで、ひきとめた。「この人物を知ってますか?」と言って、人さし指でしめした。商人は蝋燭を高くかかげ、目をしばたたいて見あげながら、「裁判官でしょう?」と言った。「偉い裁判官でしょうかね?」とKはたずねて、男が絵からどんな印象を受けとったかたしかめようとして、男の斜めまえに進み出た。男は上をむいたまま見とれていた。「偉い裁判官でしょう」とかれは答えた。「いや、見当はずれですよ」とKは言って、「身分がひくい予審判事のなかでも最下等の判事です。」「ああ、思いだしました」と商人は言って、かかげていた蝋燭を下げて、「わたしも一度、そんなことを聞いたことがあります。」「そりゃあ、もちろん」とKは大声になって、「聞いたことがあるはずですよ。聞かなかったはずがない。」「なぜです、なぜです?」商人はKの手にうながされてドアのほうに身をうつしながらたずねた。廊下に出るとKは、「あなたはレーニがどこへ隠れたか、ご存知なんでしょう?」ときいた。「隠れた?」と商人は言って、「そんなことはありませんよ。台所で弁護士に飲ませるスープをつくっているにちがいありません。」「なぜそれをもっと早く言わなかったんです?」とKは言った。「お連れしようとしたのに、あなたが呼びとめられたものですから。」商人はどうしたらいいのかわからないといったふうに答えた。「うまくやったと思っているんでしょう」とKは言って、「じゃあ、連れていってください!」Kはまだ台所に行ったことがなかった。ひろびろとした、設備の行きとどいた台所だった。調理台だけでも普通の三倍はある。その他のところは、入口にとりつけられたランプが小さすぎるため、はっきりとは見えなかった。レーニはいつもの白いエプロンをつけて調理台のまえに立ち、アルコールランプにかけた鍋に卵をわったところだった。「今晩は、ヨーゼフ。」横目で見ながらレーニは言った。「今晩は。」とKは答えて、商人に手ぶりで、離れたところにある椅子にすわっているように言った。商人はそこにすわった。Kはレーニのまうしろに行って肩ごしにのぞきこみ、「あの男はだれ?」とたずねた。レーニは一方の手をKにまわし、もう片方はスープをかきまわしたままで、Kをひきよせながら、「かわいそうなひとなの。ブロックとかいう、貧乏な商人なの。あそこでなにをしているのかしら?」ふたりはふりかえってみた。商人はKに言われた椅子に腰かけ、もういらなくなった蝋燭をけしたあと、燈心を指でおしつぶして煙が立ちのぼらないようにしていた。「きみは肌着のままだったじゃないか?」とKは言って、手でレーニの頭を調理台のほうにむけなおした。レーニは黙っていた。「あの男はきみの恋人ででもあるのかい?」とKはたずねた。レーニはスープの鍋のほうに手をのばそうとしたが、Kはその両手をとらえるなり、「さあ、答えろったら!」するとレーニは、「書斎に行きましょう。みんな説明しますわ。」「だめだ。」とKは言って、「ここで説明しなければだめだ。」レーニはKにまつわり、接吻しようとした。Kはそれをはねのけて、「いま接吻なんかしてもらいたくもない」と言った。「ヨーゼフ」とレーニは言って、Kの目を哀願するように、しかし悪びれずに見て、「あなた、まさかブロックに焼き餅をやいているんじゃないでしょう?――ルーディ」こう言うなり、商人のほうにむきをかえた、「なんとか言って頂戴。わたし、このとおり疑われているんですから。その蝋燭はもうやめにして。」男は一見聞いていないようだったが、その実、すべてを聞きとっていて、「このわたしにも、あなたがどうしてそんなに焼き餅をやくのかわからないのです」と言った。あまり効きめのある助け舟ともいえなかった。Kは商人を見て苦笑しながら、「わたしにだってわからないのですからね」と言った。レーニが大きな声をたてて笑った。ちょっとした隙を見て、Kの腕にすがりつき、小声で、「もうあんなひとのことはほっておいて。たいした男じゃないことは見てすぐおわかりでしょう。わたしがあのひとにかまったのは、あのひとが弁護士の大切なお客さまだからなの。ほかに理由はありませんわ。で、あなた、きょうはこんなにおそく、弁護士に会いにいらしたの? 弁護士さんはきょうはとても具合がおわるいんですけど、どうしてもといわれるならお取りつぎします。今晩はわたしのところにおとまりになるのがいいわ。きっとよ。こちらへは随分長いあいだおみえにならなかったわね。弁護士さんもあなたのことをきいていましたわ。訴訟のことをほったらかしにするのはよくありませんよ。わたしもこれまで聞いたことでいろいろあなたにお伝えすることがあります。でも、まずオーヴァーをおぬぎになって!」レーニは手伝ってKのオーヴァーをぬがせた。帽子も受けとって控え室に走っていき、それらをかけおわると、すぐにまたスープのところにまいもどった。「あなたをお取りつぎするのと、スープを持っていくのと、どちらを先にしましょう?」「取りつぎを先にしてもらいたい」とKは答えた。Kは不機嫌だった。もともと解約の件については問題もあるので、あらかじめレーニと話し合いをしておきたいと思ったのだが、商人がいるまえでは、その気にもなれなかった。しかし、その問題がこんな小商人などよせつけないほど重要であることに思いいたると気をとりなおして、すでに廊下に出ていたレーニを呼びかえして、「スープが先でいいよ」と言った、「まず元気をつけてもらって、それからの話し合いだ。」「あなたもやはり弁護士のお客さんですか?」部屋のすみから商人が小声で確かめるように、こうきいた。Kは無愛想きわまる返事をした。「それがどうしたのです?」レーニも口をさしはさんで、「あなたは黙ってらっしゃい――それでは、スープを先に持っていってきますわ」と、あとのほうはKにむかって言い、皿にスープをついだ。「でも、スープを飲みおわると眠ってしまわないか心配ですわ。いつもそうなもんですから。」「こちらの話を聞けば眠れなくなるさ」とKは答えた。このような思わせぶりを言って、レーニに弁護士との話し合いが重大なものであることを気《け》どらせたかった。レーニがきいてくれれば、事情をうちあけて話すこともできる。しかし、レーニは、実際、Kに命じられたままを几帳面に果たしただけだった。皿を持ってKのそばを通りざま、わざとKにぶつかったふりをして、小声で、「弁護士さんがスープを飲んでしまったら、すぐお取りつぎしますわ。早くわたしのところに来ていただきたいんですもの。」「いいから、早く行くんだ」とKは言った、「早く行けといったら。」「もうすこしやさしい口をきいてくださいな」とレーニは言って、皿を持ったままドアのまえでくるりと、振り返ってみせた。
Kはレーニの後ろ姿を見送っていた。弁護士を断わってしまおうという決心が確乎となった。レーニと話しあえなかったのはかえってよかったかもしれない。レーニは事柄に対する見さだめがついていないのだから、きっと思いとどまるように言っただろうし、そうなればKもそれに従ったかもしれない。そうするときっとまた、狐疑逡巡《こぎしゆんじゆん》におそわれただろう。腹の底は断わりたいのが本心なのだから、結局は断わることになっただろうが、どうせ断わるなら今のうち早いほうがいい。ところで商人はなんと言うだろう?
うしろをふりかえると、商人はあわてて立ちあがろうとした。「どうぞ、そのままで」とKは言って、自分から椅子を男のほうにひきよせていった。「弁護士とはもう長いのですか?」とたずねた。「ええ」と商人は答えて、「もうかなりになります。」「なん年ぐらいですか?」「どうお答えすればいいかわかりませんが」と商人は言って、「仕事上の法律問題では――わたしは穀物商をやっています――商売をはじめて以来ですから、もうかれこれ二十年になります。わたし自身の訴訟では――こちらのほうをおたずねだと思いますが――やはりはじまったときからで、五年……そう、まる五年以上になります。」こう言いながら、懐から古い手帳をとりだした。「ここにみんな書きつけてありますから、正確な日付けをお教えすることもできます。これだけを全部、頭におぼえておくということはちょっとできませんからね。ええと、わたしの訴訟は五年よりは長いらしい……妻の死んだすぐあとからはじまってますから、もう五年半以上になります。」Kは商人のそばに身を近づけた。「弁護士は普通の法律相談もとりあつかっているんですか?」裁判と法律相談とを兼ねあわせてやっているとなれば、なにかひどく信頼がおける気がKはした。「そうですよ」と商人は言って、声をひそめて、「あの弁護士には法律問題が一番向いている、というひともあります。」しかし、商人はいま言ったことをすぐに後悔したらしく、Kの肩に片手をおいて、「これは秘密にしておいてください。」「大丈夫、言いはしませんよ。」Kは男の膝をたたき、安心させるように言った。「あの弁護士はとても執念ぶかいものですから」と商人は言った。「でも、あなたぐらい誠実な依頼人でしたら大丈夫でしょう。」「それがどうして」と商人は言って、「いったん怒りだすと、だれかれの見境いがないのです。それに、わたしのほうも、そう誠実ではありません。」「それはまたどうしてです?」とKはたずねた。「どうしてもお聞きになりたいですか?」と商人はためらうように言った。「別にかまわないでしょう」とKが言うと、商人は仕方なさそうに、「それではお話しましょう。ただし、一部分だけです。それから、弁護士に対してなにも言わないという約束として、あなたもひとつ秘密をうちあけてくださらなければいけません。」「随分用心ぶかいんですね」とKは言って、「まあいいでしょう。それを聞けばあなたがすっかり安心するというような秘密をひとつ、うちあけましょう。ところで、あなたが誠実でないというのは、どうしてなんです。」「それというのは」商人はなにかひどく不名誉なことでも言うように、ためらいながら、「わたしはあの弁護士のほかにも、まだほかの弁護士たちについているのです。」「それならそうわるいことでもないじゃありませんか。」Kはすこし気おちがして言った。「ところがここではいけないのです。」商人は秘密をうちあけたあとも息苦しそうにしていたが、Kにそう言われて、ほっと気がやすまったように言った。「それは許されていないのです。普通の弁護士のほかに、もぐり弁護士をやとうなど、もってのほかだというのです。わたしはこの禁を犯しています。しかも、あの弁護士のほかに五人、もぐり弁護士がいるんです。」「五人?!」その数にまずおどろいて、Kは言った、「弁護士のほかにまだ五人ですか?」商人はうなずいた。「目下、六人目と交渉中です。」「またどうして、そんなに弁護士がいるんです?」とKはたずねた。「そのわけを教えてください。」「かしこまりました」と商人は答えて、「まずなによりも訴訟に負けたくないということ、これは当然です。この目的のためにすこしでも役にたちそうなことがあれば、見のがすわけにはいきません。ほとんど見こみがなさそうな場合でもやってみるのです。だからわたしは、自分の持てるかぎりをこの訴訟につぎこみました。たとえば、商売からは全資金をひきあげて、以前はひとつの階全部を占めていたわたしの店も、いまではその裏手の奥まった小部屋をつかっているにすぎませんし、従業員も丁稚《でつち》とわたしのふたりだけです。これほどおちぶれたのは、なにも資金の減少ばかりが原因ではないので、それ以上に重要なのは、わたしの活力の減少です。訴訟に集中すると、ほかのことをやっているひまはありませんからね。」「とすると、ご自分で裁判所に出むいているわけですか?」とKはきいて、「その点をまさにおききしたいのですが。」「お話するほどのことでもありませんが」と商人は言って、「はじめのうちこそそうもやっていたのですが、すぐにやめてしまいました。疲れるばかりで、成果はあまりあがらないのです。裁判所に出むいていっていろいろな折衝をおこなうことは、すくなくともこのわたしには、とても無理なことだとわかりました。あそこでは、すわって待っているだけでも大変ですからね。あなたも事務局の濁った空気はご存知でしょう。」「わたしが事務局へ行ったことをどうしてご存知なんです?」とKはききかえした。「わたしが待合室にいたとき、ちょうどあなたが通っていかれたのです。」「それは奇縁だ!」とKはおどろいて叫び、商人を軽くあしらっていたことも忘れてしまった、「あのときごらんになっていたのですか! わたしが通っていったとき、待合室におられたのですか! ええ確かに、一度行ったことがありますよ。」「奇縁というほどでもありません」と商人は言って、「あそこにはほとんど毎日行っているのです。」「わたしもこれからはよく行くことになるでしょう」とKは言って、「でももう、あのときほど丁重には迎えてはもらえないでしょう。なにしろ裁判官だと思われて、いっせいに起立されたんですから。」「それはちがいます」と商人が言った、「あのとき起立したのは廷吏に対してなのです。あなたが被告だぐらいはとっくにわかっていました。それぐらいの知識はすぐにひろまるのです。」「すると、わかっていたのですね。それじゃ、わたしの態度はとても傲慢にとられたでしょう。そのようなことをみんなが言っていませんでしたか?」「言いはしません」と商人は打ち消して、「むしろ反対です。といっても実につまらないことですが。」「なんのことですか、いったい?」とKはたずねた。「おたずねになってどうしようというのです?」商人は怒ったように言って、「あなたはあそこのみんなに理解がおありにならないから、わたしが申すこともまちがっておとりになるでしょうが……いろいろと裁判手続きをやっていると、どうしても、もうそれ以上は理解のおよばない出来事につきあたるものなのです。たびかさなるうちに、だれしもが疲れきって、気持が一箇所に集中できないままに、ついには迷信に頼ったりするようになるのです。他人のことをこんなふうにしゃべっていますが、わたし自身だってさしてかわりありません。ところで、そのような迷信のひとつに、訴訟の成否は被告の顔、ことにその唇の様子からわかる、というのがあります。で、みんなが言っていたことには、あなたの訴訟は、あなたの唇から察すると、有罪の判決でおわるだろうというのです。さきほども申しましたが、こんなことは実につまらないことで、実際とはまるでちがうことが多いのですが、なにしろあのようなグループに属していると、そういった迷信を信じてしまいたくなるのです。この迷信の威力は実におそろしいばかりです。あなたはあのとき、あの場にいたひとりに声をおかけになりましたね? するとその男はあなたに返事ひとつできませんでしたね。そりゃあ、いろいろ事情があってうろたえてしまったのでしょうが、そのひとつは、あなたの唇を見たことにもあるのです。男があとで語っていたところによると、かれはあなたの唇のうえにかれ自身の有罪宣告を読んだ気がした、というのです。」「わたしの唇のうえに?」とKはききかえして、携帯用の手鏡を出してみた。「なにも変わったところはないじゃありませんか。あなた自身はどう思われます?」「わたしも同意見です」と商人は言って、「特に変わったところは見うけられません。」「なんて迷信ぶかい連中なんだろう!」とKは叫んだ。「だから言ったじゃありませんか」と商人が言った。「いったい、その連中はそんなにしょっちゅう行き来をして、意見を交換しあっているのですか? わたしはまるで知りませんでしたが。」とKはたずねた。「ふつうにいえば、そんなことはありません」と商人は答えて「人数も多いのですから、そんなことができるはずはないのです。それに、おたがいの利益が一致するなどというのも、めったにありません。よくそのような考えが、ある特定のグループにおこりますけど、たいていはあやまりだったとわかります。裁判所に対して、共同であたるということはまずありえません。事件は、ひとつひとつ独立に審理されるのでして、その点ではまったく慎重な裁判所です。そういったわけで、共同で事にあたるといったことはまずできないのです。ただし、個人個人が成功をおさめたという例はあります。しかしその場合にしても、他のものがそれを知るのはずっとあとになってからですから、それをどのようにしてやったのかは、まったくわからないのです。こうしたわけで、共同などということはありえません。待合室で、三々五々あつまることはあっても、相談はまったくといっていいほどおこなわれません。迷信的な考えが行きわたっているのは昔ながらで、それがだんだんに数をましているのです。」「みんなが待っているのを見ましたが」とKは言って、「むだに見えました。」「待つことはむだではありません」と商人が言った、「むだなのは自分勝手なふるまいをすることです。さきにも申しましたが、わたしはここの弁護士のほかに、五人の弁護士を頼んでいます。そんなにたくさんいればかれらにすべてまかせきりにできるだろう、とお思いになるでしょうが――わたしもはじめ、そう思いました――実際はさにあらずです。ひとりだけに頼んでいたときより、もっとわるいぐらいです。これはおわかりになれないと思いますが。」「わかりません」とKは言いながら、商人の話があまりに早いのをとめようと、そっといたわるように、自分の手を相手の手の上にもっていった。それから、「すみませんが、もうすこしゆっくり話していただけませんか。わたしにとっては重要な事柄ばかりですが、あまりに早くてついていけませんから。」「ああ、そうですか。かしこまりました」と商人は答えて、「あなたはまだ訴訟をおはじめになったばかりでしたね? まだ新しいんですね? 半年にもならなかったと思いますが? そうでしたね? なんて新しいんでしょう! わたしは自分の事柄についてもうなん百遍となく思いめぐらしていて、こんな事柄はあたりまえになっているのです。」「でも、もうそこまで訴訟が進んでいていいですね。ご自分でもうれしく思っておられるでしょう?」訴訟そのものの状態についてはたずねることはやめた。商人もはっきりしたことは言わないで、「そうです。もう五年にもなります。」そう言って首をたれた、「簡単なことじゃありません。」それからはもうなにも言わなかった。Kはもうそろそろレーニが帰るころだがと思って耳をすませた。反面、まだ帰ってきてくれないほうがいい、とも思った。商人とこのように話がはずんでいるときに、邪魔をされたくなかった。聞きたいことがまだまだたくさんあった。だがまた一方では、レーニは自分がここに来ていることを知っているのに、どうしてもっと早くひきかえしてこないのか、といらだってきた。スープを持っていくだけでそんなに時間がかかるはずがない。「そのころのことをまだおぼえています。」商人がこう口をひらいたので、Kはまた気をとりなおした。「まだあなたの訴訟ぐらいしか時期がたっていないときでした。弁護士はあの弁護士ひとりでしたが、わたしは満足できませんでした。」これはいいことを聞けるぞ、とKは思った。首をしきりに縦にふりながら、そうでもすれば商人が、大切なことをみなしゃべってくれるような気がしていた。「わたしの訴訟は」と商人は続けた。「当時、すこしも進捗していませんでした。審理はあるにはありました。わたしは毎回それに出席し、資料を蒐集し、帳簿は全部裁判所に提出しました。もっともあとで聞くと、そんなものは必要じゃなかったらしいのですが。弁護士のところにもしょっちゅう出むいていました。弁護士は訴願をいろいろと書いてくれて――」「訴願をいろいろと、ですって?」とKはたずねた。「そうです、訴願です」と商人は答えた。「それは切実な問題だ」とKは言って、「わたしの場合、弁護士はまだ最初の訴願も書いてくれていないのです。まだなにもやっていないのです。これで怠慢なことがはっきりしました。」「訴願が書きあげられていないのは、いろいろ事情があるためかもしれません」と商人は言って、「わたしの場合、訴願はまったくむだであったことが、あとでわかりました。ある役人の好意でそのうちのひとつを見せてもらったのですが、麗々しいだけで、中味はまるでないものでした。なによりも、わけのわからないラテン語がいたるところで、裁判所に対する一般的な調子のよびかけが延々数ページにもおよんだあと、はっきりと名前こそ書いてありませんが、当事者にはだれのことだかすぐわかる役人たちへのお世辞をたらたらと書いて、その次に弁護士の自讃――しかもかれ自身は裁判所に対して犬のようにへりくだっているのです――そして最後にやっと、昔からの事件のなかでわたしの事件に似たものの吟味、といった具合なのです。もちろんこれらの事件の吟味は、わたしにたどれる範囲内でも、なかなかよくできていましたし、それになにも、以上申したことばかりで弁護士の仕事を判断しようというのではないのですが――訴願はたくさんのなかのひとつです――でもやはり、当時の訴訟にはなにひとつ進展が見られなかった、と申しあげざるをえません。」「どういう進展があればよかったのでしょう?」とKはきいてみた。「ごもっともなおたずねです」と商人はほほえんで言った。「ここの訴訟に、進展などというものはありえないのです。ところが当時わたしはまだそれを知りませんでした。商売人の気質上――当時はいまよりずっと商売人でした――訴訟の進展をはっきりとつかみたかったし、できれば終結のきざしが見えるとか、漸次《ぜんじ》解決に近づいているとか、してもらいたかったのです。ところが実際はそうはうまくはいきませんでした。似たりよったりの取り調べが、くりかえし続けられるだけでした。それに対する答えかたも連祷《れんとう》の文句のようにおぼえてしまいました。裁判所の使いが週になん度も、わたしの店、わたしの家、そのほかどこでもわたしに会えるところにやってきました。迷惑千万でした。(いまなら電話があって、それで呼びだしてきますから、ずっと便利です。)わたしが裁判を受けているという噂が商売仲間のあいだにも、いや、とりわけ親戚のあいだにひろまりました。いろいろな中傷沙汰がおこります。しかも訴訟のほうは、最初の法廷審理がおこなわれるという徴候さえあらわれないのです。わたしはこのことで弁護士のところへ文句を言いに行きました。すると弁護士が長ながと説明して言うには、そのようなことは断じてできない、法廷の日取りをきめるなんて、なにびとにもできないことだ、あなたは訴願のなかでそれを要求するようにと言われるが、そんなことは前代未聞だし、あなたもわたしも身をほろぼしてしまうだろう、と言うのです。それならそれでいい、とわたしは考えました。この弁護士がやれないか、やりたくないなら、ほかの弁護士ならやってくれるだろう、と。そこで、ほかの弁護士たちにあたってみました。結論を先に申しあげますが、かれらのだれひとりとして、審理の日取りを決めるとか、決めるよう要求するとか、できたものはありませんでした。それにはわけがあるのですが、またあとでお話しましょう。ともかく、この点では、弁護士の話は嘘ではなかったのです。けれどもわたしは、ほかの弁護士たちに頼んでみたことを後悔してはいません。もぐり弁護士たちについては、フルト弁護士からいろいろお聞きになったでしょう。ずいぶん軽蔑的な口ぶりでかれらのことを話したことと思いますが、それは確かにそうなのです。ただひとつ、弁護士がかれらのことを話していて、かれらと自分とは別だと言うとき、そこにちょっとした考えちがいが入りこんでいることを忘れてはなりません。弁護士は自分たちを区別するのに、自分たちは『大弁護士』であると言うのですが、これはまちがっています。めいめいそう称するのはもちろん勝手です。しかしこれは、結局のところは、裁判所の慣習によるべきなのです。それによりますと、もぐり弁護士がいるほかに、また別に大弁護士と小弁護士がいるのです。フルト弁護士はほかの仲間たちと一緒に小弁護士に属しています。大弁護士というのは、わたしはこれまでその呼び名を聞いただけで会ったこともありませんが、偉いことでは、小弁護士ともぐり弁護士との差とはくらべものにならないぐらい、小弁護士より偉いのです。」「大弁護士というのは」とKは言った。「いったいどういう人物たちなのです? どうやったらかれらと近づきになれるんですか?」「ご存知なかったようですね」と商人は言って、「一度かれらのことを聞いた被告人で、ある時期の間かれらに会いたいと思いつづけないものはないようです。あなたもその迷いにおちこもうとしておられるようですが、そんなことがあってはなりません。大弁護士がどのような人物たちであるのかわたしは知りませんし、わたしたちにとって、かれらに近づくことはおそらくできないのです。大弁護士たちが依頼されて登場した事件というものを、わたしはまだ知りません。かれらはたしかに弁護士ではあるのですが、こちらから依頼してもだめで、かれらみずから引き受ける弁護しかしないのです。しかもその扱う事件といったら、下級の裁判所では扱わない、ずっと程度の高いものであるらしいのです。いずれにしても、こんな大弁護士のことはあまり考えないほうがいいでしょう。さもないと、ほかの弁護士たちとの交渉、かれらから受ける助言、援助のたぐいが、ことのほか無益でいとわしいものに思われてきます。なにもかもなげすてて、家でベッドにでも寝そべっていよう、われ関せずの態度でいよう、という気持にもなってしまいます。これはわたしの体験からも申しあげられることです。しかし、それも長続きはしません。大体が、そういつまでもベッドに落ち着いておれるもんじゃありません。」「すると、大弁護士のことはもうそのころからお考えにならなかった、というわけですか?」とKはたずねた。「そうです。あまり長いことは考えていませんでした」と商人は言って、それでもてれくさそうに笑って、「しかし全然気にならなかったわけではありません。夜はことにそのような考えがこびりついて離れないものです。けれどもわたしは当時、藁にでもすがりたいような気持でしたから、もぐり弁護士たちのところに行ったのです。」
「まあ、こんなところでくっつきあって、なにをしていらっしゃるの?」皿を持って帰ってきたレーニが、戸口のところで立ちどまり、そう叫んだ。Kと商人はたしかにくっつきあってすわり、ほんのわずか身じろぎをしても頭をぶっつけそうな状態だった。商人は小男なところにもってきて、背をまるめてすわっていたので、Kはかれの言うことをすべて聞きとろうとすると、やはり身をふかくかがめなければならないのだった。「もうしばらく待って!」Kはレーニをおしとどめるようにこう言って、商人の手のうえにかさねた手をいらだたしそうにふるわせた。「わたしの訴訟の話をお聞きになりたいと言われるので」と商人はレーニに断わった。「どうぞ、どうぞ、話しておあげなさい」とレーニは言った。商人に対するレーニの口ぶりには、やさしさとなめてかかったようなところが同時にあり、これがKの気にさわった。この商人は思ったよりは見どころのある男なのだ。すくなくともいろいろの経験を持ちあわせていて、それを上手に話すこともできる。レーニはこの男を見そこなっているのだろう。レーニが男の握っていた蝋燭を受けとって、その手をエプロンでふいてやり、ズボンにたれた蝋をひざまずいてかきとってやっている様子をKは苦々《にがにが》しげに見つめていた。「もぐり弁護士のことにまで話が進んでいましたね」とKは言って、その先はなにも言わず、ただレーニの手を商人の膝からおしのけようとした。「なんてことをなさるの?」とレーニは言ってKを軽くたたき、そのまま蝋をとる仕事を続けた。「そうです、もぐり弁護士の話でしたね」と商人は言って、考えこむように額をおさえた。Kは商人を助けようと思って、「藁にもすがりたいような気持でもぐり弁護士のところに行かれたのでしたね?」「そう、そうでした」と商人は言ったが、そのあとが続かなかった。「レーニがいるのでしゃべりたくないのかもしれない」とKは思った。聞きたいのは山々だったが、あまりしつこくしないようにした。
「弁護士には取りついでくれたんだろうね?」とレーニにたずねた。「ええ、もちろんですわ」とレーニは答えて、「お待ちかねですわ。ブロックにはもうかまわないで、あちらにいらっしゃるといいですわ。ブロックとはまたあとでもお話できますものね。このひとはずっとここにいるんです。」Kはまだ行く気がしなかった。「あなたはずっとここにおられるんですか?」と商人にきいてみた。商人自身から返事をききたかった。レーニがそばの商人をまるでないがしろにして話すのは聞きぐるしかった。きょうは、どうしたことか、レーニに対して反感ばかりおぼえている。ところが答えたのはまたレーニであった。「このひとはここで寝《やす》むことが多いんです。」「ここで寝む?」Kは思わず声を大きくしてたずねた。実のところ、自分が弁護士と話しているあいだ、この男にはここで待っていてもらい、それからふたりですぐにでもこの家を出て、忌憚《きたん》のない話をかわしたいと思っていたのだ。「そうですわ」とレーニは言って、「ヨーゼフ。だれでもがあなたみたいに勝手な時間に弁護士のところにとおしてもらえるのとは大ちがいよ。あなたは夜の十一時に病気の弁護士と面会できて不思議そうでもないけれど、ひとの好意に甘えすぎてるんですわ。ひとといっても、ことにこのわたしなんかにですけれど。でも、おかえしはなんにも望んでいなくてよ。ただ、愛してくださればいいの。」「愛する?」とKは瞬間とまどったが、頭のなかではすぐ、「そうだ、おれはレーニを愛しているんだ」と思った。しかしそんなことはおくびにも出さず、「弁護士はこちらが客だから会ってくれるんだよ。そんなことにまでいちいち助けがいるんだったら、一歩あるくごとにお辞儀をして頼まなければならないことになるよ。」「きょうはなんてとっつきがわるいんでしょう。そう思わないこと?」とレーニは商人の方を見て言った。「今度はおれがないもの扱いだ」とKは思った。商人がレーニの気ままに応じて次のように返事をしたので、商人に対してまで腹だたしくなった。「弁護士がこの方をおもてなしするのにはまだほかにもわけがあるんですよ。この方の訴訟はわたしのよりずっと興味があるし、まだはじめのうちだからそれほど複雑にもなっていなくて、手がつけやすいんですよ。いまにみてごらんなさい、様子が変わってきますから。」「おや、おや」とレーニは商人をおかしそうに見つめながら言った、「おしゃべりなひとね! こんなひとの言うことなんか」とKのほうにむかって、「気になさることないわ。このひと、人間はとってもいいんですけど、ただ、おしゃべりなんですの。弁護士さんにきらわれるのもそのせいかもしれませんわ。弁護士さんはご機嫌のいいときじゃないと会おうとなさいませんの。これまで随分骨を折ってみましたが、これだけはどうしても変えられませんわ。取り次いでからやっと三日目にお会いになるということがよくありました。そのくせ、呼んだときいないと、みんなご破算で、またはじめからやりなおしですわ。それでわたし、ブロックに、ここで寝るなら寝てもいいって言ってやりましたの。呼びだしのベルが夜、鳴ったこともありますもの。このごろならもう大丈夫ですわ。でも最近弁護士さんは、ブロックがここにいるってことを知って、せっかく一度呼んだのを、またとりけすことがありますわ。」Kは本当だろうか、というような眼ざしで商人の方を見た。商人はうなずくと、たぶん恥ずかしさのあまり混乱してしまったのだろう、さきほどKと話していたときとおなじようなあけっぴろげな調子にかえって、「そう、弁護士にはだんだん頭があがらなくなりますよ。」「このひとの愚痴は表面だけなのよ」とレーニが言った。「ここに寝られるのがうれしくてたまらないってなんべんも言っていたわ。」レーニは小さなドアのところに近づいていって、それを押しあけた。「このひとの寝室をごらんにならない?」とたずねた。Kがそばに行って敷居のところからのぞきこむと、天井のひくい、窓のない部屋で、幅のせまいベッドひとつで部屋は一杯になっていた。ベッドにはベッドの枠ごしにあがるよりない。ベッドの枕もとの壁にはくりぬきがあって、そこにはやりきれないほどきちんと、蝋燭、インクびん、ペン、それにどうやら訴訟関係のものらしい書類が一束、置かれてあった。「女中部屋に寝ているんですか?」とKはふりかえって、商人にたずねた。「レーニが明けてくれたんです」と商人は答えて、「とても便利です。」Kは商人をじっと見つめていた。この男から受けた第一印象はやはり正しかったのだ。この男は長いあいだ訴訟にかかわりあって経験豊富になっているが、それにはまたいろいろの元手がかかっているのだ。突然、この男を正視できなくなった。「ベッドにお連れしたらどうだ!」とレーニに叫んだが、レーニはなんのことかわからない様子だった。K自身は、早速にも弁護士のところに行って、弁護士を解約することはおろか、レーニやこの商人とも縁を切ってしまいたかった。まだドアのところに近づかないうちに、商人が小声で呼びかけた、「業務主任さん!」Kは怒った顔でふりむいた。「約束を忘れておられますよ」と商人は言って、椅子から嘆願するように身をさしのべた。「秘密をひとつおっしゃる、という約束だったでしょう?」「ああ、そうでした」とKは言って、目を瞠《みは》ってこちらを見ているレーニにも、視線を走らせた。「では聞いてください。もう秘密でもなくなりますが、わたしはこれから弁護士のところに行って、弁護を断わるのです。」「弁護士を断わる!」商人はそう叫ぶなり椅子からとびあがって、両手をあげて台所じゅうをかけずりまわった。なん度もくりかえし、「弁護士を断わる!」と叫びつづけた。レーニはすぐにKにとびつこうとしたが、商人があいだにはまりこんでしまった。レーニは拳骨《げんこつ》で商人をなぐりつけた。同じ拳骨のままKを追ったが、Kはもうとっくに先を行っていた。一歩弁護士の部屋にふみこんだところで、ようやくレーニが追いついた。Kはドアをしめきろうとしたが、レーニは足で邪魔をし、Kの腕をつかんでそとにひっぱりだそうとした。Kはレーニの手首をいやというほど握りしめたので、レーニはついに手をはなした。なかへはいってこようとはしなかった。Kはドアの鍵をかけた。
「随分お待ちしましたよ」と弁護士はベッドから声をかけた。蝋燭のあかりのもとで読んでいた書類をナイトテーブルのうえにおき、眼鏡をかけてKをじろりと見た。Kはあやまるかわりに、「すぐに失礼しますから」と言った。弁護士はKの返事が詫びではなかったのでとりあおうとはせず、「この次のときやはりこんなおそい時刻に来られたら、もうお通ししません」と言った。Kは、「そうしていただければ申し分ありません」と言った。弁護士は怪訝そうな顔つきでKを見ながら、「おすわりください」と言った。「どうしてもとおっしゃるんでしたら」とKは言って、椅子をナイトテーブルのそばによせ、すわった。「ドアの鍵をおかけになったようでしたが?」と弁護士はたずねた。「ええ」とKは言って、「レーニを入れないためです。」遠慮会釈なかった。すると弁護士が、「あれがまた、なにかしつこいまねをしましたか?」とたずねた。「しつこいまね?」とKがききかえすと、「そうです」と言って弁護士は笑いだし、ついで激しい咳の発作にみまわれた。それがとまると、また笑いだして、「あれのしつこいことにはもうお気づきでしょう?」そう言いながら、Kが無意識にナイトテーブルについていた手を軽くつっついた。Kはあわててその手をひいた。「あまり気にとめておられないようですが」と弁護士は黙っているKに言って、「それならそれで結構です。普通なら当然お詫びをしなけりゃならんとこです。というのも、あのレーニにはひとつ奇妙な癖があるのです。わたしはこれまでそれについては黙っていましたし、今もしあなたがドアをしめられなかったら、お話しないところですが。その癖というのは――あなたにはご説明するまでもないと思いますが、不思議そうな顔つきをしておられるのでやはり申しますと――レーニがたいていの被告を美しいと感じることなのです。どんな被告にも愛着を感じ、愛し、愛されるようです。わたしが話してもいいと言うと、いろいろ面白い話を語ってきかせてくれます。お見うけするところ、大変おどろいておられるようですが、なにそれほどたいしたことではありません。見るものが見れば、被告というものは、実際、美しく見えるものなんです。これは不思議な、自然科学的ともいえる現象です。このような明確な、はっきりと指摘できる容貌上の変化が、告訴の結果起こるとはとても考えられません。ここの裁判は普通の場合とはちがうのです。大部分の被告はいつもと変わらぬ生活をしますし、面倒をみてくれる弁護士が見つかりさえすれば、訴訟にはわずらわされないですむのです。しかもなお、経験のあるものは、被告を大勢のなかからえらびだすことができます。特徴はなにか、とあなたはおたずねになるでしょう。わたしの答えではご満足いただけないと思いますが、やはり被告は非常に美しいということなのです。それがかれの罪のせいであるはずはありません。なぜなら――これは弁護士としてはっきり申しあげられますが――被告は全部が全部罪を犯したとはかぎりませんから。また、正当な処罰が被告をまえもって美しくしている、ということもありえません。被告はだれしもが処罰を受けるとはきまっていないからです。こうしたことからその原因はいきおい、被告人だれしもにつきまとっている裁判手続きのとられかたにあるにちがいないのです。とりわけて美しい被告もいるにはいます。しかも、おしなべてみなが美しいので、その点ではあのみじめったらしいブロックでさえ美しいのです。」
弁護士が話をやめたときKはすっかり落ち着きをとりもどしていた。最後のほうでは大きくうなずきさえして、自分の推測のあたっていたことを確認していた。その推測というのは、弁護士は毎度のことながら核心にふれぬ一般的な話ばかりしている、Kのためになにをやってくれたかというような肝腎な点になるとできるだけはぐらかそうとばかりしている、というものであった。弁護士はKがふだんにもまして反抗的な態度をとっていることに気がついたらしく、Kに話す機会をあたえようと沈黙していたが、Kが黙ったままなので、「きょうこちらに来られたのはなにか特別な用事があってですか?」とたずねた。「そうです」とKは答えて、弁護士の表情がもっとよく読みとれるように、蝋燭にそっと手をかざした。「きょうかぎりわたしの弁護をやめていただきたいと思いまして。」「なんですと?」と弁護士は言って、ベッドに半身起きあがり、枕に片手をついて体をささえた。「おわかりいただけたことと思います。」身がまえるように居ずまいをただしてKは言った。「そのようなご希望がおありになるなら、それについて話し合ってもいいですが」と弁護士はしばらく間をおいてから言った。「希望ではありません」とKが言った。「なるほど」と弁護士は言って、「しかしわれわれにあせりは禁物です。」「われわれ」と言ったのはKを手ばなしたくない気持のあらわれらしかった。もう弁護人ではないにしても、せめて助言者としてぐらいの口はききたい様子だった。「あせってはいません」とKは言いながら椅子からゆっくり立ちあがり、その後方にまわった。「十分考えましたし、考えすぎたくらいです。この決心はかわりません。」「じゃあ、あと二三言、言わせてください」と弁護士は言って、羽根蒲団をおしのけ、ベッドのはしに腰をおろした。白い毛のはえた裸の足が寒さにふるえていた。長椅子にある毛布をとってくれるよう、Kにたのんだ。Kはそれをとって、「そんな寒いおもいまでしていただかなくても結構なんですよ」と言った。「いや、これは重大な事柄ですから。」そう言いながら弁護士は腰からうえに羽根蒲団をまきつけ、足は毛布のなかにつっこんだ。「あなたの叔父さんはわたしの友人だし、あなたのことも、時がたつにつれ、他人事ならず思われてきました。こればかりは本当です。だれにむかってもそう言えます。」老人にありがちなこのような泣き言はKを辟易させた。くだくだしい説明ははぶこうと思って来たのが、それをやらなければならなくなるし、それに実のところこのような話は、まさか決心をかえさせてしまうことはないにしても、やはり決心をぐらつかせはしたからである。「おこころざしはありがたく存じますが」とKは言った。「また、あなたがこの件をわたしのために無理にもおひきうけくださったこともよく存じておりますが、しかもなおまだ十分手をつくしてないという考えが、わたしのなかに次第に頭をもたげてきました。わたしなどよりはずっと年長の、経験もおありになるあなたにむかって、わたしのようなものの考えたことを押しつけするつもりは毛頭ありませんが――これまでにそのようなことがありましたら、おゆるしください――なにしろ事柄が、あなたご自身もおっしゃいましたように、非常に重大ですので、これまでどおりやっていてはとてもだめだ、と思われだしたのです。」「あなたの言われることはわかりました」と弁護士が言った。「あなたはあせっておられるのですな。」「あせってなんかいません」とKはすこし憤然とした調子で言って、あとはもう遠慮なく言ってしまおうと、「叔父とはじめて伺った時お気づきだったと思いますが、わたしはもともとこの事件をそうたいしたことに考えていなかったのです。いわば力ずくでこのことを思いださせられるのでなかったら、すっかり忘れていたところです。ところが叔父が、どうしてもあなたに弁護をたのめと言いはるものですから、わたしもお願いした次第です。弁護士に弁護を依頼するのはすこしでもこちらの負担を少なくするためですから、これでわたしの訴訟もいくらか楽になったと考えて、すこしも不思議はないはずでした。ところが実際はまるで反対でした。あなたにお願いしてからほど訴訟が気になったことはありません。わたしひとりのときはほとんど手を下さずにいたのですが、なにも心配することはありませんでした。ところが、いざ弁護人がついて、なにかやらなければならない、あなたがなにか手を打たなければならないという段になると、どんなに目を皿のようにして見はっていても、さっぱりなにもやっていただけないのです。それはもちろん、ほかの人間からはえられない裁判所の知識をいろいろとさずけてはいただきました。しかし、それだけでは十分でないのです。訴訟は文字どおり刻々とわたしの身のうえに迫っているのですから。」Kは椅子をつきのけ、両手を上着のポケットにつっこんでまっすぐ立った。「訴訟というものはある時点から」と弁護士はひくい静かな声で言った。「なんら目だった変化が起こらなくなるものです。これまでいく人もの依頼人があなたと同じ訴訟の段階でわたしのまえに立ち、あなたと同じようなことを言ったものです。」「それなら」とKは言った。「その同じような依頼人たちも、わたし同様ただしかったのです。そんなことはなんの理由にもなりません。」「別にそれでどうということではないのです」と弁護士は言って、「ただ、ほかの依頼人たちよりはもうすこし分別を持っていただきたい、と言いそえたかったのです。あなたには、ほかの依頼人たち以上に、裁判所の制度やわたしの仕事についていろいろとお伝えしてあるのですから。しかもあなたは、このわたしにはあまり信頼がおけない、とおっしゃるんですか? なんという悲しいことでしょう。」なんと卑屈な態度を弁護士はKに対してとっていることだろう! こういう時こそしっかりしなければならないのだろうに、弁護士としての体面もなにもあったものでない。どうしてこういう卑屈な態度をとるのだろう? 見たところ繁昌している弁護士で、金持でもあるらしい。収入《みいり》が少々減ろうが、依頼人の一人や二人いなくなったって、それほどたいしたことはないはずだ。それに見たとおりの病人で、本来自分でも仕事をへらすよう心がけるべきなのだ。しかもKをはなそうとしない! なぜか? 叔父に対する個人的なよしみからか? それともKの事件を事実それほど異例なものと見て、Kに対して、あるいは――大いにありうることだが――裁判所関係の知人たちに対して、手柄を立てたいためか? 弁護士をじっと見てみたが、どんなに穴のあくほど見つめても、なにもわからなかった。弁護士はさきほどの言葉の効果を、むっつりだまりこんだまま、見さだめているようだった。Kがなにも言わないでいると、それを自分にとってひどく都合のよいことに解釈したらしく、こう言葉を続けた。「もうお気づきのことと思いますが、わたしのところは事務所が大きいにもかかわらず、助手をひとりもつかっておりません。昔はちがいます。数人の若い法学士がわたしのために働いておった時期があるのです。それが今ひとりきりになってしまったのは、専門畑をちょうどいまのあなたの事件のような裁判問題だけにかぎってしまったこともありますが、また一方そういった裁判事件を手がけているうちに、いろいろ深くさとるところがあったからなのです。つまり、自分が自分の依頼人や、自分にあたえられた課題に対して落ち度なくふるまおうと思えば、この仕事をだれの手にゆだねてもいけないということです。仕事をすべて自分ひとりの手でやろうというこの決心は当然の結果をともないました。弁護の依頼はほとんど全部断わって、ただ自分と特別親しい間柄にあるひとたちの依頼だけをひきうけることになったのです。ところが世間は妙なもので、わたしが投げあたえるほんのわずかのパン屑にもとびつこうとするひとびとが、身のまわりにもたくさんいました。それに過労もたたってわたしは病気になってしまいました。しかしわたしは自分の決心したことを後悔してはいません。もっと依頼を断わったほうがよかったかもしれません。しかしそれにしても、いったんひきうけた訴訟はとことんまでやるという方針は絶対に必要なものだということがわかりましたし、また事実それだけの成果があったのです。わたしはまえに一度、ある書きもののなかで、この種の弁護のやりかたと、普通の弁護のやりかたとのちがいが、じつに美しく表現されているのを見たことがあります。それによりますと、普通の弁護士は依頼人に導きの糸をあたえて最後の判決までもっていくが、もう片方の弁護士は、依頼人をすぐ肩にもちあげ、そのままおろすことなく最後の判決まで、いや、その先のほうまでもっていく、というのです。たしかにそういったものです。しかし、わたしは、こういった大変な仕事にとりかかったことを全然悔いてない、といったらうそになります。あなたの場合のように、そんなにまでしても裏切られると、そのときはほんとうに後悔してしまいます。」Kは聞いていて納得するというよりいらだたしくなった。弁護士の口調を聞いていると、もし自分が譲歩した場合、どういった事態になるかわかるような気がした。また例によって慰め文句がはじまるだろう。訴願ははかどっているだの、裁判所の役人の風むきはよくなっただの、それでもまだ前途多難だの言われるだろう。もううんざりするほど知りつくしている事柄がくりかえされ、Kはおぼつかない期待に一喜一憂したり、おぼつかない脅威にさいなまれたりするだろう。そんなことはもう断じてあってはならない。そこでこう言った、「もし弁護をつづけておねがいした場合、どういう方策をとっていただけますか?」弁護士はこのような侮辱的な質問にも応じてきて、「これまであなたのためにやってきたことをさらにつづけるでしょう」と答えた。「もうわかりました」とKは言って、「それ以上おっしゃっていただく必要はありません。」「最後にもうひとつだけ」と弁護士は、いらだっているのがKではなく自分であるかのようにそう言った。「あなたはわたしの弁護活動を誤解しておられるばかりか、そのほかにもいろいろまちがった態度をとっておられるように思われるのですが、それは被告であるはずのあなたを裁判所があまり寛大にとりあつかいすぎている、もっと適切にいえば、野放しに、一見野放しにとりあつかいすぎていることに原因があるのです。しかも野放しにしていることにも、それなりのわけがあるのです。場合によると、鎖につながれているほうが自由にされているよりよい場合があるぐらいです。そこで、ほかの被告たちがどうとりあつかわれているか、その例をひとつお見せしましょう。きっとよい教訓になると思います。ではブロックを呼びいれましょう。そのドアの鍵をあけてください。そうしたらこのナイトテーブルのわきに腰をおろしていてください。」「わかりました」とKは言って、弁護士に言われたとおりにした。Kは学ぶことにはやぶさかでなかったのだ。ただし念のため、「弁護をやめていただくことはもう了解ずみですね?」とたずねてみた。「わかっています」と弁護士は答え、「でも、きょうじゅうに、あなたのほうから撤回されるにきまってますよ。」ベッドにまた横になると、顎まで羽根蒲団をひきあげ、壁のほうに体をむけた。それからベルを鳴らした。
ベルが鳴るとほとんど同時に、レーニがあらわれた。瞬間、部屋のなかを見まわして、なにが起こったのか読みとろうとしたが、Kが弁護士のベッドのそばに落ち着いているのを見て、ほっとしたらしかった。自分のほうを見ているKににっこりとうなずいた。「ブロックを連れてきなさい」と弁護士は言った。ところがレーニはブロックを連れにはいかないで、ただドアのまえで、「ブロック! 弁護士さまのお呼びよ!」と呼んだ。弁護士が壁にむいてなにも気がつかないのをよいことに、そっとKの椅子のうしろにまわった。それからあとは椅子の背ごしにまえかがみになったり、用心ぶかくではあるがKの髪にさわったり頬をさすったりして、Kをうるさがらせた。最後にKはその片方の手をつかんで、もう邪魔させまいとした。レーニはしばらくもがいていたが、やがて手をあずけたままになった。
ブロックは呼ばれてすぐにやってきたが、ドアのまえまできて立ちどまり、入ったものかどうかためらっていた。眉をたかくつりあげ、首をたれて、弁護士のところに来いという命令がもう一度くりかえされないかと耳をすましていた。Kはよほど入るように言ってやろうかと思ったが、弁護士ばかりでなくこの家すべてと縁を切ってしまう決心だったので、そのままじっとしていた。レーニも黙っていた。ブロックはすくなくとも追っぱらわれだけはしないとわかると、顔をこわばらせ、腰にやった両手を小刻みにふるわせながら、忍び足で入ってきた。ドアは万一のときの用意にあけたままだった。Kのほうへは目をむけず、弁護士のもぐりこんでいるうずたかい羽根蒲団を一心に見つめていた。弁護士は壁すれすれのところまで身をよせて、蒲団をすっぽりかぶっていた。声だけが聞こえてきた、「ブロックか?」この声は、すでにずっと奥に進んできていたブロックの胸にまぎれもない一撃をあたえ、ついで背中にも一撃をあたえた。ブロックはよろめくと身をかがめたまま立ちどまり、「さようです」と言った。「なにしに来たんじゃね」と弁護士はたずねて、「いらぬ時に来たもんじゃ」と言った。「たしか呼ばれたと思ったんですが、なんだったんでしょう?」とブロックは、弁護士にきくというよりもむしろ自分自身にきくように言った。手を前にかざしていまにも逃げんかの態勢だった。「呼びはした」と弁護士が言った、「いらぬ時に来たもんじゃ。」ちょっとやすんでから、「おまえはいつもいらぬ時に来るやつじゃ。」弁護士の声がしはじめてからというもの、ブロックはベッドから目をそらし、声の主《ぬし》が見えでもすれば目がくらんでしまうといったように、どこか部屋の一角を見つめたまま、耳だけをすませていた。弁護士は壁にむかってしゃべり、しかもそれが小声で早口ときているので、聞きとるのも容易でなかった。「出ていったほうがよろしいのですか?」とブロックがたずねた。「一度来てしまったんだから」と弁護士は言って、「もうおりなさい!」ブロックの望みをかなえたというより、笞かなにかでおどかして無理じいにいさせてしまったというほうが近かった。ブロックは本当にふるえだしていたからである。「わたしは、きのう」と弁護士は言って、「友人の第三判事のところに行っておった。話がだんだんおまえのことにおよんだが、判事はおまえのことをなんと言っておったか知りたいかね?」「ぜひお願いします」とブロックが言った。弁護士がすぐに応じないので、ブロックはもう一度同じ願いをくりかえし、ほとんどひざまずかんばかりに身をかがめた。Kはたまりかねてどなった。「やめたまえ!」レーニがあわててKの口をふさごうとしたので、Kはレーニのその手もつかんだ。にぎりしめる力の強さは愛の力ではない。レーニは悲鳴をあげ、手をもぎはなそうとした。Kの叫び声のおかげでとばっちりを受けたのはブロックであった。弁護士はこうたずねた。「おまえの弁護士はいったいだれなんだ?」「あなたさまです」とブロックが答えた。「そのほかにはだれだ?」と、またたずねた。「だれもおりません。」「それならほかの連中にしたがわないことだ」と弁護士は言った。ブロックはすくみあがってしまった。うらめしそうな目でKをにらみ、はげしく首をふった。言葉になおせば、口ぎたないののしり文句になったはずだ。Kはこんな見さげた男と自分の件を話しあおうとしたのだ!「もう文句は言いませんよ。」Kは椅子に背中を押しつけながら言った。「ひざまずこうが四つんばいになろうが、どうとでもお好きなようになさい。わたしはもう知りませんよ。」ブロックはすくなくともKに対しては名誉心があるらしかった、拳をふりあげながらKにむかってとびかかってきた。弁護士がすぐそばにいるばかりに強気になって、大声で、「わたしにむかってそんな口をきかんでください。けしからん。どうしてそんなことが言えたのです? 弁護士さんが目のまえにおられて、われわれふたり、あなたとわたしは、ただお慈悲からここにいさせてもらっているというのに! あなただって告訴されて裁判を受けているんですから、このわたしよりすこしも上等の人間ではないはずです。あなたがそんなに紳士ぶるなら、わたしだって偉くはないが、いっぱしの紳士です。紳士には紳士の体面があるっていうものです。あなたにそんな口のききかたをされたくありません。しかもなお、あなたはそこでそうやって平然としているのに、わたしは四つんばいとやらをやらせられているから、あなたのほうが偉いんだと言われるんでしたら、こういう古い名文句をお教えしましょう。それは、じっとしているよりは動きまわっているほうが被疑者にはいい。じっとしているものはいつしらず秤《はかり》にのせられ、罪の重さをはかられているから、というのです。」Kは黙っていた。まじろぎもせずこのとりみだした男を見まもっていた。わずかばかりの時間のうちになんという変わりようだろう! ことが訴訟に関すると、この男はこんなに右往左往しはじめ、敵味方の区別がつかなくなるのだろうか? 弁護士はことさらにこの男をはずかしめ、自分の威を誇ることによって、Kをも屈従させようとしているのだが、それがこの男にはわからないのだろうか? そんなことはブロックにはわからず、またわかるほどの分別が弁護士に対する恐怖心のあまりすっかり失われているとすれば、なんだってこのブロックは、弁護士をあざむいてまでほかの弁護士に頼むようなずるがしこい、思いきったことをやってのけたのか? その秘密を目のまえでKに暴露されるかもしれないというのに、どうしてKにくってかかるようなまねをやったのだろう? ところがそれだけではなかった。ブロックはすぐに弁護士のベッドに近づいていくと、そこでKの悪口を言ったのだ。「弁護士さん」とかれは言った。「この男がわたしにどんな口をきいたかお聞きでしたか? この男は訴訟がまだほんのわずかの時間しか経っていないというのに、五年間も訴訟をやっているこのわたしにむかって、偉そうにお説教をはじめようとするのです。おまけに叱りつけようとまでするのです。自分ではなにもわかっていないくせに、このわたしを、およばずながら儀礼、義務、慣習のなんたるかをこまかく学んできたこのわたしを、叱りつけようとまでするのです。」「ひとのことは気にするな」と弁護士が言った。「自分が正しいと思うことだけをやればいいのだ。」「そのとおりです」とブロックは自分自身をはげますように言って、Kのほうにちょっと横目をつかいはしたが、臆面もなくベッドのすぐかたわらにひざまずいた。「こうしてひざまずいております。弁護士さん」とかれは言った。弁護士は黙ったままだった。しんと静まったなかでレーニが言った、「痛いわ。はなして頂戴。わたし、ブロックのほうへ行きますから。」彼女は歩みよっていって、ベッドのはしに腰をおろした。ブロックは彼女の来たことをとてもよろこんでいるようだった。口こそきかないがしきりに身ぶりで、弁護士にとりなしてくれと頼んでいた。弁護士の話をとても聞きたがっている様子だが、これはほかの弁護士たちに利用させる心算《つもり》だろう。レーニは弁護士にとりいる方法を心得ているようだった。弁護士のほうを指さすと、唇を接吻の形にとがらせてみせた。ブロックはすぐに弁護士の手に接吻をした。レーニにうながされて、あと二回続けた。弁護士はそれでも黙っていた。するとレーニは弁護士のうえにかがみこんだ。身をのばさなければならなかったので、体の線が美しく見えた。弁護士の顔をのぞきこみ、長い白髪をなでた。弁護士はこうまでされて、ひとこと返事をせざるをえなくなった。「ブロックには、なにも伝えたくないのだ」と弁護士は言った。頭をうちふるのが見られたが、これはどうやらレーニにもっと手の力をこめてもらいたいためらしかった。ブロックは聞いてはならぬことを聞くように頭をたれて聞いていた。「どうしてですの?」とレーニがたずねた。Kにはこうした会話はもういく度もくりかえされて手なれてしまった、これからもいく度もくりかえされる会話であるように思われた。ただブロックにとってだけは、なん度聞いても新しいらしかった。弁護士はレーニの質問には答えずに、「かれのきょうの行ないはどうだった?」とだけきいた。レーニは答えるまえにブロックを見おろし、かれが両手を合わせて拝むようにこすりあわせているのをしばらく見ていた。最後に真顔になってうなずき、弁護士のほうをむいて、「ブロックはおとなしく、勤勉にしてました」と言った。ひげを長く生やした老商人が若い娘に口ぞえを頼んでいるのだ。なにか下心があってのことだろうが、その態度は、同じ立場にあるものから見て、とても是認することができない。Kには弁護士がこんな場面を見せつけてどうしようとしているのか推測がつかなかった。これまでに部屋をとびださなかったのがまだしもで、こんな場面を見せつけられてはすぐにでも出ていきたくなる。観客を侮辱することもはなはだしい。察するところ弁護士の方法は――Kはあまりその手にひっかからないですんだが――依頼人を最後には途方にくれさせ、迷いこんだ道をいかにも訴訟の解決にむかって歩いているかのように思いこませる点にあるらしかった。そうなれば依頼人は依頼人ではなく、弁護士の犬だ。命令一下、犬小屋に入るようにベッドの下にもぐりこみ、吠えろと言われれば吠えるだろう。Kは、いつの日かはこれらすべてを上層部に告げ訴える人間であるかのように、注意ぶかく慎重に聞いていた。「ブロックは一日じゅうなにをやっていたのかね?」と弁護士はたずねた。「わたしは」とレーニは言って、「このひとをわたしの仕事のさまたげにならないよう、いつもの女中部屋にいれておきました。ときどき戸の隙間からのぞいてみますと、いつもベッドの上にひざまずき、あなたがお貸しになった書類を窓敷居にひろげて、読みふけっていました。それはとてもいい感じをあたえました。その窓は通風孔につながっていて、光はほとんどささないので、そんなところで読んでいるなんて、ブロックはなんて従順なんだろうと思いました。」「それを聞いてうれしいよ」と弁護士は言った。「読んでわかったのだろうかね?」ブロックはこの話のあいだたえず唇を動かし、自分にかわってレーニに答えてもらいたい言葉を呟いているようだった。「それは」とレーニは言って、「わたしにはわかりませんが、ともかく読んでいることは一生懸命読んでいましたわ。一日じゅう同じページを、指で一行一行追いながら読んでいましたわ。わたしが見るごとに、大きなため息をついて、読むことがむずかしくてならないというふうでした。お貸しになった書類はきっとわかりにくかったんですわ。」「それはそうだ」と弁護士は言った、「むずかしいのがあたりまえだ。あれをこの男が理解できるとはとうてい思われんよ。ただ、あの男の弁護のためにわしがしてやっている闘いがどんなに困難なものであるか、わずかでもわかってもらえればいいのだ。こんな闘いをいったいだれのためだと思っているんだ? 言うのもばかばかしい、ほかならぬブロックのためじゃないか。だがどんなに大変なものかは知っておいてもらってよいのだ。ブロックはひっきりなしに読んでおったかね?」「ええ、ほとんどひっきりなしに読んでいました」とレーニは答えて、「ただ一度だけ、水をくれと言ったことがありました。わたしはコップに水をいれて、明り取りの窓から渡してやりました。八時になったときこのひとを出して、食事を食べさせてやりました。」ブロックはKを横目でじろりと見て、どうだ感心しただろうといわんばかりの顔をした。にわかに希望がわいてきたらしく、身の動きを活発にして、膝でそちこちをはいずりまわった。それだけに、弁護士のつぎの言葉でかれがどれほど凝然となってしまったか、察するにあまりあった。「おまえはこの男をほめるが」と弁護士は言って、「それではますますわしが話しにくくなる。第三判事はブロックという人物についても、またその訴訟についても、それほどいいことを言わなかったのだ。」「まあ」とレーニは言って、「どうしてなんです?」ブロックは緊張しきったまなざしでレーニを眺め、すでに話されてしまった判事の談話もレーニの一存でどうにでもなるといったふうだった。「ともかくろくなことはなかった」と弁護士は言って、「判事は、わしがブロックのことを話しだすと、いやな顔になったんだ。『ブロックのことはやめてくれ』とかれは言った。『ブロックはわしの依頼人なんだ』とわしが答えると、『あんたは利用されているんだ』と言うのだ。『わしはあれの訴訟に望みをつないでいるのだが』とわしは言った。するとまた、『あんたは利用されているんだ』と言うのだ。『そんなことはないはずだ』とわしは言ってやった、『ブロックは裁判に熱心で、いつも裁判のあとばかり追いかけまわしている。新しい情報を手にいれようと、わしの家に泊まりこんでいるぐらいだ。もちろん個人的には不愉快なやつで、礼儀をわきまえず身なりもきたないが、訴訟の点にかけては非のうちどころがない』とな。非のうちどころがない、と言ったのはわざと誇張したのだ。するとそれに対して判事がこう言ったのだ。『ブロックはずるいだけの人間だ。いろいろと知識をよせあつめて訴訟をひきのばそうとする。しかしあれのおろかなことといったら、ずるいのをずっと上まわるぐらいだ。もし訴訟などまだ全然はじまっていないと聞いたら、訴訟開始の鈴さえまだ鳴らされていないと言ってやったら、あの男、どんな顔をするだろう』ブロック、なにをそわそわしているんじゃ」と弁護士は言った。ブロックはよろよろする膝で立ちあがり、明らかに弁護士に釈明してもらいたいそぶりだった。弁護士が一応内容のある言葉をブロックにかけたのはこれがはじめてだった。弁護士は疲れきったまなざしを半ば宙に半ばブロックにさまよわせた。ブロックはこの視線のもとでまたへなへなと腰をおろしてしまった。「判事の言葉など少しも気にすることはないんだ」と弁護士は言った。「いちいち気にしていてはきりがない。いつもそういうふうだと、この次のときからはもうなにも言わないことにするぞ。ひとこと言うたびに、まるで最終判決を聞くような目つきをするじゃないか。ここにはほかの依頼人もおられるのだし、すこしは恥を知ったらどうだ? せっかくの信用が台なしになる。いったいどうしてくれと言うのか? おまえはまだまだわしの保護のもとにいる人間じゃ。少しも心配することはない。おまえも読んだことがあるだろうが、最終判決というものは多くの場合、不意にだれともわからないものの口をとおして、いつともわからない時期に下される。そうでない場合も多いが、まあふつうは本当と思ってよい。ところで、おまえの心配な様子がわしには不愉快で、どうもわしに対する一番大切な信頼がひとつ欠けているのではないか、と思われるのもまた本当なのだ。さっきの話がなんだというんだ? ある判事がしゃべったことをくりかえしただけではないか。しかも訴訟手続きの問題については、目下諸説紛々で、なにひとつ確実なことが言えないのは、おまえも知ってのとおりだ。たとえば訴訟のはじまる最初の時点にしても、この判事はわしとはまったく異なった考えかたをする。といっても、それは見解の相違だけで、それ以外のものではないが。つまり、判事は鈴の合図を訴訟の開始時期ととる。訴訟のある段階ではいまだに昔ながらの鈴が鳴らされることがあるのだ。ところで、そうでない場合は枚挙にいとまがないのだが、それをいちいち話してもおまえにはあまりよく理解できんだろう。ただ、おまえとしては、そうでない場合も多いということをわきまえておれば十分じゃ。」ブロックは床のうえで途方にくれたまま、ベッドのまえの敷物の毛を指でいじくっていた。判事の言ったことが心配でたまらず、弁護士に対する服従などお留守になっていた。自分の身の上のことばかり考え、判事の言葉をあれやこれやとひねくりまわしていた。「ブロック」とレーニがたしなめるように言い、上着の襟をつまんですこし上にひきあげた。「もう絨毯はやめにして、弁護士さまのお話に耳をかたむけなさい。」
(この章は未完におわっている)
第九章 大寺院《ドーム》のなかで
銀行にとってきわめて大切な客で、この町にはじめて滞在するイタリア人に町の旧所名跡を案内してもらいたい、という頼みをKは受けた。普通ならこのような頼みはむしろ名誉あるものとして受けとるのだったが、今度ばかりは、銀行のなかでの評判維持に汲々《きゆうきゆう》としているおりでもあったので、しぶしぶひきうけた。自分の部屋からほんのしばらくでもひきはなされると、それが心配のたねになった。もちろん部屋にいるときも、以前のように時間を充実してつかうことはできない。なんとか仕事をしているふりをして数時間を過ごすのだったが、それだけに、部屋をあけるとなると、心配がつのるのだった。いつもすきをうかがっている支店長代理が、このときとばかりなん回もかれの部屋に入ってくるだろう、かれの机のまえに腰かけて書類をしらべ、Kにとっては、数年来友人同様の取り引き相手たちに応接して、かれらとKとの仲をさくだろう、いやそれどころか、Kが最近の仕事ちゅうたえずおびやかされつづけ、さりとて、さけることもできないいくつものあやまりを摘発するかもしれない。Kには、そのような支店長代理の姿が目にうかぶようだった。それで、たとえどんなに名誉ある場合でも、外出やちょっとした出張旅行を頼まれると――それがまた最近ではたびかさなった――これは自分をしばらく部屋から遠ざけて、ふだんの仕事ぶりをしらべようとしているのではないか、すくなくとも銀行では自分はあまり必要な人間と考えられていないのではないか、といった疑念がきざすのだった。もしその気になれば、こういった頼みのほとんどは難なく断わることもできたはずだ。ところがKにはどうしてもそれができなかった。自分の心配は杞憂にすぎないのに、頼みを断わったりすれば、かえって自分の後ろめたさを認めることになるだろう。こうした理由からKはそのような頼みをどれもさりげなくひきうけた。それで、二日にわたる強行軍の出張旅行を申しでられたときも、雨つづきの秋の悪天候を引き合いにさしとめられたりしないよう、かれ自身、ひどい風邪をかくしていた。この旅行から激しい頭痛とともに帰ってきたとき、翌日はもうイタリア人のお伴をする役になっていることを知った。今度ばかりは断わってしまいたかった。こんな役にめぐりあわされたところで、それが銀行の業務とはなんら直接の関係がないのであれば、なおさら断わってしまいたかった。銀行の得意先に社会的儀礼をつくさなければならないことはもちろんだが、それがKである必要はさらさらなく、Kは、いまの自分がその地位をたもっていけるのは仕事の実績だけで、そのほかの雑用は、たとえ、そのイタリア人を思いがけなく驚嘆させたとしても、まったく無価値であることをよく知っていた。一日たりとも自分の仕事の埓外《らちがい》に追いだされるのはいやだった。もう二度とそこに帰ってくることがないのではないかという恐怖心があった。その恐怖心が大げさすぎるものであるのはよくわかっていたが、しかもやはり心にしこった。今度の場合、なにか断わる口実をもうけることはまず不可能だった。Kのイタリア語の知識はたいしたものでなかったが、ひととおり、こと足りるぐらいではあった。もっといけないことは、Kが以前からいくばくかの美術史的知識を持ちあわせていたことで、これが銀行のなかで誇大に伝えられ、そのためKはある時期、銀行の営業政策的理由からとはいえ、市文化財保護委員会のメンバーになっていた。そのイタリア人も、噂によれば、古美術愛好者ということであった。Kがお伴にえらばれたのは当然だった。
土砂降りの、嵐のような朝だった。Kはその日一日のことを考えてむしゃくしゃしながら、それでも二三の仕事だけは客の来るまえにかたづけておこうと、七時にオフィスに入った。前の晩は、すこしでも準備をしておこうとイタリア語の文法を夜中過ぎまでやっていたので、疲れきっていた。このごろ腰かけることが多すぎている窓ぎわが目を射たが、やはり思いなおして、自分の仕事机に腰をおろした。ところがもう給仕が入ってきて、支店長さんが業務主任は来ているかとおたずねです、イタリア人の方がもうみえていますから、応接室のほうにおいでください、と伝えた。「すぐに行きます」とKは答えて、小型辞書をポケットにつっこみ、外国人のために買っておいた名所アルバムを小脇にかかえると、支店長代理室をぬけて、支店長室に行った。今朝ははやくから銀行に来ていたため、相手にとっても思いがけないほどはやく需めに応じられることを得意に思っていた。支店長代理室はもちろんまだ深夜のようにひっそりしていた。給仕は支店長代理をも応接室へ呼んでくるよう言われたのだろうが、できない相談だった。Kが応接室に入っていくと、ふたりともふかぶかとした安楽椅子から立ちあがった。支店長はKが来てよほどうれしいようで、顔をほころばせながらふたりを紹介した。イタリア人はKの手を強くにぎりしめ、ほほえみながら、だれとかは早起きです、と言ったが、だれのことを言ったのだかよくわからなかった。それはおまけにおかしな言葉で、Kはその意味をしばらくしてやっとさとったぐらいであった。Kは二三の文章でなめらかに答えた。イタリア人はそれをまた笑いながら受けとめて、その間いく度も神経質そうな手つきで、灰青色のもじゃもじゃしたひげをなでていた。そのひげには香水がふってあるようだった。近づいて嗅いでみたいような気がした。三人がすわり、最初の短い対話がはじまると、Kは、はなはだ不愉快なことには、このイタリア人の話す内容がほんの断片的にしか理解できないのに気がついた。ごくゆっくり話してくれればだいたいは理解できた。しかしそんな場合はまれで、たいていは口をついて話がとびだし、イタリア人はまたそれが面白くてたまらないというように首をふりながら話すのであった。そのような話が続くときはきまってある方言におちこんでいた。Kにはまったくちんぷんかんぷんなイタリア語だったが、おどろいたことには支店長は、それを理解するどころか話しさえするのだった。このイタリア人は支店長がまえに二三年行っていたことのある南イタリアの出身だということにもっと早く気がついていたら、Kにも納得がいっていただろう。どちらにしても、このイタリア人とはほとんど通じあえないということが、Kにははっきりした。そのフランス語もわかりにくく、唇の恰好を見ればわかったかもしれないが、唇はひげにかくれていた。これは厄介なことになるぞ、とKは思いながら、さしあたりイタリア人の話を理解しようとする努力は放棄してしまい――それを難なく理解できる支店長がいるところでは余計だった――むっつりと、もっぱらこの男の動作を見まもるだけにした。男は安楽椅子に深く、しかも気軽に腰をかけ、裁ち目のはっきりした短い上着をなんどもひっぱったり、あるときは両腕を上にもちあげ、手を関節のところでまわしながらなにやらのふりをしたりしたが、それがなんのことかは、身をのりだしてその手を見ているKにもわからなかった。Kにはなにもすることがなく、ただ話のやりとりを機械的に視線で追っていればよかったが、やがてさきほど来の疲労感が次第におそいはじめ、はっとわれにかえったときには――それがちょうどよい時でさいわいであったが――いつのまにか呆然となったまま立ちあがっており、いまにも踵《きびす》をかえして部屋を出ようとしていた。イタリア人も時計を見て跳びあがった。支店長に別れの挨拶をすると、まっすぐKのところに歩みよった。すぐ目と鼻の先まで歩みよられたので、Kは体を動かすために椅子をすこしうしろにずらさねばならなかった。支店長はKの目のなかにイタリア人に対する困惑の色を読みとって、ふたりの話のあいだにわってはいったが、しかも賢明な思いやりのある方法をとって、Kにほんのちょっと助言をそえてやっているようなふりをしながら、その実、Kの言葉をさえぎって間断なくしゃべりまくるイタリア人の話を、ごくかいつまんでKに教えてやっているのだった。支店長がとりついだところによると、イタリア人はまだほかにもやらなければならない仕事を二三かかえており、全体として時間もないことであるから、町じゅういたるところの名所をあわただしく見てまわろうという気は毛頭ない、ただし――これはけっきょくKに相談して決めたいことだが――大寺院《ドーム》だけは十分見ていきたいと思っている。このような学識のある親切そうなお方に――というのはイタリア人のほうにはまるで耳をかたむけず、支店長の言うことをつかみとろうと躍起になっているKのことであった――お伴をしていただけるのは願ってもないことだが、もしその時間でおさしつかえなければ、これから二時間あとの十時に、大寺院《ドーム》のところに来ていただきたい、自分はその時間にはまちがいなくそこへ行っているつもりだ、と言うのであった。Kは二、三辻褄《つじつま》のあう答えをした。イタリア人はまず支店長、ついでK、そして最後にもう一度支店長と握手をかわして、ふたりに見送られながら、しかも体は半分かれらのほうにむけたまま話はやめず、出口へむかった。Kはまだしばらく支店長と残っていた。支店長はきょうは特に体の調子がわるいようだった。Kに対して申しわけない気持がしきりにしているらしく、口をひらいて――ふたりは親しげに寄りそって立っていた――イタリア人の伴にははじめ自分が行こうと思っていたのだが、都合で――どういう都合だかはいわなかった――Kに行ってもらうことにした、イタリア人の言うことは最初わからなくとも、すこしも悲観することはない。あるところから不意にわかることがあるものだ、たとえあまりよくわからなくとも、気にすることはない、むこうとしてもそれほどわかってもらおうとは思っていないのだから。ところでKのイタリア語は実に立派だ、きっとうまくやってのけられるだろう、と言うのだった。
そこまでで、Kは支店長と別れた。その先まだ残った時間を、大寺院《ドーム》案内に必要な特殊な語彙《ごい》を辞書から抜きだして書きとめるのに費やした。非常にわずらわしい仕事だった。給仕たちが郵便物を持って入ってき、行員たちもいろいろ問い合わせがあって入ってこようとしたが、Kが下をむいて一生懸命仕事しているのを見て、ドアのそばに立ちどまり、しかもこちらからなにか言うまではそこを立ちのこうとしなかった。支店長代理もこの機をのがさず妨害をした。なん度も入ってき、Kの手から辞書をとって、わけもなくぺらぺらめくったりした。ドアがひらくと、控え室のうす暗がりのなかに、客たちの姿がうかびあがった。かれらはためらいがちにこちらをむいてお辞儀をするのだったが、はたしてKの目にとどいているかは疑問だった。こういったすべてがKを中心にぐるぐるとまわっていた。Kは必要な言葉を思いうかべては辞書にあたり、書き抜き、発音の練習をして、最後にそれをおぼえこもうとした。昔はあれほどよかった暗記力が、今ではすっかりおとろえてしまったように思われた。ときどきかれはこんな苦役《くえき》を強《し》いたイタリア人が憤懣にたえず、辞書を書類のあいだにおしこみざま、もう準備などするものかと思ったが、そのつぎの瞬間には、まさかイタリア人と無言のまま大寺院《ドーム》の美術品を見てまわることはできまいと思うと、ますます憤りを感じながらも辞書を書類のなかからひきだすのだった。
九時半になり、ちょうど出かけようと思ったときに、電話が鳴った。レーニで、おはようと言ったあと、ご機嫌はいかがときいてきた。Kはそそくさと挨拶をのべてから、今はとても話などしている暇がない、これから大寺院《ドーム》へ行かなければならないから、と言った。「大寺院《ドーム》?」とレーニがたずねた。「そうだよ、大寺院《ドーム》だよ。」「どうして大寺院《ドーム》なんかに行くの?」とレーニは言った。Kは手みじかに説明しようとしたが、言うか言わないうちに、レーニが突然、「あなた、みんなに使いものにされてるのよ」と言った。別に同情してもらうつもりもなかったので相手にはせず、二言ばかりで電話を切った。受話器をおきながら、半分は自分に、半分はもう聞いているはずもない受話器のむこうの女に、「そうだ、おれは使いものにされてるんだ」と言った。
もうかなり遅くなり、待ちあわせの時刻におくれる心配があった。自動車で行ったが、出かける寸前、さっき渡すひまのなかった名所アルバムのことを思いだし、むこうで渡せばいいだろうと、持ってでた。車中、膝のうえにのせ、着くまでのあいだぽんぽんとせわしなくたたいていた。雨は小降りになったが、あたりはじめじめとしてうすら寒く、暗かった。この分だと大寺院《ドーム》に行っても、なかはあまりよく見えないだろう。冷たい敷石のうえになん時間も立っていると風邪をますますこじらせてしまうかもしれない。大寺院《ドーム》のまえの広場には人影ひとつなかった。子供のころ、この広場に来て、まわりの家の窓のほとんどどれもにカーテンのおろされているのを見て奇異の感にうたれたことがある。今日のような悪天候なら、不思議はない。大寺院のなかにも人影はないようだった。こんな日にやってこようというものはないだろう。Kは両方の側廊をとおりぬけたが、暖かそうな布《きれ》にくるまった老婆がひとり、マリア像を見あげてひざまずいているのに行きあっただけだった。そのあと、ひとりの寺男が不自由な足をひきひき壁の扉に消えていくのを、離れたこちらから見た。Kは時間どおりここに着いた。大寺院《ドーム》に一歩踏みこんだとき、ちょうど十時が鳴ったのだった。イタリア人はまだ来ていなかった。Kは正面の入口までひきかえすと、落ち着かない様子でしばらくそこに立っていたが、やがてそとに出て、雨の降っている大寺院《ドーム》のまわりを一周し、どこかの入口にでもイタリア人が待っていはしまいかと探してみた。どこにもいなかった。あるいは支店長が時刻をまちがえて言ったのではなかろうか? あんなイタリア語が正確にわかるはずがない、いずれにせよ、まだ三十分ぐらいは待ったほうがいいだろう。疲れていたのでどこかに腰をかけたかった。ふたたび大寺院《ドーム》のなかに入っていき、階段のうえに絨毯のきれはしのようなものがのっているのを見つけると、それを靴の先でそばのベンチにまではこんでいき、自分はオーヴァーにしっかりくるまって襟を立て、そこに腰をおろした。待っている間をまぎらすため名所アルバムをひろげ、なん頁かくってみたりもしたが、またすぐにとじてしまった。まわりが暗すぎたからだ。顔をあげても、すぐそばの側廊の細部もはっきりしないぐらい暗かった。
ずっとむこうにある主祭壇に蝋燭の炎が三つ、大きな三角形をつくって燃えていた。それらが前まえからあったかどうか、Kは思いだせなかった。たぶんたったいま点《つ》けられたのだろう。寺男たちは商売柄忍び足の名人で、ひとに気づかれずそんなこともやってのけられる。ふとふりむくと、うしろのあまり遠くない柱のところに、長く太い蝋燭が一本、同様にとりつけられて燃えていた。美しかったが、副祭壇の暗闇のなかの祭壇画を照らすほどには明るくなく、むしろ闇を深めている感があった。イタリア人が約束どおりに来なかったのは失礼だったが、と同時にそのほうが賢明だったともいえる。たとえ来てもなにも見えず、せいぜいKの懐中電燈で画像の一インチぐらいずつを照らして見る程度だっただろう。実際にどれぐらい見えるのかみようと思って、Kはかたわらの小礼拝堂に行き、階段を数段のぼり、ひくい大理石の手すりから身をのりだして、懐中電燈で祭壇画を照らした。常明燈が邪魔になった。最初に目にとまり、なにであるかほぼ見当もついたのは、ひとりの大きな、鎧を着た騎士の姿で、これは絵の一番はしになっていた。騎士は荒地――そこここにわずかばかりの草が生えていた――に剣をつきたて、それを杖にして立っていた。どうやら眼前にくりひろげられたなにかの光景を注視しているらしく、そこに立ちはだかったままこちらへ進んでこようとしないのが不思議だった。あるいは見張りをしているのかもしれない。久しく絵など見たことのないKは、この騎士の姿をしばらくじっと見ていた。といっても懐中電燈の青い光がまばゆく、いく度も目をしばたたいていたが。光を絵の他の部分にさまよわせると、キリスト埋葬の場面が見えてきた。ご多分にもれず月並みな構図によるもので、まだ年代もそうたっていないもののように思われた。Kは懐中電燈をしまい、もといた場所にもどった。
もうイタリア人を待つ必要はないだろうが、そとは土砂降りにちがいないし、それにここが思ったほど寒くなかったので、もうしばらくいることにした。ほど遠くないところの上のほうに大きな説教壇があった。小さな円い屋根がついており、そのうえにふたつの、中空《ちゆうくう》の、金製の十字架がとりつけてあった。十字架はそれぞれ半ば横にされた恰好で、その先端がたがいに交叉していた。説教壇のそとがわと説教壇が支柱につながっている境目とには、緑の葉模様がとりまいて、小さな天使たちが、あるいは活発にあるいは静かに、その葉にたわむれていた。Kは説教壇のまえに進みでて、と見こう見した。大理石の彫刻は実に念入りにほどこされてあった。葉模様のあいだやうしろの暗黒部分がまるで奥に吸いついたようで、Kはそのような隙間のひとつに手をいれ、大理石の肌ざわりを丹念にしらべた。このような説教壇があることをいままで知らなかった。そのとき、すぐそばのベンチのうしろに寺男がいるのに気がついた。下まである、襞の多い黒服を着、左手には嗅ぎ煙草のケースを持って、じっとKを眺めていた。なんの用だろう? おれを怪しいと思っているのだろうか? チップでもせびりたいのだろうか? とKは思った。寺男はKに気がつくと、ふたつの指のあいだに嗅ぎ煙草をはさめたままの右手で、どこかはっきりしない方角を指さした。なんのことかわからないそぶりであった。Kはそのまま見つづけていたが、男は依然同じことをやりつづけ、ときにはうなずきまでしてそちらを示すのだった。「なんのことだろう?」とKは低い声で言ってみて、別段大声でたずねようともしなかった。紙入れをとりだすと、そばのベンチのあいだを通りぬけて男のところに行った。男は断わるような手つきをし、肩をすくめると、足をひきひき遠ざかってしまった。これと同じ歩きかたを、Kは子供のとき馬に乗るまねをしながらしたことがある。「子供みたいな老人だ」とKは思った、「あれで寺男がつとまるのだろうか? おれが停まると停まって、もっと先についてこないかうかがっている。」Kは微笑をうかべながら老人を追って側廊をぬけ、祭壇の上のほうまで来てしまった。老人は依然なにものかを指さしつづけたが、Kはわざとそちらをむかなかった。追跡をやめさせるためのしぐさとしか思われなかったからである。最後にとうとう、老人をうっちゃっておくことにした。あまりこわがらせたくなかったし、あのイタリア人が万一来たとき、この見物を見せてやりたかったからだ。
名所アルバムを置きわすれた場所を探すために中廊に足を踏みいれると、ひとつの柱のところに、祭壇合唱隊席とほとんどすれすれに、小さな副説教壇があるのに気がついた。きわめて簡単なつくりで、なめらかな白っぽい石でできていた。あまりに小さいので、遠くからは、聖者像を入れておく壁龕《へきがん》ぐらいにしか見えない。そこで説教するものは手すりから歩一歩も身をひくことができないだろう。しかもその上についている石の円屋根は異常なほどひくく、飾りこそついていないがまがりくねってのびていて、その下に立つ人間は中ぐらいの背でも直立はできず、いつも手すりから身をのりだしていなければならないだろうと思われた。これはまったく説教師を苦しめるためにつくられたようなものだ。しかもどうしてこれがあるのか、もうひとつ別の、美しい彫刻をほどこされた大説教壇があるだけに、不思議だった。
説教のまえによく灯《とも》されるランプがその上のところにすえられていなかったら、Kはこの小説教壇には気がつかなかっただろう。すると、これから説教がはじまるのか? こんなだれもいない寺院のなかで? Kは説教壇にまでのぼっていく階段を見あげた。それは柱にまといつくようにくねっており、人間ひとり通れないほどにせまい。柱の装飾のためにだけとりつけられたと思われる階段であった。そのとき階段の下に、まごうかたないひとりの僧が立っていた。Kは思ったことがそのままになっておどろき、苦笑しさえした。僧は手すりに手をかけ、これからのぼっていこうとしていた。Kを見おろし、ついで首でかるく会釈をした。Kも十字を切り頭をさげたが、本来ならもっと早くやるべきだっただろう。僧はちょっとはずみをつけて、小刻みに、急いで階段をあがった。本当に説教がはじまるのだろうか? もしかするとあの寺男はそれほど阿呆ではなく、Kをこの説教師のところにつれてこようとしたのか? 教会のなかにひとかげのない様子からして、これはたいそう必要なことだ。それにしても、マリア像のまえにもうひとり老婆がいたのだから、彼女もここにつれてこられねばならないところだ。いよいよお説教となれば、オルガンの前奏がはじまるはずなのに、それがまだないのはなぜか? オルガンは、と見れば、ひそまりかえって、はるか高い暗闇からぼんやりと光沢をうかびあがらせているだけだった。
今のうちにはやく出てしまったほうがいいのではないか、とKは考えた。今のうちに出ておかないと、説教の途中で出られる見通しはまずない。ずっと居つづけなければならないことになる。銀行でもむだな時間をつぶしたことだし、これ以上イタリア人を待っている必要もなかろう。時計を見ると、十一時だった。だがいったい、本当に説教をするつもりなのだろうか。聴衆はKひとりだろうか? もし自分がこの教会を見物に来たただの外人客だったらどうする? 根本においてそれほどのちがいはないはずだ。このように天気のわるい、週日の、午前十一時に、説教がおこなわれると考えただけでもばかげたことだった。僧は――のっぺりとした暗い顔つきの若者だったが、僧であることはたしかだ――まちがって点けたランプを消すことだけが目的で、説教壇にのぼったにちがいない。
ところがそうではなかった。僧はランプをしらべるにはしらべたが、むしろ灯心を高くして、ついで手すりのほうにふりむいた。両の手で角ばったへりをつかんだ。しばらくそのままの姿勢で立ったまま、首を動かさずにあたりをうかがっていた。Kは後退して、一番前のベンチに肘をついた。
どこといってはっきりしなかったが、例の寺男が背中をまるめ、なにか一仕事おえたあとのようなくつろぎでかがみこんだのを、おぼろな視線のなかにとらえたような気がした。なんという静けさだろう! しかしKはこの静けさを破らないわけにはいかなかった。ここにとどまっている気持はなかった。定められた時間に、周囲の状況いかんにかかわらず説教するのが僧の義務であるならば、勝手にやってくれればよい。別にKの協力など必要なはずがないし、たとえKがいたからといって効果があがるというものでもあるまい。そこでKは歩きだし、爪先でまさぐりながら、ベンチをすりぬけ、まんなかの広い通路に出た。そこでもまだ安全に進んでいけたが、足音だけがどんなにしのびやかに歩いてもただ石の床の上に響き、天井も、かすかにではあるが、絶え間なく、つぎつぎと規則的に谺《こだま》した。ベンチのあいだの通路をひとりで進んでいくKは、おそらく僧に見つめられているだろうとは思うものの、どこか孤独な気がした。この寺院の広さも、これ以上は人間の耐えうる限度でないような気がした。さっきの場所に来ると、大急ぎで名所アルバムをひろいあげ、そのまままっすぐに進んだ。ベンチのあるところは通りすぎ、そこから出口までのなにも置かれていないところを通っていこうとしたとき、はじめて、僧の声を、聞いた。力のこもった、みがきぬかれた声だった。その声は、それを受けいれんばかりになっていたこの寺院の空間に実によく響きわたった。僧が呼びかけたのは聴衆ではない。歴然とまぎれようもないその声は、「ヨーゼフ・K!」と呼んだのだ。
Kははたと立ちどまり、目のまえの床を見た。いまならまだ自由で、このまま先へ進み、すぐそばにある三つの黒い小さなドアのひとつから、そとに抜けだすこともできる。そうすればそれは僧に対しては、自分はなんのことだかわからなかった、あるいはわかったが、かまうひまがなかった、ということになるだろう。ところが、いまもしふりむきでもしたら、ひきとめられることは必定《ひつじよう》である。なぜならそれは、よくわかった、自分はまさしく呼ばれた本人である、あなたのおっしゃるとおりにいたしましょう、ということになるからだ。もし僧がもう一度呼んでいたら、Kは出てしまっていたところだろう。ところが待っているあいだ、あたりがあまりにひっそりかんとしていたため、Kは、僧がなにをしているのかと思って、そっと首をまわしてみた。僧は相変わらず説教壇のうえに立っていた。しかもかれがKの首の回転を見てとったことは明らかだった。このまままっすぐ僧のほうをふりむいてしまわないことには、子供の隠れん坊同然の遊びごとになってしまう。そこでKはふりかえった。僧は指で合図してそばに来るように言った。それからあとのすべては公々然たることになったので、Kは――好奇心のせいや、事柄を手ばやくかたづけてしまいたいためもあって――飛ぶようにはやい足どりで説教壇に近づいた。前方のベンチのあたりで立ちどまったが、僧にはその距離がまだ長すぎるらしく、手をのばし、人さし指をぐっと下にさして、説教壇のすぐまえの場所に来るように言った。そこから僧を見ようとするとよほど顔をあげなければならなかった。「あなたはヨーゼフ・Kですな」と僧は言って、あまりはっきりしないしぐさで手すりから手をあげた。「ええ」とKは答えながら、この自分の名前は以前はなんと名のりやすかったことか、それがしばらくまえから重荷になってしまった、初対面のものでさえ知っている始末だ、はじめに自己紹介をし、それから知りあいになるのが順序なのに、と感慨にふけっていた。「あなたは告訴されていますな」と、ことさらに声をひくくして僧が言った。「ええ」とKは答えて、「そういう知らせがありました。」「それなら、あなたこそわたしの探していた人間だ」と僧は言って、「わたしは教誨師《きようかいし》だ。」「ああ、そうでしたか」とKは言った。「わたしはあなたを呼ばせにやったのだ」と僧は言って、「話したいことがあったものだから。」「それは知りませんでした」とKは言った、「わたしはあるイタリア人を案内するためにこの寺院に来たのです。」「よけいなことは言わんでもよい」と僧は言った、「その手に持っているものはなにかね? 祈祷書かね?」「ちがいます」とKは答えて、「町の名所アルバムです。」「すてなさい」と僧は言った。Kは激しくなげすてたので、頁が開き、くしゃくしゃになって床のうえをすこし滑ったほどだった。「あなたの訴訟はうまく行ってないのを知っているかね?」と僧はたずねた。「そうらしいです」とKは答えて、「これまでいろいろとやってきましたが、いっこうにだめでした。訴願もできあがっていません。」「で、最後はどうなると思うかね?」と僧はたずねた。「以前は望みをかけていましたが」とKは言って、「いまでは自分でも疑わしくなっています。どうなることやらわかりません。あなたにはおわかりですか?」「いや」と僧は言って、「だが、あまりかんばしくはないようだ。みなはあなたのことを有罪だと言ってますぞ。訴訟は下級裁判所から上には行きますまい。みなは、少なくともこれまでのところ、あなたの罪は証明されたと言ってますぞ。」「でもわたしには罪はないのです」とKは言った。「罪があるというのはまちがいです。だいたい、ひとりの人間が有罪だなどということがどうしてありえます? わたしたちはみんな同じ人間じゃありませんか?」「それはそうだ」と僧は言って、「しかし有罪の人間はとかくそう言いがちなものだ。」「あなたはわたしに対して先入観をおもちなんですか」とKはたずねた。「先入観などはもっていない」と僧は言った。「それはありがたいことです」とKは言って、「訴訟に関係のあるひとたちはみな、わたしに対して先入観をもっているんです。よそのものにまでそう言ってまわるんです。わたしはだんだんこまった立場においやられるばかりです。」「あなたは考えちがいをしておる」と僧が言った。「判決は急におりるものではない。訴訟手続きの進行が次第に判決へ移っていくものだ。」「そうですかね」と言ってKは首をたれた。「ところで、次はどういう手を打とうというのかね?」と僧がたずねた。「援助を求めようと思います」とKは言って、僧がそれをどう受けとったか確かめようと、顔をおこした。「まだいろいろためしてみることがあるんです。」「あなたは他人の援助を求めすぎる」と僧は非難がましく言って、「ことに女の援助をだ。それが本当の助けになるとでも思っているのかね?」「だめなことがある、いや、ほとんどだめだということはわかっています」とKは言って、「でも、まったくだめというわけでもないのです。女性たちはたいした力の持主です。もしわたしが知りあいの二三人の女性に頼んで協力してもらえば、きっとうまくやってのけられるでしょう。ことにこの裁判所では、女の尻ばかり追いかけまわしている役人が多いので、望みがもてます。予審判事に女をひとり遠くから見せてごらんなさい。裁判所の机や被告なんかは飛びこして行ってしまうでしょう。」僧は首を手すりのほうにかたむけた。説教壇の天井が窮屈になってきたらしいのだ。そとの雨風はどうなっただろう? 今はもう降りこめられた日中ではない、真夜なかなのだ。大きなステンドグラスのどれひとつからも暗い壁に射す光は入らない。ちょうどそのとき、主祭壇のうえの蝋燭をひとつひとつ寺男が消しだした。「あなたは怒っておられるんですか?」とKは僧にたずねた。「あなたはご自分が勤めておられる裁判所の実態を知らないのですか?」返事はなかった。「わたしは自分の経験した範囲内で言ったのですが」とKは言った。説教壇のうえは依然静かだった。「あなたを侮辱するつもりはありませんでした。」そのとき僧がどなりつけた。「あなたは自分の二歩まえが見えないのか?」腹だちまぎれの叫び声だった。だれか倒れる人間を見ておどろき、とっさに、思慮もなくあげる声に似ていた。
ふたりは長いあいだ黙っていた。下は暗いので、僧のほうからKは見えないが、Kは僧を小さなランプの光のなかではっきりと見ることができるのだった。僧はどうしておりてこないのか? 説教は結局おこなわれず、Kに対して二三警告があたえられただけだったが、その警告も、考えてみれば、役にたつというより害になるものであった。しかし僧はたしかに好意からKに話しかけてきたのだ。もし僧が説教壇からおりてくれば、ふたりは一致して話し合えるということも考えられないことではない。そうすれば、きわめて有益でためになる忠告を僧から授かるということもありうるだろう。訴訟の進行にどうはたらきかけたらよいかでないにしても、訴訟からどうやって離れることができるか、どうやって回避できるか、どうやってわずらわされずに暮らすことができるか、などである。そういう方法はかならずあるにちがいない。K自身も最近になって思いめぐらすことだ。なるほど僧は裁判所の人間で、Kが裁判所の悪口を言ったときは、その温和な性格にもかかわらず、どなりつけまでしたが、もしそういった方法のどれかを知っているなら、頼みかた次第では教えてくれるかもしれない。
「下におりてこられませんか?」とKは言った。「説教の予定はないんでしょう。おりてこられませんか?」「おりていってもいい」と僧は言ったが、どうやらどなりつけたことを後悔しているらしかった。ランプを鉤からはずしながら、「わたしはまず離れてあなたと話し合わなければならなかった。気がよわいもんだから、すぐに同情して、自分の役目を忘れてしまう。」
Kは、僧を階段のしたで待っていた。僧は、階段を降りてきながら、すでにKにむかって手をさしのべていた。「わたしのためにすこし時間をさいていただけるでしょうか」とKはたずねた。「いくらでも、気がすむまで」と、僧は言って、Kに持つようにと小さなランプを渡した。近づいてもなお、僧のもつある種の荘厳さは失われなかった。「大変親切にしていただいて」とKは言った。教会の暗い側廊を、ふたりは肩をならべて、行ったり来たりした。「裁判所の人たちのなかでは、あなたのような方は例外なのです。わたしはこれまで非常にたくさんのひとと知り合いになりましたが、あなたのように信頼のおける方はひとりとしていませんでした。あなたとなら、心からうちあけてお話できます。」「思いちがいしないように」と僧は言った。「いったいなにをわたしが思いちがえているというのですか」と、Kはたずねた。「裁判所のことをだ」と言って、僧はつづけた。「法律の入門書には、この種の思いちがいがつぎのようなたとえで、説かれている。――掟のまえにひとりの門番が立っていた。この門番のところに田舎ものの男がひとりやってきて、掟のなかに入れてほしいと頼んだ。ところが、門番は、『いまおまえを入れてやるわけにはいかない』と男に言った。その男は考えこんでから、こんどは、『もっと後だったら、入れてもらえるか』とたずねた。『それだったらできるかもしれない』と、門番は言った、『だが、いまはだめだ。』掟の門は、いつもあけっぱなしだったし、門番がわきへさがってしまったので、男は腰をかがめて、門ごしになかをのぞこうとした。すると、門番は、このようすに気づいて、大声で笑いながら、こう言った。『おれは禁じたが、そんなに入りたいなら、入ってみたらいい。だがな、覚えておけ、おれには権力があるんだ。一番下っぱの門番にすぎないとはいってもな。広間から広間へと進むにしたがって、だんだんと権力の強い門番が立っている。おれなぞ、三番目のやつでももう我慢できない。』こんなにむずかしいものとは、田舎ものの男には思いもおよばなかったのだ。男は、掟にはだれでも、いつでも入れると考えていた。しかし、あらためて、毛皮の外套を着こんだ門番の大きな尖り鼻や、長くてうすい、韃靼人《だつたんじん》のような黒ひげをつくづくと眺めて、男はやはり、入る許可がおりるまで待とうと決心した。門番は男に腰掛けをやって、門の横にすわらせた。そこに男は、くる日もくる日もすわりつづけた。そして、入れてもらおうとさまざまな試みをしたり、しつこく頼んだりして、門番をわずらわした。ときどき門番は、男にちょっと訊問してみたり、故郷《くに》のことをたずねてみたり、あれやこれやお偉方がよくやるような質問をしたりしたが、いつも最後には、まだ入れてやるわけにはいかないと言うのだった。旅のそなえにと、男は多くを用意してきていたが、門番を買収するために、まだまだ貴重なものではあったが、持っているものを全部やってしまった。門番は全部とるにはとったが、そのたびにこう言いそえた。『おまえがなにか手ぬかりをしたと思わないように、受けとってやるんだ。』長い年月、ほとんど絶え間なく男は、門番を観察しつづけた。男はほかの門番のことなどすっかり忘れてしまい、かれにとってはただこの第一番目の門番だけが、掟に入れないようにしている唯一の妨げでもあるかのように思われた。最初のころは、この不運を大声で呪ってもいたが、年をとるにつれて、呟きに変わっていった。もうろくもした。長年、門番を研究したあげく、毛皮の襟にいる蚤どもまでも発見するにいたり、門番を説きふせるのを一緒に手伝ってくれるようにと、蚤どもに援助を求めたりした。とうとう、視力が弱まってきて、ほんとうにまわりが暗くなっているのか、自分の目のせいでそうなのかわからなくなってしまった。だがいま、かれは掟の門から消しがたくもれてくる輝きを、暗闇にみた。もう生きているのも長くはないだろう。死ぬまえに、かれの生涯のあらゆる経験がかれの頭に寄りあつまって、これまで門番にたずねてみなかった一つの問いとなった。男は、もうこわばった身を起こすことも出来ないで、門番に目くばせした。門番は、男の方に深く身をかたむけなければならなかった。なぜなら、今では背丈が違って、男には非常に都合が悪くなってしまっていたからだ。『いったい、いまさらなにを知りたいのかね?』と門番はたずねた、『飽きもせずに。』『だれもみんな、掟を欲しがっているのに』と、男は言って、『それなのに、どうしてこの長いあいだ、わたし以外にはだれも入れてもらいたいと言ってこなかったのでしょう?』門番は、男がもう臨終にあることを知って、うすれてゆく聴力にとどけとばかり大きな声でどなった。『ここにはだれも入れなかった。おまえのためだけの入口だったのだ。さあ、行って門をしめよう』――」
「では、その門番は、男をまどわそうとしたのですね」と、Kはその話に非常に強く惹きつけられて、すぐこう言った。「そう早合点しないで」と、僧は言った。「他の人の意見を不用意に受けとるものではない。わたしは、あなたに、この話を、書いてあったとおりお話したまでだ。話に思いちがいはない。」「でもそうではありませんか」とKは言って、「あなたが最初になさった解釈は、まったく正しいんです。門番は、救いの言葉を、その男に役にたたなくなってから、はじめて、明かしたのです。」「門番は、それまでに、たずねられなかったのだ」と僧は言った。「かれが、門番にすぎないことを考えてごらん。かれは、門番としては、立派に義務を果たしたのだ。」「なぜ、あなたは、かれが義務を果たしたとお思いになるのです?」とKはたずねて、「かれは義務を果たしてなんかいません。かれの義務は、おそらく、他のものたちをみんな拒むことだったのです。でもこの男に定められていた入口なのですから、この男は入れてやらなければいけなかったのです。」「あなたは、この本をもっと尊敬しなければならんし、それに、あなたは、話を変えてしまっている」と、僧は言った。「この話は、掟に入ることについての二つの重要な、門番の説明をふくんでいる。つまり、最初と、最後に。その一つの箇所ではこう言っている、『いまは入れてやれない』、そして、他の箇所では、『ここに入れるのはおまえだけなのだ』と。もし、この二つの説明のあいだに、なにか矛盾があれば、あなたが言ったことは正しいわけで、門番は、男をだましたのだ。ところが、全然、矛盾はない。かえって、最初の説明が、もう一つの説明を意味してさえいる。門番が、入れるという未来の可能性を、あきらかにほのめかしてしまったのだから、門番が、かれの義務を逸脱したといってもいいぐらいだろう。あの時には、男を拒絶するだけが門番の義務だったのだ。実際、この本の多くの注釈者たちは、門番が厳格さを好むようにみえ、自分の職業にもしっかりと目覚めているかのようにみえたのに、あんな示唆を与えるなんて、と意外に思っているのだ。長年のあいだ、かれは、職務を捨てずに、最後になってはじめて門をしめる。『おれには権力があるのだ』といっていたように、かれは、自分の務めの重要さを非常にはっきりと自覚していた。かれは、上のものにたいしては畏敬の念をもっていた。なぜならかれは、『おれは、一番下っぱの門番にすぎない』と言っているからだ。かれはおしゃべりではなかった。長い年月のあいだにいわゆる『とりとめのないやり取り』をしただけにすぎないのだから。もらい物のことを喋って、『おまえがなにか手ぬかりをしたと思わないようにと思って、受けとってやるんだ』と言っているのだから、賄賂のきくような男でもないのだ。義務を果たすときになって、感動したり、ふるえたりするような男でもない。なぜなら、その男のことを、『かれが、嘆願して、自分をうんざりさせた』と言っているのだから。最終的にいえば、かれの容貌もまた、大きな尖り鼻や、長くてうすい、韃靼人のような黒ひげでもって、ごく平凡な性格であることを語っている。義務に忠実な門番ではなかろうか? ところで、門番には、入れてもらいたいものにとっては、非常に好都合な、また別の特徴もあって、このことをおもえば、かれが、未来の可能性を示唆して、職務をいく分逸脱したというようなことも理解しやすくなる。つまり、門番が、少々単純で、それでもって、少々うぬぼれが強いのは、否めまい。たとえ、かれが、自分の権力や、他の門番たちの権力や、耐えがたいかれらの様子を喋りはしても、――つまり、たとえ、これら喋ったことはどれも本当であるとしても、かれの理解が、単純さと、うぬぼれでもって曇ってしまっているのが、かれのこれらの話し方から、うかがえよう。注釈者たちはそれをこう言う。『同じことがらの正解と誤解とは、おたがいに全く別のものではない』と。しかし、ともかく、あの単純さとうぬぼれがおそらくはごくわずかしか表われてはいないとしても、それが入口の警備を弱め、門番の性格の隙であったのだと、しなければならない。さらにつけ加えると、門番は生まれつき非常に親切であると思われる。かれは、寸分隙のない役人ではなかったのだ。門番は男に、はっきりと立ち入りの禁止を言明しておきながら、すぐにまた、男を、そそのかすような冗談を言ったりしている。そして、男を追いたてもしないで、つまり腰掛けを与えたりして、門の脇に腰をおろさせるのだ。なん年もの長いあいだを通じて、男の嘆願を聞いてやったあの忍耐強さや、くだらないやり取り、賄賂を受け取ってやったこと、そしてまた、ここで、このような門番と出会った不運な出来事を、すぐわきで大声で呪う男を見すごしてやったあの気高さ――これらすべてのことは、同情に動かされてやっているのだ。門番だったらだれしもがこのような振舞いをするとは限らない。そして、最後に、門番は、男から目くばせをうけると、男に最後の質問の機会を与えてやろうと、深く男の方に身をかがめてやっている。ただ、いくらか気短かになっているのが、――門番は、もうなにもかも終わりだということを知っていたのだ――『飽きもせずに』といっているのからうかがえる。この種の解釈を、もう一歩押しすすめて、『飽きもせずに』という言葉には、確かに、軽蔑の念がこめられてはいても、ある親しみのこもった賛嘆のひびきがあると言う人たちもかなりある。いずれにしても、門番は、あなたが考えているような人物とは違うのだ。」「あなたは、わたしよりその話に詳しいのですし、ずっと以前からご存知でもあります」と、Kは言った。しばらく二人は黙っていた。それからKが言った。「それでは、男が、だまされていたのではないと考えられるわけですね。」「わたしを誤解しないように」と僧は言って、「わたしはただ、この話について述べられている意見を、あなたに伝えているのにすぎない。こうした意見は、あまり尊重しないほうがいい。本は、不変のものであって、意見は、ただその本にたいする絶望を表わしていることが往々あるのだから。この話の場合にも、むしろ門番の方が、だまされていたのだという意見さえあるのだ。」「その意見はまたゆきすぎていますね」と、Kは言って、「どういう根拠から出ているのでしょうか?」「その根拠は」と僧は答えて、「門番の例の単純さにあるのだ。門番は、掟の内部を知っていたわけではなく、ただ道を知っていただけで、その道もかれには、いつも入口までしか許されていなかったのだと言われている。門番は内部を子どもっぽく考えていて、男に掟を恐がらせようとしながら、自分でも恐がっていたと思われる。ほんとうのところ、男より門番の方が恐がっていたくらいだ。というのは、男が内部のおそろしい門番たちのことを聞いてもなお、ひたすらになかに入ることしか念頭にないのと違って、門番は入りたいとは思っていないからだ。少なくとも、このことについて知る手がかりはなにもない。もっとも、門番が以前、内部にいたことがあったのだ、と言う人たちもいる。なぜなら、門番は、少なくとも掟の職務につかされたのだし、こういった取りきめは、ただ内部で行なわれるだけなのだから。これにはこう答えられる。つまり、門番は、内からの呼び声によって門番にされたとも思われる、が、三番目の門番を見るのも耐えがたいというのだから、少なくとも、内部の奥まではいったことがないのにちがいない。その上、かれがその長いあいだに、他の門番たちについて語っているほかは、別段内部についてなにか話していたとは書かれていない。口止めされていたのかもしれないが、別に口止めされたとも語られてはいない。こういったことから、かれは、内部の様子や、掟の意味はなにも知らず、その意味では、門番は思いちがいをしていたのだと結論するわけなのだ。しかし、また、門番はこの男に、服従すべきだったのに、それを知らなかったのだから、田舎からやってきた男のことも、思い違いしていたわけだ。門番が、男を部下のように取り扱ったのは、多くの点から明らかだが、このことは、あなたも、まだよく覚えておられるだろう。だが、この意見によれば、ほんとうは、門番が、男の部下なのだということも、はっきりしてくる。なによりもまず、自由な人間は、拘束された人間よりも上位にあるのだ。
ところで、現にその男はいきたいところにいける自由の身で、掟に入ることだけがままにならないというわけだ。だが、それも門番というたった一人の人間によって禁じられているにすぎない。門のわきで、この男が腰かけにかけて、そこに生涯いつづけたのも、自分の意志でやったことだし、話には、強制のことなどなにひとつ語られてはいない。これにたいして、門番は、職業のために、自分の立場に縛りつけられていて、離れてそとへいくわけにもいかないし、もしかれが望んだとしても、おそらくは、内部にも入れないのだ。さらに、かれは掟の職務についているとはいっても、この入口一つを守っているにすぎず、ということはとりもなおさず、この入口の唯一の使用者と定められたその男につかえているということなのだ。この理由からしても、門番は、男の下位になる。いうなれば、かれは、長い歳月をかけて、男の働き盛りを、虚《むな》しい務めについやしてしまったのだ。一人の男が、つまり、壮年の男がだれかやってきたわけで、門番は、目的が果たされるまでの長いあいだ待たなければならなかった。それも、勝手にやってきた男の気のすむまで長く待たなければならなかったのだ。しかも、務めの終止符は、男の死によってうたれるのだから、結局、最後まで門番は、男の下位にとどまるわけだ。それに、門番がなにも知らなかったことは、くりかえし強調されている。しかし、この位の点では、とりわけ目に立つこともない。というのは、この意見によると、門番は、かれの職務に関したことで、もっとはるかに重大な思い違いをしているのだから。一番最後で、かれは入口のことを語ってこう言っている、『さあ、行って、門をしめよう』と。ところが、話の最初のところに、掟の門はいつもの通り開いていたと、ある。いつも開いているというのは、つまりその門に定められた男の寿命とは無関係であることになるから、門番が門をしめることはできないはずだろう。門番が、門をしめようと言ったのは、ただ、男に返事をあたえるためだったのか、それとも、自分の仕事の義務を強調するためだったのか、あるいは、最後にもう一度、男を後悔と悲嘆に突きおとすためだったのか、この点で、意見はみなそれぞれに分かれている。しかし、門番が、門をしめられないだろうという見解では、ほとんどが一致している。また、注釈者たちは、少なくとも最後の場では、叡智の点でも、門番が男に劣っていたとさえ考える。というのは、男が、掟の入口からさしてくる輝きを見ているのに、門番は、職業柄、背を入口にむけて立っていながら、変化を認めたような気配をなんら示していないからなのだ。」「それは、もっともな根拠です」と、僧の説明の一つ一つの箇所を低い声でひとり呟きながらKは言った。「裏づけは十分です。いまでは、わたしも、門番がだまされていたのだと思えます。とはいっても、わたしの前の意見を撤回するわけではありません。なぜなら、両者は、ある部分では一致していますからね。門番がはっきりと知っていたのか、あるいはだまされていたのかは最終的なことではありません。わたしは、男がだまされていると言いました。門番がもし、はっきり知っていたとすると、そういうことには疑いが生じます。しかし、もし、門番がだまされていたとなると、この思い違いは、必然的に男にも生じてくるわけです。そうすると門番は、あざむいたわけではなくても、単純すぎるので、早速、解雇されねばならないでしょう。門番がおちいった思い違いは、すこしも門番を傷つけはしなくても、男の方を千倍も傷つけているということを、あなたはお考えにならなければいけません。」「いま言われたことには反対の意見がある」と僧は言って、「つまり、この話は門番を判断する権利などをだれにもあたえていないのだと、多くの人たちは言うのだ。かれがわたしたちにどういうふうにみえようと、かれは間違いなく掟につかえるものであるし、それゆえ、掟に属していて、人間の判断などがおよぶはずはないのだ。だからまた、門番が男の下位にあったと考えてもいけない。職務によって、ただ掟の入口に縛りつけられているだけであっても、自由に世の中で暮らすのよりは、比べようもないほどはるかに、素晴しいことなのだ。男が、はじめて掟にやってきたとき、すでに門番は、そこにいた。かれは、掟から務めをかせられているのだから、かれの価値をうたがうのは、掟をうたがうことになるのだ。」「そうした意見に、わたしはすっかり賛成するわけにはまいりません」と、Kは頭をふりながら言って、「といいますのも、もしその意見に従いますと、門番の言ったことはすべて真実だとしなければなりません。そんなことが不可能であるのは、あなた自身でもうすっかり論証なさったはずではありませんか。」「いや」と僧は言って、「なにもすべてが真実であると考えることはない。ただ、すべてが必然なのだと思えばよい。」「ものがなしい意見ですね」とKは言って、「嘘、偽りが世を律するというわけですね。」
Kは、決断的にこう言いきった。しかし、最後の判断をくだしたわけではなかった。かれは、この話の論理を全部みてとるには、あまりに疲れすぎていた。話のこうした思考方法にも慣れていなかったし、かれよりはむしろ裁判所の人たちの論題に適《ふさわ》しい非現実的なことばかりだった。簡単な話が、別のおかしなものになってしまっていた。こんな話は忘れてしまいたかった。僧は今や、非常にやさしく、許容を示して、自分とKの意見が確かに合わなかったにもかかわらず、Kの言葉を、黙って受けとめてくれた。
二人はしばらく黙ったまま歩いていった。Kは、自分がどこにいるのかもわからず、僧に近々と身を寄せていた。かれの手にしたランプは、とっくに消えてしまっていた。かれのすぐ目先で、聖者の銀の立像が、一度きらりと、銀の輝きを投げると、また、すぐに、暗闇に消えていった。僧に、このままずっと指図を仰いでいるわけにもいかないので、Kは、僧にたずねた。「もう正面玄関の近くではないのでしょうか?」「いいや」と僧は言って、「ここはずっと離れている。もう帰るのか?」Kはそのとき、こう考えていたわけではなかったが、すぐに言った。「ほんとうに、もう行かなくてはなりません。銀行の業務主任をしているものですから、みんなが、わたしのことを待っております。商売仲間の外国人にここのドームを案内してきただけのものですから。」「それでは」と僧は言って、Kに手をさし出した。「おいきなさい。」「でも、暗くて、ひとりでは道がおぼつきません。」とKは言った。「左手の壁の方へいって」と僧は言って、「それから、ずっと壁づたいに歩いていくと出口が一つある。」だが、僧が二三歩いきもしないうちに、もうKは大声で叫んでいた。「どうか、待っててください。」「待っていよう」と僧は言った。「わたしのことをなにかお聞きになりたくはないのですか?」とKはたずねた。「別に」と僧は答えた。「あなたは前には、とてもわたしに親切にしてくれて」とKは言って、「なんでもみんな話してくれたのに、今度は、わたしなど眼中にないかのようにいっておしまいになるのですか。」「でもあなたはもどらねばならない」と僧は言った。「それはそうなのですが」とKは言って、「でも、わかってください。」「それよりもまずわたしが何ものかを考えなさい」と僧は言った。「あなたは刑務所の教誨師です」と言って、Kは僧に近づいていった。銀行には、さっき言ったほどすぐには帰らなくてもよかった。むしろ、ここに残りつづけていたかった。「要するに、わたしは裁判所のものだ」と僧は言った。「だから、わたしが、どうしてあなたになにかを求めたりするだろうか。裁判所は、あなたになにも要求しはしない。あなたが来れば、受け入れ、あなたが行くならば、去らせるだけだ。」
第十章 最期《さいご》
Kの三十一歳の誕生日の前夜――通りが静まる夜九時ごろであった――二人の紳士がKの住居を訪ねた。フロックコートに身をつつみ、顔のあおざめた、肥り肉《じし》の男たちで、頭には動きのとれないらしいシルクハットをかぶっていた。はじめての訪問ということで、家の入口で儀式ばった挨拶をひとわたりやったあと、つぎにKの部屋のまえまでやってきて、同じ挨拶をもっと大々的にやってのけた。Kはだれといってひとを待っているわけでもなかったのに、かれら同様黒い身なりで玄関わきの椅子に腰をかけ、いかにも客を待っているという様子で、ゆっくりとおろしたての、指にぴんとはる手袋をはめてみたりしていた。すぐに立ちあがり、不思議そうに客ふたりの顔を見た。「するとあなたがたはわたしを迎えにさしむけられたわけですか。」男たちはうなずき、おたがいを手にしたシルクハットでさししめした。自分はこんな客たちを待っていたのではない、とKは心につぶやいた。窓ぎわに近づき、もう一度暗い通りを見おろした。むこうがわのアパートの窓はほとんどが暗くなっている。カーテンをひいた窓も多い。うえのほうの、あかりのともった窓の柵のうしろで、数人の子どもたちが遊んでいる。まだ居場所から動けないほどに小さいので、おたがい小さな手のひらでおしくらをしながら遊んでいる。「ずいぶんと老《ふ》けこんだつまらん役者をよこしたものだ」とKはひとり言を言った。もう一度確かめるようにふりかえりながら、「このおれをお安くあげてしまおうというわけか。」ふたりのほうにまっすぐむいて、「どこの劇場で演っておられるのですか?」とたずねた。「どこの劇場?」一方の男が口のはしをひきつらせて、もう一方の男に助けをもとめた。もう一方の男はどう身をもがいても言葉の出てこない唖のような身ぶりをした。「あんたがたは質問を受ける用意はしてこなかったんですね」とKは呟いて、帽子をとりにいった。
まだ階段のところなのに、ふたりはKの腕をとろうとした。「路に出るまで待ってください。別に病人じゃないんですから」とKは言った。建物の入口を出ると、ふたりはすぐにKの腕をとった。それはKがこれまでだれともやったことのないような腕の組みかただった。肩をうしろからKの肩にぴたりとつけ、腕はまげないでまっすぐのばしたままKの腕にあてがい、その先はまるで学校の児童のように躾《しつけ》よく、しっかりと、Kの手とつなぎあわせていた。Kは両がわからはさまれてしゃちほこばって歩いていった。三人は完全に一体をなし、もしひとりが倒れるとほかのふたりも倒れただろう。これほどの一体は生物《いきもの》にはかたちづくれないだろうと思われるほどだった。
街燈のしたに来るたびにKは、からだがこう密着していてはやりにくかったが、同伴者の顔を暗い部屋のなかにいたときよりもよく見ようとした。厚い二重顎が目にとまると、これは「テナー歌手だな」と思った。気味のわるいほど顔が清潔だった。ふと見ると、手で目じりにさわったり、上唇をこすったり、二重顎のごみをとったりして、手入れしているのだった。
それに気づいてKは立ちどまった。するとほかのふたりも立ちどまった。まったくひとけのない、美しい設備の広場にさしかかっていた。「なんだってあなたがたをよこしたんだろう!」Kはたずねるというより叫んだ。ふたりはどう答えていいのかわからないらしく、病人をやすませるときの付き添いのように、一方の手をたれたまま待っていた。「もう歩きませんよ」Kはためしに言ってみた。ふたりは返事をする必要はなく、にぎった手をゆるめず、Kをその場からひきたてようとした。しかしKはあらがった。「このさき力のいることはあるまい。ここで全力をだしきろう」と考えた。蝿取り紙からもがきはなれようとする蝿の姿が頭にうかんだ。「そう簡単にはすませないぞ。」
そのとき、かれらの前方のいく分ひくまった路地から、わずかばかりの階段をつたわって、ビュルストナー嬢の姿がこの広場にあらわれた。はたしてビュルストナー嬢であったかどうかははっきりしなかったが、似ていることはよく似ていた。しかしKにとっては、それがビュルストナー嬢でなくてもよかった。ただ彼女を見た瞬間、こうやってあらがっていることの無意味さがすぐに念頭にのぼった。自分はこのようにあらがい、このように男たちをてこずらせ、このようにふせぎながら自分の生の最後の残光をあじわいつくそうとしている。それがそんなに英雄的なことだろうか? かれは歩きだした。と、ふたりの男のよろこんでいるようすが、かれ自身のうえにも伝わってきた。ふたりはKの歩くほうについてきた。Kはビュルストナー嬢のえらんだ路を歩いていった。追いつこうというのでなく、その姿をいつまでも目にとめておこうというのでなく、ただ、ビュルストナー嬢の姿が意味したいましめを忘れないために。「いまのおれにできる唯一のことといったら」とKはつぶやいた、自分の歩調とふたりの歩調とがつりあっていることがかれの次の考えを確実にした、「いまのおれにできる唯一のことといったら、つりあいのとれた分別を最後までたもちつづけることだ。おれがこれまでやってきたことは、ただ我武者羅《がむしやら》に世間をひた走ることだった。それも、あまりよい目的のためにとはいえない。まちがっていたのだ。しかもいま、訴訟期間がもう一年もたつというのに、おれはまだいっこうに変わっていないことを示さねばならんのか? 筋のとおらない人間として退場しなければならんのか? 訴訟のはじまったときにはすぐにもそれを終わらせようとし、いざ終わる段になると、またそれをはじめさせようとしたと、ひとに言われなければならんのか? 言われたくはない。この道すがら付き添ってくれているのが半分唖のようなおろかな男たちで、そのため勝手な口がしゃべれるのはありがたいことだ。」
そうこうするうちにビュルストナー嬢の姿は横丁に消えてしまった。しかしKにはもう彼女が必要でなかった。かれはふたりの随伴者の行くにまかせた。三人はうちそろって、月の照らす橋のうえをわたっていった。Kがほんのわずか足のむきをかえても、ふたりはそれにしたがった。Kが欄干のほうを向くと、三人はぐるりとそちらむきになった。水が月あかりにさざめき、小さな島にぶつかってはふた筋に分かれていた。島には潅木《かんぼく》、喬木《きようぼく》のしげみが鬱蒼《うつそう》と全体をおおっていた。この島の、いまは見えない木立ちのしたの砂利道のベンチに、Kはいく夏か、寝そべって過ごしたのだった。「立ちどまるつもりはなかったのです。」あまりに親切なふたりに気恥ずかしくさえなりながら、Kはこう言った。Kのうしろがわで、一方の男がもう一方の男にこの思いちがいを軽くたしなめているようだった。三人はまた歩きだした。
坂道をいくつかのぼった。ところどころに警官が立ったり歩いたりしていた。すぐそばにいたこともあれば、かなり離れていたこともあった。そのうちのひとりの、鼻ひげを生やした警官が、サーベルに手をかけて、この異様といえば異様な三人連れに近づいてきた。三人は立ちすくんだ。警官がいまにも口をひらきそうにしたとき、Kがぐいとふたりを前方にひっぱった。あとをつけてこないかと、なん回もふりむいた。一ブロックの間隔があくとKは駆けだした。ほかのふたりも息せききって懸命に駆けだした。
またたくまに町を出た。この方角の町はずれはそのまま畑地につづいている。町なかとさほどかわらない建物が一軒立っていた。そのよこは、もうひとの入らない、さびれた小さな石切り場になっていた。ふたりの男ははじめからここときめられて来たのか、疲れきってもうこれ以上走れないのか、立ちどまってしまった。つかんでいた手をはなし、黙っているKのまえでシルクハットをぬぎ、額の汗をぬぐった。石切り場のなかを見まわしていた。月の光が、他の光には見られないやすらかさとやわらぎをこめて、くまなく照らしていた。
ふたりは次の役割をどちらがはたすかで――割当てをきめられずに来たらしい――慇懃《いんぎん》な挨拶をとりかわしたあと、ひとりがKのそばに近づき、上着、チョッキ、シャツをぬがせた。Kが思わず身ぶるいすると、気をひきたてるように軽く背中をたたいた。ぬがせたものを、いつかはまたつかうもののように、きちんととりまとめて置いた。Kをいつまでもつめたい夜気にさらしておかないため、Kの腕をとって、行ったり来たりした。そのあいだ、もう一方の男は、石切り場にどこか適当な場所をさがしていた。それが見つかると、合図を送り、こちらの男はKを連れてそこへいった。採掘壁に近い、むかし切りだされた石がひとつころがっているところだった。ふたりはKを地にねそべらせ、石にもたれかからせて、頭はそのうえにあおむけにした。懸命にやり、Kもできるだけ応じたにもかかわらず、無理な、不自然な姿勢になってしまった。一方の男がしばらく自分だけにまかせてくれるように頼んで、いろいろやってみたが、やはりだめだった。最後に、これまでのうちで最上とはいえない姿勢にきまってしまった。ついで片方の男がフロックコートをひらいた。チョッキにまきつけたベルトに鞘入りの肉切り包丁がつってある。鞘をはらい、長くうすい両刃《もろは》の包丁をとりだした。月光に高くかざし、刃をしらべていた。やがて例のいまわしい儀式がはじまった。ひとりがKの頭ごしに包丁をおくると、もうひとりはそれを受けとって、また送りかえすのだった。この包丁が手から手へ頭をこえて渡るとき、包丁をひきつかみ、それをみずからの胸につきたてるのが、自分に課せられた義務ではなかったか、とKは思ったが、もうそれをやらなかった。まだまわる首を動かして、あたりを見まわした。なにからなにまで立派だったというわけにはいかない、そうなにもかも裁判所の思いどおりにやってやれるものではない、この土壇場の失態は、それだけの余力をおれから奪いさったものが責任を負うべきなのだ。かれの視線は石切り場のかたわらの建物の最上階にむけられていた。光が走ると見るまに、窓があけはなたれ、遠く高いところにいるためにうすぼんやりとしか見えないが、ひとの姿が、そこにあらわれた。そのひとは体を前にのりだし、両腕をさらに前方にのばした。だれだったのか? 友だちか? 親切な人間か? あわれんでくれる人間か? 救ってくれる人間か? ひとりか? みんなか? 救われようはまだあるのか? ほかに反証があるのか? あるはずなのだ。論理がどんなに不動だとしても、生きようとするひとりの人間に対してまでさからいきれる論理はないはずなのだ。ついに会えなかった裁判官はどこにいる。ついに達することのできなかった高級裁判所はどこにある。かれは両手をさしあげ、指を全部ひろげきった。
しかし、Kの喉もとには一方の男の手がのっていた。するともう一方の男が包丁で、Kの胸をふかくつきさして、そこを二度えぐった。Kは目がかすんでゆくままに、自分の顔のすぐまえでふたりの男が頬と頬とをすりよせ、自分の最期をじっと見まもっているのを見た。「まるで犬死にだ!」とKは言ったきり、羞恥だけがいつまでもあとにのこっていく気がした。
解説 『審判』とカフカ
飯吉光夫
一、『審判』
『審判』の新版 カフカの『審判』の新版が一九九〇年に出版された。正式には「フランツ・カフカ『審判』本文校訂版」(S・フィシャー書店)である。
カフカの『審判』はもともと一九二五年にベルリンの書肆ディ・シュミーデから彼の友人マックス・ブロートの手によって出版された。カフカの没年はその前年の一九二四年。彼の遺書には「ぼくの遺稿はすべて焼却してくれるように」とあったのだが、友人ブロートはこの遺志に従わず、『審判』を含めた遺作すべての出版に踏み切った。
『審判』の生原稿はその後もブロートが保管していたが、一九三九年にナチス・ドイツがチェコに侵攻する直前、彼は首都プラハを離れた。ユダヤ系人である彼はルーマニアを経てイスラエルに亡命したのだった。このときカフカの原稿類も携帯された。イスラエルに亡命したブロートは、テル・アビブの劇場の総支配人を務めたりしながら、ここに永住した。しかし一九五六年、スエズ運河危機が勃発したとき、彼は保全のためこれらの原稿類をスイスに輸送した。この原稿類は英国オックスフォードの図書館に収まったが、『審判』の原稿だけはこの中には含まれていなかった。当初からテル・アビブに残され、一九六八年にブロートが没したあとは、彼の元女秘書が保管していた。
この『審判』の生原稿が一九八八年世に出た。ロンドンのサザビーズ店で文学作品の原稿としては史上最高値で競売に出されたのを見て大慌てしたのは、ドイツ本国の文学関係者だった。西ドイツの政府と各州、とりわけ文学資料の蒐集センターがあるバーデンヴェルテムベルク州が協力して、最終的にはバーデンヴェルテムベルク州マルバッハの文学資料館に収納させることに成功した。
この『審判』生原稿の展覧は一九九〇年夏になってはじめて行われた。同時にフィシャー書店から Malcolm Pasley を編者代表とする『審判』新版二巻が出版された。第一巻はブロートの手を経ない遺稿のままの『審判』の本文、第二巻はパスリーらの丹念な原稿精査の報告である。
この報告の中に記されている最重要事は、これまでのマックス・ブロート版のうちから、第四章「ビュルストナー嬢の女友だち」は、全体の枠組から省いてもいいということである。しかし、これまでとかく論議のあったブロート版そのものは、数個の決定的誤植を除いては、ほぼ従前通りのでいいということになった。ブロートは、カフカ自身の書き誤りの訂正も含めて、賞賛すべき文学的良心で当時この書を編集出版したのだった。
パスリーは一つだけ、興味深い指摘をしている。彼は肉筆原稿を徹底的に調べて、カフカの文字癖その他から、『審判』の第一章と最終章が同時期に書かれたものであることを発見した。主人公が最初逮捕される場面の第一章と最後処刑される場面の最終章は、おそらく連続して書かれて、その中間部は後から埋められるように書かれたのだろうという。
一般読者にとっては、カフカの肉筆原稿の書き変え部分が興味を惹き起こす。とりわけその冒頭部分。ここにその写真を掲げるが、「だれかヨーゼフ・Kを誹謗したものがあるにちがいない。なぜならK自身はなにも悪いことをしたおぼえがないのに、ある朝逮捕されてしまったから。」で始まる有名な部分を、カフカは実にのびやかな筆で書き起こしている。一種スピードがのったまま、迷いなしに、よどみなく書き進めている。それでも、訂正はあって、まず目につくのは「逮捕された」(verhaftet)の字句が元来は「捕えられた」(gefangen)だったことである。後者「捕えられた」の方が抵抗のない語彙、日常に使用される語彙である。それをカフカはあえていくらか法律的な語彙「逮捕された」に置き換えたことが分る。つまり彼は日常語よりは公用語を使って、作品全体に即物的な方向性を与えようと願ったのだった。
『審判』の私解 『審判』の解釈はこの半世紀余に数え切れないほどある。論者の数だけ論があるといっていいほどである。読者はそのときの状態次第である一冊の本を読むということもあって、このような論にはあまりとらわれない方がいいと思うが、訳者自身も今回の仕事の最中にこの作品を一つの角度から読んだということがあって、あえてそれを書き留めさせて頂きたい。大まかにはこれは、カフカの『審判』を「個人と組織」の問題として読む読み方に入るだろう。
カフカは第一章と最終章をまず書いて、それから中間部を埋めていったと書いた。最初の逮捕と最後の処刑との間にあるもの、それは大まかにいって、主人公自身の執拗な問いかけ、どうして自分は告訴されたのか、自分がいま巻きこまれている裁判沙汰の実体はいったい何なのか、である。彼はおそらくプラハ市中の裁判所のある雑居アパートの中を歩きまわり、さまざまの人間にめぐり会うが、彼の心の胸底に渦巻いている謎は、いったい自分をこのように苦しめている権力の真の所有者は誰なのか、である。
この作品の始まりは、主人公のKがある朝突然得体の知れぬ二人の男の訪問を受けることから始まる。Kは銀行の業務主任で、この日はちょうど三十歳の誕生日。何のことやら訳の分らぬ彼は、それでもこの不審な二人を何とか送り出すことには成功するが、このときすでに彼のアパートの住人たちや勤め先の同僚三人を事件の渦中に巻きこんでいる。Kは実直な勤め人。しかし気晴らしに欠けているわけではなく、同僚と出歩いたり、行きつけの飲屋で常連客と飲み明かしたり、週に一度はエルザという女給の宅にも通っている。
奇妙なことに、Kがこのあとこの事件に巻きこんでいく人物たちの大半は女性である。自分が下宿している宿の女主人のグルーバッハ夫人、一つ置いた隣り部屋のビュルストナー嬢、呼び出し状を受けて訪ねていった裁判所のあるアパートの住人である若い女、ビュルストナー嬢の友人の足の悪い娘、弁護士の付添看護婦である、指と指との間に水かきのあるレーニという女などである。
お節介焼きの叔父、裁判所の内部事情に通じている画家、大伽藍の中で寓話「掟」の話をする僧などがこれに加わるが、彼らはKとはどことなくかけ離れた存在で、男たちはKにはけどおい存在である。ただ女たちだけが、一種カフカ的生理的なありかたでKの内部にほとんど病理的に入りこんでいる。
Kに向けられた裁判はまったく理不尽であることが、最初の審理(第二章)から露呈する。告発の理由はまるで分らず、ただこの裁判組織が無能な人員と、組織下に置かれた彼らの下司根性から成り立っていることがはっきりする。
Kの裁判は、毎週とはいわぬまでも一定期間をおいて続けられるというふれこみだったが、どうやらそれも不規則で、いつ終わるものやら見通しがつかない。分かっているのは、Kに対する判決が有罪で終わるだろうということだけである。やがて訴訟期間が一年以上たって、K自身この裁判に対してなげやりになっていく。
Kが次第に入りこむのは、複雑な裁判の組織の中というより、そこに座を占める人間たちの心理の中である。例えば、作品の冒頭、寝覚めのKを襲った二人の男たちはKの質問に対しても杳として裁判所の性格を明らかにしないが、彼らが交わす会話――私語――によって、二人が所属する組織がどのような相互感情を持つ人間によって固められているかはほぼ想像がつく。
Kはある朝眼覚めたとき、この組織の人間に声を掛けられる。Kはおそらく、それを相手にしてはいけなかったのである。それに応対したことが彼らの組織に支配するトーンやペースに巻きこまれることを意味したのだから。
しかし、この二人の男が所属していた組織とは、カフカの頭の中ではおそらく当時のチェコそのもの、つまり一九二〇年代のオーストリア帝政末期の半分腐りかけていた国家体制と緊密に結びついていたのだろう。当時のチェコにはふやけた官僚主義だけがはびこり、国民のひとりひとりはその犠牲者の観を呈していた。
しかも、国民ひとりひとりはこの息苦しさから逃れることはできない。帝政下の一国に属している以上、彼はその国の法を後楯とした官僚組織の圧迫から逃れることができない。
このことは法律を修めたカフカには分りすぎるぐらい分っていた。そのために彼は、彼の作品の主人公Kを二人の男に代表される組織にいつのまにか巻きこまれていく運命に遭遇させる。
こののっぴきならぬKの運命の元凶は誰かといえば、それは第一にこの国を支配する皇帝であろうが、といって最初から鶴の一声が掛ってKが弾劾されたわけではない。権力の真の発動者は、少なくともこの小説では不明である。第二に考えられることは、特定の個人というよりこの組織に棲息する人間の下卑た根性がKを悲惨な最期に追いこんだという考えである。つまりこの裁判組織はつねに犠牲者を必要としている。というのも、そこに棲息する人間は、抑圧されたおのれの下劣な品性を満足させるものとして、つねに好餌を待ち構えているのだから。
カフカはこの愚劣とか下劣とか卑劣とかいった根性をおのれの内にも含まれる人間の本性として、ある程度容認しているところがあった。このために彼は、『審判』の主人公Kにも作品の中に出てくる下層の人間とある程度仲よく付き合わせている。そのためにKはこの組織の内部にかもされている害毒を一身に受けることになるのだが、これはカフカの主人公Kがもともとこの組織体の一員であることを考えれば、ほとんど必然な運命である。
このような制約された状況下にある主人公Kの小説『審判』の真の文学性は、Kと彼の周辺の人間との心の通わせ方にある。この人間たちはK以上にも状況の制約を受けている。二十世紀は政治的制約からの人間の解放の歴史と見ることも可能だろうが、すべてに対して政治的事柄が優先されている現在、カフカの問題はまだまだ今後も世界の文学のテーマでありつづけるだろう。
訳者付記 本訳書のテキストには Der Proze§, Fischer Verlag, 1965 を使用し、かたわら今回出版された Der Proze§, Kritische Ausgabe, Fischer Verlag, 1990 も参考にした。
二、カフカ――その肖像
ここで肖像というのは、作者の生涯と写真のことである。カフカは一八八三年生まれの人間としては珍らしいほど数多くの写真を後世に残している。幸い、一九八三年と九〇年の二度にわたって、彼をめぐる写真を集めた本が出版されている。主としてこの二冊のアルバムに収められた写真を参考にしながら、彼の生涯を辿ってみよう。
フランツ・カフカは一八八三年七月三日、旧オーストリア・ハンガリー帝国の都市プラハのユダヤ人居住アパート写真@参照に生まれた。父ヘルマンはユダヤ人の商人(洋装・装身具商)、母ユーリエもユダヤ系ドイツ人だった写真A参照。長男として生まれたフランツは生来非常にひよわで内向的だった。実業の道をひた走りしている父親とはまるで肌が合わず、この大いなる父親には恐怖心さえ抱いていた。一九一九年に書かれた『父への手紙』では、この父に「臆病者」呼ばわりされた幼時期を顧みて、「ぼくはこの巨大な親父がろくに理由もないのに夜中に最後の審判官のように現われて、ぼくをベッドから廊下に担ぎだすかも知れないという妄想におびえていた」と書いている。
後世に残されている最も幼い時期の写真はBの二枚である。右側は生まれて一年目のころ、左側は三年目のころのものである。後者についてカフカは後年、「まるで五歳児のようで、このこまっしゃくれたしかめ面は当時は家中の笑い草でしたが、今のぼくはこれにはいわれがあったと考えています」と書いている。
次の写真Cは六歳のころのもの。この写真に対してはドイツの有名な批評家ベンヤミンの次のような小文がある。
「カフカの幼年時代の写真が一枚ある。彼自身がいうところの『物悲しかった束の間の幼年時代』がこれほど感動的にあらわれた写真はない。この写真はおそらく、壁布や棕櫚の樹やゴブラン織りや小道具類がごたごたとあった拷問室とも謁見の間とも見えるあの十九世紀特有の写真館のスタジオで写されたものにちがいない。ここには一人の六歳ぐらいの男の子が、装飾が多くて窮屈そうな、いうなれば屈辱的な服を着て一種の温室の中に立っている。背景には棕櫚の葉がのぞいている。モデルの少年はこの装われた熱帯をさらに暑苦しく息苦しくしなければならないかのように、スペイン風の鍔の広い帽子を左手にして立っている。この上もなく悲しそうな目がこしらえ物の周囲を見渡し、大きな耳がこの周囲に聞きいっている。」
六歳から十歳にかけての「ドイツ少年学校」通学のあと、カフカは一八九三年から一九〇一年まで国立ドイツ・ギムナジウムに通った。写真Dは、十歳のころ、妹のヴァリー(左)とエリー(中央)と撮ったもの。カフカは学業に没頭するタイプであったらしい。当時の日記に、「今はもう夕方。朝の六時からずっと勉強していた後ふと気がつくと、左の手が右の手をいとおしんで、その指をじっと抱きしめていた」という書きつけが残っている。
カフカの読書は、当時流行のイプセンその他の自由思想、ニーチェの無神論、ダーウィンの進化論、トルストイの社会主義、さらに古今の古典文学にわたっていた。やがてプラハのカール・ドイツ大学に入学。父親の意志に従って法学を修めた。しかし夜は文学の講演会などによく通い、ここで生涯の友マックス・ブロートと知り合った。ブロートを通じてプラハの代表的な作家マイリンクに近づきになり、講演会に来るドイツ本国の作家たち、デーメルやリリーエンクローンにも接することになった。
カフカの創作は大学に在学中の一九〇四年ごろから始まった。断片的作品『ある戦いの手記』(〇五)などが残っている。
当時のプラハ写真EおよびFはその主要部は人口約四十五万。そのうち約三万四千人がドイツ系で、さらにその何分の一かがドイツ・ユダヤ系だった。ドイツ・ユダヤ系人は、チェコ人からはドイツ人として排斥され、ドイツ人からはユダヤ人として排斥されていたが、優れた才能によってプラハの高いレヴェルの文化の主要な担い手だった。カフカの生家はユダヤ人居住区にあったが、やがて一家は転々と居を変え、一八九六年には写真Gの家に移り住んだ。一階に父親の洋装・装身具店(Galanteriewaren)があり、一家は上の階に住んでいた。一九〇七年までの居住期間に、カフカはここで処女作『ある戦いの手記』を書いた。
カフカの学生生活は一九〇六年の法学士号取得とともに終わる。一年間司法研修をした後、私立の保険会社に一年間臨時勤務。その後、一九〇八年夏に労働者災害保険局に就職して、一九二二年まで実直な法律担当官として勤めあげた。彼の勤めぶりは上司から「とびぬけたセンスの持主」と評価されているような立派なものだったらしい。優秀な実務能力の持主だったということだが、その実カフカにとって勤務は苦痛以上の何ものでもなかった。次第に内向的になり、一九一〇年以降はおびただしい量の日記が書かれ始めた。「ぼくの職業はぼくには耐えられない。なぜってぼくの職場はぼくの唯一の願いであり唯一の天職である文学に反するから。ぼくは文学以外の何ものでもないし、何ものでもありえないし、それ以外のものにもなろうと思わない。」
カフカは自分の生活を冗談めかして「教練」と呼んだ。午前八時から午後二時までの勤務、帰宅して三時から七時半までの睡眠、そのあと散歩と食事、夜十一時ごろから執筆、午前二時か三時ごろに再度就寝。この昼夜転倒の二重生活が、もともとそう強くない彼の肉体を次第にむしばんでいった。
ここにカフカの成人時代からの三枚の写真Hがある。その一(右上)は十八歳のとき、その二(左上)は三十四歳のとき、その三(右下)は四十歳のときのもの。その一は、大学進学前後のもので、これはまず普通の若者の風貌である。しかし、その二の社会人になってからのカフカの風貌には、何よりもその目つきに独特の自覚があらわれている。その三は最晩年のものである。ここには病人カフカのほかに、すべてを自分の書いたものを通してみる文学者カフカの風貌があらわれていよう。
三枚の写真のうち、その二は一九一七年のものである。この時期カフカは写真Iの家に住んで短編集『村医者』を書いていた。写真JとKはその前後の時期のものであるが、友人仲間とであれこのような自然の中に出たときのカフカは実に屈託がない。それが彼の本来ではなかったかと思われるほどである。
この一九一七年という年はカフカにとっては重要な年である。この年彼は喀血して、以後結核療養のために末妹のオットラ邸や田舎各地やサナトリウムを転々とすることになる。フリーチェという女性との五年越しの婚約も解消する。カフカは生涯に三度婚約して、三度ともそれを破棄するという悲劇を演じているが、この悲劇には彼の病気とともに「書くこと」をすべてに優先させる彼の芸術家的性格が関与している。
カフカの文学作品に関していうなら、『ある戦いの手記』のあとに『田舎の婚礼準備』(〇六)が書かれ、そのあと『観察』(八編のスケッチ集)が一九一七年にローボルト社から出版された。その少し前の一九一二年から一四年にかけては未完の小説『アメリカ』が書きつがれ、一三年にその第一章が『火夫』の題名で出されて、翌々年フォンターネ賞を受賞している。
しかし、カフカ本人の判断によれば、彼の文学の真の始まりは一九一二年九月に一夜にして書き上げられた短編『判決』である。これは実の父親に死刑を宣告された青年が入水自殺を遂げる話で、同じ年に書かれた傑作『変身』とともに、家庭内で家族から圧迫されるひよわな人間の胸中を描いている。
一九一四年には本書『審判』が書かれた。注目すべきはこの同じ年に中編『流刑地にて』が書かれている点で、奇妙な処刑台のある「流刑地」で、最後に主人公をひたすら追って来る二人の白痴じみた単純な男は、前作『審判』の冒頭の二人の男の裏返しかも知れない。
療養生活のかたわらカフカは『最初の苦悩』その他のすぐれた短編を数多く書いた。一九二二年一月から九月にかけては未完の長編『城』を書いた。この小説では、ある村に来た測量技師がその村の中心である城に近づこうとするが、さまざまな困難に遭遇して達することができない。八年前の『審判』と共通するところのある大作である。
一九二三年カフカはドーラという女性と恋に陥った。プラハを離れてベルリンに住居を移し、ここでドーラとの同棲生活に入った。ここで書かれた短編『小さな女』や『女歌手ヨゼフィーネ』は、家庭や家族から受ける強迫観念を脱して、ようやく安堵の地を見出した感を持つ。しかしこのころ、カフカの結核の病状はすでに極度に進行していた。一九二四年三月ブロートが彼をプラハに連れ帰ったが治療の方法がなく、ウィーン郊外のキーエルリングのサナトリウムに移されたが、そこで同年六月三日、喉頭結核のために死去した。遺書が発見され、そこにはブロートに宛てて遺稿はすべて焼却するようにと記されてあった。
フランツ・カフカ(Franz Kafka)
一八八三―一九二四年。チェコのプラハに生れる。『判決』『城』『変身』など、怪奇な状況、のがれたい不条理を描き、精神と日常の対峙を独特の文体で描きつつ、現代の奥底にとどく小説世界を構築した。
飯吉光夫(いいよし・みつお)
一九三五年旧満州奉天に生れる。一九五九年東京大学独文学科卒業。一九六二年同大学院修了。東京都立大学名誉教授。著書に『パウル・ツェラン』『傷ついた記憶』、訳書に『パウル・ツェラン詩集』『ギュンタ−・グラス詩集』『E・ケストナ−の人生処方箋』他、多数。 本作品は一九七七年一二月、三修社より刊行され、一九九一年三月、ちくま文庫に収録された。
審判
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2002年7月26日 初版発行
著者 フランツ・カフカ
訳者 飯吉光夫(いいよし・みつお)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社 筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
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