審判
カフカ/中野孝次訳
目 次
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第一章 逮捕/グルーバッハ夫人との会話/ついでフロイライン・ビュルストナーのこと
第二章 最初の審理
第三章 人気のない法廷で/大学生/裁判所事務局
第四章 フロイライン・ビュルストナーの女友達
第五章 苔刑吏
第六章 叔父/レーニ
第七章 弁護士/工場主/画家
第八章 商人ブロック/弁護士解約
第九章 大聖堂にて
第十章 終り
〔付録〕 未完の章
エルザの家へ/母のもとへ/検事/その建物/頭取代理との戦い/断片
あとがき マックス・ブロート
訳者解題
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第一章 逮捕/グルーバッハ夫人との会話/ついでフロイライン・ビュルストナーのこと
だれかがヨーゼフ・Kを中傷したに違いなかった。なぜなら、なにも悪いことをした覚えがないのにある朝逮捕されたからである。彼に部屋を貸しているグルーバッハ夫人の料理女が、いつもは八時ごろ朝食を運んでくるのに、この日にかぎってやってこなかった。こんなことはこれまで一度もなかった。Kはそれでもなおしばらく待ってみた。枕に頭をつけたまま、向いの家に住む老婆がなみなみならぬ好奇心をみせてこっちを観察しているのを見ていて、それから、いぶかしくもあれば腹も空いてきたのでベルを鳴らした。するとすぐノックの音がして、この家で見かけたことのない男が入ってきた。痩せているががっしりしたからだつき、ぴったり身についた黒服を着ている。旅行服に似ていろんなひだやポケット、留め金、ボタンにベルトまでついているので、何の役に立つのかはわからなかったがしごく実用的に見えた。
「どなたですか」とKはたずね、すぐベッドに半身をおこした。
男はしかし自分が来たのは当然のことだというように質問を聞き流して、逆にむこうから言った。
「ベルを鳴らしましたね?」
「アンナに朝食を持ってきてもらおうと思ってね」
とKは言い、さしあたりは黙ったまま、注意力と頭をはたらかせてこの男が何者かたしかめようとした。しかし男はいつまでも彼の視線にさらされてはいないで、少し開けておいたドアのほうにむきを変え、ドアのすぐうしろに立っているらしいだれかに言った。
「アンナに朝めしをもってきてもらいたいんだってよ」
小さな笑い声が隣室で起こって、そのひびきからはとなりにいるのが複数の人間なのかどうかわからなかった。こんなことで見知らぬ男のいままで知らなかったことがわかるはずなどなかったのだが、彼はそれでも警告するといった口調でKに言った。
「そういうわけにはいかない」
「そんなことは初めて聞くぞ」とKは言い、ベッドからとびおりてすばやくズボンを穿いた、「ぜひ知りたいものだね、となりの部屋にいるのがどんな人たちなのか、グルーバッハ夫人がこんな妨害行為にたいしどう責任をとってくれるのか」
そう言いながら彼はむろんすぐに、こんなこと大声で言うべきじゃなかったし、言ったために見知らぬ男の監督権といったものをある程度認めることになってしまったのに気がついたが、今はそれもたいしたこととは思えなかった。いずれにしろ見知らぬ男はそうとったらしくて、言った。
「ここにいたほうがいいんじゃないのか」
「ぼくはここにいたくもないし、話しかけられたくもない、きみが身分を明かさぬうちはね」
「好意で言ったつもりだがね」と見知らぬ男は言って、こんどは自分からドアを開けた。
Kが、気を抑えてゆっくり入ってゆくと、となりの部屋は一見したところ昨晩とほとんど変らぬように見えた。ここはグルーバッハ夫人の居間で、いつもは家具や敷物や花瓶や写真やでぎっしり詰った部屋が今日はいくぶん広いような気がしたが、それとてすぐにそうとわかったわけではなかった。ましてやここの第一の変化は、開けた窓ぎわに本を持った男が一人坐っていたということだったので、なおさらわからなかったのだ。そいつがいま本から目をあげて、言った。
「部屋にいなければいけない! フランツがそう言わなかったかね?」
「言ったよ。で、あなた方はどうしようっていうんです?」
Kはそう言って、この新しい知合いからフランツと呼ばれた戸口のところに立止っている男に目を転じ、また視線をもとにもどした。
開いている窓ごしにまたあの婆さんが目に入った。彼女はいかにも老人らしい好奇心まるだしに、いままた真向いになった窓ぎわに歩みよって、さらに事の次第を見とどけようとしていたのだ。
「ぼくはやっぱりグルーバッハさんに――」
とKは言って、二人の男から、といっても実際は彼から遠くはなれているのだが、身をもぎ離す仕草をして、ずんずん歩いていこうとした。
「だめだ」と窓ぎわの男は言うなり本を小机の上に放りだして立ち上った、「勝手に出てってはいけない。あんたは逮捕されたんだ」
「そうらしいね」とKは言って、さらに聞き直した、「でもいったいなぜ?」
「そんなことまで言えとは言いつかってきていない。部屋にいって待ってるんだ。もう訴訟手続はとられている、時がくれば万事明らかになるさ。実はこんなふうに親しく話しかけることさえすでに権限をこえているんだ。だが、いまはフランツ以外に聞いてる者もなさそうだし、やつ自身が規定に違反してあなたにやさしくしているんだからな。これからさきも、われわれみたいな監視人に決まったのと同じ幸運に恵まれるようだったら、あんたも安心していられるというものだよ」
Kは腰をおろそうとしたが、見ると窓ぎわの椅子のほか部屋中どこにも坐る場所がないのだった。
「こういったことがすべて真実なんだと、いずれはわかるさ」とフランツは言って、同時にもう一人の男と彼のほうに歩み寄ってきた。とくに後者はKより図抜けて大きくて、ともすればすぐ彼の肩を叩こうとした。二人はKの寝巻をとくと調べて、あなたは今後もっと劣悪なシャツを着なければならんことになる、しかしこの寝巻もほかの下着類もわれわれが保管しておいてやろう、あなたの一件が首尾よく落着したらまた返してやろう、と言った。
「持物は保管庫よりわれわれにあずけておいたほうが安全なんだよ」と、二人は言った、「保管庫じゃよく猫ばばされるし、それにあそこじゃ一定の期間が過ぎると、問題の訴訟が終ろうが終るまいがおかまいなしにいっさい合財売りとばされてしまうからね。それにこういった訴訟ときたら、いったいどれくらいかかるものやら、とくに近頃は! 売られてもいずれ最後にはむろん保管庫から売上金を貰えはする、しかしこの売上金というやつは第一それ自体ごく僅かなものでね、しかもその売上の額をきめるのは、付け値の多寡《たか》じゃなくて、賄賂しだいというわけだからね、そのうえまた、経験によれば、そんな売上金も手から手へ、年度から年度へ渡るうちには、自然と目減りしていくものなんだ」
Kはこんな話にはほとんど注意していなかった。自分の持物の裁量権はまだ彼の手中にあるらしかったが、彼はそんなものには重きをおいていなかったし、それよりもいまは自分の状況を明確に知ることのほうがはるかに大事だった。だが、こんな連中のいるところでは落着いて物を考えることさえできなかった、二番目の監視人――要するに二人とも監視人以上の者じゃなかった――の腹がなんどでも、表向き親しげに彼につき当ってくるのだが、見上げればしかし彼の目にはいるのは、このでっかいからだにふさわしからぬ干からびて骨張ったやつの顔であり、たけだけしいわきにねじくれた鼻であり、その顔が彼の頭ごしにもう一人の監視人と内々で話をつけているところなのだ。一体こいつらはどういう人間なんだろう? 何のことを話しあっているんだろう? どんな役所に所属しているんだろう? Kはともかく法治国に生きているはずだった、いたるところ平和が支配し、法は厳然としてある、だのにだれかがあえて彼のうちで彼を襲おうなんてする者があるだろうか。彼はつねづね、物事はすべてできるだけ簡単に考え、最悪の事態はそれが本当に起こったときに初めてそうだと信じ、仮に成行きが万事怪しくなっても、未来にたいし取越し苦労はしない、そんな考え方ですまして来た。が、いまここではそれが正しい考え方とは思えない、むろん、こういったことすべてを冗談、たちのわるい冗談だと、見做すことは可能だった、理由はわからぬながら、もしかすると今日が彼の三十歳の誕生日だというので、銀行の同僚たちがこれを企てたのかもしれない、それはむろんありうることだった、ひょっとしたらただ彼がなんらかのおりに監視人たちの顔をみてぷっと噴きだしさえすれば、それで事がすむのかもしれなかった、そうすればかれらもいっしょに笑いだし、やつらが実は町角の使い走りだったと判明するのかもしれぬ、まったくそうとしか見えない連中だから――と、一応そうは思うものの、彼は今度ばかりは監視人フランツを一目見た瞬間から、かたく決心していたのだった、彼がこの男たちにたいして持っているかもしれぬどんなわずかな利点でさえも、いまは決して手離すまい、と。あとでひとから、あれは冗談のわからんやつだ、といわれるかもしれぬ危険は、Kには少しもたいしたこととは思えなかった、それより彼が思い出したのは――経験からものを学ぶなんていつもの彼のやり方ではなかったが――二、三の、それ自体は別に大したことではない過去の出来事のことで、むかし彼は友人たちとは違って意識的に、起こりうる結果のことなどちっとも考えずに、あえて無鉄砲にふるまって、その代り結果によってしたたか罰せられたことがあるのだ。あんなことは二度と起こしてはならぬ、少くとも今度だけは絶対に、と彼は思った、これが喜劇であるなら、それをいっしょに演じてやろう、と。
彼はまだ自由だった。
「ちょっと失礼」と言って、彼はいそいで監視人のあいだを抜け自分の部屋に入った。「ものわかりのいいやつらしい」とうしろで言っているのがきこえた。
部屋に入るとすぐ彼は机の引出しをあけ、机のなかは万事きちんとしているのに、まさに彼が探している身分証明書だけは、興奮しているせいかすぐには見つけ出すことができなかった。ようやっと自転車登録証が見つかったとき、それを持ってすぐ監視人のところへ行きかかったが、この書類ではあまり貧弱な気がしたのでさらに探しまわって、やっと出生証明書を見つけた。彼がまた隣室に戻ったときちょうど向い側のドアが開いて、グルーバッハ夫人が入ってこようとしていた。が、彼女の姿は一瞬見えただけだった、というのは彼女はKを認めたとたん明らかに狼狽して、許しを乞い、姿を消し、おそろしく慎重にドアをしめてしまったからだ。
「入ってきたらいいじゃありませんか」とKは言うのがやっとだった。ところでしかし彼がそうやって書類を手に部屋の真中に立って、二度と開かぬドアを未練気に見つめていて、監視人らに声をかけられて初めてびくっとふりかえると、Kはそのとき気がついたのだが、かれらは窓ぎわの小卓に向って坐っていて、彼の朝飯をぱくついているところだった。
「なぜ彼女は入ってこなかったんだね」と彼はきいた。
「入ってはならんからだ」と大きな方の監視人が言った、「あんたは逮捕されているんだから」
「どうしてぼくが逮捕されたなんてことがあるんだ? しかもこんなやり方で」
「やれやれ、またむし返すのか」と監視人は言って、バタパンを蜂蜜の壺にひたした、「そんな質問には答えられないね」
「いや、いずれ答えることになるだろうよ」とKは言った、「ここにぼくの身分証明書がある、さあこんどはあなた方のを見せてもらおうか、とくに逮捕令状をね」
「なんてこった!」と監視人は言った、「これほどまでに往生ぎわが悪いとは。どうやらわれわれをいたずらに怒らせたくて仕方がないらしいね、いまやあんたのご立派なお仲間うちで一番あんたの身近にいるわれわれを!」
「そうだ、こいつの言うとおりですよ」とフランツは言って、手にしたコーヒー茶碗をすぐには口に運ばず、Kを、どうやら意味深長らしい、しかしわけのわからぬ目付きで、ながいこと見つめていた。Kはその気もないのにフランツと視線の対話をするはめにまきこまれてしまったが、それからやはり書類を叩いて言った、「ここにぼくの身分証明書があるぞ」
「それがどうしたっていうんだ?」と大きい方の監視人はいまやどなりだす有様だった、「あんたはまったく子供より始末が悪いぞ。いったいどうしてもらいたいんだ? われわれはただの監視人だ、そのわれわれと身分証明書だの逮捕状だのと議論をして、この厄介な大訴訟に少しでも早く決着をつけようというのかね? われわれは下っ端の傭い人だ、身分証明書のことなぞ見たってわかりはしない、われわれは毎日十時間あんたを見張って、その分の手当を貰いさえすれば、それ意外あんたの事件となんの関りもないんだ。それがわれわれの全部だ。全部だがしかしそのわれわれでさえ、われわれの使えるお役所がこんな逮捕を行う以上は、事前に逮捕の理由とか逮捕される者の身許とか、くわしく調査してあることぐらい見抜く力はある。その点に間違いなぞあるわけがないのだ。われわれの役所は、おれの知るかぎり、といってむろん一番下の階級しか知らないが、住民の中に罪を捜したりしやしない、そうじゃなくて、法律にもあるとおり、いわば罪にひきつけられてわれわれ監視人を派遣せずにいられなくなるんだ。そのどこに誤りがあるというんだね?」
「そんな法律なぞ、ぼくは知らないね」とKは言った。
「知らなければなおさらよくない」と監視人は言った。
「そいつはあなた方の頭のなかにだけある法律なんだろうな」とKは言った。彼はなんとかして監視人たちの考えのなかにしのびこみ、それを自分の有利にしむけるか、あるいはそれに同化しようとした。しかし監視人は突き放すようにこう言っただけだ。
「いずれ身をもって思い知らされるさ」
フランツも口をはさんで、
「見ろよ、ヴィレム、この人は法律を知らないと認めておきながら、そのくせ自分は無罪だと言い張ってるんだぜ」
「まったくおまえの言うとおりさ、だがそれをこいつにわからせようったってとうてい無理だな」ともう一人が言った。
Kはもはや何も答えなかった。こんな一番下っ端の機関――かれらは自分でそうだと認めている――のおしゃべりによって、これ以上頭を混乱させられる必要があろうか、と彼は考えた。やつらはどっちみちまるっきりわかっていない事柄についてしゃべってるだけだ。馬鹿だからこそあんなに確信ありげにふるまっていられるんだろう。おれと対等な人間と二言三言話しさえすれば、こいつらといつまでも話しあうのと比較にならぬくらい事がはっきりするにちがいない。彼は部屋のあいた場所を二、三度行き来した、向うがわに例の老婆が、彼女よりもっとひどい年寄りを窓ぎわにひっぱってきて、抱えて見させてやっているのが見えた。これ以上こんな見世物になるのはごめんだ、とKは思った。
「あなたたちの上役のところへ連れてってくれたまえ」と彼は言った。
「そうしろと言われたときはな。それまではだめだ」とヴィレムと呼ばれた監視人が言った、「ところで忠告しときますがね」と彼はつけ加えた、「部屋に戻って、おとなしくしていて、指示が下るのを待ってたほうがいい。つまらん考えごとで気を散らしたりしないで、気をたしかに保っておけと忠告するよ。いずれ途方もない要求が下されるんだから。あんたはわれわれを、われわれの好意にふさわしいように扱わなかった。われわれがどんなつまらん者であろうと、少くともいまはあんたにたいし自由な人間だということを、あんたは忘れているんだ。これはちっとやそっとの優越じゃないんだぜ。だが、それでも、もし金があるんなら、むこうの喫茶店からなにか軽い朝食をとってきてやるくらいはしてやってもいいんだがね」
この申し出には返事をしないで、Kはしばらくじっとつっ立っていた。ひょっとしたら彼がいま次の部屋のドアを、いや控え室のドアをあけても、この二人はぜんぜん彼を阻もうとしたりしないのかもしれない、もしかするとそんな極端なことをやってみるのが、全体の一番簡単な解決法なのかもしれなかった。が、ひょっとするとそれでもやはりかれらは掴みかかってくるかもしれず、そうやってひとたびぶちのめされてしまえば、いま彼がかれらにたいしある点ではたしかに持っている優越も、みんな失われてしまう。そう考えて彼は、事の自然な成行きがもたらすに違いない解決の安全なほうをとり、自分の部屋に戻ったが、彼のがわからも監視人たちのがわからも、それ以上一言も発せられなかった。
彼はベッドに身を投げ、昨夜朝食のために用意しておいたきれいなリンゴを洗面台からとった。いまやこれが彼の唯一の朝食だったが、いずれにしろこれでも、一口大きくかじって確かめたところでは、監視人どものお情けで手に入れられたかもしれぬ汚らしい深夜喫茶の朝食なんぞより、はるかに結構だった。それで気分がよくなり、自信も湧いてきた。銀行のほうはむろん今日の午前中は休むことになるが、これも彼が占めている比較的高い地位からすれば、言いわけをするのは簡単だった。言いわけには本当の理由を言うべきだろうか?
そうしよう、と彼は思った。言うことが信じてもらえないときは――この場合それは大いにありうることだった――グルーバッハ夫人を証人にたてることができようし、なんなら、いまごろたぶんまたぞろ向いの窓にむけ行進中の、あのおむこうの二人の老人でもよかった。ところで、Kをいぶからせたのは、少くともふだんの監視人たちの思考の筋道からして彼をいぶからせたのは、かれらが彼を部屋に追いやったまま、彼をここに一人っきりにしておくことだった。自殺する気ならここには十通りもの可能性があるではないか。そう考えると同時にむろん彼は、今度は彼の思考の筋道からして、自分には一体どんな自殺すべき理由があるだろうか、と自問してみた。たとえばとなりにかの二人組が陣取っていて、彼の朝食を平らげてしまった、という理由でか? そんなことで自殺するのはあまりにも無意味で、たとえ彼が自殺しようと思ったところで、そのあまりの無意味さのために実行することができなかっただろう。そして監視人たちの知能程度があんなにも低劣なものでなかったなら、かれらもまた同じ確信からして、彼を一人にしておくことになんの危険も認めなかったのだと、そう考えてもいいところだが。ところでいまやつらにその気があれば、これを見つけることができるわけだと思いながら、彼は上等のブランデーをしまってある小さな壁戸棚のところへいって、まず朝食のおぎないに一杯やり、さらに自分を元気づけるために二杯目を飲みほした。あとのはただ、もしかするとそんな用心が必要になるかもしれぬ、ありうべからざる場合にそなえてだったが。
そのときとつぜん隣室から呼ぶ声がして、彼は歯をグラスにぶつけるほどびっくりさせられた。
「監督官どのがお呼びだ!」というのだった。彼をびくっとさせたのは、その叫び声、短かい、ぶっちぎれた、軍隊式の叫び声で、これが監視人フランツのものとはとうてい信じられなかった。ただし命令そのものは彼には大歓迎であった。
「やっと来たか!」と彼は叫びかえして、壁戸棚をしめ、すぐ隣室へ急いだ。行くと二人の監視人がつっ立っていて、自明のことだといわんばかりに彼をまた部屋に追いかえした。
「なんてこった」とかれらは叫んだ、「寝巻姿で監督官どのの前に出ようっていうのか? われわれまで道連れにして、ぶちのめされたいのか!」
「かまうな、こら!」とKは叫んだが、からだはすでに衣装ダンスの前まで押し戻されてしまっていた、「ひとの寝込みを襲っておいて、礼装でやってこいなんて、よくもそんなことが言えたもんだな」
「なんてったってだめだ」と監視人たちは言ったが、Kが叫ぶと、そのたびにかれらはしごく静かに、いやほとんど悲しげにさえなって、そのことで彼を惑乱させ、またある程度正気にもどしていった。
「滑稽な儀式だ!」と彼はまだぶつくさ言いながらも、しかしすでに上着を椅子からとりあげて、しばらくのあいだそれを両手で捧げ持っていた、まるで監視人たちのご判断を仰ぎたいというように。かれらは頭をふった。
「黒い上着でなければだめだ」とかれらは言った。
すぐそれに応じてKは上着を床に放り出して、言った――どんなつもりでそんなことを口走ったのか、彼自身にもよくわからなかったが――「まだこれは本審理ってわけじゃないんだろうが」
監視人たちは微笑を浮かべたが、意見は変えなかった、「黒い上着でなければだめだ」
「そんなことで事が少しでも早く進むっていうんなら、ぼくにも異存はないさ」とKは言って、自分で衣装ダンスを開け、たくさんの服のなかを長いこと探しまわって、彼の一番いい黒服を選び出した。これは仕立てのいいことで知人たちのあいだにほとんどセンセーションをよびおこした服だった。それからシャツも別なのをひき出して、丹念に身づくろいを始めた。これで監視人たちが、と彼はひそかに思った、風呂に入れと強制するのを忘れなかったら、全体がこうてきぱきと運ばなかっただろうな。いまこの期におよんでかれらがそのことを思い出すんじゃないかと、彼は二人をうかがったが、もちろんかれらはぜんぜん思いつかなかった。そのかわりヴィレムは、いまKが服を着ているという報告をもたせてフランツを監督官のところにやることだけは忘れなかった。
完全に服を着終えるとすぐ彼はヴィレムのすぐ前に立って、空の隣室を通り、すでに扉が両側とも開かれているその次の部屋へ入らされた。この部屋は、Kはよく知っているが、しばらく前からビュルストナーとか言うタイピストの住居で、彼女は朝は非常に早く勤めに出かけ夜はおそく帰宅するので、Kとはまだ挨拶以外のことばを交したことがなかった。いま、その彼女のベッドの小さなナイトテーブルが審理用の机として部屋の中央にひき出され、そのむこうに監督官が坐っていた。脚を組んで、片腕を椅子の背|凭《もた》れにかけていた。
部屋の一隅には三人の若い男たちが立っていて、壁に掛けたマットの一つにとめてあるフロイライン・ビュルストナーの写真群を眺めていた。開けた窓の把手に一枚の白いブラウスがかかっていた。向いの窓にはまたぞろ例の二人の老人がいたが、今度はお仲間がふえていた。というのは、かれらのうしろにかれらよりきわだって大きな男が、胸をはだけたシャツ姿で立って、赤味がかったとんがりひげを押したりひねったりしているのだ。
「ヨーゼフ・Kだね?」と監督官がきいたのは、おそらくただKの散漫な視線を自分にひきつけんがためだったようであった。Kはうなずいた。「今朝のいろいろな出来事で非常に驚いたでしょうな?」と監督官はきいて、そう言いながら、マッチだのロウソクだの、本だの針箱だの、審理にぜひいる品物のような顔をしてナイトテーブルの上にのっていたものを、両手でわきへおしやった。
「もちろん」とKは言った、ようやく物のわかる人間と相対して、自分の事件についてそいつと話しあえるのだ、という快い感情が彼をとらえた、「もちろん、驚きましたとも。しかし非常に驚いたというわけじゃありませんよ」
「非常に驚いたわけじゃない?」と監督官はきいて、小テーブルの中央にロウソクを、そのまわりにほかの品々を並べていった。
「ひょっとしてぼくの言葉を誤解なさったのかもしれませんが」とKは急いで申し立てようとした、「ぼくの言ったのは」――と言いかけて、Kは中断し、椅子はないかとあたりを見まわして、「腰をおろしてもかまいませんか?」ときいた。
「そういうことは慣例にありません」と監督官は答えた。
「ぼくの言ったのは」とKは間をおかずに言った、「ぼくはむろん非常に驚いた、しかしひとと生れて三十にもなって、しかもぼくの場合がそうだったように、独力でこれまで切り抜けてこなければならなかった者の場合は、不意打ちにはもう充分鍛えあげられていて、そうそう苦にはしなくなる、という意味です。とくに今日のようなことにはね」
「なぜとくに今日のがそうじゃないんです?」
「事の全体を冗談とみなしているとぼくは言おうとしてるんじゃない、冗談にしちゃ、仕組まれた道具だてが大仕掛けすぎますからね。この下宿の住人全部がそれに加わってるんでしょうし、それにあなた方全員がそうだとなると、これはもう冗談事の限度をこえている。だからぼくは冗談だと言うつもりはないんです」
「まさに仰せのとおりですな」と監督官は言って、マッチ箱にマッチ棒が何本あるか調べていた。
「一方ではしかし」とKはつづけて、ここでみんなのほうに顔をむけ、できれば写真のそばの三人さえこっちに振りむかせたかった、「一方ではしかしこの事件がそう重要なものであるはずはない、と思ってます。ぼくがそう推論するのは、ぼくは告発されたというが、ぼくにはそれで告発されるかもしれぬような罪が、これっぽっちでも見つけられぬからです。しかしそんなことも実はどうでもいいことで、重要な問題はこれだ、ぼくは誰によって告発されているのか? どういう裁判所が審理を行うのか? あなた方は役人であるのか? どうやらあなた方はだれ一人制服を着ていないし、あなたの着ている服を」――ここで彼はフランツのほうを向いた――「制服と呼ぼうとしてもむりで、それはむしろ旅行服といったものですからね。これらの疑問にたいしぼくは明確な返答を要求します、これさえ明確にできれば、おたがいに心から握手をしてお別れできると確信していますよ」
監督官はマッチ箱を机の上に放りだした。「あなたは非常な誤ちを犯している」と彼は言った、「ここにいる諸君とわたしは、あなたの一件にとっては完全にとるに足らぬ存在なんだ、じっさいわれわれは、この件についてほとんどなにも知らぬといっていいくらいのものです。なんならわれわれも規則どおりの制服を着たってかまわないでしょうが、着たところであなたの事件がどう変るってわけのものでもない。わたしはあなたが告発されているかどうかさえわたしは知らないんです。あなたが逮捕されている、それだけは確かだが、それ以上はわたしにはわからない。ひょっとしたら監視人たちがなにか違うことをしゃべったかもしれないが、だったらそれはまさにおしゃべりにすぎなかったんだ。さてしかし、あなたの質問にはお答えするわけにいかないとしても、わたしにも忠告することはできる。で、忠告しますが、どうかわれわれのことだのあなたの身の上に起こるだろうことに、そう頭を悩ませないでほしい、それよりもっと自分自身のことを考えてください。そして自分は無罪だという感情でこんなさわぎをひき起こさないでほしい、そんなことをしても、ほかの点ではそう悪くもない印象を与えているあなたのためになりませんよ。それから一般にしゃべるさいにはもっと控え目にすることですね、あなたがさっき言われたことは、ほとんど全部、かりにほんの二言三言しか言わなかったとしても、あなたの態度から推測できたことばかりだし、そのうえあれはあなたにとって決してひどく好都合なことではなかったんです」
Kは監督官の顔をみつめた。自分より若そうな男からここできまりきったお説教をくらったというわけか? あけっぴろげな物言いにたいしては戒告で罰せられたというわけか? しかも逮捕の理由や令状の出所については何ひとつ聞きだせずに? 彼は一種の興奮状態におちいって、だれにも妨げられずに、行ったり来たりしだし、カフスを押しこんでみたり、胸にさわってみたり、髪の毛をなでつけたりして、三人の男たちのそばを通ったときは、「まったく無意味なことだ」と言ってみたりした。すると三人はこっちにふりむいて、彼の意を迎えるように、しかし真面目くさった顔つきで彼をみつめた。Kはようやっとまた監督官の机の前にとまった。
「検事のハステラーはぼくの友人です」と彼は言った、「彼に電話してもいいでしょうね?」
「むろん」と監督官は言った、「しかしそれにどんな意味があるのか、わたしにはわかりかねますがね。なにか個人的な事柄で彼と話さなければならぬということですか?」
「どんな意味が、だって?」とKは、腹が立つ以上に狼狽して言った、「一体あなたはだれなんです? あなたは意味を欲しながら、およそありうるかぎり最も無意味なことを演じてるってわけですか? それじゃあまりにもあわれな話じゃありませんかね。この人たちがまずぼくに襲いかかってきた、そしていまはここで坐ったり立ったりうろうろしながら、あなたの前でぼくに高等馬術をやらせてるってわけです。ぼくが逮捕されたと言ってるくせに、検事に電話しようとすれば、それになんの意味があるかってんですか? よろしい、ぼくは電話はしますまい」
「いやどうぞ」と監督官は言って、電話のある控え室のほうに手をのばした、「どうぞ電話をしてください」
「いや、もうその気はなくなりましたよ」とKは言って、窓ぎわに歩いていった。向うではまだお仲間たちが窓ぎわにいて、いまKが窓に歩みよったことで、はじめていささか落ち着いた観照を邪魔されたというふうであった。老人たちはからだを起こそうとしたが、かれらのうしろの男がそれをなだめた。
「あそこにだってあんな見物人どもがいるんだ」とKは監督官にむかって大声で叫び、人差指でそとを指さした。それからむこう側にむけて、「そこをどけ!」と叫んだ。
三人のほうもすぐ二、三歩ひきさがって、そのうえ二人の老人はさらに男のうしろに姿をかくした。男はその二人を幅のひろいからだでかばいながら、彼の口の動きから察するところ、遠いためにきこえないながら何事かを言っているらしかった。かれらはしかし完全に消えさったわけではなくて、どうやら気づかれずにまた窓に近づけるチャンスを狙っているようであった。
「図々しい、遠慮知らずなやつらだ!」と部屋のなかに向きかえってKは言った。監督官は、Kは横目でそれを見たと思ったが、彼の言葉に同意しているようでもあった。しかしそれとまったく同じように、彼はぜんぜん聞いてなぞいなかったのかもしれなかった、というのは、彼は手を机にぴったり押しつけて、それぞれの指の長さを見較べているふうにも見えたからだ。二人の監視人は飾り布で覆われたトランクに腰かけて、膝小僧をこすっていた。三人の若い男たちは手を腰にあてて、あてもなくあたりを見回していた。どこかの忘れられた事務室のなかのように静かだった。
「さて、みなさん!」とKは叫んだ、一瞬間彼は自分がこの全員を両肩に担っているような気がした、「みなさんのご様子から察するに、ぼくの事件は終了したとみなしてよさそうですな。ぼくの見解では、あなた方の行動が正当か不当かということはこれ以上考えないことにして、おたがいに握手をして、事態に和解的な決着をつけるのが一番よさそうです。あなたもぼくの見解に同意なさるんだったら、どうぞ――」と言って、彼は監督官の机に歩みより、手をさし出した。
監督官は目をあげ唇を噛んで、さし出されたKの手を見た。相変らずKは監督官が応じてくれるものとばかり思いこんでいた。ところがこっちは、立ちあがると、フロイライン・ビュルストナーのベッドの上に置かれていた固いまるい帽子をとりあげ、新しい帽子を試すときのように両手で用心ぶかくかぶったのだ。
「なんて万事を簡単に見てるんでしょうね、あなたは!」と彼はKに言った、「事態に和解的な決着をつけるべきだと、そうおっしゃるんですね? いや、いや、この件はほんとうにそうはいかないのですよ。かといってわたしは、あなたに絶望しろという気はさらさらない。とんでもない、絶望だなんて、なぜ。あなたは逮捕された、ただそれだけのことです。そのことをわたしはあなたに伝えなければならなかった、そしてそれを果たし、あなたがそれを受けいれられたこともこの目で見ました。今日のところはこれで充分です、これでおいとますることができます、むろんたださしあたりはですが。あなたはおそらく銀行へいらっしゃりたいでしょうね?」
「銀行へ?」とKはきき返した、「ぼくは逮捕されたんだ、とばかり思ってましたがね」
Kがそうきいたのは一種の反抗心からだった。というのは、彼の握手は受け入れられなかったにもかかわらず、監督官が立ちあがってからはとくに、ますます自分がここにいるすべての人びとの拘束から自由になっていくのを感じていたからだ。彼はかれらと戯れている気持だった。かれらが出てゆくようなときには、玄関口まで追いかけていって、ぼくの逮捕をどうしてくれるんだ、と言ってやるつもりだった。だから彼はまた繰返した、「どうして銀行へ行くことができるんです、ぼくは逮捕されているというのに?」
「ああそうか」とすでに戸口のところにいた監督官は言った、「わたしの言ったことを誤解されたんですな。あなたは逮捕された、たしかに、しかしこのことは、あなたが職務を遂行することを妨げるわけじゃないんだ。日常生活もいままでどおりやっていっこうにさしつかえありませんよ」
「それじゃ逮捕されるのもまんざら悪いばかりじゃありませんな」とKは言って、監督官のそばに近よった。
「わたしは一度だってそうじゃないと言ってませんよ」とこちらは言った。
「しかしそれなら逮捕を通知する必要もなかったようですね」とKは言って、さらに近よった。ほかの者たちもそばに寄ってきていた。全員がいまやドア口の狭い空間に集まっていた。
「それがわたしの義務だった」と監督官は言った。
「ばかげた義務だ」とKは負けずに言いかえした。
「かもしれません」と監督官は答えた、「しかしこんなおしゃべりで時間を潰すのはやめましょう。あなたは銀行に行きたがってるものとばかり思ってましたよ。あなたは言葉のはしばしにまで気を使う方のようだから、つけ加えておきますが、わたしはべつに銀行へいけと強制してるんじゃありませんよ、ただあなたが行きたがっていると思っただけです。だからあなたが出かけやすいように、また銀行についてもできるだけ目立たぬようにするため、わたしはこの三人の方、あなたのご同僚を、わざわざお連れしてきているのです」
「ええっ?」とKは叫んで、三人をしげしげと見つめた。これらのおよそ非個性的な、貧血症の若者たちは、彼には依然としてビュルストナーの写真のそばのグループとしか記憶になかったが、これはたしかに彼の銀行の行員だったのだ。同僚ではなかった。同僚とはいかになんでも言いすぎで、それが監督官の全知全能にも欠陥があることを証明していたが、なるほどたしかに銀行の下っ端の行員であった。どうしてこんなことに気がつかないでいられたんだろう? それほどまでに彼が監督官と監視人とに気を奪われていたということだろうか、この三人の見わけさえつかなかったとは? しゃっちょこばった、両手をぶらぶらさせているラーベンシュタイナーにも、くぼんだ目のブロンドのクリッヒにも、慢性的筋肉緊張症のためいやらしいうす笑いをうかべているカミナーにも気づかなかったとは。
「おはよう!」としばらくしてKは言って、かちっと上体を折る者たちに手をさし出した。
「きみたちだとはちっとも気がつかなかったよ。それじゃ仕事に出掛けるとしようか、え?」
三人の男たちは、いままでずっとそればかり待ちうけていたかのように、笑いながら熱心にうなずいた。ただ、Kが帽子を部屋においたまま持ってきていないのに気づいたとき、全員がそれをとりにつらなって駆けだしていったが、そのあわてた様子からともかくかれらのある種の当惑といったものがうかがえるのだった。Kが立ったまま、開いている二枚の扉のあいだをゆくかれらを見ていると、どんじりはいうまでもなく気のないラーベンシュタイナーで、これは粋な|だく足《ヽヽヽ》をやってみせているにすぎなかった。カミナーが帽子を渡した。Kは、銀行でもしばしばそうする必要があったとおり、このときも自分にはっきりと言ってきかせねばならなかった、カミナーのうすら笑いは決して故意にしているのではないのだ、それどころかだいたい彼は意図して微笑するなんてできないのだ、と。控室にゆくと、グルーバッハ夫人が一同全員のために玄関のドアをあけてくれた。彼女はまったくひどく責任を感じているようには見えず、Kは、いつものとおり、彼女の前掛けの紐がそのぶ厚い胴体に不必要にくいこんでいるのを見おろした。下におりたときには手の時計を見て、すでに三十分も遅刻しているのを不必要に増大させぬため、自動車をひろおうと決心した。カミナーが車を見つけに角へ走っていった。ほかの二人は明らかにKの気をまぎらわせようとしていたらしく、とつぜんクリッヒがむこう側の家の戸口を指さしてみせた。そこにちょうど例のとんがりひげの大男が姿を現わしたところだった。大男はこうして自分が全体の大きさをみせてしまったことにいささか狼狽したらしく、壁ぎわにあとずさりして、よりかかった。老人たちはたぶんまだ階段のあたりにいるのだろう。Kは自分がずっと前から気がついていて、それどころかその出てくるのを待ちうけてさえいた男を、クリッヒがわざわざ注意したことに腹を立てた。
「見るんではない!」と彼は思わず言ってしまって、一人前の男にたいしこんな物言いをすることがどんなに目立つかに気づきもしなかった。しかし弁解の必要はなかった、ちょうど自動車がやってきたからで、みんなは乗りこみ発車した。そのときには自分が監督官と監視人の立ち去るのにぜんぜん気づかなかったことを思いだした、監督官に気をとられて三人の行員を、いままた行員に気をとられて監督官を、見失っていたわけだ。冷静な心構えをこれは証明するものではなかった、そこでKはこの点に関しては、今後もっと正確に観察しようと決心した。そのくせ彼は思わずうしろをふりむいて、もしかして監督官と監視人の姿がまだ見えやしないかと、車の後席から身をのりだしてみた。しかしすぐにまた元に戻って、ゆったりと車のすみに背をもたせかけ、結局だれかを探そうという試みさえやってみせなかったのだった。そんなふうに見えないかもしれなかったが、彼はいまこそ慰めの言葉がほしいところだった、しかし三人は疲れきっているようで、ラーベンシュタイナーは車の右を、クリッヒは左を眺め、カミナーだけがいつものうすら笑いをうかべてご用をお待ちしているふうだった。が、こんな顔を冗談の種にするのは残念ながら人情の禁ずるところだった。
この春にKが毎晩を過してきた仕方は、まず仕事のあと、まだそれができるときは――というのは彼はたいてい九時まで事務室に坐っていたから――ちょっとした散歩を一人でかあるいは行員といっしょにして、それからビアホールに行き、年輩の紳士が多い常連の席に坐って、通常十一時まですごすことだった。しかしこんな時間の区分にはやはり例外もあって、たとえばKは、彼の仕事の能力と信頼性を高く買っている銀行の頭取からドライブにさそわれたり、その人の別荘へ夕食に招待されることもあった。さらにそのほかKは週に一度、エルザという名の女のところへ出かけていったが、これは宵の口から朝おそくまである酒場で給仕女として働いていて、日中はベッドのなかで訪問を受けるといった女だった。
しかしこの晩は――日中は、気骨のおれる仕事と、大勢の人から敬意と友情にみちた誕生日の挨拶をうけるうち、またたくまに過ぎてしまった――Kはまっすぐ家に帰ろうと思った。昼間の仕事のちょっとした合間ごとに、彼はそのことばかり考えていたのだった。なぜそう思うのか正確にはわからなかったが、今朝の出来事によってグルーバッハ夫人の下宿全体にとほうもない混乱がひきおこされて、その秩序を回復するためにはぜひ自分が必要だ、という気がしたのだ。しかしひとたびこの秩序が回復されさえすれば、あの出来事の痕跡はすっかりかき消されて、すべてがまた元の歩みをとりもどすのだ。なかんずくあの三人の行員についてはなんの心配もなかった、かれらはふたたび銀行の大きな組織のなかに埋もれてしまい、かれらにはなんの変化も見られなかった。Kはただかれらを観察するという目的だけのために、なんどか一人ずつあるいはいっしょにかれらを事務室に呼びつけてみたが、そのたびに満足してかえしてやることができた。
彼が夜の九時半に自分の住んでいる家の前についたとき、玄関口に大股ひろげてつっ立って、パイプをふかしている一人の若い男に出あった。
「どなたです?」とKはすぐさまたずねて、若い男に顔を近づけたが、玄関のうす暗がりのなかではしかとは見えなかった。
「この家の管理人の息子なんですけど」と若い男は答えて、パイプを口からはなし、わきによった。
「管理人の息子さんだって?」とKはきいて、いらいらしたようにステッキで床を叩いた。
「なにかご用でしょうか? 親父を呼んできましょうか?」
「いや、いいよ」とKは言ったが、彼の声にはなにか、この若い衆が悪事をはたらいたのだが自分はそれを見逃してやるのだといった、許してやるぞという調子があった。
「いいんだ」と彼は言って、先へ歩きだして、しかし階段をのぼる前にはもういちどふりかえって見たほどだった。
彼はそのまままっすぐ自分の部屋にいってもよかったが、グルーバッハ夫人と話したくなったので、すぐ彼女の部屋のドアをノックした。彼女はまだ山ほどの古靴下がのっているテーブルのわきで、靴下の繕《つくろ》いものをやっていた。Kがこんなおそく訪問したことをとりとめなく詫びると、グルーバッハ夫人は非常に愛想よく、詫び言葉には耳をかそうともしないで、あなたとならいつでもお話してかまわない、あなたがわたしの一番立派な大事な下宿人であることは、あなたにはよくおわかりでしょう、と言うのだった。Kは部屋のなかを見まわした。部屋は完全に元の状態に戻っていて、今朝窓ぎわの小机にのっていた朝食器類もすでに片付けられていた。「女の手というものは実際こっそりと多くのことをしとげるものだ」と彼は考えた。自分だったらたぶん器をその場で叩きわっても、決して運び出すことはできなかっただろう。彼は一種の感謝の気持ちでグルーバッハ夫人を見つめた。
「なぜこんな夜おそくまで仕事をするんです?」と彼はたずねた。
いま二人ともテーブルの前に坐っていて、Kはときどき手を靴下の山につっこんだ。
「仕事が多いからですよ」と彼女は言った、「昼間は間借人にかかりっきりだし、自分の仕事を片付けようとしたら、夜しかありませんからね」
「そのうえ今日はまたぼくが余計なお手間をとらせてしまって」
「まあどうして?」と彼女はいささかむきになってきき、膝の仕事の手を休めた。
「今朝早くここに来た男たちのことですよ」
「ああ、あのこと」と彼女は言って、もとの穏やかさに戻った、「あんなの別に手のかかることでもなんでもありませんでしたよ」
Kは黙ったまま彼女がまた靴下の繕いをはじめるのを眺めていた。おれがあのことを話したので驚いてるらしいな、と彼は思った、おれが自分からあのことを話すのを、正しいことだとは思っていないらしいな。しかしそれだけになおのことおれはそうすることが大切なのだ。年をとった女性としかあんなことは話せないんだ。
「いや、あれはたしかにお手間をとらせました」とそれから彼は言った、「しかしあんなことはもう二度と起こらないでしょう」
「そうですとも、二度と起こっていいことじゃありません」と彼女は励ますように言って、ほとんど悲しそうにKにほほえみかけた。
「本気でそう思いますか?」とKはきいた。
「ええ」と彼女は小声で言った、「しかしなにはともあれ、あれをあんまり深刻にとりすぎてはいけませんよ。この世は何が起こるかしれないんですからね。Kさん、あなたがそんなにうちとけて話してくださるので、わたしもつつみ隠さず言えますが、わたし少しばかりドアのうしろで盗みぎきしました、それに二人の監視人もいくらか話してくれました。なにしろあなたの幸福に関することですし、わたしにはそれが本当に気にかかってならないもんですからね。もしかすると出すぎたまねかもしれないけど。ともかくわたしはたんに部屋をお貸ししてるだけの女ですからね。で、そんなわけでいくらか耳にしましたが、しかしなにか特別悪いことをきいたとは言えませんね。とんでもない。なるほどあなたは逮捕されました、しかし泥棒がつかまったのとは違いますからね。泥棒みたいに逮捕されたんなら、たしかに悪いことです、しかしこの逮捕は――。なんていうか、なにか学問めいたことのような気がするんですよ、ばかなことを言ってるんだったらごめんなさいね、ともかくわたしにはね、なにか学問めいたことのような気がするんですよ、なぜそう思うかわからないし、またわかる必要もありませんがね」
「あなたのおっしゃったことはちっともばかげたことじゃありませんよ、グルーバッハさん、少くともぼくは部分的にはあなたと同意見ですよ、ただ全体についてはぼくはあなたよりもっときつい判断をしています、ぼくは学問めいたこととさえ考えない、ただもう無意味だと思うだけです。ぼくは奇襲された、ただそれだけのことです。目がさめたらすぐ、アンナが来ないことなんかにまどわされないでさっさと起き上って、ぼくの邪魔をしようとするやつなんかに目もかけずにあなたのところにいって、今朝だけは例外に台所で食事をすましてさえいたら、そして洋服はぼくの部屋からあなたにとってきてもらっていたら、つまり理性的にふるまっていたら、あれ以上何も起こらなかったでしょうし、起こりかけていたことだってすぐ息の根をとめられていたはずなんですよ。しかしそれにはあまりにもこっちの用意がなさすぎました。たとえば銀行でなら、ぼくも用意ができています、あそこでならあんなことは起こりもしなかったでしょうね、ぼくには専属の小使がついているし、外線電話や内線電話やが目の前の机にのっている、しょっちゅうひとがくる、お顧客《とくい》や行員やが来て、そのうえしかしなかんずくぼくはあそこではたえず仕事とつながっています、従ってつねに精神が目ざめていて、もし銀行であんなふうな事に出合ったら、それこそまさに気晴らしといってもいいくらいでしょう。ともかく、あれはもう過ぎたことだし、ぼくももともとこんなことを話す気はまったくなかったんです、ただあなたの判断、もののわかった女性の判断がおききしたかったものですから。わたしたちの意見が一致したのはうれしいことです。さて、それじゃ手をさし出してくれなくちゃいけませんね、こう意見が一致したら握手してたしかめておかないといけない」
彼女は手をさし出すだろうか? 監督官はおれに手をさし出さなかったが、と彼は考えて、いままでと違って試すように夫人を見つめた。彼が立ちあがっていたので彼女も立ちあがったが、Kの言ったことが全部のみこめたわけではなかったので、いささか当惑の様子だった。この当惑のためにしかし彼女は、ぜんぜん言うつもりのなかったこと、この場にまるでふさわしくなかったことを口走ってしまった。
「どうかそんなに事を重大にとらないでください、Kさん」と彼女は涙声で言って、握手のことはむろん忘れてしまっていた。
「ぼくはべつに重大にとってるとは思いませんがね」とKは、この女性の同意などすべて無意味だとさとって、とつぜんどっと疲れを感じながら言った。
ドアのところで彼はそれでもやはりたずねた、「ビュルストナーさんはうちですか?」
「いいえ」とグルーバッハ夫人は言って、この返事のそっけなさに気づいてか、おくればせに、お気持ちはわかっていますよというように微笑してみせた。
「彼女は芝居見物ですよ。なにか彼女にご用? わたしから彼女にお伝えしときましょうか?」
「いや、ちょっと言葉をかわしたかっただけです」
「残念ですわね、いつ帰るかわからなくて。芝居見物のときはいつもお帰りが遅いですよ」
「いえまったくなんでもないことなんですよ」とKは言って、すでに下げた頭をドアのほうにむけ、出ていこうとしかかった、「ちょっと彼女に詫びておこうと思っただけです、今日彼女の部屋を使ってしまったことで」
「そんな必要はありませんよ、Kさん、あなたは気を使いすぎますよ、あの人はなんにも知らないわけですからね、朝早く出かけていったままだし、それにお部屋はもうちゃんと片付けてありますよ、ご自分で見てごらんなさい」
そう言って彼女はビュルストナーの部屋のドアをあけた。
「結構です、そのとおりでしょう」とKは言って、それでもやはり開いたドアのところまで歩いていった。月が静かに暗い部屋にさしこんでいた。見ることができるかぎりでは、本当にすべてが元の場所に戻っていた。ブラウスももう窓の把手にかかっていなかった。目立つほどベッドの布団が盛りあがって見え、その一部が月光のなかにあった。
「あの人はよく夜遅く帰りますね」とKは言って、それがまるでグルーバッハ夫人の責任だというように彼女の顔を見つめた。
「若い人たちはみなそうですよ!」とグルーバッハ夫人は言いわけするように言った。
「そうです、そうです」とKは言った、「しかしとかく度を過ごしやすいものですからね」
「そうなんですよ」とグルーバッハ夫人は言った、「まったくあなたのおっしゃるとおりですよ、Kさん。たぶんこの人の場合にはとくにね。なにもわたしはビュルストナーさんを悪く言うつもりはありませんよ、彼女はかわいい、いい娘さんですからね、親切で、きちんとしていて、時間も正確だし、仕事好きです、そういったこと全部をわたし非常に高く買ってるんですよ、しかしもっとプライドを持って、控え目にしたほうがいいことだけはたしかですね。今月になってわたしはもう二度も、ずっと離れた通りで、そのたんびに彼女が違う男といっしょなのを見かけましたよ。こんなことを言うのとてもいやなんですけどね、神かけて、あなたにだけお話しするんです、Kさん、しかしいずれあのお嬢さん自身とこのことを話しあわないわけにはいかないでしょうね。ところでわたしが彼女を疑ってるのは、なにもこれが唯一の理由じゃないんですよ」
「あなたはまるで思い違いしてますよ」とKは怒って、ほとんど怒りを抑えることもできずに言った、「そのうえどうやらあなたは、ぼくが彼女について言ったことまで誤解しているようですね、そんなつもりで言ったんじゃありませんよ。ぼくはこのさいはっきりとあなたに警告しておきます、あのお嬢さんにそんなことを言っちゃいけませんよ、あなたはまるっきり間違ってるんです、ぼくはあの人を非常によく知ってますがね、あなたが言ったようなことはこれっぽっちも当ってませんよ。ところで、ぼくも少し言いすぎたかもしれません、なにもあなたの邪魔をしようっていうんじゃないんで、どうぞ言いたいことを彼女におっしゃってください。おやすみ」
「Kさん」とグルーバッハ夫人は嘆願するように言って、彼がもうドアを開けてしまっているのに、Kをドアまで追っかけてきた、「なにもわたしはいますぐあの人と話そうってんじゃありませんよ、もちろんそのまえにもっともっと観察するつもりです、わたしはただあなたを信じて、知ってることを打ち明けただけです。結局のところ、こうやって下宿を清潔に保とうとするのも、みな下宿人のみなさんのことを考えてですからね、わたしの努力もつまりはただそれだけのことですよ」
「清潔にね!」とKはドアの隙間からなお叫んだ、「そんなに下宿を清潔に保っておきたいんだったら、まずこのぼくを立ちのかせることですな」そう言ってドアをぴたっとしめてしまい、かすかにノックする音にはもう耳をかさなかった
しかしぜんぜん寝る気になれなかったので、なお起きたままでいて、この機会にビュルストナーがいつかえってくるか確かめておこう、と決心した。そうすればひょっとして、たとえ場違いだろうと、まだ彼女と二言三言ことばをかわせるかもしれなかった。窓ぎわで横になって、疲れた目を抑えたとき、一瞬間彼はこんなことさえ考えた、ひとつグルーバッハ夫人を罰してやろう、ビュルストナーを説得して一緒に解約させてみよう、と。しかしすぐさまこれがおそろしい行きすぎに見えたし、今朝のような出来事のために住居を変えようなどとするとは、自分の頭までが疑われた。これ以上無意味で、そのうえ無目的でうさんくさいことはないだろうという気がした。
人気のない通りを眺めているのにうんざりしきったとき、彼はソファに横になったが、その前に、だれかこの家に入る者があったらすぐソファから見られるように、控室へのドアをちょっと開けておくのを忘れなかった。ほぼ十一時ごろまで、彼は葉巻をふかしながらソファにしずかに横になっていた。しかしその時間以後はもはやじっと我慢していられなくなって、彼はちょっと控室まで出ていった、まるでそうすれば、ビュルストナーの帰宅を早めることができるというように。彼女にたいし特別の要求があるわけではなかった、彼女の格好について正確に思いだすことさえできなかった、しかしいまは彼女と話がしたくてならなかった、今日というこんな日の最後に、彼女がこんなに遅い帰宅によってさらに不安と無秩序とをもたらすことが、彼をいらいらさせた。彼が今日夕食をとらなかったのも、今日に予定していたエルザ訪問を中止したのも、彼女のためではなかったのか。むろんいまからでも、エルザが勤めている酒場に出かけてゆけば、この二つのものの取り返しはついた。事実彼はビュルストナーとの話がつき次第、あとでそうするつもりであった。
十一時半をすぎたとき、だれかの足音が階段室にきこえた。Kは、すっかり自分の考えにのめりこんで、そこが自室ででもあるみたいに音たてて行ったりきたりしていたが、自分の部屋のドアのかげに逃げかえった。あがって来たのはやはりフロイライン・ビュルストナーだった。慄えながら彼女は、ドアに錠をおろすとき、細い肩に絹のショールを巻きつけた。次の瞬間には彼女は自室に入ってしまうに違いないし、そこまではKもこの真夜中に押しかけるわけにいかなかった。で、いますぐ彼女に話しかけねばならなかったが、運わるく彼は自分の部屋に電燈をつけるのを忘れていた。まっくらな部屋からとつぜん出ていったら、襲いかかったように見えて、少くとも非常に怯えさせてしまうだろう。途方にくれて、それに一刻の猶予もならなかったので、彼はドアの隙間からささやいた。
「ビュルストナーさん」
それは呼んだというより嘆願のようにきこえた。
「だれかここにいるんですか?」とビュルストナーはきいて、大きな目であたりを見まわした。
「ぼくです」とKは言って前に出た。
「ああ、Kさん!」とビュルストナーはほほえんで言った、「今晩は」と彼女は彼に手をさしだした。
「ちょっとあなたとお話したいことがあるんですが、いまよろしいですか?」
「いま?」とビュルストナーはきいた、「いまでなくちゃいけませんか? 少し変じゃありませんか?」
「ぼくは九時からあなたを待ってるんですよ」
「ええ、わたし芝居にいってましたからね、あなたが待ってるだなんて知りませんでした」
「これは今日はじめて起こったことなんで、それでいまあなたにお話しようとしてるんですよ」
「そう、だったら原則的に反対というわけじゃないわ、ただ倒れそうなくらい疲れているんです。それじゃ二、三分わたしの部屋に入ってください。ここじゃまさかお話するわけにいきませんからね、ほかの人を起こしてしまうし、人のことなんかよりなによりわたしたちのために不愉快なことになるでしょうからね。ちょっとここで待っててください、いま電気をつけますから。それからここの電気は消しといてね」
Kは言われたとおりにし、それからしかしビュルストナーが彼女の部屋からもう一度小声でうながすまでじっと待っていた。
「おかけください」と彼女は言って、長椅子を指さし、彼女自身は、さっきひどく疲れていると言ったくせに、ベッドの柱に凭れてつっ立ったまま、小さな、しかし花々をいっぱいに飾りたてた帽子をとろうとさえしなかった。
「で、どういうご用ですの? ぜひ知りたいものね」そう言ってかるく足を組みあわせた。
「ひょっとするとあなたはこう言われるかもしれない」とKは始めた、「そんなことならなにもいま急に話さなければならぬほど、さし迫ったことじゃないじゃないかと、しかし――」
「序論はいつも聞かないことにしてますの」とビュルストナーは言った。
「それならぼくも言いやすくなる」とKは言った、「あなたの部屋が今朝、いくぶんかはぼくに責任があるが、すこしかきまわされたんです、見知らぬ男たちの手で、ぼくの意に反してそんなことになったんですが、いま言ったとおり、いくらかぼくにも責任があるんで、そのことでお詫びをしようと思って」
「わたしの部屋が?」とビュルストナーはきいて、部屋のかわりにKをじろじろ見つめた。
「そういうことです」とKは言い、このときはじめて二人はたがいに目と目を見合わせた、「どうしてそんなことになったかっていう事と次第については、それ自体なんら言うにも値いしないことですが」
「でもそれこそまさに興味のある点じゃありませんの」とビュルストナーは言った。
「いや」とKは言った。
「そう」とビュルストナーは言った、「ひとの秘密に立ち入る気はありません、あなたが興味のないことだと主張なさるんなら、わたしもあえてそれに反対しようとは思いません。あなたのいうお詫びのことなら、よろこんで許してさしあげます、かきまわされた痕跡なぞ少しも見えませんものね」
彼女は両の手のひらを腰にあてがって、部屋のなかをひとめぐりした。写真をとめたマットのところで彼女は立ち止った。
「まあ、見て!」と彼女は叫んだ、「わたしの写真が本当にごちゃごちゃにされてるわ。なんてひどいんでしょう。それじゃやっぱりだれかが不当にもわたしの部屋に入ってきたのね」
Kはうなずいて、ひそかに行員のカミナーを呪った、これは空虚で無意味なはしゃぎ方をどうしても抑えられぬ男だったのだ。
「奇妙なことですわね」とビュルストナーは言った、「わたしがあなたにあることを禁じるように強いられるなんて。本来ならあなたがご自分で禁じなければいけないことなのに。わたしの留守中にわたしの部屋に入りこむなんて」
「そのことはさっきあなたにご説明したはずなんですがね」とKは言って、自分も写真のそばにいってみた、「あなたの写真に手をかけたのはぼくじゃないって。しかし言うことを信じてもらえないんなら、ぼくも白状しなくちゃならない、実は調査委員会が三人の銀行員をつれて来たんです。で、そのうちの一人、ぼくがそのうち銀行から追い出そうと思ってる男が、どうやら写真を手にとって見たらしいんです。ええ、本当にここで調査委員会がひらかれたんですよ」とKは、彼女が問いたげな目つきで彼を見つめているのでつけ加えた。
「あなたのことで?」と彼女はきいた。
「ええ」とKは答えた。
「まさか!」と彼女は叫んで、笑った。
「いや、そうなんです」とKは言った、「じゃあなたはぼくに罪がないと信じているんですか?」
「さあ、罪がないといっても……」と彼女は言った、「重大な結果をまねくかもしれない判断を、いますぐ言いたくありません、あなたのこともよく存じあげないし、でも、すぐ調査委員会が押しかけてくるようじゃ、それだけでもう重大な犯罪人なんでしょうね。しかし、でもあなたの身は自由なんだから、――少くともあなたがそう落着きはらってるのからすれば、刑務所から脱走してきた人とも見えないし――それならやっぱりあなたはそんな犯行を行わなかったんでしょうね」
「むろん」とKは言った、「しかし調査委員会のほうがさとったのかもしれない、ぼくには罪がないと、あるいはかれらが思ってたほどの罪はないと」
「たしかに、そうかもしれない」とビュルストナーは非常に注意ぶかく言った。
「まあね」とKは言った、「あなたも裁判沙汰にはあまり経験がないようですね」
「ええ、ないわ」とビュルストナーは言った、「これまでにもときどき残念に思ったけど。というのはわたし、なんでも知っておきたいたちなんです、とくに裁判沙汰にはなみなみならず興味があるの。裁判ってなにか独特の魅力があるんじゃない? しかしいずれこの方面でもわたしの知識はきっと完全なものになるわ、来月にはわたし事務員としてある弁護士の事務所にいくことになってるんです」
「そりゃ結構だ」とKは言った、「だったらぼくの訴訟でもいくらかたすけてもらえるかもしれませんね」
「ええ」とビュルストナーは言った、「だって、そうでしょう? わたしよろこんで自分の知識をお役立てしますわ」
「ぼくは冗談で言ってるんじゃない」とKは言った、「少くともあなたが考えてると同じくらい、なかば本気で言ってるんです。弁護士をひっぱり出すには事件が小物すぎるけれど、しかし助言者なら大いに必要ですからね」
「ええ、しかしわたしに助言者になれというなら、問題がどうなってるのかぜひ知らなくちゃ」とビュルストナーは言った。
「それがまさに難しい点でしてね」とKは言った、「ぼく自身もよく知らないんだ」
「なんだ、それじゃわたしをからかっていただけなのね」とビュルストナーは大いに失望して言った、「だったらわざわざこんな夜更けを選ぶ必要もなかったじゃありませんの」
そう言って彼女はそれまでいっしょに立っていた写真のそばから離れてしまった。
「そうじゃないんだったら」とKは言った、「ぼくは冗談を言ってるんじゃない。あなたまでがぼくの言うことを信じてくれないとは! ぼくが知ってるかぎりはもう全部あなたに言いましたよ。いや、ぼくが知ってる以上のことさえ。なぜって、だいたいあれは調査委員会なんてものでさえなかった、ほかに名付けようもなかったから、ぼくが仮にそう呼んでるだけでね。そもそもなにひとつ調査も行われなかった、ぼくはただ逮捕されただけなんだ、しかしたしかにある委員会によって」
ビュルストナーは長椅子に坐って、また声を立てて笑った。
「一体どんなふうにして?」と彼女はきいた。
「ひどいもんだった」とKは言ったが、いま彼が考えているのはそのことではなくて、彼はまるっきりビュルストナーの様子に心を奪われていた。彼女は一方の手で顔を支えて――肱は長椅子のクッションにあてがって――一方の手でゆっくり腰をなぜまわしているのだ。
「それじゃあんまり大雑把すぎるわね」とビュルストナーが言った。
「なにが大雑把すぎるんです?」とKはきいて、それから話のつづき具合を思い出して言った、「どんなふうだったか、やってみせましょうか?」
彼はからだを動かしてみせようとしたが、出てゆこうとはしなかった。
「わたしもう疲れたわ」とビュルストナーは言った。
「そんな遅く帰ってくるから」とKは言った。
「で、挙句のはてが非難をうけるというわけね、それも仕方ないかもしれないけど、だいたいあなたをここに入れたのが間違いだったんです。そんな必要もなかったんだから、いまうかがったかぎりではね」
「いやぜひ必要だったんです、いますぐそれがわかりますよ」とKは言った、「あのナイトテーブルをベッドのところから動かしてもいいですか?」
「なにをしようっていうの?」とビュルストナーは言った、「そんなこともちろんだめよ!」
「それじゃあなたにやって見せることができないんだ」とKは興奮して言った、まるでそのことで測りしれない損害でもこうむったというように。
「じゃいいわ、演じてみせるのにぜひ要るというならね。でも決して音をたてないように机を動かすのよ」とビュルストナーは言って、しばらくしてからもっと弱々しい声でつけ加えた、「あんまり疲れているものだから、やっちゃいけないことまで許してしまうんだわね」
Kは小机を部屋の中央に据えて、そのむこうに坐った。
「人物の配置を正しく思いうかべてくれなくちゃいけませんよ、それが面白い点なんだから。ぼくが監督官で、あそこのトランクに二人の監視人が坐っている、写真のとこには三人の若い男がいる。ついでにつけ加えておくと、窓の把手のところには一枚の白いブラウスがかかってます。さてこれでいよいよ始まり。そうだ、ぼくのことを忘れてた。一番重要な登場人物、つまりぼくは、この小机の前に立ってるんです。監督官はおっそろしく気楽げに腰をおろしている、脚を組んで、腕はこの肘掛けからだらっとたらして、無頼漢そっくりにね。そしてこれでいよいよ本当の始まりだ。監督官がぼくを呼ぶ、まるでぼくの目をさまさせなくちゃいかんというように、彼はまさにどなるんだが、残念ながらここのところをわからせようとすると、ぼくもどならなくちゃいけなくなる、ところでそうやって彼がどなるのは、つまりぼくの名前をなんだ」
笑って聞いていたビュルストナーが、人差指を唇にあててKがどなるのをやめさせようとしたが、すでにおそすぎた。Kは役割に熱中しすぎていた、彼はゆっくりと叫んだ。
「ヨーゼフ・Kだね!」
ところで、これは彼が脅かしたほど大声にではなかったが、それでも叫び声は、とつぜんそれが口をついて発せられたあとにあって、初めて徐々に部屋のなかにひろがってゆくようであった。
そのとき隣室のドアを二度三度、強く、短く、規則正しくノックする音がした。ビュルストナーは蒼くなって、胸に手をあてた。Kはなおしばらくのあいだ、今朝の出来事と、彼が演じてみせている娘のことのほか、なにひとつ考えることができなかったために、それだけ特にひどくぎょっとなった。われにかえったとたん、彼はビュルストナーのところにとんでいって、彼女の手をとった。
「怖がることはありません」と彼はささやいた、「ぼくが万事かたをつけます。しかしだれだろう? このとなりは居間なんだから、だれも寝てるはずはないんだが」
「いるのよ」とビュルストナーはKの耳にささやいた、「きのうからここにグルーバッハさんの甥が寝てるのよ、大尉が。ほかにあいてる部屋がないのよ、ちょうど。わたしも忘れてたわ。あんなに大声で叫ばなくてもよかったのに! ああ困ったことになったわ」
「困る理由なんかありません」とKは言って、彼女がクッションにあおむけに沈みこんだとき、その額にキスした。
「出てって」と彼女は言って、すばやくまたからだを起こした、「出てってください、帰ってください、何をしようっていうの、彼がドアに聞き耳をたててるじゃありませんの、彼がみんな聞いてるのよ。もうこれ以上困らせないで!」
「ぼくは出ていきませんよ」とKは言った、「あなたが少し落着きをとり戻すまではね。部屋のむこうの隅にいきましょう、あそこなら彼に聞かれることもない」
彼女はそこまで連れてゆかれるままになっていた。
「いいですか」と彼は言った、「なるほど不愉快なことには違いないが、決して身の危険が問題になってるわけじゃない、その点をよく考えなくちゃ。この件で決定権を持ってるのは、その大尉が彼女の甥っ子だそうだから特にそうだが、グルーバッハさんだ、ところが彼女はぼくを尊敬しているといってもいいくらいだし、ぼくの言うことならすべて無条件に信用するんです。それに彼女はほかの点でもぼくから離れられないんだ、というのはかなりな金額をぼくから借りてるんでね。だから、それが少しでも目的にかなうんだったら、ぼくはあなたの提案を何でも受けいれます、ぼくらが一緒にいたことを説明するための提案ならね、そして必ずグルーバッハさんにその説明を信じこませてみせる、単に世間態のためばかりじゃなくて、本当に心から信じこませてみせる。そのさいぼくのことなんかぜんぜん気にすることはありませんよ。ぼくがあなたに襲いかかったんだという噂をひろめさせたいんだったら、そのとおりグルーバッハさんに伝えましょう、そしてぼくにたいする信用を少しも失わずに、信じさせましょう、それくらい彼女はぼくに頼りきってるんです」
ビュルストナーは、静かに、少し沈みこんで、目の前の床を見つめていた。
「ぼくがあなたに襲いかかったんだと、グルーバッハさんが信じたって構わないでしょう?」とKはつけ加えた。
目の前に彼は彼女の髪、きちんとわけて、少しふくらみをつけて、きつく束ねられた、赤みがかった髪を見ていた。彼女がこっちに目を向けるだろうと彼は信じていたが、彼女はその姿勢を変えずに言った。
「ごめんなさい、あの突然のノックの音にあんまりびっくりさせられてしまったものだから。でも大尉がいることで起こるかもしれない結果がこわかったわけじゃない。あなたが叫んだあと急に静かになった、そこにノックの音がした、それであんなにびくっとしてしまったんです、わたしはドアのすぐそばに坐っていた、だから音が耳のすぐわきできこえたのよ。あなたの提案はありがたいけど、わたしとしては受けとれません。自分の部屋で起こることについては、すべてわたしが責任をとります、むろんだれにたいしても。それよりわたし驚いてるんです、あなたの提案のなかにわたしにたいするどんなひどい侮辱がふくまれてるか、あなたが気づいていらっしゃらないことにね。むろん好意で言ってくださったってことは認めるけど。でももう行ってください、わたしをひとりにして、いまはさっきよりもっとひとりになりたいんだから。あなたの話じゃほんの二、三分てことだったのに、もう三十分かそれ以上になります」
Kは彼女の手をとって、それから手首を掴んだ。
「気を悪くしたんじゃないでしょうね?」と彼が言うと、彼女は彼の手をはずして、答えた。
「いや、決して。わたし一度だって、だれにたいしても、気を悪くしたことなんかありません」
彼はふたたび彼女の手首を掴んだ、彼女は今度はされるままにしていて、ドアまで彼をひっぱっていった。彼は出ていこうと固く決心していたのだった。しかしドアの前までくると、こんなところにドアがあるなんて思いもかけなかったというような顔で、立ち止ってしまった、この瞬間をビュルストナーは利用して、身をもぎ放し、ドアを開け、控室にすべりこんで、そこから小声でKに言った。
「来てごらんなさい、ほら。見えるでしょ」――彼女は下から小さな明りが洩れている大尉の部屋のドアを指さした――「明りをつけて、わたしたちの話を聞いているんです」
「すぐいく」とKは言って、走りより、彼女をとらえ、彼女の口にキスした、それから、喉の渇いた獣がとうとう見つけた泉に舌をつけるように、顔じゅういたるところにキスをした。最後に彼は彼女の喉のあたりにキスをして、そこにながいこと唇を押しあてていた。大尉の部屋で物音がしたときやっと彼は目をあげた。
「こんどこそ行く」と彼は言って、ビュルストナーの名を洗礼名で呼びたかったが、それを知らなかった。彼女はぐったりしてうなずいた、そしてすでになかばからだをそむけながら、自分でもなにをしているかわかっていないように、キスのために彼に手をまかせて、それからかがみこんで部屋に入った。Kはそのすぐあとにはベッドに横たわっていた。彼はたちまち眠りこんだが、眠りこむ前になおちょっとのあいだ自分のふるまいについて反省した、彼はそれに満足した、しかし自分がもっともっと満足していないことをふしぎに思った。大尉を考えると彼はビュルストナーのことが心配でならなかった。
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第二章 最初の審理
Kは電話で、次の日曜日彼の件で簡単な審理が行われることになったと知らされた。こういった審理は、たぶん毎週ということはあるまいが、引きつづきかなり頻繁に行われることになろうという点にも、彼は注意をうながされた。訴訟に速かに決着をつけることは、一方ではたしかにだれしもの利益であるが、一方ではしかし、審理はいかなる点においても徹底的でなければならぬ、だがまた審理につきものの非常な手間のゆえに長引きすぎることも決して許されない。それゆえに、短くともつぎつぎに審理を継続するという逃げ道が選ばれた。審理の日を日曜日と定めたのは、Kの勤務の邪魔とならぬためである。これでKが承諾するものと思うが、もし他の日を望むなら、事情の許すかぎりなるべく希望にそいたい。審理はなんなら夜中に行っても一向に差支えないのである、しかしそれではおそらくKにもう充分な余力が残っていないであろう。いずれにせよ、Kが異存をとなえぬかぎり、いちおう日曜日と決めておく。言うまでもないが、当日は間違いなく出廷しなければならぬ、いまさら念を押すにもおよばぬとは思うが、云々。さらに彼が出頭すべき建物の所番地も伝えられた、それはKが一度もいったことのない、かなり離れた郊外の通りにある家であった。
Kはこの通告を受け終ったとき、返事もせずに受話器をかけた。彼はただちに、日曜日にはそこへ行こうと決心した、それはぜひともそうしなければならぬことだった、訴訟が始まったのだ、こちらも訴訟に対抗しなければならなかった。この最初の審理を最後のものにしてしまわねばならぬ。彼がそうやって考えこみながら電話のそばにつっ立っていると、うしろで頭取代理の声がした。電話をかけようとしているのにKが道をふさいでいたのだ。
「わるい知らせかね?」と頭取代理は、何かを知ろうというよりKを電話からたちのかせようとして、なにげなくきいた。
「いえ、なんでもありません」とKは言って、わきにどいた、しかし出てはいかなかった。
頭取代理は受話器をとって、電話が通じるのを待ちながら、受話器ごしに言った。
「ねえK君、日曜日にぼくのヨットでパーティをやるんだがね、お出ましねがうわけにいかんかね。かなりの人数が来るんだ、きみの知ってる人もなかにいると思うよ。たとえばハステラー検事なんか。来てくれるね? ぜひ来たまえよ!」
Kは頭取代理が言ったことに注意を払おうと努めた。それは彼にとって決して小さなことではなかった、というのは、これまで一度だって非常に良好な関係になったことのない代理のこの招待は、相手の側からの雪どけの試みを意味したからだし、さらにそれは、Kが銀行内でいかに重要な人物になったか、彼の友情、ないし少くとも彼の不介入が、この銀行で二番目にえらい人物にとってどんなに価値があるものになったかを、示すことであったからだ。たとえ電話の通じるのを待つあいだ受話器ごしに言われたことであれ、この招待は、頭取代理の屈服にほかならなかった。しかしKはさらに二度目の屈服を強いる結果になった、彼は言った、
「うれしいんですが! でも残念ながら日曜日は時間がとれないんです、先約があるもんですから」
「そりゃ残念だな」と代理は言って、ちょうどそのとき通じた電話のほうに向きをかえた。短い話ではなかったのだが、ぼんやりしていたKはそのあいだじゅう受話器のそばにつっ立っていた。頭取代理が受話器をかけたときにやっと彼は、はっとそのことに気づいて、不必要につっ立っていたことを少しでも言いわけしようとして言った。
「いまぼくに電話があって、どこやらまで来てほしいという話なんですが、何時に来いというのか、先方が言い忘れたものですから」
「もういちど訊きなおせばいいじゃないか」と代理は言った。
「それほどのことでもないんで」とKは言って、さきほどのそれ自体すでに欠陥だらけの言いわけを、ますますまずいものにしてしまった。頭取代理は出てゆきがしらさらにいろんなことについて話した。Kもなんとかそれに答えようと努めたが、彼の頭を主として占めていたのは、日曜日には午前九時に出かけるとしよう、平日はすべての裁判所がこの時刻に始まるのだから、というようなことだった。
日曜日はうっとうしいお天気だった。Kは前夜、いつもの常連席での大浮かれで夜おそくまで酒場にいたので、非常に疲れていて、あやうく寝過ごすところだった。大慌てで、じっくり考えるひまも、この一週間考えぬいておいたいろんな計画をまとめるひまもなく、そそくさと服を着ると、彼は朝食もとらずに、指定された郊外へ急いだ。奇妙なことに、あたりを見まわす余裕などほとんどなかったのに、彼は途中で自分の件に関係した三人の行員、ラーベンシュタイナー、クリッヒ、カミナーに出会った。最初の二人は電車に乗ってKの行く手を横切った、カミナーはしかしあるコーヒー店のテラスに坐っていて、Kが通りすぎたとき、もの珍らしげに手すりに身をのり出したのだ。みんなたぶんあとを見送って、自分たちの上司が駆けてゆくのに驚いていたことだろう。Kが乗物でゆくのをやめたのは、ある種の依怙地さからだった、この彼の件では、たとえほんのわずかでも他人の助けを借りるのはいやだった、だれにも頼みたくなかったし、そうすることで自分をどんなかすかな点でもきれいにしておきたかった。とはいえしかし結局のところ、あまり過度に時間厳守することで調査委員会にとり入ろうとする気も、彼にはこれっぽっちもなかった。彼がなおも走りつづけたのはただ、できるだけ九時きっかりに到着したいという、それだけのためだった、むろん彼は一定の時間を指定されていたわけではなかったのだが。
自分でもそうと正確に思い浮かべていたわけではないが、その建物はきっとなんらかのしるしによって、あるいは入口前の特殊な人の動きによって、きっと遠くからでもすぐ見分けがつくんだろう、と彼は考えていた。ところがそれがあるはずのユーリウス街は、Kがいま一瞬そのとば口に立ち止ってみたところでは、両側ともほとんど完全に同じような家々が――高い、灰色の、貧しい人びとの住む賃貸住宅ばかりが――並んでいるだけだった。日曜の朝の今、そのたいていの窓には人の姿があって、シャツ一枚の男たちが、よりかかったり、タバコをふかしたり、子供を用心ぶかくやさしく窓枠に支えてやったりしていた。それ以外の窓には夜具が山と干されていて、乱れ髪の女の頭がちらと見えたりする。道路ごしにたがいの名を呼ぶ声もして、ちょうどそんな呼びかけの一つがKの頭上で高笑いをひき起こした。規則正しい間をおいてその長い通りに、道路の高さより低い、階段を二、三段おりたところに、さまざまな日用品を売る小さな店があった。そこに女たちが出入りしたり、階段の上に立っておしゃべりしたりしていた。品物を上の窓にむかってすすめている一人の果物売りが、Kと同じように不注意だったので、その手押車であやうく彼を押し倒しそうになった。またそのとき、もっとましな地区で使い古された蓄音器が、殺人的な音をがなりたて始めた。
Kは、ここまでくれば時間はたっぷりあるというように、あるいはどこかの窓から予審判事が彼を見ていて、従ってKが現われたことを知っているはずだというように、ゆっくりと通りを奥まで歩いていった。九時少し過ぎていた。その建物はかなり遠くにあった、それはほとんど異常なくらいに間延びした家で、とくに出入口が高くて広かった。これは明らかに各種の商品倉庫に所属するトラックを通すためのものだろう。倉庫のほうはいまは錠をおろされ、大きな中庭を囲んで、各商会の商標をかかげて並んでいた。そのなかにはKが銀行の業務で知っているものも二、三あった。いつもの彼の習慣に反して、こういった外見にもいちいちくわしく目をとめながら、中庭の入口では彼はしばらく立ち止りさえした。彼のそばで木の箱にはだしの男が腰かけて、新聞を読んでいた。手押車の上で二人の男の子がシーソーごっこをしていた。ポンプの前にはひよわそうな若い娘が寝巻の上着を着たまま立っていて、容器に水をいれながらKに目を向けていた。中庭の一隅には窓と窓のあいだに紐が張られて、そこに洗濯物がすでに干してあった。その下に一人の男が立って、短い声をかけて仕事の指図をしていた。
Kは審理室にいこうと階段のほうに向きなおったが、しかしまた立ち止ってしまった、というのは、この階段のほかに中庭にはまだそれぞれちがう階段が三つもあるのが目に入ったからで、そのうえ中庭の奥にある小さな通路は、さらに第二の中庭に通じているらしかった。彼は部屋の位置をもっとくわしく教えておいてくれなかったことに腹を立てた。こういう彼の扱い方にはなにか奇妙に怠慢でいい加減なものがあって、これは声を大にしてはっきり言ってやらねばならぬと彼は決心した。けれども結局彼はその階段を上っていって、上りながら頭のなかで監視人ヴィレムの言葉を思い出してふざけていた、彼の言うように裁判所は罪によってひきつけられるというのなら、審理室はまさにKがいま偶然選んだこの階段になければならぬということになるではないか、と。
上りながら彼は、階段で遊んでいる大勢の子供たちの邪魔をすることになって、彼が列をかきわけていくたびに、悪意のある目でみつめられた。「こんどまたここに来るようなことになったら」と彼はひとりごちた、「砂糖菓子を持ってきてやつらを手なずけるか、ステッキを持ってきてぶんなぐるかだな」二階につく直前に彼は、ボールが端までころがってしまうまで、しばらく待たねばならなかったくらいだった、子供のくせにもう大人の浮浪人のようなひねこびた顔をした二人の男の子が、そのあいだ彼のズボンをしっかりつかんでいたのだ。振閧ヘらおうとしたら、かれらを痛い目にあわせなければならず、きっとわめきたてられたことだろう。
二階にあがって初めて本来の探索が始まった。審理委員会のことをきいてまわるわけにもいかなかったので、彼は指物師ランツなる人物をつくりあげ――この名前は、グルーバッハ夫人の甥の大尉の名から思いついた――ここに指物師ランツは住んでいませんかと、全部の部屋にきいてまわるつもりだった。そうすればどの部屋ものぞいてみることができよう。しかしすぐ、のぞきこむことはたいていの場合なんの雑作もなくできることが判明した、なぜなら、ほとんど全部のドアが開けっぱなしで、子供たちが出たり入ったりしていたからだ。概してどれも小さな、窓一つしかない部屋で、煮炊きもそのなかでやっていた。何人かの女たちは乳呑児をかかえて、あいたほうの手でコンロの上の仕事をしていた。年端のゆかぬ、前掛けしかつけていないように見える少女たちが、一番忙しそうに走りまわっていた。すべての部屋でまだベッドが使用中で、そこには病人だの、まだ眠っている者だの、服のままころがっている者などがいた。ドアがしまっている部屋ではKはノックして、ここに指物師ランツが住んでいないかと訊ねた。開けるのは大抵は女で、質問をきくと、部屋のなかにむかって、ベッドから身を起こすだれかに訊ねた。
「このひとが、ランツとかいう指物師がいないかってきいてるんだけど」
「指物師のランツだ?」と男がベッドからきき返す。
「ええ」とKは言った、ここに審理委員会がないことは明らかで、従って彼の用事はすんでしまっていたのだが。多くの人が、Kにとってその指物師ランツを見つけるのがよほど大事なことなのだと信じ、ながいこと考えていて、指物師だがランツという名ではない人のことを言ってみたり、ごくわずかであれランツと似ている名前をあげてみたりしたかと思うと、隣人にきいてみてくれたり、Kをとんでもなく離れたドアまで案内して、自分の考えだが、ここならそんな男がもしかすると又借りしているかもしれぬとか、ここには自分より事情にくわしい者が住んでいると言うのだった。最後にはKはもはや自分から訊ねる必要などなくなってしまった、そんな具合にして各階じゅうひっぱりまわされたのだ。いまになってKは、最初はしごく実用的に見えた自分の計画を悔やんでいた。六階にかかる前で彼は探索を放棄しようと決心し、彼をさらに先へ案内しようとしていた若い親切な労働者に別れを告げて、下へおりだした。それからしかし、この企て全体の何の役にも立たなかったことに腹が立って、彼はもう一度引き返し、六階の最初のドアをノックした。彼がその小さな部屋で見た最初のものは、すでに十時をさしている大きな掛時計だった。
「ランツという指物師はこちらですか?」と彼はきいた。
「どうぞ」と黒い輝く目をした若い女が言った、そしてちょうど子供の下着をタライで洗濯していたところだったので、その濡れた手で隣室のあいているドアを指さした。
Kはなにかの集会に入りこんでしまったような気がした。実に多種多様な人びとが――だれひとり闖入者にかまう者はなかった――窓の二つある中位の大きさの部屋をびっしり充していたのだ。部屋は天井のすぐそばで一つの回廊にとり囲まれていて、そこも同じように完全に人に占められていた、人びとはやっと背をかがめて立つことができるだけで、頭や背中は天井に押しつけている有様だった。Kは空気があまりによどんでいる気がしたので、ふたたび外に出て、どうやらさっき彼の言ったことを誤解したらしい若い女に言った。
「さっきぼくがきいたのは、ランツとかいう指物師のことなんだけど」
「ええ」と若い女は言った、「入ってくださいな、どうぞ、中へ」
その女が彼のほうに歩いてきて、ドアの把手を握ってこう言わなかったら、Kはおそらく彼女に従うことはなかったに違いない。
「あなたが入ったら閉めなくちゃならないんですよ、これ以上もうだれも入れないんです」
「もっともだ」とKは言った、「しかしいまだってもう満員だよ」それから彼はしかしやはりまた中に入った。
ドアのすぐそばで話しあっていた二人の男――その一人は両手を前につきだして金をかぞえる真似をし、もう一人は鋭くその男の目を見つめていた――のあいだをすり抜けると、一つの手がKをつかんだ。小さな、頬の赤い少年だった。「来てください、来てください」と彼は言った。
Kがひかれるままついてゆくと、がやがやとひしめきあっている群衆のなかに、それでも一筋の細い道があいていて、その道がどうやら二つの党派を分けているらしいことがわかってきた。右側も左側も最初の数列には彼に向けられた顔が一つも見えないで、自分たちの派の人びとにむかって演説したり手を動かしたりしている者たちの背中しか見えなかったのも、そのことを証明していた。ほとんどの者が、古くさい、長くだらしなくたれ下がっている礼服を着て、黒ずくめであった。Kを戸惑わせたのはこの服装のことだけで、これさえなければ彼は全体を政治的な地区集会と思いかねなかったろう。
Kが連れてゆかれたホールの反対側の端に、これまた同じく人で超満員の非常に低い演壇の上に、一つの小さな机が横向きに置かれていた。机のむこうには、演壇の縁近くに、一人のふとった背の低い男がふうふう鼻息をたてながら坐っていて、ちょうどいましも彼のうしろに立っている男と――こっちは肱を椅子の背にかけて、脚を組んでいる――大笑いしながら話しているところだった。なんども腕を突き出してみせるのは、だれかの物真似をやってみせているらしい。Kを案内してきた少年は報告する機を見つけようと骨折っていた。二度も彼はすでにつま先立ちしながらなにかを言い出そうとしたのだが、上の男に気づいてもらえなかった。演壇上の人びとの一人が少年のことを注意したとき、やっと男は彼のほうに向いて、身をかがめて彼の小声でする報告に耳を傾けた。それから彼は時計をひき出して、すばやくKを一瞥した。
「一時間と五分前には来ていなければならなかったな」と彼は言った。
Kはなにか答えようと思ったが、その余裕がなかった、というのは男がそう言い終ったとたん、ホールの右半分にいっせいに不平の声が起こったのだ。
「一時間と五分前には来ていなければならなかったな」と男は、声を高めてくり返し、ついですばやくホールを見おろした。
ただちに不平の声も強まったが、男がそれ以上なにも言わなかったので、それも次第に収まっていった。いまやホールの中はKが入って来たときよりずっと静かになっていた。回廊上の人びとだけががやがや意見を言いあうのをやめないでいた。かれらは、上の薄暗がりと濛気《もうき》とほこりのなかで見わけがつくかぎりでは、下の連中よりもっとひどい服装をしているらしかった。いく人かはクッション持参で来ていて、けがをしないように頭と天井のあいだにそれをあてがっていた。
Kはしゃべるよりも観察していようと固く決心していた、だから彼のいわゆる遅刻のことでも弁明は断念して、こう言うにとどめた。
「来るのが遅れたかもしれない、しかしいまはここにいます」
賛成の拍手が、またしてもホールの右半分から起こった。御《ぎょ》しやすい連中だ、とKは考えた、気になるのはただホールの左半分の静けさだった、こっちはちょうど彼の背後になっていて、そこからはまばらな拍手しか起こらなかったのだ。さて何を言ったものか、とKは思案した、できれば全員を一度に、あるいはそれが見込みないというなら、せめて一時《いっとき》なりとこの左側の連中をも味方にしたいものだが。「なるほど」と男は言った、「しかしわたしはもはやあんたを訊問する義務を負わされていないのだ」――またしても不平の声、こんどのはしかし誤解のためだった、というのは、男は手で人びとを制しながらこうつづけたからだ――「けれども例外として今日のところはやはり訊問を行うことにする。かかる遅刻はただし今後二度とくり返されてはならんよ。では前に出てください!」
だれか一人が演壇から跳びおりたので、Kのための場所があいた。彼はそこにあがった。彼は机にぴったり押しつけられた、背後の雑踏があまりにはげしかったので、予審判事の机を、いやひょっとしたら予審判事そのものをも、演壇から突きおとすまいとすれば、彼は必死で群衆にあらがわなければならなかった。
予審判事のほうはしかしいっこうにそんなことを気にかけなかった、彼はゆったりと肘掛椅子に坐って、うしろの男に冗談の結びの一言を言ってしまってから、机上のたった一つの物品である小さなノートに手をのばした。それは学習ノート状のもので、古びていて、なんどもめくったために形がすっかり崩れていた。
「それでは」と予審判事は言って、ノートをめくり、確認するといった口調でKのほうを向いた。
「たしか塗装職人だったね?」
「いや」とKは言った、「ある銀行の業務主任です」
この返答に応じて下の右の党派にどっと笑い声が起こって、それがあんまり愉快そうだったので、Kもつられて笑わずにいられなかった。人びとは両手を膝につっぱって、ひどい咳の発作に襲われたときのように身を慄わせて笑っていた。回廊の上でさえ一人ふたり笑う者があった。予審判事はかんかんに腹をたてたが、どうやら下の連中にたいしては無力らしく、その償いを回廊の連中でつけようとして、跳びあがって、回廊を威嚇した。そのとき、ふだんはあまり目立たない彼の眉毛が、目の上にもじゃもじゃと、黒く、大きくかたまりになった。
ホールの左半分はしかし相変らず静かだった、人びとはそこではきちんと列をつくって立っていて、顔を演壇にむけたまま、上でかわされる言葉にも、他党の騒ぎにも、同じように静かに聞き入っていた、そればかりかかれらは、自分たちの列から一人ふたりときおり他党と同じ行動に出るものがあったときでさえ、じっと我慢していたのだ。左側の党派の人びとも(ところで、数はこっちのほうがずっと少なかった)、結局のところは右側の党派と同様さして重要な連中ではないのかもしれなかったが、そのふるまいの平静さが、かれらを実際よりずっと重要なものに見せていた。いまKはしゃべり始めたとき、彼としてはこの派を念頭において話すのだと信じていた。
「予審判事さん、ぼくが塗装職人かというご質問は――いや、ぼくは質問されたのでさえない、ただあなたからそう面詰されただけですが――これこそ、ぼくにたいしてなされる訴訟手続きのやり方全体の特徴をよくしめしている。あなたは反論なさるかもしれぬ、これはだいたい訴訟手続きなんかでない、と、なるほどあなたのおっしゃるとおりです、なぜならこれは、ぼくがそれをそういうものと認めたときにだけ訴訟手続きになるからです。しかしまあ目下のところ、さし当りはそう認めておきましょう、いわば同情心から。そもそもこんなものを尊重しようとするなら、同情する以外に対処のしようがない。ぼくはなにもこれがだらしのない訴訟手続きだなどと言ってるのではない、ただこの言葉をあなたの自己認識のために差しあげたいだけです」
Kはここで言葉を切ってホールを見おろした。彼が言ったことは鋭かった、彼が意図した以上に鋭かった、しかしやはり正しいことだった。本来ならそっちかこっちで拍手が起こってもいいところだったろう、けれども全員が鳴りをひそめていた、明らかに緊張して次の言葉を待っているのだった、ひょっとしたらこの静けさのなかにこそ、すべてに終止符を打つような爆発が準備されているのかもしれなかった。妨害になったのは、ちょうどそのときホールの端のドアが開いて、洗濯の仕事を了えたらしいあの若い洗濯女が入ってきて、非常な注意をはらったにもかかわらず、数人の視線をひきつけてしまったことだった。ただ予審判事だけはKをただちによろこばせた、彼はKの言葉に図星をさされたような様子を見せたのだ。それまで彼は立ちあがったまま聞いていたのだった、つまりKの発言で不意打ちをくらったので、回廊の連中のために立ちあがったままになっていたのだ。いま、この間《ま》のあいだに、彼は誰にも気づかれてはならぬというように、少しずつ腰をおろしていった。それから自分の表情を落着かせるためだろう、ふたたびあの小さなノートをとった。
「そんなことしたってむだですよ」とKはつづけた、「あなたのノートだって、予審判事さん、ぼくの言うことを裏づけてるんです」
この見知らぬ集会のなかに自分の落着いた言葉だけがきこえることに満足して、Kはむぞうさにノートを予審判事の手から引ったくることさえやってのけて、汚いものでもつまむように、指の先でその中ほどの一枚をたかだかともちあげてみせたので、びっしり書きこまれた、しみだらけの、ふちの黄ばんだ紙片が両側にたれさがった。
「これが予審判事どのの調査というわけです」と彼は言って、ノートを机の上に落とした、「読みつづけたらいいでしょう、予審判事さん、こんな教科書を怖がっちゃいませんよ、ぼくはまったく、ぼくにはそれがなにやらわかりませんけどね、なにしろ二本の指でさわっただけで、とても手にとって見る気になれないんですからね」
予審判事が、机に落ちたノートをつかんで、少しととのえてから、ふたたび中を読もうとしたのは、深い屈従のしるしでしかなかった、あるいは少くともそうとられて仕方のないことだった。
最前列の人びとの顔がひどく緊張してKにむけられていたので、彼もしばらく下を見おろしていた。一様にみな相当の年輩の男たちで、数人は白いひげをはやしていた。ひょっとしてかれらこそ、この集会全体に影響を与えることのできる決定的な人たちなのだろうか?
聴衆はKの演説以来無感動状態に陥ったまま、予審判事の屈従によってさえ動かされないでいるのだ。
「ぼくの身に起こったことは」とKは前よりいくぶん声を低めてつづけた、そしてなんどでもまた最前列の顔に目をもどしたので、これが彼の演説にいくらか散漫な感じを与えることになった、「ぼくの身に起こったことは、孤立した一つの事例というだけです、そしてぼく自身とくに深刻には受けとめてはいないのだから、そういうものとして非常に重大な場合とはいえない、しかしこれは大勢の人に加えられる訴訟手続の好例ではあるのです。この人びとのためにこそぼくはここに立っているのであって、ぼくのためにではないのです」
心ならずも彼は声を張りあげてしまっていた。どこかでだれかが諸手をあげて拍手し、叫んだ、「ブラヴォ! そのとおりだぞ! ブラヴォ! もういちどブラヴォ!」
再前列の人びとでひげに手をあてた者がそこここにいたが、叫び声のためにふりむいた者は一人もいなかった。Kもそれを重視したわけではなかった、しかしそれでもいくらか元気づけられた。彼はいまはもはや全員に拍手してもらう必要なぞないと思っていた、一般聴衆がこの件について考えこみはじめ、ときおり説得によってだれかの賛成が得られれば、それで満足だった。
「ぼくは弁士として喝采をあびたいのではない」とKはそういった配慮から言った、「それはまたぼくのよくなしうることでもない。予審判事殿ならおそらくはるかにうまく話せるでしょう、それが職業なのだから。ぼくが望むのはただ、公然たる不正を公然たる論議の対象にすることです。いいですか、ぼくはほぼ十日前に逮捕された、逮捕という事実そのものをぼくは笑うが、しかしそれはいまここのことには関りない。ぼくは早朝寝こみを襲われた、これはひょっとすると――予審判事が言ったことからしてもありえないことではない――どこかの塗装職人を、ぼく同様に罪のない者を、逮捕せよと言う命令が出たのかもしれない、しかしかれらが選んだのはぼくだった。隣室は二人の粗暴な監視人に占領された。ぼくが危険な強盗ででもあるというなら、これ以上の手配はないといってもよかったでしょう。そればかりではない、この監視人たちが実に道義心のない賤民どもだった、あることないことしゃべりちらかした、賄賂をもらおうとした、口実をもうけてはぼくから下着や洋服を巻きあげようとした、恥知らずにもぼくの目の前でぼくの朝食を平らげてしまったあとで、朝食をとりよせてやると称して金をほしがった。それだけでは終らない。ぼくは監督官のいる第三の部屋へ連れていかれた。ところがそれは、ぼくが大いに尊重しているご婦人の部屋だったのだ、そしてぼくはこの部屋がぼくのために、ただしぼくの責任によってでなく、監視人と監督官との存在によっていわば冒涜されるのを、見ていなければならなかったのだ。そんななかで平静にしているのは容易なことではなかった。しかしぼくはそうしたのだ、ぼくは完全に平静に――もし彼がここにいるならそうだと証言せざるをえないだろう――監督官に質問した、なぜぼくは逮捕されたのか、と。で、この監督官がなんと答えたと思う? ぼくはいまでも彼が、いま言ったご婦人の椅子の上に、愚鈍な高慢さを演技してでもいるように坐っている様子が見えるようだ。諸君、彼は結局のところなにも答えなかった、ひょっとしたら彼は本当になにも知らなかったのかもしれない、彼はぼくを逮捕して、そのことで満足しきっていただけなのだ。彼はさらに余計なことまでしでかしていた、かのご婦人の部屋に、ぼくの銀行の下っ端の行員を三人も連れこんでいたものだから、こいつらが夢中になって、写真――ご婦人の所有物だ――にさわったり、かきまわしたりしてしまった。この銀行員たちをその場においたことには、むろんさらにもう一つ別の狙いがあった、つまりかれらを使って、それからまたぼくの家主やその料理女を使って、ぼくの逮捕のニュースをひろめ、ぼくの社会的名誉を傷つけ、なかんずく銀行におけるぼくの地位を揺るがそうという狙いを秘めていたのだ。さて、そんな狙いはなにひとつ、これっぽっちでさえも成功しなかった、きわめて単純な人物であるぼくの家主でさえ――ぼくはここで敬意を表する意味で彼女の名をあげておきたい、彼女はグルーバッハ夫人というのだ――このグルーバッハ夫人でさえも見抜くだけの理解力があった、こんな逮捕は、監督のゆきとどかぬ少年たちが往来でしでかすわるさ以上のものではない、と。くり返して言う、この出来事の全体はぼくにただ不愉快と、しばしの腹立ちをもたらしただけだった、しかしこれが場合によっては、もっと悪い結果をもたらすことがあったかもしれないではないか?」
Kがここで言葉を切って、静かな予審判事のほうを見やったとき、この男がちょうど群衆のなかのだれかに目で合図を送ったのを、見たような気がした。Kは微笑して言った。
「いまちょうどぼくのとなりでこの予審判事殿が、あなた方のだれかにこっそり合図をしたところだ。ではあなた方のうちに、この壇上から指図される人びとがいるというわけだ。ぼくはその合図が、いま舌打ちしろというのやら拍手しろというのやら知らない、ともかく事がこう早めに露見した以上、ぼくは充分そのことを意識したうえで、いまの合図の意味を知ることは断念する。それはぼくには完全にどうでもいいことだ、ぼくはいまみんなの前で予審判事殿にその権限をゆだねる、そこの下の金をもらった部下たちに、こっそり合図などしないで、大声で、言葉に出して、命令なさるがいい、『さあ舌打ちしろ!』とか、その次は『さあ拍手しろ……』とか、なんとでも言って」
狼狽したのか苛立ちのあまりか、予審判事は椅子の上でもぞもぞからだを動かした。さっき彼と親しげに話をしていた彼のうしろの男は、彼を一般的にただ元気づけようとしてか、なにか特別の助言をしようとしてか、ふたたび彼のほうに身をかがめた。下では人びとが小声で、しかし活溌に話をかわしていた。さっきはあんなに対立した意見を持っているように見えた二つの党派が、まじりあってしまって、ばらばらにKを指さしたり、予審判事を指さしたりしていた。部屋のなかの霧のような濛気が極度にうっとうしくて、離れた者をくわしく観察することさえ妨げられた。特に回廊の見物衆にはこの濛気が邪魔になったに違いない、かれらは情勢をくわしく知ろうとして、むろん予審判事におずおず横目を使いながらだが、小声で集会の参加者に質問するのを余儀なくされていた。返事のほうも、口にあてた手のかげから、同様に小声で与えられた。
「ぼくの話はじき終ります」とKは言って、鐘がそこになかったので拳固で机を叩いた。その音に驚いて、予審判事とその助言者の頭が一瞬はなればなれになった、「この事件全体がぼくにはあまり関係がない、それゆえにぼくは落ち着いて判断を下せるのだが、諸君も、ただしこの裁判と称するものに諸君がなにがしかでも関心があると仮定して、ぼくの話に耳を傾けられるならば、そこから大きな利益を得られるはずです。ぼくの提案について諸君が相互に討議することは、どうかあとにのばしていただきたい、ぼくには時間がないし、まもなく帰るつもりだから」
ただちに場内が静かになった、すでにそれほどまでにKはこの集会を牛耳《ぎゅうじ》っていたのだ。もはや初めのころのように叫び声が入り乱れることもなかったし、賛成の拍手さえ起こらなかった、人びとはすでに確信しきっているか、確信への最短距離にいるらしかった。
「疑いもなく」とKはうんと声を低めて言った、いま集会全体の緊張して聞きいっていることが彼にはうれしかった、静寂のなかに一つのどよめきが生じ、それはどんな熱狂した拍手よりも心をはげました、「疑いもなく、この裁判のあらゆる言動の背後には、従ってぼくの場合でいえば、逮捕と今日の審理との背後には、一つの大きな組織が存在するのです。たんに買収のきく監視人や、愚鈍な監督官や、いちばん幸運な場合でも慎ましいだけの予審判事などを使っているばかりではない、そのうえいずれにしろ、上級および最上級程度の裁判官たちをかかえていて、そこには無数の必要欠くべからざるお供たち、たとえば小使、書記、憲兵、その他の補助者たち、いやおそらく、ぼくはこんな言葉に尻ごみはしない、首斬役人さえもいる一つの巨大な組織が。ところで、諸君、この巨大な組織の意味は一体なにか? それは、実に、無実な人びとが逮捕され、かれらにたいして無意味な、そして大抵はぼくの場合のようになんら成果の得られぬ、訴訟手続が行われるという、まさにその点にあるのです。全体のかかる無意味さのなかで、役人たちのひどい腐敗がはたして避けられようか? そんなことは不可能だ、最高の裁判官が自分自身のためにする場合でさえ、とうていなし得ないことです。だからこそ監視人は逮捕された者から衣服を剥ぎとろうとする、だからこそ監督官は他人の住居に闖入する、だからこそ無実の者たちが、訊問されるどころか、集会全員の前ではずかしめられることになる。監視人たちがしきりに話していたところによれば、逮捕された者の財産は保管庫とやらに運びこまれるんだそうだ、ひとつこの保管庫とやらを拝見したいものですね、さんざん苦労して集めた逮捕者たちの財産が、泥棒同然の保管庫役人に盗まれるか、空しく朽ちはてるかするところをね」
Kの話はホールの端で起こった金切声によって中断された。彼はそっちを見ることができるように手を目の上にかざした、どんよりした日の光のために濛気が白っぽく光って、まぶしかったのだ。騒ぎをひき起こしたのはやはりあの洗濯女で、Kは彼女が入ってきたときからこれを重大な障害と感じていたのだった。騒ぎの原因が彼女にあるのかどうかは見てとれなかった。Kに見えたのは、一人の男が彼女をドアのそばの隅っこまでひきずっていって、そこで抱きしめていることだけだった。しかし金切声をたてたのは、彼女ではなくて男のほうだった、彼は口をあんぐりあけて天井を見ていた。小さな人の輪がすでに二人のまわりにできていて、その近くの回廊の見物衆は、Kが集会に持ちこんだかたくるしさがそんなふうにして中断されたことをうれしがっている様子だった。彼は第一印象ですぐそっちに駆けだしていこうとしたし、またそこの騒ぎをしずめ、少くとも二人をホールから追い出すのが、みんなののぞむところではないかと考えもした、しかし彼の前の最前列の人びとは、ぎっちりかたまったまま、一人も動かず、一人も彼を通そうとしなかった。それどころか、逆に彼は妨害を受けて、老人連中には腕を突きだされ、さらにだれかの手に――ふり返ってみる余裕もなかった――うしろから襟首をつかまれた。Kはもはや二人組のことなど考えるどころではなかった、彼は、いま自分の自由が拘束されようとしてるのだ、やつらは本気で逮捕を考えているのだ、という気がして、後先かまわず演壇からとびおりた。いまや彼は群衆と鼻つきあわせて向いあうことになった。おれはこの連中を正しく評価していなかったのかな? 自分の演説の効果を過信していたのか? こいつらはおれがしゃべってるあいだは猫をかぶっていて、おれが結論にまで達したいまはもう猫をかぶるのにうんざりしたというのか? まわりじゅう一体なんという顔ばかりだろう! 小さな黒い目がちらちら動いていた、頬っぺたは泥酔者のように垂れさがっていた、ながいひげは剛くてまばらだった、そいつに掴みかかろうとでもすれば、それこそ大変、ひげを掴むどころか、けづめに引っ掻かれたも同然だった。ひげの下にはしかし――そしてこれこそKのした本当の発見だった――上着の襟のところに、さまざまな大きさと色合いの記章が光っていたのだ。目に入るかぎり、全員がこの記章をつけていた。では、右と左の党派は見せかけだけで、全員が同じ穴のむじなだったのか、そこで彼がぱっとふり向くと、手を膝に、静かにこっちを見下している予審判事の襟にも、同一の記章のついているのが見えた。
「そうか」とKは叫んで、腕を宙につきだした、突然の発見で彼は黙っていられなかった、「きみたちはみんな役人だったんだな、いまわかったぞ、きみたちこそぼくが攻撃した、あの腐敗した仲間だったんだ、聴衆と探偵といっしょになって、ここにつめかけたというわけだ、見せかけだけの党派をつくって、一方に拍手喝采させてぼくを試そうとしたのだな、無実な者をどうやってひっかけるか、勉強していたというわけだな! よし、きみたちがここに来たのがむだでなかったことを祈るよ、だれかさんがえりにえって無実の弁護をきみたちに期待していたとは、さぞかしいい慰みものだったろう、それでなければ――寄るな、さもないとなぐるぞ」とKは、とくに彼のすぐそばまで押しかけてきたぶるぶる慄える老人にむかって叫んだ――「それでなければきみらはさぞや、本当にいい勉強をしたことだろうよ。せいぜいそれが商売に役立つことを祈るよ」
彼は机の端においてあった帽子をひっつかむと、ひとしく静まりかえったなかを、いずれにしろ完全な驚きのあまりの静けさのなかを、出口にむかってつき進んだ。予審判事のほうがしかしKよりもっとすばやかったらしく、すでにドアのところで彼を待ちうけていた。
「ちょっと待って」と彼は言った。Kは立ちどまったが、予審判事には目を向けないで、すでに彼がその把手を握っているドアのほうを見ていた、「あんたにただこのことを注意してあげようと思ったものだから」と予審判事は言った、「訊問というものはふつう、どんな場合にでも逮捕された者にとって利点になるものなんだが、あんたは今日――あんたにはまだよくわかっていないらしいがね――自分でその利点を奪いとってしまったんだよ」
Kはドアに向って笑った。
「このルンペンどもの!」と彼は叫んだ、「訊問なんて返上申しあげるよ」そしてドアを開け、階段を駆けおりた。
彼のうしろでは、ふたたび活気をとり戻した集会の騒ぎが湧き起こった。かれらはどうやら今日の出来事を研究者のやり方で討議し始めたらしかった。
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第三章 人気のない法廷で/大学生/裁判所事務局
Kは次の週のあいだ、来る日も来る日もあらたに通知のくるのを待っていた、訊問を拒否すると彼の言ったことが、文字どおりに受取られたとは信じられなかった、そして期待していた通知が土曜の晩までついに本当にこないとわかったとき、彼はそれを、これは暗黙のうちに同じ家に同じ時刻に来いということだなと受取った。そう思ったから、彼は日曜日にふたたび出かけていった、今度はまっすぐに階段と廊下を通っていった。彼のことを覚えていた二、三人の者が、戸口で彼に挨拶した、しかし彼にはもうだれにもものを訊ねる必要がなかった、じきに目指すドアに到着した。ノックするとすぐドアが開けられた、ドアのところにあの顔見知りの女が立っていたが、彼女のほうにふりむきもせずに、彼はすぐ隣室へ入ってゆこうとしかかった。すると、「今日は集会はありませんよ」と女が言った。
「集会がないなんてまさか?」と彼はきき返し、女の言うのを信じようとしなかった。しかし女は隣室のドアを開けてそのことを納得させた。本当に中はからだった、そして人気のないためにこの前の日曜日よりもっとみじめに見えた。演壇の上には机がそのまま置かれていて、そこに本が二、三冊のっていた。
「あの本を見せてもらえないかしら?」とKはきいた、なにも特別な好奇心からではなく、ただここに来たことを完全な無駄足に終らせたくなかったために。
「だめです」と女は言って、またドアをしめた、「そんなことは許されませんよ。あれは予審判事さんの本なんですから」
「そうなの」とKは言って、うなずいた、「それじゃきっと法律書だな、この裁判所のやり方ときたら、なにしろ、罪がないばかりか、知らせもせずに判決をくだしてしまうんだからな」
「そうかもしれない」と女は言ったが、彼の言葉を正確に理解したわけではないらしかった。
「さてと、それじゃ帰るとするか」とKは言った。
「なにか予審判事さんに伝えとくことがありますか?」と女はきいた。
「あなたは彼を知ってるの?」とKはきいた。
「もちろん」と女は言った、「わたしの夫は廷丁ですからね」
そう言われて初めてKは気がついた、この前は洗濯だらいしか置いてなかった部屋が、いまはきちんと整頓された居間になっているのだ。女は彼の驚きに気づいて言った。
「ええ、わたしたちここをただで借りてるのよ、開廷日には部屋を空けるっていう約束でね。わたしの夫の身分じゃいろいろ不利なことがあるのは仕方がないわね」
「いや、部屋のことでこんなに驚いてるんじゃないんだ」とKは言って、意地悪い目で彼女を見つめた、「そんなことよりなにより、あなたが結婚しておいでだとはね」
「こないだの開廷日にあなたの演説の邪魔をしてしまった、あの出来事をあてこすってるのね?」と女がきいた。
「もちろん」とKは言った、「今日になればもう過ぎたことだし、ほとんど忘れてしまったけど、あのときはまったく腹が立った。だのにいまになってあなたから聞かされようとはね、人妻ですだなんて」
「でも演説が中断されたことは、あなたの損にはならなかったのよ。あとでみんなずいぶんあなたの悪口を言ってましたもの」
「かもしれない」とKは話をそらして言った、「しかしそれじゃあなたの言訳にはならない」
「わたしを知ってる人はみんなわたしを許してくれるわ」と女は言った、「あのときわたしを抱きしめた人は、せんからずっとわたしを追っかけまわしてるのよ。だいたいわたし男を迷わすような女じゃないのに、それがあの男にとってはそうなのよ。でも、これには防ぎようがないわね、夫もこのことには観念してるわ。地位を守ろうとしたら我慢しなきゃならない、なぜって、あの男は大学生で、将来きっと偉くなるんでしょうから。あの男はしょっちゅうわたしの尻を追いまわしていて、いまもあなたがくる少し前に出てったとこだわ」
「いかにもありそうなことだ」とKは言った、「ぼくはべつにおどろかないね」
「あなたはここでなにか改革しようとしてるんじゃない?」と女はゆっくりと、試すようにきいた、まるで彼女にとってもKにとっても危険なことを口にするというように、「それはもうあなたの演説からわかってたわ、あれはわたし個人にはとてもいい演説だったけど。わたしはもちろんほんの一部しか聞けなかった、初めのほうは聞きもらしたし、終りのころはあの大学生と床に転ってたから。――ここはまったくいやなとこだわ」と彼女はしばらく間をおいて言って、Kの手をつかんだ、「改革の実現に成功すると思ってるの?」
Kは微笑して、手を彼女のやわらかい両手のなかで少しまわした。
「もともと」と彼は言った、「ぼくはここで、あなたがいま使った言葉でいえば、改革なんてことをする立場にはない、それにあなただってそんなことを、たとえば予審判事にでも言おうものなら、笑われるか処罰されるのがおちだ。自分の自由意志できめていいんだったら、ぼくはぜったいにこんな事柄に首をつっこまなかったろうし、この裁判制度の改革要求なんてもので眠りを妨げられたりしなかったろうね。ところがぼくは、あなたは逮捕されましたと称せられることによって――つまりいまぼくは逮捕されてるわけだ――ここにかかずらわないわけにいかなくなった、むろん自分を守るためにさ。だが、このさいそれであなたにもなにか役に立てるというんだったら、むろんぼくはよろこんでそれをする。それも、なにも隣人愛なんてことからだけでなくて、あなたのほうでもぼくを助けてくれることができるんだという、そのことのために」
「どうしたらそんなことができるの?」と女はきいた。
「そう、たとえばあの机の上の本をぼくに見せてくれることで」
「ああ、そんなこと」と女は叫んで、急いで彼をひっぱっていった。それは古い擦りきれた本ばかりだった、一冊の表紙はまんなかでほとんど千切れていたし、どの本もが糸で辛うじてくっついているだけだった。
「なんて汚いんだ、ここじゃ何も彼も」とKは頭をふりふり言った、女はKが本に手を出すまえに、前掛けで、少くとも上っつらの埃だけはらいのけた。Kが一番上の本を開くと、一枚のいかがわしい絵があらわれた。男と女が裸で寝椅子に腰をおろしている絵で、絵描きの卑しい意図ははっきりと見てとれたが、絵があまりにも拙劣なので、結局は要するに一人の男と一人の女が――あまりにもからだばかり画面からとび出していて、極度にしゃっちょこばって坐っていて、誤った遠近法のためにやっとのことで並んで向きあっている男と女が、見てとれるというだけのものであった。Kはそれ以上めくるのをやめて、二冊目の本は扉だけ開けてみた、それは『グレーテが夫ハンスより受けし苦しみ』という題名の小説だった。
「これがここで学ばれる法律書というわけだ」とKは言った、「そんな人間どもにぼくは裁かれるってわけだ」
「わたしあなたを助けるわ」と女は言った、「いいでしょ?」
「本当にそんなことができるのかな、自分自身を危険に陥れないで? 自分でさっき言ったばかりじゃないの、あなたの夫は上役の言いなりになってるだけだって」
「それでもわたしあなたを助けたい」と女は言った、「ちょっと来て、相談しておかなくちゃ。わたしの危険のことなんかもう言わないでね、危険なんて、怖れさえしなければ怖くはないものよ。ともかくちょっと来て」
彼女は演壇を指さして、いっしょにその階段に坐るようたのんだ。
「あなたはきれいな黒い目をしてるわね」と彼女は二人が腰をおろすと言った、そしてKの顔を下からのぞきこんだ、「わたしもきれいな目をしてるってよく言われるわ、でもあなたのほうがずっときれい。あなたがここに初めて入ってきたとき、すぐそのことに気がついたわ。わたしがあとでなぜこの集会室に入ってきたかっていうと、それもそのためだったの。あんなことふだんなら決してしないし、それどころかいわば禁じられてることですからね」
ははあ、そういうわけか、とKは思った、この女はおれにからだを提供しようとしてるのか、彼女はKのまわりにあるすべてのものと同じく堕落しきってるんだ、裁判所の役人には飽きたんだな、もっともなことだが、だからよそ者ならだれにでも目がきれいだなんてお世辞を言うわけだ。そしてKは黙って立ちあがった、まるで自分の考えを大声で言ってのけたというように、そしてそのことで女に自分の態度を説明したというように。
「ぼくは信じないね、あなたにぼくが助けられようとは」と彼は言った、「ぼくを本当に助けようっていうんなら、身分の高い役人への手蔓がいるんだ。ところがあなたの知ってるのは、そこらにうようよいる下っ端の連中ばかりだ。この連中のことならあなたはたしかに非常によく知っているんだろう、かれらを使ってなにがしかのことは達成できるかもしれない、そのことはぼくも疑わない、しかしかれらを使って達成できることなぞ、最大に見積もっても、訴訟の究極の結末にたいしては、まったくもってなんでもないんだ。しかもあなたのほうはそのために男友だちを二、三人取り逃してしまうかもしれないわけだ。そんなことはぼくは望まない。ああいった連中とあなたは従来どおりに付合っていったほうがいい、やつらはあなたにとって欠くべからざるもののようだから、そう言うんだけれど。ぼくとしてもこんなことを言うのは残念なんだが、というのは、さっきのあなたのお世辞にお返しをするというわけじゃないが、ぼくにもあなたがとても気に入ってるからだ、とくにいまみたいにあなたに悲しそうに見つめられているとね、あなたにとっては悲しがる理由なんかぜんぜんないのに。あなたはぼくが相手として戦わなければならない社会の人だ、ところがあなたはそのなかにどっぷりと居心地よさそうにつかっている、大学生を愛してさえいる、愛しているんじゃないとしても、少くともあなたの夫よりは好ましいと思っている。それくらいのことはあなたの言葉のはしばしからすぐわかるよ」
「ちがうわ!」と女は叫んで、坐ったまま彼の手を掴もうとし、Kは掴まれぬほど素早くは手をひっこめなかった、「いま出ていくのはやめて、わたしについて間違った判断をしたまま出ていかないで! 本当にそんなことができると思ってるの、いま出ていくだなんて? わたしってそんなに価値のない女かしら、もうほんのちょっとのあいだ、ここにいるくらいの好意さえ恵むに値しないくらい?」
「あなたはぼくのことを誤解してるんだ」とKは言って、腰をおろした、「本当にぼくにここにいてもらいたいんだったら、よろこんでいますよ、暇はあるんだ、なにしろ今日は審理があると思ってここへ来たんだから。ぼくがさっき言ったことに関して言えば、ぼくはただ頼みたかっただけなんだ、どうかぼくの訴訟のことでぼくのために何も企ててくれるなって。しかしそう頼んだからってあなたが気を悪くする理由はないと思う、ぼくが訴訟の結末なんかぜんぜん気にしていないし、有罪判決など笑いとばしてやるつもりだということを考えてくれたらね。しかもそれだってだいたい訴訟が本当の結末までいくと仮定しての話で、ぼくは非常に疑わしいもんだと思ってるんだ。それどころかむしろこの訴訟手続は、役人どもの怠慢か忘れっぽさのために、あるいはもしかしたら怯気づいたために、とうに中止されたか、もうじき中止されるところだと思ってるくらいだ。ただし、なんらかの相当な額の賄賂への期待から訴訟を見せかけだけつづけるということも、むろんありうるだろう、むだだがね、ぼくはいまからそう断言できるよ、なぜってぼくはだれにも賄賂など送ったりしないから。だからもしあなたが予審判事か、だれかそのほかの重要ニュースをふれまわることの好きな人にこう伝えてくれるんなら、それはともかくぼくには有難いご好意というものなんだ、あの男は決して、たとえ連中がお得意とするどんな策略をつかっても、賄賂なんか出させることはできないだろう、と。まるっきりそんな見込みはないと、そうはっきり言ってくれてもいい。そんなことはたぶんやつらがとうに自分でもう気がついてるんだろうがね、たとえ気がついてないとしても、ぜひいますぐ知ってもらわなくちゃならないというほどの気も、ぼくにはない。知ってもらえば連中も無駄骨折る手間がはぶけるわけだし、ぼくだってむろん不愉快な思いをしないですむわけだが、しかし、もしそれが同時にほかの人びとにたいする打撃になることだとわかったら、ぼくはどんな不愉快な思いだってよろこんで引受けるつもりだ。そうなったときは、その配慮はするつもりです。あなたは本当に予審判事を知っているの?」
「もちろん」と女は言った、「あなたに助力を申しでたときだって、一番最初にあの人のことを考えたくらいよ。彼がそんな身分の低い役人だなんて知らなかったけど、でもあなたが言うんだからきっとそうなんでしょうね。それでも、彼が上に差しだす報告書には、やはりなにがしかの影響力はあるんだと思うわ。それに彼は実にたくさん報告書を書くのよ。役人どもはみな怠け者だとあなたは言うけど、みんながそうというわけじゃない、とくにこの予審判事はそうじゃない、彼は非常にたくさん書くんです。たとえばこの前の日曜なんか、裁判が夕方までつづいて、全員が帰ってしまっても、予審判事はホールに残っているんで、わたしがランプを持ってってやらなくちゃならなかった、うちには小さな台所用ランプしかないんだけど、彼はそれで満足してくれて、すぐ物を書きはじめたわ。そうこうするうちにわたしの夫も帰ってきました、あの日曜日はちょうど休暇をとっていたんです、そこで二人で家具を運んできて、部屋を元通りにした、それからこんどはおとなりの人がきて、わたしたちはロウソクの光でおしゃべりをしたわ、要するに、わたしたち予審判事のことなどすっかり忘れて、そのまま寝てしまったんです。突然夜中に、あれはもうずいぶん夜更だったにちがいないわね、目を醒ますと、ベッドのわきに予審判事が立ってるんです、片手でランプをさえぎって、光が夫の顔に落ちないようにしているんです、そんな用心する必要はないのに、わたしの夫は、光が落ちたくらいじゃ目を醒まさないくらい眠りが深いのよ。わたしあんまりびっくりしたから、あやうく叫び声をあげそうになったけど、予審判事はとてもやさしかった、声をたてないようにって注意して、わたしの耳にささやくんです、いままで書きものをしていたんだ、いまランプを返しにきたところだ、おまえの寝姿を見たことは決して忘れないだろうって。わたしこんなことをすっかりお話したのも、予審判事が本当にたくさんの報告書を書くってことを、あなたに知ってもらいたかったからよ、とくにあなたのことについてね、なぜって、あなたの訊問は日曜日の法廷の主要題目の一つだったんですものね。あれくらい長い報告書がまるっきり意味がないなんてことはありえないわ。でもそればかりではなしに、いまの話からもあネたにわかったでしょうけど、予審判事はわたしに言いよろうとしてるのよ、だからいままさにこの最初の時にこそ――だいいたい彼がわたしなんかに気づいたのはいまが初めてにちがいないんだから――わたしは彼に大きな影響力を持つことができるわけよ。彼がわたしに気があるっていう証拠なら、まだほかにもいくつもあるわ。たとえばきのう彼はわたしに絹の靴下を贈ってくれたわ、彼がたいへん信用して自分の協力者にしている例の大学生を通じて、わたしがいつも集会室の掃除をしてくれるからっていう口実でね、でもそんなのはただの口実よ、だってこの仕事はわたしの役目にすぎないんだもの、そして夫はそのためにお給金をもらってるんですもの。ともかくきれいな靴下なのよ、見て」――そう言って彼女は脚をのばし、スカートを膝までたくしあげて、自分でも靴下をしげしげと見つめた――「たしかにきれいな靴下だわ、でもだいたい上等すぎて、わたしには向かないみたいね」
突然彼女は話を中断して、彼を落着かせようとするように手をKの手に重ねて、ささやいた、「しっ、ベルトルトがわたしたちを見てるわ」
Kはゆるゆる視線をあげた。会議室のドアのなかに一人の若い男が立っていた、小さな男だった、真直ぐとはいいかねる脚の持主で、短かくてまばらで赤っぽい総ひげを、ひっきりなしに指でいじりまわしては、威厳をつけようと試みていた。Kはその男を強い好奇心で見つめた、これこそ彼がいわば初めて目のあたりに見た、法律学という得体のしれぬものを学んでいる学生、いずれいつか高い地位の役人になるであろう男であった。ところが大学生のほうは一見Kなぞ少しも気にかけている様子ではなかった、彼はひげのなかからちょっと指を一本抜きだして女に合図しただけで、そのまま窓ぎわに歩いていった。女はKのほうに身をかがめて、ささやいた。
「気をわるくしないでね、おねがい、わたしのことをひどい女だなんて考えないで、わたしあいつのとこへいかなくちゃいけないのよ、ほんとにいけすかないったらありゃしない、あのひん曲った脚を見てよ。でも、すぐ戻ってくるわよ、そしてあなたと一緒に出ていくわ、あなたが連れてってくれるんだったら、わたしどこへだってついてゆくわ。そうしたらわたしにどんなことをしてもかまわない、ここからできるだけ長いあいだ離れてさえいられたら、わたしそれで幸福なんだもの、むろん永久におさらばできればそれに越したことはないけど」
彼女はまだKの手をさすっていたが、ふいに跳びあがると窓のほうへ駆け出した。Kは思わず女の手をとろうとして空を掴んだ。女は本当に彼の気を唆《そそ》った、なぜ女の誘惑に乗ってはいけないのか、いろいろ考えてみたけれどももっともな理由が見つからなかった。女は裁判所のためにおれをひっかけようとしてるんだ、という気もちらと頭をかすめたが、そんな異議も彼は苦もなくはねのけてしまった。どんな具合にして女に彼をひっかけることができるというのか? 彼はいつだって、少くともこと彼に関する限り、この裁判機構全体をだって即座にぶちこわせるほどにも、自由でありつづけたのではなかったか。こんな自分へのわずかな信頼さえ、彼は持つことができないのか? それに助けたいという女の申しこみには真正らしいひびきがあったし、おそらくまた価値のないものではなかった。そして予審判事やその一味にたいしては、かれらからこの女を奪いとって自分のものにしてしまうくらい効果的な復讐はないに違いなかった。そうなればいつかきっと、予審判事がKについての嘘八百の報告書づくりに骨折ったあと、深夜女のベッドが空《から》なのを発見する、といった事態だって起こらぬものでもない。そしてそれが空なのは、女がKのものとなったからなのだ、窓ぎわにいるあの女、粗い重い布地の黒服につつまれたあのあたたかいからだが、ただもうKだけのものとなったためなのだ。
こんな具合にして女についてのかずかずの疑念をふりはらってしまうと、彼には窓ぎわの二人のひそひそ話がいささか長すぎるような気がしてきだした、彼は初めは指の関節で、それから拳骨で、演壇を叩いた。大学生は女の肩ごしにちらと彼のほうを見たが、べつに気にもしなかったどころか、ぐいとからだを女に押しつけてみせさえして、彼女を抱きしめた。彼女は男の言い分に注意ぶかく聞きいっているかのように、深ぶかと頭をしずめていた、彼女がかがむと、男はそれで話をとくに中断させることもなしに、音たかく彼女の首筋にキスした。女の言い分では大学生が彼女に横暴をはたらいて困るということだったが、これで彼の横暴ぶりは証明されたと思い、Kは立ちあがって、部屋のなかを行ったり来たりしはじめた。大学生のほうを横目で見やりながら、どうやったら出来るだけ早くきゃつをおんだせようか、とそればかり思いめぐらしていたので、大学生が、明らかにKの徘徊――それはもうときとしてどしんどしん足踏みしているに近かった――に気を乱されて、こう文句を言ったのは、Kにはまんざらでないこともなかった。
「いらいらしてるんだったら、出てったっていいんだぜ。本当ならきみはもっと早く出てってよかったんだ、だれもひきとめやしないんだから。そうだとも、きみは出てゆくべきでさえあったんだよ、むろんぼくが入って来たときすぐに、それもできるだけ早く」
この言葉のなかにありとあらゆる憤激が爆発しているらしかったが、いずれにしろしかしそのなかにはまた、気にくわぬ被告に話しかける未来の司法官の傲慢もふくまれていたのだった。Kは男のすぐそばに立ちどまって、微笑しながら言った。
「いらいらしている、それは本当だ、しかしこのいらいらは、きみが出てってくれさえすれば、それで容易に片がつくんでしてね。しかしひょっとしてきみが――学生さんだそうだから――ここへ勉強しに来たっていうんなら、よろこんでこの場を明けわたすさ、そしてそのご婦人と出ていきましょうよ。ともかく、裁判官にでもなろうっていうんなら、もっともっと勉強しなくちゃならないやね。ぼくは司法制度なんてとくに精しい者でもなんでもないが、きみがいまからもう破廉恥に使いこなすことを心得てる、そのきみの乱暴なしゃべり方じゃ、まだまだ充分とは言えないくらいのことはわかるよ」
「こいつをこんなふうに勝手に歩きまわらしといちゃいけなかったんだ」とKの侮蔑的な言辞への解説を女にしようというように、大学生は言った、「失敗だったな。予審判事にはちゃんと言っといたのにせめて訊問のあいだはこの男を部屋に閉じこめとくべきだったんだ。あの予審判事はときどきわけのわからぬことをするよ」
「くだらんおしゃべりだね」とKは言って、女のほうに手をのばした、「さあ行こう」
「ははん、そういうわけか」と大学生は言った、「だめ、だめ、この人を渡すわけにいかないんだ」そして、見かけによらぬ馬鹿力を出して女を片手で抱きあげると、背をまるめとろんとした目で女を見あげながら、ドアのほうに駆けだした。そのさいKにたいするある種の怖れが、見誤りようもなくうかがえたにもかかわらず、彼はさらにKを刺戟しようとして、空いたほうの手で女の腕を撫でたり押したりしてみせた。Kは、彼をひっつかまえて、事と次第では絞め殺してやるくらいのつもりで、並んで二、三歩走りだしたが、女が言った。
「むだだからよして、予審判事が迎えによこしたのよ、あなたと行くわけにいかなくなったわ、このちびの乱暴者が」と言って彼女は大学生の顔を手で撫でまわした、「このちびの乱暴者がわたしを放しっこないわ」
「そしてあなたも放されたがっていないんだ!」とKが叫んで、大学生の肩に手をかけると、その手に彼はいきなり噛みついてきた。
「やめて!」と女は叫んで、Kを両手で押しのけた、「やめて、やめて、それだけはやめてよ、一体何を考えてるの! そんなことをしたら、わたしが破滅しちゃう! 放してやって、おねがい、彼を放してやって! この人は予審判事の命令に従ってるだけ、わたしを判事のとこへ連れていくだけなのよ」
「それじゃ勝手にいくがいい、あなたの顔など二度と見たくない」とKは失望のあまり怒り狂って言った、そして大学生の背中をどんと一突きしたので、こっちはちょっとよろめいたが、すぐそのあと、倒れなかったことに満足のあまり、重荷を抱えたままいっそう高々と跳んでみせるのだった。Kはゆっくりかれらのあとについていきながら、これがこの連中からうけた最初の疑いえない敗北であることを見てとった。だからといってびくつく理由はむろんなかった。戦いを挑んだからこそ敗北も蒙ったのだ。家にいてふだんの生活をしていれば、こんなやつらより何千倍も優れていた、だれだって一蹴りで片付けられたのだ。そして彼は滑稽きわまりないシーンを思い浮かべてみた、たとえばありうべき場合として、この下等な大学生、このふくれあがった子供、このがにまたのひげ男が、エルザのベッドに跪いて、手を合わせて、やらしてくれと頼んでいるところを。Kはこの想像がひどく気に入ったので、いつか機会があったらこの学生をエルザのとこへつれてってやろうと決心した。
好奇心からKはさらに戸口まで出てみた、まさか女をかかえたまま通りまで出てゆきはしまいが、学生がどこへ女を運んでゆくか見とどけたかったのだ。が、道順は思ったよりずっと短いものだった。部屋のすぐむかいに、中途で折れているので終りまでは見えないがたぶん屋根裏部屋に通じている狭い木の階段があった。この階段を学生は女を抱えて上っていったのだ、さっき走ったりしたものだから力が萎えて、おそろしくのろのろと、あえぎあえぎ。女は手で下のKに合図を送った。肩をあげたり下げたりしてみせて、この誘拐が自分の責任じゃないことを示そうとするのだが、その動きはたいして遺憾そうにも見えなかった。Kは知らぬ女でも見るように無表情に女をみつめた、自分が失望したことも、この失望がたやすく乗りこえられそうなことも、気取られたくなかった。
二人の姿はすでに消えてしまっているのに、Kはしかしあいかわらず戸口につっ立っていた。彼もいまや認めないわけにいかなかった、女は彼を裏切ったばかりではない、予審判事のところへ連れていかれるなんていう申し立てもやはり嘘だったのだ、と。予審判事ともあろう者が、屋根裏部屋に坐ってぼんやり待っているはずがあろうか。が、穴のあくほど眺めていても、木の階段は何一つ語ってくれなかった。そのときKは上り口に小さな札があるのを見つけ、近寄って読むと、子供じみたへたな字で≪裁判所事務局上り口≫とあった。じゃ、こんなアパートの屋根裏に裁判所事務局があったのか。それはとても尊敬の念をよび起こさせるにたるような構えではなかった、それ自身最下層の貧民であるアパートの住人たちががらくたを投げこんでおく、こんなとこに事務局を置くほど裁判所は金に困っているのかと想像するのは、被告にとっては心を安んじさせることだった。むろん、金はたっぷりあったのだが、裁判目的に使われる前にみな役人どもに着服されてしまったのだということだって、考えられぬわけではなかった。これまでのKの経験からすれば、むしろそれは大いにありうることだった、が、そうだとしても、そういう裁判所の堕落は、被告にとって、自尊心を傷つけはしても、結局のところ、裁判所が貧乏だった場合よりももっと安心させることなのだった。いまやKにもやっとわかった、最初の訊問のさいに裁判所が被告を屋根裏に召喚するのを恥じて、彼をその住居に襲うほうを選んだのももっともだ。屋根裏部屋に坐っている裁判官にくらべたら、Kのほうはなんという地位にいることか。彼には銀行に控えの間つきの大きな部屋があって、そこの巨大な窓ガラスごしに活気にみちた広場を見下すことができるのだ。もちろん彼には、賄賂だの横領だのという副収入はなかったし、小使に女をだかせて事務室まではこびこませることもできない。だがそんなものは、少くともこの人生において、Kがよろこんで断念したいものだった。
Kがなお貼り札の前に立っていると、一人の男が階段を上ってきて、あけ放しのドアごしに居間のなかをのぞきこんだ。そこから会議室が見えるのだ。それからついにKに、ちょっと前ここで女を見かけなかったか、ときいた。
「あなたが廷丁さんですね」とKはきいた。
「そうですが」と男は言った、「そうか、被告のKさんですね、いまわかりました、よくお出かけで」
そう言って彼は、思いがけぬことに、Kに手をさしだした。
「今日はしかし裁判はありませんぜ」と彼はKが黙っているので言った。
「知ってる」とKは言って、廷丁の私服をじろじろ見つめた。そこにはふつうのボタンのほかに、官職を示す唯一のしるしとして金ボタンが二個ついていたが、これはどうやら将校外套のお古からでもひっぺがしてきたものらしい。「いまさっきあんたのおかみさんと話をしたばかりだ。でも、もうここにはいないよ。学生が予審判事のとこへかついでいっちまった」
「そうなんですよ」と廷丁は言った、「いつだってかつがれていっちまうんだ。今日は日曜でしょうが、わたしに仕事はないはずですよ、だのにただもうわたしをここから遠ざけたいために、ろくでもない用事でひとを使いにだしといて。ただしたいして遠いところじゃなかったんで、急いで行ってくれば間にあうかもしれん、という希望はありましたがね。そこで走りましたさ、根かぎり、そして使いにやらされた役所につくと、ドアの隙間から息もつかずに用向きをどなった、先方じゃ何のことやらわからなかったでしょうな、それからまた走って戻ってきたんですが、学生のほうがもっと急いでたってわけだ、言うまでもなくやつのほうが道は近い、屋根裏階段を駆けおりてくりゃいいんですからね。わたしが人に使われてる身分じゃなかったら、あんな学生なんざとうの昔にここのこの壁で押し潰しちゃってるんですがね。この貼札のわきでね。いつもその夢を見るんですよ。ここに、床からすこし上のとこに、やつが抑えつけられてる、腕をひろげ、指をひらいて、がに股の足をまるくして、あたり一面は血の海で。いままではこれもしかし単に夢というだけですがね」
「ほかに手だてはないの」とKは微笑してたずねた。
「ないやね」と廷丁は言った、「いまじゃもっとひどいことになってるんだからね、これまではやつは自分の部屋にひきずりこむだけだったが、いまは、むろんとうに予想されてたことじゃあるが、予審判事のとこまで連れてくんだからね」
「それでおかみさんのほうにはぜんぜん責任はないのかな」とKはたずねたが、そう訊ねながらも気持ちを抑えつけなければならなかった、それほどまでに彼もいまは嫉妬を感じていたのだ。
「むろんある」と廷丁は言った、「それどころかあれに一番責任があるくらいのもんで。なにしろやつに惚れてるんですからな。あの男ときたら、女とみればだれの尻だって追いかけるやつですよ。このアパートだけだって、もう五軒に忍びこんでつまみ出されたくらいだ。そこへもってわたしのかみさんはアパートじゅうで一番の美人で、しかもわたしには防ぐ手だてがないときている」
「事態がそんなふうじゃ、なるほど救いようもないわけだ」とKは言った。
「どうしてないんです」と廷丁がきき返した、「あの学生は臆病者なんだから、こんどまたわたしの妻にさわろうとしたときいちど、もう二度とそんなことしなくなるくらい、徹底的に叩きのめしてやる必要があるんだ。だがわたしにはそれができない、ほかのだれもわたしのためにそんなことはしてくれない、みんなやつの権力を怖れてるからね。ただあなたのような方ならできないわけじゃないんです」
「どうしてまたぼくになら」とKは驚いてたずねた。
「だって、あなたは告訴されてるんでしょうが」と廷丁は言った。
「そうだ」とKは言った、「だがそれだけになおのこと怖れなけりゃならない立場なんだ、やつは、まあ訴訟の成行きに決定的な影響力はないとしても、ともかく予審にはなにがしかの力があるらしいからね」
「そりゃそうです」と廷丁は言った、まるでKの意見は彼自身のそれと同じくらい正しいというように、「しかしここでは通常見込みのない訴訟は扱われないんですがね」
「その意見には賛成できないが」とKは言った、「折を見てあの学生を退治してやることには反対じゃない」
「そうしてくれりゃ非常にたすかります」と廷丁は形式ばって言った、どうやら彼は自分の最高の願望の充足性について本当には信じていないらしかった。
「ほかにもまだ」とKはつづけた、「役人のなかに何人か、いや全部かもしれんが、同じ目に会わしてやるべきやつがいるんじゃないの」
「ええ、ええ」と廷丁は、自明のことだとでもいうように言った。それから、いままでは親しさのうちにも見せたことのなかった、信頼のこもった眼差しでKを見つめて、つけくわえた、「ひとはいつでも反乱するもんです」
しかしこういった会話が少し不愉快になってきたらしく、話を中断して彼は言った。
「さてと、事務局へいかなくちゃならないんですがいっしょに来ますか」
「そんなとこにべつに用事はないけれど」とKは言った。
「事務局というところが見物できますよ。あなたなぞかまう人はひとりもいないでしょう」
「見る価値のあるところかしらん」とKはためらいながらきいたが、いってみたい気は大いに動いていた。
「なに」と廷丁は言った、「ただあなたに興味があるだろうと思ったもんだから」
「よし」とKは最後に言った、「じゃ行きましょう」
そして彼のほうが廷丁より足早に階段をのぼっていったが、入口で彼はあやうくつんのめりそうになった。というのはドアのかげにさらにもう一段あったからだ。
「一般人のことなぞあんまり気にかけてないんだな」と彼は言った。
「ぜんぜん気にしちゃいないさ」と廷丁は言った、「まあこの待合室を見てごらんなさい」
それは長い廊下なのだった、そこに荒っぽいつくりのドアがいくつもついていて、屋根裏の各部屋に通じているのだ。直接光のはいりこむ口はないけれどもそこはまっくらではなかった。というのはいくつかの部屋が、廊下に面して、均一の板壁のかわりにむきだしのしかも天井までとどく格子になっていて、そこからいくらか光が洩れてきたからだ。そこからはまた中の役人を見ることもできた。机にむかって物を書いたり、ぴったり格子にへばりついて、隙間から廊下の人びとをじろじろ眺めたりしている。日曜日だったせいか、廊下には少数の人がいるだけだった。かれらはみな非常に慎しみぶかい人びとという印象を与えた。たがいにほとんど規則正しい間隔をおきあって、廊下の両側に置かれた二列の長い木のベンチに腰かけている。かれらはみなだらしのない服装をしていたけれども、そのくせほとんどの者は、顔の表情とか、態度、ひげの格好、その他しかと言うことのできぬ多くのこまかな点から、上流社会の連中だとわかるのだ。帽子掛けがなかったのでかれらは帽子を、たぶんだれかがだれかの真似をして、みなベンチの下においていた。ドアのそばにいた者たちがKと廷丁の姿を認めて挨拶のために立ちあがると、それを見て次の者たちは自分らも挨拶しなければならぬと思いこみ、全員が二人の通りすぎるときに立ち上った。かれらは決して完全に直立したわけではなくて、背中はかがみ、膝は折れ、まるで往来の乞食のようだった。Kは少しうしろを歩いている廷丁が追いつくのを待って、言った。「こうまでも卑屈にしてなけりゃならないのかね」
「ええ」と廷丁は言った、「被告ですからね、ここにいる人たちはみんな被告なんですよ」
「本当か!」とKは言った、「じゃみなさんお仲間ってわけだ」
そしてすぐそばにいた、やせた大柄のほとんど白髪といっていい男のほうを向いて、「ここで何を待っておいでですか」と丁重にきいた。
この思いがけぬ話しかけがしかし男をすっかり狼狽させてしまった。男は明らかに世慣れた人物の一人であって、これがほかだったらきっと自制することも心得ていたろうし、これまで大勢の人びとにたいしかち得てきた優越感をこうもたやすく手放しはしなかったろうと思われるだけに、その狼狽ぶりがいっそう痛ましく映じた。ところがここでは彼はそんな簡単な質問にも答えることができなかった、ほかの人びとの顔を見まわしては、みんな自分を助けてくれる義務があるのだ、この助けがなければだれも自分に返事を要求することはできないのだ、とでもいう様子だった。そこで廷丁が歩みよって、男を落着かせ元気づけてやろうとして言った。
「この方はただ何を待っているかとたずねられただけだ。答えたらいいでしょう」
男はどうやら廷丁の声にはなじみがあるらしく、Kがきいたより効果があった。
「わたしが待っているのは――」と彼は言いだして、すぐまたつっかえてしまった。彼がこんなふうに話をきりだしたのは、能うかぎり正確に質問に答えようとしたためらしいが、その先がつづかなかったのだ。待っている者が二、三人近よってきてこのグループを囲んだので、廷丁が言った。
「どいた、どいた、道をあけろ」
かれらは少しあとじさりしたけれども、元の場所までは戻らなかった。そのあいだに質問された男は落着きをとり戻して、かすかな微笑さえうかべながら答えた。
「わたしは一ヶ月前わたしの事件で二つ三つ証拠申請をしました、それで決済を待っております」
「だいぶお骨折りのご様子ですね」とKは言った。
「はい」と男は言った、「なにしろわたしの事件なもので」
「だれもがあなたのように考えるとは限らんでしょう」とKは言った、「たとえばこのわたしも告訴されていますが、証拠申請をしたこともなければ、そのたぐいのことを企てたこともありません、むろんうまくいくよう望んではいますがね。本当にそんなことが必要だと思っておいでなんですか」
「よくはわかりません」と男はまた完全にあやふやになって言った、彼はあきらかにKが自分をからかっていると思ったのだ、そのために本当なら、なにか新しい失敗を犯しやすまいかという怖れから前に言った答をそのままくりかえしたかったのだった、しかしKがじれったそうに見ているので、彼はただこう言うにとどめた、「わたしとしては証拠申請をしたわけです」
「あなたはたぶんわたしが告訴されていると信じてらっしゃらないんでしょうね?」とKはきいた。
「そんなことはありません、信じてますとも」と男は言って少しわきに身をずらしたが、返事からは確信でなくて不安だけがうかがわれた。
「つまりあなたはわたしの言うことを信じてないわけですね」とKはききかえした、そして、男の卑屈な態度に無意識裡に刺戟されていたのか、是が非でも信じこませてやろうというように男の腕をつかんだ。なにも痛い目に会わせようというのでなくごく軽くつかんだだけだったが、それでも男は悲鳴をあげた、まるでKが二本の指でなく灼熱したやっとこでつかんだみたいに。このばかげた悲鳴でKはついに男に厭気がさした。おれが告訴されていることを信じないならますます結構、ひょっとしたらこいつはおれを裁判官とでも思っているのかしらん。そこで別れの挨拶にこんどは本当に強く彼をつかんで、男をベンチにつき戻し、先へ歩きだした。
「被告人はたいていあんなふうに神経質になってるんです」と廷丁が言った。
かれらのうしろでは、男はすでに叫んではいなかったが待っている連中がそのまわりに集まってきて、この幕間劇について問いただしているらしかった。そこへKのほうに監視人が歩いてきた。監視人だということは主にサーベルでそれとわかったのだが、その鞘は少くとも色合いからしてアルミニウム製らしかった。Kはそのことに呆れかえって、手でそれをつかんでみさえした。叫びをききつけてやってきた監視人は何事が起こったのかとたずねた。廷丁は二言三言いって彼を安心させようと試みたが、監視人はこの目でたしかめねばならんと言って、敬礼し、先へ進んだ、痛風のためにしゃっちょこばった足で、せかせかと、大あわてで。
Kはいつまでも監視人や廊下のお仲間にかまけていられなかった、廊下の中程で、ドアのない開口部から右へ曲がれる可能性を見てとくにそうだった。これが正しい道であるかどうかについて廷丁にたずねると、廷丁はうなずき、そこでKは本当にそこを曲がった。たえず廷丁の一歩か二歩さきを歩かなければならぬことが彼にはわずらわしかった、それは少くともこんな場所では、彼が逮捕され連行されていくような外見を呈しかねなかった。それでなんども廷丁が追いつくのを待つのだが、こっちはすぐまたおくれてしまうのだ。ついにKはこんな不愉快に決着をつけようとして言った。
「ここがどんな具合かもうわかった、で、帰ろうと思うんだが」
「まだ全部は見ていませんよ」と廷丁は完全に悪気なしに答えた。
「全部を見たいと思わない」とKは言った、じっさいいくらか疲れも感じていたのだ、「もう帰りたいんだ、出口へはどういったらいいんです」
「まさかもう迷ってしまったんじゃないでしょうね」と廷丁は呆れてきいた、「ここを角までいって、右へ廊下をまっすぐいけばドアがありますよ」
「いっしょに来てくれませんか」とKは言った、「道を教えてほしい、ひとりじゃ道に迷いそうだ、まったくここにはたくさん道があるからな」
「道は一つしかありゃしませんぜ」と廷丁はいまはすでに咎める口調で言った、「もういちどあなたとひっ返すわけにゃいきませんよ、報告しにいかなくちゃならんし、それにいいかげんもうあなたのことで時間潰しをしてしまったからね」
「いっしょにくるんだ」とKはくり返した、これでやっと廷丁の嘘をつきとめたぞというように、前より鋭い口調で。
「そんな大声を出さんでください」と廷丁はささやいた、「ここはどこもかしこも事務所なんだから。一人で帰りたくないんだったら、もうちょっとわたしといっしょに来るか、ここで待っててください、わたしが報告をすませトくるまで。そうすりゃよろこんでまたいっしょに戻ってあげますよ」
「いや、だめだ」とKは言った、「わたしは待ってられない、いますぐいっしょに来てくれ」
Kはそれまで自分がいまいる辺をまだよく見廻したことがなく、まわりにぐるっとある木製ドアの一つが開いたいまになってやっと、彼はそっちに目をやったのだった。娘がひとり、どうやらKの大声をききつけてきたらしく、近づいてたずねた。
「なにかご用でしょうか」
彼女のうしろの遠くの薄暗がりから、もう一人の男の近づいてくるのが見えた。Kは廷丁の顔をみつめた。この男はさっき言ったのじゃなかったか、Kのことなぞかまう人はひとりもいないでしょうと。ところがすでに二人もやってきたのだ、ほんのわずかのきっかけで自分は役人たちの注目をあびてしまった、おそらくなぜここにいるのかと説明を求めることだろう。ただひとつもっともで認められそうな説明は、自分は被告であって、つぎの訊問の日にちをききに来たということだったが、これこそまさに彼がしたくない釈明で、真実ではないだけになおのことそうだった、というのは、彼はただ好奇心からここに来ただけだったからだ、あるいはこれは説明としてはなおさら言いにくいことだったが、この裁判制度の内部も外部同様いやらしいものだということを確かめたい要求から、彼は来ただけだからだ。そしてすでにこの憶測の正しさが証明されたと思ったので、彼はもうこれ以上なかに入りたくなかったのだ、彼はすでにこれまで見たことだけで胸が一杯になっていた。いまはとても、いつドアのかげから現われるかもしれぬ高級役人に対応できるような状態ではなかった、すぐにもたち去りたかった、できれば廷丁といっしょに、しかしできぬなら自分ひとりででも。
しかし彼が黙ってつっ立っているのはさぞ目立つことだったに違いない、事実娘と廷丁は彼のことをまるで、次の瞬間この男の身になにか大きな変化が起こるに違いないからぜひともそれを見のがさずにはおかぬというように、じっと見つめているのだった。そしてドアの開口部にはさきほどKが遠くに認めた男が立っていて、低いドアの鴨居にしっかりつかまって、いらいらした見物人のように爪先だって少しからだをゆすっていた。娘はしかしKのこんな状態は気分が悪いせいだと最初に気がついたようで、椅子を運んできて、きいた。
「腰掛けたいんじゃありませんか」
Kはすぐ腰をおろして、もっとよく支えられるように肘掛けに身をつっぱった。
「目まいがするんですね」と彼女はたずねた。
彼女の顔はいま彼の目の前にあって、それは多くの女がその青春のさかりにだけ持つようなきびしい表情をうかべていた。
「気になさることはありません」と彼女は言った、「ここじゃとくに珍しいことじゃないんです、初めてここに来た人はほとんどみんなそんな発作を起こすんです。ここは初めてなんでしょう? ええ、それならべつにふしぎでも何でもないわね。ここじゃ屋根を太陽が灼いてる、屋根の熱くなった木のせいで空気がよどんで重くなる。この場所はだからとくに事務所に向いてるってわけじゃないんです、ほかに長所だってむろんありますけどね。しかし空気の点では、被告人が大勢行き来する日には、ということはほとんど毎日だけど、もう息もつけないくらい。そのうえここにはいろんな洗濯物まで干されていることを考えれば――間借人に全面的に禁止するわけにもいかないんで――ちょっとばかり気分がわるくなったっておかしくないでしょ。でもしまいにはこの空気にも慣れてしまいますよ。二度か三度通ううちにはあなただってもう胸苦しさなどほとんどもう感じないでしょう。いくらか気分がよくなりましたか?」
Kは答えなかった、こうしてふいに気持ちがわるくなってここの連中の手に引渡されてしまったことが、彼には苦痛でならなかったし、その上気分のわるくなった原因を知らされたいまは状態がよくなるどころかさらにいくらかわるくなっていた。娘はすぐそれに気づいて、Kに新しい空気を吸わせるため壁にたてかけてあった鉤付竿をとり、ちょうどKの頭上にあった外に通じる小さな天窓をこじあけた。しかし煤があまり落ちてきたので娘はすぐまた天窓をしめ、ハンケチでKの手から煤をはらってやらねばならなかった。Kは疲れすぎていて自分ではらうこともできかねる状態だったのだ。彼はできれば出てゆくに充分な体力を回復するまでここに坐っていたかった。かまわないでそっとしておいてくれれば、いっそう早くよくなるに違いなかった。しかし娘はさらに追打ちをかけて言うのだ。
「いつまでもここに坐ってるわけにはいきませんよ、通行人のじゃまになるから――」Kは目顔で、いったいどんな通行人のじゃまになるのかときいた――「よかったらわたし病室までご案内しますけど。ちょっと手伝ってくださらない」と彼女はドアのところの男に言った、男もすぐ近よってきた。しかしKは病室へいきたくなかった、これ以上先へ連れこまれることだけはどうしても避けたかった、先へいけばいくほど事態がわるくなるに違いなかった。そこで、「もう歩けます」と彼は言って立ちあがったが、いままで快適に坐っていたためかからだがふるえた。立ったもののまっすぐ立っていられなかった。で、「やっぱりだめだ」と彼は頭をふりふり、ため息をつきながらまた腰をおろしてしまった。
廷丁のことを思いだした。あの男なら、あんなことを言っていても簡単につれだしてくれるだろうと思ったが、廷丁はすでにとっくにどこかへいってしまっているらしかった。Kは前に立つ娘と男のあいだからすかして見たが、廷丁はどこにも見つからなかった。
「ぼくの考えじゃ」と男が言いだした――ところでこの男はなかなか優雅な服を着ていて、とくにその裾が鋭くとがった長いグレイのチョッキが目立つのだったが――「この人の気分がわるくなったのは結局ここの空気のせいだ、だから病室なんかへつれてくより、そもそもこの事務局から外へつれ出してやった方がおたがいのために一番いいんじゃないの」
「そのとおりです」とKは叫んで、よろこびのあまり男の話のなかに口をはさんだ、「そうすりゃすぐよくなるでしょう、ぼくだってそう弱ってるわけじゃない、ちょっとわきをささえていただくだけでいい、そうご面倒はかけませんよ、長い道のりじゃないんですからね、ドアのとこまでつれてってくだされば、階段のとこで少し休んでるうちにはすぐよくなるでしょう、だいたいいままでこんな発作を起こしたことはないんで、自分でもびっくりしてるくらいですよ。ぼくだって銀行員で事務室の空気には慣れてるんですがね、ここはたしかにいささかひどすぎるようですね、おっしゃるとおり。じゃ、すみませんがちょっとつれてってくれませんか、目まいがするんで、ひとりで立つと気持がわるいんです」そう言って二人が彼の腕をとりやすいように肩をもちあげた。
しかし男は要求に応じないで、両手をポケットにつっこんだまま大声で笑いだした。
「どうだ」と彼は娘に言った、「やっぱりぼくが言ったとおりだったろ。この方はここだからこそ気分がわるくなったんで、ほかならなんともないのさ」
娘も微笑をうかべたが、男がKにきつすぎる冗談を言った罰というように、その腕を指でかるくはじいた。
「しかしきみはどう思ってるかしらないが」と男は相変らず笑って言った、「ぼくは本当にこの人をつれ出す気なんだよ」
「それならいいのよ」と娘は一瞬そのきれいな頸をかしげて言った。
「笑ったからってべつに深くかんぐらないでくださいね」と娘はKの方をむいて言ったが、こっちはふたたび悲しげになっていて、ぼんやり前を見つめ、なんの説明もいらないふうであった、「こちらは――紹介してもいいでしょ?」(男は手の動きでその許しを与えた)――「こちらはつまり案内係なんです。待っている被告人になんでも必要な案内をするわけ、わたしどもの裁判制度は民間ではよく知られているわけでないので、いろいろと案内が必要なんです。彼はどんな質問にでも答えられるのよ、なんなら一度ためしてごらんなさいな。しかしそれが彼の唯一の特色というわけじゃなくて、第二の特色はこの優雅な服装です。わたしたち、つまり役人仲間の考えでは、案内係というのはしょっちゅうしかもイの一番に被告人と接触する役なんだから、第一印象をよくするためにも服装を優雅にしてなくちゃならないというわけ。だからほかの者たちは、わたしを見てもわかるでしょうけど、残念ながらかなり粗末ななりで、流行おくれの服を着ています。服装にお金をつかってもたいして意味がないんです、年中事務局にいるんだし、寝るのもここなのですものね。しかし、いま言ったように、案内係にはしゃれた服が必要だと考えたわけです。ところが役所としては、この点では少しへんなんだけど、そんなお金を出してくれないので、わたしたちが募金をして――被告人も寄付してくれました――彼のためにこのきれいな服や何やかや買ったんです。こうしていい印象を与える準備はすっかりととのったっていうのに、この人ったらすぐ笑いだして万事だめにしてしまい、みなさんをびっくりさせるんです」
「そういうわけですな」と男はあざけるように言った、「しかしぼくにわからないのは、きみ、なぜきみはこの人にわれわれの内幕を洗いざらいしゃべるのか、いや正確に言えば押しつけているのかってことだね、なぜって彼はそんなことちっとも知りたがってないんだからね。見たまえ、坐ってたって彼は自分の事件で頭がいっぱいなんだから」
Kは反駁する気にさえなれなかった、娘が話したのは善意から出たことだろう、彼の気をまぎらわせようと思ってか、気をとりなおす機会を与えてやろうとしたのだろう、しかしそのやり方が間違っていた。
「この方にあなたの笑ったわけを説明しなくちゃなりませんでしたからね」と娘は言った、「あれじゃ侮辱したも同然です」
「彼はもっとひどい侮辱でも許すだろうと思うね、最後に彼を外へ連れだしてやりさえすれば」
Kは何も言わなかった、目をあげさえしないで、二人が自分のことをまるで事件の話でもするように話しているのを黙ってきいていた、その方が快よくさえあったのだ。しかし突然彼は一方の腕に案内係の手を、もう一方に娘の手を感じた。
「それじゃいきますか、弱虫さん」と案内係は言った。
「二人とも、どうもありがとう」とKはこの不意打ちにうれしくなって言った、そしてゆっくりと立ちあがり、自分で二人の手を一番支えてもらいたいところへもっていった。
「よそから見たら」と三人が廊下に近づいたとき娘は小声でKの耳にささやいた、「さぞわたしが案内係の印象をよくしたくてたまらないように見えるでしょうけど、でもひとにどう思われようとわたしは本当のことを言うつもりよ。決して冷血漢じゃないんです。病気の被告人を外につれ出すなんて彼の役目じゃないのに、現にこうやってそれをしてるでしょ。もしかするとわたしたちに冷血漢なぞ一人もいなくて、みな他人の役に立ちたがっているかもしれないのに、裁判所の役人というだけでともすれば冷たくて他人のことなぞかまわない人間に見えがちなのよ。まったく情けなくなるわ」
「ここらで一休みしたほうがよかありませんか」と案内係が言った。
三人はすでに廊下の、しかもさっきKが話しかけた男の目の前に来ていた。Kはほとんど彼にたいして恥じた。さっきはこの男の前にしゃんと立っていたのに、いまは二人に支えてもらわねばならず、帽子は案内係の手の上でぶらぶらしている、髪型は乱れている、髪の毛は汗まみれの額にくっついている。しかし被告のほうはそんなことは少しも目に入らぬふうだった、彼の頭ごしにあらぬ方を見ている案内人の前にうやうやしげに立って、自分がここにいることをわびようとするばかりだった。
「今日はわたしの申請が決済されるわけにゆかぬことは」と彼は言った、「よく存じてます。それなのにこうして来ましたのは、ここで待ってるぶんにはさしつかえあるまいと、そう思ったもんですから。今日は日曜だし、わたしにはひまがあるし、ここならお邪魔になるまいと思って」
「そんなに言訳をする必要はないんです」と案内係は言った、「あなたの心遣いはじっさい賞賛に値する、たしかにあなたはここで不必要に場所ふたげはしてます、しかしだからといってわたしは邪魔にならぬかぎりあなたを追立てる気はありません、あなたの件の成行きを見守っていて結構です。恥知らずに自分の義務をないがしろにしている連中を見るたんびに、あなたのような人にたいしては我慢せにゃならんと思いますよ。どうぞ掛けてください」
「被告人にたいするしゃべり方をじつによく知ってるわ、この人は」と娘がささやいた。
Kはうなずいたが、そのとき案内係がまた彼にたずねたのではっとなった。
「ここらで一休みしてきますか?」
「いや」とKは言った、「休みたくありません」
できるかぎりきっぱりとそう言いきったものの、本当はここで腰をおろしたらさぞ気持がいいだろうと思われた。まるで船酔いだった。自分がひどく難航している船の上にいるような気分だった。波が板壁にぶつかる、襲いかかる海水のように廊下の奥からごうごうという音がする、廊下がぐらっと揺れる、両側に坐った被告たちが上ったり下ったりする。そんな気分でいるだけに、自分をつれてゆく娘と男の落着きはらった様子がなおのこと理解できなかった。彼は完全にかれらに引きわたされてしまっていた、かれらに手を離されたら彼は板切れのように倒れたに違いなかった。かれらの小さな目から鋭い視線があっちこっちに走った、Kは二人の均斉のとれた歩調を感じていたが歩調をともにするわけにはいかなかった、いま彼は一歩一歩まるで運ばれてゆくような状態だったのだ。ようやく彼は二人が何か話しかけているのに気がついたが、何を言ってるのかわからなかった、彼にはただ建物全部をみたす騒音だけがきこえた、その騒音を貫いてサイレンのようなわけのわからぬ高い音がひびいているようであった。
「もっと大きな声で」と彼は頭をたれたままささやき、すぐそれを恥じた、というのは、彼の耳にはきこえなくても二人が充分に大きな声で話しかけていることがわかったからだ。そのときついに、目の前の壁が裂けたかのように、新鮮な空気が彼めがけて流れてきた、そして横でこう言うのがきこえた。
「最初はあんなに出てゆきたがったくせに、いまはここが出口だと百ぺん言ってやったって動こうともしないんだ」
Kはそれで自分が娘のあけてくれた出口のドアの前に立っていることに気づいた。するとからだじゅうの力が一挙に戻ってきて自由の前触れを味わうような気がし、彼はすぐに階段を一歩踏みだした、そしてその場から、彼のほうに身をかがめている同伴者たちに別れをつげた。
「どうもありがとう」と彼はくり返し言った、なんども二人の手を握りしめて、事務局の空気に慣らされた二人が、階段口からくる比較的新鮮な空気にさえ耐えがたそうにしているのに気づいて、はじめてその手を離した。かれらはほとんど答えることもできかねる有様だった、もしKがすばやくドアをしめなかったら娘のほうは転落したかもしれぬ。
Kはそれからまだ一瞬そこに立ちどまったまま、懐中鏡をとりだして髪をなおし、すぐ下の踊り場にころがっている帽子――案内係が投げとばしたらしい――を拾って、それから階段をかけおりた。あまりにさわやかで、大きく跳躍さえできるので、彼はこの急激な変化がこわくなったほどであった。いつものしっかりした健康状態のときでさえ彼はこんなふいの変化を味わったことがなかった。からだのほうが革命を起こそうとでもしたのだろうか、彼が古い訴訟に苦もなく耐えたので、新しい訴訟でもひき起こそうとしているのか。近いうちに医者にいこうという考えも、彼は完全には捨てたわけではなかったが――その点では決心がついた――今後は日曜の午後はともかくもっとましなことに使おうと思った。
[#改ページ]
第四章 フロイライン・ビュルストナーの女友達
最近Kはビュルストナーとほんの二言三言でも口をきくことができなかった。いろんなやり方で彼女に近づこうと試みてみたが、いつも巧みに逃げられてしまうのだ。彼は事務所から戻るとすぐ部屋にひきこもって、明りもつけず、ソファに坐りこんだまま控室の方をうかがうことばかりしていた。女中が通りかかって、だれもいないと思って部屋のドアをしめてしまうと、しばらくして彼は立ちあがってそれをまたあけた。朝なぞいつもより一時間も早く起きて、ひょっとするとビュルストナーが事務所にいくとき二人きりで会えるかもしれぬと狙ってもみた。が、どんな試みも一つとして成功しなかった。そこで彼は彼女の事務所と住居と両方に手紙を出して、もういちど彼のふるまいを釈明しようと試みた。そのなかで彼はどんな償いにも応じる用意があると言った、決してそちらの定める限界は踏みこえないと約束した、とくに、あらかじめ彼女と相談しないことにはグルーバッハさんにも何とも言いようがないのだから、ぜひ一度彼女と話しあう機会を与えてくれと頼んだ、最後に自分は次の日曜には一日じゅう部屋にいて彼女からの合図を待っていると伝えた、彼の頼みが充たされる見込みを与えてくれる合図にしろ、あるいはせめて、彼がこんなに万事彼女の意に従うと約束しているにもかかわらず、なぜ彼女がその頼みをきくことができないかを説明してくれるだけの合図でも、と。手紙はいずれも戻ってこなかったが返事もこなかった。そのかわりに日曜日には、これ以上はっきりしたものはないというしるしがあらわれた。朝早くからKは鍵穴ごしに控室に特別な動きがあるのに気づいていたが、やがてその理由がわかった。フランス語の女の教師――ついでながら彼女はドイツ人で、モンタークという、虚弱そうな、蒼白い、少しびっこの娘だった――これがいままではちゃんと個室に住んでいたのにビュルストナーの部屋にひっ越したのだ。何時間ものあいだ彼女が足をひきずって控室を行き来するのが見られた。なんどでもまた下着とか小さな敷き物とか本とかの忘れ物が見つかるので、わざわざそれをとりにいっては新しい部屋にはこんでこなければならないのだ。
グルーバッハ夫人がKに朝食を運んできたとき――彼女はKを激怒させてしまって以来どんな些細なことでも女中まかせにしなかったのだ――Kはこの五日間ではじめて彼女に話しかけずにいられなかった。
「今日はまたどうして控室があんなに騒々しいんです」と彼はコーヒーを注ぎながらきいた、「やめさせるわけにいかないんですか。なにもわざわざ日曜日に片付けものをしなくてもよさそうなものだ」
Kはグルーバッハ夫人のほうに顔をあげなかったけれども、彼女がほっとしたように息をついたのがわかった。Kのこんな手きびしい質問さえも彼女は許し、あるいは許しの始まりとうけとったのだ。
「片付けものをしてるんじゃないんですよ、Kさん」と彼女は言った、「モンタークさんがビュルストナーさんのとこへ移るんで、ご自分の物を運んでるんです」
彼女はそれ以上なにも言わずに、Kがそれをどう受けとるか、もっと話をしてもさしつかえないものかどうかうかがっていた。Kはしかし彼女を試していたので、考えぶかげにスプーンでコーヒーをかきまわし、黙っていた。それから顔をあげて言った。
「先だってのビュルストナーさんのことでの疑いはもう晴れたんですか」
「Kさん」とまさにこの質問をこそ待ちうけていたグルーバッハ夫人は叫んで、組みあわせた手をKのほうにさしだした、「あなたはこのあいだわたしがたまたま口にしたことをひどくむずかしくとられたんです。わたしにはこれっぽっちだって、あなたなり他のどなたなりを傷つける気はなかったんです。あなたはもう長いことわたしを見て知ってらっしゃるんだから、Kさん、それは信じていただけるはずです。ここいく日かわたしがどんなに悩んだか、あなたにはおわかりにならないでしょう。わたしがわたしの間借人を中傷するなんて! だのに、Kさん、あなたはそれを本気にしたんです! そしておっしゃったでしょ、あなたを追い出すがいいって。あなたを追い出すだなんて!」
最後の叫びはすでに涙でつまってしまい、彼女はエプロンを顔にあて声を出してすすり泣いた。
「泣かないでください、グルーバッハさん」とKは言った、そして窓から外に目をやったが、頭の中にはビュルストナーのことと、彼女が知らぬ女を自分の部屋に迎え入れたことしかなかった。
「泣かないでください」と彼はもう一度言った、部屋のなかをふり返るとグルーバッハ夫人が相変らず泣いていたのだ。「あのときだって悪気があって言ったんじゃないんです。わたしたちおたがいに誤解しあってただけですわ。こんなこと昔からの友達のあいだでも起こることでしょ」
グルーバッハ夫人はKが本当に和解したのかどうか見とどけるためにエプロンを目の下にずらした。
「まあそういうことですね」とKは言って、どうやらグルーバッハ夫人の態度から推測するに例の大尉はなにも洩らさなかったようだったので、あえてさらに言い足した、「本当にあなたは、よその女性のことでぼくがあなたと仲たがいするかもしれぬなんて思ってるんですか」
「そういうことなんですよ、Kさん」とグルーバッハ夫人は言った。しかしいくらか気がゆるんだとたんに、すぐまたへまなことを言ってしまったのが彼女の不運だった、「わたししょっちゅうこう思ってたんですよ、なぜKさんはあんなにまでビュルストナーさんのことを気にするんだろうって。なぜ彼女なんかのことでわたしとけんかするんだろう、彼に一言でもひどいことを言われただけでわたしが眠れなくなるってことを知ってらっしゃるのにって。わたしがあの人のことで言ったことは全部、この目で見たことばかりなんですよ」
Kはそれにたいしては何も言わなかった、本来なら最初の一言で彼女を部屋から追い出さねばならぬところだったろうが、彼はそうしようとしなかった。彼はただコーヒーを飲んで、グルーバッハ夫人に出すぎたふるまいをしたと感じさせることで満足した。部屋の外でまたモンタークの控室を横切る、ひきずるような足音がきこえた。
「聞えるでしょうが」とKは手でドアのほうを示しながら言った。
「ええ」とグルーバッハ夫人は言ってため息をついた、「わたしも手伝うつもりだったし女中にも手伝わせようと思ってたんですけど、あれは強情な人で、なんでもみなひとりでやらないと気がすまないらしいんです。ビュルストナーさんだって変ってますよ。わたしなんかモンタークさんに部屋を貸しているだけでもわずらわしい気がしてるっていうのに、ビュルストナーさんは自分の部屋に彼女をひきいれようってんですからね」
「あなたには関係ないことでしょう」とKは言って、カップのなかの砂糖をすりつぶした、「それであなたが損をするわけじゃあるまいし」
「ええ」とグルーバッハ夫人は言った、「そのこと自体はむろん大歓迎です、それでお部屋が一つ空いてそこへ甥の大尉を入れることができますものね。わたしはずっと気がかりでならなかったんですよ、ここいく日かあれをあなたのとなりの居間に住まわせておかねばならなかったんで、そのあいだあなたのお邪魔をしたんじゃないかって。あんまり人様のことを気にするほうじゃありませんからね」
「なにを思いつかれることやら」とKは言って立ちあがった、「そんなことを言ってるんじゃないんですよ。どうやらあなたはぼくのことを神経過敏とでも思ってるようですね、モンタークさんが歩きまわるのを――や、また戻ってきた――いくらぼくが我慢ならないからと言って」
グルーバッハ夫人はもう手の施しようがないような気がした。
「じゃ、Kさん、引越しの残りの部分は延期するように言いましょうか。なんならすぐにでもそう言いますけど」
「だけどあなたとしては彼女をビュルストナーさんのとこへ引越させたいんでしょうが」とKは言った。
「ええ」とグルーバッハ夫人は言ったものの、Kの言う意味が完全にのみこめたわけではなかった。
「それだったら」とKは言った、「あの人だって荷物を運ばなければならないわけだ」
グルーバッハ夫人はただうなずいてみせた。この無言のまま途方にくれているさまははた目には傲慢としか見えなかったから、ますますKを苛立たせた。彼は部屋の窓とドアのあいだをいったりきたりし始め、そのためにグルーバッハ夫人から立ち去る機会を奪った、さもなければ彼女はたぶんそうしていたろうに。
ちょうどKがまたドアのところまで来たとき、ノックの音がした。女中だった。モンタークさんがKさんにちょっとお話したいと言っている、食堂でお待ちしているから来ていただけまいかという。Kは考えぶかげに女中の言葉に耳を傾けていて、それからほとんど嘲るような目つきで、驚いているグルーバッハ夫人のほうをふりむいた。その目は言っているように見えた、Kはモンタークのこの呼び出しをとうの前から予測していたと、そしてこれはこの日曜日の朝以来彼がグルーバッハ夫人の間借人たちにさんざん味わわせられたいやな思いに、はなはだふさわしいものだと。すぐ行くという返事をもたせて女中を帰してから、彼は上着をかえに洋服ダンスのところにいった、そして、厄介な人だと小声でこぼしているグルーバッハ夫人には返事のかわりにただ一言、朝食の食器を片づけてくださいと頼んだ。
「でもほとんど何もめしあがってないのに」とグルーバッハ夫人は言った。
「いいんです、下げてください」とKは叫んだ、そこらのすべてのものにモンタークのにおいがしみこんでいるような気がして、いやでいやでならなかったのだ。
控室を通ったとき彼はビュルストナーの部屋のしまったドアを見つめた。しかし彼が来いといわれたのはそこではなくて食堂だった。そのドアを彼はノックもせずにおしあけた。
そこは非常になが細い、窓が一つしかない部屋だった。ドア側の角にはやっと戸棚を二つ斜めに置けるだけの余地しかなかったし、のこりの空間は全部ながい食卓で占められていた。しかもその食卓がドアの近くから大きな窓のすぐそばまで達しているために、窓にはほとんど手がとどきかねるほどであった。食卓にはすでに食器が並んでいて、日曜にはほとんど全部の間借人がここで昼食をとるために、それはかなりの人数分であった。
Kが入ると、モンタークは窓ぎわから食卓の一方にそってKのほうに歩いてきた。ふたりとも無言で挨拶をかわした。それからモンタークがいつものように異常に頭をそらせて言った。
「わたしのことをご存じかどうか知りませんけど」
Kは目を細めて彼女を見つめた。
「いや」と彼は言った、「あなたはもうかなりながいことグルーバッハさんのとこにいる方ですからね」
「でも、下宿のことなぞあまり気になさらない方だと思ってましたけど」とモンタークは言った。
「そうです」とKは言った。
「おかけになりませんか」とモンタークは言った。
かれらはどっちも食卓の一番はしにあった椅子をひき出して、むかいあって腰をおろした。しかしモンタークはすぐまた立ち上った、というのはハンドバッグを窓縁に置き忘れてきたので、とりにいかねばならなかったのだ。彼女は部屋中をずるずる足をひきずっていった。それからハンドバッグをかるく揺すりながら戻ってくるとすぐ言った。
「友だちの依頼をうけてあなたに二言三言お話したいんです。本当は彼女自身くるつもりだったんですけど、今日は少し気分がわるいので、その点は許していただいて、わたしの言い分をきいてください。仮に彼女がこられたとしてもわたしが言うのと同じことを言うだけでしょう。いや逆にわたしのほうがたくさん言えるかもしれませんね、わたしはどちらかといえば局外者の立場ですから。あなたもそう思うでしょう?」
「で、何をおっしゃろうってんです」とKは答えたが、内心ではモンタークの目がたえず自分の唇にそそがれていることにうんざりしていた。彼女はそうすることで彼がこれから言おうとすることにたいし、あらかじめ支配力を手にいれておこうと思っているんだろう、「つまりビュルストナーさんはご自分の口からはっきり返事をするのはいやだというわけですね、ぼくはそう頼んでいたんですが」
「そういうことです」とモンタークは言った、「あるいはまったくそうじゃないかもしれない、あなたはばかにはっきりと言う人ね。一般的な言い方をすれば、返事をすることが肯定されたわけでも、その反対が起こったわけでもありません。ただ返事を不必要とみなすことだって起こりうるわけで、この場合がそうだというわけです。でもご意見をうかがったんで、いまわたしもはっきりと言うことができる。あなたはわたしの友だちに文書ないし口頭での話し合いを要求されたわね。ところがわたしの友だちはこの話し合いが何のことか知ってる、と少くともわたしはそう考えないわけにはいかないんです、で、わたしにはわからないけどいくつかの理由から、彼女は仮に話し合いが実現したとしてもそんなものは誰のためにもならないと信じたわけです。ついでに言っときますけど、わたしがこの話を聞いたのはついきのうのことで、それもちらっと聞いただけです、そのとき彼女はこう言ってた、いずれにしろあなただってこんな話し合いをそう重大視してるわけではなかろう、なぜってあなたはほんの偶然からそんなことを思いついたに違いないし、だからとくに説明しなくとも、自分で、たとえいますぐじゃないとしても、こういったこと全体の無意味さに気がつくだろうって。わたしはそれに答えた、それはそうかもしれない、しかし事を完全に明らかにするためには彼に、つまりあなたにはっきりと返事をしたほうがよかないかって。なんならわたしがその役目を引きうけてもいいって言うと、わたしの友だちは少しためらってから承諾した。つまりわたしはあなたの意にもそうようにふるまったと信じてますよ、なぜってどんな小さな事柄でもそこにほんのわずかでもあやふやな点があれば悩まされるもんですからね、だからこの場合みたいにすぐ片がつく場合にはさっさとそうしたほうがいいんです」
「そりゃご苦労さま」とKは即座に言った、ゆっくりとたちあがってモンタークを見、それからずっと食卓に目を走らせていって、それから窓から外を見――向い側の建物が陽をあびていた――ドアのほうに歩いていった。
モンタークはまだ完全には信用ならないというように二、三歩彼を追った。ドアの前でしかしふたりともあとじさりしないわけにいかなかった、というのはそのときドアが開いて例のランツ大尉が入ってきたのだ。Kはこの男をこんな間近に見るのは初めてだった。これはよく陽灼けした肉づきのいい顔の四十がらみの大男だった。彼はKもふくめて二人にかるく会釈をし、次にモンタークに近づいてうやうやしくその手にキスした。そういった動作にはなかなか世慣れたものがあった。モンタークにたいする彼の丁重な態度は、彼女がKから受けた扱いと好対照をなしていた。にもかかわらずモンタークはKに腹を立てているわけではないらしかった、というのは、彼女は彼に大尉を紹介しようとさえした、とKには見えたからだ。
しかしKは紹介されたくなかったし、仮に紹介されたところで、大尉にたいしてもモンタークにたいしても愛想よくすることなぞできそうになかった。そのうえ、いまの手へのキスが彼女を一つのグループに結びつけてしまった、外見は極度の無邪気と無欲をよそおいながら結局は自分をビュルストナーからひき離したがっている仲間に。Kはそのことを見抜いたと思ったばかりでなく、モンタークが実はかなり巧みに両刃的な手段を選んだことも認識していた。彼女はKとビュルストナーとの関係の意味を誇張してみせた、なかんずく彼が求めた話し合いの意味を誇張してみせて、しかも同時にそれを、あたかもすべてを誇張しているのはKのほうだという具合にしむけようとしていた。いまにがっかりさせてやるぞ、おれは何も誇張なんかしていない、とKは思った。彼はビュルストナーがただのタイピストであって、彼に長くは抵抗できないはずだということをもよく知っていた。ビュルストナーのことでグルーバッハ夫人から聞いていたことを、彼はそのさいわざと考慮にいれないでいた。そういったことをあれこれ思いめぐらしながら、彼はろくすっぽ挨拶もせずに部屋を出た。すぐ自室に帰るつもりだったが、背後の食堂からモンタークの小さな笑い声を耳にすると、これはひょっとすると大尉もモンタークも二人ともびっくりさせてやることができるかもしれぬぞと思いついた。彼はあたりを見回し、どこかまわりの部屋から邪魔が入りやしないかと聞き耳をたてた。どこもひっそりしていた。わずかに食堂の話し声と、台所に通じる通路からグルーバッハ夫人の声がきこえてくるだけだった。絶好のチャンスらしかった。Kはビュルストナーの部屋のドアまでゆき、軽くノックした。何の反応もなかったのでもう一度叩いたが、相変らず何の返答もなかった。眠っているのかな? それとも本当に病気なのかな? それともこんなにそっとノックするのはKのほかにないと考えて居留守をつかっているのか? Kはてっきり彼女が居留守をつかっているものとおもいこんだ。そして前より強くノックし、いくら叩いても何の効果もなかったのでついに、なにかひどく不当でしかも余計なことをしているという感情もなくはなかったが、用心深くそっとドアをあけた。部屋の中にはだれもいなかった。そればかりでなくそこにはもうかねてKの知っていた部屋を思いださせるものはほとんどなかった。壁にはいまはベッドが二つ並んでいた、ドア近くの三脚の椅子には衣類だの洗濯物が山と積まれ、衣装戸棚はあいたままだった。食堂でモンタークにお説教をきかされているあいだにビュルストナーは外出してしまったものらしかった。そのことでKはしかしそれほど狼狽しなかった。かねてビュルストナーにそうやすやすと会えるものとは思っていなかったし、こんなことをしたのも元はといえばモンタークにたいする反撥からだったのだ。ただそれだけに、またドアをしめ、食堂のあいたドアのところでモンタークと大尉が立話しているのを見たときは、なにやらひどくつらい気がした。おそらくかれらはKがドアをあけたときからそこに立っていたに違いなかった。Kを観察している気配なぞみせないようにして、低声で話をかわしながらKの動きを目の端で追っていたに違いないのだ、ひとがおしゃべりしながらまわりに目を向けるときのあの気のない目付きで。その目付きはしかしKにはひどく重苦しく感じられ、彼は壁ぞいに自室に戻ろうと急いだ。
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第五章 苔刑吏《ちけいり》
それからまもなくのある晩、Kが彼の事務室と中央階段をへだてる廊下を通りかかると――この日は彼が最後まで居残り、ほかには発送部で二人の小使が電球の小さな光の輪のなかで働いているだけだった――あるドアのかげからうめき声がきこえてきた。のぞいてみたことはないがいままで漠然と物置部屋と思っていたところだった。彼はびっくりして立止り、聞き違えでないかどうか確かめるためもう一度耳を澄ました――しばらく静かだった、それからふたたびうめき声がした。――はじめ彼はひょっとして証人が必要になるかもしれぬと思い小使の一人を呼ぼうとしかけたが、抑えがたい好奇心に駆られてすぐドアをあけてしまった。思っていたとおりそこは物置場だった。いらなくなった古い印刷物や、ひっくりかえった空の陶製インク瓶が入口のうしろに積まれていた。部屋のなかには、天井が低いのでかがみこんで、三人の男がいた。棚に固定されたロウソクがかれらを照らしていた。
「きみたちそんなとこで何してるんだ」
興奮のあまりあわてて、しかし声を抑えてKはたずねた。最初に目をひいたのは明らかに他の者を牛耳っている一人の男で、そいつは一種の黒い革服を着て首から胸許までと両の腕をむきだしにしていた。彼は返事をしなかった。しかし他の二人が叫んだ。
「あんた! あんたが予審判事におれたちの苦情を言ったりしたもんだから、こうして苔で打たれる羽目になったんだよ」
言われてようやくKは二人が本当に監視人のフランツとヴィレムで、第三の男がかれらを打つために苔を手にしているのに気がついた。
「いや」Kは言ってかれらを見つめた、「苦情を言ったわけじゃない、ぼくの部屋で起こったことを話しただけだ。それにきみたちだって非の打ちどころのない振舞ばかりしてたわけじゃないだろう」
「あんた」とヴィレムが言い、フランツのほうは彼のかげで第三の男から身を守ろうと試みていた、「おれたちの給料がどんなに悪いか知っていたら、あんただっておれたちについてもっとましな判断をしてくれたろうよ。おれは家族を養わなきゃならないし、ここにいるフランツは結婚しようとしてた、でも世間並にゆたかになろうといくらもがいても、働くだけじゃどうにもならないんだよ、それこそ身を粉にして働いたって。それであんたの上等な下着に目がいったってわけだ、監視人がそんなことをするのはむろん禁止されてるし、たしかによくなかったよ、しかし監視人が下着をものにするのはしきたりだった、これまでずっとそうやってきたんだ、嘘じゃないよ。それに逮捕されるような運の悪いやつにとってそんなものをとっといて何の役にたつか、わかるだろ? とはいってもむろんそのことを公けにされれば罰をうけるにきまっているが」
「きみがいま言ったようなことは知らなかったし、ぼくは決してきみたちの処罰を要求したわけじゃないんだ。ぼくは原則を問題にしただけだよ」
「フランツ」ヴィレムはもう一人の監視人のほうを向いた、「この人はおれたちの処罰を要求したりしなかったって、おれの言ったとおりだろ? いま聞いたとおりだ、おれたちが罰せられなけりゃならないなんて、この人は知りもしなかったんだ」
「こんなおしゃべりに乗せられるんじゃないぞ」第三の男がKに言った、「罰は正当でもあれば免れるわけにもいかないのだ」
「彼の言うことは聞かないでくれ」とヴィレムが言って中断したのは、一打ちうたれた手をさっと口に持ってゆくためだった、「おれたちが罰をうけるのはあんたが訴えたりしたためなんだ。さもなけりゃたとえしたことを知られたって、おれたちに何も起こるはずがなかったんだ。そんなのが正義だなんて言えるかね? おれたちふたり、なかんずくおれは監視人として長いこと立派にやってきた――あんただって役所の観点に立てばおれたちがよく監視したってことは認めなければなるまい――昇進する見込みだってあったし、だからあんなことさえなけりゃこいつみたいにまもなく苔刑吏にだってなれたはずなんだ。こいつときたらまったく運のいいやつでだれからも告発されたことがなかった、実際またあんな告発なんてめったに起こるものじゃないんだがね。だがこうなっては万事休す、おれたちの人生もおしまいだ、これからは監視人なぞよりもっと下っ端の仕事をやらされることだろう、しかもそのうえいまこのおっそろしく痛い苔をくらってさ」
「苔ってそんなに痛いものなのかね?」
Kは言って、苔刑吏が目の前で振っている苔をとっくり目でたしかめた。
「いずれ素っ裸にひんむかれることになるのさ」とヴィレムが言った。
「そういうことか」Kは言ってしげしげと苔刑吏を見つめた。船乗りのように陽灼けした、野性的で生きのいい顔立ちの男だった。
「ふたりの苔打ちを免じてやる可能性はないのかね」彼は男にきいてみた。
「ないとも」と苔刑吏はうすら笑いをうかべながら頭をふった。そして監視人たちには、「さあ、脱げ!」と命じておいて、Kにむかってさらに言った。
「こいつらの言い分を全部が全部信じちゃいけないよ、苔がこわくてもういくらか頭がおかしくなっているからな。たとえばこいつだが」と彼はヴィレムを指した――「やつが出世の見込みについて話したことなぞまるで噴飯物なんだ。見ろ、こいつの肥えていること――最初の何発かはみな脂のなかに消えてしまいそうだ。――なんでこんなに肥えたかわかるかね? こいつはすべての逮捕者の朝食を平げてしまう癖があるんだよ。あんたの朝食も食われたんじゃないかい? やっぱりおれの言ったとおりか。だがこんな腹をした男は絶対に苔刑吏なぞにはなれない、金輪際なれっこないんだ」
「そういう苔刑吏だっているさ」とズボンのバンドをゆるめていたヴィレムが主張した。
「こら」と苔刑吏は言って、相手が縮みあがるくらい強く首筋を苔で打ちすえた、「おまえは人の話なぞ聞かないでさっさと服を脱ぐんだ」
「かれらを放してくれればたっぷりお礼ははずむがね」
Kは言って、あらためて苔刑吏の顔は見ずに――というのは、こういった取引はたがいに目を俯せたままするのに限るから――そっと財布をとりだした。
「そうやっておいてあんたは」と苔刑吏は言った、「大方こんどはおれを告発して、おれにも苔をくらわせようというんだろう。だめだ、だめだ!」
「冷静に考えてくれ」とKは言った、「もしこの二人が罰せられるのをぼくがのぞんだんだったら、いまさら金を出して放してやろうとするわけがないじゃないか。あっさりドアを閉めて、これ以上何も見ない聞かないでさっさと帰ってしまえばすむことだ。ところがそうはしないで本気でかれらを逃がしてやることを考えている。もしかれらが罰せられることになる、罰せられるかもしれぬと気づいていたら、ぼくは決してかれらの名を言ったりしなかったろうね。というのはぼくはかれらに罪があるとは思っていないんだから。罪があるのは組織だよ、上の役人たちにこそ罪があるんだ」
「そのとおりだ!」と監視人たちは叫んで、すでに裸になった背中にたちまち一撃をくらった。
「きみのこの苔の下にいるのがもし上級裁判官だったら」とKは言いながら、またしても振りあげられかかった苔を押えた、「きみがなぐるのをおそらく妨げはしない、それどころか逆にきみがいいことに励むように金まで出していただろうよ」
「あんたの言うことは本当らしくきこえる」と苔刑吏は言った、「しかしおれは買収なんかされないぜ。おれはなぐるのが役目だからこうしてなぐるまでだ」
監視人フランツはそれまでたぶんKの口出しがいい結果を生むと期待してだろう、かなり控え目にしていたのだったが、いまやズボン一つという格好のまま戸口までにじり寄り、跪いてKの腕にすがりついたままささやいた。
「二人いっぺんに救いだすことができないんだったら、せめておれだけでも逃がすようにやってみてくれないか。ヴィレムはおれより年上だし、どんな点でもおれより鈍い、それにやつは二、三年前にも軽い苔刑をくらったことがあるんだ、おれはまだそんな不面目な目に会ってないし、なにをするにしろみなヴィレムに言われるとおりにしただけで、良きにつけ悪しきにつけ先生株はあいつなんです。下の銀行の前で婚約者が成行きいかんと待ってるというのに、これじゃみじめすぎて恥ずかしいよ」
こう言って彼はKの上着で涙に濡れた顔を拭いた。
「これ以上待てんぞ」と言うなり苔刑吏は苔を両手でつかんでフランツに打ちおろした。ヴィレムのほうは隅っこにうずくまったまま顔を向けることさえできずにこっそり様子をうかがっている。フランツの発した叫びが上った。切れ目も変化もなく、とても人間ののどから出たものとは思えぬ、拷問にかかった楽器からでも出たような叫びであった。声は廊下じゅうにひびいた。建物全体にきこえたに違いなかった。
「わめくな」とKは自分を押さえきれずに声をあげ、小使がやってきそうな方角を緊張して見守りながらフランツをついた。強くではないが正気を失った男を倒すには充分だったらしく、フランツは倒れ痙攣しながら床を両手でかきむしった。だがそれでも打擲《ちょうちゃく》を免れるわけにはいかないで苔は倒れた男を狙い、ころげまわるあいだも苔の先端が規則正しく振りあげられ振りおろされた。すでに遠くに小使の一人が姿を現わし、二、三歩遅れて二番目のが現われた。Kはすばやくドアを閉め中庭に面した窓に歩みよってその一つを開けた。叫びは完全に聞えなくなっていた。小使たちを近づけまいとして彼は叫んだ。
「わたしだよ!」
「今晩は主任さん」とむこうでも叫び返した、「何かあったんですか?」
「いやなにも。中庭で犬が吠えただけだ」とKは答えた。それでも小使が動こうとしなかったのでさらにつけ加えた、「きみたちは仕事をしていいんだよ」
それ以上小使との話しに巻込まれまいとして彼は窓から身をのりだした。しばらくして廊下に目をやるとかれらはすでに消えていた。Kはしかしなお窓ぎわにとどまっていた。物置部屋にゆく勇気もなかったし家へ帰る気にもなれなかった。目の下にあるのは小さな四角い中庭だった。まわりにはずらっと事務室が並んでいるがどの窓ももう真暗で、最上階の窓にだけ月がうつっていた。Kは目をこらして中庭の隅の暗がりを見つめ、そこに数台の手押し車が乱雑に置かれているのを認めた。苔打ちをやめさせられなかったことが彼を苦しめたが、成功しなかったのは彼の責任ではなかった。もしフランツが悲鳴をあげさえしなかったら――なるほどたしかに痛くはあったろう、しかしひとには我慢しなければならぬ決定的瞬間というものがあるのだ――やつが悲鳴をあげさえしなければおれにはまだ苔刑吏を説得する手段が見つけだせていたはずだ。少くともその可能性は大いにあった。下級役人階級全体が雲助だとしたら、なかで最も非人間的な役目を持った苔刑吏だけがなぜその例外であるはずがあろう。紙幣を見せたとき彼の目が輝いたのは充分に見てとれた。彼が苔打ちに精出し始めたのは明らかに賄賂の額を少しでもつりあげるためだったのだ。おれは本気で監視人たちを逃がしてやろうと思っていたのだから、金惜みするはずはなかった。すでにこの裁判組織の腐敗との戦いを始めてしまった以上、こういったことにも手を染めるのは当り前なのだ。が、フランツが悲鳴をあげ始めたあの瞬間に、当然ながらすべて終ってしまった。小使やひょっとしてそのほかの連中までがやってきて、おれが物置部屋の連中とかけあっているところをのぞかせるわけにはいかないではないか。それほどの犠牲をだれだっておれに要求する権利はない。おれだってもしそれまでにするつもりがあったら、自分から裸になって監視人の身替りになると苔刑吏に申し出たほうが事はもっと簡単だったのだ。とはいえ、この身替りを苔刑吏はきっと受入れなかったに違いない。そんなことをしても何の利得にもならないばかりか、彼の義務をひどく損う、そう、たぶん二重に損う結果になっただろうからだ。なぜといっておれが訴訟中であるかぎり、裁判所のすべての吏員にとっておれは損ってはならぬ者だからだ。むろんこの場合には特別の規定が適用されたかもしれなかったが。いずれにしろおれにはドアを閉める以外には手がなかったのだ、むろんそうしたからといって今だって自分が危険を完全に免れたわけではないのだが。最後にフランツをつきとばしてしまったことは遺憾だが、これは興奮していたということで言訳がたつだろう。
遠くに小使たちの足音がきこえた。かれらの目をひかぬように彼は窓を閉めて、中央階段の方向へ歩いていった。物置部屋のドアの前ではちょっと立止って耳をすましてみた。完全に静かだった。男が監視人たちを打ち殺してしまったのかもしれなかった、なにしろかれらは完全に彼の手中にあったのだから。彼はあやうく把手に手をのばしかけたが、すぐまた手をひっこめた。もはやだれを助けることもできなかった、小使たちがいまにもやってくるはずだった。彼はただ、そのうち必ずこの件を話題にして、本当に罪のあるやつら、まだ一人として姿を現わそうとしない高級役人たちを、自分の力の及ぶかぎり罪状相応に罰してやろうと誓うしかなかった。銀行の外階段をおりながら通行人をいちいち観察してみたが、かなりひろい範囲を見ても誰かを待っているらしい娘なぞ見うけられなかった。婚約者が待っているというフランツの言葉は、まあ許せない嘘ではないが、もっと同情をひこうという目的のために言っただけだとわかった。
翌日になっても監視人のことはKの念頭を去らなかった。仕事中も気が散っていたので、それを片付けるために前の日よりも遅くまで事務室に残らなければならなかった。帰りがけにまた物置部屋の前を通りかかったとき、習慣になったように彼はそこを開けた。真暗なはずと思いこんでいたから、そこに現れた光景には我を失った。何一つ変っていなかったのだ。すべてが前の晩彼がドアをあけて見たときのままだった。入口のすぐうしろには印刷物とインク瓶、苔を持った苔刑吏、完全にひん剥かれたままの監視人、棚の上のロウソク。そして監視人たちはすぐさま訴え叫び始めた、「よう、頼むよ!」
Kはあわててドアをしめ、そうすればもっとよく締るというようにさらに拳でその上を叩いた。泣きださんばかりの顔で彼が小使のもとに走ってゆくと、のんびり謄写版の仕事をしていた小使たちはびっくりして仕事をやめた。
「頼むから、物置部屋を片付けてくれないか」と彼は叫んだ、「ごみで埋っちゃうよ!」
小使たちは明日になったらやりましょうと答え、Kはうなずいた。初めに彼が考えていたように、こんな遅い時間にかれらに仕事を強いるわけにはいかなかった。彼は腰をおろし、しばらく小使のそばでぐずぐずしていた。二、三枚の複写《コピー》をかきまぜて調べているふりをしていたが、小使たちが自分と一緒に帰ろうとしないのを見てとると、立って、疲れはてて何も考えずに家へ帰った。
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第六章 叔父/レーニ
ある日の午後――ちょうど郵便の締切前でKは非常に忙しかった――書類を運び入れている二人の小使をかきわけて、田舎の小地主であるカール叔父が部屋にとびこんできた。Kはそれを見ても、しばらく前に叔父がやってくると知らされたときほどにはびっくりしなかった。叔父は必ず来るだろうとKはほぼ一月も前から確信していたのだ。いくらか前かがみになって、左手にはつぶれたパナマ帽を持ち、右手をもう遠くからつきだし、邪魔になるものはすべてなぎ倒さんばかりの勢いであたふたと机ごしに握手を求める叔父の様子は、もうそのときからわかっていたような気がした。この叔父はいつだってこんなふうにあわてているのだ。というのは、いつも一日しか首都に滞在しないくせにそのあいだに予定していた用事を全部片づけようとし、その上たまたま申し出られた会談も取引も娯楽も何一つ逃すまいという不幸な考えにとりつかれているからだった。かつての後見人として叔父に特別恩義のあるKとしては、そのさい何かにつけてできるだけの援助をし、そればかりか自分のところに泊めてやらなければならなかった。で、「田舎の亡霊」と彼は伯父のことを呼ぶ癖がついていた。
挨拶がすむとすぐ彼は――肱掛椅子に坐るようにKはすすめたのだが叔父にはそのひまもなかった――二人きりで少し話したい、と言いだした。
「どうでもそうする必要があるんだ」と彼はごくんと唾を呑みこんで言った、「わしを安心させるためにもぜひそうしてくれ」
Kはただちに小使を部屋からだし、だれも入れるなと指図した。
「わしが何を聞いたと思う、ヨーゼフ?」
二人きりになるやいなや叔父は大声でそう言って机の上に腰をおろし、少しでも坐り心地よくしようと見境なくさまざまな書類を尻の下につめこんだ。Kは黙っていた。何の話かはわかっていたが、緊張を要する仕事から突然解放されたので差しあたりは快よい倦怠に身をまかせ、窓ごしに反対側の道路を眺めていた。彼の席からは二つのショーウィンドウのあいだのなにもない壁の一角、小さな三角形の切れはしが見えるだけだったが。
「よそ見なんかしおって!」と叔父は腕をふりあげて叫んだ、「後生だからヨーゼフ答えてくれ。本当なのか、あのことは本当のことなのか?」
「叔父さん」とKは言ってぼんやりした気分をふり払った、「一体何をおっしゃってるのかさっぱりわからないんですよ」
「ヨーゼフ」と叔父はたしなめるように言った、「わしの知るかぎりではおまえはいつも真実を言うやつだった。すると今のおまえの言葉は悪いしるしだと考えねばならんのか?」
「何をおっしゃりたいのかだいたいはわかりますよ」とKは素直に言った、「ぼくの訴訟のことを聞いたんでしょう」
「そうだ」叔父はゆっくりうなずきながら答えた、「おまえの訴訟のことを聞いたんだ」
「でも誰からです?」とKは訊ねた。
「エルナが手紙をよこしたんだ」と叔父は言った、「あれはおまえと交渉がないし、おまえは残念ながらあれのことをあまり気にかけておらんようだが、それでもあれは知ったんだ。手紙を受取ったのは今日だが、わしはむろんそれですぐ駆けつけてきた、ほかに用があったわけじゃない、しかしこれだけでもう充分な理由だろう。おまえに関係のある個所を読んでやってもいいぞ」
彼は財布から手紙をひきだした
「これだ。こう書いてある。『ヨーゼフにはもう長いこと会っていません、先週ちょっと銀行に寄りましたがヨーゼフが忙しすぎて会ってもらえませんでした。一時間ほど待ってみたのですが、そのうちピアノの時間になったので帰らねばなりませんでした。ぜひ会いたかったのですけれど、いずれまたその機会もあるでしょう。わたしの命名日にはチョコレートの大きな箱を送ってくれました、うれしかったしよく気がつくと思いました。そのとき書くのを忘れていましたが、おたずねがあったのでいまやっと思いだしました。なにしろチョコレートは、このことはぜひ覚えてて下さい、寄宿舎ではすぐなくなってしまうのです、チョコレートを送ってもらったことに気がつくかつかぬうちにもうなくなっているのです。ヨーゼフのことではしかし外にもまだお知らせしたいことがあります。いま言ったとおり銀行では、彼がちょうどほかの人と話していたので会わしてもらえませんでした。しばらくじっと待っていてからわたしは小使さんに、お話はまだ長くかかるんでしょうかと聞いてみました。すると、たぶんまだかかるでしょう、話はどうやら主任さんにたいして起こされた訴訟に関することらしいから、と言うのです。一体どんな訴訟なんですか、あなたの思い違いじゃありませんか、と訊ねると、思い違いじゃない、たしかに訴訟、しかもなにか重大な訴訟なんだ、それ以上のことはわたしも知らないが、との返事で自分もできれば主任さんのお役に立ちたい、あの方は善良で正しい人だから。しかしどうしたらいいかもわからないし、自分としてはただ有力な方たちがあの人の世話を引受けてくれるよう願うしかない。必ずそういうことになって、結局はいい決着がつくだろうとは思うが、主任さんのお顔の色から察するかぎりしかし、目下のところは事態はよくいっていないようだ。そう言ってました。わたしはむろんこんな話にたいして意味があるとは思いませんでした、だから一本気な小使さんを安心させようとし、このことはほかの人には言わないようにと釘をさしておきました、いまでもこれは全部ただのおしゃべりにすぎないと思っています。それでもこの次お父様がおいでのときは、ご自分で事柄をお調べになったほうがいいかもしれません、お父様ならもっとくわしいことをお知りになれるでしょうし、もし必要とあればたくさんの有力なお知合いを通じて事に関りあうこともできるのですから。もしそんな必要がないとしても――きっとそうなるでしょうが――そのときは少くとも娘には父に甘える機会が与えられるのですから大よろこびです』――まったくいい子だ」読み終ると叔父はそういって、目から二、三粒の涙をぬぐった。
Kはうなずいた。最近のいろいろなごたごた騒ぎにまぎれてエルナのことは完全に忘れていた、彼女の誕生日さえ忘れていたのだから、チョコレート云々のことは明らかに叔父と叔母にたいし彼のことをかばう目的で彼女が作りだした話だった。まことにほろっとさせる話で、これから定期的に芝居の切符を送ってやるくらいではとても償いきれないのかもしれなかった。といって寄宿舎に訪ねていってたかが十八の小娘女学生と歓談するというのも、あまりぞっとする話ではなかった。
「で、どうなんだこれは?」
手紙のおかげで慌てていたことも興奮も忘れてしまった叔父は、手紙にもう一度目を通しおわると訊ねた。
「ええ、叔父さん」Kは言った、「それは本当なんです」
「本当だと?」叔父は大声をあげた、「何が本当なんだ? まさか刑事訴訟じゃあるまいな?」
「刑事訴訟なんです」とKは答えた。
「のほほんとここに坐りこんでいて、それで刑事訴訟を背負いこんでるというのか?」叔父は次第に大声になって叫んだ。
「落着いていればいるほど結果はよくなるんです」とKはぐったりして言った、「怖れることはありません」
「そんな返事で安心できるか!」と叔父は叫んだ、「ヨーゼフ、なあヨーゼフ、自分のこと、親戚のこと、わしらの名のことを考えろ! いままでおまえは一門の名誉だった、そのおまえが一門の面汚しになってはならんのだ。だいたいおまえの態度は」彼は首をかしげてKを見つめた、「わしには気にいらんぞ。無実の被告はまだ元気があるうちはそんな態度はとらんものだ。問題は一体何なのか、さあ、わしが助けてやれるよう手短に言いなさい。むろん銀行に関したことなんだろうな?」
「いいえ」とKは言って立ち上った、「叔父さん、とにかく声が大きすぎますよ、小使がドアに耳をつけて聞いてるかもしれないんですよ。聞かれるのは不愉快です。それより外に出ましょう。外ならどんな質問にでも心ゆくまでお答えできます。身内の者に釈明する必要があることは、ぼくだって充分承知しています」
「まったくだ!」と叔父は叫んだ、「そのとおりだ。さあ急げ、ヨーゼフ、急ぐんだ!」
「二、三仕事を頼んでかなくちゃなりませんので」
Kは言って電話で代理の者を呼びつけた。代理はすぐやってきたが、興奮しきっている叔父は、そんなことはしなくてもわかりきっているのに、呼んだのはKだとわざわざ手でその男に示してみせた。Kは机の前に立ったまま、いろんな書類を示しながら留守のあいだ今日中に片付けておかねばならぬことを低声《こごえ》で説明し、若い男はひややかにしかし注意ぶかくそれに耳を傾けていた。叔父は最初は目を丸くしたりいらいらと唇を噛んだりしながらそこにいることで邪魔になった。むろん話を聞いているわけではないが、そういう様子だけでもう充分邪魔になった。それから部屋のなかを行ったり来たりし始め、窓の前や絵の前に立ち止っては、「わしにはまったくさっぱりわからん!」とか、「まあ言って見ろ、一体それからどうなるっていうんだ!」などと、さまざまな叫び声を発した。若い男はまったく気がつかないふりをしてKの依頼を静かにおわりまで聞き、二、三メモをして出ていった。出ていくときはKにも、それからちょうど背を向けて外を眺めながら、のばした両手でカーテンをわし掴みにしていた叔父にもお辞儀していった。ドアがしまるかしまらぬうちに叔父は大声で叫んだ。「操り人形め出ていきおった、さあこれでわしらも出てゆけるぞ。ようやっと!」
ホールには折悪しく二、三人の行員と小使がうろうろしていて、それに頭取代理までがちょうどそこを横切っていったというのに、叔父が訴訟のことであれこれ質問を浴びせるのをやめさせる手だてはなかった。
「そこでヨーゼフ」まわりの人間のお辞儀に軽く会釈しながら叔父はさっそく始めた、「さあきっぱりと言ってくれ、一体それはどんな訴訟なんだ」
Kは意味のないことを二言三言いって少し笑ってさえみせ、階段口にさしかかったところで初めて、人のいるところではおおっぴらに話したくないのですと叔父に打ち明けた。
「もっともだ。しかしもう話してもよかろう」と叔父は言った。首をかしげ、葉巻を短くせわしなく吸いながら彼は耳をすました。
「最初に言っときますが叔父さん」とKは言った、「これは普通の裁判所の訴訟じゃないんです」
「それはまずいな」と叔父は言った。
「どうしてです?」Kは言って叔父を見つめた。
「それはまずいことだと思うぞ」と叔父はくりかえした。
ふたりはちょうど道に面した外階段に立っていたが、門番が聞き耳をたてているふうなのでKは叔父を下までおろした。にぎやかな人通りがふたりを迎えた。Kの腕をとった叔父はもうせきこんで訴訟のことをきこうともせず、ふたりはしばらく黙りこんで歩いていたくらいだった。
「だが、どうしてこんなことになったんだ?」と、ようやっと訊ね、叔父が突然立ち止ったので、うしろを歩いていた人びとがびっくりして道をよけた、「そういったことは決して突然に起こるもんじゃない、ずっと前から準備されているものなんだから、なにかその兆候があったはずだ。なぜおまえはそれをわしに知らせてよこさなかったんだ? 知っているだろうが、わしはおまえのためなら何でもしてやる気でおるし、いわばおまえの後見人でもある、そして今日まではそのことを誇りにもしてきたのだ。むろん今だっておまえの力になってやるつもりでいるが、訴訟がすでに始まっているとなると、いまはそれもかなりむずかしいな。いずれにしろいまはちょっとした休暇をとって田舎のわしの家に来るのが一番いいかもしれん。それに、いま気がついたがおまえも少し痩せたようだしな。田舎へくれば元気にもなろうし、前途に厄介事が控えているんだからそれが一番だ。しかもそうすればおまえもある程度裁判所から引離されることにもなる。ここにはありとあらゆる権力が集まっているから、それはどうしても自動的におまえにも適用されることになる。しかし田舎へいってしまえばやつらも適当な機関を派遣するとか、たんに手紙をだすとか、電報をうつとか、電話するとか、そんなことで働きかけてくるしかない。そうすればむろん効力も減少するし、おまえは自由になれぬまでも一息つけるというものだ」
「ここを離れることを禁じるかもしれませんね」とKはいくらか叔父の話にひきこまれて言った。
「やつらがそうするとはわしには信じられんが」と叔父は考えぶかげに言った、「おまえが離れたからって権力がそれほど大きな損失を受けるわけじゃなかろう」
「叔父さんならこの事件をぼくより重大視しないだろうと考えてましたが」とKは叔父が立ち止るのを妨げるために腕をしっかり抱えながら言った、「いまはずいぶんむずかしく考えていらっしゃるんですね」
「ヨーゼフ」と叔父は叫んで、腕をふり離して立ち止ろうとしたが、Kは離さなかった、「おまえは変ったな、いつもあんなにしっかりした理解力を持っていたのに、この期に及んで見離されてしまったのか。訴訟に負けてもいいのか? 負けるとは何を意味するか知っているのか? 負けるとはおまえがすっぱりと抹殺されることなんだぞ。親戚全体が巻きぞえをくうことだぞ、あるいは少くともとことんはずかしめられることなんだぞ。ヨーゼフ、しっかりしてくれ。おまえのいい加減な態度には頭がおかしくなる。おまえを見ているとあやうくあの諺を信じそうになるよ、『こんな訴訟を負っては敗けたも同然』とな」
「叔父さん」とKは言った、「興奮しても何の役にも立ちませんよ、叔父さんにとってもそうならぼくにとってもそうです。興奮しては訴訟に勝てません。ぼくの実地経験も少しは認めてくださいよ、たとえ叔父さんの意見にびっくりさせられるときでも、ぼくはいつも、いまでもそれを非常に高く買っているんですから。あなたの意見では訴訟のために身内の者までが巻きぞえをくうということですから――もっともぼくとしてはその点はまったく合点がいかないんですが、それはまあ二の次として――ぼくは何でも叔父さんの仰言るとおりにします。ただ田舎に滞在することだけは、あなたの仰言る意味でも利益になるとは思っていません、それでは逃亡したこと、罪を意識したことになりますからね。そればかりでなく、ここにいればたしかによけいに追いまわされることになるとしても、自分で事を片付けるには都合がいいんです」
「もっともだ」これでやっとたがいに接近できたというような口調で叔父は言った、「わしがそんな提案をしたのはただ、おまえがここにとどまっていてはおまえのいい加減な態度で事態を危うくしやせんか、それよりわしがおまえのかわりに動いたほうがよかないか、と思ったからだ。だが、おまえが全力をだして事に当ろうというのなら、むろんそのほうがいいに決っとる」
「ではその点では意見が一致しましたね」とKは言った、「そこで、さしあたりぼくは何をしたらいいか、いま何かいいお考えがありますか」
「わしとしてはもちろん事態をもっとじっくり検討してみなければならん」と叔父は言った、「わしはこれで二十年ほとんどぶっつづけに田舎にいるってことを考えてくれ、当然その方面の勘だって鈍っていよう。わしより事情に通じている当地のいろんな人たちとの大切なつながりも、自然にゆるんでしまっている。田舎にいるわしはいささか見捨てられた状態なんだ、おまえも知っていようが。こういった事件が起こってみて初めて自分でもそのことに気がつく。おまえの事件はやはりいくらか意外であったよ、奇妙なことにエルナの手紙を呼んだだけでもう大体こんなことを予想し、きょうおまえを見たらもう確実にそれとわかったがな。だがそんなことはどうでもいい、一番大事なことは一刻もおろそかにできんということだ」
しゃべりながらもう彼は爪先だって自動車に合図し、運転手に行く先を告げながら、Kをうしろ手で車にひき入れていた。
「これからフルト弁護士のところに行く」と彼は言った、「わしの同級生だった男だ。おまえも名前は知っていよう。知らないって? おかしなこともあるものだな。守ってくれる人、貧乏人の弁護士として名声のある男だ。しかしわしは彼を人間として特に信用している」
「叔父さんのなさることはすべて承知します」と叔父が事を扱うときのせっかちで押しつけがましいやり方を不快に感じながらもKは言った。被告として貧乏人相手の弁護士のもとに行くのは、あまりうれしいことではなかった。「こんな事件にも弁護士を頼めるとは知りませんでしたよ」と彼は言った。
「もちろんできるとも」と叔父は言った、「当り前ではないか。なぜだめなわけがある? それより事件が正確にわかるように、これまで起こったことを全部話してみてくれ」
Kはすぐに何ひとつ隠さずに話し始めた。洗いざらい全部打ち明けることが、訴訟は大変な恥辱だという叔父の見解にたいしてなしうる彼の唯一の抗議であった。ビュルストナーの名には一度触れただけだったが、これは彼の率直さを損うものではなかった、ビュルストナーは訴訟とはなんの関りもなかったのだから。話しながら彼は窓の外を見、自分たちが今裁判所事務局のある例の郊外に近づきつつあるのを知った。そのことを叔父に注意したが、叔父はこの一致を特に奇妙だとは見做さなかった。車はとある陰気な建物の前に停った。叔父は一階の最初のドアのベルを押した。ふたりが待っているあいだ彼は大きな歯を剥きだして笑いながらささやいた。
「八時か、訴訟関係者が訪ねるには尋常な時間ではないな。しかしフルトなら悪くはとらんだろう」
ドアの覗き窓に二つの大きな黒い目が現れ、しばらく二人の客を見つめてから消えた。が、ドアは開けられなかった。叔父とKはたがいにたしかに二つの目を見たという事実をたしかめあった。
「新参の女中で、知らない者がこわかったのだろう」と叔父は言ってもう一度ノックした。ふたたびあの目が現れ、それはほとんど悲しいと言ってもいいように見えたが、もしかするとそう感じたのは、頭のすぐ上で強くしゅうしゅう音たてて燃えているくせにわずかな光しかださない、むき出しのガス燈のひき起こした錯覚なのかもしれなかった。
「開けてくれ」叔父は叫んで拳でドアを叩いた、「こちらは弁護士の友人だぞ!」
「弁護士さんは病気ですよ」
と、かれらの背後でささやく者があった。小さな廊下の反対の端にドアがあって、寝巻姿の紳士が立ち、極度に低い声でそのことを知らせているのだった。長く待たされていきりたっていた叔父は、ぐいとふりむきざま叫んだ。
「病気だって? あなたはあの男が病気だと仰言るんですね?」
そう言って、まるで相手の男がその病気であるかのようになかば威嚇的にそっちへつめよっていった。
「もう開いてますよ」
と紳士は言って弁護士のドアを指さし、寝巻をかき合わせながら姿を消した。ドアは本当に開かれていた。ひとりの若い娘が――Kはあの黒い、少しとび出た目をふたたび認めた――ロウソクを手に、長い白い前掛けをして控えの間に立っていた。
「こんど来たときはもっと早く開けてもらいたいもんだな」と叔父が挨拶がわりに言うと、娘のほうはちょっと膝を折って会釈した。
「来るんだ、ヨーゼフ」と叔父に言われて、Kはゆっくりと少女のそばをすりぬけた。
「弁護士さんはご病気です」
叔父が止りもせず一つのドアのほうに急ぐのを見て、少女は言った。Kがぽかんと口を開けて彼女を見つめていると、娘のほうは身をひるがえして入口のドアをまた閉めにいった。人形のようにまんまるい顔立ちで、蒼白い頬や顎ばかりかこめかみと額の生えぎわまでがまるかった。
「ヨーゼフ!」と叔父はふたたび叫び、娘にむかって、「それは心臓の病気かね?」と訊ねた。
「そうだと思います」と少女は言いながらロウソクを持って先導するチャンスをとらえていて、部屋のドアをあけた。ロウソクの光がとどかない部屋の隅で、長いひげのある顔がベッドから首をもたげていた。
「レーニ、だれが来たんだね」と、ロウソクの光に目がくらんで客の見分けがつかない弁護士がきいた。
「アルバートだ、きみの古い友人だよ」と叔父が言った。
「ああ、アルバートか」と弁護士は言って、この客にならとりつくろう必要はないというようにがっくり枕に頭を落した。
「本当にそんなに悪いのか?」と叔父はきいてベッドの端に腰かけた、「わしには信じられんが。たんなる心臓病の発作で、これまでと同じようにまた消えてしまうさ」
「かもしれん」と弁護士は低声で言った、「だが今度はこれまでより悪いんだ。呼吸は苦しいし、眠れない、日に日に力が衰えてゆくよ」
「そうか」と叔父は言って大きな手でパナマ帽をしっかりと膝に押しつけた、「それは悪い知らせだ。それにしてもちゃんとした看護を受けているのか? ここはひどく陰気で、それに暗いじゃないか。この前ここに来たのはかなり前のことだが、あのときのほうが居心地よく見えたぞ。それにここにいる娘さんもあまり陽気そうじゃないが、それとも猫をかぶってるのかな」
娘はロウソクを持ったまま相変らずドアのそばに立っていた。彼女のはっきりしない視線から察するに、叔父が自分のことを話題にしているいまも、叔父よりむしろKを見つめているらしかった。Kは椅子を娘のそばにずらして、その背に凭れかかった。
「わたしのような病気だと何より安静が必要なんだ」と弁護士は言った、「わたしには別に陰気ではないよ」
それからしばらく間を置いて付け加えた。
「それにレーニもよく看てくれる。感心な娘だ」
だがこの言葉は叔父を承服させなかった。彼は明らかに看護婦にたいし偏見をいだいていた。病人にたいしてこそ口答えしなかったが、きびしい目付きで看護婦を追い、彼女がいまベッドに近寄って、ロウソクを小机の上に置き、病人の上にかがみこんで、何事かささやきながらふとんをなおしているのを睨《にら》んでいたが、そのうち病人への心遣いさえ忘れてしまったのか、立ち上って看護婦のあとをつけまわしはじめた。だから、仮に彼がうしろから彼女のスカートをつかんでベッドから引き離したとしてもKはふしぎとも何とも思わなかったろう。K自身はこういったことすべてを落着きはらって眺めていて、弁護士が病気であることさえまずいことだとは思わなかった。叔父が彼の事件のために展開してくれた熱心さに彼はいままで逆らうことができないでいたから、その熱心さがこうして彼が手を下さぬうちにそらされてしまうのはむしろ有難かったのである。けれどもそのとき、たぶん看護婦を侮辱しようという意図からだろう、叔父が言った。
「娘さん、しばらくわしらだけにしてくれないか。この友だちと個人的な用件で話しあわなくちゃならんのでね」
すると病人の上に大きく覆いかぶさって壁ぎわのシーツを伸ばしていた看護婦は、頭だけこっちにむけておだやかに言ったが、その言い方は叔父の、怒りで詰るかと思えばまた滔々《とうとう》とあふれ出すしゃべり方といちじるしい対比をなしていた。
「ごらんのとおりこの方は病気なんですよ、どんなご用件でもお話することはできません」
彼女はおそらく叔父の言葉を便利だから繰返したにすぎなかったのだろうが、局外者にさえ嘲笑的に聞えたくらいだから、叔父が針で刺されたようにいきりたったのは当然だった。
「このあばずれめ」
叔父の声は興奮のあまりのどがぜいぜいして初めはかなり聞きとりにくかった。たぶんそんなことを言うだろうと思ってはいたもののKはびっくり仰天し、両手でその口をふさごうというはっきりした意図をもって、叔父のもとに駆けよった。さいわいなことにしかしそのとき娘のうしろで病人が身を起こしたので、叔父は苦いものでも呑みこんだように渋面をつくった。それから前より穏やかに言った。
「わしらとてまだ理性を失ったわけじゃない。かなわぬ相談だと思えばこんな要求をしたりはせん。さあ、でていってくれないか!」
看護婦は真正面から叔父に向きあってベッドのそばにつっ立っていた。しかもそうしながら、Kの看たところでは、一方の手で弁護士の手をなぜているようだった。
「レーニの前では何を言ってもいいんだよ」と病人が、疑いもなく懇願の口調で言った。
「わしに関することではないのだ」と叔父は言った、「事はわしの秘密ではないんだよ」
そして、もうこれ以上話し合うつもりはない、ただ考慮の時間だけ与えてやろうというように、くるっとうしろを向いてしまった。
「じゃだれの事件なんだ?」と弁護士は消え入りそうな声できいて、またうしろに倒れこんだ。
「わしの甥のことだ。一緒に連れてきている」と叔父は言って、「業務主任ヨーゼフ・Kだよ」と紹介した。
「おお」と病人は前より元気そうになってKに手をさしのべた、「失敬、ぜんぜんあなたに気がつかなかった。レーニ、出てくれ」
看護婦に向ってそう言うと彼女ももう逆らおうとしなかった。弁護士は長の別れでも告げるように彼女の手を握りしめた。
「そうするときみは」とようやく叔父にむかって口をきくと、叔父のほうも気持がとけてそばに歩みよった、「病気見舞いに来たわけじゃなかったのか、仕事のことで来たんだな」
これまでぐったりしていたのは病気見舞いという観念のせいだったというように、彼は見るからに元気をとり戻した。ずいぶん苦しい姿勢だろうと思われるのに、片方の肱で上体を支えて、ひげの中程の束を何度でも引っぱっていた。
「あのあばずれが出ていったらきみは急に元気そうになったよ」と叔父は言った。そして言葉を切って、「絶対にあいつは立聞きしてるぞ!」とささやくなりドアにとびかかっていったが、ドアの外にはだれもいなかった。叔父は失望したというより――なぜなら、立聞きしていないことは彼にはもっと陰険な悪意と見えたのだ――むしろぶりぶりして戻って来た。
「きみはあれを誤解してるよ」と弁護士は言ったがそれ以上は看護婦をかばわなかった。そうすることであるいは彼女をかばう必要はないことをあらわそうとしたのかもしれなかった。それからしかしはるかに乗気な口調でつづけた。
「そこで甥御さんの事件のことだが、この極度に厄介な問題にわたしの力で間に合えば、それだけでもしあわせとせにゃなるまい。わたしでは力不足ではないかと非常に怖れているんだが、いずれにしろやれるだけのことは全部やってみるつもりだ。わたしでだめならだれかほかの人に頼んでみてもいいが。正直なところこの件には非常に興味があるから人任せにはしたくない、全部自分でやってみるつもりだ。わたしの心臓が耐えられんでも、少くともここにはだめになってもいいだけの値打ちがあると思う」
Kはこの長話が一言も理解できない気がした。そこで叔父に説明してもらおうとそっちを見たが、叔父のほうはロウソクを手に小机の上に腰かけていて、そこにあった薬瓶なぞとうに絨毯の上にころがしてしまっており、弁護士の言うことにいちいちうなずき返してはすべてに同意だという様子を見せ、同じく同意せよと促すようにときおりKのほうをうかがうだけだった。もしかして叔父はすでに以前に弁護士に訴訟のことを話していたのだろうか? だが、そんなことはあるはずがなかった。これまでに起こったことすべてがそうでないと言っていた。それで彼は言った。
「どうもよくわからないのですが――」
「ほう、ではわたしが勘違いしていたのかな?」と弁護士もK同様あきれ当惑した様子できき返した、「わたしが早合点したのかもしれん。では一体何の相談にいらしたんです? てっきりあなたの訴訟の件とばかり思っていたが」
「もちろんそうだ」と叔父は言ってKに訊ねた、「一体どうしたっていうんだ?」
「ええ、でもどうしてぼくのことやぼくの訴訟のことをご存じなんですか?」とKはきいた。
「なんだ、そのことか」と弁護士は微笑して言った、「わたしは弁護士でしてね、裁判所の連中と付き合っていれば、いろんな訴訟の話、めずらしい訴訟の話がでます、とくにそれが友人の甥御さんに関する事件であれば記憶にも残ろうというものです。べつだん変なことはないでしょう?」
「一体どうしたっていうんだ?」と叔父がまた訊ねた、「なんだか落着きがないぞ」
「あなたは裁判所の人たちともお付き合いがあるんですか?」とKは訊ねた。
「むろん」と弁護士が答えた。
「子供のようなことをきくもんだな」と叔父が言った。
「同じ司法畑の人たちと付き合わないで、だれと付き合えというんです?」と弁護士がつけ加えた。
その声には抗しがたいひびきがあったのでKは何も答えなかった。「あなたがお仕事をなさるのは堂々たる司法の宮の法廷であって、まさか屋根裏部屋じゃないんでしょうね」と本当は言ってやりたかったのだが、実際にそれを口に出すのははばかられた。
「このことはぜひ考えてほしいが」と弁護士は、なにか自明のことを余分についでに言っておくという口調でつづけた、「このことはぜひ考えてほしいが、そういった付き合いからわたしは依頼人のために大きな利益を引き出しておるんですよ。しかもいろんな観点において、まあいつもその話をするわけにもいきませんがね。もちろんいまは病気のためにいささか活動を妨げられていますが、それでも裁判所の友人たちがあれこれ訪ねてきてくれるんでいくらかは耳に入る。ひょっとしたら丈夫で一日中裁判所にいる連中よりたくさん聞いてるかもしれませんな。たとえばいまもちょうどそんなお客の一人が見えてるんですよ」
そう言って彼は暗い部屋の隅を指さした。
「一体どこに?」
あまりに意外だったのでKはほとんど乱暴に訊ね、うろうろあたりを見まわした。小さなロウソクの光は反対側の壁まではとうてい届かなかった。が、そっちの隅で本当に何かが動きだした。いまや叔父が高々とかかげているロウソクの光の中に、そこの小さな机に一人の年輩の紳士の坐っているのが見えた。こんなにながいこと気づかれずにいたというのは、男は息もしないでいたのかもしれなかった。明らかに自分に注意を向けられたのが不満な様子で、彼はやっとこさと立ちあがった。短い翼のように両手をふっているところは、紹介も挨拶もぬきにしたいというようであったし、自分はいかなることがあっても自分のいることで他人の邪魔をしたくない、できればまた自分を暗がりに置いて、自分のいることなぞ忘れてもらいたいと言っているようでもあった。しかし今となってはもうそれは許されぬことであった。
「なにしろきみたちの訪問があんまり急だったんでね」と弁護士は説明するように言って、同時に男にむかってこっちへくるようにとうながすような合図を送った。そして男がゆっくりと、ためらうようにあたりを見まわしながら、しかも一種の威厳をもって近づいてくると、
「事務局長さんは――そうだ、失礼、まだ紹介してなかったな――こちらはわたしの友人のアルバート・K、そしてこちらが事務局長さんだ――事務局長さんはこうしてご親切にわざわざお見舞いに来てくださったというわけだ。こういった訪問の価値を評価できるのは、実際のところ、事務局長さんがどんなに多忙かを知っている事情通ばかりだろうね。さてしかし、それにもかかわらずこうして来てくださって、わたしの病気の許すかぎりおだやかにお話していた。客のくる予定はなかったから、レーニにはとくに客を通すなと禁じてもおかなかったが、むろんわれわれだけで過すつもりでおったのだ。ところがそこへ、アルバート、きみの拳骨の音がしたもんだから、事務局長さんは椅子と机を持って部屋の隅にひっこまれたというわけだ。さて、しかしいまとなっては、ことによったら、というのはそうなさるご希望があればのことですが、席をご一緒にして共通の問題を話しあえるというものではありませんか。――いかがです事務局長さん」
そう言って、頭をかしげ卑屈な微笑をみせながらベッドのそばの安楽椅子を指さした。
「残念ながらあと二、三分しかいられないが」と事務局長はにこやかに言って安楽椅子にふかぶかと腰をおろし、時計に目をやった、「仕事がありましてね。とはいってもむろん、わが友人の友人とお近づきになる機会をとり逃がすつもりはありません」
彼がかるく頭を叔父にむけて傾けてみせると、叔父はこの新しい知己にひどくご満悦らしいくせに性癖からして敬意の気持をあらわすことができず、とまどったばか笑いをたてて事務局長の言葉に聞き入っていた。醜い光景だった。Kはだれからも無視されていたので落着いてすべてを観察することができた。一度引き出されてしまったからにはそうするのが彼の習慣らしく、会話の主導権を握っているのは事務局長だった。弁護士は、さっきしきりに病気だといっていたのは新しい客を追い払う口実ででもあったのか、耳に手をあてて注意ぶかく聞いているし、ロウソク持ちの叔父も――彼が腿の上でロウソクのバランスを取っているのを弁護士がときどき心配そうに見ていた――まもなく当惑から自由になって、事務局長の話しぶりにも、話しながらする柔らかな波のような手の動きにも、ただうっとりとしていた。ベッドの柱に凭れかかっていたKは、事務局長によって故意に完全に無視されてしまったようで、もっぱら老人たちの話の聞き役にまわっていた。とはいえ彼には何の話なのかほとんどわからなかったから、看護婦のことだの彼女が叔父から蒙ったひどい仕打ちのことを考えたり、またあるときは、この事務局長をいつか見たことはなかったか、ひょっとしてあの最初の審理のおりの集会で見たんじゃないか、などと考えていた。仮にそれが思い違いだったとしても、事務局長をあの集会の人びとの最前列、まばらにひげをはやした老人たちのあいだにおいたらいかにもぴったりだという気がした。
そのとき控えの間のほうで陶器の壊れるような大きな音がしたので、みんな聞き耳をたてた。
「どうしたのか見てきましょう」
とKは言って、ほかの人にひきとめる機会を与えるというようにゆっくりと出ていった。彼が控えの間に入って暗やみのなかで見当をつけようとしていると、まだドアをつかんでいる手の上に、小さな手、彼のよりずっと小さな手が置かれ、そっとドアを閉めた。看護婦がここで待っていたのだった。
「なんでもなかったのよ」と彼女はささやいた、「わたしがお皿を一枚壁にぶつけたの、あんたを呼びだそうと思って」
Kは持ち前のぎこちなさで言った。
「ぼくもきみのことを考えていた」
「それじゃなおいいわ」と看護婦は言った、「こっちへいらっしゃい」
二、三歩でくもりガラスの入ったドアのところにくると、Kの前で看護婦がそれをあけた。
「入って」と彼女は言った。
そこはどうやら弁護士の書斎らしかった。月の光で見ることができたかぎりではどっしりした古い家具が備えつけられていて、月光はいま三つの大きな窓の床のところを小さく四角く照らしだしていた。
「こっちへ」と看護婦は言って、木彫りの背凭れのある黒っぽい長持を指さした。
腰をおろすかおろさぬうちにKはあたりを見まわした。天井の高い大きな部屋で、こんなところに入れられたら弁護士の依頼人たる貧乏人たちはみなおろおろしてしまうに違いなかった。お客が巨大な机に向うときの小刻みの足どりが目に見えるようだった。Kはしかしまもなくそんなことを忘れ、ぴったりとからだを寄せて彼を脇凭れに押しつけんばかりにしている看護婦のことしか眼中になくなった。
「わたしのほうから呼ばなくても」と彼女は言った、「あんたのほうから出て来てくれるだろうと思ってたのよ。だって変だったじゃないの。初めは入ってくるなりわたしのことをじろじろ見つめていたくせに、それからこんなに待たせておくなんて。ところでわたしのことレーニって呼んでね」
この話しあいのときを一瞬でもむだにしたくないというように、早口に、やぶから棒に彼女はつけ加えた。
「よろこんで」とKは言った、「しかしその変だという点に関していうと、レーニ、それはすぐ説明がつく。第一に、年寄りたちのおしゃべりを聞いていて理由なくとび出すことができなかった、第二に、ぼくが向う見ずな人間じゃなくてむしろ内気だということ、それにきみだって、レーニ、一跳びで手に入りそうには見えなかったしね」
「それはうそよ」とレーニは言って、背凭れに腕をのせKを見つめた、「そうじゃなくてわたしが気に入らなかったんでしょう、いまだってきっと気に入らないんでしょう」
「気に入るなんて大したことじゃないさ」とKは逃げの返事をした。
「まあ」とほほえんでみせ、Kの言葉とこの小さな叫びによって彼女が一種の優位を得ることになった。そのためKはしばらく黙っていた。いまは暗がりに目が慣れたので調度の細部の見わけもつくようになった。とくに目をひいたのはドアの右手にかかっている大きな絵で、彼はもっとよく見ようと少しからだを前にかがめた。法官服を着た男の絵だった。高い玉座のような椅子に坐っていて、椅子の金色が絵からきわだって見えた。ただその絵の奇妙なところは、この裁判官は落着きと威厳をもってそこに坐っているのではなくて、左腕は背と脇の凭れにしっかりと押しつけられているが、右腕はしかしまったく宙に浮き手先だけが脇凭れを掴んでいることで、それはまるで次の瞬間にもたぶん激高して猛烈な勢いでとびあがり、なにか決定的なことを言うか、判決を下すかしようとしているかのようだった。被告はたぶん階段の足許にいるのだろうが、絵には黄色い絨毯をしいた階段の上の部分しか描かれていなかった。
「ひょっとするとこれがぼくの裁判官かもしれないな」とKは指で絵を指しながら言った。
「あの人なら知ってるわ」とレーニは言って絵を見上げた、「ここへもよく来るのよ。若いときの絵だと思うけど、でも、あの人がこの絵にちょっとでも似てたことがあるなんて考えられないわ。なにしろまるでちびなんだから。それでも絵にはあんなふうに寸法を拡大して描かせたのよ、彼もここのみなさんと同じくひどく見栄っぱりなんだから。わたしだって見栄っぱりで、だからあんたに気に入られないのが非常に不満だわ」
この最後の意見にたいしKはただレーニを抱いて引きよせることで答え、彼女はおとなしく頭を彼の肩にのせた。しかし前半のことについてはこう言った。
「どんな身分の人だい?」
「予審判事よ」と彼女は言い、彼女を抱いているKの手をとって指をもてあそび始めた。
「またしても予審判事か」とKはがっかりして言った、「身分の高い役人は隠れているんだな。でもやつは玉座のような椅子に坐ってるじゃないか」
「みんな作りごとよ」とレーニは顔をKの手の上にかがめて言い、「本当は古い鞍覆いをかぶせた台所の椅子に坐ってるのよ。でもあんたはそんなふうにいつも訴訟のことばかり考えてなくちゃいけないの?」とゆっくりつけ加えた。
「いや、そうじゃない」とKは言った、「どうやらぼくはあまりにも考えなさすぎるらしいんだ」
「あんたの犯してる誤ちはそれではないわね」とレーニは言った、「わたしが耳にしたところではあんたは非常に強情なんですって」
「だれがそんなこと言った?」
彼女のからだを胸に感じ、そのゆたかで黒い、きつく巻いた髪を見下ろしながらKはきいた。
「それまで言っちゃしゃべりすぎることになるわね」とレーニは答えた、「だから名前はきかないでちょうだい、それよりあんたの欠点を直して、これからはそんなに強情を張らないようにしたらどうなの。この裁判所にたいしてはだれも逆らうことができないのよ、みんな結局は白状してしまうのよ。この次のときはだから白状しなさいな。そうやって初めて逃れる可能性も与えられるのよ、白状して初めて。もっともそれだって他人の助けがなければできっこないけれど、この助けのことなら心配しなくてもいいわ、わたしが自分でしてあげるから」
「きみは裁判所のことも、裁判所で必要な嘘のこともよく知ってるね」とKは言って、彼女があまりにも強くからだを押しつけてくるので彼女を膝に抱きあげた。
「このほうがいいわ」と彼女は言って、膝の上でスカートを直したりブラウスのしわを伸ばしたりして居ずまいを直した。それから両手で彼の首っ玉にしがみつき、からだをそらし、しげしげと彼を見つめた。
「するとぼくが白状しないかぎりきみは助けることができないっていうの?」
とKは小当りに聞いてみた。おれにはどうも女の助力者ばかり集まるようだぞ、初めはビュルストナー、それから廷丁の細君、それからこの小娘だ、と彼はほとんどいぶかる思いで考えた。この娘はどうやらおれにたいしわけのわからぬ欲求を感じているらしい。膝の上に坐ってるようすはどうだ、まるでここしかちゃんとした居場所はないというようじゃないか!
「そうよ」とレーニは答えゆっくり首を振った、「そうでなければ助けることはできないわ。でもあんたはわたしの助力なんかいらない、そんなものはどうでもいいと思ってるんでしょう、あんたは強情我慢で、ひとの意見なんか聞かない人だから」
それから間をおいて彼女はこう訊ねた。
「あんたには恋人があって?」
「いや」とKは言った。
「まさか、そんな」と彼女は言った。
「うん、本当はいるんだ」とKは言った、「まあ考えてもみてくれよ、ぼくは彼女を捨てたのにまだその娘の写真を持ち歩いている始末さ」
せがまれて彼がエルザの写真をみせると、彼女は膝の上でからだをまるめて写真をじっくりと眺めた。それはスナップ写真で、エルザが酒場で好んで踊る旋回ダンスの瞬間をとったものだった。スカートがまだ回転したひだのままひろがっていて、彼女は両手をひき締った腰にあてがい、首筋をのばし横を向いて笑っていた。笑いがだれにむけてのものかは写真からはわからなかった。
「コルセットを強く締めすぎてるわね」とレーニは言って、彼女の考えではそれらしく見えるところを示した、「この人、わたしには気に入らないわ、鈍感で粗野な感じね。ひょっとしたらあんたにはやさしくて親切なのかもしれないけど、写真で見るとどうもそうらしいわね。こんなに大きくて強い娘はやさしく親切にするしかしようがないものよ。しかしこの人あんたのために自分を投げだせるかしら?」
「しないだろう」とKは言った、「彼女はやさしくも親切でもないし、ぼくのために自分を投げだしもしないだろう。ぼくのほうもこれまでそのどっちも求めたことはないんだ。実を言えばこの写真をきみみたいにじっくり見たことさえないんだよ」
「つまりあんたはこの人をあんまり問題にしてないってことね」とレーニは言った、「つまり彼女は恋人なんかじゃないってことね」
「いや」とKは言った、「ぼくは前言を撤回はしないよ」
「じゃあ彼女は恋人だってことにしときましょう」とレーニは言った、「でもあんたは彼女を失うとか、あるいはほかのだれか、たとえばこのわたしと取り換えることになっても、別に惜しいとは思わないんでしょうね」
「なるほど」とKは微笑んで言った、「それも考えられんことじゃない。しかし彼女はきみにくらべて一つだけ大きな長所があるんだ。つまり、ぼくの訴訟のことをぜんぜん知らないって点だよ。仮に知ったとしても彼女は訴訟のことなんか考えようともしないだろうけどね。彼女ならぼくに譲歩しろとすすめたりしないと思う」
「そんなこと長所とは言えないわ」とレーニは言った、「彼女にそのほかの長所がないんだったらわたしは勇気をなくさないわ。どこか肉体的な欠陥はないの、その人?」
「肉体的な欠陥だって?」とKはきき返した。
「ええ」とレーニは言った、「というのはわたしにはちょっとした欠陥があるのよ、ほら」
彼女が右手の中指と薬指をひろげてみせると、そのあいだにほとんど短い指の一番上の関節まで水掻きがついているのだった。暗いため彼女が何を見せようとしたのかKがすぐにはわからないでいると、彼女は彼の指をもっていって、じかに触らせた。
「なんという自然のたわむれだ」とKは言って、手全体を一瞥してからこう付け加えた、「なんてかわいらしいけづめだ!」
Kが驚嘆しながら二本の指をひらいたり閉じたりしているのをレーニは一種の誇りがましい様子で眺めていたが、やがてKが彼女にすばやくキスして手を放すと、
「まあ!」と彼女はすかさず叫んだ、「あんたはわたしにキスしたのね!」
口をあけたまま急いで彼女は膝頭で彼の膝によじのぼった。Kはなかば呆れかえって彼女のするのを見ていたが、いまこれほど身近になると、彼女から胡椒のようなぴりっとする刺戟臭がただよった。彼女は彼の頭を抱きよせ、彼の上にかがみこんで首にキスしたり噛んだりし、ついに彼の髪にまで噛みついた。
「あんたはわたしに乗りかえたのね!」と彼女はときおり叫びをあげた、「よくって、あんたはわたしに乗りかえたのよ!」
そのとき彼女の膝がすべって、かすかな悲鳴とともに彼女はあやうく絨毯の上に落ちかかったが、Kが支えようとして抱きあげると、逆に彼女によって引きおろされた。
「もうあんたはわたしのものよ」と彼女は言った。
「家の鍵を渡しとくわ、いつでも好きなときに来てちょうだい」というのが彼女の最後の言葉だった。そして別れぎわになお彼の背に投げキスをした。彼が戸口から出ると外はしとしと雨が降っていた。ひょっとしたらまだレーニの姿が窓ぎわに見えるかもしれないと思って彼が道路の真中まで出かかったとき、うっかりしていたのでKはぜんぜん気がつかなかったがまだ家の前で待っていた自動車の中から、叔父がころがり出てきて、彼の腕をひっ掴み、彼をそこに釘付けにしようとでもいうようにしっかりと戸口に押しつけた。
「こら」と彼は叫んだ、「どうしてあんなことをしでかしたんだ! せっかくうまく行きかけてた話を台なしにしてしまったではないか。薄汚い小娘としけこんだきりいくらたっても帰ってこない。しかもあいつは明らかに弁護士の色女なんだぞ。それなのに口実をもうけるどころか何ひとつ隠そうともしないで、そうだ、あからさまに女のとこに行ったきりへばりついているんだからな。そのあいだこっちはどうしてたと思う、おまえのために骨身を削っているこの叔父と、おまえのためにぜひ味方につけなきゃならん弁護士と、なによりもあの事務局長、いまの段階でならおまえの事件をいかようにでもできるあの有力なご仁と、われわれは頭をあつめてどうしたらおまえを助けられるか相談しようとしてたんだ。わしは弁護士を大事に扱わねばならん、弁護士は事務局長を大事にせねばならん、それならおまえはせめてこのわしの尻押しをすべき理由が充分あったはずだ。なのにおまえときたらそうする代りに行ったきりだ。しまいにはどうにも隠しておけなくなったが、あれは如才ない礼儀正しい人たちだもんだからこれっぽっちもその話はしないで、むしろわしに気を使ってくれたほどだ。しかし最後にあの人たちでもとうとう我慢できなくなって、なにしろ事件について話しあうことができないのだからみんな黙りこんでしまった。われわれは何分間も押し黙ったまま、おまえが帰ってくるんじゃないかと耳をすましていたんだぞ。だが、すべてむだだった。事務局長は当初予定していたよりずっと長くいたことになったが、とうとう立ち上って、別れの挨拶をし、わしに手助けできなかったのを明らかに気の毒がっておられた。それでもなお考えられぬほどの愛想のよさでしばらくドアのところで待っておられ、それから出ていった。彼が出ていったんでわしはむろんほっとしたよ。なにしろ息が詰りそうだったからな。病気の弁護士にはすべてがもっとこたえたようだった。あいつが、あの人のいい男が、わしが別れを告げたときは口を利くこともできなかった。おまえはたしかにあの男の破滅に一役買ったんだぞ。そればかりかわしを、このおまえの叔父を雨の中に――触ってみろ、ずぶ濡れだ――何時間も待たしておいて、気苦労で身の細る思いをさせておきおって」
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第七章 弁護士/工場主/画家
ある冬の陽の午前――外ではもの悲しい光の中に雪が降っていた――まだ時間も早いのにひどく疲れきった感じでKは事務室に坐っていた。せめて下役の者だけでも寄せつけまいと、大事な仕事にかかっているからだれも中に入れるな、と小使に言いつけておいた。そして仕事をするかわりに彼は椅子に坐ったままぐるっと回ってみたり、机の上の物を二、三動かしてみたりしていた。そのうちしかし自分でも気づかずに机の上にながながと腕を伸ばして、頭を垂れ、身じろぎもせずに坐りつづけていた。
訴訟のことがもう頭から離れなくなっていた。弁明書を作成して裁判所に提出したほうがいいのではないかと、すでに彼は何度も考えてみた。そのなかに短い履歴を書き、多少とも重要と思われる出来事については、どんな理由でそのような行動をとったか、その行動の仕方は現在の彼の判断からして非難すべきか是認すべきか、非難するあるいは是認する理由として何をあげることができるか、を明らかにしようと思った。そういう弁明書のほうが弁護士のたんなる弁護にくらべ有利なことは疑いなかった。しかしあの弁護士はそうでなくても非難の余地がないわけではなかったのだ。彼が何を企てているのかKにはぜんぜんわからなかった。が、いずれにしろたいしたことでないのだけは明らかだった。すでに一ヶ月以上もKに呼び出しをかけてこないし、これまでに行ったどの相談のときでもKは、この男が自分のためにたいしたことをしてくれそうな印象を受けたことが一度もなかった。
なによりも彼はぜんぜんと言っていいくらい質問をしなかった。しかもここで質問すべきことはいくらでもあるはずだった。質問することこそ大事ではないか。Kは自分にだってこのさい必要な質問を全部挙げられるような気がしていた。それなのに弁護士は質問するかわりに、自分で勝手に話をしたり、向いあわせに坐って黙りこんだまま、たぶん耳が遠いせいだろうが少し机の上に前かがみになって、たっぷりしたひげの一束をしごいたり、ぼんやり絨毯を、しかもちょうどKがレーニと寝たあたりを見下しているかなのだ。ときおり彼はKに子供にでもするような無内容な訓戒を垂れることがあった。役にも立たなければ退屈でもある話ばかりで、それをきかされると最後の精算のときになってもびた一文払いたくないと思うほどだった。
また弁護士はKを充分に屈服させたと考えたときには、あとでいくらか元気づけようとするのが常だったが、そういうとき彼は語った。――自分はこれまでにもこれに似た多くの訴訟で全面的にあるいは部分的に勝った経験がある。実際にはおそらくこれほどむずかしくなかったのだろうが、外見上はともかくもっと絶望的だったいくつもの訴訟。それらの訴訟の記録はこの引出しの中にしまってある――と言って彼は机の引出しのどれかを叩いてみせた――が、残念ながら職業上の秘密にかかわるので書類をお見せするわけにはいかない。見せるわけにはいかないが、しかし自分がこれらすべての訴訟を通じて獲得した偉大な経験はいまやむろん、あなた、Kのために役立たせられるのですぞ。自分はもちろんただちに仕事を始めたから、最初にだす請願書はすでにほとんど完成している。それはきわめて重要なものだ、なにしろ弁護側の与える第一印象がしばしば訴訟手続の方向全体を決定してしまうのだからな。ただし残念ながら、この点ではあなたの注意をうながしておかねばならぬが、この最初の請願書が裁判所で読んでもらえぬことがままある。ただ文書の一つに加えておくだけで、さしあたりは被告の訊問と観察のほうが書類などよりずっと重要だというわけだ。申請人がうるさく頼みこむと、すべての資料が集まり次第ただちに、むろん参考としてだが、決定の前にすべての書類が、従ってこの最初の請願書も、充分に検討される、と言ってくれる。しかし残念ながらこれも大抵は嘘で、最初の請願書が置き忘れられたり、まるごと紛失したりするのがしょっちゅうなのだ。最後まで保存されている場合でも、これはもちろんわたしが弁護士としてうわさで聞いたことだが、読まれることはまずないのだ。こういったことはまことに残念なことではあるが、一応それなりの理由がないわけではない。なによりも訴訟手続が公開ではないということを忘れないでいてもらいたい。裁判所が必要と認めたときは公開されることもあるが、公開はべつに法律によって義務づけられているわけではないのだ。従って裁判所のいろいろな書類、なかんずく起訴状は、被告とその弁護人にとってどうしようもないものなのだ。だから最初の請願書のねらいをどこにおいたらいいか、このことは一般にはわからない、少くとも正確には知りえないわけで、従って事件のためになにか意味のある内容を盛りこむことは本来まぐれ当りにしかできない相談なのだ。本当に適切でかつ証明力のある請願書は、ずっとあとになって、被告の訊問の過程で個々の起訴要目とその理由づけがはっきりとあらわれてくるか、あるいは推測されるようになったときにしか作製できないわけである。こんな状況におかれているのだから、弁護側が非常に不利で困難な立場に置かれていることは言うまでもない。
しかし、実はそれもわざとしくまれたことなのだ。というのも、弁護は本来法律によって認められているのではなく、単に黙認されているにすぎないからで、しかもそのことに関する法律の条文から少くとも黙認という意味が読みとれるかどうかの点についてさえ論争が行われている状態なのだ。従って厳密にいえば、裁判所によって認められた弁護士というものは存在しないことになる。弁護士としてこの裁判所に登場する者はみな実際はもぐりの弁護士にすぎないのだ。こういったことはむろん弁護士階級全体に非常に屈辱的な影響を与えている。このつぎいつかあなたが裁判所事務局に行くことがあったら、一度そのことをちゃんと見ておくために弁護士控室をのぞいてごらんになるがいい。そこにたむろしている連中の様子にはきっとびっくりされることだろう。かれらにあてがわれた天井の低い狭い部屋からして、裁判所がこの連中にたいし抱いている軽蔑をあらわしている。光は小さな天窓からしか部屋に入ってこない上に、その天窓がまたおそろしく高いところにあるものだから、外を見ようとするにはまず背中を貸してくれる同僚を捜すことから始めねばならないし、しかも顔を出したところですぐ目の前にある煙突の煙が鼻にとびこみ、顔を真黒にされるだけだ。この状態を説明するためもう一つだけ実例をあげておくと、この小部屋の床にはかれこれ一年も前から一つの穴が開いている、人間が堕ちこむほど大きくはないが、それでも片足がすぽっともぐってしまうくらいには大きな穴だ。弁護士控室は屋根裏の二階にある、だからだれかが穴にはまると足が屋根裏の一階、ちょうど訴訟当事者たちが待っている廊下につき出してしまうというわけだ。弁護士仲間ではこんな状態を恥ずべきことだと言っているが、それでも言いすぎではあるまい。といって当局に苦情を申し出てもなんの効果もないし、弁護士が部屋の中の何かを自弁で変更することさえきびしく禁じられている。
しかし弁護士にたいするこういう扱いにもそれなりの理由がないわけではない。つまり弁護などはできるだけしめ出してしまい、すべてを被告自身にやらせようというのだ。基本的にはわるい見解ではないが、だからといって、この裁判所では被告にとって弁護士が不要だという結論をだしたりするのはとんだ誤ちだ。逆なのだ、いかなる他の裁判所でもここくらい弁護士を必要とするところはないだろう。というのも、訴訟手続は一般に世間にたいしてばかりでなく、被告にたいしても秘密にされているからだ。とはいってもむろん秘密になしうるかぎりにおいてだが、しかし非常に広い範囲にわたってそれが可能なのだ。すなわち被告でさえも裁判所の書類はかいもく見当がつかないようになっているし、訊問の中からその基礎になっている書類を推測することも非常にむずかしい、とくに気をとらわれている上に、さらに気を散らすありとある心配事をかかえこんでいる被告にはむずかしいのだ。そこで弁護人がはいりこむことになる。一般に訊問のさいに弁護人が立ちあうことは許されていないので、かれらは訊問のすぐあと、しかもできれば予審室の戸口のところでもう被告に訊問について問いただし、そのしばしばもう非常にぼやけてしまっている報告の中から弁護のために役立つものを引き出さねばならない。しかし一番重要なのは実はそのことではない。というのは、むろんここでもほかの場合と同じく有能な人は他人より多くを知ることができるけれども、このやり方ではあまりたいした成果は期待できないのだ。そこで一番重要なのは依然として弁護士の個人的な|つて《ヽヽ》だということになり、そこにこそ弁護の主要な価値があるのだ。
さて、あなたKもすでに自分の体験からしてわかっているだろうが、裁判所の最下層の組織は完璧というわけにはいかない、義務を忘れた買収されやすい役人がいて、そのために裁判所がいくらきびしく錠をかけてもそこに穴が生じることになる。弁護士の大多数がつけこむのはそこなのだし、買収や聞きこみが行われるのもそこなのだ。かつては、ただしずっと以前のことだが、書類盗難という事件さえ起こったことがある。そんなやり方で一時的には被告にとって驚くほど好都合な結果が得られることも否定できない。そのことをまたちっぽけな弁護士どもは得々とふれまわって新しい客をおびきよせるのだが、そんなことは長い目で見れば訴訟の成行きにとって何の意味もないか、なんらいい結果をもたらさないか、どちらかだ。本当の価値があるのはただまっとうな個人的な|つて《ヽヽ》、それも高級役人との|つて《ヽヽ》だけなのだ。高級というのはむろん下の階層のうちの高級役人という意味だが。とにかくそのようなつながりによってだけ、訴訟の成行きに、はじめは目立たぬほどだとはいえ、あとになればますますはっきりと影響が現れてくることになる。もっとも、そんなことができるのはもちろんほんの僅かの弁護士だけで、この点ではあなたの選択は非常に幸運だったといえる。フルト博士、すなわち自分のようなつながりを示せる弁護士は、ほかに一人か二人くらいしかいないだろうからね。これらの人びととなると、弁護士控室の連中など問題にせず、かれらとはなんの関係もない。それだけにしかし裁判所役人との結びつきはいっそう密接になる。たとえば自分フルト博士などは裁判所にいっても、予審判事室でかれが現れるのをあてもなく待ち、そのご機嫌をうかがいながら大抵は見せかけだけの成果をあげたり、それさえもらえなかったりというような目に会う必要はさらさらない。それどころか、K、あなたもその目で見たろうが、役人たち、その中にはまさに高位の者もいる役人たちが自分からやってきて、情報を、あけっぴろげなあるいは少くとも容易に解釈できる情報をすすんで提供してくれたり、訴訟の次の段階について話してくれたり、その上個々のケースについては人の話にも耳を傾けてくれるし、他人の見解を受け入れてさえくれるのだ。言うまでもなくこのあとの点ではあまりかれらを信用するわけにはいかないがね。たとえかれらがいくらきっぱりと新しい、弁護のために有利な意図をうちあけてくれたところで、いったんまっすぐ事務局に帰ってしまえば、翌日のためにまるで違う決定を下すかもしれないのだ、まさに正反対といっていい内容の、被告にとってかれらの最初の意図――さっきは完全にそれはもう捨てたと言っていたものだ――よりずっときびしいかもしれぬ決定をね。それにたいしてはもちろん防ぎようがない。なぜなら二人のあいだで言われたことは、まさに二人のあいだで言われたことにすぎず、公けの結論というわけではないからだ。弁護側としてはこれらの人びとの恩恵にあずかろうと努力するしかすべがないのではあるけれども。
一方ではまた、こういう裁判所の人びとがたんに人間愛とか友情で弁護側――これはむろん事情に通じた弁護側だが――と結びついているわけでないのも当り前のことで、むしろかれらはある点では弁護側を頼りにしてさえいるのだ。まさにここに、当初から秘密裁判しか行ってこなかった裁判組織の欠陥があらわれていると言ってよい。役人たちには住民とのつながりが欠けている。ふつうの中程度の訴訟にたいしてはかれらにも充分に備えがあり、そういった裁判はほとんどひとりでに軌道の上をころがってゆくから、ほんのときおり一突きくれてやればすむが、しかしきわめて単純な事件やとくに厄介な事件にたいしては、かれらはしばしば途方にくれてしまう。昼となく夜となくたえず法の拘束をうけているために、かれらは人間関係にたいする正しい感覚を持たず、こういう場合にとくにそのことを痛感させられるわけだ。つまりそういうときかれらは弁護士のもとに助言を求めにくるわけである、ふだんなら極秘にされている書類をたずさえた小使をうしろに従えて。だからこの窓辺に坐っているだけで弁護士はおよそ会うことなぞ叶いそうもない人びとに会うこともでき、かれらに助言してやれるよう机にむかって書類を調べながら、かれらがまさに途方にくれた顔付きで往来を眺めているさまに接しもするわけである。
それはさておき、まさにそのような機会にこそこれら裁判所の人びとが自分たちの職務をいかに真剣に考えているか、かれらの性質上打ち克つことのできぬ障害に出会っていかに絶望しているかを見てとることができる。かれらの立場はそうでなくても楽ではないのだし、まちがってもかれらの立場を楽だなどと考えてはならない。裁判所の序列と昇進は無限であり、事情通にさえ見通しがたいほどだ。ところが法廷での訴訟手続は一般に下級の役人にも秘密にされるから、自分の手がけている事件でもそれが先行きどう展開するかかれらにさえ完全にはわかるためしがなく、従ってどの裁判事件でも、それがどこから来たのかわからぬままかれらの視野に現れ、どこへ行くかわからぬうちに進んでゆくことになる。つまりこれらの役人たちは、訴訟の一つ一つの段階、最後の決定、その理由などを研究すれば汲みとることのできる教訓さえ逃がしてしまうわけである。かれらはただ法律によって限定づけられた訴訟の一部についてたずさわることを許されているだけで、だからそれ以上のことについては、つまりかれら自身のした仕事の成果については、通常、訴訟の最後まで被告とむすびついている弁護側ほどにも知らないのがふつうなのだ。従ってこの方面においてかれらは弁護側からいくたの価値ある情報を得られるわけである。だからもしあなたが、訴訟当事者にたいしてときとしてひどく侮蔑的な仕方で物を言う役人――だれでもそんな経験をするものだ――の苛立ちに驚くことがあったら、どうかそういった事情を念頭においてもらいたい。事実役人というものは、かれらが平静に見えるときでさえ苛立っているものなのだ。小物弁護士たちはとくにそういったことに悩まされる。
たとえば一例としてこんな話があるが、いかにもありそうなことだと思われる。一人の年とった役人、善良でもの静かな人だが、彼があるとき、弁護士のだした請願書のためにひどくこんがらかってしまった厄介な裁判事件を一日と一夜ぶっ通しに調べあげた――事実こういった役人たちは他のだれよりも勤勉なものなのだ――。さて、二十四時間に及ぶそのおそらくたいして実りのなかった仕事のあと、朝になって、彼は入口のドアまでいくと物かげに身を潜めた、そして入ってこようとする弁護士どもをみな下につきおとした。弁護士たちは下の踊り場に集まって、さてどうしたものだろうと相談した。一方では、かれらは元来入れてくれと要求する権利を持たないのだから、役人にたいして法的に何をすることもできない上に、すでに言ったように、役人たちを敵にまわさぬようにも注意しなければならない。しかし他方では、かれらにとって裁判所で過さなければ一日がまるまるむだになってしまうわけだから、是が非でもなかに入りこむ必要があるわけだった。結局この老人を疲れさせることに意見が一致した。次から次へ繰り出された弁護士が階段を駆けのぼっていっては、消極的だとはいえできるかぎりの抵抗を試みて下につき落され、待ちうけている仲間に受けとめてもらった。それが約一時間つづいた。するとその老人は、徹夜仕事ですでに疲労困憊しきっていたのだから、本当に疲れはててしまい事務局にひき返した。下の連中は初めのうちはそれを本気にしようとしないで、まず一人を派遣して、本当にだれもいないかどうかドアのうしろを調べさせた。それからやっと全員が入っていったのだが、おそらくぶつくさ言う者なぞ一人もいなかったに違いない。
なぜなら弁護士たちには――こういった事情は一番だめな弁護士でも少くとも部分的には知ることができる――裁判になんらかの改革をもちこんだり実現しようとしたりする気なぞはなからまったくないからである。一方被告のほうは――これがきわめて特徴的なことだが――ほとんどだれもが、そう、単純しごくな者たちでさえも、訴訟に一歩足をつっこむやいなやすぐ改良の提案を考えはじめ、そんなことをしなければもっと有効に使えたはずの時間と労力をむだに使ってしまう。だが、唯一の正しい態度はあるがままの現状と折れ合うことなのだ。たとえ個々の点でなにがしか改良することが可能だとしても――実際はそれもばかげた迷信なのだが――せいぜい将来の場合のためにいくばくかの成果をあげるだけだろうし、それにたいし自分自身は、つねに復讐欲に燃えている役人連中の特別な注意をよびさましてしまって、はかりしれない損害をこうむるのが落ちなのだ。注意をよびさまさぬことこそ大切なのに! たとえどんなに気にいらないときでもじっと耐えていなければならぬのに! それよりむしろ、この巨大な裁判組織はいわば永遠の浮動状態にあるということをこそ見抜こうとしなければならないのであって、従って自分の場所で独力でなにかを改革したとしても、それはあたかも足許から地面をとり去って自分が墜落するようなものであって、一方かの大きな組織のほうはそんな小さな妨害にたいしては容易に別の場所で――なにしろすべてがつながっているのだから――補いをつけてしまい、相変らず少しも変ってなぞいないのである、むしろ、そのほうが実際ありそうだが、相手は前よりもっと閉鎖的に、もっと注意ぶかく、もっときびしく、もっと悪辣になっているのが関の山なのだ。だから、仕事は弁護士にまかせきって、その邪魔をしたりしないことだ。
非難したところで何の役にもたたないし、とくに相手がその原因をまったき意味において理解していないときはなおのことそうだが、しかし言うだけのことは言っておかねばならない。K、あなたが事務局長にたいする振舞によって事件にどれほど悪影響を与えたかご存じか。あの影響力のある人物はもはや、あなたのために何かをしてもらえる人びとのリストからほとんど抹消しなければならなくなった。この訴訟にちょっと触れただけでも、彼はいまや明らかに故意に聞きながしてしまう。まったく役人というものは多くの点で子供みたいなものだ。ほんの無邪気な行為によってさえ――残念ながらKの振舞はそうではなかったが――かれらはしばしばひどく傷つけられて、親友とさえも口を利かなくなり、出会ってもそっぽを向き、ありとあらゆることで相手の邪魔をするようになる。それからしかしまた、なんら特別の理由もないのにだしぬけに、つまらぬ冗談に笑いだして、それで仲直りすることもある。こちらとしてはすべてが見込みなさそうに見えるのでやけっぱちに言ってみただけなのに。ことほどさようにかれらと付き合うのは難しくもあればやさしくもあり、それにたいする原則など存在しないのだ。だからときとしてふしぎでならないが、なみの生活の知慧さえあればこの世界でいくばくかの成功をおさめて仕事するすべぐらい、すぐ呑みこめるだろうと思う。
もちろん、だれにでもあるように、自分はこれっぽっちの成果もあげられなかったのじゃないかと思いこむ、憂鬱な瞬間もないわけではない。そんなときは、いい結果を得た訴訟はみな、事の初めからいい見込みのあったものばかりで、なにも自分が手を出さなくともそうなったんじゃなかろうかという気になるし、それ以外の訴訟はみな、あらゆる奔走、あらゆる努力、また天にものぼるばかりに嬉しがった小さな見せかけの成功にもかかわらず、まるっきり失敗だったような気がしてくる。そうなるとむろん何事にも自信がもてぬようになって、事の性質上うまくいくはずの訴訟をあんたがよけいな手出しをしたためにかえって横道にそらしてしまったではないかと言われても、あえて否定する勇気さえなくなってしまう。それも一種の自信と言えなくはないが、それはこの期に及んで一つだけ残っている自信なのだ。弁護士がそのような発作――むろんそれは発作であってそれ以上のものではない――に陥るのは、とくに、充分満足がいくように進めてきた訴訟を突然手中からとりあげられたようなときである。これこそ弁護士の身に起こりうる最悪の出来事と言っていいだろう。といってなにも被告によって弁護士から訴訟がとりあげられるというのではない。そんなことはおそらく決して起こるまい。ひとたびある弁護士を頼んだ被告は、何事が起ころうとも彼を離れてはならないのだ。そもそもひとたび助けを求めた以上、あとどうして一人でやっていけよう? 従ってそういうことは起こるはずがないのだが、訴訟がもはや弁護士のついてゆけないような方向をとることは、まま起こることがある。訴訟も、被告も、すべてのものが、ひょいと弁護士からとりあげられてしまう。そういうときは役人たちへの最良のつながりも何の役にも立たない、かれら自身なにも知らないのだから。まさに訴訟が一つの決定的段階に入ったのである。もはやいかなる助力もなすわけにゆかず、訴訟は手のとどかぬ法廷に移され、被告にさえもはや弁護士が近づけぬような段階に。そういうときのある日家に帰って、机の上にたくさんの請願書類が残らずのっているのを見た気持はどうだろう。それらはすべて彼が全力を傾け、この事件にたいする明るい希望のうちに作りあげたものだ、それがいま裁判の新しい段階に持ち込むことが許されなくなったのでつっ返されてきた、すべて一文の値打ちもない反故《ほご》になってしまったのだ。
といって訴訟はまだ敗けときまったわけではない、決してそんなことはない。少くとも敗けと想定する決定的な理由はない。ただ訴訟についてもはや何もわからなくなり、今後ともそれについて知ることはないだろうというだけだ。ともあれそんな場合はさいわいごくごくの例外であって、仮にあなたの訴訟がそういった場合の一つだとしても、目下のところはそんな段階からはまだ遠く距っている。いまはまだ弁護士が腕をふるう機会はたっぷりあるし、その機会が十二分に利用されることはあなたは信じていてよろしい。すでに言ったとおり請願書はまだ提出されていないが、それは急ぐことではない、むしろいまはるかに重要なことは権威ある役人たちと序論的な話しあいをすることであり、それならすでに行われている。はっきり言えというなら、さまざまな成果もあがっている。しかし、さしあたりはこまかいことは言わないでおいたほうがいいだろう。それによってあなたがよくない影響をうけ、あまりにも有頂天になったり、あまりにも不安に陥ったりするかもしれぬからだ。ただこのことだけ言っておくと、非常に好意的な意見をのべ助力を惜しまぬと言ってくれた人もあれば、反面それほど好意的な意見をのべず、しかし決して助力は拒まなかった人もあった。そんなわけで成果は全体としては非常に上首尾なのだが、すべての予備交渉というものは大体こんなふうに始まり、この予備交渉の価値はそれ以後の展開をまって初めてきまるものなのだから、決してそこから特別な結論をひきだしたりしてはならない。いずれにせよ、まだ何ひとつだめになったわけではない。いろいろとまずいことがあったけれども、あの事務局長を味方にすることに成功しさえすれば――すでにそのための手はいろいろと打ってある――、これまでのことは――外科医の言葉でいえば――きれいな傷というところで、安んじて今後に期待していていいのである。
そういったような話になると弁護士は尽きるところを知らなかった。そんな話が訪問のたびに繰返された。いついっても、進歩はあった、しかしこの進歩の具合について伝えるわけにはいかない、とのことだった。相も変らず最初の請願書にかかっていて、しかしそれが出来上るということはなく、次に訊ねてゆくと大抵は、この前は予見できたわけではなかったが手渡すのにきわめて具合のわるい状態だったから、出来ないのはむしろ大変に有利なことだった、と説明された。なるほど、いろいろ厄介な事情があることはわかりましたが、それを考慮に入れてもしかし進行がひどくのろいようですなと、長話にうんざりしてKがときおり意見をのべると、決して進行がのろいわけではない、しかしあなたがもっと早手まわしに弁護士に依頼してきていれば事態はもっと進展していたはずだ、という答えが返ってきた。しかしあなたは残念ながらそのことを怠った、こういった怠慢はたんに時間的な問題だけでなく、今後もいろいろな不利益をもたらすことだろう、というのである。
この訪問の時間を中断してくれる唯一のありがたいものが、レーニだった。彼女はいつでもちょうどKのいるときを見はからって弁護士にお茶を運んでくるすべを心得ていた。運んでくると彼女はKのうしろに立って、弁護士が貪るように深く茶碗に身をかがめて茶をそそぎ、飲むのを見守っているふりをしながらひそかに手をKに握らせるのだった。そのときは完全な沈黙があたりを支配した。弁護士は飲んでいた。Kはレーニの手を握っていた。レーニはときおりKの髪をやさしくなでることまでやってのけた。
「おまえまだそこにいたのか?」
と弁護士は飲みおわるときいた。
「食器をさげようと思ってたものですから」とレーニは言った。もう一度最後の握りしめが行われ、弁護士は口を拭い、力をとりもどしてKの説得を始めた。
弁護士が狙っているのは、慰めだろうか、絶望だろうか? それはわからなかったが、Kはどうもよくない相手に弁護をまかせたようだと確信するようになった。弁護士が話したことはあるいは全部本当なのかもしれなかった。が、彼ができるだけ自分を大きいものに見せようとしながら、そのくせこれほど大きな事件――彼の考えではKの訴訟がそれなのだった――をまだ一度も手がけたことがないらしいのは明らかだと思われた。彼がたえず力説する役人たちへの個人的なつながりだって、疑わしいといえば依然疑わしかった。大体あんな役人たちがKの利益のためだけに利用されるなんてことがありうるだろうか? なるほど弁護士はつねにこう言うのを忘れなかった、問題なのはただ低い階級の役人だけだ、すなわち、訴訟の展開如何がその出世に重大な意味を持つような、非常に従属的な立場にいる役人たちだけだ、と。もしかしたらそんな役人たちは、被告にとってはむろんつねに不利になるようなそういう展開を得んがために、弁護士を利用していただけではないのだろうか? かれらだってどんな裁判でもそんなことをしたわけではなかろう、たしかにそんなことはありそうにない、だとすれば一方には、その過程でかれらが弁護士の仕事のために利益を譲りわたしてやったような訴訟だってあったことになる。なぜなら弁護士の名声を傷つけないでおくことは、かれらにとっても大事だったに違いないからだ。しかし事情が本当にそうなんだったら、かれらは一体どんな仕方でこの自分の訴訟に関りあおうというのだろうか? あの弁護士が言うところでは、非常に厄介な、従って重大な訴訟であって、初めから裁判所でたいへんな注意をよび起こしてしまったというこの訴訟に。とすればかれらが何をしようとしているか、疑問の余地はないのではないか? その兆候はすでに見えているのではないか? 訴訟が始まってすでに何ヶ月もたつというのに最初の請願書さえまだ提出されていないのだし、弁護士の意見ではすべてはまだ始まりの状態にあるというのだから。これはむろん、被告を眠りこませて救いようのない状態にしておいて、それからある日突然決定をつきつけてくるか、あるいは少くとも、被告の不利に終った予審判決は今後上級の役所に申しおくられると通告してくるのに、非常に具合のいいやり口だと言わなければなるまい。
Kみずから乗りだすことが絶対に必要だった。とくのこんな冬の午前の、そのつもりもないのにいろんなことが頭のなかをよぎってゆく非常に物倦い状態のときには、そうすべきだという確信は避けがたいものになった。これまで彼が訴訟にたいしていだいていた軽蔑は、もはや通用しなかった。もしこの世に彼ひとりしか存在しないのだったら、訴訟なぞは容易に無視することができたろうし、またそのときには、だいたい訴訟そのものが成立していなかったであろうこともおそらく確かだった。しかしいまはすでに叔父によって弁護士のところに連れてゆかれ、身内にたいする顧慮もあった。彼の立場はもはや訴訟の経過から完全に自由だとはいえなかった。彼自身が軽率にもある種の説明のつかぬ自己満足から知人たちの前で訴訟の話をしたこともあるし、ほかの者たちもどんな仕方でかは知らないが訴訟のことを知っていた。ビュルストナーとの関係も訴訟に呼応して揺れ動いているようだった。――これを要するに、もはや彼に訴訟を受け入れるか拒むかの選択権はなく、彼は訴訟のまっただ中にいて、身を守らねばならなかった。ぐったりしていてはまずいのであった。
さしあたってはおおげさに取越苦労すべき理由なぞむろんなかった。銀行では比較的短時日のうちにいまの高い地位にまでのし上り、みんなに認められながらこの地位を立派に守ってきたのだから、いまは、このことを可能にした能力のいく分かを裁判にふりむけさえすればよく、いい結果に終るであろうことは目に見えていた。なによりもまず、もし何事かを成しとげようと思うなら、罪があるかもしれぬなどという考えを天からはねのけておくことが必要だった。罪なぞはなかったのだ。訴訟とは一つの大きな取引以外の何物でもなく、問題はただ、これまですでに何度かそんな取引をして銀行に利益をもたらしたときのように、通常そういう取引の内側にはさまざまな危険が潜んでいるものだから、それだけをぜひとも防ぐことだった。この目的のためにはもちろん、罪があるかもしれぬなどという考えをもてあそんだりしないで、できるかぎり自分自身の利益だけをしっかりと考えていなければならない。この見地からしてもやはり、弁護士から代理権をできるだけ早く、できれば今晩のうちにとりあげてしまうことが、必要なようだった。弁護士の話からすれば、いかにもそれは前代未聞の、たぶんひどく侮蔑的なことかもしれなかったが、訴訟における自分の努力のなかに、どうやら自分自身の弁護士に起因するらしい妨害が入ることは、Kにはとても我慢がならなかった。しかしひとたび弁護士を厄介払いしてしまったら、今度はただちに請願書を提出しなければならないだろうし、できれば毎日でも裁判所にそれを無視しないようせっつく必要があるだろう。そのためにはもちろん、Kがほかの者たちと同じく廊下に坐って帽子をベンチの下に置くだけでは不充分だろう。彼自身か、女たちか、あるいはほかの使いの者が、来る日も来る日も役人のもとに押しかけて、格子越しに廊下を眺めてなどいないで、じかにかれらの机のそばに坐りこみ、Kの請願書を見るように強いなければならないだろう。そういった努力を一つとしてやめるわけにはいかない、またすべてが組織され監視されねばなるまいが、そうやっていれば裁判所もいつかついに自分の権利を守るすべを心得ている被告にぶつかったと悟る日がくるのではないか。
しかし、こういったことすべてをやりとげる自信がKになかったわけではなかったけれども、請願書を起草する困難は圧倒的であった。以前、といってもほんの一週間前には、彼は恥ずかしいという感情をともなわずには、自分自身がそんな請願書をつくる羽目に追いこまれたときのことを考えることができなかった。それがこんなに困難なものだと想像することもできなかった。忘れもしないが、いつかの日の午前仕事の山にかこまれていたとき、彼は突然すべてをわきに押しやって、メモ用紙を一枚はがし、試みにこういった請願書の筋書を書いてみようとしたことがあった。よかったらそれを弁護士に使わせようかと思ったのだ。ところがちょうど彼が書きだしかけた瞬間に頭取室のドアが開いて、頭取代理が高笑いとともに入ってきた。頭取代理はもちろん知るはずもない請願書のことを笑ったのではなく、いま聞いたばかりの取引所での話を笑ったのだけれども、――そのしゃれを理解させるには図形の助けが要ったので、頭取代理はKの机に身をかがめると、彼の手からとりあげた鉛筆で、まさに請願書を書こうとしていたそのメモ用紙の上に図形を描いてみせた――そのときのKにはそれを聞くのが非常に苦痛であった。
今日はもう恥ずかしいなどという感情はなく、ぜひとも請願書を作りあげねばならなかった。もし事務室でその時間が見つけられなければ――とてもありそうになかった――自宅で夜中にでも作らねばならない。夜中を使っても足りなければ休暇をとるしかないだろう。ただ中途でやめることだけはよそう、それは単に業務においてばかりでなく、いつでもどこでも最もばかげたことだから。もちろん請願書を書くのはほとんど際限のない仕事であった。請願書を仕上げることなどとうていできないのではないかと考えるには、なにも心配性の人でなくともよかった、だれもが容易にそんな考えにとりつかれるのだ。困難は、弁護士に完成することを妨げさせる、あの怠慢や術策にあるのではなかった。現在ある告訴状の内容も知らず、ましてや今後の書き加えについてはまるで知らぬまま、自分の全生涯をこまかな行動や出来事にいたるまで一々記憶に呼びもどし、描き、あらゆる観点から検討しなければならぬためであった。それにこういった作業はなんと沈痛なものだろう。ひょっとしたらこんな仕事は、年金付で退職したあと子供がえりしてしまった精神がするにふさわしく、かれらに長い一日を過させるのに役立つだけなのかもしれなかった。しかし、Kがすべての思考を仕事のために必要としているいま、しかもまだ彼が上昇中であってすでに頭取代理にとって脅威となりつつあるため、どの一時間もが驚くほどの速さですぎ去ってゆくいま、また一方では若い人間らしく短い宵と夜とを存分に享受したいいま、なぜ自分はこんな請願書の作製にとりかからねばならないのか。そう思うと彼の考えは嘆きに変った。ただそんな考えを終らせたいからだったろう、彼は指でなかば無意識に控室に通じている電鈴のボタンをさぐっていた。それを押しながら目は時計を見上げていた。すでに十二時だった。二時間という長い貴重な時間、彼は夢うつつに過したのだった、そしてむろん前よりもぐったりしていた。だが、ともかく時間を空費したのではなかった、彼は決心をつけたのであり、それは価値あるものかもしれなかったのだ。
小使たちはさまざまな郵便物のほかに、すでに長時間Kを待っていたという紳士方の二枚の名刺を持ってきた。二人とも銀行のとくに重要な顧客であって、本来ならどんなことがあっても待たせてはいけない人たちだった。選りに選ってなぜこんな都合の悪いときに来たのだろう? またなぜ――と、ドアの向うで紳士方も同じ質問をしているらしかった――勤勉なKともあろう者が、一番いい執務時間を私用のために使ったりしたのだろう? これまでのことに疲れ、これから起こることに疲れとおそれを抱きながら、Kは最初の客を迎えるために立ち上った。
それは小柄で陽気な男で、Kのよく知っている工場主だった。彼はKの大事な仕事中に邪魔したことを詫び、Kのほうでは工場主をそんなに長いあいだ待たせたことを詫びた。しかしこの詫びにしてからが非常に機械的な言い方で、しかもほとんどわざと強調して言われたものだから、もし工場主が自分の用件に気をとられきってさえいなかったら気づかずにはいなかったに違いない。気づくかわりに彼はあわてて計算書や図表をあちこちのポケットからとりだし、Kの前にひろげてみせた。さまざまな項目を説明したり、彼が急いで目を通しただけで気がついた小さな計算誤りを訂正したり、ほぼ一年前にKと結んだ似たような取引のことを思いださせたり、ついでに別の銀行が大きな犠牲をはらってもこの取引を結びたがっていると言ったりして、最後にやっとKの意見を聞くために口をつぐんだ。Kのほうも事実初めのうちは工場主のおしゃべりによく耳を傾けていた、聞きながらこれは大事な取引なのだという考えにとらわれてもいたのだが、残念なことにそれも長続きせずまもなく彼は聞くのをやめてしまった。それでもなおしばらくは工場主の大声を発するのに一々うなずいてみせていたのだが、しまいにはそれさえもやめてしまって、書類の上にかがみこんでいる禿頭を見つめながら、一体いつになったら工場主が、いままでしゃべったことは全部無駄だったと気づくだろうかと、自問するだけにとどめてしまった。彼が黙りこんだときKは最初本気で、これは自分に聞く能力がないと告白させる機会を与えるために黙ったのではなかろうか、と思いこんだほどであった。それだけに、あらゆる反論にたいし身構えているらしい工場主の緊張した目つきを見て、この取引上の相談は続けなければならないのだと気付いたときには、相手が気の毒でならなかった。そこで彼は命令でも聞くように首を傾げ、ゆっくりと鉛筆を書類の上に遊ばせて、ときおり手を休めては数字をにらむふりをした。工場主はKに異論があると思いこんだらしかった。あるいは本当に数字がまだ確定的なものでなかったのか、あるいは決定したものでなかったのか、いずれにしろ工場主は書類を手で覆ってしまって、近々とKに身をよせながらまた新たにこの取引の一般的な説明をし始めた。
「むずかしいですね」
Kは口にしわを寄せて言って、いまや唯一の手がかりである書類が覆われてしまったので頼るものもなく、椅子の肱にもたれかかった。そればかりか、頭取室のドアが開いてそこにぼんやりと紗のヴェールごしに見るように頭取代理が現れたときも、彼は力なく目を上げただけだった。彼はそれ以上その意味を考えなかった、ただそのために生じた当面のよろこぶべき効果にばかり身を任せていた。案の定、工場主がすぐさま椅子からとび上って頭取代理を迎えに走りよっていったときも、Kは代理がまた消えやしないかと心配で、できれば十倍も彼を敏捷にしてやりたいくらいだった。が、それは要らぬ心配だった。二人の男はたしかに出会い、たがいに手をさしのべ、一緒にKの机のほうに歩いて来た。工場主は、業務主任さんはあまりこの取引に気乗りしてないようですと苦情を言い、代理の視線を感じてふたたび書類にかがみこんだKを指さした。それから二人が机によりかかって、工場主が今度は頭取代理の攻略にとりかかったとき、Kはまるで二人が頭の上で彼自身のことを論じ始めたような気がして、二人の男がことさらに大きく見えた。用心ぶかく目を上にむけて彼は頭の上で起こっていることをゆっくりと知ろうと試みた。見もせずに机の上から書類の一枚をとりあげ、手のひらにのせ、彼自身も立ちあがりながら、それをそろそろと二人の男にさしだした。なにかはっきりした考えがあってしたことではなく、いつかあの大請願書を仕上げて完全に肩の荷をおろしたときには自分はきっとこんなふうに振舞うに違いない、と感じながらしたまでであった。注意力のかぎりを傾けて話にのめりこんでいた頭取代理は、書類にちらっと目をやっただけで、何が書かれているか読みもしなかった。業務主任にとって重要なものは彼にとっては重要でなかったからだ。Kの手から書類をとりあげると、彼は、
「ありがとう、もう全部承知しています」
と言って、落着きはらってまた机の上に戻した。Kはむかむかしながらそれを横目で見ていた。頭取代理はしかしぜんぜんそれに気がつかなかった、それとも気がついたのだがかえってそのことで元気づけられたのか、何度も大きな笑い声をたてた。一度なぞはぬかりのない応答で工場主を目に見えるほど狼狽させたと思うと、自分ですぐさま反論をだして相手を狼狽から救いだし、最後に、あちらで会談に決着をつけることにしましょうと、自分の部屋にくるように誘った。
「大事な問題ですからね」と彼は工場主にむかって言い、「そのことは充分に理解しています。それに業務主任にとっても」――と、この言葉さえ彼はむしろ工場主にむかって言っていた――「われわれが取りあげてしまったほうがきっと都合がいいでしょう。この問題は落ついてじっくり考えてみる必要がありますからな。しかし彼はどうやら今日は非常に多忙のようだし、それに控室には幾人もの人がもう何時間も待ってるようです」
Kにはまだ、頭取代理から顔をそらして愛想のいいこわばった微笑を工場主に向けてみせるだけの分別は辛うじて残っていたが、それ以外はまるでお手あげだった。少し前かがみになって、帳場の奥の番頭のように両手を机についてからだを支えながら、二人の男が話をつづけつつ机の上から書類をとりあげ役員室の中に消えてゆくのを、ぼんやり見送るばかりだった。最後にドアのところで工場主はふり返って、まだお別れするわけではありませんよ、話し合いの結果はむろん業務主任さんに報告します、それにほかにもちょっとあなたにお伝えしたいことがあるんです、と言って消えた。
ようやっとKひとりになった。だれかほかの客を迎えようなどという考えはまるで浮ばず、ただぼんやりと今の状態の快さが意識に上るばかりだった。外にいる人たちはきっと自分はまだ工場主と交渉中だと思いこんでいるだろう、そしてこの理由からしてだれも、小使でさえも、ここへ入ってはこないだろう、と彼は思った。Kは窓ぎわに行って、窓枠に腰をおろし、片手で把手にしがみつきながら広場に目をやった。相変らず雪が降っていた。空はまだ少しも明るくなっていなかった。
心配の種が何なのか自分でもわからぬまま、Kはながいことそこに坐りこんでいた。ときおり、空耳かもしれぬが物音がきこえたような気がして、はっと肩越しに控室のドアのほうをふり返っただけだった。しかしだれも入ってこなかったので、彼は落着きをとり戻し、洗面台へいって冷たい水で顔を洗い、頭をさっぱりさせてまた窓ぎわの席に戻った。自分の弁護をわが手にひきうけようという決心は、そもそもの初めに彼が思っていたよりはるかに重大なことがわかってきた。弁護を弁護士に任せきっていたうちは、彼はまだ結局のところ訴訟と本気で関わってきたわけではなかった。訴訟を遠くから眺め、直接訴訟の手のとどくところに身を置いていなかった。事態がどうなっているか好きなときに調べることもできたが、また好きなときに頭をひっこめることもできた。それにたいし弁護を自分の手でやろうとするいま彼は、――少くともさしあたりは――わが身をあますところなく裁判所の前に曝さねばならなかった。その成果としてやがて後に完全な決定的な解放がもたらされるとしても、しかしそれを達成するためにはいずれにしろ当分のあいだ、従来よりはるかに大きな危険を冒さなければならぬはずだった。そのことをいくら疑おうとしても、今日頭取代理と工場主と一緒にいたときのことを思えば疑いようはないと信ずるほかなさそうだった。自分を自身で弁護しようと決心しただけでおれは、まったく何というぼうとした状態になってしまったことだったろう。こんなことでこれから先一体どうなるのだろう。なんという日々が前に立ちふさがっていることか。すべてを切り抜けてよい結果に達する道をはたして見つけられるだろうか。細心な弁護というものは――そしてそれ以外は全部無意味なのだ――そう、細心な弁護とは、とりも直さず、それ以外のすべてから可能なかぎり自分を遮断する必然性を意味しているのではなかろうか。首尾よくそれに耐えられるだろうか。どうやったら銀行にいながらそれを遂行することができようか。問題はたんに請願書のことだけではないのだ。請願書だけなら、いますぐ休暇を願いでるのは大いに冒険だとしても、要するに休暇をとればすむことだ。が、そうではなくて問題は、いつまでつづくか見通しもつかないこの訴訟全体なのだ。まったく何という妨害が突然おれの人生に投げこまれてしまったことだろう。
それなのにいまでも銀行のために働けというのか?――彼は事務机の上に目をやった。――いまも顧客を通してかれらと商談しなければならないのか。自分の訴訟がころがりつづけているのに、そしてあの屋根裏部屋では裁判所の役人たちがこの訴訟の書類に目を走らせているというのに、おれはいまも銀行の業務に気を使わなければならぬのか。これではまるで拷問ではないか。裁判所で承認され、訴訟と抱きあわせになってどこまでもついてまわる拷問。なのにたとえば銀行でおれの仕事を評価するさいに、こんな特別の事情を顧慮してくれる者があるだろうか? そんなやつは一人もいない。だれがどれだけ知っているかはまだ完全には明らかでないとしても、おれの訴訟はまるっきり知られていないわけではない。どうやらしかし噂はまだ頭取代理のところまではとどいていないようだ、さもなければ彼が同僚のよしみも人情も捨ててそれを自分のために利用しつくすのを、いままですでにはっきり見せつけられていたことだろう。では頭取のほうはどうか? たしかに彼はおれに好意をよせているし、訴訟のことを耳にしたらただちに、彼の力の及ぶかぎりで仕事が楽になるようとりはからってくれることだろう。しかし彼はきっとそれを貫き通せまい。なぜといって、おれがいままで築きあげてきた対抗勢力が弱くなり始めたいま、頭取はますます頭取代理の影響に屈しつつあるし、代理のほうは頭取の苦しい立場をとことん自分の勢力の強化に利用するだろうからだ。では一体自分はなにに希望をつないだらいいのだ? ひょっとしたらこんなことに思い悩んでいては抵抗力が弱まるのかもしれないが、必要なのはやはり、自分自身を欺かず、この状態で可能なかぎりすべてを明瞭に見てゆくことだろう。
とくに理由はなかったが、さしあたりまだ事務机に戻りたくなかったので、Kは窓をあけた。それがひどく開けづらかったので両手で把手をまわさねばならなかった。開くと、窓のひろさいっぱいに煙のまじった霧が流れこんできて、かすかな焦げるにおいで部屋をみたした。二ひら三ひら雪片さえ吹きこんできた。
「いやな秋ですな」とKの背後で工場主の声がした。頭取代理のところから戻って知らぬまに部屋に入りこんでいたのだ。Kはうなずいて、工場主の書類入れに落着かぬ目を向けた。いまにも彼が中から書類をとりだしてKに頭取代理との交渉の結果を話しだしそうだった。しかし工場主はKの視線を察したか、書類入れを叩いただけで開けなかった。
「どうなったかお聞きになりたいでしょうな。この中にもう契約書が入っているも同然ですよ。なかなか魅力ある人物ですねあの頭取代理さんは。もっともまるっきり危険のない人とは言いきれませんけれどね」
彼はそう言って笑い、Kと握手し、彼にも笑わせようとした。しかしKには今度は工場主が書類を見せたがらないのがあやしく思われたので、彼の意見に同調して笑うことはできなかった。
「業務主任さん」と工場主は言った、「あなたはきっとこのお天気に参ってるんでしょう? 今日はひどくふさいでるように見えますよ」
「ええ」とKは言って手でこめかみを抑えた、「頭痛、それとわたくし事の心配です」
「まったくですな」と工場主は言った。これはせわしない人間で、ひとの言うことをゆっくり聞いていられないのだった、「だれしもおのが十字架を背負わねばならんというわけです」
知らず知らずKが相手を送りだす格好でドアのほうに一歩踏みだしたとき、工場主はしかしこう言った。
「ところで業務主任さん、もう一つあなたにお伝えしとくことがあるんですよ。こんな日に言うのはご迷惑かと思いますが、最近二度もお目にかかっていながらそのたんびに言い忘れてしまったもんですからね。それにこれ以上先へ延ばすとぜんぜん役に立たなくなっちゃいそうで、それじゃあまりに残念ですからな。というのも、これからお伝えすることはまるっきり値打ちがないことではないからですよ」
Kがそれに答える間もなく、工場主は彼のすぐそばに歩みよると指の背で彼の胸を軽く叩き、低声で言った。
「あなたは訴訟に関わってらっしゃるんでしょう?」
Kはあとじさりしてただちに叫んだ。
「頭取代理がそう言ったんですね!」
「違いますよ」と工場主は言った、「だって頭取代理がそんなこと知ってるわけがないじゃありませんか」
「じゃ、どうしてあなたが?」とKはすでに前よりずっと冷静になってきいた。
「裁判所のことをときおり耳にするもんですからね」と工場主は言った、「あなたにお伝えしたいのも実はそのことなんです」
「なんてたくさんの人が裁判所と関係してるんだろう!」
Kは頭をうなだれて言って、工場主を机のほうにみちびいた。ふたりがさっきと同じように腰をおろすと工場主は言った。
「残念ながらお伝えできることはそんなにたくさんあるわけじゃないんですよ。しかしこういった事柄ではどんなに僅かでもないがしろにできませんからね。それにわたしとしてはあなたのお力になりたい気持でいっぱいなんです、おまえの助力なぞたかが知れていると言われるかもしれませんけどね。なにしろわれわれはこれまでよき仕事仲間でしたからな。じゃ始めますか」
Kは今日の話し合いのときの態度を詫びたかったが、工場主は話の腰を折られるのをきらい、急いでいることを示すため書類入れを腋の下におしあげて言葉をつづけた。
「あなたの訴訟のことを知ったのはティトレリとかいう男からです。画家でしてね、ティトレリというのは雅号ですが、本当の名は何というのか聞いたこともありませんな。何年か前からときどき小さな絵を持って事務所にやってくるんで――乞食といっていいくらいのもんですよ――わたしはいつも一種の喜捨をしてやってます。絵そのものはなかなかきれいな絵で荒野の風景とかそういったものです。この買い物は――二人ともすっかりそれに慣れてしまったので――非常に円滑にいっていました。あるときしかしこういう訪問がいささか頻繁に重なりすぎたものだから、わたしが文句を言い、それでしばらく話し合ったわけです。絵だけでどうやって食ってゆけるのか興味もありましたしね。すると驚いたことに彼のおもな収入源が肖像画だとわかったんです。『裁判所の仕事をしてます』って言うんで、『どんな裁判所かね』ときくと、いろいろと裁判所のことを話してくれたってわけです。わたしがその話にどんなに驚いたか、これはたぶんあなたが一番よくわかってくださるでしょう。それ以来彼が来るたびにわたしはなんやかや裁判所のニュースを聞き、そんなふうにして次第にいくらか事情もわかってきました。もちろんティトレリはおしゃべりで、ときどきは追い返さずにいられません。それは彼が明らかに嘘もつくばかりでなく、わたしのように自分の仕事の心労だけでほとんど押し潰されそうな実業家は、関係のない事柄にそうそうかまけているわけにいかないんでしてね。これはまあついでに言ったまでですが。ひょっとしたらあのティトレリが――とわたしはいま思ったんですが――いくらかあなたのお役に立つんじゃないか、彼ならたくさんの裁判官を知っているし、彼自身はそう大した影響力はもたないとしても、どうやったらさまざまの影響力ある人たちに近づけるか、助言をすることぐらいはできるでしょうからね。そしてそういった助言はそれ自体としては決定的なものではないとしても、わたしの考えでは、あなたの手に入れば大きな意味を持つだろうと思うんです。あなたはなにしろ弁護士みたいな方ですからね。わたしはいつも言ってるんですよ、業務主任のKさんはほとんど弁護士だって。いや、なにもあなたの訴訟のことで心配してるわけではありませんよ。しかし、どうです、ティトレリのところへいってごらんになりませんか? わたしが紹介すればあの男ならなんでもできるだけのことはするでしょう。いらっしゃったほうがいいと思いますがね。むろん今日でなくったっていいんですが、いつか折を見て。言うまでもなくこれは――これだけは念を押しておきますが――わたしがすすめたからといって、あなたに是非ともティトレリのところへ行けと押しつけるわけじゃありません。そんなつもりはこれっぽっちもないんでして、もしティトレリなぞなしでやっていけるとお思いなら、あんな男は放っておくのがいいにきまってます。あなたはもう綿密なプランを建ててらして、ティトレリなんかお邪魔かもしれませんからね。むろん、それだったら断じていらっしゃることはありません! こういったやつから助言をうけるとなれば、当然我慢もいるでしょうからね。まあ、お好きなようになさってください。これが紹介状、これが所番地です」
がっかりしてKはその書状を受けとりポケットにしまった。最もうまくいった場合でも、この紹介状がもたらしうる利益なぞは、工場主が彼の訴訟のことを知り画家がそのニュースをふれまわるという、そこに当然含まれている損害と比較にならぬほど小さいだろうと思われた。彼はすでにドアのほうに歩きかけている工場主に二言三言強いて礼をのべる気にさえならなかった。
「行ってみましょう」と彼は戸口で工場主に別れを告げながら言った、「それとも、いま非常に忙しいので、一度事務室まで来てくれないかと彼に手紙を出すかしましょう」
「あなたが最善の道を見つけられることは知ってましたよ」と工場主は言った、「もっとも、ティトレリのような連中を銀行に呼んでここで訴訟の話をするのは、あなたが一番避けたいことだろうと思ってましたがね。それからこういった連中にじかに手紙をやるのも、必ずしも有益といえないでしょうがね。しかしきっとすべてを充分にお考えの上でのことでしょうし、どうしたらいいかはあなた自身がよく心得ておいででしょう」
Kはうなずき、さらに工場主を控室の外まで送っていった。しかし冷静さをよそおっていても彼は自分自身に愕然としていた。ティトレリに手紙を書くなどと口にしたのは、もともとただ工場主になんらかの形で、紹介状はありがたく思っているしティトレリとはすぐにも会う機会を考えてみるつもりだという気持ちを示そうとして言ってみただけだったのだが、もし本当にティトレリの助言を価値あるものと見做していたらためらわずに彼に手紙を書いていたかもしれなかった。その結果として起こるかもしれぬ危険のことは、彼はしかし工場主に注意されて初めて知る有様だった。おれの理性は事実もうこんなにも信頼できなくなってしまっているのか、と彼は思った。はっきり手紙にそう書いて疑わしい人物を銀行に呼びだし、その男に、頭取代理とドア一つしか距てていないここで訴訟について助言を乞うなどということがもし本当に起こりうるんだったら、ほかの危険を見逃したり危険に首をつっこんだりする可能性もあるのではないか、むしろ非常にありうるのではないか? いつもだれかがそばにいて警告してくれるとは限らない。いまこそまさに全力を傾注して打って出るべきときなのに、自分自身の警戒心にたいしこのようないままで知らなかった疑惑が起こるとは! 事務室仕事を遂行しているときに感じると同じ困難が、いよいよ訴訟においても始まろうとしているのだろうか。もちろん彼はいまではもうどうしてティトレリなぞに手紙を書いて銀行へ来てもらおうとしたのか、自分でもわけがわからなかった。
そんなことを考えながら彼がまだ頭をふっていると、小使がそばにやってきて、控室のベンチに腰かけている三人の人物に注意をうながした。すでにかれらはそこで長いことKに呼び入れられるのを待っていたのだった。小使がKに話したのでいまかれらは立ち上って、だれもがこの好機を逃すまいと他人をおしのけてKに近づこうとした。銀行側が遠慮なくかれらにこの待合室で時間を浪費させたのだから、かれらのほうでも遠慮なぞ無用と考えたのだ。
「業務主任さん」とはやくもその一人が言った。
しかしKは小使に外套を持ってこさせ、小使の手を借りてそれを着ながら三人に向って言った。
「ご免なさい、みなさん。残念ながらいまお会いする時間がなのです。非常に申しわけないのですが、さし迫った用事があって、すぐ出かけなければならないのです。みなさんもごらんの通り長いことすっかり引きとめられてしまいました。明日か、またいつでも、あらためてお出でくださいませんでしょうか。それともなんなら電話で用件をうかがいましょうか? それともいま簡単にご用件をうかがってのちほど文書でくわしいお返事をさしあげましょうか? もちろん近々またお出でくださるのが一番よろしいのですが」
Kのこの提案を聞くと、これで完全に無意味に待ったことになった三人の男は呆れはてて、黙ってたがいに顔を見合わせるばかりだった。
「それでよろしいですね?」とKは帽子を持ってきた小使のほうを向いたまま訊ねた。開いているKの部屋のドアごしにおもての雪がひどくなっているのが見えた。それを見てKは外套の襟をたて、首のすぐ下のボタンをはめた。
そのときちょうどとなりの部屋から頭取代理が出てきて、外套を着たKと三人の男がやりあっているのを微笑しながら眺めていたが、
「外出かね、業務主任さん?」と訊ねた。
「ええ」とKは言って姿勢を正した、「急用ができたもので」
しかし頭取代理はすでに三人の男のほうに向き直っていた。
「それじゃこの方たちは?」と彼は訊ねた、「みなさんもう長いことお待ちだと思うが」
「もう話はきまったんです」とKは言った。
しかしいまや三人の男はそれ以上我慢できなくなって、Kをとり囲み、重要な用件でなかったら、また今すぐ、しかもさし向いで精細に相談する必要のあることでなかったらこうやって何時間も待ってはいなかったろう、と口々に言いたてた。頭取代理はしばらくかれらの言い分を聞き、帽子を手に持ってそこここの埃をはらっているKを眺めていたが、それからこう言いだした。
「みなさん、大変簡単な方法がありますよ。もしわたしでよろしかったら、業務主任のかわりにわたしがよろこんでお話をうけたまわりましょう。みなさんのご用件はもちろんいますぐ相談しなければならぬことでしょうからね。わたしどももみなさんと同じ実業家ですから、実業家の時間が大切なことはよくわかっています。こちらにお入りになりませんか?」
そう言って彼は自分の事務室の控室に通じるドアを開けた。
おれがやむなく放棄しなければならなかったものを、頭取代理はなんと巧みに自分のものにしてしまったことだろう! しかしおれのほうも、絶対に欠かせぬ以上のものを放棄してしまったのではないか? 未知の画家に託している希望なぞ大したことはなさそうだと自分でも認めざるをえないのに、そんな不確かな希望を抱いて出かけているあいだに、銀行でのおれの声望はつぐないえない損害を蒙るのではなかろうか。それよりふたたび外套を脱いで、少くとも隣室でまだ待たされているに違いない二人の客を自分のためにとり戻すほうが、ずっとましなのではなかろうか。もしかするとKは、もし彼の部屋で頭取代理が書類棚を自分のもののように探しまわっているのを目撃しなかったら、そうしようと試みていたかもしれなかった。Kが興奮してドアに近づくと、むこうは大声で言った。
「なんだ、まだ出かけていなかったのか!」
代理は顔をKに向けたが、その顔のたくさんの鋭いしわは老齢ではなくて力の充実を示しているように見えた。彼はすぐまた探しものを始めた。
「契約書の写しを探してるんだ」と彼は言った、「あの会社の代表がきみのところにあるはずだって言うんでね。ちょっと探すのを手伝ってくれないか」
Kが一歩踏み出すとしかし頭取代理は言った。
「ありがとう。もう見つかったよ」
契約書の写しばかりでなく確かそのほかにもいろんなものの入っている大きな包みを持って、頭取代理は自分の部屋に戻っていった。
「いまはあの男にかなわないが」とKは自分に言った、「おれの個人的な厄介事がすっかり方がついたらあの男にはまっ先にいたい目に会わしてやろう。しかもできるだけこっぴどく」
そう考えるといくらか気が静まったので、彼のためにずっと前から廊下へのドアを開けて待っている小使に、所用で外出した旨折を見て頭取に伝えてくれと頼み、これでしばらくのあいだ完全に自分のことに没頭できるぞと、ほとんど浮きたつ気持になってKは銀行を出た。
彼はまっすぐ画家のところへ行った。画家の住居は、郊外といっても裁判所事務局があるほうとは正反対の方角にあり、あれよりもっとみすぼらしい界隈であった。家々は陰気くさく、通りはゴミでいっぱいで、それがとけた雪の上をゆっくり移動していた。画家の住むアパートは大きな入口の扉が片方だけ開いていたが、閉めきりの扉は下のほうの壁に割れ目ができていて、Kが近づいたときちょうどそこからいやらしい黄色い液体が湯気をたてながら流れ出し、ねずみが二、三匹近くの溝へ逃げていくところだった。下の階段口に小さな子供が地べたに腹這いになって泣いていたが、門の反対側にあるブリキ屋の作業場からひびくおそろしい騒音にかき消されて、それさえ聞こえぬほどであった。作業場のドアは開けっ放しになっているので、三人の職人が半円形になってなにかの部品をかこみ金槌で叩いているのが見えた。壁にかかった一枚の大きなブリキ板が蒼ざめた光を投げ、二人の職人のあいだにさしこんでかれらの顔と前掛けを照らしていた。といってKはこれらすべてを通りすがりにちらと一瞥したにすぎず彼はできるだけ早くここを切り上げて、画家に二言三言探りを入れ次第すぐにも銀行に戻るつもりだった。ここでわずかでも成果をあげたら、それは銀行での今日の仕事にまでいい影響を与えるに違いなかった。が、四階までくると彼はすっかり息が切れて、歩度をゆるめねばならなくなった。天井が高い分だけ階段も桁はずれに高く、しかも画家は天辺の屋根裏部屋に住んでいるというのだ。それに空気もひどく息苦しかった。階段室というものがない上に、狭い階段は両側を壁に挟まれていて、そのところどころごく上のほうに小さな窓がついているだけだった。ちょうどKがちょっと立ち止ったとき、二、三人の少女がどこかの部屋からとびだしてきて笑いながら階段を駆け上っていった。Kはゆっくりそのあとについていって、躓いたためほかの子にとり残された一人に追いつくと、ならんで上りながら訊ねてみた。
「ここにティトレリとかいう絵描きさんが住んでいる?」
十三になるやならずだろう、せむしぎみのその少女は、肱で彼を突いて、横目で彼の様子をうかがっていた。からだに欠陥のあるまだ年端もいかぬ子なのに、彼女はそのとしでもうすっかり悪《わる》になってしまっていた。少女はにこりともしないでKを挑みかかるような鋭い目付きで睨んだ。Kはそんな彼女の態度に気づかなかったふりをして訊ねた。
「きみはティトレリという絵描きさんを知ってる?」
少女はうなずいて、むこうから聞き返した。
「あの人に何の用で来たの?」
Kにはこのさいちょっとでもティトレリについて聞いておいたほうが得なように思われた。
「ぼくを絵に描いてもらいたいと思ってね」と彼は言った。
「描いてもらうって?」
少女は聞き返すと極端に大きく口を開け、彼がなにか突拍子もないことかおかしなことでも言ったというようにKを手で軽く叩き、そうでなくても短すぎるスカートを両手でたくしあげると、すでに上のほうでがやがや叫びが聞こえるだけになったほかの少女のあとを一目散に追っかけていった。しかし次の踊り場のところでKはまた全部の少女と会うことになった。明らかにせむしの子からKの意図を教えられて、彼を待ちうけていたのだった。階段の両側に立ち、Kがそのあいだを楽に通りぬけられるようぴたっと壁にはりついて、手でエプロンのしわをのばしていた。こうやって人垣をつくることといい、どの顔もが子供っぽさとふしだらとの混合をあらわしていた。Kが通りすぎると少女たちはきゃっきゃっと笑いながらまた集まって、先頭にはあのせむしの子が立ち案内役を引きけていた。Kが迷わずに行けたのは彼女のおかげだった。彼がさらにまっすぐ上っていこうとしたとき、彼女は階段の分れ道を示して、ティトレリさんのとこに行くにはこっちを通らなければだめだと教えた。画家のところへ行く階段は特に狭く、非常に長く、曲り角がなく、上まで全部見渡せて、上りつめたところがティトレリの部屋のドアだった。ドアの斜め上に小さな天窓がついているのでこ黷ワでの階段と違い比較的明るく照しだされているこのドアは、剥きだしの角材を組み合せたもので、その上に太い筆でティトレリという名前が赤く描かれていた。Kがお供を従えて階段の中途に達するか達しないうちに、大勢の足音に誘われたのか上のほうでドアがちょっと開けられ、どうやら寝巻しか着てないらしい男がその隙間に顔を出した。
「おお!」と彼は大勢が来るのを見ると叫び姿を消した。せむしの子はうれしがって手を叩き、ほかの少女たちももっと早くKを上らせようとうしろからせきたてた。
しかし、一行がまだ上りつめないうちに上のほうで画家はドアをすっかり開け放って、ふかぶかとお辞儀しながらKに入るよううながしていた。けれども少女たちは拒まれ、彼は一人として入れようとしなかった。いくら頼んでもだめで、許しがない以上彼の意志に逆らってどんなに入ろうと試みてもむだだった。ひとりあのせむしの子が伸ばした彼の腕の下をかいくぐることに成功したが、画家は彼女を追っかけ、スカートをひっ掴むと、一度だけ自分のまわりをぐるっと回転させてやってから、ほかの少女たちがいるドアの外におろした。その間少女たちは、彼が持場を離れているあいだでも、一歩でも敷居を越して中に入ろうとしなかった。こういったことをどう判断していいのかKにはわからなかった。全体が仲のいい馴れ合いのうちに行われているようにも見えた。ドアのそばの少女たちはかわるがわる首を伸ばしては、Kには理解できないさまざまなふざけた言葉を画家にむかって投げつけていたし、せむしの少女が彼につかまって飛んでいるあいだ画家のほうも大声で笑っていたのだ。それから彼はドアをぴしゃっと閉し、もう一度Kにお辞儀をして、手をさしだしながら自己紹介した。
「画家ティトレリです」
Kは少女たちのささやき声が聞えるドアを指して言った。
「この家で非常に人気がおありのようですね」
「まったく、とんだおてんばどもで!」
画家はそう言って寝巻の襟元のボタンをかけようとしたが、うまくいかなかった。その上彼は裸足で、だぶだぶで黄ばんだリンネルの下穿きしか穿いていないし、それを締めているバンドの端は余ってぶらぶら垂れさがっている有様だった。
「あのおてんばどもときたらまったく厄介者でしてね」と彼は、一番上のボタンがちょうど千切れてしまったので寝巻のほうはやめにして、椅子をひきよせるとKに坐れと強いながら言葉をつづけた、「一度あの子らの一人を――今日はいなかったようですが――描いてやったんですよ、それ以来みんなでわたしをつけ回し始めて。わたし自身がいるときは許さないかぎり入ってきませんがね、わたしが外出でもしようものならいつだって少くとも一人は入りこんでるんですからな。このドアの鍵を一つ作らせてたがいに貸しっこしてるんです。どんなにわずらわしいか想像もできぬくらいで。たとえばわたしが描いてもらいたいというご婦人を連れて戻ってくる、鍵でドアをあける、するとそこの小さな机にはあのせむしの子が坐りこんで筆で唇を真紅に塗りたくっている、片方では彼女がお守りをしなければならぬ小さなきょうだいたちが暴れまわって、部屋中ちらかしてるんですからな。そうかと思えば、これはついきのう起こったばかりですが、わたしが夜遅く帰ってくると――どうかその点に免じてこの格好や部屋の散らかってるのを許してください――、そこでわたしが夜遅く帰ってきてベッドにもぐりこもうとすると、だれか足をつねるやつがいる、ベッドの下をのぞくとまたぞろ一匹潜りこんでいる、で、引きずり出したというわけです。なぜわたしのとこに押しかけるのかわからないが、こっちから誘おうとしたのでないことはもうお気づきでしょう。もちろんこんな有様じゃ仕事にも差支えます。このアトリエをただで使わしてもらっているんでなければ、とうに引越しているところですよ」
ちょうどそのときドアのむこうでほそくおずおずと呼ぶ声がした。
「ティトレリさん、入ってもいいでしょ?」
「だめだよ」と画家は答えた。
「あたし一人でもだめ?」とまた聞いてきた。
「だめだね」と画家は言ってドアに近づき鍵をかけてしまった。
Kはそのあいだに部屋を見まわした。こんなにみじめでちっぽけな部屋をアトリエと呼ぶなんて、彼一人では考えつかなかったろう。間口奥行きとも大股で二歩以上は歩けまい。床も壁も天井もすべて木造で、木と木のあいだに細い隙間が見えた。むこうの壁ぎわに据えたベッドにはいろんな色合いの寝具が積み重ねられていた。部屋のまんなかの画架にはシャツをかぶせた絵があって、シャツの袖が床まで垂れていた。Kのうしろは窓で、霧の中に雪をのせた隣家の屋根しか見えなかった。
錠前の中で鍵のまわる音がし、Kはすぐにも帰るつもりだったことを思いだした。そこで工場主の書状をポケットから出し画家に渡した。
「あなたの知人のこの方からあなたのことをうかがって、彼のすすめで来たんです」
画家はざっと手紙に目を通すとベッドの上に放りなげた。工場主があれほどにもきっぱりと、ティトレリは自分の知人でしかも自分の喜捨に頼っている貧乏人だと言っていなかったら、画家のその様子を見ただけでは、この男は工場主を知らないか少くとも思いだすことができないのだと信じかねないほどであった。そればかりか画家はこう訊ねさえした。
「あなたは絵を買いたいんですか、それとも描いてもらいたいんですか?」
Kは呆れて画家を見つめた。じゃ、手紙にはなんて書いてあったんだろう? Kは当然工場主はその手紙の中に、彼がここへ来たのはほかでもない、画家に訴訟のことで訊ねるためだと書いているものとばかり思いこんでいたのだった。なのに慌ててよく考えもせず駆けつけてしまったというわけだ。しかしさしあたり画家になんとか答えねばならなかったので、Kは画架に目をやって言った。
「いま一つ手掛けていらっしゃるんですか?」
「ええ」と画家は言って、画架にかかっていたシャツをベッドの上の手紙のほうに放り投げた、「肖像です。わるくない仕事だがまだ仕上がってません」
偶然がKに幸いして、裁判所の話をするきっかけが与えられたようなものだった。肖像は明らかに裁判官のものだった。そればかりか弁護士の書斎にあった絵と呆れるほどそっくりだった。むろんこれはまったく別の裁判官で、顔一面にもじゃもじゃの黒いひげを、頬のうしろにまで達するほど生やしたふとった男だし、それにあっちは油絵だったのにたいし、これはパステルで淡くぼんやり色付けされているだけだ。だが、それ以外のすべてはまさにそっくりだった。ここでも裁判官は肘掛けをしっかと握って、威嚇するように玉座から立ち上ろうとしていた。
「これは裁判官ですね」とKはすぐ言いかかったが、一先ずその言葉をひっこめ、細部を見たいというように絵に近づいた。玉座の背凭れの中央に描いてある大きな人物が説明つかなかったので、画家にそのことを訊ねた。もうちょっと手を加えなければならないが、と画家は答え、小卓の上からパステルを一本とりあげると、ちょっちょっと人物の縁をなすった。が、それでもKには前より明瞭になったと思えなかった。
「正義の女神ですよ」とついに画家が口で言った。
「それでわかりました」とKは言った、「これが目隠しの布で、これが秤ですね。でも踵には翼がついているし、これは飛んでる状態じゃありませんか?」
「そうです」と画家は言った、「そう描けと頼まれたもんですからね、これは正義の女神と勝利の女神を一つにしたものですよ」
「うまい取り合せとは言えませんね」とKは微笑して言った、「正義の女神はじっとしてなくちゃいけない、さもないと秤が揺れて正しい判決が下せませんからね」
「わたしは依頼主に従うだけでして」と画家は言った。
「そうでしょうとも」とKは自説でひとを傷つけたくなかったので言った、「この女神は、椅子に実際にあったとおりに描いたものなんでしょうね」
「いや」と画家は言った、「そんな女神も椅子も見たことないですよ、全部創作です、ただこれこれを描けと注文されるだけでね」
「なんですって?」とKは、わざと画家の言うことがまるでわからないふりをして聞きかえした、「だってこれは裁判官で、彼は裁判官の椅子に坐ってるわけでしょう?」
「そうです」と画家は言った、「しかし位の高い裁判官じゃなくて、こんな立派な椅子には坐ったことがない人です」
「なのにこんないかめしい姿勢で描かせるんですか? これじゃまるで裁判所の長官だ」
「ええ、この人たちは虚栄心が強くて」と画家は言った、「しかしそんなふうに描かせてもよろしいという、上の許可は得ているんです。どう描かせたらいいかは、人ごとにきびしく規定されています。ただ残念ながらこの絵では服装や椅子の細部は判断できません、パステルっていうのはそういうものをあらわすには不向きなんですよ」
「そう、パステルで描かせたとは変っている」
「この裁判官の希望でして」と画家は言った、「ご婦人に贈るためです」
絵を眺めているうち仕事への意欲が湧いてきたらしく、彼は寝巻の袖をたくしあげるとパステルを二、三本手にとった。Kの見ている前で、パステルの先がこまかく動き、裁判官の頭部にそって赤味がかった陰影がつけられ、放射状に絵の縁にむかってうすれていった。そのうち徐々にこの陰影のたわむれが頭部をなにかお飾りか名誉の勲章のようにとりまいた。正義の女神像のまわりはしかし、元のあるかなきかの色付けのまま残されたので明るく、この明るさのため女神像がかえって浮き出すように見えた。それはもはや正義の女神にも、かといって勝利の女神にも見えず、いまはむしろ狩猟の女神そのものと言ってよかった。そういう画家の仕事にKは思っていた以上に気持をひきつけられたが、ついに、すでにここに長いこといるのに自分自身の用件のためにはまだ何一つしていないじゃないか、とおのれを非難して、
「この裁判官は何という人です?」とだしぬけに質問した。
「それは言うわけにいかない」と画家は答えた。はじめはあんなに丁重に迎えてくれたのにいま彼は絵の上に深くかがみこんで、客のことなどまるっきり無視していた。Kはそれを気まぐれと見做し、こんなことで時間を失わされるのに腹を立てた。
「あなたはきっと裁判所に信用があるんでしょうね?」とKは聞いた。
と、いきなり画家はパステルをわきに置いて、上体をおこし、両手をこすりあわせ、にやにやしながらKを見つめた。
「さっさと本当のことを言ったらどうなんです」と彼は言った、「紹介状にもあるとおり、あなたが聞きたいのは裁判所のことなんでしょう、なのにあなたはわたしの気を引こうとしてまず絵の話をしたわけだ。でもそれを悪くはとりませんよ。そんなやり方がわたしには向かないなんてあなたが知るわけはありませんからな。いや、けっこう!」と彼は、Kが反論しかかったのを鋭く遮り、つづけて言った、「それはともかくとして、わたしが裁判所に信用があるんじゃないかというあなたの意見は、それは完全にそのとおりです」
ここで彼はこの事実と折合う時間をKに与えるというように、しばらく間をおいた。するとまたドアのむこうで少女たちの声がした。ひょっとしたら隙間からでも部屋の中が覗けるのか、彼女たちは鍵穴のまわりにひしめいているようだった。Kはどのようにも弁解するのを止めた。画家の気をそらしたくなかったからだが、一方では画家があまりに偉くなりすぎてこのまま手の届かぬものになってしまうのも困るので、彼は訊ねた。
「それは公けに認められた地位なんですか?」
その言葉で話をつづける腰を折られたというように、画家は、「いや」とそっけなく言った。Kはしかし彼を黙らせたくなかったので言った。
「そういう公認されていない地位のほうが公認されたものより影響力の強いことが、よくありますね」
「それがまさにわたしの場合ですよ」と画家は額にしわを寄せてうなずいた、「きのう工場主とあなたの件について話しあったとき、彼があなたの力になってやる気はあるかと訊ねるんで、『その人に一度ここに来てもらったらどうです』と答えておきました。そうしたらすぐあなたがここに来られたんで、嬉しく思ってますよ。この事件が大変気がかりのご様子だが、わたしはもちろん一向にふしぎに思いませんよ。それよりまず外套でも脱がれたらどうです?」
Kはほんのちょっとしかここにいないつもりだったが、画家がそうすすめてくれたのは非常にありがたかった。部屋の空気が彼には次第に息苦しくなってきたので、彼はすでに何度も、隅にある疑いもなく火を炊いているわけでない小さな鉄ストーブをいぶかしげに見やっていたのだ。部屋の蒸し暑さはなんとも説明つかなかった。彼が外套を脱ぎ、さらに上着のボタンも外すと、画家は弁解するように言った。
「わたしは暖かくないと困るもので。ここはなかなか快適でしょう? その点ではこの部屋は具合よくできてるんですよ」
彼はそれにたいし何も言わなかった。しかし彼を不快にしたのは実は暖かさでなく、むしろそのほとんど息もつけないような澱んだ空気なのだった。部屋はおそらくもう長いあいだ換気されたことがないのだ。画家が自分は部屋に一つしかない画架の前の椅子に坐って、Kにはベッドに腰かけるよう頼んだことも、Kの不快感をさらに強めることになった。しかもKがベッドの端にしか坐らないのを画家は誤解したらしく、もっと楽にしてくれとすすめ、Kがためらっているとご本人が出むいてきて、むりやり彼をベッドとふとんの奥深く坐らせてしまった。そうしてから自分の椅子に戻り、ようやく最初の具体的な質問をした。それがKに他のすべてを忘れさせてしまった。
「あなたは潔白ですか?」と彼は訊ねた。
「ええ」とKは答えた。
この質問にたいしこのように答えられたことが、彼にまさに喜びを与えた。一人の私人に向って、つまりいかなる責任も負わずに言えたのだから、とくにそうだった。いままで誰一人として彼にそのように率直に聞いた者はいなかったのだ。この喜びを充分味わうため彼はさらにつけ加えた。
「わたしは完全に潔白です」
「そうですか」と画家は言って、頭を垂れ、考えこんでいるようだった。それから突然頭をあげると彼は言った。
「潔白だったら、事は非常に簡単じゃないですか」
Kの目がくもった。この自称裁判所に信用があるという男は、まるで無知な子供のような言い方をするではないか。
「潔白だからといって事態が簡単にはなりませんよ」とKは言った。がっかりしていても微笑しないわけにいかず、彼はゆっくり頭を振った、「問題は裁判所が多くの瑣事にばかりかまけている点にあるんです。やつらはそうやってかまけているうちに、最後にはしかし、もともとなんにもなかったところから大きな罪を引き出してくるんだ」
「そう、たしかにそうだ」と画家はまるでKが彼の考えに要らぬ邪魔だてをしたというような口調で言った、「しかしあなたは潔白なんでしょう?」
「ええ、そうです」とKは言った。
「大事なのはまさにその点ですよ」と画家は言った。
彼は反論などには影響されなかった。ただ彼がそんな断固たる言い方にもかかわらず、確信からそう言ってるのか無関心からそう言ってるのかがはっきりしなかった。Kはそのことをまず確かめておこうと思って言った。
「あなたはむろんわたしよりずっとよく裁判所をご存じです。わたしのほうは、もちろん種々さまざまな人からですが、人から聞いたこと以上は知らないんですから。しかし、軽率に告訴がなされることなぞ絶対にないこと、裁判所はひとたび告訴した以上被告の罪については確信しきっていること、そしてこの確信を捨てさせるのは実にむずかしいこと、これらの点では全員が一致していました」
「実にむずかしいですって?」と画家はきき返して片手を高くふりあげた、「裁判所がそれを捨てることなぞ絶対にありませんよ。わたしがここでカンバスに裁判官全員を並べて描いてあげますから、その前で自分を弁護したほうが、実際の裁判所でするより効果があるでしょうな」
「そんなものか」とKはひとり言を言って、画家に探りを入れようとしたにすぎなかったことを忘れてしまった。
またしてもドアのむこうで少女の一人が聞き始めた。
「ティトレリさん、その人まだすぐ帰りそうにない?」
「黙んなさい!」と画家はドアに向かって叫んだ、「お客さんと話しているのがわからないのか?」
しかし少女はそんなことでは満足しないで、さらに、「その人の絵を描くの?」と訊ねた。そして画家が答えないでいると彼女はさらに言った、「お願いだから描かないで、そんないやらしい人」
よく聞きとれない賛成の叫び声ががやがや起こった。画家は一跳びでドアに行き、ほんの少し隙間をつくると――そこから嘆願するようにつき出された、組み合わされた少女たちの手が見えた――言った。
「静かにしていないと、みんな階段からつき落すよ。そこの階段に坐っておとなしくしていなさい」
少女たちがすぐには言うことをきかなかったらしく、彼は号令をかけねばならなかった。
「階段にすわれ!」
それでようやく静かになった。
「失礼しました」と画家はKのほうにもどりながら言った。
Kはそのあいだドアのほうを見向きもせず、彼を守ってくれようとどうしようと、すっかり画家にまかせきっていた。画家に言われても彼はほとんど身動きもしなかったが、相手は彼のほうに身をかがめると、外に聞こえないように耳許にささやいた。
「あの少女たちも裁判所の一部なんですよ」
「なんですって?」とKはきき返し、頭を横に引いて画家をまじまじと見つめた。画家はしかしふたたび椅子に坐ると、なかば冗談、なかば説明というように言った。
「なにしろすべてのものが裁判所の一部ですからね」
「そうとは気がつきませんでしたね」とKは短かく言った。
画家が一般的な言い方をしたので、少女についての指摘からすべての不安がとり除かれた。にもかかわらずKはしばらくドアのほうを見やらずにいられなかった。そのむこうで少女たちはいまやみなおとなしく階段に坐っているらしかったが、一人だけ板のあいだの隙間に藁をつっこんで、ゆっくりそれを上下させていた。
「あなたはまだ裁判所の大体がわかっていないようですな」と画家は言って、脚を大きくひろげると爪先でぱたんと床を鳴らした、「しかしあなたは潔白なんだから、そんなものは要らないでしょう。わたし一人で助けだしますよ」
「どうやってするんですか」とKは訊ねた、「だってついさっきご自身で仰言ったばかりじゃありませんか、どんな論拠も裁判所にはまったく響かないって」
「響かないのは、裁判所にたいして提出される論拠だけなんですよ」と画家は言って、Kがその微妙な差異に気づいていないというように人差指をあげた、「しかし、この点でも公けの裁判所の背後で試みられていることは、いささか事情が違うんです。背後とはつまり、審議室とか、廊下とか、あるいは、たとえばここ、このアトリエとかですね」
画家がいま口にしたことはKにはもはやそれほど信じられぬものには見えなかった。むしろそれはKがほかの人たちから聞いたことともぴったり合致していた。いや、それどころか非常に有望でさえあった。いつか弁護士が話したように、裁判官が本当に個人的な関係によってたやすく操縦されるものだとしたら、虚栄心にみちた裁判官にたいする画家の関係はとくに重要だった。いずれにしろ決して過小評価すべきではなかった。だとすればこの画家も、Kが身のまわりに徐々に集めてきた援助者たちの仲間にぴったり収まるのだった。かつて銀行で彼の組織力がほめられたことがあったが、自分一人しか頼りにならぬいまこそ、その力をとことん試してみるいい機会なのだ。
画家は自分の説明がKに与えた影響を観察していたが、やがていささか気がかりというように言った。
「わたしが法律家みたいな話し方をするのが気になるんじゃありませんか? のべつ幕なし裁判所の方々と付き合っているうちこんな影響を受けてしまったんですよ。もちろんそれでずいぶん得もしてます、しかし芸術的感興はあらかた消えてしまいますね」
「最初に裁判官とつながりができたのはどんないきさつからです?」とKは、画家を自分のために役立てる前にまず相手の信用を得ておこうと思って訊ねた。
「なに、それはごく簡単でしたよ」と画家は言った、「このつながりは親から譲りうけたものですから。わたしの父親がすでに裁判所の画家だったんですよ。これは世襲される地位なんでしてね。これには新しい人は使えないんです。というのは、さまざまな階級の役人を描くには実に多種多様な、なによりも秘密を重んじる規則が定められてましてね、それは特定の家の者以外には知られていないんです。たとえばそこの引出しにはわたしの父の残していった下絵が入ってます。だれにも見せやしませんがね。ところがそれを知っている者でないと裁判官を描くことはできないんです。もっとも、たとえそれを失くしたとしても、わたしの頭のなかにはわたししか知らないたくさんの規則が入ってますから、だれもわたしとこの地位を争うことはできやしません。なにしろどの裁判官も昔の偉大な裁判官のように描かれたがるんで、それはわたしにしかできないんです」
「それは羨しい」とKは、銀行における自分の地位を考えながら言った、「それじゃあなたの地位は不動というわけですね?」
「ええ、不動です」と画家は言って誇らしげに肩をそびやかした、「だからこそときおり、訴訟を持つあわれな男を助けようなんて気を起こすこともできるんです」
「でもどうやって助けるんです?」とKは、たったいま画家があわれな男と呼んだのは自分ではないような顔をしてきいた。
画家はしかし話をそらされなかった。
「あなたの場合にはたとえば、あなたは潔白なんだから、こんなふうにやるつもりです」
潔白だ潔白だとこう何度も言われるのが、Kにはすでに重荷になってきていた。Kにはときおり、画家が繰り返しそう言うのは、訴訟が好結果に終ることを彼の援助の前提にしているためではないかと思われることさえあった。そうであればむろん援助それ自体が意味がないことになるわけである。そんな疑いさえ起こるにもかかわらずKは自分を抑えて、画家の企てを遮らなかった。画家の援助を断念する気はなく、それを受け入れようと覚悟をきめていた。少くともこの援助のほうが弁護士のそれよりはるかに疑わしくないように思われもした。申し出がきわめて無邪気にあけっぴろげに行われただけでも、こっちのほうがあれよりはるかに好もしかった。
画家は椅子をベッドのそばに引きよせると、くぐもった声でつづけた。
「どんな種類の釈放をご希望か、最初にうかがうのを忘れてましたよ。三つの可能性があります。すなわち真の無罪、見せかけの無罪、それから引延しです。もちろん真の無罪が一番いいに決ってますが、わたしにはこの種の解決にもちこむ影響力はまずありません。わたしの考えでは、真の釈放にもちこむ力を持った人物なぞそもそも一人として存在しないのです。その場合決定力があるのは被告の潔白ということだけでしょうね。ところであなたは潔白なんだから、その潔白ということだけを頼りにすることも実際可能なんじゃないですか。そうすればあなたはわたしも、それ以外のなんらかの援助も必要としないわけです」
この整然たる話し方にKは初め唖然としてしまったが、それからしかし彼も画家同様声をひそめて言った。
「あなたの言われたことは矛盾してると思いますが」
「どうしてです?」と画家は辛抱づよく聞き返し、微笑しながらうしろに寄りかかった。この微笑を見てKは、どうやら自分はいま画家の言葉の中にでなく、裁判手続そのものの中に矛盾を見つけだそうとしかかってるんじゃないか、という気がしてきた。にもかかわらず彼はひきさがらないで言った。
「あなたは先程は、裁判所にたいしてはどんな論拠も響かない、と言われた、そのあとでは、それは公けの裁判所にたいしてだけだと話を限定された、そして今度は、潔白な者は裁判所にたいしいかなる援助も必要としない、とさえ言われる。その点にすでに矛盾があるわけです。そればかりかあなたは最前、裁判官には個人的に働きかけることができる、と言われたのにいまは前言をひるがえして、あなたの言うところのその真の無罪は、かつていかなる個人的な影響力によっても獲得されたことがない、と言われる。この点に第二の矛盾があります」
「そんな矛盾は簡単に解明できますよ」と画家は言った、「いま問題になってるのは二つのそれぞれ違う事柄です、つまり法律に書いてあることと、わたしが個人的に体験したこととで、それを混同しちゃいけませんよ。法律には、といってもわたしは読んだことがあるわけじゃありませんが、もちろん一方では、潔白な者は無罪とされる、と書いてある、しかし他方ではそこに、裁判官は個人的に影響されうるものだ、なんてことが載ってるわけじゃありません。ところがわたしが経験したのはまさにその正反対のことですよ。わたしは真の無罪という話は聞いたことがないが、影響されたという話ならたくさん知っています。もちろん、わたしの見聞した事例の中に潔白の場合が一つもなかったのかもしれない。しかしそんなばかな話が一体ありうるもんでしょうか? あんなにたくさんの事例の中に潔白の場合がただの一つもなかったなんて。すでに子供のころからわたしは、父が家で訴訟の話をするのや、アトリエに来た裁判官が裁判所の話をするのを、じっと聞いてきた者ですよ。なにしろうちのまわりじゃそれ以外の話なぞしないんですからね。そのあと自分で裁判所に行けるようになるとすぐ、わたしはあらゆる機会を利用しては無数の訴訟を見、その重要な段階に耳を傾け、目にふれるかぎりは追求してきました。それなのに――これは認めぬわけにいきませんが――ただの一度でも真の無罪判決に出会ったことがないのですよ」
「ただの一度もですか、なるほど」とKは、自分自身と自分の希望にむかって話しかけるように言った、「しかしそれはすでにわたしが裁判所について持っている意見を裏書きしてくれるだけですね。つまりこの観点からしても裁判所なんて無用なんです。首切り役人が一人いれば裁判所全体の代りがつとまるんですよ」
「話を一般化しちゃいけませんな」と画家は不満げに言った、「わたしは自分の経験を話しただけですから」
「それで充分じゃありませんか」とKは言った、「それとも、昔は無罪判決があったと聞いたことがおありですか?」
「そういう無罪判決も」と画家は答えた、「もちろんあったということです。ただそれを確認するのは非常にむずかしい。裁判所の最終決定は公表されないし、それは裁判官たちにさえ手がとどかないんです。その結果古い判例については伝説が残っているだけです。伝説の中にはむろん多数といっていいくらい真の無罪判決の話があって、それを信じることはできても、証明することは不可能です。にもかかわらずそれをまったく無視してはならんでしょう。そこにはたしかにある種の真実が含まれているし、それに大変美しくもあり、わたし自身そういう伝説を内容とする絵をいくつか描いたことがあります」
「たんなる伝説なぞでわたしの意見は変りませんね」とKは言った、「まさか法廷でこんな伝説をひき合いに出すわけにはいかないんでしょう?」
画家は笑った。
「むろんそんなことはできません」
「それだったらこんな話をしてもむだだ」とKは言った。
彼はさしあたり今は、たとえ画家の意見がまことらしくなくても、またよそで聞いた情報と矛盾していようとも、画家の意見をすべて受け入れようと思っていた。画家が言ったことすべてについて、真実かどうか吟味したり反駁したりする時間が今はなかったし、もし決定的な仕方でないまでもなんらかの形で画家に援助する気を起こさせたら、それだけでも大変な成功だと思われた。そこで彼は言った。
「では真の無罪の場合は除外するとしましょう。でもさきほどあなたは、まだ二つの可能性があると言われましたね」
「見せかけの無罪と引延しです。問題になるのはこの二つだけです」と画家は言った、「しかしその話をする前に、上着を脱がれたらどうです? あなたには暑すぎるでしょう」
「はい」とKは、いままでは画家の説明にばかり注意していたが、暑さのことを思いださせられた今は急に汗がはげしく額に噴きだしてきたので、言った、「ほとんど耐えられないくらいです」
画家はKの不快さがよくわかるというようにうなずいてみせた。
「窓を開けてはいけませんか?」とKは訊ねた。
「だめです」と画家は言った、「ガラスがはめこんであるだけだから開けることはできないんです」
今になってKは自分がさっきからずっと、画家か自分かが突然窓のところにいってそれをひき開けることを期待していたのに気がついた。霧でもいいから大きく口を開けて吸いこもうと身構えてさえいたのだった。ここは空気を完全に遮断されているのだと思うと、目まいさえしてきた。彼は手でかたわらの羽根ぶとんを軽く叩いて、弱々しい声で言った。
「これじゃ不快だし健康にもよくないですね」
「とんでもない」と画家は窓を弁護して言った、「開けられないからこそここは、窓ガラス一枚しかないのに、暖かさが二重窓よりよく保たれているんですよ。換気しようと思えば――実際は板材の隙間を通ってどこからでも空気が入ってくるから、その必要もあまりないんですが――ドアの一つか、あるいは両方を開ければいいんです」
Kはこの説明にいくらか慰められて、その第二のドアとやらを見ようとあたりを見まわした。画家はその様子に気がついて言った。
「あなたのうしろですよ。ベッドでふさいでありますけどね」
そう言われてやっとKは壁にある小さなドアに気づいた。
「アトリエにするにはここは何も彼もがあまりに小さすぎるんで」と画家はKの非難を予防するように言った、「家具をできるだけうまく配置しなくちゃなりませんでね。ドアの前にベッドを置くなんて、場所としてしごくまずいに決ってます。たとえばわたしがいま描いている裁判官なぞ、いつもそのベッドのそばのドアから入ってくるんですよ、わたしが家にいなくてもアトリエに入って待っていられるよう、彼にはこのドアの鍵を一つ渡してあるものですからね。ところがその人ときたら大抵朝早く、まだわたしが眠っているうちにやって来るんですな。いくらぐっすり寝ていたって、ベッドのすぐわきのドアが開けられればむろん叩き起こされてしまいますよ。朝早く裁判官がベッドを乗り越えていくとき、彼を迎えるわたしの悪口を聞けば裁判官への畏敬の念などなくなってしまうでしょう。むろん彼から鍵をとりあげることはできますが、そうすれば事態はもっと悪くなるだけですからね。ここじゃどのドアでもちょっと力を加えれば蝶番が外れてしまうんですよ」
この長話のあいだじゅうKは上着を脱いだものかどうか考えていたが、そうしなければこれ以上ここに留っていられないことがわかったので、彼はついに脱いでしまった。しかし用談が終り次第すぐ着られるよう、それを膝の上に置いていたが、彼が上着を脱ぐやいなや少女の一人が叫んだ。
「上着を脱いじゃったわよ!」
そして、この見世物を自分も見ようと全員が隙間のところにひしめきあっている音が聞えた。
「あの子たちはつまり」と画家は言った、「わたしがあなたのことを描く、それであなたが脱いだんだと思ってるんですよ」
「そう」とKはあまり面白くもなさそうに言った。というのも、シャツだけになったにもかかわらず、さっきよりたいして気分がよくなったと感じられなかったからだった。彼はほとんどつぶやくように訊ねた。
「ほかの二つの可能性はなんというんでしたっけ?」
彼はまたしてもその言い方を忘れてしまったのだった。
「見せかけの無罪と引延しです」と画家は言った、「そのどっちを選ぶかはあなた次第です。二つとも、むろん骨は折れますが、わたしの援助によって手に入れられます。骨が折れるという点での両者の違いは、見せかけの無罪のほうは一時的な集中した努力が要るのにたいし、引延しのほうはずっと僅かですむが持続的な努力が要るという点です。それじゃまず見せかけの無罪から始めましょう。もしあなたがこっちをお望みなら、わたしは全紙一枚の紙にあなたの潔白の証明書を書きます。そういう証明書の文言は父から伝えられているので、攻撃されることはまったくありません。この証明書をもってわたしは知っている裁判官のところをぐるっと廻って歩くわけです。たとえばいまわたしが描いている裁判官が今晩肖像を描かせに来たら、まず彼にそれを見せるということから始めるのです。わたしは彼に証明書を提示し、あなたが潔白であることを説明し、あなたの無罪を保証する。しかもそれはたんなる外面的な保証でなく、本物の、拘束力のある保証なんですよ」
画家の視線には、自分にこんな保証の重荷を負わせようとするのはほかならぬあなたKなのだという、非難めいた色があった。
「それはたいへんご親切なことで」とKは言った、「でも裁判官はあなたの言うことを信じても、わたしには実際に無罪を宣告してくれないんじゃないでしょうか?」
「すでに言ったとおりです」と画家は答えた、「それにだれもがわたしの言うことを信じてくれるかどうか、それも確かじゃありません。なかにはたとえばあなたを直接連れてこいと要求する裁判官もいるかもしれない。そのときは一緒に行ってもらわなくちゃなりません。もっともそんな場合には事はすでになかば成ったも同然なのです。ましてや、その裁判官の前であなたがどう振舞うべきかを、このわたしが前もってくわしくお教えしておくのだからなおさらです。始末に困るのは――そんなこともあるわけです――はなっからわたしを受けつけようとしない裁判官の場合ですね。その場合だってむろんいろいろと手立てはつくしてみますが、この人たちはまず諦めなくてはなりますまい。が、それでかまわないんですよ。べつに個々の裁判官が事を決定するわけじゃないんですから。さて、そんなふうにして証明書に充分な数だけ裁判官の署名をもらったら、わたしはこの証明書をもってあなたの訴訟を手がけている裁判官のところに行きます。もしかすると彼の署名ももらえるかもしれず、そうなれば万事ふだんよりさらに少し早く進むことになる。一般的に言って、そうなれば大体もうたいした障害はなく、そのときが被告にとって最も確信の持てる時期なのです。奇妙な話ですが本当にそうなんで、人びとはこの時期には無罪判決のあとより確信に燃えているくらいです。ここまでくればもはや特に苦労することもありません。担当裁判官は証明書に多くの裁判官の保証を得ているので、不安なくあなたに無罪を言いわたすことができるし、そのあと、むろんさまざまの形式的手続をへてからですが、わたしやそのほかの裁判官たちのためにも疑いもなくそうするでしょう。あなたは裁判所をでて自由というわけです」
「では、そうなればわたしは自由なんですね」とKはためらいがちに言った。
「そうです」と画家は言った、「しかしそれは見せかけだけの自由、もっと正確に言えば、一時的な自由です。というわけは、わたしの知人たちがその一人である最下級の裁判官には、最終的な無罪宣告を下す権限がないのです。この権限を持つのは、あなたにもわたしにも、いやわれわれすべてにまったく手のとどかない一番上の裁判所だけです。それがどういうところか、われわれは知らないし、ついでに言えば、知りたいとも思いません。そんなわけで、告訴から自由にするという大きな権限はわれわれの裁判官にはないのですが、しかしかれらは告訴から外すという権限は持っています。すなわち、あなたがこんなふうにして無罪の判決をうけると、あなたは当座はたしかに告訴から離されるのですが、それはその後もずっとあなたの上に漂っていて、上からの命令があり次第すぐさままた効力を発揮するというわけです。わたしは裁判所と深い結びつきがあるのでこんなことも申しあげられるんですが、裁判所事務局用の規定にはちゃんと、真の無罪と見せかけの無罪との違いが形に現わされているんです。真の無罪の場合には訴訟書類は完全に廃棄すべしとなっていて、そのときはそれらが訴訟手続から全部消えるのです、告訴ばかりか、訴訟も、無罪の判決さえも、すべてが廃棄されてしまいます。が、見せかけの無罪の場合は事情が違う。書類についていえば、潔白の証明書、無罪の判決、無罪判決の理由の分だけそれがふえたという以上の変化は起こっていません。その他の点ではしかしそれは依然として手続の中にあって、裁判所事務局間のたえまのない交渉にうながされるまま、上級裁判所に送付されたり、下級裁判所に差し戻されたりしながら、大小さまざまの振幅、大小さまざまの渋滞をへつつ、上に下に揺れ動いているわけです。この道筋は予測もつきません。外から見れば、すべてはとうに忘却され、書類は紛失し、無罪判決は完璧である、という外見を呈していることがよくあります。事情に通じている者ならそんな外見に欺されやしません。一つの書類でもなくなったわけでなく、裁判所には忘却なんてことは存在しないのです。そしてある日――だれにも予期できません――どこかの裁判官が書類をいつもより注意ぶかく手にとって、この事件においては告訴がまだ生きていることを認め、ただちに逮捕せよと命じるわけです。いま申し上げたのは、見せかけの無罪判決と新しい逮捕のあいだには長い時間が経過すると仮定した場合の話で、事実それはありうることだし、わたしもそんな場合をいくつも知っています。しかしそれとまったく同様に、無罪判決された者が自宅に帰ってみると、もうそこに彼をふたたび逮捕せよと命令を受けた者が待っている、といったこともありうるのです。そのときはむろん自由な生活はそれで終りです」
「そしてまた訴訟は新規まき直しというわけですか?」とKは信じられぬというように言った。
「もちろんです」と画家は言った、「訴訟が新たに始まります。しかし前と同じようにふたたび見せかけの無罪判決をかちとる可能性はあるわけです。ふたたび全力を集中しなければならず、降参するわけにはいきません」
このあとの言葉を画家が言ったのは、もしかしたらKがいささかがっくりきたといった印象を彼に与えたためかもしれなかった。
「それではしかし」とKは、なにかを暴露しそうな画家に先回りしてというように言った、「第二の無罪判決を手に入れるのは初めよりむずかしいんじゃありませんか?」
「その点については」と画家は答えた、「はっきりしたことは何も言えません。あなたが言われるのは、二回目の逮捕ということで裁判官が被告にたいし不利な影響をうけてるんじゃないか、ということでしょう? そんなことはありません。裁判官はすでに無罪を言いわたすときこの逮捕を予見していたのです。従ってこの事情はほとんど影響しません。けれどもその他無数の理由からして、裁判官の気分とか、事件にたいする法律的な判断が違ったものになっているということはあります。だから二回目の無罪判決をかちとる努力はその変化した状況に適応するものでなければならず、最初の無罪判決を得たときと同様強力なものでなければなりません」
「しかしこの第二の無罪判決もまた決定的なものではないわけでしょう?」とKは言って、何かを拒むように頭をまわした。
「もちろんです」と画家は言った、「第二の無罪判決には第三の逮捕がつづき、第三の無罪判決には第四の逮捕がというわけです。すでに見せかけの無罪という言葉の中にこういった事情が含まれていたわけです」
Kは黙っていた。
「見せかけの無罪はどうやらあなたにはあまりお気に入らないようですね」と画家は言った、「もしかするとあなたには引延しのほうが向いてるかもしれない。引延しの本質を説明しましょうか?」
Kはうなずいた。椅子の背に大々とよりかかっていた画家は、すっかり寝巻の襟をはだけて、中につっこんだ片方の手で胸や脇腹をさすっていた。
「引延しというのはですね」と画家は言って、ぴったりした言葉を捜すように一瞬宙に目を浮かせた、「引延しとは、訴訟がいつまでも一番低い段階に引きとめられていることによって成立つのです。これをやりとげるためには、被告と援助者、とくに援助者が絶えず裁判所と個人的な接触を保つことが必要です。もう一度言うと、この場合は見せかけの無罪判決を獲得するときのような苦労はいりませんが、そのかわりはるかに大きな注意が必要です。訴訟から目を離してはならないし、担当の裁判官のもとに、特別な機会に行くのはむろんとして、たえず定期的に出かけていかねばならず、いろんな方法で彼の好意をつなぎとめておかねばならない。もしその裁判官を個人的に知らないんだったら、知人の裁判官を通して働きかけねばならないが、その場合でも直接の話し合いを断念してしまってはいけない。これらの点で努力を怠りさえしなければ、かなりの確かさで、訴訟は最初の段階から先へ進まないと信じていいのです。むろん訴訟が中止されたわけではない、しかし被告は自由の身と言ってもいいくらいに、有罪判決にされるおそれがありません。見せかけの無罪にたいしこの引延しには、被告の将来が前者の場合ほど不安定でないという利点があります。突然に逮捕される驚きからは守られているし、たとえそのほかの情勢がきわめて思わしくない時期でも、あの見せかけの無罪獲得につきものの努力や緊張感を引き受けなくてはならぬのか、などと怖れることもありません。もちろん引延しにも被告にとって決して過小評価できないある種の弱点があります。といってわたしはなにも、この場合は被告が自由になることは決してない、ということを考えているのではありません。本来の意味ではそれは見せかけの無罪の場合だって同じことですからね。それとは違う弱点です。というのは、少くとも見せかけでもその理由がなければ、訴訟は停止するわけにいかないということです。従って、外にたいしては訴訟の中でいつも何かが起こっていなければならない。つまりときおりさまざまな命令が出されなければならず、被告が訊問されたり、審理が行われたり、等々がなされていなければならぬわけです。そこで訴訟は絶えず、わざと人為的に局限された小さな範囲のなかで回転させられていくことになります。これはむろん被告にとってある種の不快感をともなうことですが、しかしあなたはそれではひどすぎると想像してはならんでしょう。すべては外面的なことにすぎないんですから。たとえば訊問はごく短いものですし、出かけてゆく時間や気持がなければ、断ってもかまわない。ある種の裁判官の場合には、長期にわたっての命令をあらかじめ一緒に決めておくことさえできるんです。本質的にはつまり、とにかく被告は被告なんだから、ときおり裁判官のもとに出頭するというにすぎません」
最後の言葉が終らぬうちにKは上着を腕にかけて立ち上っていた。
「立ったわよ!」と、すかさずドアの外で叫びが起こった。「もうお帰りですか?」と同じく立ち上って画家が訊ねた、「きっとここの空気に追い立てられてるんでしょう。残念なことです。まだまだ申しあげたいことはたくさんありますのに。もっとはしょって話すべきでしたかね。しかし大体はわかっていただけたと思いますが」
「もちろんですとも」とKは言ったが、緊張して無理して耳を傾けていたせいか頭痛がしていた。彼がそう保証したにもかかわらず、Kに慰めのおみやげを持たせてやろうというのか、すべてをもう一度要約するように言った。
「この二つの方法に共通するのは、被告の有罪判決を妨げるという点ですよ」
「しかし真の無罪判決をも妨げていますね」とKはそれに気づいたことを恥じるように低い声で言った。
「あなたは事の核心をつかんでます」と画家は早口に言った。
Kは外套に手をかけたが、まだ上着を着る決心さえついていなかった。できれば今すぐにでもすべてをひっつかんで、それらを持ったまま新鮮な空気の中にとび出ていきたかった。少女たちはすでに、早合点して、服を着るわよ、とたがいに満足げに叫んでいたにもかかわらず、それさえ彼に服を着る気を起こさせなかった。画家はなんとかしてKの気持を確かめておきたかったらしく、さらに言った。
「わたしの提案のことでまだ決心がついてらっしゃらないようですね。もっともなことです。わたしにしても、あなたが今すぐ決心するようだったら、お止めなさいと言ってたでしょう。長所と短所とは紙一重です。すべてをくわしく見積らなくてはいけません。むろんいたずらに時を失うわけにはいきませんがね」
「じきにまたうかがいます」とKは言った。そして突然に決心がついて上着に手を通し、外套を肩にかけると、またしても少女たちが叫び始めているドアのほうに急いだ。Kには叫んでいる少女たちがドアごしに見えるような気がした。
「しかし約束は守ってください」と画家はKを送ろうとせずに言った、「さもないと、こちらから決心をうかがいに銀行へ押しかけますよ」
「ドアの鍵をあけてください」とKは言って把手に手をかけたが、手応えがあって、少女たちが反対側から抑えているのがわかった。
「子供たちにうるさくされてもいいんですか?」と画家は訊ね、「それよりこっちの出口を利用なさい」とベッドの奥のドアを指さした。
Kはそれに同意しベッドのそばに跳んで戻った。しかしそのドアを開けるかわりに画家はベッドの下にもぐりこんで、下から訊ねた。
「もうちょっと待ってください。絵をひとつ見てくれませんか。お売りしてもいいんですが」
Kはこのさい礼を失すまいと思った。画家は本当に彼のことを引受けてくれたのだし、今後とも彼の援助をしようと約束してくれたのだ。ただKの忘れっぽさのため、援助にたいする報酬の話をまだぜんぜんしていなかったのだから、Kはいま彼を断るわけにいかなかった。アトリエから出たい苛立ちのためふるえながら、彼は絵を見せてもらうことにした。画家はベッドの下から額にはまっていない絵を一山とりだしてきた。が、どれも埃だらけだったので画家が一番上の絵の埃を吹き払うと、埃はもうもうと目の前で舞ってKはしばらく息がつけなかった。
「荒野の風景です」と画家は言ってKに絵を渡した。ひょろひょろした二本の木が、くすんだ色合いの草の中にはなればなれに立っている絵で、背景には色どりゆたかな日没が描かれていた。
「きれいだ」とKは言った、「いただきましょう」
Kはよく考えもせず簡単にそう言ってしまったので、画家がそれを悪くとらないで二枚目の絵を床からとりあげたときは、だからほっとした。
「こっちは今の絵と対照的な作品です」と画家は言った。対照的なものを作ることをねらったのかもしれないが、最初の絵とくらべてそこになんの違いも認められず、ここにも木があり草があり日没があった。しかしKにはそんなことはどうでもよかった。
「きれいな風景ですね」と彼は言った、「両方ともいただいて事務室に掛けましょう」
「このモチーフが気に入られたようですね」と画家は言って三枚目の絵をとりだした、「いい按配にもう一点同じような絵がありますよ」
しかし同じようなどころか、それも前のとまったく同じ絵と言ってよかった。画家はこの機会を巧みに利用して古い絵を売りつけようとしているのだった。
「それも貰いましょう」とKは言った、「三枚でいかほどになりますか?」
「その話はこの次にしましょう」と画家は言った、「急いでおいでだし、これでご縁が切れるわけじゃありませんから。ともあれ絵を気に入っていただいてうれしい。ベッドの下にある絵はみんなさしあげます。荒野の風景ばかりで、わたしはこの手のものをすでにたくさん描いてきました。暗すぎるといってこの手の絵をいやがる人もいますが、なかにはかえってその暗いとこがいいという人もいるのですよ、あなたもその一人ですが」
しかしKはもう乞食画家の職業的体験談なぞ聞きたくもなかった。
「全部つつんでください!」と彼は叫んで画家のおしゃべりを遮った、「あした小使にとりに来させます」
「その必要はありません」と画家は言った、「いますぐあなたと行ける運び手を見つけられるでしょう」
そしてようやく彼はベッドの上にかがみこみ、ドアの鍵を開けた。
「遠慮なくベッドに上ってください」と画家は言った、「ここに来る人はみんなそうするんですから」
そうすすめてくれなくてもKは遠慮なぞしなかっただろう。それどころか彼はすでに片足を羽根ぶとんにのせてさえいたのだが、開いたドアから外を見て、またその足をひっこめてしまった。
「あれはなんです?」と彼は画家に聞いた。
「何を驚いてるんです?」と画家のほうでも驚いて聞き返した、「裁判所事務局ですよ。裁判所事務局がここにあるのをご存じなかったんですか? ほとんどどこの屋根裏にだって裁判所事務局があるのに、ここにあっていけないわけがないでしょう? わたしのアトリエも本来裁判所事務局の一部なんですが、裁判所がわたしに使わしてくれてるんですよ」
Kはこんなところにまで裁判所事務局を見出したことにそれほど驚いたのではなかった。それより彼は自分にたいし、自分の裁判所に関する無知にぞっとしたのだった。つねに用心していること、決して不意を襲われぬこと、裁判官が自分の左に立っているのにうっかり右を見つめたりしないことこそ、被告のとるべき態度の根本原則だと彼は思っていたのに――なんどでもまた彼が破るのは、まさにその根本原則だったのだ。彼の前には長い廊下がひろがり、そこから空気が動いてきたが、それにくらべればアトリエの空気のほうがまださわやかだった。廊下の両側にベンチがおかれている点も、Kの関わっている事務局の待合室と正確に同じだった。事務局の設備は詳細な規定で定められているようだった。見たところここでは訴訟当事者の行き来はそれほどではなかった。一人の男がそこになかば横になって坐っていたが、これはベンチの上の腕の中に顔をうずめ、眠っているらしかった。廊下のはしの薄暗がりにも男が一人立っていた。Kはベッドを越え、絵を持った画家がそれにつづいた。まもなく一人の廷丁に出会うと――私服のふつうのボタンにまじっている金ボタンで、Kはいまやすべての廷丁の見分けがついた――画家はその男に絵を持ってKのお供をしてくれと頼んだ。ハンケチを口にあて、Kは歩くというよりむしろよろめいていった。かれらが出口のすぐそばまで来たとき、あの少女たちが殺到してきた。やはり彼女らをまくことはできなかったのだ。明らかにアトリエの第二のドアが開けられたのを見たので、回り道をしてこっちの側から押しかけてきたのだった。
「これ以上お供はできませんな」と画家は少女らに押されて笑いながら叫んだ、「さようなら! 思案が長びきすぎてはいけませんよ!」
Kは彼のほうへふり返りもしなかった。通りへ出ると、やって来た最初の馬車に彼は乗った。いまや廷丁を追っ払うことが問題だった。これがほかの人間ならおそらく気にもならなかったろうが、Kには廷丁の金ボタンが目にちらついてならなかった。職務熱心のあまり廷丁は御者台に乗りこもうとした。Kはしかし彼を追いおとした。Kが銀行についたときは正午はとうに過ぎていた。絵なぞ馬車の中に置いてゆこうかと思ったが、なにかの機会に画家に絵のことで報告する必要に迫られるかもしれぬと気がかりだった。そこで事務室に運ばせると、少くともここ数日は頭取代理に見られたくなかったので、それらを机の一番下の引出しにしまって鍵をかけた。
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第八章 商人ブロック/弁護士解約
とうとうKは弁護士から代理権をとりあげようと決心した。そういう行為に出るのが正しいかどうかの点では疑いが残らないでもなかったが、ぜひそうする必要があるのだという確信が勝ちを占めた。弁護士の家に行こうと思った日、Kはその決心をつけるためにはなはだしく働く力を奪われ、仕事がいつにましてはかどらなかった。そのため遅くまで事務室に居残って、ようやく弁護士の家のドアの前に立ったときはすでに十時を過ぎていた。ベルを鳴らす前に彼は、電話か手紙で解約するほうがいいのではないか、面と向って話すのはきっと非常に辛いことだろう、と考えてみた。にもかかわらず結局Kは面談をやめる気にはならなかった。ほかのやり方で解約したのでは、返事ももらえないか、あるいは短い形式的な言葉で受取られるだけだろうし、そうなれば、レーニがいくらか探ってみてでもくれないかぎり、弁護士が解約をどう受取ったか、また、まんざら捨てたものでもない弁護士の意見ではこの解約が自分にたいしどんな結果をもたらすことになるのか、Kにはぜんぜん知りようがないのだった。それに反し、弁護士がKの目の前に坐っていて解約の不意打ちをくらうのであれば、たとえ弁護士がさして表情を変えなくとも、彼の顔付きや態度から知りたいことすべてを見てとれるだろうという気がした。しかも、やはり弁護は弁護士にまかせたほうがいいと思い直し、解約をとりさげることだって、絶対にないとは言えないのだった。
玄関のドアのベルを鳴らしても、いつものとおり最初はだれも出てこなかった。
「レーニはもっと敏捷にしてもよかりそうなものだ」とKは考えた。
しかし今日は、例の寝巻の男がわずらわすのであれほかのだれかがするのであれ、いつものように関係のない他人がわりこんでこないだけでもましとせねばならなかった。二度目にベルを押しながら彼はもう一つのドアのほうをふりかえってみたが、いまはそっちも閉ったままだった。ようやく玄関のドアの覗く窓に二つの目が現れた。しかしそれはレーニの目ではなかった。そのだれかはドアを開けたがまださしあたりはそれを押えたまま、奥にむかって、「あの人だよ!」と叫び、それからやっと完全に開けた。
Kはからだごとドアにぶつかっていった。というのは、もう彼のうしろで別の家のドアに急いで鍵をまわす音がきこえたからだ。そこで、目の前のドアがやっとあいたとき彼はまっすぐ控えの間にとびこみ、部屋と部屋のあいだの廊下をレーニが下着姿で逃げてゆくのを見た。ドアを開けた男の警告の叫びは彼女にむけて発せられたものだった。彼はしばらく彼女を見送り、それからドアを開けた男のほうに向き直った。総ひげをはやした、小柄な痩せた男で、手にロウソクを持っていた。
「ここに雇われてる方ですか?」とKは訊ねた。
「いや」とその男は答えた、「この家の者じゃありません、弁護士さんに代理を頼んでる者で、法律問題のことで来ているだけです」
「上着もなしにですか?」とKは聞きながら、ろくに服も着ていない男の格好を手の動きで指摘した。
「いや、これは失礼!」と男は言って、まるでそんな自分の状態を見るのは初めてだというように、ロウソクで自分を照らしだしてみせた。
「レーニはあなたの恋人ですか?」とKは単刀直入に聞いた。彼のほうは足を少しひろげ、帽子を持った手をうしろに組んでいた。自分が厚手の外套を着ているだけでも彼は、痩せた小男にたいし非常な優越感を感じていた。
「とんでもない」と言って男は片手を顔の前にあげ、驚いて身を守るような格好をした、「そんなんじゃない、何を考えているんですか」
「まあ信用しておきましょう」とKはにやにや笑いながら言った、「ともかく――行くとしましょう」
彼は帽子で合図して男を先に歩かせた。
「お名前は何というので?」とKは歩きながら聞いた。
「ブロック、商人のブロックです」と小男は言って、自己紹介しながらKのほうにふりむいたが、Kは立ちどまらせなかった。
「それは本名でしょうね?」とKが聞くと、
「もちろん」という答えが返ってきた、「どうして疑ったりなさるんです?」
「名前を隠す必要がおありなんじゃないかと考えたものですからね」とKは言った。
彼は見知らぬ土地で身分の低い連中と話してるときに感じるような自由を感じていた。自分自身に関することはおくびにも出さず、どうでもいい気分で相手の利害ばかり話題にし、そのことで相手をおだてあげたり、あるいは気紛れにこきおろしたり、そんなときにしかなれない気楽な気分だった。弁護士の書斎の前でKは立ち止り、ドアを開け、おとなしく前を歩いてゆく商人に呼びかけた。
「そう急がないで! ここを照らしてください」
レーニがここに隠れたのじゃないかと考え、Kは商人に隅々まで探させたが、部屋は空っぽだった。裁判官の肖像の前でKはうしろから商人のズボン吊りをつかんでひきとめた。
「あの男を知ってますか?」と彼は聞いて人差指で高いところを指さした。
商人はロウソクをかかげ目をしばしばさせながら言った。
「裁判官です」
「位の高い裁判官ですか?」とKは訊ね、絵が商人に与えた印象を観察するためわきに並んだ。商人は感嘆したように見上げていたが、
「位の高い裁判官です」と言った。
「あまり目が利きませんね」とKは言った、「位の低い予審判事の中でも一番下っ端の人ですよ」
「それで思い出しましたよ」と商人は言ってロウソクを下げた、「前にも聞いたことがあります」
「そりゃそうでしょう」とKは叫んだ、「うっかりしてた、もちろんあなたも聞いたことがあるはずです」
「しかしなぜ、なぜそう思うんです?」と商人は聞き返しながらKに両手で追いたてられて、ドアのところまで後じさりしていった。外の廊下に出たときKは言った。
「レーニがどこに隠れてるか、あなたは知ってるんでしょう?」
「隠れた?」と商人は言った、「いや、彼女ならいま台所で弁護士のスープでもつくってるんじゃないですか」
「なぜすぐそれを言ってくれなかったんです?」
「お連れしようと思ってたんですよ、だのにあなたが呼びとめたものだから」と商人は矛盾する命令に混乱して答えた。
「うまくしてやったと思ってるんでしょうね」とKは言った、「じゃ案内してください!」
Kはまだ台所へは来たことがなかったが、そこは驚くほど大きくて設備もよく整っていた。調理台ひとつとっても優にふつうのものの三倍はあった。そのほかのこまかいところは見えなかったが、それは入口に吊された小さなランプ一つしか台所を照らすものがないためだった。レーニはいつものように白い前掛けをして調理台に向い、卵を割ってはアルコールコンロにかけた鍋に入れていた。
「今晩は、ヨーゼフ」と彼女は横目で見ながら言った。
「今晩は」とKも言い、商人に向って坐れと言うように片手でわきに置いてある椅子を示すと、商人はおとなしく腰をおろした。Kのほうはしかしレーニのすぐうしろに寄って、肩の上にかぶさるようにして聞いた。
「あの男は何者だい?」
レーニは片手でKを抱き、片手でスープを掻きまぜながら、彼を自分の前に引きよせて言った。
「気の毒な人なのよ、貧乏な商人で、ブロックとかいう人。まあ見てごらんなさいよ」
そして二人ともふりむいた。商人はKに言われた椅子に坐っていたが、もはや不用になったロウソクの火を吹き消したあと、煙が出ないように指で燈心を抑えていた。
「さっきは下着だったじゃないか」とKは言って、手で彼女の頭をまた調理台のほうに向けさせた。彼女は黙っていた。
「あれが恋人なんじゃないか?」とKは訊ねた。彼女が黙ってスープ鍋をつかもうとすると、Kはその両手を掴んで言った。
「さあ答えてくれ!」
「書斎に来てよ」と彼女は言った、「そうすれば全部説明してあげるわ」
「いや」とKは言った、「ぼくはここできみに説明してもらいたいんだ」
彼女はKにしがみついてキスしようとした。しかしKはそれを拒んで言った。
「いまはきみにキスしてもらいたくない」
「ヨーゼフ」と彼女は言い、懇願するように、しかしあからさまにKの目をのぞきこんだ、「あんたまさかブロックさんに嫉妬してるんじゃないでしょうね。――ルーディ」と、それから商人のほうを向いて言った、「助けてよ、ほらこの通り疑いをかけられてるんだから。そんなロウソクなんか置いてさ」
こっちに気をとられているふうにも見えなかったのに、商人は完全に事情をのみこんでいた。
「なぜあなたが嫉妬しなくちゃならないのか、わたしにもわかりませんね」と彼は淡々と言った。
「ぼくにもよくわからないんですよ」とKは言って微笑しながら商人を見つめた。
レーニは大声で笑いだし、Kの不注意につけこんでその腕の中にもぐりこんだ。そして囁いた。
「あんな人ほっときなさいよ。もうどんな人だかわかったでしょ。わたしが彼のことを少し面倒見たのはね、彼が弁護士の大|顧客《とくい》だからなのよ、それ以外に理由なんかないわ。で、あんたは? 今日どうしても弁護士と話さなくちゃならないの? 今日は具合が非常に悪いのよ、でも、どうしてもっていうんならともかく取りつぐわ。しかし今夜はずうっとわたしといてね、きっとよ。ずいぶん長いことここに現れなかったじゃない、弁護士まであんたのこと聞いていたわ。訴訟をいいかげんにしちゃだめよ! わたしもあれからいろんなことを聞いたから、いろいろ話すことがあるの。でもそれよりまず外套を脱ぎなさいよ」
彼女は彼が脱ぐのを手伝い、帽子もとりあげた。それらを持って控室へ掛けに走ってゆき、また走って戻るとスープの具合を見た。
「先にあんたのことを取りつぐ? それともスープを持っていくのを先にする?」
「先に取りついでもらいたい」とKは言った。
彼は腹をたてていた。もともと彼はレーニと自分の事件のことを、とくにいろいろ問題のある解約のことをよく相談しようと予定していたのだったが、商人が居合わせたためその気もなくなってしまっていた。いまはしかし、こんな小男の商人にわずらわされたりするにしては自分の件はあまりに重大すぎると思い返し、彼はもう廊下に出ていたレーニを呼び戻した。
「やっぱりスープを先にしてくれないか」と彼は言った、「ぼくとの話し合いに備えて元気をつけとかなくちゃならないだろうし、それに彼も欲しいころなんだろう」
「あなたも弁護士の依頼人なんですね?」と商人は確かめるように低声で部屋の隅から話しかけた。
しかしそれはよくはとられなかった。
「それがあんたに何の関係があるんです」とKが言えば、レーニも「あなたは黙っててよ」と言い、こんどはKにむかって、「それじゃ先にスープを持ってくことにするわ」と言ってスープを皿に注いだ。
「でもそうするとすぐ眠っちゃう怖れがあるのよ。いつも食事のあとはすぐ眠るんだから」
「これからぼくが言うことを聞けば眠くはならないさ」とKは言った。
彼としては、これから弁護士と重大な話し合いをするつもりでいることをなんとかレーニに見抜かせたかった。そしてそれは何かと訊ねられたら、そのとき初めて彼女に助言を求めるつもりであった。しかし彼女のほうは言われたことをきちんと果すだけだった。盆を持って彼のそばを通りすぎるとき、彼女はわざと軽く彼にぶつかり、ささやいた。
「彼がスープを飲んでしまったらすぐあんたのことを取りつぐわね。できるだけ早くあんたを取りもどせるように」
「さあ行けよ」とKは行った、「早く行けよ」
「もっと優しくするものよ」と彼女は言って、盆を持ったままドアのところでもう一度くるっとふりむいてみせた。
Kは彼女を見送った。これで弁護士をことわることが最終的に決ったのだった。もうレーニと前もってその点を話しあうわけにもいかなくなったが、それもかえってよかったかもしれなかった。事柄全体について十分な見通しを持っていない彼女のことだ、相談すればきっとやめろとすすめ、あるいは実際に自分も今度は解約を思いとどまっていたかもしれなかった。だがそうなれば自分は今後も疑惑と不安に悩みつづけたろうし、しばらくたってから結局やはり決心を実行に移すはめになっただろうと思う。なぜといってこの決心はあまりにも決定的なものだからだ。しかしそれも早く実行すればするほど損害も少くてすむ道理だ。そういえばひょっとするとこの商人にもなにか意見があるのではないか。
Kがふりむくと商人はすぐそれに気づいて椅子から立ち上ろうとした。
「坐っててください」とKは言って椅子を彼のそばにひきよせた、「あなたはもう前から弁護士の依頼人なんですか?」
「ええ」と商人は答えた、「非常に古い依頼人ですよ」
「もう何年ぐらい彼に代理を頼んでるんです?」とKは訊ねた。
「あなたの言われる意味がわかりませんが」と商人は言った、「商売上の法律事件でなら――わたしは穀物商なもんで――ここの弁護士さんには、わたしが商売を始めたときからですから、さよう、ざっと二十年ばかり弁護を依頼しています。わたし自身の訴訟のことでなら、あなたが言われるのはたぶんこっちでしょうが、こっちも初めっからで、もう五年の余になりますかね。ええ、五年はとうに越えましたよ」と彼はつけ加え、古い紙入れをとりだした、「ここに全部書きこんであります。お望みなら正確な日付けを言いましょうか。とても全部は覚えていられませんのでね。わたしの訴訟はどうやらもっと前から続いてるようです。妻が亡くなったあとすぐ始まったんですから、もう五年半以上というわけです」
Kは椅子をもっと近よせて聞いた。
「それじゃ、あの弁護士はふつうの法律事件も引受けるんですね?」
裁判所と法学とのこの結びつき方は、Kにはなみなみならず心を休めるものに思われた。
「もちろん」と商人は言い、それからKにささやいた、「あの人はそういう法律事件のほうがほかの事件より得意だとさえ言われてますよ」
しかし言ってしまってすぐそのことを後悔したのか、彼はKの肩に手を置いて言い足した。
「このことはしかし内密にしておいてくださいよ」
Kは相手を安心させるためにその腿をたたいて言った。
「大丈夫、ぼくは裏切り者じゃない」
「なにしろあの人は執念ぶかいんで」と商人は言った。
「あなたみたいな義理固い依頼人には、彼だって何もしないでしょう」とKは言った。
「とんでもない」と商人は言った、「興奮すると見境つかなくなっちゃうんですよ。それにわたしのほうもまるっきり義理固いとも言えないんで」
「それはまたどういうことで?」とKは聞いた。
「それを打明けろと言うんですか?」と商人は迷ったように訊ねた。
「打明けても差支えないと思いますがね」とKは言った。
「それじゃ」と商人は言った、「一部分だけお話しましょうか。でもあなたのほうも秘密を打明けてくれなくちゃいけませんよ、さもないと弁護士にたいしておたがいに結束できませんからね」
「ずいぶん用心深いですね」とKは言った、「しかしぼくもあなたが充分安心するような秘密を話しますよ。ところで弁護士にたいするあなたの不義理とはどういうことです?」
「実は」と商人はためらいながら、なにか恥ずべきことでも告白するように言った、「彼のほかにもまだ弁護士を頼んでいるんですよ」
「そんなことならたいして悪いことじゃないじゃないですか」とKはいささかがっかりして言った。
「それがここでは」と商人は言った。彼は告白し始めて以来重い吐息をついていたが、Kの言質を得てからは前より信頼しているようだった、「許されないことなんですよ。いわゆる弁護士のほかにさらにもぐりの弁護士を頼むのは、なかでも一番禁物とされているんです。ところがわたしがしたのはまさにそれで、彼のほかに五人ももぐりの弁護士を傭っているんですからね」
「五人も!」とKは叫んだ。なによりも彼を驚かしたのはその数だった、「この弁護士のほかに五人もですか?」
商人はうなずいてみせた。
「しかもいまさらに六人目と交渉中です」
「でも何のためにそんなにたくさんの弁護士がいるんです?」とKは訊ねた。
「みんな必要なんですよ」と商人は言った。
「ひとつそのわけを説明してくれませんか」とKは聞いた。
「いいですとも」と商人は言った、「なによりもまず訴訟に負けたくないからで、これはまあ当然のことでしょう。従って自分の役に立つものは一つとして見逃すわけにいきません。ある場合にはたとえ役に立つ見込みがほんのかすかしかなくても、捨ててしまうわけにいかないんです。そのためにわたしは自分の所有していたものを全部この訴訟に使ってしまいましたよ。たとえば店の金だってみんな持ちだしてしまったから、以前は店の事務室がほとんど一つの階そっくり占めていたのに、いまじゃ裏側の小部屋一つで間に合ってる有様で、そこで小僧とふたりでほそぼそやってますよ。これほどまでに商売がさびれてしまったのは、むろん店の金を持ちだしたせいばかりじゃありません、それより仕事の精力を奪われたことが大きいんです。訴訟のためになにかをやろうとしたらもうほかのことなぞにかまけていられませんからねえ」
「それじゃあなたは自分でも裁判にとりくんでるんですね?」とKは聞いた、「まさにそこのとこを聞きたいですね」
「そのことではあまり話すことはありませんよ」と商人は言った、「初めはわたしもなるほどやってみましたが、すぐやめてしまったんです。疲ればかりひどくてあまり効果がないんでね。自分で取り組んで交渉するなんて、少くともわたしには不可能だとわかりましたよ。裁判所ではただ坐って待ってるだけでもおそろしくくたびれますからね。もっともあなたは事務局のあの重苦しい空気はご存じなわけだが」
「どうしてぼくがあそこに行ったなんて知ってるんです?」とKは訊ねた。
「あなたが通っていったときちょうど待合室にいましたからね」
「なんという偶然だろう!」とKはすっかり気を奪われ、商人のそれまでの滑稽さなぞ忘れはてて叫んだ、「それじゃあなたはぼくを見たわけだ! ぼくが通りぬけたときあなたが待合室にいたなんて。ええ、たしかにぼくは一度あそこを通ったことがありますよ」
「べつにそれほどたいした偶然じゃありませんよ」と商人は言った、「わたしなぞほとんど毎日行ってますからね」
「ぼくもきっとこれからはもっと頻繁にいかなくちゃならんでしょうが」とKは言った、「もうあのときみたいにうやうやしくは迎えてはもらえないでしょうね。なにしろ全員が起立したんだから。おおかたぼくのことを裁判官とでも思ったんでしょう」
「いや」と商人は言った、「あのときはみんな廷丁に挨拶したんですよ。あなたが被告だってことはみな知ってました。そういう噂はすぐ拡まりますからね」
「なんだあなたは知ってたんですか」とKは言った、「そうだとするとしかし、ぼくの態度は傲慢に見えたかもしれませんね。そんな話をしてませんでしたか?」
「いや」と商人は言った、「その反対です。しかしくだらないことですよ」
「くだらないって、どんな話です?」とKは訊ねた。
「なぜそんなことを聞くんですか」と商人は腹だたしげに言った、「あなたはまだあそこの連中をよくご存じないようだから、もしかすると話を誤解なさるかもしれませんがね。だからこれはよく覚えておいていただかなけりゃいけませんが、こういう訴訟手続のあいだは、それはもう常識では間に合わないようなことが次から次へ話題になるものなんですよ。みんなただもう疲れはて、いろんなことに気をとられてるものだから、その埋合せに迷信に耽《ふけ》りだすんです。なんて他人事《ひとごと》みたいな言い方をしてますが、その点はわたしだってちっとも変らないんでして。そういう迷信の一例として、たとえばかなり多くの者が、被告の顔、とくにその唇の格好から訴訟の成行きを読みとろうとしています。で、この連中に言わせると、あなたの唇から推しはかるに、あなたは必ず近いうちに有罪判決されるだろうっていうんですね。くり返して言っときますが、これはまったくばかげた迷信で、多くの場合事実によって完全にくつがえされてしまいますよ、でもああいう連中の中にいると、そんな考え方からなかなか脱けだせないものなんですね。こんな迷信がどれほどに強い効果を与えるか、まあ考えてもみてください。あなたはあそこで一人の男に話しかけたでしょう? 彼はしかしあなたにほとんど答えることもできなかった。そりゃあそこにはむろん頭を惑乱させるいろんな理由がありますよ、しかしあなたの唇を見たこともその理由の一つだったんです。彼があとで話してくれましたよ、やつはあなたの唇に自分自身の有罪判決のしるしを見たと思ったって」
「ぼくの唇に?」とKは聞き返し、懐中鏡をとりだして自分の顔を見つめた、「ぼくの唇にはなんら異常は認められないがな。あなたはどう思いますか?」
「同じですよ」と商人は言った、「ぜんぜんおかしくありません」
「なんて迷信ぶかい連中だろう!」とKは叫んだ。
「前にそう言っといたでしょう」と商人は言った。
「あの連中はそんなにおたがいどうし行き来して、情報を交換しあってるんですか?」とKは言った、「するとぼくはこれまで完全に仲間外れになってたわけだ」
「一般にかれらはおたがいどうし行き来はしません」と商人は言った、「そんなことできっこありませんしね、なにしろ大変な数だから。それに共通の利害もないし。ときおりあるグループの中に共通する利害があるという信念が頭をもたげることがあっても、すぐ間違いだとわかってしまうんです。裁判所にたいしては協同ではなに一つできやしません。どんな事件でも独自に調査する、あれはまさに慎重この上ない裁判所なんです。だから協同でも何一つ仕遂げられないんですが、個々人がこっそりと何かをやりとげることはよくあるんです。ただし、やりとげたあとで初めて他人の耳に入るんですから、それがどうやって成功したのかだれにもわからない。そんなわけで協同ということはありえませんし、待合室のそこここに寄り集まることはあっても、そこで相談するわけじゃありません。迷信がかった考えはすでに古い昔からあって、まさにひとりでに増えてゆくわけです」
「ぼくはあそこの待合室の人たちを見たけれども」とKは言った、「待つってことはまったくむだに見えたなあ」
「待つことはむだじゃありません」と商人は言った、「むだなのは自力で事件に介入することだけです。さっきも言ったようにわたしはこちらの弁護士のほかにさらに五人も頼んでいます。五人もいればこれで事件のことはかれらにすっかり任せてしまえるだろう、と思われるでしょう。わたしも最初はそう思いましたよ。しかしそれがまったくの間違いなんです。これならむしろ一人に任せきったほうがましなくらいです。と言ってもおわかりにならないでしょうな?」
「わかりませんね」とKは言って、商人があまり早口にしゃべるのを妨げるために、安心させようとして手を彼の手にかさねた、「頼むからもう少しゆっくりしゃべってくれませんか。ぼくにとっては非常に大事なことばかりなんだが、これじゃ話についていけませんよ」
「言っていただいてよかった」と商人は言った、「なるほど、あなたは新入りの見習小僧でしたね。たしか、あなたの訴訟は始まって半年ほどでしたね? ええ、そのことは聞いて知ってます。まだほやほやの訴訟じゃないですか! わたしのほうはしかしこういった事柄を何千何万回と考えぬいてきたんですからね、いまじゃこれがこの世の最も当り前なことのような気がするくらいですよ」
「訴訟がもうそこまで進んで、さぞうれしいでしょうね?」とKが聞いたのは、商人の事件がいまどんな状態にあるかについてはあまり知りたくないためだった。彼はしかしはっきりした返事はもらえなかった。
「ええ、わたしは訴訟を五年もころがしてきましたよ」と商人は言ってうなだれた、「なまやさしいことではなかった」
それから彼はしばらくだまっていた。Kはレーニが戻ってくるんじゃないかと耳を澄ました。一方では彼はまだ戻ってきてもらいたくなかった、商人にはまだ聞きたいことがたくさんあったし、彼とこうして親密に話しているところをレーニに見られたくなかったから。が、その一方で彼は、自分が来ているのに彼女がこんなに長いあいだ弁護士のところにいるのに腹をたてていた。スープを呑ませるだけだったらこんなに時間はかからないはずだった。
「いまでもあのころのことはよく覚えていますよ」と商人がまた話しだしたのでKはすぐ全身の注意力を集めた、「わたしの訴訟がまだいまのあなたの訴訟くらいだったころのことはね。あの当時はこちらの弁護士だけだったが、あまり彼に満足してませんでしたね」
これで何もかも聞けるぞ、と考えてKは勢いよくうなずいてみせた。そうすれば商人をけしかけて、知るに値することすべてを言わせられるとでもいうように。
「わたしの訴訟は」と商人はつづけた、「なかなかはかどりませんでしたよ。むろん審理は行われたし、わたしもその都度出頭し、資料を集めたり、店の帳簿を全部裁判所に提出したりしました。あとになって、そんなことはまったく必要なかったとわかりましたがね。わたしは何度でも弁護士のところに通い、彼もさまざまな請願書を出してくれて――」
「さまざまな請願書ですって?」とKは訊ねた。
「ええ、むろん」と商人は言った。
「それはぼくには大事なとこだぞ」とKは言った、「ぼくの場合にはまだ最初の請願書をつくってるところなんですからね。彼はきっとまだ何もやってないんだ。これでわかったぞ、彼はぼくのことを無視してるんだ恥知らずにも」
「請願書がまだ出来上っていないというのは、いろいろ正当な理由があるかもしれませんよ」と商人は言った、「それはともかくわたしの請願書についていえば、それがまったく価値がなかったとあとでわかりました。ある裁判所役人の好意でわたしはその一つを読んだことさえあるんですよ。それがむろん学識はあるが、実に無内容なものでしてね。なによりまずわたしには読めない非常にたくさんのラテン語、それから数ページにわたる裁判所への一般的な嘆願、それからむろん名前こそあげてないけれども事情通にならすぐ察しがつくに違いない個々の役人へのおべんちゃら、それからまさに犬のように裁判所にたいし尻尾をふっている弁護士の自画自賛、それから最後に、わたしの事件にそっくりだという昔の裁判事件の検討というわけです。この前例吟味はもちろん、わたしに辿《たど》れたかぎりでは、非常に綿密にできていましたがね。だからわたしもこんなことで弁護士の仕事に判断を下したくはないし、それにわたしが読んだ請願書も数あるうちの一つにすぎなかったわけですが、いずれにしろ、このことはいま言っておきますが、そのころわたしの訴訟には一歩も進展が見られなかったわけです」
「どんな進展を期待していたんです?」とKは聞いた。
「もっともな質問ですね」と商人は微笑して言った、「こういう訴訟手続で進歩が見られるのはそれこそごく稀にしかないんです。しかし当時はわたしはそんなことは知らなかった。わたしはいまも商人ですが、当時は今よりはるかに商人らしい商人でしたから、ともかく手で掴めるような進展がほしかった。全体が結末に近づくとか、せめて規則的に上昇をつづけるとかですね。ところがそうはならなくて、行われるのは訊問ばかり、それも大抵同じ内容の訊問ばかりです。だからその返答はもう連祷《れんとう》の文句のように覚えてしまったくらいです。それから週に何度でも裁判所の使いが、店や、住居や、その他わたしに会えるとこならどこにでもやって来て、それ自体むろんわずらわしいかぎりですが(今は少くともこの点ははるかによくなっています、電話の呼び出しのほうがずっとわずらわしくないですから)、ために商売仲間にも、またとくに親戚のあいだにわたしの訴訟の噂がひろがり始め、つまりあらゆる面で損害をこうむったというわけです。ところがそれでも、最初の審理が近いうちに行われるだろうという徴候はこれっぽっちもない。そこで弁護士のところにいって文句を言ったんです。彼はむろん長々と説明しましたがね、しかしわたしの考える線でなにかをすることだけはきっぱりと断りましたよ。なんぴとにも審理の日取り決定を迫る力なぞはない、請願書の中でそれを迫るなぞは――つまりわたしがそう要求したわけです――前代未聞のことだし、そんなことをしたらきみも自分も破滅するだけだというんですね。そこでわたしは考えたわけです、この弁護士がしようとしないあるいはできないことでも、ほかの弁護士ならしようとするかできるかするだろう、と。つまりそれで外の弁護士を物色したわけですよ。で、結論を先に言ってしまうと、そのうちだれ一人として本審理の日取り決定を要求したり、きめさせたりした者はありませんでした。ということは、むろんあとでお話をするような留保つきでですが、それは本当に不可能なことなんで、この点に関してはだからこの弁護士も嘘を言ったわけじゃなかったんです。が、それはともかく、わたしはほかの弁護士を頼んだことを後悔することはなかったんですよ。あなたはきっともうフルト博士からもぐりの弁護士のことをいろいろ聞かれたでしょうし、彼はおそらく実に軽蔑すべきやつらだと言ったでしょう。また事実かれらはその通りなんですが。ただし、彼がやつらの話をしたり、自分やその同僚をかれらと比較するときは、いつでも必ずちょっとした誤りが紛れこんでいるんで、ついでにそのことも注意しておきましょう。そういうとき彼はいつでも、ほかと区別するために自分の仲間の弁護士たちを≪大弁護士≫と呼びますがね、それが誤りなんです。もちろんだれだってそうしたけりゃ勝手に≪大≫を名乗れますよ、だがこの場合はそれを決定するのは裁判所の慣習だけなんです。それによればもぐりの弁護士のほかにさらに小と大との弁護士があるんですがこちらの弁護士やその同僚は実は小弁護士にすぎないんですよ。大弁護士というのはしかし、これは話に聞くだけでまだ見たことはありませんが、比較にならぬくらい上の位の人で、大と小のあいだの差は、小とあの軽蔑されるもぐり弁護士との差よりはるかに大きいんです」
「大弁護士って言いましたね?」とKは訊ねた、「一体それは何者です? どうやったら会えるんです?」
「じゃあなたはまだかれらのことを聞いたことがないんですね」と商人は言った、「かれらのことを聞いたあとしばらくのあいだかれらの夢を見ないような被告は、一人もいませんよ。むしろ聞こうなんてしないほうがいいでしょうね。大弁護士が何者かわたしは知らないんです、おそらくだれもかれらに近づけないんじゃないでしょうか。かれらが手掛けたと確実に言えるような事件も、わたしは一つも知りません。かれらが弁護した人は幾人かいますが、自分から望んで弁護してもらうことはできないんです、なにしろかれらは弁護してやろうと思う者だけ弁護するんですから。かれらが引受ける事件はしかし、すでに下級裁判所を出てしまったものに違いありませんね。ともかくかれらのことは考えないほうがいいんです。なぜって、さもないとほかの弁護士との相談も、かれらの助言も手助けも、みんないとわしくて無益なものに思われてくるからですよ。わたし自身の体験からいっても、そうなるといっそ何もかも放りだしてしまって、家でベッドにもぐりこんで、もう何も聞かないでいたほうがましだって気になるものです。そんなことをするのはむろんばかげきったことだし、またベッドに寝てたって落着けるもんじゃありませんがね」
「そうするとあなたはそのころ大弁護士のことは考えなかったわけですか?」とKは聞いた。
「長くはね」と商人は言って、またうっすらと笑った、「残念ながら完全に忘れきることはできません、とくに夜中はそんな考えに耽りやすいんです。しかしそのころわたしは即効薬をのぞんでましたから、それでもぐり弁護士のところにいったというわけです」
「まあ二人して仲良くくっついていること!」と、盆を持って戻ってきたレーニがドアのところに立ちどまって叫んだ。
事実ふたりは、ちょっと向きをかえても頭がぶつかるくらいぴったりくっついて坐っていたのだ。商人のほうはもともと背が低い上にさらに背中を曲げていたので、Kのほうも、何も聞きもらすまいとすれば身を低くかがめないわけにいかなかった。
「ちょっと待って!」とKは拒むようにレーニにどなり、相変らず商人の手の上に重ねている手を苛立たしげにふるわせた。
「この人がわたしに訴訟の話をしろと言うんでね」と商人はレーニにむかって言った。
「話しなさいよ、話せばいいわ」とレーニは言った。
商人にたいする彼女の言い方は愛想よかったが、見下しているふうでもあって、それがKの癪にさわった。いまわかったのだが、この男にはたしかに値打ちがあった、少くとも経験に富んでいて、それをうまく伝えるすべも心得ているのだった。レーニはおそらくこの男を見損っているのだ。彼は、商人がこれまでずっと握りしめていたロウソクをレーニがとりあげ、その手を前掛けで拭いてやり、それから彼のわきに跪いて、ロウソクからズボンの上にしたたった蝋を掻きとってやるのを、そばから苦々しげに眺めていた。
「もぐりの弁護士の話でしたね」とKは言って、それから一言もいわずにレーニの手をおしのけた」
「どうしようって言うのよ?」とレーニは聞き、軽くKの手を打ってまた作業をつづけた。
「そう、もぐりの弁護士のことでしたな」と商人は言って、考えこむように額をなぜた。
Kは思いだすのを手伝おうと思って言った。
「あなたは即効薬をのぞんだんで、それでもぐり弁護士のところにいったんです」
「そうでしたな」と商人は言ったが、話をつづけようとしなかった。
(レーニの前ではその話をしたくないのかもしれないな)とKは考え、早く話のつづきを聞きたい苛立ちを抑えて、それ以上無理強いはしなかった。
「ぼくのことは伝えてくれた?」と彼はレーニに訊ねた。
「もちろんよ」とレーニは応じた、「彼はあんたを待ってるわ。もうブロックは放してやりなさい、ブロックとならあとでだって話せるじゃないの、ずっとここにいるんだもの」
「ずっとここにいるんですか?」と彼は商人に聞いた。彼は商人自身の答がほしかった、彼はレーニが商人についてまるでこの場にいない者のような話し方をするのが気に入らなかった、彼は今日はレーニにたいする腹立ちで胸がにえくりかえっていた。だのに答えたのはまたしてもレーニであった。
「彼はしょっちゅうここに泊るのよ」
「ここに泊るって?」とKは叫んだ。彼としては、弁護士との談合を手早くすませるあいだ商人にしばらく待っていてもらって、それから一緒に外へ出て、だれにも妨げられずにすべてを徹底的に話しあうつもりでいたのだった。
「ええ、そうよ」とレーニは言った、「ヨーゼフ、だれもがあんたみたいに好きなときに弁護士に会えるわけじゃないのよ。あんたはちっとも有難がらないようだけど、弁護士は病気だというのにこんな夜の十一時という時間に会ってくださろうというのよ。あんたは友だちがあんたのためにしてくれることをまるで当然なことのように受取っているのね。いいわ、それでもあんたの友だち、少くともわたしは、よろこんでやってあげるわよ。わたしを愛してくれれば、それ以外になんのお礼ものぞまない、なにも要らないわ」
(おまえを愛するだって?)と一瞬Kは考え、それからやっと彼の頭のなかを、(そうだっけ、おれは彼女を愛してるんだった)という考えがよぎった。にもかかわらず彼はそういったすべてのことを無視して言ってしまった。
「彼が会ってくれるのはぼくが依頼人だからさ。会うのにまで他人様《ひとさま》の助けが要るようだったら、一歩あるくたびにねだったりおじぎしたりしなくちゃなるまいよ」
「今日はひどく荒れてるわねこの人、そう思わない?」とレーニが商人に聞いた。
(今度はおれがいない人間の番か)とKは考え、商人がレーニの無作法を引きとってこう言ったときは、彼にまで腹を立てそうになった。
「弁護士がこの人に会うのはほかにもいろいろ理由があるんだよ。つまりこの人の事件のほうがわたしのより面白いのさ。その上彼の訴訟はまだ始まったばかりで、だからたぶんまだそんなに紛糾していないんだろう、それで弁護士もよろこんで彼の仕事をするんだ。あとになれば事情も変ってくるよ」
「そう、そうね」とレーニは言って、笑顔で商人を見つめた、「まったくおしゃべりなんだから! でもこの人の言うことなんか」とここでKのほうに向き直った、「ぜんぜん信用しちゃだめよ。人はいいんだけどおしゃべりすぎるのよこの人。もしかするとそれで弁護士も彼をきらうのかもしれないわね。とにかくご機嫌のいいときにしか会ってやらないんだもの。そうでなくしようとわたしもずいぶん骨折ったんだけど、やっぱりだめね。考えてもみてよ、ブロックが来ましたって何度取りついでも、三日目になってやっと会う有様なんだものねえ。しかも呼ばれたちょうどそのときブロックがその場にいなければ、全部まただめになって、あらためてまた取りつがなくちゃならないよの。そのためにわたしブロックにここに泊ることを許したのよ、真夜中にベルを鳴らして、彼を呼べって言ったことさえ前にあったんですもの。だからいまじゃこの人夜中でも用意してるわ。そうなるとしかし今度は逆に弁護士のほうが、一度彼を入れろと言っておきながら、ブロックがいるとわかると、その命令を取り消したりすることがときどき起こるようになったんですけどね」
Kは問いかけるように商人を見た。こちらはうなずき返して、さっきKと話していたときのように率直に言った。あるいは恥かしさで気が散っていたのかもしれない。
「ええ、あとになると弁護士の言いなりになってしまうんですよ」
「この人が嘆くのは見せかけだけなのよ」とレーニが言った、「ここで寝るのはとても好きだって、もう何度もわたしに白状したもの」
彼女は小さなドアのところにいってそれを押しあけ、Kに聞いた。
「彼の寝室を見てみる?」
Kはそっちへ行って、敷居からその天井の低い窓のない部屋を見た。幅の狭いベッド一つで部屋いっぱいだった。ベッドに入るにはベッドの枠柱をのりこえていかねばならなかった。ベッドの枕許の壁に凹みがあって、そこにロウソク、インク瓶、ペン、それにどうやら訴訟書類らしい一束の書類がきちんと並べて置かれていた。
「あなたは女中部屋で寝るんですか?」とKは聞いて商人のほうにふり返った。
「レーニがあけてくれたんですよ」と商人は答えた、「たいへん好都合です」
Kは長いこと彼を見つめていた。彼が商人からうけた第一印象はどうやら正しかったようだった。たしかに彼は経験を積んでいたがそれは訴訟がすでに長くつづいているためであり、彼はこの経験をえたかわりにひどく高い代償を払わされてしまったのだ。突然Kはそれ以上商人を見ているのに耐えられなくなった。
「この男をベッドに放りこんでしまえ!」と彼はレーニに叫んだが、彼女のほうはなんのことかさっぱりわからぬふうだった。彼はすぐにも弁護士のところに行って、解約を通告し、弁護士ばかりか、このレーニや商人ともすっぱり縁を切ってしまいたかった。しかし彼がドアまでも行きつかぬうちに、商人が低い声で呼びかけた。
「業務主任さん」
Kが不機嫌な顔でふり返ると、
「約束をお忘れですよ」と商人は言って、坐ったまま嘆願するように首をKのほうにのばした、「あなたのほうでも秘密を言うことになってましたね」
「いかにも」とKは言った。そして自分を注意ぶかく見つめているレーニにもちらと一瞥をくれて、「じゃあ聞いてください。これはもう秘密とは言えないかもしれませんがね。ぼくはこれから弁護士のところにいって、彼をくびにするつもりです」
「弁護士をくびにするって!」と商人は叫んで椅子からとび上り、腕をあげたまま台所の中を走りまわった。走りながら何度も何度も叫んだ、「彼は弁護士をくびにするんだとさ!」
レーニはすぐKにとびかかろうとしたが、商人が邪魔に入ったので両の拳で一撃をくわせた。そしてなおも拳固を握りしめたままKのあとを追ったが、Kはすでにかなり先にいっていて、レーニが追いついたのは、彼が弁護士の部屋に入ったか入らぬときだった。彼はもう一歩でドアを閉めるところだった。レーニは片足をドアの隙間につっこんで彼の腕を掴み、ひき戻そうとした。が、Kは彼女の手首を強く押しつけ、彼女はうめきながら彼を放さねばならなかった。あえて部屋の中まで入りそうにはなかったけれども、Kはドアを閉め鍵をかけた。
「ずいぶん長く待たせましたね」と弁護士はベッドの中から声をかけた。それからロウソクの光で読んでいた書類をわきの小机に置き、眼鏡をかけ、Kを鋭く見つめた。詫びを言うかわりにKは言った。
「すぐに帰りますから」
弁護士は、Kのその言葉が謝罪になっていなかったからだろう、それにかまわずに言った。
「次からはもうこんな遅い時間には会いませんよ」
「それはぼくの願うところでもあります」とKは言った。
弁護士は問うようにKを見つめた。
「ともかくおかけなさい」と彼は言った。
「では遠慮なく」とKは言って椅子をナイトテーブルに引寄せ、坐った。
「ドアに鍵をかけられたようだったが」と弁護士は言った。
「はい」とKは言った、「レーニのためです」
彼はいまやだれであろうと容赦しないつもりだった。しかし弁護士はこんな訊ね方をした。
「あれがまた押しつけがましくしたんですな?」
「押しつけがましくですって?」とKは聞き返した。
「そう」と弁護士は言って笑った。が、笑うと同時に咳の発作に襲われ、発作がおさまってからまた笑いだした、「あなたも彼女の押しつけがましいのにはもう気づいているでしょうが」
そう聞いて、Kがうっかりナイトテーブルにのせていた手を叩いた。すばやくその手をひっこめ、Kがそのまま黙っていると、
「あなたはあまり重きを置いていないようだが」と弁護士は言った、「そのほうがいい。さもないとわたしがあなたに詫びを言わねばならなくなる。実はそれがレーニの変ったところで。わたしは前から大目に見てやることにしているし、だからいまあなたがドアに鍵をかけなかったら話す気にもならなかったが。その変ったところというのは――あなたにはわざわざ説明するにも及ばんでしょうが、そんなびっくりした目でわたしを見るから、それで言うんだが――その変ったところというのは、レーニが大抵の被告を美しいと思うことです。彼女はだれにでも惚れこみ、だれでも愛してしまう、だからまただれにでも愛されるようですがね。そしてあとで、わたしが許せば、わたしを楽しませようとしてときどきその話をしてくれますよ。だいぶ驚いておられるようだが、わたしはそんなことにはたいして驚きませんな。ちゃんと見る目を持っていれば、被告というものはしばしば本当に美しく見えるものなのです。これはまことの注目に値する、自然科学的とさえ言っていい現象ですがね。むろん告訴されたからといってすぐになにかはっきりした、正確に規定できるような変化が起こるわけではない。なにしろほかの裁判事件と違って、大抵の者はそのままふつうの生活をつづけ、世話をしてくれるいい弁護士さえついていれば、訴訟によってわずらわされることもない。にもかかわらず、経験を積んだ者なら、大勢の群衆の中からでも被告をひとりひとり見分けることができるのです。どこで、とあなたは聞くでしょうね。わたしの答はあなたを満足させないかもしれない。それはまさに被告が一番美しい人間だからですよ。かれらを美しくするのが罪であるはずはない、なぜといって――と、少くとも弁護士としてわたしは言わなければならないでしょう――すべての被告に罪があるとは限らないからです。またかれらを今の段階ですでに美しくしているのが、正しい罰であるわけもない、なぜといってみながみな罰を受けるとは限らないのですから。従ってそれはかれらにたいしてなされた訴訟手続のためというしかないのです。かれらになんらかの形でつきまとっている訴訟手続ですな。言うまでもなく美しい者の中にも特に美しい者もいます。美しいといえばしかし全員が、あのみじめな虫けらブロックでさえ美しいのです」
弁護士が話しおえたとき、Kは完全に冷静さをとり戻していて、最後の言葉にははっきりうなずいて見せさえした。そうやって自分の前々からの考え――この弁護士はいつも、従って今も、そういう事件に関りない一般的な物言いによって自分の気を紛らわせ、Kの事件のために実際に彼が何をしたかという根本問題から気をそらせようとしているのだ――という考えをあらためて確認していたのだった。弁護士のほうもKが今日はいつもより反抗的であることに気づいたらしかった。彼はそのまま黙りこんで、Kに口を開く機会を与えようとしたが、Kが黙ったままなのでやがてこう質問した。
「今日はなにかはっきりした意図があって見えたんでしょう?」
「そうです」とKは言って、手でちょっとロウソクの光を遮って弁護士の顔をよく見ようとした、「今日をもってあなたにぼくの弁護をやめていただく、と言いに来たのです」
「いまなんと言われました?」と弁護士は訊ね、ベッドの上に半身を起こして、片手を枕について身を支えた。
「申しあげたとおりです」とKは言い、待ちうけるように椅子の上でからだをぴんと立てた。
「ふむ、それではわれわれはその計画について話し合うこともできますな」としばらくして弁護士は言った。
「これはもはや計画ではないのです」とKは言った。
「かもしれんが」と弁護士は言った、「にもかかわらず、われわれは何事にも急ぎすぎぬようにしましょう」
弁護士が『われわれ』という言葉を使ったのは、彼にはKを手放すつもりがなく、たとえ代理人であることは許されなくても、少くともKの助言者のままでいたいと思っているようであった。
「急いでるわけじゃありません」とKは言ってゆっくり立ち上り、椅子のうしろに立った、「充分に考えた結果です。むしろ考えすぎたくらいでしょう。この決心は最終的なものです」
「それではなお二言三言だけ言わせてもらいましょう」と弁護士は言って羽根ぶとんをはねのけ、ベッドの縁に腰かけた。白い毛のはえた剥き出しの足が寒さに慄えていた。彼はKに長椅子から毛布を取ってきてくれと頼んだ。Kは取って戻ってくると言った。
「そんなからだを冷やすようなこと、なさる必要はぜんぜんないんですよ」
「するだけの理由が充分あるのです」と弁護士は、羽根ぶとんで上半身をくるみ、それから両足に毛布を巻きつけながら言った、「あなたの叔父さんはわたしの友人だ、それにあなたも時がたつうちだんだん好きになってきました。そのことはまず打ちあけておきます。なにも恥ずかしがる必要はありませんからな」
こういった老人のほろっとさせるような話し方がKにはたいへん迷惑だった。というのはできれば避けたいと思っていた決心までのくわしいいきさつを説明しなければならなくなるだろうし、正直に言ってやはりそれには心を惑わされたからだ。といってむろん彼の決心が後退したわけでは決してなかったが。
「ご厚意はありがたく思っています」と彼は言った、「あなたがぼくの事件解決のために可能なかぎりぼくのために有利になるように努力してくださったことは、ぼくもよく承知しているのです。けれども最近ぼくはそれでは充分ではないと確信するにいたりました。もちろんぼくは年長の経験ゆたかなあなたに、自分の見解を押しつけようなどとは思いません。もしこれまで知らず知らずそんな態度をとったことがあったら、どうか許してください。しかし事は、あなた自身言われたように、非常に重大です、そしてぼくの考えでは、いままでなされたよりもっと強力に訴訟に取り組むことが必要になってきたのです」
「よくわかりましたよ」と弁護士は言った、「要するにあなたは短気なんだ」
「ぼくは短気じゃない」とKはいささかかっとして言い、もう言葉遣いにはあまり注意しなくなっていた、「ぼくが叔父とこちらにうかがった最初の訪問のとき、あなたもたぶん気づかれたと思いますが、ぼくは訴訟にあまり重きを置いてませんでした。ああしていわば力ずくで思いださせられなかったら、完全に忘れているところでした。ところが叔父があなたに弁護を頼めと言い張って、ぼくも彼の気を損じないためにそうしました。さて、そうした以上は、これで訴訟はいままでよりずっと楽になるだろうと期待したって当然でしょう、弁護士に弁護をまかせるのは訴訟の重荷を少しでも免れるためなんですからね。ところが起こったことはその反対だった。あなたに代理をお願いしたとき以来、かつてなかったくらい訴訟のことで頭を悩ませられるようになったのです。ひとりだったときは事件に何も手出しはしませんでしたが、それでもあまり頭を悩ますことはなかった。ところが今は、さあ代理人もできた、事がなされるよう万事手配はついたぞ、そう思ってそれこそいつかいつかとあなたの着手を待ちうけていたわけです、が、何も起こらなかった。なるほどあなたから裁判所についての情報はいろいろもらいました、あれはほかのだれからでも得られなかったでしょう。しかしいまとなってはそれでは足りないのです、いまや訴訟が文字どおり忍び足で、ますます身近に迫りつつあるんですから」
Kは椅子をつきとばし、上着のポケットに両手を入れてつっ立っていた。
「対応の始まったある時点からは」と弁護士は落着いた低い声で言った、「本質的に新しいことはもう何も起こらなくなるものです。これまでどれほど多くの依頼人が、訴訟の同じような段階で、あなたと同じようにわたしの前に立って同じことを言ったかしれませんよ!」
「それだったら」とKは言った、「それらすべての同じような依頼人たちは、みなぼくと同じく正しかったわけです。それではなんの反駁にもなりゃしません」
「べつにあなたに反駁しようとして言ったんじゃありませんがね」と弁護士は言った、「ただ実を言うと、わたしはあなたにはほかの人たち以上の判断力を期待しておったんですよ。だからほかの依頼人にする以上に裁判組織とわたしの仕事について詳しくお話してきたのです。だが、どうやら十分な信頼をえられなかったと判断せざるをえないようですな。なんともはや手間のかかる人です」
この弁護士はおれにたいしてなんて卑屈なんだろう、とKは思った。こんなときこそもっとも敏感であるはずの体面てものをまるっきり顧慮していない。なぜこんな態度をとるんだろう? 見かけたところはやっている弁護士のようだし、それに金持でもあるらしいから、儲けが多少減っても、依頼人を一人失っても、それ自体はたいしたことはないではないか、そればかりか彼は病気がちなんだから、本来なら仕事を減らすことをこそ考えて当然ではないか。なのにこれほどまでにおれにしがみついている。なぜだ? 叔父にたいする個人的なよしみからか、それともおれの訴訟を本当に異常なものと見做して、この件で腕の立つところを見せようとしているのか? それはおれのためにか、それとも――こういう可能性も決して除外するわけにはいかない――裁判所にいる友人たちのためにか?
そう思ってKは無遠慮にじろじろ弁護士を見つめたが、相手自身からは何も認めることができなかった。相手がわざとわからぬ表情をして自分の言葉の効果を待っているのだ、と見えなくもなかった。しかし彼は明らかにKの沈黙を自分にとって都合よく解釈したのだろう、つづけてこんなことを言った。
「もうお気づきかもしれませんが、わたしは大きな事務所を持ちながら一人も助手を使っていません。以前はこうではなかった、若い法律家が二、三人わたしのために働いていた時期もあったのです。しかしいまは一人で仕事をしている。これは一面では、わたしが業務内容を変えて、次第にあなたの場合のような法律事件に業務を限っていったためですが、一面では、わたしがこういった法律事件についての認識をますます深めていったことにもよるのです。わたしは、依頼人や、自分の引きうけた任務にたいし罪を犯したくないならば、この仕事を他人に任せていたのではだめだと思うようになった。しかし仕事を全部自分でするというこの決心は、むろんそれにともなう結果をもたらしましたよ。つまり、弁護の依頼をあらかた断わらねばならなかった、とくに関係のある人びとの仕事しか引きうけられなくなったのです――もっとも、わたしが投げだした残り屑でもぱくっととびついてくるようなやつらはたくさんおりますがね、しかもごく身近にね――。しかもその上にわたしは過労のあまり病気になった。にもかかわらずわたしは自分の決心を後悔してはいません。あるいは、わたしが実際に引受けた以上にもっともっと弁護の依頼を断わるべきだったかもしれない。しかし引受けた訴訟に本気で専念したことは、やがてあとでぜひともそうすることが必要だったと判明したし、またよい結果で報われもしたのです。いつかある書物の中でわたしは、通常の法律事件の弁護とこの種の法律事件の弁護とのあいだにある相異が、実に巧みに言い現わされているのを見たことがある。つまりこういうのです。一方の弁護人は依頼人に糸をつけて判決まで導く、しかしもう一方の弁護士は依頼人をすぐ肩にかついで、途中おろさずに判決まで、いやさらにその先まで運んでゆく、と。まあそういった具合です。しかし、この大変な仕事を引受けたことをわたしが一度も後悔したことがないと言ったら、それは嘘になる。この仕事が、たとえばあなたの場合のように完全に誤解されたとなると、そういうときは、ええ、そういうときは後悔したくもなるのです」
この長話によってKは納得するよりむしろ苛立ってきた。弁護士の口調からして、自分を待ちうけているものがなんとなく聞きとれる気がした。もしここで譲歩すれば、またしてもあの言い逃れが始まるのだと思った。請願書ははかどっているとか、裁判所役人の心証がよくなったとか、しかし仕事の前途にはなお大きな困難が待ちうけているとか――要するに、へどが出るほど熟知していることどもがすべてまたぞろむしかえされて、またしてもKを漠然とした希望で欺いたり、漠然とした脅迫で苦しめたりすることになるのだ。そんなことは断固として妨がねばならなかった。だから彼は言った。
「弁護をつづけるとしたら、あなたはぼくの事件で何をやってみるつもりですか?」
弁護士はこの侮辱的な質問にさえ折合って、こう答えた。
「いままであなたのためにやってきたことをさらにつづけるだけです」
「そんなことだろうと思ってました」とKは言った、「それを聞けばこれ以上一言もうかがう必要はありません」
「もう一つだけ言わしてもらいましょう」と弁護士は、まるでKを興奮させたことがKの上にでなく自分の上に起こったというように言った、「わたしが思うに、あなたが法律顧問というわたしの立場に誤った判断をくだしているばかりか、そのほかの振舞いでも多々誤らされているのは、被告という身分であるにもかかわらずあなたがあまりにもいい扱いを受けているためです。もっと正しく言えば、いい加減に、見かけだけいい加減に扱われているためです。このいい加減というのにはそれなりの理由がある。自由であるより鎖につながれていたほうがまし、ということがしばしばありますからね。しかしわたしはあなたにほかの被告はどう扱われているかを見せてあげます、そうすればあなたがそこから教訓を引出すことができるかもしれませんからな。これからブロックを呼びますから、ドアの鍵をあけて、そこのナイトテーブルのそばに坐っていてください」
「いいですとも」とKは言って、弁護士が要求したとおりにした。学ぶ心構えはいつでもできていたのだ。しかし万一の場合に備えて、なおこう訊ねた。
「しかしぼくの弁護から手を引いていただくことは了解してもらえましたね?」
「ええ」と弁護士は言った、「あなたはしかし今日のうちにそれを引っこめてもいいのですよ」
彼はふたたびベッドにひっくりかえって、羽根ぶとんを顎まで引上げると、壁にむいて寝返った、それからベルを鳴らした。
ベルの合図とほとんど同時にレーニが現れた。彼女はすばやく視線を走らせて何が起こったか知ろうとした。Kが落着いて弁護士のベッドわきに坐っていたことが、彼女を安心させたようだった。自分をじっと見つめているKにむかってにっとうなずいてみせた。
「ブロックをつれといで」と弁護士は言った。
が、彼女は呼びにいくかわりにドアの外に出て、「ブロック! 弁護士さんのとこへ!」と叫んだだけで、それから、たぶん弁護士が壁に向いたきりで何も気にかけていないようだったからだろう、こっそりKの椅子のうしろに忍びよった。そうして、椅子の背に覆いかぶさったり、両手を、むろん非常に優しくかつ用心してだが、彼の髪にさしこんだり、頬をなぜたりして、さんざんにKを悩ませた。ついにKがそれをやめさせるために彼女の手をつかむと、しばらく逆らったのちに彼女は手を彼にまかせきった。
ブロックは呼ばれるとすぐやってきたが、ドアの前に立ち止って、入ったものかどうか思案している様子だった。眉を吊りあげ、首をかしげて、まるで、弁護士のとこへという命令が繰返されるのではないかと耳をすましているようだった。Kは彼に入れと元気づけてやってもよかったのだが、いまは弁護士ばかりかこの家にあるものすべてと決定的に縁を切るつもりだったので、ぴくともからだを動かさないでいた。レーニも黙っていた。ブロックは、少くとも彼を追っ払う者はいないと見てとると、顔を緊張させ、両手を背中でふるわせながら、爪先だちに中に入ってきた。退却する場合に備えてかドアは開けたままにしておいた。Kにはぜんぜん目をくれず、盛り上った羽根ぶとんばかり見つめていた。その下に弁護士がいるのだが、彼は壁のすぐそばまでずっていたので、姿さえ見えなかった。しかしそのとき彼の声がきこえた。
「ブロックは来たか?」
この質問が、すでにかなりの距離をずり寄ってきていたブロックの胸に、それから腹に、文字どおり一撃を与えたらしく、彼はよろめき、平身低頭して立ち止り、言った。
「仰せに従いました」
「なんの用だ?」と弁護士は訊ねた、「まずい時に来たものだな」
「お呼びではなかったのでしょうか?」とブロックは、弁護士にというより自分自身にむかっていうように訊ね、身を守るように両手を前に出し、いつでも逃げだせる身構えをした。
「おまえは呼ばれた」と弁護士は言った、「にもかかわらずまずい時に来た」そしてしばらくしてからつけ加えた、「いつでもまずい時に来るやつだな」
弁護士が口をきいて以来ブロックはもうベッドに目を向けなかった。むしろ隅のどこかを凝視して、まるで話し手の視線がまぶしすぎて耐えることができないというように、耳を澄ましているだけだった。しかしその聞くことさえも難しかった。弁護士は壁にむかって、しかもひどく低い声で早口に物を言っていたからだ。
「出てゆけとおっしゃるのでしょうか?」とブロックは聞いた。
「どうせ来てしまったものだ」と弁護士は言った、「そこにいろ!」
弁護士はブロックの願いを叶えてやったのではなく、苔かなにかで彼を脅したのだ、と言ってもよかったろう。なぜならいまやブロックは本当に慄え始めたのだから。
「わたしはきのう」と弁護士は言った、「友人の第三席裁判官のところに行った、話をだんだんおまえのことに持っていった。彼が何を言ったか、知りたいか?」
「ぜひどうぞ」とブロックは言った。
弁護士がすぐ返事をしなかったので、ブロックはもう一度嘆願を繰返し、跪かんばかりに身をかがめた。それを見て思わずKはどなった。
「なにをしてるんだ、きみは!」
そのときレーニが彼の叫ぶのをやめさせようとしたので、Kは彼女のもう一方の手も掴んでしまった。それをしっかと握って離させないのは、愛の握力ではなかった。彼女は何度もうめき声をあげ両の手をもぎ放そうとした。Kが叫んだことで罰を受けたのはしかしブロックだった。なぜなら弁護士が彼にこう質問したからだ。
「おまえの弁護士はだれだ?」
「あなたさまです」とブロックは言った。
「そしてほかには?」と弁護士が訊ねた。
「あなたさまのほかにはだれも」とブロックが言った。
「だったらほかのだれの言うことも聞くな」と弁護士は言った。
ブロックはそれを完全にうのみにした。悪意のある眼差しでKを見つめ、はげしく頭をふった。この動作を言葉に直せば乱暴な罵倒になったに違いない。こんな男とおれは親しくおれの事件のことを話そうとしたのだ、とKは思った。
「ぼくはもうきみの邪魔をしない」とKは椅子の背にそっくりかえって言った、「跪くなり四つん這いになるなり、なんでも好きにするがいい。どうしようとぼくは気にかけないよ」
しかしブロックにも名誉心はあったのだ、少くともKにたいしては。なぜなら彼は、拳をふりまわしながらKに歩みよると、弁護士のそばにいるときだけあえて出せるような大声でこう叫んだのだから。
「わたしにたいしてそんな口の利き方をしてはいけない、そんなことは許されない。なぜわたしを侮辱するんです? しかもここで、弁護士さんのいらっしゃる前で。ここではあなたもわたしも、二人ともお情けで我慢していただいているだけだというのに。あなたはなにもわたしよりましな人間というわけじゃないのですよ。なぜって、あなたも同じく告訴されている、訴訟を持っている身なんだから。それでもなおあなたが紳士だというなら、それならたとえもっと立派ではないにしろわたしだって同じ紳士だ。わたしにもそういう人間として口を利いてもらいたい、とくにあなたからは。たしかにあなたはそこにふんぞり返って悠然と聞いていられるのに、わたしのほうは、あなたの言い方をすれば、四つん這いでここに這いつくばっている、だがもしそんなことであなたが優越感を持つというんなら、わたしはあの古い法律格言を思いださせてあげよう。容疑者たる者はじっとしてるより動きまわるがまし、なぜなら、じっとしてる者はいつも、それと知らぬまに秤にのせられていて、罪の重さをはかられている、とね」
Kは何も言わなかった。目を据えてこの取り乱した男を見つめるばかりだった。わずか一時間足らずのうちに、なんという変化がこの男の身に起こったことだろう! この男をかくも動揺させ、敵と味方の区別までつかぬようにしてしまったのは、訴訟の力だったのか? 弁護士がわざと彼をいやしめ、そうやってKの前で自分の力を見せびらかして、あわよくばKまで屈服させようとしているだけだということさえ、彼にはもう見えないのか? だがもしブロックにそれさえ見分ける力がないのなら、あるいはまたそうとわかっていても何の役にもたたぬほど弁護士を怖れているのだったら、一体どうしてこの男は他方では弁護士を欺いて、彼のほかにもなお何人もの弁護士に働かせていることを隠しておけるほど狡猾に、あるいは大胆になれるのだろう? また、おれがすぐにも彼の秘密をばらすかもしれないのに、なぜあえておれにくってかかったりするのだろう?
しかしブロックはさらにそれ以上のことさえした。彼は弁護士のベッドまでゆくと、そこでもKについての苦情を言い始めたのだ。
「弁護士さま、この男がわたしと話すのをお聞きになりましたでしょうか? 彼の訴訟なぞまだ時間をもってかぞえられるくらいだといいますのに、もうこの男はわたしに、すでに五年も訴訟の中にいる男にむかって、教訓を垂れようというのですよ。しかもわたしをののしりさえした。なにも知らぬくせにののしるのですよ、このわたしを、たとえ力は及ばずながらも礼儀や義務や裁判所の慣習が求めるものをくわしく学んできたこのわたしを」
「ひとのことを気にするな」と弁護士は言った、「正しいと思うことだけをしろ」
「たしかに」とブロックは自分自身を勇気づけるように言い、ちらと横に目をやってからベッドのすぐそばに跪いた、「このとおり跪いておりますです、弁護士さま」
弁護士はしかし黙っていた。ブロックは片手で用心ぶかく羽根ぶとんをなでた。静寂のひろがったなかでレーニがKの手を振りほどきながら言った。
「痛いわよ、放して。わたし、ブロックのとこに行くわ」
事実彼女はそっちへ行って、ベッドの縁に腰をおろした。ブロックは彼女の来たことを非常に喜んで、すぐさまさかんに無言の合図を送って弁護士に自分のことをとりなしてくれと頼みだした。彼が弁護士の情報を切に求めていることは明らかだったが、ひょっとしたらそれも、彼のほかの弁護士たちに情報を十二分に利用させようという魂胆からだったかもしれない。レーニはどうしたら弁護士にとり入れるかをよく知っているようだった。彼女は弁護士の指をさして、キスするように唇をとがらしてみせた。すぐさまブロックはその手に口をつけ、レーニにうながされてさらに二度繰返した。が、弁護士は相変らず黙ったままだった。するとレーニが弁護士の上に覆いかぶさり、そうやってからだを伸ばすと、彼女の肉体の美しい線がくっきりと現れた。彼女は弁護士の顔の上に深くかがみこんで、その長い白い髪の毛をなぜていた。それが彼に答を余儀なくさせた。
「どうもこの男に教えてやる気にはなれん」と弁護士は言って、頭を少し振るのが見えたが、これはもしかするとレーニの感触をもっと味わいたかったからかもしれない。ブロックは、まるでこんなふうに聞くのが命令を犯すことででもあるように、首をうなだれて聞き耳を立てていた。
「なぜその気になれないの」とレーニが訊ねた。
Kはすでに何度も繰返され稽古を積んだ会話でも聞かされている気がした。たぶんそれはこれからも何度も繰返されるのだろうが、それでもブロックにとってだけはいつまでも新鮮味を失わないのかもしれなかった。
「やつは今日はどうしていたかね?」と弁護士は答えるかわりに訊ねた。
レーニはその話を始める前にブロックを見おろして、彼が自分にむかって両手をさしあげ、懇願するように手をすり合せているのをしばらく眺めていた。それからまじめくさってうなずくと、弁護士のほうに向き直って言った。
「落着いてよく勉強してました」
一人の老商人、長いひげを生やした男が、年端もゆかぬ小娘に有利な証言をと懇願したのだ。仮に下心があってのことにしろ彼のしたことには、その場に居合わせた者の目からみて、是認できるものは何もなかった。こんな猿芝居で自分の気をひこうなどとどうして弁護士が考えることができたのか、Kにはまったく理解できなかった。もっと前に自分を追い出さなかったとしても、こんな場面を見せたのではその目的を達したも同然ではないか。これではほとんど見物人への侮辱と言ってよかった。ではこれが弁護士のやり方だったのか。さいわいにしておれはあまり長いことその餌《えさ》にならないですんだものの、依頼人をしてついには全世界を忘れさせ、この迷路だけを頼りに訴訟の結末までひきずってゆくのが、彼の狙いだったのか。こんなのはもう依頼人ではない、弁護士の犬だ。もし弁護士が、犬小舎に入るようにベッドの下に這いこんでそこでほえろと命じたら、やつはたぶん喜んでそうするに違いない。そう思ってKは、ここで話されることすべてをくわしく胸に収めてもっと上の場所で告発し報告することを命じられた者のように、傲然と試すように耳を傾けていた。
「やつは一日中何をしていたのかね」と弁護士は聞いた。
「わたしはこの人が仕事の邪魔にならないように」とレーニは言った「いつも彼がとまる女中部屋に閉じこめておきました。隙間からときおり彼が何をしているか見ました。彼はいつもベッドの上に跪いて、あなたが貸してあげた書類を窓枠にのせて読んでいました。それにはいい印象をうけました。というのはあの窓は通風口に通じているだけで、ほとんど光がささないんですから。そんなところなのに読んでいたので、ブロックは従順な人だとわかりました」
「そう聞くのはうれしい」と弁護士は言った、「しかしやつは読んでわかったのかな?」
このやりとりのあいだブロックはひっきりなしに唇を動かしていた。明らかにそうやって彼はレーニに言ってもらいたい返事を作文していたのだ。
「そんなことはもちろん」とレーニは言った、「わたしにははっきりと答えられません。ともかくわたしは彼が徹底的に読んでいるのを見ました。一日中同じページを読んでました、読みながら一行一行指で辿って。わたしが覗いたときはいつでもため息をついてました、読むのがひどくつらいというみたいに。貸してあげた書類はきっとひどくむずかしいんでしょうね」
「ああ、あれはもちろんそうだ」と弁護士は言った、「あの男にいくらかわかるとも思っていない。あれはただ、わたしがやつの弁護のためにやっている戦いがどんなに困難なものかをあの男に悟らせればよいのだ。まったくだれのためにわたしがこの困難な戦いをやっていると思う? ひとえにあの――口にするさえばからしいが――ブロックのためさ。それが何を意味するかもやつに教えてやらねばならん。やつは休まずに勉強しておったかね?」
「ほとんど休まずに」とレーニが答えた、「一度だけ水を飲ませてくれと言いました。それで覗き窓からコップを渡してやりました。それから八時にこの人を出してやって、いくらか食事を与えました」
ブロックは、いま自分が賞めそやされていることがKにも感銘を与えたに違いないというように、横目でちらとKを見た。彼はいま大いに希望を抱いているようだった。動きものびのびして、膝をついたまま右左に動きまわっていた。それだけにまた、弁護士の次の言葉に彼が凍りついたようになった様子も、はっきりとわかったのだった。
「おまえはあいつを賞めているが」と弁護士は言った、「それでなおさら話しにくくなる。というのは、裁判官は決していいことを言わなかったのだ、ブロック自身についても、やつの訴訟についても」
「いいことを言わなかったですって?」とレーニは聞き返した、「どうしてそんなことがありうるんでしょう?」
ブロックは、まるで、とうの昔に言われた裁判官の言葉を自分に都合よく変えてくれる力が、彼女に備わっているとでもいうように、緊張した目付きで彼女を見つめた。
「よくなかった」と弁護士は言った、「ブロックの話をし始めたら彼は不愉快そうな顔にさえなったよ。『ブロックの話はしないでくれ』と言うので、『彼はわたしの依頼人です』と言うと、『きみは体《てい》よく使われてるだけなんだ』と言うのだ。『わたしは彼の事件はだめになったと思いませんが』と言うと、またしても『きみは体よくつかわれてるだけなんだ』と言う。『そうは思いませんが』とわたしは言った、『ブロックは訴訟に熱心でいつも事件を追っています。わたしの家に住みこみ同然になって、訴訟に遅れまいとしています。あれほどの熱心さにはめったにお目にかかれません。たしかに、個人的にはあまり快くはない、礼儀作法もなっていないし、汚らしい、それはそうですが訴訟の観点からは非の打ちどころがありません』いいかね、わたしは非の打ちどころがないと言ったのだよ、むろんわざと誇張してだが。すると彼は答えた、『ブロックは狡《ずる》いだけだ。彼はたくさん情報をかき集めて、訴訟をひき延ばすことを心得ている。しかし彼の無知のほうが彼の狡猾さよりはるかに大きい。もしあいつが、訴訟なぞまだ始まってもいないと知らされたら、それどころか訴訟開始を知らせる鐘さえまだ鳴っていないと教えられたら、一体やつはなんて言うだろう』おとなしくしていろ、ブロック」と弁護士は言った。ちょうどそのときブロックが、膝をついた不安定な格好からからだを起こし、明らかに説明を乞う気配をみせたからだった。弁護士がまっすぐブロックに向けてこと細かに言葉をかけたのは、これが初めてだった。彼がぐったりした目であてどなく宙を見たり、ブロックを見おろしたりするので、その視線をうけてブロックはまたぞろゆっくりと跪いてしまった。
「裁判官がそう言ったからと言って、おまえには何の意味もない」と弁護士は言った、「いちいち驚くんではない。また繰返すようなら、もうおまえには何も言ってやらんぞ。おまえというやつは、一言いえばまるで最終判決でもきたように人を見るんだからな。ここにはわたしの依頼人もいるんだ、恥ずかしいと思わんか! わたしにたいするこの人の信頼までぐらつかせてしまうではないか。一体どうしようというんだ? まだおまえは生きている、まだわたしの保護下にある。無意味な心配をするな! 最終判決というものは多くの場合まったく思いがけずやってくる、任意の人の口を通じて、任意の時にやってくることぐらい、おまえもどこかで読んで知っているはずだ。いろいろ条件はあるにしろそれはむろん本当のことだ、だが、おまえの不安がわしに不快感を与えるのも、わたしがそれを必要な信頼の欠けているせいだと思うのも、同じように本当なのだぞ。一体わたしが何を言ったというのだ? わたしは一裁判官の言葉をそのまま繰返しただけだが、おまえも知ってのとおり、訴訟手続のまわりにはさまざまな見解が重なりあって、見通しもつかんほどになっている。たとえばいまの裁判官は訴訟開始の時点をわたしとは違うところに置いている。見解の相違、それだけのことだ。訴訟のある段階になると昔からの習慣で鐘が鳴らされる。この裁判官の見解ではそれで訴訟が始まる。これに反する見解をいまおまえに全部話してやるわけにはいかない。話したところで理解できないだろう。まあたくさんの反対意見があるということで満足しておくんだな」
下ではブロックが途方にくれて、指でベッドの敷物の毛皮をいじっていた。裁判官の言ったことが気がかりなあまり、弁護士にたいする服従の立場さえしばらくは忘れてしまい、彼はいまは自分のことばかり考えつめ、裁判官の言葉をあれこれひねくりまわしているようだった。
「ブロック」とレーニがたしなめる口調で言い、上着の襟をつまんで彼を少し上へひきあげた、「さあ、毛皮をはなして、弁護士さんの話を聞きなさい」
(編者マックス・ブロート注。この章は完結していない)
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第九章 大聖堂にて
Kは、この町に初めて滞在する、銀行にとってたいへん大事なイタリア人の顧客のために、いくつか美術上の旧蹟を案内するようにと命令を受けた。ほかのときならきっと名誉におもったに違いない命令だったが、非常な苦心をしてやっと銀行内での声望を保っている有様のいまは、それを引受けるのも辛かった。事務室から一時間でも引離されていると、たちまち不安に陥るのだ。事務室にいてもたしかにもう以前のようには時間を利用できなくなっていた。多くの時間が、精一杯仕事をしているふりをするだけで過ぎていったのだが、それだけになお事務室にいないと不安でならなかった。留守にしていると、いつでもこっちの動静をうかがっている頭取代理がおりおり彼の部屋に入りこんで、彼の机に坐りこみ、書類のあら捜しをしたり、長年ほとんど友達づきあいしてきた彼の顧客を迎えいれて彼との仲を割こうとしたり、いやそれどころか彼の失敗をあばきたてたりしているさまが、目に見えるような気がした。事実Kはいまや仕事中にもありとあらゆる方面で失敗を犯す危険を感じており、もはやそれが避けがたくなっていた。そのために近頃では、たとえどんなに名誉な仕方でも、業務上の外出とかちょっとした出張を命じられると――最近たまたまそんな命令が重なったのだ――これはしばらくのあいだ自分を事務室から遠ざけて仕事ぶりを調べあげるつもりではないかとか、自分は銀行でいなくても別に困らないやつと思われてるのではないかとか、ついそんな邪推をしがちであった。これらの命令の多くは断わってもさしつかえなかったのだが、彼はあえてそうしなかった。彼が怖れなければならぬ理由はこれっぽっちもなかったにしろ、命令を断われば自分の不安を白状することになりはしないかと思ったのだ。この理由から彼はそういった命令を上辺はさりげなく引受け、骨の折れる二日がかりの出張を命じられたときなぞ、ひどい風邪をひいていたのに黙っていたくらいだった。ちょうどさかりになった雨がちの秋の天候を理由に出張をさしとめられはしないかと思い、少しでもそんな危険を避けようとしたのだ。その旅行からひどい頭痛をかかえて返ってきたとき、翌日きみにイタリア人の顧客を案内してもらうことに決っていると聞かされたのだった。少くとも今回だけは断わりたいという誘惑は非常に大きかった。なによりもここで彼に割りふられた役目は、商売とは直接関係のない仕事だったからだ。なるほど顧客にたいしてこういう社交上の義務を果すことは、それ事態疑いもなく重要なことに違いないのだが、ただKにとってはそうでないまでだった。彼は自分の地位は仕事上の成果によってのみ維持できること、またもし仕事がうまくいかなければ、たとえそのイタリア人を思いがけず魅了する結果になってもそんなものは何の価値もないことを、よく心得ていた。だから一日でも職場から離れていたくなかった。二度と呼び戻されないのではないかという恐怖があまりにも大きく、思いすごしにすぎないとよくわかっていても、それを思うと彼はその恐怖に胸がしめつけられた。もっともこの場合にはうまい口実を見つけだすことはほとんど不可能でもあった。Kのイタリア語の知識はむろんたいしたものではなかったがともかく用を足すには足りたし、さらに決定的なのは、彼が前からいささか美術史の知識があると知られていることだった。Kは一時、商売上の理由からだったにしろ、市の文化財保存協会のメンバーだったことがあり、そのためひどく誇張された仕方で銀行内では美術通だと見なされていたのだ。しかもそのイタリア人は噂によるとやはり美術愛好家だとのことで、案内役にKが選ばれたのは従って当然のことだったのだ。
雨の降る荒れ模様の朝だったが、Kはこれからの一日のことを考え、ぷりぷり腹をたてながら七時にはもう事務室に来ていた。客がくれば何もできなくなるだろうから、それまでにいくらかでも仕事を片付けておこうと思ったのだ。前の晩少しでも準備しておこうとイタリア語文法の勉強に遅くまで起きていたので、彼はひどく疲れていた。最近は頻繁すぎるくらい窓ぎわに坐る癖がついているので、また机よりも窓ぎわにいきそうになったが、誘惑に逆らって仕事にかかった。残念なことに坐ったとたん小使が入ってきて、業務主任さんが来ているかどうか見てこいと頭取さんの言いつけでまいりました、と告げた。もし来ていたら、ご足労ですがすぐ応接室までおこしねがいたい、イタリアの方がもう見えているから、と言う。
「すぐ行く」とKは言った。
それからポケットに小さな辞書をつっこみ、その外国人のために用意しておいた市の名所アルバムを脇にかかえて、頭取代理の部屋を通って頭取室に行った。こんなに早く事務室に来ていてすぐ役に立てたのがうれしかった。きっとだれも本気で彼がいるとは期待していなかったに違いない。頭取代理の部屋はむろんまだ夜中のようにがらんとしていた。おそらく小使は代理をも応接室に呼ぶよう言いつかったのだろうがそれはむだに終ったわけだ。
Kが応接室に入ると二人の紳士がふかぶかとした肘掛椅子から立ち上った。Kの来たことが本当にうれしかったのだろう、頭取はにこやかに笑ってすぐに紹介の労をとった。イタリア人は力強くKの手を握って、ほほえみながら、だれとかさんは早起きだと言った。だれのことを言ったのかKはよくわからなかった。しかもそれはひどく変った単語だったので、その意味をKはしばらくしてからやっと了解する有様だった。Kが二言三言あたりさわりのないことを言うと、イタリア人は笑ってそれに応じ、話しながら何度も神経質そうな手でその灰青色のもじゃもじゃの口ひげにさわった。この口ひげには明らかに香水がふってあって、近づいて嗅いでみたい気を起こさせるほどだった。
三人とも腰をおろしてちょっとした予備的会話が始まったとき、イタリア人の言うことが切れぎれにしかわからないのに気づいて、Kはひどく不愉快な気持にさせられた。落着いて話してくれればほぼ完全に理解できるのに、そんなことはごくごくの例外で、たいていは話が次から次へと口から湧き出てきて、しかもそれが楽しくてならぬらしく頭を振り振り話すのだ。しかもそんなおしゃべりのさい彼はきまってどこかの方言に紛れこんでいって、Kにはそれがほとんどイタリア語とも思えなかったが、頭取は理解したばかりでなくみずから話しさえした。もっともこれはKに予想できない事態ではなかった。なぜならこのイタリア人は南イタリアの出身で、頭取もそこに数年いたことがあるからである。いずれにしろこれでKはこのイタリア人と意思を疎通させる可能性があらかた奪われてしまったことを悟った。彼が使うフランス語もひどくききとりにくく、しかも口ひげが唇の動きを隠してしまっているので口を見て理解の助けにするわけにもいかなかった。これからいろいろと不愉快なことが起こりそうな予感がしたが、さしあたり彼はイタリア人の言うことを理解しようとするのをすっかりやめてしまい――それをやすやすと理解できる頭取のいるところでは、そんな努力をしてもむだというものだった――むしゃくしゃしながら相手を観察するにとどめた。イタリア人はふかぶかとしかも軽やかに肘掛椅子に坐って、きりっと仕立てられた短い上着を何度となくつまんだり、一度なぞは両腕を高くあげて、手の関節をばらばらに動かしながら何かをあらわそうとしてみせたこともあった。Kは身をのりだしてその両手から目を離すまいとしていたけれども、それがなにを示すのか理解できなかった。
そうやってほかに何することもなく話のやりとりを機械的に目で追っているうちに、とうとうKの中で前々からの疲れがどっと現れてきた。一度なぞは、さいわいまだ間にあううちにくいとめたが、ぼんやりしたまま立ち上り、向きをかえ、出ていこうとしている自分に気がついて、ぎょっとなったことさえあった。ようやっとイタリア人は時計に目をやって、とび上った。まず頭取に別れの挨拶をしてから彼はKのそばにきたが、あまりぴったりそばに寄ったので、Kは身動きできるよう肘掛椅子をずらさねばならぬほどだった。頭取はKの目を見て彼がこのイタリア語にたいし陥っている苦境に気づいたらしく、すぐふたりの会話に割りこんできた。それがまたいかにも巧妙で繊細なやり方なので、上辺はちょっとした口添えをするだけのように見えながら、実際は、イタリア人が絶え間なしにKの話を遮ってまくしたてることを、残らず手短にKに伝えているのだった。そのおかげでKにも、イタリア人がさしあたりいくつかの用事を片付けねばならぬこと、残念ながら全体にごくわずかの余裕しかないこと、彼としても全部の名所を駆け足で見てまわるつもりはまったくなく、それよりむしろ――むろんそれはKが同意すればの話で、決定権はひとりKにあるのだが――ただ大聖堂《ドーム》だけを、ただしそれは徹底的に見学する決心でいることがわかった。自分としてはこの見学を、このように学識もあれば親切でもある方――これはKのことだったが、彼のほうはイタリア人の言うことは聞かずに頭取の言葉をすばやく掴むことにばかり専念していた――の案内で実現できるのはたいへんにうれしい、ついてはもし時間のご都合がついたら二時間後に、つまり十時に大聖堂《ドーム》に来ていただけまいか、自分のほうもこの時刻なら必ずそちらにいけると思う。それだけ聞いてKは二言三言適当な返事をした。イタリア人は最初頭取と握手し、それからK、さらにもう一度頭取の手を握ると、ふたりに送られてドアに向った。からだは半分しかこっちに向いていないのに、おしゃべりだけは相変らずやめようとしなかった。
Kはそれからなおしばらく頭取と一緒にいたが、頭取は今日はとくに悩ましげに見えた。彼はKにどうにかして詫びを言わねばならぬと思いこんでいるらしく――ふたりは親しげに肩を寄せあって立っていた――初めは自分でイタリア人の案内をするつもりだったが、それから――彼はそのくわしい理由は言わなかった――Kに行ってもらったほうがいいと決心したのだ、と言った。あのイタリア人の言うことが初めはすぐわからなくても、そんなことで当惑する必要は少しもない、すぐにわかるようになる、それにそもそもほとんどわからなくてもたいしたことではない、なぜならあのイタリア人にとっては相手に理解してもらうことはそう重要なことではないのだ。それにしてもきみのイタリア語は驚くほど上手だ、きみならきっとこの役目を立派に果すことだろう、などとも言った。
Kはそれで放免された。Kはまだ残っている時間を大聖堂の案内に必要な特殊な単語を辞書から書きぬくことで費やした。これは極度に骨の折れる仕事だった。そのあいだにも小使が郵便を運んできたり、行員がさまざまな問い合せを持ってきたりし、かれらはKが仕事中だと見てとると一応ドアのところで立ち止ったがKが聞いてやるまでは立ち去ろうとしなかった。頭取代理もKの邪魔をする機会を逃すわけがなく、たびたび入ってきては彼の手から辞書をとりあげ、あきらかに何の意味もなくそれをぱらぱらめくって見たりした。ドアが開くたびにお客たちの姿までが控室の薄暗がりのなかに浮びあがり、ためらいがちに――かれらは自分に注意をむけさせたいのだが、Kが見ているかどうか心もとなかったのだ――頭をさげていた。こういったことすべてがKを中心としてまわりをぐるぐるまわっていたが、彼自身は、必要とする言葉をかき集め、それを辞書の中に探し、それを書きぬき、その発音を練習し、最後にはそれを暗記しようと夢中になっていた。しかし昔のすばらしい記憶力にはすっかり見捨てられてしまったようで、彼は何度も自分にこんな苦労をかけさせるイタリア人にむかっ腹をたてた。怒りのあまり、もう準備などすまいと固く心に決めて辞書を書類の下につっこんでみるのだが、それからしかしまた、まさかイタリア人と黙りこくって大聖堂の芸術品の前を歩きまわるわけにいくまいと思い返し、前よりはげしい怒りを覚えながら辞書をひっぱり出す始末だった。
ちょうど九時半、彼が出かけようとしていたときに電話がかかってきた。お早う、ご機嫌いかが、と聞いてきたのはレーニだった。Kはあわてて礼を言い、いまは話しているひまはない、大聖堂《ドーム》へ行かねばならないんだ、と伝えた。
「大聖堂《ドーム》へ?」とレーニが聞き返した。
「そう、大聖堂へだ」
「なぜ大聖堂なんかへ?」とレーニが言った。
Kはわけを手短かに説明しようとしたが、彼が言いだすかださぬうちにレーニが突然言った。
「あんたは嗾《けし》かけられているのよ」
自分が求めもせず期待もしていなかった同情の言葉がKには我慢ならず、彼は二言ほどで別れを告げた。しかし受話器をもとの場所に掛けながら彼は、半ばは自分に向って、半ばはもはや聞いていない遠くの少女に向って言った。
「そうだ、ぼくは嗾かけられているのだ」
しかしもう遅くなっていて、約束の時間に間に合わないおそれさえあった。そこで自動車で行くことにしたが、出かけるまぎわになってアルバムのことを思いだした。さっきは手渡す機会を見つけられなかったのでいまそれを持ってゆくことにした。彼はアルバムを膝にのせ、走っているあいだじゅう落着きなくそれを叩いていた。
雨足は前より弱くなっていたが、湿っぽく、寒く、暗かった。大聖堂の中はよく見えないだろう、あそこの冷たい敷石の上に長いあいだ立っていたら風邪をこじらせるのが関の山だ、という気がした。大聖堂前の広場には人影がなかった。Kはまだほんの幼い子供のころすでに、この狭い広場の家々ではいつもほとんど全部のカーテンがおろされているのを奇妙に感じたことを思いだした。いつもと違い今日のようなお天気の日にはそれもむろんわからないことではなかった。大聖堂の中にも人気はなさそうだったが、だれもこんな日に来る気にならないのは当然だった。Kは両側の側廊を歩くあいだ、暖かそうな布につつまれた老婆がマリア像の前に跪いて見上げているのに出会っただけだった。遠くからさらにひとりのびっこの寺男が壁のドアの中に姿を消したのが見えた。Kは時間かっきりに来た、彼が入ったときちょうど十時を打つのが聞えたのだが、イタリア人はまだ来ていなかった。Kは正面入口に戻って、決心がつかぬままそこにしばらく立っていた。それから、ひょっとしてイタリア人は横の入口で待っているのではないかとたしかめに、雨の中大聖堂のまわりをぐるっと一巡りした。どこにも見つからなかった。頭取が時間を聞き違えたのではなかろうか? あんな男の言うことがどうして正しく聞きとれよう? しかし事情はどうであれ、いずれにしろKは少くとも三十分は待っていなければならなかった。疲れていたので腰をおろしたくなり、彼はまた大聖堂《ドーム》の中に戻った。階段の上に小さな絨毯状の布切れが見つかったので、彼は爪先でそれを近くのベンチまでひきよせ、しっかりと外套にくるまって、襟を立て、腰をおろした。気晴しのためにアルバムを開いてぱらぱらめくりだしたが、それもすぐにやめなければならなかった。あたりはひどく暗くなって、目をあげても近くの側廊の細部さえ見分けがつかないくらいだったのだ。
遠くの主祭壇の上にロウソクの光が大きな三角形をつくってきらめいていた。さっきすでにそれを見たかどうか、Kには確信がもてなかった。おそらくいま初めてともされたのであろう。寺男というのは職業柄忍び歩きの名人で、人に気づかれないものだ。たまたまKがふりむいて見ると、背後の遠からぬところにも、柱にとりつけられたロウソクが高く力強く燃えているのが見えた。非常に美しかったけれども、大抵は側祭壇の暗がりの中にある祭壇画の照明としてはまるっきり不充分で、かえって暗さをましているようなものだった。イタリア人がやってこないのは無礼でもあるが賢明なことかもしれず、これでは来ても何も見ることができないだろう。せいぜいKの懐中電灯で二、三の絵をインチきざみに見ることで満足しなければならないだろう。そういうやり方でどれだけ見えるかを試そうとしてKは近くの側礼拝堂へ行き、低い大理石の手すりまで数段のぼって、身をのりだし、懐中電灯で祭壇画を照らしてみた。絵の前の常明燈がちらついて邪魔になった。Kが見て一部を推測できた最初のものは、絵の一番はしに描かれている大きな甲冑をつけた騎士だった。彼は目の前のなにもない地面――草の茎が二、三本そこここに生えているだけだ――に突きさした剣にからだを支えていた。彼は眼前で演じられている出来事を注意ぶかく観察しているようだった。そうやってつっ立ったまま近づいていかないのは実に奇妙な眺めだった。おそらく見張りに立てと言われているのだろう。もうひさしく絵を見ていなかったKは、懐中電灯の青い光が耐えられなくてたえず目をしばたたかなくてはならなかったにもかかわらず、かなり長いことその騎士像を眺めていた。それから光を絵のほかの部分に移してみると、それはありふれたキリスト埋葬図であり、しかも比較的新しい絵だった。彼は懐中電灯をしまってまた元の場所に戻った。
いまはもうイタリア人を待っている必要はなさそうだった。しかし外はどしゃぶりに違いないし、それにここは思っていたほど寒くはなかったので、Kはしばらくここにいようと覚悟をきめた。彼の近くに大きな説教壇があって、その小さな丸い天蓋には二本の飾りのない金色の十字架が、先端をたがいに交差させて、なかば横ざまにとりつけてあった。手すりの下壁とそれが支柱へつながる部分とは、緑色の葉形装飾でつくられていて、それに小天使たちが、あるいは元気よく、あるいは休む格好で手をのばしていた。Kは説教壇に近づいてあらゆる側からそれを調べてみた。石の細工はきわめて丹念であって、葉形装飾とその背後のあいだの暗黒がまるで嵌めこまれ固定されているように見えた。Kはそういう隙間のひとつに手を入れ、それから石を注意ぶかくなぜてみた。こんな説教壇がここにあるなんて彼はこれまでぜんぜん知らなかった。そのときたまたま彼はすぐ近くのベンチの列のうしろに一人の寺男がいることに気がついた。だらんとした、しわの多い黒の上着をきた寺男は、左手に嗅ぎタバコの函《はこ》を持ってKを見つめていた。こいつはどうしようというのだろう、とKは思った。おれがうさんくさく見えるのかな? 酒代でももらいたいのかな? しかしいま寺男はKが気づいたことを知ると、二本の指のあいだにひとつまみのタバコを掴んだまま、右手でどこかはっきりしない方角を指さした。彼の振舞いがほとんど理解できなかったので、Kはなおしばらく待ってみたが寺男は手で何かを指すことをやめず、しかもうなずくことでさらにその動作を強調してみせるのだった。
「どうしろっていうんだ?」とKは低声で訊ねた。ここで大声を出すのは憚られたのだ。それから財布をとり出し、男のそばへいこうと一番近くのベンチのあいだに入りこんだ。けれども男はすぐさま手で拒絶の動作をしてみせ、肩をすくめ、びっこをひいて逃げだした。このびっこの急ぎ足のような歩き方をすることで、Kは子供のころ馬に乗る真似をしたものだった。
「子供じみたじじいだ」とKは思った、「こいつの頭じゃ寺男ぐらいしか勤まらないだろう。おれがとまればやつもとまり、おれが先へ行くかどうか様子をうかがってやがる」
微笑しながらKは老人を追い、側廊を通り抜けてほとんど主祭壇の上まで行ってしまったが、老人は何かを指さすのをやめなかった。しかし、そうやって何かを指さすのは老人があとを追うのをやめさせよとしているのだと思い、Kはわざとふりむかなかった。最後にとうとう彼は追うのをやめた。相手をあまり怯気づかせたくなかったし、イタリア人が万一来た場合のために、この化け物をすっかり追い払ってしまいたくなかったのだ。
それからアルバムを置き放しにしておいた場所を探しに中廊へ入ったとき、合唱隊のベンチとほとんどくっついた一本の柱に、小さな副説教壇があるのに気がついた。飾り気のない薄い色の石でできた、ごく簡素な説教壇である。あまりに小さいので、遠くから見ると、いずれ聖人像を収めることにきまっているまだ空《から》の壁龕《へきがん》のようであった。中で説教者は手すりからまるまる一歩はさがれないに違いなかった。そのうえ説教壇の石の丸天井は異常に低いところから始まって、装飾こそないがひどく彎曲して上へ伸びているために、中ぐらいの背の男でもまっすぐ立つことはできず、たえず手すりから身をのりだしていなければならないほどだった。全体がまるで説教者を苦しめるために作られたようなもので、ほかの大きな芸術味ゆたかに装飾された説教壇も使えるというのに、こんなものが何のために必要なのか、さっぱりわけがわからなかった。
上のほうにランプが固定されていなかったら、Kはきっとこの小さな説教壇に気がつきもしなかっただろう。そのランプは説教が始まる直前に用意されるならわしだった。ではいま説教が行われるというのだろうか? こんな人のいない教会で? 目をおとして階段を見ると、柱にしがみつくようにして説教壇へ上ってゆく階段は非常に狭くて、まるで人間が上ってゆくためでなく柱の飾りにつけられたとしか見えなかった。ところが説教壇の下には――Kは驚きのあまりついにやっとしてしまった――実際に一人の僧が立っていて、登壇する身がまえで手を手すりにかけたままKを見ていたのだ。それから彼がほんのかすかにうなずいてみせたので、Kも十字を切り頭をさげたが、本来ならこれはもっと前にやるべきことだった。僧はかるく弾みをつけると小刻みにすばやい足どりで説教壇に上っていった。本当に説教が始まるのだろうか? もしかするとあの寺男はまるっきり頭が悪いわけでなく、おれを説教者のところへ駆りたてようとしたのだったか? こんな人気のない教会ではとくにそうする必要があったわけだ。ところでそれならまだどこかのマリア像の前に老婆がいたはずだから、彼女も来なければならぬはずではないか? それに本当に説教をするなら、なぜオルガンの伴奏がないのだろう? しかしオルガンはこそとも鳴らず、高くそびえたったまま暗やみのなかに弱々しくきらめいているだけだった。
いまのうちさっさとずらかったほうがいいのではないか、とKは考えた。いま出ていかなければ、説教のあいだ出てゆける見込みはなかった。そうなれば説教のあいだじゅうここに残っていなければならない。事務室でもずいぶん時間をつぶしたのだし、もうとうにイタリア人を待つ義務はなくなっているはずだった。時計を見ると十一時だった。しかし一体本当に説教が行われるのだろうか? おれひとりで会衆を代表できるのか? もしおれが教会を見物に来た外国人だったらどうなるのだろう? 結局のところおれだってそれと変りがないのに。そもそもこんなお天気の悪い平日の十時に、説教が行われると考えること自体ばかげている。あの僧は――僧であることは疑いなかった、のっぺりと暗い顔をした若い男だった――きっと、間違ってともされたランプを消しに上っていっただけなのだろう。
しかしそうではなかった。それどころか僧はランプの具合を調べ燈心を少しもちあげると、それからゆっくり手すりのほうに向き直って、角ばった前方の縁を両手で握りしめた。そうやってしばらく立ったまま、顔を動かさずにあたりを見回していた。Kはかなりあとじさって、肱で最前列のベンチによりかかった。落着かぬ目を動かすと、場所は定かでなかったがどこかにあの寺男が背を丸めて、仕事は終えたというようにおだやかに蹲《うずくま》っているのが見えた。なんという静寂がいま大聖堂を支配していたことだろう! しかしKはその静寂を乱さねばならなかった。彼にはここにとどまる意志がなかった。きまりの時間に、周囲の状況なぞ顧みずに説教するのが僧の義務なら、勝手にすればいいのであった。Kの協力なしにも立派にやれるだろうし、Kがいたところで効果が上るはずのものではなかった。そう思ってKはゆっくり歩きだし、ベンチを手探りしつつ爪先だってゆくとまもなく中央の広い通路に出て、そこでもまったく邪魔が入らなかった。ただどんなに足音を忍ばせても石の床が音を立てた。円天井もかすかに、しかし絶えまなく、歩くにつれて規則正しく幾重にもその木魂をかえした。そうやって、たぶん僧に見つめられて人気のないベンチのあいだをひとりで通ってゆくと、Kはいささか自分を見捨てられた者のように感じたし、大聖堂の大きさがまさに人間に耐えうるぎりぎりのような気もした。前に坐っていた席まできたとき、彼はもはやとどまることなく、文字通りそこに置いてあったアルバムにとびかかり、それを手に取った。そしてベンチのあるあたりをほぼ後にして、ベンチと出口のあいだのもはや何もない場所にさしかかったとき、彼は初めて僧の声を聞いた。力強い、きたえぬいた声だった。声は、それを受入れるために用意された大聖堂に、なんとよく透ったことだろう! 僧が呼びかけたのはしかし会衆にではなかった。それはまったく明々白々で、逃れる道はなかった。
「ヨーゼフ・K!」と叫んだのだ。
Kはぴたっと足をとめ、目の前の床を見た。さしあたり彼はまだ自由だった、もう何歩か歩いて、彼のところからさして遠くないところにある三つの小さな黒い木の扉の一つをくぐり、逃げ出すこともできた。そうすれば彼は、僧の言葉が聞きとれなかったか、聞きとれたが自分はそんなことにわずらわされたくなかったのだ、と意志表示することになろう。しかし振り返りでもしたら、それは掴まったのだ。なぜならそのときは、たしかによく聞えた、自分はまさに呼ばれた当人であり、意に従うつもりだ、と告白したことになるからだ。僧がもう一度名を呼んだらKはきっと立ち去ってしまったろうが、いくら待っても静かなままだったので、彼は僧がいま何をしているか見ようとしてちょっと頭をまわしてみた。僧はさっきと同じく説教壇上に落着きはらって立っていた。しかしKが頭をめぐらしたことに僧が気がついたのは、はっきりと見てとれた。ここでおれがすっかり振りむいてしまわなければ、まるで子供の隠れん坊ごっこになってしまう。そう思ってKがふり返ると、僧が指を動かして近くへくるように合図した。いまや万事あからさまになってしまったのでKは――好奇心からと、手間をはぶくために――大股でとぶように説教壇に駆け戻った。最前列のベンチのところで彼は立ち止ったが、僧にはまだ距離がありすぎるらしく、手をのばし人差指を鋭く下にむけて、説教壇のすぐ前の場所を示した。Kは命に従ったが、この場所では僧を見ようとすれば頭をよほどのけぞらせねばならなかった。
「きみがヨーゼフ・Kだな」と僧は言って、手すりの上にあげた手を曖昧に動かした。
「そうです」とKは答え、以前はこの名をいつでもなんと大っぴらに名乗れたことだろう、と思った。しばらく前から彼には名前が重荷になっていた。いまや彼が初めて出会う人びとでも彼の名を知っていた。最初にまず自己紹介し、それから初めて知られるのはなんとすばらしいことだったろう。
「きみは告訴されている」と僧は特に声を低めて言った。
「そうです」とKは言った、「そうだと言われました」
「それではきみがわたしの探している人だ」と僧は言った、「わたしは教誨《きょうかい》師だ」
「ああ、そうですか」
「きみと話をするために、わたしがここへ呼んでこさせたのだ」
「そうとは知りませんでした」とKは言った、「ぼくがここへ来たのはあるイタリア人に大聖堂《ドーム》を見せるためです」
「よけいなことは言うでない」と僧は言った、「きみが手にしているのは何かね? 祈祷書か?」
「いいえ」とKは答えた、「町の名所のアルバムです」
「手から離しなさい」と僧は言った。
Kがアルバムを乱暴に投げだしたので、それはぱたんと開き、ページを乱したまま床を少しすべっていった。
「きみの訴訟がうまくいっていないことは知っているな?」と僧が聞いた。
「ぼくにもそう見えます」とKは言った、「いろいろ手は尽してみたのですが、これまでのところ効果はあがっていません。もっとも請願書はまだ仕上げていませんが」
「結局どうなると思っているのだ?」と僧が訊ねた。
「以前はうまく片付くだろうと思ってました」とKは言った、「いまはときどき自分でもそれを疑っています。どうなるのかわかりません。ご存じですか?」
「いや」と僧は言った、「しかしたぶんうまくいくまいと思う。きみは罪があると見做されている。きみの訴訟はおそらく下級裁判所さえ脱けられないだろう。少くともいまのところきみの罪は立証されたと考えられている」
「ぼくはしかし罪がない」とKは言った、「なにかの間違いだ。そもそもある人間に罪があるなんてことがどうしてありうるんです。誰も彼も、われわれはみな同じ人間じゃありませんか」
「それはそのとおりだ」と僧は言った、「しかし罪のあるものはみなそんな言い方をするものだ」
「あなたもぼくに偏見を抱いているんですか?」
「きみにたいし偏見なぞ抱いていない」
「ありがとうございます。しかしぼくの訴訟に関係しているほかの人たちはみな、ぼくにたいし偏見を抱いています。無関係な者の耳にまでそれを吹きこむ。だからぼくの立場はむずかしくなるばかりです」
「きみは事実を誤解している。判決は一度に下るものではないのだ、訴訟手続が次第に判決に移行してゆくのだ」
「やっぱりそういうことですか」とKは言って頭を垂れた。
「さしあたりきみはきみの件で何をするつもりかね?」
「もっと援助を探してみるつもりです」とKは言って、僧がこの意見をどう判断するか見るために頭をあげた、「ぼくが充分に活用していないある種の可能性がまだあるんです」
「きみは他人の援助を求めすぎる」と僧は非難するように言った、「しかも特に女に。そんなのが真の援助でないことがわからないのか?」
「ときどき、いやしばしば、たしかにあなたの仰言るとおりだと思います。しかしいつもではありません。女たちは大きな力を持っています。ぼくの知っている二、三人の女を動かして共同でぼくのために働かせることができたら、きっとやりぬけるに違いないのです。とくにこの裁判所では。なにしろ女の尻を追いかけまわす連中ばかりいるんですからね。遠くからでも予審判事に女を一人見せてごらんなさい、獲物を逃すまいと机でも被告でもつきとばしてふっとんできますよ」
僧は頭を手すりのほうに傾けた。いまになってようやく説教壇の天蓋が彼を圧迫しだしたようだった。外はどんな荒れ模様だろう? もはや陰鬱な日中どころではなかった、まさに深夜だった。大きな窓のステンドグラスからもう暗い壁面に一筋の微光さえさしこまなくなっていた。しかもちょうどいま寺男が主祭壇のロウソクを一つまた一つと吹き消し始めていた。
「気を悪くされたんですか?」とKは僧に訊ねた、「あなたはご自分がどんな裁判所に勤めているか、ご存じないんでしょう」
しかし返事はなかった。
「自分で体験したことを言ってみただけです」とKは言った。
上では相変らず静まりかえっていた。
「あなたを侮辱するつもりで言ったんじゃありません」とKは言った。
そのとき上から僧がKにどなった。
「きみはいったい二歩先が見えないのか?」
それは怒りの叫びだった。しかし同時にまた、だれかが倒れるのを見た人が、自分自身もびっくりしたために、不用意に、心ならずも叫んだというようでもあった。
それきり二人とも長いこと黙りこんでいた。下を支配している暗黒のため僧にはKがよく見わけられぬらしかったが、Kには僧の姿が小さなランプの光の中にはっきりと見えていた。なぜ僧はおりてこないんだろう? なるほど彼は説教はしなかった、よく考えてみれば、役に立つよりむしろ害になるようなことを二、三伝えてくれただけだった。しかしどうやら僧が善意をもっていることだけは疑いないように見える。下へおりてきてくれれば、おれと意見が一致することだって不可能ではなかろうし、彼から決定的でしかも受け入れうる助言をもらうことだって不可能でないかもしれぬ。例えば、どうしたら訴訟に影響を与えうるかということでなくとも、どうやったら訴訟から逃れられるか、それを避けうるか、訴訟の外側で生きることができるかというようなことを、示してもらえるかもしれぬ。そういう可能性は必ずあるはずで、Kも近ごろはしばしばそれを考えたものだった。この僧だってもしそういう可能性を知っているんだったら、おれが頼みこみさえすれば、もしかして教えてくれるのではあるまいか。もっとも彼自身は裁判所の人間であるし、さっきおれが裁判所の攻撃をしたときはそのやさしい人柄を抑えつけてどなりつけさえしたのだけれども。
「おりてきたらどうですか」とKは言った、「説教をするわけではないんでしょう。おりておいでなさい」
「これでもうおりてもいいでしょう」僧は、どなったことを後悔しているらしく、ランプを鉤《かぎ》から外しながら言った、「初めは離れたところからきみと話さねばならなかった。さもないとわたしはあまりにも影響を受けやすく、自分の義務を忘れてしまうからです」
Kは下の階段口で彼を待った。僧はおりてきながらもう上の段のところでKに手をさしのべていた。
「ぼくのために少し時間をいただけますか?」とKは訊ねた。
「時間はきみに必要なだけある」と僧は言って、Kに持たせるため小さなランプを渡した。近くに来ても彼の態度からある種のいかめしさが脱けなかった。
「親切にしていただいてありがとう」とKは言い、それからふたりは並んで暗い側廊を行ったり来たりしだした。
「裁判所の人たちのなかであなただけが例外です。かれらをもうずいぶん知ってますが、そのだれよりもあなたを信頼します。あなたとなら率直に話せそうです」
「思い違いしてはいけない」と僧は言った。
「ぼくが何を思い違いしてるというんです?」とKは訊ねた。
「裁判所のことで思い違いをしているのだ」と僧は言った、「法の入門書の中にそういう思い違いのことがこう記されている。法の前に一人の門番が立っている。この門番のところへ田舎から一人の男がやってきて、法の中へ入れてくれと頼む。ところが門番は、いまは入ることを許可するわけにゆかぬと言う。男は考えたすえ、それではあとなら入れてもらえるのか、と訊ねてみる。
『それはありうる』と門番は言う、『今はしかしだめだ』
法への門はいつものように開いているし、門番はわきへよったので、男はからだをかがめて門の中を見ようとする。門番はそれに気づくと高笑いして言う。
『そんなに入りたいのなら、おれの禁止なぞかまわずに入っていってみるがいい。だが、よいか。おれは力がある。そのおれは一番下っ端の門番にすぎない。しかし広間から広間へ、行くごとに門番が立っていて、行くほどに力が強くなる。三番目の門番を見るだけでももはやおれには耐えられぬくらいだ』
そのような困難は田舎から来た男の予期しなかったものだった。法というものはだれにでもいつでも近づけるはずだ、と思っていたのだ。しかしいま毛皮外套につつまれた門番をよく眺め、彼の大きな尖《とが》り鼻や、長い薄い黒いダッタン風のひげを見ているうちに、男はついに、入る許可が得られるまでやはり待っていようと決心する。門番は彼に床几《しょうぎ》しょうぎを与え、門のわきに坐ることを許す。
そこに彼は幾日となく幾年となく坐っていた。入れてもらうために彼はいろんな試みをした。門番がうんざりするほど頼んでもみた。門番はときおりちょっとした訊問を彼にする。彼の故郷のことを訊ねたり、その他いろんなことを聞く。それらはしかしどれもお偉方がよくするような気のない質問だ。最後にはいつでも、まだ入れるわけにはゆかぬ、と言いわたすに決っていた。
男はこの旅に備えていろんなものを用意してきていた。が、門番を買収しようとして、どんなに貴重なものであろうとすべて使い果してしまう。門番はむろん何でも受取る。しかしそのさいこう言うのを忘れない。
『おれが貰っておくのはただおまえがあとで、まだし残したことがある、などと思わぬようにするためにだぞ』
この長い年月のあいだ、男はほとんど絶え間なしに門番を観察しつづけている。彼はほかの門番のことなぞ忘れてしまい、この最初の門番こそ法に入るための唯一の障害と見えてくる。初めの数年彼はこの不幸な偶然を声高に呪ったが、のちに、歳をとるとともに、ぶつぶつひとり言を呟くだけになった。彼は子供っぽくなり、何年にもわたる門番の研究の結果彼の毛皮外套の中に蚤がいることを知ると、この蚤にまで、助けてくれ、門番にとりなしてくれ、と頼む有様だった。ついに視力も弱まってきて、本当にあたりが暗くなったのか、それとも目のせいで暗いのかもわからない。けれどもいまその暗やみの中におそらく彼は、法のいくつもの扉の中から消えることなく射してくる一条の光を認める。もう余命いくばくもない。死を前にして彼の頭の中にこの長の年月のあらゆる経験が集まって、これまで門番にしたことのない一つの質問となる。彼はもう硬直しかけたからだを起こすことができないので、門番に目くばせをする。門番は深く身をかがめねばならない。というのも、男にはひどく都合の悪いことに背丈がいまやすっかり違ってしまったからだ。
『この上いまさらなにを知りたいのだ?』と門番は聞く、『飽くことを知らぬやつだな』
『だれもがみな法を求めているというのに』と男は言う、『この長の年月、わたしのほかひとりとして入れてくれと要求した者がなかったのはどうしてですか』
門番は男がすでにいまわの時にあるのを知り、薄れてゆく聴覚にもとどくように大声でどなる。
『ほかのだれもここで入る許可を得るわけにいかなかった。なぜならこの入口はおまえだけに定められていたからだ。では行って門を閉めるとするか』」
「では門番はその男をだましたんですね」とKはすぐに言った。この物語に非常に強くひきつけられたのだ。
「先走ってはいけない」と僧は言った、「ひとの意見を吟味もせず受入れるものでない。わたしは本にある言葉どおりに話を伝えたまでだ。本にはだましたなどとは一言も書いてない」
「それはしかし明白じゃありませんか」とKは言った、「あなたの最初の解釈が完全に正しかったんです。門番は救いの言葉を、もはやそれが男にとって役に立たなくなったとき初めて口にしたんですから」
「彼はその前には訊かれなかったのだ」と僧は言った、「彼が門番にすぎなかったことも考えるがいい。そういう者としては彼は立派に義務を果したのだ」
「立派に義務を果したなぞと、なぜ考えるのです?」とKは聞いた、「彼は果してなぞいませんよ。彼の義務はおそらく無縁な者をすべて追いはらうことだった、しかしその男、その入口が彼のために定められていた男は、入れてやらなければいけなかったんです」
「きみはこの書物に十分な敬意を払わず話を勝手に作り変えている」と僧は言った、「この話は法の中へ入るのを許可することについて門番の二つの重要な言明をふくんでいる。一つは冒頭に、一つは結末にある。その一つの箇所には、いまは入ることを許可するわけにゆかぬ、とある。他の箇所には、この入口はおまえだけに定められていた、とある。この二つの言明のあいだにもし矛盾があるなら、それはきみの言ったとおりで、門番は男をだましたことになる。ところがそこにはいかなる矛盾もないのだ。それどころか、第一の言明が第二の言明を暗示してさえいるのだ。ほとんどこう言ってもいいかもしれぬ、門番は男に将来は入る許可を与える可能性があると思わせることによって、彼の義務を逸脱したのだ、と。あの時期には、男を追払うことだけが彼の義務であったように見える。事実この書物の注釈者にも、門番がそもそもそんなほのめかしをしたことについては、ふしぎがっている者が多いのだ。なぜといって、彼は厳密さを愛する男のようであり、自分の職場はつねにきびしく見張っているのだから。長年のあいだ彼は自分の持場を離れないでいて、最後になって初めて門をしめるというように、自分の職務の重要性を彼はよく自覚している男なのだ。それは、『おれは力がある』と言ったことでもわかる。彼が上役を畏敬していることは、『おれは一番下っ端の門番にすぎない』と言っていることでもわかる。また彼がおしゃべりでないことは、本にもあるとおり彼が長年のあいだに『気のない質問』しかしなかったことでもわかる。買収されるような人間でなかったことは、彼が男の贈り物について『おれが貰っておくのはただおまえがあとで、まだし残したことがある、などと思わぬようにするためにだぞ』と言うことでわかる。彼が義務の遂行が問題のときには心を動かされもせず泣き落としにもかからないことは、『門番がうんざりするほど頼んでもみた』とあることでわかる。最後に彼の外見――大きな尖った鼻、長い薄い黒いダッタン風のひげ――もその杓子定規な性格を暗示している。これだけみても、これ以上義務に忠実な門番がまたとあるだろうか? 一方しかしこの門番には、入る許可を求める者にとってきわめて好都合なほかの特徴もあって、それを考えると、彼があのように将来の可能性をほのめかしていささか義務を逸脱した理由もわかる。というのは、彼が少しばかり単純であり、またそれと関連して少しばかり自惚れが強いことを否定するわけにいかないのだ。自分の力、ほかの門番たちの力、自分にさえそれらの門番を見るのは耐えられないということ、などについての彼の言明は――たとえこれらすべての言明はそれ自体としては正しいかもしれぬが彼がそれを口にするやり方は、彼の理解が単純さと思い上りによって曇らされていることを示している、と言わざるをえない。注釈者たちはこの点について言っている、『ある事柄の正しい理解と、同じ事柄の誤った理解とは、たがいに完全に排除しあうものではない』と。いずれにしろしかし認めなければならないのは、あの単純と思い上りとは、たとえその現れ方はいかに微々たるものであれ、やはり入口を見張る力を弱めているということだ。これはいわば門番の性格にある穴なのだ。そこへさらに、門番が生れつき親切らしいという事情が加わる。これは必ずしもつねに役人ばかりではいられない男なのだ。男が来た最初のときに彼はもう、入ることはできぬと明確に禁止しておきながら、入ってみてはどうだなどと男に冗談を言っている。それから、すぐ男を追っ払ってしまわずに、彼に床几を与え、門の脇に坐らせてやった、とある。また長の年月男の嘆願に耐えぬいた辛抱のよさ、ちょっとした訊問、贈り物を受け入れたこと、こんな門番がここに配置された不幸な偶然を男が彼のそばで大声で呪っているのに、それを許してやっている高貴さ――これらすべてを見ると、同情で心が動いたと結論せざるをえないのだ。どの門番もがこのようにふるまうとは考えられまい。しかも最後に彼は男の合図を見て男の上に深く身をかがめ、最後の質問をする機会さえ与えてやっている。ただかすかな苛立ちが――門番はいまや万事終りだと知っているのだから――『飽くことを知らぬやつだな』という言葉からうかがえる。多くの人はこの解釈の仕方をさらにすすめて、『飽くことを知らぬやつだな』という言葉は、むろん蔑視の気持がなくはないとしても、一種の親しみをこめた感嘆をあらわすとさえ言っている。いずれにしろ、こうして推測される門番の姿は、きみが思っているのとはまったく違うわけだ」
「あなたは話をぼくよりずっとくわしく知っているし、長年考えてきていますからね」とKは言った。
それからしばらく二人は黙りこんでいたが、やがてKが言った。
「それではあなたは、男はだまされたわけではないと思うんですか?」
「わたしの言うことを誤解してはいけない」と僧は言った、「わたしはただこの話について言われているさまざまな見解を教えているだけだ。きみはそれらの見解を尊重しすぎてはいけない。不変なのは書物であって、見解などというものはしばしばそれにたいする絶望の表現にすぎないのだ。この場合にも、だまされたのは門番のほうだ、とする説さえあるくらいだ」
「それはまた極端な意見ですね」とKは言った、「どういう根拠があるんですか?」
「根拠は」と僧は言った、「門番の単純さから出ている。彼は法の内部を知らずその道を知っているにすぎない、と言われている。しかも彼はその道でさえ入口の前にくれば引返さなければならないのだ。また彼が内部についていだいている観念は子供っぽいものだと見做されているし、彼は男をして怖れさせようとするまさにそのものを自分で怖れている、と考えられる。なぜなら男のほうは、内部にいる恐ろしい門番の話を聞かされたときでさえ、ただ入ること以外何ものぞまないのに、これに反し門番のほうはおよそ入ろうとも思わない、少くとも彼がそうしようとした形跡はまるでないからだ。たしかに、門番は一度は内部に入ったことがあるはずだと言う注釈者もいることはいる、なぜなら彼は法に仕えるために採用された者であるし、そういうことは必ず内部で行われるはずだから、というわけだ。これにたいしては、なるほど彼は内部からの呼び声によって門番に任命されたのかもしれぬ、が、彼は少くとも内部の奥深くまでは行ったことがないはずだ、と答えられる。なにしろ彼は第三の門番を見ただけでも耐えられないのだから。しかもその上、彼がこの長の年月のあいだに、ほかの門番のことは口にしても、内部について何か言ったということは少しも報告されていない。そんな話をするのは禁じられていたのかもしれないが、禁じられていると彼が語ったこともない。こういったことすべてから結論されるのは、彼は内部の様子や意味について何も知らないし、むしろそれについて思い違いしているということだ。しかも彼は田舎から来た男についても思い違いしていたと思われる。なぜなら彼は本当はこの男の下位にありながら、そのことを知らないからだ。彼が男を自分より下の者として扱ったことは、きみもまだ覚えているだろうが、それは多くの点から認められる。彼がしかし実際は男より下にあったことは、この意見によればはっきりわかることだという。何よりもまず、自由な者は束縛された者より上にあるものだ。ところで男のほうは事実上は自由で、どこへでも行きたいところに行ける、ただ法の門に入ることが禁止されているにすぎない。彼が門の脇の床几に腰をおろし、そこに生涯とどまったとしても、それも自由意志からやったことだ。強制されたなどとは物語にはのっていない。これに反し門番のほうは、役目によって持場に束縛されていて、その場を離れることは許されない。見かけたところ彼はたとえそうしたくても内部に入ることも許されていないらしい。そればかりでなく彼は法に仕えているとはいえ、それもこの入口のためだけ、従ってこの入口がひとりその者のためと定められている男のためにだけ仕えているわけだ。この理由からしても彼は男よりも下位にある者だ。だから彼は長年、すなわち壮年時代全部を通じて、ある意味では実に空しい仕事を果しただけだとも考えられる。なぜなら、一人の男が来たとは、つまりだれか壮年の男が来たということで、従って門番は壮年のその男の目的が果されるまで長いこと待たなければならなかった、しかも自由意志でやって来た男の好きなだけ待たなければならなかった、ということになるからだ。そのうえ彼の任務の終りの時も男の生涯の終りの時によって規定されているのだから、従って最後の最後まで彼は男の下位にいたことになる。なのに門番はそういったことすべてについて何も知らなかったようだ、と話の中で何度も繰返し強調されている。ただしこの点については特に目立つことは見られない。なぜならこの見解によれば門番はそれよりももっとひどい思い違いをしているからだ。しかも自分の職務に関することで。それは何かと言えば彼が最後に入口のことで、『では行って門を閉めるとするか』と言ったことだ。話の初めにはしかし、法の門はいつものように開いている、とあり、もしいつも開いているものならば、いつもとはすなわち、この門から入ってゆくべき男の生涯には関係ないという意味であり、それならば門番といえども門を閉めることはできないことになる。もっともその点については、門番が門を閉めると告げたのは、ただ返事をしただけなのか、それとも自分の義務を強調してみせたのか、それとも男をいまわのきわに後悔と悲哀に陥れようとしただけなのか、とさまざまに意見がわかれている。が、彼は門を閉めることはできないという点では、諸家の意見は一致している。かれらはその上、男は法の入口から射してくる光を見たのに、門番のほうは入口に背を向けて立ち、いかなる素ぶりによっても変化を認めたしるしを示していないのだから、門番は、少くとも最後には、その知識においても男に劣っていたのだ、とさえ信じている」
「それでうまく理由がついた」と、僧の説明のところどころをひとり低声《こごえ》で繰返していたKは言った、「うまく理由づけされて、ぼくもいまでは門番が思い違いしていたと信じますよ。しかしだからといってぼくの以前の考えを捨てる気にはなりませんね。なぜといって双方はたがいに部分的に重なりあうからです。門番が明らかに見ていたのか思い違いしていたのかの問題は、決定的なことではないと思う。男はだまされていた、とぼくは言いました。門番が明らかに見ていたのならその点を疑うこともできるでしょう、しかし門番が思い違いしていたとすれば、この思い違いは当然男にもうつるはずです。だったら門番は欺瞞者ではなくともあまりにも単純すぎ、ただちに役目から放遂されてしかるべきでしょう。門番が陥っていた思い違いは彼になんの害も及ぼさないが、男にはしかし千倍も害を与えたことを、どうか考えてください」
「それにたいしてはこんな反論がある」と僧は言った、「というのは、この話は門番についてとやかく言う権利をだれにも与えていない、と多くの論者が言っている。われわれにどう見えようとも、ともかく彼は法に仕える者である、すなわち法に属する者である、従って人間の批判を越える者だ、というのだ。また、門番が男の下位にあるということも信じてはならぬという。職務によって法の一つの入口に縛りつけられていたことも、この世に自由に生きていることと比較にならぬくらいたいしたことだ。男は初め法のもとに来ただけだが、門番はすでにそこにいる。彼は法によってその職務に任命された者で、彼の品位を疑うことは法そのものを疑うことになるという」
「その意見にはぼくは賛成できない」とKは頭をふりながら言った、「なぜといって、その意見に組すれば、門番の言ったこと全部を真実と見做さざるをえなくなります。ところがそういうことはありえないと、あなた自身が詳細に理由づけされたのですからね」
「いや」と僧は言った、「すべてを真実だなどと考えてはいけない。すべてただ必然的だと考えなければならぬ」
「憂鬱な意見ですね」とKは言った、「虚偽が世界秩序にされるわけだ」
Kは結論づけるようにそう言ったが、それが彼の最終判断というのではなかった。話の推論のすべてを見渡すことができるにしては、彼はあまりに疲れすぎていた。それに話に導かれていった先はあまりに不慣れな思考法であり、彼よりむしろ裁判所の役人たちがするにふさわしような、非現実的な事柄であった。ごく単純な話がぶざまなものに歪んでしまい、できればそんなものをふり捨ててしまいたかった。が、いまや非常な思いやりをみせている僧はそれを見逃し、Kの意見が彼自身の意見と一致しなかったにもかかわらず、黙ってそれを受け入れていた。
ふたりはしばらく黙って歩をはこび、Kはいま自分がどこにいるかがわからぬまま、ぴったりと僧によりそっていた。彼が手にしていたランプはとうの昔に消えていた。一度彼の目の前で聖人の銀の立像が、ただ銀の輝きだけできらめいたが、すぐまた闇に消えていった。いつまでも僧にばかり頼りきっていないために、Kは訊ねた。
「われわれはいま正面入口の近くにいるんじゃありませんか?」
「いや」と僧は言った、「正面入口からはかなり離れている。もう出て行きたいのかね?」
Kはそのとき別にそう考えていたわけではなかったけれども、おうむ返しに言った。
「ええ、出て行かねばなりません。ぼくはある銀行の業務主任でして、みながぼくのことを待っています。ぼくがここへ来たのはただある外国の顧客に大聖堂を見せるためだったんです」
「それでは」と僧は言ってKに手をさしだした、「それなら行きなさい」
「しかし暗くてぼくひとりでは見当がつきませんが」とKは言った。
「左の壁まで行きなさい」と僧は言った、「それから離れずに壁ぞいに行けば、出口が見つかるだろう」
しかし僧がやっと二、三歩離れるか離れぬうちに、Kはもう大声をあげた。
「待って、待ってください!」
「待っている」と僧は言った。
「まだ何かぼくに用があるんじゃありませんか?」とKは訊ねた。
「いや」と僧は言った。
「さっきはあのように親切にしてくださり」とKは言った、「ぼくになんでも話してくださったのに、いまはぼくをただ放りだしてしまうんですか、ぼくのことなぞもうどうでもいいかのように」
「だがきみは出てゆかねばならんのだろう」と僧は言った。
「それはそうです」とKは言った、「でもいまのことは考えてください」
「まずわたしはだれかを考えることだな」と僧は言った。
「あなたは教誨師です」とKは言って僧のほうに近づいていった。ただちに銀行へ戻ることは、彼が言ったほどやむをえぬことでなく、まだここにいて一向に差支えなかったのだった。
「だからわたしは裁判所の者だ」と僧は言った、「だとしたらなぜきみになぞ用があろう。裁判所はきみにたいし何も求めない。きみが来れば迎え入れ、きみが行くなら去らせるまでだ」
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第十章 終り
彼の三十一歳の誕生日の前夜――夜の九時近く、通りが静かになる時刻だった――ふたりの紳士がKの住居を訪れた。フロックコートを着て、蒼白くふとって、びくともしそうにないシルクハットをかぶって。家の戸口で初めての来訪ゆえのちょっとした儀礼が行われたあと、同じ儀礼がKの部屋のドアの前でもっと大仕掛けに繰返された。この訪問は予告されていなかったにもかかわらずKも同様に黒い服を着てドアのそばの椅子に坐り、指にぴったり合う新しい手袋をゆっくり手にはめていた。客がくるのを待っていたような態度であった。彼はすぐ立ち上って、紳士たちをもの珍しげに見つめた。
「ではあなた方がぼくのために指定された人たちなんですね?」とKは訊ねた。
紳士たちはうなずき、一人は手にしたシルクハットでもう一人をさし示した。自分が待っていたのはこれとは違う客だった、とKはひそかに思った。彼は窓ぎわに行き、もう一度暗い通りに目をやった。通りの向うがわの窓々ももうほとんど全部暗くなって、多くの窓にカーテンがおろされていた。明りのついている二階の一つの窓では小さな子供たちが格子の奥で遊んでいたが、まだ自分の場所から動けないので、小さな手でたがいのからだをまさぐりあうだけだった。
「老いぼれの下っ端役者をよこしたものだな」とKはひとりごちて、もう一度そのことを確かめるためにくるりとふりむいた、「安っぽいやり方でおれのことを片付けようとしやがる」
Kは突然ふたりのほうに向き直って訊ねた。
「どこの劇場に出てるんです?」
「劇場?」と一人の男が口許をぴくつかせながらもう一人に助けを求めた。もう一人のほうは、手に負えない有機物と格闘している唖のような身ぶりをしてみせた。
「かれらは質問される心構えができてないようだ」とKは心につぶやいて、帽子をとりに行った。
すでに階段のところでふたりはKの腕をとろうとしたが、Kは言った。
「通りに出てからにしてくれ。ぼくは病気ではないんだ」
門の前にくるとしかしすぐかれらは、これまでKがおよそ人間とやったことがないような仕方で腕を絡ませてきた。肩を彼の肩のうしろに密着させ、腕を曲げるのではなくむしろそれを利用して、Kの腕の長さいっぱいにからみつき、下でKの手を、訓練どおりの熟練した有無をいわせぬ握り方で掴んだ。Kはふたりのあいだをぎごちなく伸びきった格好で歩いた。かれらはいま三人全部で統一体を形作っていたので、かれらの一人がぶちのめされれば、全員がぶちのめされてしまうだろうと思われた。それはまさに無生物だけが形作れるような統一体だったのだ。
街燈の下にくるたびにKはなんども、こうぴったりくっついていてはそれもむずかしかったが、自分の部屋の暗がりで見たよりもはっきりと、連れの男たちを見ようと試みた。
「ひょっとするとテノール歌手かな」と彼はふたりの重そうな二重顎を見て考えた。かれらの顔のつるっとしているのが彼の嫌悪感をよびおこした。片方の手で、目尻をなぜたり、上唇をこすったり、顎のしわを掻き消したりして、顔をととのえているのもよく見えた。
Kがそのことに気づいて立ち止ると、自動的にほかのふたりも立ち止った。かれらは、ひろびろした、人気のない、いろんな施設で飾られた広場の端にいた。
「どうしてあんた方みたいな人をよこしたんだろう!」とKは、訊くというよりむしろ叫んだ。
男たちはどう答えたものかわからぬらしく、病人が休もうとするときの看護人のように、空いたほうの手をだらっとたらして待っていた。
「もう一歩も歩かないよ」とKはためしに言ってみた。
男たちはそれに答えるにも及ばなかった、握った手をゆるめずに、Kをその場から連れ去ろうとしさえすればそれで足りたのだ、しかしKは抵抗した。
(もうたいして力は要らないだろう、いまこそ全力をふるってみよう)と彼は考えた。脚も千切れんばかりに蠅取紙から逃れようともがく蠅の姿が目に浮んだ、(そうすればこの連中だって手こずるだろう)
そのときかれらの前で、一段と低くなっている通りから小さな階段を上ってビュルストナーが広場へやってきた。彼女かどうか完全に確かではなかったが、そうだという可能性は大いにあった。もっともそれがまちがいなくビュルストナーであるかどうかはいまやKには大した問題ではなかった、それより抵抗することの無価値なことだけがすぐ意識にのぼった。抵抗したところで、ふたりの男を大いに手こずらせたところで、拒むことでなお人生の最後の輝きを味わおうと試みたところで、そこになんら英雄的なものはなかった。彼は歩きはじめ、そうやってふたりをよろこばせたことで、彼自身もいくらかおかげを蒙ることになった。彼が歩く方向を決めてもふたりが文句を言わないので、彼はその女が自分たちの前を通ってゆく方角に道を決めたのだ。彼女に追いつこうとか、できるだけ長く彼女を見ていたいとかいうのでなく、ひとえにただ、彼女が自分にとって意味する警告を忘れないようにするためにだった。
(いまおれがなしうる唯一のことは)と彼は心につぶやいた。そして自分の歩みとふたりの歩みのぴったり合っていることが、自分の考えの裏付けになるような気がした、(おれがいまなし得る唯一のことは、冷静に事を分類する理性を最後まで保ちつづけることだ。おれはいつでも二十本もの手でこの世にとびこんでいこうとした、しかもそれも、とうてい是認できない目的のために。が、あれは間違いだった。一年間の訴訟によってさえ、おれはなにひとつ教えられなかったことを、いま人前に示せというのか? それとも物わかりのわるい人間のまま退場すべきだろうか? やつは訴訟の初めにはそれを終らせようと思っていたのに、いまその終りになってそれをふたたび始めようと思っている、などと人に陰口をきかせていいものだろうか? おれは人にそんなことを言われたくない。それにしてもこの道中、こんな半分唖の物のわからぬやつらを付添いにして、おれに言いたいことを勝手に言わせておいてくれたとは、有難いことだ)
そうこうするあいだに女は横丁にまがってしまっていたが、Kはもう彼女がいなくともよく、同行者に身を任せていた。三人全部がいまは完全な一体になって月明りの橋を渡った。Kがどんな小さな身動きをしても男たちはいまやよろこんで応じ、彼がちょっと欄干のほうへ向いたときはかれらもすっかりそっちに向き直った。月光の中にきらめきふるえている水は小さな島のまわりでわかれ、島の上には寄せ集められたように木々や灌木の葉が盛りあがっていた。それらの葉の下には、いまは見えないが、快適なベンチのある砂利道があって、Kは夏になるとよくそのベンチの上でながながとからだをのばしたものだった。
「立ち止るつもりはなかったんだ」と彼は同行者に言った。かれらがやすやすというなりになってくれたのが恥しい気がした。Kの背後で一人の男がもう一人にむかって、間違って立ち止ったことでちょっと非難したようだった。それからかれらはまた歩きだした。
登りになった道をいくつか抜けると、そこここに警官が立ったり歩いたりしていた。遠くのこともすぐ近くのこともあった。もじゃもじゃの口ひげをはやした一人がサーベルの柄に手をかけたまま、この疑わしくないとはいえぬ一行にわざと近寄ってきた。男たちが足をとめ警官が口を開きかかったとき、Kは力まかせにふたりを前にひっぱった。何度も彼は警官があとをつけてくるのではないかと用心ぶかくふり返って見た。自分たちと警官とのあいだに曲り角一つはさんだとき、Kがいきなり走り始めたので、男たちも息を切らして走らねばならなかった。
こうしてかれらは大急ぎで町を出た。町はこの方面ではほとんど変り目がなくすぐ野原につづいていた。まだ町らしい趣きのある一軒の家の近くに、見捨てられ荒れはてた石切場があった。この場所が最初からかれらの目的地だったのか、それとも疲れきってそれ以上走れなくなったのか、男たちはそこで停止した。いまかれらは、黙って待ちうけているKをすっかり手離し、シルクハットをとり、ハンケチで額の汗を拭いながら、石切場の中をあちこち見まわしていた。いたるところに、他の光にはない自然さと静かさをもって月の光がふりそそいでいた。
次の仕事はどっちがやるべきかについて二、三慇懃なやりとりをかわしたのち――男たちは分担をきめずにこの任務を引受けてきたらしかった――一人がKに歩みより、上着、チョッキ、ついにはズボンまで剥ぎとってしまった。Kが思わず身ぶるいすると、その男は軽くなだめるように彼の背中を叩いた。それからそれらの物を、いますぐにではないがいずれまた必要になる物のように、念入りにとりまとめた。Kがじっとしていて冷たい夜気にさらされないように、男は彼の腕をとって少しそこここを歩きまわり、そのあいだにもう一人の男がどこか適当な場所はないかと石切場を探しまわっていた。それをついに見つけだすと彼は合図し、もう一人がKをそこにつれていった。採掘場の壁ぎわで、そこには切りだされた石がころがっていた。男たちはKを地面に坐らせ、石に凭れかからせ、頭を上向きにのせた。かれらが非常に苦心したにもかかわらず、またかれらの意のとおりにしようとKが努めたにもかかわらず、彼の姿勢は信じられぬぐらい無理なものだった。そこで一人の男がもう一人にむかって、Kを横たえる作業をしばらく自分一人に任せてくれとたのんだが、それでも事情はよくならなかった。ついにかれらはKをある状態に置いたが、それでさえこれまでなされた状態のうち一番いいものとは言えなかった。それから一人がフロックコートの前を開き、チョッキまわりを締めている帯にさした鞘から、長い薄い両刃の肉切包丁をひきぬくと、たかだかとかかげ、月の光に切れ味をたしかめた。ふたたびあのいやらしい慇懃なやりとりが始まり、一人がKの頭ごしに包丁を相棒に渡すかと思えば、相手はまたそれをKの頭ごしに戻した。Kにはいまやはっきりと、包丁が頭ごしに手から手へ行き来しているうちにそれを自分が掴んで、みずからわがからだをえぐるのが義務らしいとわかってきた。しかし彼はそうしないで、まだ自由な首をまわしてあたりを見回した。完全に期待にこたえて、役所からすべての仕事をのぞいてやるわけにはいかなかった。この最後の失態の責任は、それに必要な余力を彼に残しておかなかった者が負うべきだった。彼の視線がふと石切場に隣接する家の最上階に落ちた。明りがつくと、一つの窓の鎧扉が左右に開いて、遠くかつ高いのでぼんやりしているが、一人の男が窓からぐっと身をのりだし、さらに腕を外へつきだした。だれだろう? 友だちか? いい人間か? 事に関係している者か? 助けようという者か? ひとりだけなのか? それともみんないるのか? まだ助かる道があるのか? 忘れられていた異議があるのか? きっとあるに違いない。論理はゆるがしがたいとしても、論理とて生きようと欲する人間には逆らえまい。一度も見たことのない裁判官はいったいどこにいるのだ? おれがついに行きつけなかった上級裁判所はどこにあるのだ? 彼は両手をあげ、全部の指をひろげた。
しかしKの喉には一人の男の両手がおかれ、もう一人の男は包丁を彼の心臓に深く突き刺し、二度それをえぐった。かすんでゆく目でKはなお、男たちが彼のすぐ前で、頬と頬をよせ、最後の始末を見守っているのを見た。
「犬のようだ!」と彼は言った。恥辱だけが生き残るように思われた。(完)
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〔付録〕 未完の章
エルザの家へ
ある日Kが帰ろうとするまぎわに電話がかかってきて、ただちに裁判所事務局にくるよう求められた。相手は彼の不服従な態度のことで警告もした。あなたがした前代未聞の陳述――訊問なぞ無益だ、そんなものから何の結果も出ないし、出るはずもないと言ったり、もう出頭なぞしない、電話や文書での呼びだしには目もくれない、使いの者が来たらドアから放りだしてやると言ったり――こういうことはすべて記録にとってあり、すでにかなりあなたの立場を損なっている。なぜそんなに言うことをきかないのか? こちらは時間も費用も吝《おし》まずにあなたの厄介な事件を片付けようと骨折っているのがわからないのか? 勝手気ままに邪魔だてして、あなたにたいしてこれまでとらないできた強制措置をとらせたいというのか? 今日の呼び出しは最後の試みだぞ。あなたは何でもすきなようにするがいい、しかし上級裁判所は翻弄されて黙ってはいないことを銘記しておくのだな。
ところでその晩Kはエルザにこれから行くと告げてあったので、すでにこの理由からだけでも裁判所には行けなかった。これで裁判所に出頭しないことを申し開きできると思って彼はよろこんだが、むろん本気でこんな理由を持ちだす気はなかったし、仮にその晩ほかに約束が一つもなかったとしても、まず裁判所へは行かなかったろうと思った。ともあれ彼は自分には立派に理由があると意識しながら、もし行かなかったらどうなるのかと電話で訊いてみた。
「あなたを見つけだすのはたやすい」というのが答であった。
「そして自分から進んでこなかったというので罰せられるわけですか?」とKは訊いて、先方が言うであろう返事を予想してにやっとした。
「いや」というのが答だった。
「それはいい」とKは言った、「しかしそれだったら、今日の召喚に応じなければならぬどんな理由があるんです?」
「わざわざ裁判所の強制手段を自分にけしかけるようなことはしないものだ」と向うの声は次第に細くなりついには消えてしまった。
「けしかけなかったら、それこそ思慮がないといわれよう」と出てゆきながらKは考えた、「ともかくその強制手段とやらに一度お目にかかる必要がある」
ためらうことなく彼はエルザの家へ行くことにした。車の隅に心地よくよりかかって、両手を外套のポケットにつっこんだまま――外はすでに寒くなりだしていた――彼はにぎやかな大通りに目を走らせた。もし裁判所が本当に活動しているならこれで少なからぬ面倒をかけさせたことになる、と彼は一種の満足感をもって考えた。裁判所に行くとも行かぬとも、はっきりしたことは何も言わないでおいた。だから裁判官は待っているだろうし、もしかすると大勢の人間が待っているかもしれないが、おれが現れないので見物衆はさぞかしがっかりするだろうな。裁判所なぞに迷わせられないでおれは好きなところに行くのだ。ところでぼんやりしていて馭者に裁判所の番地を言ったりしなかったろうな、と彼は一瞬不安になって、大声でエルザの番地を叫んだ。馭者はうなずいた。さっきも別に違うことを言われたわけではなかったのだ。そうしてからKは次第に裁判所のことを忘れ、昔そうだったように、また銀行のことで頭がいっぱいになっていった。
母のもとへ
昼食のとき彼は突然、これから母を訪ねてみようと思いついた。いまはもう春もほとんど終りで、従ってこの前母に会ってから三年目になる。母はあのとき彼の誕生日には自分のところへ来るように頼み、彼もいろいろ障害はあったけれどもこの頼みに応じて、これからは誕生日は必ず彼女のそばですごすと約束さえしたのだったが、これですでに二度その約束を破ってしまったことになる。そのかわり今度は、誕生日はまだ二週間先のことだがそれまで待たないですぐに行こうと思った。いま行かねばならぬ特別な理由はないことはむろんわかっていた。それどころか、あの小さな町に商店を持っていてKが母に送る金を管理している従兄から二ヶ月に一度規則的にとどく報告によれば、状態はこれまでのどのときより安心できるものだった。母の視力はたしかに失われかけていたが、それはすでに何年も前から医者に言われて覚悟していたことだったけれどもその目以外の状態はずっとよくなっていて、老齢ゆえのさまざまな支障はひどくなるかわりにむしろ減少しており、少くとも苦痛を訴えることは少くなっていた。従兄の意見によればそれはここ数年彼女が――Kはこの前の訪問のときすでにその軽い徴候を認めて不愉快になったが――並はずれて信心[くなったことと関係があるとのことだった。以前はやっとの思いで足をひきずっていった母が、いまは日曜日に教会へいくときなぞ自分の腕にすがって実にしっかりと歩くと、従兄はある手紙の中で目に見えるように伝えてきていた。Kには従兄の言うことが充分信じられた。なぜならこの従兄はふだんは心配性で、報告にはいつもいいことより悪いことを誇張して書くほうだったからだ。
ともかく、事情は何であれKはいまは行くことに心を決めた。最近彼はほかのよくない傾向とともに一種の女々しさ――したいと思うとどんな願望にでもすぐ従ってしまう、ほとんど定見のない傾向だ――を自分に認めていたが、いまの場合はこの悪徳が少くともいい目的に役立つわけだった
考えをまとめるために彼は窓ぎわに行き、それからすぐ食事を下げさせて小使をグルーバッハ夫人のもとにやった。旅行に出る旨を告げさせ、旅行カバンにグルーバッハ夫人が必要と思うものをつめてもらって、持ってこさせるためだった。次に、留守のあいだにしてもらう二、三の用事をキューネ氏に頼んだが、キューネ氏がいまでは習慣になってしまった無作法さで、自分がしなければならぬことはよく知っている、黙って命令を聞いているのも儀式と思って我慢しているだけだというように、そっぽを向いて聞いていることさえ、いまはあまり腹も立たなかった。それから最後に頭取のところへ行った。母のもとへ行かねばならないので二日ほど休暇をいただきたいと彼が頼むと、頭取はむろんお母さんが病気なのかと訊いた。
「いいえ」とだけKは言ってそれ以上の説明をしなかった。
彼は両手をうしろ手に組んで部屋の真中に立っていた。額にしわをよせて考えこんでいた。もしかしたらおれは出発の準備を急ぎすぎたのではあるまいか? ここに残っているほうがよかったかな? 帰ってなにをしようというのだ? おれはたんなる感傷から帰ろうとしてるのではないのか? その感傷のためにここであるいは何か重大なことを、たとえば訴訟に手をつけるチャンスを見逃してしまうのではないか? 訴訟がすでに何週間も落着いているように見え、はっきりした通知がほとんど一つもとどかなくなったいまこそ、いつ何時《なんどき》それがやってくるかもしれぬというのに。そればかりでなく、いきなり出かけたら老母をびっくりさせることになるのではなかろうか? むろん自分には驚かすつもりなぞないが、いまでは自分の意に反してなんでも起こる有様だから、そのつもりがなくてもそうなってしまうかもしれないのだ。それに母が自分に会いたいと言ってきてるわけではなかった。以前は従兄の手紙にはきまって帰ってくれと母の切なる願いが繰返されていたのに、近ごろはそれもなくなっていた。だからいま行くのが母のためでないことは明らかだった。しかしもしなんらかの希望をもって自分から行くのだとしたら、おれは申し分のない馬鹿だし、帰ったらついには絶望してこの愚行のむくいを受けることだろう。
にもかかわらず彼は、これらすべての疑惑は自分で考えたものでなく、ほかの人間が彼に植えつけようとしたものだとでもいうように、はっきり目覚めたまま、行くという決心を変えないでいた。彼がそんな思いに耽っていたあいだ頭取は、偶然か、それともこのほうが実際らしいがKにたいする特別な思いやりからか、新聞の上にかがみこんでいて、いまようやく目を上げ、背を起こしてKに手をさしだし、それ以上何も訊ねないで、よいご旅行をと言った。
彼はそれからしばらく彼の部屋の中を行ったりきたりしながら小使を待っていた。Kの旅行の理由をきこうとして何度も頭取代理が入ってきたがほとんど口をきかないで追いはらってしまい、旅行カバンがようやくとどくと、すぐに、前もって用意させておいた車へ急いでおりていった。彼がすでに階段まできた最後の瞬間になって行員のクリッヒが、明らかにKの指示を仰ごうとするらしく、書きかけの手紙を手にして上のほうに現れた。Kはむろん手をふって断りの合図をしたが、のみこみの悪いこのブロンドの大頭はその合図を誤解して、紙をひらひらさせながら、命の危険さえあるような跳び方でKのあとを追っかけてきた。Kはそれにあまりにも腹が立ったので、クリッヒが中央階段で追いつくと手紙を手からひったくり、引き裂いた。そのあとKが車の中でふり返ると、クリッヒはまだ自分のした失策がのみこめないらしく、同じ場所につっ立ったまま、走りだした車を見送っていた。そのかたわらでは門番が帽子をとって深々とおじぎしていた。ではおれはまだ銀行の最高幹部のひとりなのだ、とKは思った、いくらおれが否定してみせても門番はそうじゃないということだろう。それに母はいくら違うと言ってもおれのことを銀行の頭取だと思いこんでいる、それもすでに何年も前からだ。ほかでいくらおれの声望が傷つけられても、母の頭の中ではおれの価値が下落することはないだろうな。ひょっとしたらいまの出来事はいい徴候だったかもしれないぞ、裁判所とのつながりさえある行員の手から手紙をひったくって、なんの挨拶もなしに引き破ってもおれの手が焼けただれもしないと、出発のまぎわに確信することができたとはな。
(ここから後は抹消されている)
……もちろん彼が一番したかったこと、クリッヒのあおい円い頬に二発ばかり音高くビンタをくらわせることを、Kはできたわけではなかった。とはいえそれは一方ではむろん非常にいいことだった。というのはKはクリッヒを憎んでいたからだ。クリッヒばかりでなく、ラーベンシュタイナーもカミナーも彼は憎んでいた。彼のつもりではずっと前からかれらを憎んでいたような気がしていた。ビュルストナーの部屋に現れたことがかれらに注意させた初めだったけれども、もっと前から憎んでいたような気がした。そして最近ではKはほとんどこの憎悪に苦しんでさえいた、というのは、それをどうしても晴らすことができないからだ。かれらに害を加えるのは非常にむずかしかった。三人ともそろいもそろって一番下っ端の行員、とるにも足りない行員で、年功序列以外に昇進のみこみがなく、それさえほかの者たちより遅い連中だったから、かれらの出世を邪魔するのはほとんど不可能だった。他人の手で加えられるどんな邪魔だても、クリッヒフ愚鈍、ラーベンシュタイナーの怠惰、カミナーのいやらしい這いつくばるような卑屈さほどには大きくないのだ。かれらにたいし企てうる唯一のことは免職させるよう仕むけることで、Kが頭取に二言三言口をきけば実現するのは容易だったろうが、それをするのはKにもはばかられた。Kの憎むものならなんでも陰に陽にひいきにする頭取代理がもしこの三人の味方をするなら、そのときはKもそうしたかもしれないが、奇妙なことに今度ばかりはこの頭取代理も例外の態度をとり、Kが望むことを彼も望んでいるのだった。
検事
長年の銀行勤めのあいだにずいぶんと人間智と世故の経験を積んだはずだが、それでもKには相変らず常連席の仲間が非常に尊重すべきものに思われたし、そういう仲間の一員であることが自分にとって大きな名誉であることを、彼は自分自身にたいしても否定しなかった。それはほとんど例外なく、裁判官、検事、弁護士などで構成されている仲間で、中に二、三人若い役人や弁護士見習も加えられていたが、かれらは末席に坐ったまま特別な質問が向けられたときにしか議論に口出しを許されなかった。しかもそういった質問はたいてい仲間を面白がらせる目的でしか発せられず、特にいつもKのとなりに坐るハステラー検事は、そんな仕方で若い人を赤面させるのが大好きな人だった。この男が大きな毛むくじゃらの手をテーブルの上にひろげて末席のほうに向き直ると、それだけでみんなが聞き耳をたてた。そして末席で質問を受けただれかが、そもそも質問の謎がわからなかったり、考えこんでビールを見つめていたり、口を利くかわりにただ顎をぱくつかせていたり、あるいは――これが最悪だったが――誤った考えやいい加減な意見を滔々とまくしたてたりすると、年輩の紳士たちはにやにやしながら椅子の上のからだをまわして、これでやっといい気分になったという顔を見せるのだった。本当にまじめで専門的な会話は自分たちだけのとっておきなのである。
Kがこの仲間にいれてもらったのは銀行の法律顧問をしているある弁護士を通じてだった。一時Kはこの弁護士と銀行で夜おそくまで長い打ち合わせをしなければならなかったことがあり、そのあとは自然にこの弁護士と彼の常連席で一緒に夕食をとることになり、この仲間と話すようになった。ここで彼が見かけたのは、学識も声望もある、ある意味では権力のある紳士方ばかりであって、かれらの楽しみは、ふつうの生活とはまったく関係のない難問を解こうとつとめ、それをへとへとになるまでやることだった。もちろんK自身はめったに口をはさむことはできなかったにしろ、それでもいずれ銀行で自分のためになるようなことをいろいろと知る可能性があったし、その上いつでも役に立つ個人的な関係を裁判所と結ぶことができた。しかもこのお仲間のほうでも彼をよろこんで迎えるふうであった。彼はじきに実業の専門家と認められ、この方面での彼の意見は――ただしそのさいぜんぜん皮肉なしというわけにはいかなかったが――反駁しえぬものとして通った。商法上の法律問題で意見の対立している二人が事実問題についてKの意見を求め、そのあとKの名前がその論議と反論のいたるところで繰返され、ついにはもうKにはついていけないようなきわめて抽象的な検討の中にまで引合いに出されといったことが、一再ならず起こった。そのうち次第に彼にもいろんな事情がわかってきたが、それというのも特に検事のハステラーがよい助言者として彼の肩を持ってくれたからであった。検事は彼と親しい近づきになった。Kを夜遅く家まで送ってくれたことさえなんどもあった。もっともKのほうでは、彼をその釣鐘マントの中に隠してもぜんぜん目立たないほどの大男と腕を組んで歩くことに、ながいあいだ慣れることはできなかったが。
時がたつうちにしかしふたりの仲は緊密になって、教養や職業や年齢の違いがすべて消えてしまうほどだった。ふたりは昔からの知り合いであったかのようにたがいに行き来し、その関係において外見上一方が優れているように見えることがあるとすれば、それはハステラーではなくてKだった。というのはKの実際的な経験は、裁判所の机の上では決して手に入らぬ直接に仕込んだものだったので、大抵はそれが物を言ったのだ。
この友情はむろんまもなく常連仲間にひろく知れわたり、だれがKをこの仲間にひきこんだかはなかば忘れられてしまって、いずれにしろいまKのうしろだてはハステラーだということになった。ここに坐っているKの資格が疑われたりするとき、彼は充分な権利をもってハステラーを引合いにだすことができた。そのことによってKは特別に有利な立場を手に入れることになった。ハステラーは声望もあったが怖れられてもいたからだ。法律問題を考えるさいの彼の力や抜目なさにはむろん驚くべきものがあったが、実はこの点では少くとも彼と同等ぐらいの人はたくさんいたのである。だがそのだれ一人として、彼が自説を防禦するさいの荒々しさで彼に匹敵する者はなかった。ハステラーは敵手を説得することができない場合でも少くとも相手を恐怖に陥れる、という印象をKはうけた。ともかく彼が人差指をつき出しただけで多くの者が尻ごみしたのだ。そういうとき相手は、自分がいま善良な知人や同僚の集まりにいることも、話はただ純理論的な問題に関ることだということも、実際には自分の身に何かが起こるわけではないことも、すべて忘れてしまうようで――すっかり黙りこんでしまい、いやいやと頭をふるにさえ勇気がいるふうだった。相手が遠く離れた席に坐っていて、ハステラーがこんな離れていては意見の一致なぞ望めないと考え、相手とじかに話すため食事の皿なぞ押しのけてゆっくりと立ち上るときなぞ、見ていてこわくなるような眺めだった。そんなとき近くにいる人びとは頭をのけぞらせて、彼の顔を眺めようとした。いうまでもなくそんなことは比較的稀にしか起こらない幕間劇であって、彼を興奮させるのはほとんど法律問題、それも主として彼自身が前に手がけたか現在手がけている訴訟に関する問題のときであった。そういう問題が話題にならぬかぎり彼は親切で落着いており、その笑いには愛想があり、ひたすら食うことと飲むことに情熱を傾けていた。ときにはみんなのおしゃべりなぞぜんぜん聞かずKのほうに向いたきり、腕をKの背凭れにかけて、低声で銀行のことをあれこれ訊ねたり、自分の仕事のことを話したり、裁判と同じくらい厄介をかける女出入りの話をしたりすることさえあった。仲間のだれとも彼がそんなふうに打ちとけて話すことはなかった。だから事実人びとはハステラーになにか頼みごとができると――たいていそれは同僚のだれかと仲直りしてやってくれというような話だった――まずKのところに来てとりなしを頼むほどで、Kもまたそれを気軽によろこんで引受けてやった。だいたいにおいて彼は、この点ではハステラーとの関係を悪用したりせず、だれにたいしても非常に礼儀正しく控え目であった。彼は、これは礼儀正しさや控え目よりはるかに重要なことだったが、紳士方の階級序列の違いを正しく区別し、だれにもその階級にふさわしく接するすべを心得ていたのだ。むろんこの点で何度でも繰返し彼に教えこんだのはハステラーであり、またそれこそが、いくら論争で興奮していてもハステラーが決しておかしたことのない、彼の唯一の基準であったのだ。だから彼は、まだ身分などを持っていない末席の若者たちにたいしては、まるで相手が個人でなく寄せあつめの集団ででもあるかのように、いつもごく一般的な呼び方しかしないのだった。ところが彼にたいし最大級の尊敬を払っているのがまたこれらの若紳士たちなのであって、十一時ごろ彼が立ち上って帰ろうとするとすぐその一人が立って重い外套を着るのを手伝い、別の一人はうやうやしく頭をさげてドアをあけ、むろんハステラーのあとからKが出てゆくまでそれを抑えている有様だった。
初めのうちはKがハステラーを、あるいはこちらがKを、半道ほど送ってゆくだけだったが、しまいにはこういった夜は、ハステラーがKに一緒に自分の家までこないかと誘い、しばらくそこで過すことで終るようになった。かれらはさらに一時間ほどブランデーと葉巻で時を過した。こういった晩がハステラーはよほど気に入っていたのか、二、三週間程ヘレーネという名の女を自宅に囲っていたときでもそれを断念しようとしなかった。これは黄色い肌と額のあたりに渦巻く黒い巻毛をもった太った年増女だった。Kは最初ベッドの中の彼女しか見たことがなかった。彼女はたいていそこに恥知らずな格好でねたまま安小説に読みふけっており、殿方の会話になぞ興味を示さなかった。夜が遅くなると初めて、伸びをしたり、欠伸をしたりし、それでも注意を自分にひきつけられないと小説の一冊をハステラーに投げつけたりした。そうなるとハステラーはにやにやしながら立ち上って、Kに別れを告げた。あとになってハステラーがヘレーネにあきがきだすと、むろん彼女は神経質に二人の邪魔をした。こんどは完全に身づくろいして殿方を待ちうけるようになったものの、着るのはいつもきまって同じ服で、彼女はどうやらそれを非常に高価で似合うと思いこんでいるらしかったが、実際は古くてけばけばしい舞踏服にすぎず、とくに不快感を与えるのは、飾りにつけてあるその幾列ものびらびらしたふさであった。もっともKはこの服のくわしい様子は知らなかった。彼はいわばそれを見ることを拒んで、何時間でもなかば目を俯せて坐りこんでいたからだ。すると彼女のほうは腰をゆすりながら部屋を端から端まで歩いたり、Kのそばに坐ったり、彼女の立場がいよいよ危うくなると、しまいには苦しまぎれにKに気に入られてハステラーにやきもちをやかせようとさえした。机ごしに太って丸みのある剥きだしの背中をみせたり、顔をKに近づけてむりやり目を上げさせようとしたりするのは、悪意ではなくて苦しさからだった。そうやって彼女が手に入れたのは、次のときKがハステラーの家にゆくのを断ったことだけだったが、しばらくのちそれでもまた訪れてみると、ヘレーネはついに追い出されてしまっていた。Kはそれを当然なことと受取った。その晩二人はとくに長いこと一緒に過し、ハステラーの発議で友情を祝し、Kは帰り道には煙草と酒のためにほとんどぼうとなっていたくらいであった。
ちょうどその翌朝、銀行で頭取は商売上の話をしているうちふと、昨晩Kを見かけたように思うと言った。わたしの思い違いでなければあなたは検事のハステラーと腕を組んで歩いていはしなかったか。頭取はこのことをよほど奇異なことに感じているらしく、――それはそれとしていつもの彼の几帳面さにふさわしかったが――ある教会の名をあげ、その横手の噴水のそばで二人に出会ったと言った。蜃気楼を見たと言うようなものかもしれないが、ともかく見たことは見たのだ、と。そこでKは、検事は自分の友人であって、昨晩は本当にその教会のそばを通ったと説明した。頭取はびっくりして口を開け、Kにそばに坐るようすすめた。Kがこの頭取を愛していたのはまさにこれあるがためだった。これこそ、この弱々しくて病身で喘息もちの、責任の重い仕事で押し潰されそうになった人物の中から、Kの幸福と未来についての憂慮がちらっと現われる瞬間であった。もっとも、頭取のもとで同じような経験をしたほかの行員の言い方をかりれば、それは冷たくて外面的なものといえる憂慮の仕方だったかもしれず、わずか二分ほど犠牲にするだけで有能な行員の心を何年もつなぎとめておけるなら、それはまさにうまい手段以外の何物でもないだろうが――他人はどうであれ、そういう瞬間Kは頭取にまいってしまうのだった。もしかすると頭取のほうでもKにはほかの者たちとは少し違った口の利き方をするのかもしれなかった。というのは、そんなふうにしてKと対等に話すために上に立つ自分の地位を忘れたようなふりはしないで――これはむしろふだん職務上の話をしているときに彼のよくすることだった――いまの場合彼は逆にKの地位をこそ忘れてしまったらしく、まるで子供とでも話すように、あるいは、初めてなんらかの地位を得ようとしていてなにかわからない理由から頭取の好意をうることになった経験乏しい若者とでも話すように、Kと話したのだ。こんな物の言い方は、本来なら、相手がほかのだれかであれ頭取であれ、Kには我慢ならないはずだった。だがいま頭取の心配ぶりはいかにも本当らしく見えたし、彼は、まさにこういう瞬間に自分にたいして示されたこの心遣いの真実らしさにすっかり心を奪われてしまったのだった。Kはそこに自分の弱点を認めた。もしかするとそれは、こういった方面では彼の中にまだ本当に何か子供っぽいものが残っていることに、その原因があるのかもしれなかった。父親が非常に若く死んでしまったので、実の父の心配を彼は一度も知らなかった。まもなく家をとび出してしまい、実の母の愛情は――母はいまなかば盲目になってまだあの変らぬ小都市に暮しており、彼は二年前に訪れたきり会っていなかった――彼はおびき出そうとするよりむしろ斥《しりぞ》けようとしてきたのだった。
「そういう友人関係だとはぜんぜん知らなかった」と頭取は言った。この言葉のきびしさを和らげているのは、その弱々しい親しげな微笑だけだった。
その建物
初めははっきりそのつもりがあってしたわけではなかったが、Kはさまざまな機会に、自分の事件について最初の告発を行った役所がどこにあるか聞きだそうとつとめてきた。知るのはさしてむずかしくなかった。ティトレリもヴォルファールトも訊かれるとすぐその建物のくわしい所番地を教えた。そのあとでティトレリは薄笑いをうかべてその情報を補い――自分に鑑定を任されていない秘密の計画にたいしては彼はいつもそんな薄笑いをうかべるのがつねだった――こんなことを言った。こんな役所は実はぜんぜん意味がないのです、あれはただ言えと命じられたことを口に出して言うだけです、大きな検察局のなかの一番外側の機関にすぎず、検察局そのものには被告はむろん近づきようもない。だから検察局になにか言いたいことがある場合には――むろんそういう願望はたくさんあるわけです、ただしそれを口にするのは必ずしも利口なことではありませんがね――言うまでもなくいま言った一番下っ端の役所にゆくしかないんですが、そんなことをしても自分でその本当の検察局まで入りこむことはもちろん、願望をそこまでとどかせることもできはしません。
Kはすでに画家の人柄を知っていたので、反駁もせずそれ以上訊ねることもせず、黙ってうなずき、言われたことだけを頭に入れた。最近よくそういうことがあったが、煩わしさにかけてはティトレリは充分に弁護士の代りをするように思われた。ふたりの違いはただ、Kがティトレリには任せっきりになっていないこと、だから好きなときに事情なぞかまわずふり捨ててしまえること、さらにティトレリはいまは以前ほどではないにしてもおそろしく話好き、いやまさに冗舌であること、それから最後にKが彼のほうでもティトレリを苦しめることができること、ぐらいのものであった。
彼はこの件でも相手を苦しめてやった。何度もその家のことをもちだしてはそのたびに、自分はティトレリにたいし実はあることを隠している、自分はもうあの役所といろいろとつながりをつけたのだがまだそれはたしかなところまではいっていないので、危険だからそれを口外するわけにはいかないのだ、という口調で話し、ティトレリがもっとくわしく訊かせてくれとせがむと、Kは突然話を変えてながいこともうその話には戻らなかった。Kはそういった小さな成果によろこびを感じていた。そんなとき彼は、いまではおれは裁判所周辺のこの連中のことを前よりずっとよく知っている、いまならやつらと戯れることだってできそうだし、ほとんどみずからやつらの仲間入りをしてるといっていいくらいだ、かれらがいくらかでも事態を見通せるのはかれらが裁判所の階段の第一段に立っているからで、少くとも目下のところおれもその程度の眺望は持っているわけだ、と思いこんでいた。もしおれがこの階段の一番下の立場さえ失うことになったら一体どうなるだろう? だがそうなってもまだ救済の見込みはあり、そのときはこの連中の列の中にもぐりこみさえすればいいのだ。身分の低さその他の理由からしてかれらにおれの訴訟を助ける力がないとしても、それでもおれを受け入れかくまうことはできるだろう。そう、おれがすべてをよく考えてこっそり実行するなら、そんな仕方でおれのためになることを拒むことはできないはずだ。とくにティトレリはそうだ、おれはやつの親しい知人およびパトロンにいまはなっているのだから、と。
毎日が毎日Kはそんなふうな希望を養って過していたわけではなかった。全体としては彼はまだ物事を正しく見究める力があり、なんらかの困難を見過したりとびこえたりしないよう注意していたのだ。ただときおり――たいていは仕事のすんだ夕方の疲労困憊の状態のときだった――彼はその日起こった出来事のうちどんなつまらない、しかもどうとでもとれることの中からでも慰めを見出そうとしていたのだ。ふつうそんなとき彼は事務室の長椅子の上に横になって――そうやって小一時間ほど長椅子に横にならずには事務室を出てゆくことができなかった――頭の中で観察に観察を重ねていた。観察は裁判所と関係のある人びとに限られなかった。こうやって半睡の状態でいるとすべての人がまじりあってしまい、彼は裁判所が大きな仕事をしていることさえ忘れてしまった。自分一人が被告のような気がして、ほかの者はみな役人か法律家かのような顔で入り乱れて裁判所の廊下を歩いていた。もっとも頭の悪い連中でさえ顎を胸に沈めて、唇をそりかえらせ、目を据えてじっと責任の重い考えに耽っているような顔をしていた。そういうときはいつでも、まとまったグループとしてグルーバッハ夫人の間借人たちが現れ、かれらはまるで苦情の合唱隊のように、口を開け頭と頭をよせあっていた。Kはしばらく前から下宿の出来事にはぜんぜん気を使わなくなっていたので、かれらの中には知らない顔も多かった。知らない者が多いのでこのグループと親しく付合うのは不愉快だったが、その中にビュルストナーを探そうとするため、Kはときおりそうしないわけにいかなかった。そこで例えば彼が大急ぎにそのグループに目を走らせると、突然二つのまったく見知らぬ目が彼にむかって輝きだし、彼をひきとめた。そうなるともうビュルストナーは見つからないが、そのあと、どんな間違いも避けようとしてもう一度探すと、ちょうどグループの真中へんに、両側に立つ二人の男に腕をあずけて彼女がいた。それを見ても彼はほとんど何の印象もうけなかった。というのもそれはなんら新しい眺めでなく、いつか彼がビュルストナーの部屋で見た海水浴場の写真が、いつまでも消えない思い出として残っているにすぎなかったからだ。ともあれそれを見たことでKの気持はそのグループから離れた。彼はその後も何度もここに舞い戻ってくることになったけれども、それでも気持は大股に裁判所の建物の中を縦横に急ぎ歩いていた。いつでも部屋の中の様子が実によくわかっていた。いままで見たこともない秘密の通路が、まるで昔からの自分の住居のようになじみに見えた。こまかな細部がなんどでも痛いほどの明らかさで脳に印象づけられた。例えば控えの間を歩きまわっている一人の外国人――彼は闘牛士に似た服を着て、その胴着はナイフで切ったように鋭い切りこみがついていた、ひどく短い固くからだを包んでいる上着は、黄色っぽい、粗太のレースでできていた――この男が、一瞬も休みなく歩くのをやめないで、絶えまなくKの驚きを誘った。からだをかがめてKはその男に近づき、驚きのあまり大きく目を見ひらいて男を見つめた。レースのすべての模様、欠け目の多い総《ふさ》のすべて、上着のすべての曲線を彼は知ってしまって、それでもなお見倦きることがなかった。あるいはむしろ彼はもうとうにそれを見倦きていた、あるいは、もっと正確に言えば、そんなものを見たいと思ったことは一度だってないのだが、それでも目が離せなかったのだ。
「外国はなんという仮装行列を見せてくれることだろう!」
と彼は考え、前よりもっと目を開けて見た。そして長椅子の上で寝返りをうち顔を革に押しつけるまで、彼はこの男のお供になっていた。
(ここから後は抹消されている)
そうやって彼は長いこと横になっているうち、ついに本当にのんびりしてしまった。むろん今でも物を考えてはいるが、暗闇の中であり何の邪魔もなかった。ティトレリのことを考えるのが一番好ましかった。ティトレリは肘掛椅子に坐ってKは彼の前に跪き、彼の腕をさすったりいろんなことをして彼のご機嫌をとった。ティトレリはKが何を求めているか知っているのだがそしらぬふりをしており、そのことで少し彼を苦しめた。しかしKのほうでも最後には万事うまくいくことを知っているのだ。というのもティトレリはきびしい責任感なぞない、容易にくどきおとせる軽率な人物だからで、裁判所がこんな人間と関りあっているのはまったくわけがわからなかった。だから、もしどこかに突破口があるとすれば、それはここだ、とKは思っていた。Kはティトレリの恥知らずな薄笑い――頭をあげて彼はあらぬ方を見てほほえんでいた――なぞには惑わされないで、なんどでも嘆願をつづけ、ついには両手でティトレリの頬をなぜることまでやった。特に努力してやったのではなく、ほとんどなげやりにそうしたのだ。彼はただ事をたのしみたいために引き延しているだけで、最後の成功については自信があった。裁判所をたぶらかすなんて、なんと簡単なんだろう! 自然の法則に従うようにティトレリはとうとうKのほうに身をかがめた。親しげにゆっくりと目を閉じたことは、彼が願いをかなえてやる気になったことを示していた。彼はKの手をしっかと握りしめた。Kは立ち上った。彼もむろんいくらかもったいぶった気はしていたが、ティトレリのほうはもはやもったいぶるのに我慢しきれず、Kを抱きかかえると、ひっさらうように駆けだした。たちまち二人は裁判所の建物につき、階段をいくつも越えたが、それは上りばかりでなく上ったり下りたりで、しかもそれが軽舟で水の上を行くようにまったく何の苦労もないのだった。そしてちょうどKが自分の脚を眺めて、こんな美しい動きの仕方はもはや彼のいままでの卑しい生活のものではないという結論に達した、ちょうどそのとき、彼のうなだれた頭の上で変化が起こった。それまでうしろから射していた光が向きを変え、突然まばゆく前からKにむけて流れだした。ティトレリはKにうなずいてみせ、向きを変えた。ふたたびKは裁判所の廊下にいた。しかしすべてが前より穏やかで単純になっていた。もうこまごまと細部が目に立つことはなかった。Kは一目ですべてをのみこみ、ティトレリから離れ、自分の道を歩きだした。Kは今日は新しい長い黒服を着ていたが、それが気持よくあたたかくずっしりしていた。彼は自分の身に何が起こったかを知っていた。しかしいまはあまりに幸福だったので自分でもまだそれを認めたくなかった。廊下の隅っこに――その一方の壁に大きな窓が開いていた――彼の以前の服がつみ重ねられていた、黒い上着、縞目のくっきりしたズボン、それらの上に袖のすりきれかけたシャツがのっていた。
頭取代理との戦い
ある朝Kは自分がいつもよりずっと元気で抵抗力があるように感じた。裁判所のことはほとんど考えなかった。たまたま裁判所のことを思いだしても、このまったく見通しのきかぬ大きな組織もそのどこかにある把手――それはむろん隠されていて、暗闇の中でしか掴まえられまいが――をとれば、容易にとらえ、ひきずり出し、粉砕してしまえそうな気がしてならなかった。そんな異常な状態にあったので、Kは頭取代理に自分の事務室へ来ないかと誘うことさえした。ずっと前からたまっている商売上の用件について一緒にご相談しましょうというのである。
ところでいつでもそんなとき頭取代理は、この数ヶ月でKと自分の関係は少しも変っていないという顔をして現れるのがつねだった。たえずKとせり合っていたひところ前と同じように落着きはらって入ってきて、落着きはらってKの説明を聞き、ときおり打ちとけた、まさに親しい仲といった意見をはさんで共感の意を示した。ひとつだけKの気持を乱したのは――別にわざとそうしているわけではなさそうだったが――頭取代理がけっして仕事の要点から気をそらさせられることなく、まさに人柄の底の底から仕事を受け入れる心構えでいることであった。一方Kのほうは、職務遂行のこの模範例を前にして考えはたちまち四方八方にとび散りはじめ、その仕事を自分からほとんど抵抗もなく頭取代理に委ねてしまう有様であった。あるときなぞ、頭取代理が突然立ち上って黙って彼の部屋にもどってゆき始めてやっとそれに気づく、といった失態さえ演じてしまったことさえあった。いったい何が起こったのかKにはわけがわからなかった。二人の話し合いにちゃんと決着がついたからかもしれなかったし、同様にまた頭取代理がいきなり話を打ち切ってしまったのかもしれなかった。だとしたらそれは、Kが知らぬまに彼の気を悪くしたのか、あるいはばかげたことをしゃべったのか、あるいは、Kが聞いてないかほかのことに気をとられていることが頭取代理には明らかになったためであろういや、それよりむしろ、Kがおかしな決定を下してしまったか、あるいは頭取代理がうまく彼をさそってそんな決定を下させておいて、その上で急にその決定を実行に移してKの不為をはかろうとしたのかもしれなかった。もっともその話はそれきりで二度とむし返されることなく、Kももう思いだそうとしなかったし、頭取代理も部屋に閉じこもったままで、さしあたりはそれ以上なんの目に見える結果も現れなかった。
ともあれしかしKはそんな出来事によって怯気づいたりしなかった。適当な機会さえあれば、またなにがしかでも力が残ってさえいれば、彼はすぐ頭取代理の部屋の入口に立って、むこうへ行くか相手をこっちへよぼうとしたがった。いまはもう、以前よくしたように、代理から逃げ隠れする時間はなかった。一挙に自分をあらゆる心配事から解放してくれてかつての頭取代理への関係がひとりでに回復されるような、速やかな決定的な成果を彼はたしかにもう期待していなかった。ただあとへひくわけにいかないことだけは、彼にもよくわかっていた。もしかすると事態は彼にそれを要求しているのかもしれなかったが、いま一歩でもあとへひけば、二度とふたたび前進できない危険があった。もうKは方がついた、などと頭取代理に思わせておいてなるものか。そんなふうに思ってのうのうと部屋に坐らせておくわけにいかない、やつを不安に陥れておかなければならない。できるかぎり何度でもやつに思い知らせてやらなければならないのだ、気をつけろ、まだKが生きているぞ、いまいかに危険がないように見えても、生きているものすべてと同じく彼もいつの日かまた新しい能力をひっさげて不意打ちしてくるかもしれんぞ、と。
むろん何度もKは自分に言いきかせた、こんなやり方では結局のところ自分の名誉のために戦っているだけではないか、これではなんら本当の利益をもたらすことはできないではないかと。おれがいくら弱点をさらけだして何度頭取代理に立ちむかっても、それはやつの優越感を強めるだけで、充分に観察するひまを与え、おりおりの情勢に従って的確な処置をとる可能性を与えるだけではないか、と。しかしそうとわかっていてもKは態度を変えることができなかった。自己欺瞞に陥っていた。何度でも彼は確信をもって、いまこそなんの不安もなく頭取代理と張りあえるぞと思いこんだ。どんな不幸な経験にあっても彼は利口にならなかった。すべてがいつもまったく一様に彼に不利な結果に終っているのに、十度試みて成らなければ十一度目にはうまくいくさと思いこんでいた。
そんなふうにして代理と会ったあと疲労困憊して、冷汗をかき、からっぽの頭で取り残されていると、自分を頭取代理にむかって駆りたてさせたものはいったい希望だったのか絶望だったのかさえわからなくなった。しかもその次に彼が頭取代理のドアに急ぐとき心中に抱いているのは、またしてもそれはむろんひとえにただ希望だけだったのだが。
(以下、≪ ≫の部分は抹消されている)
≪この朝は特にそんな希望をいだいてしかるべき理由があると感じていた。頭取代理はゆっくり入ってきて、額に手をあてたまま頭痛がすると訴えた。初めKはそれになにか答えようと思ったが考え直し、頭取代理の頭痛には少しもかまわないですぐ詳しい仕事の説明にとりかかった。するとしかし、頭痛といってもたいしたことがなかったのか、仕事への興味が当座はそれを追いはらったのか、頭取代理は話しているうちに額から手をとり去って、いつものとおり、返答を用意して問題にたちむかう模範生のように、即座に、ほとんど考えもしないで答を返した。Kは今朝こそ敵と遭遇しても何度でも撃退できるはずだったが、頭取代理の頭痛を考えると、それが相手の不利でなく利点でもあるような気がして、たえず気持を乱された。まったくなんとみごとに代理は頭痛に耐え克服していることだろう! ときおり彼はその理由は口にしないで黙ってほほえんでみせ、頭痛があってもそんなことで自分は思考力を妨げられはしないと、暗にそのことを自慢しているふうでさえあった。ふたりはまったく別の事柄について話しあっていたのだが、そこには同時に沈黙の対話といったものが生じていて、その沈黙の対話のなかで頭取代理はむろん頭痛のひどさを否定はしなかったものの、なんどでもまた、頭が痛いといっても別に危険はなく、従ってきみがいつも悩んでいるあの苦痛とは違うのだ、とそのことをほのめかしていた。そしていくらKがそれに反駁しようとしても、頭取代理が頭痛を片付けてしまうそのやり方自体が彼への反論になっていた。同時にしかしそのやり方はKにとってもいい実例を示していた。彼だって仕事に属さない悩みごとなぞすべて遮断してしまえるはずだった。いま必要なのはただ、従来よりもっと仕事に専念すること、銀行内に新しい制度を実現してその保持にかかりきりになること、顧客たちにたいする少しゆるんでしまった関係を訪問や出張によって固め直すこと、頭取にしげしげと報告書を提出して、彼から特別な命令を得ようと努めることであった。≫
今日もそんな具合だった。頭取代理はすぐ入ってきたがドアのそばに立ち止り、新しく身につけた習慣に従って鼻めがねを拭き、初めKを見、それからあまりKにばかり気をとられている様子を見せまいとして部屋全体をじっくり眺めやった。まるでこの機会を利用して自分の視力をためしているというようだった。Kはその視線に逆らって少し微笑さえしてみせ、お座りになりませんかと頭取代理にすすめた。彼自身は自分の肘掛椅子に腰をおろし椅子をできるだけ頭取代理のそばにずらすと、すぐ必要な書類を机からとり出して報告を始めた。頭取代理は最初ほとんど聞いていないように見えた。Kの事務机の表面は木彫りの低い飾り縁《ぶち》でかこまれていた。事務机全体が非常にすぐれた細工で、飾り縁もしっかりと木に嵌めこまれていた。ところがちょうどそのどこかにゆるんだ箇所を見つけたのか、頭取代理は故障箇所を直すためしきりに人差指で飾り縁をはがそうとしていた。それを見てKは報告を中断しようとしたが、頭取代理は話は全部正確に聞きかつ理解していると言って、そうさせなかった。しかしKがさしあたり一つも具体的な意見を彼から引きだすことができないでいるうちに、飾り縁に特別な処置が必要になったらしく、頭取代理はポケットナイフをとりだすと、梃子としてKの三角定規を使って飾り縁を持ちあげようとした。そうすればもっと深く押しこめると思ったのだろう。Kはこれなら頭取代理に必ずや特別な効果を与えるだろうと思って、あらかじめ報告の中にまったく新しい種類の提案を入れておいたが、いまちょうどその提案にさしかかったのでとうてい中止するわけにいかなかった。それほどにも彼は自分の話に夢中になっていた、というよりむしろ、近頃はますます稀になりつつある意識――自分はこの銀行においてまだ何かを意味しているはずであり、いま自分の考えていることはそれを正当化するだけの力があるはずだ、という意識に非常なよろこびを感じていたのだ。ひょっとしたら自分を弁護するこのやり方は、たんに銀行ばかりでなく訴訟においても最善のものかもしれなかった。話を急ぐあまりKには、口で言って頭取代理にその飾り縁の仕事をやめさせる余裕がなかった。ただ朗読しながら二度か三度空いたほうの手で、大丈夫だというように飾り縁の上をなでてみせただけだった。そうすることで彼は、自分でも正確にそうと意識していたわけではないが、飾り縁にはなんの故障もないし、仮に一つくらいあったとしても、いまは自分の話を聞いてくれるほうが大事で、修繕仕事などよりずっと礼儀にかなったことだ、と頭取代理に伝えようとしていたのだった。ところが頭取代理は、頭脳労働をする活溌な人によくありがちなことだが、この手仕事にすっかり夢中になってしまっていて、飾り縁の一部はいまたしかにひきあげられ、その小さな柱をどうやってまた元の穴に嵌めこむかという段階にさしかかっていた。これはいままでのどの段階よりもむずかしかった。とうとう頭取代理は立ち上らねばならなくなり、立ったまま両手の力でその飾り縁を机板に押しこもうとしはじめた。だがどんなに力をこめてもそれがうまくいきそうになかった。Kは書類を読みながら――ところで彼はその場の思いつきの話もずいぶんまじえていた――頭取代理が立ち上ったことさえぼんやりとしか見ていなかった。頭取代理のこの片手間仕事から完全に目を離したことは一度もなかったけれども、頭取代理の動きはどこかで自分の朗読とつながりがあるはずだと思っていた。だからそれにつれて彼も立ち上って、ある数字の下に指をあてながら頭取代理に一枚の書類をさしだした。頭取代理はしかしそのあいだに両手の圧力だけでは足りないと見てとったのか、決心するやいなや彼の全体重をかけて飾り縁にのしかかった。いまやむろん仕事はうまくいき、小さな柱はみなぎいと音をたてて穴にはまったが、急いだあまり一箇所で柱の一つが折れ、その上の華奢な桟がまっ二つになった。
「ろくでもない木だ」と頭取代理は腹をたてて言った。
断片
かれらが劇場から出たとき外は小雨が降っていた。Kはすでにその脚本とひどい上演とでぐったりしていた上に、叔父を自分のところにとめなければならぬと考えるとまったくうちのめされたような気分になっていた。今日こそはぜひF・B(*)と話そうと思っており、たぶん今からでも彼女と出会う機会は見つけられそうだったのだが、叔父が一緒ではそれも完全におじゃんだった。むろんまだ叔父が利用できる夜行列車はあった。しかしKの訴訟のことで頭がいっぱいの今日叔父をその気にならせることは、まずまったく見込みがなかった。にもかかわらずKはたいした希望もなく試みにこう言ってみた。
「叔父さん、近々のうちにどうしてもあなたの助けがいることになりそうなんです。どの方面でということはまだわかっていませんが、いずれにしろそういうことになりそうなんです」
「おまえはわたしをあてにしていい」と叔父は言った、「わたしはいつでも実際どうやったらおまえを助けることができるかとそればっかり考えているんだ」
「叔父さんは昔から変りませんね」とKは言った、「ただぼくは、近くまた町まで来てくださいとお願いするようなことになったら、叔母さんが気を悪くなさるんじゃないかと、それが心配なんですが」
「おまえの事件のほうが、そんな不愉快よりよっぽど重大だ」
「それには賛成できませんがね」とKは言った、「しかしどうあろうと、不必要にぼくはあなたを叔母さんから引き離したくありません。数日中にはまたあなたに来ていただくことになりそうなんですから、さしあたりいまはお帰りになりませんか?」
「あしたかい?」
「ええあしたにでも」とKは言った、「なんなら今晩これから夜行ででも。あれが一番楽ですからねえ」
* 『審判』の原稿でカフカは人名なぞも多く略記号で書いておいたらしい。ブロートがそれをフルネームに起こしたのだが、なぜここだけF・Bのまま残されているのか不明。F・Bはむろんフロイライン・ビュルストナーの略記号であろう。がカフカの小説中の人物の名は多く彼自身の名のアナグラムであるか、あるいは彼自身の名と同じ字数の語による言い換えである。ゲオルグ(『判決』)はフランツと同数の字母を持ち、グレーゴル・ザムザ(『変身』)、ヨーゼフ・K、いずれもそうだ。このF・Bも彼の心理では、当時彼が婚約中であったフェリーツェ・バウアーと重なっていた可能性が強い。
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あとがき マックス・ブロート
最初の版のあとがき
フランツ・カフカのすべての言動と同じように、作品とその出版にたいしてとった彼の態度にも独自で深いものがあった。彼がこういった事柄を扱うさいにいつも抱いていた、従って遺稿発表のさいにも基準となる諸問題は、いくら重視してもしすぎることはない。彼がその問題をいかに重視していたかをいくらかでも知るためには、次の事実が役に立つかもしれぬ。
すなわち、カフカがこれまでに公表したほとんど全部の作品は、どれもわたしが策略と説得によって彼からまきあげたものなのである。もっともこのことは、彼がその生涯の長い期間書くということに(むろん彼はいつでもそれを≪|引っ掻く《クリッツエルン》≫という言い方をしていたが)多大の幸福を感じていたことと矛盾しない。彼が小さな集会で、人をひきつけずにおかぬ熱意とどんな役者も及ばぬほどのいきいきしたリズムで自作を朗読するのを聞いたことがある者は、だれでも、作品の背後にある本物のとどめがたい創作欲と情熱とをじかに感じとったものであった。にもかかわらず彼が自作を否認するにいたったのには、その根底にまずある種の悲痛な体験があった。それが彼をして自己サボタージュへ、従ってまた自作へのニヒリズムへと導いたのである。が、それとはまた別に、彼が作品に(自分ではむろん口に出して言わなかったが)最高の宗教的基準をあてはめ、さまざまに思い悩んだすえ、当然のことながらそれが基準に合致しなかった、ということもある。彼の作品が信仰や自然や魂の完全な健康を求める多くの者にとって強力な助力者になりえたかもしれぬということは、彼にとっては何の意味も持たなかった。それにしては彼は、正しい道を求める上で自己にたいしあまりにも容赦なさすぎたし、また他人ではなくなによりもまず彼自身が忠告を必要としていたのだった。
自作にたいするカフカのこういったネガティヴな態度を、わたしとしてはそのように解釈する。彼はしばしば、「書いているあいだじゅう書き手にさしだされる偽りの手」という言い方をした。また、書いてしまったもの、ましてやその公表は、それ以後の仕事の妨げになる、とも言っていた。そんなわけで、彼の本が一冊現れるまでには克服すべき多くの抵抗があったのだ。とはいえ、出来上ってきた美しい本にたいし、またときにはその反響にたいし、彼がよろこびを感じなかったというのではない。彼が自分自身や自分の作品をいわば好意ある視線で、――まったくイロニーなしにではないが、しかし友愛のこもったイロニーの目で――眺めやる時もまたあったのである。そしてそういうイロニーの背後には、妥協なしに最高のものを求めねばやまぬおそろしいパトスが隠れているのであった。
フランツ・カフカの遺品中に遺書は見つからなかった。ただ机の中に、多くの他の書類にまじって、わたしあての、ペン書きの折り畳まれた紙片があった。紙片に書かれていたのは次のような言葉である。
愛するマックス、最後の頼みだ。ぼくの遺品中に(つまり、本箱、戸棚、自宅と事務所の机、その他どこでも何かがしまわれているところ、きみの気づいたところで)、日記、原稿、自他を問わず手紙、スケッチ、等々が見つかったら、残らず、読まずに焼いてしまってくれ。また、きみやほかの人が(彼らにはぼくの名できみから頼んでください)持っている手紙やスケッチも同様に焼いてくれたまえ。きみに渡したくないという人たちの持っている手紙は、少くとも彼ら自身の手で焼きすてる義務があると言ってやってください。
きみのフランツ・カフカ
さらにくわしく探すと、鉛筆書きの、色あせた、明らかにもっと古い紙片が見つかった。それにはこうある。
愛するマックス、今度はもう再起できないかもしれぬ。一月も肺の発熱がつづいたあとだから肺炎になるのはたぶん避けられまい。ぼくがそう書いたからといって(書くことにはある種の力があるとしても)それが来るのを避けるわけにいかないのだ。
それゆえ万一の場合に具えて、いままで書いたものに関しぼくの最後の意志を記す。
いままで書いたものすべてのうち、認めるのは次の本だけ。『判決』『火夫』『変身』『流刑地にて』『田舎医者』、それと物語『断食芸人』。(『観察』の二、三部くらい残っていてもかまわないが、それはわざわざ破棄する面倒をひとにかけさせたくないからのことで、一冊でも新たに印刷してもらいたくない)以上五冊と物語を認めると言ったって、決して増刷して将来に伝えたいということではないのだ。逆に、それらが全部なくなってしまうなら、それこそぼくの本来の願いにぴったりなのだ。ただぼくは、それらはすでに一度世に出てしまったものなのだから、保存しておきたいというひとがあればむりに邪魔はしないというにすぎない。
一方、それ以外でぼくの手になるものは全部(雑誌にのったものも、原稿も手紙も)、およそ手に入るかぎりは、また差出人に頼んで手に入るかぎりは一つの例外もなく、(大抵の差出人はきみの知るとおりだが、問題は××で、とくに××が持っている数冊のノートのことは決して忘れないでくれ)――これらすべては一つの例外なく、できうれば読まずに(きみがちょっと覗くくらいは拒まないが、それでもきみが読まないならそれにこしたことはない、いずれにしろきみ以外の者はだれひとり覗いてはいけない)――ともかく全部例外なしに焼却してくれたまえ。しかもできるかぎり早急にそうしてくれるよう頼む。 フランツ
このような断言的に命じられた方針があるにもかかわらず、わたしが友人から要求された焚書行為の実行を拒んだのは、むろんそれなりの理由あってのことである。
理由のうちの二、三は公的な論議に適しない。が、わたしの考えでは、公表しうるほうの理由だけでも、わたしの決断を理解してもらうに充分であろうと思う。
主たる理由はこうだ。一九二一年わたしが職を変えたとき、わたしはわが友人に言った、ぼくはこんど遺書をものしてね、その中できみに、これとあれは破棄し、他のものは見直してくれと頼んでおいたよ。するとカフカはそれにたいし机の中から例のペン書きの紙片をとりだしてみせ、中身は見せずに言った。「ぼくの遺言は実に簡単なものさ――全部焼いてくれ、ときみに頼んであるだけだもの」わたしはそのとき自分がした返事をまだ正確に覚えている。「きみが本気でそんなことを頼んでいるんだったら、ぼくはいまのうちに言っとくしかないね、そんな頼みには応じられん、と」このやりとりはいつものとおり冗談めかした口調で行われたのだったが、そこにひそかに真剣なものが含まれていることは暗黙のうちにたがいに察していたと思う。このときわたしのした拒否が本気であることを彼が知った以上、もしあとで彼のした指示が絶対的かつ真剣なものなら、フランツはわたし以外のだれかを遺言執行人に定めなければならなかったはずである。
彼には当然予想できたはずだから、わたしをこんな苦しい良心の格闘に陥れたことにたいし、わたしは彼をうらんでいる。なぜといって彼はよく知っていたのだから、わたしが彼のどの一つの言葉にも捧げた狂信的な尊敬の念を。一度たりともくもったことのないぼくらの二十二年間の交遊において、ただの一枚の紙片、彼がよこした一枚の絵葉書でも、わたしは捨てたことがない者であるのを。――だからいま言った「彼をうらんでいる」という言い方を誤解しないでもらいたい! 彼こそはつねにわたしの全精神生活の肺骨だったのであり、彼に負っている無限の幸福にくらべたら、これしきの良心の格闘の苦しさなんぞなんであろう!
さらにそれ以外の理由。鉛筆書きの紙片の命令はフランツ自身によっても守られなかったのである。なぜなら彼はあとではっきりと許可を与えたからだ、『観察』のいくつかの部分を某新聞に転載することを、またまたそのほかの三つの短篇が公表されることを。そして彼自身それらを『断食芸人』と一緒にディ・シュミーデ書店に渡したのである。さらに言えば、先の二つの指示は、わが友人の自己批判傾向が最高に達した時期に書かれたものなのである。しかし彼の晩年においては、彼の全存在は思いもかけなかった新しい幸福な肯定的な展開を行って、自己嫌悪とニヒリズムを消滅させたのであった。――さらに、遺稿を発表しようというわたしの決意をいくらかでも軽くしてくれるのは、カフカからどの一遍でも作品を発表させようとするときにせざるをえなかった、しばしば嘆願にさえなった、あれらすべての激戦の思い出である。そのように争ったにもかかわらず、彼は、結局あとになれば発表の事実と和解し、相対的に満足したのであった。――最後に、死後発表の場合には、たとえば、発表がそれ以後の仕事を誤まらせるとか、個人的なつらい時期の思い出をよびさますとか、そういった一連の動機が消滅するわけである。カフカにとって発表しないことがどれほどその生き方の問題(いかに限りない悲痛感を与えるにしろ、それはもはや妨げにはならぬ問題だ)と結びついていたかということは、彼との会話はみなそうだったがわたしあての次の手紙からもわかるであろう。
「……長篇小説は同封しない。過ぎた苦闘のあとなぞ見せて何になるんだ? ぼくがいままでに焼却してしまわなかったからという、ただそのためにかい? ……それならこんど行ったときにきっと焼いてしまうさ。ああいう芸術的に|さえ《ヽヽ》失敗している仕事をとっておく意味なんてどこにある? あるとしたら、いつかこの断片群から一つの全体が、苦境に陥ったときぼくがその胸を叩けるような上級裁判所が、組立てられるかもしれぬという希望の中にだ。ところがぼくはよく知っているのだよ、そんなことは不可能だと、あそこからは助けなぞくるわけがないと。だったらこういった代物《しろもの》をどうしたらいいか? この認識を前提とすればとうぜんそういうことになるが、ぼくを助けられぬものはぼくに害を加えないというのだろうか?」
とくに敏感な人びとの心にはいつでも、出版を禁じたくなるような気持が一部残っているものだし、それはわたしにもよくわかる。けれどもこの敏感さという甘い誘惑に抵抗することを、わたしは自分の義務だと思う。そのさい決定的な要素は、むろん今までに述べてきたことではなくて、ただひとつ、カフカの遺稿が実にすばらしい宝だという一事である。彼の他の作品とくらべても、ここに彼の書いた最良のものがあるのだ。わたしは正直に告白する、この文学的倫理的な価値という一事だけでも(たとえわたしがカフカの最後の指示にたいしいかなる反論ができなくとも)――わたしの決心を、いっさい反駁できぬほどの厳密さで、定めるに十分ではなかろうか。
ただ残念なことに、遺作の一部においてフランツ・カフカは彼自身が遺言執行人になってしまっていた。彼の部屋でわたしは大きな四つ折り版ノートを十冊発見したが――それには表紙しかなく、内容は完全に破棄されていた。さらに彼は(信頼するに足る報告によれば)そのほかにも原稿の束を何冊か焼き捨てていた。彼の部屋に見出されたのは、わずかに、原稿一束(宗教問題についての百篇ほどのアフォリスム)と、自伝的な試作(さしあたりまだ未公表)と、一群の未整理の書類(目下調査中)だけだった。この最後の書類の中にいくつか完成した、あるいは完成に近い物語が見出されはすまいか、とわたしは期待している。それ以外には、動物小説(未完)一篇と、スケッチブック一冊が手に入った。
遺作のうち一番貴重な部分は、従って、著者の憤懣から折りよく救いだされ、安全な場所に移されたいくつかの作品にあるわけである。それがこれら三つの長篇小説なのだ。すでに発表された短篇『火夫』はアメリカを舞台とする長篇小説の第一章であり、最終章も存在するので、どんな欠落もないはずである。この長篇は死者の女友達のところにある。他の二作――『城』と『審判』と――は、わたしが一九二〇年と一九二三年に自宅へ持って帰ったが、このことは今日でもわたしの大いなる慰めだ。フランツ・カフカはこれまで、ある程度当然のことながら、一個のスペシャリスト、つまり短篇の名手と見なされてきたが、これらの長篇によって初めてカフカの本領は大きな叙事的形式にあることがわかるであろう。
遺作中の大体四巻を構成するはずのこれらの作品によってのみ、しかしカフカの魔的な人柄の魅力が尽くされるものではない。さしあたり書簡集の出版は考えられていないが、それらの一つ一つも彼の文学作品と同じ自然さと強度を持っているのである。だからたとえ小さい範囲でも機を失せずに、この独自なる人間の表現として記憶に残っているものは何でもみな、集めるよう着手することになろう。ただ一例だけあげておくと、わたしはいま思い出して残念でならぬが、カフカの家にはもはや見つからぬどれほど多くの作品を、わが友人は朗読してきかせたか、少くとも部分的に朗読したり部分的にプランを話してきかせてくれたことか! どんなに忘れがたい、実に独創的な、実に深い考えを、彼はわたしに話してきかせたことだろう! わが記憶、わが力の及ぶかぎり、わたしはそれらの一つとて失わせたくない。
長篇小説『審判』Der Prozess の原稿は、わたしが一九二〇年六月に手に入れ、ただちに整理したものである。原稿には題名がついていなかった。が、会話のときカフカはいつもこの小説に『審判』という題を与えていた。章の区分、および各章の小見出しは、カフカの手になるものである。各章の配列に関しては、わたしは自分の感じをあてにした。が、この小説の大部分は友人の朗読によって聞いていたから、原稿を整理するさいわたしは心中それらの記憶をあてにすることができたのである。
フランツ・カフカはこの小説を未完だと見做していた。現存の最終章の前に、さらにふしぎな訴訟の二、三段落が描かれるはずであった。一方、作者が口頭で伝えた意図によれば、訴訟はついに最高審まではすすむことなく、従ってある意味では小説は未完のまま、つまり無限につづくものであった。ともかく、仕上っている最終章をふくめて完成している各章は非常に明瞭に作品の意味と内容を明らかにしているから、作者自身は作品をもっとつづけるつもりであった(彼がそれを中断したのは、違う生の雰囲気にうつったためである)と知らなかったら、欠落があるとはだれもほとんど気がつかないであろう。
当時この小説が持っていた厖大な紙束を前にして、わたしのしたことは、完成した章と未完の章とを区別することに限定された。未完の章は遺作集の最終巻用に残してあるが、それは筋の進行になんら本質的なものをふくんでいない。それら断片の一つは作者自身によって「夢」の題のもとに『田舎医者』の巻に収められている。完成している章ばかりがここに集められ配列された。未完のものでは一つだけ、明らかにほとんど完成しているものを、四行ほどちょっと置き換えることで第八章としてここに収めた。
言うまでもないがテキストにはなに一つ手を加えなかった。ただたくさんある省略記号は正しく書き直した(たとえばF・Bのかわりに「フロイライン・ビュルストナー」Tのかわりに「ティトレリ」というように)。またいくつかの小さな誤りを訂正した。これは明らかに作者が決定的な見直しをしなかったために原稿に残ったものである。
M・B
二番目の版のあとがき
ここにあるカフカの大きな小説断片の二度目の版は、いまや歴史的なものとなった最初の版とは違う意義をもち、違う法則のもとに立つものである。あの当時は、きわめてわがままでとっつきにくい、完成した全体をなしていない一つの文学世界を、ともかくまず開拓することが何よりも問題であった。そのため、断片性をきわだたせたり読解を困難にしそうなものはみな排除された。だが、この作品が年々現われ、ことに神学・心理学・文献学といった学問がこれに多大の感銘をうけている今日では、およそ可能なかぎり一つの批判的な、さまざまの読み方を可能にする版が作られる必要がある。
カフカ文献学の困難はなみなみならず大きい。というのは、カフカの言葉はただJ・P・へーベルないしクライストのドイツ語にのみ比肩しうるものであるけれども、その特別な、はかり知れない魅力は、彼の言葉遣いと抑揚がプラハ的要素と、さらに一般オーストリア的要素とまじりあっていることと切り離せないのである。そこでこの版では、句読法、正字法、文章論的構造などは一般のドイツ語用法に従わせるよう努めたが、それはただ訂正がこの作者の独特な言葉のメロディと一致すると思われるかぎりにおいてである。この処置の最後の決定基準は、従って、文法ではなくて、問題の章および段落を、その正しさが明らかになるまで、なんどでもくりかえし声をだして朗読してみることであった。
あるがままの姿での原稿は印刷に下すようにはなっていない、つまり作者による最終的検討をへていなかったと思われるから、彼の手で抹消された個所についても絶対に確実だとは言いきれない。いくつかの章句はあらたに読み返したあとでまた採用されたかもしれないのである。ただし、小説の文脈の点では作者の意図は全面的に尊重された。形式と内容を豊富ならしめるような部分は付録として採用され、最初の版ではあまりに断片的だとして排除されねばならなかった章によって補充された。
さらに最初の版と違って、多くの個所で、配語法ならびに同じ文章における同一語の度重なる使用も、原文を正確に踏襲した。作者が間違っていると確実にたしかめられぬところでは、原則的にすべてそうしてある。
最初の版の第八章は、四行ほどちょっと置きかえることで終っていた。本版ではそれが元のつながりに戻されているが、この章は、原稿におけるとおり、未完であると思われる。
M・B
三番目の版のあとがき
あらたに原稿を通読した結果、現在「第五章」と記されているエピソードをカフカが第二章として意図していたことは、ありえないわけではないと思った。カフカは各章に小見出しはつけていたが、番号はふっておかなかった。わたしは配列を、内容の具体的なつながりによると同時に、さらに、たとえば、ある章の最終語が、新しい章の始まる同じページにくりかえされているというような特徴にたよって行っている。これがもともとの形であったに違いないのだ。あとでカフカは個々の章をたがいに切り離したが、そのたびにいま述べた最終語を、省略の多い写し方で、またしばしば彼独特の速記法によって、章の終りにつけくわえている。そういった転写の部分は従って、少くとも、そんな特徴をもつおのおのの章が本来はつながっていたことを証明するものである。そのようなつながり方を作者の意図どおり存続させるか、それとも廃棄してしまうかは、永久に疑問として残るであろう。
テルアヴィヴ、一九四六年 M・B
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訳者解題
生前出版した短編集をのぞきそれ以外はすべて「例外なく、読まずに焼却のこと」というカフカの遺言にそむいてブロートが『審判』を発表するにいたった事情は、「最初の版のあとがき」にくわしい。われわれが今日カフカの三長篇を読むことができるのは、このときの彼の決断のおかげであり、マックス・ブロート(一八八四〜一九六八)にはいくら感謝してもしすぎることはない。さらに彼がその後、世界大恐慌、ナチのユダヤ人圧迫、亡命、第二次大戦と戦後の困難の中で、カフカの遺稿を守りつづけ、全集出版にまでこぎつけた努力には執念といっていいほどに驚くべきものがある。従って、彼の友情を讃えるためにも、また現在『審判』テキストが内包している問題を明らかにするためにも、その間の事情をざっと記しておく必要があるだろう。
まずブロートがしたことは、カフカの死後遺稿を集め整理し、熟考の末それを世に出すことであった。手許にある遺稿に『審判』の名をつけ、章分けし、彼が出版したのは、カフカが最後に短編集『断食芸人』(カフカはそれを見ないで死んだ)を出したベルリンのディ・シュミーデ書店からであった。一九二五年のことで、これが遺稿の最初の出版であり、「最初の版のあとがき」はこのときのものである。
当時まだカフカが地方的一小作家と見做されていた事情を念頭に置く必要があるかもしれない。読者の|受け《ヽヽ》を考えなければならなかったブロートは、小説が未完断片だという事実を隠し、完成したもののように装うことを強いられた。未完の章は排除され、表記その他に手入れもされた(「二番目の版のあとがき」参照)。すなわち『審判』は長篇断片としてでなく単に長篇として、しかもカフカ独特の語法への介入をもふくまぬではない、きれいにされた版で世に出たわけで、これがのちのちまで問題を残したのである。『城』と『アメリカ』も同書店からでるはずだったが、同社が行詰ったためこの二つはクルト・ヴォルフ書店から出た(前者は一九二六、後者は一九二七)。このヴォルフも一九三〇年世界大恐慌のあおりをうけて倒産したため、ブロートは計画をさらに、シュミーデとヴォルフの寄稿者を引受けていたG・キーペンホイヤー書店に持ちこまねばならなかった。が、これら寄稿者たちの多くがナチに睨まれていたのだろう、カフカの全集を出すという危険を引受けながら、同社は『シナの長城』(一九三一)一巻を出したのみで苦境に陥り、ブロートはまたまた新しい版元探しに追われることになった。
そのような難産のあと結ばれたのが、決定的なショッケンとのつながりである。ザルモン・ショッケンは一九三一年ベルリンに同名の書店を始め、三三年にはもうパレスチナに亡命しなければならなくなったが、書店の営業はほそぼそとつづけられ(第三帝国内でのユダヤ人作家の出版はまだ許されていたが、それはユダヤ人出版社からユダヤ人読者のためにのみというきびしい条件つきでだった)、ショッケンという大保護者を得てようやく全集出版のめどがついたのだった。が、六巻のうちベルリンから出たのは四巻(一九三四。短篇集一と長篇三)のみ、あと二巻は辛うじてプラハの別の書店から出された(一九三六、一九三七)こと、さらに一九三八年にはショッケンは全面的に営業活動を停止せねばならなかったことでも、当時の政治的な困難が察せられる。しかもそれはすべてユダヤ人読者のみという制限付き出版であり、第三帝国でカフカの一般大衆むけ出版のチャンスはなかったのである。
このとき全集第三巻として出た『審判』は、のち大冊のカフカ研究を書いたハインツ・ポリツァーの協力もあり、「未完の章」が、まだ本来それが考えられていた場所に戻されることはなかったものの、付録としてあとにつけられた。
ブロート自身もまもなく合衆国に亡命を余儀なくされ、ここではからずも彼と、ザルモンが再会したことが、それ以後のカフカの運命を大きく変えることになった。ザルモンが一九四五年ニューヨークに「ショッケン・ブックス」を設立したとき、カフカの作品はふたたび公けに世に出ることになった。五巻本の二度目の全集は、ほとんどベルリン版第一回全集の写真版だったが、第三帝国の全体主義支配、第二次大戦、戦後の混乱、スターリニズムの中で、カフカとその作品は時代を先取りしたものとして注目を浴びるにいたった。英仏米から始まった熱狂はやがて世界的な規模での「カフカ・ブーム」となる。売れないカフカ作品を抱いてあくまで全集出版を志したブロートの執念は、ここに初めて酬いられたわけである。
五〇年代のカフカ熱は大変なものであった(その波は一九五〇年前後に日本にも波及し、訳者らはそのとき初めてカフカを知った)。が、熱狂と同時に起こった多様な――精神分析的、神学的、哲学的、実存主義的――カフカ解釈と論争の渦の中で、初めて、かくも多様に解釈されるテキストの原型はいかにの疑問が生じてきたのである。一九五〇年、ニューヨーク・ショッケン版の版権をとった西独のS・フィッシャー書店から十一巻本全集が初めてドイツ語圏読者の前に現れ、これが現在にいたるカフカのテキストだが、それまでの出版の過程で生じた問題を決定的に解決しないままの妥協本であった。ここでもう一度『審判』に限ってだけ言えば、これは都合四回出版されてきている。
1 単行本『審判』。ベルリン、ディ・シュミーデ書店。一九二五。
2 第一回全集(六巻本)第三巻『審判』。ベルリン、ショッケン書店。一九三五。
3 第二回全集(五巻本)第三巻『審判』。ニューヨーク、ショッケン書店。一九四六。
4 第三回全集(十一巻本)第一巻『審判』。フランクフルト、S・フィッシャー書店。一九五〇。
問題は未完断片のまま残された原稿を、ブロートがあたかも完成した作品のごとき形で出版したことに由来し、それは、(一)各章の配列の仕方、(二)原稿にたいするブロートの手入れ、(三)「未完の章」「削除された章」の扱い、の三点で疑惑を呼び起こさずにいなかったのである。
攻撃の口火を切ったのは、ヘルダーリン全集のテキスト・クリティークで訓練したテュービンゲン大学教授F・バイスナーだった。彼は講演集『物語作者フランツ・カフカ』(一九五二。邦訳はせりか書房、一九七六)でブロートの手入れをはげしく批判し、「二番目の版のあとがき」でブロートが「句読法、正字法、文章論的構造などは一般のドイツ語用法に従わせるよう努めたが」と告白しているのをとらえて、彼はまさに「学校教師流の索漠たる正確さ」でカフカに手入れをしたのだろうと攻撃した。さらに具体的な実例をあげてブロートの編纂本のいかに信憑性に欠けるかを衝いたものであった。
これは「手入れ」に関するものだったが、翌五三年、ゲント大学教授H・オイテルスプロートによって『審判』の配列に関する重大な疑義が提出された(のち『カフカ作品の新配列? 「審判」と「アメリカ」の構造のために』一九五七)。彼は内容分析からして配列は、一、四、二、三、五、六、九、七、八、十、と改めるのが正しいと大胆な提案を行った。これは大きな反響を呼び、まずブロートが同じ年に反論して自説の正しさを再主張、バイスナーも『詩人カフカ』(一九五八。邦訳は『カフカ論集』国文社、一九七五)でオイテルスプロート説に批判を加えた。さらにG・カイザーが雑誌論文「カフカの『審判』」(一九五八)で批判し、英国のE・M・バトラー『ゲーテの「ヴェルテル」とカフカの「審判」における時間の要素』(一九五八)に、批判と、ブロートへの疑いが出た。
このようにして五〇年代後半の論争中に問題はもっぱらテキスト・クリティークに集中したのだが、結局遺稿所持者たるブロートは頑固に自説を改めぬまま、一九六八年彼が死んだのちもテキストはその形で残ったのである。『審判』その他の遺稿をわれわれが今日読むことができるのは、前記のように友人ブロートの執念ともいうべき努力のおかげであるが、彼はその偏狭なユダヤ教的カフカ観(『カフカ伝』一九三七プラハ、一九四六ニューヨーク、邦訳みすず書房、一九五五)と、自編テキストへの固執、さらにカフカ作品のただ一人の出版者たる権利を守りつづけたことによって、あとでは逆にカフカ文学への障害の如く見做される羽目に陥ったのは皮肉である。
けれども戦後三十五年、この間におけるカフカ文献学の進歩は著しいものがある。五〇年代に始まったブロートのテキストへの批判は、単に彼にたいしはげしい攻撃を行っただけでなく、一連の着実なテキスト・クリティーク作業となって実を結んでいった。K・ヴァーゲンバッハによる別版『短篇集』(一九六一)は注目に値する改善版であり、またM・パスリーによる三つの短篇の出版(ケンブリッジ、一九六六)もそうで、『流刑地にて』と『穴巣』の信頼しうる版となったのだった。その他いくつかの成果が着々と出現しつつあるのだが、新しい学問的なカフカ全集の出版が必要不可欠である事情は依然として変らない。現在、カフカの官庁文書をふくむ十二巻全集が、一九七四年創立の西ドイツのウッパータール大学のドイツ語系東欧文学研究機関で計画中と聞くが、そのいち早い出版が待たれるのである。
そのなかで『審判』だけはブロートの所有に属しどうしようもなかったのだが、彼の死後原稿のコピーを入手した研究者による詳細な検討が可能になった。H・ビンダーのくわしい『カフカ注解』(一九七六)二巻もその一つで、彼はいままで現れた諸家の説を検討し、コピー原稿の細密入念な検討と内容分析をへて、信頼するに足るおそろしく詳細なコメンタールを発表している。『審判』各章の成立年月日までが、入念な検証を背景に特定されるにいたっているのである。いまここにその推定理由を一々挙げることはできないが、カフカは次の順序によって『審判』を書いていったと推定されている。
M・Bによる章分け 各章執筆順序と章分け(推定成立年月日)
第一章 一 逮捕…一九一四・八月第二週
二 グルーバッハ夫人との会話/ついでフロイライン・ビュルストナーのこと…八月第三週
第二章 三 最初の審理…八月末〜九月初め
第五章 四 苔刑吏…八月二一日と二九日
第三章 五 人気のない法廷で/大学生/裁判所事務局…九月中旬
第四章 六 フロイライン・ビュルストナーの女友達…九月末
第六章 七 叔父…九月末〜十月初め
(「断片」)…ついで十月中旬
八 エルザの家へ…十月十七日〜二十一日
第七章 九 弁護士/工場主…十月中旬〜
十 ティトレリ…〜十一月中旬
十一 検事…十一月中旬
第八章 十二 商人ブロック/弁護士解約…十一月後半
十三 頭取代理との戦い…一九一五・一月前半
十四 その建物…一月前半
第九章 十五 大聖堂にて…一九一四・十二月前半
十六 母のもとへ…十二月七日〜十日
(「夢」)
第十章 十七 終り…一九一五・一月第二週
すなわち現在の十章は、未完として排除された部分をふくんで十七章に分割される。未完の章のうち「断片」は「七 叔父/レーニ」のあとに、また現在短篇集にふくまれている「夢」は「十六 母のもとへ」の次に入ると考えられる。ビンダーのこの研究は『審判』に関する最も新しい、信頼するに足る集大成的な成果だと言えよう。『審判』は元来未完断片のまま残されたのを、ブロートが完成したものの如く装ったところに、さまざまな問題が生じたのであったが、未完のままの原型、すなわちカフカが予定していた全体は以上の如きものだったのである。作品としてこのほうが現行本よりはるかに大きなふくらみを持っていたことがわかる。「十一 検事」によってKの上昇志向と、頭取の信頼なるものの危うさが、「十三 頭取代理との戦い」によって銀行内での生存の危機が、また「八 エルザの家へ」や「十六 母のもとへ」で彼の性向のある側面が描かれる予定だったことがよくわかり、ブロートはそれらをのぞくことで全体を痩せさせてしまったと言うしかない。「四 苔刑吏」をここに置くほうが自然でもあり、筋の流れからいって必然的であるのは言うまでもあるまい。ともかく読者はよろしくこの順序に従って全体を通読されよ。このほうがはるかに大きなふくらみを得ることを無理なく納得されるだろう。訳者としてはむろんこの順序で全体を再構成することを予定し、その順に訳していったのであったが、版元、ショッケン書店の頑固な拒否にあって、やむなく旧版のとおりにもどさざるをえなかったものである。
もしカフカが、その生前は発表したような彫琢された完璧な短篇集の作者のままであったら、彼は後世にとって一個の独自な地方的奇才というだけで終ったかもしれぬ。カフカの真の独創性は、彼がその同じ方法をもって『審判』や『城』のような、いわば世界の構造を暗示するような大きな世界を築いた点にある。写実主義とも心理主義とも違う独自の「魔的リアリズム」によって、こちらを管理下におこうとする組織・機構・制度のとらえがたいぶきみさと、個の終りなき戦いを、さらに到達するごとに先へひろがってゆく世界の未到達性を、諸関係の網の目の中にとらえられながら前進せずにいられぬ生の構造を、つまり人間存在の構造そのものを描く長篇小説を残したところにある。科学的因果関係の束縛を脱したこのようなふしぎなリアリズムは、従来の西欧ロマンにはなかったものであった。
カフカはさまざまな読解を許容し、ひと毎に違う読み方を求める。たとえば「八 弁護士/工場主」の章を読めば、ここでいう訴訟とは、だれもが見えぬ法廷から課せられていて果せぬ自己の生の正当化の問題と見え、そこでKが書く請願書とはまさに文学の営みそのものとも見える。「十五 大聖堂にて」の僧との謎めいたやりとりもそうである。そういう読み方が可能なのも、カフカの文学が生のアパランスではなくて生の姿そのものの構造化をめざしているからである。従って、そのようなものとして彼の長篇は本質的に非完結性を負っているのであり、「ある意味では小説は未完のまま、つまり無限につづくものであった」とブロートが言っているのは正しいのだ。この未完性は読者の各々がその自己と人生との関係において補わねばならぬ性質のものである。
なおカフカは前記の表に見るように、一九一四年八月第二週から翌一五年一月十七日にかけて『審判』を書いたのだが、その間の苦闘の様子は『日記』に見える。
さらに一九一七年一一月中旬、ツューラウ発ブロートあて手紙と、同年一二月末プラハ発の手紙に『審判』への言及がある。『日記』では一九一二年・一・二七の、自己の名とヨーゼフ・Kとのふしぎな暗号を記した記述が最終的なものである。
戦後の日本に洋書輸入が再開されたのは一九五〇年からであったが、そのときまだS・フィッシャー版は現れておらず、カフカという未知の作者に関心を持ち始めた者は、まず本を探すことから始めねばならなかった。当時、旧赤坂離宮(今の迎賓館)にあった国会図書館に、おそらく日本でただ一部、ショッケン版カフカ全集(ニューヨーク版)が置いてあって、それを借りだして読むのが唯一の機会であった。私事にわたるが訳者は、旧新潮社版『城』の共訳者萩原芳昭とともに会社をさぼってはそこへ通って読んだのが、カフカを読んだ最初である。また、浦和に住む上村清延教授が『審判』を持っておられると聞き、萩原とお訪ねしたこともあったが、氏が老人らしい甲高い声で書名を、「プロ|ツェッ《ヽヽヽ》ス」と|ツェ《ヽヽ》に強音をおいて発音され、すばらしい記憶力で内容を説明してくださったことを、今も懐しく思いだすのである。
フィッシャー版カフカ全集とともにいわゆる「カフカ・ブーム」が日本にも上陸したのは、翌一九五一年からであった。そのときからでもすでに三十年、すべて茫々の過去に属する。萩原は『城』の出版直前に行方不明になったまま消えた。当時二十代の青年だった訳者も今は目も根気も衰え、おそらくこれは私がカフカを訳す、というより翻訳そのものを行う最後の機会であろう。わが最初と最後の翻訳がカフカであったことに、私はふしぎな因縁を感じる。この最終的な翻訳は、従って、私の最初の共訳者であった萩原芳昭に捧げるのがふさわしいであろう。
芳昭の霊よ安かれ。
(一九八〇・九・二十三 中野孝次)
〔訳者略歴〕
中野孝次《なかのこうじ》 一九二五〜二〇〇四。作家。東京大学独文学科卒。日本文芸家協会理事、神奈川文学振興会理事長。著書に「清貧の思想」「ブリューゲルへの旅」など。