城(下)
フランツ・カフカ/谷友幸訳
目 次
第十四章
第十五章
アマーリアの秘密
アマーリアの罰
嘆願
オルガの計画
第十六章
第十七章
第十八章
第十九章
第二十章
解説
年譜
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第十四章
ついに――もう午後も遅く、暗くなっていたが――Kは、校庭の道の雪|除《よ》けを済ませて、雪を道の両側にうずたかく積み上げ、それをしっかりと打ち固めた。それで、その日の仕事は終わりだった。彼は、庭の門のところに立ってみたが、あたりは、見渡す限り、人影ひとつなかった。残っていた助手は、彼が、もう何時間かまえに、追っ払い、かなりの道のりまで追い駆けておいた。そのとき、助手は、どこかの小庭と小家とのあいだに隠れてしまったらしく、見つけ出しようもなかったが、それ以来、二度と立ち現れもしなかった。フリーダは、住まいにいて、すでに下着類の洗濯にかかっているか、あるいは、いまだにギーザの猫を洗ってやっているはずであった。ギーザがフリーダにこのような仕事を委《ゆだ》ねたのは、ギーザの側からすれば、大きな信頼のしるしであった。それは、むろん、胸が悪くなるような、不似合いな仕事ではあった。Kとしても、いろいろと仕事に手間取ったあとでもあり、ギーザに恩を着せる機会があれば、なんなりとも、それを利用するのが、大いに得策と考えてなかったならば、きっと、こんな仕事を引き受けるのなんか真っ平だったに違いない。Kが屋根裏部屋から小さな幼児用の盥《たらい》を取って来て、湯を沸《わ》かし、ついに、注意深く猫を差し上げながら、そっと盥につけてやっているさまを、ギーザは、わきから、いかにも満足げに見ていた。やがて、ギーザは、猫をすっかりフリーダに任せてしまった。実は、Kが最初の晩に知り合った、あのシュヴァルツァーがやって来て、あの晩のことが根にあるに違いない畏怖と、学校の小使にたいしては当然抱くはずの極度の軽蔑との、妙に混じり合った態度で、Kに挨拶すると、そそくさとギーザを連れて隣の教室へ赴いてしまったからであった。そして、ふたりは、今もそこに引き籠《こ》もったきりであった。
Kが橋亭で聞いた話によると、シュヴァルツァーは、執事の息子の癖に、ギーザヘ想いを寄せ、村へ来てもう久しく暮らし、その間に、自分の手蔓《てづる》を頼って、村当局から代用教員に任命されるところまで、うまく漕ぎ着けていたのだった。しかし、代用教員とは言っても、ギーザの授業時間にほとんど欠かさず出席して、生徒たちに混じって学童用の椅子にすわっているか、それとも、こちらのほうが、むしろ、彼にはありがたかったのだが、教壇のギーザの足元に腰かけているかするのが、主として彼の奉職ぶりであった。そうした遣《や》り口も、もう授業の邪魔にはならなくなっていた。生徒たちが、もうとっくに、それに慣れてしまっていたからだった。シュヴァルツァーのほうは、子供たちにたいして毫《ごう》も愛着や理解を持ってなかったために、子供たちともほとんど口をきかず、ただギーザの体操の授業を引き受けていただけで、それ以外は、ギーザの間近にいて、ギーザと同じ空気を吸い、ギーザの体温を仄《ほの》かに感じながら生きて行くことで、満足していただけに、子供たちが慣れるのも、それだけ容易だったのかもしれない。
彼の最大の楽しみは、ギーザのわきに腰かけて、生徒たちの練習帳の誤りを直すことであった。きょうも、ふたりは、それに余念なかった。シュヴァルツァーは、山積みの練習帳を持ち込んでいた。例の教師は、いつも、自身の受け持ちの分までもふたりに押し付けていた。まだ明るいうちは、ふたりが窓際の小さな机に向かい、頭を並べて、身じろぎもせず、精を出している姿が、Kにも見えていたが、今はただ二本の蝋燭《ろうそく》の火がそのあたりに揺らめいているのが、見えるだけであった。ふたりを結び付けていたのは、生真面目な、無口な恋愛であった。音頭取りは、なんと言っても、ギーザのほうであった。ギーザの重苦しい人柄が、時折は、粗暴になって、どうにも始末におえないほど羽目を外すことがあったが、しかし、ほかの時に、ほかの人が、そのようなことをすると、ギーザは、けっして我慢しなかったに違いない。それだけに、いかに元気のいいシュヴァルツァーといえども、素直に調子を合わせて、ゆっくりと歩き、ゆっくりと話して、できる限り口数をきかないようにせねばならなかった。しかし、彼は、どんなことをしても、ギーザが単にその場に静かにいてくれるだけで、そうしたすべてが十分に報いられているように思っていることが、だれの眼にも明らかだった。にもかかわらず、ギーザのほうは、もしかすると、彼をすこしも愛していないかもしれなかった。いずれにせよ、彼女のつぶらな、灰色の、紛れもなく、瞬《またた》きひとつしない、むしろ、瞳孔のなかがくるくる回っているように見える両眼は、そのような疑問になにひとつ答えてはくれなかった。ただ彼女が、文句なしに、シュヴァルツァーを容認していたことだけは、だれの眼にも明らかだった。しかし、ギーザは、確かに、執事の息子に愛されることがどんなにありがたい名誉なのか、分かるような女ではなかった。彼女は、シュヴァルツァーが眼で彼女を追っていようと、いまいと、そんなことには構わずに、彼女の豊満なからだを平然と運んで行くのである。それにひきかえ、シュヴァルツァーのほうは、村に居留するという永続的な犠牲を、彼女に捧げていた。父親の使いの者たちが、しきりと、彼を連れ戻すために、やって来たが、その度ごとに、彼は、使いの者らによって、城のこととか、息子としての義務とかを、ほんのちらと思い出さされるだけでも、自分の幸福に、取り返しのつかない、ひどい狂いが生じるのだと言わんばかりに、とても居丈高になって、使いの者らを追い払うのだった。
とは言え、彼には、実のところ、ありあまるほどの余暇があった。ギーザが彼のまえに姿を見せるのは、概して、授業時間中と練習帳の点検の際とに限られていたからである。そうした彼女の行動も、むろん、計算ずくではなくて、彼女が、気楽と、そのために、独り居とを、無上に愛したがゆえに、自然にそうなったにすぎない。従って、彼女は、自宅で、完全に自由な身となって、寝椅子のうえに五体を伸ばしていられるのが、最も幸福なようであった。彼女の傍らに猫がいるにはいたが、邪魔にはならなかった。猫のほうが老いぼれて、ほとんど動けなくなっていたからだった。そういう訳で、シュヴァルツァーは、一日の大部分を、仕事もなく、のんきにほっつき回っていたが、それもまた、彼には、ありがたいことだった。と言うのは、いつでも、彼は、その合い間に、ギーザの住んでいる獅子小路《ライオンこうじ》へ行くことができたからであった。事実また、彼は、この便宜をしげしげと利用しては、屋根裏にある彼女のささやかな居室まで階段を昇りつめて行き、いつも錠のかかっているドアのところで聞き耳を立て、部屋のなかが、いつもと変わりなく、無気味なほどにすっかり静まり返っているのを確認すると、大急ぎで、また立ち去るのだった。それにしても、こうした生活ぶりの結果が、やはり、彼の場合でも、時折――と言っても、ギーザの面前では、しかし、けっしてそんなことがなかったが――ほんの数瞬にわたって役人的な高慢さを蘇らせ、その滑稽な爆発となって、現れることがあった。むろん、そうした役人的な高慢は、たまたま、彼の現在の代用教員という地位には、ひどく不似合いなものであった。それだけに、そうした場合、大抵、あまり香《かん》ばしくない結果に終わることは、言うまでもなかった。それは、現に、Kも体験していたところであった。
ただ、いかにも意外であったのは、すくなくとも橋亭では、シュヴァルツァーのことを噂するとき、いつも、ある種の尊敬の念をもってしていることであった。別に敬服に値する事柄ではなくて、むしろ、滑稽な事柄が話題になっている場合でさえも、そうであった。しかも、ギーザまでがこの尊敬のなかにともに含まれていたのだった。それにしても、シュヴァルツァーが、代用教員を鼻にかけて、Kよりも途方もなく偉い人間であると己惚《うぬぼ》れているとしたら、それこそ、間違いも甚だしい。そのような優越性なんて、現存しないのだ。そもそも、学校の小使たるや、教師連中にとって、とりわけシュヴァルツァーのごとき代用教員風情にとっては、きわめて重要な人物であって、これを蔑視すれば、罰を免れ得ないのだ。にもかかわらず、身分上の権益からも蔑視を断念することができないというなら、こちらも、それを我慢するかわりに、すくなくとも、それ相応の返報をさせてもらわねばならぬ。Kは、折に触れて、そうしたことを考えてみようと思った。それに、シュヴァルツァーは、あの最初の晩以来、ずっとこの僕に借りがある。その後の日々の経過をもってすれば、シュヴァルツァーのあのときの応対ぶりが、実は、正しかったということになるにはなるが、それによって、しかし、借りのほうが減った訳ではない。と言うのは、あの応対が、おそらく、その後のすべての事態の進む方向を、すでにこのように決めていたに違いないということも、この際、忘れてはならないからだ。
シュヴァルツァーのせいで、ばかばかしい限りだが、最初の一刻から、たちまち、当局の注意がすっかりこの僕に向けられるようになったのだ。あのとき、僕は、まだ村の勝手が全く分からず、知り合いもなければ、寄る辺もなく、長い徒路《かちじ》に疲れ切って、すっかり途方に暮れたまま、あすこの藁《わら》ぶとんに身を横たえていたが、すでに僕は生殺与奪の権を当局の手に握られていたも同然だった。もしも到着が一晩でも遅れていたら、確かに、万事が、平穏に、なかば人に知れずに、別の経過をたどっていたかもしれない。いずれにせよ、だれひとり、僕のことを知る由もなく、怪しみもしないで、すくなくとも、渡り職人くらいに思って、一日くらいは、躊躇《ちゅうちょ》せずに僕を泊めてくれるだろう。そのうちに、僕が重宝で信頼の置ける人間であることも、どうやら分かってもらえて、その噂がぱっと近隣に広がり、やがて、下男としての住み込み口ぐらいは、たぶん、どこかで見つかるに違いない。もちろん、その場合だって、当局がそれに気づかぬことはないだろう。それにしても、真夜中に、僕のことで、中央官庁か、でないとすると、ほかに電話口に出た人間が考えられないが、ともかく、どこかの役人が、急に叩《たた》き起こされて、即座の決裁を求められる。上辺《うわべ》は、へり下った口ぶりではあっても、うんざりするほど否応なしに、即座の決裁を求められて、しかも、求める主が、ほかでもなく、あの城では嫌われ者らしい、シュヴァルツァーであるというのと、そういうことが一切なくて、僕が、翌日に、村長を執務時間中に訪ねて、そこは然《しか》るべく、渡り職人と名乗るのとでは、そこに本質的な相違がある訳だ。後の場合なら、さる村民のところですでに泊めてくれることになっているし、たぶん、あすには、また、旅を続ける予定だ、もし万が一、全く嘘のようなことが起こって、当地で職が見つかるようなことがあっても、むろん、ほんの数日間のことにすぎない、それ以上に滞在する心算《つもり》はないのだから、とでも、村長に伝えておけばいい。
シュヴァルツァーさえいなかったら、こんな具合に、あるいは、これと似たような具合に、捗《はかど》っていただろう。当局にしても、ずっと僕の件を扱うことは扱い続けても、しかし、のんびりと、公式手続きを踏んで扱い、その筋がことのほか忌《い》み嫌っているらしい、この係争の相手方の焦燥にも煩わされずに済んだはずであった。して見ると、確かに、僕には、なんの罪もない。罪があるのは、シュヴァルツァーのほうだ。ところが、シュヴァルツァーは、執事の息子なので、一見非の打ちどころのない態度を装ったのだ。それで、だれもが、あいつの罪の償いを、すべて、僕ひとりに押っかぶせてしまった訳だ。
ところで、こんな始末になった、ばかばかしい切っ掛けというのは、なんだろう。もしかすると、あの日は、ギーザが、折あしく、御機嫌斜めだったのかもしれない。そのせいで、シュヴァルツァーのやつは、夜も寝ないでほっつき回った揚げ句、僕を相手に憂さを紛らわせようとしたのだろう。むろん、裏を返せば、僕がシュヴァルツァーのかかる態度のお陰を大いに蒙《こうむ》っているとも、言えないことはない。僕ひとりでは、とても達成できないどころか、達成しようという勇気さえも湧《わ》かなかったことが、そしてまた、当局の側としても、よもや容認しなかったろうと思えることが、ひとえにあの男がああした態度を取ってくれたからこそ、可能になったからだ。つまり、僕は、劈頭《へきとう》から、なんら術策を弄する要もなく、堂々と、正面切って、当局に立ち向かって行くことができた訳だ。と言っても、それは、当局を相手にした場合にできる限度内のことであったが。
それにしても、これは、やはり、怪《け》しからぬ贈り物だ。この贈り物のお陰で、僕は、確かに、いろいろと嘘をつく必要も、いわくありげなふうをする必要もなくて、助かったが、しかし、そのかわりに、ほとんど無防備同然の身となり、いずれにしても、戦ううえでは、不利な状態に置かれてしまったからだった。このことを考えると、Kは、あやうく絶望的になりかけたが、しかし、思い直して、当局と自分とのあいだには、途方もなく大きな勢力の差があって、いかに自分ができる限りの嘘や奸策を使ってみたところで、その差を本質的に自分に有利なように縮められるものではないと、ひとり心に言い聞かせた。しかし、これは、Kが自分を慰めるために捻《ひね》り出した、ひとつの考えにすぎなかった。そうは、言っても、とKは考えた。シュヴァルツァーのやつが僕に借りがあることには、変わりがない。あのときは、あいつが僕をひどい目に会わせたのだから、この次は、もしかすると、あいつが僕を助けてくれるかもしれない。僕は、今後とも、きわめて些細《ささい》な件では、つまり、ごく初《しょ》っ端《ぱな》の予備条件などでは、助力が必要になるだろう。そうなると、例えば、あのバルナバスだって、またしても役に立ちそうもないからな。
Kは、フリーダのために、一日じゅう、バルナバスの家へ問い合わせに行くのをためらっていた。バルナバスをフリーダのまえで迎えなくても済むように、彼は、今も、外回りの仕事をしていたが、仕事が終わっても、バルナバスが来るものと予期して、ずっと屋外に残っていた。しかし、バルナバスは、やって来なかった。そうなると、彼の妹たちに会いに行くよりほかに、術《すべ》がなかった。いや、ほんのしばらく留守にするだけだ。敷居のところから尋ねさえすればいい。そうすれば、すぐにまた帰っていられるだろう。そう考えると、彼は、シャベルを雪のなかへ突き立てて、駆け出した。
息を切らして、バルナバスの家に着くと、ちょっとノックしてから、ドアを押し開けて、部屋のなかの様子をも意に介しないで、「バルナバスは、出たきり、まだ帰ってませんか」と、尋ねた。そこでやっと気づいたのだが、オルガは、留守だった。年老いた両親が、またしても、奥まったところにあるテーブルに向かってぼんやりとすわり、戸口のところでなにが起こったのかさえも、まだ悟ってはいないらしく、やっとゆっくり顔をこちらへ向けているところだった。そして最後に、ストーブのそばの長椅子に毛布を被《かぶ》って寝ていたアマーリアが、Kの出現にいきなり驚いて、飛び起き、気を静めようとして、片手を額に当てているのが、眼に留まった。オルガさえ家にいてくれたら、すぐに答えてくれて、自分も取って返すことができたのに、と思いながら、Kは、仕方なく、せめて数歩なりともアマーリアのほうへ近づいて、手を差し伸べるよりほかなかった。アマーリアは、その手を黙って握り返した。そこで、彼は、びっくり仰天した両親が、あわてふためいて、部屋のなかをうろつき回りかけているのを制してほしいと、アマーリアに頼んだ。アマーリアも、頼みを容《い》れ、ちょっと文句を言って、両親を制した。アマーリアの話によると、オルガは、中庭で、薪《まき》割りの最中だった。アマーリアは、疲労|困憊《こんぱい》して――彼女は、その理由を挙げなかった――止《や》むなく、つい今しがた、横になったばかりで、バルナバスは、まだ帰ってはいないが、夜どおし城にいたことは一度もないので、もう追っ付け帰って来る時分だ、とのことであった。Kは、そうした消息を伝えてくれたことにたいして、礼を言った。Kは、そこで、ひとまず帰ればいい訳であった。ところが、アマーリアが、オルガの戻って来るまでお待ちになるお心算じゃなかったのですか、と尋ねた。彼は、残念ながら、もう時間がない、と答えた。すると、アマーリアは、それでは、きょうは、もうオルガとお話し済みですか、と重ねて尋ねた。彼は、驚いて、それを打ち消し、オルガがなにか特別な話をでも伝えてくれる心算でしょうか、と問い返した。アマーリアは、ちょっと怒ったように、口を歪《ゆが》めて、Kに黙ったままうなずいてみせると―――それは、明らかに、別れのしるしだった――またしても元どおりに身を横たえた。そして、安静を保ちながらも、Kのほうをじろじろと探るように見ていた。Kがまだそこにいるのが、不思議でならないかのような様子であった。彼女の眼は、いつものように、冷たく、澄んで、じっと据《す》わったままであった。その眼差《まなざし》は、彼女が観察している対象に、まっすぐには、向けられてないで、――これが相手に不快感を与えたのだが――ほんのすこしばかり、ほとんど目立たぬほどではあっても、紛れもなしに逸《そ》れて、対象の背後のあらぬほうへ注がれているのだった。その心理的な起因はと言えば、気弱さでも、困惑でも、また不誠実でもなくて、孤独への、いかなる感情にも増して強い、不断の欲求であった。そうした欲求が、もしかすると、彼女自身には、こんな仕方でしか、意識されなかったのかもしれない。Kは、この眼差が、すでに最初の晩も、彼の注意を惹《ひ》いた記憶があるように思った。いや、それどころか、思い出してみると、この家族がいきなり彼に与えた、あの嫌な印象も、元をただせば、どうやらこの眼差に帰着するように、思えた。とは言え、その眼差そのものだけを見れば、けっして厭味《いやみ》はなくて、誇りに満ち、よそよそしくはあったが、率直さを示していた。
「あなたは、いつも、ひどく悄然としてますね、アマーリア」と、Kは言った、「悩みの種でもあるんですか。言えないことですか。僕は、あなたのような村娘には、いまだかつて会ったことがありません。きょうになって、いや、今になって、やっとそれに気づいて、実は、奇異な感じがしているところです。あなたは、この村の出ですか。ここで生まれたんですか」アマーリアは、Kが最後の一問をしかしなかったかのように、それにうなずいて見せてから、言った、「では、やはり、オルガをお待ちなのね」「どうしてしきりと同じことを尋ねられるのか、僕には全く解《げ》せませんね」と、Kは言った、「僕は、これ以上お邪魔するわけにもいかないんです。家では、許嫁《いいなずけ》が待ってますのでね」アマーリアは、片|肘《ひじ》をついて体を支えながら、許嫁があるなんて、聞いたこともない、と言った。Kは、フリーダの名を言った。アマーリアは、そんな女は知らない、と言って、その婚約の話をオルガが知ってますの、と尋ねた。Kは、そこで、自分がフリーダと一緒にいるところを、オルガも、見ていたから、たぶん、知っていると思う、それに、かような情報は、すぐに村じゅうに広まるはずだし、と答えた。それでも、アマーリアは、オルガは、きっと、知っちゃいないわ、知ったら、とても悲しがるでしょうよ、だって、あなたを恋しているらしいんですもの、オルガは、ひどく控え目な質《たち》ですから、明らさまに、そうしたことを口にしたことがありませんが、でも、恋というものは、思わず知らず、色に出るというではありませんか、とKに断言した。Kは、それはあなたの思い違いだ、と確信を籠めて言った。アマーリアは、微笑《ほほえ》んだ。その微笑みは、憂いを帯びてはいたが、陰気にしかめた顔を明るくし、無口を能弁にし、よそよそしさを心安さに変えた。それは、ある秘密の放棄であり、これまで大切に守って来た私財の放棄であった。その私財は、再び取り戻すことができるにはできても、もう完全には取り戻せないものであった。
アマーリアは、言った。けっして思い違いなんかしていません。それどころか、もっともっと知っていることがありますの。あなたもオルガに心を寄せてらして、あれこれとバルナバスの使いの用向きにかこつけて訪ねてこられますのも、実は、オルガだけがお目当てだということだって、知っていますわ。でも、私がこうして万事承知しています今となっては、あなたも、もうあまり几帳面にお考えにならないで、頻繁にお越しくださっていいのよ。ただこのことだけを、あなたに申しあげておきたかったの。Kは、それを聞くと、頭《かぶり》を振って、自分が婚約していることを忘れてくれないように、注意した。アマーリアは、Kの婚約をさして気にしてないように見えた。なんと言っても、彼女のまえに単身で立っているKから受ける、直接の印象が、彼女にとっては、決定的であるらしかった。彼女は、しかし、一体、いつその娘さんとお知り合いになりましたの、だって、ほんの数日まえに村へいらしたばかりではありませんか、と尋ねただけであった。Kは、貴紳閣でのあの晩のことを話した。それを聞くなり、彼女は、ただ手短に、あなたを貴紳閣へお連れするのに、わたしは、とても反対しましたの、と言ったきりで、そのかわりに、オルガをも自分の証人に立てるために呼び寄せた。
オルガは、ちょうどそのとき、片腕に薪をいっぱい抱えて、部屋のなかへ入って来たところだった。彼女は厳しい寒気に曝《さら》されていたために、清々とした感じで、頬を真っ赤にし、生き生きとして、元気一杯だった。いつも大儀そうに部屋のなかでつくねんと突っ立っている、あのふだんの姿に比べると、労働のせいで、まるで人が変わったようであった。彼女は、薪を投げ出すと、なんのこだわりもなしに挨拶して、即座にフリーダのことを尋ねた。Kは、めくばせして、アマーリアにも納得させようとしたが、アマーリアのほうは、しかし、自分の意見の反証が挙げられたとは思っていないようであった。それにいささかむかついて、Kは、柄にもなく詳しくフリーダのことを話し、彼女が学校のなかで、どのように困難な情況に置かれながらも、ともかく、なんとか所帯らしいものを営んでいるさまを、手に取るように伝えた。そして、話を急ぐのに夢中になってしまって――彼は、早々に引き揚げたかったので――、ついうっかりと、別れの体裁を繕って、一度お遊びに来てください、と姉妹ふたりを招待してしまったのだった。招待してから、むろん、彼は、自分ながら驚いて、はたと、言葉に詰まってしまった。ところが、アマーリアは、すかさず、Kに、一言も言う隙《すき》を与えないで、お招きに応じます、とはっきり言い切った。そうなると、オルガも、アマーリアに与《くみ》せねばならなくなって、賛成した。しかし、Kは、急いで暇《いとま》ごいせねばならぬという考えが脳裏にこびりついて、しきりとやきもきしながら、アマーリアの眼差を受けていると胸騒ぎもして来て、ためらうことなく、あっさりと言葉を飾らずに、ただ今の招待は、全く無分別に、自分の個人的感情だけで、思いついたまでだし、フリーダとバルナバス家とのあいだに、自分には、むろん、訳が分からないけれども、ひどい、反目がある以上は、自分としても、やはり、残念ながら、招待を撤回せざるを得ない、と白状した。
「反目と言うほどのものではありませんわ」と、アマーリアは、言って、長椅子から立ち上がり、毛布を背後へかなぐり捨てながら、「なにもそんなに大層なことではないんです。それは、世評の、ただ、受け売りにすぎませんわ。それでは、さあ、早く、あなたの許嫁のところへ帰っておあげなさいな。どんなにお急ぎか、見れば分かりますもの。それに、私たちが伺うということも、お気づかいなさらなくていいの。初めから冗談で、からかい半分に、申したにすぎませんわ。でも、あなたは、頻繁にわたしたちのところへ来てくださっていいのよ。それには、たぶん、なんの差し障りもないと思うの。あなたは、いつだって、バルナバスの使いの用向きを口実になさればいいんですし。実は、その口実をもっと楽にお使いになれるようにして差しあげますために、申しあげておきますが、バルナバスは、あなたのために城からのお達しを持って帰りましたときでも、それをあなたにお伝えするために、さらに学校へまでも足を伸ばす訳にはゆきませんの。そんなに方々を駆けずり回れないんです。年も若いのに、かわいそうに、お勤めで消耗しきってますのよ。これからは、あなたが、御自身で、通達を受け取りに、お越しくださらないといけません」
Kは、アマーリアがこのようにさまざまなことを筋道立てて話すのを、これまで聞いたことがなかった。声音さえも、なんだかいつもの彼女の話しぶりとは違っていた。そこには、威厳めいたものが籠もっていた。それは、Kだけでなく、いつもそれに慣れっこになっているはずの姉のオルガまでも、明らかに、感じていた。オルガは、すこしばかりわきへ離れて、両手を内股のところに置き、今もまた、いつもの癖で、両足を広げたまま、やや前|屈《かが》みの姿勢で、立っていた。彼女は、眼をアマーリアのほうへ向けていたが、アマーリアは、Kのほうをしか見詰めていなかった。
「それは、思い違いですよ」と、Kは言った、「僕がバルナバスを待ち受けているのが本気でないと、あなたが信じ込んでおいでなら、大変な思い違いですよ。当局を相手に僕のさまざまな問題をきちんと片付けたいというのが、僕の最高の望みですし、実は、唯一の望みなんです。それを達成するためには、どうしてもバルナバスに助けてもらわねばなりません。僕の多大の期待が彼にかかっている訳です。確かに、彼は、いつか、僕をひどく失望させたことがありますが、その責任は、バルナバスにではなくて、むしろ、僕自身にあったのです。あれは、僕が当地に来たばかりで、まだ戸惑いしていたころの出来事でした。僕は、あのころ、ちょっと一晩散歩がてらに出て行きさえすれば、何事もすべて片付けられると、ひとり思い込んでいました。ところが、そうした不可能なことが、本当に、不可能なことだと、はっきり分かったとき、僕は、それを彼のせいにして、根に持つようになったのでした。そして、これが、あなたたち家庭やあなたたちについての僕の判断にさえも、影響していた訳です。でも、そうした時期は、もう過ぎました。僕は、今では、あなたたちをよく理解している心算です。それどころか、あなたたちは」――ここで、Kは、適切な言葉を探したが、即座には見つからなかったので、お座なりの言葉で満足することにした――「あなたたちは、僕がこれまでに識《し》った限りの村人のうちでは、だれよりも気立てがいいかもしれないとさえ、思っているくらいなんです。ところで、アマーリア、あなたの兄さんの勤務のことはさて置くとしても、兄さんが僕にとってどんなに重要か、その重要さを、あなたが、軽視されているとしたら、またしても思い違いをなさっていることになりますよ。もしかすると、あなたは、バルナバスの仕事のことをよく御存じではないかもしれない。それなら、それで、いいんです。僕も、この件には立ち入らないでおきましょう。あるいは、しかし、よく御存じかもしれない――僕は、どちらかと言えば、後者のほうの印象を受けているんですがね――。だとすると、困った事態と言わねばなりません。だって、あなたの兄さんが僕をだましていることになりますからね」
「ねえ、落ち着きになって」と、アマーリアは言った、「私は、よく存じませんの。そこまで手|解《ほど》きを受ける気には、とてもなれませんものですから。あなたのことを考えても、駄目ですわ。とてもそんな気にはなれませんわ。あなたのためには、私だって、なにかと尽くしてあげたいのが、山々ですけれども。あなたもおっしゃいましたように、私どもは、気立てがいいですからね。でも、兄の仕事は、あくまでも兄のものですわ。私が兄の仕事で知っていることと言えば、ただ時折、心ならずも偶然に小耳に挟んだ話くらいのものなの。それにひきかえ、オルガなら、あなたに細大洩らさずお教えできるはずですわ。だって、オルガは、兄の腹心なんですもの」
そう言い終えると、アマーリアは、先ず両親のところへ行って、なにやらささやき合うと、すぐに台所のほうへ立ち去った。別れの挨拶もせずに、Kから去ってしまったのである。まだまだこの家にいるはずだし、別れの挨拶なんか必要でないと、まるで先を読んでいるかのような態度であった。
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第十五章
Kはいくらか呆気《あっけ》にとられた顔をして、その場に取り残されていた。オルガは、そうしたKの様子を見て笑いながら、Kをストーブのそばの長椅子のほうへ引っ張って行った。彼女は、やっと彼とふたりきりでそこにすわれるようになったのを、本当に喜んでいるようだった。しかも、それは、安らかな幸福であって、確かに、嫉妬の曇りを微塵《みじん》も帯びてはいなかった。そして、ほかでもなく、このように、嫉妬に悩まされることなく、それゆえにまた、いかなる手厳しい目に会うこともなく、静かにいられるのが、Kには心地よかった。彼は、魅惑的でも威圧的でもなくて、ただおずおずと見詰めながら、おずおずと相手の視線に耐えている、オルガの青い目に見入っているのが、好きだった。彼は、フリーダとあの女将《おかみ》とからいろいろな警告を受けて来たお陰で、この地のこうしたすべてにたいして、感受性が鋭くなっていた訳ではないにしても、注意力と発見力がひとしお身に付いたかのようであった。そして、オルガがいかにも怪訝《けげん》そうな顔をして、なぜあなたは、選《よ》りに選って、アマーリアを気立てがいいだなんて、おっしゃったの、アマーリアにだって、いろいろと取り柄はありますけれど、ただ気立てがいいと言うことだけは、けっして当たりませんのに、と言ったとき、Kは、オルガと一緒に声を上げて笑った。それから、Kは、オルガの質問にたいして説明した。あの讃辞は、むろん、オルガ、あなたに向けられたものです。しかし、アマーリアがひどく驕慢《きょうまん》で、彼女の面前で話される讃辞をすべて独り占めするだけでは気が済まないので、こちらも、進んで、ありとあらゆる讃辞をあの人に呈さねばならないんです、と。
「それは、真を穿《うが》っているわ」と、オルガは、ひとしお真面目な顔つきになりながら、言った、「あなたが思ってらっしゃるよりも、もっと真を穿っていますわ。アマーリアは、私より若いんです。バルナバスよりも若いんです。でも、よかれ、あしかれ、家庭内で決定権を持っているのは、あの子なんですの。むろん、良い面も、悪い面も、やはり、ほかの者たち以上に、あの子が持っているからなんですが」Kは、それは誇張だと思う、と言った。つい今しがた、アマーリア自身が、やはり、自分は、例えば、兄の仕事なんかどうであろうと、すこしも気にしていない、それにひきかえ、オルガは、そうしたことにもすっかり通じている、と言っていたからだった。
「どんなふうに説明すればいいかしら」と、オルガは言った、「アマーリアは、バルナバスのことも、私のことも、全く気に掛けてはいませんわ。両親以外の人のことは、すこしも心配しないんですの。つい今だって、両親の欲しいものを尋ねて、両親のための料理を作りに、台所へ行ってしまったでしょう。両親のためでしたら、ああして、どんな無理を我慢してでも、また起き出すのです。もうお昼ごろから病気で、ずっと、この長椅子に寝ていましたのにね。でも、あの子が私たちのことを気遣ってはくれなくても、私たちは、まるであの子がこの家の最年長者であるかのように、あの子を頼りにしていますの。ですから、もしもあの子が、私たちの事柄で、私たちに助言してくれるようなことでもありましたら、私たちは、きっと、あの子の言葉どおりになるでしょう。ところが、あの子は、そんなことをすらしてくれません。私たちは、あの子にとっては、赤の他人なんですわ。あなたは、やはり、いろいろと世間の経験もお持ちのはずですし、また他国からお越しの方でもありますが、そのあなたが御覧になっても、やはり、あの子が殊のほか利発なように見えるのではないでしょうか」
「殊のほか不幸な人のように、僕には見えますね」と、Kは言った、「それにしても、アマーリアにたいするあなたたちの畏敬の念と、例えば、アマーリアが同意してもいない、いや、もしかすると、蔑視さえしているかもしれない、あの使者としての勤めを、バルナバスが果たしていることとは、どのように符合するのでしょうね」「バルナバスだって、ほかにどんな仕事をすればいいのか、分かりましたら、自分でも全然満足していない、あの使者としての勤めなんか、すぐにでも捨ててしまうでしょうが」「バルナバスは、なんでも、もう年季の入った靴職人なんでしょう」「確かに、おっしゃるとおりですわ」と、オルガは言った、「でも、あの人は、ほんの片手間に、ブルンスヴィックの下請け仕事をしているだけなんですの。あの人さえその気になったら、昼夜、ひっきりなしに仕事にありついて、たんまり儲けもあるはずですのに」「それじゃ」と、Kは言った、「使者の勤めを罷《や》めたって、代わりの職がある訳ですね」「使者の勤めを罷めるんですって」と、オルガは、びっくりして問い返した、「それでは、バルナバスは、使者の勤めを儲け仕事として引き受けたとでも、おっしゃるんですの」「そうかもしれませんよ」と、Kは言った、「現に、あなただって、バルナバスは使者の勤めに満足していないと、おっしゃったじゃありませんか」「ええ、満足しておりません。でも、それにはさまざまな理由がありますのよ」と、オルガは言った、「でも、これは、なんと言っても、城への御奉公ですもの。とにかく、城への御奉公の一種には違いありませんもの。せめてそうでも考えるよりほか仕方ありませんわ」「なんですって」と、Kは言った、「そんなことをさえも、あなたたちは、疑ってらっしゃるんですか」「そりゃ、そんなことは、けっしてありませんけれどもね」と、オルガは言った、「バルナバスは、あれで、どの事務局のなかへでも入って行けますし、そこの用務員とも同僚のように付き合っていますし、遠くからではあっても、個々のお役人のお顔も見られますし、かなり大切な手紙までも託《ことづ》かってまいります。いや、それどころか、口頭で果たす用件をさえも任せられています。これは、しかし、なかなか大したことなんですよ。あの若さで、もうそこまで出世していることを、私たちは、誇りにしてもいいくらいですわ」
Kはうなずいた。もう今では、帰宅のことも念頭になかった。「バルナバスは、彼専用のお仕着せも貰っているようですね」と、Kは尋ねた、「ああ、あの上着のことなんですの」と、オルガは言った、「あれは、そうじゃありませんの。使者になるずっと以前に、アマーリアが仕立ててやったものですわ。それにしても、あなたは、じわじわと、痛いところへ的を絞ってまいりますのね。バルナバスは、もうとっくに、お上《かみ》から、お仕着せではなくて、お仕着せと言うものは、本来、城にはございませんので、ちゃんとした衣服を一着支給されていなければならないところなんです。このことは、また実際に、確約済みでもあったんですよ。ところが、こうしたことにかけては、お城の方は、とても悠長なんです。しかも、困ったことに、こうした悠長ぶりがなにを意味しているのか、だれにもさっぱり分からないんですの。もしかすると、その案件について公式手続きがすでに取られていることを、意味しているかもしれません。しかしまた、もしかすると、公式手続きもまだ始まっていなくて、つまり、例えば、バルナバスを先ず試してみてからと、城のほうでは依然としてそう考え続けていることを、意味しているのかもしれません。しかしまた、最後に考えられることですが、公式手続きがもう終わっていて、なんらかの理由から先の確約を取り消すことが決まり、バルナバスには衣服の支給がけっして行われないことを、意味しているかもしれません。こうしたことについては、詳細なことを聞き出しようがなく、あるいは、聞き出せたとしましても、ずっと後になってからのことなんですわ。当地には、こんなひなびた諺《ことわざ》がありますの。もしかすると、あなたも御存じかも、しれませんが、『お上の決裁は若い娘心のように煮えきらない』って言うんです」
「それは、うまいところに眼を着けていますな」と、Kは言った。彼は、その俚諺《りげん》を、オルガよりも、はるかに重大に取ったのである。「立派な観察ですよ。役所の決裁と言えば、まだほかにも、娘さんたちと共通した点があるかもしれませんからね」「そうかもしれませんわ」と、オルガは言った、「むろん、私には、あなたがどういうお心算《つもり》で、そうおっしゃっているのか、分かりませんけれども。たぶん、あなたは、誉《ほ》めてらっしゃるお心算なんでしょうね。ところで、官服のことですが、これこそ、いまだに、バルナバスの気がかりのひとつなんです。それに、私たちは、心配事を分かち合うことにしていますので、私の心配事でもあるんですの。どうしてバルナバスが職服を支給してもらえないのかと、私たちは、首を捻《ひね》っているんですが、どうにも答えが浮かんで来ません。ところが、そもそも、この問題全体が、さほど簡単なことではないんです。例えば、お役人たちにしても、職服というものをけっして持ってはいないようです。私たちが村で知った限りでは、またバルナバスから聞いた限りでも、お役人たちは、むろん、素敵なものには違いありませんが、平服を着て、歩き回っているようです。まして、あなたは、クラムを御覧になったので、よく御存じのはずですわね。ところで、バルナバスは、むろん、役人ではありません。最下級の部類に属する役人でさえもありませんし、そうしたものに成りたいという、身の程知らずな量見を起こしたこともありません。ところが、高級な従僕にしても、村では、もちろん、この人たちを見掛ける機会すらありませんが、バルナバスの伝えるところによりますと、やはり、職服を持ってないそうです。それはせめてもの慰めですな、と無造作に言ってのけられるかもしれませんが、この慰めは、いんちきです。だって、バルナバスは、高級な従僕でしょうか。いいえ、違いますわ。よしんばバルナバスにどんなに愛着を感じていましても、そんな嘘は言えません。彼は、高級な従僕でもないんです。彼が村へ降りて来るどころか、ここに住んでさえいるという事実からして、すでに、そうでない証拠ですもの。高級な従僕は、お役人たちよりも、はるかに用心深く控え目なんです。あるいは、当然のことかもしれません。もしかすると、役人によっては、あの人たちのほうが、身分が高いことだってあるくらいですしね。それを証拠立てるような、二、三の事実だってありますわ。例えば、高級な従僕ともなりますと、ろくに仕事をしないんです。バルナバスの話によりますと、選り抜きの体格を持ち、選り抜きの体力を具《そな》えた、この巨漢たちが、ゆったりとした足取りで、廊下を練り歩いているさまは、見るだに素晴らしい光景だとのことです。バルナバスは、いつも、あの人たちが近づくと、縮こまって、うろうろしているそうです。要するに、バルナバスが高級な従僕だなんてことは、とんでもない話なんです。それでは、下級な従僕のひとりと考えられないこともありませんが、この連中は、しかし、すくなくとも、村へ降りて来る場合には、紛れもなく、職服を着用しています。それは、けっして本来の意味でのお仕着せではありません。現に、各人各様な点も、多いのです。でも、とにかく、着ている服を見れば、すぐにお城の従僕だということが、分かるんですの。あなたも、貴紳閣で、そうした連中を御覧になったはずですわね。あの種の服の最も目立つ特徴は、大抵の場合、服が身に窮屈なほどにぴったりと合っている点なのです。農夫とか、職人でしたら、ああした服は、とても物の用には立たないでしょう。ところで、バルナバスは、以上のような経緯《いきさつ》から、そうした服を持ってない訳です。このことは、私たちにとって、言わば恥辱とか、あるいは品位失墜とかになるだけではないんですの。それだけのことなら、我慢できないこともありませんわ。ところが、このことのために、殊に気が塞《ふさ》いだ折などは――私たち、私も、バルナバスも、ごくたまさかならともかくも、よく、暗い気持ちになることがあるんです――なにもかもが疑わしくなって来るのです。そもそも、バルナバスのしていることは、城への御奉公なのかしら、そんな疑問が、そのとき、ふと湧《わ》いて来るのです。確かに、バルナバスは、どの事務局へでも入って行きます。でも、それらの事務局が、本来の城なのでしょうか。それに、事務局は城に所属しているとしても、バルナバスが立ち入りを許されているのは、そうした事務局なのでしょうか。彼は、いろいろな事務局に入って行くことは行っても、それは、所詮、全事務局のほんの一部にすぎないのです。それらの事務局には、それぞれに、柵の仕切りがしてあって、それらの柵の向こうには、また別の事務局があるのです。柵より先へ進んで行ってはいけないと、別に禁じられている訳でもありません。でも、バルナバスが自分の上司たちをすでに見つけて、その上司たちが彼にたいする用件を片付け、早く行け、と言って、バルナバスを使いに出そうとしたら、いくらバルナバスだって、柵より先へは行けないはずです。そのうえに、城では、絶えず監視の眼が光っています。すくなくとも、皆は、そう信じています。それに、たとい柵より先へ進んで行ったとしても、そこになんの公務もなくて、ただの乱入者に終わるのでしたら、そんなことをしたって、なんの役に立つでしょうか。あなたは、これらの柵を一定の境界線のように御想像なさってもいけませんの。これは、バルナバスも、私に、再三再四、注意してくれていますことですわ。彼が行く事務局にも、いくつか、柵があるのです。それゆえ、彼が通り過ぎて行く柵もある訳です。それらの柵は、彼がまだ越したことのない柵と、外見はすこしも変わりがないのです。それゆえ、このバルナバスがまだ越したことのない柵の向こうには、バルナバスがすでにいたことのある事務局とは本質的に違った別の事務局があると、頭から決めてかかれもしないのです。ところが、たまたま、あの気の塞いだ折節《おりふし》には、つい、そうとしか思えなくなるんですの。そうなると、疑問が、次から次へと、湧いて来て、どうにも抑えきれなくなるんです。バルナバスは、お役人に会って、使いの用向きを承ります。では、それは、どのようなお役人で、どのような使いの用向きなんでしょう。現在、彼は、彼の言い立てによりますと、クラムのところへ配属されていて、クラム自身から親しく指令を受けるとのことです。とすると、これだけでも、とても大したことなの。高級な従僕でさえも、そこまでは引き立ててもらえないのですから、ほとんど過分に近い処遇でしょう。それが、却《かえ》って、気がかりの種なんですわ。ねえ、考えても御覧なさいよ。クラムのところに直属されていて、クラムとじかに口を利くんですよ。でも、本当にそうなんでしょうか。そりゃ、まあ、本当にそうだとしてもですよ。それでは、城でクラムと呼ばれているお役人が、本当に、クラムであるという事実を、バルナバスは、どうして疑《うたぐ》っているのでしょう」
「オルガ」と、Kは言った、「あなたは、まさか、冗談の心算ではないでしょうね。クラムの風貌については、いささかの疑いも生じる余地がないではありませんか。だって、クラムの風貌は、周知のところですからね。僕自身も、この眼で見届けているくらいです」「もちろん、違いますとも、K」と、オルガは言った、「冗談なんかではありませんわ。むしろ、私の一番深刻な心配なんですの。でも、私があなたにこんなことをお話ししますのも、私の心の重荷を下ろして、言わばその重荷をあなたのお心に負わすためではありませんの。あなたがバルナバスのことを問題になさったので、アマーリアが私に話を任せたからですわ。それに、私としても、詳細を知っていてくださるほうが、あなたにとってもお得だと、思ったからですわ。またバルナバスのためにも、お話ししたほうがいいんです。あなたがあの子にあまりにも多大の期待をお掛けになったばかりに、あの子にひどく失望なさり、そして、あの子自身もあなたの失望のもとで苦しむなんてことのないようにするためにもね。あの子は、あれで、とても傷つきやすいんですの。例えば、昨夜など、一睡もしておりません。あなたが、昨晩、あの子に不満を感じられたからですわ。あなたは、バルナバスのような使者をしか持ち合わせていないなんて、ひどく困ったことだとか、おっしゃったそうですね。そのお言葉があの子の睡眠をすっかり奪ってしまったんです。あなたは、たぶん、あの子の憤懣ぶりについて、さしてお気づきでもなかったでしょう。城の使者というものは、大いに自制せねばいけないのです。でも、あの子にしてみれば、それは、容易なことではありません。たとい相手があなたであっても、そうなのです。あなたとしては、きっと、あの子に多大の要求をなさっているお心算じゃないでしょう。あなたは、使者の役目についての固定観念を持って、当地へ来られていて、それに応じて、いろいろと要求をなさっておられる訳ですね。ところが、城では、使者の役目というものについて、別な考え方をしているのです。その城の考え方とあなたの考え方とは、どうにも一致させようがないんです。たといバルナバスがこの役目のために一身を捧げつくすとしてもですよ。あの子が、時折、そうした覚悟らしいものを見せるのが、残念でなりませんの。自分のしていることが、本当に、使者としての御奉公だろうか、という疑問さえなかったら、安んじて勤めに服していればいい訳ですし、もしそうした勤めに異を唱えれば、それこそ、罰が当たるくらいが落ちですわ。あの子としても、むろん、あなたにたいして、そうしたことについての疑問をおくびにも出してはいけないのです。もしそんなことをでもしましたら、それこそ、あの子としては、自分自身の存在を根こそぎに覆すことになりましょうし、また、自分がまだ服しているものと信じ切っている掟をも、みだりに、犯してしまうことにもなるからです。私にたいしてさえも、あの子は、腹を割って話すときがありません。私は、さんざんにお世辞を並べたり、キスをしてやったりしながら、あの子からあの子の疑問を探り出すよりほかはないんです。しかし、そのときでも、あの子は、頑として、それらの疑問が疑問に違いないことを認めようとはしません。あの子の血のなかには、いくらか、アマーリアの血も混じっているんですわ。そして、あの子は、ただひとりの腹心である私にさえも、けっして万事を洩らしてはくれないんですわ。でも、クラムのことは、時折、ふたりで話し合いますの。私は、まだクラムを見掛けたことがありませんが――あなたも御存じのとおり、フリーダは、私をあまり好いてはいませんし、それで、クラムを垣間《かいま》見ることをさえも、私に許してくれなかったのかもしれませんわ――、でも、彼の風貌は、むろん、村では周知のところですし、彼を見掛けた人も二、三いますし、彼の噂なら、村人全部が、耳に挟んでいますからね。それで、目撃談だとか、さまざまの噂だとかが相集まっているうに、それへまた、幾たりかの事実を捏《でっ》ち上げようとする底意も加わって、いつのまにか、ひとつのクラム像ができ上がっていたのです。この像は、たぶん、要所要所では、実物と一致するでしょう。でも、ただ要所要所だけにすぎないのです。その他の点では、とても変わりやすいのです。と言っても、もしかすると、クラムの本当の風貌ほどには変わりやすくないかもしれませんが。とにかく、クラムは、村へやって来るときと、村を引き揚げてゆくときとでは、その風貌がすっかり違っているとのことです。ビールを飲むまえと、飲んだあととでも、丸っきり違っているし、眼を醒ましているときと、眠っているときとでも、がらりと違っているし、ひとりでいるときと、対談しているときとでも、ひどく違っているそうです。これから推して、山上の城中にいるときは、ほとんど根っからの別人に近いという噂も、納得できますわ。すでに、村の内部においてさえも、彼について伝えられるさまざまな話には、かなり大きな食い違いがあるくらいですもの。身の丈とか、身のこなしとか、太り加減とか、ひげの生え方とか、すべて、食い違っているんです。ただ服装に関してだけは、どの報告も、うまい具合に、一致しています。いつも、裾《すそ》が長目の、黒い上衣という、同じ背広服を着ているようです。ところで、このようにさまざまな食い違いが生まれるのも、すべて、元をたどれば、なにもクラムが魔法を使ってるからではなくて、きわめて自明のことなのです。つまり、クラムの目撃者がそのとき持っていた、刹那的な気分とか、興奮の度合いとか、希望あるいは絶望の数えきれないほどの微妙な差異とかによって、おまけに、その目撃者が、大抵は、ほんのちらとしか、クラムを見掛けることができないために、ああした事態が生じるのです。このような話は、すべて、これまでバルナバスが幾たびとなく私に打ち明けてくれたことを、私がそのままあなたに又伝えしている訳です。個人的に直接この問題に関与してない人でしたら、この程度の話でおおむね満足していただけるはずです。でも、私たちは、そうはまいりません。バルナバスが会っている相手が、本当に、クラムなのかどうかは、あの子にとって、死活問題ですものね」「僕にとっても、やはり、そうですよ」と、Kは言った。そして、ふたりは、ストーブのそばの長椅子に腰を掛けたまま、互いに近くにじり寄った。
オルガの伝える不利な新事実を聞き終わって、Kは、はたと困惑せずにはいられなかったが、しかし、ここには、すくなくとも外から見受けた限りでは、自分と非常によく似た身の上の人たちがいる訳だし、従って、この人たちとは仲間になれて、フリーダとの場合のように若干の点においてだけでなく、多くの点において、意志の疎通がはかれるはずだと思うと、それで大部分は埋め合わせできるような気がした。なるほど、Kは、バルナバスの使いの成果にたいする希望をしだいに失いかけてはいたが、しかし、そのバルナバスだって、かの上手《かみて》の城での風当たりがひどくなればなるほど、この下手《しもて》の村では、ますます自分に近づいて来るに違いないと、思い返した。この村そのものから、バルナバスとその姉の努力のような、そうした不幸な企てが出て来ようとは、自分も、夢にも考えたことがなかった。事態は、むろん、あれしきの説明では、まだまだ不審な点が多いし、所詮は、いつ逆転するかもしれない危険さえも残っている。オルガの無邪気な人柄は、間違いないとしても、それにすぐに釣られて、バルナバスの誠実さをも信じ込んでしまうのは、禁物だ。Kがそこまで思いたどったとき、「クラムの風貌についての報告は」と、オルガは、さらに言葉を続けた、「バルナバスが、とてもよく識《し》っていますわ。あの子は、そうした報告を、多すぎはすまいかと懸念されるほどに、数多く集めて、互いに照合してきておりますし、それにまた、自分も、いつか村で、馬車の窓越しに、クラムを見たことがあるんです。すくなくも、当人は、そう信じていますの。そんな訳で、クラムを見分ける心支度は、十分にあの子にできていたはずですのに――あなたは、このことをどう解釈なさいますか――、あの子が城中のある事務局へ入って行きました折、だれかが、幾たりかの役人のうちのひとりをあの子に指差して、その方がクラムだ、と告げたそうですが、そう言われても、あの子は、それが当のクラムだとはどうしても見て取れないで、その後も長らく、あれがクラムだと思い込もうとしても、どうしてもその考えにはなじめなかったと、言うんです。ところで今、あなたが、その人物と、世間一般が思い描いているクラムの像とは、どのような点が違っているのかと、バルナバスにお尋ねになっても、あの子は、答えられないでしょう。いや、むしろ、答えて、あの城中の役人の面影を手に取るように説明申しあげるかもしれません。ところが、その描写たるや、私たちが熟知しているクラム像と、一分の狂いもなしに、一致する訳です。『それじゃ、バルナバス』と、私は言ってやるのです、『どうして疑《うたぐ》ったりするの、どうして悩んだりするの』って。すると、あの子は、眼に見えて困却の色を浮かべながら、城中のあの役人の特色を細々《こまごま》と列挙しはじめるのです。もうそうなると、事実を報告しているというよりか、捏造《ねつぞう》している感じですし、おまけに、列挙しているのが、とても取るに足らない特徴ばかりなの――例えば、風変わりなうなずき方をするとか、チョッキのボタンを外しているとか、そんな御託を並べるだけなの――とても本気に受け取れるような話じゃないんです。私にとってもっともっと大切なことのように思われますのは、クラムのバルナバスにたいする対応ぶりですわ。バルナバスは、その点もしばしば私に手に取るように説明してくれました。それどころか、見取り図をさえも描いて見せてくれましたの。バルナバスは、ある事務局の大きな一室へ通されるのが、通例のようですが、それは、しかし、クラムの事務室ではありません。そもそも、あちらには、個人専用の事務室なんてものはないんです。その一室は、縦に長く、一方の側壁から他方の側壁に達するほどに横長い、ただ一脚の、高い立ち机によって、ふたつの部分に仕切られていて、ふたりの人間が互いに身を躱《かわ》し合いながら、やっと辛《かろ》うじてすれ違うことができるくらいの、幅狭いほうの部分が、お役人たちの居場所なのです。そして、広いほうが、係争者たちとか、見物人とか、従僕、使者たちの居場所になっているのです。そして、立ち机のうえには、次々と、大きな本が、幾冊となく、開かれたまま、一列に置かれてあって、その大半のまえでは、それぞれに、役人が立って、読み耽《ふけ》っています。でも、いつも同じ本を読み続けているとは限りません。換えることもあるんです。しかし、交換するのは、本ではなくて、自分たちの立っている場所のほうなんです。バルナバスが途方もなく驚嘆するのは、役人たちが、場所を交替するために、互いに体を押しつけ合いながら、すり抜けて行くときのありさまだそうです。ほかでもなく、場所が窮屈なためです。前面のこの高い立ち机のうしろには、ぴったりとくっつけるように、低い小さな机が、幾つか、置かれてあり、それに書記たちが向かってすわっています。役人の求めがあれば、その口述どおりに、いつでも、書記たちが筆記するためです。バルナバスがいつも不思議に思うのは、その成り行きだそうです。当の役人から、はっきりと、命令らしいものが出る訳でもありませんし、また、高い声で口述されている訳でもありません。口述筆記が行われているのが、はたからはほとんど分からなくて、むしろ、役人のほうは、それまでどおりに、すこしも変わりなく、読み続けているように見えるくらいなのです。ただ、読みながらも、なにやら呟《つぶや》きを洩らして、書記がそれに聞き耳を立てているのが、違うと言えば違うそうです。書記がすわっていては、すこしも聞き取れないほどに、役人の口述する声が低すぎることが、しばしばあるようです。そうなると、書記は、ひっきりなしに、席から跳び上がり、口述された言葉を聞き留《とど》めては、素早く席にすわって、それを書きつけ、そして、また跳び上がるという仕草を続けるそうです。なんて奇妙なことでしょう。なんとも腑《ふ》に落ちかねるような話ですわ。バルナバスのほうは、そうした一部始終を観察し尽くすだけの時間の余裕が、たっぷりあるのです。と申しますのは、そこの言わば見物席で、あの子は、クラムの眼に止まるまで、何時間も、ことによると、何日も、立って待っていなければならないからです。それに、クラムの眼がすでにあの子に注がれていて、バルナバスが気を付けの姿勢を取って立ち上がったとしても、またそれで決まりがついた訳でもないんです。だって、クラムがまたしてもあの子から眼を離して、本のほうに向かい、あの子のことをきれいに忘れてしまうことだってあるかもしれないからですわ。現に、そういう折もしばしばあるそうです。それにしても、これほどまでに軽んじられた使者の勤めって、世にあるでしょうか。朝早く、バルナバスが、では城へ行って来るよ、と言うのを聞きますと、私は、情けなくなってしまいますの。このどうやらむだ足に終わるらしい道程。このどうやら空費に終わるらしい一日。このどうやら甲斐《かい》なく終わるらしい希望。これになんの意味があるのでしょう。しかも家では、靴屋の仕事が山積したまま、だれもそれに手を着けないために、ブルンスヴィックからは、早く仕上げるようにと、矢の催促が来ていますのよ」
「いや、よく分かりました」と、Kは言った、「バルナバスは、仕事を言い付かるまでに、ずいぶんと待たされるんですね。それは、理の当然ですよ。なにしろ、当地には、使用人たちが、あり余るほどに、うようよといるらしいですからな。だれもが、毎日、洩れなく、仕事にありつくとは限らないでしょう。そんなことで、あなたたちが、不平を言っちゃいけません。たぶん、だれもがそんな目に逢《あ》っているはずですからね。でも、結局は、バルナバスだって、やはり、仕事を言い付かるのでしょう。この僕のところへも、もうこれまで、手紙を二通ばかり届けてくれましたしね」
「そりゃ、おっしゃるように」と、オルガは言った、「私たちが不平を鳴らすのは、間違っているかもしれません。殊に、この私は、なにもかも耳学問で識っているだけで、女の身の浅はかさから、バルナバスほどに理解も行き届きませんしね。バルナバスは、あれで、まだなにかと胸に畳んでいることがあるようですわ。ところで、ねえ、その手紙類なんですが、例えば、あなた宛の手紙がどういうものか、その辺の事情を申しましょうか。バルナバスがそうした手紙を受け取るのは、直接にクラムからではなくて、書記からなんです。日時を問わず、なにかの風の吹き回しで――それゆえ、この勤めも、一見楽なようで、とてもしんどいんです。バルナバスが絶えずぬかりなく注意していなければならないからですの――書記が、ふとあの子のことを思い出すと、あの子に手招きします。これは、クラムがせっついてやらせたことでは全くないようです。クラムは、あいかわらず、静かに本に読み入っています。時には、むろん、と言っても、これは、ふだんでもよくやっている、クラムの癖なんですが、たまたまバルナバスが入って行ったときに、クラムが鼻眼鏡を拭《ふ》いていることもあります。その場合は、もしかすると、バルナバスに眼を留めたかもしれません。もっとも、これは、クラムが鼻眼鏡を掛けなくとも見るに事欠かないことを仮定しての話ですが。バルナバスは、この点をも疑っています。クラムは、そのようなとき、両眼をほとんど閉じたままで、なんだか眠りながら、ただ夢心地で鼻眼鏡を拭いているとしか見えないからです。そのうちに、書記が、机の下に入れてある数多くの書類や書状のなかから、あなた宛の一通の手紙を深し出します。従って、それは、今書き上げたばかりの手紙ではなくて、むしろ、封筒の様子から見ても、非常に古い手紙で、すでに長いあいだ、机のしたに放置されたままになっていたものです。それにしても、その手紙が古いものなら、なぜバルナバスをそんなに長らく待たせたりしたのでしょう。それどころか、たぶん、あなたをも、ひいてはまた、その手紙をさえも。だって、そんな古い手紙なんか、今ではもう紙屑みたいなものですからね。しかも、バルナバスは、そのお陰で、碌《ろく》でなしの鈍間《のろま》な使者という悪評までも蒙《こうむ》ってしまうんですもの。当の書記のほうは、むろん、気楽なもので、バルナバスに手紙を渡すと、『クラムからKに宛てたものだ』と、言ったきりで、バルナバスを引き下がらせるのです。さて、そこで、バルナバスは、やっとうまくせしめた手紙をシャツのしたの素肌のところへ忍ばせながら、息せき切って、家へ帰ってまいります。すると、私たちは、ちょうど今のように、こちらの長椅子のところへ来て、腰を掛け、バルナバスが話しはじめるのです。それが済むと、ふたりで、すべてを、事細かに、ひとつひとつ検討していって、それから、バルナバスがどの程度まで成功したかを評価するのです。すると、結局のところ、成功したものがきわめてわずかしかなく、そのわずかなものでさえも、はたして成功と言えるかどうか、いかがわしいことに、気づくのです。すると、バルナバスは、その手紙をおっ放り出したまま、その手紙を届ける気になれず、かと言ってまた、床《とこ》に就く気にもなれないで、靴屋の仕事に取りかかったものの、手をくだせないで、そこの床几《しょうぎ》にすわり込んだきり、むだに一夜を明かすのです。実はこのような事情なんですの、K。そして、これが私の秘密なの。こう申しあげたら、アマーリアがこうした秘密に与《あずか》るのを見合わせたことも、あなたには、もう不思議に思われないでしょうね」「すると、その手紙のほうは」と、Kは尋ねた。
「手紙のほうですか」と、オルガは言った、「それはですね、しばらくしてから、それも私がバルナバスを嫌と言うほど急《せ》き立てた揚げ句のことで、そのあいだに、何日も、何週間も、たっていることさえありますが、バルナバスは、やっと、その手紙を持って、届けに行きます。このように些細《ささい》なことでは、あの子は、やはり、私の意見をとても頼りにしているんですの。つまり、私は、あの子の話の第一印象にさえ打ち勝ってしまったら、また、元どおりに心の平静を取り戻すことができるのですが、あの子は、たぶん、私の知らないことを知っているからでしょうが、どうしてもそれができないんです。それゆえ、私は、そのような折には、口が酸《す》くなるほど、あの子に説教してやるんですわ。『バルナバス、一体、あんたの本望は、なになの。あんたは、どんな生涯を、どんな目標を夢見ているの。もしかすると、ついには私たちを、この私をまでも、すっかり見捨てねばならないほどの、高望みをしてるんじゃなくって。そうなるのが、言わば、あんたの目標なの。私としては、そう思わざるを得ないじゃないの。でないと、あんたが、これまで成し遂げて来たものに、どうしてそこまで物|凄《すご》く不満を抱いているのか、さっぱり理由が分かりませんしね。とにかく、私たちの隣人のなかで、すでにそこまで大出世した人がいるかどうか、周囲を見回して御覧よ。もちろん、あの人たちと私たちとでは、境遇が違うし、あの人たちには、現在の自分たちの所帯に飽き足らないで、もっともっと向上して行きたいという理由もないけれどもね。でも、比較なんかしなくても、あんたの場合は、万事がこのうえなく順調に行っていることぐらいは、だれにだって見抜けるはずよ。そりゃ、いろいろと、障害もあるでしょうし、不審なことも、失望することもあるでしょう。でも、それは、私たちにもすでに前から分かっていたことで、苦は楽の種ということを意味しているだけじゃないの。あんたは、むしろ、どんなに些細なことをでも、自身でこつこつと闘い取って行かねばならないということよ。それは、誇りとする理由にはなっても、意気消沈する理由にはならないわ。それに、あんたは、私たちのためにも、併せて闘ってくれている訳でしょう。そのことが、あんたにとって、全くなんの意味もないの。新しい力づけにはならないの。それに、私は、あんたのような弟を持ったことを幸福に思って、鼻を高くしているくらいなんだけれど、こうしたことさえもあんたになんの自信も与えないの。確かに、あんたのことで、私は、失望したけれど、それは、なにもあんたが城で成し遂げて来たことを考えたからじゃないのよ。私があんたのそばにいながら、なにをしてあげられたかということを考えたからなの。あんたは、城への出入りが許されているし、何日もぶっとおしでクラムと同じ部屋で過ごせるし、公認の定評ある使者だし、官服だって請求できるし、重要な書状類も配達させてもらえるでしょう。あんたは、そうしたすべてに値するからこそ、そうした全権を許されているのよ。そのあんたが城から降りて来ると、私たちふたりは、幸福のあまりに、泣きながら抱き合うどころか、あんたは、私を見るなり、全身の気力がすっかりあんたから抜けてしまったみたいになって、なにからなにまで疑い出すんですもの。そうなると、靴型にしか心を惹《ひ》かれなくなって、私たちの将来の保証であるはずの手紙をさえもおっ放り出してしまうんですからね』そのように、私は、あの子に言ってやるんですわ。そして、私が、何日も、こんな説教を繰り返していますと、あの子は、そのうちに、溜《た》め息を洩らしながらも、当の手紙を手に取って、出掛けて行きますの。でも、それは、なにも私の説教が効いたためじゃないらしくて、またしても城へ行きたい衝動に、あの子が駆られ始めたからに違いないの。言い付かった用件を済ませておかなければ、いくらなんでも、のこのこと城へは行けませんものね」
「それにしても、あなたが彼に言って聞かされることは、どれひとつとして間違っておりません」と、Kは言った、「一から十まで、すべてをきちんとお纏《まと》めになってお話しなさるのには、驚嘆するほかありませんね。頭脳の明晰さには、全く舌を巻きますよ」
「とんでもありませんわ」と、オルガは言った、「あなたは、だまされてらっしゃるのよ。そんな調子で、私が、あの子をもだましているのかもしれませんわ。あの子は、一体、なにを成し遂げて来たんでしょう。確かに、あの子は、ある事務局への出入りを許されています。でも、そこは、けっして事務局そのものではなくて、むしろ、事務局の控え室らしいんです。もしかすると、控え室でさえもないかもしれません。あるいは、本当の事務局へ入れてならない人たちを、すべて、留め置くことにしている一室かもしれないのです。あの子は、クラムと会って、話し合いますが、相手は、本当に、クラムでしょうか。むしろ、クラムにすこしばかり似ている、だれかではないでしょうか。もしかすると、秘書かもしれません。そうですわ。せいぜいのところ、クラムにすこしばかり似ていて、しかも、もっともっと似ようと苦心|惨憺《さんたん》した末に、あのクラムの寝ぼけたような、夢見ているような様子をまねて、威張っている秘書くらいかもしれませんわ。クラムの特性のこの部分は、最もまねがしやすいんですの。それで、この部分をまねしようと試みている人が、現に幾たりか、いるくらいなんです。むろん、その他の部分には、だれしも、慎重を期して、手を出しませんけれどもね。それに、クラムのように、一目なりとも会いたいと、しきりに熱望されながらも、めったに会えない人物は、ともすれば、人々の想像のなかで、種々様々の姿形《すがたかたち》を取りやすいのです。クラムは、例えば、こちらで、モームスと言う名の村方の秘書を使っております。あら、そうでしたの。あの方を御存じですの。あの人も、あまり人前に出たがりませんが、それでも、私は、二、三度、あの人を見掛けたことがあるんです。若い、丈夫そうな紳士ですわね。ですから、たぶん、クラムにはちっとも似てないはずなんですの。それなのに、あなた、モームスこそ、クラムだ、クラム以外の何人《なんぴと》でもない、と言って、誓いかねないような連中さえも、村にはいるんですからね。しかも、あの連中は、自分で、自分の頭がこんがらかるのを、ますます助長しているようなものですわ。ところで、城のなかだって、やはり、同じことに違いありません。いつでしたか、あの役人がクラムだと、バルナバスに言った人がいるでしょう。事実、両者のあいだには、どこか似た点があるにはあるのです。しかし、そうした似た点こそ、バルナバスがしょっちゅう胡散《うさん》に思う点なのです。しかも、一切合財があの子の疑問を裏付けるばかりなのです。クラムのごとき人物が、あすこのような部屋で、ほかの役人たちのあいだに混じり、鉛筆を耳に挟みながら、ぎゅうぎゅう詰めになっていなければならないものでしょうか。そんなことって、とても信じられない話ですわ。バルナバスは、いくらか子供らしいところもあって、時折――でも、こんなときが、きっと、確信を持っている気分のときですわ――口癖のように洩らすんですの。あの役人は、確かに、クラムによく似ているよ、あれで、どこか専用の事務室にいて、専用の事務机に向かってすわり、入り口のドアのところにクラムの名でも出ていたら、自分だって、もうけっして疑ったりはしなかったはずなのに、とね。いかにも子供らしい言い草ですけれど、でも、ちゃんと道理にかなっているでしょう。むろん、バルナバスが城へまいった折に、すぐに二、三の人を掴《つか》まえて、事の真相はどういうものかを、問い質《ただ》していましたら、はるかに道理にかなっていることになった訳ですけれどもね。だって、あの子の申し立てによれば、例の部屋には、結構、大勢の人たちがぶらぶらしているんですもの。それに、その人たちの申し立てにしても、尋ねもしないのにあれがクラムだと教えてくれた、例の人物の言葉より、はるかに信憑性《しんぴょうせい》があるとは限らないにしても、すくなくとも、その人たちの多種多様な陳述のなかから、なんらかの手掛かりになる点とか、比較対照できる点ぐらいは、きっと得られたに違いないからですわ。これは、私の思い付きではなくて、実は、バルナバスの思い付きなの。でも、あの子には、この案を実行に移すだけの勇気がないの。未知の規則を図らずも破ったことになってしまって、自分の地位を失いはすまいかと、そればかりを危惧《きぐ》して、あの子は、他人に問い掛ける勇気さえも挫《くじ》けてしまうんだわ。それほどまでに自分を心もとなく感じられるのね。この、本当に情けないと言えば情けない、自信のなさこそ、あらゆる筆舌にもまして、あの子の立場をくっきりと照らし出しているように、私には思えますの。たったひとつの無邪気な質問をするだけなのに、それでも口がきけないところを見ますと、あの子の眼には、城での一切合財が、疑わしく無気味に見えているに違いありません。私は、それをよくよく考えますと、あの子をああした未知の部屋部屋にひとり置きっ放しにしていることこそ、ほかでもなく、私自身の罪であると感じられて来て、自責の念に駆られずにはいられませんわ。臆病と言うよりか、むしろ、向こう見ずなはずの、あの子でさえも、恐ろしさのあまりに、おそらく、身震いしているようなことが、あすこでは、起こっているんですもの」
「いよいよお話が急所に触れて来たようですね」と、Kは言った、「そこなんですよ。あなたからこうしていろいろと聞かされますと、僕は、今やっとはっきり眼を開かれたような思いしています。バルナバスは、そうした任務を果たすには、まだ年が若すぎます。彼の話は、なにひとつ、即座に真に受ける訳にはゆきません。彼が山上で、恐ろしさのあまりに、寿命の縮まる思いがしているときは、とてもそこでの観察なんかできっこありません。それでも、ここへ帰って来て、報告を無理強いされると、しどろもどろの作り話でその場を済ますほかないのです。僕は、こんなことぐらい、不思議ともなんとも思いませんね。ここでは、当局にたいする畏怖が、あなたたちの先天的な傾向であるばかりでなく、さらに全生涯を通じて、あなたたちに、手を変え品を変えて、四方八方から吹き込まれるのです。しかも、あなたたち自身だって、できうる限り、それに助勢しているんですからね。でも、僕は、根っからそれに全反対を唱えているのではありません。当局さえ立派な役所であれば、なにも当局にたいして畏怖を抱かなくちゃならない理由なんかないはずですしね。ただ、こうした場合に、この村の界隈《かいわい》から一歩も外へ出たことのない、バルナバスのような物知らずな若者を、いきなり、城内へ送り込み、帰って来ると、事実ありのままの報告を彼に求めたくなって、彼の伝える一語一語をまるで神託のように吟味しながら、自身の人生の幸福がまるでこの解釈に掛かっているかのように決めてかかることだけは、絶対に禁物ですよ。これほど筋違いなことはありませんからね。もちろん、この僕だって、あなたと同じように、彼の言葉に惑わされて、彼にさまざまな希望をかけ、また彼によってさまざまな失望を嘗《な》めさせられて来ました。しかし、これらの希望も、また失望も、ともに、ただ彼の言葉に基づいたものにすぎませんので、従って、根拠は、ほとんど皆無に等しかったのです」
オルガは黙っていた。そこで、Kは、話を続けた、「弟さんにたいするあなたの信頼に迷いを与えることは、僕としても、辛《つら》いです。だって、あなたがどんなに彼を愛しておられるか、また彼からなにを期待されているか、僕には分かりすぎるほど分かっていますのでね。でも、やむを得ません。あなたの彼にたいする愛と期待を思えば、なおさらのことです。と言うのも、いいですか、あなたが、いつとなく、なにかに遮られているらしく――それがなにであるのか、僕にも、得体が知れないのですが――、バルナバスが言わばどこまで成し遂げて来たかということではなくて、バルナバスになにが授けられて来たかということを、完全に見究められないでいるからなのです。バルナバスは、事務局への出入りを許されています。あるいは、お望みなら、控え室と呼んでもいいです。それじゃ、まあ、控え室ということにしておきましょう。しかし、そこには、ドアとか、柵とかがあるはずです。そして、ドアは、奥へ通じていますし、柵だって、コツさえ心得ていれば、そんなものを通り抜けるくらい造作もないことです。例えば、僕なんかには、この控え室でさえも、すくなくとも目下のところは、全く手の届かぬところにある訳ですがね。バルナバスが、そこで、だれと話をするのか、僕には皆目分かりませんし、もしかすると、例の書記も、最も下っ端の従僕かもしれませんが、しかし、その男が最も下っ端の従僕であるとしても、そのすぐ上の従僕のところへぐらいは、難なく案内してくれるでしょう。もし案内することはできなくても、せめてその上役の名くらいは教えてくれるでしょう。もしもその名を教えることはできなくても、だれそれのところへ行けば、その名くらいは教えてもらえると、その程度の指示くらいはしてくれるでしょう。あのいわゆるクラムなる人物は、実在のクラムと、微塵も共通点がないかもしれません。そして、類似点というものも、バルナバスの眼にのみ、存在しているように見えるだけかもしれません。なにしろ、バルナバスの眼は、興奮のあまりに、盲目同然になっていますからね。それに、その人物にしても、役人のうちでも最も下っ端かもしれません。いや、まだ役人にさえもなってないかもしれません。でも、とにかく、あの立ち机のところで済まさねばならない用務があって、あのでかい本からなにかを拾い読み、書記に向かってなにやらささやいていたのでしょう。そして、バルナバスにしばらく眼を留めていたときは、なにか考えごとをしていたのではないでしょうか。たとい以上のことが真実ではなくて、当の人物とその人物の仕草とがなんの意味をも持ってないにしても、やはり、だれかが当の人物をその場へ立たせておいた訳で、なんらかの意図があっての仕業に相違ありません。僕が、こうして、くどくどと話してまいりましたのは、ほかでもなく、なにかがそこにあり、なにかが、すくなくとも、なにかがバルナバスに提供されようとしている、にもかかわらず、それを手がかりとして、疑念と不安と絶望よりほかに、なにも得ることができないなら、それこそバルナバスの罪にすぎないということを、申したかったからです。ところが、この僕は、世にもあり得ないような、このうえなく不利な状況から、出発したまま、ずっと今日に至っているのです。それでも、僕たちは、二通の書面を入手している訳ですからね。僕は、それらの手紙を大して信用してはいませんが、バルナバスの言葉よりははるかに信用しています。確かに、それは、全く同じように無価値な書状類の山のなかから、盲滅法に引き抜いて来た、古い、無価値な手紙かもしれません。頭をさして使わずに、盲滅法に、引き抜いて来るという点では、年の市《いち》などで、カナリアを使って、だれかの辻占《つじうら》をそれらの山のなかから気儘《きまま》に啄《ついば》んで来させるのと、ほとんど変わりはないでしょう。でも、たといそうであっても、これらの手紙は、やはり、すくなくとも、僕の仕事となんらかの関係があるのです。あるいは、僕の利益になるように書かれたものでないにしても、僕に宛てて書かれたものであることは、明確です。しかも、村長と村長夫人が証言してくれたように、クラムにより自筆で署名されたもので、またしても村長の言によりますと、かなり曖昧《あいまい》なところのある私信ではあるが、大いに価値があるとのことです」
「あの村長さんがそうおっしゃったのですか」と、オルガは尋ねた。「そうです。村長がそう言ったのです」と、Kは答えた。「それじゃ、そのことをバルナバスに話してやりますわ」と、オルガは、口早に言った、「それで、あの子も、とても、元気づくでしょうよ」
「いや、バルナバスを元気づけてやる必要なんかありませんよ」と、Kは言った、「あの男を、元気づけてやるのは、おまえのやっていることは正しいから、これまでどおりのやり方を続けていさえすればいい、とあの男に言ってやるのと、同じことになりますからね。ところが、ほかでもなく、あのやり方では、彼は、いつになっても、なにひとつ成し遂げられないで終わってしまう。目隠しされた男に、よく目隠し越しに見透かすがいいと、大いに元気づけておやりになるのはいいですが、いくら元気づけておやりになっても、その男は、やはり依然として、なにも見えないですよ。目隠しを取ってやってこそ、初めて見えるようになるのです。バルナバスに必要なのは、手を貸してやることであって、元気づけてやることではありません。まあ、考えてもごらんなさい、かなたの山上には、官庁が、謎めいた偉観を呈して、建っています――僕は、当地へ来ますまでは、あの官庁について、おおよその想像ぐらいはついている心算でしたが、まあ、なんと、子供だましのようなものを考えていたことでしょう――。とにかく、かしこに官庁があって、バルナバスがそれに向かって歩んで行きます。ほかに、連れはいません。彼ひとりです。かわいそうなくらい、ひとりぽっちです。それでも、彼が、生涯にわたって、消息を絶ったまま、どこかの事務局の小暗い片隅にじっと蹲《うずくま》り続けているのでなかったら、彼にとっては、過分の名誉ではないでしょうか」
「ねえ、K」と、オルガは言った、「バルナバスの引き受けている使命の重大さを、私たちが、軽く見ているとは、お思い込みにならないでいただきたいの。当局にたいする畏敬の念だって、私たちは、十分持ち合わせている心算なんです。これは、あなた御自身も、先ほど、おっしゃっていましたけれど」
「ところが、それが、筋違いの畏敬なのです」と、Kは言った、「場違いの畏敬なのです。そのような畏敬は、畏敬の対象を汚すだけです。バルナバスが、あすこへの入室資格を授けられているのをいいことに、それを濫用して、あすこで幾日も無為に過ごしてみたり、あるいは、城から下がって来ると、つい今しがたまで恐《こわ》くてたまらなかった人たちを邪推して、貶《けな》してみたり、あるいはまた、絶望からか、それとも、疲労からかは、分かりませんが、手紙を直ちに配達せずに、彼に托された用向きを一向に果たさないでいたりしていますが、これでも、畏敬の念と呼べるでしょうか。これは、もう畏敬なんかと言えるはずのものではないと、思いますね。ところで、非難したいことが、まだまだあるんです。オルガ、あなたにも、非難の矢を放たねばなりません。あなただからと言って、容赦する訳にはゆかないんです。あなたは、当局にたいして畏敬の念を抱いていると、思い込んでおられる癖に、バルナバスを、あの若さと気弱さで、ひとり、城内へお遣《や》りになった。いや、すくなくとも、バルナバスが出掛けるのをお引き止めにはならなかったんですからね」
「あなたが私になさっておられる御叱責ですが」と、オルガは言った、「実は、私も、とっくの昔から、われとわが身にそうした叱責を加えて来ておりますの。むろん、バルナバスを城へ遣ったということで、私が非難されるのは、筋が立ちませんわ。私があの子を遣ったのではありません。あの子が勝手に出向いたんですもの。でも、私としては、あらゆる手を尽くして、力ずくでも、策略を用いてでも、また説得してでも、あの子を引き止めるべきだったかもしれません。確かに、あの子を引き止めるべきだったと思いますわ。でも、もしきょうが、あの日のように、運命の別れ目の日だったとしまして、私がきょうも、当時と同じように、バルナバスの苦境を、私たち一家の苦境を、身に沁みて感じていましたら、そして、バルナバスがまたしても、一切の責任と危険とをはっきりと自覚したうえで、にこりと微笑《ほほえ》みながら、やさしく私の手を振り解《ほど》いて、出掛けて行ったのでしたら、私は、その間にありとあらゆる経験を嘗めていたにしましても、きょうだって、あの子を引き止めたりはしなかったでしょう。それに、あなただって、私の立場におられたら、ただ見送るよりほかに術《すべ》がなかったろうと、思いますの。あなたは、私たちの苦境を御存じないので、私たちに、とりわけ、バルナバスに、手厳しいんですわ。私たちは、当時は、今日よりも、もっと希望を持っていました。でも、私たちの希望は、当時でも、大きなものではありませんでした。大きかったのは、私たちの苦境だけで、これがそのままずっと今日まで続いていますの。それにしても、フリーダから、なにも私たちの話をお聞きにならなかったの」
「ほんの小出しに仄《ほの》めかす程度でしてね」と、Kは言った、「これと言ってはっきりしたことは聞いておりません。なにしろ、あなたたちの名前を言っただけでも、彼女はいきり立つんですからね」「すると、あの女将さんもなにも話さなかった訳ですね」「ええ、なにも」「それでは、ほかの人も」「ええ、だれも」「それも、当然かもしれません。多少なりとも話のできる人なんか、どこにもいませんものね。実は、私たちのことを知らない人は、いないんです。真実か、と言っても、それは、世間の人たちが入手できる範囲内の真実ですが、あるいは、すくなくとも、聞き伝《づて》の話か、それとも、大抵はこちらのほうなんですが、勝手に捏《でっ》ち上げた噂話か、だれだって、多少は知っているのです。そして、必要以上に私たちのことを心中では考えているのです。でも、だれひとりとして、それを話したりなんかはしないでしょう。そうしたことを口にすることをさえも、人々は、憚《はばか》っているからです。その点は、無理からぬことだとも、思いますわ。それを言葉で伝えるのは、K、たといあなたにたいしてさえも、難しいんですもの。それに、あなたが、それに耳を澄まされたあとで、ぷいとお立ち去りになり、たといあなたにほとんど関係ないようなことであっても、それにはもうお耳を貸そうとなさらないで、一切私たちに関《かか》わりたくなくなられるようなことだって、あるかもしれませんしね。そうなると、私たちは、あなたをまでも失ってしまったことになります。ところが、あなたという方は、今の私にとって、白状いたしますが、バルナバスのこれまでの城への勤めよりも、もっと大切なんですもの。それにもかかわらず――この矛盾に、私は、もう丸一晩、ずっと思い悩んでいるんですけれど――やはり、ぜひともあなたに話を聞いていただきたいのです。でないと、私たちの現状を大局的に見ていただけなくて、あいかわらず、バルナバスに手厳しく当たられるんですもの。それが、私にとって、殊のほか辛いんですの。そうなると、私たちのあいだに必要な、完全な一致というものがなくなって、あなたが、私たちを助けてくださることもできなければ、また、私たちの援助を、これは非常の場合のことですが、受け入れてくださることもできないでしょう。それにしても、お尋ねせねばならぬことが、まだひとつだけ、残っていますわ。あなたは、本当に、これをお知りになりたいですか」「なぜ、そんなことをお尋ねになるんです」と、Kは言った、「必要なことであれば、僕は、知りたいですよ。なのに、どうしてそんな尋ね方をなさるんです」「迷信のせいですわ」と、オルガは言った、「罪のないあなたが、これで、バルナバスと同じくらい罪のないまま、私たちの問題に引きずり込まれてしまうのですもの」
「早くお話しください」と、Kは言った、「僕は、恐くなんかありません。あなたは、女にありがちな心配性にばかり走っていたら、事態を実際以上に悪化させてしまいますよ」
[#改ページ]
アマーリアの秘密
「判断は、お任せいたしますわ」と、オルガは言った、「とにかく、ちょっとお聞きになると、とても簡単なことのように思われて、それがどうして重大な意味を持つことになるのか、すぐには理解していただけないような事柄ですもの。城に、ある高官がいまして、その名をソルティーニと申します」「その人のことは、すでに聞いたことがありますよ」と、Kは言った、「僕の任用にも関与した人です」「まさかそんなことはないと思いますわ」と、オルガは言った、「ソルティーニは、めったに人前には出ない人です。あなたは、tではなくてdで書くほうのソルディーニと思い違いをなさっているのではなくって」「おっしゃるとおりです」と、Kは言った、「あれは、ソルディーニでした」「そうでしょう」と、オルガは言った、「ソルディーニは、よく名が売れています。最も精勤な役人たちのひとりで、あの人については、いろいろと語り草がありますわ。それにひきかえ、ソルティーニのほうは、とても引っ込み思案で、大抵の人にその名さえも知れておりませんの。私は、三年あまりまえに見掛けたことがありますが、それがあの人を見た最初で最後でした。ちょうど七月三日の消防団の祝典のときでした。城のほうもこれに協賛して、新しい消火ポンプを一台寄付しておりました。ソルティーニは、幾分か消防問題にも頭を突っ込んでいるとかで(でも、もしかすると、だれかの代理で来ていただけかもしれません――役人たちは、互いに代わり合って、代理を勤める場合が大半なのです。そのために、各役人の管轄範囲を見分けるのが難しいのです――)、ポンプの交付式に出席しておりました。もちろん、ほかにもまだ何人か、役人や従僕たちが城から顔を見せていました。ソルティーニは、いかにもその性格にふさわしく、ずっと後方に控えていました。小柄な、見るからに虚弱で、憂鬱そうな紳士です。だれしも、あの人を見かけて、奇異な感を覚えずにはいられなかったのは、あの人の額のところの皺《しわ》の寄り具合でした。つまり、どの皺も、すべて洩れなく――確かに、まだ四十の坂も越してない年齢のはずですのに、とても皺が多いのです――額を上下にまっすぐによぎって、扇形を象《かたど》りながら、鼻の付け根のところへ集まっているのです。あんな皺の寄り具合は、私、見たことがありませんわ。まあ、とにかく、それは、ですから、あの祝典の日でした。私たち、アマーリアと私は、もう何週間もまえから、その日を心待ちにしていまして、晴れ着も、ある部分は、新調しておきました。ことに、アマーリアの服は、とても美しく、白いブラウスは、前のところが大きなふくらみを持たせてあり、幾つものレースの列で重なり合うような襞《ひだ》を取ってありました。母が、自分の虎の子だったレースを、そっくり、そのために貸してやった訳です。私は、あのとき、それが羨ましくてならないで、祝典の前夜は、夜半まで泣き通したほどでした。翌朝、橋亭の女将《おかみ》さんが私たちの晴れ姿を見にやって来たときになって、初めて――」「橋亭の女将がですか」と、Kは尋ねた。「そうよ」と、オルガは言った、「女将さんは、私どもの家とひどく懇意だったの。それで、女将さんがやって来ると、アマーリアのほうに分があることを、認めざるを得なくなって、私を宥《なだ》めるために、ベーメン産の柘榴石《ざくろいし》でできた、女将自身の首飾りを私に貸してくれましたの。そこで、いよいよ私たちの外出の身支度が整って、アマーリアが私と向かい合わせに立ち、皆でアマーリアの美しさに見惚れていましたとき、父が言いましたの。『きょうは、覚えておくがよい、アマーリアにお婿さんができるはずだ』とね。それを聞くなり、私は、なぜだか、自分でも分からなかったのですが、誇りにしていた首飾りを外して、アマーリアの首に掛けてやりましたの。もう妬《ねた》ましいともなんとも思いませんでしたわ。私は、ほかでもなく、あの子の勝利にたいして頭を下げた訳です。だれだって、あの子のまえでは、頭を下げずにはいられないと、思っていたくらいでした。もしかすると、あのとき、私たちは、あの子が日ごろと全く別人のように見えたので、びっくり仰天していたのかもしれません。だって、あの子は、もともと、美しいほうじゃなかったんですもの。それに、あの子の陰気な眼差《まなざし》が、実は、あれ以来ずっと、そんな眼付きになってしまったんですけれども、私たちの頭上を高く通り越して行きますので、私たちのほうも、ついうっかりすると、本当に、知らず知らずのうちに、あの子のまえで頭を下げているように見えかねなかったんですわ。みんな、そのことに気づいていました。私たちを迎えに来てくれたラーゼマン夫妻だって、気づいたくらいよ」「ラーゼマンですって」と、Kは尋ねた。
「ええ、ラーゼマンなの」と、オルガは言った、「私たちは、これでも、とても声望があったのよ。例えば、この祝典にしたって、私たちがまいらなければ、うまく幕が上がらなかったくらいですもの。だって、父は、消防団の第三行動隊長を勤めていましたものですから」「まだそのころは、あのお父さんも、そんなに矍鑠《かくしゃく》としていたのですか」と、Kは尋ねた。「あの父さんですって」と、オルガは、Kの質問が腑《ふ》に落ちかねるかのように、聞き返した。「三年前は、まだ、父も、言わば青年のようでしたの。例えば、貴紳閣で火事があったときなど、からだの重たいガーラターという役人を背中に負って、駆け足で、運び出したくらいですわ。私自身も、そのとき、現場へ行っていました。なにも大火の危険があった訳でなくて、ただストーブの横に置いてあった薪が燻《くすぶ》りかけていただけなんですが、ガーラターが、心配になって、窓から救いを求めて叫んだのです。それで、消防団の出動となりました。父は、もう火も消えていたのですが、ガーラターを運び出さねばならなかったのです。まあ、ガーラターにしてみれば、身のこなしも鈍重でしたので、このような場合、用心したに違いありませんわ。これは、ただ父のために、お話ししただけですが、あれ以来、三年あまりしかたっていませんのに、今は、御覧なさい、あすこにああして腰かけているような始末ですの」
そのときになって、Kは、アマーリアがすでに部屋に戻っていたことに、初めて気づいた。しかし、アマーリアは、ずっと離れて、両親のテーブルのところにいて、リューマチのために腕が利かない母親に食物を食べさせてやりながら、お召し上がりになりたいでしょうが、もうすこし辛抱してくださいな、今に、食べさせてあげに、そちらへもまいりますからね、と父親に向かって言い聞かせていた。だが、彼女がいくら注意しても、むだであった。父親は、もう喉《のど》から手が出るほどにスープにありつきたくなったのか、からだの不自由を押して、あるいはスープをスプーンで掬《すく》って啜《すす》ろうとしてみたり、あるいは皿からじかに飲み干そうとしてみたりしながら、どちらもうまくいかないので、忌々《いまいま》しげになにやらぶつくさと呟《つぶや》いていた。スプーンは、口に達するまでに、とっくに空になっていたし、口もスープにまでは届かなかった。ただ、その度ごとに、垂れ下がっている口ひげがスープに漬かるだけで、口のなかに入らなかったスープが、雫《しずく》や飛沫《しぶき》となって、四方八方へ散っていた。
「三年間で、あんなに変わってしまわれたのですか」と、Kは、尋ねたが、老人夫婦にたいしても、また一家|団欒《だんらん》のテーブルが置いてある、あの片隅全体にたいしても、依然として、なんの同情をも感じなかった。あるのは、ただ嫌悪だけであった。「三年間でですわ」と、オルガは、おもむろに言った、「あるいは、もっと正確に申しますと、祝典の日の二、三時間でですわ。祝典は、村外れの、小川のほとりにある、草原で、催されました。私たちがそこへ着いたときは、もうたいへんな雑踏でした。近隣の村々からも、大勢が詰め掛けていまして、その騒々しさのために、だれもが、すっかりうろたえていました。先ず、私たちは、むろん、父に引っ張られて、消防ポンプのほうへ行きました。父は、ポンプを見ると、嬉しさのあまりに高笑いをしました。新しいポンプで上機嫌になって、父は、ポンプに手で触ってみたり、私たちに説明して聞かせてくれたりしはじめました。はたの連中が抗議しても、また制止しても、一向に聞き入れないのです。ポンプの下部になにか見どころがあると、私たちは、みな一斉に、屈《かが》み込まされて、ほとんどポンプのしたへ這い込むようなことまでもさせられました。バルナバスは、そのとき言うことを聞かなかったので、父からびんたを食らったほどでした。ただアマーリアだけは、ポンプのことには構うことなく、美しい晴れ姿で、わきに立ち尽くしていました。だれも、あの子には遠慮して、文句ひとつ言わないんです。私は、何度か、あの子のそばへ走り寄って、腕を取りましたが、あの子は、口もきかないんです。私は、どうしてそういうことになったのか、今日でも、まだ訳が分からないでいるのですが、とにかく、私たちは、長いあいだ、ポンプのまえに立っていて、父がやっとポンプのところから離れたときに、初めてソルティーニがいるのに気づいた次第でした。ソルティーニは、すでに私たちがポンプのところへ来たときから、ずっと、その手押しポンプの後部の槓桿《こうかん》のところにもたれ掛かっていたらしいのです。もうその時分になりますと、むろん、物|凄《すご》いほどの騒々しさで、いつもの祝祭日どころの騒ぎではありません。と言いますのも、城から消防団に数管のトランペットまでも寄付されていたからです。それらのトランペットは、子供でも容易に吹けるくらいに、ほんのちょっと力を入れて吹いただけでも、耳を聾《ろう》するばかりの音《ね》が出るようにできていたのでした。それを聞くと、トルコ軍が早くも攻め寄せて来ているのではないかと、思ったほどで、なかなか耳がその音に慣れないものですから、だれかが新しく吹く度ごとに、縮み上がったものです。ところが、新式のトランペットでしたので、だれもかもが、試してみたがりました。それに、村を挙げての祝典でしたので、その点はお構いなしでした。ちょうど私たちのまわりに、たぶん、アマーリアに惹《ひ》き寄せられたのでしょうが、そのような吹き手が、何人か、集まっていました。そんなものにすこしでも気を取られるなと言うほうが、土台、無理な注文ですし、それに、父の厳命どおりに、ポンプのほうにも注意を向けていなければなりませんでしたので、それが精一杯というところでした。そんな訳で、私たちは、桁《けた》外れに長くソルティーニが眼に入らないでいたのです。と言っても、私たちは、それまで、ソルティーニに見覚えがあった訳でも全然ありませんでしたが。『あすこにいるのが、ソルティーニだよ』と、ついに、ラーゼマンが――ちょうどそのそばに、私は、立っていたのですが――父に耳打ちしました。父は、低く頭を下げると、やきもきしながら、私たちにも、お辞儀をするように、合図しました。ソルティーニにそれまで見覚えがなくとも、父は、昔から、ソルティーニを消防問題の専門家として尊敬していましたし、家にいても、よくソルティーニのことを話題にしていました。それで、今、現に、ソルティーニに会ったということは、私たちにとって、はなはだ意想外な事件であるとともに、また、はなはだ重要な事件でもあったのです。しかし、ソルティーニのほうは、私たちのことを意に介してもいませんでした――それは、なにもソルティーニだけの癖ではなくて、大抵の役人が、公衆のまえでは、いかにも無関心らしい様子をしているのです――。それに、ソルティーニは、疲れていて、ただ職責上、止《や》むなくこの村に踏み止《とど》まっていたにすぎなかったのです。でも、このような城を代表する職務を特に重荷と感じているからといって、それが必ずしも最も質《たち》の悪い役人だとは限りませんわ。ほかの役人や従僕たちは、ひとたび郷に入ったからにはと言う訳で、村人たちのなかに混じっていましたが、しかし、ソルティーニは、消火ポンプのそばを離れないで、なにか嘆願をしたり、お世辞を言ったりするために、ソルティーニに近づこうとしている者たちを、すべて、沈黙によって、追い払っていました。そんなことから、あの人は、私たちがあの人に気づいたよりもずっと遅れて、私たちに気づいたのでした。私たちが恭しくお辞儀をし、父が私たちの失礼を詫びようとしたときに、やっと、あの人は、私たちのほうへ眼をくれて、順番に、ひとりずつ、いかにも気怠《けだる》そうに、見渡して行きました。ひとりが済むと、また次にひとりが控えているのにげんなりして、溜《た》め息をでも洩らしそうな様子でしたが、そのうちに、アマーリアのところで、ぴたりと眼が止まりました。と言っても、アマーリアのほうがはるかに背が高かったので、あの人は、アマーリアを見上げねばなりませんでした。あの人は、その途端、はっと飛び上がって驚き、アマーリアを間近に見るために、ポンプの梶棒を飛び越えました。私たちは、最初、それを誤解して、父を先頭に、みんな揃って、あの人に近づいて行こうとしました。ところが、あの人は、片手を挙げて、私たちを制止して、それから私たちに、立ち去るように、合図をしました。ただそれだけのことですの。それから、私たちは、これで本当にお婿さんが見つかったのね、と言って、さんざんにアマーリアを冷やかしました。そして、私たちは、なんの分別もないままに、その日の午後じゅう、はしゃぎきっていました。でも、当のアマーリアは、平生よりも無口になっていました。『この子は、ソルティーニにぞっこんまいってしまったのさ』と、ブルンスヴィックは、言いました。ブルンスヴィックは、いつもは、かなりやぼで、アマーリアのような性質の人間にたいしては全く理解がない人ですが、このときばかりは、彼の見解が、私たちにも、ほとんど図星に近いように思われました。私たちは、総じて、その日は、常軌を逸していたのでしょう。真夜中過ぎて、家へ帰ったときは、アマーリアのほかは、みんな、城からの甘美な振る舞い酒に酔い痴《し》れていましたもの」
「それで、ソルティーニのほうは」と、Kは尋ねた。「そう、ソルティーニね」と、オルガは言った、「その祝典の続いているあいだに、私は、さらに何度も、通りすがりに、ソルティーニの姿を見受けました。あの人は、梶俸に腰を掛けて、腕組みをしたまま、迎えの城の馬車が来るまで、いつまでもその姿勢を崩さずにいました。消防演習を見にさえも行きませんでした。父は、そのときの演習では、ほかでもなく、ソルティーニが見物してくれるものとばかり期待していたのでしょう、同年輩の男衆と比べて抜群の働きをしましたのに」「すると、もうその後は、彼の消息をお聞きになってないのですか」と、Kは尋ねた、「それにしても、あなたは、ソルティーニを大いに尊敬していらっしゃるようですね」
「ええ、尊敬と言われれば」と、オルガは答えた、「そりゃ尊敬してますわ。ところで、あの人の消息は、まだほかにも知っているのです。翌朝のことです。私たちは、酔いに任せて眠りこけていましたところ、アマーリアの叫び声で、起こされました。ほかの者たちは、すぐにまたそのまま、ベッドに仰《あおの》けざまになって、寝てしまいましたが、私は、しかし、すっかり目が覚めてしまって、アマーリアのところへ駆けつけました。アマーリアは、窓際で、一通の手紙を手にしたまま、立っています。その手紙は、たった今、ひとりの男が、窓越しに、あの子に手渡したばかりのもので、その男は、まだ返事を待ち受けていたのです。アマーリアは、その手紙を――短い文面でしたし――すでに読み終えて、だらりと力なく垂れた手のなかに持っていました。このように疲れ切ったときのあの子を見ると、私は、いつも、愛《いとお》しくてたまらなくなるのですの。私は、あの子のわきへ跪《ひざまず》いて、そのまま文面を読み流しました。私が読み終わるや否や、アマーリアは、私にちらと一瞥《いちべつ》をくれてから、再び手紙を取り上げましたが、しかし、もうそれを読み返す気にはなれないらしく、手紙をずたずたに引き裂くと、その紙切れを窓外の男の顔に投げつけて、ぴしゃりと窓を閉めてしまいました。これが、あの運命の分かれ目の朝だったのです。私は、この朝を運命の分かれ目と呼んではいますが、しかし、前日の午後の各瞬間瞬間が、いずれも、同じように、運命の分かれ目だったんですわ」
「ところで、その手紙にはなんと書いてあったのです」と、Kは尋ねた。「そう、そのことは、まだお話ししませんでしたわね」と、オルガは言った、「その手紙は、差出人がソルティーニで、宛名が、柘榴《ざくろ》石の首飾りをした娘さんへ、と書かれていました。その内容を、今ここで、私から、原文のままお伝えする訳にはゆきませんが。とにかく、貴紳閣にいるので、やって来い、という一種の招請状でしたの。しかも、自分は、半時すれば、帰城せねばならぬので、あなたには即刻来てもらいたい、とのことです。文面は、ひどくえげつない言葉遣いで、認《したた》められていまして、そんな言葉遣いなど、私は、ついぞ耳にしたことさえありませんでしたので、ただ前後の脈絡から、その意味を半ば推量するしかなかったくらいですもの。アマーリアと識《し》り合いでもない人が、この手紙だけを読んだら、男からこんな手紙まで貰うような娘は、たとい全くのおぼこ娘であったとしても、自堕落な女だと、さぞかし思うに違いありませんわ。それに、これは、いわゆる恋文ではけっしてないのです。女を嬉しがらせるような甘い言葉なんか、どこにも見当たらないんです。むしろ、ソルティーニは、アマーリアの姿に心を奪われて、仕事ができなくなってしまったので、明らかに、向かっ腹を立てていたに違いありませんわ。私たちは、後ほど、この件を私たちなりに次のように解釈しましたの。つまり、ソルティーニは、たぶん、すぐその晩に、城へ引き揚げる心算《つもり》だったに違いない、ところが、アマーリアのことがあったばかりに、村に残ることにした、ところが、夜更けになっても、アマーリアのことがきれいさっぱりと忘れられないことに、すっかり腹を立て、朝になるのを待ちかねて、あの手紙を書いたのだろう、とね。だれでも、どんなに冷血な女でも、こんな手紙に接したら、最初は、かっと来るに違いありません。しかも、アマーリア以外の女でしたら、たぶん、そのうちに、文面の意地悪い、威嚇《いかく》的な調子にたいする不安のほうが、ますます昂《こう》じて、憤慨どころではなくなってしまうでしょう。ところが、アマーリアの場合は、最初からずっと、憤慨したままなのです。あの子は、自分の身に関しても、他人の身に関しても、不安というものを知らないのですからね。それから、私は、再びベッドのなかにもぐり込んで、残った切れ端の結びの文句『従って、即刻あなたには来てもらいたい、さもないと――』をひとり読み返していました。そのあいだ、アマーリアのほうは、窓辺の長椅子にずっと腰を掛けたまま、窓外を見詰めていました。どうやらさらに次々と使者が来ることを予期して、来た使者を、片っ端から、最初の使者と同じようにあしらってやろうという心構えをしているかのように、見受けられました」
「役人なんてものは、つまり、そういう手合いなんですよ」と、Kは、歯切れが悪く言った、「彼らのなかには、そういう見本が、いくらでも見つかりますよ。それで、お父さんは、そのとき、どうなさいましたか。僕の見込みだと、お父さんは、貴紳閣へ乗り込むという、むしろ、手近で確実な方法をお選びにならなかったにしても、然《しか》るべき筋にソルティーニについての苦情を強硬に申し入れるくらいのことはなさったでしょうな。この一件の最も不愉快きわまる点は、アマーリアにたいする侮辱ではないんですよ。それしきの侮辱なら、たやすく償いも付けられるはずです。だのに、あなたがどうしてそのことばかりをそれほどまでに途方もなく重視しておられるのか、僕には、さっぱり訳が分からないのです。そんな一本の手紙ぐらいで、どうしてソルティーニがアマーリアを永久に晒《さら》し者にしてしまったことになるのか。あなたのお話を承った者のなかには、あるいは、その点を鵜呑《うの》みに信じる人もいるかしれません。しかし、それこそ、実は、考えられないことです。なんとかアマーリアの得心ゆくようにすることぐらいは、いともたやすいことですし、そうすれば、この事件は、ほんの数日で、忘れられてしまったはずだからです。ソルティーニが晒し者にしたのは、アマーリアではなくて、彼自身だったのです。それゆえ、僕が、ソルティーニにたいして恐れたじろぐのは、ほかでもなく、このような権力濫用が存在するという可能性にたいして怖気《おぞけ》をふるうからです。この場合は、ずけずけとはっきり手紙に書いてまで言って寄越したために、腹の底がすっかり見え透いて、しかも相手が、アマーリアという、手強い敵だったので、失敗に終わったからいいようなものの、それは、千に一もないくらいで、ほかの場合なら、たとい今よりすこし条件のよくない場合であっても、完全に成功して、だれの眼にも止まらずに、犯された当人の眼にさえもつかずに、済んでしまいかねないのです」
「お静かに」と、オルガは言った、「アマーリアがこちらを見てますわ」
アマーリアは、すでに両親に食事を食べさせ終わっていて、今は、母親の服を脱がせにかかっていた。ちょうど母親のスカートの紐《ひも》を解いてやったところで、彼女は、母親の両腕を自分の首のまわりに掛けさせると、母親をすこしばかり持ち上げて、スカートを剥《は》ぎ取ってから、やさしく母親を元どおりにすわらせてやっていた。父親のほうは、いつも母親が先に世話してもらうのが不満で――しかし、そうなったのも、母親のほうが父親よりもはるかに危なっかしいからにすぎないことは、だれの目にも明らかだった――、あるいは、娘がわざとぐずぐずしているものと勘違いしての、娘への面当《つらあ》ての心算もあったかもしれないが、自分で勝手に服を脱ごうとしていた。しかし、どんなに不必要で簡単なことからしはじめても、両足がただぐさぐさに突っかけているにすぎない、ばかでかいスリッパでさえ、一向に脱げそうになかった。父親は、喉《のど》がぜいぜい鳴って来て、間もなく諦《あきら》めざるを得なくなり、またしてもしゃちほこ張ったからだを椅子にもたせかけた。
「あなたは、決定的な点にお気づきじゃないのよ」と、オルガは言った、「何事も、確かに、あなたのおっしゃるとおりかもしれません。でも、決定的な点は、アマーリアが貴紳閣へ出掛けなかったことですわ。あの子がその使者をどのように扱ったにしても、そのこと自体だけなら、そのまま不問に付されたかもしれませんし、でなくとも、揉《も》み消せていたかもしれません。ところが、あの子が出向かなかったことで、私たち一家のうえに、呪いが浴びせられたのです。そうなると、むろん、あの使者の扱い方だって、容赦してもらえないことになってしまいました。いや、それどころか、世間にたいして、こちらのほうが表沙汰にされてしまったのですもの」「なんですって」と、Kは、叫んだが、オルガが頼むように、両手を上げたので、すぐに声を落として、「まさか、お姉さんのあなたが、アマーリアはソルティーニの言葉に従って、貴紳閣へ駆けつけるべきであったなんて、おっしゃる心算ではないでしょうね」「もちろんですとも」と、オルガは言った、「そのような邪推こそ、真っ平御免を蒙《こうむ》りたいわ。どうしてそんなことがお考えになれるの。私の知っている人たちのなかで、何事をするにも、アマーリアほどにきちんと折り目正しい者は、ほかにいませんのよ。よしんばあの子が貴紳閣へ赴いていたとしても、私は、むろん、あの子の行いを、やはり同じように、是認していたことでしょう。でも、あの子は、行かなかった。実にけなげと言うほかはありませんわ。この私でしたら、あなたには包まずに白状いたしますが、あのような手紙を受け取ったら、きっと出掛けて行ったことでしょう。次に来たるべき事態を思うと、とても空恐ろしくて、耐えきれないからです。ところが、アマーリアだけは、そうした事態にも耐えることができたのです。元より、いろいろな逃げ道があるにはありました。例えば、ほかの女性でしたら、とても美しく身を飾り立てて、それでわざとしばらく時を稼いでから、貴紳閣へ乗り込み、ソルティーニはもう帰っていない、と聞かされて、引き返すという手を使うかもしれません。あるいは、貴紳閣で、ソルティーニは使者を遣《つか》わしてからすぐに発《た》った、と聞かされるかもしれませんわ。これだって、大いにありそうなことなんです。だって、城の殿方たちの気分は、猫の目のように変わりやすいんですもの。ところが、アマーリアは、そんな手も、それに似た手も、使いませんでした。あの子は、とてもひどい侮辱を受けたので、けんもほろろに拒絶した訳です。もしもあの子が、なんとかして上辺《うわべ》だけでも、相手の意に従ったように見せかけて、あのとき、貴紳閣の敷居なりとも跨《また》いでさえいてくれたら、私たちは、こうした非運にも見舞われずに済んでいたでしょう。当地には、非常に腕利きの弁護士が、幾たりか、いましてね。この弁護士たちは、どんなに無に等しいような些細《ささい》なことがらでも、依頼者が望みさえすれば、なんなりと、一切を捏《でっ》ち上げる術《すべ》を心得ているんですの。ところが、アマーリアの場合には、この好都合な無のようなものすらなかったんですわ。それどころか、反対に、ソルティーニの手紙にたいする冒涜と使者にたいする侮辱が、厳然たる事実として、まだ生きていたのですからね」「それにしても、一体」と、Kは言った、「どうして非運だの、弁護士だのと、大仰《おおぎょう》なことをお考えになるのでしょう。ソルティーニのほうが犯罪的な行状をやらかしているのに、その廉《かど》で、アマーリアを告発することも、いや、処罰することさえも、できるはずがないではありませんか」
「ところが」と、オルガは言った、「それができたんですわ。むろん、正規の審判を経てのことでもありませんし、またアマーリアを直接に処罰した訳でもありませんが、確かに、別の方法で処罰したのです。しかも、アマーリアだけでなく、私たち、家族全員をね。その罰がどんなに重いものかは、たぶん、あなたも、もうお分かりになりかけていることでしょう。あなたは、定めし、筋違いの法外なことのように、お思いでしょうが、それは、村では完全に孤立した一個の意見にすぎません。でも、それだけに、私たちは、そのあなたの御意見がとてもありがたくて、できれば、それで心を慰めたいくらいですわ。ところが、だめなの。だって、それは、あなたの御意見が思い違いに基づいているのが、明白でないときのことですもの。この点なら、難なく立証して差し上げられますわ。でも、その際に、フリーダのことに触れても、御免なさいね。実は、フリーダとクラムのあいだでも――最後の事態を度外視すれば――、アマーリアとソルティーニとのあいだと、全く似たようなことが起こっているからなの。それに、あなたにしても、最初のうちこそ、びっくりされたかもしれませんが、今ではもう、当然の成り行きと思っておいででしょうしね。これは、慣れと言うものではありません。いくら単純明快な判断が肝要だと言っても、慣れによって、そうまで頭が鈍化するはずがありませんもの。それは、ただ思い違いを脱却されただけのことですわ」
「止《よ》してくださいよ、オルガ」と、Kは言った、「あなたがどうしてフリーダをこの問題に引っ張り込むのか、僕には解《げ》せませんね。だって、事情が全く違っているじゃありませんか。そのように根本的に違っているものをごった交ぜにしないで、話を進めてくださいよ」
「どうか」と、オルガは言った、「私が双方の比較に固執したとて、悪くお取りにならないでくださいな。もしも、あなたが、フリーダを比較の種にされぬように弁護してやらねばならぬと、お思い込みになっているのでしたら、それこそ、やはり、フリーダに関してもまだ、思い違いが残っている証拠ですわ。フリーダには、弁護せねばならぬような弱みなんかすこしもありません。褒めねばならないところばかりです。私が双方の場合を比較しましても、双方の場合が同じだと言うのじゃないんですの。双方を対比しますと、白と黒とのようなものなんです。そして、フリーダが白です。フリーダのほうは、最悪の場合でも、私が不作法にも――後になって、私は、それをひどく後悔しましたが――あの酒場でしましたように、嘲笑《あざわら》われるだけですわ。もっとも、この場合、笑う当人のほうが、確かに、意地悪か、焼き餅焼きなんですけれども、とにかく、物笑いになるだけで事が済みます。ところが、アマーリアのほうは、あの子と血で繋《つな》がっていない者からは、軽蔑を買うばかりですの。そんな訳で、あなたもおっしゃるように、双方の場合は、いかにも根本的に違ってはいるのですが、それでもやはり、似通っていますわ」
「なにも似てなんかいませんよ」と、Kは、不快そうに頭《かぶり》を振った、「フリーダのことは、持ち出さないでください。フリーダは、アマーリアがソルティーニから受け取ったような、あんな汚らわしい手紙なんか貰ったことがありませんのでね。フリーダは、本当に、クラムを愛してきたんです。それが信じられない人は、フリーダに質《ただ》してくれたっていい。今でも、クラムを愛しているくらいですから」
「でも、それが大きな違いになるでしょうか」と、オルガは尋ねた、「あなたは、クラムならフリーダにあんなふうな手紙を書くはずがないと、本当にお信じになってらっしゃるの。城の殿方たちは、事務机から離れて立ち上がると、いつもああなんですわ。世の中の勝手が分からないものですから、放心状態のうちに、とても下品なことを口走るんです。皆が皆ではありませんが、多くの方がそうなんですの。アマーリアヘ寄越した手紙だって、実は、夢中で、本当になにを書いているかをさえも全く注意せずに、紙に走り書きしたものかもしれませんわ。城の殿方たちの考えることは、私たち、下々《しもじも》にはとても分かりっこありませんもの。あなたは、クラムがフリーダとどんな調子で付き合っていたかを、直接あるいは人|伝《づて》にでも、お聞きになったことがありますか。クラムについては、非常に粗野な人だという評判です。何時間も、押し黙っているかと思うと、急に、相手がぞっとするような下品なことを口走るとのことですよ。ソルティーニについては、そういう評判は、立っていません。そもそもからして、非常に未知数の人ですからね。実のところ、ソルティーニについて知られていることと言えば、その名がソルディーニの名に似ているという点くらいのものですわ。この名の類似ということがなかったら、たぶん、だれも、あの人を知らなかったでしょう。消防の専門家という名声も、もしかすると、あの人とソルディーニを取り違えてのことかもしれません。そして、その道の真の専門家であるソルディーニのほうが、自分との名前の類似を巧みに利用して、特にあの城の代表という職責をソルティーニに転嫁し、自分は涼しい顔して静かに仕事に専念していたかもしれないのです。
ところで、ソルティーニのように世慣れない男性が、急に、村娘への愛に現《うつつ》をぬかすようになりますと、そこいらの指物《さしもの》屋の雇い人が惚れ込む場合とは、おのずから、表立って取る形も違ってくる訳です。それに、役人と靴屋の娘とのあいだには、なんと言っても、大きな隔たりがあって、その隔たりになんとかして橋を架けねばならないということも、やはり、考慮に入れねばなりませんしね。ソルティーニは、ああしたやり方で橋を架けようと試みたのですが、ほかの人でしたら、また別のやり方をするかもしれません。なるほど、世間ではよく、私たちは、みんなひとしく、城に属しているのだから、なんの隔たりもないはずだし、橋を架ける必要なんか、さらさらない、ということが言われていますし、普通の場合は、あるいは、それでいいのかもしれませんが、しかし、私たちは、残念ながら、たまたま肝心な折になって、けっしてそうはいかないことを、見せつけられたときがあるんですの。いずれにしましても、こうして一部始終を申しあげてまいりますと、あなたにも、ソルティーニの行状が、一層よくお分かりになってきて、あまりくどくはお感じにならなくなったでしょう。事実また、ソルティーニの行状は、クラムのそれに比較しますと、はるかに分かりやすく、それに深く係わり合っている者でも、はるかに我慢しやすいんですの。でも、クラムが優しい手紙を書いたら、それこそ、ソルティーニのどんな下品な手紙よりも、遣《や》り切れませんわ。
こう申しても、私の真意を誤解なさらないでくださいな。私は、クラムを批判するなんて、そんな大それた考えを起こしているのではありません。ただ、比較しているだけのことです。あなたがしきりと比較に抵抗なさいますのでね。クラムは、なんと言っても、女性たちを指揮する司令官のような存在ですわ。自分のところへ来るように、あの女に命令したかと思うと、また、この女に命令したりして、しかも、ひとりの女に長くは辛抱し切れずに、来いと命令したのと同じ調子で、また、帰れとも命令するんですもの。ああ、クラムほどの人物なら、先ず一通の手紙を書くくらいの労は、惜しまないほうがよかったでしょうに。ところで、こうしたことと比較してみますと、すっかり奥に引き籠《こ》もった生活をしていて、女性関係がすくなくとも世間で取り沙汰されていないソルティーニが、一度くらいは机に向かい、手ずから、役人独特の美しい書体で、むろん、内容は嫌らしいにせよ、一通の恋文を認めたとて、それが、今なお、だいそれた行為だと言えるでしょうか。とすると、この場合、両者の相違がクラムの有利という結果を生んだのではなくて、全くその逆だとすれば、フリーダの愛がそうした相違を誘発したことになるのでしょうか。城の役人たちにたいする女性たちの関係は、確かに、非常に判断するのが難しいのです。と言うよりか、むしろ、どのようなときでも、非常に判断するのが易しいのです。この場合、愛憎の欠如なんてことは、けっしてありません。役人に失恋などはないのです。この点から見ますと、ある娘さんを指して――私は、ここで、断っておきますが、フリーダのことだけを申しているのではけっしてありません――、あの娘《こ》は、あの役人を愛したからこそ、相手に身を任せたのだ、と言いましても、それは、なにも賛辞にはなりません。その娘は、役人を愛して、その役人に身を任せた。それだけのことですもの。別にどこと言って誉めるところなんかありませんわ。
だが、アマーリアのほうは、ソルティーニを愛してなかったじゃないか、と、あなたは、きっと、異議をお申し立てになるでしょう。それはまあ、そのとおりで、あの子は、ソルティーニを愛していなかったかしれません。でも、もしかすると、あれでも、愛していたかしれないのです。それは、だれも決められないことではないでしょうか。あの子自身だって、どちらとも、決めかねるでしょう。そうよ、あの子が、役人で、あんな肘《ひじ》鉄砲の食い方をしたのは、前代未聞ではないかと思われるほどに、強《したた》かソルティーニに肘鉄砲を食らわせたにしても、なにを手掛かりに、ソルティーニを愛してなかったと、信じきれるのでしょう。バルナバスの話では、あの子は、三年まえに窓を閉めたときの興奮の名残で、まだ今でも、時折、身震いしているとのことです。言われてみると、やはり、本当なの。それで、だれもがあの子に問い質すことを控えているんですわ。あの子は、ソルティーニを振りはしましたが、それ以上のことはなにも知りません。自分がソルティーニを愛しているのか、いないのかと言うことさえも、知らないでいるのです。でも、私たちには、分かっているのです、女性というものは、一旦、役人に注目されたが最後、その役人を愛さずにはいられなくなるということがね。そうなの、当人は、どんなに否定しようとしても、もうそのまえから相手の役人を愛してしまっている訳よ。それに、ソルティーニは、アマーリアに注目しただけじゃなくて、アマーリアを見た途端、あの梶棒を越えたくらいですもの。机仕事のために筋肉のこわばった脚で、梶棒を越えたんですわ。だが、アマーリアは、例外なんだ、と、あなたは、おっしゃるかもしれません。確かに、あの子は、そうなんです。ソルティーニのころへ行くことを拒んだときに、それを立証して見せました。それだけでも結構、例外ですわ。それなのに、さらにそのうえに、あの子がソルティーニを愛してなんかいなかったはずだとまで、決め込んでしまいますと、もう余計な例外に食傷気味になって、どうにも訳が分からなくなってしまいます。私たちは、確かに、あの日の午後は、全く上の空で、明き盲《めくら》も同然でしたけれど、それでも、あのとき、朦朧《もうろう》としながらも、アマーリアが一目惚れした気配に気づいたと思ったのは、なんと言っても、まだ多少なりと正気の残っていた証拠ですわ。ところで、以上の事柄を突き合わせてみますと、フリーダとアマーリアとのあいだに、一体、どんな違いが残るでしょうか。ただひとつ、アマーリアが拒んだことを、フリーダのほうは、実行したという、違いだけではありませんか」
「そうかもしれません」と、Kは言った、「しかし、僕にとって主要な相違となるのは、フリーダが僕の許嫁《いいなずけ》であるにひきかえて、アマーリアのほうは、実のところ、城の使者であるバルナバスの妹であり、彼女の運命の糸も、もしかすると、バルナバスの勤めという紐《ひも》のなかに綯《な》い交ぜにされているかもしれないという限りにおいて、僕の気がかりとなるにすぎないという点なのです。もしも一役人が、僕があなたのお話を聞いて最初に思ったような、そんなひどい不埒《ふらち》を、本当に、彼女に働いていたのでしたら、僕だって、捨ててはおけないで、この問題に熱心に取り組んでいたことでしょう。と言っても、やはり、アマーリアの個人的な苦痛としてではなくて、むしろ、公的な事件として、扱う訳です。ところが、こうしてお話を伺ってしまいますと、しだいに、僕が心に描いていた様相も、変わっていくようです。どのように変わっていくのか、僕自身にもはっきりとは理解しかねるのですが、そこは、話してくださる相手があなたですから、十分に信用できますし、問わないことにします。それで、僕は、この件を、もうこの辺で、放棄してしまいたいと思います。僕は、消防士でもありませんし、ソルティーニなんか、僕にはなんの係わりもありませんのでね。だが、フリーダのこととなると、僕には大いに係わりがあります。ところで、僕は、あなたをすっかり信頼しきっていますし、今後もずっと信頼してゆきたいと思っていますが、そのあなたが、どうしてアマーリアを出しにして遠回しに絶えずフリーダを攻撃し、僕にあれへの猜疑《さいぎ》心を植え付けようとなさるのか、どうも僕には奇妙でならないのです。僕は、あなたが故意に、ましてや、悪意をもって、そうなさっているとは、思っておりません。でなければ、いくら僕だって、とっくにおさらばせずにはいられなかったでしょう。故意になさっているのではなくて、さまざまな事情につい惑わされてのことに違いありません。察するに、あなたは、アマーリアヘの愛情から、アマーリアを、世のあらゆる女性よりも、ずっと高いところへ、祭り上げたいのでしょう。ところが、アマーリア自身のなかに、こうした目的に適《かな》うだけの美徳が見つからないので、窮余の一策として、ほかの女たちを貶《けな》しているのでしょう。アマーリアの行為は、いかにも一風変わってはいます。ですが、あなたがその行為についてお話しになればなるほど、その行為が偉大であったのか、それとも、卑屈であったのか、賢明だったのか、それとも、愚かだったのか、勇敢だったのか、それとも、臆病だったのか、ますます決められなくなってしまいます。アマーリアは、その行為の動機をば自分の胸中深くに秘めたままですので、だれも彼女からそれをもぎ取る訳にはゆかないでしょう。それにひきかえ、フリーダは、なにひとつ風変わりなことをしていません。ただ自分の心の声に従ったまでです。好意をもって彼女の行為を考察する人でありさえすれば、彼女の行為は、一目瞭然のはずですし、また、だれだって、その裏付け調査することもできます。陰口を挟まれる余地なんか、どこにもないのです。と言っても、僕は、アマーリアを貶《けな》す心算《つもり》もなければ、フリーダを弁護する心算《つもり》もありません。ただ、僕とフリーダとはどのような間柄であるかということを、そして、フリーダにたいするいかなる攻撃もどうしてそのまま僕自身の存在にたいする攻撃になるかということを、あなたに説明しておきたいだけなのです。僕は、自ら進んで、当地へやって来て、自ら進んで、当地に根を下ろすことにしましたが、それ以来のすべての出来事はもとより、わけても、僕の将来への見通しは――たといどれほど暗澹《あんたん》たるものであろうと、とにかく、見通しが立つには立っているのでして――すべて、フリーダのお陰にほかなりません。これは、だれも論駁《ろんばく》できないことです。僕は、当地で、測量師として採用こそされましたが、それは、体裁だけにすぎません。僕は、玩具《おもちゃ》にされどおしで、行く家々からは追い出されてきました。そして、きょうになっても、玩具にされているのです。でも、事態のほうは、はるかに込み入ったものになってきています。僕が、これでも、嵩《かさ》が大きくなったとでも申しましょうか。すでに、これだけでも、一廉《ひとかど》です。僕は、どれもこれもささやかなものではありますが、すでに、一家を構え、勤め口を持ち、現業に従事しています。それに、僕には、許嫁がいて、僕がほかの用務で追われているときは、僕に代わって、僕の本職の仕事のほうを引き受けてくれます。僕は、いずれ、彼女と結婚して、ここの村民になる予定です。それにまた、クラムにたいしても、公的な関係のほかに、これまでのところは、むろん、十分に活用してはいませんが、個人的な関係を持っています。これだけでも、やはり、相当なものではないでしょうか。ところで、僕があなたたちのお家《うち》へまいりましたとき、あなたたちは、挨拶して迎えてくださいますが、だれに向かって挨拶なさっているのでしょう。あなたは、御家庭の出来事を親しく打ち明けてくださいますが、だれに向かって打ち明けておられるのでしょう。あなたは、なんらかの力添えが得られるものと、その可能性を期待してくださいますが、それがどんなに爪の垢《あか》ほどの望み薄な可能性にすぎなくとも、だれから期待なさっているのでしょう。まさか、例えば、つい一週間まえに、ラーゼマンとブルンスヴィックによって、力ずくで、彼らの家からおっ放《ぽ》り出されたような、あの測量師の僕から、期待されているのではないでしょう。やはり、あなたは、すでになんらかの権力行使を心得ている男としての僕から、期待されているのだと、思います。ところで、かような権力行使が僕にできるようになったのも、ひとえにフリーダのお陰なのです。フリーダは、根がとても慎《つつま》しい女なので、あなたがそのようなことを彼女に問い質そうとなさっても、きっと、それには白《しら》をきるでしょう。しかし、以上のことから推しても、生まれながらに無邪気なフリーダのほうが、生まれながらにひどく高慢なアマーリアよりも、多大な働きをしていることは、明らかだと思いますね。だって、いいですか、僕は、あなたがアマーリアのために助力を求めていられるという印象をさえも、受けているからですよ。では、だれに求めていられるのでしょう。やはり、正直なところ、ほかでもない、フリーダに求めていられるじゃありませんか」
「私は、本当に、フリーダのことをそんなに悪《あ》しざまに申したのでしょうか」と、オルガは言った、「そんな心算は毛頭ありませんでしたし、それほど悪態をついたとは、自分でも信じられませんけれど、やはり、考えられないことでもありませんわ。私たちの立場と言うのが、世間の人たちとはすっかり絶縁のような状態でしてね。私たちは、一旦、愚痴を溢《こぼ》し出したら最後、もう止め処《ど》なくなって、行き着くところを知らないくらいですもの。確かに、あなたのおっしゃるとおりで、今の私たちとフリーダとのあいだには、雲泥の相違がありますし、その相違を一度はっきりと浮き彫りにしておくことも、有益かもしれませんわ。三年前、私たち姉妹は、ちゃんとした村民の娘でしたが、フリーダは、孤児で、橋亭の女中でした。私たちは、彼女のそばを通り過ぎても、彼女には眼もくれませんでした。確かに、私たちは、高慢すぎたかもしれませんが、でも、そのように育てられて来たのです。しかし、貴紳閣でのあの一晩で、あなたは、現在の立場をすでにお見究めになっていたかもしれません。あのとき、フリーダのほうは、鞭を手にしていましたし、私は、従者たちの群れに混じっていましたものね。ところが、事態は、もっともっと険悪なのです。フリーダは、私たちを軽蔑しているかもしれません。しかし、それも、彼女の地位からすれば、当然のことで、さまざまの実情が、そうせざるを得ないように、仕向けているんですわ。それにしても、私たちを軽蔑しない人が、ひとりでもいるでしょうか。私たちを軽蔑しようと決心しただけで、もうその人は、即座に、最上流社会に仲間入りできるんですもの。あなたは、フリーダの後釜を御存じでしょうか。ペピと言う名まえの娘よ。私は、一昨日の晩に、初めて知り合いましたの。それまでは、客室係の女中でした。私を軽蔑するという点では、この娘のほうが、確かに、フリーダより何枚も上手《うわて》よ。ペピは、ビールを買いに行く私の姿を窓から見ますと、ドアのところへ駆けて来て、内から錠を掛けてしまいました。私は、止むなく、長いあいだ、哀願しつづけて、髪に挿していたリボンをあげるからと、約束した揚げ句に、やっと開けてもらいました。ところが、私がリボンを渡してやりますと、あの娘は、それをぽいと隅っこへ投げ棄ててしまうんです。まあ、あの娘が私を軽蔑したいなら、好きなだけさせてやりますわ。私も、幾分かは、あの娘の好意に縋《すが》ってもいる訳ですし、それに、あの娘は、貴紳閣の酒場娘ですもの。と言っても、むろん、一時の間に合わせに使われているだけで、確かに、ペピには、あの酒場で永続的に勤めるために必要な特性が、具《そな》わっていません。それは、貴紳閣の亭主がペピとどんな口のきき方をしているか、ちらとでも小耳に挟まれて、フリーダを相手にしていたときの口のきき方と比較なされば分かると思うの。でも、ペピは、そんなことを蚊が刺したほどにも思わないで、アマーリアをさえも軽蔑しているんですわ。アマーリアに、一目、にらみ付けられただけでも、あの短い大根足を頼りにしていたのではとても覚束《おぼつか》ないと思われるほどの素早さで、あのお下げと蝶形結びのリボンもろとも、部屋から、全身を掻き消さずにはいられない小娘なのにね。私は、きのうも、いきり立ってアマーリアのことを散々にこきおろす、あの娘の悪たれ口を、耳にたこができるほど聞かされましたわ。そのうちに、お客さんたちが、見るに見かねて、私を引き取ってくれましたの。と言っても、むろん、あなたが、以前に一度、御覧になったようなやり方でね」
「あなたという人は、どうしてそんなに怖気《おじけ》づいているんです」と、Kは言った、「僕は、ただ、フリーダを彼女《あれ》にふさわしい地位に据え直してやっただけで、あなたが、今、お解《かい》しになっているように、あなたたちを扱《こ》きおろす心算《つもり》でなにも言ったのじゃありませんよ。あなたたち、御一家には、僕が見ても、なにか特異なところがありますし、そのことは、僕も、包まずに申してきたはずです。でも、その特異なところが軽蔑を受ける切っかけになるなんて、僕にはどうにも解《げ》せないことですよ」
「ああ、K」と、オルガは言った、「あなたもそのうちにはお分かりになるでしょうし、私、気が気でないの。ソルティーニにたいするアマーリアの態度がこうした軽蔑への最初の切っかけだったことが、あなたにはどうしてもお分かりにならないの」
「だって、とても変な話じゃありませんか」と、Kは言った、「それで、アマーリアに感心したり、あるいは、アマーリアを非難したりするのなら、分かりますが、軽蔑するなんて。それに、僕にはそうした感情が腑に落ちないのですが、仮に、なんらかの感情から、アマーリアを本当に軽蔑しているにしても、その軽蔑をどうして、あなたたち、罪のない家族にまでも及ぼさねばならないのでしょう。例えば、ペピがあなたを軽蔑するなんて、厚かましい次第ですよ。僕が、また貴紳閣へ行く折がありましたら、あの娘にその仕返しをしてやりましょう」
「ねえ、K、あなたが」と、オルガは言った、「私たちを軽蔑している連中全部を翻意させるお心算でしたら、それこそ、なかなかの難業よ。だって、万事は、城が出処《でどころ》なんですもの。私、今でもはっきりと、あの朝に引き続いての午前中のことを覚えてますわ。当時、家の下請け職人でしたブルンスヴィックが、例日と変わらずにやってまいりましたので、父は、仕事を分け与えてやって、彼を家へ帰らせました。それから、私たちは、朝食にかかりました。一同は、アマーリアや私をも含めて、とても陽気でした。父は、しきりと、祝典のことを話し続けていました。父には、消防団のことで、さまざまな計画があったのです。と申しますのは、城にも、専属の消防団がありまして、このたびの祝典にその代表団を派遣して来ており、その代表団とこちらの消防団とのあいだで、いろいろな論議が交されたのです。ところで、城から臨席しておられた殿方たちは、私たちの消防団のできばえを御覧になって、非常に好意的な意見を述べられ、私たちの消防団のできばえと城の消防団のできばえとを比較されることになりました。その結果は、私たちのほうに有利な判定が下されたのです。そこで、城の消防団の改組の必要が論じられるにいたりました。改組するとなると、村からどうしても指導員を送り込まねばならない訳で、その候補者が、数名、すでに問題になっていましたが、父も、やはり、自分も選に当たるだろうという希望を持っていました。それで、父は、その話をしていたのです。昔の父は、食事の際に、手足をのびのびと延ばすのが、得意な仕草で、そのときも、両腕でテーブルを半ば抱え込むようにして、すわっていました。開け放たれた窓から空を見上げた父の顔は、いかにも若々しく、希望に満ちていました。そのような父の面影は、それが見納めになってしまったのです。そのとき、アマーリアは、それまでについぞ見掛けたことのない、偉そうな顔付きをして、言いました。城の殿方たちのそのような談話をあまり信用してはいけない、あの方たちは、そのような機会には、相手の気に入りそうなことを言いたがるのが癖だけど、言ったことは、ほとんど意味がないか、あるいは、丸っきり意味がないのが、いつものことで、言った口のしたから、もうそれを永久に忘れてしまっているのよ、むろん、次の機会には、そうと分かっていながら、またしても、あの方たちのペテンに掛かるけれどもね、と。母は、そんなことを言うもんじゃないと、アマーリアを窘《たしな》めました。父は、ただ、彼女の世故《せこ》にたけたような、こましゃくれた口のきき方を、笑って聞き流しているだけでしたが、やがて、はっとしたように息をのんで、口を噤《つぐ》んだかと思うと、なにやら足りないものがあることに、今やっと、気づいたのか、しきりと捜し物をしているような様子でした。でも、足りないものなんか、あるはずがありません。そこで、父は、ブルンスヴィックがなにやら使者のことと引き裂いた手紙のことを話していたようだが、とひとり呟いてから、おまえたちは、それがだれに関することで、どんな事情のものか、多少なりとも知らないか、と私たちに尋ねました。私たちは、黙っていました。すると、当時、まだ小羊のように若かったバルナバスが、そのとき、なにやら、ひどくばかげたことだか、生意気なことだかを口走りました。それで、話題がほかのことに移ってしまって、その件は、忘れられてしまいましたの」
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アマーリアの罰
「ところが、それから間なしに、私たちは、もう四方八方から、手紙の件のことで、質問攻めに会いました。敵味方の区別なく、知人も、赤の他人も、次々と、大勢が押し掛けて来ました。でも、だれも長居はしませんでた。昵懇《じっこん》な朋輩ほど、ひどく急いで、別れを告げて去りました。平生はいつも勿体《もったい》ぶって悠長に構えているラーゼマンでさえも、入って来るなり、部屋の大きさだけを目測しに来たかのように、あたりを一渡り見回して、それで終わりでした。ラーゼマンが逃げ出すのを見ると、父は、ほかの人たちを置いてけぼりにして、そのあとを追い駆け、家の戸口のところまで行きましたものの、そこで諦《あきら》めてしまいました。まるで物|凄《すご》い鬼ごっこをでもしているような光景でした。ブルンスヴィックは、来る早々に、父に暇を貰いたいと申し出ました。一本立ちしたいので、と、ひどく明らさまに言いました。機を逃さずに巧みに捉《とら》える術《すべ》を心得ている、抜け目のない男です。お得意さんたちも、入れ代わり立ち代わり、やって来ては、父の物置き部屋で、修繕のために預けておいた自分の長靴を、捜し出しています。父は、最初のうちは、お得意さんたちの翻意を促そうと、一所懸命に努めていました――私たちも、みんな揃って、根《こん》限り、父に力添えしましたが――。
そのうちに、さすがの父も、匙《さじ》を投げてしまって、お客が捜すのを黙々と手伝うようになりました。注文帳が一行一行と棒消しされていき、お客が私どものところに預けておいた革類がそれぞれに戻されて、掛けになっていた代金も清算されました。万事、ほんのちょっとした諍《いさか》いさえもなしに、進みました。お客さんたちは、私たちとの関係を、素早く、しかも完全に、解消することに成功しさえしたら、それで満足でした。その場合、多少の損をしたとて、問題にしていませんでした。そしてついに、予期していたことではありましたが、消防団長のゼーマンが姿を見せました。今でもありありと、そのときの情景が、眼《ま》のあたりに見えるようですわ。ゼーマンは、からだ付きこそ大きくて、頑丈そうですが、しかし、やや背が丸く曲がっていて、肺を病み、いつも生真面目で、相好《そうごう》を崩すことすらできない人物なのです。それでも、父にはいつも感心していて、内々の話のときなどは、団長代理の地位をさえも父に約束していたくらいでした。そのゼーマンが、父と差し向かいに立っていました。消防団が父を罷免したので、辞令の返上を切に求めているということを、いよいよ父に伝えねばならない段なのです。たまたま、そのとき、私たちの家に来合わせていたお得意たちは、それぞれに、肝心の用件を中止して、ふたりのまわりに押しかけ、円陣を作りながら、ひしめき合っていました。ゼーマンは、物が言えないで、ただ、ひっきりなしに、父の肩を叩いているだけです。まるで自分の言わねばならぬ言葉がうまく見つからないので、その言葉を父から敲《たた》き出そうとしているかのような仕草です。そうしながらも、ゼーマンは、絶えず、笑い続けていました。笑うことによって、自分の気持ちはもとよりのこと、皆の気持ちをも、多少なりと、落ち着かせようとしていたのでしょう。ところが、ゼーマンは、相好を崩すことができませんし、その場の人たちも、いまだかつて、この人の笑い声を聞いたことがありませんので、それが、本当に、笑いであるとは、だれも気づかないのです。父のほうは、もうこの日のことで、とても疲労|困憊《こんぱい》し、絶望しきっていましたので、人への協力なんか、思いも寄りません。確かに、疲労困憊の揚げ句、今、なにが問題になっているのかを、思案することさえもできない様子なのです。
私たちも、みんな同じように、絶望してはいましたが、しかし、私たちのほうは、年も若かったので、それほどまでに完全に一家が瓦解したのだとは、どうしても信じきれずに、こうして多くの顧客が列をなして続いて来ているうちに、いずれは、止まれと命じて、すべてを是が非でもまた元どおりの状態に逆戻りさせてくれるような人も、ついに訪れてくれるだろうと、絶えず、思っていました。なにも訳の分からない私たちの眼には、ゼーマンこそ、それに打って付けの人物のように、映っていました。私たちは、固唾《かたず》を呑んで、そのひっきりない笑いが、ついに止まって、明快な言葉が口を衝《つ》いて出て来るのを、今や遅しと待っていました。一体、今の今まで笑うなんて、どこにそんな種があるのかしら。あるとすれば、やはり、私たちが受けた、このばかげた不当な仕打ちだけじゃないかしら。『団長さん、団長さん、いくらなんでも、もうこの辺で、皆に話してくださいな』と、心に念じながら、私たちは、ゼーマンに詰め寄って行きました。しかし、それも、奇妙なことに、幾度か、ゼーマンに旋回運動をさせる切っかけを与えたにすぎませんでした。そのうちに、ゼーマンは、やっと、口火を切りました。私たちの秘かな願いを叶《かな》えてくれるためではなくて、人々の励ましの声や怒号に応《こた》えるためではありましたが、とにかく、演説しはじめました。私たちは、あいかわらず、希望を繋《つな》いでいました。ゼーマンは、父を大いに賞賛することから始めて、父を消防団の誉れ、後進の追随しがたい模範、不可欠の一員と呼び、こうした方に退職されたら、消防団は、壊滅に瀕《ひん》するに違いない、とぶちました。すべて、美辞麗句ずくめでした。ここで、止《や》めていてさえくれたらよかったのです。でも、ゼーマンは、さらに演説を続けました。ところで、消防団が、それにもかかわらず、父に、むろん、暫定措置にすぎないが、辞職を懇請する決議をした以上、諸君も、消防団をそのような破目に追い込むにいたった理由の重大さを、篤《とく》と認識していただきたい。おそらく、昨日の祝典にしても、この人の目ざましい功績がなければ、とてもああまで成功を収めるにいたらなかったでしょう。ところが、ほかでもなく、その功績がお上《かみ》の注意をことのほか喚起してしまったのかもしれません。消防団は、今や、すっかり衆人環視の的となってしまいました。従って、今まで以上に、その清廉潔白に意を用いねばなりません。
ところが、その矢先に、使者の侮辱という事件が起きてしまったのです。そこで、消防団としては、ほかに打開策が見つからないために、このゼーマンが、そのことを口頭で伝えるという、厄介な役目を引き受けざるを得なくなった次第です。どうか、あなたも、もうこれ以上、小生を手古ずらせないでいただきたい。ゼーマンは、最後に、父に向かってそう言いました。とにかく、そこまで言い終えたのが、嬉しくてたまらない様子です。その自信からか、ゼーマンは、それまでの途方もなく慎重な態度をがらりと変えました。壁に掛かっていた辞令を指差すと、その指で、辞令を渡すように、合図しました。父は、うなずいて、それを取りに行きましたが、両の手が震えて、とても掛け釘から外すことができません。それで、私が椅子のうえに上がって、父に手を貸しました。そして、その瞬間から、万事が終わったのです。父は、辞令をもう額縁から取り出しもしないで、そっくりそのまま、ゼーマンに渡しました。それから、部屋の片隅へ行って、すわり込むと、そのまま身じろぎひとつしないで、もうだれとも口をききませんでした。そのため、私たちだけで、なんとかうまく、お得意さんたちと交渉せねばならなかったのです」
「ところで、この場合、あなたは、どのような点に城の影響があると、にらんでらっしゃるのですか」と、Kは尋ねた、「差し当たっては、まだ、城が干渉してきてないように見えますがね。あなたがこれまで話されたことは、ただ、村人たち特有の浅はかな心配性、隣人の不幸を喜ぶ気持ち、頼みにならない親交など、随所で目撃されることばかりです。それに、むろん、お父さんのほうにも――すくなくとも、僕の見受けたところでは――ある種の偏狭さがありますしね。だって、あんな辞令なんか、なんになるんです。お父さんの能力の確認書にすぎないじゃありませんか。とにかく、肝心の能力のほうは、お父さんも、渡さずに、ちゃんと保持しておかれた訳です。しかも、その能力のお陰で、お父さんが、消防団にとり不可欠の存在になっていたのでしたら、ますます愉快じゃありませんか。そんな辞令なんか、お父さんが、二言目を待たないで、団長の足許へ投げつけてやればよかったのです。そうしてやりさえしたら、団長は、この一件で、実に辛《つら》い思いをしたに違いないのです。ところで、僕にことのほか異様に思われるのは、あなたがアマーリアのことに一言も触れてないことです。すべては、アマーリアの所為《せい》で、起こったことなのに、当のアマーリアは、どうやら、目立たぬ奥のほうに静かに立って、一家の崩壊を見物していたようですね」「だめよ」と、オルガは言った、「だれをも非難しちゃいけないわ。だれだって、あのように振る舞うよりほかに仕方なかったんですもの。そうしたことからして、すでに、城の影響でしたの」
「そうよ、城の影響なの」と、いつのまにか、中庭から入って来ていたアマーリアが、繰り返し言った。両親は、とっくに床《とこ》についていた。「城の話をなさっておいでなの。あいかわらず、寄り添ってすわってらっしゃるのね。でも、K、あなたは、すぐにお帰りになる心算《つもり》じゃなかったの。もう、九時を回っていますのよ。一体、そんな話のどこがあなたに関《かか》わりあるんです。この地には、そのような話を食い物にして暮らしている人たちが、確かに、いるにはいますわ。その連中は、あなたたちが、今、ここですわっているように、寄り合ってすわっては、互いに、話を御馳走し合っているのですけれども、あなたは、この連中のひとりにはどうしても見えませんわ」
「いや、いや」と、Kは言った、「これでも、僕は、その連中のれっきとした仲間ですよ。それにひきかえ、こうした話をすこしも意に介さないで、ただ、ほかの人たちが気に病むのに任せて、澄ましているような連中は、僕に大して感銘も与えませんね」
「そりゃそうね」と、オルガは言った、「でも、人の興味というものは、とても多種多様ですからね。いつでしたか、ある若者の話を聞いたことがありますわ。その若者は、昼となく、夜となく、しきりと城のことを考え続けて、ほかのことは、一切、お構いなしでしたので、はたの者は、頭がどうかなりはすまいかと、気づかいましたの。だって、山上の城のほうにすっかり心を奪われっ放しでしたからね。ところが、その若者が思い詰めていたのは、実は、城のことではなくて、事務局で働いている皿洗い女の娘のことだということが、ついに分かったのです。そうなりますと、むろん、若者は、その娘を貰って、それからは、万事が、また元どおりに、うまくいったそうですわ」「そういう男なら、きっと、僕の気に入るでしょうね」と、Kは言った。「そんな人があなたのお気に召すなんて」と、アマーリアは言った、「眉唾《まゆつば》物ですわ。でも、もしかすると、その人の奥さんなら、お気に入るかもしれませんわ。それはとにかく、あなたたちは、どうぞ、お構いなく。私は、むろん、休みますし、明かりを消させていただきますが。これは、両親のためなんです。両親は、ああして、すぐにぐっすりと寝入りますが、文字どおりの熟睡は、物の一時間もすれば、おしまいで、それからは、どんなにちょっとした明かりにも目を覚ましますの。では、お休みなさい」と言ったかと思うと、本当に、真っ暗になった。アマーリアは、どこか、両親のベッドのそばの床《ゆか》のうえに、自分の寝床をしつらえているらしかった。
「アマーリアが話していた、あの若い男というのは、一体、だれなんです」と、Kは尋ねた。「存じませんわ」と、オルガは答えた、「もしかすると、ブルンスヴィックかもしれませんわ。どうもあの人にぴたりとは当て嵌《は》まらないような話ですけれど。あるいは、全く別人かもしれません。あの子の言うことを正確に理解するのは、生易しいことではありませんの。真面目に言っているのか、皮肉なのか、分からないときが、多いものですからね。大抵は、真面目なのですが、でも、それが皮肉に聞こえるんですわ」「そんな弁解は止《よ》してください」と、Kは言った、「それにしても、あなたは、どうしてそこまで、アマーリアにひどく左右されるようになったのです。すでにあの大きな不連に見舞われる以前からそうだったのですか。それとも、あれ以後のことですか。アマーリアには左右されたくないという気持ちを抱かれることは、皆無なのですか。ところで、そのような依存心には、なにか理にかなった根拠でもあるのですか。アマーリアは、末娘ですし、アマーリアのほうが、末娘として、聴従せねばならないはずです。しかも、罪の有無はともかくも、一家に不幸を齎《もた》らした当人ではありませんか。それなのに、そのことについて、日が改まるごとに、あなたたちのひとりひとりに改めて赦《ゆる》しをこうどころか、彼女は、皆よりも頭《ず》を高くして威張り、どうにかこうにか親切らしく両親の面倒を見るよりほかは、いかなることをも気にしません。アマーリア自身の言い分によりますと、いかなることの内情にも通じようとはしない訳です。しかも、やっとあなたたちと口をきくようなことがあると、そのときは、大抵は、真面目なのだが、しかし、皮肉に聞こえるなんて、どうかしていますよ。それしても、アマーリアは、あなたからは、時折、彼女の美しさを聞かされはしますが、あの美しさで、一家に君臨しているのですか。それはともかく、あなたたちは、三人とも、とてもよく似ていらっしゃるが、彼女とあなたたちふたりとの相違点を挙げるとなりますと、それは、彼女にとって、全く不利な話になりますよ。僕は、アマーリアに初めて会ったときからもう、あのどんよりした、かわいげのない眼付きを見て、肝を冷やしたくらいですからね。それに、彼女は、末っ子だというのに、外見からはすこしもそれを気取《けど》らさない。世間には、ほとんど老けないが、しかし、本当に若かったこともほとんどないような女たちがいますが、彼女は、そんな女たち特有の、年齢のない容貌をしています。あなたは、毎日のように、彼女を御覧になっていますので、彼女の表情の硬さにちっともお気づきじゃないのです。そんな訳で、僕は、ソルティーニの懸想《けそう》云々という話も、よく考えてみますと、あまり本気に受け取れないんですよ。もしかすると、ソルティーニは、ああいう手紙を出して、アマーリアを罰しようと思っただけで、呼ぶ心算《つもり》はなかったかもしれませんな」
「ソルティーニのことをとやかく申したくはありません」と、オルガは言った、「城の殿方たちともなりますと、相手の娘が世にもまれな美女であろうと、それとも、醜女《しこめ》であろうと、そんなことにお構いなく、なにをやらかすかしれませんのでね。でも、それを別にすれば、あなたは、アマーリアのことで完全に思い違いをしてらっしゃいます。申しておきますが、この私には、アマーリアのことであなたを特に味方に付けねばならない理由なんか、これっぽっちもないんですよ。それなのに、あなたを味方にしようとしているのは、ただあなたのためを思ってしているにすぎないんです。アマーリアは、ある意味では、私たちの不幸の原因でした。それは、確かです。そして、その不幸で最もひどい打撃を受けたのは、なんと言っても、父ですし、父は、もともと、あまり言葉を慎むことのできない性分でした。家ではなおさらのことでしたが、その父ですら、たといどんなに困った時期でも、アマーリアには、非難めいたことを一言も申しませんでしたわ。でも、それは、父がアマーリアの行動を是認したからではないんですの。ソルティーニを崇拝していました父が、どうしてあの子の行動を是認なんかできましょう。あの子の行動を理解することさえも、無理だったくらいですもの。父は、ソルティーニのためなら、自分の身はおろか、自分の持っているものすべてをも、喜んで犠牲に供したことでしょう。もちろん、当時の実状がああだったから、つまり、ソルティーニの怒りを買ったらしいから、そうするというのではなくてね。らしい、と申しましたのは、ソルティーニの消息を、私たちは、あれっきり、耳にしてないからですの。あれまで、ソルティーニは、奥に引き籠《こ》もっていましたが、あの時以後は、もうこの世には全然いないかのような感じでした。ところで、あのころのアマーリアをぜひあなたにお見せしたかったと思いますわ。私たち一同には、厳罰が下りはしないことが、分かっていました。ただ、だれもかれもが、私たちと手を切ってしまっただけなのです。ここの村人たちはもとより、城までもね。とにかく、村人たちが私たち一家と手を切ったのには、むろん、私たちも、気づきましたが、城のほうのことは、からっきし気づきもしませんでした。だって、それまで、城の配慮に与《あずか》った覚えなんか、一度もないんですもの。今更、態度を急変したとて、どうして私たちがそれに気づくことができましょう。とにかく、こうした安穏無事には、一番困りました。それに比べると、村人たちの絶交など、大して苦にもなりませんでしたわ。村人たちは、なんらかの確信に基づいてそうしていたのでもありませんし、また、私たちにたいして、心から含むところがあった訳でもないらしいからです。今日のような蔑視も、まだ全然なかった時分です。ただ、村人たちは、不安に駆られて、そうしてきただけで、今後の結着を待ち受けていたのでした。それに、あのころは、まだ案じるほどの困苦欠乏もありませんでした。貸しのある人たちは、みんな、私たちに支払ってくれてましたし、また商売も、決算するたびに、黒字になっていたのです。食料品で足りないものがあると、親類の者たちが秘かに融通してくれました。これくらいは、造作もないことだったのです。確か、収穫期に当たってもいたものですから。むろん、私たちは、田畑持ちでもありませんでしたし、手伝いとして雇ってくれるところもありませんでした。私たちは、生まれて初めて、言わば閑居の刑を申し渡されたようなものでした。それで、私たちは、七月と八月の暑さのなかを、窓を閉め切ったまま、家で額を合わせてすわっていました。何事も起こりませんでした。召喚もなければ、通達もありません。報告もなければ、訪問もありません。皆目、音沙汰無しです」
「ところで」と、Kは言った、「何事も起こらず、また、なんら厳罰を覚悟せずともよいというのでしたら、あなたたちは、一体、なにを怖れていたのです。どう考えてよいのやら、実に度しがたいですね、あなたたちは」
「どうあなたに御説明すればいいかしら」と、オルガは言った、「私たちは、なにも将来のことを怖れていた訳じゃないんです。すでに目下直面している事情のもとで苦しんでばかりいたくらいですもの。私たちは、その点で、罰を受けている最中だったんですわ。村の人らは、私たちが村人のところへ出掛けるようになり、父が仕事場を再開し、またアマーリアは、アマーリアで、とても美しい服の仕立て方を心得ていたものですから、と言っても、もちろん、とても上流の方たち向けのものばかりですが、再び注文に応じるようになる日を、ひたすら待ち受けていてくれました。村人たちだって、心の中では、今までしてきたことを、後悔していたのです。ある名門が突然に村八分にされますと、だれでも、そのために、なんらかの損害を蒙《こうむ》るものですわ。村人たちも、私たちと絶縁したときは、ただ自分たちの義務を果たしたものとばかり思い込んでいたのです。私たちだって、村人たちの立場にあったら、やはり、同じような道をたどったことでしょう。村人たちは、問題の所在を正確には知らなかったのです。ただ、使者が、紙切れを手掴《てづか》みにして、貴紳閣へ帰って行ったと言うことくらいのものでした。たまたま、フリーダが、使者の出て行くところと、それから帰って来るところを見かけて、使者と、二言か三言、言葉を交わし、そしてすぐに、自分の聞いたことを、言い触らしたのです。しかし、それだって、私たちにたいする敵意からしたのではなくて、あっさり義務として片づけただけのことです。ほかの人だって、だれでも、同じような場合には、それを義務と感じたことでしょう。ところで、村の人たちだって、私が前にも申しましたように、この一件がすっかりめでたく解決すれば、とてもありがたかったに違いありません。私たちが、ある日、出し抜けに出向いて行って、もうすっかり片づきましたとか、例えば、ただ誤解があっただけですけれども、そのうちにすっかり解けてしまいましたとか、あるいは、軽罪を犯したことは犯したのですが、もう償《つぐな》いの行為を済ませましたとか、あるいは――これだけでも、村人たちは得心してくれると思うのですが――城への私たちの手蔓《てづる》を頼って、事件の揉み消しに成功しましたとか、そのような吉報をでも届けてやっていましたら、村人たちは、間違いなしに、両腕を拡げて私たちを迎えてくれて、キスを浴びせてくれるやら、抱擁してくれるやらで、果ては、祝賀会まで催してくれていたでしょう。
私は、その種のことを、ほかの人の場合に、二、三度、経験していますわ。だけど、そのような吉報さえも必要なかったかもしれません。私たちが気ままに出掛けて行って、手を差し伸べ、縒《よ》りを昔のままに戻しさえしましたら、そして、手紙の件を、たとい一言でも、口外さえしなければ、それで十分だったかもしれません。皆の衆も、この一件を論評することを喜んで断念してくれたでしょう。村人たちがどうして私たちから離れたかと申しますと、確かに、不安もあったでしょうが、先ずなによりも、この事件が厄介至極だったからに違いありません。村人としては、この事件についてなにも聞きたくないし、言いたくもない、考えることさえも真っ平で、なんとしても、この事件のとばっちりだけは受けずに済ませたいという、単純な心境だったのでした。フリーダがこの事件を村人たちに漏らしたのも、手に入れた特ダネを楽しむためではなくて、自分も含めて、村人全部をこの事件から守り、このうえなく用心深く遠ざかっていなければならないような出来事が、村で、起こったということにたいして、村全体の注意を喚《よ》び醒《さ》ますために、したことですわ。この場合、問題になったのは、私たち一家ではなくて、事件のほうだけなのです。ただ、私たちは、事件に巻き込まれていましたために、問題にされたにすぎません。そんな訳で、私たちが、再び姿を現し、過去のことは過去のこととして水に流して、どのような方法によってであろうと、とにかく、事件にけりを付けたことを、私たちの態度で示しておきさえしましたら、そして、世間のほうも、たといどのような性質の事件であったにせよ、二度と物議を醸《かも》すようなことはあるまいとの確信をさえ、抱いてくれさえしましたら、それでも、万事がうまく収まったかもしれないのです。そうなりますと、私たちは、どこへ行っても、昔ながらの親切心を見出したことでしょう。そして、たとい私たちが事件をまだすっきりとは忘れられないでいましても、世間の人は、その辺の事情を理解して、早くすっかり忘れ去ることができるように、私たちに力を貸してくれたことでしょう。
それなのに、私たちは、そんなことを一切しないで、ずっと家に籠もっていたのです。なにを待ち受けていたのやら、さっぱり記憶がありません。たぶん、アマーリアの決断を待ち受けていたのでしょう。アマーリアは、あの問題の朝に、一家の統率権を独占して以来、ずっとそれを固守していたのです。別にこれと言って、なにかを発起した訳ではありませんし、また、命令とか、請求とかをした訳でもありません。ほとんど沈黙の力のみで、統率していたのです。もちろん、私たち、あの子以外の者らは、たくさんの相談事を抱えていました。それで、朝から晩まで、絶えずささやき合っていたのです。急に不安に襲われた父に呼びつけられて、私が、ベッドの縁で、一夜の半ばを過ごしたことも、間々《まま》あります。また、私とバルナバスのふたりが、いつまでも、すわり込んでいたことも、間々ありました。バルナバスは、ちょうど、事件の全貌がほんのすこしばかり分かりかけたころで、しきりといきり立ちながら説明を求めるのでした。しかも、絶えず同じ説明を求め続けるのです。自分と同年輩の他の者たちが迎えようとしている気楽な年月が、自分には、もはやないのだということが、あの子には、もう分かっていたのかもしれません。そんな次第で、私たちは――今、K、あなたと私と、ふたりですわっていますのと全く同じように――すわり込んだまま、夜が更けて、再び朝が巡って来るのさえも忘れてしまっていましたの。家族のうちで一番心身ともに弱っていたのは、母でした。たぶん、母は、皆に共通の悩みだけでなく、各自のとりどりな悩みをも、ともに悩んでいてくれたからでしょう。それにしても、私たちは、母がすっかり変わり果てているのに気づいて、ぎょっとしましたわ。そのとき、私たちは、虫が知らせましたの。このような変わり方が、いずれは、家族全員を見舞うに違いない、とね。母のお気に入りの場所は、カウチの隅っこでした――この寝椅子も、もうとっくに、手放してしまいました――。今では、ブルンスヴィックの家の広間に置かれています。母は、そこに腰を掛けて――どうしてそうしているのか、だれにも、しかとは分からなかったのですが――うつらうつらと居眠りをしているか、あるいは、唇の動き具合から察せられますように、長い独り言を続けていました。もとより、私たちは、絶えず、手紙の一件について、確実な箇所とか、不確かな可能性とか、あらゆる点をもれなく取り上げながら、縦横無尽に論じ合っていましたが、それも、きわめて自然なことでした。そして、私たちが、絶えず、よい解決方法を案出しようとして、互いに知恵を競い合っていましたのも、やはり、当然なことであり、止むを得ないことだったのです。でも、得策じゃありませんでした。私たちは、そのために、なんとかして逃れ出たいと思っている泥沼のなかへ、ますます深く、はまり込んで行くことになったんですもの。それに、いくら数々の名案を捻《ひね》り出したところで、それだけでは、一体、なんの役に立ったでしょう。どんな着想も、アマーリアを抜きにしては、実行不可能だったのです。すべての案は、単なる下相談にすぎませんでした。しかも、その結論が、アマーリアの耳にまで達しませんでしたし、また、たとい耳に入ったとしても、ただ沈黙にぶつかるのが落ちだったでしょうから、結局、徒労にすぎなかったのです。
ところで、幸いにも、私は、今では、あのころよりも、アマーリアの気持ちがよく分かります。あの子は、私たちみんなよりも、もっと重荷を背負っていたのですわ。あの子がそれに耐え抜いて、今でも元気で私たちのあいだで暮らしているのが、不思議なくらいですの。母も、私たち、みんなの苦しみを身に引き受けていたかもしれません。しかし、母としては、それが母の頭上に降り懸かったからこそ、それを身に受けるよりほかなかったのです。でも、長くは耐えきれませんでした。母が、今日でもまだ、みんなの苦しみを、なんとか、味わっているとは、とても言い切れません。すでに当時から、母は、気が変になっているのですもの。しかし、アマーリアのほうは、苦しみに耐えたばかりでなく、その正体を見破るだけの分別をも持っていました。私たちは、結果だけしか見ませんでしたが、あの子は、原因までも見抜いていました。私たちは、どんなに取るに足らぬ策であろうと、とにかく、なんらかの策があるものと期待していましたが、あの子は、万事休したことを知っていました。それで、私たちは、ひそひそ話をせずにはいられなかったのですが、あの子は、沈黙しているほかなかったのです。あの子は、あのころも今も、変わりなく、真実と間近に相対して立ちながら、生き抜いて、この生活に耐えて来たのですわ。私たちがどんなに苦しいと思ったときでも、あの子よりは、私たちのほうが、はるかに凌《しの》ぎやすかったんですの。もちろん、私たちは、私たちの住み処《か》を立ち退《の》かねばなりませんでした。その家には、ブルンスヴィックが引っ越して来て、私たちには、この小家が宛《あてが》われたのです。それで、私たちは、一台の手車《てぐるま》で、二、三回往復して、家財をこちらへ運びました。バルナバスと私が車を引いて、父とアマーリアが後押ししました。母が、とある木箱に腰かけて、絶えず低い声で泣きじゃくりながら、私たちを迎えてくれました。私たちは、真っ先に、母をここへ連れて来ておいたのです。ところで、今でも、私は、覚えていますが、そうしてひどく苦労して車を引いているあいだも――これには、やはり、とても恥ずかしい思いがしました。だって、幾度となく、刈り入れた穀物を山と積んだ車に出会うんですもの。車に付き添っている人たちは、私たちの前まで来ると、急に口を噤《つぐ》んで、眼を逸《そ》らすのでした――私たち、バルナバスと私は、そうして車を引いているあいだでさえも、私たちの心配事や腹案についての話し合いを止めることができませんでした。時には、話に身が入って、途中で立ち止まってしまい、父から『おい、おい』と声掛けられて、やっと自分たちの役目をまた思い出すような始末でした。しかし、いくら相談し合ったところで、引っ越し後も、生活が変わるはずがありません。それどころか、今では、日増しに、貧乏の辛さをも骨身に沁みて感じるようになるばかりです。親類からの補給も、途絶えてしまいました。私たちの財力も、ほとんど尽きて来ました。そして、あなたも御存じのとおりの、あの私たちにたいする軽蔑の念が、人々のあいだで、広がりかけて来たのも、ちょうどそのころのことでした。人々は、私たちが、なんとか苦心して手紙の一件から切り抜けるだけの力をさえも、持っていないことに、気づいて、それをひどく邪推したのです。と言っても、人々は、正確な事情は知らなかったにせよ、私たちの運命の厳しさを軽く視ていた訳じゃないんです。自分からだって、このような試練に直面すれば、たぶん、私たち以上にうまく打ち勝つことはできないだろうということくらいは、よく知っていたのです。ところが、それだけに、私たちと完全に手を切ることが、ますます必要になって来たのでした。もちろん、私たちがこの運命を打開していましたら、人々とても、私たちを然《しか》るべく高く尊敬してくれたことでしょう。ところが、それが不首尾に終わったものですから、人々は、それまではただ一時凌ぎにしていたことを、いよいよ本格的にするに至ったのです。つまり、私たちをいかなる社会からも締め出してしまったのです。そうなりますと、村では、もう私たちのことを人間並みには言ってくれません。私たちを家名でさえももう呼んでもらえなくなりました。どうしても私たちのことを口にせねばならないときには、私たちのうちで最も罪のないバルナバスの名をもとにして、私たちを呼ぶんです。この私たちの陋屋《ろうおく》でさえも、悪評を招きました。あなただって、よくよく反省して御覧になると、この家に初めて足を踏み入れられた途端に、人々の軽蔑するのを是認せざるを得ないようにお思いになったというのが、偽らない告白ではありませんの。その後、人々が、折に触れて、私たちのところへまたやって来るようになりましてからも、ごく些細《ささい》なことにさえ鼻に小皺《こじわ》を寄せて、軽蔑をあらわに示しましたわ。例えば、あすこのテーブルのうえのほうに小さな石油ランプを釣り下げてあることなんかにもね。テーブルのうえのほうに釣るよりほかに、一体、どこにいい釣り場所があるんでしょう。それでも、村人たちには、そうしたことが我慢ならないように思えるんです。かと言って、私たちがあのランプをどこか別のところへ掛けたところで、人々の毛嫌いにすこしも変わりはないでしょう。私たち自身はおろか、私たちの持ち物までも、すべて残らず、同じような軽蔑を買ったのです」
[#改ページ]
嘆願
「ところで、そのあいだに、私たちは、どんなことをしたかと申しますと、これ以上に不都合なことはできまいと思われるようなことを、従って、私たちが実際に軽蔑された以上に軽蔑されても当然なようなことを、しでかしてしまったのです。つまり、アマーリアを裏切り、あの子の無言の命令を振り切ることにしたのです。私たちは、あのままでは、もう生きて行くことができませんでした。からっきし希望なしでは、生きられなかったのです。そこで、私たちは、各自がそれぞれのやり方で、どうか私どもを御赦免くださいと、城に嘆願したり、しつこく縋《すが》ったりしはじめました。私たちは、償いらしいことができないことが、よく分かっていましたし、私たちが城とのあいだに持っている唯一の有望な繋《つな》がり、と言えば、父に好意を寄せていてくれた役人のソルティーニとの繋がりですが、その繋がりさえも、ほかならぬこのたびの事件によって、私たちにはすっかり断ち切られてしまっていることだって、十分に心得てはいました。にもかかわらず、私たちは、そうした工作に取り掛かったのです。父が、皮切りでした。村長のところへやら、秘書のところへやら、弁護士のところへやら、書記のところへやらと、無意味なお百度を踏みはじめました。父は、大抵、面会してももらえませんでした。たまに、策略か偶然のお陰で、接見はしてもらえても――そのような報告を聞くたびに、私たちは、いかばかり歓声を上げて、手を揉《も》んだことでしょう――立ちどころに素気なく追い払われて、もうそれっきり、二度とは会ってもらえなくなりました。
父に返答することぐらい、いと易しいはずでした。城にとっては、いつなりと、お茶の子さいさいだったのです。つまり、こんなふうに返答すればいい訳です。一体、おまえは、どうしろと言うんだい。おまえの身になにが起こったんだい。なんのことで赦《ゆる》しなんかこうのかね。城内で、いつか、おまえに一指でも触れた者がいるのかい。確かに、おまえは、おちぶれて、お得意をも失ったし、いろいろとあるがね。しかし、そんなことは、日常生活によくある現象で、職人の世界やら商売にはつきもののことだよ。一体、城は、なにからなにまで、世話を焼かねばならないものかい。確かに、現実には、なにからなにまで、心配してやっているが、かと言って、世の成り行きに闇雲に干渉する訳にも行かないじゃないか。無造作に、一個人の利益に奉仕するという目的のためだけでね。それとも、なにかい、城のほうから役人を派遣して、おまえのお得意の尻を追っかけさせ、力ずくでも、おまえのところへ連れ戻させろとでも言うのかね。とんでもありません、と父は、そのとき、異議を唱えるのです――私たちは、父が出て行くまえも、また、帰って来てからも、アマーリアの眼につかないように、家の片隅にかたまりながら、こういうことについて、余すところなく、綿密に協議し合っていました。アマーリアは、なにもかも気づいていたのですが、放っておいてくれたのです――とんでもありません、と父は、そのとき、異議を唱えた訳です。私は、おちぶれたことで哀訴しているのではありません。この地で失ったものをすべて取り戻すぐらい、しようと思えば、なんの造作もないことです、そんなことは、すべて、二の次です。ただ、お赦しさえいただいたら、いいのです、とね。『それにしても、一体、なにを赦せばいいんだね』と言うのが、父にたいする先方の返答でした。これまでのところ、なんの告発状も届いていない。すくなくとも、まだ調書には記載されてないね。すくなくとも、弁護士界の手に入る調書には記載されてないな。従って、目下、確認される限りでは、なにもおまえにとって不利な処置が企てられていることもなければ、それが進行中ということもないね。それとも、おまえは、おまえにたいして発せられた当局の処分命令のようなものを、挙げることができると言うのかね。そう言われても、父には、そんなことはできっこありません。それともお上《かみ》のどこかの機関の干渉でもあったのかい。それも、父の露知らぬところです。では、おまえ自身もなにも知らないし、なにも起こってないとすると、一体、おまえはどうしてくれと言うんだい。おまえになにを赦してやれるんだい。精々のところ、今、おまえが、無益に、役所を手古ずらせているくらいのものだ。だが、これこそ、怪《け》しからんことだぞ。
父は、それでも、止《や》めませんでした。当時は、あいかわらず、まだとても元気でしたし、止むなく無為に過ごしていましたので、暇もたっぷりありました。『わしは、アマーリアのために名誉を回復してやるんだよ。もうそう長くはかからないさ』と、父は、バルナバスと私に向かって、一日に数回も、言っていました。でも、非常に声を潜めてね。アマーリアに聞かれてはいけないからです。にもかかわらず、アマーリアのためだけを思って、言っていたにすぎないのです。と言いますのも、実のところ、父の念頭にありましたのは、名誉回復なんかではさらさらなくて、ただ赦免の一事だけだったからです。しかし、赦免に与《あずか》るためには、先ず、罪のほうを確認せねばならなかったのですが、役所では、父にたいし、その罪を真っ向から否定していた訳です。そこで、父は――これこそ、なんと言っても、父がすでに精神的に弱って来ていたことの徴候でしたが――、自分が十分な払いをしてないので、自分に罪を隠しているのだというふうに、気を回しました。つまり、父は、それまで、いつも、所定の謝礼だけを払って来ていたのです。それだって、すくなくとも、私たちの世帯にとっては、とても高額でした。ところが、父は、今になって、もっとたくさん渡さねばならないと、思い込んでしまったのです。それは、確かに、誤信でした。と言うのは、私たちの役所では、余計な問答を避けて、事を手っ取り早く運ぶために、賄賂《わいろ》を受け取るのですが、そんなことをしたって、実は、なんの利き目もないからです。でも、それが父の希望でしたので、私たちとしても、それを妨げたくはありませんでした。私たちは、残っていた持ち物を――それは、ほとんど、もう必須の物品ばかりでしたが――売り払っていきました。父のいろいろな調査のための費用を用立ててあげるためでした。父が朝に出掛けるたびに、いつも、すくなくとも、数枚の硬貨をポケットのなかでちゃらちゃら言わせるのを聞くのが、長いあいだ、私たちの毎朝のせめてもの慰みでした。私たちは、むろん、一日じゅう、ひもじい思いをしていました。そのかわりに、私たちが、お金の調達までして、実際に挙げた効果と言いえば、ただひとつ、父になんらかの希望の喜びを持たせてあげたということだけでした。でも、それだって、ほとんど、なんの得にもなりませんでした。父は、連日のお百度参りで、疲労|困憊《こんぱい》していくばかりでしたし、賄賂を使わなければ、非常に早く、それ相当の結末を告げていたはずのものが、そうして、いたずらに長引いていったからです。余計にお金を使ったからといって、先方が、それにたいして、実際には、なにも特別な計らいができるはずもないのに、ある書記のごときは、時折、すくなくとも、上辺《うわべ》だけでも、なんらかの計らいをしようとしているような態度を示して、調査を約束したり、あるいは、なんらかの手掛かりをすでに見つけているので、それをたどっていくのは自分の義務ではないが、ほかならぬおまえのためだし、ひとつたどってみてやろうなどと、仄《ほの》めかしたりさえもしました。すると、父は、さらに疑念をさしはさむどころか、ますます信じ込んでしまいました。父は、このような明らかに無意味な約束を取り付けて、まるで家へ昔ながらの満ちあふれる幸福を齋《もたら》すかのように、意気揚々と、帰って来るのでした。そして、いつもアマーリアに隠れて、ひきつったような微笑を作り、目を大きく見開いて、アマーリアのほうを顎《あご》で差しながら、わしが苦労した甲斐《かい》あって、アマーリアが救われる日も目前に迫っている、その日が来て、だれよりも驚くのは、アマーリア自身だろう、だが、それまでは、一切内密だ、おまえたちも、それだけは厳重に守ってくれ、と言うようなことを、それとなく私たちに分からせようとするのですが、それは、見るも痛ましい光景でした。そうするうちに、私たちは、ついに、父にお金を渡し続けることが完全にできなくなってしまったのですが、そうならなければ、そうした状態がもっともっと長く続いていたことでしょう。そのあいだに、バルナバスは、ブルンスヴィックに、何度も頼み込んだ揚げ句、下請け職人として雇ってもらってはいましたが、もちろん、晩暗くなってから、委託の仕事を貰って来て、また暗くなるのを待って、でき上りを届けに行くという、やり方をせねはなりませんでした――ブルンスヴィックが、この際、私たちのために、彼の商売に関《かか》わるある種の危険を覚悟してくれましたことは、認めねばならないでしょう。でも、そのかわりに、バルナバスの仕事には非の打ちどころがないのに、雀の涙ほどしか労賃をくれませんでした――。そんな訳で、それしきの賃金くらいでは、かつかつ一家が餓死を免れさえしたら、いいとせねばなりません。そこで、私たちは、とても気を使って、いろいろと下拵《したごしら》えをしてから、父に、私たちのお金の用立ての中止を申し出ました。ところが、父は、非常に落ち着いて、それを承知してくれました。父の頭では、自分の諸交渉の見込みなさを見抜くことが、もうできなくなっていたのですが、ひっきりない失望続きで、やはり、もううんざりしていたのです。確かに、父は――以前ほどはっきりとは物を言わなくなっていました。以前は、露骨すぎるほどの言い方をしていたのですが――もうほんのすこし資金を余計に投じていさえすれば、きょうか、あすには、すべての情報が掴《つか》めたはずなのに、今となっては、一切が水泡に帰してしまった、金だけのことで頓挫《とんざ》したのだとか、なんとか、こぼしてはいましたが、しかし、そう言っている父の口調は、父自身がそうしたことを心のうちでは信じてないことを、はっきりと証明していました。それなのに、父は、すぐにまた、性|懲《こ》りもなしに、新しい計画を立てるのでした。罪を立証することが不成功に終わったからには、もうこれ以上、公式手続きを踏んでも、なんにもならないので、今後は、もっぱら嘆願の一本槍で進んで、役人たちを個人的に陥落させねばならない。役人たちのなかには、確かに、思いやりのある心を持った親切な人たちも、いるはずだ。そうした人たちも、役所のなかでは、自分の心に従う訳にはいくまいが、役所のそとで、適当な時刻を見計らい、不意打ちすれば、たぶん、うまくいくだろうと、そんなことを計画していたのです」
それまでとても熱心にオルガの話に耳傾けていたKは、そのとき、相手の言葉を遮って、尋ねた。「とすると、あなたは、それをもっともなことだとは思っていないのでしょうね」話の先を聞けば、おのずからそれにたいする答えが分かるはずなのに、彼は、今すぐにそれを知りたかったのだった。
「もちろんですわ」と、オルガは言った、「同情とか、そうしたたぐいのものは、この際、禁物ですもの。私たちは、とても若くて、世間知らずではありましたが、それくらいは知っていました。父も、むろん、知ってはいたのですが、忘れていたのです。大概のことを忘れてしまっていたようにね。そこで、父は、城の近くの国道なら、役人たちの馬車がよく通り過ぎるという訳で、そこに立って、なんとか折さえあれば、赦しを嘆願するという計画を整えていたのです。正直に申しますと、全くばかげた計画です。よしんば、そんな夢のようなことが、万が一にも、実現して、父の嘆願が、本当に、ある役人の耳に達したとしてもですよ。一体、一役人の計らいだけで、赦せるものでしょうか。こうしたことは、やはり、重く見れば、全官庁に関わる問題かもしれません。でも、その官庁にしても、できることと言えば、裁決を下すことだけで、おそらく、赦すことなんかはできないでしょう。それに、ある役人がわざわざ馬車から降りて、その問題を手掛けてやろうと思ってくれても、見すぼらしい、疲れきった、老人の父が、もぐもぐと、申し立てるのを耳にしただけで、この一件がどんなものか、朧《おぼろ》げなりとも、はたして想像がつくでしょうか。役人たちは、とても高い教養を備えてはいますが、やはり、ひどく一面的なのです。自分の専門領域ですと、ただ一言聞いただけで、即座に、全思想系列を見抜いてしまいますが、他部局から回って来た事柄ですと、何時間かかって説明を受けても、たぶん、丁重にうなずきはするでしょうが、一語だって理解せぬままで終わるでしょう。でも、これも、もっとも千万なことですわ。局外者が、自分自身に関係のあるような、取るに足りない役所の仕事をなりと、一度、試しにやらせてもらうといいんです。役人でしたら、ちょっと肩をすくめるだけで、片づけてしまうような事務をね。そして、ただそれをとことんまで理解しようと努めてみさえすれば、分かるんです。だれだって、一生涯、それにかかりきっていても、けりが付かないでしょう。ところで、仮に父がこの件を担当している役人にたまたま出会ったところで、その役人だって、一件書類がなくては、なにひとつ裁決できないでしょうし、まして国道上では、全く無理な話です。赦すなんて、とんでもないことでしょう。当の役人にしても、できることと言えば、ただ、公務として処理することにして、そのために、再び公式手続を踏むように、指示するくらいが、関の山です。ところが、父のほうは、こうした手続を踏んで事を運ぶことには、すでに完全に失敗しているんですからね。こんな新計画で、なんとかして、目的を遂げようと思うなんて、父も、ずいぶんと焼きがまわったものですわ。もしそんな可能性が、たといほんの幽《かす》かなりとも、ありさえしましたら、あすこの国道上は、嘆願者でうようよしているに違いありませんもの。ところが、この場合は、全く可能性がなく、その不可能性ぐらいは、小学校でほんの基礎教育をさえ仕込まれた者なら、だれでも承知していますので、あすこには、人足《ひとあし》がさっぱり絶えているんです。もしかすると、そうしたことが、却《かえ》って、父の希望をつのらせたのかもしれません。父は、どこからでも、希望をはぐくむ糧《かて》を取って来るんですわ。この場合も、それが、とても必要だったんです。健全な常識の持ち主でしたら、けっしてそんな大それた計画に頭を使ったりはしないでしょう。ざっと考えただけでも、それが不可能なことぐらいは、はっきりと見抜けていたに違いありません。役人たちが村へやって来たり、城へ帰って行ったりするのは、なにも物見遊山《ものみゆさん》じゃないんです。村でも、城でも、仕事があの人たちを待ち受けているんですもの。それで、すごい急速度で車を走らせている訳なんです。車の窓から外を眺めて、わざわざ請願人を捜すなんて、そんなことを思いつくはずがありませんわ。車のなかには書類がいっぱい詰まっていて、役人たちはその書類を調べている最中なんですからね」
「ところが、僕は」と、Kは言った、「ある役人の橇《そり》の内部を見たことがあるんですが、そこには、書類らしいものが一枚もありませんでしたよ」オルガの物語を聞いているうちに、途方もなく大きな、ほとんど信じられないような世界が、いつしか、彼のまえに開かれてきたので、彼としても、自分のささやかな諸体験でその世界に触れ、その世界の現存と自分自身の現存とについて、もっとはっきりした確信を抱かずにはいられないような気持ちになったのだった。
「そんなこともあるかもしれませんわ」と、オルガは言った、「そんなときは、しかし、いっそう都合が悪いんです。そんなとき、役人は、とても重大な問題を抱えていて、従って、書類のほうも、持ち運びできないほどに、貴重なものか厖大《ぼうだい》なものになりすぎているんです。そんな役人の場合、馬車を全速力で疾駆させる訳です。いずれにしても、父に割いてくれるような暇など、どの役人にもありません。しかも、そのうえにです。城へ行く道筋が幾つもあるのです。時によって、ある道筋が流行《はや》りますと、大半の馬車がそこを通るようになりますし、また、ほかの道筋が流行り出しますと、どの馬車も、すべて、そちらのほうへどっと押し寄せるのです。どんな法則に従って、そのような流行り廃《すた》りが行われるのかは、まだ明らかにされておりません。時には、朝の八時に、すべての馬車がひとつの道ばかりを走っているかと思うと、半時間後には、また、すべての馬車がほかの道を通り、さらに十分後には、第三の道を走っているのです。そして、もしかすると、さらに半時間後には、また第一の道を走っているかもしれないのです。そうなりますと、それからは、一日じゅう、その第一の道ばかりを通って行きます。でも、いつを境に、変化が生じるかもしれません。村の近くでは、どの道も落ち合って、一本道になり、そこへかかりますと、もうすべての馬車が驀進《ばくしん》しています。もっとも、城の近くでは、まだ速度もかなり緩めているのですけれども。とにかく、道についても、どこを通るのか、順序がまちまちで、見通せないのと同じように、車の数もまちまちで、見通しが立ちません。一台の車だって見掛けられない日も、しばしばありますし、かと思うと、また、数知れぬほど多くの車が陸続と走っている日もあるのです。そんな訳で、ここはひとつ、そうした事態と突き合わせて、うちの父のことを御想像していただきたいのです。父は、一張羅を着込み――それが、また、間もなく、文字どおりに、父のたった一着きりの服になるのですが――毎朝、私たちの見送りの言葉を受けて、家を出て行きます。そして、本来ならば返さないといけない、消防用の小さな記章を、隠し持って行って、村を出ると、それを服につけるのです。村のなかでは、人目を憚《はばか》っているのです。と言いましても、物の二歩も離れていれば、ほとんど目につかないほどの、ごく小さなものですが。でも、父の意見ですと、通り過ぎて行く役人たちの注意を父のほうへ向けさせるには、むしろ、記章が適しているとのことですわ。ところで、城の入り口から程遠くないところに、菜園がありますの。持ち主は、ベルトゥフとか言う人で、城へ野菜を納めているのです。父は、その菜園の鉄柵の挟い台石のうえを、自分の腰掛ける場所として、選びました。ベルトゥフは、昔の父との誼《よしみ》から、それにまた、父の最も堅いお得意のひとりでもあった関係から、それを黙過してくれました。つまり、ベルトゥフは、片方の足がすこしばかり不具でしたので、これに合った長靴を作ってもらえる人は、父よりほかにいないと、信じ切っていたのです。それで、父は、来る日も、来る日も、そこに陣取っていました。曇りがちな、雨の多い秋でした。でも、天候のことなんか、父は、全く気にしていませんでした。毎朝、きまった時刻に、父は、戸の取っ手に手を掛けると、私たちに別れの合図をして行きます。そして、晩方になると――日増しに腰が曲がっていくような様子を示しながら――全身ずぶ濡れになって帰って来て、部屋の片隅に身を投げ出すのです。その父も、初めのうちは、その日のちょっとした体験を私たちに聞かせていてくれました。例えば、ベルトゥフが、同情と昔の誼から、鉄柵越しに、毛布を一枚、父に投げ与えてくれたとか、通り過ぎる馬車のなかに、確かに、役人のだれそれが乗っていたのを、見届けたように思うとか、馭者《ぎょしゃ》のなかには、時折、父を見覚えているのがいて、冗談に、鞭の革|紐《ひも》で、父のからだを撫でて行ったとか、そんな取り留めもないことをです。ところが、後になると、そのようなことを話することをさえも止めてしまいました。明らかに、父は、あすこに陣取っていさえすれば、多少なりとも、なんらかの成果が挙げられるという希望を、もう失っていたのです。もう、父は、あすこまで出向いて行って、そこで一日を過ごすのを、自分の義務とか、自分の味気ない使命とかとしか、思ってないようでした。父にリューマチの痛みが出始めたのも、そのころでした。冬が近づいていて、例年よりも早く、雪降りになりました。この土地では、冬が駆け足でやって来るのです。そうなりますと、父は、雨に濡れた石に腰をかけたのが因縁で、今度はまた、雪のなかでもすわらねばならなくなりました。夜中になると、父は、痛さのあまりに、呻《うめ》いていました。朝になっても、出掛けたものかどうかと、迷っていることが、時折、ありました。それでも、父は、しかし、いやいやながらも気を取り直して、出掛けました。母が、父に取り縋って、父を行かせまいとしました。父は、もう手足が言うことをきかなくなっていたために、臆病になっていたのでしょうか、母の同行を許しました。そんな訳で、母もまた、同じ痛みに取り付かれてしまったのです。私たちは、何度も、ふたりのいるところへまいりました。食事を運んで行ったり、ただ見舞うために行ったり、あるいは、ふたりを説き伏せて家へ連れ戻ろうとしたりしました。ふたりが、そこの浅い座席に、くずおれるように身を寄せ合って、腰を掛けながら、一枚の薄い毛布にふたりのからだを包《くる》みきれないで、蹲《うずくま》っている姿を、私たちは、幾たび、見て来たことでしょう。あたりは、雪と霧との灰一色です。見渡す限り、もう何日ものあいだ、どこにも、人ひとり、馬車一台の影さえもありません。ああ、あれは、なんという光景でしたでしょう。K、なんとも名状しがたい光景でしたわ。そのうちに、ついにある朝、父は、もうどうしても、硬直した両脚をベッドから出すことができなくなってしまいました。それは、なんとも悲惨でした。父は、ちょっと熱に浮かされていたのでしょう。ちょうど今、城の近くのベルトゥフのところに、一台の馬車が止まり、ひとりの役人が降りて来て、父を求め、鉄柵のあたりを隈なく捜し回ったものの、当てがはずれて頭《かぶり》を振りながら、腹立たしげに、また車のなかへ戻って行くのを、眼《ま》のあたりにしているような妄想に襲われていました。父は、そのとき、ふいになにやら叫び声を発しました。ここから、上手《かみて》の役人に、自分がここにこうしていることを気づいてもらい、きょう、例の場所に出向いてなくとも、けっして自分には罪がないことを、弁明しようとしているかのような叫び声でした。こうして、あすこにはいない日が長く続きました。父は、もうあすこへは戻りませんでした。何週間も、じっとベッドに臥せっていなければならなかったのです。アマーリアが、給仕とか、看護とか、手当てとか、すべての世話を引き受けました。そして、時折中休みはありましたが、とにかく、今日まで、それを続けて来てくれたのです。あの子は、痛みを鎮める薬草についての知識があるのです。それに、ほとんど一睡さえしなくても平気ですし、物に動じもしなければ、取り越し苦労もしません。また、やきもきと苛《いら》立つこともありません。両親の面倒をすっかり見てくれました。私たちが、なんの手伝いもできないで、そわそわとふためき回っていたのにひきかえて、あの子は、何事につけても冷静でした。ところが、そのうちに、最悪の容態を脱して、父が、用心深く左右から支えられながらも、どうにか、再びベッドを離れられるようになると、アマーリアは、さっさと手を引いてしまって、父を私たちに任せきりにしたのでした」
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オルガの計画
「そうなりますと、父でもまだできるような仕事を父のために再び見つけてやることが、必要になってきました。なにかそういうものがありますと、すくなくとも、自分も家族の罪を晴らすのに役立っているのだという信念を、父に持たせ続けることができるからです。そのような仕事を見つけるのは、なにも難しいことではありませんでした。どのような仕事であっても、所詮、ベルトゥフの菜園のまえにすわり込むくらいのやり甲斐《がい》はあったからです。ところが、私は、私自身にさえも多少の希望を与えてくれるような仕事を、見つけました。いつも、役所だとか、書記のところだとか、その他のところだとかで、私たちの罪が問題になっていたときには、決まって、ソルティーニの使者にたいする侮辱の点だけが、蒸し返し挙げられていただけで、だれも、それ以上、深くこの問題に立ち入ろうとはしてませんでした。そこで、私は、自分の心に言い聞かせました。世論というものが、たとい見せかけにすぎなくとも、使者の侮辱という件以外は、なんら関知してないのなら、こちらもその使者の機嫌を直しさえすれば、たとい見せかけにすぎなくとも、万事は一応収拾がつくはずだ、とね。と言うのも、まだなにも、告発状が届いてないとのことだからです。としますと、どの役所も、まだ、この件を手掛けてはいない訳です。従って、赦《ゆる》すということは、使者個人の問題として、使者の自由に委《ゆだ》ねられていて、それ以上の問題にはならないはずです。これくらいのことでは、むろん、なにも決定的な意味を持たないかもしれません。ただ見せかけだけで、別にこれと言った結果は、やはり、なにも出ないでしょう。でも、これで、父を喜ばすことぐらいはできるでしょうし、それに、もしかすると、父をひどく悩ませて来た大勢の情報提供者たちをも、これによって、多少は窮地に追い込むことだってできて、父も満足してくれるかもしれません。それには、もちろん、当の使者を見つけるのが、先決問題です。
そう思って、私は、自分の計画を父に話しました。すると、父は、途端に、ひどく腹を立てました。と言いますのも、途方もなく強情になっていたからです。父は、一方では――病気のあいだに、そんな気持ちがしだいに昂《こう》じてきていたのですが――私たちが、先には、資金繰りを中止することによって、そして今は、ベッドヘ寝かし付けておくことによって、いつも、いよいよ成功という瀬戸際になって、父の動きを封じてきたように、ひとりで思い込んでいたのですが、また他方では、ほかの者の考えを完全に理解することがもうできなくなっていたのでした。そんな訳で、父は、私が最後まで話し終わらぬうちに、早くも、私の計画を蹴ってしまいました。これからも、ベルトゥフの菜園のところで、ずっと待ち続けねばならない、と言っても、毎日、あすこへまででも登って行くのは、きっと、もう無理だろうから、おまえたちの手で、わしを手車に乗せて運んで行ってほしい、と言うのが、父の意見でした。しかし、私は、そのまま引き下がりはしませんでした。すると、しだいに、父のほうが、私の考えに歩み寄って来ました。その場合、ただひとつ、父の気持ちに引っ掛かる点は、父がこの件ですっかり私任せになるということでした。と申しますのも、あのとき、当の使者を目撃しましたのが、この私だけで、父には、使者について、なんの心当たりもなかったからでした。もとより、従僕なんてものは、どれを見ても、似たり寄ったりで、私だって、次に会ったときに、当人だと見分けがつくかどうか、完全な自信はありませんでした。とにかく、私たちは、貴紳閣へ赴いて、そこにいる従者たちのなかから捜しはじめました。あれは、確かに、ソルティーニの従僕でしたし、ソルティーニは、もう村へ来なくなっていましたが、しかし、殿方たちは、頻繁に、従僕の取り換えっこをするんです。それで、ほかの殿方の従者たちの群れのなかに、目ざす相手が見つかるかもしれませんでした。たとい当の本人が見つからなくとも、ほかの従僕たちから当人についての情報くらいは得られるかもしれなかったのです。そのためには、むろん、毎晩、欠かさずに、貴紳閣へ出掛けていかなくてはなりませんでした。私たちは、どこへ行っても、好《い》い顔をされませんでした。あのような場所でなら、なおさらのことです。それに、私たちは、お金になる客として、大手を振って入る訳にもゆかなかったからです。ところが、そのうちに、貴紳閣のほうでも私たちの使い途《みち》があることが、分かって来ました。あの従者たちが、フリーダにとって、どんなに苦の種だったかは、あなたなら、十分に御存じでしょう。根は、大半が、おとなしい人たちなのですが、楽な勤務のせいで、とても気儘《きまま》になり、ぐうたらになってしまっているのです。『あなたも従僕のようにお仕合わせに過ごせますように』と言うのが、役人たち同士の祝福の辞なのです。事実また、大名暮らしの点では、従僕のほうが、城での本当の主人株だとのことです。それに、従僕たちも、それにふさわしい品位を保つ術《すべ》を心得ていて、掟のもとで身のこなしをせねばならぬ城のなかでは、静かに、物々しく構えているようです――このことは、これまで、私も、確かな話として、幾度となく聞かされております――。この村へ来てさえも、従僕たちのあいだでは、まだその名残が見られることがあります。でも、ほんの名残にすぎません。その点を除けば、城の掟が、村にいる限り、もうあの人たちにとって完全には通用しなくなりますので、あの人たちは、別人のようになるのです。つまり、掟を離れて、飽くことを知らぬ本能の虜《とりこ》となった、粗暴な、横紙破りの族《やから》と化すのです。連中の破廉恥な言動は、限《き》りがありません。村にとって、せめてもの仕合わせだったのは、連中が、禁を犯さない限り、貴紳閣を一歩も出られないことです。それだけに、貴紳閣のほうでも、連中と折り合いよくやって行くように努めねばなりません。ところが、それにはフリーダもひどく難儀したのです。
そんな訳で、従僕たちの気持ちを静める役に私を使うことができれば、フリーダにとっても、とても好都合だったのです。それで、私は、二年以上もまえから、週にすくなくも二度は、従僕たちと一緒に、夜を厩《うまや》で過ごしているのです。以前、父がまだ貴紳閣へ連れ立って来られた時分は、父は、酒場のどこかで仮眠して、私が朝早く持ってゆく報告を待っていました。と言っても、大して報告することはありませんでした。目ざす使者は、今日までのところ、まだ見つかってはいません。当人は、ソルティーニがひどく重宝がっていて、今でもずっとソルティーニに仕えているとのことで、ソルティーニがさらに奥の事務局へ引っ込んでからも、ソルティーニに付いて行っているそうです。従僕たちも、大多数が、私たちと同様に、あれ以来、長らくあの男を見掛けていないのです。その間にあの男を見掛けたと言う従僕が、もしひとりでも、いましたら、それは、たぶん、勘違いだと思います。このように見てまいりますと、私の計画も、実は、失敗に帰したことになりますが、しかし、完全に失敗してしまった訳でもないんです。確かに、当の使者は、まだ見つかってはいません。それに、父のほうも、たぶん、私にたいする同情も手伝ってのことでしょうが、と申しても、同情を催すだけの気力がまだ父にあったあいだの話ですが、貴紳閣へ出向いては、そこで夜泊まりしたことが、残念ながら、ついに、父に止《とど》めを刺すようなことになってしまいました。父は、もう、二年近くも、御覧になったような、ああした容態を続けているのです。それでも、もしかすると、母よりは、まだ具合がましなほうかもしれません。私たちは、毎日、毎日、母の臨終を覚悟しているような始末なのです。にもかかわらず、臨終が延び延びになっているのは、ひとえに、アマーリアの並み並みならぬ尽力のお陰です。
ところで、私が貴紳閣で得ましたものと言えば、城とのある種の繋《つな》がりです。私が、自分のしたことを後悔してないと、申しあげても、どうか、軽蔑なさらないでくださいまし。そんなことが城との繋がりだなんて、とんだ繋がりもあったものだと、あなたは、心のうちで、お思いになるかもしれません。確かに、そのとおりです。けっして、大した繋がりではありません。私は、今では、たくさんの従僕たちを親しく知っています。つまり、ここ二年あまりのあいだに村へ来られた、ほとんどすべての殿方たちの従僕と懇意な訳です。ですから、いつか、城へ行かねばならぬ用事があっても、私は、城で、面識がないことはないでしょう。もちろん、私が知っているのは、村にいるときの従僕たちにすぎません。あの人たちは、城へ帰ると、がらりと別人になってしまいますので、もうだれをも見覚えてないかもしれません。そればかりか、あの人たちが村で交わった相手に出会うと、なおさら素知らぬ顔をしているかもしれないのです。厩では、城での再会を楽しみにしていると、何百回となく、誓っていた癖にですよ。序《ついで》に申しておきますが、私は、このような約束が、あの連中としては、全くのお座なりにすぎないことも、とっくに経験済みでした。それはそうと、最も肝心なことは、そんなことじゃないんですの。私には、従僕たちを介してのみ、城との繋がりがあるだけじゃないんです。まだほかに、私が、もしやと、心秘かに期待していることがあるんです。それはですね。だれかが、あの山上から、私と私のすることとを見守っていてくれるとすると――だって、あのように大勢の従僕たちを監督するのは、役所の仕事のうちでも、むろん、きわめて大切な、気骨の折れる部分ですからね――そうして私を見守っていてくれる人は、おそらく、ほかの人たちにたいするよりも、私にたいして、寛大な判断を下してくれるでしょうし、もしかすると、私が、浅ましい渡らいをしながらも、自分たち一家のために闘い、父の努力を受け継いでいることをさえも、認めてくれるかもしれないということなんです。そこまで見て取ってくれると、おそらく、私が従者たちからお金を受け取って、家族のために役立てていることだって、大目に見てくれるでしょう。
ところで、まだそのほかにも、私には、成果がありましたの。あなたも、それをお聞きになると、むろん、私の罪になさるでしょうがね。私は、従者たちから、あの面倒な、何年もかかる、正規の採用手続きによらなくても、回り道をして、お城勤めができる方法を、いろいろと訊《き》き出しましたの。その場合は、もとより、公認の使用人ではなくて、内密に生半可な立ち入り許可を与えられている、言わば仮採用にすぎません。従って、権利もなければ、義務もないんです。わけても、義務がないのが困るのです。でも、それでも、とにかく、何事につけ、近くにいられるものですから、ひとつだけ、いいことがあるんです。つまり、好機と見て取ったら、それを利用できることです。正規の使用人ではありませんが、偶然に、なにか仕事が見つかることがあるんです。ちょうど正規の使用人がその場に居合わせないことがあります。そんなとき、呼び声があれば、すかさず跳んで行くんです。すると、一瞬まえには、まだそうでなかったものに、そのとき、なってしまうのです。つまり、もう使用人なのです。むろん、そのような好機がいつあるかが、問題ですが、すぐに見つかることだって、よくあるんです。城中へ出向くや否や、あたりを見回した途端に、もうそこに好機が生じているということだってあるのです。新米である以上、そうした好機をすぐに捉《とら》えるだけの沈着な心構えが、だれにでも備わっているとは限りません。でも、それがなければ、正規の採用手続きよりも、ずっと長く待ちぼうけを食うのです。それに、このような中途半端な仮採用者になってしまうと、正規の手続きによる公式の採用は、もう絶対に望めないのです。それゆえ、ここが肝心|要《かなめ》な思案どころです。公式の採用の場合は、非常な厳選が行われて、なにかで評判の悪い家庭の一員なら、頭から撥《は》ねられてしまっても、見す見す黙っているより仕方がありません。例えば、そのような者が、こうした正規の手続きを踏みますと、その結果が心配で、何年ものあいだ、びくびくしどおしなのです。どうしてそのような見込みのないことを、向こう見ずにも、やらかす気になったのだと、最初の日から、世間では呆気《あっけ》に取られて、当人は、四方八方から、質問攻めに会うでしょう。それでも、当人は、希望を繋いでいるのです。そうでもしなければ、どうして生きて行けましょう。ところが、長い年月ののちに、おそらく、老人になったころに、却下の通知を受けて、万事が絶望に終わり、自分の生涯が徒労であったことを知るのです。もちろん、この場合でも、例外はあります。また、それだけに、ついやすやすとそうした罠《わな》に掛かってしまうのです。選《よ》りに選って、評判のよくない人たちが、ついに、採用されるということだってあるからです。なかには、このような獲物の臭《にお》いがどうにも好きでたまらないという役人がいて、採用試験のとき、空中をくんくんと嗅ぎ回ったり、口元を綻《ほころ》ばせたり、白眼をむき出したりするのです。そうした役人たちにとっては、かような悪評の高い人物が、言わば滅法界に食欲をそそるらしく、役人たちは、よほどしっかりと法典にかじり付いていない限り、その誘惑に勝てないくらいです。もちろん、そんな事情があっても、本人の採用にはなんの役にも立たないで、却《かえ》って、採用手続きが果てしなく引き延ばされるような羽目にしかならないときだってあります。そうなりますと、採用手続きは、いつになっても、埒《らち》が明かず、当人が死んでから、中止になるだけです。
そんな訳で、合法的な採用にしても、非合法的な採用にしても、陰に陽に、さまざまな困難を孕《はら》んでいることに、変わりはありません。ですから、こうしたことに手を出す場合は、前もってすべてのことをもれなく正確に考慮しておくのが、大いに得策なのです。ところで、私たち、バルナバスと私は、その点に抜かりはありませんでした。いつも、私が貴紳閣から帰ってくるたびに、私たちは、ひとつところにすわって、私が耳にして来た最新の情報を話し、私たちは、何日も、それを種にして、十分に討議しました。そのために、バルナバスの手がけている仕事が、勘弁してもらえないほどに、長らく放ったらかしになっていることだって、しばしばありました。このことでは、あなたのおっしゃる意味での罪が私にあるかもしれません。私だって、従者たちの話に大して信用が置けないくらいのことは、知っていました。従者たちが、私に城のことを話したがらないで、いつも、ほかのことへ話題を逸《そ》らし、一言を聞き出すにも、拝み倒さねばならないことも、知っていました。でも、その場合、話が軌道に乗っているときでも、あの人たちは、途中で、言い争いを始めたり、下らぬことを喋《しゃべ》り散らしたり、自慢話をしたりしながら、互いに法螺《ほら》と嘘の比べ合いをしているのです。そんな訳で、あすこの暗い厩のなかで、従者たちが、代わる代わる、果てしなくわめき立てる言葉のなかに、微《かす》かながらも、真実を暗示するような節《ふし》が、二、三なりと、含まれているようなら、上々吉とせねばならぬことも、よく知っていました。しかし、私は、心に覚えていたことを、すべてそのまま、バルナバスに伝えてやりました。バルナバスは、当時はまだ、真実と嘘との区別《けじめ》を付ける能力が皆無であるうえに、私たちの一家が置かれている状況のことも気になって、ほとんど喉《のど》から手が出るほどに、こうした事柄を無性に知りたがっていましたものですから、私の話をすっかり鵜呑《うの》みにしただけでは足りないで、もっともっと知りたいと言わんばかりに、興奮のあまり、顔を火照《ほて》らせていました。
そして、また実際に、このバルナバスを基本にして、私は、新しい計画を立て直すことにしたのです。もう従者相手では、なにも得るところがありませんでした。ソルティーニの使者も、まだ見つからないままです。もしかすると、いつになっても、見つけようがないかもしれません。ソルティーニが、またそれにつれて、使者までも、ますます奥深くへ引っ込んで行くように思われたからです。ふたりの風采や名前をすっかり忘れている人たちにだって、しばしば出会いました。私は、長い時間をかけて、それを説明せねばならぬことも、しばしばでした。ほかでもなく、なんとかして相手にふたりのことを思い出してもらうためでした。でも、相手は、ふたりのことをやっと辛《かろ》うじて思い出してくれるのが関の山で、ふたりについてなにも話の種の持ち合わせがないのでした。それに、従者たちを相手の私の生活につきましても、世間でどのように取り沙汰しようと、私の力では、むろん、どうにもなりませんでした。私は、世間が、事実をありのままに受け取ってくれて、その代わりに、私たちの一家の罪が、ほんのすこしでも、差し引かれますようにと、祈るほかはなかったのです。でも、それらしい徴候は、外には現れていませんでした。とにかく、私としては、城で私たちのためになにか有利になる工作をしたいと思っても、ほかに可能性が見当たらないものですから、やはり、今までどおりの生活を続けていました。ところが、バルナバスには、そのような可能性があることに、私は、気づいたのです。従僕たちの話から、私は、取りようによっては、そしてまた、そう取りたい気持ちが山々でしたが、城での勤務に採用された者は、自分の家族のために、大いに尽くすことができるということが、推測されたからです。もちろん、そのような話にどこまで信が置かれるかと、問われれば、それを確かめることは、不可能です。ただ、非常に頼りないものであることだけは、明白でした。と申しますのも、例えば、私が、もう二度と会わないような、あるいは、万が一、会ったとしても、ほとんど見覚えのないような従者が、ひとり、いるとします。その従者が私に向かって、おまえの弟が城での勤め口にありつけるように力を貸してやろうとか、あるいは、すくなくとも、バルナバスがなにかのはずみで城へ来るようなことでもあったら、バルナバスを応援してやって、ともかくも、元気づけてやろうとかと、勿体《もったい》ぶりで確約してくれても――と言いますのは、従者たちの話によりますと、職を期待してやって来た候補者たちは、世話をしてくれる友人知人でもいなかったら、途方もなく長いあいだ待たされているうちに、失神したり、気が変になったりして、ついには、廃人になってしまうようなことだって、あるからなのですが――、とにかく、そのようなこととか、そのほかいろいろなことを私に言ってくれても、それは、もっとも至極な警告かもしれませんが、そこでの約束は、すべて、反故《ほご》も同然でした。
でも、バルナバスにとっては、そうじゃなかったのです。私は、そんな約束を真《ま》に受けてはいけないと、弟に注意はしたのですが、弟は、私からそうした話を聞いただけで、もうすっかり私の計画に夢中になってしまいました。私が、この計画を説明するために、わざわざ挙げた理由なんか、弟にほとんどなんの感銘も与えませんでした。弟の心に大きな感銘を与えたのは、ほかでもなく、従僕たちの話でした。こんな経緯《いきさつ》で、私は、実のところ、自分だけを頼りにするほかなくなってしまいました。両親と話が通じる者と言えば、アマーリアを措《お》いて、ほかにいませんでしたし、そのアマーリアでさえも、私が父の年来の計画を私流に遂行して行けば行くほど、ますますすげなく私から遠ざかって行きました。あの子は、あなたやほかの人たちのまえでは、私と言葉を交わしますが、ふたりきりのときは、もう口もきかないのです。貴紳閣にいる従僕たちにとっては、私は、ただの玩具《おもちゃ》でした。あの人たちは、物|凄《すご》い形相をしながら、その玩具を打ち毀《こわ》すのに懸命になっていたのです。私は、この二年間、あの人たちのだれとも、親しい言葉を一言だって交わしたことがありません。底意のある言葉か、嘘八百か、囈言《たわごと》を並べて来ただけでした。そんな訳で、私に残されていた相手と言えば、バルナバスだけでしたが、そのバルナバスも、まだ年が若すぎました。あの子は、私の報告を聞きながら、眼を爛々と輝かせていました。それ以来、その輝きがあの子の眼から消えないのですが、私は、その輝きを見るたびに、胸を冷やしました。かと言って、報告を打ち切る訳にもいきません。私には、あまりにも高価すぎるものが賭《か》けられているように、思われたのです。父の計画は、空しく終わりましたが、偉大でした。もちろん、この私には、あのような偉大な計画は、立てられませんでしたし、男の人たちが持っている、あのような決断力もありませんでした。私は、使者にたいする侮辱の償いということで、終始一貫して来ました。そして、このような謙虚な方針をこそ私の手柄だと思ってくれたら、というのが、私のせめてもの願いでした。
とにかく、私は、自分ひとりでやって見て、失敗に終わったことを、今度はバルナバスを通して、別な方法により、確実に達成しようとしていたのです。私たちは、ひとりの使者を侮辱して、その使者を表に近い事務局から次第に奥深くへ追いやってしまった訳です。とすれば、バルナバスを新しい使者として差し出し、バルナバスにその侮辱された使者の仕事を代行させて、その侮辱された使者には、侮辱を忘れるのに必要な期間であれば、どのように長期に亙《わた》ろうと、思う存分に、遠隔の地で静養できるようにしてあげるのが、なによりも大切なことではないでしょうか。もとより、私は、この計画がきわめて謙虚なものであるにしても、そうした謙虚な気持ちのなかには僭越《せんえつ》な気持ちも混ざっていたことに、十分気づいてはいました。つまり、人事問題はこのように解決すべきだと、私たちが当局にたいして指図しようとしているかのような印象とか、あるいは、独断で最善の処置が取れる当局だけに、私たちが、この際、なにか打つ手があるかもしれないと、考えつくよりもずっと以前に、もうその処置をさえも終えているかもしれないのに、それを私たちが疑っているかのような印象とかを、呼び起こす惧《おそ》れがあることに、十分気づいていたのです。でも、その反面、私は、当局が私を誤解するなんて、考えられないことであり、万が一にも誤解するようなことがあれば、そのときは、故意に誤解しているのだし、そのときは、もちろん、私がなにをしようと、詳しく調査もしないで、天から撥ねつけてしまうに違いないとも、思い直していました。そんな次第で、私は、計画を捨てはしませんでしたし、バルナバスは、バルナバスで、しきりと野心を燃やしていました。この言わば準備期に、バルナバスは、ひどく思い上がってしまって、近く事務局の使用人となる身にとっては、靴屋の仕事が汚らわしすぎると思うようになりました。いや、それどころか、アマーリアが、ほんの時たま、バルナバスに一言でも言おうものなら、むきになって、アマーリアに、反駁《はんばく》するようにさえもなってしまいました。それも、徹底的に反駁するのです。私は、快く、バルナバスにこの一時の満足を許してやりました。だって、バルナバスが城へ赴くようになった初日から、そうした満足や思い上がりも、たちまち、言っていられなくなることは、容易に予測できていたからですもの。こうして、すでにお話し申しあげましたような、あの仮の勤務が始まりました。驚きましたことに、バルナバスは、難なく、いきなり、城へ、いや、もっと正確に申しますと、言わば彼の職場になった、あの事務局へ、立ち入ることができたのです。この成功は、当時、私を狂喜させました。バルナバスが、晩方、家へ帰る道すがら、私にそのことを耳打ちしましたとき、私は、アマーリアのところへ走って行って、あの子の腕を掴《つか》んで、部屋の隅へあの子を押し付け、唇と歯でやたらとキスを浴びせましたので、あの子は、痛さと恐《こわ》さで、泣き出してしまいました。私は、興奮のあまり、物が言えませんでした。それに、もう、長いあいだ、互いに口をきいてもいませんでしたので、話は、近日中にすることにして、延ばしました。ところが、そのうちに、むろん、もう話すことがなくなってしまいました。初日は、あすこまで手っ取り早く漕ぎ着けましたものの、事態は、その後、膠着《こうちゃく》状態で、すこしも進展を見なかったからです。
そうして、二年間も、バルナバスは、この単調な、胸の塞《ふさ》がるような生活を、続けました。従僕たちは、全く恃《たの》みになりませんでした。私は、バルナバスに一通の寸書を持たせてやりました。それによって、従僕たちに、バルナバスヘ眼を掛けてやってくれるように頼むと同時に、私への約束を思い出してもらおうとしたのです。バルナバスは、従僕を見掛ける度ごとに、その手紙を取り出して、相手に突きつけました。時には、私を知らない従僕に出くわしたこともあったでしょうし、また、私と知り合った従僕でも、黙って手紙を眼のまえに突き出すあの子のやり方に――だって、あの子は、城へ上ると、物を言う勇気さえもなかったんですの――気を悪くしたのかもしれませんが、それにしても、だれひとり、あの子を助ける者がいないなんて、あんまりじゃありませんか。そのうちに、従僕のひとりが、それまでに、たぶん、何度も、手紙を突きつけられていたのでしょうが、いきなり、手紙を取り上げて、くしゃくしゃに丸め、屑籠へぽいと投げ込んだとき、なんだか救われたような気持ちでした。でも、こんな救いなら、私たちだって、むろん、自力で、とっくの昔に、味わえていたはずなんですが。そのとき、相手の従者が、『おまえたちだって、よくこんなふうに手紙を始末しているんだろう』と、言いかねないところだったと、私は、ふと、思ったくらいですわ。しかし、それ以外は、ずっとこの方、なんの得るところもない月日が続きましたが、この時期は、バルナバスに、好いと言えば、好いと言えるような影響を与えたのです。つまり、早くませて、早く大人びたのです。それどころか、いろいろな点で、生真面目で、目先が利くことは、大人|裸足《はだし》なのです。私は、今でも、あの子をつくづくと眺め、まだ二年まえの少年だったころと思い比べて、とても物悲しくなるときが、よくありますの。でも、そんなとき、あの子が大人なら、たぶん、私に慰めや心頼みを与えてくれるはずですのに、私にはそんなものがちっともないんです。あの子は、私がいなければ、とても城へは立ち入れなかったはずなのに、城にいるようになってからは、もう私にも寄りかからずに、一本立ちしたんですわ。私は、あの子のただひとりの腹心ですのに、その私にさえも、あの子は、心にかけていることのほんの一部をしか、話してないに違いありません。あの子は、城のことを、いろいろと、私に聞かせてくれます。でも、いくらあの子の話を聞いても、また、あの子の伝えてくれる、数々の些細《ささい》な事実から考えても、どうしてそんなことぐらいで人が変わってしまうのか、てんで解《げ》せないのです。わけても解せないのは、少年のころ、私たち一同が見放すほどまでに、大胆不敵だったのに、そのような勇気を、今、大人になって、あの山上へ赴くようになったからは、どうしてああまですっかり失《な》くしてしまったかということです。むろん、このように、来る日も、来る日も、立ちん坊をした甲斐もなく、待ちぼうけに終わる、同じことを改めて繰り返すだけで、雲行きの変わる見込みさえも皆無ということになると、だれだって、心身ともにまいってしまって、疑心暗鬼となり、その揚げ句には、自棄《やけ》になってただ待つよりほかには、なにもできない人間にさえもなってしまうでしょう。でも、それならそれで、あの子は、どうしてもっと早目に抵抗しなかったのでしょう。万事が私の言い聞かせたとおりで、城には、あの子の野心を満たすようなものはなにもなく、もしかして手に入るものがあるとすれば、たぶん、私たち一家の環境改善に役立つくらいのものであることを、あの子だって、間もなく、見抜いていました以上、なおさらですわ。と言いますのも、城では、万事が――従僕たちの気紛《きまぐ》れは別ですけれども――非常に地道なのです。野心にしましても、城では、仕事によって満たすよりほかありません。となりますと、責務そのもののほうが重きをなしますから、野心は、すっかり薄らいでしまいます。子供じみた望みの入り込む余地なんか、城にはないんです。ところが、バルナバスのほうは、あの子の話を聞いたところでは、あの子の控える部屋にいる役人たちと言えば、全くいかがわしい連中なのに、その役人たちですら、どんなに大きな権力と知識を持っているかを、はっきりと見せつけられているように、思い込んでいたらしいのです。役人たちが、半ば眼を閉じて、ちょっと手を振ったりしながら、口早に、口述筆記させているさまだとか、無言のまま、人差し指だけで、仏頂面の従僕たちを追い払うさまだとか、そのとき、従僕たちは、どんなに喘《あえ》いでいても、嬉しげににっこり笑うそうですが、あるいは、役人たちが、開いている本のなかに、重要な箇所を見つけて、そこを力いっぱいに敲《たた》くと、あの狭い場所で可能な限り、ほかの役人たちも駆け寄って来て、そのほうへ首を伸ばすさまだとか。そうしたことやそれに似たようなことを眼《ま》のあたりにして、バルナバスは、こうした役人連中がよほど偉い人物たちのように、いつしか、想像するようになったのです。そして、その役人たちの眼に留まり、役人たちと――赤の他人としてではなく、その事務局の同僚として、と言っても、もちろん、こちらは下っ端ですが――二言、三言でも言葉を交わせるようにでもなりさえしたら、私たち一家のために、予想もできないくらいのことを達成してやれるようになるのではないかという印象をさえも、受けたのでした。でも、目下のところは、まだそこまでも行ってはいませんし、そこまで漕ぎ着けられるだけの努力をする勇気さえも、バルナバスにはないのです。その癖、あの子は、あの若さにもかかわらず、私たちの家庭内では、度重なる不幸な事情によって、いつのまにか、家長という責任重大な立場にまで伸《の》し上げられていることを、もうちゃんと心得ていたのです。ところで、告白の締め括《くく》りとして申し添えておきますと、今から一週間まえに、あなたが、当地へお越しになりました。私は、貴紳閣で、だれかがその話をしているのを耳にしましたが、気にも留めませんでした。測量師が来られたというだけで、それがどういうことなのか、私には、さっぱり分からなかったのです。すると、翌晩のことです。バルナバスが――私は、いつも、決まった時刻に、ちょっと先まで、あの子を迎えに行ってやることにしていましたが――いつもよりも早く、家へ帰って来まして、アマーリアが部屋にいるのを見ますと、私を引っ張って路上へ連れ出し、私の肩に顔を押しつけて、何分間も泣き続けるのです。あの子は、もう昔の少年に戻ったも同然です。あの子の身に、対処しきれないようなことが、起こったのです。あの子のまえに、突然、全く新しい世界が開かれたかのようで、あの子は、その新世界のもたらす幸福と不安とに耐えられないのです。ところで、あの子の身に起こったことと言えば、ほかでもありません。あなたへの手紙を届けるように托されて来ただけなのです。でも、それが、もちろん、最初の手紙なのです。そもそもあの子がありついた、最初の仕事なのです」
オルガは、ひとまず、話を打ち切った。両親の苦しそうな、時折、ぜいぜい言う息遣いを除いては、森閑としていた。Kは、つい気さくに、オルガの話を補足するかのように、言った。「あなたたちは、僕のまえで、白《しら》をきっていた訳ですね。バルナバスは、まるで年季を入れた、多忙な使者のような顔をして、手紙を届けて来るし、あなたとアマーリアは、この場合は、アマーリアもあなたたちと示し合わせているはずですが、使者の勤めも、手紙類も、ほんの二の次にすぎないようなふりをするししてね」
「私たちを一緒くたになさってはいけませんわ」と、オルガは言った、「バルナバスは、あの二通の手紙によって、元の幸福な少年に戻ったのです。自分の仕事については、まだいろいろと疑いを持っていますけれどもね。でも、それは、あの子が自分と私との身を案じて抱いている疑いにすぎませんの。あなたにたいしては、いかにも本当の使者らしく、本当の使者はこのように登場するものだと、あの子が思い描いているとおりの形《なり》振りをして、あなたのまえに現れることに、あの子は、名誉を見出そうとしているのです。そんな訳で、今でも、官服へかけるあの子の望みは、ますます募るばかりですが、それだけに、私としても、例えば、二時間以内に、あの子のズボンを仕立て直してやらねばなりませんでした。すくなくとも、あの官服の、身にぴったりと合った、細いズボンに似たようなものを穿《は》いて、あなたのまえに出れば、あの子だって、たじろぎはすまいと、思ったからです。むろん、こうした点で、まだ新米のあなたをごまかすくらい、訳ないことですからね。これがバルナバスの話です。
ところで、アマーリアのほうですが、アマーリアは、実のところ、使者の勤めを軽蔑しているのです。そして、バルナバスがそのほうで、多少なりとも、成功を収めたらしく見えるようになった今では、それくらいのことなら、バルナバスの顔にも、私の顔にも、ちゃんと書いてありますし、ふたりが一つところにすわって、ひそひそ話をしているのを見れば、アマーリアだって、たやすく勘づきますもの。それで、今では、以前よりもずっとひどく、軽蔑しているんです。それで、あれの言っていますことは、本音なのです。それをお疑いになったりして、惑わされることのないようにお願いしますわ。ところで、私はね、K、時折、使者の勤めを見下げるようなことを申してまいりましたが、あなたを欺く心算《つもり》で申した訳じゃないんです。不安からですの。これまでバルナバスの手に托されて来ましたあの二通の手紙は、三年このかた、私たち一家が与《あずか》りました、最初の恩寵のしるしなのです。と申しましても、もちろん、まだ疑う余地は、十分に残ってはいますが。それが、ともかくも、ひとつの局面転換であって、けっしてまやかしでないとすれば――局面転換のときよりも、まやかしのときのほうが、頻繁なのですが――この局面転換は、あなたが当地へ来られたことと関連している訳です。私たちの運命は、なにがなしに、あなたに依存するような羽目に至ったのです。あるいは、この二通の手紙は、ほんの序の口にすぎなくて、バルナバスの活動は、あなたに関する使者役にとどまらないで、もっと広範囲に拡がって行くかもしれません――私たちも、差し障りない限り、そうあってほしいと祈っているのですが――。しかし、目下のところ、何事につけても、当てになるのは、あなたひとりなのです。ところで、私たちは、あちらの城では、私たちになにが賦与されようと、それで得心せねばなりませんが、こちらの村では、しかし、私たち自身ででもやれることがあるかもしれません。それは、つまり、私たちの手であなたの御好意を確保しておくこと、と申して失礼であれば、すくなくとも、あなたに嫌われないように用心することです。言い換えますと、これが最も肝心なことですが、あなたと城との繋がりが――これこそ、私たちにとっても、命の綱かもしれないんですもの――だめになってしまわないように、私たちが経験の限りを生かして、精一杯に、あなたを擁護して差し上げることです。
それでは、そうしたことのために、どこから手を染めれば一番いいのでしょうか。いずれにしましても、私たちがあなたに近づきましても、私たちにたいしてどんな邪推をも抱かれないようにしていただくことが、先決問題ですわ。だって、あなたは、当地では余所《よそ》者ですし、そのため、四方八方にたいしてすっかり疑《うたぐ》り深くなってらっしゃるに違いないんですもの。そのお疑いももっとも至極ではございますけれどもね。そのうえ、私たち一家は、なんと言っても、軽蔑の的ですし、あなただって、世評に影響されておいでです。とりわけ、あなたの許嫁《いいなずけ》からいろいろと聞かされてね。としますと、私たちは、どのようにしてあなたのところへ押し掛けて行けばいいんでしょう。ことによっては、例えば、私たちにそんな心算がからっきしなくとも、私たちとあなたの許嫁とが対立するに至って、そのことであなたのお気持ちを害することにもなりかねませんし、それだけは避けねばなりませんもの。次に、あの手紙の件ですが、あなたがお受け取りになるまえに、実は、私、篤《とく》と読ませていただきましたのですが――バルナバスは、いずれをも読んではおりません、使者であります以上、そんな勝手なまねは、許されないのです――いきなり拝見しただけでは、古びたものでしたし、さして重要なものとも思えませんでしたが、あなたに村長のところへ出向くようにとの指示がありましたので、しだいに重要なものであることが分かって来ました。それにしても、私たちは、この点に関して、あなたにたいし、どのような態度を取ればよかったのでしょう。もしも私たちがその重要さを力説すれば、一見して重要でないことが明白な通告をば過大評価し、配達人の分際で、あなたを煽《おだ》て上げて、あなたの目的ではなく、私たち自身の目的をあくまでも追求したという嫌疑を、私たちは、蒙《こうむ》らねばならなかったでしょう。そうです、そうなれば、あなたに肝心の通告そのものをも軽視するように仕向けたことになって、私たちは、はなはだ不本意ながら、あなたをだましたことになっていたかもしれません。かと言って、私たちがそれらの手紙に大した価値を置かなければ、それはそれで、同じように、嫌疑を免れることはできなかったでしょう。と申しますのも、その場合には、私たちについてですよ。どうしてあの連中は、こんな下らない手紙を配達するのに追い回されるのか、どうして連中の行動と言葉とが互いに矛盾するのか、どうして連中は、このようにして、手紙の受取人、と申しますと、むろん、あなたですが、その受取人をだけでなく、手紙の委託人をまでも、欺くのか、確かに、委託人としては、連中が、受取人のところで、勝手な説明をして、手紙の価値を台無しにしてくれることを期待して、連中に手紙を托したのではなかったはずだが、と。そんな嫌疑が生じるからです。しかも、こうした、両極端のあいだで中庸を保つこと、つまり、手紙を正当に評価することは、実は、全く不可能なのです。手紙自体が、絶えず、その価値を変えるからです。はしなくも、それが切っ掛けとなって、熟考を重ねる訳ですが、その熟考も、限《きり》がありません。そうした熟考の中途で、どこで停止するかは、ただ偶然によってのみ決まることです。従って、その場の意見も、偶然な意見にすぎません。ところで、そのとき、あなたにたいする気遣いも介入して来れば、もうなにもかもがこんがらかってしまいます。かと申したからとて、私の言葉をあまり厳密にはお取りにならないでいただきたいのです。例えば、いつかの二の舞いのように、バルナバスが帰って来て、あなたがあの子の使者の勤めに不満を示しておられるので、あの子としては、途端に魂消《たまげ》てしまって、それに、残念ながら、使者特有の過敏な感情をも損ねたのでしょうか、この勤めを辞退する旨を申し出て来た、と報告するようなことでもありましたら、私は、もちろん、あの子の失策を償うために、ごまかすことだって、嘘をつくことだって、罠《わな》に掛けることだって、役に立つことでありさえすれば、どんないけないことをだって、やりかねないのです。もっとも、そうしたことは、すくなくとも、あなたのためでもあり、私たちのためでもあると、私が信じたからこそ、やれるのです」
そのとき、ノックの音がした。オルガは、戸口ヘ走って行って、ドアを開けた。暗闇のなかへ龕灯提灯《がんどうぢょうちん》から一条の光が差していた。その深夜の来訪者が、ひそひそと、なにやら、尋ねていた。オルガも、それにたいして、ひそひそと、答えていた。しかし、相手は、オルガの返事に納得しないで、部屋へ濫入しようとした。オルガは、相手を押し止めきれなくなったらしく、アマーリアを呼んだ。明らかに、アマーリアなら、両親の眠りを妨げないようにしながら、来訪者を立ち去らせるのに、全力を尽くしてくれると、期待しているようだった。案の定、アマーリアは、早くも飛んで来て、オルガを押しのけると、路上へ出て、背後のドアを閉めた。かと思うと、物の一瞬もたったろうか、アマーリアは、すぐまた、戻って来た。オルガにできなかったことを、それほど手っ取り早く、やり遂げたのだった。
Kは、そのとき、オルガから、今の訪問は自分にたいしてなされたものであることを聞かされた。助手のひとりが、フリーダの命《めい》を受けて、彼を探しに来たのだった。オルガは、助手を阻止してでも、Kを庇《かば》いたいと思ったのだった。K自身が、ここへ訪ねて来ていたことを、後刻、フリーダに打ち明けたくなったら、打ち明けたって構わないが、訪問の現場を助手に見つけられるのはまずい、と判断したのである。Kは、それに賛成した。しかし、ここで一夜を過ごして、バルナバスの帰りを待っては、というオルガの申し出を、彼は、断った。その申し出、それ自体としては、快く受けても、別に、どうと言うことはなかったろう。すでに夜も更けていたし、今となっては、好むと好まざるとにかかわらず、この一家とこのように深い繋がりができてしまった以上、ここで宿ることは、ほかの理由からであれば、あるいは、具合が悪いかもしれないが、しかし、この繋がりを顧慮すれば、この宿が、彼には、村じゅうで最も自然な場所のように、思えたからである。それにもかかわらず、彼は、断った。助手が不意に訪ねて来たので、度肝を抜かれたのである。それにしても、Kの意図をよく知っているはずのフリーダと、Kの恐さを身をもって体験して来ている助手たちとが、どうしてまたひとつところに集まることになったのか、Kにはとんと解せなかった。しかも、フリーダが、なんらためらうことなく、助手のひとりを、しかも、ひとりだけを、主人を探しに、外へ出して、どうやら片方の助手を手許《てもと》に残しているらしいが、これは、どうしたことであろう。Kは、オルガに、鞭の持ち合わせがないか、尋ねた。鞭はないが、代わりに、しっかりした柳の枝ならあるとのことで、それを貰うことにした。それから、彼は、表口のほかに別の出口がないか、尋ねた。すると、中庭を横切って行く出口が、あるにはあった。ただ、このほうは、隣家の庭の垣を攀《よ》じ登って越え、そこの庭を通り抜けないと、街道へは出られないとのことであった。Kは、そうしたい、と言った。Kは、オルガの案内で、中庭を横切り、垣のほうへ向かう途《みち》すがら、オルガがなにかと心配しているので、オルガを早く安心させてやろうと思い、自分は、あなたが話のなかでいろいろと小細工を弄したからといって、けっして気を悪くなんかしていない、それどころか、自分にはあなたの気持ちが身に沁みるほどに分かっている、と先ず言い訳したうえで、彼女が彼に寄せてくれた信頼にたいし、またその信頼を彼女の打ち明け話によって実証してくれたことにたいし、礼を述べるとともに、バルナバスが帰り次第、夜中でもいいから、すぐに彼を学校のほうへ寄越してくれるように、依頼した。そして、さらに言葉を続けて、バルナバスに托される書面が自分の唯一の希望という訳ではないし、もしそうなら、自分は、とっくに苦境に陥っていたろうが、しかし、それらの書面を諦《あきら》める気持ちも毛頭ない。それで、自分としては、そうしたものも頼りにしながら、オルガ、あなたのことも忘れないようにしていきたい。と言うのも、自分にとっては、それらの書面よりも、あなた自身のほうが、あなたの勇敢さ、思慮の深さ、利発さ、そしてまた家族にたいする献身ぶりのほうが、ずっと大切なように思えるほどだからだが。そんな訳で、もしもオルガとアマーリアのどちらかを選べと言われたって、自分は、大して首を捻《ひね》らなくともいいだろう。そう言い終わって、Kは、オルガの手を情愛を籠《こ》めて握りしめたかと思うと、早くも身を翻して、ひらりと垣のうえに飛び上がっていた。
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第十六章
やがて通りへ出ると、Kは、文目《あやめ》も分からぬ闇のなかに眼を凝らした。すると、眼が慣れてくるにつれて、ずっと向こうのやや高みのバルナバスの家のまえで、いまだに先刻の助手が行きつ戻りつしているのが見えた。助手は、時折、立ち止まっては、龕灯提灯《がんどうぢょうちん》の明かりで、カーテンを下ろした窓越しに、部屋のなかを照らそうとしている。Kは、助手に呼び掛けた。別に肝を潰《つぶ》した様子もなく、助手は、屋内の探知を止《や》めて、Kのほうへやって来た。
「だれを探しているんだい」と、Kは、尋ねながら、柳の枝の撓《しな》やかさを太腿のところで試していた。「あんたをでさ」と、助手は、近づいて来ながら、言った。「おまえは、一体、何者だい」と、Kは、不意に尋ねた。どうも助手でないように思えたからであった。相手は、助手にしては、年寄りくさく、存外に疲れていて、皺《しわ》くちゃなのに、顔の肉づきがよすぎるのである。歩きぶりにしても、助手たちの、あの関節のところに電気を帯びているような、すばしこい歩きぶりとは、全く違っていた。鈍臭《のろくさ》くて、すこしばかりびっこを引き、どことなく上品な人種を思わせるような病弱さが感じられた。「もうこのわしを見忘れなさったのかね」と、相手の男は尋ねた、「イェレミーアスでさ。あんたの以前からの助手の」
「なるほど」と、Kは、言って、すでに背に隠していた柳の枝を、またしても、すこしばかり、前へ引き寄せた。「それにしても、見かけがすっかりと変わったじゃないか」「そりゃ、独りぼっちだからでさ」と、イェレミーアスは言った。「独りきりでいると、陽気な若さも、素っ飛んでしまうんですよ」「ところで、アルツールは、どこにいるんだ」と、Kは尋ねた。「アルツールって」と、イェレミーアスは聞き返した。「ああ、あの小若い衆ですかい。あれなら、勤めを止めましたよ。あんたが、すこしばかり、わしらを手荒く酷《こく》に扱ったこともありましてね。あれは、根が優しいやつだから、それに耐えられなかったんですな。それで、今、城内へ戻って、あんたのことで苦情を訴えてまさ」「それで、おまえは」と、Kは尋ねた。「わしは、居残れたんです」と、イェレミーアスは答えた、「アルツールがわしの分も訴えてくれてますんで」「それで、なにが苦情なんだい」と、Kは尋ねた。「なにがって」と、イェレミーアスは言った、「あんたがちっとも冗談を分かってくれないことですよ。一体、わしらはなにをしたと言うんです。ちょっとばかりふざけて、ちょっとばかり笑い、ちょっとばかりあんたの許嫁《いいなずけ》をからかっただけじゃないですか。それ以外は、万事、言いつけどおりにやった心算《つもり》です。ガーラターがわしらをあんたのところへ差し向けることにしましたとき――」「ガーラターだって」と、Kは問い返した。「へい、ガーラターなんで」と、イェレミーアスは言った。「当時、たまたま、クラムの代理をしてましたもんで。そのガーラターがわしらをあんたの許《もと》へ差し向けることにしましたときに、言ったんでさ――わしは、今でも、それをきちんと覚えてますよ。だって、こうして、それを引き合いに出さなくちゃならんときがありますからな――、『おまえたちは、測量師の助手として行くんだ』とね。それで、わしらは、『でも、わしらには、そのような仕事について、からっきし心得がないですが』と、言ったんです。すると、あの人が答えて、『そんなことは、肝心|要《かなめ》なことじゃない。必要になったら、やつがおまえたちに教えてくれるだろう。ところで、肝心要なことは、おまえたちでやつをすこしばかり陽気にしてくれることだ。当方へ届いた報告によると、やつは、何事によらず、しち難しく考える男らしい。今、村へやって来たばかりなのに、もう、そのことが、やつにとっちゃ、大事件なんだ。ところが、実際は、全くなんでもないことなんだが。そのことをおまえたちからやつに教えてほしいのだ』と、言うもんで」
「それで」と、Kは言った、「ガーラターの言ったとおりだったので、おまえたちも、任務を果たしたことになるのかい」「そいつは、わしにも分かりません」と、イェレミーアスは言った、「何分にも、こんな短い期間じゃ、無理と言うもんでさ。ただひとつ、わしに分かっているのは、あんたがひどく手荒だったということですよ。そのことで、わしらは、苦情を訴えてるんです。わしにさっぱり解《げ》せないのは、あんただって、ただの被用者にすぎないのに、しかも、城に雇われている身ですらもない癖に、このような勤めがどれほど辛《つら》い仕事か、あんたがしてきたように、気儘《きまま》勝手に、ほとんどだだっ子のような仕草で、労働者の仕事を余計に苦しいものにするのが、どれほど怪《け》しからぬことか、あんたにどうして見抜けないかと言うことですよ。よくもまあそこまで薄情になれるもんですな。わしらを鉄柵のところで凍え果てさせたり、アルツールのように、一言怒鳴りつけられただけで、何日間も、胸を痛めているような人間を、敷きぶとんのうえで、拳《こぶし》で殴りつけ、半死半生の目に会わせたり、また、きょうの午後なんかは、雪のなかを縦横にわしを追い駆け回したりしてさ。お陰で、わしは、息切れが直るまでに、一時間もかかったくらいですぜ。わしだって、もう若くはないんですからな」
「ねえ、イェレミーアス」と、Kは言った、「おまえの言い分は、いちいちもっともだが、ただ、そうしたことは、ガーラターに直訴してもらうに限るね。あの男が、勝手に、おまえたちを差し向けて来たんだし、僕のほうから、あの男に懇願して、おまえたちを貰い受けたんじゃないしさ。ところで、おまえたちを要求したのでない以上、おまえたちを、また元のところへ、送り返したっていい訳だ。それで、僕としては、力ずくでなくて、むしろ、穏便に、事をそう運びたかったのだが、当のおまえたちのほうが、明らかに、穏便なやり方では承知しそうもなかったからな。それにしても、おまえは、僕のところへ連れ立って来た早々から、どうして今のように虚心坦懐に物を言ってくれなかったんだい」「あれは、勤務に就いていたからですよ」と、イェレミーアスは言った、「当然のことじゃないですかい」「すると、今はもう、勤務に就いてないのかい」「そうなんで」と、イェレミーアスは言った、「アルツールが、お城で、辞職を申し出てくれたはずです。すくなくとも、それで、わしらを勤務からこれっきり解いてくれるはずの手続きが、進行中でさ」「それにしても、おまえは、先刻まで、勤務の続きみたいにして、僕を捜していたじゃないか」
「滅相もない」と、イェレミーアスは言った、「わしは、ただ、フリーダを安心させたいばっかりに、あんたを捜したにすぎんのですぜ。つまり、あんたが、バルナバスの家の娘どもにかまけて、フリーダを見捨ててしまったんで、フリーダがひどく悲しがっていたからでさ。あんたを失ったことよりも、むしろ、あんたに裏切られたことのほうが、フリーダには、余計に応《こた》えたんですよ。むろん、このような目に会うことは、もう前から、見て取っていて、それだけに、もう前から、随分と悩んでいたんでさ。ちょうどそのとき、わしは、教室の窓のところまで、引き返して行きました。あんたが、もうそろそろ分別を取り戻してもいいころではないかと思って、どうなのか、様子を確かめるためだったんです。ところが、あんたは、教室にいなくて、フリーダだけが、ひとり、学童用の長椅子に腰を掛けて、泣いていましたんで。それで、わしは、フリーダのところへ行ってやりました。そこで、ふたりのあいだで、期せずして、話が纏《まとま》った次第でして。それで、もう早速ですが、万事、手を打ってしまった訳でさ。わしは、すくなくとも、わしの件が城で片付けられるまでのあいだ、貴紳閣で、客室係のボーイをしますし、フリーダは、元の酒場へ返り咲きです。フリーダには、そのほうが適役ですしね。あんたの連れ合いになるなんて、もともと、あの人にしてみれば、筋の通らない話だったんですよ。それに、あんたには、あの人があんたのために払おうとした犠牲の価値を認める眼がなかったんですからな。だのに、あの人は、根が優しい女だもんで、今になっても、あんたがひどい目に会っちゃいまいか、もしかして、やはり、バルナバスの家へ出掛けたんじゃなかろうか、などと、時折、気を揉んでいるんでさ。むろん、あんたがどこにいるかについちゃ、全く疑問の余地もなかったんですが、わしは、それでも、それを確《しか》と突き止めるために、こうしてのこのことやって来たんです。だって、フリーダは、なにかと興奮のしどおしだったあとですし、もうこの辺で、安眠させてやらないとかわいそうですからな。むろん、このわしだって、そうですがね。そんな訳で、出掛けて来たんですが、わしは、あんたを見つけただけでなく、序《ついで》に、あすこの娘どもがあんたの手玉に取られている現場までも、見届けさせてもらいましたよ。とりわけ、あの髪が濡れ羽色の娘ときたら、ありゃ、本物の山猫ですぜ。それがあんたにすっかり肩入れしてましたな。まあ、蓼《たで》食う虫も好き好きでしょうがね。だが、いずれにしても、隣の庭を通って回り道をするなんて、ありゃ、むだ骨ですぜ。わしは、あすこの道には通じてますんでね」
それでは、やっぱり、成るように成ってしまったか。予知はできていたものの、阻止する手立てがなかったのだから、仕方ない。フリーダには、ついに、逃げられてしまった。だが、これで万事休した訳でもあるまい。それほど最悪の事態ではない。フリーダは、いずれ、奪い返せるだろう。余所《よそ》から来た者にだって、いや、それどころか、こんな助手風情にだって、やすやすと、口車に乗せられるような女だからな。助手どもは、フリーダの立場を自分らの立場と似たものと思って、自分らが暇を取ったものだから、それで、フリーダをも暇を取るように唆《そそのか》したに違いない。ところで、自分としては、フリーダのまえへ出て、自分に有利な証拠を、洗い凌《ざら》い、思い出させてやりさえすればいい。すると、あの女は、ひどく後悔して、また元どおりに、こちらの所有《もの》になるだろう。そのとき、あの娘たちのところへ訪ねて行っていたことを正当化するために、あの娘たちのお陰で掴《つか》めた、なんらかの成果を引き合いに出すことができたら、なおさらいいんだが。ところで、このように、フリーダのことで、気を静めようとして、とつおいつ思案するほど、Kは、却《かえ》って、気持ちが落ち着かなかった。つい今しがた、オルガに向かって、フリーダのことを自慢し、フリーダを自分の唯一の心の支えだとまで言った。ところが、その支えが、今となっては、大してしっかりしたものでないことが分かったのである。そうだ、自分からフリーダを奪い去るくらいのことなら、なにも屈強な男が手を出すまでもない。こんな見るだに味気なさそうな助手だって、結構、やれるのだ。時折、本当に生きているのかどうか、分からぬ感じのすることさえある。こんな肉塊でだって、事足りるのだ。
そう思ったとき、イェレミーアスのほうは、すでに立ち去りかけていた。そこで、Kは、あわてて、相手を呼び戻した。「イェレミーアス」と、彼は言った、「僕は、おまえにたいして、ざっくばらんに打ち明けるとしよう。だから、おまえのほうも、僕の問いに正直に答えてくれ。僕らは、もう主従の関係じゃない訳だ。そのことを喜んでいるのは、なにもおまえだけじゃない。この僕もだ。従って、互いにだまし合いをしなくちゃならない理由は、なくなったのだ。それでは、おまえの眼のまえで、この鞭を折るとしよう。こいつは、おまえに使う心算で、用意して来たものだ。実のところ、僕が庭を横切る回り道を選んだのも、おまえを恐れたからではない。おまえの不意を襲い、おまえのからだで、二、三度、この鞭を扱《しご》いてみたかったからだ。さあ、これで、もうこのことは悪く思わないでくれ。とにかく、万事、済んだことだからな。もしもおまえが、役所の押しつけて来た助手でなくて、単に知り合いにすぎなかったとしたら、たといおまえの風采に、時折、ちょっと僕の気に障る点があるにしても、僕らは、きっと、もう人も羨むような仲になっていたことだろう。でも、僕らは、その気になりさえしたら、この点で為《し》残していたことを、今からだって、埋め合わせができるはずだよ」
「それ、本気ですかい」と、助手は、言って、あくびをしながら、疲れた両眼を閉じた。「この件についちゃ、もっと詳しく説明してあげられたらいいんですが、生憎《あいにく》と暇がないんでさ。フリーダのところへ行ってやらなくちゃならんのでね。あの子がわしを待ってるんですわい。あれは、まだ勤務に就いちゃいないんで。あすこの亭主が、わしの懇願を聞き入れてくれて――あの子のほうは、たぶん、忘れるためでしょうが、すぐにでも仕事に没頭したがっていたんですが――あの子に、なおしばらくの休養期間を与えてくれたんで、わしらは、せめてその期間中なりとも、一緒に暮らすことにしたんでさ。ところで、あんたの今の申し入れですがね。確かに、わしのほうにゃ、あんたに嘘を付かなくちゃならない謂《いわ》れもなけりゃ、かと言って、あんたになんらかの秘密を打ち明けにゃならない謂れもないですぜ。つまり、わしのほうとあんたのほうとでは、事情が違うんですよ。わしがあんたにたいして部下の身であったあいだは、あんたは、わしにとって、むろん、非常に大切な人物だった。なにもあんたの人柄に関して言っているんじゃありませんぜ。あんたが仕事を授けてくれるからでさ。それで、わしとしても、あんたの所望とあれば、なんなりとも、あんたのためにしたでしょうがね。ところが、今となっては、あんたのことなど、わしにとっちゃ、もう痛くも痒《かゆ》くもないんですぜ。鞭を折ったことだって、なんとも感じませんな。ひどく粗暴な主人だったんだな、ということくらいを思い出させるのが、関の山ですよ。その手でわしの心を取り込もうとしたって、そうはまんまと問屋が卸しませんぜ」「黙って聞いていれば」と、Kは言った、「もう僕から、今後一切、恐《こわ》い目に会わされはしないということが、まるで確実であるかのような口のきき方をするではないか。ところが、実は、案に相違だ。おまえは、どうやら、まだ僕の手を離れて自由の身にはなっていないらしいぞ。当地では、そんなに早く、問題処理が行われることもないしね――」「時には、もっと早い場合だってありますぜ」と、イェレミーアスが、言葉を挟んだ。「時にはね」と、Kは言った、「だからと言って、今回もそうだと言う決め手にはなるまい。すくなくとも、おまえだって、僕だって、文書による解決通知は、まだ受け取ってないからな。そんな訳で、手続きがやっと進行しかけたばかりのところなんだ。僕だって、僕の手蔓《てづる》を通して喙《くちばし》を容《い》れることを、まだ全然やってないくらいだからな。まあ、そのうちにはやる心算だがね。それで、おまえに不利な結果が出たら、おまえは、おまえの主人に好意を持たれるような下工作を、大してせずにいたことになるな。それに、どうやら、あの柳の枝を折ったのも、余計なことでしかなかったようだ。それにしても、おまえは、フリーダを攫《さら》って行って、大いに鼻高になっているようだが、しかし、僕としては、おまえという人間にたいして全面的に尊敬しているとは言え――おまえは、僕にたいして、もはや尊敬の念を持ってないにしても、僕のほうは、おまえを尊敬しているんだが――僕からフリーダに、二言、三言、声を掛けさえすれば、それで結構、おまえがあれを籠絡《ろうらく》するときに並べた嘘の皮くらいは、立ちどころに、引き裂いて見せるだけの自信があるのさ。それに、嘘っぱちだけで、フリーダに僕へ背を向けさせることができたんだからな」「それくらいのおどしじゃ、びくともしませんや」と、イェレミーアスは言った、「どのみち、あんたは、わしを助手に抱えたくないのさ。わしが助手だと、恐いんだ。そもそも、あんたは、助手というものがすべて恐いんだ。恐いからこそ、あの気のいいアルツールを殴ったりしたんだ」「そうかもしれないな」と、Kは言った、「だからと言って、それだけ痛さが応えなかった訳でもあるまい。たぶん、僕は、今後もしばしば、そんなやり方で、おまえにたいする僕の恐怖心のほどを示してやれるだろう。おまえにとっては、このような助手の勤めが、一向にありがたくないことは、僕にも分かっているが、それだけにまた、おまえを助手に縛りつけておくことは、僕にとって、どんな恐怖心をもすっかり忘れてしまうほどに、最大の楽しみなんだ。しかも、今度は、アルツール抜きで、おまえだけを貰えるように、骨折ってみようと思っている。そうなれば、おまえのほうへ、今まで以上に、注意を向けることができるからな」「それにしても、あんたは」と、イェレミーアスは言った、「わしがそんなことを、ほんのちょっぴりでも、恐がっていると、思っているんですかい」
「まあ、そうだろうな」と、Kは言った、「確かに、おまえは、多少なりとも、恐がっているさ。それに、もしおまえが利口だったら、大いに恐がっているはずだ。でなければ、おまえは、どうして、さっさとフリーダのところへ行ってしまわなかったんだい。さあ、言ってみろ、おまえは、一体、あの女が好きなのかい」「好きって」と、イェレミーアスは言った、「あれは、気の優しい、利口な娘で、クラムの以前の恋人ですぜ。ですから、いずれにせよ、尊敬に値する女でさ。しかも、そのフリーダが、あんたから救い出してほしいと、しょっちゅう、わしに頼んでいたとすれば、わしとしても、あれに親切を尽くしてやらずにはいられないじゃないですか。それで、あんたを傷つけることにもならないとすれば、なおのことですよ。しかも、あんたときたら、あのバルナバスのところの尼っ子どもを相手に、お楽しみの最中でしたからな」「今こそ、おまえの恐がる心底を見届けたぞ」と、Kは言った、「それにしても、なんと情けない恐がりようだ。この僕をも嘘で籠絡しようとしやがって。フリーダが頼んでいたことと言えば、ほかでもない、始末におえなくなった、犬のようにさかりがついた助手どもから、救い出してほしいという一事だけだ。残念ながら、その願いを十分に叶《かな》えてやれるだけの暇が、僕のほうになかった。それを怠ったばかりに、今になって、こんな結果が出て来たんだ」
「測量師さん、測量師さん」と、路地の向こうから、だれかの呼ぶ声がした。バルナバスだった。息せき切ってやって来たものの、Kのまえで一礼することを忘れなかった。「うまく行きました」と、彼は言った。「なにがうまく行ったのだ」と、Kは尋ねた、「クラムに僕の願いを申し述べてくれたのだろうな」「それは、できませんでした」と、バルナバスは答えた、「随分と骨を折ってはみたんですが、だめでした、わたしは、よく目につくように、前のほうへのさばり出て、別に命じられもしないのに、一日じゅう、例の立ち机のすぐそばに立っていたんです。そのため、一度などは、わたしの五体が光を遮ったため、陰になった書記から、押しのけられたほどでした。それでも、わたしは、クラムが目を上げるたびに、これは御|法度《はっと》なんですが、片手を挙げて、わたしの来ていることを知らせました。そして、一番遅くまで、事務局に残っていたもんで、ついには、わたしと従僕たちとだけになってしまいました。そのうちに、クラムが戻って来る姿を見かけて、またも、胸をときめかしたんですが、わたしのために戻って来た訳じゃなかったんです。なにかの書物のどこかを急いで調べようと思っただけなんでしょう。すぐまた、出て行ってしまいました。それでも、わたしが、あいかわらず、一つ場所に頑張ってましたもんで、ついには、従僕が、わたしを、箒《ほうき》で掃き出さんばかりにして、ドアのそとへ追い出してしまったんです。こうして、洗いざらい、白状しますのも、わたしの手腕にもう二度と不満を持ってほしくないからです」「バルナバス、おまえがいくら精を出してくれても」と、Kは言った、「なんの成果をも挙げずに終わったら、僕にとって、なんの役にも立たないではないか」
「ところが、成果があったんですよ」と、バルナバスは言った、「わたしがわたしの事務局から出たときでした――わたしは、行き付けの事務局をわたしの事務局と呼んでいるんですが――。ずっと回廊の奥のほうから、ひとりの殿方が、ゆっくりした足取りで、こっちのほうへやって来るじゃありませんか。その人以外には、もうどこにも、人影らしいものが見当たりませんでした。もう、時刻も、ひどく遅かったんでね。わたしは、その人を待ち受けようと、決心したんです。まだそこに残っていたのが、いい機会でした。あなたにかんばしくない報告を持って帰らなくともすむなら、わたしは、喜んで、いつまででも、そこに居残っていたでしょうな。ところが、そうまでせずとも、その殿方を待ち受けただけの甲斐《かい》があったんです。見れば、エルランガーです。あんたは、この方を御存じじゃないんですかい。クラムの一等秘書のひとりなんです。ひ弱そうな、小柄な方で、すこしばかりびっこをひいてますが。そのエルランガーがすぐにわたしだと分かってくれました。なにしろ、記憶力がすぐれていることと世情に通じていることでは、名だたる人物です。眉をちょっと顰《ほそ》めさえすれば、それで、立ちどころに、相手がだれであろうと、もれなく正確に見分けられるというから、大したものです。話に聞いたか、書き物で読んだかしただけで、一度も会ったことのない人たちに出くわしても、見分けられるときがしばしばとのことです。例えば、このわたしをだって、あの方は、よもや御覧になったことはないと思うんです。ところが、どんな相手をも即座に見分けるのに、あの方は、いかにも心許なさそうな様子をして、先ずだめを押すように問うのが、癖なんです。それで、わたしに向かっても、『バルナバスじゃないのかい』と、言いました。そして、『おまえなら、測量師を識《し》っているはずだね』と、尋ねました。それから、やっと用事を持ち出して。『それは、好都合だ。わたしは、これから、貴紳閣へ車を走らせる。ついては、測量師にわたしをあすこへ訪ねて来させたいんだ。わたしの泊まっているのは、十五号室だ。だが、今すぐに測量師が来てくれないと、困るんだ。わたしは、あすこでは、二、三の相談事があるだけで、朝の五時には、もう城へ引き返す。測量師との面談を、わたしは、とても重要視していると、先方へ伝えてほしい』と言ったんです」
不意にイェレミーアスが駆け出した。それまで、興奮しきって、ほとんどイェレミーアスを眼中に置いてなかったバルナバスは、尋ねた、「イェレミーアスは、一体、なにを思ったんでしょうな」「僕の先回りをして、エルランガーに会おうという寸法さ」と、Kは、言い捨てるなり、イェレミーアスのあとを追いかけた。そして、彼を引っ捕まえると、その腕にしっかと取り縋《すが》りながら、言った、「フリーダ恋しさで、急に、たまらなくなったのかい。それなら、こちらも引けを取らぬ。それでは、足並み揃えて、行くとしようか」
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第十七章
闇に包まれた貴紳閣のまえには、小人数の男たちの群れが立っていた。二、三の者が手さげ灯を携えていたので、大抵の顔は、見分けがついた。ただひとりだけ、Kの顔見知りがいた。馭者《ぎょしゃ》のゲルステッカーだった。ゲルステッカーは、彼に、挨拶がわりに、尋ねた、「まだ村にいたんですかい」「そうだ」と、Kは言った、「永住の心算《つもり》で来たんだからな」「わしには関係ないことでさ」と、ゲルステッカーは、言って、はげしく咳き込みながら、ほかの連中のほうへ顔を背《そむ》けた。
いずれも、エルランガーを待っている者らだということが、分かった。エルランガーは、すでに到着していたが、係争の当事者たちと面接するまえに、モームスと相談を重ねているところだった。屋内で待たせてくれないばかりに、こんな戸外の雪のなかで立ちん坊しなくちゃならないというのが、一同の話の中心だった。外は、さしてぞっとするほど寒くはなかったが、それにしても、当事者たちを、この夜中に、屋外で、まだ何時間待たされるのか知れないが、放ったらかしにしておくなんて、酷な話じゃないか。こいつは、むろん、エルランガーのせいではないだろう。あの方は、むしろ、非常に如才のない人だし、たぶん、こんなことは夢にも知らないだろう。この話を耳にしたら、きっと、大いに立腹したに違いない。これは、貴紳閣の女将《おかみ》のせいなんだ。あの病み付きになってしまったお上品振りが昂《こう》じて、大勢の当事者が一斉に貴紳閣に入って行くのが、気に食わないのだろう。あの女将ときたら、口癖のように、言っているじゃないか。『万|止《や》むを得ないことで、連中が来なくちゃいけないのでしたら、そのときは、後生ですから、ぜひとも、ひとりずつ、順番でないと困りますわ』ってね。それで、女将が我意を張ったばかりに、出頭した当事者たちは、先ず最初は、そのまま、通路のところで、次には、階段のうえで、それから、玄関の間で、最後は、酒場で、うんとこさと待たされた揚げ句、ついには、路地へ押し出されるという始末になってしまった訳だ。ところが、それでも、女将は、まだ満足しきれなかったんだな。自分の家のなかで、しょっちゅう、わが身が、女将の言い種《ぐさ》によると、『包囲される』のは、やりきれないんだそうだ。そもそも、なんのために、当事者たちの出入りがあるのかが、女将にはさっぱり分かっちゃいないのさ。いつだったか、ある役人が、女将にその訳を尋ねられて、『そりゃ、ここの表階段を汚すためだよ』と、言ったらしいんだ。たぶん、役人のほうは、腹立ち紛れに、そう答えたのだろうが、しかし、女将のほうは、なるほど、そうかと、合点して、それからは、この文句を二言目には引き合いに出す癖がついてしまった。ところで、女将は、これは、係争の当事者たちの願いとも、期せずして一致するところだが、貴紳閣の向かいに、出頭した当事者たちの待合所にもなるような建物を、一軒、建ててもらえるように、しきりと力|瘤《こぶ》を入れているとのことだ。女将としては、当事者の事情聴取や尋問を貴紳閣のそとでしてもらえたら、このうえなくありがたいのだろうが、しかし、これには、役人たちも、ひどく難色を示した。役人たちが本気で難色を示せば、むろん、いくら女将だって、枝葉末節の問題では、持ち前の、倦《う》むことを知らぬ、女らしい肌理《きめ》細かな熱心さに物を言わせて、ちょっとした暴君ぶりを発揮して来たとはいえ、我意を通す訳にはいかない。従って、今後も、事情聴取や尋問は、貴紳閣で行われる見通しであり、女将も、これだけは、我慢せねばならないだろう。というのも、城の方たちは、村へ来て、公務を執っている最中に、貴紳閣を離れることを好まないからであった。役人たちは、いつも、急いでいた。渋々ながら、村に来ているにすぎず、必要最小限度以上に村での滞在を延ばしたいとは、微塵《みじん》も思ってなかったのである。それゆえ、貴紳閣での寛《くつろ》ぎということだけを楯《たて》に取って、一時的にもせよ、すべての必要書類ともろともに、通りを横切って、別の建物に移ってもらうということは、それによって、時間の浪費を要求することにもなり、役人にたいして、土台注文できる筋合いのものではなかった。それどころか、役人にしてみれば、酒場か、あるいは、自分の宿泊室にいて、できれば、食事をとりながらか、あるいは、夜、寝入るまえとか、朝になっても、疲れがひどくて、起き出ることができず、もうしばらくベッドで五体を伸ばしていたいと思うときなどに、ベッドのなかに入ったままで、仕事を片付けてしまいたいのが、山々だったのだった。それにひきかえ、待合所を建てる問題のほうは、どうやら、しだいに都合よく解決に向かいそうであった。むろん、これは、女将にとって、一種の厳しい罰にほかならなかった――しかも、ちょっとした笑い種になっていた――。ほかでもない、待合所を建てる問題が持ち上ったばかりに、頻繁な協議がどうしても必要になって、貴紳閣のどの廊下も、ほとんど人の往き来の絶えることがなくなってしまったからだった。
こうした事柄について、待っている人たちのあいだでは、声を落としながらも、談笑が交わされていた。このように不満がいっぱい溜《た》まっているのに、エルランガーが真夜中に当事者たちを召喚したことにたいして、だれひとり、不服を唱えようとしないのが、Kには奇異に感じられた。そこで、彼は、そのことを尋ねてみたが、それにたいしては、エルランガーに、むしろ、大いに感謝しなければならないと言うのが、一同の言い分であった。つまり、あの人が村へ来るということからして、ひとえに、あの人の好意にほかならない。自分の役職について気高い見解を持っているからこそ、わざわざ出向かずにはいられないのだ。あの人が、もしもその気になれば――そして、このほうが、たぶん、規則にだって、一層|適《かな》っているらしいのだが――、だれか、手下の秘書を派遣して、その者に調書を取らせたって、一向に差し支えないんだ。ところが、あの人ときたら、大抵の場合、そうすることを断って、何事も自分の眼と耳で確かめようとする訳だ。ところが、それをそつなくやり遂げるためには、夜の眠りを断念しなくちゃならない。だって、あの人の執務予定表のなかには、村へ出張するための時間なんか、全然、見込んでないからね。これが連中の説明だった。Kは、それにたいして、クラムだって、しかし、日中に村へやって来て、数日も逗留していることがあるじゃないか、たかが秘書風情のエルランガーが、それでは、クラムよりも、城で不可欠の人物だと言うのかい、と反論した。二、三の男は、人の好《よ》さを丸出しにして、笑いこけたが、ほかの者らは、当惑したように、黙り込んでしまった。そして、こちらのほうが数が多かったので、Kは、答えらしい答えが、ほとんど、聞けずじまいだった。ただ、ひとりの男が、ためらいながらも、クラムは、むろん、城でも、村でも、欠くことのできない人物です、と言ったにすぎなかった。
そのときだった。戸口が開いて、モームスが、ふたりの明かりを持った従僕に挟まれて、姿を現した。「秘書のエルランガー氏のまえに通される最初の者は」と、モームスは言った、「ゲルステッカーとKである。両人とも、来ているかね」ふたりは、来ている旨を告げた。ところが、ふたりが歩き出すよりまえに、イェレミーアスが横合いから、「わたしは、ここの客室係のボーイでして」と、一言断りながら出て、モームスににっこりと会釈代わりに肩をひとつぽんと敲《たた》かれると、そのまま素早く屋内へ入り込んでしまった。『イェレミーアスには、以後、もっと気を配らなくちゃいけないぞ』と、Kは、心に言い聞かせた。とはいえ、城にあって、Kへの報復工作を進めているアルツールよりも、イェレミーアスのほうが、どうやら、はるかに危険性が少ないらしいという意識には、すこしも、変わりがなかった。あいつらにいくら悩まされたって、助手として抱えておくほうが、陰謀にかけては格別の才腕を持っているらしいあいつらを、あのように、自由にほっつき回らせて、勝手に陰謀の限りを尽くさせるよりは、もしかすると、賢明だったかもしれない。
そう思いながら、Kが、モームスの傍らを通り過ぎようとしたとき、モームスは、今になって、やっと、Kが例の測量師だということが、分かったかのようなふりをしながら、「おや、あのときの測量師さんですな」と、言った、「あれほど尋問されるのを嫌がっておきながら、きょうは、たって尋問を受けたいと言って、押し掛けて来るとはね。あのとき、小生の求めに応じていれば、もっと簡単に済んだでしょうに。そりゃ、むろん、誂《あつら》え向きの尋問を選び取るというのは、難しいことですがね」そう話しかけられたので、Kが、立ち止まろうとしたとき、モームスは言った、「どうぞ、構わずに、どんどん、行ってください。あの節は、あなたの返事が必要でしたが、今は、そうじゃありませんので」にもかかわらず、Kは、モームスの態度にむっとして、「あなたたちは、自分のことしか考えてないんですな。僕は、ただ役所のためにだけ、答えるのではないんですよ。これは、あのときだって、また今だって、同じことです」すると、モームスは言った、「それでは、小生たちに、だれのことを考えろとおっしゃるんです。一体、この場に、ほかにだれがいるんです。さあ、お行きなさい」
玄関の間で、ひとりの従僕が、Kとゲルステッカーを迎えて、案内に立った。中庭を横切り、出入り口から、天井の低い、やや下り坂になっている廊下に入って行く、Kにはすでになじみの道筋だった。階上には、明らかに、上役たちしか、泊まってないようだった。それに反して、秘書たちは、この廊下沿いに泊まっていた。秘書たちのうちでは最上位のひとりであるエルランガーといえども、やはり、同様であった。従僕が手にしていた明かりを吹き消した。ここまで来ると、明るい電灯で、照らし出されていたからだった。このあたりは、どれを見ても、小規模で、しかも、華奢《きゃしゃ》な造りだった。場所は、できうる限り、むだがないように、利用し尽くされていた。廊下は、立って歩いて行くだけでいっぱいになるほど、狭かった。その廊下に沿うて、各室のドアが、ずっと、ほとんどすきまもなしに、続いていた。廊下の両側の塗り壁は、天井にまで達していなかった。これは、おそらく、換気を顧慮した結果であろう。と言うのは、どの客室も、狭いのに、この奥深い、洞穴のような廊下に面して、窓らしい窓を持ってないようだったからである。ここの一面には塗り尽くしてない壁の短所は、廊下が絶えずなんとなく騒々しく、その騒々しさが、必然的に、客室のなかへまでも伝わるという点にあった。多数の部屋が塞《ふさ》がっているようだった。その大半では、まだ泊まり客が起きていて、人声やら、槌《つち》で敲《たたく》くような音やら、コップを触れ合わせる音などが聞こえていた。しかし、これと言って愉快そうな感じはしなかった。物を言うにも、声をひそめているので、時たま、ほんの一語くらいしか、聞き取れないが、どうも、歓談しているのではなさそうだった。だれかがなにやらを口述しているのか、朗読でもしているような気配だった。コップや皿の音がする部屋からは、却《かえ》って、申し合わせたように、一言も聞こえなかったし、槌の音は、Kに、どこかで聞いたことのある話を思い出させた。役人たちのなかには、絶え間ない精神的緊張から来る疲れを癒すために、時折、指物《さしもの》仕事とか、精密機械作りとか、そうしたことに精を出す者がいるとかいう話である。廊下そのものは、がらんとして、人影がなかった。ただ、ある客室のドアのまえに、血色の悪い、痩《や》せぎすの、背の高い人物が、ひとり、毛皮の外套を着て、腰かけているだけだった。その毛皮の外套のしたからは、寝間着がのぞいていた。おそらく、部屋のなかが息苦しくなったのだろう。部屋のそとへ椅子を持ち出して、新聞を読んでいた。しかし、大して身を入れているのでもないらしく、しばしば、あくびをしながら、新聞から眼を離しては、前|屈《かが》みになって、廊下沿いに透かし見ていた。もしかすると、召喚しておいた当事者が遅刻しているので、待ち遠しがっているのかもしれなかった。その人物のまえを通り過ぎてから、従僕が、ゲルステッカーに向かって、その人物のことを、「ピンツガウアーだよ」と、言った。ゲルステッカーは、うなずいて、「村へは、本当に、久し振りのお越しですな」と言った。「そうさ、本当に、久し振りだ」と、従僕は、そのとおりであることを認めた。
ついに、一行は、とあるドアのまえまで来た。そのドアは、ほかの各室のドアとすこしも変わりがなかったが、従僕の話だと、そこの部屋にエルランガーが泊まっているとのことであった。従僕は、Kに肩車をさせて、うえの透き間から部屋のなかをのぞき見た。「ベッドに横になっておいでだ」と、従僕は、Kの肩から降りながら、言った、「むろん、着のままでだが、どうも、転寝《うたたね》をなさっておられるようだ。村へ来られると、暮らし方がすっかり変わってしまうので、時折、あのように、疲れがどっと出られるんだよ。こうなると、待つより仕方がないな。お目覚めになったら、ベルをお鳴らしになるだろう。むろん、村での御滞在中、ずっと眠って過ごされて、お目が覚めると、すぐにまた城へお戻りにならなくちゃならないことだって、もう何度か、あったがね。なにしろ、あの方が村でなさっている仕事と言えば、あの方の自発的な御苦労なんだからな」「こうなれば、いっそのこと、このまま、おしまいまで、眠り続けていてくれさえしたらいいんだが」と、ゲルステッカーは言った、「だって、お目が覚めてから、仕事をなさる暇がほんのすこししか残ってないとなると、眠ってしまわれたことに、ひとりでひどく不機嫌になられて、あの方は、万事を急いで片付けようとなさるし、こちとらは、ろくすっぽ、考えを言わせてもらえないからさ」「あんたは、建築資材の運搬を請け負わせていただく件で、来たんだったな」と、従僕は尋ねた。ゲルステッカーは、うなずいて、従僕をわきへ引っ張って行くと、なにやら小声で、従僕に話しかけていた。ところが、従僕のほうは、ほとんど耳を貸している様子もなく、背丈が自分の肩にも届かないゲルステッカーの頭越しに、じっと前方を見つめたまま、勿体《もったい》臭く、ゆっくりと、髪を撫でていた。
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第十八章
そこで、Kが、なんとなしに、あたりを見回すと、はるか向こうの廊下の曲がり角のところに、フリーダがいるのが眼に付いた。フリーダは、Kだと気づかないようなふりをして、ひたすら、Kのほうを見詰めているだけだった。片方の手で、空になった食器を載せた盆を運んでいた。Kは、従僕が彼には全く無とんじゃくでいたのに――この男は、話しかけられればかけられるほど、ますます放心状態になっていくようだった――、その従僕に、すぐに戻って来ますから、とわざわざ断って、フリーダのほうへ走って行った。そして、フリーダのそばまで来ると、Kは、彼女を再び自分の手に取り戻すかのように、彼女の両肩を鷲掴《わしづか》みにして、二、三の取り留めもないことを尋ねながら、探るように相手の眼の色を窺《うかが》った。しかし、彼女の硬化した態度は、ほとんど崩れなかった。彼女は、上の空で、盆のうえの食器の位置をあちこちへ置き換えようとしながら、言った、「一体、わたしになんの御用なの。あの子らのところへ、さっさと、お行きなさいよ――今更、名前まで、言わなくても、よく御存じでしょう。だって、たった今、あの子らのところからおいでになったばかりですもの。そのことは、ちゃんとお顔にも書いてありますわ」
Kは、即座に、話を逸《そ》らした。その話を、こうも出し抜けに、しかも、最も不届きな点から、彼にとって最も都合の悪いところから、切り出されては、二進《にっち》も三進《さっち》もならないからである。「僕は、おまえが酒場にいるものとばかり、思っていたよ」と、彼は言った。フリーダは、呆気《あっけ》に取られて、Kの顔をまじまじと見守っていたが、やがて、空いていたほうの手で、優しく、彼の額と頬を撫でた。それは、あたかも彼の容貌を忘れてしまったために、それを再び意識に呼び戻そうとしているかのような仕草であった。現に、彼女の眼も、霞んだ記憶を蘇らせようとして心砕いている者にありがちな、潤《うる》んだような表情を浮かべていた。「わたしは、酒場の係として、再度、採用してもらいましたの」と、彼女は、やがて、ゆっくりした口調で言った。現に口に出して言っていることは、なにも大した話ではないが、その言葉の裏で、Kを相手に、もうひとつ、別な話をしている、そして、その話のほうが、ずっと重要なのだ、と言わんばかりの口ぶりであった。「御覧のとおりのこんな仕事なんか、わたしには向いてないんです。これしきの仕事なら、わたしでなくったって、どんな女中でも、そつなくやれますわ。寝床を敷き、愛想のいい顔をすることができて、そのうえ、お客さんの悪戯《いたずら》を恐れないで、却《かえ》って、悪戯を思いつかせるような女なら、だれだって、客室係の女中が勤まりますもの。ところが、酒場勤めとなると、丸っきり、勝手が違うんです。それで、わたしは、あのとき、あまり香《かん》ばしくないやり方で、勝手に罷《や》めてしまったのですけれども、今度また、すぐに、酒場へ採用してもらえましたの。もちろん、今度は、後楯《うしろだて》もありましたわ。しかし、ここの主人は、わたしに後楯があるため、わたしを再採用するのが、楽にできることになって、喜んでいました。いや、それどころか、わたしにこの職場を押しつけるために、寄ってたかってわたしを口説き落とさねばならない始末でした。この酒場がわたしになにを思い出させるかを、お考えになれば、あなたにも、その訳がお分かりでしょう。結局、わたしは、その職場を引き受けることにしました。今、ここでこうしていますのは、臨時の手伝いにすぎないんですの。すぐに酒場を出て行かねばならないなんて、そんな赤恥はかかさないでほしいと、ペピが頼んだからですわ。それで、わたしたちとしましても、とにかく、今まで、熱心に勤めてきてくれたことだし、また、あの子の能力が及ぶ限りのことは果たしてきてくれたこともあるので、あの子には二十四時間の猶予を与えてやることにしたんです」
「そいつは、万事、非常に段取りよく取り計らったものだね」と、Kは言った、「ただ、おまえは、僕のために、仮にも酒場から出て行った人間じゃないか。だのに、今、ふたりが結婚式を挙げる寸前にまでなっているというのに、おまえは、またぞろ、酒場へ逆戻りするのかい」「結婚式なんて、すっとんじゃいましたわ」と、フリーダは言った。「僕が不実だからかい」と、Kは尋ねた。フリーダはうなずいた。「ねえ、いいかい、フリーダ、この不実とやらについては、もう何度も、ふたりで話し合ってきたことじゃないか。そして、その都度、最後には、おまえのほうが、筋違いな邪推だったことを認めざるを得なかったはずだよ。ところで、それ以来、僕のほうは、なにひとつ、変わっちゃいない。どこを突かれたって、潔白なものさ。これまでも、そうだったが、今後も、こればかりは、焼き直しがきくものじゃないからね。とすると、おまえのほうに、なにか、変わったことが生じたに違いない。他人にそそのかされたか、なにかしてさ。いずれにしても、あらぬ濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》は着せてもらいたくないね。だって、いいかい、あのふたりの娘《こ》がどうだと言うんだい。あの片方の、髪の黒いほうの娘――こんなふうに、事をわけて、弁解しなくちゃならないなんて、恥ずかしいくらいだよ、だが、おまえのたっての要求だから、仕方ないがね――あの髪の黒いほうの娘ときたら、おまえにとっても、たぶん、そうだろうが、僕にとっても、あんないけすかない女って、ありゃしないよ。なんとか、あの娘から離れていられる手立てさえついたら、離れていることにしよう。それに、あの娘の場合だと、その辺は、こちらもし易いからな。あの娘ほど、控え目な人間は、世間にいないしね」
「全くだわ」と、フリーダは叫んだ。それは、彼女の意に反して、口を衝《つ》いて出た言葉であった。Kは、彼女の気持ちがそのように逸れたのを見て、喜んだ。彼女は、本心と裏腹なことをつい口走ってしまったのだった。「あなたがあの女を控え目だと思ってらっしゃるなら、思ってらしていいわ。世にまたとない恥知らず娘を、控え目だなんて、おっしゃるんですもの。でも、とても信じられないことだけれど、あなたとしては、正直に、そうお考えになってらして、なにも、白《しら》を切っておられるのでないことは、わたしにも分かっていてよ。橋亭の女将《おかみ》さんも、あなたのことを言ってましたわ。『わたしは、あの人を好きになれないけど、かと言って、見捨てる気にもなれないの。まだよちよちしか歩けもしないのに、遠くのほうまで突き進んで行こうとしている幼児《おさなご》を見たって、やっぱり、居たたまらなくなって、手を出さずにはいられないでしょう。それと同じことよ』とね」
「この際は、女将さんの教訓に従うんだね」と、Kは、苦笑しながら、言った、「それにしても、あの娘のことは――根が控え目であろうと、それとも、恥知らずであろうと――打っちゃらかしておいたっていい訳だ。僕も、あの娘には関《かか》わりたくないからな」「だのに、あなたは、どうして、あの娘を控え目だなんて、おっしゃるの」と、フリーダは、しつこく尋ねた。Kは、このようなフリーダの関心を、自分に有利な徴候だと思った。「あなたは、その点をお試しになったことがあるの。それとも、それを出しにして、ほかの者を貶《けな》すお心算《つもり》なの」「どちらでもないよ」と、Kは言った、「ただ、僕は、感謝の気持ちから、あの娘を控え目だと言っているのだ。だって、お陰で、こちらとしては、気安くあの娘を無視できるしさ。それに、あの娘から、何度、呼び出しを受けたって、それくらいで、わざわざ、もう一度出向いて行かなくともいいからさ。もっとも、出向いて行かないと、僕にとっては、大損失になるんだが。だって、おまえも知ってのとおり、僕としては、僕たちふたりの将来を思えばこそ、やむなく出向いて行くんだからね。それに、もうひとりの娘と話し合わねばならないのも、そのためなんだ。僕は、有能で、思慮が深く、私欲がないという点で、あの娘を買っているが、あの娘が男たらしだと取り沙汰する者は、どこにもいるまい」「従僕たちの意見は、違うわ」と、フリーダは言った。
「この点でも、また、ほかのいろいろな点ででも、そうだろうが」と、Kは言った、「おまえは、従僕たちのあくどい色欲から推測して、僕を不実だと決めたいのかい」
フリーダは、黙っていた。そして、Kが彼女の手から盆を取り上げて、床《ゆか》に置き、彼女の腕のしたに自分の腕を差し入れて、その狭い場所を、ゆっくりと引っ張りながら、行きつ戻りつしはじめても、相手のなすがままになっていた。「あなたは、実意がどんなものだか、分かってらっしゃらないのね」と、彼女は、Kが身を寄せてくるのをやや拒みながら、言った、「あなたがあの娘たちにたいしてどのような態度をお取りになろうと、そんなことは、大した問題じゃないわ。あなたがあの家庭へのこのことお出掛けになり、あすこの部屋の臭《にお》いをふんだんに服に染み込ませて、お帰りになる、そのことからして、わたしにとっては、耐えきれない恥辱なの。だのに、あなたは、なにも言われないで、ぽいと学校を飛び出したきり、夜半になるまで、あの娘らのところにしけこんでらっしゃる。そして、あなたの身を案じて、尋ねにやっても、娘どもに頼んで、居留守を使うんですもの。とりわけ、あの世にもたぐいないほどに控え目な娘ときたら、頼まれると、躍起になって、居留守の口上をまくし立てるんですからね。あなたが、どこやら、隠れ道を通って、こっそり、あの家から抜け出されたのも、たぶん、娘どもの世評をお気になさってのことでしょうが。それにしても、あんなすべたの世評をね。止《よ》しましょう、こんな話は、もう止《や》めにしましょう」
「そんなことではなくて」と、Kは言った、「ちょっと話題を変えるとしよう、フリーダ。そのことについちゃ、別にこれと言って、取り立てて話すことなんかもないからね。どうして僕が出向かねばならないか、その理由は、おまえも承知のはずだ。僕にとっては、ひどく足が重いんだが、それでも、僕は、我慢して、出掛けているんだ。それだけに、おまえから、重荷に余計な小付けをされちゃたまらないね。きょうは、ほんのちょっと、出掛けて行って、ある大切な使いの用向きを、とっくに、伝えていてくれなくちゃならないはずのバルナバスが、もう、帰って来ているかどうか、尋ねるだけにしようと、思ったんだ。ところが、バルナバスは、帰ってなかった。しかし、追っ付け、帰って来るに違いないと、あちらじゃ、僕に保証するし、僕も、どうやら確実らしいと、思った。バルナバスをあとから学校へ来させればいいようなものの、僕がそうしたくなかったのは、彼が同座していることで、おまえに迷惑を掛けたくなかったからだ。何時間たっても、バルナバスは、残念ながら、帰って来なかった。ところが、そのうちに、別人がやって来た。どうやら、僕の嫌なやつらしかった。そいつに僕の動静を探られちゃやりきれないので、僕は、隣家の庭を通り抜けた訳さ。だが、やつから逃げ隠れする心算《つもり》はなかった。だから、やがて街道へ出ると、やつのほうへこちらから進んで歩いて行ったんだ。もっとも、白伏すると、非常に撓《しな》やかな柳の枝を、一本、携えてはいたがね。これだけのことさ。だから、これ以上、なにも言うことはないよ。だが、これとは別に、話しておきたいことが残っているようだ。一体、あの助手どもは、どうなっているんだい。おまえにとっちゃ、あの家族のことは、口にするのも汚らわしいだろうが、それに引けを取らないくらい、僕だって、あの助手どものことは、口にするのも胸糞《むなくそ》が悪いがね。それにしても、おまえと助手どもとの関係を、僕とあの一家との関係と、比較して御覧よ。僕には、あの一家にたいするおまえの嫌悪がよく分かるし、その心中を汲み取ることだってできるさ。ただ、僕があすこへ行くのは、用件を果たすためにすぎないんだ。なんだか、あの一家を、酷《むご》たらしく、食い物にしてばかりいるような気さえすることが、時折、あるくらいなんだ。それにひきかえ、おまえと助手どもは、どうだ。おまえは、やつらにしつこく尻を付け回されていることを、けっして否定したことがないし、やつらにたいして気があるようなことを、白状したことさえあった。だからと言って、僕は、おまえに腹を立てはしなかった。おまえでは太刀打ちできない種々の力がそこで働いているということを、見抜いて、おまえが、せめて、抵抗の構えを示していてくれるだけでも、嬉しく思い、おまえの身を守るために、手を貸してきた心算だ。ところが、僕が、ほんの二、三時間、おまえの実意を信頼して、その手を抜いたばかりに、むろん、教室にはかならず戸締まりをしていてくれるだろうし、助手どもも、あれを限りに、逃亡してしまったものと、決め込んでいたからでもあるが――今もってやつらを見くびっていはすまいかと、自分でも、気が気でなくなりかけているところなんだ――だが、それにしても、ほんのしばらく、心許したばかりに、あのイェレミーアスのやつが、よくよく見れば、あまり強壮でもない、じじむさい若造の癖して、厚かましくも、窓辺へやって来やがって、ただ、それだけのことのために、僕は、フリーダ、おまえを失い、『結婚式なんて、すっとんじゃいましたわ』などと言う科白《せりふ》を、挨拶として、聞かなくちゃならない訳かい。もともと、僕なんか、人をとやかく咎《とが》め立てできる柄じゃないと、言われれば、それまでだがね。それなら、遠慮して、今までどおり、非難がましいことは言わないことにするよ」
ここまで言うと、Kは、またしても、フリーダの注意をちょっとかわしておくのが得策なように思った。そこで、もう昼からなにも口にしてないので、なにか食べる物を運んで来てくれるように、フリーダに頼んだ。フリーダのほうも、明らかに、そう頼まれると、ほっとしたらしく、うなずいて、食べ物を取りに、走り去った。しかし、Kが調理場に通じているはずだと思っていた、そこの廊下を、まっすぐに、駆けて行ったのではなかった。わきへ逸れ、数段、低い廊下で、姿を消したのだった。やがて、彼女は、薄切りの冷肉を盛った皿と一瓶の葡萄酒とを持って、現れた。だが、それは、どうも、食事の食べ残しにすぎないらしかった。食べ残しであることをごまかすために、肉切れを、一枚、一枚、急いで、新しく拡げ直したのだろう。ソーセージの皮さえも、皿のうえに、取り残されたままだったし、葡萄酒も、瓶の四分の三まで、あけてあった。しかし、Kは、それについては、なにひとつ、文句を言わずに、旺盛な食欲に駆られて、それを平らげはじめた。
「調理場から取って来たのかい」と、彼は尋ねた。「いいえ、わたしの部屋からよ」と、彼女は言った、「ここの下に、わたしの部屋がありますの」「それなら、僕をそこへ連れて行ってくれたらよかったのに」と、Kは言った、「これからでもいい、下へ行こう。ちょっとでも腰を掛けて、食べたいからな」「では、椅子を持って来てあげますわ」と、フリーダは、言うが早いか、もう引き返しかけていた。「結構だよ」と、Kは、言って、彼女を引き留めた。「下へも行かないし、椅子ももう要らないよ」フリーダは、きかん気を出して、Kの手練《てれん》に堪え、頭を深く下げたまま、唇を噛《か》んでいた。「実は、そうなの。下の部屋に来ているんです」と、彼女は言った、「お見込み違いでしたの。わたしのベッドで横になっていますわ。戸外で風邪を引いてしまったのです。悪寒がして、食事もほとんど取っておりません。詰まるところ、なにもかも、あなたの罪よ。あなたが助手たちを追い払ったりなさらないで、あの娘どもを付け回したりなさらなかったら、わたしたちは、今ごろ、学校で、平和に暮らせているところでしたのに。ほかでもない、あなたが、御自分から、わたしたちの幸福を破壊してしまわれたんですもの。あなたは、イェレミーアスが、勤めの身でいるときから、わたしをかどわかすという、だいそれた了見を起こしていたに違いないと、思い込んでらっしゃるの。とすれば、当地の秩序というものを完全に見損なってらっしゃるわ。イェレミーアスは、わたしのそばへ来たがっていました。それで、悩みもし、また、わたしの動静を窺ってもいました。でも、それは、ただの戯れ事にすぎませんでした。ちょうど腹をすかした犬が、じゃれながらも、食卓のうえへまでは飛び上がろうとしないのと、同じことです。それに、わたしのほうだって、同様でしたわ。わたしは、彼に心を惹《ひ》かれていました。彼は、幼いときからのわたしの遊び友達ですもの――わたしたちは、一緒に、城山の中腹で、よく遊んだものです。あなたは、わたしの過去を一度も尋ねてはくださいませんでしたけれど、あのころは、とても楽しかったわ。――でも、そうした経緯《いきさつ》も、イェレミーアスが勤めに縛られている限りは、決定的な意味を持たなかったのです。そりゃ、わたしだって、あなたの未来の妻として、自分の義務くらいは心得ていますもの。ところが、あなたは、その後、助手たちを放逐なさったばかりか、それを、わたしの身のためを思ってなさったかのように、自慢さえしておられました。そう言われれば、それは、ある意味では、本当かもしれません。とにかく、アルツールの場合は、あなたの目論見《もくろみ》も、まんまと成功しました。と言いましても、もちろん、ほんの一時的な成功にすぎませんけれども。アルツールは、心が優形《やさがた》で、イェレミーアスのような、どんな苦難をも恐れない情熱を持ち合わせていないんです。それでも、あなたは、そのアルツールを、あの夜、拳固《げんこ》で殴りつけて、半死半生の目に会わせました――あの拳固は、わたしたちの幸福をも打ち壊してしまったのですわ――。それで、アルツールは、苦情を訴えに、城へ逃げ込んだのです。あるいは、近く、こちらへ戻って来るかもしれませんが、いずれにしても、今は、城へ逃げ失《う》せたきりです。ところが、イェレミーアスのほうは、踏み止《とど》まりました。彼は、雇われているあいだは、主人の眼の動きひとつにも、びくびくしていましたが、お役御免になれば、もう恐《こわ》いものなしです。彼は、やって来るなり、わたしを物にしました。あなたから見捨てられ、わたしの幼なじみの彼からは押さえ付けられると、わたしとしても、もう身が持てなかったのです。かと言って、わたしが出入り口を開けてやったのではありません。彼が窓を打ち破って、わたしを引っ張り出したのです。そして、ここへ躯け落ちして来たのでした。ここの主人は、彼に目を懸けていますし、このような男が客室係のボーイでいてくれれば、お客たちにとっても、こんなに好都合なことはないしという訳で、わたしたちは、雇ってもらえたのです。彼がわたしの部屋へ身を寄せているのではありません。ふたりで、一室を共有しているのです」
「それでも、やはり」と、Kは言った、「僕は、助手どもを解雇したことを後悔してないね。おまえが現に話しているようなことが、実情だったのなら、つまり、おまえの貞操も、助手たちの身が勤めで縛られているということのみによって、保たれていたにすぎないのなら、万事がちょんになったことは、好《よ》かったと思うよ。革鞭《かわむち》でおどされないと、頭をすくめていないような、あの二匹の猛獣がうろつくなかでの結婚生活の幸福なんて、どのみち、大したものじゃなかったろうしね。すると、あの一家にも、僕は、感謝せねばならないな。あの一家は、巧まずして、あの一家なりに、僕らが別れられるよう、片棒を担《かつ》いでくれたんだから」
ふたりは、黙り込んだまま、またもや寄り添いながら行きつ戻りつしはじめた。今度は、どちらが先に歩き出したのか、区別がつかなかった。フリーダは、Kに摩《す》り寄りながらも、Kがもう小脇《こわき》に抱えてくれないのを、怒っているようであった、「これで、どうやら、万事がうまくいったらしいね」と、Kは、言葉を続けた、「そして、互いに、さようならできるという寸法さ。おまえは、御亭主のイェレミーアスのところへ行ってやるがいい。どうやら、校庭にいるときから、風邪を引き込んでいたらしいな。風邪を引いていることを思いやると、おまえは、もうずいぶんと長時間、御亭主を放ったらかしにしすぎているよ。僕は、ひとりで、学校へ戻るとしよう。それとも、おまえがいなければ、学校へ戻っても、することがないから、どこか、別なところへ行ってもいい。僕を泊めてくれるようなところでありさえすればね。そう言いながらも、僕が、今こうして、ぐずぐずしているのは、おまえが聞かせてくれた話に、正当な理由から、すこしばかり、疑問を持っているからなのだ。僕は、イェレミーアスから、全く正反対の印象を受けている訳さ。彼は、助手として勤めていた時分から、ずっとおまえの尻を追っかけていた。そんな男が、勤めの身である限りは、おまえを本気で襲おうなどという欲心を、毛頭、起こさなかっただなんて、僕には、眉唾《まゆつば》物としか思えないな。ところが、今や、彼が、もうお役御免になったとばかり、涼しい顔をするようになってからは、話が丸っきり違うがね。申し訳ないが、僕としては、その間の事情を次のようなふうに解釈しているんだ。つまり、おまえは、もう彼の主人の許嫁《いいなずけ》でなくなってからは、彼にとって、以前ほどには、垂涎《すいぜん》の的ではなくなった訳さ。おまえは、なるほど、彼の幼なじみかもしれぬ。だが、彼は――と言っても、実のところ、彼の人となりは、今夜、ちょっと話し合った程度でしか、僕には、分からないのだが――僕の意見では、そのような感傷的な事柄に、あまり価値を置くような男じゃないよ。どうしておまえの眼にはあの男が情熱的な性格のように見えるのか、僕にはさっぱり解《げ》せないね。彼の考え方は、むしろ、僕には、ことのほか冷淡なように思えるんだ。彼は、僕のことに関して、なにやら、ガーラターから、命令を受けている。僕にはあまりありがたくない命令らしいが、彼は、それを遂行するのに、大わらわなのさ。仕事への一種の情熱を傾けている点は、認めてやってもいいがね――しかし、このような情熱なら、当地では、ざらさ――。ところで、それを遂行するためには、彼が僕らの仲をぶち壊すことが、必要なんだ。それで、彼は、さまざまな手を使って、それを試みたらしい。その手のひとつが、あの淫《みだ》らな色仕掛けで、おまえを誑《たぶら》かそうとしたことだ。また、あと別の手は――この場合は、あの橋亭の女将の後押しもあったのだが――僕が不実だという作り話をまことしやかに捏《でっ》ち上げたことさ。この陰謀は、まんまと成功した。彼の身辺にいつも漂っている、どことなくクラムを思い出させる気配も、役立ったのかもしれない。彼は、なるほど、職を失いはしたが、しかし、そのときは、いい具合に、もうそのような職が必要でなくなっていたらしい。そこで、今や、自分の作業の成果の取り入れ時だという訳で、彼は、おまえを、教室の窓から引っ張り出した。ところが、それで、彼の仕事も、もう終わりなのさ。仕事への情熱も燃え尽きて、どっと疲れが出ているだろう。こんなことなら、むしろ、アルツールと入れ替っていたほうがましだったと、思っているに違いない。アルツールは、けっして苦情を訴えたりなんかしていない。今に、賞讃と新しい任務を貰って来るだろう。だが、それには、やはり、だれかが、ここに居残って、事態の今後の進展を注視していなくてはならない。おまえの世話をするのは、彼にとっちゃ、いささか厄介な義務なのさ。おまえにたいする愛情なんか、彼には、微塵《みじん》もありはしない。それは、彼が正直に僕に白状したことなんだ。むろん、その彼も、クラムの恋人としてのおまえには、一応の敬意を払っているさ。だから、おまえの部屋に巣を組んで、一度くらいは、小クラムに成り済ましてみるのも、彼には、確かに、ひどく好い気持ちなのに違いない。だが、それだけのことだ。おまえそのものは、今の彼には、からっきし、問題でないんだ。彼がおまえをここへ斡旋《あっせん》したのも、彼にとっちゃ、彼の主要な任務の言わば付録みたいなものにすぎないのさ。おまえを不安がらせないために、彼自身も、ここに留《とど》まってはいるが、それも、ほんの腰掛けなんだ。城から新しい知らせを受け取り、おまえの手で風邪をすっかり直してもらうまでの、一時|凌《しの》ぎにすぎないんだよ」
「あの人を中傷するにも、程があるわ」と、フリーダは、言って、小さな両の拳《こぶし》をかち合わせた。「中傷だって」と、Kは言った、「そんなことはない。僕は、彼を中傷する心算はない。だが、もしかすると、お門違いな咎め立てをしていることはあるかもしれない。それなら、むろん、ありうることだよ。だって、僕が彼について語ったことは、表面に、すっかりあからさまに、出ていることじゃないからな。別な解釈だって、しようと思えばできるだろう。だのに、それを中傷だって言うのかい。中傷というものは、だ。彼にたいするおまえの愛に挑戦するという目的があってこそ、できるものなんだ。もしもその必要があって、中傷が最適の手段だということになれば、いかに僕だって、ためらうことなく、彼を中傷してやるさ。だれも、そのことで、僕に難癖をつけはすまい。なにしろ、彼は、彼に任務を授けるお偉がたが後に付いているため、僕に比べると、ずっと立場が有利だし、この身ひとつだけが頼りの僕が、すこしばかり、中傷したって、蚊の食うほどにも思わぬだろう。中傷なんてものは、割と無邪気な、所詮は、犬の遠吠えにもひとしい、一防衛手段にすぎない訳さ。だから、こんな拳は、引っ込めておくんだな」そう言うと、Kは、フリーダの手を自分の手に取った。フリーダは、取られた手を引き抜こうとはしていたが、しかし、さして力を入れているようでもなく、顔には微笑をさえ浮かべていた。「とにかく、僕は、別に中傷することなんかないさ」と、Kは言った、「だって、おまえは、あの男を愛してなんかいないものね。愛していると、勝手に思い込んでいるだけなのさ。だから、その迷いからおまえを覚ましてやったら、おまえは、きっと、僕に感謝せずにはおれないだろう。いいかい、だれかが、もしも、力ずくでなく、できうる限り入念な計略を用いて、おまえを僕から奪い去ろうと思ったら、どうしてもあのふたりの助手どもを使って事を運ぶよりほか仕方ないのだ。見たところ、人の好さそうな、うぶらしくて、陽気で、無責任な、天から、つまりは、城から吹き飛ばされて、舞い下りて来たような感じのする若造たち、しかも、すこしばかり、幼時の思い出も纏《まつわ》りついている。これだけでも、すでに、お誂《あつら》え向きじゃないか。それに、僕が、およそ、その正反対だとすれば、なおさらだ。その代わりに、僕のほうは、おまえに合点がいかなくて、おまえの癪《しゃく》にばかり障っているような仕事を、絶えず、追っかけていてさ。その仕事のせいで、止むなく、おまえには憎たらしい連中とも落ち合わなくてはならないし、また、その連中ときたら、僕がいたって無垢《むく》であるにもかかわらず、おまえの憎しみの幾分かを僕にまでも感染させてしまう始末なのだ。とにかく、ふたりの仲の欠陥を、意地悪く、しかも確かに、非常に悪賢く、利用しているにすぎない訳さ。どんな関係にだって、それなりの欠陥はある。ましてや、僕たちの関係にいたっては、なおのことだ。僕たちは、それぞれに、全く違った世界の出なのが、出会ったんだ。そして、互いに識《し》り合ってからは、めいめいの生活も、全く新しい道を歩むことになった。僕たちは、いまだに、心許《こころもと》ない感じが抜けきらないでいる。なにしろ、あまりにも新しい道だからな。と言っても、僕のことなどは、論外だ。さして重要でもないものね。結局のところ、僕のほうは、おまえが初めて僕に目をくれて以来、ずっと、なにからなにまで、貰いっ放しだし、それに、貰い食いに慣れるのだって、さほど難しいことでもないしさ。ところが、おまえのほうは、違うよ。ほかのすべてのことは度外視するとしても、クラムとの仲を引き裂かれたんだからな。それがどのように大したことなのか、僕には、とんと判断がつかないが、しだいに、朧《おぼろ》げながらも、その見当ぐらいはつきかけてきた。よろつきながら歩きつづけるだけで、行くべき道が分からないんだな。それで、僕は、おまえをずっと引き取ってやる覚悟ではいたのだが、しかし、いつもお前のそばにいるとは限らなかった。それに、その場に居合わせているときでも、おまえは、時折、妙な夢想に心を取られていたし、あるいは、もっと血の通ったもの、例えば、橋亭の女将のような人間に心を奪われていることもあった。要するに、おまえが僕から眼を逸らして、かわいそうに、どこか、漠然とした、あらぬ方に憧れているような時があったのだ。そのような時に、おまえの眼差《まなざし》の向いている方向へ、適当な連中を立たせて置きさえすればよかった。おまえは、その連中に現《うつつ》をぬかしてしまって、ほんの一瞥《いちべつ》にすぎなかったもの、幻影、古い思い出、いずれにせよ、過去のものにすぎない、しかも、時とともにますます過去のものとなってゆく生活、そうしたものが、いまだに、おまえの今の現実の生活であるという迷いに、すっかり、囚《とら》われてしまったんだ。思い違いだよ、フリーダ、そして、これが、実のところ、僕らが究極的にひとつに結ばれることを妨げていた、最後の、しかも、まともな眼で見れば、なんとも情けない障害なのさ。さあ、正気に戻るんだ。気をしっかり持つんだ。たといおまえのほうでは、あの助手どもがクラムから派遣されたものとばかり、思い込んでいるにしてもだ――事実は、そうじゃないんだ。やつらは、ガーラターのところから来ているのさ――そして、たといやつらが、おまえの迷いを利用して、たくみにおまえを誑《たぶら》かした揚げ句、おまえが、やつらの不潔や淫猥《いんわい》のなかにすら、クラムの名残を見るように思うにいたったとしてもだ――ちょうどだれかが、とある積み肥のなかに、かつて紛失した宝石を見つけたと思うようにね。よしんば、そこに、宝石が、本当にあったとしても、そんなところにあったのでは、実のところ、眼につかないはずだよ――どのみち、やつらは、馬丁風情の、高の知れた若造にすぎないのさ。ただ、馬丁ほども達者じゃなくて、ちょっと涼気に触れただけでも病気になり、床《とこ》に就くところが、違うだけだ。むろん、馬丁はだしのちゃっかりさで、具合のいいベッドを捜し出してくるあたりは、お手のものだがね」
フリーダは、いつのまにか、頭をKの肩にもたせ掛けていた。ふたりは、互いに腕を絡ませ合ったまま、黙って、行きつ戻りつした。「ふたりで」と、フリーダは、ゆっくりした口調で、物静かに、なんとなく打ち解けて、言った。Kの肩にもたれて安らかな気分にひたれるのも、もうあと、ほんのたまゆらにすぎないことが、分かってはいても、そのたまゆらを最後まで楽しもうと思っているかのようであった、「ふたりで、すぐ、あの夜のうちに駈け落ちしてしれば、よかったんだわ。すると、今ごろは、どこかで、安住しておれたのに。いつも一緒にいられて、あなたのお手も、いつだって、握れるほど手近なところにあって。そうだわ、あなたが身近にいてくださることが、わたしにとって、どんなに必要かしら。あなたを知ってからというもの、あなたが身近にいてくださらないと、どんなに淋しい思いがしたことでしょう。あなたの身近に置いていただくことが、わたしの抱いている、たったひとつの夢なの。本当なの。わたしには、ほかに、夢なんかないわ」
そのときだった。片廊下で叫び声がした。イェレミーアスだった。彼は、片廊下へ降りて行く階段の最下段のうえに立っていた。シャツを着ているだけであったが、フリーダの肩掛けを肩に纏っていた。そこに立っている恰好と言ったら、髪の毛は、掻きむしったあとらしく、くしゃくしゃで、薄い髭《ひげ》は、まるで雨に濡れたように、露がしたたり、哀願と非難を籠《こ》めた眼を懸命に見開いて、どす黒い頬には赤味がさしてはいるものの、肉がひどく弛《たる》みきっているようだった。寒さのあまり、素足をがくがく震わせているので、肩掛けの、長い総《ふさ》までがともに震えて、さながら病院から逃げ出して来た患者も同然であった。このような為体《ていたらく》を目のまえにしては、だれが考えるのも同じで、ベッドヘ連れ戻すほかはないであろう。フリーダもそのように悟ったらしく、Kの手を振りほどくと、すぐにイェレミーアスのそばへ駆け降りて行った。彼女がそばに付き添って、肩掛けを入念な手つきで彼のからだに固く巻きつけてやるとともに、急いで彼を部屋へ押し戻そうとしたところ、彼は、もう、そうしてもらっただけでも、いくらか、元気づいたように見えた。そして、そのときになって、やっと、Kがいるのに気づいたようであった。
「おや、測量師さんでしたか」と、彼は、言って、立ち話をそれ限りさせまいとするフリーダの頬を、なだめるように、撫でていた。「お邪魔をして御免なさい。どうにも気分が悪くて、仕方なかったもんで、申し訳ないです。きっと、熱が出てるんでさ。煎じ薬でも飲んで、汗を出さなくちゃなりません。あの校庭の忌々《いまいま》しい鉄柵と来たら、わしにとっちゃ、確かに、一生の思い出ですぜ。そして、きょうはまた、風邪を引いているのを押して、まだ夜中だと言うのに、駆けずり回ったんですからな。人間なんて、気づいたときは後の祭りで、本当にそうするだけの値打ちのない事柄のために、健康を台なしにしてしまうもんですな。それにしても、測量師さん、わしなんぞに気兼ねは要りません。わしらの部屋へ立ち寄っておくんなさい。病気見舞でもしてくだすって、その折に、言い残しをフリーダに言ってやっておくんなさい。馴れ合い夫婦だったふたりが、いざ、袂《たもと》を分かつとなると、別れ際には、むろん、互いに、たんまりと、内証話があるものですよ。そんな話は、第三者にゃ、ことに、その第三者がベッドに臥《ふ》せって、約束の煎じ薬を待っている場合にゃ、とても内容まで分かりっこありませんや。まあ、ぜひ、立ち寄っておくんなさい。わしは、いてもいないように、静かにしてますから」
「もうたくさんだわ。止めて」と、フリーダは、言って、イェレミーアスの腕を引っ張った。「この人は、熱に浮かされて、なにを喋《しゃべ》っているのか、自分でも分からないのよ。でもね、K、あなたは、一緒に来ないでちょうだい、後生ですから。あれは、わたしとイェレミーアスとの部屋なの。と言うよりか、むしろわたしの個室なの。ですから、あなたが一緒にお立ち入りになるのを、固くお断りしますわ。おや、K、それでも、わたしに付いて来られるのね。どうしてわたしにつきまとわれるの。絶対に、絶対に、あなたの許へは帰らなくってよ。帰るなんて、思っただけでも、身の毛がよだつわ。さあ、あなたのお好きな娘たちのところへお行きなさいよ。聞くところによると、あのあまっ子たちは、肌着姿のままで、ストーブのまえの長椅子に、あなたを挟んで腰掛けていて、だれかがあなたを迎えに行くと、迎えの者に向かって猫のように唸《うな》り掛けるんですってね。それほどまでに心を惹かれてらっしゃるのでしたら、さぞかし、あすこにいられたら、お寛《くつろ》ぎになれるでしょう。わたしは、いつもあなたがあすこへ行かないように、留めて来ました。ほとんど失敗しましたが、とにかく、留めて来ました。でも、その時期は、もう過ぎました。あなたは、自由の身です。すばらしい生活が、あなたの前途に控えてますわ。片方の娘のことでは、もしかすると、従僕たちを相手に、ちょっとした諍《いさか》いをせねばならないかもしれませんが、他方の娘でしたら、あれをあなたに渡すのを惜しがる人は、天にも、地にも、いないはずよ。その結び付きは、元々から、祝福されていますわ。いいの、なにも反対なさらなくてもいいの。確かに、あなたは、何事によらず、あざやかに、反駁《はんばく》し尽くされます。でも、とどのつまりは、なにひとつ、反駁できてないの。どう、イェレミーアス、この人は、なにからなにまで、反駁し尽くしたのよ」ふたりは、互いに微笑《ほほえ》みながら、うなずきかわして、意を通じ合った。「でも」とフリーダは、言葉を続けた、「よしんば、この人が、なにからなにまで、反駁し尽くしたとしても、それでなんの得るところがあったことになるんでしょうね。そして、それがわたしになんの関わりがあるんでしょう。あのあまっ子たちのところがどんな具合になろうと、それは、完全に、あのあまっ子たちとこの人とに関することで、わたしの知ったことじゃないわね。わたしの仕事は、イェレミーアス、あなたを看病してあげることなの。あなたが、いつかのような健康を、そうよ、Kからわたしのことで苛《いじ》められる以前のような健康を、収り戻すまでは、ずっとね」「それじゃ、測量師さん、あんたは、本当に、一緒に来なさらんので」と、イェレミーアスは、尋ねたが、それっきり、もうKのほうを振り向こうともしないフリーダによって、引きずられて行ってしまった。下の片廊下に、小さなドアが見えた。こちらの廊下に面しているドアよりも、はるかに丈が低かった――イェレミーアスはもとより、フリーダでさえも、部屋のなかへ入るときは、前|屈《かが》みにならねばならなかった――。部屋のなかは、明るくて、暖かそうだった。なおしばらくは、ささやき声が聞こえていた。イェレミーアスをベッドに寝かし付けるために、愛情を籠めて説き伏せているのであろう。やがて、ドアが、ぴしゃりと閉ざされた。
そのときになって、やっと、Kは、廊下がひどく静かになっていることに、気がついた。彼がフリーダと立っていた、廊下のこの部分は、ここの経営者一家の使っている各室があるらしかったが、このあたりだけでなく、あの先刻までとても活気が感じられた部屋部屋のある、長い廊下のほうまでも、森閑としていた。とすると、城の連中も、やっと寝入った訳だな。僕も、くたくただ。イェレミーアスにたいして、本来ならば、あすこらで目に物見せてやるべきところなのに、見す見す、やつを逃がしてしまうなんて、どうやら、疲れのせいらしいぞ。イェレミーアスを見習ったほうが、もしかすると、得策だったかもしれないな。それにしても、やつの風邪は、明らかに、大袈裟《おおげさ》だ――それに、やつのしょぼくれたざまは、風邪が元じゃなくて、生まれつきだし、どんな煎じ薬を飲んだって、直せやしないさ――。とにかく、イェレミーアスにすっかり倣《なら》って、本当にひどく疲れているところを、同じように、これ見よがしに当て付け、ここの廓下にでも、へなへなと、倒れ伏す、それだけでも、きっと、ひどく気持ちがいいに違いない。そのうえ、ちょっとばかり、転寝《うたたね》しておれば、もしかすると、すこしぐらいは看護してもらえたかも知れなかったのに。ただ、イェレミーアスの場合ほどには、首尾よくいかなかったろうな。同情を集める競争をやったら、きっと、やつのほうが、それも理の当然かも知れないが、勝つに決まっているからさ。いや、ほかのどんな競争をしたって、やつのほうに分があることは、明らかだものな。そう思うと、Kは、ますます、疲労を覚えた。そのあまり、ここの部屋のうちの幾室かは、きっと、空いているに違いないし、その一室にでも入り込んで、立派なベッドでたっぷり眠る手はないものだろうかと、考えた。彼の意見では、それさえできたら、いろいろな憂き目にたいする埋め合わせにもなるのだった。たまたま、睡眠薬も用意していた。フリーダが床に置き去りにしていた盆のうえには、ラム酒の入った小|壜《びん》もあった。Kは、後戻りする労をも厭《いと》わないで、その小壜を飲み干した。
すると、Kは、すくなくとも、エルランガーのまえに出られるくらいの元気が体内に蘇って来たように感じた。彼は、エルランガーの部屋のドアを捜した。ところが、先刻の従僕も、ゲルステッカーも、もう姿を消してしまっていたし、どのドアも、すべて、同じだったので、見つからなかった。だが、彼は、そのドアが、およそ、廊下のどのあたりにあったかは、覚えがあるはずだと思って、どうやら捜し求めるドアらしいと推測されるドアを開けてみようと、決心した。物は試しだし、大して危険なことでもあるまい。もしそれがエルランガーの部屋だったら、エルランガーが快く自分を迎え入れてくれるだろうし、もし別人の部屋だったら、詫びを言って、立ち去れば、それで済むことだろう。それに、泊まり客が眠っていたら、その公算が最も大きいが、自分の訪れにさえも気が付かずに終わるだろう。ただ、困るのは、そこが空室のときだけだ。そのときは、ベッドに身を横たえて、果てしなく眠り続けたいという誘惑に、どうも、勝てそうにないからな。Kは、もう一度、廊下沿いに、右、左と、見透かした。だれかがやって来て、エルランガーの部屋を教えてくれないものかと、思ったのである。そしたら、今、考えているような冒険は、しないでも済むからであった。ところが、長い廊下は、静まり返って、人影ひとつなかった。そこで、Kは、それと覚しいドアに耳に寄せてみた。そこも、泊まり客がいるらしい気配がなかった。Kは、客が眠っていても、眼を醒まさないように、とても軽くノックしてみた。それでも、やはり、なんの反応もなかったので、ひどく気をつけながらも、ドアを開けた。すると、今度は、軽い叫び声が彼を迎えた。
それは小さな部屋で、幅の広いベッドが、部屋の半分以上も、場を占めていた。枕許のテーブルのうえには、電気スタンドがともり、そのわきに旅行用手提げ鞄《カバン》が置いてあった。ベッドのなかでは、掛け毛布を頭からすっぽり被《かぶ》って、だれだか、不安げにからだを動かしながら、掛け毛布と敷布とのあいだの隙間《すきま》から、ささやくように、尋ねた、「そこにいるのは、だれです」そうなると、Kは、そのまま、あっさりとは、引き下がれなくなった。ふっくらと盛り上がった、残念ながら、空でないベッドを、脹《ふく》れっ面をして、打ち眺めていたが、やがて、相手が尋ねていたことを思い出して、自分の名を言った。すると、それがかなり利いたらしく、ベッドのなかの男は、掛け毛布を、すこしばかり、ずらして、顔をのぞかせた。それでも、不安が抜けないらしく、ベッドのそとで、すこしでも、おかしいことがあれば、すぐにまた、毛布をすっぽりと被れるように、用意していた。ところが、そのうちに、なんのためらいもなく、毛布を撥《は》ね除《の》けて、ベッドのうえに正座した。確かに、エルランガーではなかった。小柄な、健康そうな顔色をした人物であったが、その容貌には、どことなく、ちぐはぐなところがあった。頬は、子供のように、丸々として、眼も、子供のように、晴れやかであったが、しかし、広い額、尖《とが》った鼻、上下の唇がほとんど塞《ふさ》がろうとしないくらいの、ちょぼ口、そして、今にも消えてなくなりそうな顎《あご》、これらは、およそ、子供とは縁遠いもので、卓抜な思考力の持ち主であることを現していた。この男に健全な子供の名残が多分に保たれているのも、この卓抜な思考力にたいする満足感、ひいては、自分自身にたいする満足感の然《しか》らしめるところであったに違いない。
「フリードリヒを御存じですか」と、相手は尋ねた。Kは、知らないと言った。「でも、フリードリヒのほうは、あなたを存じ上げていますよ」と、相手は、笑みを洩らしながら、言った。Kはうなずいた。至るところに、こう、自分を識っている人間がいちゃ、これが、自分の行く手を阻む、大きな障害のひとつにもなりかねないぞ。「私は、フリードリヒの秘書でして」と、相手は言った、「名は、ビュルゲルと申します」「まことに失礼しました」と、Kは、言うと、ドアの取っ手のほうへ手を伸ばして、「申し訳ありませんが、ここのドアをほかのドアと勘違いしてしまったのです。つまり、僕は、エルランガー秘書のところへ呼び付けられていたのです」
「それは、残念至極ですな」と、ビュルゲルは言った、「いや、あなたが、ほかの部屋へ呼ばれていることではなくて、ドアを取り違えたことがですよ。つまり、私は、一旦、起こされますと、それっきり、けっして、二度とは寝付かれない質《たち》でしてね。かと申したからとて、なにも気を揉《も》まれるには及びませんよ。これは、私の個人的な不幸ですからな。それにしても、この宿のドアは、どれもこれも、どうして鍵《かぎ》がかかるようになってないのでしょうね。むろん、それには、それなりの理由があることはあります。古来の諺《ことわざ》によりますと、秘書の部屋のドアは、いつも、開いてなくちゃいけないことになっているのです。でも、このことだって、むろん、そう言葉どおりに解さなくてもよさそうなものですのにね」ビュルゲルは、尋ねるような目付きで、愉快げに、Kを見詰めた。つい今しがたの嘆きとは逆に、ビュルゲルは、申し分のないほど、十分に休息を取っていたように見受けられた。今のKほど、ひどく疲れたことは、いまだかつて、一度も、ないらしかった。
「ところで、今ごろから、どちらへいらっしゃるお心算です」と、ビュルゲルは尋ねた、「四時ですよ、どなたのところへ行かれるにしても、その方を叩《たた》き起こすことになりますよ。万人が万人、私のように、安眠妨害に慣れっこになっているとは限りませんし、文句なしに許してくれるとは限りません。秘書というものは、神経質な人種ですしね。ですから、しばらく、私の部屋におられたらいかがです。ここじゃ、五時ごろになりますと、ぼつぼつ起き出しますし、呼び出しに応じられるのも、それからになさるのが、一番いいでしょう。ですから、どうぞ、取っ手から手をあっさりとお離しになって、どこへなりと、腰を落ち着けになりませんか。と申しても、むろん、こんな狭苦しいところですが、ここのベッドの端にでも腰掛けていただけば、一番いいでしょう。この部屋に、机も、椅子も、備えてないのを、さぞかし、不思議にお思いでしょうね。とにかく、ここじゃ室内設備は、整っていても、ベッドがホテル用の狭いベッドか、それとも、ベッドは、このように大きくても、ほかに備え付けてあるものと言えば、洗面台だけか、どちらかを選ぶほかないのです。私は、大きなベッドのほうを取りました。寝室では、やはり、ベッドが肝心|要《かなめ》ですからね。ああ、五体を思いきり伸ばして、たっぷりと熟睡できる人が、羨ましいですよ。よく眠れる人には、このベッドが、実にありがたいに違いないですからな。でも、絶えず疲れっ放しで、ろくすっぽ眠れない私だって、心地よいことはよいですがね。私は、一日の大部分をベッドのなかで過ごすのです。そして、すべて、通信文も、ベッドのなかで片付ければ、問題の当事者らにたいする尋問も、ここで、済ませます。なかなか捗《はかど》りがいいですよ。むろん、相手方は、すわる場所もありませんが、それを苦にもしていません。だって、あの連中にしても、自分たちが立っていて、調書作成者にいい気分を味わっていてもらうほうが、自分たちが気楽にすわっていて、怒鳴り付けられるよりも、ずっと好ましいですからな。ところで、お掛けいただくにも、ベッドの端のこの場所しか、空いていませんが、これは、しかし、執務の折の席ではないのです。夜の歓談のための取って置きの席なのです。それにしても、測量師さん、えらく黙り込んでしまわれましたな」
「とても疲れているんです」と、Kは言った。彼は、勧められると、すぐさま応じて、無遠慮に、荒っぽく、ベッドヘ腰を落とすなり、ベッドの支柱にもたれていたのだった。
「ごもっともです」と、ビュルゲルは、笑いながら、言った、「ここでは、だれもが疲れているのです。例えば、この私が、きのうからきょうにまでかけて、なし遂げた仕事と言えば、ちょっとやそっとではないのです。私が今から眠り込むなんてことは、全く絶無と申してよろしいが、しかし、万が一にも、この最もあり得ないことが起こって、あなたがここにいらっしゃるあいだに、私が眠り込むようなことがあったとしましても、どうか、お静かに控えてくださって、そこのドアを開けたりなんぞなさらないように願います。いや、なに、御心配は無用です。私は、けっして、眠り込んだりしません。それに、うまく寝付かれても、ほんの数分間にすぎません。つまり、私の場合は、問題の当事者たちとの交渉に慣れ切ってしまったからでしょうか、とにかく、話し相手がいてくれますと、とても寝付きがいいという、いつのまにか、そんな習性がついてしまったのです」
「どうぞ、秘書さん、御遠慮なく、お休みになってください」と、Kは、今の予告に嬉しくなって、言った、「そのときは、僕も、恐縮ですが、すこしばかり、眠らせていただきましょう」「いや、いや」と、ビュルゲルは、またも笑った。「そうむき出しに誘いを掛けられただけでは、残念ながら、寝付けるものではありません。ただ、話を続けているうちに、そういう機会が生じるかもしれないのです。談話が、私にとっては、言わば、一番早く利く催眠剤ですよ。なにしろ、私たちの仕事は、神経を痛めますのでね。例えば、この私は、連絡担当の秘書なのです。これがどういうものか、御存じないでしょうね。それでは申しますが、極めて有数の連絡役なのです」――そう言いながら、彼は、思わず嬉しそうに、両手を揉《も》み合わせて――「フリードリヒと城とのあいだとか、フリードリヒの城中の秘書と村方の秘書とのあいだとかの連絡役をするのです。大抵は、村にいますが、しかし、村に常駐ではありません。いついかなる時にでも城中へ赴けるように、ちゃんと用意ができていなければなりません。そこの旅行用手提げ鞄にお気づきでしょう。なんとも落ち着かない生活でしてね。だれにでも向くような仕事じゃないのです。かと申して、このような仕事が私の生き甲斐《がい》になっていることも、本当です。ほかのどんな仕事を受け持っても、私には味気なく思えることでしょう。ところで、測量のほうは、一体、どうなっているのです」
「僕は、そちらのほうの仕事をやってはおりません。測量師として働かせてもらえないのです」と、Kは言った。彼は、ついぼんやりして、あらぬことを考えていた。実は、ビュルゲルが早く眠ってくれないものかと、ただ、そのことだけが待ち遠しくて、じりじりしていたのだった。だが、それも、自分自身にたいする一種の義務感から、待ち望んでいたにすぎなかった。心の底では、ビュルゲルが眠り込む瞬間があるにしても、ずっと、予測もつかないほどに、遠い先のことであることが、分かっている心算だった。
「これは、驚きましたな」とビュルゲルは、昂然《こうぜん》と頭を急に上げながら言うと、掛け毛布のしたからメモ帳を取り出して、なにやら手控えた。「あなたは、測量師であるのに、測量の仕事を与えられていない」Kは、機械的にうなずいた。彼は、ベッドの支柱のうえに左腕を延ばして、その腕のうえに頭を載せていた。彼は、それまで、からだをなんとか楽にするために、さまざまな姿勢を取ってみたが、その姿勢が最も楽であった。それに、その姿勢だと、ビュルゲルの言葉に、多少なりとも、耳を傾けやすかった。「私がこの問題をもっと追究してあげてもいいですよ」と、ビュルゲルは、言葉を続けた、「当地の私どものところでは、専門的な力を活用し尽くさないままで、事態を放置しておいては、絶対に、いけないことになっているのです。それに、あなたにとっても、こうしたことは、やはり、侮辱に違いないでしょうしね。あなたは、一体、こういう仕打ちに会っても、痛痒《つうよう》を感じられないのですか」
「そりゃ、苦にしていますよ」と、Kは、ゆっくりと答えて、ひとり、苦笑を洩らした。と言うのは、たまたまそのときは、そんなことを微塵も苦にしていなかったからである。それに、ビュルゲルの申し出も、彼には、ほとんど感銘を与えなかった。あんなことを言ったって、どのみち、物好きの余技の域を出ないに違いない。この僕が任用されるにいたった事情とか、その任用のために村や城で逢着した、さまざまの難儀とか、僕が当地に滞在するようになってから、早くも生じていた、とりどりの紛糾、あるいは、すでに到来の兆《きざし》が見えていた、いろいろな揉め事について、夢にも知らない癖に、いや、それどころか、秘書たるからには、難なく想定していなければならぬはずのことを、せめて薄々にでも、虫が知らせていそうなものなのに、そんな気配をすら微塵も感じさせないで、そこの小さなメモ帳のみを使い、この一件を、城で、苦もなく、処理してやろうと申し出るとは、呆《あき》れ返った男だ。
「あなたは、これまでも幾度か、失望を味わって来られたようですね」と、ビュルゲルは言って、またしても、かなり世慣れているところを示した。Kは、この部屋に足を踏み入れた途端から、ビュルゲルを見くびってはいけないと、繰り返し、自分を戒めてはいたが、今の状能では、自身の疲労以外のことを正しく判断するのは、無理であった。「いや、なに」と、ビュルゲルは言った。まるでKの心中に答えて、思いやり深く、Kの口をきく労を省いてやると言わんばかりの口調であった。「失望を重ねたくらいで、怖気《おじけ》付いてはいけませんな。当地では、なにかと、人を怖気付かせるように膳立てされているような節《ふし》があるらしいのです。当地へ新来の人には、そうした障害が、全く測り知れないように思えるのです。その辺の事情について、私は、調査する心算はありませんが、どうやら、真相は、外観と内実が符合しているようです。ただ、それを確認するには、適当な距離を置かないといけませんが、私のような立場におります者には、それができない訳です。でも、まあ、お聴きなさい。そのような場合であっても、やはり、時には、一般状勢とあまり合致しないような状況が生じることだってあるものですよ。そのような機会には、たった一言で、あるいは、目交ぜひとつで、または、信頼の合図ひとつで、一生かかって身の細るような労苦を積んだ結果よりも、はるかに大きなものが獲得できるかもしれないのです。確かに、そうなのです。むろん、そのような機会があっても、それを利用せずに見過ごしてしまえば、状況は、元に戻って、一般状勢と合致してしまいます。それにしても、どうしてそうした機会を利用せずに捨てておくのだろうかと、私は、折あるごとに、尋ねてみたいくらいなのです」
Kは、答えようがなかった。ビュルゲルの言っていることが、どうやら、自分に大いに関係があるらしいとまでは、気づいてはいたが、しかし、Kは、今まで、自分に関係する事柄にたいして、反吐《へど》を催すほどの嫌悪感を抱いていた。そこで、彼は、すこしばかり、首をわきへ傾《かし》げた。そうすることにより、ビュルゲルの問いにまっすぐ進路をあけてやって、その問いから身を躱《かわ》そうとしているかのように見受けられた。「ところで」と、ビュルゲルは、さらに言葉を続けながら、両腕を伸ばして、あくびをした。それは、彼の言葉の真剣さとは変に矛盾していた、「ところで、村での尋問の大半を、無理して、夜分に行わねばならぬことが、秘書たちには、不断の愚痴の種なのですよ。それにしても、どうしてそれについて愚痴をこぼすのでしょうか。辛《つら》い骨仕事だからでしょうか。夜は、むしろ、眠るほうへ使いたいからでしょうか。いや、そういうことで、愚痴をこぼしているのでは、けっして、ないのです。もちろん、秘書のなかには、精励な人もいれば、あまり精励でない人もいます。それは、どことも同じことです。でも、どんなに辛い骨仕事であろうと、それについて愚痴をこぼす者は、秘書のなかには、ひとりとしていません。それは、衆目の認めるところです。そうしたことは、全く、私どもの柄ではないのです。その点で、私どもには、勤務時間と平常時間とのあいだの相違なんかありません。このような区別などは、私どもに無縁のものです。とすると、秘書たちは、しかし、夜の尋問にたいして、なにが不服だと言うのでしょう。例えば、呼び出している当事者にたいする配慮からでしょうか。いや、いや、滅相もないことです。秘書たちは、相手方にたいして、なんの容赦もしません。もちろん、自分自身にたいするよりも、さらに些少《さしょう》でも、手厳しいかと言えば、けっして、そうではなく、自分の身を顧慮しないのと、全く同じ程度に、相手方をも顧慮しないのです。実のところ、この思いやりのなさこそ、職務の断固たる遵守であり、遂行にほかなりません。しかもまた、相手方がせめてもと願う最大の思いやりと言えば、これなのです。このことも、根本的には――皮相の士には、むろん、見破れないでしょうが――完全に是認される訳です。と申しますのも、例えば、この場合でも、当事者たちに歓迎されるのは、夜の尋問のほうだからです。夜の尋問にたいする原則的な苦情など、持ち込まれた例《ためし》がありません。としますと、秘書たちの嫌悪は、なぜでしょう」Kは、それにも答えようがなかった。彼は、どうも腑《ふ》に落ちなかった。ビュルゲルが返事を求めているにしても、本気なのか、それとも、そう見せかけているにすぎないのか、それさえ、区別がつかなかったのである。『このあんたのベッドヘ僕を潜り込ませてくれたら、あすの昼ごろには、いや、晩なら、なおのこと結構だが、あんたの問いにそっくり答えてあげてもいいや』と、彼は、肚《はら》の底で思った。ところが、ビュルゲルのほうは、Kを意に介してはいないようだった。彼は、自問自答を重ねてゆくのに、ひどく夢中になっていたのだった。
「私が見届けている限りでは、そしてまた、身をもって経験してきた限りでは、秘書たちは、夜の尋問に関して、およそ、次のような疑念を抱いているようです。つまり、夜が当事者たちとの交渉に不適なのは、夜だと、交渉の公的な性格を遺憾なく保持することが、困難だから、いや、それどころか、全く不可能だから、と言う訳です。これは、体裁を気にしているのではありません。形式でしたら、もちろん、夜間でも、昼間と同じように、好きなだけ厳格に遵守することができます。ですから、問題は、そうしたことではありません。昼間に反して、夜分だと、職務上の判断が損なわれやすいのです。夜分だと、昼間よりももっと私的な観点から、つい、物事を判断しがちなのです。そして、当事者の陳述も、それに不釣り合いなくらいに、重みを増して来ます。すると、当事者のその他の情況とか、彼らの苦悩とか、憂慮などにたいする、然《しか》るべき考慮が、判断のなかへ、入り込む余地も、皆無になってしまいます。また、役人と当事者とのあいだの必要な柵にしても、外形的には、間違いなく、現存しているようでも、実のところは、もうぐらつきかけていて、ふだんならば、型のごとく、質疑応答のみが交わされて来たはずなのに、いつのまにか、奇妙なことながら、全く場所柄をも弁《わきま》えないで、相互の立場を交換しているように見えるときだってよくあるのです。そのように、すくなくとも、秘書たちは、言っています。つまり、職掌柄、このような事柄にたいして、全く桁《けた》外れに鋭敏な感覚を具《そな》えている人たちが、確かに、そう言っているのです。ところが、その秘書たちでさえも――これは、もう幾度となく、私たちの仲間で、論じ合って来たことですが――夜の尋問のあいだに、今申したような不都合な作用が生じていることに、ほとんど気づいていないのです。それどころか、逆に、気前よく、頭から、そうした作用を受け入れるほうに精を出して、その揚げ句は、ずばぬけて立派な仕事を成し遂げたように、思い込んでいるのです。ところが、後日になって、そのときの調書を読み返してみると、そこに明々白々な欠点があるのを見て、しばしば、吃驚《びっくり》することさえあるのです。これは、もとより、失態です。しかも、これによって、ほとんど謂《いわ》れもなしにぼろ儲《もう》けをするのは、いつも、当事者の側です。こうした失態は、すくなくとも、私どもの法規によれば、常套の簡単な手続きでは、もう取り返しようがありません。いずれそのうちに、それらの失態が、監督庁によって、是正されることは、必至ですが、しかし、その監督庁といえども、公正を保つのに役立つだけで、当事者どもを、今更、痛め付ける訳にもいかないでしょう。このような事情であれば、秘書たちの愚痴も、理の当然ではないでしょうか」
Kは、つい今しがたから、なかばうとうととしかけていたところだったが、その問いで、またしても、眠気を覚まされてしまった。『なぜ、こんな御託を並べなきゃいけないのだろう。どうして、くどくどと、こんな御託を並べるのだろう』と、Kは、自問しながら、ともすれば垂れ下がろうとする瞼のしたから、ビュルゲルを眺めた。すると、自分を相手に、難しい問題を論じている役人とは、どうも、見えなかった。自分のまどろみを妨げる以外に、存在理由が見出せないような代物《しろもの》としか、思えなかった。しかし、ビュルゲルのほうは、自分の考えを追うのにすっかり夢中になっていて、Kを、多少なりとも、惑わそうと思ったのが、まんまと図に当たったかのように、ほくそ笑んでいた。とは言え、彼は、もうそのときには、Kを、すぐまた、本筋へ連れ戻せるように、準備を整えていたのだった。
「ところで」と、ビュルゲルは言った、「秘書たちのそのような愚痴を、そのまま鵜呑《うの》みにして、理の当然と言ってしまう訳にもいかないのですよ。夜の尋問は、確かに、規則としては、どこにも、定められてはいないのでして、従って、これを回避しようとしても、けっして、規則違反と言うことにはなりません。ですが、さまざまな事情がありましてね。例えば、仕事の山積とか、城における役人たちの就業の仕方とか、ずっと手が塞がっていて、ちょっとやそっとでは、職場を空けにくい現況とか、当事者にたいする尋問は、ほかの調査が完全に終了するのを俟《ま》たないといけないが、それが終了しさえすれば、即時に、始めねばならないという規則とか、そうしたことのほかにも、まだ、あれこれと、事情がありまして、そのために、夜の尋問が、どうにも避けられない定めになってしまったのです。ところで、夜の尋問が、かように、定めのようなものになってしまったとすれば――私の説では――これも、やはり、すくなくとも、間接的には、諸規則の結果ということになります。としますと、夜の尋問の在り方にけちをつけるということは、とりもなおさず――むろん、私の言葉には、すこしばかり、誇張があります。それゆえ、誇張を続けるとすれば、こう言っても差し支えないと思います――とりもなおさず、規則にけちをつけることにさえもなりかねないのです。それに反して、規則の許す範囲内で、夜の尋問と、そして、多分、見かけだけらしい、その弊害とを、できうる限り、防止しようと努めることは、秘書たちに認められた権限かもしれません。現に、秘書たちはそれをやっています。しかも、最大限度にですよ。秘書たちは、いかなる点においても、危倶すべき節が考えられないような尋問でないと、手掛けませんし、尋問のまえに、納得がいくまで綿密に、吟味を重ねて、吟味の結果、已《や》むを得ないとなれば、たとい真際であっても、一切の尋問を取り消してしまいます。あるいは、実際に、尋問に着手するまえに、相手方を、しばしば、十回も、召喚して、大いに意を強くすることもありますし、当該の事件に当たってないために、事件の処理が、自分よりも、ずっと造作なくやれるような同僚に、進んで、代理を頼むこともあります。また、尋問を、すくなくとも、夜の初めか、終わりと決めて、あいだの時間を避けたりすることだってあるのです。このような方策なら、まだほかにも、数多くありますし、秘書たちは、そうやすやすと、付け込まれたりはしませんよ。彼らは、傷つきやすいことは傷つきやすいですが、また、それとほとんど見合うだけの、強い抵抗力をも持っているのですからね」
Kは眠っていた。しかし、それは、真の眠りではなかった。もしかすると、先刻、死ぬほど疲れながらも、眼を覚ましていたときよりも、ビュルゲルの言葉が、よく聞き取れていたかもしれない。一語、一語が、彼の耳朶《じだ》を打った。だが、こうるさいという意識は、いつのまにか、消え去っていた。自由な気分だった。もう、ビュルゲルにだって、引き留められやしないぞ。ただ、こちらが、今までの行きがかりから、手探りで、ビュルゲルの所在を確かめようとしているにすぎないんだ。まだ、眠りの深みにまでは落ちてはいないが、どうやら、眠りには浸っているらしいな。この蕩《とろ》けるような心地を、もうだれにも奪い去らせはせぬぞ。すると、そのとき、なんだか大勝利を勝ち得たかのような気がして来た。その途端に、もう、それを祝うための人々も、眼のまえに集まっていた。Kが、あるいは、ほかのだれかかも知れないが、その勝利を称《たた》えて、シャンパン・グラスを高くかざした。そして、なんのための集いなのかを、一同に周知させるために、もう一度、戦いと勝利の次第が、繰り返し述べられていた。いや、どうも繰り返されているのではないらしいぞ。今やっと、戦いが起きたばかりなのだ。だのに、もう早速にも、前祝いをやっていたんだ。戦いの結果が、幸いにも、確実だったので、どうしても戦勝を祝わずにはいられなかったのだ。裸体の、あるギリシアの神の立像によく似た、ひとりの秘書が、Kに攻め立てられて、切羽詰まっている。それは、ひどく滑稽な光景であった。秘書は、Kが攻撃をかけて踏み込むたびに、矢庭に、偉そうな身構えを崩し、ぎくりとして飛び上がりながらも、高く差し伸べた片腕と握り拳とを使って、すばやく、むき出しの局所を庇《かば》わねばならなかったが、その動作が、あいもかわらず、呆れるほどに緩慢であった。Kは、それを見て、眠りながらも、にやりと笑みを洩らした。戦闘は、そう長くは続かなかった。一歩、一歩、それも非常に大きな歩幅で、Kは、突き進んで行く。はたして、これが戦《いくさ》と言えるだろうか。いつになっても、敵の強力な阻止に、全然、出くわさないのだ。ただ、時折、秘書のひいひいと泣く声がするだけである。このギリシアの神が、まるで擽《くすぐ》られた生娘のように、ひいひいと泣いているのだ。そして遂に、その秘書も、逃げ去ってしまった。広い空間のただなかに立っているのは、Kひとりであった。彼は、戦いの気構えも新たに、あたりを見回して、敵を捜した。ところが、敵らしい影は、もうどこにも見当たらなかった。祝賀会の人々も、とっくに、散っていた。ただ、シャンパン・グラスだけが、毀《こわ》れて、地上に転がっていた。Kは、それを微塵に踏みしだいた。ところが、その破片が足に突き刺さって、ひどい疼《うず》きに縮み上がった途端に、彼は、またしても、眼を覚ました。彼は、眠りを破られた幼児のように、不機嫌だった。にもかかわらず、ビュルゲルの露出した胸を見ると、今までの夢の名残で、こんな考えが彼の脳裏を掠《かす》めた。なんと、あのギりシアの神がここにいるではないか。こやつを羽根ぶとんから引きずり出せ、と。
「ところが」と、ビュルゲルは、思案顔で眼を天井に向けたまま、言った。記憶のなかから実例を捜してはみたものの、適当なものが見つからないとでも言いたげな様子であった。「それでもやはり、万全の予防策を立てていましても、相手方にとっては、この秘書たちの夜の弱味を――もとより、それが弱味であると、仮定してのことですが――自分のために利用できる可能性が残されているのです。と言っても、むろん、ごくまれな、いや、もっと適切な言い方をすれば、ほとんど生じることのない可能性ですがね。その可能性は、当事者が真夜中に出し抜けに出頭するところにあるのです。そんなことは、いとも訳ないように思えるのに、それがごくまれにしか起こらないことだと決めつければ、あなたは、さぞかし、変にお思いでしょうな。いや、ごもっともです。あなたは、私たちのいろいろな事情を詳しく御存じではありませんからね。しかし、いくらあなただって、当局の組織が完全無欠であることには、すでに十分にお気づきでしょう。ところが、このように完全無欠であるがために、だれであろうと、なにか請願することがある者とか、あるいは、その他の理由で、なにかの件につき、尋問を受けねばならない者とかが、いきなり、大抵は、当人自身が、まだその問題について篤《とく》と考えてもいないうちに、いや、それどころか、その件についてなにも関知しないうちに、早速にも、もう召喚状を受け取るようなことがあるのです。この場合、当人にたいする尋問は、まだ行われません。大抵は、まだ行われません。当該の問題が、よほど異常なことがない限り、まだそこまで熟してないからです。しかし、当人は、現に、召喚状を持っています。それだけに、出し抜けに出頭する訳にはもういきません。まあ、都合の悪いときを見計らって出頭するのが、関の山です。その場合でも、召喚状の日時をよく見て来いと、注意されるのが落ちです。でも、一度、そういうことがあると、その後、正しい日時に再出頭しても、追い返されるのが、通例です。追い返したとて、もう、なにも困ることはありません。当人が手にしている召喚状と書類のなかに書き留めてある覚え書き、これこそ、秘書たちにとっては、かならずしも十分とは、言えないにしても、とにかく、強力な防御兵器ですからね。もちろん、このことは、その事件をたまたま担当している秘書についてのみ、言えることです。それ以外の秘書たちを夜中に不意打ちしたって、そりゃ、一向に構いませんが、しかし、だれも、そんなまねはしないでしょう。ほとんど無意味なことだからです。それに、そんなことをしたら、まず第一に、担当の秘書をひどく怒らせてしまうでしょう。私たち、秘書のあいだでは、仕事のことに関して、嫉妬するようなことは、けっしてありません。だれもが、ひどい山積みの仕事を割り当てられながらも、それを、いかにも大様《おおよう》に、背負い込んで、重荷にぐっと耐えているくらいですからね。しかし、私たちも、当事者どもが私どもの管轄を撹乱するのを目の前にしては、断じて許す訳にはいきません。これまでにも、担当の秘書のところでは、事がどうも捗《はかど》らないように、勝手に思い込んで、担当でない秘書のところへ行き、なんとかうまく潜《くぐ》り抜けようとしたばかりに、係争に負けてしまった者が、すでに幾人か、いるのです。ところで、このような試みが失敗に終わらざるを得ないのは、またひとつには、担当でない秘書が、深夜に不意打ちを受けて、ふびんさのあまり、いかに親切気を出して助けてやろうと思っても、管轄外のことであるだけに、そこらあたりの一弁護士程度の介入くらいしかできないことにもよるのです。いや、結局は、弁護士よりも、はるかに劣るかもしれません。と言いますのは――その秘書が、弁護士諸公よりも、法の抜け道をよく識っているがために、次第によっては、なにがしかのことをしてやれないことはないとしても――自分の担当してない事柄のために割く時間が、実のところ、皆無だからです。そのようなことに、秘書は、一瞬なりとも浪費できないのです。としますと、こうしたことが前もって分かっているのに、自分の貴重な夜を擲《なげう》ってまで、わざわざ、担当でない秘書の役を演じるような者がいるでしょうか。それに、当事者のほうも、自分の不断の職業に従事するかたわら、所轄官庁の召喚やら指示に応じようと思えば、確かに、てんてこ舞なのです。むろん、これは、当事者のほうで言う『てんてこ舞』でして、当然のことながら、秘書たちのほうで言う『てんてこ舞』とは、断じて、同じものではありません」
Kは、にやにやしながら、うなずいた。今では、なにもかもがはっきりと読めるように思った。と言うのも、彼に関わりのあることだったからではなくて、自分のほうは、もうすぐに熟睡できるだろう、今度は、夢も見ずに、邪魔もされずに、熟睡できるだろうと、そのとき、確信できたからであった。片方にいる担当の秘書たちと、他方にいる非担当の秘書たちとのあいだに挟まれながら、てんてこ舞の当事者たちの群れを目の前にして、自分は、深い眠りに落ちて行き、このやり方で、一切から脱却できるだろう。ビュルゲルの低い、独りよがりな、しかし、自身の就眠には、明らかに、なんの役にも立たない声も、もうすっかり耳慣れてしまった今は、こちらの眠りを妨げるどころか、むしろ、促してくれるだろう。『かたんことん、水車よ、回れ』と、彼は、思った、『かたんことん、おまえは、僕のためにだけ、回っているのだ』
「それでは」と、ビュルゲルは、二本の指で下唇を弄《もてあそ》びながら、眼を皿のように見開き、首を伸ばして、言った。言わば、苦労してさまよい歩いた甲斐あって、ついに、眺望のすばらしい地点に近づけたかのような仕草であった。「それでは、先ほど申しました、ごくまれな、ほとんど生じることのない、あの可能性なるものは、はたして、どこにあるでしょうか。秘密は、管轄に関する規則のなかに潜んでいるのです。つまりですね、事件ごとに、それぞれ、ひとりの決まった秘書がそれを担当するというふうにはなってないのです。大きな活動的な組織だと、そうはいきません。秘書のひとりが主たる管轄権を持つにしても、他の多くの秘書たちもまた、幾分かなりと、それに与《あずか》って、わずかでも、その権隈を分け持つというふうにするほかないのです。いかに無類の遣《や》り手であるにしてもですよ、また、手がけたのがどんなに些細《ささい》な事件にすぎないにしてもですよ、その関係書類を、すべて洩れなく、独力で、揃えておくなんてことが、はたして、できるものでしょうか。私は、ただ今、主たる管轄権について申しましたが、それさえ、言いすぎなのです。どのように僅少な管轄権であろうと、そのなかには、全管轄権が含有されているのではないでしょうか。この場合、決定的な役割を果たすのは、事件を取り上げる者の情熱ではないでしょうか。情熱は、いつの時でも、同じものであり、いつの時でも、激しく燃えさかっているものではないでしょうか。秘書たち同士でも、いろいろな点で、違いがあるかもしれません。その違いは、千差万別です。しかし、情熱という点では、そうではありません。自分にほんのわずかな管轄権しかないような事件であっても、それを扱ってもらいたいという要請を受ければ、どんな秘書だって、逸《はや》る心を抑えきれなくなるでしょう。むろん、外部に向かっては、きっちりとした審理の可能性を作っておかねばなりません。それに従って、当事者たちにたいしては、それぞれに、ひとりの決まった秘書が表面に出る訳で、当事者のほうも、公には、その秘書を頼りにせねばならないのです。ところが、それが、その事件にたいして最大の決定権を持っている、当の秘書でなくても、一向に構わないのです。その辺のところを決定するのが、組織であり、その組織の、特殊な、その時その時の、止むを得ない事情なのです。以上が、ほかでもない、実態です。ところで、測量師さん、すでに申しあげましたように、並み大抵では乗り越えられないほどの障害が、多種多様に、存在している訳ですが、それにもかかわらず、ある当事者が、なんらかの都合によって、当該の事件にある種の権限を有している秘書を、真夜中に、不意打ちするかもしれない、その可能性を篤《とく》と考えてみてはくださいませんか。
おそらく、あなたは、このような可能性についぞお考え及びになったこともないでしょう。それもごもっともなことだと、思います。確かに、そんなことを考える必要さえもない訳です。だって、ほとんど起こりそうもないことですからね。そのような当事者が、このうえなく精巧にできた篩《ふるい》を潜り抜けようと思えば、よほど特定な形をした、器用な、小顆粒にでも化けないといけないでしょう。あなたは、そんなものに化けるなんて、世にもあり得ないことだと、お思いでしょうな。そのとおりです。世にもあり得ないことです。ところが、ある夜――だれだって、なにからなにまで、保証しきれるものではありませんしね――その世にもあり得ないことが起こることだって、あるのです。むろん、私の知り合いの秘書のなかには、そのようなことに出くわした人は、ひとりもいませんが、そんなことは、ほとんど、なんの証拠にもなりません。私の知り合いは、ここで問題にしている秘書たちの数に比べると、ごく少数に限られていますのでね。それにまた、そのようなことに出くわした秘書が、それをそのとおりに打ち明けようと、思うかどうか、その辺も、怪しいものですからな。いずれにせよ、かようなことは、きわめて個人的な問題であるとともに、言わば、役所の恥辱にもひどく関わる重大事件です。でも、しかし、私の経験に徴《てら》した限りでは、どうやら、これは、きわめてまれな、もともと、噂のみがまことしやかに伝えているだけで、それ以外には、なんとも実証のしようがない事象らしいのです。従って、これを危倶するなんて言うのは、途方もない誇張かもしれないのです。よしんば、そのような事態が、実際に、起こったところで――そこは、心の持ち方次第で――この世界にはそのようなものの入り込む余地はないのだということを、その事態にたいして証明してみせれば、それによって、恙《つつが》なく決着がつけられると、思っていればいいのです。そのくらいの証明ならいとも易しいことですからね。いずれにしても、そうした事態を恐れて、例えば、掛け毛布を頭からすっぽり被って隠れ、外をも見ないようでは、病的と言うほかありませんな。それに、この全く起こりそうもないことが、もしも万が一、不意に、現出したとしましても、もうそれで、なにもかもがだめになってしまったことになるのでしょうか。いや、滅相もありません。なにもかもがだめになるということは、最も起こりそうにないことよりも、もっと起こりそうにないことなのです。もちろん、相手方が部屋のなかに来てしまっていれば、もう抜き差しなりません。胸が塞がって来ます。
『いつまで、張り合えると、思っているのだい』と、自分の心に尋ねてみます。しかし、とても張り合えるような相手でないことは、自分でも分かっているのです。こうした状況を、ぜひとも正しく、お思い浮かべになっていただきたいのです。なにしろ、ついぞ姿を見たことのない、いつも待ち受けていた、それも文字どおり、渇きを覚えながら、待ち焦れていた、いつも理詰めでは、手の届かぬなところにいるものと見|做《な》すほかなかった、当の相手が、現に、つい目と鼻の先に、すわっているのですからね。その男が、黙って、その場に居合わせているだけでも、こちらとしては、早くその男の哀れな生活のなかへ立ち入って、まるで自分自身のものであるかのように、その生活のなかを探り、その男の無益な要求を続けるほかない苦しみを、一緒に、味わってほしいと、催促されているようなものですよ。この物静かな夜更けの催促こそ、堪《こた》えられないほどに魅惑的です。その催促に乗ると、もうそれで、実のところ、役人を罷《や》めたも同然なのです。相手の請願を拒否することが、間もなく、できなくなるような羽目に、陥っているからです。そうなれば、厳密に申しますと、こちらは、絶望的です。でも、さらに厳密に申しますと、非常に幸福でもあるのです。絶望的と言うのは、無防備だからです。無防備のまま、ここにすわって、相手の請願を待ち受けながら、その請願が、一旦、相手の口を突いて出たが最後、それを叶《かな》えてやらねばならないと、覚悟している。たとい、その請願が、すくなくとも、自分の、予測し得る限りでも、役所の組織をすっかり断ち切るものと、分かっていてもですよ。これこそ、おそらく、実務を執っている者が遭遇する、最悪の事態ではないでしょうか。先ずなによりも――ほかのすべてのことは度外視するとしても――この場合、当座凌ぎにもせよ、自分に当然のものとして、強引に、途轍《とてつ》もない昇進を要求していることにもなるからですよ。私たちの地位には、ここで問題にしているような請願を叶えてやれる権限なんか、皆無なんですからね。ところが、この夜半に当事者が身近にいることによって、私たちの職権も、言わば、増長して、私たちは、自分の領分外の事柄をまでも、つい約束してしまうのです。いや、それどころか、それを実行さえもするのです。つまり、夜半に立ち現れる当事者は、まるで森のなかで網を張る盗賊のようなものですよ。普段の私たちでは、とても払えそうもないような犠牲を、私たちから、ふんだくるのですからな。それはそうと、今の場合だって、そうした状況ですよ。相手がいまだに居すわって、私たちを力づけながら、強要し、私たちに発破をかけて、万事がいまだに、半ば無意識のうちに、進行している訳ですしね。ところが、その状況が過ぎたら、あとはどうなるのでしょう。相手が、満足しきって、心も軽く、立ち去った後、私たちは、ひとり残されて、無防備のまま、立ち尽くしながら、自分の犯した職権濫用に直面しているのです――それこそ、全く想像に絶することです。それにもかかわらず、私たちは、幸福です。この幸福感こそ、実のところ、自殺にもひとしいのです。私たちも、その気になりさえすれば、相手方にたいして事の真相を隠しておくくらいのことは、できないことはありません。それに、相手のほうにしても、自力では、ほとんど感づきようがないのです。たぶん、なんらかの好《い》い加減な、ふとした理由から――疲れ果て、失望し、その疲労と失望のあまりに、なんの見境もなく、好い加減な気持ちで――見当違いな部屋へ飛び込んだように、思っているに違いないからですよ。そして、なにも知らずに、そこへ腰を掛けて、もしも思案に暮れているとしても、自分のどじとか、疲労とかに心を奪われているくらいのものですからね。そのような相手を、そのまま、見捨てておくことができるでしょうか。いや、できっこありません。幸福な人たちにありがちな饒舌にまかせて、相手に、洗いざらい、説明してやらずにはいられなくなるのです。わが身の大切なことをすこしも顧みずに、なにが起こったか、それがどのような理由から起こったか、また、この機会がいかに千載一遇のものであり、いかに絶大なものであるかを、縷々《るる》として、証明してやらずにはいられないのです。しかも、それでも飽き足らないで、相手が、すっかり途方に暮れて、このように途方に暮れるのだって、ほかの人間にはできない芸当ですが、暗中模索を続けているうちに、どのようなはずみで、このような好機に遭遇したかとか、今なら、測量師さん、当人がその気になりさえすれば、何事も、当人の思いのままになるし、そのためには、別に造作は要らない、ただ、自分の願いの趣を、とにかく、申し出さえすればよい、快く叶えてやろうと、すでに待ち構えてくれているのだ、そうだ、叶えてくれる人のほうへ、手を差し出すだけでいいのだとか、そうしたことまで、洩れなく、教えてやらずにはいられないのです。このときほど、役人にとって、辛い一刻はありません。だが、それさえ済ませてしまえば、測量師さん、緊急の要件は、率《そつ》なく、果たした訳です。こちらとしては、みずからの分を知って、待つよりほかに、術《すべ》がありません」
Kは、どのようなことが起ころうと、委細構わずに、眠り込んでいた。最初、ベッドの支柱のうえに伸ばした左腕にもたせ掛けていた彼の頭は、眠っているうちに辷《ず》り落ちて、宙にぶらさがりながら、徐々に低く垂れ下がって行った。支柱にかけた左腕だけでは、もうからだが支えきれなかった。Kは、思わず、右手をベッドの掛け毛布のうえに衝《つ》いて、新たに、からだの支えにした。その際、彼は、偶然にも、掛け毛布を下から高く突き上げているビュルゲルの膝頭《ひざがしら》を掴《つか》んでしまった。ビュルゲルは、ちらとそちらへ眼をやったが、足は、Kの掴むにまかせていた。ビュルゲルにとっては、ひどい迷惑だったに違いない。
そのとき、側面の壁を、数度、はげしくノックする音がした。Kは、びっくりして跳び上がり、その壁のほうを見詰めた。「そちらに測量師はいませんか」と、尋ねる声がした。
「いますよ」と、ビュルゲルは、言って、Kの手から掴まれていた足をもぎ離すと、不意に、少年のように、荒っぽく、身勝手に、大の字になってしまった。「それじゃ、もう好い加減にこちらへ寄越してもらいましょうか」と言う声が跳ね返って来た。ビュルゲルのことも、また、ビュルゲルが、もしかすると、Kにまだ用事があるかもしれないことも、全くとんじゃくしてないような口ぶりだった。
「エルランガーですよ」と、ビュルゲルは、ささやくように言った。エルランガーが隣室にいたことに、すこしも驚いてないようだった。「すぐに、彼のところへいらっしゃい。きっと、御機嫌斜めでしょうから、精々、宥《なだ》めてあげないといけませんよ。彼は、よく眠れる質《たち》ですが、それにしても、私たちの話し声がひどく高すぎましたからな。だれだって、話す事柄によっては、自分の気持ちとか、自分の声を、抑えきれないものですよ。さあ、さっさと、お行きなさい。どうやら、まだ、眠りから醒めきれないようですね。早く、いらっしゃい。一体、ここに、まだ、なんの用があるのです。いや、なに、眠いのも、よく分かります。そんなことで、謝られるには及びません。だって、そうじゃありませんか。体力なんてものは、ある限界までしか、続きませんからね。この限界なるものが、ほかの場合でも、大いに物を言う訳ですが、さりとて、こればかりは、だれだって、どうすることもできません。そうなんですよ、だれだって、どうすることもできやしません。それゆえ、地球でさえも、その運行を自己調整して、安定を保っているくらいです。自己調整して、安定を保つなんて、実に、優秀な、いくら考えても、想像もつかないほどに、優秀な仕掛けではありませんか。とは言え、観点を変えれば、絶望的ですがね。さあ、お行きなさい。どうして、そのように、私を見詰められるのか、さっぱり、分かりませんな。これ以上、ぐずぐずしてらっしゃると、私のほうがエルランガーに襲われますよ。こればかりは、桑原桑原ですな。とにかく、お行きなさい。あちらで、なにが、あなたを待っているか、知れやしませんがね。こちらだと、何事によらず、好い機会が腐るほどあります。むろん、なかには、言わば、大きすぎて、使い物にならないような機会だって、あるにはあります。また、ほかでもなく、それ自体が躓《つまず》きの石となるような事柄もあります。いや、はや、驚嘆することばかりですな。とにかく、今だと、すこしは、眠れそうな気がしています。むろん、もう、五時ですし、そのうちに、騒々しくなるでしょうが。せめて、この部屋をなりと、お立ち退《の》きいただけませんかな」
深い眠りから急に起こされて、朦朧《もうろう》としたまま、いまだに、眠気を限りなく感じていたばかりでなく、窮屈な姿勢をしていたために、からだの随所がずきずきと痛んで、Kは、いつになっても、立ち上がる決心がつかずに、額を支えながら、自分の膝へ眼を落としていた。耳に胼胝《たこ》ができるほど、ビュルゲルから別れを告げられても、立ち去る気持ちにはならなかった。ただ、この部屋に、これ以上、いつまで居すわっていても、なんら得るところがないと悟ると、次第に、出て行く気持ちになっていった。この部屋は、彼には、なんとも言いようのないほど、索漠としているように思われた。年月とともに、そうなったのか、それとも、昔から、そうだったのか、彼には、確かめようがなかった。こんなところでは、もう二度と、眠れやしないだろう。この確信で、決心のほうもついた。それが、自分ながら、おかしくて、ちょっと苦笑を洩らしながら、彼は、立ち上がった。そして、からだの支えになるものでありさえすれば、ベッドと言わず、壁と言わず、ドアと言わず、なんででも身を支えながら、ビュルゲルには、とっくに、別れを告げておいたかのように、挨拶もしないで、出て行った。
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第十九章
エルランガーが開いたドアのところに立って、Kに合図をしなかったら、あやうく、Kは、エルランガーの部屋のまえをも、何気なしに、素通りしてしまうところであった。合図と言っても、人差し指を軽く、一度だけ、折り曲げただけである。エルランガーは、もうすっかり、立ち去る身支度をして、黒い毛皮の外套を着込み、いかにも窮屈そうに、襟のボタンをさえもきっちりとかけていた。ひとりの従僕が、ちょうど手袋を渡そうとしていたところで、片方の手には、まだ、毛皮帽を持っていた。
「もっともっと早く来てもらうように、伝えておいたはずですが」と、エルランガーは、言った。Kは、言い訳しようとした。エルランガーは、両眼を気怠《けだる》そうに閉じて、言い訳は思いとどまるがよいとの合図をした。「要件というのは、次のようなことなのです」と、彼は言った、「ここの酒場に、以前、フリーダとか言う女性が雇われていました。わたしは、その名前だけしか知らず、本人とは面識がありません。わたしにはなんの関《かか》わりもない人間です。そのフリーダが、時折、クラムにビールの給仕をしておった訳です。今では、あすこに、ほかの娘がいるようですがね。ところで、こんな異動などは、むろん、大したことではありません。おそらく、だれが考えても、そうでしょう。ましてや、クラムにとっては、全く疑いの余地なく、ほんの一|些事《さじ》にすぎません。ところが、仕事が大きければ大きいほど、もとより、クラムの仕事が最大なのですが、それだけ、外界にたいする抵抗力が減少する訳です。その結果、どのように些細《ささい》な事柄の、どのように些細な変動にも、ひどく心を撹《か》き乱されやすいのです。例えば、机のうえの勝手がほんのちょっと変わったとか、昔から机上にあった染みが取り除かれているとか、そのように取るに足らないことにでも、心を乱されやすいのです。給仕女が新参に変わった場合も、同様です。ところで、余人が、どのような仕事をしていて、心を乱されようと、それしきのことでは、むろん、クラムは、心を乱されません。彼の場合、そんなことは、論外なのです。それにもかかわらず、わたしたちとしては、クラムの心をなんら乱さないような障害であっても――おそらく、クラムにとっては、この世に、障害なんか、およそ、存在しないでしょうが――わたしたちの眼に、障害になりそうだと映れば、それをわたしたちの手で取り除くようにして、クラムにいつも快適な気分を保ってもらえるよう、見張っていなくてはいけない義務があるのです。わたしたちがこのような障害を取り除くのは、クラムのためでもなければ、クラムの仕事のためでもなくて、わたしたちのためです。わたしたちの良心と安堵《あんど》とのためなのです。それゆえ、例のフリーダには、今すぐ、元の酒場へ戻ってもらわねばなりません。もしかすると、戻ってもらったばかりに、却《かえ》って、障害になるかもしれませんが、そのときはそのときで、改めて、首にすればいい訳です。先ず、差し当たっては、帰ってもらわねばなりません。わたしの耳に入った話では、あなたがフリーダと同棲しているそうですが、もしそうなら、なんとか、あなたの尽力で、今すぐ、彼女が戻るようにしてください。この際、個人的感情など、無視するほかありません。こんなことは、自明の理ですよ。それゆえ、わたしとしては、この話は、ここまでにして、これ以上の論議には一切応じないことにします。ただ、余計なお世話かと思いますが、ついでに申しておきますと、このような些細なことにでも、あなたに誠意があることを示しておいてくだされば、それが、あなたの今後の暮らしに、なにかと、役に立つ折があるかもしれませんよ。わたしからあなたに話さねばならないことは、これだけです」彼は、別れのしるしに、Kに向かって会釈し、従僕から渡された毛皮帽を被《かぶ》ると、従僕を随《したが》えて、すこしびっこを引きながらも、急いで、廊下を立ち去って行った。
当地では、このように、時折、命令が伝えられた。いずれも、実行するのがきわめて容易な命令ではあったが、その容易さがKには気に食わなかった。その命令がフリーダに関するものであり、しかも、命令として告げられていながらも、Kには、なんだか、嘲笑《ちょうしょう》のように聞こえたからだけではなかった。先ずなによりも、Kには、この命令から、彼のこれまでの努力のすべてが無益だったことが、窺《うかが》われたからであった。それらの命令は、都合の悪いものも、都合の好《い》いものも、天から、彼自身のことを眼中に置いてなかった。そして、都合の好い命令でさえも、その皮をむいで行けば、とどのつまりは、都合の悪いことが核心にあるらしかった。いずれにせよ、どの命令も、彼にはお構いなしに、発せられていたのである。それらの命令に横槍を入れようと思っても、あるいは、それらの命令を黙らせて、自分の言い分に、耳を貸してもらおうと思っても、だめであった。今更ながら、自分の置かれている地位があまりにも低すぎることを、思い知らされたのだった。そうだ、もしもエルランガーが手まねでおまえを制止したら、おまえは、どうする心算《つもり》なのだ。たとい制止しなくても、おまえは、エルランガーにたいして、なにが言えるのだ。確かに、きょうは、情勢がきわめて不利ではあった。だが、それ以上に祟《たた》ったのが、自分の疲労であることを、彼は、絶えず、意識せずにはおれなかった。それにしても、からだなら大丈夫だと、信じきっていた自分ではなかったか。そうした確信がなければ、とても、遠路|遥々《はるばる》と、出掛けて来はしなかったはずなのに、その自分が、たった二晩か三晩の睡眠不足とほんの一夜の不眠とに耐えられないなんて、どうしたことだろう。どうして、この地にいると、よくもこれほど我慢がならないくらいに、疲れてしまうのだろう。かと言って、この地の住人は、だれひとりとして、疲れていない。いや、むしろ、だれもかれもが、しょっちゅう、疲れているのかもしれないが、それで、しかし、仕事に支障を来たすようなことはない。それどころか、仕事が、ますます、捗《はかど》るように見えるくらいだ。それから推察すると、この地の人々の疲れ方は、この自分の疲れ方とは、全く、質《たち》が違うらしい。この地のは、たぶん、幸福な仕事の最中に生じる疲労なのだろう。つまり、外部には、疲労のように見えていても、その実は、不壊《ふえ》の安息、不滅の平和なのだ。一日が幸福に調子よく経過してゆくためには、正午に、すこしばかり、疲れていることが必要なくらいだ。『城のお歴々は、のべつ幕なしに、正午を迎えているようなものだ』と、Kは、思わず呟《つぶや》いた。
すると、その呟きととてもよく符合するかのように、今や五時になると、もう廊下の両側が、到るところで、賑《にぎ》やかになって来た。部屋部屋から洩れる、この声の喧噪《けんそう》には、ひどく陽気な気分が感じられた。時には、遠足へ出掛ける準備をしている子供たちの歓声のように聞こえることもあれば、また時には、鶏小屋のなかで作る暁の時にも似て、目ざめ行く一日と完全に一致したことを喜んでいるように聞こえることもあった。さらに、どこかの部屋には、鶏鳴《けいめい》をまねている泊まり客さえもいた。廊下そのものには、まだ、人影ひとつなかったが、各室のドアは、すでに、動きかけていて、絶えず、どこかのドアが、細目に開けられると、すぐにまた閉められて、廊下は、ドアの開け閉《た》ての音で、ひどく騒々しかった。時折、上方の、天井にまで達していない壁の透き間のところからも、起き抜けの、髪を掻き乱したままの頭をのぞかせては、すぐにまた、引っ込めるのが、Kの眼に止まった。遠くから、ゆっくりと、ひとりの従僕に押されて、一台の、書類を積んだ、小さな車が、やって来た。その車の傍らには、もうひとりの従僕が付き添って、手に一通の明細表らしいものを持っていた。それに従って、明らかに、部屋の番号と書類の番号とを照合しているらしかった。車は、大概のドアのまえで止まった。するとドアのほうも、大抵は、開かれて、必要書類が室内ヘ手渡されるのだった。時には、一枚の紙片だけのこともあった――このような場合には、室内から廊下のほうへ、ちょっとした言い渡しがあった。どうやら、従僕が小言《こごと》を食っているらしかった――。ドアが閉まったままだと、ドアの敷居のところに、書類が丁寧に積み上げられた。そのような場合には、すでに、あたり近所の部屋にも、書類が配られているにもかかわらず、そこかしこのドアの動きが、止《や》むどころか、却って、ますます激しくなるように、Kには思われた。もしかすると、ほかの連中が、敷居のところに、どうした訳か、いまだにほったらかしになっている書類のほうを、物欲しげに、のぞき見しているのかもしれない。ドアを開けさえすれば、難なく、書類が手に入るのに、どうして、そうしないのか、腑《ふ》に落ちないのだろう。あるいは、書類を、いつまでも片づけないで、ほったらかして置くと、後刻、それが、ほかの連中に分配されるというようなことさえも、ありかねないので、今のうちから、頻繁にのぞき見しては、書類がいまだに敷居のところに置きっ放しになっているかどうか、従って、自分たちにもいまだに希望があるかどうかを、確かめようとしているのかもしれなかった。とにかく、これらの置きっ放しになっている書類は、大抵、殊のほか大きな束であった。当人は、一種の衒《てら》いか意地悪から、あるいは、同僚たちを激励しようとする、無理からぬ自負心もあって、暫時、置きっ放しにしているのだろうと、Kは、推測した。Kのこの推測を裏付けたのは、時折、それは、かならず、Kがたまたま眼を離した隙《すき》にではあったが、やけに長く、これ見よがしに、人目に晒《さら》してあった、その書類の大束が、不意に、ひどく素早く、部屋のなかへ引っ込められて、ドアが、また元どおりに、固く閉ざされていることだった。すると、あたり近所のドアさえも、静まり返った。絶え間なく心を惹《ひ》いていた対象が、ついに、取り片づけられたので、失望したのであろうか。それとも、やはり、得心したのであろうか。しかし、近所のドアのほうは、やがてまた、次第に、動きはじめるのだった。
Kがこうした光景を眺めていたのは、ただ、好奇心からだけではなかった。興味をもそそられていたからである。彼は、従僕たちの忙しい働きぶりのただなかにいて、ほとんど快感に近いものをさえ覚えていた。彼は、あちこちへ眼をやりながら、適当な距離を置いてではあるが、従僕たちのあとを追って――従僕たちは、むろん、すでに幾度となく、頭を垂れたまま、唇を反り返らせ、険しい眼付きで、彼のほうを振り返っていたが、委細構わずに――彼らの配達の仕事を見物していた。仕事は、進むにつれて、しだいに円滑には捗らなくなっていった。明細表がきちんとは合致してなかったか、あるいは、書類が、従僕にとって、しかと見分けられないときがあったのか、それとも、上司たちが、別の理由から、不服を唱えたのか、いずれにせよ、配布した書類を、また、戻してもらわねばならないようなことも、時折、生じた。そのときは、車を逆戻りさせて、ドアの透き間越しに、書類を返却してくれるように、交渉するほかなかった。その交渉そのものからして、すでに、ひどく面倒なものではあったが、さらに困ったことに、先刻まで、ひどく盛んに、開け閉てされていたドアに限って、返却の話になると、今度は、もうそんなことには聞く耳持たぬと言わんばかりに、情け容赦もなく、固く閉ざしきりになっていることが、よくあるからだった。そうなると、本当に難儀なことが、いよいよ、始まるのである。当の書類を要求する権利があると思い込んでいる役人のほうは、途方もなく気を苛立《いらだ》たせて、部屋のなかで大騒ぎをし、戸を敲《たた》いたり、地団太踏んだりしながら、ドアの透き間から、幾度となく、特定の書類番号を廊下へ向かってわめき散らす。そうなると、車のほうは、しばしば、すっかり置き去りである。従僕のひとりは、苛立つ上司を宥《なだ》めるのに、大わらわとなり、別のひとりは、ぜひとも書類を返してもらおうと、閉ざされたドアのまえで、悪戦苦闘である。両人とも、手を焼いていた。苛立っている役人は、しばしば、手を変え品を変えて宥めようとすればするほど、却って、一層いきり立って、従僕の白々しい言い訳など、もう聞いてはおれないとばかりに、自分が欲しいのは、慰めではなくて、書類なのだ、と言い張るのである。一度などは、そうしたひとりが、壁のうえの透き間から、洗面鉢にいっぱいの水を従僕の頭上に浴びせ掛けたことさえあった。片方の従僕は、その従僕よりも、明らかに、位が上であったが、しかし、はるかに手古|摺《ず》っていた。当の役人が交渉に応じてくれさえすれば、事実に即した討議も行われるのであるが、その場合、従僕が証拠として引き合いに出すのは、自分が手にしている明細表であり、上司のほうが引き合いに出すのは、自分の備忘録と、ほかでもなく、返却を求められている書類とである。ところが、上司は、目下のところ、その書類をしっかと手中に収めていて、従僕がどんなに見せて欲しそうな眼つきをしても、その片鱗をさえも拝ませはしない。そうなると、また、従僕は、止むなく、新しい証拠を持ち出すために、車のほうへ取って返すか――廊下に、すこしばかり、勾配がついているために、車は、ひとりでに、絶えず、すこしずつ、遠のいて行っていた――、それとも、書類を要求している上司のところへ行って、そこでまた、これまでの所持者の苦言とは逆の、新しい苦言を聞くか、するよりほかなかった。このような交渉は、随分と手間取った。たまには、双方が合意に達することもあった。その時は、書類の取り違えが問題だっただけなので、上司が、例えば、書類の一部を手渡すか、あるいは、その埋め合わせに、別の書類を受け取るか、していた。ところがまた、上司のほうが、従僕の証明によって、窮地に追い込まれたか、それとも、果てしない談判にうんざりしたか、いずれにせよ、要求されている書類を、もう四の五の言わないで、諦《あきら》めて、そっくり手放さねばならないようなことになるときもあった。しかし、そのような場合でも、書類をじかには従僕に手渡さずに、急に決心すると同時に、書類を廊下の遥か向こうへ投げやるのである。そのために、括《くく》り紐《ひも》がほどけて、紙片が飛び散り、従僕たちは、すべてを元どおりに順序よく揃えるのに、ひどく苦労するのだった。だが、そのような手数がかかったにせよ、書類を返してほしいと、いくら頼み込んでも、一言の返事すら貰えないのと比べたら、まだしも楽なほうであった。このような場合は、従僕が、締め切ったドアのまえに立ち尽くして、頼み、一所懸命に懇願し、自分の明細表を引用したり、規則を持ち出したりしても、すべて、徒労で、部屋のなかからは、なんの音沙汰もないのである。無断で部屋のなかへ立ち入る権利は、明らかに、従僕にはないらしかった。そうなると、その傑出した従僕でさえも、さすがに、自制心を失うときがあるらしく、運搬車のほうへ舞い戻って、書類のうえに腰を落とすと、額の汗を拭《ふ》きながら、しばらくは、なにをするともなしに、途方に暮れたまま、両足を宙にぶらぶらさせているだけであった。この事件にたいする関心は、あたり近所のあいだで、ひどく大きなものとなっていた。いたるところで、ささやく声がしていた。静まり返ったドアは、ひとつとして、見当たらないくらいだった。奇妙なことに、布でほとんどすっぽりと覆面をした人たちが、上方の壁の透き間のところから、ずっと成り行きを眼で追っていた。しかも、それらの覆面は、一瞬たりとも、ひとつところに落ち着いてはいないのである。Kは、こうした騒々しさの最中で、ビュルゲルの部屋のドアだけが、終始、閉《た》てきられたままで、従僕たちが、とっくに、廊下のその部分を通り過ぎていたのに、ビュルゲルには、しかし、一通も、書類が配布されていないのを、奇異に感じた。もしかすると、ビュルゲルは、まだ、眠り続けているのだろうか。とすると、それは、むろん、このような騒音のなかだし、とても健全な眠りを意味することになる訳だが、それにしても、どうして、ビュルゲルは、書類を貰わなかったのだろう。このように無視された部屋と言えば、ごく少数に限られていた。しかも、それらは、どうやら、空室らしかった。それに反して、エルランガーのいた部屋には、もう入れ替わりに、殊のほか騒がしい新客が入っていた。きっと、エルランガーは、この新客によって、まだ夜の明けないうちに、文字どおり、追い出されたに違いない。これは、エルランガーの冷静な、行き届いた人柄には、似つかわしくないことであったが、しかし、彼がKをドアの敷居のところで待ち受けずにはいられなかったことは、どうやら、それが事実であることを、匂《にお》わしていた。
こうしてあちこちと脇見《わきみ》するのも、束《つか》の間《ま》にすぎず、Kの眼は、絶えず、また、当の従僕のほうへ戻って行った。Kが、つね日ごろ、従僕一般について、従僕たちの無為な日々とか、安楽な暮らしとか、高慢ぶりとかについて、話に聞かされていたことは、この従僕には、確かに、当て嵌《は》まらなかった。大勢の従僕のなかには、おそらく、例外もあるのだろう。いや、もしかすると、従僕のなかにも、さまざまな班があるのかもしれない。どうやら、このほうが、事実に近いように思われた。と言うのも、ここでは、Kが気づいたところでも、数多くの区分けがあったからである。そんな区分けめいたものがあろうとは、Kが、これまで、予期だにしないところであった。それにしても、この従僕の不屈な心意気が、Kには、わけても大いに気に入った。これらのしぶとい小部屋との闘いにおいても――Kには、そこの泊まり客の顔を、ほとんど、見届けようがなかったので、部屋との闘いであるように、しきりと思えてならなかった――従僕は、けっして、へこたれはしなかった。確かに、疲れ果ててはいたが――これで、疲れ果てない者が、どこにいよう――すぐまた、元気を回復しては、車から滑り降りて、すっくと立ち、歯を食いしばりながらも、陥落させねばならぬドアに向かって、またも、突進して行くのだった。すると、二度、三度と、むろん、ひどく手軽なやり方で、つまり、あの忌々《いまいま》しい沈黙を食らって、撃退されるのだったが、彼は、それでも、音をあげなかった。正々堂々と攻撃をかけたのでは、なんら、得るところがないことを見て取ると、彼は、手を変えて、例えば、Kが正しく理解した限りでは、奇計を用いて、やり直すのだった。その場合、彼は、問題のドアをいかにも見限ったように、表向きを繕って、言わば、そこの沈黙が根《こん》尽き果てるまで待ち、ほかのドアのほうへ立ち回って、しばらくすると、またもや、そこへ舞い戻って、もうひとりの従僕を呼び寄せる。しかも、こうしたすべてを、ひどく派手に、声も足音も高く、やってのけるのである。そして、自分は、意見が変わった、法に即して考えてみれば、上司にたいして、返してもらうものはなにもない、むしろ、配布するものがあるくらいだ、と言わんばかりに、閉ざされたドアの敷居のところに、書類を積み上げはじめる。それを済ますと、彼は、立ち退《の》いて行くが、しかし、ドアからは、絶えず、眼を離さない。すると、相手の上司が、間もなく、書類を取り込むために、用心深く、ドアを開けるのが、通例である。従僕は、それと見るや否や、数歩で、そこへ跳んで行って、片足をドアと柱とのあいだに差し込み、すくなくとも、互いに面と向かって、交渉せざるを得ないように、相手を仕向けるのである。そうなればしめたもので、大抵は、かなり満足できる成果が挙げられるのだった。ところが、それでも旨《うま》くいかなかった場合、あるいは、ドアを利してのそのような駆け引きが当を得たやり方だと思われない場合は、別の戦法を試みるのだった。そのときは、例えば、書類を要求している役人のほうへ、かかりきりになる。そして、いつも機械的に働いているにすぎない、片一方の従僕を、全くろくでもない補助員だと言わんばかりに、わきへ押しのけて、自ら、部屋のなかへ頭を深く突っ込みながら、秘かに、ささやくような声で、相手の役人を口説きはじめるのである。おそらく、彼は、その役人に、いろいろな約束をしているばかりでなく、この次の配分の際には、片方の役人にそれ相応の罰を加えることをまでも、確約しているのだろう。すくなくとも、彼は、敵のドアのほうを、幾度となく、指差しては、疲れが許す限りの力を振りしぼって、高笑いしていた。
だが、それでも、一度か、二度は、むろん、彼があらゆる試みを放棄したと見える場合があるにはあったが、そのような場合でも、Kは、それが、ほんの見せかけだけの放棄か、あるいは、すくなくとも、正当な理由に基づく放棄であると、信じて疑わなかった。と言うのも、その従僕が、落ち着き払って、立ち去って行き、振り返りもしないで、損をした役人の怒号を甘んじて背に受けていたからであった。ただ、時折、かなり、長いあいだ、両眼を瞑《つぶ》っている仕草から、その怒号に閉口していることが、分かるだけであった。しかし、その役人にしても、やがて、しだいに、気が静まっていた。ちょうど、ひっきりなしにわめき立てる子供の泣き声が、しだいに、途切れがちな啜《すす》り泣きに変わって行くように、役人の怒号も、そうであった。だが、もうすっかり静かになってしまってからでも、やはり、まだ時折は、思い出したように、一声、怒鳴ってみたり、部屋のドアをちょっと開け閉てしてみたりしていた。いずれにせよ、この点においても、当の従僕の取った処置が、どうやら、完全に正しかったことが、分かるのである。そのうちに、どうにも心の納まらない上司が、ついに、ひとりきりになった。その男は、長いあいだ、黙っていたが、それは、元気を取り戻すためにすぎなかった。そのうちに、またぞろ、おっぱじめた。その叫び声は、まえよりも弱まってはいなかった。どうして、その男が、そうまでわめき散らしたり、苦情を言ったりするのか、理由が、あまりはっきりしなかった。どうも、書類の配分のことではないらしかった。そのうちに、従僕のほうは、受け持った仕事をすでに終えていた。ただ一通の書類が、と言っても、実は、一紙片にすぎず、メモ帳からはぎ取った一枚の紙きれではあったが、補助員の落ち度で、車のなかに残っているだけだった。だが、今となっては、それをだれに配っていいのか、分からなかった。『あれは、どうも、僕の書類臭いぞ』という考えが、Kの脳裡を掠《かす》めた。確かに、あの村長にしても、口癖のように、こうしたごく些細な事例について洩らしていた。K自身も、このような推測が、所詮、でたらめな、ばかげたものにすぎないように、思いはしたものの、それでも、彼は、気づかわしげにその紙きれを調べている従僕のほうへ、近づいて行こうとした。それは、しかし、生易しいことではなかった。と言うのも、従僕が、Kの好意にたいして、ひどい意趣返しをしたからである。すでに、どんなに厳しい骨仕事の最中でも、従僕は、絶えず、寸暇を見出しては、腹立たしいのか、それとも、焦《じ》れったいのか、神経質に頭を動かして、Kのほうを睨《ね》め付けていた。書類配りにけりが付いた今、やっと、彼は、ほかのことにもひとしおとんじゃくしなくなったように、Kのことをも、すこしは、忘れていたようであった。彼のひどい疲労|困憊《こんぱい》を考えれば、それも、当然なことであった。手にしている紙きれのことだって、彼は、さして気に病んではいないようだった。もしかすると、全然、目を通してもいなかったかもしれない。ただ、読んでいるふりをしているだけだった。ここの廊下に面したどの部屋の主ヘその紙きれを配っても、おそらく、喜んでもらえたはずだったのに、彼は、別な決心をした。彼は、書類配りには、もう厭《あ》き厭きしていたのだった。それで、人差し指を唇に当てて、相棒に、黙っているように、合図をすると、いきなり――Kは、まだ、従僕の近くまでも行ってはいなかったが――その紙きれをずたずたに引き裂いて、それをポケットに突っ込んでしまった。それは、おそらく、Kが当地の役所仕事で見た、最初の不正行為だったろう。ただし、不正行為なるものにたいしても、Kの理解が間違っている可能性もあった。それに、たとい、それが不正行為であったにしても、目こぼししていいことであった。目下の状況のもとでは、従僕に失策のない仕事を求めることからして、無理な注文である。積もり積もった憤懣《ふんまん》が、溜《た》まり溜まった焦慮が、一度は、爆発せずにはすまなかった。ただ、それが、小さな紙きれ一枚を引き裂くという形を取って、現れたにすぎない。これくらいなら、まだ、まだ、無邪気なほうであった。
あのどうにも心が納まらない役人の声が、いまだに甲高く、廊下に響き渡っていた。ほかの点では、互いに、水臭い同僚たちも、騒ぐことになると、完全に意見が一致するらしかった。当の役人は、全同僚たちの分まで騒ぎ立てる役目を引き受けたかのような恰好に、しだいになって行った。同僚たちのほうは、呼び掛けたり、うなずいたりして、あくまでも初志を貫徹するように、当の役人を鼓舞しているだけであった。ところが、従僕は、もう、そんなことを意に介してもいなかった。仕事が片づいたのだ。彼は、車の取っ手を指差して、もうひとりの従僕にそれを握らせると、来たときと同じように、ただ、来たときよりもずっと満足げに、彼のまえで車が小踊りするほど、速やかに、引き返して行った。それでも、ただ一度だけ、従僕たちがぎくりとして首を辣《すく》め、後を振り返ったことがあった。それは、例のわめき続ける役人の部屋のまえを、Kが、その役人の真意を知りたくて、うろついていたときであった。当の役人は、明らかに、わめき立てるだけでは、もう、埒《らち》が明かないと思ったらしく、おそらく、前もって、電鈴のボタンを見つけて置いたのだろう、叫ぶのを止めて、ひっきりなしに、ベルを鳴らしはじめたのだった。たぶん、それだと労力が省けるので、有頂天になっていたのだろう。すると、ほかの部屋部屋からも、一斉に、絶え間ない呟きが洩れて来た。その騒がしい呟きは、賛意を表明しているように受け取れた。どの同僚も、もうとうから、やりたくてたまらなかったのに、ただ、なんとなしに気が引けて、思い止《とど》まっていたにすぎないことを、その役人が、代わって、やってのけたような感じだった。その役人がベルを鳴らしてまで、呼ぼうとしていたのは、もしかすると、給仕ではないだろうか。すると、フリーダだろうか。それなら、いつまででも、ベルを鳴らしているがいい。フリーダのほうは、イェレミーアスに湿布を巻いてやるのに、かかりきりなんだ。もしも万が一、やつがもう健康に復していたとしても、フリーダに、とても、暇なんかないさ。だって、そのときは、やつの腕に抱かれているものな。
ところが、べルの効果は、やはり、覿面《てきめん》であった。すでに遠くから、貴紳閣の主人みずからが、いつものように、黒い服を着て、きちんとボタンを掛けたまま、急いでやって来ていた。ただ、しかし、持ち前の威厳をすっかり忘れているかのようであった。それほど、取るものも取り敢《あ》えず、駆け付けたのだった。亭主は、両腕を半ば拡げていた。あたかも、大きな不幸があって、呼ばれたのだから、その不幸を引っ捕えて、即座に自分の胸に押しつけ、窒息死させてやろうと言わんばかりの様子であった。彼は、ベルの鳴り方がちょっとでも不規則になると、その度ごとに、ぴょんと跳び上がって、さらに足を早めるようであった。彼からかなり遅れて、今や、彼の女房までも、姿を現した。彼女も、両腕を拡げて、走っていたが、その足取りは、しかし、小股で、気どっていた。Kは、あれでは間に合うまい、彼女が着くまでに、亭主のほうが、すべての手を打ってしまっているだろう、と考えた。そして、走って来る亭主に道を開けるために、Kは、壁にぴたりとからだを寄せた。ところが、亭主は、Kこそ自分の目標であるかのように、Kのそばまで来ると、矢庭に立ち止まった。すると、女房のほうも、追っ付けやって来て、ふたりで、Kに非難を散々に浴びせた。彼は、不意を突かれて、即座には、ふたりの文句が理解できなかった。それに、例の役人のベルの音も混じり、ほかのベルまでも、そこかしこから、鳴りはじめたので、なおのことであった。今ではもう、必要に迫られてでなくて、ただ、遊び半分に、ひどく面白がって、鳴らしているだけであった。Kは、自分の罪を正確に理解するのが肝心だと思ったので、亭主が彼を小脇に抱えて、一緒に、その喧騒から逃げ出そうとしたのに、快く応じたのだった。騒ぎのほうは、ますます募っていくばかりだった。と言うのも、三人の背後で――Kは、亭主が、そして反対側からは、さらにくどくどと、女房が、彼に小言を言うので、振り向く訳にはいかなかったが――今や、どのドアも、すっかり開け放たれて、廊下は、ひどく活気を帯び、どうやら、賑やかな狭い路地のように、廊下での往来も、しだいに繁《しげ》くなっていくようだったからである。三人の行く手にあるドアは、明らかに、痺《しび》れを切らして、Kがついにまえを通り過ぎて、役人たちも身の自由が利くようになるのを、待ち兼ねているらしかった。そうした喧騒のなかへ、さらに次々と、新しく鳴らされるベルの音が加わって、まるで戦勝を祝っているかのようであった。
そのうちに――三人は、すでに、物静かな、雪白の中庭へ、引き返していた。そこでは、二台、三台の橇《そり》が、客待ちしていたが――やっと、Kには、なにが問題で、こうしたことになったかが、しだいに呑み込めて来た。亭主にしても、女房にしても、Kにあのような向こう見ずなことがやれたのが、不思議でならないらしかった。「それにしても、一体、なにを仕出かしたと言うんです」Kは、幾度となく、尋ねたが、いくら尋ねても、聞き出すことができなかった。夫婦にしてみれば、Kの罪は、あまりにも明々白々だったので、Kが本気でそう思案しているなんて、とても思いも寄らぬことだったからである。だが、きわめて遅|蒔《ま》きながらも、Kは、事の真相を徐々に悟ることができた。Kが廊下にいたのが、いけなかったのである。一般に、彼のごとき者であれば、精々、酒場にまでしか、立ち入らせてもらえない、しかし、それさえ、特別のお情けにすぎず、御|法度《はっと》には背くことになる、とのことだった。もしも、お役人に召喚されていたのであれば、むろん、召喚されている場所へ姿を見せねばならないでしょうが、そのときでも――すくなくとも、世間並みの常識を持っている者でしたら――自分は、本来ならば立ち入れない場所に来ているのだということ、そして、公務上の用件に限って、必要とあれば、立ち入りを許してもいいので、お役人としては、渋々ながらも、自分をここへ呼んでいるにすぎないのだということを、つねに、自覚していてくれないといけません。それゆえ、急いで出頭して、尋問を受け、それが済むと、できうる限り、一層急ぎ足で、立ち去らねばならないのです。一体、あなたは、あすこの廊下にいて、ひどい不埒《ふらち》を働いているという感情を、すこしも、抱かれなかったのですか。いや、そうした感情を抱いておられたのでしたら、牧場の家畜のように、あすこをうろつき回るなんて、どうして、そんなことができたのですか。あなたは、夜の尋問に呼び出されていたんでしょう。どうして夜の尋問が実施されるようになったか、その理由を、あなたは、御存じないのですか。夜の尋問というものはですね――Kは、ここで、夜の尋問についての講釈を、改めて、聞かされることになった――お役人方が、相手の当事者たちの顔を日中に見るに忍びないばかりでなく、尋問が終われば、すぐに眠って、厭なことはすっかり忘れてしまえるだろうと見込んで、ことさらに夜分を選び、人工光線のもとで、手っ取り早く、尋問を済まそうというのが、唯一の狙いなんですよ。ところが、Kさん、あなたの振る舞いと来たら、すべての防止法をまるでばかにしていますよ。幽霊だって、朝方になると、姿を消しますからね。それなのに、あなたは、両手をポケットに突っ込んだまま、いつまでも、あすこに粘っておられた。あなたが立ち退かない以上は、廊下のほうが、各室やそこの殿方もろとも、すっかり立ち退いてくれるだろうと、まるで、それを当てにしているかのような恰好でしたよ。そうですとも、なんとかできるものなら――これは、確信しておいていただいてもいいかと思いますが――お役人方だって、きっと間違いなしに、そうなさったでしょう。なにしろ、殿方たちのお思いやりは、広大無辺ですからね。どなただって、あなたを、例えば、追い払うようなことはなさらないでしょうし、もういい加減に立ち去ったらどうだなどという、確かに、当然のことをすらも、あけすけにおっしゃりはしないでしょう。あなたが居残っていられるあいだ、激昂のあまりに、おそらく、お身を震わせて、あの方たちの一番心地よい時である朝が、そのために、台無しになったとしても、どなただって、そのような出方はなさらないでしょう。あの方たちは、あなたにたいして断乎たる処置を取るよりは、御自分のほうで我慢なさるほうを、お選びになるのです。もちろん、その際に、いくらあの者だって、この火を見るよりも明らかな道理に、ついには、気づいて来るに違いない、こちらの苦痛が増すにつれて、あの者自身も、そのうちには、朝方、衆人環視のなかで、この廊下に立ち尽くしながら、ひどく見苦しい姿を曝《さら》しているのが、耐えがたいほどに、苦痛になって来るに違いない、という希望も、あの方たちのなかに、ともに働いているかもしれません。はかない希望です。あの方たちは、どんなに畏敬の念を払っても和らぐことのない、無神経な、頑固な心の持ち主だって、世間には、いるということを、御存じないし、また、根が親切な、気さくな人たちですから、知ろうともなさらないのです。でも、夜の蛾だって、あんな哀れな生き物だって、朝が来れば、どこかのひっそりした片隅を捜し出して、ぺたりと身を伏せ、そのまま、消え失せたいのが山々ながらも、それができないのを嘆いているではありませんか。それにひきかえ、あなたは、最も人目につきやすい場所を選んで、突っ立ちながら、それによって、一日の始まりを阻止できるものなら、阻止しようという、厚かましさです。そんなことは、できっこありません。でも、それを遅らせたり、困難にすることなら、残念ながら、あなたにだってできます。あなたは、現に、書類の分配を見物していたではありませんか。あれは、最も親密な関係者以外には、だれも、現場を見てはいけないことになっているのです。わが家のことでありながら、主人のわたしも、女房のこれも、見ることを禁じられてきたくらいですからね。これについては、わたしどもも、それとなく話しているのを、耳に挟んだにすぎないんですよ。例えば、きょうの従僕たちの話がそうですが。それにしても、あなたは、書類の配布がどのように困難な事情のもとで行われたか、お気づきじゃなかったのですか。それからして、なんとも不可解なことですな。だって、お役人方は、どなたも、ひとえに、本分であるお仕事にのみ献身なさって、御自分一個の利益なんてものを、露ほども、考えてらっしゃらないんですよ。それゆえ、書類の配布という、この重要な、基礎的な仕事が、迅速かつ容易に、抜かりなく、行われるように、全力を結集せねばならないところだったのですからね。すると、正直なところ、たといかすかなりと、あなたの胸に、あらゆる困難の主因が那辺《なへん》にあるかということについて、朧《おぼろ》な予感さえも、浮かびはしなかったのですか。それは、お役人方のあいだの直接交渉という可能性が、皆無なために、どのドアもほとんど締め切ったままの状態で、配布が実施されねばならないところにあるのです。そうでなければ、お役人たちは、もちろん、須臾《しゅゆ》にして、お互いに、意志の疎通をはかることがおできになったでしょう。ところが、従僕たちを介して行わねばならないために、ほとんど何時間もかかってしまうことになるのです。そうなりますと、苦情が出ないで済む訳がなく、お役人のほうにも、従僕のほうにも、ずっと、悩みの種を植えつけ、おそらく、それが後の仕事にも尾を引いて、悪い結果を生むかもしれません。なんですって、ここまで申しあげても、あなたは、まだ、腑に落ちないのですか。
こんな目に会ったのは、初めてですわ――と、女房が言った。亭主も、亭主なりに、それに間違いないと認めた――わたしたち、これまで、いろいろと依怙地《いこじ》な人たちと関《かか》わり合って来ましたけれどもね。普通なら、とても、口に出して言えないようなことをでも、あなたには、歯に衣《きぬ》着せずに、申さずにはおれませんわ。でないと、きわめて肝心|要《かなめ》のことをさえも、あなたは、分からないんですもの。ところで、申しておかねばならないことは、あなたのせいで、お役人方が、お部屋を出ようにも出られなかったということです。ひとえに、あなたのせいなんですよ。朝、お役人方は、寝起きの当座は、ひどく恥ずかしがりで、感情を害しやすく、とても御自身を人目に晒《さら》す気になれないのです。たとい、すっかり、身なりを整えていらしても、やはり、一糸をも纏《まと》っていないようにお感じになって、姿をお見せになりたがらないのです。どうして、そうまで、恥ずかしがられるのか、いわく言いがたいのですが、もしかすると、三度の食事よりも仕事がお好きな方たちのことですから、お休みになったということだけで、恥ずかしがっておられるのかもしれません。でも、人に姿をお見せになることよりも、人の姿を御覧になることのほうが、余計に気恥ずかしいらしいのです。夜の尋問を利用して、首尾よく切り抜けて来られたのに、その厭でたまらない当事者たちが、今また、朝になって、急にぶしつけに、いかにも生々しい姿で、改めて、眼のまえに立ち現れるのを見ては、殿方たちにしても、さぞや、やりきれない思いがされることでしょう。それには、さすがの殿方たちも、全くお手上げなんですの。そうしたことをさえも顧慮しないなんて、どんな人種だとお思いです。いいですか、それこそ、あなたのような人に違いありませんわ。法律も、ごく常並みの人間的な配慮も、一切合財を、そのような神経の鈍い、寝とぼけた、無関心さで、無視してしまうような人ですわ。そのような人は、書類の配布をほとんど不可能にして、この貴紳閣の名声を傷つけても、また、絶望しきった殿方たちが、常人には考えられぬような克己の末に、ついに自衛手段に出られて、ほかの方法ではすこしも動じないあなたを追い払うために、ベルを押して、助けを呼ばれるという、そうした前代未聞の事件を惹起しておきながら、なに食わぬ顔をしているんですからね。あの方々が、殿方たちが、助けを呼ばれたんですよ。それと分かっていましたら、わたしたち夫婦はもとより、全従業員も、とっくに駆け付けていたでしょうに。でも、わたしたちには、呼ばれもしないのに、朝っぱらから、たとい、救いの手を差しのべて、すぐまた、姿を消すにしても、あの方たちのまえに立ち現れるなんて、そんな肝っ玉さえもありませんしね。わたしたちは、あなたにたいする憤慨のあまりに身を震わせながらも、自分たちの無力ゆえに、悲観しきって、あの廊下のかかりのところで控えていたのです。実のところ、予期だにしなかった、あのベルの音が、わたしたちにとっては、救いだったとも言えますわ。さあ、これで、最悪の事態は、過ぎました。できれば、あなたからやっと解放された殿方たちの楽しげな燥《はしゃ》ぎぶりを、一目なりとも、のぞき見させてあげたいくらいですの。でも、むろん、あなたにとっては、事は終わった訳ではありません。あなたがここで為《し》出かしたことにたいして、ぜひとも、あなたに責任を取ってもらわねばなりません。
そうこう言っているうちに、三人は、酒場のなかまで来ていた。亭主が、やる方ないほどに立腹していたにもかかわらず、どうしてKを、所もあろうに、そこへ連れ込んだのか、どうもはっきりしなかった。もしかすると、Kの疲労から推して、この家を立ち去れと言っても、Kには、差しずめ無理な注文だということを、亭主のほうで見抜いていたのかもしれない。腰を掛けるようにと勧められる言葉をも待ち切れないで、Kは、いきなり、樽のひとつのうえに、文字どおり、くずおれるように倒れてしまった。そこの暗がりが、彼には、心地よかった。その広い部屋のなかに、今は、ビール樽の飲み口の上方に、弱々しい電灯が、ただひとつ、灯《とも》っているだけであった。屋外も、まだ真っ暗闇で、吹雪になっているらしかった。この暖かいところにいられるだけでも、ありがたく思って、追い出されないように、よくよく用心しないといけないぞ。亭主も、女房も、ずっと眼のまえに立ちきりではないか。なにはともあれ、彼が、いまだに、一種の危険人物のように見えるらしく、全く油断も隙もない男のことだから、いつ、不意に、立ち上がって、またもや、廊下のほうへ押し掛けて行くか、知れやしないと思っているかのような様子であった。しかし、夫婦のほうも、夜中のあたふたと時ならぬ早起きとで、疲れていた。わけても、女房のほうに、疲れが目立った。彼女は――慌《あわ》てて、どこから引っ張り出したのだろうか――絹のようにさらさらと衣ずれのする、スカートの広い、褐色の服を着ていたが、ボタンの掛け方も、紐の結び方も、ちょっと、ちぐはぐだった。彼女は、夫の肩口へ首をがっくりともたせ掛けたまま、粋な小さなハンカチで、軽く、眼を押さえながら、その合い間に、子供のような意地悪い眼差《まなざし》をKのほうへ向けていた。
Kは、夫婦を宥《なだ》めるために、ただ今、お話いただいたようなことは、僕には、全く初耳です、と言った。そうとは露存じませんでしたが、しかし、廊下にそんなに、長くいた訳でもありません。廊下には、実のところ、なんの用事もありませんでしたし、ましてや、人を困らせる気など、毛頭なかったことは、確かです。あんなことになってしまったのも、すべて、過労のせいにすぎません。あなたがたがあの難儀な場面に終止符を打ってくださいましたことにたいして、僕は、ただただ、感謝するほかありません。僕に責任を取れとおっしゃるなら、僕は、喜んで取らせていただきます。だって、それよりほかに、僕の振る舞いにたいする一般の誤解を防ぐ道もありませんからね。こうなったのも、ひとえに、疲労のせいにほかなりません。ところで、その疲労も、元はと言えば、僕が尋問の緊張にまだ慣れていなかったことから来ているのです。そうですとも、僕は、当地へ来ましてから、まだ日が浅いですからね。こうしたことで、今後、いくらかでも、経験を積みさえすれば、同じようなまずいことは、もう二度と、起きっこないでしょう。ひょっとすると、僕は、尋問というものをひどく生真面目に考えすぎているのかもしれませんが、そのこと自体は、しかし、けっして、欠点でもなんでもないと思いますね。僕は、ふたつの尋問を、相前後して、ほとんど続けざまに、受けねばならなかったのです。ひとつは、ビュルゲルのところで、次のは、エルランガーのところでですよ。とりわけ、最初の尋問には、ほとほと疲れ果てました。次のは、むろん、大して手間取らなかったのですが。エルランガーから、ちょっとした世話を頼まれただけですので。でも、ふたつ、まとめて、一時《いっとき》にじゃ、いくら僕だって、堪《たま》りません。おそらく、このようなことは、ほかの人だって、例えば、御主人だって、やりきれないでしょう。それで、二回目の尋問が終わって出て来たときは、実のところ、もう、ふらふらの千鳥足でした。ほとんど一種の酩酊《めいてい》気分に近い状態でした。ふたりのお役人とも初対面であるうえに、こちらは、てきぱきと、尋問にも答えねばならなかったからです。僕の知る限りでは、万事、とても好結果に終わったと、思っています。ところが、その直後、あの不幸な事件が起きてしまったのです。しかし、それも、それに先立つ尋問のことを考えてくだされば、僕の罪に帰してしまう訳にもいかないのではないでしょうか。残念ながら、僕の疲れ具合を見抜いていたのが、エルランガーとビュルゲルの御両人だけでした。このふたりなら、きっと、僕の身柄を引き受けて、事件の拡大を防いでいてくれたに違いありません。ところが、エルランガーは、尋問が済むと、すぐにお立ちにならねばなりませんでした。城へ帰るお心算《つもり》だったことは、明らかです。また、ビュルゲルのほうは、たぶん、あの尋問で疲れ果ててしまったのでしょうが――とすると、尋問を受けたあとで、けろりとしているなんて、そんな芸当が僕に無理なことも、お分かりでしょう――すっかり眠り込んでしまって、書類配布の時間になっても、ずっと寝過ごしておられました。僕でも、似たような機会があったら、大喜びで、それを利用して、御禁制の探察などは、一切、喜んで、断念していたことでしょう。それを断念するくらい、易しいことはなかったのです。だって、僕は、本当に、もうなにも目に入らなくなっていましたし、それゆえ、いかに神経の細い役人方だって、憚《はばか》ることなく、僕のまえへ姿をお見せになってもよかったくらいですからね。
Kが、ふたつの尋問のことを洩らし――殊に、エルランガーの尋問には詳しく触れて――しかも、話が役人たちのことに及ぶと、敬意を籠《こ》めて語ったので、亭主は、彼に好感を持ったようであった。亭主は、並んでいる樽のうえに一枚の板を渡して、そこで、せめて夜が明けるまで、眠るのを許してもらえまいかという、Kの頼みを聞き届けてやる気になっているらしかった。ところが、女房が、きっぱりと、それに反対した。彼女は、服のちぐはぐな着方に、今、やっと気づいたのか、服のそこかしこをいたずらに引っ張りながら、絶えず、頭《かぶり》を振り通していた。この家の清潔ぶりに関する、明らかに年来の、夫婦喧嘩が、今にも、再発しそうであった。疲れ切っているKの身にとって、夫婦の対話は、途方もない重大性を帯びていた。ここから、またしても、追い払われでもしたら、それこそ、これまでの諸体験をすべて凌駕《りょうが》するほどの、一大不幸であるように、彼には思われた。たとい夫婦が一致して、自分を追い出しにかかっても、そう、むざむざと、追い出されてたまるものか。彼は、樽のうえでからだを丸めて縮こまりながら、窺うように、ふたりの様子を見守っていた。女房の並み外れた過敏さには、Kも、とっくに感づいていたが、ついに、女房がその過敏振りを発揮して、不意に、わきへ寄ると――もうそのときは、どうやら亭主とほかのことを話し合っていたらしく――叫んだ、「この男のわたしを見る眼つきったら、どうでしょう。とにかく、もう好い加減に、この男を追い払ってよ」Kは、この機を捕えると、もうここに泊まれることを、完全に、ほとんど無とんじゃくなまでに、確信しきって、言った、「僕は、あなたを見ているのではありません。あなたの服に見とれているだけです」「どうして、こんな服に」と、女房は、興奮して、問い返した。Kは、肩をすくめて見せた。「さあ、行きましょう」と、女房は、亭主に言った、「この男は、きっと酔っ払っているんだわ。こんな無作法者ってありやしない。ここに寝かせて、酔をさまさせましょうよ」そして、彼女は、ペピを呼んだ。ペピが暗がりのなかから立ち現れたが、髪はもじゃもじゃのままで、疲れたように、手にだらしなく箒《ほうき》を提げていた。女房は、ペピに、Kへなにか褥《しとね》を一枚でも投げ掛けてやるように、それでも命令した。
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第二十章
Kは、目覚めると、最初は、ろくろく眠ってないように思った。酒場のなかは、あいかわらず、がらんとしていて、暖かく、四方の壁は、闇のなかに没し、ビール樽の飲み口の上方にあるただひとつの電灯も、消えてしまっていて、窓外は、夜であった。ところが、彼が伸びをした途端に、褥《しとね》が滑り落ちて、ベッド代わりの板と樽がぎしぎし軋《きし》ると、すぐに、ペピがやって来た。そこで、Kは、もうすでに晩になり、自分が十二時間以上も眠っていたことを、聞かされたのだった。女将《おかみ》さんが、日中に、何度か、あなたの様子を尋ねておいででした。それに、ゲルステッカーも、朝方、あなたが女将さんと話をしていたときは、ここの暗がりのなかで、ビールを飲みながら、待っていたのですが、そのうちに、もうあなたの安眠の妨害になることを憚《はばか》ったのでしょう、帰って行きました。その後、一度、あなたの様子を見に、ここまで来ました。最後に、フリーダも、ここへ来て、ほんのしばらく、あなたのそばに立っていたとのことです。でも、フリーダは、あなたのために来たのではないらしく、ここで、いろいろと準備せねばならぬことがあったのでしょう。と言いますのも、彼女は、今晩から、昔の勤務に復帰しますのでね。「彼女、どうやら、もうあなたを好きでないらしいのね」と、ペピは、コーヒーとケーキを運んで来ながら、尋ねた。しかし、その尋ね方は、彼女の以前の癖のように、もう意地悪くなく、なんだか物悲しげであった。いかにも、その間に、世界の意地悪さを身をもって知ったらしく、それに比べると、彼女自身の意地悪さなど、物の用に立たないまま、無意味になってしまったかのような、言葉遣いであった。彼女は、Kにたいし、さながら同憂の士にたいするように話しかけた。そして、Kがコーヒーを飲んで、甘味が足りないと思っているらしいと見て取ると、駆け出して行って、Kに、砂糖のいっぱい入った食卓用の壷《つぼ》を持って来た。今の彼女は、むろん、どんなに物悲しくとも、このまえのときよりか、ずっとめかすことを憚らないようであった。彼女は、ふんだんに、リボンやネットを髪のなかに編み込んでいた。額に沿ったあたりとこめかみのあたりの毛には、丹念にアイロンを当てて、ウェーブを作ってあったし、頸に掛けた華奢《きゃしゃ》な鎖を、ブラウスの深い襟ぐりのところへまで、垂れ下げていた。Kが、久しぶりにたっぷりと熟睡して、おいしいコーヒーまで飲めるのに満足しながら、こっそりと、ネットのひとつに手を伸ばし、それを外そうとすると、ペピは、疲れたように、「触らないで」と、言って、彼のわきの樽のひとつのうえに腰を下ろした。
すると、Kが彼女に彼女の悩みの種を尋ねるまでもなく、彼女のほうから、すぐに、話し出した。話しているあいだも、気散じが必要であるかのように、そしてまた、悩みで頭がいっぱいになりながらも、悩みにすっかりとは心を用いることができないかのように、彼女の眼は、じっと、Kのコーヒー沸《わ》かしを見詰めたままだった。きっと、悩みが、彼女の力に余るからであろう。Kが、先ず、聞いて知ったのは、ペピの不幸は、ほかでもなく、Kのせいであるが、だからと言って、彼女は、それで、Kを恨んではいないということであった。彼女は、話しているあいだ、Kに一言も反対を唱えさせないように、ひとりで、しきりと、うなずいていた。なにはさて置き、あなたがフリーダを酒場から引っこ抜いてくださったお陰で、私に昇進の道が開けました。フリーダにその持ち場を擲《なげう》つような気を起こさせることができた事柄と言えば、それよりほかに考えられませんもの。あの女は、いかにも蜘蛛《くも》が巣のなかで構えているように、この酒場で陣取って、知っている限りの糸を、いたるところに、張りめぐらしていました。あの女を、その意に反して、巣から掴《つか》み出すことは、全く、不可能だったでしょう。ただ、身分の低い人にたいする愛、つまり、あの女の地位にそぐわないようなものだけが、あの女をその居場所から立ち退《の》かせることができたんですの。ところで、私はと申しますと、この地位を自分のものにしたいなんて、夢にも考えたことがありませんでした。私は、客室係の女中で、しがない、先の見込みさえも、ほとんどない地位にいました。でも、夢だけは、世間のすべての娘と同じように、大きく持って、あれこれと、すばらしい将来を思い描いていました。だれだって、自分の心に、夢見るな、とまでは禁じられませんしね。しかし、本気で地位の向上を考えたことは、ありませんでした。私は、自分がありついたものに、満足しきっていました。ところが、そこへ、フリーダが、突然に、酒場から姿を消してしまったのです。あまりの突然のことで、ここの御主人にしても、すぐに、これと言って、適当な代わりの者が手許《てもと》にありませんでした。そこで、探しているうちに、ふと、私が、御主人の眼に留まったのです。むろん、私のほうも、わざと目につくように、適当に立ち回ってはいましたけれども。
それまで、一度も、人を恋したことのない私が、あなたを恋するようになったのは、そのころのことですわ。私は、すでに幾月も、私に当てられた、階下の、ちっぽけな、暗い部屋に、住み込んでいましたし、何年間でも、最悪の場合には、一生涯でも、そこで、だれからも顧みられないで、過ごそうと、ひそかに腹を据えていました。ところが、そこへ、あなたが、突然に現れ、女性解放の英雄の名にふさわしく、私のために、昇進への道を開いてくれたのです。あなたは、もちろん、私のことなど、一切、御存じではなかったでしょうし、私のためにしてくださったことでもありません。だからと言って、私の感謝の気持ちが、それで、すこしも減じはしませんでした。いよいよ、あす、登用されるという前夜――登用されることは、まだ確定はしていませんでしたが、しかし、もう十中八、九、大丈夫でした――私は、あなたと語り合い、あなたの耳に私の感謝の言葉をささやいて、何時間も過ごしました。そして、あなたが背負い込まれた重荷というのが、人もあろうに、フリーダだと知って、あなたの御行為が、私の眼には、ますます気高く映じました。あなたが、この私を引き出してくださるために、フリーダを恋人になさったという、その御行為こそ、あだやおろそかでは理解できぬ、無私な精神の現れであるように思えました。だって、相手のフリーダときたら、器量がよくないばかりか、もう盛りを過ぎて、瘠せぎすの、髪も短くてひどく薄い娘ですもの。おまけに、いつも、なにか秘密めいたものを持っている、陰険そうな娘です。これは、どうやら、あの女の外貌とも関係がありそうですわ。顔を見ても、からだ付きを見ても、紛れもなく、貧相の一語に尽きますし、このような女は、すくなくとも、例えば、世間で言われている、クラムとの関係のように、だれにも確証がつかめないような、別の秘密をも持っているに違いありません。それで、当時、私には、こんな考えさえも、浮かんだんですの。
つまりね、あの人が、本当に、フリーダを愛するなんて、そんなことがあり得るかしら。もしそうだとしたら、あの人は、欺かれているのではないかしら。それとも、もしかすると、ただフリーダだけを欺く手かもしれない。いずれにせよ、そうしたすべてから生じる結果はと言えば、おそらく、ただひとつ、やはり、私の昇進だけに終わるだろう。そうなると、あの人は、それまでの思い違いにお気づきになるか、あるいは、その思い違いをもはや隠そうとはなさらなくなって、もうフリーダには眼もくれずに、私だけに眼を懸けてくれるだろう。これは、私の気違いじみた空想なんかでは、けっして、ないはずだわ。だって、私は、フリーダとは、女対女としてなら、いくらでも、結構、張り合うことができるんだもの。この点は、だれだって、否定しはしないわ。なにしろ、なによりも、物を言ったのは、フリーダの地位だったんだし、あの人が一瞬にして眩惑《げんわく》されてしまったのも、フリーダが自分の地位に与える術《すべ》をよく心得ていた、あの煌《きら》びやかさのためだったんだから。そこで、私は、そのとき、夢想しましたの。もし、私がこの地位に付いたら、あの人は、私に求愛に来るはずだわ。すると、私は、あの人の頼みを聞き入れて、この地位をぽいするか、それとも、あの人の頼みを撥《は》ねつけて、さらに出世街道を歩むか、どちらかを選ばねばならないだろう、とね。そして、私は、一切を諦《あきら》めて、あなたの許へ走り、あなたがフリーダの許ではついぞ味わえなかった、世のさまざまな栄位には全く左右されない、真の愛を、あなたに教えてあげようと、覚悟を定めていたのです。
ところが、存外なことになってしまったのです。すると、それは、何者のせいでしょうか。先ずなによりも、あなたのせいです。そして、次いでは、むろん、フリーダの悪賢さのせいなのです。でもなによりもあなたのせいですわ。だって、あなたは、なにが欲しいのです。なんて風変わりな人でしょう。あなたの狙いは、なんなの。あなたの心をすっかり奪って、あなたのごく身近にある最上のものを、最も美しいものを、忘れさせてしまうなんて、それは、どんな大切な事柄なの。私は、その犠牲なのよ。なにもかも、ばかげてるわ。万事休すだわ。この貴紳閣に一面に火を付けて、焼き払ってくれるような力を持った人がいたら、そうよ、ストーブに焼《く》べた一枚の紙きれのように、跡形も残らないほど、すっかり焼き払ってくれるだけの力を持った人がいたら、その人こそ、きょうからは、私の選んだ人だわ。確か、私が、そんな訳で、この酒場へ転じたのは、きょうから四日まえの、昼食時のちょっとまえだったわ。ここの仕事は、けっして楽じゃないの。ほとんど殺人的と言ってもいいくらいの重労働なの。しかし、得るところも、すくなくはないんです。私は、以前でも、のんべんだらりと日を過ごしていた訳じゃありません。私は、どんなに大胆な空想に耽《ひた》っているときでも、この地位をわがものにしたいと思ったことは、絶えてありませんでしたが、それでも、観察だけは、十分に行っておきましたし、この地位がどんなに重要なものであるかも、篤《とく》と心得ていました。ですから、私は、この地位を、不用意に、引き受けた訳じゃないんです。また、この地位は、不用意に、引き受けられるものでもありません。不用意に引き受けようものなら、物の数時間もたたぬうちに、この地位を棒に振ってしまいますわ。ましてや、客室係の女中の流儀で、ここで、振る舞おうとしたら、それこそ、大間違いですわ。客室係の女中を勤めていますと、自分が、日ましに、すっかりだめになり、葬り去られて行くように、思うものです。まるで鉱山のなかで働いているのと同じです。すくなくとも、秘書の方々がおいでになる廊下では、そうなのです。あすこでは、顔を上げる勇気もないまま、せかせかと往来する、たまさかの昼間の事件当事者を除けば、二、三の同僚の女中のほかには、何日間となく、人の子ひとり見当たらないのです。しかも、その女中たちたるや、いずれも申し合わせたように、仏頂面をしています。朝は、女中部屋から、一歩たりとも、出ることを厳禁されています。秘書の方々が、内輪で、気楽にしていたいからです。お食事も、従僕たちが、調理場から運んで行きます。そのため、客室係の女中たちは、大抵、手持ち無沙汰です。むろん、お食事中も、女中は、廊下に姿を見せてはいけません。ただ、殿方たちがお仕事にかかっておられるあいだだけ、女中たちは、掃除をして差し支えないことになっています。と言っても、むろん、お泊まりになっている部屋は、いけません。たまたま空いている部屋だけを掃除するのです。それに、その掃除仕事も、殿方たちのお仕事の邪魔にならないように、ひどく静かに、為《し》終えなければなりません。それにしても、静かに掃除するなんて、どうしてそんな芸当ができましょう。だって、殿方が、数日間も、お泊まり込みになり、おまけに、あの汚らしい下種《げす》の従僕たちが、その部屋のなかを、立ち回っていたのですもの。やっと、客室係の女中に明け渡されたときの部屋のなかは、まるでノアの洪水でさえ、洗い凌《ざら》い、一掃することができないくらいの為体《ていたらく》ですわ。確かに、貴紳の方々に違いありませんが、あの方々のお立ちになったあとの部屋の掃除は、精一杯、吐き気を抑えないと、できっこありません。客室係の女中の仕事は、とても量が多いと言うほどではありませんが、気力が要るのです。それに、一言だって、慰められたことはありません。聞かされるのは、いつも、小言ばかりです。
とりわけ、耳に胼胝《たこ》ができるほど、聞かされる、一番|辛《つら》い小言は、掃除の際に、書類が紛失したという小言です。実のところは、なにも紛失してはいないのです。どんな紙きれでも、見つかれば、御主人に届けているからです。それでも、書類が、むろん、紛失することがあるにはあります。しかし、それは、別に女中のせいじゃない訳です。そんなときは、いろいろな委員会の方たちがまいります。すると、女中たちは、女中部屋を出て行かねばなりません。委員の人たちは、ベッドを片っ端から隈なく捜します。女中の分際で、財産など、あろうはずがありません。わずかな持ち物は、全部合わせても、背負い籠《かご》ひとつに、ゆっくり、入り切るくらいです。それでも、委員会のお歴々は、何時間もかかって、捜査します。もとより、なにも、見つかりっこありません。どうして、書類が、そんなところへまで、ひとりで歩いて来たりしましょう。女中風情が書類を持っていたって、なんの得にもならないじゃありませんか。しかし、その結果は、判で押したように、当てが外れた委員会の側からの悪口雑言やらおどし文句を、御主人から、又伝えに、聞かされるのが落ちですの。こうして、日中と言わず、夜分と言わず、一息する暇とてもありません。夜中まで、騒々しさが続くかと思うと、朝は、まだ夜の明けきらぬうちから、もう騒々しさが始まるのです。せめて、ここに住み込みでさえなければ、いいのですが、そうはいきません。だって、手すきの時でも、注文に応じて、ちょっとした口濡らしを調理場から取って来るのが、やはり、客室係の女中の仕事ですからね。特に、夜分は、そうなんですの。いつも決まって、出し抜けに、女中部屋のドアを拳《こぶし》で敲《たた》いて、注文を紙に書き取らせるのです。すると、調理場へ飛んで行って、眠っている若い料理見習いたちを揺り起こし、注文の品を載せた盆を女中部屋のドアのそとへ置いておかねばなりません。そこからは、従僕たちが運んで行くのです。なにからなにまで、情けないことずくめですわ。でも、これしきのことなら、さほど困りはしません。最も困るのは、むしろ、注文が全く来ないときです。つまり、どのお客も、もう、お休みにならねばいけないはずの、そしてまた、ほとんどの客が、どうやらついに、すっかり、寝静まっているらしい、深夜になって、折々、女中部屋のドアのまえを、だれやら、抜き足差し足で歩きまわりはじめるときです。そうなると、女中たちは、ベッドから降りて――ベッドは、上下に重ねてあるのです。あすこは、全く手狭でしてね。女中部屋と言っても、全体が、実のところは、三つの仕切りのある、ひとつの大きな戸棚と変わらないんですの――ドアに耳を寄せながら、跪《ひざまず》いて、不安に駆られるままに、互いに抱き合っているのです。だのに、ドアのまえを忍び歩く足音が、絶え間なく、聞こえて来ます。とっとと、入って来てくれたほうが、皆も、きっと、助かったでしょうに。ところが、何事も起こらなければ、誰も入っては来ないのです。それでもやはり、この部屋へ、かならずしも、危険が迫っている訳ではないと、互いにささやき合わずにはいられません。もしかすると、だれかが、ドアのまえを行きつ戻りつしながら、注文したものかどうかと、思案を重ねたものの、それでも、まだ、決心がつきかねているのかもしれません。もしかすると、それだけのことかもしれません。でも、もしかすると、全く別のことかもしれないのです。実のところ、女中連中は、だれひとりとして、殿方たちを存じませんし、殿方たちのお顔を見たことさえも、ほとんどありません。いずれにせよ、部屋のなかの女中たちは、不安のあまりに、寿命も縮まる思いで、部屋のそとがやっと静かになると、がっくりと壁にもたれたまま、今一度、自分のベッドヘはいあがる力さえも、抜けている始末です。
こんな生活が、またしても、私を待っているのです。私は、今晩のうちにでも、女中部屋の元の私の場所へ、引っ越すように、言われているのです。それにしても、なぜ、こんなことになったのでしょう。あなたとフリーダのせいよ。あの生活から、どうにか、抜け出せたと思った途端に、またしても、元の木阿弥に戻るなんて。あの生活から抜け出すには、確かに、あなたのお力添えもありましたけれど、私は、私なりに、精一杯の努力をもしてきた心算《つもり》ですの。だって、あんな勤めをしていますと、ほかのことではどんなに入念な質《たち》でも、女は、形《なり》振りを構わなくなってしまうからです。だれのために、身を飾る必要があるのでしょう。だれも、見はしません。精々のところ、調理場の使用人が見るくらいのものです。それで満足なら、身を飾ればいいでしょう。しかし、それ以外は、ずっと、女中部屋に引っ込んでいるか、あるいは、空いている客室で働いているかです。その空室へ、きちんとした服装をして、入って行くなんて、考えただけでも、歯が浮くような浪費ですわ。それに、いつも、人工光線とむっとする空気のなかにいて――ここでは、年がら年中、暖房を絶やさないのです――本当に、いつも疲れどおしです。週に一度の午後の休みは、調理場のどこかの押し入れにでももぐり込んで、心置きなく、安眠して過ごすのが、極楽という身分ですもの。としますと、なんのために、めかさなくちゃいけないのでしょう。いえ、着るものさえも、ろくすっぽ、着ていないくらいですわ。ところで、私は、急に、酒場へ配置換えになりました。酒場では、しかし、そこで自分の地位を維持しようと思うならば、正反対のことが必要になって来るのです。絶えず、人々の環視のなかにいる訳ですし、そのなかには、とても趣味の洗練された、よく眼が届く殿方も、混じっておりますので、いつも、できうる限り上品な、人を惹《ひ》きつける形《なり》振りをしていなければなりません。ところで、これで、今までとは、がらりと、方向が変わったのです。そして、私は、自分のことを言うのもなんですが、なにひとつとして、なおざりにはしませんでした。今後の成り行きについても、からきし、案じませんでした。私は、この地位に必要な能力が身に具《そな》わっていることを、知っていましたし、また、それを、確信しきっていました。この確信は、今でもまだ、私にはあります。だれも、こうした確信を私から奪うことは、できないはずです。たとい、私の敗退の日である、きょうでも、そればかりは、できっこありません。
ただ、どのようにすれば、初手から、お眼鏡にかなうことができるか、それが、難問でした。なんと言っても、私は、衣服も装身具も持たない、貧しい、客室係の女中の身ですし、それに、殿方たちも、今後、どんなに才能を発揮していくかと、気長に見守ってはくれないからです。それどころか、殿方たちは、いかにも当然のことながら、初手から、一足飛びに、酒場娘に成りきらないと、気に入らないのです。でないと、あの方たちは、そっぽを向いてしまいます。殿方たちの要求は、フリーダでさえも満足させることができたのだから、大したことはあるまいと、もしも、考える人があったら、それこそ、大間違いです。私は、そのことについては、何度となく、思案を重ねましたし、また、頻繁に、フリーダとも落ち合って、意見を交わし、一時は、彼女と、寝起きさえも、ともにしました。フリーダの手の内を読むのは、けっして易しいことではありません。よく気を付けてないと――それにしても、殿方たちのうちで、一体、それほどよく気を配る方と言えば、どんな人でしょう――即座に、彼女にだまされてしまいます。彼女の容貌がどんなに貧相かは、だれよりも、フリーダ自身がはっきりと知っています。例えば、彼女が髪を解《ほど》いているところを、初めて見た人なら、きっと、気の毒がって、両手を打ち鳴らすでしょう。こんな見る影もない娘だと、常道では、客室係の女中にさえもしてもらえないでしょう。彼女も、そのことは分かっていて、幾夜となく、そのことを悲しんで泣いては、私にからだを押し付け、私の髪を自分の頭のまわりに巻き付けたりしましたわ。でも、彼女は、いざ、勤務となると、どんな疑念も、すっかり、消え失せてしまって、自分を絶世の美人と思いなし、どんな方にも、いかにも素直に、そうした思いを抱かせてしまうことができるのです。彼女には、人の見分けができ、それが彼女本来の秘訣なのです。そして、素早く嘘をついて、だまし、相手の人たちに、彼女をもっとはっきりと見究める暇を与えないのです。むろん、その手は、長くは利きません。相手の人たちにだって、眼がありますもの。結局は、自分からの眼のほうが、やはり、正しかったということになりましょう。ところが、彼女は、そのような危険に気づいた瞬間には、もうすでに、別の手立てを用意しているのです。例えば、最近では、クラムとの関係がそうよ。クラムとの関係は、出しなの。あなたがそれを真に受けられないなら、御自分で、調査してみるといいわ。クラムのところへ行って、直接に尋ねるのよ。なんて、狡《ずる》いんでしょう。狡いにも程があるわ。
ところで、よしんば、あなたが、そうしたことを問い質《ただ》すために、クラムのところへ赴くだけの勇気すら持ってないにしても、あるいは、それとは比較にならぬほど、はるかに重要なことを問い質しに行っても、面接してもらえないで、取り付く島もなく、クラムから、門前払いをさえも食わされるに違いないにしても――そうした仕打ちは、あなたやあなたのような人にたいしてだけです。だって、例えば、フリーダなんか、いつでも好きなときに、小踊りしながら、クラムの部屋へ入って行ってますものね――たとい、そのような場合であっても、あなたは、それでも、この件を調査することができるのです。あなたは、ただ、待っていさえすればいいのです。そのうちに、クラムとても、そのような事実無根の噂には我慢しきれなくなるでしょう。クラムは、酒場や客室で、自分について、取り沙汰されていることがあると、きっと、火のように怒って、その追求にかかるはずです。そうした取り沙汰は、クラムにとって、最大の重要事だからです。そして、それが事実無根と分かれば、彼は、即刻それを訂正するでしょう。ところが、今までのところ、クラムは、なにも、訂正してないのです。とすると、なにも、訂正することがない訳で、その取り沙汰は、一から十まで、真実ということになります。傍目《はため》には、フリーダがクラムの部屋ヘビールを運んで行き、その代金を貰って、部屋から出て来るというだけのことです。傍目に分からないことは、フリーダに話してもらうしかありませんし、私たちとしても、フリーダの言葉を真《ま》に受けざるを得ないのです。だのに、フリーダは、全然、その辺の話をしないのです。やはり、彼女としても、そうした秘密を、うかうかと、喋《しゃべ》る訳にもいかないでしょう。そりゃそうでしょうが、でも、彼女のまわりで、秘密のほうが、ひとり勝手に、ぺちゃくちゃと喋りはじめるのです。そして、秘密が、一旦、外へ洩れたとなると、彼女は、むろん、もうためらうことなく、自分でも、その秘密について話すようになります。でも、その語り方は、あくまで控え目で、別に、これと言って、主張する訳でもありません。どのみち一般に知れてしまったことを、ただ、引例として、挙げるだけにすぎないのです。それも、全部が全部ではありません。例えば、彼女が酒場で働くようになって以来、クラムの飲むビールの量が、以前よりも減った、ひどく減ったというほどでもないが、しかし、眼に見えて減ったということなどについては、一言も、喋らないのです。これには、また、さまざまな理由があるのかもしれません。たまたま、クラムに、ビールがさほどおいしくなくなった時期が来ていたのかもしれませんし、あるいは、フリーダのほうに心を取られて、ビールを飲むのを忘れてしまっているのかもしれません。いずれにせよ、そんな次第で、いかに突拍手もないことにせよ、フリーダは、クラムの恋人なのです。でも、クラムが満足していることに、なにも、他人までが、驚嘆しなくてもいいでしょう。そんな経緯《いきさつ》から、娘は娘でも、酒場に勤めるに必要な素質をぎりぎりにしか持っていないフリーダが、あっという間に、大変な美人になってしまったのです。それも、ほとんど不釣り合いに美しすぎて、実力もありすぎるほどで、酒場で働くには勿体《もったい》ないくらいの女になっているんですもの。そして、事実――彼女が、あいもかわらず、酒場勤めをしているのが、人々には奇妙に見えるらしいんですよ。酒場娘であるということは、大したことには違いありません。そのことから、クラムとの結びつきも、いかにも確実らしく思われますものね。でも、その酒場娘が、一旦、クラムの恋人になった以上、クラムは、どうして、彼女を、しかもあれほど長らく、酒場に置いておくのでしょうか。どうして、彼女を、もっと高い地位に取り立てないのでしょうか。その点では、なにひとつ、矛盾はない、クラムがそうした取り扱いをするには、それなりの確固とした理由があるはずだとか、あるいは、もしかすると、ごく最近にでも、突然に、フリーダの昇格があるかもしれないなどと、口が酸《す》くなるほど、人々に何百回でも言い聞かせるくらい、なんでもないことですが、そんなことでは、さして効果がないのです。人々は、特定の観念を持ってしまうと、どんなに術策を弄したところで、いつまでも、その観念を変えないからです。
もう今は、だれひとりとして、フリーダがクラムの恋人であることを、疑いはしません。明らかに、もっと事情をよく知っていると思われる人たちでさえも、もう、疑うには、うんざりしきっていたのです。『あんたがクラムの恋人なら、恋人でいいや。勝手にしやがれ』と、人々は、考えてました、『だが、それならそれで、あんたが栄達でもして、それに違いないことを見せてもらおうじゃないか』とね。ところが、それらしい節《ふし》は、なにひとつ、見えなかったのです。フリーダは、これまでどおり、酒場で働いていました。そして、旧態依然であることを、心ひそかに、ひどく喜び続けていました。ところが、人々のあいだでは、声望ががた落ちでした。彼女が、むろん、それに気づかずにいるはずはありません。フリーダという女は、事がまだ現に起こらぬうちから、その事に気づくのが習癖ですものね。本当に美しい、かわいらしい娘なら、一旦、酒場の仕事が手の物になってしまえば、なんの手練手管を使う必要もないはずです。美しいあいだは、いつまででも、余程の不幸な突発事故でも起こらない限り、酒場娘でいられるでしょう。ところが、フリーダのような娘は、しょっちゅう、自分の地位を気遣っていなければならないのです。むろん、根が利口な女ですから、それを素振りに現したりはしません。むしろ、口癖のように、不平を並べたり、自分の地位を呪ったりしています。しかし、秘かに、人気というものを、絶えず、観察しつづけていました。そして、彼女は、人々がなんの関心も持たなくなっていたことを、見て取ったのです。彼女が酒場に立ち現れても、面《おもて》を上げて見やるだけの甲斐《かい》さえもないような虫けら同然にしか、思われなくなっていたのでした。もう、従僕たちですらも、彼女を構いはしませんでした。従僕たちは、如才なしに、オルガとか、そうした娘たちのほうへ、べたついていました。フリーダは、御主人の態度からも、自分がしだいに無用の長物になりかけていることに、気づいていました。かと言って、クラムについてのいつも新しい話題を、次々と、考え出してゆくこともできないでしょう。何事にも、限界というものがありますからね。そこで、才|長《た》けたフリーダは、なにか口新しいことを仕出かそうと、決心しました。それを、立ちどころに、見破るだけでも、だれかにできていればよかったのですが。私は、薄々、感じてはいましたものの、残念ながら、見破れませんでした。フリーダは、スキャンダルを起こそうと、決心したのです。クラムの恋人ともあろう彼女が、だれでもいい、できれば、最も下賎な男に身を投げ出すのです。それによって、世間の耳目を聳動《しょうどう》すれば、それが、長いあいだ、世間の語り草になって、ついには、クラムの恋人であるということが、なにを意味するか、新しい恋に酔い痴《し》れて、そうした名誉を擲《なげう》つことが、なにを意味するかを、世間では、改めて、思い出してくれるだろう、という寸法です。
ただ、この狡賢い芝居を共演してくれる、適当な男性を見つけることが、難儀でした。フリーダの知り合いではだめでした。ましてや、下僕のひとりであってもいけませんでした。おそらく、当の下僕は、眼を皿にして、彼女を見詰め、そのまま、立ち去ってしまうでしょう。それに、第一、下僕ですと、あくまでも、真剣味を保持することができないでしょう。そして、いかに口達者でも、フリーダの不意を襲ってやったところ、フリーダが、どうにも身を守り切れなくなり、失神状態に陥ったのでそこを物にしてやったのだと、言い触らすことは、とてもできないでしょう。それに相手が、たとい、どんなに下賤な男であろうと、またその立ち居振る舞いが、どんなに愚鈍で、柄が悪かろうと、やはり、フリーダをのみひたすら恋い慕って、フリーダと結婚することを――まあ、思っても、ぞっとしますけれども――このうえなく熱望している人間だということを、世間に信じてもらえるような相手でなければなりません。しかも、たとい、どんなに下種《げす》な男であっても、身分のほうは、できれば、下僕よりももっと低く、と言うよりか、下僕よりもはるかに低ければ低いほどいいのですが、さりとて、下種だからと言って、世の娘たちが、すべて、嘲笑の種にするような男では困るのです。むしろ、眼が高い、ほかの娘が見ても、どことなく、魅力を感じるかもしれないような相手でないといけないのです。しかし、そのような男が、どこで、見つかるでしょう。ほかの娘なら、たぶん、一生涯かかって捜しても、むだ骨に終わるところでしょう。ところが、フリーダの幸運の女神は、測量師を彼女の酒場へ導いたのです。もしかすると、この大それた計画が、初めて、彼女の胸に浮かんだ、ちょうど、その晩のことだったかもしれません。相手が測量師とはよくできているじゃないの。ところで、当のあなたは、一体、どんなお考えなの。どんな特別な計画を抱いてらっしゃるの。なにか格別なものにあり付こうとお思いになってるの。いい地位とか、顕彰とか。そうしたたぐいのものを狙ってらっしゃるの。そうだとしたら、初っ端《ぱな》から、別の手を使っていないといけないところだったわ。だって、あなたには、なんの取り得もないんですもの。あなたの境遇なんて、見るも悲惨よ。あなたは、測量師だわね。と言うことは、もしかすると、なにかの取り得があることかもしれないわね。つまり、なにかを習得している訳ね。でも、それを生かす術を心得てないなら、やはり、なんの取り得もないのと同じよ。それでいながら、あなたは、いろいろなことを要求される。微々たる後楯《うしろだて》さえもないのに、いろいろなことを要求なさる。むき出しにではありませんが、いろいろと、要求なさっておられることは、だれだって、気づきますわ。そのことが、どうしても、人の怒りを買うのです。あなたは、一体、よしんば、客室係の女中であっても、あなたと長話をしていれば、身に傷が付くということを、御存じないのですか。しかも、そのように、数多くの尋常でない要求をお持ちになりながらも、あなたは、いきなり、最初の晩から、あのひどく粗《あら》造りな罠に、ぶざまにも落ちてしまうんですものね。あなたは、一体、恥ずかしくないのですか。フリーダのどこに、一体、それほどまで、眩惑されてしまったのです。今なら、白状したっていいでしょう。あの女が、あの瘠せぎすの、肌の黄ばんだ、あまっ子が、本当に、あなたの眼鏡にかなったのですか。あら、そんなはずはありませんわ。あなたはフリーダの顔をまともに御覧になったことさえもないでしょう。ただ、フリーダから、クラムの恋人だと、聞かされただけなのよ。それが、あなたの場合、初耳だったものだから、まだしも図に当たった訳よ。それで、あなたのほうは、身の破滅となったの。
そうなると、フリーダにしても、引っ越さねばなりませんでした。今となっては、むろん、貴紳閣では、もう彼女の居場所もなくなったからです。私は、あの朝、暇を見て、立ち退くまえの彼女と会うことができました。従業員たちも、駆け寄って来ました。だれもかれもが、フリーダの姿を見ようと、好奇心を燃やしていたのです。彼女の勢力は、彼女に同情せぬ者がないほどに、まだ大したものでした。だれしも、彼女の敵たちでさえも、彼女を気の毒がりました。こうして、彼女の計算が正しかったことが、すでに当初において、立証された訳です。あのように卑しい男と浅はかにも一緒になってしまったことが、皆の者には、不可解に思われ、運命の悪戯《いたずら》のように感じられたのです。だれかれの別なく、酒場娘と言えば、むろん、賛美してやまない、調理場の小女《こおんな》たちでさえも、なんとも慰めようのないほどに、悲しんでいました。私でさえも、これには、痛く心を動かされていました。もともと、私の注意は、全く別なことに向けられていたのですが、その私でさえも、感動を禁じ得ませんでした。私は、フリーダが、どう見ても、ほとんど悲しげな様子をしてないのを、奇異に感じていました。だって、フリーダの身を襲っていたのが、所詮、身の毛がよだつほどに恐ろしい不幸であることには変わりがなかったんですもの。彼女は、確かに、いかにもひどく不仕合わせそうなふりをしてはいましたが、それしきのことでは、だめです。そんな芝居ぐらいでは、私は、だませませんでした。とすると、彼女にあのような毅然たる態度を保たせたのは、なんでしょう。もしかすると、新しい恋の幸福だったのでしょうか。ところが、それは、もってのほかの考えでした。では、ほかに、なんだったのでしょうか。あのとき、すでに、フリーダの後任と見なされていた、この私にたいしてさえも、いつもと変わらず、冷ややかな親しさを示すだけの力を彼女に与えていたものと言えば、なんだったのでしょう。
私は、あのとき、このことについて篤と考えるだけの暇がありませんでした。新しい地位に就くための準備で、眼が回るほどに、忙しかったのです。どうやら、もう二、三時間もすれば、新しい勤めに就かねばならぬところにまで来ていましたのに、まだ、髪の手入れもしてなければ、しゃれた服も、品のいい下着も、手ごろな靴も、揃ってない始末でした。これらすべてを、二、三時間のうちに、調えねばならなかったのです。きちんとした身支度ができなければ、折角の地位も諦めたほうが、ましでした。だって、そのままで、勤めに出たら最後、物の小半時もすれば、失職するのが、眼に見えているんですもの。ところが、大体において、事は、うまく運びました。私は、調髪にかけては、特別の才能を持っていました。一度などは、ここの女将さんに呼ばれて、女将さんのお髪上《ぐしあ》げをしたくらいですわ。それというのも、生まれつき、手が器用だからです。それに、むろん、髪の毛も濃いので、即座に、思いどおりの形に整えられるのです。服のほうにも、手伝いがありました。私のふたりの同僚が、献身的に、私を支援してくれたのです。同じ女中仲間のひとりが、酒場娘になるというのは、彼女たちにとっても、一種の名誉なのです。それに、私が、いずれ、実力を持つようになった暁には、自分たちにも、なにかと、利便を計ってくれるだろうと、読んでいたのです。女中のひとりが、ずいぶん以前から、高価な服地を蔵《しま》っていました。それが、その女《こ》の宝でした。よく、彼女は、それを持ち出しては、朋輩たちの眼を見張らせていましたし、いつかはそれを、自分のために豪勢に使おうと、夢見ていたらしいのです。ところが――なんとけなげな振る舞いでしょう――今、私に服地が要るとなると、彼女は、惜しげもなく、私にそれを提供してくれたのです。そして、ふたりの同僚が、いそいそと、縫うのを手伝ってくれたのでした。ふたりは、自身の服を縫うときでも、これ以上、熱中できないのではないかと、思ったくらいでしたわ。
それは、非常に楽しい、願ってもないような仕事でさえありました。それぞれに、上下に重なり合った、自分のベッドに腰を掛けて、縫いながら、歌を歌い、でき上がった部分や取りつける付属品を、あるいは上へ、あるいは下へと、互いに渡し合いました。私は、そのときのことを思うと、今、万事が水泡に帰してしまって、元の仲間たちの許へ、素手で、帰らねばならなくなったことが、ますます胸苦しく感じられて来るのです。なんという不幸でしょう。なんと軽はずみなことをしてくれたのでしょう。なによりも、あなたのせいですわ。あのとき、でき上がったこの服を見て、皆がどんなに喜んでくれたことでしょう。それで、成功間違いなしのように思えました。そして、さらに、小さなリボンを付け足す場所が見つかったときには、かすかに残っていた疑念さえも、跡方なく、消え失せてしまいました。ところで、この服、本当に綺麗だと、お思いになりませんか。今では、もう着倒して、くしゃくしゃになり、すこしばかり、染みもついていますが。だって、私、着替えというものがありませんので、夜昼なしに、これひとつを着とおさねばならなかったからです。でも、どんなに綺麗な服かは、今だって、一目で分かるはずですわ。あの忌々《いまいま》しいバルナバス家の娘だって、これ以上に立派な服は、とても仕立てられないでしょうよ。それに、この服は、肩口でも、裾《すそ》まわりでも、好きなように、引き締めたり、弛《ゆる》めたりすることができるの。それで、一着きりしかなくとも、いろいろに、目先を変えることができるのです――これが、この服の特長で、実は、私の考案なの。むろん、私に向く服を仕立てるのは、別に難しいことでもありませんし、私は、そんなことを鼻に掛けてもいません。若い、健康な娘なら、どんな服でも似合いますもの。それよりはるかに難儀だったのは、下着と靴を揃えることでした。そして、実のところ、ここから失敗が始まるのです。やはり、この点でも、同僚たちは、精一杯、助力してくれました。でも、あの女《こ》らにできることと言えば、高が知れていたのです。寄せ集めた布地を継ぎ合わせて作った下着は、どう見ても、ぶざまとしか言えませんでしたし、踵《かかと》の高い靴が手に入らないので、スリッパで我慢せねばなりませんでした。これなんか、人に見せるどころか、隠さねばならない代物ですからね。皆は、私を慰めてくれて、フリーダだって、大して綺麗な服を着ていた訳じゃないし、時には、ひどくだらしない形《なり》をして、うろつき回るものだから、お客様も、フリーダに給仕されるよりか、酒蔵番の若者たちに給仕してもらうほうを、喜んでいたくらいじゃないの、と言ってくれました。それは、事実、そうだったのです。でも、フリーダならこそ、そうしたことをしても、通ったのですわ。フリーダは、すでに寵児となり、信望を得ていました。それに、いつも上品な女性が、時に、薄汚れた、だらしない形《なり》をして、人前に現れれば、却《かえ》って、一段と魅力が増すものです。しかし、私のような新参者の場合は、どうでしょう。おまけに、フリーダは、着こなしが下手でした。全く、没趣味な女だったのです。黄ばんだ肌色の者は、むろん、その肌を、一生、持ち続けねばなりませんが、それにしても、フリーダのように、かてて加えて、胸ぐりの大きい、クリーム色のブラウスまでも着るのは、禁物です。そんなことをすれば、黄一色のみになってしまって、見ているほうは、あまりのひどさに、涙が眼にあふれて来ますわ。それに、さなくとも、彼女は、ひどいけちん坊で、いい身なりをするのを嫌いましたの。稼いだ金は、がっちりと貯める一方でした。なんのためだか、他人には分かりっこありません。勤めていれば、一文だって、お金の要ることもありませんでしたし、嘘をついたり、手管を使ったりして、彼女は、うまく、その場|遁《のが》れをしていたのです。
私は、そのような先例をまねようとも思いませんでしたし、また、まねることもできませんでした。それゆえ、私が、自分を目立たせるために、このように、着飾るようになったのも、理の当然でした。ましてや、当初は、なおさらのことです。ただ、もっと強力な手を使って、そうしたことをすることができていさえしたら、フリーダがどんなに狡猾《こうかつ》であろうと、また、あなたがどんなに頓馬であろうと、私は、いつまでも、勝利者でいられたでしょう。確かに、振り出しも、非常に好調だったのです。必要な、わずかばかりの骨《こつ》や知識は、すでに以前から、聞き知っていました。それで、私は、酒場へ移るや否や、早くも、そこの勤めになじんでしまいました。だれも、私の仕事中に、フリーダがいないのに気づく人は、いませんでした。やっと二日目になって、何人かの客から、フリーダは、一体、どこへ行ったのだと、尋ねられたくらいです。なにひとつ、失敗は、起こりませんでした。御主人も、満足していました。初日には、さすがに心配になると見えて、絶えず、酒場へ来ておられましたが、その後は、ほんの時折、のぞきに見えるだけとなり、ついには、勘定もぴったりと合っているのですから――収入だって、平均して、フリーダの時代よりも、いくらか、殖えてさえいましたし――御主人は、私に万事を任してしまいました。私は、新方式を取り入れました。フリーダは、仕事熱心だからではなくて、けちな根性と支配欲とから、そしてまた、自分の特権を、多少なりとも、他人に渡すことになりはすまいかという不安とから、すくなくとも部分的にもせよ、殊に、だれかに見られているときなどは、従僕たちにたいしてさえも、監視を怠りませんでした。それにひきかえ、私は、酒蔵番の若者たちに、その監視の仕事を割り当てることにしたのです。また、酒蔵番の若者たちのほうが、はるかに、そうしたことに向いていました。それによって、私は、殿方たちのほうへ、もっと多くの時間を割くことができ、お客たちへの給仕も、早く済ませられるようになりました。それでも、私は、どのお客とも、二言、三言、言葉を交わすくらいの余裕がありました。
この点でも、フリーダと違っていました。フリーダは、自分の身はクラムのためにだけ取ってあるのだと言わんばかりの顔をして、ほかの人が、一言でも、言葉を掛けたり、ちょっとでも、そばへ寄ろうとしたら、クラムにたいする侮辱と見|做《な》す始末でした。これは、むろん、賢い考えでもあったのです。と言いますのも、だれかが身辺へ寄って来ることを、一度でも、許したら、それで、彼女は、前代未聞の厚情を示したことになるからです。でも、私は、そのような細工が嫌いでした。それにまた、そのような細工も、最初は、役に立たない訳です。私は、どのお客にも、愛想よくしました。すると、どのお客も、愛想よい態度で、それに報いてくれました。皆、この変化を、明らかに、喜んでくださいました。働き疲れた殿方たちが、やっと、寸暇を見て、ビールを飲みに、席へ就かれるようなときには、私がちょっと言葉を掛けたり、ちらと目くばせしたり、肩を一度すくめて見せたりするだけで、がらりと、人が変わったようになられるのです。そんな訳で、来る方々が、こぞって、私の巻き毛をしきりと手で撫で上げるので、私は、一日に十回も、髪形を直さねばなりませんでした。どなたも、私の巻き毛とネットの魅惑には勝てないのです。いつもはひどくぼんやりしているあなたでさえも、そうでしたものね。こうして、わくわくしどおしの、目が回るほどに忙しい、でも、働き甲斐の大いにある一日一日が、矢のように、過ぎ去りました。日のたつのが、こうまで早くなくて、せめて、あと数日なりと、あってくれさえしたらよかったのにと、残念でなりません。たとい、綿のように疲れ果てるまで、気張らねばならないにしても、四日という日数は、あまりにすくなすぎます。もしかして、もう一日でもあれば、得心できたかもしれません。でも、四日間では、あまりにもすくなすぎました。私は、この四日間で、贔屓《ひいき》にしてくださる方や懇意にしてくださる方が、もうできていました。ここへお越しの皆さんの眼差《まなざし》を信用してよければ、私がビールのジョッキを運んで行くときなどは、まるで親愛の海のなかを泳いでいるようなものでした。バルトマイヤーと名乗る書記のごときは、私に血道を上げてしまって、この鎖の首飾りとロケットとを贈ってくれました。しかも、そのロケットのなかには、自分の写真まで入れてありました。これなどは、むろん、厚かましいほうですが。こうしたことをはじめ、さまざまなことがありました。でも、やはり、四日間は四日間にすぎませんでした。四日間では、私がどんなに力|瘤《こぶ》を入れたとて、フリーダは、ほとんど忘れられるところまで行きはしても、すっかり忘れ去られるところまでは行きません。フリーダが、用意周到にも、あの彼女の播《ま》いた大スキャンダルによって、いつまでも、人々の口の端《は》に掛かるように仕組んでおかなかったならば、おそらくは、とっくに、忘れられてしまっていたことでしょう。彼女は、大スキャンダルによって、人々に新奇な存在となったのです。人々は、ただ好奇心だけで、フリーダに再会したいと思ったのかもしれません。人々にとって、うんざりするほどに、退屈だった存在が、ほかのことには全く無とんじゃくだったあなたの手柄によって、再び、人々に魅力を感じさせるにいたったのです。かといって、私がここに陣取り、私の姿が物を言っている限りは、人々とても、むろん私を見離したりはしなかったでしょう。でも、お客と言えば、大抵は、中年の方たちで、古くからの癖がなかなか直りにくいものです。それで、その方たちが新しい酒場娘に慣れるまでには、隙《ひま》がかかります。あのときのように、首を挿《す》げ替えたほうが非常に都合がいい場合であっても、やはり、数日はかかります。殿方たちとしては不本意でしょうが、数日はかかるのです。もしかすると、五日もあればいいかもしれません。でも、四日では足りないのです。
私は、骨身を惜しまなかったにもかかわらず、いまだに、一時の間に合わせとしか思われていませんでした。そこへもって来て、おそらく、私にとって、最大の不運だったのではないかと思うのですが、この四日間に、クラムが、最初の二日間は、確かに、村に滞在していましたのに、一度も、階下の酒場へ来てくれなかったのです。もしも、クラムが降りて来てくれていたら、それこそ、私の真価を試す、最も大事な場となっていたことでしょう。ところで、私はこうした腕試しを、すこしも恐れていませんでした。いや、それどころか、楽しみにして待っていたのです。たとい、降りて来ていたとしても、私は――このような事柄は、むろん、一切口にしないに越したことがありませんが――クラムの恋人になりはしなかったでしょうし、またそのような地位にのし上がったかのように、柄にもなく、見せかけたりもしなかったでしょう。ただ、私は、すくなくとも、フリーダに劣らぬほど、上品に、ジョッキをテーブルのうえへ運ぶくらいのことはできたでしょうし、フリーダのような厚かましい態度でなく、しおらしく頭を下げて、しおらしく挨拶の言葉を述べていたことでしょう。そして、クラムのほうも、生娘《きむすめ》の眼のなかに捜し求めているものがあったならば、それを私の眼のなかに、すっかり堪能するまで、見出していたことでしょう。だのに、どうして、クラムは、降りて来なかったのでしょう。偶然のいたずらでしょうか。私も、そのときは、やはり、偶然のことのように思い込んでいました。二日間、私は、今か今かと、クラムを待ち受けていました。夜も、待ち受けていました。『今に、きっと、見えるわ』と、私は、絶えず、思い続けながら、別に訳もなく、ただ、待つ身のもどかしさから、クラムが酒場に足を踏み入れるや否や、人に先んじて、真っ先に姿を見たくて、せわしなく、右往左往していました。こうして、絶え間ない幻滅を味わい続けているうちに、私は、ひどく疲れてしまいました。おそらく、そのために、できたはずの仕事をさえも、ろくろく、してなかったでしょう。私は、ちょっとでも、暇があると、忍び足で、従業員には立ち入り厳禁になっている、二階の回廊へ上がって行って、そこの壁龕《へきがん》のなかに屈《かが》み込みながら、待っていました。『今でもいいから、出て来てくれさえしたらいいのに。そしたら、あの方が部屋から出たところを掴まえて、私の腕に抱き上げ、下の酒場まで運んで行ってあげるのに。どんなに巨体でも、それくらいの重みに、へなへなとなりはしないわ』とまで、思っていました。でも、クラムは、出て来ませんでした。二階のこの回廊は、そこへ行ったことのない人には想像もつかないくらい、ひどく深閑としているのです。不気味なほどに、静まり返っているために、だれしも、そこに、いたたまらなくなるのです。その静寂に、追い立てられてしまうのです。しかし、私は、性懲りもなく、十度、追い立てられれば、また十度、上がって行きました。でも、それは、無意味なことだったのです。
クラムは、来る気があれば、どうしても来るでしょう。しかし、来る気がなかったら、私が、壁龕のなかで、激しい動悸のあまりに、なかば窒息死しそうになっても、クラムを誘《おび》き出しようがないでしょう。ですから、それは、無意味なことだったのです。でも、クラムが来なければ、ほとんどすべての苦労が無意味になってしまうのです。だのに、クラムは、来ませんでした。今日では、クラムが、どうして、来なかったか、その理由が私にも分かっています。仮に、私が、二階の回廊の壁龕のなかに潜んで、両手を胸に当てているところを、フリーダに見られるようなことでもあったら、それこそ、フリーダは、無性に面白がったことでしょうよ。クラムが降りて来なかったのは、フリーダがそのように仕向けたからなの。別に、彼女が頼んで、そうしてもらった訳ではありません。彼女の頼みなんか、クラムの耳に入るはずがありませんもの。でも、あの蜘蛛《くも》のような女は、だれも知らないような連絡綱を持っているのです。私がお客になにか言うときは、あからさまに申します。隣のテーブルにも、はっきりと、それが聞こえるくらいです。フリーダは、なにも言いません。ビールをテーブルのうえに置くなり、さっさと去ってしまいます。ただ、彼女の絹のスカートだけが、彼女が金を出したものと言えば、これきりですけれども、衣《きぬ》ずれの音を立てるにすぎません。でも、時に、なにか、伝えることがあっても、あからさまには言いません。身を相手のお客のほうへ曲げて、そっと耳打ちするのです。隣のテーブルにすわっているお客は、耳を欹《そばだ》てずにはいられません。彼女がささやく事柄は、おそらく、些細《ささい》なことなんでしょう。でも、しかし、いつもそうとは限らないのです。なにしろ、フリーダは、いろいろな繋《つな》がりを持っていますからね。片方のいくつかの繋がりを、他方のいくつかの繋がりで、支えているのです。それらの手蔓《てづる》は、大抵の場合、失敗しますが――だれが、フリーダの、ことなどに、いつもかも、構っておれましょう――しかし、時には、やはり、切れない手蔓だってあるのです。彼女は、今や、それらの手蔓を利用しはじめたのでした。そうする機会を、あなたが、彼女に与えたのです。あなたは、彼女のそばに付いて、彼女を監視するどころか、ほとんど、家にも居つかないで、あちこちと、うろつき回っては、そこかしこで、話し込み、万事に注意を怠らない癖に、フリーダにだけは、気を配ってないんですからね。そして、とどのつまりは、フリーダにもっと身の自由を与えてやるために、橋亭から無人の学校へ引っ越すんですもの。これが、蜜月の楽しい始まりとは、恐れ入りますわ。
ところで、私は、あなたがフリーダのそばでじっと我慢していられなかったからと言って、あなたを非難しようなどとは、毛頭、思ってもいません。だれだって、あんな女のそばで、じっと我慢していられるものではありませんもの。しかし、それなら、あなたは、なぜ、あの女をきれいさっぱりと捨ててしまわなかったのです。なぜ、性懲りもなく、何度も、あの女の許へ帰って行ったのですか。なぜ、方々をうろつき回って、いかにもあの女のために闘っているかのような印象を、喚《よ》び醒《さま》そうとしたのですか。どう見ても、あなたは、フリーダと接することによって、初めて、自分の本当の下らなさを発見したらしく、フリーダにふさわしい人間になりたいと思いながら、なんとかして、奮起しようと志し、そのためには、当分のあいだ、同棲を諦めてもよい、いろいろと不自由な思いをした埋め合わせは、後になって、だれにも邪魔されずに、付ければいいとでも考えているとしか、受け取れませんわ。そのあいだも、フリーダのほうは、時間を空費してなんかいません。たぶん、あなたは、フリーダに操られて、あの学校へ移ったのでしょうが、フリーダは、その学校にでんと腰を据えて、貴紳閣を偵察し、あなたをも観察していたのです。彼女は、使者でも腕っ扱《こ》きの者を、手許に置いていました。ほかでもない、あなたの助手たちです。あなたは、彼女に――どうしてそんなことをするのか、さっぱり、解《げ》せません、あなたの人柄を知っている者でさえも、さっぱり、解せないのですが――その助手たちをすっかり任せてしまいました。彼女は、助手たちを彼女の旧知のところへ、順番に、差し向けては、自分のことを思い出させ、あなたのような男に監禁されていることについて、哀訴し、私をいびり出すように、けしかけ、程なく貴紳閣へ戻るむねを告げて、助力を乞い、クラムには、なにひとつ、洩らさないで欲しいと、懇願していたのです。つまり、クラムは、大切に扱ってあげねばならぬ方だから、どんなことがあっても、下の酒場へ降りて行かせてはいけないというふうなことを、それとなく、言外に匂わせていた訳です。彼女は、さる人にたいしては、クラムヘのいたわりだとして、言い繕ってきたことを、ここの主人にたいしては、さも自分の功績であるかのように、利用して、クラムが下へ降りて来なくなったことに、嫌でも、注意を向けさせるのでした。そして、階下には、ペピとか言う女の子しか、給仕役はいないのに、どうして、クラムが降りて来るはずなんか、ありましょう。と言っても、御主人には、なんの罪もありませんわ。だって、そのペピとやらは、ともかく、間に合わせとしては、最上の見付けものですからね。でも、間に合わせでは、満足は買えません。ほんの数日間でも、だめです。と、こんな意見を、暗に、伝えるのです。
あなたは、フリーダのこうした一連の動きについて、なにも、知らないでしょう。外をほっつき回ってないときでも、気が差しもしないで、フリーダの足元に寝そべっていたのですもの。そのあいだ、フリーダのほうは、しかし、まだどれくらい、自分が酒場を離れていなければならないか、その時間を計算していたのです。しかも、あの助手たちは、ただ、使者の役だけを勤めていたのではありません。あなたに嫉妬を焼かせて、あなたをかっかとさせておく役目をも、果たしていたのですよ。フリーダは、子供のころから、助手たちを知っていました。互いに、秘密というものをもうなにも持ち合わせていない、間柄だったのです。でも、あなたに敬意を表して、彼女と助手たちとは、互いに恋い焦《こが》れるふりをしはじめたのです。ために、あなたにとっては、もしかすると、取り返しのつかぬ恋愛沙汰になるかもしれないという危険が、生じたのです。そこで、あなたは、フリーダの歓心を買うために、どんなことをでも、たとい、どんなに矛盾することをでも、やってのけました。あなたは、助手たちによって、燻《ふす》べられながらも、三人がひとつところに居残っているのを、放ったらかしてまで、ひとりで、勝手に、うろつきに出掛けているんですもの。まるで、あなたは、フリーダの三人目の助手のような為体《ていたらく》でした。そこで、フリーダは、ついに、自分のこれまでの観察に基づいて、大冒険に踏み切る決断をしたのでした。つまり、古巣へ帰る決心をしたのです。それには、実のところ、絶好の潮時でした。あの狡智に長《た》けたフリーダが、こうした点を見抜いて、それを利用するやり方には、ただただ、驚嘆のほかありません。この観察と決断の力こそ、他人のまねることのできない、フリーダの特技です。私にそのような特技がありましたら、私の人生も、今とは違った径路をたどっていたことでしょう。それにまた、フリーダが、もう一日か二日でも長く、学校にいてくれさえしたら、私は、もうここを追い出されるような憂き目を見ないで済んで、圧《お》しも圧されもせぬ酒場娘になりきり、皆からも愛され、引っ張り凧《だこ》になって、たっぷりとお金を稼ぎ、この一時|凌《しの》ぎの着付けを補って、きらびやかに取り繕っていたことでしょう。それに、もう一日か二日でも長びけば、どのような奸策を用いても、クラムを酒場へ来させないようにしておくことは、もはやできなくなっていたでしょう。きっと、クラムは、やって来て、ビールを飲みながら、寛《くつろ》いだ気分を味わうことでしょう。そして、フリーダが居ないのに気づきさえしても、この異動には大満悦だったことでしょう。そして、もう一日か二日でもすれば、フリーダは、あのスキャンダルとか、これまでの繋がりとか、助手のこととか、その他すべてのことと一緒くたに、すっかり、忘れ去られてしまって、もはや、永久に、顔出しできなくなっていたでしょう。でも、そうなれば、もしかすると、彼女は、それだけ一層しっかと、あなたに取り縋《すが》って、あなたを、彼女にそうした能力があると仮定しての話ですが、本当に、愛するようになっていたでしょうか。いいえ、それさえも、考えられません。だって、あなたにしても、もう一日もあれば、結構、フリーダには嫌気が差してしまって、自分は美しいとか、操が固いとかと、自分から言い触らしたり、最もひどいのは、クラムの恋人と、自分から称したりして、あの手この手で、彼女が、どんなに破廉恥に、あなたを瞞《だま》して来たかを、見抜いてしまうに違いないからです。それには、二日と要りません。もう一日だけでもあれば、あなたはあの汚らわしい太鼓持ちの助手どもとともに、彼女を追い出しているに違いありません。そうですとも、あなたとした人が、そのために、二日も空費しないはずです。こうして、彼女が、そうしたふたつの危険の狭間《はざま》に立って、抜き差しならぬ羽目に陥り、文字どおり、この世から、すでに、葬り去られかけていた矢先に――根っからお人|好《よ》しのあなたが、彼女のために、最後の狭い逃げ道を開けておいてやったばかりに――彼女は、これ幸いと、ずらかってしまったのです。そして、彼女は、突然に――それは、ほとんどの人が予期だにしてなかったことでした。だって、不自然なことですもの――、あいかわらず彼女を愛して、絶えず彼女に付き纏《まと》っているあなたをば、素っ気なく、おっ放《ぽ》り出して、昵懇《じっこん》な人たちや助手連中の後押しを受け、ここの御主人のまえに、救い主として、立ち現れたのです。あのスキャンダルのお陰で、以前よりも、はるかに魅力的な存在となり、いかに卑賤の者からも、いかに高貴の方からも、紛れもなく、垂涎《すいぜん》の的となって、ほんの一瞬間、下品な男のものになったとはいえ、すぐまた、その男をきちんと突き放して、以前のように、その男はおろか、万人の手の届かない地位にまで、のし上がったという次第です。ただ、以前なら、そうした前後の経緯にたいして、人々は、疑ってかかるのが、当然でしたが、今ではまた、頭から、もっとも至極と信じきっているのです。こうして、フリーダは、古巣へ舞い戻って来たのです。御主人は、私のほうへ横目をくれながら――あんなにいいところを見せたこの女を、はたして、犠牲にしていいものか、どうかと――、ためらっていましたが、そのうちに、説き伏せられてしまいました。フリーダに有利な点があまりにも多すぎたのです。とりわけ有利だったのは、彼女なら、きっと、クラムの心を酒場のほうへ取り戻せるだろう、ということでした。今はもう日暮れだというのに、私たちったら、いつまで、こんな世迷い言をばかり言っているのでしょう。私は、フリーダがやって来て、勝ち誇ったように職場の引き継ぎをするまで、待つ心算《つもり》はありません。金庫は、すでに女将さんに渡しておきましたし、私は、いつだって、ここを出て行けばいいのです。下の女中部屋のなかの仕切りベッドが、私のために、用意してくれてありますし、私は、そちらへ移ることにします。かつての仲間が、涙ながらに、迎えてくれるでしょう。こんな服は、脱ぎ棄て、髪からは、リボンを引っこ抜いて、なにもかも、まとめて、部屋の片隅に突っ込んでおくことにします。そこへ、上手に隠しておけば、用もないのに、忘れてしまっているはずの時代のことを、思い出しはしないでしょう。そうしてから、私は、早速にも、大きな手|桶《おけ》と箒《ほうき》とを持ち出して、歯を食いしばりながらも、仕事にかかる心算《つもり》です。でも、そのまえに、あなたには、どうしても、一切合財を話ししておかずにはいられなかったのです。どうせあなたは、独力だと、今でも、こうしたことすら、分からずじまいでいたでしょうから、この私があなたから、どんなにひどい扱いを受け、どんなに不幸な目に合わされたかを、あなたに、一度、はっきりと知ってもらいたいと思ったのです。むろん、あなただって、この場合、悪用されていたにすぎませんが。
ペピの話は、すっかり終わっていた。彼女は、ほっと息を継ぎながら、眼と頬から数滴の涙をぬぐい去ると、うなずきながら、Kをじっと見詰めていた。それを見ると、いかにもこのようなことを言いたそうな様子であった。結局、私の不幸なんかは、問題じゃないんです。私は、それに耐えていくだけです。そのためには、他人の助けや慰めは、要りません。ましてや、あなたの助けや慰めなど、無用です。私は、この若さでも、人生というものを知っていますし、このたびの不幸も、そうした私の知識を裏書きしてくれたにすぎません。しかし、問題は、あなたなのです。私は、あなたの眼のまえに、あなた自身の姿を突きつけてあげたかったのです。私の希望という希望が、すっかり、挫折してしまったあとでも、これだけはしておく必要があると思ったのです、と。
「君は、なんと取り留めもない空想をしているんだ、ペピ」と、Kは言った、「だって、君が、今になって、初めて、そうした一部始終を発見したというのは、本当じゃないよ。それは、ほかでもない、下の、君らの、暗くて狭い、女中部屋から持ち越して来た夢想にすぎないさ。そうした夢想も、あすこだと、似つかわしいが、ここの広々とした酒場では、奇妙に見えるだけだ。そんな考えを抱いていたからこそ、君は、ここで、君の地位を維持できなかったのさ。そりゃ、至極当然のことだよ。その君の服にしたって、調髪にしたって、君は、ひどく、自慢しているが、君らの女中部屋の、あの暗がりとあのベッドのなかでの産物にすぎないね。あすこで見れば、確かに、ひどく美しいが、ここじゃ、しかし、人前であろうと、陰であろうと、だれしも、笑い種《ぐさ》にしているよ。そのほかに、君の話というのは、なんだったかな。そう、そう、僕が悪用され、瞞されているとか。そんなことはないさ、ペピ、僕は、君と同じように、悪用されてもいなければ、瞞されてもいないよ。フリーダが、目下のところ、僕を置き去りにしているとか、あるいは、君の表現を用いると、助手のひとりと一緒に、ずらかっているというのは、間違いない。君にも、真実の一抹《いちまつ》の光くらいは、見えるようだ。それにまた、フリーダが、今後、僕の妻になるようなことも、実のところ、先ずあるまいね。しかしだよ、僕が、フリーダに嫌気が差していたろうとか、早速、翌日には、彼女を追い出していたろうとか、あるいは、おそらく、妻が夫を瞞すのが、世の常だろうし、御多分に洩れず、フリーダも僕を瞞していたとか言うのは、真っ赤な空言《そらごと》さ。君たち、客室係の女中は、鍵穴をのぞいてスパイするのが癖になっているだけに、実際には、針ほどの小さなものをしか、目で見てないのに、それから、棒大に、しかも、偽って、全体を推論するという考え方が、抜けないのだ。その結果、僕が、例えば、この場合でも、君よりはるかに物を知らないことになってしまう訳だ。僕は、フリーダが、どうして、僕を見捨てたか、その理由を、君ほど詳細には、とても説明できやしない。最も実《まこと》しやかな説明と言えば、君も、ちょっと触れてはいたものの、十分には取り上げてなかったが、僕がフリーダをほったらかして置いたと言うことだ。これは、残念ながら、真実さ。僕は、確かに、彼女をほったらかしてきた。しかし、それには、特別な理由があったのだ。それを、今、ここで、言うのはまずいがね。僕は、彼女が僕の許へ帰って来てくれたら、きっと、喜んだろうが、すぐまた、彼女をほったらかしはじめるだろうな。まあ、そう言った具合なのさ。僕は、彼女が僕のところにいたからこそ、君からも嘲笑されたが、絶えず、ほっつき回っていたのさ。彼女がいなくなった今となっては、僕は、ほとんど、手持ち無沙汰で、からだもだるく、この上は、ますます暇になって、完全に、する仕事がなくなってほしいと、願っているくらいだ。これじゃ、僕につける薬はないだろうね、ペピ」
「いいえ」と、ぺピは、急に元気づきながら、Kの肩を掴んで、言った、「私たちは、ともに、だまされた者同士よ。このまま、同居しましょう。さあ、一緒に、下の女中たちのところへ行きましょう」
「君が、だまされたなどと言って、愚痴をこぼしている限りは、僕は、君と折り合うことができないね。君が、絶えず、だまされた、だまされたと、言い通しているのは、そのほうが君には悪い気がしないからだし、また、感無量だろうからね。だが、真実は、君がこの地位に不向きだということだよ。君の意見によれば、物を知らないにも程がある、この僕だって、ちゃんと、見抜いている以上、君の不向きは、だれの眼にも、至極明白なことに違いないよ。君は、気のいい娘さんさ、ペピ。だが、その点を見分けるのは、そう生易しいことじゃないんだ。例えば、僕だって、君を、最初は、非情で高慢な女だと思ったくらいだしね。ところが、君は、けっして、そんな女じゃない。実は、ここの地位が君の頭を混乱させているにすぎないのだ。と言うのも、君がこの地位に不向きだからさ。僕は、なにも、この地位が君にとって高すぎるなどと、言う心算はない。だって、特別な地位じゃないものね。あるいは、よくよく見れば、君の以前の地位よりか、いくらか、名誉職らしいかもしれないが、しかし、全体から見れば、そこの相違は、大したものではない。むしろ、双方は、取り違える恐れがあるくらいに、よく似通っているくらいだ。それどころか、酒場に勤めるよりも、客室係の女中でいるほうが、ましだと、主張してもいいほどだ。と言うのも、あちらだと、いつも、秘書たちばかりのなかにいる訳だが、それにひきかえ、ここにいると、ここの別室にござる秘書連中の上役たちの給仕をさせてもらえるにしても、また、例えば、この僕のように、非常に身分の低い庶民をも相手にしなくちゃならないからね。僕は、法規上、ここの酒場以外のところに留《とど》まっていることを許されない人間だが、そんな僕と付き合う可能性があるからと言って、それが、はたして、それほど、途方もなく名誉なことだろうか。
ところが、君には、どうも、そのように思えるらしいな。たぶん、それにはそれなりの理由が、君にも、あるのだろう。ところが、それだからこそ、君は、不向きなのだ。酒場勤めなんて、別に、これと言って、かわり映えのしない地位さ。ところが、君には、これが天国なんだな。その結果、君は、なにを手掛けるにも、法外な熱の入れようで、君の意見だと、天使らの出《い》で立ちそっくりに、身を飾り――ところが、天使たちは、実のところ、そんなものじゃないんだが――折角の地位を失いはすまいかと、戦々|兢々《きょうきょう》として、絶えず、被害妄想に陥りながら、突拍子もない愛嬌をやたらに振りまくことにより、自分を支持してくれるかもしれないと思った人々を、すべて、味方に付けようとして、却って、そのために、相手に煩《うるさ》がられ、相手の反感をも買っているのだ。だって、酒場へ来た客たちは、心の安らぎを求めているのであって、自分の心配事のうえに、酒場娘の心配事をまでも背負い込まされては、たまったものじゃないからね。ただ、フリーダが去った直後、身分の高い客たちのうちで、この出来事に気づいた人は、だれひとりとして、いなかったかもしれないが、今日では、しかし、そうした人たちも、この件を耳にしていて、本当に、しきりとフリーダを恋しがっているのだ。と言うのも、フリーダは、なにをするにしても、君とは全くやり方が違っていたらしいからね。フリーダが、たとい、ほかの点では、どうであれ、また、自分の地位をどんなに買い被《かぶ》っていたにせよ、勤務にかけては、経験豊かだし、冷静で、沈着だった。この点は、君自身だって、称揚しているところだ。もっとも、君のほうは、むろん、こうした教訓がありながら、なにひとつ、それを生かしてないがね。君は、彼女の目つきに注意したことがあるかい。あれは、もはや、酒場娘の目つきではなくなっていた。あれは、ほとんど、女将の目つきに近くなっていた。彼女は、並み居る客たちのすべてを、一望のうちに、見渡すとともに、個々の客にも、洩れなく、眼を配っていた。しかも、彼女が序《ついで》に個々の客へくれていた眼差しでさえも、相手を畏服させるに足るだけの威力を具えていたのだ。彼女は、すこしばかり痩《や》せぎすで、若盛りを過ぎていたかもしれないが、そんなことが、はたして、どこまで重要なのだろうか。もっと房々した髪だって想像できると言ったって、そんなことは、彼女が、実際に、持っていたものと比べたら、取るに足らないことなんだ。こんな欠点を見て、不愉快を覚える人があったら、その人こそ、もっと立派なものにたいするセンスが欠けていることを、自ら、立証しているにすぎないさ。この点では、確かに、クラムは、非の打ちどころがないね。フリーダにたいするクラムの愛を、君が、信じられないのは、若い、未経験な娘にありがちな、間違った視角のせいだよ。クラムは、君には――そして、これは、無理ないことだが――手の届かない存在に思えるらしい。それゆえ、君は、フリーダだって、クラムに近づけはしなかったはずだと、思い込んでいるのさ。君の思い違いだよ。僕は、それにたいして、絶対確実と言える証拠を持ち合わせてなかったとしても、その点では、しかし、フリーダの言葉だけを信用したいね。君には、とても信じ難いことのように思われるかもしれないが、そしてまた、世間や官界についての君の観念とか、女性の美しさが持つ気品や効能についての君の観念とかと、これが、矛盾するように思われるかもしれないが、しかし、これは、真実なんだ。僕たちが、今ここで、寄り添って腰を掛け、僕の両手に君の手を挟み込んでいるのと同じように、クラムとフリーダも、それが、この世の最も自明なことであるかのように、寄り添ってすわっていたのだよ。しかも、クラムは、自分から進んで、下へ降りて来た。それどころか、急ぎ足で降りてさえ来た。だれも、ほかの仕事をほったらかして、回廊で彼を待ち伏せしている者なんか、いなかった。クラムは、わざわざ工面してでも、降りて来ずにはいられなかったのだ。フリーダの服の欠点にしても、君は、肝《きも》を潰《つぶ》したそうだが、クラムは、すこしも、意に介さなかった。だのに、君は、フリーダの言葉を信じようとしないんだね。君は、それで、君の弱点をさらけだし、紛れもなく、君の未経験ぶりを露呈しているのが、自分でも分からないのさ。クラムとの関係を、からっきし、耳にしたことがないような人でさえも、フリーダの人柄を見れば、君とか、僕とか、村の全住民とかよりも、ずっと偉い人物が、あのような人柄を作ったということ、彼女の談笑にしても、客と酒場女とのあいだで、普通に、交わされているような、君の生涯の目標でもあるらしい、ああした冗談話の域を、はるかに、越えていたということに、きっと、気づくに違いない。だが、こんなことを言っては、君に酷《むご》いかもしれない。確かに、君自身にしても、フリーダの長所を非常によく見抜いて、彼女の観察眼、彼女の決断力、人々に及ぼす彼女の影響力には、気づいているのだからね。ただ、君は、言うまでもないことだが、万事を間違って解しているにすぎない。そして、フリーダが、こうした一切の長所を、利己的に、自分の利益を図るためと悪事を働くために、時によっては、君にたいする武器としてさえも、役立てていると、ひとり思い込んでいるのだ。違うよ、ペピ、たとい、彼女が、そのような矢種《やだね》を持っているとしても、こんなに近距離では、射るにも射られないじゃないか。それに、はたして、利己的と言えるだろうか。むしろ、フリーダは、自分の持っているものはおろか、いずれ持てる見込のあるものをも犠牲にしてまで、僕らが、より高い地位で、真価を示せる機会を、僕らに与えてくれたにもかかわらず、僕たちふたりが、彼女を失望させたばかりに、彼女としても、余儀なく、ここへ舞い戻らざるを得なくなったと、言ったほうがいいのではあるまいか。僕は、それが事実にぴったりかどうか、分からないし、また、僕の罪がどのへんにあるかも、僕には、明確でない。ただ、僕は、自分と君とを比べるとき、次のようなことが念頭に浮かんで来るのさ。つまり、僕たちふたりは、例えば、フリーダのような平静さ、フリーダのような要領よさがありさえすれば、難なく、人目につかずに、手に入れられるものを、あまりにも未熟で、あまりにも未経験なばかりに、あまりにも騒々しく、泣いたり、引っ掻いたり、引っ張ったりして、手に入れようとして、あまりにもやきもきと、むだ骨を折っているように、思えるのさ――ちょうど、幼児がテーブル掛けを引っ張っても、なんにも、ありつけないどころか、テーブルのうえに並べた豪勢な御馳走をさえも、そっくり、床《ゆか》にひっくり返してしまって、永久に、食べられないものにするのと、似ているよ――。僕は、それが事実にぴったりかどうかは、分からないが、君の話よりも事実に近いということだけは、確信があるね」
「あら、そうなの」と、ペピは言った、「あなたは、フリーダに出奔されたので、フリーダにぞっこんまいった訳ね。逃げた女に惚れ込むのは、よくあることだわ。でも、あなたの言葉どおりかもしれませんし、あらゆる点で、私を茶化している点でも、あなたが、正しいのかもしれませんが、それにしても、あなたは、今後、どうするお心算なの。フリーダは、あなたを捨てて行きました。私の解釈に従っても、また、あなたの解釈に従っても、彼女があなたの許へ戻る希《のぞ》みは、皆無ですわ。それに、もしも万が一、彼女が戻って来るようなことがあるとしても、あなたは、そのときまでのあいだを、どこかで、過ごさねばなりません。寒い季節なのに、あなたは、仕事もなければ、ベッドもないんでしょう。私たちのところへいらっしゃい。私の朋輩たちも、きっと、あなたの気に入ると思います。私たちが、心を合わせて、居心地よくしてあげます。あなたは、女手だけでは、本当に、こなしきれない、面倒な仕事を、手伝ってくれればいいのです。そうすれば、私たち、女連中も、自分たちだけを頼りにしなくとも済みますし、夜分に、不安に苦しむこともなくなるでしょう。私たちのところへおいでなさいな。私の朋輩たちも、フリーダとは見知り合いなの。私たちで、あなたがうんざりするまで、フリーダの話を聞かせてあげますわ。とにかく、いらっしゃい。私たちは、フリーダのいろんな写真も持っていますし、それもあなたに見せてあげましょう。あのころのフリーダは、今よりも、ずっと控え目でしたわ。あなただって、フリーダだと、ほとんど、見分けがつかないでしょうよ。精々、眼元で分かるくらいですわ。あのころから、もう、探るような目つきでしたものね。さあ、それでは、来てくださるでしょうね」
「そんなことをして、差し支えないのかい。僕が君らの廊下にいるところを取っ捉《つか》まえられて、大きなスキャンダルになったのは、まだ、きのうのことじゃないか」
「それは、あなたが捉まえられたからよ。でも、私たちのところにいれば、捉まえられはしませんわ。だれも、あなたのことを知りようがありませんもの。知っているのは、私たち、三人だけ。ああ、楽しくなるわ。思っただけでも、あすこでの生活が、つい今しがたよりも、私には、ずっと、ずっと、凌ぎやすいような気がしてきたわ。どうやら、今となっては、ここから出て行かねばならないからと言って、そう大した損でもないように思えるの。ねえ、あなた、私たちは、三人で暮らしていても、退屈したことなんか、一度もなくってよ。だれしも、苦い人生を、自分の力で、甘くしないといけませんもの。私たちの人生は、年端《としは》もいかぬころから、もう苦いものになっていました。今、私たち、三人は、しっかと結び付いて、あすこでできる限りの結構な暮らしをしていますの。とりわけ、ヘンリエッテは、あなたの心に適《かな》うでしょう。それに、エミーリエにしてもね。私は、ふたりに、あなたのことを話しておきました。あすこでは、このような話をしても、空言としか、聞いてはくれないのです。まるで、あの部屋のそとでは、何事も、起こりようがないと、言わんばかりなの。あすこは、暖かくて、狭いし、そこへ私たちが入れば、なおのこと、すし詰めの窮屈さになってしまいます。でもね、私たちは、互いだけが頼りですが、しかし、相手に嫌気が差したことは、一度だって、ありませんわ。いや、それどころか、逆に、私は、あの朋輩たちのことを思うと、あすこへ、もう一度、帰って行くのが、私には、ほとんど理の当然のような気さえするの。どこに、私だけが、あの人たちを置いて、出世せねばならぬ理由があるのでしょう。私たちが、しっかと、ひとつに結び付くことができたのも、元はと言えば、私たち、三人とも、同じように、将来への道が閉ざされていたからですもの。だのに、私ひとりが、その閉鎖を破って出て、あの人たちと袂《たもと》を分かってしまったのでした。むろん、私は、ふたりのことを忘れていた訳ではありません。どうすれば、あの人たちのためになることをしてあげられるかというのが、私の差し当たっての思案だったくらいです。私自身の地位が、まだ、あやふやだったのに――どれほどあやふやだったかは、当時、分からなかったものですから――早くも、私は、ヘンリエッテとエミーリエのことで、御主人と掛け合う始末でした。ヘンリエッテのことでは、御主人は、さして頑固ではありませんでしたが、私たちよりずっと年長のエミーリエのこととなると、フリーダと、ほぼ、同年輩だったものですし、御主人も、むろん、けんもほろろの返事でした。でも、まあ、考えても御覧なさい、あの人たちったら、あすこを出たいとは、毛頭、思ってないんです。あすこで営んでいる生活が、惨めなものであると、知りながらも、もう、順応しきっているのです。なんと、善良な人たちでしょう。あの人たちは、別れ際に、涙を流してくれましたが、その涙の大半は、共同の部屋を立ち去らねばならなくなって、私が、寒々とした世界へ出て行き――あすこにいますと、あの部屋のそとにあるものは、すべて、寒々としたものに、思えるのです――だだっ広い、なじめない部屋部屋で、見も知らぬ、立派な方々を相手に、骨身を削る毎日を送らねばならない身となったことを、きっと、悲しんでくれての涙だと、思ってますわ。そこまで辛苦する目的と言えば、ほかでもなく、ただ、命をつなぐためだけですもの。それくらいなら、これまで、共同生活でだって、やれていたことですわ。あの人たちは、今、私が帰って行っても、たぶん、すこしも驚かないでしょう。ただ、私を迎え入れてくれるしるしに、すこしばかり、涙を流して、私の運命を嘆いてくれるでしょう。でも、そのとき、あなたを見たら、私があすこを去ったのが、やはり、よかったことに、気づいてくれるでしょう。そして、私たちに、今や、助手《すけて》であり、後見人でもある、男性ができたことで、大喜びするでしょう。しかもすべてを秘密にしておかねばならず、その秘密を守ることによって、私たちが、以前よりも、もっと緊密に結ばれるとあっては、それこそ手の舞い足の踏むところをさえも知らないでしょう。ねえ、いらっしゃいよ、後生ですから、私たちのところへ来てちょうだい。あなたには、なにも、義務というものがありません。それに、あなたは、私たちのように、永久に、私たちの部屋へ縛り付けられてなくていいのです。そのうちに、春になって、どこかほかに、お宿でも見つかり、私たちのところがお気に入らなくなったら、出て行ってくださればいいのです。ただ、そのときでも、むろん、秘密だけは守ってくださって、私たちを裏切るようなことのないようにしてほしいの。でないと、私たちが、即刻、貴紳閣からお払い箱になるからよ。それにまた、あなたは、私たちのところにいる限りは、むろん、用心深くして、私たちが安全と見なさないところへは、けっして、顔を出さないようにし、ともかく、私たちの忠告には、ぜひとも、従ってくれないといけないの。これが、あなたを拘束する唯一の条件よ。このことは、あなたにとっても、私たちにとっても、同じように、大切ですものね。でも、それ以外のことでは、あなたは、完全に自由だわ。私たちがあなたに分担してもらう仕事にしても、大して重労働でもないでしょうし、そのほうは、心配しなくっていいわ。では、来てくださるわね」
「春まで、まだ、どれくらいあるのかな」と、Kは尋ねた。
「春までですって」と、ペピは問い返した、「ここは、冬が長いの。とても長い冬で、しかも、単調なの。でも、私たちは、下の部屋にいて、それを愚痴《ぐち》ったことなんかないわ。冬にたいしては、万全の備えがしてあるんですもの。まあ、そのうちに、いつかは、春が来て、夏も来ますわ。何事にも、時機というものがありますしね。でも、今、思い出してみると、春も、夏も、とても短くて、二日余りで済んでしまったような気がしますわ。しかも、その数日間だって、とても快晴な日だと思っていると、急に、雪が降ったりすることだってあるのです」
その途端に、ドアが開いた。ペピは、ぎくっとした。考えごとに気を取られて、酒場にいることをとっくに失念していたのだった。しかし、現れたのは、フリーダでなかった。ここの女房だった。彼女は、Kがまだここにいるのを見て、びっくりしたふりをした。Kは、女将さんを待っていたのです、と言って弁解すると同時に、ここへ泊まることを許してもらえたことにたいして、礼を述べた。女将は、Kが、どうして、自分を待っていたのか、解せないようだった。Kは、女将さんがまだ僕とお話なさりたいように、感じたものですから、と言った。そして、さらに言葉を続けて、勘違いでしたら、どうか、お許し願います。とにかく、僕は、むろん、もう帰らねばなりません。小使の分際で、あまりにも長時間、勤め先の学校をほったらかしにしておいたものですから。何事も、きのうの呼び出しのせいですよ。僕は、こういうことには、未経験でしてね。でも、女将さんにきのうのような迷惑をかけることは、今後は、きっと、しないようにいたします。そう言って、Kは、立ち去るために、お辞儀をした。女房は、夢見るような眼差しで、Kをじっと見詰めていた。その眼差しに引き留められて、Kは、心ならずも、その場に長く立ち尽くしていた。今や、女房は、さらにちらと、微笑《ほほえ》みをさえも浮かべたが、Kの呆気《あっけ》にとられた顔に気づくと、やっと、いくらか、夢から醒めたようであった。いかにも、折角、微笑みまで浮かべて、それにたいする返事を待ち受けていたのに、いつになっても、返事がないので、今、やっと、眼が醒めた、と言わんばかりの様子であった。
「あなたは、確か、きのう、厚かましくも、わたしの服のことを、とやかく、言いましたわね」Kは思い出せなかった。「思い出せないのですか。それじゃ、厚かましさのあとでは、臆病風を吹かすのが一番と言う訳ね」
Kは、きのうはひどく疲れていたものですから、と言い訳した。きのう、なにか、口が辷《すべ》ったということは、結構、あり得ることですが、いずれにせよ、もう覚えていません。女将さんの服のことで、僕なんぞに、なにが言えたんでしょうね。これまで、ついぞ、見たこともないほど、美しい服だとでも、言ったんでしょうか。すくなくとも、僕は、いまだかつて、宿の女将が、あのような服を着て、仕事をしているところなんか、見たことがありませんよ。
「そんな御託は止《や》めてちょうだい」と、女房は、口早に、言った。「服のことで、あなたから、もう一言も、言ってもらいたくないの。わたしの服なんか、気にしなくっていいじゃありませんか。金輪際、お断りだわ」Kは、もう一度、お辞儀をして、ドアのほうへ向かった。
「あんな服を着て、仕事をしている女将を見掛けたことがないとは、一体、どういう意味なの」と、女房は、Kの背後から、叫びかけた、「そんな無意味な御託なんか、なんの必要があるんです。だって、からっきし、無意味じゃありませんか。そんな御託を並べて、本心は、なにを言いたいんです」
Kは、振り返って、まあ、そんなに気を立てないでください、と相手に頼んだ。むろん、さっき言ったことに、なんの意味もありません。それに、僕は、衣服のことは、さっぱり、分かりません。僕のような境遇の者には、継ぎの当たってない、小綺麗な服でありさえすれば、すべて、高価なように見えるのです。ただ、僕は、あなたが、夜中に、ろくすっぽ、着るものも着てないような男たちばかりのいる、あすこの廊下へ、あの美しいイブニングドレス姿で、立ち現れたのを見て、唖然《あぜん》としたにすぎません。それだけのことです。
「それでは」と、女房は言った、「やっと、あなたは、きのうの言葉を思い出されたようね。そして、さらに無意味な言葉を付け足すことによって、自説を完璧なものにしようとしている訳ね。あなたが衣服のことは分からないと言うのは、本当だわ。しかし、それなら――この点は、本気で、お願いしておいたつもりですが――、高価な服がどうとか、あるいは、不似合いなイブニングドレスとか、なんとかがどうだとかと、扱《こ》き下ろすのを、お止めなさい・・・そもそも」――ここまで言ったとき、なんだか、悪寒のようなものが、ぞっと、彼女の背筋を走ったかのようであった――「あなたは、わたしの服のことなんかで、気を揉《も》む必要なんかないのよ。いいこと」そこで、Kが、再び向きを変えて、立ち去りかけようとすると、「あなたは、一体、どこで、服についての知識を仕入れて来たの」と、女房は尋ねた。Kは、そんな知識は持ち合わせてない、と言うかわりに、肩をすくめて見せた。「それじゃ、なにも知らないのね」と、女房は言った、「それじゃ、大きな顔をして、知ったかぶりをするのは、止《よ》すことよ。向こうの帳場へいらっしゃい。あなたに見せたいものがあるの。それを見たら、あなたは、おそらく、その厚かましい減らず口を永久に止めるでしょうよ」
女房が先に立って、ドアを出て行った。ペピは、Kから勘定を貰うことを口実にして、Kのそばへ駆け寄った。ふたりは、素早く、示し合わせた。Kが中庭の勝手を知っていたので、事は、きわめて簡単であった。中庭には、横町へ出る門があるが、その門のわきに、小さなくぐり戸がついている。そのくぐり戸の内側で、物の一時間もすれば、ペピが、立って待っていて、三度、ノックすれば、そのくぐり戸を開けるという仕組みであった。
帳場というのは、私室で、酒場の向かいにあった。玄関の間《ま》をよぎりさえすれば、よかった。すでに明かりを点《とも》した帳場のなかに、女房が立って、もどかしそうに、Kを待ち受けていた。ところが、いざとなって、またひとつ、邪魔が入った。ゲルステッカーが、玄関のところで、ずっと、待っていたらしく、Kを見て、話したいことがあると言った。ゲルステッカーを振り切るのは、容易なことではなかった。女房までも加勢に来てくれ、ゲルステッカーを、しつこいと言って、叱りつけた。「一体、どこへ行きなさるんです、どこへ」と、ドアが閉まってからも、まだ、ゲルステッカーの叫ぶ声が聞こえていた。そのうちに、嘆息と咳とのまじった声になって、ひどく耳にさわった。
帳場は、暖房のききすぎた、小間《こま》だった。狭いほうの壁際には、立ち机と鉄製の金庫とが置いてあり、長いほうの壁際には、衣裳|箪笥《だんす》とトルコふう長椅子とが置いてあった。部屋の大部分を、衣裳箪笥が、占めていた。長いほうの壁を、一面に、塞《ふさ》いでいただけではない。箪笥の奥行が深いので、部屋をひどく狭苦しくしていた。箪笥をすっかり開けるには、三枚の引き戸が必要だった。女房は、長椅子を指差して、Kに掛けるように、勧めた。そして、自分は、立ち机のそばの回転椅子に、腰を下ろした。
「お仕立てを習ったことがありませんの」と、女房は尋ねた。「ええ、一度も」と、Kは答えた。「では、一体、なにが御職業なの」「測量師です」「それ、一体、どんなことをするの」Kは説明した。しかし、その説明は、相手にあくびを催させただけであった。「また、本当のことを言わないのね。あなたったら、どうして、そんなに本当のことを、言わないの」「あなただって、本当のことを言ってないじゃありませんか」「わたしがですって。またぞろ、あなたは、厚かましい減らず口をききはじめましたわね。たとい、わたしが、本当のことを言わなかったとしても――一体、あなたにたいして、弁明しなければならないという法でもあるのでしょうか。それに、どのような点で、わたしが、本当のことを言ってないと、おっしゃるの」「あなたは、自分では、女将と称していますが、単なる女将さんじゃありませんもの」「まあ、驚いた。あなたのお頭《つむ》は、いろいろな発見で一杯なのね。それじゃ、わたしは、ほかに、なんだと言うの。あなたの厚かましい減らず口も、もうここまで来ると、確かに、図に乗って来たようね」「僕は、あなたが、女将さん以外に、なんであるのかは、知りません。ただ、僕に分かっているのは、あなたが、女将さんでありながら、女将にはふさわしくない服を着ているということだけですよ。現に、僕の知っている限り、当村で、そのような服を着ている人は、ほかにいませんしね」「それでは、いよいよ、本論に立ち入る訳ね。あなたは、黙っていることのできない質《たち》なのね。どうやら、あなたは、根っから、厚かましい人ではなさそうだわ。なにか、愚にもつかないことを知っていると、どうしても、それを口に出さずにはおれない、ほんの子供みたいなだけなのね。では、言ってちょうだい。こうした服のどこが変なの」「それを言ったら、あなたは、気を悪くなさるでしょう」「いいえ、聞いたら、吹き出すかもしれませんわ。どうせ、子供らしいお喋りでしょうからね。では、これらの服は、どうなんです」「どうしても知りたいと、おっしゃるのですね。そりゃ、上等の服地を使ってあって、確かに、高価なものですよ。でも、時代後れで、ごてごてと飾りが多すぎ、何度も仕立て直しをしたうえに、着古してあって、あなたの今の年頃にも、あなたのからだつきにも、また、あなたの地位にも、合いませんね。あれは、ざっと、一週間まえでしたか、ここの玄関で、初めて、あなたにお会いしたときに、すぐ、僕の眼についていたんです」「となると、一大事だわ。時代後れで、ごてごてと飾りが多すぎて、それからほかに、一体、なんでしたかしら。それにしても、どこから、そんなことを聞きかじって来たの」「見れば、分かることです。それくらいのことに、なんの知識も要《い》りません」「あなたは、難なく、見抜いてしまうのね。だれに問い合わせるまでもなく、流行が求めているものが、即座に、ちゃんと分かるのね。となると、あなたは、わたしにとって、なくてはならない人になりそうだわ。だって、わたしときたら、美しい服には目がないの。ところで、この箪笥が服で一杯だと知ったら、あなたは、なんと言うかしら」
彼女は、引き戸を押し開けた。箪笥の横幅と奥行一杯に、透き間もなく、服がぎっしりと詰まっていた。大半は、暗色の、灰色や褐色や黒色の服で、どれもこれも、丁寧に広げて、吊《つる》してあった。
「これがわたしの服よ。どれもこれも、あなたの御意見のように、時代後れで、ごてごてと飾りがつきすぎてますけれどもね。でも、ここにあるのは、二階のわたしの部屋に置ききれない服ばかりなの。二階にも、二|棹《さお》の箪笥に、一杯あるわ。二棹とも、これとほとんど同じくらいの大きさよ。どお、びっくりなさって」「いいえこれくらいのことは予期していましたよ。さっき、あなたは単なる女将さんじゃないと、申したでしょう。あなたには、なにか、ほかの狙いがある」「わたしの狙いは、美しく着飾ることだけです。あなたは、ばかか、子供か、それとも、非常に悪質な危険人物だわ。帰ってちょうだい、さあ、とっとと、帰ってちょうだい」Kは、すでに、玄関のところまで来ていた。ゲルステッカーが、またもや、彼の袖《そで》口を掴んで、引き留めたとき、女房が、彼のあとから、叫びかけた、「あすになると、新しい服が届くの。もしかすると、あなたを呼びにやるかもしれないわ」(完)
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解説
プラハ生まれのフランツ・カフカ(一八八三〜一九二四)の文学は、この道を志す若い世代にとって、最も学びにくい典型のひとつとされている。今世紀の小説作家で、彼ほど、たんに文学の領域からのみでなく、哲学、神学、心理学、社会学などの各領域からも、対決の対象とされた例は、きわめて珍しい。彼の文学にたいする解釈は、文字どおり百人百説に分かれて、いまだに尽きるところを知らない。それほど、彼の文学は、多大の問題性をはらんでいるのである。にもかかわらず、彼の書が重ねて来た版数は、死後ますます高まって行く世界的文名にひきかえて、意外に少ないのである。その辺からも、すでに彼の作品の特異性がうかがわれよう。
カフカが友人マクス・ブロートに、日記と原稿とを問わず彼の書き遺したものすべてを残りなく焼却してくれるように、依頼していたことは、ブロートに宛てた書簡からも明らかである。現に彼は、死の前年に見出した伴侶ドーラ・ディアマントの手で、彼が過ごした最後の冬に、原稿を眼前で焼却させているのである。
そうした態度は、なにも晩年に始まったわけではない。一九一七年の日記にも、「すべてを破棄」なる文句が見られるのである。なぜに、彼は、そこまで自作を否定せねばならなかったのだろうか。あるいは、一九一二年の日記が「きょう、気に入らぬ旧稿を多数焼き棄てた」とすでに記していたように、作品の完璧性にたいする要求度がきわめて高く、そうした反省が彼をしてかかる行為を取らせたのであろうか。そうかもしれぬ。ただ、ここで注意すべきは、従来の小説作法による完結性をもって彼が完璧性とは考えてないことである。完璧性と未完の断片性とは、彼にとって、かならずしも相矛盾する概念ではない。いや、むしろ、未完の断片性こそ、なんの妥協もなしに赤裸々な人間の絶望的な全行動を追求し、現存在のはかない推移を呈示しようとする、彼の文学の必然的な帰結にほかならぬとも言えるのである。
いずれにせよ、彼の作品は、読者を意識して書かれたものではない。彼の疎外された生の「きわめて私的な記録」にすぎないのである。『変身』の原稿で、主人公ザムザの名が時に誤ってカフカと記されていた事実によって、この「私的」なる言葉の意味がいかなるものか、およそ察知できるにちがいない。また『城』においても、初め「僕」なる人物を主人公として一人称形式で執筆されていたのを、やがて稿が進むにつれて、作者は「僕」を「彼」に変え、Kを主人公とする三人称形式にすべて書き改めてしまったのである。このことは、疑いもなく、主人公と作家との一致を意味する。つまり、作品のなかに展開されて行く世界とそこに登場する人物は、主として、主人公の眼で見られ、主人公の頭で判断されて、主人公の言動を誘発するのである。そもそも叙事文学では、すべての事件の終わってしまった時点において、作者の執筆が始められるのが通例であり、従って、作者は、全知である。つまり、主人公の重ねて来た一切の経験をすでに知悉《ちしつ》しているわけである。
ところが、カフカの技法は、違う。物語の世界は、過去のものではなく、未来に置かれるのである。すなわち、作者は、事件の発端に立って、物語を始める。その瞬間には、主人公の遭遇した諸事件は、ことごとく止揚され、すべて元に戻されているのである。換言すれば、作者は、主人公とともに、事件の原点に立って、歩みを共にしながら、未知の世界にはいって行くのである。主人公の可知、不可知が、そのまま、作者の可知、不可知である。しかも、三人称形式で語るために、作者は、ある程度まで、遠近法的視界を拡大することができるのである。これが、とりわけ、カフカの三大長篇に顕著に見られる、共通の特徴である。それゆえ、「私的」とは言っても、彼の綴ったものは、彼の単なる体験告白ではない。カフカは、後半生を宿痾《しゅくあ》に悩まされはしたものの、外見的には、大した波乱もなく、保険局の一役人として、かなり平穏な短い生涯を終えているのである。彼の場合、体験は、後に述べるように、観察である。
「僕が書くのを神が望まなくとも、僕は、しかし、書かねばならぬ」と、すでに一九〇二年、友人オスカー・ポラックヘの手紙で書いていたように、書くことが彼の唯一の欲求だった。たとい不眠と頭痛に悩まされようと、彼は、書かざるを得ない。書かなければ、「僕の生活は、むしろ、はるかに悪化して、全く耐えがたいものとなり、果ては狂気で終わるにちがいない」と、晩年にもブロートに洩らしているように、書くことは、彼にとって、不安を克服するための、生を保持して行くための、現存在を確認するための、唯一の道であった。文学は「常に真実を求めての探検」にほかならず、「この地上での最も大切な事柄」だった。「僕は、文学以外のなにものでもないし、それ以外のものになりようもなく、また、なりたいとも思わない」「文学でないものは、すべて、僕を退屈させる。僕は、嫌いだ」
家庭生活も、職業も、彼には、副次的な意味しか持っていなかった。生沽を享楽する気持ちなど、微塵もなかった。ただ書くために、それへの妨害や撹乱をおそれて、書くために不可欠な孤独を守り抜くために、干渉的な周囲の一切を自己の世界から締め出しながら、自己の生活圏を出来うるかぎり狭《せば》めて行ったのである。
彼には、血縁にたいする情さえも、乏しくなりかけていた。それは、至難な内面操作であった。芸術は、犠牲を不可避とする点で、宗教的行為に通じるものがある。カフカは、自己の市民性を、彼自身にたいしても、彼の周囲にたいしても、残酷と思えるほどに未練なく犠牲にすることにより、自己の求めて止まぬものを文学によって見出したいと祈りつつ、筆を執ったのである。
彼の内部には、常に、こうした祈念があった。「祈りの形式として書くこと」――これがカフカの文学だった。だが、祈りは、所詮、祈りにすぎない。神は、どこにもいないのである。それゆえ、カフカの文学は、反復される徒労と挫折の神話として終わらざるを得ない。しかし、これこそが、ほかでもない、楽園を追放され、しかも、楽園に帰り得ない、性急な人類一般の呪われた運命である。カフカは、その意味で、ブロートヘの言葉のように、「人類の贖罪《しょくざい》山羊」にほかならないであろう。彼は、人々に、罪を無邪気に味わうことを、許すのである。
独身者の「狭く局限された生活圏は、純粋」である。かかる作家にあっては、しだいに退化して行く諸感覚のなかで、ただひとつ発達して行くのが、観察の感覚である。すなわち、非情なまでに鋭く研ぎ澄まされる眼である。彼は、「生きながら死んでいるがゆえに、余人より多く、余人とはちがうものを見る」ことができる。余人のように、先人主や偏見に囚われもしなければ、生半可な因習や感傷や情愛に惑わされもしない。彼は、家族にたいしても、アウトサイダー的な立場を取って、冷徹な観察を怠らないのである。あるいは、それは、『父への手紙』から推測されるように、強い生命力と名利心を健康な巨体にみなぎ脹らし、商魂たくましく社会的地位の向上に努めている父の無理解な家長的権威に圧倒されて、幼時から常に不安におびえて来た、繊細過敏な息子の「弱さ」の反動かもしれぬ。
もとより、観察は、他者にのみ向けられはしない。「僕がもしだれかから観察されているなら、僕も、むろん、自分を観察せねばならぬ。また、だれからも観察されてないなら、それだけいっそう精密に自分を観察せねばならぬ」観察は、同時にまた、分析である。こうして、絶えまなく、数々の観察と分析が蓄積されて行くうちに――それは、彼の日記が如実に示しているが――いつしか、彼の脳裏に、「途方もなく恐ろしい世界」が形成されるのである。それは、一般に現実と信じている世界とは全く別個の、厳密な計算と仮借ない論理とによって有機的に構築された世界である。そこにはなまなましい体験のかけらは微塵もない。人は、これを妄想と呼ぶかもしれぬ。しかし、作者にとって、「家族、役所、友人、街路こそ、すべてが空想」にすぎず、この悪夢のような不条理の世界こそ、欺瞞なき現実であり、真実にほかならぬのである。それほどに、カフカにとっては、実存と真実は、永遠に空ろな空間によって、隔絶されているのである。だからこそ作者は、辛くも作品の冒頭からいきなり、「アルキメデスの点」を用いて地軸を動かすごとくに、いわゆる現実にたいする視点をすっかり変えて、読者を、主人公とともに、いわゆる現実とは別個の不条理の世界へ導き入れるのである。
『城』は、三大長篇のうちで最も遅く、一九二二年の一月から九月へかけての執筆と一般に考えられているが、この成立年月は、同年五月中旬にこの作の冒頭をマクス・ブロートに朗読して聞かせている事実、および同年七月にブロートに宛て二通の手紙から主として推定されたものであって、かならずしもその根拠が確実とは断言できない。すくなくとも一九二〇年の晩秋以前に着手されたものでないことは明らかである。ところで、この言わば「悪魔崇拝にたいする代償」のごとき感じのする長篇について、どのように限られた紙数で説明すればいいか、途方に暮れざるを得ない。いずれにせよ、薄暗がりとか、暗がり、闇など、白日の世界とは全く反対の場面が、先の二大長篇においても、多用されているのが、特徴であったが、それが、この『城』においては、すでに冒頭からして、きわめて印象的である。
「Kが着いたときは、もう晩おそかった。村は深い雪に被われていた。城山はなにひとつ見えず、霧と闇とに包まれて、あの大きな城があることを暗になりとも伝えるような、どんなかすかな明かりすらなかった。長いあいだ、Kは、国道から村へ通ずる木の橋のうえに立ったまま、いまは虚空としか見えぬ前方をじっと見上げていた」
そしてこの冒頭のなかに、本篇の全問題性がすでに先取されているのである。Kは、村に宿を求めた途端に、早くも、村が、自分を受容しない、自分の反対世界であることを知る。その村の背後には、ヴェストヴェスト伯爵を戴き、村を隠然と支配する、ヒエラルキーとビュロークラティーの集合体のごとき城が控えているのである。とはいえ、それは、一般人が有する城の概念とはおよそかけ離れた、「城とは名ばかりの、ひなびた家々を寄せ集めてできた、いかにも見すぼらしい、ただの田舎町にすぎない」しかも、村と城とのあいだは、大きな距離によって引き離され、村民は、城の権威と意思を冷淡に軽視することによって、かえって城への忠実な生活を送っているわけである。そして、この小敵と大敵との二重構造とKとのあいだに、言わば村八分のごとき運命に苦しむバルナバス一家が介在する。これが、Kの描いた心理的透視図であるが、この作品を読み進むうちにおのずから分かるように、地理的には、村の街道は円形を描き、その円の中央に城山が位置し、その街道に沿うて、橋亭、学校と教会、貴紳閣、その他、各農家があって、城には、教会もないのに、教会の鐘らしい音が響くのである。こうした作品背景の原像となったものが、作者の生地プラハ、特にそこのフラッチャニ城、あるいは、一九一六年から一七年へかけての冬にカフカが住居した、城の近くの錬金術師小路などであると言う説があるが、如何とも決めがたい。
ところで、この作品で先ず問題となるのは、果たして、主人公が測量師として城から招請されたのかどうか、その真偽であり、さらにさかのぼれば、この田舎出の男がすでに土地測量を本職として来ていたかどうかさえも、怪しいのである。早くも村に着いたその晩、主人公は、城からの最初の電話回答によって、城からの任命がまったくのでたらめであることを暴露される。だが、二度目の電話回答によって、ようやく、「城は、やはり、自分を測量師に任命していたわけである」と、安心する。しかし、それとて、主人公の妄想にほかならないかもしれない。と言うのは、シュヴァルツァーの電話口での「それでは、間違いだったわけですか。私としては、まったく、不愉快ですよ。局長がじきじきに電話を掛けてこられたのですって。妙ですな。ほんとに妙ですよ。どんなふうに測量師さんに事の説明をしていいものやら」という受け答えのみを聞いて、そのように独り合点していたにすぎないからであった。シュヴァルツァーがなにを言い聞かせられているかは、Kに分からないままであった。そして翌日、Kの明言にもかかわらず、道具を持参して到着するはずの、K自身の助手たちは、一向に姿を現わさない。それどころか、Kの意思を完全無視して、城が無理強いに助手としてKに押しつけた、手ぶらの、測量の心得すらもまったく無い、ふたりの男を、彼は、「まあ、ともかく、はいれよ」と、そのまま受け入れるのである。この「呆れ返った手下ども」が、以後、絶えずKの足手まといとなって、Kの心身を消耗させ、Kの試みる企てを次から次へと挫折せしめるために、一役も二役も買うのである。作者がこの助手たちをひとえにそうした機能性において把えていることは、助手たちがKから解雇されると同時に、突如として容貌や挙動までも一変することからも、明白である。しかも、作者は、城の任命の真偽について、読者を曖昧な反対感情両立に誘い込むために、城からといわれる書簡を持ち出すのである。その文面中の「御承知のように」は、Kの妄想を一層強めるのに十分有効な文句であった。しかも、その末尾には、読み取りにくい署名に添えて、原文では、Das Vorstand der X. Kanzlei なる印が押されていることになっている。このXを、ローマ数字と解して、第十官庁と読めないこともない。しかし、作者の真意は、そのような狭義に取られることを欲しないで、もっと一般的に、特定の呼称をわざと伏せて、「某庁長官」と名乗らせなかったのであろう。そうすれば、一段と不確実性が増すのである。ところで、この書面がKの直属する上官として名指ししている村長が、この村には測量師など必要ないと、Kに断言するにいたっては、なおのことである。さらに奇怪なのは、学校の小使に成り下っているKのところへ、クラムからの書面として、届けられた、Kの測量の仕事と助手たちの働きぶりにたいする、署名のない、賞讃の言葉である。この書面の差出人は、文体から見て、「たえず貴下から眼を離さない」と告げた、第一の手紙の差出人と、紛れもなく、同人物である。賞讃は、明らかに、露骨な蔑視の表現にすぎない。しかも、それらの手紙の配達人であり、Kにとって、城との、つまり、クラムとの、唯一の公式な連絡役にほかならぬバルナバスが、Kに手渡したものは、やがてオルガの話で判明したところによれば、いずれも、ひどく古い手紙であり、バルナバス自身は、差出人が本当にクラムであるかどうかも知らないばかりか、クラムとKとのあいだの使者として自分が出入りしている官庁が、果たして、城の官庁であるかどうかすらも知らない。自分がまっとうな使者であることにさえも、自覚が持てないのである。
このような不条理な世界に活路を求めたKにとって、村での生活は、その第一夜から、すでに闘いであった。公式な職業人としての生活と非公式な私人としての生活との破綻のない一致を保証せしめるための、社会参加への権利を獲得するための、つまりは、自己主張の闘いである。そのため、Kは、城中に入って対決しようと幾たびとなく試みるのであるが、城にいたる道をさえも正確に発見することができない。城は、すぐ近くにありながら、Kが近づこうとすれば、遠くへ退いて行く。それは、冥界にあって、顎のあたりまで水に漬かりながら、頭上に垂れ下がっている美事な果実を掴もうとすれば、枝は遠のき、喉をうるおそうとすれば、水は引いて、永遠の飢渇に苦しまざるを得ない、あのタンタロスの神話を連想させる。Kの自己主張は、かくして、城に一指たりとも触れることなく、あえなく止揚されるのである。従って、『城』を、かの最初『審判』のなかの一挿話として書かれ、後に短篇集『村医者』(一九一九年刊)に『掟のまえで』と題し収められた小品と同主題と見る説があるが、ムード的には多少似通っていても、実は当らない。城は、神の掟と恩寵との所在ではない。そんな神聖な場ではない。いや、むしろ、すでに第一章での、Kと教師との対話において、Kが伯爵のことを口にしたときの教師の反応からも感知されるように、城の得体の知れぬ支配には、当初から、なんとなく、自堕落な、淫狸な臭いさえも付きまとっているのである。
城と城山は、やはり、迷宮《ラビリンス》と解すべきが妥当であろう。遠くエジプトやクレタ島に実在したと伝えられ、爾来ルネサンス、バロック時代を過ぎるころまで、人々の観念のなかに生きて来た、迷宮なるイメージの、カフカによる現代的再現である。オルガがバルナバスの城での経験として伝えるところの、奥知れず際限もなく連なる各事務室を仕切っている無数の棚は、疑いもなく、古来の迷宮のイメージと合致する。そして、Kは、その迷宮中の人物クラム――ペピの愁嘆を思い出していただきたい――と直談判するために、すくなくとも、クラムとの連絡の道を造るために、フリーダを征服する。すなわち、クラムの恋人だった女を自分の恋人とすることによって、自分の恋人の恋人だったクラムヘの足がかりにするというのが、Kの戦略である。主人公が女性を自己の道具として利用する点は、『審判』と軌を一にする。Kは、ハンスの母親をも、彼女が城の出であるがゆえに、狙うのである。ところで、フリーダがクラムから離れた瞬間に、彼女の外貌が一変して、彼女が別人のようになることは、人物の機能性がその性格づけに用いられていることの、明らかな証拠である。ひとり、あの城の戯画にひとしい助手たちだけでない。城の役人、秘書、従僕たちも、すべて、城のなんらかの機能を果たす道具である。作者は、それを裏付けするかのように、あるいは、茶化するかのように、登場人物に意味ありげな名前を与えている。例えば、実在するのかしないのか、迷宮そのものにもひとしいヴェストヴェスト伯爵のヴェストは、西を意味する。また、主人公と頭文字を同じくするクラムと同音のチェコ語のklamは、欺隔、幻惑の意である。シュヴァルツァーは、黒色を連想させ、秘書モームスは、非難、嘲弄と解される。エルランガーは、獲得と意味が通じ、ビュルゲルは、ささやかな保証人の意である。バルナバスが、ヘブライ語で、慰めの子を意味することは、『使徒行伝』第四章の教えるところである。また、アルツール、イェレミーアスにいたっては、ことさら説明を要しないであろう。女性のほうでも、フリーダは、平和を原義とし、第六章にいたって初めて名前が判明する橋亭の女将ガルデーナは、カーテン、あるいは番人、擁護者を連想させる。そして、オルガは、ロシア系の女の名で、健康なる者、気高き者を意味し、アマーリアは、勤勉なる者の意である。
ところで、『審判』が丸一年にわたる事件の物語であるにひきかえて、『城』は、Kが村に到着した日を加えても、真冬のわずか一週間の出米事にすぎない。それは、天地創造をもじったものかも知れないが、作者は、注目すべきことに、この週間の出米事の前半をすでに第三章の終わりまでに叙述し終えているのである。すなわち、この週間の残り半分のために、本長篇執筆に費やした全紙数の約六分の五が当てられるのである。そこには、第十五章のように、四つの枠入り物語を織り込んで、バルナバス一家が村八分の憂き目を見るにいたる経緯とその後の辛酸とを伝える、長文の叙述も挿入されているが、しかし、最も重要なのは、全篇を通じてのクライマックスを成す、夜半過ぎての貴紳閣における、Kと、クラムではなく、Kが名も聞いたことのないフリートリヒの連絡秘書である、ビュルゲルとの偶然の遭遇である。Kが村で過ごして来た六日間は、この一刻のための準備といってよい。出頭を命じられて、クラムの第一書記のひとりエルランガーのもとへ赴くKが、間違って――運よく空室だったならば、しばらく疲れた五体をのばせるとの希望も手伝って――足を踏み入れたのが、ビュルゲルの部屋だったのである。そこで、ふたりのあいだに会話が始まる。ところが、ビュルゲルのベッドのへりに腰かけていたKは、積もり積もった途方もない疲労のために、いつしかまどろみはじめ、ついには熟睡に落ちてしまう。しかし、ビュルゲルは、それには構わず、情熱的な独白を続ける。それまで主人公と一致して来た作者は、この時点で、主人公から離脱することによって、ビュルゲルの独白のなかにKの救いの約束が用意されていることを示す。しかも、その約束は、与えられるよりまえに、破られている。Kがすでに意識下に沈潜しているからである。そこに展開される夢の世界こそ、Kの、ひいては、人間一般の、実存的闘いにたいする、作者の解明である。ここに、驚くほど絶妙なカフカの小説作法が見られるのである。
このほか、『城』の特徴としては、空と雪と風について述べているほかは、自然描写がほとんど皆無という点である。それにひきかえ、この長篇では、服装が並はずれて大きな役割を果たしていることも、看過しがたい特色である。フリーダ、ペピ、オルガ、アマーリアなどの女性はもとより、クラムやバルナバスたちの服装にも注目していただきたい。なお、この作品が、Kと貴紳閣の女房との衣裳についての問答のところで、擱筆《かくひつ》されているのも、きわめて印象的である。
最後に、この作品の結末であるが、ブロートは、作者の意図として、「測量師と称する男は、すくなくとも、幾分かは満足を得る。彼は、闘いをやめないで、衰弱のために死ぬが、彼の臨終の床のまわりに村人たちが集まっているところへ、たまたま城から、村での居住権にたいするKの要求を、そのまま、容れるわけにゆかないが、種々の付帯事情を顧慮して、当地で働いて暮らすことは、許してもよい、との決定が届く」というふうに伝えているが、直ちには信じがたい。むしろ、遺稿集『田舎での婚礼準備』のなかに収める『第三の八つ折り判ノート』が一九一七年十月二十日の記述として伝えているところの、長いトンネルの中央で事故のため立往生している列車の乗客たちが置かれている状況、それこそ、Kの自由なき世界における運命と思われるのである。
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年譜
一八八三 七月三日、フランツ・カフカは、父ヘルマンと母ユーリエ(旧姓レーヴィ)の長男として、現在のチュコスロヴァキアの首府プラハの旧市街で生まれた。両親ともユダヤ人で、父は貧しい家の出身、田舎の行商からやがて大きな商店を経営するほどになった。母はプラハの旧家で一族には学者や変人が多かった。
一八八五(二歳) 弟ゲオルクが生まれたが半年後に死亡。
一八八七(四歳) 弟ハインリヒが生まれたが一年半後に死亡。
一八八九(六歳) フライシュマルクトのドイツ系小学校へ一八九四年まで通学。妹ガブリエーレ(愛称エリー)が生まれる。
一八九〇(七歳) 妹ヴァレリー(愛称ヴァリー)が生まれる。
一八九二(九蔵) 妹オッティーリエ(愛称オットラ)が生まれる。妹三人はのちにナチ強制収容所で虐殺された。両親は仕事に忙しく、妹たちはあまりにも年下のため親しめず、淋しい毎日を過ごす。
一八九三(十歳) 旧市街のドイツ系国立ギムナジウム(中・高等学校)へ一九〇一年まで通学。のちにこの学校の階下に父の店ができた。
一八九七(十四歳) このころから翌年まで、のちに社会主義者になったルドルフ・イローヴィと友交を結び、社会主義に関心を持つ。
一八九八(十五歳) このころから一九〇四年まで、のちに美術史家になったオスカー・ポラックと友交を結び、大きな影響を受ける。
一八九九(十六歳) 芸術誌「クンストヴァルト」から影響を受ける。このころ創作をこころみたが、現存していない。
一九〇〇(十七歳) ニーチェの作品、特に「ツァラトゥストラ」を愛読。
一九〇一(十八歳) プラハのドイツ大学に入学。はじめの二週間は化学を学んだが、父の希望でのちに法学を選ぶ。
一九〇二(十九歳) 夏学期にドイツ文学を、特にヘッベルを研究した。冬学期からミュンヘン大学でドイツ文学をつづける計画をたてたが、父の反対にあい、やむなく法学を学ぶ。休暇中に母方の叔父で、トリーシュで医者をしているジークフリート・レーヴィのところに滞在。この叔父にはもっとも親しみを感じ、のちに『田舎医者』のモデルとした。秋、一歳年下の法科学生であったマックス・プロートと終生の交友を始める。彼は後年、カフカ全集の編者になった。
一九〇一(二十歳) 法制史国家試験を好成績で通過。長編『子供と町』の一部分および詩、散文をポラックに送ったが、現存していない。
一九〇四(二十一歳) 日記、回想録、書簡集などをしきりに読む。秋から翌年春にかけて、ホフマンスタールの影響が認められる『ある戦いの記録』を執筆。
一九〇五(二十二歳) 作家オスカー・バオム、マックス・ブロート、哲学者フェリクス・ヴェルチュと定期的会合を持つ。第一次卒業試験を終える。
一九〇六(二十三歳) 第二次・第三次卒業試験を終え、七月、法学博士の学位を授与される。四月から九月まで叔父リヒャルト・レーヴィの弁護士事務所で記録係として勤務。十月から一年間、法務実習。『田舎の婚礼準備』の執筆をはじめる
一九〇七(二十四歳) 八月、叔父ジークフリートの家に滞在。十月から翌年七月まで一般保険会社に臨時雇いとして勤務。夜は保険学、イタリア語を学ぶ。
一九〇八(二十五歳) 隔月雑誌『ヒュペーリオン』一・二月号に散文八編を初めて発表。のちに『観察』に収める。二月から五月まで労働者保険講座を受講。七月、ボヘミア王国労働者傷害保険局に臨時職員として勤務。職務に熱心であった。マックス・ブロートとの交友はさらに深まる。
一九〇九(二十六歳) 『ヒュペーリオン』、三・四月号に、『祈る若者との対話』『酔いどれとの対話』の二編を発表。九月、ブロート兄弟とイタリアのリーヴァへ旅行。近くのブレッシャで、そのころはまだ珍しい飛行機ショーを見物。帰国後、日刊紙に『ブレッシャの飛行機』を発表。アナーキストの会など、種々の社会主義の集会に出席。
一九一〇(二十七歳) 日記をつけ始める。十月、ブロート兄弟とパリへ旅行。十二月ひとりでベルリンへ旅行。東欧ユダヤ人が演じる民衆劇に興味を持つ。
一九一一(二十八歳) 一月から四月にかけてしばしば出張旅行。八月、ブロートとともにチューリヒ、ルガノ、パリへ旅行。その後、チューリヒ近郊にある自然療養所へひとりで滞在。十月以降、東欧ユダヤ人の劇を規則的に見る。
一九一二(二十九歳) ユダヤ史、ユダヤ教、ユダヤ文学を研究。二月十八日、東欧ユダヤ劇団の俳優イーザーク・レーヴィのために解説的講演を行なう。初夏から翌年一月にかけて『失踪者《アメリカ》』の第七章まで書く。六月、ブロートとともにワイマルへ旅行。途中、ローヴォルト、ヴォルフなどの出版業者に会う。七月、ハルツ山中の自然療養所に滞在。八月十三日、ブロートの家でフェリーツェ・バウアに会う。九月二十日、フェーリツェへ初めて手紙を書く。九月二十二日の夜から翌朝にかけて『判決』を書きあげる。十月二十三日、フェリーツェからの初めての手紙を受ける。以後おびただしい文通が始まる。フェリーツェに宛てた手紙が約五百通残っている。十一月、まだ未完成の『変身』をオスカー・バオムの家で朗読。十二月、小品集『観察』をローヴァルト社から出版。
一九一三(三十歳) 三月、書記補になる。三月と五月にベルリンにいるフェリーツェを訪問。五月、『アメリカ』の第一章にあたる『火夫』をヴォルフ社から出版。六月、『判決』を発表。フェリーツェに初めて求婚の手紙。恋愛と創作との矛盾に苦しむ。九月、リーヴァへ旅行。十一月、フェリーツェの友人グレーテ・ブロッホと会い、やがて文通を始める。彼女への手紙は約百通残っている。マックス・ブロートと一時的に不仲になる。キルケゴールを読む。
一九一四(三十一歳) 一月、再度手紙でフェリーツェに求婚。四月、承諾を得る。五月末、正式に婚約。七月十二日、婚約解消、十三日にバルト海へ旅行。八月、はじめて両親とはなれて、ひとりで住む。十月、『流刑地にて』を完成。『アメリカ』の最後の章と『審判』を書き始める。十二月、『掟の門』を書き上げる。フェリーツェの友人グレーテ・ブロッホとの関係が深くなる。彼女はカフカの子を生み、その子は七歳で死亡したというが、彼自身は知らなかった。
一九一五(三十二歳) 一月、フェリーツェと再会。四月、妹エリーとハンガリーへ旅行。十月、カール・シュテルンハイムの受けたフォンターネ賞をカフカの『火夫』に譲る。十一月、『変身』をヴォルフ社から出版。
一九一六(三十三歳) 四月、妹オットラと旅行。七月、マリーエンバートにフェリーツェと滞在。十月、『判決』をヴォルフ社から出版。十月ミュンヘンで『流刑地にて』を公開朗読。短編集『田舎医者』を執筆。
一九一七(三十四歳) 七月、フェリーツェと二度目の婚約。八月、喀血。肺結核の診断を受ける。八か月の休暇を得て、チューラウに住む妹オットラの許で暮らす。フェリーツェが訪れる。キルケゴールの作品に没頭。十二月、婚約解消。『夢』『豺《やまいぬ》とアラビア人』『学士院へのある報告書』を発表。
一九一八(三十五歳) 夏までチューラウに滞在。十一月、シェーレーゼンに翌年春まで滞在。ユーリエ・ヴォホリゼクと知り合う。
一九一九(三十六歳) 五月、『流刑地にて』をヴォルフ社から出版。六月、ユーリエと婚約。秋、短編集『田舎医者』をヴォルフ社から出版。十一月、シューレーゼンに滞在中、『父への手紙』を書く。
一九二〇(三十七蔵) 一月、局書記となる。三月、十七歳の少年グスタフ・ヤノーホと知り合う。四月から三か月間、メラーンに滞在。その間にカフカ作品のチェコ語の翻訳者ミレナ・イュセンスカ=ポラク夫人と文通。ミレナにあてた書簡は『ミレナヘの手紙』として日本でも翻訳されている。六月、ミレナに会うためにウィーンへ行く。ユーリエと婚約解消。多数の短編を書く。十二月、マトリアリのサナトリウムで療養中、医学生ロベルト・クロプシュトックと知り合う。
一九二一(三十八歳) 九月、マトリアリからプラハへ帰る。ミレナはしばしばプラハを訪問。十月、ミレナに日記すべてを渡す。
一九二二(三十九歳) 一月から九月にかけて『城』を執筆。三月、『城』の一部分をブロートに朗読。五月、ミレナとの最後の出合い。七月、労働者傷害保険局を退職、恩給を受ける。『ノイエ・ルントシャウ』十月号に『断食芸人』を発表。夏、『ある犬の回想』を書く。
一九二三(四十歳) 『歌姫ヨゼフィーネ』を執筆。妹エリーたちとバルト海沿岸へ行き、若い東欧ユダヤ人女性ドーラ・ディアマントと知り合う。九月、ドーラとともにベルリンに住む。十月、『小さな女』『家』を書くが生活に窮し、病状悪化。このころの作品の多くは破棄された。
一九二四(四十一歳) 三月、病状悪化のため、叔父ジークフリート、ブロートが来て、プラハに移す。つづいてウィーン郊外の療養所に移る。喉頭結核の診断を受ける。ドーラ、クロプシュトックがつきそう。六月三日死去。十一日、プラハの新ユダヤ人墓地に埋葬。夏、短編集『断食芸人』をシュミーデ社から出版。