アメリカ
フランツ・カフカ/谷友幸訳
目 次
火夫
伯父
ニューヨーク郊外の邸宅
ラムセスへの道
ホテル・オクシデンタル
ロビンソン事件
隠れ処《が》
オクラホマの野外劇場
解説
年譜
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主な登場人物
カール・ロスマン……古きヨーロッパを去って、アメリカへやられる十六歳の少年。
シューバル……ハンブルク=アメリカ航路の客船の機関長。ルーマニア人。
エドワード・ヤーコブ……カールの伯父。アメリカの上院議員。ニューヨークの港区で問屋兼運送業の会社を経営する。
ポランダー……ニューヨークの銀行家。
グリーン……ポランダーと同じく、カールの伯父ヤーコブの知人。
クララ……ポランダーの一人娘。
マック……ニューヨークきっての建設業者の息子。カールの乗馬練習の友であり、クララの婚約者。
ロビンソン……カールがニューヨークのホテルで知り合った、もと自動錠前工のルンペン。アイルランド人。
ドラマルシェ……ロビンソンの友。同じくルンペンの自動錠前工。フランス人。
グレーテ・ミッツェルバッハ……ホテル・オクシデンタルの料理主任。ウィーン生まれの大柄な中年女。
テレーゼ・ベルヒトールト……料理主任グレーテの秘書。
ギアコモ……ホテルのエレベーターボーイ。
フェオドール……ホテルの給仕頭。
ブルネルダー……先夫カカオ工場の持ち主と離婚して、ドラマルシェと暮らす女。歌姫とよばれる。
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火夫
カール・ロスマンが十六歳で、豊かでない両親によりアメリカへやられたのは、女中の誘惑にかかって、それに子供を産ませたからであるが、そのカールを乗せた船がついに船脚をおとして、しずしずとニューヨークの港にはいって行ったとき、ずっとさいぜんから彼の眼を引きつけていた自由の女神の立像が、ふいにひときわ強くなった日の光に包まれたように、彼には思われた。女神の剣を持った腕は、いま挙げたばかりのように、天にそびえ、女神の姿のまわりには自由なそよ風が吹いている。
≪ずいぶん高いなあ≫と、心のうちでつぶやいた彼は、そこに立ちつくしたまま、船を下りることさえもすっかり忘れていた、そのため、彼のかたわらを通りすぎてゆく赤帽たちの数がますますふえてゆくにつれて、しだいに舷側の手すりへまで押しやられて行った。
航海中にちょっと知り合いになった若い男が、通りすぎながら、声をかけた、「おや、まだ下船する気がしないのですか」「いや、いつでも下船できます」と、カールは、相手にほほえみかけながら言うと、気負い立って、根が丈夫な少年でもあったので、トランクを肩に担ぎ上げた。ところが、ステッキを形ばかり振り回しながら、早くもほかの船客たちといっしょに遠ざかっていた、その知り合いの頭ごしに、ふとまた眼をはせたとき、彼は、蝙蝠傘《こうもりがさ》を下の船室に忘れてきたのに気づいて、うろたえた。急いで彼は、さしてありがたくもなさそうな顔をしているその知り合いに、すまないが、ほんのしばらくトランクのそばで待っていてくれるようにと、頼むと、引き返してくるときの道をまちがえないように、あたりの状況をひとわたり見回してから、その場を駆け去った。下へ降りてみて、おそらくは全船客の下船とつながりがあるのだろう、ひどく近道になるはずの通路が、残念ながら、閉ざされているのに、はじめて気づいた。そこで、ひっきりなしに折れ曲がっている廊下を抜け、書き物机だけがわびしく取り残されている、がらんとした部屋をよぎって、下へ降りる階段を苦労しながら探さねばならなかった。階段は次から次へと続いていた。ところが、その道は、ほんの一度か二度しか通ったことがなく、しかもそのときは、いつもかなり大勢の人といっしょだったので、そのうちに彼は、実のところ、すっかり行き迷ってしまった。今はただ、たえまなく頭上で幾千ともしれぬ人々の足を引きずる音が聞こえているだけで、すでに停止されたエンジンの惰性による最後の動きが、さながら吐息のように、遠くから伝わって来るにすぎない。途方に暮れたあげく、出会う人もないままに、彼は、さまよい歩くうちにふと足が停まったところにあった、小さなドアを出任せにたたきはじめた。
「あいてるぜ」と、内から叫ぶ声がしたので、カールはすっかりほっとして、ドアをあけた。「なんだってそんなに気違いじみたたたきかたをするんだい」と、ひとりの大男が、ほとんどカールのほうへは眼もくれずに、尋ねた。天井のどこかに明かり窓があるのか、船内の上部でとっくに使い古されていた鈍い光が、粗末な船室のなかへ射し込んでいた。ベッドと戸棚と椅子とそして大男とが所狭しとばかりに陣取っているさまは、まるで物置き小屋にいるようだった。「僕、道に迷ったのです」と、カールは言った。「航海中はこれほどとはちっとも気がつきませんでしたが、すごく大きな船ですね」「うん、あんたの言うとおりさ」と、男は、いくらか誇らしげに言った。男は、小型のトランクの蓋をいくども両手で締めてみては、本錠の掛かりぐあいに耳を澄まして、トランクの錠前をいじくるのに余念がない。「まあ、はいったらどうだい」と、男は続けて言った、「いつまでもそこに立っているもんじゃないぜ」「おじゃまでないですか」と、カールは、尋ねた。「ああ、なんでじゃまなもんかね」「あなた、ドイツ人ですか」カールは、アメリカへ新しく渡来した者たちの身に迫る危険について、ことにアイルランド人の仕打ちについて、いろいろと聞かされていたので、念のため確かめておきたかったのである。「そうとも、そうとも」と、男は言った。それでも、カールは、まだためらっていた。すると、男がふいにドアの引き手をつかみ、すばやくドアを締めたので、カールは背中をドアに押されて、男のそばへ引き寄せられてしまった。「通路からなかをのぞかれるのがいやなんだ」と、男は、言って、またもやトランクをいじくりはじめた。
「そこを走りすぎる奴らから、一々こちらをのぞき込まれてみろ、たいがいの者なら我慢がならないはずだ」「でも、通路は人影ひとつありませんよ」カールは、いやというほどベッドの柱脚に押しつけられて立ったまま、そう言った。「うん、今はな」と、男は言った。≪しかし、今が問題ではないのか、この男とはどうも話がしにくい≫と、カールは、思った。「ベッドのうえにでも横になるといいや。そのほうがずっとくつろげるぜ」と、男は、言った。カールは、どうにかうまくはい込みながら、はじめ一気に飛び込もうとしたむだな試みを思い出して、ひとり大声で笑った。ところが、ベッドにおちつくやいなや、彼は、思わず叫んだ、「たいへんだ、トランクのことをすっかり忘れていた」「一体どこに置いて来たんだ」「上のデッキにです。知り合いがひとり、番をしてくれています。あの人、なんという名だったかしら」彼は、母が彼のためにわざわざ旅行用にと上着の裏に縫いつけてくれた隠しポケットから、一枚の名刺を取り出した。「ブッターバウム、そうだ、フランツ・ブッターバウムだ」「そのトランクは無いとひどく困るんかね」「もちろんです」「そうか、それならどうして他人になんか任せたりしたんだ」「蝙蝠傘を下へ忘れてきたものですから、それを取りに駆け下りて来たのですが、トランクまで曳きずって来る気がしなかったのです。ところが、こうして道に迷ってしまったりして」「ひとりなんだね。連れはいないのかい」「ええ、ひとりなのです」≪この男なら頼りにしていいかもしれない。これ以上の友だちは、どこを探しても、すぐには見つかるまいし≫と、そんな考えがちらとカールの脳裏をかすめた。「とすると、今となっては、トランクまでも無くしてしまったわけだな。蝙蝠傘は言うには及ばずさ」そう言いながら、男は、カールの事柄にようやく興味を少し感じはじめたかのように、椅子に腰を下ろした。「でも、トランクはまだ無くなってはいないと、ぼくは、信じています」「信じる者は救わるべし」と言って、男は、黒くて短い濃い髪の毛をはげしくばりばりと掻いた。「着く港町が変われば、船のうえの習わしも変わるんだ。ハンブルクだと、あんたのブッターバウムとやらも、たぶんトランクを見張っていてくれたさ。ここじゃ、九分九厘まで、ふたつとも、もう跡形さえも無いにちがいない」「それにしても、とにかく、今すぐ上へ行って見てきます」と言って、カールは、どうすれば部屋を出てゆけるか、周囲を見回した。「ここにじっとしているがいい」と、男は、言って、片方の手で荒っぽくカールの胸もとをこづき、カールをベッドへ押し戻した。「なぜです」と、カールは、腹だたしげに尋ねた。「無意味だからよ」と、男は、言った。「もうちょっとすれば、わしも出かけるさ。だから、いっしょに行こう。トランクは、盗まれているか、そのときは処置なしだが、それとも、あの男が置き去りにしているか、二つに一つだ。あとの場合なら、船内がすっかりからっぽになるまで待てば、それだけ楽に見つかるじゃないか。蝙蝠傘も同様にな」「船の勝手はよくわかっているのですか」と、カールは、うたぐりぶかく尋ねた。人気《ひとけ》のない船上でなら自分の所持品もきわめて容易に見つかるという、ふだんならすなおに呑み込めるこの考えにも、どこかに引っ掛かるものがあるように、彼には思えた。「これでも火夫だぜ」と、男は、言った。「火夫ですって」と、カールは、それが予期以上のことだったように、喜んで叫ぶと、肘《ひじ》を突いて、男の顔をさらに間近からまじまじとながめた。「あのスロヴァキア人といっしょに寝起きしていた船室のちょうどまえに、通風窓が付けてあって、そこからも機関室の内部が見えました」「そうよ、そこで働いていたのさ」と、火夫は、言った。「僕は、ずっと工学にひどく興味を持っていました」と、なにかひとつの決まった思考過程しかたどれないカールは、言った。「僕、アメりカへ渡らなくともよかったら、きっと末は技師になっていたろうと思います」「一体どうして渡らなくちゃならなかったんだい」「ああ、ばかばかしい」と言って、カールは、眼のまえに浮かんでくる事の次第を手で払いのけた。そして、その一件を告白せずに置くことについて相手に勘弁を願うかのように、ほほえみながら、火夫の顔を見つめた。「それにはきっと曰くがあるんだろうな」と、火夫は、言った。とは言っても、火夫がそれでその曰くを話せと要求しているのか、それとも話すなと止めているのか、火夫の真意は、よくはわからなかった。「今なら火夫になっても構わないのです」と、カールは言った。「両親は、もう僕がなんになろうと、平気の平左ですから」「わしの持ち場があくぜ」火夫は、そう言いながら、そのことを十分に意識してか、両手をズボンのポケットに突っ込み、鉄灰いろの、しわくちゃな、まがいの革のズボンをはいた両足をベッドのうえに投げ出して、伸ばした。カールは、さらに壁ぎわへ追いやられた。「この船を下りるんですか」「むろんさ。きょう、わしらは引き払うんだ」「それはまたどうして。気に入らないんですか」「まあ、それにはいろいろ事情というものがあるが、気に入るか入らないかで、かならずしも事を決めるわけにはゆかないさ。もっとも、あんたの言うとおり、ここが気に入ってないことも確かだけどな。まさかあんたは、火夫になろうなんて、真剣に考えてもいないじゃろうが、なろうと思えば、こんなにたやすくなれるものはほかにないぜ。それでわしは、そんな了見を起こさぬよう、きっぱりとあんたに忠告したいのさ。ヨーロッパにいたころ、学問する気だったのなら、どうしてここでもそいつをやろうとしないんだい。アメリカの大学は、ヨーロッパの大学よりも、比較にならないほど立派なんだぜ」「なるほど、そうかもしれません」と、カールは、言った、「ですが、学問するにも、学費の持ち合わせがほとんどないのです。いつでしたか、昼はどこかの商店で働き、夜なかに勉強して、ついに学位を取り、確か、市長にまでもなった人のことを、読んだ覚えがありますが、しかし、そこまでなるには、たいへんな根気が必要なのじゃないでしょうか。僕にはそれが欠けているように、案じられるのです。おまけに、僕は、けっして優等生ではありませんでした。学校におさらばするのが、実のところ、そうつらくはなかったのです、それに、こちらの学校は、はるかに厳格らしいとか。僕は、英語が全然と言ってもいいほどできません。またそれに、がいして、こちらの人は、外国人にたいしてひどく偏見を持っているように思うんです」「もうそこまで聞いているのかい。まあ、それなら結構。それなら、あんたは、わしの同志だ。いいかい、わしらは、こうしてドイツ船に乗り組んでいる。この船は、ハンブルク=アメリカ航路会社の所属だ。だのに、どうして、わしら乗組員は、ドイツ人ばかりでないんだろう。どうして機関長がルーマニア人なんだろう。そいつの名は、シューバルって言うんだ。信じられんことじゃないか。しかも、その能なし野郎がドイツ船上でわしらドイツ人を酷使しやがるのさ。こんなことを言っても」――このとき男は息切れがして、手であおいだ――「わしが愚痴るために愚痴っているとだけは思わんでくれよ、な。わしも、あんたがなんの勢力もなく、ほんの貧しいこわっぱにすぎぬことは、承知のうえだ。それにしても、あまりにひどすぎるんだ」そう言って、火夫は、なんどもこぶしでテーブルをたたいた。そして、たたきながらも、眼をこぶしから離さなかった。「わしは、これでも、今まで、ずいぶんといろいろな船で働いてきた」そして、彼が二十ばかりの船の名をまるで一語のように立て続けに挙げたので、カールは頭のなかがすっかりこんがらかってしまった――「しかも、抜群の働きをし、称賛にも浴し、ずっと船長たちの眼鏡にかなった労働者だった。同じ商用の帆船に数年も乗っていたことさえあるんだ」――そこで、火夫は、それが彼の人生の絶頂であるかのように、立ち上がった――「ところが、このおんぼろ船ではどうだろう。万事がきちんと杓子定規《しゃくしじょうぎ》に決められていてよ。機知のかけらも禁物なんだ。ここでは、わしなんか、無用の長物さ。いつもシューバルの邪魔になってばかりいてよ。のらくら者なんだ。お払い箱になって然るべき人間だが、お慈悲で給金をくれているというのさ。こんな話、あんたにわかるか。わしにはわからん」「そんな仕打ちに甘んじてはいけません」と、カールは、いきりたって言った。彼は、自分が目下未知の大陸の岸のほとりで、船底という物騒なところにいることを、ほとんど忘れかけていた。それほど、火夫のベッドのうえは彼にとって居心地がよかったのである。「船長に会ってきましたか。船長にあなたの権利を要求してみましたか」「ああ、もう行ってくれ、いっそのこと、出て行ってくれ。ここにいてほしゅうない。あんたは、わしの話にろくすっぽ耳を貸しもしないで、忠告ばかりする。このわしが船長のところへ一体なんの用があるんだ」火夫は、疲れたのか、ふたたび腰を下ろして、両手に顔をうずめた。
≪これ以上、入れ知恵のしようがない≫と、カールは、心のうちで言った。そして結局は、ここで愚策としか思われぬような忠告をしたりしないで、トランクを取りに行っていたほうが、むしろよかったことを、悟った。父があのトランクを永久に自分に譲ってくれたとき、父は、冗談のように、「おまえがいつまでこれを手放さずにいるかな」と、きいたりもしていたのに、今その忠実なトランクが、もしかすると、本気で姿をくらましているかもしれないのだ。せめてもの慰めは、たとい父が調査に乗り出したとて、よもや父にトランクの現況が知れることはあるまいということだ。船会社が話すとしても、せいぜい、トランクがニューヨークまでは行を共にしていたと、それくらいしか言えはすまい。それにしても、カールにとって残念なのは、例えば、ワイシャツなど、とっくに着替える必要があったにもかかわらず、トランクのなかの品々をほとんど使わずに過ごしてきたことだった。つまり、妙なところで節約していたわけである。このままでは今、新しい人生の門出にあたり、さっぱりした服装で出で立たねばならぬときに、よごれたワイシャツを着て、人まえに現われねばならない。それさえなければ、トランクを失ったことも、さまで腹だたしくはなかった。今着ている洋服にしても、トランクのなかの洋服よりは、やはりましであった。あの洋服は、実のところ、母が出発直前にあわてて繕《つくろ》ってくれた、ほんの間に合わせ着にすぎなかった。ふと彼は、母が特に餞別《せんべつ》にと言って紙に包んでくれた、ヴェローナ産のサラミ・ソーセージがほとんどまるまるトランクのなかに残っていたことまで、思い出した。航海中は、全く食欲がなく、三等船室で配ってくれるスープだけで十分に事足りたので、彼は、そのごく端くれしか食べてなかった。今あれだけでも手もとにあれば、火夫に進呈するのに好都合なのに、返す返すも残念であった。このような連中の心をたやすく掴もうと思えば、なにかちょっとしたものを握らしさえすればいいからである。カールは、そのことを父から聞いて知っていた。父は、葉巻きを分かち与えて、商売上どうしても相手にせねばならぬ、下っぱの使用人らの心をみな掴んでいた。今カールが人に贈れるもので持っているものといえば、金《かね》くらいだった。しかし、彼は、万一トランクが失くなった場合のことを思うと、金にはしばらく手をつけたくなかった。そう思うと、またしても、彼の考えは、トランクのことに戻ってゆく。ついいましがた、いともやすやすとトランクを持ち逃げされた自分が、なぜ航海中は、ほとんど夜の眠りをも犠牲にしたほどに注意深く、その同じトランクを見張っていたのか、今となっては、さっぱりわけがわからなかった。彼は、あの五夜を思い出した。彼は、ずっとそのあいだ、自分の左方に、寝台二つぶんほど離れて、寝ていた、小柄なスロヴァキア人が自分のトランクをねらっているのではないかと、疑い続けてきた。確かに、あのスロヴァキア人は、自分がついに疲労に襲われて一瞬間でも居眠りすれば、飽きもせずに、日がな一日、もてあそんだり使う稽古《けいこ》をしたりしていた、あの長い棹《さお》で、トランクを手もとへ引き寄せてやろうと、すきをうかがっていたにちがいない。昼間、あのスロヴァキア人は、いかにも罪のない顔つきをしていた。ところが、夜になるやいなや、あの男は、時おり、ベッドから頭をもたげては、情けなさそうにこちらのトランクへ眼をくれていた。それくらいのことはこちらもちゃんと見届けていた。と言うのも、いつも、どこかで、誰かが、移民特有の不安にかられて、船内規則で厳禁されていたにもかかわらず、小さなろうそくに火をともし、移民斡旋業者のわけのわからない趣意書を判読しようと努めていたからである。そのような明かりが近くにあると、自分は、すこしでもまどろむことができた。だが、明かりが遠かったり、真っ暗がりだったりすると、自分は、始終眼を皿にしていなければならなかった。その緊張のために、自分は、すっかり消耗してしまった。ところが、今となっては、そうした緊張も全くむだだったかもしれないのだ。あのブッターバウムの奴め、どこかで出会ってみろ、ただでは置かぬぞ。
その瞬間だった。はるか遠くから、それまで完全に静かだった室内へ、低い小刻みな音が伝わって来た。なんだか子供たちの足音のようだった。それがしだいに音を強めて近づいて来ると、大の男たちの物静かな行進だとわかった。彼らは、明らかに、幅狭い通路では当然のことであるが、一列になって進んで来た。なんだか武器のかち合うような音がする。今にもベッドのうえで存分にからだを伸ばして、トランクやスロヴァキア人への気づかいからすっかり解放された眠りにつこうとしていたカールは、驚いて飛び上がり、火夫をつついて、なんとか火夫の注意を促そうとした。ちょうど行列の先頭が船室の入り口あたりに達したように思われたからだった。「あれは船の楽隊さ」と、火夫は、言った。「連中は、今うえで演奏をすませて、これから、たらふく詰め込みに行くところだ。さあ、これで万事かたづいた。いつでも行けるぞ。さあ、行こう」火夫は、カールの手を掴み、ベッドの上方の壁からすばやく額縁にはいった聖母像を取りはずすと、それを彼の胸ポケットに押し込み、彼の小型のトランクを手にして、カールとともに急ぎ船室を出て行った。
「これから事務室へ行って、お偉がたにわしの意見を言おう。もう船客はおりてしまったし、なんの気がねもいらないからな」火夫は、さまざまに言葉を変えて、こうした意味のことを繰り返し言った。そして歩く途中、片足をわきへ踏み出して、通路をよぎるねずみを踏みつぶそうとしたが、その結果は、穴のところへころよく達していたねずみを、一層速やかに穴のなかへ蹴り込んだだけに終わった。火夫は、がいして動作が緩慢だった。足は長くても、その足がひどく鈍重だった。
ふたりは調理室を通り抜けた。そこでは、いくたりかの女がよごれたエプロンを着て――わざとこぼしてエプロンをよごしているのである――大きな桶のなかの食器類を洗っていた。火夫は、リーネとか言う名の女を呼び寄せ、片腕を回して女の腰を抱くと、その腕へたえずしなを作りながら、からだを押しつけて来る女を、ほんのしばらく引き連れて行った。
「これから涙金の支払があるんだ。いっしょに来るかい」と、火夫が尋ねた。「どうしてわたしがわざわざ足を運ばなくちゃならないの。いっそのこと、持って来てよ」と、女は、答え、火夫の腕のしたをすり抜けて、走り去った。「一体どこでそのかわいい稚児《ちご》さんを引っ掛けたんだね」と、女はさらに叫びかけたが、もう返事を待とうともしなかった。仕事の手を休めていた女たちの笑い声がどっと聞こえた。
ふたりは、しかし、どんどん歩き続けて、小さな金鍍金《きんめっき》の女神柱に支えられた小さな切り妻が上方にある、ドアのところへ出た。それは、船の設備にしては、いかにも豪奢に見えた。カールは、気づいてみると、このあたりへは一度も来たことがなかった。おそらく航海中は一、二等船客専用に当てられていた場所で、今や船内大掃除をまえにして、すべての仕切り戸が取りはずされたものにちがいない。事実また、途中で出あった数人の男たちも、箒を肩にかついで、火夫に会釈していた。カールは、大作業に眼を見はった。三等船室にいては、むろん、めったにわからぬことだった。ずっと通路沿いに送電線までも引かれて、小さなベルが鳴り続けていた。
火夫がうやうやしくドアをノックした。「おはいり」という声がすると、彼は、遠慮なしにはいるように手ぶりでカールを促した。カールも、部屋へ足を踏み入れたものの、入り口のところに立ち止まっていた。部屋の三つの窓の向こうに、海の波が見える。その波の嬉々《きき》とした動きをながめていると、この五日間たえず海を見続けてきたのがまるで嘘のように、胸がおどってきた。大きな船が十文字に行きかいながら、その重量が許すかぎり、たがいに船体を横波の翻弄《ほんろう》にまかせている。眼を細めると、それらの船も、ただ自体が重いために、揺れているように見える。マストのうえには細長い旗を掲げている。その旗は、船が進航していたために、ぴんと張っていたが、それでも、時おりは、はためいていた。おそらく軍艦が発したのだろう、礼砲がいくつか響いてきた。さして遠くないところを通りすぎて行く軍艦の砲身が、その鋼鉄の外筒のところで日の光を反射して輝きながら、安らかにすべるような、とはいえ、水平でない船路によって、たえず揺さぶられ、あやされているようであった。小舟やボートなどは、すくなくともカールのいる戸口からは、ただ遠く、群れをなして、大きな船のあいだを縫いながら河口へはいって行くのが、見えたにすぎない。そうしたすべての背後には、しかし、ニューヨークがたたずみ、並び立つ摩天楼の幾十万ともしれぬ窓をひとみのように光らせて、カールを見据えていた。確かに、この部屋に来て、自分がどこにいるかが、初めてわかったのである。
丸いテーブルに向かって、三人の男が腰かけていた。ひとりは、紺いろの船の制服を着た航海士で、他のふたりは、港務局の役人だろう、黒いアメリカ式の制服を着ていた。テーブルのうえには、さまざまな書類がうず高く積まれ、航海士がまず、ペンを手に、それらの書類にざっと目を通してから、それをふたりに渡すと、ふたりはあるいは読んだり、あるいは抜き書きしたり、またふたりのうちの、ほとんどたえまなしに歯をかちかち言わせているほうの男が、なにか記録しておくことを同僚に口述しなければ、そのまま、書類カバンに納めたりしていた。
窓ぎわの書き物机には、入り口のほうへ背を向けて、小柄な男がすわり、眼のまえの、ちょうど頭くらいの高さにある、がん丈な本棚から、そこに並んでいる大判の帳簿をあれこれと手に取っていた。男のかたわらには、金庫が開いたままになっており、すくなくともちょっと見ただけでは、中身はからのようだった。
次の窓のところは、がらあきで、そとの眺望には持ってこいだった。三番目の窓のほうでは、しかし、ふたりの男が近くに立って、低い声で話し合っていた。そのうちのひとりは、窓のよこにもたれ、船の制服をやはり着用していて、剣のつかをもてあそんでいた。話し相手のほうは、窓のほうへ向いて立っていたが、時おり、からだを動かしたので、それまで陰になっていた制服の男の胸に並ぶ勲章の一部が、その都度、こちらからも見て取れた。この人物のほうは、私服で、細い竹のステッキを携えていたが、両手を腰にしかと当てていたので、そのステッキも、やはり、剣のように出っぱっていた。
カールは、すべてをゆっくり観察する暇がなかった。まもなく、召使がふたりのところへ歩み寄って来て、火夫に向かい、ここはおまえの来るべきところでないという眼つきをしながら、なにか用かと、尋ねたからだった。火夫は、相手と同じように声をひそめて、事務長さんとお話ししたいと、答えた。召使は、一応は、自分の役目柄として手まねでその願いをはねつけたが、それでも爪先立ちで、丸いテーブルを避けて大きく遠回りしながら、大判の帳簿を手にしている男のところへ行った。その男は、召使の言葉を聞くと、ぎくりとして全身をこわばらせていたが――それがだれの眼にもはっきりと見てとれるくらいだった――、ようやく、自分に会いたいと言う男のほうへ向き直ると、火夫に向かって、そしてまた、用心のために、召使に向かっても、断固としてはねつけるように、手を振った。そこで、召使は、火夫のところへ引き返し、なにか内緒事を打ち明けるかのような口調で、言った、「とっととこの部屋からうせるのだ」
火夫は、その返事を聞くと、カールこそ、自分の苦悩を無言のうちに訴えることのできる、最も信頼するに足る人間であるかのように、カールのほうへ眼を落とした。するとカールは、いきなり無鉄砲に飛び出して、航海士の椅子をも軽くかするほどに、部屋をはすかいに突っ走った。召使は、前屈みになり、うしろから抱き止めようと腕を伸ばして、さながら毒虫をでも追い回すかのように、そのあとを追ったが、事務長の机へ先に達したのは、やはり、カールのほうだった。カールは、召使が自分を引きずってゆく場合のことを考えて、机の端にしがみついた。
途端に室内が活気を帯びてきたことは、言うまでもない。テーブルに向かっていた航海士は、とび上がった。港務局の役人たちは、静かに、しかし注意深く、なりゆきを見守っている。窓ぎわのふたりは、並んで歩み寄って来た。召使は、その偉い人たちがすでに関心を示したからには、もうそこは自分のいるべき場所でないと思ったのだろう、うしろへ引き下がった。戸口の火夫は、いまに自分の助けが必要になるかもしれないと、その瞬間をかたずをのんで待ち受けている。ついに事務長が、肘かけ椅子にすわったまま、大きく右へ一回転した。
カールは、なんのためらいもなしに、なみいる人々の眼のまえで、自分の隠しポケットのなかをかき回し、パスポートを取り出すと、それを、あけたまま、机のうえに置いて、簡単に自己紹介に代えた。すると、事務長が、そのパスポートを、余計なものと思ったらしく、二本の指ではじいてわきへ押しやったので、カールは、この公式的な手続きが申し分なく完了したものと解して、パスポートをふたたび隠しポケットに納めた。
それから、彼は、「失礼ながら」と、口火を切った。
「僕の考えでは、この火夫さんは、不当な扱いを受けているようです。この人に敵意をいだいているのは、本船のシューバルとかいう男です。この人自身は、これまで数多くの船に乗り組んで、その船の名はこの人から皆さんに残らず申し上げてもいいのですが、全く申し分なく勤め上げてきました。勤勉で、自分の仕事に好意を持っています。だのに、勤務にしても、例えば、商用の帆船の場合ほどに、過重でない本船にかぎって、この人がどうして役に立たないのか、実のところ、そのわけがわかりません。とすれば、この人の昇進を妨げているのは、中傷としか考えられないのです。さもなければ、ふつうなら、全くまちがいなしに、与えられるはずの表彰にも、この人が、ありつけないでいる道理がありません。僕は、この件について、一般的なことだけを申しましたが、個々の特別な苦情については、この人から、じかにみなさんに申し上げるはずです」カールは、こう言ったことをなみいる人々に訴えた。確かに人々のほうもみな耳を傾けていたし、そのなかには、ひとりくらい、正義の士がいるということのほうが、その正義の士がたまたま事務長であったりすることよりも、はるかに確実らしく思われたからである。しかし、カールは、抜けめなく、火夫と知り合ったのがつい先刻にすぎぬことを、言わずに置いた。いずれにせよ、カールは、いまの位置に来て、初めて、竹のステッキを持った紳士とも向かい合うことができたのであるが、その紳士の顔が真っ赤なのを見て心がどぎまぎしていなかったならば、もっともっと上手にしゃべれたかもしれなかった。
「すべて逐一正しいです」火夫は、だれかから質問されるのも待ち切れないで、人々が改めて彼に視線を移す暇もなしに、そう言った。こうした火夫のせっかちさは、今やっとカールの脳裏にひらめいたところでは、確かに船長にちがいない、あの勲章を胸につけた人物が、火夫の言いぶんを聞くことに、はっきりと同意のいろを示していなかったならば、たいへんな失策に終わったかもしれなかった。つまり、船長は、そのとき片手を伸ばして、火夫にこう叫んだのである。「こっちへ来たまえ」その声は、しっかりとして、しかもハンマーでたたきつけるようであった。今や、すべては、火夫のふるまい如何にかかっていた。この件の正当性については、カールは、なんら疑ってなかったからである。この機会に、火夫がすでに広く世界を回って来ていることが明らかとなったのは、幸いであった。立派におちついて、火夫は、彼の小型のトランクから、すぐに手ぎわよく一束の書類と一冊の手帳を取り出すと、それを持って、あたかもそれが自明の事であるかのように、事務長を全く無視しながら、船長のところへおもむき、窓|框《かまち》のうえに彼の証拠物件を広げて見せた。事務長は、自分のほうから出向いてゆくよりほかに、すべがなかった。「この男は、名うての|ごね《ヽヽ》屋なのです」と言って、事務長は、説明した、「機関室にいるより、会計へ来ているときのほうが多いのです。この男のせいで、あの穏やかな人間のシューバルが、すっかりやけを起こしてしまいました。おい、君」と、こんどは火夫に向かって、「君のその厚かましさときたら、正直なところ、もうひどく度はずれているのだぞ。これまで、なんど、支払室から君を放り出したことか。それこそ、君の、全くどこから見ても例外なしに、不当な要求の当然な報いなのだぞ。それを、なんど、支払室から本金庫室へ駆け込んで来たことか。シューバルが君の直接の上役であり、上役には部下として君のほうから折れるほかないことも、なんど、懇々と君に言い聞かせてやったかしれやしない。それなのに、今またここへ、船長さんがおられるおりもおりとて、押しかけて来て、船長さんに迷惑をかけても恥じないばかりか、君のくだらぬ告発の代弁人として仕込んだ、その子供まで連れて来るとは、ずうずうしいにも程がある。そんな子供を船上で見るのは、今が初めてだ」
カールは飛び出して行きたい気持ちを無理におさえた。すると、船長が、味方してくれるように、すかさず言ってくれた。「とにかく、この男の言いぶんを、一応、聞こうではありませんか。シューバルは、どうやら、時のたつにつれて、ひどく手に負えないものになってゆくようです。と言ったからとて、なにも君にひいきしたのではないが」最後の言葉は、火夫に向けられたものであった。船長がすぐに火夫を擁護できなかったのは、当然のことにすぎない。それにしても、万事が順調に運んでいるようであった。火夫は、説明をはじめた。しかも当初は、シューバルに「さん」つけまでして、自制していた。カールは、事務長が立ったあとの書き物机にすわって、心のうちで快哉を叫びながら、いかにも満足げに、机上の手紙秤の皿をなんども指先でくりかえし押し下げていた。――シューバルさんは、不公平です。外国人のほうを優遇します。シューバルさんは、わしを機関室から追い出して、便所の掃除をわしにさせました。こんなことは、むろん、火夫のするべき仕事ではないはずです。――こうして、ひとたびは、シューバルの手腕についてさえも、実のところは、むしろ、見せかけではなかろうかと、みなのあいだで疑われはじめたくらいだった。カールは、このとき、精根こめて、あたかも自分の同僚であるかのようになれなれしく、船長の顔を見つめていた。火夫のややぎごちない言葉づかいによって船長の気持ちが左右され、火夫に不利なほうへ傾きはしまいかと、ただそれのみを案じたからである。ともあれ、火夫の長広舌からは、なにひとつ、肝心な本筋が聞き出せなかった。そのためか、船長のみは、きょうこそ火夫の言いぶんを最後まで聞いてやろうという決心を眼つきに現わして、あいかわらず、前方をじっと見据えてはいたが、ほかの人々は、もう辛抱しきれなくなっていた。それに火夫の声も、しばらくすると、その場の空気をもはや絶対的には支配しきれなくなっていた。そうなると、いろいろと先行きが案じられてきた。まっさきに、私服を着た紳士が、竹のステッキを上下に動かして、ごく軽くではあるが、寄せ木張りの床をたたきはじめた。他の連中も、むろん、時おり眼をくれるだけであった。港務局の役人は、明らかに先が急がれるらしく、またもや書類を手にして、まだいくぶんかはうわの空のようだったが、書類に目を通しはじめていた。航海士は、またもテーブルを身近に引き寄せていた。事務長は、もはや勝算ありと信じているのか、皮肉たっぷりに、深い溜め息をもらしていた。ただ召使だけは、その場に一様に広がってきた散漫な気分に、染まっていないように見受けられた。彼は、お偉がたのあいだに立たされた哀れな男の苦しみに多少なりとも同情しているのか、なにかを伝えようとするかのように、深刻な顔つきでカールにうなずいてみせていた。
そのあいだにも、窓の向こうでは、港の生活が次々と営まれていた。ころがり落ちないようにするには、よほどふしぎな積みかたをしてあるにちがいない、たるを山ほど積み込んだ、平たい貨物船が通りすぎて、そのため、部屋のなかは、一瞬ほとんど真っ暗になった。小さなモーターボートが、幾度となく、かじのところに直立した男の両手があやつるままに、音高く真一文字に去って行く。暇さえあったら、詳しくあれを観察できるのにと、カールは、残念だった。妙な浮漂物が、そこかしこで、揺れ動く水中から自力で浮かびあがっては、すぐまた水をかぶって、あっけに取られて見ている眼のまえで沈んで行く。大洋航海船のボートが数隻、船客を満載し、懸命に頑張る水夫たちによって漕ぎ出されていた。乗客たちは、ぎゅうぎゅうに詰め込まれて、静かに、待ち遠しげにすわっている。それでも、幾人かの乗客は、あちこちと、移り変わりゆく景色のほうへ、たえず首《こうべ》をめぐらさずにはいられなかった。果てしない動き。動揺してやまぬ元素から寄るべない人間たちとその仕事とに伝わって行く動揺。
ところでどの顔を見ても、急いで、明瞭に、委細を尽くした申し立てをすますようにと、みな催促しているはずなのに、当の火夫は、どうしたか。彼は、むろん、しゃべり続けて、汗まみれになっていた。もうさっきから手が震えて、窓框のうえの書類を押えていることさえもできなくなっていた。シューバルについての恨みつらみが、四方八方から、ひっきりなしに彼の脳裏へ押し寄せていた。彼の考えでは、そのどれ一つを取り上げても、あのシューバルを完全に葬り去るのに足るはずなのに、彼が現に船長をまえにして披瀝《ひれき》できたものと言えば、そうした恨みつらみがすべてごったまぜになった、情けない世迷言《よまいごと》にすぎなかった。竹のステッキを手にした紳士は、もうさっきから、天井に向かってかすかにうそぶいていたし、港務局の役人らは、航海士を自分たちのテーブルに引き止めたまま、二度とその手を離すけぶりはなかった。事務長は、明らかに、船長の平静さに牽制されて、口出しを控えているにすぎなかった。召使は、気を付けの姿勢のまま、火夫のことで下される船長の命令を、今か今かと、待ち受けていた。
こうなっては、カールとても、もうじっとしていられなかった。彼は、ゆっくりと、人の集まっているほうへ歩いて行った。そして、この一件をできうるかぎり手ぎわよく処理するにはどうすればいいかと、歩きながら、わずかな距離しかないのですばやく、思案した。確かにいまが山だ。もうあとほんのしばらくで、自分たちふたりは、意気揚々とこの事務室から飛び出せるのだ。船長は、ほんとうに善人らしい。しかも今という今は、公正な上司たることを示さねばならぬ、なにか特別の理由が、船長にはあるようだ。だが、その船長だって、所詮《しょせん》、誰も彼もがそう完全にひきこなせる楽器ではないはずだ――だのに今、火夫は船長をいかにもそのように扱っている。むろん、かぎりない腹だちまぎれにちがいないが。
そこで、カールは、火夫に言った。「もっと簡単明瞭に話さないといけません。その調子では、どんなに立派なことを話しても、船長さんにはその価値がわからないでしょう。あなたは、船長さんが機関士とかボーイとかの名を、また事によっては、その洗礼名を、すべてちゃんと覚えていて、あなたがそうした名を口にしさえすれば、すぐに、誰のことだか、船長さんにわかるとでも思っているのですか。とにかく、あなたの苦情を整理しなさい。そして、まず最初に、いちばん大切な苦情を言うのです。それからだんだん下がって、ほかの苦情を申し立ててゆけばよろしい。あるいは、そうなると、大半の苦情は、もう口にする必要さえもなくなってしまうかもしれません。それと言うのも、これまで僕が聞かせてもらったあなたの述懐は、いつも、きわめて明快だったからです」≪アメリカでは、トランクを盗んだって構わないのなら、ときには、嘘をついたっていいはずだ≫と、カールは、心のうちで弁解した。
それにしても、こうした助言なりとも役に立ってくれさえしたらいいのだが。それともやはり、もう手遅れなのかしら。カールは、なりゆきを見守った。火夫は、聞き慣れた声を聞くと、すぐにしゃべるのを止めたが、両眼は、傷つけられた男子の名誉と、恐ろしい幾多の思い出と、途方もない目下の苦難との涙にすっかりおおわれていて、カールをさえももうよく見分けられないくらいだった。今さらどうして――目下沈黙している男をまえにして、カールは、沈黙したまま、このことを十分洞察したのである――今さらどうして彼が急に話しかたを変えられよう。火夫の身にしてみれば、言うべきことはすべて主張しつくしたのに、すこしも承認されずじまいに終わったような気がしているにちがいない。またその反面では、いまだになにひとつ言ってないような気もしているだろう。かと言って、これから一部始終を話すから傾聴してほしいと、今さら人々に要求することもできないと思っているにちがいない。しかも、そうした時点に、彼の唯一の味方であるはずの自分が、すかさず近づいて、彼にいい知恵を授ける意図だったのが、その意図に反して、彼に、なにもかもすっかりだめになったことを、教えてしまったのだ。
≪窓のそとばかり見ていないで、もっと早くかけ寄ってやればよかった≫と、カールは、心のうちで言って、火夫のまえにおもてを伏せ、すべての希望が終わったしるしに、両手をぴしゃりとズボンの縫いめに打ち当てた。
ところが、火夫は、それを誤解した。彼は、おそらく、カールの内部に、なにはともあれ、自分にたいするひそかな非難が潜んでいるのをかぎつけたのだろう。カールを説き伏せて、その非難を思い止まらせようとの善き意図から、こんどは、カールを相手どって言い争いをはじめた。火夫の行為は、ついにクライマックスに達したのである。ところが、もうそのときは、丸いテーブルを囲んでいた人たちも、自分たちの大切な仕事を邪魔する、無益な騒ぎにとっくに腹をたてていたし、事務長のごときは、しだいに船長の忍耐にたいする不審の念を濃くして、すぐにでも怒りを爆発させたい気持ちに傾いていた。また召使も、ふたたび自分の上司たちの支配下に戻って、怒りに燃えるまなざしで、火夫を頭の先から爪先まで見据えていた。そしてついには、船長がおりにふれて好意あるまなざしを送っていた、あの竹のステッキを持った紳士さえも、もう火夫にたいして、すっかり無神経になり、それどころか、嫌悪をすら催して、小さな手帳を取り出し、まなざしをいくたびとなく手帳とカールとのあいだに往復させながら、明らかに、全く別個の要件に心を奪われているようであった。
「ええ、わかっています」と、カールは、言った。彼は、今や自分に向けられることになった火夫のとめどない口舌を受け流すのに苦労しながらも、どんなに口論が続こうと、終始、火夫のために親しい微笑を浮かべる余裕を残していた。「あなたの言うとおりです。そうです僕は、けっしてそれを疑ってはいません」彼は、ぶたれはすまいかという懸念から、火夫の振り回す両の手をしっかとつかんでおきたかった。さらにできることなら、むろん、火夫を片すみへ追い詰めて、ほかの者らに聞かせてならぬような慰めの言葉を、二つ三つ、そっと耳打ちしてやりたかった。しかし、火夫は、すっかり常軌を逸していた。カールは、もし万一の場合は、火夫が絶望の力をふるって、この場の七人の男くらいは打ちのめせるかもしれないと考えながら、そんな考えのなかに一種の慰めをさえ感じはじめていた。むろん、書き物机のうえには、そちらを一瞥《いちべつ》しただけでわかるように、数えきれぬほど電線の押しボタンがたくさん並んでいる装置があった。そのボタンを片手で簡単に押すだけで、通路という通路は、敵意にみちた人々でうずまり、船全体を反抗の坩堝《るつぼ》と化すことができるのだ。
そのとき、それまでひどく無関心な態度を示していた、竹のステッキを持った紳士が、カールのほうへあゆみ寄ってきて、あまり高くない声で、しかし火夫の絶叫をかき消すほどにはっきりと、「一体、あなたのお名まえは」と、尋ねた。それと同時に、誰かがドアの向こうでこの紳士の発言を待ち受けていたかのように、ノックの音がした。召使は、船長のほうへ眼を向けた。船長は、うなずいて見せた。そこで、召使は、戸口のほうへ行って、ドアをあけた。中肉中背の男が古めかしいフロックコートを着て、そとに立っていた。どう見ても機関部の仕事に適しそうもない、その男が、実はシューバルだった。なみいる人たちの眼がいっせいに満足らしいいろを浮かべ、船長さえもそれを禁じ得なかったので、カールにはすぐにそれとわかったのである。さもなくば、腕の筋肉をたくましく引き緊《し》めて、こぶしをぐいと固め、この固まりこそ自分のからだの最も重要な部分であり、この固まりには自分の生命のすべてを捧げる覚悟だ、とでも言いたげな火夫の様子から、初めてそれがシューバルだと察して、カールは、慄然とせざるを得なかったろう。そのこぶしにはいまや満身の力がこもり、その力がまた火夫に直立の姿勢を保たせていた。
こうして、敵は、礼服姿で、なんの屈託もなしに、元気よく部屋にはいって来た。おそらく火夫の賃銀表と就業記録であろう。一冊の帳簿をわきにかかえていた。彼は、はばかるところなく、各位のご機嫌をまず第一に確かめておきたいと、告白して、なみいる人々の眼を、次々と、穴のあくほど見つめていった。そうなると、七人の男は、もうそろって彼の味方であった。つい先刻まではシューバルにたいして異存を有していた船長も、あるいはただそのように見せかけていただけかもしれないが、火夫から被害をこうむったあとでは、もはや、シューバルに、みじんも非の打ちどころがないように、思い返しているようだった。火夫のような男は、どんなにきびしく処置しようと、きびしすぎることはあるまい。もしシューバルにとがめるべき点があるとすれば、それは、彼がこれまで火夫の強情な鼻っ柱をこっぴどくへし折っておかなかったことだ。だからこそ、きょうになっても、まだ火夫が、ふらちにも、船長のまえに現われたりするのだ。船長は、そう考えているかもしれなかった。
とにかく、まだ今のうちならば、こうした連中のまえで火夫とシューバルとを対決させても、どこかの高級な裁きの庭でこの対決が行なわれるときの効果くらいは、おそらく、挙げられるのではあるまいか。たといシューバルが白《しら》を切ったところで、けっしてそれが最後まで押し通せるものでもあるまい。この男のひとみに、ほんの一瞬でも、持ちまえの邪悪がひらめけば、もうそれで、この男の邪悪をまざまざと連中に覚らせることができよう。そう考えて、カールは、そのほうに尽力しようと思った。彼は、もうそれまでに、おりにふれて、個々の人たちの眼力とか、弱点、気分などを見抜いていた。このような見地からすれば、これまでここで費やした時間もけっしてむだでなかった。ただ火夫がもっと役に立ってくれさえすればいいのだが、火夫は、完全に戦闘不能のように見受けられた。とはいえ、彼のまえへシューバルを突き出したら、その憎い頭がい骨を、彼は、きっとこぶしで打ち割らずにはおかなかったろう。しかし、たとい数歩にもせよ、それをあゆんでシューバルのそばまで行くことさえも、もう彼には不可能に近いようだった。シューバルが、いずれは、自発的にか船長に呼ばれてか、とにかく来るにちがいないという、これほど容易に予測できることをなぜ自分は予測しなかったのだろう。途方もなく不用意のまま、戸口があったからといって、無造作にはいったりなどしないで、事実、ふたりのしたことはそうだったのだが、なぜこちらへ来る道すがら火夫と詳しく戦略を打ち合わせておかなかったのだろう。このままでは、反対尋問に移ったとしても、と言っても、むろん、事がきわめて有利に運ばれないとそうはならないわけで、そうなったときに必要となるのだが、火夫が果たしてちゃんと口がきけて、≪はい≫とか≪いいえ≫くらいは言えただろうか。と思って火夫を見ると、火夫は、足を左右に開いてふんばり、膝をがくがくさせながら、頭をやや上げて立っている。体内には空気を消化する肺がもう無くなったかのように、ぽかんと開いた口を空気が自由に出入りしていた。
カールのほうは、むろん、故国にいたころはついぞこんなことはなかったと思われるほどに、からだに元気があふれて、頭も冴えていた。彼は、異国で、有名な人物たちをまえにして、善のために戦い、まだ勝利を獲得するまでにはいたらなくとも、こうして、最後の征服のために用意おさおさ怠りない、今の自分を両親に見せてやりたかった。両親は、自分にたいするこれまでの意見を修正するだろうか。自分をふたりのあいだにすわらせて、ほめてくれるだろうか。両親にこれほど心服しているこの自分の眼を、ほんの一度でも、一度なりとも、しっかと見つめてくれるだろうか。覚束ない問いである。そして、そうした問いかけをするのに最も不適当な瞬間である。
「私は、火夫がなにか虚偽の罪を私になすりつけているように思ったものですから、まいりました。調理室の女が、火夫がこちらへ来るところを見かけたと、告げてくれたのです。船長さん、そしてここにお集まりのみなさん、私は、どのような告発でも、私の記録を手びきとして、また止むを得ぬ場合は、ドアのそとに立たせてあります、先入見のない、公平な証人たちの陳述によって、逐一反駁する覚悟であります」シューバルはそう語った。それは、むろん、いかにも男らしい明快な弁解であった。それを聞いた人々の顔つきに現われた変化は、明らかに、彼らが長時間後に初めて人間の声をふたたび耳にしたことを、物語っているようだった。彼らは、むろん、そのみごとな弁舌にもいくつか穴が明いていることに、気づいていないのだ。なぜシューバルの脳裏に浮かんだ最初の具体的な言葉が「虚偽」なのだろう。もしそうなら、彼としては、彼のお国ぶりの先入主にとらわれないで、まずこの点から告発してかかるべきではあるまいか。調理室の女が事務室へ来る途中の火夫を見かけたとしても、どうしてシューバルにはすぐにぴんと来たのだろう。彼の脳裏をとぎ澄ましているものこそ、罪の意識ではないか。それに、さっそく証人まで引き連れて来たばかりか、その証人たちを先入見のない公平な連中とさえ呼んでいるのだ。いんちきだ。いんちきとしか考えられぬ。だのに、あの連中は、それを許容し、あまつさえ、正しいふるまいとして是認すらしている。なんたることだ。あの調理女の報告と彼の来室とのあいだには、確かに、ひどく間《ま》があるか、彼がそのような間をおいたのは、なぜだろう。火夫が人々をひどく疲労させる。すると人々は、シューバルがなによりも恐れている明確な判断力をば、しだいに失ってゆく。それだ。それよりほかに目的はない。きっと彼は、ドアの向こうで長いあいだ立ち尽していたのだろう。そして、あの紳士のよけいな質問で、火夫がくたばったと見込みをつけたからこそ、やっとそのときになってノックしたのではあるまいか。
すべては、明白だ。しかも、こうした材料は、すべてシューバル自身のほうから不注意にも提供してくれたのだ。だが、そこの連中には、別なかたちで、もっとわかりやすく証示せねばならない。まず連中を警醒《けいせい》する必要がある。では、カール、急げ。すくなくとも証人どもが立ち現われて、なにもかもぶちまけるまでの時を、十分に活用するのだ。
ところが、ちょうどそのとき、船長が手まねでシューバルに、もうよいという、合い図をした。シューバルは、それを見ると――自分の訴訟|事《ごと》がしばらく延期になったと思ったのだろう――わきへ退いて、シューバルにさっそく味方していた召使を相手に、ひそひそと、時には、火夫やカールのほうへ流し目をくれたり、また確信にみちた手まねを混ぜたりしながら、歓談をはじめた。シューバルは、そうして、次の答弁の練習をしているようであった。
部屋のなかが全体に静かになると、船長は、竹のステッキを手にした紳士に言った、「ヤーコブさん、そこの若い人になにかお尋ねになりたかったのでしょう」
「もちろんです」と、紳士は、軽く頭を下げて、相手の心づかいに感謝しながら言った。そして、カールのほうに向かって重ねて尋ねた、「一体、あなたのお名まえは」
しつこい質問者の介入によるこうした突発的事件は、早くかたづけておいたほうが、大きな本事件のためにもよいと信じたカールは、いつものようにパスポートを呈示して自己紹介に代えたりせずに、それにまた、まずパスポートを探さねばならぬのも億劫だったので、あっさりと答えた。「カール・ロスマン」
「まさか」と、ヤーコブと呼ばれた人は、言って、当初はほとんど信じかねて苦笑をもらしながら、後ずさりした。船長も、事務長も、航海士も、いやそれのみか、召使までもが、カールの名を聞いて、はっきりと、途方もない驚きのいろを示している。ただ港務局の役人たちとシューバルだけは、無関心な態度を保っていた。
「まさか」と、ヤーコブ氏は、繰り返すと、ややしゃちほこ張った足どりでカールのほうへ近づいて来た。「とすると、わしは、おまえの伯父のヤーコブで、おまえは、わしの甥御《おいご》に当るわけだが。わしとしたことが先刻からそんなこととはつゆ知らずにいたとは」彼は、そう船長を顧みて言ってから、カールを抱いて接吻した。カールは、黙って相手のするがままに任せていた。
やがて相手がカールを手放すと、カールは、ひどく丁重ではあるが、全く冷静な口調で尋ねた、「お名まえは、なんとおっしゃるのです」そして、この新しい出来事が火夫のためにいかなる結果をもたらすかを予測しようと努めた。差し当たっては、シューバルがこの件で得をしそうな形勢は、どこにも見当たらなかった。
「ねえ君、君は、まずわが身の幸福のほどを知らないといけませんな」と、カールの質問によってヤーコブ氏なる人物の権威が傷つけられたように思ったのだろう、船長は、言った。ヤーコブ氏は、窓べに立っていた。自分の興奮した顔を他人に見せまいとしていることは、明らかだった。彼は、ハンカチで軽く顔を押えて、吹き出る汗を拭っていた。「君に伯父として素姓《すじょう》を明かされたお方《かた》は、エドワード・ヤーコブ上院議員なのです。今後君を待っているものは、あるいは君のこれまでの期待に反するかもしれないが、すばらしい人生です。それを今ここでできるだけ理解しようと努めるのです。そして、心をおちつけないといけません」
「僕には、むろん、アメリカにヤーコブという伯父がいることはいます」と、カールは、船長のほうへ向いて言った。「でも僕の聞き違いでなかったら、ヤーコブというのがその上院議員さんの姓にすぎないことになります」
「そのとおりです」と、船長は、大いに期するものがあるかのように言った。
「ところが、僕の伯父のヤーコブは、僕の母の兄弟で、洗礼名がヤーコブと言うのです。姓のほうは、むろん、母の姓と同じはずで、母は、旧姓がベンデルマイヤーです」
「みなさん」と、窓べの休養地点から元気に引き返してきた上院議員は、カールの説明に関連して、叫んだ。港務局の役人を除いて、一同は、どっと笑った。ある者は、明らかに、感動していたが、ある者は、無表情だった。
≪僕の言ったことがそんなにおかしいのかしら。ちっともおかしくないはずなのに≫と、カールは、思った。
「みなさん」と、上院議員は繰り返した。「みなさんは、このわしの、そしてまたみなさんがたの、本意に反して、はからずも、あるささいな家庭劇的場面に一枚加わることになった。そこで、わしとしては、船長さんだけしか」――この言葉と同時に、双方は、会釈をかわした――「完全に事情をご存じでないので、みなさんがたにも一応説明しておかねばなるまいかと思うのです」
≪さあ、一語も聞きもらさぬよう、相手の話によく注意せねばいけないぞ≫と、カールは、心に言い聞かせた。そしてふとわきを見やると、火夫の姿に生気がよみがえりかけているのが認められたので、うれしくなった。
「わしは、ずっと長年にわたり、アメリカに滞在して――滞在という言葉は、この際、心底からアメリカ市民になり切っているわしには、むろん、ふさわしくないわけだが――、ずっと長年にわたり、ヨーロッパにいる身寄りたちとも、それゆえ、完全に絶縁したまま、暮らしてきた。理由は、いろいろあるが、しかし、それらはまず、第一に、この場とはなんの関係もないし、また第二に、それらを話すとなると、わしの身に事実ひどい迷惑がかかって来ることを覚悟せねばならんのだ。わしは、もしかすると、それらの理由をどうしてもこのかわいい甥に話さねばならぬはめに陥るのではないかと、その瞬間をさえも恐れているくらいなんです。そのときは、これの両親や両親の係累についての忌憚《きたん》ない言葉を避けるわけにはゆかないんでね」
≪僕の伯父だ、疑いの余地ない≫と、カールは、心のうちで言いながら、耳を澄ました、≪たぶん、名まえも変えさせたのだろう≫
「このかわいい甥は、両親によって――事件の実態をもよく言い表わしている言葉だけで申しますと――あっさりとかたづけられてしまったのです。ちょうど猫に腹がたつと、猫を戸口からそとへ追っぽり出すようにね。この甥が一体なにを仕出かして、さような罰を受けることになったかについては、わしは、断じて潤色をしないつもりだが、要するに、甥の落ち度なるものは、ただその罪名を挙げるだけで、もうそこに謝罪が十分含まれているような落ち度なのです」
≪なかなかいい事を言うぞ≫と、カールは思った、≪でも、洗いざらい話してもらいたくない。どのみち伯父に知れるはずはないのだが、一体、どこから聞き込んだのだろう。≫
「甥は、つまり」と、伯父は、話を続けた。そして、いくたびとなくちょっと前のめりになっては、前方へ突いた竹のステッキにもたれかかっていた。確かに伯父は、そうすることによって、自分の話題から、ふつうならばそうした話題にかならず付きものの、不必要な勿体ぶりを巧みに取り除いていた。「甥は、つまり、ヨハンナ・ブルンマーという三十五歳前後の女中に誘惑されたのです。わしは、この≪誘惑≫という言葉で、甥の心を傷つける気は毛頭ないが、どうも同じようにぴったりする言葉がほかに見つからないのでね」
すでに伯父のかなり近くにまであゆみ寄っていたカールは、そのとき、なみいる人々の顔からいまの話の感銘を読みとるために、振り返った。笑う者はなかった。みな、辛抱強く、本気で、耳を傾けている。初めていいきっかけが生じたとはいえ、今となっては、上院議員ともあろう人の甥をもはやあざ笑うわけにはいかなかった。と言うよりかむしろ、火夫が、ほんのかすかではあるが、カールにほほえみかけたと言ったほうが、真相に近いかもしれぬ。しかし、それは、第一には、新しい生のきざしとして、喜ばしいことであったし、また第二には、許して差しつかえないことでもあった。今でこそ公然と知れ渡ってしまったが、まだあの船室にいたときは、カールも、この件だけは取りわけ秘密にしておくつもりだったからである。
「ところが、そのブルンマーが」と、伯父は、言葉を続けた、「わしの甥の子供をもうけた。丈夫な赤ん坊でな。洗礼を受けてヤーコブという名を付けてもらった。疑いもなくわしを連想してのことです。この甥が、きっと余計なよもやま話《ばなし》のついでにわしのことを話したのが、女中には大きな感銘を植えつけていたのにちがいありません。幸いにもと、わしは言いたいところです。両親は、扶養料の支払とか、そのほか、自分たちの身にまで醜聞が及ぶのを避けるために――わしは、あちらの法律とか、両親のその他の事情などを皆目知らないことを、この際、強調しておかねばならないが――両親は、つまり、扶養料の支払や醜聞を避けるために、わしには甥に当たるこの息子をアメリカへ送らせた。ご覧のとおりの無責任きわまる、不十分な旅支度でな。そんなわけで、もしその女中が、わしに手紙を寄越して、その手紙は、実は長いあいだ転々と誤配された末に、やっと一昨日、わしの手にはいったのだが、事の一部始終のほかに、甥の人相とか、如才なく、船の名まえなどをもわしに伝えてくれてなかったら、この少年は、こうしてアメリカで生きながらえているという徴《しるし》と奇跡とを示すことなく、寄るべないままに、ニューヨークの港のどこかの路次で、即座にくたばっていたにちがいありません。ところで、みなさん、みなさんをただ楽しませるだけがわしのねらいだったら、この手紙の二、三ヵ所を」――そう言いながら、彼は、ポケットから、ひどく大判の、ぎっしり字の詰まった、二枚の便箋を取り出して、それを振って見せた――「今ここで朗読して上げたかもしれません。この手紙は、善意からとはいえ、やや単純な狡猾さと、子供の父親にたいする多大の愛情とでもって、書かれていますので、かならずや感銘を与えずにおかないでしょうが、わしは、説明に必要でない余計なことで、みなさんを楽しませようとは思いませんし、また、これを受け取ることにいまもなお抵抗を感じているかもしれない甥の感情を傷つけたくもないのです。甥は、読みたければ、甥を待っている静かな居間のなかでこれを読んで、身の教訓にすればいいわけですしな」
カールは、しかし、その女中にたいしてなんの感情もいだいていなかった。ますます遠ざかってゆく過去のひしめく思い出のなかから、台所の低い食器戸棚のわきに腰を下ろして、戸棚のうえに肘を突いている彼女の姿が、浮かびあがってくる。カールが時おり、父のために水飲み用のコップを取りに行ったり、母の言い付けを果たすために、台所へはいって行くと、彼女は、彼の顔をじっと見つめた。彼女は、よく食器戸棚のわきで、妙にからだをくねらせたまま、手紙を書いていた。そして、カールの顔に言葉の啓示を求めることもあった。あるいは片方の手で両眼をおおっていることもあった。そんなときは、書き出しの言葉さえも出て来ないようだった。また、台所のとなりの狭い女中部屋のなかにひざまずいて、木彫りの十字架に祈っていることもあった。そんなときカールは、その部屋のまえを通りすぎながら、細めに開いているドアのすき間から、彼女の姿をただもうこわごわ観察したにすぎない。かと思うと、彼女は、台所のなかを駆け回って、たまたまカールと出くわすと、魔女のように笑いながらとびすさることもあった。またカールが台所へはいって行くと、台所のドアを締めて、カールが出してくれとせがむまで、ドアの取っ手を離さないこともあったし、カールが欲しくもないものを取り出してきて、彼の手に黙って握らせることもあった。ところが、ある晩のこと。彼女が、「カール」と呼び捨てにしたかと思うと、思いもかけぬ呼びかけにあっけに取られている彼を、顔をしかめながら息づかいも荒く、彼女の小部屋へ引っぱり込み、ドアを締めて、いきなり彼の首っ玉を息の根が止まるほどに抱きしめた。そして、自分を裸にしてくれるように彼にせがみながら、彼女は、手早く、彼をほんとうにすっ裸にしてしまって、自分のベッドのなかへ寝かせた。もうこうなれば、彼を誰にも渡さずに愛撫して、世の終わりまでも彼と情欲にふけるつもりだろうか。「カール、おお、わたしのカール」と、彼女は、彼を透かし見て、自分がいま手に入れたものをなんとかして確かめようとするかのように、叫んだ。カールのほうは、なにひとつ見えないまま、彼女が特に彼のために重ねておいたのだろう、幾枚もの暖かい寝具のなかで、薄気味悪く感じていた。やがて、彼女は、彼のよこへはいって来ると、彼からなにかと秘密を聞きたがった。しかし、彼には彼女に話してやれるような秘密がなかったので、彼女は、冗談とも真面目ともつかずに、怒って、彼の体を揺さぶった。それから、彼の心臓に耳を当てて聞き澄まし、カールにも同じように聴診してみるようにと、自分の胸をさしつけた。ところが、カールが自分の思いどおりにしないので、彼女は、自分のあらわな腹部をカールのからだに押しつけながら、手を入れて、カールが思わず頭を振りながら胸のあたりまでふとんからのたうち出たほどにいやらしく、彼の股のあいだを探ってから、腹をいくたびか彼のからだへ押しつけた。――そのとき彼には、彼女が彼自身の一部になったように、思われた。なんだか身の毛立つような寄るべなさに襲われたのも、おそらく、そうした理由からであろう。彼は、泣きながら、また会ってねの言葉をなんども彼女から聞かされた末に、やっと自分のベッドへ帰ったのである。それが、あとにもさきにも、すべてであった。伯父は、しかし、ただこれだけのことから、大事件をでっち上げるすべを心得ていたわけである。だからこそ、あの台所女中も伯父のことを思い出して、カールの到着を伯父に内報したにちがいない。事は彼女によってみごとに運ばれたのだ。自分とてもいつかは彼女にその返報をせずばなるまい。
「さて、この辺で」と、上院議員は、叫んだ、「わしがおまえの伯父かどうか、率直に言ってほしいのだが」
「僕の伯父さんにちがいありません」と、カールは、言って、伯父の手に接吻し、その返しに伯父の接吻を額に受けた。「お会いできてとてもうれしいです。でも、僕の両親があなたのことをただ悪しざまにしか言ってないと、お思いでしたら、それは、お考え違いです。まあ、それは別にしても、あなたのお話には二、三誤リがあったようです。つまり僕の申し上げたいのは、現実においてはかならずしもお説のように事が運んだのではないということです。でも、正直なところ、当地にいては、あちらの事情が正しく判断できないのも、無理からぬところです。それに、どなたによらず、さしてご自分にとって重要でない事件の詳細について、多少誤った情報を受けておられたところで、なにも格別の損害はあるまいと、僕は信じています」
「よくぞ申した」と、上院議員は言って、明らかに共感を示している船長のまえへカールを連れて行き、尋ねた。「どうです、すばらしい甥を持っているでしょう」
「上院議員さん」と、船長は、軍隊式訓練を受けた人たちしかできないような敬礼をして、言った、「あなたの甥御と近付きになれて幸せです。また、かようなめぐり合いの場所を提供できましたことは、本船にとり格別の光栄でもあります。それにしても、三等船室での旅は、さぞかし難渋でしたろう。実は、だれがそこに乗り合わせているかもわからないものですから。今後は、三等のお客さまにもできうるかぎり旅を楽にしていただくために、できうるかぎりのことをいたしましょう。例えば、アメリカの各航路会社とは比較にならないくらいに。でも、三等での旅を楽しいものにするという点では、むろん、いまだ成功したためしがありません」
「別につらいこともなかったですよ」と、カールは、言った。
「別につらいこともなかったようですよ」と、声高く笑いながら、上院議員が繰り返した。
「ただ、あのトランクを失くしたのではないかと、それだけが心配で――」そう言いながら、カールは、これまでの出来事やまだやり残していることなどをすべて思い出しながら、周囲を見回した。なみいる人たちはみな、尊敬と驚嘆のあまりに、黙々と彼のほうへ視線をそそいだまま、先刻からの位置に立ちつくしていた。ただ、港務局の役人だけは、彼らの厳粛な自己満足した顔つきから察知したかぎりでは、ひどく都合の悪いときに来たことを残念がっているようだった。彼らがいま眼前に置いている懐中時計のほうが、この室内ですでに起こったことやまだ起こるかもしれないことなどよりも、たぶん、彼らには大切なのだろう。
船長に次いで関心を真っ先に表明したのは、奇妙にも、火夫だった。「心からお祝いを申します」と言って、火夫は、カールと握手した。彼は、それでもって、なにか感謝のようなものをも表現しようとしていた。火夫は、さらに上院議員にたいしても同じようなあいさつを述べようとしたが、そうしたふるまいは火夫の越権であるかのように、上院議員が後ずさりしたので火夫は、すぐに思い止まった。
そうなると、残りの連中も、なにをしなければいけないかを悟って、たちまちカールと上院議員をかこみ喧騒の垣を造った。こうして、カールは、シューバルの祝詞をさえも受け、それにたいして謝辞をも述べるにいたった。再び元の静けさに返ると、最後に港務局員までも近寄って来て、二言ばかり英語で言った。それがなんともおかしな印象を与えた。
上院議員は、楽しさを満喫するために、他の連中といっしょにかなり枝葉末節のことまでも思い起こしたい気持ちにすっかり駆られているようだった。むろん、一同も、それを許したばかりか、興味をもって歓迎した。そこで、上院議員は、台所女中が手紙のなかで述べていたカールの最も著しい目じるしを、万一必要なときに役立てようと、自分の手帳に書きつけておいたことをも、一同に披露した。そして、火夫のやり切れないおしゃべりのあいだは、ただもうそれから注意をそらしたいばかりに、手帳を取り出して、台所女中の、むろん、探偵ほどには正確でない、観察と、カールの顔かたちとを、遊び半分に結びつけてみたりしていたことを、言い添えた。「こうして甥が見つかったわけです」と、彼は、もう一度祝辞を受けたいような口調で話を結んだ。
「ところで、火夫の身のうえはどうなるのでしょう」と、カールは、伯父の話の最後の部分を聞き流しながら、尋ねた。彼は、自分に与えられた新しい立場では、なんなりと思ったことはそのまま口に出していいものと、信じていた。
「火夫が身に受けることと言えば、当然の報いと、それから」と、上院議員が言った、「船長の適当と思われる処置とだ。火夫の話には、もう飽き飽きするほど、おたがいにたんのうしたと、わしは、思っているのだが。これについては、同席の各位もきっとわしに賛成してくれるじゃろう」
「そんなことは、でも、問題ではありません。目下係争中なのは、公正という一件ですから」と、カールは、言った。ちょうど船長と伯父とのあいだに立っていた彼は、その位置におそらく影響されたのだろう、裁決権は自分の掌中にあるものと信じていた。
それにしても、火夫のほうは、わが身のためにもうなにも期待してないように見受けられた。両手をなかばズボンの腰帯に差し込んだままでいる。さっきの興奮した動きのせいで、その腰帯も、柄のあるシャツのすそも、そとから見えていた。彼は、そんなことを一向に意に介していなかった。もう自分の悩みを洗いざらい訴えてしまった今は、この身にまとっているすこしばかりの襤褸《ぼろ》なりともご覧くださって、このわしを運び去ってくれるがいい。火夫はひとり想像をたくましくしていた。召使とシューバルは、ここにいる人のなかではいちばん身分の低いふたりだし、わしにそれくらいの最後の好意は示してくれてもいいはずだ。さすれば、シューバルも心が安らいで、あの事務長が言っていたように、もうやけくそにならなくともすむのだ。そして、船長は、今後、ルーマニア人ばかりを遠慮なく雇えばいいさ。船内はいたるところで、ルーマニア語が話され、そうなると、あるいはほんとうに万事が今よりうまくいくかもしれん。火夫が本金庫室でしゃべることもなくなるだろう。ただわしの最後のおしゃべりくらいは、だれしも、かなりなつかしい思い出として覚えておいてくれるだろう。なにしろ、あの上院議員がはっきりと言明したように、あの甥を見分ける間接のきっかけになったのだから。とにかく、あの甥も、さっきはわしのために役立とうといろいろ努めてはくれた。それがだめになったものだから、伯父甥の確認のとき、わしの尽力にたいして、あのように、真っ先に、十分以上の感謝をしてくれたにちがいない。もうこれ以上あの甥から要求するのは、止めにしよう。要するに、あの少年は、上院議員の甥ではあっても、まだ船長にのし上っているわけではないのだから。ところで、意地悪い言葉を吐くとすれば、結局、あの船長なのだ。――そうした考えに合致するように、火夫も努めてカールのほうを見まいとしていたが、残念ながら、敵陣にひとしいこの部屋のなかでは、おちついて彼が眼を留められる場所は、カールのところよりほかになかったのである。
「事態を誤解しちゃいかん」と、上院議員はカールに言った、「係争中なのは公正という件かもしれんが、同時にまた、規律という件でもある。ともに、とりわけ後者は、この場合、船長さんの判定にゆだねられているのだ」
「全くだ」と、火夫は、つぶやいた。それに気づき、その意味を理解した人らは、不快げに苦笑した。
「とにかくニューヨークに入港早々で、船長さんには途方もなく職務が山積しているだろうし、そこをわしらがすっかりお邪魔してしまったのだから、このうえさらに、全く余計な介入などして、ふたりの機関係の取るに足らぬ喧嘩を大事にしないためにも、今が、わしらとしちゃ、船を去る潮時だ。それに、かわいい甥よ、わしにはおまえのやり方が完全にのみ込めた。それだけに、おまえを急いでここから連れ去る権利がわしにはあるわけだ」
「早速にもボートをあなたがたのために下ろさせましょう」と、船長は、言ったが、伯父の言葉にたいして一言の異議をすらも唱えないのに、カールは驚いた。伯父の言葉は、疑いもなく、伯父の卑下と見なしてよかったからである。事務長があわてて事務机へ駆け寄り、船長の命令を電話で水夫長に伝えた。
≪もう一刻も猶予できない≫と、カールは、心のうちで言った、≪とにかく、全部の人の気持ちを傷つけまいとすれば、何事もできない。かと言って、伯父は自分と会ったばかりだし、今ここで伯父から離れるわけにもゆくまい。船長は、丁重だが、ただそれだけのものさ。いやしくも規律ということになると、あの丁重さなんか、かなぐり捨ててしまうだろう。伯父は、確かに、船長の言いたいことを言った。シューバルとは口をきくまい。あいつと握手したのが残念でならぬ。その他の連中ときたら、吹けば飛ぶ籾殻《もみがら》だ≫
彼は、そんなことを考えながら、ゆっくりと火夫のほうへ歩いて行き、腰帯から火夫の右手を引き抜いて、それを両手のなかでもてあそびつづけた。
「どうして黙っているのです」と、彼は、尋ねた。「どうして何事をも甘受しようとするのです」
火夫は、言いたいことにたいする適当な言葉を探すかのように、額にしわを寄せただけだった。いずれにせよ、カールの手と自分の手とに眼を落としたきりだった。
「あんたは、この船の乗組員のだれもがこれまで一度も会わなかったような、ひどい目に会ったのですよ。僕にはちゃんとわかっているのです」カールは、そう言いながら、相手の指のあいだで自分の指を抜き差しした。火夫は、自分の身に無上の悦楽が与えられ、その悦楽を誰にも邪魔させまいとするかのように、眼を輝かせながら、あたりを見回した。
「あんたは自己防衛して、とにかく、≪はい≫と≪いいえ≫くらいは言わないとだめです。そうでないと、この人たちにも真相がわかりっこありません。僕の言うとおりにすると、僕に約束してください。僕自身は、もうあんたに力添えできないかもしれない。いろいろな根拠に基づいて、僕は、それを案じているのです」言い終わると、カールは、火夫の手に接吻しながら泣いた。そして、そのあかぎれだらけの、ほとんど生気のない手を、さながらあきらめねばならぬ宝物のように、自分の頬に押し当てた――ところが、もうそのときには、上院議員が彼のよこに来ていて、彼を、ちょっとてこずった程度で、ほとんど難なく引っ張って行った。「おまえは、あの火夫に魅入られたようだな」と、伯父は、言って、カールの頭ごしに船長のほうへ意味深長なまなざしを送った。「おまえは、ずっと天涯孤独を感じていた。そこへ火夫と出あった。それで今、火夫をありがたく思っているのだろう。それはいかにも殊勝なことだ。だが、そうしたことは、ぜひわしのためにも、ほどほどのところで止めて、おまえのいまの立場を理解するようになってほしいのだ」
ドアのそとで、なにやら騒ぎが持ち上がり、怒号が聞こえた。だれかがドアに向かって手荒く突き倒されたような音さえした。ひとりの船員がやや取り乱してはいって来た。女中がするエプロンをしていた。「そとに奴らがいるんでさあ」と叫んで、その男は、いまだにもみ合いのなかにいるかのように、あたりの虚空を肘でこづき回した。そのうちにやっと正気に返って、船員は、船長に敬礼しようとしたが、ふとエプロンに気づいて、それをもぎ取ると、床に投げつけて叫んだ、「なんて胸くその悪いことをしやがる奴らだ。おれに女のエプロンをさせたりして」そこで初めて、彼は、かかとをかちんと合わせて、敬礼した。誰かが笑いかけたが、船長は、しかし、厳かに言った、「いやに上機嫌だな。一体、そとに誰がいるのだ」
「私の証人たちでございます」と、シューバルは、まえに歩み出て、言った、「彼らの不都合なふるまいにたいしましては平にご容赦願います。船員どもは、一航海を終えますと、狂ったようになるときがございますので」
「すぐに連中を呼び入れなさい」と、船長は、命令した。そしてすぐに、上院議員のほうへ向き直りながら、丁重にではあるが早口に、言った、「それでは、まことに相すみませんが、上院議員閣下、この船員がボートへご案内いたしますので、どうか甥御さんといっしょにこの者のあとからお越しを願います。あなたに、上院議員閣下、親しく近づきを得ましたことが、どのような喜びと栄誉を私に与えてくれましたことか、いまさら申し上げるまでもないと存じます。アメリカの海軍力についてのきょうの議論の続きを、上院議員閣下、あなたとふたたび取り上げることができて、そしてまた、きょうのように気持ちよく中断されるかもしれない機会が、近々のうちに得られますよう、ひたすら祈っております」
「今は、差しずめこの甥ひとりで十分です」と、伯父は、笑いながら言った。「では、船長さんのご親切に心底から感謝いたします。どうかご機嫌よう。それにしても、わしらふたりが」――伯父は、やさしくカールを抱きしめた――「次にヨーロッパ旅行します際には、かなり長いあいだ、あなたと道連れになれるようなことがないともかぎりませんな」
「そうなれば心からうれしいです」と、船長が言った。両人は、握手をかわした。カールは、ただ黙って船長にちょっと手を差しのべるよりほかなかった。すでに船長は、シューバルのさしずを受けて、いささかどぎまぎしながらも、ひどく騒々しくはいり込んで来た、ざっと十五人くらいの固まりのほうへ、心を奪われていたからだった。案内の船員は、上院議員に先に立ってゆく許しを乞うと、ふたりのために、その人固まりをかき分けた。ふたりは、お辞儀をする人々のあいだをたやすく通り抜けた。それらのふだん気だてのいい連中は、シューバルと火夫との争いをほんの冗談と解しているらしく、船長のまえに出ても、おかしさが止まらないようだった。カールは、例の料理女のリーネもなかに混じっているのに、気づいた。リーネは、床に投げつけてあったエプロンをまといながら、カールに向かって朗らかそうにウィンクした。エプロンは彼女のものだった。
伯父と甥は、船員のあとについて事務室を出ると、とある小さな通路へ曲がった。その通路を二、三歩ばかり行くと、小さなドアがあり、そこから、短いタラップが二人のために用意されたボートにまで下ろされていた。案内の船員がいきなり一足飛びしてボートへ降りると、ボートのなかの水夫たちが立ち上がって敬礼した。上院議員が、用心してタラップを降りるように、カールに注意を促したとき、カールは、まだ最上段に立ったままで、にわかに激しく泣き出した。上院議員は、右手をカールの顎《あご》のしたに当てがい、カールを自分のからだにしっかとおしつけたまま、左手でカールの頭をなでた。そうして、ふたりは、ゆっくりと段々を降り、ぴったりとくっついたままでボートに乗り移った。上院議員は、早速カールのために、向かい合わせの、いい席を探し出した。上院議員の合い図で、ボートが本船から離れ、水夫たちがすぐさま力いっぱいに漕ぎ出した。本船から数メートル前後遠ざかったあたりで、カールは、自分たちがいまちょうど本船のあの本金庫室の窓のある側にいることを、はからずも発見した。三つの窓は、シューバルの証人たちの顔でうずまり、みなそれぞれにひどく愛想よく、こちらへあいさつを送ったり、手を振ったりしていた。伯父でさえも答礼していた。水夫のひとりが、オールを規則正しく漕ぐ手を休めることなしに、船のほうへ巧みに投げキスを送っている。確かに、もうどこにも火夫などいないかのような感じだった。カールは、たがいの膝頭がほとんど触れんばかりの距離から、伯父をつくづくと正視した。この人に果たしてこれからあの火夫の代わりができるだろうか、そんな疑問がカールの心にわいてきた。現に、伯父は、カールのまなざしを避けて、ボートを揺さぶっている波のほうへ視線を向けていた。
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伯父
伯父の家で、カールは、新しい環境にもやがて慣れた。伯父は、しかしどんな些細なことであろうと、快く彼の言いなりになってくれた。それゆえ、カールは、にがい経験によって初めて処世を教えられるということもなく、日々を過ごしていた。外国での最初の生活をひどくつらいものにするのは、大抵の場合、これであったが。
カールの部屋は、建物の六階にあった。下の五つの階は、伯父の事業に占用されていた。その五つの階に続いて、さらに地下に、三階の地下室があった。朝になって、カールが彼の小ぢんまりした寝室から居間にはいると、二つの窓とバルコニーへの出入り口とを通して居間へさし込んでいる光が、いつもきまったように、彼を瞠目《どうもく》させた。もしも貧しい移民として、年端も行かぬ身が、この地に上陸していたならば、どのようなところに住まねばならなかったろう。そうだ、もしかすると、合衆国へは入国させてもらえないで、本国へ送還されていたかもしれない。もう自分に故郷がないことなど、一切お構いなしに伯父は、移民法の知識に照らして、そうしたことすら大いに有りうると思っているようだった。碓かに、この地では、同情などをあてにしてはならない。この点に関するかぎり、カールがアメリカについて読んでいたものは、全く正しかった。ただ幸福な人たちだけが、この地では、まわりの人々の冷淡な顔つきのなかで、自分たちの幸福をほんとうに味わっているように見えるのだ。
細長いバルコニーが、居間のまえに、ちょうど居間の幅に合わせて、突き出ていた。もしこれがカールの郷里にあったら、おそらく最高の展望台かと思われるのに、今ここから見晴らせるものといえば、文字どおり小刻みなふたつの家並みのあいだを、まっすぐに、それゆえ、逃げるように、走り、はるか遠く、行くえが知れなくなるあたりで、濃いもやのなかから、大寺院らしいものの形がそびえ立っている、ひとすじの街路くらいのものであった。そして、朝晩を問わず、夜の夢見どきでも、その路上では、往来の混雑がひっきりなしに生じていた。その光景を上から見れば、さまざまのゆがんだ人影とあらゆる種類の車両の屋根との混合物を、取り替え引き替え、いつも新たに、まき散らしているようであった。しかも、その混合物のなかから、さらに、騒音と塵挨と臭気との、新たな、幾重にも倍加された、さらにすさまじい混合物が、舞いあがっていた。そして、これらすべてを捉えて、くまなく満たしているのが、強力な光だった。おびただしい対象によって、たえまなく散乱させられ、運び去られては、またせっせと運ばれてきている、その光は、くらんだ眼には、さながらその路の上方に一切合財を被い尽す一枚の板ガラスがあり、それが毎瞬絶えまなしに力いっぱい打ち砕かれているのではないかと思われたほど、具体的に見えたのである。
なにかにつけて用心深かった伯父は、カールにたいしても、さしあたってはどのように些細なことにも本気で深入りしないようにと、次のように言い聞かせた。おまえは、むろんすべてをよく吟味し、熟視せねばならない。だが、けっして虜《とりこ》になってはいけないよ。ヨーロッパからアメリカに来たてのころは、まあ例えてみれば、誕生のようなものだ。もっとも、あの世から人間世界へ生まれ出るよりももっと速やかに、みな、この地での生活に慣れてしまうがね。それに、むろん、おまえにだけはなにも不必要な心配はしてもらいたくないので、言うのだが、とにかく、最初の判断というものはいつも頼りないものだということ、そうした最初の判断で、ここでの生活を続けてゆくうえに助けとなる今後の判断すべてが、あたらかき乱されてはならぬということ、これをしかと心に留めておいてほしいのだ。わし自身も、例えば、こうした立派な原則に即したふるまいをしないで、一日じゅう、バルコニーに立ちつくし、迷える羊のように通りを見下ろしている新来者を、いくたりか、知っている。それこそ、絶対に、心の混乱のもとだ。活動力に富むニューヨークの一日にうっとりと見とれる、このような孤独な無為は、遊覧旅行者には、許されもしようし、またもしかすると、無条件にではないにしても、勧めてやっていいものかもしれない。しかし、当地に留まろうとする者にとっては、破滅のもとだ。かような場合にこそ、すこし大袈裟《おおげさ》かもしれないが、平気で、こうした言葉を使っていいのだ。伯父のこういう話に偽りはなかった。伯父は、いつも一日に一度だけ、しかもいつも違った時刻に、カールの部屋を訪れるのだが、ある日、たまたまカールがバルコニーに出ているところへ行き合わせて、そのときは、ほんとうに腹だたしげに顔をしかめた。カールは、すぐにそれに気づいて、バルコニーに立つ楽しみを、そのため、できるかぎりあきらめることにした。
とはいえ、カールの味わった楽しみといえば、むろん、それのみにとどまりはしなかった。彼の居間には、極上の品質のアメリカ式の書き物机が、置いてあった。彼の父親が数年来しきりと欲しがって、折りあるごとに、さまざまの競売に顔を出しては、なんとか手の届く安い値段で買い求めようと努めたものの、父親のわずかな資力ではどうにもならなかった代物である。しかし、カールの部屋の机は、むろん、ヨーロッパの競売場を転々と渡っているような、あのいわゆるアメリカ式の書き物机とは、比較にならなかった。例えば、机の上置きのなかは、とりどりの大きさの無数の棚になっていて、合衆国大統領でさえも、おびただしい書類をそれぞれ適当な場所にしまうのに、困らないくらいであった。おまけに、上置きのよこてには、調整器があり、クランクを回せば、必要に応じて好きなように、棚の位置をさまざまに変えたり、また新しい棚をさまざまに造ったりできるようになっている。そのとき、薄い側壁が、ゆるやかに沈下して行って、新しくできてくる棚の底か、新しく上ってくる棚の天井になるのだ。クランクを回しただけで、もう上置きの外観は、全く一変する。クランクの回しぐあいで、すべてのことが、ゆるやかにも、また、ばかに速やかにも、運ばれてゆく。それは、最新の発明であったが、しかし、カールには、郷里のクリスマスの市《いち》で子供たちには目をみはる見世物たった、あのキリスト生誕劇を、いかにもありありと思い出させた。カールも冬着にくるまって、そのまえに立ち、老人が回すクランクの回りぐあいと、東の三博士のとどこおりがちな行路とか、星の輝き、聖なる厩《うまや》での途方に暮れた生活など、生誕劇のなかの効果的な各場面とを、たえず比較し続けたことが、しばしばあった。そんなとき、いつも彼には、自分のうしろに立っている母親が劇のなかのすべての出来事をさして細かくは見物してないような気がしてならなかった。彼は、自分の背に母親が感じられるくらいまで、母親を自分のほうへ引きつけて、母親に口をふさがれるまで、終始大きな叫び声を発しながら、見落としがちな光景、例えば、前方の草むらのなかで所を変えてはちんちんもし、そしてまた、駆け出そうとしている小うさぎなどを、母親に指さして教えた。母親は、彼の口をふさぐと、またもとの放心状態に陥るらしかった。ここにある書き物机は、むろん、こうしたものをしか思い出させぬような構造ではなかった。しかし、発明の歴史においては、おそらく、カールの思い出におけるのと似たような、漠然とした関連が存するのであろう。伯父は、カールとちがってて、この書き物机にけっして賛成してはいなかった。カールのためには、まともな書き物机を買ってやるつもりであった。ところが、そのまともな書き物机も、当節はすべて、このような新装置が施してあった。旧式の書き物机にも、大した費用をかけないで、取りつけられるというのが、また、この新装置の長所でもあったのである。とにかく伯父は、できるだけ調整器を使用しないように、カールに訓告することをやめなかった。その訓告の効果を強めるために、伯父は、その機構がひどく精密であるために、傷《いた》みやすく、修理もまたひどく高価につくことを、力説した。かような言葉が逃げ口上にすぎないことを見抜くのは、むつかしくなかった。とはいえ、口に出してこそ言わなかったが、調整器を動かなくすることは、きわめてたやすかった。しかし、伯父は、なぜか、それをしなかったのである。
来た当座のころ、そのころは、むろん、カールと伯父のあいだで、ひとしおしげしげと話し合いが行なわれていたのであるが、カールはまた、家にいたあいだはあまり弾かなかったが、それでもピアノを弾くのが好きだったこと、弾くといっても、むろん、母から授かった初歩的知識でこなせる範囲内にすぎなかったことなどを、話したことがあった。このような話が、また同時に、ピアノのねだりでもあることを、カールは、そのとき、十分に意識していた。彼は、それまですでに十二分に自分のまわりを偵察して、伯父がけっして倹約せねばならぬような人間でないことを、知っていたのである。とはいえ、彼のそのねだりは、すぐにはかなえられなかったが、それから約一週間後、いかにも不承不承ながら白状するというようなかたちで、伯父が言ったのは、ピアノがたったいま届いたから、おまえは運搬の監督をしたければするがいいということであった。それは、もちろん、楽な仕事ではあったが、さりとて、運搬そのものよりはるかに楽とも言えなかった。というのは、この建物のなかには、一台の家具運搬車がそのままゆっくりとはいれるような、特別の家具専用エレベーターがあり、現にそのピアノもこのエレベーターに乗せられて、カールの部屋にまで運ばれたからである。カール自身もその同じエレベーターでピアノやその運搬人夫たちといっしょにゆけないこともなかったが、たまたまその隣の乗用エレベーターが自由に利用できるようにあいていたので、それに乗った。そして、梃子《てこ》を操作し、自分の位置をかたわらのエレベーターとつねに同じ高さに保ちながら、ガラスの壁ごしに、今や自分のものとなったその美しい楽器を、わき目もふらずに、打ち眺めたのであった。部屋のなかに据えてもらって、初めてすこしばかり音をたたき出してみると、もうそれだけで、カールは、気違いじみた喜びに襲われた。彼は、弾く手をやめて飛びあがり、数歩離れたところから、腰に手をあてたまま、むしろうっとりとそのピアノに見とれていたくらいである。部屋の音響効果も、またすばらしかった。それは、鉄筋の家に住まねばならないという彼の当初のちょっとした不快感を、すっかり吹き飛ばしてくれた。事実また、この建物は、外から見れば、いかにも鉄らしい感じがするけれども、部屋のなかにいれば、建材に鉄が使われていることにすこしも気づかなかった。それどころか、全く申しぶんのない居心地をなんとか害《そこ》ねるような点を、いささかなりと、ここの構造のなかに指摘するのは、だれにも不可能なことのように思われた。カールは、最初のうちは、自分のピアノの演奏に多大な期待をいだいていた。そして、すくなくとも寝入るまえには、こうしたピアノの演奏によってアメリカの生活事情が直接に影響を受ける可能性を空想しながら、別にそれを恥ずかしいとも思わなかった。しかし、彼が、騒音にみちた空中に向かって窓をあけ放ち、あの郷里の兵士たちが夕方になると兵営の窓に身を横たえて、暗くなった営庭を見下ろしながら、窓から窓へと歌いあう、古い兵士の歌を演奏するときなど、彼のピアノは、むろん、ひどく奇妙な音を発した。――それに、ひき終わってから、街路を見下ろしても、様子は少しも変わっていなかった。街路は、依然として、ぐるりに働いているすべての力を知りつくさなければ勝手に止めることのできない、大きな循環の一小部分にすぎなかった。伯父は、そうした演奏をも大目に見ていた。カールが、伯父に促されても、めったに演奏を楽しまなくなってからも、それにたいして一言も文句を言わなかった。それどころか、アメリカの行進曲集とともに、むろん、国歌の楽譜をさえも、持ってきてくれた。しかし、それは、伯父の音楽好きという点からだけでは、どうも説明がつかなかった。ある日、伯父は、すっかり真顔になって、ヴァイオリンとかフレンチ・ホルンの演奏を習う気があるかどうか、カールに尋ねたからであった。
英語の勉強がカールの最初の最も重要な課題であったことは、言うまでもない。商科大学のある若い教授が、朝七時きっかりに、カールの部屋へ姿を見せる。もうそのときは、カールのほうも、書き物机にすわって、本やノートをまえにしているか、暗誦しながら、部屋のなかを行ったり来たりしていた。彼は、英語の習得をどんなに急いでも急ぎすぎはしないこと、いや、そればかりか、急速な進歩によって伯父をことのほか喜ばす、これが、絶好の機会であることを、十分に心得ていた。事実また、最初は、伯父との会話で、あいさつとか別れの言葉に英語が限られていたのが、やがて、日ましに会話の大きな部分が英語に移されてゆくようになり、そのため、ますます隔意のない話題も、同時に、生まれるようになってきた。カールが、ある晩、初めて伯父にアメリカの詩を朗吟して聞かせると、それはどこかの火事の描写であったが、伯父は、満足のあまりに、ひどく真顔になった。そのとき、ふたりは、カールの部屋の窓べに立っていた。伯父は、すでに空の明るさがすっかり消えてしまった、はるか彼方に眼をはせながら、詩に共感して、ゆっくりと調子正しく手を打っていた。カールは、そのわきに直立して、眼を据えたまま、頭のなかからそのむつかしい詩をしぼり出していた。
カールの英語が上達するにつれて、伯父には、カールを知人たちに引き合わせたい気持ちが、ますます募ってゆくようであった。伯父は、ただあらゆる場合を考慮して、かような会合の際はさしずめ英語の教授がいつもかならずカールの身近に控えているように、手配しただけであった。カールがある日の午前に引き合わされた、いのいちばんの知人は、すらりとした、若い、途方もなくからだのしなやかな男であった。伯父は、格別にお世辞を使いながら、その男をカールの部屋へ案内してきた。彼は、明らかに、あの多くの、両親の立場から見れば、出来そこないの大富豪の息子たちのひとりであった。この若い男の一生のどの一日を見届けても、普通人なら嘆かずにはいられないような生活ぶりをしているにちがいなかった。当人自身もそれをおぼろげなりとも知っているらしく、力の及ぶかぎりは、世人の嘆きに対抗しようとするかのように、口と眼のまわりに、たえず幸福の微笑を浮かべていた。その微笑は、彼自身にも、彼と向かい合っている人にも、また全世間にも、向けられているようであった。
伯父の無条件賛成のもとに、マックさんとかいう、その若い男と、毎朝五時半に、乗馬学校内であろうと、また郊外へ向けてであろうと、とにかく、いっしょに馬を乗り回す約束ができあがった。カールは、生まれて一度も馬に乗ったことがなかったので、まずすこしばかり馬術を習ってからと言って、最初は承諾することをためらったが、伯父とマックがひじょうに熱心にカールを説き伏せて、乗馬はたんなる娯楽であり、健康的な体育であり、けっして術というようなものではないことを立証したので、ついにカールも承諾してしまった。そうなると、むろん、四時半にはもうベッドを離れなければならなかった。それがカールには、返す返すもひじょうに残念だった。というのは、こちらへきてから、一日じゅう、たえず細《こま》かに気を配っていなければならなかったためであろう、たまたま眠けに悩まされていた最中だったからである。しかし、浴室にはいると、そうした恨めしさもじきに消えうせてしまった。ちょうど浴槽の上方には縦横に、シャワーの篩《ふるい》が張りめぐらしてあった。――郷里では、同級生のうちで、どんなに家が裕福であろうと、このようなものを、しかも自分専用に、持っていた者があろうか――カールは、そこに長々とからだを横たえた。この浴槽のなかでは、両腕を左右に広げることさえできた。そして、ぬるま湯、熱い湯、またぬるま湯、そして最後には氷のような水と、次々にそれらを好き勝手に、浴槽の一部分とか全面に、滝のように降らせた。すこし残っている眠けを味わい続けるかのように、カールは、そこに横たわっていた。彼は、閉じたまぶたに、ぽたりぽたりと落ちてくる、最後のしずくを受けるのが、殊のほか楽しかった。しずくは、またそれから、堰《せき》を切ったように、顔一面に流れ落ちるのだった。
伯父所有の屋根の高い箱型自動車が彼を乗馬学校で降ろすと、もう英語の教授が来て、彼を待ち受けていた。マックは、例外なく、遅れてやってきた。それゆえ、カールも、安心して、もっと遅く来てもよかったのだ。ほんとうの活発な騎乗は、マックがきて、やっとはじまったからである。彼がひとたび学校に足を踏み入れると、馬どもは、それまでのうたたねをさまされて、棒立ちとなり、ぴしゃりという鞭の音がさらに高くあたりの空気をつんざくと、そこかしこに立っていた人たち、見物人、馬丁、ここの生徒、そのほか、そこに居合わせた者らが、先を争って、円形の回廊に姿を見せるのが、常であった。カールは、マックが到着するまでの時間を、きわめて初歩的なものにすぎなかったとはいえ、多少なりとも、乗馬の下稽古を行なうことに利用した。どんなに高い馬の背にでも、ほとんど腕を上げないで、ちゃんと手が届く、背の高い男がいて、カールにいつも十五分そこそこの教授をしてくれた。それから得た成果は、たいして大きくはなかった。ただその稽古のあいだ、カールは、息もたえだえに、英語の教授に向かって悲鳴を発したので、多くの英語の悲鳴をひっきりなしに覚えることができたくらいである。英語の教授は、いつも戸口の柱によりかかっていて、たいていは睡眠不足のようだった。ところが、マックがやって来ると、乗馬にたいするそれまでの不満は、ほとんどすっかり吹き飛んでしまった。背の高い男は追いやられた。そしてまもなく、いまだに薄やみの残っている練習場では、疾駆する馬どもの蹄の音しか聞こえなくなった。眼に見えるものといえば、カールに号令するマックの振り上げた右腕くらいである。娯楽の半時が夢のように過ぎると、それで停止である。マックは、大あわてにあわてて、カールに別れを告げ、時にカールが自分の乗馬にことのほか満足していたりすると、カールの頬をかるくたたいて、そのまま姿を消してしまう。先を急ぐあまり、カールといっしょに戸口を出ることさえもしない。カールのほうは、それから、教授を連れていっしょに自動車に乗り込み、たいていは回り道をしながら、英語の授業におもむくのである。というのも、伯父の家から元来はまっすぐに乗馬学校へ通じている大通りが、ひじょうに混雑しているために、そこを抜けてゆけば、かえって多くの時間が浪費されるからであった。とにかく、こうして英語の教授を同伴することだけは、すくなくともそのうちに止めになった。疲れた人にわざわざ乗馬学校へまでむだな足労を願うことに良心の呵責を感じたカールは、マックとの英語による意志の疎通もひどく簡単なことだったので、教授をせめてこの義務からは解いてあげるように、伯父に願い出たのであった。伯父は、ちょっと考え込んでから、その願いにも応じてくれた。
カールのたびたびの懇願にもかかわらず、伯父が、ほんのちらとでもカールに自分の事業を覗かせてやろうと、決心するにいたったのは、かなり時日がたってからであった。それは、一種の問屋兼運送業で、この種のものは、カールの記憶しているかぎりでは、ヨーロッパでは全く見掛けぬようであった。事業の内容は、つまり、取次業であるが、しかし、この取次業は、商品をいわば生産者から消費者へ、あるいは小売業者へと取り次ぐのではなくて、いくつかの大きな工場カルテルのために、それらのあいだで、あらゆる商品と原生産物との取り次ぎを引き受けるのである。それゆえ、大規模の購入、納庫、運送、販売を一手に包括し、顧客たちと、きわめて正確な、たえまない、電信電話による連絡を保たねばならない事業であった。電信室は、いつかカールがある勝手知った同級生の手びきで見て回ったことのある、あの郷里の電信局よりも、小さいどころか、かえって大きかった。電話設備のある大広間では、どちらを見ても、電話室のドアがあいたりしまったりしていて、ひっきりないベルの音で気が変になりそうであった。伯父は、それらのドアのうちの、もよりのひとつをあけた。すると、そこのひらめく電気の光のなかに、あまたのドアの騒音には一切頓着なく、鋼鉄製のバンドで頭をはさみ、バンドの両端の受話器を耳に押し当てている従業員のすがたが見えた。右の腕は、ことのほか重たげに、小さな机のうえに置かれ、鉛筆を握った指先だけが、いかにも人間ばなれしているように、一様な速さで小刻みに動いていた。その男が送話器に向かって話す言葉は、ひどく控えめであった。ときには、もしかすると、先方の話し手にたいして異存があって、もっと詳しく話し手に問いただしたがっているのではないかとさえ見えることも、しばしばあった。しかし、彼が耳に聞いたいくつかの言葉は、彼にそうした意図を実行するいとまを与えず、是が非でも眼を落として書かざるを得ないように仕向けるのであった。伯父がそっとカールに説明したところでは、彼は、事実また、しゃべらなくともよかったのである。その男が聴取したのと同じ報告が、さらに他のふたりの従業員によっても同時に聴取されて、比較され、できうるかぎり誤りが除かれるようになっていたからであった。伯父とカールがドアから出たとき、入れちがいにひとりの実習生が忍び足でなかへはいり、そのあいだに書かれていた紙きれを持って出てきた。大広間をよぎって、あちこちへ駆り立てられる人々の往来が絶えなかった。だれも挨拶しない。あいさつは廃止になっていた。みなそれぞれに、前をゆく人の踵《かかと》に接し、できうるかぎり速やかに前へ進もうとして、床に眼を落としたり、手にした書類から、ただとりとめもなく、言葉や数字のはしばしを拾い読んだりしていた。その書類は、駆け足のせいで、はためいていた。
「ほんとうに大したご成功です」と、カールは、こうして企業のなかを見回りながら、ふと途中で言った。たとい各部門をほんのちらとのぞき見するだけにとどめても、企業全体をひととおり見届けようと思えば、多くの日数をかけねばならなかったのである。
「しかもこれ全部を、わしは、いいかい、三十年まえにひとりで設立したんだよ。当時わしは、港区で、小さな商売をやっていた。そのころ、一日に荷箱が五つも荷揚げされると、大したものだった。わしは、威張って家へ帰ったものだった。それが今日では港に、大きさから言って三番めの倉庫を、わしは持っている。そして、昔の店は、わしの荷物運搬人第六十五班の食堂と物置き部屋になっているのさ」
「全く不思議なような話ですね」と、カールは言った。
「ここではすべての発展がきわめて急速に行われるのだ」と、伯父は、話を中途で切って、言った。
ある日、カールがいつものようにひとりで食事をとるつもりでいると、食事の寸前に伯父がやってきて、すぐに黒服を着て、いっしょに食事に来るように、取引先のひとがふたり食事をなさるはずだから、と言って、カールを促した。カールが隣室で着替えをしていると、伯父は、書き物机に腰を下ろして、たまたま仕終えたばかりの英語の宿題に目を通し、手で机のうえをたたいて、大きな声で叫んだ。「実に優秀だ」
この賛辞を耳にすると、カールの着付けのほうも、確かに、思いのほかうまくできた。しかし、カールも、もうそのころは、ほんとうに自分の英語にかなりの自信を持っていたのである。
カールが、到着の最初の晩に案内されたので、いまもなお覚えている伯父の食堂にはいると、大男の太った紳士がふたり、あいさつするために立ち上がった。ひとりが、確か、グリーン、もうひとりがポランダーとかいう人物であることは、食事中の談話でわかった。伯父は、つまり、どのような知り合いの人であろうと、そのひとのことについては、ほんのちょっとしたことでも言わないのが常であった。いつも、カールが自身の観察によって必要なこととか興味あることを見つけ出すがままにまかせていたのである。実際の食事のあいだは、ただ打ち割った取引上の事柄が相談されただけで、それは、商売上の語法という点では、カールにとり有益な授業ではあったが、カールのほうは、なによりもしっかりと腹いっぱい食べさせねばならぬ子供のように扱われて、静かに食事にかかりきるよりほかはなかった。それが終わると、グリーン氏はカールに向かって一礼し、できるかぎりはっきりした英語を話そうとまぎれもなく努めながら、お座なりに、カールのアメリカでの第一印象を尋ねた。カールは、あたりの息づまるような静けさのなかで、時おり伯父のほうへ横目をくれながら、かなり詳しく答え、感謝のしるしに、ややニューヨーク弁がかった言いかたで、一座の歓心を買おうとした。ある言い回しで、聞いていた三人が、三人とも、げらげら笑った。カールは、とっさに、ひどい間違いをしたのではないかと、案じた。しかし、そうではなかった。彼は、ポランダー氏の説明によると、なにかひじょうにうがったことをさえも言っていたのだった。とにかく、このポランダー氏は、カールがことのほか気に入っているらしかった。伯父のグリーン氏がふたたび取引上の相談に話を戻していたあいだ、ポランダー氏は、カールにカールの椅子を自分の身近にずり寄せさせて、まず、カールの名まえとか、来歴、旅行などについて、いろいろと根掘り葉掘りきいた。それがすむと、彼は、ついにカールを休息させてやろうと思ったのであろう、笑ったり咳払いしたりしながら、口早に、彼自身のことや彼の娘のことについて物語った。それによると、彼は、ニューヨークの近郊のとある小さな邸宅にそのひとり娘と住んでいるのだが、銀行家という彼の職業が彼を一日じゅうニューヨークに釘づけにするために、郊外の家では、むろん、夜しか過ごせないとのことであった。カールは、そのとき、彼のその屋敷にぜひ来るようにとの、心からなる招待までも受けた。カールのようなできたてのアメリカ人は、確かに、時にはニューヨークから離れて元年回復をはかる必要もあるというのが、ポランダー氏の説であった。カールは、即座に伯父にたいして、その招待に応じてもよいか、許可を求めたが、伯父は、うわべはやはり喜んでそれを許可してくれたものの、しかし、カールやポランダー氏の期待に反して、きまった日取りを言ってくれるどころか、日取りを考慮しようとさえもしなかった。
ところが、早くも、翌日、カールは、伯父の事務室に来るように命じられて(伯父はこの建物のなかだけでも十の違った事務室を持っていた)、行ってみると、伯父とポランダー氏がひどくむっつりと肘かけ椅子にもたれていた。
「ポランダーさんが」と、伯父は、言った。伯父の顔は、部屋のなかの夕暮れの薄暗がりのために、見分けられないくらいであった。「ポランダーさんが、きのう約束したように、おまえを郊外の邸宅へ連れてゆくために来られたのだ」
「それがはやきょうのことになるとは存じませんでした」と、カールは答えた。「存じておれば、用意していたのですが」
「用意してないのだったら、訪問は、さしあたり延ばしたほうがよくはないかね」と、伯父は意見した。「用意だなんて」と、ポランダー氏は叫んだ。「お若いかたはいつでも用意ができています」
「この子のために申しているのではありません」と、伯父は言って、客のほうへ向きながら、「それに、この子にしたってこれから自分の部屋へまいるわけですからねえ。それでは、あなたのお足を止めることになります」
「それくらいの暇は、むろん、たっぷりあります」と、ポランダー氏は、言った。「遅れることもあらかじめ考慮して、早めに執務終了にしておきましたから」
「ほれ、ご覧」と、伯父は言った。「おまえの訪問で、はやこんなにご迷惑をかけるじゃないか」
「済みません」と、カールは、言った。「でも、僕、すぐにここへ戻ってまいりますから」そして、部屋へ飛んでゆこうとした。
「そうあわててくださらなくとも結構です」と、ポランダー氏は、言った。「私にはちっとも迷惑ではありません。それどころか、あなたの来訪は私にとって全くの喜びですから」
「あすおまえは乗馬練習を怠けるわけだが、断わっておいたか」
「いいえ」と、カールは言った。楽しみにしていたその訪問も、重荷になりかけてきた。「まさかきょう――」
「それでもおまえは出かける気かね」と、伯父はなおも問い続けた。
ポランダー氏が助け船を出してくれた。親切な人であった。「途中、その乗馬学校のところで車を停めて、その件はかたづけましょう」
「なるほど」と、伯父は言った。「だが、マックがおまえの来るのを待っているだろう」
「あの人は、僕を待ったりしません」とカールは言った。「でも、むろん、来ることは来るでしょうが」
「つまりはなんかね」と、伯父は、カールの答えがなんの申し開きにもならなかったかのように、問い返した。
すると、またもポランダー氏がとどめを刺すようなことを言った。「それに、クララも」――それがポランダー氏の娘の名だった――「この方の来られるのを待っているのです。きっと今晩はいらっしゃるだろうと。クララのほうがマックよりもまさっているように思いますが」
「もちろんですとも」と、伯父は言った。「それではさっさと部屋へお行き」伯父は、椅子の肘かけのところをいくたびか無意識のようにたたいた。そして、カールがすでにドアのところまで来ていたとき、なおも次のような問いを浴びせて、カールを引き止めた。「明朝、英語の時間にはまに合うように帰っているだろうな」
「おや」と、ポランダー氏は、叫んで、あきれたように、彼の太ったからだがゆるすかぎり、肘かけ椅子のなかで上半身をねじ向けた。「では、せめてあす一日でも、あちらにいてもらってはいけないのですか。きっとあさっての朝には私が連れてお戻ししますから」
「それは絶対に困ります」と、伯父は言い返した。「わしは、みすみすこれの学問がそこまでかき乱されるのを捨ててはおけないのです。いずれ、これがなにか一本立ちの規則立った職業生活にはいるようになりましたら、その節は大いに喜んで、これにも、たといもっと長期間であろうと、そのようにご親切な光栄あるお招きに応じることを、許してやるつもりです」
≪なんと矛盾だらけな話だろう≫と、カールは、思った。
ポランダー氏は、悄然となった。「一晩や一夜のことなら、しかし、正直なところ、ほとんど問題でないわけですね」
「わしもその意見でした」と、伯父は言った。
「分に甘んじよですかね」と、ポランダー氏は、言って、はやくも笑いを取り戻した。「では、お待ちしています」と、彼は、カールに呼びかけた。カールは、伯父がもうなにも言わなかったので、急ぎ去った。
やがて彼が旅支度をととのえて帰って来ると、事務室にはポランダー氏が待っていただけで、伯父は立ち去っていた。ポランダー氏は、カールがいよいよ同行してくれることになったのを、できうるかぎりしっかりと確かめようとするかのように、すっかり楽しそうにカールの両手を握りしめた。急いだためにすっかり上気したままで、カールのほうもまた、ポランダー氏の両手を握りしめた。彼は、遠出ができるのが、うれしかった。
「ぼくが行くことで、伯父は、腹をたてていませんでしたか」
「めっそうもない。確かに、これといって、そう真剣にお考えになっているふしもございませんでした。あなたの教育がお心にかかっているのです」
「すると伯父は、それまでのことはさして真剣に考えていなかったと、あなたに申したのですか」
「ええ、まあ」と、ポランダー氏は、のろくさく言って、それにより、自分が嘘のつけない人間であることを、立証した。
「あなたは、伯父と昵懇《じっこん》なのでしょう。そのあなたをお訪ねするというのに、どうして伯父が許可を出すのをあのように渋ったのか、奇妙でなりません」
ポランダー氏も、そうと明からさまに告白こそしなかったが、どうもその点の説明がつきかねるようであった。ふたりは、ポランダー氏の自動車で、暖かい夕暮れを縫って、走っていたとき、口では別なことを話し合いながらも、心のうちではずっとそのことを考え続けていたのだった。
ふたりは、ぴったりと寄り添うてすわっていた。ポランダー氏は、話しながら、カールの片方の手を握っていた。カールは、長い道のりにいらいらしてきたのか、話を聞いていれば、実際よりも早く到着できるかのように、クララ嬢のこともいろいろと聞いてみたかった。カールは、これまで一度も、晩にニューヨークのちまたを車で通り抜けたことがなかった。目まぐるしく方向を転じてゆく歩道と車道のうえを、さながらつむじ風が舞うように、騒音が走り去っていた。その騒音は、もはや人間によってひき起こされたものと思えず、なにか未知の元素のようであった。にもかかわらず、カールが、ポランダー氏の言葉を正確にとらえようと努めながらも、気にしていたのは、黒ずんだ鎖らしいものがはすかいに静かに垂れ下がっている、ポランダー氏の黒ずんだチョッキにほかならなかった。遅刻をひどく恐れている気持ちをむき出しにして、観衆が、飛ぶような足どりで、あるいは、乗り物をできるかぎり急がせながら、そこかしこの劇場へ向かって殺到している道々をあとに、中間地域を抜けて、ふたりが、いよいよ郊外にさしかかると、ふたりの自動車は、騎馬警官たちによっていくたびとなく横道へ折れるように命ぜられた。大通りは、いずれも、ストライキ中の金属労働者のデモ隊によって占められていて、きわめて緊急を要する車の往来のみが交差点の通過を許されていたにすぎなかったからであった。それから自動車は、かなり暗い、うつろに反響する路次づたいに出て、まるで広場のような道幅の大通りのひとつを横切ると、左右に向かって遠近法的に、だれもその果てまで眼で追えないくらいまでに、小刻みな足どりで動く群衆でうずまった歩道の延々たるつらなりが、眼のまえに現われた。群衆の歌声は、ただひとりの人の歌声よりも、統一がとれていた。あけておかれた車道には、そこかしこに、不動の馬にまたがった警官とか、旗を持った人たち、また、スローガンを書いた布を通りのうえに張りわたして持っている人たちとか、仲間や伝令にとりまかれた指導者のすがたが見受けられた。すばやく逃げることができなかったと見えて、からのまま取り残されている市内電車も、一台あった。運転手と車掌は、あかりのついてない車両の乗降口に腰をかけていた。好奇心に駆られた人らの小さな群れが、いくつか、ほんとうのデモ隊から遠くはなれたところに立ち、事の真相についてはしかとわからないながらも、その場を去ろうとはしなかった。カールのほうは、ポランダー氏が彼の肩にまわした腕のなかに、浮き浮きした気持ちで、もたれていた。今に塀にかこまれた、番犬のいる、煌々《こうこう》たるあかりのともった邸宅のなかに、珍客として、迎えられるのだという確信が、彼には、むしょうに快かった。眠けをもよおしかけていたために、ポランダー氏の語る話も、もう正確にとらえられるどころか、とぎれとぎれにしか理解できなくなっていたが、それでも、カールは、時おり、がばと身を起こし、眼をこすりながら、ポランダー氏が自分の眠けに気づいたかどうかを、またしても束《つか》の間なりと確かめようとするのだった。それだけは、どうしても、気づかれたくなかったからである。
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ニューヨーク郊外の邸宅
「さあ、着きました」と、ポランダー氏が、たまたまカールのうとうとしていた瞬間に、言った。自動車は、とある邸宅のまえに停まっていた。その邸宅は、いかにもニューヨーク郊外の金持ちの邸宅らしく、一家族だけの住まいに使われる邸宅としては、不必要なくらいに広大で、かつ、高層であった。建物の下部しか明かりがともっていなかったので、どれくらい高層かは目測しようがなかった。前方には、栃《とち》の木々が風にざわめいている。そのあいだを――格子門はすでにあけられてあった――短い道が、建物の正面階段に通じていた。車を下りるときの疲れぐあいから、カールは、かなり長いあいだ走り続けたのが、わかるように思った。栃の並み木の暗がりのなかを通るとき、かたわらで少女の声がして、「とうとうヤーコブさんが来てくださったのね」と、言うのが聞こえた。
「僕、ロスマンと言います」と、カールは、言って、差し出された少女の手を握った。そのとき、カールには、少女の顔の輪郭が、見分けられた。
「この方は、実は、ヤーコブさんの甥なのだよ」と、ポランダー氏が説明しながら言った。「カール・ロスマンと言われてね」
「そんなことで、この方をここへお迎えするわたしたちの喜びが変わりはしないわ」と、名まえなどさして問題にしないで、少女は言った。
とはいえ、カールのほうは、ポランダー氏と少女に挾まれて家のほうへ歩みながら、問い返した。「あなたがクララ嬢ですね」
「ええ」と、彼女は、言った。もうそのときは、彼女が彼のほうへ向けた顔のうえに、家から洩れてくるほのかな光が落ちていた。「でも、こんな暗やみのなかで自己紹介しようとは思ってなかったわ」
≪すると彼女は、格子門のところで、僕らを待っていてくれたのだろうか≫と、歩いているうちにしだいに頭がさめてきたカールは、考えた。
「それはそうと、今晩は、ほかにもひとり、お客さまがいらしてよ」と、クララは、言った。
「そんなばかな」と、ポランダー氏が腹だたしげに叫んだ。「グリーンさんなの」と、クララは、言った。
「いつ来られたのです」と、カールは、なにかの予感に取りつかれたかのように、尋ねた。
「ほんのすこしまえです。あなたたちの車のまえで、あの人の車の音が聞こえなかったのですか」
カールは、ポランダー氏のほうを見上げて、氏がこのことをどのように判断しているか、知ろうとした。しかし、ポランダー氏は、ズボンのポケットに手を突っ込んで、歩きながら、やや強く地面を踏みつけているだけだった。
「ニューヨークのはずれぎわあたりに住んでは、なんの役にも立ちませんな。あいかわらず邪魔は免れません。私どもの住まいは、絶対に、もっと遠くへ移さないといけないようです。たとい家へたどりつくのに、真夜中まで車をぶっ飛ばさねばならなくなっても」
三人は、正面階段のところで立ち止まった。
「でもグリーンさんは、これで、ずいぶん長いあいだお見えにならなかったわ」と、クララは、言った。彼女が父にすっかり同調しながらも、父を柄《がら》になくなだめようとしていることは、はたの眼にも明らかだった。
「どうして今晩にかぎって来られたのだろう」と、ポランダーは、言った。肉がたるんで重たくなっているために、動きが大きくなりやすい、ぶあつく反った唇のあいだがら、早くも怒りの言葉がほとばしった。
「全くですわ」と、クララは、言った。
「たぶん、すぐにまたお帰りでしょう」と、カールは、意見を述べた。そして、きのうまで全く見も知らなかったこの人たちと仲よく調子を合わせていることに、自分ながら驚いた。
「それがそうじゃないの」と、クララは言った。「パパになにかたいへんな用事がおありなの。その相談には長く時間がかかりそうよ。だって、あの人、冗談に、わたしがお作法の正しい女主人でありたいと思ったら、朝までわきで聞いてなくちゃいけないって、わたしをおどかしてたわ」
「では、そこまで言っていたのか。すると、夜どおしおられるな」と、ついに最悪の事態にいたったかのように、ポランダー氏は、叫んだ。「正直なところ、私は」と、彼は言い、新しい考えを思いついて、いっそう丁重になった。「正直なところ、私は、ロスマンさん、あなたをふたたび自動車にお乗せして、伯父御のところへお送りしたくなりました。今晩は、もうしょっぱなから、邪魔がはいりました。あなたの伯父御が、この次、いつまたあなたを私どもに預けてくださるやら。それでも、きょうあなたをお返ししておけば、伯父御とても、まさかこの次、あなたを私どもに寄越すことを拒むわけにはゆかないでしょう」
そして彼は、彼の計画を遂行するために、早くもカールの手を握った。しかし、カールは、動かなかった。クララも、カールをここに置いてくれるように、頼んだ。すくなくとも自分とカールは、ちっともグリーンさんに邪魔されることはないはずだと、言うのである。ついにポランダー自身も、自分の決心がきわめて堅いものでないことに、気づいた。しかもそのとき――そして、これがおそらく決め手となったのであろう――突然に、階段のうえの踊り場から、グリーン氏が庭に向かって叫ぶ声が聞こえたのである。「一体、どこにいるんだい」
「では、いらっしゃい」と、ポランダーは言って、階段のたもとを曲がると、昇って行った。そのあとにカールとクララが続いた。ふたりは、やっと明かりのなかで、おたがいの顔を見きわめた。
≪赤い唇をしているなあ≫と、カールは、心のうちで言って、ポランダー氏の唇を思い出し、その唇が娘にいたってどんなに美しく変わっているかを考えた。
「晩食のあとで」と、彼女は、言った。「よろしかったら、ふたりですぐにわたしの部屋へまいりましょう。そうすれば、パパは、ずっとあのグリーンさんのお相手を勤めねばならなくても、わたしたちだけは、グリーンさんから逃げられますわ。そのときは、すみませんが、わたしにピアノを聞かせてくださいな。とても上手にお弾きになるって、パパが話してくれましたの。わたしのほうは、残念ながら、からきし音楽をやるだけの才能がありませんの。それで、ピアノがあってもさわりませんの。もともと、音楽はとても好きなんですけれど」
カールは、クララの提案にすっかり同意した。もっとも彼は、できれば、ポランダー氏を自分たちの仲間に引き入れたかった。しかし、彼らが階段を昇ってゆくにつれて、ゆるやかに彼らのまえに現われて来る、グリーンの巨大な姿を見ては、むろん――ポランダーのからだの大きさにはもうカールも慣れてはいたが――その男からなんとかして今晩ポランダー氏をせしめたいという希望は、跡形もなくカールの脳裏から消えうせてしまった。
グリーン氏は、いろいろと遅れた仕事を取り戻さねばならぬかのように、ひじょうに急いで彼らを迎え、ポランダー氏の腕をかかえると、カールとクララをまえに押し立てて、食堂にはいった。食堂のなかは、みずみずしい葉並みのなかから頭をもたげている花が、卓上に置かれているせいか、別けてもひじょうに華麗に見え、邪魔者であるグリーン氏の存在を二倍に残念がらせた。たまたま、ほかの人たちが腰を下ろすまでテーブルのわきで待っていたカールが、大きなガラス戸が庭に向かってあけ放たれたままになっているのを、喜んでいたときだった。強い香りが流れ込んできて、さながら園亭にいるような思いがしていたのに、グリーン氏がいきなり鼻を鳴らしながらそのガラス戸を締めにかかった。いちばん下の閂《かんぬき》のほうへ身を屈めたかと思うと、いちばん上の閂のほうへからだを伸ばして、そのすべての動作のわかわかしく機敏なことといったら、はせ寄ってきた召使にもすることが残っていないくらいであった。食卓についてグリーン氏が最初に口にしたのは、カールが伯父からこの訪問への許可を得たことについての驚嘆の言葉であった。次々と、スプーンにいっぱいスープをすくって、口に運びながら、グリーン氏は、右手のクララや左手のポランダー氏に向かって、自分がどうしてこんなに驚いているか、伯父がカールをどんなに監督しているか、伯父のカールにたいする愛情が、もはやたんなる伯父の愛情と言ってすまされないほどに、どんなに大きいかを、説明した。
≪この男は、ここへ要《い》らぬ介入をするだけで満足しないで、同時に、ぼくと伯父とのあいだにまでも介入する≫と、カールは、思うと、黄金いろのスープがもう一口ものどを通らなくなった。しかし、そのうちにまた、自分が不愉快な気持ちになっているのを、気取られてはならないと思って、スープを黙って口のなかへ流し込みはじめた。食事は、さながら責め苦のように、ゆるやかに進んで行った。ただグリーン氏と、それにたかだかクララくらいが溌刺としていて、時おり、ちょっとした笑いへ誘うきっかけを見つけていた。ポランダー氏は、ただ二、三度、グリーン氏が取引の話をしかけたときに、ふたりの談笑に巻き込まれただけであった。だがそのときも、彼は、すぐまたそのような話し合いから退いた。すると、しばらくして、グリーン氏が、またもだしぬけに取引の話をして、彼をびっくりさせるのだった。いずれにせよ、グリーン氏が力説していたのは――それは、たまたま、なにか重大事が迫っているような気がして聞き耳を立てていたカールが、目のまえにさっきから焼き肉が運ばれていて、いま夕食中であることを、はからずもクララから注意されたときであった――自分はもともとこうした不意の訪問をするつもりでなかったということであった。というのは、相談せねばならぬ要件ができて、それが特に緊急を要するものであったとしても、せめて最も肝要な事くらいは、きょう市内で商議できたわけだし、その他の枝葉の事は、あすか、またはもっと先に、話を延ばしても構わなかったからだった。そこで、じつのところ、執務終了時間よりずっとまえに、ポランダー氏のところに立ち寄ったのだが、氏には会えず、そのため止むなく、今夜は帰宅しない旨を家のほうへ電話して、こちらへまで車を走らせねばならなかったというのが、グリーン氏の言い分であった。
「それでは、僕がお許しを願わねばなりません」と、カールが声高く、ほかの人に答える暇を与えずに、言った。「ポランダーさんがきょう早めにお仕事をお止めになったのは、僕のせいなのです。まことに申しわけありません」
ポランダー氏はナプキンで彼の顔の大部分を覆った。クララのほうは、カールにほほえみかけたが、それは、けっして同情したほほえみではなくて、なんとか彼の心に影響を及ぼすことをねらったほほえみであった。
「いや、なにもお詫びなんか要りません」と、たまたま深い切り込みをつけて鳩の丸焼きを切り分けていたグリーン氏は、言った。「それどころか、このように心地よい集《つど》いのなかで今晩を過ごし、ひとり晩食を家で取らずにすんだことを、大いに喜んでいるのです。家では、老家政婦がわたしの給仕をしてくれるのですが、ひどい年寄りでしてね、ドアのところからわたしの食卓までの道のりさえ、彼女には難渋なくらいで、その道のりをたどる彼女の様子を観察する気なら、肘かけ椅子に長いあいだ背をもたせかけていればいいのですが。つい最近、わたしは、下僕が料理を食堂のドアのところまで運んで来るように、思いきっていたしました。ドアから食卓までの道は、しかし、わたしに彼女の言うことが理解できるかぎりは、彼女のものでしてね」
「ああ」と、クララは叫んだ。「それこそ、実意というものですわ」
「ええ、この世には、まだほかにも実意の人はいます」と、グリーン氏は、言って、肉のひときれを口に運んだ。すると、舌が、カールの偶然に気づいたことだが、一躍して食べ物をとらえた。カールは、胸が悪くなりかけて、立ち上がった。すると、ほとんど同時に、ポランダー氏とクララが彼の手をつかんだ。
「もっとここにいてください」と、クララは、言った。そして彼がふたたび腰をおろすと、彼にささやいた。「もうすぐいっしょに逃げましょう。我慢しててね」
グリーン氏は、自分がカールにむかつく思いをさせたときは、カールをなだめるのが、ポランダー氏とクララの当然の役目であるかのように、そのあいだ、平然と食事にかかっていた。
食事がことのほか長引いたのは、各コースの料理を片付けるグリーン氏の几帳面《きちょうめん》さのためである。しかも、新しい料理が出るたびに、グリーン氏は、うんざりするどころか、いつもすすんでそれを受け取るのである。見受けたところ、あの老家政婦から離れて、根本的にからだの回復をはかっておこうと思っているかのようであった。時おり、彼は、家事の切り盛りのことで、クララの腕前をほめた。それは、明らかに、彼女にたいするお世辞であったが、カールのほうは、あたかもそれが攻撃であるかのように、グリーン氏の口をふさぎたい気持ちに駆られていた。とはいえ、グリーン氏は、けっして彼女に満足していたわけでなく、いくたびも、皿から眼をあげずに、カールの目立つ食欲のなさに同情をもらしていた。ポランダー氏は、主人役としてカールの気持ちを引き立て、食事のほうへ向けさせねばならなかったにもかかわらず、カールの食欲のなさを弁護した。ところで、カールは、その晩食のあいだ、ずっと自制に苦しんでいたためだろう。日ごろの善意に反して、ポランダー氏の言葉を薄情と解するほどに、実のところ、神経質になっていた。彼が、あるときは全く見苦しいほどにすばやくたくさん平らげたかと思うと、また今度は、長いあいだ、うんざりしてフォークとナイフを持った手を力なく下ろし、料理を渡す召使がしばしば取りつく島もないほどに、一座のなかで、石のように身動きひとつせずにいたのも、そのような彼の状態とぴったり一致するわけである。
「あなたがなにも召し上がらないで、クララ嬢の気持ちを傷つけたことを、さっそくあすにでも、上院議員さんにお話ししましょう」と、グリーン氏は、言って、それが冗談であるという意図を、フォークとナイフの使いかたで、表現するにとどめた。
「この子をご覧なさい。ひどくしょげているではありませんか」と、彼は、言葉を続けて、クララの顎のしたへ手を伸ばした。彼女は、彼のなすがままにまかせて、眼を閉じた。
「なんとかわいい娘っ子だ」と、彼は、叫んで、椅子の背にもたれ、顔をまっかにしながら、満腹した者の力を示すように笑った。カールは、ポランダー氏の態度を理解しようと努めたが、むだであった。氏は、自分の皿をまえにして、皿のなかにこそ本来の重大なことが起こっているかのように、皿に見入っている。彼は、カールの椅子を自分のほうへ引き寄せはしなかったし、また話すときは、みなに向かって話した。カールに向かって特に語らねばならぬことはなにもないらしかった。それどころか、彼は、そこのグリーンという、年とった、面《つら》の皮千枚張りの、ニューヨークの独身者が、わざとはっきりと、クララの体に触れても、大目に見ていた。そして、グリーンがポランダーの客であるカールを侮辱したり、あるいは、すくなくとも子供扱いしたりして、なにをするのが目的かはわからないが、ますます気勢をあげて出しゃばりかけても、ポランダー氏は、グリーンのするがままにまかせていた。
食事が終わると――一座の気分に気づいて、まっさきに立ち上がり、それにつれて、いわば他の者らをもいっせいに立ち上がらせたのは、グリーンだった、――カールは、ひとり離れて、幅の細い白い桟で何等分かされている大きな窓のあるほうへ行った。その窓は、いずれも、テラスに通じていて、実は、近づいて気づいたのだが、ほんとうの出入り口であった。ポランダー氏とその娘が最初グリーンにたいしていだいた嫌悪の情は、そのときは、カールにやや不可解に思われたのだが、もはやあとかたもなかった。今や、親娘《おやこ》は、グリーンといっしょに立って、グリーンにうなずいている。グリーン氏は、ポランダーからもらった葉巻きをくわえている。その葉巻きは、家にいたころ父が、父自身はおそらく自分の眼で見たのではないと思われるのだが、いかにも実在しているように、よく話していた、例の太さのものであるが、今、その葉巻きから立ちのぼる煙が、広間のなかいちめんに広がって、グリーンみずからは今後とてもけっして足を踏み入れることのないような部屋の隅々や壁龕《へきがん》のなかにまでも、グリーンの影響を及ぼしていた。カールは、かなり離れて立っていたとはいえ、煙が鼻のなかをくすぐるのを感じた。グリーン氏の態度は、カールが、自分の立っている位置から、ただ一度だけ、すばやく振り返って見ただけではあるが、彼には下劣なように思われた。すると、伯父がこの訪問の許可を与えることを長らく拒んでいたのも、ひとえに伯父がポランダー氏の弱い性格を知っていて、この訪問でカールの心が傷つくのを、正確に予見まではしていなかったにせよ、可能性の範囲内において察知していたからにすぎないということも、もはや彼には全くあり得ないこととは思えなかった。それに、あのアメリカ娘も、彼の気には入らなかった。といっても、彼は、彼女をはるかに美しいものと想像していたわけではけっしてない。グリーン氏が彼女を相手にするようになってからは、彼女の顔に宿る美しさ、とりわけ、いたずらっぽく動くひとみの輝きに、カールは、驚嘆をすら覚えていた。彼女のスカートのように、ぴったりと胴体を包んでいるスカートを、彼は、いまだかつて見たこともなかった。薄黄いろの、柔らかくて、腰のある布地に作られた、小さな襞《ひだ》は、張りの強さを示していた。それでも、カールは、彼女にはてんで気を引かれなかった。彼は、できれば彼女の部屋へ案内してもらうことをあきらめて、そのかわりに、どのみち取っ手に手をかけていたそこのドアをそのままあけて、自動車に乗り込むか、それとも、運転手がもう眠っていれば、ひとりでぶらぶらニューヨークへ帰ってゆきたかった。かなたに傾いた満月のある明るい夜は、だれが利用しようと、自由である。町はずれの野外で恐怖を覚えるとしたら、それは無意味なようにカールには思われた。彼は、そのとき――初めてこの広間が居心地よくなったが――自分が朝になって――それより早くは、めったに徒歩で家へ帰れそうもなかった――伯父に不意を食わせるさまを、想像した。彼は、それまで一度も伯父の寝室にはいったことがなかったし、そのありかも全く知らなかったが、それは探し当てればよいと思った。それから、ノックをして、型どおりの「おはいり」という声を聞くと、部屋のなかへ駆け込む。そして、これまではいつも、そつが無くきちんと身仕舞いして、ボタンをちゃんとかけた姿をしか見せなかった伯父が、ベッドでまっすぐにすわり、驚きの眼を戸口に向けたまま、寝巻き姿でいるところを、不意打ちするという寸法である。このことは、確かに、それ自体としては、いまだ大したことでないかもしれないが、それがどのような結果を生むかを、熟慮すればいい。おそらく自分は、初めて伯父といっしょに、朝食を取ることになるだろう。伯父は、ベッドにすわったまま、自分は、肘かけ椅子に腰を下ろして。ふたりのあいだの小さなテーブルのうえには、朝食がのっている。そしてその朝食が、たぶんその後も、ずっと定例となるだろう。すると、この種の朝食の結果、ふたりが一日のうちに、これまでのようにただの一度だけでなく、しばしば落ち合って、そのときは、むろん、これまでよりも腹蔵なく、話しあうようになるのは、おそらく避けられない事実のようにすら考えられる。自分がきょう伯父にたいして多少ともわがままであったとすれば、わがままと言うよりか、強情と言ったほうがいいかもしれないが、それは、結局のところ、このような腹蔵ない話し合いが欠けていたせいにほかならぬ。とにかく、きょうは、たとい夜どおしここに留まらねばならなくとも――残念ながら、雲行きは、いかにカールが窓べに立って、ひとり勝手に愉快がっていたとはいえ、完全にそうなりそうであった――、たぶん、この不幸な訪問が、伯父との仲が良いほうに向かう、変わりめになってくれるだろう。たぶん、伯父も、今夜は寝室で、似たようなことを考えていることだろう。
やや気持ちも引き立ってきて、カールは、振り向いた。クララが彼のまえに立っていて、言った。「わたしどものところが根っからお気に召さないのですか。ここでは、ほんのすこしもお寛ぎになれませんか。いらっしゃい。わたしが最後の努力をしてみましょう」
彼女は、広間を横切って戸口のほうへ彼を連れて行った。わきテーブルでは、両氏が、背の高いコップになみなみと注がれた、よく泡の立つ飲み物をまえにして、すわっていた。カールは、その未知の飲み物をちょっと味わってみたいとさえ思った。グリーン氏は、テーブルに片肘をついて、顔をできるかぎりポランダー氏のほうへ近づけている。ポランダー氏をよく知らない人が見たら、そこで打ち合わせているのは、なにか犯罪めいたものであって、けっして取引のことではないと、結構信じたにちがいない。ポランダー氏が戸口へ向かうカールのすがたを親しみをこめたまなざしで追っているあいだ、グリーンのほうは、こうした場合だれしも思わずつられて向かい合っている相手のまなざしについて行きがちであるのに、ほんのちらりともカールのほうを振り返りはしなかった。そうした態度には、カールはカールで、またグリーンはグリーンで、各自がここではそれぞれの能力でもって事をかたづけるように努めるがいい、たがいのあいだの必要な社会的な関係は、いずれ時とともに、ふたりのうちのどちらかの勝利か破滅によって、回復するであろうという、グリーンの確信めいたものが表われているように、カールには思われた。
≪あの男がそんなことを考えているなら≫と、カールは、心のうちに言った。≪あの男は、ばかだ。僕は、正直なところ、あの男になにも用がない。あの男だって僕をそっとしておいてくれればいいのだ≫
廊下に出るやいなや、彼は、自分の態度がどうやら無礼だったらしいと、思いついた。グリーンのほうへ眼を据えたまま、クララによって部屋から、ほとんど引きずられるようにして、連れ出されたからであった。それだけに、今は、いそいそとクララとならんで歩いていた。廊下をいくつも抜けてゆく途中、二十歩ごとに、豪奢な仕着せをきた召使が枝形燭台を手にして立っているのを見て、彼は、はじめは自分の眼を疑った。召使たちは、燭台の太い台を両の手でかたく握りしめていた。
「新しい送電線は、今までのところ、食堂にしか引かれていませんの」と、クララが説明した。「この家は、つい最近に買ったばかりで、改造できるかぎりは改造させましたのですが、なにしろ、古い家というものは、実に気ままな建てかたをしているものですから」
「するとアメリカにでも古い家があるのですね」と、カールは、言った。
「もちろんですわ」と、クララは、笑いながら言って、彼をどんどん引っぱって行った。「アメリカについて妙な観念を持ってらっしゃるのね」
「僕を笑わないでください」と、カールは、腹だたしげに言った。結局、自分は、これでヨーロッパとアメリカを知っている。ところが、この女は、アメリカだけじゃないか。
通りすぎがてにクララは軽く片手を伸ばして、とあるドアを押しあけた。そして、立ち止まりもせずに言った。「これがあなたの寝室よ」
カールは、むろん、その部屋をすぐにも見ておきたかった。しかし、クララはじれったそうに、金切り声に近いような声をあげて、でも、それは急ぐことでもないから、まずいっしょにいらっしゃいよと、言い切った。ふたりは、たがいに相手を引っぱり合って、廊下をすこしばかり行きつ戻りつした。ついにカールは、なにからなにまでクララに調子を合わせる必要はないと考えると、身をもぎはなして、部屋のなかへ足を踏み入れた。窓の向こうがびっくりするほど暗いのは、濃い茂りを見せて揺れ動いている、こずえのためとわかった。鳥のさえずりが聞こえる。月の光がまだ届いていない部屋のなかは、もちろん、ほとんどなにひとつ見分けがつかなかった。カールは、伯父から贈り物にもらった懐中電灯を持ってきてないのが、残念であった。このような建物では、確かに、懐中電灯は不可欠品である。そうしたものが二、三でもあれば、召使どもを寝にやることもできるにちがいない。カールは、窓敷居に腰かけて、そとを見、耳をすました。眠りを妨げられた一羽の鳥が、老木の葉むらのあいだを突き抜けようとしているらしかった。ニューヨーク郊外列車の汽笛がどこか平地のほうで響いた。それ以外は、静かだった。
しかし、その静けさも長くはなかった。クララが急ぎはいってきた。明らかに気を悪くしていて、彼女は、「これは一体どういうことなの」と、叫ぶと、スカートを両手でぴしゃりとたたいた。カールは、クララがもっと愛想よくなってから、答えればいいかと思った。しかし、彼女は大またで彼のほうへ歩み寄ってきて、「それではいっしょにいらっしゃるの、いらっしゃらないの」と、叫び、わざとか、それとも、ただ興奮のあまりか、彼の胸を小突いた。もしも彼が危うく窓敷居からすべり降りて、爪先を床につけていなかったら、きっと窓から墜落したと思われるほどの勢いであった。
「すんでのことでそとへ落ちるところだった」と、彼は、非難をこめて言った。
「そうならなくて残念だわ。あなたは、どうしてそんなに無作法なの。もう一度突き落としてあげましょうか」
そしてほんとうに、彼女は、彼を抱きかかえ、とっさのこととてあっけに取られてからだを重くするのを忘れている彼を、彼女のスポーツで鍛えた体力で、ほとんど窓ぎわにまで運んで行った。しかし、そこまで来て、彼は、正気を取り戻し、腰を一回転して身をもぎ離すと、彼女を抱いた。
「ああ、痛いわよう」と、彼女は、それと同時に言った。
しかし、カールは、もうけっして彼女を離してなるものかと、そのとき思った。彼は、彼女に、好きなように歩を運ぶだけの自由は、許してやったが、彼自身も彼女の動きにつれて歩いて、彼女を手放しはしなかった。きっちりからだにくっついた服を着ている彼女を抱きかかえることは、いともたやすかった。
「離してちょうだい」と、彼女は、ほてった顔を彼の顔にくっつけて、ささやいた。彼は、彼女を見るのに苦労した。それほど彼女が彼のまぢかにいたのである。「離してちょうだい。いいものを上げましょう」≪この女は、どうしてこんなに大きなため息をつくのだろう≫と、カールは、考えた。≪これくらいでは痛いはずはないし、なにも僕だって締めつけてはいないのに≫そして、ずっと手放さずにいた。ところが、そうしてなにげなく黙って立っていた一瞬がすぎると、とつぜんに、彼は、またしても彼女の体内にみなぎってくる力を彼の身に感じた。と思ったとたん、彼女はもう彼から身をもぎ離していて、たくみにうわ手からの組みつきを利用して彼を押え、なにやら異国ふうの闘技の足の運び方で彼の両足をよけながら、深く規則正しい息づかいとともに、彼を壁のほうへ追い詰めていった。壁のところには、しかし、長椅子があった。そのうえへ、彼女は、カールをあお向けに横たえると、彼のほうへあまり顔を近づけないで、言った。「さあ、動けるものなら動いてご覧」
「猫め、気違い猫め」と、カールは、憤怒と羞恥で心がごっちゃになっていたために、やっとこれだけ叫ぶのがせいぜいであった。「気が狂ったな、気違い猫め」
「言葉に気をつけるがいいよ」と、彼女は、言った。片方の手を彼の喉元にまですべらし、彼の喉をひどく締めつけはじめたので、カールはただ喘いで口をぱくぱくするほかなかった。そのあいだ、彼女はまた、他方の手で彼の頬をたたいていた。最初は試験的に手が頬にふれるくらいだったのが、たび重なるうちに、彼女は、ますます遠く手を後方の空中に引いて、いまにも平手打ちを喰らわしかねまじき様子であった。
彼女は、そうしたしぐさを続けながら、きいた。「淑女にたいするあんたのふるまいの罰として、したたか平手打ちを見舞ってから、あんたを家へ帰そうと思うのだけれど、どうかしら。けっして楽しい思い出にはならなくとも、あんたの今後の人生行路に関するかぎりは、きっとあんたに役立つと思うの。若くて、かなりの男まえだし、気の毒でもあるんだけれど。それに、もしもあんたがジュージツを習っていたら、今にわたしをたたきのめしてしまうかもしれないのに。それでも、それでも――やっぱり、わたしは、あんたがそうして横になっているところへ、平手打ちを食わせたくて、食わせたくて、とてもたまらないの。先になって自分のしたことを残念に思うかもしれないけれど。とにかく、もしも平手打ちを食わせるとしても、それはわたしがほとんどわたしの意志に反してするのだということを、いまここで承知していてほしいの。いざ、食わせる段になると、むろん、わたしは、一度だけに満足しないで、あんたのほっぺたが脹れあがるまで、右左とぶつでしょう。そうなると、たぶん、あんたも名誉ある男子でしょうし――わたしは、そう信じたいところだけど――平手打ちをくったまま、おめおめと生き永らえる気はしないでしょうから、この世から姿を消してしまうかもしれない。でも、どうして、あんたは、こうまでわたしに楯ついたのです。わたしがあんたには気に入らないのでしょうか。わたしの部屋へ行って、仕方がないというのですか。おっと、気をつけて。今、すんでのことで、あんたにふいに平手打ちを飛ばすところだったわ。ところで、万が一にもきょうこのまま放免されるようなことにでもなったら、この次からはもっと上品にふるまいなさい。わたしは、あんたが反抗しても許してくれる、あんたの伯父さんとは違います。とにかく、あんたにくれぐれも注意しておきたいのは、かりにわたしが、平手打ちを食わさずじまいで、あんたを手放しても、あんたは、あんたのいまの状態と実際に平手打ちを食らうこととが、名誉という見地から見て、同じものであるとは、信じないでほしいの。いいですか、それでも、あんたがそう信じる気なら、わたしとしては、いまここで、あんたにほんものの平手打ちをくわせる道のほうを、選ぶほかないのよ。こんなことをすっかりマックに話したら、あの人、なんと言うかしら」
マックのことを思い出して、彼女は、カールを放した。さまざまな考えが朦朧《もうろう》としていたなかで、カールは、マックが救済者のように思えた。彼は、なおしばらくは、クララの手が自分の首にかかっているのを意識していた。それで、すこしばかりからだをよじって見せたが、それからは、死んだように横たわっていた。
彼女は、彼に立つように促した。彼は、答えず、身動きもしなかった。彼女は、どこかでろうそくに火をつけた。部屋のなかに明かりがともった。天井の青いジグザグ模様が現われてきた。しかし、カールは、クララによって寝かされたまま、長椅子のクッションのうえに頭をのせたきりで、じっと横たわり、頭の向きを指の幅ほども変えはしなかった。クララは、部屋のなかを歩き回っていた。彼女の足にふれてスカートが衣ずれの音を立てていた。今は、どうやら窓べで長いあいだ立ちどまっているらしい。
「もう反抗するのは止めたの」と、そのとき彼女の尋ねるのが聞こえた。
カールは、ポランダー氏により今夜の宿として彼にあてられているこの部屋では、どうにも休息が得られそうもないのが、難儀に感じられた。部屋のなかをあの娘が歩き回っては、また立ち止まり、話しかける。あの娘にはもう、なんとも言いようのないほど、いや気がさしているのだ。すばやく眠って、ここを立ち去る、それが自分のただひとつの望みだ。もうベッドになど、はいりたくない。ただここの長椅子のうえでいさえすればいい。カールはただ、彼女が出てゆくおりを今か今かと窺っていた。さすれば、彼女のあとから戸口へ飛んで行って、ドアに閂《かんぬき》をかけ、それからまた、長椅子に戻って身を投げ出せばいい。彼は、からだを伸ばして、あくびをしたいほどであったが、クララの眼のまえではそれをしたくなかった。それゆえ、彼は、横たわって、じっと天井を見つめ、自分の顔がますます固く動かなくなってゆくのを、感じていた。彼のまわりを飛び回っている一匹の蝿が彼の目の先にちらついていたが、もう彼には、それがなんであるか、しかとはわからなかった。
クララは、またもや彼のところへやってきて、彼のまなざしをのぞきこむように、身をかがめた。彼がそのときうっかり心の手綱をゆるめていたら、危うく彼女と視線を合わすところであった。
「もう行くわよ」と、彼女は、言った。「でも、もしかすると、あとでわたしのところへ来たくなるかもしれないわね。わたしの部屋へのドアは、廊下のこちらの側の、ここのドアから数えて四つめ。ですから、ここから三つドアを通りすぎて、その次に行ったところのドアがそれなの。わたしは、もう広間へは下りて行かないで、ずっと部屋のほうにいてよ。それにしても、あんたのおかげで、ひどくくたびれちゃった。なにもあんたの来るのを待ってなんかいないけれど、来たけりゃいらっしゃい。わたしにピアノを聞かせると約束したこと、忘れないでね。でも、わたし、あんたの力をすっかり消耗させたかもしれないわね。あんたは、もう身動きひとつしないし、それなら、そこでそのまま、とっくりお休み。父には、当分、わたしたちのつかみ合いのことは内証にしておくわ。あんたが心配するといけないから、念のために言っておくけれど」そう言い終わると、彼女は、疲れたと称しながらも、二足とびで、部屋から駆け出て行った。
すぐさま、カールは、からだをまっすぐに起こしてすわった。横になっているのがもう耐えられなくなっていたからである。ちょっとからだを動かしてみるために、彼は、戸口のところへ行って、顔を突き出し、そとの廊下を見回した。しかし、そこは、全くの暗やみであった。ドアを締めて、閂をかけ、ふたたび、ろうそくの明かりに照らされたテーブルのところに立つと、彼は、うれしくなってきた。彼の決心は、もうこれ以上この家に長居しないで、ポランダー氏のところへ下りて行き、クララの自分にたいするもてなしぶりを包まずポランダー氏に打ち明けて――彼は、自分の敗北を告白することを、なんとも思っていなかった――そうした十分な理由づけにより、車か徒歩で家へ帰る許可を求めることであった。もし万一ポランダー氏が、かような早々の帰宅にたいして、なにか異議を唱えるようなことでもあれば、カールは、せめて自分をもよりのホテルにまで召使に案内させてくれるよう、ポランダー氏に頼むつもりである。客として、親切な主人役にたいし、カールが計画したようなやりかたをすることは、確かに世間の常道ではないが、しかし、クララがしたようなやりかたで客を遇する例は、一層珍しいにちがいない。クララは、ふたりのつかみ合いについて当分ポランダー氏にはなにも言わないと約束したことを、一種の親切とさえ思っているらしいが、それだけでも天罰に値する。そうだ、例えば、自分がレスリングの試合をするように誘われた場合、レスラー独自の老獪《ろうかい》な技を覚えるのに、これまでの一生の大部分を費やしたらしい、一女性に投げられたからといって、それが自分の恥になるだろうか。あの女は、きっとマックから教授を受けたのだろう。マックにだけは事の仔細を話すかもしれないが、マックは、確かに目の高い男だ。それくらいのことは、これまでいちいち経験する機会がなかったにしても、自分にはわかっている。それにまた、自分がマックに教わったら、きっとクララよりもはるかに大進歩を遂げるにちがいない。その節は、いつかある日、十中八九は招かれざる客としてであろうが、またここへやって来て、むろん、まずここの地理を調べ、というのも、それを正確に知っていたことがクララの大きな強みだったからだが、それから、その当のクララをひっつかまえて、きょう彼女が自分を投げつけたあの同じ長椅子へ、いやというほど彼女をたたきつけてやろう。
ともあれ、今は、広間へ引き返す道を見つけることだけが、問題である。そうだ、もしかすると、帽子も、ついうっかりして、広間のどこか場違いなところに置いてきたかもしれない。彼は、むろん、ろうそくを持ってゆくつもりであった。しかし、ろうそくの明かりをたよりにしても、たやすく勝手がわかるものではない。彼は、例えば、この部屋が広間と同一平面にあるかどうかすらも、知らなかった。クララが、こちらへ来る途中、ずっと彼を引っぱりどおしだったので、彼は、振り返ってみる暇さえもなかったからだった。それに、グリーン氏と燭台を手にした召使たちの存在も、彼にあれこれのことを考えさせた。要するに、いまの彼には、ふたりで通って来た途中に、階段がひとつあったか、ふたつあったか、それとも、もしかすると、全然なかったか、それすらも、実のところ、わからないのである。窓外の眺めで判断すれば、部屋は、かなり高い位置にあった。それゆえ、彼は、階段もきっとのぼったにちがいないと、思い込もうとしたが、しかし思い返してみると、この建物の玄関口に来るまでに、すでに階段をのぼらねばならなかった。とすると、建物のこちら側が一段と高くなっていたとて、なんの不思議があろう。それにしても、せめて廊下のどこかでドアからもれるあかりなりとも見られるか、あるいは遠くから、人声がかすかなりとも聞こえたらいいのだが。
伯父から贈られた彼の懐中時計は、十一時を示していた。彼は、ろうそくを手に廊下へ出た。部屋のドアは、あいたままにしておいた。探索が徒労に終わった場合に、せめてこの部屋なりとも見つけ出し、そして、ぬきさしならぬ危急の際には、それから、クララの部屋への入り口を見つけ出すためであった。彼は、ドアが自然に締まらないように、念のため、椅子で戸口をふさいでおいた。廊下へ出てみると、はなはだ都合の悪いことがわかった。カールの真向かいから――彼は、むろん、クララの戸口から遠ざかるように、左手へ道をとった――すきま風が吹いてくるのである。ひどく弱い風ではあったが、いずれにせよ、ろうそくの火くらいは難なく消し去るように思われたので、カールは、片方の手で炎を守りながらも、消えそうになった炎の勢いを取り戻すために、しばしば立ち止まらねばならなかった。実にゆっくりした進みようであった。そのために、道のりが倍ほども長いように思われた。カールは、長々と打ち続く壁のあいだに、すでに差しかかっていた。壁のどこにもドアがないので、壁の向こうになにがあるのか、想像もつかなかった。やがてまた、戸口が次々と現われてきた。そのいくつかをあけようと試みてみたが、錠がかかっていて、それらの部屋には、明らかに、誰も住んでいなかった。それは、たぐいない空間の浪費である。カールは、伯父がいつか見せてやると約束してくれた、あのニューヨークの東部地区を思い出した。かしこでは、小さな一部屋に二、三の家族が同居し、各家族の本拠は、それぞれに部屋の片すみにあって、そこでは両親のまわりに子供らが群がっているとのことだった。しかし、ここでは、多くの部屋が空室のままになっていて、誰かがドアをノックしたとき、うつろな響きを発するためにのみ、造られているようなものであった。カールには、ポランダー氏がいかさまな友人たちにはだまされ、また、娘には親ばかになって、そのために、もうすっかり台無しになっているように、思われた。確かに、伯父のポランダー氏にたいする評価は、正しかったのである。だが、ここを訪問し、今やこうして廊下をさまよい歩かねばならぬのも、元はと言えば、カールの行なう人物鑑定になんら口出しはすまいという、伯父の原則のせいにほかならない。カールは、このことをあす忌憚《きたん》なく伯父に言おうと思った。伯父の原則に従えば、伯父もまた、喜んで自分にたいする甥の批評に静かに耳を傾けるにちがいないからである。それにまた、伯父の言行のうちでカールの気に入らない点といえば、この原則だけかもしれないと、カールは、思っていたし、この気に入らないということすらも、絶対的なものではなかったからでもあった。
突然、廊下の片方の壁がとぎれて、そのかわりに、氷のように冷たい大理石の手すりが現われた。カールは、ろうそくをわきへ置いて、注意ぶかく上半身をのり出した。まっくらな虚空が風となってそよ吹いて来る。これがこの家の表玄関なら――ろうそくの光のゆらめきを受けて、丸天井らしいものの一部が浮いて見えた――、先ほど、この玄関からどうしてはいらなかったのだろう。この大きな、奥行きの深い空間は、ほかになんの役に立つのだろう。ここにこうしていると、さながら教会の高廊に立っているような感じである。カールは、昼間だったら、ポランダー氏にくまなく案内してもらって、なにかと教えてもらえるのにと、朝までこの家に留まれないのをあやうく悔やむところであった。
手すりは、いずれにせよ、長くはなかった。やがてカールは、またもや両側を壁で閉ざされた廊下に迎えられた。そのうち、廊下が急に方向を転じたために、カールは、はずみでからだをしたたか壁にぶっつけた。たえず注意して、手が痙攣するほどにかたく、ろうそくを握りしめていたお蔭で、幸いにも、そのとき、ろうそくを落とさずにすんだし、火も消えなかった。廊下は、いつ果てるともなく続き、外をながめるにも窓ひとつどこにもなく、上のほうでも、奥のほうでも、物の動く気配がすこしもなかったので、カールは、同じ回廊をたえずぐるぐる回り続けているのではないかと、思いがけてきた。とすると、自分の部屋のあけ放したままのドアが、たぶん、見つかるのではないかと、ひそかに期待さえしたが、しかし、そのドアも、またあの手すりも、二度と彼のまえに現われては来なかった。それまで、カールは、大きな声で叫ぶのを控えていた。他人の家で、こんな夜遅くに、騒ぎ立てたくなかったからである。しかし、その彼も、こんなまっくらな家のなかで騒いだとて、なにも不埒ではあるまいと、ついに悟るにいたった。そこで、廊下の両側に向かって、大声で「おうい」と、叫ぼうとしたときだった。彼は自分のやって来た方向に、小さな一点の光が近づいて来るのを、認めた。そのとき初めて、彼には、まっすぐな廊下の長さを見積もることができた。この建物は、別荘などと言えるものではなく、ひとつの要塞であった。救いの光を得て、カールは、途方もなく喜び、何事にも要心が肝心なことを忘れて、そのほうへ駆けて行った。ろうそくの火は、もう最初に小躍りしたときに消えていた。彼は、そんなことに頓着しなかった。もうろうそくなど必要でない。現にそこに年とった召使が角灯を手にやって来るではないか。あの召使がきっと道を間違いなく教えてくれるにちがいない。
「どなたです」と、召使は、尋ねて、カールの顔に角灯を突きつけた。そのため、召使自身の顔も同時に照らし出された。その顔は、胸のあたりでやっと絹のような巻き毛となって終わっている、長い、あごからほおへかけての、真っ白いひげのせいか、ややこわばっているように見えた。≪このようなひげを蓄えることを許されているくらいだから、きっと忠実な召使にちがいない≫と、カールは、思って、そのひげを脇目をふらずにくまなく打ちながめながら、彼自身が観察されていることに一向差し障りを感じなかった。そして即座に、自分は、ポランダー氏の客であり、自分の部屋から食堂へ行くところだが、食堂が見つからないで困っていると、答えたのだった。
「さようですか」と、召使は、言った。「この家にはまだ電気を引いておりませんので」
「それはわかっています」と、カールは、言った。
「この角灯でそのろうそくに火をお付けになりませんか」と、召使は尋ねた。
「お願いします」と、カールは、言って、そうした。
「ここの廊下はひどくすきま風が吹きますので」と、召使が言った。「ろうそくは消えやすいのです。それで、こうして、角灯を持っているのです」
「なるほど、角灯のほうがはるかに実用的ですね」と、カールは、言った。
「きっとろうそくのしたたりがもういちめんについているはずです」と、言って、ろうそくのあかりでカールの服を照らして見せた。
「それにはちっとも気がつかなかった」と、カールは、叫んだ。着ていたのが、どれよりもいちばんよく似合うと伯父から言われていた、黒い服だったので、カールは、残念でならなかった。クララとのつかみ合いがこの服にもよくなかったらしいと、カールは、今になって思い出した。召使は、ひどく愛想よく、できるだけ早く服をきれいにしましょうとまで、言ってくれた。カールが、召使のまえで、たえずくるくるからだを回しながら、そこかしこの斑点を示してゆくと、召使は、それを次々とすなおに取り除いてくれた。
「どうしてここだけが、特にこうして、すきま風が吹くのです」と、ふたりで歩きかけてから、カールは、きいた。
「このお屋敷には、まだいろいろと工事せねばならぬところが残っております」と、召使は、言った。「改築をはじめましてからもうかなりになりますが、事の運びかたがひどくのろいのです。それにただ今は、ご承知かもしれませんが、建設労働者たちのストライキがまだ続いております。このような工事ぶりには大いに腹をたてているところです。現に今、大きな吹き抜きが二つできたままで、だれも壁工事をしてくれません。それで、すきま風が家じゅうを吹きぬけるのです。私なども、こうして耳にいっぱい詰め綿をしておりませんと、やりきれないくらいです」
「それでは、もっと大きな声で話さないといけませんか」と、カールは、尋ねた。
「いいえ、あなたは、冴えたお声付きです」と、召使は、言った。「ところで、話はここの建築に戻りますが、特にここは礼拝堂の近くなので、すきま風が全く耐えられないのです。礼拝堂は、いずれそのうちに、他の建物とは絶対に遮断されねばなりません」
「すると、この廊下の途中にあった手すりは、礼拝堂に面しているわけですね」
「そうです」
「僕も即座にそう思った」と、カールは、言った。
「あの手すりはとても見ごたえがございます」と、召使が言った。「ああしたものがなかったらマックさんにしても多分この家をお買いでなかったでしょう」
「マックさんが」と、カールは問い返した。「この家は、ポランダーさんのものとばかり、僕は思っていましたが」
「むろん、そうなのです」と、召使は、言った。「ですが、ここを買うときに、お決めになられたのは、マックさんでございます。マックさんをご存じないでしょうが」
「いや、知ってますとも」と、カールは、言った。「でも、あの人とポランダーさんはどんなご関係なのです」
「あの方は、お嬢さまの婚約者でございます」と、召使は、言った。「それは、むろん、僕には初耳です」と、カールは、言って、立ち止まった。
「そんなに驚かれるほど意外でしたか」と、召使は、尋ねた。
「いや、ただそれをよく頭のなかにたたき込んでおこうと思ったまでです。そうした関係を知っていなければ、どんな大きなしくじりもしかねないからです」と、カールは、答えた。
「あなたにどなたもその話をしなかったとは、じつに奇妙な気がいたします」と、召使は、言った。
「ええ、確かに」と、カールは、恥ずかしげに言った。
「たぶん、どなたもあなたがご存じのことと思っておられたのでしょう」と、召使は、言った。「なにも最近のことでないのですから。さあ、とにかく、まいりました」そう言って、召使は、とあるドアをあけた。すると、ドアのうしろが階段になっていて、その階段は、垂直に、いまもなお到着したときと同じように煌々《こうこう》とあかりのついた食堂の、実は、裏口にまで通じていた。
もうあれからかれこれ二時間は経《た》っていたであろうが、その二時間まえとかわりなく、ポランダー氏とグリーン氏の話し声がしている食堂に、カールがはいってゆこうとしたとき、召使が言った。「お望みでしたら、ここでお待ちしていて、お部屋へお連れいたします。お越しになった最初の晩、すぐに勝手をご存じのようにこの屋敷内をお歩きになりますと、なにしろいろいろと面倒なことが生じますので」
「僕は、もう部屋へは帰らないつもりです」と、カールは、言ったが、そう伝えながらも、なぜか、わけがわからないままに、物悲しくなっていた。
「それも悪くはございませんでしょう」と、召使は、やや見くだしたように冷笑を浮かべながら、言って、カールの腕をかるくたたいた。召使は、カールの言葉を、カールがずっと夜どおし食堂に居すわって、両人と会談しながら、いっしょに飲む気でいるというように、解釈したらしかった。カールは、いまさら本音を吐きたくなかった。それどころか、彼は、ここのほかの召使たちよりもずっと自分の気に入っているこの召使なら、いざとなれば、自分にニューヨークへの道すじを教えてくれるかもしれないと、考えて、それゆえに、言った。「あなたがここで待ってくださるお気持ちなら、それは、確かに、あなたのひとかたならぬ好意でしょうし、僕もありがたくそれをお受けします。いずれにせよ、ほんのしばらくもすれば、僕は、食堂から出てまいりますし、そのとき、僕の今後の方針をあなたに申しましょう。あなたの力添えが今後ともぼくには必要になるものと、僕は思っているわけです」「かしこまりました」と、召使は、言って、角灯を床のうえに置き、とある低い台座のうえに腰を下ろした。台座だけかそこに打ち棄ててあるのは、たぶん、この家の改築とも関係があるのだろう。
「それでは、ここでお待ちします。ろうそくは、私のところに置いてゆかれたら、いかがでしょう」と、召使は、カールが火のついたろうそくを手に持ったまま広間へはいろうとしたとき、言った。
「これは、いやはや、うっかりしていました」と、カールが言って、ろうそくを召使に渡すと、召使は、ただカールにうなずいてみせた。召使のそうしたしぐさが意図したものであったか、それとも、片方の手で房々としたひげを撫でていたことの続きであったか、それはわからなかった。
カールは、ドアをあけた。するとドアは、カールのせいではないが、大きな音を立てて軋《きし》った。ドアは、一枚の板ガラスから成っていて、取っ手を握っただけでドアを急速にあけると、その一枚のガラスがほとんどゆがまんばかりに撓《たわ》むからである。カールは、驚いて、ドアから手を離した。彼としては、とりわけ静かにはいってゆくつもりだったからである。しかし、べつに大して振り返らなくとも、彼には、とっさに台座から降りたのであろう、召使が、自分の背後で、注意ぶかく、かたりとも音を立てないで、ドアを締めてくれたのが、わかった。
「失礼ながらお邪魔いたします」と、カールは、大きな驚きの眼で彼を見つめている両人に、言った。と同時に、どこかですばやく帽子が見つからないものかと、広間のなかをざっとひとわたり見回した。しかし、帽子は、どこにも見当たらなかった。食卓は、すっかり片付けられていた。おそらく帽子は、まずいことに、なにかにまぎれて台所へ運び去られたのであろう。
「クララをどこへ置いて来られたのです」と、ポランダー氏は、言った。氏にとって、邪魔されることは、べつにまんざらでもなさそうであった。即座に肘かけ椅子のなかですわり直して、カールのほうへ正面を向けたからである。グリーン氏のほうは、無関心を装い、大きさといい、厚さといい、まったく桁《けた》はずれの紙入れを取り出して、紙入れのいろいろな口からなにかある特定のものを探し出そうとしているようであったが、探しながらも、たまたま手に触れた他の書類をも読んでいた。
「実は、お願いがあるのです。誤解なさらないようにして頂きたいのですが」と、カールは、言って、急ぎポランダー氏のところへ駆け寄り、氏にまぢかに接するために、片手を椅子の肘かけのところへ置いた。
「一体、どんなお願いでしょうか」と、ポランダー氏は、尋ねて、つぶらな気がねのないまなざしでカールを見つめた。「むろん、きっと叶えてさし上げますが」そう言って、彼はカールのうしろへ腕をまわし、カールを引き寄せて、自分の両足のあいだへ立たせた。カールは、ふだんならば、自分はもうこのような扱いを受けるほど子供でないと感じるところであるが、今は喜んで相手のするがままになっていた。しかし、自分の願いをはっきりと言い出すことは、むろん、それだけにますますむつかしくなったのである。
「いかがです。ここがお気に召しましたか」と、ポランダー氏は、尋ねた。「都市を抜け出して田舎にいますと、解放された気分になると、よく申しますが、あなたもそう思われませんか。がいして」――このとき、まぎれもなく、流し目が、カールのからだでいくぶんか遮られはしたが、グリーン氏のほうへ送られた――「がいして、私は、そうした感情を毎晩いつも新たにしています」
≪この人の話を聞いていると≫と、カールは、思った。≪この大きな建物とか、果てしない廊下、それにあの礼拝堂、あいた部屋部屋、そしていたるところのくらがりのことなど、まるで知らないかのような口ぶりだ≫
「ところで、そのお願いというのは」と、ポランダー氏は、言って、黙って立っているカールのからだをいかにも親しげにゆすぶった。
「お願いというのは」と、カールは、言いかけた。あるいはポランダー氏にたいする侮辱とも取られるおそれのある、その願いを、カールは、グリーン氏のまえでは口外したくなかったのであるが、しかし、どんなに声をひそめても、わきにすわっているグリーン氏にすべて聞こえてしまうのは、避けられないことであった。「お願いというのは、今夜のうちに僕を家へ帰していただきたいのです」
こうして、いちばん言いにくいことを言ってしまうと、そのほかのことは、すべて、ますますすらすらと、矢つぎばやに口を突いて出た。彼は、すこしも嘘をまじえずに、全く予想だにしていなかったことを言った。
「僕は、どうしても家へ帰りたいのです。ポランダーさん、あなたがおられるところへ僕も寄せていただきたいので、また参上したいとは思いますが、ただきょうだけは、ここで泊まれません。ご承知のように、伯父は、この訪問にたいして快く僕に許可を与えてくれたわけではないのです。伯父には、確かにこの場合でも、伯父のするすべての仕事の場合と同様に、伯父なりの立派な理由があったのでしょう。だのに、僕は、身のほどもわきまえずに、伯父の深慮をふみにじり、むりやりに許可を取りつけてしまいました。僕は、伯父の僕にたいする愛情を、無造作に悪用したのです。伯父がこの訪問にたいしてどのような疑問をいだいていたかは、もはや今となっては、どうでもいいことかと思います。ただ僕の知っていますかぎり、その伯父の疑念のなかに、ポランダーさん、伯父の親友である、いや、無二の親友である、あなたのお心を傷つけるようなものが、なにひとつ、なかったことだけは、絶対確実であります。ぼくの伯父の交友範囲のなかで、いくぶんなりとも、あなたと比肩できるような人は、ほかにありません。これはまた、僕のわがままにたいする、唯一の言いわけでもあるわけですが、十分な言いわけとはけっして申せません。あなたは、伯父と僕との仲を、正確に洞察されてはいないかもしれませんので、ただ最も分明な点についてだけ、申し上げましょう。僕の英語の勉強が終わらぬかぎり、また僕が実際的な取引にも十二分に精通しないかぎり、僕にはもっぱら伯父の好意が頼りなのです。むろん、僕は、血縁者として、その好意を享けていいわけですが。ところで、ポランダーさん、僕が今でも働けば、なんとか生活の資くらいはちゃんと――そうありたいとのみ、ひそかに祈ってはいますが――得られるとは、お信じにならないでください。それには、残念ながら、僕の受けた教育があまりにも非実用的で、役に立たないのです。僕は、ヨーロッパのギムナジウムの四学年を、普通なみの成績で、修了しました。ということは、金もうけにたいして、はるかに零以下を意味します。と言うのも、僕らの国のギムナジウムが、教科課程の点で、ひどく遅れているからです。僕がなにを習ったか、あなたにお話しようものなら、あなたは、きっと笑い飛ばしてしまわれるでしょう。もっと学業を続けて、ギムナジウムを完全に終え、大学にまで行けば、そこでどうやらすべての均衡がとれるかもしれません。最後に、なにか秩序立った薫陶を受ければ、それで、なにか仕事をはじめることができますし、また、その薫陶が金もうけへの決心をも与えてくれます。僕のほうは、しかし、こうした連関性のある学問を、残念ながら、中途で止めさせられてしまったのです。時おり、僕は、なにも自分にわかっていないように、思うことがあります。そして、結局のところ、僕に理解できるかぎりの知識をすべてかき集めても、アメリカ人としては、まだまだ大いに不足なのではないかと、考えたりもしています。僕の本国では、つい最近になって、そこかしこに、新制ギムナジウムが設立されています。そこにはいれば、現代各国語はもとより、次第によっては、商学までも学べるようですが、僕が小学校を出たときは、まだそんなものはありませんでした。僕の父は、僕に英語を習わせたかったようですが、しかし、そのころは、僕も、第一に、どのような不幸が僕を襲って、僕が英語を使わねばならなくなるか、予想できませんでしたし、また第二には、ギムナジウムの予習復習がたくさんあって、ほかのことに没頭するだけのべつに大した暇もなかったのでした。――僕がこうしたことに言及しますのも、じつは、僕がいかに伯父に依存し、またその結果として、いかに伯父にたいして義務を負っているかを、あなたに示したいからにほかなりません。たといほのかにしか伯父の意志が察知できなくとも、いかに些細なことでも、伯父の意志に反してすることは、僕にとって、このような事情のために、許されない行為であることを、あなたならば、きっと、お認め下さるでしょう。そんなわけで、僕は、伯父にたいして犯したあやまりを、中途からでも、償うために、即刻、家へ帰らねばならないのです」
カールのこの長広舌のあいだ、ポランダー氏は、注意ぶかく耳を傾けていた。そして、いくたびとなく、特に話が伯父のことに触れるたびに、カールを、それと気づかぬくらいではあったが、自分のほうへ抱き寄せていたばかりか、時おりは、いかにも期待して止まぬように、真剣なまなざしをグリーン氏のほうへ送っていた。グリーン氏は、あいかわらず紙入れのなかを探すのに余念がなかった。カールのほうは、しかし、話を進めるにつれて、伯父にたいする自分の立場が、しだいにはっきりと、意識されてきたために、ますますおちつかなくなっていた。彼は、思わずポランダーの腕を振り切って駆け出そうとさえした。ここにいると、胸苦しいほどに、すべてが窮屈に感じられる。伯父のもとへ帰る道すじが、眼のまえに浮かんでくる。そこのガラス戸から出て、あの正面階段を下り、並み木道を通って、公道へ出る。そして、郊外の新しい町々を次々と抜けて、あの大通りにたどりつけば、それが伯父の家に通じているのだ。伯父のもとへ帰る道すじは、なにか緊密に連関しているもののように、彼には思われた。しかも今、それががらあきのまま、平坦に、彼のために用意をととのえて、ずっと横たわり、しきりと声高く彼を呼んでいるのだ。ポランダー氏の好意も、グリーン氏の醜悪も、もう影が薄れていた。カールがこの煙草のけむりだらけの部屋から自分のために望むものと言えば、もはや暇乞いへの許可しかなかった。すでに、彼は、ポランダー氏にたいしては隔意を、そしてグリーン氏にたいしては戦意を覚えてはいたが、しかし、彼の心をくまなく満たしていたものは、周囲から迫って来る、ある漠とした恐怖であった。彼の眼は、その恐怖の衝撃のために、曇っていた。
カールは、一歩退いて、ポランダー氏とグリーン氏とから等距離のところに立った。
「あなたからなにかこの方に話すつもりではなかったのですか」と、ポランダー氏がきいて、哀願するように、グリーン氏の片方の手をつかんだ。
「さあ、私もなにをお話しすればよいのやら」と、グリーン氏は、ついにポケットから一通の手紙を取り出して、眼のまえのテーブルのうえに置くと、言った。
「その方が伯父さんのもとへ帰ろうとしていることは、まことに称賛に値します。人並みに予測しますと、そうすれば伯父さんもことのほか喜ばれるだろうと、信じざるを得ないでしょう。もっとも、その方が、持ちまえのわがままで、ひどく伯父さんのご機嫌を損じてしまっておれば、事は別ですが。やはり、そういうことも考えられますからね。その場合は、むろん、ここにいたほうがいいでしょう。なにか断定的なことを言うのは、この際、実にむつかしいわけです。私たちは、ふたりとも、伯父さんとは友だちですし、私の親しいお付き合いとポランダーさんの親しいお付き合いとのあいだに格差を認めるなんてことは、実に骨の折れることだと、思っているくらいですが、その私たちですら、伯父さんの心のうちは、見通せません。ことに、ここの私たちは、ニューヨークから十数キロも隔てられているのです。それを一挙に越えて、見通すなんて、なおさら不可能です」
「ちょっとグリーンさん」と、カールは、言って、自制しながらグリーン氏に近づいて行った。「あなたのお言葉から察しますと、あなたも、僕が即刻帰ったほうが最善だとお思いなのですね」
「そうとはけっして申しておりません」と、グリーン氏は、言って、一心に手紙に見入りながら、二本の指で手紙の縁をあちこちとなでていた。彼は、そうしたしぐさで、自分はポランダー氏から尋ねられたから、ポランダー氏に答えたまでで、カールとは本来なんのかかわりもないのだということを、暗示しようとしているらしかった。
そのあいだに、ポランダー氏がカールのそばへ歩みよって、彼をやさしくグリーン氏のところから大きな窓のひとつのほうへ引っぱって行っていた。「ねえ、ロスマンさん」と、彼は、カールの耳もとにまで身を折り曲げて、言った。そして心構えをするために、ハンカチで顔をふき、鼻のところでとめて、鼻をかんだ。「私があなたを、あなたのご意志にそむいて、ここへ引き留めようとしているとは、思っておいででないでしょうな。それは、もとより、論外です。ただ、自動車をあなたにご用立てするわけにゆかないのです。ここでは、なにもかもがやっとできかけたばかりで、自家用のガレージを備える暇がまだ私にはないものですから、実は自動車を、ここから遠く離れたさる公共ガレージに置いてあるわけです。運転手も、ここの家には泊まっていないで、そのガレージの近くで寝ています。実のところ、私自身もその場所を知らないのですが。それに、今時分ここにいるのはあれの義務ではありませんで、あれの義務は、朝定刻に車をこちらの玄関へ回すことだけなのです。でも、こういったことはすべて、あなたが即刻ご帰宅になるのに、なんら障害にもならないかもしれません。あなたがあくまでそれを主張されるのでしたら、私がすぐさま、市街鉄道のもよりの停車場へまで、あなたをお見送りすればいいわけですから。その停車場は、もちろん、ここからずいぶんと離れていますので、あなたがお宅へ着く時刻は、明朝あなたが――私たちは七時きっかりに出発しますし――私といっしょに私の車でゆかれるよりも、さして早くはないかもしれません」
「そうでしたら、ポランダーさん、僕はやはり市街鉄道のほうに乗りたいと思います」と、カールは、言った。
「市街鉄道のことをさっぱり忘れていました。市街鉄道で行くほうが、明朝自動車で行くよりも早く着くと、おっしゃいましたね」
「でも、ほんのちょっとした違いですよ」
「それでも、それでもやっぱり、ポランダーさん」と、カールは、言った。「僕は、あなたのご親切を思い出しながら、いつでも喜んでこちらへお伺いしたいと思います。むろん、僕のきょうのふるまいにお懲《こ》りにならないで、今後も僕をお招き下さると、仮定したうえのことですが。たぶん、この次の機会には、僕も、きょうこうして一分でも早く伯父に会いたいと急いでいますことが、僕にとってなぜそれほど大切かを、もっと上手に言い表わせると思います」そして、カールは、もう退去への許可を得たかのように、言い添えた。「いずれにせよ、お見送りは絶対にいけません。全くむだでもあるからです。部屋のそとに召使がいるはずで、その召使が喜んで僕を停車場まで送ってくれることになっています。もうあとは、帽子を探すことだけです」こう言いおいて、帽子が果たして見つかるかどうか、急いで最後の努力を試みるために、彼が、すでに広間を通り抜けようとしていたときだった。
「縁なし帽をご用立てしたのでは間に合いませんかな」と、グリーン氏は、言って、ポケットから縁なし帽を取り出した。「ひょっとすると、あなたに偶然合うかもしれませんよ」
唖然として、カールは、立ち止まり、言った。「でも、あなたの帽子を取り上げるわけにはゆきません。僕は、なにも頭にかぶらないで行ったって、構わないのです。ほんとうになにも要りません」
「私の帽子じゃないのです。遠慮なく受けとってください」
「それではありがとう」と、カールは、ためらわずに言って、その縁なし帽を手に取った。かぶってみると、いかにもぴったりと合ったので、彼は、思わず笑った。そして帽子をふたたび手に持ち、よく観察したが、帽子のどこを探しても、特に変わった点は見当たらなかった。全く真新しい縁なし帽であった。「とてもよく合います」と、彼は、言った。
「それでは、合ったわけですな」と、グリーン氏は、言って、テーブルをたたいた。
カールが召使を呼びにドアのところまで近づいたとき、グリーン氏は、立ち上がって、豊富な食事と十分な休息を取ったあとの背伸びをし、胸を強くたたいてから、忠告とも命令ともつかぬ口調で言った。「出てゆかれるまえに、あなたは、クララ嬢に別れを告げないといけません」
「そうですとも」と、同じように立ち上がっていたポランダー氏も言った。氏の声を聞いていると、言葉が氏の心底から出ていないことが、よくわかった。力なく彼は両手をズボンの縫い目にぴったりと打ち当てては、またいくたびとなく、上着のボタンをかけたりはずしたりしている。その上着は、当節の流行にしたがってひどく短くて、すそが腰のあたりまで届くか届かないくらいだったので、ポランダー氏のような肥満した人たちには不似合いであった。とにかく、彼がこうしてグリーン氏と並んで立っているところを見ると、ポランダー氏の場合はけっして健康な肥満でないという印象を、はっきりと与えるのである。背中は、全体的にやや曲がり、腹は、ぶよぶよと柔らかくてすわりが悪いように見え、いかにも重荷の感じだった。顔は、蒼ざめて、渋柿でも食べたような表情である。それと対象的なのが、そこに立っているグリーン氏であった。ひょっとすると、ポランダー氏よりも、もうひとまわり太っているかもしれないが、締まりのある、釣り合いのとれた肥満体であった。両足は、軍隊式にぴたりとかかとを合わせ、直立して、からだをゆすっている。彼は、どこかのすぐれた体操家、そうだ、体操教師のようであった。「それではまず」と、グリーン氏は、言葉を続けた。「クララ嬢のところへ行かれるのです。そうなさると、きっと、あなたにも楽しいことがありましょうし、また、私の時間の配分にもとてもいいぐあいにぴったりと納まるのです。つまり、実を申しますと、あなたがここを立ち去られるまえに、私から、ある重要なことを申し上げたいのです。それは、どうやら、あなたのご帰還にたいしても、決定的な意味を持っているらしいのです。ただ残念ながら、上からの命令に縛られていまして、真夜中までは、一切あなたにもらすことができません。これが私にとってどんなにつらいかは、ご想像願えると思います。なにしろ、私の夜の休息がこれで妨げられるのですから。ですが、私は、私の任務を守らねばなりません。いま十一時十五分です。ですから、私としては、ポランダーさんを相手に、取引上の相談をすます時間がたっぷりあるわけです。その際、あなたが同席していては邪魔になるだけですので、あなたはクララ嬢としばしの楽しい時を過ごしてくださればいいのです。そして、十二時きっかりにここへお越しください。必要なことがお聞きになれるはずです」
当のポランダー氏は努めて言葉やまなざしを控えているとはいえ、そのポランダー氏にたいする礼儀と感謝については、ほんとうにほんの爪の垢《あか》くらいしか、自分に要求しないで、しかも、ふだん全く無関係な、粗野な男がこのような要求を出したからといって、その要求を拒否していいものだろうかと、カールは考えた。それに、真夜中にならないと自分に聞かしてもらえない、ある重要なこととは、なにだろう。そのために帰宅がすくなくとも四十五分速められないで、それだけ延びるとすれば、その大切なこととやらにも、彼は、ほとんど関心を覚えなかった。ただ、彼の最も大きな疑問は、そもそも敵であるクララのところへ行っていいものかどうかということであった。せめてあの伯父が文鎮《ぶんちん》用にくれた鑿《のみ》なりともいま手もとにあったらと、彼は、思った。クララの部屋は、ほんとうに危険な巣窟かもしれぬ。しかし、彼女がポランダーの娘であり、今しがた聞いたところでは、マックの許婚でもある以上、今ここでクララをそしるようなことをほんのちらとでも口にすることは、絶対に不可能である。とすると、彼女がほんのすこしでも自分にたいする態度を変えてくれさえすればいいのだ。すると自分も、彼女のさまざまな関係を考慮して、彼女を率直に賛美してもいいのだが。こうして、カールは、なおもあれこれと思案をめぐらしていたが、そのうちに、だれも自分に思案を求めてないことに、気づいた。というのは、グリーンがドアをあけて、台座から飛びおりた召使に次のように言ったからである。「この若い方をクララさんのところへご案内してくれ」
召使がほとんど駆けるようにして、老衰のためにあえぎながら、特別の近道をして、カールをクララの部屋へ案内してゆく途中、≪命令の遂行はこのようにするのだな≫と、カールは、思った。カールは、いまだにドアが開いたままになっている、自分の部屋のまえを通りすぎるとき、おそらく気を静めるためであろう、ちょっとはいってゆこうとした。しかし、それを召使が許さなかった。
「だめです」と、召使は、言った。「クララさんのところへいらっしゃらないといけません。ご自分もそうお聞きになったではありませんか」
「ほんのちょっとでもそこで過ごしたかったのさ」と、カールは、言った。彼は、気分転換にしばらくでも長椅子のうえに身を投げ出せば、真夜中までの時間がはやく経つと、思いついたのだった。
「こちらの任務の遂行を余計なことで面倒なものにしないでください」と、召使がいった。≪この男は、僕がクララさんのところへ行かねばならないのを、なにか罰のように思っているらしいな≫と、カールは、思った。そして、二、三歩あるいたが、また依怙地《いこじ》に立ち止まった。
「さあ、お若いかた」と、召使は言った。「もうここまで来た以上は、さっさとまいりましょう。あなたが今夜のうちにお立ちになりたいことは、よく存じておりますが、なにごとも望みどおりになるとはかぎらないものでして。どうやら見込み違いになりそうなことは、あなたにすぐに申し上げておいたはずですが」
「でも、僕は立ち去りたいし、また事実、立ち去るだろうよ」と、カールは言った。「今はただクララさんに暇乞いに行くだけだ」
「さようですか」と、召使は、言った。カールは、相手の表情から、相手が自分の言葉を一言も信じていないのを、見て取った。「それでは、暇乞いをなさるのをどうしてためらっておられるのです。さっさとまいりましょう」
「廊下にいるのは、だれなの」と、クララの声が響いた。近くの戸口から、赤い笠のある大きな電気スタンドを手に、上半身をのぞかせているクララの姿が見えた。召使が急いで彼女のところへ駆けより、報告をした。カールは、あとからゆっくりと歩いて行った。
「遅かったわね」と、クララは、言った。カールは、彼女にさしあたっては答えないで、召使に向かい、低い声で、しかし、もう相手の性質がわかっていたので、きびしい命令口調で言った。「ここのドアのすぐまえで、僕を待っていなさい」
「もう寝ようと思っていたところよ」と、クララは、言って、スタンドをテーブルのうえに置いた。下の食堂の場合と同じように、ここでも召使が注意ぶかくそとからドアを締めた。「もう十一時半過ぎですもの」
「十一時半過ぎですって」と、カールは、その数字に驚いたように、おうむがえしに尋ねた。「それならすぐにお暇乞いしなくてはなりません」と、カールは、言った。「十二時きっかりには、下の食堂にいなくてはなりませんから」
「どんな急ぎのご用があるの」と、クララは、言って、うっとりしたまま、しどけない寝巻きのしわを直した。彼女の眼は、燃え、彼女は、たえずほほえみを浮かべている。カールは、クララとふたたび喧嘩になる危険の全くないことが、その様子からもはっきりわかるように思った。「きのうはパパが、そしてきょうはあなた自身が、わたしに約束してくれたように、ちょっとくらい、ピアノを聞かせてくれたっていいじゃないの」
「でも、もう時刻が遅すぎはしませんか」と、カールは、尋ねた。彼は、それさえ差しつかえなければ、喜んで彼女の気に入るようにしたかった。というのは、彼女が、どうしたはずみか、ポランダーの、そしてさらにマックの、交際圏内にまで舞いあがったように、さいぜんとは全く別人になっていたからである。
「ええ、遅いことは遅いわ」と、彼女は、言った。音楽を楽しむ気持ちは、もうとっくに消え失せているらしかった。「それに、ここでどんな音を出しても、家じゅうに反響するの。あなたが弾いたら、ずっと上の屋根裏部屋に寝ている召使たちが目をさますこと、請け合いだわ」
「それでは、演奏は止めましょう。きっとまたこちらへ来られるものと、僕は、期待しています。それはそうと、別にご面倒でもなければ、ぜひいちど、僕の伯父を訪ねてください。そして、そのおりに僕の部屋をのぞいてください。すばらしいピアノがあるのです。伯父の贈り物です。そのときに、よろしかったら、僕の曲を全部あなたに弾いて聞かせましょう。といっても、残念ながら、そう多くはありません。それに、僕の曲は、あのように大きな楽器には全然不向きなのです。あの大きな楽器は、名手にひいてもらってこそ、そのすばらしさがわかるのです。でも、そうした楽しみも、あなたの訪問をまえもって僕に知らせておいて下されば、あなたに味わってもらえると思います。伯父が近々のうちに有名な先生を僕のために雇ってくれる意向だからです。――僕がそれをどんなに心待ちしているか、あなたも想像できるでしょう――むろん、お稽古《けいこ》の時間中に訪問を受けて生じる穴を、先生の演奏で埋めてもらうわけです。正直に申しますと、演奏するにはもう遅すぎる時刻であることを、僕は、喜んでいるのです。まだちっとも弾けないからです。いま弾いたら、きっとあなたは、僕の未熟ぶりに驚かれるでしょう。それでは、失礼ながら、これでお暇申します。どうやらもう就寝時間にもなってしまいましたので」ところが、クララが好意ある眼で彼を見つめ、喧嘩のことをなにひとつ根に持っていないように思われたので、彼は、ほほえみながら彼女に手を差し出して、付け加えた。「僕の郷里では、≪よい夢を見て、よくお休み≫と言うのがならわしです」
「待って」と、彼女は、カールの握手に応じないで言った。「やっぱり弾いてもらったほうがいいかもしれないわ」そして小さな横手のドアから姿を消した。そのドアのわきにピアノが置いてあった。
≪どうした風の吹き回しだろう≫と、カールは、考えた。≪彼女がどんなにかわいくても、長くは待てない≫そのとき、廊下へのドアをノックする音がして、ドアをすっかりあけはなすのを遠慮した召使が、細いすきまからささやいた。「失礼ですが、ただ今呼び戻されましたので、これ以上お待ちできません」
「行ってもよろしい」と、もうひとりで食堂への道を見つける自信のついたカールは、言った。「ただその角灯を戸口に置いていってほしい。とにかく、今、何時です」
「もうおっつけ十一時四十五分になります」
「時の経つのが遅いね」と、カールは、言った。召使がドアを締めようとしたとき、カールは、まだすこしも心づけをやってないことを思い出して、ズボンのポケットから一シリングを取り出し――いまではいつも、彼は、硬貨をアメリカの風習にならって、ばらでちゃらつかせながら、ズボンのポケットに入れ、紙幣のほうはチョッキのポケットにしまっていた――それを、「サービスのよかったお礼に」と言いながら、召使に渡した。
クララが結いなおした髪に手をあてながら、ふたたび部屋にはいって来たとき、カールは、召使を帰すのではなかったことに、ふと気がついた。そうだ、でないと、これから市街鉄道の停車場まで案内してくれる者がなくなる。そうなると、おそらくポランダー氏が召使のひとりくらいはなんとか工面してくれるかもしれない。いや、あの召使は、どのみち、食堂へ呼ばれたらしいから、いずれあの男が僕の意のままになってくれるのだろう。
「ではお願い、ちょっと聞かせて。ここではめったに音楽が聞かれないので、音楽を聞く機会を逃がしたくないの」
「それでは、時間がありませんが」と、カールは、無分別に言って、すぐにピアノに向かって腰を下ろした。
「楽譜は要りませんの」と、クララが訊いた。
「いえ結構、楽譜も完全には読めないくらいですから」と、カールは、答えて、早くも弾きはじめた。それは、短い歌曲であったが、かなりゆっくりと弾かなければ、聞き分けてもらうことさえ、特に外国人には、むつかしいものであった。カールは、そのことを十分知ってはいたが、クララのまえでは、ぞんざいに、途方もない行進曲のテンポで一気に弾いてしまったのである。弾き終わると、それまで家じゅうが大騒動に巻きこまれたかのようにかき乱されていた静寂が、また元のところへ戻った。ふたりは、しびれたようにすわったまま、身動きひとつしなかった。
「とてもすてきだわ」と、クララが言ったが、それは、こうした演奏をしたカールにただお世辞として使われたにすぎないような、紋切り型の挨拶ではなかった。
「今、何時ですか」と、彼は尋ねた。
「十一時四十五分よ」
「それでは、まだすこし間がありますね」と、カールは、言って、ひとり考えた。≪あれか、これかだ。十曲弾けるからといって、なにも全部弾くには及ぶまい、どれか一曲をなるたけうまく弾きこなせばいい≫そして、彼の好きな兵士の歌を弾きはじめた。ひどくゆっくりと。そのため、聞き手のほうはじれったくなって、もよりの楽譜のほうへ手を差しのべたが、カールがその楽譜を押えて、なかなか渡そうとしないくらいであった。実のところ、彼は、どの歌曲をひく場合でも、まず最初に眼で必要な鍵盤《けんばん》を拾い、頭のなかに入れておかねばならなかった。そうしておいても、ぐあいの悪いことに、曲が終わっても、その終止を通り越して、さらに別の終止を探し、しかも、それがなかなか見つからないような、新しい歌曲が、彼の内部で生まれてくるのを、感ぜずにはいられなかったのである。「だめです」と、カールは、その歌曲がやっと終わると、言って、眼に涙を浮かべながら、クララを見つめた。
そのとき、隣室から高い拍手の音が聞こえた。「ほかにだれだか聞いている」と、カールは、ぎくりとして立ち上がると、叫んだ。「マックよ」と、クララが低い声で言った。その途端、マックの叫び声が聞こえた。
「カール・ロスマン、カール・ロスマン」
と同時に、カールは、両足でひらりとピアノの椅子を飛び越えて、ドアをあけた。すると、大きな天蓋つきベッドのなかで、マックがなかば身を横たえながら、すわっているのが、眼に映った。掛けぶとんがだらしなくマックの両足のうえに投げかけてある。青い絹でできた天蓋は、重そうな材木を角に削って作られた簡素なベッドに、唯一のやや童話風な花やかさを与えていた。ベッドわきの小さなテーブルのうえには、一本のろうそくしか点ってなかったが、敷布とマックの寝巻きとが真っ白かったので、そのうえに落ちるろうそくのあかりは、まぶしいほどの反射光を放っている。天蓋も、すくなくとも縁《ふち》のほうは、絹があまりきつく張られずに、かるく波打っていたので、そのあたりが輝いて見えた。マックのすぐうしろは、しかし、ベッドが凹んでいて、すべては真の暗やみに包まれていた。クララは、ベッドの柱によりかかって、マックに眼を向けたきりである。
「やあ、ようこそ」と、マックは、言って、カールに手を差しのべた。「なかなかお上手ですね。今まで、あなたの馬術だけしか知らなかったが」
「どれを弾いても、みな下手なのです」と、カールは、言った。「あなたが聞いておられると知っていたら、けっして弾きはしなかったのですが。でも、あなたのお嬢さんが」――彼は、言葉を切った。マックとクララがもういっしょに寝ていたことは明らかなので、「花嫁さん」と言わねばならぬところを、ためらったのである。
「いや、おおよそは察していましたよ」と、マックは、言った。「そのためには、クララがうまくあなたをニューヨークからおびき寄せねばならなかったのです。でないと、この僕もあなたの演奏が聞かれないわけですから。確かに、あなたの演奏はひどく未熟です。十分に稽古を積んでいるはずのあのいくつかの歌曲においてさえ、きわめて単純な編曲なのに、あなたは、いくつか間違いをやりました。それはそれとして、とにかく、僕はとても楽しかった。むろん、どなたの演奏をも軽蔑しないという僕の原則を全く抜きにしての話です。いかがです、お掛けになって、今しばらく、僕らのところにいませんか。クララ、この方に椅子を差し上げておくれ」
「いいえ、結構です」と、カールは、言葉につまりながら、言った。「ここにいたくても、いるわけにはゆきません。この建物のなかにこんなに住み心地のいい部屋があることも、今になって知りましたが、あとの祭りです」
「こんなぐあいにぼくが総改築をやっているのさ」と、マックは言った。その瞬間、速やかにひっきりなく、鐘の音が十二、さきの音があとの音のなかへ余韻を引きながら、鳴り響いた。カールは、その鐘の大きな振動が起こすそよ風を頬のあたりに感じた。これほどの鐘を持っているのは、どんな村だろう。
「ぐずぐずしてはいられません」と、カールは、言って、マックとクララに手を差し出しただけで、握手もせずに、廊下へ走り出た。廊下には角灯が見当たらなかった。彼は、召使に早く心づけをやりすぎたことを後悔した。彼は壁伝いに手さぐりで自分の部屋の開いた戸口へまで行こうと思った。ところが、道の半分も行くか行かないうちに、グリーン氏が、ろうそくをかざして、よろめくように急ぎこちらへやって来るのを、見かけた。グリーン氏は、ろうそくを持った手のなかに、一通の手紙を持っていた。
「ロスマン、どうして来ないんです。どうして私を待たすんです。クララさんのところで一体、なにをしていたんです」
≪しつこく尋ねる人だな≫と、カールは、思った。≪今に僕を壁へおしつけるかもしれない≫実のところ、壁に背をもたせているカールのすぐまえに、グリーンが立っていたからである。彼は、この廊下では、こっけいなほどに大きく見えた。カールは、もしかするとこの男はあの気のいいポランダーさんを平らげてしまったのではないかと、心に問うては、ひとり面白がっていた。
「あなたは、実に約束を守らない人だ。十二時に下りて来ると約束しておきながら、それを守らないで、クララさんの戸口に忍び寄る。それにひきかえ、私のほうは、真夜中に大切なことを話すとあなたに約束しておいたから、今こうして、その話を持ってやって来たわけです」そう言って、彼は、カールにその手紙を渡した。封筒には、「カール・ロスマンへ。真夜中に出会い次第、親しく手渡すこと」と、表記してあった。
「つまり」と、グリーン氏は、カールが手紙の封を切っているとき、言った。「私があなたのためにニューヨークからこちらへ車を飛ばして来ただけでも、確かに感謝される値打ちはあると思うんです。それを、こうして、あなたのあとを追って、廊下をかけずり回らされては、かないませんな」
「伯父さんからだ」と、カールは、文面に眼を移すやいなや、言った、「僕も待っていたところです」と、彼は、グリーン氏のほうへ向いて言った。
「あなたが待っていたところであろうと、なかろうと、それは、私にとってべつにどうでもいいことです。まあ、さっさとお読みなさい」と、氏は言って、ろうそくをカールのほうへ差し出した。
カールは、そのあかりをたよりに、読んだ。
「愛する甥よ。残念ながらひどく短かったふたりの同居のあいだにも、おまえは、きっと見抜いていたと思うが、わしはあくまでも主義を持つ人間なのだ。これは、わしの周囲にとってだけでなく、わし自身にとっても、ひどく不愉快な悲しいことにちがいないが、しかし、わしが今日あるのは、すべて、わしのいろいろな主義のお蔭だし、また、なにびとであろうと、このわしに向かって、この地上からわし自身を否定し去れと、要求することは許されぬのだ。なにびとであろうと、わしの愛する甥よ、たといおまえであろうと、それは、許されぬのだ。いつかわしが、わしにたいするああした総攻撃を覚悟しようと、思いついたとき、その先頭に立っているのがたといおまえであったとしても、だ。むしろ、そのときは、今この紙を押えて書いている両の手で、わしは、おまえを引っ捕え、たかだかと差し上げてやろう。だが、目下のところ、このようなことが起こりそうなきざしは、どこにも見当たらないので、きょうのような思いもかけぬ出来事があった以上、わしは、是が非でも、おまえをわしのところから追い出さねばならない。今後は、わしを訪ねて来たり、あるいは、書状とか仲介者を介してわしとの交際を求めたりせぬように、切におまえに頼みたい。おまえは、わしの意志にそむいて、今夜、わしのもとを立ち去る決心をした。それなら、おまえは、やはり終生、その決心を変えぬがよい。それでこそ、男らしい決心だったと言える。わしは、この便りの持参人に、わしのいちばんの親友であるグリーン氏を選んだ。今のわしには、実のところ、慰めの言葉も意のままに浮かばないが、そのほうはきっとグリーン氏がおまえに十分言ってくれることと思う。氏は、有力者だし、おまえが独立独歩をはじめたときは、きっとわしのために、助言や助力でおまえを支援してくれるだろう。今この手紙を結ぶにあたってまたもわしには不可解に思えてきた、このふたりの袂別を理解するために、わしがいくども改めてこのわしの心に言いきかせずにはおれないのは、おまえの家庭からは、カール、なにひとつ、うまい話は来ないということだ。もし万一グリーン氏がおまえにおまえのトランクと蝙蝠傘《こうもりがさ》を手渡すのを忘れていたら、氏にそのことを注意するがよい。おまえの今後の健康をくれぐれも祈りつつ
おまえのよき伯父ヤーコブより」
「読み終えましたか」と、グリーンは、尋ねた。
「ええ」と、カールは、言った。「トランクと蝙蝠傘を持って来てくれましたか」と、カールは、尋ねた。
「ここに」と、グリーンは、答えて、それまで左手で自分の背後に隠し持っていたカールの古いトランクを、カールのわきの床《ゆか》のうえに置いた。
「それから蝙蝠傘は」と、カールがさらに尋ねた。
「ここにそろっています」と、グリーンは、言って、ズボンのポケットに吊り下げていた蝙蝠傘を取り出した。
「これらの品は、ハンブルク=アメリカ航路の機関長であるシューバルとかいう人が持ってきてくれたものです。船上で見つけたと、確言していました。折りがあったら、お礼を言うといいです」
「これで、すくなくとも僕の元の所持品は、僕の手に戻りました」と、カールは、言って、傘をトランクのうえに置いた。
「これからは、しかし、持ち物にもっと気をつけるようにとの、上院議員さんからあなたへの伝言です」と、グリーン氏は、告げたのち、ひそかに好奇心に駆られたらしく、尋ねた。「なんと実に奇妙なトランクですな」
「僕の故郷で兵士が入隊するときに持ってゆくトランクです」と、カールは、答えた。「これはもと僕の父の軍用トランクでした。でも、ひじょうに実用的です」と言って、彼は苦笑しながらさらにつけたした。「どこか置き去りにしないかぎりはですが」
「つまり、あなたは、これで十分に教訓を得たはずです」とグリーン氏は、言った。「もうほかに、アメリカでは、伯父さんに当たる人もいないでしょう。さあ、あなたにサンフランシスコ行きの三等切符を一枚差しあげましょう。あなたのためにはこの旅行がいいと、私が決心したわけです。第一に、東部だと、就業の可能性もあなたにとってはるかに有利だからであり、また第二に、ここでは、あなたのためにいろいろな仕事が考慮されても、そのどれもにあなたの伯父さんが手を突っこんでおり、しかも、ふたりが出会うことは、絶対に避けねばならぬからでもあります。フリスコだとあなたは、全く存分に働けるわけです。ただ最初は、落ち着いて全くの下積みからはじめ、しだいに努力を重ねて、出世をはかってゆくことです」
カールは、これらの言葉を聞きながら、どこにも悪意らしいものが感じられなかった。一晩じゅうグリーン氏の胸のうちにおさめられていた凶報も、こうして、カールに伝えられてしまうと、もうそれからのグリーンは、全く危険のない人物のように見えた。この人となら、ほかのだれとよりも、腹蔵なく話せるかもしれないとさえ、思われたくらいだった。自身に罪はないのに、このような内密の厄介な決心を伝える使者に選ばれた人は、根がいかに善良であろうとも、その決心を胸にしまっているかぎり、うさん臭く見えるものである。「それでは」と、カールは、世慣れた人物たることを実証できるように期待しながら、言った。「この家を即刻立ち去りましょう。僕が伯父さんの甥だったからこそ、もてなしてくださったわけで、他人となっては、ここは僕のいるところではありません。それでは、まことにすみませんが、出口を教えてくださって、それから、もよりの宿屋へ行ける道まで僕を連れて行ってくださいませんか」
「では、急ごう」と、グリーンは、言った。「いろいろと面倒をかける人だな」
グリーンがすぐに大またで一歩踏み出したのを見て、カールは、ためらった。なんだかうさん臭い急ぎかたである。彼は、グリーンの上着のすそをつかむと、事態の真相を突然に悟って言った。「ひとつだけ、説明してくださらねばならぬことが残っています。あなたが僕に渡すことにしていた手紙の封筒には、真夜中に、僕と出会い次第、その手紙を僕に渡せとしか、書いてありません。だのに、あなたは、僕が十一時十五分にここを去ろうとしたとき、どうしてこの手紙を楯にとって僕をここへ引き留めたのです。それは、あなたの任務を越えたやりかたです」
グリーンは、それにたいする答えの前置きがわりに、手を振って、カールの意見のくだらぬことを誇大に表現してから、言った。「あるいは封筒には、私があなたのためなら、くたばって死ぬほど、あとを追い回さねばならぬと、書いてあり、表書きをそのように解すべきだということが、手紙の内容からも、推論できるかもしれないというわけですかな。私がもしあのときあなたを引き留めておかなかったら、真夜中に公道で、私は、手紙をあなたに渡さねばならないところだったでしょう」
「いや」と、カールは、断固として言った。「かならずしもそうとはかぎりません。封筒には、≪真夜中すぎに渡すこと≫と、書いてあるのです。もしあなたがひどく疲れていたら、おそらくぼくのあとを追うことはできなかったでしょう。あるいはもしかすると、これは、むろん、ポランダーさんが否定していたことではありますが、もう真夜中には伯父のもとへ僕がたどり着いていたかもしれません。あるいは、僕が帰りたがれば、僕をあなたの自動車に乗せて、このあなたの車のことは急に話題に上らなくなりましたが、僕の伯父のところへ連れ戻すのが、つまりは、あなたの義務だったことも考えられないことはありません。封筒の表書きは、真夜中がぼくにとっては最後の期限であると、実にはっきりと謳《うた》ってあるではありませんか。とすると、僕がその期限に遅れたことについて責任あるのは、あなたなのです」
カールは、鋭い眼つきでグリーンを見据えた。グリーンの内部では、自身の仮面を剥《は》がれたことにたいする恥じらいが、自身のもくろみの成功にたいする喜びと、今や大いに戦っていることが、カールにもよく見て取れた。ついにグリーンは、気を取り直して、カール自身はずっと長いあいだ黙っていたのに、カールの言葉を中途でさえぎるかのような口調で、言った、「もうそれ以上言うな」そして、トランクと蝙蝠傘をふたたび手にしていたカールを、カールの眼のまえに押しあけていた小さな戸口から、そとへ突き出してしまったのである。
カールは、唖然として戸外に立っていた。建物にくっつけて造った手すりのない階段が、眼のまえで、地上へ通じていた。彼は、それを下りて、やや右手の並み木道へ向かいさえすればよかった。その並み木道から公道へ出られるはずである。明るい月の光のなかでは、道に迷うことも全くなかった。しもての庭のなかでは、鎖から解き放されて木立ちのくらがりのなかを走り回っているのであろう、犬どものさまざまに吠える声が聞こえる。あたりが静かなために、犬どもが大きく飛んでは、草のなかへまろび込むさまが、はっきりと耳で聞き分けられた。
幸いにも犬に悩まされずに、カールは、庭を出た。ニューヨークがどの方向にあるのか、正確に断定することができなかった。こちらへ来る途中ですこしでも細かい点に注意しておいたならば、今の役に立ったかもしれないのに、残念であった。ついに彼は、だれも自分を待っていない、すくなくともひとりの人物は絶対に自分が行くことを好まないと断言していい、あのニューヨークへ、かならずしも行かねばならぬことはないと、心に言い聞かせた。そこで、彼は、勝手気ままな方向を取って、出発した。
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ラムセスへの道
カールが徒歩旅行をすこしで切り上げて立ち寄った小さなホテルは、もともとニューヨーク運輸交通会社の小さな終駅になっていたにすぎなかったために、宿泊に利用されることはほとんどないのが常であったが、カールは、そこでいちばん安い寝床を都合してくれるように、頼んだ。さっそく倹約をはじめねばならないと、思ったからである。彼の頼みに応じて、主人は、使用人にたいするかのようにカールに眼くばせして、階段を上ってゆくように命じた。階上では、髪の毛を振り乱し、眠りを妨げられていらいらしている、年とった女が、彼を迎え、ほとんど彼の言葉に耳をかさずに、そっと歩くように、ひっきりなしに戒めながら、彼を一室のなかへ案内すると、まず、しっ、静かにと、彼を叱りつけてから、部屋のドアを締めた。
初めカールには、窓のカーテンがただ下ろしたままになっていただけか、それとも部屋にはもしかして窓というものが全然ないのか、よくはわからなかった。それほど、暗かったのである。ついに彼が、カーテンでおおわれた小さな天窓に眼をとめて、その布を引きあけると、ほのかながらも光がそこからはいってきた。部屋にはベッドがふたつあったが、ふたつともすでにふさがっていた。見れば、そこにふたりの若い男が熟睡している。ところが、なによりも、これといった理由もなさそうなのに、ふたりとも、着のみ着のままで眠っていたので、カールには、信頼するに足らぬ連中のように思われた。そのうちのひとりは、長靴をさえもはいたままであった。
カールが天窓のおおいを取った瞬間に、眠っているひとりが腕と足をすこしばかり空中に上げた。その光景がおかしかったので、カールは、なにかと不安を覚えていたにもかかわらず、思わず心のうちで笑った。ほかに寝る設備といっても、なにも見当らず、長椅子もなければ、安楽椅子もなかったが、それを別にしても、とうてい寝付けるものでないことが、まもなくカールにはわかった。と言うのも、やっと取り戻したばかりのトランクと所持している金子《きんす》を危険にさらしてはならなかったからである。かといって、出てゆく気にもなれなかった。あの下働き女と主人のそばを通り抜けて、この家をすぐまた立ち去るだけの勇気が、彼にはなかったからである。要するに、ここにいたとて、あの公道を歩いているよりも、もっと物騒だとは言えないかもしれぬ。それにしても奇妙なのは、むろん、薄明かりのもとで見届けたかぎりだが、部屋じゅうどこにも手荷物らしいものがひとつも発見できないことである。しかし、それは、その若いふたりがここの使用人だからかもしれぬ。この連中は、泊まり客のためにまもなく起きねばならないので、ああして服のまま眠っているのだろう。とすると、むろん、この連中と一室に眠るのは、さして名誉なことではない。しかし、それだけに危険がないかもしれぬ。とはいえ、こうしたことが全く疑いのないものとならないかぎり、彼は、どうしても身を横たえて眠る気にはならないのである。
ベッドのしたにろうそくとマッチが置いてあったので、カールは、忍び足でそれを取って来た。彼は、あかりをともすのになんの躊躇も感じなかった。この部屋は、主人から任せられた以上、あの両人のものであるとともに、彼のものでもある。しかも、あのふたりは、すでに一夜の半分をのうのうと眠り、ベッドを占有することによって、カールにたいし比較にならぬほどの有利な立場にあったからだった。それはとにかく、彼は、むろん、歩き回るにも手を動かすにも注意して、ふたりを起こさないようにひどく苦労した。
彼は、取りあえず、自分の所持品を一度ひとわたり見ておくために、トランクを調べておこうと思った。なにがはいっていたか、もう今では漠然としか想い出せないし、いちばん貴重なものは、きっともうなくなっているかもしれないからであった。シューバルがなにかに手をかけたとすれば、それが無事に戻ってくることは、望み薄である。むろん、シューバルは、一方では、伯父から多額の心づけを期待できたわけであるが、また他方では、二、三の品物が不足していても、トランクの本来の番人であるあのブッターバウムにそれをなすりつけることができたからである。
初めてトランクをあけて見て、カールは、仰天《ぎょうてん》した。航海中、彼は、トランクのなかを整頓したりまた整頓しなおしたりするのに、何時間費やしたかしれなかったのに、今見ると、なにもかもがひどくめちゃくちゃに詰めこまれていて、鍵をあけたとき、蓋が自然と上へはねあがったくらいであった。だが、まもなく、トランクのなかが乱雑なのは、航海中に着ていた洋服が、むろんトランクに入れるつもりはなかったのに、あとからいっしょくたにトランクへ詰め込まれている点に、原因があるとわかって、カールは、喜んだ。どんなささやかなものも欠けてはいなかった。上着の隠しポケットのなかには、パスポートだけでなく、国から持参した金子もあったので、現に身につけている金と合わせると、さしあたっては、手持ちの金も豊かであった。アメリカへ到着した折り着ていた肌着類も、きれいに洗濯され、アイロンをかけられて、そこにあった。彼は、すぐまた、時計と金を確かな隠しポケットのなかへおさめた。ただひとつ残念なのは、ヴェローナ産のサラミが、あることはあったが、その匂いを所持品のすべてに移していたことである。それをなにかの方法で除かなければ、幾月も、その匂いに包まれて歩き回らねばならぬようであった。
いちばん底に入れてあった二、三のものを探し出そうとしたとき――それは、ポケット版聖書、便箋、両親の写真などであった――頭から縁なし帽がふいにトランクのなかへ落ちた。なつかしい所持品で身のまわりを取りまかれてみると、カールにはすぐに見分けがついた。その縁なし帽は、まぎれもなく、彼の縁なし帽であった。母が旅行帽として彼に餞別《せんべつ》にくれた縁なし帽である。彼は、しかし、船上では、用心してこれをかぶらなかった。アメリカでは、帽子は、一般に、縁のあるのよりも縁のないのをかぶると、彼は、聞かされていたので、到着まえに自分の帽子を使い古してしまいたくなかったのである。ところが、この帽子を、むろん、グリーン氏が、カールの出費で座興を楽しむために、利用したのであった。ひょっとすると、あの伯父がグリーン氏にそこまでも指図していたのかもしれない。カールが思わず腹だたしげに手荒くトランクの蓋をつかむと、蓋は、ばちんと音高く締まった。
もうこうなっては、どうにもしようがなかった。眠っていたふたりがそれで眼をさましてしまったのである。まず、ひとりの男が伸びをしてあくびをすると、もうひとりの男もすぐそれに続いた。しかも、トランクのなかみは、ほとんど全部が、テーブルのうえにぶちまけたままである。もし相手が泥棒なら、こちらへやって来て、選《よ》り取りしさえすればいいわけだ。そうした可能性に先手を打つためばかりでなく、またその他の点でも、事を早速明確にしておくために、カールは、ろうそくを手にしてベッドのほうへ歩み寄り、自分がいかなる権利でここにいるかを説明した。ふたりの男は、そうした説明を全く予期していなかったらしかった。まだひどく眠くて、口も利けないらしく、いぶかしがりもせずに、ただカールの顔をぽかんとながめていたからである。ふたりとも、ひじょうに年は若かったが、重労働のせいか、それともひどい困苦のためか、彼らの顔から早くも骨が出ばっていた。もじゃもじゃのひげが顎のまわりに垂れさがり、長いあいだ刈ったことのない髪が頭のうえでくしゃくしゃに乱れている。ふたりは、まだとても眠そうに、骨だらけの指でふかく凹んだ眼をこすったりおさえたりしていた。
カールは、彼らの目下の無気力状態を利用しつくそうと思って、言った。「僕の名はカール・ロスマン、ドイツ人です。ところで、こうして一室を共有している以上は、どうか、僕にもあなたたちの名まえと国籍を言ってください。なお、ちょっとここで言明しておきたいのは、僕がベッドを譲ってほしいと、なんら請求していないことです。僕としては、こうして遅くやって来たわけですし、また、眠る意図も全然持っていないからです。それにまた、この僕の立派な服にこだわらないようにしていただきたい。僕は文無しで、前途の見込みもないのです」
ふたりのうちの小柄なほうは――それがあの長靴をはいていた男だったが――腕や足や顔つきで、そうしたことには一切興味がないばかりか、今はさような談議をする暇さえもないことを、ほのめかすと、ベッドに横になって、すぐに眠ってしまった。もうひとりの肌の浅黒い男も、ふたたび身を横たえたが、それでも、寝入るまえに手をだらしなく差しのべて、言った。「そこにいるのがロビンソン、アイルランド人で、おれは、ドラマルシェ、フランス人だ。とにかく休ませてくれ、頼む」そう言い終わるやいなや、彼は、ひどく太い息を吹いて、カールのろうそくを吹き消し、ぐったりと敷布団のうえに仰向けに倒れた。
≪これで、さしずめの危険は防げた≫と、カールは、心のうちに言って、テーブルのところへ戻った。彼らの眠たげな様子が口実でなかったならば、もう万事心配はなかった。ただ、気に食わなかったのは、片方の男がアイルランド人だということであった。いつか国にいたころアメリカにいるアイルランド人には気をつけろと、書いてあるのを読んだが、それがどの本であったか、カールは、もう正確には覚えていなかった。伯父のもとに滞在中にでも、むろん、彼がその気になりさえすれば、アイルランド人の危険性に関する問題を根本的に究明する絶好の機会が彼にあったはずであるが、そのころは、自分は永久に手厚く保護されていると、信じていたために、すっかりその究明を怠っていたのだった。そこで、彼は、ふたたびろうそくに火をつけると、せめてろうそくのあかりでなりともそこのアイルランド人をもっと詳しく観察しておこうと思った。その結果、アイルランド人のほうがフランス人よりもどうやら我慢できそうな人相なのに、気がついた。カールがやや離れたところから、爪先立ちで、確かめたかぎりでは、アイルランド人にはまだ丸い頬の名ごりさえも見られたばかりか、その男は、眠りながらも、ひどく人なつこい笑みを浮かべていたからである。
それにもかかわらず、眠るまいと固く決心して、カールは、部屋のなかにただひとつあった椅子に腰をかけ、トランクの仕末にはまだ朝までたっぷり時間があるので、荷物を詰めるのはさしずめ先に延ばして、読むともなく聖書のベージをすこしばかりめくった。それから、両親の写真を手に取った。写真では、小柄な父がまっすぐに頭を上げて立ち、母は、父のまえの肘かけ椅子にやや悄然とすわっている。父は、一方の手を肘かけ椅子の背もたれのうえにのせ、もう一方の手は、こぶしを固めて、かたほうの小さい貧弱な飾り台のうえに開かれてある、一冊の絵入り本のうえに置いている。ほかにもう一枚、カールが両親といっしょに写した写真もあったはずである。それは、父と母がじっとカールを見据え、カールのほうは、写真師の注文で写真機のほうを注視させられていたものであるが、この写真のほうは、しかし、旅行に持参させてはもらえなかった。
それだけに、彼は、目のまえにある写真を一層詳しく打ち眺めて、さまざまな側から父のまなざしを捕えようとした。しかし、父のほうは、さまざまなろうそくの位置によって、眼の向けかたを変えはしても、一向に生気を帯びては来なかった。父の水平にぴんと張った濃い口ひげも、実際とはすこしも似てないようである。撮影のしかたが悪かった。それにひきかえ、母のほうは、確かにずっとうまく撮れていた。なにか苦しい目にあわされながらも、強いてほほえみを見せようとしているかのように、口もとがゆがんでいる。この写真を見た人なら、だれでもきっとこの点にただならぬ注意をひかれて、写真から眼を離した瞬間、この印象の鮮明さがほとんどばかげているほど強烈すぎるように感じられ、ただ一枚の写真から被写体の秘められた感情についてこれほどまでに覆す余地ない確信が得られるとは、なんと奇妙ではないかと、思うにちがいないと、カールには思われた。彼は、しばらく写真から眼を離していた。そして、ふたたびまなざしを写真のほうへ戻したとき、ずっと前方の椅子の肘かけのところから、そっとキスしたいほど、まぢかに垂れさがっている母の手が、妙に彼の注意をひいた。実際に、父と母が、ふたりとも(そして父が最後にハンブルクではひじょうにきつく)、自分に言い渡していたように、やはり両親に手紙を書くのがいいのではあるまいかと、彼は考えた。あのいつかの恐ろしい晩、母が窓べで自分にアメリカ行きを宣告したときは、むろん、自分も、けっして手紙など書くものかと、心のうちに変わらぬ誓いを立てたが、しかし、世慣れぬ少年のそうした誓いなど、この地の新しい環境のなかでは、どこまで通用しよう。事実、今でこそ、ニューヨークのはずれのとあるホテルでふたりのルンペンと屋根裏部屋に同居し、しかも、自分はここでこそほんとうに所を得ていると認めざるを得ないとしても、また、あの当時だったら同じように、自分はアメリカ滞在の二ヵ月後にはアメリカ国民軍の将軍になってみせると、心に誓うこともできたはずであった。カールは、ほほえみながら、両親が今もなお息子から便りをもらいたがっているかどうかが、両親の顔から看取できるかのように、しげしげと両親の顔を打ち眺めた。
そうして、打ち眺めているうちに、彼は、まもなく、自分がやはりひじょうに疲れていて、このぶんでは徹夜しきれそうもないことに、気がついた。写真が思わず手からすべり落ちると、彼は、写真のうえに顔をのせた。写真の冷たさが頬に快かった。いい気持ちで、いつのまにか、彼は、眠り込んでしまった。
わきのしたをくすぐられて、カールは、朝早く眼をさまさせられた。そんな出過ぎたことを平気でやってのけたのは、フランス人であった。しかし、アイルランド人のほうも、もうカールのテーブルのまえに立っていた。ふたりは、カールが夜中にふたりにたいしてしたと同じように、カールに劣らぬ興味を抱いてカールを見つめている。カールは、彼らの起きる物音でとっさに自分の眼がさめなかったのを、ふしぎに思いもしなかった。彼らは、悪意から、ことさらに足音を忍ばせて歩いたのではけっしてないにちがいない。こちらは、熟睡していたし、それに彼らのほうも、服を着るのはもとより、明らかに顔を洗うにも、大して手間がかかりはしなかったからである。
カールとふたりは、そこで、たがいに正式に、いささか堅苦しく、挨拶をかわした。カールは、ふたりがニューヨークでもう長いあいだずっと仕事にあぶれていて、そのために、かなり落ちぶれた自動錠前工であることを、聞かされた。ロビンソンは、それを立証するために、上着のまえをはだけた。見ると、なにも肌に着てなかった。そのことは、むろん、上着のうしろ襟の裏に留めてある、すわりのわるいカラーで、とっくに見抜けていたはずであった。ふたりは、ニューヨークから徒歩で二日ばかり離れたところにある小都市バターフォードへ、そこに仕事口があいているというので、歩いて行くつもりであった。ふたりは、カールがいっしょに行くことに反対しなかった。それどころか、まず第一に、カールのトランクを時おり持ってくれること、また第二に、もしふたりが仕事にありついたなら、カールに見習工の口を世話してくれることを、カールに約束した。仕事がありさえしたら、そんな世話くらいお安いご用だと、彼らは、言うのである。カールがまだ同意するかしないうちに、彼らのほうは、はや友だち気を出して、どのような求職の場合でも邪魔になるだけだから、その立派な服は脱いでゆくがよい、たまたまここの家は、あの下女が古着商をやっているので、服を手放す好機だと、彼に忠告さえもするのだった。そして、カールが服のことでもまだすっかり決心がついていないのに、彼らは、さっさと手伝ってカールに服を脱がせてしまい、それを持ち去って行った。カールは、ひとり置き去りにされて、やや寝ぼけ心地で彼の古い旅行着をゆっくりと着ながら、あるいは見習工のような口を求めるときなら不利になるかもしれないが、もっといい職場を求めるときには有利になるにちがいないと、思い返して、あの立派な服を売ってしまった自分を咎めずにはいられなかった。しかし、彼がふたりを呼び返そうとドアをあけたときには、もう、手遅れで、ふたりとそこで鉢合わせしたにすぎなかった。ふたりが、売却金として半ドルをテーブルのうえに置きながらも、ひどくうれしそうな顔をしているので、売っても、どえらいもうけどころか、なんの実入りにもならなかったことを、今さら言い聞かせたところで、おいそれと気持ちを翻すことは毛頭あるまいと、彼は、観念するほかなかった。
いずれにせよ、そのことについて意見を述べる暇はなかった。というのは、あの下女が、夜中のときと全く同じように寝ぼけ顔で、はいって来て、部屋を新しいお客のために整えておかねばいけないと言いわけしながら、三人を廊下へ追い出してしまったからである。とはいえ、むろん、下女がただ意地悪でそんなことをしたわけではけっしてない。カールがトランクの整理をしようと思った矢先に、早くも下女が彼の所持品をばそっくり鷲掴みにして、まるでおとなしく伏していろと命じねばならぬ犬かなんぞのように、力まかせにトランクのなかへ放り込んでしまったのである。カールは、ただ傍観しているほかなかった。ふたりの錠前工は、カールの所持品をいじくりまわして、たがいに相手の上着を引っ張ったり背中をたたいたりしていたが、そんなしぐさでカールに加勢しようとたくらんでいたとすれば、それは、完全に失敗であった。下女は、トランクのふたをすると、カールの手にトランクの取っ手を握らせ、錠前工を振り切って、もし言うことを聞かなければ朝のコーヒーもやらないからとおどしながら、三人を部屋から追い出したのだった。下女は、明らかに、カールが最初から錠前工の仲間でなかったことを、すっかり忘れていたにちがいなかった。三人をさながら一味のように取り扱っているからである。むろん、錠前工のほうは、彼女にカールの服を売ることによって、ある種の連帯性をすでに実証していたのである。
廊下で、三人は、やむなく長いあいだ行ったり来たりせねばならなかった。カールと腕を組んでいたフランス人は、ひっきりなしに悪態をついて、もし亭主が出しゃばってくるようなことでもあれば、亭主にノックダウンをくわせてやると、凄んでいた。彼が固めた両のこぶしを気が狂ったようにたがいにこすり合わせているのは、その準備のように思われた。ついに、ひとりの無邪気な小さい男の子がやって来て、無理に背伸びをしながら、フランス人にコーヒー沸かしを手渡した。残念ながら、届けられたのがコーヒー沸かしだけで、ほかにコップが欲しいことを、その男の子に悟らせようがなかったので、ひとりが飲むと、ほかのふたりは、そのまえに立って待つというふうに、ずっと回し飲みをするほかなかった。カールは、飲みたくなかったが、ほかのふたりの気持ちをそこねたくはなかったので、自分に順番が回ってくると、コーヒー沸かしを口に当てたまま、なにもしないで立っていた。
去りぎわに、アイルランド人がコーヒー沸かしを床石のうえに投げ付けた。三人は、だれにも見つけられずに、その家を去って、黄いろがかった濃い朝霧のなかへ歩み出た。そして、道路の端に沿うて、概して静かに並んで進んで行った。カールは、自分のトランクをさげていた。ほかのふたりは、カールが頼めば、そこで初めてカールと交代してくれるらしかった。時おり霧のなかから矢のように自動車がやって来た。大半が巨大な車であった。三人がいっせいにそのほうへ頭《こうべ》をめぐらすと、車体のほうは目立っても、眼のまえに現われているあいだが短かったので、なかに人が乗っていることにさえも気づく暇がないくらいであった。しばらくすると、ニューヨークへ食料品を運ぶ車両の群れが、五列に連なって、道幅をいっぱいに占めながら、ひっきりなしに通過しはじめて、だれも道をよぎることはできないくらいであった。時おり道路が広がって広場になると、広場の中央にある塔のような高みのうえでは、ひとりの警官が行ったり来たりしていて、四方をもれなく見渡しながら、大通りの交通や横町から広場に流れ込んで来る交通を、小さな警棒ひとつで、あざやかに整理している。すると、交通は、それから次の広場にいる次の警官のところまで、ずっと、なんの監視も受けないが、しかし、黙々として注意を怠らない馭者《ぎょしゃ》や運転手によって、自発的に一糸乱れず整然と保たれているのである。カールがしきりと驚いたのは、全般的な静けさであった。むとんじゃくな屠畜の叫びさえなかったら、おそらく、ひずめの響きとすべり止めタイヤの飛ばす音しか聞こえなかったにちがいない。しかも、車の速度は、むろん、かならずしも常に同じではなかった。二三の広場で、わきからあまりにも多くの車が殺到して来たために、大幅な入れ換えが行なわれねばならなくなると、たちまち車の波は、すべて停滞して、ほんのすこしずつしか進めなくなる。かと思うと、またひとしきり、車という車が電光石火のように走り去るような事態も生じて、そのうちにまた、いずれの車もただひとつのブレーキで制御されたように、ゆるやかな速度に返るのである。しかも、そのとき路上からは埃ひとつ舞いあがらなかった。すべてがこのうえなく澄みきった大気のなかを動いているのである。歩行者は、どこにもいなかった。ここでは、カールの郷里のように、都市へめいめいに出かけてゆく市場の物売り女も見かけられなかった。とはいえ、時おり現われる大きな平たい自動車のうえには、かごを背にかついだおよそ二十人ばかりの女が立っていて、それが、やはり、市場の物売り女であろう、首を伸ばして、あたりの交通を見回しながら、もっと早く行けるあてはないものかと探しているようであった。
それから、似たような自動車ではあったが、そのうえを、ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、二、三の男が歩き回っているすがたも見られた。さまざまな文句が横腹に書いてある、それらの自動車のひとつに「ヤーコブ運送業のために採用された港湾労働者」と書いてあるのを読んで、カールは、思わず小さな叫びをもらした。車は、ちょうどひじょうにゆっくりした速度で走っていた。ひとりの小柄な、猫背の、元気のいい男が車の踏み段に立って、彼ら三人の徒歩旅行者を車に乗り込むように誘った。カールは、なんだか車のうえに伯父がいて、自分を見るかもしれないような気がして、急ぎ錠前工のかげに逃げた。彼は、そのふたりも勧誘をはねつけてくれたのが、うれしかった。とはいえ、はねつけるときのふたりの高慢ちきな顔つきを見て、彼は、いささか感情を害さないでもなかった。自分らは伯父に雇われるにはまだまだ惜しい人間だと、このふたりが思い込んでいるとしたら、それこそ断じて許せない。カールは、このことを、むろん、露骨にではなかったが、すぐさまふたりに仄めかした。すると、ドラマルシェが、カールに向かって、どうか、よく通じてもいない事柄によけいな嘴《くちばし》は容れないでもらいたいと、頼んだ。かような人夫の採用のしかたは卑劣ないんちきであり、ヤーコブ商社は合衆国じゅうに悪名が聞こえていると、言うのである。カールは、答えはしなかったが、それからは一層アイルランド人のほうを頼るようになった。そしてまた、すこしばかり代わってトランクを持ってほしいと、アイルランド人に頼みもした。アイルランド人は、カールがなんどもくりかえし頼んだ末に、やっと引き受けてくれた。ただ彼は、トランクが重いと、たえず不平の言いどおしであった。そのうちに、彼の真意がトランクの重さをヴェローナ産ソーセージぶんだけ軽くしたいということにすぎないことが、やっとわかった。きっと宿屋にいたときに、そのいい匂いを、彼は、嗅ぎつけていたのであろう。カールがやむなくトランクをあけて、ソーセージを取り出すと、フランス人がそれをひったくって、匕首《あいくち》のようなナイフで切りながら、ほとんど全部をひとりで、平らげてしまった。ロビンソンは、ほんの時たま、ひと切れをもらったにすぎない。それにひきかえ、トランクを公道上に置き去りにすまいと思えば、結局また、自分でトランクを持たねばならなかったカールのほうは、すでに分けまえを前もって取っているかのように、すこしももらえなかった。ひと切れなりともほしいとねだるのは、あまりにもしみったれているように思われたが、しかし、彼の腹のなかは、煮えくり返っていた。
もう霧もすっかり晴れて、はるか遠くには高い山脈が日に輝き、その山脈は、山頂をうねうねと連ねながら、さらに遠く、光のかすむあたりにまでも延びていた。道に沿うて、荒っぽい耕しかたをした田畑があり、それがいちめんに広がる野なかに、大きな工場が黒く煤けたすがたを見せて散在している。見境いもなく建てられた、そこかしこの貸長屋では、数多くの窓が実に多種多様な動きと光を受けてふるえ、小さい貧弱なバルコニーのうえでは、どこでも、女や子供たちがとりどりにいろいろなことをしていて、そのまわりでは、つり下げられたり平たく置かれたりしている布や洗濯物が、朝かぜを受けて、はためいたり、大きくふくらんだりしており、そのために、女や子供たちのすがたが見え隠れしている。それらの家々からまなざしを横にすべらすと、空の高みにはひばりが、また低みには、車に乗ってゆく人たちの頭上近くを、つばめが飛んでいるのが見えた。
いろいろなことがカールに彼の郷里を思い起こさせた。彼は、ニューヨークを離れて、この国の内奥にまではいって行くことが賢明かどうか、自分にもわからなかった。ニューヨークには海があり、いつでも郷里へ帰れる可能性がある。そう思うと、彼は、立ち止まって、連れのふたりに、どうやらニューヨークにとどまっていたいような気もしてきたと、言った。そして、ドラマルシェが聞き流して、彼をさっさと先へ駆り立てようとすると、彼は、がんとして動かずに、自分のことを決める権利はまだ自分にあるはずだと、言った。そこで、しかたなくアイルランド人がやっと仲にはいって、バターフォードのほうがニューヨークよりもはるかに町が美しいと、説明した。それから、ふたりがなおも口をそろえて懇願に懇願を重ねると、やっとカールもまた歩き出した。しかしそれでも、郷里へ帰れる可能性がそうたやすくは得られないような町へ行ったほうが、もしかすると、自分にとっていいかもしれない。そのような町だと、つまらぬ考えに煩わされることもないから、きっとぐあいよく働けるだろうし、出世もできるにちがいないと、心に言い聞かせてからでないと、彼は、その場を動かなかったのである。
こうして、今やカールのほうがほかのふたりを引っぱってゆくようになった。ふたりは、彼の熱意をひじょうに喜んで、頼まれなくても彼のトランクを交代で持った。カールには、一体、なにがもとで、ふたりがこうまで喜んでいるのか、全く腑に落ちなかった。三人は、登り坂になっている地域にさしかかった。時おり立ち止まって、振り返ると、ニューヨークとその港の全景がますますひろびろと繰りひろげられてゆくのが見える。ニューヨークとブルックリンを結ぶ橋がしなやかにイースト河のうえにかかり、眼を細めると、橋がふるえて見える。橋には全く往来がないように思われ、橋のしたは、死んだようになめらかな水面が帯のごとく延びていた。ふたつの大都会のいずれを見ても、あらゆるものが、からっぽのまま、むだに建て並べられてあるように思われ、家々のあいだにも大小の区別がほとんどないくらいであった。街路のはるか眼に見えぬ奥つ方でも、おそらく、生活がそれなりに続けられているのであろうが、街路のうえに見えるものといえば、薄もやだけであった。その薄もやは、すこしも動いてはいないが、吹けばわけもなく散ってしまいそうであった。世界最大と称せられる港のなかにさえも、安息が宿っていた。ただ時おり、おそらく以前に近くから見た光景の思い出に影響されてであろう、一隻の船がほんのわずかな距離を突き進んでゆくのが見えるように思った。
しかし、それも長くは眼で追えなかった。見失うと、もう見つからなかった。しかし、ドラマルシェとロビンソンのほうは、明らかに、カールよりも、はるかに多くのものが眼に見えるようであった。ふたりは、右や左を指さしながら、伸ばした手を頭上にかざして、そこかしこの広場や公園を見つけては、その名を言っていた。ふたりは、カールが二ヵ月以上もニューヨークにいながら、ただひとつの通り以外、ほとんどなにひとつ町を見てないことを、ひどく不思議がった。そして、バターフォードでたんまりもうけたら、カールを連れてニューヨークに戻り、すべての名所はもとよりのこと、格別念入りに、あの有頂天になるまで楽しめる歓楽街をも、むろん、案内して見せてやると、カールに約束した。そして、歓楽街の話に続いて、ロビンソンが声をいっぱいに張り上げながら歌曲を歌いはじめると、ドラマルシェが手をたたいてその伴奏をした。その歌曲は、喜歌劇のメロディーとして、郷里にいたころからカールは知っていたが、そのメロディーも、この地で英語の歌詞が付けられたのを聞くと、本国で聞いたときよりもはるかにカールの気に入った。こうして、ささやかながらも、野外公演が行なわれ、それにみなそれぞれに一役受け持ったのであるが、ただ、そのメロディーを聞いて楽しんでいるはずの眼下の都市だけは、全くそれには素知らぬ顔をしているように見受けられた。
やがてカールが、ヤーコブ商社は、一体、どのあたりにあるのだろうと、尋ねると、ドラマルシェとロビンソンがただちに人さし指を同じ方向にのばした。ふたりがそれぞれに指さした地点は、あるいは、同じ一点であったかもしれないし、また数マイルも距離を隔てた二点であったかもしれなかった。それからまた一同が歩き出したとき、カールは、たんまりもうけてニューヨークへ帰れるのが早くていつごろだろうかと、尋ねた。すると、ドラマルシェが答えて、バターフォードでは労働者不足で、賃金が高いから、きっとひと月もあれば結構だろう。むろん、たがいのあいだでもうけに思いがけない差ができても、そこは仲間として相殺するために、みんな現金を共同金庫に入れればよいと、言った。カールは、自分がなるとすれば見習工だし、そうなると、むろん、熟練工よりもうけがすくないことはわかっていたが、それでも、この共同金庫なるものが気に入らなかった。すると、さらにロビンソンが、バターフォードでかいもく仕事がなかったら、むろん、旅を続けて、どこかで作男《さくおとこ》となって住み込むか、あるいは、もしかするとカリフォルニアへなりと行って、金の洗鉱所にでもはいるほかないかもしれないと、言った。どうやらあとのほうが、ロビンソンのいろいろな詳しい話から判断すると、彼の最も好きな計画のようであった。
こうした心もとない長旅の止むを得ないことをいやいやながらも聞かねばならなかったカールは、尋ねた。
「今になって金の洗鉱所へ行きたいと思うくらいなら、どうして錠前工になったのです」
「どうしておれが錠前工になったかって」と、ロビンソンは言った。「そりゃ確かに、おれのおふくろの息子がそれで餓死するとは、考えてなかったからさ。金の洗鉱所だと、すてきなもうけがあるんだ」
「むかしはな」と、ドラマルシェが言った。
「今でもさ」と、ロビンソンは、言い、今もなおかの地にいて、そのお蔭で成金になり、もう指一本動かすこともせず、のうのうと暮らしている、あまたの知り合いたちのことを話した。その成金たちが、しかし、彼によれば、むかしの誼《よしみ》から、彼を、そして、むろん、彼の仲間をも助けて、金持ちに仕立ててくれるというわけである。
「おれたちは、どうあってもバターフォードで勤め口をせしめるさ」と、ドラマルシェが言い返して、カールの言いたがっていたことを言ったが、しかし、なんだか頼りになるような言いかたではなかった。
その日のあいだにただ一度だけ、三人は、とある飲食店に足を停めて、飲食店のまえの露天で、カールには鉄製のように思われたテーブルに向かい、ナイフとフォークを用いながら、切れないので引き裂くほかない、ほとんど生《なま》に近い肉を食べた。パンは、円筒形をしていて、その大きなパンの一塊ずつに長いナイフが突きさしてあった。この食物に添えて、黒い液体が出された。飲めば、喉が焼けるようである。ドラマルシェとロビンソンは、しかし、それに舌鼓を打った。ふたりは、しばしば、さまざまな願い事がかなえられるようにと、コップを上げて、たがいに打ち合わせ、しばらくはコップとコップを合わしたまま高く差し上げていた。隣のテーブルでは、漆喰《しっくい》のはねのかかった上っぱりを着た労働者たちがすわって、同じような液体を飲んでいた。おびただしく走りすぎてゆく自動車が、ここでは、もうもうたる砂ぼこりをテーブルのうえへ落としてゆく。大判の新聞を次々に回して、連中は、建設労働者のストライキのことを興奮して話し合っていた。話のなかでしばしばマックという名が挙げられていた。カールがそのマックという人物について尋ねると、それが彼のなじみのマックの父親であり、ニューヨークきっての建設業者であることがわかった。そのストライキは、マックの父に数百万ドルの損失を与え、その職業的地位を危うくするかもしれないとのことである。カールは、消息によく通じもしないで、悪意をいだいている人々のこうしたおしゃべりについては、一言も信じなかった。
おまけに食事は、カールにとってどのような算段で食事代を払うつもりか、ひどく疑問であっただけに、砂をかむようであった。各自がそれぞれに自分の分を払うのが、むろん、当然ではあったが、ドラマルシェも、またロビンソンも、昨夜の泊まりでともに財布の底をはたいてしまったことを、折りあるごとに言っていたからである。時計、指輪、そのほか金に換わるものは、ふたりのからだのどこにも見受けられなかった。とはいえ、カールは、彼らが彼の服を売ったことでいくらかでももうけていたとしても、それで彼らを責める気にはなれなかった。そんなことをすれば、それこそ、侮辱であり、永遠の袂別である。ところが驚いたことに、ドラマルシェも、ロビンソンも、一向に支払のことなど気にしてないようである。それどころか、とても上機嫌で、テーブルのあいだをつんと澄ましながら重い足どりで行ったり来たりしている給仕女に、しきりと渡りをつけようとしていたくらいであった。彼女の髪は、両側からややほどけて額と頬にまでかかり、彼女は、いくたびとなく手を髪のしたへ差し入れては、うしろへ撫で返していた。ついに手応えがあったらしく、ふたりが彼女から初めて親しい言葉が聞けるかもしれないと待ち受けていると、彼女は、テーブルにやって来て、両手をテーブルのうえにつき、「誰が払うの」と、きいた。すると、やにわにドラマルシェとロビンソンの手が、ぱっと鳥のように飛びあがって、カールを指さした。まさに未曽有の早わざである。カールは、しかし、驚かなかった。それは、すでに予見していたことでもあったし、こうしたことは、最後の瞬間を迎えるまえに、はっきりと相談を持ちかけてくれるのが、礼儀であったとしても、自分にとって確かに得るところもあるはずの仲間から少々の金額を支払わせられるくらいは、別に不都合とも、彼は、思わなかった。ただつらいのは、金をまず隠しポケットから引き出さねばならぬことである。彼のもともとの意向は、金をぎりぎりの急場のためにしまっておいて、さしずめ仲間とはいわば同列に肩を並べてゆくことであった。自分が、この金により、とりわけこれを所持していることを黙っていることにより、彼らにたいして占めている優位は、彼らの側からすれば、彼らがすでに幼少のころからアメリカにいて、金もうけについても十分な知識と経験を積みながらも、現在の生活状態よりましな生活状態には慣れていないということによって、十分以上に相殺されるわけではあるまいか。カールは、自分の所持金に関してこれまでこのような意向をいだいていたのであるが、さりとて、今ここで食事代を払ったところで、従来の意向そのものになにも支障を来たすわけでもなかった。四分の一ドルくらいは、結局、無くても困らないからである。それゆえ、四分の一ドル銀貨一枚をテーブルのうえに置いて、これが自分の唯一の財産だが、バターフォードへの団体旅行に喜んで提供したい、これだけの額さえあれば、徒歩旅行には完全に間に合うだろうと、説明しさえすれば、それですむのである。ところが、自分に十分な小銭の持ち合わせがあるかどうか、彼は、知らなかった。しかも、その小銭は、折りたたんだ紙幣とともに、隠しポケットの底のどこかに入れてあるのである。隠しポケットのなかのものを最も確実に探し出そうと思えば、ポケットの中身をそっくりテーブルのうえにぶちまけるよりほかはない。しかも、仲間にこの隠しポケットのことを多少なりとも知らせるのは、ひどく余計なことである。ところが、幸いなことに、仲間のふたりは、カールがどのようにして支払金を調達するだろうかということよりも、給仕女のほうに、今もなお、ますます興味をひかれているように見えた。ドラマルシェは、勘定書を書いて差し出せと命じて、うまく給仕女を自分とロビンソンのあいだへ誘い込んだ。彼女は、ふたりの顔へかわるがわる手のひらを当てがい、うしろへのけぞらせることによって、どうにかふたりの厚かましいしぐさを避けていた。そのあいだに、カールは、緊張のあまりにからだじゅうを熱くしながら、一方の手で隠しポケットのなかをさぐりまわして、一枚一枚と硬貨を取り出しては、それをテーブルのしたに差し出した他方の手のなかで寄せ集めていた。ついに彼は、まだ正確にはアメリカの貨幣のことがわからなかったが、すくなくとも硬貨の枚数から推量して、十分な額になったと思ったので、それをテーブルのうえに置いた。硬貨の音で、急にふたりの悪ふざけが止んだ。ほとんど丸一ドル近くあることがわかった。カールは、やるかたない憤懣《ふんまん》を覚え、ほかの者らは、一様に驚いた。カールがバターフォードへ楽に汽車旅行するに足るだけの金を持ちながら、どうしてこれまで一言もそのことについてしゃべらなかったか、だれも尋ねはしなかったが、カールは、しかし、ひどくうろたえていた。食事の支払がすむと、カールは、ゆっくりと金をまたポケットへおさめた。そのとき、彼の手から、ドラマルシェが、給仕女の心づけに要るからと、一枚の硬貨を抜き取った。ドラマルシェは、片方の腕を彼女のうしろへ回して、彼女をきつく抱きしめると、他方の手からその金を彼女に握らせた。
さらに歩き出してからも、ふたりが金のことについてなにひとつ意見を述べなかったので、カールは、心のうちでそのことをふたりに感謝していた。彼は、一時はふたりに自分の全財産のことを白状してしまおうかとさえ思ったが、しかし、適当な機会もなかったので、それを止めた。夕暮れ近くになると、三人は、ひときわ鄙《ひな》びた肥沃な地方へさしかかった。まわりを見渡せば、まだ区画されてない田野が、ようやく早《さ》緑を吹きながら、なだらかな丘陵へかけて広がり、そのなかに豪奢な山荘が連なって、一筋道をはさんでいる。庭々の金めっきした格子垣と格子垣とのあいだを一時間以上も歩き続けて、いくたびとなく、ゆるやかに流れる同じ川のうえを渡り、いくたびか、谷間にかかった高架橋を通りすぎる汽車の轟音を、彼らは、頭上に聞いたのである。
ちょうど太陽が、はるかな森のまっすぐに切り落としたような端のあたりに、沈もうとしていたとき、彼らは、とある高台のちょっとした木立ちのなかで、草のうえにからだを投げ出して、ひどい疲れを癒《い》やした。ドラマルシェとロビンソンは、横たわったまま、力いっぱいに伸びをしていた。カールは、身をまっすぐに起こしてすわり、二、三メートルしたを走っている道を見下ろしていた。道のうえでは、ひっきりなしに自動車が、きょうの日中と同じように、軽く触れ合わんばかりにすれ違いながら、疾過してゆく。なんだか正確な数の自動車をたえず一方の遠みが送り出しては、他方の遠みがまた同じ数の自動車を待ち受けているような感じである。早朝から今まで一日じゅう、カールは、一台の自動車が停まったのを見たこともなければ、ひとりの旅行者が自動車から降りるのを見たこともなかった。
ロビンソンが、みんな疲れきっているので、今夜はここで過ごそう、そうすれば、明朝はそれだけ早く出発ができるし、それに、結局のところ、日がとっぷり暮れてしまうまえにこれ以上安くてしかも場所のいい宿泊所を見つけることはできないのではないかと、提案した。ドラマルシェは、賛成した。ただカールは、どこかホテルに泊まってもいい、みんなの宿泊料を払うくらいなら金は十分持ち合わせているということを、ついでに述べておく義務が自分にあるように思った。ドラマルシェは、これからまだまだお互いに金の要ることがあるのだから、その金は大切にしまっておいてくれさえすればいいと、言った。ドラマルシェは、カールの金をあてにしていることを、少しも隠さなかった。ロビンソンは、最初の提案が受け入れられると、さらに続いて、ところで寝るまえに、あすの元気をつけるために、なにかうまいものを食っておかないといけない、すぐ近くの公道沿いに「ホテル・オクシデンタル」という看板を掲げて、あかあかと灯のついていたホテルがあったが、だれかみんなのためにあすこへ食べ物を取りに行って来ないかと、第二の提案を説明した。最年少者でもあり、またほかにだれも志願しなかったので、カールは、ためらうことなくその使いを買って出て、ベーコンとパンとビールの注文を受けると、ホテルへ駆けて行った。
近くに大きな町があるにちがいない。カールが足を踏み入れたホテルの最初の広間からして、もう声高い人々の群れでいっぱいだった。長い一面の縦壁と短い二面の側壁とに沿うて延びていたビュフェでは、胸に白いエプロンをかけたおおぜいの給仕たちがたえず走りまわっていても、しびれを切らした客たちを満足させることができないらしく、ひっきりなしに次々と違った席から悪態やらテーブルをたたくこぶしの音やらが聞こえていた。カールは、だれにも見咎められなかった。現に広間のほうでは、全く給仕人すらいないので、三人が囲めばもうテーブルが見えなくなってしまいそうな、ひどく小さなテーブルにすわった客たちは、望みの品を、ビュフェから取って来ていた。どの小さなテーブルのうえにも、オリーブ油とか、酢とか、そういったものを容れた、大きな瓶が置いてあり、ビュフェから取って来た料理にはすべて、食べるまえに、この瓶にはいったものを注ぎかけられるのである。カールは、ともかくも、まずビュフェへ行こうと思った。そうでなくともあんな調子のところへ、自分がゆけば、さらに大量の特別注文をすることでもあるし、今に面倒なことが起こりそうだと、心のうちに案じながらも、カールは、たくさんのテーブルのあいだをむりに縫って行った。それは、むろん、どんなに注意しても、客にひどい迷惑をかけないでは遣り遂げられないことであった。とはいえ、客のほうは、まるで不感症のように、すべてを甘受していた。カールが途中で、むろん、これまた客に突き飛ばされてであったが、とあるテーブルにぶつかって、危うくそのテーブルがひっくり返りそうになったときでさえも、そうであった。カールは、詫びを言ったが、明らかに、相手にはそれが通じないようであった。それにカールのほうも、自分に呼びかけている言葉の意味がさっぱり解《げ》せないようであった。
ビュフェへ来ると、彼は、やっとの思いで、狭いながらも空席をひとつ見つけたが、それでも長いあいだ、隣席の人たちが肘をついているために、すっかり視野を遮られていた。そもそも当地では、肘をついて、こぶしをこめかみにおしあてるのが、風習のようであった。カールは、あのラテン語の教師だったクルムパル博士が、たまたまこうした姿勢をきらっていて、いつもこっそりと出しぬけに近寄ってきては、隠し持っていた定規で不意におもしろ半分に一突きし、肘を机から払い落としていたことを、思い浮かべずにはいられなかった。
カールは、窮屈にビュフェへ押しつけられたまま、立っていた。彼が台に向かって立つやいなや、彼のうしろでテーブルがひとつ置かれ、そこに腰かけた客のひとりが、話をしながら、ほんの少しでものけぞるたびに、かぶっている大きな帽子でカールの背中をいやと言うほどこするからであった。このぶんでは、隣にいたあの無作法なふたりの客が満足して帰って行ったとはいえ、給仕からなにかを手に入れることは、きわめて望み薄であった。二、三度、カールは台ごしに給仕のエプロンを掴みはしたが、相手は、その度毎に顔をしかめてカールの手を振り切ったにすぎない。だれも掴まえられなかった。どの給仕も、ただただ走りに走っているだけである。すくなくともカールの手近なところになにか適当な飲食物でもありさえしたら、むろん、彼は、それを取って、値段を尋ね、金を置いて、嬉々《きき》として立ち去ったにちがいない。ところが、たまたま彼の眼のまえに置いてあったものといえば、黒い鱗のふちのところが金いろに光っている鯡《にしん》のような魚を盛った皿ばかりだった。それは、ひどく高そうだったし、また食べても、なんの腹の足しにもなりそうもなかった。そのほかに、ラム酒のはいった小さな壷も手の届くところにあったが、しかし、ラム酒は、仲間に持って帰りたくなかった。あのふたりは、どのみち折りさえあれば、きわめてアルコール分の強い酒をねらうことしか考えてないようであったし、その点ではまだカールも彼らを支持する気になれなかったのである。
こうなると、カールとしては、ほかの席を探して、最初からまた努力しなおすよりほかなかった。それに、あれからもうずいぶん時も経っているにちがいない。眼を研ぎ澄ましてよく見れば、もうもうと立ちこめた煙草のけむりを通して、広間の向こうの端にある時計の指針が、まだ見分けられたが、それによると、もう九時を過ぎていた。ビュフェのどこもかしこも、先刻のやや片すみに近い席よりは、はるかに混雑していた。しかも広間は、夜がふければふけるほど、ますます人で埋まってくるのである。ひっきりなしに、表玄関から、大きな声で、やあと叫びながら、新しい客がはいって来た。ところどころでは、客が勝手気ままにビュフェをかたづけて、台のうえに腰をかけ、たがいに乾杯を重ねていた。そこが最上の席であった。広間がいちめんに見渡せたからである。
カールは、なおも人込みをかき分けて右往左往を続けていたが、なんとか入手できるという本来の希望は、もう彼から消え失せていた。彼は、この地の事情も知らないでこうした使いを買って出た自分を、責めずにはいられなかった。このまま帰れば、仲間たちが自分を罵り倒したあげく、金を残したいばかりになにも持って帰らなかったと、思うだろう。それも、尤も至極なことにちがいない。ふと気づいてみると、彼の立っているまわりのテーブルでは、黄いろい上等のじゃがいもを添えた、温かい肉料理を食べているのである。ここの連中がどのようにしてそれを手に入れたのか、彼には不思議でならなかった。
そのとき、二、三歩まえのところで、明らかにホテルの従業員とおぼしい年増の女が、笑いながら、客のひとりと話しているのが、カールの眼に止まった。その女は、手にした一本のヘヤーピンで、たえず結髪のかたちをいじくりまわしていた。即座にカールは、自分の注文をその女に切り出そうと、決心した。彼女が、広間にいるただひとりの女性であるとともに、満座が騒ぎ駆け回っているうちの言わば例外的存在だったからでもあるが、むろん、彼が彼女にちょっと言ったくらいで、すぐに相手が商売気を出して駆けて行ってくれないことは、まず間違いないとしても、とにかく、彼女が今掴まえることのできるただひとりのホテルの使用人であるからという、簡単な理由からでもあった。ところが、全く反対のことが生じたのである。カールがまだちっとも彼女に声をかけないで、ほんのすこし彼女の様子を伺ったばかりのときであった。だれでも話の最中に時おりちらとわき見することがよくあるように、彼女がふとカールのほうへ眼をくれると、話を途中で止めて、親しげに、文法のように明確な英語で、なにか用事があるのかと、彼に尋ねたのである。
「むろんです」と、カールは、言った。「なににも有り付けないで、困っているところです」
「それじゃ、わたしといっしょにいらっしゃい、おちびさん」と、彼女は、言って、相手の男に別れを告げた。すると、彼女の知り合いは、帽子を取った。それが、ここでは、途方もない丁重な態度のように見えた。彼女は、カールの手を掴むと、ビュフェへ行き、客のひとりを押しのけて、台の一隅にあるはねぶたをあけて、台の向こうの通路を横切った。そのときは、休みなく走り回っている給仕たちにぶつからないように、用心せねばならなかったが、それから、綴れ織りの布を張った二重戸をあけると、もうそこは、大きな、ひえびえとする貯蔵室であった。≪こういう機構をこそ知っておかねば≫と、カールは、心のうちで言った。
「それで、なにが欲しいの」と、彼女は、きいて、世話好きげにカールのほうへのぞき込むように上半身を曲げた。彼女は、ひどく太っているため、からだが揺れていたが、顔は、むろん、からだの割りにではあるが、ほとんど華奢といってもいいほどに小作りである。カールは、ここの棚やテーブルのうえに入念にきちんと並べて置いてある食料品を見ると、注文するにしても、なにかもっとすてきな夕食をすばやく考え出したい気持ちに、つい誘われそうになった。しかも、そのいかにも顔がきくらしい婦人から普通の値段よりも安く世話してもらえそうな当てもあったので、なおさらだった。ところが、適当なものが思い浮かばなかったのだろう。彼がついに言ったのは、やはり、ベーコンとパンとビールだけであった。
「それっきりでいいの」と、その女は、尋ねた。
「ええ、結構です」と、カールは、言った。「ただ三人まえ要るのです」
あとのふたりのことを婦人が尋ねたので、カールは、仲間のことを手短に話した。すこしでも尋ねられたことが彼にはうれしかった。
「それじゃまるで囚人の食べ物ですよ」と、婦人は、言った。カールがもっと望みのものを言うのを、明らかに、期待しているようであった。そうなると、カールのほうは、彼女が贈り物をするつもりで、金を受け取る気はないのではあるまいかと、案じられてきて、そのために黙っていた。「それくらいなら、すぐに揃います」と、婦人は、言って、太ったからだに似ず、驚くような軽快さで、とあるテーブルのほうへ行き、長くて薄いのこぎり状の刃をした包丁を使って、肉の縞がたっぷりあるベーコンを大きくひときれ切り取ると、棚からパンの大きな固まりをひとつ取り、床から三本のビールを拾い上げて、すべてを軽い藁細工の籠に入れ、カールに渡した。そうしているあいだも、彼女は、カールに、表のビュフェでは煙草の煙や人いきれなどのために、いくら早く消費しても、やはり、食品はいつも新鮮味を失っているので、カールをここまで連れて来たわけだけれども、表の客たちはそれでも結構有りがたがっていると、説明していた。カールは、今となっては、もうなにも言えなかった。このような格別の待遇にどうして報《むく》いていいか、わからなかったからである。彼は、仲間のことを思った。あのふたりがどんなによくアメリカのことに通じていても、このような貯蔵室のなかまでは立ち入ったことがなくて、きっとビュフェの腐った食べ物で甘んじていたにちがいない。ここにいると、広間からなにひとつ聞こえて来ないのは、この食品室を申しぶんのない低温に保つために、きっと壁をひじょうに厚くしてあるのだろう。カールは、しばらくはじっと藁細工の籠を手にしたまま、支払のことも思いつかず、身動きさえもしなかった。ただ婦人がさらに追加として、表のテーブルのうえに置かれていたのと似たような瓶を一本、カールの籠のなかへ入れようとしたときに、身震いしながら辞退しただけであった。
「まだ先は遠いんですか」と、婦人は、尋ねた。
「バターフォードまでです」と、カールは答えた。
「それじゃ、まだずいぶんの道のりね」と、婦人は、言った。
「あと一日の辛抱です」と、カールは、言った。
「それくらいでいいの」と、婦人は、尋ねた。
「はい」と、カールは、言った。
婦人は、テーブルのうえの二、三のものを正しい場所へ戻した。給仕のひとりがはいって来て、なにかを探すようにあたりを見回していたが、大きな皿のなかへ幅いっぱいにサージンを山盛りにして、そのうえにパセリをすこしばかり振りかけてあるのを、婦人から指差されると、その皿を両手で捧げ持って広間へ運んで行った。
「一体、どうして野宿なんかするのです」と、婦人は、尋ねた。「ここなら十分に部屋のゆとりがあります。わたしたちのホテルでお泊まりなさい」
それは、カールにとって、特に昨夜はひどい過ごしかたをしていただけに、ひどく気をそそる言葉であった。
「でも、荷物はそとに置いてきたのです」と、彼は、ためらいながら、いささか見えも手伝って、言った。
「それは取ってらっしゃればいいのです」と、婦人は、言った。「そのことはなにも障害にはなりません」
「しかし仲間が」と、カールは、言って、あのふたりが確かに障害物であることに、すぐに気づいた。「その人たちも、むろん、ここに泊まってもいいのです」と、婦人は、言った。「ぜひいらっしゃい。口がすっぱくなるほど人に頼ませるものではありません」
「仲間は、正直なことは正直なのですが」と、カールは、言った。「ただ清潔ではないのです」
「では、あの広間にいた不潔漢が眼にはいらなかったのですか」と、婦人は、尋ねて、顔をしかめた。「わたしどものほうへは、実のところ、どんなひどい人だって来ていいわけですから、それでは、すぐにベッドを三つ用意させておきましょう。むろん、屋根裏ですよ。ホテルのほうは、満員ですから。わたしも屋根裏部屋へ引っ越しました。どのみち、野宿するよりはましですものね」
「仲間を連れて来るわけにはゆきません」と、カールは、言った。彼は、あのふたりがこの上品なホテルの廊下でどんな騒ぎをするかを、想像した。ロビンソンは、一切合財を不潔にしてしまうだろうし、ドラマルシェは、間違いなく、この婦人にさえも悪戯《いたずら》をするだろう。
「どうしてそういうわけにゆかないのか、わたしにはわかりませんが」と、婦人は、言った。「でも、そうなさりたいのでしたら、どうぞ、お仲間はそとに置き去りにして、あなただけいらっしゃい」
「そうはゆかないのです、そうはゆきません」と、カールは、言った。「僕の仲間なのです。僕はいっしょにいなければなりません」
「まるでわからず屋ね、あなたは」と、婦人は、言って、そっぽを向いた。「人がせっかくあなたに好意を持って、あなたの助けになりたがっているのに、全力をつくして拒むなんて」カールには相手の言うことが逐一腑に落ちたが、どうすればいいのか、わからなかったので、彼は、「ご親切、まことにありがとうございます」と、言うよりほかなかった。そのとき、彼は、まだ支払のすんでないことを思い出して、借りている額を尋ねた。
「お払いは籠を返しに来られたときで結構よ」と、婦人は言った。「遅くともあすの朝には返してほしいの」
「では」と、カールは、言った。婦人は、戸外へ直接通じているドアを開けた。彼が一礼して出て行きかけると、また言った。「お休み。でも、あなたの立ち居ふるまいは、まともじゃないのよ」そして、彼がすでに数歩ばかり遠ざかっていたとき、またも婦人が背後から呼びかけた。「さようなら、あすまたね」
カールがそとへ出るやいなや、もう広間からあいもかわらぬ盛んな喧騒が彼の耳に達していた。しかも、今は吹奏楽団の奏楽さえもそれに混じっている。カールは、広間を通り抜けずに出て来られたことを喜んだ。ホテルは、今うえの六つの階全部にくまなくあかりがともり、そのまえの道を幅いちめんに明るく浮き立たせている。今もなお戸外では、もうとぎれとぎれではあったが、自動車が、遠くから、日中よりも速やかに、すがたを現わし、ヘッドライトの白熱した光で路面をさぐりながら、ホテルの照明地帯を薄らいだ光でよぎっては、またヘッドライトの光を増して、空漠たる暗やみのなかへ突入してゆく。
仲間たちは、すでに深い眠りに落ちていた。やはり帰りがあまりにも遅すぎたためであろう。ちょうど彼が、すべて用意がととのってから仲間を起こそうと思い、持ち帰ったものを、寵のなかにあった紙のうえに、いかにも食欲をそそるように、並べようとしていたときであった。鍵をかけたまま置いて行ったはずのトランクが、鍵を現にポケットのなかに入れたままなのに、いつのまにかすっかりあいているのを見て、彼は、驚いた。なかみの半分がまわりの草のなかに散らばっている。
「起きろ」と、彼は叫んだ。「君らが眠っているすきに、泥ぼうがはいったんだ」
「無くなったものでもあるのかい」と、ドラマルシェがきいた。ロビンソンは、まだ眼がさめきらないのに、もうビールのほうへ手を伸ばしている。
「わからん」と、カールは、叫んだ。「だが、トランクがあいている。横になって眠って、トランクをここへほったらかしておくとは、無分別にも程があるじゃないか」
ドラマルシェとロビンソンが笑い出した。そして、ドラマルシェが言った。「こんなに長く留守にするのが第一いけないんだ。ホテルは、つい十歩さきにあるじゃないか。だのに、あんたときたら、行って帰るのに、三時間もかかるんだ。おれたちは、腹がへってたまらなかったから、あんたのトランクのなかになにか食べ物があるかもしれないと、考えたのさ。それで、長いあいだかかって錠前をいじくりなおして、やっとあけたところが、なにもなかには無かったという寸法さ。まあ、あんたの手でみんな元どおりにしまってくれたらいい」
「そうか」と、カールは、言って、急に空《から》になってゆく籠のなかを見据えながら、ロビンソンが飲むときに発する奇妙な音に耳傾けていた。液体がまずロビンソンの喉のなか深くへはいって行くと、ぴゅうという笛のような音とともにふたたび跳ね返り、それからやっと、ごくごくと奥へころがり込んでゆくのである。
「もう食べ終わりましたか」と、カールは、ふたりが一息入れたので、尋ねた。
「それじゃ、ホテルで済ませて来たんじゃなかったんですかい」と、ドラマルシェは、カールが自分の分けまえを請求しているように思って、尋ね返した。
「まだ食べる気なら、さっさとしてください」と、カールは、言って、トランクのほうへ行った。
「どうやらむくれているらしいな」と、ドラマルシェがロビンソンに言った。
「ぼくはむくれてなんかいません」と、カールは、言った。「しかし、ぼくのいないまに、僕のトランクをこじあけて、僕の持ち物を放り出したりするのが、果たしてまともなことでしょうか。仲間うちではいろいろな点でたがいに寛容でなければならないくらいのことは、僕にもわかっていますし、僕もその覚悟でいましたが、しかし、この仕打ちはあまりひどすぎます。僕は、ホテルで泊まります。バターフォードへは行きません。さあ、早く平らげてしまってください。その籠を返さねばならないのです」
「どうだい、ロビンソン、今の科白《せりふ》を聞いたか」と、ドラマルシェが言った。「なんとうまい言い回しじゃないか。さすがにドイツ人だ。おまえが最初おれに、あの男には用心しろと、注意までしてくれたのに、おれがお人よしだったのさ。おまけに、いっしょに連れて来たりして、おれたちは、あいつを信用したばかりに、足手まといを一日じゅう引きずって来てやってさ。おかげで、すくなくとも半日は損したのに、今になって――きっとあすこのホテルでだれかにそそのかされたんだろうよ――あばよだとさ。あっさりとあばよだとさ。しかもだ、あいつは、根が不実なドイツ人だもんだから、ざっくばらんにやればいいところを、なんとかトランクにかこつけてみてよ。おまけに、根がげすなドイツ人だもんだから、おれたちの名誉を傷つけ、おれたちを泥棒呼ばわりしないと、逃げ出せないのさ。おれたちとしちゃ、あいつのトランクをほんのちょっと面白半分になぶっただけなのによ」
所持品を詰め込んでいたカールは、振り向きもせずに、言った。「その調子で勝手にしゃべり続けているといい。僕のほうはお蔭で、ますます逃げ出しやすくなるだけです。僕も、仲間づきあいがどういうものかは、よく知りつくしています。僕にだって、ヨーロッパにいたとき、友だちがありましたが、僕の友だちにたいする態度が不実だとか卑劣だとかと言って、僕を非難する人はどこにもいません。今でこそ、僕らは、むろん、交渉が途切れていますが、もしまた僕がヨーロッパへ帰るようなことでもあったら、みんな快く迎えてくれて、すぐに僕を友だちとして認めてくれると思います。ところで、そこのドラマルシェさんとロビンソンさん、あなたらは、せっかくぼくの身柄を引き受けて、バターフォードへ着けば見習工の口を世話すると約束するくらいまでに、友情を見せてやったのだから、そうした点まで僕はなにもご破算にするつもりはありませんが、そのあなたらを今さら僕が裏切るのは間違いだと、言いたいのでしょう。ところが、それとこれとは、別問題なのです。あなたらは、無一物です。そのことが、僕の見たかぎりでは、あなたらをけっして卑屈にしているわけでもないのに、あなたらは、僕のささやかな持ち物を嫉み、そのために、なんとかして僕を凹《へこ》ませようとする。それが、僕には我慢がならないのです。ところが今も、あなたらは、僕のトランクをこじあけておいて、一言もあやまらないばかりか、僕を罵倒し、さらに僕の同胞をまでも罵倒する――そんなことをすれば、僕から、あなたらのもとに残る可能性をますます奪ってゆくだけです。とにかく、こうしたことは、ロビンソンさん、もともとあなたの柄ではありません。あなたは、あまりにもドラマルシェに頼りすぎています。それだけはあなたの性格にたいして僕も異議を唱えずにはいられません」
「ついに見届けたぜ」と、ドラマルシェは、カールのほうへ歩み寄って、カールの注意をひこうとするかのように、カールを軽く小突きながら、言った。「ついに見届けたぞ、あんたが化けの皮を現わすところをな。一日じゅう、あんたは、おれのあとに付いて、おれの上着につかまり、おれの動作をすっかりまねして、今までは小ねずみのように静かだった。ところが今、ホテルになにやら後楯みたいなものがあるのを感じると、そうして大演説をぶちはじめる。実にあんたは、小賢しいちんぴらだ。おれたちがそれをおとなしく辛抱して拝聴したものかどうか、まだおれにはかいもくわかっちゃいないがね。それに、あんたが一日じゅうおれたちから見習ったことにたいして、おれたちが授業料を請求したものかどうかもな。おい、ロビンソン、この人のいわくには、この人の持ち物をおれたちが嫉んでいるんだとよ。バターフォートで一日働きさえすりゃ――べつにカリフォルニアまで持ち出さなくとも――、あんたがおれたちに見せびらかしたものとか、あんたがその上着の裏にまだ隠し持っているかもしれないものの、十倍くらいは、ちゃんと手にはいるんだ。だからよ、口にだけはいつも気をつけたがいいぜ」
カールがトランクから立ち上がったとき、寝ぼけ顔の、ややビールで元気づいたロビンソンまでがこちらへやって来るのが、眼についた。「ここでぐずぐずしていたら」と、カールは、言った。「もっといろいろと意外な目にあいそうなので、退散します。どうやら、あなたは、僕をさんざんに打ちのめしたいようですね」
「どんな堪忍袋だって、緒が切れるときがあるさ」と、ロビンソンが言った。
「あなたは、黙っていたほうがいいのです、ロビンソン」と、カールは、ドラマルシェから眼を離さずに言った。「あなたは心のうちでは、やはり僕のほうが正しいと思っていても、そとに向かっては、ドラマルシェと調子を合わせねばならないのだから」
「あんたは、こいつを丸め込みたいんだな」と、ドラマルシェがきいた。
「めっそうもない」と、カールは、言った。「僕は、退散できるのを喜んでいるのです。あなたらのだれとも、もうかかわり合いたくありません。ただひとつだけ言い足しておきたいことは、あなたは、僕が金を持っていながら、あなたらにそれを隠していたことで、僕を非難しましたが、仮にこのことが事実だとしても、知り合ってからやっと数時間にしかならないような相手にたいしては、そういう行動を取るのがひじょうに正しかったのではないでしょうか。そういう行動の取りかたが正しいことは、さらにあなたのいまの態度によって、あなた自身が裏書きしているではありませんか」
「じっとしておれ」と、ドラマルシェは、ロビンソンがからだを動かしたわけでもないのに、ロビンソンに言った。それからカールに向かって問うた。「あんたがそうまでぬけぬけと正直|面《づら》をするなら、お互いにこうしてきらくに寄り集まって立っているんだから、その正直一点張りをさらに押し通して、どうしてあんたがホテルへ行きたいか、そのわけを白状したらどうだ」カールは、トランクをまたいで、一歩あとずさりせねばならなかった。それほどドラマルシェが彼のまぢかに迫っていたのである。しかし、ドラマルシェのほうは、そんなことで惑わされないで、トランクをわきへ押しのけ、一歩まえに踏み出して、草むらのなかに放り出されたままになっていた真っ白いワイシャツの胸当てを片足で踏みつけながら、今の問いを繰り返した。
ちょうどそれに答えるかのように、通りから、強い光を放つ懐中電灯を持ったひとりの男が、三人のかたまっているところまで昇って来た。ホテルの給仕であった。給仕は、カールに眼を留めるやいなや、言った。「もうかれこれ半時間もあなたを探しているんです。道の両側の斜面という斜面はみな残らず探し回りました。つまり、あの料理主任をなさっている奥さんが、あなたにお貸しした籠が急に入り用になったと、あなたに伝えてくれとのことです」
「これです」と、カールは、興奮のあまりにうわずった声で、言った。ドラマルシェとロビンソンは、いい地位にある見知らぬ人たちのまえではいつもそうするように、うわべは控えめらしく繕って、わきへ寄っていた。
給仕は、籠を受け取ると、言った。「それから、料理主任さんが、あなたがよくお考えになられた末に、もしかするとホテルでお泊まりになる気持ちになられたのではないか、あなたにお尋ねしてくれとのことです。あとのふたりのかたも、あなたが連れて来られたいなら、どうぞとのことです。ベッドのほうはもう用意してあります。今夜は実に暖かいですが、この斜面で眠るのは、しかし、けっして安全とは申せません。よく蛇も見かけますし」
「料理主任さんがそこまで親切におっしゃってくださるなら、僕もやはりお招きに応じましょう」と、カールは、言って、仲間たちがなにか言うのを待った。ところが、ロビンソンは、ぼんやりと突っ立ったままだったし、ドラマルシェは、両手をズボンのポケットに突っ込んで、星空を見上げていた。両人とも、明らかに、カールがさっさと自分たちを連れて行ってくれるものと、信じているようであった。
「その場合には」と、給仕が言った。「ホテルへご案内するとともにお荷物をお持ちするよう、仰せつかっております」
「それでは、どうか、ほんのしばらく待ってください」と、カールは、言って、まだあたりに散らばっている二、三の品をトランクにおさめるために、身を屈めた。
そのうちに突然、彼は、身を起こした。写真が無い。トランクのいちばんうえのほうに入れておいたのに、どこにも見当たらない。ほかのものはすべでそろっているのに、写真だけが無い。
「写真が見つかりません」と、彼は、ドラマルシェに哀願するように言った。「どんな写真だい」と、彼は尋ねた。
「両親の写真です」と、カールは言った。
「写真なんか、おれたち、見なかったぜ」と、ドラマルシェが言った。
「写真ははいってなかったです、ロスマンさん」と、ロビンソンもかたわらから保証した。
「でも、そんなはずがない」と、カールは、言った。彼の助けを求めるまなざしに引き寄せられて給仕が近づいて来た。「いちばんうえに入れておいたのが、もう無くなっているのです。あなたらが面白半分にトランクをいじくってくれなかったらよかったのです」
「絶対に思い違いはない」と、ドラマルシェが言った。
「トランクのなかには写真なんか無かった」
「あの写真は、僕にとって、今トランクのなかにあるもの全部よりも大切なのです」と、カールは、歩き回りながら草むらのなかを探している給仕に向かって、言った。「つまり、かけがえのないものなのです。同じものは二度と手にはいりません」そして、給仕が見込みのない捜索を打ち切ったときも、彼は、まだ言っていた。
「あれは、僕の手もとにただひとつある両親の写真だったのです」
すると給仕が大きな声で全くぶっきらぼうに言った。
「あとは、この人たちのポケットを調べるくらいのものでしょうな」
「そうです」と、カールは即座に言った。「どうあっても写真は見つけます。ところで、ポケットをくまなく検査するまえに、もう一言申します。僕に自発的に写真を返してくれる人には、トランクを、なかみもろとも、差し上げます」一瞬、一同は、静まり返った。やがて、カールが給仕に向かって言った。「それでは仲間たちも、明らかに、ポケットの検査を望んでいるわけです。ところで、今となっては、ポケットから写真が出て来た人にだってトランクをそっくり上げると、約束しておきます。それ以上のことは僕にできません」
すぐに給仕は、ロビンソンよりもドラマルシェのほうが扱いにくいと思ったのか、ロビンソンをカールに任せて、ドラマルシェを調べはじめた。給仕は、カールに、ふたりを同時に調べないといけない、さもないと、残ったほうがこっそりと写真を仕末するかもしれないと、注意した。カールがロビンソンのポケットに初めて手を差し入れると、さっそく自分の持ち物であるネクタイが見つかったが、彼は、しかし、それを取り上げずに、給仕に向かって叫んだ。「ドラマルシェのところでどんなものが見つかっても、どうか、みんな返してやってください。僕は、写真しか欲しくありません。写真だけです」
カールが胸ポケットを検査しているときに、手が通り抜けてロビンソンの熱い肥えた胸に触れた。途端に、なんだか仲間にたいしてひどい侮辱を加えているような意識に襲われて、彼は、できるかぎり検査を急いだ。とにかく、すべては徒労だった。ロビンソンのところからも、ドラマルシェのところからも写真は、ついに現われなかった。
「だめです」と、給仕が言った。
「どうやら写真をずたずたに引き裂いて、どこかへ投げ捨てたようです」と、カールは、言った。「僕は、この連中を友だちとばかり思っていましたが、実は僕にたいしてひそかに害を与えようとしか考えてなかったのです。もともと、ロビンソンは、そうではなかったはずです。あの男だけなら、あの写真がぼくにとってこうまで値うちがあるとは、思いもつかなかったでしょう。それだけにますますドラマルシェが臭いです」カールの眼のまえには、懐中電灯で小さな円を照らし出している給仕のすがたがあるだけだった。そのほかのすべてのものは、ドラマルシェも、ロビンソンも、深い暗やみのなかに消えていた。
こうなっては、むろん、ふたりをホテルへ連れて行くなどということは、もはや問題にもならなかった。給仕は、すばやくトランクを肩に載せ、カールは、藁《わら》細工の籠を手に持って、そこを離れた。表通りに出ると、それまで考えにふけっていたカールは、急に考えるのを止めて立ちどまり、暗やみのなかへ声を張り上げて叫んだ。「おうい、あんたたち。あんたたちのどちらかが、やっぱり写真をまだ持っていて、ホテルの僕のところまで届けてくれるつもりなら――それても、その人に間違いなくトランクを差し上げます。告発なんかしません。僕は、誓います」答えらしい答えはなかった。ただ途切れた言葉が聞こえただけであった。ロビンソンがなにか叫びかけようとしたところを、明らかに、ドラマルシェがロビンソンの口をすぐにふさいでしまったらしかった。斜面のうえにいるふたりのうちでそのうちに決心が変わる者がいるかもしれないと、カールは、そのまま、長いあいだ待っていた。そして二度まで、あいだを置いて、「僕は、まだここにいるよ」と、叫んだが、なんの応答もなかった。ただ一度だけ、石がひとつ、あるいは偶然にか、あるいは投げそこねたものか、わからないが、斜面をころがり落ちてきた。
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ホテル・オクシデンタル
ホテルに着くと、カールは、事務室のようなところへ案内された。そこでは、料理主任が、備忘録《びぼうろく》を片手に、年若いタイピスト嬢に向かって手紙を口述し、タイプさせていた。きわめて几帳面な口述が進むにつれて、熟練した弾力的な手がしきりとキイをたたき続ける音が響き、そのために、かたわらの掛け時計の時を刻む音も、ただ時おりしか、はっきりとは聞こえないくらいであった。掛け時計がもう十一時半近くをさしていた。「それでおしまい」と、料理主任は、言って、備忘録をぱたりと閉じた。タイピストは、とび上がって、タイプライターに木製のふたをかぶせた。そうした機械的な仕事を続けながらも、カールから眼を離さないでいる。彼女は、いまだに女学生のように見えた。エプロンはとても念入りにアイロンをかけ、例えば肩の部分など、きれいに延ばされて丸味がつけてあった。髪は、いかにも高くゆいあげている。そうした細かい点に眼を留めたあとで、彼女の真剣な顔つきを見ると、カールならずともちょっと驚かざるを得ないだろう。彼女は、まず料理主任にたいし、それからカールにたいして、お辞儀をしてから、去って行った。カールは、思わず尋ねるようなまなざしで料理主任を見た。
「こうしてやっぱり来てくださって、ほんとうに有りがたいですわ」と、料理主任は、言った。「ところで、お仲間さんは」
「連れて来ませんでした」と、カールは、言った。
「あの人たちは、きっと、とても朝早く出発するのでしょうね」と、料理主任は、その事わけを自分に説明してきかせるかのように、言った。
≪きっと彼女は、僕もいっしょに出発すると、思っているのではなかろうか≫と、カールは、心に問うと、この折りに疑いの余地を全く無くしておくために、言った。
「僕らは喧嘩別れをしてしまったのです」
料理主任は、それを好ましい知らせとして受け取っているように見えた。「すると、あなたは自由なわけですね」と、彼女は、尋ねた。
「ええ、自由です」と、カールは、言った。しかし、彼にはこれほど下らぬことはないように思われた。
「ねえ、あなた、このホテルに就職してみる気持ちはございませんの」と、料理主任は、きいた。
「大ありです」と、カールは、言った。「でも、僕の知識ときたら、おそろしく乏しいのです。例えば、タイプライターで手紙を書くことさえもできません」
「それはなにも肝心《かんじん》かなめのことではありませんわ」と、料理主任が言った。「勤めていただくとすれば、さしあたってはほんのつまらぬ地位で辛抱してくださって、それからたゆまぬ勤勉と注意力とにより、しだいに昇進してゆくように心がけていただかねばなりません。まあ、いずれにしましても、ああして諸方をぶらつき回るよりは、どこかで定住なさるほうが、あなたにふさわしくて、いいことのように、わたしは、思いますけれども」
≪伯父さんもきっとそのほうがいいと太鼓判を押されるだろう≫と、カールは、心に言って、同意するようにうなずいていた。そのとき、ふと彼は、そこまで心配してもらいながら、自分がまだちっとも自己紹介してないことを、思い出した。「どうかお許しください」と、彼は、言った。「まだ自己紹介もいたしておりませんでした。僕、カール・ロスマンと言います」
「ドイツのかたのようですね」
「ええ」と、カールは、言った。「アメリカへ来て、まだ間がないのです」
「生まれは、どちら」
「べーメン州のプラハです」と、カールは言った。
「あら、ほんとう」と、料理主任は、ひどく英語の訛《なま》りのあるドイツ語で叫んで、両腕を挙げんばかりであった。「それじゃ、わたしたち、同国人ね。わたしの名はグレーテ・ミッツェルバッハ、ウィーンの生まれよ。それに、プラハはとてもよく知っていますわ。ヴェンツェル広場にある金鵞亭《きんがてい》で半年ばかり雇われていたんですもの。まあ、ちょっと考えてもご覧なさい」
「いつのことですか」と、カールは尋ねた。
「もう何年も何年もまえのことよ」
「あの古い金鵞亭は」と、カールは言った。「二年まえに取りこわされました」
「もちろん、知ってるわ」と、料理主任は、過ぎ去ったむかしの思い出にふけりながら、言った。
ところが、急にまた元気を取り戻して、彼女は、叫びながら、カールの両手を握った。「今こうしてあなたがわたしの同国人であることがわかった以上、あなたは、どうあってもここを離れてはなりません。わたしにそんな恥をかかせてはいけません。例えば、エレベーターボーイになる気はございませんか。あなたがはいとだけ言ってくれさえしたら、もうそれでなれるのです。あなたがちょっとそこらを回って来られたら、このような職務につくことがそう生やさしくはないことがわかるでしょう。いろいろと振り出しが考えられますが、このような職務が、じつは、最上の振り出しなのです。あなたは、どのお客さまとももれなく会えるし、いつもだれかに見られていて、ちょっとした用事を言いつかる。つまり、日ごとに、なにかいいことにありつく可能性が、あなたにはあるわけです。まあ、ほかのことはすべて、わたしの計らいに任せてください。」
「エレベーターボーイなら、大喜びでお受けしたいと思います」と、カールは、ちょっと間をおいてから、言った。五年間受けてきたギムナジウム教育を顧みてエレベーターボーイの職に就くのを躊躇《ちゅうちょ》するのは、無意味も甚だしいにちがいない。むしろ、このアメリカでは、五年間のギムナジウム教育を恥ずかしく思わねばならぬ理由さえもあるようだ。それはともかく、これまでカールにはエレベーターボーイがいつも気に入っていた。彼の眼にはホテルの飾りのように見えていたのであった。
「いろいろと語学の知識が必要なのではないでしょうか」と、カールは、念のため尋ねた。
「あなたは、ドイツ語を話すし、また英語もすばらしいので、それで十分に用が足ります」
「英語は、アメリカへ来てから、二ヵ月半のうちに覚えたのです」と、カールは、言った。彼は、自分の唯一の長所をなにも隠しておく必要はないと思った。「それだけでもあなたにとって全く有利です」と、料理主任は、言った。「英語でわたしがどんなに難儀してきたか、思い出してもぞっとします。それが、むろん、もう三十年も続いているのですもの。たまたまきのうも、わたし、そのことを話したばかりです。きのうが、つまり、わたしの五十回めの誕生日でした」そして彼女は、ほほえみながら、カールの顔つきから、年配の貫禄が彼に与えた印象を読み取ろうとしていた。
「それはおめでとうございます」と、カールは、言った。
「その言葉、どんなときでも使えるわけね」と、彼女は、言って、カールと握手をかわしながら、そのカールの祝いの言葉が、ドイツ語を話しているうちにふと彼女の心に浮かんでいた、故国伝来の古い決まり文句だったので、またしてもなかば悲しそうな表情になった。
「とにかく、わたしは、あなたをここへ引き留めてよ」と、彼女は、それから叫んだ。「きっととてもお疲れでしょう。それに相談ごとは日中のほうがずっとよくできます。同国人に会った喜びで、わたし、すっかり夢中になっていました。いらっしゃい、お部屋まで案内してあげましょう」
「ちょっとお願いがあるのです、料理主任さん」と、カールは、机のうえに置いてある箱型電話機を見ながら、言った。「あす、もしかするとひじょうに朝早く、僕のぜひ必要な写真を僕の以前の仲間が持って来てくれるかもしれないのです。それで、まことにすみませんが、守衛番が連中を僕のところへ寄越すか、あるいはだれかを僕の迎えに寄越すように、守衛へお電話していただけないでしょうか」
「いいですとも」と、料理主任は、言った。「でも、玄関番があの人たちから写真を取り上げておくだけで、事が足りはしませんか。失礼ですが、一体、どんな写真ですの」
「僕の両親の写真なのです」と、カールは、言った。「いいえ、僕がじかにあの連中と話し合わねばならないのです」料理主任は、もうそれ以上なにも言わないで、守衛の控え室へ電話で然るべき命令を伝えた。そのとき、彼女は、カールの部屋の番号を五三六と言った。
それからふたりは、入り口のドアと向かい合わせのドアを通って、ちょっとした廊下に出た。エレベーターの手すりにもたれて、小さなエレベーターボーイが眠っていた。「わたしたちで勝手に操作しましょう」と、料理主任は、低くささやいて、カールをエレベーターのなかへ誘い入れた。「十時間乃至十二時間の労働時間は、なんといっても、このような少年にはすこし過重ですわね」と、彼女は、それからエレベーターを上昇させながら、言った。「でも、これがアメリカ独特の点なのです。例えば、ここにいるこの少年ですが、この子も半年まえに両親に連れられてアメリカへ来たばかりなのです。イタリア人です。今でこそ、労働にとても耐えられそうもないように見えますし、顔の肉もすっかりこけています。根はいたって熱心な子なのですが、それでも勤務中につい眠り込んでしまいます。ところが、もうあと半年でも、ここか、あるいはアメリカのどこかほかのところで、奉公しさえすれば、もうどんなことにでも楽に耐えられるようになるのです。そしてもう五年もすれば、一人まえのたくましい男子です。このような例なら、何時間もあなたに話して差し上げられるくらい知っています。と申しましても、あなたのことは、わたし、ちっとも案じておりません。あなたは、そのとおり、強健な少年です。もう十七歳じゃなくって」
「来月で十六歳になります」と、カールは、答えた。
「それでやっと十六歳なの」と、料理主任は、言った。
「それでは大いに張り切りなさいな」
最上階に着くと、彼女は、カールをとある一室へ案内した。その部屋は、屋根裏にあるだけに、一方の壁が傾斜していたが、それを除けば、二個の電球による照明のもとで見たかぎり、ひじょうに住み心地がよさそうであった。「ここの家具調度に驚かないでください」と、料理主任は、言った。「これは、つまり、ホテルの客室ではなくて、わたしの住まいの一室なのです。わたしの住まいは、三つの部屋からなっていますので、あなたがいらしても、ちっともわたしの邪魔にはなりません。あなたにすっかりくつろいでいただくために、部屋と部屋とのあいだのドアには鍵をかけておきましょう。あすからは、むろん、あなたも、新しいホテルの使用人として、あなた専用の一室がもらえるはずです。もしあなたがお仲間たちといっしょにお越しでしたら、ここの雇人たちの共同寝室にあなたがたのベッドをしつらえさせようと考えていたのですが、あなたひとりなので、ただソファのうえで眠っていただかねばなりませんが、やはり、ここのほうがあなたに向いているように思ったわけです。では、お勤めのため元気が回復するように、よくお休みなさい。あすのお勤めは、まだそう骨の折れるものではないと思います」
「ご親切のほど、いくえにも有りがとう存じます」
「待ってください」と、エレベーターのところで立ち止まりながら、彼女が言った。「このままでは、あなたがまもなく起こされてしまうかもしれません」そして彼女は、部屋の片方のサイドドアのところへ行き、ノックして、叫んだ。「テレーゼ」
「はい、料理主任さん」と、かわいいタイピスト嬢の声がした。
「朝早くわたしを起こしに来るときは、廊下を通っていらっしゃい。ここの部屋はお客さまがお休みです。お客さまは、死ぬほど疲れきっておられるのです」そう言いながら、彼女は、カールにほほえみかけた。「わかって」
「はい、料理主任さま」
「では、お休み」
「お休みなさいませ」
「実はわたし」と、料理主任は説明するために言った。
「二、三年まえからひどく寝つけないんです。今は、むろん、自分の地位に満足していますし、なにもべつに心配することもないのですが、きっとむかしのいろいろな心配の結果がこんな不眠症のもとになったにちがいありません。朝の三時に寝つかれたら、それこそ有りがたいくらいなのです。ところが、もう五時には、遅くても五時半には、ちゃんと持ち場で用意ができていなければなりませんので、起こしてもらうことにしているのです。しかも、これ以上わたしが神経質にならないように、特に気をつけてね。ところで、そのわたしを起こす役が、あのテレーゼなんです。さあ、これで、ほんとうになにもかも申しあげましたわ。長居しました。お休みなさい」そして、重たいからだに似合わず、ほとんど栗鼠《りす》のようにすばやく、彼女は、部屋から去って行った。カールは、眠るのが楽しみだった。その日はくたくたに疲れきっていたからである。長時間安らかな眠りをとるのにこれ以上快適な環境はないように思われた。部屋は、寝室用として決められたものでなく、むしろ居間、というよりか、もっと正確に言えば、あの料理主任の社交室だった。そして洗面台も、彼のため、特に今夜だけ、運び込まれたものであったが、それでも、カールは、自分が不時の客のような気がしなかった。それどころか、かえってそれだけに一層行き届いた世話を受けているように感じたのである。彼のトランクは、きちんと部屋のなかへ持ち込まれてあり、これ以上安全だったことももう長いあいだなかったように思われる。引き出しのある低い戸棚には編みめのあらい羊毛のカバーがかけてあり、そのうえには、さまざまな写真が、額に入れたり、板ガラスで押えたりして、置いてある。部屋のなかを仔細に見て回りながら、カールは、そこに立ちどまって、それらの写真をながめた。大部分が古い写真で、古めかしい窮屈そうな服を着て、小さいが山の高い帽子をぞんざいにかぶり、右の手で傘をついて、正面に顔を向けながらも、視線をそらしている少女を撮ったものが多かった。男の写真のうちで特にカールの注意をひいたのは、軍帽を小さなテーブルのうえに置き、もしゃもしゃの黒い髪のまま、直立不動の姿勢をして、誇らしげな笑いを押し殺しながらも顔いちめんに浮かべている、年若い兵士の写真であった。その軍服のボタンは、写真のうえにあとから金いろに塗ってあった。これらの写真は、すべて、ヨーロッパから持参したものらしく、裏面を見れば、そのことがはっきりと読み取れるような気がしたが、カールは、しかし、手に取ろうとはしなかった。今こうしてこれらの写真がここに並べてあるように、彼もまた、自分の両親の写真を自分の未来の部屋に飾っておきたいと思った。
たまたま彼が、隣室の女性のためにできうるかぎり音を立てないようにと苦労しながら、全身をくまなく洗いつくしたあとで、眠りに就くまえの楽しさを味わいながら、長椅子のうえにからだを伸ばしていたときであった。ドアをかすかにたたくような音が聞こえたように、彼は、思った。それがどのドアであったか、すぐには決められなかった。あるいは、なにか偶然の物音にすぎなかったかもしれなかった。また、その音がすぐには繰り返されなかったので、カールももうほとんど眠りかけていると、またしてもそれが聞こえたのである。こうなってはもう、それがノックであり、タイピスト嬢の部屋のドアのほうからしていることは、疑いない。カールは、爪先立ちでそのドアのほうへ駆け寄ると、どちらの隣の部屋ももうぐっすり眠っているころあいだったにもかかわらず、眼をさますのをはばかるような低い声で、「なにかご用ですか」と、尋ねた。
すぐに、同じような低い声で、返事がはね返ってきた。「このドアをあけてくださらない。鍵は、あなたのほうでかかっているの」「済みませんが」と、カールは、言った。「まず服なりとも着させてください」すこし間をおいてから、また声がした。「その必要ないわ。あけたら、ベッドのなかへはいりなさい。それまでちょっと待ってあげるから」
「承知しました」と、カールは、答えて、言われたとおりにした。そのほかにしたことといえば、スイッチをひねって電灯をつけただけである。「もういいです」と、彼は、それから、やや声高に言った。すると、現に彼女の暗い部屋からかわいいタイピスト嬢がもうすがたを見せていた。階下の事務室にいたときと寸分違わぬ服装である。おそらくあれからずっと床につくことをさえも考えていなかったのであろう。
「ほんとうにご免なさいね」と、彼女は、言って、やや前屈みにカールの寝床のまえに立った。「そしてお願い、私を裏切ったりしないでね。でも、そう長くはお邪魔しないつもりよ。あなたが死ぬほど疲れきっておられることはわかっていますから」
「べつにそれほどひどくはありません」と、カールは、言った。「それはそうと、やはり、服を着ていたほうがよかったようです」彼は、からだを伸ばして横たわり、首のつけ根まで掛けぶとんを引っ被っていなければならなかった。寝巻きを持っていなかったからである。
「ほんのしばらくだけお邪魔します」と、彼女は、言って、そこにあった椅子を引き寄せた。「その長椅子のそばへ腰を下ろしてもよくって」カールは、うなずいた。そこで、彼女が長椅子のよこへぴったりと寄り添うてすわったので、カールのほうは、彼女を見上げることができるように、壁ぎわにまでからだをずらさねばならなかった。彼女は、丸い均整の取れた顔をしていた。ただ額だけがなみはずれて広かった。しかし、それも、彼女に似合っていない調髪のせいにすぎないかもしれなかった。着ている服は、きわめて清潔で、手入れがよく行き届いている。左手のなかでハンカチをもみくちゃにしていた。
「ここに長く滞在なさるつもりですの」と、彼女は、尋ねた。
「まだすっかりは決まっていませんが」と、カールは、答えた。「腰を据えようと思っています」
「つまり、そうしていただければ、ひじょうに有りがたいの」と、彼女は、言って、ハンカチで顔をぬぐった。
「だって、私、ここではひとりぽっちなんですもの」
「それはおかしいですね」と、カールは、言った。「料理主任さんがあなたにはとても親切じゃありませんか。使用人のような扱いかたとは全然ちがいます。お身内だろうと、僕は思っていたくらいです」
「とんでもありませんわ」と、彼女が言った。「私の名は、テレーゼ・ベルヒトールト、ポンメルン地方の出身ですの」
カールも自己紹介した。すると彼女は、カールが名を名のることによっていささか彼女に縁遠い人となってしまったかのように、初めて正面から彼の顔を穴のあくほど見つめた。ふたりは、しばらくは黙ったきりであった。やがて、彼女が口を切った。「私を恩知らずだとは思わないでちょうだい。そりゃ私だって、あの料理主任さんがいなかったら、はるかにひどい身の上になっていたと思いますわ。私は、もとここのホテルの料理女で、あやうく罷《や》めさせられるところでした。だって、この私につらい仕事なんかできやしないんですもの。ここはいろいろと、そりゃ雇人にたいする注文がたいへんなの。ひと月まえも、料理女のひとりが、ただ過労のせいだけで、人事不省に陥り、二週間も入院していたくらいなのです。それに私、そう大して丈夫ではありませんの。むかしひどい病気をして、そのためにちょっと発育が遅れているくらいですの。どう、これで私、もう十八歳になるように、お思いになって。でも、近ごろはもう、しだいに丈夫になってゆくようですわ」
「ここでの勤めば、確かに、ひどく骨が折れるにちがいありません」と、カールは言った。「今も階下で、エレベーターボーイが立ちながら眠っているのを、見かけました」
「それでも、エレベーターボーイは、まだいちばん楽なほうですわ」と、彼女は言った。「あの人たちは、心づけでずいぶんとお金をもうけますし、いくら苦しいといっても、所詮、料理場の連中とは格段の違いですもの。でも、私は、ほんとうに運がよかったのです。いつでしたか、ある宴会のためにナプキンを調えなければならなくなって、あの料理主任さんにひとり女中が要ることになりましたの。それで、私たち料理女のところへ言って寄越されたのです。ここにはそういう女が五十人くらいいます。ところが、たまたま私が用意していたものですから、とてもあの方に満足していただきましたの。だって、ナプキンのあの恰好を作ることなら、私、いつでも勝手がわかっているんですもの。そんなわけで、私は、それからあの方の身近に置いていただいて、しだいにあの方の秘書に仕立ててもらいましたの。そのあいだ、ずいぶんといろいろなことを勉強しましたわ」
「ここではそんなに手紙を出すことが多いのですか」と、カールは尋ねた。
「ええ、とっても」と、彼女が答えた。「その点は、いくらあなただって、たぶん、ご想像がつかないでしょう。あなたは、私がきょう十一時半までも仕事していたのを、ご覧になりましたわね。でも、きょうが特別の日ではないのです。むろん、しょっちゅう手紙を書いてばかりいるわけではありませんし、町でいろいろと用事を果たさねばならぬこともありますけれど」
「一体その町はなんという町です」と、カールは、尋ねた。
「ご存じじゃなかったの」と、彼女は言った。「ラムセスですわ」
「大都市ですか」と、カールは、尋ねた。
「とっても」と、彼女は、答えた。「私、あまりあすこへは行きたくないんです。でもあなた、ほんとうにもうお休みになりたいのじゃなくって」
「いえ、ちっとも」と、カールは、言った。「ところで、あなたがどうしてここへはいって来られたのか、僕にはまださっぱり理由がわからないのです」
「話し相手がないからよ。私は、これでぐちっぽい女じゃないつもりだけれど、でも、だれだって、ほんとうに自分の味方がいないときに、話を聞いてもらえる相手がやっとできると、もうそれで幸福な気持ちがするんじゃないかしら。私は、あなたがあの階下の広間にいらしたときから、知っていましたの。たまたま私が料理主任さんを呼びに行ったとき、あの方があなたを食料品室へ連れてゆかれるところでした」
「あの広間は物すごい」と、カールは、言った。
「もうそんなことはちっとも気にならなくなりましたわ」と、彼女は、言った。「ところで、私が言いたかったのは、ほかでもなくて、あの料理主任さんが、私の母代わりとしか思えないくらいに、それはそれは私に親切にしてくださるということなの。と言っても、私たちの地位にはとても大きな差がありすぎて、私なんか自由にあのかたと話しできる身分じゃないのですけれども。むかしは料理女のあいだにもいいお友だちが私にはありました。でも、その人たちは、もうとっくにここを罷めて、新しくきた女中さんたちにはほとんど顔見知りがないの。やっと近ごろでは、私の今の仕事のほうが、むかしの仕事よりも、私にとって骨が折れるのじゃないかしら、むかしの仕事のように立派に今の仕事がけっして果たせるわけじゃないし、料理主任さんがただ私をかわいそうに思って今の地位に置いてくださっているのではないかしらと、そんな気がすることがよくありますの。つまり、秘書になるためには、ほんとうはもっと立派な学校教育を受けていなければいけないんですわ。後生ですから」と、彼女は、急にひどく早口に言って、カールが両手を掛けぶとんのしたに入れていたので、カールの肩をちょっとつかんだ。「このことは料理主任さんには一言もしゃべっちゃいやよ。でないと、私、ほんとうにだめになってしまうの。そうでなくとも私の仕事で厄介をかけているのに、なおそのうえ、あの方にいやな思いをさせるようなことでもあったら、それこそほんとうに愚の骨頂だわ」
「むろん、あの方にはなにも申しません」と、カールは、答えた。
「それならいいの」と、彼女は、言った。「いつまでもここにいてちょうだい。あなたがここにいてくださると、私、うれしいわ。あなたさえよろしかったら、私たち、一致団結できるんですもの。あなたを初めてお見かけしたとき、即座にもう、私は、あなたを信頼する気になりましたの。でもなんだか――どうして私ったらこんなにひねくれた女なんでしょうねえ――料理主任さんが私のかわりにあなたを秘書にして、私を首にするかもしれないという不安もありましたわ。あなたが階下の事務室におられたあいだ、私は、部屋で長いあいだひとりすわっていましたが、それからやっと私は、あなたが私の仕事を引き受けてくださったら、あなたのほうがきっと私よりは仕事に通じておられるのだろうし、かえってそのほうがいいかもしれないと、そんなふうに事を解釈するようになりましたの。もしあなたが町で、用足しをするのがお嫌いでしたら、むろん、私がその仕事を続けたっていいのですけれども。それはそうと、私は、料理場にいたほうが、きっと数等役に立つような気もいたします。とりわけ近ごろはかなり丈夫にもなりましたし」
「その事はもうかたづいています」と、カールは、言った。「僕は、エレベーターボーイになりますので、あなたは、秘書を続ければいいのです。しかし、あなたのほうでほんのちらとでも料理主任さんにあなたのもくろみをほのめかすようなことでもあったら、僕は、はなはだ残念ですが、あなたがきょう僕に話したことを、残らずばらしてしまうつもりです」
その語調のきびしさに、テレーゼは、ひどく興奮して、ベッドのわきでひれ伏し、泣きじゃくりながら、顔を寝具にうずめた。
「ぼくはけっしてばらしませんから」と、カールは、言った。「あなたもなにも言ってはいけません」
もうこうなっては、彼もすっぽりと掛けぶとんのしたにいつまでも引っ込んでいるわけにはゆかなくなった。すこしばかり彼女の腕を撫でてやったが、なんと言い聞かせたらよいのやら、適当な言葉が見つからないまま、ここに生活のつらさがあると、思うばかりであった。そのうちにやっと、彼女は、すくなくとも泣いたことを恥ずかしく思うくらいまでに、気が静まって、感謝の眼でカールを見つめながら、あすはゆっくり寝ているように彼に勧め、暇があったら八時ころ上がって来てカールを起こすと、約束した。
「きっと起こすのがとても上手なんでしょうね」と、カールは、言った。
「ええ、私にだって多少の能はありますわ」と、彼女は、言って、別れのしるしに片方の手でやさしく彼の掛けぶとんのうえを撫でると、自分の部屋へ走り去った。
翌日になると、料理主任がその日は一日ラムセス見物のための休暇をくれると言ったが、カールは、すぐに勤務につきたいと、あくまでも言い張った。しかも、そのための機会なら今後とてもあることだろうし、今は自分にとって仕事をはじめるのが最も大切なことである、というのは、ほかの目的へ邁進するための仕事なら、すでにヨーロッパにいたときに、役に立たないので、途中で止めたことがあるくらいだし、またすくなくとも自分より有能な少年ならば、自然のなりゆきで、もっと高級な仕事をまさに引き受けようとしている年ごろなのに、自分は、エレベーターボーイとして、これからはじめるからである、自分がエレベーターボーイからはじめることは、至極当然の理であるが、また大いに先を急がねばならぬことも、至極当然の理である、このような境遇にありながら町を見物したとて、自分は、けっして楽しいとは思わないとさえ、カールは、言明したのである。彼は、テレーゼが彼に勧めたような近道をする気には、どうしてもなれなかった。いつも彼の眼さきには、べつに精を出さなくとも、ドラマルシェやロビンソンくらいには自分もなれるという考えが、ちらついていた。
ホテル専属の仕立て師のところで彼のために、エレベーターボーイの制服の寸法合わせが行なわれることになった。その制服は、そと見は、金ボタンと金モールでいかにもはでに飾られてはいたが、しかし、ためしに着てみると、さすがのカールもすこし戦《おのの》きを感ぜずにはいられなかった。というのは、その短い上着のとりわけ腋のしたあたりが冷たく、こちこちに固くなっていて、しかも彼のまえに着ていたエレベーターボーイたちの汗で、いつ乾くともしれぬくらいに濡れていたからである。それに、そのためしに着た制服も、まず第一に、胸回りを特にカールのために広げねばならなかった。ほかに有り合わせた十着の制服にいたっては、どれを取っても、寸法が合わないどころか、仮に手を通してみることさえもできなかったからである。そこで縫い直しがどうしても必要になったのであるが、仕立て師がひじょうに几帳面な人物のように見受けられたにもかかわらず――それが証拠に、すでにできあがって彼の手に渡された制服が、二度までも、彼の手からまた仕事場へ飛んで帰ったのである――、すべては五分とたたぬうちに片づいてしまった。そして、カールは、早くも、ぴったり合ったズボンをはき、仕立て師の断固たる正反対の確言にもかかわらず、胸苦しいほど窮屈に感じられる上着を着せられて、エレベーターボーイに成りすまし、仕立て師の仕事部屋を出たのだった。窮屈な上着のために、あいかわらず息が継げるかどうか、しらべるために、たえず深呼吸を試みていたい気持ちに駆られながら。
それから、カールは、自分が今後指揮を受けることになっている、例の給仕頭のところへ出頭した。給仕頭は、鼻の大きな、背のすらりとした、美男子で、年のころももう四十代であったろう。彼は、立ち話に応じるだけの暇さえもなく、鈴を鳴らしてエレベーターボーイを呼びつけただけであった。すると、やって来たのが、偶然にも、カールが昨夜見かけた少年であった。給仕頭は、ギアコモという洗礼名で少年を呼び捨てにした。といっても、それはあとになってやっとカールにわかったことであるが、英語で発音すると、姓名の区別がつかないからであった。そこで、ギアコモ少年は、エレベーター勤務に必要なことをカールに教えるように命じられた。ところが、彼は、ひどく内気で、せっかちだったので、結局教えることといえばほんのすこししかなかったのであるが、そのほんのすこしの知識をさえも、カールは、ほとんど彼から聞かされなかったくらいだった。確かにギアコモは、エレベーター勤務を、明らかにカールのせいで、罷めさせられ、客室係の女中の手伝いにまわされたことで、腹をたててもいたのだった。そのような手伝いなどというものは、これまでの確かな経験から考えて、といっても、彼はその経験をひた隠しに隠していたが、とにかく彼にはむだなように思われたからである。カールがなによりも失望を感じたのは、エレベーターの機械仕掛けについて、エレベーターボーイは、ボタンを簡単に押してエレベーターを動かすという程度くらいにしか関知せず、連動装置の修理にたいしては、もっぱらホテルの機械係が使われるということである。そのため、例えばギアコモのごときも、半年にわたるエレベーター勤務にもかかわらず、地下室にある連動装置も、またエレベーター内部の機械仕掛けも、自分の眼で見たことがなく、そういうことでもできたら、とても楽しかったにちがいないのだがと、ギアコモ自身もはっきりと言っていたくらいである。とにかく、単調な勤務であった。しかも、昼夜交代の、十二時間という労働時間のために、ギアコモの言いぶんによれば、数分間でも立ったまま居眠りできる者でなければ、とても耐えられないほど、骨の折れる仕事であった。カールは、これにたいしてなにひとつ言わなかったか、ギアコモがこの地位を失ったのは、ほかでもなく、そうした芸当のせいであると、十分に悟ることができた。
カールにとってひじょうに有りがたかったのは、彼が担当することになったエレベーターがただ最上階のほうのためにだけ使われるように決められていて、そのために、なにかと注文のうるさい金持ち連中を相手にせずとも済むらしいことであった。むろん、この場合は、ほかの場合ほどにいろいろなことが覚えられなかったわけであるし、ただ振り出しには好都合だったというにすぎなかった。
最初の一週間が過ぎると、もうカールは、現在の勤務に自分が完全に耐えてゆけることを、見通していた。彼のエレベーターの真鍮《しんちゅう》は、最もよく磨きあげられ、ほかの三十台のエレベーターとは比較にならなかった。もしも交代で同じエレベーターに勤務している少年が、ただカールに似るくらいにでも精を出して、自分の怠惰をカールの勤勉によって補ってもらおうと思ってさえいなかったら、おそらくカールのところの真鍮がさらに一段とぴかぴかに光っていたにちがいなかった。その少年は、レネルという生粋のアメリカ人で、黒い眼の、すべっこい頬がややくぼんだ、見えっぱりな少年だった。彼は、しゃれた私服を持っていて、勤務のない晩にはそれを着て、軽く香水をつけ、町へ急ぎ出かけて行った。時おり彼は、家庭の事情で出て行かねばならないと、言って、カールに晩の勤務の代わりを頼むこともあった。彼の見なりがそうした口実と全く矛盾していても、彼は、ほとんど意に介していなかった。にもかかわらず、カールには彼が気に入っていて、レネルが、そうした晩、外出するまえに私服で階下へやって来て、エレベーターのわきにいる彼のまえに立ちどまり、手袋をはめながら、重ねてちょっと申しわけを言ってから、廊下を通って立ち去ってゆくと、カールのほうも悪い気持ちがしなかったのである。とにかくカールは、こうした代勤によって、ただレネルのきげんを取りたかったにすぎない。古参の同僚にたいして最初はそうするのが彼には自明のことのように思われていたからであり、もとよりこの措置を永久的に制度化しようなどとは夢にも考えていなかった。長時間エレベーターに乗っているだけでも、むろん、ひどくくたびれる仕事であったし、特に夕刻には、昇り降りがほとんど間断なく続いたからである。
まもなくカールは、一般にエレベーターボーイの心得とされている、あのすばやい低い頭の下げかたも、こつを覚えてしまったし、また心づけをもすばやくもぎ取れるようになった。あっと言うまに心づけが彼のチョッキのポケットのなかに消えているので、果たして大枚だったか、小銭だったか、だれも、彼の顔つきからでは、なんとも言いようがなかったくらいである。ご婦人がたがやって来ると、彼は、戸をあける態度にもちょっと慇懃《いんぎん》さを添え、たいていはスカートや帽子や装身具などを気にして男連中よりはのろのろとエレベーターにはいってゆく彼女たちのあとから、ゆっくりと身をひるがえして乗り込むのであった。運転中は、きわめて目立たぬことではあったが、彼は、乗客たちに背を向けたまま、戸にぴったりとくっついて立ち、到着の瞬間にはいつでもすぐに、しかも気味悪い思いをさせないで、戸をわきへ押しやれるように、エレベーターの戸の引き手にずっと手をかけていた。また運転中、客がなにかちょっとしたことを聞いて確かめるために、彼の肩をたたくことも、ごくまれにはあったが、そのときは、待ち構えていたように、彼は、急いで振り向いて、大きな声で返事をした。それにまた、数多くのエレベーターがあったにもかかわらず、ことに劇場がはねたあととか、きまった特急列車が着いたあとなどでは、客を階上で下ろすやいなや、ふたたび急降下して、階下で待っている客を収容しなければならないほど、混雑することも、しばしばあった。そのような場合、エレベーターの内部を通り抜けているワイヤーロープをたぐって、速度をふつうよりも高めることもできたわけである。むろん、そうすることは、エレベーター法によって禁じられていたし、また危険でもあった。カールも、客といっしょに乗っているときは、けっしてそれをしなかったが、しかし、階上で客を下ろしてしまったあと、階下でほかの客が待っているときは、全く頓着しないで、さながら水夫のように、力いっぱい掛け声に合わせてロープをたぐり続けた。とにかく彼は、ほかのエレベーターボーイたちもそれをしていたことを知っていたし、同僚たちに自分の客を取られたくなかったのである。ホテルにかなり長逗留《ながとうりゅう》していた二、三の客は、尤もここでは長逗留がかなり習わしになっていたのであるが、時おり、ほほえみを見せることによって、カールを自分たちの係りのエレベーターボーイとして認めていることを表明していたし、またカールもこうした親愛な態度には真剣な顔つきでしかも喜んで応じていた。よく人の往き来がややまばらになったときなど、彼は、例えば、すぐまた部屋にまで引き返すのを億劫《おっくう》がっているホテルの滞在客のために、部屋に置き忘れてきたちょっとした物を取って来るというような、特別の些細な用命にも応じることがあった。そのようなとき、彼は、こうした瞬間には彼にとってことのほか頼もしい自分のエレベーターに乗って、ひとり飛ぶように昇って行き、たいていは見たこともないような珍しいものがあたりに置いてあったり衣裳掛けにかかっていたりする、見慣れぬ部屋のなかへはいって、見知らぬ石鹸や香水や液状歯磨の特色ある香りを感じながらも、すこしも立ちどまらずに、たいていはあいまいな説明しか聞かなかったにもかかわらず、巧みに目的の品を見つけ出して、急ぎ持ち帰るのだった。やや大きな用事を言いつかるときもしばしばあったが、そのほうの用事には特別の召使や使い走りの少年が当たり、どのような遠路でも、自転車やまた時にはオートバイで、使いを果たすことになっているので、自分は引き受けるわけにはゆかないと、彼は、そのときは、丁重に断わるほかなかった。ただ客室から食堂とか娯楽室への使いだけは、カールも、都合の許すかぎり、骨身を惜しまなかった。
彼は、十二時間の労働時間を終えて、三日間は夕方の六時に、次の三日間は朝の六時に、勤務から解放されると、すっかり疲れきっていたので、他人のことなど気にもかけずに、まっすぐに寝に行った。彼のベッドは、エレベーターボーイ共有の寝室にあった。あの料理主任さんが、といっても、彼女の勢力は、カールが最初の晩に思ったほどには、大したものではないらしかったが、それでも、カールに個室をあてがうように尽力してくれて、どうやらそれもうまく行きそうだった。しかし、カールは、そのためにどのように面倒なことが生じているかを見てとり、また料理主任がしばしば、この件で、彼の上役であるあのひどく多忙な給仕頭と電話で話し合っているのを眼のあたりにすると、このことだけはあきらめるほかないと思った。そこで彼は、本来自分で働いて得たのでもない特権のために他のエレベーターボーイたちのねたみを買いたくない、とまで言って、自分が本気であきらめていることを料理主任に納得してもらったのだった。
共同の寝室は、むろん、おちついて眠れるような部屋ではなかった。各自が十二時間の余暇をそれぞれ違ったふうに食事や睡眠や娯楽や副収入に割り当てているので、その広間のなかは、たえずひどくざわついていた。二、三の者らは、なにも耳にはいらないように掛けぶとんを耳のうえまで引きかぶって、眠っていた。それでもなかにだれか起こされた者がいると、その少年は、ほかの連中の叫び声にいきりたって怒鳴りちらしたので、まだよく眠っている者らさえも耐えられなくなる仕末だった。ほとんど全員が年も若いのに、それぞれパイプを持っていた。それで一種の贅沢《ぜいたく》気分を味わっていたのだろう。カールもひとつ買い求めていたが、まもなくそれに趣味を持つようになった。ところが、勤務中は喫煙が厳禁されているために、どの少年も、寝室へ引き揚げて来ると、熟睡していないかぎりは、やはり煙草をすうようになっていた。そのために、個々のベッドに煙草のけむりが立ちこめていたばかりか、全部のベッドがいちめんの濛気《もうき》に包まれていた。ところで、もとより大多数の者が原則的には賛成だったとしても、夜中に広間の一方の端にだけ、明かりをつけておくことは、とても実行不可能だった。かりにこの提案が強行に実施されたとしたら、確かに、眠りたい連中は、広間の一半のくらがりのなかで――ここは四十台のベッドを並べた大広間だった――おちついて眠ることができたであろうし、またそのほかの連中は、明かりに照らされた部分で、ダイスやトランプをして遊んだり、明かりがないと困るようなほかの用事をすますことができたにちがいない。また明かりに照らされた広間のほうに自分のベッドがある者が、眠りたくなったら、くらがりのなかの空《あ》いたベッドのどれかに身を横たえればよかったかもしれない。いつも、空いたベッドは十分にあったし、まただれも、他人がそんなふうに自分のベッドを一時利用しているからといって、それに文句をつけはしなかったからである。ところが、実は、一夜とても、そのようなやり繰りがうまくいったためしはなかった。例えば、くらがりを利用してある程度眠ったふたりが、ベッドのなかで横向きになり、たがいのベッドのあいだにかけ渡した板のうえでトランプ遊びをしたくなるようなことが再三再四あった。むろん、ふたりは、そのとき適当な電灯のスイッチをひねって、明かりをつけるわけであるが、そちらのほうへ向いて眠っていた者らは、電灯の刺すようなまばゆい光に思わず眠りからさめて飛び上がらざるを得ない。そして、しばらくはベッドのなかで輾転反側を続けてはいても、ついにはやはり、ほかに所在がないままに、同じように起こされた隣の者と新たにあかりをともしてなにか遊びをはじめるのが、落ちであった。こうなると、いたるところのパイプからけむりが立ちのぼるのも、自然の勢いであった。むろん、なかには、どうしても眠りたい者らも二、三いた――カールもたいていはそのひとりであった――が、彼らは、頭を枕のうえにのせないで、頭を枕で隠すか包み込むよりほかなかった。とはいえ、すぐ隣のベッドに寝ている者が、勤務に着くまえにせめて多少なりとも町で快楽にふけっておきたいばかりに、深夜に起きて、自分のベッドの頭部へ持ってきておいた洗面器で、水しぶきを飛ばしながら、にぎやかに顔を洗い、騒々しい音を立てて長靴をはくばかりか、足ぶみまでして足のはまりぐあいをよくしながら――ほとんど全員が、型はアメリカ式の長靴なのに、ひどく窮屈な靴をはいていた――、ついに出かける段になっても、なにか身づくろいの点でちょっとしたものでも欠けていると、眠っている者の枕を持ち上げて見たりするようなとき、だれがおちおち眠入ってなんかいられよう。むろん、そのとき枕を顔のうえにかぶっていた者は、とっくに目をさましていて、相手に飛びかかるすきを待ち構えているほかないのである。ところで、ここにいる連中は、みなスポーツマンでもあった。若くて、大多数がたくましい者らで、スポーツの練習をする機会さえあればけっして逃《のが》そうとはしなかった。夜中に、眠っている最中を大きな騒ぎで起こされ、驚いて飛び上がって見れば、きっとそのときは、自分のベッドのかたわらの床のうえでふたりのレスラーが組み打ちを続け、まぶしいほどに明かりをともしながら、まわりのベッドというベッドでは、その道の通《つう》たちが、シャツとパンツのまま立ち上がって観戦しているのがいつものことだった。いつだったか、夜のボクシングの際に、ボクサーのひとりが眠っているカールのうえへ倒れ落ちたことがある。カールが思わず眼をあけてまっさきに見たのは、少年の鼻から流れ出ている血であった。しかも、血止めの方法を試みる暇すらなく、血は、寝具のうえからいちめんにこぼれていたのだった。カールは、ほかの連中の団欒に加わりたい誘惑をひどく心に感じながらも、せめて二、三時間でも睡眠を取ろうとする努力で、ほとんど十二時間全部を費やしてしまうこともしばしばあった。とにかく彼には、ほかの者らすべてが人生行路において自分よりも先んじており、自分はその遅れをより勤勉な仕事とある程度の断念とによって埋め合わすよりほかないという気持ちが、事あるごとにしていたのである。それゆえ、仕事のためにはなによりも睡眠が彼にとってひじょうに大切だったにもかかわらず、彼は、料理主任にたいしても、またテレーゼにたいしても、寝室での現状についてはなんら愚痴をこぼさなかった。というのは、まず第一に、同輩のほとんど全部が、本気で愚痴こそこぼさなかったけれども、そのことで苦しんでいたからであり、また第二に、寝室での辛苦は、彼が料理主任の手からありがたく引き受けたエレベーターボーイとしての彼の任務の、実は不可避な一部にほかならなかったからである。
週に一度、勤務時間の交代が行なわれて、たまたま二十四時間休みになると、カールは、その時間の一部を利用して、料理主任を一、二度訪れて行ったり、テレーゼのわずかな暇を窺って、彼女とどこかの片すみとか、廊下とか、あるいはめったにないことではあるが、彼女の部屋とかで、ちょっと二言か三言、言葉をかわしたりした。時には、町へいろいろな用足しに出かける彼女について行くこともあった。それらの用足しは、すべて大急ぎで済まさなければならなかったので、そのような場合には、カールが彼女の手さげ袋を手に持ち、ふたりは、ほとんど走るようにして地下鉄のもよりの停留場へおもむいた。地下鉄に乗り込むと、なんだか列車自体がなんの抵抗もせずにただ掻っさらわれてゆくにまかせているかのように、あっというまに早くも着いて、ふたりは、下車したが、のろくさいエレベーターを待つのももどかしく、ぱたぱたと階段を駆けあがって行った。すると、星状をなして道路が四方八方へ走っている広場が、眼のまえに現われる。そこでは、ありとあらゆる方向からまっすぐになだれこんで来る交通機関に、次々と、ひしめく人々が詰め込まれてゆく。しかし、カールとテレーゼはぴったりと寄り添って先を急ぎながら、さまざまな事務所や洗濯屋、倉庫、商店などを回り歩いた。電話では簡単に片づかない用向きだが、べつに責任が重くもない注文をしたり、あるいは、苦情を伝えたりするためである。テレーゼは、カールの手助けが、こうした場合、ばかにならないどころか、むしろ、いろいろな面で事を大いに促進してくれているのに、まもなく気づいた。彼女は、彼が付き添っていると、これまでしばしば経験してきたように、忙しくててんてこ舞いしている商人たちが彼女の言葉に耳を貸してくれるまで、待っている必要もなかった。彼がいきなり事務机のそばへあゆみ寄ると、指の関節でその事務机のうえを、利きめがあるまで、ずっとたたき続けてくれたばかりか、人垣ごしに、彼のいまだにちょっとアクセントのきわ立ちすぎる、それだけに、どんなに多くの人声のなかでもたやすく聞き取れる英語で、呼びかけてもくれた。またあるときは、相手が高く止まって、ひどく奥行きの深い大事務室の奥に引っ込んでいようと、ためらうことなく、つかつかとその人たちのほうへ歩いて行ってくれたからであった。彼は、なにも横柄な気持ちでそうしたことをしたのではない。どのような抵抗にあっても、それはそれなりに尊重していた。しかし、彼は、自分のそうしたやりかたを是認する確実な地位に自分が立っていることを、自覚してもいたのだった。ホテル・オクシデンタルは、軽視できない得意先だからである。こうなると、結局テレーゼには、取引上の経験があったにもせよ、手助けが必要なわけであった。
「こんなことならいつもいっしょに来て欲しかったわ」と、彼女は、いくたびか請け負った企てがことのほかうまく運ぶたびに、そのあとで幸福そうに笑いながら、言った。
カールが、ひと月半ばかりラムセスに滞在していたあいだに、かなり長時間、つまり二、三時間以上も、テレーゼの部屋にいたのは、わずかに三度だけであった。彼女の部屋は、むろん、料理主任のどの部屋よりも小さく、そのなかにあるわずかな調度も、ほとんど窓のまわりに置かれているだけであったが、しかし、カールは、あの共同寝室で得た経験から、割と物静かな個室の価値をすでに知っていた。カールは、そのことをはっきりと口に出しては言わなかったが、それでもテレーゼは、自分の部屋がひどくカールの気に入っていることを、感づいていた。彼女は、彼のまえでは、なにひとつ心に秘してはいなかった。あの最初の晩、彼女がああして彼の部屋を訪れた以上は、彼にたいしてその後どのような秘密を持とうとしても、やはり不可能に近かったにちがいない。彼女は、私生児だった。父は棟梁で、ひと足先に渡り、ポンメルンに残した母と子をあとから来させたのであるが、それで自分の義務を果たしたと思ったのか、それとも、波止場で迎えたのが働き疲れた女房とひよわな娘であったので、案に相違したのか、母と子がアメリカに着いてまもなく、父は、大して理由も言わずにカナダへ渡ってしまった。あとに取り残されたふたりは、それきり父から、手紙はおろか、消息らしい消息をさえも受け取ったことがなかった。しかし、それは、かならずしも不思議なことでもなかった。すでにふたりは、ニューヨーク東部地区の貧民窟で、どこにいるのかわからないほどに、落ちぶれ果てていたからである。
いつだったか――カールが彼女のかたわらの窓べに立って、通りを見下ろしていたときてある――テレーゼは、彼女の母親の死について、ざっと次のように語った。母と私は、ある冬の晩に――当時、私は、五歳くらいだったでしょうか――めいめいに自分の包みをかかえて、ねぐらを探すために、通りを駆けていました。母は、最初のうちは、私の手を引いていましたがおりあしく吹雪で、前へ進むのも容易なことではなかったのです――そのうちに母の手がしびれて、私を手放してしまい、私のほうを顧みてもくれなかったので、私は、一所懸命に母のスカートに取り縋っているよりほかありませんでした。私はいくどもつまずき、倒れさえしましたが、母は、狂気につかれたように、止まってくれもしません。ニューヨークの長いまっすぐな家並みのあわいを襲った吹雪がどんなに物すごいか。カール、あなたは、まだ一度もニューヨークの冬を体験したことがないでしょうが、風に逆らって行けば、風がはげしく渦を巻いて、一瞬たりとも眼をあけられません。ひっきりなしに風が顔のうえで雪をすりつぶして、走っても先へは進めないし、まったく死に物狂いになるほかありません。こんな場合は、むろん、子供のほうが大人に比べて有利です。子供は、風のしたを走り抜けながら、どんなことにでも多少なりと喜びを感じるものだからです。そんなわけで、当時も、私には母の気持ちの底まではわかりませんでした。私が、あの晩、母にたいしてもっと賢くふるまっていたら――私は、またほんの小さな子供だったのです――母だってあんなみじめな死にかたをせずにすんだろうと、今になって固く確信しているくらいです。母は、そのころ二日間も仕事がなく、びた一文も持ち合わせていませんでした。その日は、一日ひときれのパンさえも口にしないで、ふたりは、野天で過ごしていたのです。ふたりが包みのなかに入れて引きずっていたのは、使いものにならないぼろばかりでしたが、たぶん母の迷信のせいでしょう。それを捨てされないでいました。ところで、母は、翌朝になりさえすれば、とある工事現場で仕事にありつける見込みだったのですが、一日じゅうなんとか私にわからせようとしていたところでは、その好機をさえも十分に利用できないのではないかと、案じていたようでした。というのも、母は、死ぬほどの疲れを覚えていましたし、すでにその日の朝も、路上で多量の喀血をして、通りすがりの人たちを驚かせていたからです。母のただひとつのあこがれは、どこか暖かいところへはいり込んで、からだを休めることでした。ところが、折りあしく吹雪の晩だったために、ほんのわずかな場所にもありつくことは、とても無理だったわけです。とにかく、どこかの玄関口にでもいられたら、すこしは悪天候を避けて休息を取ることもできたはずですのに、このあたりでは玄関番が玄関口から追っ払わないのをいいことに、ふたりは、狭い氷のような廊下を次々と急ぎ通り抜けて、何階もうえまで駆けあがり、中庭の狭いテラスのまわりをぐるぐる回っては、手当たり次第にドアをノックしたのです。そのくせ、相手の顔を見ては切り出す勇気さえもくじけてしまって、そうなると、相手がだれであろうと、見境もなく出あいがしらに頼み込む仕末でした。そのあいだ、一度でしたか、二度でしたか、母が息を切らしてしんかんとした階段の途中にうずくまり、嫌がる私をむりやりに引き寄せて、唇を痛いほどにおしつけながら私に接吻しました。それが最後の接吻であったことがあとになってわかったとき、人間というものは、たとい取るに足らない虫けらだとしても、それしきのことさえ見抜けないほどに盲なのだろうかと、不審な思いがしたものです。ふたりがまえを通りすぎたいくつかの部屋では、息詰まるような空気を追い払うために、入り口のドアはあけたままになっていました。ふと覗くと、まるで火事の火もとのように、もうもうと部屋じゅうに立ちこめている煙たい濛気のなかから、決まったように、だれやら人の姿が現われて、入り口の框《かまち》のところに立つのです。その人が、なにか一言ぶっきらぼうに言うか、あるいは、黙ってそこに立つだけで、もうその部屋に宿が求められないことが立証されているわけです。今になって振り返ってみると、母が本気で寝場所を探していたのは、最初の一、二時間にすぎなかったように思われます。むろん、母は、時おりちょっと休むだけで、朝が白むころまで駆けずりまわることを止めませんでしたし、それにまた、建物の表口の門も、建物内部のそれぞれの住まいの戸も、ついぞ閉ざされたことのない、これらの建物のなかでは、たえず活気が流れていて、いたるところで人に出会う機会があったわけですが、それでも、ほぼ真夜中を過ぎるころからは、もう母はだれにも話しかけなくなっていたからです。むろん、ふたりがなんとか速やかに前へ進むことができたのは、なにも走れたからではありません。それこそ精根の許すかぎり極度に緊張していたお蔭です。自分では走っているつもりでも、実際は、ただのろのろと地面を這ってゆくのと全く違いがなかったかもしれません。ところで、ふたりが真夜中から朝の五時までに回った建物の数が、二十軒だったか、それとも二軒だったか、あるいは、ただの一軒にすぎなかったか、それさえも私にはわかりません。これらの建物の廊下は、どのような余地をもきわめて有効に利用しつくすという抜け目のない設計によって、たやすく勝手がわかろうとわかるまいと、そんなことを一切顧慮せずに造られているのです。きっと、ふたりは、いくたびとなく、同じ廊下を堂々巡りしたことでしょう。なんだかおぼろげながら、私は、ふたりがとある建物のなかをいつまでもくまなく探し歩いてから、ふたたびそこの門を出たように記憶していますが、でも、ふたりが路上に出た途端に、すぐまた向きを変えて、もとの建物のなかへ駆け込んだような気も同じようにしているのです。あるときは母に手を握られ、あるときは母にしがみつきながら、慰めのちょっとした言葉ひとつさえもかけてもらえないで、引きずられてゆくことは、むろん、子供の身にとっては、なんとも合点のゆかない苦しみでした。それだけにあのときは、頑是《がんぜ》ないままに、なにもかも分別がつかなくて、ただもう母が自分を捨てて逃げたがっているとしか、解しようがなかったのかもしれません。それゆえ、母が私の手を引いているときでも、私は、ますますしっかりと母に取りすがり、さらに万一を警戒してでしょう、他方の手で母のスカートをつかみながら、時おり思い出したようにわめいていました。幼い私としては、あのとき、眼のまえの階段を強く踏みつけながら昇っていた人たちとか、まだ姿は見えないが、自分たちのあとを追って、階段の折れ曲がっている角の向こうあたりをやってきている人たち、とある戸口のまえの廊下でいきなり喧嘩をはじめながら、たがいに相手を部屋のなかへ押し込もうとしている人たちなど、そんな人たちのあいだへ取り残されたくなかったのです。酔っ払った人たちも、なにやら口のなかで歌をうたいながら、建物のなかをうろついていました。母は、私を引っ張って、そうした群れがたまたまひとつに繋がろうとしていた合い間を、首尾よくすり抜けてくれました。確かに夜もここまでふけてくると、人の警戒もしぜんおろそかになり、だれももう自分の権利をそう絶対的に固執しなくなっていますので、私たちは、すくなくとも雇用者たちが借りている、いくつかの共同寝室のどれかひとつぐらいにはもぐり込めないこともなかったと思うのです。でも、私には事情がわかりませんでしたし、母のほうは、もう休息を求める気すらありませんでした。翌朝、晴れた冬の一日が明けたころ、ふたりは、とある建物の壁に凭れていました。そこで、もしかすると眼を開いてあたりを見据えたまま、あるいはすこしくらい眠っていたかもしれないのです。ふとそのとき、私が包みをなくしているのがわかって、母は、不注意の罰に私をぶとうとしました。でも私は、ぶった音も聞かなければ、ぶたれた感じもからだに受けませんでした。それからふたりは、母は壁に沿いながらですか、しだいににぎやかになってゆく路次を通り抜けて、橋を渡りました。母は、そのときは、手で手すりの金具をなでて行きました。そして、ついにたどりついたのが――当時の私は、それを当然のなりゆきのように受けとっていましたが、今になって考えてみると、どうも解《げ》せないのです――、あの、ほかでもない、母がその朝来るように言いつかっていた工事現場だったのです。母は、私に、待っておれとも、立ち去れとも、言いませんでした。私は、それを、待っておれという命令と、解しました。むろん、そのほうが私の望みともぴったり合っていたからです。そこで私は、積んであった煉瓦のうえに腰を下ろして、母が包みをほどき、一枚の色もまだらなぼろを取り出して、夜どおし頭にかぶっていた布のうえにそれを巻きつけているさまを、見まもっていました。私は、とても疲れていましたので、母に手を貸すという考えさえもそのとき浮かんでこなかったのです。ふつうならば現場事務所に届け出るわけでしょうが、母は、それもせずに、まただれにも尋ねないで、まるで自分に割り当てられている仕事がどんなものか、すでに、心得ているかのように、梯子を上ってゆきました。私は、手伝い女といえば、ふつうは地上で石灰を水で練ったり、煉瓦を手渡したり、そのほか簡単な仕事くらいにしか使われないものですから、母のやりかたにはびっくりしました。それで私は、母がきょうは給金の多い仕事をしとげようとしているのだと思って、眠たげな顔を上げて母のほうへほほえみかけていました。建築は、まだそう高いところまでは進んでいないで、どうにか一階ができかけていた程度でしたが、それでも、以後の建築に備えて、すでに足場を組む高い支柱が、むろん、まだ渡り板は架けてありませんでしたが、幾本となく青空にそびえていました。うえへ上ると、母は、煉瓦を積み重ねている左官たちのわきをいかにも器用にかいくぐって行って、そのとき、左官たちが母にどうして事わけをきかなかったのか、どうも合点がゆかないのですが、母は、注意深くきゃしゃな手で手すりがわりに使われていた板仕切りにつかまりました。私は、地上でうつら眼ではありましたが、母のそうした器用さをあっけに取られて見ていました。母のほうからも優しいまなざしを送ってくれたように思います。ところで、母は、そのまま歩いて、煉瓦の小さな山のほうへ行きました。ところが、その煉瓦の山の手まえで、手すりは、終わっていました。おそらく道も途切れていたのでしょう。しかし、母は、手すりに頼らないで煉瓦の山に向かって進みました。母の器用さもそこが限度だったのでしょう。母は、煉瓦の山をくつがえして、前にのめり、そのまま高みから地上へ落ちてしまいました。母のあとから幾つもの煉瓦がころがり落ち、最後に、かなりしばらくしてから、どこかの厚い板が一枚はずれて、母のうえへどしんと音を立てて落ちました。母の思い出として最後に残っているのは、母が、ポンメルンから持参していたあのごばん縞のスカートをはいて、両足を広げたまま横たわり、その母の姿をほとんど被うようにして、あの荒削りの板が母のうえにのっていて、そのとき、四方八方から人々が駆け寄り、建物のうえのほうから誰やら怒ったように地上に向かってどなっていた光景です。
テレーゼがこうした物語を終えたときは、もう夜になっていた。彼女は、ふだんの癖に似ず、詳しく語った。しかも、例えば、それぞればらばらに天にそびえている足場の支柱の描写など、どうでもよいような個所で、彼女は、眼に涙を浮かべて、しばらくは声をのんでいた。彼女は、十年後の今日でも、当時の出来事を細大もらさず、きわめて正確に、覚えていた。そして、なかば仕上がった一階のうえにいる母のすがたが存命中の母の最後の思い出でありながら、彼女は、それを彼女の友だちに心ゆくばかり明瞭に伝えることができなかったので、話し終わると、彼女は、もう一度そのあたりへ話を戻そうとしたが、声が詰まってしまい、両手のなかへ顔をふせたまま、もう一言も言わなかった。
とは言え、テレーゼの部屋で、かなり楽しい時を過ごしたこともあった。カールが初めて彼女の部屋を訪れた折り、彼は、すぐに商業通信の教則本が置いてあったのを見つけて、頼んで借りて来ていた。そのときふたりのあいだで、カールがその本のなかにのっている練習問題を解答し、テレーゼのほうは、すでに彼女のこまかな仕事に必要な程度のことはその本で研究済みなので、その解答を彼女に提出すれば目を通してあげるという約束が、かわされていたのであった。そこでカールは、夜どおし耳に詰め綿をして、真下の共同寝室の自分のベッドのうえに横たわり、気分転換のために姿勢をありとあらゆるふうに変えながら、教則本をひもといて、その練習問題の解答を万年筆で手帳に走り書きした。その万年筆は、彼が料理主任のために大がかりな在庫品目録をひじょうに実用的に計画し、それを本格的に完成したことにたいするほうびとして、料理主任から贈られたものであった。彼は、ほかの少年たちの妨害にあうと、彼らにのべつ幕なしにちょっとした助言を乞うて、彼らがついにそれに疲れ、彼に構わなくなるのを待つという方法で、彼らの妨害をたいていは有利なほうに転じることができた。彼は、ほかの連中が自分たちの現在の境遇にすっかり安んじていて、自分たちの人格がまだ仮そめのものにすぎないことを――エレベーターボーイは二十歳を越えることを許されなかった――すこしも感じていないばかりか、自分たちの将来の職業を決める必要性をも認識することなく、カールの例があるにもかかわらず、せいぜいが、汚れてぼろぼろのままベッドからベッドへ手渡されてゆく探偵小説をしか読まないのを見て、あきれることもしばしばあった。ふたりが落ち合うと、テレーゼは、途方もなく事細かに訂正した。ふたりの見解の食い違うようなときがあると、カールは、彼の偉大なニューヨークの教授を、証人としてあげた。しかし、その教授も、ほかのエレベーターボーイたちの文法的な意見と同様に、ほとんどテレーゼには通用しなかった。彼女は、彼の手から万年筆をひったくると、自分が誤りだと確信している個所を棒を引いて消し去った。すると、カールのほうは、このような疑わしい場合が生じると、たいていの場合、テレーゼよりも高い権威者にこの問題を見てもらう当てがなかったにもかかわらず、正確を理由に、テレーゼが引いた棒をまたもや消してしまうのだった。むろん、時には料理主任がやって来ることもあったが、そのときはいつも、なるほどと思わせるような論証をろくすっぽしないでおいて、テレーゼに有利なように決定した。テレーゼが彼女の秘書だからである。しかし、それと同時に、料理主任は、また一同のあいだの和解もはかった。彼女のお蔭でお茶がわかされ、ビスケットが運び込まれた。そうなると、カールは、ヨーロッパの話をせねばならなかった。その話は、むろん、いくたびとなく質問を発しては驚嘆している料理主任によって、再三再四、中断されたが、しかしカールは、そのとき料理主任のお蔭で、ヨーロッパでは比較的短期間のうちにいかに多くのものが根本的に変わっていたか、また彼がヨーロッパを去ってからもすでにいかに多くのものが一変し、いかに多くのものが今もなおたえず変わりつつあるかを、意識させられたのであった。
カールがラムセスへ来てひと月ばかり経ったころであろうか、ある晩レネルが通りすがりに、ホテルのまえでドラマルシェという名の男から話しかけられ、カールのことを聞きただされたと、カールに言った。そのとき、レネルとしては、なにも秘密にせねばならぬ理由もないので、ありのままに、カールが今はエレベーターボーイになっているが、いずれは料理主任の引き立てで全然違った地位につくはずだということを、話しておいたとのことであった。カールは、ドラマルシェがその晩レネルを会食に招待までして、レネルの扱いかたにひどく神経を使っているのに、気がついた。
「僕は、もうドラマルシェとはなんのかかり合いもないのだ」と、カールは、言った。「君もあの男にだけは注意したほうがいいよ」
「僕がかい」と、レネルは、言って、両手を広げると、急ぎ去って行った。彼は、ホテルきっての美少年であった。ほかの少年たちのあいだでは、だれが言い出したか、張本人はわからなかったが、レネルがかなり長期間ホテルに滞在しているさる貴婦人から、エレベーターのなかで、すくなくともすごい接吻を受けたという噂が流れていた。その噂を知っている者にとっては、外みからはそのようなはしたないふるまいをしそうなそぶりなどみじんも感じさせない、あの自負心の強い貴婦人が、薄いヴェールをかぶり、胴をコルセットできつくしめつけて、おちついた足どりも軽く、かたわらを通りすぎるのを見るのは、いずれにせよ、大きな魅力にちがいなかった。彼女は、二階に住んでいたので、レネルのエレベーターは、彼女のかかりつけのエレベーターではなかったが、むろん、他のエレベーターが目下満員だったりすると、そのような客がほかのエレベーターにはいるのを拒むわけにはゆかなかった。そんなことから、その貴婦人が時にはカールとレネルのエレベーターに乗ることもあったのであるが、実のところ、貴婦人が乗るのはいつもレネルが勤務についているときだけであった。それは偶然だったかもしれないが、だれもそうは信じなかった。そして、エレベーターがふたりだけを乗せてあがってゆくときなどは、居並ぶエレベーターボーイたちのあいだで、いっせいに、押えきれないほどの心の動揺が生じ、そのために給仕頭が取り静めに駆けつけたことさえもあったくらいだった。その貴婦人が原因であれ、噂が原因であれ、とにかく、レネルが別人のようになったことは事実である。レネルは、これまでよりもはるかに自負心が強くなり、エレベーターをみがく仕事は、そのことで徹底的に話し合う次の機会をすでに待ち受けていた、カールのほうにすっかり任せてしまって、もう寝室でも彼の姿が全然見かけられなくなった。エレベーターボーイたちの組合からこれほど完全に脱退した者は、これまでほかにいなかった。だいたいにおいて、エレベーターボーイたちは、すくなくとも勤務の問題では、みなよく団結していたし、ホテルの首脳部によって承認されたひとつの組織を持っていたのである。
こうした経緯《いきさつ》をすべて頭のなかで考え直してみると、カールは、やはりドラマルシェを連想せずにはいられなかったが、とにかく、勤務のほうはいつものとおり果たしていた。すると真夜中ごろ、これまでもよくちょっとした贈り物をふいに持って来ては彼を驚かしていたテレーゼが、大きな林檎《りんご》を一個と板チョコレートを一枚、彼に持って来てくれたので、すこしは気晴らしになった。ふたりは、エレベーターの運転のために話が途切れ途切れになってもほとんど苦にしないで、しばらくは楽しく語り合った。話題は、ドラマルシェにも及んだ。カールは、自分がドラマルシェを近ごろ危険人物視するようになったのも、元はといえばテレーゼの影響によるものであることに、気づいた。むろん、カールの話を聞いてから、テレーゼの眼には、ドラマルシェがそのような人物のように映っていたわけである。とはいえ、カールのほうは、結局のところ、ドラマルシェを、不遇に負けて台無しになってはいるが、扱いやすいルンペンぐらいにしか思っていなかった。テレーゼは、しかし、そうしたカールの考えかたに痛烈に反論して、ながながと意見を述べた末に、ドラマルシェとはもうけっして言葉をかわさないと約束するように、カールに要求した。カールは、そうした約束をするかわりに、もうとっくに真夜中を過ぎているので、寝に行くように、再三彼女を急き立てた。それでも彼女が拒むと、彼は、自分の持ち場を離れて、彼女を彼女の部屋まで連れてゆくと言って、嚇した。そして、ついに彼女が立ち去りかけようとしたとき、彼は、言った。「テレーゼ、どうして君はそんな下らぬことを気に病むのだい。君がそれでよく眠れるというのなら、僕は、万止むを得ないときしか、ドラマルシェとは口を利かないと、喜んで君に約束してやってもいいよ」その時分からエレベーターのほうも忙しくなった。隣のエレベーター係の少年がなにかほかの手伝いに使われたので、カールが両方のエレベーターを引き受けねばならなくなったからである。混雑について不平を言う客たちもいた。ある婦人を伴っていた紳士のごときは、カールを急き立てるために、軽くステッキでカールに触れさえもした。とにかく客が、一方のエレベーターに係りの少年がいないのを見たら、せめてすぐにでもカールのエレベーターのほうへ来てくれたらよかったのだが、しかし、客のほうは、そうはしないで、やはり隣のエレベーターのほうへ行き、そこで引き手に手をかけたまま突っ立っていたり、あるいは勝手にエレベーターのなかへはいり込んだりしていた。これは、勤務規定のうちの最もきびしい条項により、エレベーターボーイたちがぜひとも防止せねばならぬことであった。こうして、カールにとってはひどくしんの疲れる昇降が続いた。かといって、自分の義務を狂いなく果たしているという自覚も、もう彼にはなかった。そうしたさなかへ、朝の三時ごろ、ちょっと懇意になっていた年寄りの荷物運搬係が彼に手を貸してほしいと言った。しかしカールとしては、そのとき、手伝っている暇など全然なかった。ちょうど彼のふたつのエレベーターのまえには客が立て混んでいたからである。だが、それを見て、待っている一団のためにすぐに決心し、老人のそばから大またで去ってゆくには、やはり、沈着な心構えが必要であった。それゆえ、留守にしていた相手の少年がそのときふたたび持ち場へ帰ってくれたのは、彼にとってもっけの幸いであった。彼は、相手にはたぶんなんの罪もなかったにもかかわらず、長いあいだ留守にしていたことで、二、三非難の言葉をその少年に向かって叫んだ。
午前四時を過ぎると、すこし物静かになって来た。カールにとっても、もう休息がぜひとも必要になっていた。彼は、だるくなったからだを自分のエレベーターの横手にある手すりにもたせて、ゆっくりと林檎を食べた。一口齧っただけで、もう強い香りがぷんぷんと林檎から流れ出ている。彼が、採光用の吹き抜きからしたを見下ろすと、その吹き抜きは、食品貯蔵室の大きな窓で囲まれていて、その窓の向こうでは、くらがりのなかから、いくつとなく釣り下げられたバナナの房が、ほのかに浮き出していた。
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ロビンソン事件
そのとき、だれかが彼の肩をたたいた。カールは、むろん、客だと思って、あわてて林檎をポケットに隠し、相手の男をろくに見もしないで、急ぎエレベーターのほうへ駆けつけた。
ところがそのとき、「今晩は、ロスマンさん」と、その男が言った。「おれだよ、ロビンソンだよ」
「それにしても変わられましたな」と、カールは、言って、頭《かぶり》を振った。
「そうでしょう、いいぐあいに行っていますので」と、ロビンソンは、言って、自分の服装を見下ろした。その服は、かなり上等の生地で仕立てたものらしかったが、ひどい寄せ集めだったので、いかにも着古しのように見えた。なかでもひどく目にたつのは、明らかに初めて着用したと思われる、小さいが黒い縁取りをした四つのポケットのついた、白いチョッキであった。ロビンソンは、胸を張って、そのチョッキに相手の注意を引こうとしていた。
「なかなか高価なものを着てますね」と、カールは、言いながら、ちらと自分の立派な平服のことを思い出した。あれさえ着ていれば、レネルと並んでも、彼は、ひけを取らないのに、ふたりの悪友が売り飛ばしてしまったのだった。
「へい」と、ロビンソンは言った。「ほとんど毎日、なんだかんだと買い求めておりますので。このチョッキ、いかがです」
「とても気に入りました」と、カールは、言った。
「実はこれ、ほんとうのポケットじゃないんで。ただポケットのように見せかけてあるだけなんですぜ」と、ロビンソンは、言って、カールにじきじき確かめてもらおうと、カールの手首をつかんだ。しかし、カールは、あとずさりした。ロビンソンの口から耐えがたいブランデーの臭《にお》いが発散していたからである。
「またたくさん飲んでいるのですね」と、カールは、言いながら引き返して、またも手すりのところに立った。
「いや」と、ロビンソンは、言った。「大したことはないです」そして先ほどの得意さとはうって変わって、こう付け足した。「だが、ほかにこの世の楽しみがありますかな」ちょっとエレベーターの運転をせねばならなくなって、対話が中断した。カールがふたたび階下へ降りてきた途端、彼に電話がかかった。七階である婦人が失神の発作に襲われたので、カールにホテルの医者を連れて来てくれとのことであった。カールは、医者を呼びにゆきながら、ロビンソンがそのあいだに立ち去っていてくれることを、ひそかに期待した。ロビンソンといっしょにいるところを見られたくなかったし、またテレーゼの忠告を思い出して、ドラマルシェのことを耳にしたくなかったからであった。ところが、ロビンソンは、酔っ払い特有のしゃちほこばった姿勢をして、まだ待っていた。たまたま黒のフロックコートにシルクハットすがたのホテルの上役がひとり、かたわらを通りすぎたが、幸いにもべつにロビンソンに眼を留めなかったようであった。
「どうです、ロスマン、おれたちのところへ来ませんか。おれたちの今の暮らしときたら、とてもすてきですぜ」と、ロビンソンは、言って、誘惑するような眼つきでカールを見つめた。
「僕を招いてくれるのは、あなたですか、それとも、ドラマルシェですか」と、カールが尋ねた。
「おれとドラマルシェでさあ。その点じゃ、おれたちは、意見が一致しとるんで」
「それならあなたに言って置きますし、またドラマルシェにもあなたから同じことを伝えて欲しいのですが、ぼくたちの訣別は、それ自体明瞭でなかった点があるかもしれませんが、最後の訣別だったのです。あなたらふたりは、だれにもまして、ひどい難儀をかけてくれました。まさかあなたらは、今後も僕を構ってやろうと、たくらんでいるのではないでしょうね」
「おれたちは仲間じゃねえかよ」と、ロビンソンは、言った。泣き上戸のいやらしい涙が彼の眼に浮かんだ。
「ドラマルシェがあなたにこれまでの償いをしたいと伝えてくれとのことなんだ。おれたちは、今ブルネルダといっしょに住んでいるのさ。すばらしい歌姫だぜ」その言葉に続いて、彼がいきなり高い調子で歌を歌おうとしたので、カールは、すかさずしっと言って制止した。
「黙って。今しばらくでいいから。場所柄をもわきまえないのですか」
「ロスマン」と、ロビンソンは、歌いかけたことで頭ごなしにしかられると、すっかり縮みあがって、言った。
「あんたがなんと言おうと、おれにとっちゃ、あんたは仲間さ。ところで、あんたはここじゃとても立派な地位についておられるが、おれに少しばかり銭をまわしてくださらんか」
「またそれでお酒を飲むことしか考えてないのでしょう」と、カールは、言った。「現にあなたのポケットからブランデーの瓶さえも覗いているではありませんか。きっとあなたは、僕が場をはずしたすきに、それを飲んだのでしょう。初めのうちはまだかなり正気のようでしたから」
「おれの癖《くせ》で、どんなときでも、途中で元気づけにやるだけでさ」と、ロビンソンが弁解するように言った。
「もうあなたにはさじを投げた」と、カールは、言った。
「ところで銭のほうは」と、ロビンソンが眼を大きく見開いて言った。
「あなたはきっとドラマルシェから、金をもらって来るように、言いつかったのでしょう。よろしい、金は上げます。だが、それにはひとつ条件があります。すぐにここを立ち去って、もう二度とここへ僕を訪ねて来ないでほしいのです。もしなにか僕に伝えたいことができたら、僕に手紙を書けばよろしい。ホテル・オクシデンタル内エレベーター係カール・ロスマン、これであて名なら十分です。しかし、繰り返し言っておきますが、もう二度とここへ僕を訪ねて来ないでください。僕はここで奉公していますので、訪問などに応じる暇はありません。それでは、今言った条件ででも金が欲しいのですね」と、カールは、きいて、チョッキのポケットに手を突っ込んだ。今夜の心づけを犠牲にしようと決心したのである。ロビンソンは、相手の問いにうなずいただけで、あえいでいた。カールは、それをごまかしと解して、重ねて尋ねた。「はいですか、それとも、いいえですか」
そのときロビンソンが手でカールを招き寄せると、はっきりそれとたちがわかる嚥下《えんげ》運動を続けながら、声をひそめて言った。「ロスマン、なんだかひどく気分が悪いよ」
「畜生」と、思わずカールは、口走って、両手でロビンソンを手すりのところへ引きずって行った。途端にロビンソンの口からは、もう吐き出されたものが吹き抜きの深みへ落ちていた。ロビンソンは、どうしようもなく、吐き気の合い間合い間に、さながらにわか盲《めくら》のしぐさで、カールのほうへよろめいて来ては、「あんたはほんとうにいい子だ」とか、まだ一向にそんなけはいもないくせに、「もう治まりました」とか、あるいは「あん畜生め、店でなんちゅうものをおれに飲ましやがったんだなどと、言い散らしていた。カールは、不安と嫌悪のあまり、彼のそばに居たたまらないで、行ったり来たりしはじめた。たまたまそこは、エレベーターの横手で、すみっこになっていたので、ロビンソンの姿もさして人目にはつかなかったが、それでもだれかに見つけられたら、例えば、駆け寄って来るホテルの役員になにか苦情を言ってやろうとその機会のみを待ち受けている、あの神経質な金持ち客のひとりに、彼の姿を見られるようなことでもあったら、それこそどうなることやら。きっと当の役員は、その苦情を聞いて、腹だちまぎれにホテルの全従業員に復讐するにちがいない。いや、もしかすると、あのホテルの探偵のひとりがそばを通りすぎるかもしれない。探偵たちは、たえず交代していて、ホテルの幹部以外には、だれもその正体を知らないので、たとい近眼のせいでそうしているにすぎなくとも、鵜の目鷹の目の人物をさえ見れば、一応はそうと推測するに越したことはないのである。それにまた、食堂が終夜営業をしているために、だれかが食品貯蔵室へ行ったおりに、採光用の吹き抜きのなかにたまっている汚物に気づいて驚き、一体全体、うえで何事が起こったのかと、自分に電話で問い合わせてこないともかぎらない。そのとき、自分は、ロビンソンを知らないと言い切れるだろうか。たとえ自分がそう言い切っても、根が愚かなロビンソンは、やけっぱちになっているときでもあり、なにひとつあやまるどころか、終始この自分のせいにし続けるのではあるまいか。とにかくエレベーターボーイといえば、このホテルの従業員の膨大な序列のなかで、最下位である。その最も取るに足らぬ使用人が友人とぐるになってホテルを汚し、泊まり客を恐れさせたり、退散させたとあっては、前代未聞のことである。自分は、その一件で、即刻解雇されるのではなかろうか。そのようなろくでなしの友人どもを持っているばかりか、勤務時間中に彼らの訪問をすらも平気で許すようなエレベーターボーイを、果たしてだれがこのまま見逃しておいてくれよう。そうしたエレベーターボーイ自身までも、飲んだくれか、あるいは極道者のように見えるのではなかろうか。この際だれがどう考えても、自分がこれまでずっと、ホテルの貯蔵食品を持ち出して、友人どもをたらふく食わせて来たからこそ、ついに友人までが図に乗って、ちりひとつないほど清潔な当のホテルで、現にロビンソンのように、大それたことを仕出かすにいたったのだという推測ほど、もっともらしい推測はないのではあるまいか。しかも、だらしないのが泊まり客の常であることは、だれしも承知のところである。いたるところ衣裳戸棚はあいたまま、テーブルのうえには貴重品が散らかり、宝石箱もあけっ放しで、鍵が無思慮に投げ出してあるのが現状で、盗みを働く段になれば、実際に、いくらでも可能性があるわけである。とすると、食料品にかぎって泥棒していたとは、だれしも思わないにちがいない。
ちょうどそのとき、地下のキャバレーでは寄席興行が終わったのであろう。カールは、はるか向こうの階段を昇って来る客たちの姿を見かけた。彼は、受け持ちのエレベーターのところへ行って立ち、ロビンソンのほうを振り返ろうともしなかった。どんな様子か、見るのが恐ろしかったからだった。ところが、声はおろか、ため息さえも聞こえて来ないので、彼は、ひどく不安になってきた。客に奉仕し、客を乗せて昇降を繰り返しながらも、彼は、自分の放心状態を隠しきれなかった。そして、階下へ降りてゆくたびに、階下でひどく突拍子もない光景に出くわすのではないかと、彼は、いつも覚悟をあらたにしていた。
やっとまた暇になったので、彼は、ロビンソンのほうへ目を向けることができた。ロビンソンは、例のすみっこですっかり小さくなってうずくまり、顔を膝頭に押しつけていた。丸い硬い帽子がずっと後頭部のほうへずれていた。
「それでは、今のうちにとっとと帰りなさい」と、カールが、声は低いが、きっぱりした口調で、言った。「さあ、これが金です。急ぐのなら、いちばんの近道を教えてあげたっていいです」
「それが動けそうもないんで」と、ロビンソンは、言って、ちっぽけなハンカチで額をぬぐった。「どうやらここでおれも死ぬらしい。あんたには想像もつくまいが、おれは、めっぽう気分が悪いんだ。ドラマルシェがおれをほうぼうのすてきな酒場へ連れてってくれるのはいいが、あの上品ぶった飲み物ばかりはおれの性に合わないや。おれは、そのことを毎日のようにドラマルシェに言うんだが」
「とにかく、ここはあなたのいるところではありません」と、カールは、言った。「どこだか、よく考えてご覧なさい。もしここにいるのが見つかると、あなたは、罰をくいますし、僕は勤め口を失うのです。それでもいいのですか」
「それが動けないんだ」と、ロビンソンは、言った。
「いっそのこと、そこから身投げをしたいくらいさ」そして彼は、手すりの柱に囲まれた採光用の吹き抜きのなかを指さした。「ここにこうしてすわっておれば、まだなんとか辛抱できるんだが、立つのはだめだ。おれだって、あんたがいないあいだに、それくらいのことは試験済みさ」
「それなら車を呼んで来ますから、病院へ行きなさい」と、カールは、言って、今にも完全な腑抜け状態に陥りそうなロビンソンの両足を少しばかり揺すった。ところが、病院という言葉を聞くやいなや、その言葉が怖ろしい想像を呼びさましたらしく、ロビンソンは、大声を出して泣きはじめながら、慈悲を乞うように両手をカールのほうへさしのべた。
「静かに」と、カールは、言って、ぴしゃりとロビンソンの両手をたたき落とすと、夜中に代わりを勤めてやったエレベーターボーイのところへ走って行き、ほんのしばらくでいいから先刻の好意の返しをしてくれるように頼むと、またロビンソンのところへ駆け戻って、いまだにすすり泣いている男を、全身の力をこめて、引き起こしながら、彼の耳もとでささやいた。「ロビンソン、僕に面倒を見てもらいたいのなら、気をしゃんと持って、これからほんのわずかな道のりのあいだは真っ直ぐに立って歩くのです。つまり、あなたを僕のベッドへ連れて行くわけです。そこなら、気分がよくなるまで、じっとしておれるからです。きっと自分でもびっくりするほど早く回復するにちがいありません。それには今、思慮分別のあるふるまいをしてくれないと困るのです。廊下のいたるところに人がいますし、僕のベッドにしても共同寝室にあるからです。あなたが多少なりとも人の目をひくようなことでもあったら、僕は、もうなにもあなたにしてあげられません。眼を大きく見開いてください。あなたが瀕死の病人の様子をしていては、僕も連れて行くわけにはゆかないのですから」
「そりゃあんたがいいと思うことなら、なんだってやりますがね」と、ロビンソンは、言った。「あなたひとりの力じゃ、おれを連れては行けませんぜ。加勢にレネルを呼んで来られませんかね」
「レネルはここにいません」と、カールは、言った。
「ああ、そうだ」と、ロビンソンは言った。「レネルは、ドラマルシェといっしょにいるんだ。それで、あのふたりがあんたを呼びにおれをここへ寄越したわけだ。おれときたら、もうなにもかも混同しちまって」カールは、あれこれとロビンソンがわけのわからない独り言を繰り返しているのを利用して、彼を前へ押しやって行った。そして、首尾よく彼を連れて、角のところまで来た。もうそこからは、かなり弱いあかりに照らされた廊下がまっすぐにエレベーターボーイたちの共同寝室に通じているだけだった。ちょうどそのとき、向こうからまっしぐらにひとりのエレベーターボーイが駆けてきて、ふたりのよこを通りすぎて行った。とにかくふたりは、そのときまでは、人と出会っても、少しも心配の要らない出会いばかりであった。つまり、四時と五時のあいだは、一日のうちで最も静かな時刻であった。今のうちにうまくロビンソンをかたづけておかなければ、夜が白んで来て、一日の往来がはじまりかけると、もはや思いもよらぬ難事であることを、カールは、とくと心得ていたのであった。
寝室にはいると、ちょうど広間の向こうの端では、激しい取っ組み合いか、なにかが行なわれていて、拍子を取って手を打ったり、熱狂して足を小刻みに踏み鳴らしたり、スポーツマンらしい掛け声を送ったり、とても賑やかだった。広間の入り口寄りのこちら半分でも、平気でベッドに眠っている者は、ほんの少数にすぎなかった。たいていの少年は、ベッドに仰向けになったまま、虚空を見つめていた。なかには、服を着ていようといまいと一向に構わずに、いきなりベッドから飛び出して、広間の向こうの端での事のなりゆきを自分の眼で確かめに行く者もあった。そんなわけで、カールは、ここへ来るあいだに歩くのにもすこし慣れていたロビンソンを、かなり目立たずに、レネルのベッドへ押し込むことができた。レネルのベッドが入り口のすぐ近くにあって、幸いにもふさがっていなかったからであった。それに、彼自身のベッドには、遠くから見たかぎりでは、全く見知らぬ少年が、安眠をむさぼっていたのである。ロビンソンはベッドに寝かされたと思うと、すぐに――片足をベットからそとへぶらさげたままで――眠り込んでしまった。カールは、ロビンソンの顔のうえまですっぽりと掛けぶとんを引っかぶせると、これですくなくとも差し当たってはなんの心配も要らないと思った。ロビンソンにしても朝六時より早く眼をさますことはなかろうし、そのときまでには自分もここへ帰っているだろうから、そのとき、もしかしてレネルもいれば、ともどもに、ロビンソンを連れ出す方法を考えればいいと、判断したからであった。なんらかの上部機構によるこの寝室の検査は、非常の場合にしか行なわれなかった。むかし慣例だった総検査は、すでに数年まえ、エレベーターボーイたちの要求が貫徹されて、廃止になっていた。したがって、その面についても、なんら気づかいはないわけであった。
カールがふたたび自分のエレベーターのところへ引き返して来たとき、たまたま自分のエレベーターも、隣の同僚のエレベーターも、ともに上昇中であった。いらいらしながら、彼は、事の真相が明らかになるのを待っていた。すると、彼のエレベーターのほうが先に降りて来て、つい先ほど廊下を駆け抜けて行ったあの少年がエレベーターから出て来た。
「おや、どこへ行っていたんだ、ロスマン」と、その少年は、尋ねた、「どうして持ち場を離れたんだ。どうしてその旨を届けておかなかったんだ」
「いや、僕は、しばらく代わりをしてくれって、この人に言っておいたよ」と、カールは、答えて、ちょうどそばへやって来た隣のエレベーター係の少年を指さした。
「僕だって、大混雑の最中に、二時間もこの人の代わりをしてやったんだ」
「それはそれで至極結構なのさ」と、引き合いに出されたほうの少年は言った。「だが、それだけじゃ十分でないんだ。勤務中は、どんなに短時間留守にするときでも、そのことを給仕頭の事務室にまで届けておかねばならないのを、君は、一体、知らないのかい。そのために、ちゃんと君のところにだって電話があるわけじゃないか。僕だって君の代わりをしたいのは山々だったんだが、君にもわかるように、いざとなると、事はそうたやすくはないのさ。ちょうど両方のエレベーターのまえに、四時三十分着急行の新しい客が押しかけていたんだ。かといって、まず君のエレベーターのほうを運転し、僕の客を待たすわけにもゆかないので、僕は、まず僕のエレベーターで上って行ったのさ」
「すると」と、カールは、ふたりの少年が黙ってしまったので、気が気でなくて尋ねた。「すると」と、隣のエレベーター係の少年が言った。「そこへたまたま給仕頭が通りかかり、君のエレベーターのまえの客かほったらかしになっているのを見て、癇癪玉を破裂させたんだ。そして、すぐに駆け寄った僕に、君がどこにいるのかと、きくんだ。君が行く先をちっとも言ってくれてないものだから、僕は、からっきし見当さえもつかないのさ。すると給仕頭は、だれかもうひとりすぐに来いって、即座に寝室のほうへ電話したんだ」
「それで君と廊下で会ったんだよ」と、カールの補欠が言った。カールは、うなずいた。
「もちろん」と、片方の少年は断言した。「僕は、君が僕に代理を頼んで行ったことは、すぐに言ったさ。だが、そんな言いわけに耳を貸すような相手だと思うかい。どうやら君は、あの人物をまだよく知らないらしいが。とにかく、君に即刻事務室へ来るように伝えろとの、ご託宣だ。だから、そこにじっと突っ立ってないで、駆けつけたほうがいいよ。たぶん、今のうちならあの人も許してくれるだろう。だって君は、実際のところ、ほんの二分間くらいしか留守にしなかったんだから。できるだけ落ちついて、君が僕に代わりを頼んだことを、もっぱら主張するんだ。君が僕の代わりを勤めてくれたことは、言わないほうがいいよ。ぼくの忠告どおりやるんだ。どのみち僕のほうは、無事さ。許可を得たのだから。とにかく、そんな件まで持ち出して、それとはなんの関わりもない当面の問題とごっちゃ混ぜにするのは、よくないからな」
「僕が自分の持ち場を離れたのは、これが初めてだ」と、カールは、言った。
「物事というものは、いつもそうしたものなんだ。ただ世間がそれを真《ま》に受けてくれないだけさ」と、その少年は、言って、客が近づいて来たので、自分のエレベーターのほうへ駆け戻った。
カールの代行者である十四歳くらいの少年は、明らかにカールに同情を示して、言った。「こういう問題で許してもらった例は、これまでいくらでもあるよ。普通は、ほかの仕事へ配置転換さ。こんな問題で首になったのは、僕の知っているかぎりでは、ひとりだけだよ。なにかうまい口実を考え出すといいな。どんなことがあっても、急に気分が悪くなったなんて、言っちゃいけない。そんなことを言えば、一笑に付されるだけさ。それよりか、ある客からべつの客へある急ぎの伝言を頼まれましたが、第一の客がだれだったか、もう覚えていませんし、第二の客も見つかりませんでしたとか、答えたほうが、まだましなんだよ」
「まあ」と、カールは、言った。「そう大したことにもなるまい」しかし、彼は、いままで聞いたことを総合すると、けっして首尾よく終りそうには思えなかった。たとい差し当っての職務怠慢が許されたとしても、あの寝室のなかには、いまもなおロビンソンが、罪の生きた証拠として、横たわっているのである。給仕頭の怒りっぽい性格を考え合わすと、けっしてうわべだけの詮索に飽き足らないで、ついにロビンソンをもその隠れ処から狩り出さずにはおかぬことは、ほとんど間違いないようにさえ思われる。外部の人間を寝室に連れ込んではならないということを、はっきりと文句にうたった禁令はなかったが、そうしたばかげたことはべつに禁止するまでもなかったために、そうした禁令がなかっただけのことであった。
カールが給仕頭の事務室にはいって行くと、たまたま給仕頭は、すわって朝のコーヒーを飲んでいるところで、一口飲んでは、また、そこに居合わせているホテルの守衛長が明らかに手渡したと思われる明細表のほうへ、眼を移していた。守衛長は、大男で、きらびやかに飾り立てられた豪奢な制服が――腋から腕にかけても金いろの鎖とモールとが巻きつけてあった――実際以上に彼の肩幅を広く見せていた。立派な黒光りのする口ひげは、ハンガリア人によくあるように、先がとがってぴんと両横に張り出し、どんなに速やかに頭を動かしても、微動だにしなかった。とにかく、その男は、衣服の重みのために、からだの動きもがいして鈍かったし、直立するにしても、体重を正しく配分するために、両足を左右へ踏ん張って突っ立つよりほかになかったのである。
カールは、ここのホテルに来てからの癖で、つかつかと急ぎ足ではいって行った。悠長と慎重は、私的生活においては、礼儀を意味するが、エレベーターボーイの場合は、懶惰《らんだ》と思われるからである。それにまた、部屋のなかへはいって行く折りの態度からしてすでに罪を意識しているように見られたくなかったからでもあった。給仕頭は、開いたドアのほうへちらと眼をやったが、すぐまたコーヒーと閲読のほうへ立ち返って、一向にカールのことを気にしてないようであった。守衛のほうは、あるいはカールがそこに居合わせているのが邪魔に感じられるのか、それとも、なにかぜひ申し出ねばならぬ秘密の報告か懇願でもあるのか、いずれにせよ、たえず頭をぎごちなくかしげたまま、毒を含んだまなざしをカールのほうへくれていた。そして、カールのまなざしとぶつかると、明らかに思わくどおりに行ったと言わんばかりに、ふたたび給仕頭のほうへ顔を向けるのだった。カールとしては、現にこうしてここまで来た以上、給仕頭の命令も受け取らないで、すぐまた事務室を立ち去ったりすれば、それこそ醜態にちがいないと思っていた。ところが、当の給仕頭のほうは、ずっと明細表の検討を続けてばかりいて、時に思い出したように大切れの菓子を齧《かじ》っては、こぼれた砂糖を時おり、明細表からは眼も離さないで、払い落としているだけだった。そのうちに明細表の一枚が床に落ちた。守衛は、てんでそれを拾い上げようともしなかった。彼のからだではとても無理なことがわかっていたし、事実また、その必要もなかった。カールかとっさにその場へ駆け寄ってその紙きれを給仕頭に差し出したからであった。すると給仕頭は、なにも言わずに手をのばして、あたかもその紙きれが床からひとりでに舞い上がってきたかのように、それをカールからひったくったにすぎない。こうしたささやかな心尽くしもなんら役にも立たなかった。守衛は、依然として毒を含んだまなざしを止めはしなかったのである。
にもかかわらず、カールは、しだいにおちつきを取り戻していた。どうやら自分の一件が給仕頭にとってはさして重大事でもないらしく、すでにそれだけでも吉兆と見なしていいようである。だが、詮じつめれば、それとても当たりまえのことにすぎないかもしれぬ。エレベーターボーイといえば、むろん、取るに足らぬ存在である。それだけに、なにひとつ勝手なことをしてはならないのであろうが、しかしまた、取るに足らぬ存在であるからこそ、なにひとつ法外なことを仕出かす力もないのである。要するに、この給仕頭にしても、若いときは、やはりエレベーターボーイであったし――それはいまだにこのエレベーターボーイたちの世代の誇りであった――、エレベーターボーイたちの組織作りを初めてしたのも彼であった。きっと彼も、許可なしに、自分の持ち場を離れたことがあったにちがいない。むろん、今でこそだれしも遠慮して、彼にそのことを思い出させようとはしないにしてもだ。また彼にしても、むかしエレベーターボーイであったからこそ、この階級の秩序を保つことを自分の現在の義務と心得ているにちがいなく、そのため、時には仮借ないほど厳格な態度を示すわけで、その点も顧慮しないわけにはゆかないが。カールは、そんなことを考えながらも、時の進みに希望を托していた。事務室の時計によれば、もう五時十五分である。今にもレネルが帰って来るかもしれない。いや、もしかすると、もうここへ帰っているかもしれない。レネルにしても、ロビンソンの戻らないのを、変だと思ったにちがいないからだ。とにかく、今にして思い当たるのだが、ドラマルシェとレネルは、ホテル・オクシデンタルからあまり遠くないところに宿を取っているにちがいない。でなければ、ロビンソンにしたって、貧窮の身でここまで来られる道理がない。ところで、レネルが彼のベッドのなかにいるロビンソンと出くわしたら、そうなることは必定だが、それこそ万事しめしめだ。レネルは、手腕があるし、自分の利害に係《かか》わるときは、ことにてきぱきとやるから、きっとロビンソンをなんとかしてすぐにホテルから連れ出してくれるだろう。それに、ロビンソンもそれまでにはすこし元気を取り戻しているだろうし、またおそらく、ドラマルシェも、ロビンソンの身柄を受け取るために、ホテルのまえで待っているかもしれないから、事は一層簡単に運ぶにちがいない。とにかく、ロビンソンをさえ外へ出してしまえば、自分ははるかにおちついて給仕頭に立ち向かうことができるし、この際は、たといきつくとも、叱責をくう程度で、なんとか、急場を凌げるだろう。そのあとで、自分から料理主任に真実を話したものかどうかは――自分としてはその点なんら差し支えはないが――テレーゼとよく相談すればいい。そして、そのとおりに行けば、この一件は、格別の被害もなしにけりがついてしまうにちがいない。
ちょうどカールが、このようにあれこれと思いめぐらしたお蔭で、すこしは心も安まったので、昨晩来受け取った心づけがあらかたいくらほどの額になるか、彼の感じでは特に多いように思われたので、目立たぬように勘定しかけたときであった。給仕頭が、「どうか、フェオドール、もうちょっと待ってくれたまえ」と言いながら、明細表をテーブルのうえに置くやいなや、ゴムまりのようにはね上がり、カールに向かって、大声で怒鳴りつけたので、カールは、度胆《どぎも》を抜かれて、しばらくは相手の大きな黒い口腔に見とれていたにすぎなかった。
「おまえは、許可なしにおまえの持ち場を離れた。それがなにを意味するか、おまえにはわかっているのか。首だ。わしは、言いわけなんか一切聞きとうない。おまえのうそっぱちの言い逃れなど、まっぴらご免だ。わしには、おまえが持ち場にいなかったという事実だけで、十二分なんだ。もしわしがそれを大目に見て、赦しでもしてみろ。次には、四十人のエレベーターボーイがそろって勤務中に逃げ出すに決まっておる。そうなると、ここの五千人のお客さんをわしがひとりで引き受けて階段を運び上げねばならん」
カールは、黙っていた。守衛がわきへ近寄っていて、すこしばかり皺になっていたカールの上着をちょっと下へ引っ張った。まぎれもなく、カールの服装に生じたその些細な着崩れにたいして、給仕頭の注意を特にひくためであった。
「たぶん急に気分が悪くなったんだろうな」と、給仕頭が悪賢く尋ねた。
カールは、相手の顔を穴があくほど見据えながら、答えた。「いいえ」
「すると、ちっとも気分が悪くなかったんだな」と、給仕頭は、だめを押すように一層声高に叫んだ。「それなら、なにかたいそうな嘘を考えついたにちがいない。どんな言いわけかあるというのか。白状してみろ」
「電話で許可を乞わねばならないことを知らなかったのです」と、カールは、言った。
「そいつは、なるほど、上出来だ」と、給仕頭が言ったかと思うと、いきなりカールの上着の襟をつかみ、彼をほとんど宙につるすようにして、壁に釘づけにしてあるエレベーター勤務規程のまえへ連れて行った。守衛もふたりのあとから壁のほうへ近づいて行った。「さあ、読め」と、給仕頭が言って、とある一条を指さした。カールは、ひとり心のうちで読めということだなと、思った。ところが給仕頭か命令した。「大声でだ」
声を張り上げて読むかわりに、カールは、これならば給仕頭の気持ちをもっとよくなだめられるだろうと期待して、言った。「その条項なら知っています。僕も勤務規程はもらいましたし、精読しました。ですが、いつも必要でない規定というものは、だれでも忘れるものです。僕は奉公してからもう二ヵ月になりますが、一度だって自分の持ち場を離れたことがありません」
「その代わりに、これから持ち場を離れりゃいい」と、給仕頭は、言って、テーブルのほうへ行き、続けて読もうとするかのように、ふたたび明細表を手に取ったが、すぐまたそれを、まるでくだらぬ紙きれであるかのように、テーブルにたたきつけると、額と頬に深紅をそそぎながら、部屋のなかをあちこちと歩き回った。「こんながさつな若造がおるために、そんなものが必要なんだ。夜勤中にこんな騒動をひき起こしたりしやがって」と、彼は何度か口走った。「こやつがエレベーターから逃げ出していたとき、たまたまだれがそれで階上へ昇ろうとしていたか、君、知っているかい」と、彼は、守衛のほうへ向いて尋ねた。そして、ある名まえを言った。泊まり客をもれなく知りつくしているばかりか、その評価をさえもできた守衛は、その名まえを聞くと、慄然として、とっさにカールのほうへ眼を向けた。さながらカールの存在こそ、その名まえの持ち主がしばらくなりとも操縦者の逃げ去ったエレベーターのほとりでいたずらに待たねばならなかったことの、いわば確証にすぎないとでも言いたげな様子であった。
「そいつはどえらいことですな」と、守衛は、言って、限りない不安に取りつかれたように、カールのほうに向かってゆっくりと頭を振った。カールは、そうした守衛の様子を哀れに見守りながら、こうなると自分はこの男の愚昧の償いまでもさせられることになるだろうと、思った。
「どのみち、おまえの根性ぐらいは、ちゃんとおれにだってわかっていたさ」と、守衛は、言って、太くて、大きい、ぶきっちょそうな人さし指を突き出した。「おまえは、おれにあいさつしないのを主義としている、ただひとりの若造だ。一体、なにを思い上がっていやがるんだ。だれでも、守衛の控え室のそばを通りすぎるときは、おれにあいさつしなきゃならないんだ。ほかの守衛たちにたいしては、おまえが好きなようにやりゃいいさ。だが、このおれは、あいさつしてもらいたいんだ。なるほど、おれは、時には、注意してないようなふりをしていることもあるさ。だからといって、おまえが安心しきっているとは何事だ。だれがおれに挨拶して、だれがしなかったか、ちゃんとおれにはわかっているのだぞ、このがらっぱちめが」そう言って、守衛は、カールから顔をそむけると、直立の姿勢で給仕頭のほうへ歩んで行った。給仕頭のほうは、守衛の問題にたいしてはなにひとつ意見を述べないで、朝食を終えると、召使のひとりがたった今部屋のなかへ持って来たばかりの朝刊新聞にざっと目を通していた。
「守衛長さん」と、カールは、給仕頭の注意が逸《そ》れているあいだに、すくなくとも守衛との問題を片づけてしまっておこうと思って、言った。この場合、自分に打撃を与えるものといえば、おそらく守衛の、非難ではなくして、敵意であろうと、彼は、悟ったのである。「僕は、確かに、あなたに挨拶しているはずです。僕は、アメリカへ来てまだ間がありません。僕は、ヨーロッパの出ですが、あちらの人は、周知のように、必要以上に挨拶をするわけです。僕も、むろん、いまだにその癖が直りきっていません。ふた月まえのことですが、まだニューヨークにいたときも、あのころは偶然にも上流階級に加わって交際していたのですが、機会あるごとに、僕の度はずれな儀礼だけは止めるように、みなから忠告を受けていたくらいです。その僕が、人もあろうにあなたにたいして挨拶しないでいるなんてそんなばかな話がどこにありましょう。僕は毎日、何度かは、あなたにあいさつしてきました。といっても、むろん、僕は、一日に百遍もあなたのそばを通りすぎていますので、あなたのすがたを見かけるたびに、かならずしているわけではありませんが」
「おまえは、かならずおれに挨拶しないといかん。かならず、例外なしにだ。そしておれと話しているあいだは、ずっと帽子を手にしているんだ。それに、おれに話しかけるときだって、いつも≪守衛長≫と言うんだ。≪あなた≫と言っちゃいかん。今言ったことをかならずやるんだ。かならず」
「かならずね」と、カールは、声低く、不審げに相手の言葉を繰り返した。ふとそのとき、彼は、自分がここに留まるようになって以来、この守衛から始終きびしい非難のこもった眼で見られてきたことを、思い出した。それは、すでにあの最初の朝、自分がこの守衛にいきなりくどくどとしつこく、たぶんふたりの男か自分を訪ねてきて、自分に渡すように一枚の写真を残して行ったはずだがと、問いただしたときからであった。あのときはまだ自分も自分の職務に慣れきってなかったので、いくらか生意気すぎるところがあったかもしれない。
「そのような態度をとれば、どのような結果になるか、やっとおまえにもわかったはずだ」と、ふたたびカールのまぢかへ戻ってきていた守衛は、言って、まるで彼の復讐の代表者かそこにいると言わんばかりに、新聞を読み続けている給仕頭のほうを指さした。「これでおまえも、この次の職場では、守衛に挨拶するくらい、心得るだろう、どのみち、見すぼらしい安宿ぐらいにしか、おまえに向く職場はないだろうが」
カールは、自分がすでに失職の身であることを、これではっきり悟った。給仕頭がすでに口にしたことを、今また守衛長が既成の事実として繰り返したからである。エレベーターボーイに関しては、ホテル首脳部の側からの解雇の確認など必要ないのかもしれぬ。それにしても、月日の経つのが思ったより早かった。と言うのも、あれから二ヵ月、精いっぱい立派に勤め上げてきたからにほかならぬ。自分は、そのことでは、ほかの多くの少年に勝るとも劣らぬにちがいない。しかし、そうした事情も、いざ決定という瞬間には、全く顧慮されないのが、ヨーロッパとアメリカとを問わず、明らかに世界いたるところの現状で、だれかがいきなり怒りにまかせて判決を口走ると、事はそのまま決定されてしまうのが落ちだ。こうなっては、即刻別れを告げて立ち去るのが、最善の策かもしれない。と言っても、料理主任やテレーゼは、まだおそらく眠っているだろうし、別れの置き手紙をしてゆこう。いずれは自分のふるまいにたいしてふたりが失望と悲嘆を味わうにしても、なまじっかまぢかに会って別れを告げるよりは、ましであろう。とにかく、急いでトランクに荷物を詰めて、こっそりここを逃げ出すことだ。むろん、ほんのしばらくでも眼りたいのは山々だが、かと言って、ここにもう一日でも居残ろうものなら、それこそ、なにが自分を待ち受けているか、火を見るより明らかだ。自分の一件は、尾鰭《おひれ》を付けられて、途方もない醜聞にまででっち上げられ、自分は、四方八方から非難を浴びるだろう。自分の眼のまえではテレーゼが、もしかすると料理主任までが、見るに忍びないほど涙を流し続けるにちがいない。そして、もしかすると、とどのつまりは、なにか処罰さえもくらうかもしれない。カールが、そのように思いめぐらしながらも、また一方で当惑しきっていたのは、現に自分が対峙しているふたりの敵の処置であった。自分が今さらなにを言おうと、きっとふたりのうちのどちらかが、得たりとばかり、それになにかと難癖をつけて、悪意に解してしまうにちがいない。そう考えて、彼は、押し黙ったまま、しばらくは部屋のなかを支配している静穏を楽しんでいた。給仕頭は、あいもかわらず新聞を読んでいる。守衛長は、テーブルのうえに散らかっている明細表をページ順に整理しかけていたが、それさえ、まぎれもない近眼のせいか、彼にはひどく骨が折れるようであった。
ついに給仕頭は、あくびをしながら新聞を置くと、カールのほうを一瞥し、カールがまだそこに控えているのを確かめてから、卓上電話のベルのクランクを回した。そして、何度も「もしもし」と呼んだが、なんの返事もなかった。「誰も電話口に出ないよ」と、彼は、守衛長に言った。すると、カールの気のせいか、その電話のなりゆきをことのほか興味深げに見守っているようだった守衛長が、すかさず言った。「それでももう六時十五分まえですぜ。きっともう眼をさましているはずです。もっと強くベルを鳴らしてみたらどうです」その瞬間、さらに催促しないでも、電話に応答信号があった。
「こちらは給仕頭のイスバリーです」と、給仕頭は、言った。「お早うございます、料理主任さん。わしがお起こししたわけじゃないでしょうな。それはひじょうにお気の毒でした。はい、はい、もう六時十五分まえです。それにしても、びっくりさせまして、まことに相済みませんでした。お休み中は電話を切っておくべきでしたな。いや、いや、ほんとうです、わしにお詫びなんか要りません。殊に、ご相談したい件というのがごくささいな場合ですからな。そりゃ、むろん、わしのほうは、今のところ暇です。どうぞ、どうぞ、お差しつかえなかったら、電話のそばで待っています」
「寝巻きのままで電話口へ飛んで来たにちがいない」と、給仕頭は、緊張した面持ちでずっと電話機のほうへ前屈みになっていた守衛長に、薄笑いを浮かべながら、言った。「きっとわしが起こしたんだ。いつもは、彼女のそばでタイプライターをたたいている、あの小娘に起こしてもらうわけだからな。ところがきょうは、あの小娘、いつになくそれをさぼったにちがいない。どうもあの人を起こしてしまって残念だ。あの人ときたら、なにせ神経質なんだから」
「どうして話を続けなかったんでしょう」
「あの小娘の身になにかあったんじゃないか、見に行ったのさ」と、給仕頭は、ふたたびベルが鳴ったので、受話器を耳に当てながら、答えた。「今に落ちつくだろうて」と、彼は、電話機に向かったまま、言葉を続けた。
「そうなにもかもに肝をつぶしてばかりいてはいけませんな。あなたは、根本的な静養が実際必要なんですよ。ええ、それでは、ちょっとお尋ねしますが、エレベーターボーイで、名まえを」――給仕頭が尋ねるようにカールのほうを振り向いたので、カールは、細心の注意を向けていた矢先のこととて、即座に自分の名まえを告げた――「そう、そう、カール・ロスマンというのがおりますな。わしの記憶に誤りがなければ、あなたがちょっと関心を持っておられた者のように思いますが、その者が、残念ながら、あなたの親切に報いるどころか、ふらちにも許可なしに持ち場を離れましてな。お蔭で、わしのほうは、今でもまだ計り知れないくらいに莫大な、ひどい迷惑をこうむりましたもんですから、たった今、その者をわしが解任したところです。まさかあなたがこの件を深刻に考えられることはないと思いますが、いかがでしょう。解雇です。そうです、解雇です。それはそうでしょうが、今も申しましたように、その者は、持ち場を離れたんですぞ。いや、料理主任さん、この際はどうあってもあなたに譲歩するわけにゆきません。わしの権威に係わることです。現にこの問題には重大なことがかかっているわけでして、ろくでもない一少年のためにわしの組合全体がこのままでは駄目になってしまうのです。なにしろ、エレベーターボーイにたいしては心を鬼にして監視をしなきゃなりません。いや、いや、わしとても、あなたに喜んでいただこうと、いつもそれを大いに心にかけておるつもりですが、この場合だけはあなたのお気に召すようにはできません。かりにああしたことをすべて棚に上げて、あの者をここへ置いてやるとしてもですな。わしも好き好んで腹の虫をいつも起こしておきたくないとすれば、あの者を置いてやる目的というものがべつにないわけです。あなたのためにも、そうです、あなたのためにも、料理主任さん、あいつがここにいないほうがよろしい。あなたは、あいつに同情しておられますが、あいつは、とてもあなたの同情に値しない人間です。むろん、あいつをよく知っているのは、わしだけでなく、あなたもですが、それだけにわしは、いずれ当人のことであなたがきっとひどい失望を味わうにちがいないと、にらんでいるわけでして、わしとしては、どんなことをしても、あなたをそんな目に会わせたくないんです。実は、その度しがたい当の少年がわしの二、三歩まえのところに立っているのですが、なに構いません、わしは、腹蔵《ふくぞう》なく言います。こいつは首です。いや、いや、料理主任さん、完全に首です。いや、いや、ほかの仕事へ配置替えなんかしません。完全に使いものにならないからです。それにまた、そうしないと、この者にたいする苦情が殺到するばかりなんです。例えば、守衛長なんですが、ええ、そう、なんですって、フェオドール、そうです、そのフェオドールも、この少年の厚顔無礼について文句を言っているわけです。いかがです、これで理由は十分じゃないでしょうか。そうです、料理主任さん、あなたは、この少年のためにあなた自身の性格を否定しているわけです。いや、そんなふうにわしをいじめるもんじゃありません」
そのとき、守衛が身を屈めて給仕頭の耳もとに口を近づけ、なにやらささやいた。すると給仕頭は、しばらくはあきれかえった顔つきで守衛の顔を見つめていたが、やがて送話器に向かってひどく口早に話しはじめた。そのため、カールのほうも、初めのうちは給仕頭の言っていることが事細かにはわからなくて、思わず爪先立ちで二歩ばかり近づいたくらいであった。
「料理主任さん」と、給仕頭の言葉が続いた。「正直に申しますと、あなたにこれほど人を見る眼がないとは、まさかわしも思ってませんでしたな。たった今、あなたの天使のような少年のことについて、わしは、あることを聞いたばかりなんですが、あなたがそれを聞かれたら、少年についてのあなたの意見も根本的に変わるんじゃないかと思うんです。なんだかお気の毒なような気もしますが、わしとしてはあなたにそれを伝えないわけにはゆきません。実は、あなたが行儀の見本と呼んでおられる、この上品な少年なんですが、非番の夜を町へ逃げ込んで過ごさないときは一度だってなく、おまけに朝になってやっと町から帰って来るという仕末なんです。ええ、ええ、料理主任さん、そのことは、証人によってちゃんと立証されております。非の打ちどころのない証人によってですな、はい。ところで、まさかあなたが保証してくれるわけじゃないでしょうな、そんな遊興に使う金の入手経路とか、勤務のほうにどこまで怠りなく当人が注意を払っているかなどについて。それともあなたが聞きたいというのなら、事のついでに、やつが町でどんな遊びにふけっているか、ありのままに話してあげないこともないですがね。とにかく、わしは、大至急にこの若造のけりをつけたいんです。まあ、あなたも、どうか、こんどの件を、風来者にはよくよく用心せねばいかんという戒めと、考えてほしいですな」
「ちょっと給仕頭さん」と、そのときカールが、いつのまにかここに広まっているらしい大きな誤解に文字通り気が楽になって叫んだ。そのような誤解ならば、むしろ、ほどなく万事がふいに好転するかもしれないと、考えたからであった。「きっとなにか思い違いがあるのではありませんか。守衛長さんがあなたに、僕が毎夜出てゆくように、申したのだと思いますが、それは絶対に嘘です。それどころか、僕は、毎夜寝室にいます。それはエレベーターボーイ全部が裏書きしてくれると思います。僕は、眠っていないときは、商業通信を勉強していますが、寝室からは一夜だって出たことはありません。それしきのことは、むろん、たやすく立証できます。明らかに、守衛長さんは、僕とほかの誰かとを取り違えたにちがいありません。守衛長さんがどうして僕があいさつしないと思っておられるかということも、今やっと僕には呑み込めました」
「減らず口は即座にやめろ」と、守衛長は、叫んで、普通の人なら指一本動かしてすますところなのに、こぶしを振り回した。「このおれがおまえとほかのだれかとを取り違えたって。よろしい、人を取り違えるようじゃ、おれももう守衛長たる資格がないわけだ。いいですか、イスバリーさん、おれももう守衛長たる資格がないことになりました。そうですとも、人を取り違えるようになっちゃね。おれの三十年にわたる勤務中に、むろん、人を取り違えるなんてことは、これまで一度もおれにはなかった。それは、あのとき以来数百人にものぼる歴代の給仕頭さんが、きっと裏書きしてくれるにちがいない。だのに、おい、このげすな若造め、おまえを皮切りにおれの取り違えがはじまったというんだな。変てこな|うらなり《ヽヽヽヽ》のしかめっ面をしたおまえを皮切りにな。ところで、取り違えるって、なにをだい、そんなものがあるかよ。そりゃ、おまえは、毎夜おれに隠れて町へ行ったかもしれないさ。おれのほうは、ただおまえの面つきからおして、おまえが抜けめのない野郎だということを、実証しているだけなんだ」
「やめろ、フェオドール」と、給仕頭が言った。どうやら料理主任とのあいだの通話が急にぷつりと切られたらしかった。「事はいたって簡単だ。まっ先に問題になるのは、そいつの夜遊びなんかじゃない。そいつは、もしかすると、ここを出て行くまえに、自分の夜の勤務ぶりについてなにか大がかりな審理が行なわれるように、工作するつもりかもしれん。それがうまく行けば、そいつがしめしめと悦《えつ》に入ることば、わしにだって想像がつくさ。できれば四十人のエレベーターボーイ全部の召喚と証人としての尋問とを求めるわけだ。すると、むろん、その四十人がやはり洩れなくそいつを取り違える。そこで、しだいに全従業員が証言に呼び出されるという寸法さ。そうなりゃ、ホテルの営業は、むろん、しばらくのあいだなりとも休止ということになる。そこまで行きゃ、結局はおっぽり出されるとしても、あいつとしちゃ、すくなくとも楽しむだけは楽しんだわけだ。だから、わしらとしちゃ、そういうことはむしろ避けたほうがいい。とにかく、あの気立てのいい料理主任をこいつが愚弄したんだから、それだけで理由は十分なはずだ。わしは、もうこれ以上なにも聞きとうない。おまえは、職務怠慢の廉《かど》で即座に解雇されたんだ。それでは、きょうまでの賃金だけは払ってもらえるように、会計への支払委託票をおまえに渡してやろう。ところで、これは、おまえにああした態度があったにもかかわらず、ただ――ここだけの内々の話だが――料理王任さんの顔を立てて、わしがおまえにやる餞別だと思うがいい」
給仕頭がただちに支払委託票に署名しようとしたとき、それをさえぎるかのように、電話の呼び出し信号が鳴った。
「とにかく、きょうは、エレベーターボーイどもがよくわしに面倒をかける日だな」と、彼は、二言三言聞くやいなや、叫んだ。「そいつは言語道断じゃないか」と、彼は、しばらくして叫んだ。そして、電話機から守衛のほうへ向き直ると、彼は、言った。「どうか、フェオドール、この小僧をちょっと掴まえておいてくれ。こいつと話さにゃならんことがまだありそうだ」そして、彼は、送話口に向かって命令した。「すぐにやって来い」
こうなると、守衛長は、口ではどうにも晴らしきれなかった恨みを、すくなくとも腕っぷしで晴らすことができるわけである。彼は、カールの二の腕を掴んでいたが、じっと静かに握り締めていたのではない。それならカールだってなんとか堪えきれないでもなかったが、守衛長は、時おり握っている手をゆるめては、そのたびごとに一層力をこめて、握りをますます固く締めてゆくのである。それは、守衛長の多大な体力を考えると、いつ終わるともしれないように思われ、カールもしだいに目先が暗んできたほどであった。しかも彼は、ただカールを掴んでいただけではない。カールのからだを同時に引き伸ばせという命令をさえも受けているかのように、また時おりカールを高く宙に引き上げては、左右に揺さぶりながら、いくたびとなく給仕頭になかば尋ねるように言うのである。「まさかこのおれがこいつを取り違えるなんて、まさかこのおれがこいつを取り違えるなんて」
そのとき、エレベーターボーイの筆頭で、ベスとかいう名の、太っていつもふうふう言っている少年がはいって来たのは、カールにとって、救いにひとしかった。守衛長の注意がすこしそちらのほうへ逸《そ》れたからである。カールは、ひどく消耗していたので、驚いたことに少年のうしろから、服装もしどけなく、髪もぞんざいに束ね上げたまま、死人のように色あおざめたテレーゼが、忍び足ではいって来るのを見ても、会釈《えしゃく》さえできかねるくらいであった。彼女はすばやく彼のそばに近寄って、ささやいた。「このこと、料理主任さんはもうご存じなの」
「給仕頭がさっき電話していた」と、カールは、答えた。「それならもう大丈夫よ、それならもう大丈夫」と、彼女は、眼を生き生きと輝かしながら、口早に言った。
「いや、だめだ」と、カールは、言った。「君は、連中が僕にたいしてどんなに腹をたてているか、わかってやしないのだ。僕はここを出ねばならない。料理主任もそのことではもう納得ずみだ。頼むから、ここにいないでおくれ。部屋へ引き揚げるんだ。あとで僕のほうからお別れに行くから」
「あら、ロスマンたら、なんて突拍子もないことを。あなたは、気に入るかぎり、いつまでも安心して私たちのところにいればいいのよ。給仕頭は、料理主任の望むことなら、なんでもするはずだわ。だって、料理主任を愛しているんですもの。つい最近、そのことを知ったのよ。ですから、安心していてちょうだい」
「どうか、テレーゼ、今のうちに出て行っておくれ。君がここにいると、僕は、自分の弁護がどうもうまくできそうもないのだ。かと言って、僕に不利なさまざまの嘘が並べ立てられている以上、僕は、どうしてもがっちりと自己弁護をせねばならないのだ。とにかく、僕がよく注意して、うまく自己弁護ができればできるほど、僕がここに残れる希望も増して来るのだ。では、テレーゼ――」そうは言い切ったものの、彼は、残念ながら、ふいの苦痛に耐えかねて、思わず声低く次のように言い添えざるを得なかった。「この守衛長が放してくれさえしたら助かるんだが。この男が僕の敵だとは、よもや僕も知らなかった。それにしても、のべつ幕なしに締め付けたり引っ張り上げたり、なんとひどい目に会わすんだろう」彼は、そう言いながらも、≪どうしてこんな情けないことしか言えないんだろう。どんな女性だって平気で聞き流すわけにはゆかないのに≫と、心のなかで思った。実際、そのとおりであった。カールが自由の利《き》く片方の手で引き留める暇もなく、テレーゼがいきなり守衛長に向かって哀願したのである。「守衛長さん、お願いです、ともかく、ロスマンをすぐに放してあげてください。ひどく痛がっているではありませんか。料理主任さんが今すぐお越しになります。すると、この人がまるっきり不当な仕打ちに会っていることが、きっとはっきりします。この人を放してあげてください。この人をいじめて、一体、あなたは、なにが楽しいのです」そう言って、彼女は、守衛長の手を掴もうとさえした。「命令なんです、お嬢さん、命令なんですよ」と、守衛長は、言って、あいているほうの手で親しげにテレーゼを引き寄せながら、片方の手でカールの腕をいよいよ根《こん》かぎり握り締めるのだった。ただカールに苦痛を与えたいだけではないらしかった。守衛長は、自分の手中にあるその腕で、これまでずっと達成されないでいた、なにか特別の目標をねらっているかのようであった。
ところで、守衛長の抱擁から身をもぎ離すのにかなり手間どったテレーゼが、こんどは、話のひどく回りくどいベスからいまだに報告を受けている給仕頭に向かって、カールの弁護をはじめようとしたときだった。料理主任が急ぎ足で部屋のなかへはいって来た。
「まあうれしい」と、テレーゼは、叫んだ。部屋のなかは一瞬その言葉の高い響きしか聞こえなかった。給仕頭は、立ちどころに飛び上がって、ベスをわきへ押しやった。
「では、わざわざお越しになったんですな。料理主任さん。こんな取るに足らぬ件で。先ほどの電話から考えて、そんな気がしないでもなかったのですが、実は、まさかと思っておりました。ところで、あなたの被保護者の件なんですが、事態は悪化する一方です。実のところ、解雇を取り止めて、そのかわりに、拘禁してもらわなくちゃならんのじゃないかと、わしも心配しているくらいです。じきじきに聞いてみてください」彼は、そう言って、ベスを手で招き寄せた。
「まずあのロスマンとちょっと話したいのです」と、料理主任は、言った。そして、給仕頭がたって勧めるので、肘かけ椅子に腰をかけた。
「カール、ちょっとこっちへいらっしゃい」と、彼女がそれから言った。カールは、その言葉に従った。と言うよりか、守衛長によってそばへ引きずられて行ったと言ったほうが、むしろ正しいかもしれぬ。「放してやりなさい」と、料理主任が言った、「強盗殺人犯ではないのですよ」守衛長は、確かにカールを放した。だが、放すまえにもう一度ひどく力をこめて握り締めたので、緊張のあまり守衛自身の眼にさえも涙がにじみ出たほどであった。
「カール」と、料理主任は、言って、静かに両手を膝のあいだに置き、首をかしげてカールを見つめた――それはけっして尋問のような感じではなかった――「まず第一に言っておきたいのは、わたしか今でもあなたに全幅の信頼を寄せているということなの。それに給仕頭さんだって正しい人よ、それはわたしが保証します。わたしたちは、ふたりとも、本心はあなたをここへ置いておきたいの」――彼女は、そう言いながら、自分の言葉を妨げないでほしいと頼むかのように、ちらと給仕頭のほうへ流し目を送った。しかし、それは杞憂にすぎなかった――「ですから、みんなが今までここであなたになにを言ったにしても、それはすっかり忘れてちょうだい。とりわけ、守衛長さんがなにを言ったか知りませんけれども、それを妙に重大に考えないでほしいの。そりゃ守衛長さんは、激しやすいことは激しやすい性《たち》なのですけれども、それは、お勤め柄、なにも不思議ではありませんし、それにこの方、奥さんやお子さんたちもいらっしゃるの。ですから、自分だけが恃《たの》みの、寄るべのない少年を、用もないのに、いじめてならないことくらい、それにまた、そんなことをすれば、ほかの人たちから十分に仕返しされることくらい、よく知っているはずですわ」
部屋のなかはすっかり静まり返った。守衛長は、説明を求めるように、給仕頭に眼を注いだ。給仕頭は、料理主任のほうに眼を注いで、頭《かぶり》を振った。エレベーターボーイのベスは、給仕頭の背後で、まったく意味もなくにやにや笑っている。テレーゼは、うれしさと切なさのあまりに、声をのんでむせび泣きながら、だれにも聞かれないようにするのが精いっぱいであった。
カールは、しかし、料理主任が彼のまなざしを求めているにちがいないのに、悪い徴候としか取られないことがわかっていながら、眼を料理主任のほうへは向けないで、すぐ前方の床のうえに落としていた。腕のなかは激痛があらゆる方向へ痙攣となって走り、シャツは、そのみみず脹れにぴったりとこびりついている。本来なら上着を脱いで容体を見届けるところであるが、それもできなかった。料理主任の言ったことは、むろん、ひじょうな好意からにちがいなかった。しかし不幸にも彼には、いかなる好意にも値しない自分が、柄になく、二ヵ月も料理主任の親切に甘えてきた以上、守衛長の手中に落ちたとて、因果応報にほかならぬということが、今の料理主任の態度によって、かえってはっきりと表面化してきたようにしか、思えなかった。
「わたしがこんなことを言いますのも」と、料理主任は、続けた。「わたしは、あなたの人柄を知っているつもりですし、たぶんあなたとしてもどのみち平常と変わりなくなさって来られたものと思いますけれども、とにかく、その真相を今きっぱりと答えてほしいからなの」
「失礼ですが、今のうちに医者を呼んでまいりましょうか。と申しますのも、あの男が、そうこうするうちに、出血多量で死ぬかもしれませんので」と、突然エレベーターボーイのベスが、ひどく丁重ではあるが、ひどく料理主任の話の腰を折るように、口をはさんだ。
「よし行け」と、給仕頭は、ベスに言った。ベスは、すぐに飛んで行った。それから、給仕頭は、料理主任に向かって言った。「事態は、こうなんです。守衛長がなにもそこにいる少年を冗談半分に掴まえていたわけじゃないんです。つまり、階下のエレベーターボーイの共同寝室のとあるベッドのなかで、全く見も知らぬ泥酔した男が、用心深く掛けぶとんですっぽりおおわれたまま、眠っているのが発見されたんです。むろん、みんなで寄ってたかってその男を起こしたあげく、その男を片づけようとしたところ、その男が途端に大乱暴をやりはじめて、この寝室はカール・ロスマンのものだ、おれはロスマンの客だ、ロスマンに連れて来てもらったのだから、だれでもおれに指一本でも触れてみろ、ロスマンがそいつをただでは置くまいて、いずれにせよ、カール・ロスマンがおれに金をくれると約束して、それを取りに行っている以上、おれはそのためにもロスマンの帰りを待たにゃならんと、繰り返し繰り返しわめき散らしたということです。いいですか、料理主任さん、金をやると約束して、それを取りに行ったという、ここのところに、どうか、留意してください。それから、ロスマン、おまえも注意しておくがいいさ」と、給仕頭は、ついでにカールに向かっても言った。カールは、たまたまテレーゼのほうを振り返っていた。テレーゼは、さながら魔法に縛られたかのように給仕頭を凝視し、いくたびとなく額から幾筋かの髪をなで上げたり、あるいはなで上げた手でそのまま髪のかたちを整えたりしていた。「だが、おまえには、おまえがなにを約束していたかを、思い出させてやったほうが、よいかもしれん。つまり、その階下の男がさらにこんなことを言っていたんだ、おまえが帰ってきたら、おまえたちふたりでだれだか歌姫のもとへ、夜の訪問をするとな。その歌姫の名まえは、むろん、その男がいつも歌いながらでないと言えないもんだから、だれも聞き取れなかったが」
ここで、給仕頭がひとまず話を打ち切った。というのは、眼に見えて色あおざめていた料理主任が椅子から立ち上がり、椅子をすこしばかりうしろへはね飛ばしたからである。
「あなたに免じてこれ以上話すのは控えましょう」と、給仕頭は、言った。
「いえ、いえ、どうぞ」と、料理主任は、言って、給仕頭の手を掴んだ。「遠慮なく先を続けてちょうだい。すっかり聞いておきたいの。そのためにここへ来たのですから」
そのとき守衛長があゆみ出て、おればかりは最初からすべてを見抜いていたというしるしに、ぴしゃりと音高く自分の胸をたたいて見せた。すると給仕頭がすかさず「そうとも、あんたの言うとおりだったよ、フェオドール」と、言って、彼をなだめ、元いた位置へさがらせた。
「もう大して話すこともないんです」と、給仕頭は、言った。「少年どもは、寄ってたかると、最初は、その男をさんざんに笑い罵っていたのですが、そのうちに喧嘩になり、そうなると、あすこではいつでも優秀なボクサーが手ぐすねひいているわけですから、その男は、あっさりノックダウンをくったんです。現にその男が五体のどんな個所に、どんなに多く傷をして、どれほど出血しているのか、わしは、あえて尋ねもしなかった。とにかく、あの連中ときたら、すごいボクサーぞろいですから。むろん、酔っ払いのひとりをのばすくらい、彼らにとっては朝飯まえですよ」
「そうでしたの」と、料理主任は、言って、肘かけ椅子のうしろの凭れをつかみ、自分がたったいま離れた席に眼を落とした。「でも、ロスマン、なにか一言くらい言ってくれたらどう」と、やがて彼女が言った。テレーゼは、すでに彼女のそれまでの位置を離れて料理主任のそばへ駆け寄り、取り縋るように料理主任と腕を組んでいた。カールはこれまで彼女のそうしたしぐさを一度も見たことがなかった。給仕頭は、料理主任のうしろにぴったりと寄り添うように立って、料理主任の小さい質素なレースの襟が少しばかり折れているのをゆっくりとなでて直している。カールのよこにいた守衛長は、「さあどうだ」と、言いながら、彼がそのあいだにカールの背中に与えた一撃をそれでたくみにごまかそうとしていた。
「僕がその男を寝室へ連れ込んだというのは」と、カールは、今の一撃のために自分でも意外なほど心細くなって、言った、「ほんとうです」
「おれたちとしちゃ、それさえわかりゃいいんだ」と、守衛長は一同を代表して言った。料理主任は、黙って給仕頭のほうを顧み、それからテレーゼのほうへ眼を転じた。
「僕としてはどうにもほかに仕方がなかったのです」と、カールは、言葉を続けた。「あの男は、僕のむかしからの仲間なのです。おたがいに二ヵ月も会わなかったあとで、あの男が、僕を訪ねてひょっこりここへやって来たのですが、もうひとりで帰れないくらい、ひどく酔っ払っていたのです」
給仕頭が料理主任のよこでなかば聞こえよがしに独り言を言った。「とすると、あの男が訪ねて来た。それから、帰れないくらい、ひどく酔っ払ったわけだな」料理主任が、肩ごしに、給仕頭に向かってなにかささやくと、給仕頭は、この事件とは明らかに無関係なほほえみを漂わせながら、しきりと抗弁しているようであった。テレーゼは――カールは彼女のほうをしか見てなかった――すっかり途方に暮れて、顔を料理主任におしつけたまま、もうなにも見まいとしていた。カールの説明にいかにも満足しきっていたのは、守衛長であった。彼は、「これでちゃんと筋が立った。このうえはこいつの飲み仲間を助けてやることだ」と、いくたびとなく繰り返し言いながら、目まぜや手ぶりで、並みいる人たちの、心にもれなくこの説明を銘記させようと努めていた。
「それでは、僕の罪と言えば」と、カールは、言って、自分を裁く人たちの親しい一言を待ち受けるかのように、間《ま》を置いた。その一言を聞けば、さらに自己弁護を続ける勇気も湧いてくるからであった。ところが、なんの反応もなかった。「僕の罪と言えば、あの男を――名まえはロビンソンと言って、アイルランド人なのですが――寝室へ連れ込んだということだけになりますね。あの男が言ったほかのことは、全部酔ったまぎれに言ったことで、真実ではありません」
「すると、金の約束はしなかったんだな」と、給仕頭は尋ねた。
「いいえ」と、カールは、言った。その点を忘れていたのが、彼にはなんとしても残念であった。無思慮のためか、それとも放心のあまりか、彼は、身の潔白を言い表わすのに、あまりにもきっぱりと動きの取れない言葉を使ってきたのだった。「金をやる約束はしました。あの男からせがまれたからです。しかし、金を取りに行く気はありませんでした。昨夜来かせいだ心づけをやるつもりだったのです」そう言って、彼は、証拠にポケットから金を取りだし、手のひらにいくつか小銭をのせて示した。
「おまえは、ますます進退きわまるだけだぞ」と、給仕頭が言った。「おまえの言葉を信じてやろうと思えば、おまえが先に言ったことをいつも忘れないといけないじゃないか。おまえの最初の言葉だと、おまえは、あの男を――いくらなんても、おまえの言うままに、ロビンソンなんて名まえが信じられると思うかい。そもそもアイルランドなるものが存在するようになって以来、だれもアイルランド人を名乗ったためしはないんだから――、とにかく、おまえの最初の言葉だと、おまえは、あの男を寝室に連れ込んだだけだった。それだけでも、ついでに言っておくが、おまえの首はもうすっ飛ばされているところなんだが、そのときは、しかし、あの男に金をやると約束しなかったと、言った。そのあとで、また出し抜けにおまえに尋ねると、こんどは、約束したと言う。しかし、わしらは、ここでクイズごっこをしているわけじゃないんだ。わしらが聞きたいのは、おまえの申し開きだ。ところで、初めに、おまえは、金を取りに行く気はなくて、おまえのきょうの心づけをやるつもりだったと、言った。ところが、見ると、そのとおり、おまえは、まだその金を所持しているじゃないか。とすると、おまえがやはりそれとは別の金を取りに行くつもりだったことが、明々白々たる事実ということになる。おまえが長いあいだ寝室を脱け出していたことも、それが事実であることを立証しているわけだ。最後に、おまえがあの男のためにおまえのトランクから金を取って来るつもりだったのなら、なにも奇妙なことはないはずだが、おまえは、全力を挙げてそれを否認している。それこそ、なによりも、奇妙なことではないか。おまえがあの男をこのホテルで初めて酔っ払わせたということを終始黙秘しようとしている点とあわせてな。これは、むろん、みじんも疑いの余地ないことだ。だって、おまえ自身も、あの男がひとりでやって来たのにひとりでは帰れなかったと、白状していたし、またあの男自身も寝室で、おまえの客になっているのだと、わめき散らしていたからだ。とすると、今となっては、ただふたつの事柄だけが、曖昧なまま残っているわけだ。おまえが事を簡単にするつもりなら、おまえの口からそれに答えてくれてもいい。もとより、こちらとしては、おまえの協力がなくとも、ついには確証できる事柄なんだが。その第一は、おまえが食品貯蔵室へはいる権利をどのようにして入手したか、そして第二は、人にくれてやれるような金をどのようにして溜め込んだかだ」
≪相手に善意がなければ、自己弁護も不可能だ≫と、カールは、心に言いきかせて、給仕頭にはもう答えなかった。それがどうやらテレーゼの心にはひどくこたえたようであった。今にしてカールは、自分がなにを言おうと、すべては、あとになって見ると、自分の本意とは全く違ったものになっていて、善とか悪とか言っても、それは見る人の判定のしかたにゆだねられているにすぎぬことが、身にしみてわかったのである。
「答えがないわね」と、料理主任が言った。
「それこそ、こいつとしちゃ最も賢明な道さ」と、給仕頭は、言った。
「今にまたなにかを考え出しますぞ」と、守衛長は、言って、さっきはあれほど残忍ぶりを発揮した手で入念にひげをなでた。
「静かにおしよ」と、料理主任は、彼女のかたわらですすり泣きをはじめたテレーゼに言った。「ほら、ご覧、あのとおり答えないでしょう。あれじゃ、わたしだって、あの子のために、どうしようもないじゃないの。結局、給仕頭さんのまえで敗訴したのは、このわたしよ。ねえ、テレーゼ、言っておくれ、おまえの意見だと、わたしがあの子のためになにか為《し》残したことでもあるかしら」テレーゼにそんなことがどうしてわかろう。また料理主任が、そのふたりの異性をまえにして、公然と年はもゆかぬ少女に向けて発した、この問いとも頼みともつかぬ言葉により、あるいは自らの品位を大いに損ねたとしても、それがいまさらなんの役に立とう。
「料理主任さん」と、カールは、いま一度気を取り直して、言った。彼としては、テレーゼが答えなくても済むように、切り出したまでで、ほかになんの目的もなかった。「僕は、どのみちあなたに恥をかかせたとは思っていません。詳しい調査を行なってさえくれれば、ほかの人だってみな、このことを認めるようになるはずです」
「ほかの人だってみなか」と、守衛長は、言って、給仕頭を指さした。「これこそ、あなたにたいする当てこすりですぞ、イスバリーさん」
「ところで、料理主任さん」と、給仕頭が言った。「今や六時半です。もう一刻も猶予《ゆうよ》は許されません。そこで、このひどく気長に扱ってきた事件について、あなたとしても、結びの言葉はわしに任せるのが一番いいと、考えているように思うんですが」
そのとき、ギアコモ少年がはいって来て、カールのほうへ行きかけたが、部屋のなかを支配している静寂に肝を冷やしたのだろう、行くのを止めて、控えていた。
料理主任は、カールの最後の言葉以来、ずっとカールから眼を離さなかった。彼女が給仕頭の意見を耳に留めたらしい気配は、すこしも見えなかった。彼女は、眼を皿にしてカールを見詰めていた。ひとみは、大きくて青かったが、さすがに年波とひどい辛労のせいか、すこしばかり曇っていた。彼女がそうした表情でそこに立ち、彼女のまえの肘かけ椅子を力なくかすかに前後に揺り動かしているさまは、彼女が今に次のように切り出すものと、期待させるに十分だったかもしれない。≪確かに、カール、よく考えてみると、事件は、まだすっかり解決したわけじゃなくて、あなたが正しく言ったように、詳しい調査がさらに必要だと思うわ。それで、ほかの人たちが同意しようとしまいと、これからわたしたちでそれを実行に移そうじゃありませんか。なによりも、公正が第一ですもの≫
しかし、それは期待違いであった。誰もが口出ししようとしなかったので、ややしばらく沈黙が続いたあと――ただ時計だけが、給仕頭の言葉を裏書きするように、六時半を打った、すると衆知のように、それと同時に、ホテルじゅうの時計という時計がいっせいに鳴った。その響きは、耳底に残りながら、心に予感を呼びさまし、さながら唯一の大いなる焦燥の再度の疼《うず》きのようてあった――料理主任が次のように言ったからである。
「だめよ、カール、だめ、だめ。わたしたちは、そんなふうに思い込みたくないの。正しい事柄というものは、やはり、一風変わって見えるものよ。ところで、今になって白状するけれども、あなたの事件は、そうじゃないわ。これだけは、わたしとしても、思い切って言っておきたいし、また言わずにはいられないの。わたし、白状しているわけよ。だって、あなたのためにとても好意ある先入見を持ってここへ来たのは、わたしなんですもの。ご覧なさい、テレーゼだって黙っているじゃないの」(しかし、彼女は、黙っていたのではない。泣いていたのだった)
料理主任は、ふいに彼女を襲ってきた決心のために、言葉が詰まったが、ややあって言った。「カール、こっちへいらっしゃい」カールが彼女のそばへ行くと――ちょうどそのとき、彼の背後では、給仕頭と守衛長が一致して、さかんに対話をはじめていた――、彼女は、カールを左手で抱きかかえ、彼と無意識について来るテレーゼとを連れて部屋の奥のほうへ行くと、そこをふたりとともにいくたびか行きつ戻りつしながら、言った。
「そりゃねえ、カール、調査が行なわれたら、個々の細かい点では、あなたの正しいことがわかるかもしれなくってよ。あなたもそれを確信しているようね。そうでしょう、でないと、わたしもあなたの理解者と言えませんもの。それなのに、一体、どうして調査が行なわれないかってことね。あの守衛長にたいする挨拶にしたって、事実はたぶんあなたの言うとおりでしょう。わたしは、そう確信さえしているわ。それにまた、あの守衛長という人物をどの程度に評価しなければならないかってことも、わたしとしては、心得ているつもりなの。ねえ、いいこと、わたしは、今でもこのとおりあなたには包まず話しているのよ。でもね、そんな細かい点で正しいことが立証されても、あなたにはなんの役にも立ちはしないわ。だって、あの給仕頭があなたの罪をはっきり宣告したんですもの。あの人の人を見る眼の確かさは、わたしにも長年のうちによくわかってきましたし、あの人は、わたしの知り合いのうちでいちばん信頼のできる人なのよ。あなたの罪は、むろん、反駁《はんばく》の余地ないように、わたしも思うわ。たぶん、あなたは、ただ無思慮に行動したんでしょう。でも、そのときのあなたは、わたしの考えているあなたとは違うようよ。こんなことを言っても」と、彼女はそこで、言わば自制するように、言葉を切って、ちらとふたりの男のほうを振り返って見た。「わたしは、いまだにあなたを根はまじめな少年と思う癖から抜けきれないんですけれど」
「料理主任さん、料理主任さん」と、彼女のまなざしを受けた給仕頭は、注意した。
「すぐに済みますわ」と、料理主任は、言って、それからは一段と早口でカールへの訓戒を続けた。「いいですか、カール、わたしは、この事件を大局から見て、給仕頭が一向に調査に乗り出そうとしないのを喜んでいるくらいよ。だって、あの男が調査に乗り出しかけたら、わたしは、どうしてもあなたのためにそれを阻止せねばなりませんもの。この際、だれにも知られてならないことは、あなたが例の男をどんなふうにもてなし、なにをご馳走したかっていうことよ。とにかく、あの男は、あなたがどんなに申し立てようと、あなたのむかしの仲間のひとりじゃないはずよ。だって、あの連中とは別れ際に大喧嘩をして、今ではどちらが来たって、あなたは、もてなさないことにしているんでしょう。ですから、あの男は、あなたが軽率にも夜中にどこか町の居酒屋で懇意になった、ただの知り合いにすぎないと思うの。カール、あなたは、よくもわたしにこんなことをすべて隠しおおせたわね。あるいはあの共同寝室にいるのがやりきれなくなって、あなたが、最初はそうした無邪気な理由から、夜遊びをはじめたのだったら、どうして一言でも言ってくれなかったの。わたしがあなたに個室をあてがおうとしたことや、ほかならぬあなたの頼みでそれを諦めたことくらい、あなたにもわかっているはずよ。今になって見ると、共同寝室にいるほうがずっと身の拘束を感じないので、共同寝室のほうを選んだとしか、思えないわ。あなたは、持っていたお足はわたしの金庫に預けたきりだし、心づけば毎週まとめてわたしのところへ持って来ていたわね。さあ、後生ですから言ってちょうだい。あなたは、そんな遊興に使うお金をどこから手に入れていたの。それにいま、あのあなたの友だちに渡すお金をどこから取って来るつもりだったの。むろん、そんなことは、わたしから、すくなくとも今のところは、あの給仕頭に匂わしさえもしないけれど。だって、そんなことでもすれば、調査が避けられないことになるでしょうしね。そんなわけで、あなたは、絶対にホテルを出なければなりません。それも、できるだけ早くね。まっすぐに例の下宿屋のブレンナーへ行きなさい――だって、あすこはテレーゼともう再三行ったことがあるはずよ――、この紹介状を持って行けば、ただで泊めてもらえるわ――」料理主任は、ブラウスから金いろのクレオンを取り出して、名刺に二、三行したためながらも、話を止めずに続けた――「あなたのトランクはすぐにあとから届けるわ。テレーゼ、すぐにエレベーターボーイ専用の衣裳室へ、駆けて行って、この子のトランクの荷造りをしておやり」(しかし、それでもまだ、テレーゼは動かなかった。悲しみのすべてに耐えとおしていた今は、料理主任の親切のお蔭にほかならぬ、カールの事件の好転ぶりをも、彼女は、最後までともに見届けておきたいようであった)
だれかが、顔も見せずに、ドアを細めにあけて、すぐまた締めた。それは、明らかに、ギアコモに関係したことにちがいない。というのは、ギアコモが歩み出て、言ったからである。「ロスマン、君に伝えなくちゃならないことがあるんだ」
「これからすぐにね」と、料理主任は、言うと、うなだれて彼女の言葉に耳傾けていたカールのポケットへ名刺を差し入れた。「あなたのお金は取りあえずわたしが預かっておくわ。あなただってきっとわたしになら安心して託しておけるでしょうね。きょうは宿に引きこもって、こんどの事件につきよく考えるのよ。あすになれば――わたし、きょうは暇がないの。それにこの部屋でもうずいぶんと長居してしまったし――わたしのほうからブレンナーへ出かけてゆくわ。あなたのためにさらにどんな段取りをすればいいかということも、そのときにふたりで検討してみましょう。わたしは、けっしてあなたを見捨てはしないわ。その点はきっとあなたもきょうのことですでにわかっているはずだわね。あなたはなにも未来のことで心配なんかしなくていいのよ。心配するとすれば、むしろ、つい今しがた過ぎ去った時のことよ」言い終わると、彼女は、軽く彼の肩をたたいて、給仕頭のほうへ歩んで行った。カールは、頭を上げた。そして、おちついた足取りとこだわりのない態度で自分のそばから離れてゆく、大柄な、堂々たる婦人の後ろ姿を見送っていた。「万事がこのように好結果に終わったのに」と、彼のわきに居残っていたテレーゼが言った。
「あなたは、ちっともうれしくないの」
「いや、とんでもない」と、カールは、言って、彼女にほほえみかけた。しかし、泥棒扱いされて暇を出されるのに、どうしてそれをうれしがらねばならないか、彼にはわからなかった。テレーゼのひとみは、こよなく純粋な歓びに輝いていた。たとい汚名を着せられようと、あるいは栄誉で飾られようと、とにかく早々に放免してさえくれれば、カールの犯罪の有無も、またカールにたいする宣告の当不当も、彼女には全く問題にならないようであった。これまで彼女自身の問題であれほど辛い思いをし、料理主任の曖昧《あいまい》な一語を幾週間となく頭のなかでひねくり回しては、検討し続けていたはずのテレーゼが、たまたま今は、そのような態度を示しているのである。そこで、カールは、わざと尋ねた、「君は、すぐにぼくのトランクの荷造りをして、送り届けてくれるはずではないのかい」すると、テレーゼは、彼が心ならずも驚きのあまり頭を振らざるを得なかったほど、すばやく彼の問いに応じて、トランクのなかにはだれにも秘密にしておかねばならぬものがはいっていると確信しているのであろう、カールのほうへは眼をくれず、手も差し伸べないで、「もちろんよ、カール、すぐに、すぐにトランクの荷造りをするわ」と、ささやいたきり、そのまま駆け去って行った。
ところが、ギアコモのほうは、もう居ても立ってもいられなくなっていた。長いあいだ待たされたことでひどく腹を立てていた彼は、大きな声で、どなった。「ロスマン、あの男が階下の廊下でのたうちまわっていて、運び出そうと思っても、なかなか承知しないんだ。実は病院へ連れて行ってもらうつもりだったんだが、あの男が抵抗して、おれが病院へ入れられるのを君が黙って見過ごすものかと、言い張っているんだ。それで、自動車を雇って、家へ送り届けることにしたんだが、自動車代は君が払うだろうな。どうだい」
「あの男は、おまえを信頼しているのさ」と、給仕頭が言った。カールは、肩をすくめ、ギアコモの手に彼の持ち金を勘定しながら渡した。そして、言った。「もうこれ以上持ち合わせがないんだ」
「君が同乗する気か、それも君に尋ねて来いと言われているんだ」と、ギアコモは、金をちゃらちゃら鳴らしながら、重ねて尋ねた。
「この子は同乗しないわよ」と料理主任が言った。
「それでは、ロスマン」と、給仕頭が早口に言って、ギアコモが部屋を出るまで待たなかった。「おまえは、即座に解雇だ」
守衛長は、自分の言葉をただ給仕頭が口まねして言ったにすぎないかのように、いくたびとなくうなずいた。
「おまえを解雇する理由は、大きな声で言うわけにゆかぬ。もし言えば、それこそ、おまえを拘禁してもらわなくちゃならなくなるからな」
守衛長は、ひどくきびしいまなざしを料理主任のほうへ向けた。このあまりにも寛大な処置の原因が彼女であることを、はっきりと悟ったからである。
「これからベスのところへ行って、着替えをし、ベスにそのお仕着せを渡して、すぐにこの建物を立ち去るんだ。いいか、すぐにだぞ」
料理主任は、眼を閉じた。そうでもしてカールの心を落ちつかせたかったのであろう。カールが別れを告げるためにお辞儀をしたとき、給仕頭が料理主任の手を人目を忍ぶように握り、それを弄んでいるのが、ちらと彼の眼に留まった。守衛長がのろい足取りでカールを戸口まで見送ったが、ドアはカールに締めさせずにあけっ放しにしておいて、カールの背後から追い討ちをかけるように叫んだ。「十五秒後には表口のおれのまえを通り過ぎるんだぞ。それを忘れるな」
カールは、表口での悶着を避けたいばかりに、できうるかぎり急いだが、なにかにつけて意外に手間どった。まず第一に、ベスがすぐには見つからなかった。ちょうど朝食時にあたっていたので、どこもかしこも、人でいっぱいだった。次に、エレベーターボーイのひとりがカールの古いズボンを勝手に借用していたことがわかった。カールは、ほとんど全部のベッドを回って、そのわきの衣裳かけを虱《しらみ》つぶしに探すよりほかなかった。そんなことから、彼が表口へ行くまえに、もう五分ばかりも経過していた。ちょうど彼のまえを、ひとりの淑女が、四人の紳士のまんなかに立って歩いていた。彼らは打ち揃って、彼らを待ち受けている大型の自動車のほうへ向かうところだった。自動車のわきにはすでに仕着せを着た従僕が立って、車のドアをあけて待ち、あいたほうの左腕をわきへ水平にぴんと伸ばしている。それはきわめて荘重な光景であった。カールは、その高貴な一行のあとからこっそり脱け出せるものと思っていたが、だめであった。いきなり守衛長が彼の腕をつかみ、ふたりの紳士に許しを乞いながら、そのあいだをかき分けるようにして彼をそばへ引き寄せた。
「十五秒だったはずだぞ」と、守衛長は、言って、狂っている時計を見守るかのように、カールを横から見据えた。それから「ちょっと来い」と言って、彼は、カールを大きな守衛控え室へ連れて行った。その控え室は、カールがずいぶん以前から一度見たいと思っていたところだが、今は守衛長に小突かれて、疑心暗鬼のまま、はいるよりほかなかった。彼は、一度回れ右をして、守衛長を押しのけ逃げ出そうとしたが、もうそのときは戸口に立っていたのである。
「だめだ、だめだ、ここをはいるんだ」と、守衛長は、言って、カールを逆の方向へ捩じ向けた。
「僕はお払い箱になった人間ですよ」と、カールは、言って、もはやホテルのだれからも命令される身でないことをほのめかした。
「おれがつかまえているかぎり、おまえは、まだお払い箱になっておらん」と、守衛長が言った。むろん、守衛長の言葉にも一理はあった。
カールは、どう考えても、自分がなぜ守衛長にたいして抵抗せねばいけないのか、ついにその理由が見つからなかった。どのみち、このうえ、ひどい目に会うこともよもやあるまいと、思った。おまけに、守衛室の壁というのがもっぱら巨大な板ガラスで出来ていて、ガラスごしに、玄関を行きかう人の流れが、まるで自分もその流れのただなかにいるかのように感じられるほど、はっきりと見えるようになっている。確かに、この守衛室には、そとを行きかう人の目につかぬような片隅が、どこにもないように思われた。そとの人々は、面を伏せて片腕をまえに伸ばしたり、鋭い眼を四方に配ったり、荷物を高く差し上げたり、さまざまな恰好をしてたがいにあいだを縫いながら、ひどく急いでいるように見受けられたが、それでも、守衛室へ一|瞥《べつ》を投じるのを忘れて行き過ぎる人は、ほとんどいなかった。守衛室の巨大な板ガラスの裏には、泊まり客にとっても、ホテルの従業員にとっても、大切な予告とか報知とかが、いつも張り出されていたからであった。それにまた、守衛室と玄関とのあいだにも、直接、人の往来があった。ふたつの大きな上下窓のところに、ふたりの守衛補がすわっていて、さまざまな用件について応答するのにたえず忙殺されていたからである。それは、確かに、過重な仕事を課せられた人たちだった。カールは、自分の知り合いの守衛長もそうした職場にしがみついていた経歴があるのだということを、言ってやりたいくらいだった。そのふたりの案内人は――局外者には案に相違した事態たったにちがいないが――いつも窓口をあけ放したまま、すくなくとも十人の物問いたげな顔と相対していた。入れ替り立ち替り現われる、その十人の客のあいだでは、みなそれぞれに違った国から派遣されてきたかのように、言語の混乱が起こることもしばしばあった。いつも二、三人が同時に尋ねているばかりか、たえず個々の客のあいだでも話がかわされている。しかも、守衛室からなにかを受け取って行ったり、守衛室へなにかを預けて行ったりするのであった。そのため、その人だかりのなかから高々と手を差し出して、じれったそうに振り回している光景も、たえず見受けられた。そのうちに、客のひとりがなにか新聞を所望すると、その新聞が思いもかけず頭のうえで開いてしまって、そこにいた客たちの顔を残らず包んでしまう一瞬もあった。こうしたすべてにふたりの守衛補が耐え抜かねばならなかったわけである。ただふつうに話していたのでは、彼らの職責は、十分に果たせそうもなかった。ふたりとも、文字どおり、口早にさえずっていた。とりわけ、片方の、顔全体が黒いひげで囲まれている、陰気な男は、息をも継がずに、案内を続けていた。彼は、ひっきりなしに机越しに手を差しのべて握手を繰り返しながらも、机の鏡板に眼も落とさなければ、入れ替わる質問者の顔をさえも見ないで、じっと前方を見つめていた。それは、明らかに、労力を節約するためであった。それにしても、彼のひげがすこしばかり彼の言葉を聞き取りにくくしていたことは、確かである。カールは、ほんのしばらく彼のそばに立ち止まっただけであり、もしかすると、たまたま彼の使った言葉が、なんとなく英語の響きを感じさせはしても、実は外国語だったかもしれなかったが、彼の言っていたことがごくわずかしか理解できなかった。そのうえ、聞き手をまごつかせたのは、ひとつの案内に間髪をいれず次の案内が続き、そのあいだの区別がつかないことであった。そのため、聞き手が、自分の用件に関する説明だと思って、緊張した顔つきで耳傾けているうちに、しばらくしてやっと、自分のほうはとっくに片づけられているのに気づくというようなことも、しばしばあった。それにまた、守衛補がけっして質問をもう一度繰り返すように頼みはしないということにも、聞き手のほうは、慣れていなければならなかった。質問の意味がだいたいにおいて明瞭であっても、どこかにほんの少し不明瞭な点でもあると、守衛補は、ほとんど目立たないくらいかすかに頭を振って、その質問に答える意図がないことを示すのである。自身の誤謬《ごびゅう》を認識し、質問内容をより明確に表現するのが、質問者の本分であった。とりわけそのことでかなり多くの人々が窓口のまえでずいぶん長い時間を費やしていたからである。守衛補を助けるために、それぞれの守衛補に、ひとりずつ、走り使いの少年があてがわれ、その少年が、全速力で、書棚やさまざまの箱から、守衛補がその都度必要とするものを取って来ることになっていた。それは、年少者向きのホテルの職場のうちで、極度に心身を消耗する仕事ではあったが、給金も最上の職場であった。それでもやはり、少年たちは、ある意味では、それにたいして守衛補以上の不満を抱いていた。守衛補たちは、ただ思案し、しゃべればいいだけなのに、年少の連中は、思案しながら走らねばならなかったからであった。少年たちが時になにか間違ったものを取って来ると、守衛補のほうは、むろん、忙しいので、少年たちに長々と説教することで時間をつぶすわけにはゆかなかった。そんなとき、守衛補は、むしろ無造作に、少年たちが彼の机のうえに置いたものを、さっさと机上から払い落としてしまうだけであった。ひじょうに面白かったのは、ちょうどカールがその控え室にはいってからすぐに行なわれた守衛補の交代である。このような交代は、むろん、すくなくとも一日のうちに幾回となく、行なわれねばならなかった。一時間以上も窓口で頑張っていられる人間は、ほとんどいなかったからである。交代時間になると、まずベルが鳴った。それと同時に、横手のドアから、そのとき順番が回ってきたふたりの守衛補が、それぞれに自分の助手の少年を従えて、現われる。新しいふたりは、差し当たってはなにもしないで、窓口のそばに立ち、しばらくはそとの人々を観察している。それは、目下の問答がたまたまどのような段階にあるかを、確かめておくためであった。彼らは、いよいよ仕事にはいるにふさわしい瞬間がやって来たように思うと、交代されるほうの守衛補の肩をたたく。すると、交代されるほうの守衛補は、それまで自分の背後で行なわれていたことを少しも意に介していなかったとはいえ、ただちに了解して、席をあけるのである。しかも、そうしたすべてがきわめて速やかに行なわれるので、そとの人々が仰天しふいに眼のまえに現われた新しい顔に恐れをなして、尻込みしかけるようなときさえ、しばしばあった。交代してもらったふたりは、背伸びしてから、それぞれに、すでに用意されていた洗面器のうえに熱した頭を突き出して、うえから水を注ぎかけている。ところが、交代してもらった少年のほうは、まだ背伸びをすることさえも許されないで、なおしばらくは、彼らの勤務時間中に床のうえへ投げ落とされていた、さまざまな物件を拾い上げて、元の位置へ戻しておくのにかかりきっていたのである。
こうした一切の状景を、カールは、たゆみなく注意深く、数瞬のうちに心に留めた。そして、軽い頭痛を覚えながら、静かに、どこまで連れてゆかれるのか、守衛長のあとについて行った。明らかに、守衛長も、この種の案内がカールに与えた大きな感銘に気づいていたらしく、ふいにカールの手を引っ張って、言った。「わかったかい、ここではああいう仕事をしているんだ」カールは、むろん、このホテルに来てから、のらくらしたことはなかったが、このような仕事があるとは、しかし、夢にも知らなかった。彼は、守衛長が自分の大の敵であることをもほとんどすっかり忘れて、守衛長を見上げ、黙って賛意を表しながらうなずいた。それを、守衛長のほうは、しかし、またしても守衛補の過大評価と、そして、おそらくは彼自身にたいする無礼なふるまいと取ったのだろう。その証拠に、カールをなぶり者にするかのように、彼が、人に聞こえるのも構わずに、次のように叫んだからである。「むろん、ここのこうしたことは、ホテルじゅうで最も下らない仕事なんだ。ものの一時間も耳を傾けていたら、出される質問全部にある程度まで通じてしまうさ。残りの部分にはなにも答えなきゃいいんだ。おまえが厚かましい無作法者じゃなくて、嘘もつかねば、のらくらもせず、大酒も飲まず、盗みも働かなかったら、あるいはおまえをそこいらの窓口で使ってやれたかもしれないさ。あれにはもっぱら頓馬でないと用に立たないのでな」
カールは、自分に係わる悪口はすべて聞き流したが、それにしても、守衛補たちのまじめなつらい仕事が、称賛されるどころか、嘲罵《ちょうば》されたのには、しかも嘲罵の主が嘲罵の資格ない男とあっては、なおのこと、腹がたってならなかった。守衛長こそ、一度なりと、あのような窓口にすわってみるとよかった。一、二分後には並みいる質問者たちの嘲笑を浴びて退散せざるを得ないことは、確かであった。
「帰してください」と、カールは、言った。守衛控え室にたいする彼の好奇心は、もう途方もなく満足させられていた。「あなたとはもう係わりたくないのです」
「それだけでは、逃げる十分な理由にはならん」と、守衛長が言って、カールの両腕を、カールが動かすことができないほどに、握り締めながら、守衛控え室の向こうの端へカールを文字どおり運んで行った。そとの人々には守衛長のこの暴力行為が眼につかないのだろうか。もしも眼についていたとすれば、それについてだれひとり非難する者がいないばかりか、せめて窓ガラスなりともたたいて、守衛長に、おまえは行動を観察されておるぞ、勝手にカールを虐待してはならぬということを、教える者すらいないとは、守衛長の暴力行為をどのように理解しているのだろう。
ところがそのうちに、玄関から助けが得られる望みさえも、もうカールにはなくなってしまった。守衛長がとある紐をつかむと、守衛控え室の半分を上の端まで隠すように、たちまち、板ガラスに黒いカーテンが引き寄せられてしまったからである。むろん、守衛控え室のこちら半分にも、人がいることはいたが、みな仕事に忙殺されていて、彼らの仕事と関係のないことには、全く目も耳も持たなかった。おまけに、彼らは、守衛長にすっかり依存していたので、カールを助けるどころか、守衛長がたといなにを思いつこうと、むしろ、それを人目から隠すほうに協力しかねなかった。例えば、ここでは、六台の電話に六人の守衛補がかかり切りになっていた。その手はずは、だれでもすぐに気づくことだが、ひとりがいつも通話のみを引き受け、隣の男がその通話を引き受けているほうの男から聴取した覚書にしたがい、用命をさらに電話で伝えるというふうに、決められていた。それは、電話室など不要の、あの最新式の電話だった。ベルの音もちちちちと鳴く虫の声よりも高くなかったし、送話口でささやくように話しただけでも、その言葉は、特別な電流の増幅のお蔭で、目的のところへは雷のような音声で達するのである。そのため、三人の話し手が電話機のところで話す声は、ほとんど聞こえなかった。勝手を知らない人が見れば、なにやら口のなかでつぶやきながら、受話器のなかのなにかの出来事を観察しているようにしか、思えなかった。それにひきかえ、残りの三人のほうは、自分たちに押し寄せて来る、しかも周囲の者には聞こえない騒音のために、さながら失神したかのように、頭を紙のうえに垂れていた。その紙に書き留めることが彼らの任務であった。ここでもやはり、三人の話し手のわきには、それぞれにひとりずつ、手伝いの少年が立っていた。これら三人の少年の仕事と言えば、耳を澄ましながら頭を上役のほうへ突き出しては、また忙しく、まるで憑《つ》かれたように、幾冊もの途方もなく大きな黄いろい本から――ぶあついページをめくる音が、いかなる電話の音よりも、はるかに高かった――電話番号を探し出すという、そうした動作を交互に繰り返すだけであった。
カールは、実のところ、すでに腰かけていた守衛長が両手で挾みつけるようにして彼をまえに立たせていたとはいえ、こうした状況をすべてもれなく見届けずにはいられなかったのである。
「いいか」と、守衛長は、言って、カールになんとかして顔を自分のほうへ向けさせようとするかのように、カールのからだを揺すった。「給仕頭が、どんな理由からにもせよ、なにか手抜かりをやれば、ホテル首脳部の名において多少なりともその埋め合わせをするのが、おれの義務なんだ。ここでは、そのように、いつでもだれかがほかの者の代理を勤めることになっているのさ。そういうことがないと、このようにでかい経営なんて不可能だからな。おまえは、たぶん、おれがおまえの直接の上役でないと、言いたいところだろう。ところがだ、おれとしちゃ、それだけに、おれが出ないと打っちゃらかしになるこの事件をこうしておれが引き受けるのが、愉快なわけさ。とにかくおれは、守衛長として、ある意味では、みなよりも上位に置かれているんだ。だって、数知れぬ小さな戸口や戸のない出口は言うに及ばず、ホテルの門という門が、例えばこの表口にしたって、また三つの中央門や十の横門にしたって、みな残らずおれの支配下にあるからさ。むろん、すべて考慮されるかぎりの召使どもも、おれには絶対服従だ。この大きな名誉の半面、おれは、むろん、ホテル首脳部にたいして、ほんのすこしでも胡散《うさん》臭い者はそとへ出してならぬ義務を負っている。ところが、たまたまおまえが、おれには、願ったり叶《かな》ったりというわけか、ひどく胡散臭くさえ思えるんだ」彼は、それを喜ぶあまり、両手を上げ、上げた両手をまたそのままうしろへ倒して、ぱちりと痛いほどに強く打ち合わせた。「ほかの出口からなら」と、彼は、言い添えながら、ひどく愉快がっていた。「あるいはこっそり抜け出せたかもしれん。むろん、おまえのために特別の指令を出さねばならんほど、おまえは、大した人間じゃないからな。だが、こうしておまえがいったんここへ来たからには、おれもたんまりおまえを味わわせてもらおう。とにかく、おれは、おれたちが言いかわした表口でのランデブーの約束だけはおまえも守るものと思い、すこしも疑っていなかった。というのは、厚かましいやつでも、従順でないやつでも、自分の不利になる時と所では、持ちまえの不義理をやめるというのが、常例だからだ。おまえは、これからなんども、この点をおまえ自身について看取できる機会があるにちがいない」
「勘違いをしないでください」と、カールは、言って、守衛長から発散する妙に黴《かび》くさい臭いを吸い込んだ。彼は、ここへ来て、守衛長のまぢかに長いあいだ立たされて、初めてこの臭いに気づいたのだった。「勘違いをしないでください」と、彼は、言った、「僕は、完全にあなたの掌中にあるわけではありません。わめくことだってできるのです」
「そしたら、おまえの口をふさぐまでさ」と、守衛長は、いざというときにはそれを実行するつもりであろう、落ちついて口早に言った。「それにしても、おまえは、おまえのことでだれかにここへ来てもらったら、そやつが守衛長であるこのおれに面と向かって、おまえを正当と認めるとでも、ほんとうに思っているのか。もういい加減で、どんな希望も無意味だと悟ったら、どうだ。いいか、おまえがまだ制服を着込んでいたあいだは、確かに、それでもまだちょっといかすように見えたもんだ。ところが、こんな服装ではな。こんなものは、じつのところ、ヨーロッパでなけりゃ見当たるまいて――」彼は、そう言いながら、服のさまざまな個所を引っぱった。その服は、確かに、五ヵ月まえにはまだほとんど新品同様であったのに、今では着古されて、しわくちゃになっているばかりか、なによりもいけないことに、しみだらけであった。その原因は、主として、エレベーターボーイたちの無鉄砲に帰せられる。彼らは、毎日、通常命令に従って、共同寝室の床《ゆか》をすこしの塵も残さずにぴかぴかにみがき上げておかねばならないのに、無精なために掃除らしい掃除をしたためしがなく、ただなにかの油を床に振りまくだけで、そのとき、破廉恥にも、衣裳かけにかかっている洋服にもれなくとばっちりをかけてしまうのである。ところで、自分の服は自分の思うところへ片づけておけばよかったのだが、たまたま自分の服が手近にないと、他人の隠してある服をたやすく見つけ出して、借りてゆく者が、いつもかならずいたのである。それゆえ、もしかすると、そのひとりが、この日、寝室の掃除をする番になっていて、洋服に油のとばっちりをかけるどころか、上から下まで完全に油を振りかけてしまった犯人かもしれない。ただ、レネルだけは、彼の貴重な服をどこか秘密の場所にしまい込んでいた。だれもおそらくは悪意の吝嗇《りんしょく》から他人の服を無断借用するのではなくて、ただ急ぐあまり、だらしないままに、どこかでふと眼に止まったものを持ち去るにすぎないため、レネルの秘密の場所から服が引きずり出されることは、まずなかったのである。とはいえ、レネルの服にも、背中のまんなかに、丸い赤みを帯びた油のしみがついていた。町で彼がいかに上品な若者ぶっていても、識者がそのしみを見れば、即座に彼をエレベーターボーイと断定できるはずであった。
カールは、このようなことを思い出しながら、せっかくエレベーターボーイにまでなって、苦しみにも十分に堪えて来たのに、すべては徒労だったと、心に言い聞かせた。というのも、このエレベーターボーイの勤めが、彼の期待していたように、よりましな地位への前段階ではなかったからである。むしろ、今は以前よりもはるかに卑しい身分に落とされて、監獄の一歩手前にまで落ちぶれていた。だからこそ、現にこうして守衛長に引っ捕えられる憂きめをさえも見なければならないのである。守衛長は、さてこれからカールをどのようにはずかしめてやればいいかと、それのみを考えているらしかった。カールは、守衛長がけっして他人の説得に従うような人間でないことをも、すっかり忘れて、たまたま自由が利くほうの手でいくたびとなく自分の額をたたきながら、叫んだ。「たとい僕がほんとうにあなたに挨拶しなかったとしても、大の大人が、挨拶を怠ったというだけのことで、それほど復讐心を燃やすとは、変じゃありませんか」
「おれは、復讐心を燃やしてなんかいないぞ」と、守衛長は、言った。「おれは、ただおまえのポケットを残らず検査したいだけなんだ。むろん、なにも見つかるまいとは、承知のすけだ。おまえだって、抜かりはなかったろうし、ぼつぼつと、おまえの例の友だちに毎日すこしずつ運ばせて、もう全部持ち運ばせてしまっているにちがいないからな。それでも、とにかく、おまえは検査を受けるのさ」そう言うが早いか、彼は、カールの上着のポケットのひとつへ、脇の縫いめが裂けるほどの激しい勢いで、手を突っ込んだ。「やっぱりもう無い」と、彼は、言って、そのポケットのなかにはいっていたものを手のなかでより分けた。それは、ホテルの広告用カレンダーとか、商業通信教則本からの練習問題ののっている紙片、上着とズボンとの数個のボタン、料理主任の名刺、いつか客のひとりがトランクに荷物を詰めるおりに彼に投げ与えた、爪のための艶出し用スティック、レネルが勤務を十回ばかり代わってくれたお礼にと言って呉れた、古い懐中鏡など、そのほか二三のごくつまらぬものであった。「やっぱり、無いな」と、守衛長は、繰り返して、カールの所有物は、盗んだものでないかぎり、腰かけのしたに葬るのが自明のことであるかのように、手に持っていたものをすべて腰かけのしたへ投げ棄ててしまった。
≪いくらなんでもあんまりだ≫と、カールは、心に言った――彼の顔は燃えるように真っ赤だったにちがいない――。守衛長か貪欲に駆られて不用意にカールの二番めのポケットのなかをさぐりまわっていたとき、カールは、一気に服の両袖からすっぽりとからだを抜くと、いきなり奔馬のように一とびして、守衛補のひとりをかなり強く電話機へ突きのめし、むんむんする空気のなかを戸口のほうへ走って行った。実は、気がせくわりに、足が遅かったが、それでも彼は、重いマントを着た守衛長が辛うじて立ち上がるよりさきに、幸いにもそとへ出ていた。警衛勤務の体制も、さほど模範的なものではなかったにちがいない。なるほど二、三の方面からベルが鳴りはしたが、なんの目的で鳴っているのか、だれにもわからないのである。むろん、ホテルの使用人たちも、かなり大勢が、門への通路を行ったり来たりしていたが、それを見ると、目立たぬ方法でホテルからそとへ出るのを不可能にしようとしているとしか、考えられないくらいであった。彼らの右往左往にはそれよりほかに大した意味が認められなかったからである。いずれにせよ、カールは、まもなく戸外へ出ることができた。ただ彼は、ホテルの歩道に沿うて行かなければならなかった。自動車のひっきりない列がホテルの表口のところを停滞しながら通りすぎていたために、公道にまで真っ直ぐには行けなかったからであった。これらの自動車は、できるかぎり早くわれがちになろうとして、入り乱れていたにすぎない。どの車も後続の車によって、まえへ押しやられていた。公道へ出るのを特に急ぐ歩行者たちは、そこかしこで、個々の自動車のなかを、あたかもそこが公けの道路であるかのように、通り抜けていた。自動車のなかに運転手と従僕しか乗ってなかろうと、あるいは、高貴な人々が乗っていようと、彼らは、そんなことに全く構うことなかった。そうしたふるまいは、しかし、カールには、いくらなんでも極端なように思われた。そのような思い切ったことをするには、まえもって先方の事情がわかっていなければならぬはずではないか。こうした場合、とかくよくあることで、もし自分があんなまねをすれば、車によっては乗客がそれを悪意に解して、自分を車外へけり落とし、醜聞のきっかけを作らないともかぎらない。もっとも自分のほうは、この通りワイシャツ姿のまま脱走した、胡散臭いホテルの使用人だし、もうなにひとつ気づかうこともないが。カールのそうした思案にもかかわらず、自動車の列は、結局、永遠に、今の混雑のまま、続くわけでもなかった。カールのほうも、ホテルの側にへばりついているかぎりは、けっして胡散臭くは見えなかった。ついにカールは、事なく、自動車の列が途絶えはしてなかったが、公道のほうへ向かって折れ曲がり、しだいにまばらになっている地点へ、たどり着いた。たまたま彼が、彼よりもはるかに胡散臭く見える人々が自由にぶらついている、大通りの往来のなかへ紛《まぎ》れ込もうとしたとき、近くで彼の名を呼ぶ声がした。彼が振り返って見ると、彼とは馴染のふたりのエレベーターボーイが、地下納骨堂の入り口のように見える、低い、小さな戸口から、途方もなく苦労して担架をひとつ引っ張り出しているところであった。カールは、その担架のうえにまぎれもなくロビンソンが、頭や顔や腕にいろいろと包帯をしてもらったまま、横たわっているのを、認めたのである。ロビンソンが、痛みに堪えかねてか、あるいは、ほかに苦しいことがあってか、それとも、カールとの再会を喜ぶあまりか、涙を流しながら、その涙を包帯でぬぐおうとして、腕を眼に持ってゆくさまは、見るもいやらしかった。
「ロスマン」と、彼は、なじるように叫んだ、「どうしてこんなに長いあいだおれを待たすんだ。あんたが来るまえに運び去られちゃいけないと思って、抵抗するのにもうこれで一時間も費やしているんですぜ。こいつらときたら――」そう言いながら、彼は、自分のほうは包帯しているせいで殴られる心配はないと思っているのか、そこのエレベーターボーイのひとりの頭に一発かました――「ほんとうにどえらいやつでさ。ああ、ロスマン、あんたを訪ねたばかりに、おれは、ひどいめに会ったんですぜ」
「一体、なにをされたのです」と、カールは、言って、担架のそばへ歩み寄った。エレベーターボーイたちは、一休みしたいために、笑いながら担架をしたへ置いた。
「まだわからんのですかい」と言って、ロビンソンは、ため息をついた、「こんなおれの恰好を見ても。このぶんじゃ、きっと一生かたわ者にされたかもしれないんですぜ。ここからここまで」――そう言いながら、彼は、まず頭を、それから足の爪先を示した――「恐ろしく痛むんでさあ。鼻から血を出したところをあんたに見てほしかったくらいだ。チョッキは、すっかり台なしになって、あすこへほっぽらかして来たし、ズボンもずたずたでさあ。おれは、今パンツ一丁なんですぜ」――そう言って、彼はちょっとかけぶとんを浮かし、カールになかをのぞいて見るように勧めた。「ああ、おれは、これからどうなることやら。すくなくとも二、三ヵ月は寝てなくちゃならんだろうなあ。今ここで言っとくが、この看護をしてもらえる人間は、おれにはあんたしかないんですぜ。ドラマルシェは、ひどくせっかちすぎて、だめなんだ。ロスマン、ねえ、ロスマンよ」そこでロビンソンは、すこし後ずさりしてゆくカールのほうへ、手を差しのべた。撫でて、カールを籠絡するつもりであろう。
「どうしてあんたを訪ねずにはおれなかったんだろうなあ」と、彼は、彼の不幸にカールも連帯責任があることをカールに忘れさせまいとして、いくたびとなく繰り返した。――ところで、カールは、ロビンソンの哀訴が傷のせいではなくて、途方もない二日酔いに基づくものであることを、ただちに悟った。ロビンソンは、泥酔して眠り込むと、すぐにたたき起こされ、不意に血みどろになるまでパンチをくらい続けて、もう覚醒の世界の勝手がすっかりわからなくなったまま、いまだに二日酔いに陥っていたのである。傷が大したものでないことは、古い布切れで間に合わせた無恰好な、包帯を見ただけで、わかった。その包帯は、明らかに、エレベーターボーイたちが面白半分にめったやたらに巻きつけたものにちがいなかった。現に担架の両端にいるふたりのエレベーターボーイも、時おり腹をかかえて笑っていた。しかし、そこは、ロビンソンを正気に戻すには不適当な場所であった。殺到する通行人が、担架のわきの一団に気遣いなく、そのかたわらを急ぎ去っていたし、なかには、まっとうな体操の跳躍をして、ロビンソンのうえを飛び越えてゆく人々も、しばしばあった。カールの金で料金を払ってもらった運転手がそのとき叫んだ、「さあ、さあ、早く」エレベーターボーイのふたりは、最後の力を振りしぼって、担架を持ち上げた。ロビンソンがカールの手をつかんで、猫なで声で言った、「さあ、行こう、いっしょに来てくれよ、な」自分としてもこんな身なりでは自動車の暗い内部にいるのが最も安全かもしれない、そう思ったカールは、ロビンソンと並んで腰を下ろした。ロビンソンは、すぐに頭をカールにもたせかけてきた。あとに残った少年たちは、クーペ型自動車の窓ごしに、かつての同僚であるカールに向かい、心をこめて手を振った。自動車は、急転回して、公道のほうへ向きを取った。絶対になにか不幸が起きるにちがいないと思われたが、あらゆるものを包容する往来は、この自動車の驀進《ばくしん》をも平然とすぐに吸収してしまった。
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隠れ処《が》
自動車が停まったところは、へんぴな郊外の道だったにちがいない。あたりを静けさが支配していて、歩道のへりでは子供たちがうずくまって遊んでいたからである。古着をたくさん肩に担いだ男がひとり、あちこちを見渡しながら、家々の窓に向かってなにやら声を張り上げ叫んでいた。カールは、疲れていたせいか、自動車から朝の太陽に明るく照らされた熱いアスファルトのうえに降り立ったとき、気分が悪くなった。
「ほんとうにこんなところに住んでいるのですか」と、彼は、自動車のなかへ向けて叫んだ。
車が走っているあいだずっとおとなしく眠っていたロビンソンは、なにやらはっきりしなかったが、それを肯定するような言葉をつぶやいて、カールが自分を運び出してくれるのを待っているようであった。
「それでは、もうここには用事がありません。さようなら」と、カールは、言って、やや下り坂になっている道を下りて行こうとした。
「おい、カール、妙なまねはよせやい」と、ロビンソンは、叫んで、きっと心配のあまりであろう、膝こそまだすこしぐらついていたが、かなりまっすぐに車のなかで立った。
「僕は、行くところがあるのです」と、ロビンソンの速やかな回復ぶりを見守っていたカールが言った。
「ワイシャツ姿でか」と、ロビンソンは、尋ねた。
「上着を買うくらいの金ならすぐに稼げるでしょう」と、カールは、答えて、確信ありげにロビンソンに向かってうなずき、手を上げて挨拶した。彼は、そのとき運転手が「旦那、ちょっとお待ちを」と叫ばなかったら、そのままほんとうに立ち去っていたところだった。
そこで、不愉快にも、運転手が追加払いを請求していることが判明した。ホテルのまえでの待ち時間が未払いのままだというわけである。
「そりゃそうだよ」と、自動車のなかからロビンソンが運転手の要求の正しいことを裏書きしながら、叫んだ。
「あすこじゃ、ずいぶん長いあいだあんたを待ったからな。いくらかその男にやるといいや」
「むろん、そのとおりでさ」と、運転手が言った。
「いいとも、多少でも持ち合わせがありさえしたらね」と、カールは、言って、むだと知りつつも、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。「旦那に縋るよりほかないんでね」と、運転手が言って、股を広げ、ふんぞり反って立った。「あちらの病人に請求するわけにはゆかんので」
門のところから鼻をかじられた若者が近づいて来て、数歩離れたところから一心に耳を澄ましていた。ちょうどそのときひとりの警官が通りを巡察中で、面を伏せた眼でワイシャツ姿の人間がいるのを見て取ると、立ち止まった。
そのとき、やはり警官が眼についていたロビンソンが、警官なら蝿のように追い払えるとでも思ったのか、反対側の窓から警官に向かって「なんでもないんでさ、なんでもないんで」と叫ぶという、ばかなまねをした。それまで警官を見守っていた子供たちは、警官が立ち止まったので、カールと運転手がいるのにも気づいて、駆け足で寄って来た。向かいの門のところには、ひとりの老婆が立って、じっとこちらを見やっている。
「ロスマン」と、そのとき頭上から叫び声がした。最上階のバルコニーから叫んだのは、ほかでもない、ドラマルシェであった。彼の容貌そのものは、白みを帯びた青い空のせいか、はっきりとは見分けがつかなかったが、彼は、明らかにガウンをまとっていた。そして、オペラグラスで通りを観察していた。彼のわきには赤い日傘が広げられ、そのしたにひとりの婦人が腰かけているようであった。「おうい」と、彼は、自分の言うことが通じるように、精いっぱいに叫んだ、「ロビンソンもいるかい」
「います」と、カールは、答えた。その声は、それに続いて車のなかからロビンソンが発した、はるかに声高い「いるぜ」によって、しっかりと裏打ちされた。
「おうい」と、叫び声がはじき返って来た、「すぐ行くからな」
ロビンソンが車から首を突き出して、言った、「あれこそ大した男なんだぜ」このドラマルシェへの賛辞は、むろん、カールをはじめ、運転手、警官、そのほか聞いてもらえる者すべてに向けて放たれたものであった。はるか頭上のバルコニーでは、もうドラマルシェの姿がなかったが、ぼんやりと所在ないままに見上げると、日傘のかげでは、現に今、ウエストを絞ってない赤い服を着た、太った婦人が立ち上がり、手すりからオペラグラスを取って、オペラグラスごしに人々を見下ろしはじめていた。そのため、路上の人々も、しだいに彼女からまなざしを逸らすよりほかなかった。カールは、ドラマルシェを待ち受けながら、そこの表門から中庭のほうへ眼を注いでいた。その中庭では、それぞれに小さな箱をひとつ肩にかついで、よぎって行く荷方たちの列が、ほとんどひきもきらなかった。だが、その箱は、明らかに、ひどく重そうだった。運転手は、車のところへ歩み寄って、暇を利用し、ぼろぎれでヘッドライトをみがいていた。ロビンソンは、手足にさわってみて、どんなに注意ぶかくしらべてみても、わずかな痛みしか感じられないのに、われながら驚いている様子で、用心ぶかく、頭を低く下げて、足の太い包帯のひとつをほどきはじめていた。警官は、黒い警棒を前方はすかいに構えたまま、平常勤務のときと張り込み中とを問わず、警官たる者にはぜひ必要な、あのしんぼう強さを示して、静かに待っていた。鼻をかじられた若者は、門の敷石に腰をかけて、両足を突き出していた。子供たちは、小股でしだいにカールのほうへ近づいていた。カールのほうは、子供たちを気にも留めなかったが、子供たちにはカールが、紺いろのワイシャツを着ているせいで、みんなのうちの最も重要な人物のように思われたからであった。
ドラマルシェが現場に着くまでに過ぎた時間の長さで、その建物のたいへんな高さを推測することができた。ドラマルシェは、それでも、ガウンのまえをざっと合わせただけで、大急ぎでやって来た。「まあ無事でよかった」と、彼は、喜びながらも、きびしい口調で叫んだ。彼が大股で歩くたびに、派手な色の下着が終始ちらちらと見えた。カールには、なぜドラマルシェが、この町なかの巨大な貸しアパートのなかや天下の公道のうえを、まるで自身の別邸にいるかのように、あのように気楽な服装をして歩き回るのか、腑に落ちなかった。ロビンソンと同じように、ドラマルシェも、ひどく以前とは変わっていた。彼の浅黒い、よく剃刀《かみそり》の当たった、清潔すぎるほどの、荒っぽく鍛え上げられた筋肉から成る容貌は、いかにも堂々として、畏敬の念を植えつけずにはおかないようであった。彼の今でもやや細めな眼が放つ、ぎらぎらした光は、人の意表をつくに十分であった。彼の紫いろのガウンは古くて、しみがつき、彼のからだには大きすぎたが、その厭らしい部屋着の襟からは、重い正絹で作られた濃い色の大きなネクタイが、盛り上がっていた。
「ところで」と、彼は、並みいる人たちを見回しながら尋ねた。警官がちょっと進み出て、自動車のボンネットに凭れた。カールが簡単に説明した。
「ロビンソンがちょっとへばっているのですが、努力をすれば、階段ぐらいは昇れるでしょう。この運転手は、僕が運賃を払っておいたのに、さらに追加払いを求めているのです。ではこれで、僕は、帰ります。さようなら」
「帰ってはいかん」と、ドラマルシェが言った。
「そのこともちゃんと言っておいたんですがね」と、ロビンソンが車のなかから届け出た。
「とにかく、僕は帰ります」と、カールは、言って、二三歩踏み出した。ところが、ドラマルシェがすぐに彼に追いついて、彼を力ずくで押し戻した。
「ここにおれと言っているんだ」と、彼は、叫んだ。
「いやだ、放っといてくれ」と、カールは、言って、万止むを得なければ、こぶしを振るっても身の自由を獲得する覚悟をしたが、もとより、ドラマルシェのような男を向こうにまわしては、成功の見込みはほとんどないにひとしかった。しかし、警官だって居合わせているし、運転手もいる。それにまた、労働者たちもそこかしこに群れをなして、ふだんはむろん物静かなはずの、この通りを歩いている。もしも自分がドラマルシェからひどい目にあわされれば、それらの連中がはたしてそれを黙って見過ごすだろうか。どこかの一室でドラマルシェとふたり差しになるのは嫌だが、ここなら大丈夫ではあるまいか。見れば、ドラマルシェは、おちついて運転手に金を払っていた。運転手は、なんども頭を下げて分不相応な金額をポケットに納めると、感謝のあまりにロビンソンのところへ行って、ロビンソンと話している。どうすればいちばん手ぎわよくロビンソンを車から運んで行けるかについて相談していることは、明らかである。いまなら誰も自分のほうを見ていない。あるいはドラマルシェとしても、黙って立ち去れば、見のがしやすいのかもしれぬ。争いが避けられるものなら、むろん、それに越したことはない。そう思って、カールは、できうるかぎり速やかに逃げのびるために、いきなり車道へ飛び出した。子供たちがいっせいにドラマルシェのところへ押しかけて、彼にカールの逃走を注意した。しかし、彼自身が乗り出すまでもなかった。警官が警棒をまえに突き出して、「止まれ」と、言ったからである。
「名まえは」と、警官は、尋ねて、警棒を小わきに挾み、ゆっくりと手帳を取り出した。カールは、今初めて警官をしげしげと見た。たくましい男であったが、頭の髪は、もうほとんど真っ白であった。
「カール・ロスマン」と、彼は、言った。
「ロスマン」と、警官は、繰り返した。彼がおうむ返しに言ったのは、疑いもなく、根が穏やかで誠実な人間だったからであるが、しかし、カールとしては、アメリカの官憲と渡り合うのがもとよりこれが初めてのことでもあり、そうしたおうむ返しを早くもなんらかの嫌疑を掛けていることの表われと見なさずにはいられなかった。また事実、形勢は彼に分がなさそうであった。自分自身の心配にひどく気をとられていたロビンソンまでが、車のなかから黙ってしきりと手まねをしながら、ドラマルシェに、カールを助けてやってくれと、頼んでいたからであった。しかし、ドラマルシェは、せわしげに頭を振って、ロビンソンの頼みを断わり、両手を彼の法外に大きなポケットに突っ込んだまま、なにもせずに傍観していた。門の敷石に腰かけていた若者は、いま初めて門から出て来たひとりの婦人に、実状をごく最初からすっかり説明していた。子供たちは、カールのうしろで半円形に立ち、静かに警官の顔を見上げていた。
「君の身分証明書を見せなさい」と、警官は、言った。それはほんの形式的な尋問にすぎなかったにちがいない。上着を着ていなければ、やはり多くの場合、身分証明書を所持してないからである。そう思って、カールは、むしろ次の尋問に詳しく答えて、身分証明書のないことをできうるかぎりうまく取り繕うために、黙っていた。
ところが、次の尋問はこうであった。「すると身分証明書はないんだね」それにはカールも、「今は持ち合わせておりません」と、答えるほかなかった。
「そいつはどうも困ったね」と、警官は、言って、気づかわしげにぐるりをひとわたり見回し、二本の指で手帳の表紙をひとしきりたたいた。「なにか収入でもあるのかね」と、ついに警官は尋ねた。
「エレベーターボーイだったのです」と、カールは、言った。
「エレベーターボーイだったと言うと、もうそうではないわけだね。一体、今はなにで暮らしているのかね」
「これから新しい仕事を探すところです」
「そうか、では解雇されたのだな」
「ええ、一時間まえに」
「突然にかね」
「ええ」と、カールは、言って、許しを乞うかのように、片方の手を上げた。彼は、こんな場処で、事の一部始終を話す気にはなれなかった。またかりにそんな気持ちになったところで、これまでこうむった不当な扱いを話して、目前に追っている不当な仕打ちを防げる見込みは、かいもくないように思われた。それに、料理主任の好意や給仕頭の見識をもってしてさえ、正しさを認められなかった者が、それをこの路上の一団から期待するのは、確かに、むりであった。
「では、上着なしのまま解雇されたのだね」と、警官は尋ねた。
「そうですとも」と、カールは、言った。するとアメリカでも、現に眼で見てわかっていることをことさらに尋ねるのが、官憲の流儀だなと、彼は、思った。(父も、パスポートを入手するおりの官憲の愚にもつかぬ質問攻めには、なんとひどく腹をたてていたことだろう)カールは、さっと逃げ出して、どこかに隠れ、もう尋問を受けずにすませたい気持ちに、しきりと駆られていた。ところが、警官は、委細構わずに、カールが最も恐れていた質問をしたのである。カールがそれまでいつになく軽率にふるまっていたとすれば、おそらく、この質問を予見して、心がおちついていなかったためであろう。
「一体どこのホテルに雇われていたのかね」
彼は、うなだれて、答えなかった。そんな尋問には断じて答えてやるものかと、思った。警官に同行されて、ふたたびホテル・オクシデンタルに戻ることだけは、絶対に禁物である。もしそんなことにでもなれば、ホテルで尋問が行なわれて、それに自分の敵味方が招かれるであろうし、あの料理主任も、下宿屋のブレンナーにいるものとばかり思っていた自分が警官に逮捕され、ワイシャツ姿のまま、彼女の名刺も持たずに帰って来たのを見ては、そうでなくともすでにひどく薄らぎかけている自分への好意を、すっかり棄ててしまうにちがいない。おそらく、給仕頭は、ただいかにも意味深長そうにうなずくだけかもしれないが、それにひきかえ、あの守衛長のごときは、ならず者をついに見つけた神の手について、一席弁じることだろう。
「ホテル・オクシデンタルに雇われていたんでさあ」と、ドラマルシェが言って、警官のそばへ歩み寄った。
「ちがいます」と、カールは、叫んで、地団太《じだんだ》を踏んだ、「それは、嘘です」ドラマルシェは、まだほかにまるっきり別なことをもばらすことができると言いたげに、あざけるように口をとがらせながら、彼を見つめた。カールの大袈裟な動作が子供たちのあいだに思いもかけない興奮を巻き起こし、子供たちは、ドラマルシェのほうへ寄って行った。むしろ、そこからカールを詳しく観察するためであった。ロビンソンは、ひどく首を車窓から突き出して、固唾《かたず》をのみながらすっかり静かに控えていた。時おり見せるまたたきが彼のただひとつの動作であった。門のところの若者は、面白がって手を打ち、そのわきの婦人が、静かにするように、彼を肘で突いていた。荷方たちが、たまたま朝食時の休みで、いずれもクリーム抜きのコーヒーを入れたポットを持ち、細長いパンでそのなかをかき回しながら、いっせいに姿を現わした。なかには、歩道のへりに腰を下ろす者もあったが、みな言い合したように、大きな音を立ててコーヒーをすすっていた。
「この少年をご存じなのですね」と、警官がドラマルシェに尋ねた。
「厭というほど十二分にね」と、ドラマルシェが言った、「昔、その子にいろいろと親切を尽くしてやったんですが、恩を仇で返しよりましてな。それは、あなたも、この子にほんのちょっとされた尋問で、たやすく合点がゆくことと思いますが」
「なるほど」と、警官は、言った。「どうも強情な子のようですな」
「そうなんですよ」と、ドラマルシェが言った、「ですが、それはまだこの子の性質のいちばん悪い点ではないのでして」
「ほんとうですか」と、警官は、驚いた。
「そうなんですよ」と、ドラマルシェは、話を続けるとともに、ポケットのなかに突っ込んだ両手でガウン全体を揺り動かしながら、言った。「これは、実に抜けめのないやつなんです。おれとあすこの車の中にいるおれの友人と、ふたりで偶然にもこいつを悲惨な境遇から拾い上げてやったわけですが、当時、こいつは、アメリカの事情についちゃからっきし見当もつかないくらいでしてね。ちょうどヨーロッパからきたばかりのところで、ヨーロッパでも使いものにならなかったんですな。ところで、足手まといのこいつを引き連れて、おれたちは、こいつをおれたちの暮らしの仲間に入れてやり、なにからなにまで説明してやって、こいつに勤め口の世話までしてやろうとしたんです。あのころはまだ、おれたちも、いろいろとそれを否定するような徴候がありながらも、こいつを一人まえの役に立つ人間に仕立て上げられるものと、思い込んでいたわけですな。その矢先に、こいつは、ある夜姿を消して、それっきりずらかってしまったんです。しかもそれが、おれもむしろここでは黙っておきたいような、付帯事情のもとでね、おい、どうだい、そうじゃなかったかい」と、ドラマルシェは、最後にきいて、カールのワイシャツの袖口をつまんで引っ張った。
「子供たちは、どいた、どいた」と、警官は、叫んだ。子供たちがずっとまえに詰めかけていたので、ドラマルシェが危うくひとりの子に躓きかけたからであった。そのあいだに、それまではこの尋問の面白さを見くびっていた荷方たちも、しだいに関心をそそられたのか、カールのうしろで、すき間もないほど、輪なりに集まっていた。カールは、こうなると、一歩もさがることができないくらいであった。おまけに、全く意味のわからない、たぶんスラブ語混じりかと思われる英語で、話すというよりは、がなり立てている荷方たちの声が、たえず入り混じって、耳にはいって来るのである。
「ご教示に感謝します」と、警官は、言うと、ドラマルシェに向かって敬礼した。「いずれにせよ、この子を連れて行ってホテル・オクシデンタルに返すように、手配しましょう」ところが、ドラマルシェが言った、「なんでしたら、この子をさしあたりおれにお預け願えませんか。この子と二、三解決せねばならんことがありますんで。それが済み次第、おれの手で、責任もって、この子をホテルへ連れ戻しますが」
「それは、困ります」と、警官が言った。
ドラマルシェは、「これがおれの名刺ですが」と言って、小さな名刺を警官に差し出した。
警官は、尊敬の眼でそれを見詰めていたが、やがて愛想笑いを見せながら、言った。「いや、それも無益です」
カールは、それまでひどくドラマルシェを警戒していたが、今はドラマルシェが唯一可能な救い手のように見えてきた。なるほど、ドラマルシェが警官にたいしてこの自分を所望している態度には、なにか胡散臭いものがあるが、いずれにせよ、相手の心を動かして、自分をホテルに連れ戻さぬようにさせるためには、警官よりもドラマルシェのほうがずっと御しやすいにちがいない。それに、たといドラマルシェの手で自分がホテルへ戻されたとしても、警官に伴われるよりは、はるかにましである。とにかく、さしあたっては、むろん、自分がほんとうはドラマルシェのもとへ行きたがっていることを、気どられてはならぬ。さもないと、なにもかも駄目になってしまう。そう考えて、不安に駆られながら、カールは、自分を引っ捕えるためにいつ挙げられるかもしれない警官の手を、見詰めていた。
「本官としても、せめて、この子がどうして突然に解雇になったかぐらいは、聞いておかないといけないのだが」と、ついに警官が言った。ドラマルシェのほうは、腹だたしげな顔をして、わきへ眼をそらしたまま、指先のあいだで名刺をもみくちゃにしていた。
「いや、なにも解雇されちゃいませんぜ」と、ロビンソンか一同の意表をつくように叫んで、運転手に取り縋りながら、できるかぎり車から上半身を乗り出した。「それどころか、あすこでいい地位にいたんでさ。共同寝室じゃいちばんの頭《かしら》で、好き勝手にだれを連れ込んでもいい身分なんですぜ。ただべらぼうに忙しいからだだから、その子からなにかもらいたいものがあっても、長いあいだ待たなきゃならないだけさ。しょっちゅう給仕頭や料理主任のもとに出入りして、腹心というわけさ。解雇されただなんて、とんでもない。どうしてその子がそんなことを言い出したのか、おれにはさっぱり解《げ》せん。解雇される道理がないじゃないか。おれがホテルで重傷を負ったんで、その子が、おれを家へ運べという命令を受けたんだ。たまたま上着なしでいたもんだから、上着なしで同乗して来たまでさ。その子が上着を取って来るまで、おれが待ち切れなかったもんだから」
「すると、どうなりますかな」と、ドラマルシェは、両腕を広げ、警官に人を見る眼がないのをなじるような口調で、言った。この彼の二言は、ロビンソンの発言の曖昧さにもはや反駁し得ない明確さを与えたように思われた。
「やはり、そちらのほうがほんとうですかね」と、警官は、早くもかぼそい声になって、尋ねた。「もしそれがほんとうなら、この少年はどうして解雇されたなどと申し立てたのでしょうな」
「おまえからじきじきに答えろ」と、ドラマルシェが言った。
カールは、わが身のことしか念頭にない未知の人たちのあいだに立って、今やなんとか解決せねばならぬはめになった警官を、じっと見詰めた。警官一般のもつ苦慮というものがいくらかカールのほうにも伝わって来た。彼は、嘘をつきたくなかった。両手を背後でかたく組み合わせたまま、立っていた。門のところに監督らしい男が現われ、荷方たちをふたたび仕事につかせる合い図に、手をたたいた。荷方たちは、ポットから底にたまっていた澱《おり》をぶちまけ、よろめく足取りで黙々と建物のなかへはいって行った。
「これでは切りがありませんな」と、警官が言って、カールの腕を掴もうとした。カールは、思わずすこし後ずさりした。そのときふと、荷方たちが引き揚げたために、さえぎるもののない空間が自分の背後に開かれているのを感じて、くるりと向きを変えると、まず弾《はず》みをつけるためであろう、二、三度大股で跳んでから、そのまま駆け出した。子供たちがいっせいに喚声を発して、小さな腕を伸ばしながら、二、三歩彼について走った。
「そいつをつかまえろ」と、警官は、ほとんど人けのない長い路次を見下ろして叫んだ。そして、この叫びを程合いよく発しながら、すぐれた体力と鍛練を示すように、カールのあとを静かに追いかけて行った。追跡が労働者街で行なわれたことが、カールの身には、もっけの幸いであった。労働者は、官憲と反りが合わない。カールは、車道のまんなかを走っていた。そこでは障害になるものがきわめてすくなかったからである。時おり歩道では、労働者たちが立ち止まってはいたが、警官が彼らに「そいつをつかまえろ」と叫びかけ、走りながら――警官は、賢明にも、終始平らな歩道のうえを走っていた――ひっきりなしに警棒をカールのほうへ突き出していても、彼らは、ただ静かに見守っているだけであった。カールは、ほとんど期待してなかった。横町への交差点が眼のまえに近づいて、警官がいきなり耳を聾《ろう》するほどに呼び子を吹いたときは、ほとんど絶望しかけたくらいであった。横町にはきっと警察パトロール隊もいるにちがいなかったからであった。カールの有利な点は、ただ身軽な服装だけであった。彼は、しだいに下り坂になっている道を、真っしぐらに、飛んで行くというよりか、むしろ、転《まろ》び落ちて行った。ただしばしば、眠けのためにうっかりしていたのだろう、あまりにも高く跳び上がっていたのは、時間の浪費にすぎなかった。むだであった。しかも、警官のほうは、べつに思案するまでもなく、つねに目標が眼のまえにあった。それにひきかえ、カールにとっては、走ることは、そもそも二次的問題であった。彼は、思案し、さまざまな可能性のなかで選び、つねにあらたに決心せねばならなかったのである。彼のいささか捨て鉢な方策は、さしずめ、横町を避けることであった。横町にはなにが潜んでいるか、知れなかったし、もしかすると、まっすぐに交番へ駆け込むことにもなりかねなかったからである。彼は、なるたけこの遠くまで見通しのきく通りを離れまいと思った。道は、ようやく坂を下りきったところが、橋になっていて、橋は、袂《たもと》のあたりだけしか見えず、その向こうは、霞とも靄ともつかぬ濛気のなかに隠れていた。そう決心してから、カールが、最初の横町の角をとりわけ急いで通り越すために、全力を振り絞ってさらに素早く飛ばそうとしたときだった。前方のさして遠くないところで、蔭になった家の暗い壁にぴったりからだをおしつけて待ち伏せしながら、いいころ合いを見てカールに飛びかかってやろうと構えている、ひとりの警官のすがたが、眼についた。もうこうなっては、横町よりほかに助かる道はなかった。その横町から、きわめて悪意のない声で、自分の名まえが呼ばれたのを耳にしたが――彼にはそれが最初は錯覚のように思われた。走り出してからずっと耳鳴りがしていたからであった――、彼ももうためらってはいられなかった。彼は、できうるかぎり警官たちの度肝を抜くために、ぴょんぴょんと片足とびをしながら、直角に横町へ曲がった。
カールが二跳びばかり行くか行かぬうち――彼は、自分の名まえを呼ばれたことを早くも忘れていた。またそのとき、第二の警官も呼び子を吹いた。この警官は、明らかに、まだ力を消耗していなかった。この横町のはるか前方にいる通行人たちも歩度を速めたようであった――、とある小さな家の戸口から、いきなり一本の手がカールのほうへ伸びて、「静かに」と言いながら、彼を小暗い土間へ引っ張り込んだ。それは、ドラマルシェであった。すっかり息を切らし、頬を火照《ほて》らして、髪は、首のまわりにべったりへばりついている。彼は、ガウンをわきにかかえて、着ているものと言えば、シャツとパンツだけであった。本来の表口ではなくて、目立たぬ勝手口にすぎなかったその戸口を、ドラマルシェは、すぐに締めて、かんぬきをかけた。
「ちょっと待て」と、彼は、言うと、頭を上げて壁にもたれ、荒い息づかいをした。カールは、危うく倒れるところを彼の腕に支えられ、なかば意識を失って、彼の胸に顔を押しつけていた。
「ほら、あの連中が走って行くぞ」と、ドラマルシェは、言って、耳をそばだてながら、人さし指を戸口のほうへ伸ばした。確かに、ふたりの警官が、今走りすぎて行くところであった。彼らの足音が、人気のない路次のなかで、鋼鉄が石にたたきつけられるように響いた。
「それにしても、ひどく参っているじゃないか」と、ドラマルシェがカールに言った。カールは、いまだに息が詰まって、一言も物が言えなかった。ドラマルシェは、注意ぶかくカールを三和土《たたき》のうえにすわらせ、彼のそばにひざまずいて、いくたびとなく彼の頭をなでながら、彼の様子を見守った。
「もう大丈夫です」と、カールは言い、辛うじて立ち上がった。
「それじゃ行こう」と、ふたたびガウンを身にまとっていたドラマルシェが言った。そして、まだ衰弱のあまりに頭をがくりと垂れたままのカールをまえに押し立てて行った。時おり彼は、カールを元気づけるために、カールのからだをゆさぶった。
「おまえは、疲れたと言いたいんだろう」と、ドラマルシェが言った。「おまえは、それでも、戸外を馬のように走れてよかったが、おれのほうは、こんないまいましい通路や中庭をこっそり通り抜けなきゃならなかったんだぜ。幸い、このおれも、走りが得意だったからよかったんだ」彼は、得意げに手を大きくうしろへ引いて、カールの背へ一撃をくれた。「時には警官とのあんな競走もいい訓練さ」
「僕は、走りはじめたときからもう疲れていたのです」と、カールは、言った。
「へたな走りかたをしておいて、今さら言いわけするやつがどこにあるか」と、ドラマルシェが言った。「おれがいなかったら、おまえは、とっくに捉《つか》まっていたんだぞ」
「僕もそう思っています」と、カールは、言った。「ほんとうに有りがとうございます」
「知れたことよ」と、ドラマルシェが言った。
ふたりは、黒ずんだなめらかな石を敷き詰めた、長い、狭い通路を抜けて行った。そこかしこの右手や左手で、階段の上がり口が開いていたり、ほかの一段と広い通路が見通せたりした。大人たちの姿はほとんど見かけられず、子供たちががらんとした階段のうえで遊んでいた。とある欄干のそばでは、小さな女の子が立って、泣いていたが、涙のために顔じゅうが光ってみえた。その子は、ドラマルシェを見るやいなや、口をあけてあえぎながら、階段を駆け上って行き、うえの踊り場でなんども振り返ってから、自分を追って来る者や追って来そうな者がいないのを確かめると、やっと安心したようであった。
「あの子をついさっき走って行く途中で突き倒してしまったのさ」と、ドラマルシェは、笑いながら言って、こぶしを固めて女の子をおどかした。すると、女の子は、わめきながら、さらに階段を駆け上って行った。
ふたりがよぎったいくつもの中庭にも、ほとんど人の気配《けはい》はなかった。ただ時おり、荷方が二輪の手押し車を押して行ったり、女がポンプを押して水差しに水を入れていたり、郵便配達夫がゆっくりした足取りで中庭を横切っているくらいであった。真っ白い口ひげをゆたかに蓄えた老人がひとり、入り口のガラス戸のまえに足を組んですわり、パイプをくゆらしていた。とある運送店のまえでは、積み荷の箱がおろされ、暇になった馬がのんびりと首を振り回していた。上っ張りを着たひとりの男が、一枚の紙を手に、その作業全体を監視している。事務室の窓があいていて、事務机にすわっていた使用人が机から眼を離したまま、思いにふけるように、窓外の、たまたまカールとドラマルシェが通りすぎるあたりを、見やっていた。
「願ってもないほど物静かな土地なんだ」と、ドラマルシェが言った。「晩になると、二、三時間はひどく騒々しいが、ここの日中ときたら、静けさの典型のようなものさ」カールは、うなずいた。彼には、むしろ気味悪いほど静かすぎるように思われた。「ほかの土地にはどうも住むわけにはゆかないのさ」と、ドラマルシェが言った。「ブルネルダが、騒がしいと、とても居た堪らなくなるんでね。ブルネルダを知ってるかい。まあ、今に会えるさ。とにかく勧めておくが、できるだけ静かにふるまったほうがいいぜ」
ふたりがドラマルシェの住まいに通じる階段口にまで来たときは、もう自動車も走り去ったあとだった。鼻をかじられた若者が、カールがふたたび現われたことに驚く様子もなく、ロビンソンを自分が階段を運び上げたと、報告した。ドラマルシェは、自明の義務を果たした自分の召使にたいするように、ただ若者にうなずいただけで、やや後込《しりご》みしながら日の当たった通りに目を注いでいたカールを引っぱって、階段を昇って行った。「もうすぐだぜ」と、ドラマルシェが階段を昇りながら、幾度か言ったが、彼の予告は、一向に実現しそうもなかった。次から次へと、ひとつの階段に、ほとんど気づかないほどに方向を変えて、新しい階段が続いていた。カールは、一度は立ち止まりさえした。実は、疲労のせいではなくて、こうした階段の長さにたいして、全く抵抗力がないからであった。「確かに住まいがひどく高いところにあるにはあるが」と、ドラマルシェは、ふたりがさらに階段を上りはじめると、言った。「それにはまた、それだけの利点もあるんだ。外出は、めったにしないし、一日じゅうガウンを着たまま、至極くつろいで暮らせるのさ。むろん、こんな高いところへは訪問客も上って来ないしさ」
≪どこからも訪問客がないくせに≫と、カールは、思った。ついに階段の踊り場の締まった戸口のまえにロビンソンの姿が見えた。やっとたどりついたわけである。階段は、まだそこで終わらずに、薄暗がりのなかを延びていた。間もなくそれが終わることを暗示しているようなものは、どこにも見当たらなかった。
「実はおれも思っていたところさ」と、ロビンソンは、まだ痛みがひどくこたえるのか、声をひそめて言った、「ドラマルシェが連れて帰るとな。ロスマン、おまえは、ドラマルシェがいなかったら、どうなったかしれやしないんだぞ」ロビンソンは、肌着のまま立って、ホテル・オクシデンタルからあてがわれていた小さな掛けぶとんになんとかして巧くからだをくるめこもうと苦心していた。おそらくこのあたりにも通りすがりの人たちがいたはずなのに、その人たちの物笑いにならないよう、どうして彼が住まいのなかへはいって行かなかったのか、納得できないことであった。
「あれは、お休みかい」と、ドラマルシェが尋ねた。
「そうとは思いませんがね」と、ロビンソンが言った、「やっぱりあんたが帰るまで待ったほうがいいと思ったもんで」
「まず、眠っているかどうか、見て確かめなきゃ」と、ドラマルシェは、言って、鍵穴のほうへ上半身を曲げた。そして、さまざまに頭をひねりながら、長いあいだのぞき込んでから、身を起こして、言った。「どうもはっきりとは見届けられん。ブラインドが下ろしてあるんでな。長椅子にすわっているんだが、たぶん眠っているんだろう」
「病気なのですか」とカールは、尋ねた。ドラマルシェが、助言を求めるかのような様子で、立っていたからである。ところが、ドラマルシェは、それを耳にするなり、鋭い語調でききかえした、「病気だと」
「こいつは、あの人を知らないからでさあ」と、ロビンソンが言いわけするように言った。
ちょうど戸口の二つ三つ向こうでは、ふたりの主婦が廊下へ出て、エプロンで手をぬぐいながら、ドラマルシェとロビンソンのほうを見やっては、なにやらふたりのことを話して、面白がっているようであった。そこへまた、とある戸口から、みごとな金髪の、まだ年端もゆかぬ女の子が飛び出してきて、ふたりの主婦と腕を組みながら、しなだれるようにふたりの主婦のあいだへ割り込んだ。
「胸糞のわるい女どもだ」と、ドラマルシェは、声低く言った。明らかに、それは、眠っているブルネルダへの顧慮から出た言葉にちがいなかった。「近いうちに、あいつらを警察へ告発して、数年間なりと、あいつらに、はらはらせずとも済むようにしてやろう。あっちを見るな」そう言って、彼は、カールをしっと制止した。カールは、現にこうして廊下でブルネルダの目覚めを待たねばならぬ以上、あの主婦たちを眺めたところで、なんら不都合なことはないように思った。すると彼は、腹だたしくなってきて、ドラマルシェの警告を受け入れねばならぬいわれがなんらないかのように、頭を振りながら、さらに、このことを明らかに態度で示すために、主婦たちのほうへおもむこうとした。そのとき、ロビンソンが「ロスマン、やめろ」と言いながら、彼の袖口をつかんで引き留めた。すると、そうでなくともカールの態度にむかむかしていたドラマルシェが、少女の高らかな笑い声を聞いて、ついに怒りを爆発し、いきなり大股で助走をつけると、手を振り足をおどらせながら、主婦たちを目がけて駆けて行った。それと見るより、女連中は、風に吹き散らされたように、めいめいの戸口へ姿を消してしまった。
「ここにいると、こうしてなんども廊下を一掃せねばならんのさ」と、ドラマルシェは、ゆっくりした足取りで戻って来て、言った。それから、ふとカールの反抗を思い出して、言った、「とにかく、今後はすっかり態度を改めるよう、おまえに期待するぜ。さもないと、おれからどんな苦い汁をなめさせられるかもしれんぞ」
そのとき、部屋のなかから、優しい物倦いような口調で、不審そうな声が響いた、「ドラマルシェなの」
「そうだよ」と、ドラマルシェは、言って、なつかしげにドアを見守った。「はいってもいいかい」
「もちろんよ」との返事であった。ドラマルシェは、背後に控えているふたりにちらと一瞥《いちべつ》をくれてから、ゆっくりとドアをあけた。
なかは真っ暗だった。バルコニーへの出口のところのカーテンが、床《ゆか》まで下ろされていて、ほとんど光を通さなかった。窓は、どこにもなかった。おまけに部屋のなかは、所狭しとばかりに家具が置かれ、衣服がまわりに掛けてあって、それが部屋を暗くするのに大いに役立っていた。空気は、むっとするほど重苦しく、ほこり臭かった。これでは、明らかに、だれの手もすみずみにまでは届きようがなく、そこがほこりの溜まり場所になっているにちがいなかった。カールが部屋にはいって最初に気づいたのは、すき間もなく相前後して並べてある、三つの箱であった。
寝椅子の上には、先刻バルコニーから見下ろしていた婦人が、横たわっていた。彼女の赤い服は、裾のほうがすこしよじれて、大きく三角形に垂れ、先が床《ゆか》まで届いていた。両足とも、ほとんど膝のあたりまで、むき出しになっていた。ぶ厚い白い毛の靴下をはいてはいたが、靴は、はいてなかった。
「きっと熱があるのよ、ドラマルシェ」と、彼女は、言って、顔を壁からこちらへ向け、手をだらしなくふわりとドラマルシェに差し出した。ドラマルシェは、その手を握り、接吻した。カールは、顔を向けるにつれて波打ちながらついて来る彼女の二重あごに、ひたすら見入っていた。
「カーテンでも上げさせましょうか」と、ドラマルシェが尋ねた。
「それだけは止して」と、彼女は、眼を閉じて、いかにも絶望したように言った。「そんなことをすると、ひどくなるばかりだわ」
カールは、婦人を詳しく観察するために、寝椅子の足のほうの端へ歩み寄った。彼は、彼女の哀訴ぶりを不思議に思った。熱は、けっして大したことがなかったからである。
「お待ち、すこし楽にしてあげよう」と、ドラマルシェは、心配そうに言って、襟元のボタンを二つ、三つはずし、服のまえをはだけたので、首と胸の上端とがあらわになり、シュミーズの黄いろがかった薄いレースの縁飾りが現われた。
「あれはだれなの」と、婦人は、出し抜けに言って、指でカールを差した。「どうしてあんなにわたしを見詰めているのかしら」
「おまえにはおっつけ働いてもらうようになるからな」と、ドラマルシェは、言って、カールをわきへ押しのけながら、「こいつは、おれがおまえの召使にと思って連れて来た、少年なんだよ」と言って、婦人をなだめた。
「でも、わたし、だれも置きたくないわ」と、彼女が叫んだ。「どうしてよその人たちをわたしの家へなんか連れて来るの」
「だって、おまえは、四六時ちゅう召使を欲しがっていたじゃないか」と、ドラマルシェは、言って、ひざまずいた。寝椅子は、かなり幅が広かったにもかかわらず、ブルネルダのよこにはすこしの腰かける余地さえもなかったのである。
「ああ、ドラマルシェ」と、彼女は、言った、「あんたはわたしの気持ちがわからないのね。やっぱり、わたしの気持ちがわからないんだわ」
「こうなると、ほんとうにおれにはおまえの気持ちがわからなくなってきた」と、ドラマルシェは、言いながら、彼女の顔を両手のあいだに挾み持った。「だが、まだなにも白紙の状態だし、おまえが望むなら、即刻あいつを追い返してもいいよ」
「もうここまで来させた以上は、置いてやらないといけないわ」と、彼女がすかさず言い返した。カールは、疲れ切っていたので、このおそらくはけっして親切ずくで言ったのではない彼女の言葉が、ひどく有りがたかった。彼は、もしかするとすぐにまた降りて行かねばならなかったあの限りない階段を、今もなお、漠然と思い浮かべながらも、もらって来た掛けぶとんのうえで安らかに眠っているロビンソンをまたいで歩み出ると、ドラマルシェが腹だたしげに両手を振り回していたにもかかわらず、言った。「取りあえず、僕としては、今しばらく僕をここへ置いてくださることにたいして、お礼を申さねばなりません。実は、もう二十四時間も眠らずに、そのあいだ、いやというほど働き、さまざまに気のたつことばかりで、僕は、恐ろしく疲れているのです。自分が今どこにいるかも、しかとはわからないくらいなのです。でも、二、三時間なりと眠らせてくださいましたら、ご遠慮なく僕を追い出してくださって結構です。僕は喜んで出て行きます」
「とにかく、ここにいていいんだよ」と、婦人は、言って、皮肉るように付け足した、「見たらわかるように、場所もありあまるほどあるしね」
「それでは、出て行ってくれ」と、ドラマルシェが言った。「おまえをここで使うわけにはゆかん」
「いえ、この子は置いてやるのよ」と、婦人は、またもきっぱりと言い切った。するとドラマルシェが、婦人の望みを実行に移すように、カールに向かって言った。
「それでは、どこでなりと勝手に横になるがいい」
「その子は、例のカーテンのうえに寝かせてやってもいいわ。でも、引き裂かないように、長靴を脱がせてね」
ドラマルシェは、婦人が言った場所をカールに教えた。ちょうど戸口と三本の戸棚とのあいだに、きわめて多種多様な窓のカーテンが、山のようにうずたかく投げ込んであった。もしもそれらのカーテンを残らずきちんと一様に折りたたみなおし、重い生地のものをいちばん下にして、しだいに生地の軽いものを上に積み重ね、そして最後に、その山のなかに差し込んであったさまざまな板や木製の輪を引き抜きさえすれば、さして悪くない寝床ができたはずである。今のままでは、ただ揺れたり滑ったりする、大きなかたまりにすぎなかった。しかし、カールは、それでもすぐにそのかたまりのうえに身を横たえた。特別に寝床の準備をするには、あまりにも疲れていたし、またこの家の主人たちのことを顧慮すると、大仰なことをしないように気をつけねばならなかったからでもあった。
彼がすでにほとんど熟睡しかけていたときであった。大きな叫び声を耳にして、身を起こすと、ブルネルダが寝椅子のうえにまっすぐにすわって、腕をぐっと広げ、彼女のまえにひざまずいているドラマルシェに抱きつくさまが、眼に映った。その光景を見るに忍びなかったカールは、ふたたびうしろへ凭れかかって、眠りを続けるために、カーテンのなかへからだを埋めた。ここでの生活に自分が二日と耐えられないことは、もはや彼には明らかなように思われた。それだけになおさら必要なことは、まずぐっすりと十分な睡眠を取って置くことであった。そうすれば、完全に思慮分別を働かして、速やかに正しく決心することができるからである。
ところが、ブルネルダが、先にも一度ぎくりとさせられたところの、疲労のためにかっと見開かれているカールの両眼に、またしても気づいて、叫んだ。「ドラマルシェ、体が熱くてたまらないわ。燃えるようよ。着物を脱がなくちゃ。水を浴びるわ。あのふたりを部屋から、どこへなりと、廊下でもいいわ、バルコニーでもいいわ、わたしの眼につかないところへ、追い出してちょうだい。自分の家にいながら、いつも邪魔ばかりされて。ドラマルシェ、あんたとふたりきりになりたいわ。ああ、情けない、まだあの連中がそこにいるわ。あの恥しらずのロビンソンと来たら、淑女の面前で、肌着姿のまま、大の字になっているんですもの。それに、あのよそ者の少年はどう。ついさっきは、とてもすごい眼でわたしを見詰めていたのよ。今はまた、横になっているけれど、あれは、わたしをだますためだわ。さあ早くふたりを片づけてよ、ドラマルシェ。あのふたりは、わたしには重荷よ。胸にのしかかって息苦しいわ。わたしが今死んだら、あのふたりのせいよ」
「すぐにやつらを追い出すから、さっさとお脱ぎ」と、ドラマルシェは言って、ロビンソンのほうへ行くと、彼の胸のうえに片足を置き、彼を足で揺すった。そして同時に、カールのほうへ向かって叫んだ。「ロスマン、起きるんだ。おまえたちふたりとも、バルコニーへ出てくれ。いいか、呼ばないうちに、はいって来ると、痛いめに会うぞ。さあ、とっとと行くんだ、ロビンソン」――そう言いながら、彼は、一層激しくロビンソンのからだを揺さぶった――「それから、おい、ロスマン、おまえもおれになぐられないように気をつけろ」そう言いながら、彼は、音高く二度手をたたいた。「ずいぶん手間どるわね」と、ブルネルダが寝椅子のうえから叫んだ、彼女は、腰をかけていたが、その途方もなく太ったからだにできうるかぎりゆとりを与えるために、両足をぐっと左右に広げていた。彼女は、いくたびも休んでは、またはあはあと喘ぎ続けながら、どんなに精いっぱい苦労しても、はいている靴下の最上端をつかんで、それをすこし引き下ろす程度にしか、からだを曲げることができなかった。身に着けているものをすっかり脱いでしまうことは、とても彼女にはできなかった。その世話はドラマルシェがせねばならない。それで、彼女は、今もどかしげにドラマルシェを待っているのである。
疲労のためにすっかり意識が朦朧《もうろう》としたまま、カールは、カーテンの山からはい下りると、ゆっくりバルコニーの出口のほうへ歩いて行った。片方の足には、一枚の生地が絡みついたままだった。彼は、平気でそれを引きずっていた。こうして気抜けしながらも、彼は、ブルネルダのかたわらを過ぎるときは、「お休みなさい」と言って、それから、バルコニーへの出口のカーテンをすこしばかりわきへ引き寄せているドラマルシェのそばを通り、バルコニーへ出た。カールのすぐあとから、ロビンソンがやって来た。彼もきっと同じように眠いのだろう。「なんと虐待続きじゃねえか。ブルネルダがいっしょに来てくれなきゃ、おれは、バルコニーへ行かないぞ」と、ひとりうそぶいていた。とはいえ、そうした断言にもかかわらず、彼は、なんの抵抗もしないで、そとに出た。そして、カールがすでに肘かけ椅子にぐったりとからだを沈めていたので、彼は、すぐさま石畳のうえに横になった。
カールが目をさましたときは、もう晩であった。星がすでに空に出ていて、通りの向かい側の高い家並みのかなたでは、月の光がさし昇っていた。この不案内な土地を二、三度見渡し、涼しいさわやかな大気のなかで二、三度深呼吸してから、カールは、やっと自分がどこにいるかを悟った。ああ、自分は、なんと軽はずみだったのだろう。料理主任の助言も、テレーゼの忠告も、また自身のこれまでの懸念も、すべてすっかり等閑に付してしまって、今こうして安閑とドラマルシェのバルコニーにすわっているとは。しかも、ここで、そのカーテンの向こうには自分の大敵であるドラマルシェがいることをさえも忘れて、自分は、半日も寝て過ごしてしまったのだ。そう思いながら、ふと気づくと、床のうえでは、ぐうたらなロビンソンが身をねじりすじりしながら、カールの足を引っぱっていた。どうやらそうしたやり方でカールを起こしたらしい。彼が、「よく寝てたなあ、ロスマン。それが、あのなんの煩いもない少年時代というもんだろうな。一体、いつまで眠りたいんだい。おれもあんたをずっと寝かせてやりたいのは、山々だったんだが、第一、床のうえにこうしているのが退屈でたまらんのさ。また第二に、ひどく腹ぺこなんだ。それで、頼むから、ちょっと立ってくれ。そこのしたの、肘かけ椅子の内側に、食べる物をしまっておいたんで、そいつを取り出したいんだ。あんたにも、むろん、すこし分けてやるからな」と、言ったからである。カールは、立ち上がると、ロビンソンが、立ち上がりもせずに、腹ばいながら寄って来て、両手を伸ばし、肘かけ椅子のしたから、一枚の銀めっきした皿を取り出すさまを、眺めていた。あるいは名刺受け用としてふつう用いられるのではないかと思われる、その皿のうえには、しかし、真っ黒いソーセージが半分と、なかの葉が落ちて平ぺったくなった二、三本の紙巻き煙草、口はあいていたが、まだたっぷりなかみが詰まっていて、油があふれ出ているサーディンの罐詰め、大部分がおしつぶされてくっつきあい、ひとつのかたまりになっている、たくさんのボンボンなどが、のっていた。さらにその皿に続いて、大きなひときれのパンと香水瓶のようなものとが現われた。瓶のなかには、しかし、なにか香水とはちがったものがはいっているらしかった。ロビンソンがことのほか満足げにその瓶を指さして、カールを見上げながら、舌打ちして見せたからである。
「いいかい、ロスマン」と、ロビンソンは、言いながら、次々とサーディンをむさぼるようにのみ下しては、時おり、明らかにブルネルダがバルコニーに置き忘れたものと思われる毛布で、手についた油をふき取っていた。「いいかい、ロスマン、飢え死にするのがいやなら、こうして食べ物を貯えておかなきゃならないんだ。おれは、このとおり、すっかり除け者にされた居候だ。だれだって、しょっちゅう犬のように扱われていたら、ついには自分をほんとうに犬のように思い込んでしまうものさ。ロスマン、あんたがそこにいてくれて、有りがたい。すくなくともおれに話し相手ができたものな。この建物じゃ、だれもおれに口を利かない。おれたちは憎まれ者なんだ、なにもかもブルネルダのせいさ。それにしても、あれは、実にすばらしい女なんだぜ、おい――」そう言って、彼は、カールに耳打ちするために、彼を招き寄せた――「おれは、一度あれの裸を見たことがあるんだ。おお」彼は、そのときの喜びを思い出しながら、カールの足を抱き締めたりたたいたりしはじめたので、ついにはカールも、「ロビンソン、気でも狂ったのじゃないか」と、叫んで、ロビンソンの手をつかみ、突き放すよりほかなかった。
「あんたは、まだほんの子供だもんな」とロビンソンは、言って、首の飾りひもに釣り下げていた匕首をシャツのしたから引き出し、さやを取って、固いソーセージを切り分けていった。「あんたは、まだいろいろと覚えなくちゃならんことがあるぜ。それには、おれたちのところが、お誂《あつら》え向きの本場なのさ。まあ、腰でもかけろよ。あんたもなにか食べないかい。まあいいや、おれの食べるところを見ていりゃ、そのうち、あんたも食欲がわいてくるかもしれんて。飲むのもいやかい。それにしても、からっきしなにも欲しくないんだな。それに、あんたときたら、べつによくしゃべるほうでもないしさ。とにかく、だれでもいてくれさえすりゃいい。だれといっしょにバルコニーにいようと、そんなことは全くどうでもいいことだ。と言うのも、おれは、バルコニーで過ごすことが、ひどく多いからだが。そいつがまたあのブルネルダには面白くてならないのさ。やれ、きょうは寒いのとか、やれ、暑いのとか、やれねむたいとか、やれ、髪をすきたいとか、やれ、コルセットをはずしたいとか、やれ、コルセットを着たいとか、なにか彼女が思いつきさえすると、おれは、いつもバルコニーへ追いやられるんだ。時には彼女も、ほんとうに、口で言ったとおりのことをすることもあるんだが、たいていは、あいもかわらずずっと寝椅子のうえに寝たきりで、身動きひとつしないでいるのさ。以前は、おれもよくそのカーテンをほんのちょっぴり引きやって、なかを覗いたものだが、いつだったか、そうしたおりに、ドラマルシェから――あいつがいやいやながらも、ブルネルダの頼みでやったにすぎんことは、おれにもちゃんとわかっているんだが――鞭で顔を二、三度ひっぱたかれてからは――このみみず脹《ば》れを見てくれよ――、もう覗く勇気もなくなった。それからというもの、こうして、おれは、このバルコニーに横になったまま、ただ楽しみといえば、食うよりほかになくなってしまったのさ。おとといの晩も、おれは、こうしてひとり横になっていた。そのときは、残念にもあんたのホテルでなくしてしまった、あのしゃれた服を、おれは、まだ着ていたわけだが――あん畜生ら、人のからだからあの高価な服をはぎ取りやがって、――つまり、こうしてひとり横になって、欄干のあいだから下を見おろしているうちに、なんだかおれにはなにもかもが惨めに感じられてきて、おれは、ついおいおいと泣きわめきはじめたんだ。すると偶然にも、おれは、それが偶然だとは、すぐには気づかなかったんだが、ブルネルダがあの赤い服を着て――こいつが彼女の服のうちで一等よく彼女に似合うんだ――おれのところへやって来てよ。しばらくおれの様子を見守ってから、ついに、≪ロビンソン、どうして泣いてるの≫と、言うんだ。それから彼女は、あの服を持ち上げ、服の裾でおれの眼をぬぐってくれたんだ。あのとき、ドラマルシェが彼女を呼ばなかったら、彼女だって、すぐにまた部屋へはいって行くに及ばなかったろうし、そうなると、あれから彼女がなにをしてくれたか、知れやしないよ。むろん、おれは、思ったさ。やっとおれに順番が回ってきたとな。それで、おれは、カーテンごしに、もう部屋へはいってもいいかと、きいてやったんだ。すると、あんた、ブルネルダがなんと言ったと思う。≪だめよ≫と、彼女は、言ったんだ。≪気でも狂ったの≫と、言うんだ」
「そんなにまで扱われて、どうしてここに留まっているのです」と、カールは、尋ねた。
「はばかりながら、ロスマン、そいつは、あんまり賢いききかたじゃないな」と、ロビンソンが答えた。「あんただって、今にそれ以上、ひどい扱いを受けても、きっとここを離れないぜ」
「いや」と、カールは、言った。「僕は、断然出て行きます。できれば今晩のうちにでも。僕は、君らのところに留まりはしません」
「例えば、今晩出て行くと言ったって、あんたは、一体、どんなふうにそれをやりとげるつもりだね」と、ロビンソンはパンから柔らかいところをえぐり取って、それを丹念にサーディンの罐詰めの油に浸しながら、尋ねた。「部屋のなかへはいって行っちゃいけないのに、どうして出て行くつもりだい」
「どうして僕らがはいって行ったらいけないのです」
「それがよ、呼び鈴が鳴らないうちは、おれたちは、はいっちゃいけないのさ」と、ロビンソンは、言った。彼は、できうるかぎり大きく口をあけて、油でべたべたのパンをほお張りながら、パンからしたたり落ちる油を片方の手で受け止めては、時おり、その容器がわりに使われている手のひらに残りのパンを浸していた。「今じゃ万事が厳重になってしまったんだ。最初は、そこに地の薄いカーテンがあるだけで、透けて見えこそしなかったが、それでも晩になると、影ぐらいはちゃんと見分けられた。それがブルネルダには気に食わなかったのさ。それで、彼女の観劇用の外套のひとつをカーテンに仕立て変えて、古いカーテンのかわりにそこへ釣るすよう、おれが仰せつかったわけだ。今じゃ、もうなにも見えないよ。それに、以前はいつも、おれは、べつに気がねもせずに、もうはいってもいいかどうか、尋ねたもんだ。すると、向こうも、その時々の都合次第で、いいとか、いけないとか、答えてくれた。ところが、どうもおれがそいつをひどくいいことにしてつけ込み、ひんぱんに尋ねすぎたんだろうて。ブルネルダがそれにも辛抱しきれなくなったんだ――彼女は、ああしてとても太っていながら、ひどく弱い体質なんでな。よく頭痛を起こすし、足の痛風なんてほとんどしょっちゅうなんだ――それで、おれのほうからは、もう絶対にきいちゃいけない、はいっていいときは、卓上の呼び鈴を押してやるっていうふうに、取り決められたわけさ。むろん、寝ているおれを起こすために、呼び鈴を鳴らすこともあるがね――いつだったか、おれが慰みに猫を一匹ここで飼っていたことがあるんだ。ところが、猫め、呼び鈴の鳴らしぐあいにおったまげて、逃げ出したきり、もう帰って来ない仕末だ。とにかく、きょうはまだ一度も呼び鈴が鳴っていない。つまり、呼び鈴が鳴りさえすりゃ、おれは、はいっていいだけじゃない、はいって行かなくちゃならんのだが――こう長いあいだ鳴らないとすると、この調子がまだまだ長く続くかもしれんぜ」
「わかった」と、カールは、言った。「しかし、君に通用することでも、ぼくにはまだ通用しないことだってあるはずです。つまり、そういったことは、それに甘んじて従う者にだけ通用するのです」
「いや、待ってくれ」と、ロビンソンが叫んだ。「どうしてそれがあんたに限って通用しないと言えるんだい。むろん、あんたにも通用するさ。まあ、落ちついて、呼び鈴が鳴るまで、おれとここで待っていろ。あんたが出て行けるかどうかは、それから試しゃいいんだから」
「一体、君は、どうしてここを脱け出さないのです。ドラマルシェが君の友だちだという、いや、もっと適切に言えば、友だちだったという、ただそれだけの理由からでしょう。それでもやはり生活と言えますか。君らが最初に目ざしていたバターフォードのほうが、もっとましに暮らせたのではないですか。あるいは、君の友だちがいるカリフォルニアなんかのほうが」
「そうよ」と、ロビンソンが言った。「そこまで先のことが見えなかったわけさ」そして彼は、さらに話を続けるまえに、「あんたの健康を祝して、ロスマンさん」と、言い添えて、香水瓶から息をも継がずにあおった。
「ちょうどあのころ、あんたがああして卑怯にもおれたちを置き去りにしたときよ、おれたちは、どん底の暮らしだった。仕事にも、あれから当分ふたりともあぶれどおしでな。おまけにドラマルシェときたら、からっきし仕事に気がなくてよ。あいつならきっと仕事にありつけたはずだのに、いつもおればかりを探しに行かせるんだ、ところが、このおれは、さっぱり運がないときている。あいつは、ただほっつき回っているだけさ。あれはもうほとんど晩に近かった。あいつがたったひとつ婦人用の銭入れをみやげに舞い戻って来た。そいつは、真珠でできて、それはそれはきれいなものだったが、今あいつは、それをブルネルダにやっているよ。なかみは、ほとんどからっぽさ。そのとき、あいつは、言った。もうこうなっちゃ、ふたりで乞食して戸口を回るよりほかに手がないとな。むろん、その機にまたなにかと調法なものも見つかるかもしれんというわけでさ。そこで、おれたちは、乞食して歩いた。すこしでも体裁をよくするために、おれが戸口で歌を歌ってさ。すると、確かに、ドラマルシェには、いつも運が向いているんだな。おれたちが二つめの住まいのまえに立ってよ、それは、一階にあったひどく豪勢な住まいだったが、料理女や下僕に戸口から、なにやら一曲、歌を聞かせ終わるか終わらぬうちに、その住まいの主であるご婦人が階段を上って来たのさ。それが、ほかでもない、ブルネルダよ。ところが、たぶんコルセットで胴をきつく締めすぎていたんだろうな。その数段が彼女には昇りきれないのさ。ああ、それにしても、あのときの彼女のすてきなことと言ったら、ロスマン。彼女は、真っ白の服を着て、赤い日傘を持っていた。ほんとにしゃぶりつきたいくらいだったよ。ほんとに飲み干したいくらいだったよ。ああ、ああ、あの彼女の美しさときたら。あんなすばらしい女なんて見たことがない。ほんとうだぜ。あんたにはわかるまいが、あれこそ絶世の美人というものだろうて。むろん、女中と下僕がすぐに迎えに走り出て、彼女をほとんど運び上げるようにして戸口へ上げた。おれたちは、戸口の左右に立って、敬礼していた。ここじゃそうするのが、習わしでな。彼女は、まだ十分に息が継げないもんで、しばらく立ち止まっていた。そのとき、一体、どうしてそんな仕儀になったのか。今でもおれにわからんのだが、きっとおれは、空腹のせいで、正気じゃなかったんだろうて。それに彼女のほうは、眼近で見ると、なおのこと美しく、しかも途方もなく胸幅があって、おまけに特製のコルセットをはめているためか、そのコルセットはあすこの箱のなかにあるので、いずれあんたに見せてやってもいいが、からだじゅうの肉がぴっちりと締まっているんだ。つまりは、おれがちょっとうしろから彼女のからだにさわったわけさ。と言っても、ほんの軽く、いいかい、ただこんなふうにさわっただけなんだ。かと言って、乞食が金持ちのご婦人にさわるなんてことは、むろん、許せる業じゃない。あのときは、ほとんどさわるかさわらないくらいだったんだが、結局、あれでもやっぱりさわったんだろうな。ドラマルシェがそれと見て、即座におれにびんたをくわさなかったら、それこそどんなにひどい結果を生んだか、知れやしなかったよ。しかも、このびんたたるや、おれが即座にほっぺたをかばうために両手を使ったほどきつかったからな」
「君らのやることにはあきれかえるよ」と、カールは、すっかり話に釣り込まれて言って、床に腰を下ろした。
「すると、それがブルネルダだったのですね」
「そうとも」と、ロビンソンが言った、「それがブルネルダだったんだよ」
「いつか君は、歌姫だとか、言ったのじゃなかったかしら」と、カールは、尋ねた。
「むろん、彼女は、歌姫さ。しかも、すばらしい歌姫さ」と、ロビンソンは、答えた。彼は、大きなボンボンの固まりを舌のうえでころがしながら、時おり、口からはみ出たかけらを指でまた押し込んでいる。「だが、そいつは、むろん、おれたちもあの当時はまだ知らなかった。ただ、金持ちの、とても上品なご婦人だというくらいしか、わからなかった。彼女は、なにごともなかったかのようなふりをしていた。もしかすると、実際になにも感じなかったのかもしれん。おれは、ほんとうのところ、ただ指先でちょっと彼女のからだをつついただけだからな。それにしても、彼女は、ずっとドラマルシェを見詰めたきりだった。ドラマルシェのほうもまた――あいつは、なんて運がいいんだろう――まっすぐに彼女の眼を見返していた。そのうちに彼女が≪ちょっとなかへおはいり≫とあいつに言って、ドラマルシェに先に立って行けと言わんばかりに、日傘で住まいのなかをさした。それからあいつらふたりが家のなかへ、はいって行ったんだが、召使がすぐにそのあとで戸口を締めてしまってよ。おれは、そとへ置いてけぼりさ。それでもおれは、そう長くはかかるまいと思ったもんで、階段に腰かけて、ドラマルシェを待つことにした。ところが、出て来たのは、ドラマルシェでなく、召使で、おれに皿いっぱいスープを盛って持って来よった。≪ドラマルシェの心づかいだな≫と、おれは、心のなかで言った。召使は、そのまま、おれが食べているあいだも、しばらくおれのよこに立っていて、ブルネルダのことをちょいとばかり話してくれたもんで、そのとき、やっとおれにも、ブルネルダのもとを訪ねたことが、おれたちにとって、どんなに重大な意義を持つかってことが、わかったわけさ。なにしろ、ブルネルダは、すでに離婚して、大した財産を持ち、全く一本立ちの女だったんだからな。彼女の先夫というのが、カカオ工場の持ち主で、あいかわらず彼女を愛していたんだが、彼女のほうがいっこうに相手の言うことを聞こうとしなかったのさ。それでも、その男は、ひんぱんに住まいへやって来ていた。いつも、まるで結婚式へでも出るように、とてもしゃれた身なりをしてよ――こいつは、一語一語、すべてほんとうなのさ、おれは、じかにあの男を知っているんだ――、ところが、召使のやつが、どんなに賄賂《わいろ》を使っても、あの男に会うかどうか、ブルネルダに尋ねようとしないんだ。というのも、それまで二、三度尋ねたことがあったんだが、その都度、ブルネルダが、たまたま手近にあったものを、いきなり召使の顔に投げつけたからさ。一度なんか、湯がいっぱい詰まった大きな湯たんぽを投げつけたりして、それで召使の前歯が一本抜けてしまったことさえもあるくらいだ。どうだ、ロスマン、驚いたろう」
「君は、その男をどうして知っているのです」と、カールは、きいた。
「ここへもちょくちょくやって来るんでね」と、ロビンソンは言った。
「ここへもですか」カールは、あきれはてて、軽く手で床をたたいた。
「あきれたいだけ勝手にあきれりゃいいさ」と、ロビンソンは言葉を続けた、「おれだって、召使があのときそれを話してくれたときには、あきれたよ。まあ、考えてもみな。ブルネルダが留守のときには、あの男は、召使の手びきで彼女の部屋にはいり、いつもなにかちょっとしたものを記念に持ち帰っては、そのかわりに、いつもなにかひどく高価な上物をブルネルダのために残して行って、召使には、だれからの贈り物か、言わないように固く口止めしてるんだぜ。ところが一度、あの男がなにか――召使の言ったことだが、おれは、間違いないと信じているんだ――金ではとても買えないような磁器を持って来ていたときには、ブルネルダも、なにがなしに見抜いたにちがいない。やにわにそれを床に投げつけたかと思うと、そのうえを踏み砕き、それに唾を吐きかけたばかりか、さらにそれ以上のことをやってのけたので、召使は、胸が悪くなってその後片づけさえもできかねた仕末だったんだ」
「その男は、いったい彼女になにをしたのです」と、カールは尋ねた。
「そこまではおれも実は知らんがね」と、ロビンソンが言った。「なあに、世にも特別なことをしたわけでないと思うよ。すくなくとも、当のあの男には覚えがないのさ。あの男は、毎日あすこの町角で、おれを待っているんだ。おれが行くと、変わったニュースを話してくれとせがむんだ。おれが行けないときは、半時間ほど待って、それから、あの男は、帰って行く。おれにとっちゃ、それが結構な臨時収入というもんだった。あの男がいろんな情報にたいしてたんまり謝礼をはずんでくれるんでね。ところが、ドラマルシェがそいつを小耳にはさんでからは、おれは、あいつにそっくり渡さなきゃならんことになった。それで、おれもめったにあすこへは行かなくなったのさ」
「それにしても、その男は、なにを望んでいるのです」と、カールは尋ねた。「一体、なにが望みなのです。だって、彼女に好かれてないことは、聞いて知っているわけでしょう」
「そうなんだよ」と、ロビンソンは、ため息をついて、煙草に火をつけると、大袈裟に腕を振り回しながら、口をすぼめて煙を高く吹きあげた。それから、彼は、決心しなおしたらしく、言った。「そんなこと、おれにはどうだっていいや。ただおれにわかっているのは、あの男をこうしておれたちのようにここのバルコニーに寝かせてやったら、きっとあの男は、お礼に、たんまり金を出すだろうということだけさ」
カールは、立ち上がって、手すりによりかかり、通りを見下ろした。月は、もうすっかり姿を見せていたが、その光は、まだ路次の奥底までさし込んではいなかった。日中はあれほどがらんとしていた路次が、ことに家の門口あたりは、すっかり人で埋まっていた。みんな、ゆっくりと、気だるそうに動いている。男たちのワイシャツの袖や女たちの明るい色の服が、ぼんやりと、闇のなかから浮き立っていた。みんな、無帽だった。あたりのあまたのバルコニーも、今はすべて、人でいっぱいだった。それぞれに電灯のあかりのもとで、バルコニーの大きさに応じ、小さなテーブルを囲んだり、あるいは、ただ一列に肘かけ椅子を並べたりして、家族がすわっていた。バルコニーへ出なくとも、部屋から頭を突き出している人々が多かった。バルコニーでは、男たちは、両足を広げて伸ばし、足元を手すりの支柱のあいだに突き出して、新聞を、ほとんど床まで届くくらいに広げながら、読んでいた。なかには、黙りこくった様子で、テーブルへ強くたたきながら、トランプ遊びをしている男たちもいた。女たちは、膝にいっぱい縫い物を置いて、ただ時おり、寸暇を惜しむように、周囲や通りへちらと一瞥をくれるだけであった。隣のバルコニーにいる、金髪の、ひ弱そうな婦人は、ひっきりなしにあくびをしながら白眼をむき、その都度、繕いさしの肌着を口に当てていた。どんなに小さなバルコニーのうえでも、子供たちが如才なく追い駆けっこをするので、両親にひどくうるさがられていた。またそこかしこの部屋のなかでは、蓄音機が据え置かれて、その喇叭《らっぱ》からは歌や管絃楽が流れていた。だれもそうした音楽をさして気にしてはいないようであった。ただ時おり、そこの家父が合い図をすると、だれかが部屋のなかへ駆け込んで、新しい盤と置き替えるだけだった。ところどころの窓べでは、全く身動きひとつしない恋人どうしの姿も見られた。カールの真向かいの窓べでも、そうした一対が直立していて、若い男が娘のうしろに腕をまわしてかかえ、手を娘の胸におしつけていた。
「ここの両隣の人たちのなかに知り合いがいますか」と、カールは、ロビンソンにきいた。ロビンソンも、もうそのときは、立ち上がっていたが、寒気《さむけ》がするせいか、自分の掛けぶとんのほかに、ブルネルダのかけ毛布までもからだに巻きつけていた。
「ほとんどいないな。実のところ、そいつがおれの立場のぐあいが悪いとこなんだ」と、ロビンソンは、言って、耳打ちできるように、カールを身近へ引っぱり寄せた。「それさえなんとかなれば、今のところ、別に苦情を言うこともないのさ。ブルネルダは、ドラマルシェのために、持ち物をそっくり売り飛ばし、全財産を持って、この郊外の住まいへ越して来たんだ。誰にも邪魔されないで、ドラマルシェにすっかり身を捧げることができるようにな。また、それがドラマルシェの望みでもあったんだが」
「すると、召使たちには暇を出したわけですね」と、カールは、尋ねた。
「まさに図星さ」と、ロビンソンが言った。「ここじゃ、召使どもを寝かすところだってないものな。ああした召使なんてものは、ひどくこうるさい連中なんだ。いつだったか、ドラマルシェがブルネルダの家にいたとき、あっさりびんたをくらわせて、そうした召使のひとりを部屋から追い出したことがあった。そのとき、部屋のそとでも、びんたに次ぐびんたが飛んで、そやつは、とうとう屋外へ出されてしまった。そうなると、むろん、ほかの召使どももそやつとぐるになり、戸口のまえで大騒ぎをやり出した。そこへドラマルシェが出て来て(おれは、そのころ、召使ではなくて、その家の出入りだったんだが、召使どもといっしょにいたのさ)、≪なにかおまえたち用か≫と、尋ねた。すると、いちばん年かさの、イージドーアとか言う召使が、≪あなたは、われわれにたいしてなにも言うことはないはずだ、われわれの主人は、奥さまなんだ≫と、言い返した。たぶんあんたももう気づいているはずだが、召使どもは、ブルネルダをひどく尊敬していたんだ。ところが、肝心のブルネルダが、召使のことなど構わずに、ドラマルシェのほうへ駆け寄って、あのころの彼女は、まだいまほどからだが重くはなかったもんで、みんなの面前でドラマルシェに抱きつき、口づけしたばかりか、≪わたしの大好きなドラマルシェ≫と、呼んだんだ。そして最後に、≪あの猿どもにさっさと暇をやってちょうだい≫と、言ったのさ。猿どもだとよ――召使のことをさ。そのときやつらがどんな面をしたか、思ってもみな。やがて、ブルネルダは、ドラマルシェの手を引き寄せて、腰のベルトにつけていた金入れへさわらせた。そこでドラマルシェがなかへ手を突っ込んで、召使どもに残りの給金を支払いはじめたわけだ。ブルネルダは、ただベルトの金入れの口をあけたまま、横に立っているだけで、それ以上支払のことにはとんとお構いなしさ。ドラマルシェは、きちんと勘定もせず、やつらの要求を吟味もしないで、金を配っていたもんだから、なんど手を突っ込まねばならなかったか、知れやしない。やっと支払がすむと、ドラマルシェが言った。≪それでは、おまえたち、おれに言いたいことがないのなら、おれがブルネルダに代わって申し渡してやる。失せやがれ、さあ、とっとと≫とな。それでみんな、お払い箱というわけさ。そのあと、まだ二、三訴訟事などがあったりして、一度はドラマルシェも裁判所へ出頭せねばならなかったようだが、その辺の詳しいことは、おれは知らん。ただ召使どもに暇を出したすぐあとで、ドラマルシェがブルネルダに、≪もうこれで召使がいなくなったが、いいかい≫と、言うと、ブルネルダが言った、≪でも、ロビンソンが残っているわ≫それを聞くと、ドラマルシェのやつ、おれの肩をたたいて、言った、≪よろしい、これからおまえがおれたちの召使だ≫それから、ブルネルダがおれのほっぺたを軽くたたいたのよ。ロスマン、機会があったら、あんたも一度彼女にほっぺたをたたいてもらうといいや。そのすてきな気持ちに、あんたも、きっと目を白黒させるだろうて」
「すると、君は、ドラマルシェの召使になったわけですね」と、カールは、話をまとめながら尋ねた。
ロビンソンは、その言葉のなかに哀れみの響きがこもっているのを感じたのか、答えた。「おれは、召使さ。だが、それに気づくのは、ごくわずかな人たちだけだよ。現に、あんただって、もうここへ来てかなりになるのに、それがわからなかったじゃないか。あんたは、おれが夜中に、あんたたちのホテルを訪ねたとき、どんな服装をしていたか、よもや忘れはすまい。おれは、上物のうちでもごく上等のものを着込んでいた。召使があんな服装をして出かけると思うかい。ただ問題は、ひんぱんに外出を禁じられている点なんだ。おれは、いつも手近なところにいなくちゃならん。家事のことで、いつもなにかとすることがあるんでな。仕事が多すぎて、とても一人じゃ回りきれないくらいなんだ。あんたもたぶん気づいていようが、部屋のあちこちにいろんな物をひどくたくさん置いてあるんでね。あの大引っ越しのとき売れなかったものを持って来たわけさ。むろん、人にくれてやってもよかったんだが、ブルネルダが物をやるのを嫌がるんだよ。まあ、考えてもみな、あれだけの物をすっかり階段から運び上げるだけでも、どんなにたいへんな労働だったかをな」
「すると、ロビンソン、君があの全部を運び上げたわけですか」と、カールは叫んだ。
「ほかにだれがやる」と、ロビンソンが言った。「まだほかにひとり、手伝いがいるにはいたが、ぐうたらな下司野郎でよ。おれがたいていの仕事はひとりでせねばならなかった。ブルネルダは、したで車のわきに立っていたし、ドラマルシェは、どこへ物を置けばいいか、うえでさしずする役で、おれがひっきりなしに行ったり来たり走りどおしさ。それが二日間も続いたのさ。ひどく長いじゃないか。と言っても、そこの部屋のなかにどれほどたくさんの物があるか、あんたは、からっきし知るまいが、箱はどれもこれもなかがいっぱいだし、箱のうしろも、天井まで、いろんなものがぎっしり詰まっているんだ。むろん、運搬してもらう者を二、三人でも雇い入れていたら、なにもかも、じきにかたづいていたはずなんだが、ブルネルダがおれ以外の人間に仕事を任せようとしないんでね。そいつは、確かに、ひどく有りがたかったが、おかげで、おれは、そのときおれの健康を一生台なしにしてしまったのさ。健康がおれのかけがえのない財産なのによ。今でもちょっと無理をすると、ここや、ここや、ここいらがちくちく痛むんだ。このおれがもし丈夫だったら、ホテルの若造らに、あの赤蛙ども――全くそうじゃないかよ――おれがやっつけられたりすると、思うかい。しかし、おれは、どんなにからだのぐあいが悪かろうと、ドラマルシェやブルネルダには一言だって言いやしない。なんとか働けるあいだは、働くさ。そのうちにもう働けなくなったら、床について、臨終を迎えるまでさ。そのときになってやっと、手遅れながらも、やつらは、おれが病気だったのを押して、日がな一日休みなく働きとおし、やつらへの奉公でからだをすりへらして死んでしまったことに、気がつくだろうて。ああ、ロスマン――」と、彼は、ついに言って、カールのワイシャツの袖口で眼をふいた。そしてしばらくすると、彼は、言った。「そうしてシャツのまま立っていて、あんた、寒くはないのかい」
「ばかなまねはよすんだ、ロビンソン」と、カールは言った、「泣いてばかりいるじゃないか。僕は、君がそれほど病人だとは、思わないね。どう見ても、健康そのものですよ。ただ、このバルコニーに始終寝てばかりいるから、そんなふうにいろいろなことを考え出すのです。あるいは時おり、胸をえぐられる思いのすることがあるかもしれないけれども、それは僕だって同じことです。だれだって、そうなのです。それを君のように、なにかちょっとしたことで、いちいち、人がみな泣きたくなっていたら、それこそ、どこのバルコニーでも泣いている人だらけになるではありませんか」
「それくらいのことは、言われなくても、おれのほうがよく知っているよ」と、ロビンソンが言って、こんどは、掛けぶとんの端で眼をふいた。「隣に、おれたちの煮炊きもやってくれる、大家《おおや》のおかみさんがいるが、そこへ下宿している学生が、ついこのあいだ、おれが食器類を返しに行ったときに、≪ちょっと、ロビンソンさん、あなた、病気じゃありませんか≫と、おれに言いよった。おれは、よその連中と話しするのを禁じられているもんだから、黙って食器を置いて、帰ろうとした。すると、その学生がおれのそばへ寄って来て、≪いいですか、あまり仕事をとことんまでやらないほうがいいですよ。あなたは病気なのだから≫と、言いやがった。それで、≪よし、わかった。それでは、一体、おれは、どうすればいいというのさ≫と、おれは、尋ねてやった。学生のやつ、≪それは、あなたの問題です≫と、言ったきり、くるりと背を向けやがったさ。その場で食事をしていたほかの連中がそれでどっと笑いやがった。おれたちは、ここじゃ、いたるところ、敵だらけよ。それで、おれは、あきらめて引き揚げたがね」
「それでは君は、君をなぶり者にしている連中の言うことを信じて、君に好意を持っている人たちの言うことを信じないわけですね」
「それでも、おれは、自分がどんなぐあいか嫌でも知らずにはおれないんだ」と、言って、ロビンソンは、いきりたったが、すぐまた泣き続けた。
「君は、自分でも、どこがぐあい悪いか、ほんとうはわかっていないのです。とにかく、ここでドラマルシェの召使を勤めたりしないで、自分に向いたまともな仕事をなにか探さないといけない。僕が君の話を聞き、また、僕自身、この眼で見たことから判断すると、ここのは、奉公ではなくて、奴隷です。だれも耐えられないのが当たりまえで、その点、僕は君の言うとおりだと思うね。君は、自分がドラマルシェと友だちだから、彼を置き去りにするわけにはゆかぬと、考えているけれども、それは、大まちがいです。君がどんなにみじめな生活を送っているかということすらも、あの男が見抜かぬくらいなら、君は、あの男にたいしてなにひとつ義理立てする必要もないはずです」
「すると、ロスマン、あんたは、ほんとうに、おれがここでの勤めを止めたら、おれのからだも元どおりに立ち直ると、思っているんだね」
「もちろん」と、カールは言った。
「もちろんかい」と、ロビンソンは、念を押して聞き返した。
「もちろん、太鼓判を押すよ」と、カールは、ほほえみながら、言った。
「それなら、すぐにでもからだの立て直しにかかれるかもしれんて」と、ロビンソンは、言って、カールを見詰めた。
「すると、どんな方法で」と、カールは、尋ねた。
「そりゃ、あんたにここでのおれの仕事を引き受けてもらうわけよ」と、ロビンソンは、答えた。
「一体、そんなことを誰が君に言いました」と、カールは、尋ねた。
「なあに、そいつは、古くからの計画なんでね。それについちゃ、もう数日来、問題になっているのさ。おれが家のなかをすみずみまできれいさっぱりとしておかないものだから、ブルネルダがおれを叱り飛ばしたときから、話が持ち上がっていたわけよ。むろん、おれは、なにもかもすぐに片づけますと、約束したことはしたさ。ところが、いざとなると、そいつがなかなか面倒なことなんだ。例えば、おれの状態じゃ、ほこりを拭き取るために、どこへでもはい込んでゆくというわけにはゆかないんでね。それどころか、部屋のまんなかでだって、身のこなしが利かないのさ。第一、あすこの家具と貯蔵品とのあいだを見ろよ。どうしてはいり込める。どこもかしこももれなくきちんと掃除しようと思ったら、家具までも今ある位置からわきへずらさなならん。そんなことがおれひとりでどうしてやれる。おまけに、万事至極静かにやらなきゃいけないときてる。なにしろ、ブルネルダがほとんど部屋にこもり切りなんでね。絶対に彼女の機嫌を損じちゃいかんからな。そんなわけで、おれは、すっかりきれいにしますと、約束はしたものの、実のところは、口先だけに終わった。すると、ブルネルダがそれに気づいてよ。こんな調子が続くと困るから、ほかに手伝いを雇わないといけないのじゃないかと、ドラマルシェに言ったんだ。≪わたしはね、ドラマルシェ、わたしの所帯の持ちかたが上手でないと、あなたから責められたくないの。かと言って、わたし自身は、無理ができないし、それはあなただってわかっているでしょう。それに、ロビンソンも役に立たないしね。最初のうちは、あの男も元気いっぱいで、すみずみにまでよく眼が届いていたけれど、今では、ずっとくたびれどおしで、たいてい、どこかのすみっこにすわったきりよ。でも、わたしたちのところのように、物がどっさり置いてある部屋は、かたづけても、それが二日ともたないし≫と、彼女は、言った。それを聞くと、ドラマルシェは、どうすればいいか、考え込んだ。このような所帯へは、むろん、だれでも受け入れていいというわけにはゆかんのでな、たとい試験的にもよ。四方八方から、おれたちに、偵察の目が光っているんでね。ところで、おれとあんたとは、仲のいい友だちだし、あんたがホテルでひどく苦しいめにあっていることを、レネルから聞いたもんだから、おれがあんたを推薦したわけさ。ドラマルシェは、あんたがあのとき彼にたいしてひどく横柄な態度を示したにかかわらず、すぐに同意してくれた。むろん、おれは、あんたのためにそうして役立つことができて、大いに喜んださ。あんたにとっちゃ、この地位は、言わばお誂え向きよ。あんたは、年が若く、頑健で、器用だし、それにひきかえ、このおれは、もうさっぱり値うちなしさ。ただ断わっておきたいが、あんたは、まだけっして採用されてはおらん。あんたがブルネルダの気に入らなけりゃ、おれたちもあんたを使うわけにはゆかんのだ。だから、せいぜい彼女に喜ばれるように努めることだよ。あとのことはおれがきっと気づかいしてやるからな」「すると、ぼくがここで召使になれば、君は、なにをするのです」と、カールは、尋ねた。彼はもはや気持ちになんの屈託もなかった。ロビンソンの打ち明け話が彼に与えた最初の驚きは、過ぎ去っていた。ロビンソンの話から察すると、ドラマルシェは、自分を召使にしようと、もくろんでいる程度で、それ以上の意地悪い底意は自分にたいして持っていないらしい――もし持っていれば、おしゃべりのロビンソンがきっとそれを洩らしているはずだ――、とにかく、そういう状態ならば、自分は、思い切って今夜のうちにでもぜひ退散するとしよう。人に就職をしいるなんて、以ってのほかでないか。カールは、そう考えた。ホテルを解雇されたものの、飢えを防ぐために、果たして早く、なにか適当な、できれば体裁もさして悪くない、勤め口に、自分がありつけるかどうか、つい先刻までは、そのほうの心配が先に立っていたのに、今は、ここで自分に与えられることになっている勤め口に比べると、ほかのどんな勤め口も、カールにははるかにましなように思われた。彼にとってこんないやな職場はなかった。こんな職場に勤めるくらいなら、失職の苦しみを味わったほうがまだしもであった。しかし、彼は、そのことをロビンソンに納得させようとはしなかった。ことに今のように、なにを判断させても、カールのおかげで重荷がおろせるという希望にロビンソンがすっかりとらわれている以上、それは全くむだであった。
「それではさしずめ」と、ロビンソンは、言って、いかにも気持ちよさそうに手を動かしながら、話を続けた――肘は手すりのうえについていた――「みなひととおり説明して、貯蔵品を教えておこう。あんたは、学があるし、きっと字もきれいじゃろう。だから、おれたちがここに持っている物品全部の目録ぐらいは、すぐにでも作れるかもしれん。実はそれがブルネルダのまえまえからの所望だったのさ。あすの午前中、もし天気だったら、ブルネルダに頼んで、バルコニーで腰かけていてもらおうじゃないか。そしたら、そのあいだ、おれたちは、安心して、ブルネルダの機嫌を損ぜずに働けるわけさ。いいか、その点だけは、ロスマン、なによりも気をつけなくちゃいけないぜ。ブルネルダのきげんだけは、損じちゃいかん。彼女にはなにもかも聞こえてしまうんだ。たぶん、歌姫なので、さとい耳をしているんだろうて。例えば、あんたが、箱のうしろからブランデーの樽を押しころがして来るとする。ところが、そいつが重いうえに、あのあたりは、いたるところさまざまな物品が乱雑に置いてあるものだから、一気にころがして来るわけにゆかんので、どうしても騒々しい音を立てることになるんだ。そのときブルネルダは、例えば、静かに寝椅子のうえに横になって、蝿を捕っているとする。そもそも蝿ほど、彼女がうるさがるものはないんでね。それを見て、あんたは、彼女があんたをちっとも気にしてないと、思い込み、あんたの樽をころがし続ける。彼女は、あいもかわらず、静かに横になったままでいる。ところがだ、あんたが全く思い設けぬときによ、ちょうどあんたがいちばん騒々しい音を立てないときにさ、ふいに彼女がまっすぐにからだを起こしてすわったかと思うと、ほこりで彼女の姿が見えなくなるくらい、両手で寝椅子のうえをたたくんだ――おれたちがここへ移ってから、おれは、一度も寝椅子のほこりをはたき出したことがないんでね。むろん、おれにゃできっこないのさ。彼女がしょっちゅうそのうえて寝てるんだものな――とともに、男のように物すごく怒鳴りはじめるんだ。そうなったら最後、何時間も怒鳴りどおしさ。歌うことは、隣の連中から禁じられているが、だれも怒鳴ることを禁じるわけにはゆかんのでね。彼女としても怒鳴るほかないのさ。とにかく、近ごろじゃ、それもめったに見られなくなった。おれとドラマルシェがひどく用心するようになったからな。むろん、彼女のほうもそのためにひどくからだをこわすしさ。いつだったか、そのまま気絶してしまったこともあるんだ。おれは――ドラマルシェは、たまたま留守だった――隣の学生を呼んで来るよりほかなかった。学生のやつ、なにやら大きな瓶から液体を彼女に振りかけてよ。確かに、それが効いたことは効いたが、その液体というのがたまらなく臭いのさ。いまでも鼻を寝椅子のところへ持って行くと、その臭いがするぜ。あの学生も、ここのみんなと同じように、きっとおれたちの敵さ。あんたも、みんなには注意したほうがいいぜ。だれともかかり合わぬことだな」
「ちょっと、ロビンソン」と、カールは、言った、「聞けば聞くほど、つらい勤めじゃないですか。君はよくも、僕をそんな結構な職場に推薦してくれたものですね」
「心配することはないさ」と、ロビンソンは、言って、眼を閉じ、カールのありとあらゆる心配をすべて撥ねつけるかのように、頭を振った。「この職場にだって、ほかの職場じゃとても望めんような、いいとこもあるんだ。しょっちゅうブルネルダのようなご婦人の近くにいられてよ。時には彼女と同じ部屋で寝られるしさ。それだけでも、想像してみろよ。いろいろと愉しいことが起こりそうだぜ。それに給料もたんまり払ってもらえるだろうし、金は、腐るほどあるんだからな。もっとも、おれは、ドラマルシェの友だちというわけで、なにももらわなかったがね。それでも、おれが外出するときだけは、いつもブルネルダがなにがしかおれに持たせてくれたよ。だが、あんたは、むろん、ほかの召使と同じように、給料をもらえるさ。なんと言っても、召使にまちがいないんだからね。あんたにとっていちばん肝心なことは、しかし、おれがいるため、あんたのその職場での勤めもひどく楽になるということさ。差し当たっては、むろん、おれもからだを立て直すために、なにもしないでいるがね。そのうちに、すこしでもおれに元気が出てくれば、おれを当てにしてくれていいや。と言っても、ブルネルダの実際の世話は、けっしておれは手放さないぜ。つまり、髪の手入れとか、着付けとか、ドラマルシェがやらないことをよ。あんたのほうは、部屋の掃除や買い物、ちょいと厄介な家事などに気を使ってくれさえすりゃいいわけだ」
「だめ、だめ、ロビンソン」と、カールは言った、「そんなご託を並べても、僕は、誘惑されないよ」
「ふざけちゃいかん、ロスマン」と、ロビンソンは、顔をカールの顔の間近に寄せて言った、「あたらこの結構な機会をのがしてどうする。一体、どこですぐに勤め口にありつけるんだ。だれがあんたを知っている。そして、あんたがだれを知っている。おれたちのように、いろいろと世間のことに通じ、大した経験も積んでいる、大の男ふたりが、数週間駆けずり回っても、仕事にありつけないんだぜ。仕事にありつくのは、生やさしいことじゃないんだ。それどころか、やけにむずかしいんだ」
カールは、うなずきながらも、ロビンソンのいつになく筋道の立った話しぶりを不思議に思った。もとより、そうした忠告も、ここに留まってはならぬと考えている彼には、なんの効力もなかった。おそらく大都市へ行けば、自分を容れてくれる小さな余地くらいは、まだ見つかるかもしれぬ。どの料理屋も、夜どおし、超満員だし、客への給仕人を求めているくらいのことは、自分も承知している。それに、その道では、すでに自分も修錬を積んでいることだし、きっとどこかの営業へ、目立たず速やかに、納まることができるにちがいない。カールは、そう思っていた。たまたま真向かいの建物では、一階を小さな料理屋に貸してあって、にぎやかな音楽が流れ出ている。表口は、ただ大きな黄いろいカーテンが下ろしてあるだけで、時おり、そのカーテンが一陣の風にあおられて、はげしく路上へまでもはためいていた。そこを除けば、通りは、むろん、はるかに静かになっていた。たいていのバルコニーは、もう暗やみに閉ざされ、ただ、遠くのそこかしこに、点々と灯火が残っているだけであった。その灯火をしばらく注視していると、もうそこでも、人々は、立ち上がって、家のなかへ引き揚げて行く。そして、バルコニーに残った最後の男が、電灯に手を伸ばし、路上にちらと一瞥を投じてから、スイッチをひねって、あかりを消すのである。
≪もうすでに夜もふけかけた≫と、カールは、心のうちで言った、≪これ以上ここに長居すれば、きっと彼らの一味にされてしまう≫彼は、住まいへ通じるドアのてまえのカーテンを引きのけるために、うしろへ向き直った。「なにか用か」と、ロビンソンが言って、カールとカーテンのあいだに立ちはだかった。
「出て行くのだ」と、カールは、言った。「どけ、どけ」
「彼女の機嫌を損じるようなことはさせんぞ」と、ロビンソンが叫んだ、「ばかな考えはよせ」彼は、カールの首のまわりに両腕を回し、全身の重さをかけてカールにぶらさがりながら、足をカールの足にからませて、やにわにカールを地面へ引き倒そうとした。ところが、カールは、エレベーターボーイのなかにいたとき、すこしばかり殴り合いのすべを覚えていた。彼は、すぐさまロビンソンのあごのしたを、手心を加えて軽くではあるが、こぶしで突き上げた。すると、相手は、なんの容赦もなしに、すばやく、カールの腹を膝頭で力いっぱいに蹴り、両手をあごに当てたまま、大きな声でわめきはじめた。そのため、隣のバルコニーから、ひとりの男がはげしく手をたたきながら、「静かにしろ」と、命じたくらいだった。カールは、倒れたまま、ロビンソンの膝けりで受けた痛みを押えるために、しばらくじっとしていた。ただ顔をカーテンの方へ向けて見ると、カーテンは、重たく静かに垂れていて、部屋のなかは明らかに真っ暗である。部屋にはもうだれもいないらしい。ドラマルシェがブルネルダを連れて外出したあとかもしれぬ。今なら自分は、完全に自由である。全く番犬のようにふるまったロビンソンも、今は、さすがに決定的にのびている。
そう思ったとき、通りの遠くのほうから、とぎれとぎれに、トランペットとドラムの響きが聞こえてきた。多くの人々の個々の叫びがやがて結集して、ひとつの共通な叫びに変わった。カールが頭をめぐらして見ると、どのバルコニーもあらたに活気を帯びてきたようである。彼は、ゆっくりと起き上がったが、まっすぐに立ちきれないで、ぐったりと手すりにからだを押しつけた。したの歩道では、若者たちが、腕を伸ばし、手に縁なし帽を振りかざして、顔をうしろに向けながら、大股に行進している。車道は、まだすいていた。なかには、長いさおの先にちょうちんをつけて振り回している者もそこかしこにいたが、そのちょうちんも黄いろっぽい煙に包まれていた。ちょうど鼓手とトランペット吹きが幅広く列を作って明るみへ歩み出で、カールがその多人数にびっくりしていたときだった。背後で人の声がしたので、彼が振り向いて見ると、ドラマルシェが重いカーテンを上げて、部屋の暗がりのなかからブルネルダが出て来るところだった。ブルネルダは、赤い服を着て、肩にはレースのケープをはおり、濃い色のボンネットをかぶっていた。髪は、おそらく結いもしないで、ただ束ね上げてあるだけらしく、その端がほつれて帽子のそこかしこからはみ出ていた。彼女は、手に小さな扇をひろげて持っていたが、あおぎもしないで、ぴったりからだに押し当てていた。
カールは、ふたりに席を譲るために、手すり沿いにからだをわきのほうへずらして行った。きっとだれもむりやりに自分をここへ引き留めはしないだろう。たといドラマルシェがそうしようとしても、ブルネルダが自分の頼みを聞き入れて、自分を即座に立ち去らせてくれるにちがいない。彼女は、自分をすっかり嫌っているし、自分の眼を見てひどくぎくりとしたくらいだから。ところが、そう思って、彼がドアのほうへ一歩踏み出したとき、ブルネルダがやはりそれに気づいていて言った、「おちびさん、どこへ行くの」カールは、ドラマルシェのきびしい眼つきを見て、足がすくんだ。ブルネルダがカールを引き寄せた。「したの行列を見物したくはないの」と、彼女は、言って、彼をまえの手すりのほうへ押しやった。「なにが問題であんなことをしているのか、知っているの」と、カールは、背後から彼女に尋ねられた。彼は、彼女のきつい押しつけから免れるために、思わずからだを動かしたが、その甲斐もなかった。彼は悲しい思いで路上を見下ろしていた。まるで彼の悲しみの理由が路上にあるかのように。
ドラマルシェは、最初腕を組んでブルネルダのうしろに立っていたが、やがて部屋のなかへ駆け込んで、ブルネルダにオペラグラスを持って来た。路上では、音楽隊に続いて行列の本隊がすがたを見せていた。ひとりの紳士が巨大な男の肩車にのっていた。その紳士も、カールのいる高みからは、にぶく光っているはげ頭だけしか見えず、そのはげ頭よりも高く、紳士は、シルクハットをふりかざして、たえず挨拶を送っている。紳士のまわりに揚げられているのは、明らかに、掲示板であったが、バルコニーから見ると、真っ白にしか見えなかった。それらのプラカードが四方八方から、まんなかに高く抜きん出ている紳士のほうへ、いかにも寄りかかるような仕組みになっている。行列が進行しているので、そのプラカードの囲いも、たえずくずれては、またたえずあらたに形を整えていた。さらに紳士を遠巻きにして、道幅いっぱいに、暗やみのなかをすかして見積もったかぎりでは、列の長さこそ大したことはなかったが、紳士に味方する人たちで埋まっていた。彼らは、いっせいに手をたたきながら、おそらく紳士の名まえであろう、ひどく短いが聞き取りにくい名まえを、声を張り上げて歌うように告げていた。群衆のなかに巧みに分けられて配置されていた二、三の者が、途方もなく強烈な光を発する自動車のヘッドライトを持っていて、道の両側の家々へゆっくりと上下に光を投じていた。カールのいる高みではもう、その光は邪魔にならなかったが、したのほうのバルコニーにいる人たちは、その光にかすめられると、あわてて手を眼に当てていた。
ドラマルシェは、ブルネルダの頼みで、この催しがどんな意味のものか、隣のバルコニーにいる人たちに尋ねた。果たして先方が返事してくれるかどうか、またどんなふうに返事するか、カールは、ちょっと好奇心をそそられた。すると事実、ドラマルシェが三度尋ねても、なんの返事も得られなかった。彼は、もう危険なほどに手すりから身を乗り出していた。ブルネルダは、隣の人たちに腹をたてて、軽く地団太踏んでいた。カールに彼女の膝が触れていた。ついになんとか返事があったが、それと同時に、人がいっぱい詰めかけているそのバルコニーでは、みながいっせいに大きな声で笑い出した。それを聞くなり、ドラマルシェがなにか怒鳴り返した。その声は、たまたま通りがいちめんに喧騒をきわめていなかったら、あたりの人がいっせいに驚いて、聞き耳を立てずにはいられなかったくらいに、高かった。いずれにせよ、そのお蔭で、隣の笑いが、不自然にではあったが、まもなく収まった。
「あす、おれたちの地区で、判事の選挙があるのさ。したの通りで、かつがれているのは、候補者なんだ」と、すっかりおちついて、ブルネルダのそばへ帰りながら、ドラマルシェが言った。「まさか」と、彼は、それから言って、愛撫するようにブルネルダの背中を軽くたたいた。「こうまで世間の出来事にすっかりうとくなるとはな」
「ドラマルシェ」と、ブルネルダが隣の人たちの態度に話を戻しながら、言った。「あんなにひどく気骨が折れないですむなら、わたし、引っ越したいのは、山々なの。でも、残念ながら、いまのわたしには無理な注文ね」大きなため息をつきながら、そわそわと、放心したように、彼女は、カールのワイシャツをいじり回した。カールは、努めて見立たぬように、いくたびも、その小さな、ぶよぶよに肥った手をわきへ押しやっていた。それは、彼にとって造作ないことであった。ブルネルダが彼のことを思っていたのでなく、全く別な考えにふけっていたからである。
ところが、カールのほうもまもなくブルネルダのことを忘れて、彼の両肩にのせた彼女の腕の重みにも甘んじて耐えていた。と言うのも、路上の出来事に、彼は、ひどく心を奪われていたからである。候補者のすぐまえを、身ぶり手まねしながら、男たちの小さな一団が行進していた。彼らの談笑がなにか特別の意味を持っているにちがいないことは、四方八方から、耳を澄ましているあまたの顔が、ひとしく彼らのほうへ向けられていることからも、わかるのであるが、その一団のさしずで、行列は、ふいに料理屋のまえで止まった。すると、その指導者たちのひとりが手を上げて、群衆にもまた候補者にも通じる合い図をした。群衆は、静まり返った。候補者が、かついでいる男の肩のうえでいくたびとなく立ち上がろうとしては、いくたびとなく元の座へ落ちながら、シルクハットを目にも止まらぬ早さで左右に振って、短い演説をした。それがきわめてはっきりと見て取れたのは、彼の演説しているあいだ、すべてのヘッドライトが彼のほうへ向けられて、彼が明るい星形のちょうど中央にいるようなかっこうになっていたからであった。
もうその時分になると、しかし、通りの全住民がこの問題に寄せている関心のほども、はっきり看取できた。その候補者の党員たちで占められているバルコニーでは、いずれも、彼の名まえを歌っているのに、ともに和し、手すりごしにできるかぎり手をまえに差しのべて、機械的に拍手していた。そのほかのバルコニーでは、対抗の歌が沸き上がっていた。そのほうが数においてまさってさえいたが、むろん、まとまった効果はなかった。味方する候補者がまちまちだったからである。すると、こんどは、打って変わって、眼前にいる候補者の反対者たちがこぞって団結し、いっせいに口笛を吹きはじめたばかりか、蓄音機をさえもふたたび鳴らしはじめた。個々のバルコニーのあいだでは、政治的な口論が、夜分のため一層激しくなった興奮にまかせて、演じられた。大半の人たちは、もう寝巻きに着替えて、そのうえにただ外套を引っかけているだけであった。女たちは、大きな濃い色の肩かけにくるまっていた。ほったらかしにされた子供たちは、不安げにバルコニーの囲いのうえをはい回っている。いままで寝ていた暗い部屋から出て来る子供の数は、ますます増してゆくばかりであった。そこかしこでは、ことのほか逆上して、てんでになんだか得体の知れぬ物を反対者のいる方向へ投げる者もいた。それらは、時には目標に届くこともあったが、たいていは路上へ落ちて、しばしば怒号を呼び起こしていた。そのうちに、通りの指揮者たちがあたりの騒々しさに我慢し切れなくなり、鼓手とトランペット吹きに介入の命令を与えると、彼らの全力で奏される、いつ終わるとも知れぬ信号音が、あたりの空気をつんざいて屋上の高みにまでも鳴り響きながら、人々の声をすべてかき消してしまう。するといつも、全く突然――まるでなんだか嘘のように――人声かぴたりと止んでしまい、それとばかりに、このときを期して明らかに練習を積んでいたにちがいない路上の群衆が、一瞬生じたあたりの静けさにつけ込んで、彼らの党歌を声張り上げて叫ぶのであった――ヘッドライトの光に照らされて、このとき、各自の口が大きく開かれているのまでも見えた――するとまもなく、そのあいだに正気に返った反対者たちが、あらゆるバルコニーや窓から、さっきの十倍ほども高らかに喚声をあげて、束の間の勝利を味わった路上の一派を、すくなくともカールのいる高みからは全く聞こえぬくらいまでに、押し黙らせてしまったのである。
「どう、ちびさん、気に入って」と、カールのすぐうしろから、ブルネルダが、オペラグラスでできうるかぎりすべてを見渡そうとして顔をあちこちへ向けながら、尋ねた。カールは、返事をするかわりに、ただうなずいて見せた。そのときはしなくも、ロビンソンがドラマルシェに向かって、明らかにカールのふるまいについてにちがいない、しきりとさまざまな報告をしているのが、彼の眼に留まった。ドラマルシェのほうは、しかし、ロビンソンの報告になんら重きを置いてないようであった。と言うのも、右手はブルネルダを抱いたままなので、ロビンソンを左手でたえずわきへ押しやろうとしていたからである。「ちょっとオペラグラスを覗いてみたくない」と、ブルネルダは、尋ね、カールを指して言っていることを示すために、カールの胸を軽くたたいた。
「いや、十分見えています」と、カールは、言った。
「まあ、覗いてご覧」と、彼女は、言った。「ずっとよく見えてよ」
「僕は、眼がいいのです」と、カールは、答えた、「なんでも見えます」
彼は、彼女がオペラグラスを彼の眼に近づけたとき、それを、親切ではなくて、妨害と感じた。事実また、彼女は、そのとき、「さあ」とただ一言、歌うような声ではあったが、嚇すような口調で言ったにすぎなかった。途端にもうカールの眼にはオペラグラスがあてがわれていたが、彼には実のところなにも見えなかった。
「全くなにも見えません」と、彼は、言って、オペラグラスからのがれようとしたが、彼女がオペラグラスをしっかり押しつけたままだった。彼は、彼女の胸に深く埋まった自分の頭をうしろへ引くこともできなければ、わきへずらすこともできなかった。
「さあ、これなら見えるでしょう」と、彼女は、言って、オペラグラスのねじを回した。
「いや、あいかわらずなにも見えません」と、カールは言いながら、自分が心ならずも今こうしてロビンソンの負担を実際に軽くしてやっていることに、思い到った。ブルネルダの桁外れな気まぐれが、今や自分に向かってぶちまけられているからである。
「一体、いつになったら見えるようになるのかしら」と、彼女は、言って――カールはもう顔いちめんに彼女のあえぐ息を受けていた――ねじをさらに回した。「これでどう」と、彼女は、尋ねた。
「いや、いや、だめです」と、カールは、実のところ、ひどくおぼろげながらも、もうすべてが見分けられるようになっていたとはいえ、叫んだ。ところが、ちょうどそのとき、ブルネルダがなにかドラマルシェを相手にすることができたらしく、カールの眼にオペラグラスを突きつけた手をゆるめたので、カールは、彼女に格別気づかれることなく、オペラグラスの下側から通りのほうを見とおすことができた。しばらくすると、彼女のほうも我意を張らなくなって、オペラグラスを自身のために利用し続けた。
したでは、料理屋から給仕がひとり現われて、閾際《しきいぎわ》からあちこちへと駆け出しながら、指導者たちの注文を受けていた。そのボーイが酒場のなかを見渡して、できうるかぎり多くの給仕たちを呼び寄せるために、背伸びをしている様子までが、はっきりと見て取れた。明らかに酒の大ぶるまいをするためと思われる、さまざまな準備のあいだも、候補者は、演説を止めはしなかった。彼をかつぎ、彼のみの用を勤めている巨大な男は、彼の演説を群衆のあらゆる部分に伝えるために、彼が二、三句しゃべるごとに、いつも向きを少しずつ変えていた。候補者はもうたいていはすっかり屈み込んだままの姿勢で、時に思い出したように、あいているほうの手と他方の手に持ったシルクハットとをはげしく打ち振りながら、自分の言葉にできうるかぎりの迫力を与えようと努めていた。ところが、時おり、ほとんど規則正しい間隔を置いて、彼は、戦慄に見舞われていた。彼は、両腕を広げ、顔を上げて、語りかけていたが、相手は、もはやひとつの集団ではなく、全住民であった。家並みの最上階にいたるまでの全居住者に向かって、訴えていたのである。とはいえ、彼の声が、建物の最も下の階に住んでいる人たちにさえも、もう聞き取れなくなっていたことは、全く明白であった。たといまた聞き取れたとしても、もうだれも彼に耳を貸そうとはしなかったろう。どの窓も、どのバルコニーも、それぞれに、すくなくともひとりの絶叫している演説者によって占められていたからであった。そうこうしているうちに、数人の給仕が、料理屋から、玉突き台ほどの大きさの板を持ち出してきた。板の上には、所狭いほどに、なみなみと注がれたコップが並んで、光っていた。指揮者たちが分配方法を定めた。分配は、料理屋の入り口のまえを分列行進するという形を取って行なわれることになった。ところが、板のうえのコップは、からになったしりから、いくども注ぎ直されていたにもかかわらず、それだけでは群衆に追いつけなかった。そのため、その居酒屋のボーイが二列になって、板の右と左からすばやくもぐり込み、さらに群衆へ飲み物を供し続けていた。むろん、候補者ももうそのときは演説を止めていて、その休みを利用し、元気の回復をはかろうとしていた。群衆とまぶしい光とから離れて、彼のかつぎ手が彼をかついで、ゆっくりと行ったり来たりしていた。彼の最も親密な二、三の党員だけがそこでも彼に付き添って、彼に話しかけていた。
「このちびをご覧」と、ブルネルダが言った。「一心に見とれて、自分がどこにいるかも忘れているわ」そしてカールの不意を襲い、両手で彼の顔を自分のほうへねじ向けたので、いやでも彼女の目が彼の目とかち合った。しかし、それもわずか一瞬にすぎなかった。カールがすぐに彼女の手を振り払ったからである。彼は、ほんのしばらくも自分を放って置いてくれないことに腹をたて、また同時に、通りへ出てすべてを近くから見物したい気持ちにも駆られて、懸命にブルネルダの押しつけから脱しようと努めながら、言った、「お願いです、僕を帰らせてください」
「おまえはここにいるんだ」と、ドラマルシェが通りから目を離さずに言って、カールが立ち去るのを阻止するために、ただ片方の手のみを伸ばした。
「お止しよ」と、ブルネルダは、言って、ドラマルシェの手を払いのけた。「ちゃんとそこにいるじゃないの」そして、彼女はますますきつくカールを手すりに押しつけた。このぶんでは、彼女から解放されようと思えば、彼女と掴み合いをはじめねばならないだろう。しかし、たといそれがうまく行ったとしても、果たしてなんになると、彼は、思い返した。現に彼の左手にはドラマルシェが立っていたし、右手ではもうロビンソンが立ち上がっていた。彼は、まったく袋のねずみであった。
「おっぽり出されないだけでも有りがたいと思うんだな」と、ロビンソンは、言って、ブルネルダの腕のしたに通していた手でカールを小突いた。
「おっぽり出すって」と、ドラマルシェが言った。「高飛び中の盗《ぬす》っ人《と》をだれもおっぽり出しはしないさ。そいつは警察に引き渡すまでよ。すっかりおとなしくしてなかったら、あすの朝、すぐにそうしてやってもいいんだぜ」
それを聞いた瞬間から、カールにはもう路上の光景がすこしも楽しくなくなった。ブルネルダのためにまっすぐに立ち上ることができなかったので、ただ止むなく、彼は、手すりからすこし身を乗り出しているだけだった。自分の心配で胸がいっぱいになって、彼は見るとはなしに、路上の人々を見ていた。彼らは、およそ二十人くらいずつ組となって、料理屋の入り口のまえまで来ると、コップを手にして、くるりと向きを変え、今は自分のことに気を取られている候補者のほうに向かって、コップを振りながら、党のあいさつの決まり文句を叫んで、コップを飲み干し、カールのいる高みからは聞こえなかったが、確かに、なにやらわめきながら、コップをふたたび板のうえに置いて、次のしびれを切らして騒いでいる、新しい組に席を譲っていた。指導者たちの注文で、それまで料理屋のなかで演奏していた楽団が、路上へ出て来た。彼らの大きな吹奏楽器が暗い人ごみのなかから光っていたが、彼らの演奏は、ほとんどあたりの喧騒でかき消されていた。もうその時分になると、通りは、すくなくとも料理屋のある側は、遠くまで人で埋まっていた。カールが朝に自動車でやって来た上手からも、人々が流れをなして下って来ていたし、また下手のほうからも、続々と人々が駆け上って来ていた。あたりの建物に住んでいる人たちさえも、この問題に自分も手出ししたい誘惑にもう抗しきれなくなっていたのだろう。バルコニーや窓ぎわに残っているのは、ほとんど女や子供だけで、男たちは、したの表口からわれがちに飛び出していた。もうこうなると、音楽と供応は、すでに目的を遂げたわけである。集まった聴衆は、十分すぎるほど多かった。二つのヘッドライトで左右を固められた指導者のひとりが手まねして、音楽を止めさせ、音高く号笛を吹いた。すると、候補者をかついですこし遠くまでうろついていた男が、党員によって切り開かれた道を通って、大急ぎで引き返して来るのが見えた。
料理屋の入り口近くまで来るやいなや、候補者は、彼のまわりを狭い円陣を作って囲んでいるヘッドライトの光を浴びながら、改めて演説をはじめた。ところが、何をするにしてもさっきよりはるかに面倒であった。候補者のかつぎ手は、もう動きの自由がすこしもきかなかった。混雑があまりにもひどすぎたのである。さっきは、ありとあらゆる方法で候補者の演説の効果を高めようと努めていた側近の党員たちも、今は、候補者の近くに控えているのがやっとであった。およそ二十人くらいが一所懸命にかつぎ手にしがみついていた。ところが、このたくましい男でさえも、自分の意志どおりに、一歩ももう踏み出せなくなっていた。一定の方向転換をしたり適当な前進あるいは後退をしたりして、群衆になんらかの影響を与えることなど、もはや夢にも考えられなかった。群衆は、津波のように、むやみやたらに押しかけていた。人々は、たがいに寄りかかりあい、だれひとりとしてもうまっすぐに立ってはいられなかった。反対者のほうも、あらたに加わった民衆によって、その数をひじょうに増していたようであった。かつぎ手は、料理屋の戸口の近くで、長いあいだ立ち尽くしていたが、そのうちに、見受けたところなんの抵抗もせずに、路上をあちこちと押し流されはじめた。候補者は、ひっきりなしに喋っていたが、自己の政綱を説明しているのか、それとも、助けを求めて叫んでいるのか、もう大して見分けがつかないくらいだった。もし見誤りでないとすれば、対立候補も、一人ないし数人、そこに来ていたようであった。と言うのは、そこかしこで、突然にあかあかと点じられた、なにかの光を浴びながら、群衆のなかから色あおざめた男が高々とさし上げられ、こぶしを固めて、多数の叫び声に歓迎されつつ、演説を行なっていたからである。
「あれは、一体、何事です」と、カールは、尋ねて、息も継げないほどにうろたえながら、彼の監視人たちのほうを顧みた。
「ちびがすっかり取りのぼせてるわ」と、ブルネルダがドラマルシェに言って、カールのあごをつかみ、彼の頭を自分のほうへ引き寄せようとした。ところが、カールがそうはさせまいと思って、ちょうど路上の出来事ですっかり気が立っていたときでもあり、はげしくからだを振りほどいたので、ブルネルダは、彼を手放したばかりか、うしろへたじたじとひきさがって、すっかり彼を自由の身にしてしまった。「もうたっぷり見たはずよ」と、彼女は、明らかにカールの態度に腹をたてて、言った。「部屋へ行って、床を延べ、いつでも寝られるように手落ちなく用意をするの」彼女は、部屋のほうへ向けて、片手をのばした。それは、確かに、カールがもう数時間もまえからねらいをつけていた方向であった。彼は、一言も口答えしなかった。するとそのとき、路上からガラスのみじんに砕け散る声が聞こえた。カールは、自制しきれなくなって、今一度、ほんのちらとでも、見下ろすために、すばやく手すりにとびついた。反対者たちの計画が、それこそおそらく一か八かの計画だったのだろうが、みごとに成功して、それまで強烈な光ですくなくとも今夜の主要な経過を全世間のまえに公開するとともに、またそれによってすべての人々にもある程度の節度を守らせてきた、あの党員たちのヘッドライトが、ひとつ残らず同時に粉砕されてしまったのである。もはや候補者とそのかつぎ手を取り巻くのは、あたりいちめんの頼りない照明にすぎず、そのあかりが急に広がると、かえって、真っ暗がりのなかにいるような感じしか与えなかった。こうなっては、候補者たちがどこにいるか、もはや仮にも言うことができなかったろう。人を欺く闇のちからは、おりから始まった、下手の橋のほうから近づいて来る、幅広い、統一した歌声によって、いやがうえにも強まるばかりであった。「さあ、言いつけた仕事があるはずよ」と、ブルネルダが言った。「さっさとなさい。わたし、疲れているのよ」彼女がそう言い添えて、両腕を高く伸ばすと、彼女の胸がふだんよりもはるかに大きく盛り上がった。彼女を片時も離さずに抱き続けていたドラマルシェが、彼女をバルコニーのすみへ引っぱって行った。するとロビンソンが、いまだにそこへ放ったらかしにしていた食べ物の残りをわきへかたづけるために、ふたりのあとを追った。
この好機をうまく利用せねばならぬ。今は路上を見下ろしている時ではない。路上の出来事は、したへ下りてもたっぷり見られるし、それどころか、ここのうえからよりもよく見えるはずだ。そう考えて、カールは、二段跳びで薄赤いあかりのともった部屋を急ぎよぎったが、ドアには鍵がかかり、その鍵は、抜き取ってあった。まず鍵がなければならぬ。だが、この乱雑のなかで果たして誰が鍵を見つけ出せよう。しかも、自分が自由に使える貴重な時間は、ごくわずかしかないのだ。本来なら、もう今ごろは階段に出て、一目散に走り下りているはずなのに。こうなっては、ままよ、鍵を探そうと、彼は、心に決めた。そして、手当たり次第に引き出しのなかを残らず探し回り、さまざまな食器やナプキンや始めたばかりの刺繍が散らばっているテーブルのうえをかき回し、もしかすると衣類のあいだに鍵があるかもしれぬと、古い衣類がすっかり絡み合ったまま山と積まれている、肘かけ椅子にも、心をひかれたが、そこでも、鍵は、見つからなかった。ついに彼は、文字通り悪臭を放っている寝椅子のうえにまでも飛び乗って、すみずみや襞《ひだ》のなかにまでも手を入れて鍵をさぐったが、駄目であった。彼は、探すのを止めて、部屋の真ん中で立ち止まった。きっと鍵は、ブルネルダが自分のベルトにくくり付けているにちがいない、あすこにはいろいろなものがつり下がっているようだから、いくら探してもむだだと、彼は、心に言い聞かせた。
そうなると、カールは、もう盲滅法になって、ナイフを二本つかみ取ると、それを扉のあいだへ、二個所のたがいに離れた作用点を作るために、一本はうえのほうへ、一本はしたのほうへと、突っ込んだ。彼がナイフを横に引くと、むろん、ナイフの刃がふたつに折れた。彼の意図は、ほかでもない。ナイフの手もとに残った部分ならば、さらにしっかりと刺し込むことができるし、それだけに耐久力があると思ったからであった。そこで彼は、両腕を大きく広げ、両足を大またに開いて突っ張り、うめくほどに渾身の力をこめて、ドアに細かく注意しながら、引いた。このぶんでは、ドアのほうが長く持ちこたえられまい、カールは、はっきりと耳に聞こえるほどにかんぬきがゆるんだことから、それと察して喜んだ。ゆっくりやればやるほど、事は、正確に運ぶのだ。錠前が音を立ててはじけでもしたら、大変だ。そうなると、きっとバルコニーの連中が聞き耳をたてるにちがいない。錠前は、むしろ、きわめて徐々にはずれてゆくようにせねばならぬ。そう考えて、カールは、このうえなく慎重に、眼をますます錠前に近づけながら、作業を続けた。
「あれ見ろ」と、そのとき、ドラマルシェの声がした。三人とも、部屋のなかに立っていた。カーテンは、彼らのうしろですでに締めてあった。カールは、彼らのはいって来るのを、うっかりして聞きのがしたにちがいない。ナイフを見て、彼の手もおのずから力なく垂れて行った。だが、なにか説明か弁解の言葉を、言っている暇など、彼にはなかった。ドラマルシェが、これを機に、たまっていたかんしゃく玉を一気に爆発させたらしく、カールを目がけて――彼のほどけたガウンのひもが空中で大きな図形を描いたほどに――飛びかかって来たからである。カールは、どうにか間一髪でその攻撃を躱《かわ》した。彼は、ドアからナイフを引き抜いて、防衛に利用できたはずであるが、そうはしなかった。反対に、彼は、身を屈めてはとび上がりながらドラマルシェのガウンの幅広い襟をつかんで、その襟を差し上げ、さらに引っ張り上げしていったので――ガウンは、確かに、ドラマルシェにとってあまりにも大きすぎた――ついにドラマルシェの首っ玉をうまいぐあいにおさえることができた。ドラマルシェは、事の意外にすっかりびっくりして、最初は眼が見えないまま手を振り回していたが、しばらくすると、顔を護るためにドラマルシェの胸に抱きついていた、カールの背中をやっとこぶしで殴りはじめた。しかし、それもまだ十分な効きめはなかった。カールは、痛さのあまりに身もだえしながらも、こぶし打ちに耐えていた。そのこぶし打ちもますます強烈になるばかりではあったが、彼としてはどうしてそれに耐えずにいられよう。勝利は、もう彼の眼前にあったのである。ドラマルシェの首っ玉を両手でおさえ、ちょうど親指をドラマルシェの眼のうえに当てがって、カールは、彼を、家具がひどく雑然と立て込んでいるあたりへ、押し立てて行った。そればかりか、彼は、爪先を巧みに使って、ドラマルシェの足にガウンのひもをからませ、そのままドラマルシェを転倒させようとさえ企てたのであった。
ところが、相手の抵抗がしだいに増すにつれて、カールに逆らって踏ん張る敵のからだにもますます力がこもって来ていたために、カールは、すっかりドラマルシェのほうにばかり心をとられて、ドラマルシェとふたりきりでいるのでないことを、実は忘れていた。すると、たちまちにして、彼は、それを思い知らされたのである。ロビンソンが彼の背後の床のうえにひれ伏して、わめきながら、引き裂くように彼の両足を押し広げたので、彼の足が利かなくなってしまったからである。うめきながら、カールは、ドラマルシェを手放した。ドラマルシェは、さらに一歩後ずさりした。ブルネルダは、股を広げ、膝を曲げて、部屋の中央に身幅いっぱいに立ち、眼を輝かしながら、事件のなりゆきを見守っていた。彼女自身までも実際にこの格闘に参加しているかのように、彼女は、深く息を吸い、眼でねらいを定めながら、ゆっくりとこぶしを突き出していた。ドラマルシェは、襟を下ろして、ふたたび眼の自由を取り戻していた。こうなっては、むろん、もう格闘になりようがなかった。あるのは、ただ処罰のみであった。ドラマルシェがいきなりカールの胸倉《むなぐら》を掴んだかと思うと、カールの足が床から浮かんばかりに、高く持ち上げ、軽蔑のあまりにカールからすっかり顔をそむけたまま、二、三歩離れた戸棚へ内かって力まかせに投げつけたので、カールは、箱に打ち当たったときにこうむった背部と頭部の刺すような痛みを、ドラマルシェの手から直接受けたもののように、とっさには思ったくらいだった。「このちんぴらやくざめ」と、彼は、痙攣する眼のまえが真っ暗になったなかで、ドラマルシェがなおも大声で叫んでいるのを、耳にした。そして、箱のまえでくずおれたまま、人事不省に陥りかけながらも、「今に見ておれ」という言葉が、なおもかすかに彼の耳の底で聞こえていた。
彼が正気に返ったときは、あたりは真っ暗であった。まだ夜ふけらしい。バルコニーからは、カーテンのしたをとおして、月の淡い光が部屋のなかへさし込んでいた。眠っている三人の安らかな寝息が聞こえていた。桁はずれて高いのは、ブルネルダの寝息だった。彼女は、時おり話していてもするように、眠っていても、荒い息使いをしていた。しかし、寝ている三人がそれぞれにどの方向にいるかは、容易に決められなかった。部屋じゅうに彼らの息使いの音がみちみちていたからである。彼は、あたりの様子を調べてから、やっと自分のことに思い至った。そして、ひどく驚いた。痛みのために、からだがすっかりよじれて、こわばったままだったとはいえ、血まみれな重傷をこうむっているようには、どうしても考えられなかったからである。ところが、頭にはやはりなにかずっしりと重いものがのしかかっているようであった。顔も、喉も、ワイシャツのしたの胸も、まるで血にまみれたようにぬれていた。自分の容態を詳しく確かめるために、まず明るいところへ行かねばならぬ。もしかすると不具《かたわ》にされているかもしれない。それなら、ドラマルシェとてもきっと喜んで自分を放免してくれるだろう。しかし、そうなると、自分は、なにができよう。そうなると、確かに、もうお先真っ暗であった。彼は、あの門道にいた鼻をかじられた若者のことを、思い出した。彼は、しばらくは両手に顔をうずめていた。
それから、彼は、なにとはなしに戸口のほうへ向いて、四つんばいになりながら、手さぐりで歩いて行った。まもなく彼の指の先に長靴が触れ、さらに足が触れた。それはロビンソンにちがいなかった。ほかに、長靴をはいたまま眠る者は、いないはずである。きっとカールの逃走を阻止するために、戸口のまえに斜めに身を横たえるよう、命令されたにちがいない。それにしても、カールの容態をだれも知らなかったのだろうか。彼は、差し当たってはなにも逃走するつもりなどなかった。ただ明るいところへ出たいだけであった。それゆえ、戸口からそとへ出られないとすると、バルコニーへ出るよりほかなかった。
食卓は、晩に見たのとは明らかに全くちがった場所に置いてあった。寝椅子は、カールが、むろん、ひじょうに用心深く近づいてみると、意外なことにからっぽであった。それにひきかえ、部屋のまんなかで、強くおしつけてはあったとは言え、うずたかく積み重ねてあった衣類や掛けぶとん、カーテン、枕、絨毯《じゅうたん》などのたぐいにぶつかった。彼は、最初、それが、晩に見た、あの肘かけ椅子のうえの、床にまでころがり落ちていた山と同じくらい、ほんの小さな山にすぎないように、思った。ところが、這って行くうちに、そうした品がたっぷり車一台分ほどもあるのに気づいて、彼は、驚いた。おそらく昼のあいだ箱のなかにしまっておいたものを、夜になって箱から取り出したものと思われる。彼は、その山のまわりを這いながら、全体が一種の寝台をなしていることを、まもなく覚った。彼が注意深く手さぐりしながら確かめると、案の定、その山の頂上でドラマルシェとブルネルダが眠っていた。
こうしてやっと三人の寝ている場所がわかった。そこで、彼は、急いでバルコニーへ出ることにした。カーテンのそとですばやく立ち上がると、そこは、全くちがった世界だった。彼は、さわやかな夜の大気のなかで月の光をいっぱいに浴びながら、バルコニーのうえを二、三度行ったり来たりした。通りを見やると、通りは、静まり返っている。料理屋からはいまだに音楽がもれていたが、もうその響きも鈍かった。入り口のまえでひとりの男が歩道を掃いていた。同じ通りなのに、晩には、いちめんにとりとめもない喧騒に包まれて、選挙の候補者の叫びと他の幾千人とも知れぬ声との区別がつかなかったが、今は舗石をかきなでる箒の音さえもはっきりと聞き取れるのである。
隣のバルコニーでテーブルをずらす音がして、カールの注意をひいた。そこでは、だれだかすわって、勉強していた。あごにちょっととんがりひげを生やした年若い男が本を読んでいて、急がしく唇を動かしながら、たえずそのとんがりひげをひねっていた。彼は、本でおおわれた小さなテーブルにすわって、カールのほうへ顔を向けていた。電灯を壁から取り下ろして、二冊の大きな本のあいだに挾んであるので、彼は、その眩しい光を真っ向からくまなく浴びていた。
「こんばんは」と、カールは、その若い男がこちらへ視線をくれたように思ったので、言った。しかし、それは、どうやら勘違いだったにちがいない。と言うのは、その若い男がいまだにカールには全然気づいてないらしく、片手を眼のうえにかざして、光をさえぎり、だれがだしぬけに挨拶したかを確かめようとしていたが、それでもやはりなにも見えなかったのだろう、こんどは電灯を高く持ち上げて、それで隣のバルコニーをも多少なりと照らそうとしていたからである。
「こんばんは」と、ようやく彼のほうも、言って、一瞬鋭くこちらを見すえてから、言い添えた、「それでなにか用事でも」
「お邪魔でしょうね」と、カールは、尋ねた。
「ええ、もちろん」と、その男は、言って、電灯をふたたび元のところへ置いた。
その言葉で、むろん、取りつく島もすっかり無くなったわけであるがカールはそれでも若い男の身近にいられるためか、そのバルコニーの隅を離れようとはしなかった。彼は、黙って、その男が本を読み、ページをめくり、時おり、いつも電光石火の素早さで、ほかの本を手に取っては、なにやら参照して、いくたびとなくその都度、顔をノートへ驚くほど深く下げながら、ノートへメモしているさまを、ながめていた。
もしかすると学生なのだろうか。どう見ても、勉強しているようにしか見えない。考えて見れば、自分が郷里の家で――今となってはもう遠い昔のことだが――両親のテーブルに向かい、宿題を書いていたのと、大して変わりはない。あのとき、父は、新聞を読んだり、帳簿へ記入をして、どこかの協会のための通信を片づけたりしていた。母は、縫い物にかかり切って、布地から高く針糸を引き抜いていた。自分は、父親がうるさがらないように、必要な本を自分の左右の肘かけ椅子のうえにきちんと置いて、ノートと筆記具だけをテーブルのうえにのせていた。あの部屋は、なんと静かだったことだろう。他人があの部屋へやって来ることも、なんと珍しかったことだろう。自分は、すでに幼い子供のころから、いつも母が、日暮れになって、住まいの入り口に鍵をかけるのを見るのが好きだった。ああ、母だって、その自分が今は他人の戸口をナイフでこじあけるほどまでになっているとは、まさか夢にも知るまい。
それにしても、なにが目的であんな勉強を続けたのだろう。もうなにもかもきれいに忘れてしまっている。もしもこの地で自分の勉強を続けねばならぬはめになっていたら、それこそ、自分は、ひどく難儀したにちがいない。カールは、故郷にいたとき、一ヵ月ほど病気したことがあるのを、思い出した。あのとき、中断していた勉強にふたたび身を入れるために、なんと苦労したことか。ところが今は、あの英語の商業通信の教則本のほかには、もう長いあいだ一冊の本すらも読んでないのだ。
「もし、そこの若いかた」と、カールは、ふいに自分が呼びかけられているのを耳にした、「どこか別のところへ立ってくれませんか。あなたがじっとこちらを見つめているのが、ひどく僕の邪魔になるのです。こうして夜なかの二時にもなると、バルコニーで仕事をするのを邪魔しないでほしいと、要求したっていいと思うんですが。それとも、なにか僕にご用ですか」
「勉強していられるんですね」と、カールは、尋ねた。
「ええ、ええ」と、相手は、言って、勉強できずに空費されたその暇を利用し、取り散らかした幾冊かの本を新しく整頓し直した。
「それではお邪魔になってはいけません」と、カールは、言った。「なにはともあれさっそく部屋へ引き揚げましょう。おやすみなさい」
相手は、返事すらもしなかった。彼は、邪魔を片づけたので、急に決心し直して、ふたたび勉強に取りかかって、額を重たげに右手で支えた。
するとカールは、カーテンのすぐまえまで来て、自分がそもそもなんのためにバルコニーへ出たかを、思い出した。自分の容態がどの程度のものかは、むろん、まだ彼には皆目わからなかった。それにしても、頭をうえから重たくおさえつけているのは、なんだろう。彼は、手を頭へやって見て、驚いた。彼が部屋の暗がりのなかで気づかったような、血みどろの傷は、どこにもなく、ただターバンのように包帯が巻かれ、それがいまだに湿っていたにすぎなかった。その包帯は、いまだにそこかしこから垂れ下がっているレースの切れ端から判断すると、ブルネルダのなにか古い肌着を裂いたものにちがいなかった。おそらくロビンソンが一時しのぎにそれをカールの頭に巻きつけたのであろう。ただそれを解くのを、ロビンソンが、忘れていたにすぎなかった。それほど、カールの人事不省のあいだに、多量の水が彼の顔に注ぎかけられ、それがワイシャツのしたにまでも伝わって、カールの心にあのような恐怖をいだかせたのである。
「まだそこにいるのかね」と、男は、尋ねて、こちらへ一瞥をくれた。
「いや、実は今引き揚げるところなのです」と、カールは、言った、「ここでちょっと見たいものがあったものですから、部屋のなかが真っ暗なので」
「あなたは、一体、どなたです」と、男は言って、眼のまえに開いてある本のなかへ万年筆を置き、手すりのところまで歩み寄ってきた。「あなたのお名まえは。どうして連中のところへ来られたのです。もうずいぶん以前からこちらにいるのですか。一体、なにをご覧になろうと思ったのです。あなたのお顔が見えるように、そちらの電灯をつけてくれませんか」
カールは、言われるとおりにした。が、答えるまえに、部屋のなかの人たちにけどられぬように、出入り口のカーテンをさらにきっちりと締めた。それから、彼は、ささやくような声で言った、「声をひそめて申しますが、お許しください。なかの人らに聞かれたら、またしてもいさかいになりますので」
「またしても」と、男は、きき返した。
「そうなのです」と、カールは、言った、「つい、晩に、あの人らと大喧嘩をしたばかりなのです。まだこのあたりにひどい瘤《こぶ》ができているはずです」彼は、そう言って、後頭部を手でさわった。
「一体、どんな喧嘩だったのです」と、男は、尋ねたが、カールがすぐには返事しなかったので、言い足した。「この僕には、あの連中にたいして含んでいられることを、なになりと安心して打ち明けてくださって結構です。僕は、つまり、あの三人組を憎んでいるのです。わけてもお宅のマダムをね。それにしても、連中があなたをけしかけて僕といがみあいさせないのが、むしろ、僕には不思議なくらいです。僕の名は、ジョセフ・メンデル。学生です」
「そうでしたか」と、カールは、言った。「あなたのお噂は聞いています。でも、悪い話ではありません。いつかブルネルダ夫人を治療されたことがおありでしょう」
「そのとおりです」と、学生は言って、笑った。「まだあの寝椅子がにおいますか」
「もちろんですとも」と、カールは言った。
「それは、しかし、愉快だ」と、学生は言って、手で髪をかきやった。「ところで、どうして瘤なんかこしらえたのです」
「喧嘩したのです」と、カールは、どういうふうに経緯を学生に説明すればいいかと考え込みながら、言った。しかし、そこで説明をひとまず打ち切って、尋ねた、
「おじゃまじゃありませんか」
「まず第一に」と、学生は言った、「あなたはもうとっくにぼくのじゃまをしています。ぼくは、残念ながら、ひどく神経質なので、元どおり身がはいるまでに長い時間がかかるのです。あなたがこのバルコニーで散歩をはじめてから、僕のほうはちっとも勉強がはかどっていません。また第二に、三時になると、僕は、一休みすることにしています。ですから、どうぞご遠慮なく話してください。僕にも興味がありますので」
「全く簡単なことなのです」と、カールは、言った。
「ドラマルシェが僕を自分のところの召使に使いたいのです。ところが、僕のほうはいやなのです。僕はすぐ晩のうちにでも出て行きたかったのですが、ドラマルシェが、僕を離したがらないで、戸口に錠を掛けてしまいました。僕がそれをこじあけようとしたところで、掴み合いになったのです。そんなわけで、不幸にも、まだこんなところにいるのです」
「ほかになにか職をお持ちですか」と、学生は、尋ねた。
「いいえ」と、カールは言った、「でも、ここから抜け出せさえしたら、そんなことは問題でありません」
「ちょっと待ってください」と、学生は、言った、「ほんとうに、そんなことは問題ではないのですか」ふたりのあいだにしばらく沈黙が続いた。「どうしてあの連中のところに留まりたくないのです」と、やがて学生が尋ねた。
「ドラマルシェは、悪い人間です」と、カールは、言った、「ぼくは、もう以前からあの男を知っています。僕は、いつか、あの男とまる一日徒歩旅行しましたが、あの男と別れたときは、気がせいせいしました。それなのに、どうして今さらあの男の召使などになれましょう」
「世間のどんな召使だって、できればあなたのように、主取りでより好みしたいところでしょうが」と、学生は、言って、微苦笑しているようであった。「いいですか、僕は、日中は、セールスマンなのです。それも、いちばん下級なセールスマン、と言うよりかむしろ、モントリー百貨店の走り使いにすぎません。このモントリーという人物が、まぎれもない、悪党なのですが、そんなことは、ちっとも僕は苦になりません。ただ給料が恐ろしいほどお粗末なのに腹をたてているだけです。そんなわけで、僕を手本にされたらいかがです」
「なんですって」と、カールは、言った、「あなたは、昼は、セールスマンで、夜になると、勉強なさるのですか」
「そうです」と、学生は、言った、「ほかにしようがありません。これまでありとあらゆることを試みてみましたが、この生活方法がまだいちばんましなのです。数年まえは、これでも学生にすぎませんでした、昼も、夜も。ところが、いいですか、それだと、僕は、もう飢え死にするほかなかったのです。むさ苦しい、古いあばら屋に寝て、あの当時の服装では気がひけて教室へも出られなかったくらいです。でも、もうその時代も過ぎました」
「それでは、いつおやすみになるのです」と、カールは、尋ねて、けげんそうに学生を見つめた。
「そう、眠ることね」と、学生は、言った。「そりゃ僕だって、勉強がかたづけば眠りますよ。さしあたっては、コーヒーをブラックで飲むのです」彼は、こちらへ背を向けると、勉強していたテーブルのしたから大きな瓶をひとつ取り出し、そこからミルク抜きのコーヒーを小さな茶わんについで、ぐいと一気に飲み干した。その仕草は、ちょうど薬を急いで飲み下して、薬の味をできうるかぎり感じないようにするのと、よく似ていた。
「すてきなものですよ、コーヒーのブラックというやつは」と、学生は、言った、「遠いので、すこしでも差し上げられないのが、残念です」
「ミルク抜きのコーヒーは、僕の口に合いません」と、カールは、言った。
「僕もそうなんですよ」と、学生は、言って、笑った。
「ところが、こいつがなければ、僕は、なにもする気がしないかもしれません。ブラックコーヒーがなければ、モントリーだって僕を片時も雇って置いてはくれないでしょう。いつもモントリーを引き合いに出しますが、むろん、先方は、僕という人間がこの世にいることなど、夢にも知らないわけです。ところで、僕がこれと同じ大きさの瓶を事務机のなかにいつも用意してなかったら、どんな仕事ぶりをするか、実は自分でもそうはっきりとはわからないくらいなのです。なにしろ、コーヒーを飲むのを止めたことがこれまで一度もないものですから。ただ、コーヒーを飲まなかったら、すぐに事務机のうしろに横になって、眠ってしまうことだけは、請け合いです。残念ながら、店の連中もそれをうすうす感づいているようで、店ではみんなが僕を≪ブラックコーヒー≫と呼んでいるのです。なんと愚にもつかぬ洒落《しゃれ》ではありませんか。こんなことが、僕の昇進を妨げてきたにちがいないのです」
「それでは、いつになると、ご勉強のほうがかたづくのですか」と、カールは尋ねた。
「それが遅々たる進みかたでしてね」と、学生は、うなだれて言った。彼は、手すりから離れて、ふたたびテーブルに向かって腰を下ろした。開いた本のうえに両肘を突き、手で髪のなかをかき回しながら、言った。「まだ一、二年はかかるかもしれません」
「僕も、じつは、勉強したかったのです」と、カールは、言った。まるでそうした事情が、今黙り込んでいる学生が先刻来彼にたいして示してくれた信頼よりも、さらに大きな信頼を要求する権利を彼に与えてくれるかのような口ぶりであった。
「そうですか」と、学生は、言った。彼がもうまた本を読みかけているのか、それとも、ただぼんやりと本を見つめているにすぎないのか、その点はあまりはっきりとはしなかった。「学業を放棄したのを喜ばないといけません。僕自身は、もうここ数年、実は、ただ通信教育だけで勉強しているのですが、めったに満足したためしがありません。ましてや将来の見込みなど、ほとんど皆無に近い状態なのです。一体、どんな見込みをつければいいのでしょう。アメリカは、いかさまドクトルで充満しているのです」
「僕は技師になるつもりでした」と、カールは、もう完全に無関心な態度を見せている学生に向かって、急ぎ言い足した。
「そのあなたが今はあの連中のところの召使にされるというわけですね」と、学生は、言って、ちらと眼を上げて見た、「それなら、苦しまれるのも当然です」
学生のこの結論は、確かに、誤解ではあったが、それがカールにはおそらく渡りに船だったのであろう。彼は、そこで尋ねた、「もしかしてその百貨店のなにかの口にでも僕がありつけないものでしょうか」
この問いによって、学生の注意は、完全に本から離れた。自分がカールの就職に手を貸せるという考えは、全く彼には湧いて来なかった。「試してごらんなさい」と、彼は、言った、「それとも、止めたほうがいいかもしれない。とにかく、僕がモントリーのところで職場を得たことは、これまでの僕の人生の最大の成功だったのです。もし勉強と今の職場と、どちらかを選ばねばならないとしたら、僕は、むろん、職場のほうを選ぶでしょう。そうした選択の必然性が生じないようにすることに、僕の努力は、もっぱら向けられているのです」
「その店に就職するのは、やはりむずかしいわけですね」と、カールは、むしろ自分に聞かすように言った。
「ああ、なにを勘違いしているのです」と、学生は、言った、「モントリーの店の玄関番になるよりも、ここの地区の判事になるほうが、やさしいくらいですよ」
カールは、黙り込んだ。自分よりもはるかに世慣れているばかりでなく、自分にはまだわからないなんらかの理由からドラマルシェを憎んでいながら、あの学生は、自分にたいしては、反対に、なにひとつ悪しかれと望んでいないはずなのに、なぜか、ドラマルシェのもとを立ち去れとの激励の言葉を、一言も自分にかけてくれない。しかも、あの学生は、自分に警察の手が伸びているということも、またドラマルシェのもとにいさえすれば、自分の身がなかば安全だということも、まだ全然知らないはずなのに。
「あなたも、晩に、路上で行なわれた、あのデモをご覧になったでしょうね。事情を知らない人なら、あの候補者は、名まえをロブターというのですが、やはり見込みがあるとか、あるいは、すくなくとも考慮の余地があるとか、考えるのじゃないでしょうか」
「僕は、政治のことはちっともわかりません」と、カールは言った。
「それは、欠点ですよ」と、学生は、言った。「まあ、それはともかくとして、あなたにも眼や耳があるはずです。あの男には、確かに、味方もいれば、敵もいます。それは、あなただって気づいたことと思います。ところが、どうでしょう、あの男は、僕の意見では、選出される見込みが爪の垢ほどもないのです。僕はふとしたことからあの男のことをすっかり知ったのですが、僕らのところにあの男を知っている者が住んでいましてね。あの男は、なにも無能な人間じゃないのです。彼の政治的識見や政治的経歴からすれば、彼こそこの地区に最もふさわしい判事かもしれません。ところが、だれひとりとして、あの男が選出されるとは、考えてないのです。あの男は、ほかにまねてがないほど、いとも花々しく落選するでしょう。選挙運動にちょいと何ドルか投げ出して、それで終りというわけです」
カールと学生は、たがいにしばらく黙ったまま相手を見つめていた。学生は、にっこりとうなずいて、手で疲れた眼をおさえた。
「ところで、まだお休みにならないのですか」と、学生は、それからきいた、「僕も、そろそろ、また勉強にかからねばなりません。ご覧なさい、まだこんなに調べねばならぬことがあるのです」そう言って、彼は、まだ遣り遂げねばならぬ仕事があることをカールに理解してもらうために、一冊の本の残り半分のページをすばやくめくって見せた。
「では、おやすみなさい」と、カールは、言って、一礼した。
「一度、僕らのところへいらっしゃい」と、すでにテーブルに向かっていた学生は、言った、「むろん、気が向かれたらね。ここではいつでもおおぜい相手がいますよ。晩の九時から十時までなら、僕もあなたのお相手になれます」
「それでは、ドラマルシェのもとに留まるように、勧められるわけですね」と、カールは尋ねた。
「是が非でも」と、学生は、言って、早くも本のほうへ顔を近づけていた。その一語は、なぜか彼の口から発したようには思えなかった。学生の声よりも低い声で語られたかのように、いつまでもカールの耳の底に残っていた。カールは、ゆっくりとカーテンのところまで歩いて行って、今は全く不動のかたちに戻り大いなる暗黒に取り巻かれながらあかりのなかにすわっている学生のほうへ、さらに一瞥を投じると、そのまま部屋のなかへすべり込んだ。寝ている三人の息使いが一つになって彼を迎えた。彼は、壁沿いに寝椅子を探していき、ついに見つかると、それが自分のいつもの寝床であるかのように、ゆったりとそのうえで体を伸ばした。ドラマルシェの人柄やこの界隈の事情を詳しく知っているばかりか、教養ある人間でもある学生が、ここに留まるように、彼に勧めてくれた以上、もうさしあたってはなんの懸念も彼にはなかった。あの学生のような大望を、彼は、いだいていなかった。本国にあってさえも果たして学業を首尾よく自分が達成できたかどうか、怪しいかぎりなのに、本国でもほとんど不可能なように思われることを、この異国の地でするがいいと、まさか自分に所望する者もいまい。とにかく、今はさしずめ、ドラマルシェのところに召使として就職し、そうして身の安全を期してから、なにかの有利な機会を待ち受けたほうが、自分がなにか業績をあげて、その業績で真価を認められるような職場の見つかる見込みも、大いにあるにちがいない。どうやらこの通りには、中級や下級の事務所がたくさんあるようだ。そうした事務所なら、おそらく人手不足の場合に、従業員の選考に当たって、そうやかましくより好みもしないだろう。自分は、止むを得なければ、商店員になりたいが、しかし、本格的な事務面に採用されることだって、全く望みないとは言い切れない。そうなれば、いずれは事務員となって、事務机に向かいながら、けさ早く中庭を通り抜けて来るときに見かけたあの事務員のように、しばらくは、なんのわずらいもなしに、あけた窓からそとを見ていることだって、できるだろう。カールは、眼を閉じると、自分はまだ若いのだし、いつかはドラマルシェも自分を解放してくれるにちがいないと、思いついて、安心した。確かに、ここの所帯にしても、そういつまでも長持ちしそうには見えなかった。いずれにせよ、どこかの事務所でそうした地位を得たら、自分の受け持ちの事務にのみ専念して、あの学生のように精力を浪費しないようにしよう。万止むを得なければ、夜を事務所の仕事に充《あ》てたっていい。自分のように商業的な素養が乏しい場合は、最初のうちは、そうしたことを要求されるかもしれない。とにかく、自分は、自分が献身せねばならぬ仕事の重大性のみを念頭に置いて、どんな仕事にも従おう。ほかの事務員たちが自分らにふさわしい仕事でないと言って、拒むような仕事だって、自分は、引き受けることにしよう。カールの頭のなかでは、さまざまの立派な計画がひしめきあい、さながら彼の未来の事務所長が寝椅子のまえに立って、彼の顔からそうした計画を読み取ろうとしているかのようであった。カールは、そうしたことを考えているうちに、いつのまにか眠り込んでいた。ただ最初、うつらうつらしているあいだに、どうやら悪夢にさいなまれているらしく、寝床のうえでしきりと寝返りを打っているブルネルダのひどいため息が、邪魔になっただけであった。
[#改ページ]
オクラホマの野外劇場
カールは、とある町角で、次のような口上書きのポスターを見た。「クレイトン競馬場にて、本日早朝六時より夜半まで、オクラホマ劇場の座員を採用す。オクラホマ大劇場が諸君を招く。招くは、本日、ただ一度かぎり。今や千載一遇のこの機を逸すなかれ。身の将来をおもんばかる者は、我らに加われ。何人たりとも歓迎す。芸術家たらんと望む者は、志願せよ。何人をも適材適所に採用するは、我らが一座なり。我らに参加を決意せる者にはとりあえずここにて祝詞を申し上げる。夜半までの面接に遅れざるよう、急げ。十二時に一切の門戸は閉ざされ、もはや開くことなし。我らを信ぜぬ者に呪いあれ。いざ、諸君、クレイトンへ来たれ」
そのポスターのまえには多くの人がたかっていたが、あまり賛同者はいないようであった。ポスターの数はとても多かったが、ポスターを信じる者はもういなかった。それにこのポスターは、ほかのありきたりのポスターよりも、はるかにいんちきじみていた。まず第一に、大きな欠点があった。給料のことを一語も書いてないのである。多少でも述べる値うちのある程度の給料ならば、きっとポスターでもそれをうたっているにちがいない。最も人の心を引くことを書き忘れるはずはないのである。芸術家になりたいとだれも思わなくても、自分の労働にたいしてはだれでも賃金を払ってほしいからである。
ところが、カールにとっては、そのポスターのなかにひどく、心ひかれることが書いてあった。「何人たりとも歓迎す」という文句である。何人たりとも、と言えば、自分もそのうちにはいる。自分がこれまでしてきたことは、もうすっかり世間では忘れられていて、だれもそれを種に自分を非難しようとする者はいない。自分は、不名誉でない、いやそれどころか、公然と求人している仕事には堂々と応募して差し支えないのだ。それにまた、自分をも採用してくれると、公然と約束しているではないか。自分は、なんら高望みはしない。要するに、まともな生涯への手がかりを見つけたいのだ。その手がかりが今ここにあるようだ。ポスターに書いてある大袈裟な文句がすべて嘘で、オクラホマ大劇場が実は小さな巡業サーカス団にすぎないとしても、とにかく、人を採用すると言っているのだし、それで十分ではないか。カールは、そのポスターを二度と読み返さずに、もう一度「何人たりとも歓迎す」という文句を探し出した。彼は、最初、クレイトンへ徒歩で行こうかと思ったが、それだと、一所懸命に歩き続けても、三時間はかかり、なんとか間に合うように辿りついても、あいていた口がすでに残らずふさがっているのを知るだけに終わるかもしれなかった。もちろん、ポスターに依れば、採用人員の数は無制限ではあるが、そうした求人広告というものは、いつもそんなふうに書かれているものである。カールは、就職をあきらめるか、それとも乗り物を利用するほかないと、悟った。そして、在り金をざっと計算してみると、その乗り物代を払わなければ、一週間分の生活に事足りるくらいあった。彼は、手のひらのうえの小銭を、あちこちと、いじくり回していた。そのとき、彼の様子を見守っていたひとりの紳士が、彼の肩をたたいて、「クレイトンへの道中をご無事で」と、言った。カールは、黙ってうなずいたまま、胸算用を続けていた。やがて、彼は、決心すると、必要な旅費を別に分けて、地下鉄へ駆けて行った。
クレイトンに下車した途端に、数多くのトランペットのけたたましい響きが聞こえた。それは、雑然とした騒音であった。トランペットの調子がたがいに合ってないで、ただむやみに吹いているだけであった。しかし、それは、カールの気持ちを挫きはしなかった。かえって、オクラホマ劇場が大企業であることを、彼に保証したのである。ところが、彼が停車場の建物を出て、眼のまえの全施設を見渡したとき、一切が、おぼろげながら想像していたよりも、はるかに大規模であるのに気づいた。彼は、いやしくも企業と名のつくものが、ただ従業員を獲得するのが目的で、どうしてそのような浪費をするのか、さっぱり解《げ》せなかった。競馬場への入り口のまえには、横長く低い舞台が築かれ、そのうえで、幾百とも知れぬ女たちが、天使を装い、背に大きな翼のある白衣を着て、黄金いろに輝く長いトランペットを吹いている。彼女らは、舞台のうえにじかに立ってはいなかった。みなそれぞれに、台座のうえに立っているのである。だが、その台座は、見えなかった。天使の装いの長い白衣がそよ風にひるがえりながら、それを完全におおい包んでいたからである。ところで、台座がひじょうに高く、ほぼ二メートルに達するくらいまであったので、女たちの姿が途方もなく大きく見えた。ただ彼女たちの小さな頭がその巨大の印象をすこしばかり殺《そ》いでいたし、またほどいて垂らした髪が、ひどく短く、大きな翼のあいだから脇腹へかけて垂れ下がり、ほとんどこっけいなくらいだった。単調さを避けるために、きわめてまちまちの高さの台座が使われていたので、等身大をさして越えない、ひどく丈の低い女たちがいるかと思うと、そのかたわらでは、ちょっとした突風を受けても危険と思われるほどの高さにまで、ほかの女たちが舞い上がっていた。そして、それらの女たちがいまいっせいに吹いているのである。
聴衆は、さして多くなかった。女たちの大きな姿に比べると小さく見える若者が、十人ばかり、舞台のまえを行ったり来たりしながら、女たちを仰ぎ見ていた。彼らは、たがいにそこかしこの女たちを指さし合っていたが、なかまではいって行って採用してもらう気はないらしかった。ただ中年の男がひとり、見受けられた。彼は、やや離れたところに立ち、妻と、乳母車に乗せて、幼児とを同伴していた。妻は、一方の手で乳母車を持ち、片方の手を夫の肩のうえにのせてよりかかっていた。彼らは、眼のまえの光景に驚嘆こそしていたが、しかし、失望を感じていることは、だれが見ても明らかだった。おそらく仕事の機会が見つかるものと期待して来たのが、このトランペットの吹奏で面くらったのであろう。カールも同じような状態にあった。彼は、その男の近くまで歩み寄ると、ちょっとトランペットの響きに耳を傾けてから、言った、「オクラホマ劇場の採用場は、やはり、ここでしょうね」
「わたしもそう思うんですが」と、その男は、言った、「わたしどもは、もうここで一時間も待っているんですが、聞こえるのはトランペットばかりで、ポスターひとつ見かけませんし、触れ役も出て来ません。なんとか案内してくれそうな人が根っからいないんです」
カールは、言った、「あるいはもっと人が集まるまで待っているのかもしれません。現にまだごく少数の者しか来ていませんしね」
「そうかもしれません」と、男は、言った。ふたりは、またもや黙り込んだ。確かに、トランペットの騒音からなにかを聞き分けることもむずかしいわざであった。ところが、そのとき、妻のほうがなにやら夫にささやいた。夫がうなずくと、彼女は、さっそくカールに呼びかけた。「いかがでしょう、競馬場のなかへはいって行って、採用がどこで行なわれているのか、尋ねてくださいません」
「いいですとも」と、カールは、言った、「しかし、それだと、舞台に上がり、天使のあいだを抜けて行かないといけませんね」
「とすると、やはり、ひどくむずかしいでしょうか」と、妻は、尋ねた。
カールならなんでもなく行けるように、彼女には思われたのだろう。彼女は、夫を行かせたくなかったのである。
「まあ、いいです」と、カールは、言った、「行ってみましょう」
「とても親切なかたね」と、妻も、夫も、カールの手を握りしめた。
若者たちは、カールが舞台に上がると、それを近くから見ようと、駆け寄って来た。なんだか女たちがひときわ強く吹奏して、最初の求職者を歓迎しているかのようでもあった。カールが次々に台座のかたわらを通りすぎて行くと、ちょうどそのうえに立っていた女たちがトランペットを口から離しさえして、からだを横にかしげながら、彼の行く手を眼で追った。カールは、舞台の向こうの端をそわそわと行ったり来たりしている、ひとりの男を見かけた。明らかに、求めている人たちにすべて必要な知識を授けようと、人々の集まりを待ちかねているにちがいなかった。カールがその男のほうへ向かって行こうとしたとき、頭上で自分の名を呼んでいるのを耳にした。
「カール」と、天使が呼んでいた。カールは、眼を上げ、うれしい驚きのあまりに、笑い出した。それは、ファニーであった。「ファニー」と、彼は叫び、手を上げて挨拶した。
「こっちへいらっしゃいよ」と、ファニーは、叫んだ。「わたしのそばを通りすぎるって法はないわ」そう言って、白衣を打ち広げてみせたので、台座とそのうえへ通じている幅の狭い階段とがむき出しになった。
「上って行っても、いいのかい」と、カールは、尋ねた。
「ふたりが握手するのを、だれも禁じはしないはずよ」と、彼女は叫んで、いまにもだれかが禁じに来はすまいかと、怒ったようにあたりを見回した。しかし、カールのほうは、もうそのとき階段を駆け上っていた。
「もっとゆっくり上ってよ」と、ファニーは、叫んだ。「台座もろとも、わたしたちふたりが墜落しそうだわ」しかし、何事もなかった。カールは、首尾よく階段を上がり切った。「これ、どう」と、ファニーは、ふたりが挨拶をかわすと、言った、「わたしがどんな仕事にありついたか、わかったでしょう」
「とてもすばらしいよ」と、カールは、言って、あたりを見回した。近くの女たちは、いずれももうカールに眼を留めて、くすくす笑っていた。「君がいちばん高いくらいだよ」と、カールは、言って、ほかの女たちの高さを計るために、手を差し伸べた。
「あなたが駅から出て来たとき、すぐあなただとわかったの」と、ファニーは、言った、「でも、残念ながら、わたし、こうして最後列にいるでしょう。わたしが眼につかないわね。それにわたし、叫ぶわけにもゆかなかっスし、特別強く吹いたんだけど、あなたにはわたしだとわからなかったのね」
「みんなまずい吹きかただなあ」と、カールは、言った、「僕に吹かせてみてくれないか」
「ええ、いいわ」と、ファニーは、言って、彼にトランペットを渡した、「でも、合奏をぶっこわしちゃいやよ。そんなことをすると、わたし、首だもの」
カールは、吹きはじめた。彼は、ただ騒々しい音を立てるだけの用途しかない粗製のトランペットだと、思っていた。ところが、ほとんどどんな微妙な音色をもこなすことのできる楽器であることが、わかった。女たちの持っている楽器がすべて同じ性質のものなら、それこそひどくもったいない楽器の使いかたである。カールは、周囲の騒音に妨げられることなく、高らかに、どこかの居酒屋でいつか聞いたことのある歌曲を吹奏した。彼は、なつかしい女友だちに会えたばかりか、今こうして、みなよりもひときわ冴えて、トランペットを吹くこともできたし、おそらくはもうすぐ、なにかいい職にもありつけるのだと思うと、うれしくてならなかった。女たちの多くは、吹くのを止めて、耳傾けていた。彼が突然に吹奏を中止したときは、半分足らずのトランペットが鳴っていただけで、やっと気づいたように、また元の完全な騒音へとしだいに返って行くのだった。
「あなたは、確かに、芸術家だわ」と、ファニーは、カールからトランペットを戻してもらうと、言った。
「トランペット吹きとして採用してもらいなさいよ」
「男だって採用してもらえるのかい」と、カールは、尋ねた。
「ええ」と、ファニーは、言った、「わたしたちは、二時間吹くの。そしたら、悪魔の服装をした男の人たちと交代なの。その半分がトランペットで、半分がドラムよ。舞台装置がなにからなにまでひどく高価なものだし、とても美しいわ。わたしたちの衣装だってとても美しいんじゃないかしら。それにこの翼はどう」彼女は、自分のからだを見下ろした。
「ねえ、君」と、カールは、きいた、「僕だってなにか職にありつけると、思うかい」
「絶対確実だわ」と、ファニーは、言った、「だって、世界最大の一座ですもの。お互いにまたいっしょになれるなんて、なんて運がいいんでしょう。もちろん、あなたがどんな職につくかが、問題だけど。つまり、ふたりがここに雇われていても、お互いに全然顔を合わさないことだってあるからよ」
「ほんとうにそんなに大規模なものかい」と、カールは、尋ねた。
「世界最大の一座ですもの」と、ファニーは重ねて言った、「もちろん、わたし自身は、まだ見たことがないんだけれど、オクラホマにいたことのあるわたしの仲間の人たちが言っているわ、ほとんど際限がないくらいだって」
「それにしても、志願の人たちがすくなすぎるね」と、カールは言って、若者たちと小家族とを指さした。
「ほんとうだわ」と、ファニーは、言った。「でもね、わたしたちは、いたるところの町で採用を行なってるのよ。わたしたちの求人隊がたえず旅をしているだけでなく、そうした隊がまだほかにもたくさんあるのだし、当然じゃないの」
「劇場の開演はまだまだかい」と、カールは、尋ねた。
「あら、そんなことないわ」と、ファニーは、言った、「なにしろ古い劇団ですもの。でも、ますます大きくなるばかりだわ」
「それなのに」と、カールは言った、「もうさっぱり人が押しかけて来ないのは、不思議だな」
「そうね」と、ファニーは、言った、「妙だわ」
「もしかすると」と、カールは、言った、「天使だとか悪魔だとかと、こう言った豪奢な金のかけかたに、心を惹かれるよりは、恐れをなしているのかもしれないよ」
「あら、あなたは、まるで眼のつけどころからしてちがうのね」と、ファニーは、言った、「あるいはそうかもしれないわ。団長さんにそれをおっしゃいな。もしかすると、あなたがそれで団長さんのお役に立つかもしれなくってよ」
「どこにいるの」と、カールは、尋ねた。
「競馬場のなかの審判台よ」と、ファニーは、言った。
「それに、もうひとつ不思議なことがあるんだが」と、カールは、言った、「どうして競馬場なんかで採用を行なうんだろう」
「そりゃ」と、ファニーは、言った、「わたしたちは、どこへ行っても、どんなに多くの人が殺到してもいいように、最大の準備をするわけよ。競馬場だと、ちょうど広くていいの。それに、ほかでも賭けが決められるところの売り場には、採用事務局を置くことになっているの。もう二百ものちがった事務局があるそうだわ」
「それにしても」と、カールは、叫んだ、「オクラホマ劇場には、そういった求人隊を維持できるほどの巨額な収入があるのだろうか」
「そんなこと、わたしたちの知ったことじゃないわ」と、ファニーは、言った。「それはそうと、さっさといらっしゃいよ、カール、なににしても逃《のが》しちゃいけないわ。わたしもまた吹かなきゃならないしね。是が非でもこの隊で職にありつけるようにやってみてちょうだい。そして、すぐにわたしのところへ報告に来てね。ひどく落ちつかないで報告を待ち受けているわたしの気持ちも考えてね」
彼女は、彼の手を握り、降りるときに用心するよう彼に注意を促して、ふたたびトランペットをくちびるに当てがったが、カールがしたの床のうえに無事に降り立つのを見届けるまでは、吹かなかった。カールは、ふたたび白衣を、元あったように、階段のうえへ広げて置いた。ファニーがうなずいて、感謝の気持ちを示すと、たった今聞いたばかりのことをさまざまな方向にわたって検討しながら、さっき見かけた男のほうへ歩いて行った。男は、すでにカールがファニーのところまで上っていたのを見ていたらしく、台座のほうへ近寄って来て、カールを待ち受けていた。
「ここへ入団されたいのでしょうな」と、その男が尋ねた。「わしは、この隊の人事部長です。よくいらっしゃいました」男は、儀礼上からだろうか、ちょっと前こごみになったまま、その場をすこしも離れもせずに、踊るような足つきをしながら、時計の鎖をもてあそんでいた。
「ありがとう」と、カールは、言った、「あなたの一行のポスターを読んだものですから、ポスターの要請どおり志願いたします」
「いかにもご立派なことです」と、その男は、称賛するように言った。「残念ながら、当地では、必ずしもみなさんがそうしたご立派な態度を取ってくださいませんので」
カールは、もしかすると求人隊の勧誘方法が大規模なためにかえって効果がないのではないかということを、今この男に注意しようかと思ったが、言うのを控えた。その男がけっしてこの隊の隊長ではなかったからである。それにまた、まだ全然採用されてもいないのに、すぐに改善案を提議したりすることは、あまり得策でもなかった。それゆえ、ただこう言っただけである。「そとにもう一人、待っています。やはり志願したいとかで、僕は、その方に先駆けを仰せつかったにすぎません。すぐにその方をお連れしましょうか」
「むろんです」と、その男は、言った。「たくさん来てくれればくれるほど、結構です」
「その方は、奥さんも、乳母車に乗せた赤ん坊も連れているのです。みんな来てもらっていいですか」
「むろんです」と、男は、言って、カールの不審をせせら笑っているようだった。「わしらは、だれでも採用します」
「ではすぐまた戻って来ますから」と、カールは、言って、舞台の端へ駆け戻った。そして、夫婦に手招きして、みんな来るようにと叫び、乳母車を舞台のうえに持ち上げるのを手伝うと、いっしょに打ちそろって行った。それを見ていた若者たちは、たがいに相談しあってから、ゆっくりと、手をポケットに突っ込んだまま、最後の瞬間までためらい続けながらも、舞台へ上がって来ていたが、ついにカールと家族のあとについて来た。ちょうどそのころ、地下鉄の駅の建物からは新しい乗客の群が出て来て、天使の居並ぶ舞台を眼のあたりにすると、驚嘆して腕を上げていた。いずれにせよ、求人への応募も、そのころからしだいに活気を帯びてゆくように見受けられた。カールは、ひじょうに早く、おそらく一番に、乗り込んだことを、ひどく喜んでいた。夫婦は、おどおどしながら、過大なことを要求されるかどうかについて、いろいろとカールに根掘り葉掘り尋ねた。カールは、まだはっきりしたことはわからないが、誰でも例外なしに採用されるという印象だけは確かに受けたから、安心していいと思うと、言った。人事部長がすでに彼らを出迎えに来ていて、大勢やって来たのにひどく満足し、もみ手をしながら、ひとりひとりにちょっと頭を下げて洩れなく挨拶し、全員を一列に立たせた。カールが先頭で、次に夫婦が来て、それからやっとほかの連中が続いた。一同が整列し終えると――若者たちが最初押し合いへし合いしてごちゃごちゃになっていたので、それか治まるまでに、しばらく手間取った――、人事部長が、トランペットの音が止んだ合い間に、言った。
「オクラホマ劇場の名において、みなさんを歓迎します。みなさんは、お早く来られました」(とは言っても、もうすぐ正午だった)、「詰めかけた人の数もまだ大したことがありませんので、みなさんを採用する手続きもまもなく片づくことと思います。むろん、どなたも身分証明書をお持ちでしょうな」
若者たちは、すぐにポケットからなにか書類らしいものを取り出し、人事部長に向かってそれを振って見せた。夫婦組は、夫が妻をつつくと、妻が乳母車の羽根ぶとんのしたから束にした書類を引っ張り出した。カールは、むろん、なにも書類を持っていなかった。それが採用の妨げになるのかしら。とにかく、カールは、そうした規定というものは、ちょっと決心しさえすれば、たやすく無視できるものであることを、経験から知っていた。それは、でたらめでもなかった。人事部長は、並んでいる人たちをひととおり見渡すと、みな書類を持っているものと、確信した。カールも手を、むろん空手のままではあるが、上げていたので、カールの手もとにもすべてはそろっていると、人事部長のほうは、信じたのであった。
「よろしい」と、人事部長は、それから言って、自分たちの書類をすぐに調べてもらいたがっている若者たちを手まねで制止した。「書類は、これから採用事務局で厳密に検査します。すでにわしらのポスターでご覧になったように、わしらは、だれでも採用します。しかし、みなさんがご自分の知識を利用できる、然るべき持ち場へ、みなさんをそれぞれうまく配置するためには、むろん、みなさんがこれまでどのような職業を営んでこられたかを、わしらは、知らねばなりません」
≪これでもやはり劇団なのだ≫と、カールは、怪しみながら思って、ひどく注意ぶかく耳を傾けた。
「そのため、わしらは」と、人事部長は、言葉を続けた。「馬券売り場に、採用事務局を設けておきました。それぞれの職業グループごとに事務局を一つずつです。そこで今、みなさんから、めいめいの職業を言ってもらいます。家族のかたは、だいたいにおいて、ご主人の採用事務局に属することになっています。すると、わしがみなさんをそれぞれの事務局へ案内します。そこで初めて、みなさんの書類とそれからみなさんの知識とを専門家に十分検査してもらうわけです。ほんの短時間の検査にすぎないと思いますので、どなたも気づかいには及びません。それが済むと、そこで即座に、みなさんは採用され、さらに今後の詳しいさしずを受けることになります。では、はじめましょう。ここにある最初の事務局は、すでに張り紙が示していますように、技師のためのものです。もしやみなさんのうちに技師はいませんか」カールが名乗り出た。彼は、書類を持っていない以上は、すべての手続きをできうるかぎり速やかに通過するように努めねばならないと、思ったのである。それに名乗り出るだけの資格もすこしはあった。彼は、技師になりたいと思ったことがあるからであった。ところが、カールが名乗り出たのを見ると、ねたましくなったのか、若者たちもそろって名乗り出た。みないっせいに名乗り出たのである。人事部長は、背伸びをして、若者たちのほうへ向かい言った。「あなたたちも技師なのですね」それを聞くと、彼らは、またそろってゆっくりと手をおろした。それにひきかえ、カールのほうは、あくまでも彼の最初の名乗りを固執していた。人事部長は、カールが技師にしてはあまりにも服装が見すぼらしく、また年も若すぎるように思ったのだろう。不審の眼で彼を見守ってはいたが、それきりなにも言わなかった。あるいは感謝の気持ちからかもしれない。カールが、すくなくとも彼の考えでは、彼のところへ応募者たちを引っ張り込んで来たからである。人事部長は、ただ愛想よく事務局のほうを指さした。カールがそちらへおもむくと、人事部長は、残りの人たちのほうに向いた。
技師を受け付ける事務局では、四角の事務机に向かってふたりの男が直角にすわり、眼のまえに置いてある二つの大きな名簿を比較していた。一方の男が読み上げると、他方の男が名簿のなかの読み上げられた名まえに下線を引いている。カールが挨拶しながらふたりのまえに歩んで行くと、ふたりは、ただちにその名簿をわきへやって、ほかの大きな帳簿を取り出し、それを開いた。
一方の、明らかに書記にすぎないと思われる男が、言った、「あなたの身分証明書をどうぞ」
「残念ながら、持ち合わせていません」
「持っていないんですって」と、書記は、他方の男に言って、カールの返事をすぐに自分の帳簿に書き入れた。
「あなたは、技師なんですね」と、この事務局の主任らしい他方の男が尋ねた。
「まだなってはいないんです」と、カールは、口早に言った、「ですが――」
「もう結構」と、相手は、はるかに口早に言った、「それなら、あなたは、わしらと畑違いです。どうか張り紙に注意するよう願います」カールは、歯をくいしばった。相手は、それに気づいたにちがいない。「なにも心配することはありません。わしらは、だれでも採用するのですから」と、言ったからである。そして主任は、手持ち無沙汰なままに棚のあいだを歩きまわっている召使のひとりを、手で招いた。
「この方を技術的知識を持った人たちのための事務局へお連れしてくれ」
召使は、その命令を言葉どおりに解して、カールの手を掴んだ。ふたりは、いくつもの馬券売り場のあいだを通り抜けて行った。ある売り場では、若者のひとりがすでに採用されて、感謝しながらそこの係りの人たちの手を握っている光景も見られた。カールがこんど連れて行かれた事務局でも、カールが予想していたように、事の運びは、最初の事務局と似たようなものであった。ただカールが中学校を出たことを言ったので、さらにそこから、中学卒のための事務局へやらされただけであった。ところが、そこで、ヨーロッパの中学校を出たと、カールが言ったので、そこでも所管外を申し渡されて、彼は、ヨーロッパの中学卒のための事務局へ連れて行かれた。それは、最も端っこにある売り場で、ほかのどの売り場よリも小さいばかりか、高さも低かった。彼をそこまで連れて来た召使は、案内に手間取ったのと、なんども拒否されたこととで、かんかんに怒っていた。召使の考えからすれば、そうしたことになったのも、ひとえにカールのせいにちがいなかった。召使は、もう質問の終わるのを待ち切れないで、すぐに走り去ってしまった。この事務局がどうやら最後の逃げ場でもあるらしかった。カールは、ここの主任なる人を見たとき、その主任が、いまでもたぶん本国の実科学校で教鞭を取っているにちがいない、ある教授と似ていたので、危うくたまげるところだった。むろん、すぐにわかったことであるが、ふたりが似ていたのは、個々の点にすぎなかった。それにしても、あぐら鼻のうえにのっかっている眼鏡とか、頬からあごへかけてまるで陳列品のように手入れの行き届いたブロンドのひげとか、ちょっと曲がり加減の背、すっとんきょうな高い声などにたいする驚きは、なおしばらくカールの心から消えなかった。幸い彼もさして細かく注意するには及ばなかった。ここでは、他の事務局よりも、簡単に事が運んだからである。やはりここでも、彼の身分証明書のないことが記入され、主任から合点のゆかないだらしなさを言われたが、ここでは、切り回している書記のほうが、さっさとそれを軽くかたづけて、主任が簡単な質問を二、三したあと、次のかなり大きな質問にかかろうとしていたすきに、カールに向かって、採用を申し渡してしまった。主任は、口を開けたまま書記のほうを振り向いたが、書記は、完了を手まねで示して、「採用」と言い、すぐにその決定を帳簿にも記入した。明らかに、書記は、ヨーロッパの中学卒であるということからして、すでに不名誉なことである以上、自らそうであると主張する者の言葉は、そのまま信じて差しつかえないという意見らしかった。カールとしては、別にそれにたいして抗弁する要もなかった。彼は、書記のそばへ行って、礼を述べようとした。ところが、そのとき、名まえをきかれて、ちょっとためらわずにはいられなかった。彼は、すぐには答えなかった。自分の本名を言って、それを記録されることに、ちょっと恐怖心めいたものをいだいたのである。ここでたといどんなにささやかでも勤め口を得て、満足するまで職責を果たすことができたら、そのときは名まえを明かしてもいい、だが、今は駄目だと思って、彼は、ひどく長いあいだ名前を黙秘していた。そうなると、今さら本名を打ち明けようもなかった。そのため、彼は、とっさにほかの名も思い浮かばなかったので、彼の最近の職場での呼び名を名乗った、「ニグロです」
「ニグロだって」と、主任は、きき返して、振り向き、しかめ面をした。今やカールに対する不審が頂点に達したとでも言いたげな態度である。さすがの書記も、しばらくは、さぐるような眼つきでカールを見つめていたが、やがて「ニグロ」と繰り返すと、その名を書き入れた。
「まさかニグロと記載したわけじゃないだろうな」と、主任が書記に噛みついた。
「いや、ニグロです」と、書記は落ちついて言って、主任に次のなすべき仕事をせかすかのように手を振った。すると、主任も気持ちを押えて立ち上がり、言った、
「つまりあなたは、オクラホマ劇場に――」しかし、それ以上は、言葉が出なかった。彼は、良心に反したことはできなかったのであろう。すわると、言った、「この者の名まえは、ニグロじゃない」
書記は、眉を釣り上げて、こんどは自分が立ち上がり、言った、「それではわたしから伝えましょう。あなたは、オクラホマ劇場に採用されたので、これからわたしらの隊長に引き合わされます」
ふたたび召使が呼ばれて、カールは、召使に審判台席へ連れて行かれた。したの階段のきわに、カールは、乳母車を認めた。ちょうどあの夫婦も降りて来るところで、妻は、腕に赤ん坊を抱いていた。「採用されましたか」と、夫が尋ねた。彼は、さっきよりもはるかに溌剌としていた。妻も夫の肩ごしに笑いながらこちらを見ていた。カールが、たった今採用されて、引き合わせてもらいに行くところだと、答えると、夫は、言った、「それはおめでとう。わたしらも採用されました。なかなか立派な企業のようですな。むろん、すぐには万事に慣れられないでしょうが、まあ、どこへ行ってもそういうものですよ」彼らは、たがいに「さようなら」を言いあいながら、カールは、審判台へ上がって行った。彼は、ゆっくりと上がった。うえの狭い場所が人であふれているようだったし、彼は、むりやりにもぐり込みたくはなかったからである。彼は、しばらくは立ち止まりさえして、四方八方に広がり、遠くはるかな森にまでも達している大競馬場を見渡した。すると、一度競馬を見たい気持ちが彼を襲った。彼は、アメリカへ来てからは、いまだその機会に恵まれなかった。ヨーロッパでは、昔、幼い子供のときに一度、競馬へ連れて行ってもらったことがあるが、今となっては、母に引っ張られて、道を譲ろうとしない多くの人たちのあいだをくぐり抜けて行ったことしか、覚えていない。したがって、競馬なるものを、実は、眼《ま》のあたりにまだ一度も見たことがないわけだ。そんな思い出にふけっていたとき、カールのうしろでなにやら機械類が捻りはじめた。彼は、振り返って、競馬のときに勝ち馬の名まえが公表される、その装置を見ると、いま次のような文字が引き揚げられてゆくところであった。「商人カラ、妻子同伴」つまり、こうして採用された者らの名まえが各事務局に伝えられたのである。
ちょうどそのとき、数人の男が、鉛筆とメモ用紙を手にして、陽気に話し合いながら、階段を降りて来た。カールは、手すりにからだを押しつけて、彼らをやり過ごすと、もううえもすいた時分なので、階段を昇って行った。木の手すりのある展望台のすみに――全体が細長い塔のうえの平たい屋根のように見えた――木の手すりに沿うて両腕を伸ばして、ひとりの男が腰かけていた。「オクラホマ劇場第十求人隊隊長」と記した、幅の広い、白い絹のたすきが、その男の胸にはすかいにかかっていた。彼のわきの小さなテーブルのうえに、確かに競馬のときにも使われるにちがいない、電話機が置いてあった。隊長は、明らかに、この電話機を通じて、引見するまえに、個々の応募者についての必要な報告をすべて受けているらしかった。と言うのは、隊長が、カールに向かってはさしずめなんの質問もせずに、隊長のかたわらで足を組み、手をあごに当ててもたれている男に向かって、「ニグロ、ヨーロッパの中学卒」と、言ったからである。隊長にとっては、ただそれだけで、深く頭を下げているカールのことが片づいたかのように、隊長は、あとに来る者はいないかと、階段を見下ろした。ところが、だれも来ていなかったので、彼は、もうひとりの男がカールとかわしている対話に時には耳傾けてもいたが、たいていは競馬場のほうに眼をはせて、指先で手すりをはじいていた。カールは、もうひとりの男への応答にけっこう心をとられていたとはいえ、隊長のそのしなやかではあるが、力のこもった、長い、すばやく動く指のほうに、時おり、注意をひかれないわけにはゆかなかった。
「あなたは、失業していたんですね」と、相手の男はまず尋ねた。この質問も、またさらに相手の男が続けた、ほかの、ほとんどすべての質問も、ひじょうに簡単で、全く悪意がなかった。おまけにカールの返事をさえぎって質問を挾み、カールの返事を再吟味するというようなこともなかった。にもかかわらず、その男は、眼を大きく見ひらいて質問を発し、上半身をまえに曲げてその質問の効果を観察しながら、胸のうえまで頭を垂れて、カールの答えを聞き取り、時には大きく声を出してその答えを繰り返すなどして、そうした仕草で質問になにかある特別の意味を与えるすべを心得ていた。それがどんな意味かはわからなくとも、意味ありげだと予感しただけで、答える側は、用心深く内気にならざるを得ないのである。それゆえ、カールも、いったん言った答えを取り消して、もっと気に入られそうなほかの答えで補いたい気持ちに駆られたことが、しばしばあった。しかし、彼は、やはりその都度、自制していた。そのような動揺がどのような悪い印象を与え、しかもその場合、答えの効果がどのようにあやふやなものになりがちであるかを、彼は、知っていたからである。それに、採用もすでに決定しているらしいという意識も、彼を遠慮がちにしていたにちがいなかった。
彼は、失業していたかという質問にたいして、簡単に、「はい」と、答えた。
すると、相手の男が尋ねた、「どこで、最近は、勤めていましたか」カールが答えようとした途端、相手は、人さし指を上げて、もう一度言った、「最近は」
カールにも、今の質問の意味くらいはちゃんとわかっていた。それで、相手があとから付け足した言葉は、じゃまだと言わんばかりに、思わず頭を振って黙殺しながら、彼は、答えた、「事務所です」
そこまでは真実であった。しかし、もし相手がそこで事務所の性質についてかなり詳しい説明を要求したら、カールは、嘘をつくほかなかった。ところが、相手は、それをしないで、とてもやさしく、全くありのままに、答えられる質問をした、「そこでは満足していましたか」
「いいえ」と、カールは、ほとんど相手の言葉をさえぎるようにして叫んだ。カールは、ふと横目をつかったとき、隊長がちょっと冷笑しているのに気づいた。カールは、いまの軽率な答えかたを後悔した。それにしても、いいえという言葉を腹の底から叫びたくて、彼は、うずうずしていたのである。と言うのも、あの最近の奉公期間中、彼は、いつかよその雇主が立ち寄って、自分に今のような質問をしてくれたらいいにと、ただそれのみをしきりと心に念じていたからであった。ところで彼の答えは、次第によっては、さらに思いもかけぬ別の不利を招いていたかもしれなかった。相手がそれを聞いて、どうして満足できなかったのかと、尋ねることもできたからである。しかし、相手は、それもしないで、次のように尋ねた、「どのような持ち場に自分が向いていると思いますか」この質問にはあるいは確かに罠が仕かけられているかもしれない。自分がこうしてすでに役者として採用されている以上、なんのためにそんな質問をするのか、カールにはわからなかった。それにカールとしても、自分の適不適をよくわきまえていたとはいえ、自分は役者稼業にことのほか向いているように思いますと、そう平気でぬけぬけと打ち明けられるものでもなかった。それゆえ、彼は、その質問をはぐらかして、反抗的に見えるかもしれぬ危険をも顧みずに、言った、「僕は、町でポスターを読みました。すると、だれでも使ってもらえると、そこに書いてありましたので、志願したのです」
「それはわかっています」と言ったまま、相手は、口をつぐんだ。それは、まえの質問を固執しているという、意思表示にほかならなかった。
「僕は、役者として採用されたのでしょう」と、カールは、いまの質問が自分にとってどんなに難題であるかを相手に悟らせるために、ためらいながら言った。
「そのとおりです」と、相手は、言って、またもや黙り込んだ。
「めっそうもない」と、カールは、言った。勤め口を見つけたという確信がすっかり揺らぎはじめた。「僕は、自分が芝居をするに向いた人間かどうか、さっぱりわからないのです。でも、頑張って、どんなことでも言いつけられた仕事は果たそうと努めるつもりです」
相手の男は、隊長のほうへ振り向いた。ふたりは、うなずきあった。どうやら自分の答えがつぼにはまったらしいと思って、カールは、元気を取り戻し、直立したまま、次の質問を待ち受けた。すると、次の質問はこうだった、「もともとなにを勉強するつもりでしたか」
その質問をより正確に規定するために――つねに正確な規定を、その男は、ひどく心にかけているようだった――相手の男は、付け加えた、「ヨーロッパでは、という意味ですが」そう言いながら、相手は、手をあごから離して力なく振った。いかにもそれによって、ヨーロッパがどれほど遠く、ヨーロッパでいだいた計画がどれほど無意味なものであるかを、同時に暗示しようとするかのようであった。
カールは、言った、「僕、技師になりたかったのです」この返事は、彼の意に添わなかった。アメリカでのこれまでの経歴を今十分に意識しているさなかに、こうして、昔技師になりたかった古い思い出をよみがえらせるなんて、愚の骨頂ではないか――たといヨーロッパにいたとて、果たして技師になれたかどうか、怪しいかぎりではないか――そうは思ったものの、さしあたってほかに答えを知らなかったので、彼は、やむなくそう言ってしまった。
すると、相手は、なんでもまじめに取るように、その答えをもまじめに受け取った。「まあ、すぐには技師になれないでしょうが、さしあたってはなにか程度の低い技師的な仕事をやってゆくのが、あなたには合っているかもしれませんね」
「もちろんです」と、カールは、言った。彼は、ひじょうに満足だった。いまの提案に応じれば、役者の階級からはずされて技術労働者のあいだへ追いやられるわけであるが、しかし、そうした仕事のほうが自分の真価をよく示すことができると、彼は、確かに信じたからである。とにかく、彼は、いくたびとなく、このことを心に繰り返し言い聞かせた。仕事の性質など、大した問題ではない、きわめて大切なことは、むしろ、どこでもいい、いつまでもそこにしがみついていることだ、と。
「重労働に耐えきれるほど、からだのほうは丈夫ですか」と、相手は、きいた。
「もちろんですとも」と、カールは、言った。
それを聞くと、相手の男は、カールを身近に来させて、カールの腕にさわってみた。
それから男は、カールの腕を取って隊長のほうへ引き寄せながら、言った「なかなかたくましい少年です」隊長は、ほほえみながら、うなずいた。そして、自分の楽な姿勢からからだを起こすことなく、カールに手を差し伸べながら、言った、「それではこれで終わります。オクラホマでは、みなさん、改めて再検査されます。わしらの求人隊の名誉を高めてください」
カールは、別れのしるしにお辞儀をした。それから彼は、もうひとりの男にも別れを告げようと思ったが、相手の男は、もう、自分の仕事がすっかり片づいたかのように、天を仰ぎ見ながら、展望台のうえを行きつ戻りつ散歩していた。カールが階段を降りているとき、階段のかたわらの告知板では次の文字が高く掲げられていた、
「ニグロ、技術労働者」
こうして万事が順調に運ぶと、たといその告知板に彼の本名が書かれていたとしても、カールは、もうそれをさして悔やしがりもしなかっただろう。ここでは万事がきわめて綿密に整備されていた。カールが降りて行くと、すでに階段のしたではひとりの召使が待っていて、カールの腕に腕章を取りつけた。腕章にはなんと記されているのか、見ようと思って、カールが腕を上げると、そこにはきわめて正しい印刷文字で「技術労働者」とあったからである。
そこからどこへ連れられて行くにせよ、とにかく、カールは、まずファニーに、すべて首尾よく行ったことを、告げたかった。ところが、残念なことに、天使も、悪魔も、求人隊の次の目的地で翌日の隊の到着を広告しておくために、すでにそちらのほうへ旅立った旨を、召使から聞かされた。
「残念なことをした」と、カールは、言った。それは、彼がこの企業に加わって体験した、最初の失望であった。「天使のなかに知り合いがひとりいたのです」
「オクラホマでまた会えますよ」と、召使が言った、「それはそうと、さあ、行きましょう。あなたが最後です」
召使は、先ほど天使が居並んでいた舞台の奥のはしに沿うて、カールを案内して行った。今はただ、がらんと台座だけがそこに取り残されているだけだった。天使の音楽がなければ求職者がもっと来るだろうというカールの推測は、しかし、正しくないことがわかった。舞台のまえでは、もうだれひとり大人はいないで、二、三人の子供が、たぶん天使の翼から抜け落ちていたものだろう、一本の長い白い羽根を取り合って、喧嘩していたからである。少年のひとりがその羽根を高々と差しあげると、他の子供たちは、一方の手で少年の頭をおさえつけて、他方の手で羽根をつかみ取ろうとしていた。
カールは、子供たちを指さした。ところが、召使は、そのほうに眼もくれずに言った、「もっとさっさとおいでなさい。あなたの採用にはひどく手間取ったのです。怪しまれたら、どうします」
「それはうっかりしていました」と、カールは、驚いて言ったが、よもやそんなことはあるまいと思った。どんなに事情が明白な場合でも、自分の隣人を不安に陥れたがる人間がかならずいるものである。ふたりは、観覧席へやって来た。そこの好ましい光景を眼のまえにすると、カールは、召使の意見などまもなく忘れてしまった。つまり、その観覧席では、大きな細長いベンチのひとつに、真っ白いテーブル掛けがかけてあり、採用された者らが、もれなく、馬場に背を向けて、次の一段と低いベンチに腰をかけ、ご馳走にあずかっていたのである。みな楽しげにはしゃぎきっていた。ちょうどカールが遅れて最後にこっそりとベンチに腰を下ろしたとき、大勢の者がグラスを上げて立ち上がり、そのうちのひとりが第十求人隊長の健康を祝して、隊長を「求職者たちの父」と呼びながら、乾杯の辞を述べた。だれかが、そのとき、ここからでも隊長の姿が見えると、みなに注意した。確かに、さして遠くない距離をへだてて、審判台にいるふたりの男の姿が見られた。すると、みないっせいにその方向に向かって手にしたグラスを振り回した。
カールも眼のまえにあったグラスを取った。しかし、人々がどんなに大声で叫んで、向こうの注意を引こうとしても、審判台のほうでは、こちらの歓迎ぶりに気づいた様子は、いや、すくなくとも、気づきそうなけはいは、すこしも見えなかった。隊長は、さっきと変わらずすみのほうによりかかっていた。もうひとりの男は手をあごにあてがったまま隊長のわきに立っている。ちょっと失望して、人々は、ふたたび腰を下ろした。そこかしこではまだ審判台のほうを振り返る者もいたが、そのうちにみな、豪勢な食事のほうにばかり気を取られるようになってしまった。カールがこれまで見たこともないような、大きな鳥の肉が、ほどよい焦げ加減に焼かれて、それにいくつものフォークを突き刺したのが、配られ、葡萄《ぶどう》酒がたえず召使たちによって注ぎ足された――ほとんどだれもそれに気がつかないほどであった、一心に自分のほうへうつむいていると、グラスのなかへ赤い葡萄酒の光が差し込むのである――、そして、みなとの対話に加わりたくない者は、オクラホマ劇場のさまざまな景観図を見ていてもよかった。それらの絵は、食卓の片方の端にうず高く積んであって、手から手へと渡ってゆくことになっていた。ところが、だれもそうした絵にはあまり関心を持ってはいなかった。そのため、最後に宴に加わったカールのところへは、ただ一枚の絵しか回って来なかった。その絵から判断すると、ほかの絵もみな一見の価値があるにちがいなかった。手もとの絵は、合衆国大統領の仕切り席を描いてあった。ちょっと見ると、それは、観覧席でなくて、舞台としか思えなかった。それほど大きく弓なりに手すりが空間に突き出ているのである。しかも、その手すりが細部にいたるまですっかり金でできていた。ひどく鋭利な鋏で切り抜いたような円柱と円柱のあいだには、歴代大統領の円形浮き彫り像が並んで飾りつけてあり、そのなかの一人は、目立ってまっすぐな鼻をし、くちびるは反って、弓なりの瞼《まぶた》のしたから、じっと伏せたひとみをのぞかせていた。仕切り席には、側面からも、上方からも、あたり一面から光線が当たり、白色ではあるが柔らかい光が、仕切り席の前面をはっきりと浮き立たせていた。赤のさまざまな色合いを示すように、襞《ひだ》をなして、天井のすべての縁取りから垂れ下がり、組みひもで絞ってあるビロードの奥は、暗い、ほの赤い光のただよう虚空のように見える。この仕切り席のなかに人間がいるなどおよそ想像もつかないくらいに、ここはすべてが自主的に権威を誇っているように見えた。カールは、食事をこそ忘れはしなかったが、いくたびとなく、皿のよこに置いたその絵に見とれていた。
そのうちに、彼は、せめて残りの絵のうちの一枚なりとも見たくてたまらないようになったが、勝手にそれを取って来るわけにもゆかなかった。召使がそれらの絵のうえに手を置いていた。きっと絵の順序が乱れてはいけないのだろう。それゆえ、彼は、食卓を見渡して、一枚でもこちらへ近づいて来る絵はないものか、それだけなりとも確かめようとした。すると、驚いたことに――最初は自分の眼が信じられなかったが――食べ物のほうへいちばん低く顔を伏せている人たちのあいだに、なじみ深い顔を見つけた。ギアコモだった。すぐにカールは、彼のほうへ駆けて行って、「ギアコモ」と、叫んだ。
ギアコモは、例の癖で、不意打ちに合うと、おどおどしながら、食べ物から顔を上げて、ベンチとベンチのあいだの幅狭い余地のなかでからだの向きを変え、手で口をぬぐうと、カールが眼のまえにいたので、ひどく喜んだ。そしてカールに、自分のよこにすわってくれるか、それともカールの席のほうへ移って行こうかと、言った。ふたりでたがいに積もる話を語り合い、今後はずっと離れずにいたいと、言うのだった。カールは、ほかの人たちに迷惑をかけたくなかった。それゆえ、いまさしあたってはそれぞれに自分の席を立たないほうがいい、おっつけ食事も終わるだろうから、それからは、むろん、いつもいっしょに組んで行こうと、言った。カールは、それでもなおしばらくは、ギアコモのそばを離れかねて、ギアコモをじっと見つめていた。過ぎ去った月日のさまざまな思い出がよみがえって来る。あの料理主任は、どこにいるのだろう。テレーゼは、なにをしているだろう。ギアコモ自身は、外見《そとみ》には、ほとんどすこしも変わっていなかった。半年もすればギアコモだって骨のあるアメリカ人になるにちがいないという、料理主任の予言は、しかし、当たっていなかった。彼は、昔と変わらず華奢《きゃしゃ》で、頬も昔のままにくぼんでいた。見ていると、時には、むろん、丸味を帯びていることもあったが、それは口のなかにひどく大きな肉の切れをほおばっているからで、彼は、口から一本また一本と、よけいな骨をゆっくり取り出しては、それを皿のうえに投げ棄てていた。カールが彼の腕章から読み取ると、ギアコモも役者としてではなくて、エレベーターボーイとして採用されていた。オクラホマ劇場は、確かに、誰でも使いこなせるようであった。ギアコモに見とれていて、カールは、ずいぶん長いあいだ自分の席を離れていた。ようやく彼が戻りかけようとしたとき、人事部長がやって来て、高いところにあるベンチのひとつのうえに立ち、手をたたいてから、ちょっとした訓示を行なった。そのあいだ、大半の者は、立って聞いていた。食べ物から離れるに忍びないで、すわったきりの連中も、ほかの者たちから小突かれて、ついにはしぶしぶ立ち上がっていた。
「みなさんはわしらの歓迎の宴に満足してくれたものと思います」と、人事部長は、はじめた。カールは、そのあいだに爪先立ちで自分の席へ駆け戻っていた。「がいして、わしら求人隊の食事は、人々の称賛を博しているのです。ただ残念ながら、食事はこれで終わりとせねばなりません。みなさんをオクラホマへ送り届ける列車が、もう五分後に、発車するからです。長い旅ではありますが、みなさんのお世話は、きっと十分に行き届いているはずです。ただ今、みなさんに、みなさんの輸送を指揮する人を紹介します。この人にはみなさんも服従してくれないといけません」
痩せた小柄な男が、人事部長の立っているベンチまでよじ登って行くと、ちょっと会釈する暇さえも惜しむかのように、早速神経質な手を伸ばして、一行がどのように集合して整列し、どのように行進に移らねばならないかを、さしずしはじめた。ところが、すぐにはだれもその男の言葉に従わなかった。一行のなかから、先刻も演説していた男があゆみ出て、テーブルを手でたたきながら列車が間もなく出ると、たった今言われたばかりなのに――カールは、そのためにすっかりはらはらしていた――、だらだらと感謝の演説をはじめていたからてあった。演説者は、人事部長さえもそれには耳を貸さないで、輸送隊長にさまざまな指示を与えているのを、少しも意に介しないで、大がかりな演説をくりひろげた。彼は、運び出された品数を数え上げて、一々の料理について自分の批評を開陳し、最後に締めくくりとして、「尊敬する方々よ、こうして諸氏は、わたしどもの心をつかんだのです」という叫びで、言葉を結んだのである。呼びかけられたふたりの役員以外の者は、みないっせいに笑った。しかし、それは、冗談どころか、真実であった。
ところで、その演説の罪滅ぼしに、今や一行は、停車場への道を駆け足で行かねばならないことになった。それは、しかし、そう大してつらいことでもなかった。というのは――カールは、今やっとそれに気づいたが――だれも荷物を持っていなかったからである。たった一つの荷物は、じつは、乳母車であった。その乳母車は、今や隊の先頭にあって、父親にかじを取られ、いかにも危なっかしくたえずはね上がりながら、走っていた。それにしても、ここに集合しているのは、なんと無一文の、胡散臭い人たちばかりなんだろう。それでも、こうして優遇され、生命を保護されているのだ。カールは、なんだか不思議だった。現に輸送隊長には、一行のことしか、心にかかっていないにちがいなかった。隊長は、あるときはみずから一方の手で乳母車のかじ棒をつかみながら、他方の手を挙げて隊を鼓舞し、あるときはしんがりに回って、隊をうしろから追い立て、またあるときは隊のよこに沿うて走りながら、隊の中ほどのそこかしこに足の遅い者がいるのに眼を留めると、両腕を大きく振って、彼らに走りかたを実地で教えようとしていた。
一行が停車場に着くと、列車は、もう発車の準備を終えていた。停車場にいた人たちは、たがいに一行を指さし合った。「あれはみなオクラホマ劇場の座員だ」という叫びも聞こえた。オクラホマ劇場は、カールが想像していたよりも、はるかに有名らしかった。とはいえ、彼は、むろん、芝居のことなど少しも気に留めてはいなかった。客車一輌が特に一行のために当てられてあった。輸送隊長が車掌以上に乗車を急がせていた。彼は、まず個々の車室を一々のぞき込み、そこかしこでなにかさしずすることをしてから、やっと自分も乗り込んだ。カールは、たまたま窓ぎわに席が取れて、ギアコモを自分のよこに引っ張った。こうして、ふたりは、窮屈に寄り添ってすわりながらも、心の底ではふたりとも旅を楽しみにしていた。こんなに気楽にアメリカで旅したことはふたりともまだ一度もなかった。列車か動きはじめると、ふたりは、窓から手を出して振った。ふたりと向かい合わせにすわっている若者たちがたがいに肘で突つき合って、ふたりの仕草をおかしがっていた。
旅は二日二晩かかった。カールは、今はじめてアメリカの大きさを悟った。彼は、倦むことなく窓外に眼をはせていた。ギアコモもいっしょに窓のほうへずっと身を乗り出していた。そのうちに、トランプ遊びにひどく熱を入れていた向かいの若者たちが、トランプ遊びに飽きると、ギアコモに進んで窓ぎわの席を譲ってくれた。カールは彼らに礼を言った――ギアコモの英語は、人によっては通じないことがあった――、こうして、時が経つにつれて、同じ仕切り車室に乗り合わせた人たちのあいだでは、そうなるよりほか仕方がないように、たがいにひどく親密になってきた。しかし、そうした親密さも、かえってわずらわしいときがしばしばあった。列えば、若者たちが手から床のうえに落ちたカードを屈んで探すときなど、いつもカールかギアコモの足を力まかせにつねるのである。そんなときギアコモは、いつもあらたに不意打ちをくらって、わめきながら、足を宙に上げた。カールは、一度は足で踏みつけて、それに報いようとしたこともあったが、それ以外は、黙って相手のするがままに任せていた。窓をあけていてさえ煙で充満している小さな仕切り車室内のいかなる出来事も、窓外の景色を見ていると、すぐに忘れてしまうのである。
第一日目は、高い山脈のあいだを列車が走り抜けて行った。青みを帯びた黒い岩塊が、楔《くさび》形に先をとがらせて列車のそばまで迫っていた。カールたちは、窓から身を乗り出して、その頂を見届けようとしたが、駄目であった。いくつもの暗い、幅の狭い、ちぎれちぎれの谷が、口を開いていた。人さし指でその行くえをたどっているうちに、いつのまにか、それらの谷の行くえが知れなくなって、幅広い渓流が現われ、起伏の多い川床を大きく波立ちながらたばしり、幾千ともしれぬ小さな波の花を咲かせていた。渓流は、鉄橋のしたへなだれ落ち、列車が鉄橋を通りすぎると、冷気で思わず顔がぞっと震えたほどに眼近にあった。(完)
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解説
プラハ生まれのフランツ・カフカ(一八八三〜一九二四)の文学は、この道を志す若い世代にとって、最も学びにくい典型のひとつとされている。今世紀の小説作家で、彼ほど、たんに文学の領域からのみでなく、哲学、神学、心理学、社会学などの各領域からも、対決の対象とされた例は、きわめて珍しい。彼の文学にたいする解釈は、文字どおり百人百説に分かれて、いまだに尽きるところを知らない。それほど、彼の文学は、多大の問題性をはらんでいるのである。にもかかわらず、彼の書が重ねて来た版数は、死後ますます高まって行く世界的文名にひきかえて、意外に少ないのである。その辺からも、すでに彼の作品の特異性がうかがわれよう。
カフカが友人マクス・ブロートに、日記と原稿とを問わず彼の書き遺したものすべてを残りなく焼却してくれるように、依頼していたことは、ブロートに宛てた書簡からも明らかである。現に彼は、死の前年に見出した伴侶ドーラ・ディアマントの手で、彼が過ごした最後の冬に、原稿を眼前で焼却させているのである。
そうした態度は、なにも晩年に始まったわけではない。一九一七年の日記にも、「すべてを破棄」なる文句が見られるのである。なぜに、彼は、そこまで自作を否定せねばならなかったのだろうか。あるいは、一九一二年の日記が「きょう、気に入らぬ旧稿を多数焼き棄てた」とすでに記していたように、作品の完璧性にたいする要求度がきわめて高く、そうした反省が彼をしてかかる行為を取らせたのであろうか。そうかもしれぬ。ただ、ここで注意すべきは、従来の小説作法による完結性をもって彼が完璧性とは考えてないことである。完璧性と未完の断片性とは、彼にとって、かならずしも相矛盾する概念ではない。いや、むしろ、未完の断片性こそ、なんの妥協もなしに赤裸々な人間の絶望的な全行動を追求し、現存在のはかない推移を呈示しようとする、彼の文学の必然的な帰結にほかならぬとも言えるのである。
いずれにせよ、彼の作品は、読者を意識して書かれたものではない。彼の疎外された生の「きわめて私的な記録」にすぎないのである。『変身』の原稿で、主人公ザムザの名が時に誤ってカフカと記されていた事実によって、この「私的」なる言葉の意味がいかなるものか、およそ察知できるにちがいない。また『城』においても、初め「僕」なる人物を主人公として一人称形式で執筆されていたのを、やがて稿が進むにつれて、作者は「僕」を「彼」に変え、Kを主人公とする三人称形式にすべて書き改めてしまったのである。このことは、疑いもなく、主人公と作家との一致を意味する。つまり、作品のなかに展開されて行く世界とそこに登場する人物は、主として、主人公の眼で見られ、主人公の頭で判断されて、主人公の言動を誘発するのである。そもそも叙事文学では、すべての事件の終わってしまった時点において、作者の執筆が始められるのが通例であり、従って、作者は、全知である。つまり、主人公の重ねて来た一切の経験をすでに知悉《ちしつ》しているわけである。
ところが、カフカの技法は、違う。物語の世界は、過去のものではなく、未来に置かれるのである。すなわち、作者は、事件の発端に立って、物語を始める。その瞬間には、主人公の遭遇した諸事件は、ことごとく止揚され、すべて元に戻されているのである。換言すれば、作者は、主人公とともに、事件の原点に立って、歩みを共にしながら、未知の世界にはいって行くのである。主人公の可知、不可知が、そのまま、作者の可知、不可知である。しかも、三人称形式で語るために、作者は、ある程度まで、遠近法的視界を拡大することができるのである。これが、とりわけ、カフカの三大長篇に顕著に見られる、共通の特徴である。それゆえ、「私的」とは言っても、彼の綴ったものは、彼の単なる体験告白ではない。カフカは、後半生を宿痾《しゅくあ》に悩まされはしたものの、外見的には、大した波乱もなく、保険局の一役人として、かなり平穏な短い生涯を終えているのである。彼の場合、体験は、後に述べるように、観察である。
「僕が書くのを神が望まなくとも、僕は、しかし、書かねばならぬ」と、すでに一九〇二年、友人オスカー・ポラックヘの手紙で書いていたように、書くことが彼の唯一の欲求だった。たとい不眠と頭痛に悩まされようと、彼は、書かざるを得ない。書かなければ、「僕の生活は、むしろ、はるかに悪化して、全く耐えがたいものとなり、果ては狂気で終わるにちがいない」と、晩年にもブロートに洩らしているように、書くことは、彼にとって、不安を克服するための、生を保持して行くための、現存在を確認するための、唯一の道であった。文学は「常に真実を求めての探検」にほかならず、「この地上での最も大切な事柄」だった。「僕は、文学以外のなにものでもないし、それ以外のものになりようもなく、また、なりたいとも思わない」「文学でないものは、すべて、僕を退屈させる。僕は、嫌いだ」
家庭生活も、職業も、彼には、副次的な意味しか持っていなかった。生沽を享楽する気持ちなど、微塵もなかった。ただ書くために、それへの妨害や撹乱をおそれて、書くために不可欠な孤独を守り抜くために、干渉的な周囲の一切を自己の世界から締め出しながら、自己の生活圏を出来うるかぎり狭《せば》めて行ったのである。
彼には、血縁にたいする情さえも、乏しくなりかけていた。それは、至難な内面操作であった。芸術は、犠牲を不可避とする点で、宗教的行為に通じるものがある。カフカは、自己の市民性を、彼自身にたいしても、彼の周囲にたいしても、残酷と思えるほどに未練なく犠牲にすることにより、自己の求めて止まぬものを文学によって見出したいと祈りつつ、筆を執ったのである。
彼の内部には、常に、こうした祈念があった。「祈りの形式として書くこと」――これがカフカの文学だった。だが、祈りは、所詮、祈りにすぎない。神は、どこにもいないのである。それゆえ、カフカの文学は、反復される徒労と挫折の神話として終わらざるを得ない。しかし、これこそが、ほかでもない、楽園を追放され、しかも、楽園に帰り得ない、性急な人類一般の呪われた運命である。カフカは、その意味で、ブロートヘの言葉のように、「人類の贖罪《しょくざい》山羊」にほかならないであろう。彼は、人々に、罪を無邪気に味わうことを、許すのである。
独身者の「狭く局限された生活圏は、純粋」である。かかる作家にあっては、しだいに退化して行く諸感覚のなかで、ただひとつ発達して行くのが、観察の感覚である。すなわち、非情なまでに鋭く研ぎ澄まされる眼である。彼は、「生きながら死んでいるがゆえに、余人より多く、余人とはちがうものを見る」ことができる。余人のように、先人主や偏見に囚われもしなければ、生半可な因習や感傷や情愛に惑わされもしない。彼は、家族にたいしても、アウトサイダー的な立場を取って、冷徹な観察を怠らないのである。あるいは、それは、『父への手紙』から推測されるように、強い生命力と名利心を健康な巨体にみなぎ脹らし、商魂たくましく社会的地位の向上に努めている父の無理解な家長的権威に圧倒されて、幼時から常に不安におびえて来た、繊細過敏な息子の「弱さ」の反動かもしれぬ。
もとより、観察は、他者にのみ向けられはしない。「僕がもしだれかから観察されているなら、僕も、むろん、自分を観察せねばならぬ。また、だれからも観察されてないなら、それだけいっそう精密に自分を観察せねばならぬ」観察は、同時にまた、分析である。こうして、絶えまなく、数々の観察と分析が蓄積されて行くうちに――それは、彼の日記が如実に示しているが――いつしか、彼の脳裏に、「途方もなく恐ろしい世界」が形成されるのである。それは、一般に現実と信じている世界とは全く別個の、厳密な計算と仮借ない論理とによって有機的に構築された世界である。そこにはなまなましい体験のかけらは微塵もない。人は、これを妄想と呼ぶかもしれぬ。しかし、作者にとって、「家族、役所、友人、街路こそ、すべてが空想」にすぎず、この悪夢のような不条理の世界こそ、欺瞞なき現実であり、真実にほかならぬのである。それほどに、カフカにとっては、実存と真実は、永遠に空ろな空間によって、隔絶されているのである。だからこそ作者は、辛くも作品の冒頭からいきなり、「アルキメデスの点」を用いて地軸を動かすごとくに、いわゆる現実にたいする視点をすっかり変えて、読者を、主人公とともに、いわゆる現実とは別個の不条理の世界へ導き入れるのである。
一九一三年に『火夫』と題してその第一章が発表された『アメリカ』は、その前年に執筆が始められ、すでにその年の晩秋を過ぎるころには、現在残っている稿の大半が成っていたものと推定される。作者は、一九一四年十二月、一九一六年七月の日記からもうかがわれるように、さらにこの作のために筆を進めていたのであるが、結局は未完のままに筆を折らざるを得なかったのである。
カフカは、アメリカの地を踏んだことがない。それゆえ、フランクリンの『自叙伝』、ポーの『アーサー・ゴードン・ピムの物語』、キュルンベルガーの『アメリカ疲れ』、ホリッチャーの『アメリカ、今日と明日』などが、彼にとって、アメリカに関する知識源であったと言われる。にもかかわらず、彼の作品は、そうしたふしを微塵も感じさせない。彼の詩的構想力がいかに豊富であり精緻《せいち》であるかは、第五章でテレーゼが物語る母の運命の回想からも察知できよう。この挿話を読めば、冬のニューヨークの魂も凍るような凄絶な美が、ありありと眼前に浮かぶにちがいない。この作品は、自然描写、街頭描写にも富み、カフカの筆致は、陰惨な場面を描いても、どことなく明るさを失わず、よどみないテンポで、次々と、多彩な局面を展開して行くのである。
主人公は、カール・ロスマン、プラハ育ちの十六歳の少年である。彼は「いやがられた猫が戸口から放り出されるように」、両親によってアメリカへ追放される。はからずも誘惑にかかって女中に子供を産ませるという、言わば罪なき罪を犯したためである。物語は、少年の乗った船がニューヨーク港に入るところから、始まる。作者は、ここで、読者も気づくであろうが、自由の女神のかざす炬火《たいまつ》をことさらに剣に変えることによって、早くも根本主題を打ち出している。剣は、破邪の象徴である。自由の国に渡った少年の辿る運命は、正義の裁きにほかならぬ。その意味では、この作品は、教育小説と言えるかもしれぬ。だが、作者はまた、返す剣で、ジャングルの掟に支配されているアメリカの世態を裁くことを忘れていない。例えば、第二章において、資本主義的工業社会の内部機構を曝露し、また第七章において、地方判事の椅子をめぐっての選挙運動の実態を伝え、アメリカ民主主義に痛烈な諷刺を浴びせているがごときは、それである。ことに後者の場面における、視覚と聴覚とからの、きわめて動的な、遠近法的描写は、圧巻である。
この作品は、題名のついた各章によって構成される、いわゆる枠入り小説である。第六章までの題は、作者自身によって与えられ、第七章と最終章?のそれは、監修者ブロートによって付けられたものである。また『アメリカ』もブロートの命名で、作者自身としては原題として『失踪者』を念頭に置いていたことが、日記によって明らかである。確かにこの表題のほうが、安住の地なく、ゴム毬《まり》のように翻弄されて、転落に転落を重ねながら、ついに地上から姿を消してゆく、罪なき罪を負うた、孤独な少年の数奇な運命をよく言い表わしていよう。この長篇は、作者がすべての事件を主人公自身の眼を通して見ている点で、ディケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』と軌を一にしてはいるが、しかし、すでにこの長篇でも、後の『城』におけると同じように、主人公は、三人称形式で扱われているのである。
ところで、読者は、第七章と『オクラホマ野外劇場』とのあいだに、なお幾つかの章がなければならぬことに、すでに気づいているにちがいない。これらが欠如しているかぎり、かりに『オクラホマ野外劇場』を最終章と見なすとしても、その平和的な寓話化の帰結がさまざまな推測を生むだけで、どうにもしかとは腑に落ちないのである。この長篇の最大の問題点はそこにある。ただブロートがショッケン版全集本に付録として加えている、断片その二は、『ブルネルダの出発』と題して、ある朝、カールが肉の塊のごとき彼女を患者運搬車に乗せ、例の隣の学生に別れを告げながら、住みなれた建物を立ち出る光景を描いているが、そこにはもはやドラマルシェとロビンソンの姿は見えない。すでにそれまでに両人との訣別が行なわれたものと解釈されるが、それがいかなる動機に基づくものか、また主人公がニグロと名乗った最近の職場がいかなるものであったか、どこでファニーと知り合ったか、審《つまび》らかでない。
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年譜
一八八三 七月三日、フランツ・カフカは、父ヘルマンと母ユーリエ(旧姓レーヴィ)の長男として、現在のチュコスロヴァキアの首府プラハの旧市街で生まれた。両親ともユダヤ人で、父は貧しい家の出身、田舎の行商からやがて大きな商店を経営するほどになった。母はプラハの旧家で一族には学者や変人が多かった。
一八八五(二歳) 弟ゲオルクが生まれたが半年後に死亡。
一八八七(四歳) 弟ハインリヒが生まれたが一年半後に死亡。
一八八九(六歳) フライシュマルクトのドイツ系小学校へ一八九四年まで通学。妹ガブリエーレ(愛称エリー)が生まれる。
一八九〇(七歳) 妹ヴァレリー(愛称ヴァリー)が生まれる。
一八九二(九蔵) 妹オッティーリエ(愛称オットラ)が生まれる。妹三人はのちにナチ強制収容所で虐殺された。両親は仕事に忙しく、妹たちはあまりにも年下のため親しめず、淋しい毎日を過ごす。
一八九三(十歳) 旧市街のドイツ系国立ギムナジウム(中・高等学校)へ一九〇一年まで通学。のちにこの学校の階下に父の店ができた。
一八九七(十四歳) このころから翌年まで、のちに社会主義者になったルドルフ・イローヴィと友交を結び、社会主義に関心を持つ。
一八九八(十五歳) このころから一九〇四年まで、のちに美術史家になったオスカー・ポラックと友交を結び、大きな影響を受ける。
一八九九(十六歳) 芸術誌「クンストヴァルト」から影響を受ける。このころ創作をこころみたが、現存していない。
一九〇〇(十七歳) ニーチェの作品、特に「ツァラトゥストラ」を愛読。
一九〇一(十八歳) プラハのドイツ大学に入学。はじめの二週間は化学を学んだが、父の希望でのちに法学を選ぶ。
一九〇二(十九歳) 夏学期にドイツ文学を、特にヘッベルを研究した。冬学期からミュンヘン大学でドイツ文学をつづける計画をたてたが、父の反対にあい、やむなく法学を学ぶ。休暇中に母方の叔父で、トリーシュで医者をしているジークフリート・レーヴィのところに滞在。この叔父にはもっとも親しみを感じ、のちに『田舎医者』のモデルとした。秋、一歳年下の法科学生であったマックス・プロートと終生の交友を始める。彼は後年、カフカ全集の編者になった。
一九〇一(二十歳) 法制史国家試験を好成績で通過。長編『子供と町』の一部分および詩、散文をポラックに送ったが、現存していない。
一九〇四(二十一歳) 日記、回想録、書簡集などをしきりに読む。秋から翌年春にかけて、ホフマンスタールの影響が認められる『ある戦いの記録』を執筆。
一九〇五(二十二歳) 作家オスカー・バオム、マックス・ブロート、哲学者フェリクス・ヴェルチュと定期的会合を持つ。第一次卒業試験を終える。
一九〇六(二十三歳) 第二次・第三次卒業試験を終え、七月、法学博士の学位を授与される。四月から九月まで叔父リヒャルト・レーヴィの弁護士事務所で記録係として勤務。十月から一年間、法務実習。『田舎の婚礼準備』の執筆をはじめる
一九〇七(二十四歳) 八月、叔父ジークフリートの家に滞在。十月から翌年七月まで一般保険会社に臨時雇いとして勤務。夜は保険学、イタリア語を学ぶ。
一九〇八(二十五歳) 隔月雑誌『ヒュペーリオン』一・二月号に散文八編を初めて発表。のちに『観察』に収める。二月から五月まで労働者保険講座を受講。七月、ボヘミア王国労働者傷害保険局に臨時職員として勤務。職務に熱心であった。マックス・ブロートとの交友はさらに深まる。
一九〇九(二十六歳) 『ヒュペーリオン』、三・四月号に、『祈る若者との対話』『酔いどれとの対話』の二編を発表。九月、ブロート兄弟とイタリアのリーヴァへ旅行。近くのブレッシャで、そのころはまだ珍しい飛行機ショーを見物。帰国後、日刊紙に『ブレッシャの飛行機』を発表。アナーキストの会など、種々の社会主義の集会に出席。
一九一〇(二十七歳) 日記をつけ始める。十月、ブロート兄弟とパリへ旅行。十二月ひとりでベルリンへ旅行。東欧ユダヤ人が演じる民衆劇に興味を持つ。
一九一一(二十八歳) 一月から四月にかけてしばしば出張旅行。八月、ブロートとともにチューリヒ、ルガノ、パリへ旅行。その後、チューリヒ近郊にある自然療養所へひとりで滞在。十月以降、東欧ユダヤ人の劇を規則的に見る。
一九一二(二十九歳) ユダヤ史、ユダヤ教、ユダヤ文学を研究。二月十八日、東欧ユダヤ劇団の俳優イーザーク・レーヴィのために解説的講演を行なう。初夏から翌年一月にかけて『失踪者(アメリカ)』の第七章まで書く。六月、ブロートとともにワイマルへ旅行。途中、ローヴォルト、ヴォルフなどの出版業者に会う。七月、ハルツ山中の自然療養所に滞在。八月十三日、ブロートの家でフェリーツェ・バウアに会う。九月二十日、フェーリツェへ初めて手紙を書く。九月二十二日の夜から翌朝にかけて『判決』を書きあげる。十月二十三日、フェリーツェからの初めての手紙を受ける。以後おびただしい文通が始まる。フェリーツェに宛てた手紙が約五百通残っている。十一月、まだ未完成の『変身』をオスカー・バオムの家で朗読。十二月、小品集『観察』をローヴァルト社から出版。
一九一三(三十歳) 三月、書記補になる。三月と五月にベルリンにいるフェリーツェを訪問。五月、『アメリカ』の第一章にあたる『火夫』をヴォルフ社から出版。六月、『判決』を発表。フェリーツェに初めて求婚の手紙。恋愛と創作との矛盾に苦しむ。九月、リーヴァへ旅行。十一月、フェリーツェの友人グレーテ・ブロッホと会い、やがて文通を始める。彼女への手紙は約百通残っている。マックス・ブロートと一時的に不仲になる。キルケゴールを読む。
一九一四(三十一歳) 一月、再度手紙でフェリーツェに求婚。四月、承諾を得る。五月末、正式に婚約。七月十二日、婚約解消、十三日にバルト海へ旅行。八月、はじめて両親とはなれて、ひとりで住む。十月、『流刑地にて』を完成。『アメリカ』の最後の章と『審判』を書き始める。十二月、『掟の門』を書き上げる。フェリーツェの友人グレーテ・ブロッホとの関係が深くなる。彼女はカフカの子を生み、その子は七歳で死亡したというが、彼自身は知らなかった。
一九一五(三十二歳) 一月、フェリーツェと再会。四月、妹エリーとハンガリーへ旅行。十月、カール・シュテルンハイムの受けたフォンターネ賞をカフカの『火夫』に譲る。十一月、『変身』をヴォルフ社から出版。
一九一六(三十三歳) 四月、妹オットラと旅行。七月、マリーエンバートにフェリーツェと滞在。十月、『判決』をヴォルフ社から出版。十月ミュンヘンで『流刑地にて』を公開朗読。短編集『田舎医者』を執筆。
一九一七(三十四歳) 七月、フェリーツェと二度目の婚約。八月、喀血。肺結核の診断を受ける。八か月の休暇を得て、チューラウに住む妹オットラの許で暮らす。フェリーツェが訪れる。キルケゴールの作品に没頭。十二月、婚約解消。『夢』『豺《やまいぬ》とアラビア人』『学士院へのある報告書』を発表。
一九一八(三十五歳) 夏までチューラウに滞在。十一月、シェーレーゼンに翌年春まで滞在。ユーリエ・ヴォホリゼクと知り合う。
一九一九(三十六歳) 五月、『流刑地にて』をヴォルフ社から出版。六月、ユーリエと婚約。秋、短編集『田舎医者』をヴォルフ社から出版。十一月、シューレーゼンに滞在中、『父への手紙』を書く。
一九二〇(三十七蔵) 一月、局書記となる。三月、十七歳の少年グスタフ・ヤノーホと知り合う。四月から三か月間、メラーンに滞在。その間にカフカ作品のチェコ語の翻訳者ミレナ・イュセンスカ=ポラク夫人と文通。ミレナにあてた書簡は『ミレナヘの手紙』として日本でも翻訳されている。六月、ミレナに会うためにウィーンへ行く。ユーリエと婚約解消。多数の短編を書く。十二月、マトリアリのサナトリウムで療養中、医学生ロベルト・クロプシュトックと知り合う。
一九二一(三十八歳) 九月、マトリアリからプラハへ帰る。ミレナはしばしばプラハを訪問。十月、ミレナに日記すべてを渡す。
一九二二(三十九歳) 一月から九月にかけて『城』を執筆。三月、『城』の一部分をブロートに朗読。五月、ミレナとの最後の出合い。七月、労働者傷害保険局を退職、恩給を受ける。『ノイエ・ルントシャウ』十月号に『断食芸人』を発表。夏、『ある犬の回想』を書く。
一九二三(四十歳) 『歌姫ヨゼフィーネ』を執筆。妹エリーたちとバルト海沿岸へ行き、若い東欧ユダヤ人女性ドーラ・ディアマントと知り合う。九月、ドーラとともにベルリンに住む。十月、『小さな女』『家』を書くが生活に窮し、病状悪化。このころの作品の多くは破棄された。
一九二四(四十一歳) 三月、病状悪化のため、叔父ジークフリート、ブロートが来て、プラハに移す。つづいてウィーン郊外の療養所に移る。喉頭結核の診断を受ける。ドーラ、クロプシュトックがつきそう。六月三日死去。十一日、プラハの新ユダヤ人墓地に埋葬。夏、短編集『断食芸人』をシュミーデ社から出版。