城(上)
フランツ・カフカ/谷友幸訳
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
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主な登場人物
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K……ヴェストヴェスト伯爵に呼び寄せられて、伯爵の城へ向かうべく麓の村へやって来た男。測量師とよばれる。本篇の主人公。
クラム……城の長官といわれる人物。
フリーダ……酒場の女。もと宿屋「橋亭」の女中で、クラムの愛人だったといわれるが、Kと結婚を約して同棲する。
ガルデーナ……「橋亭」の女将《おかみ》。遠い昔クラムの愛人だったといわれるが、今はフリーダの庇護者でもある。
バルナバス……城の長官クラムからKへの命令伝達の役を受け持つ男。村人から蔑視されている下請け靴職人の息子。
オルガ……バルナバスの姉。弟の腹心として、その仕事を手伝う。
アマーリア……バルナバスの妹。
村長……城の命令によりKの直属上官としてKを監視する人物。
イェレミーアス……同僚アルツールとともに、測量師Kに当てがわれた助手。
ソルディーニ……城の監督庁某局に所属する精勤な下級官僚。イタリア人。
ソルティーニ……城の高官。消防問題の権威。
モームス……クラムおよびヴァラベーネの秘書。村における問題を管轄する。
ペピ……フリーダの後任として「貴紳閣」の酒場係となった女。最下層の出身で、もと客室係の女中。
ビュルゲル……Kが名を聞いたことのないフリートリヒの連絡秘書。
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第一章
Kが着いたときは、もう晩おそかった。村は深い雪に被《おお》われていた。城山はなにひとつ見えず、霧と闇とに包まれて、あの大きな城があることを暗になりとも伝えるような、どんなかすかな明かりすらなかった。長いあいだ、Kは国道から村へ通ずる木の橋のうえに立ったまま、今は虚空としか見えぬ前方をじっと見上げていた。
それから、彼は、寝る所を探すために、歩きだした。たまたま飲み屋がまだ起きていた。もとより、貸すような部屋は、持ち合わせてなかったものの、この夜おそい客にひどくびっくりして、すっかり取り乱してしまった亭主は、店に藁《わら》ぶとんを敷いてなら寝かせてあげてもよい、と言った。Kもそれを了承した。まだ数人の農夫たちがビールを飲んでいたが、だれとも口をききたくなかったKは、自分で屋根裏部屋から藁ぶとんを取ってきて、ストーブの近くに身を横たえた。暖かかった。農夫たちも静かだった、Kは、疲れた眼でまだしばらくは彼らの様子を探っていたが、そのうちに眠り込んでしまった。
ところが、それからすぐに、早くも起こされてしまった。都会風の服装をし、俳優めいた顔付きの、眼が細く、眉《まゆ》の太い、若い男がひとり、亭主と一緒に、彼のわきに立っていた。農夫たちは、まだ居すわっていて、そのうちの二、三の者は、すこしでも見落としたり聞き漏らしたりすることのないように、掛けている回転椅子をこちらのほうへ向けていた。若い男は、Kを起こしたことを非常に丁重にわび、城の執事の息子と自己紹介してから、言った、「この村は、城の領地です。ここに住んだり、泊ったりするのは、言わば城中に住んだり、泊ったりするのと、同然です。そのため、伯爵様のお許しがなければ、なんぴとたりとも、いけないことになっているのです。ところが、あなたは、そのような許可証をお持ちでない。いや、すくなくとも、まだそれをご呈示になっていない」
それまで、なかば身を起こして、髪の乱れをなでて整えていたKは、下から両人を見すえながら、言った、「なんだか、とんでもない村へ迷い込んでしまったようですが。一体、ここには城らしいものでもあるのでしょうか」
Kの言葉を聞いて、そこかしこで、頭《かぶり》を振る者もいたが、相手の若い男は、ゆっくりした口調で、「もちろんですとも」と、言った。「ヴェストヴェスト伯爵様のお城がね」
「それで、宿泊許可証がないといけないわけですね」と、Kは、さっきの通告がまさか夢だったのではあるまいと思い、それを確かめようとするかのように、問い返した。
「許可証がないといけないのです」それが返事だった。そして、若い男が、並みいる亭主や客たちに向かって、腕を延ばし、「それとも、許可証なんかなくったっていいとでも言うのかい」と、尋ねたときには、明らかに、Kにたいするひどい嘲《あざけ》りがその言葉のなかに含まれていた。
「とすると、どうしても許可証を貰って来なければいけないわけですな」と、Kは、あくびをしながら言うと、立ち上がろうとするかのように、着ていた毛布を押しのけた。
「それで、一体、だれに貰う心算《つもり》かね」と、若い男は、尋ねた。
「伯爵様にだよ」と、Kは言った、「それよりほかに仕方がないでしょう」
「この真夜中に伯爵様から許可証を貰って来るって」と、若い男は、叫んで、一歩あとずさりした。
「いけないのかい」と、Kは、平然と聞き返した、「それじゃ、なぜ僕を起こしたんだね」
すると、若い男のほうは、途方もなく憤慨して、「まるでごろつきの態度だ」と、叫んだ。「お上《かみ》をないがしろにしないでもらいたい。あなたを起こしたのは、ほかでもありません。即刻、この伯爵領を立ち去ってもらわねばならぬことを、あなたに伝えるためだったのです」
「茶番ももういい加減にしたまえ」と、Kは、ひどく声をひそめて言うと、横になり、毛布を引き寄せて、からだに着せた。「お若いの、君は、すこしばかり、行き過ぎらしいよ。まあ、あすになったら、また話を君の態度に戻すことになると思うがね。そのとき、もしかして証人が必要ということにでもなれば、ここの亭主とあちらにおいでの御仁たちが証人さ。それはともかく、ただこれだけは、君も、心に銘記しておいてもらいたい。僕が、ほかでもなくこの伯爵に呼び寄せられた測量師だということをな。僕の助手たちは、道具を持って、あす、車であとを追っかけて来ることになっている。雪のなかを突き進むことくらい、僕は、平気で出かけたのだが、残念ながら、二、三度、道に迷ってしまって、そのため、こんなおそくに、やっとたどり着いたというわけだ。城に出頭するには、もうおそすぎることぐらい、別に君の教えを受けるまでもなく、ちゃんととっくに知っていたさ。だから、ここで、こうして、こんな寝床にも甘んじているわけじゃないか。それを邪魔するとは、どんなに控え目に言っても、無礼と言うほかない。以上で、僕の言いたいことは、終わりだ。では、皆さん、お休み」そう言って、Kは、くるりと、ストーブのほうへ、からだを向けた。
「測量師なのか」と、Kの背後で、ためらいながらも、そう尋ねる声が聞こえていたが、やがて、店のなかは、すっかり静まり返った。ところで、若い男は、間もなく落ち着きを取り戻すと、Kの眠りを妨げぬように気を遣っていると思ってもらえるように、声を落としながらも、Kには十分に聞こえるくらいの高さで、亭主に言った、「電話で問い合わせてみよう」
なんだって、こんな村の居酒屋に電話まであったのか。とすると、すばらしく設備が行き届いていることになる。だが、個々の点では驚きはしたものの、全般的には、むろん、Kの予期せぬことでもなかった。明らかに、電話は、ほとんど彼の頭上あたりのところに、取り付けてあった。眠気に駆られて、彼が、見落としていたにすぎない。ところで、若い男が、電話せねばならないのであれば、どうしてもKの眠りを構ってはいられないことになる。問題はただ、Kとして、若い男が勝手に電話するのを、そのまま放ってよいかどうかということであった。Kは、それくらいは黙認しようと、決心した。だが、そうなると、むろん、眠っているふりをしていても、なんの意味もなかった。それゆえ、彼は、仰向けの状態に戻った。農夫たちが、おずおずと椅子を寄せ合って、なにやら話しているのが、眼に映った。測量師の到着となると、けっして取るに足らぬ事件ではなかったのである。調理場のドアが、いつのまにか、開いていて、女将《おかみ》の巨体が、そこの入り口を塞《ふさ》ぐように、立っていた。亭主は、事の次第を報告するために、女将のほうへそっと爪先《つまさき》立ちで近づいて行った。
ちょうどそのとき、電話の通話が始まった。執事は、すでに就寝中だった。しかし、下級執事で、下級執事は幾人もいたが、そのうちのひとりの、フリッツとか言う人物が、電話口に出ていた。若い男は、シュヴァルツァーと名乗って、Kを見つけるにいたった次第を話し始めた。ひどいぼろを着た、三十歳代の男で、形ばかりのちっぽけなリュックサックを枕がわりにして、藁ぶとんのうえで安らかに眠っていました。手の届くところに節《ふし》の多い杖《つえ》を置いたままです。途端に、むろん、胡散《うさん》臭いやつだと、思いました。ところが、亭主が自分の果たすべき義務を怠っていることが、明らかでしたので、事を徹底的に究明するのが、この私、すなわち、シュヴァルツァーの義務であると、考えたわけであります。そこで、たたき起こして、尋問をし、伯爵領から追放するぞと、義務に従いまして、威嚇《いかく》しましたところ、その男は、それをひどく無慈悲な仕打ちと解したようです。最後に判明したことですが、あるいは当然のことかもしれません。と申しますのも、伯爵様から任命された測量師であると、言い張っているからなのです。もちろん、この男の主張の真偽を確かめることが、すくなくとも、形式的にもせよ、義務でもありますので、当シュヴァルツァーといたしましては、フリッツ様にお願い申したいのですが、この種の測量師を本当に待ち望んでおられるのかどうか、本庁にご照会していただいて、すぐにでも電話でお返事くださいませんでしょうか。
それからは、元の静けさに返った。あちらでフリッツが照会しているあいだ、こちらでは返事を待ち受けていた。Kは、今までどおりの態度のまま、寝返りひとつしないで、全くなんの好奇心もなさそうに、あらぬ前方を見やっていた。悪意と用心との混じり合ったシュヴァルツァーの話しぶりから推して、シュヴァルツァーのような小物たちでさえも、城にいると、言わば外交的素養を身に付けて、たやすくそれを駆使できるようになっていることが、Kには察知された。それにまた、城では、骨惜しみする者もいないようであった。現に本庁では、夜勤が行われていた。それゆえ、明らかに、返事が来るのも、非常に早かった。もうフリッツからのベルが鳴っていた。その報告は、むろん、きわめて手短なものらしかった。シュヴァルツァーが、即座に憤然として、受話器をがちゃりと掛けたからである。
「おれの言ったとおりだ」と、彼はわめいた、「測量師だなんて、全くでたらめさ。ただの下種《げす》な、うそつきの、風来坊だ、いや、どうやら、もっと質《たち》の悪いやつらしいぞ」
一瞬、Kは、シュヴァルツァーも、農夫たちも、亭主や女将も、みんな一斉に、自分に襲いかかってくるかもしれないと、思った。彼は、すくなくとも最初の襲撃を避けるために、すっぽりと毛布のなかにもぐり込んだ。そのとき、またもや電話が鳴った。今度は、その音が、Kには、ことのほかけたたましいように、感じられた。彼は、ゆっくりと、またもや頭を突き出した。まさかKに関してもう一度電話がかかって来るとは思いもよらなかっただけに、並みいる者らは、ひとしく声をのんだ。シュヴァルツァーが、電話機のほうへ、戻って行った。彼は、そこで、かなり長い説明を聞き取っていたが、やがて、声を落として言った、「それでは、間違いだったわけですか。私としては、全く不愉快ですよ。局長がじきじきに電話をかけて来られたのですって。妙ですな。ほんとに妙ですよ。どんなふうに測量師さんに事の説明をしていいものやら」
Kは、聞き耳を立てていた。とすると、城は、やはり、自分を測量師に任命していたわけである。それは、ある面では、自分にとって不利なことでもあった。城では、すでに、自分についての必要な事柄をすべて知りつくして、相互の力関係を篤《とく》と考量したうえで、微笑のうちに戦いに応じてきていることが、明白だったからである。だがまた、その反面、有利なことでもあった。自分の意見をもってすれば、先方は、こちらを過小評価しており、自分としては、前々から期待していたよりも、もっと多くの自由が持てるだろうということが、すでに立証されているも同然だからであった。ところで、相手が、このように、自分を測量師として承認して、精神的には、確かに、優位に立っていたとしても、もしもそれによって、自分をいつまでも恐怖に落とし入れておけると、信じているならば、それこそ、思い違いである。そう考えたとき、軽い戦慄が彼の全身を走ったが、それは、しかし、それだけのことに終わった。
おずおずと近づいてくるシュヴァルツァーを、Kは、手を振って、制止した。彼は、亭主の居間へ移るように、皆から急《せ》き立てられたが、それを断って、亭主からは一杯の寝酒を、女将からは石けんと手ぬぐいを添えた洗面器を、受け取った。すると、別に客たちに向かって、この広間を出て行ってもらいたいと、要求するまでもなかった。あるいは、あすになってもまだKに顔を覚えられていては困るとでも思ったのか、みんな一斉に、顔をそむけて、慌《あわただ》しく立ち去った。灯火も消されて、彼は、やっと、落ち着くことができた。一度か二度、傍らを走り過ぎるねずみを、かすかに耳障りに感じたくらいで、朝まで、ぐっすり眠った。
朝食を済ますと、この朝食代はもとより、Kの賄《まかな》い料一切が、亭主の明細書どおりに、城から支払われることになっていたが、Kは、すぐに村へ出かけようと思った。ところが、それまで、亭主とは、亭主の昨夜の態度を思い出して、よほど必要なことでない限り、口をきくのを控えていた所為《せい》か、亭主が、黙って哀願するように、しきりと彼の周囲を歩きまわって離れないので、彼も、亭主がかわいそうになってきて、しばらくなりとも、亭主をそばに腰かけさせてやることにした。
「まだ伯爵にはお目にかかったことがないんだが」と、Kが言った、「いい仕事をすれば、たっぷり報酬をくださるそうだが、本当かね。僕のように、妻子を残して、こんなに遠くまで出稼ぎしていると、やはり、かなりなものは家へ持って帰りたくなるものだよ」
「その点なら、旦那、なにもご心配には及びません。報酬がすくなかったという不平は、ついぞ聞いたことがございませんので」
「それならいいさ」と、Kは言った、「この僕は、いいかい、そこいらの小心な連中とは、訳が違うんだ。たとい相手が伯爵であろうと、面と向かって、自分の意見が言える男なんだ。もっとも、旦那がたと仲よく付き合ってゆけたら、むろん、はるかに結構なことに違いはないがね」
亭主は、Kと向かい合って、窓ぎわの長椅子のへりに腰をかけて、もっと楽なすわり方をしようともせずに、大きな、褐色の、気づかわしげな眼で、ずっと終始、Kを見守っていた。最初は、亭主のほうからKのそばへ押しかけてきておきながら、今は、逃げ出したい一心のように、見受けられた。伯爵のことまでを根掘り葉掘り聞かれるのが、恐《こわ》いのだろうか。Kをもそのひとりと思っているらしいが、なべて「旦那」という存在には信頼がおけないとでも、危倶しているのだろうか。Kは相手の気持ちを別のことに逸《そ》らせてやらねばと、考えた。それで、時計を見て、言った、「もう、そろそろ、助手たちがやって来る時分だが、助手たちも、ここに泊めてもらえるだろうな」
「もちろんですとも、旦那」と、亭主は言った、「ですが、その人たちも、あんたと一緒に、城に住むことになるんじゃないのですかい」
とすると、亭主は、そんなにあっさりと客を取ることを諦《あきら》めたいのだろうか。ぜひともKを城中へ追いやろうとしている口ぶりから察すると、とりわけ、Kはご免こうむりたいのだろうか。
「その辺のことは、まだ、決まっちゃいないんだ」と、Kは言った、「先ず第一に、僕としては、僕のためにどんな仕事を考えているのか、そいつを聞かなくちゃならない。もしも、例えば、こちらの下町のほうで仕事をせねばならないことになると、そのときは、やはり、こちらの下町に宿を取っておいたほうが、賢明だということになるしさ。それにまた、あの山手の城中での生活が、僕の性には合わないのではないかと、それも心配でね。僕は、いつも、窮屈な思いだけはしたくないんだ」
「あんたは、城のことをご存じないからですよ」と、亭主が、声をひそめて言った。
「もちろん」と、Kは言った、「早まった判断は、禁物だ。差し当たって、僕が、城について、知っていることと言えば、城のほうでは、まともな測量師を捜し出す術《すべ》を心得ているということぐらいのものだからね。おそらく、まだそのほかにも、いろいろと、城には、長所があるだろうが」そう、言い終わると、Kは、不安げに唇をかみしめている亭主を、その場から、放免してやるために、立ち上がった。この男の信頼は、容易に得られそうもなかった。
出かけしなに、ふと壁のところに、煤《すす》けたような額縁にはまった、一枚の黒ずんだ肖像画らしいものが、かかっているのが、Kの眼にとまった。すでに寝床のなかにいたときから、Kは、それに気づいていたのだが、なにぶんにも離れたところからなので、細部の見分けがつかないために、きっと実物の絵は額縁から取り去られて、ただ黒い裏蓋《うらぶた》だけが見えているのだろうと、思い込んでいたのだった。ところが、それは、やはり、絵であった。今になって判明したのだが、五十がらみの男の半身像に違いなかった。頭をひどく深く胸のあたりにまで垂れているために、男の両眼は、ほとんど見えなかった。このようにうな垂れることに決定的な意味を与えているのが、秀《ひい》でた、いかにもずっしりと重たげな額と、逞《たくま》しい、かぎ鼻であるように、見受けられた。頬から顎《あご》へかけての、一面のひげは、そのような俯《うつむ》き方をしているために、顎のあたりを押しつけられて、ずっと下のほうにまでも垂れさがっている。左の手は、指を広げたまま、ふさふさとした髪のなかに差し込んだままで、これでは頭を上げようにも上げようがなかったであろう。
「これ、誰だね」と、Kは尋ねた、「伯爵かい」Kは、肖像画のまえに立ったまま、亭主のほうを振り返ろうともしなかった。「いいえ」と、亭主は答えた、「執事のほうで」「城にはじつにご立派な執事がいるものだな、全く」と、Kは言った、「それにしても、あんなでき損ないの息子があるとは、気の毒なものだ」「とんでもない」と、亭主は言うと、背が低いので、Kをすこしばかり引きつけながら、Kの耳元でささやいた、「シュヴァルツァーは、きのう、度が過ぎましたが、彼の父親というのは、下級執事にすぎないんです。それも、末席のひとりでして」その瞬間、Kには、亭主がまるで子供のように、思われた。「あのろくでなしめが」と、Kは、笑いながら言ったが、亭主のほうは、一緒に笑わないで、言った、「あの父親にしたって、権力を持っていますよ」「なにをばかな」と、Kは言った、「君は、だれを見ても、権力を持っているように思うらしいが、例えば、この僕をもそう思っているのかね」「あんたを」と、亭主は、びくびくしながらも、真剣な顔付きになって、言った、「権力があるとは、思ってもいませんな」「とすると、君は、確かに、眼が高いらしいな」と、Kは言った、「つまり、僕は、打ち明けて言うと、本当に、権力なんか持ってやしない。それだけに、権力者たちにたいしては、おそらく君に劣らぬくらいに、尊敬の念を抱いているのさ、ただ、君ほど正直でないから、そのことをめったに白状したくないだけだ」
そう、言い終わると、Kは、亭主の気を引き立て、亭主に一段と好意を寄せているようなふりをするために、亭主の頬を軽くたたいた。すると、亭主も、さすがに、ちょっと微笑《ほほえ》みをもらした。亭主は、実のところ、柔膚《にぎはだ》の顔にはほとんどひげらしいものさえも生えてない、まだ若輩にすぎなかった。こんな若い男が、今、隣の調理場で、両|肘《ひじ》を大きく張って、忙しげに働いている姿が、のぞき窓越しに見える、あの胸幅の広い、年増女と、どうして一緒になったのだろう。Kは、しかし、今はもうそれ以上、立ち入って聞いて、折角浮かんだ微笑を台無しにしたくなかった。Kは、それゆえ、亭主にたいしては、出口のドアを開けてくれるように、目くばせをするだけにとどめて、晴れた冬の朝のなかへ出て行った。
今や、澄みきった空気のなかに、くっきりと、山手に城が見えた。あらゆる形をかたどりながら、いたるところを埋《うず》めている、薄雪のために、城のたたずまいが、ひとしお鮮やかだった。それにしても、向こうの山上のほうが、こちらの村のなかよりも、はるかに雪がすくないように思われた。村では、きのう国道を歩いたときと同じくらいに、足を運ぶのに難渋したし、雪が、小さな家々の窓に届くくらいに、深く、また、低い屋根のうえにも、同じように、ずっしりと積もっていた。しかし、山上のほうでは、あらゆるものが、思う存分に、いかにも軽やかに、そびえている。すくなくとも、こちらの村のほうからは、そのように見受けられた。
大体において、城は、こちらから姿を遠望している限りでは、Kの予期していたのにたがわなかった。それは、昔造りの騎士の城でもなければ、新しい豪華な建築でもなかった。広い地形に、数多くの低い建物が密集し、そのなかに、点々と、三階建てがごくわずかに混ざっているにすぎない。それが城であることを知らない者が見たら、ただの田舎町としか、思いようがなかったであろう。塔がひとつだけ、Kの眼に映ったが、それが邸宅の一部なのか、それとも、教会のものかは、見分けがつかなかった。その塔のまわりを、からすが、いくつも群れをなして、舞っていた。
城に眼を向けたまま、Kは、さらに歩きつづけた。別になにも気になることはなかった。ところが、近づくにつれて、城は、彼を幻滅に落とし入れて行った。それは、城とは名ばかりの、ひなびた家々を寄せ集めてできた、いかにも見すぼらしい、ただの田舎町にすぎない。わずかに特色を挙げれば、どの建物も、おそらく、すべてが石造らしいということくらいであるが、用いた塗料は、とっくにはげ落ちて、石もぼろぼろに砕けかけているらしかった。Kは、ちらと、彼の故郷の町を思い出した。それだって、このいわゆる城なるものに、ほとんど劣りはしない。ただKにとって、見物だけが問題だったとしたら、長い道のりを、徒歩旅行までして、やって来たことが、悔しくてならなかったであろうし、もう長いあいだ帰省したことのない、昔なつかしい郷里を、今一度、訪れてみたほうが、はるかに賢明な行動だったかもしれない。
Kは、そのとき、心のうちで、郷里の教会の塔と、かなたの山上に見える塔とを比較してみた。郷里にある塔は、確固として、なんのためらいもなく、まっすぐに、上方に向かって先細りになりながら、広い屋根を頂いて、赤い瓦《かわら》ぶきで終わっている。紛れもなく、地上の築造物であるが――それ以外のものが、どうして、自分たちの手で建てられよう――しかし、低い家群《いえむら》よりも高い目標を有し、陰気な仕事日よりも明るい表情を示している。ところが、当地の山上の塔は――これだけが、ただひとつ、眼に見える塔だったが――今になって判明したところでは、邸宅の、おそらくは、城の中枢の、塔らしかった。単調な円形建築で、一部は、ありがたげに、きづたで被われ、いくつかの小窓があって、それらが、今、陽光を受けて、輝きを放っているが――なんだか狂気じみたものが、その光景からは、感じられた――塔の頂は、バルコニーのようなものになっているのだろうか。その鋸《のこぎり》状の胸壁《きょうへき》が、おびえた子供か、ぞんざいな子供の、手で描かれたように、たどたどしく、ふぞろいのまま、今にもこぼれそうな刻み目を、青空に刻み込んでいた。あたかもそれは、法の定めどおりに、屋敷内の、一番はずれにある部屋に監禁されるにいたった、哀れな家族のひとりが、世間に自分の姿を見せるために、屋根を突き破って、頭を擡《もた》げたかのようでもあった。
Kは、立ち止まっているほうがひとしお判断力が湧《わ》いてくるかのように、またもや立ち止まった。ところが、すぐに、気持ちをかき乱された。彼の立っているわきが、たまたま村の教会であって――と言っても、実のところは、ただの礼拝堂で、教区民を収容しきれるように、納屋らしいものを拡張したにすぎなかったが――その教会の向こうに、学校があった。明らかに、仮拵《かりごしら》えのものと、非常に古いものと、ふたつの性質のものを、ひとつに纏《まと》めている、低い、長屋のような建物で、それが、柵をめぐらした、今は一面に雪野になっている、庭の向こうに横たわっていた。
ちょうど児童たちが、教師と一緒に、出てくるところであった。児童たちは、教師の周囲に、ひしめくようにたかりながら、一斉に教師のほうを見上げて、四方八方から、ひっきりなしに、しゃべりかけていたが、Kには、児童たちが早口でなにを言っているのやら、さっぱり解《げ》せなかった。教師は、年の若い、小柄な、肩幅の狭い人物で、しゃちほこ張ったように、直立の姿勢をくずさずに、と言っても、それがけっして滑稽にはならなかったが、早くも、遠くから、Kの姿を眼に留めていた。もちろん、教師を取り巻く一群のほかには、見渡す限り、Kひとりしかいなかった。余所《よそ》者の礼儀として、Kのほうから、先に、挨拶した。相手は、いかにも尊大ぶった、小男であったが。
「こんにちは、先生」と、Kは言った。たちまち、子供たちは、口を閉ざした。この突然の沈黙が、教師には、自分が口火を切るための支度をしてくれたとでも思えたのだろうか、どうやら気に入ったようであった。「城をご見物なのですね」と、教師は、Kの予期していたよりも穏やかに、尋ねたが、しかし、Kのしていることを是認しがたいような口ぶりでもあった。「ええ」と、Kは言った、「当地は不案内でしてね、つい昨晩、着いたばかりなんです」「城がきっとお気に召さないでしょうね」と、教師は、口早に、尋ねた。「なんですって」と、Kは、ちょっと呆気《あっけ》に取られて、問い返した。そして言葉遣いも優しく、その問いを繰り返した、「城が気に入ったかと、お尋ねなんですね。どうして先生は、城が僕の気には入らないと、端《はな》からお決めなんですか」「余所から来た人には、気に入るはずがないのです」と、教師は言った。Kは、このような場所で相手のいやなことは言うまいと思い、話題を変えて、尋ねた、「たぶん、伯爵をご存じでしょうな」「いいえ」と、教師は言うと、身を転じて去ろうとした。しかし、Kは、ひるむことなく、重ねて尋ねた、「なんですって。伯爵をご存じじゃないのですって」「どうして私ごときが存じあげるはずがありましょう」と、教師は、声をひそめて、言うと、声をはりあげ、フランス語で、付け足した、「無邪気な、子供たちがいるということを、ちっとはご考慮になってください」その言葉を聞くと、Kは、次のように尋ねても構わないと思って、「先生、あなたを、一度、お訪ねしても差し支えないでしょうか。当地には、かなり、長く、滞在する心算《つもり》ですが、もう、今から、すこしばかり、寂しい気がしかけているのです。僕は、百姓たちの仲間ではありませんし、さりとてまた、城の一員でもなさそうですので」「農民たちと城とのあいだには、大した区別がありません」と、教師は言った。「かもしれませんが」と、Kは言った、「だからといって、僕の立場が、なにも変わるわけではありません。一度、お訪ねしてもよろしいでしょうか」「私は、白鳥通りの、肉屋に下宿しています」それは、確かに、招待というよりも、むしろ、住所を伝えたというだけのものにすぎなかったが、Kは、構わずに、言った、「分かりました。お訪ねいたします」教師は、うなずくと、急にまたわめき出した児童の群れを引き連れて、去って行った。そして、間もなく、彼らの姿が、急な下り坂になっている路地で、かき消えた。
Kのほうは、しかし、今しがたの対話に不機嫌になったまま、ぼんやりと立っていた。到着以来、初めて、本当の疲労らしいものを覚えた。ここまでの遠路も、最初のうちは、身にこたえたようには、全く感じていなかった。思えば、連日、冷静に、一歩一歩、歩みつづけてきた自分であった。――ところが、今になって、途方もない緊張の結果が現れてくるとは。よりによって、こんな都合の悪いときに。Kは、新しい知り合いを求めたい気持ちに、堪え切れないほど惹《ひ》かれた。しかし、どんな新しい知り合いでも、目下の疲労を増してゆくだけである。きょうのこの状態では、なんとか無理をしてでも、散策の足を、せめて城の入り口にまで、延ばすことができれば、身に過ぎた上できとしなければなるまい。
そう考えて、Kは、またもや歩みはじめた。しかし、長い道のりであった。つまり、彼のたどっている道が、村の本通りではあったのだが、城山へ通じてはいなかったのである。城山のほうへ近づいては行くのだが、それも束《つか》の間《ま》にすぎず、ふいに、まるで故意の仕業《しわざ》のように、道は、横へ曲がってしまって、城から遠ざかりもしなければ、しかしまた、それ以上、城へ近づいて行きもしない。Kは、こうして歩いているうちに、ついにはきっと道が城のほうへ折れ曲がってくれるに違いないと、絶えず期待していた。そして、そうした期待があったからこそ、ひたすら歩みつづけていたのだった。その道から離れることを躊躇《ちゅうちょ》したのは、明らかに、疲労の所為であった。それにまた、Kは、果てしなく村が長く続いていることにも、びっくりしていた。行手には、次から次へと、窓ガラスに氷のこびりついた、小さな家が、立ち現れて、しかも、一面の雪景色のなかに、人影ひとつなかった――ついに、彼は、この自分をしっかと掴《つか》まえて離さない道から、身をもぎ離すようにして、とある狭い路地に入った。そこは、雪がひとしお深くて、めり込んでゆく足を引き抜くだけでも、重労働であった。汗が吹き出てきた。ふいに、彼は、立ち止まると、もう一歩先へも進めなくなった。
とはいえ、彼は、ひとり、人里離れたところにいるわけでもなかった。左右には、農家が建っていた。彼は、やにわに、雪つぶてを作ると、窓のひとつに向かって投げた。途端に、その家の戸口が開いて――ずっと、これまで、村の道を歩きつづけてきたものの、これが、初めて開けられた戸口であったが――褐色の毛皮の上着を着た、年老いた百姓が、頭を横にかしげて、人なつっこく、弱々しげに、そこに立っていた。「しばらくでも、寄せてもらえませんか」と、Kは言った、「ひどく疲れているんです」彼は、老人がなんと言ったのか、すこしも聞き取れなかったが、一枚の板を彼のほうへ押しやってくれたのを、ありがたい厚意と受け取って、その板により、即座に、雪のなかから脱け出すことができると、ほんの数歩で、もう部屋のなかに立っていた。
薄暗い、大きな一室であった、外から来た者には、最初は、なにひとつ見えなかった。洗濯|槽《おけ》につまずいてよろめいたKを、だれやら、女の人が、片手で引き止めてくれた。隅のほうからは、しきりに、子供のわめき声が聞こえていた。また、別の隅からは、渦巻く煙が立ち込めてきて、薄明るかったあたりをすっかり暗黒と化していた。Kは、さながら雲のなかにでも立っているようであった。「あれは、酔っ払っているんだよ」と、だれかが言った。「お前さんはだれだね」と、高飛車に叫ぶ声がして、それからは、たぶん、先刻の老人に向かって言っているのであろう、「どうしてそんな男を入れてやったりしたんだ。道路をうろつきまわっている者なら、だれかれなしに、入れてやってもいいのかい」「僕は、伯爵お抱えの測量師です」と、Kは、そう言って、いまだに姿の見えない人たちのまえで、弁明しようとした。「ああ、あの測量師なの」と、女の声が言った。そのあとは、水を打ったような沈黙であった。「僕をご存じなのですね」と、Kは尋ねた。「もちろんよ」と、同じ声がやはり手短に答えた。Kを識《し》っているということも、Kをよろしく執り成すことにはならないようであった。
ついに、煙がすこしは散って、Kは、しだいに勝手が分かってきた。どうやら家を挙げての洗濯日らしかった。はたき戸口の近くでは、肌着類の洗濯が行われていた。煙の出所は、しかし、別の隅のほうであった。そこには、Kがいまだかつて見たこともないような大きさの――ざっとベッドが二台ほど入るくらいの――木製の盥《たらい》が据えてあり、そこの湯気の立つ湯につかって、ふたりの男が入浴していた。しかしながら、さらに驚かされたのは、と言って、どこが驚くべき点なのか、しかとは分からなかったが、右の隅であった。部屋の奥の壁にただひとつある、大きな透き間から、たぶん、中庭からであろうが、青白い雪明かりが差し込んで、隅の奥深いところにある、背の高い肘掛け椅子に、疲れて、仰向きに寝るようにして、もたれている女の着衣に、さながら絹のような光沢を与えていた。女は、胸に乳飲み子を抱いていた。そのまわりで、子供が、二、三人、遊んでいた。見受けたところ、百姓の子供たちに違いなかったが、女は、その子らの母親のようには見えなかった。むろん、病気と疲労は、百姓たちにさえも、気品を与えるものである。
「まあ、掛けなよ」と、入浴中の男のひとりが言った。頬から顎へかけて、一面に、ひげでおおわれているばかりでなく、おまけに口ひげまで生やして、口ひげのしたの口を絶えず開けたまま、息をはずませていた。その男は、おどけて見せるように、盥の縁越しに片方の手を突き出して、長持ちのほうを指し示しながら、湯をKの顔一面にはねかけた。その長持ちには、Kを入れてくれた老人が、すでに腰を掛けて、ひとり夢|現《うつつ》の境をさまよっているようだった。Kは、やっと腰を掛けさせてもらえることになって、ありがたかった。それからはもう、だれも、Kのことを気にする者はいなかった。金髪の、いかにも若々しい豊満なからだつきの、洗濯槽のそばの女は、仕事をしながら、低い声で歌っていた。湯を使っている男たちは、しきりと足踏みをしたり、からだを捩《ね》じ回したりしている。子供たちは、そちらへ近づいて行こうとするが、そのたびに、はげしく湯をはねかけられて、追い払われていた。それがKにかかろうと、容赦しなかった。肘掛け椅子の女は、死んだように横たわっていた。胸に抱いたみどりごをすこしも見下ろそうともせずに、ぼんやりと上を見ていた。
確かに、Kは、なにひとつ表情を変えない、美しい、憂いを帯びた、その面影を、長いあいだ、見詰めていたが、そのうちに、眠り込んでしまったに違いない。と言うのは、大声でどなりつけられて、驚いて眼を開けたときには、自分の頭が、わきにいる老人の肩のうえに、載っかっていたからである。男たちは、とっくに入浴を済ませ、服を着て、Kのまえに立っていた。湯ぶねのなかでは、今、子供たちが、金髪の女に監視されながら、追っかけ合いをしている。よくがなりたてる、顔じゅうひげだらけの男のほうが、ふたりのうちでも、肩身の狭いことが、分かった。つまり、もうひとりの、ひげだらけの男よりも背が高くなく、ひげもはるかにすくない男は、物静かで、ゆっくりと物事を考える人であった。胸幅が広く、平たい顔をして、終始、うなだれていた。
「測量師さん」と、その男は、言った、「ここは、あんたがいつまでもいなさるところではありません。失礼はお許し願いますが」「僕も、いつまでもいるつもりはなかったのです」と、Kは言った、「ただちょっと休ませてもらいたかっただけです。もう結構です。それでは、これで、お暇《いとま》します」「さぞかし、もてなしの悪いのを、不思議にお思いでしょうが」と、その男は言った、「わしらのところでは、客を手厚くもてなすようなことはしないんです。わしらには、客なんか、要らないんです」一眠りしたお陰で、いくらか、元気を取り戻し、先刻よりも、いくらか、耳もさとくなっていたKは、その正直な言葉を聞いて、うれしく思った。身のこなしも楽になって、携えていた杖をあちこちで突きながら、彼は、肘掛け椅手の女のほうへ近づいてみたりした。とにかく、その部屋のなかでは、からだつきも、Kが、いちばん大きかった。
「もちろんですとも」と、Kは言った、「あなたがたにとって、客なんか、なんの役に立ちましょう。でも、時には、やはり、人が要ることだって、あるものですよ。たとえば、この僕のように、測量師がね」「それは、わしの知ったことじゃない」と、その男は、ゆっくりと言った、「あんたを呼び寄せたんでしたら、たぶん、あんたが要るんでしょう。としても、それは、例外のようですな。ともかく、わしら、しがない者らは、常例というものを守らねばならんのです。どうか、悪く取らないでいただきたいのですが」「いや、滅相もない」と、Kは答えた、「あなたには、ただただ感謝するばかりです。あなたばかりでなく、ここにおいでの皆さんにも」そう言い終わると、なみいる者らの意表をつくように、Kは、急に身を翻すと、一足飛びに、肘掛け椅子の女のまえに立った。
女は、疲れた青い眼で、まじまじと、Kを見つめた。頭にかぶった、透きとおるような、絹の布が、額のまんなかあたりにまでも、ずり落ちてきていた。胸に抱いた乳飲み子は、眠っていた。「あなたは、どなたです」と、Kは尋ねた。女は、さげすむように――と言っても、その軽蔑がKにたいするものなのか、それとも、彼女自身の返事にたいするものなのかは、分からなかったが――答えた、「城から嫁《か》してきた女よ」
そうしたKの振る舞いも、ほんの束の間であった。いきなり、Kは、左右からふたりの男に挟まれて、そうするよりほかに意志疎通の方法がないかのように、物も言わずに、力ずくで、戸口のところへ引張ってゆかれた。そのとき、老人は、なにが面白いのか、手をたたいて喜んだ。洗濯していた女も、急に気ちがいじみたように騒ぎ出した子供たちのそばで、大笑いしていた。
Kのほうは、ほどなく通りに出て、立っていた。男たちが、敷居のところから、Kを監視していた。またも雪が降っていたが、それにもかかわらず、先刻よりもすこし明るいように思われた。ひげだらけの男が、じれったそうに、叫んだ、「どこへ行くつもりだね。こちらへ行けば城だし、こちらを行けば村さ」Kは、それには答えないで、なにかにつけて勝《まさ》っているにもかかわらず、はるかに如才ないように見受けた、もうひとりの男のほうに向かって、言った、「あなたは、どなたなのです。休ませていただいた礼を、どなたに言えばいいのでしょう」「わしは、製革工の親方のラーゼマンという者です。が、お礼なんか、だれにも、おっしゃるに及びませんよ」それが返事だった。「分かりました」と、Kは言った、「いずれまた会える折があるかもしれませんね」「それは、だめでしょうな」と、その男は言った。その瞬間、ひげだらけの男が、片手を上げて、叫んだ、「こんにちは、アルツール、こんにちは、イェレミーアス」とすると、この村の通りでも、やはり、まだ歩いている人たちがいたんだな。そう思って、Kは、振り返った。
城の方向から、中背の、ひどく痩《や》せぎすのからだに、きちきちの服を着て、顔も瓜ふたつの、若い男がふたり、やって来ていた。顔色は、暗褐色であったが、それにもかかわらず、先のとがったひげが、ことのほか黒々と、際立っている。ふたりは、このような道の状態をも苦にしないで、驚くほど早く、歩調をそろえながら、細い足を運んでいた。「どうしたんだい」と、ひげだらけの男が叫んだ。大声を張りあげないと、先方に言葉が通じないのである。それほど、ふたりは、先を急ぎ、一歩も立ち止まろうとしなかった。「仕事だよ」と、ふたりは、笑いながら、背後に向かって叫んだ。「どこでだ」「飲み屋でさ」「そこなら、僕も、行くところなんだよ」と、Kは、突然、男たち以上に大きな声を張りあげて、叫んだ。
彼は、ふたりに同行させてもらいたい気持ちに、ひどく駆られた。彼らと知り合いになったところで、さして得るところあるようには思えなかったが、彼らが、元気づけてくれる、格好の道連れであることは、明らかであった。ふたりは、Kの言葉が耳に入ったらしいが、ただうなずいただけで、早くも遠のいてしまった。
Kは、あいもかわらず、雪のなかに立ち尽くしていた。彼は、雪のなかから足を上げる気にはなれなかった。どうせその足を、ほんのちょっと先で、またも深い雪のなかへうずめねばならないかと思うと、気が進まなかったのである。製革工の親方とその仲間は、ついにKを厄介払いできたことに満足したらしく、絶えずKのほうを振り返りながら、ゆっくりした足取りで、細めに開けてあった戸口を通り抜け、家のなかに姿を消した。Kは、降り積む雪に閉ざされて、ただひとり取り残されていた。「もしもここに立っているのが、ただ偶然の破目《はめ》にすぎず、故意でなかったとしたら、ちょっとした絶望くらいは味わうところだろうな」という思いが、ふと彼の脳裏に浮かんだ。
そのとき、左手の小家のちっぽけな窓が開いた。閉まっていたときは、たぶん雪の反射を受けていたためであろう、濃い青色に見えていた。その窓は、今開けられてはいても、外を窺《うかが》っている者の顔さえ、すっかりは見えず、眼だけしか、年を取った、褐色の眼だけしか、見えないくらいに、ひどく小さかった。「あすこに立ってるよ」と、女が震え声で言っているのが、聞こえた。「あれが測量師さ」と、今度は、男の声が言った。やがて、その声の主が、窓辺にやって来て、尋ねた。けっして無愛想ではなかったが、しかし、自分の家のまえの路上だけは、何事につけ、けじめをつけておくのが、自分の責任であるかのような、口ぶりであった。
「だれを待っておいでかね」「橇《そり》をですよ。一緒に乗せて行ってもらおうと思って」と、Kは言った。「ここには橇なんか来ないよ」と、男は言った、「ここには交通の便なんかないのさ」「だって、これは、城へ行く道じゃありませんか」「そりゃそうでも」と、その男は言った、「ここには交通の便なんかないのさ」その語調には、ある種の冷酷さが含まれていた。それから、しばらくは、ふたりのあいだに、沈黙が続いた。しかし、相手の男は、明らかに、なにか、思案しているようであった。と言うのは、煙の流れ出ている窓を、いまだにずっと開け放したままにしているからである。「ひどい道だね」と、Kは、相手の思案を助けるために、言った。男は、ただ、「むろん、そうなんだが」と、答えたきりであった。ややあって、しかし、男のほうから言い出した、「お望みなら、わしの橇で送ってあげてもいいよ」「そうしてくれ、頼むよ」と、Kは、喜んで言った、「駄賃はいくら欲しいんだね」「たださ」と、男は答えた。Kは、ひどく呆気にとられた。「だって、あんたは、測量師さんなんでしょう」と、男は、訳を説明した、「とすると、お城の人ということになるじゃありませんか。一体、行先はどちらで」「城さ」と、Kは、口早に言った。「それなら、お断りだよ」と、男は、すかさず言った。「だって、僕は、お城の者だよ」と、Kは、相手の言葉をおうむ返ししながら、言った。「そうかもしれませんがね」と、男は、すげなく言った。「それでは、飲み屋のほうへやってもらいたい」と、Kは言った。「承知しました」と、男は言った、「すぐに橇を持ってまいりましょう」こうした、一部始終から受けた印象では、Kにたいして格別の親切気があるとは、どうしても思えなかった。むしろ、なんとかしてKを家のまえから追い払ってしまおうと、ひどく利己的な、小心者特有の、いかにも杓子定規に近い努力をしているようにしか、考えられなかった。
中庭の門が開いて、座席らしいものがどこにもない、全く平らな、軽荷向きの、小さい橇が、一頭の貧弱な小馬に引かれて、出てきた。そのあとに、背中を丸めた、ひ弱な男が、びっこをひきながら、ついていた。その男の、痩せこけた、真っ赤な、鼻かぜをひいているらしい顔は、頭のまわりにしっかと巻きつけた、羊毛のショールのために、ことのほか小さく見えた。病気なのは、一目瞭然だった。しかも、それを押してまで出てきたのは、Kをなんとかして片づけたい一念からであった。Kは、そのようなことについて、言いかけたが、男は、手を振って、さえぎった。ただKは、この男が馭者《ぎょしゃ》のゲルステッカーであることを、知った。そして、馭者がこの乗り心地のよくない橇を選んだのは、たまたまこの橇のほうが支度ができていたからで、別の橇を引っ張り出すには、ずいぶん時間がかかるということを、聞かされただけであった。
「乗りな」と、言って、男は、鞭で、背後の橇のほうをさした。「君とならんですわろう」と、Kは言った。「わしは歩いて行くさ」と、ゲルステッカーは言った。「なぜだね」と、Kは尋ねた。「わしは歩いて行くさ」と、ゲルステッカーは、繰り返し言ったが、その途端、咳の発作に見舞われて、からだがひどく震え出したので、彼は、やむなく、両足を雪のなかに突っ張り、両手で橇の端をつかまえていなければならなかった。Kは、もうそれ以上はなにも言わずに、背後の橇のうえに腰をおろした。咳はしだいにおさまってきた。橇も動き出した。
Kが、きょうのうちには、行き着くことができると思っていた、かなたの山手の城は、すでにめっきりと暗くなって、再び遠ざかって行った。しかし、しばしの別れに、せめて合図なりとも、Kに送らねば、申し訳ないかのように、かなたからは、うれしげな響きの、鐘の音が聞こえてきた。それを耳にして、すくなくとも一瞬間、彼は、思わずぞっと、心震いした。彼の心がおぼつかなく憧れていたものが、今にも、実現しそうな、そんな不安に襲われたのだった。と言うのも、その鐘の響きが、また悲痛にも聞こえたからである。だが、その大きな鐘は、間もなく、響きやんで、それと入れかわりに、小さな鐘の、弱々しい、単調な音が、聞こえてきた。その小さな鐘は、おそらく、山手にあることはあるらしいが、すでに村の領内にあるらしかった。むろん、この響きのほうが、遅々とした橇の進み方と、見すぼらしいくせに素っ気ない馭者とに、よく似合っていた。
「おい、君」と、Kは、突然に叫んだ――ふたりは、すでに、教会の近くまで来ていた。飲み屋までの道のりも、もう、遠くなかった。Kとしては、すでにここまで来れば、なにか思いきったことをしてもいいと、思った――、「君は、勝手に、君自身の責任で、僕をこうして乗せてまわったりして、僕は、不思議でならないのだが、一体、君は、こんなことをしてもいいのかい」ゲルステッカーは、そう言われても、一向に気にすることなく、小馬のわきを平然と歩きつづけている。「おい、聞こえんのか」と、叫んで、Kは、橇のうえの雪をいくらか掻き集めて、丸め、それをゲルステッカーの耳にまともに命中させた。それで、やっと、ゲルステッカーは、立ち止まって、振り向いた。Kは、いまや、自分のわきにいる相手を、ひどく間近から、つくづくと眺めた――橇のほうが、惰性で、さらにほんのすこしばかり、前方へすべっていたのだった――その背の曲がった、いわば酷使された姿。真っ赤な、疲れきった、細面《ほそおもて》。両頬がどことなく不揃《ふぞろ》いで、一方の頬は平たくこけ、他方の頬は落ちくぼんでいる。聞き耳を立てるようにして、ぽかんと開けたままの口のなかには、わずかに数本の歯がまばらに残っているだけである。それらを見ていると、Kは、いましがた悪意で言ったことを、今は同情に駆られて、繰り返しながら、Kを送り届けたことで君が罰せられるようなことはないかと、ゲルステッカーに尋ねずにはいられなかった。「なにか用ですかい」と、ゲルステッカーは、腑《ふ》に落ちないように、問い返したが、さらに詳しい説明を待ち受けている様子もなく、小馬に掛け声をかけた。橇は、またもや動き出した。
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第二章
ふたりが飲み屋のほとんどそばまで来たとき――Kは、道の曲がり角で、あれが飲み屋だと、分かったが――もうすっかり暗くなっているのに驚いた。そんなに長時間、外出していたのだろうか。ざっと彼の計算では、ほんの一時間か、二時間程度にすぎないと、思っていたのに。彼が出掛けたのは、朝だった。その後、ついぞ空腹を覚えたこともなく、つい先刻までは、ずっと一様な昼間の明るさだったのが、今になって急にまっ暗になるとは。「日が短くなったんだ、日が短くなったんだ」と、彼は、自分に言い聞かせながら、橇《そり》から足をすべらせるようにおりると、飲み屋のほうへ歩いて行った。
飲み屋の入り口のまえの小さな階段のうえでは、彼にとって非常に好都合なことに、亭主が立っていて、手にした角灯を差し上げ、彼を迎えてくれた。Kは、ちらと馭者《ぎょしゃ》のことを思い出して、立ち止まった。どこか暗闇のなかで、咳が聞こえた。馭者であった。まあ、いい、あの男とは、きっとまた、近々のうちに、会えるだろう。階段を上り、つつましげにお辞儀をする亭主のわきに立ったとき、初めて、Kは、戸口の両側に、それぞれ、ひとりの男が控えているのに気づいた。彼は、亭主の手から角灯を取って、そのふたりの顔を照らした。それは、すでにKが出会ったことのある、あのアルツールとイェレミーアスという名で呼び掛けられていた男たちであった。ふたりの男は、ここでは、敬礼をした。Kは、自分の軍隊時代を思い出して、思わず笑った。彼にとっては、楽しかったころであった。
「おまえたちは、何者だね」と、彼は尋ねて、ふたりを代わる代わる眺めた。「あんたの助手でさ」と、ふたりは答えた。「確かに、助手なんでして」と、亭主が、低い声で、証言した。「なんだって」と、Kは聞き返した、「すると、僕が後から来るように手はずして、今待ち受けている、僕の昔なじみの助手だと、言うのかい」そのとおりだとの返事であった。「まあ、いい」と、Kは、ちょっと間をおいてから、言った、「来てくれたのは、いいが」さらにKは、しばらく間をおいてから、続けた、「それにしても、ひどい遅刻じゃないか。おまえたちは、とてもだらしがないぞ」「道が遠かったもんで」と、男のひとりが言った。「道が遠かったって」と、Kは、相手の言葉を繰り返しながら、「でも、おまえたちが城からやって来ているのに、会ってるじゃないか」「へい」と、ふたりは言ったきりで、それ以上弁解はしなかった。「道具はどこに置いてあるんだ」と、Kは尋ねた。「道具なんか持ってないです」と、ふたりは答えた。「あのおまえたちに預けておいた道具のことだよ」と、Kは言った。「道具なんか持ってないです」と、ふたりは、同じことを繰り返した。「ああ、呆《あき》れ返った手下どもだ」と、Kは言った、「測量のことは、多少とも、心得ているだろうな」「いいや」と、ふたりは答えた。「それにしても、僕の昔なじみの助手なら、それくらいの心得はあるはずだが」と、Kは言った。ふたりは、黙っていた。「まあ、ともかく、入れよ」と、Kは言って、ふたりを後ろから家のなかへ押し入れた。
それから、三人で、店のとある小さなテーブルに向かい、あまり口をきかずに、ビールを傾けていた。Kを中央に、左右に助手が掛けていた。ほかには、農夫たちがひとつのテーブルを囲んでいるだけで、ちょうど昨晩の様子とよく似ていた。「おまえたちは難儀だな」と、Kは言って、すでにそれまで幾たびとなくしていたように、ふたりの顔を見比べながら、「一体、おまえたちの区別をどうつければいいんだい。名前が違っているだけで、ほかは、ひどく似通っている。まるで」――彼は、そこで、言葉に詰まったが、やがて、思わず続きの文句が口を衝《つ》いて出た――「ほかは、まるで蛇のように、似通っているじゃないか」相手のふたりは、苦笑した。「名前でなくったって、みんな、ちゃんと見分けてくれますよ」と、ともに弁解して言った。「そりゃそうだろう」と、Kは言った、「現に、僕自身だって、その現場を目撃したさ。だが、僕は、自分のこの眼で見定めないと、承知できないんだ。ところが、この眼では、さっぱりおまえたちの見分けがつかん。それで、今後は、おまえたち両人を、ただ一個の人間のように扱って、ともにアルツールと呼ぶことにしよう。確か、どっちかが、そういう名前だったはずだが。あるいはおまえのほうだったかな」――そう、Kは、一方の男に向かって、尋ねた。「いいや」と、その男は答えた、「わしはイェレミーアスなんで」「まあ、どっちだっていいさ」と、Kは言った、「今後は、おまえたちを、ともにアルツールと呼ぶことにするからな。僕が、アルツール、どこそこへ行け、と言ったら、ふたり揃《そろ》って行くんだ。アルツール、この仕事をしろ、と言いつけたら、それをふたり揃ってするんだ。なるほど、おまえたちを別々の仕事に分けて使うことができないのは、僕にとって、大きな損失に違いないが、またそのかわり、すべて僕が命じたことにたいしては、おまえたちが、一体となって、共同で、責任を負うという利得もあるわけだ。おまえたちのあいだで、ひとつの仕事をどう分け合おうと、構やしないが、ただ、ふたりが責任のなすり合いして、言いのがれをすることだけは、断じて許さん。僕にとっては、おまえたちふたり合わせて、一個の人間だからな」男たちは、Kの言ったことについて、じっと考え込んでから、言った、「それは、わしらにとっちゃ、なんとも不愉快なことでさあ」「そりゃそうだろう」と、Kは言った、「むろん、おまえたちにとっては、不愉快なことに違いないが。とにかく、それで押し通すからな」すでにKは、つい先刻から、農夫のひとりが、忍び足で、テーブルのまわりを歩きまわっているのが、眼についていた。ついに、その農夫は、意を決したように、助手のひとりのほうへ歩み寄って、なにやら耳打ちしようとした。
「はばかりながら」と、Kは言って、片方の手でテーブルのうえをたたき、立ち上がると、「これは、僕の助手たちだし、目下相談中なんだ。だれも、僕らの邪魔をする権利はないはずだぞ」「どうぞ、どうぞ、ご勘弁のほどを」と、その農夫は、おどおどしながら、言うと、あとずさりに仲間のところへ帰って行った。すると、Kのほうも、元どおりにすわりながら、「なにはともあれ、これだけは、ぜひお前たちに守ってもらわないといけないんだが」と、話を続けた。「おまえたちは、僕の許可なしには、だれとも口をきいてはならん。僕は、当地では、余所《よそ》者だ。おまえたちが僕の昔なじみの助手なら、おまえたちだって、やはり、余所者じゃないか。そこで、僕たち、三人の余所者としては、一致団結しなくちゃいかん。さあ、賛成なら、僕におまえたちの手を差し出すんだ」ふたりは、いかにもいそいそと、Kに向かって、手を差しのべた。「そんないかつい手なら、引っ込めろ」と、Kは言った、「しかし、僕の命令に変わりはないぞ。僕は、これから、寝に行くが、おまえたちも、そうするがいい。きょうは、うかつにも、仕事日を台無しにしてしまったが、あすは、早朝から、仕事を始めないといけない。おまえたちは、ぜひとも、城へ行くための橇を一台手に入れて、六時には、この家のまえで、用意を整えていてもらいたい」「承知しました」と、一方の男が言った。すると、他方の男が、口を挟んで、「おまえは、承知しましたなんて、言ってるが、無理な話だってことは、承知のうえじゃないか」「静かにしろ」と、Kは言った、「どうやら、おまえたちは、そろそろ、別人になりたがっているようだな」ところが、最初に口を切った男のほうまでが、そのとき、すかさず言った、「実は、こいつの言うとおりで、無理な話なんで。許可がなくっちゃ、余所者は、だれひとり、城へは入れてもらえないんです」「その許可とやらの請願は、どこですることになっているんだ」「存じませんが、たぶん、執事さんのところでしょうな」「それじゃ、そこの電話で、請願するとしよう。すぐに執事へ電話しろ、ふたりでな」
ふたりは電話機のほうへ走って行くと、電話をつないでもらって――ふたりは、電話機のところで、我先にと、押し合っていた。外見《そとみ》は、おかしいほどに従順であった――Kが、あす、ふたりを連れて、城へ行っても差し支えないかどうかを、尋ねた。「だめだ」と言う先方の声が、Kのいるテーブルのところまで、聞こえた。もっとも、先方の返事は、もっと詳しくて、「あすはおろか、ほかのときだって、だめだ」とのことであった。「僕が自分で電話してみよう」と、言って、Kは、立ち上がった。Kと助手たちの存在が、それまで、あの思いもかけぬ一農夫の一件を除いては、ほとんど看過されていただけに、Kの今の発言は、そこに居合わせた者らの注意を、ひとしく、かき立ててしまったのである。皆は、Kと同時に、いっせいに立ち上がった。亭主がその連中を押し戻そうとしたが、そのかいもなかった。連中は、電話機のそばに寄り集まってきて、Kのまわりを、透き間もなく、半円形に囲んだ。Kにはなんの返事ももらえないだろう、というのが、彼らのあいだの、圧倒的な意見であった。Kは、静かにしてくれないか、なにもおまえたちの意見を聞かせてもらわなくともいいのだから、と、彼らに頼まざるを得なかった。
受話器からは、なにやら、低いさざめきが、しきりと聞こえてきた。それは、Kが、ふだん電話を掛けたときには、ついぞ耳にしたことのない音であった。無数の子供の声のさざめきのような――しかし、実は、そうではなくて、はるかかなたの、途方もなく遠いところから、流れてきている、合唱の声だったのだが――そのさざめきのなかから、しだいに、ひとつの声が際立ってくるように思った途端、その甲高《かんだか》い、しかも、力強い声が、はやくも、耳を打っていた。それは、ただ貧弱な聴覚に訴えるだけでは飽きたらないで、もっと深いところへまで染みとおることを必要としているような声であった。Kは、電話で話すことも忘れて、じっと耳を澄ましていた。左の腕で電話台のうえに肘《ひじ》を突いたまま、じっと耳を澄ましていた。
そうして、どのくらい時がたったか、彼には覚えがなかった。亭主が彼の上衣を引っ張って、彼に使いの者が来ていることを知らせるまでは、すっかり我を忘れていた。「どいてろ」と、Kは、つい激して、叫んだが、おそらく、電話に向かって叫んだのであろう。そのとき、先方で、だれやら、電話口に出たからであった。それから、次のような通話が、進められて行った。「こちらはオスヴァルトだが、そちらは、どなたです」と、先方は、呼び掛けてきた。いかめしい、高慢ちきな声だったが、Kには、なんだか、軽い言語障害があるように、思われた。相手の声は、柄にもなく、いかめしさをことさらに加えることによって、そうした言語障害を気づかれまいとしているようであった。Kは、名乗ることをためらった。電話に対しては、立ち向かう術《すべ》がなかったからである。相手のほうは、勝手に雷声《かみなりごえ》で、こちらを怒鳴りつけることもできれば、受話器を置くことだってできる。そして、Kは、もしかすると、かなり重要かもしれない道を、自分で閉ざすことにもなりかねないのである。Kのためらいは、先方の男をいら立たせた。「そちらは、どなたです」と、その男は、繰り返すと、さらに言い添えた。「そちらのほうから、そうたびたび、電話を掛けてくださらなければ、とてもありがたいんですがね。つい、いましがた、電話してきたばかりじゃありませんか」Kは、それには取り合わないで、即座に決心すると、「こちらは、測量師さんの助手ですが」と、告げた。「どちらの助手かね。またその使い主というのは、どちらの測量師かね」Kは、そのとき、ふと昨晩の電話のことを思い出した。「フリッツにお尋ねください」と、彼は、手短に、言った。その効果は、言った当人自身が驚いたくらいに、てきめんであった。しかし、その効果てきめんについて驚いた以上に、もっと彼が驚嘆したのは、城における勤務の統制ぶりについてであった。すぐに、次のような答えが返ってきたのである。「それなら承知ずみだ。あの永遠な測量師のほうなんだな。なるほど、なるほど。それで、ほかになにか。どちらの助手のほうだね」「ヨゼフです」と、Kは言った。彼の背後にいる農夫たちのつぶやきが、ちょっと彼の気持ちをかき乱した。明らかに、彼らは、Kが正しい名乗りをしなかったことに、不承知なのだ。しかし、Kのほうは、彼らに構っている暇はなかった。電話での話のほうに、心を取られていたからである。「ヨゼフだって」と、先方は問い返してきた。「助手たちは、ええと」――そこで、ちょっと間《ま》をおいた。明らかに、だれかほかの者に、名前を聞きただしているに違いなかった――「アルツールとイェレミーアスという名のはずだが」「それは、新米の助手のほうです」と、Kは言った。「いや、古参の連中だ」「新米です。わたしのほうが、きょう、やっと測量師さんに追いついた、古参の助手です」「そんなはずはない」と、今度は、怒鳴り返してきた。「すると、わたしはだれだと、おっしゃるのです」と、Kは、それまでどおり落ち着いた調子で、尋ねた。すると、やや間をおいてから、同じ言語障害のある、同じ声が、答えたが、それは、まるで別人のような、一段と深みのある、物々しい声であった。「おまえは古参の助手だ」
Kは、その声の響きのほうに聞き惚れて、あやうく次の問いを聞きもらすところであった。「それで、用事は、なんだね」Kは、もうその辺で、さっさと、受話器を置いてしまいたかった。こんな話し合いから、もうこれ以上、なにも期待するものがなかった。ただ止《や》むなく、行きがかりで、口早に、「わたしの主人は、いつ、お城へまいればいいのでしょうか」と、尋ねるほかなかった。「断じてそれには及ばぬ」との返事である。「分かりました」と、Kは言って、受話器を掛けた。
背後の農夫たちは、すでに、すっかり彼の身近にまで詰め寄っていた。助手たちは、幾度もKのほうを横目で見やりながら、農夫たちをKに寄せつけまいとして、大わらわだった。しかし、それも、ほんの狂言にすぎないように見受けられた。現に、農夫たちも、電話の結果に満足して、そろそろ遠ざかりかけていたからである。そのとき、農夫たちの群れを後ろからかき分けて、足早に、ひとりの男がやって来たかと思うと、Kのまえでお辞儀をして、彼に一通の手紙を渡した。Kは、その手紙を片手にしたまま、その男の顔をつくづくと眺めた。一瞬、彼には、その男のほうが、手紙よりも重要なように、思えたからであった。その男と助手たちのあいだには、非常に似通った点があった。助手と同じように痩《や》せぎすのからだに、同じようにきちきちの服を着て、動きが軽快で敏捷《びんしょう》なところまでも似ていたが、やはり、全くの別人であった。むしろこの男のほうを助手に欲しいくらいだ、と、Kは思った。その男には、どことなく、あの製革工の親方のところで見かけた、乳飲み子を抱いた女を思い出させるものがあった。ほとんど白ずくめに近い身なりで、その服は、確かに、絹の仕立でではなく、そこらのだれもが着ているような冬着ではあったが、絹物のような華奢《きゃしゃ》な感じがあった。明るく屈託のない顔をして、どんぐり眼だった。絶えずたたえている微笑は、相手の気持ちを並々ならず朗らかにせずにはおかない。男は、その微笑を払いのけようとするかのように、片手で顔をなでたが、しかし、微笑は消えなかった。
「おまえは、だれだね」と、Kは尋ねた。「バルナバスと申しまして、使いの者です」物を言うとき、男の唇が、いかにも男らしく、しかも、なだらかに、開閉していた。「どうだい、ここが気に入ったかい」と、Kは、尋ねて、農夫たちを指差した。Kは、いまだにずっと、農夫たちにたいする関心を失っていなかったのである。農夫たちは、全く苦境にさいなまれてきた顔をして――その頭蓋は、天辺《てっぺん》をぺちゃんこに打ちひしがれたかのように、見受けられたし、またその面相は、打ちひしがれる苦痛に堪えているうちに、いつのまにか、そうなってしまったらしかった――厚く反った唇の、口をぽかんと開けたまま、こちらを見ていた。だが、それも束の間で、もうこちらを見ていないようでもあった。と言うのは、時折、彼らの眼差《まなざし》が、あらぬほうに逸《そ》れて、こちらへ戻ってくるまでは、ずっと、なにかつまらぬ対象に、釘づけになっていたからである。次いで、Kは、助手をも指差した。助手たちは、互いに抱き合ったまま、頬と頬をすりつけて、にやにやしていた。卑下とも愚弄とも分からないような、薄笑いであった。こうして、Kは、相手の男に向かって、これらすべての連中を、さながら特別の事情によって自分に押しつけられた従者たちをでも紹介するかのような態度で示して、バルナバスが、以後はかならずあなたと彼らのあいだのけじめだけはつけます、と言ってくれることを、暗に期待した。――この期待のなかには、親近感がこめられていた。その親近感こそ、今のKには、大切だったのである。――ところが、バルナバスは――全く邪気がなかったことは、もちろんで、それは、顔にも現われていたが――いましがたのKの問いには全然応じないで、ちょうどしつけのいい下僕が、どうやら自分に向けられたらしいというだけで、その辺があやふやな主人の言葉は、すべて聞き流してしまうように、あっさりと聞き流してしまって、ただ相手の問いの意味だけは分かったことを示すためであろうか、あたりを見まわしていた。そして、農夫たちのなかの顔なじみには、手を振って、挨拶を送ったり、助手たちとも、二、三、言葉を交わしたりしていたが、そうした動作がすべて、なんのこだわりもなく、自主的で、まぎれもなくまわりの連中から際立っていた。
Kは――体よくはねつけられたが、別に恥ずかしい思いもしないで、手にした手紙のほうに立ち返って、封を切った。その文面は、次のとおりであった。
「前略。貴下は、ご承知のように、お上《かみ》への勤務に採用されることになりました。貴下の直属する上官は、当村の村長であり、貴下の仕事および給与条件に関する、すべて詳細なことも、村長から貴下にお伝えするはずでありますが、貴下もまた、村長にたいしては、顛末《てんまつ》の報告をせねばならぬ義務を負うわけであります。とは申しても、しかし、本官も、絶えず貴下から眼を離さない所存であります。この書状を持参しましたバルナバスが、今後は、貴下の種々の望みを承って、本官に報告するために、時折、貴下のもとにお伺いすることになりましょう。本官は、いつにても喜んで、貴下の、できうる限り、お気に召すように、取り計らう所存であります。その点もお忘れなく。働く人たちにいつも満足していただくことが、本官にとっては、肝心な点であります」
署名は、読み取りにくかったが、署名に添えて、「×庁長官」という印が押してあった。「待ってくれ」と、Kは、お辞儀をしかけたバルナバスに向かって、言った。それから、亭主を呼んで、どこか一室へ自分を案内してくれるように、と頼んだ。彼は、しばらく、その手紙を手に、ひとりでいたかったのである。ところが、そのときふと、自分のほうではどのようにバルナバスにたいして好意を寄せているにもせよ、所詮、バルナバスは、ただの使いの者にすぎないことを、思い出して、彼は、バルナバスのためにビールを注文してやった。そして、バルナバスがそのビールをどのような態度で受け取るだろうかと、注意して見ていると、バルナバスは、明らかに、ひどく喜んで受け取って、すぐさま飲みはじめた。そこで、Kは、亭主と一緒に、立ち去った。この小さな家のなかで、Kのために提供できる部屋と言えば、狭い屋根裏部屋よりほかになかった。しかし、そうするにしても、いろいろと面倒なことが起こった。それまでそこで寝ていた女中ふたりを、どこかほかの部屋へ、入れてやらねばならなかったからである。と言っても、実のところは、女中たちを片づけることだけしかしなかった。部屋のなかは、それ以外は、全く今までどおりと変わりなくて、ひとつきりのベッドには敷布さえもなく、ただ二、三の枕と一枚の馬衣のようなものがあるだけで、すべては昨夜来の状態のままであった。壁には、聖人画と兵士の写真とが、二、三枚、はってある。一度も風を通した気配さえなかった。明らかに、このたびの新客が長逗留しないことを、望んでいるらしく、その客を引き止めるための手段は、なにひとつとして、した形跡がなかった。しかし、Kは、すべてに承服して、馬衣に身をくるむと、机に向かって腰を掛け、一本の蝋燭《ろうそく》の光をたよりに、もう一度、手紙を読み返しはじめた。
それは、けっして、統一の取れた文面ではなかった。さながら彼を自主独立の人間のように扱って、当人自身の意志を認めているかのように、彼に語りかけている箇所があった。すでに書き出しの挨拶からしてそうであったし、Kの望みに関する箇所もそうであった。かと思うと、また、明らさまにせよ、あるいは遠回しにせよ、あの長官の席からはほとんど眼につかないような、一介の労働者のように、彼を、扱っている箇所もあった。長官は、「絶えず貴下から眼を離さない」ように、努力せねばならないらしいが、Kの上官は、村長だけであり、しかも、その村長にたいして、Kは、顛末の報告をする義務をすら負っているのである。村長の同僚と言えば、ただひとり、村の警官くらいのものであろう。これらの点は、疑いもなく、矛盾である。しかも、その矛盾が、はなはだ歴然としているので、故意に仕組まれたものとしか考えられなかった。こうした文面になったのも、優柔不断が手伝っているのではないかという考えは、ほとんどKの脳裏をかすめもしなかった。あのような官庁にたいして、そうした考えを抱くことは、愚の骨頂であった。むしろ、彼は、そこに、彼の自由な裁量にゆだねられた選択を、見て取ったのである。この手紙がさまざまに指図していることを、彼が、どう解するか、すなわち、城とのあいだに、絶えず目立つような、しかも、それさえただ見せかけにすぎない関係を維持している、村の労働者として終始しようとするのか、それとも、村の労働者とは見せかけで、実際は、全作業条件をバルナバスの通告によって決定されるに任せるか、その点が彼の自由にゆだねられていたのである。Kは、選択をためらわなかった。たといこれまで積んできた経験がなかったとしても、けっして、ためらうようなことはなかったであろう。城の殿方たちからできうる限り遠くへかけ離れたところで、村の労働者になりきっていれば、かえって城でひとかどの成果を獲得することができるに違いない。村のあの連中だって、今はまだ自分にたいしてあのように不信の念を抱いているが、そのうちに自分が、たとい彼らの友人でなくとも、同村民ということにでもなれば、きっと口をききはじめるだろう。そして、いつかゲルステッカーとかラーゼマンと全く区別のつかない人間になった暁には――ぜひ早急にそうならないといけないのだ。すべては、このこと次第なのだから――城の殿方たちとその恩恵にのみ頼っている限りは、永久に閉ざされているばかりか、自分のこの眼にさえも見えないままで終わりそうな、すべての道々が、たちまちにして、自分のまえに開けてくるに違いない。むろん、なんらかの危険は、存在するだろう。手紙のなかでも、それは、十分に強調されていた。いや、それどころか、それが免れがたい危険であるかのように、なんだか愉快げに述べられてあった。労働者の身分とは、こういうものなのだ。勤務、上官、作業、給与規定、報告書、労働者など、そうした言葉を、手紙は、網羅していた。こうした事柄とは別の、やや個人的な問題に触れる場合でさえ、右のような立場から述べられているのであった。Kは、労働者になろうと思えば、いつでもなることができた。だが、そのときは、全く物すごいほどに真剣になって、ほかの方面へはすこしの脇目《わきめ》も振らないつもりであった。Kにも、現実的な拘束でおどされているのでないことは、分かっていた。そんなものは、恐《こわ》くなかった。ましてや、今の場合、すこしも恐くなかった。もっとも、意気阻喪させてゆくような環境とか、打ち続く幻滅にたいする慣れとかが持つ威力、たえまなくひそかに働く、さまざまな影響の持つ威力は、もちろん、Kとしても、恐いことは恐かったが、しかし、こうした危険とは、敢然と、戦ってゆくよりほかに術《すべ》はなかった。確かに、手紙も、もし万一戦いになるようなことでもあったら、それは、Kのほうが不敵にも戦端を開いたからだという見解を、けっして隠そうとはしていなかった。ただ、いかにも巧妙に、ほのめかしてあっただけである。それゆえ、良心に不安を感じている者でありさえすれば――良心に不安を感じている者であって、良心にやましいところのある者ではないが――かならずそれに気づくはずであった。それは、Kの雇用に関する「ご承知のように」という一句であった。Kは、すでに来着を知らせておいたし、それ以来、自分が雇用された身であることくらいは、手紙が語っているように、承知ずみであった。
Kは、壁から画を一枚取りはずして、釘にその手紙を釣り下げた。この部屋に住むとすれば、ここに手紙を掛けておくほかはあるまい。
それから、Kは、階下の店へ降りて行った。バルナバスが、助手たちと一緒に、ひとつの小さなテーブルを囲んですわっていた。「おや、まだいてくれたんだね」と、Kは、何がなしに言った。バルナバスに会ったのが、よほど嬉しかったからにすぎない。バルナバスは、やにわに跳び上がった。農夫たちは、Kが入って来るや否や、立ち上がって、Kに近づいてきた。絶えずKのあとを追いかけるのが、すでに彼らの習慣になっていたのだ。
「一体、のべつ幕なしにそうして、僕になんの用があるんだ」と、Kは怒鳴りつけた。農夫たちは、それに気を悪くもしないで、ゆっくりと回れ右して、自分の席のほうへ戻って行った。そのうちのひとりが、行きがけに、なんだか訳の分からない薄笑いを浮かべながら、こともなげに、弁解した、「いつもなにかニュースが聞けるんでね」すると、その訳の分からない薄笑いに、ほかの数人の者たちも、同調していた。今言った男は、ニュースが食べ物ででもあるかのように、舌なめずりした。Kは、なにも機嫌取りを言わなかった。彼らが、多少なりとも、Kにたいして尊敬の念を抱くようになれば、結構なことであった。ところが、彼がバルナバスのそばに腰を下ろすや否や、彼は、うなじに、ひとりの農夫の息吹きを感じた。塩入れを取りに来たというのが、その男の口上であった。しかし、Kは、地団太を踏んで、怒った。すると、男のほうも、塩入れを持たずに、走り去った。実のところ、Kをやっつけるくらいのことは、造作なかった。例えば、Kに向かって農夫たちをけしかけさえすればよかった。農夫たちの執拗な関心のほうが、彼には、ほかの族《やから》の隔て心よりも、悪質なように思われたのである。それどころか、彼らの執拗な関心も、裏返せば、また隔て心に違いなかった。と言うのは、もしも今Kが彼らのテーブルに向かって腰をかけたら、きっと彼らはそこにじっとすわりつづけてはいなかったに違いないからだった。ただバルナバスが居合わせたために、Kは、騒ぎを起こすのを遠慮したにすぎない。それでも、彼は、やはり、おどかすように彼らのほうを振り返ると、彼らも、彼のほうへ顔を向けていた。彼らは、しかし、それぞれに自分の席に腰を落ち着けて、別に相談し合うわけでもなく、また互いの間にあからさまな結束があるわけでもなく、ただ皆が一斉に彼のほうを見詰めているという点で、結束があると言えば言えるくらいで、じっとすわっていた。そうした様子を見ると、自分のあとを付け回しているのは、けっして悪意からではないように、Kには思われてきた。もしかすると、彼らは、本当に、Kに用事がありながら、ただそれを口に出して言えないだけにすぎないのかもしれなかった。またそうでなければ、もしかすると、無邪気のせいにすぎないのかもしれなかった。どうやらここが無邪気の本場のように思われたからであった。確かに、客のところへ運ぶために、コップ一杯のビールを両手で持ちながら、さっきから立ち止まって、Kのほうをうかがい見ながら、台所の小さなのぞき窓から身を乗り出すようにして呼び掛けている、あの女将《おかみ》の声をさえも、うかと聞き流している亭主だって、無邪気そのものではなかろうか。
心がやや落ち着いてくると、Kは、バルナバスのほうへ顔を向けた。助手たちを遠ざけたかったが、口実が見つからなかった。そのうえ、ふたりは、静かに、それぞれのビールを注視していた。「手紙は」と、Kは口を切った、「読んだがね。おまえは、内容を知っているのかい」「いいえ」と、バルナバスは答えたが、その眼は、口以上に、物を言っているようであった。もしかすると、Kは、誤って、先ほど百姓たちを悪意に解したように、今度はバルナバスを善意に解しているのかもしれなかった。しかし、バルナバスが眼前にいるのが、彼にとって、心地よいことには、変わりなかった。
「手紙には、おまえのことも書いてあったよ。つまり、折に触れて、おまえに、僕と長官とのあいだの通信を、仲次ぎさせるという訳さ。それで、僕も、おまえが内容を知っているものと、思ったんだ」「ただ、わたしは」と、バルナバスは言った、「手紙をお渡しして、お読み終わりになるまで待つように、そして、あんたが必要だと思われるのだったら、口頭か、文書で、お返事をいただいて帰るように、仰せつかっただけでして」「よし、分かった」と、Kは言った、「わざわざ手紙にするまでもあるまい。その長官殿に――一体、なんという名前かな。署名が読み取れなかったのだが」「クラムです」と、バルナバスが答えた。「それじゃ、そのクラム氏に、ご採用、ならびに、格別のご好意を賜ったことにたいし感謝しております、と伝えてくれ。このような格別のご好意は、僕としても、まだ当地でなんの実績をも挙げていないだけに、ひとしおありがたいのだ。僕は、完全に長官のご意向どおりに振る舞うつもりだ。差し当たって、きょうは、これといった望みもない」こまかに注意して聞いていたバルナバスは、Kのまえで今の伝言を復唱させてくれるように、頼んだ。Kが同意すると、バルナバスは、すべてを、一語もたがえずに、復唱した。そして、暇《いとま》乞いするために、立ち上がった。
Kは、それまで終始、相手の顔をしげしげと打ち眺めていたが、今また、名残り惜しげに、見直した。バルナバスは、背丈がほとんどKと変わらなかったのに、なんだかKにたいしては伏し眼がちのように思われた。しかし、それは、ほとんど卑下に近い気持ちの現れであろう。この男が人に恥ずかしい思いをさせるなんて、全くあり得ないことであった。もちろん、この男は、一介の使いの者にすぎず、配達させられる手紙類の内容をも知らない。しかし、たとい使いの用向きについてはなにひとつ知らなくとも、その眼差、その微笑《ほほえ》み、その足の運びまでが、立派に、使いの役目を果たしているように思われた。そこで、Kは、握手するために、相手に手を差しのべた。それには、バルナバスも、明らかに、驚いたようであった。彼は、ただお辞儀だけで済ますつもりだったからである。
バルナバスが帰って行くと同時に――と言っても、彼は、戸口を開けるまえに、なおしばらくは、片方の肩でドアにもたれかかったまま、もうことさらだれに向けるのでもないような眼差で、店のなかを一渡り見まわしていたが――助手たちに向かって、Kが言った、「すぐに部屋へ行って、僕の書類を取って来る。それから、差し当たっての仕事について相談するとしよう」助手たちも付いてこようとした。「ここに居るんだ」と、Kは命じた。それでも、ふたりは、あいかわらず付いてこようとした。Kは、一段と厳しい語調で、今の命令を繰り返さねばならなかった。玄関口には、もうバルナバスの姿はなかった。しかし、たった今、立ち去ったばかりのはずなのに、やはり、家のまえにも――また新しい雪がちらついているだけで――彼の姿が見当たらなかった。Kは、「バルナバス」と、呼んでみた。返事がない。もしやまだ家のなかに居るのではなかろうか。それ以外に、可能性はないように思われた。それにもかかわらず、Kは、なおも声の限り、バルナバスの名を叫びつづけた。その名は、雷鳴のように、夜陰をぬってとどろいた。すると、そのとき、はるかかなたからではあったが、かすかに返事があった。すると、もうバルナバスは、そんなに遠くへまでも行っていたのか。Kは、彼を呼び返すと、同時に自分のほうからも出迎えに行った。互いに落ち合ったふたりの姿は、もう飲み屋からは見えなかった。
「バルナバス」と、Kは言ったが、その声の震えを押さえることができなかった。「まだほかに言っておきたいことがあったんだ。実は、城からなんとかしてもらう必要があった場合に、お前がたまにやって来てくれるのを、ただ当てにしているだけでは、いかにも都合が悪いということに、気づいたのさ。今だって、たまたまおまえに追いつけたからいいようなものの、もしも掴《つか》まえそこなっていたら――おまえの足の早さと言ったら、まるで飛ぶようだな。僕は、おまえがまだ飲み屋にいるものと、てっきり思っていたんだが――この次におまえが現れる日を、どんなに首を長くして待ち受けねばならなかったか、知れやしないところだった」「それなら」と、バルナバスは言った、「あんたの指図どおりの、決まった時に、いつでも、わたしがまいるように、あんたから長官に願い出てくれたっていいんですよ」「いや、それだけじゃ十分でないのさ」と、Kは言った、「もしかすると、一年間も、おまえに伝言を頼むことが皆無かもしれないが、しかしまた、おまえが帰ってからちょうど十五分後に、なにか一刻も猶予がならない要件ができるかもしれないからだ」「では」と、バルナバスは言った、「長官とあんたとのあいだに、なにかひとつ、わたしを使うのとは別の連絡方法を作ってくださるように、わたしから長官に申しあげますかな」「いや、いや」と、Kは言った、「とんでもない。僕は、ただついでに、この件を述べたまでだ。今回は、運よく、おまえに追いつけてよかったよ」「それでは」と、バルナバスは言った、「一緒に飲み屋へ引き返して、あちらで、あんたの新しいお指図を受けましょうか」すでにバルナバスは、飲み屋のほうへ向かって、一歩踏み出していた。「バルナバス」と、Kは言った、「それには及ばないよ。しばらくおまえに同道するとしよう」「どうして飲み屋へは帰りたがらないんです」「あすこの連中がうるさいからさ」と、Kは言った、「百姓どもの厚かましさは、おまえ自身でも、眼に余ったはずだ」「それなら、あんたの部屋のほうへ行けばいいです」「あれは、女中たちの部屋なんだ」と、Kは言った、「きたなくて、息が詰まりそうだよ。あすこに引きこもっていたくないばっかりに、しばらくおまえに同道しようと思ったんだ。ただ、おまえは」と、Kは、相手のためらいに最後の止《とど》めを刺すために、言い添えた、「僕に、腕を貸してくれさえすればいい。おまえのほうが、足元が確かだからな」そして、Kは、縋《すが》るように、相手と腕を組んだ。あたりは、もう真っ暗闇であった。Kには、相手の顔が全然見えなかった。相手の姿も、おぼろげだった。そんな訳で、彼は、すでに先ほどから、相手の腕を掴まえようとして、手さぐりを続けていたのだった。
バルナバスは、折れた。ふたりは、しだいに飲み屋から遠ざかって行った。むろん、Kは、自分がどんなに気力の限りを尽くしたところで、バルナバスと同じ歩調を保ちつづけるのは、不可能で、そのために、バルナバスの足手まといになっていること、そして、普通の状況のときであったら、こうした枝葉のことで、きっと、なにもかもが頓挫《とんざ》をきたしてしまうに違いないことを、痛感していた。現に、今歩いているのは、けさ、Kが、雪にうずまった、あの脇道のような、間道つづきであった。バルナバスに支えられているからこそ、そうした間道を抜けて来ることもできたのである。とは言え、Kは、この際、そうした心遣いをできうる限り控えることにした。バルナバスが黙っているので、彼は、胸を撫でおろしていた。そうして、黙々とふたりが歩いているうちに、バルナバスにとってもやはり、歩きつづけるということだけが、ふたり一緒にいることの目的にさえも、いつしか、なってゆくらしかった。
ふたりは、休みなく、歩いて行ったが、Kには、行き先が分からないままであった。物のあやめさえも分からなかった。すでに教会のわきを通り過ぎていたのかどうかさえも、彼にはさっぱり分からなかった。ひたすら歩みつづけるうちに、苦労が積もり積もって、彼は、自分の考えを統一することさえもできないくらいになっていた。ぴたりと目標に向かって集中させておくことができないで、彼の考えは、乱れるばかりだった。次から次へと、故郷のことが、心に浮かんできて、故郷の思い出が、彼の心に満ち満ちた。故郷でも、中央広場に、教会が建っていた。その教会の一部は、古い墓地に囲まれ、その墓地のまわりには、高い塀がめぐらしてあった。その塀によじ登ることのできた少年は、それまで、ごく少数にすぎなかった。Kも、まだ、それには成功していなかった。少年たちをそうした行為に駆り立てたのは、けっして好奇心ではなかった。墓地は、少年たちにとって、もはや秘密の場所ではなかった。少年たちは、墓地の小さな格子戸を通って、すでに幾たびとなく、中まで入っていた。ただ、そのすべっこい、高い塀を、少年たちが、征服しなかったからにすぎない。ある日の朝――静かな、人影のない広場は、日差しに満ちあふれていた。後にも、先にも、そうした広場の光景を、Kは、見たことがあったろうか――彼も、意外なくらい難なく、それに成功した。それは、彼がすでに幾たびとなく引き下がらざるを得なかった箇所からではあったが、彼は、口に一本の小旗をくわえたまま、一気に、その塀をよじ登った。まだ足元から小さな石のかけらがさらさらと崩れ落ちているあいだに、もう彼は、上まで登りきっていた。彼は、塀のうえに小旗を突き刺した。旗は、風になびいた。彼は、下を見おろし、あるいはまた肩越しに、まわりを眺め渡した。まわりには、地面にうずまりかけている十字架が、並んでいた。今、ここでは、自分より偉い人間は、いないのだ。そう思った途端、担任の教師が、たまたま通りかかって、Kを、怒ったような目つきで、にらみつけた。Kは、やむなく、地上へ飛び降りたが、そのとき、膝頭《ひざがしら》を怪我して、家へ帰り着くのも、やっとのことであった。それでも、やはり、塀を征服したことには、変わりなかった。その勝利感が、当時の彼には、長い生涯にわたって、なにか心の支えになってくれるような気がしていた。それは、かならずしも愚かなことではなかった。多年を経た今、バルナバスの腕に縋りながら、雪の夜道を歩んでいるKにとって、あの勝利感が助けとなったからであった。
彼は、バルナバスとますます固く腕を組んでいた。ほとんどバルナバスに引っ張られているようなものであった。沈黙がずっと続いていた。今たどっている道筋については、通りの状態から推して、まだ脇道らしい脇道へ全然曲がっていないことだけしか、Kには分からなかった。彼は、道がどんなに難渋を極めようと、また帰路のことがどんなに心配であろうと、けっして歩きつづけることだけはやめさせまいと、心に誓った。結局は引きずられて行くだけのことだから、それくらいの余力は、まだまだ自分にも十分あるだろう。それにまた、この道が、まさか果てしないなんてこともあるまい。日中だと、城は、まるで楽に行きつける目標のように、眼前にたたずんでいたではないか。すると、この使いの者は、きっと、一番近い道を知っているに違いない。
そう思ったとき、バルナバスが立ち止まった。今、どこにいるのだろう。もう行き止まりだろうか。バルナバスが自分を置いてけぼりにするつもりだろうか。そうはうまく問屋が卸さないぞ。Kは、ほとんど自分自身も痛いくらいまでに、バルナバスの腕をしっかと引きつけた。それとも、もしかして、信じられないようなことが起こって、ふたりは、すでに城中か、それとも城門の前にでも来ているのだろうか。しかし、ふたりは、確かに、Kの身に覚えがある限りは、まだ坂道らしい坂道を登ってはいないはずである。あるいは、バルナバスが、それと気づかぬほどにゆるやかな登り道を、案内してくれたのだろうか。「ここは、どこかな」と、Kは、低い声で、相手に尋ねるというよりはむしろ自分に尋ねるように、言った。「家《うち》でさ」と、バルナバスも、同じように低い声で、答えた。「家《うち》だって」「ところで、旦那、足をすべらさないように、気をおつけになって。道が下りですから」「下りだって」「いや、なに、二、三歩のことです」と、バルナバスは、言い足すと、はや戸口をノックしていた。
ひとりの年若い女が戸口を開けた。ふたりは、ほとんど真っ暗がりに近い、大きな一室の、敷居のところに立っていた。奥の、左手の、とあるテーブルの上方に、形ばかりの小さな石油ランプが、ただひとつ、釣り下げてあるだけであった。「一緒に来た人、だれなの、バルナバス」と、その娘は尋ねた。「例の測量師さんだよ」と、バルナバスは言った。「例の測量師さんですって」と、娘は、テーブルのほうへ向かって、大きな声で、伝えた。すると、その奥のテーブルのところから、夫婦らしい、ふたりの年寄りと、さらにもうひとり、娘が、立ち上がった。家の者たちは、Kに挨拶した。バルナバスは、Kに一同を紹介した。それは、彼の両親と、姉妹のオルガとアマーリアであった。Kは、家族の人たちをゆっくり眺める暇もなかった。皆は、寄ってたかってKのぬれた上衣をはぎ取り、それを暖炉のそばで乾かした。Kは、されるがままになっているよりほかなかった。
これでは落ち着けたものではない。落ち着いていられるのは、バルナバスだけであった。それにしても、どうしてここへ連れてこられたのだろう。Kは、バルナバスを脇のほうへ引っ張って行って、尋ねた、「どうして家へ帰ったりしたんだ。それとも、おまえたちの住まいが、すでに城の領内なのかね」「城の領内ですって」と、バルナバスは、Kの言ったことが解《げ》せないかのように、おうむ返しに尋ねた。「バルナバス」と、Kは言った、「だって、おまえは、飲み屋からまっすぐに城へ行くつもりだったんだろう」「いいえ、旦那」と、バルナバスは言った、「家へ帰るつもりだったんです。城へは、明朝にならないと、まいりません。けっして城では泊らないことになっているんです」「そうか」と、Kは言った、「城へ行くつもりはなかったのか。ただここへ帰って来るだけで」――なんだかバルナバスの微笑から生気が失せたように、Kには思われた。バルナバス自身さえも影が薄くなったようであった。――「どうしてそれを僕に言わなかったんだ」「あんたが尋ねなかったからですよ、旦那」と、バルナバスは言った、「あんたは、ただ、わたしに、なにか重ねてお指図をなさりたいだけだったのでしょう。ところが、飲み屋でも否《いや》、あんたの部屋でも否だと言われるんで、実は、ここのわたしの両親のところでなら、なんの邪魔も入らずに、お指図してもらえるだろうと、考えたんです。あんたのご命令なら、家族の者らは、皆すぐにでも遠慮いたします。それに、ここのほうが、あの飲み屋よりも、あんたの気に入りましたら、ここでお泊まりくださっても、構いません。どうです、わたしのしたことが、間違っていますかな」Kは、答えようがなかった。それでは、誤解だったわけか。それも、下劣な誤解だ。そして、その誤解に自分は、すっかり夢中になっていたのだ。バルナバスの、あのからだにきちきちの、絹のような光沢のある上衣に、まんまと眩惑《げんわく》されてきたとは。今、バルナバスは、その上衣のボタンをはずしかけているが、そのしたからは、いかにも下僕に特有の、たくましく、いかつい胸を包んでいる、粗末な、薄黒く汚れた、つぎはぎだらけのシャツが、のぞいているではないか。しかも、まわりの一切が、それと合致していた。いや、それ以上にひどかった。年老いた、痛風病みの父親は、手探りしながら、硬直した足をのろのろと引きずっていたが、足の助けを借りるよりも、むしろ手の助けを借りて、前へ進んでいると言ってよかった。胸に組み合わせた両手を当てている母親も、肥満しきったからだのために、やはり、ひどく小刻みな歩みしかできないようだった。この両親は、いずれも、Kが入って来たときから、すでに彼らのいた片隅を離れて、Kのほうへ向かって来ていたのに、まだKのところまでたどり着いてはいなかった。金髪の姉妹は、互いに、そしてまたバルナバスとも、よく似ていたが、バルナバスよりも顔付きがきつく、大柄の、いかにも丈夫そうな娘であった。姉妹は、今やっとたどり着いたばかりの両人を取り囲んで、Kからなにか挨拶の言葉があるものと、待ち受けていた。しかし、Kは、一言も言えなかった。彼は、この村の住民なら、だれでも、自分にとっては重要な人物であると、思い込んでいたし、また実際、そのとおりだったかもしれない。ところが、ここにいるこの連中だけは、彼も、全く気にしてはいなかったのである。もしもひとりで飲み屋への道を踏破することができるのだったら、即刻にでもここを立ち去りたいくらいだった。明朝になれば、バルナバスと一緒に、城へ行けるという可能性も、彼の気をすこしもそそらなかった。彼は、今、この深夜に、闇にまぎれてなら、バルナバスの案内で城内へ入り込みたかった。しかし、そのバルナバスは、これまで彼の眼に映っていた、あのバルナバスなのだ。彼が、この村でこれまで会っただれよりも、身近さを感じ、また同時に、外見的な地位をはるかに飛び越えて、城と緊密な繋《つな》がりを持っているものと、固く信じてきた、あの男でなければならないのだ。今、完全に家族の一員になりきって、すでに家族と一緒に食卓に向かっている、この家の息子は、わけても、城で泊まることをすらも許されない男であるだけに、そのような男と腕を組んで、白昼公然と、城へ赴くなんて、全く考えられないことであった。それは、ばかばかしいほどに見込みのない企てであった。
Kは、窓際の長椅子に腰をおろした。たといここで一夜を過ごさせてもらっても、それ以上、この家族の世話にはなるまいと、決心していた。彼を追い出したり、彼にたいして不安を抱いたりした、あの村人たちのほうが、彼には、はるかに害がないように思われた。あの連中は、彼にたいして、結局は自分自身を頼るよりほかないことを、教えてくれたばかりでなく、絶えず自分のありったけの力を集中しておくように、促してくれたからである。ところが、ここの家族ときたら、人助けとは見せかけだけで、自分を城へ案内するどころか、ちょっと仮面を被《かぶ》って見せたのをいいことに、わが家へ連れ込んで、故意かどうかはともかくも、こちらの気持ちを散らし、こちらの力を粉砕するための工作を続けているとしか、考えられないではないか。そのとき、家族の囲んでいる食卓のほうから、彼を招き寄せる呼びかけがあったが、彼は、全く気づかぬふりをして、うなだれたまま、長椅子にじっとすわっていた。
すると、姉妹のうちでもひとしお気立ての良さそうなオルガが、立ち上がって、いかにも生娘らしい困惑の色をさえもかすかに見せながら、Kのそばへやって来ると、食卓のほうへ来てくれるように、Kに懇願した。パンとベーコンは、もうあちらに用意してありますし、ビールは、ただ今取ってまいりますから、と言うのである。「どこから」と、Kは尋ねた。「飲み屋からですわ」と、オルガは答えた。それは、Kにとって、もっけの幸いだった。彼は、ビールを取りに行くくらいなら、自分を飲み屋まで送ってほしい、あそこには大切な仕事をほったらかしにしたまま置いてあるから、と頼んだ。ところが、彼女の出掛けようと思った先は、そんな遠くの、彼の泊まっている飲み屋ではなくて、ずっと近くの、別のところであったことが、そのとき、分かった。彼女は、それを貴紳閣と呼んでいた。それでも、Kは、連れて行ってくれるように、彼女に頼んだ。たぶん、そこでも、宿泊の便宜くらいは、はかってもらえるだろうし、よしやそれがどのようなものであろうと、ここの家の極上のベッドよりもましであろうと、彼は思ったからである。
オルガは、すぐには返事をせずに、食卓のほうを振り返った。すると、食卓のほうでは、バルナバスが、立ち上がって、しめたと言わんばかりにうなずいて見せながら、言った、「旦那のお望みなら、仕方ないよ」この同意の言葉を聞くと、Kは、あの男が同意できるのは下らぬものに限っていると、思い返してみたりして、あやうく、自分の頼みを取り消すところであった。ところが、本当にKをあの館へ連れて行っていいものかどうかという問題が、改めて論議の的になって、家族一同が、それについて、疑念を抱きはじめると、却《かえ》ってKのほうは、自分の頼みにたいする、なにか簡明な理由をでっち上げるだけの、ちょっとした苦心さえもしないで、ただただ執拗に、同行させてくれ、とそれのみを言い張りつづけたのである。それには、さすがの家族も、彼の言いなりになるほかなかった。Kは、言わば、この家族にたいしてなんらの羞恥心をも持っていなかった。それだけに、アマーリアの真剣な、実直らしい、じっと据わった、もしかすると、ちょっと空《うつ》ろな感じさえもする眼差にぶつかると、Kは、ちょっとどぎまぎせざるを得なかった。
飲み屋への短い途中で――Kは、オルガと腕を組んでいたが、先刻バルナバスが相手だったときと同じように、今もオルガにほとんど引っ張ってもらっているにひとしい体《てい》たらくだった。それよりほかに術《すべ》がなかったのであるが――その飲み屋というのは、実は、城の殿方だけが専用している定宿で、なにか村で仕事があるようなときは、そこへ来て食事をしたり、時には泊まり込むようなことさえもあるということを、Kは、オルガから聞かせられた。オルガは、いかにも親しげに、小声で、Kと話すのだった。彼女と一緒に行くのは、まことに心地よかった。相手がバルナバスのときと、ほとんど変わらなかった。Kは、その快感を抑えようとしたが、むだであった。快感は、依然として続いた。
目ざす建物は、外から見たところ、Kが宿を取っている飲み屋と非常によく似ていた。概してこの村では、大きな外面上の相違は、皆無のようであったが、しかし、小さな相違は、すぐ眼についた。戸口のまえの階段には、手摺《てすり》がついていたし、戸口の上方には、美しい角灯が取りつけてあった。ふたりが戸口を入って行くとき、頭上でひらひらする布《きれ》があった。それは、伯爵家の色に染め分けた旗であった。玄関でふたりがいきなり出会ったのは、屋内を見回り中であることが一目で知れる、亭主であった。亭主は、通りすがりに、こちらの素姓を探っているのか、それとも、眠気を催しているのか、眼を細めて、Kを見つめながら、言った、「測量師さんは、酒場までしか行けませんよ」すると、オルガが、早速にもKのことは引き受けたと言わんばかりに、「大丈夫ですわ。私についてきてくださっただけですから」Kは、しかし、別にありがたがりもしないで、オルガから離れ、亭主を脇のほうへ連れて行った。オルガは、そのあいだ、辛抱強く玄関の端で待っていた。
「僕をここへ泊めてもらいたいんだが」と、Kは言った。「残念ながら、それは、できませんな」と、亭主は答えた、「あなたは、まだ、ご存じでないようですが、この館は、城の殿方の専用になっておりますんで」「規則は、そうかもしれんが、しかし」と、Kは言い返した、「僕をどこかの片隅でなりと寝かせてくれることくらいは、きっと、できるはずだ」「ご意向に添いたいのは、山々でございますが」と、亭主は答えた、「規則のことをとやかくおっしゃいましても、それは、他国からお越しの人にありがちな口癖でして、まあ、その規則の厳格さは、別にしましても、殿方は、とても敏感なお人ばかりで、そのためにも、お望みを叶《かな》えてさしあげることができませんので。見も知らぬ人の姿を、すくなくともなんの心構えもないまま、出し抜けに、ご覧になるのは、あの方々にとって、とても堪えきれないことなのだと、わたしは、確信していますくらいでして。そんな次第で、もしもあなたをここへお泊めして、なにかの偶然で――偶然というものは、いつでも、殿方の側に味方しておりまして――あなたが見つかるようなことでもありましたら、それこそ、わたしはおろか、あなたまでも、身の破滅です。ばかばかしい話のように聞こえるかもしれませんが、しかし、本当のことなのです」
背の高い、上衣のボタンをきちんとはめた、いかにも紳士然とした亭主は、身を支えるように一方の手を壁に突っ張り、他方の手を腰にあてがって、両足を組んだまま、ちょっとKのほうへ前|屈《かが》みになりながら、打ち解けた調子で、Kに話しかけていたが、着ている黒っぽい服だけは、農民の晴れ着くらいにしか見えなかったとしても、どうやらもう村民たちのなかには加わってないように見受けられた。
「まことにごもっともな話だと思います」と、Kは言った、「それに、僕としましても、あるいは言い方がまずかったかもしれませんが、規則の重要さを軽視するつもりは、毛頭ございません。ただひとつだけ、念のために、ご注意しておきたいのですが、僕は、城中の人たちとは貴重な繋がりを持っていますし、いずれそのうちには、もっと貴重な繋がりもできるはずです。そうした繋がりは、僕をここへ泊めてくれたために、どのような危険が生じようとも、それがあなたの身に及ばないようにあなたの身を守ってくれますし、また僕が、どんなに些細《ささい》なご親切にたいしても、十分にお礼のできる人間であることを、あなたに保証もしてくれるはずです」「よく分かっております」と、亭主は言って、さらに念を入れるように繰り返した、「それは、よく分かっております」
いまや、Kにとって、自分の要求をさらに厳しい語調で突きつけるには好機であったのだが、ほかならぬ亭主のその返答に気をはぐらかされてしまって、そのために「きょうは、城から大勢の方々がここにお泊まりかね」としか、尋ねられなかった。「その点では、きょうは、好都合でございまして」と、亭主は、幾らか気を引くような答えをした。「ただひとりの方だけが、ご滞在になっております」それを聞いても、Kは、あいかわらず押しつけがましいことが言えなかったが、もうそのときは、どうやら泊めてもらえそうだという希望も、心の隅に感じていた。それで、その方の名前なりとも聞いておくことにした。「クラムです」と、亭主は、こともなげに言いながら、彼の女房のほうを振り返った。その女房は、変に着古した、時代遅れの、ギャザやフリルを一面につけた、しかし、上品な、都会風の服を着て、衣《きぬ》ずれの音をさせながら、やって来た。長官様がなにか御用があるというので、亭主を呼びにきたのであった。亭主は、しかし、立ち去るまえに、いま一度、Kのほうを顧みた。宿泊の件で決断せねばならぬのは、もはや亭主自身ではなくて、Kのほうであるとでも言いたげな、顔付きであった。それでも、Kは、なにも物が言えなかった。ことにKを唖然《あぜん》とさせたのは、たまたま自分の上官がここに来ているという事態であった。彼は、なぜだか、自分でもはっきりとは分からなかったが、クラムにたいしては、これまで城にたいして感じてきたほどには、身の自由が感じられなかった。クラムによって不意にここで逮捕されるのは、ここの亭主が言うほど、彼には、恐くはなかったが、やはり、なにか申し訳ない非礼なことのように思われた。言わば、それは、恩返しをせねばならぬ相手にたいして、軽はずみにも、苦痛を与えるようなものであった。それにまた、このような憂慮からして、すでに明らかに、下役であり労働者であることの、案じていた諸結果の現れであり、しかも、そうした結果がこれほど明瞭に出てきていながら、今ここでそれを克服することさえもできないのだと思うと、ひどく気も塞《ふさ》いでくるのだった。Kは、唇を噛《か》み、なにも言わないで、そこに立っていた。亭主は、ドアのところで姿を消すまえに、いま一度、Kのほうを振り返った。Kは、亭主の後ろ姿を見送ったまま、その場を動こうとはしなかった。ついに、オルガがやって来て、彼を引っ張って行った。「亭主になんの用事でしたの」と、オルガが尋ねた。「ここで泊まりたいと思ったのさ」と、Kは言った。「でも、私どものところでお泊まりになるんでしょう」と、オルガは怪訝《けげん》そうに言った。「そりゃ、まあ、そうだが」と、Kは言って、その言葉の解釈はオルガに任せた。
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第三章
酒場では、と言っても、ただ広いだけで、中央は全くがらんとした部屋であったが、壁沿いに置かれた樽のそばや樽のうえに、数人の農夫がすわっていたが、いずれも、Kの飲み屋の連中とは風体が違っていた。灰色がかった黄色の、粗《あら》い布地で作った服を着て、はるかに小ざっぱりと、統一の取れた身なりをしていた。上衣も、ゆったりとした仕立てで、ズボンも、からだに合っていた。互いに似通っているのが一目で分かる、小柄な男たちで、平べったくて、骨張ってはいるが、頬の丸々とした顔付きをしていた。いずれも、物静かで、ほとんど身動きひとつしない。Kとオルガが入って行っても、ただふたりを眼で追うだけで、それも、まことにゆっくりした、いかにも関心のなさそうな動作であった。にもかかわらず、その人数が多いうえに、ひどく静まり返っているために、Kも、なんだか薄気味悪いような感じを受けた。彼は、再び、オルガの腕を取った。そうした仕草によって、この場の連中に、自分がここへ来たことの意味を分からせるつもりであった。すると、片隅にいた、オルガの知り合いらしい、ひとりの男が立ち上がって、オルガのほうへ近づいてこようとした。それと見るや、Kは、組んでいた片方の腕を使って、くるりとオルガの向きを変えてしまった。オルガのほかは、だれも、そうしたことに気づかなかった。オルガは、微笑《ほほえ》みを浮かべた横眼を使いながら、黙ってKのするがままに任せた。
ビールを注《つ》いで出すのは、フリーダという名の、年若い娘であった。いかにも目立たない、小作りの、金髪の娘で、眼は憂いを帯び、頬はこけていたが、ただひとつ、人の|と胸《ヽヽ》を突くものがあった。それは、彼女の眼差《まなざし》であった。格別にすぐれた眼識を具《そな》えているような眼差である。その眼差がKに向けられたとき、Kは、自分に係わりのあるさまざまの事件が、その決着までも、すでにこの眼差にはすっかり見通し済みのような気がしてきた。と言っても、彼自身は、そうした事件が現に存在していることさえも、まだつゆ知らずにいたのだが、しかし、その眼差を見ていると、そうした事件がすでに現存していることを、確信せざるを得なかったのである。
Kは、すでにフリーダがオルガと話を始めてからも、ずっとフリーダの顔を横から眺めつづけていた。オルガとフリーダとは、友だちの間柄のようには見えなかった。ただ二言か三言、よそよそしい言葉を交わしただけであった。Kは、ふたりのあいだの話が進むように助力しようと思って、そのため出し抜けではあったが、尋ねた、「クラムさんをご存じですか」オルガが、それを聞くなり、急に声を上げて笑い出した。「どうして笑うんだい」と、Kは、腹立たしげに、尋ねた。「笑ってなんかいませんわ」と、彼女は答えたが、それでも、まだ笑いが止まらなかった。「オルガは、まだ稚気たっぷりなんだな」と、Kは言うと、もう一度フリーダの眼差をしかと自分のほうへ引きつけておこうと思って、カウンター越しにぐっと身を乗り出した。ところが、フリーダは、眼を伏せたまま、小声で言った、「クラムさんにお会いしたいんでしょう」Kは、よろしく頼む、と言った。フリーダは、すぐ脇《わき》の左手にあるドアを指差した。「ここに小さなのぞき穴があるでしょう。ここからなら、なかをご覧になってもいいですわ」「それじゃ、そこいらにいる連中の手前でも」と、Kは尋ねた。彼女は、下唇を尖《とが》らしながら、並々ならぬ柔らかい手でKをドアのところへ引っ張って行った。明らかに内部を観察するのが目的であけられたに違いない、その小さなのぞき穴を通して、彼は、隣室全体をほとんど残る隅なく見渡すことができた。
部屋の中央の事務机に向かって、すわり心地のよさそうな回転安楽椅子にもたれながら、顔前に釣り下げられている白熱灯にまぶしいばかりに照らし出されて、クラム氏がすわっていた。中背の、太った、鈍重そうな人物である。顔は、まだ皺組《しわぐ》んではいなかったが、頬は、しかし、すでに寄る年波の重さで、やや垂れ気味であった。黒い口ひげが、横に長くはねていた。眼は、斜めに掛けた、きらきら光る鼻眼鏡にさえぎられて、見えない。もしクラム氏がすっかり机に真向かいになってすわっていたら、Kにはその横顔くらいしか見えなかったであろうが、たまたまKのほうへ向かって大きく椅子を回していたので、Kは、正面からすっかり見ることができたのであった。クラムは、左|肘《ひじ》を机のうえに載せ、ヴァージニア葉巻を持った右手を膝のうえに置いている。机のうえには、ビールのジョッキがひとつ。机の小縁《こぶち》が高かったので、机上になんらかの書類が置いてあるのかどうか、Kには、はっきりとは見て取れなかった。なんだか机上にはなにも置いてないような気がした。念のため、Kは、フリーダに、穴からのぞいて、その辺の状況を教えてくれまいかと、頼んだ。ところが、フリーダは、つい先刻部屋に入って来たばかりだったので、Kにたいして、いとも無造作に、机上にはなんの書類もないことを保証した。Kは、もう立ち退《の》かねばならぬ潮時ではあるまいかと、フリーダに尋ねたが、フリーダの返事は、しかし、いつまででも、好きなだけ、のぞいていて構わないとのことであった。Kは、今は、フリーダとふたりきりになっていた。オルガは、Kが一瞥《いちべつ》して確かめたとおり、やはり、例の知り合いのところへ赴いていて、高やかに樽のうえに腰をかけ、両足を宙にぶらぶらさせていた。
「フリーダ」と、Kはささやいた、「クラムさんをとてもよくご存じですか」「もちろんですわ」と、彼女は言った。「とてもよくね」と、さらに言い足しながら、彼女は、Kのわきの壁にもたれて、今初めてKの眼についたのだが、彼女の貧弱な身柄には全く不似合いな、薄手の、襟ぐりが深い、クリーム色のブラウスを、もてあそぶように、整えていた。やがて、彼女は、「さっきオルガが笑ったのを覚えてらっしゃらない」と、尋ねた。「覚えていますとも。あんな無作法な女ったらありませんよ」と、Kは答えた。「でも」と、フリーダは、相手の気持ちをなだめるように、言った、「あれには、笑うだけの理由がありましたのよ。あなたが、あのとき、お尋ねになったでしょう、わたしがクラムを存じているかどうかって。ところが、実は、わたし」――ここで、彼女は、思わず体をややまっすぐに起こして、それまでの話とは全くなんの繋《つな》がりもない、勝ち誇ったような眼差を、Kの頭越しに、あらぬほうへ向けた――、「実は、わたし、あの方の愛人なんですの」「クラムの愛人ですって」と、Kは口走った。彼女は、うなずいた。「すると、あなたは」と、Kは、ふたりのあいだの空気があまりにも深刻すぎるものにならないように、微笑みながら、言った、「僕にとって、やんごとないお方ということになりますね」「いえ、あなたにとってだけではありませんわ」と、彼女は、愛想よく、だが、彼の微笑みには応じようともしないで、言った。Kは、彼女の高慢を挫《くじ》く一計を持ち合わせていたので、それを応用して、尋ねた、「もう城にはいらしたことがおありなんでしょう」ところが、なんの利き目もなかった。「いいえ。でも、ここの酒場にいるだけで、結構じゃございませんか」と、答えたからだった。彼女の名誉心は、明らかに、気違いじみていた。そして今は、どうやら、Kを鴨にして、その名誉心を満足させようとしているらしかった。「もちろんですとも」と、Kは言った、「ここの酒場にいらっしゃると、そうして、主人のする仕事だって、弁《わきま》えるようになれますからね」「そうなんですのよ」と、彼女は言った、「それに、わたし、あの『橋亭』という飲み屋の家畜小屋係の女中が、振り出しだったんですもの」「そんな華奢《きゃしゃ》な手で」と、Kは、なかば尋ねるように言ったが、ただお世辞を言ったにすぎないのか、それとも、やはり、本当に彼女から激しい衝撃を受けたのか、自分自身にも分からなかった。彼女の手は、確かに、小さくて華奢ではあったが、見方によっては、か弱くて、なんの色艶もない手とも言えないことはなかった。「あのころは、だれも、そんなことにまで気を使ってはくれませんでしたわ」と、彼女は言った、「それに、今だって――」Kは、尋ねるような眼差で、彼女を見つめた。彼女は、頭《かぶり》を振って、それ以上語ろうとはしなかった。「あなたには、むろん」と、Kは言った、「あなたなりに秘密がおありでしょうし、わずか半時間まえに知り合ったばかりの、そもそもどんな境遇の男なのかさえも、まだあなたにお話しする機会を見出せないでいるような相手に、あなたの秘密をお洩らしになる訳にもゆかないでしょう」ところが、これこそ、すぐに分かったことだが、失言であった。まるで彼が、自分の手で、フリーダを、彼に都合のいいまどろみから、叩《たた》き起こしてしまったようなものであった。彼女は、帯に釣り下げていた革袋から、小さな木切れを取り出して、それでのぞき穴を塞《ふさ》いでしまうと、Kに向かって、自分の心変わりをKに気取られないように、明らかに自制しながら、言った、「あなたのことなら、なにもかも承知していますとも。あなたは、例の測量師なんでしょう」それから、さらに付け足して、「では、仕事がございますから」と言うと、彼女は、カウンターのうしろの自分の持ち場へ戻った。
もうそのころには、連中のなかから、そこかしこで、空になったジョッキをまた満たしてもらうために、立ち上がりかけている者がいた。Kは、いま一度、目立たぬように、彼女と話したいと思った。そこで、空のジョッキを並べて掛けてある台のところからジョッキをひとつ取って、彼女のそばへ行った。「せめてもう一言なりと言わせてください、フリーダさん」と、彼は言った。「家畜小屋番から身を起こして、ここのカウンター係にまで出世するのは、並大抵の辛苦ではありませんし、またそれには、心身ともに、人にすぐれた力も必要でしょうが、でも、あなたのような方にとっては、それで、究極の目標に達したことになるでしょうか。愚にもつかぬお尋ねかもしれません。どうか、僕を嘲笑《あざわら》わないでください、フリーダさん。あなたのお眼の色は、ありありと、過去の戦いよりもむしろ、未来の戦いを、物語っておいでです。でも、世間のさまざまな妨害も大きいことを、覚悟なさらねばなりません。その妨害は、目標が高くなればなるほど、大きくなってゆきますし、今ここで、一介の、取るに足らぬ、勢力の皆無な男ではあっても、それなりに、やはり、あなた同様、戦っている人間の助力を、確保しておかれたとて、けっして恥ではないと思います。あるいは、そのうちにいつか、ふたりきりで、ゆっくりと落ち着いて話し合えるときがあるかもしれませんが。このように衆人環視のなかでなくて」「なんのことだか、さっぱり分かりませんわ」と、彼女は言った。その口調には、今度は彼女の意志に反して、彼女の人生が味わってきた、勝利ではなくて、限りない幻滅の響きが、混じっているように思われた。「たぶん、あなたのご本心は、わたしをクラムからお引き離しになりたいんでしょうね。ああ、くわばら、くわばら」そう言って、彼女は、両手を打ち鳴らした。「すっかり見抜かれてしまいましたな」と、Kは、重ね重ねの不信に疲れきったような口ぶりで、言った、「僕が心の奥底に秘めていた意図というのは、まさにそれだったんです。あなたをクラムから別れさせて、僕の愛人にしたかったんです。これだけ言ってしまえば、もう心残りなく、出て行けます。オルガ」と、Kは叫んだ、「帰ろうよ」オルガは、素直に樽のうえから滑り降りたが、彼女を取り巻く仲間たちからすぐには離れようとしなかった。すると、フリーダが、声をひそめて、Kをにらみつけながら、言った、「あなたとお話しするのは、いつが都合よろしいの」「ここへ泊めてもらえますか」と、Kは尋ねた。「ええ」と、フリーダは答えた。「では、ただ今からでも」「ひとまずオルガと一緒に出て行ってください。そしたら、ここにいる連中をわたしが追い出しますから。ほんのしばらくです。それからお戻りになるといいわ」「分かりました」と、Kは言って、いらいらしながらオルガの来るのを待っていた。ところが、農夫たちは、一向にオルガを離そうとしなかった。彼らは、踊りを思いついて、オルガをまんなかにし、輪になって、まわりをぐるぐる踊りながら、いつも一斉に叫び声を上げては、そのたびに、だれかがオルガのところへ駆け寄って、片手で彼女の腰をしっかと抱きかかえ、二、三度、彼女を旋回させている。そのうちに、輪踊りは、ますます足取りが早くなり、ひもじそうに喘《あえ》ぐ叫び声がひっきりなしになって、しだいに、ただ叫びつづけるひとつの喚声に変わってゆく。最初のうちは笑いながらその輪を破って出ようとしていたオルガも、今は、髪を振り乱したまま、男から男へとよろめいてゆくほかなかった。
「ああいう連中をわたしのところへ寄越すんですもの」と、フリーダは言って、腹立たしげに薄い唇を噛《か》んだ。「あれは、何者です」と、Kは尋ねた。「クラムの家来たちですわ」と、彼女は言った。「あいかわらず、クラムは、あの連中を連れて来るんです。あの連中がいますと、すっかり気持ちを掻き乱されてしまって。わたし、きょうだって、測量師さん、あなたとどんなお話をしたのかも、ほとんど覚えていないくらいなの。もしなにかお気に障るような節《ふし》でもございましたら、どうか、堪忍してくださいな。それも、あの連中がいるせいですわ。あんなに下品な、嫌らしい連中を、わたしは、ほかに知りません。その連中に、わたしは、ビールをジョッキに注いで出してやらなくちゃならないんですもの。これまで、あの連中だけは連れてこないようにと、何度クラムに頼んだかしれませんのよ。もしもこれが、ほかの方々の家来衆で、手こずっているのでしたら、あるいはクラムとても、見るに見かねて、なにかとわたしのために気を遣ってくれるでしょうが、この場合は、どんなに頼み込んでも、むだなのです。いつでも、あの人が来る一時間まえから、もうあの連中が、まるで家畜が家畜小屋へ入って行くように、なだれ込んで来るんです。でも、こうなっては、本当にあの連中を、連中にふさわしい家畜小屋へ、追い込んでやりますわ。あなたがいらっしゃらなければ、そこのドアをとっさに引き開けて、クラムの手で連中を追い出してもらうところなんですけれども」「それにしても、クラムには、連中の騒ぎが聞こえないんでしょうか」と、Kは尋ねた。「ええ、眠っていますもの」と、フリーダは答えた。「なに、眠っているんですって」と、Kは叫んだ。「僕がさっき部屋のなかをのぞいたときは、しかし、まだ眠らずに、机に向かっていましたが」「あんな格好をして、いつも、すわりきりなんですの」と、フリーダは言った。「あなたがご覧になったときも、あの人は、もう眠り込んでいました。そうでなければ、いくらわたしだって、あなたにのぞき見させてあげたりなんかしませんわ。あれが、あの人の寝相でしたの。城の方たちは、とてもよく眠ります。傍目《はため》には、腑《ふ》に落ちかねるくらいにね。それにまた、あの人にしても、あれくらいよく眠らなければ、きっとあの連中を持て余すでしょうよ。さあ、ともかくも、あの連中をこの手で追い出さないといけませんわ」
彼女は、片隅から鞭《むち》を一本取り出すと、例えば、小羊が跳ねるように、やや危なっかしい身ごなしではあったが、高くひと跳びで越えて、踊っている連中に踊りかかって行った。最初、農夫たちは、新しい踊り手がやって来たかのように思い違いして、彼女のほうを振り向いた。また、一瞬間ではあったが、フリーダが鞭を捨てようとしているように見えたことも、事実であった。しかし、フリーダは、すぐまた鞭を拾い上げて、叫んだ。「クラムに代わって言います。家畜小屋へお戻り。みんな、家畜小屋へ戻るのさ」そこで、農夫たちは、事の重大さに、やっと気づいた。Kには解《げ》せないような不安におびえながら、彼らは、我勝ちに、背後へ退きはじめた。すると、真っ先の数人に押されて、背後のドアが開いた。夜風が流れ込んできた。連中は、ひとり残らず、フリーダと一緒に姿を消した。フリーダが、中庭の向こうの家畜小屋のなかへ、連中を追い込んでゆくのが、はっきりと眼に見えるようであった。
そのとき、突然に静まり返ったなかで、Kは、しかし、玄関のほうから聞こえて来る足音に気がついた。なんとかして無事に切り抜けようと思って、彼は、カウンター台のかげへ飛び込んだ。その台の下しか、身を隠せる場所がなかった。別に、酒場に腰を据えていることを、禁じられていたわけでもなかったが、ここで泊る了見をしている以上は、せめて今見つかることだけは、なんとしても避けたかったからである。それで、ドアが、案の定、開かれると、彼は、台のしたにすべり込んだ。そこにいて見つかれば、むろん、ただでは済ませてもらえないに違いないが、ともかく、そのときは、乱暴になった百姓どもが恐《こわ》くて身を隠していたのだ、とでも言い逃れすればいい、まんざら真っ赤な嘘でもないのだから、と、彼は思った。入って来たのは、亭主であった。「フリーダ」と、叫ぶと、亭主は、部屋のなかを、二、三度、行きつ戻りつしていた。
折よく、フリーダが、間もなく入って来て、Kのことには一言も触れないで、農夫たちについての愚痴だけをこぼしながら、Kを捜したい一心で、カウンター台のうしろへやって来た。そこで、Kは、彼女の足に触ることができて、もうこれからは大丈夫だという安堵感が湧《わ》いてきた。フリーダがKのことには一言も触れないので、結局、亭主のほうからKのことを持ち出さずにはいられなかった。「ところで、あの測量師が見当たりませんが」と、亭主は尋ねた。この亭主にしても、元来が、礼儀正しい男であったし、いつも彼よりはるかに身分の高い人たちとかなり自由に付き合ってこれたお陰で、上品な立ち居振る舞いを身につけてはいたが、しかし、フリーダと話すときは、並々ならず丁重であった。このことは、亭主が、それにもかかわらず、話しているあいだも、一使用人にたいする雇い主としての姿勢を終始崩すことなく、しかも、その使用人たる者が全くの向こう見ずの娘であっただけに、殊のほか目立ったのであった。「測量師のことは、とんと忘れていましたわ」と、フリーダは言いながら、華奢な片足でKの胸を踏みつけた。「もうとっくに帰ってしまったようですわ」「しかし、わたしは見掛けませんでしたよ」と、亭主は言った、「最前からほとんどずっと玄関にいたきりでしたがね」「でも、ここにはいなくてよ」と、フリーダは、素っ気なく言った。「もしかすると、隠れているかもしれませんね」と、亭主は言った。「わたしがあの男から受けた印象では、なかなかの強《したた》か者のようでしたからな」「まさかそれほどの肝っ玉の持ち主でもなさそうですわ」と言って、彼女は、さらに強く片足でKを踏みつけた。フリーダの素質のなかに、どこか、傍若無人な、茶目っ気らしいものが、潜んでいようとは、Kも、つい今しがたまで、全く気づかなかったが、今、それが、突拍子もないときに、勢いよく頭を擡《もた》げてきたものと見える。と言うのも、彼女が、急に吹き出しながら、「もしかすると、このしたに隠れているかもしれませんね」と、言ったかと思うと、Kのほうへいきなり上半身を折り曲げて、ちょっとKにキスをしてから、また素早く身を起こし、いかにも気落ちしたような声で、「確かに、ここにもいませんわ」と、伝えたからである。ところが、また亭主のほうも、そのとき、意表を衝《つ》くようなことを言った、「あの男が本当に帰ったのかどうかが、正確に分からないのは、なんとも不愉快至極なことですな。事は、ただクラムさんだけに関《かか》わる問題でなく、規則に関わる問題ですからね。ところで、その規則は、わたしにとってもそうですが、フリーダさん、あなたにとっても、やはり、大事なはずですよ。とにかく、酒場のほうは、あなたが責任を持ってください。それ以外は、わたしが、これから、家じゅう隈なく捜してみますから。では、またあした。よくおやすみなさい」亭主が部屋から出て行くか行かないうちに、早くも、フリーダは、電灯のスイッチをひねって消すと、カウンター台のしたのKのそばへ飛んできた。「あなた、好きだわ。大好きよ」と、彼女はささやいたが、Kのからだにはすこしも触れなかった。
彼女は、さながら恋しさのあまりに失神したかのように、いきなり仰向けに寝たまま、両腕を差し伸べていた。ついに恵まれた愛の喜びに浸ろうとする彼女には、今の時が無限に長いように感じられたのかもしれない。彼女は、なにやら小歌曲を、歌っているというよりはむしろ、ため息まじりに口走っていた。ところが、いつまでたっても、Kが静かに考えごとにふけったきりなので、彼女は、がばと跳ね起きるなり、まるで幼児のように、Kを無理やりに引っ張りはじめた。「さあ、早く。このしたにいると、ほんとに息が詰まりそうよ」ふたりは、抱き合った。Kの両腕のなかで、小柄な五体が燃え立っていた。ふたりは、意識を失ったように取り乱して、ただもう転がりつづけていた。Kは、なんとかしてこの意識不明に近い状態から脱け出せないものかと、絶えず試みてみたが、むだであった。そのうちに、数歩ばかり離れたところにあるクラムの部屋のドアに、どすんとぶつかって、それからは、そこかしこにビールがこぼれてできた小さな水|溜《た》まりや床一面の塵芥《ごみあくた》のなかで、横たわっていた。そのまま、そこで、幾時間か、過ぎた。呼吸も、鼓動も、ともに合った数時間であった。そのあいだ、ずっとKは、なんだか自分が道に迷っているような、あるいは、はるか遠く人跡未踏の異郷に来ているような、感じがしていた。その異郷では、空気すらも、故郷の空気の成分をいささかも含んでいないために、そこにいると、異様なものずくめで、息が詰まりそうになりながらも、取りとめもない誘惑に駆られるままに、ただもう歩きつづけ、道に迷いつづけてゆくよりほかはないようであった。そうしたさなかにあっただけに、クラムの部屋から、低い声で、とんじゃくなく命令するように、フリーダを呼ぶのが聞こえたときは、Kも、すくなくとも差し当たっては、なんら恐怖めいたものを覚えず、むしろ意識の目覚めにほっとしたくらいであった。
「フリーダ」と、Kは、フリーダの耳元にささやいて、隣室からの呼び声を伝えてやった。全く従順に生まれついていただけに、フリーダは、いきなり飛び起きようとしたが、そのとき、自分が今どこにいるかを、ふと思い出すと、また、元どおりに寝そべって、忍び笑いしながら、言った、「なんと言われたって、行くもんですか。絶対に行ってやりはしないわ」Kは、それには反対を唱え、是が非でも彼女をクラムのところへ追いやろうと思って、千切れ落ちた彼女のブラウスの切れはしを拾い集めはじめたが、どうにも口に出しては言えなかった。フリーダを抱きしめていると、このうえなく幸福であった。しかも、このうえなく幸福であるとともに、またこのうえなく不安でもあった。今フリーダに置き去りにされたら、自分が手に入れたものすべても、自分を置き去りにしてしまうように、思われたからである。すると、フリーダは、Kの無言の同意によって心強くなったのか、固めた拳《こぶし》でドアをたたきながら、叫んだ、「わたしは、測量師のそばを離れないわ。測量師のそばを離れたくないの」そこで、クラムのほうは、むろん、すっかり鳴りを静めてしまった。しかし、Kは、からだを起こして、フリーダのわきに跪《ひざまず》きながら、夜明け前のほの暗い光のただよう部屋のなかを見まわした。取り返しのつかぬことになったのではあるまいか。折角の希望も、もうどこにあろう。すべてが露顕してしまった今となっては、もはやフリーダからなにが期待できよう。敵の強力さと目標の高さとに即応しながら、このうえなく慎重に、前進して行かねばならぬはずだったのに、それを忘れて、ここで一晩じゅうビールの水溜まりのなかを転がりつづけていたのだ。その水溜まりの臭《にお》いが今も鼻について、気が遠くなりそうではないか。「おまえは、なんということをしてしまったんだ」と、Kは、ひとり呟《つぶや》いた、「これで、ふたりとも、身の破滅だ」「そんなことはないわ」と、フリーダは言った、「身の破滅は、わたしだけよ。でも、わたし、あなたを物にしたわ。くよくよ気になさらないでね。まあ、あのふたりの笑い方でもご覧なさいな」「だれの」と、Kは問い返しながら、振り向いた。カウンター台のうえに、彼のふたりの助手が腰をかけていた。すこし寝不足らしかったが、朗らかそうな顔つきだった。それは、義務を忠実に果たしたあとの朗らかさである。「おまえたちは、ここになんの用があるんだ」と、Kは、万事が助手たちの所為《せい》であるかのような口ぶりで、叫んだ。そして、あたりを見まわして、フリーダが昨晩に使った鞭がどこかにないかと、捜した。「わしらは、どうしてもあんたを捜さなくちゃならなかったんで」と、助手たちは答えた、「あの飲み屋の店でいつまで待っていても、降りてきてくれなかったもんだから、それから、わしらは、バルナバスのところへ尋ねに出掛けたんでさあ。そして、やっとここで、あんたを見つけたっていう訳で。ここで、わしらは、夜どおしすわってました。勤めというものも、楽じゃありませんな」「おまえたちが必要なのは、日中だけで、夜分じゃないんだ。とっとと出て失せろ」「いや、もう日中ですぜ」と、ふたりは言って、その場から動かなかった。
確かに、もう昼日中《ひるひなか》だった。中庭へ通じるドアがいきなり開けられたかと思うと、農夫たちが、オルガを連れて、部屋のなかへなだれ込んできた。Kは、オルガのことなど、すっかり忘れてしまっていたが、オルガは、服も、髪も、乱れたままではあったが、昨晩と同じように活気にあふれ、その眼は、早くも戸口を通るときから、Kの姿を捜していた。「どうして私と一緒にお帰りにならなかったの」と、彼女は言って、ほとんど涙を流さんばかりであった。「あんな女のために」と、彼女は、言葉を続けて、たたみかけるように、それを二、三度繰り返した。ちょっと姿を消していたフリーダが、肌着類の小さな包みを持って戻ってきた。オルガは、情けなさそうに、わきへのいた。「さあ、いつでも出かけられますわ」と、フリーダは言った。フリーダが、ふたりの行き先として、あの飲み屋「橋亭」を考えていたことは、火を見るよりも明らかであった。Kとフリーダ、そして、それに従う助手ふたりと、総勢四人の一行であった。農夫たちは、フリーダにたいして、ひどい侮蔑の色をむき出しにしていた。これまで彼女によって手厳しく抑えつけられてきただけに、それも当然のことであった。ある農夫のごときは、杖《つえ》を持ち出して、これを飛び越さない限りは、外へ出してやらないぞというような態度をさえも、彼女に示したくらいだった。しかし、その男を追い払うくらいのことは、まだ彼女が持ち前のにらみを利かすだけで十分であった。
戸外の銀世界のなかに出ると、Kも、ちょっとほっと一息ついた。今度は、道の難渋もさして苦にはならなかった。実は、それほどに、戸外にいるという幸福感が、強かったのである。もしもKがひとりきりだったら、もっと足に任せて早く歩けたに違いなかった。Kは、飲み屋へ着くと、すぐに自分の部屋へ赴いて、ベッドのうえに身を横たえた。フリーダは、それと並べて、床のうえに、自分の寝所を支度した。助手たちまでも、一緒に入り込んできたので、追い払うと、今度はまた窓から入って来た。Kは、ひどく疲れ切っていて、もう一度ふたりを追い払うだけの気力もなかった。女将《おかみ》が、フリーダに挨拶するために、わざわざ二階へ上がってきた。フリーダは、女将を「おばさん」と呼んだ。キスを交わしたり、長いあいだひしと抱き合ったりして、傍目《はため》には解せないくらいに情愛のこもった挨拶ぶりであった。もともと、その小さい部屋のなかは、さなくともざわついていた。男用の長靴をはいた女中たちまでが、頻繁に、ばたばたと足音騒がしく部屋の中へ入って来ては、なにかを持ち込んだり、持ち出したりしていた。女中たちは、さまざまな品物をいっぱいに詰め込んであるベッドのなかから、なにか持ち出す必要のある品物があると、Kが寝ていることにはとんじゃくしないで、Kのからだのしたからそれを引っ張り出すのだった。その都度、フリーダには同輩のような挨拶をしていた。そうした騒々しさをも意に介しないで、Kは、その日はずっと、日中から夜分へかけて、ベッドに寝たきりだった。ちょっとしたことは、フリーダが手を貸して済ませてくれた。翌朝、Kが、とてもすがすがしい気分になって、ついに起き出たときは、もう彼が村に滞在してから四日目を迎えていた。
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第四章
Kは、フリーダと内証話がしたくてならなかったが、肝心のフリーダが、時折、助手たちを相手に、冗談を飛ばし合っては、笑いくずれているうえに、助手たちのほうも、それをいいことにして、ずうずうしく腰を据えているために、Kは、助手たちがただその場にいるだけでも気に障《さわ》って、とても内証話どころではなかった。助手たちは、むろん、出過ぎるわけでなく、隅っこの床《ゆか》のうえに、古い女物のスカートを二枚敷いて、そこを住まいにしていた。フリーダとしばしば話し合っているところでは、測量師さんのお邪魔をしないようにして、できうる限り場を取らないでいるのが、彼ら助手たちの面目らしかった。彼らは、こうした点では、むろん、絶えずささやき合ったり、忍び笑いを洩らしたりしながらではあったが、さまざまな実験を試み、腕組みをしたり、立て膝を組み合わしたり、言い合わせてうずくまってみたりしていた。薄暗がりのなかだと、隅に引っ込んでいる彼らが、ただひとつの大きな糸玉としか見えなかった。それでも、日中のたびかさなる経験から、いかに一丸となっていても、ともに極めて注意深い観察者であって、絶えずKのほうへ眼を凝らしていることが、残念ながら、分かっていたのである。
彼らが、いかにも子供の遊びをまねているように見せかけて、例えば、両手を丸めて望遠鏡を使っているような格好をしたり、そうしたたぐいの愚にもつかぬ仕草をしたりしているときでも、あるいはまた、ただKのほうへは流し目をくれるくらいで、ほとんど自分のひげの手入れに余念がないように見えるときでも、やはり、そうであった。彼らは、ひどくひげを大切がって、何回となく、互いに長さや濃さを比べ合っては、フリーダに判定してもらっていた。そんな三人の行動を、Kは、ベッドのなかから、幾たびか、全くなんの関心もなしに、ぼんやりと、打ち眺めてきたのだった。
ところで、Kが、ベッドを離れても差し支えないくらいの元気を回復したことが、やっと自覚できるようになったとき、三人の者は、なにくれと彼の世話をするために、一斉に駆け寄ってきた。彼には、まだ、彼らの世話を拒みきれるだけの元気は、戻っていなかった。彼らの世話を受ければ、彼らにたいするある種の依存状態に陥ることになって、それが悪い結果を生むかもしれないと、彼は、気づいたが、しかし、されるがままになっているよりほかなかった。それにまた、テーブルに向かって、フリーダの取ってきてくれた旨《うま》いコーヒーを飲み、フリーダが焚《た》いてくれたストーブでからだを暖め、助手たちが言い付けどおりに、無器用ではあったが、一心不乱になって、階段を十回も登り降りするのを見ながら、やれ洗面器の水だの、やれ石鹸だの、やれ櫛だの、やれ鏡だのと、次々に持ってこさせた揚げ句に、Kが小声でそれとなく欲しいものを仄《ほの》めかしたというので、小さいグラスに一杯のラム酒までも運んでこさせるのを眼《ま》のあたりにしては、確かに、満更でもなかったのである。
こうして用事を言いつけたり、世話をさせたりしているさなかに、Kは、うまく行くという見込みがあってというよりも、いい気分のあまりに、つい気紛《きまぐ》れから、言った、「さあ、おまえたち、ふたりは、出て行ってくれ。差し当たっては、もうなにも入り用の物がないし、フリーダさんと水いらずで話もしたいんだ」ところが、どう見ても、助手たちの顔には、反抗の色らしいものさえも現れていなかったので、彼は、埋め合わせをするつもりで、言い添えた、「済んだら、三人で、村長のところへ出掛けるから、おまえたちは、下の店で、僕を待っていてくれ」奇妙なことに、ふたりは、Kの言いつけに従った。ただ、部屋を出るまえに、「別にここでお待ちしたって、わしらは、いいんですがね」と、洩らしただけであった。それを聞くなり、Kは答えた、「それくらいは、分かっているさ。だが、それは、こっちが願い下げだ」
助手たちが出て行くのを待ち兼ねたように、フリーダがKの膝のうえに腰を載せて、次のように言ったときは、Kも、さすがに、癪《しゃく》には障ったが、またある意味では、やはり、嬉しい気持ちがしないでもなかったのである。「ねえ、どうして助手たちを嫌うの。あのふたりには、なにも秘密にしなくていいのよ。ふたりとも、忠実だわ」「ああ、そりゃ忠実さ」と、Kは言った。「のべつ幕なしにこの僕の動静を窺《うかが》っているんだからな。ばかばかしくて、歯牙にかけるにも足りないことだが、ひどく不愉快だよ」「あなたのお気持ちがわたしにも分かるようだわ」と、彼女は言うと、Kの首っ玉にかじりついて、なおもなにか言おうとしていたが、先が続かなかった。ちょうど、Kの腰掛けている安楽椅子がベッドのすぐ横にあったので、ふたりは、よろめきながらも、ベッドのうえへ転んで行った。そして、そのまま寄り添って横たわっていたが、あのときの夜のようには夢中になることができなかった。彼女は、しきりに、なにかを求めていたし、彼も、しきりに、なにかを求めていた。狂おしげにいきり立って、顔をしかめ、互いに相手の胸へ穴をも穿《うが》たんばかりに頭を押しつけ合いながら、ふたりは、ともに求めつづけていた。いかに抱擁を重ねようと、またいかにはげしく上になり下になってからだを投げ掛け合おうと、ふたりは、求めねばならぬという義務を、忘れるどころか、却《かえ》ってますます思い出さずにはいられなかった。
まるで犬が、やけになって、地面を掻いて掘るように、二人も互いの体を引っ掻いていた。せんかたなく、幻滅に襲われながらも、なおも最後の幸福を求めようとして、時には、舌で相手の顔を一面に舐《な》めまわしたりもしていた。ついに疲労に堪えきれなくなって、やっと、ふたりは、静かになって、相手のありがたみを感じるようになった。そのとき、女中たちが階段を上ってやって来た。「ほら、御覧、この寝相ったら、どうでしょう」と、女中のひとりが言って、同情のあまり、ふたりのうえから、なにやら布らしいものをいきなり被《かぶ》せた。
のちほど、Kがその布を払いのけて、あたりを見まわしたとき、――けっして不思議に思いもしなかったが――助手たちがいつもの隅に戻ってきていて、Kのほうを指差しながら、互いに真面目になるように戒め合って、きちんと敬礼した。ところが、そのほかにも、ベッドのすぐ横に、女将《おかみ》がすわって、靴下を編んでいた。女将のほとんど部屋じゅうを暗くするほどの巨体にはどう見ても不似合いな、ささやかな手仕事だった。「もうずいぶん待たされましたわ」と、彼女は言って、幅の広い、寄る年波で皺組《しわぐ》んだ、大柄なわりにはまだ色艶のある、昔の美しさの名残りをとどめた顔を上げた。その言葉には、非難めいた響きがこもっていたが、しかしそれは不当な非難であった。Kとしては、女将に来てくれと頼んだ覚えは、さらさらなかったからである。それゆえ、Kは、ただうなずいて相手の言葉を肯定するようなふりをしただけで、まっすぐに上半身を起こした。フリーダも起き上がったが、しかし、彼女は、Kのそばを離れて、女将のいる安楽椅子に寄り掛かった。Kは、まだ頭がぼんやりしたままで、言った。
「女将さん、もし僕になにか話でもあるのでしたら、僕が村長のところから帰って来るまで、延ばしてもらえませんか。あちらで大切な相談事がありますので」「こちらの相談事のほうがもっと大切なんです。いや、嘘じゃございません。測量師さん」と、女将は言った、「あちらでは、たぶん、仕事の話くらいのものでしょう。ところが、こちらは、ひとりの人間に関《かか》わる話なんですよ。わたしのかわいい女中フリーダの身に関わる問題ですからね」「ああ、そうでしたか」と、Kは言った、「それなら、むろんあちらを後回しにしますが。ただひとつだけ、僕の腑《ふ》に落ちないのは、そういう事柄なら、どうして僕たちふたりに任せてくれないかという点です」「かわいいからですし、心配もしているからですわ」と、女将は言いながら、立っていても腰掛けている女将の肩までしか届かないフリーダの頭を、自分のほうへ引き寄せた。「フリーダがそこまであなたに信頼を寄せている以上」と、Kは言った、「僕だって、それに倣《なら》うほかありません。それに、フリーダが、つい今しがた、僕の助手を忠実だと言ったことをも併せ考えますと、僕たちは、実に、水入らずの仲間同志ということになりますね。とすると、女将さん、あなたに包まず申してもいいかと思いますが、フリーダと僕とは、結婚するのが、それも、極く近々に結婚するのが、最善の策だと、僕は、思っているわけです。残念ながら、ただ残念ながら、それしきのことでは、フリーダが僕の所為《せい》で失ったもの、つまり、貴紳閣での地位とか、クラムの好意とかにたいして、とても彼女に償ってやることができないでしょうが」
フリーダは、顔を上げた。眼には、涙がいっぱい溜《た》まり、勝ち誇ったような色は、すこしも見えなかった。「どうしてわたしが。どうして選《よ》りに選ってこのわたしがこんなことになってしまったんでしょう」「なんだって」と、Kと女将が同時に問い返した。「かわいそうに、この子ったら、取り乱しているんですよ」と、女将は言った、「あんまりいろいろな幸福と不幸とが一時に押し寄せてきたもんだから、取り乱しているんですわ」すると、その言葉を実証するかのように、フリーダが、そのとき、いきなりKに飛びついて、傍若無人に激しいキスを浴びせたかと思うと、今度は泣き崩れながら、あいかわらずKに抱きついたままで、Kのまえに跪《ひざまず》いた。Kは、両手でフリーダの髪を撫でてやりながら、女将に尋ねた、「どうやら僕の言葉に間違いはないと認めてくださったようですね」「あなたは、見上げた方です」と、女将は言ったが、やはり、涙声になっていた。なんだかすこしやつれた様子が見られ、息遣いも苦しそうだった。それでも、女将は、まだ余力があったと見えて、言った、「今となっては、せめてあなたがフリーダに与えてやらねばならない、なんらかの保証について、篤《とく》と考えてみるよりほかに、仕方ありません。と申しますのは、わたしがあなたをどのように尊敬いたしておりましても、あなたは、所詮、他国の方ですし、あなたの証人になってくれる人は、ひとりもございません。また、あなたの御家庭の状況も、当地では、だれひとり存じません。そんな訳で、保証が必要になって来るのです。このことは、測量師さん、あなたもよく御理解くださいますでしょう。だって、フリーダがあなたと結ばれることによって、とにかく、どんなに大変な損をすることになるかは、あなた御自身が、つい先刻、はっきりと言い切られたくらいですから」「ごもっともです。保証は、もちろんのことです」と、Kは言った、「ところで、その保証ですが、公証人の面前で与えることにするのが、最善の道だろうとか思いますが、あるいは、お上《かみ》のほかのいろいろな官庁までも、口を利くことになるかもしれません。いずれにせよ、僕のほうも、結婚するまえにどうしても片付けておかねばならない要件を抱えているわけです。クラムと会って話をするのが、先決問題です」「それは、無理よ」と、フリーダは言いながら、ちょっと頭を擡《もた》げて、Kにしがみついた、「突拍子もないお考えだわ」「どうしても会う必要があるんだ」と、Kは言った、「僕にとって無理なことなら、ぜひともおまえの尽力でそれを叶《かな》えさせてもらいたいのだ」「無理よ、K、わたしにだって無理よ」と、フリーダは言った、「クラムは、けっしてあなたと話し合いはしないわ。あなたともあろう方が、クラムが話し合いに応じてくれるなんて、お信じになるだけでも、おかしいとはお思いにならないの」「すると、おまえとなら話すかしら」と、Kは尋ねた。「それもだめ」と、フリーダは言った、「相手があなたでも、わたしでも、だめだわ。どのみち、全く無理な注文よ」フリーダは、両腕を広げて女将のほうへ向きながら、訴えた、「ねえ、女将さん、この人の望みというのが、これなんですよ」「あなたは、妙な方ですね、測量師さん」と、女将は、言ったが、今は背筋をまっすぐにしてすわっているために、両足のあいだがやや開き加減になり、薄地のスカートのしたからはたくましい膝頭《ひざがしら》がはみ出ていて、相手の度肝を抜くような格好であった。
「あなたは、無理なことを望んでおいでです」「どうして無理なのです」と、Kは尋ねた。「それは、わたしから説明してあげましょう」と、女将は、その説明が言わば最後の好意ではなくて、すでに彼女が授ける最初の罰であるかのような口調で、言葉を続けた、「進んで、わたしから、説明してあげたいくらいです。わたしは、確かに、城の人間ではありません。ただの女です。この最下等の――と申しますと、嘘になるかもしれませんが、先ずそれに近いことは、事実なんです――飲み屋の、ただの女房にすぎません。そんなわけで、あなたは、わたしの説明なんかにさしたる価値があるはずもないと、頭から高を括《くく》っていらっしゃるかもしれません。でも、このわたしは、これまでの人生を、臆《おく》さずに眼を見開いたまま、渡ってきましたし、たくさんのいろいろな人たちとも会い、またこの水商売の経営の重荷をもそっくりひとりで背負ってきました。わたしの夫は、年も若く、あれでなかなか人が良いんですが、飲み屋の主人という柄じゃありませんもの。それに、責任とはどんなものかということが、あの人にはいつまでたっても呑みこめないんでしてね。例えば、あなたにしてもですよ、この村にいられて、そうしてここのベッドに安心して気楽にすわっておいでになれるのも、元はと言えば――わたしは、あの晩、もう疲れきって、くたくたになっていましたし――、内の人のだらしなさのお陰にすぎないんですよ」
「なんですって」と、Kは、憤懣《ふんまん》に駆られてと言うよりも、むしろ好奇心に燃えて、今までの一種の放心状態から目覚めながら、尋ねた。
「あなたがそうしていられるのも、内の人のだらしなさのお陰にすぎないんです」と、女将は、Kのほうへ人差し指を突きつけながら、重ねて叫んだ。フリーダは、高ぶる女将の気持ちを静めようとした。
「あんたは、引っ込んでおいで」と、女将は、巨体をすっかりフリーダのほうへ素早く向けながら、言った、「測量師さんは、わたしにお尋ねになったのよ。ですから、わたしがお答えするのが当然じゃないの。このまま黙っていては、クラムさんが、けっしてこの方とはお会いにならないだろうという、『だろう』だなんて、わたしとしたことが、なんとうかつな言葉を使ったんでしょう、改めて繰り返すと、けっしてこの方とはお会いするわけにはゆかないという、わたしたちには分かりきったことが、どうしてこの方に納得してもらえるの」そこで、女将は、Kのほうへ向き直って、「いいですか、測量師さん。クラムさんは、お城の方なんですよ。クラムさんのその他の地位は全く別にして、ただこの一事を考えただけでも、非常に身分の高いお人だということが分かるはずです。ところで、わたしたちは、今ここで、神妙にへり下って、あなたに結婚の同意を懇願しているわけですが、でも、当のあなたは、ぶしつけながら、一体、何者なんでしょうか。あなたは、お城の方でもなければ、村の人でもない。あなたにはなにひとつとして取り柄がない。にもかかわらず、あなたは、残念なことに、やはり、ある種の強《したた》か者です。つまり、他国者なのです。いつどこででも邪魔になる余計者、絶えず他人に迷惑を掛けては、女中部屋までも明け渡さずにはいられないように仕向ける厄介者です。なにをたくらんでいるのか、下心がさっぱり知れません。わたしどもが眼に入れても痛くない、年端もゆかぬフリーダを誘惑しておいて、口惜しくても、わたしどもがフリーダを妻に差し上げねばならぬように仕向けるのです。こんなことを並べ立てましても、実は、これを楯《たて》に立ててあなたを非難しているのではございません。あなたは、ありのままのあなたでいられるほかないでしょう。わたしは、もうこれまでの生涯で、嫌というほどいろいろなことを見てまいっておりますし、今更こういう状景をまえにしましても、見るに忍びないとも思いません。それはともかく、あなたの本来の望みというのが、どこにございますのか、それを、この際、あなたによく思い浮かべていただきたいのです。クラムのような人物に会わせろだなんて。フリーダがあなたにのぞき穴からのぞかせたという話を聞いて、わたしは、胸の痛む思いがしました。この娘《こ》がそれを許したときには、もうあなたの誘惑に罹《かか》っていたのです。それにしても、あなたは、あのとき、どこまで落ち着いてクラムをお見届けになれたのでしょうか、それを承りたいところですが。いいえ、別にお答えくださるには及びません。わたしには分かっております。とてもよく落ち着いてクラムを見届けられたと、おっしゃるに決まっています。ところが、クラムと本当に会うことは、あなたにできっこありません。これは、わたしの勝手な思い上がりではないんです。このわたしにだって、それだけは、できっこないんですもの。あなたは、クラムと話をさせろ、とおっしゃいますが、あの方は、この村の人たちとけっして話なんかなさいません。これまで一度だって、あの方が、直々《じきじき》に、村のだれかとお話なさったためしはないのです。あの方が、すくなくとも、事に触れてよくフリーダの名をお呼びになられるようになったばかりか、フリーダのほうも、いつでも随意にあの方へ言葉をお掛けしてもいいことになり、そのうえ、のぞき穴までも作るお許しをいただいたのは、確かに、フリーダの大きな手柄ですし、その手柄を、わたしは、またわたしの誇りとして、わたしの終生までも忘れることはないでしょうが、でも、そのクラムがフリーダとだって面と向かって話し合ったことはないんですよ。それに、あの方が、時折、フリーダをお呼びになりましても、お呼びになるからにはお呼びになるだけの謂《いわ》れがあの方にはおありだろうと、知らない連中ならそう判断したがるでしょうけれど、そんな謂れなんか、からきしないんです。それが証拠に、あの方は、ただ一言、『フリーダ』と、名前を呼ばれるだけなんですの――どんなお心算《つもり》だか、だれにも分かりっこありませんわ――フリーダは、むろん、飛んで行きますが、それは、あの娘の役目ですからね。そして、そのまま文句なしにあの方の部屋へ立ち入って行けるのも、ひとえにクラムの御好意によるものと解すほかありませんし、実のところ、あの方が特にフリーダをお呼びになったとは、だれひとりとして言い切れないわけです。もちろん、今となっては、それも、永久に取り返しのつかない過去のことにすぎなくなってしまいました。あるいは今後も、クラムは、『フリーダ』と、あいかわらずその名を呼ばれるかもしれません。でも、あの娘があの方の部屋へ立ち入ることは、きっともう許されないでしょう。あなたとできてしまった女ですもの。ところで、ただひとつだけ、ただひとつだけ、わたしの貧しい頭ではとても訳の分からないことがあるんです。それは、クラムの愛人だという噂さえも立てられている娘が――ついでに申しておきますと、わたしは、ひどく誇張したレッテルを貼ったものだと思っておりますが――どうしてあなたにもそう易々《やすやす》と肌を許してしまったかということなんですの」
「確かに、不思議なことかもしれませんな」と、Kは言って、フリーダを抱き寄せ、膝のうえに載せようとした。フリーダは、うなだれたままではあったが、すぐにKの意に従った。「でも、それは、ほかの件でも、かならずしも一切合財が全くあなたの信じておられるとおりの事情にあるとは限らないということを、僕は、立証していると思いますが。ですから、例えば、僕など、クラムと比べたら、なんの取柄もない人間だと、あなたは、おっしゃいましたが、その点では、確かに、あなたの言葉は的中しています。僕は、今でもやはり、クラムと会って話したいと、熱望していますし、あなたの説明を承った後でも、けっしてそれを断念してはいませんが、と申したからといって、僕が、あいだを隔てるドアがなくても、落ち着いてクラムを正視するくらいのことはできると言っているように、お取りになるなら、それは、早合点にすぎませんし、僕は、クラムが姿を現しただけでも、部屋から逃げ出してしまうとも、またそのくらいでは逃げ出さないとも、まだ言ってはおりません。とにかく、それ相当の根拠はあっても、これしきの懸念ぐらいでは、僕にとって、事の敢行を控える理由にはまだなりかねるのです。しかしです、もしも僕が首尾よくクラムにたいして確固たる態度を堅持することに成功すれば、そのときは、彼の話を聞く必要なんか毛頭ありません。僕の言葉が彼に与えた感銘を見定めるだけで、僕としては満足なんです。また仮に僕の言葉があの男になんの感銘も与えなくても、あるいはあの男が僕の言葉に全然耳をかさなくても、僕のほうには、やはり、権力者のまえで自由に喋《しゃべ》れたという収穫があるわけです。ところで、女将さん、あなたは、世態や人情についての知識をたくさんお持ち合わせですし、またフリーダも、きのうまではまだクラムの愛人でしたから――僕には、この言葉を避ける理由が、すこしも見当たらないのですが――、ふたりして、僕のために、クラムと話す機会を作ってくれるくらいは、きっと造作もないことでしょう。ほかの方法ではだめなら、あの貴紳閣が打って付けじゃありませんか。たぶん、きょうも、クラムは、まだあすこにいるでしょうし」
「無理な話よ」と、女将は言った、「それに、あなたは、どうやら、ひどく呑み込みの悪い方のようですね。それにしても、おっしゃってちょうだい、あなたは、一体、クラムとどんな話をなさるお心算なんですの」「むろん、フリーダのことです」と、Kは答えた。
「フリーダのことですって」と、女将は、いかにも腑に落ちないように、問い返して、フリーダのほうへ顔を向けた。「聞いたかい、フリーダ、あんたのことで、この人は、この人は、クラムと、クラムと話したいんだってさ」
「ああ」と、Kは言った、「女将さん、あなたは、とても賢くて、よくできた方ですのに、毎度ながら、どんな些細《ささい》なことにでも、胆をつぶされるんですね。ところで、僕は、フリーダのことであの男と話したいわけですが、これは、しかし、それほど魂消《たまげ》るようなことではなくて、むしろ、当たり前のことなんです。と申しますのは、僕が現れた瞬間から、フリーダがクラムにとって全く無意味な女に成り下ってしまったと、もしもあなたが信じ込んでおられるのでしたら、それもあなたの思い違いに違いないからです。また本当にそう信じきっておられるのでしたら、あなたは、ほかならぬあの男を軽く見くびっていることにもなります。そもそもそうした点であなたに忠告しようなどと思う了見からして、すでに僭越《せんえつ》でありますことは、僕自身も重々感じているところですが、僕としては、やはり、あなたに忠告せずにはいられないのです。僕が介在するようになったために、クラムのフリーダにたいする関係に変化が生じたとは、とても考えられません。そこで、考えられることは、ふたつにひとつです。すなわち、ふたりのあいだに、なんら大した関係は、存在しなかったか――実のところ、フリーダから愛人という名誉ある肩書きを剥奪《はくだつ》したい連中は、そう言い触らしているわけでして――、そうだとしますと、そんなものは、今日でも存在しているはずがありませんが、それとも、本当に大した関係が存在していたか。存在していたとしますと、そうした大した関係が、僕によって、あなたがいみじくも言われたように、クラムの眼にはなにひとつとして取り柄のない人間としか映らない、僕のような者によって、掻き乱されるようなことがありうるでしょうか。こうした事柄は、胆をつぶした最初の一瞬には、とかく、本当に信じがちですが、ほんのすこし思慮をめぐらしただけで、もうその誤りを正すことができるはずです。まあ、とにかく、この辺で、フリーダの意見も聞かせてもらおうじゃありませんか」
フリーダは、Kの胸に片頬を押しつけたまま、あてどなく遠くへ眼差《まなざし》を馳《は》せながら、言った、「確かに、おばさんの言うとおりよ。クラムは、もうわたしなんか構っちゃくださらないわ。でも、むろん、ねえ、あなた、あなたが来られたからじゃないの。それしきのことぐらいで、あの方の気持ちがぐらつくはずはないわ。でもね、わたしたちふたりがあそこのカウンター台のしたで出会ったのは、どうやらあの方の細工のような気がしてならないの。ああ、あの時が呪《のろ》わしいものとならずに、祝福されるものとなりますように」
「もしそうなら」と、Kは、おもむろに言った。フリーダの言葉には、甘美な味わいが籠《こ》もっていたからである。彼は、しばし、眼を閉じて、その味わいがからだじゅうに染み透ってゆくにまかせた。「もしそうなら、クラムとの話し合いを恐れる理由は、ますます乏しくなってくるな」
「確かに」と、女将は、高腰のまま、Kをうえから見おろしながら、言った、「あなたには、わたしの主人と似ているところがあるわ。あなたも、内の人に引けを取らないくらい、意地っ張りで、子供みたいなところがあってよ。この村へ来てまだほんの数日にしかならないのに、もう、あなたは、何事についても、ここの土地の者よりよく知っているような口のきき方をなさる。わたしのような年寄りとか、貴紳閣でいろいろなことを見たり聞いたりしてきたフリーダよりもね。数々の規則や古くからのしきたりにあくまで逆らいとおしても、いつかはなにかを成し遂げられることだってあるでしょう。わたしも、それを否定しません。わたし自身は、そうしたことを体験した覚えがありませんが、でも、世間にはそうした実例もあると言うことですし、あるいはそのとおりかもしれません。それにしても、そのようにうまく事が運ぶ場合は、きっとあなたのようなやり方ではないはずです。絶えず事ごとに『いや、いや』と反対を唱えつづけて、御自分のお頭《つむ》だけを妄信し、どのように好意の籠もった忠告でもすべて聞き流しながら、勝手に事をおこなってゆかれるのが、あなたのやり方なんですわ。あなたは、一体、わたしがあなたのことで心配しているとでも、本気で思ってらっしゃるんですか。あなたがまだおひとりのときに、このわたしがあなたの身を案じて差し上げたことでもありましたかしら。今にしてみれば、案じて差し上げたほうがよかったような気もします。いろいろと面倒なことが、それによって、避けられたかもしれませんので。わたしは、あのとき、あなたのことで、ただ一言、内の人に申しました、『あの男からは遠ざかっているんですよ』とね。その一言は、もしフリーダが今のようにあなたの運命に引きずり込まれていなかったら、今日でも、わたしには当然としか考えられないでしょう。わたしが――あなたのお気に召す召さないは別として――このように、あなたに細かく気を遣っていますのも、いえ、それのみか、なにくれとあなたを奉ってさえいますのも、すべてその娘のお陰なんですよ。それにまた、あなたは、無下《むげ》にわたしを追い払うわけにもゆかないんですよ。わたしは、か細いフリーダの身を母親のように気遣いながら見守っている、ただひとりの人間ですし、そのわたしにたいして、あなたは、のっぴきならぬ責任があるわけですからね。フリーダの言うのが本当で、このたびの一件は、すべて、クラムの計画かもしれません。でも、クラムのことは、今でも、さっぱりわたしには分かりませんし、また今後も、わたしがあの方とお会いすることは、絶対にないでしょう。あの方は、わたしには全く手の届かないところにいるんです。ところが、あなたはここにすわって、わたしのフリーダを抱いていらっしゃるし、また――隠す必要もないので、あけすけに申しあげますが――わたしに抱かれてもいらっしゃる。そうです、わたしに抱かれていらっしゃるのです。それが証拠に、あなたがこの家から追い出されても、村のどこかで、たとい犬小屋でも、宿借りできるかどうか、試して御覧になるといいわ」
「ありがとうございます」と、Kは言った、「率直なお言葉を聞かせていただいて。全くあなたのおっしゃるとおりだと思います。つまり、僕の立場は、またそれと関連して、フリーダの立場も、それほど危なっかしいわけですね」
「違いますわ」と、女将は、居丈高になって叫びながら、Kの言葉をさえぎった、「フリーダの立場は、その点では、あなたの立場となんの関わりもありません。フリーダは、この家の者です。その娘のここでの立場を危なっかしいなんて言う権利は、だれにもないはずよ」
「ごもっとも、ごもっとも」と、Kは言った、「その点でも、あなたの御意見が正しいことを認めましょう。それに、フリーダが、どのような理由からかは僕にはさっぱり分からないのですけれども、あなたをひどく恐れているらしく、一言も口を挟むことができないでいます以上、なおさらのことです。そこで、取りあえず話を僕だけのことに限るとしましょう。僕の立場は、このうえなく危なっかしいものであります。このことは、あなたも否定されるどころか、むしろ、それに間違いないことを立証しようとして、懸命になっておられるくらいですから。とにかくあなたのどのお話でもそうですが、ただいまの御意見も、ただ概して正しいと認められるだけで、全面的に正しいとは申せません。僕のほうでも、例えば、僕がいつでも自由に泊まれる、まことに結構な宿をひとつ、知っているくらいですからね」
「一体、それは、どこです、どこです」と、フリーダと女将は、全く口をそろえて、ひどく好奇心をそそられたように、叫んだ。そう尋ねるには同じ動機がふたりにあるような勢いであった。
「バルナバスのところですよ」と、Kは答えた。
「あん畜生たち」と、女将は叫んだ。「あのずるい、ろくでなしの一家め。バルナバスのところだって。おまえたち、聞いたかい――」そう言いながら、女将は、部屋の隅のほうへ振り返ったが、助手たちは、もうとっくに隅から出て来ていて、腕と腕を組み合わせながら、女将のうしろに立っていた。女将は、そのとき、なにか身の支えになるものが必要になったかのように、助手のひとりの手を掴《つか》んだ。「おまえたち、聞いたかい、御主人がどこをうろついているかと思ったら、バルナバスの家にいたんだとよ。むろん、あすこでなら、寝所《ねどこ》にあり付けるだろうさ。ああ、なにを好き好んで貴紳閣へ行ってくれたのやら、バルナバスのところに泊まってくれたほうがずっとましだったのに。ところで、おまえたちは、一体、どこにいたのかい」
「女将さん」と、Kは、助手たちが答えるより先に、言った、「このふたりは、僕の助手なんですよ。それを、あなたは、まるであなたの助手であり、また僕の監視人でもあるかのように、扱ってらっしゃる。ほかのことでしたら、なんなりと、僕は、すくなくともあなたの御意見については礼を尽くして論議させていただく所存ですが、しかし、僕の助手に関する限りは、別問題です。だって、この場合は、至極当たり前のことじゃありませんか。ですから、どうか僕の助手とは口をおききにならないように願いたいのです。もしも僕がこうしてお願いするだけでは不十分なのでしたら、僕のほうで、助手たちに命じて、あなたにお答えすることを禁じますが」
「そんな訳で、おまえたちとは口をきいちゃいけないことになったわ」と、女将は言った。そして、三人が口をそろえて笑った。女将の笑いは、嘲《あざけり》を含んでいたが、Kが予期したよりははるかに穏やかだった。助手たちの笑いは、ひどく意味ありげでもあり、またなんの意味もなさそうな、どのような責任をも撥《は》ね付けようとする、いつもの調子であった。
「どうかお怒りにだけはならないでね」と、フリーダが言った、「あなたは、わたしたちがいらいらしている気持ちも、素直に分かってくださらないといけないわ。あるいは考えようによっては、私たちが今こうして互いにひとつになれたのも、ひとえにバルナバスのお陰かもしれないわね。あなたを初めて酒場でお見掛けしたとき――あなたは、オルガと腕を組んで、入ってらしたけれど――、わたしは、すでにあなたのことを多少とも耳にはしていました。でも、とにかく、あなたにたいしては全くなんの関心もなかったのです。そりゃ、わたしが無関心だったのは、なにもあなたにたいしてだけじゃないわ。ほとんどすべての人にたいしてなの。ほとんどすべての人にたいしてなんの関心もなかったの。あのときでも、わたしは、確かに、多くの人に不満を感じていましたし、またわたしに向かっ腹を立たせるような人だって、幾たりとなくいましたわ。でも、不満だとか、向かっ腹だとかと申しましたが、あれは、どこまで本気だったのでしょう。例えば、酒場で、客のだれかがわたしを侮辱したとします。あの連中ときたら、絶えずわたしを付けねらっているのですからね――あなたは、あすこにいたやんちゃな連中を御覧になったでしょう。ところが、実は、もっともっと質《たち》の悪い男たちだって来るんです。クラムの家来たちが一番質が悪いわけじゃないんですの――、それで、だれかがわたしを侮辱したとします。でも、それがわたしにとって本当に大変なことだったでしょうか。なんだかそうしたことは、もう何年もまえに起こったような気もしたり、あるいは全然そんな目には会わなかったような気もしたり、まただれかの話で聞いたにすぎないような気もしたり、かと思うと、自分でもとっくに忘れてしまっていたことのような気もしたりしていたくらいなの。とにかく、今の私には、もうそれがうまく言葉では言い表せないわ。あのときの状景だってもう思い浮かべることさえできないくらいですもの。それほどまでに、クラムに捨てられてからというものは、なにもかもが変わってしまったんだわ」――
そこで、フリーダは、話を打ち切った。しょげたようにうなだれて、組み合わせた両手を膝のあいだに置いたままであった。
「それ、御覧なさい」と、女将は言ったが、まるで自分が話しているのでなくて、フリーダに自分の声を貸し与えているにすぎないような口ぶりであった。と同時にまた、フリーダのほうへずり寄って、ぴったりとフリーダのわきに喰っついたようにすわっていた。「いいですか、これが、測量師さん、あなたのなすったことの結果なんですよ。それに、あなたの助手たちにも、わたしが口をきいてはいけないことになっていますだけに、教訓のため、このさい見物させておくことにするわ。あなたは、フリーダを、この娘にこれまで授けられた境遇のうちでも最も恵まれた境遇から、無理やりに引きずり出してしまったのよ。あなたがまんまとそれに成功したのは、まずなによりも、フリーダが、うぶなだけに、人並みはずれて同情心も強いせいもあって、あなたがオルガの腕に取りすがって、てっきりバルナバス家の掌中に陥っているらしい様子を、見るに忍びなかったからですわ。あの娘は、あなたを救うとともに、わが身を犠牲にしてしまったのです。ところが、取り返しのつかぬ今となって、そうです、フリーダが、あなたの膝のうえにすわるという幸福と引き換えに、自分の持っていたものすべてを投げ出してしまった今となって、あなたは、臆面もなしに、バルナバスのところで泊まることだってできたなどという話を、まるで大変な切り札のように、持ち出してこられる。それで、あなたは、わたしなんかに左右されはしないということを、たぶん、立証なさりたいのでしょう。確かに、あなたが実際にバルナバスのところに泊まってらしたら、あなたは、けっしてわたしなんかに左右されはしないでしょう。それなら、今すぐにでも、とっとと、この家を立ち去ってもらわねばならないところですが」
「僕としては、バルナバス家が犯した罪というものを知りませんし」と、Kは、言いながら、まるで死んだように気抜けしているフリーダを注意深く助け起こして、ゆっくりとベッドにすわらせると、自分は立ち上がって、「その点では、あるいはあなたのおっしゃることが正しいかもしれません。しかし、僕が、ついさっき、フリーダと僕とのふたりの事柄は僕たちふたりにだけ任せてくださるように、あなたに懇願したときは、全く疑いの余地なく僕の言い分のほうが正しかったのです。あなたは、そのとき、かわいいとか、心配だとかと、そうしたことを楯に取られましたが、それについては、そのとき、僕は、それ以上さして気にも留めませんでした。でも、それだけに、あなたの憎しみとか、侮蔑とか、僕を家から追い払いたがっている気持ちに、はっきりと気づきました。フリーダに僕を思い切らせるのか、あるいは僕にフリーダを思い切らせるのかが、もしもあなたの狙《ねら》いでしたのなら、いかにも巧妙な仕組みだったと、感心せざるを得ません。でも、やはり、あなたが首尾よくそれに成功なさることはあるまいと、僕は信じております。もし万が一、成功されるようなことがあっても、あなたは――僕にもあいまいなおどし文句のひとつぐらいは言わせてもらいますが――それを痛く後悔されることになるでしょう。あなたがお貸しくださっています、この住まいにつきましても――あなたのお心算《つもり》では、住まいと言えば、こんなむさ苦しい豚箱みたいなところに限られるのかもしれませんが――そうした住まいをすら、あなたが、御自身の意志で、僕に貸してくださっているのかどうか、実に怪しいものです。むしろ、この点につきましては、なにかお上の筋からのお達しが来ているように思われるわけです。とにかく、僕としては、これからあちらへまいって、ここでは立ち退《の》きを申し渡されている旨を、報告することにしましょう。そこで、僕に別の住まいをあてがわれれば、あなたも、たぶん、肩の荷が下りて、ほっと息をつかれるでしょう。でも、もっと深く息をついて、胸を撫で下ろすのは、僕のほうです。それでは、この件やほかの事柄で、村長のところへ出掛けます。どうか、せめてフリーダの世話だけなりともお願いいたします。あなたのいわゆる母親らしい長談議のお陰で、すっかりひどい目に会っていますのでね」
それから、Kは、助手のほうを振り返って、「ついて来い」と、言うと、クラムの書面を釘からはずして手に持ちながら、出て行こうとした。それまで黙ってKの様子を見ていた女将は、Kがすでにドアの引き手に手を掛けていたときになって、初めて口を切った、「測量師さん、まだ言い残しておりますことを、あなたへの餞別がわりに、申しあげておこうと思いますが。と申しますのも、あなたがたといどのような議論をなさろうと、またこの年寄りのわたしをどのように侮辱なさろうと、フリーダの未来の夫であることに変わりはないからですわ。ただそれだけの理由で、あなたに申しあげるのですけれど、あなたは、当地の事情に関する限り、恐ろしいほどに無知なんですよ。あなたのお話に耳を傾けていますと、そうなんです、あなたがおっしゃったりお考えになったりしておられることを、頭のなかで、実際の状況と比較しておりますと、頭ががんがんしてくるくらいなんですの。このような無知は、一挙に直せるものでありませんし、もしかすると、全然直らないかもしれません。でも、あなたがわたしの言葉を多少なりともお信じくださって、御自分が無知だということをいつも念頭にお置きになっておられたら、かなりの程度までは直るかもしれません。そうなりましたら、あなたも、例えば、わたしにたいする態度を立ちどころに改めて、もっとまともな態度をお取りになるようになり、わたしがどのような恐ろしさを味わわされてきたかを、おぼろげながらも察知しはじめてくださるでしょう――そのときの恐ろしさの後遺症がいまだに続いていますのよ――、あれは、わたしの最愛の娘が、言わば、脚無し蜥蝪《とかげ》と結ばれるために、鷲《わし》の許《もと》から去ったということを悟ったときでした。今、脚無し蜥蜴と鷲にたとえて、お話ししましたけれど、実情は、もっともっとひどいのです。わたしは、ずっとこれまで、それを忘れようとして、どんなに苦労せずにはおれなかったことか。でないと、あなたと一言だって落ち着いて話なんかできないわけですわ。あら、あなたは、またしてもお気を悪くなさったのね。待ってちょうだい。まだ行かないで。せめてわたしのお願いだけでも聞いてからにしてちょうだい。お願いというのは、ほかでもございませんの。あなたがどこへお越しになろうと、当地の勝手を一番知らないのが御自分であるということを、いつも覚えておかれて、くれぐれも用心していただきたいんです。こうしてフリーダがおそばについて見張っていますと、あなたも御無事でいられますし、ここのわたしたちのところでしたら、お心のうちを、包まずに、いくらおしゃべりくださってもいいのです。またここでなら、例えば、どんなお心算でクラムと会われるかを、表に出してわたしたちにお見せになっても構いません。ただ、実社会でだけは、実社会でだけは、どうか、どうか、そうしたことをなさらないようにお願いいたします」
女将は、興奮のあまりいくらかよろけながらも、立ち上がると、Kのところへ歩み寄ってきて、Kの手を握り、哀願するようにまじまじとKを見詰めた。
「女将さん」と、Kは言った、「どうしてあなたが、これしきのことのために、そうまでへり下られて、僕に頼み込まれるのか、僕にはさっぱり解《げ》せません。クラムと会って話をするのが、あなたのおっしゃるように、僕にとって不可能なことでしたら、僕は、頼まれようと、頼まれまいと、とてもそこまで行けないでしょう。しかし、もしも万一、可能になったとします。そうなれば、どうして僕がそれを実行してはいけないのでしょう。そのときは、あなたの主な反対理由も全く根拠がなくなるばかりでなく、またそれに基づいてのさまざまなあなたの御懸念も、非常に疑わしいものとなってまいります以上、なおさら問題にならないのではないでしょうか。むろん、僕は、無知です。真実というものは、いずれにせよ、厳として存在しているわけですし、それを思うと、僕は、ひどく悲しいのです。でも、その反面、無知であるだけに、却って一層思い切ったことができるという、有利な点もあります。それで、僕は、力の続く限り、無知とその無知が招くに違いない悪い結果とに、いましばらくは、甘んじて行きたいと思っています。しかし、そうした結果も、やはり、本質的には、僕にしか打撃を与えないはずですし、それだけに、あなたがどうして頼み込まれるのか、僕には、先ずなによりも、解せないのです。あなたとしては、やはり今後も、きっとフリーダの身をいつもお案じになられるでしょうし、仮に僕がフリーダの眼の届く範囲からすっかり姿を消してしまったとしても、あなたのお心にはほんのちょっとした幸福くらいにしか感じられないでしょう。としますと、あなたは、なにを気遣っておられるのです。まさかあなたは――無知な人間だと、どんなことでも可能なように思いますしね――」と、ここまで言ったときには、Kは、もうドアを開けていたが、「まさかあなたは、クラムの身を気遣っているのではないでしょうね」女将は、急いで階段を駆け降りて、助手たちを従えて行くKの後ろ姿を、黙って見送っていた。
[#改ページ]
第五章
Kは、自分自身も怪訝《けげん》に思ったくらいに、村長との談合がほとんど苦にならなかった。彼は、ひとり心のうちで、その理由を、お上《かみ》の筋との職務上の交渉が、彼にとっては、きわめて簡単に済んできたという、彼のこれまでの経験によって、説明しようとしていた。こうした結果も、一方では、明らかに、Kの問題の取り扱い方に関して、ある特定の、彼にとってはきわめて有利と見えるような原則が、一貫して打ち出されてきているという事情に因るものであったが、また他方では、各庁を通じての勤務のすばらしい統制ぶりに因るものでもあった。実のところ、まさかそこまでは手が及んでいまいと見受けられるようなところでこそ、却《かえ》って、ことのほか完全な統制が利いているように、なんとなく感知されるほどであった。Kは、時折、そうした事柄だけでも思い出すたびに、ともすれば、自分の現況を満足すべきものと思い過ごしがちであった。とはいえ、そうした快適な気分に襲われた後では、いつも、そうしたところにこそ危険が潜んでいるのだと、すばやく心に言い聞かせるのだった。
当局との直接の交渉にしても、大して厄介なものではなかった。と言うのは、ここの官庁は、いずれも、たといどのように抜かりなく組織されていようとも、いつも、はるかに掛け離れていて、形さえも見えない殿方たちの名において、はるかに掛け離れていて、形さえも見えないものを防衛せざるを得ないわけで、それにひきかえ、Kのほうは、このうえなく生命のかよった身近なもののために、すなわち、自分自身のために、闘っていたからである。しかも、すくなくとも初《しょ》っ端《ぱな》は、自分自身の意志で闘っていたのだった。つまり、彼のほうが攻撃者だったわけである。もとより、自分のために闘っているのは、彼だけではなかった。彼には得体が知れなかったが、各庁のいろいろな措置から推して、確かに存在すると信じざるを得ない、ほかのさまざまな力のほうも、明らかに、そうであった。ところで、各庁とも、当初から、極く些細《ささい》な事柄では――それ以上のことは、これまで、全く問題にならなかったためもあってか――大いにKの意向に添うような出方をしていたが、それも底意あってのことかもしれなかった。そのために、Kとしては、ちょっとした、手軽な勝利をさえも味わう可能性を、そして、その可能性とともにまた、それ相応の満足感と、その満足感から生まれるはずの、根拠十分な、今後のより大きな闘いにたいする確信とを、事前に取り上げられていたのかもしれなかったからである。そのかわりに、いずれの庁も、Kを、むろん、村のなかだけに限ってではあったが、どこへなりと、気ままに泳がせていた。あるいは、そうすることによって、この僕を甘やかし、しだいに無気力な男に仕立てて、当地でのいかなる闘いをもすべて根絶やしするとともに、僕を、そのかわりに、職務から離れた、全く見通しのつかない、陰鬱な、不慣れな生活へ追い込む心算《つもり》かもしれない。確かに、かような方法を取られたら、僕のほうで、いつもよほど用心していない限り、それぞれの筋からいろいろと親切を尽くされるままに、ひどく軽微な職務上の義務をどのように次々と遺憾なく果たしていようと、いつかは、僕に示されてきた、あの見せかけの好意にだまされてしまって、日常の生活をひどくぞんざいに営むようにもなりかねない。そうなれば、僕は、当地で、すっかり腰砕けになり、当局側は、あいかわらず穏やかに親切心を見せて、いかにも不本意らしい態度を装いながらも、なにか僕には分からない公的な秩序を楯《たて》に取って、結局は、僕を片づけてしまうに違いないのだ。ところで、あの日常の生活とは、当地では、一体、いかなるものに当たるのだろう。Kは、職務と生活とが当地ほどに、こんがらかっているのを、ついぞ今まで見たことがなかった。時には、職務と生活とがそれぞれの場を互いに入れ替えているのではないかと、思われることさえあるほどに、ひどくこんがらかっているのである。例えば、クラムがKの勤務にたいして行使してきた、今まではただ形式的なものにとどまっている権力など、クラムがKの寝室にまで実際に及ぼしている権力と比べたら、はたしてどこまで重みがあると言えるだろうか。そうしたことを考え合わせると、当地では、ただ直接に官庁を相手にしている場合なら、なにかの気のゆるみで、すこしばかり軽率な手続きの仕方をしても、それでそのまま済むが、それ以外の場合は、しかし、一歩一歩、歩を運ぶごとに、かならず前もって四方八方を見回すほどの、大変な注意がいつも必要であるという結論に達せざるを得なかったのである。
当地の官庁にたいするKの見解は、差しずめ村長のところで、非常に正しいことが立証されたように、Kには思われた。村長は、愛想のいい、太った、剃《そ》り跡のきれいな男だったが、病気だった。ひどい痛風の発作に襲われていたために、ベッドに寝たままでKを迎えた。「それでは、わたしどもの測量師さんがお越しくださったわけですな」と、村長は、言って、挨拶するためにからだを起こそうとしたが、とても無理であった。そこで、申し訳なさそうに脛《すね》のほうを指差しながら、あおのけに倒れて、また元どおり頬を枕に埋《うず》めてしまった。窓が小さいうえに、カーテンが垂れているので、部屋のなかは、一属薄暗かったが、その部屋のほのかな光のなかでは、ほとんど影法師に近い、物静かな婦人が、Kのために低い椅子を持ってきて、ベッドのわきへ置いてくれた。「どうぞ、お掛けください、どうぞ、測量師さん」と、村長は言った、「それから、あなたのお望みを承ることにいたしましょう」
Kは、クラムの手紙を読んで聞かせ、それに二、三の所見を付け加えた。またしても、彼は、役所との交渉が並はずれて楽だということを、しみじみと感じた。役所は、確かに、どんな厄介な荷物でも引き受けて、運んでくれる。どんな負担をかけたっていいところだ。しかも、負担をかけた当人のほうは、涼しい顔をして、気儘《きまま》にしておれるのだから、こんな結構なことはない。村長も、そうしたことを、村長なりに、感じたのか、ベッドのなかで不快そうに寝返りを打った。そして、しばらくしてから、ついに、彼は、口を切った。
「わたしは、測量師さん、あなたもきっとお気づきでしょうが、この件につきましては、一部始終承知しておりますが、これまでまだなにひとつわたしのほうから手を打たずにいましたのには、訳がありまして、先ず第一には、わたしが病気だからなんですが、次いでは、あなたがちっともお越しにならなかったからなんですよ。わたしは、てっきりあなたがこの件から手をお引きになったものとばかり、思い込んでいたくらいでしてね。でも、こうしてわざわざわたしをお訪ねくださいました以上は、不愉快な話ではありましても、ありのままをすっかりあなたに申しあげるよりほかないですな。あなたは、おっしゃるように、測量師として採用されたわけですが、残念ながら、わたしどものところでは、測量師なんか要らないんでして。実は、測量師向きの仕事というものが、微塵《みじん》もないんですよ。わたしどもの零細な各農地の境界は、杭《くい》で標示してありますし、すべて洩れなくきちんと登記済みです。所有権の変更にしても、ほとんど起こることがありませんし、ちょっとした境界争いくらいなら、わたしどもだけで調停できますんでね。としますと、測量師がいてくれたって、わたしどもになんの役に立ちますかな」
Kは、むろん、それまではこうした可能性について考えてみたこともなかったが、心の奥底には、これに似たような申し渡しをひそかに期待していたという確信もあった。だからこそ、彼は、間髪を容《い》れずに言い返すことができたのである、「これは、これは、ひどく意外なお話ですな。それでは、僕のこれまでの計画がすべて台無しになってしまいますよ。もうこの上は、なんらかの誤解があるのじゃないかというのが、僕の一縷《いちる》の望みになってしまいましたが」「残念ながら、誤解なんかありませんな」と、村長は言った、「確かに、今わたしがお伝えしたとおりなんでして」「それにしても、そんなむちゃな話ってあるものでしょうか」と、Kは叫んだ、「いくら僕だって、今になってまた追い返されるくらいなら、こんな果てしない旅をしてまで来はしませんよ」
「それは、また別の問題でして」と、村長は言った、「わたしの決定する権限外の問題ですな。しかし、どこにああした誤解の生じる余地があったかにつきましては、むろん、わたしでも、あなたに説明して差しあげることができます。ここのお上の直轄下にあるような大きな官庁では、たまたまある部局がこうせよという指令を出し、また他の部局がああせよという指令を出すことだって、起こりうるのです。むろん、一方の部局は、他方の部局のことを知らないままでです。確かに、上層部からの監督は、極度に厳密ではありますが、しかし、その性質上、どうしても手遅れになってしまいます。そんな訳で、いずれにせよ、ちょっとした混乱くらいは、起こりがちです。と申しましても、むろん、どれもこれも、全く取るに足らぬ些細なことばかりです。例えば、あなたの場合のようにね。わたしの知る限り、重大な事柄で誤りがあったことは、いまだ一度だってありませんが、些細なことでは、泣かされるときだって、しばしばありますよ。ところで、あなたの場合ですが、あなたに、職務上の秘密など守る心算もありませんので――わたしは、そこまで役人根性の固まりじゃありません。元はと言えば、百姓でしてな。また、それで通したいと思っているくらいでして――これまでの顛末《てんまつ》を包まずにお話ししますと、もうずいぶん前のことになります。わたしが村長になってからやっと二、三カ月ほどたったばかりのころでしたが、一通の訓令がまいりましてな。どの部局からの訓令でしたか、もう覚えていませんがね。城の方々に特有の頭ごなしなやり方で、測量師を一名任用せよ、測量師の仕事に必要な計画書および図面はすべて村で整えておくように命じる、と通達してきたわけです。この訓令は、むろん、直接あなたに関したものではなかったかもしれません。とにかく、もう何年も何年も昔のことですからね。もしも今こうして病気でベッドに寝て、どんなにばかばかしいことをでも暇にまかせてあれこれと考えられるほどの余裕がなかったら、とてもわたしだって思い出しようがなかったでしょうな」
「ミッチー」と、村長は、にわかに話を中途で切って、先刻からあいかわらずなにやら忙しそうに部屋のなかを右へ左へと走り抜けている婦人に声を掛けた。それが、村長夫人だった。「すまないが、そこの戸棚のなかを調べて見てはくれないかね。たぶん、例の訓令が見つかるはずだよ」「つまり」と、村長は、Kに向かって弁明するように言った、「わたしが着任してまだ間がないころの書類なんでしてね。あのころは、まだなんでもかでも大切に仕舞っておいたものですよ」
夫人は、早速、戸棚を開けた。Kと村長は、成り行きを見守っていた。戸棚は、書類でぎっしり詰まっていて、開けた途端に、ちょうど薪類を縛るときによくやるように、丸く括《くく》った、大きな書類の束がふたつ、転がり出たので、夫人は、ぎくりとしてわきへ飛びのいた。「下のほうにあるかもしれん。下のほうにさ」と、村長は、ベッドからやや乗り出すようにして指図しながら、言った。夫人は、言われるままに、両腕でまとめて書類を抱え込みながら、下のほうの書類を取るために、戸棚のなかにあるものをすっかり投げ出していった。早くも書類で部屋の半分までが埋《うず》まっていた。「よくもまあずいぶんと仕事をしてきたもんだな」と、村長は、うなずきながら言った、「でも、これなんか、ほんの一部分にすぎないんです。大多数は、納屋のほうに保管してありますがね。それでも、むろん、紛失しちまったものが、大部分ですからな。こんなものを残らず大切に纏《まと》めて取っておくなんて、とてもまともな人間のやれることじゃありませんわい。それでも、納屋には、まだまだふんだんにあるんですからな」それから、また夫人のほうへ向かって、「問題の訓令が見つかりそうかい」と、村長は言った。「表紙の『測量師』という文字のしたに青い色の線が引いてある書類を探さないといかんよ」「この部屋は、とても暗すぎて」と、夫人は言った、「蝋燭《ろうそく》を取ってまいりますわ」そして、書類のうえを跨《また》ぎながら、部屋から出て行った。「あれのお陰で、わたしは、ずいぶんと助かっているんですよ」と、村長は言った、「こんな厄介な公務のときでもね。それを、あれにしてみれば、ほんの片手間にやってのけねばならないんですからな。なるほど、文書の作成のためには、ほかに助手の力を借りることにして、学校の先生を雇ってはいますが、それでも、まだ片づけきれないで、いつも未処理の案件が数多く残っている始末でして、そうしたものが、あすこのあの箱のなかに、溜《た》まっているんですよ」そう言って、村長は、別の戸棚を指差した。「それに、わたしが今こうして病気でいますと、ますますあちらのほうが増える一方でね」と、村長は、続けて、さも疲れたように、しかし、どことなく誇らしげな様子をさえも見せながら、また仰向けに戻った。
そのうちに、夫人が蝋燭を手に引き返してきて、戸棚のまえに跪《ひざまず》きながら、訓令を探しはじめた。「僕でよろしかったら、奥さんが深されるのをお手伝いしましょうか」と、Kは言った。村長は、苦笑しながら、頭を振って、「さっきも申しましたように、わたしは、あなたにたいして、職務上のことを秘密にしようとは思いませんが、いくらなんでも当のあなたに書類を探してもらうなんて、そこまではわたしだって踏み切れませんな」今や、部屋のなかは、静かになった。書類のかさかさという音だけが聞こえるだけだった。村長のほうも、どうやらすこしまどろんでさえいるらしかった。そのとき、低くドアをノックする音がして、Kは、思わず振り返った。むろん、助手たちのしわざだった。なにしろ、助手たちも、もうこのころになると、すこしは作法をわきまえるようになっていて、いきなり部屋のなかへ飛び込んできたりはせずに、先ずドアを細目に開けて、その透き間越しにささやいた、「外は、とても身を切るような寒さなんで」「あれは、だれかね」と、村長は、びっくりして眼を覚ましたのか、尋ねた。「実は、僕の助手どもなんですが」と、Kは答えた、「どこで待たせておけばいいのか、分からないもんですからね。外は、とても身を切るような寒さですし、かと言って、この部屋にいちゃ、うるさくてやりきれませんし」「わたしのほうは、一向に差し支えないですよ」と、村長は、愛想よく言った、「入れてやりなさい。それに、あの連中なら、わたしも、よく識《し》っております。昔からの顔なじみでね」「いや、僕のほうが、うるさくてやりきれないのです」と、Kは、歯に衣《きぬ》着せずに言って、眼差《まなざし》を助手たちから村長へと移し、また助手たちのほうへと戻したが、揃いも揃って三人の薄ら笑いが、区別つかないほどに似ているのに気がついた。「ところで、おまえたちも、今こうしてここへ入れてもらった以上は」と、Kは、物はためしに言った、「ずっとここを離れないで、あすこにおいでの村長夫人のお手伝いをして、表紙の『測量師』という文字のしたに青い色の線が引いてある書類を捜して差しあげてくれ」
村長は、なにも異議を唱えなかった。Kにはさせていけないことでも、助手たちにはさせていいというわけだった。現に、助手たちも、待っていたとばかりに、書類に飛び付いて行った。彼らは、捜すというよりはむしろ、書類の山のなかを掻き回しているに等しかった。そして、一方の助手がなにやら書いてあるものを一字一字たどたどしく読みはじめると、他方の助手が必ず横合いからそれをひったくるのだった。それにひきかえ、夫人のほうは、空になった戸棚のまえに跪いたきりであった。もう捜している様子はなかった。いずれにせよ、蝋燭が、夫人からひどく離れたところに、置き去りになっていた。
「あの助手たちですが」と、村長は、万事こうなったのも、元はと言えば、自分の指図によるものなのに、たとい当てずっぽうなりとも、それを察することができる者は、どこにもいないのかと言わんばかりの、自己満足めいた微笑《ほほえ》みを浮かべながら、言った、「あの連中が、それでは、あなたにとって、うるさい厄介者だということになりますな。しかし、いくらなんでも、あなた御自身の助手じゃありませんか」「違うのです」と、Kは、素っ気なく答えた、「連中は、いずれも、僕が当地へ来てから、初めて僕のところへ押し掛けてきた者ばかりなんです」「えっ、なんですって、押し掛けてきたですって」と、村長は言った、「配属されてきたという意味で、たぶん、おっしゃっているのでしょうね」「まあ、それなら、配属されてきたということにしてもいいですがね」と、Kは言った、「それにしても、あの連中ときたら、まるで出し抜けに天から降ってきたようなものですからね。そんな配属の仕方なんか、無分別も甚だしいですよ」「ここでは、なにひとつとして無分別に事を行ってはおりません」村長は、そう言い切ると、足の痛みをさえも忘れて、正座した。「なにひとつとしてね」と、Kは言った、「としますと、僕の任用をめぐっての経緯《いきさつ》は、どういうことになるのですか」「あなたの任用も十分に考慮された末なんでして」と、村長は言った、「たださまざまの付随的な事情が介在してきたために、事がこんがらかっているにすぎんのですよ。そのことを、公文書を手引きとして、あなたにこれから立証してあげましょう」「その公文書なるものがどうやら見つからないようですな」「見つからないって」と、村長は叫んだ、「ミッチー、すまんが、もうすこし早く捜してみてくれないか。でも、差しずめ顛末をお話しするくらいなら、書類がなくたってできます。先ほど申しましたあの訓令にたいして、わたしどもは、測量師は不要であるという、辞退の回答をいたしました。ところが、その回答が、発令した元の部局、その部局をAと呼ぶことにしますと、A部局へは届かずに、間違って、ほかのBという部局へ送達されてしまったらしいのです。つまり、A部局のほうは、ずっと回答を受け取らないままでいたわけです。ところが、残念なことに、B部局にしても、わたしどもの回答をそっくり受け取ってはいなかったのです。その公文書の中身が、なにかの手違いで、わたしどものところに残ったままになっていたものやら、それとも、途中で紛失してしまったものやら、その辺は分かりませんが――当の部局内では、けっして、紛失するようなことはありません。それは、わたしが保証しますがね――、いずれにせよ、B部局へ届いたのも、結局は、公文書の封筒だけという始末でして。その封筒には、ただ簡単に、測量師の任用に関する書類在中という上書きがしてあっただけで、その肝心の書類が、実は、残念ながら、入ってなかったわけなんですな。ところで、A部局のほうでは、そのあいだ、わたしどもの回答をずっと待ち受けていましてね。確かに、A部局には、この一件に関する手控えがあることはあったのですが、こうしたことは、当然、よくありがちでして、いかに処理の精密を期しておりましても、起こり得るわけですが、A部局の担当官は、わたしどもからの回答がいずれあるものと、当てにしていまして、回答があり次第、測量師を招請するか、あるいは、必要によっては、さらにこの事柄についてわたしどもと連絡を取ればいいと、そう安心していたんですな。その結果、担当官は、手控えを打っちゃらかしにしておいたため、一切合財が彼のところで、いつのまにか、忘れられてしまったんです。それにひきかえ、B部局のほうでは、問題の書類の封筒が、良心的なことで有名な担当官の手に渡りましてね。その担当官は、ソルディーニという名の、イタリア人なんでして、彼ほどの能力を具《そな》えた人物がどうしていつまでも下っ端に近い地位に置かれているのか、内情に通じているこのわたしでさえも不可解なくらいなんですが。そのような男でしたから、ソルディーニは、むろん、中身を入れるようにと、その空の封筒をわたしどものところへ送り返してまいりました。もうそのときは、しかし、A部局があの最初の文書を送付してきてから、すでに何年とまでは言えないにしても、何カ月かはたってしまっていたんです。これも当然の成り行きでして、と申しますのは、いかなる書類でも、規則どおりに、まともな道順を踏んでいれば、遅くとも一日後には元の部局に戻ってきて、その日のうちに決裁されるからです。ところが、一旦道順を間違えますと――この場合、書類のほうも、ここでの組織がきわめてすぐれているだけに、間違った道を、文字どおり一所懸命になって、捜さねばならないわけです。でないと、そんな道など、見つかりませんからね――、そのときは、むろん、そうなったが最後、とても長く暇取るのです。それで、わたしどもも、ソルディーニの通達を受け取ったときには、この件を全く漠然としか思い出せないくらいでした。当時、わたしどもは、ミッチーとわたしのふたりだけで、仕事に当たっていて、先生のほうは、まだそのころは、わたしに配属されていませんでした。写しにしても、極く重要な案件のみに限って、保存していたような始末だったのです。要するに、わたしどもとしては、かような任用についてはなにも関知していないばかりでなく、測量師のごときはわたしどものところでは一切無用である旨を、ひどく漠然と回答するよりほかに術《すべ》がなかったわけです」
「それにしても」と、村長は、ここで、あまり話に熱中しすぎたとでも思ったのか、あるいは、すくなくとも熱中しすぎたきらいがあるとでも感じたのか、説明を中断して、「こんな話をお聞きになって退屈じゃございませんか」
「いいえ」と、Kは言った、「なかなか面白く承っております」
すると、すかさず村長が、「なにもあなたを面白がらせるためにお話ししているんじゃありませんよ」
「僕が面白いと感じますのは、ほかでもありません」と、Kは言った、「次第によってはひとりの人間の生存をも決定しかねないものが、実は、世にもばかばかしい乱脈であるということを、多少なりとも見通せるようになったからです」
「いや、あなたは、まだまだ見通せるところまでは行っておられませんよ」と、村長は、むきになって言った、「それでは、話を続けるとしましょう。ソルディーニのような人物が、むろん、わたしどもの回答で満足するはずはありません。あれは、すばらしい男だと、いつもながら感服しています。もっとも、わたしにとっちゃ悩みの種ですがね。つまり、ソルディーニは、どんな人間をも信用しないんです。例えば、数えきれないほどにいろいろな機会があって知り合った相手が、絶大な信頼の置ける人間だと分かっているときでも、次の機会には、その相手を、まるで全く未知の人間であるかのように、いや、もっと適切な言い方をすれば、まるで浮浪人としてしか見覚えてないかのように、信用しないわけです。わたしは、そうした態度を正しいと思っています。いやしくも役人たる以上は、そのように行動せねばなりません。ただ、わたしは、残念ながら、自分の性分のために、こうした原則を遵守《じゅんしゅ》できないのです。なにしろ、このとおり、余所《よそ》者のあなたのまえで、なにもかも腹蔵なしに吐き出してしまうような男なんですからね。わたしとしては、どうしても違った流儀じゃやれないんでして。ところが、ソルディーニのほうは、わたしどもの回答に接すると、すぐさま不信の念を抱いたわけですよ。それからというものは、次から次へと、大変な文書の交換が続きました、ソルディーニは、どうしてわたしが急に、測量師の任用など、全く必要ないという考えになったのかと、尋ねてきました。わたしは、ミッチーのすぐれた記憶力の助けを借りて、最初の発議は、しかし、お上《かみ》の筋から出たものである旨を、回答しました(それが別の部局に関する事納であることを、わたしどもは、むろん、とっくの昔に忘れてしまっていたんです)。それにたいして、ソルディーニは、どうしてわたしが今ごろになってやっとそんな公文書のことを持ち出すのかと、問い返してきました。それで、わたしもまた、今になってやっとそれがあったことを思い出したからであると、回答しましたところ、それは、奇怪千万なことである、とのソルディーニの言葉でした。そこで、このようにひどく長期にわたって決定が延び延びになっている案件の場合は、なにも奇怪なことではないと、わたしも応酬しました。すると、ソルディーニが言うのには、それにしてもやはり、奇怪である、現にあなたが思い出したという通達は、存在してないではないか。それを受けて、わたしのほうも、答えてやりました。一件書類が全部紛失しているからには、それが存在してないのも当然ではないか、と。すると、またソルディーニいわく、それにしても、例の最初の通達に関する手控えくらいは、あって然《しか》るべきであるのに、それさえもないではないか、と。そこで、わたしは、はたと言葉に詰まってしまいました。と言うのも、ソルディーニの部局がなにかの手違いを犯したのではないかということを、わたしは、主張するだけの勇気もなければ、それを信じるだけの大それた気持ちもなかったからでした。測量師さん、あなたは、もしかすると、お心のうちで、ソルディーニがすくなくともわたしの主張を斟酌《しんしゃく》して、この件につき他の部局へ照会してみるくらいの気持ちは起こしてもよかったのではないかと、ソルディーニを非難なすっておられるかもしれません。ところが、そんなことをすれば、それこそ筋違いだったのです。わたしは、この人物にたいしては、たといお心のうちだけでなりとも、あなたに瑕《きず》をつけてもらいたくはないんです。手違いの可能性などは全然計算に入れないのが、官庁の就労上の原則でして、この原則が当然なものとして通用するのも、全体の組織がすぐれているからなのです。決裁が一刻を争うほどに迅速を要するときでも、この原則は、必要なのです。それで、ソルディーニとしても、他の部局に照会するわけにはゆかなかったのでした。なおまた、照会したところで、他部局からは、なんの回答も得られなかったでしょう。他部局のほうでは、手違いがあったかもしれないので、探っているのだと、すぐに気づいたはずですからね」
「村長さん、お言葉の途中でお尋ねしまして、失礼ですが」と、Kは言った、「あなたは、先ほど、監督庁のようなものがあるようにおっしゃいませんでしたか。どうやらここの管理体制は、あなたのお話によりますと、監督が届かない場合を想像しただけでも気味が悪くなるような体制ですね」
「それはまたひどく厳しいお言葉ですな」と、村長は言った、「しかし、そのあなたの厳しい態度を千倍になさっても、官庁がそれ自体にたいして取っている、あの厳しい態度に比べたら、まだまだ物の数ではないでしょう。ただいまのような御質問は、根っからの余所者だからこそできるんです。監督庁があるかって、尋ねられましたが、ここにありますのは、言わば、監督庁ばかりなんです。むろん、いずれも、大雑把《おおざっぱ》な意味での手違いを見つけ出すのが、本来の役目ではありません。そもそも手違いなんか起こりっこないからです。仮に、あなたの場合のように、なんらかの手違いが起こったとしても、はたしてだれが、それを目《もく》して、手違いであると、最終的に言い切れるでしょうか」
「なにやら全く新しいお説のようですな」と、Kは叫んだ。
「わたしにとっちゃ、ひどく古臭い持説ですよ」と、村長は言った、「わたしも、なんらかの手違いが起こったということを確信している点では、あなた御自身と大して変わりはありません。ソルディーニは、そのことで絶望した揚げ句、重い病気に罹《かか》ってしまいました。手違いのもとを発《あば》いてくれた最初の監督当局も、この場合は、やはり手違いであったことを認めているわけです。だが、それにしてもですよ、第二の監督当局も同じような判断を下し、また第三の監督当局、そしてさらにずっと他の一連の監督当局までも、同じような判断を下すに違いないと、だれが主張できるでしょうか」
「そうかもしれませんがね」と、Kは言った、「僕としては、そのようなややこしい考えごとに、むしろ、嘴《くちばし》を容れたくありません。それに、そうした監督当局のことも、僕にとっては、初耳でして、むろん、まだ腑《ふ》に落ちかねないでいるくらいですから。ただ、僕が考えただけでも、この場合、二様のことを区別せねばならないように思いますね。つまり、第一は、当局の内部で取られている処置のことですが、その場合は、また職務上から、どのようにも解釈できるわけですな。そして、第二は、この僕という実在の人間のことです。局外の立場にあって、当局からの威嚇《いかく》を受けている、この僕のことですが、その威嚇があまりにもばかばかしいので、僕は、いまだにその危険の深刻さを信じかねている始末です。村長さん、あなたが、そのように人を煙に巻くような桁《けた》外れの専門的知識でもって、お話ししてくださっているのは、たぶん、第一のほうのことに当たるのだろうと思いますが、ただ僕としては、これから、僕のことについても、一言くらいは承りたいですな」
「むろん、そのことにも言及いたしますが」と、村長は言った、「しかし、そのまえにさらに二、三のことを申しあげておかないと、十分な御理解が得られないのではないかと思います。ただいま監督当局のことに触れましたが、それさえも早すぎたくらいなのです。そこで、ソルディーニとの意見の食い違いという点にまで、話を戻すことにしましょう。すでに申しましたように、わたしの防御力は、しだいに弱まってきました。ところで、ソルディーニは、相手にたいして、ほんのわずかでも、有利になるものを掴《つか》みさえすれば、もう勝ったも同然なのです。そうなりますと、あの男の注意力とか、気力とか、沈着な心構えが、いやがうえにも強まるばかりだからです。ソルディーニは、攻め立てられている者の眼には、怖ろしい姿に映り、攻め立てられている者の敵方の眼には、すばらしい姿に映るわけです。わたしが、現にこうして、あの男のことをそんなふうにお伝えできますのも、実はと言えば、わたし自身が、ほかのさまざまな場合に、後者のほうをも体験していたからなんですが。それにしても、わたしは、あの男をこの眼で見たい見たいと思いながら、いまだにそれができないでいるのです。あの男は、山を降りて来るだけの暇さえもないのです。山積した仕事で眼が回るほどに忙しいからです。人の話では、ソルディーニの部屋のなかは、次々と積み上げられた、大きな書類の束が、いくつとなく、列柱をなして、四方の壁をすべて蔽《おお》い隠しているとのことですが、それらは、すべて、ソルディーニが現に手がけている書類ばかりなんです。しかも、ひっきりなしに、書類を山積みの束のなかから引き抜いたり、また元のところへ差し込んだりしながら、そうした動作をすべて大急ぎで行うので、そこかしこの書類の柱が、ひっきりなしに、崩れ落ちるわけです。どしん、どしんという、そのほとんど間断なしに打ち続く音が、ほかでもなく、ソルディーニの執務室の特徴になっているようです。このように、ソルディーニは、正真正銘の働き者でして、どんなに些細な問題にたいしても、このうえなく重大な問題にたいするときと同じように、綿密な注意を払うのです」
「村長さん、あなたは」と、Kは言った、「僕の問題をいつも最も些細な問題のひとつのように言われますが、その僕の問題のためにだって、大勢の役人たちが、ひどく忙しい目に会ってきているじゃありませんか。おそらく、最初のうちは、ひどく些細な問題だったのでしょうが、ソルディーニ氏のような質《たち》の役人たちの熱心さのお陰で、ついに、大問題になってしまったわけですな。残念と申すよりほかありません。僕の本意にひどく反することなのです。と申しますのも、僕の名誉心は、僕に関する書類の大きな柱が築かれては、また、どさりと、崩れ落ちるにまかせるという、そんな大それたことを望んでいるのではなくて、ささやかな測量師として、ささやかな製図台に向かい、落ち着いて仕事をしたいという程度のものにすぎないんですから」
「聞違っちゃいけません」と、村長は言った、「あなたのは、けっして大問題じゃありません。その点でも、苦情を唱えるべき理由が、なんらあなたにはないんです。あなたのは、些細なうちでも極く些細な問題のひとつにすぎません。仕事の嵩《かさ》で問題の大小が決まりはしないのです。あなたがもしそれで決まるように信じておられるのでしたら、ここの官庁にたいする理解には、まだまだ程遠いと申さねばなりません。ですが、仮に仕事の嵩次第で決まると仮定しましても、あなたの場合は、最も嵩低い例のひとつでして、極くありふれた場合でも、つまり、いわゆる手違いのない場合でも、あなたの場合よりはるかに嵩高になり、またそれだけに、むろん、はるかに実り多い仕事になるのです。それはとにかく、あなたは、あなたのことが元で生じるにいたった仕事が、実は、どのようなものであったかを、まだすこしも御存じでないので、今はそのほうから先にお話しすることにしますがね。先ず、差し当たって、ソルディーニは、わたしに見切りをつけました。そのかわり、彼の配下の役人たちがやって来まして、毎日のように、貴紳閣で、村の有力な公民たちを相手に、尋問と調書作成が行われましてな。そのとき、大半の連中は、わたしを支持する側に回ってくれまして、尻込みしたのは、ほんの数人にすぎなかったんですが。測量ということになりますと、百姓にとっちゃ、切実な問題でしてね。なにか秘密の約束事とか不正行為があるのではないかと、嗅ぎまわる者が増えてきました。連中は、おまけに、指導者をもひとり、仕立ててきたわけです。そうなると、ソルディーニも、彼らの申し立てから推して、もしもわたしがこの問題を村の参事会に上程すれば、必ずしも全員が測量師の任用に反対するとは限らないとの確信を、持たざるを得なくなったのでした。このようにして、自明の事柄が――つまり、測量師など、不要であるということが――とどのつまりは、すくなくとも曖昧《あいまい》にされてしまったのです。その際、ことのほか男を上げたのが、ブルンスヴィックとかいう男です――あなたは、だぶん、この男を御存じないでしょうが――おそらく、下劣な人間ではないと思います。ただ、愚物なうえに、空想狂なんでして、ラーゼマンの義理の兄弟に当たる男ですがね」
「あの製革工の親方のですか」と、Kは、尋ねて、ラーゼマンのところで見た、あの顔じゅうひげだらけの男の様子を話してみた。
「そうです。その男ですよ」
「彼の奥さんも識っています」と、Kは、いくらか当てずっぽうではあったが、言った。
「なるほど」と、村長は、言ったまま、黙り込んだ。
「美しい人ですね」と、Kは言った、「ただ、すこし顔色がさえないで、病身らしいですな。城の出のようで」それは、なかば尋ねるような言い方であった。
村長は、時計に眼をやると、匙《さじ》に水薬をたらし、あわてて飲みくだした。
「あなたは、城のなかのことでも、事務機構をしか御存じないようですね」と、Kは、あけすけに尋ねた。
「そうなんですよ」と、村長は、なんだか皮肉げな、しかも、嬉しそうな笑みを浮かべて、言った、「なんと言っても、それが一番大切なことですからな。ところで、ブルンスヴィックのことなんですがね。あの男を村から追い出すことができたら、わたしたち、ほとんど全部の村民にとって、こんな目出度いことはなく、ラーゼマンだって、ほっとしたでしょう。ところが、ブルンスヴィックは、あのころ、かなりの勢力を得ていましてね。別に、雄弁家だったわけじゃなくて、法螺《ほら》吹きだったんですが、それでも、結構、かなり多くの人の歓心を買いましてな。そんなことから、わたしとしても、この件を村の参事会へ上程せざるを得ない羽目になりました。なにはともあれ、これだけは、ブルンスヴィックの収めた成功でした。というのも、むろん、参事会の大多数の者は、測量師のことなんかに耳を貸そうともしなかったからです。それも、今から考えますと、もう何年もまえのことですが、それからずっとこれまで、この一件は、落着を見ないままになっているんです。そうなったのも、ひとつには、多数派ならびに反対派の主張の動機を、このうえなく丹念に検証することによって、突き止めようとする、ソルディーニの良心的な態度によるものですが、ひとつにはまた、ブルンスヴィックの愚かさと野心によるものなんです。あの男は、各官庁とのあいだに、さまざまの個人的な繋《つなが》りを持っていましてね。得意の空想を働かせて、いつも新しい手を考え出しては、その繋がりを動員したわけですよ。むろん、ソルディーニは、さすがにブルンスヴィックにはだまされませんでした。ブルンスヴィックごときにどうしてソルディーニがだまされましょう。――それにしても、だまされないためには、やはり、新しい検証が必要でした。ところが、その新しい検証がまだ終わらないうちに、はやブルンスヴィックのほうでは、またしても新しい手を考え出しているという始末でしてね。ひどくすばしこいんですよ。それも、あの男の愚かさの一面なんですが。さて、このあたりで、わたしどもの官庁機構の一特性に話題を向けることにしましよう。わたしどもの官庁機構は、その精密さに比例して、また極度に鋭敏でもあるわけです。仮にある案件がひどく長期にわたって精査されているような場合など、その精査がすっかり終わってなくても、突然に電光石火のように、どこか思いもよらない、そして、後からではとても探し出せないような部局で、なんらかの決裁が行われ、それによって、大抵の場合は非常に正しいのですが、しかし、ともかくも勝手に、その案件が片付けられてしまうようなことだってありうるのです。言わば、官庁機構なるものが、案件としては、おそらく、取るに足りないものでしょうが、しかし、多年にわたって同一の案件により刺戟され続けているうちに、ついにその緊張に堪え切れなくなって、役人たちの助力を待たずに、自分だけで裁決を下してしまったようなものですな。むろん、奇跡が生じたわけじゃありません。きっと、どこかの一役人が決裁書を認《したた》めたか、あるいは、文書に依らないで、裁決を下したか、いずれかに違いないのですが、いずれにせよ、すくなくともこちらのわたしどもの側から見ただけでは、いや、それどころか、当局の側からでさえも、この場合にいかなる役人が、いかなる理由から、裁決したのか、確かめようがないのです。監督庁がその点を突き止めはじめるのは、それよりずっと後になってからなんでして、わたしどものほうでは、もうそれっきり、それ以上のことは、耳に入りませんし、それにまた、そのころになってもまだこの問題に関心を持ちつづけているような人は、ほとんどいないと思いますよ。ところで、ただいまも申しましたように、そうした決裁というものは、大抵の場合、見事に当を得ているわけですが、ただひとつの難点は、通常こうした場合によくありがちなように、そうした決裁について聞かされるのがひどく遅すぎて、そのために、当事者のほうでは、そのあいだ、とっくに決裁済みの案件について、あいもかわらず熱心に協議を続けているということなんです。あなたの場合、そうした決裁が行われたかどうかは、わたしなどには分かりません――いろいろな点から推して、行われたようにも思われますし、また行われなかったようにも思えますが――。もしもそうした決裁が行われたとすれば、あなたの許《もと》へ招請状が送付されて、あなたは当地までの長旅を続けられ、そのために多くの時日が経過したばかりか、そのあいだ、ソルディーニは、当地にあって、あいかわらず同じ問題を手掛けて、疲労|困憊《こんぱい》に達するほどに働きとおし、またブルンスヴィックのほうは、奸策をめぐらしつづけて、わたしが、両者に悩まされるにいたるのも、あるいは当然の成り行きかもしれません。わたしは、ただこうした可能性もあるという暗示をお伝えしているにすぎませんが、次に申しあげる経緯だけは、しかし、わたしが確実に知っている事柄なんです、つまりですね、そうこうするうちに、ある監督庁のほうで、何年もまえにA部局から村当局にたいして測量師に関する照会状が出されているにもかかわらず、今に至るまで何の回答も届いていないということを、発見したのです。最近、そのことでわたしのところへ改めて照会がありまして、それで、むろん、この一件の真相がすっかり明らかになりました。A部局は、測量師を必要としないという、わたしの回答に満足しましたし、またソルディーニも、この場合は、彼の管轄外の件であり、むろん、なんの責任もなかったにかかわらず、ひどく大量の、むだな、神経を磨《す》り減らす仕事を果たしてきたことを、認めざるを得なかったのでした。ところで、もしもこれを最後に、新しい仕事が、いつものように、四方八方から押し寄せてくるようなことがなくなっていたら、そしてあなたの場合にしても、あのとき、ほんの些細な問題で終わってさえいなかったら――実のところは、些細なうちでも極く些細な問題と言ってもいいくらいなんですがね――、わたしどもも、もう今ごろは、みんなほっと一息ついていたでしょうな。きっと、ソルディーニ自身だって、同じことだと思いますね。ただブルンスヴィックだけは、心火を燃やしていたでしょうが、そんな光景など、ばかばかしい限りですよ。ところで、測量師さん、わたしがどんなに落胆しているか、ひとつ想像してみてくださいませんか。問題がすべて目出度く落着を見たあとで――しかも、それからでも、もうまた随分と時がたっていますのに――、今ごろになって、突然にあなたが現れたお陰で、問題をまた最初から蒸し返さねばならないような気配にさえもなりかけているんですよ。わたしは、このことだけは、わたしの力の及ぶ限り、いかなることがあっても黙認すまいと、固く決心している次第ですが、この点は、あなたも、たぶん、御諒承してくださるでしょうな」
「もちろんです」と、Kは言った、「でも、もっともっと僕によく理解できますことは、ここで、事と次第に依っては法律を乱用してでも、この僕を、思ってもぞっとするような、ひどい目に会わせようとしていることです。僕としても、それにたいして、自衛の策を講じようとは思っておりますが」――
「どのような方法をお取りになる心算ですか」と、村長は尋ねた。
「そこまでは打ち明けるわけにまいりませんな」と、Kは言った。
「わたしの所存を無理に押しつける気は、毛頭ありませんが、せめてあなたの御一考を煩わしたいのは、このわたしを――友人とまでは、よう申しません。わたしたちは、赤の他人同志ですからね。しかし――まあ、取り引き仲間くらいにはお思い願えないかということです。あなたが測量師として採用されることだけは、わたしとしても黙認するわけにゆきませんが、しかし、それ以外のことでしたら、いつでも信頼してわたしにお問い合わせくだすって結構です。と申しましても、むろん、わたしの権力の限界内のことに限りますし、その権力もけっして大したものではありませんが」
「あなたは、先程からずっと」と、Kは言った、「僕が測量師として採用される予定であるという点についてしかお話しになりませんが、しかし、僕は、すでに採用済みなのです。これがクラムの手紙です」
「クラムの手紙ですって」と、村長は言った、「クラムの署名がある以上、やんごとない、貴重な手紙ですな。署名もどうやら本物のようですしね。でも、それはそうと――やはり、わたしとしては、それにたいするわたしだけの勝手な意見を述べるわけにはゆきませんのでね。――ミッチー」と、村長は、夫人の名を呼んでから、「おや、おや、おまえたちは、なんてことをしてるんだ」
長いあいだほったらかしにされていた助手たちとミッチーは、明らかに、捜す書類が見つからなかったらしく、もうそのときには、引きずり出した書類のすべてを、また元どおり、戸棚のなかへ仕舞おうと、やっきになっていたが、夥《おびただ》しい書類が乱雑になったままなので、彼らの思いどおりにはならなかった。そのあいだに、助手たちは一案を考えついたらしく、今、それを実行に移していた。助手たちは、戸棚を床に横倒しにしてから、書類という書類を残らず詰め込み、そのうえに戸棚の扉を載せてから、さらにミッチーと一緒に扉のうえにすわり込んで、そのまま三人の体重で扉をゆっくりと圧《お》し下げようとしていた。
「すると、例の書類は、見つからずじまいだな」と、村長は言った、「残念ですが、しかし、経緯は、すでにあなたもお聞き及びのとおりでして、実のところ、もうわたしたちとしては、書類の必要なんかないわけです。とにかく、そのうちにはきっと見つかるでしょうがね。もしかすると、先生のところにあるかもしれません。先生のところへは、今でも、非常にたくさんの書類が行っていますんで。ところで、ミッチー、蝋燭を持ってこっちへ来てくれないか。この手紙をわたしと一緒に読んでほしいんだよ」
ミッチーは、言われるとおりにやって来て、ベッドのへりに腰を掛け、頑丈な、活気あふれる夫のからだにぴったりとからだを押しつけた。夫は、じっと彼女を抱きかかえていたが、もうそのときは、夫人の姿も、ひとしお濃い灰色の、見すぼらしい影法師くらいにしか見えなかった。ただ彼女のこぢんまりした顔立ちだけが、今や蝋燭の光を受けて、際立ち、そのくっきりとした、きつい輪郭が、寄る年波のための衰えで、わずかに和らげられているように見受けられた。彼女は、手紙に一瞥《いちべつ》をくれるや否や、軽く両手を組み合わせて、「クラムからのですね」と、言った。それから、夫婦は、そろって手紙を読み、なにやらしばらくささやき合っていた。ちょうどそのとき、助手たちのほうから、「万歳」という歓声が上がった。ついに、彼らのからだの重みで、戸棚の扉が締まったのだった。ミッチーは、感謝の眼差で、助手たちのほうを見やった。そうこうするうちに、ついに、村長が弁じはじめた。
「ミッチーも、全くわたしと同意見ですので、わたしの口から思い切ってはっきりと申しあげてもよいかと存じます、この手紙は、けっして公文書と言えるようなものでなく、ただの私信にすぎません。それは、すでに『前略』という書き出しの挨拶からも、はっきりと見て取れるはずです。さらにまた、あなたが測量師として採用されたということについては、文中に一言も触れておりません。むしろ、ただ一般的に、お上への勤務について述べてあるにすぎません。しかも、それだって、なにも拘束力を持った申し渡しではなくて、あなたは、『御承知のように』採用されることになったにすぎないのです。と言うことは、取りも直さずですね、あなたが採用されることになったことにたいする挙証責任は、あなたに課せられているという訳なんです。最後にですな、あなたは、職務上のことに関しては、もっぱら、あなたの直属する上官である村長のわたしのところへ来るようにと、指示されてあり、わたしからあなたにすべて詳細なことを伝えねばならないことになっていますが、このほうは、すでに先刻来、その大部分をお話し済みのはずです。公文書の読み方を篤《とく》と心得ており、そのお陰で、非公式の手紙をもはるかに巧みに読みこなせるようになっている者にとっては、以上のことは、すべて明々白々なわけでして。余所者のあなたにそうしたことがお分かりにならなくても、わたしは、不思議とは思いませんがね。総じて、この手紙の文意は、ほかでもなく、あなたがお上への勤務に採用されるような場合には、クラムが個人的にあなたの面倒を見てあげる心算であるということだけなんですよ」
「村長さん、あなたのひどく巧みな解釈に依りますと」と、Kは言った、「この手紙は、結局のところ、ただの白紙のうえに書かれた署名以外は、なにも残らないことになりますね。それでは、あなたが尊ぶと称しておられるクラムの名を辱めることになるのに、お気づきになりませんか」
「それは、誤解というものですよ」と、村長は言った、「わたしは、その書面の重要さを見損なってはいませんし、またあのように解釈したからと言って、けっして書面の価値を軽く見くびってもいません。いや、その反対なのです。クラムの私信は、むろん、一片の公文書なんかよりも、はるかに重大な価値があります。ただ、たまたま|あなた《ヽヽヽ》が置いていられるような価値が、その書面にはないだけのことです」
「あなたは、シュバルツァーを御存じですか」と、Kは尋ねた。
「いいえ」と、村長は言った、「ひょっとすると、ミッチー、おまえなら識っているんでは。なに、おまえだって識らないのかい。やっぱりね。わたしも、家内も、存じませんが」
「それは、妙だな」と、Kは言った、「下級執事の息子なんですよ」
「測量師さん」と、村長は言った、「一体、どうしてわたしが、すべての下級執事の息子たちを、残らず識っていなくちゃならんのですかね」
「いや、よく分かりました」と、Kは言った、「それでは、そういう男がいるという僕の言葉を、そのまま信じてくださいませんか。そのシュバルツァーと、僕は、この地へ着いた当日のうちに、胸糞の悪い渡り合いをやりましてね。そこで、シュヴァルツァーは、電話で、フリッツという名の下級執事に問い合わせましたところ、僕が測量師として採用されているという情報を受け取っているのですが。村長さん、あなたは、この一事をどのように解釈なさいますか」
「至極簡単ですよ」と、村長は言った、「あなたは、今までのところ、まだ一度も、わたしどもの官庁と本当に接触されてはいないんです。今おっしゃったような接触などは、すべて、ほんの見せかけだけのものにすぎません。ただ、あなたのほうで、事情に通じてらっしゃらないために、本当の接触と勝手に思い込んでおられるのです。ところで、電話の件なんですが、なんと言っても実際に官庁を相手の仕事をふんだんに抱えている、このわたしのところにさえも、御覧のように、電話一本だってありません。酒場とか、それに類したところでは、電話も、まあ、言ってみれば、自動奏鳴楽器《オーケストリオン》並みには、役にも立つでしょうが、しかし、その程度のものです。あなたは、当地で、一度でも、電話をお掛けになったことがありますか。そうですか。それなら、わたしの申していることが、たぶん、お分かりでしょう。城内だと、電話は、自明のことながら、すばらしい機能を発揮しているようです。伝え聞いた話によりますと、城内では、ひっきりなしに、通話が行われ、それによって、むろん、仕事のほうも、非常に促進されているとのことです。そのひっきりない通話が、こちらの村のなかにある電話のほうへは、ざわめきや歌声となって聞こえて来るのです。これは、あなたも、きっと、お耳にしたはずです。ところで、このざわめき、この歌声こそが、村の電話がわたしたちに伝えてくれる、ただひとつの正真正銘な、信用できるものでして、その他は、すべて、いんちきなんです。こちらと城とを接続する特定の電話線もありませんし、わたしどもの呼び出しを先へ繋いでくれる交換台もないんです。それで、こちらから城内のだれかに電話を掛けますと、城のほうでは、最下級の課のありとあらゆる電話機のベルが鳴ることになります。いや、むしろ、この点はわたしが確実に知っていることでして、ほとんどすべての電話機でベルの鳴る仕掛けのスイッチが切ってあるわけですが、もしそうでなかったら、ありとあらゆる電話機のベルが鳴ることになると、そう言ったほうが適切かもしれませんがね。ところで、時折、疲れ切った役人のひとりが、ちょっとばかり憂さ晴らしをしたい気を起こしましてな。とりわけ、夕方とか、夜分にですがね。ベルの鳴るスイッチを入れておくことがあるんです。そういうときには、わたしどもも、応答してもらえます。応答と言っても、むろん、ほんの冗談にすぎませんがね。それも、しかし、いたって当然なことだと思いますよ。だって、絶えず猛烈な速さで進められている、きわめて重要な仕事のさなかにですな、自分のちょっとした個人的な心配事のために電話のベルをじゃんじゃん鳴らして、仕事の邪魔をしてもいいなんていう権利が、一体、だれにあるでしょうか。それにまた、腑に落ちないことと言えば、余所者のくせに、例えば、ソルディーニに電話を掛けて、先方の電話口で答えているのが、やはり、本物のソルディーニだなんて、どうして信じられるのか、わたしには解《げ》せませんね。むしろ、相手は、全く別の部局の下っ端の記録係かもしれませんよ。それにひきかえ、むろん、時には、下っ端の記録係に電話したら、選《よ》りに選って、ソルディーニ自身が電話口に出て、応答することだってありますがね。そのようなときは、むろん、相手の第一声を聞くより先に、電話機のところから逃げ去ったほうがましですよ」
「そこまでは、むろん、僕も、観察が及びませんでした」と、Kは言った、「個々の細かい点になりますと、僕なんかには、とても分かりっこありませんのでね。でも、そうした電話を通じての話し合いは、僕だって、大して当てになるとは思っていませんでしたし、たまたま城で見聞したり入手したりしたものだけが、本当に重要なのだということを、絶えず念頭に置いてきました」
「いや、いや」と、村長は、言葉尻をとらえて言った、「本当に重要なのは、あくまでも、こうした電話を通じての先方の返事なんですよ、そうですとも。城から役人の与える指示が、重要でないなんて、そんな道理がどこにありましょう。これは、すでにクラムの手紙の件ででも、申しあげたところです。つまり、こうした言辞は、すべて、公的には、なんの価値もありません。あなたがそれらに公的な価値を認められるなら、あなたは、迷路に踏み込むだけです。それにひきかえ、それらの持っている私的な価値は、好意にみちたものにせよ、あるいは敵意にみちたものにせよ、非常に大きいのです。大抵は、公的な価値がある場合よりも、ずっと大きいわけです」
「分かりました」と、Kは言った、「万事がそういう状態だとしますと、僕には、いい友人がどっさり城にいてくれるということになりますね。厳密な見方をしますと、すでに何年かまえのあのころ、測量師を招いてもいいではないかと、例の部局が思いついたのも、僕にたいする友誼《ゆうぎ》的行為だったわけですな。そして、それ以後、次から次へと、友誼的行為が続いて、僕は、むろん、忌々《いまいま》しい限りながら、その揚げ句に、まんまと誘《おび》き寄せられて、果ては、追っ払うぞと恐喝されているという始末ですな」
「あなたの御見解には、ある種の真実が含まれております」と、村長は言った、「城の言辞は、そのまま言葉どおりに、受け取ってはいけないという点では、あなたのおっしゃるとおりだと思います。しかし、用心深さというものはですな、別に当地だけに限りません。どこにいても必要ですよ。しかも、問題になっている言辞が、重要であればあるほど、ますます必要になって来るわけです。あなたは、それにまた、誘き寄せるとか、なんとか、おっしゃいましたが、なんのことだか、わたしにはさっぱり解せません。あなたがわたしの詳しい説明をもっとよく筋目どおりに理解していてくださったら、あなたの招請の問題は、実に途方もない難問で、わたしどもがここで、ちょっと款談《かんだん》しているあいだに、解答が得られるようなものではとてもないということくらいは、あなたにもきっとお分かりになったはずですがね」
「そうすると、すべてがいまだにひどく曖昧模糊としていて、追い払う以外に、解決の道がないという結論だけが、残るわけですね」と、Kは言った。
「測量師さん、あなたを追い払うなんて、だれがそんな大それた気持ちを抱きましょう」と、村長は言った、「さまざまの先決問題までも曖昧模糊としているということこそ、ほかでもなく、あなたにたいして、このうえなく丁重な取り扱いを保証していることになるんですよ。ただ、あなたは、お見受けしたところ、ひどく神経質すぎるようですな。だれもあなたを当地に引き留めはしませんが、だからと言って、それを追い払うと解するのは、気が早すぎますよ」
「おや、村長さん」と、Kは言った、「事をあまりにも簡明に割り切って考えすぎるのは、またしてもあなたのほうじゃありませんか。それでは、僕を当地へ引き留めているものについて、いくつか、列挙して差し上げましょう。故郷を出て来るために、僕が払ってきた数々の犠牲。難渋だった長旅。当地で採用されたために抱いてきた、当然の希望。完全に無一文になった自分の身の上。今更故郷で別の適当な仕事を見つけることの無理。最後に、と言ったからとて重大さに変わりはないのですが、当地の生まれである、僕の許嫁《いいなずけ》など」
「ああ、あのフリーダのことですね」と、村長は、微塵も驚く素振りもなしに、言った、「分かっていますとも。しかし、フリーダでしたら、どこへでも、あなたに付いて行くと思いますよ。もっとも、その他のことに関しては、この際、むろん、なんらかの検討が必要でしょうな。そのことについて、わたしから、城のほうへ報告しておきましょう。それにたいし、なんらかの決定が来ることになるか、あるいは、そのまえにもう一度あなたに問い質《ただ》さねばならないことになるか、いずれにしましても、その節は、あなたのほうへ迎えの者を遣わしましょう、それで御了承願えますな」
「いいえ、了承できません」と、Kは言った、「僕が城に求めていますのは、なにも施し物なんかではなくて、僕の権利なのです」
「ミッチー」と、村長は、夫人に言った。夫人は、あいかわらずぴったりと夫に寄り添ってすわり、うっとりと夢見心地になって、クラムの手紙を手慰みにしながら、それを折り紙がわりにして小さな舟形を作っていたので、Kは、それを見ると、びっくりして夫人の手から引ったくった。「ミッチー、脚がまたひどく痛みはじめてきたよ。湿布を交換しなくちゃいけないんじゃないのかい」
Kは、立ち上がって、「それでは、これでお暇申しましょう」と、言った。「そうよ」と、すでに軟膏らしいものの用意を終えていた夫人は、村長に言った、「隙間《すきま》風がとてもきついですからね」Kは、後へ振り向いた。助手たちは、いつもの場所柄をわきまえない勤勉ぶりを発揮して、Kの言葉を聞くなり、すでに扉を二枚とも開け放っていた。Kは、勢いはげしく入り込んで来る寒気から病室を守るために、村長にたいするお辞儀もそこそこにして、助手たちを引っ張りながら、部屋から走り出ると、急いで戸口を締めた。
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第六章
飲み屋のまえでは、亭主が彼の帰りを待ち受けていた。亭主は、もじもじして、尋ねてやらないと、とても切り出しそうになかったので、Kは、なにか用かと、亭主に尋ねた。「もう新しい住まいができましたか」と、亭主は、地面に眼を落としながら、尋ねた。「女将《おかみ》さんの指図で聞いているんだね」と、Kは言った、「どうやらおまえのところは嬶天下《かかあでんか》らしいな」「いいえ」と、亭主は言った、「女房の指図で聞いてるんじゃありません。なにしろ、女房は、あんたのことでひどく取り上《のぼ》せて、とても惨めな思いをしているらしく、働けないで、ベッドに寝たっきり、のべつ幕なしに溜《た》め息をついては、泣き言を言っておりますような始末なんで」「女将さんのところへ行ってやろうか」と、Kは尋ねた。「お願いです、そうしてやっておくんなさい」と、亭主は言った、「先刻も、あんたを村長さんのところから連れ戻そうかと思いまして、あちらへまで行って、戸口のところで立ち聞きしていたんですがね。お話中だったもんで、邪魔してはいけないと思い、また女房のことも気掛かりになりましてな。また走って帰ったんですよ。ところが、女房は、どうしてもわたしをそばへ寄せ付けてはくれないんで。仕方なしに旦那の帰りを待っていたんです」「それじゃ、すぐに付いてこい」と、Kは言った、「僕が女将さんの気持ちをじきに静めてあげよう」「うまく行けばいいんですがね」と、亭主は言った。
ふたりは、明るい調理場を通り抜けて行った。調理場では、二、三人の女中がひどく離れ離れになって、てんでに暇つぶしの仕事をしていたが、Kの姿を見ると、文字どおり凝然《ぎょうぜん》と立ちすくんでしまった。すでに調理場からでも女将の溜め息が聞こえていた。女将は、簡単な板壁で調理場とのあいだを境した、窓ひとつない仕切り部屋で、横たわっていた。そこは、夫婦が共寝《ともね》する大きなベッドと箪笥《たんす》ひとつを置くだけの広さしかなかった。ベッドは、そこから調理場全体が見渡せて、そこでの仕事を監視できるような位置に、据えてあった。それにひきかえ、調理場からは、仕切り部屋のなかが、ほとんどなにひとつ見えなかった。仕切り部屋のほうは、真っ暗がりで、わずかに白と赤の寝具だけがかすかに浮き上がって、見えているにすぎない。部屋のなかへ足を踏み入れて、眼が慣れてくると、やっと個々の物の文目《あやめ》も分かってくるのだった。
「やっとお越しくださいましたのね」と、女将は、力ない声で言った。彼女は、あおのけに大の字になって寝ていたが、息をするのも、明らかに、苦しそうで、羽根ぶとんを足元のほうへ撥《は》ねのけていた。彼女は、服を着て起きているときよりも、そうしてベッドに寝ているときのほうが、はるかに若く見えた。ただ、頭に被《かぶ》っている、薄絹のレースで作られた寝帽《ナイト・キャップ》が、小さすぎて、彼女の結い立ての髪のうえで揺らいでいたとはいえ、顔のやつれを際立たせて、同情を誘うのだった。
「来てはいけなかったんじゃないでしょうか」と、Kは、やさしく言った、「あなたから呼ばれたわけでもないのに」「こんなに長らくわたしを待たせるなんて、ひどい方ね」と、女将は、病人特有の気ままに任せて言った。「お掛けになって」と、彼女は、言って、ベッドの端を指差しながら、「おまえたち、ほかの者は、とにかく、出て行っておくれ」いつのまにか、助手たちのほかに、女中たちまでも、部屋のなかへ押しかけていたのだった。「わたしも出て行くよ、ガルデーナ」と、亭主は言った。Kは、初めて、女将の名前を耳にした。「もちろんだわ」と、彼女は、おもむろに言ってから、別の考えごとに気を奪われているのか、うわごとのように言い足した、「あんたなんかに残っていてもらわなくちゃならないことなんて、なにもないはずよ」
ところが、皆が一斉に調理場へ引き揚げて行ってからも――助手たちも、今度は、すぐに言うことを聞いた、むろん、ひとりの女中の尻に付いてではあったが――ガルデーナは、しかし、いかにも如才なく、仕切り部屋にはドアがないために、こちらでの話が調理場には丸聞こえであることに気づいて、皆の者に、調理場からも出て行くように、命じた。そして、すぐに、調理場は、空になった。
「お願いですから」と、ガルデーナは、それから、言った、「測量師さん、そこの箪笥を開けてくださったら、すぐ前のほうに、肩掛けが掛けてありますから、それを取ってくださいません。それにくるまっていたいの。羽根ぶとんなんか、とても我慢できませんわ。ひどく息苦しいんですもの」そこで、Kが肩掛けを持って行ってやると、彼女は言った、「ほら、ね、きれいな肩掛けでしょう」Kには、ありふれた手織り物のようにしか、思えなかった。彼は、ただ相槌《あいづち》を打つために、もう一度、それに触ってみただけで、なにも言わなかった。「本当に、これ、きれいだわ」と、ガルデーナは、言いながら、それを身にまとった。それから、彼女は、心も安らいだのか、じっとおとなしく横たわっていた。一切の痛みが、いつのまにか、彼女のからだから取り除かれたように見受けられた。いや、それどころか、寝ていたために髪の毛が乱れていることまでも気になったらしく、彼女は、しばらく、上体を起こして、寝帽のまわりの髪の毛をちょっと調えたりした。彼女の髪は、とてもふさやかだった。
Kは、じれったくなってきて、言った、「女将さん、あなたは、もう僕に別の住まいができたかどうかを、尋ねさせましたね」「わたしが尋ねさせたって。そんなこと、ありませんわ。なにかの間違いですわ」と、女将は言った。「でも、御主人が、つい今さっき、僕にそのことを尋ねたばかりなんですよ」「なるほど、あの人のやりそうなことですわ」と、女将は言った、「本当に、あの人にはまいりますわ。わたしがあなたにここにいてもらいたくないと思っていたときには、あの人は、あなたをここへ引き留めてしまったし、今、あなたがここに住んでいてくださるのを、わたしが嬉しく思うようになると、今度は、あの人があなたを追い出しにかかるんですからね。これに似たようなことばかり、あの人は、いつもするんですよ」「すると」と、Kは言った、「僕についての御意見をひどく変えられたわけですな。わずか一、二時間のうちにね」「わたしは、意見を変えてませんわ」と、女将は、またしても力のない声を出して言った、「さあ、握手いたしましょう。お手を出してちょうだい。そう。そして、このまま、なにもかもすっかり正直に打ち明けると、わたしに約束してくださいな。わたしもあなたにたいしては、そういたしますわ」「よろしい」と、Kは言った、「ところで、どちらから先に始めるんですか」「わたしからよ」と、女将は言った。その語調からは、それでKの意を迎えるつもりでなくて、自分のほうから先に話を始めたくてうずうずしているという印象を受けたのだった。
彼女は、枕のしたから一枚の写真を抜き出して、Kに渡すと、「この写真をよく御覧になってくださいな」と、哀願するように言った。Kは、見やすいように、調理場へ一歩踏み出したが、それでも、写真に写っているものを見分けるのが容易でなかった。と言うのも、時代がかっているために色あせているばかりでなく、さんざんに破れたり、皺《しわ》くちゃになったり、斑点ができたりしているからであった。「かなり傷んでいますね」と、Kは言った。「残念ですわ、本当に」と、女将は言った、「長の年月、いつも肌身離さずに持ち回っていますと、そうなってしまうんですもの。でも、とっくりと御覧くだされば、なにもかも見きわめられるはずですわ、きっと。それに、わたしもお助けしたっていいわ。なにがお見えになるか、おっしゃってくださいな。その写真のことをあれこれと聞くのが、わたしにはとても楽しいんですもの。さあ、なにがお見えになれて」「若い男がひとり」と、Kは言った。「当たってますわ」と、女将が言った、「それで、なにをしていると、お思いなの」「どうやら、板のうえに寝そべって、五体を伸ばし、あくびをしているところのようですな」女将は、笑った、「全く見当違いですわ」「しかし、ここにあるのは、やはり、板ですし、ここに男が寝そべっているじゃありませんか」と、Kは、自分の見地を固守した。「でも、もっととっくりと見定めてくださいな」と、女将は、いらだたしげに言った、「本当に、寝そべっていますかしら」「違いますね」と、Kは、そこで、前言を翻した。「これは、寝そべっているのでなくて、宙に浮いているところですな。それで、やっと分かりかけてきました。これは、確かに、板じゃありません。どうやら一本の紐《ひも》のようですね。とすると、この若い男は、高跳びをしているわけです」「そうなんです」と、女将は、嬉しげに言った、「高跳びをしているところなの。お役所の使いの人たちは、こんなふうな練習を積むんです。あなたなら、今にきっと見分けてくださることが、わたしにもちゃんと分かっていましたわ。顔のほうもお分かりになりますかしら」「顔のあたりは、ほとんど見て取れませんがね」と、Kは答えた、「当人が渾身《こんしん》の力を振りしぼっていることだけは、明らかですな。口を開け、両眼を細めたままで、髪も翻っていますから」「上できですわ」と、女将は、称賛するように言った、「それ以上のことは、当人と親しく会った人でないと、見分けがつきませんもの。でも、すてきな青年でしたわ。わたしなんか、その人を、ほんの一度だけ、ちらと見掛けただけですのに、永久に忘れられないくらいなんですから」「一体、だれなんです、これは」と、Kは尋ねた。「それはね」と、女将は言った、「クラムがわたしを初めて呼び寄せてくれたとき、使者に立ってきた人なの」
Kは、女将の言葉が正確には聞き取れなかった。ガラスらしいもののがたがたという音のほうへ気を取られたからであった。そうした妨害の原因は、彼にも、すぐに分かった。助手たちが中庭に出て、雪のなかで左右の足を交互に使ってぴょんぴょん跳ねまわっていたのだが、Kの姿が再び見られたことが、いかにも嬉しいらしく、嬉しさのあまり、互いにKのほうを指差し合いながら、ひっきりなしに調理場の窓ガラスを軽くたたき続けていたのだった。Kが威《おど》すような仕草をすると、ふたりは、すぐさまやめて、互いに相手を押し戻そうとするのだが、すぐに、どちらかが相棒の手からすばやくすり抜けて、またしても窓辺に顔を並べるのである。Kは、急いで仕切り部屋へ逃げ込んだ。そこにいれば、外の助手たちから姿を見られることはないし、また彼のほうも、助手たちを見なくてもよかったからである。しかし、哀願するように窓ガラスを軽くたたく音だけは、そこにいても、なおしばらくは、うるさく彼につきまとってくるのだった。
「またしても助手どもが来ての仕業でして」と、Kは、女将に言い訳をして、外を指差した。しかし、女将は、彼のほうへは眼もくれないで、彼の手から引ったくっていた写真をつくづく打ち眺めながら、皺を延ばして、また元どおりに枕のしたへ仕舞い込んだ。彼女の動作は、一層緩慢になっていたが、しかし、それは、疲れの所為《せい》ではなくて、積もる思い出がどっと脳裏に蘇《よみがえ》ってきていたからであった。彼女は、Kに話して聞かせる心算《つもり》だったのに、話しているうちに、いつのまにか、相手のKのことを忘れてしまっていたのである。彼女は、肩掛けの、縁の総《ふさ》飾りを無心に弄《もてあそ》んでいた。しばらくしてから、やっと彼女は、顔を上げて、片方の手で両の眼をこすりながら、言った。
「この肩掛けも、クラムからいただいたの。それに、この寝帽もね。あの写真とこの肩掛け、そしてこの寝帽、この三つが、わたしにとっては、あの人を偲《しの》ぶ形見の品なの。わたしは、フリーダのように若くはないし、フリーダほどの野心もないし、またあの娘《こ》ほどに多感でもないんですもの。あの娘は、とても多感だわ。つまり、わたしは、生活に素直に順応して行くことができるんです。でも、そんなわたしだって、実は、白状いたしますけれど、もしこの三つの品がなかったら、この家での生活をこんなに長いあいだ続けてはこなかったでしょう。いや、それどころか、きっと一日だってこの家に辛抱しきれなかったでしょう。この三つの形見は、あなたの眼には、取るに足らぬものとしか見えないかもしれません。でも、ねえ、あなた、クラムとあれほど長らく付き合ってきたフリーダにしても、なにひとつ形見の品を持ってないくらいなんですからね。わたしは、あの娘に問い質《ただ》したことがあるんですが、あの娘は、ひどく逆上《のぼ》せる質《たち》なんでして、それに、ちょっとやそっとでなかなか満足しないんですよ。それにひきかえ、このわたしは、クラムのそば近くにいましたのが三回きりなんですけれども――それ以後、クラムは、もうわたしを呼んでくれなくなりました。どうしてだか、わたしは、いまだに腑《ふ》に落ちないんですが――、とにかく、わたしの盛りの時期の短いことを虫が知らせたんでしょうか、この形見の品々を持って帰ったんです。むろん、そうしたことは、こちらのほうで、心掛けねばなりませんの。クラムのほうからは、進んでなにもくれないんですもの。でも、あちらへまいったとき、なにか適当なものがあるのを見つければ、それをせびって貰って来ることはできるんですよ」
Kは、そうした話を聞いていると、いくら自分にも関《かか》わりのあることとはいえ、不愉快な気分になってきた。「一体、それは、すべて、いつの昔のことですか」と、Kは、溜め息まじりに尋ねた。
「二十年以上もまえのことですわ」と、女将は言った、「二十年どころか、ずっと昔のことですの」
「クラムにたいしては、そんなに長いあいだ、節を守るものですか」と、Kは言った、「それにしても、女将さん、あなたのそのような告白を承ったばかりに、僕は、来たるべき結婚のことを考えると、ひどく気掛かりになってくるのですが、あなたは、それも、やはり、頭に置いてらっしゃるわけでしょうか」
女将は、Kがこの機をとらえて自分の問題を話のなかへ持ち込もうとしているのを、ぶしつけだと思ったに違いない。怒った顔つきで横合いからKを見据えた。
「そんなに気を悪くなさらないでください、女将さん」と、Kは言った、「僕は、なにもクラムを謗《そし》って言っているんじゃありませんよ。でも、僕は、さまざまな出来事に巻き込まれて、勢いクラムとなんらかの関係を持たねばならないことになってしまったのです。このことは、クラムに絶大な尊敬を払っている人でも、否定できないはずです。まあ、そういう次第でして、その結果、僕は、クラムのことが話題に上るたびに、いつもわが身のことをも併せて考えずにはいられないんです。こればかりは、なんともしようがないんです。ところで、女将さん」――と、ここで、Kは、ためらう女将の手を握りしめながら――「このまえの話し合いがいかにもまずい結果に終わったことを、思い出していただきたいのです。そして、いかがでしょう、今度は互いに仲よく別れることにしたいのですが」
「おっしゃるとおりですわ」と、女将は言うと、お辞儀をして、「でも、わたしの身にもなってくださいな。わたしは、ほかの人たち以上に過敏ではありませんし、むしろ、その反対ですの。だれにだって、いろいろと痛いところがありますけれど、わたしの痛いところと言えば、これだけなんですから」
「残念ながら、それは、同時に、僕の痛いところでもあるわけです」と、Kは言った、「ですが、僕のほうも、たぶん、自制できると思います。それにしても、女将さん、あなたの御意見をぜひ伺いたいのですが、僕は、結婚生活を続けて行くなかで、クラムにたいするそのような身の毛もよだつほどの節操に、どうして堪えればいいのでしょう。もっとも、フリーダもその点であなたに似ていると、仮定したうえでの話ですが」
「身の毛もよだつほどの節操ですって」と、女将は、色をなして問い返した、「一体、これが節操というものでしょうか。わたしが操を立てているのは、内の人にたいしてです。それをクラムにたいしてだなんて。クラムは、かつて、わたしを恋人に引き立ててくれました。そうした身分だけは、いつになっても、わたしから消え失せないのではないでしょうか。それなのに、あなたは、フリーダと一緒になったとき、どうして堪えればいいのだなんて。ああ、測量師さん、そんなずうずうしい問い方をなさるなんて、あなたは、一体、なんという人でしょう」
「女将さん」と、Kは、警告的な口調で言った。
「分かってますとも」と、女将は、相手の言葉に服しながら、言った、「でも、内の人は、そんなことを尋ねたりしませんでしたわ。はたしてどちらを不幸と言えるでしょうか、あのころのわたしでしょうか、それとも、今のフリーダでしょうか、わたしには分かりませんの。気随にクラムを見捨ててしまったフリーダのほうなのか、それとも、クラムからあれきり呼び出してもらえなくなったわたしのほうなのか。もしかすると、不幸なのは、やはり、フリーダのほうかもしれませんわ。それにしても、あの娘自身には、自分の不幸さ加減が、まだすっかりとは分かってないようですけれども。しかし、わたしだって、あのころは、自分がいかにも不幸だという思いだけで胸がいっぱいでしたわ。と言うのも、わたしは、しょっちゅう、自分の胸に問わずにはいられなかったからなんですが。それが元で、結局は、今日になっても、その癖が止まらないの。そしてね、どうしてこんなことになったのかしら、クラムが、三度も、おまえを呼び出しておきながら、四度目には、もう梨《なし》の礫《つぶて》で、そのままま四度目が来ずじまいなんて、と、そんなふうに胸に問いつづけているの。あのころのわたしにとって、ほかに心を奪われるようなことでもあったでしょうか。あれからすぐ後で今の夫と結婚したわけですが、でも、内の人と語り合うにしても、一体、ほかにどんな話題があったでしょうか。日中は、わたしども夫婦に、すこしの暇もありませんでしたわ。この飲み屋をおちぶれた状態のままで引き受けた以上は、わたしどもも、なんとかして繁昌させるように、脇目《わきめ》も振らず働かねばなりませんでした。でも、夜更けになると。そうなんです、もう看板ですから、わたしどもの夜の語らいと言えば、いつもクラムとクラムの心変わりの原因だけが話の中心になって、何年間も続いたものですわ。そして、そうした話をしているうちに、いつのまにか、主人が眠り込んでしまうと、わたしは、主人を起こして、また話を進めましたの」
「ところで」と、Kは言った、「失礼ながら、ひどくぶしつけなお尋ねをしたいのですが」
女将は、黙っていた。
「すると、お尋ねをしてはいけないんですね」と、Kは言った、「それでも、僕のほうは、結構なんです」
「もちろんですわ」と、女将は言った、「それでも、あなたのほうは、結構なはずよ。殊にこの場合はね。あなたという人は、なにからなにまで、相手が黙っていると、その黙っていることをさえも、すっかり誤解なさるんですもの。確かに、それよりほかにはできない人なんだわ。わたしのほうは、あなたがお尋ねになるのに同意しているんですよ」
「僕が、なにからなにまで、すっかり誤解する人間であれば」と、Kは言った、「もしかすると、僕の尋ねることも誤解によるかもしれませんな。そして、そのお尋ねも、もしかすると、さほどぶしつけなものでないかもしれませんね。僕が知りたかったのは、あなたがどんな経緯《いきさつ》で今の御主人と識《し》り合われたか、またこの飲み屋がどんな経緯であなたがたの手に渡ったか、ただそれだけのことなんですよ」
女将は、額に皺を寄せたが、平然として言った、「それは、至って平凡な話ですわ。わたしの父が、鍛冶屋《かじや》でしたの。そして、今の夫のハンスは、ある豪農の家で馬丁をしていたものですから、よくわたしの父のところへやって来ておりました。それが、ちょうどクラムと最後に逢《あ》ったあとのころで、わたしは、とても不幸をかこっていました。でも、もともと、不幸だなんて言えた義理ではなかったかもしれませんわ。と言うのも、万事が、確かに、文句のつけようがないように運ばれていたからなのです。わたしがクラムのところへ行けなくなったのも、ほかならぬクラムが決定したことですし、とすると、これまた文句のつけようがないわけです。ただ、その理由が解《げ》しがたいだけで、それがなになのか、探索する段は、わたしとして、一向に差し支えなかったんですが、でも、やはり、不幸だなんて言えた義理ではなかったのです。ところが、わたしだって、人間ですもの、不幸をかこたずにはいられないで、仕事も手につかないまま、一日じゅう、家の小さな前庭にすわりつづけていましたの。そんなわたしを、ハンスが、見掛けて、時折、わたしの横へ腰を掛けてくれるようになりました。わたしは、なにも愚痴をこぼしはしませんでしたが、あの人は、ちゃんと実情を知っていました。根がいい青年でしたから、わたしと一緒に泣いてくれたこともありました。すると、そのころのことですわ、ここの主《あるじ》だった人が、奥さんに先立たれて、そのために、止《や》むなく商売のほうも廃業しなければならなくなっていたのですが――それに、もうお年寄りでもありましたしね――、たまたま、そのお年寄りが、いつでしたか、通りすがりに、小庭に腰かけていたわたしどもを見て、立ち止まると、即座にわたしどもに向かって、この飲み屋を賃貸ししてやってもいいと、声をかけてくれたんですの。そして、あんたたちを信用しているから、敷金は一切要らないと、言ってくれたばかりか、家賃も非常に安い値にまけてくれました。わたしとしては、父の荷厄介にだけはなりたくないと思っていた矢先で、そのほかのことは、すべて、どうでもよかったものですから、この飲み屋のことを頭に置いて、ここでの新しい仕事がすこしは心の憂さを忘れさせてくれるかもしれないと思いながら、ハンスと結婚することにしたんですわ。ただ、それだけの話よ」
ほんのしばらくは沈黙のうちに過ぎたが、やがて、Kが切り出した、「その元の主のやり方は、いかにも立派ですが、しかし、軽率のきらいもありますね。それとも、あなたたちふたりを信用したのには、なにか特別の理由でもあったのでしょうか」
「あのお年寄りは、ハンスをよく識っていたんです」と、女将は言った、「ハンスの叔父でしたもの」
「それなら、不思議はありませんね」と、Kは言った、「とすると、ハンスの一家としては、どうやら、あなたとの縁組みそのものが、とても重要なことだったようですね」
「そうかもしれません」と、女将は言った、「でも、わたしなんかに分かりっこありませんわ。そんなこと、これまで、一度だって、気にしたことがないんですもの」
「でも、きっとそうだったに違いありませんよ」と、Kは言った、「一家を挙げて、そこまでの犠牲を払い、なんの担保もなしに、この飲み屋をあっさりとあなたたちの手に渡すほどの覚悟までしていたくらいですからね」
「後になって分かったんですけれども、あのお年寄りのやり方が軽率でなかったことだけは、確かですわ」と、女将は言った、「わたしは、仕事に精を出しました。根が鍛冶屋の娘ですから、からだも頑丈にできていましたし、女中も要らなければ、下男も要りませんでした。店と言わず、調理場と言わず、家畜小屋から中庭まで、家じゅうの仕事を一手に引き受けて、忙しく立ち回っていました。それに、板前のほうもこれで堂に入ったもので、貴紳閣の客筋をさえもこちらへ奪ったほどでしたの。あなたは、まだ店でお昼を取られたことがありませんので、わたしどものお昼の客を御存じないでしょうが、あのころは、今よりずっと大勢の客が詰めかけていました。それが、その後、方々へ散ってしまって、めっきりと減ってしまったわけです。それはとにかく、そのように働いた甲斐《かい》があって、わたしどもは、家賃をきちんきちんと払って行くことができたばかりでなく、数年後には、この家をそっくり買い受けて、今日では、負債もほとんどないと言ってもいいくらいになりました。それ以外の働き甲斐と言えば、むろん、そのために、却《かえ》って、わたしがからだを毀《こわ》して、心臓病に罹《かか》り、今では、こんな老女になってしまったことですわ。あなたは、きっと、わたしがハンスよりもずっと年上だと、お思いでしょうが、実のところは、二つか三つくらいしか年が違わないんです。もちろん、わたしより若いことは若いんですが、あの人は、いつになっても、老けることを知らないでしょうよ。あんな仕事ぶりでは――パイプを燻《くゆ》らしながら、客たちの話にしきりと耳を傾けているかと思うと、やがてパイプのなかの灰をたたき落として、時たまビールの一杯も運んでゆく――あんな仕事ぶりでは、だれだって、老けるはずがありませんからね」
「あなたの内助の功は、とても素晴らしいです」と、Kは言った、「そのことについては、疑いを挟む余地もありません。しかし、僕たちが話し合っていたのは、あなたの結婚前の時期のことです。ところで、当時、ハンスの一族が、多額の金子《きんす》を犠牲にしてまでも、と言っていけなければ、すくなくともこの家の譲渡というほどの大きな危険を冒してまでも、ぜひ結婚にまで漕《こ》ぎ着けようとして焦っていたとしても、その際、当てにできるものと言えば、あなたの労働力とハンスの労働力よりほかにはなかったはずです。ところが、あなたが働き手であることは、あちらのほうでは、まだだれも知らずにいたわけですし、またハンスが全くのぐうたらであることは、すでに皆が経験済みであったに違いないだけに、どう考えても、変な話じゃありませんか」
「ははあ、そういう御意見なのね」と、女将は、気だるそうに言った、「それで、あなたの狙いがどこにあって、それがどんなに的はずれかが、よくわたしには分かりましたわ。このような事柄に、クラムは、一切関与しておりません。なんのためにあの人がわたしの面倒を見なければならなかったのでしょう。いえ、もっと正確に申しますと、どうしてあの人がわたしの面倒まで見ることができたでしょう。だって、あれっきり、クラムは、わたしの消息をさえ全然知ろうともしなかったんですもの。あの人がもうわたしを呼び出してくれなくなったことが、なによりも、わたしを忘れてしまったことの徴《しるし》ですわ。だれを呼び出さないで放ったらかしにしているのか、あの人は、それさえもすっかり忘れているんです。こんな話、フリーダのいるまえでなら、したくないんですが、それもただ忘れるだけじゃないんです。もっとそれ以上にひどいんですの。忘れた相手となら、またなじみになることだってありますわ。ところが、クラムの場合は、それすら皆無なの。あの人が、呼び出すことを止めた相手を、すっかり忘れ去ってしまうのは、なにもそこへ行くまでの過去の経緯だけに限りません。文字どおり未来|永劫《えいごう》にわたって、そうなのです。わたしも、一生懸命に頭を絞れば、あなたの御心底が読めないこともありませんが、そうしたあなたのお考えは、あなたが住んでらした他国では、たぶん、通用するのでしょうが、当地では、全く無意味な考えにすぎません。どうやら、あなたは、クラムがいつか将来にわたしを呼ぶかもしれないときのことを慮《おもんぱか》って、そのときクラムのところへ赴くわたしのひどい足手|纏《まと》いにならないように、てっきりハンスのような男をわたしの夫に世話したに違いないと、信じてらっしゃるようですが、それこそ、沙汰の限りですわ。そうですとも、いくら気違い沙汰だと言ったって、これ以上の気違い沙汰は、考えられませんものね。もしクラムからわたしに合図があった場合、わたしがクラムのところへ駆け付けるのを邪魔できるような男性が、はたしてどこにいるでしょう。ばかばかしいったら、全くばかばかしい。こんな愚にもつかぬ考えをひねくり回していると、今に自分の頭が狂ってきてよ」
「真っ平ですね」と、Kは言った、「お互いに、頭だけは、狂うことのないようにいたしましょう。ところで、僕の考えですが、あなたが想像しておられるところまでも、まだ達しきれないでいたのです。もっとも、実を申しますと、そちらへ向かって進む途中ではありましたがね。とにかく、差し当たって僕が変に思ったのは、ハンスの親族一同がこの結婚に多大の期待をかけていたということ、そして、むろん、あなたがあなたの心臓、あなたの健康を犠牲にされたお陰ではありますけれども、そうした希望が実際にまた叶《かな》えられもしたということ、この二点だけでした。こうした事実とクラムとのあいだになんらかの繋《つな》がりがあるのではないかという考えも、むろん、そのとき、しきりと胸に浮かんでいたことはいたのですが、しかし、あなたが今勘ぐって申されましたほど、あくどいものではなかったのです。いや、まだあくどいものになっていなかったと申したほうが、適切かもしれません。あなたがそのように勘ぐった話し方をされる底には、またもや僕をこっぴどくやっつけてやろうという意図がいやに見えすいていますよ。あなたには、それが楽しみなんですからね。まあ、できるだけお楽しみになってください。ところで、僕の考えのほうは、こうだったのです。先ずなによりも、結婚の切っ掛けとなったのは、明らかに、クラムである。クラムがいなければ、あなたは、不幸な目に逢わずにすんだであろうし、また家のまえの小庭で無為にすわりつづけねばならないこともなかった。クラムがいなければ、ハンスが、小庭にいるあなたを見掛けることもなかったであろうし、あなたが悲嘆に暮れていなかったら、あの内気なハンスが、あなたに話しかけるなんて、そんな思い切ったことをするはずもなかった。クラムがいなかったら、あなたは、ハンスに貰い泣きしてもらうこともなかったし、クラムがいなかったら、あの好々爺《こうこうや》の飲み屋の主《あるじ》にしたって、甥のハンスとあなたとがあの小庭で仲よく寄り添っているところを、けっして見掛けはしなかったに違いない。クラムがいなかったら、あなただって、人生にたいして、そう無とんじゃくにもならなかったろうし、従って、ハンスとも結婚しなかったに違いない。まあ、そういう訳で、どの点を取り上げても、クラムがすべてに結構一役を買っていると、僕は、考えざるを得ないのです。しかも、事は、それだけに止《とど》まりません。あなたは、なにもかも忘れてしまおうとなさったのでなかったら、きっとあのように骨身を削ってまで無理にお働きにはならなかったでしょうし、ここの経営をさほど成功させることもできなかったでしょう。とすると、この点でも、クラムが一役買っているわけです。まあ、その点は度外視するとしましても、クラムがあなたの病気の原因でもあることには、変わりありません。だって、あなたの心臓は、すでにあなたが結婚なさるまえから、不幸な情熱のために衰弱しきっていたのですから。ところで、最後に残る問題は、ハンスの身内が、その結婚のどこに、強く心を惹《ひ》かれたかということです。あなたは、先ほど、クラムの恋人になるということは、とりもなおさず、一生失うことのない高い身分への取り立てを意味するというようなことを、確か、おっしゃいましたね。まあ、そうだとしますと、あの連中は、先ず、この点に心を惹かれたのかもしれませんね。しかも、それだけではなくて、確かに、あなたをクラムのところへ導いた幸運の星が――それが幸運の星であったと仮定したうえでの話なんですが。とにかく、あなたは、そのように主張なさっておりましたから――、その幸運の星が、あなたのものであり、従って、いついつまでもあなたのところに宿っているに違いないし、クラムのやり方のように不意に急にあなたを見棄てることは、よもやあるまいという希望も、手伝っていたように思いますね」
「あなたは、そんなことを本気でおっしゃっているんですの」と、女将は尋ねた。
「本気ですとも」と、Kは、即座に言った、「ただ、ハンスの身内たちが、彼らなりにそうした希望を抱いたことが、全く正しかったとも、全く間違っていたとも、言えないと、思っているだけです。僕は、彼らの犯した誤りだって、ちゃんと見抜いているつもりです。とにかく、表面的には、なにもかもが、いかにも上首尾のように見えはしますがね。ハンスは、何不足なく暮らし、立派な奥さんを持って、人に信用される立場になり、経営のほうも負債がなくなっているくらいですからな。ところが、実は、かならずしもすべてが上首尾とは言えないはずです。ハンスにしても、熱烈な初恋を寄せてくれる素朴な娘さんなんかと結婚していたほうが、はるかに仕合わせだったに違いありません。あなたは、ハンスがよく店で腑抜けたようにぼんやり突っ立っている、とおっしゃって、ハンスを非難なさいますけれども、もしそうなら、ハンスが、本当に、自分を腑抜けのように感じているからではないでしょうか――だからと言って、当人は、それを不幸だと思っているわけではありません。それは、確かです。僕だって、もうハンスという人物をそこまでは知っているつもりです――。ですが、この物分かりのいい好青年が、ほかの女性と結婚していたら、もっと幸福になっていたことも、やはり、確かです。もっと幸福になる、と僕が言っています意味は、同時に、もっと自主的になり、仕事にも精を出して、もっと男らしくなる、ということです。それに、あなた御自身だって、現状は、確かに、幸福とは言えません。あなたのお言葉によりますと、あの三つの形見の品がなかったら、生きて行く気持ちに全くなれないとのことですからね。それに、あなたは、心臓病にも罹っておられる。としますと、ハンスの身内があのような希望を抱いたのが、間違っていたのでしょうか。僕は、そうは思いません。天福は、あなたがたの頭上にあった。ただ、それを高みから地上へ持って来る術《すべ》を知らなかっただけです」
「では、なにが手落ちでしたのでしょう」と、女将は尋ねた。彼女は、そのとき、あおのけに大の字に横たわって、天井を見上げていた。
「クラムに尋ねることですよ」と、Kは言った。
「そうすると、話は、またあなたの問題に戻ることになるわけね」と、女将は言った。
「いや、それがあなたの問題かもしれませんよ」と、Kは言った、「双方の問題は、隣接し合っていますからね」
「それで、あなたは、クラムになにをお望みなの」と、女将は尋ねた。そのときはもう上半身を起こしてすわり、すわったまま背をもたせかけることができるように、枕を振って脹《ふく》らませていたが、やがて、Kの眼をまともに見詰めて、「わたしは、あなたに自分の事情を、いくらかあなたの御参考になるところもあるかと思って、包まず打ち明けました。就きましては、あなたのほうも、なにをクラムにお尋ねになりたいかを、わたしに、やはり、包まずにおっしゃってくださいな。やっとのことでフリーダを説き伏せ、二階のあの娘《こ》の部屋へ引き取らせたのも、そのためなの。あの娘がいては、あなたがなにからなにまで包まずにお話しにくいように、わたし、案じたものですから」
「僕のほうには、なにも隠しておかねばならぬことはありませんが」と、Kは言った、「取り敢えずあなたの注意を喚起しておきたいことを申しましょう。あなたは、クラムは即座に忘れると、おっしゃいましたね。ところで、それは、先ず第一に、ひどく眉唾《まゆつば》物のように、僕には思われます。また第二に、立証不可能なことです。明らかに、たまたまクラムの気に入りだった娘たちの浅知恵が考え出した、ただの伝説にほかなりません。あなたまでがこんな浅薄な作り話を真に受けるなんて、どうも僕には不思議でならないのです」
「伝説なんかではありませんわ」と、女将は言った、「むしろ、皆に共通の経験からの推定ですわ」
「それでは、こちらも、新しい経験によってその反証をせねばならないことになりますが」と、Kは言った、「それでは申しましょう。あなたの場合とフリーダの場合とでは、やはり、まだほかにも違った点があるわけです。クラムがフリーダをもう呼ばなくなったなどという事実は、全くありません。むしろ、クラムは、彼女を呼んだのです。ところが、フリーダのほうがそれに応じなかったのです。ですから、クラムがいまだにずっと彼女を待ち受けているようなことだって、ないとは言い切れないのです」
女将は、黙り込んだまま、探るような眼差《まなざし》でKを頭の天辺《てっぺん》から爪先までしきりと見直していた。そして、言った、「なにをおっしゃろうと、静かに拝聴いたしますわ。わたしに遠慮なさらないで、包まずにお話しくださいな。そのほうがありがたいんですの。ただひとつだけ、お願いがあります。クラムという名を使わないでいただきたいんです。クラムを『彼』とかなんとかとお呼びになって、本名をおっしゃらないようにしていただきたいの」
「承知いたしました」と、Kは言った、「でも、僕が彼になにを望んでいるかは、なかなか口では言い表しにくいようです。先ず、彼を近くで見たいですね。それから、彼の声を聞きたいです。そして、彼が僕たちの結婚にたいしてどのような態度に出るかを、じかに彼の口から聞きたいですね。それから、さらになにかを、たぶん、彼に頼むことになりましょうが、なにを頼むかは、そのときの会談の成り行き次第です。いろいろなことが話題になるかと思いますが、僕にとって最も肝心なことは、やはり、彼と対面することなのです。と申しますのも、僕がまだ一度も本物の役人と直接に言葉を交わしたことがないからでしょうが。どうもこれは、僕が想像していた以上に、むつかしいことのようですな。ところで、僕は、しかし、一私人としての彼と会って話をせねばならぬ義務を負っているわけでして、僕の意見では、こういう形のほうが、ずっと実現しやすいように思われるのです。役人としての彼に会うとすれば、城中の彼の執務室か、それとも、貴紳閣か、ほかにはありませんが、前者のほうは、おそらく、僕などの近づきがたいところでしょうし、また後者のほうも、すでに疑問が持たれたところです。しかし、私人としてなら、場所は、いたるところにあります。屋内であろうと、路上であろうと、うまく彼に出会うことができるところでありさえすれば、どこでもいいわけです。その際、序《つい》でに、役人としての彼に会うことにもなったって、僕のほうは、喜んで甘受することにします。しかし、このほうは、僕の当初の目的ではありません」
「よく分かりましたわ」と、女将は、言って、なにか淫《みだ》らなことを口にするかのように、顔を枕に押しつけた、「もしわたしが、わたしの手蔓《てづる》を頼りに、クラムと話し合いたいというあなたの願いをうまくクラムに伝えることができましたら、先方の返事がこちらへ下りて来るまでは、なにひとつ独断専行はなさらないと、わたしに約束なさってくださいますか」
「そればかりは約束できません」と、Kは言った、「あなたのお願いにしても、あるいは、あなたの気紛《きまぐ》れな御発案にしても、叶えて差しあげたいのは、山々なのですが。つまり、事態は、急を告げているのです。村長を相手の談合が不首尾に終わってからは、なおさらのことです」
「そのようなことは、反対の理由になりませんわ」と、女将は言った、「あの村長は、全く取るに足りない人物なんですからね。あなたとしたことが、それにお気がつきませんでしたの。万事を取り仕切るあの奥さんがいなかったら、一日だって村長の職に留《とど》まれないような人なのよ」
「あの、ミッチーとか言う」と、Kは尋ねた。女将はうなずいた。「その奥さんもその場に居合わせましたが」と、Kは言った。
「奥さんは、なにか意見を述べられましたか」と、女将は尋ねた。
「いいえ」と、Kは言った、「とにかく、僕の受けた印象では、そんなことができるような人とも思えませんでしたね」
「そうかしら」と、女将は言った、「そのように、あなたという方は、ここでは、なにかにつけ、すっかりお眼鏡が狂うんですからね。まあ、それはともかくとして、村長があなたにたいしてどのように勝手な処置を取ろうと、そんなものは、全く無意味なんですよ。いずれ折を見て、わたしが、奥さんとよく話し合いましょう。ところで、クラムの返事が遅くとも一週間後には届くということを、わたしのほうからさらにお約束いたしましたら、あなたとしては、もうわたしの言いなりになれない理由が全くなくなるのではございませんの」
「そんなことぐらいでは、決め手になりませんね」と、Kは言った、「僕の決心は、固いのです。ですから、仮に断りの返事が来たとしても、僕は、手を替え品を替えて、この決心を貫き通すでしょう。とにかく、のっけからこうした意図でいます以上、僕としても、あらかじめあなたを介して会談を頼み入れるわけにもいかないじゃありませんか。会談を頼むようなことがなくとも、大胆な、しかし、邪心のない企てであることに、変わりはなかったろうと思います。それだけに、拒絶の返事を受けたあとでは、公然たる反抗に転じるでしょう。そうなれば、むろん、事態は、ひどく悪化するでしょうね」
「悪化ですって」と、女将は言った、「いずれにしても、反抗は、反抗なんでしょう。それなら、お勝手に思うとおりに、なさるといいわ。そこのスカートを取ってくださいな」
女将は、Kにはとんじゃくしないで、いきなりスカートをはくと、急いで調理場のほうへ行った。すでにかなりまえから、なにやらざわめきが店先のほうから聞こえていた。調理場とのあいだののぞき窓をたたく者もあった。助手たちまでが、そののぞき窓を押し開けて、腹がぺこぺこだぞ、と怒鳴り込んでさえいた。それに続いて、ほかの連中の顔も、代わる代わる、そののぞき窓の向こうに見えた。それのみか、声こそ低かったが、多声合唱らしいものすらも、聞こえていた。
言うまでもなく、Kと女将との長話のせいで、昼食の料理を作るのがひどく遅れてしまっていたのだった。料理がまだでき上がってないのに、客が詰め掛けていた。それでもやはり、女将の禁を犯してまで調理場のなかへ立ち入ろうとする客は、ひとりもいなかった。ところが、のぞき窓から内部を窺《うかが》っていた連中が、さあ、女将が来たぞ、と告げると、女中たちは、取りも敢えず調理場へ駆け込んで行った。そして、Kが店に足を踏み入れたときには、男女取り混ぜて優に二十人は越えていたと思われる、びっくりするほど大勢の客が、いずれも、流行遅れではあったが、百姓風ではない服装をして、いましがたまで集まっていたのぞき窓のところから、空いたテーブルを目がけて、自分の席を確保するために、殺到していた。ただ片隅にある小さなテーブルのところだけは、子供連れの夫婦が一組、すわっていた。灰色の髪とひげが見すぼらしいほど薄くなった、人なつこそうな、青い瞳の夫のほうが、立ったまま、子供たちのほうへ屈《かが》み込んで、ナイフを右手に持ち子供たちの歌の拍手を取っていたが、ともすれば高まろうとするその歌声を抑えるのにしきりと気骨を折っていた。たぶん、子供たちの空腹を歌で忘れさせようと思っているのだろう。女将は、客たちに向かって、ほんの二言か三言、口から出任せに、お座なりの詫びを言ったが、女将に非難めいたことは、だれひとりとして言わなかった。彼女は、あたりを見回して、亭主の姿を探したが、しかし、亭主のほうは、どうやら形勢が険悪になることを惧《おそ》れて、とっくに逃げ出していたようであった。そこで、女将は、止むなく、ゆっくりと調理場へ引き揚げて行った。彼女は、Kが自分の部屋で待たせてあるフリーダの許《もと》へ駆け上がって行くのに、もはや一瞥《いちべつ》もくれなかった。
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第七章
二階で、Kは、はからずも例の教師に会った。部屋のなかは、ありがたいことに、ほとんど見違えるばかりになっていた。フリーダが精を出してくれたお陰だった。換気が十分に行われ、ストーブの火も勢いよく焚《た》き付けられて、床《ゆか》にはよく濡れた雑巾《ぞうきん》がかけられ、ベッドもきちんと整えてあった。あの汚らしい廃物同然の女中らの持ち物は、あの画や写真とともに、もうどこにも見当たらなかった。以前ならば、テーブルのほうへ顔を向けただけでも、その鏡板に一面に硬くこびりついている汚れ目がひどく眼について仕方なかったのに、今はその上に、白い編み物のテーブル掛けが掛けてあった。この分なら客を迎え入れても、気がひけなかった。Kの手持ちのわずかばかりの肌着類も、フリーダが朝のうちに洗濯しておいてくれたものと見えて、乾かすために、ストーブのそばに掛けてあったが、それさえもほとんど目障りにならなかった。
教師とフリーダは、テーブルに向かってすわっていたが、Kが入って行くと、ともに立ち上がった。フリーダは、Kに挨拶の接吻をし、教師は、軽く頭を下げた。女将《おかみ》との対話の興奮がいまだに尾を引いていて、ぼんやりしていたKは、教師をあれ以来いまだに訪ねずにいたことについて、言い訳をしはじめた。Kがいつになっても姿を見せないのにしびれを切らして、教師のほうから、今、わざわざ訪ねてきてくれたとでも、Kは、独り合点しているかのような様子であった。しかし、教師のほうは、あいかわらずの落ち着き払った態度で、いつか自分とKとのあいだに訪問めいたことの約束が交わされていたことを、今やっとぼつぼつと思い出しかけているようであった。
「そう、そう」と、教師は、ゆっくりした口調で言った、「数日まえ、教会の広場で、話し合いました異国の方というのは、測量師さん、あなただったわけですね」「そうなのです」と、Kは、素っ気なく言った。彼としては、当時あの寄る辺ない孤独のうちに耐え忍んできたことを、今この彼の部屋で蒸し返されては、たまったものではなかった。彼は、フリーダのほうへ向き、相談するように、これから即刻ある重要な訪問をせねばならぬのだが、それにはできる限り立派な身なりをしておく必要があるのだ、と言った。フリーダは、Kに詳しく問い質《ただ》そうとはしないで、たまたま新しいテーブル掛けの詮索に余念のなかった、ふたりの助手を即座に呼んで、Kが早くも脱ぎはじめていた服と長靴とを下の中庭へ持って降りて、丁寧にブラシをかけるようにと、助手たちに命じた。フリーダ自身は、物干し紐《ひも》にかけてあったうちから、ワイシャツを一枚、手にすると、それにアイロンを掛けるために、調理場のほうへ駆け降りて行った。
今やKは、再び静かにテーブルに向かってすわっていた教師と、ふたりきりになった。彼は、教師をもうしばらく待たせることにして、ワイシャツを脱ぎ、洗面鉢のところで顔や手を洗いはじめた。それからやっと、教師へは背を向けたままで、彼は、教師に来訪の理由を尋ねた。「村長さんの御用命でまいったのです」と、相手は言った。Kは、その用件をすぐに聞かせていただきたい、と答えたが、Kの言葉が、じゃぶじゃぶという水音に消されて、聞き取りにくかったので、教師は、止《や》むなく近くへ寄ってきて、Kの横手の壁に身をもたせた。Kは、こうして顔を洗ったりして、そわそわしているのは、予定していた訪問の時刻が切迫しているからだ、と言い訳した。教師は、素知らぬ顔をしてそれを聞き流しながら、言った。
「あなたは、村長さんにたいして、失礼でしたよ。あのようにお年を召した、功績のある、経験豊かな、尊敬すべき方にたいしてね」「僕が失礼だっただなんて、そんな覚えはありませんね」と、Kは、顔を拭《ふ》きながら、言った、「しかし、僕が、あのとき、上品な振る舞いとは違ったことを考えねばならなかったことは、確かです。なにしろ、僕の存在に関《かか》わる問題だったわけですからね。僕の存在は、ある恥ずべき職権乱用によって、脅かされているのです。その詳細についてはあなた御自身もそうした官庁に働いておられる一員でありますので、別に僕から逐一《ちくいち》説明申しあげるには及ばないと思いますが。村長は、僕のことで、愚痴をこぼしておりましたか」「あの方の愚痴を聞いてあげるような相手なんか、あるはずがないではありませんか」と、教師は言った、「それに、よしんばそんな相手があったとしても、村長さんは、愚痴をこぼしたりする方でしょうか。私は、あの方の口授に従って、あなたとの協議内容についての簡単な調書を一通作成しただけですが、そこからでも村長さんの御好意とあなたの答弁ぶりとが十分にうかがえましたね」
Kは、フリーダがどこかへ仕舞っておいてくれたに違いない、自分の櫛を探しながら、言った、「なんですって。調書ですって。僕のいないときに、その協議に全く立ち会ってもいない人の手で、遅ればせに作成されたというわけですか。まあ、それも悪くはないでしょう。それにしても、一体、どうして調書なんかが要るんでしょう。すると、あれは、公式な交渉だったのでしょうか」「いいえ」と、教師は答えた、「半公式な交渉です。調書にしましても、半公式なものにすぎません。私どものところでは、すべてが一糸|紊《みだ》れずに整理されていなければなりませんので、作成されたまでのことです。いずれにしましても、現に、そうした調書ができ上がっています以上は、あなたの御名誉にはなりませんね」
Kは、ベッドのなかへすべり落ちていた櫛をやっと見つけると、やや落ち着きを取り戻して言った、「それならそれでいいですよ。ところで、あなたは、そのことを僕にわざわざ告げてくださるためにお越しになったのですか」「違います」と、教師は言った、「しかし、私は、自動人形ではありませんので、自分の意見を申しあげずにはいられなかったのです。私の用件のほうは、全く反対に、村長さんの御好意のほどをさらに立証するものなのです。それにかかりますまえに、くれぐれも申しておきますが、あの方がどうしてそこまで御好意を示されるのか、私にはなんとも腑《ふ》に落ちないのです。にもかかわらず、私が御用命どおりにいたしますのは、ただただ職務上やむを得ないからでして、また村長さんを尊敬しているからにほかなりません」
Kは、もうそのときは、洗顔を済まし、髪にも櫛を入れ終えて、ワイシャツと服の来るのを待ち受けながら、テーブルのわきにすわっていた。Kは、教師が持ってきた用件にたいして、ほとんどなんの好奇心も湧《わ》かなかった。それにまた、女将が村長という人物について下していた、あの低い評価も、やはり、先入主となっていた。「もう正午をとっくに回っているんでしょうな」と、Kは、予定していた道筋を思い出しながら、尋ねたが、さらに心を持ち直して言った、「なにか村長からの言付けをお伝えくださるはずでしたね」「いかにもそのとおりでして」と、教師は、自分が被《かぶ》らねばならぬ責任はすべて自分のからだから振り落とそうとでもするかのように、肩をすくめながら、言った、「村長さんは、あなたの一件の決裁がひどく延び延びになりますと、あなたがなにか無分別なことを独断専行なさりはすまいかと、案じておられます。私としては、どうしてそこまで御案じになられるのか、さっぱり訳が分かりません。私の見解は、あなたのしたい放題にあなたをさせておくのが、やはり、一番いいという見地に立っているわけです。私どもは、あなたの守護天使ではありませんので、いつもあなたの行く先々へあなたの跡を追って駆けずり回らねばならぬ義務など、すこしもないはずです。まあ、それはいいとして。村長さんのほうは、全く違った御意見なのです。決裁そのものは、お上《かみ》の仕事でして、あの方としても、むろん、急《せ》き立てるわけにはゆきません。ところが、あの方は、御自分の権限内で、暫定的な、まことに寛大な決裁をなさろうと思っておられるらしいのです。事は、ただ、あなたがそれを受け入れるかどうかにかかっているのです。つまり、村長さんは、差し当たって学校の小使という勤め口を提供しようと、申し出ておられるわけです」
Kは、自分にたいして提供すると言って寄越したもののことを、最初は、ほとんど気にも留めてなかったが、しかし、いかなるものにせよ、とにかく、自分になにかを提供しようと言ってくれたという事実は、彼にとってけっして無意味でないように思われてきた。それは、村長が、Kを、自己防衛のためなら、どのようなことをでもしかねない男とにらみ、村としても、それを防止して安全を期するためには、多少の失費を重ねたとて当然であるという見解を取っていることを、暗示しているからであった。それにしても、これしきの事件を、連中は、なんと大層に考えているのだろう。この教師にしても、ここへ来てからでももうかなり長く待たされたし、そのまえにはずっと調書の作成にかかりきっていたのだろうが、きっと村長から急き立てられて一目散にここへ駆け付けて来たに違いない。教師は、しかし、自分の言ったことで、現にKが思いに沈んでいるのを見ると、さらに言葉を続けた。
「私は、私なりに、あれこれと異論を唱えました。そして、これまで学校に小使なんか必要でなかったことも、指摘いたしました。教会の小使の細君が、時折、掃除をしてくれますし、女教師のギーザ嬢が、それを監督していますからね。私にしても、児童たちのことだけででもとても気苦労が絶えないのに、まだそのうえに、小使のことなどでむしゃくしゃしたくありませんよ。それでも学校のなかはひどく汚いじゃないかと、村長さんは、言い返されました。私は、ありのままに、村長さんの言われるほどひどい状態ではないと、答えました。そして、あの男を小使に雇いましたら、今よりはましになるでしょうかと、さらに追っ掛けて反問いたしました。そうならないことは、全く確かです。雇われた当人にそうした仕事の心得が皆無であることを度外視するとしましても、校舎と言えば、大きな教室がふたつあるきりで、控え室のようなものは、一切付いておりません。そんなわけで、学校の小使は、その家族ぐるみ、教室のどちらかに住んで、寝泊まりも、また、たぶん、炊事までも、そこでしなければならないことになります。それでは、むろん、清潔になって行くどころではありません。ところが、村長さんは、そうした勤め口こそ、あなたにとっては、窮境のさなかでの救いであるから、あなたとしても全力を尽くして、職務を立派に全《まっと》うするように励むだろうと、そんなふうに諭《さと》されるのです。そして、さらに進んで、あなたを雇えば、また同時に、あなたの奥さんや助手たちの力も得られるわけだから、校舎のみでなく、校庭までも、申し分なく片付けが行き届くに違いないという御意見をさえも洩らされるのでした。私は、そうしたお説を、すべて、難なく論破いたしました。ついに、村長さんも、あなたのために持ち出す口実が、もう種切れになってしまわれて、急に高笑いなさると、とにかく測量師なんだから、校庭の花壇くらいは、殊のほか美しく真っ直ぐなものに、区画整理してもらえるかもしれんなと、言われただけでした。ところで、冗談にたいしてはむきになって反対を唱えるわけにもゆきませんので、こうして、用件を携えて、あなたのところへまいったような次第です」「あなたは、つまらぬ取り越し苦労をなさっておいでですね、先生」と、Kは言った、「そんな勤め口を引き受ける気は、僕のほうに毛頭ありません」「いや、あっぱれです」と、教師は言った、「全く無条件に拒否されるとは、さすがにあっぱれですよ」そして、教師は、帽子を手に取ると、お辞儀をして、部屋を出て行った。
それと入れ替わりに、フリーダが、困惑しきった顔付きをして階下から戻ってきた。持ち帰ったワイシャツにはまだアイロンもかけてなく、Kが気にしていろいろと尋ねても、彼女は、返事ひとつしなかった。そこで、Kが、彼女の気を紛らすために、教師のことや村長からの申し出について彼女に話して聞かせたところ、彼女は、それを耳にするや否や、ワイシャツをベッドのうえに放り投げて、またもや部屋から駆け出して行った。そして間もなく、今度は、教師を連れて戻ってきた。教師のほうは、しかし、仏頂|面《づら》をしていて、挨拶さえもしなかった。フリーダは、もうしばらく辛抱してくれるように、教師に頼んでおいてから――ここへ連れ戻る途中でも、もう何度か、そうした拝み倒しをしていたことが、目に見えていたが――、Kを引っ張って、そんなものがあるとはKもつゆ知らなかったサイド・ドアから、Kを隣の屋根裏部屋へ連れ込むと、興奮のあまり息を切らしながら、自分の身に起こったことをやっと話しはじめた。それによると、女将さんが、Kのまえで、恥を忍んでまでも、いろいろと身の上の打ち明け話をしてあげたのに、そして、もっと癪《しゃく》に障るのは、クラムとKとの話し合いについても、卑屈なほど下手に出てあげたのに、そこまで卑下して得たものが、女将さんの言い分では、とても冷淡な、しかも、誠意のかけらさえもない拒絶だけであった。それで、女将さんは、激昂《げっこう》して、Kをもうこれ以上この家に置いてやるまいと、決心したとのことであった。そして、Kに城との繋《つな》がりがいろいろとあるなら、ぜひともそれらをさっさとすっかり利用してもらいたい。女将さんとしては、きょうのうちにでも、いや、今すぐにでも、Kにこの家を出て行ってもらわねばならない。いずれ、その筋からの直々の退《の》っ引きならない命令がありさえすれば、Kをまたもや迎え入れてやってもいいのだからって。でも、女将さんの信じるところでは、そんなうまい具合にはならないそうよ。と言うのは、女将さんのほうでも、やはり、いろいろと城への手蔓《てづる》があって、それを有効に活かす術《すべ》くらいは心得ているからなの。とにかく、Kがこの飲み屋へ入り込むようになってしまったのも、ひとえに御亭主がだらしなかったためで、Kとしては、ここでなくとも、別段困らないはすだ。現に、けさも、いつでも用意を整えて自分を待っていてくれる寝所があることを、自慢していたくらいだから。フリーダは、むろん、ここに残ってもらうことにする。もし、フリーダがKと一緒にここを立ち退くようなことにでもなったら、これほどひどい不幸はないって、女将さんは、言うの。さっきも、階下の調理場で、そのことばかりを考えて、竈《かまど》のそばで泣きくずれていたようよ。こんなに哀れな、心臓病みの女はいないって。でも、女将さんとしては、ほかに振る舞いようがないらしいの。すくなくとも女将さんの思いでは、事もあろうに、クラムの思い出を持っているという誇りが傷つけられた今となってはね。つまり、女将さんのほうは、そういう状態なの。むろん、このフリーダは、ねえ、K、あなたの行きたいところなら、雪や氷のなかであろうと、どこへでもあなたについて行くわ。それについては、むろん、もうこれ以上に、言葉を費やす必要はないわね。でも、いずれにせよ、わたしたちふたりがひどい苦境に立っていることは、確かよ。それで、わたしは、村長さんの申し出を大歓迎したわけなの。それがKに不向きな勤め口であろうと、どのみち、これだけは念のため特に言っておきたいのですけれども、ほんの一時|凌《しの》ぎの職にすぎないの。それで、時間が稼げるし、たとい最終の決裁が不利な結果になった場合でも、ほかのいろいろな便法だって容易に見つかるはずよ。これがフリーダの話のあらましだった。そして、「いよいよ切羽詰まったら」と、すでにKの首にかじりついていたフリーダが、ついに叫んだ、「ふたりで旅に出ましょうよ。こんな村になんの未練がありましょう。でも、差し当たっては、ねえ、あなた、あの申し出を引き受けましょうよ。わたしが先生を連れ戻しておいたわ。あなたは、先生にただ一言『引き受けた』とだけおっしゃれば、それ以上はなにもおっしゃらなくていいの。そして、学校へ引っ越しましょうよ」
「それは、困ったな」と、Kは、言ったが、すっかり本気でそう考えているわけでもなかった。と言うのも、Kは、住まいのことなど、ほとんど気にしてなかったし、それにまた、この屋根裏部屋は、二方が壁も窓もなくて、骨に沁みるような寒気が通り抜けるので、下着のままでは凍え果てそうだったからである。
「今お前が折角こんなにきれいに部屋のなかを片付けてくれたばかりなのに、早々に転居せねばならないなんて。気が進まないね。あの職を引き受けるのは、どうも気が進まないよ。あのちび教師のまえで、たとい一瞬間にせよ、へり下って見せるなんて、それだけでも辛《つら》いのに、今後は、いいかい、あの男が僕の上役になるんだからね。もうしばらくでもここに留《とど》まっていることができさえしたら、きょうの午後にでも僕の立場が変わるかもしれないのに。せめておまえだけでもここに留まってくれるのだったら、しばらく形勢を見ることにして、教師にはただなんとか曖昧《あいまい》な返事さえしておけばいいんだがなあ。僕のほうは、いつでも、必要とあれば、寝所くらいは見つかるさ。実際に、あのバル――」そう言いかけたとき、フリーダが手でKの口を塞《ふさ》いだ。
「それだけは、止めて」と、彼女は、はらはらしながら言った、「後生ですから、それだけは、二度と口になさらないでちょうだい。そしたら、ほかのことは、なんなりと、あなたのお言葉に従うわ。あなたがお望みなら、わたしは、ひとりでここに留まっていてもいいわ。わたしにとって、こんなに情けないことはないんですけれども。またお悩みなら、あの申し出を断ることにしてもいいわ。わたしとしては、ひどい間違いを犯すように思いますけれども。だって、いいこと、もしあなたになにか別の可能性がきょうの午後にでも見つかったら、そのときは、学校での職を即座に辞退したって、当然ですもの。それを阻止する人は、どこにもいないはずよ。教師のまえでへり下って見せることだって、わたしに任せてくだされば、なんとかわたしの心遣いで、へり下ったことにはならないようにしてみせるわ。先生との話し合いだって、このわたしがいたします。あなたは、ただ黙ってその場に立ち会っていてくれさえすればいいの。そして今後も、その手で通しましょうよ。あなたは、お気が向かなかったら、なにもじかに先生と口をきかれなくたっていいんです。とすると、実のところ、先生の部下は、わたしひとりきりということになりますし。わたしだって、そうやすやすと先生の風下に立ちはしないわ。ちゃんと先生の弱点を知っているんですもの。この手で行くなら、わたしたちがあの職を引き受けたって、なにも損にはならないわけよ。ところが、断ったら、大損するの。先ず第一に、きょうのうちにも城からなにか思わしい沙汰なりと得られなかったら、あなたは、村じゅうどこを探したって、あなたひとりのための寝所さえも見つかりはしないわ。本当よ。もちろん、寝所と言っても、わたしがあなたの未来の妻として恥ずかしい思いをしなくてもいいような寝所よ。そうなって、あなたは、全く寝所にありつけなくなっても、わたしには、たぶん、ここの暖かい部屋で眠れと、要求なさるお心算《つもり》でしょう。でも、あなたが夜の寒気のなかを当てどなくさまよい歩いておられるのが分かっていながら、どうしてわたしひとりが安眠を貪《むさぼ》っていられましょう」Kは、先刻からずっと、胸のうえに腕組みしたままで、すこしでもからだを暖めるために、両の手のひらで背中をたたきながら、聞いていたが、ついに折れて、「それじゃ、引き受けるよりほかないな。さあ、行こう」
部屋へ帰るなり、Kは、ストーブのほうへ駆け寄った。教師のことを意に介してもいなかった。テーブルに向かって腰かけていた教師は、時計を取り出して、言った、「ずいぶんと手間取りましたな」「でも、そのかわりに、わたしたちは、すっかり意見が一致しましたの、先生」と、フリーダは言った、「わたしたち、今の勤め口をお引き受けするわ」「よろしい」と、教師は言った、「しかし、この職は、測量師さんに提供されたものです。測量師さんからじかに御自分の意見をおっしゃっていただかねばなりません」そのとき、フリーダがKに助け舟を出して、「もちろんですとも」と、言った、「この人がお受けするのですわ。ねえ、そうでしょう、K」それで、Kは、自分の意志表明を、ただ「うん」という一言だけで、あっさりと片付けることができた。しかし、その一言も、けっして教師に向けられたものではなくて、フリーダに向けられたものであった。「それでは」と、教師は言った、「まだ私に残されている仕事と言えば、あなたにあなたの服務上の義務をずばり申し渡しておくことだけになりました。この件で、私どものあいだに、金輪際、いざこざが起こらないようにしておくためです。測量師さん、あなたの役目は、毎日、ふたつの教室を清掃して、ストーブを焚くこと、校舎のちょっとした修理をはじめ、教場の備品とか体操器具のこまかな修繕、校庭をよぎる通路の雪掻き、私と女教師さんのための走り使い、そして暖かい季節になれば、校庭や花壇の一切の手入れなどです。そのかわりに、あなたは、あなたの好みにまかせて教室のどちらかひとつに住む権利が与えられるのです。しかし、同時に両方の教室で授業が行われないで、たまたまあなたの住んでいる教室で授業が行われるような場合は、むろん、片方の空いている教室へ引っ越してもらわねばなりません。校内での炊事は、厳禁です。そのかわり、あなたとあなたの一族の食事は、村が費用を負担しますから、ここの飲み屋で摂《と》ってもらいます。あなたは、学校の威厳を傷つけないような振る舞いをしないといけませんし、また、特に児童たちに、授業中はなおさらですが、あなたの家庭内のいやらしい光景を見せつけることは、絶対に禁物です。ただこれは、ほんのついでに申したまでです。あなたも、教養人として、それくらいは心得ているに違いないからです。それと関連して、もうひとつだけ付言しておきたいのですが、私どもとしては、あなたがあなたとフリーダ嬢との関係を一日も早く合法的なものにされることを、あくまでも要求してやみません。以上の事柄、および、その他二、三の些細《ささい》な点につきましては、雇用契約書を作成しますので、校舎への移転と同時に、それへの署名をしてくださらないといけません」
そんなことは、すべて、Kには下らないことのように思われた。なんだか他人事のような気がしていたし、また自分に関係あったとしても、どのみちそんなもので縛られる自分ではないような気もしていた。ただ教師の空威張りだけは、Kとしても、腹に据えかねて、木で鼻をくくったように言い返した、「いいですとも、世間並みの義務づけばかりですからね」そうした発言を多少なりともぼやかすために、フリーダは、給料のことを尋ねた。「給料を払うかどうかは」と、教師は言った、「一カ月の仮採用期間が終わったあとで、はじめて考慮されることになっています」「でも、それじゃ、わたしどもにとって苛酷だわ」と、フリーダは言った、「ほとんど無一文のままで結婚し、なんの持ち合わせもなしに所帯を持ってゆけって、おっしゃるのと同じよ。ねえ、先生、なんとか村当局へ陳情書を出して、わずかなりともすぐに給料がもらえるように、頼むわけにはゆかないでしょうか。先生なら、そうするように、きっと勧めてくださいますわね」「いいえ」と、教師は、ずっとKのほうへ言葉を向けたままで、言った、「そのような陳情は、私からよろしく頼むと口添えさえすれば、叶《かな》えられるでしょうが、私としては、それをするわけにはゆきません。この勤め口の提供というものは、実のところ、あなたにたいする好意にすぎません。それに、自分の公的な責任をつねに自覚しつづけている者は、好意のほうも度を過ごさずに小出しにしないといけません」ところが、それを聞いて、Kは、ほとんど自分の本意を忘れたかのように、ついうっかりと口を挟んでしまった。「好意ということですが、先生」と、彼は言った、「僕は、あなたが考え違いをしているように、思います。そうした好意は、むしろ、僕のほうが示しているのかもしれないんですよ」「そんなことはありません」と、教師は、笑みを浮かべながら、言った。ついにKを根負けさせて、しゃべらせることができたからであった。「その点につきましては、私のほうが正確な事情を知っている心算《つもり》です。まあ、学校の小使にしても、測量師にしても、私どもからすれば、必要の緊急度は、ほとんど同じでしてね。学校の小使と言い、測量師と言い、いずれも、私どもの荷厄介ですよ。私は、こうした支出の理由をどのようにもっともらしく村民のまえで並べ立てればいいのか、まだまだずいぶん思案投げ首を重ねねばなるまいと、思っているところです。かような要求案は、いきなり机上に放り出しただけで、なにも理由説明しないでおくのが、最も事実に即した最上策かもしれませんが」「僕だって、やはり、そう思いますね」と、Kは言った、「あなたは、あなたの本意に反しても、僕を採用しないわけにはゆかないのです。たといあなたにとって苦しい思案投げ首の種になるとしても、僕を採用しないわけにはゆかないのです。とにかく、仮にある人が義理詰めに詰められて、だれか他の者を採用せねばならないようになった場合でも、その候補者が採用に応じたならば、好意を抱いているのは、やはり、採用されたほうの当人ですよ」「なんともおかしな説ですな」と、教師は言った、「どうしてもあなたを採用せざるを得ないように、私どもに迫っている事情なんか、どこにもありません。私どもに迫っているものがあるとすれば、それは、村長さんの善意、しかも、桁《けた》外れの善意だけです。測量師さん、あなたは、どうやら私の見受けたところでは、一廉《ひとかど》の小使になるためには、先ず、いろいろな空想を棄ててしまわないといけないのではないでしょうか。ことによっては給料の仮払いを承認してあげてもいいと思っても、そのような意見を承りますと、むろん、からきし気乗りがしなくなりますからね。それにまた、残念ながら、私が気づいた点を申し添えれば、あなたの態度には、今後も、私がずいぶんと手こずるだろうということです。最前からずっと、あなたは、私と商議するのに――私は、終始、あなたを見守っていて、自分の眼を信じかねているのですが――こともあろうに、ワイシャツとズボン下のままじゃありませんか」「全くですな」と、Kは、笑いながら叫んで、手をたたいた、「べらぼうな助手どもめ、一体、どこで尻を据えていやがるんだろう」フリーダは、ドアのほうへ走って行った。教師は、もうこうなってはKが自分の話し相手にならないことに、気づいて、フリーダに、学校への引っ越しはいつなのかと、尋ねた。「きょうですわ」と、フリーダは答えた。「それでは、明朝、私が検分にまいりましょう」と、教師は、言って、手を振って挨拶に代えると、フリーダが自分が出て行くために開けておいたドアから、出て行こうとしたが、そこで女中たちとぶつかった。女中たちは、その部屋のなかを自分らが住むのに便利なようにするために、早くもそれぞれの持ち物を手にしてやって来ていたのだった。教師は、だれが来ようと道を譲る気配のない女中たちのあいだを、すばやくくぐり抜けて行くよりほかなかった。フリーダは、教師のあとに続いた。「えらく気が早いんだな」と、Kは、今度は女中たちの態度にひどく満足して、言った、「僕たちがまだここにいるというのに、もうおまえたちは、乗り込まずにはいられないのかい」女中たちは、返事をしないで、ただ当惑したまま、手にした包みを捻《ひね》くり回していた。その包みからは、Kにはすっかりなじみの汚らしいぼろ切れがはみ出て、垂れ下がっていた。「自分たちの持ち物を、おまえたちは、まだ一度も洗濯したことがないんだろうね」と、Kは言った。意地悪な気持ちからでなく、ある種の愛情を感じて、言ったのだった。女中たちも、それには気づいたらしく、一斉に堅い口を開いて、美しい、丈夫な、獣《けだもの》のような歯を見せながら、声を立てずに笑った。「さあ、入っておいで」と、Kは言った、「都合のいいように部屋のなかを仕替えるがいいよ。おまえたちの部屋なんだから」そう言われても、女中たちが、あいかわらずためらっているので――彼女たちにしてみれば、自分たちの部屋があまりにも勝手が違っているように、思えたのだろう――、Kは、女中のひとりの腕を掴《つか》んで、部屋のなかへ連れて入ろうとしたものの、思わず相手をすぐに手離してしまった。その女中は、互いの間の意志の疎通をすばやく確かめてからは、もうKから脇目《わきめ》も振らずにいたが、その凝《こ》らした両の瞳にも、紛《まご》うかたなく、ただならぬ驚嘆の色が浮かんでいたからであった。「さあ、そこまでしげしげと僕を見詰めていたら、もう堪能したろう」と、Kは、言って、なんとなく不快な感情を追い払いながら、折よくフリーダが、おずおずと付いて来る助手たちを従えながら、持ってきてくれた服と長靴を受け取ると、それで身なりを整えた。
彼にとって、いつものことであるが、今もまた、不可解でならなかったのは、助手たちにたいするフリーダの辛抱強さであった。中庭で服にブラシを掛けていなければならないはずの助手たちを、フリーダが、かなり長いあいだ探し回った揚げ句に、見つけたのが、階下の食堂であった。ふたりは、まだブラシを掛けてない服を皺《しわ》くちゃに丸めて、それを膝のうえに載せたまま、いかにものんびりと昼食を食べていたのである。そのため、フリーダが、手ずから、服も、長靴も、残らずきれいに仕上げねばならなかったのだった。それでも、下種《げす》な連中を上手に使いこなす術を心得ていたフリーダは、けっして助手たちにがみがみと小言を言いはしなかった。それどころか、彼らの面前で、彼らのひどくだらしのない怠慢ぶりを、まるでちょっとした冗談事かなんぞのように、話しながら、おまけに、助手のひとりの頬を、機嫌を取るかのように、軽くたたいてみせたりもしたくらいであった。Kは、いずれ近々のうちに、このことで、フリーダを叱りつけてやろうと思った。今は、しかし、転居するためには、もうぐずぐずしておれなかった。
「助手たちは、ここへ残して、おまえの引っ越しの手伝いをさせよう」と、Kは言った。助手たちは、むろん、おいそれとは承知しなかった。腹も脹《ふく》れて、浮き浮きしていたので、すこしでも運動をしたいところだった。「確かにそのとおりよ。おまえたちは、ここに残るのよ」と、フリーダが言って、やっと彼らも承服した。「僕の行先を、おまえは、知っているのか」と、Kは尋ねた。「ええ」と、フリーダは答えた。「それでは、もう僕を引き留めないんだね」と、Kは尋ねた。「あなたは、とても多くの障害に逢《あ》うでしょう」と、彼女は言った、「わたしの言葉なんか、そんな場合、なんの利き目もないでしょうしね」フリーダは、Kに別れの接吻をし、彼が昼食を摂ってなかったので、階下から彼のために持ってきておいた、パンとソーセージとをくるんだ小さな包みを渡した。そして、訪問が終わったら、もうこちらへは帰らないで、まっすぐに学校のほうへ来てくれるようにと、Kにだめを押してから、片手をKの肩のうえに載せながら、彼を戸口の外へまで見送って行った。
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第八章
Kは、先ずなによりも、女中たちや助手連中が透き間もなく入り込んでむんむんするほど暖かい部屋から逃れられたことが、嬉しかった。それに、屋外は、すこしばかり凍《い》てついていて、雪も固まり、歩くのもずっと楽だった。ただ、もうその時分には、むろん、暗くなりかけていたし、彼は、足を早めた。
城は、すでに輪郭がおぼろになりかけていたが、いつものように、静かなたたずまいを見せていた。これまで、Kは、まだ一度も、そこに生が営まれているという徴候を微塵《みじん》も見たことがなかった。あるいは、このような遠方からなにかそれらしいものを見分けるのは、全く無理なことだったかもしれない。だが、眼のほうは、しきりとそうしたものを求めて、あの静けさをけっして容認しようとはしなかった。Kは、城を眺めていると、かなたに静かにすわり込んだまま、ぼんやりと前方を見つめている人間を、こちらから観察しているような気になることが、時折あった。とは言え、相手は、けっして物思いに耽《ふけ》りきって、そのために、いかなることにも全く動じないでいるのではない。自分がただひとりいて、観察の的になっているのを知らないかのように、気儘《きまま》に、心おきなく、そうした態度を続けているのである。だが、そのうちには、自分が観察の的になっていることに、やはり、気づくに違いない。しかし、それでも、相手は、それまでの平静な態度を微塵も崩さないでいるのだ。そして、実際に――これが原因なのか、それとも結果なのかは、分からなかったが――観察者の眼差《まなざし》も、しっかりと相手を掴《つか》まえておくことができなくなって、あらぬほうへ滑って行ってしまうものだ。こうした印象が、きょうは、早くなった夕暮れのせいで、ひとしお強められた。長く見やれば見やるほど、ますます見分けがつかなくなって、一切がますます黄昏《たそがれ》のなかに深く沈んで行くのだった。
ちょうどKがまだ明かりのついてない貴紳閣へやって来たとき、二階の窓がひとつ開いて、毛皮の外套を着た、太った、剃《そ》りあとのきれいな、若い紳士がひとり、上半身を窓からのり出すと、そのまま、いつまでも窓外を眺めていた。Kが挨拶をしても、ほんの軽い会釈でさえも答えようとせずに、そ知らぬふうであった。Kは、玄関ででも、また酒場へ行っても、だれにも出会わなかった。気の抜けたビールのすえた臭《にお》いが、このまえのときよりも、はるかにひどかった。このようなことは、きっと、あの「橋亭」でなら、あり得ないことだろう。Kは、早速にも、このまえクラムをのぞき見したドアのところへ行って、用心深くそこの取っ手を動かしてみたが、ドアには鍵がかかっていた。そこで、のぞき穴のあったと覚しい箇所を手さぐりで探し当てようとしたが、どうやら、そこを塞《ふさ》ぐ蓋《ふた》が、とてもきちんと填《は》め込んであるらしく、そうした方法では見つけようがなかったので、彼は、マッチをすった。すると、急に悲鳴がして、ぎくりとさせられた。ストーブの近くの、ドアと配膳台とのあいだの隅っこに、丸くうずくまるようにして腰かけていた、ひとりの少女が、寝ぼけた眼を辛《かろ》うじて開けて、マッチの火に照らし出された彼の顔をじっと見据えていた。少女は、紛れもなく、フリーダの後任に違いなかった。彼女は、間もなく、気を静めると、電灯のスイッチを捻《ひね》ったが、それでもまだ、仏頂面をしていた。ところが、途端に、相手がKだと分かると、「あら、測量師さんなの」と、彼女は、にっこりしながら、言って、Kのほうへ右手を差しのべながら、自己紹介した。「私、ペピです」
彼女は、小柄で、血色がよく、健康そうだった。赤味がかったブロンドの、ふさふさした濃い髪を、固くお下げに編んでいたが、それでも、半円形をなしている生え際のところは、縮れ毛となって、ほつれていた。着ているのは、鼠色の光沢のある布地で作った、なんの飾りもない、すらりとしたワンピースであったが、すこしも彼女に似合ってなかった。しかも、裾《すそ》まわりを、いかにも子供の細工のように、無器用に、片|縁《へり》が網の目になっている絹のリボンで絞って、襞《ひだ》を取ってあるので、ひどく窮屈そうであった。彼女は、フリーダの安否を尋ねて、また近いうちに戻って来るのではないかと、聞いた。それは、悪意とほとんど差がないような質問だった。そして、「私は」と、彼女は続けた、「フリーダがいなくなったあと、すぐに急いでこちらへ廻されたのです。だって、ここは、女の人なら、だれを雇ってもいいというようなところではありませんからね。私は、これまで、部屋付きの女中でしたの。でも、こちらへ職場を替えて、けっして得をしたとは思いませんわ。ここだと、晩方から夜分へかけての仕事が多くて、ひどく疲れるんですもの。とても、このままでは、からだが続きそうにもないわ。フリーダが罷《や》めたのも、別に不思議と思わないくらいよ」「フリーダは、ここにとても満足していたよ」と、Kは言った。ペピとフリーダとのあいだの相違をペピが頭から無視していることを、どうしても、ペピに覚《さと》らせたいからであった。「フリーダの言葉を真《ま》に受けてはいけませんわ」と、ペピは言った、「フリーダは、だれも容易にまねができないほどに、自制ができる女《ひと》ですの。打ち明けたくないと思うことは、けっして打ち明けはしません。しかも、その場合、打ち明けねばならぬはずのものをお腹《なか》のなかに隠し持っているということをすら、他人に微塵も気どらせないのです。実は、私、今まで、数年間も、あの女《ひと》と一緒に同じ屋根の下で勤めて、いつも、ひとつのベッドのなかで、一緒に寝てきましたのに、あの女とはいまだに打ち解けられないの。きっと、あの女はもうきょうあたりは、私のことなんか、すっかり忘れてしまっているはずよ。あの女のお友達と言えば、ただひとり、あの『橋亭』の年とった女将《おかみ》さんくらいのものでしょうが、これこそ、いかにもあの女らしい特徴を示していると思うの」「フリーダは、許嫁《いいなずけ》なんですよ」と、Kは、言いながら、それとなくドアにあるのぞき穴の位置を探していた。「分かっています」と、ペピは言った、「ですからこそ、こうしてお話ししているんですわ。そうでなければ、こんな話、あなたにとってなんの意味もないじゃありませんか」「なるほど」と、Kは言った、「君の考えでは、そのように口の固い娘を射止めて味方につけたことを、僕は、自慢していいということなんだね」「そうよ」と、彼女は、言って、フリーダのことでKから暗黙の了解を取り付けたかのように、満足げに笑った。
しかしながら、しきりとKの関心をそそって、のぞき穴を探すことをKに多少なりとも失念させたのは、実は、彼女の言葉ではなくて、彼女の出現であった。そして、こうした職場にそうした娘が現にいるという事実であった。むろん、彼女は、フリーダよりもはるかに年も若く、まだ子供に近いくらいであった。それに、服装も、滑稽であった。彼女が、酒場勤めの娘という意味について突拍子もない考え方をしていて、服装もその考えに合わせて整えていたことは、火を見るよりも明らかであった。そして、彼女がそうした考え方をしていたことも、彼女なりにまた無理からぬところであった。と言うのも、彼女がいまだに全く場違いなところにいるとしか見えないのも、おそらく、そうであるが、この職場が、いきなり、なんの謂《いわ》れもなしに、ただ臨時の間に合わせとして、彼女に与えられたからであろう。フリーダがいつも帯にぶら下げていた、あの革の小さな袋をさえも、まだペピには信用がないのか、任されてはいなかった。とすると、彼女がこぼしている、ここの職場への不満も、ただ思い上がりにすぎないのではないか。とは言え、まだあどけなくて分別がついていないにもかかわらず、どうやら、彼女にも、なにかと城への繋《つな》がりがありそうだ。彼女は、確か、嘘をついたのでなければ、部屋係の女中をしていたはずだ。彼女が、自分の持っているこうした財産には全く無とんじゃくで、来る日も、来る日も、ここで転寝《うたたね》をして過ごしていたとは、惜しいことだ。こんな小柄の、太った、やや猫背のからだでも、抱擁してやりさえすれば、その財産をこの女から奪い取ることはできなくても、その財産に触ることぐらいはできて、今後の困難な道にも堪えられるように大いに元気づけられるかもしれない。そうなると、あるいは、フリーダの場合と変わりがなくなるのではあるまいか。いや、そんなことはない。丸っきり違うのだ。その点を理解するには、フリーダの眼差を思い浮かべさえすればいい。Kは、しかし、ペピのからだには手を触れずにおく心算《つもり》だった。とは言え、彼は、そのとき、しばらく、眼を手で覆わずにはいられなかった。それほど貪《むさぼ》るような眼付きで、彼女を見詰めていたのだった。
「もう電気をつけてなくったっていいですわね」と、ペピは、言って、電灯のスイッチを切った。「あなたがあんなにひどくびっくりさせたものですから、電気をつけただけなの。ところで、ここへなんの用事でいらしたの。フリーダがなにか忘れ物でもしたのでしょうか」「そうなんです」と、Kは、言って、ドアを指差しながら、「この隣の部屋にテーブル掛けをね。白い、編んだテーブル掛けですよ」「ああ、あのテーブル掛けですか」と、ペピは言った、「今でも覚えていますわ。すばらしいできばえでしたもの。私も、あのとき、フリーダに手伝ってあげたのよ。でも、たぶん、この部屋にはないと思うわ」「フリーダは、あると思い込んでいるのさ。一体、ここにだれか泊まっているのかね」と、Kは尋ねた。「いいえ、どなたも」と、ペピは言った、「これは、殿方専用のお部屋で、城の殿方たちは、ここで、お飲み物やお食事を召し上がるのです。つまり、そういうことのために宛《あ》ててある部屋なのです。でも、大抵の方は、二階の御自分の部屋に引き籠《こ》もっていられますけれども」「今、隣の部屋にだれもいないと、確かに分かっていれば」と、Kは言った、「僕も、得たりとばかりに、なかへ入って行って、テーブル掛けを探してきたいところなんだが。しかし、肝心のその点が、不確かなんだな。例えば、クラムなんかも、よくあちらにすわっているようだし」「今隣室にクラムがいらっしゃらないことは、確実です」と、ペピは言った、「あの方は、今にもお発《た》ちになるところです。橇《そり》がすでに中庭で待っていますもの」
すぐさま、Kは、一言も訳を言わずに、酒場を立ち去って、玄関のところから、出口のほうへは行かずに、家の奥のほうへ向かって行くと、ほんの数歩で中庭に出ることができた。ここは、なんと物静かで、美しいところだろう。四角形の中庭は、三方がここの家屋に囲まれ、残る一方が通りに面してはいた――それは、Kの知らない横町だった――が、その通りとは、大きな、頑丈な門のある、白い、高塀によって、隔てられている。今、その門が開いていた。ここの中庭の側から見ると、建物は、表正面から見るよりも、高いように思われた。すくなくとも、二階は、残るところなく、完全に増築されていて、外見だけでも、ひとしお豪勢な感じだった。と言うのも、二階には、木造の、密閉した回廊がずっと回《めぐ》らしてあったからだった。その回廊は、わずかに眼の高さほどのところが、横に長く、細い透き間になっていた。Kの斜め向こうの、まだ建物の中央棟には属してはいるが、向かいの側棟が袖《そで》のように繋がっている隅に近いところに、建物への入り口がひとつあったが、そこは開け放しになっていて、ドアがなかった。そして、そのまえに、黒ずんだ、戸を閉めた、二頭立ての橇が、止まっていた。馭者《ぎょしゃ》のほかには、人影はなかった。もう黄昏が濃くなりかけていたので、その馭者をさえも、Kは、遠目で、見分けたというよりも、むしろ、それらしいと察したにすぎなかった。
Kは、両手をポケットに突っ込み、用心深くあたりを見回しながら、壁や塀に寄り添うようにして、中庭の二辺を迂回し、橇のそばに近づいて行った。馭者は、このまえ酒場で見かけた、例の百姓たちのうちのひとりだったが、毛皮に首を埋めて、Kが近づいて来るのをなにげなしに見ていた。言わば、猫の足取りを眼で追っているような素振りだった。Kがすでに馭者のわきに立って、挨拶をし、繋いでいた二頭の馬でさえも、暗がりのなかから不意に現れた人間に驚いて、すこしばかり足掻《あが》いたのに、馭者は、全く素知らぬ様子のままだった。それは、Kにとって、まさにもってこいだった。壁にもたれると、彼は、食べ物の包みを開けて、自分のためにこのように心の籠もった用意までしてくれたフリーダのことを、感謝の気持ちで、思い出しながらも、建物の内部を窺《うかが》った。直角に曲がった階段が、二階から降りて来ていて、階下のところで、廊下と交差していた。その廊下は、天井が低かったが、どうやら奥行が深そうであった。壁には白い上塗りが施され、眼に映るものすべてが、はっきりした直線の輪郭を示して、いかにも清潔だった。
Kは、思っていたよりもずっと長く、待ちつづけた。食事は、もうとっくに済ませていた。寒気が厳しかった。黄昏は、もう真っ暗闇に変わっていた。しかし、クラムは、依然として、立ち現れなかった。「この分だと、まだまだ隙《ひま》どるかもしれんな」と、突然に、Kの横で、しわがれた声が言ったので、Kは、ぎくりとした。声の主は、馭者だった。馭者は、急にたたき起こされたかのように、手足を伸ばしながら、大きな声であくびをした。「なにが、一体、そんなに隙どるかもしれんのだい」と、Kは尋ねた。気分を壊されたことが、却《かえ》って、ありがたいくらいだった。ずっと打ち続く静寂と緊張には、もう、うんざりしていたからだった。「あんたが帰りなさるのにってことよ」と、馭者は、答えた。Kは、相手の言葉の意味がよくは分からなかったが、それ以上問い返しもしなかった。高慢ちきな相手に口を開かせるには、このような方法を取るのが、最もいいと思ったからであった。この暗闇のなかでなにも答えずにいると、相手は、ひどくいらいらしてくるに違いない。ところが、案の定だった。しばらくすると、馭者のほうから声をかけてきた。
「コニャックは、どうです」「欲しいな」と、Kは、相手の申し出にひどく心|惹《ひ》かれて、ついうっかりと言ってしまった。ぞくぞくと寒気がしていたからであった。「それなら、橇の戸をお開けなすって」と、馭者は言った、「扉の裏についている袋のなかに、二、三本、入ってますから、一本取り出して、一口やりなされ。それから、後はわしのほうへ回してもらえばいい。こんな毛皮を着とるもんで、馭者台から降りて行くのが大儀でならないんでさ」
Kは、このように自分を出しに使う相手のやり方に向かっ腹が立ったが、しかし、一旦、馭者と親しく口をきいてしまった以上は、橇のそばにいるところをクラムに不意打ちされるかもしれない危険を冒してでも、とにかく、馭者の言いなりにしてやることにした。彼は、橇の幅広い扉を開けた。その扉の内側に取りつけてある袋から、すぐにコニャックの瓶を取り出すことは、なんでもなかったが、いざ扉が開いたとなると、橇の内部に入って見たいという衝動にひどく駆られるのを、どうしようもなかった。ほんの一瞬間でも、そのなかにすわってみたいと思って、彼は、素早く飛び込んだ。橇のなかは、並み外れて暖かかった。Kは、扉を閉めるのも気が引けたので、大きく開け放したままにしておいたが、それでも、内部の暖かさに変わりはなかった。座席に腰掛けているのかどうかさえも、からっきし分からないほどで、毛布とクッションと毛皮のなかに身を横たえているも同然だった。四方八方に向かって、からだの向きを変えようと、あるいは、からだを伸ばそうと、自由自在で、そのたびに、ますます深く、ふわふわした暖かいもののなかへ、からだが沈んで行くのである。Kは、両腕を拡げ、頭はいつでも待ち受けているクッションに自然に支えられて、橇のなかから、黒ずんだ建物のなかを食い入るように見つめた。クラムが降りて来るのに、どうしてこんなに隙どるんだろう。雪のなかに長いあいだ立ち尽くしたあとで、急にとても暖かいところへ入ったために、頭がぼんやりと霞《かす》んでくるように覚えて、Kは、もうこの辺でクラムが出てきてくれるように、祈った。今このような態度でいるところをクラムには見られないほうがいいという考えも、ほのかな邪念のように、ただぼんやりと彼の意識に上ったにすぎなかった。彼がこうして茫然自失に近い状態にいられるのも、馭者の態度のお陰であった。馭者は、彼が橇のなかにいることを知っているに違いないのに、彼をほったらかしにして、彼にコニャックを要求することさえもしない。それこそ、実に、親切な配慮の現れであったが、それだけに、Kのほうも、馭者にサービスをしてやりたいと思った。彼は、自分の体位を変えないで、けだるそうに、わき扉の裏の袋のほうへ手を伸ばしたが、開いている扉は遠すぎて、とても手が届かなかったので、背後の、反対側の、閉まった扉のほうへ手を伸ばしてみた。すると、どちらの扉でも同じことであった。そちらのほうにも、やはり、何本か、瓶が入っていた。彼は、手当たり次第に、そのうちの一本を取り出すと、ねじになった栓を開けて、匂いを嗅《か》いでみた。彼は、思わずにやりとせずにはいられなかった。いかにも甘美な、うっとりするような香りだった。自分のとても愛している人から賛辞やお世辞を言われても、なにを取り上げてそう言ってくれているのか、はっきりとは分からないまま、また、それを分かろうともしないで、ただそう言ってくれているのが自分のとても愛している人だということだけを意識して、ひたすら幸福感に浸っている、そんなふうな馥郁《ふくいく》さだったと言えようか。「これが、はたして、コニャックだろうか」と、Kは、怪訝《けげん》そうに自問しながら、好奇心からちょっと味見してみた。ところが、珍しいことに、やはり、コニャックに違いなかった。からだじゅうが燃えるように暖まってくる。ただの甘美な芳香物にすぎないくらいにしか思わなかったものが、飲んでみると、いかにも馭者には打ってつけの美酒に変わるとは、なんと不思議なことだろう。「こんなことって、あるものだろうか」と、Kは、浅はかな自分自身を詰《なじ》るかのように、自問を繰り返しながら、また一口、飲んだ。
そのとき――たまたまKができうる限り息を長くして、たっぷりとぐい飲みすることに心を取られていたときだった――急にあたりが明るくなった。屋内の階段と言わず、廊下と言わず、玄関と言わず、また屋外の入り口の上方にも、いたるところに、電灯がぱっとついたのである。そして、階段を降りて来る足音が聞こえた。Kは、思わず、瓶を取り落とした。コニャックが毛皮のうえに一面にこぼれた。Kは、あわてて橇から飛び出して、いきなり後手で扉を閉めた。そのとき、扉の締まる音がばたりと大きくあたりにこだまして、ひやりとした途端、ひとりの紳士がゆっくりした足取りで建物のなかから出てきた。それがクラムでなかったことが唯一の慰めのようにも思われた。それとも、やはり、それは、残念なことだったのだろうか。出てきたのは、すでに二階の窓のところに見かけた、あの紳士であった。とても恰幅《かっぷく》のいい、若い男で、白と赤とを取り合わせた服装をしていたが、ひどく生真面目そうだった。Kもまた、陰鬱な眼差で、相手を見詰めたが、しかし、Kのほうは、そうした陰鬱な眼差で、自分自身の気持ちを表していたのだった。こんなことなら、むしろ、助手どもを代わりに寄越せばよかった。自分がここでやったような振る舞いくらいなら、助手どもだってやってのけるに違いない。相手の紳士は、Kと向かい合ったまま、黙りこくっていた。そのひどく幅の広い胸のなかには、口をきくのに必要な息がまだ十分に溜《た》まっていないかのようでもあった。
「まさに言語道断だ」と、相手は、やがて言って、帽子を額からすこし後ろへずらした。なんだって。この男は、自分が橇のなかにいたことをすこしも知らないはずなのに、早くも、なにを目《もく》して、言語道断などと言うのだろう。例えば、自分がこの中庭へまでも遠慮なしに入り込んでいることを指して、言っているのだろうか。「あなたは、一体、どうしてこんなところへ来られたのです」と、相手の紳士は、早くも声を落として、すでに息を吐き出しながら、動かしがたい現実には承服するかのように、尋ねた。なんという問い方だろう。どのように答えればいいのだろう。例えば、多大の希望をかけて歩み出した自分の道が、空《むな》しく、徒労に終わってしまったことを、今ここで、この紳士にたいしてもはっきりと確認せねばいけないのだろうか。Kは、答えるかわりに、橇のほうへ向いて、そこの扉を開き、なかに置き忘れていた縁なし帽を取り出した。そのとき、コニャックが昇降段のうえにまで滴り落ちているのに気がついて、嫌な感じだった。
それから、Kは、再び紳士のほうへ向き直った。彼は、自分が橇のなかにいたことを、こうして露骨に相手に見せつけても、今となっては、もう平気だった。それにまた、橇のなかにいたことだけなら、別に最悪の|へま《ヽヽ》でもなかった。もし尋ねられたら、むろん、尋ねられたときだけに限ってのことであるが、そのときは、隠し立てしないで、彼は、自分をそそのかして、すくなくとも、橇の扉を開けるように仕向けたのは、ほかでもない、馭者自身だということを、言ってのける心算だった。それにしても、本当にへまだったのは、紳士に不意を突かれて、びっくり仰天したことであり、この紳士の眼に付かぬようにどこかへ身を隠して、だれにも邪魔されずに、クラムを待ち受けるようにするだけの、時間的な余裕がもうなかったことである。また、換言すれば、橇のなかに腰を据えて、扉を締めきり、橇のなかの毛皮のうえに寝そべりながら、クラムを待ち構えるとか、あるいは、せめて、この紳士が近くにいる限りは、橇のなかに潜んでいるとか、そうしたことができるくらいの沈着が、自分に不足していたことでもあった。もとより、Kとしては、あのとき、当のクラムが、きっと出て来るのか、来ないのか、そんなことは、知る由もないままに、すこしも疑いはしなかったが、もしクラムが出て来れば、もちろん、クラムを橇のそとで迎えるのが、はるかにいいに決まっていた。確かに、この場へ来たときいろいろと考慮しておかねばならぬことがあったはずだった。しかし、今となっては、もう考慮することなんかない。万事休すである。
「一緒にお越し願いましょう」と、相手の紳士は、言った。命令的な口調ではなかった。しかし、命令は、言葉のなかには含まれてなくとも、そうしたことを言いながら、わざと何気なさそうに、ちょっと手を振って見せた、その身振りのなかに含まれていた。「ここで、さる人を待っているのです」と、Kは、もはやなにかの効果があるという当てもなくて、ただ自分の主義として、言ったにすぎなかった。「お越し願いましょう」と、相手は、重ねて、ためらわずにきっぱりと言った。紳士は、Kの人待ちをつゆほども疑ってないことを、語調で表そうとしているかのようであった。「しかし、それでは、待ち人に会えずじまいになります」と、Kは、寒さでぞくっと身震いしながらも、言った。彼としては、どのようなことに遭遇してきたにせよ、自分がこれまで仕遂げてきたものが、一種の財産であり、それを固く保持しているように見せかけるのが精一杯なのに、好き勝手な命令のひとつくらいで、おいそれとそれを引き渡してなるものかという気持ちだった。「あなたは、ここでお待ちになっていようが、それとも、ここからお去りになろうが、いずれにしても、会えずじまいですよ」と、紳士は言った。その言い方は、いかにもぶっきらぼうであったが、Kの考え方には目立って協調的になっていた。「それなら、むしろ、ここで待って、会わずじまいになるほうを、僕は取りますね」と、Kは、この若い紳士の口先ぐらいでは、断じて、ここから追い払われはしないぞ、と言わんばかりに、昂然として、言い放った。それを聞くと、相手の紳士は、顔をやや天のほうへ向けて、見下すような表情をしながら、しばらく、眼を閉じていた。Kの無分別から、自分本来の理性に立ち返ろうとしているかのようでもあった。紳士は、軽く開いた口の両唇を、舌先でなめ回していたが、やがて、馭者に言った、「馬を外してもらおうか」
馭者は、Kのほうを怒ったような横眼でにらみながらも、主人の言葉には忠実に従って、今度こそは、毛皮を着たままでも、馭者台から降りなければならなかった。そして、主人から反対命令が出ることは期待できないにしても、Kが心変わりすることはあるかもしれないと、それを期待するかのように、ひどくのろのろと、橇につけた馬を挽《ひ》いて、背後の側棟のほうへと、しだいに逆戻りしはじめた。その袖の部分のどこかに、大きな門があって、その奥が厩《うまや》と車や橇の置き場とになっていることは、明らかだった。Kは、自分がひとり取り残されているのに、気づいた。一方では、橇が、他方では、Kが通ってきたのと同じ道を、若い紳士が、いずれも、むろん、ひどくゆっくりと遠ざかっていた。双方を連れ戻す権限が今もなおKの掌中にあることを、紳士も、橇も、ともにKに示そうとしているかのようであった。
もしかすると、そのような権限がKにあったかもしれない。しかし、そんなものがあったとて、なんの役に立つだろう。橇を連れ戻すということは、Kが自分からここをおん出ることを意味する。それゆえ、彼は、この場所を固守する唯一の人間として、あくまでも静かに踏み止《とど》まっていた。しかし、それは、ひとつの勝利ではあったが、なんの喜びをも齋《もた》らさない勝利だった。彼は、紳士と馭者との後ろ姿を代わる代わるに見送っていた。紳士は、もうそのころには、Kが初めてこの中庭に一歩踏み入れたときの戸口のところへ達していて、もう一度、Kのほうを返り見た。そのとき、Kは、自分のあまりの強情っ張りにあきれて紳士が頭《かぶり》を振っているのを、見たように思った。紳士は、それから、最後を告げるように、決然とした素早い動作で、背を向けると、玄関のほうへ入って行って、すぐに姿を消した。馭者のほうは、その後もかなり長く、中庭に残っていた。橇の片付けにひどく手数がかかった。先ず重たい厩への門を開けて、橇を後退させながら、いつもの場所に戻し、それから、馬を外して、飼いば桶のところへ連れて行ってやらねばならない。馭者は、ほどなく橇を出す見込みは全くないと思ったらしく、そうした仕事を他念なく真面目に続けていた。Kのほうへは脇目《わきめ》も振らずに、黙々と働いている、その馭者の姿は、Kの身には、先刻の紳士の態度よりも、はるかに厳しい非難のように感じられた。馭者は、ようやく厩での仕事を終えると、彼独自のゆっくりした足取りで、からだを左右に揺さぶりながら、中庭を斜めに横切って行って、横町への大門を締めてから、また終始、ゆっくりした動作で、ただ一途《いちず》に雪のなかに残した自分の足跡をのみ眼でたどりながら、引き返してきた。そして、そのまま、厩のなかに閉じ籠もってしまった。すると、どこの電灯も、一斉に消えてしまって――もはやだれのために明かりを点《とも》しておく必要があろう――、わずかに二階の木造の回廊の透き間から洩れている明かりが、闇のなかをさまようKの眼差をしばし捕らえただけであった。そうなると、Kには、自分と人々との繋がりが、これを機に、一切断たれて、今では、むろん、かつてないほどに自由な身となり、ふだんなら自分に禁じられているこの場所で、待ちたいだけ待つことができるばかりか、余人にはとてもできない技だが、こうした自由を戦い取ったお陰で、もはやだれからも、一指だに触れられることもなければ、追い出されることもない、いや、それどころか、誰何《すいか》されることさえほとんどないような気がしてきた。しかし――そうした確信と、また同時にすくなくとも同じくらいに強く、頭を擡《もた》げてきたのは――こうした自由、こうした人待ち、こうした身の安全ほどに、無意味で絶望的なものはないという気持ちだった。
[#改ページ]
第九章
そこで、Kは、身を振り切るようにしてその場を離れると、今度は、塀や壁沿いにではなく、雪のなかを真っ直ぐに横切って、建物のなかへ戻って行った。すると、玄関のところで亭主に出会った。亭主は、黙って彼に会釈すると、酒場のドアを指差した。Kは、寒さで凍えてもいたし、人の顔を見たくもなっていたので、亭主の招きに従った。ところが、酒場のなかを見て、ひどく失望してしまった。ふだんなら、そこの樽のそばやうえに腰かけて常連が満足しているあたりへ、特に持ち出されたものらしく、小さなテーブルが置かれて、先刻の若い紳士がそれに向かってすわり、しかも紳士のまえには――Kにとっては、見ただけでも意気消沈せざるを得ない光景だが――「橋亭」の女将《おかみ》が立っていたからである。ペピは、いかにも誇らしげに、頭をのけぞらせて、いつも変わらぬ笑みを浮かべ、自分の貫禄を牢乎《ろうこ》として自覚しているかのように、顔の向きを変えるたびにお下げを振り回しながら、急《いそ》がしげに行ったり来たりして、ビールを運び、それから、ペンとインクを届けた。と言うのも、若い紳士は、眼のまえに幾枚かの紙片を拡げていて、先ず片方の書類からある事項を拾うと、また次には、テーブルの他方の端に置いてある書類からある事項を拾って、ふたつの事項を見比べながら、なにやら書き付けようとしていたからであった。女将は、うえのほうから、静かに、唇をやや受け口気味にして、ほっとしたように、紳士と書類とを見下ろしていた。すでに必要なことはすべて話し終わって、それがそのままうまく採択されたかのような顔付きだった。
「測量師さん、とうとうお越しになりましたね」と、紳士は、Kが入って行くときに、ちょっと眼を上げて、そう言うと、すぐまた、書類のほうに専念した。女将も、別に驚いた色さえもない、さりげない一瞥《いちべつ》を、Kのほうへ軽くくれただけであった。しかし、ペピは、Kがカウンターのほうへ歩んで行って、一杯のコニャックを注文したとき、初めてKに気づいたようであった。
Kは、そこのカウンターにもたれると、片手を両眼に押し当てて、なにもかも忘れることにした。それから、コニャックをちびりと口に含んだものの、不味《まず》くて飲めやしない、と言って、そのコニャックを突き返した。「皆さん、お飲みになってよ」と、ペピは、手短に言ったきり、残りをやにわにに捨てると、グラスを洗って、棚に立てた。「連中によっては、もっと上等なものだって持っているよ」と、Kは言った。「そうかもしれません。でも、ここにはないの」そう言って、ペピは、Kをあっさりと片付けてしまうと、再び紳士の御用を承りに行った。ところが、紳士のほうではなにも要らないとのことだったので、彼女は、紳士の背後を遠巻きに絶えず行ったり来たりしながら、いかにもうやうやしげな素振りで、紳士の肩越しに、書類を、ちらとなりとも、読み取ろうとしていた。しかし、それは、下らない好奇心と空威張りにすぎなかった。「橋亭」の女将でさえも、それには、眉《まゆ》をしかめて、頭《かぶり》を振っていた。
ところが、不意に、女将は、耳を欹《そばだ》てて、一心に聴き入ろうとするように虚空を見詰めた。Kも、振り向きはしたが、それらしい物音は、なにも耳に入らなかった。ほかの人たちも、なにも耳にしてないようだった。しかし、女将は、爪先立ちで、中庭へ通じる奥のドアのほうへ大股に走って行くと、鍵穴越しにのぞいていたが、やがて、眼を皿にして、顔を火照《ほて》らしながら、ほかの人たちのほうへ振り返って、人差し指で、彼女のところまで来るように、合図した。そこで、一同は、代わる代わる、のぞいてみることになった。その鍵穴に最も執念深く食いついていたのは、むろん、女将であったが、そのあいだに、ペピも、しょっちゅう、場所を譲ってもらっていた。紳士のほうは、どちらかと言えば、無関心に近かった。紳士も、ペピも、間もなく、そこを引き揚げたが、ただ女将だけは、からだをひどくふたつ折りにして、ほとんど跪《ひざまず》かんばかりの恰好で、あいもかわらず一心にのぞきつづけていた。それを見ると、彼女が、今、鍵穴にたいして、せめて自分を通してくれと、哀願しているかのような印象をさえも受けたくらいであった。と言うのも、眼に見えるものは、もうとっくになにもないはずだからであった。ついに、彼女は、しかし、立ち上がって、両の手で顔を撫で、髪を整えて、深呼吸をすると、どうやらこの明るい室内とそこにいる人たちのほうに先ず眼をまた慣らさねばならないらしく、いかにも不快そうに眼をしばたたいていた。
そのとき、Kは、待ち構えていたように、自分が悟ったことについての確証を取るためではなくて、気になりかけていた攻撃を未然に防ぐために、言った。今の彼は、それほど神経質になっていたのである。「すると、クラムは、もう帰ったというわけですか」女将は、黙ったまま、彼のそばを通り過ぎたが、若い紳士が、専用のテーブルのところから、言った、「確かにそのとおりです。あなたがあすこの見張りを断念されたので、クラムも、難なく帰れたわけです。それにしても、不思議ですよ、あの方があんなに過敏になっているとは。女将さん、あなたは、クラムが橇《そり》に乗るまでひどく不安げにあたりを見回しているのを、見掛けませんでしたか」女将も、それには気づかなかったようであった。すると、紳士は、さらに言葉を続けて、「それなら、運よく、もう眼に付くものがなくなっていたに違いない。馭者《ぎょしゃ》がきっと雪のなかの足跡を掃いて消しておいたのだろう」「女将さんは、なにも気づかなかったようですよ」と、Kは、言った。彼がそう言ったのは、なんらかの希望があってのことではなくて、その紳士の主張が癇《かん》にさわったからにすぎない。それほど、その主張には、容喙《ようかい》を許さぬ断定的な響きが籠《こ》もっていた。「ちょうどそのとき、わたしが鍵穴をのぞいてなかったのかもしれませんわ」と、女将は、取りあえず紳士を庇《かば》うために、言った。それから、彼女は、しかし、クラムの態度にも非の打ちどころがないことを言いたいらしく、次のように付け足した、「むろん、わたしは、クラムがそんなにまで過敏だとは、どうしても思えませんの。わたしたちは、もちろん、あの方の身を案じて、あの方を守ろうと努めていますし、その場合は、クラムがとても過敏であるという想定に基づいて、そうしているわけです。それは、それでいいし、また確かに、クラムの望むところでもありますわ。でも、実際の事情がどうなのかは、わたしどもにさっぱり分かりません。確実なのは、クラムという方は、口をききたくないと思った人物とは、絶対に口をきかないということなの。当の人物がどのように苦心|惨澹《さんたん》しようと、またどのように我慢がならないほど強引に押しの一手でやって来ようと、けっしてその人物と会いもしないのです。とにかく、クラムがけっしてそうした人物とは口もきかないし、またその人物に目通りさえも許さないという、この事実だけで、十分じゃありませんか。実際、あの方が他人の眼に堪えられないなんて、訳の分からない話ですわ。すくなくとも、その点は、実験する折がありませんから、証明しようがありませんものね」紳士は、しきりにうなずいていた。「もちろん、それが、結局のところ、小生の意見でもあるのです」と、彼は言った、「その言い方をすこし小生が変えましたのは、ほかでもなく、測量師さんによく分かってもらうためでした。それにしても、クラムが中庭に出たとき、何度もあたりを見回したことは、嘘ではありません」「もしかすると、僕を探していたのかもしれませんな」と、Kは言った。「そうかもしれません」と、紳士は言った、「そこまでは思いつきませんでしたが」それとともに、一同は、声を揃えて笑った。話の始終がほとんどすこしも分かっていないペピの笑い声が、一番高かった。
「今、こうして、みんな折角愉快に集まっているところですし」と、紳士は、それから言った、「折入ってお願いいたしますが、測量師さん、二、三、御報告いただいて、小生の書類の欠けている部分を補わせてくださいませんか」「ここにいても、いろいろと書くことがあるものですね」と、Kは、言って、遠くから書類のほうを見やった。「ええ、悪い癖でしてね」と、紳士は、言って、またしても笑った。「でも、たぶん、小生がだれだか、まだ御存じではないでしょうね。小生は、モームスと申して、クラムの村方の秘書です」その言葉で、酒場のなかは、急に重々しい空気に変わった。女将も、ペピも、むろん、この紳士を識《し》ってはいたが、改めてその名と位とを名乗られると、ふたりは、やはり、狼狽《ろうばい》したようであった。それに、当の紳士でさえも、自分の職掌を顧みて余計なことを言ったと思ったのか、あるいは、すくなくとも自分の言葉のなかに含まれている厳《いか》めしさが、今後、なにかと不利になるかもしれないと危惧《きぐ》して、それを避けようと思ったのか、再び書類のほうに専念して、なにやら書きはじめた。そのため、室内は、ペンを走らす音しか聞こえなくなった。
「一体、その村方の秘書というのは、どういうものなのです」と、Kは、ややしばらくして、尋ねた。モームスは、自己紹介した後で、今更そのような説明を自分からするのは沽券《こけん》にかかわると思って、黙っていた。すると、モームスに代わって、女将が言った、「モームスさんは、クラムの秘書という点では、ほかのクラムの秘書たちとちっとも変わりはないんですの。ただこの方の管轄区域と、そして、わたしの勘違いでなければ、職能とが――」そのとき、モームスが書類から面を上げて、しきりと頭を振ったので、女将は言い直した、「そうでしたわ。つまり、この方の職能ではなくて、管轄区域が、この村に限られているのです。モームスさんは、村で必要となってくるクラムの書類の作成をなされますとともに、村からクラムに出される請願書は、すべて、先ず、この方が受け取ってくださるのです」ここまで、言っても、Kがまださして感心もしないで、空《うつ》ろな眼付きで女将を眺めているので、彼女はなかば困惑したように、言い添えた、「そのような組織になっていますのよ。城の殿方たちは、それぞれに、どなたも、村方の秘書を抱えておいでなのです」Kよりもはるかに注意深く耳を傾けていたモームスは、補足するように、女将に向かって言った、「大抵の村方の秘書は、ただひとりの主人のために働いているだけですが、小生は、クラムとヴァラベーネという、ふたりの方のために、仕事をしているんですよ」「そう、そう」と、女将のほうも、今になって思い出したらしく、言うと、Kのほうへ向いて、「モームスさんは、クラムとヴァラベーネという、お二《ふた》方のための仕事をしておられますの。つまり、村方の秘書として、ひとり二役なんですわ」「いかにもひとり二役ですな」と、Kは、言うと、もうそのときは、身を乗り出さんばかりにして、Kのほうをまともに見上げていたモームスにたいして、うなずいて見せた。ちょうどそれは子供が褒められているのを、わきで聞いて、子供にそのとおりだとうなずいてみせるのと、同じことであった。Kの言葉のなかにある種の軽蔑が含まれていたとすれば、相手がそれにとんと気づかずに過ごしたか、あるいは、相手も心のうちではそれを所望していたに違いない。こともあろうに、たといただの偶然であってもクラムの眼に触れるに足るだけの値打ちすらもないようなKのまえで、そのKの口から尊敬と称賛の言葉を吐かせたいという意図をむき出しにしながらも、クラムの側近である人物の功績について、詳しく述べ立てたからであった。ところが、Kには、こうしたことにたいする適確な感覚《センス》が、欠けていた。全力を挙げて、せめて一目なりともクラムに会ってもらいたいと、あれほど苦労してきた彼が、例えば、モームスのように、クラムに見守られて日々を生きている人物の地位を、けっして高く評価しようとはしないのである。ましてや、感嘆とか、あるいは、嫉妬のごときは、彼が夢にも味わったことのないものだった。と言うのも、彼にとって、努力の仕甲斐《しがい》があることは、クラムの身近にいるということ自体ではなくて、彼、Kが、余人ではなく、彼のみが、余人の望みを托されてではなく、彼自身の望みを携えて、クラムに近づくことであり、また、クラムに近づいてからは、クラムの傍らに安閑としているのではなくて、さらにクラムのそばを通り過ぎて、城中の奥深くへ赴くことであったからである。
そこで、Kは、懐中時計を見て、言った、「もう、僕は、とにかく、帰宅しなければなりません」その言葉で、形勢は、たちまち一変して、モームスに有利になった。「そりゃそうでしょうとも」と、モームスは言った、「学校の小使としての義務がありますからね。ですが、もうほんのすこしだけ、ぜひとも小生のために時間をおさきください。ただ二、三、ちょっとお尋ねするだけです」「気が向きませんね」と、Kは、言って、ドアのほうへ行こうとした。モームスは、書類をテーブルにたたき付けて、立ち上がった、「クラムの名において、小生の質問に答えるよう、あなたに要求します」「クラムの名においてですって」と、Kは問い返した、「とすると、僕のことがクラムには気になるのですか」「その点については」と、モームスは言った、「如何《いかん》とも判断しかねますな。とすると、あなたのほうは、たぶん、はるかに小生以上だと思いますね。ですから、そうしたことは、お互いに、安心してクラムに任せておこうじゃありませんか。とにかく、小生は、クラムから小生に授けられた小生の職分によって、あなたに、ここに留《とど》まって答弁されるよう、求めているわけです」
「測量師さん」と、女将は、口を挟んだ、「これ以上あなたに忠告申しあげることは、差し控えますわ。わたしは、これまでいろいろとあなたに忠告してまいりましたし、それも、あれ以上のものは考えられないような、とても好意を籠めた忠告でしたのに、それをあなたにけんもほろろに撥《は》ねつけられたんですからね。あんなやり方って、聞いたこともありませんわ。ここへ、わたしが――なにも隠し立てすることもありませんので、申しますが――秘書さんを訪ねてまいりましたのも、あなたの挙動と企《たくら》みについて然《しか》るべくその筋にお知らせして、あなたが、もう二度と、わたしのところに泊まることのないように、予《あらかじ》め、今後のために、手を打っておくためでしたの。わたしたち、お互いのあいだは、こんなふうになってしまいましたが、この点は、たぶん、今後も、もうどうしようもないでしょう。そんな訳で、わたしが、ただ今、わたしの意地を申しますのも、あなたなんかを助けるためでは毛頭ありませんのよ。あなたのような男の人を相手に交渉なさるのは、とても厄介なお役目だと思って、その厄介なお役目を多少なりとも軽くして差し上げるためなんですわ。と申しましても、しかし、わたしは、根がざっくばらんな質《たち》ですから――あなたとのお付き合いだって、わたしは、ざっくばらんにしかできませんの。嫌でも、そうなってしまうんですわ――、そのお陰で、あなたは、そのお気持ちになりさえすれば、わたしの言葉を、御自分に都合のいいようにも、利用なさることだってできますよ。それでこの際、くれぐれもあなたに注意しておきたいのは、あなたにとってクラムヘ通じる道は、ただひとつ、ここで秘書さんの調書に応じられることなのです。でも、わたしは、大袈裟《おおげさ》に申したくはありません。もしかすると、その道は、クラムのところまで達しないかもしれないのです。もしかすると、クラムのところの遥か手前で途切れてしまうかもしれません。それを決定するのは、秘書さんの自由な御裁量なのです。しかし、いずれにしましても、この道が、あなたにとって、すくなくとも、クラムのいるほうへ向かって走っている、ただひとつの道であることに、変わりはありません。それに、あなたは、このただひとつの道を、別になんの理由もなしに、ただ意地ずくで、断念なさるお心算《つもり》ですか」
「ああ、女将さん」と、Kは言った、「それは、クラムヘ通じる唯一の道でもなければ、ほかの道よりもさらに貴重な道でもありませんよ。ところで、秘書さん、あなたは、僕がここで言う内容如何で、それをクラムに筒抜けにするか、どうかを、決定されるわけですね」「もちろんですとも」と、モームスは言って、誇らしげに伏せた眼で、なにも変わったものは見当たらないのに、左右を見やった。「でなければ、なんのために秘書なんかしていましょう」
「それ、御覧なさい、女将さん」と、Kは言った、「僕に必要なのは、クラムに通じる道ではなくて、差し詰め、秘書さんへ通じる道ということになるじゃありませんか」「そうよ、その道を、わたしが、あなたのために開いてあげようと思ったんですわ」と、女将は言った、「けさも、あなたに申しあげたじゃありませんか、クラムヘのあなたの願いを伝えてあげましょうとね。それには、秘書さんを通じてする心算だったの。それなのに、あなたは、わたしの申し出をお蹴りになった。でも、今となっては、あなたにはこの道だけしか残ってないでしょうよ。むろん、クラムに不意打ちをかけようとなさったりして、あなたのきょうのような振る舞いのあとでは、成功の見込みもずんと減りましたけれどもね。でも、この最後の、ひどくささやかな、今にも消え失せそうな、厳密に言えば、皆無も同然の希望が、やはり、あなたのただひとつの希望なのよ」「それにしても、女将さん」と、Kは言った、「あなたは、初めのうちは、是が非でもクラムのところへ邁進《まいしん》しようとする僕を、とても懸命になって、引き止めようとなさっておきながら、今は、僕の願いをとても真面目に取られて、僕の計画が失敗すれば、言わば僕の身の破滅と思っておられるようですが、これは、どういう風の吹き回しでしょうか。とにかくクラムに近づこうとすることだけは思い止《とど》まるようにと、誠心誠意で僕に忠告してくれた人が、今は、見受けたところ、やはり同じように、誠心誠意で、クラムヘの道を――よしんば、その道がクラムのところまで通じていないにしてもですよ――まっしぐらに突き進むようにと、僕を急《せ》き立ててくださるなんて、こんなことって、あるものでしょうか」
「一体、わたしが、あなたをそんなふうに急き立てていますかしら」と、女将は言った、「あなたの企てにはなんの見込みもないと、わたしが申したら、それが急き立てたことになるのでしょうか。そのようにして、あなた御自身が負うべき責任をわたしに転嫁しようとなさるなんて、それこそ、確かに、途方もない無鉄砲と言うものですわ。あなたがそんな妙な気を起こしたのは、もしかすると、眼のまえに秘書さんがおられるからじゃありませんの。間違っちゃいけませんわ、測量師さん、わたしがなんであなたを急き立てたりするものですか。ただひとつだけ、白状してもいいのは、わたしが、初めてあなたと会ったとき、あなたをすこし買い被《かぶ》っていたらしいということですの。あなたが素早くフリーダを物にしてしまわれたので、わたしは、度肝を抜かれて、まだほかにどんな腕をお持ちなのか、分からないままに、今後の災いなりとも防ごうと思って、それには、あれこれと頼んでみたりおどしてみたりしながら、あなたの心をなんとかしてぐらつかせるよりほかに、手がないと、思い込んでしまったんですわ。そのうちに、わたしも、事の全体について、次第に落ち着いて考えられるようになりましたの。まあ、あなたは、好き勝手なことをなさればいいわ。あなたのなさることと言えば、たぶん、ここの中庭へ出られて、雪のなかに深い足跡を残されるくらいが、しかし、関の山でしょうからね」
「それくらいでは、あなたの矛盾が、まだすっかり解明されたようには思えませんな」と、Kは言った、「まあ、しかし、僕としては、その矛盾に気づいてもらっただけで、満足するとしましょう。ところで、秘書さん、あなたにお願いがあるのです。女将さんは、つまり、あなたが僕を相手に作成されようとしておられる調書が基になって、その結果、いずれ僕がクラムのまえに姿を現せるようになるかもしれないと、言っている訳ですが、その女将さんの意見が正しいかどうか、おっしゃってくださいませんか。それが実情でしたら、僕は、直ちに、どのような御質問にも答える心算です。この点では、僕は、とにかく、どのようなことにでも応じる覚悟でいるのです」
「いや」と、モームスは言った、「それとこれとは、全く無関係なのです。こちらが問題にしていますのは、クラムの管轄下にある村の記録保管所のために、きょうの午後のことについての正確な記述を残しておくということだけなのです。記述は、もうできているのです。ただ二、三、脱漏がありますので、整理の必要上、そこをあなたに埋めてもらいたいのです。ほかに、目的は、ありません。また、あったとしても、叶《かな》えられるものでもありません」Kは、黙ったまま、女将の顔を見詰めた。「どうしてそんなにわたしをお見詰めになるんです」と、女将は尋ねた、「わたしが、もしかして、なにか間違ったことをでも申しましたかしら。この人は、いつも、こうなんですの、秘書さん、いつも、こうなんですのよ。教えてもらったことを自分のほうで勝手に歪《ゆが》めておいて、間違ったことを教えられたと、主張するんですからね。わたしは、この人に、あれ以来ずっと、きょうも、クラムに会ってもらえる見込みなんか、これっぽちもないと、口が酸《す》くなるほど、言ってきました。ところで、なんの見込みもないとすると、この調書に応じたからといって、見込みが得られるはずはないではありませんか。こんなはっきりした話ってあるかしら。さらに付け加えますと、この調書こそ、この人がクラムと持つことのできる、ただひとつの、本当の、公的な繋《つな》がりなんです。これだって、至極はっきりした、疑う余地のない道理じゃありませんか。だのに、この人が、今になっても、わたしの言うことを信じてくださらないで、いつまでも――わたしには、それがなぜだか、またなんのためだか、さっぱり分かりませんが――クラムのところへ邁進できるという希望を抱きつづけておられるなら、その場合、この人の役に立つものと言えば、この人の考え方で行きましても、やはり、クラムとのあいだの、ただひとつの、本当の、公的な繋がりだけしかないはずです。つまり、この調書ですわ。ただこれだけを、わたしは、申したわけです。それ以外のことを申したように主張する方があれば、それは悪意でわたしの言葉を捩《ね》じ曲げているんですわ」
「もしそうなら、女将さん」と、Kは言った、「僕はあなたにお詫びせねばなりません。あなたを誤解していたことになりますので。僕は、つまり――今になってやっと判明したわけですが、間違って――あなたの先刻のお言葉から、僕にとって、いかにささやかなものにせよ、なんらかの希望があるという意味が、汲み取れるように、思い込んでしまったのです」「間違ってやしませんわ」と、女将は言った、「わたしは、もちろん、そういう意見なのです。あなたは、またしても、わたしの言葉を捩じ曲げておられます。ただ今度は、逆の方向へ捩じ曲げておられるだけが違いますけれど。わたしの意見では、あなたにとってそのような希望は、確かに、あるのです。でも、そうした希望が築かれるためには、むろん、この調書が基《もとい》とならねばなりません。かと申して、あなたが無造作に『僕が御質問に答えたら、クラムに逢《あ》わせてもらえますか』などと尋ねて、秘書さんに迫ればすむような、そんな簡単な事情のものでもないんですの。もし子供がそんな尋ね方をしたら、笑ってすませますが、もし大人がすれば、それこそ、公職にたいする侮辱よ。秘書さんは、洗練されたお答えをなさって、その辺を、御親切にも、伏せておかれましたけれどね。それはそうと、わたしの申します希望は、ほかでもなく、あなたが、この調書を通じて、クラムとある種の繋がりを、――おそらく、ある種の繋がりができると思いますので、それを――お持ちになるという点にあるのです。これだけでも、十分に、希望と言えるじゃありませんか。このような希望の贈り物に与《あずか》って、あなたは、それにふさわしく、どのような功績を立ててこられたかと、もし尋ねられたら、ほんのわずかな功績でも挙げられるでしょうか。むろん、この希望について、これ以上に詳しいことは申せませんし、とりわけ、秘書さんは、御職業柄、こうしたことについては、ほんのかすかな暗示でも、なさるわけにはゆかないのです。秘書さんにとって大切なのは、御自身も申されましたように、整理の必要上、きょうの午後のことについて、記述しておくことだけなんです。たといあなたが、早速にも、わたしの言葉に関連して、なにかとお尋ねになっても、秘書さんは、それ以上のことはおっしゃらないでしょうよ」
「一体、秘書さん」と、Kは尋ねた、「クラムは、その調書を読むんでしょうか」「いいえ」と、モームスは言った、「だって、当然じゃありませんか。いくらクラムでも、すべての調書に残らず目を通すことはできませんからね。むしろ、クラムが眼を通す調書は、皆無だと言っていいくらいなのです。『君らの調書なんか、真っ平御免だよ』これが、クラムの口癖でしてね」「測量師さん」と、女将は、溜《た》め息を洩らした、「あなたのそのような質問攻めで、わたしは、ぐったりしてますのよ。一体、あなたは、クラムがこの調書を読んで、あなたの生活の取るに足りないことどもを逐一知り尽くすのが、必要だとおっしゃるのですか。それとも、せめて望ましいくらいにお考えになっているだけなのですか。そんな御託を並べるよりも、一層のこと、クラムの眼に付かないように、調書を隠してほしいと、平身低頭してお頼みになったらいかがでしょう。もっとも、そんな頼みは、あなたの以前の頼みと同じで、愚の骨頂よ――だって、クラムにたいしてなにかを隠すなんて、だれにもできない相談ですからね――。でも、この頼みのほうが、まだしも同情を感じさせるわ。それにしても、今のことは、あなたが希望と呼んでおられるものにとって、必要なことかしら。あなたは、クラムのまえで話す機会さえ得られたら、たといクラムがあなたのほうへ眼をくれなくても、またあなたのお言葉に耳を貸してくれなくても、それだけで満足だと、御自身の口から言明されたのではなかったかしら。すると、この調書によって、すくなくともそれぐらいのことは、あなたに叶えられるじゃありませんか。いや、ひょっとすると、遥かにそれ以上のことが、叶えられるかも」「遥かにそれ以上のことですって」と、Kは尋ねた、「どんなふうにすれば、叶えられるんです」
「あなたは、いつも」と、女将は叫んだ、「まるで子供のように、なんでもかでも、すぐに食べられるような形にして出してもらわないと、お気が済まないようですが、せめてそれだけでもお已《や》めにならないといけませんわ。そのようなことをお尋ねになったって、だれが答えられましょう。調書は、クラムの所管の村の記録保管所に納められます。これは、すでに、あなたもお聞きになったところですが、この点についても、これ以上のことは、断言できません。それにしても、あなたは、調書とか、秘書さんとか、村の保存記録とかの持つ意味を、すっかり御承知済みですか。秘書さんがあなたを尋問なさるとすれば、それがなにを意味するか、御存じですか。もしかすると、いや、だぶん、秘書さん御自身だって、それを御存じではないでしょう。秘書さんは、ここで、静かにお掛けになって、秘書さんのお言葉を借りれば、整理の必要上、義務を果たしておいでです。でも、あなたとしては、秘書さんがクラムによって任命され、クラムの名において仕事をなさっておられるということ、そして、そのお仕事がどのようなものであっても、また、たといクラムの手元までけっして届かなくても、前もってクラムの同意を取り付けているということを、篤《とく》とお考えにならないといけませんわ。それに、クラムの精神で充たされてないものが、どうしてクラムの同意を取り付けることができましょう。こんなことを申したからと言って、なんだか下種《げす》なやり方で、秘書さんにおべっかを使おうとしているなんて、取らないでください。とんでもないことですわ。秘書さん御自身だって、そんなことは、ひどくお嫌いでしょうよ。とにかく、わたしは、この方の自主的な御人格について、話しているのではありません。ちょうど今の場合のように、この方が、クラムの同意を取り付けておいでのときは、どのような存在になっておられるかについて、話しているのです。その場合、この方は、言わばクラムが手懸けている器械のようなものですの。だれだって、この方の言われるとおりにしないと、ひどい目に逢いますわ」
女将のおどし文句なんか、Kは、すこしも恐《こわ》くなかった。また、女将がKを虜《とりこ》にしようとして持ち出す希望という言葉にも、聞き飽きていた。クラムは、遠く手の届かぬところにいる。いつだか、女将は、クラムを鷲《わし》に譬《たと》えたことがあった。そのときは、Kにも、それが滑稽に思えたが、今となっては、もうそうではなかった。彼は、次から次へと、連想した。クラムヘの遠い距離。クラムの難攻不落の居所。ただ時折、おそらく、怒鳴るときに途切れるだけで、と言っても、Kは、まだその怒鳴り声をついぞ聞いたことがないが、それ以外には唖《おし》のように黙り込んでいる、クラムの無言。確認する由もなければ、否定する由もない、クラムの射るように見下す眼差《まなざし》。しかも、遥か高みで、不可解な諸法則に従って、しきりと我が物顔に円を描きながら、クラムが繰り広げている領域は、Kのいる低い地上から、ただ時折、ちらと見えはするが、それを打ち壊そうにも、全く手が届かないのである。こうした点では、すべて、クラムと鷲とは共通していた。しかし、それと、この調書が、なんの関係もないことも、確かであった。ちょうどモームスは、そのとき、調書の真上で、塩をまぶした8字形ビスケットを割りながら、ビールに打って付けの摘まみ物にしていたが、そのために、どの書類のうえにも、一面に、塩とキャラウエーの実とが散らばっていた。
「お休みなさい」と、Kは、言った、「尋問と聞けば、いつでも、虫酸《むしず》が走りますのでね」そう言い捨てると、彼は、本当に、戸口のほうへ歩き出した。「このままでは、帰ってしまうじゃありませんか」と、モームスは、はらはらしているような様子で、女将に言っていた。「あの男に、まさか、そんな勇気はないはずよ」と、女将は、答えていた。もう、それ以上は、Kの耳に入らなかった。彼は、すでに、玄関の間《ま》にいた。寒かった。きつい風が吹いていた。向こうのドアから、亭主がやって来た。亭主は、あちらののぞき穴のうしろにいて、玄関の様子をずっと監視していたらしかった。彼は、上衣の裾《すそ》をしきりとからだに押さえ付けていなければならなかった。この玄関の間にいてさえも、透き間風のために、ふたりの着ているものが、吹き千切られそうであった。「もうお帰りですか、測量師さん」と、亭主は言った。「なんだか不思議そうな顔付きをなさっておいでだが」と、Kは尋ねた。「ええ」と、亭主は言った、「それでは、尋問をお受けにならないのですか」「そう」と、Kは答えた、「尋問を受ける気になれなかったものですから」「どうしてなれなかったのです」と、亭主は尋ねた。「それはですね」と、Kは言った、「どうして僕が尋問に応じなければならないのか、冗談にしても、あるいは、役所の気紛《きまぐ》れにしても、どうして僕がそんなものに調子を合わさなければならないのか、どう考えても、腑《ふ》に落ちないからです。あるいは、次回には、僕としても、同じように、冗談半分か、気紛れ半分で、それに応じるかもしれませんが、きょうは、しかし、だめです」「確かに、ごもっともです」と、亭主は、言ったが、それは、ほんの儀礼的に賛成しただけにすぎず、けっして納得ずくではなかった。「それでは、この辺で、従者たちも酒場へ入れてやらないといけませんね。もう、とっくに、その時間になっていたのですが、尋問の邪魔だけはいたすまいと思っていたものですから」「尋問をそれほど重大なものと考えておられたのですか」と、Kは尋ねた。「もちろんですとも」と、亭主は言った。「すると、断ってはいけなかったのかな」と、Kは言った。「そうなのです」と、亭主は言った、「お断りになってはいけなかったのです」Kが黙っていると、亭主は、Kを慰めるためか、それとも、一刻も早く立ち去るためか、次のように付け足した、「まあ、まあ、いいじゃありませんか。そのためにいきなり、天から硫黄が降って来るはずもありませんしね」「そのとおり」と、Kは言った、「空模様も、そのようには見えないしね」それを機に、ふたりは、笑いながら、内と外とに、別れて行った。
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第十章
Kは、強風に吹きさらされた屋外階段へ出て、闇のなかを見透かした。ひどい悪天候だった。なんとはなしに、その天候と関連して、女将《おかみ》が自分を調書に応じさせようとしてしきりと苦労し、それにたいして自分が頑強に抵抗してきたことが、ふと、思い出された。あれは、むろん、けっして表裏のない苦労ではない。きっと、同時に、Kを調書から引き離そうとする底意もあったに違いない。とすると、結局のところ、あれで、抵抗しきったことになるのか、それとも、屈従してしまったことになるのか、いずれとも分からないではないか。どうも、あれは、悪賢い女だ。上辺《うわべ》は、風のように、意味もなく立ち回っているように見せながら、どうにも自分などには眼の届かない、遠い、見も知らぬ、別世界からの命を受けて、その指図どおりに働いているのかもしれない。
彼は、国道を、ほんの数歩、歩くか歩かぬうちに、遠くでふたつの灯火がゆらめいているのを見た。この生命の徴《しるし》に嬉しくなって、彼は、そのほうを目掛けて、足を早めて行った。灯火のほうも、宙を踊りながら、彼のほうへ近づいて来た。彼は、それが助手たちだと分かると、なぜか、ひどく失望した。ふたりは、フリーダから差し向けられたのであろうが、彼を、やはり、迎えに来たのだった。周囲のはげしい風音が彼の耳を聾《ろう》するばかりの闇夜から彼を救い出してくれた、その角灯も、どうやら、Kの持ち物らしかった。にもかかわらず、彼は、失望したのだった。彼は、彼には荷厄介の、この古なじみの助手たちではなくて、未知の他人を期待していたからであった。ところが、迎えは、助手たちだけではなかった。ふたりのあいだの闇のなかから、ふいに、バルナバスが姿を現した。「バルナバス」と、Kは、叫んで、バルナバスに手を差し伸べた。「おまえも来てくれたのか」思いも掛けぬ再会の喜びで、Kは、先ずなによりも、いつか、バルナバスのために、一杯食わされたときの腹立ちを、さらりと忘れてしまった。「あんたのところへまいったんです」と、バルナバスは、以前と変わらぬ親しみを籠《こ》めて、言った、「クラムの手紙を持って」「クラムの手紙だって」と、Kは、頭を仰《の》け反らしながら言うと、急いでそれをバルナバスの手から引ったくった。「明かりを見せろ」と、彼は、助手たちに言った。助手たちは、左右から、ぴったりと、彼に身をすり寄せて、角灯を差し上げた。Kは、大判の便箋だったので、それを風から庇《かば》いながら読むためには、とても小さく折り畳まねばならなかった。すると、次のようなことが書かれてあった。
「橋亭気付、測量師殿。貴下がこれまで遂行して来ました測量の仕事は、本官が高く評価するところであります。助手たちの作業も、賞賛に値します。貴下には、彼らを監督して仕事に精励させる手腕が十分にあるものと認めます。貴下の熱意をたゆまず保って、このたびの仕事を最後まで立派に遂行していただきたい。もしも中止するようなことでもあれば、本官の憤激を買うこと、必定であります。とにかく、報酬問題は、近々のうちに、決定されるはずであり、安心していただきたい。本官は、絶えず、貴下には目を付けている所存であります」
Kは、自分よりもはるかにたどたどしく読んでいた助手たちが、吉報を祝って、角灯を振り回しながら、声高らかに「万歳」を三唱してから、初めて眼を手紙から上げた。そして、「静かにしろ」と、命じてから、彼は、バルナバスに向かって、「これは、誤解だよ」と、言った。バルナバスは、Kの言った意味が呑み込めないようだった。「これは、誤解だよ」と、Kは繰り返した。午後の疲れが急にまた出て来て、学校への道のりが、彼には、まだひどく遠いように感じられた。バルナバスの背後には、彼の一族が顔を揃えて立っている。助手たちがいまだにしつこく彼に身をすり付けて来るので、彼は、その都度、助手たちを肘《ひじ》で突き離さねばならなかった。どうしてフリーダは、あれほど自分が、助手どもは彼女の手元に残しておくようにと、言い付けておいたのに、こいつらを迎えになんか寄越す気になったのだろう。帰りの道筋は、ひとりでだって勝手が分からないこともないし、こいつらを連れにするよりは、ひとりのほうがずっと楽だ。それのみか、今は、片方の助手がしている首巻きの両端がほどけて、はたはたと風に翻りながら、もう何度もKの顔をたたき付けていたのだった。その都度、他方の助手が、すぐさま、彼特有の、長い、尖った、絶えず動いている指先で、それをKの顔から払いのけてはくれたのだが、それくらいのことでは、事態は、すこしも改まらなかった。ふたりの助手は、あちこちと道草を食うのを楽しみはじめたようであった。風と夜の騒然たる不穏に、却《かえ》って、活気づけられたに違いない。
「とっとと行くんだ」と、Kは叫んだ、「おまえたち、僕を迎えに来たのなら、どうして僕のステッキを持って来なかった。ステッキがなけりゃ、なにを使って、おまえたちを家へ追い立てて行けばいいんだ」ふたりは、頭をすくめながら、バルナバスのうしろに隠れた。だが、ひどく怯《おび》えているようでもなかった。と言うのも、手にしていた角灯を、左右から、彼らの楯《たて》になってくれているバルナバスの両肩のうえに載せたくらいだからであった。バルナバスは、むろん、すぐにそれを揺さぶり落とした。「バルナバス」と、Kは言った。バルナバスが、明らかに、自分の気持ちを理解してくれてないのが、Kの心をひどく重苦しくしていた。平穏なときには、この男の上衣は、美しく輝いていたのに、いざ、危急の場合となると、なんの助けにもならないばかりか、却って、物言わぬ阻害物としか見えなくなる、そう、思うと、Kは、胸が塞《ふさ》がるような感じだった。このような阻害物に向かっては、戦いを挑むこともできない。当のバルナバス自身が無防備だからである。ただ、彼の微笑《ほほえ》みだけは、明るく輝いていたが、しかし、それは、天上の星辰がこの地上の疾風を鎮めることができないのと同じように、なんの役にも立たなかった。
「あの人がなんと書いて寄越したか、おまえも見てくれ」と、言いながら、Kは、バルナバスの眼のまえへ手紙を突きつけた。「あの人は、間違った報告を受けているんだ。だって、僕は、測量の仕事なんか、からっきししてないし、あの助手どもにしても、とやかく言われるほどの値打ちがないことぐらいは、おまえだって、その眼で見届けているはずだ。それに、僕としても、仕事をやってない以上は、むろん、仕事を中止しようにも、中止のしようがないし、この方の憤激を買おうにも、買いようがない。一体、僕のどこがあの人の高い評価を得るに値すると言えるんだろう。そんなわけで、安心なんか、できっこないさ」「そのことは、わたしから伝えておきましょう」と、バルナバスは言った。彼は、先刻からずっと、手紙に目を通していたが、それでも、むろん、なにひとつとして読み取れなかったに違いない。手紙を眼のすぐまえに突きつけられていたからである。「ああ」と、Kは言った、「おまえは、それをおまえから伝えておくと、約束してはくれるが、それにしても、本当に、おまえの言葉を真に受けていていいのかい。目下、僕は、今まで以上に、信頼できる使者がぜひとも必要なんだが」Kは、焦燥のあまり、唇を噛《か》んだ。「旦那」と、バルナバスは、しなやかに頭をかしげながら、言った――その仕草につい心を動かされて、Kは、またしても、バルナバスの言葉を危うく真に受けてしまうところだった――、「わたしから、確かに、伝えておきましょう。それに、あんたから、このまえに、言い付かったことも、必ず、伝えておきます」「なんだって」と、Kは叫んだ、「それじゃ、おまえは、まだそれさえ伝えてなかったのか。すると、翌日に、城へ行った訳じゃなかったのか」「はい」と、バルナバスは言った、「うちの親父《おやじ》さんが、あんたも見なすったように、老いぼれてましてな。それに、折あしく、いろいろな仕事が溜《た》まっておりましたんで、親父さんの手伝いをさせられてしまったんです。しかし、もういいんです。近いうちに、また一度、城へ出掛けます」「それにしてもおまえは、なんて下らぬことをしているんだ。なんとも妙なやつだなあ」と、Kは、言って、自分の額をたたいた。「クラムの用事が、ほかのどんな仕事よりも、優先するのじゃないのかい。おまえは、使者という要職に就きながら、そんなにぞんざいな勤めぶりをしているわけか。おまえの親父の仕事なんか、どうだっていいじゃないか。クラムは、報告を待っているんだよ。だのに、おまえは、もんどり打ちながらでも馳《は》せ参じるどころか、むしろ、いい気になって、家畜小屋から糞尿《ふんにょう》を運び出しているんだからね」
「わたしの親父は、靴屋なんでして」と、バルナバスは、きっぱりと言い切った、「ブルンスヴィックからなにかと注文を受けていたんです。それに、わたしは、親父の職人をやっているもんで」「靴屋――注文――ブルンスヴィック」と、Kは、それらの、言葉をすべて永久に死語にしてしまおうとするかのように、苦々しげに叫んだ、「それに、この村の道では、永久に人影ひとつないのに、一体、だれが長靴なんか要るんだい。おまけに、そんな靴作りの仕事なんか、僕には、一向に関係ないさ。僕がおまえに、言伝《ことづ》てを頼んだのも、おまえが靴作りにかまけて、それを忘れ、うやむやにしてしまうのを、当て込んでいたのじゃなくて、すぐにそれをあの人に届けてもらうためなんだぜ」ここまで言ったとき、Kは、クラムが、どうやら、ずっとこのところ、城内ではなく、貴紳閣にいたらしいことを、ふと思い浮かべて、すこし気持ちが収まってきた。ところが、バルナバスが、Kの最初の報告を今でもよく覚えていることを証明してみせるために、それを暗誦しはじめたので、またしても、Kを怒らせてしまった。「止《よ》せ、耳障りだ」と、Kは言った。「気を悪くしないでくださいよ、旦那」と、バルナバスは、言って、Kを本能的に非難しようとするかのように、Kから顔を逸《そ》らして、眼を伏せたが、実は、しかし、Kに怒鳴り付けられて、どぎまぎしていたのだった。「なにも気を悪くはしてないさ」と、Kは言った。彼の焦燥は、今や、彼自身のほうへと、攻勢を転じた。「おまえなんかにさ。ただ、大事な事柄を托するのに、こんな使者しかいないのが、僕にとっては、ひどく不都合なんだ」
「よろしいですか」と、バルナバスは、言いかけた。それは、自分の使者としての名誉を守るために、言ってはならぬ余計なことまでも洩らそうとしているかのような口吻だった。「クラムは、そんな報告なんかを待ち受けちゃいないんです。いや、それどころか、わたしがまいりますと、ひどく御機嫌斜めなんですよ。『またしても、新しい報告か』と、言ったのも、ただの一度だけで、大抵は、わたしがまいりますのが遠くにでも見えますと、すぐに立ち上がって、隣室へ行ったきり、わたしを接見してはくれません。それに、報告することができ次第、すぐにわたしがそれを持って行かねばならないという、そうした規定すらないんです。規定があれば、わたしだって、むろん、すぐにでもまいらずにはおれません。ところが、そのようなことについては、なにひとつ、決められてないんですからね。それで、わたしが、仮に一度もまいらなくとも、その点で督促されるようなことはないはずです。わたしがなにかの報告を持って行くとすれば、それは、こちらの自発的行為とか言うものですよ」「分かった」と、Kは、バルナバスのほうを見守って、助手たちからは努めて眼を逸らしながら、言った。助手たちは、代わる代わる、バルナバスの肩の陰から、ちょうど舞台の迫《せ》り出しから顔を見せるように、ゆっくりと伸び上がっては、Kを見て縮み上がったかのように、ぴゅうと、風音をまねたような口笛を軽く鳴らして、またもや姿を隠してしまうという、そんなことを、長いあいだ、繰り返しては、楽しんでいた。「クラムのところがどんなありさまか、僕は、知らないが、おまえがそこへ行って、細大漏らさず正確に見届けられるとも、僕には思えない。よしんばそれがおまえにできたとしても、僕たちの力で、今のこうした事態が好転するものでもあるまい。だが、報告を持って行くくらいのことなら、おまえにだってできるだろう。それで、それをおまえに頼みたいんだ。至極簡単な用向きなのさ。それを、早速、あすにでも先方へ伝えて、すぐまたあすのうちに、僕にその返事を聞かせてくれるか、返事が貰えなければ、せめて、おまえが先方からどのような応待を受けたかという、そのことだけでも、知らせてくれればいいんだ。おまえにそれならできるかね。そしてまた、そのとおりにやってくれる意志もあるかね。そうしてもらえたら、僕としては、とてもありがたいんだがね。それに、いずれ、そのうちには、機会を見て、おまえにそれ相応の礼ぐらいはできることになると思うよ。それとも、もしかして、おまえのほうに、僕が叶《かな》えてやれるような望みが、もう現にあるのだったら、それを叶えてやってもいいさ」「必ず、御用命どおりにいたしましょう」と、バルナバスは言った。「それでは、命じたことをできるだけ立派に果たすように、全力を尽くしてもらって、それをクラム自身に伝え、クラム自身からそれにたいする返事を受け取って来るという使いを、しかも、すぐに、なにもかもすぐに、あす、午前中にでも、済ませてもらうことになるが、やってくれるかい」「最善を尽くしましょう」と、バルナバスは言った、「と言っても、いつだって最善を尽くしているんですがね」
「今となっては、そんなことで、もう言い争わないことにしよう」と、Kは言った、「用向きというのは、次のようなものだ。『測量師Kは、親しく長官殿をお訪ねいたしたく、なにとぞこの儀お差し許しくださいますよう、長官殿にお願い申しあげます。かかる御許可に関しまして、いかなる条件が付けられましょうとも、それを受諾いたしますことは、もとより覚悟のうえであります。Kが止《や》むなくかかるお願いに及ばざるを得なかったのは、ひとえに、これまでの仲介者たちがすべて完全に無能だったからであります。その証拠として、Kは、これまで測量の仕事をなにひとつ行ってないばかりでなく、村長のさまざまな内輪話に従って、今後もまた、行いはしないという実状を、挙げておきたく存じます。このたびの長官殿の御書面を拝読して、穴へも入りたいほどに慚愧《ざんき》の念を禁じ得なかったのも、それゆえであります。事ここに至っては、長官殿と親しく面談させていただくよりほかに、術《すべ》はあるまいかと存じます。測量師としましては、これがいかに無理なお願いであるかは、よく承知しておりますし、長官殿ができうる限り御不快を感じられることのないように、努力する所存であります。さらに、いかなる時間的制限にも服しますとともに、また、会談の折に測量師が使って差し支えない言葉数を、もしかして、指定することが必要と認められた場合は、その御指定にも従う所存であります。たとい言葉数が十しか許されなくとも、それで用が足せると、信じている次第であります。深い畏敬といや増す焦慮のうちに、御決定をお待ち申しあげつつ』とな」
Kは、さながらクラム家の入り口のまえに立って、玄関番とでも話しているかのように、夢中になって喋《しゃべ》りつづけて来た、「思ったよりも、ひどく、長文になったな」と、彼は、やがて、言った、「だが、これを、おまえは、口頭で伝えてくれ。僕は、手紙に書きたくないんだ。手紙にすると、またしても、いつもの伝で、書類扱いされて、果てしなく盥《たらい》回しにされるのが、落ちだからな」そう言いながら、Kは、バルナバスのほんの心覚えにもと、一方の助手の背に一枚の紙を当てて、片方の助手に明かりを掲げさせながら、口上を走り書きしはじめたが、当のKでさえも、バルナバスの口授がないと、とても書き留めることができないくらいだった。バルナバスは、全文をきちんと覚えていて、助手たちが横合いから間違った口授をするのも意に介さずに、まるで小学生のように、正確に暗誦して聞かせた。「おまえの記憶力は、全く非凡だな」と、Kは、その紙片をバルナバスに渡しながら、言った、「だが、しかし、片一方のことでも、非凡なところを見せてもらいたいものだな。ところで、望みのほうは、どうなんだ。なにもないのかい。腹蔵ないところを、言うと、おまえがどんな望みでも言ってくれたら、僕の報告がどうなるか、その運命について、僕も、すこしは安心できるような気がするのさ」
最初、バルナバスは、黙っていたが、やがて、言った、「うちの姉妹たちがあんたによろしくとのことです」「おまえの姉さんと妹さんがかい」と、Kは言った、「ああ、あの大柄の、丈夫そうな娘さんたちからだね」「ふたりとも、あんたによろしくとのことですが、とりわけ、アマーリアが、くれぐれも言ってました」と、バルナバスは言った、「アマーリアは、きょうだって、この手紙を、あなたのために、城からわたしのところへ持って来てくれたんでして」なによりも今の報告だけは聞き捨てならないというふうに、言葉尻を捉《とら》えて、Kは尋ねた、「すると、アマーリアに僕の報告を城内へ持参してもらってもいい訳だね。あるいは、おまえたち、ふたりで出向いて行って、それぞれに自分の運試しをしてもらうことにしてもいいはすだな」「アマーリアは、どの事務局も、入れてくれません」と、バルナバスは言った、「でなければ、きっと大喜びでお引き受けするでしょうが」「だぶん、あす、僕も、おまえたちの家へ出掛けることになるが」と、Kは言った、「とにかく、おまえが、先ず、返事を持って来てほしいんだ。学校で、おまえの来るのを待ってるからな。僕からも姉さんと妹さんによろしくと言ってくれ」
Kの約束がバルナバスにはよほど嬉しかったらしく、別れの握手が済んでも、バルナバスは、なお名残り惜しげに、Kの肩に軽く手を触れていた。すると、今では、なにもかもが、あのバルナバスが初めて異彩を放ちながら飲み屋の農民たちのあいだを掻き分けてやって来たときと、全く同じ状態に戻ったかのように思われて、Kは、その手の感触を、むろん、苦笑しながらではあったが、なにか身に与えられた栄誉のように感じたほどであった。ひとしお気持ちも柔らいで、Kは、帰り道では、もう助手たちを、したい放題にさせていた。
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第十一章
住みかにたどりついたとき、Kは、全身が凍えきっていた。どこも、かしこも、真っ暗闇だった。角灯のなかの蝋燭《ろうそく》も、とっくに燃え尽きていた。すでにここの勝手をよく知っていた助手たちに導かれて、彼は、手探りしながら、教室のなかへ入って行った。「おまえたちも、初めて、賞賛に値することをやってくれたな」と、彼は、クラムの手紙を思い出しながら、言った。すると、どこか隅のほうから、フリーダが、まだなかば夢心地のままで、叫んだ、「Kを眠らせてあげて。邪魔しないでね」彼女は、睡魔に打ち負かされて、彼の帰りを待ち切れなかったものの、彼女の頭のなかは、それほど、Kのことで一杯だったのだった。やっと、明かりがつけられた。と言っても、むろん、ランプの芯を大きく出す訳にはゆかなかった。ランプのなかの石油がひどく残り少なくなっていたからである。新世帯には、まだいろいろと不備な点があった。室内は、ストーブを燃やしてはあったのだが、なにしろ、体操場にも兼用される大教室だったので――さまざまな体操器具が、周囲に置いてあったり、天井からぶら下がったりしていた――、もうすっかり薪を使い果たしてしまって、一時は、確かに、皆がKに言っているのも嘘ではなくて、とても心地よく、暖房が利いていたに違いないが、今は、残念ながら、元どおりに、室内が、すっかり冷え切っていたのだった。もっとも、納屋には薪の貯えがまだどっさりあるにはあったが、しかし、その納屋は、錠がかかっていて、その鍵を例の教師が持っているのだった。教師は、授業時間中の暖房のためだけにしか、薪を取り出すことを許さなかった。それでも、ベッドさえ揃っていれば、寒さ逃れにそのなかへもぐり込めばいいので、まだしもだったが、しかし、その点に関しては、ただ一枚の藁《わら》ぶとんがあるだけだった。それを、フリーダが、けなげにも、自分の毛の肩掛けで蔽って、いかにもこざっばりしたものにしつらえてはあったが、もとより、羽根ぶとんはなくて、ただ二枚の、目の粗《あら》い、ごわごわした毛布があるだけだった。こんな毛布では、からだが暖まりそうもなかった。ところが、この見すぼらしい藁ぶとんをさえも、助手たちは、羨望の目で、見詰めていた。しかし、いつかそのうえで寝かせてもらえるという希望は、むろん、彼らとても抱いていなかった。心配そうに、フリーダは、Kの顔色を見守っていた。どんなに眼も当てられぬ部屋であっても、とにかく、部屋がありさえすれば、それを住み心地よいようにしつらえるくらいの術《すべ》なら、彼女も、ちゃんと心得ていることは、すでにかの橋亭で実証済みであった。しかし、ここでは、いかな彼女も腕の振るいようがなかった。彼女とて、ない袖《そで》は振れなかった。全くの無一文だった。
「体操器具が、このわたしたちの部屋の、たったひとつの飾りなんだわ」と、彼女は、涙ぐみながらも、言って、無理に笑ってみせた。しかし、十分な宿泊の便宜を図ってもらってもいなければ、十分な暖房もさせてもらえないという、この最大の不満については、彼女は、あすじゅうには、なんとか方策を講じてみせると、きっぱり約束して、Kに、ただそれまでの辛抱だから、辛抱してくれるように、頼んだ。彼女が、Kにたいして、ほんのすこしでも、心のうちで恨めしく思っているような節《ふし》は、彼女の言葉からも、それとない仕草からも、また顔付きからも、全く感じられなかった。とは言え、Kとしては、彼女を貴紳閣から、そして、今また橋亭から、攫《さら》って来たのが、ほかならぬ、自分であることを、心に言い聞かさずにはおれなかった。それゆえ、Kは、Kで、気を遣って、どんなことをでも辛抱してゆこうと、努めていた。それは、彼にとって、さほどむずかしいことでもなかった。なぜなら、彼は、頭のなかで、バルナバスとともに歩いているさまを思い浮かべながら、使いの口上を、一語、一語、繰り返していたからであった。しかも、それをバルナバスに授けたときの口調でではなくて、それがクラムのまえで述べられるときの声色を想像しながら、その声色で繰り返していたのだった。むろん、また、そのほかにも、彼には、心底から楽しいことがあった。それは、フリーダがアルコール・ランプにかけて沸《わ》かしてくれているコーヒーを、今か今かと、待ち受けることであった。彼は、冷たくなってゆくストーブにもたれて、フリーダの素早い、いかにも熟練した手つきを、眼で追っていた。フリーダは、さっさと、欠くことのできない白いテーブル掛けを教壇の机のうえに拡げて、花模様のあるコーヒー茶碗をひとつ置き、その横に、パンとベーコンと、それに、サージンの罐詰をさえも、並べた。それで、支度がすっかりできた。フリーダも、まだなにも食べないで、Kの帰りを待っていたのだった。肘《ひじ》掛け椅子が二脚あった。その椅子に、Kとフリーダが、腰をかけて、食事を始めた。助手たちは、ふたりの足元の教壇に腰を下ろしてしたが、すこしも落ち着いていなくて、食事の最中も、しきりと邪魔をした。彼らは、どれもこれも、たっぷりと貰っていて、まだ食べ終わってもいないのに、時折、立ち上がっては、机のうえにまだたくさん残っているかどうか、自分たちにもまだいくらか貰えそうなものがあるかどうかを、確かめようとしていた。Kは、彼らのことを気にもしてなかったが、フリーダが吹き出したので、やっと彼らの挙動に気づいた。彼は、机のうえへかけているフリーダの片方の手に、やさしく媚《こ》びるように、自分の手を重ねながら、低い声で、どうしてあの連中のやらかすいろいろなことを大目に見てやるのか、いや、それどころか、数々の無作法をさえも愛想よく甘受してやるのか、と尋ねた。こんなやり方では、いつになっても、あいつらを厄介払いする訳にはゆかないだろう。まあ、なんとか手厳しい、あいつらの振る舞いにも本当に合ったような処置をでも取れば、あいつらを萎縮させることができるかもしれないし、あるいは、こちらのほうがずっと実現の見込みがあって、自分たちとしてもずっとありがたいのだが、あいつらに今の職を嫌にならせて、その揚げ句に、逐電させることができるかもしれないのに。このままでは、この校舎での滞在が、あまり快適なものにはなりそうもないよ。まあ、こんな滞在も、そう先が長くはないだろうが、それにしても、助手どもがいなくなって、静かな校舎にふたりが水入らずで暮らすようになれば、どのように不満な点があっても、あまり苦にしなくなると思うな。一体、おまえは、あいつらが日増しに厚かましくなっているのにも、気がついてないのかい。まるでおまえが眼のまえにいると、僕がおまえの面前では、いつもあいつらをやっつけるほどには、こっぴどく取っちめはしないだろうと、高を括《くく》っているのか、あいつらは、却《かえ》って、気勢を上げるようだよ。ほかにも、あいつらをごくあっさりと、即刻、厄介払いする、ごく簡単な方法があるかもしれないが、それは、フリーダ、なんと言っても、この地の事情によく通じているおまえのほうが、たぶん、知っているだろう。それに、あいつらをなんとかして追っ払えば、それが、むしろ、あいつら自身に善根《ぜんこん》を施してやったことになるかもしれないんだよ。だって、あいつらがここで幕らしている生活にしても、大して贅沢《ぜいたく》なものではないしさ。また、あいつらがこれまで味わってきた自堕落な生活だって、ここにいれば、せめて幾分かなりとも、控えねばならなくなるしさ。と言うのも、これからは、あいつらに働らいてもらわなくちゃならないからだ。そして、フリーダ、おまえは、この数日というもの、気を揉みつづけて来たのだし、これからは、からだをいたわってくれないといけないよ。僕のほうは、こうした窮境から抜け出すための打開策を講じることに掛かり切りになる心算《つもり》だからね。それにしても、あの助手どもさえお払い箱にできたら、それだけでも、ずっと気持ちが軽くなって、学校の小使の仕事にしても、またそれと同時に、ほかのことにしても、すべて難なくやってのけることができるんだがなあ。
以上のようなKの言葉にずっと注意深く耳傾けていたフリーダは、おもむろにKの腕を撫でながら、わたしも全く同意見なの、と言った。でもね、とさらに言葉を続けて、あなたは、やはり、助手たちの無作法を大袈裟《おおげさ》に取り過ぎてらっしゃるのではないかしら。なんと言っても、陽気で、すこしお頭《つむ》の足りない若者たちですもの。しかも、城での厳しい躾《しつけ》からやっと解放されて、他国から来られた方に初めて仕えることになったんですもの。そのため、いつも逆上《のぼせ》気味で、すこし呆然としているんです。そんな状態にいるものですから、あの連中は、時折、頓馬なことを仕出かすんですわ。それにお腹立ちになるのも、当然とは存じますけれども、むしろ、そこを笑ってお済ましになるほうが、一層賢明ではないでしょうか。わたしは、時折、どうにも笑いを噛《か》み殺すことができないことがありますの。とは申しましても、あの連中に暇を取らせて、ふたり水入らずで暮らすのが、一番いいという点では、全くあなたに賛成ですわ。
フリーダは、そう言うと、Kのほうへ摩《す》り寄ってきて、顔を隠すように彼の肩へ押しつけながら、そのままで、さらに、言葉を続けた。Kは、ひどく聞き取りにくいので、彼女のほうへ前|屈《かが》みにならねばならなかった。でも、わたしは、助手たちをどうすれば追い出せるのか、方法が分かりませんの。あなたの提案された方法は、なんだか、どれひとつとして、うまく行きそうもないような気がいたしますわ。だって、わたしの知っております限りでは、あなた御自身があの連中を所望されたんですもの。それで、現に、ああして置いている訳ですし、抱えて行くほかありませんわ。あの連中を軽輩として気軽にあしらって行くのが、最善の策じゃないかしら。事実、あの連中は、軽輩なんですからね。そうするのが、あの連中を辛抱する、一番利口な方法よ。
Kは、フリーダの返事に満足しなかった。そこで、冗談半分、真面目半分に、言った。どうやら、おまえは、あいつらとぐるらしいな。いや、すくなくとも、あいつらにひどく好意を持っているようだな。まあ、確かに、好漢たちには違いないさ。だが、多少の好意に惹《ひ》かれて厄介払いできないなんて、そんな相手は、どこにもいないはずだよ。今に、僕が、あの助手どもを相手に、そのことを立証してみせてあげよう。
そこで、フリーダは、そのようにあなたがうまく運んでくださったら、とても恩に着ますわ、と、言った。いずれにしましても、きょうからは、あの連中のことを笑って済ましたりはいたしませんし、また、あの連中とむだ口もきかないことにいたします。あなたに言われて見ると、あの連中にはなにもおかしいところがないことが、よく分かりました。それに、確かに、しょっちゅうふたりの男たちに監視されているのは、笑いごとでもありませんものね。わたしも、あなたの眼であのふたりを見られるようになれましたわ。
すると、そのときだった。助手たちがまたしても立ち上がったので、彼女は、本当に、ちょっとびっくりして震え上った。助手たちの目的は、なかばは、食べ物がまだどれほど残っているかを見届けるためであり、なかばは、ふたりのひっきりなしのささやき合いの根拠を突き止めるためであった。
Kは、フリーダに助手たちを嫌いにさせるために、その機を利用して、フリーダを引き寄せ、たがいにぴったりと寄り添いながら、食事を済ませた。もう就眠せねばならぬころであった。だれしも、ひどく疲れていた。助手のひとりは、食事の途中なのに、もう眠り込んでいた。もうひとりの助手が、それをひどく面白がって、主人たちを招き、眠っている男の間抜け面《づら》を、一目なりとも、見てもらおうとしたが、それは、失敗に終わった。Kとフリーダは、無愛想に、教壇のうえにすわったままだった。堪え切れなくなってゆく寒さのなかで、ふたりは、眠りに就くことをさえもためらっていた。ついに、Kが、今からでもいいから、ス卜ーブを燃やせ、でないと、眠れやしない、と言い放った。そして、斧《おの》らしいものでもどこかにないかと、探しはじめた。すると、助手たちが斧のありかを知っていて、ひとつ持ち出して来た。そこで、薪を入れてある納屋へ行くことになった。間もなく、粗末な戸は、簡単にこじ開けられた。助手たちは、こんなに素敵なものに今まで巡り合ったことがないと言わんばかりに狂喜して、互いに追っかけ合ったり、ぶつかり合ったりしながら、薪を教室のなかへ運びはじめた。程なく、教室内に、大きな薪の山ができて、ストーブに火が焚《た》かれた。一同は、ストーブを囲んで横になった。助手たちは、毛布を一枚貰って、それに包《くる》まった。ふたりは、一枚の毛布ですっかり満足していた。と言うのも、どちらかひとりがいつも起きていて、火を絶やさないようにしようという約束が、ふたりのあいだで交わされていたからであった。やがて、ストーブの傍らは、毛布も要らないほどに、暖かくなってきた。ランプも消された。暖かさと静けさとを楽しみながら、Kとフリーダは、眠るためにからだを伸ばした。
夜中になにやら物音がして、Kは、ふと、目覚めると、とっさに、まだ寝ぼけたままの覚束《おぼつか》ない手を伸ばして、フリーダのほうを探ってみた。すると、フリーダの代わりに助手のひとりが自分の横に寝ていることに、気づいた。それは、おそらく、突然に目が覚めたのもそうで、神経過敏になっていたせいであろうが、Kがこれまで村で体験してきた驚きのうちでも、最大の驚きであった。彼は、叫び声を放つとともに、上半身を起こすと、無意識にその助手に拳骨をひとつ食らわしたので、相手は、泣き出してしまった。とにかく、前後の事情は、すぐに判明した。先ず、フリーダが、なにか大きな動物が、どうやら猫らしいのが、彼女の胸のうえに飛び乗って、すぐまた走り去ったので――すくなくとも、彼女にはそう思われたのだが――、そのために目を覚ましてしまった。彼女は、起き上がると、蝋燭を片手に、室内隈なく、その動物を捜して回った。その隙《すき》を、助手のひとりが、しばらくなりとも藁ぶとんの寝心地を味わうために、利用したのだった。その掲げ句が、今の辛《つら》い罪滅ぼしだった。しかし、フリーダのほうは、なにも見つけることができなかった。もしかすると、錯覚にすぎなかったのかもしれない。そう思いながら、彼女は、Kのところへ戻って来た。その途中、夕食時の話し合いなど、すっかり忘れてしまったかのように、うずくまってしくしく泣いている助手の髪を、慰めるように、撫でてやったりしていた。Kは、それにたいして、なにも言わなかった。ただ助手たちに、ストーブを焚くのは止めろ、と命じただけであった。と、言うのも、うず高く積み重ねて置いた薪の山を、もうほとんど、使い果たしていたせいか、室内がひどく熱すぎるくらいになっていたからであった。
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第十二章
翌朝、一同がやっと目を覚ましたときには、もう早出の学童たちが登校していて、物珍しそうに寝床のまわりを取り巻いていた。なんともばつの悪いことであった。と言うのも、夜中のひどい熱気のために、それは、むろん、朝になった今では、厳しい冷気に戻っていたが、一同は、肌着一枚だけを残して、すっかり脱いでしまっていたからであった。そして、ちょうど一同が服を着はじめたときに、女教師のギーザが教室の入り口のところに姿を現した。金髪の、背も高くて、美しい娘だったが、ただなんとなくしゃちほこ張った感じを受けた。彼女は、明らかに、新参の小使に会う心構えをしていた。それに、おそらく、例の教師からも指図を受けていたのだろう。と言うのも、もう敷居のところから、こう言ったからであった。
「これでは、我慢なりません。いやもう、結構な暮らしぶりですこと。あなたたちには、教室で眠る許可しか、与えられてないはずです。それに、私のほうには、あなたたちの寝室で授業せねばならない義務なんか、ありませんの。朝遅くまでベッドのなかで、寝そべっている小使一家なんて、真っ平だわ」
それでは、こちらにも、いくつか、反論してやることがあるぞ、とりわけ、一家だとか、ベッドだとかに関してな、そう思いながら、Kは、フリーダの手を借りて――そのためには、助手たちを使うまでもなかった。助手たちは、床《ゆか》に横になったまま、女教師と生徒たちを呆気《あっけ》に取られたように見つめていた――大急ぎで、平行棒と鞍馬《あんば》を押し出して来ると、双方に毛布を投げ掛けて、ちょっとした間仕切りをした。その陰で、子供たちには見られずに、すくなくとも、服を着ることくらいはできるようになった。むろん、一瞬間たりとも、安閑としているわけにはゆかなかった。先ず、女教師が、洗面鉢に汲み立ての水を入れてないと言って、口ぎたなく叱った。ちょうどKのほうも、自分とフリーダのために洗面鉢を取って来ようと思っていた矢先だったが、女教師をあまりひどく怒らせるのは拙《まず》いと思って、彼は、差し詰め、その意図を放棄した。しかし、そうした断念も、なんら役には立たなかった。その後すぐに、がちゃんと言う、大きな物音が生じたからである。それと言うのも、運の悪いことに、昨夜の食事の跡片けを、ついうっかりして、忘れていたからであった。女教師が定規でいきなり机上のものをすべて一掃してしまった。なにもかもが床のうえに吹っ飛んだ。サージンの油とコーヒーの飲み残りがあたりに流れ、コーヒー・ポットも微塵《みじん》に砕けてしまった。それでも、女教師は、すぐに片付けるのが小使の役目ですよと言わんばかりに、平気な顔をしていた。まだすっかり着終わってないまま、Kとフリーダは、平行棒にもたれながら、自分たちのささやかな財産が打ち壊されてしまったさまを見やっていた。助手たちは、明らかに、服を着ることをさえも忘れてしまって、腹這いになったまま、一枚の毛布のあいだからのぞき見していた。それを見て、生徒たちは、また大喜びだった。コーヒー・ポットがなくなったのを最も悲しんだのは、むろん、フリーダだった。Kが、彼女を慰めるために、これから、早速、村長のところへ出掛けて、賠償を要求し、代わりの品を取って来てやろう、と彼女に確約すると、彼女は、それを聞いて、やっと気を取り直し、シャツとペチコートを身につけただけで、間仕切りから飛び出して行った。せめて、テーブル掛けなりとも、取り戻して、今以上に汚されるのを防ぐためだった。女教師が、彼女をおどすために、定規で、絶えず、神経を痛めつけるように、教壇の机をたたき続けていたとは言え、彼女は、やはり、取り戻しに成功した。Kとフリーダは、身なりを整えると、先刻来の出来事にただもう空《うつ》けたようになっていた助手にたいして、服を早く着るように、命令したり、小突いたりして、急《せ》き立てたばかりでなく、幾分かは、わざわざ手を貸してでも、服を着せてやらねばならなかった。
そうして、やっと一同の身支度が終わると、Kは、差し当たっての仕事の分担を決めた。助手たちは、薪を運び込んで、ストーブを燃やすように、命じられた。しかも、それを、もうひとつの教室のほうから、先にしなければならない。そちらの教室からは風雲急を告げていた。と言うのも、そこに、例の教師がもう来ているらしかったからであった。フリーダは、床の掃除を、Kは、水運びとその他の整頓を、引き受けることになった。朝食のことは、目下のところ、考える暇もなかった。とにかく、女教師がどんな機嫌でいるかを、おおよそなりとも、承知しておくために、Kが、真っ先に、間仕切りから出て行くことにし、ほかの者たちは、Kの呼び声を待って、初めて後に続くように、言い含められた。彼がこうした手筈を決めたのは、ひとつには、助手たちがへまなことをやらかして、最初から事態を悪化させないように、慮《おもんばか》ったからであり、また、ひとつには、フリーダをできうる限りいたわってやりたかったからであった。と言うのも、フリーダには面子《メンツ》があったが、彼にはなかったし、彼女は、神経質だったが、彼のほうは、それほどでもなかった。そして、彼女は、ただ目先の、些細《ささい》な、嫌なことをしか、気にしてなかったが、しかし、彼のほうは、バルナバスのこととか、将来のことを、考えていたからである。
フリーダは、なにからなにまで、彼の指図どおりに従ったが、彼からはほとんど眼を離さなかった。Kが間仕切りから出て行くと、生徒たちがどっと笑い出したなかで、女教師が、「おや、たっぷり眠れまして」と、呼びかけた。生徒たちの哄笑《こうしょう》は、そのときから、一向に止《や》まなかった。女教師の言葉は、別に問いらしい問いでもなかったので、Kは、それには気を留めないで、洗面台のほうへ飛んで行った。すると、女教師が、尋ねた、「それにしても、私のにゃんこになにかしたんですか」大きな、年を取った、肉付きのいい牝猫が一匹、机のうえに、けだるそうにからだを伸ばして、寝そべっていて、女教師が、明らかにちょっと怪我をしているらしい、その前足を調べていた。とすると、やはり、フリーダの言ったとおりだったのだ。あの猫が、フリーダのうえへいきなり飛び乗ったのではないにしても――あんな老い込んだ猫では、もう飛ぶ力もなさそうだし――、彼女のうえを這って越えて行ったのかもしれない。ところが、ふだんなら人気のない教室に人がいたので、びっくりして、急いで隠れた。そのとき、慣れない速さで走ったものだから、怪我をしたのだろう。Kは、そのことを女教師に静かに説明しようとしたが、女教師のほうは、その結果だけを取り上げて、言った。
「そうだわ、おまえたちが怪我をさせたんだわ。ここへ住み込むと、早々、これですからね。これ、見てくださいよ」女教師は、Kを教壇のうえへ呼んで、彼に猫の前足を示したかと思うと、いきなり、その前足の爪で彼の手の甲をさっと引っ掻いた。爪先《つまさき》は、もう鋭くはなかったが、女教師が、そのときは猫のことをも思いやらずに、爪を猛烈に押さえつけたので、血のにじみ出るみみずばれが手の甲にできたほどだった。「それでは、とっとと仕事にかかりなさい」と、彼女は、じれったそうに言って、またしても上半身を猫のほうへ屈《かが》めた。助手たちと一緒に、平行棒の陰から、成り行きを見守っていたフリーダは、血を見て、金切り声を上げた。Kは、生徒たちに手を見せながら、言った、「御覧よ、これが、狡《ずる》い、意地悪猫の仕業だよ」彼は、むろん、それを生徒たちのために言ったのではなかった。生徒たちの喚声や哄笑は、もう手が付けられないほどになっていて、今更切っ掛けを作る必要もなければ、刺戟を与える必要もなくなっていた。なにを言っても、耳に入るわけでもなければ、利き目があるわけでもなかった。それに、女教師のほうも、ただちらと横目でにらんで、Kの侮辱に答えただけで、それ以外は、ずっと猫の世話に余念がなくて、その様子を見ると、初めの怒りも、血が出るほどの罰を与えたことで、収まったらしかったので、Kは、フリーダと助手たちを呼んだ。そして、仕事が始まった。
Kが、濁り水の入った手桶を運び出し、汲み立ての水を持って来てから、いざ、教室の掃除を始めようとしたときだった。長椅子のひとつから、十二歳前後のひとりの少年が、立ち上がると、Kのほうへやって来て、Kの片手に触りながら、なにやら言った。だが、この大騒ぎのなかでは、なにを言ったのか、さっぱり聞き取れなかった。その途端、不意に、今までの喧噪《けんそう》がぴたりと止んだ。Kは、振り返った。朝になってからずっと懸念していたことが、ついに起こってしまったのだった。教室の入り口のところに、例の教師が立って、小兵ながらも、両の手でそれぞれに助手の襟《えり》首を掴《つか》んでいた。どうやら、薪を取りに行ったところを捉《つか》まえたらしかった。と言うのも、教師が、声を荒げて、一語ごとに間を置きながら、こう叫んだからである。「薪小屋へ押し入ろうとしたのは、だれだ。やつは、どこにいる。ぐうの音も出ぬように取り拉《ひし》いでやるから」すると、女教師の足元でせっせと床を拭《ふ》き掃除していたフリーダが、床から立ち上がって、自分を元気づけようとするかのように、Kのほうへ秋波を送ってから、彼女の昔ながらの優越感を、幾らか、眼差《まなざし》と態度にちらつかせながら、言った、「わたしがしたんですわ、先生。ああするほかに、せん方なかったものですから。朝早くから教室内を暖めておかねばいけないと言われると、どうしても納屋を開けねばなりませんでした。夜中に先生のところから鍵を貰って来るなんて、そんな、わたしは、向こう見ずでもありませんですしね。わたしの夫と定めた人は、折あしく、貴紳閣へ出掛けていましたの。もしかすると、そのまま、一晩じゅう、あちらにいることにもなりかねなかったものですから、わたしがひとりで決心するほかなかったんです。もしわたしのしたことが間違っていましたら、わたしの経験不足に免じて、どうか、お許し願います。帰って、あの始末を見た、この人からも、もう嫌と言うほど叱りつけられた後ですもの。それどころか、この人は、わたしが朝早くからストーブを焚《た》くことをさえも、禁じましたの。だって、納屋に錠を下ろしているのは、先生が登校されるまでは、暖房しないでおいてくれという、先生の意志表示だと、この人は、信じ切っているんですからね。そんな訳で、暖房してないのは、この人の責任ですけれど、しかし、納屋の、戸をこじ開けたのは、わたしの責任ですわ」
「あの戸をこじ開けた当人は、だれだい」と、教師は、助手たちに尋ねた。助手たちは、あいかわらず、鷲《わし》掴みにした教師の手を振り離そうともがいていたが、むだであった。「あの方でさ」と、ふたりは、答えて、疑いの余地ないと言わんばかりに、Kのほうを指差した。フリーダは、笑った。その笑い声は、彼女の言い訳よりも、はるかに信憑《しんぴょう》性があるように思われた。それから、彼女は、床を拭いていた雑巾《ぞうきん》を手桶のなかへ放り込んで、絞りはじめた。それは、彼女の説明でこの突発事件は、もうすっかり鳧《けり》が付いており、助手たちの申し立ては、ほんの付け足しの冗談にすぎないとでも言いたげな、仕草であった。そして、彼女が、仕事を続ける用意をして、再び、床に跪《ひざまず》いてから、やっと言った、「うちの助手連中ときたら、いい年をしている癖に、まだこの教室の長椅子にすわらせても、結構おかしくないくらいに、子供なんでしてね。要するに、わたしが、晩方、斧で、あすこの戸をひとりでこじ開けたんですの。とても簡単でしたし、助手たちの手を借りるにも及びませんでしたわ。いれば、却《かえ》って、邪魔になったくらいですもの。それから、夜中に、内の人が帰って来て、破損の程度を調べた上で、できる限り修繕するために、納屋のほうへ出て行きますと、助手連中も、一緒に走って行ったんです。たぶん、ここにふたりだけ取り残されるのが、恐《こわ》かったんだと思いますわ。そして、この人が破れた戸にいろいろと苦労しているのを、見ていたんです。それで、今みたいなことを申し立てているわけですけれど――まあ、これじゃ、まるっきり子供じゃありませんか――」
フリーダが説明しているあいだも、助手たちは、しきりと首を横に振って、Kを指差し続けながら、だんまり芝居で、フリーダにそのような意見を述べることを思い止《とど》まらせようと、躍起になっていたが、しかし、どうにも成功しそうになかったので、彼らも、ついに、腰を折って、フリーダの言葉を命令として受け取るようになった。そして、教師が改めて尋ねても、もう返事をしなかった。「そうか」と、教師は言った、「それでは、おまえたちは、嘘をついていたんだな。でなければ、すくなくとも、浅はかに小使へ罪を被《かぶ》せていたわけだな」助手たちは、黙ったきりだった。しかし、ふたりの五体の震えと不安げな眼差が、ふたりの罪の自覚を暗示しているように、見受けられた。「それでは、おまえらを、早速にも、こっぴどく折檻してやろう」と、教師は、言うと、生徒のひとりを隣の教室ヘとやって、籐《とう》の鞭を取って来させた。そして、教師が鞭を振り上げたとき、フリーダは、「助手の言ったことが本当なのよ」と、叫んで、捨て鉢気味に、雑巾を手桶のなかへ投げ込んだので、水が高く飛び散った。彼女は、平行棒の向こうへ走って行って、姿を隠した。「よくも嘘つきが揃ったものだわ」と、女教師は言った。ちょうど猫の前足に包帯を巻き終わったところで、彼女は、猫を膝のうえに抱いた。猫の大きな図体が、彼女の膝からはみ出そうであった。
「それでは、小使さんは、ここに残っていてもらいたい」と、教師は、言って、助手たちを押しやってから、Kのほうへ向き直った。Kは、終始、箒《ほうき》を突っかい棒にしながら、やり取りに耳傾けていたのだった。「この小使さんは、自分が勝手にやったさもしい行いのために、間違って、他人が嫌疑を受けるのを、卑怯にも、平然と黙認しているような人間だからな」「それにしても」と、Kは、フリーダの介入のお陰で、教師の当初の手に負えない怒りが、やはり、和らいでいたのに気がつくと、言った、「たとい助手どもが、すこしばかり、折檻されていたところで、僕は、気の毒とも思わなかったでしょう。これまで、十回は、折檻されても当然な機会があったのに、それを見逃してもらって来たのですから、彼らとしてはたとい当然な理由がないにしても、一度で十回分の償いをしたっていいわけですよ。それにまた、償い云々は別にしましても、それによって、先生、あなたと僕とのあいだの正面衝突が避けられたでしょうから、僕にとっては、むしろ、先生が折檻してくれたほうが、ありがたかったくらいですね。もしかすると、先生にとっても、そのほうが、よかったかもしれませんよ。だのに、こうして、フリーダが、助手どものために、僕を犠牲にしてしまった以上は」――ここで、Kは、ちょっと間を置いた。静まり返ったなかで、毛布の陰から、フリーダの噎《むせ》び泣く声が聞こえていた――、「むろん、早速にも、この一件の決着を付けねばなりません」「言語道断だわ」と、女教師が言った。「私も、ギーザさん、あなたと全く同意見です」と、教師は言った、「あなたは、小使さん、このような破廉恥な職務違反を犯した廉《かど》で、むろん、即座に首だ。以後、さらにどのような罰があるかは、この場で言うことを差し控えることにする。とにかく、今すぐに、持ち物を持って、ここからとっとと消え失せてもらいたい。そうしてもらえば、私たちとしても、本当に胸を撫で下ろして、授業にもやっとかかれるのだ。さあ、急ぐんだ」
「いや、僕は、断じて、ここから立ち去りませんよ」と、Kは言った、「あなたは、僕の上司に違いありませんが、しかし、僕にこの職場を授けてくれた当人ではありませんからね。それは、村長さんです。従って、解雇通告は、村長さんのものしか、僕は、受諾できませんね。ところで、村長さんが僕にこの職場を与えてくださったのは、なにも僕をここで僕の一族郎党とともに凍死させるためではなかったはずです。そうじゃなくて――あなた自身も言っていたように、僕のほうで無分別な絶望的行為に出ないように、村長さんとしては、それを防止するためだったのじゃありませんか。僕を今ここで突然に首にするのは、それゆえに、村長さんの意図に全く反することになると思いますね。僕としては、村長さん御自身の口からそれとは正反対なことを聞かない限り、とても真に受けられません。それにまた、僕があなたの軽はずみな解雇通告に応じなければ、そのために、あなたは、却って、とても得をするかもしれないんですよ」「それでは、言うことを聞かないんだな」と、教師は言った。Kはうなずいた。「まあ、とにかく、よく考えてみるんだな」と、教師は言った、「あなたの決心は、必ずしも、いつも、最善のものではないからね。例えば、あの尋問を拒否した、きのうの午後のことなりとも、思い出してみるといい」「どうして、今更、そんな話を持ち出すのです」と、Kは問い返した。「それは、こちらの勝手だよ」と、教師は言った、「それでは、最後に、もう一度だけ言っておく。出て行くんだ」
しかし、それでも、なんの効果もなかったので、教師は、教壇のほうへ赴いて、女教師を相手に、なにやらひそひそと、相談していた。女教師は、警察がなんとかと、言っていたが、教師のほうは、それに同意しなかった。ついに、ふたりの意見が一致を見て、教師は、自分の受け持ちのクラスのほうへ移るようにと、そこにいた生徒たちに命じた。いつもは別々に分かれていた生徒たちに、きょうは、隣の教室で、合併授業をするとのことであった、この変更に、生徒たちは、みんな大喜びだった。笑ったり燥《はしゃ》いだりしながら、すぐにこちらの教室を空にしてしまった。教師と女教師が、最後に、そのあとに付いて行った。女教師は、出席簿を抱き、そのうえに一杯に寝そべっていかにも物ういような様子をしている猫を載せていた。教師のほうは、その描をこの教室に残しておいてもらいたがった。しかし、そのことを仄《ほの》めかしただけでも、女教師は、Kの惨酷さを引き合いに出して、断乎として撥《は》ね付けるのだった。こうして、Kは、教師をさんざんに怒らせた揚げ句に、さらに猫という重荷をまでも教師に背負わせてしまったのである。教師が出口のところでKに向かって言った最後の言葉も、どうやら、そのせいらしかった。
「あなたが、強情にも、私の解雇通告に応じないばかりに、こんなあなたの不潔な世帯のまっただなかで授業をしてくださいとは、まだうら若い娘のギーザさんによもや頼めた義理でもないので、こうして、ギーザさんは、止むなく、学童たちと一緒に、この教室を出て行くのです。それでは、あなたは、ひとり居残って、礼儀正しい目撃者たちの反感を買うこともなく、のんびりと、ここで存分に羽根を広げればよろしい。だが、それとて、長くは続くまいな、私が保証するよ」そう言い終わると同時に、教師は、そこのドアを閉めた。
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第十三章
生徒も、教師も、残りなく立ち去るや否や、Kは、助手たちに向かって、「出て行け」と、怒鳴った。この思いも寄らぬ命令に、助手たちは、すっかり縮み上がって、言いつけどおりにした。ところが、Kが彼らの出て行ったあとのドアを閉ざすと、助手たちは、またも帰りたがって、室外でしきりにしくしくと泣きながら、ドアを叩《たた》いていた。「おまえたちは、首にしたんだ」と、Kは叫んだ、「もう絶対に、おまえたちを雇ってやったりするもんか」そう言われても、彼らは、むろん、おとなしく聴き入れる気にはなれないで、ドアをはげしく拳《こぶし》で叩いたり、足で蹴ったりしはじめた。「旦那、あんたのところへ戻らせてよ」と、彼らは叫んでいた。それは、いかにも滔々《とうとう》たる流れの中で今にも溺れ死のうとしている彼らが、乾ききった陸地であるKに向かって訴えているような、絶叫ぶりであった。しかし、Kは、なんら哀れを催さなかった。この耐えきれない騒音を捨てておけなくなって、教師が嫌でも介入せねばならなくなるのを、Kは、いらいらしながら、待ち受けていた。すると、間もなく、案の定であった。
「この忌々《いまいま》しい助手どもを入れてやりなさい」と、教師は怒鳴った。「やつらを首にしたんです」と、Kは怒鳴り返した。これには、解雇を通告するだけでなく、その解雇通告をさらに実行に移すくらいの力が、当事者に十分|具《そな》わっていれば、どのような結果になるかを、教師に見せつけることができるという、思いがけない副効果があった。教師は、そこで、助手たちを優しくなだめることにしたらしい。ここでおとなしく待っていさえすれば、いくらKだって、ついには、おまえたちをまた入れてくれるに違いないから。そう言い置いて、教師は去った。それで、もしかすると、そのまま静かに収まっていたかもしれなかったのだが、Kが、またしても助手たちに向かって、おまえたちは、これ限り、永久に首なんだから、再雇用される見込みなんて、微塵《みじん》もないんだぞ、と怒鳴りはじめると、そうは行かなかった。助手たちは、それを聞くなり、またしても、さっきのように、騒ぎ出した。すると、またしても、教師がやって来た。しかし、今度は、もう助手たちとは口をきかないで、彼らを校舎から追い出してしまった。そのとき、あの籐《とう》の鞭でおどしたことは、火を見るよりも明らかだった。
やがて、彼らは、体操教室の窓辺に姿を現して、窓ガラスを叩いたり、わめいたりしていた。しかし、なにをわめいているのか、言葉は、もう聞き取れなかった。とは言え、そこでも、長くは居続かなかった。不安に駆られるままに、あたりを跳び回りたくても、この深い雪のなかでは、無理だった。そこで、ふたりは、校庭の鉄柵のほうへ急いで行くと、そこの台石のうえへ飛びのった。そこからだと、むろん、距離が遠くなっただけで、室内の様子は、却《かえ》って、よく見通せた。彼らは、台石のうえを、鉄柵に掴《つか》まりながら、足早に右往左往しては、やがて、また立ち止まって、哀願するように、合わせた両手をKのほうへ差し伸べるのだった。そうした努力がむだであることをも顧みないで、彼らは、長いあいだ、その仕草を繰り返していた。もうまるで血迷っているようだった。Kが、彼らの眼を避けるために、窓のカーテンをすっかり下ろしてからも、彼らは、おそらく、止《や》めていなかったに違いない。
今や薄暗くなった室内を、Kは、フリーダの様子を見てやるために、平行棒のほうへ向かった。彼に見下ろされると、フリーダは、立ち上がって、髪の乱れを整え、顔の涙をぬぐってから、黙々とコーヒーを沸《わ》かしにかかった。フリーダのほうでは、一部始終を知っていたとはいえ、Kは、しかし、正式に、助手たちを解雇したことを、彼女に伝えた。彼女は、うなずいただけであった。Kは、学童用の長椅子のひとつに腰を下ろして、彼女のだるそうな動作を見守っていた。彼女の吹けば飛ぶような五体を美しく見せていたのは、いつも、あのすがすがしい若さときびきびした身のこなしだったのに、その美しさも、今は、消え失せていた。Kと同棲してから、まだ大して日数もたってないのに、もうそこまで消耗しているのだった。酒場での仕事も、楽ではなかったはずだが、やはり、そのほうが、おそらく、彼女には向いていたのかもしれない。それとも、クラムから離れたことが、彼女の憔悴《しょうすい》の真因だろうか。クラムのそば近くにいたときは、あれほど途方もない魅力を具えた女だった。その魅力に引かれて、Kは、彼女を横取りしたのだった。ところが、その彼女が、今では、彼の腕のなかでやつれてゆくばかりなのだ。
「フリーダ」と、Kは言った。彼女は、すぐにコーヒー碾《ひ》き器を片付けて、Kのいる長椅子のところへやって来た。「わたしに腹を立ててらっしゃるんでしょう」と、彼女は尋ねた。「いや、ちっとも」と、Kは言った、「おまえとしては、あれしか手がないと、僕は思っているよ。なにしろ、貴紳閣で安らかに暮らしていたんだからね。おまえをあすこへそっと置いておけばよかったとも、考え直しているくらいだからな」「そうよ」と、フリーダは、言って、悲しげに、あらぬ前方を見詰めた。「わたしをあすこへそっとして置いてくださればよかったんだわ。わたしは、あなたと一緒に暮らせるだけの値打ちさえもない女ですもの。わたしという足手|纏《まと》いがいなかったら、あなたは、なんでもかでも、存分に、成し遂げられるかもしれませんのに。わたしのことを考えて、あなたは、あの横暴な先生にも黙って従い、こんな情けない職場をさえも引き受けて、クラムとの面談の機会を掴むために、辛苦を重ねていらっしゃる。すべて、わたしのためですわ。でも、わたしは、それに十分お報いできませんの」
「とんでもないよ」と、Kは、言って、慰めるように、横合いから片方の腕で彼女を軽く抱いた、「そんなことは、すべて、些細《ささい》な事さ。僕は、なんの痛痒《つうよう》も感じないよ。クラムのところへ行くのだって、なにもおまえのためだけじゃないんだ。それにひきかえ、僕のために、おまえがしてくれたことは、なんと至れり尽くせりだったではないか。おまえの知るまえの僕は、当地で、全く途方に暮れていたんだからね。だれも、僕を迎え入れてはくれなかったし、こちらから強引に押しかけて行っても、すぐに体よく追い払われるのが落ちだった。それにまた、たといだれかが僕を家で休ませてくれるようなことがあったにしても、それは、また僕のほうから逃げ出さねばならないような連中だった。例えば、バルナバスの一家とか――」「あなたは、あの一家からも逃げ出したのね。ねえ、そうでしょう、あなた」と、フリーダは、Kの話を遮りながら、いかにも生き生きと叫んだが、やがて、Kがためらいがちに「うん」と答えると、またしても気落ちしたように、元の気怠《けだる》さへ戻ってしまった。しかし、Kのほうも、フリーダと結ばれたお陰で、万事が、いかなる点で、彼に有利なように好転していたかを説明してやろうという、当初の決心をもうなくしていた。彼は、ゆっくりと、彼女のうしろへ回していた腕を引いた。
ふたりは、しばらく、無言のうちにすわっていた。そのうちに、ついに、フリーダは、Kの腕が彼女のからだに与えていた温《ぬく》もりを、もう今では、生きて行くのに欠かせないもののように感じたらしく、言った、「ここのこんな暮らしには、もう堪えて行けそうもないわ。あなたがわたしを手離さないお心算《つもり》なら、ふたりで、どこか遠くへ移住しましょうよ。南フランスヘでも、スペインヘでも、いいわ」「移住は、無理な注文だよ」と、Kは言った、「僕は、当地に居留するために、遥々《はるばる》とやって来たんだからな。この地に腰を据えることにするよ」そして、彼は、今言ったことと矛盾するにもかかわらず、その矛盾を別に説明しようともしないで、まるで独り言のように、言い足した、「それにしても、ここに居留したいという熱望以外に、僕をこの荒地へ惹《ひ》きつけるものと言えば、一体、なんだろう」それから、さらに言葉を続けて、「しかし、おまえだって、ここに留《とど》まりたいだろう。おまえの生まれた土地だもの。ただ、クラムと離れたのが淋しいばかりに、おまえは、拾て鉢な考えを起こしているにすぎないんだよ」「クラムと離れたので、わたしが淋しいんですって」と、フリーダは言った、「この地は、クラムで埋《うず》め尽くされていますわ。飽き飽きするほど、クラム、クラム、クラムですもの。わたしは、クラムから逃れるために、ここを出て行きたいんです。クラムではなくて、あなたがそばにいないと、わたしは淋しいの。ですから、あなたのために、出て行きたいのよ。だって、ここでは、みんながわたしを引っ張り凧《だこ》にして、とても心行くまであなたを満喫させてくれませんもの。あなたのそばで、平和に暮らせるなら、この美しい仮面をはぎ取られて、わたしのからだが見すぼらしいものになったって、わたしはいいの」Kは、その言葉のなかから、ただひとつのことだけを聞き咎《とが》めた。「クラムは、あいかわらず、おまえとの関係を絶ってないんだね」と、彼は、即座に尋ねた、「今でも、おまえを呼んでいるんだろうな」「クラムのことなんか、頭にありませんわ」と、フリーダは言った、「わたしが今話していますのは、ほかの人たちのことなの。例えば、あの助手たちのこととか」「ほほう、あの助手どもがね」と、Kは、あきれて言った、「あいつらまでがおまえを付け回しているんだって」「それじゃ、あなた、気づいてらっしゃらなかったの」と、フリーダは尋ねた。「うん」と、Kは、言って、いろいろと細かなことまで思い出そうと努めたが、思い当たる節《ふし》がなかった。「すると、小憎のくせに、ひどく厚かましい助平どもだな。それにしても、いけずうずうしくおまえに手を出そうとしていたなんて、さっぱり気がつかなかったな」「そう」と、フリーダは言った、「お気づきじゃなかったの。でも、あの人たち、橋亭のわたしたちの部屋から追い出そうとしても、駄目だったじゃないの。ふたりの関係をずっと嫉妬深く見張っていてさ。昨夜だって、あのうちのひとりが藁《わら》ぶとんのわたしの場所に寝たりなんかして。さっきも、あなたに不利なことを申し立てていたじゃないの。あれは、あなたを追い出して、破滅に導き、わたしとだけ一緒にいようという寸法よ。こんなはっきりした証拠が揃っているのに、あなたは、ちっともお気づきじゃなかったのね」
Kは、答えないで、まじまじとフリーダの顔を見ていた。助手たちにたいするこのような弾劾は、一応は、正しかったかもしれない。しかし、ふたりの助手の、あの滑稽至極な、子供っぽい、浮《うわ》ついた、自堕落な気質を考えてやれば、フリーダが数え立てる罪状も、はるかに無邪気なものと解してやれないこともないはずである。それに、彼らがいつも、どこへなりとKと行をともにして、フリーダのそばに居残ろうとしなかったことは、フリーダの非難と矛盾しはしないだろうか。そう思って、Kは、そのような意味のことを述べた。「猫被《ねこかぶ》りよ」と、フリーダは言った、「それさえ、見抜いてらっしゃらなかったのね。そうだったの。それじゃ、そのような理由からでないとすると、どうしてあの人たちを追い出したりしたんですの」そう洩らすと、彼女は、窓辺へ行って、カーテンをすこしばかり掻き分け、外を見やってから、Kを呼び寄せた。外では、あいかわらず、助手たちが鉄柵のところにいた。もうすっかりくたびれていることが一目で知れたとはいえ、彼らは、いまだに時折、全身の力を振り絞っては、哀願するように、両腕を学校のほうへ差し伸べていた。そのうちのひとりは、絶えず掴まっていなくてもいいように、上衣を背後の鉄柵の先に串刺しにしていた。
「まあ、あの人たちったら、かわいそうに。なんてかわいそうに」と、フリーダは言った。
「どうしてあいつらを迫い出したかって言うのかい」と、Kは問い返した、「その直接の切っ掛けは、おまえだったんだよ」「わたしですって」と、フリーダは、窓外から眼をそらさないで、尋ねた。「おまえの助手たちの扱いぶりがひどく親切すぎるからさ」とKは言った、「あいつらの度重なる無作法をゆるして、笑って済ませてやるし、髪の毛を撫でてやったりして、絶えずあいつらには同情してやってさ。また、今だって、『まあ、あの人たちったら、かわいそうに、なんてかわいそうに』と、言っていたじゃないか。それに、最後に腹に据えかねたのは、先刻の出来事だよ。おまえは、僕を大して高価なものと思ってないらしく、僕という身代金《みのしろきん》で、助手どもを教師の鞭から救い出したんだからね」
「実は、それなの」と、フリーダは言った、「わたしが申していますのも、やはり、そのことなんです。わたしを不幸な目に会わせて、あなたに寄せつけないようにしていますものも、実は、それなのよ。そのくせ、わたしは、反面では、あなたのそばに、始終、のべつ幕なしに、いついつまでも、寄り添っているほど、自分にとって、大きな幸福はないと、思っているの。なのに、また、わたしは、この地上には、わたしたちの愛にとって、どこにも安住の地はない、この村にもなければ、ほかのどこにもないということを、ひとり夢想しては、そのために、底深くて狭苦しい墓穴のようなものを思い描いたりするの。わたしたちは、そこで、まるでやっとこで挟まれたように、じっと抱き合ったままでいるわけよ。わたしは、わたしの顔をあなたで被《おお》い隠し、あなたは、あなたの顔をわたしで被い隠す。そうすれば、もうけっして、だれの眼にも、わたしたちだということが分からないでしょう。ところが、ここにいますと――あれ、御覧なさい。助手たちが手を合わせているのは、あなたにたいしてじゃなくて、わたしにたいしてですわ」「それに、あいつらを見守っているのも、僕ではなくて、おまえだしね」「確かに、わたしですわ」と、フリーダは、なんだかむかむかするような調子で、言った、「わたしが、さっきから、しきりと申していますのも、やはり、そのことなんですよ。でなければ、助手たちがわたしのあとを付け回ったって、なにも問題にならないじゃありませんか。よしんばふたりがクラムの派遣員だとしてもよ――」「クラムの派遣員だって」と、Kは、思わず言い返した。この呼び方は、いかにも自然なように彼にはすぐに思われたのだが、しかし、それを耳にした途端には、彼もひどく驚いたのだった。
「クラムの派遣員よ、間違いないわ」と、フリーダは言った、「たといそうだとしても、あのふたりが、やはり、吻《くちわき》の黄ばんだ青二才であることには変わりはないわ。教育してやるには、まだ折檻が必要な手合いなのよ。青二才のくせに、なんと下品で、腹黒いんでしょう。顔を見れば、もう大人で、ほとんど大学生かとさえも思えるくらいなのに、振る舞いときたら、まるで子供っぽくて、道化じみているんですもの。そのひどい食い違いには、反吐《へど》が出そうだわ。あなたは、わたしの眼が節穴とでも思ってらっしゃるの。わたしは、あのふたりのことで恥ずかしい思いがしているのよ。でも、そこなの。あの人たちがわたしに反感を起こさせているのじゃなくて、わたしのほうがあの人たちのことを恥ずかしがっているという、そこが問題なの。もしもだれかがあの人たちに腹を立てるようなことでもあったら、わたしは、吹き出さずにはいられませんの。もしもだれかがあの人たちを撲《ぶ》とうとしたら、わたしは、あの人たちの髪の毛を撫でてやらずにはいられませんの。それに、夜分、わたしがあなたに寄り添って寝ているときでも、わたしは、寝付くわけにはゆかないんです。助手のひとりがどんなに毛布にしっかりとくるまって眠っているか、また、他のひとりがどんなに開けたストーブの焚《た》き口のまえに跪《ひざまず》いて、薪をくべているか、それをあなたのからだ越しに注視していなければならないからですわ。そのためには、身を乗り出して、危うくあなたを起こしてしまいそうになることだってあるくらいですもの。それに、猫に驚かされるようなわたしでもありませんわ――ああ、猫なんてものは、正体が知れてますし、また、あの酒場に勤めていたころは、落ち着かない微睡《まどろみ》のさなかをしょっちゅう邪魔された覚えだってありますものね――猫なんかに驚かされるのではなくて、わたしは、ひとりで勝手に、ぞっとするほど怯《おび》えるんですの。その場合、猫が暴れなくったっていいんです。ほんのちょっとした物音がしただけでも、わたしは、縮み上がってしまうんですもの。そんなとき、わたしは、あなたが目を覚ましにならないかしら、そうなれば、なにもかも台無しになるわ、と、一旦は案じたものの、また思い返して、ぱっと飛び起きるなり、蝋燭《ろうそく》に火をつけてしまうんです。あなたがすぐにでもお目覚めになりさえすれば、わたしを守ってくださるだろうと、ただそれのみを念じてね」
「そういうこととは、露ほども知らなかったな」と、Kは言った、「ただなんとなくそれらしいことを虫が知らせたものだから、あいつらを追っ払ったのさ。まあ、これで、あいつらもいなくなったことだし、これで、たぶん、お膳立てがすっかりうまく整ったはずだよ」「そうよ、あの人たちも、やっと、いなくなりましたしね」と、フリーダは言った。しかし、彼女の顔には、苦悩がありありと浮かび、喜びの色がどこにも見えなかった。「ただわたしたちに今でも分からないのは、あの人たちの正体ですわ。クラムの派遣員と言うのは、わたしが頭のなかで思い付いて、そう呼んだまでで、言わば戯《ざ》れ言《ごと》なのですけれど、もしかすると、本当にそうなのかもしれません。あの人たちの眼、あのいかにも無邪気そうな、そのくせ、爛々と輝いている眼は、なんとなく、クラムの眼を思い出させますわ。そうです。それに違いありません。時折、あの人たちの眼差《まなざし》を受けて、なにやら戦慄らしいものがわたしの体内を突っ走ることがありますが、あれはクラムの眼差ですわ。とすると、わたしが、あの人たちのことで恥ずかしい思いをしている、と言ったのは、間違いなんだわ。きっとわたしは、心のうちで、そうあってくれさえしたらと、願っただけなのね。どこか余所《よそ》の土地で、余所の人たちのあいだで、同じような振る舞いをする者がいたら、ばかげて、見るに堪えないはずですが、あの人たちの場合は、そうじゃないの。ですから、わたしだって、あの人たちの愚行を、畏敬と驚嘆の念で、見守っているんだわ。でも、あの人たちがクラムの派遣員だとしたら、だれがわたしたちをあの人たちから解放してくれるんでしょう。それにしても、あの人たちから解放されるという、そのことからして、そもそも、いいことでしょうか。それにしても、あなたは、早速にも、あの人たちを連れ戻さねばいけないのではないでしょうか。そして、あの人たちが今からでも戻ってきてくれたら、こんなにめでたいことはないのではないでしょうか」
「すると、おまえは、僕に、あいつらを、元どおりここへ入れてやってもらいたいんだね」「いえ、いえ」と、フリーダは言った、「滅相もないことですわ。ふたりが、それとばかりに、ここへ駆け込んで来たときの様子、わたしに再会できたときの喜び方、子供のように跳ね回ったり、大人のように腕を差し伸べたりする仕草、そんな光景を、いくらわたしだって、たぶん、正視できないと思うの。でも、翻って考えてみると、あなたがあくまであの人たちにたいして厳しい態度をお貫きになると、そのことが、ひいては、クラムがあなたに近づくことをさえも拒むことになりはしないかと、どうもそれが心配になって来て、わたしは、あらゆる手立てを尽くしてでも、そうした結果にだけはならないように、あなたを守って行かねばいけないと思いはじめたの。それで、あなたに、あの人たちをなかへ入れてやってもらいたいわけよ。ですから、K、さあ、早くあの人たちを入れてやってちょうだい。わたしのことを斟酌《しんしゃく》してくださらなくってもいいの。わたしのことは、どうでもいいの。わたしだって、力の続く限りは、自分の身を守りますわ。でも、もしかして負けねばならない羽目に至ったら、そのときは、潔く負けるわ。しかし、そのときは、こうなったのもあなたのお身のためだということを、意識してね」
「おまえの言葉は、あの助手たちに関する僕の判断をますます裏付けてくれるばかりだよ」と、Kは言った、「あいつらは、僕が同意したからと言って、おいそれとは、ここへ入って来ないだろうな。僕があいつらを追い出したということは、やはり、事情|如何《いかん》では、あいつらを思いのままに動かせないことはないということを、立証しているわけだし、ひいてはまた、あいつらがクラムと大した掛かり合いを持ってないということをも、立証していることになるからさ。昨晩になって、やっと、クラムから一通の手紙を受け取ったが、それを見ると、クラムがあの助手どもについて全く間違った報告しか受けてないことが、明白なんだ。とすると、さらにそれから、クラムがあいつらに全くなんの関心も持ってないと、推論せざるを得ないじゃないか。そうでなければ、クラムは、あいつらについての正確な情報くらいは、きっと、入手していたに違いないからさ。ところで、おまえは、あいつらのなかにクラムを見て取っているらしいが、それは、なんの証拠にもならないね。いまだに、あいかわらず、おまえは、残念ながら、あの女将《おかみ》の影響から脱《ぬ》け出せないで、どこで、なにを見ても、クラムが眼に映るからだよ。おまえは、いまだに、あいかわらず、クラムの愛人であって、まだまだ僕の妻と言えた義理じゃない。時折、そう思うと、僕は、すっかり憂鬱になって、なにもかもをなくしてしまったような気がしだし、そして、たった今、やっと、この村にやって来たかのような感じを抱くのだ。ところが、あの初めて、本当に、この村へやって来たときは、希望にあふれていたが、今はそうじゃなくて、ただ幻滅ばかりが僕を待ち受けていて、僕は、その幻滅を、次から次へと、底に沈んだ最後の澱《おり》にいたるまで、味わい尽きねばならぬような意識に苛《さいな》まれるのさ。と言っても、こんな気持ちになるのは、ほんの時たまのことだがね」と、Kは、フリーダが、彼の話を聞いているうちに、がっくりとくず折れてしまったのを見て、苦笑しながら言い添えた、「それに、おまえが僕に諭《さと》してくれたことにしても、詰まるところ、なにか有利なことを立証しているようだよ。だから、おまえが、今ここで、僕に、おまえと助手たちとのどちらかを取るように、求めるなら、もうそれで、助手たちは、負けさ。それにしてもおまえと助手たちとのどちらかを選ぶという考え方からして、愚の骨頂じゃないか。そこで、僕としては、これを限り、助手のことは、一切、鳧《けり》がついたことにして、口にも出さなければ、考えもしないことにしよう。それはともかく、僕たちが、ふたりとも、こうして無気力になっているのも、元をただせば、いまだに朝食を摂《と》ってないからじゃないかな」「そうかもしれませんね」と、フリーダは、疲れたような微笑《ほほえ》みを浮かべながら、言うと、仕事にかかった。Kも、再び、箒《ほうき》の柄を握った。
しばらくすると、ドアを軽くノックする音が聞こえた。「バルナバスだ」と、Kは、叫ぶなり、箒を投げ捨て、大股に二、三歩跳んで、ドアのそばに立った。フリーダは、わけてもバルナバスという名にはひどくぎくりとして、Kの様子を見守っていた。Kの覚束《おぼつか》ない手付きでは、古びた錠がすぐには開かなかった。「今すぐ開けるから」と、彼は、ひっきりなしに繰り返し言って、ノックした相手が、実は、だれなのかさえも、尋ねようとはしなかった。ところが、ついにドアをさっと引き開けて見ると、入って来たのは、案に相違して、バルナバスではなく、すでに先刻にもKにちょっと話しかけようとした、あの少年だった。しかし、Kのほうは、この少年のことを思い出そうとする気すらなかった。
「一体、ここになんの用事があるのかね」と、彼は言った、「授業なら、隣の教室だよ」「その隣の教室から来たんです」と、少年は、答えて、つぶらな、鳶《とび》色の眼で、落ち着いて、Kを見上げながら、両腕をぴたりと腰につけたまま、直立不動の姿勢で、立っていた。「すると、なんの用事だね。さっさと言いなさい」と、Kは、言って、すこしばかり前|屈《かが》みになった。少年の声が低かったからであった。「なにか、お手伝いできることはありませんか」と、少年は尋ねた。
「この子が僕たちの手伝いをしてくれるそうだよ」Kは、フリーダに向かって言うと、また少年のほうへ向き直って、「君は、一体、なんという名前なの」「ハンス・ブルンスヴィックです」と、少年は答えた、「第四学級の生徒で、マドレーヌ街で靴屋の親方をしていますオット・ブルンスヴィックの息子です」「おや、君がブルンスヴィックなんだね」と、Kは、言うと、少年にたいして一層打ち解けた態度を示した。そこで、女教師が猫の爪でKの手の甲を引っ掻いたためにできた、血のにじむみみず張れを、ハンスが、見て、ひどく激昂し、そのときから、Kに味方しようと決心していたことが、分かった。ハンスは、今、厳罰を受ける危険をも顧みずに、独断で、さながら脱走兵のように、隣の教室からこっそり抜け出して来たのだった。この少年の脳裏を支配していたものは、なによりも、そのような男の子ならではの想念らしかった。少年のすること、なすことのすべてから窺《うかが》われる真剣さも、そうした想念に合致していた。ただ最初のうちは、気遅れしていたせいか、尻込みがちであったが、間もなく、Kにも、フリーダにも、慣れて来て、やがて、熱い、上等のコーヒーを飲ませてもらうと、すっかり活気を取り戻して、人なつっこくなって来た。そして、熱心に、あれこれと、突っ込んだ質問をしはじめた。そのような少年の態度は、せめて一番肝心なことをなりとも、できる限り早く、聞き知っておいて、Kとフリーダのために、自分は自分で、独自の決心を固めることができるようになろうと努めているかのように、見受けられた。
少年の気質には、また、どことなく高圧的なところがあった。だが、それがうぶな無邪気さとうまく混ざり合っていたので、Kにしても、フリーダにしても、半ばは正直に、半ばは冗談に紛らしながら、少年の質問に快く応じることができたのだった。いずれにしても、少年は、ふたりの関心をすっかり一身に集めてしまった。仕事は、すべて、中止のままだった。朝食も、ひどく間延びしたものになっていた。ハンスは、生徒用の長椅子に、Kは、一段と高い教壇のうえの教師用の椅子に、またフリーダは、そのわきの肘《ひじ》掛け椅子に、それぞれ、腰かけていたとはいえ、まるでハンスが先生で、口頭試問をし、ふたりの回答に判定点を付けているかのような光景であった。ハンスの柔和な口元に漂っている、仄《ほの》かな笑みは、その場のやり取りがただの遊びにすぎぬことを、少年自身もよく心得ていることを、それとなく示しているようではあったが、それにしても、少年のほうは、遊びであるだけに、一層本気になって、事の核心を突いて来た。もしかすると、彼の口元に漂っていたのも、けっして笑みごときものではなくて、少年時代の幸福感であったのかもしれない。なにを思ったのか、奇妙なことに、ハンスは、ひどく遅れ馳《ば》せに、Kがいつかラーゼマンのところに立ち寄ったときから、すでにKを識《し》っていたことを、やっと白伏したのだった。Kは、それを聞いて、喜んだ。
「すると、あのとき、女の人の足元で遊んでいたのが、君だったわけか」と、Kは尋ねた。「そうなのです」と、ハンスは答えた、「あれは、僕の母さんだったのです」そうなると、ハンスは、勢い、自分の母親の話をせねばならない羽目になった。しかし、ハンスは、ただ口|籠《ご》もるだけで、何度も何度も催促された揚げ句に、やっと話しはじめた。ところが、そのとき、分かったことだが、ハンスは、まだ年端もゆかぬ子供なのに、時折、特に質問をする場合などは、もしかすると、未来を予感していたのかもしれないし、それともまた、不安な思いで緊張しきっている聞き手のほうの錯覚のせいかもしれないが、不意に打って変わったように、まるで気力の充実した、分別豊かな、先見の明のある大人が話しているのではないかと、思わせることがあった。かと思うと、しかし、すぐまた一転して、ただの小学生徒に戻り、いろいろな質問にたいして、その意味を全く理解しなかったり、あるいは、誤解してしまったりしながら、幾たびそれが間違いだと注意されても、構うことなしに、そこは子供らしく相手のことを斟酌しないで、聞き取れないほどにひどく小声で話すのだった。そして、ついには、切実な質問をしつこくすると、まるで意地ずくでもと言わんばかりに、完全に口を鎖《とざ》してしまうのだった。しかも、困惑の色は、どこにも見えないのである。これは、大人ではとてもできないことであった。どうやら少年の意見では、質問を許されているのは、自分だけであって、他の人たちの質問は、なんらかの反則であり、時間の浪費でもあると、頭から決めてかかっているようなところがあった。少年は、相手の質問攻めに会うと、上半身を真っ直ぐに起こし、面を伏せ、下唇を突き出したまま、いつまででもじっとすわったきりだった。フリーダは、その様子がとても気に入ったらしく、しきりと少年に質問を浴びせた。そうすれば、少年をそのように押し黙らせておけると、期待したのだろう。確かに、彼女の図に当たったことも、何度か、あるにはあったが、しかし、Kは、そうした魂胆が気に食わなかった。いずれにせよ、全体的には、ほとんど大したことが聞き出せなかったのである。母親は、すこしばかり病身だとのことであったが、どのような病気を煩《わずら》っているのかは、はっきりと分からずじまいであった。ブルンスヴィック夫人が膝に抱いていた幼児は、ハンスの妹で、フリーダと言う名であった(自分に根掘り葉掘り問い質《ただ》そうとしている女性と同名だと言われて、ハンスは、嫌な顔をしていた)。ハンスの一族は、村に住んではいるが、ラーゼマンのところに寄寓していたわけではなかった。たまたまあのときは、入浴させてもらうために、揃ってラーゼマンの家を訪ねていただけであった。ラーゼマン家には、大きな盥《たらい》があって、そのなかで湯浴みしたり、追っ掛け合いしたりするのが、小さい子供たちにとって、と言っても、ハンスは、もうその仲間ではなかったが、格別な楽しみだったからである。父親のこととなると、ハンスは、畏敬の念を抱いているのか、不安を感じているのか、どちらとも分からなかったが、いずれにせよ、恐る恐る話していた。しかし、それさえも、母親のことが同時に話題になってないときに限られていた。母親に比べると、父親の値打ちのほうが、紛れもなく、低かった。とにかく、家庭生活についての質問は、どのように手を替え品を替えてその問題に近づこうとしても、すべて、答えが得られないままで終わった。父親の職業については、この村一番の靴屋であることが分かった。この道では、父親に比肩できる者は、どこにもいないらしく、これは、全く別の質問にたいする答えでも、幾たびとなく、繰り返していたことであった。父親は、ほかの靴屋たちにまでも、仕事を回してやったりしていた。例えば、バルナバスの父親も、そのうちのひとりだった。もっとも、バルナバスの父親の場合は、ブルンスヴィックが、ただ特別の好意でそうしているにすぎないようだった。すくなくとも、そのときハンスが誇らしげに顔を向けたことが、そのことを暗示していた。それを見ると、フリーダは、つい気をそそられて、ハンスのほうへ飛び降りて行くと、キスをしてやらずにはいられなかった。城へ行ったことがあるかという問いにたいしても、何度も同じことを問い詰めた揚げ句に、やっと、ハンスは、答えたが、それも、「いいえ」という一言だけの答えだった。同じ問いを母親についてしてみても、全然答えはしなかった。ついに、Kのほうが、うんざりしてきた。彼にも、そうした質問は、無益なように思われた。彼は、その点では、ハンスの態度を正しいと認めざるを得なかった。それにまた、こんなうぶな子供を出しに使って、遠回しに、家庭の秘密を探り出そうとする量見には、どことなく気恥ずかしいものがあった。そこまでしても、なにひとつ聞き出せなかっただけに、むろん、気恥ずかしさも倍であった。そこで、Kは、締め括《くく》りを付けるために、少年に向かって、手伝いを申し出てはくれたが、一体、なにを手伝ってくれるのかね、と尋ねた。すると、先生たちがKともうあれ以上喧嘩しないように、ここでお仕事を手伝いたいだけです、という返事であった。Kは、そのようなハンスの言葉を聞いても、もう驚きはしなかった。Kは、ハンスに言って聞かせた。そのような手伝いなら、必要ない。口|喧《やかま》しく叱りつけるのは、どうやら、先生の持って生まれた性分らしく、たといどんなにきちんと仕事をしても、まあ、おそらく、無事で済ませてはもらえないだろう。それに、仕事そのものだって、けっして重労働でもないしさ。きょう、仕事がまだすっかり済んでないのは、いろいろな偶然の事情の結果にすぎないんだよ。とにかく、先生に口喧しく叱りつけられたって、自分は、生徒でないし、生徒ほどにはこたえないね。黙殺するだけだ。ほとんど気にもしてないさ。それにまた、ごく近々のうちにあの先生とはすっかり縁切りできる目当てもあるしね。そんな訳で、先生をやっつける手伝いをしてくれるというだけのことなら、その気持ちは、とてもありがたいが、君は、やはり、教室へ舞い戻ったほうがいいよ。たぶん、今のうちなら、まだ罰を食わずに済むだろうしね、と。
Kは、ここで、教師をやっつけるための加勢だけなら、自分には必要ないということを、けっして力説したわけでなく、ただ思わず知らず仄めかしただけで、別個の手伝いについての問題には、わざと全く触れずにおいたのだが、ハンスのほうは、しかし、その点をはっきりと聞き分けて、もしかすると、ほかのお手伝いが必要なのではないでしょうか、とKに尋ねた。そして、僕としては、喜んであなたをお助けしたい。僕自身の手に合わなければ、母さんに頼んであげてもいいんです。そしたら、きっと、うまく行くでしょう。父さんだって、心配事があるたびに、母さんに助けを頼んでいるんです。それに、母さんも、いつでしたか、あなたのことを気遣って尋ねていました。母さん自身は、めったに外出しません。あのとき、ラーゼマンのところへ行っていたのは、例外にすぎないんです。僕は、ラーゼマンの子たちと遊ぶために、よく出掛けて行きますが。それで、母さんは、いつでしたか、僕に、もしかすると、あすこへまた測量師さんがお越しになっていたのじゃないのかい、と尋ねたんです。ところで、母さんは、からだがとても弱くて、疲れ切っていますので、みんなは、余計なことで母さんに気を揉ませることのないようにしてるんです。それで、僕も、ただ簡単に、あすこでは測量師さんをお見かけしなかったよ、と答えて済ませました。それっきり、そのことについては、母さんも、もうなにも言いませんでした。ところが、思いがけなく、この学校で、あなたを見つけたものですから、母さんに報告してあげようと思って、あなたに話し掛けずにはいられなかったんです。と言いますのも、母さんという人は、自分が心の中で願っていることを、はっきりと口に出して命令するまでもなく、だれかが叶《かな》えてくれるのが、大好きだからです。これが、ハンスの説明であった。
それを受けて、Kは、ちょっと考え込んでから、言った。今のところ、なにも助けてもらうことはないね。必要なものは、全部、揃っているよ。しかし、手伝ってあげようと言ってくれる君の気持ちは、とても嬉しい。君の好意にたいして、ハンス君、心からお礼を言うよ。後日、いつか、なにかが必要になってくるかもしれないし、そのときは、ぜひ君に頼むとしよう。君の住所なら、ちゃんと僕に分かっているしね。そのかわり、どうやらこのたびは、僕のほうが、ハンス君、すこしばかり助けてあげることができるかもしれないよ。君のお母さんのからだの具合がよくないというのに、当地では、だれひとりとして、そうした煩いにたいして見立てのできる者がいないらしいのが、どうも気の毒でならない。それ自体は軽い煩いであっても、そのように手当てをしないで放置しておくと、ひどく悪化する症例が、しばしば見られるんだよ。ところで、この僕には、多少なりとも、医学の知識があってね。そのうえ、もっとありがたいことには、治療経験だってあるのさ。医者たちがうまく直せなかった病気を、いくつか、この僕が手掛けて直してみせたこともある。それで、僕は、故郷にいたころは、僕の治療が効果あるというわけで、皆から、いつも、『苦い薬草』だなんて呼ばれていたくらいだからな。いずれにしても、君のお母さんに会って、話をしてみたいね。ことによると、なにかいい方策を授けてあげられるかもしれない。なに、ハンス君のためなら、それくらいのことは喜んでするよ。
こうしたKの申し出を聞きながら、初めのうちは、ハンスの眼が、生き生きと輝いていたので、Kも、思わずそれに釣られて、ますます差し出がましい口をきいてしまったが、しかし、その成果は、思ったようには上がらなかった。と言うのは、いくらいろいろと問い質しても、ハンスが、母さんはよほどからだをいたわらねばなりませんので、他人の訪問を受け付けないことにしているんです、と答えるだけで、そう言いながらも、大して悲しそうな顔をしなかったからであった。それに、あのときだって、あなたが母さんとほとんど言葉をお交わしにならなかったのに、母さんは、そのあと二、三日も、寝込んでしまったくらいなんです。こうしたことは、むろん、しょっちゅう、ありがちなんですけれども。ところが、あのときは、父さんのほうが、あなたにひどく腹を立てていました。ですから、父さんは、あなたが母さんのところへ来ることを、きっと、許しはしないでしょう。そう、そう、父さんは、あのとき、あなたを捜しに行こうとしたんです。あなたの態度のことで、あなたを責めるためにです。母さんだからこそ、それを止めることができたんです。それはともかく、なによりも、母さん自身が、大体において、だれとも会いたがらないんです。母さんがあなたのことを僕に尋ねたのも、そうした常例のけっして型破りではありません。全く反対なのです。母さんは、あなたに会いたいという望みがあったのなら、たまたまあなたのことに触れた機会に、すかさずそれをはっきりと口に出して言えたはずです。ところが、母さんは、それを洩らしもしませんでした。つまり、それによって、母さん自身の意志を明らかにした訳です。母さんは、ただあなたの消息が知りたいだけで、あなたと面と向かって話し合いたくはないんです。それにまた、母さんの煩いですが、あれは、実のところ、病気と言うほどのものでもありません。母さんは、自分の容態の原因をとてもよく知っていて、時には、それを仄めかしてもくれるんですが、それによりますと、母さんが耐えられないのは、どうやら、この地の空気のようです。かと言って、父さんや子供たちのためを思えば、この地を離れたくもないらしいのです。それにまた、以前よりは、確かに、よくなっていますので。
これが、ざっと、Kの聞かされた話であった。ハンスは、つい先ほどは、Kにたいして手伝いたいと広言しておきながら、今やそのKから、母親を守らねばならない段になると、彼の思考力は、著しく旺盛になって行くのだった。Kを母親に近づけないという、正当な目的のためには、ハンスは、幾つかの点で、例えば、病気に関してもそうであるが、自分自身の前言と矛盾するようなことをさえも、平気で言ってのけた。それにもかかわらず、Kは、今でも、ハンスが自分にたいして、あいもかわらず、好意を持ってくれていることに、気づいていた。ただハンスは、母親のこととなると、ほかのことをすべて忘れてしまうのであった。たといだれが母親と対抗する側に立とうと、即座に悪者扱いされるのである。今のKがそうであったが、しかし、例えば、父親にしても、同一視されかねなかった。そこで、Kは、この点を試してみようと思って、言った。お父さんが、そのようにして、お母さんを、どのような障害にも逢《あ》わさぬように、守っているとは、確かに、よく物の分かったお父さんだね。もっとも、この僕だって、あのとき、それに類したことを、たといおぼろげなりとも、感じていさえしたら、けっしてお母さんに無遠慮に話しかけるようなことはしなかったと思うよ。きょう、家へ帰ったら、遅れ馳せながらも、お詫びを申しあげておいてくれたまえ。それにしても、僕がどうしても腑《ふ》に落ちかねるのは、君の言うように、煩いの原因がすっかり明らかになっているのなら、どうしてお父さんが、お母さんを引き留めて、空気療養させてあげないのかということなのさ。どう考えたって、お父さんがお母さんを引き留めているとしか、言えないからね。だって、お母さんは、お父さんや子供たちがいるために、転地できないとのことだろう。ところが、子供たちは、お母さんが一緒に連れて行けばいいじゃないか。それに、そう長いあいだ、ひどく遠方へまでも、出掛けるに及ばないと思うよ。あの城山のうえへ登っただけでも、もう空気がすっかり違うからね。これしきの遠出の費用くらい、お父さんとて、大事あるまい。なにしろ、この村一番の靴屋だからな。それに、お父さんにしても、お母さんにしても、お母さんの世話を喜んでしてくれるような親類とか、あるいは、知人たちが、きっと、城にはいるはずだよ。どうしてお父さんは、お母さんを療養に出してあげないんだろう。まさかお父さんがあのような煩いを軽く見くびっている訳でもあるまいし。僕なんか、ほんのちらと、お母さんをお見受けしただけなんだが、それでも、あの目立つ顔色の蒼《あお》ざめ方と、あの著しい衰弱ぶりとには、つい心を動かされてしまって、お母さんに声をかけたくらいだからな。すでにあのときも、お父さんが、大勢のごった返している浴室兼洗濯場の悪い空気のなかに、病身のお母さんを放ったらかしておいて、自分は、なにひとつ遠慮もしないで、大声で喋《しゃべ》り立てていたのを見て、なんとも不思議でならなかったのだが。お父さんには、なにが問題なのかが、どうも分かってないらしいな。病気のほうも、どうやら、最近は、よくなっているらしいが、それにしても、ああいう煩いは、なかなか気紛《きまぐ》れなんでね。今のうちに闘病しておかないと、ついには、力を結集して、どっとぶり返して来るものなのだ。そうなると、もう手の施しようがない。僕としては、たといお母さんと話ができなくても、お父さんとでも会えたら、こういったことを、委細残らず、お父さんに注意してあげられるだろうし、たぶん、ためになると思うんだがな。
ハンスは、緊張して、右のようなKの話に、耳を傾けていた。大部分は、理解できたようであったが、残りの理解できない部分が、なにやらおどし文句のように、ひどく応《こた》えたらしかった。それにもかかわらず、ハンスは、父さんとはお話しできないでしょう、父さんは、あなたを嫌っているようですし、たといあなたが会いに行かれても、先生と同じような扱い方をするのが、どうやら、落ちでしょう、と言った。ハンスは、これだけ言うのにも、Kのことを言うときは、微笑を浮かべながら、おずおずとした口調であったし、父親のことに触れるときは、苦虫を噛《か》みつぶしたように、悲しげな口調であった。それでも、やはり、ハンスは、言葉を続けた。あなたは、もしかすると、母さんとなら話ができるかもしれません。もとより、父さんには内密でないといけませんが。そこまで言いかけて、ハンスは、さながら禁じられた遊びをしようとする女が、罰せられずに、それを実行できる便法を探そうとするときのように、一点を見据えたまま、しばらく、考え込んだ。そして、言い添えた。もしかすると、あさってなら、その機会があるかもしれません。父さんは、晩になると、貴紳閣へ出掛けます。あすこで、相談事があるのです。そういうわけで、僕が、晩になると、ここへ来て、あなたを母さんのところへ案内しましょう。むろん、母さんが同意してくれたうえでの話ですし、この点は、まだ今のところ、とても望み薄なんですが。なによりも、母さんが、父さんの意に背くようなことは、一切、しないからなのです。母さんは、何事によらず、僕でさえ理不尽な点がはっきりと見抜けるようなことであっても、父さんには絶対服従です。
そう言うところを見ると、ハンスは、本気で、Kに、父親の始末をつけるための加勢を求めているのだった。今までひとり勝手に思い違いをしていたような顔付きだった。ハンスは、自分ではKを助けているものとばかり、思い込んではいたものの、実際には、昔から顔なじみの周囲の人たちが、だれひとりとして、頼りにならないと分かった以上、この突然に現れた余所者なら、母さんだって口の端に掛けていたくらいだし、もしかすると、力になってくれるかもしれないと、探りを入れようとしていたからであった。それにしても、ハンスは、なんと本能的に隠し立ての巧みな、陰険に近い少年だろう。この点は、これまで、ハンスの態度や話しぶりから、ほとんど推測さえもできなかったことであった。偶然と故意との協働によって、まんまと引き出すことのできた、この文字どおり遅れ馳せな告白を聞いて、Kは、やっとそれに気づいたのである。ところで、ハンスは、Kと長話を続けながらも、どのような難点を克服せねばならぬかを、しきりと考えていた。それは、ハンスがいくら骨折っても、ほとんど克服しがたい難点ばかりであった。彼は、すっかり思案に沈みながらも、助けを求めるように、不安げに瞬《またた》きしながら、絶えず、Kを見詰めていた。父さんが出て行くまでは、母さんになにも言えない。でないと、父さんの耳に入って、なにもかもがおじゃんになってしまう。とすると、父さんが出て行くのを待って、やっと切り出すほかはない。しかし、そのときでも、母さんのからだを顧慮して、不意に口早に伝えたりせずに、ゆっくりと、頃合いを見て、言わなければいけない。そして、先ず、母さんの同意を仰がなければならない。それから、やっと、Kを迎えに行くことができる訳だが、しかし、それでは、すでにもう遅すぎて、すでに父さんの帰宅の時刻が迫っていはしないだろうか。そうだ、どう考えても、無理なことだ。
ハンスのそうした意見に反対して、Kは、けっして無理なことではないということを立証した。時間が足りないなんて、そんな心配は、無用だよ。ちょっと会って、ちょっと話しさえすれば、事足りるんだ。それに、君が、わざわざ、僕を迎えに来てくれなくったっていい。僕は、君の家の近くのどこかで、隠れて待っていて、君の合図があり次第、すぐに訪ねるとしよう。それを聞くなり、ハンスは、とんでもありません、と言った。家のそばで待つことだけは、禁物です――またしても、母親のこととなると、彼は、すっかり神経質になってしまうのだった――。母さんの了解もなしに、出掛けて来てくれては困ります。母さんには内緒で、あなたとそのような協定をしておく訳にはゆきません。ここは、どうあっても、僕があなたを学校からお連れします。そのまえに、母に知らせて、許可を貰いますから、それまでお待ちになっていてください。Kは、いいとも、と言った。しかし、そうなると、本当に危険だな。僕が現場で不意にお父さんに捕《つか》まえられる可能性だってあるからね。たといそういうことにならないにしても、お母さんとしては、そういうことを案じて、僕の訪問をけっして許しはしないだろう。そうなると、なにもかもが、やはり、お父さんのせいで、頓挫《とんざ》してしまう訳だ。ハンスは、そのような意見にたいして、反対を唱えた。こうして、ふたりのあいだでは、甲論|乙駁《おつばく》のやり取りが続いた。
Kは、すでに先刻来、ハンスを、長椅子のところから教壇のほうへ呼び寄せて、両膝のあいだに引き入れ、時折、宥《なだ》めるように、ハンスの頭を撫でてやっていた。こうして身近にいたお陰で、ハンスが時には渋ったにもかかわらず、やはり、ふたりのあいだに了解が成立するにいたった。結局、次のようなことで、合意を見たのである。つまり、ハンスが、先ず、母親にありのままの真実を話す。とは言え、その際、母が気軽に同意できるように、Kがブルンスヴィックともじかに話したがっていること、それも、むろん、母親のためではなく、K自身の要件のためであるということを、付け加える。この付言は、確かに、正しかった。話を続けているあいだで、Kが思いついたことだが、ブルンスヴィックは、平生《へいぜい》は意地の悪い危険人物であるにしても、もうKの敵ではけっしてないはずである。いや、それどころか、すくなくとも村長の伝えたところによれば、政治的な理由からにせよ、測量師の招致を要求していた一味の首領でさえあった。それゆえ、Kが村に到着したのは、ブルンスヴィックにとっては、歓迎すべきことだったに違いない。とすると、あの第一日目の木で鼻をくくったような挨拶とか、ハンスが話していたKへの嫌悪とかが、むろん、どうも腑に落ちない。もしかすると、ブルンスヴィックのほうでは、Kが真っ先に彼に助力を求めに行かなかったので、てっきりそのことで感情を害しているのかもしれない。あるいは、ほかに、二言か三言、訳を言えば、解けるような、なにか誤解があるのかもしれない。いずれにせよ、誤解が解けさえすれば、Kは、きっと、あの教師にたいしても、いや、あの村長にたいしてさえも、ブルンスヴィックを後楯《うしろだて》にすることだってできるようになるだろう。さすれば、村長と教師とが、Kを城の各当局へ近づけまいとして、Kに無理やりに学校の小使役を押しつけてしまった、あの職権濫用の欺瞞行為も――あれが、欺瞞行為でなくて、なんであろう――、摘発されるにいたるだろう。そして、ブルンスヴィックと村長とのあいだで、Kをめぐつての戦いが、改めて始まるようになれば、ブルンスヴィックは、Kを味方に引き入れるに違いない。すると、Kは、ブルンスヴィック家に客となることもできるだろうし、村長に対抗するためなら、ブルンスヴィックが握っている強力な手段をも、自分の意のままに使わせてくれるようになるだろう。それによって、どこまで鰻《うなぎ》登りに成功するか、とても測り知れないし。いずれにしても、あの夫人にはしばしば近づけるだろう――このように、Kは、空想をもてあそび、また空想が、Kをもてあそんでいた。
一方、ハンスは、ひたすら母親のことをのみ思いつづけながら、Kの沈黙をひどく気遣わしげに見守っていた。それはちょうど、ある重患のためになにか特効薬を見つけようとして、深く物思いに沈んでいる医者をまえにして、患者がする仕草に似ていた。測量師の身分のことで、ブルンスヴィックにお目にかかりたい、ということにしようというKの提案に、ハンスは、同意した。むろん、ハンスは、それによって、母親を父親から守れるばかりでなく、そうした口実も、ただ万一の場合に備えてのことで、たぶん、そうした事態は生じないだろうと、思ったからであった。ハンスは、さらに念のため、Kが晩遅くなっての訪問を父親にどのように説明するのかを、尋ねた。それにたいして、Kが、耐えきれない小使職と先生の屈辱的な処遇とで、急に自暴自棄になり、前後の見境がなくなってしまったためだ、と答えることにすると言うと、ハンスは、すこしばかり顔を曇らせていたが、結局は、Kの言葉に満足した。
さてこのようにして、見通せる限りのことは、すべて、事前に考慮し尽くして、すくなくとも成功の可能性がもはやなきにしもあらずということになると、ハンスは、深い物思いの重荷から解放されて、一段と朗らかになり、なおしばらくは子供に返って、先ずKと、そしてまたフリーダとも、雑談を続けていた。フリーダは、ずっと、全く別の思いに耽《ふけ》っているかのように、その場につくねんとすわっていたのだが、今やっと、また話に加わりはじめたのだった。彼女が、とりわけ、ハンスに尋ねたのは、将来、なにになりたいか、ということだった。ハンスは、大して考え込みもせずに、Kのような人になりたいです、と答えた。そこで、その理由を聞かれると、ハンスは、むろん、返事に窮した。例えば、学校の小使みたいなものになりたいのか、と問いただされると、きっぱりと否定の返事をした。さらに問い詰めてゆくうちに、ハンスが、どのような回り道をして、そのような望みに達したかを、やっと見抜くことができた。Kの現在の立場は、けっして羨むべきものでなくて、むしろ、哀れで、下劣なものである。そのことは、ハンスも、きちんと見て取っていて、わざわざそのことを悟るために、ほかの人たちを観察するまでもなかった。ハンス自身だって、現在のKが母親に会って話しかけたりするのを防ぎたいのは、山々だったくらいである。それにもかかわらず、彼は、しかし、Kのところへやって来て、Kに助力を求め、Kが同意すると、喜んだ。ほかの人たちの場合だって同じような点があれば、きっと見抜くことができると、彼は、ひとり思い込んでいた。それに、この場合は、なによりも、母親自身だって、Kのことを口にしていたのである。このような矛盾から、ハンスの内部に生まれたのが、今でこそ、なるほど、Kは、まだ卑しくて、目も当てられないが、遠い将来には、むろん、それは、ほとんど想像もつかないような遠い先のことだが、きっと万人を凌駕《りょうが》する人物になるだろうという、信念であった。そして、ほかでもなく、この全くばかばかしいほどに遠い将来と、そこにいたるまでの堂々たる発展とが、ハンスの心を魅了したのである。それで、この将来の価格を出してまでも、ハンスは、目をつぶって、現在のKを先物買いしようとしていたのだった。こうした望みには、ひどく、子供らしくて、しかも、ひどくませたところがあった。それは、ハンスがKをまるで自分よりも年少者のように見くだして、その年少者の前途のほうが、まだ年端もゆかぬ少年であるハンス自身の前途よりも、はるかに長いと思っている点であった。しかも、フリーダの矢継ぎ早な質問を浴びて、彼が、止むなく、こうしたことについて語る口調には、どこか陰鬱に近い真剣味さえも、籠もっていた。やがて、Kが、ハンスに向かって、君が僕のなにを羨んでいるのか、僕には分かっているよ、この美しい節くれ立ったステッキだろう、と言ったときになって、初めて、ハンスは、元の朗らかさを取り戻した。現に、そのステッキは、眼前の机のうえに置いてあって、ハンスは、話のさなかも、それを無心にもてあそんでいたのだった。そこで、こんなステッキを作るくらい、僕は、訳ないんだよ、僕らの計画がうまく行ったら、君にもっと美しいのを一本作ってあげよう、と、Kは言った。すると、ハンスの意中には、本当に、ステッキだけしかなかったのではないかと、怪しまれるほどに、ハンスは、Kの約束に大喜びして、上機嫌で別れを告げた。むろん、そのとき、Kの手を固く握りしめて、「では、またあさってに」と、言うことを忘れなかった。
ハンスが立ち去ったのは、いい潮時だった。と言うのは、それから間なしに、教師が、いきなりドアを開けて、Kとフリーダがゆっくりと食事中なのを見ると、怒鳴ったからである、「邪魔して済まないが、一体、いつになったら、ここの掃除が終わるんだね。あちらでは、ぎゅうぎゅう詰めですわらねばならず、授業も、ろくすっぽできないというのに、こちらの大きな体操教室じゃ、おまえが、のうのうと羽根を伸ばしてさ。それでも、まだもっと場所が欲しいのか、助手たちをも追っ払ったじゃないか。せめて今からでもいい、腰を上げて、働くんだ」それから、Kにだけ向かって、「おまえは、これから橋亭へ行って、私の昼食を取って来るんだ」教師は、怒りたけったように、わめき散らしていたが、言葉遣いは、それ自体ぞんざいな「おまえ」という呼び方をしていても、割合に穏やかだった。Kは、すぐに言いつけどおりにする心算ではあったが、ただ教師に鎌をかけてやろうと思って、言った、「僕は、しかし、首になったはずですが」「首になろうと、なるまいと、私の昼食を取って来るんだ」と、教師は言った。「首になったのか、なってないのか、僕が知りたいのは、そこなんです」と、Kは言った。「なにを減らず口をたたいているんだ」と、教師は言った、「だって、おまえは、解雇通告を受諾しなかったじゃないか」「すると、解雇通告を無効にするためには、それだけで十分なのですね」と、Kは尋ねた。「私は、十分とは思っちゃいない」と、教師は言った、「このことは、私の言うほうを信じてくれて差し支えないが、しかし、村長のほうは、どうやら、十分だと思っているらしい。なんとも合点のゆかない話だが。とにかく、一走りしてくれないか。でないと、本当に、首が飛ぶよ」
Kは満足だった。すると、教師は、そうこうしているあいだに、村長と相談を済ませていたんだな。あるいは、相談なんかしないで、どうせ村長の意見は十中八九こうだろうと、自分勝手に解釈していたにすぎないかもしれないぞ。どのみち、そうした意見なら、Kには有利な内容だった。そこで、Kは、すぐにでも、駆け足で昼食を取りに行こうと思った。ところが、廊下へ出たと思ったら、すぐまた教師に呼び戻された。教師は、今後の目安にするために、このような特殊な用事を言いつけて、Kの精勤ぶりを、ただ試そうと思っただけなのだろうか。あるいは、またしても、号令を改めてかけたくなって、Kを急いで駆け出させたかと思うと、また命令を下して、さながら給仕同然に、急いで舞い戻らせるのが、楽しくなったのだろうか。Kのほうでは、あまり教師の言いなりになりすぎていると、ついには教師の奴隷か身代わりにされるかもしれない危険を、篤《とく》と承知してはいたが、今のところは、しかし、ある限度まで、教師の気紛れを気長に甘受してやる心算だった。と言うのは、教師が、つい今しがた判明したように、Kを合法的には解雇できないにしても、Kの勤めを耐えがたいほどにひどく苦しいものにすることぐらいは、きっと、訳ないことだったからである。しかも、この勤め口は、Kにとって、今では、以前よりも、大切なものになっていた。ハンスとの話で、Kには、新しい希望が湧《わ》いていた。その希望は、正直なところ、夢よりもはかなく、全く根拠すらもなかったのだが、もう忘れられないものとなっていた。バルナバスさえも、ほとんどその希望の影に隠れるくらいだった。その希望を追って行くとすれば、それよりほかに術《すべ》はなかったのだが、彼は、全力をそれに集中して、ほかのことには、一切、気を使ってはならなかった。食事のことも、住まいのことも、村当局のことも、いや、それのみか、フリーダのことも、放念しなければならない。それにしても、結局、問題なのは、フリーダのことだけであった。ほかのことは、すべて、フリーダと関連があればこそ、彼としても、気にかけずにはいられなかったからである。それゆえ、彼は、フリーダを多少でも心強くしているこの勤め口をば、どうしても保持して行くように努めねばならない。この目的を顧慮すれば、教師のことで、これまで虫を殺して耐えてきた以上に、我慢したとて、なにも後悔するには当たらないだろう。そんなことぐらい、大して辛《つら》いことでもない。人生における不断の些細な厄介事のたぐいにすぎない。Kが志していることに比べれば、なんでもないことである。それに、Kとしても、高潔な生活を平穏に送るために、この地へやって来たのではなかったはずであった。
そこで、彼は、すぐに飲み屋へ一走りしようとしたが、すぐまた、命令変更に応じて、女教師が受け持ちのクラスを連れてこちらへ帰って来ることができるように、先ず、教室の整頓にかかることになった。しかも、整頓は、ひどく急いで済まさねばならなかった。そのあとで、やはり、昼食を取りにやらされることになっていたからである。教師は、すでに先刻から、しきりと、ひどい空腹と喉《のど》の渇きとに悩まされていた。Kは、万事、お望みどおりにしますから、と請け合った。教師は、Kが急いで、寝所を片付け、体操器具を正しい位置へ押し戻し、途方もない早業でごみを掃き出しているさまを、しばらく、眺めていた。その間に、フリーダが、せっせと教壇を洗って、擦り磨いていたのである。その熱中ぶりに、教師は、満足げであった。彼は、さらに、ドアのまえに暖房用の薪を一山用意して置くようにと、注意した――彼は、どうやら、Kをもう納屋へは自由に行かせたくないらしかった――。それで、間もなくまた戻って来て、検査するから、とおどし文句を残して、生徒たちのほうへ引き返して行った。
しばらくは黙々と仕事を続けていたが、そのうちに、フリーダが、どうしてあなたは、今ごろになって、そのように先生の言葉に唯々諾々と従われるのですか、とKに尋ねた。おそらく、Kの身を思いやり、心配でならなくなっての質問であろう。しかし、フリーダが、最初は、教師の命令や横暴からKを守ってあげると約束しておきながら、その約束どおりにほとんどやれてないことを、Kは、思い浮かべて、ただ手短に、こうして、一旦、学校の小使になった以上は、その職責を、やはり、果たさなければならないのだ、と答えた。それから、また元の無言の静けさに返った。そのうちに、Kは――その短い対話がはしなくも切っ掛けとなって、フリーダがもう最前から、わけてもハンスと話し合っていたあいだはほとんどずっと、気遣わしげに思いに耽っていたらしいことを、思い出して――せっせと薪を運び込みながらも、彼女に、一体、なにをそう考えているんだい、と単刀直入に尋ねた。フリーダは、やおらKのほうを見上げながら、特にどうと言うことじゃないの、ただ女将さんのことを思い出し、女将さんの言葉のいくつかが本当だったことを考えているだけなの、と答えた。さらにKがしつこく問い質すと、彼女は、再三にわたって拒んだ末に、やっと詳しく答えはじめた。しかし、そのあいだも、仕事の手を休めなかった。なにも仕事に精を出している訳ではなかった。現に仕事は、そのあいだに、すこしも捗《はかど》ってはいなかった。ただそうしていれば、Kの顔を正視しなくても、けっして不自然ではなかったからである。ところで、フリーダの話というのは、こうであった。
わたしは、あなたがハンスと話し合っていらしたとき、最初のあいだは、冷静に耳を傾けていましたわ。そのうちに、あなたの二言か三言にはっと肝を冷やしてしまって、それからは、お言葉の意味をもっと明確に把《とら》えるようになりはじめましたの。そうなると、もう留めどなくなって、女将さんがわたしにしてくだすった警告を、それが正当だとは、わたしだって、信じたくはなかったのですけれど、あなたのお言葉が、次から次へと、裏書きなさっているように、聞こえてなりませんでしたの。こうしたフリーダの打ち明け話を聞くと、Kは、そのお座なりな言い回しが癇《かん》に障り、涙ながらに愚痴る声にも、心を打たれるどころか、苛立《いらだ》たしいほどに腹を立てて――とりわけ、女将がまたしても彼の生活に介入して来たことが、これまで、女将がじきじきに乗り出したのでは、ほとんど成功しなかっただけに、今度は、せめて思い出と言う形を取ってでも、介入しはじめて来たことが、彼には、ひどく癪《しゃく》に障ったのだった――彼は、腋《わき》に抱えていた薪を床《ゆか》のうえに投げ出すと、そのうえに腰を掛けて、言葉も厳しく、はっきりと洗いざらい説明してくれ、と言った。
「これまで幾たびとなく」と、フリーダは話しはじめた、「もう馴《な》れ初《そ》めのときからですけれど、女将さんは、わたしにあなたへの疑心を植えつけようとして、骨を折って来ました。別に、あなたが嘘つきだと、言い通していた訳じゃないんです。それどころか、丸っきり反対なの。女将さんは、言っていました。あなたは、子供のように率直な方だ、と。でも、あの方の人柄は、わたしどものと、ひどく違っているので、あの方が腹蔵なしに話していてくれるときでも、わたしどもは、よほどの自制ができてない限り、なかなかあの方の言葉を真に受けられないものだよ。だれか、親切な女友達でもいて、わたしたちを早目に救ってくれさえすれば、ともかくも、でなければ、苦い経験を嘗《な》めて、初めて、あの方の言葉を信じる習慣を身につけるほかないのさ。人を見る眼の鋭いはずの、このわたしだって、同じような思いをして来たんだからね、と。ところが、橋亭であなたと最後に話し合ってからは、女将さんも――わたしは、ただ、女将さんの毒舌を受け売りしているだけですのよ――、あなたの術策を見抜いていたそうですわ。今なら、たといあの人が一所懸命に自分の下心を隠そうとしたって、わたしは、もうあの人にはだまされっこないわ、と言うんです。でも、あなたは、なにも隠したりしないわね。これは、女将さんも、繰り返し言っていました。それから、女将さんは、こうも言っていました。とにかく、いつでもいいから、気が向いた折に、性根を据えて、あの人の言うことに本当に耳傾けてごらん。ただ上っつらだけを聞くんじゃなくて、いいかい、本当に耳を傾けるんだよ。わたしにしても、それ以上のことは、なにもしなかったんだけれど、耳傾けているうちに、あんたのことについて、ざっと次のようなことを聞き出したのさ。つまり、あの人があんたに言い寄ったのは――女将さんは、こんな嫌らしい言葉を遣いましたの――、あんたが、たまたま、あの人にばったり出くわしたとき、満更でもない女だと思われたのと、酒場の娘なんてものは、どんな客でも、手を出しさえすれば、すぐに身を捧げてくるものと相場が決まっているように、あの人がひどく思い違いをしていたからにすぎないんだよって。それにまた、女将さんが貴紳閣の主人から聞いた話によりますと、あなたは、あのとき、なんらかの理由から、貴紳閣にお泊まりになりたかった。それには、むろん、わたしを出しに使って目的を達するほかに、術がなかった。あなたがあの一夜だけのわたしの恋人に成りすます動機は、もうこれだけで十分だって。ところが、一夜の戯れに終わらないで、言わば、瓢箪《ひょうたん》からさらに駒が出るためには、この駒もまた必要であり、そして、この駒がクラムであった、と言うんです。もっとも、女将さんは、あなたがクラムからなにを望んでいるかを、知っているとは申しておりません。ただ、女将さんは、あなたが、わたしを識る以前から、識った以後と同じように、しきりとクラムに近づきたがっていたと、言っているにすぎないんです。そして、以前と以後とを比べて、あなたは、以前は、切望しておられたのに、今では、しかし、近々のうちに、大手を振ってさえも、クラムのところへ、実際に、罷り通ることのできる確かな手段を、わたしを掴むことによって、握っていると、思い込んでらっしゃるという点に、相違があるだけだと、言っている訳です。
それにしても、きょう、あなたが、当地へ来て、わたしを識るまでは、途方に暮れていた、とおっしゃったときは、わたしも、驚きましたわ――でも、最初の一瞬、ちょっと驚いただけで、別に深い理由があった訳でもありませんけれど――。たぶん、それと同じような言葉を遣って、女将さんも、言っていたように思いますの。さらに、女将さんの言うところによれば、あなたは、わたしを識ってから、初めて目的を意識するようになったそうよ。そうなったのも、あなたが、わたしというクラムの恋人を物にすることによって、途方もなく高い値段でしか請け出せないような人質を持っていると、思い込んでいらっしゃるからだって。つまり、この値段についてクラムと取り引きするのが、あなたの唯一の意図だ、と言うの。あなたにとって、わたしなんかは、物の数ではなくて、肝心なのは、値段のほうだから、あなたは、わたしの身に関しては、だれの頼みにも喜んで応じる心算でいるが、いざ、値段のこととなると、ひどく強情を張って、譲らない。これが、女将さんの意見なんです。それで、わたしが貴紳閣での勤め口を棒に振っても、あなたは、平気でいらっしゃり、またわたしが橋亭をも立ち退《の》かねばならなくなっても、平気でいらっしゃり、ついには、わたしまでが、小使の重労働をも引き受けねばならない羽目にいたっても、平気でいらっしゃる訳が、分かったわ。あなたは、情けを知らない人ね。それどころか、片時だってわたしを構っちゃくださらないで、わたしを助手たちに任せっきりになさるんですもの。あなたは、焼き餅をさえもお焼きになったことがない。あなたにとっては、わたしがクラムの恋人だったということが、わたしの唯一の価値なのね。それで、あなたは、御自分では気づいてらっしゃらないかもしれないけれど、ついに切羽詰まった時点になって、わたしが不承不承にでも聞き分けるように、わたしにクラムを忘れさせまいとして、一所懸命になっておられるんですわ。かと思うと、あなたは、女将さんとも喧嘩をなさったりして。わたしをあなたから引き裂くことのできるのは、女将さんしかないと、あなたは、ひとり勝手にお思い込みになって、そのために、女将さんを相手どって、とことんまで喧嘩に花を咲かせた揚げ句の果ては、わたしを連れて橋亭を出なくちゃならなくなったんですからね。ただわたしに関する限りは、どんなことがあっても、わたしがあなたの所有物であることには変わりはないとして、あなたは、すこしもそれに疑いをお持ちになったことがない。そして、クラムとの話し合いを、現金取り引きによる一種の商行為と、考えてらっしゃる訳ね。
あなたは、ありとあらゆる可能性を計算に入れてらっしゃる。所期の価格が得られると予測なされば、あなたは、どんなことをでもなさるお覚悟なんだわ。クラムがわたしを欲しがれば、わたしをクラムにお渡しになるでしょうし、クラムが、もしかして、わたしのそばに居てやってくれ、と言えば、あなたは、わたしのそばに居てくださるでしょうし、わたしを捨ててしまえ、と言えば、わたしを捨ててしまわれるでしょう。しかも、あなたは、狂言を演じたって構わないとさえ、思ってらっしゃる。それで、成り行き次第で、こうするほうが有利らしいとなれば、あなたは、心にもなく、口先だけで、わたしを愛していると、おっしゃるでしょう。そして、クラムが平然としていれば、あなたは、御自分の下らなさをことさらにむき出しにし、そんな男の尻をこんな女が追っているという事実を突きつけることによって、クラムに赤恥をかかせるとか、あるいは、クラムについてのわたしの愛の告白、これは、わたしが実際にしましたので、いたしかたないんですけれど、それをお取り上げになって、クラムに伝達され、フリーダを元どおり迎え入れてやってほしい、とクラムにお頼み込みになるとかして、クラムの無関心ぶりを叩き潰そうとなさるでしょう。むろん、後の場合は、クラムに所期の金額を払わせる訳ですが。そして、さらに、どのような手を使っても、ついに、駄目だと分かると、そのときは、K夫妻の名で、あなたは、クラムに無心を言われるでしょう。ところが、そのうちに、これが、実は、女将さんの結論だったのですが、あなたが、なにかにつけて、御自分で想定してらしたことも、希望してらしたことも、クラムについてやわたしにたいするクラムの関係について想像してらしたことも、すっかり思い違いだったことが、はっきりとお分かりになってくれば、そのときこそ、わたしの地獄の始まりなんですわ。と言いますのも、そのときになって、やっと、わたしは、あなたがいつまでも頼りになさる、あなたの唯一の所有物になる訳ですからね。でも、同時に、それは、全く無価値なことがすでに立証済みの所有物ですし、あなたは、この無価値な所有物を、それ相応にしか、扱ってはくださらないでしょう。だって、あなたは、わたしにたいして、所有物としての感情のほかに、どんな感情をもお持ちになってないんですもの」
Kは、緊張して、口をすぼめたまま、耳を傾けていた。腰かけていた薪の山が、そのうちに、崩れて、薪がごろごろと転がりはじめ、Kは、あやうくすベって床に尻餅をつくところであったが、そんなことにかまけてはいなかった。フリーダの話が終わると、彼は、やっと立ち上がって、教壇に腰をかけ、フリーダの手を取って言った。フリーダは、力なくその手を引っ込めようとした。
「今の話を聞いていると、おまえの意見だか、女将の意見だか、どうも、区別のつかないところがあったよ」「女将さんの意見だけをお伝えしたんですわ」と、フリーダは言った、「わたしは、女将さんを尊敬していますので、細大漏らさずに耳を傾けてまいりましたの。でも、わたしが女将さんの意見を頭から撥《は》ね付けたのも、あれが、生まれて初めてでしたわ。女将さんの言っているのが、どれも、これも、ひどく下らないことのように思えて、わたしたちふたりがどんな具合なのか、てんで理解してくれてないように感じましたの。むしろ、あの人の言っていることの正反対のほうが、わたしには、正しいように思えたくらいですもの。わたしは、ふたりで初めて一夜を明かしたあとの、あの物悲しい朝のことを、ふと思い出しました。あなたは、あのとき、わたしのわきに跪いて、もうこれでなにもかもが台無しになってしまったかのような眼付きをなさっていましたわね。それにまた、実のところ、それからは、わたしがどんなに一所懸命になっても、あなたの助けになるどころか、あなたの邪魔にばかりなるような形勢が、続きましたものね。現に、わたしのことで、女将さんは、あなたの敵になってしまいましたし。そうなると、あなたは、今でもあいかわらず、軽く見くびってらっしゃるけれども、あれは、あれで、したたかな敵なのよ。それに、あなたは、わたしの身をこのように心配してくださって、わたしのために、この今の勤め口を手に入れようとして、孤軍奮闘せねばなりませんでしたし、村長さんにたいしては不利な立場に回り、あの先生にも服従せねばならなくなりましたし、またあの助手たちの嬲《なぶ》り物にさえもなってしまわれました。でも、最も困ったことは、あなたが、わたしのために、クラムにたいして不法を働いているかもしれないことなの。あなたが、今まで、しきりとクラムに会いたがっておられたのも、実は、クラムの心をなんとかして宥《なだ》めようとする、甲斐《かい》ない努力にすぎなかった訳よ。それで、わたしは、わたしの心に言い聞かせました。こういうことにかけては、わたしなんかよりも、ずっと物分かりが言いに違いない女将さんのことだから、なにかとわたしに耳打ちしてくれて、せめてわたしがひどく惨めな自責の念に駆られるようなことだけはないようにしてくれる心算だろう。それにしても、親切には違いなくっても、余計なお節介だわ、と。本来なら、あなたにたいするわたしの愛が、わたしを助けて、あらゆる困難を乗り越えさせてくれていなければならないところでした。そして、その愛が、ついには、あなたをも立身出世させていたはずでした。たといこの村においてでなくとも、どこかほかの土地でね。すでに、この愛の力は、実地で証明済みでした。だって、バルナバス一家から、現にあなたを救っていたんですもの」
「では、それが、当時のおまえの反対意見だった訳だな」と、Kは言った、「すると、それ以後、どこが変わったんだね」「自分でも分からないの」と、フリーダは、言って、自分の手を掴んでいるKの手を見詰めた。「もしかすると、どこも変わってないかもしれないわ。あなたがこうしてわたしの間近にいられて、そのように物静かにお尋ねになると、どこも変わってないような気がして来ますの。でも、実のところは」――そのとき、彼女は、Kの手から自分の手を振りほどくと、Kと向き合って正座し、顔を隠そうともしないで、堰《せき》を切ったように泣き出した。そして、一面に涙で濡れた顔をあらわに彼のほうへ差し向けていた。さながら彼女自身のことで泣いているのではないから、なにも隠すに及ばない、Kの裏切りが情けなくて泣いているのだから、彼にとっても、彼女の涙の色を見る辛さぐらいは、当然の報いだと、言わんばかりであった――。「でも、実のところは、あなたがあの少年と話してらっしゃることを耳にしましてからは、なにもかもが、変じてしまいましたわ。あなたは、いかにも邪心なげにお切り出しになって、あれこれと、家庭事情をお尋ねになっておりました。そのとき、ふとわたしには、あなたが、いかにも如才なく、打ち解けた態度で、つかつかと酒場へ入って来られて、まるで、子供のように一心に、わたしの眼差を捉《とら》えようとしておられたときの御様子が、今のことのように、心に蘇って来たような感じがしましたの。あのときと比べて、すこしも違ったところがありませんわ。それで、ああ、あの女将さんさえ、この場に居てくれたらいいのに、そして、あなたのお言葉に聞き入って、それでもなお、女将さんの日ごろの意見を固守するようだったら、わたしも、心を固めることができるのにと、わたしは、思ったくらいでした。ところが、そのうちに、突然、どうしたはずみか、自分でも分からないんですけれど、わたしは、ハンスと話しておられるあなたの意図がどこにあるのか、悟ったのです。あなたは、同情した言葉を遣って、容易には掴めない、あの少年の信頼を、巧みに掴んでしまいました。それからは、無礙《むげ》に、あなたの目標に向かって、一路|邁進《まいしん》すればいい訳です。そのあなたの目標が、しだいにはっきりと、わたしにも見破れるようになりました。目標は、あすこの夫人だったのです。いかに上辺《うわべ》は夫人の身を案じているように取り繕ってはおられましても、あなたのお話は、あなたに自分の仕事にたいする顧慮だけしかないことを、ひどくむき出しにしていました。あなたは、あの夫人の心をお掴みにならないうちから、夫人をだましてしまわれたのですわ。わたしは、あなたのおためごかしの言葉から、わたしの過去だけではなく、わたしの未来をも、はっきりと聞いているような思いがしていました。なんだか女将さんがわたしのわきにすわって、一から十まで説明して聞かせてくれているのに、わたしは、全身の力を絞って女将さんを押しのけようとしている、しかも、そうした努力の空《むな》しさがはっきりと眼に見えているという、そんな気持ちでしたの。とは言いますものの、実際に、だまされたのは、もはや、このわたしじゃなくて――もう、わたしは、けっしてだまされたりしませんもの――、余所の奥さんだったんです。それでも、わたしが気を取り直して、将来、なにになりたいか、とハンスに尋ねますと、ハンスは、あなたのような人物になりたい、と答えました。とすると、ハンスは、もう完全に、あなたの薬寵中の物に成り切っていた訳です。そうなれば、ここで誘惑された、あの善良な少年ハンスと、酒場にいた当時の、このわたしとのあいだに、一体、どのような大きな違いがあるのでしょうか」
「すべて」と、Kは言った。彼は、フリーダの難詰にももう慣れて、落ち着きを取り戻していた。「すべて、おまえの言っていることは、ある意味では、正しいよ。ただ、聞違ってないにしても、敵意を含んでいることは、確かだ。それは、僕の敵である女将の意見なんだ。たといおまえが、自分の意見だと、思い込んでいるにしてもだ。まあ、その点が、僕にとって、せめてもの救いだがね。とにかく、そうした意見を聞いて、大いにためになったよ。まだこれからも、なにかと、女将からは、教わることがあるかもしれないな。女将は、いつもは、あれほど僕にたいして手厳しかったのに、今の意見は、女将の口から、じかに聞いたことがないね。女将がおまえにそうした武器を委《ゆだ》ねたのは、明らかに、おまえがいつかそれを、僕の身の殊のほか危険な刻限とか、あるいは、存亡の機に、使用してくれるだろうと、期待したからに相違ない。僕がおまえを悪用している、と言うのなら、女将と、同じように、おまえを悪用している訳さ。ところで、ねえ、フリーダ、よく考えて御覧。仮に一切合財が、寸分の狂いもなしに、女将の言うとおりだとしてもだよ、それがひどく邪《よこしま》な仕打ちだと言えるのは、ただひとつの場合だけだ。つまり、おまえが僕を愛していない場合なのだ。その場合であれば、そうだよ、その場合だけは、僕が計算ずくで、策略を用いて、おまえを物にし、その所有物で暴利を貪《むさぼ》ろうとしている、と言われても、事実、そのとおりだろう。その場合なら、僕が、あのとき、オルガと腕を組んでおまえのまえに現れて、おまえの同情心をそそったことさえも、すでに僕の計画のなかには入っていたことになるかもしれない。だのに、あの女将が、僕の罪状を数え立てながらも、このことに触れなかったのは、さすがの女将も、ついうっかりと忘れていたにすぎないだけさ。ところが、事実は、そのような邪な場合でなく、またあのとき、ずる賢い猛獣がいきなりおまえを強奪したのでもなくて、僕が快くおまえの意を迎えたように、おまえのほうも快く僕の意を迎えてくれて、ともに仲よく、忘我の境に浸っていたとしたら、ねえ、フリーダ、その場合は、一体、どういうことになるんだろうね。その場合なら、僕は、やはり、僕の件をも、おまえの件をも、ひとしく弁護するよ。僕の件とおまえの件とのあいだには、なにも違いがないんだからね。それを区別できる者があるとすれば、敵に回った女だけだ。こうした条理は、どこにでも通用するよ。ハンスのことに関しても、例外ではないさ。おまえは、僕とハンスとの話し合いを判断するに際しても、とにかく、おまえの持ち前の思いやりからだろうが、ひどく大袈裟《おおげさ》に考えすぎる訳だ。と言うのは、ハンスの意図と僕の意図とがすっかり一致してないにしても、双方のあいだに対立のようなものが生じるほどには、掛け離れてないからだよ。それにまた、僕たちふたりの意見の食い違いだって、ハンスに気づかれずに済んだ訳じゃない。もしおまえが気づかれずに済んだと思っているなら、注意深さにかけては大人に引けを取らぬ、あの少年を、ひどく見くびっていることになる。それに、万が一、そうしたことがすべてあの少年に気づかれずに済んだとしても、それを、だれひとり、痛くも痒《かゆ》くも感じる者はないはずだとは、思っているがね」
「道をたがえないということは、とても難しいことなのね、K」と、フリーダは、言って、溜《た》め息をついた、「わたしは、もちろん、あなたにたいして不信感を抱いたことなんかないわ。それに、そのようなものが女将さんからわたしに転移しているのでしたら、わたしは、喜んでそれをかなぐり棄てて、あなたのまえに跪き、お許しをこいますわ。実のところ、わたしは、どんなにひどい悪態をついていましても、ずっとその間、心のうちでは、そうしていますのよ。でも、あなたがわたしにたいしてずいぶんと秘密にしておられることがあるというのも、やはり、本当なの。現に、あなたは、帰って来られたかと思うと、また出て行かれる。どこから帰って来られたのか、どこへ行かれるのか、わたしにだって伏せておかれるくらいですもの。あのハンスがノックしたときにしても、あなたは、『バルナバスだ』って、ああした名前をさえも口走ったじゃありませんか。どうしてあの嫌な名前をあのように愛情籠めてお呼びになったのか、わたしには理由が解《げ》せませんけれど、せめて一度なりと、わたしの名をも、あれくらい愛情籠めて呼んでいただきたかったわ。あなたがわたしをすこしも信頼してくださらなければ、わたしのほうに不信感が芽生えて来たって、無理もないではありませんか。あなたが信頼してくださらなければ、わたしの身は、やはり、女将さんにすっかり委ねられてしまったことになりますし、あなたにしても、あなたの態度によって、女将さんが正しいことを立証しているようなものですわ。むろん、事と次第によりけりですし、なにもわたしは、あなたが、事ごとに、女将さんの正しさを立証していると、主張したがっているのではありません。それに、あの助手たちを追い払われたのだって、あなたとしては、ともかくも、わたしのためにしてくださったはずですしね。ああ、あなたのなさること、話されること、すべてのなかに、わたしの楽しみの種が、一粒なりともありはしないかと、わたしが、苦しい目に会うのも覚悟のうえで、どんなに血眼《ちまなこ》になって捜し求めていますことか、あなたにそれさえ分かっていただけたらと思いますわ」
「先ず第一に断っておくがね、フリーダ」と、Kは言った、「僕は、おまえには、爪の垢《あか》ほどのことだって、隠してなんかいないよ。女将がどんなに僕を憎んでいるか、僕からおまえを奪い返すために、どんなに苦心|惨憺《さんたん》して、どのような下劣な手段を用いているか、また、おまえがどのように女将に牛耳られているか、僕だって、盲《めくら》じゃないんだ。それにしても、フリーダ、おまえは、丸で女将の言いなりじゃないか。とにかく、僕がどういう点でおまえに隠していることがあるのか、言ってくれないか。僕がクラムに会いたがっていることは、おまえも承知のはずだし、おまえが僕を助けて、それに一役買うわけにもゆかないので、僕が独力でそれを達成せねばならぬことも、おまえは、承知しているはずだ。そして、これまでのところ、まだ僕がそれに成功してないことも、おまえの見てのとおりだ。こうした無益な試みの連続で、現に、厭と言うほどふんだんに、屈辱を味わって来ているのに、今また、それを話させて、僕に二重の屈辱感を味わわす気かい。クラムの橇《そり》の扉のそばで凍えながら、ずっと半日、空しく待ち続けていたことを、自慢しろとでも言うのかい。もうこんなことは考えなくともいいんだと、喜び勇んで、急ぎおまえのところへ帰って来たのに、僕を迎えてくれたおまえがまたしても口にすることと言えば、そうしたぞっとするような事柄ばかりなんだね。それに、バルナバスのことだったな。確かに、僕は、あの男を待っているよ。あの男は、クラムの使者だからな。なにも僕が、あの男を、使者に仕立てた訳じゃないんだ」「またしても、バルナバスのことを持ち出すんですね」と、フリーダは叫んだ、「あの男が立派な使者だとは、どうしても信じられませんわ」「あるいはおまえの言うとおりかもしれない」と、Kは言った、「だが、あれは、僕のところへ派遣される、ただひとりの使者なんだ」「それだけに、一層困るの」と、フリーダは言った、「それだけに、あなたは、あの男に一層用心なさらないといけないんじゃないかしら」「ところが、残念ながら、あの男は、これまでのところ、こちらが用心しなくちゃならないようなことをしたことが、一向にないんでね」と、Kは、苦笑しながら、答えた、「それに、めったに来ないしね。あの男が持って来る用件と言えば、取るに足らぬものばかりなんだよ。ただ、その用件が、クラムから直接に伝えられているので、貴重なものになっているにすぎないのさ」
「でも、まあ、聞いてちょうだい」と、フリーダは言った、「もう今となっては、クラムがあなたの目標じゃないんでしょう。もしかすると、それがわたしの一番の心配の種かもしれないの。あなたは、いつもわたしを飛び越えて、クラムのところへ押し掛けようとなさってましたし、あれも、むろん、よくないことでしたが、今はそのクラムから遠ざかろうとなさってらっしゃるようね。これは、はるかによくないことですわ。これは、あの女将さんだって予見だにしなかったことよ。女将さんの考えによれば、わたしの幸福、それは、いかがわしいものではあっても、とても実感の強い幸福ですが、そのわたしの幸福も、あなたのクラムにかけた希望が徒労であったことを、あなたが決定的に確認された日に、終わるそうです。ところが、あなたは、もう、そのような日の訪れをさえも待とうとなさらない。突然に、ひとりの少年が入って来ますと、あなたは、その子の母親を手に入れるために、その子と争奪戦をお始めになるんですもの。まるであなたの生命を養うための空気を手に入れようとして、戦いを挑まれるみたいにね」
「おまえは、僕とハンスとの対話を正しく把握しているよ」と、Kは言った、「事実、そのとおりだったのさ。それにしても、おまえの以前の生活は、おまえにとっちゃ、そっくり忘却の淵に沈んでしまった訳かい。(むろん、あの女将を除いてだよ。あれは、むざむざ突き落されるような女じゃないからな)それで、おまえは、立身出世するためには、闘わねばならぬことを、殊に、下の下からのし上がって行くときには、なおさらその必要があることを、それにまた、なんとか希望を与えてくれるようなものであれば、なにによらず、利用し尽さねばならぬことを、もう忘れてしまったのかい。ところで、あの夫人は、城の出なんだよ。僕が、最初の日、道に迷って、ラーゼマンのところへたどり着いたとき、夫人自身も僕にそう言っていた。とすると、そういう人に助言を仰ごうとか、できれば、助力をさえもこおうとかと考えるのは、きわめて自然の理ではないか。あの女将が、僕をクラムに近づけないためのあらゆる防止策を、きわめてそつなく、知悉《ちしつ》しているにすぎないとすれば、この夫人は、どうやら、その道を知っているらしいんだ。だって、夫人は、みずからその道を通って、村へ降りて来た人だからね」「クラムヘの道をですの」と、フリーダは尋ねた。「決まってるさ、クラムヘの道だよ。それ以外に、一体、どこへ行く道が必要なんだい」と、Kは言った。そして、急に跳び上がって、「さあ、もうぐすぐずしておれない。昼食を取りに行かなくちゃ」
すると、フリーダは、いきなり取り乱して、ぜひともここに止《とど》まっていてくれるように、Kにしつこくせがんだ。彼が止まっていてくれたら、彼が彼女に言い聞かせた慰めの言葉も、すべて、真実だったことが、それで初めて証明されると言わんばかりの頼み方であった。Kは、しかし、教師のことを思い出させ、今にも落雷の裂けるような音を立てて開かれるかもしれない、入り口のドアのほうを指差して、すぐに帰って来るから、暖房はしてくれなくともいい、自分が帰ったら、してやるから、と約束までした。それで、フリーダも、ついに黙って、納得した。Kが教室を出て、雪のなかを踏み締めながら横切ってゆくと――もうとっくに路上の除雪を済ませてなけれはならないところだった。仕事の進み具合がひどくはかばかしくないのは、なんとも奇妙なことであった――、鉄柵のところに、助手のひとりが、死んだようにぐったりと疲れて、いまだにしがみついているのが、ふとKの眼に止まった。ひとりだけしかいないな。ほかのひとりは、どこへ失せやがったのだろう。とすると、そやつの根《こん》の棒をだけは、すくなくとも、折ってやった訳だな。そうは思ったものの、居残っていたほうの助手は、むろん、いまだに真剣に初志を貫こうとしていた。それは、Kを見ると元気を取り戻して、すぐさま、前よりも激しく、腕を伸ばしたり、切なさそうに白眼をむき出したりしはじめたことからも、はっきりと読み取れた。「あいつの不屈の魂は、あっぱれだな」と、Kは、思わずひとり言を洩らしたが、むろん、次のように付け加えずにはいられなかった、「あんな不屈の魂を持っていちゃ、柵のところで凍死するのが、落ちだな」しかし、Kが助手のために表向きしてやったことと言えば、拳を突き出して、絶対に近寄ることは罷りならぬと、おどしつけただけであった。確かに、助手は、怯えたように、かなりな距離まで後ずさりして行った。ちょうどそのとき、フリーダが、窓のひとつを開けた。Kとの打ち合わせどおりに、暖房に先立って、換気をしておくためであった。それに気づくと、助手は、即座にKを見限って、なにか不可抗力にでも引き寄せられるように、忍び足で窓のほうへ近づいて行った。助手に向かっては、懐かしさで歪んだ顔を、Kにたいしては、哀願するほかない切なさで歪んだ顔を、交互に見せながら、フリーダは、高みの窓からちょっと手を振って見せた――それが、防御の心算なのか、それとも挨拶の心算なのか、けっして明確でなかった――。もとより、助手は、それしきのことでは、近寄ることに戸惑いしはしなかった。そこで、フリーダは、急いで外側の窓を閉めたが、しかし、片方の手を窓の掛け金に掛けたまま、頭を斜めにかしげ、眼を大きく見開き、こわばった笑みを浮かべながら、いつまでも窓の向こうに立ち尽くしていた。あのような仕草では、助手をおどして引き下がらせるどころか、むしろ、誘《おび》き寄せていることになるのを、フリーダは、知っているのだろうか。Kは、そうは思ったものの、もう振り返らなかった。それよりも、できるだけ先を急いで、すこしでも早く帰りたいと、思ったからであった。(つづく)