TITLE : 変身
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変 身
ある戦いの描写
解 説
フランツ・カフカ‐人と作品
「変身」について
「ある戦いの描写」について
あとがき
変 身
一
ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。固い甲殻の背中を下にして、仰《あお》向《む》けになっていて、ちょっとばかり頭をもたげると、まるくふくらんだ、褐《かつ》色《しよく》の、弓形の固い節で分け目をいれられた腹部が見えた。その腹の盛りあがったところに掛け蒲《ぶ》団《とん》がかろうじて引っかかっているのだが、いまにも滑《すべ》り落ちてしまいそうだ。昨日《きのう》までの足の太さにくらべると、いまは悲しくなるほど痩《や》せこけて、本数ばかり多くなった足が頼りなく目の前でひらひらしている。
いったい、自分の身の上に何事が起こったのか、と彼は考えてみた。夢ではなかった。人が住むにはすこし手《て》狭《ぜま》なかんじだが、きちんと整《せい》頓《とん》されている部屋は、なじみぶかい壁に四方を囲まれて静まりかえっている。別々に束《たば》ねられた毛織物類の商品見本がひろげてあるテーブルの上のほうには――ザムザはセールスマンだったのだ――最近、彼がある絵入り雑誌から切りとって、きれいな金色の額ぶちへはめこんだ絵がかかっている。それは婦人を描いた絵で、その女は毛皮の帽子をかぶり、毛皮の襟《えり》巻《ま》きをまいて正坐し、肘《ひじ》のへんまで包んでいる重たそうな毛皮のマフを、ちょうど絵を眺《なが》める人の目の前へ持ちあげていた。
グレゴールは目を窓へやった。窓のトタン板をうちつける雨だれの音がきこえている。もの悲しい天候が彼の気分をすっかりめいらせた。もういっとき眠りこんで、ばかげたことをみんな忘れてしまえたら、どんなにいいだろうなあ、と彼は考えた。だが、そんなことは望めそうにもなかった。彼は右側を下にして寝る習慣だったが、いまのような身の上になってはその姿勢をとることさえできないからだ。どんなに力をこめて右側へひっくりかえろうとしてみたところで、いつもからだが揺れるばかりで、またもとの仰《あお》向《む》けにもどってくる。目をつぶって、わざと悪《わる》あがきする足のほうを見ないようにして、おそらく百回も試してみた。とうとう脇《わき》腹《ばら》のあたりにそれまで感じたことのない、軽い鈍痛をおぼえだしたので、やっと彼はあきらめてやめた。
ああ、なんという骨の折れる職業を自分は選んだのだろう、と彼は考えた。明けても暮れても旅ばかりだ。商売上の苦労は、店舗でやるのとは比べものにならないほど大きい。そのうえ、汽車の連絡への心配とか、不規則でまずい食事とか、しょっちゅう相手がかわるだけで、どれもこれも永つづきしない、ほんのうわべばかりの人間づきあいとかいったような、出張販売にはつきものの辛労があるわけなのだ。そんなものはみんな悪魔にでもくれてやればいいんだ。なんだか腹の上のあたりが痒《かゆ》くなってきた。頭を十分にもたげてよく見ようと思って、仰向けのままベッドの柱のところまでからだをのろのろ動かしていった。痒い箇所は見つかった。小さな白い斑《はん》点《てん》ができているだけだが、それが何なのか彼には見当もつかない。足の一本でそこへさわってみようとしたが、触れた瞬間、冷たい戦《せん》慄《りつ》が身うちを走ったので、すぐさま足をひっこめた。
彼はまた元の姿勢へもどって仰向けに寝ころがった。あんまり早く起きてると、人間はばかになる、と考えたからだ。人間には睡眠が必要なのだ。実際、ほかのセールスマンときたら、まるでハレムの女たちのような暮らしをしているではないか。一例をあげると、こうだ。受けた註《ちゆう》文《もん》を書き写すために自分が午前の間に旅館へ引きかえしてみると、いまやっと紳士連中ときたら朝食のテーブルにすわりこんだところなのだ。ところで、そんな真《ま》似《ね》をお店で自分がやらかそうものなら、即刻、馘《くび》になってしまうだろうな。こんな仕事が自分に誂《あつら》え向きかどうか、他人様《さま》にわかってたまるもんか。もしも両親のことを考えて辛抱するのでなかったら、とっくの昔に暇をもらいたいと申し入れ、店主の前へまかり出て、心の底にわだかまっている思いのたけを洗いざらいぶちまけてやったことだろう。そうしたら、あいつはぎょうてんして事務机の上から落っこちるにちがいない。とにかく自分だけは一段高いところへすわりこんでいて、机の上から見おろして使用人と話をするというのは、いかにも奇妙な流儀ではないか。おまけに店主は耳が遠いときているから、使用人のほうはぐっと傍《そば》へ寄らねばならないのだ。ところで、そんな希望を自分が全然あきらめてしまうにはまだ早すぎる。両親があいつから借りた負債を払ってやれるだけの貯金さえできたら――それにはまだ五、六年かかるかもしれないが――是《ぜ》が非でも自分はやってみせるぞ。そうなると、たいしたもんだ。さてと、自分が乗る汽車は五時だから、そうだ、まず起きなくてはなるまい。
たんすの上でかちかち鳴っている目覚まし時計のほうを彼はふり仰いだ。しまった、と思った。もう六時半なのだ。針のやつがゆったり回っている。半をすぎて、もう四十五分に近い。目覚ましが鳴らなかったのだろうか。いや、四時のところへちゃんと掛けてあるのが、ベッドからでも見える。すると、たしかに鳴ったわけだ。いったい、あの家具を揺るがすような、喧《やかま》しい音を平気で眠ったまま聞きのがせることがあるだろうか。ところで、自分はたしかに安眠できなかったはずなんだが、すると、たぶん、その後でぐっすり眠りこんだのかな。だが、いまさしあたって自分はどうしたらいいのだろう。すぐ次の汽車は七時に出る。それに間に合おうと思ったら、気ちがいみたいなさわぎをやらかして急がねばならぬ。見本はまだ包んでなかったし、ご本《ほん》尊《ぞん》も活発に動きまわりたい気がちっとも起こらないというわけなのだ。たとえ汽車へかつかつ間に合ったとしても、店主の雷のような小《こ》言《ごと》は避けられそうにもない。商会の小使は五時の汽車で着くのを待っていて、もう自分が遅刻したことをちゃんと報告していたからだ。あの手合いときたら、それこそ背骨も脳《のう》味《み》噌《そ》も足りないくせに、店主のお気に入りなんだからな。病気といって報《し》らせておいたらどうだろう。そいつも不愉快なばっかりで、効果は眉《まゆ》唾《つば》ものだな。なにしろグレゴールはいままで五年間の勤務でただの一度も病気にかかったことがないのだ。たぶん、あの店主のことだから健康保険組合の医者をつれてのこのこやって来るかもしれないし、そのあげくには怠け者の息子のことで両親へ食ってかかり、いくら抗弁してやっても、いや、健康状態そのものには申し分なくて、仕事嫌《けん》悪《お》症《しよう》の人間があるだけだなんてぬかす保険医の言いぐさを盾《たて》にして、こちらにみなまでものを言わせないだろう。だが、こんな場合、非はまったく自分のほうにあるのかな。ところで実際は、長い間眠った後にしては不自然なほど残っている眠気は別として、グレゴールは気分がさっぱりして、はげしい空腹さえかんじているのだ。
なかなかベッドを離れる決心がつかないままに、これらのことの全部を大急ぎで考えていると、ちょうど、目覚まし時計が六時四十五分を打って、ベッドの頭のそばのドアを用心ぶかくノックする音がした。
「グレゴールや……」と、声がする。母親だった。「もう六時四十五分だよ。行くつもりじゃないのかね」
じつにやさしい声だ。それに返事をする自分の声を聞いて、グレゴールは自分でびっくりした。まぎれもなく自分のもとの声にはちがいなかったが、なんだか下のほうからひびいてくるようで、しかも抑《おさ》えることのできぬ、苦しそうな呻《うめ》き声のようなものがまざっていて、最初の瞬間には言葉がたしかに明《めい》瞭《りよう》に発音されたのだが、その後になると、相手方へ十分に聞こえようとどうしようと知ったことじゃない、といったふうに余《よ》韻《いん》ですっかり言葉がぼやけてしまっているのだ。グレゴールは詳しい返事をして、一部始終を告げてしまいたかったが、なんといってもこんなはめにおちいっているのだから、
「ええ、お母さん、すみません。もうちゃんと起きてますよ」
と、答えるだけで、いまは我慢した。
木製のドアが隔てていたから、グレゴールの声変わりもおそらく外では気づかなかったのだろう。彼の返事をきいたので母親は安心したらしく、足をひきずりながら立ち去った。だが、このちょっとした言葉のやりとりで、もう出かけたとばかり思っていたグレゴールがまだ家の中にぐずついていることが、ほかの家族たちにも知れわたった。はやくも父親が脇のドアを握りこぶしで軽く叩《たた》きだした。
「グレゴール……グレゴール」と、彼は声をかけた。「いったい、どうしたんだね」
父親はちょっと間をおいて、もう一度、さらに低めた声で返事をうながした。
「グレゴール!……グレゴール!」
妹のやつまで、別の脇のドアから小さい声で悲しそうに言った。
「グレゴールったら……ねえ、どこかお悪いんじゃないの。なんかご用事はありません?」
両方のドアへグレゴールは返事をした。
「もう仕度ができましたよ」
一生懸命に発音に注意し、ひとつびとつの言葉をゆっくり区切って言うようにして、自分の声の変調を気づかれないように努力した。父親は席へもどって朝食をつづけた。だが、妹のやつはまだ囁《ささや》いている。
「グレゴール、ここを開けてちょうだい。あたし、お願いするわ」
グレゴールは開けてやろうという気になるどころか、旅先の体験から身についた、夜間は全部のドアにちゃんと鍵《かぎ》をかけておく自分の用心のよさを賞賛してやりたくなったくらいだ。
まず彼はだれにもじゃまされずに悠々と起きあがって、衣服をつけ、なにより先に朝飯を食べたいと思った。その後のことはその時になって考えることにしよう。ベッドの中なんかでいくら頭をはたらかしたところで、上《じよう》分《ふん》別《べつ》など湧《わ》きそうもない気がしたからだ。たぶん、ぶざまな寝方のせいらしく何度も軽い痛みをかんじたのを思い出したが、さて、からだを起こしてみるとそれも単なる気の迷いのようだった。自分の現在の想念もだんだんに消えていくだろうと、彼は緊張した。声の変調は、セールスマンの職業病ともいえる、あのひどい風邪ひきの前触れにちがいあるまい、と思いこんで疑わなかった。
掛け蒲《ぶ》団《とん》をはねのけるのは造《ぞう》作《さ》なかった。からだをちょっと持ちあげるだけで、ひとりでに落っこちた。だが、それからが厄介である。特に彼のからだが法外に横にひろがっていたからだ。起きあがるためには両腕と両手をつかう必要があった。ところが、彼にはもうその手がなくなっていて、ばらばらに食いちがった運動をするばかりで、どうしても彼の意のままになりたがらぬ、たくさんな足があるだけなのだ。足の一本を曲げてみようと思ったのに、その足がまっさきに伸びてしまったりする。ともかくその足の助けを借りて、彼はやっと目的を達することができた。その間も、ほかの全部の足はまるで気ままに解放されたみたいに、むちゃくちゃに興奮して動きまわっていたものだ。
「さあ、ベッドのなかでぐずついていたって、もう役に立たんぞ」
そうグレゴールはつぶやいた。
まず彼は下半身をベッドの外へ乗り出してみようと思った。彼はまだ自分のからだの下半分を見ていなかったから、どんなかっこうをしているのやら見当もつかなかったのだが、さて、それを動かしてみる段になると骨が折れた。じつに動作がのろくさかった。とうとう彼は腹をたてて、無分別にも力いっぱい前のほうへからだを投げだした。ところが、方角の選び方がまずかったとみえて、ベッドの脚へしたたか打ちあたり、ひりひり灼《や》けつくような痛みをかんじた。この失敗で下半身の感覚がひじょうに敏感なことを教えこまれたわけだ。
今度はのこる上半身をベッドから下ろしにかかった。まず用心して頭をベッドの縁《ふち》までぐるっと回してみた。これは訳なかった。からだは横ひろがりで重かったのだが、転回する頭にくっついて胴体ものろのろと動いてまわった。だが、最後に頭を縁からぐっとさし出して宙にもたげてみると、それ以上こんな具《ぐ》合《あい》にして進むのが不安になった。もしそんな姿勢でベッドから落っこちたとしたら、頭に怪《け》我《が》をしないのが奇跡なくらいに思われたからだ。いまこそ慎重さを失ってはならぬ、絶対のはめにさしかかったわけである。まだまだベッドの上でぐずついているほうがましなような気もしだした。
しかし、彼がため息をつきながら同じような骨折りをくりかえして、やっと元の姿勢にもどってみると、今度は彼のたくさんな足がおそらく前よりもっと意地わるく、互いにいがみ合いをはじめる始末なので、こんな勝手気ままをやられていては、もう平和や、秩序をもたらせてやるなど自分には思いもよらないような気がしだした。これではとてもベッドの上で安《あん》閑《かん》としているわけにもいかないし、といって、このベッドから解放される見込みはありそうもないのだが、やっぱり、いっさいを犠牲にするつもりで当たってみるのが上分別というものだろう、と彼はまた自分へ言いきかせた。同時にまた、そんなすてばちな決心よりも、やはり冷静な分別にたよって行動したほうがずっと結果がいいのではあるまいか、と考えてみることを忘れなかった。ふと彼はその瞬間に鋭い目つきで窓のほうをちらっと眺めやったが、たとえ狭い通りの向こうをつつんでいる濃《こ》い朝霧なんか見たところで、べつに確信や快活な気分をつかみとれるはずもなかった。
「――もう七時なのか」と、ちょうど目覚まし時計があらたに鳴ったので、彼はひとりごとを言った。「七時になってもまだ、あんな濃《こ》い霧がかかってるのかな……」
しばらくの間、彼は弱い息をつきながら、この完全な静けさのなかから現実的な、はっきり自分で納《なつ》得《とく》のいくような状態がまた立ちもどってくるのを心待ちしているかのように、じっとからだを横たえていた。
そのあとで、また彼はひとりごとを言った。
「七時十五分になるまでには、ぜひベッドから起きださなくちゃならんぞ。あんまり、ぐずついてると、商会からだれかが様子をききにやって来るかもしれん。あの商会ときたら、七時前からもう店を開けてるんだからなあ」
そして、じょうずに平均をとって揺すぶりながら、からだ全体をベッドの外へほうり出してみようと考えた。この方法で落っこちるなら、落ちる間に急いで頭をあげさえすれば、大事な頭に怪《け》我《が》をしないですむ見こみがある。背中は、まあ、固いようだ。敷き物の上なんだから、このほうはなんの心配もあるまい。だが、もし落っこちた途《と》端《たん》に大きな音でもするとしたら、ドアの向こう側にいる連中はびっくりしないまでも、きっと心配しだすことだろうな、と考えながら彼はだいぶん躊《ちゆう》躇《ちよ》したものだ。しかし、いまは思いきってやらないわけにはいかない。
グレゴールがベッドの上でからだを半分がた起こしたときになって――とにかく、この新しい方法は骨折り仕事というよりも一種の遊びのようなものなのだ。彼は絶えずからだをぐいっぐいっと揺すぶりつづける必要があった――もしだれかが助太刀に来てくれさえしたら訳はないんだがなあ、という考えがちらっと心に浮かんだ。彼はまず腕力のつよい二人を思いうかべてみた。父親と女中だった。あの二人なら十分すぎるくらいだ。まず二人がかりで彼のまるくふくらんだ背中の下へ両腕をさしこんで、ベッドからもぎとるように持ちあげ、それから重荷をかかえたままでからだを屈《かが》めさえしたらいいわけなんだ。そのとき、自分が床の上で完全に寝がえりを打つ間、彼らがじっと用心ぶかく辛抱していてくれないと困る。たぶん、そこではじめてたくさんの足がおそらく意味をもつだろうというわけだ。だが、いったい、ドアに内側から鍵がかかっているのをそのままにしておきながら、だれか手伝いに来てくれなんて本当に声を出して呼んだものだろうかな。そんなふうに考えていくと、さしあたってせっぱつまった状態にあるくせに、ひとりでに微笑がうかんでくるのをどうにもできなかった。
彼はだんだん振り方を強めていって、もう自分でからだのバランスをとりにくいくらいになっていたから、いますぐに最後の決心をつけねばならない。あと五分で、七時十五分なのだ。すると、そのとき玄関口でベルが鳴りだした。
「とうとう、商会からだれかがおいでなすったかな」
そう彼はひとりごとを言ったが、からだがぞっと竦《すく》む思いがした。そのくせ、足だけはじたばた踊りだした。ちょっとの間、家の中は静まりかえっている。
「おや、だれも開けに行かないようだぞ」
そうグレゴールはまた呟《つぶや》き、はかない望みをかけながら待ってみた。やがて、いつものとおり女中がしっかりした足取りで出て行ってドアを開けた。グレゴールには来訪者の挨《あい》拶《さつ》の声をちょっと聞いただけで、だれであるかすぐわかった。支配人が自分で出向いて来たのだ。ほんのちょっぴり怠けても、おおげさな邪推の目ですぐ見られる、あんなけちくさい商会なんかで、グレゴールはなぜ働かねばならぬはめになったのだろう。勤め人なんて一人のこらず、ぼろ屑《くず》みたいな人間ばっかりなのだろうか。たとえ朝の間の二、三時間くらい商会のために活用できなかったとしても、じつは良心の呵《か》責《しやく》をおぼえて気ちがいみたいになりながら、しかも、どうしてもベッドから離れられなかったような、そんな正直で誠実な人間はやつらの中には一人もいないというわけなのか。自分の場合、もし問い合わせがどうしても必要なら、小僧さんをよこしたって間に合うじゃないか。なにも支配人自身がわざわざ来なくてもよさそうなもんだ。こんな疑わしい事態の調査は支配人の一存にゆだねられていることを、罪もない家族の全員の前でわざと見せびらかさなくてもいいじゃないか。まっとうな決心のあげくというよりも、こんなことを考えていた間にひきおこされた異常な興奮のために無我夢中になって、精いっぱい力をこめてグレゴールはベッドから跳び降りた。かなり大きな音がしたが、思っていたほどではなかった。落下の衝撃は敷き物のおかげでいくらか弱められた。それにグレゴールが予期した以上に背中には弾力があったから、なんでもない鈍い音がしただけだ。ただ十分な注意を忘れたばっかりに、かんじんな頭をつい床へ打ちつけてしまった。彼は憤《ふん》怒《ぬ》と苦痛のあまり頭をぐるぐる振りまわして、敷き物の上へこすりつけた。
「お部屋の中でなにか落っこちたようですな」
左隣の部屋で支配人がそう言っているのが聞こえた。
今日自分に起こった事件に類似したようなことが、あの支配人の身の上にも一ぺんくらい起こらないものかな、とグレゴールはふと空想してみた。起こりうるかもしれないという可能性だけは、だれも否定するわけにはいくまい。支配人は隣室で二、三歩荒っぽい足音をひびかせ、エナメル革の靴を鳴らした。それが、まあ、グレゴールの疑問にたいする不作法な返答のようなものだったわけだ。右隣の部屋から、妹がグレゴールへこっそり知らせようとして囁《ささや》きかけた。
「グレゴール、支配人さんが見えてるわよ」
「知ってるさ」
と、彼はひとりごとを言ったが、べつに妹の耳へ聞こえるほどの大きな声をだすつもりではなかった。
「グレゴール」と、今度は左側の部屋から父親が声をかけた。「支配人さんがお越しくださってな、おまえがどうして早い朝の汽車で出勤しなかったか、きいていらっしゃるぞ。どうご返事したもんか、わしらにゃわからんでな。それから、おまえと個人的の話をなさりたいそうじゃ。そんなわけなんだから、ドアを開けてくれんかね。部屋のなかが散らばってるくらい、大《おお》目《め》に見ていただけるだろうからな」
「やあ、ザムザ君、おはよう」
と、そのあいだに支配人が親しげに口をはさんだ。
「あの子はからだの具《ぐ》合《あい》がわるいんでございますよ」
父親がまだドアへ向かって話しかけている間に、母親がそう支配人へ言った。「きっと調子がよくないんですよ。支配人さん、信用してやってくださいますでしょうね。そんなことでなかったら、うちのグレゴールがなんで汽車に乗り遅れたりなんかしましょう。せがれの頭のなかは、それこそもう、お店のことでいっぱいなんでございますからね。あの子は夕方になっても外出しようとしないもんですから、わたしゃむかっ腹をたててやるんですよ。このたびは街《まち》のほうに一週間いてくれましたが、それも毎晩、家の中にばっかり引っこんでいるんですからね。わたしたちといっしょのときは、テーブルへ向かって新聞を黙って読んでいたり、そうかと思うと汽車の時間表をいろいろ研究したりしておりますんですよ。糸のこぎりの細《さい》工《く》ものに夢中になってるときは、けっこうそれがあの子の気晴らしになるらしいんですよ。たとえばですね、ほんの二晩か三晩で小さい額《がく》縁《ぶち》ぐらいちゃんと仕上げます。どんなきれいな額縁ができあがるか、あなたさんはびっくりなさいますでしょうよ。あの部屋の中へかけておりますから、グレゴールがドアを開けさえしたら、すぐごらんになれますでしょう。――支配人さん、あなたさんにお越しいただいて、わたしはもう喜んでいるんでございますよ。なにせ、わたしたちだけでは、どうしてもグレゴールにドアを開けさせることができませんでした。あの子にはとても強《ごう》情《じよう》っぱりなところがありましてね。いいえ、たしかにからだの具合が悪いんでございますよ。今朝がた、自分ではそうじゃないと言っておりましたけどね……」
「いますぐ、そちらへ行きます」
と、グレゴールは間のびした口調で用心しいしい口をきき、ドアの外の話をひとことも聞きもらすまいと思って身動きもしなかった。
「いや、奥さん……わたしも別なふうには解釈することができませんな」と、支配人が言いだした。「たぶん、まあ、なにもたいしたことではあるまいと思うんですがね。たとえ、別の意味でものを申したとしてもですな、つまり、われわれ商会に勤務しております者はですな、自分のつごうなんかよかろうと悪かろうと、いつでも商売上のことをまず第一と考えまして、ちょっとやそっとのからだの故障ぐらい物の数にもせんのが、われわれの建《たて》前《まえ》でしてな……」
「そんな訳なんだから、支配人さんがおまえの部屋へおはいりになっても、かまわんだろうな」
いらだたしげに父親はたずねて、もう一度ドアを叩《たた》きだした。
「はいって来てはいけません」
と、グレゴールはどなりかえした。
左隣の部屋は息ぐるしいような沈黙にみたされ、右側の部屋では妹がすすり泣きをはじめた。
なぜ妹のやつは皆のいるところへ行かなかったのだろう。さては、たったいまベッドから起きだしたばかりで、まだ着物も着かえていないんだな。だが、どうして妹のやつは泣きだしたんだろう。自分が起きあがらないで、支配人を中へ入れてやらないからかな。それとも、自分がいまにも地位を失いそうな危険にさらされているせいかな。いや、あの店主のやつがまたぞろ昔の貸し金の話を蒸しかえして、これから両親を責めたてるだろうというわけかな。いやはや、余計なとりこし苦労というもんだ。自分はちゃんとこの家にがんばっていて、家族の者を見棄てようなんて一度も考えてみたことがないんだ。……しばらく彼はそのまま敷き物の上に寝ころんでいた。もし彼の現在の状態を知ったら、だれが支配人を中へ入れてくれと正気で彼へ頼んだりできるものか。こんなちょっとした不作法を理由にして――また後になればうまい言い訳ができるだろうさ――すぐに自分を解《かい》雇《こ》したりできるもんか。いまのところはとやかくかまいつけないほうが、おきまりの泣き声や口《く》説《ぜつ》で彼を悩ますよりもずっと上分別というもんだ。だが、ほかの連中は事情の煮えきらなさに気をもんで、自分らのふるまいに落ち度はないと思ってるんだろうな……
「ザムザ君」と、とうとう支配人は声をはりあげて呼んだ。「いったい、これはどうした訳かね。君は自分の部屋を内側から封鎖して閉じこもって、ほんの『はい』とか『いいえ』くらいしか返事をしてくれない。君のご両親へよけいな大心配をかけているだけじゃなくて、これは話のついでだから言うんだがね、いままで前例のないようなやり口で、君は職務上の義務まで怠っていることになるんだよ。わたしはこれから君のご両親と、君のご主人の名において君と話をしたいと思うが、いま即刻、はっきりした説明をしてくれることをまじめにお願いしたい。いやはや、まったく驚いたね。わたしはこれでも君を落ちつきのある理性的な人間だと思いこんでいたんだからな。どうも君は、とつぜん常軌を逸した気まぐれを見せびらかす気になったらしいね。つい今朝がた、ご主人が、君の遅刻の原因についていちおう考えられる解釈をわたしに仄《ほの》めかしていられたがね。つまり、その君に委《まか》されたばかりの、現金回収の仕事になんか関係があるんじゃないか、というふうにね。そこで、わたしは、とんでもない、そんな解釈はザムザ君にあてはまりますまい、と本当にそう自分の名誉をかけて言明しておいたんだよ。しかしだね、いまここで君の理解に苦しむような強情ぶりを拝見していると、ほんのすこしでも君のために弁護してあげるのがばからしくなってくるね。いいですかね、君の地位は、全然、安全とは言えないんだよ。わたしも最初のうちは万事を内証に二人きりで話し合ってみるつもりだったんだがね、どうやら君はわたしに無駄な時間を浪費させているんだから、どうして君のご両親にそんな厭《いや》なことをお耳に入れなきゃならんか、もうわたしの知ったことじゃないよ。つまり、君のこのごろの勤務ぶりは、じつに不満足なものだった。そりゃ、いまがひじょうに儲《もう》かる季節じゃないことぐらい、われわれも認めないではないさ。しかしだね、ザムザ君、商売がなりたたぬような季節もないはずだよ。そんなものがあってたまるもんかね」
「ちょっと、支配人さん……」と、グレゴールはわれを忘れ、興奮のあまり夢中になって叫んだ。「――いますぐ、たったいま、開けますから。……からだの調子が変なんで、それから眩暈《めまい》がして、どうしても起きられなかったんです。いまもまだベッドへ寝てるんですよ。でも、すっかり元気になったようです。いまベッドから出たところです。ほんのもう少しご辛抱なさってください。いや、どうも思ったより加《か》減《げん》がわるいようです、もう好《よ》いはずだったのになあ……。だれへでもよく不意に襲いかかる病気なんでして……昨晩はなんともなかったのです。両親もよく知っているはずです。でも、昨晩、ちょっとわたしには予感がありました。だれか気がついていたかもしれませんがね。――ああ、どうしてわたしはお店のほうへお知らせしておかなかったんでしょうな。でも、この程度の病気ぐらいで家に閉じこもったりしなくても、征服できるだろうと思っていたんですがね。ところで、支配人さん、わたしの両親をいたわってやっていただきたいもんです。さっき、あなたがわたしへおっしゃった非難は、みんな根も葉もないことばっかりですよ。あんなことをいままで聞かされたこともありません。あなたは、たぶん、わたしが最近お送りした註文書をどれもまだ読んでいらっしゃらないんでしょうね。――さて、わたしは八時の汽車で出張しましょう。二、三時間の休息でどうやら元気になりました。支配人さん、どうか、悪くお思いにならないでください。わたしは自分ですぐにお店へまいりますが、そのことをご主人へもお伝えくださって、ひとつ、よろしくおとりなしを願えませんでしょうか」
何を言っているのやら自分でもろくろく知らないまま、グレゴールは早口にしゃべりちらしながら、ベッドの中でやっていた稽《けい》古《こ》どおりにまず箪《たん》笥《す》へ近づき、それを利用して立ち上がろうと試みた。彼は本当にドアを開けようと思っていたのだ。実際に自分の変わりはてた姿を人目にさらして、支配人と話をするつもりだった。あれほど部屋の中へはいりたがっている連中に、このかっこうをひと目でも見せてやったら、どんな口をきくものか、それを知りたくてたまらなかった。連中がびっくりぎょうてんして胆《きも》をつぶしたところで、それはもうグレゴールの責任ではあるまいし、かえって彼のほうは気が楽になるかもしれない。もし、万一、あの連中が冷静にふるまってくれるようなら、それこそ彼ひとりが興奮していた原因そのものが無くなってしまうわけだから、急ぎたいと思うなら八時に停車場へ実際にかけつけることだってできるだろう。箪笥の面がつるつるしていたので、彼は何度も滑り落ちたが、とうとう最後の一ふんばりでまっすぐに立ちあがれた。下腹のあたりが灼《や》けつくように痛んだが、いまはそう気にならなかった。今度はそばにある椅《い》子《す》の凭《よ》りかかりを目がけてとびかかり、小さな足をつかってその縁《ふち》へしっかり抱きついた。こんな具合にして自制することにまず成功したので、彼は息をのんで黙りこんだ。支配人のなにか言っている声が耳にはいったからだ。
「あなた方には、一言でも何をしゃべっているのか意味がわかりましたかね」と、支配人が両親へきいているのだった。「彼はわれわれを愚《ぐ》弄《ろう》しとるんじゃありませんかな」
母親が泣きながら声をはりあげた。
「ああ、後《ご》生《しよう》ですから……あの子はひどい病気なんですよ。そうなのに、わたしたちは、みんなして、あの子を苦しめているんです。――グレーテ、グレーテ!」
と、母親は最後にまた叫んだ。
「お母さん、どうなすったの」
そう妹がすぐ反対側の部屋から叫びかえした。
彼女らはグレゴールの部屋を中にはさんで、互いに言葉をかけ合っているわけだ。
「グレーテ、すぐお医者をよびに行って……グレゴールは病気なんだよ。大急ぎで、お医者を……グレゴールがいま何か言ったのをおまえも聞いただろうね」
母親の金《かな》切《き》り声にくらべて、奇妙なくらい低い声で、
「あれは、まるで、けだものの声だったな」
と、支配人が言ったものだ。
「アンナ……アンナ……」
そう父親は次の間ごしに台所のほうへ大声でよんで、手をたたいた。「――大急ぎで、錠《じよう》前《まえ》屋をよんで来ておくれ」
もう二人の娘たちはスカートをばたつかせて玄関の控え室へ駆け出している。――妹のやつはいつのまに手早く着《き》換《か》えてしまったのだろうなあ。……すぐさま二人は玄関のドアをぱっとはね開けた。閉めた音はしない。おおかた、開けっぱなしのままなんだろう。大きな不幸にみまわれた家では、えてしてそんなことがよくあるもんだ……
グレゴールはだいぶん気分がしずまってきた。もはや彼の言葉はほかの人間たちにすこしも理解されなくなってしまったのだ。自分ではむしろいまは前よりもいっそうはっきり言葉の意味がわかるようになった気がするのだが、おそらく耳が聞き慣《な》れたせいなんだろう。とにかく、これでグレゴールの現在の状態がまったく普通ではないことが明らかになったのだから、すぐに救助の手段を講じねばならぬことをだれひとり疑えなくなったわけだ。こんなふうに信頼と、確実さで、最初の指令があたえられたのは、やはり気持ちがいいことだった。もう一度、彼は自分が人間世界へ仲間入りをさせられた思いがして、医者と錠前屋の双方が――彼はこの両者をはっきり区別して考えなかったのだ――やがて目ざましくすばらしい手腕を発《はつ》揮《き》してくれるのを待ち望んでいた。そうして、さし迫っている運命を決定する話しあいの際に、自分の声をできるだけ明《めい》瞭《りよう》にさせておきたいと思って、しばらく咳《せき》ばらいをした。たぶん、その咳声も人間のそれとは違ってひびくような気がしたから、できるだけ音を和《やわ》らげるつもりで骨折ってみたのだが、さて、自分でそれを判定する自信はなかった。いつのまにか隣の部屋はひっそりと静まりかえっている。おそらく両親たちは支配人といっしょにテーブルに座を占めて、ひそひそ話でもやっているのだろう。それとも、みんなでドアへからだをすりよせて、聞き耳をたてている最中かもしれぬ。
グレゴールは肘《ひじ》掛《か》け椅《い》子《す》にすがってドアのほうへのろのろ移動していった。やがて、それからからだをひき離して、今度はドアめがけてとびつき、それにすがりついてまっすぐに立った。彼の小さな足の裏のふくらみはいくらかの粘着性をもっているのだ。そのままで緊張をゆるめて一息いれた。つぎに錠へさしこんであった鍵《かぎ》を口にくわえて回《まわ》してみようとした。ところが、悲しいかな、一本も歯のないことがわかってみると、何で鍵をつかんだらいいのか見当もつきかねる。あごがひどく頑丈なので、役に立ちそうな気がする。けっきょく、あごの助けを借りて鍵を動かすことはできたのだが、その際、どうやら傷をうけたらしいのに気がつく余裕さえなかった。茶色の液が口からながれ出て、鍵をつたわり、床の上へ点々としたたり落ちる。
「ちょっと……聞いてごらんなさい」と、隣室で支配人が言っている。「息子さんが、鍵をまわしている」
その声がグレゴールをたいそう元気づけた。
「グレゴール、元気を出せ。そら、こっちのほうへ! しっかり錠前をにぎるんだ!」
と、父親も母親も、みんなが声援してくれたっていいところだ。
自分が骨折って奮闘しているのをみんなの者も緊張して見守ってくれるのだと思うと、もう彼は精いっぱいの力をしぼって気が遠くなるくらいまであごで鍵へ咬《か》みついた。鍵がまわるにつれて、彼のからだのほうもその周囲を踊ってまわる。垂直の姿勢で口にくわえたかと思うと、今度は鍵にぶらさがって回転させ、次には全身の重みで上から圧《お》しつけるといった具合だ。ついに錠はぱちんと開いて、その歯ぎれのいい音がグレゴールの意識を目ざませた。
「どうだい、錠前屋なんか要《い》るもんか」
ほっと息をつきながら彼はそうつぶやき、今度はドアをすっかり開けるために頭の重みを把《とつ》手《て》の上へのせてみた。
こんな手数をいちいちかけて開けなくてはならなかったのだから、ようやく実際にドアがかなり広く開けひろげられた段になっても、かんじんのグレゴールの姿はまだ外からは見えなかった。彼はドアの羽目板をつたってのろのろ表のほうへ回りこまねばならないわけだ。入り口の手前へ不《ぶ》格《かつ》好《こう》な仰向きの姿勢でころがり落ちまいと思ったら、とにかく細心の注意が要る。そのひどく困難な動作に彼はすっかり心を奪われていたから、支配人が大きな声で「おお!」と唸《うな》る声を耳にしたときも、ほかのほうへ気をくばる余裕はまだなかった。その声は風のうなりのように耳もとでひびいた。そこで、やっとグレゴールは支配人のほうへ目を向けた。ドアのいちばんそばに立っていた支配人は、しまりなくぽかんと開けた口へ片手を押しあてて、なにか規則正しく作用しつづけている、目に見えない力に押しやられるような具合に、じりじりと後ずさりをはじめたところだ。支配人の面前もかまわず母親はまだ朝の手入れもせぬ、ばらばらにもつれた髪のままでつっ立っていたが、最初、両手を合わせて父親を眺《なが》めたかと思うと、いきなりグレゴールのほうへ二足ほど行きかけて、その場にへたへたとくずれ倒れた。ちょうど、自分のまわりにひろがったスカートのまんなかへからだが落ちこんだような格《かつ》好《こう》だった。その顔はがっくり胸のくぼみへ沈みこんで見えなかった。父親は、はじめはグレゴールを部屋の中へ突きもどさんばかりの勢いで、いかにも憎々しげな表情をして握りこぶしをこしらえたが、みんなが並んで立っている居間をぼんやり見まわし、それから両手で目をおおって逞《たくま》しい胸をふるわせながら泣きだした。
グレゴールは部屋の中へはいっていこうとはしないで、まだ内側から固く締《し》められている片一方のドアの羽目板にすがりついていたから、彼のからだは外から半分だけ見えていて、その上に連中のほうをうかがうために斜めに傾けた頭がのぞいている。そうこうしているあいだに周囲がだいぶん明るんできた。通りの向かい側にこちらと向き合って長々とつづいている、黒ずんだ灰色の建物――それは病院だった――の輪郭がはっきり見えだした。相接して規則正しくならんだ窓で、その建物の前面には穴があけられている。まだ雨は降りつづいていた。ひとつびとつが目に見えるほど大粒の雨が、一粒ずつ地上へ投げつけられているかんじで降っているのだ。テーブルの上に朝食の食器類が多すぎるほどのっかっている。というのは、父親には朝飯が一日のもっとも重要な食事だったわけだ。いく種類もの新聞に目を通しながら食べるのだから、いつも彼にはなん時間もかかった。真向かいの壁には軍隊時代のグレゴールの写真がかけてある。そのころ少尉で、片手を軍刀の柄《つか》にかけ、なんの苦労もなさそうに微笑をうかべていて、いかにも自分の態度と、軍服へ敬意を表してもらいたいといわぬばかりの写真である。玄関の控え室へつうじるドアが開けっぱなしになっていたので、玄関の戸が開いているのまで見え、さらに出入り口のところや、階段への降り口が見とおせた。
「ところで……」と、グレゴールは口をきりだしたが、いま冷静さを保っていられるのは自分ひとりだということを十分に意識した上のことだ。「わたしはすぐ着換えをして、商品見本を鞄《かばん》へつめこんで出発しますよ。出発さえしたら文句はないんでしょうな。さて、支配人さん、わたしが強《ごう》情《じよう》っぱりどころじゃなくて、たいそう仕事好きな人間であることがよくおわかりでしょうね。出張販売もなかなか難儀な仕事でしてね。だが、こいつをやらんことにゃ、生活できませんからな。おや、どちらへいらっしゃるんですか、支配人さん。お店へですか。そうなんでしょうね。ありのままを報告なさるつもりなんでしょうな。――ただいまのところは働く能力に欠けているが、しかし、いままでの仕事ぶりを思いおこしてみると、現在の障害がのぞかれ次第、かならずいっそう勤勉に、いっそう精神を集中して働けるに相違ない、といったふうに考慮し直してみるにはまさにかっこうな時機でしょうからね。あなたもよくご存知のように、わたしはご主人にはずいぶんお世話になっております。まあ、それはそれとしても、わたしは両親や妹のことが心配の種でしてね。いまは窮地にはまりこんでいるわけなんですが、なあに、きっとそこから脱け出してお目にかけますよ。ひとつ、わたしの立場を面倒なものになさらないでいただきたいものです。商会の中で、わたしの味方になってやってくださいませんか。わたしたち旅まわりの者は、ほかの店員にあんまり好かれてはおりませんからね。出張販売のやつらはいつも大金を儲けて、安楽な暮らしをしてるぐらいにしか思われておりません。こんな偏見を改め直すような特別なきっかけが、彼らになかなか見つからないのも無理はありませんがね。しかしですね、支配人さん、あなたは違います、ほかの連中なんかよりも商会の実状をずっとよく見通していらっしゃるはずです。――いや、ここだけのごく内《ない》緒《しよ》な話で申し上げるんですが、企業家という立場から、どうかすると従業員のひとりに不利益な裁決をなさりたがっているご主人よりも、あなたの方がもっと十分に大局を見通していらっしゃるんです。よくご存知でしょうが、わたしたち旅まわりの者はほとんど一年じゅう商会の外ですごしておりますから、とかく他人の陰《かげ》口《ぐち》や、不慮の事件や、根拠のない苦情などの犠牲になりがちなもんでしてね。しかも、そんなことをたいていは聞いて知る方法がありませんから、自分で自分の身の防ぎようがないというわけです。旅先でくたくたになってお店へかえり着いたとたんに、なんのことだかいっこうに原因のわからない、厭なさっぱりしない空気を自分の全身でかんじとって、ぞっとすることがあるんですよ。支配人さん、どうぞ、お出かけになる前に、わたしの意見のすくなくとも一部分は当《あ》たってることを、ひとことでもおっしゃってくださいませんか……」
だが、グレゴールが最初の言葉を言い出したとき、支配人はそっぽを向いてしまって、わずかに肩をすくめたまま唇《くちびる》をとがらせて、グレゴールのほうをふりかえって見ただけだった。とにかくグレゴールが話しつづけている間じゅう、彼はちょっとの間もじっと落ちついていないで、まるで部屋から出ていくのをこっそり禁じる命令でも受けているかのように、グレゴールから目をはなさずに、ドアのほうへのろくさい動作でほんのすこしずつ後退しだした。ようやく玄関の控え室までひきさがると、とつぜんからだをひるがえして、たったいま足のうらに火がついたような慌《あわ》てかたで居間から最後の一足を引っこぬき、もう控え室へとびこんでいた。すると、そこで彼はなんと思ったか、天の救いが自分をそこに待ちうけているようなかっこうで、右手を階段へ向かってながながとさし伸ばしたものだ。
グレゴールは、こんなことで商会における自分の地位を危険な目にさらす愚を避けようとしたら、とにかく支配人をこんな気分のままで立ち去らせてはいけない、とすぐ考えついた。両親にはまだ実情が十分に呑《の》みこめていないのだ。うちの息子はもう一生涯この商会へ勤めて、安楽な暮らしができる、という確信を両親は長年の間に打ちたててきているし、いまはまた目の前の心配ごとで頭の中がいっぱいになっているから、将来のことまで考えがおよばなくなっているのだ。だが、グレゴールのほうはそんな不《ふ》吉《きつ》な見こみをもっていた。なんとかして支配人を引きとめ、まず興奮をしずめて、自信を取りもどさせたあげくに、くどきおとさなくちゃならないのだ。グレゴールと家族の将来は、それの成否にかかっているといってもいいんだ。妹がこの場にいてくれたらなあ。あいつは利口な女なんだ。自分がまだ仰向けにじっと寝ころがっていたとき、あいつは自分のために泣いてくれたんだ。女に甘い支配人のことだから、妹がここにいてくれさえしたら御《ぎよ》しやすいんだがなあ。妹のやつなら、きっと玄関のドアを閉めちゃって、控え室あたりで支配人をつかまえて恐ろしかった印象をなだめにかかることだろう。だが、あいにく、その妹がここにいないのだ。グレゴールは自分でやらなければならない。自分の現在の行動能力のことも、またたぶん、自分の言葉がもう相手に二度と理解されそうにないことも考えてみようともせずに、いきなり彼はドアの羽目板からとびはなれて、ドアの隙《すき》間《ま》から這《は》い出た。もう玄関先へとび出して、いま滑《こつ》稽《けい》なかっこうで手すりへ両手でしがみついている支配人の後を追いかける気なのだ。ところが、なにかからだの支えになるようなものをさぐっているうちに、とつぜん小さな叫び声といっしょに胴体がたくさんな足の上にへたばりこんでしまった。だが、そんなふうにへたばりこむやいなや、今朝になってから初めて彼は肉体的な快感をおぼえたものだ。自分の足の下には堅固な床がある。そして、うれしいことには、たくさんな足がともかく自分の意のままになったのだ。すくなくとも自分が行きたいと思った方向へ自分を運んで行こうと努力してくれたのだ。もう一息の辛抱で彼のあらゆる苦悩が和らげられるような気がした。だが、その同じ瞬間、彼はきゅうに前進をやめたためによろめいて、母親からいくらも離れていない真《まん》前《まえ》の床の上へ転がってしまった。すると、ぼんやり考えこんでいるふうにみえた母親が不意にその場にとびあがって、
「助けて……ごしょうだから、助けてえ!」
と、両腕をぐっと伸ばし、指の股をひろげて、金切り声をあげた。それからグレゴールをいっそうよく見定めようとするように頭を前のほうへ傾けたのだが、その気持ちとは反対にうしろのほうへ無意識に走って逃げだした。母親は自分のうしろに食事の用意をととのえたテーブルがあったのを忘れていた。その前まで突進すると、放心したそぶりで、あわててそこへすわりこんだ。ひっくりかえった、大きなポットからコーヒーが彼女のすぐそばで、床の敷き物の上へ滝になって流れおちているのさえ気がつかないふうだった。
「お母さん、お母さん」
そうグレゴールは小声でよんで、下から見上げた。支配人のことはその瞬間、まったく念頭になかった。ながれ落ちるコーヒーをふり仰ぎながら、あごをゆるめて何度もぱくっぱくっと舌なめずりをした。すると、母親はまた悲鳴をあげて、テーブルから飛びはなれて逃げだし、駆け寄ってきた父親の腕の中へとびこんだ。だが、グレゴールはそんな両親にいまは構《かま》っていられないのだ。支配人はもう階段を降りかかっている。手すりの上にあごをのぞけて、彼は最後にこちらをふり向いた。なんとかして彼に追いつこうと思って、グレゴールは弾《はず》みをつけて走りだした。支配人はそんな予感におそわれたらしく、何段かをひと跳びにして、あわてふためいて姿をかくした。「きゃあ!」というような声を、そのとき支配人は喉《のど》からしぼり出した。その奇妙な声が階段部の全体にひびきわたった。
支配人の逃げ出したことが、いままで割《わり》合《あい》冷静にかまえていた父親をすっかり混乱させてしまったらしい。自分で支配人の後を追って行こうともしなければ、といってグレゴールが追いかけるのを引きとめることにも気がつかないらしく、支配人が帽子や、オーバーといっしょに肘掛け椅子の上へ置きっぱなしにしたステッキを右手に握りしめ、左手にはテーブルの上にあった大型の新聞をつかんで来て、そのステッキと新聞を振りまわし足を踏み鳴らしながら、グレゴールを彼の部屋へ追い返しにかかった。哀願してみてもむだだった。彼のその気持ちなどはもう通じそうにもなかった。あきらめて素《す》直《なお》に頭を自分の部屋の方向へまわすと、父親はいっそうはげしく足を踏み鳴らしだした。ひどく寒いのに母親は窓をはね開け、窓にもたれて顔をぐっと外へつき出し、その顔を両手でしっかり押えている。路地と昇降口との間を強い風が吹きぬけて、窓のカーテンをはためかせ、テーブルの上の新聞をがさがさいわせて、その何枚かを床へ吹きとばした。父親は情け容《よう》赦《しや》もなく彼を追いまくり、まるで野蛮人みたいに、しっ、しっ、と声をたてた。あいにくグレゴールは後退の練習がさっぱりできていないので、動作がひどくのろのろしていた。もしからだの向きをかえてもよかったら、ずっと早く自分の部屋へもどれたろう。だが、彼は手間のかかる方向転換をやって、父親の神経をこれ以上いらいらさせるのを怖《おそ》れた。そのうえ、父親が手に握りしめているステッキで背中か、頭へ致命的な一撃をこうむるのがこわくて、絶えずびくびくしていた。だが、どうしても方向転換をせざるをえなくなった。という訳は、彼が後退したのでは正しい方角をきめることが全然できないのに気がついて、びっくりぎょうてんしたからだ。父親のほうをたえず横目で不安げにうかがいながら、できるだけ敏活にやるつもりなのだが、実際はひどくのろのろした動作で全身の方向転換をやりだした。やっと父親はいまになって彼の善良な意向がわかったらしく、むやみにじゃまするのをやめて、かえってステッキのさきで遠くのほうから彼の回転運動をときどき導いてくれた。ついでに、あの我慢がならない、父親の、しっ、しっ、という声もやめてくれんものかなあ。まったく頭の調子が変になりそうだ。ほとんど巧《うま》く回りきったところで、しっ、しっ、という厭《いや》な声をひっきりなしに聞かされたので、彼はうっかり見当ちがいをやって、また逆の方向へすこし回りすぎてしまった。けっきょく、頭の位置をぴったり入り口へ向けることはできたのだが、今度は彼のからだの幅がありすぎて、そこを簡単には通りぬけられないことがわかった。グレゴールへ十分な通路をこしらえてやるためには、まだ締《し》まっている片方のドアを開けてやるだけの手数でいい、という簡単な考えが、いまの状態では父親の頭に浮かんでこないらしいのだ。彼の考えはグレゴールをできるだけ速かに部屋の中へ追いこむ、という一点に固定していた。グレゴールは自分が直立の姿勢になったら、ドアの隙間を楽にくぐり抜けられるだろうと思ったが、そうするために必要な準備行動をとることさえ父親はきっと許してくれまいという気がした。あんのじょう、父親はそんな障害なんかてんで無視して、変な大声をたててグレゴールをうしろから駆《か》りたてにかかった。その声はグレゴールの背後から、天にも地にも一人きりの父親のとはまったく別な声のようにひびいたものだ。もう笑いごとどころではない。グレゴールはやぶれかぶれの気持ちで、ドアの隙間めがけて突進した。からだの片方がもちあげられ、後は隙間へ斜めになって転がりこんだ。横腹が一面に擦《さつ》過《か》傷をうけて、白塗りのドアに汚《きた》ならしいしみがくっついた。そのうえからだがぴったり隙間へはまりこんで、自分ひとりの力では身動きもできなくなっている。片いっぽうに並んでいる足は宙にうかんでふるえるばかりで、反対側の足のほうは床へ圧《お》しつけられて痛かった。急《きゆう》場《ば》を助けようと思ってか父親がうしろから力をこめて一突きしたので、グレゴールはひどい出血をしながら部屋の中へずっと突きとばされた。父親はステッキでドアをばたんと閉めた。この騒ぎはやっと静まった。
二
やっと夕暮れの薄暗さが迫るころになって、グレゴールは重苦しい、まるで気が遠くなっていたような眠りから目ざめた。たとえじゃまされなくても、彼はそれ以上もう眠っていることはできなかったろう。満足がいくまで眠りたりて、十分に疲れを休めた感じがしていたからだ。逃げ出していく素《す》早い足音と、玄関の控え室へ通じるドアを用心ぶかく閉める音で自分は目がさめたような気がする。電気の街《がい》燈《とう》がこの部屋の中へまで仄《ほの》白《じろ》い光をなげこんで、天井や家具の上辺などをあちこちぼんやり染めだしているのだが、下のほうのグレゴールが寝ているあたりはまっ暗だった。のっそりのっそり彼は這《は》いだして、いまはじめてそのありがた味がわかりだした触覚で不器用に周囲の物に触れまわしながら、いったいそこで何事が起こったのか、確かめてみようと思ってドアのほうへ進んだ。どうやら左の脇《わき》腹《ばら》には横に長い、引きつって心《ここ》地《ち》のわるい瘢《はん》痕《こん》ができているような気がして、二列にならんだ足でかわるがわる跛《びつこ》をひいて歩いた。そのうえ、一本の足は午前中のできごとで重い傷手《いたで》をうけていたから、その生命のかよっていない足をひきずって進まねばならなかった。とにかく足一本だけの負傷ですんだのは、奇跡といってもいいくらいだ。……
ドアのそばまで辿《たど》りついてから、やっと彼は自分をそのほうへ誘いよせた原因に気がついた。なにか食べるものの匂《にお》いだったのだ。うまそうなミルクをいっぱい満たして、その上へ白パンを細かくちぎって浮かべた鉢が置いてある。あんまり嬉《うれ》しかったので、思わず笑いだしそうになった。いまは朝方よりもっとひどい空腹をかんじていたからだ。すぐさま頭をずっぷり目のへんまでミルクの中へつっこんだ。だが、幻滅をかんじて、すぐに頭をもちあげた。自由にならぬ、左の脇腹のせいで食べにくかっただけではない。それならからだ全体が喘《あえ》ぎながら動いているときでも、食べることぐらいはできるのだ。前から彼の大好きな飲み物だったから、妹がせっかく気をきかして用意してくれたミルクなのに、どうしたものか、いまはさっぱり味が舌先にかんじられないのだ。それどころか、ほとんど嫌《けん》悪《お》に似た感情をおぼえて鉢から顔をそむけ、しょんぼり部屋の中央へまた這《は》いもどった。
居間にガス燈《とう》がともっているのをグレゴールはドアの隙《すき》間《ま》ごしに見た。いつもならこの時刻には、父親が午後に発行される新聞を母親や、しばしばその仲間入りをした妹に、声をはりあげて朗読して聞かせる習慣だったが、いまはひっそりとして物音ひとつしない。妹がよく話の種にして、旅先への手紙の中にまで書いてよこした、こんなふうの朗読は、いまごろはもうどこの家庭でもすたれていたものだ。たしかに家の中はからっぽではないのに、あたりはひっそりと静まりかえっている。
「物音ひとつ立てないで、うちの家族はよくやれるもんだな」
そうグレゴールはひとりごとを言いながら、目の前の闇《やみ》をじいっと見つめているあいだに、いままで自分が両親や妹にこんなりっぱな家で、こんな暮らしをさせてきたことを自分でたいそう誇らしくかんじだした。だが、しかし、あらゆる平和が、あらゆる裕福さが、あらゆる満足感が、いまいっぺんに恐怖につつまれて崩れ去るとしたら、そんなものがいまさら何の役に立つというんだ。そんな不《ふ》吉《きつ》な考えに落ちこむまいと思って、わざとグレゴールはからだを休みなく動かしつづけ、部屋の中をあちらこちら這いずりまわった。
長くつづく夕方の間に、一度は脇のドアが、一度はまた別のもうひとつのドアが、すこしばかり隙間をみせて開けられたかと思うと、すばやくまた閉められてしまったことがあった。きっとだれかが何か必要があってはいって来ようとしながらも、ぐずぐず考え直してやめたのだろう。グレゴールは居間へつうじるドアのすぐそばにじっと横たわっていて、ためらっている訪問者をなんとかして部屋の中まではいらせるか、それができなければ、せめてそれがだれであるかぐらいは知りたい、と決心したものだ。だが、あいにくドアは二度ともう開かなかった。いくら待ってみても無駄だった。どのドアにも中から鍵《かぎ》がかかっていた今朝なんかは、みんながあれほど彼の部屋へはいりたがったくせに、せっかく彼が自分で一つのドアの錠をはずしてやり、いまはほかのドアだって昼の間は鍵なしのままになっているというのに、もうだれも来てくれようとはしない。いまでは逆に外から鍵がさしこんであるのだ。
夜おそくなってから、居間の灯がようやく消された。だが、両親や、妹が長い間よう寝もしないで起きていたのを確かめるのは、訳ないことだった。三人とも爪《つま》さきで歩いて向こうへ忍び足で行く気《け》配《はい》がいま聞きとれる。これでもう確かに朝まではだれもグレゴールのところへ来てはくれないのだ。だから、自分の今後の生活をどういうふうに立て直したらいいものか、じゃまされずにゆっくり考えてみる、長い時間があるわけだ。とはいうものの、いまは床の上へ平べったくなって寝るしか手のない、このがらんとした天井の高い部屋は、これまで五年間ひきつづいて自分が住みついた場所であるのに、どうしたわけか、その原因はわからないままに彼を不安にさせた。なかば無意識に向きをかえて、長《なが》椅《い》子《す》の下へ急いでもぐりこんでみたのだが、さすがにちょっとばかり恥ずかしい気がする。すこし背中のあたりが窮屈で、頭をもちあげることもできかねたが、居《い》心《ごこ》地《ち》だけはとても好《よ》かった。ただ身《み》幅《はば》がひろすぎて、長椅子の下へ全身すっぽりはいりこんでしまえないのが残念といえば残念だ。
一晩じゅう、その場所で、グレゴールは夢うつつの間に何度も飢餓感に襲われてはっと目がさめたり、あるときは不安と、漠然とした希望を交互にくりかえしたりして、一夜を明かした。その不安と希望の結末はきまっていて、さしあたり自分自身が冷静にふるまわねばならぬこと、忍耐と、最大の遠慮をすることで、自分の現在の状態がどうしようもなしに惹《ひ》きおこす不快な面倒を家族のみんなに我慢してもらわねばならぬ、というところに落ちつくのである。
つぎの朝早く、まだ夜の明ける前といってもいいころ、グレゴールは決意したばかりのことをさっそく試してみる機会をもった。というのは、ちゃんともう着換えをすませた妹が控え室のほうからのドアを開けて、緊張したおももちで中をのぞきこんだからだ。妹には彼の姿がすぐには見つからなかった。やっと長椅子の下へひそんでいるのを見つけたとき――ああ、部屋の中のどこかにいないわけにはいかないじゃないか。どのみち自分は脱出なんかできないんだ――あんまりびっくりしたので、妹はすっかり冷静さを失って、外からドアをばたんと閉めてしまった。だが、自分のやったことを後悔しているかのように、すぐまたドアを開けて、今度はまるで重病人か、見知らぬひとのそばにでもいるようなぐあいに爪先で歩んではいって来たものだ。グレゴールはやっと長椅子のはしっこのところまで頭をのぞけて、彼女のほうをじっと見守っていた。自分がミルクに口もつけないで残したこと、しかも、それはけっして空腹の程度が足りなかったせいじゃないことにうまく気がついてくれないものか、そして自分の口にもっと合う、別な食べものを持ってきてくれさえしたら……。実際、彼はいまにも長椅子の下からとび出して、妹の足もとへからだを投げかけ、なにかうまい食べものをねだりたくてたまらぬ衝動に駆りたてられていたのだが、しかし、妹がもし自発的にそうしてくれそうもなくて、こちらから注意を促《うなが》してやらねばならぬくらいなら、いっそのことこのまま飢えてしまったほうがましだ、と腹の底で考えた。だが、妹は、ミルクが周囲にすこしばかりこぼれているだけで、まだ鉢にいっぱい残っているのをすぐ見つけて、びっくりしたらしい。素《す》手《で》をつかわないで、ぼろぎれで鉢をすぐさま持ちあげて、部屋から出て行った。そのかわりに彼女がどんなものを持って来てくれるか、グレゴールはひどく好奇心をかきたてられて、自分で考えおよぶかぎりの物をいろいろ思いうかべてみた。だが、妹が実地に示した親切さときたら、彼のあらゆる見当をすっかりはずれていたにちがいない。
妹はまず彼の味覚の具《ぐ》合《あい》を試してみようと思って、さまざまな種類の食物を選びだして持参した。そして、それらを一枚の古新聞紙の上へひろげたものだ。古くなって、なかば腐りかけた野菜がある。固まったホワイト・ソースがべっとり着いている、夜食の残りの骨がある。乾しぶどうと、アーモンドの実が三つ、四つ。二日前にグレゴールがまずくて食えないと言ってやった、あのチーズ。バターをつけないパン。それから、一つはバターだけを塗り、もうひとつのほうはバターと塩を塗りつけたパンもあった。さらに、疑いもなくグレゴールのための専用にきめられたものとして、生《なま》水《みず》を張った鉢がそこに置いてあった。グレゴールは自分のいる目の前では食べにくがるだろう、というやさしい思いやりから妹は急いでその場をはなれ、グレゴールが気楽にしたいほうだいにふるまっていいのをわからせるために、わざとドアに外から鍵をかけた。それらの食べものへ突進するときグレゴールの足はひゅうひゅう音をたてた。彼の傷口はもうすっかり、癒《い》えているらしかった。ちっとも不自由をかんじないのだ。一月以上も前にナイフでほんのちょっと指さきを切った傷なんか、つい一昨日もまだかなり痛んだものだ。そんなことを考え合わせると、今度の傷の場合、自分でも不思議でならなかった。――ひょっとしたら感覚まで鈍《にぶ》くなったのかな、と彼は考えて、さまざまな食物のなかで、まっ先に彼の注意をはげしく惹《ひ》いたチーズをしゃぶってみた。つぎつぎに急いでかぶりつき、目には満足の涙さえうかべてチーズや、野菜や、ソースなどを食いつくした。かえって新鮮な食物は味がまずかった。その匂いを我慢するのさえ厭なのだ。それで、自分が食べたいと思うものだけを少しばかり離れたところへ引きずって行った。それらをみんな片づけて、しばらく同じ場所へものぐさに横たわっていると、妹がゆっくり鍵をまわしている。さあ、元のところへ引っこんでおれ、という合い図なのだ。彼はうつらうつらと眠りかけていたのだが、その小さな音におどろいてとびあがり、あわててまた長椅子の下へもぐりこんだ。ほんの短い時間なのだが、妹が部屋にいるその間、長椅子の下でじっとしているのは、相当な自制力が要《い》る仕事だった。十分に腹へ詰めこんだので、彼のからだが前よりもふくれあがり、それでなくてさえ窮屈な場所ではもう息をするのも苦しくなったからだ。窒《ちつ》息《そく》しそうな発《ほつ》作《さ》に駆られ、目には溢《あふ》れ出る涙さえたたえて、そんなこととは夢にも思いつかぬ妹が彼の食いのこしだけでなく、全然グレゴールが口もつけなかったものまで、まるで使いものにならない廃物を扱うように箒《ほうき》で掃きあつめて、手ばやくいっしょくたに桶《おけ》の中へぶちこんでいるさまをじっと眺めていた。それから妹は桶に木の蓋《ふた》をして、それら全部を外へはこび出した。妹が背中を向けるやいなや、もうグレゴールは長椅子の下からとび出して、からだを伸ばし、大きく息を吸いこんだ。
毎日、こんな具合にしてグレゴールは食べものにありついた。一度は朝で、まだ両親や女中が寝ている間に、二回目はみんなの昼食の後で、そのとき両親はしばらく午睡をとっているし、女中のほうはいつも妹の言いつけで何か買いだしに出かけることになっていた。グレゴールがひもじい思いをすることを、きっとだれでも心の中では欲していないのだが、とはいうものの、彼の食事のやり方について口で伝えられた以上のことをもし見て知ったら、とても父や母には我慢がしきれなくなるだろう。実際、父も母も苦しみすぎるほどもう苦しんでいたのだから、妹はできるだけ両親を悲しませないように気をつかっているのだ。
あの最初の日の午前、かけつけた医者と、錠前屋をどんな口実をこしらえて玄関ばらいしたのか、グレゴールはなんにも聞かされていなかった。なぜなら、彼の言うことは相手にわかってもらえなかったので、だれひとり、あの妹のやつでさえも、彼がほかの人間たちの言葉を理解できるなどとは夢にも考えていないふうだった。だから、妹が自分の部屋へ来てくれ、ときどき彼女がため息をついたり、聖人たちの名前をとなえたりする声が聞かれるだけで、満足しなければならなかった。妹がすこしは世話をするのにも慣れたころになると――もちろん、完全に慣れきることなど望むほうが無理だった――グレゴールはよく親しみのこもった、そう自分には感じとられるような言葉をちらっと耳にはさんだものだ。
「今日のご馳《ち》走《そう》はおいしかったらしいわ」
と、グレゴールが食べものをしっかり平らげたときに、妹が言う。いっぽう、その反対の場合には、実際はそのほうがだんだん多くなっていくばかりなのだが、いつも妹のやつはいかにも悲しげに言ったものだ。
「やれやれ、また、みんな残っちゃったわ」
グレゴールは直接に新しい消息はなんにも聞かされなかったわけだが、それでも隣室の話し声をぬすみ聴《き》いてはいろいろなことを知るようになった。ちょっとでも声がしたら、そのほうのドアへすぐさま走りよって羽目板へからだをぴったり押しつけた。特に最初の間は、ひそひそ話ではあったが、彼のことがなにか話題の中心にならないような話はめったになかった。二日間というもの、食事のたびごとに、いまいったいどんな態度をとるべきか、という問題について協議しているのが聞こえた。食事と、食事の間の時間にも同じ話題がとりあげられていた。というのは、いまでは家族のだれも自分ひとりだけでは家の中に残りたがらなかったし、また家をまったく留《る》守《す》にすることなどとうていできもしなかったから、いつでも少なくとも家族のうちの二人だけは家にのこっていたわけである。女中はあの最初の日から、すぐ暇をもらいたいと母親へ歎《たん》願《がん》をつづけたものだ。今度のできごとについてどの程度の真相を知っているかはわかりかねたが、とうとう暇をもらうことになって、その十五分後にいよいよ別れの挨《あい》拶《さつ》をして出ていくとき、まるで女中は暇をだされたことが、この家でいままで施された最大の恩恵であるかのように、涙をこぼして感謝したものだ。その後で、こちらからだれもべつに頼んだわけでもないのに、他人へは秘密を絶対に口外いたしません、と怖《おそ》ろしい誓いまでたてていた。
いまでは妹が、母親と力を合わせて料理をしなければならなくなった。もっとも、みんな食物がろくろく喉《のど》をとおらない始末だから、そうたいした骨折りでもなかったようだ。家族の一人がほかのだれかへいくら食べるようにすすめてみても無駄で、「いや、ありがとう。もうお腹《なか》がいっぱい」とか、そんな意味の返事ばかりがされるのをグレゴールはしょっちゅう耳にしたものだ。飲みものときたら、おそらく全然のむ気にさえなれないのだろう。――ビールを飲むかどうか、と妹が父親にたずね、自分が行って取ってきましょうか、とやさしくすすめているのを何度グレゴールは聞いたことだろう。父親がいつまでも返事を渋《しぶ》っていると、よけいなためらいをさせまいと妹が気をくばって、じゃ、門番のおかみさんに頼んで買って来てもらいましょう、と言うのが聞こえ、とうとう最後に父親が大きな声で、「いや、飲みたくないんだよ」と言って、その話はそれっきりやんでしまうのだった。
事件の起こった、その日のうちに、早くも父親は一家の資産状態と、彼自身の見通しを母へも、妹へも詳しく説明していた。ときどき彼はテーブルから立ちあがって、五年前に彼の商会が破産したときに、自宅へ持ちかえっていた小型の金庫から、なにかの証書だの、帳簿だのをとり出してきた。複雑な操《そう》作《さ》の錠をぱちんと開け、目ざすものを抜きだした後で、また錠をかける音が聞こえる。このときの父親の説明の中のある箇所など、グレゴールが囚《とら》われの身となって最初に耳へ入れた嬉《うれ》しい話だった。商会が破産したぐらいだから、もちろん父親の手《て》許《もと》へはびた一《いち》文《もん》も残らなかったものと彼はいままで考えていたのだ。すくなくとも父親はそれの反対を意味するような言葉を洩《も》らしたことがなかったし、またグレゴールはグレゴールで、その問題については尋ねてみようともしなかったからだ。あの当時、グレゴールの懸《け》念《ねん》といったら、一家の者を絶望のどん底へつき落とした、あの破産の痛手を家族の者にできるだけ早く忘れさせることで、そのためには自分でいっさいを賭《か》けて当たってみるつもりだった。彼はまったく異常な熱意で働きはじめた。たちまち下級店員からセールスマンに昇格した。外交の仕事をやると、まったく別の方法で金を儲《もう》けることができる。腕をふるった結果は、すぐさま手数料の形で現金にかわるのだ。その金を家へもって帰ってテーブルの上へ並べ、家族の者をびっくりさせたり、喜ばせたりしたものだった。あのころはなんといっても愉《たの》しい時期だった。後になってグレゴールがもっと多額の金を稼《かせ》いで、一家全体の生活費を引き受けられるようになり、また実際にまかなったものだったが、しかし、もう、あのころの輝かしい気分を二度とふたたび味わうわけにはいかなかった。家族の者も、グレゴールもそのことに慣れっこになってしまったのである。いかにも、感謝しながら金が受けとられる。彼のほうもよろこんで金を手渡す。だが、あの独特の、あたたかい気分がもうそこからうまれてはこないのだ。
妹だけがどうにかまだ自分の気持ちにも触れてくれる。グレゴールとは大ちがいに音楽を熱愛していて、ヴァイオリンを弾《ひ》かせたら人を感動させるほどの腕前をもっている妹を、来年こそは音楽学校へ入れてやりたいというのが、グレゴールのひそかに抱いている計画だった。そのために要る多額の費用はいまからとやかく考慮しなくても、きっと何か別の方法で、そのとき工《く》面《めん》がつくだろう。短い期間を街の自宅へもどって過ごすようなとき、グレゴールはたびたび音楽学校のことにふれて妹と語り合ったものだ。もっとも、いつも美しい夢想としてで、その話を具体的に実現するほうはまだ十分には考えていなかった。両親たちもこんな他《た》愛《あい》のない話をあまり喜んでは聞きたがらぬふうだった。しかし、グレゴールだけは内心では真剣に考えつづけて、いよいよクリスマスの晩にすこしもったいをつけて自分の意見を発表してやろう、ともくろんでいた。
ドアの羽目板へまっすぐの姿勢でへばりついて、聞き耳をたてていると、現在の自分の境遇にはまったく役にたたない考えが頭のなかをかけめぐる。しばしば疲労のあげくにもう耳を澄ますのが大《たい》儀《ぎ》になり、うとうとと頭をだらしなく板へ打ちつけては、はっと我にかえって頭をまたしゃんともたげる。彼が微《かす》かな物音ひとつ立てても、すぐ隣室で聞きつけられ、しいんとみんなは黙りこんでしまうのである。
「ほら、あれがまた何かやってるぞ」
と、しばらく口をつぐんでいた後で、明らかにドアのほうへからだをふり向けているらしい父親が言いだす。その後で、いったん中絶された話題がぽつりぽつりとまた取りあげられる。
もう永《なが》い間、このような事柄は父親の念頭から離れていたことだし、また母親には一ぺんくらい聞かされたのでは十分に呑《の》みこめぬ話だったから、父親は同じようなことを何べんもくりかえし説明していたわけであるが、つまり、いろいろ不運な目にあってきたにもかかわらず、ささやかながらも昔からの財産がまだ残っていること、その間に手を触れなかった利子が利子を生んでいることを、ドアごしにグレゴールも耳にたこができるほど聞かされた。そのうえ、毎月グレゴールが家へもって帰った金も――彼自身はほんの二、三グルデンを自分の小《こ》遣《づか》いにしていたにすぎぬ――全部が全部、支出されていたのではなく、いまではそれが溜《た》まってちょっとした基本財産ができていた。グレゴールはドアのうしろ側でいちいち熱心にあいづちをうちながら、この思いもかけなかった用心深さと、節約ぶりをよろこんだものだ。実際のところ、グレゴールさえその気になったら、これらの余分の金で父の借金を店主へ返《へん》済《さい》してしまって、あの職場からきれいさっぱり足を洗える日がぐっと目の前に近づいていた、というわけなのだ。しかし、いまこうした事態になってみると、父親のしていたやり方のほうが疑いもなく上策だったのである。
金がすこしはあるといっても、家族がその利子で生計をたてるとなると、全然お話にもならぬ額だった。おそらく一年間、まあ、せいぜい二年間くらいなら、どうやら家族の者がその金で暮らせるだろうが、それ以上はとても不可能だ。だから本当は手をつけてはならない、万一の場合を見こんで大事にしまっておかねばならぬ程度の金額にすぎないのである。しかし、いまさしあたって、だれに生活費がかせげるだろう。父親はからだこそ丈夫だが、もう老人で、この五年間なんにも仕事らしいものはしていないし、たぶん、はたらける自信など全然なさそうだ。苦労が多いばかりで、その割に報いられることの少なかった一生で、最初の休暇ともいいうる、この五年の間に父親は脂肪分をからだにつけすぎて、いかにも鈍重なかんじになった。老母のほうは喘《ぜん》息《そく》もちで、ほんの家の中で往《い》ったり来たりするだけでも緊張の原因になりがちで、一日おきには呼吸困難になって、開けひろげた窓べりのソファでずっと過ごさねばならぬくらいだから、とても働いて金が得られるはずがないではないか。妹にしたって、金がかせげるだろうか? まだ十七歳では子供同然だから、いままでのように小《こ》綺《ぎ》麗《れい》な着物を身にまとい、朝寝坊をし、家事を手伝ったり、ときには度をすごさぬ気晴らしの仲間入りもしたり、特にヴァイオリンを弾くといったような、毎日の生活のしかたを大目に見て許してやるべきだろう。
なんとしても、さし迫って収入の道をはからねばならぬ、という声が聞こえだすと、いつでもグレゴールはすぐにドアからとびはなれて、そばにある冷《ひや》っこい革張りの長《なが》椅《い》子《す》の上へからだを投げかけたものである。屈辱と、悲哀の感情にいためつけられて、からだじゅうが熱く燃えてくるのだ。
その椅子の上でまんじりともせずに、長い夜を考えあぐんで明かしたこともしばしばで、そんなときグレゴールは椅子の革を何時間もがりがり掻《か》きむしった。あるときはまた、ひどい骨折りもいとわずに肘掛け椅子を窓べりまで押していき、窓下の壁を這《は》いのぼって、椅子でからだを支えながら窓へ凭《よ》りかかり、以前に窓から外の風景を眺めやるたびに味わった解放感をいきいきと思いうかべた。毎日、毎日そうして眺めていると、すこし距離のある物の形がだんだんぼんやり霞《かす》んで見えてくる。前にはいやでも目にはいるので呪《のろ》わしく思っていた、向かいの病院の建物でさえ、いまではさっぱり見えなくなった。閑静ではあるが、完全に都会ふうな外観をもつシャルロッテ通りに住んでいることを、もし彼が自分で正確に知っていなかったら、おそらくは灰色の空と、灰色の大地とがひとつに溶《と》けこんで、地平線もわからぬような荒野を自分はいま窓から眺めているのだ、とうっかり信じこんだかもしれない。注意ぶかい妹のことだから、きっと肘掛け椅子が窓のすぐそばに置かれてあるのを二度ばかり見つけたのだろう。それからは部屋の掃除がすんだら、椅子をちゃんと窓の位置へおき直し、さらに気をきかせて内側の窓の戸を開けておいてくれるようになった。
妹へ口をきくことができて、いろいろ世話をしてもらっているお礼を言ってやれさえしたら、グレゴールは彼女の奉仕をこれほど心苦しくかんじないでもすんだことだろう。そのことで彼はひどく悩んだ。妹はさまざまの不快な思いをできるだけ拭《ぬぐ》い去るように努力してくれた。だんだん時がたつにつれて、万事は都合よくはこんでいくようだった。だが、グレゴールのほうも時とともに周囲のあらゆるものをずっと正確な目で眺められるようになっていた。このごろでは妹が部屋へ入って来るのが重荷になった。というのは、妹のやつは中へはいると、いきなり、ろくろくドアを閉めないで――前にはグレゴールの部屋をだれにも覗《のぞ》かせまいと思って、用心すぎるほど注意していたくせに――まっすぐに窓へ走って行って、いまにも窒《ちつ》息《そく》しかかったように、いらだたしい手つきで窓をはね開けるのだ。どんな寒いときでも、いっとき窓べりに佇《たたず》んで、深呼吸をしている。この走ることと、その騒音とで、彼女はグレゴールを日に二回は脅かしつけた。その間じゅう、彼は長椅子の下でふるえつづけた。もし彼女がグレゴールのいる部屋に窓を閉めたままでいっしょにいてくれることさえできたら、あんなみじめな思いをしなくてもすむのを彼は知りぬいていた。
グレゴールが変身してから一月たって、もう妹だってグレゴールの外《がい》貌《ぼう》を見たところで、別にいまさら気味わるい思いをするような、そんな特別な理由などなかったはずであるが、一度、彼女がいつもの時刻より少し早目にやって来たので、身動きもならずに相手を恐れさせるように棒立ちになって、じっと窓から外を眺めているグレゴールに出くわしたことがある。妹が中へはいって来ないとしても、グレゴールにとって予期されないことではなかっただろう。ちょうど彼のいる位置は、彼女がすぐに窓を開けにいくのをじゃまする形になっていたから。彼女はどうしてもはいろうとはしないばかりか、しりごみをして、ドアを閉めた。事情をよく知らない者が見たら、グレゴールが彼女を待ち伏せしていて、いまにも噛《か》みつこうとしているくらいに思ったことだろう。グレゴールはすぐに長椅子の下へ身をかくした。いくら待っても妹は正午ごろまで姿を見せなかった。やっては来たものの、いつもよりずっと不安らしい様子をしている。自分の姿を眺めるのが、彼女にはいつになっても我慢のならぬことで、これから先もそんな不快な気持ちはつづくだろうということ、彼が長椅子の下からちょっぴりのぞかせているからだのほんの一部分をちらっと見ただけでも、その場からすぐ走って逃げ出したくなるのを、妹はじいっと無理に抑《おさ》えつけていることなどが、いまグレゴールにはっきりわかったのだ。自分のぶかっこうな姿を妹の目に触れさせまいと思いつめて、ある日など彼は敷布を自分の背中にのせて長椅子の上へ運びあげ、その中にすっかりからだがかくれて、妹が屈《かが》みこんでも見えないように、きちんとやってのけたものだ。この大仕事にたっぷり四時間かかった。
こんな敷布なんてまったく無用のことだ、と妹のやつが考えたら、きっと彼女自身の手で取りのけてくれるだろう。グレゴールがなにもおもしろ半分にからだをすっぽり隠しているのでないことぐらい、はっきり妹にもわかっているはずだ。だが、妹のやつは敷布には手もかけないで、そのままにしておいた。自分のこの新案を妹がどんなふうに考えてるか確かめたいと思って、グレゴールが注意ぶかく頭で敷布をすこし持ちあげて覗《のぞ》くと、妹の感謝の気持ちをこめたまなざしをちらっと見たような気がした。
最初の二週間、両親たちには思いきって彼の部屋へ、踏みこむ勇気もないようだった。どちらかというと妹はあまり役に立たない小娘のように思われがちだったから、いままで両親はたびたび妹のことで腹をたててきたくせに、このごろの彼女の働きぶりをほめちぎっているのを彼はしょっちゅう耳にした。妹がグレゴールの部屋を掃除している間、最近では父と母がドアの前にしばしば待ちかまえていた。それで、一歩外へ出るやいなや、部屋の中はどんな様子だったか、グレゴールは何を食べたか、いま彼がどんなふうにふるまったか、すこしでもよい兆《ちよう》候《こう》が見えたかどうか、などと妹は詳しく話してやらねばならなかった。わりあい早く母親のほうはグレゴールのところへ行きたがるようになった。それを父親と、妹がある種のいろいろ分別のある理由をならべて引きとめていた。それらの理由をグレゴールは耳をそばだてて聞いたが、彼自身にもしごくもっともと思えるものだった。だが、後になると、力づくで母親を引きとめる必要があった。彼女は大声を出して叫んだものだ。
「グレゴールのそばへ行かしておくれ、あれは、わたしのかわいそうな息子じゃないかね!どうしても行ってやらなきゃならんことが、おわかりにならんのかね……」
その声を聞いて、グレゴールも、もちろん毎日というわけにはいかないが、まあ、一週間に一ぺんくらいなら、母親がはいって来るのもいいかもしれない、と考えた。やっぱり母親のほうが妹なんかより万事をずっと呑みこんでいる。妹のやつはたしかに大胆ではあるが、なんといってもまだ子供なのだから、こんな難しい仕事をも子供っぽい軽《けい》率《そつ》さで引き受けていたわけだ。
母親に会ってみたい、というグレゴールの希望はまもなく満たされた。昼の間、いつ父や母がはいって来るかもしれぬ、とグレゴールは気をつかって、例の窓のところへは行かないようにしていた。ほんの二、三平方メートルの床の上では、十分に這《は》いまわることもできなかった。彼はもう夜間だけでもじっと横たわっているのが苦痛になった。食事さえちっとも楽しみではなくなっている。しかたなしの気晴らしに壁や、天井をめくらめっぽうに這いまわる癖がついた。天井へ這いあがって、宙にぶらさがるのがおもしろかった。床の上に横たわっているのとは全然ちがった感じがする。呼吸まで楽にできた。からだじゅうを軽快な振動が走る。上のほうでうっとりと愉《たの》しい放心状態に陥って、ついからだが離れて床へばったり落っこち、自分でびっくりぎょうてんすることもあった。むろん、はじめのころとちがって、からだを自在に使いこなせるようになっているから、そんな高いところから落ちてもべつに怪《け》我《が》なんかしないですんだ。グレゴールが発見したばかりの、このひとりぼっちの楽しみも妹にすぐ気づかれた。彼が這いまわると、ぬらぬらした粘液質の跡があちこちにくっついたからだ。妹は、グレゴールができるだけ広い範囲を這いまわれるように、そのじゃまになる家具類、特にたんすと、机をとり除《の》けようと思いついたらしい。彼女ひとりの力では手に余った。わざと父親には助力を求めぬことにした。だが、新《しん》米《まい》の女中も力を貸してくれそうにない。この十六歳くらいの小娘は、前の料理女が暇をもらった後を引き受けて、勇敢に辛抱はしているものの、台所はいつでも鍵をかけたままにして、なにか特別な用事がある場合だけに開けることにしたい、と前もって許可を求めたくらいなのだ。だから、けっきよく、父の不在のときに、母親に来て手伝ってもらうしか方法がなかった。興奮した母親はいかにも嬉《うれ》しそうな声をたてながらさっそくやって来たが、グレゴールの部屋のドアの前で急に黙りこんだ。まず先に妹は部屋の中がきちんと片づいているかどうかを確かめてみた。その後で母親を中へはいらせた。グレゴールはもう大あわてで、例の敷布を頭から深く引っかぶって皺《しわ》くちゃにしたので、ちょうど、そのかたまり全体は敷布が偶然に長椅子の上へ投げかけられてあるふうに見えた。
今度だけはグレゴールも敷布の下から、こっそり外をのぞいて見るのを思いとどまった。母親の顔を見たい気持ちをあきらめた。それでも母親が来てくれたことだけで、嬉しかった。
「さあ、はいっていらっしゃい。兄さんは見えませんわ」
そう妹は声をかけ、母親の手をにぎって中へひき入れるのが目に見えるようだ。いつでも重たい、古いたんすを力の弱い、二人の女がずらせながら動かしている物音を、グレゴールは聞いていた。妹が母親の分まで引き受けて、自分ひとりで仕事をやりたがるので、無理な力を出しすぎないように、と母親は何度も心配そうに注意していたが、妹はいっこうに聞きいれなかった。ずいぶん長い時間がかかった。十五分くらいもその仕事をつづけたあげくに、母親が、やはりたんすは元のまま置いたほうがいいだろう、第一にあんまり重すぎるから、父親が来てくれなきゃこれ以上とても思いどおりに動かすことはできないし、こんなたんすを部屋のまん中へ置きっぱなしにしたらグレゴールの通るじゃまにもなるだろう。第二には、家具を外へ持ち出すことが、本当にグレゴールの気に入るかどうかもあやしいのだから、というふうなことを言い出した。母親にしてみれば、きっとグレゴールは心のなかで反対しているだろう、と言いたかったのだ。たんすを動かした後の裸の壁を眺めていると、気が沈んでくる。グレゴールは部屋の家具に長い間すっかりなじんでいるのだから、部屋がからっぽになったら自分と同様に寂《さび》しい思いをするにちがいない。「そんなもんじゃないだろうかね」と、母親はほとんど囁《ささや》くような小さな声で、まるでグレゴールの居《い》どころをはっきりは知らないのだが、その彼がどこかで自分の声を聞きつけるのを憚《はば》かるように言ったものだ。息子にはもう人間の言葉がわからないのだ、と母親は信じこんでいるようだった。
「ねえ。家具をはこび出したりすると、わたしたちがもう快《よ》くなる見込みもないと見きりをつけて、グレゴールを構《かま》わずにうっちゃっておくってふうにとられる心配はあるまいかね。やっぱり、部屋の中はなるたけ元のままの状態にしておいてやるほうがいちばんいいんじゃないか、とわたしは思うんだけどね、どんなもんだろう。いつかグレゴールがわたしたちの手へもどってくれたときに、部屋の様子がちっとも前と変わってないのを見たら、病気の間のことを忘れてしまいやすいんじゃあるまいかね」
そんな母親の話しぶりを聞きながら、直接に人間らしく語り合えない不自由さが、家族の間にいても単調な毎日しか送れなかったことといっしょに結びついて、この二月くらいの間に頭のはたらきを混乱させてしまったらしいことを、グレゴールは自分で認めた。この部屋がからっぽにされるのを自分は本気で望んでいたんじゃないかな、というような気がするのも、それ以外にはちょっと説明がつきかねたからである。この暖かくて住み心《ごこ》地《ち》のいい、親ゆずりの家具で気持ちよく飾りつけられた自分の部屋を、思いのままの方向へじゃまものなしに這いまわることのできる、しかも同時に自分の人間としての過去を即座にまったく忘れさせてしまうような、獣の巣《そう》窟《くつ》につくりかえたい、と考えなかっただろうか。じっさい、いまにも自分の過去を忘れかけていたのではなかったのか。だが、もう長らく聞いたことのなかった母の声が彼の心を揺すぶった。――やはり、そうだ。何ひとつ持ち出したりしてはいけない。みんなそっくり残しておくべきなんだ。あれらの家具が現在の自分の状態へはたらきかけている、好もしい影響がなくなってはじつに困るのだ。たとえ意味もなく這いまわるのを家具がじゃましたところで、けっきょく、自分にとっては大きな利益にこそなれ、べつに害にもならないではないか。……
ところで、妹の意見がそうでないらしいのは残念だ。グレゴールの問題が協議される際には、いつも彼女は両親にたいして、いっぱしの専門家ぶった態度をとることに慣れていた。もちろん彼女にはその資格がなくはなかったわけだ。だから、最初、妹はただたんすと、机だけを持ち出そうと思っていたのだが、なまじ母親から忠告されたばっかりに、どうしてもグレゴールに必要な長椅子だけは残しておいて、そのほかの全部の家具類を外へ運び出すように主張する気になっていた。もちろん単なる子供じみた反抗心からではなく、といって、また、最近の思いがけないことで、つらい目にあって身につけた自信がそんな主張をさせているわけでもなかった。彼女にしてみれば、グレゴールが這《は》いまわるためには十分な広さが必要であること、それに反して家具のほうはだれの目で見てもいまは無用な存在にすぎない、と事実に即して観察していたのだ。たぶん、彼女の年ごろの娘たちにありがちな、どんな場合にでも自分の満足を求めたがる、熱狂的な性向もあずかっていたのだろう。また、この同じ性向が、グレゴールの現在の境遇をもっと恐怖すべき状態へ陥《おとしい》れてみたい、という誘惑へグレーテの心を駆りたてていたわけだ。そうなったら、グレゴールのために、自分がいままで尽くした以上のことをしてやれるからだった。なぜなら、ひとりぽっちのグレゴールが四方の、裸の壁をわがもの顔に這いまわっている部屋へなんか、グレーテよりほかのだれが思いきってはいって行く気になれるだろう。……
それだから、妹は母親の忠告なんかで、自分の決心をひるがえそうとはしなかったわけだ。母親はこの部屋の中にいると不安でたまらぬせいか、なんだか頼りなく見えたが、まもなく黙りこんで、たんすを動かしにかかった妹を一生懸命に手伝いだした。ところで、たとえグレゴールが必要をかんじる場合があっても、どうやらたんすのほうはなくてもすませるが、書きもの机はぜひとも残してもらわねばならぬ。女たちがため息をつきながら、重いたんすを押しまくって部屋から出ていくやいなや、すぐさまグレゴールは長椅子の下から頭をもたげて、どういう方法で用心ぶかく、できるだけ思いやりをこめて干渉したものだろうか、と周囲を眺めまわした。そこへ運わるく母親がさきに戻って来た。すると、隣室にいるのはグレーテひとりで、たんすに両手をかけて、もちろん動かすことはできないから、あちこち揺すぶっていたわけだったのだ。母親はグレゴールの姿を見るのに慣れていなかったから、彼はもうすこしで母親の気分を悪くするところだった。びっくりした彼は急いで長椅子の反対の端のほうへうしろ向きに走りこんだが、そのとき敷布の前のほうがちょっとばかり揺れ動くのを止めることはできかねた。それだけでもう母親の注意をひくのに十分だった。一瞬、彼女は息をつめて棒立ちになったかと思うと、グレーテのところへ逃げかえった。
なにも異常なことが起こっているわけじゃなくて、ほんの二つ三つの家具を移動しているだけなんだ、とグレゴールは何べんも自分に言いきかせてみたのだが、女たちが行ったり来たりする気《け》配《はい》だの、彼女らの小さなかけ声だの、家具が床の上を引きずられるときの、きしる物音だのがごっちゃになって、やがて彼は自分でもそう思ったのだが、まるで四方八方から押しよせてくる大混雑のような恐ろしい印象をうけた。彼は固くなって頭と足をちぢめ、からだを床へぴったりへばりつけて、もうとても我慢できない、もうだめだ、と無抵抗のまま自分に言いきかせなくてはならなかった。女たちは彼の部屋をだんだんからっぽにした。愛着のふかい家具はみんな運び出された。工作用の鋸《のこぎり》や、ほかの道具類がしまってあるたんすも、彼女たちはもうとっくに外へ出していた。いまは床へがっしりと嵌《は》めこまれた机をぐらぐら動かしている。その机に凭《よ》りすがって商科大学生の彼が、いや、中学生の、さらに遡《さかのぼ》っては小学生の彼が宿題を書いたものだった。もはや二人の女が好意づくでやっていることの意味などゆっくり考えてみる余裕はなかった。女たちがその場にいることさえ彼は忘れそうになった。すっかり疲れはてた彼女らはもう口もきかないで働いていたから、いまは重たそうに踏みつけてあるく足音が聞こえるだけだった。
不意にグレゴールは姿をあらわした。――ちょうど、そのとき、女たちは隣室へ行っていて、机にもたれかかって一息いれているところだった――走る方向を四回も自分で変えた。実際、何をまっ先に残しておきたいのか自分にも見当がつかないのだ。すっかり裸にされた壁に、毛皮の衣装づくめの、婦人の絵が一枚だけかかっているのが、ふと彼の目を惹《ひ》きつけた。彼はそこまで急いで這いのぼって、額縁のガラスにへばりついた。ガラスはしっかり密着して彼のからだを支え、熱っぽい腹に心地よかった。いまグレゴールが全身で押しかぶさっている、この一枚の絵だけはせめて、だれにも取りはずしてもらいたくなかったのだ。女たちがまた引き返して来るところを眺めようと思って、彼は頭だけを居間へ通じるドアの方へふり向けて待った。
女たちはゆっくり休息する暇も惜しんで、すぐまた戻って来た。グレーテは片腕を母の背中へまわして、抱きかかえんばかりのかっこうだ。
「さて、今度は何を運んだらいいのかしら?」
グレーテはそう言いながら、周囲を見まわした。と、彼女の視線は壁にとまっているグレゴールの視線とぱったり宙で交《こう》錯《さく》した。母親がすぐそばにいるので、彼女は懸命に自制しながら、自分の顔を母親の方へ屈めこんで、周囲が見えないようにじゃまをした。そして、身ぶるいしながら、よく考えもせずに言いだした。
「さあ、いらっしゃい……ねえ、もうちょっと居間へもどっていましょうよ」
グレーテの考えることなんか、グレゴールにはよくわかっている。まず母親の身を安全にしておいて、その後で彼を壁から追い落とそうという寸法なのだ。さあ、勝手にやるがいいさ。こちらも自分の絵にへばりついて、むざむざ渡してはやらないぞ。いっそのこと、グレーテの顔へとびかかってやったほうがいいかな。……
ところが、グレーテの言った言葉が、かえって母親の不安を増したのだ。彼女は一足脇《わき》へ寄って、花模様の壁紙の上に大きな茶色の斑《はん》点《てん》があるのを見つけ出すと、それがグレゴールだとはっきり見定めもしないうちに、調子はずれの金切り声をはりあげた。
「ああ!……ああ、神さま!」
そして、まったく絶望しきったように両腕を前にひろげたまま、長椅子の上へぶっ倒れ、それっきり動かなくなった。
「まあ、あんた、グレゴールったら!」
握り拳《こぶし》をふりあげ、鋭い視線を投げつけて、妹がそう大声で叫んだ。自分が虫になってからこのかた、妹が直接に自分へ向けて発した、最初の言葉がこれだったとは……。母親の正気をとりもどす気付け薬をさがしに、そのまま彼女は隣の部屋へ駆けこんだ。グレゴールもなにか手伝ってやりたいと思った。――絵のほうはまだあわてなくてもいい。……だが、ガラス板へしっかり粘《ねば》り着いているので、無理やりにからだを振り離さねばならなかった。それから、隣室へ走りこんだ。以前と同じように妹へ何かと助言してやれるような気になっているのだ。ところが、現在の彼には何ひとつできるはずがないから、ただ妹のうしろにぼんやり佇《たたず》んでいるばかりだ。妹はいろいろな瓶をひっかきまわしていたが、つい背後をふり向いて、いきなり度を失った。その拍子に瓶のひとつが床へ落ちて粉《こな》みじんになった。破片のひとつがグレゴールの顔に怪《け》我《が》をさせた。なんだか腐《ふ》蝕《しよく》剤《ざい》らしいものが顔をながれる。グレーテはぐずぐずせずに、手で持ちきれるだけの薬瓶をかかえこんで、母親のところへ駆けつけた。ドアを足でばたんと閉めた。グレゴールは自分の責任でいまにも死にそうになっている母親のもとから、完全に閉め出しをくったわけだ。彼はドアを開けてはならないのだ。母親のそばに付き添っていなければならぬ妹のやつをこれ以上おそれさせて、追っぱらったりしたら、それこそたいへんなことになる。じっと待っているより手がなかった。ひどい自己嫌《けん》悪《お》と、不安におそわれて、彼はそのへんを這《は》いまわりはじめて、あらゆるものの上を這った。壁や、家具や、天井などをさんざん這いまわったあげくに、部屋全体が自分のまわりをぐるぐる回転し出したと思うと、彼は絶望状態に陥ってしまって、とうとう大きなテーブルのまん中へ落っこちた。
それから短い時間がたった。グレゴールは疲れはてて、その場にころがっていた。周囲はひっそりしている。おそらく善《よ》い兆候なのだろう。玄関でベルが鳴る。例によって女中は台所に閉じこもっている。グレーテが開けに行かなくてはならない。父親が帰って来たのだった。
「いったい、何事が起こったんだね」
それが彼の最初の言葉だった。おそらくグレーテの態度が、いっさいを物語っていたのだろう。いきなりグレーテは父親の胸へ頭をうずめて、はきはきしない声で応《こた》えた。
「お母さんが、気絶なさったのよ。でも、いまはもうだいぶいいんです。グレゴールが、外へ出ちゃったの」
「おおかた、そんなことになるだろうと思ってたよ。よくおまえたちへもそう言ってたじゃないか。ところが、おまえたち、女ときたら、いっこうに聞こうともしなかったんだからなあ」
父親がグレーテの簡単すぎる報告を悪い意味に解釈して、グレゴールが何か乱暴なふるまいをしでかしたものと思いこんでいるのが、グレゴールにもはっきりわかった。それゆえ、グレゴールはまず父親の気持ちを和《やわ》らげにかかる必要があった。いまは彼の誤解をとく余裕もなければ、その見込みも考えられなかったからだ。そこで彼は自分の部屋の入り口まで逃げてかえって、父親が玄関の控え室からやって来たときに一見して、グレゴールがすぐにも自分の部屋へ帰りたい、という最善の意図をもっていることが了解できるように、ドアの羽目板へからだを押しつけていた。グレゴールを追い返したりする必要はもうなくて、だれかがドアを開けてやりさえしたら、彼はすぐに部屋の中へ姿を消してしまうだろう、というところをわかってもらいたかったのだ。
あいにく父親はこんな微妙な心づかいがわかるような、そんな気分にはなっていなかった。部屋へ一足はいって来るやいなや、
「おお!」
と、激怒したような、同時にまた喜んでいるような調子で、父親は叫んだものだ。
グレゴールはドアから頭をふり向けて、父のほうを見あげた。ところが、こんな異様なかっこうの父親に面と向かい合ったことは、いままで一度もなかった。最近、グレゴールは新しい工《く》夫《ふう》をして、室内を這いまわるのに熱中して、以前のように、ほかの部屋のできごとにまで気をまわすのを怠っていた形なので、たとえどんなに変化した事情にいきなり直面するようなことがあっても、いまさら驚く筋《すじ》合《あ》いはなかったはずである。だが、それにしても、いったい、いま自分の目の前に立っているのは、あの父親だろうか。朝早くグレゴールが商用で旅まわりに出かけるとき、いつもまだ疲れてベッドへ伏せていた、あの父親と同じ人なのだろうか。晩になって帰宅すると、父親はもう寝巻きをきて、肘《ひじ》掛《か》け椅《い》子《す》にすわったままで彼を迎えてくれたものだ。まっすぐに立ちあがれないので、せめて喜びの気持ちだけでも伝えようとして両腕を前へもち上げて見せたものだった。年に二、三回しか揃《そろ》って出かけぬ、日曜日や、特別の祭日などの、家族同士の散歩のときには、いつも古い外《がい》套《とう》を着、たえず用心ぶかく杖《つえ》を突いて、ゆっくり歩くようにしているグレゴールと、母親の間に挟《はさ》まっていながら、とかく遅れがちにのろのろと足をはこび、なにか言いたいことでもあると、たいていいつもその場に立ちどまって同行者を自分のまわりへよび集めることにしていた、あの父親なのだろうか。
いま彼はしゃんとまっすぐに立っているではないか。からだにぴったり合った、銀行の小使でも着るような金ボタンのついた青色の制服まで着こんでいる。上着の硬い、高い襟の上に肥った二重あごがのっている。毛深い眉《まゆ》の下から黒い目がいきいきと注意ぶかくのぞいている。前にはもじゃもじゃだった白髪が、ひどくきちょうめんに櫛《くし》の目を入れられて光っている。金色の組みあわせ文字でどこかの銀行の名前でも縫いつけてある帽子を部屋の端《はし》から端の長椅子の上へ弓形の弧《こ》をえがいてほうり投げ、長い制服の上着の裾《すそ》をぱっと後ろへはねのけ、両手をズボンのポケットにつっこんだまま、ふきげんにおこった顔つきで、グレゴールのほうへ突進して来る。これから何をするつもりなのか、おそらく父親には自分でもわかっていないようだ。父親が両足をかわるがわる変に高くもち上げるたびに、グレゴールはその長靴の底の、びっくりするような巨大さをいやでも見せつけられて、胆《きも》をつぶした。自分がいやおうなしに新しい境涯へはいった最初の日から、自分を最大の厳格さで取り扱うのが適切な処置だ、と父親が考えていたことを彼も知っている。その父親の足もとから走って逃げ出し、父親が立ちどまったら、自分も止まり、相手がちょっとでも動く気配をみせたら、こちらも急いで前へ進む。こんな具《ぐ》合《あい》にして、二人は部屋の中を何回もぐるぐる回った。なにも決定的なことがもちあがった訳ではないし、速度もゆったりしていたから、べつに追いつめて危害を加えるといった感じは全然しなかった。だからこそグレゴールもしばらく床の上を離れなかったわけだ。もし壁や、天井へ逃げ出そうとしたら、きっと父親に特別な悪意でそうやったように思われるのを恐れたからだ。それにしても、父親がたった一足すすむ間に、自分のほうは無数の動作をくり返さねばならないのだから、もうそう長くはこんなふうに走り回っていられんぞ、とグレゴールは観念して自分に言いきかせたものだ。ずっと前から自信のもてる肺ではなかったが、すでに呼吸がだいぶん苦しくなってきている。走ることのために全精力をつかいはたして、彼はよろめいた。もう目をあけていられないくらいだ。頭がぼんやりして、いまはめくらめっぽうに走りまわる以外には自分が助かる道を考えつけない。ぎざぎざの角や、鋭い尖《せん》端《たん》がたくさんついている、こまかい彫刻をほどこされた家具でじゃまされていた四方の壁がいまでは自由自在に利用できることなど、もはや彼の念頭から離れていたのだ。――そのとたん、そう力をこめずに投げつけられたものが、彼と紙一《ひと》重《え》のところへ落っこちて、ころころと目の前へころがった。りんごだ。すぐ二番目のが、自分を目がけて飛んでくる。グレゴールはあまりの怖ろしさにじいっとその場に立ちすくんで、身動きさえできなかった。父親がりんごの弾丸で自分を砲撃しようと決心したからには、いくら走って逃げたところで無駄だった。配膳台の果物鉢のりんごを両方のポケットへいっぱい詰めこんで、そう正確には狙《ねら》いをつけずに次から次へ投げてよこす。これらの小さな、赤いりんごは電気仕《じ》掛《か》けのように床の上をころがり回り、たがいにぶっつかり合った。あまり力をこめないで投げつけられた一つが、グレゴールの背中をかすめて滑ったが、さいわい怪我はしないですんだ。ところが、その次のやつがまっすぐに彼の背中をめがけて飛んできて、ぐさっと柔らかい肉の中へ食いこんだ。居《い》場所をかえさえしたら、不意打ちの、苦痛からすこしは逃れられるかと思って、のろのろと前へ進もうとしたのだが、その場に釘《くぎ》づけになったような感じがし、たちまち全身の感覚がばらばらに混乱して、床へぶっ倒れてしまった。自分の部屋のドアが乱暴に押し開けられたのを、意識を失いかかった目で彼はちらっと見た。大声をあげて喚《わめ》いている妹の前へ、母親が肌着一枚の、あわてふためいた姿でおどり出た。卒倒した母親の呼吸を楽にしてやるために妹が上着を脱がしてやったのだろう。母親は、父のほうへ駆けよる間にも解けかかったスカートや、下着をつぎつぎに床へ滑り落とし、それを踏んづけてよろめきながら突き進んで、父親のからだへぴったり抱きつき、両腕を父親の首へ巻きつけて、グレゴールの助命を歎《たん》願《がん》しているところまで、どうやら目の中へおさめることができた。そこで、彼の視力はぱったり消えた。……
三
もう一月以上も、グレゴールは重傷のために苦しみつづけている。だれも取りのけることができなかった。りんごのつぶては、依然として背中の肉に食いこんだまま目にみえる形《かた》見《み》となって残ったわけだ。だが、この重傷のおかげで、いまはあの父親さえも、たとえ現在のグレゴールがどんな哀《かな》しい、嫌悪すべき姿をしていようとも、れっきとした家族の一員にはちがいなくて、彼を仇《きゆう》敵《てき》のように扱ってはいけないばかりか、不快な感情をもむりやりに呑《の》みこんで、辛抱に辛抱を重ねることが家族として当然の義務であることを、身にしみて思い知らされたようだった。
たとえグレゴールが負傷のために行動の自由を永久に失ってしまい、ここ当分はほんの部屋を横切るだけにも年とった不具者のように、のろのろと何分間も手間どるとしても――もう壁や、天井を這《は》い回ることなど考えられもしなかった――とにかく、こんなふうな境遇のみじめな悪化と引《ひき》換《か》えに、毎日、夕方になると、いつもその一、二時間前からじっと見つめる癖になっていた、なつかしい居間へつうじるドアが開けられて、彼は暗い部屋の中に横たわったまま、居間のほうからこちらは見えないのだが、こちらからは明るいテーブルを囲んでいる、家族の全部をうち眺めながら、前とはちがってほとんど公認の形で彼らの話に耳を傾けていてもいい、というグレゴール自身が考えても完全に満足できるような代償物をいまは手に入れたわけである。
もちろん、以前のような、生き生きと声がはずんだ話しぶりではなかった。グレゴールがどこかよその土地の、小さなホテルの一室で疲れきって、湿《しめ》っぽい寝具の間へもぐりこみながら、いつも渇望の心をもって思い描いたような、あんな元気のいい歓談はもう聞こうにも聞かれない。いまではたいてい、話がごくしめやかにすすめられる。父親は夜食をすませるとまもなく肘《ひじ》掛《か》け椅《い》子《す》にすわったまま眠りこむ。すると、母と、妹がおたがいに静かにしようと合い図を交わし合う。母は灯の下へぐっと屈《かが》みこんで、流行衣装店の上等な下着類を縫いつづける。女店員の仕事にありついた妹は、いつかはもっとよい地位を手にいれるために、夜は速記と、フランス語の勉強をしている。たびたび父親は目をさまして、自分がいままで眠っていたのも知らぬげに、母へ声をかける。
「おまえさんは、今日もまた、いったいいつまで裁縫をするつもりだね」
その後ですぐ彼はまた眠りこんでしまう。母と、妹は顔を見合わせて、大《たい》儀《ぎ》そうに微笑し合う。
一種の気《き》儘《まま》から、父親は家の中でもお仕《し》着《き》せの制服を脱ぐのを拒《こば》みつづけた。寝巻きは手を通さないで鉤《かぎ》へ掛けっぱなしにしながら、父はいつでもすぐ職務につける用意をして、家の中でも上《じよう》司《し》の声がかかるのを待ちかまえているんだといわぬばかりに、制服をそっくり着こんだまま自分の場席でまどろんでいるわけだ。その結果、母と妹のせっかくの丹《たん》精《せい》もさっぱり役に立たなくて、最初から新品でなかった制服はすぐ薄汚なく型がくずれてしまう。グレゴールは、しばしば家族が寝室へ引きさがるまでの間ずっと、このすっかり汚れの目立つ、金ボタンだけがしょっちゅう磨かれて光っている服と、それを着こんで、ひじょうに窮屈そうに、しかも、安眠をつづけている老人の姿をまじまじと眺めやったものだ。
時計が十時を打つのを待ちかまえて、母は小さい声でよびかけて、父の目を覚まさせようと試み、それから早くベッドへ行くように説《せつ》得《とく》しにかかるのだった。こんな場所では熟睡などできなかったし、それに六時にはもう職務へ就《つ》かねばならぬ父には、十分な休養が絶対に必要だったからだ。小使になってから急に募《つの》りだした我《わが》儘《まま》さで、もうしばらくテーブルに残っていたい、とがんばりとおすのだが、そのくせ、いつでも眠りこんでしまうのが落ちだった。さらにまた、この安楽椅子からベッドへまでわざわざ移動させるためには、たいへんな面倒がかかるというわけである。母や妹もゆずらずに口やかましく小《こ》言《ごと》をいうのだが、さらに十五分間くらい父は首をゆっくり振りつづけ、目をとじたまま、容易に立ち上がろうとはしない。そこで、とうとう母は父の袖《そで》口《ぐち》をひっぱって、耳もとへ甘い言葉をささやきかけるという寸法だ。妹も母親へ加勢するために、自分の勉強をあきらめる。それほどまでしても、父は頑《がん》として受けつけようとしない。彼はますます深く椅子へからだを埋めこむ。けっきょく、女たちに両方の肩の下を引っ掴《つか》まれて、やっとのことで目をあけ、母と妹をかわるがわる眺めてから、
「これが、人生か。これが、わしの晩年の平和というものかね」
と、言いだすのが、父親の一つ台詞《せりふ》だった。
二人の女に左右から支えられて、まるで自分のからだが自分でひじょうな重荷であるかのように、ぎょうさんぶって起きあがり、女たちに戸口のところまで引き立てられると、そのへんで合い図をして女たちを押しとどめ、そこからは一人で歩いていくのである。だが、母は裁縫道具を、妹のやつはペンをその場へほうっておいて、いそいで父の後を追いかける。さらに面倒をみてやるつもりなのだ。
家族の者はそれぞれ仕事をやりすぎて、過労に陥《おちい》りがちだったから、グレゴールの世話にしても、ぜひとも必要な限度をこえてまで尽《つ》くしてやれる余裕はだれにもなかったわけだ。一家の経済もだんだん切りつめられた。女中には暇を出していた。白い髪をばさばさに振りみだした、大女の、骨ばった手伝い女が、朝と夕方にだけ、厄介な仕事をひき受けにやって来た。母親が山ほどある針仕事をするかたわら、家事万《ばん》端《たん》の世話をもみていたわけだ。前から一家だんらんの集まりや、祝日の際に、母や妹が飾りつけて嬉《うれ》しがっていた、いろいろな家に伝わる装身具類を売りはらったことがある、その晩、みんなが手にはいった金額について話し合っているのを、グレゴールもたまたま耳にして、売られたことを知ったわけだ。いちばん多くくりかえされる歎《たん》息《そく》は、現在の境遇としては広すぎる住居をどうしても出て行けないことだった。転居しようにも、どんな方法でグレゴールを移転させたらいいか見当がつかないのだ。だが、転居のじゃまをしているのは、あながち自分への顧《こ》慮《りよ》ばかりではあるまい、とグレゴールには思われた。なぜなら、自分ひとりくらい、適当な大きさの箱へ二つ、三つ通《つう》気《き》孔《こう》をぶちあけさえしたら、楽に運ぶことができるだろう。家族の移転を主として阻《はば》んでいる原因は、いままで親《しん》戚《せき》や、知りあいの連中のだれもが蒙《こうむ》ったこともないような不運にみまわれているという憂慮と、手のつけようもない絶望感にあるのだ。世間が貧乏な連中にしてもらいたがっていることを、もう彼らはとことんまで実行している。父親はくだらない銀行員のために朝食を取りよせてやる。母親は見知らぬ他人の下着をせっせと縫ってやるし、妹は妹でお客の命令どおりに売り台のうしろを駆けずりまわっている。だが家族の者のはたらく能力は、もうぎりぎりのところまで達しているのだ。母と妹がようやく父をベッドへ寝かしつけてから引きかえし、やりかけの仕事もほったらかして、椅子を近づけて頬《ほお》と頬が触れるほど寄り合ってすわっている。すると、母はグレゴールの部屋のほうを指さして、
「グレーテ、そこのドアを閉めて……」
と、言ったものだ。
グレゴールはふたたび暗《くら》闇《やみ》のなかに閉じこめられた。隣の部屋では、きっと女たちがいっしょにさめざめ泣いているか、あるいはもう涙も涸《か》れて、テーブルをじっと見つめているかだろう。どういうものかグレゴールのもう忘れかけていた、背中の傷が新しい傷口のようにひりひり痛みだした。
昼も夜もグレゴールはほとんど一睡もしないで過ごすことが多かった。今度ドアが開いたら、家族の気がかりになっている問題を、また前のように自分で引きうけてやりたい、とそればかり考えていた。彼の想念のなかには長らく忘れていた商店主や、支配人や、店員や、小僧さんたちの姿がまたもや浮かんできだした。それから、ひどく頭の鈍い、下ばたらきの男のことや、ほかの商会の二、三の友人たち、地方のホテルの部屋つきの女中、かりそめの愛の思い出、真剣でありながら、まのぬけた求婚の仕方をやったことのある、あの帽子屋のレジスター係の女のことなどを、それからそれへと思いうかべた。それらの人たちの姿が、なじみの薄いのや、もう忘れてしまった人々の姿といっしょくたになって現われてくる。だが、これらの面《おも》影《かげ》は、どれもこれもみんな、いまは彼や、彼の一家へあたたかい援助の手をさしのべてくれそうにもなくて、よそよそしく近づきがたい感じがするばかりだったから、頭のなかから消え去ったときには、むしろ、うれしい気がした。
グレゴールはもう家族のことまでいろいろ心配してやる気まぐれを断念した。かえって、自分への世話が行きとどかないことでむしょうに腹を立てたりした。そのくせ、前に自分が食欲をかんじた食物をいま何ひとつグレゴールは思い出せないのだが、なんとかして自分のほうから食料品の貯蔵室まで出向いて行って、たとえ空腹であろうとなかろうと、そこで自分の口に合いそうなものをいつでも食べることにしたい、という計画をいだいていた。このごろ妹のやつは、どんなふうにしたらグレゴールへ特別に気に入るかなど考えもしないで、朝と、正午に勤め先の商店へ駆けつける間際になって、大急ぎで何かありあわせの食物を、彼の部屋へ足の先で押しこんでくれるだけだ。そして、夕方になると、その食物がほんのちょっぴり試食された程度か――このごろではたいてい、いつもそうだった――それとも一口も触れられていないか、ということにはさっぱり無関心に、妹のやつはほうきの一掃きでさっさと外へ掃き出してしまう。夕方やってくれる習慣になっている、部屋の掃《そう》除《じ》だって、これ以上に早くはできないくらいに片づけてしまう。壁に沿って、よごれの跡がすじをひいていたし、あちこちにまだ塵や、汚《お》物《ぶつ》のかたまりが残っている始末だ。最初のうちこそグレゴールは妹がやって来ると、そんな特に汚れの目だつ隅っこをわざと選んでからだを横たえて、自分の身をもって、ある程度の抗議を示そうとしたものだ。だが、彼がそこに何週間もがんばってみたところで、妹のやつが心掛けを改める見込みはなさそうだった。妹の目だって、彼同様に汚物くらいちゃんと見えそうなものだが、どうもそのまま放置する決心でもしたらしい。というのは、妹はいままでになく神経質になって――いや、家族全体がひどく神経過敏になっているわけだが――グレゴールの部屋の掃除が本当に彼女ひとりの手にゆだねられているかどうか、をひそかに監視していたのだ。
一度、母親がグレゴールの部屋を大掃除したことがあった。そのとき、バケツに何杯かの水を使ってすませたために、多すぎる湿気にグレゴールはひどく悩まされて、身動きもできずに長椅子の上に平べったく寝ころがったまま、ひとりでひどくむかっ腹をたてていた。しかし、母親のほうもその罰をうけることになった。ある晩、妹はグレゴールの部屋の異変に気がつくとさっそく、ひどく侮辱されたような不快さをおぼえて居間へ駆けこんだ。母親が両手をさしあげてなだめにかかったのだが、妹は全身をふるわして、わあっと泣き出したので、両親は――父のほうはびっくりして、例の安楽椅子からはね起きた――まず呆《ぼう》然《ぜん》となって、どうしてやることもできずに傍《ぼう》観《かん》するばかりだった。やっと両親は動きを見せはじめた。一方では父がグレゴールの部屋の掃除を妹へ任せきりにしなかったことで母を責めているし、他方では、妹があの部屋の掃除をこれからは絶対にしてやらない、と喚《わめ》きちらしている。また母は母で、興奮しきってわれを忘れている父を寝室まで引っぱって行こうとやっきになっている。妹はからだをふるわしてむせび泣きながら、小さな二つの握り拳《こぶし》をこしらえてテーブルをむちゃくちゃに叩《たた》きつづけた。グレゴール自身は、だれひとり気をきかせてドアを閉め、この光景と、大騒ぎを見ないですむように計らってくれる者がいないので、これまた怒りをぶちまけて、聞こえるように舌打ちをつづけた。
妹が勤め先の仕事でぐったり疲れて、前のように身を入れてグレゴールの世話をするのに厭《いや》気《け》がさしているときでも、母親が妹のかわりをつとめる訳にはいかなかったし、といってグレゴールのほうでも放《ほ》ったらかしのままでおかれる必要はなかった。いまでは手伝いばあさんが雇ってある。この年とった未亡人ときたら、長い生涯にどんな最悪の事態が生じようとも、その人並みはずれて頑丈な骨格の力でものともせずに乗りきってみせるといったような女なのだが、グレゴールの姿を見ても、特に厭がるふうはなかった。それほど好奇心があるわけでもないのに、この女がグレゴールの部屋のドアをひょっこり開けて彼をびっくりぎょうてんさせ、べつに追いかけもしないのにあわてて右往左往しだしたグレゴールのかっこうを見たわけだが、腕ぐみをしたままで、しばらく立って眺めていたものだ。それ以来、この厚かましい女はきまって朝と、夕方にすばやくドアをちょっと開けて、グレゴールをのぞいてみるようになった。はじめの間、彼女はせいぜい親しみをこめたつもりの猫なで声で、「ちょいとさ、おじいさんの甲《かぶと》虫《むし》さん、こっちへお寄りよ」とか、「まあ、ごらんよ、あの甲虫さんのかっこうたらねえ」とか呼びかけては、彼を自分のそばへ来させようとしたものだ。そんな具《ぐ》合《あい》に声をかけられても、グレゴールはなんにも返事をしないで、まるではじめからドアなんか開きもしなかったみたいに、自分の位置から動こうともしない。この女に気まぐれに覗《のぞ》きこませて、用事もないのに自分のじゃまをさせるくらいなら、いっそのこと、この部屋の掃除を言いつけて毎日やらせたらいいじゃないか。一度、こんなことがあった。ある朝早く――ちょうど、おとずれる春の前触れかと思われる、はげしい雨が窓ガラスをぱらぱら叩いていた――例の手伝いばあさんがいつものおきまり文句をまた並べだしたので、ついグレゴールもむかっ腹をたてて、もちろん本気ではなかったが、のろのろと老婆のほうへ向き直って、いまにも攻撃に出るようなかっこうをしてみせた。ところが、ばあさんは恐れてひるむどころか、すぐさまドアのそばにあった椅子をつかんで高く振りあげた。ばあさんは口を大きく開けたまま立っていたから、振りあげた椅子を本当にグレゴールの背中へ打ちおろしたときに、やっと口をとじようという意図があきらかだった。
「さあ、かかってこんのかね」
ばあさんはそう声をかけたが、グレゴールはくるり向きを変えてしまった。ばあさんも椅子を元の隅っこへそっとおろした。
グレゴールはいまではほとんどなんにも食べようとしなかった。這《は》いまわっている間に偶然、用意してある食物のすぐそばを通りあわせても、ほんのたわむれ半分にごく小量を口に入れ、何時間も含《ふく》んでいて、それからたいていはふたたび吐き出してしまう。こんなになんにも食べる気にならないのは、おそらく部屋の状態がすっかり変わったのを悲しんでいるせいだろう、とすぐ自分でも思った。だが、この室内の変化にもまもなく慣れて、気持ちの上で和解できた。それどころか、ほかにしまい場所のない物は彼の部屋へ運びこまれる習慣になっていた。というのも、住居の一室を三人の間借り人へ貸したのだから、そんな品物が多かったわけだ。三人の謹《きん》厳《げん》な紳士諸君は、いつかグレゴールがドアの隙《すき》間《ま》から見て確かめたところでは、顔中いっぱいに髯《ひげ》を生《は》やしている男たちだったが、単に彼らの部屋ばかりでなく、いやしくもいったんこの家に間借りした以上は家の中全体の、別して台所の秩序整《せい》頓《とん》ということをひどく気にかけていた。不用なものや、汚《きた》ならしいものが置いてあると我慢できないらしいのだ。そのうえ、彼らは家具調度の大部分は自分のものを持ちこんでいる。こういう訳で、たくさんなものがあり余る結果になったのだ。たとえ余分なものでも叩き売るわけにはいかぬし、投げ棄ててしまうのはまだ惜しい気がする。それらがみんなグレゴールの部屋へ移されたのだ。台所からも灰捨て箱と、屑《くず》箱《ばこ》が持ちこまれた。さしあたっては用のないようなものを、例のいつも忙《せわ》しそうに立ちまわっている手伝いばあさんがせっせとグレゴールの部屋へほうりこんだ。たいていの場合、さいわいグレゴールはそんながらくた道具と、それを支えているばあさんの手を見るだけで事がすんだ。たぶん、ばあさんのほうでは、時と場合に応じて必要な物をまた取りに来るか、あるいは全部をひとまとめにして室外へ放り出そうぐらいに考えていたらしいのだが、実際はずっと最初に投げこまれたとおりの位置へ、そのまま転がっているわけだ。だが、グレゴールはがらくた道具に妨げられて通行止めに遇《あ》い、ほかに自由に這える通路がないときに、はじめはしかたなしにじゃまになる道具を脇《わき》へ動かした。こんな力仕事をしながら這いまわった後では、もう死ぬのかと思われるほど疲れてもの悲しい気分になり、何時間もグレゴールは身動きひとつできなくなるくせに、だんだん後になるほど、道具を動かすことに彼はひそかな楽しみをおぼえ出したものだ。
間借り人たちは家で夕食をとるとき、共同に使うことになっている居間をたびたび占領したから、境《さかい》のドアはたいていの晩は閉められたままだった。もうとっくにグレゴールはドアが開くことなんかあきらめていた。いや、その前からだって、毎晩ドアが開けられていたころでも、グレゴールのほうはもう十分に利用しなくなっていた。晩になると、彼は自分の部屋のいちばん暗い隅っこにころがることにしていたのだが、家族の者はそれに気がつかなかった。いつだったか手伝いばあさんが、居間へつうじるドアをすこしばかり開けっぱなしにしておいたことがある。そして、夕方、間借り人たちがはいって来て明かりをつけたときも、すこし開いたままになっていた。連中は以前には父と、母と、グレゴールがすわることになっていたテーブルの上《かみ》手《て》の座に腰をおろして、ナプキンをひろげ、ナイフとフォークを手に把《と》った。待つ間もなく母が肉の皿をもち、そのすぐ後につづいて、妹が山盛りのばれいしょの鉢をささげて入り口へ現われた。料理からは、濃い湯気がたっている。間借り人たちは食べにかかる前にまず吟《ぎん》味《み》してみるというふうに、目の前に置かれた深皿の上へ屈みこみ、中央の座を占めている、ほかの二人に権威をもってのぞんでいるらしい男が実際にナイフをつかって一きれを切りとり、いっぱしの通《つう》人《じん》ぶってほかの二人のために、それが適度に柔らかく焼けているか、それとも台所へもう一ぺん送り返したものか、遠慮なく判定しにかかっているように見えた。その男はどうやら満足した。緊張したおももちで彼のほうを見守っていた母と、妹はほっとして微笑をうかべる。……
家族のものたちは台所で食事をした。父が台所へいく前にこの居間へはいって来たのだが、一ぺん会《え》釈《しやく》をして、それから帽子を手にもったままテーブルの周囲を一まわりした。間借り人たちはみんな立ちあがって、口《くち》髭《ひげ》の奥でなにかぶつぶつ呟《つぶや》いた。さて彼ら三人だけになると、もう一《ひと》言《こと》も口をきこうとしないで、がつがつ食べにかかった。いろいろな食事のときの物音にまじって、絶え間なく噛《か》みくだく歯の音が聞こえてくるのが、グレゴールにはなんだか異様にかんじられる。まるで食べるためには歯が必要なことと、歯のないあごはどんな美しい形をしていても役に立たないことを、ばりばり噛む音で歯のないグレゴールへ見せつけてやらねばといわぬばかりなのだ。
「ぼくだって食欲ぐらいあるさ」と、グレゴールは不安になって、呟《つぶや》いた。「だが、こんな料理じゃだめなんだ。この連中は実によく食うなあ。あんな真《ま》似《ね》をしたらぼくは死んでしまう」
ちょうど、その晩のこと――それまでもずっと、グレゴールは聞いたおぼえがなかった――ヴァイオリンの音《ね》色《いろ》が台所の方からひびいてきた。間借り人たちはもう夜食をすませて、例の中央の席の男が新聞をとりあげて、ほかの二人へも一枚ずつ渡してやった。連中は椅子の背へふんぞりかえって読みながら、たばこをふかした。ヴァイオリンが鳴りだすと、彼らはそれに気をとられ、やがて立ちあがると足音をしのばせて玄関の控え室のドアのところへ行き、そこへひとかたまりになって佇《たたず》んだ。
「皆さん、ご迷惑じゃありませんかね。すぐやめさせましょうか」
そう父親が叫んだところをみると、その足音は台所からも聞こえたのにちがいない。
「いや、迷惑などころか……その反対ですな」と、例の首領ぶった男が言いかえした。「お嬢さんに来てもらって、ひとつ、こっちの部屋で弾《ひ》いていただけませんかな。こっちのほうがずっとゆったりしてて、気分が出ると思うんですがね」
「それじゃ、どうぞ……」
と、父は自分がヴァイオリンを弾《ひ》く当人みたいに、大声でこたえた。
間借り人たちは居間へもどって、待ち受けた。まもなく父が譜面台を、母が楽譜を、妹はヴァイオリンをもってはいって来た。妹は落ちつきはらって演奏の下準備をした。前にだれへも部屋を貸した経験がないので、どうも両親は間借り人にたいして丁《てい》寧《ねい》すぎるきらいがあったが、いまも自分たちの椅子へ腰をおろそうとしないのだ。父はドアへ凭《よ》りかかって立ち、つめ襟の制服の、二つのボタンの間へ右手をさしこんでいる。母のほうは間借り人の一人に椅子をすすめられた。偶然にその場所は隅っこだったが、そのまま母はすわりこんだ。
妹が弾きはじめた。父と、母はめいめいの場所から注意ぶかく娘の両手の動きを見守っている。グレゴールは演奏に心をひきつけられて、すこし前のほうへ近寄っていたが、いまはもう頭だけを居間の中へのぞけた。他人の思《おも》惑《わく》などあまり気にかからなくなったのを、このごろでは自分でべつに不思議なとは考えない。以前には、むしろ他人の感情をいたわってやれる能力を誇りにしていたものだった。現在こそ他人の目から身を隠していなければならぬ理由が、前以上にあるはずである。このごろ彼の部屋はいたるところうず高い埃《ほこり》におおわれていて、ちょっと身動きしただけでも微《み》塵《じん》が濛《もう》々《もう》と舞いあがり、からだじゅうがもう埃まみれになっていたからだ。その上、糸くずや、毛髪や、食べもののかすなどをいっぱい、背中や、脇腹へくっつけて引きずっている。あらゆるものへの無関心ぶりが徹底してしまって、前には一日に何回も仰《あお》向《む》けに寝ころがって、敷き物でからだをこすったりしたものだが、この最近はそんな身だしなみもすっかりやめて顧《かえり》みなくなった。そんな汚ないからだをして、きれいに拭《ふ》きこまれた居間の床をすこし前へ進んだわけだが、ちっとも気《き》恥《は》ずかしさは感じなかった。
もちろん、だれひとり、彼がそこにいるのに気づかなかった。父と、母はヴァイオリンの演奏にすっかり心を奪われている。間借り人たちは最初のうち両手をズボンのポケットへつっこんで、妹の譜面台のうしろ間近にすわりこみ、三人とも楽譜を見ようと思えばすぐに覗《のぞ》きこめる位置なので、妹はだいぶん弾きにくそうだったが、やがて三人同士で顔をうつむけ合って何やらひそひそ話をしながら、窓のところへ引きさがった。その場所へ三人がすっかり落ちついてしまってからも、父親はちらちら不安そうに眺めやっていた。彼らはなにかかわいい曲か、楽しめる曲の演奏が聴《き》けるものと予想していたので、失望して全曲を聴きとおすのにも飽《あ》いてしまい、礼儀上おだやかな方法で妨害をしているわけだ。三人の顔つきを見ただけでも、そのことが手に取るようにわかる。三人とも葉巻きの煙を鼻と、口の両方から出して高く吹きあげているかっこうなど、ひどく神経がいらいらしている何よりの証拠だ。それにしても、妹の演奏ぶりはじつに堂々としていた。妹は顔を脇へかしげて、悲しそうな目つきで真剣に凝《ぎよう》視《し》しながら、楽譜の一行、一行をたどっている。グレゴールはさらに少しばかり前へ這い出し、なんとかして妹と視線をあわせたいと思って、自分の頭を床とすれすれの位置へおいてみた。これほど音楽に感動しているのに、それでもやっぱり彼は一匹の虫にすぎないのか、いままで自分がよく知らないままに渇望しつづけた、心の糧《かて》を手に入れる道が、やっとそこに示されたような心《ここ》地《ち》がする。彼は妹のそばへ近づく決心をした。スカートを口でひっぱることで、ヴァイオリンをもって自分の部屋へ来てくれるように、と暗示するつもりなのだ。この連中には、自分が認めた半分ほども妹の演奏の値うちがわかっていないのだ。自分がこの世に生きている間は、彼女を自分の部屋から一歩も出したくない気がする。今度こそ自分の恐ろしい姿がはじめて役に立つだろう。部屋のどの入り口も自分が同時に見張っていて、侵入者がやって来たら、うなってやるつもりだ。だが、妹はべつに強制されたのではなく、いわば彼女の自由意志によって自分のそばで暮らすわけだ。自分と並んで長椅子へ彼女を掛けさせ、耳を自分の顔のほうへ傾けさせよう。そうしておいて、彼女へ打ち明け話をささやいてやるのだ。彼女を音楽学校へ入れてやる、たしかな計画をもっていること、あの不運な事件さえ起こらなかったら、いまは過ぎてしまった、あのクリスマスの晩に――いや、いったい、クリスマスはもう本当に過ぎたのかな――なにか反対の意見が出ても気にかけないで、自分の計画をみんなの前で堂々と発表するつもりだったことを打ち明けてやりたい。そうすると、きっと妹のやつは感激の涙にむせぶことだろうな。自分は彼女の肩まで這いのぼって、お店へ通うようになってからリボンも、カラーもつけなくなった頸《くび》のあたりへキスしてやりたいものだ……
「ザムザさん!」
と、とつぜんまん中の席にすわった男が父へ向かって叫び声をあげ、それ以上はもうひとことも言わないで、人さし指でのろのろ前進しているグレゴールを指さした。ヴァイオリンの音は急にやんだ。その首領株の男は頭を横にふりながら仲間の顔をまず眺めやって、にやっと薄笑いをうかべたが、その視線をまた返してグレゴールへじっと注いだ。父親はグレゴールを追い払うよりも、間借り人たちに安心をあたえるほうが先決の問題とでも考えたらしい。ところが、連中ときたら少しは興奮するどころか、むしろ、ヴァイオリンの演奏なんかよりもグレゴールのほうをおもしろがっているふうだ。父親は連中の前へいそいで行って大手をひろげ、三人を彼らの部屋へじりじり押し返しながら、同時に自分のからだでグレゴールが見えないように蔭《かげ》をしようとした。連中はちょっと感情を害したらしい。その原因は父親が現在しようとしているふるまいのせいか、それとも彼らが今のいままでグレゴールのような隣人をもっているのを夢にも知らないでいて、しかも今晩はじめて事実を悟《さと》ったためなのか、そのどちらともわかりかねる。とにかく彼らは父親に説明を要求し、彼らの側でも両手をひろげたり、いらいらと口髭をひっぱったりしながら、ぐずぐずと自分たちの部屋のほうへ後退している。妹はあまりとつぜんに演奏を中絶させられたので呆《ぼう》然《ぜん》となりながらも、なおしばらくの間はだらりと垂れた両手にヴァイオリンと、弓をつかんでいたが、やがて元気をとり戻して続きでもひくように楽譜をのぞきこんだかと思うと、いきなりその場に立ち上がり、息ぎれがする胸をひどく波打たせながら肘掛け椅子にへたりこんでいる母親の膝《ひざ》へ手にもった楽器をあずけて、いま間借り人たちが父親に押されて前より早目に後退している、その隣室へすばやく先に駆けこんだ。妹の熟練した手さばきでベッドの蒲《ふ》団《とん》や、枕が宙をとんで、立ちどころに用意のととのえられるのが見えた。間借り人たちが部屋へ押しこめられる前に、ちゃんと寝られる準備をととのえておいて、彼女はまた外へ滑り出ていた。父はまた父でてこでも動かぬ頑固ぶりを発揮して、いつも間借り人へ払っている敬意をすっかり忘れてしまったようだ。彼は相手方を押しまくっている。とうとう部屋の入り口のところで、例の首領株の間借り人が大きな音をたててじだんだを踏んだので、さすがの父もやっと踏みとどまった。
「この場で、わたしは宣言しておきますがね……」
と、彼は言って、片手をさしあげ、さらに目で母と妹のほうをちらっと追った。「つまりですな、現在この家と、この家族を支配している不愉快きわまる状態を考慮しまして――そこまで彼は言いかけると、即座に決心を固めたように床へつばを吐いた――この家からただちに立ち退《の》くことを予告します。もちろん、いままでの期間にたいして、びた一《いち》文《もん》も間借り料を払うわけにはいきません。むしろ、逆に、こっちのほうから、しっかりした根拠のある請求をあなた方へ突きつけたものかどうかは、まあ、ゆっくり考えてみてからのことにしましょう」
彼は口をつぐんで、なにかを期待するふうに前方を見た。彼の二人の仲間も、すぐ口をはさんだ。
「われわれも、すぐ出て行くことを予告しておきましょう」
そこで首領株の男は把《とつ》手《て》をつかんで、ばたんとドアを閉めた。
父親は自分の肘掛け椅子を手さぐりしながらよろめき、崩《くず》れるようにすわりこんだ。それから手足を楽にのばして、習慣の宵《よい》のうたた寝をするようなかっこうをしてみせたが、こくりこくりしている頭の振りぐあいがだいぶん誇張されていたから、実際は彼がちっとも眠ってなんかいないことがわかる。その間じゅう、グレゴールは、間借り人が彼の這っているところを見つけた床の、その場所へじっと動かずに横たわっていた。自分のもくろみが失敗したので失望して、それとたぶんひとつには、ひどい飢えが原因になっている虚脱感のために、からだを動かすことができなかったのだ。彼はもうごく間近に自分の身の上へ全体的な崩《ほう》壊《かい》現象がおこるにちがいないことを、一種の確実さで予感しながら、しかもその最後の時が迫ってくるのを待ち受けていた。そのとき母の指がふるえてヴァイオリンが膝から落っこち、大きな音をたてたが、グレゴールはもう驚きもしなかった。
「ねえ、お父さま……お母さま」と、妹はよびかけて、話をはじめる前にテーブルを手で叩いた。「もうだめですわ。あなた方はまだ事情がおわかりになってないかもしれませんけど、あたしにはよくわかってますの。あたし、もうこの化《ば》けものの前で兄さんの名前をよびたくはありませんわ。あたしたちは、この化けものから解放されるような努力をしなくちゃいけない、とだけ申し上げておきたいのです。あたしたちはいままでに、あの化けものの面倒をみてやったり、辛《つら》いことを我慢したりして、それはもう人間の力でできるかぎりのことをやってきました。どこのだれだって、あたしたちのことを悪く言いっこないと思います」
「うむ。あれの言うことは、まったく本当だよ」
と、父親がひとりごとを言った。
まだ息ぎれの状態が十分になおっていない母親は、目を気が狂ったみたいにきょろきょろさせながら手を口にあてて、うつろな咳《せき》をしはじめた。
妹はすぐ母のそばへ駆けよって、額へ手をやってみた。父は妹の言葉にうごかされて、なにか心に決めるところがあるらしかった。からだをしゃんとすわり直して、間借り人たちへ夜食を出したままで、テーブルの上にまだ取りのこされている皿と、皿の間で小使の制帽を手でもてあそびながら、ときどき目をあげて、身動きもしないグレゴールのほうを眺めている。
「あたしたちは努力して、あれから解放されるようにしなくちゃいけませんわよ」
そう妹は力をこめて父へ言った。母はひどく咳《せ》きこんで、なんにも聞かなかったようだった。
「あれはあなた方おふたりの命取りですわ。そんな気がしてなりませんの。あたしたちみんな力を合わせて、一生懸命に働かなくちゃならないときに、家の中でまでこんな、いつまでつづくかわからない難儀を我慢する余裕なんかありませんもの。もう、あたし、とても辛抱できません」
いきなり妹はわあっと激《はげ》しく泣きだして、その涙が母の顔の上へながれ落ちた。妹はなかば無意識に手を動かして、その涙をぬぐってやっている。
「娘や……」と、父は十分な了解と、思いやりの気持ちをはっきり声にあらわして言った。「わたしたちは、いったい、どうしたらいいのかね」
妹はどうしようもない、というしるしに肩をすくめてみせただけだ。しばらく泣いている間に、彼女はさっきの強《つよ》気《き》とは反対の気分に沈みこんで、実際にどうしたらいいのやら見当もつかなくなったらしいのだ。
「せめて、あれがわたしらの気持ちをすこしでもわかってくれるとなあ……」
と、父はなかばたずねるような調子で言った。
妹は泣きつづけながら、そんなことは考えるのもむだだ、といわぬばかりに片手をはげしく振ってみせた。
「ああ、あれがわたしらの気持ちをわかってくれたら……」
そう父は同じ文句をまたくりかえしながら、そんなことはまったく不可能だという妹の確信を、すなおに自分も肯《こう》定《てい》するように目をつむった。「――おそらく、あれとだって折り合いをつけることができるんだがなあ。……だが、なんというても……」
「あれがこの家から出ていくべきだわ」と、妹が叫んだ。「それが、ただひとつの手段ですわ、お父さま。あれがグレゴールだという考え方を、まずおすてにならなくちゃいけないのよ。あたしたちが長い間そう信じてきたことが、あたしたちの不幸の原因だったんだわ。あれが、いったいどうして、グレゴールなんかであるもんですか。もし本当にグレゴールだったら、人間があんな動物といっしょに暮らすわけにはいかないことくらい、とっくの昔にわかってくれて、自分のほうからどこかへ出ていってくれてるでしょうよ。そうしたら兄さんがいなくなってしまうわけですけど、あたしたちはおかげで安心して生活できるし、いつまでも兄さんのことを尊敬しながら思い出せるというもんですわ。だのに、あの動物ときたら、あたしたちは苦しめるし、間借り人は追いだすし、おしまいには家の中全部を平気な顔で占領して、あたしたちまで路《ろ》地《じ》で夜明かししなくちゃならぬはめになりそうだわ。――まあ、お父さま、ごらんなさいよ……」
とつぜん妹は叫び声をあげた。
「あれがまた、何かやりだしたわ!」
グレゴール自身にはまったく理解に苦しむような恐怖感におそわれたらしく、いきなり妹は母のそばをとび離れて、まるで自分がグレゴールの近くにいて犠牲になるくらいなら、母親に身代わりをつとめてもらったほうがいいとでも言わぬばかりに、まず母親の椅子を盾《たて》にとってグレゴールをまったく寄せつけないようにしながら、こんどは父のうしろへ急いで逃げこんだ。父はそんな妹のふるまいにすっかり逆上して仁《に》王《おう》立ちになり、妹の身を護《まも》ろうとするようなかっこうで両腕を前へさしあげたものだ。
だが、グレゴールのほうでは、妹はもちろん、ほかのだれにたいしても恐怖心を起こさせようなどとは夢にも思っていなかったのだ。彼はただ自分の部屋へ帰って行こうと思って、頭の向きを変えようとしただけだった。彼は負傷して体力が弱っていたから、ちょっとした方向転換でさえうまくいかなくて、なんべんも頭をもたげては床へ打ちつけて、その頭の助けを借りる必要があったから、その動作が変に目立ったわけだ。彼は動くのをやめて、周囲を見まわした。彼の他意のない目的はどうやらわかってもらえたようだ。ほんの瞬間的な恐怖感だったのだ。いまはみんな黙りこんで、もの悲しそうなまなざしで自分を見まもってくれている。母は両脚《あし》をぴったり合わせて伸ばし、椅子にからだを横たえていたが、その目は疲労のあまりにいまにもふさがろうとしている。父と妹は並んですわっている。妹は片手を父の首のまわりへ巻きつけていた。
もう方向転換をやってもさしつかえあるまい、とグレゴールは考えて、またもや骨の折れる仕事にとりかかった。彼は荒い息づかいをして力をしぼりだしながら、そのあいだにときどき休んだ。だれも彼をもうせきたてなかった。彼のするなりにまかされている。やっとこさ方向転換して、まっすぐに自分の部屋へ帰りはじめた。ところが、そこから部屋までの距離がずいぶん遠いような気がして、彼はびっくりしたものだ。ほんのすこし前には弱ったからだで、同じ道をべつに遠いとも考えずにやってきたのが、自分でもいまは不思議に思われる。速く這《は》いたいとばかり念じつづけて、家族の者が自分へひとこと声をかけたり、叫び声をあげたりして、自分のじゃまをしなかったことなど、ほとんど気にもかからなかった。ようやく部屋の入り口まで辿《たど》りついて、うしろを一ぺんふりかえって見ようと思ったが、首がうまく完全には回らない。なんだか首のへんが硬くなった感じがする。だが、おそらく自分の背後ではあれからなんの変化も起こらなくて、ただ妹だけが立ちあがっているのが見えた。そのとき、彼の最後の視線が母親の姿をちらりとかすめる。もう母親はぐっすり眠りこんでいた。
グレゴールが部屋の中へはいるかはいらないかに、ドアが大急ぎで乱暴に閉められ、固く掛けがねをさしこんで完全にとじこめられた。自分の背後でいきなり騒がしい物音がしたので、グレゴールはびっくりして、足ががっくり折れ曲がってしまった。あわててドアを閉めたのは、妹だった。彼女はそのへんに立っていて、待ちかまえていたのだ。そして敏《びん》捷《しよう》にドアへとびかかったのだ。グレゴールは彼女がやってくる足音をちっとも聞いていなかった。彼女はかぎをかぎ穴へさしこんで回しながら、「もう大丈夫よ!」と、両親のほうへ向かって叫んだ。
「さて、これからどうしたものだろうな」
と、グレゴールは自問して、暗《くら》闇《やみ》のなかをぼんやり見まわした。まもなく、彼は自分がもうほとんど動けそうもないのに気がついた。いまさら驚く気持ちもしない。前から彼はこのやせこけて細い足でよくいままで歩きまわれたものだ、と不思議に思っていたくらいなのだ。それはそれとして、彼はいま淡い快感さえかんじている。実際はからだじゅうがひどく痛んでいたのだが、その苦痛もだんだん弱まっていって、いつかはまったく消え去ってしまうような気がしていた。背中へくっついたままで腐ったりんごも、その周囲の炎症もいまはすっかりやわらかな埃《ほこり》の層でおおわれていて、もうあまり気にもならない。家族のひとりびとりを思いうかべていると、彼はわけもなく感動し、深い愛情がひしひしと迫《せま》ってくる。これ以上、家族へ迷惑をかけないために、自分がここから姿を消さねばならぬ、とグレゴールはもう決心していた。ひょっとすると、彼のこの決意のほうが、妹の思いつめた考えよりもずっと不動だったといえよう。このような平静で、むなしい黙想に深く沈みながら、グレゴールは塔の時計が朝の三時を打つのをぼんやり聞いた。そして、いつもの朝のように窓の外がほのぼのと白《しら》みはじめるのを生き身で感じていた。そのうち彼の頭は知らぬまにがっくりたれさがって、弱々しい臨終の息が鼻《び》孔《こう》からかすかに流れでた。……
朝早く通《かよ》いの手伝いばあさんがやってきて――このばあさんときたひには、なんべんもそうしないようにと頼まれているくせに、この女が来たら最後、もう家中どこにいても安眠がさっぱりできなくなるほど、力まかせに気ぜわしくドアというドアを片っぱしから、ばたん、ばたんと閉めてまわるのである――いつもやるようにまずグレゴールの部屋へちょっと顔をのぞけたのだが、べつに異状は認めなかった。彼がわざと身動きもせずに寝ころがって、ふきげんなふうをしているのだろうくらいに思ったらしい。ばあさんはグレゴールがあらゆる知能をもっているものと信じていたのだ。たまたま彼女は手に長いほうきを持っていたので、入り口から手をさしのばして、彼のからだをくすぐってみた。なんの効《き》き目《め》もなかった。それがばあさんのしゃくにさわったのか、今度はすこし力をいれて、つついてみた。いくら彼のからだをおしやってもいっこうに反抗をしめす様子が見えないので、さすがにばあさんも注意を惹《ひ》かれた。やがて、その真相がわかると、目をまるくし、口笛をひゅうと吹き、その場所にぐずぐずしてはいないで、いきなりザムザ夫妻の寝室のドアを乱暴に引き開け、暗がりへ向かって大声で叫んだものだ。
「さあ、行ってごらんなさいましよ、あれが往《おう》生《じよう》しとりますぞ! すっかりくたばって、のびておりますわい」
ザムザ夫妻はそのときダブル・ベッドの上に起きなおったばかりのところだったので、その知らせの意味をすぐさま了解するよりも、まずもって手伝いばあさんの手前、ろうばいぶりをひた隠しにせねばならなかった。それからザムザ氏と、ザムザ夫人はベッドのめいめいの側からあわてて跳《と》びおり、ザムザ氏のほうは毛布を肩へひっかぶり、ザムザ夫人は寝巻きのままで出てきた。そんなかっこうで、二人はグレゴールの部屋へはいった。そうこうしている間に、居間のドアも開いた。間借り人がはいりこんでからは、グレーテがその部屋へ寝ることにしていた。彼女は昨夜から一睡もしなかったように、ちゃんと身なりをととのえていた。彼女の蒼《そう》白《はく》な顔がまたそれを裏書きしているように思われる。
「――死んでいるのかしら?」
と、ザムザ夫人は呟《つぶや》いて、調べようと思えば自分で調べられるし、たとえ調べてみなくても万事もうわかりきっているのに、もの問いたげに手伝いばあさんの顔をふり仰いだ。
「わたしゃ、そう思ってるんですがね」
ばあさんはそう言って、証拠を見せるつもりで、グレゴールの死体をほうきでわきへひどく突きとばした。
ザムザ夫人はそのほうきを引きとめたいような身ぶりをちょっとみせたが、実際はなんにもしなかった。
「さあ、わたしらは神様へお礼を言わなくちゃなるまい」
と、ザムザ氏が言った。
彼が胸で十字をきると、三人の婦人たちも彼の例にならった。その間もずっと死体から目をはなさなかったグレーテが言いだした。
「ねえ、ごらんなさい。兄さんはなんてまあ、やせてたんでしょうね。もう長いあいだずうっと、なんにも食べようとしなかったんですからねえ。せっかく食べ物を運んであげても、そっくりそのままで、また持って帰る始末だったんですからね……」
実際、グレゴールのからだはすっかり平《ひら》べったくなって、乾《ひ》からびている。彼はもう小さな足で立ってはいなかったし、他人の視線をそむけさせるようなものも無くなっていたから、いまになってはじめて人々はそれに気がついたわけだ。
「グレーテ。わたしたちの部屋へちょっといらっしゃい」
と、ザムザ夫人は悲しげな微笑をうかべて言った。
グレーテは死体のほうをふりかえって見ながら、両親のあとについて寝室へはいっていった。手伝いばあさんはドアを閉めておいて、窓を全部、開けひろげた。まだ朝が早いのに、新鮮な空気はもうすでにほのかな暖かみをふくんでいる。なんといっても三月の下旬だったのだ。
三人の間借り人が彼らの部屋から出てきて、目顔で朝食をさがしたが、みんな呆《あき》れた顔つきになった。連中のことなんか、だれもすっかり忘れていたのだ。
「朝めしはどこにあるんだね」
例の首領格の男が、まずふきげんに手伝いばあさんへきいた。
ばあさんは指を唇《くちびる》へあてて黙ったまま、そそっかしい手ぶりで、グレゴールの部屋へ行ってみるように合い図をした。それで連中はどやどやと行って、両手をだいぶん着古した、上《うわ》着《ぎ》のポケットへつっこんだまま、グレゴールの死体のぐるりに立ちふさがった。部屋の中はもうすっかり明るくなっている。
そのとき寝室のドアが開いて、小使の制服を着こんだザムザ氏が、片腕を妻に、もういっぽうの腕を娘に貸して、立ち現われた。三人ともすこし泣き濡れた顔だ。グレーテはときどき顔を父の腕へこすりつけている。
「わたしの家からすぐ出ていってもらいましょう!」
と、ザムザ氏は女たちを両わきに抱《だ》きかかえたまま言って、その手でドアのほうを指さした。
「え、なんとおっしゃったんですかね」
そう例の首領格の、まんなかの男はちょっとまごついてききかえし、いやらしい微笑をうかべた。
のこる二人の間借り人は両手を背中で組んで、自分たちへ有利にはこぶにきまっている大口論がこれから始まるのをうれしそうに待ちかまえながら、ひっきりなしに手をこすり合わせている。
「いま言った言葉どおりのことを、言うたわけでしてな」
そうザムザ氏は返答して、二人の女たちと一線にならんで、間借り人の前へ進みでた。首領格の男はその場にじっと立ったまま、頭の中でいろいろなことを整理し直しているようなかっこうで、しばらく床を見つめていたが、
「それじゃ、われわれは出ていくことにしましょう」
と、言って、ザムザ氏の顔をふり仰いだ。
とつぜん首領格の男は卑《ひ》屈《くつ》な感情におそわれたらしく、その自分たちの決心をさえ、相手方から改めて承《しよう》諾《だく》してもらいたがっているようなふうに見える。だが、ザムザ氏は大きな目を見ひらいて、みじかくなんべんかうなずいてみせただけだ。そこで例の男はすぐさま大またで玄関の控え室へはいってしまった。仲間の二人のほうはしばらくの間じっと手も動かさないで、聞き耳をたてていたが、ひょっとするとザムザ氏が一足先に控え室へ踏みこんで、自分たちが首領と合流するのを中途でじゃまでもされてはたいへんだ、と心配になりだしたものか、あわてふためいて首領のあとを追いかけた。控え室では三人とも衣服掛けから帽子をとり、ステッキ立てからめいめいのステッキを引き抜き、それでも無言のままでおじぎだけはして、玄関から出ていった。ザムザ氏は二人の女を引きつれて玄関口まで出向いたが、彼の疑惑はまったく根拠のなかったことがわかった。というのは、手すりに凭《よ》りすがって下をのぞいた彼らは、三人の紳士方がゆっくりと、しかし立ちどまりもしないで長い階段を降りていくところを自分たちの目で確かめたからだ。どの階でも一定の曲がり角のところへさしかかると連中の姿が一ぺん見えなくなり、すぐにまた姿が現われるのを上から見おろした。連中が下へ降りていくにつれて、ザムザ一家の関心もだんだん薄らいでいく。やがて、頭の上へ荷物をのせてふんぞりかえった肉屋の小僧が、降りていく三人組みの、さらに上のほうへ登ってきたので、ザムザ氏は女たちと共にやっと手すりのそばを離れ、ほっとした軽い気分で家の中へもどっていった。
彼らは今日という日をもっぱら休養と、散歩へふり向けようと決心した。彼らには仕事を中断してもいい当然の資格があったばかりか、それをぜひとも必要としていたのだ。そういうわけで彼らはテーブルへ向かって、三通の欠勤届を書きだした。ザムザ氏は銀行の重役あてに、ザムザ夫人は内職仕事の註文者へ、グレーテは店主へあてて、それぞれ手紙を書くわけである。まだ書いている最中に、手伝いばあさんが部屋へ顔をのぞけて、朝の仕事がもう全部すんだから帰らせてもらいたい、と告げた。書いている三人は顔もあげないで、うなずいてみせただけだ。いつまでもばあさんがその場を去ろうとしないので、腹をたててはじめて顔をもたげた。
「どうかしたのかね」
と、ザムザ氏がきいてみた。
手伝いばあさんは、まるで自分はすばらしい幸運を家族へ知らせに来たのであって、しっかり相手からたずねられた上で、話すことにしようといわぬばかりの様子で、入り口のところに立って微笑している。彼女の帽子にさしてある、ほとんどまっすぐに立った、小さな駝《だ》鳥《ちよう》の羽根が四方へゆらりゆらりと揺れている。ばあさんが手伝ってくれていた間じゅう、この妙な羽根の存在がザムザ氏のしゃくにさわりどおしだったものだ。
「まだ何か用事でもあるの」
今度はザムザ夫人がきいた。ばあさんは夫人へいちばん敬意をはらっていた。
「はい……」と、ばあさんは返事をして、あいそよく笑ったので、すぐにはあとの言葉が出なかった。「――あの、お隣の部屋にある物を取り除《の》けようというご心配なら、もういりませんです。わたしがちゃんとかたづけておきました」
ザムザ夫人と、グレーテは、つづきを書こうとするように、手紙の上へ顔を伏せた。ザムザ氏のほうは、これからばあさんが何から何までべらべらしゃべりだしたがっているのを見てとると、手をあげて、きっぱりと断《こと》わった。ばあさんは話すことを封じられたので、その拍《ひよう》子《し》に大急ぎの仕事のことを思い出して、あきらかに感情を害したらしい声で叫んだ。
「みなさん、じゃ、さようなら」
荒っぽい動作でくるりと背中を向け、ドアも乱暴にばたんと閉めて、出ていった。
「晩にやってきたら、暇を申しわたしてやるぞ」
と、ザムザ氏が言った。
夫人も、娘も、なんにも返事をしなかった。いますぐ暇をだしたりすると、あのばあさんのことだから、せっかく手に入れかけたばかりの、心の平和へまた一《ひと》波《は》乱《らん》おこしそうな気づかいがあったからだ。母と娘は立ちあがって窓のそばへ行き、互いに抱き合ってたたずんだ。ザムザ氏は自分の肘掛け椅子へ腰をおろしたままでそのほうをふり向き、しばらくの間じっと彼女たちを見守っていた。そのあとで彼は声をかけた。
「まあ、すこしはこっちのほうへも来てくれよ。過ぎ去ったことは、もう、くよくよせんがいいさ。今度は、ちっとぐらい、わたしのことを考えてもらいたいな」
すぐさま女たちは彼の言ったとおりにそばへ急いでもどって、やさしく愛《あい》撫《ぶ》してやり、それから急いで手紙を書きあげた。
やがて、三人そろって家を出た。もうここ何月もいっしょにそろって外へ出たことなどなかったのだ。彼らは電車に乗って、郊外へ出かけた。ほかに相《あい》客《きやく》のない車室には、暖かい日ざしがいっぱい差しこんであふれている。三人はすわり心地よく座席へゆったり背をもたせかけて、将来へのもくろみなどをいろいろ語り合った。あれこれ立ち入って考えなおしてみると、けっして悪い状態でもないことがわかってきた。というのは、いままでお互いの仕事について、根掘り葉掘りたずね合うような機会もなかったわけだが、三人のどの仕事も、考えていたより恵まれたもので、しかも先になればなるほどますます有望であるように思われてきたからだ。さしあたって、一家の状態を改善するための最大の問題といっても、せいぜい転宅することぐらいなもので、わりあい簡単にかたづいてしまうわけである。彼らは、グレゴールがさがしだしてくれた現在の住居よりも、もっと小さくて家賃の安い、しかも、もっと便利な場所にある、実用的な家を欲しいと思っていた。
三人でそんなことを話し合っているあいだにも、ザムザ氏と、ザムザ夫人とは、だんだん生き生きと快活になってくる娘のほうを期せずして眺めやりながら、この娘にもかわいそうに一時は頬《ほお》から血の気《け》がすっかり失《う》せるほど苦労をさせたが、どうやら最近はまた豊満な、美しい娘ざかりの姿へ立ちもどってくれたものだ、という感《かん》慨《がい》がほとんど同時にめいめいの胸に湧《わ》きあがってきた。すると、夫妻は言葉すくなになって、お互いのまなざしだけで暗黙の了《りよう》解《かい》をとりかわしながら、ひとつ、これからは娘のためにりっぱな男を見つけだしてやらねばなるまい、と考えこんでいた。
さて、いよいよ電車が行楽の目的地へ着いたとき、娘はいちばん先に立ちあがって、その若い肉体をしなやかに伸ばしたものだ。そのういういしい姿が、新しい夢と、善《よ》い意図をしっかり保証してくれるように夫妻には思われた……
ある戦いの描写
かくて 着飾れる人々ら
じゃり道に踏みなやみつつ
うちつれて逍《しよう》遥《よう》す
おちかたの丘より丘へひろがれる
この大いなる み空のもと
T
十二時ごろになると、もう数人のひとたちが立ちあがり、おじぎをして、お互いに握手し合い、たいへん愉快でしたね、と言ったりして、帰りの服装をととのえるために大きな戸口をくぐって控え室へはいっていく。この家の女主人は部屋のまんなかに立って、軽快なおじぎをくりかえした。そのたびにスカートの飾りつけのひ《ヽ》だ《ヽ》がひらひら揺れた。
さて、私はといえば、末広がりの細い三本脚のついた小さなテーブルに向かって、まさに三杯目のベネディクティンのグラスをちびちびなめながら、自分の手でより分けて皿に積みかさねた、ビスケットのちょっとした貯《たくわ》え分をながめまわしているところだ。
そのとき、私が新規に知り合ったばかりの男が、すこし取り乱したかっこうで、隣の部屋の入り口の柱のかたわらに姿を現わしたのが見えた。私にはなんのかかわり合いもないことだから、こちらは目をそらそうとした。だが、彼のほうはそうでもないらしい。私を目ざして近づいてくると、私が現にやっていることにはおかまいなしに微笑をうかべて話しかけたものだ。
「おそばへやってきたりしまして、たいへん失礼なんですが……。じつは、いままで隣の部屋に、恋人と二人きりですわっておりましたので。十時半からです。ねえ、あなた、あのときは宵《よい》の口でしたな。いや、私たちはまだ知り合いとはいいかねる間《あいだ》柄《がら》なんですから、こんなことを申し上げるのが筋合いでないことぐらい私も承知してるんですよ。ほんの今晩がた、私たちは階段のところでばったり出会って、同じ家に招かれたお客同士のよしみで、二つ三つことばのやりとりをしただけでした。そうでしたね。ところで、現在、私は……失礼の点はお見のがし願わなくちゃなりませんが……その、幸福ってやつは、どうも我慢がしきれんものですから、どうしょうもないわけなんでして。……それに私ときたら、信頼できるような知人をここには一人ももっておりませんので……」
私はあわれむような目つきで彼をじろじろながめていたが、――口中に含んでいた果実菓子はもう特別な味がしなくなった――彼のだいぶん赤らんだ顔をふり仰いで言ってやった。
「あなたに信頼していただいたのは、もちろん、私にとっては喜んでいいことなんですがね。しかしですな、そのことを私へわざわざ打ち明けておっしゃったのは、どうもちと不服ですな。もし、あなたがですね、そうひどく度を失っていらっしゃらないなら、一人きりでしょんぼりすわって強い酒なんか飲んでる男へ向かって、だしぬけに自分の愛してる娘の話をしかけることが、どんなに場ちがいであるかぐらい、あなたご自身お気づきになるべきでしょうな」
私がそう言うやいなや、いきなり彼は腰をおろして、椅《い》子《す》の背へもたれかかり、両腕をだらりとたれた。それから両《りよう》肘《ひじ》を曲げてとがらせ、両腕をうしろへおしつけるようなかっこうをして、かなり高い声でひとりごとを言いだした。
「ちょっと前まで、あそこの、あの部屋に私たちだけで、アンネルルルと二人きりでいたんだ。私は彼女へキスしてやった。口と、耳と、それから肩へもキスしてやったのだ。ああ、そうとも!」
よそよりも活気のある話がここではされている、とでも思ったらしい数人の客たちが、あくびまじりで私たちのほうへ近寄ってきだした。そこで私は立ちあがって、みんなに聞こえよがしに言ってやった。
「よろしい……お望みなら、ごいっしょに行きましょう。しかし、なんですね、この冬の最中に、しかも夜にですよ、ラウレンチベルクへ登るなんて、まったくナンセンスな話だ、とがんばりたいですな。おまけに、こんなに寒くなって、雪までちらほら降ったじゃありませんかね。外の道ときたら、まあ、スケート場みたいなもんでしょうな。しかし、まあ、お望みどおりに……」
最初、彼はあっけにとられて私をまじまじ見つめながら、唇《くちびる》の濡《ぬ》れた口をぽかんと開けていたが、すでにすぐ間近まで来かかっている紳士連中に気がつくと、彼も笑いながら立ちあがって、言ったものだ。
「だが、まあ、冷たい風にあたるのも悪くはないでしょうな。私たちの服は、もう熱と煙をたっぷり吸いこんでいますからね。おまけに、私はちょっとばかり酔ってるんでしてね。もちろん、たくさん飲みすぎたわけじゃないんですがね。……そうですな、皆さん方へさよならの挨《あい》拶《さつ》をして、ひとつ、出かけることにしましょうかね」
そういうわけで、私たちは女《おんな》主《しゆ》人《じん》のところへ行った。彼が女主人の手にキスすると、彼女は言った。
「どういたしまして。……今日はあなたがとてもしあわせそうにお見えになるんで、わたしも喜んでいますのよ」
これらのことばに含まれた好意に彼は感動したらしく、もう一度、彼女の手へ唇をおしつけた。彼女は微笑していた。私は彼を引っぱりださねばならなかった。控え室には、私たちがいまはじめて顔を見る、お手伝いの娘さんが立っていた。娘はオーバーを着るのを手伝ってくれ、さらに小さな携帯用ランプを手にとって、階段で私たちのまわりを照らしてくれた。彼女の首すじはむきだしで、あごの下に黒ビロードのリボンを巻きつけていた。ゆるやかな衣服をまとった娘のからだは、ランプを足もとへさし向けながら先に立って階段を降りていく間に、しょっちゅう伸びたり縮まったりしていた。ぶどう酒を飲んだせいで娘の頬《ほお》は赤くなっていたし、階段口全体を照らし出しているランプのよわよわしい光線で、唇がふるえているのが目についた。
階段を下まで降りると、娘はランプを段のひとつへ置いて、私の知り合いの男のほうへ一足歩みより、彼に抱きついてキスしたものだが、そのまま抱《ほう》擁《よう》の姿勢をしばらくはくずそうともしない。私が心づけの金をその手へ握らせてやると、やっと彼女はもの憂《う》そうに腕をといて、小さい玄関の戸をそっと開けて私たちを夜の戸外へ送りだした。
ひとけのない、一様の明るさで照らしだされている街路の上に、薄雲がかかっているためにいっそうひろびろとして見える空には、大きな月がかかっている。雪が凍りついていたから、小刻みに足をはこばないと滑《すべ》ってしまいそうだった。
私たちが戸外へ一足踏みだしたときから、はやくも私はひどくうきうきした快活な気分になっていた。私は関節が音をたてて鳴るほど脚を高くひきあげて歩いた。まるで友人のだれかが私をおいてきぼりにして街《まち》角《かど》をまわって逃げだしたようなぐあいに、横町へ向かってだれかの名前を大声で呼んでみたりした。帽子を跳びあがりながら高く放《ほう》り上げて、そいつを派《は》手《で》なかっこうで受けとめたりしたものだ。
私の知り合いの男は気にもかけないふうに私と並んで歩いていった。ずっと彼はうなだれ気味で、ひとつも口をきかなかった。
この男を夜会の席から外へ連れだしてやったら、さぞかしうちょうてんになって嬉《うれ》しがることだろう、と私は腹の中で計算していたくらいだから、こんな彼の態度はどうも腑《ふ》におちかねた。だが、どうやら私も気分をしずめることができた。そんな彼の気持ちをとっさには汲《く》み取りかねて、私があわてて自分の手を引っこめたときには、もう彼の背中へ元気づけの一打ちをくらわしたところだった。しょうことなしに私はその手をオーバーのポケットへつっこんだ。
私たちは黙りこんだままで歩いた。足音のひびきぐあいに私は気を配《くば》ってみたのだが、なぜ自分はこの知り合いの男と歩度を合わせて歩きつづけることができないのか、ちょっと見当もつかなかった。そのとき空気は澄みきっていたし、彼の足のはこび方もはっきり見えていた。あちこちでだれかが窓によりかかって、私たちのほうをじっと眺《なが》めていた。
フェルディナント通りへさしかかったとき、私の知り合いが《ドルの王女》のメロディを口ずさみだしたのに気がついた。小声だったが、私にはよく聞きとれる。どういう気なんだろう。私を侮辱するつもりだろうか。ようし、このメロディを耳に入れてやらないばかりか、これからいっしょに散歩するのもやめてやるぞ。……そうだとも、なぜ彼は私と話をしようとしないのか。そんなに私というものが必要でないのなら、なぜ彼はあのまま私をそっとしておいてくれなかったのだ。あの暖かい部屋の中の、ベネディクティン酒や甘い菓子のあるそばへ。……何も私はこの散歩をむりにしたがってたわけじゃないんだ。その上、やろうと思えば自分ひとりで散歩に出かけることだってできたのだ。あのとき私は夜会の席にいて、この恩知らずの若い男を恥さらしのはめから救いだしてやったんだが、いまは因《いん》果《が》にも月光を浴びて外をうろつきまわっている。それも、まあ、事の成り行きというもんだろう。昼の間は役所、夕方は夜会、夜は、横町か……なんにも度をはずれちゃいないさ。世間さまにはざらにある、あたりまえすぎる暮らし方じゃないか。
だが、私の知り合いのやつは、いまだに私のうしろにくっついて歩いている。自分が遅れがちなのに気づくと、あいつはすぐ歩度を速めるんだ。ひとことも話なんかしなかった。といって、なにも走ったりしたわけじゃ全然ないんだ。ほんとうのところ、べつに自分にはいっしょに散歩をしなけりゃならぬ義理なんかないんだから、どこかで横町へ曲がりこんだほうがいいのじゃないかな、と私は考えこんだ。私は自分ひとりでさっさと家へ帰っていいのだし、そいつをだれかがじゃまするわけにはいかないんだ。この知り合いのやつが私のとびこんだ横町の入り口をそれとも気づかずにうっかり通りすぎるざまを、一ぺん見てやりたいもんだな。あばよ、わが親愛なる知人君、という寸法さ。
さて、自分の部屋へ一歩はいったら、さぞ暖かい感じがするだろうなあ。まっ先にテーブルの上の、鉄製の台のついたスタンド・ランプに火をつけて、それがすむと今度は、擦《す》りきれた東洋風と敷きものの上に置いてある肘《ひじ》掛《か》け椅《い》子《す》へこのからだを横たえてやるんだ。楽しい期待! なぜ、そうじゃないのか。だが、それから……なんにもありはしないさ。ランプのやつが、暖かい部屋の中で肘掛け椅子によりかかっている自分の、胸のあたりを照らしてくれるだろう。さて、奥の壁にかけられた金縁《ぶち》の鏡へ傾斜したまま映っているこの床の上で、この色を塗られた四方の壁にかこまれて、ひとりぼっちで何時間もぼんやりすごしていたら、すっかり気分も落ちついてしまうことだろうな。……
脚が疲れてきたので、私はもうどうしても家へ帰って、ベッドの上へからだを横にしてやろうと決心した。ただ別れる際にこの知り合いの男へやっぱり挨拶だけはしたものかどうか、思い迷っていた。だが、私はとても臆《おく》病《びよう》者《もの》だったから、挨拶ぬきには立ち去れなかったし、といって、いまこの位置から大きな声を出して別れのことばを投げかけるのも気がひけてならない。だから、けっきょく、私はその場に立ち止まって、月光を浴びている塀《へい》へよりかかって相手を待つことにした。
私の知人は平らかな舗《ほ》道《どう》を踏みこえて、思わず手を出して受けとめようとしたほどの勢いで私のほうへやってくる。そして、こちらへ何かを了解したという合い図にウインクをしてみせたのだが、なんのことだか私にはさっぱり思い出せない。
「なんでしたかね、いったい……」と、私はきいてみた。
「いや、なんでもないんですがね」と、彼は言った。「実はね、さっき玄関で私にキスしてくれた、あのお手伝いの娘のことを、あなたがどんなふうに思っていらっしゃるか、おききしてみたかっただけなんですよ。あの娘さんは、いったい、だれなんでしょうね。前にあれにお会いになったことがありますか。ないんですね? 私もはじめてですよ。やっぱり、ふつうの小《こ》間《ま》使《づかい》なんですかな。あのひとが階段を先に立って降りてたとき、きいてみようとは思ったんですけどね」
「あの娘さんがふつうの小間使で、とても女中頭《がしら》なんかじゃないことぐらいは、彼女の赤らんだ手をちょっと見ただけで、私にはすぐわかりましたね。チップを握らせてやったときも、皮膚がこわばっている感じでしたよ」
「でも、そいつは彼女がここ当分のあいだ働いている、ということを証明するだけなんでしょう。いや、やっぱり私もそう思ってるものですからね。……」
「あなたのお考えになったほうが正しいかもしれませんね。なにしろ、あんな暗い光線ではすみからすみまではっきり見定めることなんかとうていできませんからな。でもね、あの娘さんの顔つきは、私の知り合いの、ある将校の姉娘のほうを思い出させましたね……」
「へえ、そうでしたかね……」と、彼は言った。
「まあ、そんなことは、べつに私がこれから家へ帰るのを妨げることにはなりますまい。今晩はもうおそいし、それに朝早くから役所の仕事がありましてね。あんな場所ではだれでも十分に眠るわけにはいきませんからな」
そう言って、私は別れを告げるために手をさしだした。
「おや、冷たい手ですね」と、彼は叫んだ。「私なら、こんな冷たい手をしたままで、家へ帰りたくありませんがね。あなたも、私の恋人にキスしてもらってよかったんですよ。手抜かりでしたな。いまからだって、まだおそくはありませんがね。それなのに、おやすみになるつもりですか、こんな晩に……、いったい、どうなさったのですかね。――まあ、考えてごらんなさいよ。ひとりぼっちで、自分のベッドへはいって寝るわけですからな。あの掛け蒲《ぶ》団《とん》のやつが、どのくらいたくさんの幸福な思いをおしつぶしてしまうことでしょうねえ。しかも、反対に、あいつは悲しい夢だけはいくらでも暖めてくれるんですからね」
「私なら、なんにもおしつぶしたり、暖めたりなんかしませんね」
そう私は言ってやった。
「そうですか……しかし、私のことにはかまわないでもらいましょう。あなたは、喜劇役者なんですからね」
そこまで言うと、彼は口をつぐんで、いきなり歩きだしたので、うっかり私もそのあとにくっついて行った。彼のいま言ったことばで頭の中がいっぱいになっていたからだ。
私は彼の言ったことばから、この私の知人がありもせぬことで私の腹をさぐりだしたこと、そんな見当はずれの思《おも》惑《わく》をやりだしたばっかりに私へ注意をはらわざるをえなくなったことが認められるような気がした。私がまだ家へ帰らなかったのは、まあ、よかったわけだ。いま私と並んで歩きながら、寒気の中で白い息を吐きだしながらお手伝いの娘のことを思い出しているのかもしれない、この男が、たぶん、彼のほうからすすんで世間の連中よりも私の値うちを高く買うことができたかもしれないのだ。娘たちにかかわり合って自分の男《おとこ》前《まえ》を下げることだけは彼にしてもらいたくないもんだ。娘たちは彼にキスしたり、しっかり抱きついたりするがいいさ。それが娘たちの義務だし、彼の権利というもんだ。だが、彼を娘たちが私から奪い去ってはいけない。娘たちが彼にキスするとき、私へもちょっぴりキスのおすそ分けをしてくれるだろう。いわば、ほんの唇のすみっこでやるお義理のやつだ。だが、彼を連れて逃げだすとしたら、そいつは私から彼を盗みだすことになるんだ。いつも彼は私の身近にいてくれなくちゃいけない。この私でなくて、いったい、どこのだれがあの男を庇《ひ》護《ご》してやるだろう。彼はひどくばかなんだ。二月という月に、ラウレンチベルクの丘へ登ろうなんて言われたら、彼はいっしょにつっ走るやつなんだ。やつがいま倒れるとしたら、どうなるんだ。もしやつが風《か》邪《ぜ》でも引きこんだら、ポスト小路から嫉《しつ》妬《と》ぶかい男でも不意にとびだしてやつへ襲いかかったら、どうなるんだ。この私のほうがこの世界から追い払われなくちゃならないというわけなのか。試しにやられてみるのも悪くはないが、いや、もうとても彼には私を追っ払うことなんかできんだろう。……
明日になると、彼はアンナ嬢を相手に、ふつうの順序としてまず日常的な事《こと》柄《がら》から話をしはじめるだろうな。ところが、とつぜん、彼はもう言わずに秘密にしておくことができなくなるだろう。――昨日のことだったよ、アンネルルル、夜の話なんだ。夜会のあとでね、君がたしかに一度も会ったことのない人と私はいっしょにいたんだ。さあ、その男のことをどんなふうに描写して説明したらいいかな。とにかく、なんだね、その男ときたら、ぶらぶら揺れてる棒《ぼう》ぎれみたいなんだよ。そのてっぺんのほうに黒い髪のはえた頭がくっついてるんだ。彼のからだには、たくさんの小さな、くすんだ黄色のぼろぎれがぶらさがっているんだよ。そいつらが彼の全身をすっかり覆《おお》っているわけさ。昨日《きのう》、風が落ちたときには、そいつらがからだへぴったり合っていたんだからね。――おや、アンネルルル、どうして君はそんなに食欲がないのかい。そうだ、私のせいなんだろうね。おしまいまで下《へ》手《た》な話し方ばっかりやったんだから。……もし君があの男に会っていたんだったらなあ。どんなふうに彼がはにかんで私と並んで歩いていたか、まあ、これはべつにたいした芸当でもあるまいけどね、どんなぐあいに私が恋をしてることを彼が見抜いたか、その恋にふけってる私のじゃまをすまいと気をつかって、あの男は相当長い道のりを自分ひとりが先に立っていってくれたりしたんだがね、まったく、君にも見せたかったよ。――アンネルルル、君はほんのすこし笑って、それから、ちょっとばかり恐《こわ》がっただろうよ。だがね、あの男が居合わせてくれたんで、私はうれしかったわけさ。だって、アンネルルル、いったい、君はどこにいたんだい。君のベッドの中で寝ていたんだろう。あの遠いアフリカのほうが君のベッドよりもまだ近いような気がしたもんだよ。ところで、あれが平べったい胸で呼吸するたびに、あの星をちりばめた空がなんだか高くなってくるような、そんな気持ちがたびたびしたんだがね。大げさな、と君は思うだろうね。アンネルルル、そうじゃないんだ。もう君のものになっている、この私の魂に賭《か》けて言ってもいいがね、そうじゃないんだよ。……
ちょうど私たちはフランツ河《か》岸《し》通りへ一足踏み入れたところだった。このような話をしているあいだにも、やっぱり、私の知人は気恥ずかしさを感じるらしいのだが、そいつを私はちっとも大《おお》目《め》に見てやらなかったわけだ。そのときの私の考えごとといったら、互いにもつれ合って、とんでもない向こうのほうへいってしまうばかりだった。それというのも、モルダウ河と、その対岸の市区とが同じような暗さの中に横たわっていたからだ。ほんの数少ない灯がともっているだけで、それらがじっと見ている目にたわむれてるんだ。
河《かわ》っぷちの手すりのほうへ行くつもりで、私たちは車道を横切った。その場所へ行きつくと足をとめた。私は立ち木を一本見つけてよりかかった。河《かわ》面《も》を渡って寒い風が吹いていたから、私は手袋をはめ、おそらく夜の河っぷちに立つとだれもがよくそうするように、わけもないため息をもらしたりしたものだ。私はもっと歩いてみたい気になった。だが、私の連《つ》れは水面をじっとのぞきこんで、身動きさえしない。しばらくすると、彼は手すりへ近づいて、両足を鉄の横棒へかけ、手すりの上へ肘《ひじ》をついて、額を両手で受けてささえた。いったい、どうしたというのだろう。私は寒《さむ》気《け》をおぼえたので、とうとうオーバーの襟《えり》を折りかえして高く立てた。そのあいだに私の連れのほうは背中と肩と首をしゃんと伸ばして、両腕を突っぱってささえている上半身を手すりごしに乗りだして水の上へかがみこんだものだ。
「思い出にふけっていられるんですかね、そうなんでしょう?……」と、私は声をかけた。「思い出すってことは、とにかく悲しいものですよ、思い出されるほうだってそうなんでしょうがね。……まあ、そんなものにあまり夢中にならないでくださいよ。そいつは、あなたにとっても無《む》駄《だ》骨《ぼね》だし、私の役にもさっぱり立ちませんからな。思い出なんかにこったりしてると、わかりきった話なんですがね、どうしても現在の立場というものを弱めますね。といって、過去の状態をしっかり確実なものにしてくれるわけでもないんですからな。もっとも、以前のことなんか確認する必要もない、と言うのなら話は別ですがね。――それじゃ、この私には思い出が全然ないんだろう、とお考えなんですか。ありますとも……あなたの思い出の十倍もあるんですよ。ほんの一例をあげてみましょうか。たとえば、私がL――町でベンチに腰かけてたときのことを思い出しますね。夕方で、やはり河岸でしたよ。もちろん、夏のことです。そんな夕方には、よく両脚をベンチの上へ引きあげて抱きかかえる癖が私にありましてね。頭をベンチの木のよりかかりへのっけて、対岸の、まるで雲みたいなかっこうをした山々を私はながめていたのです。河岸のホテルではヴァイオリンをやさしい音《ね》色《いろ》でひいていましったけ。ときおり両方の岸を汽車がのろのろ走って、吐きだす煙を赤くかがやかせていましたよ……」
私の連れがとつぜんふり向いたので、私は話の腰を折られた。私がまだここにいるのを見て、まるで彼はびっくりでもしたような顔つきだった。
「ああ、まだまだ話の種はいくらでもあるんですがね」
と、私は言ったものの、それ以上つづけて話すのを控《ひか》えた。
「まあ、考えてみてください。いつも、こんな始末になってしまうんです……」
と、彼は言いだした。「――今日も夜会へ行く前にちょっと散歩をしてやろうと思って、階段を降りかけていると、どういうものか両手が袖《そで》口《ぐち》の中でぶらぶら揺れだしましてね、しかも両手のやつがおもしろ半分にそうしてるようなので、さすがに私もめんくらわないわけにゃいきませんでしたよ。そこで私はすぐ考えましたな。待てよ、今日は何か事が起こりそうだぞ、とね。そうして、実際に何かが起こったわけなんですよ」
すでに歩きだしてから、彼はそう言って、微笑しながら大きな目で私をじろじろ見た。
まず私はそんなつごうに万事をはこんでいたのだ。彼がそんな話を私へしかけようと、その際に微笑しようが、大きな目をむいて私をながめようが、いまではいっこうにさしつかえないわけなんだ。そして、私のほうはまた私のほうで、私なんかに全然用もなくなったらしい彼への返礼に、腕を伸ばして彼の肩を抱いたり、彼の目へキスしてやったりすることがないように、しっかり自制していなくちゃならなかった。ところで、いまいちばんつごうの悪いのは、もうどうしたって同じことなんだから、そんなことはどうなってもちっともかまわない、ということだった。なぜなら、つまり、いま私はこの場を去らなければならないのだから……どうしても立ち去るべきなのだから。……
そのくせ、せめてもうちょっと連れの男のそばにいてもいいような手段を私は急いでさがしたものだ。そのとき、ふと思いついたことがある。――もしかすると、私の背が高いのが彼には不愉快なのじゃあるまいか、私と並んでいると彼には自分の背がどうも低すぎる気がするんじゃあるまいか。そう考えると、それが苦の種になった。――もちろん、深夜だから、通行人はもうほとんどなかったわけだが――私は歩きながら両手が膝《ひざ》にふれるくらいまで背中を曲げてみてやろうと思った。だが、連れの男が私の意《い》図《と》をすぐ悟《さと》ってしまうとまずいので、姿勢を目立たぬようにだんだん低く変えていくつもりで、しかもその間も彼の注意を私からそらせようと努めた。一度は彼を河のほうへ向かせて、シュッツェン島の樹《き》々《ぎ》や、橋の灯が水面に映っているところを手をさしのべて指さしてやったりしたものだ。
だが、とつぜん彼は私のほうをふり向いた。――私はまだ十分にからだを曲げきるところまでいっていなかったのだが――彼はそんな私のかっこうをじろじろ見て、言いだした。
「これは、いったい、どうしたんですかね。あなたの背中はすっかり曲がっていますね。あなたは何をやってるんですか」
「いやはや、ずぼしですな」と、私はまともに彼を見あげられないままに、かろうじて頭を彼のズボンの縫い目のあたりへ向けて言ったものだ。「――あなたはなかなか鋭い目をもっていらっしゃる!」
「さあさ、まっすぐに立ちなさい。なんというばかげたまねです!」
「いや、いや。……やっぱり、このかっこうのままでいることにしましょう」
そう私は言って、すぐ目の前の地面を見つめた。
「あなたは人を怒らせたいのですね。そう言わざるをえないじゃありませんか。まったく無用の妨害だ! もう、よしたまえよ!」
「あんたも、よくぽんぽんどなりたい人だな! こんな静かな晩に……」
そう私も言ってやった。
「じゃ、お好きなようになさるがいいでしょう」と、彼はつけ加え、ちょっと間《ま》をおいて、
「おや、もう十二時四十五分だな」
と、水車場の塔の時計からはっきり時刻を読みとった。
髪をつかんで棒立ちにさせられたかっこうで私はつっ立ち、しばらくのあいだ、ぼんやり口をあけて、その口から興奮した息づかいを吐きだしていたものだ。いまこそ彼の本心がわかった。やつは私をじゃま者扱いしているのだ。私はもう彼のそばにいるべきではない。いや、ここにいようと思ったって、その居場所さえ見つからないだろう。なぜ私は彼のそばにいたいなんて思ったのか。いや、私はこの場から去りたいのだ。即刻――私を待っていてくれる、親《しん》戚《せき》や友人たちのもとへ。もし私がそんな親戚も友人ももっていなくて、それこそ自分でなんとか片《かた》をつけなくちゃならぬとしたら――いまさら愚《ぐ》痴《ち》なんかなんの役にも立つものか――なあに、もっと早く私はどこかへ行ってしまえばよかったのだ。やっこさんのそばにいたら、私の背の高さだって、食欲だって、この冷たい手だって、なんの役にも立たないんだ。それでもまだやっこさんのそばにいなくちゃならん、とこの私がかりそめにも考えたとしたら、それこそ危険な考えというもんだ。
「わざわざ、あなたに知らせてもらう必要はありませんよ」
どうだ、それがほんとうだろう、と言わぬばかりに私はそう言ってやった。
「ありがたいことに、あなたはとうとうまっすぐに立ちましたな。いや、私は、十二時四十五分だって、ただそれだけ言っただけなんですよ」
「よろしい……」と、私は言って、がたがた震《ふる》えている歯のすきまへ二本の指の爪《つめ》をさしこんだ。「あなたに時刻を知らせてもらう必要なんかないとしたらですな、それについてのご説明なんかいっそう、必要としませんね。あなたのご好意だけなら、よろしいですがね。さあ、どうか、あなたがおっしゃったことを取り消してくれませんかね」
「十二時四十五分と言ったことをですか。ええ、それなら、喜んで――もう四十五分をとっくにすぎてますからね、いっそうよろこんで取り消しますよ」
すると、彼は右腕を持ち上げて手先をぴくぴく動かし、カフスの小さい鎖《くさり》をカスタネットのように鳴らして、自分でそれに耳を澄ました。
いま明らかに殺人行為が行なわれようとしている。私は彼のそばにいる。すると、彼は前からポケットの中で柄《つか》を握りしめていた短刀をいきなり上着をかすめてふりかざし、私を目がけて立ち向かってくるだろう。事があんまり簡単にはこぶので彼自身がびっくりする、というようなことは、まあ、ありそうにもない。だが、どうかわかったもんじゃない。おそらく私は大声をはりあげたりしないだろう。私の目が見えているかぎりは、ただ彼をじっと見つめていてやろう。……「どうしたのかね?……」と、彼が言った。
そのとき、窓ガラスの黒っぽい、かなり離れたコーヒー店のあたりから、巡査が一人、スケータア気どりで舗道を滑ってやってきた。サーベルがじゃまになるらしい。そいつを手につかんで、かなりの距離を滑ってゆき、滑りおわったところでほとんど弓形の弧を描いて回転する。ついに彼は小さな声で歓声をあげ、頭の中で音楽のメロディに合わせながら、またもや滑走をやりはじめる。
まもなく行なわれる殺人の現場から二百歩ほど離れたところで、自分のすることだけを見て、聞いている、この巡査の存在が私にある種の不安をいだかせたのは事実だ。――刺し殺させるか、それとも逃げだすか、どちらにしても私に関するかぎり結末がそこでつくことは確実といえる。だが、なまじ逃げだしたところで、かえって、ぎょうさんな、苦痛の多い死にざまをするだけ考えものだ。この死に方がすぐれている理由を即座にあげるわけにはいかなかったが、何も私に残された最後の瞬間をいたずらに理由さがしなんかしてすごさなくてもいいだろうさ。そうする決心さえもつなら決心はちゃんとついてるわけだ。あとで、それをする時間はあるさ。
私はやっぱり逃げださないわけにはいかなかった。そいつはまったく簡単だ。いまいるところは左手へ曲がるとカール橋へ行くのだが、右手をとれば私はカール横町へとびこむことができる。その横町は曲がりくねっていた。そこには暗い玄関口や、まだ店を開けている飲み屋が並んでいる。まだまだ私は絶望しなくていいのだ。……
河岸がひとまず行きづまりになるところでアーチの下をくぐって、私たちがクロイツヘレン広場へ足を踏み入れたとき、いまこそとばかり私は両腕を高く上げて例の横町へ駆けこんだ。ところが、ゼミナール教会堂の小さな入り口の前で私はばったり倒れてしまった。そこに段があろうとは思いもつかなかったのだ。ちょっとした物音がした。いちばん近い街《がい》燈《とう》でもその場からかなり離れていたので、私は暗いところへころがっていたわけだ。
向かい側の酒場から、ふとった女が横町で何か事が起こったらしいのを確かめようと小さなランプを手に持って出てきた。店内のピアノは音が小さくなったままひきつづけられている。片手だけでひいているのだ。というのは、演奏している男が入り口のドアのほうへぐっとからだをねじ向けて、外を見ているからだ。そのドアはいままで半開きになっていたのだが、詰《つめ》襟《えり》の上着をきた男がすっかり開けっぱなしにしてしまった。その男は地べたへ唾《つば》を吐いて、それからふとった女のからだをしっかり抱きすくめたので、女のほうはランプをかばうために、それを高くさしあげた。
「なんでもなかったんだよ」
そう男は店の中へ声をかけ、それから二人は背中を見せていっしょに室内へはいっていった。ドアはまた閉められた。
私は起きあがろうとして、またぶっ倒れた。「ちえっ、よく滑る氷だな」と、私はつぶやいたが、膝《ひざ》のへんに痛みを感じた。だが、酒場の連中が自分を見なかったことや、このまま夜が明けるまでじっと横になっていようと思えばいられることは嬉《うれ》しい気がした。
あの連れの男は、私が別れたのにも気がつかないで、きっと橋のへんまで行ったのだろう。なぜなら、しばらく時間がたってから、やっと私のところへ戻ってきたからだ。彼は私のからだの上へかがみこんでみて、ひどくびっくりしたらしいのだが、それに私は気がつかなかった。彼はまるでハイエナのように首だけをたれていた。それから、やわらかい手で私をなであげたり、なでおろしたりして、あげくに手のひらを額《ひたい》へ置いた。
「お怪《け》我《が》をなさったんじゃありませんかね。つるつるに凍っていますからね。用心しなくちゃいけませんよ。――ご自分でそう言ってたじゃありませんか? 頭が痛むのですか。そうじゃない……ああ、膝ですか、なるほど……困ったことになりましたな」
しかし、彼は私を助け起こそうとは考えつかないのだ。私は頭を右手の上にのせていた。その肘は舗《ほ》道《どう》の石の上へ置いたままだ。そんなかっこうで言ってやった。
「やれやれ、もう一度、ごいっしょになれましたな」
さて、またもや私は例の不安を覚《おぼ》えたので、ともかく彼を押《お》しのけようと思って、両手で彼の脛《けい》骨《こつ》をおしつけながら、
「行きたまえ、あっちへ行きたまえ」
と、言ってやった。
彼は両手をポケットへつっこんだまま、人通りの絶えた横町をぼんやりながめていたが、やがて、その視線をゼミナール教会堂へ、さらに上へ向けて空へと移した。そのうちに付近の横町のひとつをうろついている馬車のわだちが音高くひびいてきたので、彼はまた私の存在を思いうかべたらしい。
「どうしてあなたは口をきかないのですか。ご気分が悪いんですかね。なぜ起きあがろうとしないんですか。馬車をさがしてきてあげましょうか。お望みなら、あそこの酒場から、ちょっと一杯持ってきてあげてもいいですよ。とにかく、こんな寒いときに、地べたへなんかころがったままでいちゃいけませんな。どうです、ラウレンチベルクの丘へ行こうじゃありませんかね」
「もちろん、行きますとも……」そう私は言って、ひとりで立ちあがったのだが、ひどい苦痛を感じた。たちまち足もとがふらついたので、もっと足場に自信をつけるためにカール四世の立像をじっと鋭く見つめたものだ。だが、あの首のまわりに黒ビロードのリボンを巻きつけた少女から、たとえ熱烈ではなくとも、まごころをこめて愛されていることを思いつかないかぎり、そんなことをしたって、いまさらなんの役に立つものか。ところで、月が私をも照らしてくれるとは、まったく嬉《うれ》しいじゃないか。だが、月が地上の万物を照らすのはあたりまえのことだ、と思いついた。謙《けん》虚《きよ》な気持ちになって、あの橋の塔のアーチの下へ身をおこうとしたときに……すると、嬉しくなって私は両腕をすっかりひろげ、思いきり月光を楽しんだものだ。その腕をなげやりに動かして水泳ぎの所《しよ》作《さ》をくりかえすと、私はべつに苦痛もなく骨折りもせずにやすやすと前へ進むことができた。そんなことをいままで一度も試してみたことがなかったとは! 私の頭は冷たい空気のなかへ浮かびあがり、右の膝が格別に飛《ひ》翔《しよう》の役に立った。その膝をたたいて私はほめてやったものだ。そして、いまもなお自分の下のほうで歩いているにちがいない連れの男なんか、私は一度も好きになったことがなかったのを思い出した。私の記憶力がたしかで、そんな事《こと》柄《がら》までいちいち覚《おぼ》えているのが、とても嬉しい気がした。だが、いま私は泳いで行かなくちゃならないし、あんまり底のほうへ沈みたくなかったのだから、あれやこれや考えているわけにはいかない。しかし、だれだって舗道の上のほうでなら泳ぐことぐらいできようさ、そんなことは話の種にもならぬ、とあとになって人にとやかく言われたくないので、私はあるテンポの波にのって欄《らん》干《かん》の上をこえて飛びあがり、自分が行き会う聖像の周囲を片《かた》っぱしから泳いで回ったものだ。やっと五度目に――ちょうど、私は他人の目には認めがたいくらいに手をはばたかせて、舗道の上にからだをうかせていたのだ――連れの男は私の手をひっつかむことができた。それで私はふたたび舗道に足をつけて立つはめになり、また膝がしくしく痛みだした。
「いつでも……」と、私の知人は片手で私をしっかりつかんで放《はな》さないようにしながら、もういっぽうの手で聖ルドミラの像を指さして言った。「――いつ見ても私はこの左側の天使の手に感心してしまうんですよ。どのくらい繊《せん》細《さい》につくられてるか。まあ、ごらんなさいよ。まさに本物の天使の手です! あれに似たようなものでも、いままで見られたことがありますかね。あなたにはありますまいね。だが、私にはある……私は、今晩あの手にキスしたんですからな」
いまこそ私を破滅させる第三の可能性があるわけだ。私を刺し殺させてはいけない。逃げだしてもならないのだ。ただ空中へ身を投げかければいいんだ。きゃつのほうはラウレンチベルクへ登らせることにしよう。私はやつのじゃまをしたりしない。こんりんざい、逃げだしたりなんかして、きゃつの妨害をすることはないだろう。
さて、私は大声でどなってやった。
「そんな話はごめんこうむりたい! 話の端《はし》っこをちょっぴりなんか聞きとうもありませんな。話をするのなら、始まりからしまいまで全部やりたまえ。もし全部でなかったら、もう私は聞いてあげませんよ。私は話の全体を熱望してるんですからな」
彼がじっと私を見つめたので、やっとどなるのをやめた。
「私が絶対に秘密を守る人間であることを、信用してもらいたいですね。あなたが胸の中にもってるいっさいをみんな語りたまえ。私ほど口の固い聴《き》き手に、いままであなたは会ったことがなかったでしょうよ」
それから、彼の耳もとへ口を近づけて、かなり小さな声で私は言ってやった。
「あなたは、私なんか恐れる必要はないんですよ。いいですかね、そいつはほんとうによけいな心配というもんですな」
彼の笑い声が聞こえた。
「そうです。私はそう信じているのです。疑うことはしませんね」
そう言いながら、彼のふくらはぎを自分で足を引っこめたくなるくらい、つねってやった。ところが、彼ときたら、さっぱり感じないらしいのだ。私はひとりごとをつぶやいた。「――なぜおまえはこの男といっしょに行くんだ。おまえはこの男を愛してもいないし、憎んでもいないじゃないか。その訳は、彼の幸福が、一人の娘の身の上にかかっているからだ、その娘がいつも純白な服を着てる、ときまってはいないんだがね。この男のことなんか、おまえにとってはどうでもいいんだ。くりかえして言うが、まったく取るにたらぬ人間なんだよ。だが、彼は、ごらんのとおり、べつに危険な人物じゃない。だから、いっしょにラウレンチベルクへ登ってやれよ。こんな美しい晩に、おまえはそこへ行く途中だったんだからな。ところで、ひとつ、やっこさんに話をさせて……大きな声では言えないが、ほら、いちばんよく自分の身が守れるという、おまえのあの流儀で、しっかり一人で楽しむがいいさ」
U
楽しみごと
または 生存不可能の証明
1 騎 行
はやくも私は、何度もやり慣《な》れたような身のこなしで、私の知人の肩の上へひらりと跳《と》びあがっていた。両方の握り拳《こぶし》で彼の背中を押しつけて、軽快な速《はや》足《あし》で駆けさせた。まだいくらか不《ふ》承《しよう》不《ぶ》承《しよう》の色をみせてあがいたり、何度も立ちどまったりするようなときには、そのつど、気合いを入れてやるために長靴で彼の腹のへんを突ついてやった。それが効《き》いて、私たちは広いことは広いが、まだ仕上げが十分にできているとはいえない土地の中心へ早くもさしかかった。
私が騎行する街《かい》道《どう》は、石ころだらけで、ひどい上り坂になっていた。だが、ほかならぬそいつが私の気に入ったので、もっと石ころの多い、もっと傾斜のけわしい街道にこしらえ直してやった。私の知人がよろめいたときは、すぐに私は彼の首っ玉をつかまえて上へ引っぱりあげてやり、ため息でもつこうものなら、いきなり頭へげんこつをみまってやった。そうしながらも、このへんのいい空気を吸って遠乗りすることが、どのくらい健康のためによいかを身にしみて感じたものだ。もっとがむしゃらな騎行をやるために、激しい向かい風をさかんにあおりつづけて、まっこうから吹きつけさせたりした。
私は知人の幅広い肩の上で跳びはねる動作をやりすぎた。そのあいだ、両方の手で彼の首っ玉へしっかりしがみついて、頭をぐっとうしろへそらし、私よりも劣ったものの感じで、風のまにまにのろのろ吹き流されている、さまざまな形をした雲のたたずまいを眺《なが》めていたわけだ。私はからからと笑い、武《む》者《しや》ぶるいをした。上着は風をはらんで、私を元気づけてくれる。そのあいだ、両手をしっかり握り合わせて、私は知人の首を絞《し》めつけてやった。道のわきへ私の力でみるみる成長させてやった樹々の枝がじゃまになって、だんだん大空が隠されていくように思われだしたので、やっと私も考えこんだ。
「私にはわからない」と、私はうつろな声で叫んだものだ。「どうも私にはわからん。だれもやってこないときにゃ、まさにだれもやってこないんだな。私がだれかに悪いことをした覚《おぼ》えもないし、まだだれかから迷惑な目にあわされたこともない。それなのに、いまだれひとり私に手を貸そうとはしてくれない。そんなはずはないさ。……
だれひとり手を貸してくれないだけで、だれもいないのはいいことだろうよ。だれもいない、そんな連中なんかと私はいっしょに遠足したいな。(あなたは、どうお考えですかね)もちろん、山へ行く話なんだ。山のほかに、いったい、どこへ行きますかね。――そんな手あいが、なんと押し合い、へし合いしてるじゃありませんかね。横に伸ばしたのや、ぶらさがったのや、たくさんな腕、ごく小さい歩はばで離れている、これらのたくさんな脚《あし》。もちろん、みんな礼服を着てるんだからな。どうにかこうにか私たちは前進するわけです。すると、申し分のない風が私たちの間や手足のすきまを吹きぬけるという寸法ですよ。山の中では気楽に息ができますからね。それこそ歌のひとつでもうたいださないのが、不思議なくらいだ」
そのとき、私の知人がぶっ倒れたので、調べてみると、膝《ひざ》にひどい怪《け》我《が》をしていた。もう彼なんか私にとって、無用の存在だったから、これをさいわい石ころの上へあっさりころがしたままにしておき、口笛を吹いて二、三羽の禿《はげ》鷹《たか》を空から呼び降ろしたので、彼のからだの上におとなしく舞い降りて、そのいかめしいくちばしで見張り役を買ってでた。
2 散 歩
安心して私は先へ進んだ。だが、自分の足で歩いていくとなると、ひどく骨の折れる山路は苦《にが》手《て》だったから、道がだんだん平たくなるように、しまいに遠くのほうで谷間へくだっていくようなぐあいに自分でこしらえ直した。私の意志ひとつで石ころは消えてなくなり、風もばったりやんだ。
愉快な行進がつづいた。下り坂にかかると、私は頭をぐっともたげ、からだを固く伸ばして腕を頭のうしろで組み合わせたものだ。私は松の森が好きだったから、そのような森をくぐっていき、黙って星を仰ぐのが好きだったから、やがて空には私のために星が二つ三つと作法どおりにだんだん瞬《またた》きだした。ほんのちょっぴり雲がかかっていたが、その高さにだけ吹いていた風がその雲を引っぱってしまったので、ぶらぶら歩いていた私がびっくりしたものだ。
いま進んでいる道のかなり遠いかなたの、おそらくは間に一筋の河をさしはさんだ向こうのほうへ、私はどっしりと高い山をひとつ盛りあげてみた。そのてっぺんの高い台地には叢《そう》林《りん》を茂らせて空との境《さかい》にした。その梢《こずえ》の小枝の広がりが風にそよぐところまで私にははっきり見ることができる。たとえ平凡な風景ではあっても、とにかく、この眺《なが》めが私にはひじょうにうれしかったので、もう私はこの遠くの茂った木の枝にとまる一羽の小鳥になった気分で、うっかり月をさしのぼらせることを忘れていたのだった。月のほうではすでに山のうしろ側で待機していて、たぶん、あまり出《で》のおそいのを待ちかねて腹をたてていたことだろう。
いま、月の出をあらかじめ知らせる、あの涼しい光が山の上にひろがって、いきなり月が風にそよぐ叢林のうしろから立ち現われた。そのあいだ、私は別の方角を眺めていたのだが、その視線をかえして自分の前方へさし向けるやいなや、ほとんど満月に間近の円《まる》さで輝いている月がとつぜん目にはいったものだ。この自分のたどるけわしい道があのとてつもない月の中へまっすぐにつづいているように思われだしたので、しばらく私はもの悲しいまなざしでうち眺めながら歩みをとめて立っていた。
それもちょっとの間のことで、すぐ私はその月に慣《な》れて、さだめし月のほうでものぼりにくかったことだろう、と考えながら眺めやった。そうして、だいぶんの距離を月と向かい合って進んだあげく、とうとう私はひどい眠《ねむ》気《け》をおぼえだした。慣れない遠《とお》出《で》で疲れがたまったせいにちがいない。両手を規則的にぴしゃりと互いに打ち合わせながら、やっとこさ眠りこまないようにして、短いあいだだったが私は目をつぶったままで進んだ。
だが、かんじんの道が私の足もとから滑《すべ》り落ちそうな気がして怖《おそ》ろしくなり、ついにあらゆるものが私と同様にくたびれて消えはじめたので、大急ぎで私は道の右手に迫《せま》った山腹をいっしょうけんめいによじのぼりだした。あまりおそくならないうちに高みで茂っている松の森へたどりついて、そこでいまにも暮れかかった夜を迎えて寝たいと考えたからだ。
とにかく急ぐ必要があった。星はべつに雲もかからないのに光が薄れ、波立っている海の中へ落ちこむようなぐあいに、月が弱りこんで空へ吸いこまれるのが見られた。もはや山は闇《やみ》のとばりにつつまれ、あの道も私が山腹へ立ち向かったあたりでもうくずれ去ってなくなった。そして、森の奥からは倒れる木々の不《ぶ》気《き》味《み》な物音がだんだん近づいてくるのが聞こえる。いますぐ苔《こけ》の上へからだを投げかけて眠れさえしたら、とも思ったが、森の地《ぢ》べたへじかに寝るのはこわかったから、そばの木へはいのぼろうとすると、自分が腕と脚で抱きついていた幹そのものがいきなり下へ滑り落ちた。ともかく風もないのに揺れうごいている木の上へよじのぼって、一本の枝へからだを横たえ、頭は幹へよせかけて急いで眠りこんだ。その間に私の気まぐれの小栗《り》鼠《す》は震《ふる》えている枝の先へ尻尾《しつぽ》をつっ立ててすわりこみ、からだをゆすぶりつづけていた。
私は夢も見ずに眠りこんだ。月が落ちても、太陽がのぼっても、私は目をさまそうとしなかった。目がさめかけたときにさえ、「おまえは昨日《きのう》ずいぶん骨折ったんだから、よく眠るがいい」と言って自分の気をしずめてやり、もう一度また眠りこんだものだ。
だが、夢こそ見なかったものの、睡眠中たえずちょっとしたじゃまがはいった。一晩じゅうだれかが私のそばにいて何か話しつづけているのが聞こえた。「河《か》岸《し》のベンチ」だの、「雲みたいなかっこうをした山」だの、あるいは「煙を赤く輝かせている汽車」だの、ほんの個々のことばを除《のぞ》いては、ほとんど話の内容は聞きとれなかったが、その特徴のあるアクセントだけは耳の奥へ流れこんだものだ。自分はたしかに眠りこんでいたのだから、ひとつびとつのことばをいちいち耳に入れて理解する必要もなかったわけだ、と思うとなんだか嬉《うれ》しくなって、眠ったままで手をこすり合わせたことをおぼえている。
「おまえの生活は退《たい》屈《くつ》なものだった」と、私は自分でも得《とく》心《しん》がいくほど大きな声で言ってみた。「おまえがどこか別な場所へ連れていかれるのは、実際に必要なことなのだよ。おまえは満足を感じることができるだろうな。ここは楽しい場所なんだ。ほら、太陽も輝いている」
太陽は照り輝き、雨雲は白い色になって薄れ、青空に軽く、小さくかかっている。日に輝きながらもまだ抵抗を試みている。私は谷間を流れる河をながめた。
「そうだ。たしかに単調で退屈なものだった。だが、いまおまえはこの楽しみを手に入れている」と、私はそうせずにはいられないように言いつづけた。「しかし、おまえの生活を危険な目にさらしたことはなかったのか」
そのとき、ふとだれかが肌《はだ》一《ひと》重《え》の身近でため息をついたのを私は聞いた。
私は急いで木の上から降りかけたが、あいにく枝のやつが自分の手と同じくらい震《ふる》えていたので、つい感覚がしびれて高いところから落っこちた。打ちどころがよかったとみえて、べつに痛みこそ感じなかったが、この自分がひじょうに無力で不幸なもののように思われて、私は顔を森の地面へつっ伏せたものだ。自分の周囲の地上にあるものをよく見定めようと奮発してみる元気もいまはなかったからだ。あらゆる運動や思考は、不自然にしいられたものだから、そんなものは警戒しなければならぬ、というのが私の信念だった。それに反して、このように両腕をからだに添え、顔をうずめて草の中にじっと横たわっているのがいちばん自然なのだ。私は自分をほんとうに嬉《うれ》しがらせてやろうと思って、もし自分がこんな文《もん》句《く》のつけようのない状態にいるのでなかったら、いまごろはまだ歩きつづけるか、それとも話の相手をつとめているかして、とにかく、こうなるまでには厄介な精神の緊張をまだまだ必要としていたにちがいない、と自分自身を得心させにかかったものだ。
河は幅がたっぷりあって、うちさわぐさざ波が日に光っていた。向こう岸にも草原があって、やがて灌《かん》木《ぼく》林《りん》がそれにつづき、さらにそのずっと遠景には晴れやかな果樹の並み木があって、そのまま緑の丘へつらなっていた。
この見晴らしがひどく気に入ったので私はその場にからだを横たえ、どうも気にかかってならない泣き声には耳をふさぎながら、ここなら満足できるだろう、と私は考えてみた。なぜなら、ここは寂《さび》しくて、しかも美しいからだ。ここで暮らすのなら、あまり勇気もいるまい。ほかの土地と同様にここにも悩みの種はあるだろう。だが、その場合、あんまりりっぱにふるまってみせなくてもいいだろう。そんなことはそう必要ではないのだ。というのは、ここにはただ山と、大きな河があるだけで、私もまんざらのばかではないから、それらが生きものでないことぐらい知りぬいているわけだ。そうだ。私が夕方ひとりで草原の坂道を歩いていて、つまずいたとしても、私がそう感じるかどうかは別として、あの山より自分のほうがもっと孤独だなんてことはないだろうな。だが、まあ、あれも、やはり消えてしまうものだろうさ。……
そんなふうに自分の未来の生活と遊びたわむれて、私は強《ごう》情《じよう》に忘れてしまおうとやってみた。そのとき、私はこの世ならぬ幸福な色に染めだされている、あの大空をまばたきしながら眺め入ったものだ。もう長いあいだそんなふうに空を眺めたことがなかったので、私はすっかり感動して、そんなふうにしみじみ眺めたことがあるような気がする、その日あの日のことを思いうかべていた。私は耳から手をはなし、両腕をひろげて、そのまま草の中へおろした。遠くのほうからだれかがすすり泣きをしている弱々しい声が聞こえる。風が吹きだして、いままで見たこともない、たくさんな枯れ葉ががさがさ音をたてて舞いあがった。果樹からまだ熟さない実がまるで気でも狂ったように落っこちて地面をたたく。山のうしろからいやらしい雲が頭をもたげた。河の波はぴちゃぴちゃ音をたて、風に負けて逆流しだした。
私は急いで起きあがった。胸がせつなく痛んだ。この悩みからはとても脱《ぬ》けだせないように思われたからだ。この土地をいまは去って、以前の生活へふたたび戻っていきたいと思って、いまにもあとがえりをしようとしたとき、「今日でもまだ、紳士たちが河を渡るのに厄《やつ》介《かい》きわまる方法で運ばれているのは、たしかに注目すべきことではないか。昔からの習慣だといってしまう以外、なんにも説明しようがない」というような考えが頭へふとうかび上がった。あんまり不思議な気がしたので、私は首を横にふったものだ。
3 肥大漢
a 風景への挨拶
向こう岸の茂《しげ》みの中から、肩に木製の輿《こし》をかついだ四人の裸体の男たちが荒々しく立ち現われた。その輿の上にはひじょうに肥《ふと》った男が東洋ふうの姿勢ですわっていた。この男は灌《かん》木《ぼく》林《りん》の中の道もないところを運ばれてきたのだが、とげのある小枝を左右へ手でおし分けようとはしないで、彼自身の微動だにせぬからだでゆうゆうと小枝を突きあけるままにまかせていたのだ。たるんでしわができた、彼の肥満した肉体はずいぶん念を入れてひろげられていたから、輿の上いっぱいに場所を占めて、さらに黄色な敷きものの縁《ふち》でもたれさがっているみたいに輿のわきへはみだしてたれていたが、それほどの脂肪のかたまりを彼自身はべつにもてあましているふうにも見えない。彼の毛のない頭《ず》蓋《がい》は小さくて、黄色に光っていた。その顔つきときたら、黙想に耽《ふけ》っているさまを隠《かく》そうともしない人の、しごく単純な表情をうかべている。ときどき彼は目を閉じる。またふたたび開けて、しかめっ面《つら》をする。
「どうも風景というやつは、私が考えに耽るのをじゃまして困る」と、彼は低い声で言いだした。「まるで激《げき》怒《ど》してる流れにかけられた吊《つ》り橋みたいに、私の考えごとを動揺させる。風景は美しいばっかりに、人から眺《なが》められたいのだ」「私は目をつぶって言う――水勢にさからってころがる石を底にもっている、あの河のほとりの緑の山よ。おまえは美しい。
だが、山はそんなことぐらいでは満足すまい。私が目を見ひらいて眺めることを欲しているのだ。
山よ、私はおまえを愛さない。なぜなら、おまえは、雲だの、夕《ゆう》映《ば》えだの、だんだん高まっていく空だのを私に思い出させるからだ。それらのものはみんな、私をいまにも泣けそうにする。小さな輿《こし》なんかに乗って運ばれたひには、いつまでたっても到達できそうにもないものばかりだからだ。おまえがそんなことを身をもって示しているあいだじゅう、狡《こう》猾《かつ》な山よ、おまえは私を快活にしてくれるはずの、あの遠景を見えないように妨げる。その遠景こそ、美しい眺《ちよう》望《ぼう》の中にあって到達しうる目標をさし示してくれるものなのだ。それゆえにこそ、私はおまえを愛さない。河のほとりの山よ、私はおまえを愛さない。
こんなふうに私が目を閉じたまま言ってみたところで、このような挨《あい》拶《さつ》の仕方なんか、あの山にとってはどうでもいいことだろう。ちゃんと目を見開いて話しかけないかぎりは、前にも述べた挨拶の文《もん》句《く》と同様、彼にとっては一《いつ》顧《こ》にも価《あたい》しないのだ。そうでなくては彼は満足できないのだ。
私たちのできそこないの脳《のう》味《み》噌《そ》を気まぐれにも好きこのんでいる山のやつを、なんとか直立させておくだけのためなら、べつに私たちが愛《あい》想《そう》よくしてやる必要はないわけだ。山のやつはぎざぎざの縁《ふち》のついた影を私の上へ投げかけるだろう。やつは黙ったまま草一本はえてない絶壁を私の前へ押しだし、私の運搬夫たちは道ばたのちっぽけな石ころにつまずいてしまうかもしれない。
だが、なにも山のやつだけがそんなに思いあがって、厚《こう》顔《がん》無《む》恥《ち》で、執《しゆう》念《ねん》深いというわけではあるまい。ほかのものだって、みんなそうなんだ。さて、私は目をまんまるく見ひらいて――おお、目が痛くなる――しょっちゅうくりかえし言わなくてはならない。
そうだ。山よ、おまえは美しい。そして、おまえの西側の絶壁の上にある森は、たいそう私の気に入った。――花よ、おまえもまた私を満足させてくれる。おまえのばら色は私の心をうきたたせる。――草よ、とにかくおまえはもう高く伸びて、しかも強《きよう》靱《じん》で、私をさわやかにしてくれる。――それから、異国ふうの叢《そう》林《りん》よ、おまえはあんまり思いがけないときに刺《さ》したりするので、私たちの考えごとなんか宙へ吹っとんでしまう。――だが、河よ、私はおまえがとても好きなんだ。おまえのしなやかな水に浮かべて私を運んでおくれ」
このような賛美の言葉をつつましく何度も姿勢を正して、声高らかに十ぺんもとなえたあげく、彼は頭をたれ、眼を閉じて言った。
「ところで、お願いがある。山よ、花よ、草よ、茂みよ、河よ。私が息のできるように、ちょっぴりでも空間をあたえておくれ」
すると、立ちこめた霧のうしろへ押しっくらをしている、周囲の山々の間に、あわただしい変化がはじまった。並み木はしっかり立って、道の幅に沿って見張っていたが、はやくも形がぼやけて消えだした。大空では、かすかに縁《ふち》を光線で染めぬかれた、水《みず》気《け》を含んだ雲が太陽の前方にかぶさり、その雲の落とす影の中で土地ぜんたいが深く沈みこんで、地上のものはみんな、その美しい輪《りん》郭《かく》を失ってしまった。
運搬夫たちの足音はこちらの岸にいても聞こえるようになっていたが、彼らの角《かく》張《ば》った黒い顔はどこが目鼻やらさっぱり見分けもつかなかった。ただ彼らの頭がわきへ傾いているのと、法外に重い荷物のせいで彼らの背中が曲がっているのが私の目にうつるだけだった。彼らのことが私は心配になった。もう疲《ひ》労《ろう》困《こん》憊《ぱい》しているのがわかるからだ。彼らが岸の草の中へ足を踏み入れたとき、私は緊張して見守った。どうやらつりあいのとれた足どりで湿った砂地を歩いて行ったが、とうとう泥の深い蘆《あし》の間へはまりこんだ。うしろの二人の運搬夫は輿《こし》を水平に保とうとしてからだをぐっとかがめた。私は思わず手を握りしめた。いま彼らは一歩ごとに足を高く抜き上げねばならない。そのために天気が変わりやすい、この午後のひんやりした大気の中でも、彼らのからだはいっぱい汗の玉がうかんで光っていた。肥《ひ》大《だい》漢《かん》は悠然とすわりこんで、両手を太ももの上においている。先頭の運搬夫の背後で蘆《あし》の長い穂先が跳ねあがって、肥大漢のからだをかすめた。
運搬夫たちが流れへ近づくにつれて、その動作はだんだん不規則に乱れていく。ときどき輿はもう波に浮かんでいるみたいな揺れ方をしている。蘆の間の小さな水たまりもたいていは深かったから、その上を跳びこえるか、迂《う》回《かい》するかしなければならないのだ。
一度など野《の》鴨《がも》が甲《かん》高《だか》く鳴きながら飛びあがり、急なカーブを描いて雨雲の中へ突入した。そのとき、私はすばしこい動作で肥大漢の顔をちらっと見た。ひどく不安そうな顔だった。私は立ちあがり、自分と河との間にある石ころだらけの傾斜を不器用に跳《と》びはねて駆けおりた。私は身の危険など碌《ろく》に考えもしないで、従《じゆう》僕《ぼく》たちが肥大漢を運ぶことができなくなったら、そのときは自分が手伝ってやろうぐらいに考えていたのだ。あまり無《む》分《ふん》別《べつ》に走りすぎたので、水ぎわへ降りきっても足をぴったりとめることができなくて、そのまま水しぶきをあげて河の中へとびこみ、やっと水が膝《ひざ》のへんまできたところで立ちどまった。
向こうでは従僕たちが輿をひどく扱いにくそうにして水の中へかつぎこんだ。彼らは油《ゆ》断《だん》もすきもできぬ水の上でめいめい片手を使ってからだの平均をとりながら、残る四本の毛深い腕で輿を高くささえたものだから、異常に筋肉の盛りあがっているのが見えた。
水はまず頤《おとがい》へ打ちよせ、それから口のあたりまで高まった。運搬夫たちの頭はうしろへそっくりかえり、かつぎ棒は肩の上へおろされた。水はもう鼻《び》梁《りよう》のまわりでたわむれている。それでも彼らはまだ河のまん中へも行きつかないくらいなのだが、どうしてもつらい骨の折れる仕事をあきらめようとはしない。と、低い波が先頭の二人へ頭の上からかぶさった。すると、四人の男たちは荒々しい手つきで輿を自分たちといっしょに水の中へ引っぱりこみながら、それこそ声ひとつ立てずに溺《おぼ》れてしまった。水がその沈んだ跡《あと》へおしよせた。
そのとき大きな雲の縁《ふち》から夕日の水平にさす光線がほとばしって、視界のはての丘や山をまぶしく輝かしたが、いっぽう雲の下になっている河と土地はぼんやり鈍《にぶ》い光につつまれたままだった。
肥大漢は河の流れる方向へゆっくり回転して、もういらなくなったのでだれかが河の中へ投げこんだ、白《しら》木《き》の神像みたいに浮かんで川下へおし流されていく。河《かわ》面《も》に映った雨雲の影にのせられて彼は流れる。細長くのびた雲が彼を前から引っぱり、小さくかがみこんだようなかっこうの雲がうしろから押している。つまり、大騒動がもちあがったわけなんだ。それも波が私の膝がしらや、岸辺の石へ打ちよせたので、やっとそうだと気がついた始末だった。
私はまた傾斜を大あわてで這《は》いあがった。私はあの肥大漢がほんとうに好きになっていたから、道づたいにあとを追ってやろうと思ったのだ。この見かけだけは安全そうな土地の危険さを私もいくらか体験できたわけだ。狭いので、足が慣れないと歩きにくい砂の小《こ》径《みち》を私は進んでいった。両手をポケットにつっこみ、顔を直角に河のほうへねじ向けて、ほとんどあごが肩へのっかっているかっこうになっていた。……
岸の石に燕《つばめ》がとまっていた。
と、肥大漢のほうから声をかけた。
「岸にいられる方、わたしを助けようなんてしてくださるな。こりゃ、水と風の復《ふく》讐《しゆう》というもんです。わたしはもうだめだ。たしかに罰《ばち》があたったんだ。たびたび私たちがあいつらを軽《けい》蔑《べつ》して攻めたてた報《むく》いですよ。私たちは――わたしと友人の祈《き》祷《とう》者《しや》は、刃《は》もので風を切り、ぴかぴか光るシンバルや、すばらしく見事なトロンボーンや、火花を散らす太《たい》鼓《こ》で、あいつらを祈り倒そうとしたもんでした」
小さな蚊《か》がいつものすばしっこさで、羽をひろげたまま彼の腹のあたりを飛んだ。
肥大漢はさらに話をつづけた。……
b 祈祷者となされた対話
くる日もくる日もせっせと教会へ通いつめた時期があった。私の惚《ほ》れこんだ娘が夕方に半時間くらいもひざまずいて、お祈りをささげることにしていたからだ。そのあいだじゅう、私はゆったりした気分で娘を見守ることができた。
あるとき例の娘はまだ来ていなくて、お祈りをしている連中をふきげんに眺《なが》めていると、ひどくやせたからだつきの若い男が床へひれ伏している姿が私の目をひいた。ときどき彼は全身の力をこめて頭をわしづかみにしたかと思うと、こんどはため息をつきながら石の上へのせかけた手のひらの中へその頭をたたきつけたりしている。
教会の中には老婆が二、三人いるだけだったが、ときどき祈りをささげている男のほうへ、布《ぬの》ぎれでつつんだ頭をわきへ傾け気味にふり向けて見ていた。そんなふうに他人から注目されるのを彼はむしろ喜んでいるらしかった。というのは、いかにも敬《けい》虔《けん》そうな挙動を突然やりはじめる前に、かならず彼は目だまをくるくる回して見物人が多いかどうかをうかがっていたからだ。
いんちきぶりを見やぶった私は、この男が教会から出たら話しかけて、なぜ彼がそんな仕方で祈るのか、単《たん》刀《とう》直《ちよく》入《にゆう》にきいてみてやろうと決心した。私がこの町へ到着したときから、いまこそ例の娘がやってこなかったので、ふきげんになっているものの、なんといっても明らかに理解することが私のいちばんの関心事だったわけだ。
一時間もたってから彼はやっと立ちあがり、いつまでものろのろズボンの塵《ちり》をはらっているので、「それで、もう、けっこう! あなたがズボンをお持ちになってることは、もうよくわかっていますからね」と、大きな声で言ってやりたくなったくらいだ。彼はひどく念入りに十字を切ってから、まるで水夫のように重たい足どりで聖水盤《ばん》のほうへ歩いていった。
私は水盤と入り口のあいだの通路に立っていた。なんとかわけを説明してくれぬかぎり、彼をこのまま通してはやらないだろう、ということが自分ではちゃんとわかっていた。私は口をへ《ヽ》の字にゆがめた。それが思いきって話をつけるのにいちばんつごうのいい構《かま》えだったからだ。前へ踏《ふ》みだした右足でからだの重みをささえ、左足は爪《つま》先で立っていた。いままで何度かの経験によると、その姿勢はびくともせぬ安定感をあたえてくれたものだ。
その男は自分の顔へ聖水をふりかけながら、どうやら私のほうを横目でじっとうかがっているようだ。察するに、私の視線がかなり前から彼を不安がらせていたらしいのだが、不意にいま彼は入り口のほうへ駆けだして、外へとびだした。私も思わず一跳びして彼を引きとめようとした。ガラスのドアがばたんと閉《し》まった。すぐあとを追いかけて私が外へ出たときには、もう彼の姿はどこにも見つからなかった。そのへんには狭い横町が二つ三つあって、人の往来でごったがえしていたからだ。
その翌日、彼は姿を現わさなかった。しかし、例の娘のほうはやってきて、わきの礼拝室のすみっこでいつものように祈りをささげた。娘は肩と襟《えり》首《くび》のところに透《す》かしのレースのついた黒い服を着ている。そのレースの下に半月の形にくりぬいた肌着のふちが透いて、その下のはしにかっこうよく裁《た》たれた絹の襟がたれていた。娘がやってきたのだから、あの男のことなんか喜んで忘れてやった。そして、実際、あの男がおくれてちゃんと姿を見せ、いつもの型どおりに祈りだしても、最初のうちはべつに彼のことが気にもかからなかったものだ。
いつでもあの男は顔をそむけて、大急ぎで私のそばを通りすぎる。そのくせ、お祈りをしている最中には、しょっちゅう私のほうを見ている。あのとき私がついに話しかけてやらなかったのを根にもって、怒っているふうにも見えた。また一度でも話しかけようと試みたからには、けっきょくは実際にそうしなければならぬ責任が私にあるとでも、彼は考えているらしいのだ。説教がすんだあと、ずっと例の娘のあとをつけていくうちに薄暗いところで彼とつきあたったのだが、そのとき彼がにやりと微笑したような気がした。
彼へ話しかけねばならぬ義務なんて、もちろん、ありうるはずもない。いや、もう話しかけたいという気持ちさえなくなりかけている。一度など教会の広場を小走りに駆けつけて中へとびこんだことがあったが、その間にもう七時を打っていたから、例の娘はとっくに教会からいなくなっており、ただあの男だけが祭壇の手すりの前でくたびれたように例のしぐさをやっているだけだった。そのときでさえ私は声をかけるのを躊《ちゆう》躇《ちよ》したものだ。
けっきょく、私はぬき足さし足で入り口へすべりでて、そこらへんにすわっていた盲の乞食《こじき》に貨幣を投げてやり、開いているドアのうしろ側へ彼と並ぶようにからだをぴったり押しつけた。ひとつあの祈《き》祷《とう》者《しや》を不意打ちしてやろうとたくらんで、それで三十分間くらいはほくそ笑《え》んで待っていた。だが、やっぱり、長くはつづかなかった。そのうち蜘《く》蛛《も》のやつが服の上をはいまわったので、ひどく不愉快になってしまったうえに、ほの暗い教会の中からだれかが大きく息を吸いこみながら外へ出てくるたびに、いちいち頭をさげてやるのもばかくさくなってきた。
あの男も出てきた。ちょっと前からひとくさり鳴りだしていた大鐘の音は、どうやら彼にとっては勝手が悪かったようだ。大地を足でしっかり踏みつける前に、彼はまず爪《つま》先で軽くちょっと地面に触れてみないわけにはいかなかった。
私は立ちあがって大またであゆみ寄り、すばやく彼を引きとめた。「今晩は」と私は言って、彼の首っ玉へ手をかけ、階段を降りて明るく照らしだされている広場のほうへ押していった。
いっしょに段を下まで降りきると、彼は私のほうをふり向いた。やはりまだ私は背後から彼をひっつかんでいたので、いま私たちは互いに胸と胸をくっつけて立っているわけだ。「とにかく、うしろからつかむことだけはやめてもらいたいですね」と、彼は言った。「どういう嫌《けん》疑《ぎ》をこの私へかけていられるのか、さっぱり見当がつきません。しかし、私は潔《けつ》白《ぱく》ですからね」
それから、もう一度、彼はくりかえした。
「いったい、なんで嫌疑をうけたのか、私にはさっぱりわからん」
「この場合、嫌疑をかけられようが、無実であろうが、そんなのは問題にしなくてもいいんですよ。まあ、そのことには触れないように願いましょう。私たちはお互いに他人同士でした。私たちが知り合いになったのは、たった今のことですからね。そんな私たちがめいめい身の潔白についてしゃべりはじめたところで、いったい、どうなりますかね」
「まったくの私の意見なんですがね……」と、彼が言った。「それにしても、いま、あなたは『私たちの潔白』とおっしゃいましたね。そうすると、もし私が自分の潔白の証《あかし》を立てたら、あなたもご自分の潔白を証明しなくちゃならんだろう、と考えていられるのですか。そうなんでしょうか」
「そうかもしれんし、そうでないかもしれませんな」と私は言った。「だが、私があなたへわざわざ話しかけたりしたのは、ただおききしたいことがあったからなんでしてね。その点をご注意ねがいたいものです」
「私はもう家へ帰らせてもらいたいのですがね」
彼はそう言って、すこしばかりからだの向きを変えてみせた。
「いや、ごもっともです。そうでなかったら、はたして私はあなたへ話しかけたりしたでしょうかね。まさか私があなたの目の美しいのにひかれて話しかけたなんて、お信じになっては困りますよ」
「どうも、あなたは、ちっと率《そつ》直《ちよく》すぎるんじゃありませんかな」
「この際そんなことは問題外だ、ともう一ぺん私は言わなくちゃならんのですかね。ここで率直だとか、いや、率直さが足《た》らんとか、言ってみたところでなんの役に立つもんですか。私がおききして、あなたが答えてくださる、それで、さようならですよ。どうぞ、勝手にお帰りください、お望みどおりに早く……」
「また今度お会いしたほうがいいんじゃありませんか。またつごうのいいときにでも。たぶん、コーヒー店あたりで? それに、あなたのいいなずけの娘さんはほんの二、三分前に出ていかれたばかりでしょう。あなたは十分まだ追いつけましょうよ。あの女はずいぶん長いあいだ、あなたを待っていたんですからね」
「いけません」と、私は走りすぎる市街電車の騒音につつまれて声をはりあげた。「私から逃げだしちゃいけない。あなたがますます好きになったところですよ。あなたは幸運の獲《え》物《もの》なんだ。自分で自分へお祝いを言ってやりたいくらいです」
「おや、おや、あなたは、世間でいっている丈夫な心臓と石《いし》頭《あたま》をもっていらっしゃるようですな。まるで自分がぜひともしあわせにならなくちゃならないふうに、幸運の獲物なんて私を呼んでいらっしゃる。ところが、私の不運はとても変わりやすい、あてにならぬ不運なんでしてね、そいつにだれかが触れようもんなら、たちまち質問する人の頭上をみまうというしろものなんですからね。そういうわけですから……まあ、おやすみなさい」
「よろしい」そう言うやいなや、私は不意にとびかかって彼の右手をひっつかんだ。「あなたが自発的に答えてくれんというなら、どうしても私は言わせてみせますよ。あなたがこれから行くところなら右でも左でもあとにくっついていって、階段もついてのぼるし、あなたの部屋へものこのこはいってすわりこんであげます。きっとですよ、この私をよくごらんなさい。私はこらえにこらえているんですよ。いったい、どうしてくれますか」と、私は彼のすぐ前へ足を踏みだしたが、あいにく彼のほうが頭だけ私より背が高かったので、首のへんに話しかけるかっこうになっていたわけだ。「どうですかね、勇気をだして、私のじゃまをしてみますか」
すると、彼はあとじさりしながら私の両手へかわるがわる接《せつ》吻《ぷん》して、自分の涙で濡《ぬ》らした。
「あなたにたいして、どうして拒《こば》んだりできましょう。私が家へ帰りたがってるのをあなたがご存じなのと同様に、私だって、あなたへはなんにも拒んだりできないことが前からわかっていましたよ。お願いします、向こうの横町のほうへ行こうじゃありませんか」
私はうなずいて、いっしょに出かけた。馬車が二人のあいだへ割りこんだために私が遅れると、彼は両手をふって私に急ぐようにと合い図をしてみせた。
その横町では街《がい》燈《とう》がまばらに離れている上に、ほとんど二階の高さに取りつけてあったから、そのへんの暗いのが彼は気にくわないらしかった。それで彼は一軒の古ぼけた家の、木の階段の前方に油の漏《も》れるランプがかかっている、天井の低い玄関口へ私をつれこんだものだ。やがて、踏みならされて凹《くぼ》みのできた段の上へ彼は自分のハンカチをひろげて、私にそこへすわるようにすすめた。
「おすわりになったほうが質問をなさりやすいでしょう。私は立たせてもらいましょう。そのほうがよく答えられそうですからね。だが、まあ、お手やわらかに願いたいもんですな」
彼がこの問題をひどくまじめに考えているらしいので、私は腰をおろしたが、つい次のように言ってしまった。
「私はあなたに好奇心だけで結びつき、あなたはただ不安の念だけで私に結ばれてるわけなんですが、とにかく、あなたは私たちがまるで共謀者ででもあるみたいに、この穴《あな》倉《ぐら》へ私をつれこみましたね。ところで、けっきょく、私がおたずねしたい点は、なぜあなたは教会であんなふうに祈っていられるか、ということにすぎんのです。あなたは、教会の中でなんというふるまいをなさっていたのですか。もうまるで申し分のないばか者みたいに。じつに滑《こつ》稽《けい》じゃありませんかね。単なる傍観者の目にも不愉快だし、熱心な信者にはとても辛《しん》抱《ぼう》しきれんことですよ」
彼は壁にぴったりへばりついて立っていたが、それでも頭だけは思いどおりに動かした。
「それはまったく誤解ですよ。といいますのはね、私のふるまいを信者連中なら当然だと考えましょうし、ほかの人たちが見たら、信心深いと思ってくれますよ」
「とんでもない。私の憤《ふん》慨《がい》したのが、その反対の証拠ですよ」
「あなたがそんなに憤慨されたのは――もっとも、その憤慨ぶりが掛《か》け値《ね》なしのものと仮定しての話なんですがね――つまり、あなたが信者でもないし、といって、それ以外の人々の仲間にもはいっていられないという証拠にすぎません」
「いや、あなたのおっしゃるとおりに、もし私がですね、あなたのふるまいが私を憤慨させた、と言ったら、それはちと言いすぎになるでしょう。そうじゃなくて、私が最初に言ったことが正しいのですが、なにか好奇心が私へはたらきかけたのです。ところで、あなた自身はどの仲間にはいられるんですかね」
「ああ、ただ人々から眺《なが》められるのが、まあ、言ってみれば、ときどき祭壇の上へ自分の影を投げかけるのが私にはおもしろいだけなんですよ」
「おもしろいんですって……」と、私はききかえして、眉《まゆ》をひそめた。
「知りたいとおっしゃるなら申しますが、それとも違います。いま、まちがった言い方をしたりしましたが、どうか、お気を悪くなさらんでくださいよ。おもしろ半分じゃなくて、むしろ欲望のほうです。他人に見られることによって、自分を小《こ》一時間しっかり鍛《きた》えあげようという欲求ですね。そのとき、この町ぜんたいが自分の周囲にある……」
「なにを言ってるのですか」と、この天井の低い廊下で、ちょっぴり意見を述べるのには大きすぎる声を私はだしたものだ。だが、このまま黙りこんでしまうのも、声の調子を弱めてつづけることも私はやりたくなかったので、「じっさい、あなたはなにを言ってるんですか。あなたがどんな状態にいるか、私が最初から見抜いていたことは、やっぱり、ほんとうでしたよ。そいつは、このような熱病、陸地にいて感じる船酔い、あるいは一種の業《ごう》病《びよう》じゃありませんか。あなたはすっかり熱にうかされて、物のほんとうの名前では満足できなくなったものだから、いろんな物の上へ大急ぎで偶然の名前をばらまこうというのじゃありませんか。さあ、急いだり、急いだり! だが、あなたがそれらの物からちょっとでも走り去ろうものなら、すぐまた、それらの名前を忘れてしまうことでしょうな。それがポプラだということを知りたくないもんだから、あなたが『バベルの塔』なんて名前をつけてやられた、あの野っぱらのポプラの樹《き》はまた名前がなくなって、風にふらふら揺れたりするんで、あなたは『酔っぱらったノア』とでも今度は名前をつけてやらなきゃならない」
「おっしゃることが私にはさっぱり理解できない、というのもまた一《いつ》興《きよう》ですな」
と、彼は口をさしはさんだ。
そいつが癇《かん》にさわったので、私もすばやく言いかえしてやった。「そんなことをあなたがおもしろがっていられるのが、つまり、ちゃんと理解していられる証拠なんですよ」
「そのことはもう前に言いませんでしたかね。だれもあなたを拒《こば》んだりなんかできないって……」
私は両肘《ひじ》を上の段へのせてうしろへよりかかり、いわば格闘する者の取っておきの防御姿勢ともいいうる、こちらからはほとんど攻撃に出られそうもない姿勢をとってから、きいてやった。「どうも失礼しましたな。しかし、こちらからしてあげる説明を、あなたのほうから私に投げ返したりされるのは、あまり率《そつ》直《ちよく》なやり方じゃありませんね」
そう言われて彼は勇気をだしたようだ。自分のからだに統一をあたえるために、彼はまず両手を互いに組み合わせてから、軽い反抗の色をしめして言った。
「率直の問題について論議することを、あんた自身が最初すぐに閉めだしてしまわれたのですよ。実際のところ、私にとっては自分の祈祷の仕方をあなたにわかってもらえること以外には、なんにも念頭にないんですからね。どうして私があんな祈り方をしてるか、それじゃ、おわかりですか」
やっこさんは私の気持ちをさぐっているのだ。私はそのわけなんか知らないし、また知ろうとも思わない。あのとき自分へ言いきかせたように、なにも私はこんなところへまでやってくるつもりはなかったのだ。だのに、あの男が彼の話に耳をかたむけるように私を強制したわけなんだ。あのとき私はただ頭を横にふってやるだけでよかったのだ。それだけで万事が上《じよう》首《しゆ》尾《び》にはこんだはずだったのだが、どういうものか私はあの瞬間それだけのことができなかった。
この男は私に面と向かい合って微笑をうかべている。やがて、膝を折ってその場にかがみこみ、いかにも眠たそうに顔をしかめて語りだしたものだ。
「なぜ私があなたに話しかけさせるようにしむけたか、そのわけをいまお話ししてあげてもいいんですがね。それは好奇心であり、希望をいだいていたからですよ。あなたのまなざしがもう長いあいだ私を慰めてくれていたのです。ほかの人の前には小さなブランディのグラスが、なにかの記念物みたいにテーブルの上へちゃんとのっかっているというのに、私の周囲ではまるで雪でも降るように、いろんな物が落っこちてくるのは、いったい、どういう状態なのか、その真相をあなたにお聞かせ願いたい、とこう考えていたわけなんです」
私は黙りこんでいたが、その私の顔を無意識にけいれんがはしったのを見てとって、彼がきいた。
「ほかの連中にはそんなぐあいになってる、とお信じになりませんか。ほんとうに信じませんか。まあ、ひとつ、聞いてくださいよ。私がまだ小さな子《こ》供《ども》だったころのことです、ちょっと昼寝したあとで目をさますと、もっとも、まだたわいない子供ごころのことなんですがね、母親が露《ろ》台《だい》から下をのぞいて、『ねえ、あんた、そこで何をしてるんだね。ばかに暑いじゃないかね』と、ふだんの声の調子でだれかにたずねているところを耳にしたわけです。すると、庭からは女の声が答えるのが聞こえました。『わたしはね、木の蔭《かげ》でおやつをいただいてるところなのよ』
女たちはべつに深く考えもしないで言ったまでのことで、その婦人のほうはきかれることを期待し、私の母親は返事を期待してたとでもいったような、はっきりした意味があって言ったわけじゃないんですね」
ところで、私は自分がたずねられていると思ったものだから、ズボンのうしろのポケットへ手をつっこんで、なにかさがしているようなしぐさをした。もちろん、なんにもさがしているわけではなくて、自分がこの話題に関心をいだいているところを示してやろうと思って、ただ自分の外見を変えようとしただけの話だ。その際、私は、このできごとはひじょうに注目すべきだが、自分にはさっぱり意味がわからない、と言ってやった。さらに、私はこのできごとの真実性を信じないし、おそらく私なんかが見抜くことのできない、ある特定の目的に合《がつ》致《ち》するように工《く》夫《ふう》されたものにちがいない、と私はつけ加えて言った。そのあとで目を閉じて、あのおそまつな灯火を見ないようにした。
「まあ、ひとつ、勇気をだしてごらんなさい。たとえばですね、あなたは私の考えに同調されて、公平無私の精神からそのことを私へ打ち明けようとなさって私を引きとめられたのですよ。私はひとつの希望を失っても、また別の希望をつかむわけです。……
ねえ、そうでしょう、私がしゃんと直立して歩かないといって、ステッキで舗《ほ》道《どう》をたたいたりしないからといって、あるいは足音を高くひびかせて通りすぎる人々の服へちょっと軽く触れたりしないからといって、なぜ恥ずかしいと思わなきゃならないんですかね。いっそのこと、私がはっきりした輪《りん》郭《かく》をもたない影みたいなものになって、たびたびショウウィンドウのガラスの中へ姿を消したりしながら、家並みにそって跳びまわるのを反抗的になげくのは私の本領なんだ、とまっこうから苦情をもちこんでやっても当然のことじゃありますまいかね。……
なんという日々を私はすごしていることか! そんなことより、どの家もこの家もなぜひどくおそまつに建てられているんでしょう。ときどき高い建物が、外から見たところではなんの原因もなしに、倒壊してしまうことがありますね。私はうず高くつもった瓦《が》礫《れき》の上へよじのぼって、会う人ごとに尋ねてみるのです。『いったい、どうして、こんなことが起こりうるのですかね。このわれわれの街《まち》では――それも、新しい家がですよ――今日だけでも、もう何軒目かの家がくずれ落ちたでしょう。――ひとつ、よくお考えになってみてくださいませんか』だが、だれひとり私に答えてくれるものはないのです。……
しばしば人が路上にぶっ倒れて、死んで横たわったままになっています。すると、商店の連中が商品のぶらさがっている戸をおし開けて、すばやくそばへやってきて、死人をある一軒の家へ運びこみ、やがて口と目のまわりに微笑をうかべて戻ってくる。そこで、おしゃべりがはじまるわけです。――やあ、こんにちは――空が青ざめていますね――頭《ず》巾《きん》がたくさん売れてるんですよ――そうです、戦争です……さて、私はその家へ急いで行ってみます。そうして、なんべんもおそるおそる指を曲げたままの手をあげたあげく、思いきって門番のいる窓をノックして、『やあ、おはよう』と、声をかけます。『すこし前にあんたのところへ死んだ男が運ばれてきたような気がするんだがね。ひとつ、すまないが、その男を私にみせてもらえないかね』
すると、門番のやつはなんとも決断がつきかねるふうに頭を横にふったりするので、すかさず私はつけ加えてやるわけです、『おい、ちと気をつけてもらいたいね。わしは秘密警察の者だがね、いますぐ死人を見たいんだ』こんどこそ門番もぐずぐずしてはいない。『出てうせろ!』と、やつは大声をはりあげて、『このごろつき野郎、毎日このへんをうろつきまわっていやがるんだな。うちにゃ死人なんかおらんぜ。おおかた、お隣だろうよ』
そこで、私はぴょこんと頭をさげて、外へ出ていくわけなんですよ。
だが、そのあとで大きな広場を横切るときには、私はもういっさいのことを忘れているのです。さて、むてっぽうにもこんなでっかい広場をこしらえておきながら、どうして広場をつっきるような手すりを取りつけなかったのだろうな。今日は南西の風が吹いてたようですね。市役所の塔の尖《せん》頂《ちよう》が小さく円を描いて揺れている。どの家の窓ガラスもがたぴし音をたて、街燈の支柱は竹のようにしなってる。円柱の上にのっかっている聖母マリアの像のガウンはからみあって、さらに風のやつがそいつを引っぱっているんです。はてな、だれも見ている者はないのかな。石ころの上を歩かなくちゃならなくなった紳士連中や、婦人がたがふらりふらりと動いています。いまに風がやんだら、きっと連中は立ちどまって、お互いに二つ三つことばをかわし合い、小腰をかがめてお辞《じ》儀《ぎ》なんかするんだが、さて、疾《しつ》風《ぷう》がまた吹きつけると、もうそいつに抵抗することもできなくて、みんな同時にふらふらと足をうかせる始末なんですからね。彼らはめいめい帽子をしっかりおさえていなくちゃならないのだけど、それでいて連中はどれも苦《く》のなさそうな目つきをして、これっぽっちも天候の悪口を言おうとはしないのですからね。私ひとりがびくびくしてるわけなんですよ……」
そのへんで私は口をはさんだ。
「あなたが先刻あなたのお母さんや、庭にいた婦人について語られた話のことですがね、どうも私にはちっとも珍しい話とは思えませんな。いままでに私はずいぶんたくさんそんな話を聞いて知ってるだけじゃなくて、私自身、多くの話のなかで共演したことがあるんですからね。こんなできごとはまったく自然なことなんですよ。かりに私が夏あの露《ろ》台《だい》の上にいたとしたら、やっぱりおんなじことをきくだろうし、庭からもおんなじような返事がやってくるのじゃありますまいかね。じつに平凡なできごとですよ」
私がそう言ってやると、彼はやっと一安心したようすだった。私がりっぱな服装をしている、私のネクタイがとても気に入った、と言い、なんという美しい皮膚だろう、とも言ってくれた。それから、打ち明け話なんていうものは、だれかが否認したりすると、かえってひじょうにはっきりしたものになってくるもんだ、と。
c 祈祷者の物語
そのあと、私がなんとなく臆《おく》しがちな気分になっているのを見てとって、彼は私のそばへ腰をおろした。私は頭をわきへかしげて、彼に席をつくってやった。だが、それでも、彼がなんだか当惑を感じながらすわりこんでいることや、たえず私との間にちょっぴり距離を保つように努めていることや、「なんという日々を私はすごしていることか!」と、やっと努力して重たい口を切りだしたことなどを、私は見のがしはしなかった。そこで、彼は次のように話をつづけた。……
「――昨日の夕方、私はある夜会へ出席していた。ガス燈の明かりの下で私はある娘さんに会《え》釈《しやく》して、
『すぐもう冬になりますね。私は冬になるのがほんとうに嬉《うれ》しいんですよ』
と、言ってやったものだ。
ちょうどそのとき、どうしたものか右の太ももの関節がはずれたのに気がついて、私はふきげんになってしまった。膝《ひざ》までぐらつきだした感じなのだ。しかたなしに私は腰をおろしたのだが、それでも一ぺん言いかけた話は首尾一貫させたいと思って、ことばをつづけた。
『なぜって、冬にはずっと楽ができますからね。なんとなく気《き》軽《がる》にふるまえるし、めいめいのことばで言えば、そう苦労しないですむというもんですよ。お嬢さん、そうお思いになりませんかね。おそらく、私の言ってることは正しいと思うんですがね』
こんなふうに話をしているうちに、私の右足はひどくめんどうをかけだしたものだ。右足は最初すっかりばらばらになっているような気がしたが、それをぎゅうぎゅうおしつけてみたり、適当に押《お》しずらしてみたりして、どうやらかなりの程度まで整復できた。
そのとき、私に同情して自分も腰をおろしていた娘が、
『いいえ、あなたはあたしを感心させておしまいになることなんかできませんわ。なぜって……』
と、小さな声で言いかけたのを私は耳にした。
『まあ、待ってくださいよ』と、私は満足と期待で胸をわくわくさせながら言った。『かわいいお嬢さん、あなたはただ私と語り合うだけのために五分間をむだづかいなさってはいけませんね。さあ、どうぞ、お話のあいだで何か召しあがってください』
私は腕を伸ばして、青銅の天使が持ち上げている鉢《はち》の中から、たっぷり実のついたぶどうの一ふさをとったものの、さて、それをどうしようかとちょっと宙で迷ったが、ふちの青い小皿へのせて、娘の前へかなり気をきかせた手つきでさしだしたものだ。
『あたしを感心させてやろうとお思いになったって、ぜんぜんだめだわ』と、娘はまた言った。『あなたのおっしゃることなんか、みんな、退《たい》屈《くつ》で、理解しにくいことばかりだわ。だから、まだほんとうじゃないのね。あなた、なぜ、あたしをいつもかわいいお嬢さんなんてお呼びになるのかしら。真実って、ずいぶん努力がいるんでしょう。それだからよ、あなたなんか、そういうものとはまだまだ縁《えん》がないんだと思うの』
ああ、ひどくおもしろいことになってきた。『そうですとも、お嬢さん、お嬢さん』と、私はだいぶん大きな声をだした。『あなたのおっしゃることは、まったく図《ず》星《ぼし》じゃありませんか。かわいいお嬢さん、あなたはよくわかっていらっしゃる。ねらったわけじゃないのに、しかもそんなに悟《さと》りがいいというのは、まったく嬉《うれ》しいものでしてね』
『真実を語るっていうことは、あなたにとって努力を要することなのよ。ほらね、なんてまあ、かっこうしてらっしゃるのよ。あなたは薄い透《す》きとおった紙から等身大に切り抜かれているんだわ。黄色の薄《うす》葉《よう》紙《し》から、ほら、あの影絵みたいに……あなたがお歩きになったら、きっと紙のぱりぱりいう音が聞こえるんだわ。あなたの態度だの、おっしゃることだのにむきになって腹を立てたりするのは、だから不合理な話なのね。ちょうど、いま、このお部屋の中を流れてる風のまんまに、あなたはからだを曲げたり、そりかえったりなさらなくちゃならないんですものね』
『どうもわかりませんな。この部屋にも何人かの人がいますね。椅《い》子《す》のうしろのよりかかりへ腕をのせたり、ピアノへからだをもたせかけたりしてる人や、あるいはグラスをためらいがちに口へはこんだり、そうかと思うと、こわごわ控えの間へはいりこんで、暗いところで右の肩を戸棚の角かなんかで怪《け》我《が》をして、いま開いている窓べりで息をつぎながら、ほら、あそこに金星が、宵《よい》の明《みよう》星《じよう》がかかってる、と考えこんでる人もあろうといったぐあいですね。だが、私はこの夜会の仲間に加わっている。もしですね、そんなことがひとつの連関をもっているとしたら、私にはその連関というものが理解できないのですよ。しかし、いったい、そんな連関があるのやらないのやら、私はまったく知らないんですがね。ねえ、いいですか、かわいいお嬢さん。頭がもうろうとなってるので中途はんぱな、そう、まるで滑《こつ》稽《けい》みたいなふるまいばかりしてる、これらの連中みんなの中では、まだしもこの私だけが自分についての、はっきりしたことを聞く値うちのある人間だという気がしてるんですがね。ところが、きれいごとにいきたいと思って、あなたは遠まわしの皮肉な言い方をなさっていますね。だから、なにか明白なものが尾をひいて残るわけです。例えてみるとですね、家の内部はすっかり燃えつきてしまってるのに、まだおもな壁だけが残って立ってるといったぐあいに、どこを眺めようと、いまはほとんどさえぎるものがない。昼間は大きな窓穴から空を流れる雲が眺められるし、夜は夜で星が見えるというもんです。だが、しかし、その雲はしばしば灰色の石によって切りとられていたり、星空にしたって、どうも不自然な光景に見えてくるというわけですよ。生きようと欲している人ならみんな、この私と同じような外観をしてるだろうことを、あなたのお心づかいにお返しのつもりで打ち明けてあげたら、いったい、どうなんでしょうね。黄色の薄く透きとおった紙から、影絵みたいに切り抜かれて――あなたがさっき言われたことばによると、そうでしたな――歩くたびに、紙のぱりぱりという音が聞こえる。……ところで、あの連中は、いつまでも現在とまったく変わりっこないはずだけど、やっぱり、そんな外観に見えてくるんですよ。かわいいお嬢さん、あなたでさえも、そうなんですよ……』
気がついてみると、あの娘はもう私のそばにすわっていなかった。おそらく彼女はさっきのことばを言いおわるとすぐに立ち去ったのにちがいない。いま彼女は私のところからずっと離れた窓のそばで、高い白いカラーを立てて笑いながら語っている、三人の青年にかこまれて立っていたからだ。
すると、私は朗らかな気分になってグラスの酒を一飲みにほし、ひとり仲間はずれになって、もの悲しい曲をいちいち首をふりながらピアノでひいている男のほうへ近づいていった。そして、そっと身をかがめて、彼をびっくりさせないように用心しながら耳もとへ口をつけて、メロディをひいている最中に小さな声でささやいた。
『恐れ入りますが、あなた、ひとつ、私にもひかせてくださいませんか。私はいま幸福な気分になりかけてるところなんですよ』
だが、その男が私の言うことに耳をかしてくれそうもないので、しばらく私は当惑してその場につっ立っていたが、やがて、自分の気の弱さをおしかくしながら甲の客から、乙の客へと相手をかえて、
『きょう、私はピアノをひくでしょうよ』
と、ほんのつけたりの調子で言ったものだ。
私がピアノをひくことができないのをみんなは知りぬいているように思われたが、私が彼らの話に横から口を入れても別にそう不愉快には感じないらしく、みんな親しそうに笑顔で迎えてくれた。だが、私がピアノをひいている男に向かって大声で、
『あなた、まことに恐れ入りますがね、私にもひかせてくれませんか。私はいま幸福な気分になりかけてるんですからね。なんといっても、勝利のお祝いは大事ですからな』
と、言ってやったとき、はじめて彼らは私のほうへ熱心に注目しだした。
ピアノをひいていた男はその手をとめたが、依然として褐色の腰掛けから離れようとはしない。やっぱり私の言った意味をわかってはくれないようだ。だが、ピアノの男はため息をついて、その長い指で顔をおおった。すこしばかり私も同情を感じだしたので、彼を元気づけてふたたびひかせようとした。そのとき、女主人がひとかたまりの人々といっしょにそばへ寄ってきた。
『なんだかおもしろい事件でも起きたようですね』
そう彼女は言って、まるで私が何か気どったことをやりたがっているかのように、大声で笑った。
あの娘もくっついてきて、小ばかにしたような目つきで私をじろじろ眺めてから言った。
『奥さま、どうぞ、この方にひかせてごらんになりません? なにか余興をおやりになりたいらしいんですのよ。たいへん感心な考えですわね。どうぞ、奥さま』
一座の者は歓声をあげた。彼らも私と同様に、てっきり娘が皮《ひ》肉《にく》のつもりで言いだしたものと思ったからだ。ただピアノをひいていた男だけは黙りこんでいた。彼はうなだれて、砂の上へ何かかいているみたいに、左手の人さし指で腰掛けの木《き》肌《はだ》をなでまわしていた。私はからだが震《ふる》えだしたので、それを気《け》どられまいと思って両手をズボンのポケットへつっこんだ。もう言うこともしどろもどろの感じである。顔じゅうがいまにも泣きだしそうにゆがんできたからだ。そんな次第なので、私はことばをいちいち吟《ぎん》味《み》しながら使わなくてはならなかった。聞いている側の人々に、私がいまにも泣きだしそうだ、とはいくらなんでもおかしくて考えられもしないように……
『奥さん』と、私は言いだした。『どうも、こうなっては、ひかないわけにはいきませんね。つまり、その……』
もっともらしい理由を思い出せなかったので、私はいきなり分別もなくピアノに向かってすわった。そのとき私は自分が置かれている立場をふたたび了解したわけだ。ピアノをひいていた男は立ちあがったのだが、ちょうど私が彼のとおるじゃまをしていたので、気をきかせて腰掛けを乗りこえた。
『どうか、明かりを消してくださいませんか。私は暗いところでないとひけないのです』
やがて、私は姿勢をしゃんと伸ばした。
すると、二人の紳士が腰掛けをつかんで私のからだをもちあげ、ある歌のメロディを口笛で吹いて軽く左右に揺すぶりながら、私をピアノからずっと引き離して、食卓のほうへ運んでいった。
連中はみんな賛意を表しているように見えた。例の娘が言った。『ほうらね、奥さま。あの方は見《み》事《ごと》にひきましたでしょう。あたしにはようくわかってましたわ。だのに、奥さまったら、ずいぶんはらはらしていらしたようですわね』
私にはそのことばの意味がわかったので、そつのない身のこなしで一礼して感謝の意を表した。
だれだかレモン・シロップをついでくれたし、唇をまっかに塗った娘がわざわざグラスをささえて飲ませてくれた。女主人が銀の皿にのせてケーキを手わたしてくれると、こんどは白ずくめのドレスの娘がそれを口の中へ押しこんでくれた。ブロンドの髪のゆたかな、ふとった娘がぶどうのふさを私の頭の上のへんに持っていてくれたから、私はただ実をむしりとりさえすればよかった。もっとも、そのあいだ、娘に目をのぞきこまれて、私はたじたじだったわけだ。
みんなのサービスぶりがあんまりよかったので、もう一度のこのこピアノのほうへ行きかけると、みんながいっせいに私を引きとめたのには、正直なところ、びっくりしたものだ。
『いや、もうけっこうです』と、この家の主人がぬかした。いままで私は彼の存在など認めてもいなかったのだ。彼は一ぺん出ていって、すぐまた大きなシルクハットと、花模《も》様《よう》のついた赤茶色のオーバーをたずさえて戻ってきた。
『さあ、あなたのお持ちものです』
それは自分の所持品ではなかったが、もう一度しらべる手《て》間《ま》を彼にかけたくはなかった。その私へよく寸法の合ったオーバーを、主人公自身が私のやせたからだへぴったり寄りそうようにしながら着せかけてくれた。親切そうな顔つきをした婦人がだんだんかがみこみながら、オーバーのボタンを上から下まではめてくれた。
『それじゃ、お大事にね』と、女主人が言った。『お近いうちにまたおいでくださいね。いつなりとおでかけくださってかまいませんのよ』
そのとき一座の者はみんな、ぜひそうしなくてはならぬといったふうに、おじぎをしたものだ。私もおじぎを返そうとしたが、オーバーがぴったり身に合いすぎていた。そこで私は帽子をぬいで、それから不器用によろめいて玄関を出た。
だが、私が門から小またに出ていったとき、月や星がかかっている空の大きな円天井と、市役所だの、マリアの立像だの、教会堂だのがあるリング広場が、いきなり私におそいかかるように目の前へ現われたものだ。
私は暗い蔭《かげ》から歩みでて悠然と月光の中へ足を踏みこんだ。オーバーのボタンをはずしてからだを緩めてやると、こんどは両手をさし上げて夜のざわめきを押し静め、考えにふけりはじめた。
『君たちはまるで実在してるかのようにふるまってはいるが、そいつは、いったい、どういうわけなんだ。この青々とした舗《ほ》道《どう》に妙なかっこうで立ちんぼうをしてる私のほうが、非現実の存在にすぎないことを、私に信じこませようとしているのか。なるほど、ずっと前には君は実在していたのだが、しかし、空よ、リング広場よ、君たちはもう実在なんかしていないのだよ』
『それはほんとうなんだ。君たちはいまでも私より優越している。だが、そいつも、私が君たちをそっとしておいてやるあいだだけの話さ』
『ありがたいことに、月よ、君はもう月ではない。だが、かつては月と名づけられた君をいまなお私が月と呼んでいるのは、おそらく私の怠慢のせいだろう。私が君のことを「珍しい色をした、忘れられた紙の提《ちよう》灯《ちん》」と呼んでやったら、どうして君はもうそんなに尊《そん》大《だい》ではなくなるのだろう。私が君を「マリアの立像」と呼んでやると、なぜ君はのこのこ引っこんでしまうのかね。そして、マリアの立像よ、私が君を「黄色の光をなげるお月さん」と名づけるとき、私にはもう君のいかめしい態度がちっとも気にかからなくなるのだ』
『君たちのことをいろいろ思案してみたところで、さっぱり君たちの役には立たないような気がする。君たちの勇気と健康は衰えていくばかりだ』
『もし考え深い人間が泥酔者から何かを学びとるなら、ああ、それこそどんなに有益だろう』
『おや、なぜ、あらゆるものが静まりかえったのだろう。風がやんだようだ。しばしば小さな車輪に乗っかってるみたいに広場をころがりまわる、小さな家のやつが、いまはしっかり足を踏みしめてるぞ。――静かだ――ひっそりとしてるな――いつもなら家々と大地をしきってる、あの細い黒い境界線もまったく見えない』
私は駆けだした。私はなんにも障害物にでくわさずに大きな広場を走って三周した。私は酔っぱらいにも出会わなかったから、べつにスピードをおとしたり緊張を感じたりしないで、カール小路へ向かって走りつづけた。私の影《かげ》法《ぼう》師《し》は、ちょうど塀と道路とのあいだの溝《みぞ》の中を走るときそうなるように、しばしば私の背丈よりも小さく壁に映って私と並んで走った。
消防署の建物のそばを走りすぎるとき、私は小さなリング広場から物音がしているのを、聞きつけた。そのへんで道を曲がると、噴泉の格《こう》子《し》になった囲《かこ》いのそばに酔っぱらいが一人立っているのが見えた。彼は両腕を水平にさし伸ばしたまま、木の靴をひっかけた足でじだんだを踏んでいるのだ。
私はまず息を整えるために立ちどまった。それから彼のほうへ近づいていき、シルクハットをぬいで、自己紹介をした。
『今晩は、思いやりの深い、ごりっぱなお方。私は二十三歳になりますが、まだ名前がありません。しかし、あなたはさだめし、すばらしい、歌にでもうたえるようなお名前をもっていらして、大都会のパリからおこしになったのでしょうね。フランスの、足も滑ってしまうような宮殿の、まったくわざとらしい香気があなたを包んでいますね』
『きっと、あなたは、あの貴婦人たちのことを――高い、まばゆいテラスの上に立って、ほっそりした腰つきをひねって皮肉たっぷりにふりかえって見たりしている、それから、その色どりのある長い裳《も》裾《すそ》が階段に広がって、その裾《すそ》のはしはまだ庭園の砂の上に引きずられているような、あんな貴婦人たちの姿をご自分の目でごらんになっているわけですね。そこらに立てられた長い竿《さお》の上へ、大胆に裁《た》ち目を入れて仕立てられた灰色の礼服に、白いズボンといういでたちの従《じゆう》僕《ぼく》たちがよじ登るわけなんですね。両脚をしっかり竿へからみつけ、上半身はうしろか、わきのほうへ曲げて――というものの、なまじ、さる貴婦人が霧の立ちこめた朝の眺めをご所《しよ》望《もう》になったばっかりに、巨大な灰色の亜《あ》麻《ま》布《ふ》を太い綱につけて地面からつるしあげて、高いところへ張らなくちゃならなくなったからですよ』
酔っぱらいがおくびをだしたので、私はびっくりさせられて言った。『ほんとうに、そうなんでしょうな。あなたは、あのパリから、あの嵐《あらし》のように熱烈なパリから、ああ、あの狂ったみたいに雹《ひよう》なんかが降るところから、おこしになったんでしょうな』
また彼がおくびをだしたので、私はうろたえて言った。
『とにかく、たいへん光栄に存じていますよ』
私はすばやい手つきでオーバーのボタンをかけて、はにかみながら、しかも熱心に話しかけた。
『存じあげていますよ、私なんかには返事をする値《ね》うちもないとお考えなんでしょうな。しかし、もしも今日という機会にお尋ねしておかなかったら、私は泣きの涙の一生を送るようになりかねませんからね』
『どうぞ、お教えください、おしゃれな方。人が私に語ってくれたことはほんとうでしょうか。パリには、美しく飾りつけた衣装だけでできあがった人間がいるのですか。あそこには玄関だけしかついていない家があるんですかね。夏の日には街《まち》の上の空が移りかわる青色で、どれもみんな心臓の形をした、おし固められたような白い雲で美しく飾られているというのは、いったい、ほんとうなんですかね。それから、ひじょうに有名な英雄だの、犯罪者だの、恋人だのの名前を小さな板ぎれにかいてかけられた、木ばっかりがたくさん立ってる珍奇品展覧場が、いつも見物人でにぎわってるというのも、あそこの話なんでしょうか』
『それから、まだ、こんな情報は、こんな明らかに嘘《うそ》らしいニュースは、どうなんですかね。パリの街《がい》路《ろ》がとつぜんに伸びるなんていうのは、パリでは街路が安定していないなんていうのは、つまり、あらゆるものが、いかなる場合にも、そのままの秩序を保ってるとはかぎらん、という話なんですね。なにか事故が起きる。人々がそこへ集まってくる。足が舗道にほとんど触れないかのように見える、いかにも大都会的な気ぜわしい足どりで横町から出てきます。みんなは好奇心で動いてるんですが、幻《げん》滅《めつ》を味わわされるのをおそれているわけです。彼らはせわしい息をして、彼らの小さな頭を前方へさし伸べているんです。そして、もしお互いにからだでも触れ合おうものなら、ひじょうに深くからだをかがめて、詫《わ》びをし合うのです。「これは、どうも、たいへん失礼しました――故意にやったんじゃありませんので――あまり混雑してるもんですから――私が不器用だったんですよ、いや、たしかにそうなんでして――あの、私の名前は、ジェローム・ファロシュと申しまして、カボタン街《がい》に住んで香料商をいとなんでおります者で――ひとつ、いかがなもんでござんしょう。明日、拙《せつ》宅《たく》へ昼飯にでもご来《らい》駕《が》いただけますまいか、へえ――女房のやつめも、さだめし大喜びをいたすでござんしょう。……』
横町は麻《ま》痺《ひ》状態になって、煙突のけむりが家々のあいだへ舞い降りてるというのに、あの連中ときたひには、そんな調子で話をするんですからね。いやはや、そうなんですよ。それから、どこか有名な市区のにぎやかな大通りに、馬車が二台、停《と》まってるということもありうるでしょうね、従僕たちがうやうやしくドアを開ける。すると八匹のシベリア産の高価なシェパードがとび降りて、わめきちらしながら車道をとびこえて走っていくというわけなんです。なあに、その連中は、変装した、若いパリのしゃれ男たちだったんだそうですね』
彼は目をほとんど閉じていた。私が言いやめたとき、彼は両手を口の中へさしこんで、下あごを両方へ引っぱりだした。彼の着ているものはすっかり泥《どろ》まみれになっていた。おおかた彼はどこかの飲み屋で外へ放りだされたのだろう。しかも、彼のほうではそんなことがはっきりわかっていないのだ。
おそらくは昼と夜との境《さかい》の、ほんの短い、しかも安らかな中休みの時間だった。そのときべつにそうしようとも思わないのに、私たちの頭はひとりでにたれさがってくる。そんなとき、私たちは気がつかないのだが、あらゆるものがじっと静止していて、しかも私たちがそれを観察してやらないものだから、やがては消え去っていく。そのあいだ、私たちはからだを曲げたままで、もう周囲を見まわしてもなんにも見えないし、空気の抵抗も肌《はだ》にかんじないのだが、そのくせ、ここからすこしばかり離れたところには、屋根と、それからおあつらえむきの四角な煙突のついた家々が立っていて、その煙突をぬけて家の中へ、屋根裏部屋からほかのいろんな部屋へと夕《ゆう》闇《やみ》が流れこんでいく、という記憶を心のうちでしっかり保ちつづけているわけだ。明日になると、また昼がやってきて、信じがたいことではあるが、すべてのものをまた眺《なが》めることができるだろう、ということはしあわせだ。
酔っぱらいが彼の眉《まゆ》毛《げ》を高くつりあげると、どういうものか眉と目のあいだが光りだした。彼はとぎれとぎれの声で説明してくれた。
『つまり、こうなんだよ。私はね、つまり、その、眠たいんだ。そいで、これから、寝に行くところなんだよ。私はね、つまり、ヴェンツェル広場にね、義理の兄弟のやつがいるんでしてね。そこへ、私は行くんだよ。そこに、私は住んでるんだからね。そこへ行ったら、私のベッドがお待ちかねさ、いま、行くところなんだよ。私はね、つまり、あいつがなんていう名前か、どこに住んでいやがるのか、知らねえのさ。なんだかね、忘れちゃったような気がするんだ。だがよ、そんなこと、へえちゃらさ。いったいね、義兄弟なんて、あったのか、なかったのか、そんなこと、知らねえな。私はね、つまり、これから行くんだよ。あんたはね、私があいつを見つけだせるって思いますかい』
そこで、私はためらいもせずに言ってやった。
『そりゃ、確実ですとも。だが、あなたは外国からやっていらしたのだし、あなたの従《じゆう》僕《ぼく》が偶然おそばにいませんからな。この私でよろしかったら、ひとつ、ご案内いたしましょう』
彼はなんにも返事をしなかった。私は彼が腕を組んで歩けるように腕をさし伸べてやった。……
d 肥大漢と祈祷者の間につづけられた対話
しばらくの間、私は気分を引き立てようと思って努力をつづけた。私はからだを摩《ま》擦《さつ》して、ひとりごとを言ってみた。
「いまこそ、おまえが語る番だぞ。おまえはもう途《と》方《ほう》にくれてる。まるで手も足も出なくなった気がするのか。だが、待てよ。おまえはこんな状態なら知ってるはずだ。ゆっくり頭をはたらかせてみるんだ。周囲の者だって待ってくれるだろうよ」
「先週の夜会のときと同じなんだ。ある男が筆写したものを朗読している。彼に頼まれて私は一ページを書き写してやったんだ。さて、彼が書いたページのあいだの自分の書いたところをよんで、私はびっくりする。身におぼえがないんだ。人々はテーブルの三方からかがみこんでいる。これは私が書いたんじゃない、と私は泣きながら誓《ちか》う……」
「はて、そんなことが、なぜ今日のことに似ているんだろう。垣をめぐらせたみたいな対話になっちゃったのは、まったくおまえのせいだぞ。まあ、平《へい》穏《おん》無事ってわけか。かわいいやつ、しっかり気ばるんだな。異論もあることはあるだろうさ。『私は眠い。頭痛がする。はい、さようなら』とおまえは言うことだってできるんだ。さあ、急げ、大急ぎだ。はっきり意志表示をやるんだ。――いったい、なんだって? またしてもじゃまものかね。おまえは何を思い出したんだろうな。――大空へ地上の盾《たて》みたいに盛りあがってる高原を、私は思いうかべてるんだ。その高原を山の上から眺めて、あそこを歩きまわってやろう、とその用意をしたもんだ。そして、私は歌をうたいだしたもんだ……」
「もっと変わった生活って、できないもんでしょうかね」
そう私は言ったが、唇がからからにかわいて、ことばがもつれた。
「そうですね。……」と、彼は問いかえすように言って、微笑をうかべた。
「ところで、夕方、あなたが教会の中で祈っていられるのは、いったい、あれはどういうわけなんですか」
と、私はきいてやった。せっかく、そのときまで眠ったようなふりをして場《ば》をつくろってきたことがみんな、いま彼と私の間にはかなくくずれおちる思いがしたからだ。
「そんなことを、なぜ話し合わなきゃならないんでしょうかね。ひとりぽっちで暮らしてる人間なら、だれでも夕方には責任から解放されますね。気にかかることは、いろいろあるわけでしてね。――からだの形が消えてしまいはしないか、そして、たそがれの薄明りの中で見えるのが、人間というもののほんとうの姿なのか? 杖《つえ》を持たないで歩いてはならないのか、人からじろじろ見られて、肉体をとり戻そうと思ったら、教会へ行って大声で祈るのが好《こう》つごうだと考えられることなど――いろいろ、まあ、あるわけですね」
彼がそんな話をして、やがて口をつぐんだとき、私はポケットから赤いハンカチを引っぱりだして、その場にかがみこんで泣いた。
彼は立ちあがって、私にキスして、言った。
「なぜ、お泣きになるんですか。あなたは背が高い。それが私は好きです。あなたは思いのままにふるまえる長い手をもっていらっしゃる。なぜ、あなたは嬉《うれ》しく思わないのですか。――いつも黒っぽい色の袖《そで》の縁《ふち》をつけていらっしゃい。それを忠告してあげますよ。いや――私がほめてあげてるのに、どうして泣くんですか。こんな生きることの苦しさなんか、あなたは理性でもって耐《た》えられるでしょう」
「実際のところ、私たちは、無用の兵器だの、塔だの、城壁だの、絹《きぬ》のカーテンだのをつくっていますね。もし暇があったら、それこそまさに驚嘆していいことでしょうな。私たちは宙にうかんでいるのです。落っこちはしません。たとえ私たちがこ《ヽ》う《ヽ》も《ヽ》り《ヽ》より醜いとしても、とにかく飛びまわっているんですからね。そして、よく晴れた日に『ああ、今日はじつに美しい日だ』と、私たちが言うのを、だれだって妨げることなんかできないでしょうな。私たちはこの地上に順《じゆん》応《のう》して、協調していくという根底に立って生活してるんですからね」
「つまり、私たちは雪の中の木の幹みたいなものなんですよ。ちょっと見ると、まったく雪の上にのっかってるだけのようですから、ほんの一押しで押しのけられそうですがね。だが、そいつがだめなんです。そんなことができるもんですか。なぜって、木は大地へしっかり結びついてるんです。ごらんなさい、それも見かけにすぎないんですがね」
考えこんだおかげで、私はひとりでに泣きやめた。
「いまは夜だ。だから、いま私がなにか言ったところで、明日になってだれもとがめるわけにはいくまい。私が言ったことは、眠ってるあいだに語られたことかもしれないからだ」
そこで私は言った。「そう、それはそうですね。いったい、私たちはなんの話をしていたんでしたかね。私たちは玄関のずっと奥のほうに立っているんだから、もちろん、空の照りかげんについて語ることはできなかったわけですね。そうじゃなくて――なるほど、それもできたでしょうがね。私たちが何について語り合おうと、まったく自由ですからね。私たちはべつに目的や、真理ではなくて、ただ冗談と楽しみを手に入れたいのです。ところで、あの庭にいた婦人の話をもう一ぺん聞かせていただけませんかね。あの婦人はじつに賢い、じつにすばらしい女じゃありませんか。私たちは彼女をお手本にしなくちゃなりませんね。私はあの女がすっかり好きになりましたよ。あなたに出会ったことや、待ち伏せしたりしたことは、やっぱり、よかったわけですね。あなたと語り合うことができて、じつに楽しい思いをしました。いままではわざと知らないですごしてきたようなことを、いくつかお聞きすることができたんですから、とても私はうれしいんですよ」
彼も満足のおももちだった。人のからだに触れるのはいつも不快でたまらないのだが、いまばかりは、彼を抱《ほう》擁《よう》しないわけにはいかなかった。
そのあとで私たちは廊下を通って、戸外へ出た。私の友人がちぎれ雲を二つ三つ吹きはらったので、さえぎるもののない星の平面図が現われた。私の友人はたいぎそうに足をひきずった。
4 肥大漢の没落
そのとき、すべてのものが速度のとりこになって、遠くのほうへ落下した。河の水は絶壁のところで下へ引きこまれそうになり、前へ出まいとして崩《くず》れおちる崖《がけ》っぷちでしばらく動揺していたが、ついに一団の水のかたまりとなって水煙をあげながら落下した。
肥大漢はもう話をつづけることができなくなって、ぐるぐる回転しながら、音高く急速度で落下する滝《たき》の中に姿を没してしまった。
すでに楽しいことをたくさん経験させられた私は、岸に立って、それを見ていた。「私たちの肺臓はどうしたらよいのか」と、私は大声でどなった。急激な呼吸をすると、肺は内部の毒素で窒《ちつ》息《そく》してしまう。緩《かん》慢《まん》に呼吸したら、吸いこんではならない空気で、あの不快なもののために窒息する。だが、ちょうど適当なあいだのテンポを求めようとしても、そうしているうちにだめになってしまうのだ」
そのあいだにも河の岸は際限なく延び広がっていったが、それでも私は自分の手のひらで遠方の、ごく小さな道しるべの鉄の部分に触れていたものだ。どうも私にはわかりかねることだった。私はほんとに小さいのだ。十人並ほどもなかったろう。小きざみにぶるぶる震《ふる》えている、白い実をつけた野ばらの茂みでさえ、私より背が高いのだ。私は野ばらのほうを見た。そいつはほんのちょっと前までは私のすぐそばにあったものだった。
だが、どうやら私は思いちがいをしていた。というのは、私の両腕ときたら、長雨のときの黒雲ぐらいの大きさになっていたのだ。ただ、もっと、せかせかして落ちつきがない。なぜその腕のやつが私の哀《あわ》れな頭をおしつぶそうとしたのか、私には見当もつかない。
頭のほうはばからしくちっちゃいのだ。まるで蟻《あり》の卵みたいだ。ちょっぴり傷をしていたから、完全に円《まる》いとは言えない。その頭をまわして、私は願いを通じさせようとやってみた。なぜなら、私の目ときたら、おそろしく小さいのだから、目の表情を相手に気づいてもらえそうになかったからだ。
だが、私の脚は、想像もつかないほど大きな脚は、森におおわれた山々をこえて伸び、村のある谷間に影を落とした。伸びも伸びたり、だ! もう前から脚の長さは私の視《し》野《や》からはみだしていたが、いまはもう風景もなんにもない広大な空間へつきだしているのだ。しかし、いな、そうじゃないんだ。私はやっぱり小さい。こことうぶん、小さいのだ。私はころがる――ころがり落ちる。私は山の雪崩《なだれ》なんだ! さて、ご通行の皆さま、どうぞ、どのくらい私が大きいのか言ってやってください。そのときには、この腕と、この脚を計っていただきたいものです。
V
「いったいぜんたい、そんなことが……」と、私の知人が言った。彼は私といっしょに夜会を出てから、ラウレンチベルクへの道を私と肩を並べてゆっくり歩いていたのだった。「まあ、ちょっと、私の合《が》点《てん》がいくまで、歩くのをやめてくれませんか。ご存じのように、まず片《かた》づけなくちゃならん事柄ですからな。だいぶん骨が折れますね――さて、この、たしかに寒い、月光を浴びた夜と――あそこのアカシヤの茂みの位置をときどき揺り動かしているらしい、不満足そうな風のやつ……」
植木屋の家へさした月影が、こころもちまん中が盛りあがった道路の上へも広がって、わずかばかりの雪でお化《け》粧《しよう》されていた。その入り口のそばに置いてあるベンチが目にはいったので、私は手をあげてそれを指さした。私は勇気があるほうではなかったし、それに罵《ののし》られるのを覚悟していたから、思わず左手を胸のあたりへやったものだ。
すると、彼は自分の着ている、りっぱな服にはむとんじゃくに、さもぐったりしたようにベンチへ腰をおろした。そして両《りよう》肘《ひじ》を腰のへんへおしあて、合わせた両手の指さきをゆるめて、その中へ自分の額《ひたい》をのせて顔を伏せてしまったので、これには私もびっくりした。
「そうです、いま私はこれだけのことを申しあげておきたいのです。あなたもご存じでしょうが、私は規律正しい毎日を送っています。その点では他人からとやかく言われるおぼえがないくらいです。やらねばならぬことで、しかも正しいと認められているようなことはみんな、やっているつもりです。私がふだん交際しているような社会では、もうだれでも慣れっこになってる不幸にしたって、私の周囲の連中やら私やらが満足できるほどには、私を容《よう》赦《しや》してくれなかったわけです。この平凡な幸福ってやつは、あれで奥のほうへ引っこんでいようとはしたがらぬものですが、まあ、ほんの仲間同士のあいだでなら、そいつの話をしたってかまわないでしょうね。――よろしい、お話ししてみましょう。私はまだただの一度も女にほれこんだ体験がなかったのです。さすがの私でもときどきはそれを悲しく思うことがありましてね。まあ、そんなときには必要におうじて、例のきまり文《もん》句《く》を利用したもんですよ。――そうだ。いま、まさしく私は恋をしていて、その恋ゆえにこんなにも興奮してるんだ。この私こそ、そこらの娘たちがあこがれのまとにしている、情熱の恋人そのものなんだ、とね。ともかく、こんな若いときに不自由だったことが、かえって私の身の上へ思いももうけぬほどの、異常によろこばしい方向転換をあたえてくれたんだ、というふうに考えてみてはいけないのでしょうか」
「まあ、まあ、おちついてくださいよ」と、ただ自分自身のことばっかりに気をとられていたので、私はそっけなく言ったものだ。「うかがったところでは、あなたの愛人は美しいかたのようですね」
「ええ、彼女は美人です。あれのそばにすわっていますとね、いつも私はこんな冒険のことを考えたもんですよ。――私は大《だい》胆《たん》な男だ――私は航海を計画する――そして酒をなんガロンも飲むんだ、とね。ところで、あの女が笑うと、こちらのお望みどおりに白い歯はのぞかせないで、ただ暗い細《ほそ》目《め》の、弓なりになって開いた口のかっこうが見えるだけなんでしてね。だから、彼女が笑いながら頭をうしろへそらしたりすると、ずるくて、老人みたいに見えたりするわけなんですよ」
「あなたのおっしゃることを、否定するわけじゃありませんがね……」と、私はため息をついて言った。「そんなことは人目をひくにちがいありませんから、おそらく私も眺《なが》めたことがあるでしょうがね。だが、それっぽっちのことじゃありませんね。けっきょくは、あの娘らしい美しさですよ! いろいろなひだだの、レース飾りだの、ふさ飾りだのがついている、あの美しい肉体を美しくおおってる衣《い》裳《しよう》を眺めるときはですね、どうせ、あのまま長持ちはしなくて、やがてし《ヽ》わ《ヽ》くちゃになって、もうし《ヽ》わ《ヽ》をのばすことさえできなくなったり、どうやっても取りのけられぬほど飾りへいっぱい埃《ほこり》がたまりこんだりするんだろうなあ、と考えがちなんですよ。どこのだれだって毎日毎日、同じような高価な衣裳を朝着て晩には脱いで、そんなことで悲しがったり、おかしがったりしたいと思う者がありましょうかね。ところで、世の中にはこんな娘たちがいますね……たしかに美しくて、筋肉や関節の動きだって、なかなか微妙な魅力をたたえているし、そのうえ、張りきった肌《はだ》と淡い亜《あ》麻《ま》色のゆたかな髪のふさをもってるのだけど、毎日おんなじ一着きりの平凡な仮《か》装《そう》服を身にまとっているだけで、さっぱり変わりばえのしない顔に頬《ほお》杖《づえ》をついて、鏡へ映して眺めてる、といったような娘たちがいるもんですね。よく彼女たちは宴会などから晩おそくに帰ってくるようですが、そんなときには、鏡をのぞきこんでみても、着古されて、ふくれたみたいな、みんなにじろじろ見られたので、もう二度と着られないような気がするんですね」
「道を歩きながら、私は何度も、あなたがあの娘を美しいと思っていられるかどうかをおききしましたね。だが、あなたときたら、返事もしないで、しょっちゅうわきのほうを向いてばかりいられましたな。なにか悪いことをたくらんでいらっしゃるんですか。なぜ私を慰めようとしてくださらないんですか」
私は影の中へ両足を踏みこんで、用心しながら言った。
「あなたは慰められたりする必要はないじゃありませんか。あなたは愛されているんですよ」
そう言いながら、私は風《か》邪《ぜ》をひくまいと思って、青ぶどうのふさの模様がついているハンカチを口にあてていた。すると、彼は私のほうへ向きなおって、厚みのある顔をベンチの低いよりかかりへのせかけた。
「まあ、私なんか、一般にいって、まだ余裕をもってるほうですね。この芽《め》ばえたばかりの恋にいつなんどきでも、恥ずべき行為とか、裏切りとか、あるいは遠い土地へ旅立つことによって、すぐ結末をつけてしまうことだってできるんですからね。じっさい、私はひじょうに迷ってるんですよ。この興奮の波へそっくり身をまかせてもいいものか、と考えましてね。何ひとつ信頼できるものはないし、だれひとりはっきり方向とその継続を指《さし》図《ず》することなんかできないわけです。酔っぱらうつもりで飲み屋へ行くんだったら、私の場合ですと、自分が今夜一晩は酔っぱらっているだろう、ということがはっきりしているわけですね。一週間たったら親しい交際をしている家庭の連中といっしょにピクニックをやろうと思ってると、二週間ほどは心の平和が保てるというもんですよ。今晩したキスのおかげで奔《ほん》放《ぽう》な夢をみられる機会をつくってやるために、私は眠りたい気分になったのです。それに反抗するつもりで、私は夜の散歩へ出かけたわけなんですよ。ところが、どういう風の吹きまわしか、しょっちゅう興奮ばかりしてて、なんべんも突風が吹いたあとみたいに顔が冷《ひ》えたり暖まったりするし、たえずポケットの中のばら色のリボンに手で触れていなくちゃならないし、おまけに自分自身のことがひじょうに気にかかるくせに、さて自分ではどうにもならないし、いつもならこんな長話なんかする気にならなかったでしょうがね、いまもまだ我慢してやってるわけですからね」
私はひどく寒《さむ》気《け》がした。もう空はしらじらとした色になりかけていた。
「もう恥ずべき行為も、裏切りも、たとえ遠い国へ出《しゆつ》奔《ぽん》したところで、なんの役にも立たないでしょうね。自殺でもなさらなきゃならんでしょうな」
そう私は言ってから、微笑してみせた。
並み木のあちらのはしの向こうに、こんもりした茂みが二つ見える。それらの木立ちのうしろに低くなって街《まち》が広がっていたわけだ。街にはまだすこしばかり灯《ほ》影《かげ》が残っている。
「もうたくさんだ!」と、彼は叫んで、小さな固いげんこつでベンチをなぐりつけたが、すぐなぐることだけはやめた。「だが、あなたは生きている。自殺はしないわけだ。あなたを愛してる者なんか、ひとりもおりませんよ。あなたは何ひとつ手に入れることはできないんだ。たった今、あなたは勝手なまねなんかできなくなるんですよ。あなたは私へそんな話をしかけてくる。俗《ぞく》物《ぶつ》だな。人を愛することなんか、あなたにできてたまるもんか。あなたを興奮させるものは、不安だけなんだ。さあ、見たまえ、私の胸を……」
彼はすばやく上着とチョッキとシャツの前をはね開けた。彼の胸はたしかに幅があって、美しかった。
すると、私はしゃべりだした。
「そう、こんな反抗的な状態が、ときどき私たちには不意におこるものとみえますね。さて、この夏、私は河沿いの村にいました。いまでもじつにはっきり思い出せますがね。よく私はものぐさな動作でだらしなく水《みず》際《ぎわ》のベンチにすわりこんだものですよ。河にのぞんだホテルもそのへんにありましてね。ヴァイオリンをひいてるのがよく聞こえたもんでした。若い生きのいい連中は庭のテーブルを占領しちゃって、ビールを一杯やりながら狩りや冒険の話をしていましたっけ。それから、河の対岸には、まったく雲みたいなかっこうした山がありましたよ……」
話しくたびれた唇をそりかえらせたまま私は立ちあがり、ベンチのうしろの草地へはいっていって、雪がたまった小枝を二、三本折りとってから、知人の耳もとへささやいてやった。
「私は、婚約してるんです。白《はく》状《じよう》しますとね……」
私の知人は私が急に立ちあがったのにはべつにおどろかなかったが、
「え、あなたが婚約してるんですって……」
と、言ったきり、彼はみるみる生気を失って、ぐったりした。かろうじてベンチのよりかかりにすがって、からだをささえている。彼が帽子をぬいだので、香水をふりかけて、きれいに櫛《くし》目《め》をいれられた頭髪が見えた。その円い頭は、この冬の流行ふうに、くびの肉の上でくっきり円い線を描くように剃《そ》りこんであった。
ひどく気のきいた返答をしてやったので、私はひとり悦《えつ》に入っていた。「そうだとも……」と、私はひとりごとを言った。「だが、あいつは夜会の席ではひどく軽快に首を動かし、自由に腕を振りながら歩きまわっていたじゃないか。あいつは人をそらさぬ話しぶりでごきげんをとり結びながら、広間のまんなかを堂々とつっ切って婦人を案内していくことだってできるんだ。だが、家の外では雨が降ってるとか、はにかみ屋の男がそこに立ってるとか、または何か悲惨なできごとが起こっているとか、そういうことはちっとも苦《く》にならないらしい。いや、あいつときたら、どのご婦人たちの前でも同じように礼儀正しく頭を下げるやつなんだ。そいつが、いま、そこにすわってる」
さて、その私の知人は上等の麻《あさ》のハンカチで額《ひたい》をふいて、「お願いですから……」と言いだした。「お手をほんのちょっと、私の額の上へ置いてみてください。どうぞ……お願いです」
私がすぐにそうしてやらなかったので、彼は手を合わせて頼んだ。
まるで私たちの不安がすべてのものをうす暗く塗りつぶしてしまったようなのだ。もう前から朝がたの光と風には気がついていたのだが、それでもまだ私たちは小さな部屋の中にいるような気分で、山の上にすわりつづけていたわけなのだ。お互いにちっとも好感なんか抱《いだ》いていないくせに、あいかわらず私たちはいっしょにくっついている。というのも、あんまり壁が堅《けん》固《ご》に張りめぐらされているみたいな気がして、お互い同士、遠く離れようと思っても、さて、そいつができかねるのだ。ところで、いまは人間らしい威厳なんかなしに、ばかげたふるまいを勝手きままにやってのけてもかまわないんだ。なぜって、頭の上の枝や、お向かいに立っている木のやつにたいして、なにもこちらから恥ずかしがる必要なんかなかったから。
そのとき、私の知人はポケットから短刀をむぞうさにとりだし、ちょっと考えこみながら刃《は》をおこして、まるで遊び半分みたいに左の二の腕へぷすっと突き刺したものだ。そのまま引きぬこうともしない。たちまち血がしたたりおちた。彼のまるっこい頬は蒼《そう》白《はく》になる。私が短刀をひっこ抜いてやって、冬オーバーと夜会服の袖を切りひらき、シャツの袖もひき裂いてやった。だれでもいい、手助けをしてくれる者はいないか、と思って付近の道を駆けあがったり、駆け降りたりしてさがしてみた。どの枝もいまはくっきりと見えるのだが、そよとも動かない。私は口をつけて深い傷口をちょっと吸ってみた。すると、ふと植木屋の家のことが頭にうかんだ。私は坂道を駆けのぼった。その道は家の左手の、盛《も》りあがった草地へ出た。私は急いで窓やドアのぐあいを調べてみた。それから、腹だちまぎれにじだんだをふんで呼《よ》び鈴《りん》を鳴らしてやった。その家が無住であることを先刻ちゃんと見ぬいたからだ。そんなあとでまた傷口へ目をやると、血が細い筋をひいて流れおちている。私は彼のハンカチを雪で濡《ぬ》らして、不器用な手つきで腕へ巻きつけてやった。「ねえ、君。君はかわいい男だよ」と、私は親しみをこめて声をかけた。「私のために、自分で傷までこしらえたんだね。君という人は、友情につつまれて、結《けつ》構《こう》ずくめのご身分なんだ。よく晴れた日など、念入りに身なりをととのえた多くの人の姿が、テーブルのあいだだの、丘の小《こ》径《みち》のあちこちに見えるような日にさ、君は散歩としゃれてもいいんだ。まあ、ひとつ、思ってもみたまえ。春の日ながのうらうらにさ、私たちは馬車に乗って、果樹園へ走らせることだろうぜ。いや、私たちじゃないだろうな。残念ながら、そいつはほんとうだ。だが、君のほうは、あのかわいいアンネルルルと相《あい》乗《の》りをして、うちょうてんの速《はや》駆《が》けをやらかすことだってできるんだ。ねえ、私の言うことを信じてくれたまえよ。そのとき、太陽が君たちの姿を輝かせて、世にも麗《うるわ》しいものに見せるだろうよ。ああ、音楽が鳴りひびき、遠くで馬のひずめの音がきこえる。いまは心にかかる不安もないわけさ。並み木道でざわめきの人声がし、手まわしオルガンが唄《うた》をうたってる……」
「ああ……」と、言って彼は立ちあがり、私へよりすがったので、私たちは歩きだした。「もう手《て》当《あ》てのしようもないわけですな。うれしいことじゃないでしょうけどね。いや、ごめんくださいよ。もうおそいんでしょうか。たぶん、朝っぱら早くから、私は何かすることがあるでしょうな。ああ……」
塀《へい》のすぐそばの街《がい》燈《とう》がともっていて、その支柱が道や、白い雪の上へくろぐろと木の幹の影を落としている。その一方では、さまざまな形をした木の枝が傾斜面へ、ゆがんで、折れ曲がったような影をおとしていた。……
解 説
フランツ・カフカ――人と作品
欧米文学への大きな影響 一八八三年にチェコ・スロバキアの古い都プラハで生まれて、ドイツ語でいっぷう変わった小説を書きつづけ、かなり多くの未刊の作品を原稿のまま残して、一九二四年に持病の肺結核で死んだ、きわめてユニークな作家フランツ・カフカ(Franz Kafka)をめぐる、第二次大戦後のヨーロッパ各国やアメリカにおける異常なほどのカフカ研究熱はなかなか下火にはならないらしい。新しい研究書や論文があとからあとから公表されて、この作家のいつまでもくみつくせそうにもない無限の深遠さと永続する新鮮な魅力にいまさらながら驚嘆の思いをあらたにさせられる。
サルトルやカミュなどが彼らの文学の、いわば先駆者的存在としてのカフカを誠実にとりあげて語り、いささか戦後の実存主義文学流行の、上げ潮の時流にのせられて、連中の守護神のひとりとして祭りあげられた、皮肉な観がなくはないにしても、第一次世界大戦、敗北、崩壊、混乱の困苦の時代を肺患の身をもって生きつづけ、ひたすら人間の孤独と、不安と、不条理をきびしい凝視で追求してきた、カフカのあまりに個性的な、いささかも安易な妥協をしない文学が、いま時をへだてて第二次大戦後の混迷と、悲劇の時代にあって、ふたたび真剣な再評価と、対決を迫られている事実は、たしかに注目すべき文学的現象といいうるだろう。
もっとも、その点に誤解があってはならぬ。カフカは、この戦後の波にのって、はじめておそまきに真価を認められた作家というわけではない。生前すでに短編小説の代表作といいうる「変身」をはじめとして、「火夫」(長編「アメリカ」の第一章の部分。フォンターネ文学賞をうける)「流刑地にて」「断食芸人」「ある戦いの描写」の一部などが発表されて、古くから選ばれた読者層に、深刻で、特異な文学として賛嘆と、畏《い》敬《けい》の念をもって熱烈に支持されていた。一九二四年にこの世を去り、その遺稿のなかから、一九二五年に「審判」、一九二六年に「城」、一九二七年に「アメリカ」とつづいて、三つの長編小説、いわゆる「孤独の三部作」が出版され、時をうつさずに英訳や、仏訳も刊行されて、カミュや、ベケットや、ブランショなどから、今日のロブ=グリエたちの、ヌヴォ・ロマンの連中にいたるまでの、各国の有能な作家たちの作品にカフカ文学の、根ぶかい影響を感知するのも、めいめいの文学的見識というものだろう。オルダス・ハックスリーが、一九三一年に出した評論集「夜の音楽」のなかの、「悲劇と全体的真理」というエッセイで、「現代のあきらかに注目すべき、重要な五人の作家」として、ローレンス、プルースト、ジイドとともに、カフカと、ヘミングウェイの名をあげているのは、まさに卓抜な予言的意味をもつものと考えられる。
ともかく、フランツ・カフカをぬきにして、二十世紀文学を、そして、今日の新しい世界文学を語ることはいよいよ不可能になっていることを、だれしも否定しえないところだろう。
カフカの生涯 フランツ・カフカは、そのころまだ旧オーストリア=ハンガリー帝国の領土であったボヘミアの首都プラーグ(現在のプラハ)で、一八八三年七月三日に生まれた。父親のヘルマン・カフカは、ユダヤ系の商人で、半生の努力と奮闘の結果、小《こ》間《ま》物《もの》のおろし問屋として、ひとかどの成功をおさめてから、プラーグのドイツ人社会へ仲間入りした男である。戒律のきびしいユダヤ教の信奉者だったから、厳格で、圧制的な家長であり、その経歴が物語るように、きわめて意志堅固な、実利主義の、現実的な性格の持ち主であったろうことは、カフカの三十六歳のときの、あの長文の「父への手紙」のなかで、じゅうぶんにうかがい知ることができる。
すると、カフカ自身の、神経の鋭敏な、不安におそわれがちな夢想家タイプの、正義感のつよい、芸術を愛する、内攻がちな気質は、聡《そう》明《めい》で、心のやさしい女だった、母のユーリエの血統から受けついだものといえるだろう。若いカフカは生活力のたくましい、自信に満ちあふれて独裁的な家長を尊敬し、ひそかに愛着さえもいだきながら、同時に反発と、恐怖を感じて、その精神的束縛から脱出しようともがきつづけながらも、ついに父親の支配圏からのつながりを断ち切れなかった経過には、そのままフロイトの精神分析学の、かっこうな例証になりそうな、微妙な重点がある。このような愛憎の、根づよいコンプレックス心理(つよい感情をおびて、もつれ合い、精神的なしこりの原因となる、観念の複合体)こそ、カフカの文学の秘密に照明をあてる、ひとつの重要な手がかりになるだろう。
さて、カフカは、八年制の国立のギムナジウムを卒業して、プラーグ大学に入学し、父親の希望もあって、法学を専攻した。やはり法科学生で、ひとつ年下のマックス・ブロートと宿命的な出会いをして、死にいたるまで親しい関係をつづけることになる。在学中、二十一歳の秋から翌年の春にかけて、カフカのエッセンスをはらんだ、初期の重要な作品「ある戦いの描写」を書きあげて、早熟な文学的才能の、みごとな開花をしめしている。
二十三歳の夏、大学を卒業して、法学士の称号をうける。二十五歳の七月、半官半民の労働者傷害保険協会に勤務しはじめて、持病の結核がついに悪化して退任するまでの、十四年間、職にとどまって、その地位もだいたい順当に昇進したらしいから、専門の知識を生かして、職務に忠実だったものと思われる。だが、真剣に小説を書きつづけていたカフカ自身には、文学と、役所づとめとの二重生活が、たえず精神的な圧迫に感じられて、その矛盾に悩みつづけ、肉体的にも過労がかさなって、不眠症をこうじさせ、とかく不安におそわれがちだったことがうかがわれる。もっとも、その間、一年に一回は休暇をとって、しばらくサナトリウムで静養したり、親友のブロートたちとよく同行して、北部イタリア、パリ、スイス、ベルリン、ハンガリー、マリーエンバート(ドイツ)、ワイマール、メラーン(北部イタリア)などへ旅行、あるいは滞在をくり返しているところをみると、義務的な役所づとめから解放されて、自分の好きな、よその土地を気ままに歴遊することが、カフカの自由なよろこびだったようである。
二十九歳のとき、ベルリンの旅さきで、カフカはフェリーツェ・バウアーという女性にはじめて会い、はげしく心をひきつけられ、文通をはじめている。こののち五年間、この女性との奇妙な恋愛関係がカフカを悩ましつづけるのだが、ふたりのあいだには婚約が成立して、二か月もたたないうちに解消し、三年後に、ふたたび婚約をむすび、こんどは半年後にまた解消して、ふたりの文通はとだえている。しかし、この間にカフカは手紙と、はがきをいっしょにして、五百通をこえる大量なものをフェリーツェへ書き送っていた事実は、なみたいていの想像を絶している。フェリーツェのおもかげは、カフカの小説のなかで、何人かの作中人物の、重要な女性のモデルとして生かされている。これらの手紙は今日まで保存されて、最近、「フェリーツェへの手紙」と題し、七百ページをこえる本となって出版された。なお、この年の十一月に短編の代表作である「変身」が書かれて、その朗読が友人の家でおこなわれている。
もうひとりの女性、ミレナ・イェセンスカ=ポラック夫人のことも記しておくことにしよう。ミレナはプラーグの名門の出身で、きわだって聡明な、感受性のすぐれた女性だったと思われるが、そのころ不幸な結婚生活に悩んでいた。ミレナがカフカの「変身」などをチェコ語に翻訳したことから、三十七歳のカフカは文通をはじめて、ついには情熱的な恋愛にまで高まり、ふたりはウィーンで会ったりしているが、この関係も二年後にたち切れている。この恋愛からも、「ミレナへの手紙」一巻がわたしたちの手にのこされて、カフカと、その作品に接近するための、生きた材料を提供してくれる。このたびの大戦ちゅう、ユダヤ系でもないミレナは、ナチスの強制収容所へ入れられたまま、おおしく不条理な運命を甘受して、解放の前年の一九四四年に悲劇的な死をとげたことが知られている。
四十歳の夏、カフカは、妹や、その子どもたちといっしょにバルト海沿岸のミュリッツに滞在していたが、その地でユダヤ系の、若い娘ドーラ・ディマントと知り合って、恋愛関係になる。九月の末、ベルリン郊外のシュテーグリッツに小別荘を借りうけて、ドーラと同居生活をつづけていたが、その翌年には健康状態が悪化して、四月にウィーン郊外のキールリング・サナトリウムへはいり、六月三日に、ドーラにみとられながら、永眠した。
マックス・ブロート カフカの死後、おびただしい原稿が未整理のままに残されていた。カフカは、プラーグ大学以来の、終生の友人であるマックス・ブロートに、「変身」その他の、生前に刊行された数編だけをのこして、未定稿の原稿、日記、手紙の類はいっさい焼きすててくれるように、と遺言していた。ところが、自分自身もまた有能な作家であるブロートは、亡友の遺志を実行しなかったばかりか、むしろ、積極的に裏切り行為をやったわけである。すなわち、ブロートはカフカの死の翌年から始めて、みずからの手で編集した、三つの長編「審判」「城」「アメリカ」をはじめとして、その他の遺稿集、日記、書簡集を順次に出版する労をとってくれた。もしブロートの見識と、決断がなかったなら、今日のように、世界じゅうの文学愛好者たちが驚 嘆しながら、カフカを読みかえす機会はついにこなかったかもしれないのだ。カフカ全集の最適任の編集者であったばかりか、そのうえ、ブロートは詳細なカフカの伝記を記録し、何冊かのカフカ研究書をかきつづけてくれている。カフカも、よい友人をもったものである。
最後に、カフカ自身が愛読して、なにかしらの栄養をくみとったと考えられる哲学者、作家のなかから、読者にも周知のものをえらんで、ニーチェ、キェルケゴール、パスカル、ドストイェフスキー、トルストイ、フローベール、スタンダール、ゲーテ、トーマス・マン、ホフマンスタールなどの名前だけを、読者の参考に資するためにあげておくことにしよう。
「変身」について
「変身」("Die Verwandlung")は、一九一二年に書かれて、一九一五年の暮れに、ライプチッヒのクルト・ヴォルフ書店から、双書の一冊として出版されている。カフカの生前に公刊された作品のなかでは、最も量的に長いもので、しかも、ゆるぎのない緊密さでみごとな完成を示しており、まるで悪夢の連続のような状況を設定していながら、カフカ独特の無気味なほど冷静で、細部的にリアルな手法がさえて、日常生活の平凡な現実以上の、ほとんど象徴的に高められた、異常の現実性をもって、読者の心へひしひしと強烈に迫ってくる。まったく息ぐるしくなるほどの、思わず、深いため息がそっと吐き出されるような、そんな人間くさい孤独と、不安の印象にせつなく心をしめつけられ、うつろな穴のあいた、暗い胸の奥を肌《はだ》寒い風がひりひり吹きぬけるような思いがしてくるではないか。――これが文学というものなのか、この不条理なものが、はたして人生の真実なのだろうか、と一気に読みおわった読者は異様な興奮に感動しながら、真剣に反問してみたくなるかもしれない。
しかし、「変身」には、いわゆる形而上的な難解さも、あいまいさもない。むしろ、難解と感じられるものは、主人公のとつぜんの、毒虫への変身という、およそ意想外な、冒頭の設定だろう。だが、最初の、ほんの数ページを意識で抵抗しながらも読みとおすことさえできたら、だんだん深まっていく共感と、興味にひきずられながら、小説というものの日常的で、緩《かん》徐《じよ》調の進行ぶりとともに、カフカがきわめて用心ぶかく、巧妙にくりひろげて見せる、別の現実の世界のなかへ、だれでもすなおにはいりこんでいけることだろう。そして、おそらく息も休めずに読みつづけたくなる。もしも中途で本を置いたりしたら、いっぺんに精妙な魔法の網目がほどけて、ふたたびめいめいの平凡で、味気ない現実世界へつき落とされてしまいそうな不安さえ感じられる……
「変身」という小説は、そんな一種名状しがたい、ふしぎな魅力を底にたたえている。この「変身」が、カフカのおそらく全作品のなかで、最も広範な、最も熱心な読者層に多年にわたって支持されつづけてきたというのも、それだけのじゅうぶんな理由があったからだろう。
それにしても、変身とは、じつに奇怪きわまる発《ほつ》端《たん》ではないか。身の毛のよだつほど恐ろしい、しかも、はなはだしく当惑させられる事件である。いったい、生きている人間が、とつぜん毒虫に変わるなんて、この二十世紀の白昼に、そんな不合理なことが考えられるものか、と大部分の読者は鼻さきで一笑に付してしまいたくなるだろう。自分の経験も、世間の健全な常識も、いや、科学の万能も、そんなたわいもない作り話はまっこうから拒否してかかる。まったくナンセンスで、ひどくばかげた妄《もう》想《そう》だ。いったい、この作者はどんなつもりで、こんな虚構(フィクション)を大まじめで設定したのだろう。これでは作者自身の、正気のほどが疑われるではないか……
だが、それにもかかわらず、肝《かん》心《じん》なことは、グレゴール・ザムザが冷たい雨の降りつづいている、もの悲しい天候の朝、ふと目がさめてみると、自分が大きな、一匹の毒虫に変身してしまったことを、自分の目で発見して、しかも、自分ではそれほど驚いてもいないことである。理由もなければ、原因もない。まるで当然のことでもおこったみたいに、理性は、きわめて確かなのだ。いまさら、いくら悲しんでみたところで、グレゴールにとって、事実はあくまで事実なのだ。彼自身、予感さえしていないことで、絶対に信じられぬ、なっとくのいきかねることではあるが、もうおそすぎる。もはや、どうしようもない。彼の運命は、人間の理解力などをはるかに絶した場所で、とつぜん決定してしまったのだ。彼にはまだ人間のことばがわかるのだが、彼のほうから訴えることばは、もはや家族のだれにも理解してもらえない。外界との、肉親とさえもコミュニケーションを断ち切られたまま、こうして主人公の、おそろしく孤独な、奇妙な生活が閉鎖された密室の中ではじまる。一匹の毒虫の不安と、焦燥と、心配と、苦悩と、絶望と、あきらめ……けっきょく、一家の不幸の源であり、家族みんなの荷やっかいの種だった毒虫が死んで、肉親はほっと解放され、何月ぶりかに、いそいそと三人は電車に乗って、春の郊外へピクニックに出かける……
「変身」という小説は、あと味のあまりよくない、そんな結末のしかたをする。イギリスの、今世紀の作家ガーネットにも、狐《きつね》に変身した人妻のことを書いた小説がある。だが、あの作品では、いかにも物語ふうの変化に富んだ、テンポの速い筋のはこびと、軽妙で、いちまつのユーモアさえふくんだ、明快な筆法とが、感銘の重苦しさをうまく中和していたように思われる。だが、カフカの「変身」には、その意味の救いもなければ、自由への脱出もない。この小説の冷静で、こくめいな描写を読んで、思わず身につまされ、なんだか胸の奥がひりひりするような寂しさにかられない読者があったら、かなり健全すぎる神経の持ち主といってもいいだろう。この小説のなかで、冷酷にまで追いつめられて描かれているのは、私たち全部をふくめての、不安定で、希望のとぼしい、じめじめ内攻しがちな、毎日の辛労につかれはてた小市民の、凡庸な小世界ではあるまいか。対象に食いついて凝視しつづける作家の目を、いまさら残酷とか、非情とか言ってみたところではじまらない。すぐれた文学とは、いつでも、そういったものなのである。世間のどこにもころがっている、ありきたりの、平凡な家庭。これこそ、まさに「変身」がとつぜん上演される、絶好の舞台であろう。役者も平凡なところが、ちゃんとそろっている。もう何ひとつ、不足しているものはない。不意打ちの事故が、二十世紀のうしろめたい、不条理な悲劇が、たいくつで、へんてつもない日常生活を背景にして、突発的におこるのを待つばかりであろう。
「ある戦いの描写」について
「ある戦いの描写」("Beschreibung eines Kampfes")は、一九〇四年の秋から、翌年の春にかけて書かれたことになっている。出版はだいぶ遅れて、一九三六年、プラハのハインリッヒ・メルシー・ゾーン書店刊行の、短編集「ある戦いの描写」のなかにおさめられている。
執筆当時のカフカは、まだプラーグ大学の法科学生で、原稿はきれいに浄書されていて、友人たちの前で朗読された。親しい友人のマックス・ブロートは、この「ある戦いの描写」に特別な関心と、愛着をよせつづけたことを告白している。二十一歳の、いわゆる「若書き」ではあるが、作品としての完成度は高く、後年のカフカ文学のあらゆる萌芽、いわば、カフカ的なもののエッセンスを読みとれる意味においても、じつに興味ぶかい作品である。
この小説では、風景が、とくにプラーグの街《まち》が神秘的な、濃淡の色どりをそえて、主要な役割を演じている。そのころボヘミア王国の首都だったプラーグは、ヨーロッパでも非常に古い文化と、伝統をもつ旧都で、当時すでに五十万に近い人口をもっていた。「ボヘミアの森」として名高い森林地帯に水源をもつモルダウ川が、民族的な作曲家スメタナの交響詩「モルダウ」に音で描写されているように、プラーグの街をゆたかに貫流している。古い城があり、ゴシックふうの大教会堂が高くそびえ、樹木が多くて、せまい横町がくもの巣みたいに入り組んで、ほの暗い、夢みるような、中世のふんいきをただよわせている。この美しい旧都の背景なしには、おそらく「ある戦いの描写」は成立しなかっただろうし、同時にまた、この街のふんいきが、後年のカフカの、ほとんどすべての小説の、絶好の舞台になっているわけである。
「ある戦いの描写」については、あまりよけいな解説など加えないで、まず読者諸君に読んでもらうことにしよう。もちろん、この戦いは、血なまぐさい戦闘などではなくて、自分の分身を相手にしての、ひとりの人間の、心の内部の戦いである。ともかく、若いカフカの沸騰するような、奔放きわまる想像力にひきまわされて、もしシュルレアリスム(超現実派)の、特異な印象をあたえる絵、あるいは、あのシャガールの描きつづける、神秘で、幻想的で、不条理な絵を思いうかべるとしたら、それも読者めいめいの自由というものだろう。なお、3aの「風景への挨拶」のところは、その当時のヨーロッパで、日本の浮世絵が絵はがきの形でひろく売り出されていて、そんな複製の、広重の「東海道五十三次」から、川越しの一枚をカフカが愛蔵していて、それにヒントをえて書いたことを、ブロートが伝えている。
あとがき
昭和二十七年七月に、「変身」が角川文庫の一冊として上《じよう》梓《し》されて以来、毎年一回または二回というふうに版を重ねてきたので、紙型も摩滅しはじめて、印刷の不鮮明なところが生じてきた。このたび旧かなづかいを当用漢字、現代かなづかいに書きあらためる機会を得たので全面的に改訳し直し、できるだけ理解しやすい表現をするように心がけた。
増補した「ある戦いの描写」は、かつて「カフカ全集」の第三巻に、「ある戦いの手記」というタイトルで訳載したものであるが、新潮社出版部のご好意によって、これも全面的に改訳のうえ、「変身」とならべて、この新版におさめることができた。
なお、改訳にあたっては、クラゥス・ヴァーゲンバッハによって、制作の年代順に新編集された別冊版、Franz Kafka : "Die Erzlungen Sonderausgabe"(S. Fischer Verlag)を参照した。
昭和四十三年十一月
変《へん》身《しん》
F・カフカ
中《なか》井《い》 正《まさ》文《ふみ》・訳
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平成12年9月15日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『変身』昭和43年11月20日改版初版刊行