カザノヴァ回想録 第二巻
カザノヴァ/田辺貞之助訳
カザノヴァ回想録(第二巻) 一七四六〜五三
目 次
第十八章
[放蕩三昧の日々]
[元老院議員の現実主義]
[あざむかれた伯爵令嬢]
[下心などなかった]
[ブロンドの髪の魅惑]
[天使の導きのままに]
[伯爵と御曹子]
[自殺かカプチン僧か]
[芝居そっくりの再会]
[娼婦アンチラ]
第十九章
[トレヴィーゾへの船旅]
[田舎娘クリスティーナ]
[善良な人々のふしぎさ]
[寒い朝の恩寵]
[翌日は気が変わって]
[愛人のために夫を捜す]
[模様がえのお見合い]
[クリスティーナの結婚]
第二十章
[偏見と改姓の効用]
[死人の手のいたずら]
[宗教裁判所の出頭命令]
[ミラノでの再会]
[にせ伯爵との決闘]
[ある美しい婦人の才知]
[マントヴァの警備隊で]
[父の愛人の抱擁]
第二十一章
[聖ペテロの短剣]
[魔法使いになりすます]
[財宝があるはずの家で]
[処女の浄めの儀式]
第二十二章
[雷鳴のさなかの大呪法]
[閣下夫人ジュリエッタ]
[夜明け前の茶番劇]
[男装のフランス娘]
第二十三章
[恋が旅程を変える]
[善行としての詐欺]
[ふしぎな情人たちの話]
[長い夢と譲渡申し込み]
[いきりたった告白]
第二十四章
[レッジォの夜]
[パルマでの奇遇]
[アンリエットの告白]
[女の才気について]
[愛人が仮面をぬぐ]
第二十五章
[オペラ・ブッファ]
[愛と幸福の哲学講義]
[アンリエットのチェロ]
[運命はわれらを]
[祝典での不吉な予感]
第二十六章
[親王殿下の寵臣の騎士]
[愛の最後の日々]
[絶望にも救いはある]
[女優との恋のかけひき]
[水銀療法が神へと導く]
[ほらふき士官との一幕]
第二十七章
[ヴェネチアへもどる]
[偽善者の教父の正体]
[司祭の従妹を連れだす]
[婚約をめぐる事件]
[パリへ出発する]
第二十八章
[即興の芝居と出演謝礼]
[トリノの洗濯屋の娘]
[フリーメーソン加盟]
[結社と秘密について]
[パリ街道の乗合馬車]
第二十九章
[パリ・一七五〇年]
[パレ・ロワイヤル]
[機知で財産のできる都]
[悲劇作家クレビヨン]
[奇妙な、才気ある人々]
[散文作法の極意]
[オペラ座見物]
第三十章
[淫蕩な老公爵夫人]
[娼家で粋人になるには]
[フォンテーヌブローへ]
[フランス王妃の食事]
[フランス語ゆえの失敗]
[弟がパリに着く]
[ルイ十六世をめぐって]
[ルイ十五世の宮廷]
第三十一章
[下宿屋の娘ミミ]
[司法当局とのいざこざ]
[オペラを翻訳する]
[真新しい十六歳の娘]
[つねに女よりも自由を]
[禁欲の口惜しい結果]
[踊り子のための戦略]
[哲学的な口説]
第三十二章
[美女オ・モルフィ]
[裸体画が幸運を呼ぶ]
[詐欺師の画家の姪]
[シャルトル公爵夫人]
[ニキビと算易]
[軟膏が小公爵をつくる]
[コン・デラブレと決闘]
[ドレスデンの娼婦たち]
第三十三章
[詩人メタスタシオ]
[恋を迫害するウィーン]
[賭博の都ウィーン]
[ヨゼフ二世の凶相]
[死神をピストルで撃つ]
[ヴェネチアへの帰り道]
第三十四章
[運命のたわむれ]
[仲買人の妻と蕩児]
[テレザと再会する]
[C・Cとのあいびき]
第三十五章
[公園でのかけっこ]
[わが恋のジレンマ]
[たいへんな見世物]
[うるわしき宝を日々に]
[C・Cの黄金の裸像]
[秘密の結婚の夜]
第三十六章
[いっそうふかまる悦楽]
[真夜中のしのびあい]
[求婚とその最悪の結果]
[修道院からの密使]
[賭けと恋は両立しない]
第三十七章
[ふたたび金持になる]
[長い恋文の抜書き]
[聖女カテリーナの指輪]
[善良な亭主役の悲劇]
[信心ぶかい贈り物]
第三十八章
[C・Cの不幸]
[修道院での流産]
[私は痩せ細っていった]
[修道女の匿名の手紙]
[面会室での初顔合わせ]
第三十九章
[すっぽかされた約束]
[恋の恨み]
[みごとな弁明]
[来たるべき幸福の保証]
第四十章
[愛の陰謀]
[修道女との最初の密会]
[愛の根くらべ]
[聖なる式場の準備]
[男装のM・M]
[七時間の幸福な快楽]
第四十一章
[情事のための神学]
[修道女の服装のままで]
[思いがけない告白]
[もうひとりの恋人の前で]
[六個分の玉子の白味]
解説――カザノヴァ管見
カザノヴァの愛した女たち
[#一八世紀中頃のイタリアの地図(map.jpg)]
第十八章
[放蕩三昧の日々]
運命の神は人間の英知ではとうていわからない道によって私を幸福にし、その圧制ぶりの見本を見せたが、私に堅気な生活方針をとらせて、一生のあいだだれの助けも必要としない身分にするには力が足りなかった。
私は自分の性向に制限をくわえるいっさいのものから解放されて、自由奔放な生活をはじめた。第一に、私は法律を重んじていたから、偏見はすべて軽蔑してさしつかえないと思った。そして、貴族政治のもとにある国では、完全に自由な生活ができるものと信じた。しかし、たとえ運命の神から閣僚のひとりにしてもらったとしても、こういう考えはまちがいであった。ヴェネチア共和国は国の保全を第一の義務とすべきことを知っていたから、それ自身、絶対的な国是《こくぜ》の奴隷になっていた。したがって、場合によっては、この義務のためにいっさいを犠牲にしなければならなかった。そのために法律そのものも不可侵でなくなることがありえた。
しかし、これはその後あまりにも周知のこととなったから、やめておこう。いまでは、どんな人間でも、真の自由は世界じゅうどこへ行っても存在しないし、しえないことを知っている。私がここでこういう話をはじめたのも、祖国における私の行状の一端を読者にお知らせしたかったからだが、じつはこの年から国立の監獄へつづく道を踏みかためはじめたのであった。その監獄はひどく憲法無視のところだったので、外部のものがのぞき見することをゆるさなかった。
当時の私はかなり金もあったし、自然から堂々たる風貌を与えられていたし、大胆な賭博師であったし、金に糸目をつけなかったし、辛辣《しんらつ》きわまる能弁家であったし、全然謙虚さがなく、無鉄砲で、美しい女と見ればつけまわしたし、ライヴァルをひどい目にあわせて追いはらい、自分を楽しませる仲間しかちやほやしなかったので、人からこぞって憎まれるのも当然という人間であった。いざとなったら身体を張るつもりでいたので、なにをしようとかまわんという気持でいた。少しでもじゃまだてをするものがあったら、当然やっつけるべきだと思っていたからである。
こうした行状は私の言葉を神託と仰いでいる三人の賢者に気に入るはずもなかった。しかし、なんともいわれなかった。ただブラガディーノ氏は笑いながら、きみはわしがきみの年ごろの時分にやったあほらしい生活をまざまざと目のまえに見る思いをさせるが、いまからその罰金を払う心組みをし、いまのわしの年になったら、わしと同じように手ひどく罰せられる覚悟でいなければいけないといった。私は彼にたいして払うべき敬意を欠きはしなかったが、このおそろしい予言をちゃかし、勝手|気儘《きまま》にふるまっていた。しかし、知り合ってから三、四週間目に次のようなことがあって、彼の性格のあり方をはじめてはっきり見せてもらった。
アヴォガドロ夫人というのは六十歳の年にもめげず、才気のゆたかな愛嬌《あいきょう》のいい女だった。その夫人のいとなんでいるカジノ〔十八世紀にたいそう流行した娯楽的別荘のこと〕で、ガエタン・ザヴォイスキーという、ごく若いポーランドの貴族と知合いになった。彼は国もとからの送金を待っていたが、その金が来るまで、彼の優雅な顔やポーランド的な物腰に魅せられたヴェネチアの女たちから融通してもらっていた。そのうちに、われわれは仲よしになり、彼のために財布をぶちまけてやった。それから二十年後、彼はミュンヘンでずっと大きな財布を私のためにぶちまけてくれた。律気だが、あまり才気のゆたかでない男であった。しかし、幸福に暮らすには、それで十分であった。彼は五、六年まえトリエルの選挙侯の公使としてドレスデンで死んだ。彼についてはそのところで話そう。
だれからも愛されていたこの愛すべき青年は、アンジェロ・ケリーニ氏やルナルド・ヴェニエ氏などと交際していたので、自由思想家と見られていたが、散歩をしていたときの庭園で、美しい外国の伯爵夫人に紹介してくれた。私はその夫人が気に入った。われわれはその晩すぐカステレット地区のロカンダにある彼女の家を訪ねた。彼女は夫のリナルディ伯爵に紹介してから、夕食をしていけとすすめた。
食事がすむと、夫が親になってファラオをはじめた。私は夫人と組んで反対のほうにかけ、五十ゼッキーニほどもうけた。
私はそのような美しい人と知合いになったのを喜び、翌日の朝、ひとりで訪ねていった。夫は家内がまだねていたら失礼しますがとことわってから迎え入れた。彼女はふたりきりになると、なにもゆるしはしなかったが、いろいろ希望がもてそうなあしらいをした。帰ろうとすると、夕食に来いとすすめてくれたので、出なおしていった。そして、まえの晩と同様に夫人と組んでまた勝った。そして、別れを告げて帰ったが、私はもう彼女に首ったけになっていた。
そして、翌朝、色よい扱いをしてもらえるかと思って訪ねていったが、夫人はすでに外出したということであった。そこで、夕方また行ってみた。そして、けさの言訳をきいてから、また博打をはじめた。しかし、あいかわらず彼女と組んだが、持ち金を全部すってしまった。
夕食ののち、ほかのものはみんな帰ったが、私はザヴォイスキーとふたりであとに残った。リナルディ伯が復讐戦を申し込んだからである。そこで、口約束で勝負をはじめたが、得点表が五百ゼッキーニの貸しになったのを見ると、彼は札をおいた。私は悲しい気持で家へもどった。借金は、名誉にかけても、翌日払わなければならないものだったが、私は一文なしであった。恋心が絶望をいっそうあおりたてた。翌日ブラガディーノ氏は私の顔にあらわれていた悶々《もんもん》の情を目ざとく見やぶってしまった。そして、私の心をさぐり、打ち明けるようにはげましたので、委細を残らずしゃべった。そして、終りに、もうわたしの名誉は台なしだ、死ぬ思いだといった。彼はもう二度と口約束で博打をしないと約束するなら、きょうのうちに借金を返してやるといって慰めてくれた。私は固く約束すると誓い、その手に接吻した。そして、安心して散歩に出かけた。あの気高い恩人が昼食のあとで五百ゼッキーニ渡してくれるものと確信していたので、几帳面《きちょうめん》に金を返したら、夫人から名誉を重んずる人だと思われ、ほどなく恩寵《おんちょう》をめぐんでもらえるだろうと気をよくしていた。そこで、ふたたび希望をおこし、あんなに大きな損害を惜しむ気もなかった。しかし、恩人のとびぬけた寛大さにはふかく感動して、もう二度と口約束で博打をしまいと固く決心をした。
[元老院議員の現実主義]
私は非常に快活に、彼やふたりの友人と昼食をしたが、例のことはぷっつりと口にださなかった。食卓から離れてまもなく、ひとりの男がやってきて、手紙と小さい包みをブラガディーノ氏に渡した。氏は手紙を読み、「よろしい」といった。男は帰っていった。ブラガディーノ氏は私についてこいといって、自分の部屋へ連れていった。そして、「ほら、きみへ来た小包だよ」といった。
あけてみると、金が三、四十ゼッキーニはいっていた。私の驚いた顔をみて、彼は笑いだし、手紙を読んでみろといった。
「先夜口約束でいたしました勝負は冗談にすぎぬことを、カザノヴァ氏に保証いたします。あなたへの貸しは全然ございません。お負けになった金子《きんす》の半額を、家内より現金でお返し申すでございましょう。――リナルディ伯爵」
ブラガディーノ氏は私の驚く様《さま》を見て、息もつまりそうに笑いだしたので、私はあきれてしまった。そして、いっさいを理解し、あつく感謝し、心をこめて抱きしめ、これからはもっと利口になると誓った。私ははじめて目がさめた。恋の迷いもはれた。手もなく夫婦の色仕掛けにのせられたのが恥ずかしくてならなかった。
「今夜、きみはあの美しい伯爵夫人と愉快に夕食ができるぞ」と、私の名医がいった。
「いや、今夜はあなたといっしょに夕食を食べます。ご教訓のほど肝《きも》にこたえましたから」
「はじめて口約束で負けたときには、借金を払わぬのが、いちばん賢明なんだよ」
「それでは面目がまるつぶれです」
「かまやせん。面目をつぶすのが早ければ早いほど、救われるのだ。なぜといって、実際に借金返しができなくなったら、どうしても面目をつぶさずにいられぬのだからな。そうしたのっぴきならぬ羽目になるまで待たぬほうがましだよ」
「しかし、現金だけでしか博打をしないことにして、そういう羽目にならないほうがいいですね」
「もちろんだ。そうすれば名誉と金が助けられるからな。しかし、きみは博打が好きなようだから忠告するが、けっして賭けるほうへまわらずに、銀行をやるんだ。そのほうが得になるよ」
「でも、利益が少ないですね」
「そりゃ、少ないといえば少ないさ。しかし、損をするのともうけるのとでは、差引きたいへんな得になるさ。賭けはばからしいよ。親はちゃんと考えているんだ。≪わしは賭けるよ、きみらにわしの手の内がわからんというほうへな≫と親はいう。すると、賭けるほうは≪それじゃ、わしは賭けよう、わかるというほうへ≫と答えるのさ。どっちがばかで、どっちが利口だろうか」
「それはいうまでもありません」
「だから、神に誓って、利口になれよ。もしも賭けにまわって、はじめに勝つようなことがあったら、これでしまいに負けたら、おれはばかなんだと思うがよい」
「なに、ばかですって? でも、運命は変わりますよ」
「変わるのは事そのものの力によって変わるので、ほかに原因なんかない。一オボールしか勝っていないときでも、運が変わったなと見たら、すぐに手を引くんだ。そういうふうにすれば、いつでも得になる」
私はかつてプラトンを読んだが、ソクラテスのような理屈をいう男を目のまえに見て、驚いてしまった。
翌日、ザヴォイスキーが朝早く訪ねてきて、伯爵夫妻がきょうの夕食に私を待っているといった。そして、夫妻は私が負けた金を几帳面に払ったのをほめていると伝えた。私は彼にそう信じさせておいた。この夫妻とはそれから十六年後にミラノで出会ったきりだ。ザヴォイスキーに私自身の口からこの一件の話をしたのは、四十年後、カールスバードで出会ったときであった。そのとき彼はつんぼになっていた。
こういうことがあってから三、四週間後に、ブラガディーノ氏はもう一度彼の性格の特徴を見せたが、それはさらに手きびしいものであった。ザヴォイスキーが私にあるフランス人を紹介した。ラバディといい、ヴェネチアの共和国の陸軍の全部隊にたいする検閲官の地位を政府に要求していた。その選任は元老院に属していた。私は彼を主人に紹介し、主人は投票を約束した。しかし、ある事件が起こって、彼は約束をまもれなくなった。
私は借金を払うのに百ゼッキーニ必要だったので、主人に頼んでみた。すると、彼はどうしてラバディ氏に頼まないのだときいた。
「それはできません」
「やってみるのだ。きっと貸してくれるだろう」
「あぶないものですね。しかし、やってみます」
私は翌日ラバディに会いに行って、かなり丁重な短い前置きのあとで、借金を申し込んだ。すると、彼もかなり丁重に、金を貸したくないときや貸すことのできないときの文句を残らずならべて、ことわった。そこへザヴォイスキーが来たので、私はいとまをつげ、恩人のところへもどった。そして、奔走がむだであったことを報告した。彼はにっこりして、そのフランス人は気のきかないやつだといった。
その日はちょうど彼をヴェネチア軍の検閲官に選任する政令が元老院にかけられる日であった。私はふだんの習慣どおり遊び歩いて、夜中に帰ってきた。ブラガディーノ氏がまだ帰ってないときいたので、そのまま寝に行った。翌日、朝の挨拶に行って、これから新しい検閲官へお祝いをいいに行くというと、元老院は彼の申し出を拒絶したから、それにはおよばないということであった。
「それはどういうわけですか。三日まえには、あの人は任命されると信じていましたが」
「そりゃまちがいではない。もしもわしが反対する腹をきめなかったら、政令は可決されたろうからな。わしは元老院に、健全な政治はそういう役目を外国人にゆだねることをゆるさぬと力説したのさ」
「それは驚きましたね。だって、閣下は一昨日はそういうお考えではなかったでしょう」
「あの男をよく知らなかったからさ。だが、きのうになって、あの男は要求する役目にふさわしい頭をもっていないことがわかったのさ。正しい判断力があるなら、きみの百ゼッキーニをことわるはずがないじゃないか。わずかばかりの金をことわったために、いまごろ手に入れているはずの三千エキュの収入をふいにしたよ」
私は外へ出て、ザヴォイスキーがラバディと連れだって来るのに出会った。ラバディは忿懣《ふんまん》やるかたなしという形相《ぎょうそう》だった。そして、私にいった。
「百ゼッキーニでブラガディーノ氏の口がふさげることを、まえもって知らせてくれたら、なんとか工面してきみに貸してやったのになあ」
「検閲官たるにふさわしい頭をもっていたら、人にいわれなくても自分でわかったはずですよ」
ラバディはこのことを世間に吹聴《ふいちょう》して、私のためにおおいに役だってくれた。ブラガディーノ氏の賛同を必要とするものがみんな、それをえるための道を知ったのである。おかげで私は借金を全部払った。
[あざむかれた伯爵令嬢]
その時分、弟のジョヴァンニが、改宗したユダヤ人ギュアリエンティといっしょにヴェネチアへやってきた。これは非常な絵画通で、ポーランド王兼サクソニア選挙侯の費用で旅行していたのであった。この王のためにモデナ公のコレクションを十万ゼッキーニで買い求めたのはこの人であった。彼らはいっしょにローマへ行くところで、弟はそこの有名なラファエロ・メングス〔ポーランド王アウグストゥス三世の宮廷画家〕の塾にはいる予定であった。弟については十四年後に話そう。
いまは忠実な歴史家として、ある事件を語らなければならない。イタリアのもっとも愛くるしい娘のひとりの幸福がそれにかかっていたが、もしも私が賢明な男であったら、その人はあるいは不幸になっていたかもしれない。
一七四六年の十月のはじめ、おりからほうぼうの劇場がひらかれていた。私は散歩の途中、ローマ向けの建て場の旅館からマスクをつけて出てきた。すると、小形のケープの頭巾で顔をつつんだ若い娘が、ちょうどそのとき着いたフェラーラの便船からおりてくるのが目にとまった。彼女がひとりで、しかも足取りが不安そうに見えたので、私はやむにやまれぬ力におされて、そばへ近寄っていき、なにかご用がおありならお役にたちましょうといった。
彼女はおどおどした声で、じつはちょっと教えていただきたいことがあるのですといった。そこで、この河岸で立ち話というわけにもいかないから、近所のマルヴァジア(居酒屋)へ行こう、そこならゆっくりお話がうかがえるからとすすめた。
彼女はためらっていたが、私がしきりにすすめたので、ついに承知した。店は二十歩のところにあった。ふたりはそこへはいって、向かい合って腰をおろした。私がマスクをとると、彼女も礼儀上頭巾をひろげた。大きなヴェールが頭をすっぽりつつんでいて、目と鼻と口と顎《あご》しか見えなかった。しかし、それだけでも彼女の若さ、美しさ、もの悲しさ、上品さ、清らかさをはっきり見きわめるのに事欠かなかった。そういう力づよい紹介状は私のはげしい興味をそそった。彼女は知らぬうちに湧きだしてきた涙をふいてから、わたしは身分のあるものの娘だが、父の家からひとりで脱けだし、あるヴェネチアの男のあとを追って来たのです。その男はわたしを誘惑しておきながら、すぐに裏切り、わたしの将来をめちゃめちゃにしてしまったのです、といった。
「すると、あなたはその人を本来の義務へ呼びもどそうというおつもりなのですね、あなたに結婚を約束したのでしょうね」
「はい、書き物で固い誓いをたてたのです。あなたにお願いしたいのは、わたしをその人のところへ送りとどけていただくことと、秘密をまもってくださることなのです」
「お嬢さん、名誉を重んずる男の感情をご信頼ください。ぼくはそういう男なのです。それに、あなたのお身の上にはもう非常な同情をよせているのです。相手の男というのはどういう人ですか」
「ああ、これも運命です。お願いするよりしかたがありませんわ」
こういいながら、彼女は胸から一枚の紙を出して、私に読ませた。私はそこに見覚えのあるツァネット・ステファーニの筆跡を認めた。彼は伯爵令嬢A・Sと一週間以内にヴェネチアで結婚すると約束してあった。私は書き物を返し、この人ならよく知っている。ある大法官〔この地位は、はじめのうちは名誉職的な行政官だったが、やがて、きわめて重要な地位となった〕の事務局につとめているが、たいへんな道楽者で、母親が死ねば金持になるだろうが、いまのところは評判がわるく、借金もかなりあるらしいといった。
「どうぞその人の家へ連れていってください」
「なんでもご命令のとおりにいたします。が、まあ、ぼくの申しあげることをよくお聞きになり、ぼくを十分に信用してください。ぼくがおすすめしたいのは、あの人の家へ行かないほうがいいということです。もうすでにあなたを裏切っているのですから、お会いになれたとしても、実のある応対を期待するわけにはいかないかもしれません。またもし家にいなかった場合には、あなたが身分をお明かしになったら、向うの母親から無愛想な扱いをうけるものと思わなければなりません。ぼくを信用して、あなたをお助けするように、神さまがおつかわしになった男だとお考えください。おそくともあしたじゅうには、ステファーニがヴェネチアにいるか、どうか、あなたのことをどうしようと考えているか、またあなたとの約束をまもるように強制できるかどうか、つきとめましょう。とにかく調べがすむまでは、あなたがヴェネチアに来ていることも、とまっている場所も、彼に知らせてはなりません」
「それでは、今夜はどこへ行ったらいいのでしょう」
「どこか心配のないところへ行くのですね」
「結婚していらっしゃるなら、お宅へごやっかいになりたいのですが」
「いや、ぼくは独身です」
私はある未亡人のところへ連れていくつもりであった。それは心《しん》から堅気の女で、家具のついた部屋をふたつ持ち、人の通らない袋小路の奥に住んでいた。令嬢は私の言葉に納得し、いっしょにゴンドラに乗った。私は船頭にこれこれのところへ連れていけと命じた。彼女はその途中で、ステファーニとの馴染《なれそ》めの話をした。ひと月ばかりまえ、ステファーニは馬車がこわれたのを修繕させるために、彼女の住む土地に足をとめた。その日、彼女は母親といっしょにある新婚の女のところへお祝いに行ったが、そこで、ステファーニと知り合ったのであった。彼女はさらに言葉をついで、こう話した。
「その日、わたしは不幸にもあの人に愛情を起こさせてしまったのです。あの人はもう出発することなど忘れてしまいました。そして、Cの町にとどまって、四週間のあいだ、昼間は旅館から一歩も外へ出ず、夜になると、毎晩通りへ出てきて、わたしの窓の下に陣取り、朝までわたしに話しかけるのでした。そして、いつも、あなたを愛している。ぼくのこの気持は純粋なんだというのでした。ですから、わたしは両親に紹介してもらって、結婚を申し込んでくださいといいました。けれども、あの人はいろいろの理由をならべて、そんな制限のない信頼を見せてくれなければ、とてもぼくは幸福になれないといって、わたしを説きふせようとしましたの。そして、だれにも知られないように、こっそり駈落ちをしよう。それでもきみの名誉にはけっして疵《きず》がつかない。なぜなら、駈落ちしてから三日目には結婚するから、町じゅうの人に正式の妻であることを知らせてやれるのだし、きみを公然と連れて帰るのだからというのでした。ああ! 恋がわたしの目をふさいでしまったのです。わたしはあの人の言葉を信用し、駈落ちのことを承知しました。すると、さっきお目にかけた書付けをくれたのです。それで、その次の晩、いつも話をしていた窓からわたしの部屋にはいってくるのをゆるし、罪をおかすことも承知したのですが、その罪も三日たてば消えるのだと安心していました。あの人は帰りがけに、あしたの晩この同じ窓のところへ来て、わたしがとびおりたら両腕のなかに抱きとるとはっきり約束しました。あんな大きなあやまちをおかしてしまったのですから、この約束をうたがう気持など全然ありませんでした。それで、包みをこしらえて、待っていました。けれども、影も形も見せませんでした。翌日ききますと、あの人でなしは下男を連れて馬車で出発したということでしたが、それもあしたの夜中にわたしをさらいに来ると、窓からおりながら何度もいった、その一時間あとだったのですよ。わたしがどんなに途方にくれたか、お察しくださいな。それで、わたしはわるいこととは知りながら、あの人のすすめた方法をとろうと決心しましたの。そして、夜半の一時間まえに、ただひとりで家を抜けだしました。これで、わたしの名誉はもうめちゃめちゃになってしまいました。けれども、わたしのいちばん大事なものを盗んだ人でなしが、もしも約束を反古《ほご》にしたら、死んでしまおうと覚悟をきめ、きっとヴェネチアに帰っているにちがいないと見当をつけて、歩きだしましたの。その晩と翌日ほとんど一日、船に乗る十五分まえまで、全然なにも食べずに歩きました。船は二十四時間でここへ運んでくれました。船のお客は男が五人と女が三人でしたが、だれにも顔を見せず、声も聞かせませんでした。じっとすわったままで、うつらうつらしながら、両手にしっかりお祈りの本をにぎりしめていました。みなさんはわたしをそっとしておいてくれ、だれも話しかけてきませんでした。それはほんとに神さまに感謝しましたわ。そして、この河岸《かし》で船からおりますと、すぐにあなたが声をかけてくださいましたので、ガルゾニ街のサン・サムエーレにあるステファーニの家へはどういったらいいのか、考えるひまもありませんでしたわ。でも、ほんとにびっくりしましたわ。マスクをしたあなたが、まるでわたしを待っていたように近づいていらしって、いっさいの事情を知っているみたいに、ご用があったらなんでもいたしますとおっしゃったとき、わたしどんなに驚いたかわかりませんわ。けれども、わたし、あなたにお答えするのが少しもいやではございませんでした。そればかりでなく、女のたしなみとしましては、あなたのお言葉に耳をふさぎ、こういうお店へはいろうというおすすめもおことわりするのが規則でしょうが、わたしはいっさいをあなたに打ち明けて、ご同情くださった熱意におこたえしなければならないと思いましたの。これでなにもかも申しあげましたわ。わたしがあまり馴れ馴れしいのをごらんになって、つつしみのない女だとお考えになるかもしれませんが、そういうふうに軽蔑なさらないでください。わたしがこんなはしたない女になったのはひと月まえからなのです。ちゃんとした教育も受け、正しい本もいろいろ読み、世の中に生きる作法はおそわっていたのです。けれども、恋をしたり、経験があさかったものですから、堕落してしまいました。いまはいっさいあなたにおまかせした身体ですが、わたしそれを少しも後悔しておりません」
[下心などなかった]
私はこういう話をきいて、彼女にたいする同情がいちだんと固まるのであった。そして、ステファーニはちゃんと計画をたててあなたを誘惑し、そして捨てたのだ。だから、うらみを晴らすため以外には、あんなやつのことを考えてはいけないと、情け容赦もなくいいきかせた。彼女は両手で頭をかかえて身ぶるいをした。やがて未亡人の家へ着いた。私は親切な女主人によい部屋を提供し、軽い食事を出すように命じた。そして、この人を大事にし、なにも不足させないようにしてほしいと頼み、あしたの朝会いに来るといって出てきた。
彼女と別れると、その足でステファーニの家を訪ねていった。そして、彼の母のゴンドラの船頭から、ステファーニは三日まえにもどってきたが、二十四時間たつと、またひとりで出かけていった。行先はだれにも、母親にさえわかっていないときいた。その晩、芝居で、気の毒な娘の家族のことを、あるボローニャの僧侶からきいた。その僧侶は偶然にも彼女を個人的に知っていたが、兄がひとりあって、法王の軍隊につとめていた。
翌日、朝はやく、彼女のところへ行った。彼女はまだ眠っていた。未亡人の話だと、ゆうべはかなりよく夕食を食べたが、ひとことも口をきかず、食事がすむとすぐ自分の部屋へとじこもってしまったそうだ。そのうちに、部屋のなかから声が聞こえたので、はいっていった。そして、彼女がくどくどと礼をいうのをおさえ、調べてきたことを残らず話してきかせた。
彼女の顔にはまだ悲しみの影が消えなかったが、色艶《いろつや》がよく、ゆうべよりもずっと落ちついていた。彼女はステファーニがCへもどるために出かけたとは思われないといったので、その考えをほめ、それでは私が自分でCへ行って、彼女が家へ帰れるように斡旋《あっせん》しようと申し出た。
それから彼女のりっぱな家族について聞いてきた話をすると、嬉しそうに見えた。しかし、すぐにCへ行こうという私の申し出には反対し、もう少しのばしてほしいといった。彼女はステファーニが近くもどってくるにちがいないと信じ、そうしたら、冷静な気持で事をきめられると信じていた。
私は彼女のそうした考えをたしかめてから、いっしょに朝食をさせていただきたいと申し込んだ。食事のあいだに、お宅ではどういうことを楽しみにしていらっしゃったかときくと、もっぱら本を読んでいたし、音楽が好きなので、クラヴサンを弾くのがなによりの楽しみだったと答えた。
そこで、夕方また訪ねていったとき、本をいっぱいつめた小さい籠《かご》とクラヴサンと、新しい何枚かの楽譜とを持っていってやった。彼女はその贈り物をみて驚いたようだったが、さらにポケットから大小さまざまの上ばきを三足出すと、もう目をみはってしまった。そして、頬をまっ赤にそめながら礼をいった。しかし、彼女の靴は長い道中で破れていたにちがいない。私の前で自分に合ったのをはいてみようともせずに、私が三足とも棚の上へおくのを黙ってみていた。彼女が心から礼をいうのを見、かつ私自身としては彼女の貞操をけがそうという下心なんか全然なかったので、私の行動が彼女によい印象を与え、私をよく思ってくれるだろうと、それだけを喜びとした。私の目的はただ彼女の気持を落ちつかせ、ステファーニの破廉恥《はれんち》な行動から与えられたにちがいない男性への悪感情を忘れさせることだけであった。
私には彼女に恋心をおこさせようという考えが全然なかったし、自分自身が彼女に惚《ほ》れこむようになるかもしれないとも信じられなかった。私が彼女のことで気をもむのは彼女の身の上にたいする同情からにほかならなかった。まったく、彼女の不幸は心ある男の同情をさそうに足りるが、ましてこちらの素姓も知らずに全幅の信頼を寄せてくれたのも嬉しかった。それにまた、いまのようなひどい状態で彼女が新しい愛を受け入れられるとも思われなかった。またいろいろおためごかしの世話をして、彼女の気持を引きつけようなんて考えが心に浮かんだら、私はきっと不潔な考えだとすぐにしりぞけたであろう。
私は彼女のそばに十五分ぐらいしかいなかった。私にたいしてひどく気兼ねをしているように見えたので、その気持をやわらげてやろうと、早々に退却したのである。事実、彼女はどういって感謝の気持をあらわしたらよいか言葉に窮するありさまであった。
実際、私はひどくデリケートな事件に首をつっこんでしまい、その結末がどうなるのか見当もつかなかった。しかし、彼女の世話をする金に困るわけでもなかったので、早く結末をつけようともしなかった。運命の神がはじめてめぐんでくれた、この男気満点の奔走は極度に私を喜ばせた。自分がそんなに善人だとは夢にも知らなかったので、私自身にたいして一種の実験をしていると思われ、興味|津々《しんしん》たるものがあった。三日目になって、彼女はくどくどと礼を述べてから、ごいっしょにマルヴァジアなんかへはいっていったので、さだめし蓮《はす》っ葉《ぱ》な女だとお考えになったでしょうに、どうしてこんなにわたしのことをよく思ってくださるのか見当がつかないといった。そこで、私も、あんなマスクをしていたから、怪しいやつだと思われるのが当然なのに、どうしてすぐに信用できる男だと見ぬいてくださったのか合点がいかないと答えた。すると、彼女はにっこり笑った。そこで、私は言葉をついで、
「それというのもですね、お嬢さん、ぼくはあなたのうちに、とくにお美しい面差《おもざし》のうちに、気高さと、情の深さと、不幸なお心とを見てとったのです。あなたの最初のお言葉から、いかにもまじめで清らかなお心ばせを読みとり、あなたを誘惑したのは恋であり、あなたをご家族やお国から出るように強制したのは名誉を重んずる気持からであるとお察ししたのです。あなたのあやまちは恋に魅せられた心のなすわざで、これにたいしては理性も力のおよばないことですし、家出をなさったことは復讐をさけぶ偉大な魂から来たことで、これは十分にあなたの行動を弁護しております。ステファーニは命をもって罪をつぐなうべきで、いまさらあなたと結婚するなんて、とんでもない話です。彼はあんな卑劣なことをしたからには、あなたをわがものにする資格なんか全然ありません。むりやりにそんなことをさせると、彼の罪を処罰するよりも、逆に褒美《ほうび》をやることになりますよ」
「いちいちおっしゃるとおりです。あの人でなしはほんとに憎らしい人です。わたしには兄がひとりありますから、決闘で殺してもらいましょう」
「それはお考えちがいです。あいつは卑怯未練な男ですから、名誉の死をとげるはずはありませんよ」
そのとき、彼女はポケットへ手を入れて、しばらく考えていたが、十インチばかりの短刀を引き出して、テーブルの上へ置いた。
「なんです、これは」
「いまのいままで、わたしはこれでわが身を亡きものにするつもりで、これだけを頼りにしていたのです。けれども、お話でよくわかりました。どうぞこれをお持ちになってください。これからは、こんなものよりもあなたのご友情だけを頼りにさせていただきます。あなたのお力で名誉と命を救っていただけると確信しましたから」
この言葉をきいて、私はすっかり感謝してしまった。そして、その短刀を受け取ってきたが、心がひどく動揺して、英雄主義の弱点をまざまざと感じさせられた。しかし、私はそれを滑稽《こっけい》なものに思いなそうとした。こうして七日目までは無事にもちこたえることができた。
[ブロンドの髪の魅惑]
ところが、やがてあることに気がつき、令嬢にたいして不当な疑いをかけるようになった。それは不愉快なことであった。というのも、その疑いがもしも事実なら、まんまと一杯くわされたと認めないわけにいかなかったからである。それは屈辱的なことである。というのも、彼女が音楽が好きだといったので、私はすぐその日にクラヴサンを買ってきてやったが、それから三日たっても蓋《ふた》さえあけなかった。これは老婆にきいてもあきらかだった。私にしてみれば、お礼の意味で教養のほどをきかせてもらいたいところだった。ところが、蓋もあけないとは、嘘をついたのだろうか。とすると、もう彼女は相手にできない。しかし、私はそう宣告するのをさきへのばして、なんとか疑いをはらそうときめた。
翌日、彼女の才能の一端をしめしてほしいと頼むことにして、いつになく昼食のすぐあとで訪ねていった。彼女は自分の部屋で鏡の前にすわり、年とった女主人に髪をとかしてもらっていた。髪は非常に長く、筆にも言葉にもつくせないほどの明るいブロンド色だった。彼女はいまごろお出でになると思わなかったと、取り乱している言訳をいった。しかし、「どうしても梳《す》いていただきたくなったものですから」といって、つづけさせた。はじめて彼女の顔の全部と、首筋と、腕の半分とを見た私は、返事もせずに見とれていた。やがて、香油がよい匂いだとほめると、未亡人は香油と白粉と櫛《くし》を買うために、お嬢さまから渡された三リラをすっかり使ってしまったといったので、私は当惑した。Cを出るとき、十パオリしか持ってこなかったと聞いていたからだ。もっと早く小遣のことを考えてやるべきだったのだ。しかし、私は黙って目をこらしていた。
髪を梳いてしまうと、未亡人はわれわれのためにコーヒーをつくりに行った。私は化粧台の上においてあった肖像入りの指輪を手にとってながめた。そして、彼女が髪を黒く、男のように描かせた気まぐれを笑った。すると、彼女はこれは兄の肖像で、わたしと瓜《うり》ふたつなのだといった。その兄は彼女よりも二歳年上で、まえに人から聞いたように、法王の軍隊に士官としてつとめていた。
私は彼女の指に指輪をはめてやろうと身ぶりでいった。彼女は指をのばした。指輪をはめてしまうと、私は習慣になっている慇懃《いんぎん》さで、その手に接吻しようとした。彼女はあかくなって、手をひっこめた。そこで、礼儀の道にかなわないことをしたように思いはしなかったかと、まじめにゆるしを求めた。
彼女はいまのような境遇ではあなたよりも自分の心を警戒することを考えなければならないと答えた。
この挨拶は非常に微妙で、私にとって喜ぶべきことのように思われたが、そっと聞きながしておくべきだと考えた。彼女は私の目のなかに、私にたいして希望をいだいてもむだではないし、私も知らん顔をするほど不粋《ぶすい》ではないと見てとったにちがいない。彼女にたいする私の思慕は、そのときすでに少年期を脱し、もはや自分にも隠すことができなくなっていた。
本を贈るとき、小説は好きでないときいていたので、彼女の趣味にあうと思われるものをえらんで持っていったのだが、彼女は本の礼をいってから、あなたが音楽がお好きだと知りながら、まだ一曲も弾いておきかせしなかったのは、たいへん申訳がない。どうせ自己流なんですがと詫《わ》びをいった。
それをきいて、私はほっとした。彼女はこういいながらクラヴサンに向かい、二、三の曲を、楽譜なしで、すばらしくじょうずに弾いた。それから少しためらったあとで、楽譜をひらいて、ある一曲を弾きながら歌った。
私はとたんに恋心が天上までつきあげられる思いだった。そこで、うっとりと目をうるませながら、彼女の手に接吻させてほしいと頼んだ。彼女は自分から手を差し出しはしなかったが、私が手をとっても引っこめなかった。それでも、私は自分をおさえて、くどい接吻をするのをつつしみ、軽く唇をあてるだけにとどめた。
そして、思慕の心をもやしながら別れたが、思いきって恋の告白をしてしまおうと心にきめていた。深く愛している女が自分と同じ気持をもっていると知りながら、うじうじと遠慮しているのはばからしいことだ。しかし、私はもっとはっきり向うの気持をたしかめる必要があった。
ステファーニを知っているものは、町じゅうで、彼の失踪の理由をいろいろ臆測していた。私はなにもかも聞いていたが、ひとこともいわなかった。みんなの一致した意見では、母親が借金を払うのをことわったのが原因だということであった。それはほんとうらしかった。しかし、彼がもどって来ようが来まいが、私はせっかく掌中《しょうちゅう》におさめた珠《たま》を手放す気になれなかった。とはいえ、どういう口実で、またどういう方法でもちかけていったら、その珠をたやすく享楽できるか見当がつかなかったので、まさしく迷宮にまよいこんだ気持であった。ブラガディーノ氏に相談してみようかとも思ったが、途方もないことだと思って、あわててこの考えをしりぞけた。リナルディの場合でも、さらにまたラバディの場合でも、ブラガディーノ氏があまりにも経験主義者であることを知っていたので、彼の薬をもちいて病気をなおすよりも病気でいたほうがいいと思うほど、彼の薬をおそれていた。
ある朝、これは大失策だったが、未亡人に私がどういう人間だかあの令嬢から聞かれたかときいてしまった。すると、彼女は返事をするかわりに、「あの方はあなたのことをご存じないのですか」ときいたので、しまったと思った。そこで、「返事をしてくれりゃいいんですよ。よけいなことはきかないで」と答えた。
しかし、未亡人が不思議がるのもむりではなかった。彼女は必然的にわれわれのうえへ好奇の目をむけた。きっとおかみさん連のおしゃべりがはじまるにちがいない。それも私の軽はずみからにほかならなかった。うすばかな連中に物をきくときには、よほど注意しないといけないものだ。令嬢を私がかくまってから二週間になるが、彼女は私がどういうものだか知りたがる気配を少しも見せなかった。しかし、そのために、知りたがっていないと信ずるべきではなかった。それはたしかにそうだ。本来ならば、最初の日から自分の素姓をあかすべきだったろう。そこで、その晩、未亡人が話すよりもずっと手ぎわよく自分の身の上を話し、もっと早くこの義務をはたさなかったことを詫びた。彼女は私に感謝し、ときどきあなたのことをとても知りたく思ったが、それを宿の奥さんにきくようなはしたないことはできなかったと告白した。
われわれの話は、ステファーニがいつまでも行方をくらましている理由がわからないことにおよんだが、彼女はもしかしたら父はステファーニがわたしとどこかに身をかくしていると思っているかもしれないといった。そして、
「父はわたしが毎晩窓ごしにあの人と話をしていたのを知っているにちがいありません。それに、わたしがフェラーラからの便船に乗ったことを調べだすのも、父にはけっしてむずかしいことではないでしょう。ですから、いまごろはヴェネチアに来ていて、だれにも知られずにわたしを捜し出そうと八方手をつくしているにちがいありません。父はヴェネチアへ来るといつもボンクーザン旅館へとまりますから、来ているかどうか調べてくださいませんか」
彼女はもはやステファーニの名は憎悪の気持でしか口にしなくなった。そして、自分の恥ずべき不行跡をだれからも知られないように、祖国から遠く離れた修道院へこもってしまいたいとばかり考えていた。
[天使の導きのままに]
私は翌日からすぐ彼女の父親のことをきいて歩こうと心にきめて、引きさがった。しかし、骨をおって調べて歩く必要もなかった。夕食のときにバルバロ氏が次のような話をしてきかせたからだ。
「今日、法王に仕えている貴族に紹介されたよ。ひどくデリケートでやっかいな問題が起こったのだが、わしの信用を利用して、一臂《いっぴ》の力をかしてほしいというのさ。わしらの同国人のひとりがその貴族の娘を誘拐して、二週間まえからどこかで同棲しているらしいんだ。しかし、だれにも居所がわからない。この事件は十人委員会へ持ちださなければなるまいな。誘拐した男の母親はわしの親戚だといっているんだ。しかし、わしはそんな事件にまきこまれたくないのさ」
私はこの話に全然興味をもたないような顔をしていた。そして、翌日、起きぬけに、この大事なニュースを知らせようと、若い伯爵令嬢のところへ駆けつけた。彼女はまだ眠っていたが、急いでいたので、未亡人をやって、大事なことを話したいから、ほんの二分でいい、会ってもらいたいといわせた。彼女はねたままで、掛蒲団《かけぶとん》を顎《あご》までかけて私を迎えた。
私の話をすっかり聞き終わると、彼女は父とわたしのあいだを取り持ってくれるようにバルバロさんにお願いしてほしい、あんな人非人の妻になるような恥をかくより死んだほうがましだからと頼んだ。そして、父親に人非人の悪辣《あくらつ》さを見てもらいたいから、ステファーニがわたしを誘惑するためにつかった結婚約束の書付をお渡ししたいといった。そして、その書付をポケットから出すために、素肌の腕を付根まで私の目にさらした。彼女はまっ赤になったが、それはシュミーズも着ていないことを私に知られた恥ずかしさのためであった。私は夕方また会いにくると約束した。
彼女の願っていることをバルバロ氏に頼むには、私がかくまっていることを打ち明ける必要があるが、そんなことをすると彼女のためになるまいと思い、決心をつけかねた。それに、いよいよ彼女を失う土壇場《どたんば》へ来たわけだから、その時期をはやめるのは気がすすまなかった。
昼食がすんだとき、バルバロ氏のところへA・S伯爵が訪ねてきた。伯爵は妹に生き写しの軍服姿の息子を連れてきた。彼らは用件の話をするためにバルバロ氏の部屋へはいり、一時間後に帰っていった。そのあとで、バルバロ氏は、かねて予期していたとおり、A・S伯爵のために力をかすべきかどうか、私の天使にうかがってほしいと頼んだ。私はきわめて冷静をよそおいながら、「この一件に介入して、伯爵が娘のあやまちをゆるし、悪人の妻とならせる考えを捨てるよう説得すべきである。なぜなら神は悪人に死を宣告したからである」と、数字で答えた。
人々はこの託宣に驚いたが、私もこんな無鉄砲な答えを出したのに、あきれてしまった。それもステファーニはだれかに殺されるはずだという予感がしていたからだが、そう考えさせたのは、恋の仕業《しわざ》であった。ブラガディーノ氏は、私の予言はまちがいないと信じていたので、託宣がこれほど明瞭《めいりょう》に語ったことはないから、ステファーニは託宣がくだされると同時に死んでいるにちがいないといった。
そして、バルバロ氏に、あしたあの父親と息子を昼食に招待したほうがいいとすすめ、とにかくあわてずに事を運ぶにかぎる。彼らに令嬢のあやまちをゆるさせるまえに、居所をつきとめなければならないのだからといった。
すると、バルバロ氏が、私にきみさえその気になったら、令嬢の居所を教えてもらえるのだがといったので、私はあぶなく吹きだしそうになったが、
「では、あした、ご希望のようにおうかがいをたてましょう」と、私は答えた。
さきに父親と息子の意見を知っておくために、時間をかせごうとしたのであった。そして、自分の託宣の名誉をまもるために、ステファーニを殺させなければならない羽目《はめ》になったのを、腹のなかで笑ってしまった。
その晩、おそくまで、若い伯爵令嬢の部屋ですごした。令嬢はもはや父親が慈愛の気持をもってくれることや、私に全幅の信頼を寄せるべきであることを疑わなかった。
私が翌日彼女の父や兄と昼食をともにすることや、彼女のことが話題になったら、ふたりのいったことを晩に来てすっかり話すというと、たいへん喜んだ。しかし、彼女がもしも私がいなかったら、この町で淪落《りんらく》の底にしずんだにちがいないと考え、私をこそ思慕すべきだと心をきめたようすを見て、どんなに嬉しかったろう。なにしろヴェネチア政府の政策はその町を支配する自由の標本として放縦《ほうじゅう》な風俗を寛恕《かんじょ》していたのだから、彼女にとってひどく危険であったことは事実だ。
こんなわけで、われわれはローマ向けの建て場での奇遇を喜び、ふたりの意志がまったく一致したのを不思議がった。しかも、彼女が身分の下の私のすすめに応じたのも、私が言葉をつくして、ついてくるように、そして忠告にしたがうようにとすすめたのも、お互いの容貌の魅力にひかれたためではなかったのを、嬉しがった。私はマスクをしていたし、彼女の頭巾も同じ役目をはたしていたからである。すべてがあまりにも不思議だったので、互いに口にはださなかったが、これこそ永遠の神や守護の天使たちのおんじきじきのご加護の賜物であると想像した。こうして、われわれは相思相愛の仲となった。世界じゅうに、こんな考え方は迷信的だと思うほど大胆な読者がいるかどうか知りたいものだ。
私は、感激の一瞬、彼女の美しい両手に唇を走らせながら、すっかり熱狂的になって、
「いってください、もしもぼくがあなたを愛していることをご存じになったら、わたしをお嫌いになりますか」
「とんでもない! わたしはあなたを失うことだけを案じているのですわ」
この返事をきき、眼差しがその真実さを保証しているのを見ると、私は両腕を大きくひらいて、この返事をしてくれた美しい娘を胸に抱きしめ、その口へ熱い接吻を与えた。そして、彼女の目のなかに傲慢《ごうまん》な怒りも、私を手放したくないための冷たいお追従《ついしょう》も見えなかったので、すっかり安心して、ひたすら愛欲に身をまかせた。私の見たものは燃えるような愛情と、ある感謝の表情であったが、その感謝は彼女の純真さをけがすどころか、かえって彼女の歓喜をいっそうこまやかにした。
しかし、ひしと抱きあった腕がはなれるとすぐ、彼女は目をふせ、深い溜息《ためいき》をつくのが聞こえた。私は無意識におそれていたことに気づいて、彼女の前にひざまずくと、罪をゆるしてくれるように哀願した。
「なんの罪ですの、あなたをゆるすんですって? それはわたしの考えを邪推なさったのですわ。あなたがこんなにやさしくしてくださるのを見て、しみじみと自分の幸福を考えていたのですわ。すると、いまわしい思い出がふと胸にうかんできて、それで溜息をついてしまったのです。さあ、お立ちあそばして」
夜半の十二時が鳴った。私はあなたの名誉をまもるために、もうお別れしなければいけないといって、すぐにマスクをして外へ出た。私はまだその資格がないと思っていた恩恵を手に入れたおそろしさでおびえていたので、私の帰り方は無愛想に思われたかもしれない。
その夜はよく眠れなかった。恋する青年は空想をかりたてて現実の役割を演じさせなければ満足できないものだが、そうした一夜を私はすごした。この現実を、私は味わったが、十分に堪能《たんのう》するほどではなかった。それで、私は心のなかで享楽を完全にしてくれるはずの相手へしきりに思いをはせた。それは骨のおれる仕事だが、恋はそれを要求し、喜びを感じるものだ。この夜の芝居では、愛と想像とが主役であった。希望は脇役で、だんまり役しかつとめなかった。希望は、人から非常にほめられているが、実際にはお世辞つかいにしかすぎない。理性がこれをかわいがるのは、一時おさえが必要だからだ。人生を楽しむために、希望も予想も必要としないものは幸福である。
[伯爵と御曹子]
目をさましたとき、私の気分を少々重苦しくしていたのは、ステファーニに投げつけた死の宣告であった。この宣告を取り消す方法を見つけたかった。というのも、それは託宣の名誉を危険にさらすことであったが、さらにまた、彼はいわばいま私の魂がおおいに楽しんでいる幸福の効果的《ヽヽヽ》な原因であったと考えると、心から憎む気になれなかったからである。
伯爵とその息子が昼食にやってきた。父親は淡白で、全然気取りのない人であった。こんどの事件にたいへん心痛し、その解決に悩んでいた。息子は愛の神のように美しく、才気もあり、態度物腰も上品であった。その闊達《かったつ》なようすは私の気に入った。私はその友情を得ようとして、彼のことにしか気をくばらなかった。
デザートになると、バルバロ氏は非常に言葉たくみにわれわれ四人は一心同体だと父の伯爵を説得したので、彼は腹蔵なく話した。そして、娘はどの点からみても申し分のない子だとほめそやしてから、ステファーニはわしの家へ足を入れたことがない、ただ往来の闇にまぎれて窓から話しかけただけだから、どういう魔法をつかって娘を誘惑したのか、また自分は駅馬車で出発しながら、その二日後に、娘にただひとり徒歩であとを追わせたのか、まったく合点がいかないといった。
そこへ、バルバロ氏が言葉をはさんだ。
「それでは、ご令嬢が誘拐されたとも断定できないし、はたしてステファーニが誘拐したかどうかも証明できないのですね」
「そうも思います。しかし、証明はできませんが、それでも確実なことなのです。げんに彼の居所をだれも知らないのですから、娘といっしょにいるにちがいありません。わしの要求するのは、彼が娘と結婚してくれることだけです」
「わしはむりに結婚をおすすめにならぬほうがおためかと思いますな。なにしろ、ステファーニは書記官仲間でも、万事につけて、手におえないやくざ者なのですからね」
「もしわしがあなたの立場に立ったら」とブラガディーノ氏がいった。「娘が前非を悔いてあやまってきたら、それに感動したふりをして、ゆるしてやりますな」
「いったい娘はどこにいるのでしょう。わしはいつも腕をひろげて待っていますよ。しかし、あれが前非を悔いているとは思われません。くりかえしていいますが、男といっしょにいるにちがいありませんから」
「ご令嬢がCから出て、ここへいらっしゃったことはたしかなのですか」
「それは便船の船長からはっきりきいているのです。あれがローマ向けの建て場から二十歩はなれた河岸で船をおりると、覆面をした男が待っていて、すぐに連れだってどこかへ行ったというのですが、その行方をだれも知らないのです」
「それがたぶんステファーニだったのですな」
「いや、ステファーニは小柄の男ですが、覆面の男は大柄だったのです。それに、ステファーニが娘の着く二日まえにヴェネチアから姿をくらましたこともわかっております。ですから、娘を連れさった覆面の男はステファーニの友だちで、娘をステファーニのところへ連れていったのでしょう」
「それは臆測にすぎませんな」
「覆面の男を見たものが四人いるのですが、その四人はだれだか知っているというのです。しかし、名前をいうだんになると、みんなちがうのです。その覚書も持っています。ですから、もしもステファーニがわしの娘をおさえていることを否定したら、十人委員会へその四人も告発するつもりです」
こういうと、父親は紙入れから一枚の紙を出した。それには覆面の男だという、それぞれちがった名前が書いてあったばかりでなく、それを教えたものの名前も書いてあった。バルバロ氏がその名前を読みあげた。最後に読んだのは私の名前であった。私は自分の名前をきくと、思わずうなずいた。私の三人の友人はそれを見て笑いだした。ブラガディーノ氏は三人が笑いだしたのを伯爵が異様に思っているのを見て、理由を説明しなければわるいと思い、こういった。
「ここにいるカザノヴァはわしの息子です。もしもご令嬢がこのものにかくまわれていらっしゃるのでしたら、かえって安全です。それは誓います。見かけは安心して娘たちをあずけられない男のように思われますがね」
父親と息子が驚きあきれ当惑したようすは絵にもしたいほどであった。人がよく愛情のふかい父親は目に涙をためて詫びをいい、わしの立場も考えてご勘弁ねがいたいといった。私は何度も彼を抱擁して気持をしずめてやった。私の覆面姿を見やぶった男はポン引きであった。数週間まえひとりのダンサーを連れてくるといって長いこと待たせ、ついに約束をたがえたので、なぐりつけてやった男だった。もしも私が不幸な伯爵令嬢に話しかけるのがもう一分おくれたら、彼は彼女を口車にのせて、どこかの曖昧宿《あいまいやど》へ連れこんだだろう。
こうして、いろいろ話しあったすえ、伯爵はステファーニの居所が判明するまで十人委員会への提訴を見合わせることになった。
私は彼にいった。
「六か月まえから、あの男の姿を見ませんが、見つけ次第、決闘して殺してやりますよ」
すると、若い伯爵は非常に冷静な口調でこういったが、その口調はおおいに私の気に入った。
「やつを殺すのは、わたしがやられてからにしてください」
しかし、ブラガディーノ氏がたまりかねて、
「おふたりともステファーニと決闘するにはおよびませんよ。やつは死んでしまいましたからね」
「死んだ!」と伯爵がいった。
慎重なバルバロ氏がつけくわえて、「いや、言葉どおりにお取りにならないでください。あの人非人は名誉の点では死んでしまったというわけですよ」
この奇妙な場面で、事件の真相はほとんどあきらかにされたが、そのあとで、私は保護している天使のもとへ行った。しかし、ゴンドラを三度も乗りかえた。ヴェネチアのような大都会では、行方をたしかめようと尾行してくるものをはぐらかすには、これよりほかに方法がないのである。
[自殺かカプチン僧か]
私は胸をときめかして待っていた令嬢に、いままで書いたことを一語一語忠実にくりかえした。彼女は父親が腕を開いて抱きとってくれるときくと、涙を流して喜んだ。そして、また、あのならず者が彼女の部屋へはいったことはだれも知らないと私が保証すると、そこへひざまずいて神をたたえた。しかし、彼女の兄が非常に落ちついた口調で「やつを殺すのは、わたしがやられてからにしてください」といった言葉をくりかえすと、涙にくれながら私を抱きしめ、わが天使よ、わが救い主よと呼ばずにいられなかった。私はおそくとも明後日にはいとしい兄さんをここへお連れしようと約束した。そして、ステファーニのことも復讐のことも話さずに、心楽しく夕食をとった。
軽い夕食がすむと、愛の神はわれわれを思う存分にもてあそんだ。そして、二時間のあいだ、ときのたつのも忘れた。ふたりとも享楽にせわしく、欲望に圧倒されていたからである。夜半に、七、八時間たったらまた会いにくるといって別れた。彼女のところで夜をすごさなかったのも、宿のあるじの未亡人がひと晩もとまっていったことがないと、どんな場合にも証言できるようにという配慮からであった。
その晩、もしもとまりこんでしまったら、おおいに後悔することになっただろう。三人の気高い友人が新しい驚くべきニュースを知らせようと、立ったままでいらいらしながら待っていたからである。それはブラガディーノ氏が元老院できいてきたことであった。
「ステファーニは死んだよ。わしらの天使パラリスが天使の言葉で予言されたようにな。やつはカプチン僧になってしまったので、世間からは死んだも同然さ。もちろん、元老院ではもうこのことを知らぬものがない。しかし、みんな天罰だと思っている。だれも知らぬことを知る資格をわしらにお与えくださった神と天使たちをたたえよう。そして、いまこそ事を円満に片づけ、あの善良な父親を安心させてやらねばならぬ。娘がどこにいるか、パラリスにうかがいをたてよう。娘は尼になれと託宣で命じられたわけではないから、ステファーニといっしょにいるはずはないからな」
そこで、私はこう答えた。
「いや、パラリスにおうかがいをたてるまでもありません。わたしはまえから若い伯爵令嬢の居所を知っていたのですが、パラリスの命令をまもって、秘密にしておいたのです」
こういう短い前置きのあとで、こんどの事件を詳細に話してきかせた。ただし、彼らにいってはならないことは伏せておいた。というのも、この三人の君子は女についてばかのかぎりをやってきたために、いまでは逆に恋愛をゆるすべからざる罪だと思いこんでいるからである。ダンドロ氏とバルバロ氏は私がもう二週間もまえからその娘を保護していると聞いて、非常に驚いたようであった。しかし、ブラガディーノ氏はいかにもその道の達人といった口調で、そんなことは驚くに足りない、算易の世界にはよくあることで、わしにはまえからわかっていたといった。そして、こうつけくわえた。
「そのことは、伯爵が娘をゆるし、国もとへなりどこへなり好きなところへ連れていくことをはっきり見きわめるまでは、絶対に秘密にしておかなければならんぞ」
私はそれを引き取って、
「そりゃ、もちろん、ゆるさなければなりませんよ。あのすばらしい娘は、もしもステファーニが、ほら、こんなふうな結婚の約束の証文を渡しながら帰ってしまわなかったら、Cから出奔しやしなかったでしょうからね。彼女は船つき場まで一日一晩歩きどおしで行って船に乗り、ちょうどわたしがローマ向けの建て場の旅館から出てきたとき、船をおりたのです。わたしは霊感に動かされて、彼女に近寄り、いっしょに来いといいました。すると、すなおについてきましたので、俗人の近よれない場所を物色し、神を畏敬《いけい》するある女のところへ連れていったのです」
三人の友人は注意をこらして、私の言葉にききいった。その恰好《かっこう》はまるで石像と化したようであった。私は取るべき処置をパラリスに相談する時間が必要だから、あさってまで待って、伯爵父子を昼食に呼んでほしいと頼んだ。それから、バルバロ氏に、ステファーニがカプチン僧となった以上、もはやこの世になきものと見るべきであることを、伯爵に話してもらいたいといった。話がすむと、四、五時間眠ってから、未亡人の家へ行った。そして、三、四時間書き物をする必要があるから、呼ぶまではコーヒーを持ってこないようにと命じた。
令嬢の部屋へはいっていくと、彼女は目をさましながらまだ床についていた。その目のなかには満ちたりた喜びの色がうかがわれた。十二日ばかりのあいだはうれわしげな表情しか見せなかった顔が明るく笑っていたので、私は嬉しかった。そして、すぐに幸福な恋人同士のいとなみをはじめた。そして、互いに愛情と感謝を十二分にしめしあった。
愛は彼女の魂を洗いきよめ、いささかも社会的な偏見にまどわされることがなかった。愛する女が処女であるときには、その美貌は恋人の愛欲に新しい魅力を感じさせるものだ。この伯爵令嬢は処女ではなかったが、なにもかも新しいように思われた。というのも、およそ女に愛情をいだかせる値うちのないような小男相手に、まっ暗闇のなかでただ一度では、愛の歓楽をろくに味わえなかったからだ。
こうして、心静かに、長いいどみ合いを終わると、私はゆうべ寝に行くまえに三人の友人と語りあったことを、事こまかに話した。しかし、すっかり愛の神のとりこになってしまった令嬢には、この肝心の問題ももう二の次になってしまった。
ステファーニが自殺するかわりにカプチン僧になったという話に、彼女は茫然となってしまった。しかし、たいへん分別のある考え方をし、彼をあわれんだ。人があわれみを感じるときには、もう憎んではいないものだ。しかし、それは鷹揚《おうよう》な魂にしか起こりえない。彼女は父親に引き合わせる方法をいっさい私にまかせ、私の保護のもとに身を寄せていることを、私が親友たちに話したのをたいへん喜んだ。
しかし、永久に別れる時期がせまっていると思うと、ふたりともやるせない気持をおさえることができなかった。そして、愛欲のどん底にしずんで、しばしその苦しみをわすれるのであった。令嬢はもしもあなたの身分がわたしと同じだったら、金輪際《こんりんざい》あなたと別れはしないのだがと嘆いた。そして、わたしを不幸にしたのは、ステファーニを知ったことではなく、あなたをうしなうことだといった。ふたりの心が固くむすばれて幸福に酔ったあとでは、離別の悲しみはいっそう耐えがたくなるものである。
食卓で、バルバロ氏は、彼の親戚だといっているステファーニ夫人を訪ねた話をした。夫人は一人息子のとった決心に腹をたてていないらしく、あの子は自殺するかカプチン僧になるか、ふたつにひとつを選ばなければならなかった。それだから賢い道をえらんだことになるといったそうである。
これは善良なキリスト教徒らしい言葉だし、彼女はあくまでそう主張していた。しかし、もしも彼女が金を惜しまなかったら、ステファーニは自殺もせず坊主にもならなかっただろう。この種の残酷な母親は世の中に多い。彼女らは自然の情を踏みにじらなければ善良な女とはいえないと信じている。悪性《あくしょう》の女たちだ。
ステファーニはいまもなお存命だが、彼の絶望の最終の理由はだれにもわかっていない。私の回想録は彼のことがだれにも利害関係をもたなくなった時分に話すだろう。
[芝居そっくりの再会]
伯爵とその息子は、ステファーニの入信に不思議なほど狼狽《ろうばい》し、もはや一日も早く令嬢をとりもどしてCへ連れ帰る以外には、なにも望まないという心境になった。
そして、彼女の居所をつきとめるために、十人委員会の三人の裁判長の前へ、指名された人物を、私を除いて、全部召喚しようと決心した。そこで、われわれは令嬢は私が保護していることを知らせるように心をきめたが、ブラガディーノ氏がその役目を買って出た。
それは翌日のことにした。われわれ一同は伯爵の宿舎へ晩餐にまねかれた。しかし、ブラガディーノ氏は辞退した。この晩餐のために、その晩は令嬢のところへ行けなかったが、翌日は夜が明けるとすぐ訪ねていった。なにしろその日こそ彼女が私の保護のもとにあることを父親へ知らせる決心だったので、私は昼まで彼女のところでねばった。もう二度とふたりだけになる機会があろうとも思われなかった。私は彼女に昼食を終わったら兄さんを連れてもどってくると約束した。
伯爵とその息子はわれわれといっしょに昼食をした。そして、食卓から立ったとき、ブラガディーノ氏がご令嬢が見つかったと報告した。父親と息子の驚きようといったらなかった。ブラガディーノ氏はステファーニが令嬢に渡した結婚の約束の書付を出して、彼らの目のまえに置き、こう話した。
「これをごらんください。ステファーニがひとりでCから出発してしまったとおききになったとき、ご令嬢に分別をなくさせた原因はこれなのですよ。ご令嬢はたったひとりで歩いてお出かけになりましたが、ここへお着きになると、まったく偶然に、ここにいるのっぽの青年とお会いになりました。この青年はご令嬢にすすめて、ある非常に堅気な家へご案内したのですが、ご令嬢はその後一歩もその家から出ず、お父さまが過去のあやまちをゆるしてくださるとわかったら、すぐにお父さまの腕のなかへもどろうと待ちこがれていらっしゃいます」
父親は「ゆるすもゆるさないもございません」と答えた。それから、私のほうへ向いて、どうか一刻も早くわしを喜ばせていただきたい。わしの一生の幸福を左右することなのだからと頼んだ。私は彼を抱きしめてから、あすお会いなさるようにはからいましょう。さしあたっては、これからすぐご子息をお嬢さまのところへご案内しましょう。お嬢さまはまだお父さまとお会いになるのをこわがっていらっしゃいますから、お兄さまから安心なさるようによくお話になっていただこうと思うのですといった。バルバロ氏はわしも連れていってほしいといい、若い伯爵は私のとりなしを喜んで、永遠の友情を誓った。
われわれはすぐにゴンドラに乗って、ある船着場まで行き、そこで乗りかえて、貴重な宝を大事にしまってある家を訪れた。私はふたりに待っていてほしいといってさきにおりた。そして、令嬢に会い、お兄さまとバルバロ氏をお連れした、お父さまにはあすお会いになるようにしてあると知らせた。
「では、まだ何時間かごいっしょにすごせますのね。早く行って、兄たちをお連れください」と、彼女は嬉しそうな声でさけんだ。
私はふたりの紳士を連れてきた。なんという芝居じみた場面だったろう! 同じ鋳型でつくられた兄と妹の顔にあらわれたはげしい愛情。心からなる抱擁のなかに輝く清らかな喜びはやがて雄弁な沈黙におち、互いの涙に終わった。それから、彼女はようやく礼儀の掟《おきて》に気づき、そばにひかえていた見知らぬ貴族にたいして挨拶もしなかったのを恥じた。この気高い愛の建物の建築主任である私は置き去りにされ、忘れはてられて、だんまり役をつとめるよりほかはなかった。とにかく、じつにうるわしい光景だった。どんなに巧妙な画家でもこれをあらわすには相当骨がおれるだろう。
最後に人々はソファーにすわった。令嬢をまんなかにして左右にバルバロ氏と兄。私は彼女の前の腰掛にすわった。
「ぼくらがあんたを見つけだせたのは、だれのおかげだね」と兄がきいた。
「わが天使のおかげです」と、彼女は私のほうへ手を差しのべながら答えた。「この人はわたしを待つつもりもなく待っていて、わたしを救い、思ってもみなかった無数の恥辱から救ってくださったのです。それなのに、この人は、ごらんのように、いまはじめてこの手に接吻なさったのですよ」
彼女はあふれでる涙をふくために、ハンケチを目にあてた。われわれもいっしょに涙をさそわれた。これこそ真の美徳だ。現にいま嘘をついていても、やはり美徳なのだ。しかし、若い伯爵令嬢はそのとき自分が嘘をついていることを知らなかった。ものをいったのは純真で操《みさお》ただしい魂で、彼女はその魂のしゃべるにまかせたのだ。彼女は美徳にそそのかされて、身をあやまりこそすれ、けっして美徳と縁を切ったわけではないことを教えるために、貞操の正しい女の肖像をえがいて見せたのである。愛情と織りなされた肉欲に身をまかせた娘は罪をおかすはずはない。後悔にさいなまれることがないからだ。
このうるわしい訪問の終りに、彼女ははやくお父さまの足もとにひざまずきたいが、近所の人々のかげ口の的にならないように、日がくれてからでなければといった。それで、この芝居の大団円となるべき会見は翌日ということになった。
われわれは父伯爵といっしょに旅館へ夕食に行った。彼は一家の名誉をたもちえたのは私が令嬢にしてやったことのおかげだと認めて、称賛の念をもって私をながめた。しかし、娘が便船からおりたとき、さきに声をかけたのが私であることを、私の認めるまえに知ったので、大喜びだった。バルバロ氏は翌日昼食に来るようにと、ふたたび彼らにすすめた。
いまや別れていこうとしている天使と午前中差向いですごすのは危険であった。しかし、危険に立ち向かわなければ、恋とははたしてなんであろうか。その何時間かが最後の逢瀬だと信ずるにつけ、ふたりはその何時間を最後の思い出として真に楽しいものにしようと一所懸命だった。しかし、幸福な恋人たちはけっして自殺などしない。彼女は私の魂が血となってにじみ出すのを見た。そして、それには自分の魂の一部がまざっていると信じようとした。
わが若い伯爵令嬢は、はげしい愛情が若く丈夫で情熱的な恋人に与える楽しい快楽を苦しくなるほど味わってから、服をつけ、靴をはいた。そして、上靴に接吻し、これは一生大切にしまっておくといった。私は彼女の髪の毛を求めた。彼女はこころよく切ってくれた。F夫人の思い出を忘れまいといまだ保存しているのと同じ組紐をつくるつもりであった。
夕方、私は父親や兄やダンドロ氏、バルバロ氏を連れて、ふたたび彼女を訪ねた。父親の姿を見ると、彼女はその足もとにひざまずいた。彼は娘を援けおこして、腕にだきしめ、心をこめていたわった。一時間ののち、一同連れだって出かけ、ボンクーザン旅館へ行った。そして、三人の外国貴族に一路平安を祈ってから、私はふたりの親友とともにブラガディーノ氏の邸にもどった。
翌日、もう出発したろうと話しているところへ、彼らは六丁|櫓《ろ》のペオッタ(大形ゴンドラ)に乗って、ブラガディーノ邸を訪れた。バルバロ氏や私やブラガディーノ氏に最後の感謝を述べたいというのであった。ブラガディーノ氏はそのときはじめて不思議なほど似ているふたりのうるわしい兄妹を見て、感に耐えたのであった。
彼らはコーヒーを一杯飲むと別れを告げ、ペオッタへ乗り込んだ。この大形ゴンドラは二十四時間ののちに一行をポンテラゴスクロにおろすはずであった。それはポー河によって法王領とヴェネチア共和国が境を接している地点である。そのとき私は胸の思いを目によってしかあの愛らしい娘に伝えられなかった。しかし、彼女はその言葉を十分に理解した。彼女の目が語ることも私はすべて読みとった。どんな紹介状でも、伯爵がバルバロ氏のところへ持参した紹介状ほど役にたったものはあるまい。そのおかげで一家の名誉は救われ、私も不愉快な目にあわずにすんだ。あれがなかったら、私は十人委員会に出頭して、彼女を連れ去ったことを認めさせられ、したがって、彼女がどうなったかを白状しなければならなかっただろう。
[娼婦アンチラ]
この事件がかたづいた直後、われわれ四人は秋のすえまで滞在する予定でパドヴァへ出かけた。ゴッツィ先生はもはやパドヴァにはいなかった。ある村の主任司祭になり、妹のベティーナと暮らしていた。ベティーナの亭主は彼女のささやかな持参金を剥《は》ぎとるためにだけ結婚したやくざ者だったので、彼女を非常に不幸にし、彼女は亭主と暮らしていくことができなくなったのである。
この大きな都会はひどくのんびりしていて、退屈至極だったので、私は当時ヴェネチアの娼婦のうちでもっとも有名だった女と恋仲になった。その女はアンチラといい、のちに舞踊家のカンピオーニと夫婦になり、夫に連れられてロンドンへ行ったが、そこでごく親切なイギリス人を死に追いこんだのであった。この女については四年後にくわしく語ろう。さしあたっては、ある小さな事件について読者に報告するにとどめよう。その事件が原因となって、私の恋は三、四週間しかつづかずに終わったのであった。
その娼婦に私を紹介したのはメディーニという伯爵だったが、これは私と同じように軽率で、また私と同じ気質の持主であった。しかし、大胆な賭博師で、公然たる財産の敵であった。彼は思い思われているアンチラの恋人だったが、そのアンチラの家で賭場をひらいていた。彼が私をアンチラに紹介したのも、札を手にしてペテンにかけるためであった。初めのうち、私はなにも気づかなかったが、ある日、ついにごまかされていることをはっきり見てとった。そこで、ピストルを彼の胸につきつけて文句をいった。アンチラは驚いて気絶した。彼は金を私に返し、剣で決闘しようといった。私はこの申し出を承知し、ピストルをテーブルの上へおいて、いっしょに外へ出た。そして、プラト・デラ・ヴァレの広場へ行った。明るい月光の下で、私はさいわいにも彼の肩を傷つけた。彼は腕をのばせなくなって命乞いをした。そこで、私は家へ帰ってねた。しかし、朝になって、ブラガディーノ氏に相談すると、すぐにパドヴァをたってヴェネチアへ行き、わしの帰りを待てといったので、その忠告にしたがわなければならなかった。このメディーニ伯は終生私の敵になった。彼については、いずれナポリへ行ったとき、読者に語らねばなるまい。
その年の終りまで、私は古い習慣にしたがって暮らし、勝運にめぐまれたり見放されたりした。賭博場のリドットー〔サン・マルコ広場近くの大きな建物で、いわば十八世紀のモンテ・カルロ〕が開かれたので、私はそこで夜の更《ふ》けるまで博打をしたり情事をあさったりした。
一七四七年。
一月の終りごろ、若いA・S伯爵令嬢から一通の手紙を受け取った。差し出した場所はイタリアのもっとも美しい都会のひとつで、彼女はそこでX侯爵夫人となっていた。その手紙で、彼女はこの町を訪れるようなことがあっても、わたしとは面識のないようなふりをしていてほしいと頼んでいた。彼女はいまの夫と結婚してから、深く夫を愛するようになり、幸福に暮らしているということであった。
そのことはすでに彼女の兄から知らされていた。彼女は国へ帰るとまもなく、母親に連れられて、こんど手紙を差し出した町に住む親戚の邸へ行った。そこで、いま彼女を幸福にしている男と出会ったのであった。翌一七四八年に私は彼女と会った。もしも手紙でことわられていなかったら、きっと彼女の夫に紹介させていただろう。家庭の平和は恋の魅力よりも好ましい。しかし、恋に目がくらんでいると、そうは考えないものだ。
この当時、ヴェネチアに非常にきれいな娘がいた。父親のラモンはその娘をバレーに出して、民衆に嘆賞させた。私はその踊り子に二週間ばかりうつつを抜かした。もしも彼女が結婚しなかったら、いつまでも恋の鎖につながれていたであろう。彼女の保護者であったチェチーリア・ヴァルマラナ夫人は彼女に似合いの夫を捜してやった。それはフランス人の舞踊家でビネという男だったが、彼は結婚するとすぐビネッティというイタリア名を名のった。それで、細君はヴェネチア的な性格をフランスふうに変える必要もなく、多くの情事において十分に魅力を発揮し、そのおかげで有名になった。彼女は私の多くの情事の原因になったが、読者はそれぞれの場所でくわしい話を見いだすであろう。
このビネッティ夫人はきわめてまれな天与の美質にめぐまれていた。年齢というものは女の顔へ遠慮なしに皺《しわ》をきざみ、女にとってこれより残酷な迫害はないが、彼女の顔にはその年齢が全然あらわれなかった。彼女はあらゆる恋人の目にいつも若々しく見え、薹《とう》のたった女の顔に精通している連中にも彼女の年齢は判定できなかった。しかし、男たちはそれ以上は要求しない。そして、外観にだまされていることをあきらかにするために探りを入れたり計算したりして疲れるようなばかげたことをしないのはあっぱれである。しかし、目に見えて老けていく女がいっこう老けようとしない女に反感をもつのもむりではない。ビネッティ夫人はそういう連中のわる口をいつも笑いとばし、気随気儘《きずいきまま》にふるまって、次から次へと恋人をつくった。彼女が恋の享楽で死にいたらせた最後の男はポーランド人のモシンスキーであった。彼は運命にひかれて八年まえにヴェネチアへ来たのだったが、当時ビネッティ夫人は六十三歳であった。
もしもバセットの博打で賭けにまわるのをつつしむことができたら、ヴェネチアでの私の生活は幸福に思われただろう。リドットーの賭博場では親になるのは貴族だけにかぎられていた。しかも、親はマスクをせず、貴族の服をつけ、今世紀のはじめに方式的なものとなった大きな鬘《かつら》をかぶらなければならなかった。それでも私は賭けたが、それはまちがいであった。というのも、私には運が向いてないときにその場をはなれる決断力がなかったし、勝っているときに切り上げるふんぎりもつかなかった。私に賭けをさせたのは貪欲の感情であった。私は浪費を好んだが、同じ浪費をするにも、博打でとった金でないと、ひどく惜しい気がした。博打でとった金は惜しむ値うちがないように思われたのである。
一月の終りに、ぜひとも二百ゼッキーニの金が必要であったので、マンツォーニ夫人に頼んで、夫人の友だちから五百ゼッキーニの値うちのあるダイヤモンドを借りた。そこで、トレヴィーゾへ行って質に入れることにきめた。その町は質屋を経営していて、担保を入れれば五パーセントの利息で金を貸してくれた。トレヴィーゾはヴェネチアから十五マイルの距離にある。こういう便利な施設はヴェネチアにはない。ユダヤ人が強い力をもっていて、じゃまをするからである。
こんなわけで、私はかなり朝早く起き、ポケットへバウッタという頭巾をしのばせていった。その日はマスクをつけて歩くのを禁じられていたからである。ちょうど聖燭節と呼ばれる聖母マリアのお潔《きよ》めの祝日のまえの日であった。
私はレッジォ運河の端まで歩いていった。そこからゴンドラを雇ってメストレまで行き、駅馬車に乗れば二時間足らずでトレヴィーゾへ着くから、ダイヤモンドを質に入れたら、すぐその日のうちにヴェネチアへもどれるという目論見だった。
サン・ジョッベのほうへ向かって河岸を歩いていくと、二丁|櫓《ろ》の、ゴンドラのなかにけばけばしい髪飾りの田舎娘《いなかむすめ》の顔が見えた。その愛くるしい顔立がひどく気に入ったので、よく見るために足をとめた。船首の船頭は私が立ちどまったのを見て、この船を利用して格安にメストレまで行こうとしていると早合点をし、船尾の船頭に河岸へつけろといった。私は一瞬もためらわず船にとびのると、もうほかの客は乗せないように、三リラの金をやった。年とった僧侶が娘とならんでいちばんよい席をとっていた。彼はその席を私にゆずろうとしたが、私はていねいにそれを押しとめた。
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第十九章
[トレヴィーゾへの船旅]
「あの船頭さんたちは運がいいですな」と年とった僧侶がいった。「わたしどもは、途中でお客を拾うという条件で、リアルトから三十ソルディで乗ったんですが、もうひとりあなたを拾ったわけですからな。まだたくさん見つけるでしょうよ」
「ぼくは、ゴンドラへ乗るときには、いつも貸切りにすることにしているんです」
私はこういいながら、さらに四十ソルディの酒手《さかて》を船頭たちにはずんでやった。彼らは大喜びだった。そして、つべこべと礼をいい、私を閣下と呼んだ。司祭はそういう称号でお呼びしなかったのは失礼だったと詫《わ》びた。私は自分はヴェネチアの貴族ではないので、そういう称号は不適当なのだと答えた。すると、娘がそれで安心したといった。
「なぜですか、お嬢さん」
「だって、あたし、そばに貴族の方がいらっしゃると、なんだか知らないが、こわくてしかたがないんですもの。でも、あなたは|お立派な方《イルストリッシモ》なんでしょ」
「いや、弁護士の書記〔ブラガディーノに会ってから、カザノヴァがふたたび弁護士の職についたことはありうる〕ですよ」
「それじゃ、なお安心しましたわ。だって、あたし、あたしよりも身分が上だと思われないお方なら、いっしょにいても気楽だからですの。あたしの父は地主で、ここにいる叔父さんの兄なんです。叔父さんはPr(プレガンツィオルのことならん)の主任司祭をしています。あたしはそのPrで生まれて育ちましたが、男の兄弟も女の姉妹もありません。だから、なくなったお父さんの財産を全部相続し、お母さんの財産もみんな相続するのです。お母さんはずっと病気で、もう長くはないようです。ほんとに悲しいことですけど、お医者さんがそういうのです。それで、さっきのお話にもどりますと、弁護士の書記さんと裕福な百姓の娘とでは、あまりちがいがないように思いますわ。こんなことをいうのも、ほんの気休めのためなんです。だって、よそへ出ると、いろいろの人と出会いますからね。そうでしょう、叔父さん」
「そうだよ、かわいいクリスティーナ。その証拠に、この旦那にしても、わしらがどういうものかご存じないのに、乗ってこられたのだからな」
「でもねえ、神父さん」と、わたしはいった。「ぼくは姪御《めいご》さんのご器量にびっくりしなかったら、この船へ乗ってはこなかったのですよ」
こういうと、司祭と姪とは大声をあげてげらげら笑いだした。私は自分のいったことがそんなに滑稽だとは思わなかったので、このふたりは少々足りないのではないかと考えたが、あまり腹もたたなかった。
「なぜそんなに笑うのです。美しいお嬢さん。きれいな歯を見せてくれるためですか。まったくヴェネチアでも、こんなきれいな歯にお目にかかったことはありませんからね」
「まあ、とんでもない。そりゃヴェネチアでは、みなさんがそういってほめてくれましたけどね。Prでは、どんな娘でもあたしと同じ歯をしてますわ。ねえ、そうでしょ、叔父さん」
「そうだよ」
彼女がつづけていった。
「あたしが笑ったわけはね、どうしてもいえないんですの」
「なんです。いってくださいよ。お願い」
「だめよ、だめよ、どうしてもだめ」
「じゃあ、わしが話しましょう」と、司祭がいった。
姪が黒い眉をひそめながらいった。
「いやよ、そんなら、あたしおりていっちまうわ」
「かまやせんよ。じつはね、あなたが河岸《かし》に立っていらっしゃるのを見て、この子がね、『あすこでいい男があたしを見てるわ。きっとあたしたちといっしょの船に乗れないのを残念がってるのよ』といったんですよ。そして、あなたが船をおとめになったとき、手をたたいて喜んだのです」
姪は叔父のおしゃべりに腹をたてて、何度も肩でこづいた。
私は彼女にいった。
「クリスティーナ、ぼくが気に入ったことを知られたからって、どうして腹をたてるのです。ぼくのほうでは、あなたを美しいと思ったことを知ってもらって、大喜びをしてるのに」
「その大喜びも、いまだけのことよ。あたしにはヴェネチアの男がもうよくわかってますの。みんなあたしのことを大好きだといったけど、あたしが目をつけた人たちは、だれも申し込んでくれませんでしたわ」
「どんな申込みをしてもらいたかったのです」
「そりゃ、あたしに似合わしい申込みですよ。たくさんの証人に付きそわれて、教会でりっぱな結婚式をあげようという申込みですわ。あたしたち、ヴェネチアには二週間もいたんですが、そんな申込みをする人はひとりもありませんでしたわ。そうでしょ、叔父さん」
「ごらんのとおり、この子は申し分のないお嫁さんですよ」と、叔父さんがいった。「三千エキュの収入があるのですからね。しかし、Prの男とは結婚したがらないのです。それもむりではありませんがね。昔からヴェネチアの人とでなければ結婚しないといっているのです。それで、近づきができるようにと思って、ヴェネチアへ連れていったのです。そして、あるりっぱなご婦人のところへ二週間もごやっかいになって、あちこちのお宅へ連れていってもらい、年ごろの男たちにみせたのですが、この子の気に入った人は縁談の話をきこうともせず、申し込んできた人はこの子の好みにあわないという始末でした」
私は彼にいった。
「しかし、結婚がオムレツのように造作なくできるとでもお考えなのですか。ヴェネチアに二週間いたって、それは無意味ですよ。たとえば、ぼくにしてもですね、姪御さんは愛の神のようにお美しいと思いますし、神がわたしの妻として定めてくれる人が、姪御さんのようならしあわせだと思いますよ。しかし、五万エキュやるからすぐに結婚してくれといわれたら、ことわりますね。賢明な青年は妻を迎えるまえに、その性格《キャラクター》を知らなければなりません。なにしろ、夫婦の幸福をきずくものは金銭でもなければ美貌でもありませんからね」
「どういう意味なんですの、そのキャラクターというのは。きれいに字を書くことですか」
「とんでもない、ご冗談ばっかり。心と精神の性質のことですよ。ぼくもいずれそのうちには結婚しなければならないので、三年まえから相手をさがしていますが、まだ見つかりません。いままで何人かあなたと同じくらいきれいで、りっぱな持参金のついている娘さんと知合いになりましたが、二、三か月もつきあっているうちに、適当でないことがわかってきたのです」
「なにが足りなかったのです」
「それはいってもさしつかえないでしょう。あなたのご存じない人たちですからね。そのうちのひとりはとてもぼくの気に入り、すんでのことに結婚するところでしたが、とても虚栄心のひどい人でした。それは二か月ほどしてわかったのですが、あんな女と結婚したら、衣装だ流行品だ装飾品だで、破産させられてしまったでしょう。考えてもみてください。毎月髪をちぢらせるのに一ゼッキーノ、香油や香水に一ゼッキーノもつかっていたんですからね」
「そのひと、どうかしてるんですわ。あたしなんか、一年に一度十ソルディで蝋《ろう》を買うのが関の山ですわ。それに山羊の脂をまぜて、すばらしい香油をつくり、前髪に形をつけるのにつかいますの」
「べつのお嬢さんは、二年まえにあぶなく結婚しそうになりましたが、この人は病気があって、わたしを不幸にすることがわかりました。それが四か月日にわかったので、それからはつきあわなくしたのです」
「どんな病気でしたの」
「子どものできない病気だったのです。これはひどいですよ。ぼくが結婚するのも、子どもがほしいからなのですからね」
「それは神さまのおぼしめしによることですわ。けれど、わたしはとても丈夫ですの。ねえ、叔父さん」
「またべつのお嬢さんはとても信心家だったのです。こういう人はぼく好きじゃありません。三日か四日ごとに懺悔をせずにいられないほど小心だったのです。しかも、その懺悔が少なくとも一時間はつづくのですからね。もちろん妻にはよいキリスト教徒であってもらいたいですが、ぼくと同じように、ほどほどにしといてもらいたいですね」
「それはきっと大きな罪をおかしたか、それとも頭の足りない人なんですね。あたしはお懺悔にはひと月に一度しかいきませんし、それも二分ですましてしまいます。そうですわね、叔父さん。叔父さんがなにもきいてくれなければ、あたしなにもいえないんですもの」
「べつのお嬢さんはぼくよりも物知りぶったし、あるお嬢さんは陰気くさい人でした。だが、ぼくは陽気な女でなければ感心しません」
「ほら、ごらんなさい、叔父さん。叔父さんはいつもお母さんといっしょになって、あたしが陽気すぎるって、叱言ばかりいってるのですよ」
「また、あるお嬢さんは、すぐ別れてしまいましたが、ぼくとふたりきりになるのを、とてもこわがりましてね、ぼくが接吻すると、母親のところへいいつけに行きましたよ」
「たいへんなおばかさんですのね。あたし、Prには礼儀知らずの百姓ばかりなので、まだじっくり話しあえる恋人はひとりもいないんですが、お母さんに話していいことと悪いことの区別ぐらい知ってますわ」
「また、とても口のくさいお嬢さんがいましたし、肌の色が生地のままだと思っていたのに、白粉をぬっているお嬢さんもありました。どんな娘さんでも、こうしたいやしい好みがありましてね、そのために、ぼくは結婚するのがおそろしくなるのですよ。たとえば、ぼくは妻にする女はどうしても黒い目をしていてほしいと思うのですが、いまではすべての娘さんが目を染める秘訣を知っています。だが、ぼくはだまされませんよ、よく心得ていますからね」
「あたしの目は黒ですか」
「はっ、はっ、は!」
「なにがおかしいんですの」
「黒く見えるからですよ。だが、実際には黒じゃないでしょう。けれど、そんなこととはべつに、あなたはとてもかわいらしいですよ」
「それは変ですわ。あなたはあたしの目が染めてあるとお考えになり、しかも、よく心得ているとおっしゃるのですね。けれど、わたしの目は、きれいかきたないか知りませんが、神さまからいただいたまんまですのよ。ねえ、叔父さん、そうでしょ」
「わしはいつもそう信じていたよ」と、叔父さんが答えた。
「でも、あなたはそうお思いにならないんですのね」と、彼女がはげしく切り込んできた。
「思いませんね。自然のままだと信ずるには、きれいすぎますからね」
「おやまあ、変なお話ねえ」
「ごめんなさい、美しいお嬢さん、ぼくは正直に申しあげているのです。しかし、少し正直すぎたようですね」
こうした言い合いのあとで、少し沈黙がつづいた。司祭はときどき笑顔をもらしたが、娘はくやしさをおさえることができなかった。
[田舎娘クリスティーナ]
横目でうかがってみると、いまにも泣きだしそうで、可哀そうになった。その顔がとても魅惑的に見えたからである。裕福な百姓娘らしい髪の結い方で、黒檀《こくたん》よりも黒い髪を何本にも編みわけたのを、金のヘア・ピンでとめていたが、それは少なくとも百ゼッキーニの値うちはあった。長い、重そうな金の耳飾りや、カラーラの大理石のような白い首を二十回以上も巻くほどの細い金の鎖は、彼女の百合と薔薇《ばら》のような顔に輝かしい光をそえ、いたく私を感動させた。このような装飾をこらした田舎娘に出会ったのは、生まれてはじめてだ。六年まえにパゼアーノでルチーアに心をひかれたことがあるが、それとはまったくちがったものであった。
若い娘は、もうなにもいわなくなったが、ひどくがっかりしているにちがいなかった。その目は彼女のなかではまさしくもっとも美しい部分であったが、それをくりぬくような残酷なことをいったのだから。彼女が心のなかで私を死ぬほど憎んでいることや、心のなかが煮えくりかえるようなので、ものもいわずにいることはよくわかっていた。しかし、私はわざと彼女の勘違いをなおそうとはしなかった。きっと泣きだすかとっぴょうしもないことで結末をつけると思ったからだ。
ゴンドラがマルゲラの長い運河へはいっていくと、私は司祭にトレヴィーゾまで行くのに馬車の用意がしてあるのかときいた。Prへ行くにはトレヴィーゾを通らなければならないからだ。
「いや、歩いていきます。わしの給料は乏しいものですからな。しかし、クリスティーナは、馬車を見つけて、乗せてやるつもりです。わけなく見つかるでしょう」
「おふたりともぼくの馬車へ乗ってくださると、たいへん嬉しいですな。席が四つあるのを頼みますから」
「それは望外のしあわせです」
「あら、叔父さん、だめよ、あたし、この方といっしょじゃいやよ」
「なぜだね、わしといっしょなのに」
「いやだからいやなのよ」
私は彼女のほうを見ずにいった。
「まったく、正直者が損をするとは、このことですな」
彼女は剣もほろろに答えた。
「正直どころじゃないわよ、自惚《うぬぼ》れと意地悪だわ。あなたには黒い目なんか見つかりはしませんわ。それでいて、黒い目が好きだとおっしゃるのだから、いい気味だわ」
「それはあなたの思い違いですよ。わたしは本物かどうか見わける方法を知っているのですからね」
「それ、どんな方法ですの」
「薔薇香水を少しあたためて目をあらうのです。それからまた、娘さんを泣かせてみる手もあるのですよ。涙を流すと、塗った色はみんな落ちてしまいますからね」
こういうと、目のまえの光景はがらりと一変し、いとも愛くるしいものになって、私を楽しませた。怒りと軽蔑とをむきだしにしていたクリスティーナの顔つきはとつぜん変わって、朗らかな、満足なようすになり、にっこりと笑顔を見せた。ただで馬車に乗ることが心にかかっていた司祭は、大喜びであった。「かわいい姪よ、それじゃ、泣いてごらん。そうしたら、この方がおまえの目のほんとの色をお認めになろうからな」
事実、彼女は涙を流して泣いた。しかし、それは笑いすぎたからであった。私の心はこういうあかしに有頂天《うちょうてん》になり、嬉しさにわくわくした。そして、河岸の階段をのぼりながら、いろいろ世話をして十分のつぐないをしたので、彼女は私の馬車に乗ることを承諾してくれた。私は馬車屋に、朝食をすませてくるまでに、馬車の用意をしておくように命じた。しかし、司祭はそのまえにミサをあげにいきたいといいだした。
「では、早く行きなさい。ぼくらも拝聴しましょう。ぼくのためにもお祈りをあげてください。では、どうぞお賽銭《さいせん》を。いつもこれだけ上げることにしていますから」
こういって、銀貨で一デュカ渡した。彼は驚いて、私の手へ接吻した。そして、教会のほうへ歩いていった。私はクリスティーナに腕をかした。彼女はその腕をとるべきかどうかわからず、あたしがひとりでは歩けないとでも思っているのかときいた。
「そうは思いませんよ。しかし、世間の人は、ぼくを礼儀知らずだと思うかもしれないし、またはあなたとぼくのあいだにえらい身分の違いがあるように思うでしょうよ」
「けれども、あなたと腕を組んで歩いたら、人はどう思うでしょうね」
「熱烈に愛しあっていると思うでしょうよ。人によってはお似合いの夫婦に見えるというでしょう」
「もしもだれかがあなたの好きな方に、どこかの娘と腕を組んで歩いているのを見たと告げ口したら、どうなさいますの」
「好きな人なんかいませんし、またほしくもありませんよ。だって、ヴェネチアじゅうさがしても、あなたほど美しいお嬢さんはいませんからね」
「それはお気の毒ですね。だって、あたしはもう二度とヴェネチアへ行くようなことはないと思いますし、たとえ行っても、六か月もいられませんものね。娘をよく知るには、六か月はかかると、さっきもおっしゃったでしょ」
「ご滞在の費用なら、喜んで引き受けますよ」
「あら、そう。それでは、叔父さんにお話しになってちょうだいよ。考えてくれるでしょうから。だって、あたしひとりじゃ行けませんもの」
「六か月のうちには、あなたもぼくをよくおわかりになるでしょう」
「あら、あたしなら、もうあなたのことはよくわかってますわ」
「では、ぼくという男をよく思っていてくださいますか」
「もちろんですわ」
「いつか愛しあうようになれましょうか」
「それも、もちろんですわ。あたしの夫になってくださるなら」
私はあっけにとられてその娘を見た。まるでどこかの王女さまが百姓娘に仮装しているように見えた。金の飾り縁をつけた厚手の青いトゥール絹の衣装はきわめて贅沢《ぜいたく》なもので、都会ふうの衣装の二倍は金がかかっていただろう。首飾りとお対《つい》に腕へ巻いていた金鎖の腕輪も豪奢《ごうしゃ》なものであった。船のなかではわからなかったが、立った姿はまるでニンフのようにすらりとし、流行の先端をいくケープは百姓娘のものではなかった。首までボタンをかけた服のまえの盛上りにも、胸の美しさがうかがわれた。服の裾《すそ》は同じように金の飾り縁をつけてあったが、足首のあたりまでしがなくて、かわいい足を見せ、脛《すね》の華奢《きゃしゃ》な形を想像させた。歩きぶりもすっきりしていて、少しもわざとらしさがなく、顔だちはおだやかに≪あたしをきれいだと思ってくださって、ほんとに嬉しいわ≫といっているようであった。
こういう娘が二週間もヴェネチアにいながら、どうして結婚の相手も見つけず、男からだまされもしなかったのか、了解できなかった。そのほか私をうっとりさせた魅力は彼女の田舎言葉と生まじめさで、都会の慣習はこの生まじめさをかえって愚かしさのように思わせていたのであった。つまり、磨《みが》きが不十分だったために、かえって宝石の値うちがよくわかったのであった。腹だちまぎれに≪おやまあ≫といったとき、私がどんなに嬉しくなったか、読者にはおわかりになるまい。
こういうことを思いふけり、この自然の傑作にたいして当然払うべき敬意を、ぜひとも私流にささげようと決心して、私はミサの終わるのを待ちかねていた。
[善良な人々のふしぎさ]
朝食のあとで、馬車に乗るだんになって、上席と思われている前の席へすわるように司祭に納得させるのにたいへんてこずった。しかし、トレヴィーゾへ着いたとき、ろくに客のない旅館へ行って昼食をとり、さらに夕食をいっしょにしてもらいたいと頼んだときには、あまり骨がおれなかった。夕食がすんだら馬車の用意をさせる、すばらしい月夜だからPrまでは一時間足らずで行けるといったら、こころよく承知した。彼がいそいでいたのは聖燭節の儀式で、どうしても自分の教会へもどって、ミサをあげる必要があったからである。
こうして、われわれはその旅館にはいった。そして、さかんに火を焚《た》かせ、うまい昼食を命じた。司祭に頼んでダイヤモンドを質屋へもっていってもらったら、一時間は無邪気なクリスティーナとふたりきりでいられると考えた。そこで、ひとっ走り行ってきてもらえまいか、顔を知られたくないので、自分で行くわけにいかないのだと頼むと、彼は私のために役にたつ機会ができたのを喜び、ふたつ返事で承知して、出かけていった。
私はかわいい娘と火の前で差向いになった。その一時間を彼女となんやかや語りあってすごしたが、私は彼女の純真な心に愛の快楽へのあこがれをわかせ、彼女にたいしていだいている好みと同じものを吹き込んで、私の欲望へなびいてこさせようと骨をおった。だが、そのぼってりした手には、死ぬほど接吻したかったが、一所懸命に我慢して、指をふれようともしなかった。
やがて司祭は指輪を持ってもどってきた。その日は聖母さまの祝日なので、翌日にならなければ、指輪を質に入れて金を受け取ることができないということであった。そして、質屋の番頭の話だと、私の要求する金額の二倍まで貸してもよいということだったと報告した。そこで、私はPrでミサをすませたら、もう一度ここへ帰ってきて質屋へ行ってはいただけまいか。ダイヤモンドをはじめあなたに持っていってもらって、次にぼくが持っていったら、あやしまれるかもしれないからと頼んだ。そして、馬車賃はもつからというと、彼はきっと帰ってくると約束した。私は彼が姪を連れてもどってくることを期待していた。
昼食のあいだ、私はクリスティーナがますます注目に値するように思ったが、その日のうちに生半可《なまはんか》な享楽を手に入れようとして彼女の信頼を失うのをおそれ、むりなことはいっさいつつしむことにした。そして、彼女をヴェネチアへ連れていき、五、六か月滞在させるように説得する決心をした。ヴェネチアへ来たら、彼女の心に愛を芽生えさせ、彼女にふさわしい糧《かて》が与えてやれるという自信があったのである。
そこで、私は司祭に計画を話し、費用は全部もつし、修道院にいるのと同じくらいクリスティーナの名誉をまもってもらえる、ごく堅気な下宿をさがすといった。そして、彼女と結婚するのは、彼女をよく知ってからのことだが、結婚することはまちがいないとつけくわえた。司祭はクリスティーナを安心してあずけられる家が見つかったという手紙をいただいたら、すぐに連れていくと答えた。クリスティーナはこの取決めをたいへん喜んでいるようすであった。それで、私はかならず約束がまもれると確信し、一週間以内には万事解決するだろうと彼女にいった。しかし、そうなったら彼女に手紙を書くと約束すると、彼女が返事は叔父さんに代筆してもらう、あたしは読むほうはとてもよく読めるのだが、書くほうはいままで習おうと思ったことがないからと答えたので、少しあきれてしまった。
「字が書けないのですって。字が書けなくて、どうしてヴェネチアの男のところへお嫁にいこうと考えたのです。そんなへんなことってありませんよ」
「あら、おかしな話ねえ。あたしのところでは、字の書ける娘なんかひとりもいませんわ。ねえ、そうでしょ、叔父さん」
「そのとおりじゃ。ヴェネチアへ嫁にいこうなんて考える娘もおらんでな。だが、この方のいわれるのはもっともじゃ、おまえも字を習わんけりゃいかんよ」
「もちろんですよ。それも、ヴェネチアへ来るまえにね。ぼくが人からばかにされますからね。おや、なんだかふさぎこんでしまいましたね。お気にさわったら、ごめんなさいね」
「そりゃ、気にさわりますわよ。一週間で習えなんてむりですわ」
すると、叔父さんがいった。
「もしもおまえが一所懸命にやるつもりなら、二週間でおぼえさせてやるよ。それだけ習ったら、あとは自分で仕上げられるほどに教えてやるよ」
「大仕事ですわね。でも、かまやしないわ。夜に日をついで勉強するって、お約束しますわ、あしたからすぐにはじめますわ」
昼食をとりながら、私は司祭に、夕食をすませてから出かけるよりも、ひと晩ゆっくりねて、夜明けの一時間まえにクリスティーナと出かけるほうがよいといった。彼はPrには十三時(午前七時ごろ)まえにつけばよかったのである。姪は夕食ののち眠気《ねむけ》をもよおしたので、彼はそのほうが姪が喜ぶと思って、こころよく同意した。そこで、私はすぐ馬車屋に注文し、司祭におかみを呼んでほしい、私のために一部屋用意して、火を焚《た》くようにいうのだからと頼んだ。ところが、年とった人のよい神父はこういって私を驚かした。
「そんな必要はありません。この部屋には大きなベッドがふたつありますからね、べつのベッドを用意させるにはおよびませんよ。クリスティーナはわしといっしょに、服もぬがずにねますよ。だが、あなたはご遠慮なしに服をぬいでください。わしらといっしょにおたちになるわけではないのだから、お好きなだけねていられますからね」
「あら、だめよ」と、クリスティーナがいった。「あたしは服をぬがなけりゃ。だって、服を着たままでは眠れないんですもの。でも、お待たせはしませんわ。十五分とかかりませんから」
私はなんともいわなかったが、驚きがしずまらなかった。クセノクラテスすら迷わせるほどの美しいクリスティーナがすっ裸で叔父さんの司祭とねようというのだ。叔父さんは年寄で、もちろん信心ぶかく、そんなことになっても不倫のわざなんかするはずもない、道徳堅固のかたぶつだ。しかし、司祭も男だ。かつては血気ざかりのこともあったのだから、危険に身をさらすことは十分承知のはずだ。私の肉欲的な考えからすると、まさに前代未聞の椿事《ちんじ》であった。しかし、事柄はいたって無邪気なことにすぎなかった。それは疑う余地もない。彼らはそれを隠そうともしないばかりか、だれか人に知られたら、怪しく思われやしまいかとも案じなかった。そういう無邪気さはよくわかったのだが、それでも驚きがしずまらなかった。
その後、あちこち旅行するうちに、どの国でも善良な人々のあいだでは、一般に行なわれていることだと知ったが、それはくりかえしていうと、善良な人々のあいだだけのことで、私はとうていそのなかにはいれない。
[寒い朝の恩寵]
昼食は精進で、かなり粗末だったので、おかみに話しに下へおりていって、費用はかまわないから、うまい夕食を出してほしい。精進は覚悟するが、上等の魚や松露や牡蠣《かき》やトレヴィーゾの市場でみつかるとびきり上等の品を残らずと、それからうまい葡萄酒《ぶどうしゅ》を出してほしいと注文した。
「費用をおかまいにならないのでしたら、おまかせください。お酒はガッタの葡萄酒をお出ししましょう」
「夕食は三時(夜の九時ごろ)にしてもらいたいな」
「かしこまりました」
部屋へもどっていくと、クリスティーナが七十五歳というじいさんの頬をなでまわしていた。彼は笑いながら、こういった。
「なんのことだか、おわかりですかな、姪のやつ、わしのもどるまでここにいさせてほしいと頼むのです。けさだって、あなたをこれとふたりだけにして出かけたあいだ、兄と妹のようにすごしたといいましてな。そりゃ、もちろん信じますが、これはあなたのご迷惑になることを少しも考えないのです」
「いいえ、迷惑だなんて、とんでもない。この人はきっとわたしを楽しませてくれますよ。なにしろ、とびぬけてかわいらしいですからね。それから、わたしたちのまもるべき義務については、よく心得ていますから、安心しておまかせいただきたいと思います」
「それはべつに心配しておりませんがね。では、あさってまでこれをおあずけします。十四時(朝の八時ごろ)までには帰ってきて、あなたのお使いをすませましょう」
私はこんな思いがけない取決めが、こうもやすやすときまったのを見て、度胆をぬかれ、血がすっかり頭にのぼった。それで、十五分ばかりどくどくと鼻血を出した。私自身はむかしそんなことがあったので、少しも心配しなかったが、司祭は出血症ではないかと気をもんだ。それから、彼は夕方にもどってくるといって、用たしに出ていった。ふたりきりになると、私はすぐに彼女が私を信用してくれたのに感謝した。
「あたし、あなたからはやくあたしのことを知っていただきたいのよ。ヴェネチアでお知合いになったお嬢さんたちをあなたにきらわせた欠点なんか、あたしにはひとつもないことがおわかりになってよ。それから、すぐに字を習いはじめることをお約束しますわ」
「あなたはすばらしいお嬢さんだし、それにとても率直なんですね。けれども、Prでは十分言葉に気をつけてくださいよ。わたしと婚約したことはだれにも知られてはいけませんよ。なんでも叔父さんのお指図どおりにするのですよ。万事手紙で叔父さんに知らせますからね」
「あなたがおゆるしになるまでは、お母さんにも知らせませんわ」
こんなふうにして、私は一日じゅうすごした。そして、いやがうえにも彼女へ思いをよせるように自分を仕向けた。彼女の興味をそそるような、小さい恋物語をしたが、その終りはいわなかった。彼女はそれに勘づくことができなかったが、わかったようなふりをした。なにも知らないと思われるのをおそれて、知りたがっているようなようすを見せたくなかったのである。彼女にわかるような冗談は、教育にそこなわれた都会の娘には不快の念を与えるであろうが、百姓娘には頭へ血をのぼらせないから好かれるにちがいない。叔父さんが帰ってきたときには、私は彼女と結婚する手はずをすっかり頭のなかできめ、伯爵令嬢をかくまった家へあずけようと決心していた。
イタリアの三時に、われわれは食卓についた。夕食はすばらしかった。クリスティーナはいままで牡蠣《かき》も松露も食べたことがなかったので、万事私が世話をしなければならなかった。ガッタの葡萄酒は人を酔わせない。水をまぜずに飲むが、ようやく一年ぐらいしかもたない酒だ。夕食がすむと、われわれは寝床にはいった。私は夜がすっかり明けてからようやく目をさました。司祭はこっそり出かけていったので、全然音が聞こえなかった。ベッドのほうを見ると、クリスティーナがひとりで眠っていた。おはようと声をかけると、彼女は目をあき、私だとわかると、にっこり笑い、肘《ひじ》をたてて、あたりを見た。そして、
「叔父さんはもう出かけたのね」
私は彼女にまるで天使のように美しいといった。彼女はあかくなって、胸に少し夜具をかけた。
「かわいいクリスティーナ、きみに接吻しに行きたくてたまらないのだが」
「そんなにしたければ、ここへ来て接吻してもいいわよ」
私はすぐにベッドから出たが、体裁がわるいので、彼女のベッドまで駆けていかなければならなかった。ひどく寒かった。礼儀からか、臆病からか、彼女は少し身をひいた。しかし、身をひけば、私のねる場所をつくることになるので、さあおはいりなさいとすすめられたような気がした。そこで、寒さと本能と愛情とは相寄って、私を夜具の下へもぐりこませた。私はそうした無作法をつつしもうという気は全然なかった。こうして、私はクリスティーナの腕のなかに、クリスティーナは私の腕のなかにおさまった。彼女の顔には驚きと無邪気さと満足感が読みとれた。いっぽう、彼女は私の顔に心からなる感謝と労せずして得た勝利を喜ぶ愛の焔《ほのお》以外にはなにもみることができなかった。
この幸福なめぐりあいはただ純粋な偶然によってもたらされたもので、まえから計画したことでは全然なかったので、われわれはそれを喜ぶことも、嘆くこともできず、しばらくはものをいうこともできないでいた。そして、ただ互いに心をあわせて、接吻を与えまた受けることだけしか考えなかった。しかし、はげしい接吻が終わって、胸のときめきが少しおさまると、もうなにもいうことがなかった。そして、それがもっとつづいたら、自分自身の存在さえうたがわしくなるような虚脱状態におちいったろう。しかし、完全に一致した本能と愛とはちょっとしたきっかけからこの恥ずかしい均衡をやぶり、互いにわれを忘れてしまった。一時間ののち、ようやく落ちつきをとりもどすと、ふたりは互いに顔を見合わせた。クリスティーナがさきに沈黙をやぶり、静かなやさしい声音《こわね》できいた。
「あたしたち、なにをしたんでしょう」
「結婚したんだよ」
「あした、叔父さんがなんていうでしょう」
「叔父さんには、教区の教会でご自分で祝福を与えてくれるまで、なにも知らさないことにしよう」
「それ、いつですの」
「公けの結婚をあげる準備万端ととのったときさ」
「その準備をするのに、どれくらいかかりますの」
「さあ、一か月ぐらいかな」
「でも、四旬節には結婚できないことよ」
「いや、許可をもらえばだいじょうぶさ」
「あたしをだますのじゃないでしょうね」
「断じてそんなことはない。きみのことが好きで好きでたまらないのだからね」
「では、もうあたしをよく知る必要はないのね」
「うん、きみのことはすっかりわかったし、ぼくを幸福にしてくれると確信したからね」
「あんたもあたしを幸福にしてくれるわね。では、起きてミサへ行きましょうよ。旦那さまをさがしにわざわざヴェネチアまで行ったのがむだ足で、帰り道にひょっくり見つかったなんて、だれもほんとにしやしないわね」
私たちは床をはなれ、朝食をすましてからミサに行った。それから、午前ちゅうは部屋にとじこもり、軽く昼食をとった。クリスティーナをよく見ていると、きのうとはだいぶようすが変わっているので、その理由をきいてみた。すると、あなたもなにか考えこんでいるようだが、理由といえば、あなたを考えこませているのと同じにちがいないと答えた。そこで、私はこういった。
「ぼくが考えこんだようすをしているとすれば、それは愛の神が世間体をそこなわないように名誉と談判をしているからなんだよ。事柄が非常に重大になったので、愛の神はすっかりとまどって、考えこまずにいられないのさ。教会で結婚式をあげるにしても、謝肉祭の期間はもういくらも残っていないから、四旬節のまえにすませるわけにはいかない。といって、復活祭までのばすこともできない。それじゃ長すぎるからね。しかし、四旬節中に式をあげるとなると、法律上の特別認可が必要なのさ。それだもの、考えずにいられないじゃないか」
彼女は立ちあがると、感謝に満ちたやさしいようすで、私に接吻にきた。それが彼女の返事だった。私のいったことはすべて真実だったが、考えていることの全部を彼女にいうわけにはいかなかった。彼女との結婚の約束は好ましかったが、あんまりせかされるのはいやだった。それから、彼女を愛し、正直に約束をまもろうとする気持のうらに、後悔の念がひそかにはいこみはじめたのも隠せない事実であった。しかし、このすばらしい娘が私のために不幸になるなんて、とうてい起こりえないことだと確信していた。
[翌日は気が変わって]
彼女は寄席《よせ》も芝居も見たことがないというので、さっそく芝居へ連れていってやることにした。そして、旅館の亭主に頼んでユダヤ人を呼び、彼女を変装させるのに必要なものを一式そろえて、出かけていった。恋する男にとっては、相手の女を喜ばせるよりも大きな喜びはないものだ。芝居を見てから、カジノへ連れていった。彼女ははじめてファラオの賭けをみてびっくりした。私は自分で勝負をするだけの金がなかったが、彼女にちょっとした遊びをさせるぐらいのものは持っていた。そこで、彼女に十ゼッキーニ渡し、カードをもったこともなかったが、かまわずに賭け方をおしえてやった。彼女は指図にしたがってテーブルにすわり、一時間とたたないうちに百ゼッキーニばかりもうけた。そこで、博打をやめさせて、旅館へ帰った。彼女はもうけた金をかぞえ、それがみんな自分のものになるのだとわかると、夢を見ているような気持だった。叔父さんがなんというでしょう? それから、軽い食事をすませ、ふたりは愛の女神の腕のなかへ夜をすごしに行った。しかし、司祭が帰ってきたときに現場を見られるとまずいので、夜明けにべつべつになった。
彼が帰ってきたとき、われわれはめいめいのベッドでぐっすり眠っていた。クリスティーナは目をさまさなかった。私は彼に指輪を渡した。二時間ののちに、彼は二百ゼッキーニと質札を持ってきた。そのときには、われわれはもうちゃんと服をつけて、火にあたっていた。
クリスティーナが目のまえへ金貨を全部ならべてみせたとき、あのお人好しの驚きようといったらなかった。彼は心から神に感謝した。彼にはいっさいが奇跡だとしか見えず、ふたりはお互いを幸福にするために生まれてきたと信じこんでしまった。いよいよ姪を連れて帰っていくというとき、私は司祭に四旬節のはじめに訪ねていくと約束した。しかし、そのときの用向きや私の名前はだれにももらさないようにと、固く口止めをした。彼は姪の洗礼証明書と持参金の目録とを渡した。私はふたりを見送ってから、ヴェネチアへもどったが、恋の思いはさらにつのり、あの娘との約束を反古《ほご》にしまいと固く決心した。託宣を楯にとって、私の結婚は運命の大福帳にしるされているのだと三人の親友に信じこませるのは造作もないことであった。
私が三日も留守にするのはついぞないことであったので、彼らは私が姿を見せると非常に喜んだ。私の身になにか災難がおこったのではないかと案じてくれていたのだ。しかし、ブラガディーノ氏だけはパラリスがまもっていてくれるから、災難の起こるはずはないといっていたそうだ。
翌日になると、私は気が変わって、クリスティーナと結婚せずに彼女を幸福にしてやろうときめた。彼女を自分以上に愛していたときには、結婚という考えが絶対的だったが、彼女を享楽したあとでは、天秤《てんびん》はぐんと自分のほうへ傾いて、彼女の魅力が私に吹き込んだ愛情よりは自尊心のほうがつよくなった。なんの束縛もない身分なら、無限の希望がもてるのに、結婚してその希望をあきらめてしまう決心がつかなかった。それでも、私は感情の奴隷になっていた。あの清純な娘を捨てるなんていう憎むべき行為は、とてもできなかった。考えただけで身体がふるえるくらいであった。彼女はもしかしたら妊娠したかもしれない。とすると、彼女が村じゅうから爪《つま》はじきにされて、私を恨み、自分をのろい、夫を捜す資格がなくなった以上、自分にふさわしい夫を捜す希望もなくなってしまった彼女を想像すると、居ても立ってもいられなかった。そこで、私はどこから見ても私よりましな亭主を彼女のために捜してやろうと思いたった。彼女が私のおかした罪をゆるしてくれるだけでなく、逆に私の欺瞞《ぎまん》をいつくしみ、いっそう私が好きになるような亭主だ。
そういう亭主を捜すのは、たいしてむずかしいことではない。なにしろ、クリスティーナは申し分のない美人だし、身持ちの点でも評判に疵《きず》がついてないし、ヴェネチアの通貨で四千デュカの金をもっているのだから。そこで、すぐ仕事に取りかかることにした。
私の託宣を渇仰する三人の友だちと一部屋にとじこもり、手にペンをもって、心にかかっている問題をパラリスに問いただした。パラリスはセレヌスにまかせろと答えた。セレヌスとは算易におけるブラガディーノ氏の名前である。彼はパラリスの命令を実行すると承知した。そこで、私は一件を彼にくわしく説明することにした。
まずある非常にまじめな田舎娘が近くせまった四旬節のあいだにその教区の教会で正式に結婚式をあげられるよう、ローマへ手紙を出して法王から許可をうけてもらいたいと頼んだ。それから、洗礼証明書を渡し、夫となる男はまだわかっていないが、それはパラリスが捜してくれるからなんら障害になりえないといった。彼はあすローマ駐在の大使宛てに自分で手紙を書こう。そして、元老院の週番の元老に頼んで至急便で送らせようと答えた。そして、
「まあ、わしにまかせてほしい。この問題は政治的に重要なことのような体裁をとろう。パラリスのご命令は達成しなければならない。その娘の夫はわしら四人のうちのだれかにちがいないから、お告げのとおりにはこばなければならんて」
私はあやうく吹きだしそうになって、ようやくこらえた。クリスティーナをヴェネチアの貴族夫人にし、元老院議員の妻にするのは、私の意のままであった。が、実際には、まだ見当がついてはいなかった。そこで、あの娘の亭主にはだれがよいかとパラリスにうかがいをたてた。すると、ダンドロ氏に頼め、そうしたら、若く、美男子で、利発で、内務省または外務省で共和国のために働ける市民を捜してくれるであろう。しかし、婚約は私の意見にしたがわねばならないという答えであった。ダンドロ氏は、その娘が現金で四千デュカの持参金を持ってくるが、二週間以内に婿をえらんでやらなければいけないというと、おおいに張り切った。ブラガディーノ氏はそういうやっかいな役目をまぬがれたのを喜び、腹をよじって笑った。このふたつの手配を終わると、私はようやく気持が平静になった。そして、きっと望みどおりの婿を見つけてもらえるだろうと内心かたく信じた。だから、それからは、謝肉祭の残りをいかに楽しく暮らすか、いざ金がいるというとき空の財布をなげくことのないようにするにはどうしたらよいか、それだけしか考えなかった。
[愛人のために夫を捜す]
だが、幸運にめぐまれて、四旬節のはじまる時分にはすべての借金を返したうえに千ゼッキーニばかり手にすることができた。ローマの許可証はブラガディーノ氏が大使に命令してから十日で到着した。私はローマ法王庁の庶務課の手数料として立て替えてもらった百ゼッキーニを支払った。クリスティーナはこの許可証でどこの教会でも結婚式をあげることができた。しかし、それには所属している司教管区の秘書課へ許可証を提出して捺印《なついん》をうける必要があったが、そうすれば婚姻の公告をしないでもよかった。あとは亭主を見つけさえずれば、それで私は気がすむ。ダンドロ氏は早くも三、四人の候補者を捜してきたが、私は正当の理由からそれを拒絶した。しかし、ついに適当なのを捜してきてくれた。
質屋から指輪を受け出さなければならなかったが、自分で行くのはいやだったので、司祭に手紙を書いて、ある日時を指定し、トレヴィーゾまで来てくれるように頼んだ。司祭はクリスティーナを連れてきたが、私は格別おどろきもしなかった。彼女は私がトレヴィーゾへ来たのは結婚の打ち合せをするためだと信じこんでいたので、少しも気兼ねをせず、愛情をこめて私を抱きしめた。私も同じようにした。英雄主義よ、さらば! もしも叔父さんがそばにいなかったら、私は彼女に私以外に亭主はありえないという新しい証拠を見せてしまっただろう。法王庁の許可証を司祭の手に渡すと、彼女の目は喜びに輝いた。その許可証さえあれば、たとえ四旬節のあいだでも好きな男と自由に結婚することができるのだ。彼女は私がほかの男のために骨をおっているとは考えられなかったし、私のほうもまだ亭主の見当がついていなかったので、そのときは彼女に真実のことを話すべきではないと思った。ただ一週間か十日もしたらPrへ行って、いっさいの取決めをしようと約束した。それから、かなり上きげんで夕食をすまし、司祭に質札と金を渡して、ねることにした。さいわいにもその部屋にはベッドがひとつしかなかったので、私はべつの部屋へ行ってねた。
翌日、クリスティーナの部屋へ行くと、彼女はまだねていた。叔父さんはすでにミサをすませ、私のダイヤモンドを引き出しに質屋へ行っていた。そのとき、私は自分についてある発見をした。クリスティーナは美しく、私は彼女を愛していた。しかし、彼女をもはや自分のものではありえない女として見、彼女の心をほかの男にゆずる決意をしなければならないので、彼女が当然要求する権利をもっている愛情のしるしを与えるのをつつしむべきだと思った。そこで、一時間のあいだ、彼女を抱きしめ、目と唇で彼女のあらゆる美点をむさぼりはしたが、彼女が私の心に燃えたたせた情火を消すことはしなかった。彼女が私に恋いこがれ、あてがはずれて驚いているようすははっきりわかったが、自分のほうからいどみかかろうとしないつつましさを見て、その心ばえに感心した。やがて彼女は腹もたてずくやしがりもせずに、起きて服をつけた。もしも私の煮えきらない態度を軽蔑からだと誤解したら、どんなに腹をたててくやしがっただろう。
そのうちに叔父さんが帰ってきて、ダイヤモンドを渡した。そこで、昼食にしたが、そのあとで、彼は私にちょっと驚くべきものを見せた。クリスティーナが字を書くことをおぼえたのだ。それを私に納得させるために、私の目のまえで、私のいうとおりの文章を書いてみせた。
私は十日ばかりたったらまた会いに来るという、さっきの約束をもう一度くりかえして、彼らよりもさきに帰路についた。
四旬節の第二日曜日、ダンドロ氏は説教から帰ると、勝ちほこったようすで、りっぱな婿さんがみつかった、きっときみの気に入るだろうといった。それは私にもすでに面識のあるカルロ某という男で、素行も正しい非常な美男子で、年は花のさかりの二十二歳であった。サヴェリオ・コンスタンティーニの富籤事務局《ラジオナト》の書記をしていた。彼はアルガロッティ伯爵の名付け子だが、伯爵の娘はダンドロ氏の兄弟の妻になっていた。ダンドロ氏はさらにこう説明した。
「この青年はもう父も母もいない。それで、名付け親が嫁さんの持ってくる持参金の保証にたつと思うね。向うの気持をさぐってみたのだが、いまの資格はまだ臨時雇なので、正式の地位を買うだけの持参金を持ってきてくれれば、堅気の娘さんなら喜んで結婚すると、自分のほうから言ってきたよ」
「そりゃすばらしいですね。しかし、直接本人と話をしてみなければ、なんとも申せません」
「あした、われわれと昼食をしに来るよ」
翌日、その青年と会ったが、ダンドロ氏がいったとおりのりっぱな青年であった。われわれはたちまち仲よしになった。彼は詩作の趣味があったので、私は自分のつくったものを見せてやった。その次の日に訪ねていくと、彼も自作の詩を見せた。彼は姉といっしょに伯母の家に住んでいたのだが、その伯母にも紹介された。私は彼女らの人柄や手あついもてなしに気をよくした。彼の部屋へ行ってふたりきりになったとき、恋愛をどうあつかっているかときいてみた。彼は恋愛なんかに気をつかったことはないが、身をかためるために結婚の相手を捜している、と答え、ダンドロ氏にいった話をくりかえして、いい相手があれば結婚したいといった。
私はその日さっそくダンドロ氏に話をすすめてもらいたいと頼んだ。そこで、ダンドロ氏はアルガロッティ伯に話を持ち込んだ。伯爵はすぐカルロにそのむねを伝えた。カルロは相手の娘さんと会って話をし、身の上のことをくわしく知るまではイエスともノーとも答えかねるといった。伯爵は名付け子のために責任を負うことを引き受け、婚資がそれだけの値うちがあれば、花嫁にたいして四千エキュの保証をすると答えた。
カルロはダンドロ氏から花嫁のことは私が万事引き受けているときいたので、私に会いに来て、いつその娘に会わせてくれるかときいた。そこで、私は日取りをきめたが、丸一日つぶしてもらうことになる。花嫁はヴェネチアから二十マイルのところに住んでいるのだからといい、花嫁といっしょに昼食をして、その日のうちにヴェネチアへもどることにしようと話した。
彼は早朝から支度をしてご命令どおりにすると答えた。そこで、さっそく司祭に至急便を書き、友人をひとり連れて、これこれの時刻に訪ねていき、クリスティーナをまぜて四人で昼食をとるつもりだと知らせた。
カルロをPrへ連れていく途中では、ひと月たらずまえにメストレへ行ったとき、偶然知合いになったことと、もし自分が四千デュカの保証ができる地位にあったら、すすんで申込みをしたいと思ったとだけ話しておいた。
[模様がえのお見合い]
Prの司祭の家へ着いたのは正午の二時間まえだった。十五分ばかりすると、クリスティーナがふだん着のままでやってきた。そして、叔父さんに挨拶をし、私にはまたお目にかかれてたいへん嬉しいと、少しもとりつくろわずにいった。カルロには軽く頭をさげて会釈しただけだったが、この方もあなたのように弁護士の書記かと私にきいた。彼は自分で富籤事務局の書記だと答えた。彼女はわかったようなふりをした。そして、
「あたしのお習字をお見せしたいわ。それから、よろしかったら、母のところへまいりましょう。お昼のご飯は十九時(一時ごろ)にしましょう。ねえ、叔父さん」
「よかろう」
彼女がひと月まえから習字をならいはじめたばかりだときいて、カルロが出来栄えをほめちぎったので、彼女は大喜びで、母親のところへ案内した。その途中、カルロがなぜ十九になるまで習字をならわなかったのかときくと、
「あら、とんでもないおまちがいよ、あたしまだ十七なんですからね」ときめつけた。
カルロはその無遠慮な口調に笑いだしながら、詫びをいった。彼女は村娘の服装をしていたが、首と腕に金の鎖をつけ、たいへん小ぎれいであった。
私は彼女にわれわれの腕をとるようにいった。彼女はちょっと私を見たが、いわれたとおりにした。その目つきにはなんでもおっしゃるようにするわという気持が読みとれた。母親は坐骨神経痛で床についていた。病人のかたわらにすわっていた、おだやかな顔つきの男が立ちあがって、カルロへ接吻をしに来た。それはカルロの知合いの医者だということで、私はそうしためぐりあわせをおおいに喜んだ。
一応時候の挨拶がすむと、話は同じベッドに腰かけていた娘の美点をかぞえあげることになったが、医者はカルロに姉や伯母の健康をたずねた。姉というのはなにか人にいえない病気があったのである。カルロはちょっとおりいって話がしたいと、医者を外へ連れだした。そこで、私は娘と母親と三人だけになったが、口をきわめてカルロのことをほめそやした。そして、彼の聰明さや、仕事のことを話し、神から彼の妻に定められる女はさだめし幸福になるだろうと太鼓判をおした。親子は口をそろえて私の称賛に相槌をうち、おっしゃるような美点は残らずあの方のお顔にあらわれているといった。私は好機のがすべからずと思い、クリスティーナにあの青年はあなたの夫として神がお定めになった人かもしれないから、食卓では十分気をつけてふるまうようにと注意した。
「あたしに?」
「ええ、あなたに。ああいう青年はふたりといませんよ。あなたはぼくと結婚するより彼と結婚するほうがずっと幸福になりますよ。それに、お医者が彼をよく知っているのですから好都合です。私にはいま彼のことを詳しく話す時間がありませんが、お医者からなんでも聞きだせますからね」
こういう説明をなんの準備もせずにいわなければならなかった苦労と、クリスティーナが落ちつきはらって、少しもとり乱したようすをしめさないのを見たときの驚きとを想像していただきたい。この現象は流れ出ようとしていた私の涙をぴたりとせきとめた。彼女は一瞬だまっていてから、あの美男子はたしかにあたしをもらってくださるだろうかときいた。この質問は彼女の気持をはっきり知らせたので、私はすっかり安心し、いままでの懸念《けねん》もさらりと解消した。クリスティーナという女を私はまだよく知ってはいなかったのだ。私はあなたのような娘さんならだれからも嫌われるはずがないと答えた。そして、詳しい話はもう一度Prを訪れるまで口にしないことにした。
「昼食のときに、あの青年はあんたのことを気をつけてみるでしょうよ。だから、神さまからさずかった長所を残らず輝かせるかどうかは、あなたの心がけ次第です。とくにぼくたちの親しい関係を気づかれないようにすることですね」
「でも、おかしな話ですね。叔父さんはこんなふうに模様がえになったのを知っているのですか」
「いいえ」
「それで、もしもあたしがあの人の気に入ったら、いつ結婚してくださるのです」
「一週間か十日ぐらいですね。いっさいぼくが引き受けますよ。今週ちゅうにもう一度訪ねてきます」
カルロが医者といっしょにもどってきた。クリスティーナは母親のベッドからおりて、私たちと向きあって腰をおろした。彼女はカルロの話しかけることを正確にうけとめ、ときには無邪気なことをいって笑わせたが、まの抜けたことはひとつもいわなかった。才気と無知との子どもともいうべき、うるわしい無邪気さだった。その愛くるしさは人をうっとりさせるものがある。この無邪気さだけは聞くものを傷つけずになんでもいえる特権をもっている。しかし、それが自然でないときにはとてもみにくくなる。したがって、真にせまった場合には、技巧の傑作と見ることができよう。
食事のあいだ私はなにもいわなかったし、クリスティーナに私のほうを見させまいとして、彼女には目を向けなかった。カルロは彼女にかかりっきりだったが、彼女もそつなく応対していた。別れぎわに彼女が彼にいった言葉が私の胸に残った。彼があなたは王子さまを幸福にするようにできた人だというと、彼女はあなたを幸福にする女だと思ってくださりさえすれば、それであたしは満足なのですといった。
この言葉をきくと、彼はかっかと燃えあがって彼女を抱きしめた。それから、われわれは出発した。クリスティーナは単純な娘だったが、その単純さは、私の見るところでは、頭のわるさからの単純さではなく、真心から出るもので、要は気質の産物にほかならなかったが、それでもやはり美徳だった。単純といえば、彼女は態度物腰も単純であった。したがって、まじめで、見せかけの羞恥心《しゅうちしん》などなく、カマトトをひけらかすこともできず、人がてらいと呼ぶものは露ほどもなかった。
われわれはそのままヴェネチアへ帰ったが、カルロはそのあいだじゅうあのような娘を自分のものにできたらどんなに幸福かしれないと、そのことばかりしゃべっていた。そして、あしたアルガロッティ伯爵を訪ねていって話をするが、司祭のところへ手紙を書いて、結婚の契約に必要な書類を全部もってヴェネチアへ来るようにいってほしい、早く契約に署名したいからといった。私が四旬節ちゅうでも結婚していいという許可証をローマからとってクリスティーナに贈ったと話すと、彼は驚き、また喜び、それなら急がなければいけないといって笑った。
[妻の心得を教える]
翌日、アルガロッティとダンドロとカルロとが相談した結果、司祭と姪とをヴェネチアへ呼びよせようということになった。私がそのお使い役を引き受け、夜明けの二時間まえにヴェネチアをたって、Prへとってかえした。そして、カルロ氏との結婚を早くすませるために、姪を連れてすぐにヴェネチアへ行かなければいけないと司祭にいった。すると、彼はミサをあげるあいだ待っていてもらいたいというので、そのあいだ、私はクリスティーナのところへ行って、いっさいを報告し、感傷的な、父親じみた説教をした。その説教でいわんとしたことは、日に日に尊敬と愛情が高まるようにしてくれる夫をまもって、一生を幸福に暮らすようにということであった。それからカルロの姉や伯母からかわいがられるにはどうしたらよいかという処世訓を教えた。しかし、私の演説はしまいには悲痛でうしろめたいものになっていった。というのも、貞操の義務を強調しながら、彼女を誘惑して裏切ったゆるしをもとめなければならなかったからである。すると、彼女は私の言葉をさえぎって、
「あたしたちが愛情にまけてあやまちをおかしたとき、あなたはすぐにあたしと結婚するとおっしゃったけど、あれははじめから約束をたがえるつもりだったのですか」ときいた。
「いや、そんなつもりはなかったよ」
「それならあたしをだましたことにはならないわね。それどころか、冷静にご自分の身分を考えて、あたしたちの結婚は不幸になると見て、もっとたしかな夫を捜してやろうとお考えになり、それがこんなにうまくいったのだから、あたしのほうこそ心から感謝しなければいけないのね」
それから、彼女は最初の晩に夫からきみの処女をうばった恋人はだれだときかれたら、なんと答えたらよいだろうと、落ちついた口調できいた。私はカルロは礼儀ただしくつつしみぶかい男だからそんなひどいことをきくはずはない。だが、もしもそんなことをきかれたら、いままで恋人なんかもったこともないし、ほかの娘とちがうとは思っていないと答えろと教えた。
「でも、信じてくれるでしょうか」
「うん、きっと信じるよ。ぼくだって信じるものね」
「けれど、もしも信じなかったら?」
「そうしたら、カルロはきみの軽蔑に値する人間になって、自分が苦しむだけのことさ。かわいいクリスティーナ、才気もあり教育もある男はけっしてそんなくだらない質問はしないよ。だって、嫌われることははじめからわかっているのだし、ほんとうのことを答えてもらえないのもたしかだからね。女というものはだれでも夫からよく思われたいと思うものだが、ほんとうのことをいったために損をするとしたら、よほどのばかでないかぎり、夫にほんとうのことをいう決心がつきやしないよ」
「おっしゃることはよくわかったわ。では、お別れに接吻して」
「いや、よそう。ここにはぼくらふたりしかいないのだし、ぼくは道徳堅固というわけにいかないからね。ああ、ぼくはまだきみが好きでたまらないんだよ」
「まあ、泣かなくてもいいのよ、あたしほんとはあんなこと少しも気にかけていないのですから」
私はこの無邪気でおどけた理由をきくと、泣くのをやめて、笑いだしてしまった。彼女は村の女王といった服装を身につけ、十分に朝食をとってから、そろって出かけた。ヴェネチアへは四時間で着いた。私はふたりを上等の旅館へ連れていき、それからブラガディーノ氏の邸にもどった。そして、ダンドロ氏に司祭と姪とをこれこれの旅館へ案内したと報告した。そして、あしたにでもカルロと会って時間をきめてくれたら、ふたりを紹介しよう。そして、今後のことはいっさいあなたにまかせる、なぜなら、婚約者や親戚や友人たちの名誉はもとより、私自身の名誉を考えても、これ以上私が口をだすのはゆるされないからといった。
ダンドロ氏は私のいうことを十分に理解し、そのとおりに行動した。そして、カルロに会いに行き、私にクリスティーナと司祭を紹介させた。そこで、私はふたりに訣別の心をこめて挨拶をした。その後、彼ら四人は打ちそろってまずアルガロッティ氏を、次にカルロの伯母さんを訪ね、それから結婚と持参金の書類をつくるために公証人のところへ行ったということである。最後に、司祭とその姪とはカルロにつきそわれてPrへ帰っていった。カルロはPrへもう一度訪ねて、教区の教会で結婚式をあげる日取りをきめた。
Prから帰ると、カルロはわざわざ私に会いにきた。そして、未来の花嫁は美しい器量とおとなしい人柄とで、伯母や姉や名付け親のアルガロッティ氏からすっかり気に入られたこと、名付け親が結婚の費用を全部負担してくれること、結婚式はこれこれの日にあげることなどを報告し、式にはぜひ出席してほしいといった。そして、私がごめんこうむりたい気持なのを見てとると、言葉たくみに文句をいって、ついに承知させてしまった。私はクリスティーナの田舎ふうの衣装や言葉の訛《なま》りや無邪気な性格が彼の伯母を非常に喜ばせたという話をきいて、とても嬉しかった。
彼は恥ずかしげもなくのろけはじめ、
「あの娘にはもう首ったけです。人からいろいろお祝いをいわれるが、そんな生やさしいことではありません。クリスティーナのしゃべる百姓言葉はいずれそのうちになおるでしょう。ヴェネチアでは、ちょっとでも人とちがっていると、ねたまれたりかげ口をきかれたりして、やりきれなくなるものですからね」と、いった。
そして、こういうしあわせもみんなきみのおかげだと感謝されたので、私は無性に嬉しくなった。が、内心彼の幸福がねたましくもあった。それで、アルガロッティさんのような婚資の保証のできる人を名付け親にえらんだのは賢明だったとほめてやった。
[クリスティーナの結婚]
結婚式には、カルロはダンドロ氏とバルバロ氏を招いた。そこで、私は定められた日にこのふたりと連れだってPrへ行った。司祭の家では、伯爵があらかじめ料理人や召使を派遣して、十二人分の食卓と食事に必要なものを残らずととのえてあった。
花嫁姿のクリスティーナを見ると、私は人目をさけて別室へかくれ、流れる涙をふかなければならなかった。彼女は田舎娘の晴れ着を着て、星のように美しかった。夫や伯爵さえも、ヴェネチアふうの服装をし、黒い髪に髪粉をふって教会へ行くようにすすめたが、クリスティーナは承知しなかった。そして、カルロに、
「ヴェネチアでごいっしょに暮らすようになったらヴェネチアふうの服を着ますが、Prではいままでとちがった身なりをひとさまにお見せしたくないのです。そうすれば幼馴染《おさななじみ》の娘さんたちから悪く思われることもないでしょうからね」といった。
カルロにはクリスティーナはこの世ならぬ気高さをもつように思われた。彼は彼女がヴェネチアで二週間のあいだとまっていた家の細君を訪ねて、彼女へ申し込んでことわられたふたりの青年のことをきいてみたが、ふたりとも承諾されるだけのあらゆる長所をそなえた青年であったので、驚いてしまったと私に話した。そして、「あの子は神がぼくを幸福にするためにきめておいてくれた籤《くじ》なんだね。ああいうりっぱな細君をもてたのも、みんなきみのおかげなんだ」といった。彼のあつい感謝は嬉しかった。もちろん私はそれを利用しようなどとは考えてもみず、ただ幸福な人々をこしらえるのに成功したのを喜んでいた。
正午の一時間まえに教会へはいっていくと、足の踏み場もないほどいっぱいなのに驚いてしまった。トレヴィーゾの貴族も何人かきていた。たかが百姓娘の結婚式なのに、教会の規則で禁止されている時期に盛大に挙行するとは、はたしてほんとうなのかどうか、それを見ようというのである。特別の許可をとらないでもひと月待てばいいのだから、だれにとっても不思議なことであった。人々はなにか秘密の理由があるにちがいないと見当をつけたが、それがわからないのでいらいらしていた。しかし、クリスティーナとカルロがあらわれると、だれもかれもこんなにすばらしいカップルなら、特別の恩寵を得て、厳重な規則の例外としてあつかわれる値うちがあると認めた。
クリスティーナの名付け親でトレヴィーゾに住むトス伯爵夫人は、ミサがすんで、彼女が教会から出ようとしているところへ近寄ってきた。そして、親しい友だちのように接吻し、こういうめでたい話がきまっていながら、トレヴィーゾを通ったときにでも、なぜ耳に入れてくれなかったのかと、おだやかな口調で苦情をいった。クリスティーナは持前の無邪気さで、あたしたちの結婚はごらんのように法王さまのご催促で、たいへん急いだものですから、思わぬ手ぬかりをしてしまって申訳ありませんと、つつましくおとなしやかに答えた。彼女はこういう賢明な返事をしてから、すぐに夫人を夫に引き合わせ、夫の名付け親である伯爵に自分の名付け親のこの夫人をぜひ祝宴の席へ呼ばせてもらいたいと頼んだ。話はすぐにきまった。こういうみずぎわだったとりなしは高い教育を受け、社交界の慣習を十分に心得なければできないことだが、クリスティーナにとってはたんに正直で淡白な心のあらわれにしかすぎなかった。これを技巧によって手ぎわよく片づけようとすると、かえってうまくいかないものだ。
教会から帰るとすぐに、花嫁は母親の前へ行ってひざまずいた。母親は嬉し泣きに泣きながら、花嫁花婿に祝福を与えた。この親切な母親は病気のために動きがとれなかったので、肘掛椅子《ひじかけいす》のなかで来客のお祝いを受けた。
それから一同は祝宴についた。慣例にしたがい、クリスティーナとその夫は上席にすわった。私は喜んで末席についた。料理はどれもすばらしかったが、私はほとんど食べず、口もきかなかった。クリスティーナはたえず気をくばって、並み居る人々へ言葉をかけたり、質問に答えたりしたが、そのたびに自分の言葉がいとしい夫の意にかなったかどうか、横目でようすをうかがっていた。彼女は二、三度夫の伯母と姉にたいへんかわいいことをいった。それで、ふたりは立ちあがって彼女に接吻しに行かずにいられなかったが、ついでに花婿にも接吻して、あなたは世界一しあわせものだといった。私のわきにすわっていたアルガロッティ氏が生まれてこのかたこんなに嬉しいことはなかったとトス夫人にいうのを聞いて、私は喜びに胸をおどらせた。
二十二時(午後四時ごろ)になると、カルロが花嫁になにか耳うちをした。すると、彼女はトス夫人に軽く会釈《えしゃく》をした。夫人は立ちあがった。それから、仕来《しきた》りどおりの挨拶がすむと、花嫁は隣の部屋へ行って、そこに集まっていた村の娘たちに、大きな籠《かご》に用意してあった三角形のボンボンの袋をくばった。そして、少しも高ぶったところを見せずに、ひとりひとりに接吻をして別れを告げた。コーヒーがすむと、アルガロッティ伯爵は一同へトレヴィーゾに用意してある家へとまって、婚姻の翌日の午餐会に出てほしいと頼んだ。司祭は招待を辞退した。母親は論外であった。彼女はこのめでたい日以来、日ましに病気が重くなって、二、三か月後に死んでしまった。
こうして、クリスティーナは生まれた家と村とを去り、夫の腕のなかへおさまったが、彼女はその夫を幸福にした。アルガロッティ氏はトス夫人と私の気高い親友たちをともなって出発した。カルロとその妻は水入らずで出かけた。私はカルロの伯母と姉を自分の馬車に乗せた。
この姉というのは二十五歳の未亡人だが、なかなか見所があった。だが、私は伯母のほうが好きであった。彼女は新しい姪はだれからも好かれるように生まれついた、まるで宝石のような娘だが、ヴェネチアの言葉が十分話せるようになるまでは人なかへ出さないつもりだといった。そして、こうつけくわえた。
「あの子の陽気さと無邪気さは頭のよさから来ていますが、それも身なりと同様にわたしどもの国の流行にあわせなければなりませんからね。わたしどもは甥《おい》のえらんだ嫁にとても満足しております。それについては、あなたから永久のご恩を受けたわけですが、これはだれも否応のいえることではありません。ですから、これからはずっとご懇意にしていただきたいと思います」
しかし、私はこのすすめとはまったく反対の行動をとり、かえって彼らから喜ばれた。このうるわしい結婚ではいっさいが好都合にいった。クリスティーナは男の子を夫に与えたが、それも丸一年たってからであった。
トレヴィーゾの宿はなかなかよかった。われわれはレモネードを飲んでから、それぞれ寝に行った。
翌日の朝、アルガロッティ氏や友人たちとサロンでしゃべっていると、花婿が天使のように美しく、いきいきとしたようすではいってきた。そして、冗談まじりのおきまりの挨拶を小気味よく受けながすと、伯母と姉に妻へ朝の挨拶にいってやってほしいと頼んだ。ふたりはすぐに出ていった。私は内心不安を感じながら、カルロのようすを見ていたが、彼は愛情をこめて私に接吻した。告白すると、私は接吻をこれほど嬉しく思ったことがない。
世の中には極悪無道のくせに信心ぶかくて、聖者に願をかけ、悪事がうまくいくとおおいに感謝をささげるやつらがいて、人を驚かすが、驚くのはまちがいだ。彼らは無神論者に戦いをいどむもので、ひどく結構だというほかはない。
花嫁は輝くばかりに美しい姿で、一時間後にサロンへおりてきた。アルガロッティ氏は彼女を迎えに立っていって、楽しい初夜をすごしたかときいた。彼女は返事のかわりに、夫のところへいって接吻した。それから、美しい目を私のほうへ向け、あたしはたいへん幸福です、これもみんなあなたのおかげですといった。
花嫁はそれから食事のはじまるまで、トス夫人を手はじめに、ひとりひとりへ挨拶をしてまわった。
午餐会がすむと、メストレへ行き、そこから大形のゴンドラでヴェネチアに帰った。そして、若夫婦を自宅へ送りとどけると、ブラガディーノ氏の邸へもどって、われらのうるわしき旅行のことをくわしく話して彼を笑わせた。妙に学問のふかいブラガディーノ氏はこの結婚について深刻な観察や不条理な意見を際限もなくならべたが、それは私にはいずれも滑稽に思われた。というのも、彼の議論は架空の想像にもとづいていたので、世俗的な策略とあやまった抽象論の奇妙なごたまぜになってしまったからである。
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第二十章
[偏見と改姓の効用]
一七四七年。復活祭の次の日曜日に、カル口が細君を連れて訪ねてきた。細君はどこから見ても別人のように思われた。それは服装と髪形のせいであった。髪には髪粉をふりかけてあったが、生まれつきの黒檀《こくたん》のようにまっ黒な、すばらしい髪にはおよばなかった。また奥さまふうの身なりはゆたかな百姓娘の衣装ほどきらびやかでなかった。ふたりともすごく幸福そうに見えた。カルロは私が全然顔を見せないと愚痴をいった。それももっともだったので、サン・マルコの日(四月二十五日)に、答礼の意味で、ダンドロ氏といっしょに訪ねていった。だが、それまでに、クリスティーナが伯母から偶像的に愛され、姉とも無二の親友になり、いつも親切で、ふたりのいうことにはすなおにしたがい、まるで羊のようにおとなしいと、カルロ自身の口からきいて、非常に満足であった。彼女は早くも田舎訛《いなかなま》りがうすれはじめていた。
さて、サン・マルコの日に訪ねていくと、彼女は伯母の部屋にいた。カルロは留守であった。伯母はあれこれと話をするうちに、彼女の習字がたいへんじょうずになったとほめたて、カザノヴァさんに帳面を見てもらえとすすめた。そこで、彼女が立ちあがったので、私はついていった。彼女はとても幸福で、毎日夫のうちに天使のような性質を見つけだすと話した。彼女が私と二日間ふたりだけですごしたことを聞いても、カルロは全然疑いの影も不愉快そうなようすも見せなかった。そして、そういうことを知らせた人は彼の平和をみだそうという悪意からにちがいなかったが、彼はその人を軽蔑して鼻先で笑ったというようなことも話した。
カルロはじつによくできた男だった。この結婚から二十六年目に、彼は惜しげもなく私に金を貸して、大きな友情のしるしを見せてくれた。私はあまり足しげく彼の家を訪ねなかったが、彼はそれを感謝していた。彼は私が最後にヴェネチアを去った数か月まえ(一七八三年)に死んだが、遺族が楽に暮らせるだけのものを残していった。三人の男の子はみんなりっぱな職につき、彼女はおそらくいまでも子どもらと丈夫に暮らしていることだろう。
六月、パドヴァの聖アントニオの大市で、同じ年輩の青年と親しくなった。彼はスッチ教授のもとで数学を研究していた。家名はトニョロといったが、そのころファブリスと変えた。これは八年まえにトランシルヴァニアで死んだファブリス伯爵で、ヨゼフ二世の軍隊で中将として指揮していた。この男がそれだけの出世をしたのも、もちろんまじめな人柄のおかげであったが、もしももとどおりトニョロという家名を名のっていたら、世に出ずにうずもれて死んだであろう。トニョロはあきらかに百姓の苗字であった。彼はヴェネチア領フリウリのオデルツォという大きな村で生まれた。兄に司祭がいたが、これは才たけた賭博師で、ファブリスという苗字を名のったので、弟も兄に恥をかかせまいとして、同じ苗字を採用したのであった。
彼はその後ヴェネチアの元老院から領地を買い、ファブリス家に伯爵の称号をくわえたので、兄の名のった苗字を十分にもりたてたわけである。伯爵となり、貴族の列にくわわったからには、百姓からきれいに足をあらったわけだ。しかも、ファブリスを名のったのだから、もはやトニョロではなかった。このトニョロの名を変えなかったら、いろいろの支障が彼の行手をはばんだにちがいない。この苗字を口にするたびに、それを聞く人々の心に彼の低い家柄を思いおこさせたであろうが、≪百姓はいつまでも百姓だ≫という諺《ことわざ》は経験によって動かすべからざるものになっていたのであった。人々は百姓というと、理性を十分に使うことができず、純粋な感情や高貴な資質や英雄的美徳を全然持ちあわさない人間だと信じている。いずれ時代が変わったら、社会がもっと聰明になり、したがってもっと合理的になって、どんな身分のものにも貴族階級と同様に、名誉や英雄主義というような高貴な感情が存在しうることをみとめるだろう。まして貴族では、身分ちがいの結婚により、その血はかならずしも永久に純粋とはいえないのだから。
しかし、新しい伯爵は他人には元来の素姓を忘れさせこそすれ、自分自身もそれを忘れたり否定したりすべきだとは考えなかった。反対に、彼は変身以前の身分が自分の行動に累《るい》をおよぼさないように、つねに過去のことを思いだそうとした。それで、公けの契約にはかならず新しい苗字のわきにまえの苗字をしるした。
兄の司祭は彼に二種の高尚な職務を提供し、そのどちらかを選べ、決心がきまったら千ゼッキーニの金を出してやるといった。それは戦の神マルスと知恵の神ミネルヴァのどちらかをえらぶことであった。彼は弟のために、直接の方法でオーストリア皇帝陛下の軍隊の中隊長の地位を買うか、間接の方法でパドヴァ大学の教授の椅子を手に入れるかすることができたのである。弟は決心のつくまで、数学の勉強をしていた。どちらの職業をとろうとも学者になる必要があったからである。そして、長寿よりも光栄をえらんだアキレスの範にならって軍人をえらんだ。したがって、彼は命を棄てることになった。もちろん彼は若死をしたのでもなく、戦死をしたのでもない。いわゆる名誉の床の上で死んだ。しかし、尊厳なる皇帝から派遣された自然の敵ともいうべき国でペストにかからなかったら、まだ生きているであろうと考えられる。私とおつかつの年であったのだから。
ファブリスの高雅な風貌と洗練された感情と卓越した知能と美徳とは、彼がもとどおりトニョロと名のっていたら滑稽なものに思われたであろう。≪いかなる世界においても≫(ライプニッツ)愚昧《ぐまい》のやからにたいする氏名の力はかようなものである。語呂《ごろ》がわるかったり、奇妙な観念をあらわしたりしている苗字の人々は、もしも学問芸術によって名誉や財産をのぞむなら、それをすててほかのものを採用しなければならない。新しい苗字が人のものでないかぎり、だれも改姓の権利をこばむことはできない。彼らはみずから新しい苗字を創作すべきであると思う。
アルファベットは公けのものである。したがって、だれでもこれを用いてひとつの言葉をつくり、それを自分の苗字とするのは自由である。ヴォルテールはアルーエ(車裂きになすべき)という本名では不滅の存在とはなれなかったであろう。寺院へはいろうとしても、鼻っつらへ戸をぴしゃりとしめられ、入れてもらえなかったにちがいない。彼自身も≪|車裂きになすべきやつだ《ア・ルーエ》≫と年じゅう呼ばれていたら、意気消沈してしまったにちがいない。ダランベールもルロン(でぶちゃん)の名ではあんなに有名にならなかったろうし、メタスタシオもトラパッソ(死)という名では輝かしいものにはなれなかっただろう。メランヒトン〔学識ある人道主義者で、宗教改革者ルターの盟友〕もテールルージュ(赤土)という名では聖体の秘跡を云々する勇気が出なかったろう。ボーアルネー(りっぱな甲冑)氏はボーヴィ(りっぱな一物)という旧姓を保存していたら、たとえ祖先がこの苗字で財をつんだとしても、人を笑わせたであろう。ブルブー家(泥んこ)はブルボン家〔ブルボン家は、ブルボンネの古城からその名をとっている。カザノヴァの「ブルブー」説には歴史的根拠がない〕と呼ばせようとした。カラリオ家はもしもポルトガルに定住したら、べつの苗字を採用したにちがいない(カラリオはポルトガル語で睾丸)。私はポニアトウスキー王を気の毒に思う。彼は王冠と王位をすてたとき、即位の際につけたアウグストゥス(帝王)の名も捨てるべきであったろうと思う。ただベルガモのコレオニ家(コレオニは睾丸の意)だけは家名を変えるのをためらったにちがいない。なぜなら、古い家柄の楯形の紋章には繁殖に必要な腺がふたつついているので、この家名を廃止すると、紋章を葬ると同時に、英雄バルトロメオ(これも睾丸)の光栄さえほろぼすことになるからである。
[死人の手のいたずら]
秋の終りごろ、わが友ファブリスは人の心と精神とを養うようにできたある家族に私を紹介した。それはゼロへ行くほうの田舎にあった。そこで、人々は博打をし、恋をし、悪戯を楽しんだ。ときには血みどろの悪戯をしたが、それを笑いとばすのが豪のものとみられた。どんなことをされても腹をたててはいけない。腹をたてると、人の嘲笑をあび、またはまぬけ扱いにされた。ベッドの底をおとした。幽霊でおどかした。ある令嬢には利尿剤を与え、ほかの令嬢にははげしい放屁をうながす薬を与えた。なんでも笑わなければならなかった。私はアクティヴにもパッシヴにも人におとらず勇敢であった。ところが、その私がひどい悪戯をくらい、どうしても復讐せずにいられない気持にされた。
われわれはいつも三十分ばかりの距離にある農園へ散歩に行った。しかし、狭い板を橋にかけてある溝を越えていくと、時間が半分ですんだ。私はいつもその近道を通った。しかし、婦人たちは私がさきに渡ってみせてはげましても、狭い板を渡るのをこわがった。ある日、私はまっさきに渡っていったが、半分ぐらいまで行くと、踏みつけたところがめりめりと折れて、私は溝のなかへ落ちてしまった。溝は水はあまりなかったが、きたない、悪臭のするどぶ泥でいっぱいだった。私は首までもぐってしまったが、みんなといっしょにばか笑いをしなければならなかった。しかし、それは一分とつづかなかった。悪戯があまりにもひどく、いっしょに行った連中もそう思ったからである。人々は百姓たちを呼んで、見るも無残な姿の私を引きあげた。金モールを刺繍したまあたらしい季節向きの服も、レースも、靴下も、みんなめちゃめちゃだった。だが、かまやしない。私は笑いこけた。しかし、腹のなかでは、このあまりにも悪辣《あくらつ》な悪戯にたいして、痛烈きわまる復讐をしてやろうと決心した。悪戯の下手人をつきとめるには、冷静に見せかけなければならなかった。踏み折った板はあきらかに鋸《のこぎり》でひいてあった。人々は私を家へ連れていき、服やシャツを貸してくれた。せいぜいひと晩どまりのつもりできたので、着がえの用意をしてなかったのである。
実際、私は翌日町へ帰り、夕方また陽気な仲間のところへもどった。ファブリスは私と同じように憤慨していたので、悪戯の下手人がどうしても見つからないとささやいた。私はひとりの百姓女をつかまえて、だれが板に鋸を入れたのか教えてくれたら一ゼッキーノやるといった。すると、彼女は秘密を明かしてくれた。それは若い男であった。そこで、もう一ゼッキーノやったら口を割るだろうと思い、その男に会いに行った。そして、一ゼッキーノよりむしろはげしい脅迫によって、むりやりに白状させた。彼はデメトリオ氏に買収されて、板を挽《ひ》いたのであった。それは四十五ないし五十ぐらいのギリシャ人の乾物屋で、気のよい愛すべき男だった。私は彼が惚れていたリン夫人の小間使を横取りした以外には、彼にたいしてはなんの悪戯もしなかった。
その性わるのギリシャ人にたいして、どんな悪戯をしたらいいか、あのときくらい頭をしぼって考えぬいたことはない。思いつきの奇抜さからも、与える苦痛からも、彼の悪戯よりひどくないにしても、少なくとも同じくらいのものを見つけなければならない。だが、考えれば考えるほど見当がつかなくなった。そして、そろそろあきらめかけたとき、死人を葬るのを見た。そこで、私は死骸をながめながら、次のような計画をたてて、実行した。
真夜中すぎに狩猟用の短刀を持って、ただひとり墓地へ行った。そして、死骸を掘りだし、なかなか骨がおれたが、片方の腕を肩の付根から切りとった。それから、死骸に土をかぶせると、死人の腕を持って部屋へ帰った。翌日、みんなといっしょに夕食を食べて食卓から立つと、すぐに腕をとりにいって、ギリシャ人の部屋のベッドの下にかくれた。十五分ばかりすると、彼がもどってきて、服をぬぎ、明りを消して、ベッドにはいった。そこで、寝ついたころを見はからい、下のほうから掛蒲団を引っぱって、腰のあたりまでむきだしにした。彼は笑いだして、「きみがだれだろうと、すぐに出ていって、わしを眠らせてくれ。わしは幽霊なんか信じないのだから」といった。彼はこういいながら夜具を引きあげて、また眠ろうとした。
五、六分たつと、私はまた同じ悪戯をはじめ、彼は同じ文句をくりかえした。しかし、夜具を引きあげようとしたとき、私は夜具をおさえて動かさせなかった。すると、ギリシャ人は腕を伸ばして、夜具をおさえている男か女の手をつかまえようとした。しかし、私は自分の手をさぐりあてさせずに、死人の手をつかませ、その腕をぎゅっとにぎっていた。ギリシャ人はつかんだ手をぐんぐん引っぱった。その手の持主もいっしょについてくるものと思いこんでいたのだ。しかし、私はつかんでいた死人の腕を急にはなした。男はそれなりひとことも口をきかなくなった。
こうして芝居は終わったので、私は自分の部屋へ寝にもどった。彼は非常な恐怖を感じたろうが、格別身体にさわることもあるまいと、私は高をくくっていた。
翌朝、人々があわただしく行ったり来たりする足音で目をさました。なんのことやらわけがわからなかったので、起きていって聞いてみた。すると、その家の主婦までが、あなたのしたことはあまりひどすぎるといった。
「ぼくがなにをしたのです」
「デメトリオさんが死にそうなのですよ」
「じゃあ、殺してしまったのか」
彼女は返事もせずに行ってしまった。私は少しおびえながら服をつけたが、どういうことになっても知らぬ存ぜぬでおしとおそうと心にきめた。ギリシャ人の部屋へ行ってみると、家じゅうが集まっていた。また教会の主席司祭や寺男の姿も見えた。寺男は前に置いてある死人の腕をあらためて墓に埋めるのをいやがって、主席司祭とやりあっていた。人々は恐怖の目をもって私を見、私がぼくはなにも知らない、こんなひどいことをぼくのせいにするのは心外だというと、みんなせせら笑った。そして、きみの仕業《しわざ》だ、こんなことのできるのは、ここにはきみよりほかにいない、いかにもきみのやりそうなことだと、すべての者が口をそろえていった。主席司祭はきみは途方もない罪をおかした、すぐに調書をとらねばならぬといった。私はなんでも好きなようにしたらよかろう、しかし、ぼくはなにもおそれていやしないと答えて、出てきた。
食卓できくと、ギリシャ人は瀉血《しゃけつ》を受けると、目が動くようになったが、まだ口もきけず、足腰も立たないということであった。その翌日になると、口がきけるようになったが、町へ帰ってからきいた話では、彼はやはり精神がもうろうとしていて、ときどき痙攣《けいれん》をおこすそうであった。彼は一生のあいだこういう状態をつづけた。私は彼の運命に同情したが、それほどまでやっつけるつもりはなかったのだし、彼の悪戯もへたをすると私の命にかかわることだったのだからと思って、心の苦痛をなだめた。
主席司祭はその日のうちに腕を埋葬させ、調書をつくって、トレヴィーゾの司教事務局へ大罪の告発状を送った。
[宗教裁判所の出頭命令]
私はみんなから浴びせられる非難に気をくさらせて、早々にヴェネチアへ引きあげた。二週間ばかりたつと、宗教裁判所から召喚状が来た。それはおそるべき権能をもった裁判所であったので、バルバロ氏に召喚の理由をさぐってほしいと頼んだ。死人の腕を切ったのを私の所業と断定して、一も二もなく私を起訴したとすればおかしな話だ、一応は疑ってかかるべきだと思われたのである。ところが、召喚の理由はそういうことではなかった。晩にバルバロ氏が報告してくれたところでは、私がある娘をツェッカへ連れていって暴力で恥ずかしめたと、その母親が告訴したのであった。告訴状は私がその娘をなぐりつけて恥ずかしめたことは明瞭で、娘はそのために全身に傷をうけ、現在病床に臥していると訴えていた。
一度こういう告訴をされると、たとえ本人がまったく関知しない場合でも、金はかかるし、嫌な思いをさせられるが、これはそういういやがらせのために仕組まれた告訴であった。私は強姦したという非難は全然身に覚えがなかったが、なぐったことは事実であった。そこで、次のような弁明書を書き、バルバロ氏に頼んで裁判所の書記官にとどけてもらった。
「某日、私は原告の女性が娘と連れだって歩いているのを見かけました。おりよくその通りにマルヴァジアの店がありましたので、いっしょにはいるようにすすめました。そこで、私が娘を愛撫しようとすると、娘はこばみましたが、母親はこの子は生娘だから、なにか利益を得ないでは愛撫させまいとするのも当然だといいました。そこで、私は手でさぐって、はたして生娘であるかどうかたしかめてみようと考え、どうやらそうらしいとわかりましたので、食後にツェッカへ連れていくことをゆるしたら六ゼッキーニ出そうといいました。母親は私の提案を承諾し、ラ・クローチェ公園の端までついてきて、娘を私にあずけ、六ゼッキーニ受け取って帰りました。しかし、実際には、娘は私が事をはじめようとすると、巧みに身をもがいて、的をはずさせました。この遊戯ははじめは私を笑わせましたが、やがて疲れて、気持がいらだってきましたので、いい加減でやめろときつく申し渡しました。すると娘はあなたができないのはあたしのせいではないと、おだやかにいい返しました。私はそういう企みのあることはまえから承知しながら、おろかにもさきに金を払ってしまいましたので、むざむざとペテンにかかるのをあきらめることができませんでした。こうして一時間ののち、私は娘が身動きできないような姿勢にしました。しかし、娘はすぐにその姿勢をくずしてしまいました。
「なぜきみはぼくがさせたような恰好《かっこう》にしていないのだ、別嬪《べっぴん》さん」
「こんなやり方、あたし嫌いだからよ」
「きらいだって?」
「そうよ」
そこで、私は音もさせずに、そばにおちていた箒《ほうき》をひろうと、思いきり娘をなぐりつけました。娘は豚のように泣きわめきましたが、われわれは沼地のなかにおりましたので、だれも駆けつけてこられませんでした。私ははっきり申しあげられますが、娘の腕や脚を折るようなことなく、ただ腎部に大きな打撲の跡をつけただけでした。それから、むりに服を着させ、偶然通りがかった船に乗せて、魚市場でおろしました。母親は六ゼッキーニせしめ、娘はのろうべき処女を保存したわけです。私に罪があるとすれば、悪辣《あくらつ》きわまる母親から仕込まれたあばずれ娘に懲罰をくわえたことだけなのです」
私の弁明書は効を奏さなかった。裁判官は娘が処女でないことを十分に承知していたし、母親は六ゼッキーニ受け取ったことや、私と取引をしたことすら否定したからである。いろいろの調停も無効であった。私は法廷へ出頭を命じられたが、応じなかった。そこで、身柄拘束の令状が出ようとしていたが、そのとき、死体発掘とそれにからまる一件の告訴状が同じ裁判官に提出された。この告訴状が十人委員会に提出されたら、そのほうが私には好都合だったろう。いっぽうの裁判のために他方の裁判が取りさげになったかもしれないからである。第二の罪は実際には滑稽なものにすぎなかったが、告訴箇条としては最高の罪であった。私は二十四時間以内に出頭するように命じられた。その期間をすぎると逮捕状が出ることはあきらかであった。ブラガディーノ氏が一時嵐をさけるがいいとすすめた。私はいかにももっともだと思い、すぐに荷物づくりにとりかかった。
まったく、あのときほどうしろ髪を引かれる思いでヴェネチアを立ったことはない。三、四人、深い仲になっていとしんでいた女があったし、博打のほうも勝運にめぐまれていたからである。しかし、親しい友人たちは一年もすれば事件は立ち消えになるだろうと保証してくれた。ヴェネチアでは、世間が忘れさえすれば、何事も無難におさまるのであった。
[ミラノでの再会]
荷物をまとめると、日の暮れ方に出発し、翌日はヴェローナへとまった。そして、二日後にミラノへ着き、ポッツォ旅館へ落ちついた。私はたったひとりで、身なりもりゅうとしたものだし、宝石もいっぱい身につけていた。紹介状こそ持たなかったが、財布には五百ゼッキーニの金貨があり、この美しい大都会ミラノではまったくの新顔だし、健康は上々、年はいまをさかりの二十三歳であった。おりしも一七四八年の一月であった。
私は贅沢《ぜいたく》な昼食をすませてから、ひとりでぶらりと外へ出た。そして、カフェへ寄り、それからオペラ座へ行った。そして、だれひとり知合いのない気安さでミラノ一流の美人たちを嘆賞してから、マリーナが道化た踊りを演ずるのを見て、非常に嬉しかった。彼女はすべての観客から拍手喝采をあびたが、十分にその値うちがあった。背も高くなり、身体もでき、十七歳の美しい娘としての資質をすべてそなえていた。そこで、もしもだれかに囲われていなかったら、昔の関係を復活させようという気になり、オペラが終わると、彼女の住居へ案内させた。彼女はよその男と食卓についていたが、私の顔を見るやいなや、ナプキンをなげだして、私の腕のなかへとびこんで、接吻の雨をふらせた。私もそこにいた男は遠慮するにもおよばないのだろうと思い、彼女に接吻をかえした。下男は命じられるのも待たずに、三つ目の食器をそろえた。彼女はいっしょに食事をするようにすすめた。しかし、私は腰をおろすまえに、この人はどういう人だときいた。もしも彼が礼儀作法を心得た男なら、マリーナに紹介してほしいと頼んだだろう。しかし、彼は身動きもせずににらんでいるので、腰をおろすまえから人柄がわかってしまった。
マリーナが答えた。
「ローマのかたで、チェリ伯爵とおっしゃるの。あたしのいい人なのよ」
「それはおめでとう。もし、そちらのかた、ぼくらが夢中になっちまったのを、わるくとらないでくださいよ。ぼくの娘なのですから」
「こいつは売女《ばいた》だ」
「そりゃ、そうよ、そのとおりだわ」と、マリーナがいった。「この人はあたしのひもなんですからね」
男は乱暴にも彼女の顔へナイフを投げつけた。マリーナはとびのいてそれをよけた。男は彼女を追いかけようとした。私は彼の喉へ剣のさきをつきつけてさえぎった。それと同時に、マリーナに明りをつけろといった。マリーナは手ばやくケープを着て、私の腕にすがりつき、どこかへ連れていってほしいといった。
「よかろう」と、私はいった。
そして、剣を鞘《さや》におさめ、彼女を階段のほうへ連れていった。自称伯爵はあしたひとりでポミの酪農場へ来い、言い分をきいてやるからと決闘の挑戦をしてきた。私は午後の四時に会おうと答えた。それから、マリーナを自分の旅館へ連れていき、隣の部屋をとって、二人分の夕食を命じた。
食卓で、マリーナは私が考えこんでいるのを見て、あたしがあの乱暴者から逃げて、あんたのところへころがりこんだのを怒っているのかときいた。私はそのほうがぼくには嬉しいのだと安心させてから、あの男の素姓をくわしく話してほしいといった。
「あいつはチェリ伯爵だなんていっているけど、本職の博打うちなのよ。この土地へ来てから知合いになったの。あたしにいい寄ってきて、夕食に呼んでくれたの。そして、博打をしたのだけど、イギリス人をひとり、あたしが来るからと呼びよせて、かなりのお金をさらったようよ。その翌日、親の分け前をきみにやるつもりだったからといって、五十ギニーくれたわ。そして、あたしの恋人になるとすぐ、ペテンにかけようとするお客たちにお取持ちをしろといってきかず、あげくのはては、あたしのところへとまりこむ始末だったの。あんたがはいってきたときのあたしの迎え方が、あの人には気に入らなかったのね、売女なんて呼びやがって……それからあとはご存じのとおりだわ。でもここへ来た以上、マントヴァに行くまでは、この宿屋へとまるつもりよ。マントヴァでは主役として出る契約がしてあるの。下男に今夜入用のものをみんな持ってきてくれるようにいったけど、あしたになったら、自分のものを全部運ばせ、二度とあのやくざ者には会わないつもりよ。よかったら、あなただけのものになりたいわ。ケルキラ島では、あんたは好きな人があったけど、ここではそんな人はいないといいと思うわ。ねえ、まだあたしを愛してくれているの」
「もちろんさ、かわいいマリーナ、とても愛してるよ。マントヴァへもいっしょに行こうと思っているんだよ。だがね、ぼくだけのものになってくれないといやだよ」
「きっとそうするわ、だから、あたしを幸福にしてね。あたし三百ゼッキーニ持っているのだけど、それをあんたにあげるわ、あんたの心をあたしのものにしたというしるしによ」
「金はいらないよ。きみからほしいものは、ただぼくを愛してくれるだけでいいんだよ。あしたの晩になったら、もっと落ちついて話ができるだろう」
「あした、あんたは決闘しなければならないかもしれないわね。でも、心配はいらないことよ。あたし、よく知ってるけど、あいつはとても意気地なしだから。あんたが行かなければならない気持はわかるけど、きっとはぐらかされると思うわ。そのほうがありがたいけど」
彼女はそれから兄のペトロニオと仲たがいをしたこと、チェチリアがジェノヴァで唄っていること、ベルリーノ・テレザはあいかわらずナポリにおり、公爵たちを破産させては金をためていることなどを話した。
「あたしだけがふしあわせなのよ」
「なんの、ふしあわせなことがあるものか。きみは美しくなり、すばらしい踊り子になったじゃないか。ただ、あんまり愛を惜しみなく与えないようにするのだね。そうしたら、きみを幸福にしてくれる男が見つかるよ」
「愛を惜しむなんて、そりゃむずかしいわ。だって、あたし、だれかが好きになると、すぐに身体をまかしてしまいたくなるんだもの。そして、好きな人がいないと、全然魅力のない女になってしまうのよ。あたしに五十ギニーくれた男はもうもどってこやしないわ。だから、あんたがほしいのよ」
「でも、ぼくは金持じゃないんだよ、きみ、それに、ぼくの名誉は……」
「お黙んなさい、なにもかもわかってるんだから」
「なぜきみは下男のかわりに小間使をつかわないんだね」
「そりゃ、そのとおりよ。そのほうが体裁はいいわね。けれど、あの下男はとてもよく世話をしてくれるし、堅い男なのよ」
「じゃあ、きみのひも……」
「ええ、でも、命令するのはこっちなの。あんな男ってふたりといないわ」
私はこの娘とたいへん楽しく一夜をすごした。朝になると、彼女の道具が残らずとどいた。それから、かなり陽気に昼食をとった。昼食のあと、マリーナは舞台へ出る化粧にとりかかった。私はそれを黙って見ていたが、三時になると、貴重品を全部ポケットへ入れ、辻馬車にポミの酪農場へ行けと命じた。そして、そこへ着くとすぐに馬車を返した。私は、方法はどうであれ、あのペテン師を足腰の立たないようにしてやる自信があった。もちろん、そんな評判のわるい男を相手に命を危険にさらすのはばかげたことだ、そんなやつにたいしては約束を破っても恥にならないということは、はっきりわかっていた。しかし、私は決闘したくてたまらなかった。理はすべてこちらにあるのだから、勝負はこっちのものだと思われた。ある踊り子のもとを訪ねた。貴族と自称するふてぶてしい男が彼女を売女と呼び、殺そうとさえした。私は彼女を彼から取りあげた。男はそれを黙って見ていたが、果し合いを申し込んできた。そこで、承諾した。もしも約束にそむいたら、世間へ向かって私を卑怯者だと宣伝する権利を与えることになる。
[にせ伯爵との決闘]
まだ四時にならなかったので、とあるカフェへはいって、好ましい顔つきをしたひとりのフランス人と話しはじめた。その男の話はおもしろかった。私はここである男を待っているが、その男がひとりできたら、こっちも体面上ひとりでいなければならない。だから、すまないが、その男が見えたら席をはずしてほしいと頼んだ。十五分たつと、にせ伯爵が友だちをひとり連れてやってきた。そこで、私はフランス人にそのままいてもらいたいと頼んだ。
彼は店へはいってきた。連れの男は筋骨たくましい男で、四十インチもある長剣を腰につるしていた。見るからに悪党のようすだった。私は立ちあがって、ならず者にいった。
「ひとりで来るという話だったじゃないか」
「おれはただ話をしにきたのだから、友だちを連れてきたって、どうということもあるまい」
「はじめからそうとわかっていたら、ぼくも遠慮することはなかったわけだ。とにかく、ここで騒ぎたてずに、だれにも見られないところへ行って話そう。ついてこいよ」
私はフランス人といっしょに外へ出た。フランス人はその辺の地理にあかるく、人のいない場所へ連れていった。そして、足をとめて、ゆっくりと話しながら来るふたりを待った。私は相手が十歩のところへくると、きさまも早く剣をぬけとどなりながら、剣をぬいた。フランス人も同時に剣をぬいた。
「ひとりにふたりがかりか」と、チェリがいった。
「友だちを帰らせろ。そうしたら、この人も帰らせる。しかし、きさまの友だちは剣を持っている。だから、ふたり対ふたりだ」
長剣をぶらさげた男はダンサーなんかと決闘はできないといった。私の助太刀《すけだち》はダンサーでも悪党よりはましだといい返し、相手に近づいて剣の平身でひとうちくわせた。私もチェリに同じ挨拶をしてやった。すると、チェリは仲間といっしょにうしろへさがり、ちょっとひとこと話したい、決闘はそのあとにしようといった。
「話せ」
「きみはおれを知っているが、おれはきみを知らぬ。名前を名のってくれ」
私は返事のかわりに、はげしく切りかかった。勇敢なダンサーも相手へしゃにむにいどみかかった。しかし、それは束の間のことであった。ふたりが一目散に逃げだしてしまったからだ。こうして、われわれの大活劇もあっけなく終りをつげた。勇敢なダンサーは人を待っていたので、私はひとりでミラノへもどったが、別れしなに、あつく感謝し、ポッツォ旅館にとまっているから、芝居がすんだら夕食に来てほしいといった。そして、旅館の帳場に行ってある名前を教えた。
旅館へもどると、マリーナは劇場へ出かけるところであったが、決闘の模様をきくと、これから小屋で会う人ごとに話してやるといった。しかし、彼女を非常に喜ばせたのは、私の助太刀が、もしもダンサーだというのがほんとうなら、マントヴァでいっしょに踊るはずのバレッティにちがいないと考えたからであった。
私は書類や宝石類を行李にもどすと、カフェへ行き、それからオペラ座へ行った。そして、平土間にはいると、バレッティがいた。彼は知合いの人々に私を指さして、道化た決闘物語を吹聴した。芝居がはねると、彼は私のそばへ来て、いっしょに旅館へ帰った。マリーナは自分の部屋にいたが、私の話し声をきくと、すぐにとびこんできた。バレッティがマリーナを見てびっくりしたようすは、まったくおかしかった。彼は近いうちにマリーナといっしょに踊る予定になっていたが、マリーナはまじめな踊りがどうしてもできなかったので、彼もそのために、なかば道化じみた踊りを踊る覚悟でいた。
テルプシコール(舞踏をつかさどるミューズ)の美しい弟子たちはいままで一度も同席したことがなかったので、食卓で互いに愛の宣戦を布告した。そのおかげで、夕食はとても楽しかった。というのも、相手も舞踊家であったので、愛の道にかけてはヴェテランのマリーナはほかの椋鳥《むくどり》どもを相手にするときの応対とはまったくちがった態度をとったからである。それに、マリーナは二度目のバレーに舞台へ立ったとき、チェリ伯爵の事件がもう平土間じゅうに知れわたっていて、割れるような拍手をうけたので、とくに上きげんであった。
ミラノでの興行は、もう十回も舞台に立てばよい程度であった。マリーナは打上げの翌日たつことにきめていたので、私もいっしょに出発することにした。それまで、私はバレッティに毎日昼食と夕食を食べに来るようにすすめた。私はこの青年にたいして非常につよい親しみを感じた。読者もいずれそれぞれの時と場合におわかりになるであろうが、この親しみはその後私の生涯におこったさまざまの事件の大部分に影響をもたらしたのであった。バレッティはその職業については豊かな才能をもっていたが、それは彼の長所のうちの最後のものにしかすぎなかった。彼は人格が高潔で、雅量もひろく、学問もあり、フランスで上流社会の男に与えうるすべての教育を身につけていた。
三日目ごろから、私はマリーナがバレッティに恋心を起こさせようと望んでいるのに気づいた。それがマントヴァへ行ってからどんなに役にたつかわかっていたので、私も彼女に力をかすことにした。マリーナは駅伝馬車の席をふたつとっていたが、バレッティをいっしょに連れていかせようと思い、きみにはいえない理由があって、マントヴァへいっしょに乗り込むわけにいかないというと、マリーナはわけなく納得した。というのも、彼女といっしょにマントヴァへ着くと、彼女といい仲になっていると人はいうだろうが、そう信じられると都合のわるい向きがあったのである。バレッティは私の提案に同意したが、馬車の費用の半分をどうしても払うといいはった。マリーナはそれを承知しなかった。私はこのマリーナの贈り物を受け取るようバレッティを説きふせるのに、ひどく骨をおった。彼のいい立てる理由がとてもりっぱだったからである。私は昼と夜の食事はいっしょにしようと約束していたので、その支度をするために、定めた日に、彼らより一時間まえに出発した。
[ある美しい婦人の才知]
その晩はクレモーナで夕食をとり、一泊するはずであったが、私はわりに早く着いた。旅館で待つのも退屈だったので、カフェへ行った。そこでひとりのフランスの士官と出会い、たちまち懇意になった。そして、近所をぶらついてみようと外へ出た。すると、一台の馬車が走ってきたが、馬車に乗っていた美しい婦人が彼の姿を見るとすぐに馬車をとめた。彼はそばへ行って、しばらく話しこんでいたが、話がすむと私のところへもどってきた。あの美しい婦人はどんな人だときくと、次のような話をした。これは、私の思い違いでなければ、ゆうに一個の物語として報告するに足りる話である。
「こんな話をすると、定めし口の軽いやつだとお考えになるでしょうが、そうは思わないでください。クレモーナじゅうに知れわたっていることなのですからね。いまごらんになった美しい婦人はまれに見る才気の持主で、まあ才気の見本とでもいいたい人なのです。リシュリュー元帥がジェノヴァで指揮をとっていたころ、数あるお取巻き連のひとりの若い士官が、彼女からとくに目をかけられていると吹聴してまわったのです。そして、ある日、さっきのカフェで、仲間のひとりに彼女のごきげんをとりむすぶために時間をつぶすのはむだだからよしたらいい、いくらあがいてもなんにもならないと忠告しました。すると相手は、そんな忠告は自分にしたらいい、おれはあの人からもう恋人としてほしいだけのことをしてもらっているのだからと答えました。はじめの若い士官はそれは嘘八百のおおぼらだ、外へ出ろといいました。すると、相手の口の軽い男が『これは決闘をしたってしようのないことだ。そのために斬り合いをするなんてばからしいよ。あの人はぼくに十分思いをとげさせてくれたんだからな。嘘だと思ったら、本人からじかにいわせてやるよ』といったのです。若い士官はこの言葉を信用できず、本人にそんなことをいわせられるはずはない、二十五ルイかけようといい返しました。幸福な恋人だと自称する男はこの賭けを承知し、ふたりはすぐにさっきの婦人のところへ出かけました。ふたりのうちで二十五ルイを手に入れるのはどっちか、婦人のひとことできまるわけです。
ふたりがはいっていったとき、婦人はお化粧の最中でした。
『これはまあ、どういう風の吹きまわしで、いまごろおそろいでいらしったのです』
信じられないといった男が口を切って、
『賭けですよ、奥さん。その裁きはあなたにつけていただかなければなりません。この男があなたから恋人として受けられる最高の恩寵をいただいたと自慢するので、ぼくは嘘だといいました。すると、この男は決闘をさけるために、嘘かほんとうか奥さまの口からじかにいっていただくといい出したのです。そこで、ぼくはそんなことをあなたが承知なさるはずがない、二十五ルイ賭けようといいますと、この男は承知したのです。ですから、奥さま、どうか結着をつけてください』
すると、婦人がこう答えました。
『それはあなたの負けですよ。けれど、おふたりともさっさとお帰りください。はっきりいっておきますけど、今後わたしどもへいらっしゃったら、ひどい目にあわせてあげますからね』
ふたりの粗忽者《そこつもの》はすっかり悄気《しょげ》かえって帰ってきました。嘘だといったほうが金をはらいましたが、非常に腹をたて、一週間後に賭けに勝った男へ決闘を申し込んで、みごとに一本まいり、ついに死なせてしまいました。それ以後、例の夫人はカジノでもどこでも出かけていきますが、自宅へはだれも寄せつけず、ご亭主とむつまじく暮らしていますよ」
「で、その亭主は事件をどう考えているのです」
「亭主はもしも細君が吹聴してまわったほうを賭けに勝たせたら、離婚しただろうといってましたよ。世間じゅうだれも疑うものがいなくなるでしょうからね」
「その亭主はなかなか頭がいいですね。自慢してまわった男が嘘をついていると奥さんがいったら、その男は金を払ったでしょうが、その後も薄笑いをしながらやっぱりおぼしめしにあずかったのだといいふらすにちがいありません。そうしたら、みんな信じてしまうでしょうからね。ところが、その男に勝たせることで、彼女はみごとにけりをつけて、不名誉になるような噂をぴたりととめてしまったというわけですね。ほらふきのほうは成行きから見ても二重のまちがいをおかしたことになります。命をかけたのですからね。しかし、それを疑ったほうもとんでもないやつですね。いやしくもまともな人間なら、そんなことを賭けの種にはしませんからね。イエスと賭けたやつは恥知らずだし、ノーと賭けたやつはうつけ者ですよ。あの夫人の頓智《とんち》はなかなかたいしたものですな」
「だが、あの夫人をどう考えますね」
「ぼくは潔白だと思いますね」
「ぼくもそう思いますよ。それがみんなの意見なのです。あしたもこの町にいらっしゃるなら、カジノへお連れして、あの夫人にご紹介しましょう」
私はその士官を夕食に呼んだ。彼はわれわれを楽しませてくれた。彼が帰ってしまうと、マリーナは非常に気のきいた手配をして私を喜ばせた。私といっしょにねたら、尊敬すべき同僚の気にさわると考え、自分だけの部屋をとったのである。マリーナは、私がマントヴァではあまり出会わないようにしようといったので、興行主のきめた町の旅館へ宿をとった。バレッティもその旅館にとまることにした。私の旅館はサン・マルコ街のポスタ旅館であった。
[マントヴァの警備隊で]
その日、かなりおそく、マントヴァの町の外へ散歩に行き、新しい本があるかと思って本屋の店にはいった。そのうち急に日が暮れたが、私がなかなか出ていこうとしなかったので、本屋の主人は店を閉めたいからと催促した。そこで、外へ出たが、アーケードの端まで行くと、パトロールの一隊につかまった。士官はイタリア時間で二時(午後八時ごろ)をすぎたし、提灯も持っていないから、警備隊へ連行しなければならないといった。私はきょう来たばかりで、この町の規則を知らなかったと申し立てたが、聞き入れられなかった。彼はわしの義務はきみを逮捕することだといい張った。そこで、おとなしく連行されていった。士官は私を隊長に引き渡した。隊長は美男の大柄な青年だったが、私を見ると、にこにこと上きげんに応対した。私は眠りたいから旅館へ帰してほしいと頼んだが、彼は楽しい仲間たちと愉快な一夜をすごさせてやりたいと答え、きみを友人として扱うほかに他意はないからと、私に剣を返させた。
そして、ドイツ語で兵士に二つ三つ命令した。一時間もすると、テーブルに四人分の食器がならび、ふたりの士官がやって来て、一同快活に夕食をはじめた。デザートになると、さらに三、四人の士官が集まり、それから十五分ばかりすると、胸のわるくなるような娼婦がふたりやってきた。私の注意をひいたのは、ひとりの士官がはじめたファラオの博打であった。私も人にならって賭けてみた。そして何ゼッキーニかすったあとで、少し飲みすぎたので、少し風にあたろうと思って立ちあがった。すると、売女のひとりがからみついてきて、つべこべときげんをとり、とうとうお互いに玩具にしたりされたりしてしまった。このきたない手柄のあとで、私は博打場へもどった。
十五ないし二十デュカすった若い愛嬌のよい士官が、擲弾兵《てきだんへい》のようにわめきちらしていた。銀行になった男が金を集めて出ていってしまったからである。彼は前に山ほどの金貨を積みあげていて、銀行はこれが最後の勝負だとことわるべきだったといきまいた。私はファラオは博打のうちでもっとも自由な博打だから、それはまちがいですと、丁寧《ていねい》にいった。そして、そんなに金をもっているなら、どうして自分で銀行をやらないのかときいた。彼はここに集まった紳士たちはちいちいした賭け方しかしないから銀行は退屈だと答えた。そして、もしもやりたければ、自分で銀行をやったらいいといった。そこで警備隊の隊長に四分の一だけのらないかときくと、同意したので、私は一同に勝負は六回にかぎることにするといい渡した。そして、新しいカードを取りよせ、三百ゼッキーニの金をかぞえて前へならべた。隊長は一枚の札のうらに「百ゼッキーニのかわりに、オネイラン」と書いて、私の金貨の上へおいた。
若い士官はすっかり喜んで、きみの銀行は六回目までもたないかもしれないと冗談をいった。私はなんとも答えなかった。
四回目の勝負で、私の銀行は四苦八苦のていたらくだった。若い士官は手をたたいて喜んだ。だが、私はぼくは負けるのが嬉しいんだ、きみは勝つといっそう愛嬌がよくなるからといって、少し彼を驚かした。人にお世辞をいうと、いわれたものに不運をもたらすことがある。私のお世辞は彼の頭を狂わせてしまった。それで、五回目には、彼はどの札も裏目に出て、もうけた金を残らず吐きだしてしまった。そして、六回目には、むり押しにかかってきて、前に置いてあった金貨を根こそぎなくしてしまった。彼は翌日復讐戦をしようと申し込んだが、私は拘留でもされないかぎり博打はやらないと答えた。
金を数えてみると、オネイラン大尉に四分の一払っても二百五十ゼッキーニもうかっていた。大尉は保証にたってやったロレンツォという士官が五十ゼッキーニ負けたので、その埋合せをした。夜明けに、彼は私を釈放した。
私は旅館へ帰ってねた。目がさめると、私の博打で五十デュカすったロレンツォ大尉が前に立っていた。借金を返しに来たのだと思い、金はオネイラン氏に返すべきだといった。彼はそれは承知しているが、証文を出すから六ゼッキーニ貸してほしい、一週間たったら返すからと頼んだ。私は承知して、金を渡した。彼は証文を書き、だれにもしゃべってくれるなといった。私は固く他言しない約束をし、そのかわり証文の約束もまもってほしいと答えた。
翌日、私はサン・ピエトロ広場の大警備隊で売女とすごした十五分の結果として病気になっているのに気がついた。病気は硝石の煎《せん》じ汁だけのんで、六週間でなおしたが、そのあいだ固く節制をまもらなければならなかったので、とても退屈した。
四日目に、オネイラン大尉が訪ねてきた。大警備隊へ呼んだ娘のひとりが私にくわえた災難の話をすると、彼はげらげら笑いだして私を驚かした。
「では、マントヴァに来たときは丈夫だったのですね」
「すこぶる元気でしたよ」
「きみがこのきたない土地へ来て病気をしょったとは残念ですな。そうと知ったら、まえに知らせておくべきでしたよ」
「あんたは知っていたのですか」
「わしも知っているべきだったんですよ。あの娘とばかなまねをしたのは、まだ一週間まえなのだが、そのときはあの娘は病気ではなかったと思いますからな」
「してみると、あの娘からもらった贈り物は、あんたからちょうだいしたわけなのですな」
「なあに、そんな病気はなんでもありませんよ。それに、なおりたいと思えば、すぐなおるのですからね」
「あんたはなおりたくないのですか」
「もちろんです。養生をするのが死ぬほど退屈ですからね。さらにまた、なおしたってなんになります。なおったと思うとすぐにかかるのですからね。わしはいままでに十回も辛抱しましたよ。だが、二年このかた、すっかりあきらめてしまったのです」
「それは気の毒ですね。なぜなら、あんたのような人品骨柄のりっぱな人は、恋愛においても大きな幸運にめぐまれるはずですからね」
「そりゃどうでもいいですよ。そんな幸運にありつくための苦労は、いま我慢している軽い病気よりもずっと重荷ですからね」
「ぼくはあなたのようには考えませんね。愛情のない快楽は無意味ですよ。あの小ぎたない売女がいまぼくの苦しんでいる苦痛に値すると思いますか」
「だから、お気の毒だといっているのですよ。そうした苦痛に値する女を紹介すべきでしたよ」
「いや、健康と引きかえにできる女なんか、この世界にいやしませんよ。健康をささげられるのは愛情だけですよ」
「では、きみは心からうちこめる女をもとめているのですね。この町にもそういう女は何人かいますよ。まあ、ここに腰を落ちつけることですな、そして、病気がなおったら、要塞撃破をやってみるといいですよ」
オネイランは二十三歳。父親は将軍になって死んだ。美しいボルサティ伯爵夫人は彼の妹であった。彼はザナルディ・ネルリ伯爵夫人というまだ美しい女に引きあわせたが、私はだれにも白羽の矢をたてなかった。病気のために卑屈になっていたのだが、自分の病気はだれ知らぬものがないように思われてならなかったのであった。
オネイランほど道楽に打ちこんでいる青年は見たことがない。彼といっしょに毎晩悪所をうろつきまわったが、その仕打ちはますます私を驚かした。もしも目ざした相手をだれか町人がかかえこんでいると、早く済ませろと命令したが、それでもぐずぐず待たせると、下男に棒でなぐらせた。その下男はそういう仕事をするために給料をもらっていたのであった。彼が主人に仕える態度は、まるで殺し屋の手先が親方の殺そうとする男を打ちのめすのと同じであった。しかし、そういうふうに虐待される気の毒な遊冶郎《ゆうやろう》は私に憐れみよりも滑稽味を感じさせて、思わず笑いだしてしまった。大尉はこういう成敗をすると、こんどは売女を罰するために、人間としての本質的な行為の神聖をけがすような振舞いをした。しかも、そのあげく、女が泣くのをせせら笑いながら、金も払わずに引きあげていった。
それにもかかわらず、オネイランは気品があり、鷹揚《おうよう》で、勇敢で、非常に名誉を重んじる男であった。
私は彼にきいてみた。
「なぜああいう哀れな女たちに金を払わないのです」
「やつらをみんな餓死させてやりたいからですよ」
「しかし、あんたがやつらにしてやることは、かえってやつらを愛してると思わせるにちがいありませんよ。あなたのような美男子はやつらを喜ばせることでしょうからね」
「喜ばせる? わしはそんなことは夢にも考えませんよ。まあこの指輪を見てください。小さな拍車がついているでしょう」
「ええ、これをなんにつかうのです」
「これをはめて、やつらをきりきり舞いさせるのですよ。さだめしくすぐったいことでしょうな」
ある日彼はひどく興奮して、町のなかでがむしゃらに馬を走らせた。道を横切ろうとしていた老婆がよけそこなって蹴倒され、頭を割られて死んだ。彼は逮捕されたが、それは偶然の椿事《ちんじ》だったと証明して、翌日釈放された。
[父の愛人の抱擁]
われわれはある朝、ある夫人を訪ねたが、夫人はまだねていたので、かなり待たされた。彼はクラヴサンの上に十二個の棗椰子《なつめやし》の実がおいてあるのを見つけ、それをみんな食べてしまった。やがて夫人がはいってきて、女中に棗椰子の実をどこへやったかときいた。オネイランが食べてしまったと答えると、夫人は腹をたてて叱りつけた。彼は返してもらいたいかときいた。夫人はポケットにでもかくしてあるのだろうと思って、返してほしいと答えた。すると、あの無作法者は、口を妙にうごかしたかと思うと、すぐさま夫人の前へ棗椰子をげろげろと吐きだした。夫人は驚いて逃げだした。やくざ者はげらげら笑うばかりであった。こういう妙技をもっているものは、主としてイギリスで何人か見たことがある。
六ゼッキーニの証文をよこした士官は一週間たっても金を返しに来なかった。そこで、往来で出会ったとき、もう秘密をまもる約束にしばられる必要はないと思うといってやった。
すると「そんなことはどうでもいい」と無愛想に答えた。
この返事はひどい侮辱だと思ったので、この仕返しをしてやろうと方法を考えていた。その時分、オネイランが世間話のついでに、ロレンツォ大尉が発狂して、もうすでに監禁されたといった。彼はその後なおったが、素行がおさまらなかったので、ついに免職されてしまった。
オネイラン、あの勇敢なオネイランは数年後にプラハの戦闘で戦死した。彼のような男はヴィーナスかマルスの犠牲として死ぬよりしかたのない人間であった。彼がもし狐のような悪がしこい勇気を持っていたら、まだ生きているであろうが、彼の勇気はライオンの勇気であった。これは兵士としては美徳だが、士官としては欠点になる。危険を知って危険に立ち向かうものは称賛に値するが、危険を知らずに向かっていくものが危険をまぬがれるのは奇跡であって、自分の力量によるのではない。しかし、そうした偉大な戦士は尊敬しなければならない。なぜなら、彼らの不屈|不撓《ふとう》の勇気は魂と志操《しそう》の偉大さから来るもので、これは彼らを人間以上のものにするからである。
私はシャルル・ド・リーニュ〔オーストリアの陸軍元帥で外交官〕公のことを思うと、そのたびに涙が流れる。彼の勇気はアキレスの勇気であったが、アキレスは不死身になる道を知っていた。公も戦闘の際に命はかなき人間であることを思いだす余裕があったらいまもなお生きていられるであろう。彼を知って、彼の死に泣かないものはどういう人間であろう。彼は美男子で、心やさしく、礼儀正しく、教養がふかく、芸術を愛し、快活で、話が楽しく、きげんにむらがなかった。革命は不吉な呪うべきものだ! 一発の砲弾が彼を著名な家庭や友人や未来の光栄から奪い去ってしまった。
ワルデック公もあまりの大胆さのために左腕を失ってしまった。しかし、腕を一本失っても一軍を統率する妨げにならないのを喜びとしているそうである。おお、生命を軽んずるかたがたよ、答えていただきたい。諸公は生命を軽蔑することにより、かえって生命をさらにりっぱなものにすると信じているのであろうか。
オペラは復活祭のすぐあとではじまった。私は毎日かかさず見にいった。病気はすっかりなおった。バレッティが相手役のマリーナの演技を光らせているのを見て嬉しかった。彼女の家へは全然行かなかったが、向うからほとんど毎朝朝食に来た。彼女がよく父親の親友であったという古い女優の人柄の話をするので、その人と会ってみたくなった。
老女優が目のまえにあらわれたとき、その衣装と人柄はともに私を驚かした。顔が皺だらけなのに、白と赤の服を身につけ、眉を黒く塗っていた。だぶだぶした胸を半分まで見せていたが、昔の形を想像させるだけに、なお不愉快であった。上下の入れ歯は見るからにつくり物という印象を与えた。髪は鬘をかぶっただけで、なんの飾りもなかったが、鬘は額やこめかみへうまく合っていなかった。手がふるえて、握手をしたとき、こっちの手までふるえるくらいであった。身体はもちろん、部屋じゅうに竜涎香《りゅうぜんこう》の匂いをさせていた。妙なつくり笑いをして、私に好感をもったことを見せつけようとしたが、私はおかしくて吹きだしそうになるのをこらえかねて、とても骨がおれた。身につけている装飾品は非常に凝《こ》ったものであったが、いずれも二十年まえの流行であった。彼女の顔は時の力にいためつけられるまえには、何人も恋人をつくったにちがいないと思われたが、その顔をつつむいまわしい老衰の跡を、私はおそろしい気持でながめた。が、とくに私を狼狽させたのは、その老衰をはねのけて、幻の魅力をひけらかそうとする、子どもじみたあつかましさであった。
バレッティは私の驚きが彼女の気にさわりはしまいかと心配し、この男がうっとりしているのは、あなたがお年をめしても、お胸にかがやいている苺《いちご》が少しもくもっていないからなのですといった。苺といったのは苺の形をした母斑であった。
老女優はにこにこしながら答えた。
「この苺なのですよ、わたくしに名前をつけてくれたのは。わたくしはいまでも、またいつまでもラ・フラゴレッタ(いちご)ですわ」
この名をきいて、私は身ぶるいをした。
私の出生の原因となった宿命の幻を目のまえに見たのである。この老婆こそ、当時三十歳であった私の父を誘惑した人であった。この人がいなかったら、父も父祖の家から出奔しなかったろうし、ヴェネチアへ流れていって、その土地の女に私をうませることもなかったであろう。≪人生がいかなる価値をもつか知ったらなんびとも生を欲するものはないであろう≫(セネカ)といった古人の言葉を、そのときほど真実だと思ったことはない。
私がぼんやりしているのを見て、彼女は丁重な言葉で私の姓名をバレッティにきいた。そして、カザノヴァの名を耳にしたとき、非常に驚いたようすであったので、
「そうなのです、奥さま、私の父はガエターノと申し、パルマの出身でございました」と私はいった。
「まあ、思いもかけないお話ですわ! まるで夢のようですわ! わたくしはあなたのお父さまを心からお愛ししましたのよ。それなのに、お父さまはつまらない嫉妬心をおこして、わたくしを棄てておしまいになりました。そんなことさえなかったら、あなたはわたくしの息子だったでしょうにねえ。さあ、接吻させてちょうだい、お母さまとしてね」
私はこの言葉を待っていた。彼女が倒れるといけないと思い、前へ進みでて、彼女の若かりし日の恋の思い出に身をまかせた。彼女は年をとってもやはり役者で、ハンケチを出して涙をふくふりをし、わたしは見たところあまり年寄には思われないかもしれませんが、いま申したことをお疑いにならないでねといった。
「あなたのお父さまのただひとつの欠点は恩知らずだったことですよ」と、彼女はさらにつけくわえた。
おそらくその息子についても、彼女は同じ判断をくだしただろう。親切に勧められたにもかかわらず、二度と彼女の家へ足を運ばなかったからである。
財布には金貨がいっぱいはいっていたので、私はマントヴァを去り、いとしいテレザに会いに行こうと決心した。ドンナ・ルクレチア、パロ父子、ドン・アントニオ・カザノヴァ、そのほかの古い知合いもなつかしかった。しかし、この計画は守護神のお気にめさなかった。もしもオペラを見にいきたくならなかったら、三日後には出発しているはずであったのだが。
マントヴァですごした二か月間、私は最初の日の無分別の結果として、ごく堅気に暮らしていたということができる。博打もあのときにやってもうけたきりで、二度とやらなかった。思わぬ病気にかかって、もっぱら養生に精をだし、治療に専念してきたが、そんなことがなかったら、おそらくいろいろの災難をまぬがれなかったかもしれない。
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第二十一章
[聖ペテロの短剣]
一七四八年。オペラで、ひとりの若い男が声をかけてきて、きみは外国人で二か月もマントヴァにいるのに、ぼくの父の博物陳列室を見に来ないのはまちがっている。父は教議会の役員で会長をつとめているアントニオ・デ・カピターニというものだといった。
「そういう失礼をしましたのも、全然知らなかったからです。もしもサン・マルコ街の旅館へ誘いに来てくださるだけのご親切があったら、あやまちをつぐない、お咎《とが》めを詫《わ》びることができるのですが」と、私は答えた。
その教議会役員の息子は私を迎えに来、私は並みはずれた変り者の父親に引き合わされた。陳列室にならべてある品々は、彼の家の系図、魔法の書、聖者たちの遺物、太古の貨幣、ノアの方舟《はこぶね》の模型、数個の賞牌《しょうはい》、そのひとつはセゾストリス〔第十二王朝の三人の古代エジプト王〕、ほかはセミラミス〔伝説上のアッシリア女王〕のものであった。それから、すっかり錆《さび》にくわれた道化た形の古代の短剣などであった。鍵をかけてある棚にはフリーメーソン団のいろいろの道具があった。
私は彼にきいた。
「ここにお集めになった品々と博物学とは、どういう関係があるのでしょう。動・植・鉱の三つの界に属するものは、なにも見あたりませんが」
「では、ノアの洪水以前とセゾストリスとセミラミスの三つの時代が目にはいらないのですか。これも三つの界じゃありませんか」
この返事に私は感嘆のさけびをあげながら、彼に接吻した。それは皮肉なちゃめっけからだったが、彼はそれを称賛だと思いちがいした。そして、自分の所持するすべての珍品について博識を披瀝し、最後に、この錆びくさった短剣は聖ペテロがマルクの耳を切ったときに用いたものだといった。
「あなたはこんな短剣をお持ちになりながら、どうして大金持にならないのですか」
「この短剣の功徳《くどく》で、どうして大金持になれるのです」
「それにはふたつの方法があります。第一はキリスト教会に所属するすべての土地にかくれている財宝を手に入れるのです」
「なるほど、それも当然ですな。聖ペテロはそういう財宝の鍵を持っていますからな」
「ありがたいことですよ。第二はこの短剣が本物であることを証明する証書をお持ちなら、法王自身に売りつけるのです」
「あなたは証明書のことをいっていらっしゃるのですね。それがなければ、いくらわしでも買いやしませんよ。一式そろっております」
「それはけっこうです。法王は、これを手に入れるために、きっと息子さんを枢機卿にしますよ。しかし、鞘《さや》もほしがるでしょうな」
「鞘は持っていません。だが、鞘なんかいりませんよ。場合によっては、つくらせてもいいです」
「いや、神が≪剣を鞘におさめよ≫(ヨハネ伝)とおっしゃったときに、聖ペテロが自分で剣をおさめた鞘がなければだめです。その鞘は現に残っていて、ある者の手にあるのです。そのものは、あなたのほうで剣をお売りになる気がなければ、きっと安く手放しますよ。なぜなら、剣のない鞘は鞘のない剣と同様に無意味ですからね」
「その鞘はいくらぐらいでしょう」
「千ゼッキーニ」
「もしも剣を売ろうといったら、いくら出すでしょう」
「やはり千ゼッキーニです」
教議会の役員は驚いて息子を見た。そして、こんな古い剣に千ゼッキーニも出すなんて、思ってみたことがあるかときいた。こういいながら、彼は引出しをあけ、ヘブライ語で書いた反古紙《ほごがみ》をひろげてみせた。それには短刀の絵が書いてあった。私は感に耐えたふりをしてみせ、鞘を買うようにすすめた。彼は私にいった。
「いや、わしが鞘を買ったり、あなたのお友だちが剣を買ったりする必要はありませんよ。財宝を半分ずつ掘りだせばいいのですからね」
「とんでもない。法王は≪鞘におさめよ≫の剣の持主はたったひとりであることを要求しています。法王がこの剣をお持ちになったら、なにしろ魔法をご存じなのは私も知っていますから、その魔法で、教会の権利を踏みにじろうとする、あらゆるキリスト教団の王さまの耳を切りおとすでしょうよ」
「それはおもしろいですな。そういえぱ、福音書《ふくいんしょ》には、聖ペテロがだれかの耳を切ったと書いてありましたっけ」
「王さまの耳ですよ」
「王さまではありません」
「王さまですよ」と私はいい返した。「マルクあるいはメレクというのが王を意味しないかどうか、調べてごらんなさい」
「もしもわしがこの剣を売ることにしたら、だれが千ゼッキーニ出してくれるのです」
「わたしが出します。あした、現金で五百ゼッキーニ、あとの五百ゼッキーニは向う一か月の手形で払います」
「それはいい話ですな。あしたもう一度来てください。マカロニでもいっしょに食べながら、ごく内密にある大事業の話をしましょう」
私はその招待を承諾し、このわるふざけをおしすすめてみようときめて別れをつげた。
翌日出かけていくと、彼は私の顔を見るなり、わしは法王領の財宝のありかを知っているから、それに必要な鞘を買うことにしたといった。私は彼が私の言葉をそのまま受け取りはしないだろうと見当をつけ、ポケットから財布を引き出して、五百ゼッキーニの金を見せた。しかし、彼は財宝は何百万の値うちだからとことわった。われわれは食卓にむかった。
「銀の大皿でおもてなしをするわけにはまいりませんが、これはラファエロの皿です」
「会長さん、あなたはまったくすばらしい殿さまでいらっしゃいますね。これは銀の大皿よりもすばらしいですよ。ばか者だったら、これをただの瀬戸物だと思うでしょうがね」
彼は食事のあとでこんな話をはじめた。
「法王領のなかに、ある非常に裕福な男がいるのです。その男は別荘をもっていて、そこに家族といっしょに住んでいますが、自分の家の穴蔵に財宝がかくしてあると確信しております。その男が伜《せがれ》に手紙をよこしまして、財宝を掘りだすことのできるじょうずな魔法使いをさがしてくれたら、発掘の費用はいくらでも出すといってきたのです」
息子がポケットから手紙を出し、秘密をまもる約束をしたので、全部読ませるわけにはいかないとことわって、いくつかの部分を読んできかせた。しかし、私は手紙を出したチェゼーナという町の名を、彼の気づかぬうちに見てしまっていた。私にはそれだけで十分だった。
教議会の役員がつづけていった。
「わしはいま現金がないので、その鞘を信用で売ってもらうよりほかありません。わしの手形を引き受けても、固定資産がありますから、けっして危険はありません。もしも魔法使いをご存じなら、その魔法使いと半分わけになさってもけっこうですよ」
「魔法使いはちゃんときていますよ。わたしなんですからね。しかし、まず五百ゼッキーニ払っていただかないぶんには、なにもはじめられませんよ」
「だが、わしには金がないのです」
「それでは、剣を売りなさい」
「だめです」
「そりゃまちがっていますよ。わたしは短剣を見てしまった以上、かってにあなたから取り上げることができるのですからね。しかし、人間が正直にできていますから、そういう悪戯《いたずら》はしませんよ」
「かってにわしの短剣を取り上げることができるのですって? それはぜひやってみせてもらいたいですね。とても信じられませんから」
「信じられないのですって? よろしい。あしたになると、短剣はなくなっているでしょう。しかし、返してもらえると思わないでください。わたしの命令どおり動く天地の精霊がきょうの夜半に短剣をわたしの部屋へ持ってきて、同時に財産のありかを教えるでしょう」
「では、その精霊のいうとおりにしてみなさい。そうしたら、わしも納得するでしょうからね」
そこで、私はペンとインクを求め、彼らの見ている前で託宣にきいてみた。そして、財宝はルビコン河のわきのある町の外にあると答えさせた。彼らはルビコン河を知らなかったので、昔は大河だった渓流だと教えた。彼らは辞書をしらべて、それがチェゼーナだとわかると、あっけにとられて茫然《ぼうぜん》としてしまった。私は彼らに途方もない臆測をするひまを与えるために、その場を立ち去った。
[魔法使いになりすます]
哀れなうすばかどもから五百ゼッキーニまきあげる気は全然なかったが、自分の家の穴蔵に財宝が埋まっていると信じている、もうひとりのチェゼーナのうすばかのところへあの青年といっしょに行って、彼らの費用で財宝の発掘をやり、金を出さずに大笑いをしてみたくてたまらなくなった。
そこで、お人好しの好事家の家から出ると、すぐに図書館へ行き、辞書と首っぴきで、次のような愚にもつかない博引旁証《はくいんぼうしょう》の文章をでっちあげた。
「問題の財宝は六世紀以前から十七トワーズ半(三十四メートル)の地下に埋まっている。その価値は二百万ゼッキーニ、一個の箱におさめられている。一〇八一年、ゴッドフロワ・ド・ブイヨンが神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ四世を助けて、トスカナの伯爵夫人マティルダと戦ったとき、この夫人から強奪したものである。彼はローマの攻撃におもむくまえに、この箱を現在の場所へ埋めていった。法王グレゴリオ七世は偉大な魔法使いであったので、この箱の埋められた場所を知り、みずから発掘に行く決心をしたが、この計画は死によってさえぎられた。マティルダ伯爵夫人の死後、一一一六年、埋葬されたすべての財宝の管理をつかさどる精霊がこの財宝に七名の護衛の精霊をつけた。満月の夜、ある博学な哲学者が、魔法の輪のなかに身をおいて、この財宝を地表へ引き上げることができるであろう」
翌日、予期していたように、父親と息子が私の部屋へはいってきた。私は彼らにきのうつくった財宝の記録を渡した。そして、彼らが目をまるくして驚くのをながめながら、私は財宝の発掘に行く決心をしたが、もしも鞘を買うなら財宝の四分の一を与えるといった。そして、鞘を買うのがいやなら剣を取り上げると、きのうの脅迫をくりかえした。教議会役員は鞘を見せてくれたら買うことにするといったので、あしたお目にかけると引き受けた。彼らはおおいに満足して帰っていった。
例のこぎたない短剣に似合いの鞘をつくるにはごく珍妙な思いつきとぶざまな恰好《かっこう》とを組みあわせなければならない。短剣の形は頭のなかにあった。そこで、短剣にぴったりあう、なにかとっぴょうしもないものをでっちあげようと頭をひねった。だが、そのうちに、中庭のすみに古靴がころがっているのに目をつけた。馬乗りの長靴の片方であった。そこで決心がきまった。
私はその古靴をひろってきて、底をはいで煮たて、剣がぴったりはまるような口をつけた。それから靴の底だと見やぶられないようにあちこちけずり、軽石と黄土と砂でこすって、いかにももっともらしい古代ふうに仕上げた。じつに奇妙奇天烈なしろもので、吹きださずにいられなかった。
翌日訪ねていって、剣を鞘におさめてみせると、ぴったりはまったので、教議会役員は唖然《あぜん》としてしまった。われわれはいっしょに昼食をとり、食後、次のような契約をきめた。すなわち、私が息子といっしょに出かけて、財宝の持主に紹介してもらうこと、息子名儀でボローニャ宛てに振りだしたローマの千エキュの約束手形を私に渡すこと、しかし、その手形は財宝を掘りだしてからでなければ私の名儀にできないこと、鞘におさめた剣は魔術を行なうのに必要になるまで私に渡さず、息子がつねにポケットへしまっておくことなどであった。
われわれはこうした条件を互いに承諾すると、それを書いた書類を交換して、誓約のしるしとした。そして、翌々日出発ときめた。出発にあたって、父親は息子に祝福を与え、同時に自分は宮中伯、だといい、当時の法王から下付された証書を見せた。私は彼を伯爵と呼んで接吻し、約束手形を受け取った。
それから、アルコナティ伯の愛妾となったマリーナに別れをつげ、またバレッティと惜別の挨拶をかわした。彼とは翌年ヴェネチアで再会するはずになっていた。それから、オネイランと夕食を食べに行った。
翌朝、私は船に乗りこみ、まずフェラーラへ行き、そこから陸路ボローニャを経てチェゼーナへ行った。チェゼーナでは、ポスタ旅館へひとまず宿をとった。到着の翌日、朝早く起きて、ジォルジォ・フランツィアの家を訪ねた。これは目ざす財宝の持主だが、裕福な百姓で、町から四分の一マイルのところに住んでいた。彼は思いがけぬわれわれの来訪を喜び、旧知のカピターニを抱きしめた。そして、私を家族とともに残し、事業の話をするために、カピターニと連れだって外へ出ていった。
私は観察者の目をはたらかせて、すべての家族をながめたが、すぐに白羽の矢をたて、これこそ私の財宝だとみとめたのは、その男の長女であった。妹は醜く、弟はとんまな顔をしていた。女房はいかにもおかみさん然としていた。そのほかに三、四人の女中が家のなかを行ったり来たりしていた。
まず私の気に入った長女は、チェゼーナの百姓の娘はほとんどみんなそうだが、ジェノヴェッファという名前であった。名前をきくと、私はすぐにきみは十八ぐらいにちがいないといった。すると、彼女は少しおかんむりのていで、まじめそうに、それは大まちがいで、あたしはまだ十四ですと答えた。
「それは嬉しいね、かわいいお嬢さん」
これで彼女のごきげんがなおった。家の構えはなかなかりっぱで、まわり四百歩ほどは人家がなかった。私はここなら居心地がよかろうと考えて嬉しかった。ただどこからかいやな匂いが吹きだしてきて、あたりがとても臭いのに閉口した。フランツィアの女房に、この匂いはどこからくるのかときくと、水につけてある大麻の匂いだということであった。
「その大麻はいくらぐらいするのかね」
「四十エキュです」
「よし、じゃあ四十エキュあげる。わしが買いとることにする。旦那に頼んですぐにほかへ持っていってもらうことにしよう」
カピターニが呼んだので、おりていった。フランツィアは偉大な魔術師にたいするように、うやうやしく私に敬意を表した。私はそんな恰好はしていなかったのだが、カピターニに吹きこまれたのだろう。
それから財宝の分配について協議し、四分の一をフランツィア、他の四分の一をカピターニ、残りの四分の二を私が取ることに意見が一致した。ごらんのように、聖ペテロの権利については三人ともほとんど関心をもたなかった。
私はフランツィアに、私の専用としてベッドのふたつついた部屋と浴槽のある控えの間を用意してほしいといった。また、カピターニには反対側の部屋をあてがうこと、さらに私の部屋に大きいテーブルをひとつと小さいテーブルをふたつ、合計三つのテーブルを置くこと、それから、十四歳から十八歳の生娘のお針子をひとり見つけることなどを命じた。そして、その娘はもちろん、召使たちにも固く秘密をまもらせろ、宗教裁判所にかぎつけられると、いっさい水の泡になるのだからといいふくめた。
それから、さらにこう命じた。
「この家へはあしたからとまることにしよう、食事は一日に二回、酒はサン・ジョヴェーゼしか飲まない、朝食は自分のショコラを用意してきた。もしもこの仕事に失敗したら、かかっただけの費用はわしが払う。大麻は、とてもくさいから、その臭気がわしの呼びおろす精霊たちに不快な思いをさせぬように、すぐに遠くへ運びだし、きょうじゅうに煙硝で部屋のなかを清めること。それから、あした確かな男をさがして、わしらの荷物を旅館から運ばせること、つねにこの家に蝋燭《ろうそく》を百丁と松明《たいまつ》を三本用意し、命令したらすぐ使えるようにしておけ」と、いった。
[財宝があるはずの家で]
こう命令すると、私はフランツィアと別れ、カピターニとともにチェゼーナへもどった。しかし、百歩と行かないうちに、フランツィアがうしろから追いかけてきた。
「旦那さま、大麻の代金として女房にお渡しになった四十エキュをお返しします」
「それはいかん、きみによけいな損害はかけたくない」
「どうぞおとりください。大麻はきょうじゅうに四十エキュでらくにほかへ売れるのですから」
「そうか、それなら、きみの言葉を信用して受け取ろう」
私のこうした態度を見て、彼は私にたいし非常な尊敬をいだいたが、旅行の費用として百スカンの金を差し出したとき、カピターニのすすめにもかかわらず、私が断固として辞退したので、その尊敬はさらに大きくなった。まもなく莫大な財宝を手に入れようというとき、こんな目くされ金にこだわる必要はないというと、彼は非常に喜んだ。
翌日、われわれは荷物を全部取り寄せ、フランツィアの家へのびのびとおさまった。
昼食がえらく盛りだくさんだったので、私はもっと倹約しなければいかん、夕食は新しい魚にしようといった。彼はいわれたとおりにした。夕食のあとで、彼がやってきて、ご注文の生娘については、女房と相談したが、娘のジェノヴェッファなら安心してお使いになれるといった。
「よろしい。それでは、そうしよう。だが、どういうわけで、きみの家に財宝があると信じているのだか、話してもらいたいね」と、私はきいた。すると、彼はこう答えた。
「第一に、父から子へ八代まえからいい伝えてきたのです。次に、毎晩、地面の下で、ひと晩じゅう、どしんどしんと大きな音がするし、第三に穴蔵の扉が三、四分おきに、ひとりでに開いたり閉まったりするのです。これはたしかに守護の精霊の仕業《しわざ》です。この精霊は毎晩ピラミッド形の焔になって近所の野原を歩きまわっておりますので」
「そのとおりなら、きみのところに財宝があるのは、二たす二が四になるようにあきらかだ。その開いたり閉まったりする扉には、金輪際《こんりんざい》鍵をかけてはならん。もしも鍵をかけたら、地震がおこって、この一郭をめちゃめちゃにぶちこわしてしまうだろう。精霊たちは用たしに行くために、出入りを自由にしてもらいたいのだからな。いらざるじゃまをしたら、なんでもこわしてしまうだろう」
「これは驚きましたな。四十年まえにおやじの呼んだ学者も同じことをいいましたよ。あのえらい学者はもう三日かかれば宝を掘り出せるところだったのですが、宗教裁判所がつかまえにくるという話をおやじが聞いてきて、逃げてもらったのです。魔法がどうして宗教裁判所にかなわないのか、お願いですから、そのわけをおしえてください」
「僧侶たちがわれわれよりもずっと多くの鬼を手下につけているからさ。きみのおやじさんはその学者にだいぶ金をつかったのだろうな」
「二千エキュぐらいだと思います」
「いや、もっとかかったにちがいない」
私は父と娘についてこいといった。そして、魔法らしいものを見せるために、タオルを水でぬらし、何語ともわからないでたらめな呪文をとなえながら、ふたりの目やこめかみや胸を洗った。まずおやじのひげづらからはじめないと、ジェノヴェッファがいうことをきくまいと思ったからである。それから、ポケットから紙入れを出し、それに向かって、不浄の病いにかかっていないことを誓わせ、また娘には処女であることを誓わせた。彼女が誓いをたてながらまっ赤になったので、私は残酷にも、処女という言葉の意味をくわしく説明した。そして、誓いをくりかえさせようとすると、彼女がさらにあかくなって、そういうことはよく知っているから、二度も誓う必要がないといったので、私は無性に嬉しくなった。それから、私に接吻するように命令したが、いとしいジェノヴェッファの口から我慢のならないにんにくの匂いがしたので、三人に今後にんにくを食べてはいかんと禁止した。ジォルジォは家のなかにはひとかけのにんにくもおきませんと約束した。
ジェノヴェッファは若い娘としては顔立のととのったほうではなかった。陽にやけていて、口が大きすぎた。しかし、歯が美しく、下唇が出ていて、接吻をうけるようにできているかと思われた。彼女の胸をあらったとき、乳房に想像しなかったほどの抵抗を感じたので、おおいに興味をそそられた。彼女は髪のブロンド色がつよすぎ、手は肉づきがよくてやわらかみがなかった。しかし、そんなことには目をつぶらなければならなかった。私の計画は彼女に恋心をおこさせることではなかった。田舎娘ではてまがかかってやりきれないからだ。彼女がすなおにいうことをきくようにさせればそれで十分だった。はにかんでかたくなな態度をとるのを恥ずかしく思い、なんの抵抗もしめさないようにさせるのが眼目であった。愛の気持がまじらない場合、この種の道楽で肝要なのは服従である。色っぽさも、うしろめたさも、はげしい興奮もないが、絶対の権力をふるうことで埋合せがつく。
私は彼らにめいめい年の順に私と夕食を食べ、ジェノヴェッファはいつも次の間にねるようにといった。次の間には浴槽をおき、食卓につく三十分まえに、その日の夕食をともにするものの身体を洗ってやることにし、私と夕食をとるまで断食するように命じた。
[処女の浄めの儀式]
私はフランツィアに翌日チェゼーナへ行って買ってくる品物を紙に書いて渡した。しかし、けっして値切ってはいけないと命じた。その品物というのは、白布を二十五オーヌから三十オーヌ、価は八ないし十ゼッキーニ、糸、鋏《はさみ》、針、蘇合香《そごうこう》、没薬《もつやく》、硫黄《いおう》、オリーヴ油、樟脳《しょうのう》、一連(五○○枚)の紙、ペン、インク、羊皮紙十二枚、筆、笏《しゃく》にする一インチ半のオリーヴの枝などであった。
私はきわめてまじめそうに、吹きだしたい気持にもならずに命令を伝えると、魔術師の役割が思ってもみなかったほど手ぎわよくいくのにすっかり気をよくして、ベッドにはいった。
翌日起きるとすぐにカピターニを呼び、これから毎日チェゼーナの大きなカフェへ行って人の噂をきき、私に報告しろと命令した。フランツィアが命令を忠実にまもり、正午まえに指図したものを残らず買って町から来た。
彼はひとつも値切らなかった、布を売った商人はわたしが酔っていると吹聴するだろう、実際の値段より六三キュもよけいに払ったのだからと報告した。
「きみをだましたとすると、やつらは罰があたるよ。だが、きみは値切ったら、いっさいだめにするところだった。それはそうと、娘さんをよこして、ふたりだけにしといてくれ」
私は彼女が来ると、白布を裁《た》たせ、長さ五フィートのものを四枚と、二フィートのものを二枚、二フィート半のものを一枚つくらせた。最後の一枚は大呪法を修するとき祭服の頭巾にするものであった。そして、ベッドのそばにすわって縫いはじめるように命じた。
「おまえはここで昼食をとり、晩まで仕事をする。お父さんが来たら席をはずすのだよ。そして、お父さんが出ていったら、またもどってきて、ここでねるのだ」と、私は彼女にいった。
そこで、彼女は私のベッドのそばで昼食をとった。母親が私のとどけたものを彼女に給仕した。飲物はサン・ジョヴェーゼしか飲まなかった。夕方父親が来たので、彼女は姿を消した。
私はしんぼうづよくお人よしの身体を浴槽のなかで洗い、夕食の相手をした。彼は人食い鬼のように食べた。二十四時間もものを食べなかったのは生まれてはじめてだったにちがいない。彼は葡萄酒に酔って、女房が朝のショコラを持ってくるまでぐっすり眠った。娘が来て、夕方まで縫い物をし、カピターニがくると出ていった。私はカピターニもフランツィアと同じに浄《きよ》めてやり、夕食をともにした。翌日はジェノヴェッファの番であった。私は一刻千秋の思いで彼女を待っていた。
きめた時間になると、彼女に風呂へはいる支度をしろ、そしてはいったら私を呼べ、父親やカピターニを洗ってやったようにおまえも洗ってやるからといった。彼女はすぐに返事をせずに出ていったが、十五分ばかりたつと私を呼んだ。私はやさしい、まじめな顔ではいっていって、浴槽のわきに立った。彼女は横向きになっていた。私はあお向けになって、聖別の呪文をとなえるあいだ、じっと私を見ていろと命じた。彼女はすなおに私の言葉にしたがい、私はいろいろのポーズをさせて、彼女の全身を洗いきよめた。しかし、自分の役割を破綻《はたん》なく行なう必要から、楽しみよりも苦しみのほうが大きかった。彼女も平気な顔をよそおってはいたが、私と同じ気持だったにちがいない。私の手は身体のどこよりもいちだんと感じやすい場所を際限もなく洗ってやったが、彼女がその執拗《しつよう》な手の接触から受けたにちがいない感動を表にあらわさなかったのは健気である。やがて、彼女を浴槽から出してふいてやった。そのとき、私は十分にお浄《きよ》めを行なおうとする熱意から、彼女にあらゆるポーズをとらせ、あやうく魔術師の役割から逸脱して本能に身をまかせるところであった。しかし、行動のはやい本能はみずから重荷をおろしたので、大団円までいかずにこの場面を終わることができた。そして、彼女のそばをはなれ、服を着るように命じた。
彼女は断食をしていたので、空腹にたえかね、お化粧もたちまちすませてしまった。そして、がつがつとむさぼるように食べた。葡萄酒も、水でも飲むようにがぶがぶと飲んだ。それで、顔がまっ赤になり、陽灼《ひや》けの色も見わけがつかないほどだった。食事がすんでふたりきりになると、さっき彼女に強《し》いたことが不愉快ではなかったかときいた。ところが、彼女はとても気持がよかったと答えた。
「では、あしたはわしがさきに風呂へはいるから、わしがおまえにしてやったとおりにお浄めをしてくれるかね」
「いいわ。けれど、あたしにできるかしら」
「教えてやるからだいじょうぶだ。それに、これからは、毎晩、わしの部屋でねることにしなさい。大呪法を修する晩までは、おまえが処女であることを、はっきりたしかめておく必要があるのだから」
こういい渡されると、彼女の態度がなめらかになり、安心して私を見、ときにはほほえみかけなどして、すっかりぎごちなさがとれた。自然が作用をしたのだ。若い娘の精神は快楽が先生になると、ずっと幅をましてくるものだ。彼女は床にはいったが、私にはもうなにひとつ隠すところがなかったので、私の見ているまえで服をぬぐのを恥ずかしがる必要もなかった。おりしも非常に暑かったので、彼女はごく軽いものもうるさがり、なにもかもぬいで、すっ裸になって眠った。私も同じようにしたが、精霊たちを勧請する夜まで彼女を人身御供にしまいと心にきめたのを後悔した。発掘事業が失敗することは、自分にもよくわかっていた。しかし、また、私が彼女の処女を奪っても、そのために事業が失敗するわけではないことも承知していたのだ。
ジェノヴェッファは朝早く起きて仕事をはじめた。祭服を仕上げてしまうと、夕方までに七つのとがりのある羊皮紙の冠をつくらせた。私はそれへすさまじい文字や絵を書きつけた。
夕食の一時間まえに、私は浴室にはいった。そして、もういいと声をかけると彼女はすぐにやってきて、まえの日に私がしてやったと同じお浄めを、同じ熱意で心をこめて私にしてくれ、やさしい友情のしるしをしめした。こうして、非常に愉快な一時間をすごした。そのあいだ私はあらゆる楽しみを味わったが、奥の院だけは尊重してけがさずにおいた。
彼女は接吻の雨をあびて大喜びだったが、私がさえぎりそうもないと見ると、自分も同じようにひたむきな接吻を返してきた。そこで、私はいった。
「おまえがこういうことを気持よがっているのを見るとわしも嬉しいよ。いいかい、われわれの仕事がうまくいくかいかないかは、おまえがわしのまえで、少しも気兼ねなんかせずに、どれだけいい気持になれるか、その度合にかかっているのだよ」
彼女は、こういわれると、すっかり本能に身をまかせ、自分の感じる快楽がとうてい言葉ではあらわせないことを私に納得させるために、信じがたいようなことまでやってのけた。われわれは禁断の木の実だけはつつしんでいたが、それでも十分に楽しんだので、互いに満ち足りた気持で食卓についた。
そして、ベッドにはいろうとすると、彼女は「いっしょにねたら事業をだめにしてしまいましょうか」ときいた。
「そんなことはない。おまえが処女でさえあればいいのだ。それがいちばん大事なことだ」
そう答えると、彼女は大喜びで私の腕のなかへはいってきた。そして、楽しい一夜をすごした。そのあいだに、私は彼女の体質のゆたかさに感心するとともに、自分のつつましい態度に得意になった。というのも固く決心をまもってついに障害物をやぶろうとしなかったからである。
次の夜は大部分をフランツィアとカピターニとともにすごした。百姓の話す不思議な現象を自分の目で見たかったのである。家の中庭に向かったバルコニーに立っていると、扉が三、四分おきにひとりで開いたり閉まったりする音が聞こえ、また同じ間隔をおいて、一分に三、四回、地面の下でずしんずしんと音がした。その音は青銅の太い杵《きね》で同じ金属の大きな臼《うす》を猛烈にたたくようであった。私はピストルをかまえ、提灯を持って、彼らといっしょに動く扉のそばへ行ってみた。話のとおり、扉はゆっくり開きはじめて、三十秒もすると、はげしい勢いでばたりと閉まる。そこで、自分で開けたり閉めたりしてみたが、この奇妙な現象のかげにひそんでいる物理的な理由が全然みつからなかった。そこで、なにかインチキがあると見てとったが、だれにもいおうとはしなかった。
ふたたび二階へあがって、バルコニーへもどると、いろいろの影が中庭を行ったり来たりするのを見た。それは湿った濃い空気の塊のなすわざであった。ピラミッド形の焔は、私も現に野原で見たが、それは私のすでに知っている現象であった。だが、彼らには財宝をまもる精霊だと信じさせておいた。
南イタリアの野原では、こういう狐火をよく見うけるが、これを人民たちは悪魔だと思っている。スピリット・フォレット(悪戯ずきの小鬼)という言葉はここから出てきた。
読者諸君、あなたがたは、次の章で、私の魔法の結末をごらんになり、さだめし私をばかにして笑うことであろう。だが、私は少しも不愉快に思わないであろう。
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第二十二章
[雷鳴のさなかの大呪法]
一七四八年、当年二十三歳。
その次の夜、例の偉大な呪法を実行することになった。さもないと、翌月の満月の夜を待たなければならないからである。地下の精霊に向かってまじないを行ない、財宝を地上の私が命ずる場所へ運んでこさせる手はずであった。呪法が失敗するのはわかりきっていたが、フランツィアやカピターニを納得させる理由にも事欠かないこともわかっていた。それまでは、好きでたまらぬ魔術師の役割をじょうずにはたさなければならない。私は一日じゅうジェノヴェッファを督励して三十枚の紙をまるく縫いあわさせた。そして、その上にすさまじい文字や絵をかきつけた。この輪を私は大輪《マクシム》と呼んだ。それから、ジォルジォ・フランツィアが持ってきたオリーヴの木で笏《しゃく》のようなものをつくった。こうして、必要なものが一式そろうと、夜半に私が呪法を終わって大輪からでてきたら、どんなことになるかわからないから覚悟しているようにと、ジェノヴェッファにいいきかせた。彼女にはこの命令がいやではなかった。早く私に服従のしるしを与えようと気がせいていたのである。私のほうでも彼女から借りがあるような気がし、早く彼女を満足させてやりたいと思っていた。
時間になった。彼女の父のジォルジォとカピターニとにバルコニーに待っていて、私が呼んだらすぐに命令どおり行動するよう、また召使たちが私のすることを見にこないように気をつけろといった。そして俗界の服をぬいで、純潔なジェノヴェッファの清い手でつくられた大きな祭服を着た。それから、長い髪の毛をときほぐし、頭に七つの尖《とが》りのある奇妙な冠をかぶり、肩にマクシムの輪をかけ、片手に笏を、片手に聖ピエトロがむかしマルクの耳を切った剣を持って、中庭へおりていった。そして、わけのわからない文句をとなえながら、大輪を地面へおくと、そのまわりを三回まわってから、なかへとびこんだ。
二、三分輪のなかにうずくまっていると、立ちあがって、身動きもせずに、西の地平線からあがってくる黒い大きな雲を見つめた。同じ方向で雷がはげしく鳴りはじめた。もしも少しまえにこの方面の空模様をよく見てこの雷を予言できたら、ふたりのばか者のおそれおののく目には私がどんなにすばらしく見えただろう!
いなずまは雲が中天へあがってくるにつれてますます激しくなり、雲のうしろの空には全然明るみが見られなかった。いなずまの光だけで、このおそろしい夜が昼間よりも明るくなった。
これは自然現象としてべつだんふしぎなことではなく、私は少しも恐怖を感じなかったが、そのうちになんとなくおそろしくなり、しきりに部屋へもどりたくなった。しかも、雷鳴が非常な速さで相ついで鳴りはためくのを見たり聞いたりするうちに身体がふるえだしてきた。いなずまの筋が身のまわりにひしめくのを見て、血も凍《こお》る思いであった。そうした恐怖にもみつけられながら、目の前に荒れくるう雷が私を粉砕《ふんさい》することができないとしたら、それは雷が大輪のなかにはいってこられないからだと確信した。こうした理由で、私は輪のなかから逃げだそうともしなかった。このまちがった信仰は恐怖から来たものにすぎなかったが、これがなかったら、私は一瞬もしんぼうしていられずにさっさと逃げだして、カピターニやフランツィアに魔法師どころか、とんでもない臆病者だと思われたにちがいない。風の激しさと、すさまじい雷鳴と、おそろしさと寒さとは、私を木の葉のようにふるえさせた。あらゆる試練に耐えうると思いこんでいた固い信念もどこかへけしとんでしまった。復讐の神が待ちかまえていて、私の厚顔無恥な非行を罰し、死をもって私の不信に止《とど》めを刺そうとしているような気がした。もう罪を悔いてもむだだと確信させたのは、まったく身動きができなくなってしまったからであった。そして、私の驚愕《きょうがく》をさらにはげしくした。
しかし、やがて雨が降りだした。雷鳴も聞こえず、いなずまも見えなくなった。それと同時にもとの勇気がよみがえってくるのを感じた。しかし、なんという雨だったろう! まるで天をおおって滝がおちてくるような豪雨で、これが十五分もつづいたら、地上のいっさいをおし流してしまうだろうと思われた。雨がやむと、風もおさまり、闇も散った。雲ひとつない空の中央に、ついぞ見たこともない美しい月が輝いた。私は輪をひろい、ふたりの友人には私に話しかけずにねに行けと命じてから、自分の部屋へもどった。まだ胸さわぎはおさまらなかったが、ジェノヴェッファの待っている姿がすぐ目についた。彼女はおそろしくなるほどきれいだった。私は彼女のほうを見ずに身体をふかせ、あわれ憫然《びんぜん》たる声で、自分のベッドへ行ってねろといった。翌日、彼女は暑い季節なのに私ががたがたふるえているのを見て、とてもこわくなったと話した。
八時間ぐっすり眠ったあとで、この道化芝居がつくづくいやになった。すると、そこへはいってきたジェノヴェッファがまったく別人のように見えたので、驚いてしまった。もはや彼女が自分とちがった性を持つものとも思われなかった。自分の性が彼女の性とはべつだとも考えられなくなっていたからだ。そのとき、力づよい迷信的な考えから、この娘の純潔さは神の庇護を受けているもので、もしもこれを汚したら、たちまち残酷な死をもって罰せられるだろうという気がした。
とにかく、こうして、二十三歳の未熟な頭と興奮の極にあった考えとで、彼女には一指もふれない決意をかためたが、あの哀れなパゼアーノのルチーアの身に起こったようなことが起こらないかぎり、父親のフランツィアもあまりばかを見ず、彼女もあまり不幸にはなるまいと考えた。
ジェノヴェッファが私の目に神聖な恐怖の的となると、私は即座に出発する決心をした。この固い決心をさせたのは、突然の、しかし非常に合理的な恐怖であった。私が輪のなかに立っているのを何人かの百姓が見て、あの嵐が魔術の呪法のために起こったと考え、宗教裁判所へ告訴するかもしれない。そうしたら、宗教裁判所は時を移さず私の身柄を逮捕するだろう。そんなことになったら身の破滅だ。こう考えて、私はおそれをなし、さっそくフランツィアとカピターニを部屋へ呼んだ。そして、ジェノヴェッファの聞いている前で、財宝を守護している七人の小精霊と取結んだ協約により、作業を延期しなければならなくなったといい渡した。そして、小精霊たちは財宝についてくわしい報告をしてくれたが、彼らとの協約により、彼らが護衛を託されている財宝の発掘を延期しなければならなくなったといった。そして、マントヴァでカピターニに与えたのと同じ記録を書いて渡した。それは次のとおりである。
「この土地の下十七トワーズ半のところに埋まっている財宝は六世紀まえから存在するものである。内訳はダイヤモンド、ルビー、エメラルド、および金粉十万|斤《きん》である。この全部がひとつの箱におさめてあるが、それは一〇八一年、ゴッドフロワ・ド・ブイヨンが神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ四世を助けて、トスカナのマティルダ伯爵夫人と戦ったとき、夫人から奪いとったものである。彼はローマの包囲攻撃に出発するまえに、この財宝を現在の場所に埋めた。偉大なる魔術師であった法王グレゴリオ七世は財宝の箱が埋葬されている場所を知り、みずからその発掘におもむこうと決意したが、この計画を実行に移すまえに死んだ。一一一六年、マティルダ伯爵夫人の死の直後、埋蔵財宝を管理する精霊がこの財宝にたいし七人の守護の小精霊を与えた」
私はフランツィアにこの書類を渡してから、私の再度の来訪を待つか、財宝についてこれと同じ書類を提出するものをしか信用するなといいふくめた。それから冠と輪を焼かせ、そのほかはいずれもどってくるまで大事に保管しておくように命じた。カピターニにはすぐにチェゼーナへもどって、ポスタ旅館で、フランツィアが荷物を全部送りとどけるのを待つようにといった。
ジェノヴェッファが悲しがっているのを見て、彼女を小脇へ呼び、まもなくもどってくるといって慰めたが、惻隠《そくいん》の心やみがたく、財宝の発掘にはおまえが処女をまもる必要がなくなった。おまえは自由の身になったのだから、機会のあり次第結婚してもさしつかえがないといわざるを得なかった。
[閣下夫人ジュリエッタ]
私は歩いてチェゼーナの旅館へ行った。カピターニはルゴの大市を見てマントヴァへもどろうと支度をしていた。彼はばかのように涙を流しながら、もしも聖ピエトロの短剣を持たずに家へ帰ったら、父がどんなに嘆くかしれないと訴えた。そこで、前に渡された約束手形を五百エキュで買い取るなら、剣も鞘も渡そうといった。
彼はこの取引を非常に有利だと考え、すぐに承知したので、手形は返してやった。しかし、私が同じ五百エキュの金額を持参したら、鞘を返すという契約書を書かせて、署名させた。
そんな鞘は私にはなんの用もなかったし、金もいらなかったのだが、ただでやってしまっては体面にかかわるし、鞘を全然尊重していないことを感づかせてしまう。それに、法王の恩恵をかさにきて宮中伯の無知な信頼を利用するのもおもしろかった。その後、彼のよこした金を返してやろうとも思ったが、偶然に彼と出会ったのは、ずっとあとになってからであった。そのときには二百五十ゼッキーニ渡す余裕がなかった。こうして、私はばかげた芝居で五百エキュもうけたが、彼は鞘つきの短剣を持っていれば全法王領の隠れた財宝を見つけだせると確信していたので、文句もいわず、だまされたとも思わなかった。
カピターニは翌日出発した。私も時を移さずナポリへ向かって出発するはずであったが、ある事件が突発して、計画を延期せざるをえなくなった。
旅館の主人が渡した広告のビラを見ると、スパダ座で、メタスタシオの『ディドーネ』を四回上演すると印刷してあった。出演の男優や女優の名前を読んでみたが、知った名前がひとつもなかったので、第一回の上演だけ見て、翌朝早く駅馬車でたつことにした。宗教裁判所のことが多少気がかりになっていたので、いそぐにこしたことはないと思った。すでに探偵があとをつけているような気さえした。
芝居のはじまるまえに行って、女優たちが着がえをする楽屋をのぞいてみた。プリマドンナの女優はちょっとふめる女だった。ボローニャの出身でナリーチという名であった。軽く会釈をしてから、この座の専属かときくと、興行主のロッコとアルジェンティとに契約してあるだけだと答えた。いい人があるのかときくと、ないという。それではぼくがいい人になろうかとお世辞をいうと、彼女は笑いだして、四回分の切符を二ゼッキーニで買ってほしいと答えた。そこで、二ゼッキーニ出して、切符を四枚受け取り、彼女の髪を結っていた娘に渡した。その娘は彼女よりもずっと美しかった。そして、そのまま出てくると、彼女がうしろから呼んだが、知らん顔をして木戸へまわり、平土間の切符を一枚買って、腰をおろした。最初のバレーがひどくへたくそだったので、一幕すむと、すぐに出てしまおうと思ったが、そのとき、ヴェネチアのマンツォーニがラ・カヴァマッキーことジュリエッタと大きい桟敷《さじき》にならんでいるのに気がついて、驚いてしまった。このジュリエッタについては、読者はいまだご記憶があるであろう。私は向うから目をつけられていないのを見て、隣の人にあのダイヤモンドよりも光っている美しい夫人はだれだときいてみた。すると、あれはヴェネチアの貴婦人でケリーニ夫人といい、この劇場の持主であるボニファツィオ・スパダ将軍がボローニャからファエンザへと案内してまわり、ここへ連れてきたのだが、ファエンザは将軍の故郷だと教えてくれた。
私はケリーニ氏がついに彼女と結婚したのを知って喜んだが、そばへ行こうとはしなかった。彼女に閣下夫人と尊称をたてまつらなければならないし、まわりのものに名前を知られるのもいやだった。それに、よい待遇はうけまいと思ったからである。彼女が司祭の服を着せろとせがんだときの争いは、読者も思いだされることであろう。
しかし、出ていこうとしたとたんに、彼女は私に気がついて、扇子で呼んだ。私はそばへ行くと、本名を知られたくないので、ファルッシと申しますとごくひくい声でいった。すると、マンツォーニ氏も同じく小声で、この方はケリーニ夫人ですと答えた。私はヴェネチアからの手紙で、もう存じておりますといった。
ジュリエッタはすかさず私を男爵だということにして、スパダ伯爵に紹介した。伯爵は私を自分の桟敷へ招じいれ、どこから来てどこへ行くのかと聞いてから、夕食に招待した。
マンツォーニ氏の話によると、伯爵とジュリエッタはヴェネチアで十年まえにいい仲になったが、皇后マリア・テレジアは彼女の魅力が風紀を害するのをおそれ、町の外へ追放してしまったのであった。しかし、彼女はそのころまたヴェネチアで彼ともとの鞘におさまり、ボローニャへ遊びに連れていってほしいとせがんだ。マンツォーニ氏はもと彼女の恋人であったので、ケリーニ氏から彼女のお目付役を頼まれて、ついてきたのであった。だが、あまり安心できる付添人ではなかった。
彼女はヴェネチアではケリーニ氏との結婚を秘密にしていたが、故国から五十里もはなれたところでは、秘密をまもる必要もなかった。それで、将軍はすでにチェゼーナのあらゆる貴族に彼女をケリーニ・パポッツェ夫人として紹介していた。しかし、いまさらケリーニ氏が将軍にやきもちを焼くのはまちがっている。将軍は昔の恋人であったのだからだ。どんな女でも、新しい恋人が古い昔の恋人に嫉妬するのは、ばかの骨頂《こっちょう》だと主張する。ジュリエッタは私が口をすべらすのをおそれて、いそいで私を呼び寄せたのだが、私のほうでも彼女にしゃべられては困る事情があると見てとって、安心したらしい。私は彼女の肩書にたいして当然払うべき尊敬をこめて、うやうやしく応対した。
将軍の邸には大勢の客が来ており、かなり美しい女もたくさんいた。ジュリエッタをさがしたが見あたらなかった。マンツォーニ氏にきくと、ファラオ博打のテーブルでかなり損をしているということだった。その部屋へ行ってみると、夫人は親の左側にすわっていたが、親は自称チェリ伯爵だった。彼は私を見て顔色をかえ、すぐに組札を差し出したが、私は丁重にことわった。しかし、ジュリエッタが相乗りで行かないかとすすめたので、それは承知した。彼女が五十ゼッキーニの金を前に置いていたので、私も五十ゼッキーニ出して、脇へすわった。一勝負終わると、彼女は親はお知合いかときいた。しかし、彼が彼女の声を耳にしたのに気づいて、知らないと答えた。すると、左側にすわっていた夫人がアルファーニ伯爵だと教えてくれた。負けつづけていたケリーニ夫人は十五分ののちに、賭けた十ゼッキーニの七倍を払う羽目《はめ》になった。これは決定的だ。私は立ちあがって、親の手もとをにらみつけた。しかし、どうにもしようがない。親は平然としてインチキをつづけた。夫人の負けであった。そのとき、将軍が晩餐の席へ迎えに来たので、彼女は残りの金をテーブルの上に置いたまま立ちあがった。デザートが終わると、彼女はふたたび博打にもどり、有り金をすっかりすってしまった。
私は気のきいた軽い話をとめどもなくしゃべって、食卓をにぎわせ、一同の友情を一身にあつめた。ことに将軍は、私がナポリへ行くのは恋の気まぐれをみたすためにしかすぎないときくと、その気まぐれをわしのために犠牲にしてひと月ばかりいっしょに暮らしてほしいと頼んだ。だが、私は承知しなかった。心のむなしさに耐えかねていたので、一日も早くテレザやドンナ・ルクレツィアに会いたくてたまらなかったからである。もう五年の歳月がたっているので、彼女らの面差《おもざし》も漠然としか思いだせなかった。しかし、彼がもう四日間チェゼーナに滞在する予定だといったので、そのあいだだけつきあうことにした。
[夜明け前の茶番劇]
翌日、床屋を呼んで髪の手入れをさせていると、いかさま師のアルファーニがはいってきた。私はにこやかに迎えて、待っていたといった。床屋がいたので、彼は返事をしなかったが、ふたりきりになるとすぐ、どういう理由でわしを待っていたのかときいた。
「その理由というのはだな、即座に百ゼッキーニの金を返したら、確率の問題についてくわしく教えてやろうと思ったのさ」
「五十ゼッキーニなら返すよ。あんたにはそれ以上要求する権利はないのだから」
「では、内金として受け取っておこう。しかし、お慈悲でいってやるが、今夜は将軍のところへ顔出しするなよ。たたき出されるだろうからな。それもおれのさしがねだが」
「そんなむごいことをするまえに、とっくり考えてくださいよ」
「考えたあげくのことさ。さっさと出ていきたまえ」
しかし、そこへオペラの第一歌手が訪ねてきたので、彼は二言といわずに出ていった。歌手はナリーチの使いで、午餐会に来てほしいといいに来たのであった。この招待は愉快だったので、承諾した。その歌手は例の去勢者《カストラト》でニコロ・ペレッティといい、シクストゥス五世の私生子の後裔《こうえい》だといっていた。この道化者とはそれから十五年後にロンドンで出会ったが、彼のことはそのときにくわしく話そう。
ナリーチの午餐会に行くと、アルファーニ伯爵が来ていた。彼はそこで私に出会おうとは予期していなかったらしい。すぐにちょっと話があると小脇へ呼んで、こういった。
「きみにもう五十ゼッキーニ渡すが、そうすると、きみは誠実な男として、ケリーニ夫人に渡すにちがいないが、夫人に渡すときには、わしからむりに取り上げたことを話さぬわけにいかないだろう。そうするとどんな結果になるか、わかってもらいたいな」
「きみがこの土地にいなくなってから渡すよ。それまではいっさいだまっている。しかし、おれの前でいかさまをするのはつつしんでもらおう。そんなことをしたら、こっぴどい目にあわしてやるからな」
「親の仲間にはいらないか。もうけは半分わけにするから」
この提案に私は吹きだしてしまった。彼は私に五十ゼッキーニ渡し、私は口をとざしている約束をした。ナリーチのところの客は若い人々が多かったが、食事のあとで、みんな持金をはたいてしまった。私は賭博に手を出さなかった。彼女が私を呼んだのは、私もほかの連中と同じく裸にされるだろうと見当をつけてのことだったが、仲間にはいらずにながめていると、マホメットが『コーラン』のなかで賭博を禁じたのはじつに賢明であると感服せずにいられなかった。
その夜、芝居のあとで、自称伯爵が親になり、私は二百ゼッキーニなくした。しかし、これはいかさまではなく、運命の悪戯でしかたがなかった。ケリーニ夫人はもうけた。しかし、翌日、夕食まえに、私は親をほとんどからっけつにしてしまった。そして、夕食後ねに行った。
翌日、それは最後の日であったが、その朝、将軍の副官が自称伯爵の顔へカードを投げつけたので、ふたりはその昼にどこかへ行って剣をまじえなければならなくなったという話を聞いた。私はさっそくその士官を訪ねていき、決闘の介添人になると申しいで、同時にけっして血を見るようにはさせないと保証した。彼は私に感謝したが、昼食に来たとき、きみの予想したとおりだったと笑いながらいった。アルファーニ伯爵はローマへ向かって出発した。そこで私は一座のりっぱな人々に私自身が親になると告げた。しかし、ケリーニ夫人を別室へ呼んで、五十ゼッキーニの金を出し、あのいかさま師からむりに取り上げた顛末《てんまつ》を話して、これは道義上あなたに返さなければならないといった。すると、彼女は、
「そんなお伽話《とぎばなし》をでっちあげて、わたしに五十ゼッキーニめぐんでくださるおつもりなのね。でも、わたし、あなたからお金をいただく筋合いはないわ。それに、むざむざとペテンにかかるようなばかではないことよ」といった。
哲学は善行を悔いることを賢者に禁じている。しかし、賢者といえども、善行が邪推のためにゆがめて考えられるのを怒ることはゆるされている。
芝居の最終の興行のあとで、私は約束どおり将軍の邸で親になった。そして、多少の損をしたが、一同から好感をもたれた。賭博者が金を追いかける必要にせまられないときには、これは勝つよりもずっと楽しいことだ。スパダ伯爵はいっしょにブリジゲルラへ行こうとすすめたが、早くナポリへ行きたかったので辞退した。しかし、翌日の昼食までおつきあいをしようと約束した。
翌日、夜明けごろ、ただならぬ物音に目をさました。私の部屋のドアのすぐ前の広間で大勢のものが騒いでいたのだ。ところが、まもなく隣の部屋でも騒ぎがはじまった。そこで、ベッドからおり、ドアをあけてようすを見に行った。警官の一隊が開けはなしたドアの前にむらがっており、部屋のなかでは人好きのする顔の男がベッドの上にすわって、ラテン語でイタリアの恥辱といいつべき警官どもやそばにいる旅館の亭主をののしっていた。旅館の亭主は不当にも警官たちのためにその部屋のドアをあけたのであった。私は亭主にどういうことなのだときいてみた。
「あの旦那は、ああしてラテン語しかしゃべりませんが、女といっしょにねているのです。それで、司教さまのおまわりさんたちがその女が奥さんかどうか調べに来たのです。ごく簡単なことなのですよ。奥さんなら、なにか証明書を見せて納得してもらえばいいし、奥さんでなけりゃ、娘っ子といっしょに牢屋入りを覚悟すればいいのですからね。しかし、そんなことになるとは思いませんよ。二、三ゼッキーニもつかませればいっさい穏便にけりがつくことうけ合いですからね。わたしが隊長に話せば、みんな退散しますよ。もしもラテン語がお話しになれるんなら、はいっていって、あの旦那にそういってください」
「ドアはだれがこじあけたのだ」
「こじあけやしませんよ。わたしがあけたのです。そりゃわたしのつとめですからね」
「追剥《おいはぎ》のつとめだぞ、そりゃ。旅館の亭主のすることではない」
私はあまりにもひどい仕打ちに腹をたてて、口をださずにいられなかった。それで、部屋のなかへはいっていって、ナイト・キャップのままの男に、この理不尽《りふじん》な事件の経緯《いきさつ》を話してやった。彼は笑いだして、第一にわしといっしょにねているのが娘だとはだれにもわからないことだ、男のなりをしているところしか見られなかったのだから。第二に、わしとねているのが実際に女だとしても、それがわしの妻か情人か報告させる権利はだれにもないはずだと答えた。そして、さらに言葉をついで、
「それに、わしはこの事件のけりをつけるために一エキュだって出さんし、やつらがドアをしめなければベッドから出ないつもりです。服を着さえすれば、この茶番劇におもしろい結末をつけてやるのですがね、あの野郎どもをサーベルできりきり舞いをさせて」
そういわれて部屋の隅を見ると、サーベルと軍服らしいハンガリアの服がかかっていた。そこで、あなたは士官かときくと、姓名や身分は宿帳につけてあると答えた。
私はあまりにもむちゃな話に驚いて、旅館の亭主にきいてみると、いかにもそのとおりだが、教会の警察には風紀取締りの権利があり、それはだれもさまたげることはできないのだと答えた。
「きみがあの将校にくわえた侮辱は高くつくぞ」と、私はどなった。
この脅迫をきくと、彼らは鼻のさきでげらげら笑った。私は下郎《げろう》どもからそういうふうに嘲弄《ちょうろう》されたのに腹をたて、士官に旅券を渡してくれるかときいた。すると、旅券は二枚あるから一枚わたしてもいいといい、紙入れから出して、私に読ませた。それはアルバニ枢機卿の発行したもので、私はそこに士官の名前と資格を読んだ。ハンガリアの皇后陛下の連隊に属する大尉であった。
その話によると、アレッサンドロ・アルバニ枢機卿から託された小包をパルマの親王の総理大臣デュティヨ氏へとどけるために、ローマからパルマへ行く途中であった。
そのとき、ひとりの男が部屋のなかへはいってきて、もうこれ以上待てないのですぐに出発したいから、巡査とすぐに話をつけるか、金を払ってくれるかしてほしいと、あの旦那にラテン語でいってもらいたいと私に頼んだ。その男は馬車屋であった。
そこで、企みがはっきりしたので、私はいっさいをまかしてもらいたい、きっとりっぱに解決してみせるからと保証した。士官はいいようにはからってほしいと答えた。そこで、馬車屋に旦那の行李を上へあげてきたら、金を払ってやるというと、行李を運んできたので、八ゼッキーニ払ってやると、ドイツ語とハンガリア語とラテン語しか話さない士官に受け取りを出して、すぐに帰っていった。巡査たちはみんな鼻じろんで引きあげていったが、ふたりだけ広間に残った。
[男装のフランス娘]
私は士官に私がもどってくるまでベッドから出るなと忠告し、これから司教に会いに行って、丁重な謝罪をしなければならないことを教えてくるといった。そして、スパダ将軍がチェゼーナに来ているというと、あの方ならかねてからの知合いである、もしも将軍がここに来ていられることを知っていたら、巡査どもに部屋のドアをあけた旅館の亭主の頭をピストルでぶちぬいてやるのだったと答えた。
私はすぐにフロック・コートを着て、カール・ペーパーもとらずに司教のところへ行った。そして、大声でわめきたて、司教の部屋へ案内させた。従僕が猊下《げいか》はまだお休みになっているといったが、待っているわけにいかなかったので、従僕を押しのけて、ずかずかはいっていって、事件の一部始終を話した。そして不法の処置をなじり、人民の権利を侵害する取締りをののしった。
彼は返事をせずに、人を呼んで、秘書室へ連れていけと命じた。
私は秘書にも同じことをくりかえし、がみがみと怒鳴りつけ、悪態をわめきちらした。それは恩恵をもとめるためではなく、腹をたてさせるためであった。そして、脅迫の文句をならべ、もしもわしがあの士官だったら、公けの謝罪を要求するといった。秘書の僧侶はにこにこ笑いだして、きみは熱でもあるのではないか、警察の署長にでも話しに行くがよいと答えた。私は彼を怒らせ、事件をスパダ将軍の権威でどうにでもなるところまで引っぱっていったのを喜んだ。こうなったら万事侮辱された士官の顔をたてる結末になり、司教は途方にくれるだろう。そう考えて、さっそく将軍のところへとんでいった。しかし、将軍は八時までは人に会わないというので、ひとまず旅館に引きあげた。
この事件にたいする私の熱意は誠実な気持からきたもので、あんなふうに外国人を扱うのを我慢していられなかったからである。読者はこういうふうに想像するだろう。私もそう信じてもらいたい。しかし、私をかっかと燃えあがらせたのには、ずっとはげしいべつの動機があった。というのも、士官のそばでねていた娘は非常にかわいい女らしいと想像したので、早くその顔が見たかったのだ。彼女は恥ずかしくて顔を出せなかったのだが、私の声を聞いて、きっと私のことが気に入り、大尉よりは、ずっとましだと思っているにちがいないと、私の自惚《うぬぼ》れは信じて疑わなかった。
ドアが依然として開いていたので、私はかまわずはいっていって、さっきからの行動をちくいち報告した。そして、その日のうちに自由の身となり、将軍の采配で司教から手あつい謝罪を受け、司教の費用で出発できるだろうといった。彼はあつく感謝し、あした出発すると答えて、私が馬車屋に払った八ゼッキーニを返した。あなたのお連れはどこの国の人かときくと、フランスの男で、フランス語しかわからないのだと答えた。
「あなたはフランス語はお話しにならない?」
「ひとつも」
「そりゃおもしろい。では、身ぶりだけでしか話ができないのですね」
「そのとおりです」
「それはお気の毒ですね。いかがです、ごいっしょに朝食をやりませんか」
「ひとつ彼が承知するかどうか聞いてみてください」
「大尉どのの美しいお連れの方、朝の食事をごいっしょにお願いできないでしょうか」と、私はフランス語できいた。
すると、夜具の下から、くしゃくしゃにみだれた髪が出てきた。にこやかで、いきいきとしていて、うっとりするくらいで、髪形は男だったが、その性別は疑う余地がなかった。それなくしては、地上の男はすべてもっとも不幸な動物になるといわざるをえない性であった。
私はその美しい姿に有頂天になって、まだお顔は拝見しないが、あなたにたいして非常に興味をおぼえたから、お目にかかったら、いっそうお役にたちたいと心がせき、熱意が高まるばかりだといった。
彼女はいかにもフランス人らしい才気のあふれる言葉で答え、いともきれいに私の挨拶をやりかえしたので、嬉しくなってしまった。私の願いはききいれられ、私はコーヒーを命じてくるといって外へ出たが、彼らが起きるひまを与えてやりたいと思ったのである。ドアが開いているかぎり、ふたりともベッドから出ないと、決心していたからである。
カフェのボーイがやってきたので、私はまた彼らの部屋にはいっていった。例のフランス娘は青いフロック・コートを着、男の形にした髪が乱れていた。私は彼女の美貌に驚き、しきりに立った姿が見たかった。彼女もいっしょにコーヒーを飲んだが、私にしゃべりつづける士官の話に口をださなかった。私も士官の話には耳もかさず、ただうっとりと彼女の顔に見とれていた。彼女は私の顔を見なかったが、私は親愛なホラティウスのいう≪無言の差恥心≫(『諷刺』)にさえぎられて、言葉をかけなかった。
朝食が終わるとすぐ、私は将軍の家へ行って、事件をできるだけ誇張して話した。そして、もしもなにか手をうたないと、士官は庇護の枢機卿のところへ早馬をとばさざるをえないと考えているといった。しかし、私の雄弁もその必要がなかった。スパダ将軍は旅券を見ると、坊主は天国のことだけ考えればいい、世間のことに口出しをしてもらいたくないからといって、
「この道化芝居を大事《おおごと》にして、こきみよくけりをつけてやろう」といった。そして、さっそく副官を呼び、
「旅館へ行って、その士官と、男か女かわからない連れの人とを昼食に招待するように、またすぐにわしの使者だと名のって司教に会い、士官にたいして望みどおりの謝罪をし、弁償として要求するだけの金を払わなければ士官は出発させないといってこい。それから、いっさいわしの命令だといい、士官がここにいるかぎり、費用は司教にもたせるとおどしてやれ」と命じた。
こうしたすばらしい場面が目のまえで行なわれるのを見て、私は嬉しくてたまらなかった。そして、これもひとえに自分の手柄だと思い、得意の鼻をうごめかした。
私は副官を案内してハンガリアの士官のところへもどり、副官を紹介した。士官は同僚に会う兵士の喜びで彼を迎えた。副官は彼を同伴者といっしょに将軍の午餐会に出るようにと招待し、どういう種類の謝罪をのぞみ、時間を空費した弁償としていくら要求するか、書面に書いて差し出してほしいといった。私はいそいで自分の部屋へもどって、インクと紙とを持ってきた。士官はハンガリア人としてはかなりりっぱなラテン語で、すぐに短い要求書を書いた。警官は姿を消した。善良な大尉は、私がいくら百ゼッキーニ要求しろとすすめても、三十ゼッキーニとしか書かなかった。謝罪についても非常に内輪で、旅館の亭主とすべての警官が将軍の副官の前で、広間の床に膝をついてあやまればいいといった。しかし、彼はさらにつけくわえて、もしもいっさいが二時間以内に行なわれなければ、ローマのアレッサンドロ・アルバニ枢機卿のもとへ早馬を出し、返事がくるまで、一日十ゼッキーニの割で司教の費用によってチェゼーナに滞在するといった。
副官はすぐに大尉の書いたものを司教へとどけに出ていった。そのあとで、旅館の亭主が来て、あなたはもう青天白日の身ですといったが、大尉がきさまはステッキで二十度もたたきのめさなければならぬというと、横っとびに逃げていった。そこで、私は自分の部屋へもどって、将軍の午餐会に出るために、髪の手入れをさせ、服を着かえた。一時間ののち、彼らはりゅうとした軍服を着て私の前にあらわれた。娘の軍服は仮装じみていたが、なかなか優美だった。
その瞬間、私は彼らといっしょにパルマへ行こうと決心した。フランス娘の美貌は即座に私をがっちりとらえてしまった。恋人の年齢は六十がらみで、ふたりの関係はあまりにも不釣合いに見えた。だから、私は万事穏便にいくだろうと想像した。
副官は司教づきの僧侶を連れてもどってきた。僧侶は三十分後にはお望みどおりの謝罪をさせるが、弁償のほうは、パルマまではわずか二日行程、だから、十五ゼッキーニで我慢してもらいたいといった。大尉は値引きは承知せぬといって、三十ゼッキーニ手に入れたが、受領証を書くことをこばんだ。こうして事件は片づいた。それもみな私の肝煎《きもい》りの成果であったので、ふたりは私になみなみならぬ好意をよせるようになった。
その娘が男でないことは、腰まわりを見ればすぐにわかった。男装をしてだれからも男だと見られるのを得意がる女はまちがっている。そういう女は女として完全な美をそなえていないことを告白するのだ。
午餐の時刻の少しまえに、われわれは将軍のいるサロンへはいっていった。将軍はすぐに居合わせた婦人たちにふたりの士官を紹介した。仮装であることはだれにもひと目でわかったが、すでに事件の顛末を知っていたので、すばらしい芝居の立役者と食事をする楽しみが得られるのを、たいへん喜んだ。婦人たちは若い士官に男として応対することにしたが、男たちは女として十分の敬意をあらわした。
ただひとり膨《ふく》れ面《づら》をしていたのはケリーニ夫人であった。だれも自分に注意を向けないので、無視されたように思ったのである。そして、かなりじょうずなフランス語をひけらかすためにしか言葉をかけなかった。ハンガリアの士官だけは全然口をきかなかった。だれもラテン語で話しかけようとは思わなかったし、将軍もドイツ語で話しかける話題がほとんどなかったのである。
食卓をともにした年とった司祭が司教のために弁護しようとして「警官や旅館の亭主は宗教裁判所の命令でああいう行動をとったのだ」と将軍に保証した。そして、さらに「そういう理由で、旅館の各室には閂《かんぬき》がないが、それは外国人が部屋にとじこもらないようにするためだし、夫婦でないかぎり、性のちがうふたりがベッドをともにするのはゆるされないのだ」と説明した。
二十年後に、スペインで、旅館の部屋の閂が外についているのを見た。そこにねる外国人はすべて監禁されることになった。そして、夜の訪問のあらゆる侮辱にさらされた。この悪習はスペインにふかく根をおろし、あやうく王制をのみこみそうになった。他日、大法官が国王をまる裸にし、その地位をのっとったのも不思議ではない。
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第二十三章
[恋が旅程を変える]
会話がはずんできた。若い女性の士官が一座の中心になった。ケリーニ夫人さえ、内心に感じる不快の念をかくそうともしなかったが、こうきいた。
「ずいぶんへんでございますわね。全然お話しなさらずに、ごいっしょに暮らしていらっしゃれるなんて」
「なぜへんですの、奥さま。わたくしどもはそのために仲が悪くなるようなことは全然ございません。わたくしどものする仕事には、言葉なんか必要ではありませんから」
この答えを、将軍がじょうずなイタリア語で、食卓の客たちに披露した。一同はやんやと笑いだした。しかし、ケリーニ夫人は淑女ぶって、この答えがあまりにも露骨すぎるというふりをし、にせの士官にいった。
「言葉や、少なくとも文字が必要でないお仕事って、どういうお仕事なのか、さっぱりわかりませんわ」
「失礼ですけれど、奥さま、博打も仕事ではございませんか」
「では、あなた方は博打しかなさらないのですの」
「ええ、ほかのことはなにもいたしません。ただファラオをするだけですの。わたくしが親になって」
一同は水ぎわだったこのいいぬけに感心して、また息もとまるほど笑った。ケリーニ夫人も笑わずにいられなかった。
「しかし、親はだいぶもうかりますか」と将軍がきいた。
「とんでもございません。わたくしどもの賭けはとても小さいので、金をかぞえるにもおよばないのです」
この返事はだれも正直な老大尉に翻訳してやろうと思わなかったろう。夕方になって一同|袂《たもと》をわかったが、めいめいこれから出発しようとする将軍に一路平安を祈った。将軍も私にナポリへ無事に旅行ができるようにといった。しかし、私はふたりの士官がお互いに話しあえないので、ナポリへ行くまえに、通訳かたがたパルマの親王さまにお目にかかってくるつもりだと告げた。将軍はきみの立場に立ったら、わしも同じようにするだろうと答えた。私はさらにケリーニ夫人にボローニャ宛てに便りをすると約束したが、約束をまもるつもりは毛頭なかった。
この士官の情婦は夜具の下にかくれているときから私に興味を与えた。そして、顔を出したときにはさらに気に入り、服を着た姿を見せたときには、夢中にさせた。しかも、食卓では大好きなエスプリを発揮して、いっそう私を有頂天にした。このエスプリというやつは、イタリアではほとんど見られないが、フランスの女性のあいだではしばしば見かけるものである。彼女をものにするのはさして困難なこととも思われなかったので、私はそのためにとるべき方法を考えていた。自惚《うぬぼ》れではないが、自分のほうが老大尉よりも彼女には向いていると信じていたので、彼のほうから故障がでるとは思われなかった。彼は恋愛を軽く見て、境遇次第でどうにもなり、不慮の事件に容易に膝を屈してしまう性格の男だと私は見てとった。だから、私の野心を達成するには、運命の神も彼らふたりと行をともにさせるより都合のいい方法を提供できないだろう。彼らも私の同行をことわりはしまい。ふたりだけでは意志を通じあうことができないのだから、むしろ喜んで迎えるにちがいないと思われた。そこで、十分に確信をもち、あたってみようと決心して、旅館に帰るとすぐ、士官にパルマへは駅馬車で行くのか、それとも手持ちの馬車にするのかときいた。彼は馬車を持っていないので、駅馬車で行くつもりだと答えた。
そこで、私は彼にいった。
「ぼくは馬車を一台、とてもぐあいのいいのを持っていますが、もしもぼくと同行するのがご不快でなかったら、うしろの席をふたつ提供したいと思いますが、いかがでしょう」
「それは願ってもないしあわせです。どうかその楽しい話をアンリエットにきかせてくれませんか」
「いかがでしょう、アンリエット夫人、パルマまでお供をさせていただけましょうか」
「とても嬉しいですわ。お話ができますものね。けれど、お仕事がたいへんですわよ。ときによるとわたしたちふたりのお世話をなさる必要がおこるかもしれませんからね」
「それは喜んでお引き受けします。旅行がたいへん短いのが残念ですが。しかし、その話はまた夕食のときにゆっくり申しあげましょう。とにかく、それまでちょっと用事を片づけてきます」
用事とはまだ空想のなかでしか持っていない馬車を手に入れることであった。私はすぐに貴族たちの集まるカフェへ行って、上等の馬車を売るものはないかときいた。すると、ダンディーニ伯爵がイギリス製の馬車を売りたいといっているが、あまり高いので買い手がないということであった。値段は二百ゼッキーニで、しかも、座席がふたつと補助椅子がひとつしかついていなかった。しかし、それはまさに私の望みどおりの代物《しろもの》だった。そこで、馬車小屋へ案内させたが、馬車はすっかり気に入った。すばらしい馬車で、新品なら二百ギニーはしただろう。あいにく伯爵は町へ食事に行っていたが、あした買いにくるからほかへ売らないようにと頼み、上きげんで旅館へもどった。
夕食のあいだに、翌日昼食をすませたら出発しよう、馬の借り賃はめいめい二頭分ずつ払おうとだけ士官に話した。そして、もっぱらアンリエットとなにやかやおもしろい話を語りあった。私はフランスの女性と一度も話したことがないので、彼女のエスプリはまったく新しい驚きであった。私は彼女をとても魅力的だとは思ったが、相当浮気な女だと見当をつけていたので、非常に凝《こ》った教育の結果としか思われない、きめこまかな感情をもっているのが不思議でならなかった。だが、そういう考えが胸にうかんでくると、あわててそれをしりぞけた。恋人の士官についてなにかしゃべらせようと何度も水を向けたが、そのたびに彼女はたいへんじょうずに質問をはぐらかした。
私の質問のうちでただひとつ彼女が答えずにいられなかったのは、士官が夫でも父親でもないということだけであった。そのうちにお人よしは眠ってしまった。
彼が目をさましたとき、私はふたりにお休みなさいをいって、自分の部屋へねに行ったが、もうすっかり恋にとりつかれ、思いがけない濃厚な情事にめぐまれそうな気がして嬉しくてたまらなかった。しかも、この情事は、こちらが二十三歳で、健康は上々、それに相当大胆だし、金も十分にあるし、満《まん》を持して軽率なことさえしなければ、成功まちがいなしと信じていた。私が有頂天になっていたのは、二、三日もすれば、めでたくけりがつくものと信じていたからである。
[善行としての詐欺]
翌日、朝はやく、ダンディーニ伯爵の家へ行った。途中で貴金属店の前を通ったので、ヴェネチアの女が身につけているスペインふうの環をつらねた金鎖の腕輪を買った。一本が長さ五オーヌで、とても細工がすばらしかった。ジェノヴェッファへおくろうと考えたのである。
ダンディーニ伯爵に会うと、彼は私をおぼえていた。パドヴァの父親の家で私を見かけたことがあったのだ。その父親は私があそこの大学で勉強していたころ、ローマ法典の講座を担当していた。私は馬車を買ったが、それは言い値の倍もするほどりっぱな代物であった。買うときの条件として、至急に馬丁をさがし、馬車をすっかり用意して、午後一時までに旅館の玄関にまわしておくように頼んだ。
私はその足でフランツィアのもとを訪れ、例の腕輪をおくって、無邪気なジェノヴェッファをおおいに喜ばせた。チェゼーナのどんな娘もそんなにりっぱなものは持っていなかった。この贈り物は私が滞在していた十二、三日のあいだにあの善良な男がつかった費用の四倍であった。しかし、彼にとってもっと大きな贈り物は、私がきっとまた訪ねてくると誓い、それが十年さきであろうと、財宝の発掘をほかの魔術師にまかせてはいけないといったことであった。もしもほかの魔術師が手をつけたら、守護の小精霊は財宝を二倍の深さまで沈めてしまうだろう。そうしたら、三十五トワーズ(約六十八メートル)の深さになるから、いかな私でも掘りだすのに十倍も骨がおれるようになると教えた。そして、いまのところ再度の来訪をいつとはっきりいうわけにいかないと率直に打ち明けたが、とにかく待っていろ、財宝は私にしか掘りださせないという神のおぼしめしがわかっているのだからといった。そして、まちがいなく私の命令をまもるように誓約させたが、もしもこの誓約をやぶると、一家の破滅を来たすという呪誼《じゅそ》をかけた。私のこうした言葉はあの善良な男をあざむいたのではけっしてなく、むしろはかりがたい恩をほどこしたものだと思う。彼はその後死んだので、ふたたび会うことはなかったが、その子孫も私の来訪を待っていることだろう。というのも、あの一家では、ファルッシという私の名がいまでも不滅のものとなっているにちがいないからだ。
ジェノヴェッファはチェゼーナの門から三十歩のところまで送ってきた。別れぎわに心からなる接吻をかわしたが、そのとき、あの雷への恐怖は私に一時的な影響しか与えなかったことをまざまざと感じた。しかし、もう一度訪ねてくるときのことを思うと、彼女をけがす罪をおかさなかったのを、われながら嬉しく思った。私が彼女におくった二十語は、腕輪よりも重要であった。それはもしも三か月以内に私がもどってこなかったら、遠慮なしに亭主をさがすことを考えてもいい、結婚が財宝の発掘の妨げになるという心配をするにはおよばぬ、財宝は偉大な学問がゆるしてくれなければ、私にも掘り出せないのだからといったのであった。彼女は少し涙を流して泣いてから、いまのお言葉にしたがって将来のことをきめると約束した。
こうしてチェゼーナの財宝の一件に上品な結着をつけたことは、読者もみとめてくださるだろう。この事件では、私は詐欺師どころかりっぱな英雄であった。しかし、あのとき私の財布にいっぱい金貨がつまっていなかったら、気の毒なフランツィアを笑いながら破産させたかもしれない。だから、あまり自慢にもならなかった。多少才気があり、快楽を愛す青年なら、だれでも同じようなことをするだろう。カピターニには聖ピエトロの鞘を少し高すぎる値で売ったが、そのことについては全然後悔したことがない。いまでもあんなことでくよくよしていたら、世界一のおおばかだと思う。なぜなら、カピターニ自身私に渡した二百五十ゼッキーニのかたとしてあれを受け取ったとき、うまくいっぱいくわしたと信じていたからだ。彼の父の宮中伯はあれを死ぬまで大事にし、十万エキュのダイヤモンドにもまさるものと思っていた。そうした確信をもって、あの男は富者の気持で死んだが、私は貧者の気持で死ぬだろう。ふたりのうちのどちらがより幸福だか、それは読者のご判断にまかせよう。
旅館へ帰ると、小さい旅行の準備を万端ととのえた。この旅行は考えるさえ楽しかった。私はアンリエットの一言一言にますますかわいさがまし、その才気は美貌以上に私をしばりつけてしまった。老士官は私が彼女に惚れこむのを喜んでいるように見え、娘も私のしめす好意を楽しんでいるようであった。要するに、彼女が恋人をかえるのを願ってもないさいわいと思っていることはまちがいなかった。こんな自慢たらしいことをいうのも、まんざらほらではなかった。なぜなら私は容貌の点から見て、りっぱな恋人として女に好かれるだけのものを全部そなえていたし、下男はもっていなかったが、非常に金持らしいようすをしていたからである。私は彼女に下男をもたない気楽さを味わうために二倍の金をつかっているし、自分で自分の用を足したほうがいつも十分に用が足せると信じている、また、そのうえ、かすめとられる心配もないし、スパイにつきまとわれる不安を感じずにすむといった。アンリエットもまったく同じ意見であった。こうして、ついに将来の幸福がすっかり私を酔わせてしまった。
義理がたい士官は駅馬車でパルマまで行く場合の運賃に相当する金を渡すといってきかなかった。われわれはいっしょに昼食を食べ、行李を積み込んでしっかり結わえさせて、いよいよ出発したが、席のきめ方で礼儀上ひともめした。彼が私をアンリエットの隣へすわらせようといい張ったからである。彼には補助席のほうが芽ばえはじめた恋心にとってどんなに好ましいかわからなかったのである。そこで、私は補助椅子へすわるといってきかなかった。第一、礼儀の道にもかなうし、彼女の前へすわっていれば、わざわざ顔をむけずとも目を楽しませることができる。これは恋する男がだれからも叱言をいわれずに受けられる最大の喜びだ。
私の幸福はかくも大きく思われたが、同時に一種の苦痛をしのばなければならなかった。アンリエットがおもしろいことをいって私を笑わせても、ハンガリア人がいっしょに笑えないので、つまらなそうな顔をしているのを見ると、私は彼女のいった冗談をラテン語に翻訳してやらなければならないような気がした。しかし、手ぎわよく訳せないで、冗談がくだらなくなってしまうことも少なくなかった。それで、士官は笑いもせず、かえってこっちが面目をつぶすことになった。というのも、アンリエットから私のラテン語が自分のフランス語ほどじょうずでないと思われるにちがいないからだ。それはまったくそのとおりであった。世界じゅうどの言語でも、エスプリがわかるようになるのは最後の段階である。ところが冗談は多くの場合に隠語が材料になっている。私がテレンティウスやプラウトゥスやマルティアリスを読んで笑えるようになったのは三十歳になってからであった。
馬車をちょっと修繕しなければならなくなったので、フォルリでとまることにした。たいへんにぎやかに夕食をすませてから、私はうしろ髪をひかれる思いでべつの部屋へねに行った。途中でアンリエットのそぶりが妙に思われたので、ひょっとしたら老大尉のベッドから抜けだして、私のところへ来はしまいかと案じられてならなかった。そうなった場合、ひどく几帳面《きちょうめん》らしいハンガリア人がどういうふうに裁きをつけるか見当がつかなかった。私はアンリエットを自分のものにするにも、平和に穏便にやりたかった。士官の名誉を重んじ、友好的な方法で事を運びたかった。
あの娘はいま着ている男の服しかなく、女の服はシュミーズ一枚も持っていなかった。シャツは老大尉のものと交換してつかっていたが、そんな女に出会うのははじめてで、どうも奇妙な気がした。
[ふしぎな情人たちの話]
ボローニャにとまって、上等のご馳走とますます胸に燃えたつ火にあおられて、愉快に夕食をやっていたとき、いったいどういう奇妙なめぐりあわせで、老大尉の情婦になったのか、あの律気な男は夫よりもむしろ父親といったほうがいいぐらいなのにときいてみた。彼女は微笑しながら、
「そういう因縁話は、いろいろの事情をありのままにききたかったら、大尉自身から話してもらうといいですわ」といった。
そこで、すぐ大尉に事の顛末《てんまつ》を打ち明けてくれないか、彼女も承知しているのだがといった。彼はあらためて彼女に話してもさしつかえないかときき、なにを話してもいいという許可を得てから、こうしゃべりはじめた。
「ヴェネチアの知合いのある士官が公用でローマへ出張することになったので、わしも六か月の休暇をとって、いっしょに行きました。そういう機会をとらえて、あの大都会を見ておきたかったし、ラテン語が少なくともハンガリーと同じに用いられていることをたしかめたかったのです。だが、それはわしの思いちがいで、僧侶のあいだでさえ、だれもうまくしゃべれませんでした。ラテン語を知っている人は、書くほうはえらく正確でしたが、それだけのことで、話すほうはからっきしだめでした。ですから、わしは非常に困ってしまいました。役にたつのは視覚だけで、ほかの器官はまったくだめだったのですからね。
ひと月ばかりこの古い都で退屈していましたら、アレッサンドロ・アルバニ枢機卿がナポリ向けの至急文書をわしの友人に託しました。そこで、わしらは別れることになりましたが、友人は別れるまえに枢機卿に紹介してくれました。枢機卿はわしを信用して、いずれデュティヨ氏宛ての小包と手紙を渡すから、とどけてほしい。もちろん旅費も出すということでした。このデュティヨ氏というのは、パルマ、ピアチェンツァ、グアスタラの新しい大公となった親王殿下につかえる大臣でした。そこで、私は出発まえに古人がケントゥム・ケラエと呼び、いまはチヴィタ・ヴェッキアと呼んでいる港を見たいと思い、ラテン語をしゃべる案内人をやとって出かけました。
港へつくと、ひとりの老士官がごらんのような服装をしたこの娘《こ》を連れて小形の帆船からおりてくるのが目につきました。私はその美しさにうたれましたが、そのまま忘れてしまったかもしれません。しかし、その士官がこの娘といっしょにわしと同じ旅館へ、しかも、わしの部屋から奥のほうまで見とおせる部屋にとまりました。そして、その夕方、ふたりがひとこともものをいわずに夕食を食べているのを見ました。夕食が終わると、この娘は食卓から立って出ていきましたが、士官は手紙に読みふけっていて目もあげませんでした。それから十五分もすると、彼は窓をしめ、部屋を暗くしたので、ねに行ったのだろうと思いました。翌日の朝、士官は外へ出ていきました。この娘はただひとり部屋にのこって、本を読んでいましたが、ごらんのような美人なので、ひどく私の興味をひきました。私は外へ出て、一時間後にもどってくると、士官がなにかしきりに娘に話していましたが、娘はときどきひとことふたこと悲しげに返事をするだけでした。そこで、案内の男をやって、士官の服をつけている娘に、たった一時間でも会ってくれたら、十ゼッキーニあげようといってこいと命じました。案内人はすぐに伝言を伝えて帰ってきましたが、娘はこれから軽い食事をしたらローマへたつが、ローマへ行ったら、話しあう機会をつくるのがずっと楽になるだろうとフランス語で答えたと報告しました。案内人はローマでどこへとまるかは、馬車屋に聞けばすぐにわかるからと引き受けてくれました。娘は士官といっしょに朝食をすませるとすぐに出発しました。わしも翌日ローマへ帰りました。
ローマへ帰った二日後に、枢機卿からデュティヨ氏宛ての手紙と小包、それから旅券と旅費を受け取り、急ぐことはないから気の向いたときに出かけるようにといわれました。そこで、パルマへもどる馬車を八ゼッキーニで予約しました。
実際のところ、わしはもうこの娘のことは考えもしなかったのですが、出発の前々日案内人が来て、娘が同じ士官ととまっている旅館がわかったと教えてくれました。そこで、まえと同じ申入れをしてみてほしい、ただし、翌々日出発するつもりだから、話を早くきめなければいけないといえと命じました。すると、同じ日にすぐ返事があって、娘はわしの出発する時間やわしが出ていく城門がわかったら、町から二百歩のところで待っている。そして、もしもほかに道連れがなかったら、わしの馬車へ乗っていって、どこかでゆっくり話しあってもいいということでした。
わしはこの取決めを非常にうまいと思ったので、さっそく出発の時間と落ちあう場所とを知らせてやりました。場所はポポロ門の外、ポンテ・モレの橋のそばということにしました。
娘は正確に約束をまもりました。その姿に気がつくと、わしは馬車をとめさせました。娘はわしのそばへ乗ってきて、いっしょに昼食を食べるつもりだから、話しあう時間は十分にあるといいました。しかし、娘のいうことがわかるまでにどれほど手間どったか、また娘も自分の言葉をわからせるためにどれほど骨をおったか、あなたにもとうていお察しがつかないでしょう。ほとんど身ぶりでの話合いでしたよ。とにかく、わしはこれのいうことに喜んで同意しました。
こういうわけで、われわれはいっしょに昼食をしましたが、娘はとても愛想よくしてくれました。驚いたことに、十ゼッキーニやろうとすると、それをことわって、パルマにはちょっと用事があるから、いっしょに行ってもいいといいました。わしはそうした成行きをとてもおもしろいと思って、すぐに承知しました。しかし、もしもだれかがあとをつけてきて、娘をむりやりにローマへ連れかえろうとしても、わしには暴力から娘をまもる力がないことを言葉で伝えられないのがとても残念でした。また、お互いに話しあえる言葉を持ちあわさないので、おもしろいことをしゃべってこれを楽しませたり、これの身の上話をきいてこちらが楽しんだりすることができないのも残念でした。こんなわけで、これの身の上についてはなにも申しあげられません。ただわかっていることは、名前をアンリエットといい、フランスの女で、羊のようにおとなしく、りっぱな教育を受けたらしく、またたいへん丈夫だということだけです。それから、才気にとみ、勇気もあるようで、ローマでその片鱗《へんりん》をわしに見せましたが、チェゼーナでも、将軍の食卓であなたにお目にかけたとおりです。もしも身の上をくわしく聞いて、それをラテン語に訳して聞かせてくださったら、わしもたいへん嬉しいとこれにお伝えください。というのも、わしは日ならずして、これの正式の夫となるつもりなのですから。あなたとパルマでお別れしなければならないのは、ほんとに残念です。どうぞこれに約束した十ゼッキーニのかわりに、これがいなかったらもらえるはずもなかった枢機卿からの三十ゼッキーニをやると伝え、もしもわしが金持だったら、いくらでもやりたいところだといってください。どうか、いままで申しあげたことを、これの言葉ですっかり説明してやってください」
そこで、私は彼女にいま聞いたことを忠実に翻訳してもいいかきいてみた。そして、万事ありのままに話してもらいたいという返事だったので、士官のいったことを一字一句そのままくりかえしてきかせた。
アンリエットは多少|羞《はじ》らいの色を見せながらも、気品のある率直さで、大尉の話に全然まちがいのないことを認めた。しかし、いままでの身の上の変転をあからさまに話して、われわれの好奇心を満足させてもらいたいと頼むと、それだけは容赦《ようしゃ》してくれるように大尉に伝えてほしいといった。そして、
「わたくしに嘘をつくのを禁じている規則が、真実のことをいうのをゆるさないのです」といった。
大尉が三十ゼッキーニやろうと決めているというと、わたしは絶対に一文ももらわない、もしもむりに受け取れといったら、かえって悲しいと伝えてほしいと頼んだ。そして、
「パルマへ着いたら、どこでも好きなところへとまりに行かせていただきたいのです。そして、わたしをすっかり忘れて、わたしがどうなったか人に問い合わせもせず、どこかで偶然出会っても知らないふりをしていただきたいのです」
こうしたおそろしいことを、まじめで、やさしく、全然感動のまじらない口調でいうと、老大尉を抱きしめて接吻した。が、それにはやさしい愛情よりも同情の念がはっきり見てとれた。大尉はどういう話の経緯《いきさつ》から接吻されたのかわからなかったが、私が説明してやるとがっかりしたようすであった。そして、その命令にはこころよくしたがうが、パルマへ行ってから生活に困らないだけの目あてがあるのかどうかきいてほしいと頼んだ。彼女はあるともないともいわなかったが、ただ今後の身のふりかたについてはけっしてご心配くださらないように伝えてほしいと答えた。
こういう話合いのあとで、三人ともすっかりしめっぽい気持になってしまった。そして、ものの十五分もお互いに物をいわず顔も見合わせずにいた。やがて、私は自分の部屋へ帰るために腰をあげ、ふたりにお休みなさいをいったが、アンリエットの顔はまっ赤に上気していた。
[長い夢と譲渡申し込み]
ベッドにはいりながら、私は独り言をいいはじめた。非常に気がかりなことがあって心が動揺していると、いつも独り言をいうのが私の癖《くせ》だった。私は黙って考えているだけでは気がすまず、なにかしゃべらずにいられないのだ。そういうときは心のなかの魔《デモン》と語りあうような気がする。
アンリエットの断固とした言葉が私を躍起《やっき》にさせた。ふしだらな女らしい外観にきわめて高尚な感情をまじえているあの女はいったい何者だろう、と私はひとりごちた。パルマへ着いたら絶対に好きかってにさせてほしいという。すでに身をまかせた士官にたいしてさえそういう要求をしているのだ。だから、まさか私には同じ要求はしまいと自惚れるわけにはいかない。とすると、いままでの希望はいっさいおさらばだ。彼女はいったい何者だろう? パルマへ着いたら、もとからの恋人と出会う確信があるのか、れっきとした夫か、身分のいい両親がいるのか、それとも、はなはだしい放縦《ほうじゅう》な精神にかられて、自分の値うちに信頼し、おそろしい堕落の底におちるか、彼女の足もとへ王冠をささげるような恋人を得て幸福の絶頂へのしあがるか、いちかばちか運命の神にいどんでみようとしているのだろうか。それはさしづめ気の違った女か人生に絶望した女の目論見だ。しかも、彼女は無一物だ。それなのに、なにもいらないふうをして、あの士官が提供するものを受け取ろうともしない。士官からは顔を赤らめずに多少のものは受け取れるのだし、むしろ当然の権利として要求することもできるのに。彼女は恋も覚えずに彼の愛情を受け入れて、全然恥じるようすもなかったのに、なぜ三十ゼッキーニの金を受け取るのをためらうのだろう。
知りもしない男の気まぐれに身をまかせるよりも、人から救いを受けるほうが、ずっと下劣なことだと思っているのだろうか。その金は、パルマの街路にひとりで立ったときの貧困や危険から身をまもるために必要欠くことのできないものであるのに。
おそらく、彼女は、大尉の金をことわることで、大尉と行なった過失を正当化するつもりなのだろう。つまりローマで自分を所有していた男の手からのがれるための方法にすぎなかったと信じさせるためにちがいない。もちろん、大尉もほかに考えようはあるまい。チヴィタ・ヴェッキアで窓越しに見ただけで、彼女に矢も楯もたまらない恋心を起こさせたとは、彼としてもとうてい想像できかねることだから。
こう考えてくると、彼女の仕打ちにもうなずけるところがあり、彼にたいして申訳がたつことになる。しかし、私にたいしてはそうはいかぬ。彼女ほど頭がよければ、私が彼女に惚れこまなかったら、いっしょについて来はしなかったことはわかりきっているにちがいない。そして、また私に過去の過失をゆるしてもらおうとすれば、その方法がひとつしかないことも知らぬはずはない。彼女にもいろいろの美徳があるにちがいないが、しかし、それは女が恋いこがれる男の願いにたいして与える月並みの報酬を私にたいしてこばませるような美徳であってはならない。もしも彼女が美徳をひけらかして私をだませると思っているなら、そんなくだらぬ自惚れはどうしてもはらしてやらなければならない。
こうした独り言のあとで、私は眠りにはいったが、あした、出発のまえに、いっさいをあきらかにしようと決心した。まず老大尉にしてやったのと同じ待遇を私にもしてほしいといおう。そして、もしもことわられたら、パルマへ着かないうちでも、ひどい侮辱的な軽蔑を見せつけて、腹いせをしてやろう、とひとりごちた。彼女が持ってもいない美徳をひけらかして、真実であれ虚偽であれ、なんらかの愛情のしるしを私にこばむことができないのは明白なことのように思われた。もしもその美徳が見せかけのものなら、そんなものの犠牲になる手はない。士官については、彼の話からおして、私が彼女に恋の告白をしても、けっして悪く思わないことはたしかであった。正しい分別をもっていれば、彼は当然中立の立場にたつべきものだった。
こうした理屈が円熟した英知によって織りなされ指示されたもののような気がして、私はすっかり満足し、決意をかためて眠りにおちた。そして、現実におとらず楽しい夢を見た。その夢のなかで、アンリエットはにこやかに顔をほころばせながら私の前にあらわれた。驚いたことに、彼女は女の帽子をかぶっていた。そして、自分の立場を説明し、私の推量がまちがっていることを次のような言葉で証明した。
「わたし、あなたがつみかさねたいろいろのひどい邪推をうちくだくために、あなたをお愛ししていることを申しあげ、それを証明しにきましたのよ。わたしにはパルマにひとりも知合いがいませんし、またわたしは気の違った女でも人生に絶望した女でもありませんわ。ただあなただけのものになりたいと思っている女なのです」
彼女はこの言葉にたがわず、私の腕に身をまかせた。そして、私の熱狂は彼女の熱狂によって、いやが上にもかきたてられるのであった。
この種の夢では、一般に夢みる男は危機の訪れる一瞬まえに目をさますものである。自然は真実をまもろうとして、幻想が最高度に達するのをゆるさない。眠っている男は完全に生きているのではない。しかし、自分と瓜《うり》ふたつの男を生けるがままに行動させることのできる瞬間には、完全に生きているにちがいない。しかし、なんという不思議! 私は全然目をさまさず、ひと晩じゅうアンリエットを腕に抱きしめてすごした。じつに長い夢だった! 夜明けに目をさまして、夢が消えさるまで、夢だとは思われないほどであった。それで、ものの十五分も身動きもせず、あきれかえって、夢に見た幾多の場面を記憶のなかに再現させた。眠っていながら、「これは夢ではない」と何度もいったのをおぼえているが、部屋のドアに内側から閂がかけてあるのを見つけなかったら、とうてい夢だとは思われなかったろう。さもなければ、アンリエットが一夜を私とともにすごして、私が目をさますまえにハンガリーの老士官のところへ帰っていったとしか思われなかったにちがいない。
この楽しい夢のあとで、私は地獄におちるのもいとわぬほど、彼女に恋いこがれてしまった。しかし、それも当然のことである。疲労と空腹にせまられながら、夕食をとらずにねた男を想像していただきたい。彼は欲望のなかのもっとも抵抗しがたいもの、つまり睡眠のなかに落ちこむであろうが、しかし、彼は山海の珍味をもりあげた食卓のまえにすわる夢を見るであろう。そして、どういうことがおこるか? その結果は必然だ。胃袋は、まえの日以上に、彼に休息を与えない。彼には十分に食欲を満たすか、衰弱で死ぬかするより道がないのだ。
私はすぐに服をつけた。そして、馬車に乗るまえに、アンリエットをわがものにできるかどうかたしかめよう。もしだめだったら、それでも私の馬車で彼女を士官といっしょにパルマへ送り、自分はボローニャにとどまろうと決心した。しかし、礼儀の道にもそむかず、また、あの正直な男から非難されないように、彼女と談判をするまえに、ハンガリーの大尉と腹を割って話しあうのが私の義務だと思った。
読者のなかには、相当賢明な人でも、「そんなくだらぬことをそんなにおおげさに考える必要はあるまい」という人があるかもしれない。そうした読者の言葉は、もしも人を恋することができないか、恋したことが一度もなければ、まさに正しい。彼にとっては、恋愛はくだらぬことでしかありえないのだから。年齢は私を無能力にし、私の情欲をしずめてしまった。しかし、私の心は老いず、私の記憶は若いころとかわらずいきいきとしている。そして、こういう種類のことをくだらないと見るどころか、死ぬまでこれを私の生活の第一の眼目とできないことを、非常に苦痛に思っている。
私は服を着ると、旅の道連れの部屋へ行き、朝の挨拶をして、ふたりとも顔色がとてもいいと喜びをのべてから、士官に向かってアンリエットに恋いこがれてしまった旨《むね》を報告し、私の情婦になるように口説《くど》いてはいけないだろうかと相談した。そして、こういった。
「あの人はパルマへ着いたら自由にしてほしい、自分のことを問い合わせないようにとあなたに頼みましたが、彼女にそういわせたのは、あの土地に恋人がいるからにちがいありません。しかし、三十分もふたりだけで話しあうことをゆるしてくださったら、ぼくはその恋人にとってかわる自信があります。もしも彼女がぼくの申し出をことわったら、ぼくはこの土地に残ります。あなたはぼくの馬車で彼女といっしょにパルマへ行き、馬車は建て場にあずけて、預り証を送ってくれればいいのです。ぼくはその預り証で都合のよい方法によって馬車を引き取りますから」
すると、善良な大尉はこう答えた。
「朝飯をすませたら、わしは大学を見に行くから、そのあいだふたりで話しあってみなさい。二時間もしたらもどってきますが、それまでにお考えどおりに彼女を納得させていただきたいものです。もしも彼女が決心をかえないようでしたら、馬車はたやすく見つかるでしょうから、あなたは自分の馬車でおもどりください。とにかく、彼女をあなたの手にゆだねることができたら、わしもたいへん満足です」
[いきりたった告白]
私は事が半分まとまったのを喜び、このぶんなら芝居もほどなく結末がつくだろうと気をよくして、アンリエットにボローニャの町の名所を見たくはないかときいた。彼女は女の服があれば見に行きたいが、こんな男のなりでいって、町じゅうの人から変な目で見られるのはいやだと答えた。朝食をすませると、士官は出ていった。私はアンリエットに、あなたと折入って話がしたいと頼んだので、士官はぼくたちをふたりきりにするために出ていったのだといった。そして、彼女の前に腰をおろし、
「あなたがきのう大尉に与えた命令ですがね、パルマで別れたら、わたしのことを忘れろ、わたしがどうなったか人に問い合わせるな、どこで会っても知らないふりをしていろというあのお言葉は、ぼくにたいしても同じですか」
「あれは命令なんかじゃなく、お願いだったのですよ。いろいろの事情から、ああいうことをお頼みしなければならなくなったのです。あの人にしても、ことわる権利はないのですから、あの願いをかなえてくれるのに否応はあるまいと固く信じておりますの。あなたについても、わたしのことを穿鑿《せんさく》したいお気持があると考えたら、きっと同じことをお願いしたでしょうよ。あなたはわたしにいろいろ親切にしてくださいました。大尉がああいうお願いを聞いたあとでも、わたしのことを気にかけるようなことがあると、わたしのいまの事情から見て、かえってわたしの身を破滅させ、たいへん苦痛をなめさせることになるのですが、あなたの場合には、それがもっとひどくなるかもしれません。あなたもわたしに好意を寄せてくださるなら、そういうことはすべてお察しくださったはずですわ」
「しかし、あなたにしても、ぼくの好意がおわかりなら、あなたをお金もなし、売るものもなしで、言葉も通じない町へたったひとり置き去りにできないことは、お察しがついたはずですよ。あなたが友情をいだかせた男が、あなたご自身からいまの境遇をうかがいながら、黙って見すてることができるとお考えですか。そうお考えなら、あなたは友情というものがわからないのですよ。もしもその男がおっしゃるようにするなら、それはあなたの友人ではないのです」
「でも、大尉はわたし友人だと思っていますが、あの人のいったことお聞きになったでしょう、あの人はわたしを忘れてくれるのですよ」
「大尉のあなたにたいする友情がどういう種類のものか、また大尉にどういう能力があってあなたを忘れられると考えているのかぼくにはわかりませんが、もしもあなたの頼んだことを安直に聞きとどけることができるなら、あなたのいう彼の友情は、ぼくがあなたに寄せている友情とはまったく違ったものらしいですね。この際、ぜひいっておかなければなりませんが、あなたをいまのような状態で見すててしまうことは、いくら頼まれても、ぼくには気楽にできることではありませんし、パルマへ行ったら、なおのこと、お望みのようにするのは、まったく不可能になるでしょう。なぜなら、ぼくはあなたに友情を寄せているだけでなく、心からお慕いしているからです。あなたを完全にぼくのものにするか、それとも、ここでお別れして、あなたを大尉といっしょにパルマへたたせるか、ふたつにひとつをえらばなければならない。ぼくはそれほどあなたをお慕いしているのです。なぜなら、もしもパルマへ行って、あなたが恋人か、ご主人か、あるいはりっぱなご家族といっしょになり、あなたがどうなったか知ることもかなわない身になったら、ぼくはもっとも不幸な男にならざるをえないのです。『忘れてちょうだい』というのはやさしいことです。しかし、フランス人はそんなに簡単に忘れることができるかもしれませんが、イタリア人には、ぼく自身の気持でおしはかると、そんな奇妙な能力はありません。さあ、この際、きっぱりとお考えをおっしゃってください。パルマへお供してもいいのか、ここでお別れすべきか。ふたつにひとつです。おっしゃってください。ここでお別れをするなら、万事終りです。あしたすぐにナポリへたちます。そうしたら、あなたから吹き込まれた情熱もきっとおさまるでしょう。しかし、パルマまで行けとおっしゃるなら、あなたのお心をわが物として、幸福な男にならせてやると保証してくださらなければいけません。ぼくはあなたのただひとりの恋人になりたいのです。もちろん、お望みなら、いろいろの条件をおつけになってもけっこうです。たとえば、身も心もささげてあなたにかしずき、ふたりとないような従順さでお言葉にしたがって、ご寵愛を受けるにふさわしくならないかぎり、ぼくのものにはならないというような。さあ、あのあまりにも幸福なお人好しが帰らないうちに、どちらかおきめください。あの人にはもうなにもかも話してあるのですから」
「あの人はどういう返事をしたのです」
「あなたをぼくの手に託することができたら嬉しいといいました。だが、そのふくみ笑いはどういう意味なのですか」
「まあ、笑わせてちょうだいよ、お願いですから。だって、わたし、あなたのようにいきりたった恋の告白なんて、いままで考えたこともなかったんですもの。恋の告白はごくやさしい言葉でいうべきものなのに、ふたつにひとつ、どちらかにきめろなんて、女の人にいう言葉ではありませんよ」
「よくわかりました。ぼくの言い方は小説のなかで見るように、やさしくもなく、せつなげでもないかもしれません。しかし、これは小説ではなく実話なのです、きわめて真剣な実話なのです。ぼくはいまほど切羽つまった気持になったことはありません。恋する男が一生を左右する決心をしなければならない土壇場《どたんば》に追い込まれたときの必死の気持をお察しください。そして、考えても見てください。ぼくは火のように燃えながらも、あなたにたいして失礼なことはなにひとつしませんでした。もしもあなたがお考えを固執《こしゅう》したら、ぼくは一大決心をしなければなりませんが、それはあなたをおびやかすようなことではなく、あなたの尊敬をかちうるような英雄的行為なのです。それからまた、ぐずぐずと時間をつぶしていられないことも考えてください。おきめくださいというのはそっけない言葉であるはずはありません。それどころか、あなたを尊敬して、あなたとぼくの運命の決定権をおまかせしているのです。お慕いしている気持をわかっていただくために、世間のうすばかどものように、泣きながら憐れみを乞わなければいけないとお思いなのですか。いや、ぼくはあなたから愛される資格があると確信していますから、憐れみをかけていただく必要はありません。では、どこへでもお好きなところへおいでなさい。だが、ぼくを出発させてください。もしもなにかのっぴきならないお気持から、あなたを忘れるようにお望みなら、あなたから遠くはなれて、もとの自分にもどる悲しい努力をいくぶんでも楽にさせてください。このままいっしょにパルマへ行ったら、ぼくは気が狂ってしまうでしょう。お願いですから、この際、よくお考えになってください。『とにかくパルマへいらっしゃい。けれども、わたしに会おうとなさってはいけませんよ』なんておっしゃったら、ぼくにたいしてゆるしがたい罪をおかすことになるのですよ。まじめにふるまおうとなさるなら、ぼくにそういうことをおっしゃれないのはおわかりになるでしょう」
「もちろんわかりますわ。わたしをお愛しくださるというのがほんとうなら」
「もちろんです。神かけてお慕いしているのですから。では、おきめください。さあ、早く」
「あいかわらず同じ口調ですのね。まるで怒っていらっしゃるみたいですわ」
「とんでもない。ぼくはけっして怒ってなんかいません。しかし、もう無我夢中なのです。切羽つまった気持なのです。考えてみると、ぼくは自分の奇妙な運命がうらめしくなりますし、ぼくの目をさましたあの警官どもが憎らしくなりますよ。あいつらが来なかったら、あなたにお目にかかることもなかったのですからね」
「では、わたしとお知合いになったのを悔んでいらっしゃるの」
「それは当然じゃありませんか」
「そんなことありませんわ。だって、わたしまだきめてないのですもの」
「これでようやく息がつけるようになりました。きっとパルマへ行けとおっしゃってくださるのでしょうね」
「ええ、パルマへいらっしゃい」
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第二十四章
[レッジォの夜]
ついに局面が一変した。「パルマへいらっしゃい」のひとことは私を恐怖から愛情へ一転させた幸福な急変であった。私の張りつめた気持はたちまちのどかな喜びにかわった。私は彼女の足もとにうずくまり、膝を抱きしめて、愛情と感謝をこめて何度となく接吻した。もはやいきりたった熱狂もおさまり、ののしるような口調も消えて、ただやさしく、すなおに、感謝をこめ、情熱を吐露《とろ》して、私は誓った。彼女の愛に値すると思わないうちは、手にさえ接吻を求めないと。あの気高い女は、私がたちまち絶望の口調からいきいきとした愛情へ移ったのを見て、すっかり驚き、私よりもはるかにやさしいようすで、お立ちなさいといった。そして、
「わたしを愛してくださることはよくわかりました。これからはあなたが心変りをなさらないように、わたしもできるだけのことをします」といった。
わたしもあなたにおとらずお愛ししているのですといってくれた言葉は、こよなき喜びであった。そして、彼女の美しい手へ唇を押しつけているとき、大尉がもどってきて、お祝いをいってくれた。私は嬉しさにわくわくしながら、馬の指図をしてくると、ふたりを残してとびだした。やがて、三人は満ち足りた思いで出発した。
レッジォへ着く途中で、大尉はパルマへはわしひとりで行かせてもらいたいといいだした。もしもいっしょにパルマへ着いたら、あらぬ噂をたてられ、いろいろ聞かれるだろうし、とくに君たちふたりのことが話題にのぼるだろうというのだった。私たちも彼の忠告を非常に賢明だと思い、その夜をレッジォですごし、大尉だけ駅馬車でパルマへ直行させることにきめ、そのとおりに事を運んだ。彼の行李《こうり》をほどいて小さい馬車に乗せると、彼は翌日われわれのところへ昼食をとりに来ると約束して別れていった。
あの義理がたい男の仕打ちは、よけいな気兼ねをさせまいとする思いやりのふかい感情から出たもので、アンリエットと私をたいへん喜ばせた。事情がまったく新しくなったいま、もしも三人でレッジォにとまることになったら、どういうふうにしたらよかっただろう。アンリエットは、名誉をまもるためには、大尉のベッドへねるわけにいかず、さりとて私のベッドへ来たら、寛大な大尉の気にさわらずにいなかったろう。そういう遠慮がどんなに滑稽なことか、彼女だけでなく、われわれふたりも同時にみとめずにいられなかったろうが、しかし、いくら滑稽でもせずにいられない気兼ねだった。愛は気高い子どもで、ときには暗闇や隠しごとをえらぶが、極度に羞恥心がつよい。だから、その羞恥心にさからうようなことをすると、堕落させられたと感じるが、事実またその品位は少なくとも四分の三がとこ下落するのである。われわれは、アンリエットも私も、あの律気な男の記憶を遠ざけなければ、幸福にひたりきることができなかった。
私はすぐふたりのために夕食を注文した。このすばらしい幸福は自分の能力をはるかにこえると思うほどであったが、それでも私はなにかふさいだようすをしていた。アンリエットも同じように気持がしずんでいたので、私を責めることができなかった。ふたりはあまり食べず、ほとんど口をきかなかった。なにをいってもくだらないことのように思われたのである。お互いになにかおもしろい話題を見つけようとしたが、どうにもならなかった。これからいっしょにねようとしていることは、ふたりとも承知していたが、それを口に出していうのがはしたないような気がした。なんという夜だったろう! アンリエットはなんというすばらしい女だったろう! 私があんなに夢中になって愛した女もないし、あんなに私を幸福にしてくれた女もない!
ふたりが契りをむすんでから三、四日たって、もしも私が恋の告白をする勇気がなく、ナポリへ出発する決心をしたといったら、きみは金も持たずに知合いの全然いないパルマへ行って、どうするつもりだったのだと、思いきってきいてみた。彼女は、
「それはもちろんたいへん困ることになったでしょうが、あなたが愛してくださっていることを信じていましたし、わたしもあなたをお慕いしていましたので、きっとあなたはわたしを見すてることができず、いつかはお気持をおっしゃってくださるでしょうと思っていました」と答えた。
そして、さらにつけくわえて、
「あなたがわたしをどう考えていらっしゃるのか早く知りたかったので、大尉にあのような決心を通訳していただいたのです。それも大尉がわたしの決心に反対したり、わたしを引きとめたりできないとわかっていたからですわ」といった。
そして、最後に、
「大尉にわたしのことはもう考えないでほしいといった頼みのなかには、あなたははいっていなかったから、あなたがたんなる友情からでもなにかお役にたつことはないかときいてくださらないはずはないと思っていましたし、そうしたら、あなたのお気持をよく見きわめて、なんとか決心をつけようと考えていたのです」とつけくわえた。
そして、もしもわたしが淪落《りんらく》の女になったら、それは夫や義父のせいなのだといい、あの人たちは人非人だときめつけた。
パルマに着いても、私はやはりファルッシの名を名のった。それは私の母方の苗字である。彼女自身もフランス人、アンヌ・ダルシという名前を書いた。役人の調べにたいして、べつに申告するものもないと答えていると、はしっこそうな若いフランス人が寄ってきて、なにかご用をいたしましょうと声をかけ、建て場の旅館へとまるよりもアンドルモンのところへ案内させたほうがいい、部屋も料理も一流だし、フランスの葡萄酒があるからといった。このすすめがアンリエットの気に入ったようだったので、私はそのアンドルモン旅館に落ちつくことにした。部屋はなかなかりっぱだった。そこへ案内してくれた青年を日当でやとうことにし、旅館の亭主とこまかい契約をしてから、いっしょに馬車をあずけにいった。
[パルマでの奇遇]
それから、アンリエットには昼食までにもどってくるといい、日雇いの下男には控え室で待っているように命じて、ひとりで外へ出た。
新しい政府〔オーストリア王位継承戦争の結果、スペイン王フェリペ五世の第二皇子フェリッペがパルマ公領を支配していた〕の支配するこの町では、いたるところに密偵がいろいろの恰好をして目を光らせているにちがいないと思った。それで、下男を連れて歩くと、役にたつよりも災難の種になると考えたのだ。この町は父の故郷だとはいえ、だれも知合いはなかったのだが、ひとりで歩いても、ながく道にまようことはあるまいと思った。
町を歩いても、イタリアにいる気が全然せず、いっさいがウルトラモンタンふうであった。道行く人々もフランス語やスペイン語を話し、これらの言葉を話せないものは、ごく低い声でしゃべっていた。私はあてもなく歩きまわりながら、左右を見て下着類を売る店をさがしたが、どこにそういう店があるのか人にきいてもみなかった。が、ついに一軒の店を見つけた。
私ははいっていって、カウンターのそばにすわっていた太ったおかみさんに声をかけた。
「奥さん、いろいろ買いたいものがあるのですが」
「では、フランス語の話せるものを呼んできます」
「それにはおよびません、ぼくはイタリア人ですから」
「まあ、嬉しい。イタリアの方は、いまでは、もうごく少ないのですよ」
「どうして少ないのです」
「では、ドン・フェリッペがお着きになったのをご存じないのですか、お妃のマダム・ド・フランスも途中までいらっしゃっておりますのよ」
「それはけっこうですね。お金がたくさん動いて、品物もたっぷり出まわるでしょう」
「それはそうですが、なんでもお高くてねえ。わたしどもは、なかなか新しい風習になじめません。フランスの自由とスペインのきびしさの奇妙なごちゃまぜでしてね、頭がくらくらしますよ。ところで、どういうお品を差し上げましょう」
「さきにことわっときますが、ぼくはけっして値切りませんよ。だから、そのつもりでやってください。掛け値なんかしたら、もう二度と来ませんからね。ほしいのは、女のシュミーズを二十四枚つくるだけの上等のきれと、ペティコートやコルセットをつくる畝織《うねおり》の綿布と、モスリンと、ハンケチと、そのほかお持ちになっているいろいろの品を。なにしろ外国のものですから、正直にやってもらえるかどうか見当がつきませんよ」
「いいえ、わたしを信用してくだされば、おぼしめしどおりにいたしますよ」
「どうやら、あなたを信用してもよさそうですね。それから、仕立屋をさがしてもらいたいのです。入用のものを至急につくらせる必要があるので、家へきて仕事をしてもらいます」
「ドレスもですか」
「ドレスもボンネットもケープも、全部です。奥さんだからほんとうのことをいいますが、彼女は裸同然なのです」
「もしもお金がおありなら、不自由はおかけしません。責任をもって取り揃えます。お若い方ですか」
「ぼくよりも四つ年下で、家内なのです」
「それはまあ、けっこうですこと。お子さまはおありですか」
「まだありません。しかし、おっつけできるでしょうね。目下そのために骨をおっていますから」
「わかりました。それはよござんすね。では、すぐに腕のいい仕立屋を呼びにやりましょう。そのあいだに、お好きなものをおえらびになってください」
私は店にある品物のうちでいちばん上等なのをえらんで、金を払った。そこへ仕立屋の女がやってきた。私はおかみさんに、アンドルモン旅館にとまっているが、生地をだれかにとどけさせてくれたらありがたいといった。
「ご昼食は旅館でなさるのですか」
「そうです」
「では、よろしゅうございます。万事おまかせください」
そこで、娘を連れてきた仕立屋に、下着類をもたせていっしょに外へ出た。それから、途中で絹の靴下と糸を買うためにちょっと足をとめ、旅館の前にあった靴屋を連れて、部屋へあがっていった。
じつに楽しいひとときだった。なにも知らされていなかったアンリエットは、テーブルの上へ積まれた品物を見て、非常に嬉しそうであった。しかし、喜びのしるしとしても、私のえらんできた品々の材質のいいのをほめただけで、そのためにはしゃぎだしたり、下品なお追従《ついしょう》をいったり、おおげさな文句で礼を述べたりするようなことは全然なかった。
私が仕立屋を連れて帰ってくると、日雇いの下男は私の部屋へはいってきたが、アンリエットは呼ばれるまで控え室にもどって待っているようにと、やさしくいいつけた。仕立屋は生地をひろげ、シュミーズをつくるために裁断にかかった。靴屋は寸法をとった。上履きをもってくるようにいうと、すぐに出ていって、十五分もすると、アンリエットと私の上履きをもってあがってきた。下男はまた呼ばれもしないのに、いっしょについてきた。靴屋はフランス語がしゃべれたので、アンリエットにいろいろの落し話をしてきかせた。しかし、彼女はその話をさえぎって、そばにつったっていた下男になにか用があるのかときいた。
「いいえ、奥さま、ここでご命令を待っておりますので」
「用事があったら呼ぶからって、さっきいったでしょ」
「おふたりのうちでどちらがわたしのご主人なのでしょうか」
「どっちでもないよ」と私は笑いながらいった。「ほら、日当だ。さっさと帰っていきたまえ」
アンリエットは靴屋の話に笑い興じたが、彼はアンリエットがフランス語しかしゃべらないのを見て、イタリア語の先生についたらどうかとすすめた。彼女はどこの国の人かときいた。
「フランドルの人です。とても学者ですよ。年は五十がらみで、賢い人です。お礼は一時間で三リラ、二時間だと六リラで、そのつど払ってほしいといっています」
「ねえ、その先生についてもいいでしょうか」と、彼女が私にきいた。
「そりゃいいね、気晴しにもなるだろうから」
靴屋はあしたの九時によこすと約束して帰っていった。
仕立てのほうは、母親が裁断して、娘が縫いはじめた。しかし、ひとりでは仕事がはかどらないので、もうひとり、フランス語のしゃべれる娘をさがしてほしいと頼んだ。
仕立屋はその日のうちに連れてくると約束したが、それと同時に、自分の息子を日雇いの下男につかってもらえまいかときいた。そろそろフランス語で用が足せるようになったし、手癖がわるくもなく、無作法でもなく、スパイもしないと保証した。
アンリエットがそういう下男なら雇ったほうがいいといったので、その女はすぐ娘にその息子とフランス語を話せるお針子を呼んでこいと命じた。そのお針子はいとしの妻にはいい話し相手になるだろう。
仕立屋の息子は十八歳の少年で、多少は勉強もしていた。おとなしくて正直そうだった。名前をきくと、カウダーニャと答えたので、私はびっくりしてしまった。
読者もご存じのとおり、私の父はパルマの出身で、父の姉妹のひとりがカウダーニャという男と結婚していた。
「すると、おもしろいことになるぞ。この仕立屋がぼくの伯母さんで、ぼくの下男が従弟《いとこ》ということになるのかな。だが、だまっていよう」と、私はひとりごちた。
アンリエットは仕立屋にいっしょに昼食をさせてもいいかときいた。私は今後はそういうこまかいことまでいちいち相談をかけないでほしい、きみがどんなことをしようと、ぼくに異存はないのだからといった。彼女は笑いだして、感謝した。
そこで、私は小さい財布に五十ゼッキーニ入れて、彼女に渡し、ぼくにはわからない、こまごました支出はこれで払うようにといった。彼女はこの贈り物はたいへん嬉しいとそれを受け取った。
[アンリエットの告白]
食卓につこうとしていたら、ハンガリーの士官がはいってきた。アンリエットはパパと呼びながら駆けよって接吻し、毎日昼食にきてほしいといった。善良な男は、女たちがアンリエットのために仕事をしているのを見て、相好をくずして喜んだ。そして、浮気の相手をうまいところへあずけたと悦にいった。私が接吻しに行って、この幸福もすべてあなたのおかげだというと、彼の喜びは絶頂に達した。
昼食は非常にうまくまた楽しかった。アンドルモン旅館の料理番はたいへん優秀であった。アンリエットはなかなかの美食家であり、ハンガリー人は非常な健啖家《けんたんか》であった。私はそのいずれでもあり、十分彼らに対抗できた。宿屋の亭主が自慢する葡萄酒もいろいろ味わってみたので、昼食は楽しい極みであった。
若い下男は母親やほかの人々にうやうやしく給仕をし、おおいに私の気に入った。妹のジャンニナはフランス娘を相手に仕事にいそしんでいたが、ふたりはもう昼食をすませていた。
デザートになったころ、下着の店のおかみさんがふたりの女を連れてはいってきた。ひとりは婦人帽子屋で、フランス語を話し、もうひとりはいろいろの婦人服の見本を持ってきた。私は、髪飾りや帽子やアクセサリーはアンリエットに好きなものを注文させたが、ドレスの選択については、彼女の趣味を尊重しながらも、口出しをせずにいられなかった。
そして、むりにすすめて四着つくらせた。彼女がそれをこころよく承知してくれたので、むしろこちらから感謝したい気持であった。彼女の心をしばりつければそれだけ自分の幸福が大きくなるような気がしたのであった。われわれはこうして最初の一日をすごしたが、一日でこれ以上のことはだれにもできまい。夕食のとき、彼女がいつもほど快活でなく見えたので、そのわけをきいた。
「ねえ、あなた、あなたはわたしのためにたくさんのお金をつかってくれましたが、もしもわたしからよけいに愛されたいためでしたら、むだな費用でしたわ。だって、わたしの愛情がそのために一昨日よりもつよくなったわけではありませんからね。あなたのなさることがわたしを喜ばせるのは、ただあなたが十分に愛をささげる値うちのある方だということがますますわかってきたからなのです。けれど、わたしはそういうことをたしかめる必要もないくらいですわ」
「ぼくもそう思うよ、かわいいアンリエット。そして、喜んでいるんだよ、きみの愛情がこれよりつよくなれないところまで来ているのを知ってね。しかし、わかってもらいたいな。ぼくはきみをもっともっと愛したいと思えばこそ、こんなことをしているのだよ。きみが女の衣装を着て、光り輝くのが見たいのだよ。だけど、きみをこれ以上輝かせられないのが残念なのだ。きみがぼくのしたことを喜んでくれれば、ぼくだってどんなに嬉しいかわからないじゃないか」
「もちろん喜んでいるわ。それに、わたしを妻だと呼んでくださるのですから、見ようによっては、あなたのなさり方は正しいわ。けれども、あなたがたいへんなお金持でないかぎり、わたしが気がとがめてならないのも、わかってくださるでしょ」
「ああ! かわいいアンリエットよ、頼むから金持だと思わせておいておくれ。そして、ぼくに散財させるなんて心配しないでおくれ。きみはぼくを幸福にするためにだけ生まれてきた人なのだ。ただ永久にぼくと別れないと、それだけ考えていてほしい。どうだい、そう希望してもいいかね」
「わたしだって、そう願いたいわ。けれど、将来のことはだれにも請け合えないわ。あなたは自由の身ですの、それともだれかのやっかいになっていらっしゃるの」
「いや、文字どおり自由の身なのさ。だれのやっかいにもなってやしない」
「けっこうだわ。そうきいて、わたしとても嬉しいわ。では、だれもわたしからあなたをとっていくことはできないのですね。けれど、悲しいことに、わたしが同じようにいえないのはおわかりですね。きっとだれかがわたしを捜しているにちがいないわ。もしも見つかったら、わけなく連れていかれてしまうのよ。もしもあなたの腕のなかからもぎとられたら、わたしどんなに不幸になるでしょう」
「そうしたら、ぼくは死んでしまうよ。きみの話をきいていると、身体がふるえてくる。この土地でそういう不幸のおこる心配があるの?」
「知合いのだれかに見つからないかぎり、そんな心配もないのですが」
「そのだれかがパルマにいるらしいようすなの?」
「そういうはずもないと思いますが」
「それじゃあ、よけいな取越し苦労をして、ぼくらの愛情をおびえさせるのはよそうよ。お願いだから、チェゼーナのときのように陽気にしていておくれよ」
「でも、チェゼーナでは、わたしとても不幸だったのよ。でも、いまはとても幸福よ。けれど、わたしがふさいでいても気になさらないでね、わたし、根はとても陽気なんですから」
「チェゼーナでは、ローマでいっしょに暮らしていたフランスの士官に追いつかれやしないかと、いつも気をもんでいるように思われたが」
「とんでもない。あれは義理の父親だったんですが、あの人は、わたしが旅館から見えなくなっても、すぐわたしの行方をさがそうと騒ぎたてはしなかったと思いますわ。むしろやっかいばらいができて喜んでいるにちがいないわ。わたしを悲しませたのは、愛してもいないし、話をすることもできない人のお世話になっていることでした。また、あの人を幸福にしたと喜ぶこともできなかったからです。なぜなら、あの人はわたしに一時的な興味をもっただけで、それを十ゼッキーニと値踏みしたわけですが、その興味を満足させてあげたのが、かえって重荷になったらしいからです。だって、あの人はあまりお金がなかったようでしたからね。それからまた、わたしはもっとみじめな理由で不幸でした。わたしあの人を愛さなければいけないと思って、一所懸命につくしましたの。あの人も根が正直だったので、むりをして相手をしていましたが、そのために、健康をそこねやしないかと心配だったのです。わたし、そう考えると、とても悲しい気持がしましたわ。だって、お互いに愛しあってもいないのに、義理がわるいと思って、かえって苦しめあうようなことをしていたのですからね。もともと愛情がなければできないことに、お義理で血道をあげるなんて、ばからしいことでしたわ。もうひとつ気にかかっていたのは、あの律気な人が欲得ずくでわたしをおさえていると人から思われやしないかということでした。こういういろいろの理由で、わたしはじめてお目にかかったときから、あなたが好きになったのですが、あなた、それにはお気づきにならなかったでしょ」
「なに? ぼくを好きになったのは、自尊心からではなかったの?」
「ええ、白状すれば、そうなのです。でも、しかたがないわ。あなたにはほんとうのわたしを知っていただかなければ気がすみませんからね。わたし、こんなばかなまねをしましたが、それは義理の父がわたしを修道院へ入れようとしたからですの。けれど、わたしの身の上はあまり穿鑿《せんさく》なさらないでね」
「わが天使よ、ぼくはよけいなことをきいてきみをうるさがらせるようなことはしないよ。それじゃあ、将来のことを気にしてふたりの平和をかきみださないように、現在だけ考えて愛しあおうよ」
それからふたりはお互いに熱い思いを抱いてねに行ったが、その思いは、翌朝ベッドをおりるときにはいっそうつのっていた。それから三か月のあいだ、私は同じ気持で彼女を愛し、それをこよない喜びとしてすごした。
[女の才気について]
翌日、九時に、イタリア語の先生が訪ねててきた。顔立が上品で、礼儀正しく、謙遜で、口数は少なかったが、話がじょうずで、返事をするにもつつましやかで、昔風の教育を受けていた。そして、最初から、コペルニクスの理論はキリスト教徒には学者の仮説としてしか認められないといって、私を笑わせた。私はあれは神の学説にほかならない。なぜならあれは自然であるし、聖書はキリスト教徒が物理学を学ぶための本ではないのだからと答えた。彼の笑い方には、タルテュフばりの偽善的なものがうかがわれた。しかし、アンリエットを楽しませ、イタリア語を教えてくれるなら、それ以上に望むところはなかった。彼女は毎日二時間の授業を受けたいから、六リラあげるといった。パルマの六リラはフランスの五スーにあたる。授業のあとで、彼女はなにか評判のよい新しい小説を買ってきてほしいといって二ゼッキーニ渡した。
彼女が授業を受けているあいだ、私は仕立屋のカウダーニャとおしゃべりをし、親類であるかどうかつきとめようとした。まず彼女の夫がどういう仕事をしているのかきいてみた。
「シッサ侯爵のお邸で執事をしておりますの」
「あなたのお父さんはまだご存命ですか」
「いいえ、もう亡くなりました」
「お父さんの苗字は」
「スコッティです」
「旦那さまのご両親は健在なのですか」
「父親のほうは亡くなり、母親が伯父にあたる教会参事会員のカザノヴァといっしょに暮らしております」
もうこれ以上きく必要はなかった。彼女は私の従姉《いとこ》であり、子どもたちははとこであった。そのジャンニナが美人ではなかったので、私は母親におしゃべりをつづけさせた。そして、パルマの人々はスペイン王の支配にはいったのを喜んでいるのかときいてみた。
「喜んでいるなんて! わたしたちはまるで迷宮のなかにまよいこんだみたいですのよ。なにもかもひっくりかえってしまって、いったいどうなっているのか見当もつきません。ファルネーズ家がおさめていたしあわせな時代はもう帰ってきません! おととい、お芝居へ行ったのですが、アルルカン(道化役)がみんなを喉のやぶれるほど笑わせました。ところが、わたしどもの新しい公爵のドン・フェリッペさまは笑うまいとして、顔をしかめましてね。そして、どうにも我慢ができなくなると、帽子を顔へあてて、吹きだすのを人に見せまいとしましたわ。人の話だと、スペインの親王さまは、お笑いになるといかめしいお顔が台なしになるのだそうで、そんなお顔を人に見せると、すぐにマドリードのお母さまのもとへ手紙がいき、りっぱな大公さまにふさわしくない、下品なことだと叱られるのだそうです。この話、どうお思いになります。アントニオ公爵さまも――神さま、あの方の魂をまもらせたまえ――えらい大公さまでしたが、とても気持よさそうによくお笑いになりましたわ。笑い声が往来から聞こえるくらいでしたわ。こんなわけで、わたしどもはとてもとまどっておりますの。三か月まえからパルマの人たちは時間もわからなくなってしまいました」
「時計をこわしてしまったのですか」
「いいえ、そうではありません。けれども神さまがこの世界をおつくりになって以来、お天道さまは二十三時半にしずんで、二十四時にはいつもアンジェリュス(御告げの祈り)をとなえました。正直な人々はだれでもこの時間には蝋燭《ろうそく》をつけるものだと心得ていました。けれども、現在ではそれはもう思いもつかないことになりました。お天道さまが狂ってしまったのです。沈む時間が毎日一定しません。百姓たちも何時に市場へ行ったらいいのかわからなくなってしまいました。それが規則だというのですが、なぜだかご存じですか。いまではだれも十二時にお昼をいただくものだと思いこんでいるのです。けっこうな規則ですわ。ファルネーズ家の時分には、おなかのすいたときに食べたものですが、そのほうがずっとましでしたよ」
私はこの理屈をもちろん変だと思ったが、庶民のひとりの口からきくと、いかにももっともであった。どんな政府も長い年月をへてふかく根をおろした習慣を根こぎにすべきではないし、毒にならないまちがいは徐々にこわしていくべきだと思う。
アンリエットは時計を持っていなかったので、私は彼女のために時計を買いに出かけた。そして、手袋や、扇子や、耳飾りや、そのほか彼女の喜びそうなアクセサリーをいろいろ持って帰った。彼女がこういう愛の贈り物を上品な愛情をあらわして受け取ってくれたので、私は天にものぼる気持であった。先生はまだいて、彼女の才能をほめそやした。そして、こういった。
「奥さまには、紋章学や地理や年代学や天文学などもお教えしようと思ったのですが、もうなにもかもご存じです。よほどふかい教育を受けていらっしゃるのですね」
この男はヴァランタン・ド・ラ・エーといい、技師で数学の教師だという話だった。この回想録では、彼のことをいろいろ話すであろう。しかし、読者は私がつべこべ描写するよりも、彼の行動によって、よりよくその人となりを知ることであろう。
われわれは例のハンガリー人とにぎやかに昼食をとった。愛するアンリエットが女のなりをした姿が早く見たくてたまらなかった。翌日ふだん着のドレスを仕上げてくるはずであった。ペティコートやシュミーズはもう何枚かできていた。
アンリエットの才気はいつもいきいきとしていて、非常に繊細であった。翌朝、リヨン生れの婦人帽子屋の女がわれわれの部屋へはいってきて、
「奥さまや旦那さま、お早うございます」といった。
すると、アンリエットが、
「あら、どうして旦那さまや奥さまとおっしゃらないの」
「いつもご婦人をさきにお呼びするのを見ていますから」
「でも、わたしたち女はそういう挨拶をだれから受けたいと思っているのでしょう」
「殿方たちからです」
「それでは、殿方が礼儀正しくおっしゃってくれるご挨拶を殿方にお返ししてあげないと、女の体面にかかわりますわよ」
すると、抜け目のないリヨン女は「奥さま、ごりっぱなご教訓ありがとうございます。では、さっそくお言葉にしたがいまして、旦那さまや奥さま、ご用をおおせくださいまし」と、やりかえした。
このいかにも女らしいやりとりはおおいに私を笑わせた。
女には四六時中たえず男を幸福にしておく力がないと信じている男があるとすれば、それはアンリエットのような女を全然知らなかったからである。私の心をおぼらせる歓喜は、夜彼女を腕に抱きしめるときよりも、昼間彼女と話しあうときのほうがはるかにつよかった。彼女は本もたくさん読み、生れながら趣味が高尚だったので、何事にも判断が正しく、学者ではなかったが、幾何学者のように冷静にものを考えた。また才気を鼻にかけたりしなかったから、なにか重要なことをいうにも、かならず笑いながら話した。それで、いうことがたわいのない冗談のように聞こえ、だれにでもらくに理解できた。こうして、彼女は才気をもたない人にも才気を与え、そのお返しに人々から熱烈な愛情を寄せられた。
どんな美女でも、自由|闊達《かったつ》な才気をもっていないと、恋人はその魅力を具体的に享楽したあとで、十分に余情を楽しむことができない。しかし、たとえ顔はみにくくとも輝かしい才気をもつ女は男の心を固くとらえて、ほかになにも望むことはないとまで思わせるものだ。ところが、アンリエットは美しくて才気にとみ、教養もひろいのだから、まったく申し分がなかった。私の幸福の大きさはまことにはかり知れなかった。
才気をろくにもたない美女に、ある程度の才気を得るために美貌の一部を差し出す気はないかときいてみたまえ。まじめな女なら、いまもっているもので満足していると答えるだろう。だが、なぜ満足しているのだろう。才気というものを持ち合わせないので、自分に不足しているものがわからないからだ。また、才気に富む醜女に才気を美貌と交換する気はないかときいてみたまえ。ノーと答えるであろう。なぜだろう。才気を十分にもっているので、それがほかのすべてにかわることを承知しているからだ。
しかし、才気をもっていても、恋人を幸福にできない女がある。それは女学者だ。学問は女には場ちがいなのだ。学問は女の本質をそこなうばかりでなく、けっして既知の分野の限界をこえない。女によって行なわれた科学的発見は皆無だ。ふかく研究をすすめるには、女のもちえない体力を必要とする。しかし、単純な推理や感情の繊細さにおいては男は女にかなわない。才気のある女の顔へ詭弁《きべん》を投げつけてみたまえ。女はそれを発展させることはできないが、むざむざとだまされはしない。そして、そんな罠《わな》にかかるものですかといって、投げ返してくる。しかし、男は詭弁が解明できないと、額面どおりに受け取ってしまう。この点では女学者も同様である。たとえばダシエ夫人〔当時もっとも学識ある婦人のひとりと見なされていた。とくに古代の作品の翻訳は有名〕のような才気をもつ女は、男にとってどんなに耐えがたい重荷になることだろう。神よ、親愛なる読者に、そうした重荷をまぬがれさせ給わんことを!
[愛人が仮面をぬぐ]
仕立屋がドレスを持ってくると、アンリエットはわたしの変身《メタモルフォーズ》をそばで見ていてはいけない、どこかへ散歩に行って、わたしがいままでの偽装を脱ぎすてた時分に帰ってきてほしいといった。私はいわれるとおりにした。愛する女の命令を忠実にまもるのは恋する男にとっては非常に楽しいものだ。
私の散歩はあてがなかったので、フランス語の本を売る店へはいっていったが、そこで、とても頭のいいせむし男と出会った。一般にせむしで頭のわるいのはきわめてまれだ。私は頭のいい者がすべてせむしであるわけではないが、せむしがすべて頭がいいのを見て、かなり以前から才気が「くる病」を起こすのではなく、「くる病」が才気を与えるのだときめている。私が知合いになったせむしはデュボワ・シャテルローといい、職業は版画家で、親王殿下の造幣局長であった。当時ここの政府は貨幣をつくろうと考えていたからだが、この小さな王国には造幣局はなかった。
私はこの才人に自作の版画を何枚か見せてもらって一時間ばかり時間をつぶした。そして、家へ帰ると、ハンガリーの大尉が来ていて、アンリエットの部屋のドアがあくのを待っていた。彼は彼女が仮面をぬいでわれわれを迎えようとしているのを知らなかった。ようやくドアがあいて、彼女が出てきた。そして、ゆったりとくつろいだようすで美しく会釈しながらわれわれを迎えた。その態度には威圧的な調子も軍隊ふうの自由な闊達さもなかった。われわれのほうがかえって彼女の新しい姿に驚き、度胆をぬかれて、へどもどしてしまった。彼女はわれわれを両脇へすわらせ、親しみをこめて大尉をながめ、私にはやさしい、いとしげなようすをしめした。しかし、いままでよそおっていたあのなれなれしさは少しも見せなかった。それは若い士官としてなら愛をそこなうこともないが、身分のある女にはふさわしいものではなかった。こうした彼女の新しい態度物腰にたいして、私も度を失わずに調子を合わせなければならなかった。アンリエットはもう芝居をしているのではなく、まったく扮する人物そのものであったからだ。
私は感に耐えてうっとりとなり、その手をとって接吻しようとした。しかし、彼女は手をひっこめて唇を差し出し、
「ねえ、わたし、全然同じじゃなくて」と愛情のあふれる声できいた。
「いや、ちがう。もうなれなれしい口がきけないくらいです。あなたはもはやあのケリーニ夫人に、わたしが親になってファラオをやっているが、賭けの金がとても少なくて、勘定するにもおよばないと答えた、あの青年士官ではありませんよ」
「おっしゃるとおり、こういう身なりをしては、あんなことはいえませんね。けれども、やっぱりわたしは一生涯に三度もむちゃなまねをしたあのアンリエットですわ。三度目のときには、もしもあなたがいなかったら、堕落してしまうところでしたわ。でも、そのおかげであなたとお知合いになったのですから、なつかしいむちゃでしたわ」
私はこの言葉におおいに感激して、すんでのことに彼女の足もとに身を投げだして、尊敬の念の足りなかったことや、事をあまりにも手軽に扱ったことや、無造作に彼女をわがものにしたことのゆるしをもとめるところであった。
しとやかなアンリエットは、そうしたあまりにも感動的な場面を終わらせようとして、石と化したかと思われる大尉をゆすぶった。彼が悄気《しょげ》きった恰好《かっこう》をしていたのは、こういうりっぱな女を遊び女《め》かなにかのように扱ったのを恥じてのことであった。彼にもいまの姿が偽りであろうとは夢にも思われなかったのである。彼は肝《きも》をつぶして彼女を見つめ、何度かふかい会釈をした。そうして、彼女を尊敬していることや、後悔の念にさいなまれていることをあらわそうとする風情《ふぜい》であった。彼はまったく度を失っていた。しかし、彼女はごくわずかな非難の影も見せずに、「ようやくわたしの値うちを知っていただいて嬉しいわ」といっているようであった。
その日から、彼女はいかにも物なれた態度で、食卓の主人役をつとめはじめた。そして、大尉を親友として、私を恋人として扱った。ときには私の情婦らしく、ときには私の妻らしくふるまった。大尉はチヴィタ・ヴェッキアであの小帆船からこういう姿でおりてきたら、案内人を差し向ける勇気はなかったろうと彼女にいってほしいと私に頼んだ。
「それはよくわかりますわ。けれども、軍服よりもこういう簡単なドレスのほうが尊敬されるなんてへんですわねえ」と、彼女は答えた。
私はそう軍服をわるく思わないでほしい、あの軍服のおかげでこの幸福が得られたのだからと頼んだ。
「わたしもそう思いますわ。それから、あのチェゼーナの警官たちもね」と、彼女はにこやかに答えた。
われわれはいつまでも食卓からはなれずに、牧歌的な恋の口説《くぜつ》をつづけた。だが、律気なハンガリー人が退屈しているらしいようすに気づいて、ようやく愛の語らいをやめて、食卓から腰をあげた。
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第二十五章
[オペラ・ブッファ]
親王殿下のお妃マダム・ド・フランスが到着した。私はオペラの桟敷《さじき》を毎日借り切るつもりだとアンリエットにいった。彼女は何度も音楽が大好きだといっていた。だが、イタリアのオペラはまだ見たことがないというのに、次のように冷ややかな口調で答えるのをきいて、あっけにとられた。
「では、毎日ふたりでオペラを見に行こうとおっしゃるの」
「オペラを見に行かなかったら、きっとかげ口の材料にされると思ったからさ。だが、あまり気がすすまないようなら、もちろんのこと、むりをする必要はないんだよ。ぼくは世界じゅうのどんな音楽よりも、この部屋できみと話をするほうが好きなんだからね」
「わたし、音楽は大好きなのよ。けれど、外へ出ることは、考えるだけで、身体がふるえてきちゃうのです」
「きみがふるえだしたら、ぼくだって胴ぶるいがしてくるよ。しかし、オペラへ行かないとすると、ロンドンかどこかへ行かなければならない。どこでも好きなところをいっておくれ」
「では、あまり人目につかない桟敷をとってちょうだい」
「それは嬉しい。きみもきっと満足するよ」
私は二列目の桟敷をとったが、小屋が狭かったから、きれいな女が人から目をつけられないはずはなかった。それを彼女にいうと、
「知合いに見つかる危険もなさそうだわ。あなたが読んでくださったパルマ滞在の外国人の名簿のなかには、知合いの名前がひとつもありませんでしたから」と答えた。
こうして、アンリエットはオペラへ行ったが、桟敷は二列目、紅もつけず、桟敷には蝋燭もなかった。それはオペラ・ブッファという喜劇的なオペラで、ブラネルロの音楽もよく、俳優たちもすばらしかった。
彼女はオペラ・グラスを俳優たちを見るためにしかつかわず、ほかの桟敷や平土間へは一度も向けなかった。だれもわれわれに注意するようには見えなかった。彼女は第二幕の終曲《フィナーレ》がたいへん気に入ったので、私は楽譜を手に入れてくると約束し、それをデュボワ氏に頼んだ。そして、彼女はクラヴサンを弾くだろうと思い、一台買ってきてやったが、彼女はこの楽器は弾いたことがないと答えた。
オペラへ行きはじめてから四度目か五度目のとき、デュボワ氏が私たちの桟敷へやってきた。しかし、アンリエットを紹介したくなかったので、席をゆずりもせずに、用向きをきいたら、終曲の楽譜を差し出したので、その代金を払った。私たちの桟敷は公爵一家の桟敷と向かい合っていたので、彼らの肖像を彫ったかときいた。すると、メダルを二個彫ったと答えたので、それを金台に彫って持ってきてほしいと頼んだ。彼は引き受けて、出ていった。アンリエットは彼のほうへ目もやらなかった。紹介されなかったのだから、それは規則にかなったことであった。しかし、翌日、われわれがまだ食卓についているとき、彼が訪ねてきた。ちょうどド・ラ・エー氏が昼食をいっしょにやっていたが、ド・ラ・エー氏はすぐにこういう著名な芸術家とお知合いになったのはたいへんけっこうだと喜びを述べ、彼が部屋へはいると、かってに彼を生徒のアンリエットに紹介した。そこで、アンリエットも仕来《しきた》りとして新しい知合いにいうときのあらたまった挨拶をした。
そして、楽譜の礼を述べてから、もう四、五枚、べつの曲のを捜してほしいと頼んだ。彼は例のメダルに興味がおありのようなので、お目にかけたいと思っておしかけてきたといった。一枚は親王殿下夫妻、一枚は親王殿下だけであった。どちらも非常にりっぱな出来栄えで、われわれはこぞってほめそやした。
「このお仕事はお金にかえがたいものですわ。金《きん》は鋳直《いなお》しもききますけど」とアンリエットがいった。
彼はつつましやかに、金は十六ゼッキーニの目方があると答えた。彼女は礼をいいながらすぐに代価を払い、いつか夕食に来ていただきたいと招いた。そこへコーヒーが出た。
アンリエットはデュボワ氏の茶碗へ砂糖を入れようとしながら、甘くしたほうがいいかときいた。
「奥さま、奥さまのお好みと同じでございます」
「では、わたしが砂糖を入れないのが好きなのを、もうご存じでいらっしゃいましたのね。あなたさまと同じ好みでしたのは、とても嬉しいですわ」
彼女はこういいながら、彼のコーヒーに砂糖を入れるのをやめた。そして、ド・ラ・エーと私の茶碗にはたっぷり入れたが、自分のには入れなかった。私はあぶなく吹きだしそうになった。この意地悪女はいつもはごく甘いのが好きなのに、そのときは奥さまのお好みと同じだなどといったデュボワのそらぞらしいお世辞を罰するために、自分もにがいのを我慢して飲んだのであった。しかし、利口なせむしはまえの言葉を取り消そうともせず、うまそうにそのコーヒーを飲んで、コーヒーはいつも砂糖抜きで飲むべきだと主張した。
彼らが帰っていって、アンリエットと思いきりいまの悪戯を笑ってから、私は将来デュボワが同席するときには、いつもにがいコーヒーを飲まなければならないから、きみは身から出た錆《さび》だといった。しかし、彼女は、
「だいじょうぶですよ。ちょっと頭をつかえば、自分では十分にお砂糖をきかせたコーヒーを飲み、あの人にはにがいのを飲ませる方法が見つかりますわ」と答えた。
アンリエットはひと月たつとイタリア語をらくに話せるようになった。それはド・ラ・エーからいつも受ける授業よりも小間使につかっていたジャンニナ相手の稽古《けいこ》のおかげであった。授業は言語の規則をならうのにしか役だたないが、話すためには稽古が必要である。それは私も自分で体験した。私があまり時間をかけずにフランス語を話せるようになったのも、ダラッカからならうよりも、あのすばらしい女性と家族的に暮らした幸福のおかげであった。
われわれは二十回ばかりオペラへ行ったが、ひとりも知合いをつくらなかった。そして、幸福という言葉の最大の意味で幸福であった。私は外へ出るときにはいつも彼女といっしょに馬車に乗っていったし、したがって、だれとも知合いにならなかった。
ハンガリーの大尉が行ってしまってからは、ときたま昼食に呼ぶのはデュボワだけであった。ド・ラ・エーは毎日やってきた。
[愛と幸福の哲学講義]
このデュボワという男はわれわれのことをひどく知りたがっていたが、それをじょうずにかくして、気ぶりにも出さなかった。ある日、彼はお妃が到着したあとのドン・フェリッペの宮廷のはなやかさと、その日、宮中に集まった外国の男女のおびただしさについて語った。
そして、アンリエットに向かってこういった。
「宮中でお見かけした外国のご婦人方は大部分が知らないかたがたばかりでした」
「世間に知られているかたがたは、そのためにかえって顔出しをなさらなかったのかもしれませんね」
「そうかもしれません。しかし、奥さま、これははっきり申しあげられますが、お化粧であれ生地であれ、人目につくようなご婦人なら、全部宮中へお呼びしたいと、公爵さまたちは願っていられるのですよ。奥さまにも、ぜひ宮中でお目にかからせていただきたいものです」
「それはむずかしいですわ。紹介もされない女が宮中へ行くなんて、わたしから見るとどんなに滑稽だかご想像もつかないでしょうよ。ことにその女が紹介される値うちのございますときにはねえ」
彼女はこの最後の言葉に少し力をいれていって、小柄なせむしをだまらせた。そして、彼がひるんだ束の間をねらって、なにくわぬ顔で話題を転じた。
彼が帰ったあとで、彼女はデュボワさんはあれでも好奇心をかくしているつもりらしいといって笑った。しかし、私ははっきりいって男たちがきみに好奇心をおこすのは当然なのだからゆるしてやらなければいけないと注意した。すると、彼女は笑いながらそばへよってきて、心のこもった接吻で私の言葉をさえぎった。
こうしてわれわれは仲むつまじく、真の幸福の愉楽を味わいながら、哲学者たちが完全な幸福は長つづきしないといって、幸福の完全さを否定するのを嘲笑した。
ある日、アンリエットが私にいった。
「あの頭のからっぽな人々は幸福は長つづきしないと主張していますが、この長つづきという言葉をどういう意味にとっているのでしょう。永遠とか不滅とか連続的とかいう意味なら、そのとおりですわ。人間は永遠でも不滅でもないのですから、幸福も当然の結果としてそうはなれませんからね。けれども、そういう意味でなければ、幸福はそれが存在するということだけで、長つづきしますわ。そのためには、存在しさえすればいいのですからね。でも、完全な幸福という言葉を、変化にとんだ、中断されることのない快楽の連続という意味にとるなら、それはまちがいですわ。なぜなら、享楽のあとにかならずくる沈静を、快楽と快楽のあいだにはさむと、幸福な状態をはっきりと具体的にみとめる暇ができるのですからね。べつの言葉でいえば、この必要な休息の時間は享楽のほんとの源ですよ。なぜなら、そのおかげで思い出の喜びが味わえ、思い出が二倍になるのですからね。
人間というものは自分が幸福だと思うときしか幸福にはなれないものですが、心が落ちつかなければそれがみとめられません。ですから、そういう心の沈静がなければ、けっして幸福にはなれないものです。こういうわけで、快楽が快楽となるためにはたびたび段落をつける必要があります。とすると、いったい人々は長つづきという言葉をどういう意味にとろうと考えているのでしょう。
わたしたちは毎日ある時刻になると眠りたくなりますわね。そして、どんな快楽よりも睡眠がいちばん楽しいと思います。ところが、睡眠はさながら死の姿にほかなりません。ですから、睡眠が去ったときでなければ、その有難味がわからないのです。
こう考えると、だれも一生のあいだ幸福ではいられないと主張する人々は、でたらめをしゃべっているのですわ。哲学はその幸福を構成する方法を教えてくれます。ただし、幸福を自分でつくりあげようとする人が無病息災ならの話ですがね。そういう一生つづく幸福はいろいろの花を集めた花束に比較できるでしょう。非常に美しく、互いに調和していて、ただひとつの花と見まごうばかりの花束にね。わたしたちがひと月のあいだ病気もせず、またなにひとつ不自由せずに暮らしたように、ここで一生をすごすことがどうして不可能なのでしょう。この幸福の仕上げをするためには、ずっと年をとってからいっしょに死ねばいいでしょう。そうすれば、わたしたちの幸福は完全に長つづきがしたことになりますわ。死は幸福を中断させるのではなく、終わらせるのですわ。もしもわたしたちが不幸になるとすれば、それはただこの世の生活のあとにべつの生活があるかもしれないと考えるからですが、そんな考えはつまらないですわ。なぜなら、これは全能や天の父の愛情という考えと矛盾しているのですからね」
このようにして、いとしのアンリエットは『トゥスクルム論叢』のキケロよりもじょうずな議論によって愛の哲学の講義をし、楽しい時間をすごさせてくれた。そして、結論として、長つづきのする幸福は、いっしょに生活する男女が互いに愛しあい、ふたりとも健康で、頭もよく、十分に金があり、自分たちのこと以外には義務をもたず、しかも趣味や性格や体質も同じな場合にしかありえないと主張した。休息を必要とするとき、官能を才気に置きかえることのできる恋人たちは幸福である! 次に眠りが訪れ、体力をもとどおりに回復するまでつづく。そして、目がさめれば、最初に元気のよい姿をしめすものは官能で、これは十分に満足してふたたび才気を活動させようといきりたつ。
人間と宇宙のあいだの条件は同じである。両者のあいだには相違がないといえる。なぜなら、宇宙を亡きものにすれば人間もなくなるし、人間を亡きものにすれば宇宙もなくなるからである。もしも人間がいなくなればだれが宇宙の観念を考えられよう。こうして空間を考慮に入れなければもはや物質の存在を想像できず、物質を考慮に入れなければ空間を想像できないのである。
私はアンリエットとの生活がとても楽しく、アンリエットも私との生活をおおいに楽しんでいた。われわれは全能力をささげて愛しあった。われわれは互いに十分満足し、まったく相手のうちに没入して暮らした。彼女は親切なラ・フォンテーヌの次の詩句をよく口ずさんだ。
[#ここから1字下げ]
つねに美しく、変化にとみ、かたみに新しき世界となれよかし。
互いにいっさいの代りとなり、その他は無とかぞえよ。
[#ここで字下げ終わり]
われわれはこの忠告をそのまま実践した。一瞬も退屈したり、倦怠を感じたりしなかったからである。折れたバラの葉の一枚も、われわれの味わう至福をかきみだしにこなかった。
オペラが千秋楽になった翌日、デュボワはいっしょに昼食を終わったとき、あした主役の男優と女優をひとりずつ昼食に呼ぶが、よろしかったら、彼らが舞台でうたった美しい歌をききに来てください。別荘の円天井のサロンでうたうが、そこは音響効果がとてもよいといった。アンリエットはあつく礼を述べてから、わたしはあまり身体がじょうぶでないので、当分はなにもお約束できないといった。そしてすぐに話題を変えた。
ふたりきりになると、私はどうしてデュボワのところへ遊びに行きたくないのだときいた。
「そりゃ、わたしも喜んでおうかがいしたいわ。けれど、その午餐会でだれか知っている人に出会って、いまのこの幸福をやめさせられるのがこわいのです」
「なにか新しい心配の種ができたのなら、むりもない話だ。しかし、たんに取越し苦労にすぎないのなら、せっかくの楽しみをことわるほどびくびくしなくてもいいだろう。きみがきれいな音楽をきいて、うっとりと魂がぬけたようになっているのを見ると、ぼくはどんなに嬉しいかわからないんだよ」
「わかったわ。わたしあなたよりも意気地がないと思われたくないわ。それじゃ、お昼をすませたらすぐに出かけましょう。俳優さんたちはお食事のまえにうたうはずはありませんからね。それだけでなく、デュボワさんはわたしたちが行くと思っていないから、わたしたちの噂をしたがるような物好きな人はお呼びしてないでしょう。なにもいわずに、不意打ちにいきましょうよ。別荘にいるというお話だったけど、場所はカウダーニャにきけばわかりますわ」
[アンリエットのチェロ]
こうした考えは、ほとんど一致することのない慎重さと愛とから出たものだが、われわれは彼女の考えどおり、翌日午後四時にデュボワの家を訪ねた。驚いたことに、彼は美しい娘とふたりきりであった。彼はそれを姪《めい》だといって紹介し、ある事情のために世間へ顔を見せないようにしているのだと説明した。
彼はわれわれの来訪を非常に喜び、「お出でをいただけないものと思いましたので、午餐を軽い晩餐にかえたのですが、ぜひご列席いただきたい。名歌手たちもまもなくまいるでしょう」といった。
こうして、われわれは晩餐会に出る約束をさせられてしまった。お客はたくさん来るのかときくと、彼は得意そうに、「お客はみなあなた方にふさわしい人々ですが、残念なことに、ご婦人はひとりもお呼びしませんでした」と答えた。
この気のきいた微妙な返事はとくにアンリエットへ向けたものだが、アンリエットは軽く会釈をして、ほほえんだ。そのようすはいかにもにこやかで、満足そうであった。が、彼女は自分をおさえていたのであった。思慮のふかい彼女のこととて、内心の不安を表に出そうとしなかったのである。だが、私はなにも心配する理由はないように思っていた。
もしも身の上をあからさまに話してくれたら、私も考えをかえて、パルマなどにぐずぐずしていずに、ロンドンへでも連れていっただろう。そうしたら、彼女も喜んだにちがいない。
十五分ばかりたつと、ふたりの俳優がやってきた。男優はラスキ、女優はバッリオーニで、バッリオーニは当時非常に美しかった。それから、招待された人々がぞくぞくと集まってきた。いずれも中年のスペイン人やフランス人であった。紹介などは全然省略した。その点、せむしの配慮に感心した。しかし、客はみな宮中の儀礼になれた人たちであったので、エチケットの手続きを抜きにしたにもかかわらず、一座こぞってアンリエットを丁重にもてなした。アンリエットはきわめてうちとけた態度で彼らの敬意をうけた。そうした態度はフランスで、しかももっとも上流の社交界でなければ見られないもので、同じフランスでも田舎へ行くと、ぎごちない応対がよく見うけられる。コンサートはすばらしいシンフォニーで始まった。それから、俳優たちが二重唱でうたい、ヴァンディーニ〔有名なイタリアのチェロ演奏家〕の門弟がチェロでコンチェルトを弾き、おおいに喝采された。
しかし、一大椿事がおこって、私の度胆をぬいた。アンリエットがまだ喝采のしずまらぬうちに立ちあがって、ソロを演奏した青年をほめたたえ、その手からチェロを受け取ると、つつましやかな、おっとりしたようすで、あなたをもっと引きたててあげますわといった。そして、青年のすわっていた席へ腰をおろすと、楽器を膝のあいだにはさみ、オーケストラにもう一度コンチェルトを弾いてほしいと頼んだ。一座は水をうったようにしんとなった。私は恐怖で死ぬ思いだった。が、ありがたいかな、だれも私のほうを見なかった。彼女もまた私へ目をくれなかった。もしもあの美しい目を私に向けたら、勇気がくじけたにちがいない。しかし、演奏をはじめるかまえだけを見たときは、冗談に恰好《かっこう》だけしてみせるのだろうと思った。それも、ほんとに魅力的な姿だった。しかし、彼女が弓をあてて最初のしらべを弾きはじめたとき、私は心臓が早鐘をつくようにときめきはじめ、いまにも死んでしまいそうな気がした。アンリエットは、私をよく知っていたので、私のほうを見まいとする決意をかえなかった。
しかし、彼女がみごとにソロを弾きこなすのを聞き、最初の一曲が終わって、オーケストラの響もかき消されるほど拍手をあびたとき、私はどうなってしまっただろう。最初の不安から思いがけないあふれるばかりの満足感への推移は私にどんな高熱を二倍にしてもおよばないほどの激しい発作《ほっさ》を起こさせた。しかし、そうした喝采も、見たところ、アンリエットにはなんの感動も与えなかった。そして、若い芸術家が演奏したときに合奏曲をちらりと見ただけの知らない楽譜から目をはなさず、ただひとりで六回弾いて、ようやく立ちあがった。しかし、彼女は喝采してくれた一座の人々に礼をいうでもなく、気高い優雅なようすで若い芸術家のほうへ向き、こんなにいい楽器で弾いたことがないといった。それから一同に向かって、にこやかにほほえみながら、
「つまらない虚栄心から、演奏会を三十分以上も引きのばし、みなさまを退屈させたことをおゆるしください」と、挨拶した。
私はしっかりしたなかにも愛嬌のこもったこの挨拶にすっかり胸をうたれ、こっそりぬけだして庭へ行き、人知れず涙を流した。
「アンリエットはいったい何者だろう? ぼくが手に入れているこの宝は、はたしてなんだろう?」自分ごときものが彼女を所有する幸福を授かるなんて、とうていありえないことのように思われた。
こうした考えを追いながら、ますます高まる嬉し涙のこころよさにひたっていた私は、もしもデュボワが自分で捜しにきて、あたりの闇にもかかわらず私を見つけださなかったら、いつまでもそこにそうしていただろう。彼は私が姿を消したのを心配して捜しにきたのだ。私は少しめまいがしたので外の風にあたったらなおるかと思ったのだといって、彼の心配をしずめた。
サロンにもどるまでに涙をふくひまはあったが、充血した白目をもとの色にかえすにはまにあわなかった。しかし、だれも私に目をつけなかった。ただアンリエットだけは、やさしいほほえみをうかべながら、「庭へなにをしに行ったのか知ってますわ」といった。彼女は私をよく知っていて、その夜会がどんな印象を私に与えたか、らくに想像がついたのである。
親王殿下の造幣局長であるデュボワは自宅に宮廷のもっとも好ましい紳士を集めた。彼の出した料理も、分量は多くなかったが、よりすぐったもので、非常に美味であった。アンリエットは紅一点だったので、客の注意を一身に集めたのも当然だったが、たとえ女がたくさんいても、全部を圧倒してしまったであろう。彼女は美貌と才能と上品な態度とで一座を驚かしたが、才ばしった話で食卓をわきたたせた。デュボワ氏は全然口を開かなかった。彼は彼女を主役とするこの一幕の脚色者で、その成功を喜び、謙虚な沈黙をまもるべきだと思ったらしい。アンリエットはまんべんなくすべての人に愛想をいい、なにか気のきいたことをいうときには、きっと私を仲間に入れた。私のほうでは、この女神にひたすら恭順と尊敬をしめしていたが、それにもかかわらず、私が彼女の支配者であることをみんなに推量させようとした。
話がスペイン人とフランス人の優劣ということになったとき、デュボワは軽率にも、あなたはどちらに軍配をあげますかとアンリエットにきいた。
なにしろ客の半数がスペイン人で、他の半数がフランス人であったから、この質問は不謹慎きわまるものであった。しかし、彼女はスペインの人はフランス人に、フランスの人はスペイン人になりたがるだろうと巧みに受け流した。すると、デュボワはさらにあきたりずに、イタリア人についてはどう考えるかと切り込んだ。それをきいて私ははっとした。私の右手にすわっていたド・ラ・コンブ氏がこの質問を非難するように首をふった。しかし、アンリエットはたじろがず、いかにも確信なげによそおって、
「イタリアのかたがたでございますか。わたくしなにも申せませんの。なぜなら、イタリアの方はたったひとりしか存じあげませんが、ひとつだけの例では、イタリアの方全部をほかのどこの国のかたがたよりすぐれているとは申せませんからね」と答えた。
アンリエットの返事はすばらしかったが、それを耳にしたようなようすを少しでも見せたら、私は愚劣きわまる男になっただろう。また、われわれのコップを満たしている酒についてド・ラ・コンブ氏にくだらぬ質問をして、すぐにこの無謀な話題をさえぎらなかったら、さらに愚劣になったであろう。
[運命はわれらを]
次は音楽の話になった。あるスペイン人がアンリエットにチェロのほかなにか楽器をお弾きになりますかときいた。彼女はチェロだけしか好きでないと答え、
「わたくし、母がこの楽器をたいへんじょうずに弾きましたので、母のごきげんをとるために、修道院で習ったのですが、父が司教さまの後楯《うしろだて》で強い命令を出さなかったら、院長さまはとうていおゆるしにならなかったと思いますわ」
「院長さんが反対したというのは、どういう理由からだったのですか」
「とても信心ぶかい、わが主キリストの奥さまは、あの楽器をかかえるときに、みだらな恰好をするからとおっしゃったのです」
この院長の話をきいて、スペイン人は唇をかみ、フランス人はやんやと笑いだした。そして、このもったいぶった尼僧につき、いろいろの冗談をとばした。
やがて二、三分沈黙がつづいた。アンリエットが席を立つゆるしを求めるように、ちょっと腰をうかした。そこで、すべての人が立ちあがり、十五分後にいとまをつげた。デュボワは馬車の踏段のところまでついてきて彼女の世話をし、際限もなく礼を述べた。
私は早くふたりきりになって、この心の女神を抱きしめたかった。そして、答える暇もないほどたてつづけにいろいろのことをきいた。
「きみがあそこへ行きたがらなかったのはもっともだよ。きみにはぼくに敵ができることがちゃんとわかっていたんだね。みんなはいまぼくを死ぬほど憎んでいるだろうよ。だが、きみはぼくにとっては全世界なんだ! きみはひどいよ。あのチェロではあぶなくぼくを殺してしまうところだったじゃないか。きみが持ち前のつつましさにもかかわらずへんなことをはじめたので、はじめは気でもちがったのかと思ったよ。だが、あの演奏をきくと、ぼくは心の底から涙をしぼり出されるような気がして、外へふきに行かなければならなかった。さあ、いっておくれ、きみはあのほかどんな特技に熟練しているんだね。また新しい不意打ちをくらって、心配や驚きのために死にそうにならないように聞いておきたいんだ」
「いいえ、あなた、ほかにはもうなにもないことよ。あれでもう手ばたき、あなたはあなたのアンリエットを全部ご存じになったのよ。もしもひと月まえに、あなたが音楽にたいしては全然趣味がないと偶然におっしゃらなかったら、わたしはチェロが得意だって申しあげたかもしれないわ。そして、そう申しあげたら、あなたのことですから、きっとチェロを買ってきてくださったでしょうけど、わたし、あなたを退屈させるものを楽しみにしようなんて、考えられなかったのよ」
私は翌日すぐにチェロを買ってきたが、彼女は私を退屈させるどころではなかった。たとえ音楽にたいしてはっきりした趣味をもっていない男でも、演奏するものが最愛の恋人であったら、きっと音楽に夢中になるにちがいない。
ほかのどんな音楽にもまさるチェロの肉声に似た音響は、アンリエットが弾いてくれるときには、私の心をゆすぶった。それは彼女も承知していて、そうした喜びを毎日与えてくれた。私は彼女にコンサートをひらいたらどうかとすすめたが、彼女は用心ぶかくかまえてけっして同意しようとしなかった。それにもかかわらず、運命は容赦もなくすすんでいった。≪運命はわれらを導くことを知る≫(ウェルギリウス『アイネアス』)
この運命にからむデュボワがあの楽しい宴会の翌日われわれのところへ礼に来た。われわれも彼のコンサートや晩餐や招待した人々についてしきりにほめそやした。
「奥さま、これからは奥さまに紹介してほしいとせっついて来る人々をことわるのに、たいへん骨がおれるでございましょうよ」
「そのお骨おりはたいしたことではないでしょうよ。だって、二言お答えになれば十分ですからね。わたしは、ご存じのように、どなたにもお目にかからないことにしておりますもの」
そういわれると、彼はもう紹介の件を口にだせなくなった。
それから四、五日して、カピターニの息子から一通の手紙が来た。そのなかで、彼は聖ピエトロの剣を鞘ごと所有しているという資格で、かならず財宝を発掘してみせるという魔術師をふたり連れてフランツィアを訪ねたが、意外にも門前払いをくわされてしまったと書いてあった。そして、あなたからも手紙を出してほしい、もしも仲間にはいる気があるなら出向いていってほしいといっていた。私は返事を出さなかった。しかし、あの善良な百姓が私の教訓を忘れず、ばか者やペテン師の毒牙をさけて破産の憂き目をまぬがれたのをおおいに喜んだ。
デュボワ家のあのすばらしい晩餐会のあと三、四週間、私たちは幸福に没頭してすごした。心と魂とのなごやかな一致のなかで、われわれは一瞬もむなしい時をすごさず、あくびというあの悲惨さの悲しい見本に見まわれることもなかった。われわれが外部に求めた唯一の娯楽は、天気のよい日に馬車に乗って、町の外へ散歩に行くことであった。しかし、けっして馬車から降りず、どこへも立ち寄らなかった。アンリエットはデュボワの宴会で会った人々に興味を起こさせたし、そのほかにも彼女に目をつける人は多かったが、町の人々も宮廷の紳士たちもわれわれと交わりをむすぶことができなかった。劇場でも宴会でも、彼女を見知るものがだれもいなかったので、アンリエットはずっと大胆になり、私も安心感をふかめた。彼女が正体を暴露されるのを気づかっていたのは、貴族階級だけであった。
ある日、コロルノの城門の外へ散歩に行ったとき、パルマへもどってくる親王殿下とお妃の馬車に出会った。そこから五十歩ばかりおくれて、ひとりの貴族がデュボワと同乗している馬車においついた。そして、その馬車を抜こうとしたとき、こちらの馬が一頭不意にたおれた。デュボワとならんでいた貴族が「とまれ」とさけんで、われわれの御者に手助けをよこした。そして、気高く丁重な態度でアンリエットに挨拶をした。デュボワはその一瞬をのがさずに、「奥さま、デュティヨさまでございます」と彼女に教えた。彼女は型どおりに会釈をした。やがて馬がおきあがり、われわれはまた散歩をつづけた。こういうたわいもない出会いはなんらあとをひくべきものではないが、大事件はえてして小さなことからおこるものである。
[祝典での不吉な予感]
その翌日、デュボワが朝食にやってきた。そして、いきなり口を開いて、デュティヨ氏があの思いがけない幸運のおかげで、私たちと知合いになることができたのを喜び、お訪ねする許可をいただいてほしいと頼んだと、藪から棒にいいだした。
「訪ねてきたいというのは家内をですか、わたしをですか」と、私はすぐにきいた。
「おふたりともです」
「わかりました。しかし、一度にひとりずつにしていただきましょう」と、私はいい返した。「ごらんのように、家内には家内の部屋があり、わたしにはわたしの部屋があるのですからね。もしも大臣がわたしにご命令したいことかお伝えになりたいことでもおありなら、こちらから参上いたしますと申しあげてください。家内については、そこにおりますから、お話しください。わたしは、親愛なデュボワさん、あれのいやしいしもべにしかすぎませんから」
すると、アンリエットは鷹揚《おうよう》で丁重なようすでデュティヨ氏にあつくお礼を申しあげ、同時にわたしをご存じかどうかうかがっていただきたいとデュボワ氏にいった。
「奥さま、大臣はあなたをご存じないと思います」
「そうでしょう? わたしをご存じないのに、訪ねていらっしゃろうとなさる。もしもわたしがあの方をお迎えしたら、身持の悪い女だと自分でいうのと同じですわ。あの方に申しあげてちょうだい、わたしはどなたからも知られておりませんが、だらしのない女ではございませんと。こういうわけで、お出でくださっても、お目にかかるわけにはまいりません」
デュボワは自分の行動がまちがっていたのに気がつき、口をとざしてしまった。その後も、われわれは大臣がわれわれの返事をどう受け取ったか彼に聞いてみなかった。
それから三週間後、宮廷がコロルノの離宮に移ってから、どういう機会だったか忘れたが、盛大な祝宴がひらかれた。だれでも御苑のなかを散歩することがゆるされた。夜もひと晩じゅう明りをともすはずであった。デュボワが一般公開のこの祝典の話を何度もきかせたので、われわれも行って見たくなった。まさにアダムの林檎《りんご》である。それで、デュボワがわざわざわれわれの馬車に乗って案内してくれた。われわれはまえの日に行って、宿屋へとまった。
夕方、御苑へ散歩に行ったが、偶然、大公夫妻が多くのお供を連れて通りかかった。妃殿下はアンリエットの姿を見かけると、フランスの慣習にしたがい、足をとめずに会釈をした。そのとき、ドン・ルイのかたわらにつきそっていた騎士がふと私の目にとまった。その騎士はじっとアンリエットを見つめていた。それから引き返して、小径の途中までくると、またその騎士と出会った。彼はわれわれに丁重に会釈をしてから、デュボワにちょっと話したいことがあるといった。そして、われわれのあとについて歩きながら、十五分もなにか話しあっていた。それから、われわれが外へ出ようとしたとき、追いついてきて、非常に礼儀正しく私に非礼を詫《わ》びてから、アンリエットにわたしを見覚えていらっしゃらないかときいた。
「失礼ですが、全然覚えがございません」
「奥さま、わたしはダントワーヌです」
「お目にかかった記憶が全然ございません」
「さようですか、奥さま、たいへん失礼いたしました」 デュボワの話だと、その男は親王殿下の親友というだけで、宮廷には何の役もないそうだが、アンリエットを知っているように思って、紹介を求めたのであった。デュボワはあの方はダルシ夫人とおっしゃるが、もうご存じなら、紹介がなくてもお目にかかりにいったらいいでしょうといった。すると、ダントワーヌ氏はダルシという名前は知らないので、人違いをしたくないから、事をはっきりさせたいと思って、名のり出たのだといった。デュボワはこういう話のしめくくりに、
「こういうわけで、あの人も奥さまがご存じないと知ったいまでは、思い違いだったと納得するでしょう」といった。
夕食ののち、アンリエットがなにか気がかりらしく見えたので、ダントワーヌを知っていて知らぬふりをしたのかときいた。
「知らないふりをしたのではありません。あの人の名前は存じています。プロヴァンスの名家です。けれども、あの方は存じません」
「もしかしたら、きみを知ってるのかもしれないね」
「わたしを見たことがあるのかもしれませんね。けれど、たしかに話をしたことはありません。話したのなら覚えているはずですからね」
「あの男と出会ったのがなんだか心配になる。きみも無関心でいられないようだね。よかったら、パルマから出て、ジェノヴァへ行こう。そして、ぼくの仕事が片づいたら、ヴェネチアへ行こう」
「ええ、そうすれば、もっと安心して暮らせますわね。けれど、急ぐことはあるまいと思いますわ」
翌日、仮装行列を見、翌々日パルマへ帰った。二、三日後、若い下男のカウダーニャが私に手紙を一通わたし、手紙を持ってきた使いのものが返事をもらいたいと外で待っているといった。
「この手紙、どうも気になるな」と、私はアンリエットにいった。
彼女は手紙を受け取って目をとおし、私に返した。そして、ダントワーヌという人はりっぱな人らしいから、なにもびくびくすることはあるまいといった。文面は次のとおりである。
「まことに唐突《とうとつ》ながら、お宅でも、拙宅《せったく》でも、お望みの場所で、ご指定の時刻に、あなたにもご関心のある事柄につき、ご面談の機会をお与えいただきたく、お願いいたします、敬具
ド・ファルシ様
ダントワーヌ」
「これは聞きとどけなければなるまいな。だが、どこがいいだろう」と、私はアンリエットにいった。
「ここでも、あの人の家でもだめですわ。宮廷のお庭になさいよ。ご返事にはご都合のよい時間だけお書きになればいいわ」
私は机に向かって、十一時三十分、宮廷の庭の最初の小径へ出向くつもりだが、その時間がご都合がわるかったら、べつの時間をおきめくださいと書いた。
そして、服を着かえ、時刻をはかって、約束の場所へ出かけていった。われわれはお互いにたかをくくっているように見せかけようとしたが、ふたりとも同じ予感になやまされ、早く事の趣きを知りたかった。
十一時半に、私は指定した小径にダントワーヌ氏がひとりで待っているのを認めた。彼はこういった。
「まことにぶしつけなお願いをいたしまして、申訳ありませんが、ダルシ夫人にこの手紙をお渡しするのに、もっとたしかな方法が見つかりませんでしたので、余儀なくご無礼申しあげた次第です。この手紙をあの方にお渡し願いたいのですが、封をしてありますのをお怒りにならないでください。もしもわたしのまちがいでしたら、なんでもないことですから、ご返事をいただくにもおよびません。しかし、まちがいでなかったら、この手紙をあなたにお目にかけるかどうかは、奥さまのおぼしめし次第です。そういうわけで封をいたしましたが、この手紙の内容は、もしもあなたが奥さまの真実のお友だちでいらっしゃるなら、奥さまにもあなたにも重大な関係がございます。たしかにお渡ししていただけましょうな」
「名誉にかけてお約束いたします」
それから、お互いにふかくお辞儀をして別れた。私はいそいで旅館へとってかえした。
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第二十六章
[親王殿下の寵臣の騎士]
私は重い気持で家へ帰ると、ダントワーヌ氏のいったことをそのままアンリエットに話してから、手紙を渡した。手紙は四頁にぎっしりだった。彼女は見るからに感動したようすで、注意ぶかくそれを読んでから、両方の家族の名誉のために、手紙はお見せするわけにいかないし、ダントワーヌ氏の来訪を承知しなければならない。この手紙によると、あの人は親戚らしいといった。
「それでは、とうとう最後の幕がはじまったってわけだね。がっかりだなあ! とんでもないことになった! ぼくらの幸福も土壇場へ向かっているのだな。どうしてこんなに長くパルマにいたんだろう。ぼくは目が見えなかったんだ! いまになって考えてみると、イタリアじゅうでここくらい警戒すべき場所はなかったのだ。それなのに、ぼくは世界じゅうのどこよりもここが安全だと思っていた。フランスを除けば、ここくらいきみを知ってる人のいない土地はあるまいと考えたからだ。なにもかもぼくがいけないんだ。きみはなんでもぼくのいいなりなんだから、みんなぼくの失敗なんだ。しかも、きみはまえまえから恐怖をかくしはしなかったんだからなあ。デュボワを出入りさせるなんて、どうしてくだらないヘマをやったんだろう。あの男がしまいにはまんまと好奇心を満足させるだろうと見ぬいているべきだった。だが、あいつの好奇心も当然のことで、いまさらとがめだてをするわけにはいかない。それも、ぼくが火をつけ、ここへ自由に出入りさせてかきたてなかったら、起こりっこなかったのになあ。だが、いまじゃもうあとの祭りなんだから、いくら考えたってなんにもなりはしない。考えれば考えるほど、ぼくの将来はもうまっ暗だ」
「ねえ、あなた、お願いですから、さきざきのことはなにも考えないでちょうだい。そして、どんなことになっても負けないように気持をしっかりもちましょうよ。わたし、この手紙には返事を書かないから、あなたから返事を書いてちょうだい。あした三時に自分の馬車で来るようにってね。けれど、正式に案内を乞わなければいけないといってちょうだい」
「いやはや、ひどい役をさせられるね」
「あなたはわたしのただひとりの親友なのですから、なにもむりにとはお願いしませんわ。もしもおいやなら……」
「いや、いや、とんでもない。ぼくは死ぬも生きるも、きみの考え次第なんだ」
「あなたがそうご返事になることはわかっていましたわ。あの人が来たら、はじめはいっしょに応対しましょう。けれど、十五分もしたら、なにか口実をつくって、ご自分の部屋へ引き取ってください。ダントワーヌさんはわたしの身の上も過失もご存じですが、わたしの言い分もよくわかっているはずです。ですから、まじめな人間として、無体《むたい》なことはさせないでしょう。そして、万事わたしの意見にしたがってはこんでくれるはずです。もしもわたしのきめたとおりにしないつもりなら、わたしはフランスへ帰りません。あなたのお好きなところへ行って、死ぬまでいっしょに暮らしましょう。そうしましょうね、あなた。
けれども、余儀ない事情から、お別れする決心をしたほうがいいと思うようになるかもしれません。そうなったら、お別れしたためにひどく不幸にならないようにしなければなりません。万事わたしにおまかせください。たとえあなたなしで生きる決心をしなければならなくなっても、きっとできるだけ幸福な結末をつけるようにしますから。
あなたもご自分の将来について、同じような心がけをしなければいけませんわ。けれど、あなたならきっとうまくなさると思いますわ。とにかく、結着がつくまでは、残り少ない時間を暗くするような、悲しい気持にならないようにしましょう」
「ああ、あの癪《しゃく》にさわる寵臣と出会ってからすぐに、どうしてこの土地を立ちのいてしまわなかったのだろう」
「もしも三日まえに出発したら、もっと悪いことになったかもしれませんわ。ダントワーヌさんがわたしの家族に忠義だてをするつもりで、わたしたちの住居を捜索させる決心をしたかもしれません。そうしたら、暴力でわたしをさらっていこうとするでしょうが、お心のやさしいあなたにはとても我慢できず、どんな騒ぎになったかわかりませんわ」
私は彼女のいうとおりにした。だが、それ以来、われわれの愛情には悲しみの雲がひろがってきた。悲しみは愛情を死へみちびいていく病気だ。ふたりはひとことも口をきかずに、一時間もじっと向かいあっていることが何度もあった。
翌日、ダントワーヌ氏が来たとき、私は彼女の指示どおりに行動した。そして、ただひとり、ものを書くふりをして、六時間という長いあいだ退屈な時間をすごした。ドアがあいていたので、鏡にうつるふたりの姿が見えていたが、その鏡はまた私の姿も彼らに見せたのであった。彼らは六時間というもの、なにか書いていたが、ときどきそれを中止して、書いたことについて議論をした。それは決定的なことにちがいなかった。私には非常に悲しいことしか想像できなかった。
ダントワーヌ氏が帰ると、彼女は私のテーブルのところへ来たが、私は彼女が腫《は》れぼったい目をしているのを見て、溜息《ためいき》をついた。すると、彼女は弱々しく微笑した。そして、こういった。
「あした、ここをたちましょうよ」
「うん。そりゃいい。どこへ行こうか」
「あなたのお好きなところでいいわ。けれど、二週間たったら、ここへもどってこなければならないの」
「ここへ? そりゃつまらん考えだよ」
「でも、しょうがないの。わたしの書いた手紙の返事が来るとき、ここにいると約束したものですから。暴力をうける心配のないことは保証しますわ。けれど、わたしこの町はもう我慢できません」
「ぼくだってだいきらいだよ。どうだろう、ミラノへ行こうか」
「ええ、いいわ。ミラノへ行きましょう」
「だが、どうせここへもどってくるのだから、カウダーニャと妹を連れていこう」
「けっこうだわ」
「じゃあ、ぼくにまかせておくれ。あのふたりにはべつの馬車をあてがって、きみのチェロを持っていかせよう。だが、ダントワーヌ氏に行先を知らせなければいけないだろう」
「わたしは知らせないでもいいと思うわ。もう帰ってこないのじゃないかと疑うかもしれないけど、それならそれでいいわ。ここで待ち合わせようと約束しただけで十分なんですから」
[愛の最後の日々]
翌日、私は行李《こうり》をひとつ買った。彼女はそれへ十五日間の生活に必要だと思われるものを全部つめた。私たちは、アンドルモンに部屋の鍵をかけてほしいと頼んでから、召使たちの馬車をしたがえて出発した。ミラノでは全然外出せず、人にも会わずに、自分たちのことだけに没頭して二週間すごした。会ったのはふたりの仕立屋だけで、男の仕立屋に私の服をつくらせ、女の仕立屋に彼女の冬服を二着つくらせた。私はまた彼女に山猫の毛皮を裏に張ったマントを贈った。
彼女はこまかな心づかいをする女で、それが私にはとても好ましかったが、私の懐具合については一度もきいたことがなかった。私も財布がからになりかけていると思わせまいと心をつかった。しかし、パルマへもどったときには、まだ三、四百ゼッキーニ残っていた。
その翌日、ダントワーヌ氏が訪ねてきて、すすめられるままに昼食をともにした。コーヒーがすむと、私はまえのときと同じように、自分の部屋へ引き取った。話合いはまえにアンリエットが決心したときと同じぐらい時間がかかった。
騎士が帰っていくと、彼女は私のそばへ来て、話はきまった。運命がわたしたちに別れることを命じていると告げた。
私は彼女を腕に抱きしめ、ともどもに涙を流しながらいった。
「いつきみと別れなければならないのだい?」
「どうかしっかりしてちょうだい。ジュネーヴまで送っていただいて、そこへ着いたらすぐにお別れしましょう。あした、様子のいい女中をひとり捜してください。その女中を連れて、ジュネーヴのきめられている場所へまいりますから」
「では、まだ何日かいっしょに暮らせるのだね。しかし、様子のいい女中を捜すといっても、デュボワに頼まなければならないが、あの穿鑿ずきがその女中をとおしてきみが知られたくないことを聞きだすと困るんだが」
「だいじょうぶですわ。フランスへ行ったら、べつの女中を見つけますから」
デュボワはこの頼みをたいへん光栄に思い、三、四日たつと、中年のかなり身なりのいい女を自分で連れてきて紹介した。女は貧乏だったので、フランスへ帰る機会ができたのを喜んでいた。夫は士官であったが、ついさきごろ死んで、未亡人になっていたのである。アンリエットはその女にデュボワさんから知らせがあったらすぐ出発できるように支度をしておくようにといった。出発の前日、ダントワーヌ氏が昼食をいっしょにしたあとで、ジュネーヴ宛ての手紙をアンリエットに読ませ、彼女が目をとおすと封をして渡した。彼女はそれをポケットへしまった。
われわれは日の暮れがたにパルマをたち、トリノで二時間足をとめて、ジュネーヴまで世話をさせる下男を雇った。翌日、駕籠《かご》でモンテ・チェニスにのぼり、山橇《やまぞり》に乗ってラ・ノヴァレーズへおりた。五日目にジュネーヴへ着き、レ・バランス旅館に宿をとった。翌日、アンリエットは銀行家トロンシャン宛ての手紙を私に渡した。それをとどけにいくと、銀行家は手紙を読むやいなや、自分でレ・バランス旅館へお訪ねし、千ルイお渡しするといった。
われわれがまだ食卓についているとき、銀行家がやってきて、約束どおり金を渡し、下男をふたり至急に捜すが、その人物はわたしが保証するといった。彼女はあなたが下男を連れてきてくれ、またさっきの手紙で頼んだように、馬車の手配をしてくれたら、すぐに出発すると答えた。彼はあすじゅうにいっさい準備をととのえると請け合って帰っていった。おそろしい一瞬だった。まるで凍りつくような気持だった。われわれふたりは相対したまま、ふかい悲しみにうちのめされ、陰気なもの思いにとざされた。
やがて、私がさきに沈黙をやぶって、トロンシャンのよこす馬車がぼくの馬車と同じに乗心地がよく安全であっても、ぼくの馬車をきみにつかってもらいたい、そうしてくれたら、ぼくにたいする愛情が自然につづいていくことになって嬉しいといった。
「ぼくはそのかわり銀行家のよこす馬車に乗ることにするよ」
「それはいい考えだわ。わたしもあなたの馬車に乗っていけたら、気持がずっとやすまりますわ」
彼女はこういいながら、百ルイの棒包みを五本取り出して、私のポケットへねじこんだ。残酷な別離の苦しみにうちのめされている私には、それはとるに足りない慰めでしかなかった。ついに最後の二十四時間となった。幸福の断末魔に達したことを認めながらも、きびしい理性からそれを受け入れなければならないふたりの恋人は、際限もない溜息と涙と心からなる抱擁よりももっと雄弁な別離の言葉を知らなかった。
しかし、アンリエットはむなしい慰めをいって、私の悲嘆をやわらげようとはせず、わたしのことを人にきいたりしないでほしい。またいつかフランスを旅行して、どこかでわたしを見かけても、知らん顔をしていてほしいと頼んだ。
そして、ダントワーヌ氏への手紙を渡した。彼女は私がパルマへ帰るつもりかどうかきくのも忘れたのだが、私は即座にパルマへもどる決心をした。しかし、彼女は馬をかえるために最初にとまる町で手紙を書いて出すから、それを受け取るまではジュネーヴをはなれないでほしいといった。彼女は夜明けに出発した。例の女中をかたわらに、下男のひとりを御者台へすわらせ、ひとりは馬で先導した。私は馬車が見えなくなるまで見送り、見えなくなってもしばらくは部屋へあがっていかなかった。そして、給仕にさっきの馬車の馬がもどってくるまで部屋へはいってきてはいけないといって、ベッドにもぐりこんだ。涙もしずめられない心の苦しみを眠りが救いにきてくれるかと心頼みにしたのである。
シャティヨンから引き返した御者は翌日ようやくもどってきた。そして、アンリエットの手紙を渡したが、それには「さようなら」という言葉しか書いてなかった。御者は彼女が無事にシャティヨンへ着き、それからリヨン街道をとって旅をつづけていったと報告した。私は翌日にならなければ出発できなかったので、ただひとり、部屋にこもって、一生のうちのもっとも悲しい一日をすごした。ふたつある窓のひとつのガラスに、「あなたもアンリエットを忘れるでしょう」と書いてあるのを見つけた。私の贈った指輪の小さいダイヤモンドの尖《とが》りで、彼女がこの言葉を書いたのだ。この予言は私を慰めるものではなかった。しかし、「忘れる」という言葉に、彼女はどんな範囲の意味を与えたのだろう。じっさいをいえば、彼女は心の疵《きず》が癒着《ゆちゃく》するという意味しか考えなかったにちがいない。しかし、それは当然のことで、なにもわざわざ心を傷《いた》める予言をしてくれるにもおよばない。いや、私は彼女を忘れなかった。そして、彼女のことを思いだすたびに心に香油をぬって悲しみをまぎらせた。現在のような老境にはいって、私を喜ばせるものは追憶あるのみだと考えてみると、私の長い一生は不幸よりも幸福のほうが多かった。それで、あらゆる原因の原因であり、最高の指導者である神に感謝するとともに、なぜか知らぬ雑多な事件の組合せをこよなきものに思うのである。
[絶望にも救いはある]
翌日、トロンシャン氏のつけてくれた下男を連れて、イタリアへ向かって出発した。悪い季節であったが、サン・ベルナールの峠をとり、われわれふたりと行李と永久に失ったいとしい女の乗るはずだった馬車のために七頭の騾馬《らば》を雇って、三日で越えた。大きな苦悩に圧倒されている男には、どんなに辛いことでも辛いと思われない利点がある。これは一種の絶望だが、絶望にもなにか心なごむものがある。私は空腹も喉《のど》の渇きも知らず、またアルプスのこの嶮岨《けんそ》な峠で自然を凍結させていた寒気も感じなかった。かなり元気でパルマへ着くと、わざと橋の袂《たもと》の、悪い宿屋へ落ちついた。ところが、亭主が私に割り当てた部屋の隣にド・ラ・エー氏がとまっているのを見て、うんざりしてしまった。彼はそんなところで私と会ったのを驚き、ながながと挨拶をして私にしゃべらせようとした。しかし、私はたいへん疲れているので、いずれ会おうとしか答えなかった。
翌日は、ダントワーヌ氏にアンリエットの手紙を渡すために外出しただけであった。彼は手紙の封を切ると、私宛てのがはいっていたので、読まずに私に渡した。しかし、私宛ての手紙には封がしてなかったので、私が小声で読んでしまうと、自分にも読ませてほしいと許可を求めた。そして、やがて私に手紙を返しながら、いくらでもお役にたちたいし、わたしの信用をいつでもおつかいになってくださいといった。アンリエットが書いてよこした手紙は次のとおりである。
「わたしのただひとりのお友だちよ、とうとうあなたをお棄てしなければならなくなりました。わたしの苦しみを考えて、かえってお苦しみをふかめないようになさってください。楽しい夢を見たと思い、運命に不平をいいますまい。だって、あんなに楽しい夢は長くつづかないものですからね。三月もつづいて、申し分なく幸福に暮らしたことを誇りとしましょう。あれほど幸福だったといえる人はほとんどございませんわ。お互いに永久に忘れますまい。そして、たびたびふたりの愛を思いだし、お互いに心のなかで新たにしましょう。ふたりの愛は、お互いに別れたとはいえ、ますますいきいきとわたしどもを楽しませてくれるでしょう。わたしのことを問い合わさないでください。そして、偶然わたしがだれかおわかりになっても、知らんふりをしていてください。わたしねえ、自分の問題は手ぎわよくかたづけましたから、あなたを失っても、一生かなり幸福に暮らせると思います。あなたがどういう方か、わたし存じませんが、世の中にわたしほどあなたを存じている人はありますまい。わたしは将来けっして恋人をつくるまいと思います。けれども、あなたにはわたしと同じ考えをおこさないようにお願いしますわ。あなたがこれからも恋をなさり、べつのアンリエットをお見つけになるように望みます。さようなら」
私はその後十五年たってこのすばらしい女を見つけたが、それがどこで、どういう場合だったかは、いずれ話そう。
自分の部屋へもどってひとりになると、私は今後のことも気にかけず、ふかい悲哀にとざされて、ドアに鍵をかけて、ベッドにはいるよりほかにすることがなかった。大きな悲しみはえてしてこういう結果をひき起こす。それはわれわれを昏睡《こんすい》のなかにひきずりこむ。そして、悩み苦しむ男にも自殺する気をおこさせない。考えることをさえぎるからである。しかし、生きるための努力をする能力をもさらってしまう。生きることも負担ではなかった。そんなことは全然考えなかったからである。少しでもそれに気づいたら、考えずにいられなかっただろう。私は完全な無感情の状態にあった。私はあれから六年後にも同じ状態になった。しかし、それは恋愛のためではなく、鉛屋根《イ・ピオンビ》の牢獄へ入れられたときであった。それから二十年後、一七六八年に、マドリードでブエン・レティロの牢屋へ入れられたときもそうであった。
二十四時間たつと、身心の疲れが非常にひどくなったが、不愉快でなくなった。この疲労がさらにはなはだしくなると命にかかわるかもしれないという考えは、慰めになりはしなかったが、おそろしさにおびえさせることもなかった。なにか食べないかと、うるさくすすめにくるものもないので、気楽であった。ここへ着くとすぐ、アルプスを越えるときに手伝ってくれた下男にひまをやったのもよかった。こうして四十八時間たつと、衰弱がいよいよはげしくなった。
そうした困窮のさなかに、ド・ラ・エーがドアをたたきにきた。返事もしたくなかったが、どうしても話したいことがあるといって、しきりにたたくので、ドアをあけにいき、すぐにベッドへもぐりこんだ。
「馬車の入用な外国人がいて、あなたの馬車を買いたいというのです」と、彼はいった。
「売る気はありません」
「それはどうも。とんだおじゃまをしました。だが、ひどくお加減が悪いようですね」
「ええ、安静にしていなければならないのです」
「ご病気はいったいなんですか」
彼はそばへ寄ってきて、脈をみようとしたが、わからないほどかすかであったので、心配し、きのうなにを食べたかときいた。二日まえからなにも食べていないと答えると、彼は事情を見ぬいて、気をもみはじめた。そして、非常にやさしく、またいかにも親切そうに、スープをとるようにすすめた。私は返事をするのも大儀だったし、うるさくてしかたがなかったので、ついに承知した。それから彼はアンリエットのことは口にせずに、来世のことや、この世のむなしさについて説教した。そして、この世はむなしいが、われわれはかってに身の始末をつけるわけにいかないのだから、命は大事にしなければならないと説いた。
私は返事をしなかったが、聞くことは聞いていた。彼はそれに気づいて乗り気になり、そばをはなれまいと決心した。そして、三、四時間後に、軽い昼食を注文した。私はいくらか食べた。彼はそれを見ておおいに喜び、一日じゅう、世間話をして楽しませた。
翌日、昼食の相手をしてくれるように彼に頼んだ。心の悲哀は少しも減らなかったが、ふたたび生は死よりも好ましいと思われはじめた。彼のおかげで命をとりとめたと思って、私は親しみを感じはじめた。しかし、まもなく、ある事件が起こって、私の愛情を非常にもりあげた。その事件の経緯《いきさつ》はくわしく話せば次のとおりである。
[女優との恋のかけひき]
二、三日後に、デュボワがド・ラ・エーから話をきいて見舞いにきたが、それから私は外出するようになった。ある日、芝居へ行って、何人かのコルシカの士官と知合いになった。彼らはイタリア王室の連隊に勤務し、フランスのために戦ったのだが、もうひとり、パテルノという軽率な少尉がいた。これはシチリアの青年だったが、ある女優に心を寄せていた。その女優は彼を軽蔑していたが、彼はそのすばらしい美点を数えあげて、私をおもしろがらせた。しかし、彼は同時に彼女の家を訪ねるときのひどい仕打ちを話し、少しでも愛情のしるしを見せようとすると、こっぴどくはねつけられると訴えた。しかも、彼女はたくさんの家族に昼食や夕食をふるまわせて彼に散財させたが、そんなことは全然気にもかけなかった。
私はついに好奇心をおこし、舞台の上の彼女をつぶさにながめ、多少見どころがあると思った。パテルノは喜んで私を彼女の家へ連れていった。
私はらくに話のつけられる女だと踏み、また貧乏だということも知っていたので、せいぜい十五か二十ゼッキーニつかえばものにできると見当をつけた。そこで、そういう計画をパテルノに話すと、彼は笑いだして、そんな話をもちかけたら、門前払いをくわされるといった。そして、同じような申し込みをして二度と会ってもらえなくなった士官の名を何人もあげた。そして、「ひとつきみもやってみて、あとで一部始終をあけすけに話してくれたらおもしろい」と答えた。私はこの返事にちょっと気色を害し、万事報告すると約束した。
彼女が舞台衣装をつける部屋へはいっていって、ふたりきりになったとき、私の時計をほめたので、特別のおぼしめしにあずかれたら、お礼にあげようといった。すると、彼女は商売の方式にしたがって、私に時計を返しながら、
「まじめな殿方なら、そんなことはいやしい女にしかいわないものですわ」といった。
私はいやしい女なら、一デュカしか出さんといい捨てて出てきた。
この小さなエピソードをパテルノに報告すると、彼は得意の鼻をうごめかした。だが、私はつぼを心得ていた。女優なんかみんな同じだ。それで、いくらさそわれても、彼がもよおす晩餐につらなろうとはしなかった。非常に不愉快な晩餐で、女優の家族ががつがつとものを食いながら、その金を払う鼻の下のながいばか者をさんざん軽蔑した。
一週間ばかりたってから、パテルノは先日の事件について、私の話とそっくり同じことを、女優からきいたといった。女優はそのあとで、私がもう一度同じ申し出をしたら、すぐさま承知されやしまいかと心配して寄りつかないのだといったそうだ。そこで、私は今後彼女の家へ行くにしても、あんな申し出はきっとしないと思うし、たとえただで身をまかせるといわれても相手にならないつもりだと伝えてほしいといった。
あの青年は私の言葉をそっくり女優に伝えた。女優は腹をたて、来るなら来てみろ、ひどい目にあわせてやるからといってほしいと彼に頼んだ。そこで、私は軽蔑していることをはっきり見せつけてやろうと思って、彼女の出ていない芝居の二幕目が終わったとき、楽屋へはいっていった。彼女はそこにいた男に座をはずさせて、話があるといった。
そして、ドアをしめ、私の膝の上にしなだれかかって、ほんとにあたしのことをあんなにひどくおっしゃったのかときいた。こういう状態になると、私は女の感情を害する勇気はない。私は返事のかわりにすぐ行動にうつって、有無をいわさず攻めつけた。彼女は欲望をかきたてる抵抗もせずに降服してしまった。しかし、才気のある男がこの種の女を相手にする場合にはいつもそうだが、私も場違いとわかりきっている愛情にうながされ、二十ゼッキーニやってしまった。彼女にはこのほうが時計よりもずっとよかったろう。事が終わると、彼女はすっかり満足し、ふたりはああいう挑戦がどういうふうな結末になるものか全然ご存じないパテルノの間抜けさ加減を笑いあった。
翌日、私は哀れなシチリア人に出会って、もううんざりだ、彼女のところへは二度と行かないつもりだ、全然おもしろくないといったが、それはほんとの気持だった。しかし、ある理由があって、この約束をまもらざるをえなくなった。というのも、三日たって、むかしオネイランの家の娼婦からくらわされたのと同じご馳走をあのあばずれからふるまわれたのに気がついたのであった。
だが、こういう不名誉な病気にとりつかれても、それは文句をいう筋合いではない。アンリエットのような気高い女と別れた直後に、あんないやしい娼婦とたわむれたという、あさましい堕落にたいして当然の罰をうけたのだ。
私の病状はいかさま療法ですむことではなかった。そこで、ド・ラ・エー氏に相談するのが早道だと思った。彼は自分の貧乏をかくさずに、毎日昼食をやりに来ていた。年齢からも風采からも尊敬に値するこの男は、フレモンという歯医者兼業の外科医に紹介した。彼はいろいろ病状をしらべて、水銀療法《メリクリウス》を行なうことにした。この療法は悪い季節と相まって、私を六週間部屋にとじこもらせた。
[水銀療法が神へと導く]
一七四九年。しかし、その六週間のあいだに、私はド・ラ・エーから梅の毒よりもずっと悪い病気をうつされてしまった。それは私にも思いがけないことだった。ド・ラ・エーは毎朝一時間教会へお勤めにいく以外は私の部屋へ入りびたりだったが、私を途方もない信心家に仕上げてしまった。私は、彼のいうままに、こういう病気にかかったおかげで魂に救いを得たのだから、かえって喜ぶべきだとさえ思った。そして、以前は暗闇につつまれていた魂を真理の光へお導きくださるために、メルクリウス〔メルクリウスには水銀の意味のほかに、ラテン名ヘルメスとして、魂の案内者の意味もある〕の神をおつかわしくださったご厚意を天の神に感謝した。私の理性のなかにこういう考え方の変化をもたらしたのは、疑いもなく水銀のせいである。つねに危険きわまるこの不純な金属は私の精神力を非常に弱め、いままでまちがった考え方をしていたように思い込ませてしまった。それで、病気がなおったら、全然ちがった生き方をしようと決心した。ド・ラ・エーははかり知れない巧みさで私の病める哀れな魂へ悔恨の情をそそぎこんだのだが、その悔恨にせまられて、私がさめざめと泣くのを見て、自分も嬉し泣きに泣いた。彼はまるで見てきたように、天国のことや他界のことを話してきかせたが、私はもう彼を軽蔑しなかった。彼は理性を捨てるように私をならしていったが、理性を捨てるにはばかにならなければならなかった。
ある日、彼は神がこの世界を創造なさったのが春の彼岸であったか秋の彼岸であったかわからないといった。
私は水銀で頭が朦朧《もうろう》としていたが、こう答えた。
「天地の創造なんてことを仮定すると、問題が幼稚になりますよ。だって、季節は地球上の各地域でまちまちですからね」
ド・ラ・エーはそういう屁理屈はやめなければならぬと説教し、私はそれに屈服した。
この男は偽善者であったが、それを認めようともせず、人がその話をするのを我慢できなかった。ある日、彼は次のようなことをいって、すっかり私をたらしこんでしまった。
「わしは学校で教育を受け、科学や芸術を研究して相当の成績をあげると、パリ大学で二十年つとめ、それから工兵隊にはいりました。
そして、名前はのせずに何冊かの本を出版しましたが、その本はいまでもすべての学校で青年の教育につかわれています。わしには金がなかったので、何人かの少年の教育にあたったが、その連中は現在社会の各方面で、才能はもとより人格の高潔さで光っています。最後の弟子はボッタ侯爵でした。現在は職がないので、ごらんのようにいっさいを神にゆだねています。四年まえ、バヴォワ男爵と知合いになりました。これはローザンヌ生れの若いスイス人で、同名の将軍の息子さんでした。お父さんの将軍は一連隊を掌握して、モデナ公に仕えていましたが、のちに不幸な事件を起こし、あまりにも世間の噂になりました。ところで、若い男爵は、お父さんと同様にカルヴァン派でしたが、お邸でゆっくり暮らそうと思えば暮らせる身分だったのに、それをきらって、戦争商売につくために、ボッタ侯爵に与えたのと同じ教育を自分にもやってほしいといってきました。わしは彼の高尚な性向を開拓できるのを喜び、いっさいの仕事をなげうって、すべてを彼にささげました。そして、いろいろ話しあっているうちに、うまくかまをかけて、彼が宗教についてはまちがった生活をしているのをつきとめました。それも家族にたいする義理から余儀なくやっていたのでした。わしはそうした彼の秘密をつかむと、これは永遠の救いがかかっていることで、根本的な問題だと苦もなく納得させました。彼はこの真理に心をうたれて、すっかりわしの愛情にたよるようになったので、ローマへ連れていって、ベネディクト十四世に紹介しました。法王は彼に改宗の宣誓をさせてから、モデナ公爵の軍隊に就職させ、現在中尉になっています。しかし、このかわいい改宗者はまだ二十五歳で、ひと月に七ゼッキーニの給料しかもらえないので、生活に困っています。両親は彼の改宗を非常に憎み、なんの補助も与えません。だから、わしが力をかしてやらなかったら、ローザンヌへもどらざるをえなくなるでしょう。しかし、残念ながら、わし自身貧乏ですし、職もないので、知合いの善良な人々の財布から彼のために喜捨をいただいて助けてやるよりできないのです。
わしの弟子は人の恩にふかく感じる心をもっているので、喜捨をしてくれた人々の名前を聞きたがっていますが、彼らは名前を知られるのを望みません。それはもっともなことです。なぜなら、喜捨をするものがそれを誇りとするようになると、喜捨はりっぱな行為でなくなりますからね。わしは、ありがたいことに、そういう虚栄心をもちあわせません。ただ救霊を予定された青年のために父親の役をつとめ、ささやかな神の僕《しもべ》として、彼の魂の救いに協力できたことを、無上の喜びとしておるだけです。あの善良で美男の青年はわしだけを信頼し、週に二回手紙をよこします。その手紙をお目にかけるのは遠慮しなければなりませんが、お読みになったら、あなたも泣いてしまうでしょうよ。あなたからいただいた三ルイもおととい彼に送ってやりました」
ド・ラ・エーはこの長話が終わると、窓ぎわへ立っていって、鼻をかみ、涙をふいた。私はおおいに心を動かされ、ド・ラ・エーの高徳に感服するとともに、魂を救うために喜捨にたよる状態にまで身をおとした弟子の男爵の心根に感激して、泣いてしまった。そして、信仰にはいったばかりの熱狂にかられて、救助が私から出たことを知られたくもないし、自分でも喜捨した金額を知りたくないと、わが使徒にいい、したがって、必要と思われる金額を私にことわりなしに財布のなかから引き出してほしいと頼んだ。すると、ド・ラ・エーは両腕をひろげてベッドへ近寄ってきて、私を抱きしめながら、そういうふうに文字どおり福音書の趣旨にしたがうなら、かならずや神の王国にはいる確実な道を切りひらけるだろうといった。
精神は肉体にしたがう。それは物質のもつ特権である。胃袋がからっぽだったので、私は狂信的になった。水銀は私の頭脳のなかに空洞をつくり、そこへ熱狂が住みついたのだ。私はド・ラ・エーには内緒で、ブラガディーノ氏やほかのふたりの友人につぎつぎと手紙を書き、この男やその弟子のことを報告して、私の狂信ぶりを伝えた。読者もご存じのとおり、この精神の病気は伝染力をもっている。私は彼らに現代社会の最高の善はこのふたりの人物を仲間に入れることであると巧みにほのめかした。私は知らず知らず偽善者になっていたので、こういうことをほのめかしはしたが、はっきりとはいわなかった。これらの単純ではあるがじっさいに徳の高い人物を考慮にいれるのは望ましいことであるというような調子で。
そして、こう書いた。「みなさんが全力をふるって、ド・ラ・エー氏と若いバヴォワのために、ヴェネチアで名誉ある地位を捜してあげることを、神さまもお望みでございます」
すると、ブラガディーノ氏が返事をよこして、ド・ラ・エー氏はわしの邸へ来ていっしょに住むがよい。バヴォワ男爵は保護者の法王に手紙を書いて、ヴェネチアの大使に紹介してもらうがいい。そうしたら、大使は現在の情勢を利用して法王の希望を元老院に伝え、適当なポストを捜してくれるだろうといった。
当時アキレイアの総大司教の管轄区域のことが問題になっていた。この区域はヴェネチア共和国にもオーストリア王家にも所属しており、オーストリア王家は人民投票を要求し、ベネディクト十四世に仲裁を求めていた。法王はこの問題についてはひとことも発していないが、ヴェネチアの元老院が法王の勧告に非常な注意を寄せていることはあきらかだった。
ブラガディーノ氏からの決定的な手紙をもらうと、私はド・ラ・エー氏にいままでの奔走の経緯《いきさつ》を話した。彼は非常に驚いたようであったが、すぐに事の成行きを見やぶり、老元老院議員ブラガディーノ氏の理屈に感服して、さっそく愛する弟子へすばらしいラテン語の手紙を書いた。そして、それを浄写して、すぐに法王へ差し出せ、法王はきっと願いをききとどけてくれるだろう、問題は一通の推薦状にすぎないのだからと指示した。
われわれがこうしてこの問題と取り組み、法王の推薦状の結果を知らせるヴェネチアからの手紙を待っていたとき、私の身の上に滑稽な小事件が起こった。これは読者にも興味がなくはあるまいと思う。
[ほらふき士官との一幕]
四月の初旬、私はヴィーナスの神から受けた疵《きず》も完全になおり、従来の元気をとりもどしたので、一日じゅう、わが改宗の導師と連れだって、教会をへめぐり、説教を聞いて歩いた。そして、夜になると、いっしょにカフェへも行ったが、そこには大勢の士官が綺羅星《きらぼし》のように集まっていた。その一座を出鱈目《でたらめ》なおおぼらで楽しませている男がいた。それは軍服を着たプロヴァンス人で、多くの強国、とくにスペインの軍隊に勤務していたときにたてた抜群の武勲をしゃべりまくった。人々は愉快な能弁をつづけさせようとして、彼の話を一も二もなく信じこんでいるようなふりをした。彼は、私がじっと彼を見つめているのに気づいて、自分に見覚えがあるのかときいた。
「いやはや」と、私は答えた。「アルベルラの戦闘でいっしょだったんだもの、見覚えがあるもないもありゃしないよ」
この言葉に一座のものはどっと笑いだした。しかし、おおぼらふきは、なにも笑うことはない、わしは現にあの戦闘に参加したのだからと、勢いこんでいった。そして、すぐに私を思いだしたようなふりをし、われわれの勤務していた連隊の名前をいい、抱きついて接吻して、パルマで再会する幸運を得たのを喜んだ。この冗談のあとで、私はド・ラ・エーといっしょに宿屋へもどった。
翌日、私がまだ彼と食卓についているとき、例のほらふきが帽子もとらずにとびこんできて、
「アルベルラのきみ、大事な話があるから、いそいでめしをすませて、いっしょに出かけよう。こわかったら、だれでも好きな|助っ人《すけっと》を連れてくるがいい。おれは一ダースの相手でもだいじょうぶだ」
私はすぐに立ちあがって、ピストルをとって狙いをつけ、
「だれだろうと無断で部屋のなかへとびこんできて、安息をみだす権利はない」ときめつけ、「とっとと出てうせろ。さもないと脳味噌をぶっとばすぞ」とどなりつけた。
すると、その男は殺すなら殺せといって、剣を抜いた。しかし、ド・ラ・エーがはげしく床板を踏み鳴らしたので、宿屋の亭主が駆けあがってきて、さっさと出ていかないと警備兵を呼びにやるとおどかした。
彼は公衆の面前で侮辱したのだから、公けに謝罪をさせてやると捨てぜりふを残して出ていった。
彼が立ち去ると、この冗談はやっかいな結果になるかもしれないとみて、ド・ラ・エーと善後策を相談しはじめた。だが、長いこと考える必要はなかった。三十分後に、ドン・フィリッポの士官がやってきて、ド・ベルトラン少佐が話したいことがあるから、衛戌《えいじゅ》司令部まで出頭するようにと伝えた。
そこで、ド・ラ・エーに私がカフェでいったことや、あの男が私自身の部屋へ攻めこんできたときの模様などを証言するために同行してほしいと頼んだ。
司令部へ行くと、少佐の周囲に四、五人の士官がいたが、そのなかに問題の士官の姿も見えた。
ド・ベルトラン氏は、才気のある人であったが、私を見てにっこり笑い、やがていともしかつめらしい顔になって、
「ここにいる士官はきみから公衆の面前で侮辱されたのだから、公けの謝罪を要求するのは当然だ。そこで、この司令部の長官として、事を穏便に解決するために、きみにこのものへ謝罪をしてもらいたい」といった。
「少佐殿、べつに謝罪の必要はありません。なぜなら、わたしがこの人をばかにして侮辱した事実はないからです。ただアルベルラの戦闘のあいだに見かけたように思うといい、この人がそこにいただけでなく、わたしにも見覚えがあるといったとき、わたしもそれを疑えなかっただけなのです」
例の士官がそこへ口をだして、
「そうだ、しかし、わしはロデラときいたので、アルベルラとはきかなかった。わしがロデラにいたことはだれでも知っている。ところが、きみはアルベルラといった。それはわしを侮辱するためにちがいない。なぜなら、アルベルラの戦いは二千年以上まえのことだが、アフリカのロデラの戦いは現代のことだ。わしはモンテマール公の麾下《きか》で戦ったのだ」
「きみがそういうなら、それを信じよう。しかし、わしがアルベルラの戦闘に行ったことを否定するなら、わしこそ謝罪を求めるべきだ。なぜなら、わしはパルメニオンの幕僚で、この戦闘で負傷したからだ。傷痕を見せてやりたいが、きみにもわかるだろうが、肉体が変わってしまったのだから、どうにもならない。いまきみの目のまえにいる肉体は二十五歳でしかないのでなあ」
「きみのいうことは狂気の沙汰としか思われない。しかし、ともかく、きみがわしをばかにしたことには何人も証人がいる。きみはわしに会ったといったが、とんでもない、わしはそこに行かなかったのだから、きみは会ったはずがないのだ。だから、謝罪を要求する」
「わしにも証人がいるよ。きみはわしをロデラで見かけたといったが、わしもロデラへは行かなかったのだからな」
「わしだってまちがえることはあるさ」
「わしもご同様さ。だから、なにもつべこべいいあうことはないじゃないか」
少佐は笑うまいとして必死にこらえていたが、私が士官にまちがいを認めさせようとまじめくさってしゃべるのを見て、この人は自分のまちがいを認めたのだから、きみは謝罪を要求する必要はないと士官にいった。
「しかし、この男がアルベルラに行ったなんて信じられますか」と、士官がいった。
「信じようが信じまいが、それはきみのかってさ。それと同じく、アルベルラの戦闘に加わったというのも、この人のかってさ。これでもきみは剣をにぎって、この人が嘘をついたといい張るつもりかね」
「とんでもない! この事件は落着したと宣言するほうがましですよ」
そこで、少佐はふたりに抱擁しろとすすめた。われわれは喜んでいわれるとおりにした。翌日、このロドモンは少してれくさい顔をしながら私のところへ昼食をねだりにきた。ド・ベルトラン少佐もわれわれを昼食によんでくれたが、私はばか笑いをしたい気分でもなかったので辞退した。
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第二十七章
[ヴェネチアへもどる]
こうして、毎日ド・ラ・エーは私の弱った精神にたいして支配力をまし、私は毎日|敬虔《けいけん》にミサや説教や勤行《ごんぎょう》につらなった。そうこうするうちにヴェネチアから私の事件がすっかり忘れられてしまったという通知を受け取った。それと同時にブラガディーノ氏の手紙がとどいた。その手紙によると、週番の元老が大使に手紙を送り、バヴォワ男爵が出頭したら、ヴェネチアの軍職につけることになっている。これによって彼は恥ずかしからぬ生活を送れるし、才能次第では前途に希望もかけられると、法王に保証せよと命じたとあった。
この手紙を受け取ると、私はさっそくド・ラ・エーに話して喜ばせた。彼は、私が事件がかたづいたので、祖国へもどるつもりでいることを知ると、モデナへ行ってバヴォワと相談し、ヴェネチアで幸運をつかむためにとるべき方策をたてようと決心した。彼は私のまじめさや友情や気持の不変性を疑わなかった。私が狂信者になりきったと見ていたが、一般に狂信ということは、それを引き起こした原因がつづくかぎり、なおることのない病気であることを知っていたので、自分もヴェネチアへ行って、その原因をあくまで維持しようと希望していた。そこで、これから訪ねていくという手紙をバヴォワへ出し、涙にくれながら別れを告げた。そのとき、彼は私の魂と美徳をほめたたえ、私を息子よと呼び、きみに愛情を寄せたのはきみの容貌に救霊を予定されたものの気高い性格を認めたからだといった。彼はこういう仰山な言葉を平気でつかう男であった。
ド・ラ・エーが出発した二、三日後、私はフェラーラへ行き、それからラヴィゴ、パドヴァ、フジーナをとおってヴェネチァへもどった。フジーナでは馬車を手放した。一年間も留守にしていたので、三人の友人はまるで後見の天使が幸福をもたらすために天から降ってきたように私を歓迎した。そして、手紙で知らせてあったとおり、神から選ばれたふたりの人物の到着を待ちこがれているようであった。ド・ラ・エーの部屋はもう準備ができていた。バヴォワのためにも家具つきのふた部屋を近所に見つけてあった。まだ共和国の軍隊にはいっていない外国人を自邸へとめることは、政策上都合が悪かったからである。
しかし、彼らは私の生活ぶりが途方もなく変わったのを見て、唖然《あぜん》として目をみはった。私は毎日ミサに出るし、ちょいちょい説教を聞きにいくし、いそいそと四十時の勤行〔聖体が示される四十時間の祈り〕に列し、カジノへは足踏みもせず、敬虔で分別のたしかな人々の出入りするカフェへしか行かず、彼らが勤めのために家を留守にするときには、孜々《しし》として勉学にいそしむというありさまであった。彼らは私のこうした新しい風習と以前の習慣とをくらべて、とうとい神の摂理とその計り知りがたい手段とを賛美した。そして、一年間私を祖国から追放させた罪を祝福した。さらに彼らを驚かしたのは、私がブラガディーノ氏に一文もねだらずに、古い借金を返しはじめたことであった。氏は一年まえから全然私に送金しなかったが、その分を全部積みたてておいてくれたのであった。彼らは私があらゆる種類の賭博を敵視するのを見て、非常に喜んだ。
五月のはじめ、ド・ラ・エーから手紙で、これからいとしい心の息子といっしょに船に乗り、私の知らせた尊敬すべき人々のお指図にしたがいに行くといってきた。
モデナからの便船の着く時間はわかっていたから、みんなそろって出迎えに行った。ブラガディーノ氏だけは元老院の日だったので行かなかったが、もどってきたとき、五人が首をそろえて待っているのを見いだした。彼はふたりの外国人に至れり尽くせりの応対をした。ド・ラ・エーはなにかと私に話しかけたが、私は、バヴォワにすっかり気をとられていたので、ほとんど耳にはいらなかった。バヴォワはド・ラ・エーからかねがね聞かされて心にえがいていた人物とはまったくちがっていた。それで、心から親しむ気になるまでに、三日間の研究を要した。当時二十五歳のこの青年の肖像は次のとおりである。
中肉中背、顔が美しく、姿がよく、金髪で、快活で、気分にむらがなく、話がじょうずで、才気があり、ひかえ目にうやうやしくものをいった。気持のよい整った顔立で、歯が美しく、長い髪の毛は毛並がそろっていて上品にカールし、上等な養毛剤のポマードの匂いをぷんぷんさせていた。ド・ラ・エーが私に話したのとは姿も形もまったくちがうこの青年は三人の友人をもひどく驚かした。しかし、彼らはそのために礼儀を欠いたり、彼の人となりにたいしていだいていた好感を取り消すような判断をすることは全然なかった。
ド・ラ・エー氏があてがわれたりつぱな部屋へおさまるのを見とどけてから、私はバヴォワ男爵を予定の住居へ案内した。それはブラガディーノ邸からあまり遠くなく、小さい荷物はすでに私がとどけておいた。その住居は非常に実直な市民の家であったが、まえからいろいろ聞かされていたので、手あつくもてなした。彼は気持のよい部屋に落ちつくと、心をこめて私を抱きしめて友情を誓い、ド・ラ・エー氏からくわしくうかがったが、見ず知らずのぼくにいろいろ斡旋してくださって、感謝にたえないと礼をいった。
私はなんのお話だかよくわからないと答え、話題をかえるために、職がきまって勤務につくまで、ヴェネチアでどういう生活をするつもりかときいた。すると、
「われわれの性質はあまりちがっていないようだから、いっしょにおおいに楽しく遊びたいと思います」と、彼は答えた。
私はメルクリウスとド・ラ・エーのために身心とも疲れきっていて、この言葉がごく明瞭だったのに、その真の意味をすぐさとるのに当惑した。そこで、表面の意味だけしかのみこめなかったが、彼がその家のふたりの娘から好意を寄せられたのはすぐに気がついた。その娘たちは美しくも醜くもなかったが、彼はその道のヴェテランらしくきさくに愛想よく応対したから、娘たちはきっと気に入ってもらったと考えたにちがいない。しかし、私は彼の態度を世間並みの礼儀だと思っていた。
[偽善者の教父の正体]
最初の日はサン・マルコ広場とカフェへしか連れていけなかった。しかも、夕食の時間までに帰ってきた。彼は毎日ブラガディーノ氏の邸へ昼食と夕食をとりにいくようにきめられていた。食卓ではみごとな話しぶりで一同を魅惑した。ダンドロ〔元老院議員ブラガディーノの友人〕氏は陸軍大臣へ紹介するために明朝迎えにいく時間をきめた。夕食後、私は彼を家まで送っていって、ふたりの娘にまかせてきた。彼女らはスイスの殿さまだというふれ込みの青年が、かねがね心配していたように、下男を連れてこなかったのを喜んだ。下男なんかいらないと納得してもらえるだけの世話はできると自負していたのである。
翌日、彼を大臣に紹介するはずのダンドロ、バルバロの両氏と連れだって彼の家へ行った。彼はお化粧の最中であった。姉娘がしなやかな手で髪をととのえ、彼はその巧みさをほめていた。部屋のなかはポマードや香水の匂いでむせかえりそうだった。友人たちは少しも不快そうな顔を見せなかったが、少なからず驚いたようであった。この改宗者がこれほどすばらしいギャラントリーを発揮しようとは予期していなかったからである。ダンドロ氏が信心家らしい口調でいそがないとミサにまにあわないというと、男爵が驚いたようにきょうは祭日ですかときいたので、私はあやうく吹きだすところであった。ダンドロ氏は少しも注意がましいことはいわずに、ただ|いいや《ヽヽヽ》といったが、次の日からはミサのことを口にしなくなった。彼の支度ができると、私は彼らを送り出し、べつの方面に足を向けた。昼食のときにふたたび顔を合わせたが、食卓では大臣の応対ぶりが話題にのぼった。
午後、友人たちは彼を親戚の婦人連のところへ案内したが、婦人連はすべてこの愛すべき青年に好感を寄せた。こうして、一週間とたたないうちに、彼はいろいろの人にうまく取り入り、全然退屈しないようになった。しかし、この一週間ののちに、私は完全に彼の人柄とものの考え方を知ってしまった。もしもまえもってまったく反対の印象をふき込まれていなかったら、そんなに長い時間を要しはしなかったであろう。バヴォワは女と博打《ばくち》と浪費が好きであった。貧乏だったので、女は彼の主要なドル箱であった。宗教には実際は全然関心がなかった。しかし、偽善者になるような悪辣《あくらつ》さがなかったので、宗教については少しも隠しだてをしなかった。
「きみはそんな人柄なのに、どういうふうにして、あのド・ラ・エーをごまかすことができたのですか」と、ある日、私はきいてみた。
「ごまかすなんて! ド・ラ・エーはぼくの方針や考え方やなにからなにまで知りぬいています。だが、なにしろああいう信心家なので、ぼくの魂に惚《ほ》れこみましたが、ぼくはかってに惚れこませています。いままでたいへんよくしてくれたので、おおいに感謝し、彼を愛しています。まして教理や永遠の救いなんて退屈な話をして困らせることもないので、いっそう好きです。ぼくらのあいだでは、その点、ちゃんと話がついているのです」
バヴォワとの交際で愉快だったのは、彼が一週間もたつと、私をアンリエットと別れた時分の気持にかえしてくれただけでなく、ド・ラ・エーにだまされていたのを赤面させたことである。ド・ラ・エーは申し分のないキリスト教徒の役割をみごとにはたしていたが、やはり正真正銘の偽善者にほかならなかった。バヴォワはそれをはっきり私に見せてくれた。そこで、私はすぐ元の習慣をとりもどした。しかし、ド・ラ・エーの話にもどろう。
この男はもともと安楽な生活だけを楽しみにしていた。年をとっていて、女には全然興味がなかったから、わが友人たちを感服させるにはうってつけであり、事実、感服させていた。彼らにたいして神や天使や永遠の光栄のことしかしゃべらず、いつもいっしょに教会へ行ったので、彼らはすっかり打ち込んでしまった。そして、彼が真価を発揮するのを待ちかねていた。というのも、彼を薔薇《ばら》十字団〔ヨハネス・V・アンドレアが創立した神秘主義的で改革的な傾向をもつ秘密結社。ドイツ、イギリス、フランスに存在したが、十八世紀には、錬金術的な傾向を帯びた秘密結社が、同じ名称で拡がったらしい。フリーメーソンは薔薇十字団の教義を数多く採用した〕のひとりか、少なくとも私に算易を教えて不朽のパラリスを贈ったカルペーニャ山中の隠者かと想像していたからである。それで、私が神託だと称してド・ラ・エーのいる前で私の秘術についてしゃべるのを禁じたのを残念がった。
しかし、この禁令のおかげで、私は彼らの敬虔な好奇心のためにつぶす時間を十分に享楽することができたが、一方では、ド・ラ・エーがああいう調子では私の秘術に一顧の価値も与えず、かならずやわが友人たちの迷いをさまして、私にとってかわろうとするにちがいないと案じられたのであった。
はたせるかな、彼はわずか三週間とたたないうちに、彼らの精神をすっかり支配してしまった。そして、彼らの信用をつなぐのにもはや私を必要としないばかりか、気が向けば私を失脚させることもできるというばかげた考えをおこすようになった。それは私にたいする言葉づいや態度物腰の変化にありありと見てとれた。
彼は私をさしおいて、三人と秘密の話合いをはじめ、私の行ったことのない家々へ紹介させた。そして、私がだれも知らないところで一夜をすごしてくると、笑いながら甘ったるい言葉でこそあったが、もったいぶって叱言をいった。
そればかりか、食卓で友人たちや改宗者を前にして私にやさしい説教を加えるとき、まるで私が改宗者を悪の道へ引き込もうとしているような口をきくので、私は我慢できなくなりはじめた。もちろん彼は冗談めかしていってはいたが、私はだまされなかった。そこで、ある日、彼の部屋へ押しかけていって、
「福音書をあがめる人間として、ある問題についてふたりだけで話そうと思ってやってきました。この次は大勢の前でいうからそのつもりでいてください」と、あけすけにいってやった。
「それはどういうことですか」
「これからは、ぼくとバヴォワのしていることについて、三人の友人の前で、あてこすりをいうのは、厳重につつしんでくだきい。ふたりだけのときなら、いつでも喜んでききますから」
「つまらぬ冗談をまじめにとられては困りますね」
「困る困らないは問題ではありませんよ。どうしてあなたは男爵を責めないのです。これからは十分に気をつけてくださいよ。さもなければ、ぼくも冗談で仕返しをしますからね。気をつけるんですな。きのうは大目に見てあげたが、これからあんなことをいうと承知しませんよ」
私はこういうとお辞儀をして出てきた。
それから二、三日して、私は三人の友人とともに一時間すごし、託宣の形で命令を伝えた。それはヴァランタンのほのめかすことは、何事にまれ、私に相談せずに実行してはならぬということであった。ヴァランタンとはこのイエズス教徒の名で、託宣は彼をこの名で呼んだのである。三人がこの命令を尊重することを私は疑わなかった。
ド・ラ・エーはようすが変わったのに気がついて、多少慎重になった。バヴォワにこの経緯《いきさつ》を話すと、私の仕打ちをほめた。ド・ラ・エーが彼の世話をしたのは彼に心を寄せていたからだ。バヴォワはそれを認めようとせず、まだ認めるまでにならされていなかったが、もしも彼が美男子でなかったら、ド・ラ・エーは彼のためになにもしなかったろうと、私はまえから信じていた。
この青年は就職のことがなかなかはかどらなかったので、フランス大使館につとめた。そのためにブラガディーノ邸へ来るのをやめなければならなくなったばかりでなく、ド・ラ・エーとも交際できなくなった。というのも、彼が大使館に宿泊することになったからである。
これは共和国の最高警察のおかすべからざる規則で、ヴェネチアの貴族やその近親者は外国公館との交際を厳重に禁じられていたのであった。しかし、バヴォワのこうした決心にもかかわらず、三人の友人は彼のために奔走をつづけ、のちに語るようにそれに成功した。
[司祭の従妹を連れだす]
クリスティーナの夫のカルコは全然会いにいくこともなかったが、妻がお産をすませたので、伯母をさそってカジノへ行くがいっしょにどうだとすすめた。クリスティーナはあいかわらず美しく、夫に負けずにヴェネチア語をしゃべれるようになっていた。そのカジノで私はひとりの化学者と知合いになったが、話をきいているうちに、化学の講義を受けたくなった。それで、毎晩彼の家へ行くことにしたが、ひとりの若い娘に興味をもちはじめた。それは隣の家の娘であったが、化学者の年とった妻のお相手に来るのであった。そして、夜の一時(午後七時ごろ)になると、女中が迎えに来た。私は化学者の老妻のいる前で、一度だけ、彼女が好きになったことを話した。ところが、それから娘がぷっつり姿を見せなくなったので、驚いてしまった。老妻の話によると、彼女がいっしょに住んでいる従兄《いとこ》の司祭が、私の訪ねてくるのを知って、嫉妬心をおこし、彼女を来させなくしたにちがいないということであった。
「従兄の司祭で、やきもちやきですって?」
「どうもしかたがありませんよ。あの子が外出させてもらえるのはお祭の日に、サンタ・マリア・マーテル・ドミニの教会の第一ミサへ行くときだけなのです。しかも、その教会はあの子の家から二十歩しかありません。わたしのところへよこすのも、だれもお客が来ないのを知っているからです。きっと女中があなたをよくお見かけすると神父さんに告げ口したにちがいありませんわ」
私はやきもちやきを敵と思い、恋の気まぐれに好意をもつ人間なので、さっそく娘に手紙を書いて、私のために従兄と別れる気があるなら、かってにふるまえる家を一軒あてがおう、そこでは私の恋人として暮らし、人とのつき合いも自由にさせるし、あなたのような若い娘がヴェネチアのような繁華な町で得られるだけの楽しみをさせてあげようといった。この手紙は彼女がミサに来たときに教会で渡したが、次のお祭の日にここで出会ったとき返事をくれればいいと書きそえた。
私は忘れずに約束の日に行った。彼女は返事をよこして、司祭はあたしにとっては暴君のようなものだから、司祭の手から抜け出せればたいへんしあわせだと思う。けれども、正式の妻にしてくれるのでなければその決心がつかないといった。そして、手紙の終りで、もしもそういうまじめな気持でいるなら、ルジーアに住んでいる母のジョヴァンナ・マルケッティに話していただきたいとつけくわえてあった。その町はヴェネチアから三十マイルのところにあった。
私はこの手紙を見て腹をたて、彼女がこの手紙を司祭とぐるになって書いたと見当をつけた。そして、私を網にかけるつもりだと思い、また結婚しろといってくるとは滑稽でずうずうしいと考えて、復讐の計画をたてた。しかし、事情をつきとめる必要があったので、娘の母親のジョヴァンナ・マルケッティという後家さんをルジーアへ訪ねていった。
その女は娘が私に書いてよこした手紙を読み、私が娘と結婚したい気持になっていると聞くと、たいへん喜んだが、私は娘が司祭といっしょに住んでいるかぎり、結婚する決心がつかないといった。すると、彼女はこう答えた。
「あの司祭はあたしの遠縁なのですが、現在ヴェネチアでほかの人をいれずに娘とふたりで住んでいる家は自分の家なのです。二年まえにあの人はどうしても家政婦がひとり入用だが、娘をよこしてはくれまいか、娘もヴェネチアへ来れば、結婚の相手がらくに見つかるだろうといったのです。そして、書き物をよこして、娘が結婚したら、千デュカの値うちがあると見られる家具を娘に贈り、またこの土地にもっている、毎年百デュカのあがりがある財産の遺産相続人として指名すると約束しました。この取引はあたしにも得なように思われたし、娘も喜んだので、公証人の前で正式の契約書をつくりました。それで、娘は出かけていったのです。あの人が娘を奴隷のようにしていることは、あたしも知っていますが、それは娘の望んだことなのです。あなたにもわかっていただけると思いますが、あたしの願うのは、あの子が結婚してくれることだけですのよ。なぜって、娘がいつまでも結婚しないと、どうもあぶない気がして、母親として心配でしかたがないのです」
「では、ぼくといっしょにヴェネチアへいらっしゃい。娘さんを司祭の手から取り上げて、あなたからお渡しくださったら、結婚しましょう。さもないと、おことわりです。娘さんを司祭の手から受け取るのじゃ、結婚が不名誉になりますからね」
「そんなことはありませんわ。あの人は娘の四親等の従兄で、おまけに坊さんで、毎日ミサをあげているのですからね」
「冗談じゃない。娘さんを取り上げなさい。さもなければとうていもらい手がありませんよ」
「もしも娘を取り上げると、あの人は家具もくれないでしょうし、財産も売りとばしてしまうでしょう」
「それはぼくが引き受けますよ。娘さんを取り上げて、家財道具といっしょにあなたの腕のなかへもどらせますよ。そして、娘さんがぼくの妻になったら、土地ももらいましょう。ぼくという男をよく知ってくれたら、疑う余地もなくなるでしょう。とにかくヴェネチアへいらっしゃい。四、五日したら、かならず娘さんを連れてここへ帰れるようにしますから」
彼女はもう一度娘が私によこした手紙を読み、少し考えた。それから、自分は貧乏な後家だから、ヴェネチアへ行く金も滞在する費用もないといった。
「ヴェネチアへ来たら、なにも不自由はさせません。とにかく、十ゼッキーニあげておきましょう」
「十ゼッキーニですって。それなら義理の妹を連れていけますわ」
「だれでも好きな人を連れてきていいですよ。今夜はキオッジャまで行ってとまり、あす昼食までにヴェネチアへ着きましょう」
われわれはキオッジャにとまり、翌日十七時(午前十一時)にヴェネチアに到着した。そして、ふたりの女をカステロ街のある家に落ちつかせた。その家の二階はほとんど家具がなかった。私は僧侶の書いた契約書を渡してもらって別れ、友人たちと昼食をとった。彼らにはある重要な仕事をかたづけるためにキオッジャに一泊してきたと話した。それから代訴人のマルコ・レッツェを訪ねた。代訴人は私の話をくわしくきいてから、母親が自身で十人委員会の裁判長に嘆願書を提出すれば、娘を僧侶の手から取り上げるために援助を与えるであろう。娘ばかりでなく、その家にある家具を全部さらって、好きなところへ持っていくことができるといった。そこで、明朝までに嘆願書をつくってほしい、母親を連れてきて署名させるからと頼んだ。
こうして、彼女は私といっしょに代訴人を訪ね、そこから十人委員会の事務所へ行って、裁判長に嘆願書を提出した。十五分ののち、裁判所の執行官にその女とともに司祭の家へ行き、娘をとりもどせという命令がおりた。娘は家を出るとき、好きな家具を残らず持ち出してもよいことになった。
事はそのとおりに行なわれた。私は隣の広場の岸で、母親とともにゴンドラのなかで待っていた。そばの大きな船には、大勢の巡査が家のなかの家具を運んできて積み込んだ。最後に娘がゴンドラへ乗ってきたが、私がいるのを見てあっけにとられた。母親は彼女に接吻して、あすこの人がおまえの夫になるのだといった。娘は承知していると答え、暴君にはベッドと服しか残してこなかったといった。
[婚約をめぐる事件]
やがてカステロ街へ着き、家具をすべておろさせた。私は三人の女と昼食をとり、ルジーナへ行って待っていろ、仕事がかたづき次第会いにいくからといいふくめた。その日の午後は未来の妻と愉快に語りあってすごした。彼女の話によると、執行官が来たとき、司祭は服を着かえていた。執行官は契約書を見せ、司祭が自分の書いたものだと認めると、娘の出ていくことや家具を運び出すことにじゃまをしてはならん、じゃまをすると死刑に処するといい渡した。司祭はミサをとなえて出ていった。その留守にいっさいが無事に終了した。
「伯母は母が岸につないであるゴンドラで待っているといいましたが、あなたがいたのでとても驚いたわ。だって、あの思いきった処置があなたのなさったことだとは夢にも思わなかったのですもの」といった。
「あれはきみに寄せている愛情の最初のしるしだよ」と私は答えた。
彼女は嬉しそうに微笑した。
私は四人分のうまい夕食と上等の葡萄酒とを注文した。そして、食卓で二時間愉快にくつろいですごしたのち、四時間を未来の妻と水入らずで笑いこけた。
翌朝、食事がすむと、大形のゴンドラを呼んで、ルジーナへ運ぶように全部の家具を積み込み、母親にはさらに十ゼッキーニやって、旅路の無事を祈った。そして、勝ちほこった気持で、意気揚々と、得意の鼻をうごめかしながら、家へ帰った。
この芝居はあまりにもはなばなしく演じられたので、親友たちの耳にはいらないはずはなく、彼らは私を見ると悲しみと驚きのようすを示した。ド・ラ・エー氏はひどい心痛の面持で私を抱きよせた。こういう役割では彼はずばぬけている。ただブラガディーノ氏だけはげらげら笑い、ほかの三人に、わしには全然見当がつかん、この事件は頭のずばぬけていいものにしかわからぬなにか重大なことを引き起こす策略にちがいないといった。私のほうは彼らがこの事件を知った顛末《てんまつ》がわからないし、事の経緯を正確に知っているはずもないと思ったので、なにもいわずに、ブラガディーノ氏といっしょに笑っていた。じっさいのところ、なにも心配する必要はなかったので、人の噂《うわさ》をきいて気晴らしにするつもりでいた。やがてわれわれは食卓についた。バルバロ氏がまっさきに、親しげな口調で、きみがきのう結婚のうま酒を飲みほしてきたとは思いもよらなかったといった。
「では、世間では、ぼくが結婚したといっているのですか」
「みんなが、どこでも、そういっているよ。十人委員会の裁判長連さえそう信じているが、それももっともなことさ」
「それはみんなまちがいですよ。ぼくは身銭をきって善行をするのが好きですが、自由を犠牲にするのはまっぴらです。あの事件の真相をご存じになりたかったら、ぼくの口からきくべきです。民衆の声はばか者を楽しませるだけのものですからね」
「しかし、きみはきみと結婚するといわれている娘とひと晩すごしたのだろう」
「そりゃ、すごしましたよ。しかし、ゆうべのぼくの行状については、だれにも報告する必要はありません。あなたもぼくと同じ意見でしょう、ド・ラ・エーさん」
「わしの意見はきかないでください。なにもわからないのですから。しかし、そんなに民衆の声を軽蔑するものじゃないということだけいっておきましょう。きみには心からなる愛情をもっているので、わしは世間の噂が苦痛になるのです」
「だが、ブラガディーノさんやぼくには全然苦痛になりませんが、それはどういうわけでしょう」
「わしはきみを尊敬しているが、ひとの中傷のおそるべきことは、身をもって体験しています。ひとの話だと、きみはりっぱな司祭の伯父と暮らしていた娘をさらうために、ある女に金をやって母親に仕立て、十人委員会の裁判所へ提訴させて、官憲の力で娘を取り上げたそうじゃないですか。十人委員会の執行官まで、娘がゴンドラへ乗ったとき、もうきみが母親だという女といっしょに待っていたといっているし、きみがあの善良な僧侶の家財道具をさらう根拠にした贈与の書類は贋物《にせもの》だという評判ですよ。そして、そういう罪悪の道具に裁判所をつかったのを非難しています。最後に、たとえきみがその娘と正式に結婚しても、それは当然しなければならないことだが、きみが目的を達するためにつかった大それた方法を、十人委員会の裁判長たちが黙って見すごすはずはないという噂です」
私は冷ややかな口調で、
「たいへん長いお説教でしたが、たとえどんな賢者でも、犯罪のからむ話をきいて、それをまたひとに伝えるなら、賢者でなくなりますよ。なぜなら、その話が事実無根の中傷なら、自分も中傷の共犯者となるのですからね」と答えた。
この箴言《しんげん》めいた言葉は彼を赤面させたが、他の友人たちにはその賢明さを賞賛させた。私はド・ラ・エーに私についてはどんなことを聞いても安心していてほしい、私が名誉の道を心得、その規則を実践していると信じ、私自身現在そうしているように、悪い噂を聞いても聞き流しておいてほしいと意味ありげな口調で頼んだ。
この物語は五、六日のあいだ町じゅうを楽しませたが、まもなく忘れられてしまった。
しかし、三か月たってもルジーアへ行かず、マルケッティ嬢がひんぴんとよこす手紙にも返事を出さなかったし、彼女の要求する金を飛脚屋に渡さなかったので、彼女は最後の手段をとる決心をした。それはやっかいなことになりそうだったが、結局たいしたこともなかった。
おそるべき宗教裁判所の執行官のイグナチオが私の面前にやってきた。まだブラガディーノ氏やふたりの友だちやド・ラ・エーやふたりの外国人とともに食卓についているときであった。彼は丁重な態度でコンタリーニ・ダル・ゾッフォ勲爵士がお話をしたいそうで、勲爵士はあすしかじかの時間にマドンナ・デ・ロルトの自宅でお待ちするということですと伝えた。私は立ちあがって、かならず閣下のご命令にしたがいますと答えた。彼はすぐに帰っていったが、あの偉大な人物が私のような身分の低いものになんの用事があるのかわからなかった。しかし、この通達は、なにしろ相手が司法裁判所の判事だったので、われわれ一同を狼狽させる重大事であった。しかし、かつて顧問官であったころ司法裁判所判事をつとめたブラガディーノ氏は慣例を心得ていたので、冷静な態度で、べつに心配することはないといった。
「イグナチオは平服を着ていたろう。あれは裁判所の使者として来たのではない。だから、コンタリーニ氏もきみに個人として話すつもりなのだ。現に裁判所へ出頭しろといわずに私邸に来いといっているじゃないか。あれは厳格な老人だが、非常に正しい人だ。だから、きみも率直に事実を話さなければならんよ。事実を否定すると、事件をいっそう悪化させるおそれがあるからな」
この教訓は好ましくもあり、また必要でもあった。私は指定された時刻に閣下の邸へ出頭した。
案内を乞うと、すぐに通された。部屋へはいると、閣下はひとこともいわずに一分ばかり私をじろじろながめていた。そして、鐘を鳴らし、従僕が来ると、隣の部屋に待たせてあるふたりの婦人を呼ぶようにいった。そこで、なにが問題なのかすぐにわかった。マルケッティの後家とその娘がはいってきた。が、私は少しも驚かなかった。閣下はこのふたりを知っておるかときいた。
「もちろん存じております、閣下。この娘はその素行によってわたしの妻となるにふさわしいことを証明したら妻にするはずの女ですから」
「このひとの素行は正しい。いまお母さんとルジーアに住んでいる。きみはこのひとをあざむいたのだ。どうして結婚をのばしているのだね。また、どうして会いにもいかないのかね。手紙にも返事をせず、生活にも困らせているそうじゃないか」
「わたしはいま生活費がありませんので、結婚はできません。三、四年もたちましたら、お世話くださっておるブラガディーノ氏の斡旋で職を得ましょうから、そうしたら考えましょう。それまでは神さまにおまかせして暮らしてもらうよりしかたがありません。そして、妻とするに足りると確信しましたら、結婚しましょう。ただし、四親等の司祭と会わないと約束してくれなければなりません。この人に会いにいかないのは、わたしの告解僧と良心とから禁じられているからです」
「このひとはきみが型どおりの結婚の約束をし、生活費を渡すように要求しているのだが」
「わたしはそういう約束を迫られるようなことはなにもしておりません。それにまた、わたし自身無一物なのですから、生活費を送ることもできません。この人も、母親の家におれば、餓死することもありますまい」
そこへ、母親が口をだして、
「この子が従兄と暮らしておりましたときには、なんの不自由もしませんでした。ですから、また従兄のところへもどらせようと思います」
「もしもまたもどっていくなら、わたしはもう骨をおって逃げださせるようなことはしません。この人が分別のわかるようになるまでわたしが結婚をのばしておるのもむりではないと、閣下にもよくおわかりになることと思います」
閣下は私にもう帰ってもよろしいといい、万事落着した。この一件については、その後二度と悶着が起こらなかったが、私は判事との応答を残らずしゃべって、ブラガディーノ氏の食卓をにぎわせた。
[パリへ出発する]
一七五〇年。謝肉祭のはじめに、私は三けたの富籤《とみくじ》にあたって、三千デュカもうけた。運命の神は必要のないときに恩恵を与えてくださった。私は秋のあいだ毎日親になって賭博をやっていた。それは会員組織の小さいカジノであった。会員のなかにスペイン大使モンタレグレ公の士官がまじっていたので、ヴェネチアの貴族はだれも来なかった。貴族政治の国では、平等は政治にたずさわる資格のある人々のなかにしかなく、貴族と平民とはとけあえないのである。
私は昇天祭の大市のあとでフランス旅行を試みたいと思い、ブラガディーノ氏に千ゼッキーニあずけておいた。そういう考えから、謝肉祭のあいだは賭けにまわって持ち金を危険にさらすまいと注意していたのであった。非常に誠実なある貴族が私を親のひとりにし、四分の一の出資をゆるしてくれた。それで、四旬節のはじめの日、かなり多額の金が手にはいった。
四旬節のなかばごろ、二度目にマントヴァへ行ってバレーに出演していた友だちのバレッティがヴェネチアへ来た。キリスト昇天祭の大市の時期に、サン・モイゼ劇場でバレーをおどる契約をしたのであった。彼がマリーナといっしょなのを見て、私はおおいに喜んだが、ふたりは宿舎をべつにしていた。彼女はすぐにイギリス系のユダヤ人でメンデックスというものをつかまえた。このユダヤ人は彼女のためにおおいに金をつかったが、彼女の招待でいっしょに食事をしたとき、いとしいテレザ・ベルリーノの消息を伝えてくれた。彼はテレザに恋したが、よい思い出を残してきたと話した。この話は私を喜ばせた。そして、私がテレザを訪ねようと計画していたときアンリエットがあらわれて、その計画をさまたげたのを、かえってよかったと思った。もしもあのままナポリへ行っていたら、たちまちテレザに夢中になり、どんなことが起こったか見当もつかなかったからである。
そうこうするうちに、バヴォワ男爵が共和国の軍隊に奉職することになり、大尉に任ぜられた。そして、いずれ話すが、だいぶ成功した。
ド・ラ・エーはフェリーチエ・カルヴィという少年の教育を託され、一年後にその少年をポーランドへ連れていった。彼とは三年後にウィーンで出会ったが、その経緯《いきさつ》はそのときに話そう。
この時分、私はレッジォの大市を見物し、ついでトリノへ行こうとしていた。トリノではサヴォワ公がスペインのフィリッポ五世の姫君と華燭《かしょく》の典を挙げるのを機会に、イタリア全土の名流が集まっていた。私はこの旅行を終わったらいよいよパリへ出発する段取りにしていた。パリでは王太子の妃殿下が身重だったので、王子の生誕を期待して盛大な祝典を準備していた。おりよくバレッティもまた父母に呼ばれて、パリ行きを計画していた。彼の母は有名な女優のシルヴィアであった。彼はパリのイタリア座で踊りをおどり、二枚目役をつとめることになっていた。私にとって、これよりも好ましい道連れを選ぶことはできなかった。また、パリへ行けばいろいろ便宜をはかってもらえるし、りっぱな友人も紹介してもらえるだろう。
そこで、私はブラガディーノ氏とふたりの友人に別れを告げ、二年後にはもどってくると約束した。弟のフランチェスコはイル・パルミジアーノ(パルマ人の意)と異名された戦争画家シモネッティの学校へ残していくことにしたが、パリへ着いたら身の振り方を考えてやると約束した。当時パリでは才能ある画家には洋々たる前途がひらかれていた。読者はいずれ私がどういうふうに弟との約束をはたしたかおわかりになるであろう。
私はまた弟のジョヴァンニもヴェネチアへ残していった。彼はグアリエンティとともにイタリアを一巡してから、この土地へもどってきていたが、近々ローマへたとうとしていた。彼はメングス勲爵士の門下で以後十四年をすごすことになるが、一七六四年ドレスデンへもどって、一七九五年にその地で死んだ。
私はバレッティのあとを追ってヴェネチアを出発した。バレッティとはレッジォで落ち合うはずであった。おりしも一七五〇年六月一日であった。私はりっぱな服を着、金も十分にあり、身持さえつつしめば金に不自由することはあるまいと確信していた。
四挺櫓の大形ゴンドラは乗船後二十四時間で、ポンテラゴスクロの船着き場に私をおろした。ちょうど正午であった。私はフェラーラへ行って昼食をとるために、すぐ幌馬車に乗った。
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第二十八章
[即興の芝居と出演謝礼]
正午きっかりにポンテラゴスクロで船からおり、いそいでフェラーラへ昼食に行くために馬車に乗った。サン・マルコ旅館で馬車をおり、給仕に案内されて自分の部屋へあがった。ドアをあけはなした広間からにぎやかな物音が聞こえてきたので、何事かとのぞいてみた。十一、二人の人がご馳走の並んだテーブルについていた。それはなんでもないことだったので、すぐに歩きだしたが、「いらっしゃったわ」というきれいな女の声にひきとめられた。その女はこういいながら、食卓から立ちあがり、両腕をひろげて私のところへ駆けより、接吻した。そして、
「なつかしい従兄《いとこ》のために、もう一人分あたしのわきへ食器を出させて、荷物は隣のお部屋へ運ばせてちょうだい」といった。
若い男が近寄ってくると、彼女はその男に、
「きょうかあすきっといらっしゃるといったでしょ」といった。
そして、私を自分のわきへすわらせた。私に敬意を表するために立ちあがった連中もすべて腰をおろした。彼女は私の足を踏みつけながらいった。
「きっとおなかがすいてらっしゃるでしょうね。これがあたしの許婚《いいなずけ》ですの、ご紹介しますわ。こちらがお舅《しゅうと》さんにお姑《しゅうとめ》さん、ほかの方々はみんな許婚のお家の知合いの方々です。どうして母さんはあんたといっしょに来なかったのでしょうね」
私はどうしても口をきかぬわけにいかない羽目になった。
「なつかしい従妹《いとこ》よ、母さんは、三、四日するとやってくるよ」
この奇妙な女は、いっこう見覚えがなかった。しかし、注意して見てみると、有名な踊り子のカティネラだとわかった。が、まだ一度も話しあったことがなかった。彼女は自分の仕組んだ芝居の都合で私ににせの従兄を演じさせようとしているのだ。めでたく大団円までこぎつけるにはそういう人物が必要なのだろうと私は見てとった。そこで、はたして彼女の期待する才能が自分にあるかどうか見てみたいと思い、喜んでひと肌ぬぐことにした。うまくいったら、少なくともお礼に秘密の恩恵をほどこしてくれることはまちがいなかった。だが、しっぽを出さずに役割をじょうずにやりおえるには、なかなか腕を要するだろう。そこで、腹がすいているという口実で、食べるほうに専念して彼女に十分の時間を与え、私がうまく口うらを合わせるように下ごしらえをさせた。彼女は私が食べているあいだに、一座のだれ彼にいろいろのことを話しかけて、こみいったお芝居の綾《あや》を、それとなく、逐一私に説明した。なかなか頭のいい女だった。こうして、私の了解したのは、結婚式は母親が彼女の衣装やダイヤモンドを持ってきてくれなければ挙げられないこと、私はえらい作曲家で、サヴォワ公の結婚式を祝うオペラの音楽をつくるためにトリノへ行くところだというようなことであった。この新しい発見は私を喜ばせた。なぜなら、あすの出発を彼女がさまたげるはずはないと見てとったからだ。そこで、そうした役割を演じても危険はあるまいと思った。しかし、今夜たんまりお礼をしてもらうあてがなかったら、一座の連中にこの女は気が狂っているのだといったかもしれない。カティネラは三十歳で、非常に美しく、男出入りで評判をとっていた。私を手袋のようにすなおにさせるにはもってこいだった。
姑になるはずの女が私のまっ正面にすわっていたが、私のためにコップへなみなみと葡萄酒をついでくれた。私は腕をのばしてそれを取ろうとしたが、彼女は私の手が包帯でもしているようにまがっているのを見て、
「あら、どうなさいましたの」ときいた。
「ちょっと挫《くじ》いたのですが、少しやすませておけば、すぐなおりますよ」
すると、カティネラがげらげら笑いだして、クラヴサンを弾いていただきたいと思っていたのに、それが聞かれないで、たいへん残念だといった。
「だが、どうしてそんなに笑うのだい」
「二年まえに、あたしも踊りをおどりたくなかったので、足をくじいたふりをしたのを思いだしたからよ」
コーヒーのあとで、義理の母親がカティネラさんはご家族のことについてこの方とお話合いになりたいだろうから、おふたりだけにしてあげなければいけないといった。そこで、私は蓮葉女《はすっぱおんな》がきめておいてくれた隣の部屋で彼女と差向いになった。
彼女は長椅子の上へ倒れかかって、声をおさえることもできずに、思いきり笑いこけた。そして、あなたのことはお顔とお名前を知っているだけだが、心から信用しているといい、あすはご自由に出発なさってけっこうだといった。
「あたしねえ、二か月まえから一文なしでここにいたのよ。持っているものといったら、二、三枚のドレスと下着だけ、それも食べるために売りとばさなければならなかったの。けれども、いいあんばいに宿屋の息子があたしに惚れこんだので、ヴェネチアには二万エキュに相当するダイヤモンドがあるから、それを婚資にしてお嫁さんになるといって喜ばせたの。それを母が持ってくることにしているのだけど、母はなんにもありはせず、こういうからくりも知らないので、ヴェネチアからひと足も動きはしないわ」
「だが、この茶番劇の結末をどういうふうにつけるつもりなんだね。どうも悲劇になりそうな気がするのだが」
「とんでもない。とても滑稽な結末になるわ。じつは、あたし、ここで恋人を待っているのよ。その人はマインツの選挙侯の弟で、ホルスタイン伯爵という人なの。フランクフルトから手紙をよこして、すぐにたつといってきたから、いまごろはもうヴェネチアへ着いてるはずよ。その人があたしをここへ連れにきて、レッジォの大市へ行くことになっているの。もしもあのお婿さんがじゃまだてをしたら、きっとあたしの費用を払って、あの人をぶちのめすにちがいないわ。けれど、お金を払ったりぶちのめしたりさせたくないの。あたしは、帰りがけに、あの人の耳へじきに帰ってくる、そして、帰ってきたらきっと結婚すると、こっそりいってやるつもりなの。そうしたら、万事まるくおさまるにちがいないわ」
「そりゃ、すばらしい。きみは天使のように頭がいいよ。だが、ぼくはきみが帰ってくるまで待っているわけにいかないよ。いますぐここで結婚しよう」
「まあ、ばからしい。せめて夜になるまでお待ちなさいよ」
「とんでもない。いまでもきみの伯爵が馬車を乗りつけてくる音が聞こえるような気がしているんだ。もしも伯爵が来なかったら、今夜のお楽しみがもうけになるじゃないか」
「じゃあ、あたしに惚《ほ》れてるの」
「無我夢中さ。それもあたりまえじゃないか。きみのさっきの芝居で、ぼくはぞっこんまいっちゃったんだよ。ほんとだよ。さあ、はやくしよう」
「お待ちなさいよ、ドアをしめるから。あんたのいうことももっともだわ。これはほんのつまみ食いだけど、即製だけにとても粋なつまみ食いねえ」
そのつまみ食いがうまかったことは、いまでも忘れない。
夕方になると、一同われわれの部屋へあがってきて、風にあたりにいこうといった。そこで、その支度をしていると、六頭立ての駅馬車のやってくる音が聞こえた。窓から見ていたカティネラが、あたしのところへ来た殿さまにちがいないから、みんな引っ込んでほしいといった。みんなが引きさがると、彼女は私を部屋へ押し込んで閉じこめてしまった。じっさい、大きなベルリン馬車が宿屋の前にとまって、私の四倍もありそうな殿さまがふたりの従僕にささえられておりてきた。彼は階段をあがって花嫁の部屋へはいった。私に残された楽しみは壁越しにふたりの口説《くぜつ》をきき、ドアの隙間からカティネラがその巨大な機械にしてやることをのぞくだけしかなかった。だが、そうした楽しみもしまいにはあきてしまった。五時間もつづいたからだ。そのあいだに、彼らはまたカティネラの荷物をつくって、馬車に積み、夕食を食べ、ラインの葡萄酒を何本も平らげた。夜半にホルスタイン伯は来たときと同じように引きあげ、哀れな花婿から花嫁をさらっていってしまった。
このどさくさのあいだ、だれひとり私の部屋へはいってこなかったが、私も人を呼ぶ気になれなかった。見つかるのがこわかったのだ。愛情の表現をのぞき見していたものがいたと知ったら、ドイツの殿さまがどんな処置をとるか見当がつかなかったからだ。それはわれわれふたりの当事者にとって、けっして名誉になることではない。私は人類のみじめさをつくづく考えずにいられなかった。
[トリノの洗濯屋の娘]
立役者が出発したあとで、ドアの隙間から宿屋の息子の姿が見えた。私はドアをたたいてあけてほしいといったが、彼は情けない声で、お嬢さんが鍵を持っていってしまったから、錠前をこわさなければだめだといった。私は腹がへってしかたがないから、はやくこわしてほしいと頼んだ。そして、そのようにしてもらった。彼は私の食事の相手をしてくれたが、お嬢さんは隙をみて、六週間たったらきっと帰ってくるといってくれた。あの人はそういいながら涙をこぼし、わたしに接吻してくれたと話した。
「殿さまは費用を払っていったんだろうね」
「いいえ。けれども、たとえ払ってくださっても、いただかなかったでしょうよ。花嫁はとてもお金にきれいな人なので、受け取りなんかしたら、きっと腹をたてたでしょうからね」
「彼女が出ていったのを、きみのお父さんはどう考えているの」
「父はいつでもものごとを悪く考える癖があって、あの人はもう帰ってこまいと思っています。母もわたしの考えより父の考えのほうが正しいといっております。だが、先生はどうお考えになりますか」
「きみに帰ってくるといったのなら、きっと帰ってくるよ」
「もしも帰ってくる気がなかったら、あんなにきっぱりいいはしなかったでしょうね」
「そのとおりだ。それが正しい理屈というものだよ」
私の夕食は伯爵の料理番がつくったものの残りであった。私はカティネラが花婿にやろうとくすねておいた一本のライン酒を飲んだ。夕食がすむと、従妹にできるだけはやくもどってくるようにいいきかせるからと彼を安心させて、駅馬車に乗った。金を払おうとしたが、彼は受け取らなかった。ボローニャへはカティネラよりも十五分おくれて着き、同じ旅館に投宿した。そして、隙をみて、とんまな花婿と語りあったことを話してやった。
レッジォへは彼女よりもさきに着いたが、彼女が強力で無力な伯爵のそばをはなれられなかったので、全然話をする機会がなかった。レッジォには大市のあいだじゅういたが、とくに書きとめるようなことも起こらなかった。レッジォからはバレッティといっしょに出発し、やがてトリノに着いた。トリノは見物したかった。この町はアンリエットといっしょに通ったが、馬をかえるために足をとめただけであった。
トリノはなにもかも美しく思われた。町も、宮殿も、劇場も。また女もサヴォワ公爵夫人を筆頭にすべて美しかった。しかし、ここでは警察が非常に優秀だときいて、笑いだしてしまった。街路に乞食があふれていたからだ。しかし、この警察は、歴史によってだれでも知っているように、非常に聰明な王さま自身の主要な事業であった。しかし、私はおろかにもその王さまのぶざまな顔を見て、びっくりしてしまった。
私は生まれてこのかた、王さまを一度も見たことがなかったので、王さまというものは容貌もふつうの人間とは格段の相違で、りっぱで荘厳で、とびぬけた偉丈夫であるべきだと、ひとりぎめに思い込んでいた。こうした考えも、ものを考える若い共和主義者としては、まんざらばかげたものではなかった。しかし、サルディニアの王さまをひと目見てから、この考えはたちまちどこかへ消しとんでしまった。王さまは容貌が醜く、せむしで、仏頂面をし、態度物腰までぶざまであった。
舞台ではアストルアとガファレリの唄をきき、ジェオフロワの踊りを見た。このジェオフロワはその当時ボダンという非常に誠実な舞踏家と結婚したばかりであった。
トリノの滞在中は洗濯屋の娘とのこと以外は、全然色っぽい事件に心の平和をかきみだされなかった。その娘との情事をここにしるすのは、それが私にある肉体的教訓を与えてくれたからである。
その娘と、自分の部屋でも、彼女の部屋でも、どこでもいいから、ゆっくり話しあおうとさんざん骨をおったが、どうしてもうまくいかなかった。それで、彼女が私の部屋から出ていくときにいつもおりる裏階段の下で、強引にものにしてしまおうと決心した。そこで、階段の下にかくれていて、娘が近づくと、とびついていった。そして、甘ったるい言葉をかけながら、きびきびとした動作で、下の二、三段へ押しつけた。しかし、歓楽の最初のひとゆすりとともに、私の攻めかかった場所の隣からひどく異様な物音がとびだして、一瞬私の熱意をそいだ。しかも、おさえつけられた娘が思わぬ無作法を恥ずかしがって、手で顔をかくしたので、こっちも鼻白んでしまった。
だが、接吻をして娘を安心させて、そのまま攻めつけたら、まえよりも大きいのがまた一発。それでもつづけようとすると、三発目がとびだし、また四発目が高らかに鳴った。それが非常に規則ただしく、まるで音楽の調子に区切りをつけるオーケストラのチェロのようであった。この音響現象は、生贄《いけにえ》になった娘の羞恥《しゅうち》や当惑とあいまって、私の気分を一変させてしまった。そして、事のおかしさについ笑いだし、笑うよりほかになにもできなくなって、思わず手をはなした。娘はその隙に逃げていったが、それ以来二度と私の前に姿を見せなかった。私はものの十五分も階段に腰かけたまま、笑いのしずまるのを待っていたが、あの滑稽な事件はいまでも思いだすたびに笑わずにいられない。その後、あの娘が身をもちくずさずにいられたのも、ああした病気のためではあるまいかと考えた。それはきっと異常な体質が原因にちがいないが、そうだとすると、神の賜わった特質に感謝すべきで、恩知らずな気持から欠陥と見るのはまちがっている。世の尻軽な女たちも、ああいう体質であったら、四分の三は堅気になるだろう。ただし、相手の恋人も同じ体質だとわかったら、そうはいくまいが、そういう場合には、奇妙な合奏が幸福な恋人たちに楽しみをひとつよけいに与えることになろう。さらにまた、この噴門に操作を加えることも容易だろうから、その結果、音楽に芳香を加えたら、なおすばらしかろう。ひとつの感覚が他の感覚の享楽をゆるさぬはずはないのだし、ヴィーナスの歓楽においては、嗅覚も少なからず関与しているのだから。
トリノでの博打はレッジォの損を十分にとりもどしてくれた。それで、私はわが友バレッティにこれなららくにパリへ行けると安心させた。
バレッティは出発をいそいでいた。パリではブルゴーニュ公の生誕を期待して、盛大な祝典の準備をしていた。王太子夫人の臨月がせまっていることは、知らぬものがなかった。そこで、われわれはトリノの滞在をはやくきりあげ、五日目にリヨンに着いた。リヨンでは一週間滞在した。
[フリーメーソン加盟]
リヨンは非常に美しい町だが、当時外国人に門戸を開放していた貴族の邸は三、四軒もなかった。しかし、逆に、貿易商、製造業者、および製造業者よりもはるかに富裕な仲買商が百軒もあり、その客も粒ぞろいであった。この町の格調はパリよりは低かったが、それはすぐになれることで、なれてくると、パリよりもまとまりよく人生を楽しむことができた。
リヨンの富をなすものは趣味と廉価であり、繁栄を守護する神は流行である。流行は毎年変わる。現在新しいデザインのために三十フランする布も次の年は二十フランにしかならない。人はそれを外国へ輸出し、買手に新しいデザインのようにいって売るのだ。
リヨンの人々は趣味のよいデザイナーに高い給料を払う。これが秘訣なのだ。廉価は競争からくるが、その精神は自由にある。したがって、商業の繁栄をもたらしたいと思う政府は、商取引を自由に放任し、ただ個人の利益の考えだす不正が一般の損失にならないように、監視の目を光らせていればいい。君主が秤《はかり》をにぎり、人民がそれへ思い思いに品物をのせるようにさせることだ。
ヴェネチアのあらゆる芸妓のうちでいちばん有名なのをリヨンで見かけた。名前はアンチラといった。驚くべき美人で、だれもがあれに匹敵する女は見たことがないといっていた。彼女に会った人々はだれでも彼女を味わってみたいと思ったが、彼女はだれの申し込みもこばむことができなかった。というのも、男たちは個別に彼女を愛したが、彼女はおしなべて男性全般を愛したからだ。彼女の寵愛《ちょうあい》を得るために法律の定めている金は多額ではなかったが、それを持たない男も、うまく談じ込めば、ただで恩恵にあずかることができた。
ヴェネチアにはつねに、美貌もさることながら、才気で有名な芸妓がたくさんいた。私と時代を同じゅうするおもなものには、このアンチラがおり、またスピーナがいた。ふたりともゴンドラの船頭の娘だが、どちらも若死をした。この商売にはいると高貴な身分になれると考え、あまり商売に身を入れすぎたのであった。アンチラが踊り子になろうと思いたったのは二十二歳のときであった。スピーナは歌手になることを望んだ。アンチラを踊り子にしたのはヴェネチア人のカンピオーニという舞踏家であった。これはまじめな役割ばかりおどったが、彼女の美しい容姿にふさわしい優美な踊りを教え、彼女を妻にした。スピーナはペッピノ・デラ・マンマーナという去勢者から歌を習った。これは彼女と結婚できなかった。彼女はいつまでたっても凡庸の域をぬけだすことができず、肉体の魅力から得る金で生活をつづけた。アンチラは死ぬ二年まえまでヴェネチアでおどっていたが、それはまたそのときに話すことにしよう。
リヨンで会ったときには、彼女は夫といっしょであった。ふたりはイギリスのヘイ・マーケット劇場で拍手喝采をうけ、その足でリヨンへ来たのであった。彼女が夫とリヨンへ来たのはたんなる遊びのためであったが、町じゅうの美貌で金持の青年たちが毎晩彼女のところへ集まり、足もとにひざまずいて、気に入られようと彼女の望むことはなんでもした。昼間は野外の遊楽、次は盛大な晩餐、それから夜を徹してのファラオ賭博。いつも親をやったのはドン・ジューゼッペ・マルカティと名のる男であった。これは八年まえにスペイン軍で知合いになったドン・ベッペ・イル・カデットと同一人物であった。彼は数年後にはアフリジオという名前にかえたが、非業《ひごう》の最期《さいご》をとげた。この親は数日ならずして三十万フランもうけた。一国の首府なら、この程度の金額では評判になるまいが、商人と産業の町では一家の家長たちに非常な恐怖感を与えた。それで、イタリアの連中は退散しようと考えはじめた。
ド・ロシュバロン氏の邸で知合いになった、あるりっぱな人物が光を見る人々の仲間にはいる恩恵を与えてくれ、私ははからずもフリーメーソンの徒弟となった。ふた月後に、パリで第二の位を、さらに数か月後に第三の位をもらった。これはメートル(先達)の位で、最高のものである。その後、またあいついで種々の肩書をもらった。それはすべて好ましい発案で、名誉のシンボルだが、メートルの位になにもつけくわえるものではなかった。
世の中には万事を知りつくすものはいない。しかし、能力を自覚し、精神力に自信をもつものは、可能なかぎり知ろうとつとめなければならない。もしも若い男で、旅行をして、世の中の人が上流社会と呼ぶものを見たいと思うもの、他の連中の下風にたち、彼らのすべての快楽の分配から除外されたくないものは、たとえ表面的な知識を得るためだけにでも、フリーメーソンと人の呼ぶ団体にはいるべきである。
[結社と秘密について]
フリーメーソンとは善行のための団体である。ある時代、ある場所では、公序良俗をくつがえそうとする罪悪の陰謀の口実につかわれたことがあった。しかし、残念ながら、どんなことでも悪用されないものはない。たとえばイエズス会だ。あれが宗教の神聖な保護のもとにおいて、国王を弑《しい》するために、熱狂に目のくらんだ連中の主殺しの腕に武器を与えなかっただろうか。
なんらかの地位にある人々、それはその資質や知識や財産で社会から注目されている人々を意味するが、そういう人々はすべてこの秘密結社員になりうるし、多くの人が加盟している。この会合では、各員は≪その壁のなかでは≫政治、宗教、政府のことをけっして話題にせず、徽章や道楽や児戯《じぎ》に類することしか語りあわないことを法則としている。この団体には、政府要路の人々さえ加盟しているかもしれぬのだ。それが君主が禁止したり法王が破門したりするような道ならぬ所業ができるであろうか。それは的を狙《ねら》いそこなうというものだ。法王は、その無謬《むびゅう》性にもかかわらず、その迫害がかえってフリーメーソンに、そういうことがなければ得られるべきもない声望を与えずにいないのだ。人間の性質には神秘への憧憬《しょうけい》がある。神秘な様相をもって民衆の前にあらわれるものは、何事にもあれ好奇心をそそり、たとえヴェールがゼロを隠すにすぎないとわかっていても、関心を寄せるようになるものだ。
要するに、家柄のよい青年で世間を見ようとするものには、ぜひフリーメーソンに加盟するようにすすめる。しかし、結社の選択にはよほど注意しなければならない。結社のなかでは悪い仲間が働きかけることはないが、そういう連中はいくらもいる、だから、志願者は危険な付合いをさけなければいけない。だが、フリーメーソンの秘密を知るために仲間に入れてもらおうと考えるものがあれば、それは誤りもはなはだしい。なぜなら、五十年間メートルとして暮らしても、結社の秘密を洞察できないことがありうるからだ。
フリーメーソンの秘密は、それ自身の性質として、おかすべからざるものだ。なぜなら、それを知る結社員も以心伝心で知ったにすぎないからだ。だれに教わったのでもない。結社へ足しげくかよって、観察し、推量し、演繹《えんえき》したおかげで発見したのである。そこまで達したものは、だれにたいしても、きわめて昵懇《じっこん》な結社員にさえ、自分の発見を教えるのをさし控える。相手が秘密を洞察するだけの能力をもたなくても、それを言葉で人に教えて利益をあげる能力ももたないとはかぎらないからである。したがって、秘密はつねに秘密としてまもられるであろう。
結社のなかで行なわれることも秘密でなければならない。しかし、よこしまな不謹慎からそこで行なわれることを人にもらすのをいとわぬものどもも、本質的なことはもらすことができない。自分で知らないことを、どうして人にもらせよう。もしも知っていたら、儀式のことをもらしはしないだろう。
現在フリーメーソンの団体がそれに加入したいものにいだかせる感情は、古代においてケレスの神をまつるためにエレウシス神殿で催した大秘法に類似している。この大秘法は全ギリシャの関心をあつめ、当時の社会のすべて著名のものがこれに加入することを願った。この加入はきわめて重大なことで、一流の人物のかたわらに、人間の屑やならず者のまじっている現代のフリーメーソンの加入とはくらべものにならない。
エレウシスの秘儀のなかで行なわれることは、それが与えた畏敬の念から、長いあいだいっさい厳重な無言のうちにまもられた。わずかにもらされたのは、祭司が秘法の終わったあとで信者を送りだすときにいった三語だけだ。しかし、それがなんの役にたとう。もらしたものの不名誉になるだけで、それ以外のなにものでもない。なぜなら、この三語は俗人には全然わからない野蛮人の言葉からきたものであったからだ。私はどこかでこの三語が≪心して、悪をなすなかれ≫という意味だとあるのを読んだことがある。フリーメーソンのさまざまの階級の秘語および秘密は、ほとんどいずれもこれと同じ罪悪に関連している。
奥義の伝授は九日間つづいた。儀式は非常に荘厳で、参列する人々は尊敬すべきものばかりであった。プルタルコスによると、アルキビアデスがエウモルピデス家の禁令に反し、ポリュティオンおよびテオドロスとともに自邸で大秘法を嘲弄《ちょうろう》したかどにより死刑に処され、全財産を没収されたとある。この冒涜《ぼうとく》の結果、彼は神官や巫女《みこ》から呪誼《じゅそ》されるという刑を与えられた。しかし、この呪誼は加えられなかった。それはひとりの巫女が反対したからで、反対の理由は、わたしは祝福するために巫女になったので、呪《のろ》うためではないというのであった。じつに道徳的で賢明な、卓抜な教訓である。わが聖なる法王はこの言葉を軽蔑しているが、福音書もこれを教え、世界の救世主もこれを規定している。
しかし、現代では世界主義のある階級にとっては、何事も神聖でないと同様、何事も重要ではない。
ボタレリは小冊子を出して、フリーメーソンの儀式をすべて公けにしたが、くだらないやつだとけなされるにとどまった。そういうことはまえもってわかっていたのだ。ナポリの一公子とハミルトン氏は自宅で聖ジェンナロの奇跡を実行している。しかし、王は見て見ぬふりだ。そして、聖ジェンナロの顔をとりまいて≪聖約の血のなかに≫という言葉の彫ってある勲章を胸にかけていることも思いださない。現在ではすべてが不条理で、もはやなんらかの意味をもつものがまったくなくなった。人は合理的をとうとび、前進をつづけるだろう。しかし、途中でとどまらないと、いっさいがますます悪くなるであろう。
[パリ街道の乗合馬車]
われわれはパリまで五日間で行くために、乗合馬車の席を三つとった。バレッティは出発の時間を家族に知らせた。彼の家族には到着の時間がわかるはずである。
乗合馬車と呼ばれるその馬車〔リヨンからパリヘの駅馬車。夏には五日、冬には六日の旅程だったが、フランスではもっとも快適な国営馬車と見なされていた〕の客は八人であった。みんな腰をおろしたが、すわり心地はよくなかった。楕円形だったからである。それで、隅がなかったから、だれも隅の席をとれなかった。もしもこの馬車が法律によって平等が規定されている国で発明されたのなら、この構造は非常に愉快であったろう。しかし私には理屈にあわないようにしか思われなかった。それでも、私はなにもいわなかった。いったい、イタリア人であるがゆえに、フランス製のもの、およびフランスにあるものはなんでもすばらしいと思わなければならなかっただろうか。楕円形の馬車、私はこの新型に敬意を払ったが、腹の底ではのろっていた。馬車の奇妙な動揺が吐き気をおこさせたからである。それに、バネがききすぎていた。ガタガタ揺れてくれたほうが不快の程度が少なかっただろう。
りっぱな街道をすさまじい勢いで走るものだから、馬車全体が波うっていた。そのためにこの馬車はゴンドラと呼ばれていた。しかし、私にはわかっていた。ふたりの漕ぎ手にあやつられるヴェネチアの本物のゴンドラはこれと同じ速度で進むが、非常におだやかで、心臓を跳びあがらせるような吐き気をおこさせない。頭がくらくらしてきた。
めったやたらにつっぱしる猛烈なスピードが身体じゅうを揉みつけ、私は胃袋にあるものを全部吐き出す羽目になった。みんなはいやな客だと思ったにちがいないが、なにもいわなかった。ここはフランスであり、礼儀の道を心得たフランス人であった。それで、ただ夕食を食べすぎたのだろうというだけであった。パリの司祭が私をかばおうとして、胃が弱いのだといった。それで、なにやかやと議論がはじまった。私はいらいらしてきて、こういって彼らを黙らせた。
「おふたりともまちがっていますよ。ぼくは胃がじょうぶだし、夕食も食べませんでした」
十二、三歳の少年を連れた中年の男がねちねちした口調で、この方々に≪まちがっています≫といったのはよくない、≪お考えはあたっておりません≫というべきです。キケロがローマの人々に、カティリナとその一統の陰謀君たちが死んだとはいわずに、かつて生きていたといったのにならわなければいけませんといった。
「それは同じことではありませんか」
「失礼ですが、まえのは礼儀を欠いた言い方ですが、あとのようにいうと丁重になるのですよ」
彼はこれをきっかけに礼儀についてすばらしい演説をはじめたが、最後に、にこにこ笑いながらこうきいた。
「あなたはきっとイタリアの方でしょうね」
「ええ、だが、どうしておわかりになったのです」
「は、は。わたしの長ったらしいおしゃべりをおとなしくきいていてくださったからですよ」
一同はやんやと笑いだした。それで、私もこの変り者に親しみを感じはじめた。彼はそばにいた少年の家庭教師であった。私はその五日間、彼に頼んで、フランス流の礼儀作法の手ほどきをしてもらった。最後に別れるとき、彼は私をわきへ呼んで、小さな贈り物がしたいといった。
「なんですか」
「あなたはやたらに容赦もなくノンという言葉をおつかいになりますが、あれはすっかり忘れてお捨てにならなければいけませんよ。ノンという言葉はフランス語ではありません。パルドンとおっしゃい。意味は同じですが、人の気にさわりません。ノンは反駁《はんばく》の言葉です。これはおやめなさい。さもなければ、パリへお着きになったら、いつでも剣をつかんでいる覚悟をしなければなりません」
「ありがとうございます。これからは一生涯ノンといわないとかたくお約束します」
こんなわけで、パリ滞在の最初のころには、あらゆる男のなかでいちばん罪ぶかい人間になったような気がした。年じゅうパルドン、パルドンとゆるしを求めていたからである。ある日など、とんでもないときにゆるしを求めたので、あぶなく喧嘩を吹っかけられそうになった。劇場で、いやに気取った青二才がうっかり私の足を踏んだ。
「|ご免ください《パルドン》」と、私はすぐにいった。
「あやまるのはぼくのほうですよ」
「いや、ぼくですよ」
「いや、ぼくです」
「いやはや、それじゃあ、お互いにあやまって、接吻しちまいましょう」
こうしてわれわれの争いはおさまった。
まだゴンドラのような乗合馬車に乗っているあいだのことだった。全速力で走る馬車のなかで、私はすわったままぐっすり眠っていた。すると、隣の人が私を揺すぶって起こした。
「なにかご用ですか」
「いや、あなた、ちょっとあの城を見てくださいよ」
「見ていますよ。たいしたことはないです。なにか変わったものでも見えるのですか」
「なんでもないですよ。ただあれがパリから四十里のところになければね。パリの阿呆どもは、あたしが首府から四十里のところにこんなりっぱな城を見たといったら、ほんとうにするでしょうか。少しも旅行したことのないものは、全然ものを知りませんからね!」
「おっしゃるとおりです」
この男自身パリっ子で、その根性は、カエサルの時代のガリア人のように阿呆であった。
しかし、パリっ子がなんでも感心し、なんにでも興味をもって、朝から晩までうろちょろしている阿呆だとしても、私のような外国人は彼ら以上に阿呆であるにちがいない。彼らと私との相違は、私はものごとをあるがままに見る習慣がついているから、なんでも仮面をかぶっていて、性質まで変わってしまうのを見て驚くが、それに反して、彼らの驚きはしばしば仮面の下のものを推測せずにいられないことにあるのである。
この旅行中、非常に私の気に入ったのは、ルイ十五世の不滅の事業である街道の美しさ、旅館の清潔さ、出されるご馳走のうまいこと、給仕の敏速なこと、ベッドの上等なこと、食卓で給仕する連中の態度のつつましやかなことなどであった。食卓の給仕はたいがいはその旅館のピカ一の娘がつとめたが、きちんとした衣装や身だしなみの清潔さや落ちついた態度物腰は、道楽者に手を出す隙を与えなかった。それに反して、イタリアの旅館の下男たちのずうずうしいようすや無礼な態度は、だれが好意をもって見るだろう。当時、フランスでは、掛け値をいうことを知らなかった。フランスはまったく外国人の祖国であった。しかし、現在のフランス人はどうだろうか。当時は国王の逮捕状などという、けしからぬ専制主義を見せつけられて不愉快だったが、これはひとりの国王の専制主義であった。ところが、われわれはやがてがむしゃらで、兇暴で、強情な民衆の専制主義を見ることになるであろう。彼らは徒党をくんで、民衆でないゆえにあえて自分の意見を述べるものを絞刑、斬首、刺殺というさまざまの方法で殺しまくるのだ。彼らも同じく不愉快ではなかろうか〔フランス革命中、大衆受けをねらった法律が乱発されたことへのあてこすり〕。
その日はフォンテーヌブローで昼食をとった。この名は美しい水のわく泉の意味である。パリへ着く二時間ばかりまえに、一台のベルリン馬車がやってくるのが見えた。
「母が迎えに来たのだ。とめてくれ、とめてくれ」と、バレッティがさけんだ。
われわれは馬車からおりた。再会を喜ぶ母と子の仕来《しきた》りどおりの熱狂のあとで、バレッティが私を紹介した。母親は有名な女優のシルヴィァであったが、くどい挨拶はせずに、ただ、
「息子のお友だちでしたら、今晩ぜひお夕食にいらしってください」とだけいった。
挨拶が終わると、彼女はひさびさの息子と九歳になる娘とを連れてベルリン馬車へ乗った。私はゴンドラへもどった。
パリへ着くと、シルヴィアの下男が辻馬車を雇って待っていた。そして、荷物を積み込み、あるこぎれいな宿へ案内した。下男は私の荷物や身のまわりのものをかたづけると、五十歩ばかりはなれている女主人の家へ連れていった。
バレッティは父親に紹介したが、父親はマリオという名で、病後をやしなっていた。マリオとかシルヴィアとかいう名前は、芝居を演ずるときの人物の名前であった。フランス人は町でイタリアの俳優を呼ぶ場合にも、舞台の上で知った名前しかつかわなかった。だから、パレ・ロワイヤルでも、「こんにちは、アルルカンさん」とか「こんにちは、パンタロンさん」というふうに、役割の名を呼んで挨拶したのであった。
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第二十九章
[パリ・一七五〇年]
シルヴィアは息子の到着を祝うために、盛大な晩餐会をひらいて親戚をすべて招待した。私はうまいときにパリへ来て、彼らと知合いになれたのを喜んだ。バレッティの父親のマリオは病気なので食卓には出なかったが、もっと年をとった姉と知合いになった。その人は舞台名でフラミニアと呼ばれていた。彼女はいくつかの翻訳で文壇にも名を知られていた。しかし、私が彼女をよく知りたかったのは、三人の著名な人物のパリ滞在中の逸話がイタリアじゅうに知れわたっていたからである。三人の人物とは、マッフェイ侯爵、コンティ司祭およびピエトロ・ジャコモ・マルテリであった。彼らはめいめいこの女優の恩寵にあずかろうと望んだために敵《かたき》同士となったが、学者であるゆえに筆で戦ったということである。マルテリはマッフェイをあてこすって諷刺《ふうし》詩をつくり、名前の綴りを入れかえてフェミアと呼んだ。
私を文学修業の徒弟として紹介したので、フラミニアは敬意を表するために言葉をかけなければならないと思ったらしい。しかし、彼女の顔立も口調も態度も、声音《こわね》にいたるまで、私には不愉快だった。あからさまにそうはいわなかったが、文壇の名士が虫けら同然の男にお言葉を賜わるのだといわんばかりの態度であった。話しぶりは書取りでもさせるようで、六十歳の大家ともなれば、まだ一冊も本を書いたことのない二十五歳の若輩にたいして、当然そういう話し方をする権利があると思い込んでいた。だが、私はごきげんをとるつもりでコンティ司祭の話をもちだし、もののはずみでこの造詣《ぞうけい》のふかい学者の詩を二行引用した。すると、彼女は親切そうに、あなたはscevra(別れたという意味)を子音的に発音なさったが、そうするとvになる。しかし、これは母音的にsceuraと発音しなければならないと訂正して、パリへお着きになった最初の日にこういう注意をされたからといってけっして立腹なさってはいけないといった。
「奥さま、ぼくは習うのは好きですが、習ったことを忘れるのはきらいです。いまの言葉はscevraと発音すべきでsceuraではありません。sceverraの母音消失なのですから」
「そうすると、ふたりのうちのどちらかがまちがっているのですね」
「アリオストによると、奥さま、あなたのほうがおまちがいです。彼はscevraをpersevraと韻を踏ませていますからね」
彼女はなおも議論をつづけようとしたが、八十歳になる夫がおまえのほうがまちがっているといったので、口をつぐんだ。それ以来、彼女は私のことをペテン師だといいふらした。
この女の夫はロドヴィコ・リッコボニで、レリオと呼ばれたが、十六年に摂政《せっしょう》オルレアン公の招きでイタリアの劇団をパリへ連れてきた人だ。私は彼の才能をあらためて認識した。かつては非常な美男子で、卓抜な才能や潔白な素行のために、当然のことながら民衆の尊敬をあつめていた。
この晩餐のあいだ、私はとくにシルヴィアを知ろうと注意をこらした。彼女の評判は天をつくばかりであったが、彼女はその評判よりもはるかにすぐれていた。年齢は五十歳、姿が優美で、態度物腰に気品があり、気さくで、愛想がよく、ほがらかで、話がうまく、だれにたいしても親切で、才気にあふれ、しかもそれを鼻にかけるようすはみじんもなかった。彼女の顔立は謎であった。人の心をひきつけ、だれにも好かれる顔であったが、よく見ると美人とはいえなかった。しかし、また、だれも彼女を不美人ときめつけることもできなかった。とはいえ、彼女は美しいとも醜いともいえなかった。なぜなら、彼女の興味ある性格がまっさきに目についたからである。いったい彼女はどういう女なのだろう。
美しい。といっても、それはだれも知らない法則と比例とによるのである。しかし、この法則と比例は、わけのわからぬ力で彼女にひかれながら、彼女を研究する勇気と、彼女を美しく見せる原因をつきとめる力のあるものでなければわからない。
この女優は全フランスの偶像であった。その才能は多くの偉大な作家、主としてマリヴォーが彼女のために書いたあらゆる戯曲の支柱となっていた。彼女がいなかったら、それらの戯曲は後世に残らなかったろう。彼女にかわる女優を他に見いだせなかったが、将来もけっして見いだせないであろう。なぜなら、その女優はシルヴィアが芝居というあまりにもむずかしい芸術においてもっていた極意をすべて身につけなければならないからだ。つまり、所作と音声と容貌と才気と身ごなしと人間の心についての知識である。ところが、シルヴィアにおいては、いっさいが自然であった。以上のものに付随し、それを完成させた芸は全然目につかなかった。
しかも、彼女は万事につけて無類の女優となるために、私がいまあげた長所にもうひとつの美点を加えた。もちろん、彼女はその美点がなくても女優としての光栄の絶頂に達しえたのであるが、それは素行に一点も非の打ちどころがなかったことである。彼女は男の友だちならいくらでもほしがったが、恋人は全然求めなかった。もちろん女優としての特権を自由に享楽することもできたのだが、それを軽蔑した。そんなことをしたら、自分で自分が軽蔑すべき女のように思われたのである。この堅実な素行のおかげで、彼女は同業の女たちにとっては滑稽な、または侮辱的なものに思われかねない年齢に達しても、世人の尊敬をあつめていた。そのために、ずっと身分の高い貴婦人たちすら、彼女を贔屓《ひいき》にするばかりでなく、心からなる友情を寄せていた。そしてまた、パリの気まぐれな平土間さえ、彼女が気に入らない役をやっても、口笛を吹かなかった。人々は声をそろえて、彼女が女優という身分にふさわしからぬ高貴な女だと認めていた。
しかし、彼女が素行を正しくしていたのは自分をとうとぶ心からにほかならなかったから、それが自分の値うちと認められようとは思ってもいなかった。それゆえ、同僚の女優たちとの交際においても、誇りや優越感は全然認められなかった。他の連中は才能によって名声をあげることに満足して、婦徳によって名を挙げようとは考えてもいなかった。しかし、シルヴィアは彼女らをすべて愛し、また彼女らから愛され、だれにたいしても彼女らを弁護し、ほめたたえた。それも道理だ。彼女はなにもおそれるところがなく、どんな女優も彼女に難癖をつけることができなかったからである。
自然はこのかけがえのない女から十年の寿命をかすめとった。私が知合いになってから十年ののち、彼女は六十歳で胸の病いにかかった。パリの気候はイタリアの女にたいしてよくこういう悪戯《いたずら》をする。私は死の二年まえに彼女がマリヴォーの戯曲でマリアンヌの役をしたのを見たが、マリアンヌの年恰好と寸分ちがわないように見えた。彼女の臨終には私も立ちあったが、彼女は娘を抱きしめ、死の五分まえまで最後の教訓を与えた。彼女は型どおりの儀式をもってサン・ソーヴールの墓地へ葬られた。主任司祭は女優という職業にもかかわらず〔十八世紀のフランスでは、教会はまだ俳優にたいしてキリスト教による結婚と聖域への埋葬をこばんでいた〕りっぱなキリスト教徒であったといって、彼女の葬儀に全然反対しなかった。そして、キリストが全世界の救い主であるごとく、大地は万人共通の母だといった。
読者よ、シルヴィアの死の十年まえに、もう彼女の葬儀に列席させてしまって、まことに申訳がない。しかし、その場になったら、弔辞をきかせずにすますことにしよう。
彼女が目のなかへ入れても痛くないほどかわいがっていたひとり娘は、そのときの晩餐でも母親のわきにすわって食卓についていた。彼女は九歳であった。私は母親の美点にばかり気をとられて、娘のほうへは全然観察の目を向けなかった。それはいずれのちのことになろう。
この晩餐会はおそくまでつづいたが、私は最初の一夜にすっかり満足して、宿にきめてもらったカンソン夫人の家へもどった。それはそこの女主人の名前だが、宿は非常に住み心地がよかった。
[パレ・ロワイヤル]
翌朝目をさますと、カンソン夫人がひとりの下男がご用をうかがいに来ているといった。行ってみると、ひどい小男だった。それが気に入らないので、そういうと、
「ご前さま、わたしは背が低いので、女と遊びにいくときにも絶対にお召物をちょろまかしなんかしません」
「名前は?」
「お好きなように」
「なに? きみの名前をきいているんだぜ」
「名前はございません。お仕えする旦那さまがめいめい名前をつけてくださるのです。生まれてこのかた、五十ぐらいの名前をつけられました。ですから、お与えくださる名前を名のります」
「だが、自分の名はあるんだろう。家族の苗字が」
「家族ですって? 家族なんかありませんでした。若いときには名前をもっていましたが、二十年まえに奉公に出て、ご主人をかえるごとに名前がかわりますので、それも忘れてしまいました」
「よし、それじゃあ、頓智《エスプリ》と呼ぶことにしよう」
「ありがたいしあわせでございます」
「では、この一ルイをくずしてきてくれ」
「はい、ここにあります」
「金持らしいね」
「おそれいります」
「きみのことはだれにきいたらいいのかね」
「職業紹介所、それからカンソン夫人です。パリじゅうがわたしを知っております」
「わかった。一日に三十スーやろう。仕着せは出さない。毎晩自分の家へねにいって、朝は七時に用事をききにきてくれ」
バレッティが訪ねてきて、毎日昼食と夕食を食べにきてほしいといった。それから、パレ・ロワイヤルへ連れていってくれた。エスプリは入口でかえした。私はかねてから音に聞いていたこの遊園地に興味をひかれ、隅から隅まで見て歩いた。かなり美しい庭、大きな木立にかこまれた並木道、いろいろの池、庭をとりまく高い家々、散歩している多数の男女、あちこちにちらばるベンチ、そこでは新刊書、香水、爪楊枝《つまようじ》、小間物などを売っていた。一スーで貸す藁《わら》椅子、木陰に陣取って新聞を読んでいる人々、ひとりまたは連れだって食事をしている娘たちや男たち、四阿《あずまや》のうしろに隠された小さい階段を足早やに上り下りするカフェのボーイたち。私はあいている小さいテーブルに腰をおろした。ボーイが注文をききにきたので、ショコラを頼むと、ひどいものを銀メッキの茶碗に入れて持ってきた。私はそれに手をつけずに、うまいコーヒーがあったら持ってこいといった。
「すばらしいのがございます。きのうわたしが自分でいれたのです」
「きのうだって? それじゃ、いらん」
「ミルクがすばらしいですよ」
「ミルク? ミルクはきらいだ。じゃあ、ブラック・コーヒーをくれ」
「ブラックは午後でないとできません。それでは、バヴァロワはいかがですか。それとも巴旦杏水《はたんきょうすい》でも」
「うん、巴旦杏水がいい」
それはえらくうまかった。そこで、朝食ごとに飲むことにきめた。ボーイになにかニュースがあるかときくと、王太子の妃殿下が王子を出産されたと答えた。だが、そばにいた司祭が、それは嘘だ、生まれたのは王女だといった。すると、三番目の男が進み出て、
「わたしはヴェルサイユから来たのですが、妃殿下はまだ王子も王女もお生みになりませんよ」
その男が私に外国の方のようにお見受けするがといったので、イタリア人で、きのう着いたばかりだと答えた。すると、彼は宮廷や市街や劇場のことをしゃべりだし、どこへでもご案内するといった。私は礼を述べて、歩きだした。司祭があとからくっついてきて、あたりをうろついている女たちの名前をいちいち教えてくれた。法服を着た男〔弁護士〕が向うからやってきて、司祭と接吻した。司祭は彼をイタリア文学の大家だといって紹介した。そこで、イタリア語で話しかけると、なかなかしゃれた返事をしたが、私はその話しぶりを笑って、理由を説明してやった。彼はボッカチオの文体でしゃべったのだ。彼は私の注意を喜んだので、あの古人の言葉は完璧《かんぺき》だが、会話にはつかえないと教えてやった。そして、十五分とたたないうちに、同じ好みを認めあって仲よしになった。彼も詩人であり、私も詩人だ。彼はイタリア文学に興味をもち、私はフランス文学に興味をもっている。ふたりはアドレスを交換して、互いに訪問しあおうと約束した。
庭の一隅で、たくさんの男女が群れをなし、みんな上を向いていた。新しい友人になにか変わったことでもあるのかときくと、みんな日時計をみつめているのだ。めいめい手に時計を持ち、日時計の針が十二時を指したら、自分の時計をなおそうと待っているのだと答えた。
「日時計はどこにでもあるのじゃないですか」
「ええ、あるにはあるが、パレ・ロワイヤルのがいちばん正確なのです」
そこで、私は笑いださずにいられなかった。
「なぜ笑うのです」
「だって、どんな日時計でも同じなはずだからですよ。間抜けにもほどがありますね」
彼は少し考えていてから、同じように笑いだした。そして、お人好しのパリ人を批評する勇気を与えてくれた。われわれは正面の門からパレ・ロワイヤルを出た。すると、右手にあたって一軒の店の前に大勢の人が群がっていた。その店には≪シヴェット商店≫という看板があげてあった。
[機知で財産のできる都]
「あれはなんですか」
「また笑われるかも知れませんね。煙草を買う順番を待っているのですよ」
「煙草はあの店以外に売っていないのですか」
「いや、どこでも売っています。だが、三週間まえから、だれも彼も煙草入れのなかに、あのシヴェット商店の煙草しか入れたがらないのです」
「ほかの店のよりもうまいのですか」
「そういうことはありません。ひょっとしたらまずいかもしれませんよ。だが、シャルトル公夫人がはやらせてから、あの店のしか買おうとしないのです」
「夫人はどういうふうにしてあの店をはやらせたのです」
「ただ煙草入れをみたすだけの煙草を買うために、あの店の前で馬車をとめさせて、店番の若い細君に、ここの煙草はパリ一だといっただけです。しかし、そんなことが二、三度あったものですから、まわりで見ていた弥次馬《やじうま》が口から口へと伝えて、パリじゅうが上等の煙草をほしかったら、シヴェットの店でなけりゃだめだと思うようになったのです。あの細君はお釜をおこすでしょうな。なにしろ一日に百エキュ以上も売るのですから」
「シャルトル公夫人はその細君に財産をこしらえさせたのをご存じないのでしょうな」
「とんでもない。あれは頭のいい公爵夫人の計略だったのですよ。夫人は新婚早々の若い細君がお好きで、なにか役にたってやろうとおぼしめして、ああいう芝居を思いつかれたのです。パリ人ってものがどんなにお人好しか、あなたには想像もつきますまい。真実をいおうと嘘をいおうと、機知で財産のつくれる国なんて、世界じゅうでここだけでしょうね。真実をいって機知をひらめかすと、頭のいいりっぱな連中がそれを受けとめるし、嘘をいって機知を押しつけると、愚鈍な連中がほめそやします。しかし、この愚鈍てのがこの国では一風変わっていましてね、不思議なことに、機知の娘なのです。だから、これは逆説じゃありませんが、もう少し機知が少なかったら、フランス人はずっと利口になれたろうといえますよ。
ここで崇拝されている神々は、祭壇こそつくってやりませんが、新しさと流行です。ひとりが道を走れば、すべてのものがわけもわからずにあとを追っていきます。そして、その男が狂人だとわかるまで足をとめません。だが、それが狂人かどうかめったにわかりゃしません。ここには生れつきの狂人がわんさといますが、そういう連中も利口者でとおっていますからね。シヴェット商店の煙草はこの町の人だかりの理由を説明するほんの一例にしかすぎません。
ある日、王さまが狩にお出ましになって、ヌイイの橋まで来たとき、ひどく喉《のど》がかわいて、ラタフィア(果実酒)がお飲みになりたくなったのです。そこで、とある居酒屋に立ち寄って、ラタフィアをお命じになりました。居酒屋の亭主は、天の助けといいましょうか、偶然にもラタフィアを一本もっていたんです。王さまはそれを一杯おあがりになると、お付きの者どもに、これはすばらしい逸品だと仰せになり、もう一杯ご所望になりました。居酒屋の亭主はそれだけのことで莫大な財産をつくりましたよ。二十四時間とたたないうちに、上流階級から町の連中まで、ヌイイのラタフィアはヨーロッパ随一の飲み物だ、現に王さまがそうおっしゃったと、みんな知ってしまいました。そこで、お歴々の連中まで、夜陰に乗じてヌイイへラタフィアを飲みにいきました。亭主は三年とたたないうちに大金持になり、同じ場所へ新しい家を建てて、≪エクス・リクイディス・ソリドゥム≫(液体から固体を)という看板をかけさせました。妙な看板ですが、わがアカデミー会員のひとりがとくに書いて与えたものです。あの亭主は、かくも輝かしくまた短日月で富をなしたことを、どういう聖者に感謝したらいいのでしょう。愚鈍か、軽薄か、弥次馬根性か」
「お話をきいていると、王さまや宮さまの意見をたいへん尊重するようですが、それは国民が王さまや宮さまを崇拝する根づよい愛情からくるのでしょうね。その愛情がとても大きいので、上つ方がまちがったことをいうはずがないと思い込んでいるのですね」
「そのとおりです。フランスで起こることはなんでも国民が王さまを崇拝していると外国の方々に信じさせます。しかし、国民のあいだでもものを考える人々は、王家にたいする国民の愛情はうわべだけのものにすぎないと考えています。なんの根拠もない愛情に、どんな根拠をもってこられましょう。この問題については宮廷の貴族たちなんかものの数にもはいりません。王さまがパリへおもどりになりますね。そうすると、だれも彼も『王さま万歳』とさけびます。それはだれかくだらないやつが音頭をとったからです。これは陽気なさけびでもあるし、恐怖のさけびでもあります。王さまご自身もまともにはおとりになるまいと思いますよ。王さまははやくヴェルサイユへお帰りになりたいのです。そこには二万五千の護衛兵がいて、人民の怒りからまもってくれるのですからね。というのも、この『王さま万歳』を絶叫する人民も、もう少し利口になったら、『王さまくたばれ』とどならないともかぎらないのですからね。ルイ十四世はそれをご存じでした。だから、国家の災厄に際して三部会〔僧侶、貴族、第三身分=市民の三階級を代表し、国王の召集により、重要な政治問題を討論するためのもの。絶対主義時代には一度も召集されなかった。現在の議会はフランス革命中にこれから発展したもの〕を開けと主張した高等法院の判事たちの首をはねたのです。
フランスはけっして王さまを愛したことがありません。愛された王さまは敬神の念があついという理由でサン・ルイ〔ルイ九世〕、それからルイ十二世と、死後のアンリ四世だけです。いま君臨している王さまは、ご病気が快方へ向かったときに、『朕《ちん》の健康が回復したのをあんなにおおげさに喜ばれるとは、まったく驚きいった次第だ。なぜなら、どうして人民からそれほど愛されるのか、朕にも理由がわからぬからだ』と、真顔でおっしゃったそうです。世間では、この王さまの反省を称賛しました。たしかに理屈にあった言葉ですよ。理屈のわかった廷臣が、陛下にはビヤン・ネーメ(最愛王)というご異名がついていらっしゃるので、人民がこれほどお慕い申しあげるのですと答えなければならなかったのです」
「それは尊称でしょうか、あだ名でしょうか。とにかく、廷臣のなかにも理屈のわかった人がいるのでしょうか」
「理屈のわかった人ですか。おりませんね。廷臣という資格からいっても、それは光と闇のようにあいいれないからです。もちろん才気のある人はいますよ。だが、一身の利益のために胸をさすって我慢しているのです。つい先日でしたが、王さまがある廷臣に向かって、その廷臣の名前は申しませんが、某侯爵夫人(ポンパドゥール侯爵夫人)と一夜をすごしたときの快楽の話をなさって、あれほどの快感を味わわせてくれる女がほかにあろうとは思わないとおっしゃいました。その廷臣は、陛下は一度も淫売屋へいらっしゃったことがないので、そうお考えになるのですと答えました。その廷臣は領地へ追い返されたそうです」
「そりゃ、フランスの王さまたちの考えは正しいですよ。ぼくだって三部会を招集するのはさけるべきだと思いますね。だって、それは法王が宗教会議を開くのと同じ状態になりますからね」
「すっかり同じというわけではないが、まあ似たりよったりでしょうね。三部会の場合には、人民つまり第三身分の議員の数が多くて、貴族僧侶の投票に対抗するようになると危険です。しかし、そういうことはないし、これからもないでしょう。政府が暴徒に剣を持たせることはありえませんからね。民衆は貴族僧侶と同じ勢力をもとうとしますが、どんな王さまも大臣もそんなことはゆるさんでしょう。そういう大臣が出たとしたら、それはばかか反逆者ですよ」
この青年はパテュという名前であったが、彼の話でフランス人気質やパリの民衆や宮廷や王室のことがよくわかった。彼のことはいずれまた話題にのぼせることになろう。こういう話をしながら、彼は私をシルヴィアの家の前まで送ってきた。そして、私がその家へ出入りするのを喜んでくれた。
[悲劇作家クレビヨン]
親切な女優のところには、大勢のりっぱな客が来ていた。彼女は私を一同に紹介し、紹介した人々のひとりひとりについて説明してくれたが、私はクレビヨンの名をきいて、はっとした。
「クレビヨン先生でいらっしゃいますか。こんなにはやくお目にかかれるとは、なんというしあわせでしょう。わたしは八年まえから先生にあこがれていたのです。お願いですから、ちょっとおききください」
私はこういうと、自分で無韻の詩に翻訳した『ラダミストとゼノビー』(クレビヨン兄の悲劇、一七一一年作)のもっとも美しい場面を暗誦してきかせた。シルヴィアは八十歳になるクレビヨンが自分の作品が自国語よりも好きな言葉に翻訳されたのを嬉しげに聞いているのを見て、たいへん喜んだ。クレビヨンは同じ場面をフランス語で暗誦し、二、三の箇所を私が飾りすぎたといって、丁重に指摘した。私は彼のほめ言葉にまどわされずに、心から感謝した。
それから、一同食卓についた。パリでどんな美しいものを見たかときかれたので、パテュの話はぬいて、見たり聞いたりしたことを残らず話した。少なくとも二時間はしゃべったろう。クレビヨンは他の人々にもまして、私が彼の同国人の長所短所を知るためにとった道に注意していたが、次のような言葉で私に話しかけた。
「最初の一日としては、なかなか見込みがあると思いますね。きっとめざましい進歩をなさることでしょう。あなたは話し方もじょうずだし、だれにもわかるようにフランス語をお話しになる。しかし、いまお話しになったことは全部イタリア語の表現でしたね。あなたの話はひとを傾聴させ、興味をおぼえさせます。それに、新しい表現で、聞き手の注意を二倍もひきつけます。さらにいうならば、聞き手はあなたの風変りな言葉づかいにすっかり魅惑されてしまうでしょう。奇妙だし新しいですからね。なにしろここはすべて奇妙で新しいものを追いかける国ですから。しかし、それはそうでも、あなたは、あすからすぐに、わしらの言葉を正しく話せるように、最大の努力をはじめなければなりませんよ。なぜなら、二、三か月もすると、現在あなたに喝采をおくらせていることが、逆にあなたを軽蔑させるようになりますからね」
「わたしもそう思いますし、それをおそれているのです。お国へまいりましたおもな目的も、全力をあげてフランス語やフランス文学を学ぶことにありました。しかし、よい先生を見つけるには、どうしたらいいのでしょう。わたしは聞きたがり屋で、知りたがり屋で、しつっこくて、あくことを知らないという、手におえない生徒ですからね。しかし、たとえそういう先生を捜しあてたとしても、十分にお礼ができるほど金持ではないのです」
「わしは五十年まえから、いまあなたがいわれたような生徒を捜していました。ですから、わしの家へ稽古を受けにきてくだされば、お礼はこちらから差し上げますよ。家はマレーのドゥーズ・ポルト街にあります。イタリアのきわめてすぐれた詩人の本がいくらもありますから、それをフランス語に訳していただきましょう。いくらしつっこくなさってもうるさがりはしませんよ」
私はなんと礼をいったらいいのかまったく言葉に窮しながら承諾した。クレビヨンは背が六フィートもあり、私より三インチも高かった。よく食べ、愉快にしゃべったが、笑いもせず、警句にたけていた。自宅にひきこもって暮らし、外出することもまれで、ほとんど人に会わなかった。いつもパイプを口にくわえていたからである。そして、二十匹ばかりの猫にとりまかれて、一日の大部分、猫を相手に遊んでいた。年とった家政婦と料理女と下男をおいていた。家政婦は万事を切りまわし、会計をあずかり、彼にはなにひとつ不自由をさせなかった。彼は金銭上の報告を全然要求しなかった。とくに気のついたことというと、クレビヨンの顔が獅子か猫のようであったことだが、それはしょせん同じことになる。彼は図書検閲官で、おもしろい仕事だといっていた。とどけられる本は家政婦が読んできかせたが、問題にすべき箇所だと思うところへくると読むのを中止した。そして、主人と意見がちがうと議論を吹っかけたが、私はそれをきいて笑いだしてしまった。ある日、だれかが原稿を見てもらったのを受け取りにきたら、彼女はこういって追い返えした。
「来週またいらっしゃい。あたしたちはまだあなたの作品をよく調べるひまがありませんでしたから」
私は一年間つづけて毎週三回ずつクレビヨンのところへ稽古を受けにかよった。私の知っているフランス語はすべて彼から教わったのだが、まだイタリア訛《なま》りをぬぐいさることができない。この訛りは他人の文章のなかに見つけるとすぐわかるのだが、自分のペンの先から出てくるときには全然気がつかない。私はとうていそれを気づくにいたらないだろうと思う。人のよくいうティトゥス・リヴィウスのラテン語の欠点がどこにあるのか、まったく見当がつかないのと同様である。
私はある題材について八行の自由詩を書いてみた。そして、添削してもらうつもりでクレビヨンのところへ持っていった。彼はそれを注意ぶかく読んでから、
「きみの思想は美しいし、非常に詩的だ。言葉も申し分がない。どの行もみごとで非常に正確だ。しかし、それにもかかわらず、この八行詩はよくないね」
「それはどういうわけですか」
「わしにはわからん。なにかが欠けているのだね。まあ、ひとりの男に出会ったと想像してみたまえ。きみにはその男が美男で、風采もりっぱ、愛想がよく、才気にたけ、いくら厳密な尺度で判断しても申し分がないと思われる。そこへひとりの女がやってきたとしよう。その女は男をつらつらとながめてから、あの人は気に入らないといって行ってしまう。きみが『でも、奥さん、どこがお気に入らないのですか』ときくと、女は『わかりませんわ』と答えるだろう。そこで、きみは男のところへもどっていって、もっとくわしく観察してみる。すると、しまいに、去勢者《カストラト》であることがわかる。そこで、きみは、ああ、あの婦人が好みに合わないと思った理由がようやくわかったぞというだろう」
クレビヨンは私の八行詩が気に入らない理由を、こういう比較で説明した。どんな規則にもふれないほどよくできた作品でも、その良否を決定するのは趣味や感情にほかならないからだ。
われわれは食卓でよくルイ十四世の話をした。クレビヨンは十五年間つづけてこの王さまに仕えていたのだが、その関係で世間に知られないおもしろい逸話をいろいろきかせてくれた。そのうちには、シャムの使節たちはド・マントノン夫人に買収されたいかさま師だという話や、『クロンウェル』という題の自分の悲劇を中途でなげうった因縁話《いんねんばなし》もあった。国王がある日、あんな悪党のためにペンをすりへらす必要はないと、じきじきにおっしゃったからだそうである。
彼はまた自作の『カティリナ』のことも話した。彼はそれを自分の書いた戯曲のうちでいちばん不出来だと思っていたが、あれをりっぱなものにするためにカエサルを舞台にのぼせなければならないなら、不出来であってもかまわない。なぜなら、青年カエサルを登場させたら、イアソンを知るまえのメディアを登場させると同じく、観客の失笑をかうだろうからといった。
彼はヴォルテールの才能を高くかっていたが、剽窃家《ひょうせつか》だといって非難した。ローマの元老院の場面をぬすんだというのである。彼はヴォルテールの価値を正しく評価し、歴史を書く才能をもって生まれてきた人間だと認めたが、歴史をおもしろくするために史実を歪曲《わいきょく》し、作り話をもりこんでいるといった。クレビヨンによると、鉄仮面の男は物語にしかすぎず、それをルイ十四世自身の口からたしかにきいたと断言した。
[奇妙な、才気ある人々]
その日、イタリア座で、ド・グラフィニー夫人の『セニー』が上演された。私は舞台正面の階段|桟敷《さじき》によい席をとろうと思って、早目に出かけた。
ダイヤモンドをふんだんにつけた貴婦人たちがぞくぞくと前の桟敷へ詰めかけてきた。私はその貴婦人たちに興味をいだいて、じっと見つめていた。私はりっぱな服を着ていたが、その服は袖口がひろくあき、下までボタンがかかっていた。だれが見ても外国人であることはひと目でわかった。そういう型はもうパリでははやらなかったのである。それはとにかく、こうして注意をこらしていると、私の三倍もありそうな恰幅《かっぷく》で、豪奢な服を着た男が近寄ってきて、丁寧に外国のお方かときいた。そうだと答えると、パリに満足しているかときいたので、パリをほめそやした。そのとき、左側の桟敷へ宝石にうずまったような女がはいってきた。えらく大きな女だった。
そこで、例の巨大な隣人にきいてみた。
「あの大きな牝豚はだれですか」
「かく申す大きな牡豚の女房ですよ」
「これはどうも、とんだご無礼を申しました。ひらにおゆるしください」
だが、その男は私にあやまってもらう必要はなかった。腹をたてるどころか、息もつまるほど笑いこけた。私は途方にくれてしまった。彼はさんざん笑うと、立ちあがって、階段桟敷から出ていった。ちょっとたってから気がつくと、桟敷のなかで女房としゃべっていた。そして、声をそろえてげらげら笑った。私は居たたまれなくなって、帰ってしまおうと腰をあげた。だが、そのとき、彼が「もし、もし」と呼んだ。
それを振りきって帰ってしまうのは失礼にあたる。そこで、しかたなく彼の桟敷へ行った。すると、非常に気品のあるまじめなようすで、あんなに笑った失礼を詫《わ》び、たいへん愛想よく今夜わしの家へ夕食にきてほしいといった。私はあつく礼をいって、ほかに約束があるからとことわった。だが、彼がなおもくり返してすすめ、夫人もわきから言葉を添えたので、私はけっして逃げをはるわけではないと納得させるために、じつはシルヴィアの家へ呼ばれているのだと打ち明けた。
「あなたさえよかったら、わしがかならずそのお約束を取り消してごらんにいれますよ。自分で行ってきましょう」といった。
私はいやとはいえなかった。彼は出かけていって、バレッティを連れて、もどってきた。バレッティは母親の言葉として、りっぱなお方とお知合いになったのはたいへん嬉しい、今夜のお約束はあすにのばしましょうと伝えた。そして、私を小脇へ呼んで、あの方は徴税請負人のボーシャン氏だと教えた。
芝居が終わると、私は夫人に腕をかして馬車に乗った。彼の邸にはパリでこの種の人々の邸に見られる豪奢な品々がふんだんに飾りたててあった。大勢のりっぱな客、大きな商取引、りっぱな肉体、そして食卓での非常なにぎわい。宴会が終わったのは午前一時であった。私は馬車で送られて帰った。この家は私のパリ滞在中、いつもこころよく迎えてくれ、たいへん便宜を与えられた。パリへ来た外国人ははじめの二週間ばかり非常に退屈するといわれるが、それはもっともだ。穴場を捜すのに時間を要するからだ。しかし、私はわずか二十四時間で知人がいくらもでき、こころよく迎えられる確信がついた。
翌日の朝、パテュが訪ねてきて、ド・サックス元帥のためにつくった散文の賛辞を贈ってくれた。それから連れだって外へ出て、テュイルリーで朝食をとった。そこでパテュはド・ボカージュ夫人に紹介してくれた。彼女はド・サックス元帥の噂をしながら、次のようなしゃれたことをいった。
「奇妙なことでございますわねえ、わたしどもにさんざんテ・デウムをうたわせた方にデ・プロフンディスをうたってあげられないなんて」〔ともにカトリック教会の聖歌。前者は戦勝を感謝して歌われることが多く、後者は死者への鎮魂ミサ曲の一部。ド・サックスは新教徒だったから、彼のためにカトリックの鎮魂ミサは行なわれなかったはずである〕
彼はそれからル・フェル嬢という有名なオペラ女優のところへ連れていった。この人はパリじゅうの人からかわいがられ、王室音楽院の会員であった。まだ幼いかわいらしい子が三人あって、家のなかを飛びまわっていた。
「あたし子どもたちがかわいくてなりませんのよ」
「ほんとにみなさんご器量よしですね。けれど、お三人ともお顔立にちがった特長がおありですね」
「おっしゃるとおりです。長男はダヌシー公の子、次男はデグモン伯の子、末のは近ごろロマンヴィルと結婚したメーゾンルージュの子なのですもの」
「こりゃ、どうも、とんだ失礼を申しあげました。お三人ともあなたのお子さまだと思ったものですから」
「そのとおりですわ」
彼女はこういってパテュと顔を見合わせ、大声に笑いだした。私は赤面はしなかったが、自分の大失策が肝に銘じてわかった。私はしんまいで、男の権利を侵害する女の話をきくのになれていなかったのである。ル・フェル嬢はけっして厚顔無恥な女ではなく、率直で、あらゆる偏見を超越していたのであった。小さい私生子をつくらせた殿さまたちは子どもらを母親の手にゆだね、多額の養育費を支払ったので、母親は裕福に暮らしていた。したがって、女たちは子どもがふえればふえるほど、生活がらくになるのであった。
私はパリの習俗に無経験だったので、とんでもない誤解をしてしまった。あんなヘマな質問をしたからには、だれかが私のことを才気のある男だといったら、彼女はその人の鼻先で笑うだろう。
べつの日に、オペラ座の舞踊教師のラニーのところで、いずれも十三、四歳の小娘を四、五人見た。どの子も母親につき添われてきて、舞踊の稽古を受けていた。手がたい教育を受けているらしく、つつましやかなようすであった。いろいろお世辞をいうと、目をふせて返事をした。やがてそのうちのひとりが頭が痛いといいだしたので、カルム水をかがしてやった。友だちがゆうべよく眠れなかったのじゃないかといった。すると、小娘は、
「そうじゃないのよ。赤ちゃんができたらしいの」と答えた。
年や顔つきから処女だと信じこんでいた小娘からこの思いがけない答えをきいて、私は阿呆のようにいった。
「あなたが結婚していらっしゃるとは思いもよりませんでしたよ」
彼女は驚いて私をじっと見つめ、それから友だちのほうを向いて、ふたりでさもおかしそうに笑いだした。私は恥ずかしくなってその場を立ち去った。それからは、劇場の子役たちには羞恥心など考えまいと決心した。楽屋のニンフたちに羞恥心を捜したり想像したりするのはばかげたことなのだ。彼女らはそんなよけいなものをもたないのを自慢し、もっているように想像するものを阿呆扱いにするのだ。
[散文作法の極意]
パテュはパリでいくらかでも評判をとっている遊女たちを全部教えてくれた。彼は私と同じく美しい女が好きだったが、気の毒にも私ほどの体力がなかったので、ついに命をささげてしまった。もしも天寿をまっとうしたら、ヴォルテールにとってかわる人物になっただろう。彼はローマからフランスへ帰る途中、サン・ジャン・ド・モリエンヌで三十歳の若さで死んだ。
私は彼からある秘訣を教わった。それはフランスの若い文士が散文をできるだけ美しく書く必要にせまられたとき、つまり、賛辞や弔辞や献辞などを書くときに、散文を的確に完成させるためにもちいる秘訣である。私はその秘訣を、パテュ自身から、ひそかにぬすみとったのであった。
ある朝、彼の家へ行くと、十二音節の無韻詩を書いた紙が何枚もテーブルの上にちらかっていた。私はそれを一ダースばかり読んで、これらの詩は美しいが、読みづらくて、あまり快適でないといった。そして、詩の内容はド・サックス元帥の散文の賛辞と同じだが、散文のほうがはるかにおもしろかったとつけくわえた。
「ぼくの散文がそんなに気に入ったのは、さきに同じことを無韻の詩で書いたためなのだよ」
「だが、そうすると、まったくのむだ骨おりをしたものだね」
「いや、骨おりじゃない。無韻の詩なんかなんでもないからね。散文で書くのと同じに書けるもの」
「すると、さきに無韻詩を書いておいて、それを散文になおしたほうが、散文がずっと美しくなると思っているのだね」
「そうだ。それは疑いのないことさ。散文がたしかにずっと美しくなるよ。そのうえ、ぼくの散文が韻文めいた言葉でみたされるという欠陥もなくなる。どうもこの韻文めいた言葉というやつは、筆者の気づかないうちにペンの先から出てくるものでねえ」
「それは欠陥かね」
「とても大きな、ゆるすべからざる欠陥だよ。韻文めいたもののまじった散文は散文めいた詩よりもずっと悪いからね」
「そういわれれば、弔辞のなかに無意識に詩句がまじっていると、あまり恰好がよくないから、きっと悪いことにちがいないね」
「もちろんさ。タキトゥスを例にとってみたまえ。彼の歴史は≪はじめローマは王によって統治されていた≫という文句ではじまるが、これは非常によくない六歩格だ。彼はこの句をわざと書いたわけではあるまい。あとで吟味したときにも気がつかなかったのだろう。気がついたら、文章にべつの表現を与えたろうからね。きみたちのイタリアの散文ではどうだね。無意識に詩句がまじっていたら、やっぱり散文は格が落ちるかね」
「落ちるとも。しかし、貧弱な才能しかないものは、文章の調子を強めるために、わざと詩句をまぜることがよくある。そりゃ、ごまかしの安ピカ物さ。だが、彼らは黄金として通用すると自慢し、読者もあまり気にかけない。しかし、こんな骨おりをするのはきみだけだろうね」
「ぼくだけだって? とんでもない。ぼくのように造作なく詩の書けるものは、自分の書いた原稿を浄書しなければならないときには、だれでもやっているよ。クレビヨンやヴォワズノン師やラ・アルプやだれでも好きな人にきいてみたまえ。ぼくと同じことをいうにきまっているよ。この技術をはじめてつかったのはヴォルテールさ。現に彼の小品の文章はうっとりさせるじゃないか。ド・シャトレ夫人の書簡もそうだ。あれはすばらしい。読んでみたまえ。そして、ただひとつでも詩句めいたものがまじっていたら、ぼくの説の誤りを指摘してほしい」
そこで、クレビヨンにもきいてみたが、やはり同じことをいった。しかし、彼は自分ではやったことがないと断言した。
[オペラ座見物]
パテュは私をオペラ座へ連れていきたくてうずうずしていた。その芝居を見て私がどういう印象をうけるか見たかったのだ。じっさい、イタリア人にとっては奇妙なものであった。出し物は『ヴェネチアの祭』という外題《げだい》のオペラであった。おもしろい外題だ。われわれは四十スー払って平土間へ行った。そこは立見席だが、気のきいた見物人もまじっていた。芝居はフランス人の大好物であった。たとえ雄鶏が歌をうたうだけでも(プラウトス)。
すばらしいオーケストラの演奏するみごとなシンフォニーが終わると、幕があいた。背景はサン・ジォルジォの小島から見たサン・マルコの小広場をあらわしていた。しかし、驚いたことに、統領の宮殿が左にあり、行政長官の官邸と大鐘楼が右にあった。つまり、実際と反対であった。この誤りはあまりにも滑稽だし、いまの時代としては恥ずかしいことでもあったので、私は笑いだしてしまった。そして、パテュに話すと、彼もいっしょになって笑いださずにいられなかった。音楽は、古代趣味の美しいものであったが、はじめてきくので少しおもしろかった。が、やがてあきてしまった。朗吟歌《メロペ》は単調だし、調子はずれの大声なので、がっかりした。このフランス人の朗吟歌は、彼らにいわせると、ギリシャの朗吟歌やイタリアのレチタティーヴォ(叙唱部)にかわるものだそうだ。フランス人はイタリアのレチタティーヴォをきらうが、イタリア語でうたうのを聞いたら、きっと好きになるだろう。
背景のまちがいは絵描きのくだらぬ無知が原因で、版画を逆にうつしたのだろう。もしも剣を右側につっている人々が目についたら、右側に見えるものは左側へ置かなければならないとわかっただろうが。
芝居の筋は謝肉祭の一日で、ヴェネチア人がマスクをつけてサン・マルコの大広場へ散歩に出かける。しゃれた若者や浮気な娘たち、仲をとりもつ女たち。そんな手合が恋のたてひきを解きつ結びつ競いあう。衣装は全部|出鱈目《でたらめ》だったが、おもしろかった。しかし、私をとくに笑わせたのは、舞台裏から統領が十二人の高官を連れて出てくるが、いずれも奇妙な長衣をまとっていて、パッサカリア(調子のゆるやかな舞踏)をおどるのだ。突然、平土間の連中がいっせいに拍手したので、何事ならんと目を見はると、マスクをした背の高い美男の俳優があらわれた。黒い鬘《かつら》をかぶっていたが、長い巻毛が腰のあたりにまで垂れ、前のあいた衣装が踵《かかと》にとどきそうであった。パテュは畏敬と感激にみちた口調で、「あれが比類なきデュプレだ」と私にささやいた。目をこらして見ていると、美しい姿が調子をとった歩き方で前へ進み、舞台のふちまで来ると、まるみのある両腕をゆるやかにあげ、優雅に動かし、ぴんと伸ばして、またちぢめ、足を踏みつけ、小きざみに歩き、膝を打ち合わせ、それからくるりとひとまわりして、後ろさがりに舞台裏へはいって姿を消した。デュプレの踊りは全部でわずか三十秒だった。平土間も桟敷も割れかえるような拍手だった。パテュに拍手のわけをきくと、真顔で、デュプレの水もしたたる優美さや、踊りの気高い調和に拍手するのだ。年はもう六十だが、四十年まえと全然変わっていないと答えた。
「なに? それじゃ、ほかの踊り方はしないのかい」
「あれよりもじょうずにおどれやしないよ。いまきみの見た、あの所作の展開はじつに完璧だ。完璧以上になにがあるだろう。彼はいつも同じことをする。それでいて、いつ見ても新しいと思わせる。それが魂にしみこむ美と善と真の力さ。あれこそほんとうの踊りだ、歌だよ。イタリアにもあれに匹敵するものはあるまい」
二幕目の終りに、またデュプレが登場した。いうまでもなくマスクをつけていた。そして、まえとはちがった音楽の伴奏でおどったが、私の目には同じに見えた。彼は舞台の前面に進み、一瞬ぴたりと足をとめて見えを切った。その姿はじつによかった。突然、平土間で無数の人が小声でつぶやいた。
「まあ、すごい! のびるわ! のびるわ!」なるほど、彼の身体は弾力性があって、大きくのびていくように見えた。パテュにまったくみごとなものだというと、彼はほくほく喜んだ。デュプレが引っ込むと、いきなりひとりの踊り子がとび出してきて、舞台の隅から隅まで気が違ったように駆けまわった。そして、すさまじい速さで、あまり高くはなかったが、右に左に跳ねまわった。彼女も、力いっぱいの拍手をあびた。
「あれが有名なカマルゴだよ。きみはちょうどいいときにパリへ来て、お目にかかれたわけさ。彼女も六十歳なんだよ」
そこで、私は彼女の踊りはすばらしいと答えた。
「踊り子で跳躍をやったのは、あの人がはじめさ。あの人のまえにはだれもやるものがなかった。それに、すばらしいのは、パンティをはいていないことなのさ」
「だが、ぼくには見えたよ」
「なにが見えたんだい? あれは肌の色さ。はっきりいうと、まっ白じゃないのだ」
私は苦行僧のようにうちしおれたようすでいった。
「カマルゴは、あまり気に入らないよ。デュプレのほうがずっといい」
私の左手にカマルゴ贔屓の非常な老人がすわっていたが、その話だと、若いときに、彼女がバスクの跳躍やガルグイヤードさえやるのを見たが、そのときもパンティをはいていなかったのに、腿さえ見せなかったということだ。
「だが、腿もごらんにならなかったとすると、どうしてパンティをはいてなかったといえるのですか」
「なあに、そりゃすぐにわかりますよ。あなたは外国の方ですね」
「ええ、そうです」
フランスのオペラでひとつ気に入ったのは、笛の音を合図に背景が変わることであった。オーケストラがヴァイオリンの絃の一撃をもってはじまるのもよかった。しかし、指揮者が、神主の笏《しゃく》のような指揮棒をもって右に左にはげしく身体を動かし、まるで全部の楽器をバネ仕掛けで演奏させようと意気込んでいるようなのは不愉快だった。また私が好ましいと思ったのは、観客の静粛なことであった。イタリアでは、俳優が歌をうたっているときにも、じゃまな音をたてるものがあって困る。ところが、逆に、踊り子があらわれると、その音がぴたりとやんで、いやにしーんと静まりかえるのだから笑わせる。イタリア人は耳よりも目のほうが肥えているのかもしれない。地球上どこへ行っても、観察者が外国人の場合には、なにかしらむちゃなことを認めないところはない。それは比較ができるからだ。しかし、土地のものだと、それに気がつくことができないのだ。
要するに、オペラは私を魅惑した。とくにフランス座が気に入った。ここでは、フランス人がじつにゆっくりと落ちついている。彼らは自由に演じている。外国人はエスプリと良識が彼らにさずけた栄冠に文句をいうべきではない。私は毎日見にいった。ときには観客が二百人しかいなかったが、古い、完璧に達したものを演じた。『人間嫌い』『守銭奴』『タルテュフ』『賭博者』『見栄坊』など。いつ見ても初演を見ているような気がした。私はよい時機にパリへ来て、サラザン、グランヴァル、その妻、それからダンジュヴィル、デュメニル、ゴーサン、クレロン、プレヴィル〔コメディ・フランセーズの有名な俳優たち〕などの女優を見ることができた。またすでに舞台から引退して年金で暮らしている何人かの女優にも会った。この連中はまだ自宅に客をして喜ばせていた。そのなかにラ・ヴァスールがいた。彼女らと話しあうのは楽しかった。いろいろのおもしろい逸話を話してくれたからだが、そればかりでなく、みんなとても世話好きであった。ある悲劇で、美しい女優がものをいわない巫女《みこ》の役を演じた。
「じつにきれいですね」と、私は老女優のひとりにいった。
「そうですね。食べてしまいたいくらいですね。あれは聞き役をつとめた人の娘ですよ。とても人あしらいのいい子で、将来有望ですわ」
「知合いになりたいものですね」
「まあ! でも、むずかしいことではありませんわ。両親とも堅気な人ですから、お夕食によばれたいとおっしゃったら、きっと喜ぶでしょうよ。けっして窮屈な思いはさせませんよ。食事がすむとすぐに寝室へ引っ込んで、娘とお好きなだけ食卓でおしゃべりをさせますわ。ここはフランスですからね、あなた、どなたも人生の値うちを知っていて、できるだけ人生を利用しようとしております。わたしどもフランス人は楽しむことが好きで、楽しみをつくりだせるなら、なにより幸福だと思うのですよ」
「そういう考え方はとうといですね、奥さま。しかし、そんなもの堅い人たちのところへ知合いでもないのに、夕食によんでくださいなんて、どんな顔をして申し込んだらいいのでしょう」
「まあ、なにをおっしゃいますの。わたしどもはどなたも存じあげております。わたしがどういうふうにおもてなししているか、よくおわかりでしょ。あなたのことを存じあげないようなふうをしたことがございまして。ですから、お芝居がはねたら、ご紹介しますわよ」
「では、いつかお骨おりを願います」
「ええ、いつでもご都合のよろしいときにね」
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第三十章
[淫蕩な老公爵夫人]
パリに来ているイタリアの俳優たちはみんな豪奢な生活を見せようとして、私を食事によんで手あつくもてなしてくれた。カルリーノ・ベルティナツィはアルルカンの役を演じ、パリじゅうの人気をあつめていたが、十三年まえに母とペテルスブルグからもどってきたとき、パドヴァで私に会ったことを思いださせた。彼はとまっているド・ラ・カイユリー夫人の邸で盛大な午餐会をひらいてくれた。この夫人は彼に打ち込んでいた。四人の子どもがあって、邸のなかを駆けまわっていたので、とてもかわいいと夫人の夫にお愛想をいった。すると、夫がこの子どもらはカルリーノのものだと答えた。
「そうかもしれませんが、あなたが世話をなさっているのだし、お子さんたちもあなたをお父さんだと思っているにちがいないのですから、いずれはあなたの苗字を名のるのでしょう」
「ええ、法律的にいうと、そのとおりです。しかし、カルリーノは非常に誠実な男ですから、わしが子どもらを手放す気になったら、きっと引き取ってくれるでしょう。自分の子であることはよく承知しています。それを認めないとなると、家内がまっさきに文句をいうでしょうからね」
この男は世間でいうお人好しではなかった。お人好しどころか、ものごとを哲学的に考える男で、こういう話もきわめて冷静に、一種の威厳をこめて話した。彼は細君におとらずカルリーノを愛していた、ふたりがカルリーノにそそぐ愛のちがいといえば、ただ彼の愛が子どもをつくる種類のものでなかっただけである。このようなことは、パリでは、ある階級の人々のあいだではけっしてめずらしいことではない。
ふたりの大貴族がきわめて平穏|裡《り》に奥方を交換し、それぞれ子どもを生ませたが、子どもらは実の父親の姓を名のらずに母の夫の姓を名のった。これはまだ一世紀にもならないことだ(ブッフレ家とリュクサンブール家)。その子どもらの子孫はいまでも同じ名前を名のっている。この事実を知っているものは笑うが、それももっともだ。笑ってしかも道理にかなうという権利は事の顛末《てんまつ》を知っている人々だけのものである。
イタリアの俳優のうちでいちばん裕福なのはパンタロンであった。彼にはコラリーナとカミラというふたりの娘があった。彼は本業のほかに担保をとって金を貸す商売もしていた。そのパンタロンが家族的な昼餐にまねいてくれた。ふたりの姉妹は私をうっとりさせた。コラリーナは当時まだ存命だったヴァランティノワ公の息子のモナコ大公の世話になり、カミラはシャルトル公爵夫人の寵臣メルフォール伯と恋仲であった。この公爵夫人は当時は義父の逝去にともなってオルレアン公爵夫人と名のっていた。
コラリーナはカミラほどおきゃんではなかったが、ずっときれいであった。私は名もなき男として、ときならぬ時刻に彼女のごきげんをうかがいにいきはじめた。しかし、そういう時刻はえてして恋人の時刻である。それで、ときどき彼女を訪ねてきた大公と顔を合わせた。はじめのころは、うやうやしくお辞儀をして、すぐに引きさがったが、そのうちに帰らんでもよいという仰せが出た。大公たちは一般に寵愛の女性と差向いになっても、なにをしたらよいのか見当がつかないものなのである。われわれは三人で夕食をとったが、彼らの仕事は私をながめ、話をきいて笑うこと、私の仕事は食うこととしゃべることであった。
私はヴァレンヌ街のマティニョン宮へこの大公のごきげんうかがいにいく義務があると思った。
ある朝、大公は私にいった。
「ちょうどいいところへ来てくれたよ。じつはリュッフェ公爵夫人にきみを連れていくと約束したのでね。さっそく出かけよう」
もうひとり公爵夫人と知合いになれる。願ってもないことだ。当時流行のディヤーブル(悪魔)という型の馬車に乗って、十一時に公爵夫人の邸へ着いた。
読者よ、もしも私が忠実にえがいたら、この淫蕩《いんとう》な鬼婆の姿は、諸君を驚かすであろう。紅をぬりたくった顔の上につもった六十の冬を想像していただきたい。吹き出物のぶつぶつ出ている顔、やつれて肉のおちた頬、この見るもいやらしい顔の上には醜悪さと老衰とがふかくきざまれていた。それがソファへだらしなくすわっていたが、私の姿を見ると、
「まあ! いい男だわねえ! 大公さま、よくお連れくださいましたわね。さあ、坊や、ここへ来ておすわりなさい」
私は肝をつぶしながら、いわれるままに腰をおろした。そのとたんに、すえた麝香《じゃこう》の匂いがむっと鼻をついて、胸がむかむかした。あさましい色婆はすっかり胸をはだけて立ちあがったが、目もあてられない、みじめな乳房だった。乳首は、つけ黒子《ほくろ》にかくれて見えなかったが、手にふれんばかりだった。私は途方にくれた。大公は三十分もたったら馬車をまわす、コラリーナのところで待っているといって、帰っていってしまった。
大公が出ていくとすぐ、因業婆は私にとびついて、ぬらぬらした唇を押しつけてきた。私はその接吻をいやでも受けなければならなかっただろう。しかし、それと同時に、彼女は肉のおちた腕をのばすと、悪鬼の情熱があさましい気持を集中させている箇所へさわろうとした。
「おりっぱなのをお持ちなのじゃろうね」
「あっ! なにをなさるのです、奥さま」
「まあ、逃げるの? なんですね、子どもみたいに」
「だって、奥さま、あの……」
「なんですの」
「わたし、その……だめなんです、とても……」
「どうして」
「その……淋……」
「まあ、けがらわしい! とんでもない病気にかかるところだったわ!」と、彼女はさけんだ。私はその機をはずさず帽子をつかんで、ドアのほうへ駆けだした。門番にとめられやしまいかと心配しながら邸をとびだした。
そして、辻馬車にとび乗ると、コラリーナのところへ行って、この黒い事件をきれいな言葉でしゃべった。彼女はおおいに笑った。が、私と口を合わせて、大公のあくどい悪戯を非難した。そして、あのひどい事件をのがれた私の気転をほめた。だが、いくら公爵夫人をだましただけだといっても、なかなか納得してくれなかった。
それでも、私は絶望しなかった。私が自分に夢中になっていると彼女が思っていないことはよくわかっていた。
三、四日たって、夕食によばれたとき、いろいろのことをしゃべったあとで、別れしなに、あけすけに意中を伝えた。すると、彼女はあしたあなたの愛情にむくいてあげると約束した。そして、こういった。
「モナコの大公さまはあさってにならなければヴェルサイユからお帰りにならないわ。だから、あしたは兎の飼育所へ行って、差向いでご飯を食べ、白鼬《いたち》をつかって兎狩りをしましょうよ。そして、上きげんでパリへもどりましょう」
「そりゃけっこうですね」
翌日、十時に、われわれは一頭立ての無蓋の二輪馬車に乗り込んだ。そして、ヴォー・ジラールまで行って、城門をくぐろうとしていたとき、御者に外国ふうの仕着せを着せた四輪馬車が向うからやってきた。乗っていた人が「とまれ、とまれ」とどなった。
それはヴュルテンベルク勲爵士だった。その男は私には一瞥《いちべつ》もくれずに、コラリーナに甘ったるいことをいいはじめた。それから、首を外へつきだして、彼女の耳になにかささやいた。彼女も同じようにひそひそ答えた。彼はさらにしゃべった。彼女は少し考えていたが、私の手をとって、にこにこ笑いながら、「わたし、この方と大事なお話がありますの。ねえ、ですから、おひとりで兎の飼育所へ行って、お食事をして、狩りをあそばせよ。そして、あした、遊びにいらしってください」
こういうと、彼女は馬車からおり、向うの馬車へ乗りかえ、私をロト(アブラハムの甥)の細君のように置き去りにして、行ってしまった。だが、私は黙って立ってはいなかった。
[娼家で粋人になるには]
読者が私と同じような立場にたたされた経験をおもちなら、私があんなひどい仕打ちをされてどんなに腹をたてたか説明するにもおよぶまい。しかし、そういう立場にたったことのない人には説明のしようがない。
私は癪にさわる二輪馬車に一瞬もすわっている気になれず、御者にはどこへでもかってなところへ行けといってとびおり、通りがかった辻馬車をつかまえて、パテュのところへとびこんだ。そして、怒りに声をふるわせながら、一部始終を話した。パテュは私の事件をおもしろがったが、目新しくもなく、型どおりだといった。
「どうして型どおりなんだね」
「型どおりさ。だって、ひとの世話になっている女に手を出すやつは、かならずそういう目にあうものだからね。だが、気のきいた男なら、そんなことで腹をたてるものじゃないよ。ぼくもそういう目にあってみたいよ。あしたが楽しみだからね。心からおめでとうをいうよ。コラリーナはあしたはきっときみのものになるよ」
「もうこりごりだ、あんな女、軽蔑するよ」
「きみはもっとはやく彼女を軽蔑すべきだったかもしれないね。それじゃ、埋合せにオテル・デュ・ルール〔フォーブール・サントノレの売春宿〕へでもめしを食いにいこうか」
「それがいい。すばらしい思いつきだ。じゃあ、出かけよう」
オテル・デュ・ルールはパリで有名だった。私はパリへ住みついてから二か月になるが、まだ一度も行かなかったので、どんなところか見てみたかった。その旅館を買いとった女将《おかみ》はりっぱな家具をそなえつけ、よりぬきの女を十三、四人そろえていた。腕っこきの料理人をおき、上等の酒をそなえ、すばらしいベッドをすえ、訪ねてくるものを手あつくもてなした。女将の名前はマダム・パーリスといい、警察から保護されていた。パリからかなりはなれていたので、訪ねてくる客はみんなお歴々ばかりだと確信していた。歩いてくるには遠すぎたからである。店のきまりはよくできていて、万事定価できめられていたが、高くはなかった。女との朝食が六フラン、昼食は十二フラン、夕食つきの宿泊は一ルイであった。じつに几帳面《きちょうめん》な店で、評判がよかった。私ははやく行ってみたかった。兎の飼育所なんかくそくらえだ。
われわれは辻馬車に乗った。パテュが御者にいった。
「シャイヨの門だ」
「かしこまりました、旦那」
半時間の距離だった。馬車は≪オテル・デュ・ルール≫としるした大きな門の前にとまった。しかし、扉はしまっていた。ひとりの下男が裏門から出てきて、われわれをじろじろ見た。そして、われわれの人相に満足すると、扉をあけた。われわれは辻馬車を返して、なかにはいった。下男が門をしめた。身なりがよく、態度物腰の丁重な、片目のない、五十がらみの女が出てきて、お食事をなさって、お嬢さん方をごらんになりにおいでですかときいた。そうだと答えると、広間へ連れていった。そこには、白いモスリンの揃いのドレスを着た娘たちが十四人、半円形にすわって、なにか手仕事をしていたが、われわれの姿を見ると、すぐに立ちあがって、いっせいに丁寧なお辞儀をした。きれいに髪を結い、年ごろも同じようで、みんな美しかった。背丈も大きいの、中くらいの、小柄のとさまざまで、髪も褐色、金髪、栗色と色とりどりであった。われわれはめいめいの娘に二言三言ずつ言葉をかけながら、ひとわたり見てまわって、気に入ったのを選んだ。選ばれた女たちは歓声をあげて首にとびついてきた。そして、広間から庭へ引っぱっていった。食事に呼ばれるまで庭を散歩しようというのであった。マダム・パーリスはこういってわれわれを送りだした。
「では、旦那さま方、お庭へ散歩にいらしって、よい空気をお吸いあそばせ。手前どもの家は平和で、静かで、物音も聞こえないのでございますよ。お選びになったお嬢さん方の健康は保証いたします」
短い散歩をしたあとで、めいめい相手の女を一階の部屋へ連れこんだ。私の女はどことなくコラリーナに似ていた。とりあえずおきまりにとりかかった。だが、楽しいいとなみの最中に食事だと呼ばれた。料理はかなりうまかった。しかしコーヒーがすむやいなや、例のめっかちが時計を手に持ってやってきて、ふたりの娘を呼び、もうお時間だといった。快楽が時間ぎめだったのだ。だが、もう六フラン出せば、夕食までいられるということであった。パテュは、ではそうするが、相手をかえたいといった。私も同じ意見だった。
「それはご自由になさってけっこうですわ」
そこで、また広間へもどり、べつの女を選んで、散歩にいった。二度目のいどみあいも、時間が短すぎた。いまやまさに佳境というときに婆さんが時間だと知らせにきた。癪にさわるが我《が》をおって、規則にしたがわなければならない。私はパテュを小脇へ呼んで、いろいろ深刻な意見を交換してから、時間に制限された快楽は完全ではないということになった。
「もう一度広間へ行って、三人目の女をきめ、あすの朝まで自由にすることにしようじゃないか」と、私はいった。
パテュはそれもよかろうといって、女将にその旨《むね》を伝えた。女将はなかなか粋人でいらっしゃるとほめそやした。しかし、広間へ行って相手をきめるだんになると、まえの女たちをはずしたものだから、他の女たちが口をそろえてからかった。そこで、まえの女たちは腹いせに口笛を吹き、われわれを背高のっぽとののしった。
しかし、私は三人目の女を見て、その美しさに肝をつぶした。そして、いままでこの女に目をつけなかったのを神に感謝した。むこう十四時間わがものにしていられるからだ。彼女はサン・ティレールといったが、一年後にイギリスの貴族に見染められて有名になり、イギリスへ連れていかれたサン・ティレールと同じ女である。彼女は誇りと軽蔑とをふくんだ目で私をにらんでいた。彼女の気持をしずめるには、一時間も庭を散歩しなければならなかった。はじめのときも二度目のときも彼女を指名しないという非礼をおかしたのだから、私とねるのはもってのほか、だと考えたのであった。しかし、そういう非礼をおかしたおかげで、ひと晩ゆっくりごきげんをうかがうことができるようになったのだと、事をわけていいきかせると、ようやくきげんをなおして笑いだし、とても愛想よくなった。
この娘は頭がよく教養もあり、その選んだ職業で成功する素質をすべてそなえていた。夕食のときパテュはぼくもあの女を指名しようと思ったのだが、きみに一瞬さきを越されたとイタリア語でいった。そして、四、五日後にあらためて彼女を買いにいった。翌朝、彼はひと晩じゅうぐっすり眠ったといったが、私はそんなまねはしなかった。サン・ティレールはたいへん私に満足し、仲間にそれをいいふらした。私はフォンテーヌブローへ行くまで十回以上もマダム・パーリスの店を訪れたが、ほかの女を買う気になれなかった。サン・ティレールは私を馴染み客にしたのを自慢していた。
オテル・デュ・ルールにかよいはじめてから、私はコラリーナを追いかける熱意が急に冷えていった。ヴェネチアの音楽家でグアダニというのは眉目秀麗、芸が達者で、才気にあふれていたが、私がコラリーナと仲違いをした二、三週間後に、彼女のおぼしめしにかなった。この美男子は、外観だけだが、非常にたくましく見えたので、コラリーナの好奇心をそそったのだが、モナコ大公に恋の現場を見られ、そのために縁切りとなった。しかし、コラリーナが一所懸命に詫びを入れたので、ひと月後にはもとの鞘《さや》にもどった。そして、誠心誠意つとめた甲斐あって、九か月後に赤ん坊をひとり大公に献上した。それは女の子で、アデライドと名をつけたが、大公はこの子に婚資をつけてやった。大公はヴァランティノワ公の死後、彼女と別れて、ジェノヴァのブリニョーレ嬢と正式に結婚した。コラリーナはド・ラ・エーマルシュ伯の情婦となった。この伯爵はいまコンティ公となっている。コラリーナはもはやこの世の人ではない。彼女がこのコンティ公とのあいだにもうけ、モンレアル伯爵と命名された息子も他界してしまった。しかし、私自身のことにもどろう。
[フォンテーヌブローへ]
王太子妃殿下は、そのころ、王女をご分娩になって、すぐにマダム・ド・フランスの称号を与えられた。
その夏ルーヴル博物館で王室絵画アカデミーの画家たちのかいた新しい絵が公開されたので見にいった。しかし、そこには戦争画が一枚もなかったので、ヴェネチアにいる弟のフランチェスコをパリへ呼び寄せることにした。弟はこの方面の才能があったが、フランスでただひとりの戦争画家パロセルがすでに死んでしまったので、弟はきっと名をなすだろうと思ったのである。そこで、グリマーニ氏と弟自身に手紙を書いて説得したが、彼がパリへ来たのはやっと翌年のはじめであった。
ルイ十五世は狩猟がとても好きで、毎年秋の六週間をフォンテーヌブローへすごしにいった。そして、いつも十一月半ばにヴェルサイユへもどった。この旅行は五百万フランかかった。彼は外国の使臣や宮廷の貴族たちを楽しませるものをすべて引き連れていった。イタリアとフランスの喜劇役者をはじめ、オペラ座の男優女優は残らずお供をした。
したがって、この六週間、フォンテーヌブローはヴェルサイユよりもはるかにはなばなしかった。しかし、それにもかかわらず、パリの大都会では芝居がなくなるということがなかった。やはりオペラもあり、フランスの喜劇、イタリアの喜劇も興行をつづけていた。俳優の数がおびただしかったので、オペラにも喜劇にも十分に補充がついたのである。
バレッティの父親のマリオは、健康もすっかり回復したので、細君のシルヴィアや家族全部を連れて、フォンテーヌブローへ行くことになった。私にもいっしょに行かないかとすすめ、すでに借りてある家のひと部屋を提供しようといってくれた。
私は喜んで承知した。ルイ十五世の宮廷の人々や外国の使臣たちを知るには、これよりすばらしい機会は求むべくもなかった。ヴェネチア共和国の駐仏大使だったモロジーニ氏に紹介されたのもそのおりであった。氏はいまはサン・マルコの行政長官になっている。
オペラを上演した最初の日、大使は私に同行をゆるした。音楽はリュリであった。私のすわっていた席はちょうどポンパドゥール夫人〔ルイ十五世の愛人〕の桟敷の真上であったが、当時私はまだこの夫人を見たことがなかった。第一幕で、有名な女優のル・モールが舞台裏から出てきたが、第二句で非常にかんだかいびっくりするようなさけび声をあげた。私は気が違ったのかと思った。そして、ちょっと声をたてて笑った。それはべつに悪意があってのことではなく、人からとがめだてをされようとは考えもしなかった。しかし、侯爵夫人のかたわらの青綬章〔聖霊騎士団の騎士〕をつけた男がそっけない口調で、どこの国のものかときいた。私もそっけなくヴェネチアのものだと答えた。
「わしもヴェネチアにいたときには、きみのところのオペラのレチタティーヴォをおおいに笑ったものさ」
「そうでしょうね。だが、あなたが、お笑いになっても、だれも文句をいわなかったと思います」
この手きびしい返事をきいてポンパドゥール夫人は笑いだした。そして、ほんとにあちら(la-bas)の方かときいた。
「どこのですか」
「ヴェネチアの」
「ヴェネチアは、奥方さま、la-basではございません。la-hautでございます」〔la-bas は低い所だが、一般に≪あちら≫の意味につかう。la-hautは高い所である。あちらの意味にはつかわないが、カザノヴァはla-basを低い所と解し軽蔑されたと思ったのであろう〕
この返事ははじめの返事よりもいっそうとっぴに思われた。そこで、桟敷じゅうの人がヴェネチアがラ・バかラ・オかと額をあつめて相談しはじめた。そして、あきらかに私のいうことに道理があるとみて、文句をいってこなかった。それからは、私は笑わずにオペラを聞いていたが、あいにくかぜをひいていたので、何度も鼻をかんだ。すると、さっきの青綬章の男――それはだれだか知らなかったが、リシュリュー元帥だった――が、きっときみの部屋の窓がよくしめてなかったのだろうといった。
「いいえ、十分に隙間をふさいであります」
すると、みんなが、げらげら笑いだした。私はしまったと唇を噛んだ。というのも、隙間をふさぐというcalfeutrerという字をcalfoutrerと発音したのに気がついたからである。私はすっかり悄気《しょげ》こんでしまった。それから十五分ばかりすると、リシュリュー元帥があのふたりの女優のどちらが美しさの点で気に入っているかときいた。
「あちらです」
「だが、あれは不恰好な脚をしているよ」
「脚は目につきません。それに、わたしは美人の品定めをするとき、まず第一に脚を度外視《エカルテ》します」〔|ecarter《エカルテ》は、遠ざける、度外視するのほかに拡げるという意味がある〕
このしゃれは偶然のことで、どんなに大きな効果があるか知らなかったが、おおいに私の株をあげ、私に興味をもつ桟敷の人々の仲間にはいらせた。リシュリュー元帥はモロジーニ氏の口から私のことを聞き、遊びに来いといってくれた。私のしゃれが有名になり、みんな私を愛想よくもてなしてくれた。外国の大使のうちで私がもっとも愛情を寄せたのはプロシア王の大使をつとめていた、スコットランドの元帥キース卿であった。この人についてはいずれ語る機会があるであろう。
[フランス王妃の食事]
フォンテーヌブローへ着いた翌々日、ひとりで宮廷へ行ってみた。りっぱな王さまが王室の方々や宮廷のあらゆる貴婦人を引き連れてミサへお出ましになるところであった。しかし、私はその貴婦人たちのあまりの醜さにあきれてしまった。まえに見たトリノの宮廷の貴婦人たちがその美しさで私を仰天させたのとまったく反対であった。しかし、そうした醜女の行列のなかにただひとり驚くほど美しい人がいたので、わきの人に名前をきいてみた。「ド・ブリヨンヌ夫人ですよ。あの方はご器量もさることながら、貞淑の誉れの高い方です。なにしろ浮いた噂がひとつもないばかりか、そんな噂をたてられるようなことも全然なさらないのですからね」
「世間がなにも知らないからでしょう」
「とんでもない。宮廷ではなにもかもつつぬけですよ」
私はひとりで宮殿のなかをあちこちうろつき、しまいには王さまのお部屋のそばまで行った。すると十二人ばかりの醜い貴婦人がやってきたが、歩くというより駆け出すような恰好で、しかも非常にぎごちなく、まるで前へつんのめりそうだった。そこで、あの方々はどこから来たのか、どうしてあんなへんな歩き方をするのかときいてみた。
「王妃さまがお食事にいかれるのでお供をしてきたのです。へんな歩き方をしているのは、踵が半フィートもある上靴をはいているからです。そのために膝をまげて歩かなければならないのです」
「どうしてもっと踵の低いのをはかないのです」
「あのほうが背が高く見えると思っているのですよ」
ある廻廊へはいってみた。王さまがダルジャンソン氏の肩に腕をかけてお通りになった。ルイ十五世の顔はうっとりするほど美しかった。首もしゃんとすわっていた。王さまがだれかを見るために振り向くときのようすは、どんなに腕のよい画家にも描けなかった。この王さまはひと目見たとたんにお慕いせずにいられない気持にさせる。私はかつてサルディニア王の容貌に求められなかった荘厳さをここに見いだしたと思った。ポンパドゥール夫人が王さまの知己を得たとき、まずこの容貌にひかれたにちがいない。じっさいにはそうではないかもしれないが、ルイ十五世の秀麗な容貌は見るものにそう考えさせる。
あるりっぱな広間へはいっていった。十一、二人の廷臣があちこち歩きまわっており、テーブルは十二人が食事できるように準備してあった。しかし、食器はひと組しか置いてなかった。
「この食卓でどなたが食事をなさるのです」
「お妃さまです。さあ、いらっしゃった」
フランスの王妃〔元ポーランド王スタニスラス・レステンスキーの娘〕は紅もつけず、大きなボンネットをかぶり、老《ふ》けた信心ぶかそうなようすであった。彼女は食卓の上へ新鮮なバターのはいった皿をのせにきたふたりの尼さんに礼をいい、腰をおろした。まわりをうろついていた十一、二人の廷臣は食卓から十歩ばかりはなれて半円をつくった。私もそのなかにまじって、じっと黙って見ていた。
王妃はだれの顔も見ずに食べはじめた。彼女はある料理に手をつけたが、それが気に入ったので、あれこれ食べてから、またその料理にもどった。そのとき、顔をあげて並みいる連中をながめ、だれか気に入った料理の話のできるものはないかと捜した。そして、捜しあてると、そのものに声をかけた。
「ド・ロヴァンダルさん」名前を呼ばれると、私よりも二インチばかり背の高い美男子がうやうやしく頭をさげ、三歩食卓のほうへ進み出て、答えた。
「はい、お妃さま」
「このお料理はほかのよりもずっとおいしいが、雛鳥《ひなどり》のフリカッセらしいですね」
「わたくしもそう思います、お妃さま」
このきわめてしかつめらしい返事をきくと、王妃はまた食べはじめた。ド・ロヴァンダル元帥は三歩しりぞいて、元の場所にもどった。王妃はもうなにもいわず、無言のうちに食事を終わって自室にもどった。王妃がいつもそういうふうに食事をするのなら、私は陪食の光栄に浴したくないと思った。
私はかねてからベルヘン・オプ・ソームを奪った名将を知りたいと思っていたが、この機会に宿望をとげたのは嬉しかった。彼はフランスの王妃から雛鳥のフリカッセについてきかれたとき、軍法会議で死刑の宣告をするときと同じ厳粛な口調で返事をしたのであった。私はこの逸話を仕込んで、シルヴィアのところへ帰った。食卓にはよりぬきの愉快な連中が集まって、しゃれた午餐だったが、私は逸話を披露してみんなを喜ばせた。
それから十日ばかりたって、また十時に廻廊へ行った。そして、並み居る群集のなかにまじって、王さまがミサに行かれるのを見た。それはいつ見ても新しい喜びをおぼえさせるが、思いがけなくも、姫君たちのおっぱいの先をながめる光栄に浴した。姫君たちは着ているドレスのために肩をむきだしにするとともに、乳房を衆人の目にさらしていたのであった。しかし、そのとき、通称カヴァマッキーことジュリエッタの姿を見かけてあっけにとられた。それはチェゼーナで別れるときケリーニ夫人と名のっていた女である。彼女のほうでも、私がそういうところにいるのを見て、私におとらず驚いた。彼女に腕をかしていたのはコンデ公の侍従長サン・シモン侯であった。
「ケリーニ夫人がフォンテーヌブローにいらっしゃるとは!」
「あなたも来てらっしゃったのね。≪乞食はどこででもねる≫(オウィディウス)とおっしゃったエリザベス女王のお言葉を思いだしますわ」
「その比喩はじつにうがっておりますね、奥さま」
「あら、冗談ですよ。わたし王さまにお目にかかりに来ましたの。まだお目もじしておりませんが、あす、大使が紹介してくださるはずですわ」
彼女は私から五、六歩|上《かみ》のところへ立った。王さまがお出ましになるはずの扉の正面だった。王さまはリシュリュー公と並んで出てこられた。そして、自称ケリーニ夫人のほうをちらりとごらんになったが、そのまま歩きながら、親しいリシュリュー公にはっきりと次のようにおっしゃるのが聞こえた。
「ここにはもっと美しいのが何人もいるさ」
昼食をすませてからヴェネチア大使を訪ねた。食後のデザートを楽しんでいるところで、大使はケリーニ夫人と並んですわり、大勢の客にとりまかれていた。夫人は私を見ると、ひどく愛想よく応対した。この蓮っ葉女にしてはじつに奇妙なことだ。私が自分を知りつくし、扱い方も心得ていることを彼女は承知しているのだから、私に好意を見せる原因も理由もないからだ。しかし、私にはその理由がすっかりのみこめたので、彼女を喜ばすためにはなんでもしよう、必要とあればにせの証人もつとめようという気になった。
彼女はケリーニ氏の話をはじめた。大使はケリーニ氏が彼女と結婚して十分彼女に敬意を表したのを喜んで、祝いの言葉を述べた。
「だが、わたしはいっこう存じませんでした」と、大使がいった。
「けれども、二年まえに結婚いたしましたのよ」と、ジュリエッタが答えた。
そこで、私は大使にいった。
「そのとおりですよ。スパダ将軍がチェゼーナの貴族たちに奥さんをケリーニ夫人の名で紹介なさったのは、もう二年まえになりますからね。わたしもその席に列する光栄に浴しましたが」
大使は私のほうを見ながら、
「べつに疑っているわけじゃないのさ。ケリーニ自身が手紙でそういってきたんだから」
私がいとまを告げて帰ろうとすると、大使は読ませたい手紙があるといって、別室へ連れていった。そして、ヴェネチアではケリーニ夫妻の結婚をどういっているのかときいた。私はこの結婚のことはだれも知らないと答え、またケリーニ家の長男がグリマーニ家の娘と結婚するという噂だとつけくわえた。
「では、あさって、この新事実をヴェネチアへ書いてやりましょう」
「新事実って?」
「ジュリエッタがほんとにケリーニ夫人となったことですよ。閣下がルイ十五世にケリーニ夫人としてご紹介なさるのですからね」
「わしが紹介するなんて、だれがいったんだ」
「夫人自身ですよ」
「それじゃ、いまは考えを変えたらしいな」
そこで、私は私の聞いた王さまご自身の言葉を伝えた。それで大使はジュリエッタが自分に紹介を頼まなかった理由を推察した。
王さまの個人的な意志をうけたまわる秘密秘書のド・サン・カンタン氏がミサのあとで親しくヴェネチアの美女を訪ね、王さまのご趣味はよろしくない、あなたを宮廷の若干の女性たちより美しいとお思いにならなかったのだからといった。ジュリエッタはその翌日早朝にフォンテーヌブローをあとにした。
私はこの回想録のはじめに彼女の美貌について語った。彼女の容貌の魅力にはずばぬけたものがある。しかし、フォンテーヌブローで会ったときには、その魅力もかなりうすれていた。それだけでなく、彼女は白粉をぬっていたが、フランス人はこの化粧をゆるさない。それももっともなことで、白粉は自然の美しさを奪ってしまうのである。しかし、それにもかかわらず、好かれることを生き甲斐とする女たちはつねに白粉をつけるだろう。脂粉の美にあざむかれる男を見いだすことをいつも期待しているからである。
フォンテーヌブローの行事が終わったあとで、私はまたジュリエッタとヴェネチア大使の邸で出会った。彼女は笑いながらケリーニ夫人と名のったのは冗談で、今後プレアティ伯爵夫人という本名で呼んでくれたら嬉しいといった。そして、オテル・デュ・リュクサンブールにとまっているから会いにきてほしいとつけくわえた。私は彼女の手練手管に興味をおぼえて、たびたび訪ねていった。しかし、彼女の情事には全然首をつっこまなかった。
彼女はパリですごした四か月のあいだにザンキ氏を夢中にさせてしまった。これはヴェネチア大使館の書記官だったが、親切で、気品があり、教養もふかかった。彼女は彼の恋心をあおりたてて、いつでも結婚に踏みきる決意をさせ、有頂天に喜ばせた。ところが、のちには手の裏をかえすように残酷な態度をとり、嫉妬に悩ましたので、不幸な男は分別をうしない、まもなく死んでしまった。女帝マリア・テレジアの大使カウニッツ伯爵も彼女に食指を向け、ジンゼンドルフ伯爵もそうだった。これらの一時的な恋の取持ちをつとめたのはグアスコ司祭であった。司祭は金持でもなく、ご面相もぶざまで、彼女の恩寵を期待できなかったので、せめて打明け話の聞き役になって匂いだけでもかごうという魂胆であった。しかし、彼女が目をつけたのはサン・シモン侯爵で、正式の妻になろうと願っていたし、侯爵も彼女と結婚したにちがいない。しかし、侯爵が彼女の身もとを調べようとしたとき、嘘の住所を教えたのがいけなかった。彼女はヴェローナのプレアティ家を本家だと主張したが、プレアティ家ではそれを否定した。そこで、サン・シモン侯は、恋に目がくらんで分別をうしなうようなことをせずに、思いきって彼女と別れてしまった。彼女はパリではいっこうに芽がふかず、ダイヤモンドを質に入れるほどであった。ヴェネチアへ帰ると、ウッチェリ氏の息子と結婚した。このウッチェリ氏は十六年まえに彼女を食うや食わずの境遇から引き出して、娼婦に仕立てた人である。彼女はいまから十年まえに死んだ。
[フランス語ゆえの失敗]
パリではあいかわらず老クレビヨンの家へフランス語の稽古を受けにいった。にもかかわらず、私のフランス語にはイタリアふうの表現がいっぱいつまっていて、集まりのときに思いもかけないことをいわせた。それがとても奇妙な冗談に聞こえ、あとで口から口へ伝えられた。しかし、そうした訛《なま》りも私の才気を判断する妨げにはならなかった。それどころか、いろいろのりっぱな知合いをつくらせてくれた。何人か知名の婦人たちはイタリア語を教えにきてほしいと頼んだ。そして、お返しにフランス語を教えてあげるといったが、この取引では私のほうがずっと得をした。
私の生徒のひとりプレオド夫人は、ある朝訪ねていくと、まだベッドのなかにいて、昨夜薬を飲んだので、稽古をしたくないといった。そこで、夜のあいだにうまく|荷をおろした《デシャルジェ》〔dechargerは射精するという意味がある〕かときいた。
「なんてことをおききになるの? へんな質問ねえ! いやらしい方だわ」
「ごめんください、奥さま。けれど、荷をおろすためでなければ、どうして薬なんか飲むのです」
「薬はお通じをつけるので荷をおろすのではございませんよ。そんな言葉はもう二度とおつかいにならないようにね」
「いま考えてみるとよくわかりましたが、私の言葉はへんに誤解されるのですね。けれど、あなた方はなにをおっしゃってもいいのですね、みんなきれいな言葉なのだから」
「朝のご飯を召しあがりますか」
「いいえ、奥さま。もうすませてきました。サヴォワイヤールをふたつ食べ、カフェをひとつ飲みました」〔サヴォワイヤールはサヴォワ人。しかし、カザノヴァはビスケットの意味でいっている〕
「あら、いやだ。とんでもないわ。なんてひどいお食事でしょう! 説明してちょうだい」
「カフェをひとつ飲んだんですよ。毎朝のおきまりで」
「おや、ばからしい。カフェというのはコーヒーを飲ませる店のことですよ。飲むのはカフェ一杯というのですよ」
「それでは、あなた方は茶碗を飲むのですか。イタリアでは、カフェといっても、勘がいいから、飲ませる店ではないということがすぐわかりますよ」
「まあ、この人、理屈をいってるわ。ところで、ふたつのサヴォワイヤールはどういうふうにして召しあがったの」
「カフェにひたして食べました。このナイト・テーブルの上にあるのと同じくらいでした」
「これをサヴォワイヤールとおっしゃるのね。ビスケットとおっしゃいよ」
「イタリアではサヴォワィヤールといいます。その流行がサヴォワから伝わってきたからです。町角に立って頼みにくるお客を待っている、サヴォワイヤールという煙突掃除人がいますね。あれがサヴォワの人間かどうか知りませんが、あれをふたり、わたしが食べてしまったとお考えになっても、それはわたしのせいではありません。今後はあなた方の風習に合わせるためにビスケットを食べたといいましょう。しかし、サヴォワイヤールのほうが適当だということをおゆるしください」
そこへ彼女の夫がはいってきた。彼女はふたりで議論したことをそのまま話した。彼は笑いだして、私のほうが正しいといった。そのうちに彼女の姪《めい》がやってきた。十四歳になる、おとなしくて、利口で、しとやかな娘であった。私はその子に五、六回イタリア語を教えた。彼女はイタリア語が好きで、たいへん熱心だったから、そろそろしゃべりはじめていた。それで、イタリア語で挨拶をしてくれたが、それがたいへんなことになった。
「シニョレ ソノ インカンタタ ディ ヴィ ヴェデレ インブオナ サルーテ」(先生、あなたがお元気なのを見て、たいへん嬉しゅうございます)
「ありがとう、お嬢さん。しかし、『嬉しゅうございます』は『ホ ピヤチェレ』といわなければいけません。また『あなたを見て』は『ディ ヴェデルヴィ』で、『ディ ヴィ ヴェデレ』ではありません」
「あたし、ヴィを前へつけると思ったのです」
「いいえ、お嬢さん、われわれはヴィをおしりへつけます」〔ヴィは『あなたを』だが、隠語で陰茎を意味する〕
夫妻は息のつまるほど笑いこけ、令嬢はまっ赤になり、私は途方にくれた。そんなつまらぬことをいってしまったのが悔やまれてならなかった。しかし、万事窮すだ。私はしかめつらをして本をとりあげ、彼らの笑いがやむのを願ったが、どうにもならなかった。それは一週間以上もつづいた。このけしからぬ地口はパリじゅうの評判になり、私を憤慨させた。
フランス人は私がフランス語をしゃべるときの失策を笑って楽しみにしたが、私も彼らの言葉の奇妙な風習をとりあげて腹いせをした。
「きょうは、奥さまはお元気でいらっしゃいますか」
「あなたは彼女にたいへん名誉を与えてくださいます」〔『ありがとう』の丁重な表現〕
「いや、名誉の問題ではありません。奥さまがお元気か、どうかうかがっているのです」
ある青年がブーローニュの森で馬から落ちた。私は助けおこそうと思って駆けよったが、彼はすぐにすばやく立ちあがった。
「どこかお痛みはありませんか」
「まったく反対です」〔だいじょうぶですの意〕
「では、落馬なさって気持がよかったのですね」
はじめてシャロン議長夫人を訪ねていった。そこへ夫人の甥《おい》がいやに気取ってやってきた。夫人は私を紹介し、氏名と国籍をいった。
「これはまあ、イタリアの方でいらっしゃいますか。いやはや、たいへんおりっぱなので、フランスの方かと思いましたよ」
「おそれいります。わたしもあなたを拝見して、あやうく同じまちがいをするところでした。てっきりイタリアの方だと思いましてね」
「自分がそんなふうに見えるとは、全然気がつきませんでした」
私はランバート夫人の食卓にすわっていた。人々は私が指にはめていた紅瑪瑙《あかめのう》に目をつけた。それにはルイ十五世の顔がみごとに彫ってあった。その指輪はテーブルを一巡し、みんな実物にそっくりだと感心した。最後に若い侯爵夫人が指輪を返しながらきいた。
「これはほんとに古いものなのでしょうか」
「石のほうなら、たしかに古いものです、奥さま」
みんなは声をあげて笑った。しかし、才ばしっているという評判の侯爵夫人だけは気がつかずに、なぜ笑うのだともきかなかった。
食事のあとで、サン・ジェルマンの定期市に犀《さい》の見世物が出ていて、一人あたま二十四スーで見せるという話になった。そこで、行ってみましょうよということになり、馬車に乗り込んだ。男は私ひとりだったので、ふたりの婦人に腕をかした。例の才ばしった侯爵夫人は前へ立って歩いていった。犀がいると教えられた小径の突当りで、犀の持主が小屋の入口にすわって、入場料を受け取っていた。じっさい、その男はアフリカふうの服を着て、まっ黒く陽にやけ、えらく太りかえって、まるで怪物のようであった。しかし、侯爵夫人は少なくとも彼を人間だと認めるはずであった。ところがさにあらず。
「あなたですか、犀というのは」ときいた。
「おはいりなさい、奥さま、おはいりなさい」と、その男はすすめた。
れわれは息のつまるほど笑った。彼女はなんで笑われたのかわからないらしかったが、本物の犀を見るにおよんで、さっきのアフリカ人にたいへん失礼なことをいったと気がついた。そして、わたしは生まれてこのかた、犀というものを見たことがなかったので、とんだまちがいをしたが、どうぞ腹をたてないでほしいと詫びた。
[弟がパリに着く]
イタリア座の楽屋には、幕間《まくあい》にお歴々の殿さまたちが集まる。冬ならばそこにすわって、身体をあたためかたがた、出番を待つ女優たちと話をして楽しむのである。私はコラリーナの妹のカミラのそばへすわり、甘ったるいおしゃべりをして笑わせた。ある若い参事官が、私が彼女をひとりじめにしているのに腹をたてた。そして、自分の話術に自信をもっていたので、鬱憤《うっぷん》をはらすために、私があるイタリアの芝居について述べた意見を反駁《はんばく》し、私の同胞をこきおろした。私は笑っているカミラや成行きいかにと見まもっている連中をながめながら、つまらぬ冗談をいってあしらっていた。そこまではしゃれた言葉のやりとりにすぎず、少しも不愉快ではなかった。しかし、事は一変して、急に険悪になった。その青二才が町の治安のことに話を向け、しばらくまえから夜のパリを歩くのは物騒になったといいはじめたからである。
「先月、市役所前の広場で、七人の罪人が絞首刑になったが、そのうちの五人がイタリア人であった。驚くべきことさ」と、彼はいった。
「驚くことはありませんよ」と、私は答えた。「名誉を心得た人間はよその国へ行って首をくくられるものですからね。その証拠に、去年じゅうに六十人のフランス人がナポリ、ローマ、ヴェネチアで絞首刑になりました。ところが、六十は五かける十二ですから、物々交換としても、ちょっとバランスがとれませんな」
居合わせた人々は笑いこけたが、みんな私に軍配をあげた。若い参事官はこそこそ逃げていった。好人物らしい貴族が私の返事を上出来だと思い、カミラのところへ行って、私の素姓をこっそり聞いた。それで知合いになったが、その人はポンパドゥール夫人の兄君マリニー氏であった。私は弟の到着をきょうかあすかと待っていたので、この殿さまに弟を紹介できるのをたいへん喜んだ。彼は王室のすべての建造物の総監督であり、絵画アカデミーは彼の指揮下にあった。そこで、すぐに弟のことを話すと、面倒をみてやろうと約束してくれた。もうひとりの若い貴族が話しの仲間へはいってきて、会いにきてほしいといい、マタローナ公爵だと名のった。
私は八年まえ、あなたがまだお小さかったころ、ナポリでお目にかかったことがある。伯父君のドン・レリオ・カラッファからは並々ならぬご恩をいただいたと話した。青年公爵はこの話を非常に喜び、訪ねてこいと何度もくりかえして、親しい友だちとなった。
弟は一七五一年の春パリへ着いて、私のとまっているカンソン夫人の家へ落ちついた。そして、個人の依頼に応じて仕事をはじめ、順調なすべり出しをみせた。しかし、彼のおもな狙《ねら》いはアカデミーの目にふれるような絵をかくことであったので、マリニー氏に紹介した。氏は弟を愛想よくもてなし、保護を加えてやるからとはげましてくれた。そこで、弟は一|刷毛《はけ》も失敗しないように、慎重な勉強にとりかかった。
モロジーニは大使の任期が切れて、ヴェネチアへ帰り、モチェニーゴ氏がその代りに来任した。私はブラガディーノ氏から推薦状をもらっていたので、弟といっしょに訪ねていった。大使はヴェネチア人として、また腕一本で成功しようとしている若者として弟に興味をもち、庇護《ひご》しようと約束してくれた。
モチェニーゴ氏は非常におだやかな性格の人で、博打を好み、いつも負けていた。彼はまた女好きであったが、要領が悪かったのでうまくいかなかった。パリへ赴任してから二年後に、コランド夫人に思いを寄せたが、夫人から手ひどい待遇をうけ、ヴェネチア大使ともあろうものがついに自殺してしまった。
[ルイ十六世をめぐって]
王太子妃殿下はブルゴーニュ公を分娩された。そのときの民衆の歓喜は非常なものだった。現在全国民が国王にたいしてとっている態度を見ると、まったく信じられないくらいである。国民は自由になろうとしている。この野心は高尚で合理的だ。国民は現在の国王の治世にこの企図を達成するだろう。六十五代にわたる国王は、その程度に差はあっても、みな野心的で権力をまもるにきゅうきゅうとしていたが、この国王は奇妙なめずらしい偶然から、全然野心を知らない性格でいらっしゃるからだ。
フランスの王位には何人か、いとも怠惰な王がすわったことがある。仕事をきらい、苦労をいとい、わが生活の安穏だけに心をもちいた。宮殿の奥に引きこもって、全権を大臣にまかせっぱなしにしていた。だから大臣は王の名によって専制をほしいままにした。それでも彼らは王であり、国王としての権勢をりっぱに保持していた。現在の国王のように、みずから国王廃位を要求する人民の先頭に立ち、これを扇動するような国王は、世界の歴史にも類例を見ない。彼はついに服従以外の何事も考えなくなったのを喜んでいるらしい。してみると、彼は支配するために生まれついたのではない。彼は国王の利害を心から心配して、国民集会招集の勅令に同意しない連中を自分自身の敵だとみなしているらしい。その集会はいずれも王権の覆滅《ふくめつ》を企図しているのに。
専制政治をつねに暴政と呼んで、その桎梏《しっこく》から脱却しようと革命を起こす人民は、古来まれではない。それは自然なことである。その証拠に、国王はつねに革命を覚悟し、手綱をゆるめぬように警戒している。人民がかならず轡《くつわ》を噛みきるだろうと確信しているからである。それなのに、二千三百万の人民の頭に立っている国王が、人民を命令するためでなく、人民の命令を行なうために、国王および元首としての虚名を残しておいてくれるように哀願するとは、じつに奇妙でとっぴで前古未曽有のことだ。彼は人民に向かってこういう。
「諸君は立法者となりたまえ。そうしたら、わしは諸君の法律をすべて実施させよう。ただし、服従をこばむ反逆者にたいしては、わしに力をかしていただきたい。しかし、諸君はなんらの形式の訴訟も行なわずに、かってに彼らを食いちぎり、粉々にすることができる。諸君の意志に反逆するものはだれもありえないからである。諸君は確実にわしの地位をしめるのだ。諸君に反対するものは貴族と僧侶であろうが、それは二十五分の一でしかない。彼らの肉体的・精神的な翼を切るのは、諸君の仕事だ。彼らが諸君の権威に制限をつけ、諸君を破滅せしめんとする野望をくじくのだ。そのためには、宗門の権威を俗人にもわけて、僧侶の誇りをくじき、餓死しない程度の給料をあてがっておけばよい。貴族については、彼らを貧乏にさせんでも、家柄の虚名にたいして敬意を示さなくすればいい。貴族などもうおらぬのだ。トルコの賢明な規定を手本にするがよい。彼らは侯爵でも公爵でもなくなったら、野心をすて、最後に残された快楽ははでを競って有り金を濫費するだけになるだろう。だが、それは人民にとっては願ったりかなったりだ。なぜなら、彼らのつかう金は人民のなかにながれ、人民はそれを商業によって社会に流通させ、増殖していくことができるからだ。わが大臣どもについていえば、今後彼らはおとなしくなるであろう。彼らはすべて諸君に従属すべきもので、その能力を判定するのはわしの役目ではない。形式的にはわしが任命することにするが、諸君の意見にしたがって罷免《ひめん》しよう。彼らはわしを思いどおりにし、わしを圧迫し、しばしばわしの名誉をそこない、わしの名によって国家に借財を背負いこませてきたが、これで、わしもようやく彼らの圧制からのがれることができる。わしはいままで彼らについてなにもいわなかったが、もうやりきれなくなっていたのだ。だから、そうなれば、ついに彼らから解放されたという喜びを感じる。わしの妻も、成長するにしたがって子どもらも、また生粋の王族だと自称する従兄弟《いとこ》たちも、口にだしてはいうまいが、心のなかではわしを責めるだろう。それはわしにはよくわかっている。わしは諸君の高邁《こうまい》なる庇護によって、以前家柄以外に防護の楯《たて》を持たなかった時代よりも、彼らにとってははるかにおそるべきものとなるであろう。しかも、この家柄さえ不用なことは、わし自身諸君に力をかしていることで証明している。
わしの処置に不満で王国の外へ出ていったものも、もどりたいと申し出たらもどらせてやろう。申し出がなければ、かってにさせよう。彼らはわしの真の友人だと吹聴《ふいちょう》しているが、まったく笑止の沙汰だ。というのも、わしにはわしと考え方を同じゅうするもの以外に真の友人はおらぬからだ。彼らによると、この世でもっとも大事なことは、専制政治と直結するわが王室の古い権利だという。しかし、わしの意見によれば、世の中でもっとも大事なことは、第一にわしの安穏、第二に大臣どもの専断の根絶、第三に諸君の満足である。もしもわしが口先のじょうずなペテン師なら、わしの大きな関心事は王国の富強にあるというだろう。しかし、わしはそういうことを気にかけておらぬ。王国の富強を考えるのは諸君の義務である。それは諸君自身の問題にほかならぬ。なぜなら、王国はもはやわしのものではないからである。わしは、ありがたいかな、もはや旧来のフランスの王ではなく、諸君がいみじくもいうように、フランス人の王である。わしの願うのは、早く決着をつけてくれること、そして、わしに狩りへ行かせてくれることだ。わしはもう退屈でやりきれんのだから」
この一字一句真実な歴史的長談義は反革命は起こりえないという立証である。しかし、もしも国王の考え方が変わったら反革命も起こりうるという立証でもある。彼が自分に似た後継者を得ようとは、とうてい考えられないからである。
国民議会はおのが命令を盲目的に実行する、がむしゃらな民衆を頤使《いし》するのだから、貴族僧侶がいくらじたばたしても、したい放題のことができるだろう。現在のフランス国民は見ようによっては火薬でもありショコラでもある。両者とも三種の材料からできている。その効力はこの三種の材料の割合にのみかかっていたし、いまもそうである。時のたつにつれて、大革命以前優位をしめた材料がなんであったか、また現在優位にある材料がなんであるかあきらかになるであろう。いま私にわかっているのは、硫黄《いおう》の匂いが死を呼び、ヴァニラが毒だということである。
民衆についていえば、彼らはどこでも同じだ。人足に六フランやって「王さま万歳!」とどなれといえば、そのとおりにどなってくれる。だが、少したって、三リーヴルもらえば「王さまくたばれ!」とどなるだろう。彼らの頭に火縄竿《ひなわざお》をくくりつけてみたまえ、一日で大理石の城塞をぶちこわすだろう。彼らには法律も主義も宗教もない。彼らの神々はパンであり酒であり怠惰である。彼らには自由とはなにをしても罰せられぬことを意味し、貴族とは虎であり、扇動者は民衆という羊の群れに惚《ほ》れこんだ羊飼いだと信じている。要するに、民衆とは道理を知らぬ巨大な動物だ。パリの牢獄は囚人を息もつまるほどのみこんでいるが、それはみな反逆者の群れだ。もしもだれかが彼らのところへ行って、国民議会の広間を爆破して空へ吹っとばすと約束するなら牢獄の扉をあけてやるといったら、喜んで承知し、飛び出していくだろう。民衆というものは死刑執行人の集まりだ。フランスの僧侶はこれを知っている。したがって、宗教的な熱意を吹き込むことができるなら、いっさいを民衆にゆだねてしまう。この宗教的熱意は自由にたいする熱意よりもはるかに強い。というのも、自由は抽象的にしかわからず、物質的な頭の民衆には十分に理解できないからである。
かつまた、国民議会の議員のなかには、ひとりとして祖国の繁栄のために心血をそそいでいるものがいないと思ってもいい。めいめいの心は自分自身の利害だけにかぎられ、かりに国王となっても、ルイ十六世のまねのできるものはひとりもあるまい。
[ルイ十五世の宮廷]
マタローナ公爵は私をドン・マルカントニオ、ドン・ジョヴァンニ・バティスタ・ボルゲーゼなどの大公に紹介してくれた。どちらもローマ人でパリへ遊びにきたのだが、たいへん質素に暮らしていた。このローマの大公たちはフランスの宮廷に紹介されたとき、たんに侯爵の称号しか与えられなかったということである。同じ理由により、ロシアの大公たちも、紹介するとき大公の称号を呼ばれなかった。人々は彼らをクネスと呼んだが、彼らにとっては同じことで、クネスは大公を意味するのである。フランスの宮廷は称号について非常に神経質であった。それは新聞を見ればすぐにわかる。世間で一般につかわれているムシュ(……さん)という言葉さえ惜しんで、称号をもたない人はだれでもシュ(……氏)と呼ばれる。私はまた国王がどの司教のことも司教とは呼ばずに司祭と呼ぶのに気がついた。彼はまた王国内の貴族でも、自分に奉仕するものの名簿にのっていないと、見て見ぬふりをした。
しかし、ルイ十五世の尊大さは教育によって与えられたにすぎないもので、性格に根ざすものではなかった。大使がだれかを国王に紹介するとき、紹介されたものは、フランス国王が目を向けてくれたと思って家へ帰る。それだけである。しかし、彼は貴婦人たちにたいしてはフランス随一の礼儀ただしい人であった。とくに公けに認められている愛妾たちにたいしては、いやになるほど慇懃《いんぎん》であった。それでいて、少しでも礼を欠くものがあると、だれでも失脚させた。また、この国王くらい空とぼけることのじょうずなものはなく、秘密を厳重にまもり、だれも知らぬことを知っていると確信すると有頂天になった。
デオン氏の事件もその小さな例であった。国王だけは終始、彼が女であることを知っていた。したがって、このにせの勲爵士と外務省との係争は彼にとっては一篇の喜劇で、彼はその成行きを楽しむために、事件を最後まで行かせたのであった。
ルイ十五世は万事につけて偉大であった。もしも廷臣の追従《ついしょう》にのせられて多くの欠点を身につけなかったら、欠点らしいものはなにひとつなかったろう。彼はつねづね名君ちゅうの名君だと耳にたこができるほど聞かされていたのだから。どうして自分が悪い国王だと知ることができただろう。
ダルドール大公夫人がそのころ公子を生んだ。ナポリ大使であった夫人の夫がルイ十五世に公子の名付け親になってほしいと懇願した。国王は喜んで引き受け、名付け子への贈り物として一連隊を与えた。しかし、産婦は軍人がきらいだったので、この贈り物を喜ばなかった。リシュリュー元帥はこの拒絶を聞いたときほど国王が大笑いをしたのは見たことがなかったと話してくれた。
フュルヴィ公爵夫人のところで、ゴッサン嬢と知合いになった。彼女はロロットという愛称で呼ばれていたが、イギリス大使のアルベマール卿の情婦であった。卿は才気がゆたかで、上品で、非常に鷹揚《おうよう》な人であったが、ある晩、彼女と散歩していたとき、彼女が空にきらめく星の美しさをほめそやすのをきいて、その星を贈り物にしてやれないのをおおいに嘆いたということである。もしも彼の国とフランスとが国交断絶となったとき、この卿が大使であったら、事態を円満に解決して、フランスからカナダを奪った不幸な戦争は起こらなかったであろう。国と国とが紛争を起こしたり、国交断絶の危機にあるとき、双方が相手の国の宮廷へ派遣している大使の努力次第で、国交の調和がたもたれることは疑う余地がない。
彼の情婦については、彼女を知るものから、同じように好意ある評価をされていた。彼女は大使の正式の妻となっても恥ずかしくない長所を全部そろえていた。フランスのもっとも高貴な家々で彼女を仲間のひとりとして迎えるのに、正式のアルベマール夫人という称号が必要であるとは思わなかった。また、いかなる貴婦人も彼女がアルベマール卿の情婦という肩書しかもっていないと知っても、かたわらへ腰をおろすのをいとわなかった。彼女は十三歳のときに、母親の手から卿の手へゆだねられたもので、その素行はつねに申し分がなかった。卿の子を何人か生み、いずれも卿から認知された。彼女はデルーヴィル伯爵夫人として死んだが、それはまたそのときに話そう。
そのころ、私はまたヴェネチア大使モチェニーゴ氏のところで、あるヴェネチアの婦人と出会った。それはイギリスのウィンヌ勲爵士の未亡人で、子どもらを連れてロンドンから来たのであった。彼女は自分の婚資の安全を確かめ、亡き夫の遺産を相続するためにロンドンへ行ったのだが、遺産を子どもに伝えるには、イギリスの国教を信奉することを宣誓しなければならなかった。彼女はそうした手続きを終わり、旅行の成果に満足して、ヴェネチアへもどる途中であった。この夫人の連れていた子どもらのなかで、長女はまだ十二歳でしかなかったが、その性格はすでに美しい容姿にはっきりとえがかれていた。夫人は現在いまは亡きローゼンベルク伯爵の未亡人として、ヴェネチアで暮らしている。伯爵は女帝マリア・テレジアの大使であったが、ヴェネチアで逝去した。夫人はりっぱな身持と才気とずばぬけた社交的美徳とで、いまなお祖国の花形になっている。ひとの話では、彼女の唯一の欠点はゆたかでないことであるそうな。それは事実だが、だれもそのために彼女を憐れむようなことはしない。ただ彼女だけは、思うままに慈善のできないときに、裕福でないことをおおいに悲しんでいる。
このころ、彼はフランスの裁判所と小さないざこざを起こした。
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第三十一章
[下宿屋の娘ミミ]
私がとまっているカンソン夫人の妹娘は呼ばれもしないのに、よく私の部屋へやってきた。それで、私は彼女から愛されているのに気がついたが、彼女にたいしてそっけない態度をとったら、かえって奇妙なことになると考えた。まして、彼女はなかなか見どころのある子で、声が美しく、新しい仮綴じ本を残らず読み、好かれようとして、元気よくいろいろのことをしゃべった。年は若さ匂うばかりの十五、六歳であった。
はじめの四、五週間は、彼女とのあいだは子どもじみた遊びだけであった。しかし、あるとき、夜遅く帰ってくると、彼女が私のベッドのなかで寝ているのを見いだした。私は彼女が目をさましたらどうするだろうと興味をおぼえて、ひとりで服をぬぎ、ベッドへはいった。その結果はいうまでもないことになった。夜明けに、彼女は下へおりて、自分のベッドへ寝にいった、彼女は、ミミという名前であった。二、三時間あとで、偶然にも、婦人帽子屋の女が若い娘を連れてやってきて、朝食をふるまってほしいといった。しかし、私はミミと力戦奮闘したあとだったので、一時間ばかりおしゃべりをしただけで、そのまま帰らせた。ふたりが私の部屋から出ていったすぐあとで、カンソン夫人がミミといっしょにベッドをなおしにあがってきた。私は手紙を書きはじめたが、彼女がこうどなるのが聞こえた。
「ああ、あばずれどもが!」
「なにを怒っているのです。奥さん」
「なにもかもはっきりわかってますよ。敷布が台なしではありませんか」
「それはお気の毒でした。どうぞご容赦ください。そして、なにもいわずに、敷布をかえてください」
「なにもいうなっておっしゃるのね。こんどもしやってきたら、ひどい目にあわせてやるから」
彼女はほかの敷布を取りにおりていった。ミミはあとへ残った。私は母親を来させた彼女の軽率さを責めた。だが、彼女は笑いだして、神さまがあたしたちをかばって、ひとにかぶせてくださったのよといった。その日以来、ミミは少しも遠慮しなくなった。そして、いっしょにねたくなると、いつでもやってきた。私も気がすすまないときには、遠慮なしにことわった。こうして、われわれの小さい世帯はごく平穏につづいていった。ふたりが結ばれてから四月ののち、ミミが妊娠したと知らせた。私はどうしたらいいのかわからないと答えた。
「なにか考えなければいけないわ」
「それじゃ、考えろよ」
「でも、なにを考えたらいいの。なるようにしかならないわ。あたしなにも考えないことにしているのよ」
六か月日になると、ミミの腹が目立つようになって、母親にわかってしまった。彼女はミミの髪をつかんで、なぐりつけ、白状しろ、そんなおなかにしたのはだれだと責めた。ミミは私だといった。それは嘘ではなかったのかもしれない。
カンソン夫人はこの告白をきくといきりたち、階段をかけあがって、私の部屋へとびこんできた。そして、肘掛《ひじかけ》椅子にがっくり腰をおとし、息をやすめてから、さんざん悪態をついて怒りをぶちまけた。そして、最後に娘と結婚しなければ人でなしだときめつけた。この言葉で、私は問題のありかがわかったので、もうイタリアで結婚しているのだと答えた。
「それでは、なぜうちの娘に子どもをつくらせたのです」
「ぼくにはそんなつもりはなかったのです。ところで、だれがぼくだといったのです」
「娘ですよ、娘の口からはっきり聞いたのですよ。娘はそう信じ込んでいるんです」
「そりゃおめでたいですね。だが、ぼくはそんなことを信じるわけにはぜったいにいきませんな」
「では、どうしたらいいのです」
「どうにもなりませんな。妊娠したら生むのですね」
[司法当局とのいざこざ]
彼女はおどし文句をどなりながら下へおりていったが、窓から見ていると、辻馬車に乗った。翌日、私は町の警察署長から呼び出しをうけた。行ってみると、カンソン夫人が書類をそろえて待っていた。署長はまず私の姓名をきき、いつからパリへ来ているかということをはじめ、いろいろのことを尋問し、私の返事をすべて書きとめてから、ここにいる婦人の娘に侮辱を加えたという訴えだが、それを認めるかどうかとたずねた。
「署長さん、どうぞわたしの申しあげることを逐一お書きとめください」
「よろしい」
「わたしはここにいるカンソン夫人の娘ミミにたいして、全然侮辱を加えたことはありません。それどころか、ミミとはお互いに友情をいだいておりまして、その点でわたしはミミを信頼しておるくらいです」
「彼女はきみによって妊娠したといっとるが」
「そうかもしれません。しかし、それは確実ではありません」
「彼女は確実だといっとるぞ。ほかの男に会ったことはないからと」
「もしもそれが真実なら、彼女は不幸だというほかはありません。なぜなら、こういうことに関しては、男は自分の妻以外の女を信用することができませんからね」
「彼女を誘惑するために、きみはなにを与えたのだ」
「なにも与えはしません。なぜなら、わたしを誘惑したのは彼女のほうで、ふたりはすぐに気があったのです」
「彼女は処女であったのか」
「その点については、前も後も全然気にかけませんでしたから、よくわかりません」
「彼女の母親はきみに謝罪を要求しておるし、法律もきみを処罰するのだ」
「わたしは母親に謝罪する理由がありません。法律につきましては、どういう法律であるかわかり、それに違反していると認めましたら、喜んで服従いたします」
「きみはとっくに認めているはずだ。寄寓先の堅気な娘に子どもをつくらせながら、社会の掟《おきて》に違背しないとでも思っておるのか」
「母親があざむかれたと思っているなら、わたしもそれを認めましょう。しかし、母親が娘をわたし自身の部屋へよこしたのだったら、娘との話合いのあとでどんなことになろうと、おとなしく我慢するつもりであったと判断すべきではないでしょうか」
「母親はきみの用事を足させるために娘をやったのだ」
「だから、娘はわたしの用事を足したのですし、わたしも彼女の用事を足してやりました。人間性の欲求にしたがいましてね。もし母親が今夜も娘をよこしましたら、ミミさえ承知すれば、わたしは同じようにするでしょう。しかし、わたしはむりじいもしませんし、自分の部屋以外では行ないません。家賃はいつも几帳面に払っておるのですから」
「なんでもいいたいことをいうがいい。しかし、罰金は払わなければならんぞ」
「わたしはなにも払いません。法律を侵害したと認めないのに罰金を払うなんて、まったく不合理だからです。それでもなおわたしを処罰しようとなさるなら、最後まで、公正な裁判がわたしの無罪を認めるまで戦います。なぜなら、現在のわたしとしては、気に入った娘が愛撫を求めてわたしの部屋へ来たとき、それをはねつけるほど意気地のない根性をもっているとは考えられないからです。しかも、娘が母親の同意を得てきたことは確実だと思われるのですからね」
私は尋問調書を読み、自分の陳述とほとんどちがってないのを認めて署名した。署長はそれを警視総監の手もとに廻送した。警視総監は私を召喚して事情をきき、また母親と娘を調べてから、私に無罪をいい渡し、母親には監督不行届きの罰として訴訟費用を払わせた。しかし、私はミミに泣きつかれたので、母親に分娩の費用を払ってやった。ミミは男の子を生んだが、私はその子を市立病院《オテル・デイユ》へ送らせ、養育院へ入れた。その後、ミミは母親の家から出奔して、モネ〔コメディ・フランセーズの監督〕が経営しているサン・ローランの定期市のオペラ・コミックに出演した。彼女は新顔だったので、なんの苦もなく恋人を見つけ、その男は彼女を処女だと思い込んだ。彼女を定期市の舞台に見たときは嬉しかった。えらくきれいになっていた。
「きみが歌をうたえるとは知らなかったよ」と、私は彼女にいった。
「ほかの女の子だってうたうわよ。パリのオペラの女の子たちは楽譜なんか知らないけど、やっぱりうたってるわ。声さえきれいならいいのよ」
私はパテュを夕食によぶようにミミに頼んだ。パテュはとてもチャーミングな子だといって感心した。しかし、その後、彼女は身をもちくずした。ベラールというヴァイオリン弾きに惚れ込んで、持物を全部食われてしまい、どこかへ姿を消した。
[オペラを翻訳する]
そのころ、イタリアの喜劇俳優たちは舞台でオペラと悲劇の|替え唄《パロディー》をやる許可を得た。その劇場で私は有名なシャンティイーと知合いになった。これはド・サックス元帥の情婦であったが、詩人ファヴァールと結婚したことがあるので、ファヴァールと呼ばれていた。フォントゥネル氏の『テティスとペレ』のパロディーでトントンの役をうたい、大喝采を博した。彼女は美貌と才能とで、あるりっぱな男に恋心をおこさせた。その人の名は作品を通じてフランスじゅうに知れわたっているが、はっきりいうとヴォワズノン師である。私はこの人とはクレビヨンと同様に非常に昵懇《じっこん》にしていた。一般にファヴァール夫人のものと思われ、作者として夫人の名のついている劇作品は、みんなこの有名な司祭の作である。彼は私がパリを去ってから、アカデミー会員に選ばれた。私は彼と知り合ったのを喜び、足しげく訪ねていったので、彼も手あつくもてなしてくれた。彼は私のすすめにしたがい、韻文のオラトリオ(聖劇)をつくった。それは一年のうち数日間宗教の命令で劇場が閉鎖される時期に、テュイルリー宮殿の聖合唱ではじめてうたわれた。この司祭は多くの喜劇の陰の作家だが、身体と同じく健康のほうも弱々しい男であった。しかし、頭がよく、人柄が温厚で、また警句にたけていることで有名だった。その警句は辛辣《しんらつ》ではあったが、聞くものの感情を害さなかった。その批評は表面を滑走して、けっして人を刺さなかったので、彼にはひとりも敵がなかった。
ある日、彼は私にこういった。
「王さまはヴェルサイユからお帰りになるとき、あくびをしていらっしゃいましたよ。翌日、高等法院へお出ましになって、正義のベッドにつかなければならなかったからです」
「なぜ正義のベッドなんていうのでしょう」
「知りませんね。おそらくそこで正義が眠っているからでしょう」
私はプラハでフランツ・ハルティック伯爵と出会ったとき、この司祭と生写しなのに驚いたのであった。ハルティック伯爵は現在オーストリア皇帝の全権大使としてサクソニア選挙侯の宮廷に派遣されている。
ところで、私がフォントゥネル氏を知ったのも、この司祭の紹介であった。フォントゥネル氏は当時九十三歳だったが、才気にたけているだけでなく、科学にくわしく、また警句でも有名であった。彼の警句を集めたら、ゆうに一冊の本ができるだろう。ちょっとした挨拶をするにも、才気をひらめかさずにいなかった。初対面のとき、私は彼を訪ねるためにイタリアからわざわざやってきたといった。すると、彼は|わざわざ《エクスプレ》〔エクスプレには速達ないし急行の意味がある〕という言葉の意味をとらえて、
「それにしては、だいぶ遅かったですね」と答えた。
これは丁重な返事だが、同時に辛辣だ。私の挨拶の嘘をずばりとえぐっている。彼は著書を何冊かくれて、フランスの芝居を見たかときいた。私はオペラ座で『テティスとペレ』を見たと答えた。それは彼の作であった。しかし、私がこの作をほめると、彼はテティスとペレをもじってあんなのはテート・プレ(禿頭)だと答えた。
「金曜日に、フランス座で『アタリー』を見ました」
「あれはラシーヌの傑作です。ヴォルテールはわしが諷刺詩を書いてあの作を非難したと責めたが、それはまちがいです。じっさいには、その諷刺詩はだれの作かもわからず、しかも、最後の二句はとてもひどいですからね。まあ、聞いてみてください。
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エステルよりもひどいものをつくるとは、
いったいどうしてそんなことができたのだ」
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ひとの話だと、フォントゥネル氏はかつてタンサン夫人と親しい仲であり、ダランベール氏は彼らの愛情の果実だということである。とすると、ル・ロン氏は養い親でしかなかったことになる。ダランベールとはグラフィーニ夫人のところで出会った。この偉大な哲学者は、学問をひけらかさない連中の愉快な集まりに出たときには、けっして学者らしく見せないという、あっぱれな秘訣を心得ていた。そのうえ、自分と議論する人々の説にたいして敬服するふうをよそおう技術ももっていた。
鉛屋根の監獄からのがれて二度目にパリへ行ったとき、私はフォントゥネルに再会することができて、非常に嬉しかった。彼は私が到着してから二週間目に死んだ。一七五七年のはじめであった。
三度目に、死ぬまで滞在するつもりでパリへもどったときには、ダランベールの友情をあてにしていたのだが、彼も私の到着後二週間で、一七八三年の終りに死んだ。私はもう二度とパリもフランスも見ることはあるまい。血に狂った民衆の騒動はやりきれないし、もう老齢なのでその終結を待つこともできない。
一七五一年、サクソニア選挙侯をかねるポーランド王のパリ駐在大使ロッス伯爵から、フランスのオペラをイタリア語に翻訳することを依頼された。それには場面の頻繁な転換ができるようにするとともに、オペラの主題に合わせて大バレーを加えるという注文であった。そこで、私はカユザック氏の『ゾロアストル』を選んだ。イタリア語の歌詞をフランスの合唱曲に合わせるのがひと苦労であった。音楽は元どおりの美しさを残したが、イタリア語の韻文はあまりさえなかった。それにもかかわらず、寛大な国王からりっぱな金の煙草《たばこ》入れを下賜され、母を非常に喜ばせた。
[真新しい十六歳の娘]
ちょうどそのころ、ヴェジアン嬢が兄を連れてパリへ来た。彼女はごく若く、生れがよく、躾《しつけ》もよく、きれいで真新しく、かわいらしい娘であった。彼女の父はフランスで軍隊につとめていたが、故郷のパルマで死んだ。生活の資もなく孤児として残された彼女はひとのすすめにしたがって、家財道具を売り払い、兄といっしょにヴェルサイユへ行って、陸軍大臣に嘆願し、なにかの恩恵を得ようと考えたのであった。そして、乗合馬車からおりると、辻馬車にイタリア座の近所の家具つきの旅館へ案内しろといった。辻馬車は私のとまっていたモーコンセイユ街のオテル・ド・ブルゴーニュへ連れてきた。
朝、私と同じ階のうしろの部屋に、パリへ着いたばかりの兄と妹の若いイタリア人がふたりとまっている。ふたりともたいへんきれいだが、荷物は小さい旅行|鞄《かばん》におさまるだけしかないときいた。イタリア人で、着いたばかりで、きれいで、貧乏で、隣の部屋にいる。この五つの条件を考えると、どうしてもようすを見にいかなければならない。そこで、さっそく出かけていって、ドアをたたいた。何度もたたいた。すると、シャツのままの青年がドアをあけにきて、こんな姿で申訳ないと言訳をいった。
「いや、こちらこそおゆるしを願います。ぼくはイタリア人だし、お隣の部屋にいるので、なにかお役にたちたいと思ってうかがったのです」
床の上に藁蒲団《わらぶとん》が敷いてあった。その青年は、そこにねたのだ。べつにカーテンをしめたベッドがあり、そこに妹がねているにちがいないと想像したので、姿を見ずに、もう朝の九時なのに、まだねていると知ったら、ドアをたたきにくるのではなかったといった。彼女はカーテンの陰から、旅行の疲れで思わずねすごしてしまったが、もうすぐに起きるから、少し待っていただきたいと答えた。
「では、お嬢さん、部屋へもどっていますからお支度がすんだらお呼びください。隣の部屋です」
十五分ばかりたつと、彼女は私を呼ばせるかわりに自分で私の部屋へはいってきた。そして、しとやかに挨拶して、わたしのほうから押しかけてまいりました。兄も支度ができ次第うかがいますといった。私は礼をいい、腰をおろすようにすすめて、あなたについてはどういうものかたいへん関心を寄せていると、まじめな口調でいった。彼女はそれを喜び、問わず語りに、さっき書いたような短い単純な身の上を語ってきかせた。そして、最後に、今日じゅうにもっと安い旅館を見つけなければならない。お金は六フランしか残っていないし、売るものもないのだからといった。いまの部屋にいようとすれば、家賃ひと月分を前払いしなければならなかったのだ。
紹介状を持っているかときくと、ポケットから封筒を出して見せた。ざっと目をとおしたが、父親の勤務ぶりについての証明書七、八通、父や彼女や兄の洗礼証明書、死亡証明書、素行および貧困の証明書、旅券などで、それ以外にはなにもなかった。
「あたし、兄といっしょに、陸軍大臣をお訪ねして、お情けをいただきたいと思っておりますの」と、彼女はいった。
「お知合いの人はいないのですか」
「ひとりもおりません。フランスへ来てから身の上をお話したのは、あなたがはじめてです」
「ぼくたちは同国人ですし、あなたの境遇やご器量がぼくには推薦状のかわりになります。だから、よかったら、相談相手になってあげましょう。この書類をぼくにあずけてください。調べてみますから。それから、貧乏していることは、だれにもいっちゃいけませんよ。このホテルから出ていかないほうがいいです。さしあたり、二ルイだけお貸ししときます」
彼女は心の底から感謝して、その金を受け取った。
ヴェジアン嬢は褐色の髪をした十六歳の娘で、たいして美人ではないが、男好きのする器量だった。フランス語もじょうずにしゃべり、みじめな境遇を話すにもけっしてげびたところも気おくれのしたようすもなかった。そして、自分の話した逆境を利用されやしまいかと心配するような気配を全然見せなかった。
その態度には卑屈なところもあつかましいところもなかった。希望を失っていなかったが、気負ってもいなかった。気品のある身ごなしのうちにも貞節を見せつけるようすがなかったが、なにか道楽者を絶望させるものをもっていた。その証拠に、彼女の目、美しい容姿、色の白さ、若々しさ、ネグリジェ姿などすべてが私の心をさそったが、それにもかかわらず、彼女は私の気持の最初の動きすら封じてしまった。それで、私はなにもしかけなかったばかりか、彼女を悪の道へ引き込む最初の男にはなるまいと心に誓った。だからこの点については彼女の意中をさぐる口説《くぜつ》や、さらに接吻までもっていくための方法を次の機会にゆずった。そして、そのときは、あなたが訪れたこの都会では、あなたの運命がひらけるにちがいない。あなたが身につけているいろいろの美点は、あなたの幸運の手助けをするために自然から贈られた贈り物だと思われるが、それはかえって取返しのつかない失敗をさせる原因にもなりかねないというだけにとどめた。
「あなたのいらっしゃったこの都会では、金持の人々は自分に貞操をささげた女はべつとして、すべての自堕落な娘を軽蔑しています。もしもあなたが操ただしく、その操をまもろうと決心しているなら、貧乏を耐えしのぶ覚悟をしなければなりません。しかし、もしも世の中の偏見を超越するだけの才気をおもちになり、らくな暮しをするためなら、どんなことでも承知するという気持でしたら、少なくとも人にだまされないように心がけなければなりません。情熱にはやる男があなたのご好意をうけようとして甘い言葉を並べても、けっして信用してはいけません。じっさいの行為が言葉にさきだつ場合でなければ、男を信用しないことです。なぜなら、享楽をすませると情熱が消えてしまい、だまされたのに気がつくものですからね。あなたの魅力に驚く連中にもこれからちょいちょい出会うでしょうが、そういう連中が欲得ぬきの潔白な愛情を寄せてくれるなどと考えるのも危険です。彼らはあなたから本物のお金をしぼりとるために、ふんだんに贋金をつかませるでしょう。ですから、うっかり気をゆるしてはいけませんよ。ぼくは誓っていいますが、あなたのおためにならないようなことはしません。それどころか、十分お役にたてると見込みをつけているのです。あなたを安心させるために妹のように扱いましょう。父親のようにお世話をするには、まだ年が若すぎます。あなたを美しい方だと思わなかったら、こんな話はしなかったでしょうからね」
そこへ兄がはいってきた。十八歳の美貌の青年で身体つきもりっぱであった。しかし、はきはきしたところがなく、口かずが少なく、顔つきにもしっかりした表情がなかった。いっしょに朝食をとったが、将来どういう仕事にむいていると思うかときくと、まじめに生活費がかせげるなら、どんな仕事でもするつもりだと答えた。
「なにか特別の技術でもありますか」
「字がかなりじょうずに書けます」
「それもなにかの役にたつでしょう。とにかく、外へ出るときには、人に用心しなさいよ。カフェなんかへは足を向けず、散歩道でもだれとも話をしないように。食事は自分の部屋で妹さんといっしょにすること。それから、ご自分のために五階に小さい部屋を借りたほうがいいでしょう。きょうはこれからフランス語でなにか書いて、あすの朝ぼくに渡してください。なんとかしますから。ところで、お嬢さん、ここにいろいろ本がありますから、自由にお読みください。書類はおあずかりしますよ。あす、なにかよいご報告ができるでしょう。今夜は帰りが遅くなりますから」
彼女は本を何冊か選び、非常にまじめなようすで、あなたを心から信頼しているといって、出ていった。
[つねに女よりも自由を]
私はその娘のためにひと肌ぬいでやろうと躍起になって、一日じゅう、行く先々で彼女のことをしゃべった。男や女はだれも彼も、もしその娘が器量よしなら、きっとなにかの幸運にありつけようから、あちこち奔走するにこしたことはないといい、また兄については、字がじょうずに書けるなら、どこかの役所でつかってもらえるだろうといった。私はだれかりっぱな婦人を捜して彼女を紹介し、その婦人から陸軍大臣のダルジャンソン氏へ推薦してもらおうと考えた。これが本筋だ。それまで彼女の世話をするのはなんでもないと思われた。そこで、モンコンセイユ夫人なら陸軍大臣を動かす力があるから、あの人に話してほしいとシルヴィアに頼んだ。シルヴィアは引き受けてくれたが、そのまえにその娘さんに会ってみたいといった。
私は十一時にホテルへもどった。ヴェジアンの部屋に明りがついていたので、ノックしてみた。彼女があけにきて、あなたにお目にかかりたいと思ってねずにいたのだといった。そこで、彼女のために奔走してきたことをくわしく話すと、心から感謝し、どんなことでもすると答えた。彼女はともすれば流れ出ようとする涙を見せまいと、一所懸命に気をはって、上品に無関心をよそおいながら自分の境遇のことを話したが、目には涙がたまってきらきら光っていた。私はその目を見て思わず溜息をもらしたが、心ひそかにそれを恥じた。こうした話合いはすでに二時間もつづいていたが、彼女の礼儀ただしい話しぶりからみて、いままで一度も男を愛したことがないと見てとった。したがって、もしも恋人ができて、貞操をささげることになっても、恋人はりっぱに彼女にむくいるにちがいないと思った。この報酬が結婚でなければならないと考えるのは滑稽だ。若いヴェジアンはいままで一度もつまずいたことがなかったが、世界じゅうの金貨をつまれてもそんなことはしないといったのは、かならずしも淑女ぶった見せかけではなかった。気まぐれやわずかの代償ではけっして身をまかせまいと考えていただけであった。
私は年にも似げなくまじめな、分別にかなった彼女の話をきいて、溜息をつき、胸を燃やした。そして、パゼアーノの哀れなルチーアのことや、あのときの私の後悔や、彼女にたいする仕打ちのまちがいなどを思いだし、いまにも飢えた狼の餌食《えじき》になろうとしている仔羊《こひつじ》のそばにすわっているような気がした。しかし、この仔羊はそんな餌食になるように生まれついたものではなく、教育のおかげで美徳と名誉とにつちかわれるべき高尚な感情をそなえていた。私は法律によらずに彼女をわがものとして幸運をさずけてやるわけにもいかず、また彼女の貞操をまもる護衛となってもやれないのを嘆いた。さらに、たとえ彼女の保護者となっても、彼女を幸福にするよりも不幸にするであろうし、彼女を正当な道で出世させる助けとはならずに、かえって破滅させてしまうであろうと気がついた。こうして、私は彼女をわきにすわらせ、愛情をこめて語りながらも、恋愛のことはぷつりとも口にせず、やたらに手や腕に接吻したが、どうしても決心がつかず、手を出すことができなかった。しかし、手を出したが最後、とことんまで行ってしまって、否応《いやおう》なく彼女をしょいこむことになっただろう。そうしたら、もはや彼女のために運をひらいてやる希望もなくなるし、私としても彼女を追い払う方法もなくなる。いままでも私は夢中になって女を愛したが、つねに女よりも自由を重んじてきた。だから、自由を犠牲にする危険にのぞむと、かならずなにかの偶然が私を救いだしてくれた。
こうして、ようやくヴェジアン嬢に別れを告げたのは、夜半すぎの三時であった。もちろん彼女は私の自制を道義的精神のあらわれとはとらず、羞恥心《しゅうちしん》か、無能力か、あるいはなにか秘密の病気のためだと思ったにちがいない。私が乗り気になれなかったことなど気もつくまい。なぜなら、私が愛情に燃えていたのは目の光にも十分あらわれていたし、あきることなく手や腕に接吻したしつっこさでもあきらかにうかがわれたからである。あとで後悔するのはわかっていたが、私はこのうるわしい娘にたいして、こういう態度をとるよりしかたがなかった。別れぎわに、ゆっくりお休みなさいと挨拶してから、あすは昼食をいっしょにしようといった。
われわれはにぎやかに昼食をとった。食後、彼女の兄は散歩に出かけた。私の部屋の窓からはフランセーズ街が全部見とおせたが、またイタリア座の木戸へ集まってくる馬車の群れも残らず見えた。その日は大きなコンクールがあったのである。私はうるわしい同国の娘に芝居へ連れていってやろうかといった。彼女は喜んで、連れていってほしいと頼んだ。そこで、彼女を二階の階段下桟敷へすわらせ、十一時にホテルで会おうといって別れた。彼女と並んですわっていると、ひとからいろいろきかれるだろうと思い、それがうるさかったのである。というのも、彼女は身なりこそ質素だったが、人目をひかずにいなかったからだ。
シルヴィアのところで夕食を食べてからホテルへ帰ると、門口に非常にしゃれた馬車がとまっていた。ヴェジアン嬢と夕食をともにした若い殿さまの馬車で、まだ上にいらっしゃるということであった。彼女もついに色を売る女になりさがったのだ。私はすっかり軽蔑して、ねにいった。
翌朝起きると、辻馬車がホテルの入口にとまって、朝の軽い服装をした青年が馬車からおり、階段をあがって、隣の部屋へはいるのが聞こえた。私にはどうでもいいことだ。外出しようとして服を着かえていると、兄のヴェジアンが来て、昨夜夕食をご馳走してくれた殿さまが来ているので、妹の部屋へはいれないといった。
「そりゃ、つつしまなけりゃね」
「あの人は金持で、とても行儀がいいです。ぼくたちを自分でヴェルサイユへ連れていって、ぼくのためになにか職を捜してやるといってます」
「どういう人なの」
「知りません」
私は彼女の書類を封筒へ入れ、封をした。そして、この包みを妹に渡すようにと彼に渡して、外へ出た。三時にホテルへもどると、ホテルの女将が一通の手紙を渡した。それはヴェジアン嬢から頼まれたもので、彼女はすでによそへ移っていた。私は部屋へはいって、封を切った。二ルイの金と次の手紙がはいっていた。
「お借りしたお金をお返しします。まことにありがとうございました。ナルボンヌ伯爵がわたしに好意をもってくださって、わたしや兄のために骨をおってくださるとおっしゃるのです。そして、ある家へいって住め、けっして不自由はかけないとおっしゃるので、そちらへまいりますが、そうしたら、くわしいお手紙を差し上げます。けれども、あなたのご友情は心からありがたく思っております。今後もどうぞよろしくお願いします。兄は五階の部屋へ残していきます。私の部屋も今月いっぱいはつかえます。家賃を払ってありますから」
[禁欲の口惜しい結果]
兄と別れたことがいっさいを物語っていた。仕事の早い女だ。私はもう口をだすまいと決心したが、彼女を手つかずであの若い伯爵にやってしまったのが口惜しかった。あいつが彼女をどんなふうに扱うか知れたものじゃない。私はフランス座へ行って、ナルボンヌのことをききだそうと思って、服を着た。腹がたっていたが、多少は事情をつきとめてみたい気がしたからだ。フランス座へ行くと、最初に出会った男がナルボンヌのことを話してくれた。親父は金持だが、まだ部屋住みの身で、借金で首がまわらないが、パリじゅうの若い娘を追いまわしているということであった。
それから毎日二、三軒ずつ芝居をまわった。ヴェジアンなんて女は軽蔑すべきだと思っていたので、それはむしろナルボンヌという男に会って、どんな人間か知りたい気持からであった。しかし、一週間たってもなにもわからなかったし、若い殿さまにも出会わなかったので、そろそろあの事件を忘れはじめていた。そのころ、朝の八時に、兄のほうのヴェジアンが私の部屋へはいってきて、妹がぼくの部屋へ来ていて、あなたにお話がしたいといっていると伝えた。そこで、すぐに行ってみると、彼女は目をうるませて、非常に悲しそうであった。そして、兄には散歩にいくようにいって、私にこう話しはじめた。
「あのときのお芝居で、あなたがお帰りになると、ナルボンヌさんがそばへ来てすわりましたの。まじめな方のようにお見受けしました。それもわたしがまじめな方であってほしかったから、そう思っただけなのかもしれません。あの人はわたしの顔が気に入ったといい、どういう人だとききました。それで、あなたに申しあげたことを残らずお話しました。そして、あなたがわたしのことを考えていてくださるといいますと、ナルボンヌさんは、わしならなにも考えこむ必要はない、すぐにかたづけてやるといいました。わたし、それを信じ込んでしまいました。ほんとにばかだったんですわ。そして、まんまとだまされてしまいました。あの人、悪党ですわ」
ここまで話すと、彼女は涙をおさえることができなくなったので、私は気のすむまで泣かせてやろうと思い、窓ぎわへ行った。そして、三、四分してから、また彼女のわきへもどった。
「なにもかも話してください、かわいいヴェジアンさん。そして、胸につもる思いを吐きだしてしまいなさい。ぼくに悪いなどと思わないでもいいですよ。あなたがこんな不幸に見舞われたのも、ほんとはぼくが原因なのですからね。芝居へ連れていくなんて軽率なことをしなかったら、あなたはいまそんな悲しみに胸をひきちぎられることもなかったのです」
「まあ、そんなことはおっしゃらないで。あなたはわたしを身持の正しい女だと信じてくださったのですから、なにもお恨みすることはありませんわ。それで、あの人はわたしが心から信用するというたしかな証拠を見せてくれたら、どんな世話でも引き受けるといいました。その証拠というのは、あの人の借りている、あるりっぱな婦人の小さい家へ行ってとまることと、兄と別居することでした。兄がいっしょだと、意地の悪い人たちから恋人だと思われるからというのでした。わたしは承知しました。ほんとにばかでしたわ。あなたにご相談もせずにきめてしまうなんて! あの人のいうには、それはまっ赤な嘘だったのですが、わたしに行けというさきのりっぱな婦人はわたしをヴェルサイユへ連れていって、兄も呼んでいっしょに大臣に紹介してくれるということだったのです。夕食のあとで、あの人はあすの朝辻馬車で迎えにくるといって帰っていきましたが、帰りしなに二ルイと金時計をくれました。けれど、わたし、相手はお金持の殿さまで、欲得なしにお世話してくださるというのですから、いただいておいても、そう負い目にはなるまいと思ったのです。
それで、あの人のいう小さい家へ行きますと、ある奥さんに紹介されましたが、そうりっぱな人とは思われませんでした。ナルボンヌさんは私を一週間もそこへとめておきましたが、そのあいだ行ったり来たり、出たりもどったりするだけで、なにもきめてくれませんでした。そのあげく、けさの七時に、あの奥さんが来て、伯爵はお宅の事情で田舎《いなか》へ行かなければならないので、戸口に辻馬車が待たせてあるから、もとのブルゴーニュ旅館へもどるよう、いずれ帰り次第に訪ねていくからというおことづてだったといいました。そして、さも気の毒そうなようすをして、伯爵から渡した金時計は伯爵がお金を払うのを忘れたので、時計屋へ返さなければならないからもどしてほしいといいました。わたしはひとこともいわずに時計を渡し、持っていったものをハンケチにつつんで、三十分まえにここへ帰ってきました」
ちょっと間《ま》をおいて、私は伯爵が田舎から帰ってきたらまた会うつもりかときいた。
「まあ、あの人にまた会うなんて! あんな人とは二度と会う気がしませんわ」と、彼女はさけんだ。
私は、彼女がまた涙にむせんだので、思いきり泣かすために、ふたたび窓のほうへいそいでもどった。哀れな境遇に落ちた不幸な娘で、こんなに私の心を感動させたのはいままでにひとりもない。一週間まえに彼女から受けた愛欲の思いは憐憫《れんびん》の情に変わった。それに、彼女は少しも恨みがましいことをいわなかったが、彼女の不幸のおもな原因が私にあると思わずにいられなかった。したがって、彼女にたいして以前にかわらぬ友情を寄せなければならないと思った。ナルボンヌの破廉恥《はれんち》な仕打ちは私を非常に憤慨させ、あいつがひとりでいる場所がわかったら、ヴェジアンにはなにもいわずに、ひどい目にあわせてやろうと腹をきめた。
その小さい家ですごした一週間のあいだの行動については、わざとくわしい説明を求めなかった。しかし、それは私の知りぬいていることで、遠まわしにもその話を要求して彼女に恥をかかせる必要はない。時計を取り返したという話も、じつに破廉恥で卑劣で、泥坊根性で、悪党の恥を知らぬ悪辣さが見えすいている。彼女は私をいつまでも窓ぎわへ立たせておいた。そして、ものの十五分もしてから呼ばれたので、そばへもどっていったが、彼女の悲しみはいくらかうすらいだようであった。大きな苦しみは、涙でやわらげるのが、欠くことのできない療法である。彼女はこれからは父親になった気持で面倒をみてほしい、けっしておぼしめしにそむくようなことはしないからと誓い、これからどうしたらよいか教えてほしいと頼んだ。
「いまとなっては、ナルボンヌの罪を忘れるだけでなく、そういう罪をおかさせた自分の過失も忘れなければなりません。出来てしまったことはどうにもしかたがないのですから、これからはご自分を愛し、一週間まえにあなたの美しい顔を輝かしていた、あの晴れやかなようすをとりもどさなければなりません。あの顔には正直さ、無邪気さ、誠実さばかりでなく、そうした魅力を知るものの心に愛情を目ざめさせる気高い確信がまざまざとあらわれていました。そういう美点はみんな今後もあなたの顔に輝いていなければいけません。なぜなら、まじめな男たちに好意をもたせるには、それしかないし、あなたにはいままで以上にその好意が必要だからです。ぼくのことをいいますと、ぼくの友情は微々たる力しかありませんが、できるだけのことはします。それに、一週間まえとはちがい、あなたにはいまではぼくの友情を期待する権利があるのですからね。約束しますよ。あなたの身の振り方がきまるまでは、けっしてそばをはなれません。さしあたっては、これ以上なにもいえませんが、あなたのことは十分に考えると確信していてください」
「ありがたいわ。わたしのことを考えてくださるというお約束がいただければ、もうそれ以上お願いしませんわ。ほんとに、みじめな身の上ですわ! だれも考えてくれる人がいないのですもの」
[踊り子のための戦略]
彼女はこういうと感きわまって、顎をがくがくとふるわせたが、苦悩が胸にせまって、ついに失神してしまった。私は彼女が正気にかえって気持が落ちつくまで、だれも呼ばずに介抱した。それから、若い娘をだますのを仕事にしているパリの男たちの策略を、真偽とりまぜ、いろいろ話してやったが、彼女の気持をひきたてるために、おもしろい話もまじえて語った。そして、最後に、ナルボンヌとのあいだに起こったことも神に感謝しなければならない、なぜなら、将来もっと慎重になるには、ああいう不幸も必要であったのだからといった。
こうして、差向いで話しあっているうちに、私は彼女の心へ純乎たる香油をそそぎこんだが、その何時間、彼女の手をとったり、愛情のしるしを与えたりしたい気持をおさえるために骨をおる必要はなかった。というのも、私を躍起にさせていた感情は憐憫の気持だけであったからである。だから、二時間たって、彼女が私の言葉に心を動かされ、気をとりなおして、不幸を耐えしのぼうという健気な心になったのを見て、ほんとに嬉しかった。やがて、彼女はすっと立ちあがると、信頼と不安をまじえたようすで、きょうお出かけにならなければならないいそぎの用事がおありかときいたので、私はべつにないと答えた。「それでは」と、彼女がいった。「どこかパリの町の外へ連れていってくださいませんか。野原の空気を吸いたいのです。そうしたら、わたしをごらんになる方々から好意を寄せていただくのにぜひとも必要だとおっしゃる、いきいきとした顔つきをとりもどせるかもしれません。そして、今夜ゆっくり眠ることができたら、もう一度幸福になれるような気がしますの」
「そこまで信用していただけると嬉しいですよ。では、服を着かえてきて、どこかへ行きましょう。そのうちには兄さんも帰るでしょうから」
「兄ならかまいませんわ」
「よくいっときますけどね、あなたはこれから一生、正しい行ないで、ナルボンヌに恥をかかせ、不幸にしてやらなければなりませんよ。もしもあいつがあなたを追い出した日に、あなたがぼくとふたりきりで田舎へ行ったときいたら、ほらみろ、おれはあの女にふさわしい扱いをしてやったんだと、得意になるでしょう。しかし、兄さんを連れて、同国人のぼくと連れだっていくなら、悪口をいわれたり、中傷されたりするすきがありませんからね」
善良な娘は顔をあからめ、兄を待つ気になった。兄は十五分もすると帰ってきたので、私は辻馬車を捜しにいった。馬車に乗ろうとしていると、バレッティが訪ねてきた。私は彼をヴェジアン嬢に紹介してから、いっしょに行かないかとすすめた。彼は承知した。そこで、四人連れだってグロ・カイユーへ行き、魚のシチュー、煮た牛肉、オムレツ、雛鳥などを食べた。私は陽気にはしゃいで娘の気持をひきたて、不揃いな料理のおぎないにした。
食事がすむと、兄のヴェジアンはひとりで散歩に出かけ、妹だけがわれわれとあとへ残った。バレッティが彼女をかわいらしいと思うようすなのが嬉しく、彼女に相談せずに、踊りを教えさせようという計画をたてた。そこで、彼女の境遇や、イタリアから出てきた理由や、宮廷から年金をもらえる希望の少ないことや、生活のためになにか適当な仕事を捜す必要のあることなどを話した。バレッティはしばらく考えていたが、彼女の身体つきや素質をよく調べてから、ラニーに頼んで、オペラ座のバレーへ出してもらうように斡旋しようと引き受けてくれた。
「では、あすからでも稽古をつけてやってもらいたいね。お嬢さんはぼくの部屋の隣に住んでいるのだ」と、私はいった。
こういうふうにして、即座にもちあがった相談がまとまると、ヴェジアンは腹をかかえて笑いだした。自分がオペラの踊り子になるなんて、いままで夢にも考えたことがなかったからだ。
「でも、踊りって、そんなにはやくおぼえられますの。わたし、メヌエットしかおどれないのですよ。耳がいいのでコントルダンスの曲は聞きわけられますが、足が一歩も出ませんの」
「オペラ座の踊り子たちも、そのくらいのものですよ」と、バレッティが答えた。
「でも、そのラニーさんという方から、どれだけお金をいただけるのでしょう、たくさんはお願いできそうもありませんけど」
「ただです。オペラ座の踊り子には報酬は出しません」
「では、なんで暮しをたてたらいいのでしょう」
「それは心配いりませんよ。あなたのような美人なら、お世話をしたいという金持の殿さまが十人も、すぐに押しかけてきますよ。そのなかからめぼしいのを選べばいいのです。じきにダイヤモンドずくめになりますよ」
「それでわかりましたわ。どなたかがわたしを連れていって、お妾さんにして囲うんですのね」
「そのとおりです。四百フランの年金よりもはるかにましですよ。それもよほど奔走して骨をおらなければ、もらえるようにはならんでしょうしね」と、私はいった。
すると、彼女はそれがまじめな話なのか、たんなる冗談なのかと、肝をつぶして私をみつめた。そこで、バレッティが立っていったので、きみのとるべき決心としてこれがいちばんよいと保証し、それがいやなら、だれかえらい貴婦人のおそばづきという味気ない職業をしなければならないが、そういう貴婦人を捜してやることもできるといった。彼女はたとえ妃殿下のおつきでも、おそばづきはいやだといった。
「それなら、オペラ座の踊り子は?」
「そのほうがいいですわ」
「笑ってますね」
「笑い死をしそうですわ。だって、えらい殿さまのお妾になって、ダイヤモンドずくめになるなんて! わたし、なるべく年寄の殿さまを選びますわ」
「それがいいですよ。だが、殿さまを|寝とられ男《コキュ》にしないように気をつけるのですね」
「いいえ、きっと操をたてとおすとお約束しますわ。兄のためにも口を見つけてくださるでしょうからね」
「それはきまっていますよ」
「けれど、オペラ座にはいって、おじいさんの恋人ができるまで、どなたが生活の面倒をみてくださるのでしょう」
「ぼくやバレッティやほかの友人たちです。それもへんな野心があるわけではありません。あなたの美しい目を見、あなたが手堅く暮らしているのを確かめ、あなたの幸福に力をかしたいだけなのです。わかりましたか」
「よくわかりました。これからは万事おっしゃるようにしますから、どうぞお見捨てにならないでね」
われわれは夜にはいってからパリにもどった。そして、ヴェジアン兄妹をホテルに送り込んでからバレッティの家へ夕食にいき、シルヴィアにラニーに話してくれるように頼んだ。シルヴィアはそのほうが陸軍省へちゃちな年金を願うよりはましだといった。人々はオペラ座の会議で討議されている問題について話しあった。それは踊り子や歌い女の地位を売りに出そうというのであった。あるものはそれに高い値段をつけようと主張した。そうすれば、その地位を買う娘たちも世間から尊敬されるからというのであった。彼女らの風儀がいろいろ世評にのぼっているさいだから、この計画も賢明な策のように見えた。いままで軽蔑されてきたこの階級もいくらか格があがるかもしれない。
その当時、器量も悪く才能のない踊り子や歌い女を何人も見かけたが、彼女らはそれでもみんならくに暮らしていた。これはそういう娘たちが、身分がら、一般の人々が貞操と呼んでいるものをあきらめたからだ。貞操をまもって暮らそうとすると、餓死するほかはない。しかし、もしも新しく仲間にはいった娘が、たったひと月でも、貞操をまもると見せかける巧妙さがあったら、きっと成功まちがいなしだろう。その貞操を奪おうと集まってくる殿さまたちは、みんなずばぬけて身分の高い人たちばかりにちがいないからである。えらい殿さまは、その娘が姿を見せたとき、民衆が自分の名を口にすると、おおいに得意になるだろう。そして、その娘が自分の与える愛情をしりぞけず、また人目につくほどはでにならなかったら、多少の浮気は大目に見る。色男については、殿さまが文句をつけることはめったにない。囲っている女のところへ夕食にいくときにも、かならずまえもって知らせるのが作法とされているからだ。フランスの大貴族たちがオペラ座の娘を庇護《ひご》したいと願う、そうした野心の原因は、彼女らが王室音楽アカデミーの会員として、すべて国王に所属しているからである。
[哲学的な口説]
十一時にホテルへもどった。ヴェジアンの部屋のドアが細目にあいていたので、はいっていった。彼女はベッドにはいっていた。
「起きますわ。お話したいことがありますから」
「そのままにしていらっしゃい。それでも話ができますから。今夜はたいへん美しいですね」
「それじゃあ、とても嬉しいわ」
「お話したいことって、なんですか」
「なんでもないんです。ただ、これからはじめる商売のことをおききしたかったのです。わたしは貞操をまもるふりをして、わたしの貞操をけがそうと躍起になる人を捜すのですね」
「そうです。世の中の男はみんなそういう趣味をもっていると考えていいですよ。ぼくら男はみんな自分のことばかり考え、めいめい暴君です。だから、いちばんすぐれた男は鷹揚《おうよう》にゆるす人です。ぼくはあなたがだんだん哲学者になってくれると、嬉しいですよ」
「どうしたら哲学者になれますの」
「考えるのですよ」
「いつまで?」
「一生のあいだです」
「では、きりがないのですね」
「そうです。しかし、得られるだけのものが得られます。自分の能力に応じただけの幸福が手にはいります」
「で、その幸福ですが、どういうことで幸福だとわかるのですか」
「それは哲学者が手に入れるすべての快楽のうちに感じられるのです。哲学者がその快楽を自分の努力で、あらゆる偏見を踏みにじって手に入れたと考えるときに感じられるのです」
「快楽ってなんでしょう。それから、偏見というのは?」
「快楽とは官能を現在の時点で楽しむことです。官能の与える楽しみを十分に満喫することです。そして、官能がつかいはたされたり疲れきったりして、ひと息つくために、または生きかえるために休息を求めるときには、快楽は空想になります。この空想は官能の落ちつきが与える幸福感を反省するのを好みます。ところで、哲学者とは、苦痛が快楽よりも大きくないかぎり、どんな快楽でもこばまない人であり、また快楽を自分でつくりだせる人です」
「で、あなたは、偏見を踏みつけなければ、そういう快楽は得られないとおっしゃるのね。では、偏見とはなんですの。そして、偏見を踏みつけたり、踏みつける力をもつには、どうしたらよいのでしょう」
「その質問は道徳哲学のなかでいちばん大きな問題です。だから、それを学ぶには一生かかるのです。しかし、簡単にいうと、偏見とは、自然のなかに理由の見いだせない、すべて道徳と呼ばれるものをいうのです」
「では、哲学者は第一の仕事として自然の研究をしなければならないのですね」
「それが哲学者の仕事の全部です。いちばんの学者はいちばんまちがいの少ない人です」
「あなたのお考えでは、いちばんまちがいの少なかった学者はだれですか」
「ソクラテスです」
「でも、あの人はまちがいましたよ」
「ええ、形而上学的にはね」
「でも、そんなこと、わたしにはどうでもいいのよ。ソクラテスもあんな勉強はしないでもよかったと思われますから」
「それはまちがいです。なぜなら、道徳は肉体の形而上学ですからね。すべてが自然なのだから。こういう理由で、形而上学で新しい発見をしたといいにくる男があったら、だれでも狂人として扱ったらいいのです。だが、ここまで話がくると、ぼくのいうことがわかりにくくなるでしょうね。まあ、そういそぐことはない。正しい推理にしたがった方針を考え、それをまもっていくのです。そして、いつも自分の幸福を目ざしなさい。そうすれば幸福になれますから」
「わたしは、いま教えてくださったお稽古のほうが、あしたバレッティさんから受けるお稽古よりもずっと好きですわ。だって、あしたはさだめし退屈するでしょうけれど、あなたといっしょにいると、少しも退屈しないんですもの」
「退屈しないってのは、どういうことでわかるのです」
「いつまでもごいっしょにいたいと思う気持からです」
「ぼくは死ぬくらい嬉しい。いままでどんな哲学者だって、きみくらいじょうずに退屈を定義したものがないのだからね。なんて嬉しいことだろう! どうしてだか、ぼくはきみと接吻して、この気持をきみに知らせたくてたまらないのだ」
「それはわたしたちの魂が官能と一致しなければ幸福になれないからよ」
「なんだって、すばらしいぞ。きみの心はとうとうふっきれたんだね」
「ふっきってくれたのはあなたよ。とてもありがたいわ。それで、あなたの気持をそのままわたしも感じはじめたくらいなのよ」
「それじゃあ、ふたりの気持を満足させよう。かわいい恋人よ。思いきり接吻しよう」
こういう理屈をこねまわして、われわれは一夜をすごした。そして、完全な喜びにひたりきったことを、夜が明けたとき、われわれに納得させたのは、ドアがあいていたのに全然気づかなかったことだ。それはドアをしめにいかなければと思うゆとりさえなかったしるしである。
バレッティが何回か彼女に稽古をつけた。彼女はやがてオペラ座へ入れてもらった。彼女が舞台に立ったのは二、三か月にすぎなかったが、そのあいだ、彼女の賢明な精神は私の与えた方針をかけがえのないものと信じ、その方針にのっとって素行をつつしんだ。そして、彼女を手に入れようと近づいてきたすべての男をことわった。だれも彼もいくぶんナルボンヌに似ていたからである。彼女が選んだのはほかの連中とはまったくちがった殿さまで、だれもしないような扱いをした。すぐに彼女を舞台からひかせ、小さい桟敷をひとつあてがったのである。彼女はオペラのある日はいつもそこへ来て、殿さまや友人たちを迎えた。私のまちがいでなければ、それはトレサンまたはトレアン伯爵であった。どうもこの名前は私の記憶のなかでよろめいている。彼女はこの殿さまの死ぬまでいっしょに幸福に暮らした。そして、生涯殿さまを幸福にした。彼女は恋人が年金をつけてくれたので、いまでもパリでひとの世話にならずに暮らしている。しかし、もう問題ではない。女も五十六歳になると、パリでは存在しないも同然だからだ。オテル・ド・ブルゴーニュを出てからは、私は一度も彼女と話をしたことがない。ダイヤモンドずくめの彼女を見、彼女も私を見るときは、ふたりの魂は互いに挨拶を交わした。彼女の兄も職を得たが、身分としてはイタリア座の歌い女ピチネリの夫になったことだけである。しかし、このピチネリはいまはもう死んでいるだろう。
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第三十二章
[美女オ・モルフィ]
友人のパテュがサン・ローランの定期市で、モルフィというフランドル生れの女優と夕食をやろうという気まぐれをおこした。そして、私にも仲間にはいれとすすめたので、承知した。モルフィという女は興味をそそらなかったが、そんなことはどうでもいい。友人の楽しみは見ているだけで楽しくなる。そこで、彼は二ルイの値をつけた。女はすぐに承諾した。オペラがすむと、ドゥー・ポルト・サン・ソーヴール街にある美人の家へ行った。パテュは夕食がすむとすぐに彼女とねにいった。私は家のどこかに長椅子があったら貸してほしいと頼んだ。モルフィの妹は、顔は美しかったが、乞食のようにきたない小娘だった。それが自分のベッドを貸してもいいが、お小遣がほしいといった。私は小さい銀貨を一枚やった。すると、彼女は小部屋へ連れていったが、目についたのは板を三、四枚敷いた上に藁蒲団が置いてあるきりであった。
「これをきみはベッドっていうのかい」
「ええ、あたしのベッドよ」
「ぼくはいやだよ。銀貨はやらないよ」
「ここでねるのに、服をぬぐつもりだったの」
「もちろんさ」
「やだわ! うちにゃ、敷布なんかないのよ」
「じゃあ、きみは服を着たままでねるの」
「まさか」
「よし。それでは、きみがねたまえ。銀貨はやるから」
「どうして?」
「きみのねたところが見たいんだよ」
「いいわ。でも、なんにもしないわね」
「うん、しやしないよ」
彼女は服をぬぎ、横になって、古いカーテンをかけた。十三歳であった。私はその姿に目をみはった。そして、いままでの偏見をふるいおとした。乞食のような子も、ぼろの着物も消えうせて、完璧《かんぺき》な美しさしか目にうつらなかった。そこで、身体じゅうよく見てみたいと思った。彼女はそれをいやがり、笑いながら抵抗した。しかし、六フランの銀貨をもう一枚やると、羊のようにおとなしくなった。肌がよごれていること以外には、一点も非の打ちどころがなかった。そこで、私は手をおろして、身体じゅう洗ってやった。読者もよくご存じのように、女性の美にたいする称賛にはかならず他の情念がともなうものである。小さいモルフィも私が望めばいやとはいわないと見てとった。しかし、私にはその気がなかった。彼女はあらかじめそれだけはゆるさないと念を押したが、それも姉さんの考えでは二十五ルイの値うちがあるそうだからという理由であった。私はそのことはいずれまた相談しようといい、そのときは将来仲よしになるしるしとして、美しい肢体のすみずみまで、思う存分、ふんだんに見せてもらった。
こうして私は小さいエレーヌ〔ルイ十五世の愛人〕を無垢《むく》のままで十分楽しんだが、彼女は六フランを姉のところへ持っていって、私にたいして期待していることを話した。姉は帰りがけに私を呼んで、お金が入用なので、少しはまけてもいいといった。そこで、あとでまた話しにくると答えた。私は自分の見たとおりの娘の姿をパテュに見せて、これより完全な美人を見ることはできないといわせたかった。エレーヌは百合のように白く、自然の秘術と画家の技術とが持ち寄った最高の美をそなえていた。そればかりでなく、顔立の美しさは見るものに心地よいやすらぎを与えた。髪はブロンドであった。私はその晩また訪ねていったが、値段がおり合わなかったので、姉からベッドを貸りるために、十二フランやった。そして、六百フラン払う決心がつくまで、行くたびに十二フラン出すことにきめた。じつに貪欲きわまる話だったが、モルフィはギリシャ系だったので、全然やましい気持をもたなかった。もちろん私も二十五ルイつかう気にはなれなかった。むだな出費だとしか思われなかったからである。
しかし、ふた月のあいだに、なにもせずに三百フランもつかったのだから、姉は私のことをとんだ間抜けだと思ったにちがいない。そして、それをけちな根性のせいだとした。しかし、なんというけちだったろう! 私は彼女のすばらしい裸体を絵にしたいと思い、六ルイの金を奮発して、ドイツの画家に写生させた。画家は生けるがごとくにかきあげた。ポーズは腹ばいにねて、両腕と胸を枕にもたせかけ、顔はあお向けにねているようになかば起こしていた。画家の巧みな筆は脚や腿を真に迫るまでにえがいた。私は絵の下へ≪オ・モルフィ≫と書きこませた。この言葉はホメロスふうではないが、まぎれもないギリシャ語で、美女の意味であった。
[裸体画が幸運を呼ぶ]
しかし、力づよい運命のひそかな歩みは驚くべきものだ。パテュはその絵の模写《コピー》を一枚ほしいといった。友だちの望みとあればこばむことはできない。まえの画家がその模写をつくったが、ヴェルサイユへ行ったとき、他の肖像画といっしょに原画をサン・カンタン氏に見せた。サン・カンタン氏はそれを国王にお目にかけた。国王はこのギリシャ娘の肖像が本人そっくりにかいてあるかどうか知りたいとお考えになった。そして、もしもそうであったら、本人を呼んで、絵姿が心に燃えあがらせた情火を消させる権利があるとおぼしめされた。
サン・カンタン氏は画家にこの絵のモデルをヴェルサイユへ連れてこられるかときいた。画家はべつにむずかしいことではないと答えた。そして、私のところへ来て、一部始終を話した。私もけっこうなことだと思った。そして、モルフィを訪ねていって、画家に案内させて妹とヴェルサイユの宮廷へ行き、神さまのおぼしめしどおりにしろというと、彼女は嬉しさに身ぶるいをした。そして、ある朝、妹のよごれをおとし、小ぎれいな服を着せて、画家といっしょにヴェルサイユへ行った。画家は自分がもどってくるまで御苑を散歩していろといった。
画家はやがて侍僕といっしょにもどってきた。侍僕は画家に旅宿へ行って姉妹を待つようにいい、ふたりを御苑のなかの四阿《あずまや》へ連れていった。翌日、モルフィ自身の口から聞いたが、十五分ばかりすると、王さまがひとりで四阿へはいってきて、ほんとにギリシャ人かときき、ポケットから肖像画を出して本人と見くらべて、「こんなによく似た絵は見たことがない」と仰せられた。
それから腰をおろし、妹を膝のあいだへ抱きよせて、二、三愛撫をし、やんごとない手で未通女であることを確かめてから、接吻を賜わった。妹は王さまをじっと見つめていたが、やがて笑いだした。
「なにを笑うのじゃ」
「あなたが六フランの銀貨とそっくり同じなので笑ったのです」
王さまはそのむじゃきな返事に大笑いをし、ヴェルサイユへとどまりたいかときいた。彼女は姉さんと相談してきめるといった。姉はそれは願ってもないしあわせだと答えた。王さまはその部屋に鍵をかけて立ち去った。十五分ののちにサン・カンタンが来てふたりを外へ出し、妹を一階の一室へ連れていって、ある婦人に託した。そして、姉といっしょにドイツ人の画家の待っている旅宿へ行って、肖像の代価として五十ルイ与えた。姉にはなにも与えなかったが、いずれ通知するからといって、住所をきいた。姉は千ルイもらった。翌々日、私にそれを見せた。ドイツ人は正直で、私に肖像画の代金として二十五ルイよこし、パテュの持っているのから一枚写してくれた。そして、美しい娘の絵をかかせたいと思ったら、いつでも無料でかくといった。善良なフランドル女が二十フランの金貨五百枚をほれぼれとながめて大金持になったと思い、それもひとえにあなたのおかげだと喜ぶさまは見ていて気持がよかった。
「わたし、こんなにいただけるとは思ってもいませんでしたわ。エレーヌは美しいには美しいわ。けれど、あたし、あなたがあの子におっしゃったことをきいても信じませんでしたの。でも、あの子に手をおつけにならなかったなんて、そんなことがあるでしょうか。ほんとのことをおっしゃってください」
「そうですよ。あの子はぼくが手をつけなかったから、やっぱり生娘だったのですよ」
「それじゃ、きっと生娘だったのね。あの子はあなたにしかおまかせしなかったのですからね。ほんとに堅いお方なのね! あの子は王さまのお持物になるようにきまってたのね、万事神さまのおぼしめしですわ。あなたって、ほんとにおりっぱな方ねえ。さあ、いらっしゃい、接吻してあげますから」
オ・モルフィ――王さまはそれ以外の名前で彼女を呼ばなかった――は、じつに均整のとれた美人であったが、その美貌よりも、王さまの思ってもみなかったむじゃきさで、王さまを喜ばせた。王さまは彼女をパルク・オ・セールの一室に住まわせた。ここは王さまの実際上のハレムで、宮廷に仕える貴婦人以外はだれも行くことをゆるされなかった。オ・モルフィは一年後に男の子を生んだが、その子はどこかへやられた。というのも、ルイ十五世は妃の君マリーの存命中は妾腹の子をどう処置しようと、全然意に介さなかったからである。
オ・モルフィは三年ののちに王さまの寵を失った。しかし、王さまは手切れ金として四十万フラン与えた。彼女はそれを婚資にして、ブルターニュの参謀将校と結婚した。一七八三年に私はフォンテーヌブローでこの結婚から生まれたひとりの青年に出会った。彼は二十五歳で、母親に生写しであったが、母親の来歴は全然知らなかった。私はお母さまへよろしく伝えてほしいと頼み、彼の手帳に名前をしるした。
あの美しい娘が王さまの寵を失った原因は、モナコ大公の義妹ヴァランティノワ夫人の策略であった。パリでよく知られているこの夫人は、パルク・オ・セールへ彼女を訪ね、王さまを笑わせたかったら、お年を召したお妃さまをどうお扱いになっていらっしゃいますかとうかがうがいいと教えた。世間知らずのオ・モルフィは、いわれたとおり、王さまにこの無礼で侮辱的な質問をした。王さまは驚いて、とっさに立ちあがると、怒りに燃える目で彼女をにらみつけた。
「無礼者、だれがそういうことをわしにきけといったのじゃ!」
オ・モルフィは生きた心地もなく、王さまの膝へとりすがって、一部始終を言上した。
王さまはすぐその場を立ち去り、二度と彼女の前へあらわれなかった。ヴァランティノワ伯爵夫人も二年のあいだ宮廷へ伺候することをゆるされなかった。ルイ十五世は夫として妻をないがしろにしていることを十分承知していたので、せめて国王としてその埋合せをしたいと望んでいた。したがって、公然と妻を侮辱するものをゆるせなかったのである。
[詐欺師の画家の姪]
フランス人は頭がよく機知にたけた達人だといわれるが、パリは詐欺師が幸運をつかむところである。将来もそうであろう。詐欺がばれると、ひとはそれを軽蔑して笑うが、詐欺師はさらに声を大にして笑う。≪策略がずばりとあたって≫(ホラティウス『書翰集』)、すでに大金持になっているからである。らくらくと人を罠《わな》にかける、この種の国民性はフランス人が流行に弱いという特質からくる。詐欺の手段が新しいと、それが流行になる。なんでもひとの意表をつくような変わったことであれば、人々は双手をあげて歓迎する。「そんなはずがない」といってばか者扱いにされるのをおそれるからだ。フランスでは、可能性と行為のあいだに無限が存在することを知っているのは科学者だけだ。ところが、イタリアでは、この公理はがっしりとあらゆるものの精神に根をおろしている。
ある画家が本人を見ずに肖像画がかけると吹聴して、たちまち金持になった。彼は依頼者からくわしく話をきき、まちがいなしというところまで正確に人相をしゃべってもらった。したがって、できあがった肖像画は画家よりも人相を教えた依頼者の手柄になることがよくあった。だから、依頼者は肖像画がよく似ているといわずにいられなかった。似ていないといったら、画家はしごくもっともな弁解をした。つまり絵が似ていないのは、本人の人相を十分に伝えなかった依頼者の罪だ。説明が十分でなかったので、かくべき人の容貌を十分頭へ入れられなかったのだというのである。
ある晩、シルヴィアのところで夕食を食べていたとき、この画家の話をはじめたものがあった。だが、これは注意すべきところだが、彼はその話を滑稽だとも思わず、画家の腕をうたがいもせず、非常に似ている肖像画を百以上もかいたと吹聴した。居合わせた人々は驚くべきことだと感心した。しかし、私だけは腹をよじって笑いながら、それは詐欺だといった。すると、相手はおこりだして、百ルイ賭けようと吹っかけた。しかし、私は笑ってとりあわなかった。ペテンにかかる覚悟でなかったら、とうてい賭けなどできる問題ではなかった。
「だが、とても似ているのですよ」
「信じられませんね。似ているとすれば、なにかごまかしがあるのでしょう」
シルヴィアだけは私と同じ意見であった。そして相手の男が彼女と私を連れて画家を訪ね、昼食をともにしようとすすめたのに同意した。そこで、三人そろって画家の家へ行き、みんな似ているという肖像画をたくさん見せられた。しかし、本人を知らないのだから、なんともいえなかった。
そこで、シルヴィアが画家にいった。
「いかがでしょう。わたしの娘の肖像画をかいていただけましょうか。本人をごらんにならないで」
「よろしゅうございます。お嬢さまのお顔立をはっきりお話いただけましたら」
そこで、われわれは目くばせをし、話はきまった。礼儀からしても、それ以上なにもいえなかった。画家はサンソンといったが、うまい昼食を出してくれた。画家の姪はなかなか頭がよくて、とても気に入った。そのとき私はきげんがよかったので、いろいろおもしろい話をして、彼女を笑わせた。画家は自分のいちばん好きな食事は夕食なので、ちょいちょい来てくださったらたいへん嬉しいといった。彼はボルドー、トゥールーズ、リヨン、ルーアン、マルセイユなどから来た手紙を五十通以上だして見せた。どれも人相書をつけて肖像画を依頼する手紙であった。私はその三、四通を興味ぶかく読んだ。画料は先払いときまっていた。
二、三日たって、市《いち》で例の美しい姪と出会った。彼女は伯父のところの夕食にきてくれないと小言をいった。彼女には好意をもっていたし、この小言が嬉しくもあったので、翌日訪ねていった。一週間ばかりたつと、事が真剣になってきた。私が彼女に恋してしまったのだ。しかし、頭のよい娘は、私に気があるわけではなく、ただ笑いたかっただけなので、なにもゆるしてはくれなかった。それでも、私は希望をすてずに、時機を待っていた。女に惚れた場合、これが最良の手なのである。
ある朝、自分の部屋で彼女のことを考えながら、ぽつねんとコーヒーを飲んでいると、ひとりの青年が訪ねてきた。だれだか思いだせなかったが、先日画家のサンソンさんのところでごいっしょに夕食を食べたものだといった。
「そうそう、そうでしたね、おゆるしください、度忘れしてしまって」
「だが、むりもありませんよ、食卓ではあなたはサンソン嬢だけしかごらんになりませんでしたからね」
「そうかもしれません。じっさいかわいらしいお嬢さんですからね」
「それはもちろん認めますよ。ぼくは、不幸にして、知りすぎるくらい知っているのですから」
「では、恋しているのですか」
「じつは、そうなのです」
「それじゃあ、愛させたらいいじゃありませんか」
「それは一年もまえから努力しているのです。そして、ようやく希望をもちはじめたところへ、突然あなたがあらわれて、ぼくをつきのけておしまいになったのです」
「なに? ぼくがですか」
「そうです」
「それはお気の毒ですね。しかし、ぼくにはどうにもできませんよ」
「だが、そりゃむずかしいことじゃないですよ。よかったら、あなたにできることを申しましょうか。そういうふうにしてくれればありがたいのですが」
「では、どうぞいってみてください」
「もう二度とあの家へ足踏みをなさらなければいいのです」
「もちろん、ぼくはあなたを喜ばせてあげたいと心から願うものですから、ぜひともそうしたいですね。しかし、ぼくが行かなくなれば彼女があなたを愛するようになると信じているのですか」
「それは、ぼくの仕事です。とにかく、もう来ないでください。あとのことは自分でやりますから」
「そういう奇妙な力添えも、しろといわれればしますよ。しかし、ちょっといわせてもらえば、あなたがそういうことをあてにしているのはへんですね」
「これは、さんざん考えたすえのことなのです。あなたはたいへん思慮のふかい方だとお見受けしました。それで、よくお話すれば、ぼくの立場になって、いろいろ考えてくださり、たかがひとりの娘のために、ぼくと死を賭して戦うようなことはなさるまいと思ったのです。というのも、あなたはあの娘と結婚するおつもりはないようですが、ぼくにはあの人と結ばれるのが、ただひとつの生き甲斐なのですから」
「だが、もしもぼくがあの人を妻に迎えたいと考えたら?」
「そういうことになると、ふたりとも同じように不幸になるのです。いや、ぼくのほうがずっと不幸になるでしょう。なぜなら、ぼくの生きているかぎり、サンソン嬢をほかの男の妻にはさせませんから」
その青年はしゃんと立って、まっさおな顔をし、真剣そのもので、氷のように冷ややかに、しかも恋に燃えていた。そういう青年が落ちつきはらって私の部屋へはいってきて、こういう話をしたのだから、私も考え込まずにいられなかった。そこで、ものの十五分も部屋のなかをあちこち歩きまわって、ふたつの行為を公平に秤《はかり》にかけてみた。そしてどちらを選んだほうがりっぱであり、自尊の念にかなうかと思案した。そして、自分でりっぱだといえるのは、恋敵の心に彼よりも私のほうが賢明だと宣言できる行為だと見てとった。
そこで、私は決然とした態度できいた。
「もしもぼくがサンソン嬢のところへ足踏みをしないことにしたら、あなたはぼくをどう考えます?」
「不幸な男に同情してくださったと思います。そして、感謝の念をあらわすために、いつでも全身の血を流す覚悟をいたします」
「あなたはどういう方ですか」
「セーヌ街にある酒屋のひとり息子でガルニエと申します」
「よろしい。ガルニエ君、ぼくはもう二度とサンソン嬢のところへは行きますまい。さあ、友だちになってくれたまえ」
「命のあるかぎり。では、さよなら」
このガルニエと入れちがいに、パテュがやってきた。いまの話をすると、きみは英雄だといってほめてくれた。そして、私に接吻し、考えを述べて、きみの立場にたったら、ぼくも同じようにしただろう。しかし、その男のようなやり方はとてもできないといった。
[シャルトル公爵夫人]
そのころ、私はもはやコラリーナとは会わなかったが、その妹のカミラを介して、当時オルレアン連隊の連隊長であったメルフォール伯爵が算易によってふたつの質問に解答を出してほしいと頼んできた。私はたいへん曖昧《あいまい》な、しかしいろいろに解釈のできる解答を書いて封をし、カミラに渡した。カミラはあす、その場所はいえないが、あるところへいっしょに行ってほしいといった。そして、パレ・ロワイヤルへ連れていき、せまい階段をのぼって、シャルトル公爵夫人の居間へはいった。十五分ののちに夫人があらわれて、カミラをいろいろ愛撫し、私を連れてきた労をねぎらった。それから、たいへん上品でしとやかに、だが少しも格式ばらずに初対面の挨拶をしてから、夫人は私の与えた解答書を出して、そのなかの難解の箇所を指摘した。私はあの質問が公爵夫人から出されたことに恐縮してから、自分は算易の道は心得ているが、出た解答を解釈するだけの修行をつんでいない。それで、解答をあきらかに解釈するにはべつの質問をいろいろ出していただかなければならないといった。
そこで、彼女は自分に了解できないことや知りたいと思うことを書いた。私は質問はべつべつに書いていただきたい、託宣にはふたつのことを同時にきくわけにはいかないのだからと注意した。彼女は私に質問を書きわけてほしいといった。しかし、私はただいま奥方さまのご胸中をすべて存じあげている精霊におききになっていらっしゃるつもりで、すべてご自分の手でお書きいただきたいと答えた。
彼女は知りたいと思うことを七つ八つの質問にまとめ、それを念入りに読むと、非常に気品のある態度で、ここに書いてあることはあなた以外にはだれにも知られたくないといった。私は名誉にかけて秘密をまもると誓った。そして、質問を読んでみて、この要求がむりもないことを認めたが、同時にまた、あす解答といっしょに質問書を返そうとポケットにしまいながら、うっかりこれを紛失したら、とんだ罪をしょいこむことになると気がついた。そこで、こういった。
「奥方さま、この仕事には三時間もあれば十分ですから、どうぞご安心ください、ご用がおありでしたら、わたしをひとりここへおいていらしってください。ただし、だれもはいってこないようにお取り計らい願います。終わりましたら、厳重に封をいたしますが、どなたにお渡ししたらよろしいか、お申しつけください」
「わたしか、ポリニャック夫人ですが、あの方をご存じですか」
「はい、奥方さま、存じあげております」
公爵夫人は封をするときに小さい蝋燭が入用になるといって、手ずから火打ち石をお渡しになり、カミラをしたがえて出ていった。私はその部屋へ鍵をかけて閉じこめられた。三時間ののち、仕事が終わった時分に、ポリニャック夫人がはいってきたので、封書を渡し、家に帰った。
シャルトル公爵夫人はコンティ大公の娘で、二十六歳であった。彼女は特殊な才気をゆたかにもっていたが、そういう才気をもつ女性はすべて男の心をひきつける。つまり、彼女はたいへん積極的で、偏見がなく、陽気で、しゃれた言葉を口にし、快楽を愛して、長生きよりも快楽を好んだ。「短くとも楽しく」というのが、つねに彼女の口をついて出る言葉であった。そのほか、親切で、気まえがよく、我慢づよく、鷹揚で、趣味にもむらがなかった。しかも、彼女は非常に美しかったが、行儀が悪く、それをなおさせようとする作法の先生のマルセルを軽蔑していた。
彼女はおどるにも顔を前にかしげ、脚を内股にしておどったが、それでもなかなか優雅であった。彼女の美しい顔をよごし、いつも気をもませていた重大な欠点はニキビであった。彼女のニキビは肝臓からくると信じられていたが、じつは血液のなかに病毒がひそんでいたのであった。それは結局彼女の死の原因になったが、彼女は生命の最後の瞬間まで死ぬことを全然意に介さなかった。
彼女が私の託宣にきいたことは、心の問題に関することであった。また、とりわけ知りたがったのは、美しい顔から小さいニキビをなくす方法であった。それは、じっさい、見るものの心をいためるものであった。私の託宣はふかい事情のわからないことについては、すこぶる曖昧であったが、病気についてはそうではなかった。だからこそ、彼女にとって私の託宣は貴重でもあり必要でもあったわけである。
翌日の昼食後、カミラが手紙をよこした。それは私の予期していたことだが、手紙には万障くりあわせて、午後五時に、きのう連れていったパレ・ロワイヤルの部屋へ行ってほしいと書いてあった。その部屋へ行くと、ひとりの年とった侍僕が待っていたが、すぐに出ていった。そして、五分もたつと、あの美しい夫人がはいってきた。
たいへん短い、いともしとやかな挨拶がすむと、夫人はポケットから私の解答を出し、ほかに用事があるのかときいた。私は奥方さまのご用をいたす以外に用事はありませんと答えた。
「けっこうです。それでは、わたしもよそへ行かずに、ごいっしょにいたしましょう」
[ニキビと算易]
そこで、彼女はすでにきのう出した問題について、とくにニキビを消す薬について、新しい質問を出した。彼女が私の託宣を信用したのは、だれも知っているはずのないことを、託宣がいったためである。私の推量が図にあたったのだ。もしも推量できなかったら、埒《らち》もないことになっただろう。
じつは私も同じ病気をもっていたのだが、多少医学の心得があったので、そういう皮膚の病気は外用薬を用いてむりになおそうとすると、かえって寿命をちぢめるかもしれないということを知っていたのだ。
私はすでに彼女の顔の病気は、外観だけなおすにも、一週間ではすむまい。根本的になおすには一年間の節制を要するだろう。しかし、一週間で一応は目につかないようにして見せるといっておいたのであった。
そこで、彼女のなすべきことを知るために、三時間いっしょにすごした。彼女は託宣の術に興味をもち、いわれるとおりの節制をした。それで、一週間後には、ニキビが残らず消えた。私は彼女に毎日下剤をかけさせ、食べ物もきめ、あらゆる化粧品を禁じた。そして、ねるまえには水だけで、朝はプランタン水〔おおばこの抽出液〕で顔をあらうように命じた。このつましい託宣は公爵夫人が同じ効果を求める部分はどこでも同じ洗滌をするように命じた。夫人は精霊のつましさに気をよくして、すなおにしたがった。
私は夫人がきれいな顔になってあらわれる日をみはからって、わざとオペラ座へ行ってみた。彼女は、オペラがすむと、一級の貴婦人たちをしたがえて、パレ・ロワイヤルの広い並木道を散歩した。あらゆるものが口々に喜びを述べた。彼女は私を見ると、にっこり微笑を賜わった。私はこよなく幸福な男のような気がした。私が公爵夫人に託宣をさずける名誉を得たのを知っているものは、カミラとメルフォール氏とポリニャック夫人だけであった。だが、公爵夫人は、オペラ座へ行った翌日、また小さいニキビが出てきて顔をよごした。そこで、翌朝パレ・ロワイヤルへ来るようにとの命令だった。
私を知らない年とった侍僕が気持のよい部屋に案内した。隣の部屋には浴槽があった。夫人は少しふさいだようすではいってきた。顎《あご》と額に小さいニキビがはじまったからである。手には託宣への質問を書いた紙を持っていた。それが短かったので、私はわざと彼女に解答を出させた。そして、数字を文字に翻訳すると、命令された食餌療法にそむいたのを、天使が責めていると知って、彼女は非常に驚いた。彼女はそれを否定することができなかった。ハムを食べ、リキュールを飲んだからである。
そのとき、ひとりの侍女がはいってきて、夫人の耳へなにかささやいた。彼女は少し外で待たせておくようにといった。
「ここでお知合いの方にお会いになってもかまいませんわね。ごく口のかたい方ですから」
こういうと、彼女は病気に関係のない紙を全部ポケットへしまい、それから呼んだ。すると、ひとりの男がはいってきた。私はとっさに馬小屋の下男かと思ったが、メルフォール氏であった。
彼女は彼にいった。
「ごらんあそばせ。カザノヴァさんはわたしに算易を教えてくださったのですよ」
そして、自分の出した解答を見せたが、伯爵は信じなかった。
「では、この人を納得させなければいけませんわ。なにをうかがいましょうか」
「なんでもお好きなことでよろしゅうございます」
彼女は少し考えていて、ポケットから象牙の小箱を出し、「この軟膏がどうして、もうわたしにきかなくなったのか教えてください」と書いた。
そして、まえに教えたように、数字をピラミッド形に並べ、行間をそろえ、解答の鍵となる数字を選んだ。そして、解答を出すだんになると、数字をいろいろいじくって加え算、引き算をするように教えた。そのあとで、私はご自分で数字を文字になおしてごらんなさいといい、用事があるふりをして外へ出た。
そして、翻訳ができた時分を見はからってもどっていくと、公爵夫人が驚きのあまり、度を失っていた。
「ああ、あなた、なんという答えでしょう!」
「たぶん、まちがいですよ。そういうこともなくはないですから」
「とんでもない。神のお告げですわ。≪この薬は子どもをつくったことのない女の肌にしか効力をもたぬ≫とありますもの」
「この解答がそんなに驚くべきものだとは思われませんがね」
「あなたはご存じないからですよ。この軟膏は五年まえにブロッス司祭がつくってくださったもので、そのときにはこの薬ですっかりなおったのですわ。モンパンシエ公を生む十か月まえでしたわ。わたし、この算易を習って、自分で立てるようになれるなら、どんな犠牲をはらっても惜しくないと思いますわ」
「なんですって? それでは、あの由緒《ゆいしょ》もふるい軟膏ですか」
「そうなのです」
「そりゃ驚きましたなあ」
「わたし、もうひとつ、ある女のことでうかがいたいのです。名前は申せませんが」
「では、わたしの考えている女、とおっしゃいませ」
彼女はその女の病気はなんであるかときいた。私はその女は病気を夫にうつそうとしているという解答を出した。すると、公爵夫人は驚いて大きな声を出した。
[軟膏が小公爵をつくる]
だいぶ夜もふけた。メルフォール氏は少しはなれたところで公爵夫人となにか話していたが、話が終わると、私と連れだって帰った。その途中、彼は算易があの煉り薬について答えたことには驚いたといって、その因縁《いんねん》を次のように話してくれた。
「公爵夫人はごらんのように美しいお方だが、顔にニキビがいっぱいできていたので、公爵はいっしょにねる気になれなかったのです。それで、子どもはなかったのですが、ブロッス司祭がさっきの煉り薬をつくって、なおしてあげました。そして、すっかりきれいになって、フランス座へ行き、女王さまの桟敷に腰をおろしました。ところが、公爵もその日、偶然、奥方が来ているのを知らずにフランス座へ行き、王さまの桟敷にはいろうとしたのですが、すぐ前の桟敷に奥方がすわっているのに目をとめました。ところが、とても美しく見えたので、奥方とは知らず、あれはどういう婦人だときいたんですな。そして、ご自分の奥方だといわれたが、信じられないので、桟敷から出て、見にいきました。そして、とても美しいと挨拶をして、自分の桟敷にもどりました。その晩、十一時半に、われわれはみんなパレ・ロワイヤルの公爵夫人の部屋に集まって賭け事をやっていました。そこへ、まったくとっぴょうしもないことなんですが、小姓が来て、公爵さまがお出でになると知らせたんです。奥方はすぐ立っていって迎えましたが、公爵は芝居で見たそなたの姿がとても美しかったので、そなたのことが恋しくてたまらず、子どもをつくらせてもらう許可を求めにきたのだといいました。そこで、わたしたちはすぐに退散したのですが、それは一七四六年の夏でした。そして、翌年四七年の春に、奥方はモンパンシエ公爵をご分娩になりました。公爵はいま五歳で、とてもご壮健です。しかし、お産のあとでまたニキビがはじまり、煉り薬でもなおらなくなってしまったのです」
この逸話を話してから、伯爵はポケットから鼈甲《べっこう》の楕円形の小箱を取り出した。それにはとてもよく似た公爵夫人の肖像がはいっていた。彼は夫人からだといってそれを私によこし、もしも金の縁をつくらせるならといって、百ルイの棒包みを渡した。
私は公爵夫人へあつくお礼を申しあげていただきたいといって、ありがたく受け取った。しかし、その時分は非常に金に窮していたので、ついに金の縁をつけさせなかった。
その後、何度かパレ・ロワイヤルへ呼ばれたが、もはやニキビをなおすことは問題ではなかった。夫人が食餌療法を望まなかったからである。しかし、彼女は五、六時間も私に働かせ、あちらの隅へ行ったかと思うと、こちらの隅へ来、私のそばへ来たり、遠のいていったりした。そして、私にはひとことも言葉をかけたことのない、あの善良な老侍僕に命じて、昼食を出させたり、夕食を出させたりした。
算易に問われる問題は、彼女自身の秘密や彼女が知りたがっている他人の秘密で、彼女は私の思いもよらない真実を見つけだした。彼女は算易を教えてもらいたいといったが、けっして強制することはしなかった。ただメルフォール氏を通じて、算易を教えてくれたら、年収二万五千フランの職を与えるといった。しかし、残念ながら、それはできない相談であった。私は狂わしいまで彼女に恋していたが、そうした情熱の片鱗も見せなかった。彼女から色よい返事をもらえるなんてことは、考えるさえ身の程を知らぬことだと思われた。露骨な軽蔑をしめされて、面目をつぶすのがおそろしかった。しかし、それは思いすごしだったかもしれない。いま自分にわかっているのは、恋を打ち明けなかったのがいつまでも悔やまれてならなかったことだけである。私はいろいろの特権を与えられていたが、もしも私が心を寄せていることを知ったら、夫人はその特権を取り上げてしまったろう。だから、なまじっか恋の告白をして、元も子もなくしてしまうのをおそれたのであった。
ある日、夫人はド・ラ・ポプリニエール夫人の乳癌《にゅうがん》をなおすことができるかどうか算易にうかがってみたいといった。私は気まぐれをおこして、その夫人は乳癌でもなんでもない、しごく健康だと答えた。
「なんですって。パリではだれも彼もあの方が癌だと信じているし、あの方もみなさんに相談してまわっていますわ。でも、わたしは算易を信用します」
彼女は宮廷でリシュリュー氏に会い、ド・ラ・ポプリニエール夫人は仮病にちがいないといった。夫人とわけのある仲だった元帥はそれはおまちがいだと答えたので、彼女は十万フラン賭けようといった。夫人からこの話をきいたとき、私はぎくりとした。
「元帥は承知なさいましたか」
「いいえ。けれど、とても驚いていましたわ。あの方もいまにわかるでしょう」
三、四日後、彼女の話によると、元帥はあの癌はド・ラ・ポプリニエール夫人が夫のもとへ帰りたくて憐れみをさそうための策略だったと話した。そして、夫人がどうしてそれを見やぶったのか教えてくれたら、千ルイ出そうといったということであった。
「もしもあなたがそのお金をほしいようなら、あの方にいっさいいってしまいますわ」
「いいえ、いいえ、奥方さま、それはご勘弁ねがいます」
私はなにか腹ぐろい策略があるのではないかと心配した。というのも、元帥の頭のきれることはよく知っていたし、この有名な殿さまが暖炉の壁にあけた穴から例の夫人のもとへ忍び込んだ話はパリで知らぬものがなかったからである。ド・ラ・ポプリニエール自身、夫人に年金一万二千フランやって二度と会わぬ決意をし、夫人の情事を公表する結果になった。
公爵夫人はこの事件についてたいへんきれいな小唄をつくったが、王さまと側近者以外はだれも見たものがなかった。王さまは、夫人がときどき辛辣な警句を放ったが、それでも彼女を愛していた。ある日、彼女はプロシア国王がパリへ来るというのはほんとかと王さまにきいた。王さまはそれは噂にすぎぬと答えた。すると、彼女は、あら、つまらないわ。だって、わたし国王というものが見たくてたまらないのですものと答えた。
[コン・デラブレと決闘]
弟はもうパリで何枚も絵をかいたが、その一枚をマリニー氏に見せようと決心した。そこで、われわれはいっしょにこの殿さまを訪ねた。彼はルーヴルに住んでいて、いろいろの芸術家がごきげんうかがいにいっていた。われわれは彼の住む部屋の隣の広間へ行き、いちばん先着だったので、彼の出てくるのを待っていた。絵はそこへ飾っておいた。それはブールギニョン好みの戦争画であった。
黒服を着た男がはいってきて、絵に気がつくと、ちょっと足をとめたが、独り言をいった。
「こりゃ、まずい」
そのすぐあとで、ふたり連れの男がやってきて、しげしげと絵をながめ、笑いながらいった。
「だれか画学生の絵だね」
私は弟を横目で見た。彼は私のわきにすわり、大粒の汗をながしていた。十五分とたたないうちに、広間はいっぱいになった。人々は絵のまわりに輪をなして、口々に批評したが、みんなこの絵はだめだといって、嘲笑の的にした。哀れな弟は死ぬ思いであったが、だれも知合いの人のいないのを神に感謝した。
私は弟の途方にくれたようすを見て、妙に笑いだしたくなったので、腰をあげてべつの部屋へはいった。そして、あとからついてきた弟に、じきにマリニー氏が出てきて、きみの絵の出来栄えをほめ、あの連中に敵討ちをしてくれるよといった。しかし、彼は賢明にも私の意見に同調しなかった。そこで、ふたりは下へ駆けおり、下男に絵をとってこいと命じて、待たせてあった辻馬車にとびこんだ。こうしてわれわれは、家へ帰ったが、弟は剣をふるって絵をずたずたに切りまくり、即座に身のまわりをかたづけて、パリを去る決心をした。どこかほかの土地へ行って勉強し、彼の志す芸術を達成させようというのであった。そこで、いっしょにドレスデンへ行くことにきめた。
この魅惑的な都での楽しい滞在を終わる二、三日まえに、私はテュイルリー公園のフイヤン門の門番のところで、ひとりで昼食を食べた。門番はコンデという名前であった。食事のあとで、かなり美しい妻が勘定書を出したが、全部二倍の値がついていた。まけさせようとしたが、一文もまけなかった。そこで、金を払ったが、領収証の下に≪ファンム・コンデ≫(コンデの妻)とあったので、ペンをとって、コンデのあとにラブレと書きくわえておいてきた。〔ラブルはべらという魚の名だがラブレという形容詞はない。これはコンデ・ラブレをコン・デラブレ(台なしの女陰)の意味にきかせたのである〕
それから外へ出て、廻転橋のほうへ散歩にいった。そして、暴利をむさぼった門番の細君のことなど忘れた時分、ひとりの小男が肩をいからせてそばへ寄ってきた。その小男は小さな帽子をかぶり、胸のボタン穴に大きな花束をつけ、腰にさげた剣の鍔《つば》が二インチもはみだしていた。そして、なんのまえおきもなく、きさまの喉笛《のどぶえ》を、ぶった切ってやるといった。
「それじゃ、とびあがるんだな、きみはぼくにくらべたら、人間の切れっ端でしかないからな。こっちは耳でも切ることにしようか」
「ちくしょう、いやがったな」
「どん百姓のようにどなるのはよせよ。さあ、あとからついてこい」
私は足をはやめてエトワール広場までいった。そして、あたりに人のいないのを確かめると、なんのつもりなんだ、どうしてぼくに刃向かうのだと、生意気な小男にきいた。
「わしはタルヴィ勲爵士だ。よくもわしの面倒みている女に恥をかかせやがったな、さあ、剣をぬけ」
彼はこういいながら剣をぬいた。私もすぐに剣をぬき、彼が構えるのも待たずに、胸に手傷をおわせた。彼はうしろへとびのき、暗殺者のような卑怯な手で傷つけたとわめいた。
「嘘をつけ、さあ、嘘だといえ、さもないと喉をえぐるぞ」
「そりゃまっぴらだ、こっちは手負いだからな。だが、いつかこの敵を討ってやるぞ。そのときに勝負をつけよう」
「ろくに剣もつかえないくせに生意気なやつだ。まだ気がすまぬようなら、耳をそいでやろうか」
私は彼をそこへおいて立ち去った。剣をぬいたのは向うがさきなのだから、こっちの一撃は規則にはずれてはいない。身構えをしなかったのは、向うの落度だ。
[ドレスデンの娼婦たち]
八月のなかごろ、弟といっしょにパリをたった。パリには二年いて、楽しみをきわめた。不愉快なことといっては、ときどき金に不自由しただけであった。われわれはメッス、フランクフルトを経て、月末にドレスデンに着いた。母はもう二度と会えないとあきらめていた、結婚の最初のふたりの子どもを見て、非常に喜び、心からやさしく迎えた。弟は有名な画廊へかよって、そこに陳列してある著名な画家たちの戦争画を模写し、その目ざす芸術の研鑚《けんさん》に全力をささげた。
彼はドレスデンで四年をすごし、批評に立ち向かうことができる自信がついたとき、はじめてパリへもどった。そのとき私もほとんど同時にパリへ着いたが、くわしいことは彼の話をするときにゆずろう。しかし、読者はそれまでのあいだに私が好運や不運にもてあそばれた顛末を見るであろう。
翌一七五三年の謝肉祭の終りまで、ドレスデンにおける生活には、なにも変わったことはなかった。私のしたことといえば、俳優たちを喜ばせるために、アルルカンをふたりつかった悲喜劇をひとつ書いただけであった。この芝居はラシーヌの『敵対する兄弟』のもじりであった。そのなかにぎっしりつめこんだ滑稽な不調和を、王さまはたいへんお笑いになった。四旬節のはじめに、この気まえのよい王さまからすばらしい贈り物をいただいた。王さまはヨーロッパ広しといえども右に出るものはあるまいと思われるほどのりっぱな大臣〔ブリュール伯爵ハインリッヒ〕に補佐されていた。私は母や弟や妹に別れを告げた。妹は宮廷のクラヴサン教師ピエール・オーギュストの妻となっていたが、このオーギュストは二年まえにじみちで安楽な生活と幸福な家族を妻に残して死んだ。
ドレスデン滞在中のはじめの三か月はあらゆる遊女を知るのについやした。彼女らは素質はイタリアやフランスの女たちよりもすぐれていたが、雅味や才気や手管については、はるかにおとっていた。手管とは主としてかわいいと思って金を出す男に惚れこんだように見せる技術である。この技術が未熟なので、彼女らは一般に冷ややかだと思われている。
私のしゃにむにの探究をとどめたのは、クレブス楼にいたハンガリー出の美人からうつされた病気であった。この病気にかかったのは七回目だ。だが、いつものとおり、六週間の摂生で解放された。一生のあいだ私は健康を享受しているときには病気になるために骨をおり、病気になると健康をとりもどすために苦労した。さいわいにして、どちらの場合にも、私は甲乙なく成功した。現在は完全な健康を楽しんでいる。じつをいうと、この健康をそこなうことを望んでいるのだが、もう年齢がゆるさない。われわれがフランス病と呼ぶこの病気は、治療の方法さえ心得ていれば、命をちぢめるものではない。それは傷跡だけのこすが、これも楽しみをきわめた代償だと思えばあきらめがつく。ちょうど、軍人が武勇の証拠であり、光栄の源泉である傷跡を見て喜ぶのと同断である。
私はドレスデンではよく王さまを見かけた。サクソニア選挙侯のアウグスト王は総理大臣のブリュール伯爵に心服していた。割合からいうと大臣のほうがずっと金をつかっていたし、何事も王さまの御意にしたがい、不可能と思わせることがなかったからだ。
この王さまは倹約の敵で、自分からかすめとるものを笑ってゆるし、笑いの種を得るために莫大な浪費をした。しかし、諸国の国王の政治上の愚行やさまざまの人間の滑稽さを笑うには、十分の才気をもちあわせていなかったので、ドイツ語では狂人と呼ぶ道化役者を四人かかえていた。その役目は下卑た道化や猥褻《わいせつ》な話や無作法な所作で王さまを笑わせることであった。
この狂人諸君は利害関係のあるものどものために国王から重大な恩寵をかすめとることがあった。したがって、その助力を必要とする貴族たちから尊敬され厚遇されていた。必要にせまられると、どんな人間でも卑劣なことをするものだ。ホメロスのなかのアガメムノンも人間は卑劣なことをする必要があるものだとメナレスにいっているではないか。(『イリアス』のなかで)
現在、ブリュール伯爵が当時サクソニアの滅亡と呼ばれたことの原因であると人もいい、歴史にも書かれているが、それはまちがいだ。この男はきわめて国王に忠実な大臣にすぎなかった。その富は莫大なものだといわれたが、彼の遺児たちはだれもそれを相続しておらず、十分に父親の潔白さを証明している。
私はドレスデンでヨーロッパ随一の輝かしい宮廷を見た。各種の芸術も隆盛をきわめていた。しかし、優雅な風情《ふぜい》は見られなかった。アウグスト王が優雅ではなかったし、サクソニア人は国王が模範を示さなければ優雅になれない性質の国民であったからである。
プラハへ着いた。しかし、そこに逗留《とうりゅう》する気持は少しもなかったので、ただオペラの座元のロカテリへアモレヴォリの紹介状を持っていき、モレリ夫人に会いにいくだけにとどめた。この夫人は古い知合いで、私がこの大きな都会ですごした二、三日のあいだ、いっさいをまかなってくれた。しかし、出発しようとしていたとき、旧友のファブリスに出会った。彼は大佐になっていて、私をむりに昼食にまねいた。しかし、私は彼の接吻をうけながら出発しなければならないのだといった。
「今夜、わしの友人のひとりと出かけたらいい、そうしたら乗合馬車に追いつけるよ」
私は彼の望むとおりにした。そのおかげで、楽しい午後をすごした。彼は戦争の起こるのを望んでいた。その戦争が二年後に起こり、彼は多くの光栄を得た。
ロカテリというのは変わった人物で、ひとことふれておく価値がある。彼は毎日三十人の客をよんで食事をした。客は男優、女優、舞踊家、踊り子、および友人たちであった。そして、料理にも自分で采配をふった。うまいものを食べるのが道楽であったからである。彼については、ペテルスブルグへ旅行したときに会ったので、またふれる機会があろう。彼はさきごろそこで九十歳で死んだ。
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第三十三章
[詩人メタスタシオ]
はじめてオーストリアの首府ウィーンへ来た。年はいまを盛りの二十八歳である。衣類はいくらかあったが、金はほとんどなかった。だから、ブラガディーノ氏宛てに振り出した手形のもどってくるまでは、節約して暮らしていなければならなかった。紹介状としてはドレスデンの詩人ミグリアヴァッカから有名なメタスタシオ司祭に宛てたのしか持っていなかった。この司祭にはまえから会いたかったので、到着した翌々日、さっそく訪ねていった。そして、一時間話すうちに、その博識が著書で見るよりもはるかに大きいのに気がついた。彼の謙遜ははなはだしく、はじめはつくりものではないかとあやしんだが、すぐに本物だと感づいた。しかし、その謙遜も自分の作品を暗誦し、美しい箇所をみずから指摘しはじめると、たちまちどこかへ消えてしまった。彼の先輩のグラヴィナの話をすると、彼はグラヴィナの死に際してつくった未発表の五、六篇の詩章を暗誦し、自分の詩の優美さに感激して涙した。そして暗誦が終わると、次の言葉を自国語でつけくわえた。
「腹蔵なくいってほしい。これよりじょうずに書けるかどうか」
私は書けるか書けないかはあなたのお考え次第だと答えた。それから、こういう美しい詩を書くにはよほど骨がおれるのかときいてみた。彼は十四行の詩句を完成させるために、さんざん削除や訂正を加えた四、五枚の紙を見せ、一日でこれ以上の仕事はできないといった。そして、詩人がいちばん苦心するのは、作詩の道を知らない読者から、なんの苦労もなくつくったと思われる詩を書くことだと打ち明けたが、それは、私には先刻ご承知のことであった。
私はさらに、いままで書いたオペラのうちで、いちばん気に入っているのはどれかときいた。彼は『アッティリオ・レゴロ』だと答え、
「だが、そうはいっても、この作がいちばんいいというわけではない」
私は彼の作品が全部パリでフランス語の散文に翻訳されたが、出版社が破産してしまった話をし、破産の理由は散文訳の作品が読むに耐えなかったからで、これは彼の美しい詩の迫力を逆に説明しているといった。
彼はべつのばかが前世紀にアリオストをフランス語の散文に訳して破産したことがあると答え、散文作品も詩と呼ばれる権利をもつと主張したものや、いまも主張している連中を笑った。
アリエッタ(小詩唱)については、いままで書いたものはすべて自分で伴奏をつけたが、その楽譜はだれにも見せないことにしているといった。
そして、フランス人が既成の曲に合わせて歌詞をつくれると信じているのを笑い、非常に哲学的な比喩をしめした。
「それはですね、まるで彫刻家に、この大理石でヴィーナス像をつくってくれ、ただし、顔立は輪郭をきざむまえから、例の顔ときめておいてほしいというようなものですよ」
王立図書館へ行ったとき、ド・ラ・エー氏がふたりのポーランド人とひとりのヴェネチアの青年と連れだってきているのを見て、意外の出会いに驚いた。この青年はよい教育を受けさせるために、父親がド・ラ・エーにあずけたのであった。私はド・ラ・エーと何度も接吻した。私は彼がポーランドにいるものとばかり思っていたが、用事があってウィーンへ来ただけで、夏にはヴェネチアへもどるということであった。われわれはお互いの宿舎を訪問し合った。私が金に不自由していると知ると、五十ゼッキーニ貸してくれたが、それはまもなく返した。彼からきいたいろいろの話で、いちばん私を喜ばせたのは、彼のかわいがっていたバヴォワ男爵がすでにヴェネチア軍の中佐になっていることであった。モロジーニ氏はフランス駐在大使を終えたあと、共和国政府から国境管理委員に任命されたが、バヴォワ男爵は運よくモロジーニ氏に見いだされて、その幕僚に採用されたのであった。私は自分の肝入りで出世の糸口にありついた連中が幸福になっているのを見て、非常に嬉しかった。ウィーンに滞在中、ド・ラ・エーが疑う余地もなく偽善者であることを知ったが、それは口に出していうべきではなかった。
どこへ行こうというあてもなかったが、なにかおもしろい思いがしたかったので、復活祭のあとではじまるはずのオペラの稽古を見にいった。そこで、舞踊家の筆頭のボダンに会った。これはジェオフロワと結婚した人だが、ふたりにはトリノで会っている。また美しいアンチラの夫のカンピオーニにも会ったが、妻があまりはでに道ならぬ行ないをしたので別れたという話であった。カンピオーニは偉大な舞踊家であり、また賭博師であった。
私は彼と同じ宿にとまることにした。
[恋を迫害するウィーン]
ウィーンはなにもかもりっぱで、市中には金があふれ、豪奢をきわめていた。しかし、ヴィーナスに奉仕する連中には退屈きわまるところであった。風紀委員と呼ばれる性《しょう》の悪い秘密探偵があらゆる美女に情け容赦もなく迫害を加えた。女王殿下マリア・テレジアはすべての美徳をそなえていたが、男女間の非合法な恋愛に関するかぎり、寛仁の美徳を欠くことはなはだしかった。この偉大な女帝は非常に信仰心があつかったので、姦淫の罪をにくみ、これを根絶やしにして神から功績を認められようと願っていた。だから、鵜の目鷹の目で迫害するのも理にかなったことだと信じていた。彼女は大罪といわれるものをしるした帳面を尊き御手にとって調べ、大罪が七つあることを知った。そして、そのうちの六つは大目に見ることもできるが、姦淫の罪だけはゆるすべからざるものと考えた。そこで、この罪にたいして取締りの熱意を爆発させたのであった。
「傲慢は、これを知らぬものもあろう。品格がその旗持ちをするからである。貪欲は忌むべきものだが、これはとりちがえられることがある。金銭を愛するものには、貪欲は倹約と思われるかもしれない。憤怒は病気である。これは発作を起こすと人をも殺しかねぬ。しかし、殺人は死をもって罰せられる。貪食は美食好みにすぎぬこともあり、上流階級では美徳と見られるが、これは貪欲の寡多に関連する。不消化で死ぬものは気の毒だが、やむをえない。嫉妬は公けに口にされたことがなく、怠惰は退屈によって罰せられる。しかし、姦淫はゆるしがたいものである。臣民どもが美しく見える女を美しいと思うのはかってである。女どもも美しくなるために力のおよぶかぎりのことをするがよい。そして、互いに心を燃やして望みあおうとも、わたしはそれをさまたげはせぬ。しかし、この欲望をみたすための不倫な行為は、断じてゆるさぬ。そもそもかような行為は人間の性質と切りはなすことができず、種族増殖の原因となるものであるが、この快楽を求めたければ、正式に結婚するがよい。金を払ってそれを得ようとするものは亡びるべし。またその魅力から利益をあげ、生計をたてようとする自堕落な女は、すべてテメスワール〔現在の西ルーマニアのティミソアラ。売春婦の国外追放地〕へ送るがよい。この問題については、ローマでは、男色、近親相姦、姦通などをさけるためと称して、寛大の処置をとったことも、わたしは知っている。しかし、ドイツ人はイタリア人のように肉体のうちに悪魔をもっておらぬ。イタリア人は、この土地とはちがい、酒樽《さかだる》によって切りぬける方策をもたぬからである。なおまた、わたしは家庭の紊乱《びんらん》をも見のがしはせぬ。妻が夫にたいして不貞をはたらいたことがわかれば、事情がどうあろうと、その妻を牢獄につなぐであろう。妻をいかに処分するかは夫の権力であると主張するものがあるが、わが国では、それは問題ではない。わが国の夫はあまりにも鷹揚《おうよう》でありすぎるからである。わたしは道理を知らぬ夫どもがいくらわめこうとも意に介するものではない。彼らはわたしが妻を罰することにより、彼らの名誉をおとしめると主張するが、彼らはそれ以前にすでに名誉をうしなっているではないか」
女王陛下はこういうのだが、これにたいし、
「しかし、陛下、不名誉はそれが周知のことになったときだけしか存在しないものでございます、それに、陛下も、尊きおん身ながらおまちがいになられることもございましょう」というと、「お黙り」と、一喝をくわせるのであった。この残虐な方針は、偉大なマリア・テレジアが≪法の外観のもとに≫(ホラティウス)おかした唯一の失策から出たもので、これから風紀委員という刑吏の不正と汚職が生まれた。ウィーンの町では、堅気な仕事で生活費をかせぎにいく場合でも、若い娘がひとりで歩いていると、一日じゅう時間をとわずに逮捕して、牢獄へ曳《ひ》いていった。しかし、その娘たちがだれか男のところへ愛してもらいにいくのか、または愛してくれる相手を捜しているのが、どうして彼らに見分けがつこう。密偵が遠くからあとをつけていった。警察は彼らを五百人も雇っていた。彼らは制服を着ていなかったので、見分けがつかなかった。それで、知らぬ男をすべて密偵かと疑うようになった。
ひとりの娘がある家へはいる。密偵はそれを見ると、どの階へあがったかわからないので、下で待っている。そして、娘がおりてくると、すぐに取り押えて、どういうもののところへ行ったか、なにをしてきたかと問いただす。そして、返事に少しでも曖昧なところがあると、さっそく牢獄へ曳いていく。そのとき、娘の身につけている金や宝石類を残らず取りあげるが、その行方は杳《よう》としてわからなかった。
レオポルドシュタットでのことだったが、そうした騒ぎのときに見知らぬひとりの娘が、逃げる途中で、金時計を私の手にすべりこませた。自分を牢獄へ連行する連中に掠《かす》めとられると見てとったからである。私はひと月ののち、その娘に出会い、身の上話をきいて、時計を返してやった。彼女は刑罰をまぬがれるために、並々ならぬ犠牲をはらったらしい。
こういうわけで、ウィーンの街路を歩く娘たちは手に数珠《じゅず》をさげなければならなかった。そうすれば、刑吏も有無をいわさずさらっていくことができなかった。娘が教会へ行くところだからというにきまっているが、そういう娘をとらえたものは、マリア・テレジアから絞刑に処された。
ウィーンの市街にはこういう悪党がうようよしていたので、立小便をするにも、人のいないところを捜さなければならなかった。ある日、私が用をたしていると、まるい鬘をかぶったやつがやってきてそれをさえぎり、どこかほかへ行ってやれ、さもないと逮捕するぞとおどかした。
「なぜです」
「きみの左手の窓で女が見ているからだ」
そういわれて目をあげてみると、ある家の五階の窓に女の顔がのぞいていた。望遠鏡をつかったら、私がユダヤ人かキリスト教徒かわかっただろう。私は笑いながら彼の命令にしたがった。会う人ごとにこの話をしたが、だれも奇異に感じなかった。そんなことは一日に何度も起こったからである。
[賭博の都ウィーン]
私は土地の風俗を研究するためにあちこちで食事をした。ある日の昼、カンピオーニといっしょにエクルヴィス亭へ定食を食べにいった。そこで、ベッペ・イル・カデットの姿を見てびっくりした。スペイン軍にとらわれたとき知合いになった男だが、のちにヴェネチアで会い、またリヨンでも会った。リヨンではドン・ジューゼッペと名のっていた。カンピオーニはリヨンで彼と相棒だったので、抱きあって接吻し、ふたりだけでなにか話していたが、食卓につくまえに、この人は本当の名前にもどり、いまはアフリジオ伯爵を名のっていると教えた。伯爵は食事がすんだらファラオ賭博の銀行をするが、ひと口のせてやるから、賭けるほうへまわらないようにといった。私は承知した。そして、いっしょに銀行をやったが、アフリジオはもうけた。ベッカリア大尉が彼の顔へカードを投げつけたが、彼は用心ぶかく相手にならなかった。それから、われわれはカフェへ行った。アフリジオとカンピオーニと私と、もうひとり顔色のよい士官だった。その士官は微笑しながら私のことをじろじろ見ていたが、べつに失礼な感じはしなかった。
「どうして笑っているのですか」
「わしの顔を思いだせないようなので、笑っているのですよ」
「それは失礼、どこかでお会いしたような気もしますが、どこだったか思いだせません」
「九年まえに、ロブコヴィッツ大公の命令で、リミニの城門まで送ってあげたことがありますよ」
「それでは、ヴェ男爵ですか」
「そのとおりです」
われわれは抱きあった。彼はいろいろ親切な申し出をしてくれ、ウィーンで手にはいる快楽なら、力のおよぶかぎり援助するといった。じっさい、彼はその晩ある伯爵夫人に紹介してくれた。私はそこでテスタ・グロッサ司祭と知合いになった。つまり大あたま司祭である。この人はモデナ公爵の大臣で、オーストリア皇子とベアトリチェ・デステ夫人との縁談をまとめた手柄で、宮廷で歓待されていた。この邸でロッゲンドルフ伯爵、ザロティン伯爵、何人かの令嬢およびある男爵夫人と知合いになった。夫人は相当の年だったが、まだ見どころがあった。夕食がはじまった。
人々は私を男爵と呼んだ。いくら肩書もなにもない人間だといっても、聞き入れなかった。そして、この社会ではなにかの肩書がなければならないが、あなたは男爵以下であるはずがない。もしもウィーンでりっぱな家へ迎えられようとするなら、男爵を名のることを承知すべきだと答えた。私はそれに同意した。
男爵夫人はこだわらない態度で、あなたのことが気に入ったといい、訪ねてきてもよろしいとゆるしてくれた。そこで、翌日訪問した。すると、もしも賭博が好きなら夕方から来るといいといった。私は彼女の邸で何人かの賭博師を知ったが、そのなかにトラモンティニがいた。テジ夫人と呼ばれていたその細君はまえからの知合いであった。
この邸ではまた三、四人の令嬢と知合いになった。彼女らは風紀委員をおそれず愛の神に身をささげており、親切にも金を受け取って貴族の身分にきずをつけるのをいとわなかった。そうした令嬢たちの特権を見て、風紀委員は上流の家庭へ出入りしない女たちだけを目の敵にするのだと知った。
男爵夫人はもしもお友だちがあるなら連れてきてもよいといった。そこで、カンピオーニとアフリジオとヴェ男爵を連れていって紹介した。カンピオーニは舞踊家だったので、肩書はいらなかった。アフリジオは賭博をはじめ、銀行になって、勝った。トラモンティニは彼を細君に紹介した。すると、細君はさらにザックス・ヒルドブルグハウゼン大公に紹介した。アフリジオは伯爵を自称し、この大公の邸で巨万の財産をつくったが、その結果二十五年後に非業《ひごう》の最期《さいご》をとげることになった。トラモンティニは彼に大博打を開かせるたびに、その相棒になったが、そんな関係から妻に大公を説かせ、彼をオーストリア女帝陛下の軍隊の大尉に任命させるように段取りをつけた。この願いはまもなく聴きとどけられ、三週間ののちには、彼が軍服を着ているのを私もこの目で見た。私がウィーンを出発するときには、彼はすでに十万フロリンの金をにぎっていた。皇后は賭けを好まれた。皇帝も同じであったが、けっして賭ける側にはまわらず、いつも銀行をなさった。
これはりっぱで節約家の善良な君主であった。彼が皇帝の盛装をした姿を見たことがあるが、スペインふうなのに驚いた。さながらカルロス五世を見る思いがした。というのも、このスペインふうの盛装をはじめて制定したのはカルロス五世で、彼以後はいかなる皇帝もスペイン人ではなく、フランツ一世もスペインとは血統的になんの関係もなかったが、やはりこの服装をそのまま存続したのであった。
私はのちにスタニスラス・アウグスト・ポニアトウスキーの戴冠式のとき、同じことをワルシャワでも見た。皇帝はやはりスペインふうの盛装をしていた。しかし、これには相当の理由があったのである。この盛装を見て、年とった廷臣たちは涙をながしたが、ロシアの専制政治のもとでは、黙ってあきらめるよりほかに策がなかったから、彼らも暗涙をのんでいい顔をしているよりしかたがなかった。
[ヨゼフ二世の凶相]
フランツ一世皇帝は美男であった。私はたとえ彼を皇帝として見なくても、その容貌に福相を認めたであろう。彼は皇后に非常な敬意をはらい、その浪費をさまたげなかった。というのも、彼女が博打でうしなったり、年金として臣下に与えたのはクレムニッツ金貨だけであったからだ。彼女が国家の負債をふやすのを黙認していたのも、皇帝自身が妻の債権者となる手を知っていたからである。彼はまた商業を奨励したが、それも商業の生ずる利益のかなりの部分を国庫におさめたからである。彼は一面には情事においてもなかなかの通人であった。しかし、皇后はつねに夫を主人としてたて、いっさい見て見ぬふりをした。おそらく自分の魅力も夫の体質を満足させられぬのを世間に知られたくなかったからであろうが、それにもまして、彼女の数ある子どもたちの美貌を世の人々がこぞって称賛していたからでもある。
私は長女以外のすべての皇女を見、皇子たちのうちでは長子だけしか見る機会を得なかったが、この長子の容貌には凶相しか認めなかった。観相家をもって自任するテスタ・グロッサ司祭は私の意見に反対して、
「きみはあの皇子の人相になにを見たのです」ときいた。
「自惚《うぬぼ》れと自殺の相です」
私の予言は的中した。ヨゼフ二世は自殺をした。自分にはその意志はなかったのだが、やはりみずから寿命を断ったも同然であった。彼がそれに気づかなかったのは自惚れのせいである。彼が知りもせぬのに知っていると主張した知識は、もっていた知識すら無効にし、もとうと欲した才気はもっていた才気をそこなった。彼は彼の理屈に眩惑されて答えるすべを知らぬ愚物に話しかけるのを好み、正しい理屈で自分の理屈をぶちこわすものを衒学者《げんがくしゃ》とののしって遠ざけた。
七年まえ、ラクセンブルク宮殿で、彼は貴族の称号を買うために莫大な財宝をつかったものを評して、わしは金で貴族の資格を買うものを軽蔑すると私にいった。そこで、それなら売る連中はなおのこと軽蔑すべきですねと答えたら、くるりと背を向け、語るに足らぬものだと私を思ってしまった。
彼の楽しみは、人なかでなにかしゃべるとき、聞いているものが、少なくともつつましやかに笑うのを見ることであった。というのも、彼はとても話じょうずで、事の経緯《いきさつ》をおもしろおかしく飾りたてたからである。それで、彼の冗談をきいても笑わぬものを、ばか者扱いした。が、じっさいには笑わぬ連中こそ彼の冗談をもっともよく理解したものであった。彼は≪はじめから抵抗せよ≫(オウィディウス)とすすめた医者たちの意見よりも、自殺を奨励したブランビラ〔ヨゼフ二世の主侍医〕の理屈のほうをはるかに好んだ。したがって、だれも彼の向う見ずを諌《いさ》めることができなかった。国家を統治する技能については、彼はなにも知らなかった。人情の機微を知らず、感情をいつわることも秘密をまもることもできなかった。そのうえ、人を罰するときの喜びをあからさまにあらわし、顔つきをくずさぬことも習わなかった。彼はこの技巧をまったくおろそかにし、だれか知らぬものを見かけると、よく見きわめようとして渋面《じゅうめん》をつくったが、その渋面が彼の顔を非常に醜くした。そういう場合、みっともない渋面をするかわりに、オペラグラスをつかうこともできたのだ。しかし、渋面はいかにもあの男はだれだといっているように見えた。
この皇帝はひどく残酷な病気にかかった。というのも、その病気は死のさけがたいことをはっきりしめしながら、最後まで彼に屁理屈をこねる能力を残しておいたからである。彼は自分のしたすべてのことを後悔する不幸と、さらにまたそれを取り消すことのできぬ不幸とを感じたにちがいない。この第二の不幸の理由は、まず取り消すのが不可能であったからであり、次に取り消したら名誉をけがすと考えたからであった。高い家柄に生まれたという意識が断末魔にいたるまで彼の心を去らなかったにちがいない。彼は現在彼のあとをついで支配している弟をかぎりなく尊敬していた。だが、それにもかかわらず、弟の与える主要な忠告にしたがう力がなかった。彼は鷹揚な気持から、死の宣告をくだした才気ゆたかな医師に莫大な褒賞《ほうしょう》を与えたが、また心の弱さから、その数か月以前には、病気が平癒したと信じさせた藪医者どもやペテン師にも褒美を与えている。彼は不幸にもだれひとり自分の死を嘆くものがいないことを知った。これは考えるさえいたましいことだ。他の不幸は姪の皇女よりもさきに死ねなかったことであった。もしも側近者が真に彼を愛していたら、この悲痛な知らせを彼の耳には入れなかったであろう。なぜなら、そのとき彼はすでに臨終がせまっていたのだから、皇女の死を知らせるのを差し控えても、それを失態として処罰する状態に健康がもどるのをおそれる必要はなかったからである。しかし、彼らは十万フロリン与えられた尊敬すべき貴婦人にたいして、皇帝の後継者が寛大さを欠きはせぬかとおそれたのである。しかし、レオポルドはなんびとからも剥奪しなかったであろう。
[死神をピストルで撃つ]
私はウィーン滞在におおいに満足した。男爵夫人の邸で知りあった美しい令嬢たちとも楽しみをきわめた。それで、そろそろ出発しようと考えていたころ、ドゥラッツォ伯爵家の婚礼の宴会でヴェ氏と出会った。彼はシェンブルンへピクニックに行かないかと誘った。そこで、出かけていき、牛飲馬食の歓をつくした。しかし、ウィーンへもどってくると、ひどい消化不良を起こし、二十四時間のうちに墓のふちまで運んでいかれた。
私はわずかに残っていた最後の気力をふりしぼって命を救おうと頑張った。枕もとには同宿のカンピオーニとロッゲンドルフ氏とザロティン氏とがつきそっていた。ザロティン氏は私につよい友情を寄せていたので、私がはっきりことわったにもかかわらず、医者を連れてきた。この医者は職掌がらなんでもかってにやっていいと思い、外科医を呼ばせた。そして、私の意志に反し、私の同意もなしで、瀉血《しゃけつ》をはじめようとした。私は九死に一生の状態にありながら、どういう霊感に助けられたのか知らないが、そのときぽっかり目をあいた。そして、いまやメスをつかんで動脈を切ろうとしている男を見た。そこで、「いかん、よせ」といいながら、腕をひっこめた。しかし、外科医は医者の命令にしたがい、否でも応でも命を救おうと、私の腕をつかんだ。私はナイト・テーブルの上にあった二挺のピストルのひとつをつかみ、あくまで医者のいうままにしようとするやつに向かってぶっぱなした。弾丸は彼の巻毛のひとつまみをむしりとった。この一撃で、外科医も医者も、枕もとにいた連中も全部逃げだした。ただひとり、女中だけは私を見捨てず、ほしいというだけ、いくらでも水を飲ませた。私は四日で完全に健康をとりもどした。
この一件は数日間、ひまな連中を楽しませた。テスタ・グロッサ司祭は、たとえ私が外科医を殺しても、なんのとがめもうけなかったろうと保証した。私を腕ずくで瀉血しようとしたことは、現場に居合わせたふたりの貴族が立証するからというのであった。そのうえ、もしもあの場合に瀉血をしたら、死んでしまったろうとウィーンじゅうの医者がいっているというみんなの話だった。しかし、私はもう二度と病気にかかれないことになった。どんな医者もおそれをなして、往診に来てくれないだろうからだ。
この事件はえらい評判になった。オペラへ行くと、多くの人が私と近づきになろうとし、まるでピストルの一撃で死神を追っ払った男のように私をじろじろ見た。友人にマロルという微細画の画家がいた。これは消化不良を起こした際に瀉血されて死んだのだが、その男もかつてこの病気をなおすには水をできるだけ飲み、じっと我慢しているのがいちばんだと教えてくれた。消化不良の病人はなんとも説明できない苦しみを感じる。だが、吐く気にもならない。吐いても病気がなおらないからだ。私はある男の名言を忘れない。それは名言なんか吐いたことのない人だが、名前はメーゾンルージュ氏。この人も消化不良で死にそうになりながら自宅へ送られていった。キャンズ・ヴァンの盲人救護所の前まで来ると、車が混雑していたので、彼の馬車はしばらくとまっていた。そこへひとりの乞食がやってきて、腹が減って死にそうだから、一スーめぐんでくださいといった。メーゾンルージュは目をあいて乞食をながめ、こういった。
「しあわせなやつだなあ、おまえは」
そのころ、ミラノ出身の踊り子と知合いになった。その子は文学の素養があり、しかもとびぬけて美しく、自分の家へ上流の客を迎えていた。私はそこでクリストフ・エルデディ伯爵やキンスキー公と知合いになった。エルデディは親切で金持で鷹揚《おうよう》だった。キンスキーは才気縦横でアルルカン役がつとまりそうな長所をすべてそなえていた。
その踊り子はまだ生きていると思うが、私に恋心を起こさせた。しかし、ご当人はフィレンツェから来たアンジォリーニという舞踊師に惚れこんでいたので、私には剣もほろろ。いくらごきげんをとっても、鼻の先で笑っていた。劇場の女がだれかに惚れているときには、金貨にものをいわせて攻め落とさないかぎり、まったく難攻不落だ。ところが、私は金持ではなかった。しかし、それでもあきらめずに、通いつづけた。私のお追従《ついしょう》は彼女を喜ばせた。彼女の書いた手紙を見て、いろいろ手を入れ、磨きをかけてやったからである。私はそれと同時に彼女のそばにすわって、その目の美しさを楽しんだ。彼女は兄の手紙も見せたが、それはイエズス会の僧侶で説教師だった。彼女は微細画の肖像をだれかにかいてもらって持っていた。まるでしゃべりだしそうによくかけていた。私は出発の前日、この美人からついになにも得られなかったのを恨みに思い、その微細画をぬすんでやろうと肚《はら》をきめた。本人を手に入れられなかった振られ男のせめてもの腹いせである。そこで、彼女に別れの挨拶をしたとき、こっそり気づかれぬようにぬすんで、ポケットへねじこんだ。翌日、ヴェ男爵にすすめられてプレスブルクへ遊びにいった。男爵はふたりの若い女性を連れてきた。
[ヴェネチアへの帰り道]
とある旅館で馬車からおりると、最初にぶつかったのがタルヴィ勲爵士であった。テュイルリー公園の門番の細君の領収書にコンデのあとヘラブレと書きそえたあの日、エトワールの広場でちょいと剣の先でお見舞い申すように余儀なくさせた、あの男である。彼は私に気がつくと、ずかずかとそばへやってきて、きみには貸しがある、あのときの復讐戦をしようといった。私はもちろん承知だが、そのために連れのお嬢さん方をすっぽかすわけにはいかない、きみとの斬り合いはあとのことにしようと答えた。
「よし、わかった。だが、あの貴婦人方に紹介してもらえまいかね」
「おやすいご用だ。しかし、往来ではまずいよ」
われわれは階段をあがった。彼はあとからついてきた。私はこの男もなかなか勇敢だから、なにか気晴らしの役にたつだろうと思い、紹介してやった。彼は二日まえからその旅館にとまっていたのだが、喪服を着、ワイシャツのカフスがほつれていた。彼は大公兼司教の邸の舞踏会へ行かないかとさそった。その舞踏会については、われわれはなにも知らなかったが、ヴェ氏は行ってみようと答えた。
「あそこへは紹介されなくても行けるのです。だから、わしも行こうと思っているのです。ここではだれも知合いがありませんでね」
彼はすぐに出ていった。まもなく亭主が注文をききにきて、舞踏会のことをくわしく話した。令嬢たちはしきりに行きたがった。そこで、軽い食事をすませると、出かけていった。たいへんな人数であったが、知った顔はひとりもいなかったので、われわれは部屋から部屋へかってに歩きまわった。
ある部屋へはいっていくと、大きなテーブルのまわりに貴族連がすわり、ファラオの賭けをやっていた。札をきっていたのは大公で、その前にスーヴレーヌ金貨とデュカ金貨で一万三、四千フロリンはあった。タルヴィ勲爵士がふたりの貴婦人のあいだに立ってお愛想をいっていた。大公はカードをまぜて、側近のものにきらせたが、フランス人の姿に目をとめると、一枚札をおいてみないかといった。
「かしこまりました、猊下《げいか》。ではこの札で、御前の前にある金額にかけましょう」
「よろしい」
司教は度胸のよいところを見せようとして、鷹揚に答えた。そして、札をまくる、ヘマに出た。勲爵士は落ちつきはらって金をかき集めた。司教は驚いてガスコン人にきいた。
「きみ、きみの札がもしもはずれだったら、どうして金を払うつもりだったのだね」
「それは猊下とは関係のないことでございます」
「きみは頭はともかく、運のいい男だなあ」
タルヴィは金をポケットへねじこんで、その場を立ち去った。
この驚くべき事件を見て、人々はああのこうのと意見を述べたが、結局、あのフランス人は気違いか、さもなければ自暴自棄になった男だ。そして、司教はおおばかだということに落ちついた。
三十分ののち、われわれは旅館にもどった。そして、勝運にめぐまれた男のことをきくと、もうねてしまったということだった。私はヴェ氏に、この事件を利用していくらか金を巻きあげようといった。そして、翌朝はやく彼の部屋へはいっていき、お祝いをいってから、百デュカ貸してほしいと申し込んだ。
「おやすいご用だ」
「ウィーンへ帰ったら返す。証文を書こうか」
「そんなものはいらんよ」
彼はクレミッツ金貨を百枚かぞえて渡し、十五分後に駅馬車でウィーンへ向けてたった。彼の持物といえばスーツ・ケースひとつ、それにフロックコートと長靴一足だけだった。私はその百デュカを四人で公平に分配し、翌日ウィーンへ帰った。
上流階級では、その話でもちきりだったが、われわれが百デュカ巻きあげたことや、勝負に勝ったのがタルヴィ勲爵士であることはだれも知らなかった。そればかりか、ウィーンでは、その男がどんな素姓なのかだれにもわかっていなかった。フランス大使館でも全然見当がつかなかった。のちになってなにかつきとめたかどうか、私は全然知らない。
それはともかく、私は男や女の友人たちに別れを告げて、乗合馬車でウィーンを出発し、四日目にトリエステに着いた。そこから船に乗って、ヴェネチアに向かい、一七五三年の昇天祭の前々日ヴェネチアへ到着した。三年間留守をしたあとで、りっぱな後援者のブラガディーノ氏やそのはなれがたい友人たちに会うのは嬉しかった。彼らは私が申し分なく健康で、りゅうとした姿で帰ってきたのを見て、たいへん喜んでくれた。
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第三十四章
[運命のたわむれ]
私は祖国にもどることができて非常に嬉しかった。人間はだれでもいうにいえない感情から祖国を愛するものだ。私は経験をつんできたし、名誉と礼儀の法則をも知りつくして、同輩のだれ彼よりすぐれたものになった。それで、はやく元の習慣にもどりたかったが、もっと規則ただしく、慎重にやろうと心にきめた。
以前眠ったりものを書いたりした部屋へはいってみると、書類がほこりでおおわれていた。それはこの三年来だれもはいらなかったしるしで、気持がよかった。
帰国の翌々日、総督が、恒例により、アドリア海と結婚式を挙げるために、ブチントーロ号に乗って出かけるので、それに随行しようと、外出の支度をしていると、ひとりのゴンドラの船頭が手紙をもってきて渡した。さっそくあけてみると、ジョヴァンニ・グリマーニ氏からで、直接手渡してほしいという手紙をあずかっているから、拙宅へおいでを願いたいとあった。この人は二十三歳、富豪の貴族だが、私を召喚する権利はなかった。しかし、礼儀上こころよく承諾されるものと期待したのであった。私はすぐ出かけていった。彼は私が無事に帰国したのを喜んだのち、きのう受け取ったという開封の小さい手紙を渡した。それは次のような文面であった。
「あなたのご出発後、微細画の肖像を捜しましたが、どこにもございませんでした。宅ではこれまで泥坊をお迎えしたことがなく、なにもぬすまれたことがございませんので、あれはきっとお手もとにあることと存じます。どうぞこの手紙をあなたへお渡しする方にお返しくださいませ。
フォリアッツィ」
私はおりよくその肖像画をポケットへ入れていたので、すぐグリマーニ氏に返した。彼はたいへん愛想よく受け取ったが、その顔には驚きと満足のようすがうかがわれた。当然のこと、彼はその役目を骨のおれるものと考えていたのであった。そして、こういった。
「あなたにこういうぬすみをさせたのは、あきらかに恋の仕業《しわざ》らしいですね。しかし、それもあまりはげしいお気持でないようでけっこうです。すぐにお返しくださったのを見て、そう考えるのですが」
「ほかの人だったら、こんなにやすやすとお返ししませんよ」
「ありがとうございます。では、今後はわたしの友情にご期待ください」
「ご友情はわたしにはこの肖像画より、さらにまたその本人よりも、貴重なものです。ところで、いかがでしょう、ついでに返事を送らせていただけましょうか」
「けっこうです。ここに便箋もあります。封をなさるにはおよびません」
私の書いた文面は次のとおりである。
「カザノヴァこと、ご尊像を手放しまして、心の重荷をおろしました。この喜びは、みじめな気まぐれからご尊像をポケットへ入れる愚をおかしたときの喜びにはるかにまさるものでございます」
天候が悪く、海との不思議な婚礼が日曜日に延期されたので、私は翌日ブラガディーノ氏のお供をしてパドヴァへ行くことになった。氏は退屈きわまるヴェネチアの式典のあいだ、そこで悠々と閑を楽しもうとしていたのであった。温厚な老人はえてしてああいう騒々しい快楽を若い連中にゆだねるものである。土曜日、昼食をいっしょにすませてから、私は彼の手に接吻し、ヴェネチアへもどるために二輪馬車に乗った。このパドヴァ出発がもう十秒はやいかおそいかしたら、その後の私の身の上もだいぶ変わったものになっていただろう。人間の運命はいろいろの偶然の組合せにしたがうというのが真実なら、私の運命もまったく変わったであろう。それは読者のご判断にまかせる。
とにかく、その宿命的な時間に、私はパドヴァをたった。二時間ばかりしてオリアーゴへさしかかったとき、駅馬を二頭つけた二輪の軽い幌馬車が向うから全速力でやってきた。それにはドイツの軍服をきた男の右側に美しい女がすわっていたが、十歩ばかり前までくると、馬車がいきなり川の側へ転覆した。女は士官の上を越えて投げとばされ、いまにもブレンタ河へ落ちこみそうになった。私はとめろともいわずに馬車からとびおり、婦人のところへ走っていった。そして、スカートがまくれて、美しい秘密の箇所をすべて私の目にさらしていたのを手ばやくおろしてから、ひき起こした。
連れの士官は傷もうけずすぐに立ちあがって駆け寄ってきた。彼女はすっかり度をうしなって起きあがった。スカートがさらけだしたものはすべて美しかったが、それにもかかわらず、彼女は馬車から投げだされたことよりも、そうしたスカートの不謹慎をひどく恥ずかしがっていた。彼女の馬車の御者が私のほうの御者の助けをかりて馬車を引き起こしたが、そのあいだ彼女は私を守護の天使だと呼んで、くどくどと礼を述べつづけた。ふたりの御者はお互いに罪をなすりあって言い合いをしたが、やがて婦人はパドヴァへ向かって出発し、私も予定の道をつづけた。ヴェネチアへ着くとすぐ、マスクをつけて、オペラ座へ行った。
[仲買人の妻と蕩児]
翌日はブチントーロ号についていくために、、はやくからマスクをつけた。天気がよくブチントーロ号は無事にリドへ行くにちがいないと思われた。この式典はめずらしいばかりでなく、特異の趣きがあったが、それは兵器廠の提督の勇断によるものであった。彼は一日じゅう好天がつづくのを命をかけて保証しなければならなかったからである。少しでも逆風が吹くと、船が転覆し、総督をはじめすべての貴族、諸外国の使臣、ローマ法王の特派使節などを残らず溺死させる心配があった。とりわけ法王はこの秘跡めいた奇妙な儀式の創始者であり、その効験の証人でもあって、そのためにヴェネチア人はこの式典を迷信的にまで崇拝していたのだから、その特派使節を溺死させたらたいへんなことになる。おまけに、そんな悲劇が起こったら、ヨーロッパじゅうのものがヴェネチアの総督はついに海との婚礼を完了したといって笑うだろう。
私はサン・マルコ広場の総督官邸の下で、マスクをとってコーヒーを飲んでいた。すると、マスクをした美しい女が通りかかって、仇《あだ》っぽい身ぶりで私の肩を扇子でちょいとたたいた。私はだれだかわからなかったので、気にもとめなかった。コーヒーを飲んでしまうと、ブラガディーノ氏のゴンドラが待っているセポルクロの河岸へ歩いていった。パリアの橋の近くまでくると、私を扇子でたたいたマスクの婦人が十スーの木戸銭で見せる怪獣の看板を熱心にながめていた。私はそばへ寄っていって、さっきはどういうわけでたたいたのだときいた。
「きのうブレンタ河のほとりで命を助けてくださったのに、お忘れになってらっしゃるので、罰にたたいてあげたのですわ」
そこで、詫《わ》びをいい、ブチントーロ号についていくつもりかときいた。彼女は安心して乗れるゴンドラがあれば行きたいのだがと答えた。私のゴンドラは非常に大きかったので、それに乗らないかとすすめた。彼女は連れの男と相談して承知した。その男はマスクをつけていたが、軍服のようすで例の士官だとわかった。われわれはゴンドラへ乗りにいったが、マスクをとるようにすすめると、いろいろ事情があって、顔を見られたくないのだと答えた。そこで、もしもどこかの大使館の方ならおりていただかなければならないというと、たしかにヴェネチアのものだという返事だった。このゴンドラは貴族のものであるから、外国の使臣を乗せると、司法裁判所と悶着を起こす心配があるのだと説明した。
われわれはブチントーロ号のあとについていった。ベンチの上で婦人のわきにすわったので、彼女がマントを着ているのをさいわいに、ちょいちょいみだらなことをしかけた。しかし、彼女は姿勢をかえてしまって私をがっかりさせた。式典が終わると、ヴェネチアへもどって、コロンネの河岸で船からおりた。すると、士官がサルヴァデゴ軒で昼食をするが、ごいっしょに願えればありがたいとすすめたので、承知した。その婦人は美しかったし、顔以外のところも見たので、私は非常に興味をそそられていたのであった。士官は私と彼女とを残して、三人分の昼食を注文するために、駆けだしていった。
そこで、すぐ、私は彼女に恋いこがれてしまったと打ち明け、オペラ座に桟敷がとってあるからそれを提供するといって、もしも私にむだな時間をつぶさせまいと考えるなら、謝肉祭のあいだ十分に世話をすると申し出た。
「だが、つれない態度をとるおつもりなら、はっきりそうおっしゃってください」と、私は彼女にいった。
「では、わたしのことをどういう女だとお考えになっていらっしゃるのかおきかせくださいな」
「あなたが王女さまであろうと、また卑しい身分の方であろうと、ずばぬけて美しいお方だと思っているだけです。ですから、きょう、ご好意のしるしをお見せいただきたいのですが、もしそれがかなわなかったら、食事のあとで、お辞儀をして引きさがります」
「それはお好きなようになさるとよろしいわ。けれども、お食事のあとでは言葉づかいを変えていただきたいですわ。いまのようなお話の調子では、好意がもてませんものね。お心持をさっきのようにずけずけとおっしゃるのは、お互いにふかく知り合ってからのことですわ。そうはお思いになりません?」
「それはぼくにもわかります。しかし、すっぽかしをくわされるのがこわいのですよ」
「まあ、へんな方ねえ! それで、終りから逆にはじめようとなさったのですね」
「きょうのところはお心持のしるしだけいただけばけっこうです。そうしたら、ずっとすなおに、おとなしく、つつしみぶかくいたしますから」
「たいへんおもしろい方ですのね。とにかく、もっとおとなしくおなりなさいよ」
サルヴァデゴ軒の玄関へ行くと、士官が待っていた。そこで、階段をあがっていった。マスクをとると、彼女はきのうよりもいっそう美しく見えた。残る問題は、型どおりの儀礼的な手段で、士官が彼女の夫か恋人か親戚か、またはたんなる同伴者かつきとめることであった。私は情事になれていたので、目をつけた相手がどういう女なのか知りたかった。
われわれはよく食べよくしゃべったが、彼女と彼の態度物腰を見て、これは慎重に進めていかなければならぬと気がついた。桟敷を提供する話は彼女よりも彼にいうべきだと考え、そう話すと、彼はあっさり承知した。しかし、ほんとは桟敷などとってなかったので、口実をもうけて中座し、桟敷を買いにいった。ちょうどサン・モイゼ座で喜歌劇をやっており、ラスキとペルティチが人気をよんでいたので、その桟敷をひとつとった。オペラが終わると、彼らをある旅館へ案内して夕食をふるまい、自分のゴンドラに乗せて、自宅まで送りとどけた。ゴンドラのなかでは、夜の闇にまぎれて、美人は遠慮すべき第三者がいる場合にぼろを出さずに与えられるだけの恩恵をほどこしてくれた。別れしなに、士官はあす便りをするといった。
「どこでです。そして、どういうふうにして?」
「それはご心配になる必要はありません」
翌日の朝、士官の方が訪ねてきたと給仕が知らせてきた。それはきのうの士官であった。わざわざ来てくれたのを感謝してから、私はこれこれこういうものだが、今後お見知りおきを願いたい。ついてはあなたも名前や資格を教えてくれたらありがたいといった。すると、彼は次のようなことを答えた。話はうまかったが、全然私のほうを見なかった。
「わたしはP・Cと申します。父は金持で、取引所でも非常に尊敬されています。家はS・M河岸にあります。ごらんになった婦人はO家の生れで、仲買人Cの妻です。彼女の妹は貴族のP・Mのところへ嫁しております。C夫人はわたしのために夫と仲違いをし、わたしも彼女のために父と仲違いをしました。
わたしはオーストリア軍の大尉の資格がありますので、こういう軍服を着ていますが、軍務についたことは一度もありません。いまはヴェネチア政府から肉牛の輸入をまかされ、シュタイエルマルクやハンガリーから買いつけております。この仕事が順調にいきますと、年収一万フロリンになるのですが、予期しない暴落にあって、その穴埋めをしたり、詐欺破産にひっかかったり、不時の支出が莫大なので、いまは四苦八苦の状態です。あなたのことは四年まえからお噂をきいておりまして、ぜひご面識を得たいと思っていたのです。ですから、一昨日お目にかかれたのは、まったく神さまのお引き合せとしか思われません。どうぞこれからもご昵懇《じっこん》にお願いします。
ところで、いかがでしょう、けっしてご損はかけませんから、わたしの後援者になっていただけないでしょうか。この手形を三枚お渡しします。期日になって割り引かれる心配はありません。と申しますのも、べつに三枚お渡ししますが、その支払期限はこちらよりさきですから。抵当として、牛の輸送も今年いっぱいあなたにおまかせします。したがって、もしもわたしが違約をしましたら、トリエステでわたしの牛を全部差し押えることもおできになるわけです。牛はあのルートを通らなければヴェネチアへ送り込めないのですから」
[テレザと再会する]
私は思いがけない話と計画をきかされて、あっけにとられてしまった。その計画はまるで夢のようなことで、平常私のきらいぬいている無数の悶着の種になりそうだった。それに、知合いも数多くあろうに、ことさら私に白羽の矢を立てたのは、私を巻添えにしようというけしからぬ考えだと思われた。そこで、断固として、そんな手形は受け取れないとことわった。すると、彼はますます能弁になって、私を納得させようとまくしたてた。しかし、どうしてたくさんの知合いのなかから、わざわざ私だけを選んだのか腑に落ちないというと、彼の語勢もたちまち下火になり、じつは目から鼻へ抜けるようなお人柄だと知っていたので、ふたつ返事で引き受けてくださるとあてこんできたのだと答えた。
「だが、これでおわかりになったでしょう。わたしはとんでもない阿呆でしてね、こんなことをしてペテンにかかる危険がないかどうか見当もつかないのですよ」
彼は言訳をいって帰っていったが、夕方サン・マルコ広場の散歩場でお目にかかりたい、C夫人も連れてくるといった。そして、アドレスを渡し、父親には内証でまだそのアパートに住んでいるのだとつけくわえた。それは訪ねてこいという謎であった。しかし、賢明な人間なら、そんな招待はあっさり蹴とばしただろう。
私はあの男からへんな話をもちこまれたのに腹をたて、C夫人をものにしようとする熱意もすっかり影をひそめた。そこで、あいつはぼくをいい鴨だと見ているにちがいないと思い、その手にはのるまいと意を決して、散歩場へは行かなかった。しかし、その翌日、彼の家を訪ねてみた。たんなる儀礼的な訪問だからあとくされはあるまいと考えたのである。
下男が彼の部屋へ案内した。彼は私を抱き、散歩場で待ちぼうけを食わせたのを、丁重な言葉で非難した。それからすぐ例の仕事の話をはじめ、書類を山ほど見せて、うんざりさせた。例の三枚の手形を受け取ってくれたら、牛の輸入事業の共同経営者になってもらう。そういう並々ならぬ友情をしめしてくれたら、年収五千フロリンを与えようといった。しかし、私はもうその話はしてくれるなときっぱりことわった。帰ろうとすると、母や妹に紹介したいからと引きとめた。
そして、部屋を出ていったが、すぐにふたりを連れてもどってきた。母親はいかにも素朴そうな、おっとりした女であった。妹は非常に若く、目のくらむほどの美人であった。十五分もすると、善良な母親は挨拶をして、娘をおいて出ていった。娘は三十分とたたないうちに、態度物腰や、美貌や、ういういしいすべての魅力で、私をとりこにしてしまった。とくに私を打ったのは、溌剌《はつらつ》とした新鮮な才気、そのなかに輝く無邪気さと利発さ、純朴で上品な感情、陽気であどけない闊達《かったつ》さなどであった。そのすべては私がかねがね崇拝してきた女性的魅力の生ける姿をしめしていた。私はそういう魅力をもつ女性にたいしては奴隷のようになってしまうのであった。
C・C嬢は信心ぶかくて慈悲の心のあつい母親としか外出したことがなかった。本は父親の蔵書しか読まなかったが、父親は堅い一方の人なので、小説類は全然なかった。彼女はヴェネチアの町を知りたくてたまらなかったが、だれも訪れてくる人がなく、彼女が自然の奇跡だといってくれるものなどひとりもなかった。兄がなにか書きはじめたので、私は彼女のお相手をしたが、お相手というよりも彼女の質問に答えるのにせいいっぱいであった。彼女を満足させるために、彼女の素朴な考えを新しい考えでおぎなわなければならなかったが、それも彼女にはよくわからなかった。彼女の魂はまだ混沌としていた。私は彼女が美しいとも、心からひきつけられてしまったともいわなかった。それはあまりにも真実であったが、いままで多くの女をそういって欺いてきたので、彼女にたいしてもあやしいことになるのをおそれたのである。
私はもの悲しい気持で、思いふけりながら、その家から出た。彼女のうちに見いだした稀有《けう》の美質にふかく心を打たれたからである。しかし、もう一度会おうとは考えなかった。彼女を妻にしたいと堂々と父親へ申し込めるような人間でないのが悲しかった。しかし、彼女こそ私を幸福にするためにつくられた女だと思われてならなかった。
帰国以来まだマンツォーニ夫人に会っていなかったので、訪ねていった。夫人の応対はいつもながら親切であった。その話によると、十三年まえ、老元老院議員のマリピエロからステッキでなぐられる原因になった、あのテレザ・イメールが、ベイルートから最近もどってきたということであった。彼女はベイルートで辺境伯の世話になり、産をなしたのであった。マンツォーニ夫人は彼女がま向いの家に住んでいるから、驚かせてやろうといって、呼びにやった。十五分ばかりすると、とてもきれいな八歳の男の子を連れてやってきた。それは彼女のひとり息子で、正式に結婚した舞踊家のポンペアティとのなかにできたのであった。ポンペアティはベイルートにとどまっていた。
われわれは思いもかけない再会に驚きながら、少年期をぬけだしたばかりのころ、ふたりの身に起こったことを語りあって楽しんだ。したがって、われわれの思い出はすべて子どものころのことばかりであった。私は彼女の幸運にたいして祝いを述べた。彼女も私の身なりから想像して、やはりけっこうなご身分になられたと祝いを述べるべきだと思った。
しかし、彼女の幸運はその後も身持をくずさなかったら、私の幸運よりもずっと堅実なものであったにちがいない。読者はこの話の一部をさらに五年後に知ることであろう。彼女はえらい声楽家になったが、その成功はすべて才能によるのではなく、美貌の力が大きくひびいていた。
彼女は一別以来のことをながながと物語ったが、もちろん自尊心が口にするのをゆるさない箇所は話さなかった。われわれは二時間も話しあって別れたが、彼女はあすの朝食にきてほしいとすすめた。彼女の話だと、辺境伯が監視させているということだったが、あなたは古い知合いだからなにも疑われることはないといった。それはこの種の仇っぽい女たちのよく口にする常套句《じょうとうく》である。それから、さらに今晩オペラ座の桟敷へ来るようにとさそい、パパファヴァ氏も喜ぶだろうといったので、出かけていった。パパファヴァ氏は彼女の名付け親であった。翌日は朝はやく朝食のご馳走になりにいった。
彼女は息子といっしょにまだベッドのなかにいた。息子は、つねづねしつけられていたとみえて、私が母親のベッドの裾に腰をおろすと、すぐに起きて出ていった。私は彼女と三時間すごしたが、最後の一時間は重大であった。読者はその結果を五年後に見るであろう。彼女はヴェネチアに二週間滞在していたが、そのあいだ、私はもう一度会った。そして、彼女が出発するとき、ベイルートへ訪ねていくと約束したが、その約束ははたさなかった。
祖国へもどった当座、私は父の死後に生まれた弟のために奔走しなければならなかった。彼は僧侶になる神聖な天分をそなえているのだが、資産がないのでなれないといっていた。無知で、ろくな教育もなく、ただ容貌の美しいのだけが取柄だったが、知合いの女たちから説教にたいしてしっかりした才能があるといわれるのを真に受けて、僧侶になったら将来洋々たる幸福がひらけると予想していた。
私は彼の望みにしたがって八方奔走し、ついにグリマーニ司祭に迫って資産をつけてもらうことに成功した。彼はむかしわれわれの家の家具をすべて巻きあげながら、一文も払わなかったのだから、いやとはいえなかった。そこで、持家の一軒を弟に売りわたしたことにして、終身年金をつけた。それで、弟は二年後に有資産者として聖職にはいることができた。しかし、その家はすでに抵当にはいっていたので、この資産は架空のものでしかなかった。まさに二重売買であった。このやくざな弟の行状については、私の運命の変転とからみあってくるときにまた話そう。
P・Cを訪問した翌々日、街でばったり彼と出っくわした。彼は妹があなたの噂ばかりしており、あなたのいったことを残らずおぼえている、母親も娘があなたと知合いになったのを喜んでいると話した。そして、
「妹は結婚の相手としてもりっぱなもので、一万デュカの婚資を持っています。あした遊びにきて、母や妹とコーヒーを飲んでください」とすすめた。
私は二度と彼の家へは行くまいと心にきめていたのに、訪ねていってしまった。男はやすやすと決心をひるがえすものだ。この二度目の訪問のときには、三時間のあいだ清らかな話をしたが、その三時間は夢の間に流れさり、別れを告げたときには、すっかり恋の病いにとりつかれて、なおるすべもないような気さえした。帰りぎわに、私は神のおぼしめしで彼女の夫となる人が心からうらやましいというと、彼女は美しい顔をまっ赤にそめた。そんなことをいわれたのははじめてだったのである。
帰るみちみち私は心に生まれた情熱の性格をこまかく調べてみた。そして、非常に残酷なものだと認めた。私はC・C嬢にたいしてまじめな男としても道楽者としても行動することができなかった。彼女を妻にできると自惚れるわけにはいかなかったが、彼女を誘惑しろとすすめるやつがいたら殺しかねない気持であった。そこで、気晴らしをするために、賭博者の出入りするカジノへ行った。賭博は恋に悩む男には恰好の鎮静剤になる。
百ゼッキーニばかりもうけて賭博宿から出たとき、ある淋しい通りで、老いさらばえて腰がくの字にまがった男が近寄ってきた。ボナフェーデ伯爵だと、すぐに気づいた。彼は短いまえおきのあとで、貧困にせまられ、気高い家族を養う義務に絶望しきっていると嘆いて、
「もう恥も外聞もありません。どうか一ゼッキーノめぐんでください、五、六日は生きていけますから」といった。
私はすぐ十ゼッキーニやった。礼をいうような下卑たことはさせたくなかったが、彼が涙をながすのをとめることができなかった。彼は、別れしなに、自分を不幸のどん底へつきおとしたのは、長女の根性で、あれは美人になったのに、生活のために貞操を売るよりも死んだほうがましだといっていると嘆いた。
「わしはあれの気持を認めてやることもほめてやることもできぬのです」
貧苦にせまられた彼の希望がわかったので、住所をきき、いずれ訪ねていくと約束した。その操ただしい娘には十年来会ったことがなかったので、あまり気にとめてもいなかったが、どんな女になったか見てみたかった。そこで、翌日さっそく行ってみた。伯爵はビリア街に住んでいた。その家にはほとんど家具がなかったが、私は驚きもしなかった。父親が不在で、娘だけがいた。若い伯爵令嬢は、私がはいっていくのを見て、階段のところまで迎えにきた。かなりいい身なりをしていた。聖アンドレアの要塞で会ったときと同様に、美しくいきいきとしていた。
私の来訪を父から知らされていたので、たいへん喜んで、私に接吻した。彼女は最愛の恋人にたいしても、それより心のこもった扱いはできなかったろう。それから、自分の部屋へ案内し、母親は病気で床についているので、ご挨拶に出てこられないとことわってから、あなたに会えて嬉しくてたまらないと、またはしゃぎだした。友情の隠れ蓑《みの》のかげでやりとりした接吻は、だんだんはげしくなるにつれて、ふたりの官能をあおりたてた。それで、事が型どおりに運べば、訪問の終りになってようやく実をむすぶはずのことが、はじめの十五分で起こってしまった。そのあとで、われわれの役割は、本心からでも見せかけでも、さも意外なあやまちをしてしまったように驚いてみせることであった。私はまじめな顔で、気の毒な伯爵令嬢に、あれは変わらぬ愛のまえぶれにほかならなかったと誓うしかなかった。彼女は私の言葉を信じた。私もそのときはそう信じていた。彼女は落ちつきをとりもどすと、彼ら一家の貧しさや、乞食のようにヴェネチアの町をうろついている弟たちや、全然食べ物をもってこられない父親のことなどを話しはじめた。
「きみには恋人がいないの」
「まあ、恋人だなんて! こんな家に住んでいる娘の恋人になろうなんて粋興な男がいるでしょうか。でも、あたし、身体でかせぐために、三十ソルディで身をまかせるようにできた女でしょうか。こういうみじめな家に住んでいると、ヴェネチアじゅう捜しても、あたしにもっといい値をつけてくれる人はひとりもいませんわ。それに、あたし、身体を売るようにできているとは思いませんの」
それから、彼女はさめざめと泣きだした。その涙は私の腕も心も魂も萎《な》えしぼませてしまった。いたましい貧困の図は恋心をおびやかし、逆に嫌悪をおぼえさせるものだ。彼女はちょいちょい会いにくると約束しないうちは私を帰そうとしなかった。私は彼女に十二ゼッキーニ渡した。この金額は彼女を驚かせた。そんな大金を手にしたことがなかったのである。
この事件の翌日、P・Cが朝はやくやってきて、非常に親しげなようすで、妹が彼といっしょにオペラ座へ行くのを母親がゆるしてくれたので、まだ一度も芝居を見たことのない妹は大喜びではしゃいでいる。あなたもよかったらどこかで落ち合わないかといった。
「妹さんはぼくをさそうのをご存じなのですか」
「知っています。とても楽しみにしていますよ」
「お母さまもご存じですか」
「母は知りません。しかし、たとえ知っても、文句はいわないでしょう。あなたのことを尊敬していますから」
「では、桟敷をとるようにはからいましょう」
「二十一時(午後三時)にサンティ・アポストリの広場で待っていてください」
あの変り者はもう手形のことは口にしなくなった。私が彼の情婦のことを気にかけず、妹が気に入ったと見てとって、妹を売りつけようというりっぱな計画をはじめたのであった。娘をそんな息子にまかせた母親や、そんな兄の手のなかににぎられている妹が気の毒になった。しかし、私は据えられた膳をことわるほどの善人ではなかった。むしろ反対に、彼女を愛して、ほかの罠《わな》に落ちこむのを防いでやるべきだと考えた。もしも私がことわったら、彼はほかの男を捜すだろう。そう考えると、気持がいらいらしてきた。彼女は私にくっついていれば、危険に見舞われる心配はないと思われたのであった。
[C・Cとのあいびき]
そこで、サン・サムエーレ座でやっていた正歌劇《グランド・オペラ》の桟敷をとった。そして、昼食のことなど気にもとめずに、いわれた時刻に定められた場所で彼らを待っていた。C・C嬢は優雅なマスクをして、うっとりするほど美しかった。私は彼らを自分のゴンドラに乗せた。P・Cが軍服を着ていたので人目につきやすく、美しいマスクの娘が彼の妹だと見ぬかれるかもしれなかったからである。彼は情婦が病気なので、ちょっと見舞ってきたいから、そこの河岸でおろしてほしい、オペラは桟敷の番号を教えておいてくれたらあとから行くといった。私を驚かせたのは、C・C嬢が私とふたりだけでゴンドラに残るのをおそれもきらいもしなかったことである。兄が妹を私にあずけたのは驚くに足りなかった。もちろん金にしようという魂胆であったにちがいない。私はC・C嬢に開幕の時間まで船を漕がせよう、それに暑さがひどいからマスクをとったほうがいいといった。彼女はすぐにマスクをとった。私はあくまで彼女にたいしてみだらなことをしまいと決心していたが、彼女の顔に上品な安心感があふれ、目に美しい信頼と心の喜びが輝いているのを見ると、愛情がおさえきれないほどになった。
しかし、なにかいおうとすると、恋の話しかできなかったし、そんな話は危険だったので、どんなことをいったらいいかわからず、じっと彼女の顔を見つめているよりほかはなかった。彼女の羞恥心を驚かすのをおそれて、ふくらみかけた胸へ目をやることもできなかった。彼女はあまり前へ身体をかがめていたので、マントのレースをとおして、乳房のさきがのぞかれた。が、私はそれには一瞬しか目をとめず、すっかりおびえて、二度と目を向けなかった。
「なにかお話なさってよ」と、彼女はいった。「顔ばかりじろじろ見てらしって、なんにもおっしゃらないのね。あなたきょうは損をなさいましたわね。だって、あたしがいっしょでなければ、兄はきっとあの方のところへお連れしたでしょうからね。兄の話ですと、あの方はとてもお美しくて、天使のように才ばしった方だそうですね」
「お兄さんの好きな方というのは、ぼくも知っています。しかし、一度も訪ねたことがありませんし、これからもけっして訪ねないでしょう。ですから、ぼくはあなたのために損なんかしませんよ。ぼくが黙っているのは、あなたとこうしている幸福とぼくを信用してくださる美しいお気持が嬉しくてたまらないからですよ」
「そううかがって、あたしとても嬉しいわ。でも、あなたを信用しないなんて、どうしてあたしにできましょう。あたし、兄といっしょにいるときよりも、ずっと気持がくつろぎ、安心できるのですもの。母までもいってますわ、あなたはヴェネチアじゅうでいちばん誠実なお方だ、それはまちがいのないことだって。それに、あなたはまだ結婚していらっしゃらないのでしょ。あたし最初にそのことを兄にたずねましたのよ、まだおぼえていらっしゃるでしょ、神さまのおぼしめしであたしの夫になる人が心からうらやましいっておっしゃったこと。あたし、さっき、心のなかでいいましたの、あなたを夫にする人はヴェネチアじゅうでいちばんしあわせな娘だって」
天使のようなまじめさでいわれたこんな言葉をききながら、私はこの言葉がでてきた口へ接吻を押しつけることもできなかった。そのとき私がどんな苦痛を耐えしのばなければならなかったか、それがわからない読者は気の毒千万である。しかし、私は同時に、天使の化身かと思われる娘から愛されていることを知って、甘い喜びが胸にあふれてくるのであった。
私はこういった。
「美しいお嬢さん、ぼくたちの気持がこんなにもぴったり一致したのだから、ふたりがはなれられない間柄になったら、どんなに幸福でしょうね。しかし、ぼくはあなたのお父さんになるつもりですよ」
「あなたが、お父さんに? まあ、へんなお話ねえ! あたしは十四なのよ」
「ぼくは二十八です」
「まあ! あなたのお年であたしのような娘をもっている人があるでしょうか。うちの父があなたのようだったらなんて、考えるだけでもおかしくなりますわ。そうしたら、きっとこわくもなんともないし、ちっとも遠慮しないですみますけど」
開幕の時間が近づいたので、われわれはサン・マルコの小広場で船からあがった。彼女ははじめてみる光景にすっかり気をとられてしまった。やがて日が暮れてきたので、アイスクリームを食べにいき、それから、オペラへ行った。彼女の兄は三幕目になってようやくやってきた。それが彼の計算だったのだ。私はある旅館で彼らに夕食をふるまったが、美しい娘がたいへん喜んで、さかんに食べるのを見て楽しくなり、昼食を抜いたことも忘れてしまった。食事のあいだ私はほとんど口をきかなかった。恋の病いが昂進《こうしん》して、もう我慢のできない状態に追い込まれていたのであった。そこで、歯が痛むのだというと、彼らは同情して、私に沈黙をまもらせておいてくれた。
食事が終わると、P・Cは妹にこの人はおまえに恋いこがれているのだから、接吻をゆるしてあげたら、歯の痛みもうすらぐだろうといった。彼女は返事のかわりに、口もとに笑みをたたえながらくるりと私のほうへ向いて、唇をつきだした。もしもその接吻をことわったら、失礼なことになるだろう。しかし、私は儀礼的な抱擁にとどめ、頬へ、しかも冷ややかに接吻をした。
「なんて接吻だ!」と、道楽者の兄がさけんだ。「さあ、さあ、恋人同士の接吻をしなさい」
しかし、私は身動きもしなかった。へんにおだてられるのがうるさかった。すると、妹は美しい顔をそむけて、兄にいった。
「そうせっつくのおよしなさいよ。この方、あたしのことおきらいなのですから」
この思いがけない言葉に私は愕然《がくぜん》とし、胸を引きちぎられる思いで、ついにこういってしまった。
「なんですって! ぼくが遠慮している気持がわかっていただけないのですか。あなたのことをきらいだと思うのですか。とんでもないまちがいです。あなたを愛してることを知っていただくのに、接吻する必要があるなら、その美しい、にこやかなお口へ、こういうふうに接吻してあげますよ」
私は彼女をやさしく抱きよせて、接吻を与えた。それは彼女が当然受ける値うちのある接吻であり、私が与えたくて与えたくて死ぬ思いだった接吻であった。しかし、雌鳩のような小娘は、その接吻のはげしさに驚き、禿鷹《はげたか》の爪にとらわれたことに気がついた。そして、まっ赤に上気して私の腕から身をはなしたが、私が自分に恋していることをそういうはげしい仕打ちで知らされたのに肝をつぶしているようであった。兄は私に拍手をおくった。彼女はてれかくしにマスクをかぶった。
私はこれでも私の気持を疑うかと彼女にきいた。彼女は「これで納得がいきましたが、あたしの誤解をとくのに、あんなお仕置きをしないでもよかったでしょう」と答えた。
この答えは彼女の感情をそのままあらわしたもので、私にはたいへん気持よく思われたが、やくざな兄はそれに満足せず、ばかげた返事のように思った。私はふたりを自宅へ送ってから、心嬉しく、しかもまた非常に悲しい気持で家へもどった。
読者は次の諸章でこの恋の発展とそのために私の引き込まれたいろいろの事件を見るであろう。
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第三十五章
[公園でのかけっこ]
翌々日、P・Cが私のところへ来て、妹が母親に、あたしはカザノヴァさんと愛しあっている、結婚しなければならないなら、あの人とでなければ幸福になれないといったと、勝ちほこったようすで告げた。
「ぼくは妹さんがとても好きです。しかし、お父さんがゆるしてくださるでしょうか」
「さあ、ゆるさないと思いますね。しかし、おやじはもう年ですからね。まあ、ゆっくり、愛してやってください。おふくろも、きょう妹がきみとオペラ・コミックへ行くのに賛成しましたよ」
「そうですか。それじゃ、さっそく出かけましょう」
「ところで、ちょっとお願いがあるのですが」
「いってみてください」
「じつは、いま、キプロス島の葡萄酒の安い売物があるので、ぼくも、ひと樽、六か月の手形で買おうと思うのです。すぐに買手がついて、もうかるにきまってますからね。ところで、それには保証人が要《い》るんですが、売手はきみならけっこうだというのです。どうでしょう、ぼくの手形に裏書をしてくれませんか」
「おやすいご用です」
「では、この手形です」
私はためらわずに署名した。
こんな場合に助力をことわると、腹いせに恋路のじゃまをされるかもしれない相手だ。惚れた弱味で、ことわるわけにはいかない。まえと同じ場所で二十時(午後二時)に出会おうと約束してから、ふたりとも上きげんで別れた。
私は服を着かえて外へ出、桟敷を頼みにサン・マルコの広場へ行った。十五分たつと、ま新しい服を着たP・Cがマスクをつけてやってきた。私は軍服をぬいだのはよかったとほめ、桟敷の番号を教えた。ふたりはそこで別れ、私は市場へ行って、白い手袋一ダース、絹の靴下一ダース、それから金の留金のついた刺繍《ししゅう》のある靴下留めを買った。靴下留めはすぐ自分の靴下の上へつけた。心の天使にこの最初の贈り物をするのは嬉しいきわみだった。
買物をすませると、約束の時間になったので、サンティ・アポストリの広場へ走っていった。ふたりは、時間をたがえずにもう来ており、あちこち見まわして私を捜していた。P・Cは用事があるのでちょっと失敬する。桟敷の番号はもうわかっているからあとで行くといった。
そこで、私はC・C嬢にオペラの時間になるまでゴンドラでひとまわりしてくるよりほかはあるまいと話した。
「それより、あたし、ツェッカ公園へ行ってみたいわ」
私はそれに賛成したが、ふたりともまだ昼食をすましていなかったので、公園へ行ったら食事ができるといって、渡しのゴンドラへ乗った。
サン・ビアジォへ行くと、まえに来たことのある庭を一日じゅう借りきり、だれもはいってこられないようにした。そして、料理を注文してから、部屋へあがった。そこで、マスクのついているマントをぬぎ、庭へ散歩におりていった。
C・C嬢は短いタフタの胴衣と同じ生地のスカートしか身につけていなかった。この軽い服装はうっとりするほど美しかった。恋に燃える私の目はこの布をつきやぶって素裸の彼女を胸にえがき、溜息をついた。自制の義務をのろい、若い盛りのはげしい本能をおさえつけようとするすべての感情をのろった。
長い並木道へはいっていくとC・C嬢は、数日間閉じこめられていたグレーハウンドの牝犬が主人の部屋から出て、ようやく芝生へ来たときのようになってしまった。こういう場合に、犬は喜んで、まったく本能に身をまかせ、右へ左へ、前へうしろへ、まっしぐらに駆けだす。しかし、そのたびに狂わしい疾走をゆるされたのを感謝するように主人の足もとへとんで帰る。C・C嬢はその日のようにただひとり自由を楽しんだことが一度もなかった。だから、グレーハウンドのように、息がきれるまで走りまわったが、ようやく気がすむと、私が肝をつぶして身動きもせず、じっと彼女を見つめていたのをおかしがって、きゃっきゃと笑った。それからひと息ついて、額の汗をふくと、駆けっこをしようと私にいどみかかった。私もおもしろいと思って承知したが、ひとつの賭けをいいだした。
「負けたものは勝ったものの望みどおりにすることにしましょう」
「ええ、いいわ」
競走の決戦点は潟《かた》に向かっている門ときめた。その門にさきにさわったものが勝ちというわけだ。私はもちろん勝つことにきまっていたが、彼女が罰にどんなことをさせるか知りたかったので、負けることにした。そして、駆けだした。彼女は全力をかたむけて走った。私は速度を加減し、彼女が四、五歩さきに門にさわるようにした。彼女はぜいぜい息をつきながら、どういう罰をくわせようかと考えていたが、やがて茂みのうしろへ走っていった。そして、まもなく出てくると、指輪を身体のどこかへ隠したから、それを捜せといった。あたしの身体じゅうどこを捜してもいい。それでも見つけられなかったらもうあなたのことをあまり尊敬しないことにするというお達しだった。
気のきいた思いつきだ。下心は見えすいていたが、かわいいかぎりだ。しかし、図にのってはいけない。彼女の無邪気な信頼をもっと力づけてやらなければならないのだから。ふたりは草の上にすわった。私はポケットや胴衣やスカートのひだをさぐり、靴をぬがせ、丹念にゆっくりと膝の下についていた靴下留めまでスカートをまくった。そして、靴下留めをはずしてみたが、見つからなかった。そこで、ふたたび靴下留めをかけ、スカートをさげた。それから、なにをしてもいいことになっていたので、腋の下をさぐった。彼女はくすぐったがってきゃっきゃと笑った。
しかし、私はようやく指輪をさぐりあてた。それをとるには、胴衣の紐をとき、さらにきれいな乳房にさわらなければ、手がとどかなかっただろう。ところが、都合よく、指輪は、ずっと下に落ちたので、私はスカートのベルトの上からひろいあげた。こうして私は飢えた目と手を楽しませたが、彼女は私の手がふるえているのを見てびっくりし、
「どうしてこんなにふるえてるんですの」と、きいた。
「指輪を見つけたのが嬉しいからですよ。とてもうまくお隠しになったんでね。でも、敵討ちをさせてもらいますよ。こんどは負けやしませんよ」
「じゃあ、やってみましょう」
[わが恋のジレンマ]
美しい娘ははじめあまり速く走らなかった。私もしいて追い抜こうとはしなかった。決勝点の近くへ行ったら、一気にスピードをかけて彼女よりもさきに門にさわれると、たかをくくっていたのであった。彼女のほうにそういう計略があろうとは考えられなかった。ところが、彼女はその計略をもっていたのだ。決勝点から三十歩のところへ行くと、俄然《がぜん》速力を速めた。私はしてやられたと思い、最後の手段に訴え、「あっ! しまった!」といいながら、そこへころんだ。
彼女はふりかえった。そして、私が怪我をしたと思い、すぐに引き返してきた。私は彼女に助けられて、痛い痛いといいながら起きあがり、片方の脚がきかなくなったふりをしたので、彼女は途方にくれたようだった。だが、私は彼女より一歩前にいるのに気がつくと、隙をうかがって、げらげら笑いながらいきなり駆けだし、門にさわって、凱歌を奏した。
かわいい娘はあっけにとられ、どういうことなのか見当がつかなかった。
「それじゃあ、怪我はなさらなかったのね」
「怪我なんかしませんよ、わざところんだんですから」
「あたしの親切をあてにして、わざところんで、だしぬいたのね。あんたがそんなことのできる人だとは思わなかったわ。インチキで勝つなんて、ゆるされないことよ。あたしは負けたんじゃないわ」
「ぼくの勝ちですよ。あなたよりもさきに門に着いたんですからね。計略には計略ですよ。あなただって、最後にとびだして、ぼくをだまそうとしたじゃありませんか」
「でも、あれはいいのよ。あんたの計略はペテンよ、インチキよ」
「それでも勝利を得ましたからね。≪幸運または策略により勝利を得るとも、勝利はつねにほむべきものなり≫(アリオスト)ですよ」
「その文句は何度も兄からきいたわ。けれど父からきいたことは一度もなくてよ。でも、いいわ。負けたことにしましょう。なんでも命令して、罰をきめてちょうだい。おっしゃるようにしますから」
「ちょっと待ってください。まあ、すわりましょうよ、考えますから」
私は少し考えてから、こういった。
「では、罰として、靴下留めをとりかえっこしましょう」
「靴下留め? でも、さっきごらんになったでしょ、あたしのは古くてきたなくて、一文の値うちもありませんわ」
「かまいません。一日に二度、やさしい恋人の心にぼくの姿が浮かぶとき、ぼくも同時に恋しい人を心にえがけますからね」
「すばらしい考えよ、とても嬉しいわ。それじゃ、あたしをだましたのをゆるしたげるわ。さあ、あたしのきたない靴下留めよ」
「では、ぼくのをあげます」
「まあ! 嘘つき! なんてきれいでしょう! ありがたくいただきますわ。お母さんがきっと喜ぶわ! あんたこれどなたからか、いただいたばかりなのでしょ。新しくてぴかぴかしてますもの」
「いや、人からもらったのじゃありませんよ。あなたのために買ったのです。だが、あなたに受け取っていただくにはどうしたらいいか、さんざん頭をしぼりましたよ。そして、愛の神のお指図で、駆けっこの褒美にしようと思いついたのです。だから、あなたが勝ちそうになったとき、どんなに気をもんだかわかりませんよ。あんなインチキをしたのも、やっぱり愛の神のお指図で、あなたのりっぱなお人柄をあてにしたのですよ。だって、もしもぼくを助けにもどってこなかったら、あなたは情け知らずになるのですからね。ねえ、そうでしょ」
「でも、あたしがどんなに心配したかおわかりになったら、あんな計略はおつかいにならなかったと思うわ」
「そんなにぼくのことを気にかけてくださるのですか」
「あたし、この気持がわかっていただけるなら、どんなことでもしますわ。それで、この靴下留めねえ、これからはほかのは脚へつけないとお約束しますわ。兄にもけっしてぬすませはしません」
「兄さんはそんなことをするのですか」
「ええ、しますとも、これが金ならばね」
「金です。しかし、兄さんにはメッキだといっておきなさい」
「でも、このきれいな留め金のつけ方を教えてちょうだいよ。あたしの脚はとても細いんですもの」
「かしこまりました。しかし、さきに食事をしましょうよ」
それからわれわれは食事にいった。そして、ふたりとも十分に食べた。食後、彼女はますます快活になり、私はますます恋心を燃やした。しかし、われとわが身に課した掟《おきて》のために、ますます哀れむべきものになった。彼女ははやく靴下留めがしてみたくて、手伝ってほしいといった。しかし、ひどくまじめで、なんの下心もなく、また媚《こ》びを見せる気持も全然なかった。彼女は十四歳になってもまだ恋をしたことがなく、ほかの娘たちとつき合ったこともなく、無邪気一方だったので、欲望の兇暴さも、欲望を引き起こす動機も、男と差向いでいる危険も全然知らなかった。それで、本能にうながされてひとりの男に恋しい気持を寄せると、その男が全幅の信頼に値すると思い込み、無限の信頼を寄せていることを知らせなければ愛してもらえないと考える。
C・C嬢は膝のあたりまでスカートをまくりあげた。しかし、靴下留めを膝の上へするには、靴下が短すぎることがわかったので、もっと長い靴下をはくときにつかおうといった。が、私は、そのとき、すかさず、買っておいた真珠色の一ダースの靴下を出してやった。彼女は夢中になって感謝し、私の膝の上にのって、父親が贈り物をしてくれたときと同じように私に接吻した。私は湧きあがる欲望を超自然的な力でおさえながら、彼女に接吻をかえした。しかし、それでも、彼女の接吻のひとつひとつが王国に値するといった。
C・C嬢は靴下をぬぎ、私のやったのとはきかえた。新しい靴下は太股の途中まであった。彼女は私が惚れているのを知っていたので、そんなところを見せると私が喜ぶだろうと気づいてはいたが、自分ではたいしたこととも思わなかったので、わざともったいぶって見せたら、かえってばかだと思われやしないかと考えたのであった。彼女がそういうふうに無邪気なのがわかればわかるほど、彼女をものにする決心がにぶるのであった。
ふたりはまた庭におり、夕方になるまで歩きまわった。そして、あいかわらずマスクをつけて、オペラへ行った。劇場が狭くて、人目につきやすかったからである。C・C嬢はもしもこんな楽しみをしたことが父親に知れたら、二度と外へ出してもらえなくなるだろうと信じていた。
[たいへんな見世物]
P・Cの姿が見えないので、われわれは奇妙に感じた。左側の桟敷にはスペイン大使のモンタレグレ氏が情婦のボラ嬢と並んでいた。右側にはマスクをした男と女がいたが、われわれと同じようにマスクをとろうとしなかった。彼らはしじゅうわれわれに目をつけていたが、C・C嬢は背を向けていたので、気がつかなかった。バレーがはじまったとき、彼女は桟敷の手摺の上にオペラの台本を置いた。すると、マスクの男が手をのばしてそれをとった。そこで、ふたりのうちのどちらかの知合いにちがいないと思って、C・C嬢にいうと、彼女はすぐに兄だと気がついた。してみると、連れの女はC夫人にちがいない。P・Cは私の桟敷の番号をきいて、その隣を買ったのだ。きっと妹にその女と夕食をさせるにちがいないと私は見てとった。それは不愉快きわまることであったが、正面きってことわらないかぎり、さけられることではなかった。しかし、私は恋の奴《やっこ》になっていた。
二度目のバレーが終わると、彼は情婦を連れて私の桟敷へ来た。型どおりの挨拶のあとで、互いに知合いになった。われわれは彼のきめたカジノへ夕食にいかなければならなかった。マスクをとると、女たちは接吻し、C夫人はわが天使の魅力をほめちぎった。食卓ではしじゅう彼女をちやほやと甘やかしたが、彼女は世間馴れがしていないので、堅くなっておどおどするばかりだった。C夫人はいろいろお愛想をいいながらも、彼女の若々しい魅力に嫉妬しているようであった。私が夫人を見かぎって彼女を選んだからである。P・Cは気の違ったようにはしゃぎ、とめどもなく野卑な冗談を連発したが、笑うのは情婦だけであった。私はきげんをそこねて、むっつりしていた。C・C嬢はその冗談がわからなかったので、なにもいわなかった。こうして、われわれの会食はひどくしらけたものになってしまった。
デザートになると、彼は酔いにかられて、自分の女に接吻し、きみもきみの女に接吻しろとけしかけた。私はお嬢さんを心底から愛しているから、彼女の心をほんとにつかんだあとでなければそんなことはできないと答えた。C・C嬢はこの言葉に感謝したが、彼女の兄はふたりがまだそんなきれいな関係だかどうか信じられないといい張った。
C夫人が彼をさえぎって口をつぐませた。そこで、私はポケットから白い手袋を取り出し、六組を夫人に贈り、残る六組をC・C嬢に贈った。彼女に手袋をはめてやりながら、彼女からはじめてそういう恩恵を得たかのように、何度もうやうやしく美しい腕に接吻した。彼女の兄はそれをあざ笑い、食卓から立ちあがった。
そして、C夫人を引っぱっていってソファに腰をおろした。夫人もだいぶ飲んだので、だらしなく胸をはだけていたが、さすがに男のしつっこい手をはらいのけるふりをした。しかし、彼は妹が背を向けて鏡の前へ行ったのを見、また私が彼のみだらな振舞いに眉をしかめているのを見ると、夫人のスカートをくるりとまくった。そして、まえにプレンタ河の岸で彼女が馬車からほうり出されたときに見、またそのあとでさわりちらしたことのある場所を、私にながめさせた。彼女は男を罰するふりをして、何度も平手打ちを加えたが、おもしろそうに笑っていた。笑いすぎて身をまもる力がなくなってしまったように、私に思い込ませようという算段だった。そして、しきりに身をもがいてじゃまをしたが、それにもかかわらず、しまいにはすっかりまる出しにされてしまった。だが、それは彼女の思うつぼであった。私は黙っているわけにもいかず、しらばっくれて、放埓《ほうらつ》な女の魅力をほめそやさなければならなかった。
最後に、けしからぬ道楽者は落ちつきをとりもどしたように見せて、彼女に詫びをいい、乱れたスカートをなおして、姿勢をかえさせた。それから、すわったままで、動物的な状態のものをさらけだし、女を膝の上へまたがらせていどみかかった。女はあいかわらず彼の腕から逃げだせないようなふりをして、するままにさせた。このみだらな光景を、C・C嬢はすでに鏡のなかで見てしまったかもしれないが、私は彼女の目からさえぎろうとして、両方のあいだへ立ちはだかり、彼女につかぬことを話しかけた。彼女は火のようにまっ赤な顔をしていたが、そのとき小さいテーブルの上でたたんでいた白い手袋の話をした。
あさましいいとなみが終わると、野蛮人は私のところへ接吻にきた。だらしのない夫人も彼の妹に接吻し、なにも見はしなかったと思うがときいた。C・C嬢は賢明にもなにか見たとしてもどういうことだか全然わからなかったと答えた。しかし、私は彼女の清らかな心がひどいショックを受けたのをはっきり見てとった。私自身の気持については、男の心をご存じの読者の判断にまかせよう。女神のようにあがめている純真な娘の前でこんな場面が演じられるのを、どうして我慢できよう。しかも、彼女を私自身からまもるために、私の魂が罪と徳の争いに悩みぬいていたときだ。なんという苦しみだったろう! 怒りと憤慨が私の全身をわななかせた。地獄を発明した先人たちは、もしも知っていたら、この責苦を加えずにいなかっただろう。
あのやくざ者はああいうことをして私に途方もない友情のしるしを与えたと思っていた。自分の情婦の名誉をけがし、自分の妹を堕落させ、売淫の道を教えたことも意に介さなかった。彼はまったく盲目も同然、白痴のようなやつで、ああいう破廉恥な振舞いが私をいきりたたせ、血を見るようなことになるのも必定だったのに、全然それに気がつかなかった。私がどうしてやつを絞め殺したい気持をおさえられたのか、いまもってわからない。
翌々日、彼が訪ねてきたので、私は口ぎたなく責めた。すると、彼は自分がC夫人にしたようなことをきみがまだ妹にしていないとは、思いもおよばなかったからだと説明したが、よくもぬけぬけとそんな言訳がいえたものだ。
私は彼らを自宅へ送り返してから、ひと晩眠ったらこの怒りもしずまるかと、それをあてにして家へねに帰った。
翌朝目をさましたとき、昨夜のはげしい怒りは消え、憤慨だけが残っていたが、恋しさはもうおさえられないほどになっていた。自分にはC・C嬢を幸福にしてやることができないので、彼女が気の毒でならなかった。しかし、もしも彼女を捨ててしまったら、あのやくざな兄が彼女の美貌を種に金もうけをするために、どんなことをするかしれないので、それをさまたげるために力のおよぶかぎり骨をおろうと決心した。事はさしせまっていると思われた。まったく、あいつのやり方は言語道断だ! ひとを誘惑する手段としても、あれは前代未聞だ! あんなことをして私の友情を手に入れようとは、非常識もはなはだしい! あれは保身のためにいっさいを犠牲にして恥じない、並みはずれた蕩児の自堕落な気持のあらわれにすぎない。しかし、私はそれを友情のしるしと認めなければならないという辛い立場にあった。
ひとの話によると、彼は山のような借金を背負っているそうだ。ウィーンで破産し、妻子を残してヴェネチアへ逃げてきたが、ヴェネチアでもまた破産し、父親に迷惑をかけた。そこで、父親は彼を追い出したが、彼がまだ家に住んでいるのを、お慈悲で黙っているということであった。彼はC夫人を誘惑し、夫人は夫から放逐されたが、彼は夫人の持物を洗いざらい食べてしまいながら、なおも囲っておこうと一所懸命になっていた。しかし、どこへ首をつっこんでも、もう一ゼッキーノも貸してくれるところはなかった。母親は彼に目がなかったので、持っているものを全部とられ、着物まではたいてしまった。私のところへも、きっとまた、金を貸せの保証人になれのといってくるにちがいない。しかし、私はなにをいってきてもきっぱりことわろうと決心していた。C・C嬢のような可憐な娘が私の破産の原因になることも耐えられなかったが、兄の放蕩《ほうとう》をつづける道具につかわれて、彼女が土壇場へ追い込まれるのも我慢できなかった。
[うるわしき宝を日々に]
私はやむにやまれぬ気持に引きずられて、翌日彼を訪ねた。そして、彼の妹をきわめて純粋な気持で愛しているとことわってから、あのあさましい夕食のとき、どんなに不愉快な思いをしたか、あからさまにいってきかせた。そして、いかに道楽で身をもちくずした男でも、上流社会とつきあう気持があるなら、あんな恥知らずなことのできるはずがないときめつけた。
「きみとはもう二度と顔を合わせる気はない。たとえそのためにきみの妹と会うことができなくなってもしかたがない。しかし、きみが妹をだれかに売りつけようと目論んでも、いっしょに連れだすのは断じてじゃまして見せる」といった。
彼は酔ったあげくのことだから勘弁してほしいと、酒にかこつけてあやまるばかりだった。そして、妹にたいするきみの愛情がまったく享楽ぬきだとは夢にも知らなかったといった。そして泣きながら私に接吻したが、そのとき、母親が娘を連れてはいってきて、娘にやった美しい贈り物の礼をいった。私は彼女に、
「お嬢さまを心から愛しており、あなたからお嬢さまを妻に迎えるおゆるしをいただきたいと願っております。いずれお嬢さまを幸福にできる身分になったら、お父さまに正式に申し込むつもりです」といった。
そして彼女の手をとって接吻したが、涙のながれるのをおさえることができなかった。彼女もさそわれて涙をこぼした。彼女は私の打ち明けた気持に礼をいい、兄と妹を残して出ていった。兄と妹とは石になったように見えた。
世の中にはこういう種類の母親が無数にいる。すべて貞淑で、善意を第一にあらゆる美徳をかねそなえているが、そのために誠実だと見込んだ男を一途に信頼して、ほとんどみなその犠牲になる。
C・C嬢は私が母親にいった話をわきできいていて、たいへん驚いたが、また兄にいったことをくりかえして話してやると、困りきったようすだった。そして、少し黙って考えていてから、兄に、あのときあたしの連れがこの方以外の人だったら、あたしはきっと身体をけがされていたろうし、たとえその人の妻になったとしても、兄さんがあの方を恥ずかしめたようなことをされたら、とてもゆるすことができないといった。
P・Cは泣きだした。しかし、この悪者はいつでも泣きたいときに泣けるのであった。
その日は聖霊降臨祭で、劇場がすべてしまっていた。それで、彼は翌日いつもの場所へ来てほしい、妹はきみにあずける。自分は義理と愛情からC夫人をひとりほうっておくわけにもいかないから、きみたちは自由行動をとるがいいといった。
「きみに鍵を渡しておくから、好きなところで夕食をすませたら、妹をここへ送ってきてほしい」
彼は私に鍵を渡して出ていった。私にはそれをことわる力がなかった。そこで、すぐあとで、翌日ツェッカの公園で話しあおうといって、C・C嬢と別れた。彼女は兄の計らいは、あの人としてはせいいっぱいのまじめなやり方だといった。
翌日は話しあったとおりに事が運んで、彼は彼女を私にゆだねていった。私は恋に燃えていたので、いよいよ最後の結着になるという予感がしていた。オペラの桟敷を注文してから、夕方までの時間をつぶしに、例の庭園へ行った。聖霊降臨祭の月曜だったので、かなり混んでいた。しかし、個室があいていた。それは願ってもないしあわせだった。
われわれは個室へあがっていった。庭には十一、二組の客があちこちのテーブルを囲んでいたから、散歩にいきたくなかったので、夕食までこの部屋にいよう、オペラ座は二幕目のバレーをちょっとのぞけばいいということになった。そこで、夕食を注文したが、まだ七時間の余裕があった。彼女はあなたといっしょなら、きっと退屈することはないと思うといって、マスクとその付属物を全部とりさると、私の腕のなかへとびこんできた。そして、あのひどい夕食のとき、あんたがあたしをかばってくれたので、すっかりあんたのとりこになってしまったといった。ふたりの語らいにはいちいち接吻がともない、互いに顔をべちゃべちゃに濡らした。しかし、愛する男女が相手の顔に接吻するのは、それが呼びさましてくれた欲望を感謝するためで、欲望の目ざすところはほかにある。そこまでいかないかぎり、恋人たちはあせり、いらだち、ふきげんになるものである。
「ねえ、あの人が馬にでも乗るように兄の上に乗ったとき、兄がなにかしたでしょ。あれ、あんたごらんになった? あたしはすぐ鏡の前へ行ってしまったけど、およその見当はついていたわ」と、彼女がいいだした。
「ぼくもきみに同じことをしやしまいかと心配したの?」
「そんなことないわ。あんたがどんなにあたしを愛してくれているかわかってますもの、そんなこと全然心配しなかったわ。だって、あたしにあんなことをしたら、あたしひどい侮辱をされたと思って、もうあんたを愛せなくなったでしょうからね。ねえ、あたしたち、正式に結婚するまで、あんなことするのよしましょうね。ねえ、いいでしょ。あんたが母さんにおっしゃったことをきいて、あたしどんなに嬉しかったか、あんたにはきっと想像もつかないと思うわ。いつまでも清らかに愛しあいましょうね。それはそうと、靴下留めについているふたつの詩を教えてちょうだいよ」
「詩が書いてあったの。ぼくちっとも気がつかなかったよ」
「ねえ、読んできかせてよ。フランス語なの」
彼女は私の膝の上にすわったままで、片方の靴下留めをはずした。そこで、私はべつのをはずした。書いてあった詩は次のとおりだが、これは彼女に贈るまえに読んでおくべきだったろう。
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わが恋人のうるわしき宝を日々にながむるきみよ、
愛はその貞節を望むと彼に告げよかし。
[#ここで字下げ終わり]
まったくふざけた詩だが、格調も正しく、滑稽で気がきいている。私は思わず笑いだした。しかし、彼女の好奇心を満たすために文字どおりに訳してやるだんになって、ますます大声で笑ってしまった。この二行の詩にもりこまれた思想は彼女にはまったく新しかったので、くわしく解説してやる必要があり、それがふたりの若い血を火のように燃えあがらせた。第一に説明しなければならなかったのは、この宝とは彼女のかわいいあれをいうが、ぼくがそれをわがものにするには結婚しなければならないということ、第二はもしも靴下留めに目があって、その宝をしじゅうながめる特権を得たら、どんなふうだろうということであった。C・C嬢はまっ赤になり、心をこめて私に接吻しながら、あたしの宝は靴下留めからこんな忠告をされる必要はない。夫だけのものにならなければいけないということをちゃんと心得ているのだからといった。
それから、少し考えていて、こうつけくわえた。
「でも、困るわ、あたし。だって、この靴下留めはもうだれにも見せられないもの。あんたどう思って?」
「ぼくの思ってることは、この靴下留めがとてもしあわせなやつで、ぼくにはとうてい手に入れられないような特権をもってるってことだけさ、ぼくはこの靴下留めになりたいよ。きっとそういう願いにあこがれて、しかも思いをとげずに、焦れ死にをすることだろう」
「そんなことないわ。あたしだって同じ思いよ。ねえ、そうでしょ。あんたも宝をもっているんでしょ。あたしそれが見たくてたまらないわ。けれど、きっと死にやしないわ。それに、あたしたちの結婚をはやくすることもできるのよ。あんたがお望みなら、あしたにだって結婚の約束をしてもいいのよ。あたしたちは自由なんだし、お父さんだって承知してくれるはずよ」
「きみの理屈は正しい。お父さんは世間体を考えても承知しないわけにいかないだろう。しかし、ぼくはまずだれか仲人《なこうど》をたてて正式にきみに求婚し、お父さんに十分敬意を表したいのさ。そうしたら、ぼくたちの愛の巣はすぐにできるよ。一週間か十日のうちにね」
「まあ、そんなにはやく? でも、お父さんはあたしがまだ若すぎるって、いうかもしれないわ」
「そういう意見ももっともかもしれないね」
「そんなことないわ。そりゃあたしは若いけど、若すぎるってことないわ。あたしりっぱにあんたの奥さんになれると思うわ」
私は燃えに燃えた。もはや波のように迫ってくる自然の力に抵抗することができなかった。そこで、彼女をひしと両腕で抱きしめて、
「きみはぼくが愛してるのをほんとに信じている? それとも、ぼくがだますかもしれないと思ってる? ぼくと結婚しても全然後悔しないと確信している?」
「確信どころじゃないわ。あんたがあたしを不幸にするなんて、夢にも思ったことがないわ」
「よし、それじゃあ、いまここで結婚しよう。神さまの前で、神さまのみそなわす前で。神さまはぼくらの正しい心をご存じだし、ぼくらの気持に一点の汚れのないこともお見通しなのだから、これより誠実でりっぱな証人はないよ。契約書なんか必要じゃない。お互いに真心をとりかわそう。いますぐふたりの運命を結びあわせて、幸福になろう。そして、万事公けにできるようになったら、教会でりっぱに儀式を挙げよう」
「嬉しいわ。あたし神さまにもあんたにも、いまから死ぬまで、忠実な妻になると誓うわ。それからお父さんにも、教会で祝福を与えてくれる坊さんにも、世界じゅうのすべての人にもそういうわ」
「ぼくも同じようにきみに誓う。そして、完全に夫婦になったことをきみに保証し、固くひとつに結ばれよう。さあ、ぼくの腕のなかへおいで。そして、ベッドへ行って、ふたりの結婚をなしとげよう」
「いますぐ? こんなに幸福が間近にあるなんて、ほんとかしら?」
[C・Cの黄金の裸像]
そこで、私はやさしく彼女に接吻すると、女将に声をかけるまで食事を運んでこないように、夕方まで眠りたいから、そっとしておいてほしいといいにいった。C・C嬢は服を着たままでベッドへ横になった。私は笑いながら、恋愛や結婚はすっかり服をぬぐものだといった。
「すっかりぬぐの? あんたも?」
「あたりまえさ。さあ、ぼくにまかせておくれ」
一分とたたないうちに、私は彼女の身についたものをすべて剥ぎとり、彼女は貪婪《どんらん》あくなき私の目のまえに一枚の薄紗もさえぎらない全身の魅力をさらした。私は称賛と感激で夢中になって、火のような接吻をここからそこへ、目につくところのどこへでも、一箇所にとどまらず、ながれるように押しつけた。残るくまなくあさろうとする貪欲な願いにとりつかれ、口が目ほどにはやく動かないのをもどかしく思った。
「きみの美しさはこの世のものではない。ぼくまでも生き身の人間だと思われなくなったような気がする」と、私はいった。
C・C嬢は雪花石膏のように白く、髪は漆黒で、年ごろになったしるしは、小さい巻毛にわかれたうぶ毛でわずかにあらわされ、それが、愛の御堂《みどう》の狭い入口の上をかすかに陰らせていた。背が高く、痩せぎすで、腰は腿につづくところがくっきりとみごとなふくらみを見せていたが、彼女はそこの釣合がみっともないと思い、私に見せるのを恥ずかしがった。しかし、そこがもっと痩せて、ふくらみが少なかったら、かえって美しさをそいだだろう。腹はほとんど目につかず、乳房は見る目にも撫でる手にも申し分がなかった。怒りにふさわしくない、ほっそりした眉の下の大きな黒い目は、私の称賛が自分の肢体の美しさに幻惑された結果だと見て、喜びの色をあふれるばかりにしめしていた。薔薇色の頬は、肌の白さとはっきり対照をなし、なごやかな微笑がどこかの筋をのばすと、ふたつのかわいいえくぼをえがきだした。珊瑚《さんご》のような唇は同時にまっ白な歯を見せたが、その白さは琺瑯質《ほうろうしつ》の艶に引きたてられて、胸の白さを圧倒していた。
われはもう心ここになしというていたらくで、この幸福が現実ではないのではないか、またこれはもっと大きな享楽によっても、これ以上完璧にできないのではないかと心配した。しかし、悪戯《いたずら》好きの愛の神はこんなせっぱつまった瞬間にも笑いの種を与えてくれた。C・C嬢がこういったのだ。
「ねえ、お婿さんは服をぬいではいけないって法律があるの?」
「いや、そんなことはないよ。たとえそんな野蛮な法律があっても、ぼくは蹴とばしてやるよ」
私はそのときくらいすばやく服をぬいだことがない。私が服をぬぐと、今度は彼女が本能と好奇心の衝動に身をまかせる番になって、無我夢中の狂わしい愛撫をはじめた。私の身体のすべてが彼女にははじめて見るものであったからだ。
だが、ときどき手をやすめては、あんたがあたしのものだって、それほんとなのかしらときいた。そして、お父さんがもっている≪美≫の像を見ても、最初の彫刻家は男だったにちがいない、もしも女だったら、自分の性と反対の像をつくったにちがいないといった。
「愛の力って、とても大きいのね。あたし少しも恥ずかしくないわ。十日まえにこんなことが想像できたでしょうか。あら、そこくすぐっちゃいや、お願いよ、とても敏感なんですもの」
「ねえ、きみ、とても痛いんだけど、いい?」
「そりゃわかってるわ。でも、加減しなくてもいいことよ」
最後に、彼女は目の享楽に耐えかねて、ひしと私の胸に抱きつき、
「ああ、あんたと枕とこんなにもちがうものなのかしら!」
「枕って、なに? 話してごらんよ」
「とても子どもっぽいことなのよ。四、五日まえから、あたしねえ、ねつくまえに大きな枕を抱きしめて、それをあんただと思って、百度も接吻するようになったのよ。そして、おしまいにね、ほんのちょっとのあいだ、そーっと自分にさわってみるの。そうすると、なんともいえないいい気持で、死んだように身体が動かなくなって、そのまま眠ってしまったの。そして、八、九時間たって目をさましても、やっぱり大きな枕を腕にかかえているので、大笑いしちゃったわ」
いとしいC・C嬢は健気《けなげ》な忍耐をして、私の妻になった。恋する娘はだれでもそうだが、それは、快楽もさることながら、思いをとげた喜びが苦痛をすら心地よく思わせるからである。私は一瞬も彼女とはなれることなく二時間をすごした。彼女のたえまない気絶が死身の精力をもりかえさせた。しかし、あたりが暗くなったので、享楽を中止することにし、服を着て、明りと食事を運んでくるように命じた。
[秘密の結婚の夜]
粗末ではあったが、なんといううまい食事だったろう! 私たちは互いにまじまじと顔を見合わせながら食べたが、ひとことも口をきかなかった。なんの話をしたらいいのかわからなくなってしまったからだ。あの幸福をつくりだしたのは自分たちだし、いつでも好きなときにそれをくりかえすことができるのだと思うと、その幸福がこのうえもないことのような気がした。
女将がなにかご用はないかとききにきて、オペラへ行かないのか、たいへんきれいだという話だがといった。
「あなたまだオペラへ行ったことがないのですか」と、C・C嬢がきいた。
「一度もありません。わたしどものような身分のものには、お値段が高すぎますからね。娘はとても行きたがっていましてね、こんなことを申しては罰があたりますが、一度オペラへ行かしてもらえたら、お初穂をつませてもいいなんていうんですの」
C・C嬢はけらけら笑いだして、それではオペラが高くつきすぎるといった。私はこの女に借りた桟敷をやってもいいと思ったが、彼女が、それと同時に、あたしたちの鍵を渡して、そのお嬢さんを喜ばせてあげたらどうだろうといいだした。私はすぐ鍵を出して彼女に渡しながら、ぼくも同じことを考えていたのだといった。
「では、小母さん、これ、サン・モイゼ座の桟敷の鍵ですの。二ゼッキーニするのよ。これを持ってすぐにお嬢さんとお出かけなさい。お嬢さんはもっとましなことのためにお初穂をとっておくほうがよくてよ」と、彼女は女将にいった。
「それから、もう二ゼッキーニあげるから、なにか好きなことをして、お嬢さんを喜ばせてあげなさい」と、私も言葉を添えた。
女将さんは気まえのいい贈り物にびっくりして、娘のところへ飛んでいった。われわれのほうはもう一度ねなければならなくなったので、ほくほくものだった。女将は娘を連れてもどってきた。かなり感じのよいブロンドで味のよさそうな美人だった。彼女はどうしても恩人たちの手へ接吻するといってきかなかった。
「この子は恋人とすぐに行かせますわ。下で待っていますから。けれど、なかなか隅へおけない男なので、この子をひとりでやるのも心配ですから、わたしもついていきます」と、女将がいった。
そこで、私は帰りに乗ってくるゴンドラを待たせておいてほしい、それでヴェネチアへ帰るからといった。
「まあ! それでは四時(午後十時)までここにいらっしゃるのですか」
「そうです、なにしろぼくらはきょう結婚したばかりなんですから」
「きょうねえ。それはおめでとうございます」
彼女はベッドの整理にいって、尊敬に値するしるしを敷布の上に認めると、わがうるわしの花嫁に接吻し、結婚まで処女をまもった彼女の賢さをほめちぎった。しかし、われわれをひどくおかしがらせたのは、彼女が娘にしたお説教だった。彼女はこれこそこのお嬢さまの無上のほまれだと、例のしるしを見せ、だが、縁結びの神さまもこのごろではこのしるしを祭壇でごらんになることがろくにないといった。娘は青い目を伏せながら、あたしも婚礼の日にはきっと同じあかしを見せてみせると答えた。
「それはあたしもたしかだと思っているよ。なにしろおまえから目をはなしたことがないのだからね。それはそうと、金盥《かなだらい》へ水をくんで持っておいで。花嫁さんがお入用だろうからね」
娘が水を持ってきて、それから、ふたりはいそいそと出かけていった。この滑稽な場面はわが天使を途方もなくはしゃがせた。われわれは身体じゅう洗い清めると、また鍵をかけ、ベッドにはいった。四時間がまたたく間にすぎさった。最後のいどみあいは、もしもかわいい恋人が妙な気まぐれを起こさなかったら、もっと長くつづいたろう。彼女がはやくも好奇心を燃やして、互いの位置をとりかえようといいだしたのである。そして、ヴィーナスの神に魅入られた狂わしいまでに妖艶な姿勢をしてみせたので、極度な快楽がいっきょに私の官能をさらっていってしまった。そして、死んだようになっているうちに、ふたりはいつしかふかい眠りにおちた。しかし、まもなく、女将がドアをたたいて、ゴンドラが下で待っていると告げた。私はすぐにあけにいった。オペラについてどんなことをいうか、それをきくのが楽しみだった。しかし、彼女はそれを娘にまかせて、コーヒーをつくりに下へおりていった。プロンドの娘はC・C嬢を助けて服をつけさせたが、ときどき横目で私の身体を見た。その目つきから母親が彼女を生娘だと思い込んでいるのはとんでもないまちがいだとはっきり見てとった。
わが天使の目は不謹慎にもいっさいを暴露してしまって、拳で打たれたようなどすぐろい隈《くま》ができていた。この哀れな少女は雄々しく戦いに耐えぬいたが、それは彼女をすっかり別人にしてしまった。
ひどく熱いコーヒーを飲んでから、私は女将にあさっての昼食にうまい料理をつくっておいてほしいと頼んだ。そして、夜明けの光がさしそめたころ、船頭たちの好奇心をはぐらかすために、わざとサンタ・ソフィアの河岸で船をおりた。ふたりはすっかり満ちたり、完全に結婚したと確信して、幸福な気持で別れた。私は家へねに帰ったが、心のなかでは、あの効験いやたかな託宣をもちいて、ブラガディーノ氏を納得させ、彼女と結婚できるようにしてもらおうときめていた。それから、昼まで眠って、ベッドのなかで昼食を食べ、午後は博打場ですごした。だが、運命の女神が愛の女神とは意見が合わないとでもいうように、いい目が全然でなかった。
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第三十六章
[いっそうふかまる悦楽]
しかし、私は恋のうま酒に酔いしれていたので、そんな損はいっこう苦痛でなかった。心はすっかり愛らしい恋のことでいっぱいで、ほかのことは考えることすらできなかった。
翌日、こういう状態のところへP・Cがにこにこ顔ではいってきた。その態度はいままでとはがらりと変わっていた。そして、きみが妹とねたことは疑う余地がない、ぼくはおおいに満足だとあからさまにいった。
「妹は白状しようとしないが、それはどうでもいい。きょうも妹を連れてくるよ」
「それはありがたい、あの子は大好きだからね。そのうちにことわられないような筋からお父さんへ、結婚を申し込んでもらうことにするよ」
「それはぼくも望むところだが、うまくいくかどうかあやしいな。それはそれとして、もう一度きみに頼みたいことがあるんだよ。六か月払いの手形で二百ゼッキーニの指輸が買えるんだ。それはきょうじゅうにも売れるあてがあるのだが、売手がきみを知っていて、きみの保証がなけりゃいやだというのさ。どうだろう、承知してくれるかね。きみがきのう三百ゼッキーニすったことはぼくも知っている。なんなら百ゼッキーニ融通しようか。手形の期限がきたら返してもらえばいい」
このやくざ者の頼みは、みすみすだまされるとわかっていたが、どうにもことわるわけにいかない。
「よし手形にサインしよう。しかし、妹さんにたいするぼくの愛情につけこんで、やたらと要求されちゃかなわんよ」
われわれは指輪を持っている商人のところへいっしょに行って、話をまとめた。その商人は全然知らなかったが、お世辞たらたらで、あなたが裏書をしてくだされば、持っているものをみんなP・Cさんにあげてもいいといった。あのやくざ者はヴェネチアじゅう歩いて、資産のない私をわけもなく信用する、百人中にひとりという大ばか者を捜しだしてきたのだ。そのために、私を幸福にするために生まれてきたとしか思われないC・C嬢が、逆に私の破滅の原因になろうとしているのであった。
C・C嬢の父親が用事でトレヴィーゾへ出かけたので、彼は正午に妹を連れてきた。そして、正直な人間だということを見せようとして、私が裏書したキプロス島の葡萄酒の手形を返し、同時に、次に会うとき約束の百ゼッキーニを渡すといった。
ツェッカへ行くと、すぐに庭をしめさせ、葡萄棚の下で昼食を食べた。C・C嬢はずっと美しくなったように見えた。友情と恋愛とがひとつにとけあったので、満ちたりた気持はふたりの顔にはっきりあらわれていた。女将は金ばなれのいい客だと思って、小鳥やちょうざめなど凝《こ》った料理を出してきた。ブロンドの娘は食卓の給仕をしたが、食事がすんでベッドへはいるだんになると、また世話をしにやってきた。そして私の妻が服をぬぐのを手伝い、私の靴や靴下もぬがせようとした。しかし、私はそれをことわった。娘がひどい暑さを口実に襟を大きくひろげていたので、胸もとがちらちら見えて、目のやりばに困ったからだ。C・C嬢といっしょにいる以上、ほかの女に目をつけるのは道にはずれていると思われたのである。
ふたりきりになると、彼女はすぐ兄が百ゼッキーニお渡しするといっていたが、あれはどういうことなのかときいた。そこで、洗いざらい話してやった。すると、彼女は「これからはけっして裏書なんかしてはいけない。なにしろ兄は借金で首がまわらない状態で、しまいにはたいへんなことになるだろうが、うっかりするとあんたも巻添えにされるから」といった。
この二度目のときには、愛の悦楽はいっそうつよくなったように思われた。味わいもいっそうこまやかになった。そして、あの手この手といろいろと研究しあった。彼女は「あたしを妊娠させるように、できるだけ工夫をしてほしいわ。お父さんがまだ年が若すぎるから結婚はゆるせないといくら頑固にいい張っても、あたしが妊娠したのを見たら、きっと考えを変えるでしょうからね」といった。
私は彼女にお説教をして、妊娠は神さまのご意志によるので、われわれの努力だけではだめなのだとのみこませたが、さらにつけくわえて、原則的には、妊娠はふたりの心地よい陶酔が同時に起こるときにかぎられていて、そうすればいずれは妊娠するようになると説明した。
それで、その目的のために、いろいろに研究し、注意しながら、二度こころみてみた。彼女にいわせると、それはたいへんうまくいったようだった。それから四時間のあいだぐっすり眠った。目がさめると、私は人を呼んだ。すると、蝋燭を持ってきたので、コーヒーを注文した。そして、コーヒーを飲んでしまうと、また愛のいとなみをはじめ、われわれの幸福を保証するはずの生命のみなもととなる、あのこころよい死へ同時に到達しようと骨をおった。しかし、夜明けの光がさしてきて、ヴェネチアへ帰らなければならないと知らせたので、いそいで服を着て出発した。
次の金曜日にもツェッカへ遊びにいった。いま思いだしてみても、あの幸福なりしころの快楽はすばらしかったが、しかし、読者には、そのときの語らいのくわしい描写ははぶくことにしよう。愛しあう男女にとってはつねに新しいことだが、話をきくだけの人々にはそうは思われないことがよくあるからだ。われわれは例の庭園での次の行楽を、マスクをかけて出られる最後の日の月曜日ときめた。その日は、死んでも行かなければならないと思った。というのも、われわれの愛の享楽の最後の日になるかもしれなかったからである。
それで、月曜日の朝、P・Cに会って、同じ時刻に同じ場所で出会おうという約束を得ると、まちがいなくその場所へ出かけた。しかし、待つ身にはひどくいらだたしい最初の一時間がたちまちすぎてしまった。その一時間のあとで、二時間目、三時間目、四時間目、五時間目と時がながれていったが、待ちこがれるふたりの姿はあらわれなかった。なにか非常に不吉なことが起こったとしか思われなかった。しかし、もしもC・C嬢が外出できなくなっても、兄が知らせにくるはずだ。あるいは、兄のほうによんどころないさしつかえができて、妹を連れてこられなくなったのだろうか。途中で行き違いになる心配があったので、彼らの家へ行ってみることもできなかった。
しかし、|お告げの鐘《アンジェラス》が鳴りおえた時分、マスクをしたC・C嬢がふっとそばへやってきた。ひとりだった。
「きっとここにいらっしゃると思って、お母さんが文句をいったけど、かまわずに出てきたのよ。おなかがすいて死にそうでしょうね。兄さんはきょう一日じゅう姿を見せなかったの。さあ、はやくお庭へ行きましょうよ。あたしもとてもおなかがすいてるの。きょう一日さんざん苦しんだ埋合せに、思いきり愛していただきたいわ」
彼女がひとりでしゃべったので、私はなにもきくことがなかった。おりからひどい嵐だったが、例の庭園へ行った。ゴンドラが一挺櫓だったので、非常にこわかった。しかし、C・C嬢は全然危険を知らず、ふざけちらした。そのためにゴンドラが揺れ、船頭が海へ落ちる心配があった。船頭が落ちたら、これから求めにいく快楽はおろか命までもお陀仏だ。私は彼女をこわがらせるといけないと思って、危険のことはいわずに、静かにしているように注意した。しかし、船頭が大声をあげて、じっと動かずにいなければ、三人とも命がないとどなった。そのうちにようやく船が着いた。船頭は四倍の賃銀をもらって、大喜びだった。
われわれはそこで読者もご想像できるような愛のかずかずの勲《いさおし》をくりかえして、幸福な六時間をすごした。こんどは眠りすら訪れなかった。ただそうした悦楽に陰をさしたのは、マスクをかけられる時期〔マスクをつけていてもよい祭りの期間は、一七五三年には五月三十日から六月十二日まで続いた〕が終わってしまうことで、今後はどういう方法で愛の語らいをしたらいいかわからなかった。私は水曜日の朝兄さんを訪ねるから、いつものように出てきてほしいと彼女にいった。
それから、ひとのよい女将に別れを告げて、ヴェネチアへもどった。女将はもう来てもらえないと思って、しきりに名残りを惜しみ、祝福を与えた。ヴェネチアへ着くと、彼女を門口まで送りとどけて、自分の家へもどった。
[真夜中のしのびあい]
正午に目をさますと、驚いたことに、ド・ラ・エーが弟子のカルヴィを連れてもどってきていた。まえにもいったと思うが、カルヴィは非常な美少年だった。だが、食卓について、しゃべらせてみると、なにからなにまでド・ラ・エーのミニアチュアだったので、吹きだしてしまった。歩き方も、笑い方も、目のくばり方も先生にそっくり、しゃべるフランス語もまったく同じだった。正確には正確だが、やわらかみが全然なかった。その極端な類似が不愉快だった。そこで、この弟子のきざな癖をとってやらなければいけない、ひどい嘲笑の的になるのが落ちだからと、公然と先生に注意してやった。そこへふいにバヴォワ男爵がはいってきた。そして、少年と一時間ばかり話をしてから、私と同じ意見になった。この善良な少年は二、三年後に死んだ。ド・ラ・エーは弟子をつくるのに夢中だったので、カルヴィが死んでから二、三か月後に、若いモロジーニ勲爵士の教師になった。これはバヴォワ男爵を出世させた人で、ヴェネチア共和国とオーストリア王家との国境問題を処理する国境委員会の委員長で、オーストリアの委員長はクリスティアニ伯爵であった。
なにしろ私は恋の奴《やっこ》になっていたので、これ以上奔走をのばすわけにいかなかった。私の計算では一生の幸福がこの奔走の成否にかかっていた。そこで、客が帰ってしまうと、ブラガディーノ氏とふたりの親友に、だれもはいってこられないわれわれの部屋で、二時間ばかり相談にのってもらいたいと頼んだ。そして、なんのまえおきもなく、いきなりC・C嬢に恋いこがれているが、もしも父親に正式の結婚を認めさせる手段が見つからなかったら、誘拐するつもりだと打ち明けた。そして、ブラガディーノ氏にこういった。
「とにかく、私の生活がたちゆくような身分にしていただくことと、その娘が婚資として持ってくる一万デュカの保証をしていただくことが問題なのです」
彼らはパラリスが必要な指示を与えてくれたら、それにしたがうと答えた。願ってもないことだった。そこで、私は二時間かけて彼らの希望するすべてのピラミッドをつくったが、パラリスの託宣は娘の父親に縁談を申し込むのはブラガディーノ氏であるべきこと。その理由は彼が現在ならびに将来の財産をもって娘の婚資を保証すべきであるからだというのであった。おりからC・C嬢の父親は旅行中だったので、ヴェネチアへ帰ったらすぐ三人に知らせると私はいった。三人といったのは、娘の縁談を申し込むときには、その三人で行くべしと算易できまっていたからである。
私はこういう手配をつけたのに気をよくして、翌日の朝P・Cの家を訪ねた。年とった女中が若旦那さまはお留守ですが、奥さまがお目にかかるそうですと伝えた。まもなく、彼女は娘を連れて出てきたが、ふたりともひどくしょんぼりしていた。C・C嬢は、兄は借金のために監獄へ入れられたが、借金の金額があまりにも大きいので、釈放してもらうのがむずかしいといった。母親は泣きながら、監獄にいる息子へ差入れもできないのが悲しいといい、彼が書いてよこした手紙を見せた。その手紙には妹宛ての手紙が同封してあった。それを見せてほしいというと、すぐに渡したが、それには私に頼んでみてもらいたいと書いてあった。私は手紙を返しながら、私にはどうもしてやることができないと返事を書くようにいった。が、それと同時に、母親に二十五ゼッキーニ差し出し、このうちから一、二ゼッキーニずつ送ってやったら、いくらか助けになるだろうから、ぜひ受け取っていただきたいといった。彼女は娘からしきりにすすめられて、ようやく受け取った。
この愁嘆場が終わってから、私はC・C嬢と結婚するためにとった手はずを報告した。母親は私の手続きをたいへん筋道にかなっているとほめたが、夫は娘が十八歳になるまでは嫁にやらない、しかも相手は商人に限るといい張っているから、期待しないでほしいといった。父親はその日にもどってくるはずであった。帰りしなに、C・C嬢は手紙をそっと私の手ににぎらせた。それには、小門の鍵はお持ちのはずだから、なにも心配せずに夜中に忍びこんできてほしい、兄の部屋で待っているからと書いてあった。私は嬉しくてたまらなかった。母と娘の懸念もうなずけないことはないが、やはり希望をうしなわずにいたかった。
家へ帰ると、C・C嬢の父親のCh氏がまもなく帰ってくるとブラガディーノ氏に知らせた。彼は私の目のまえで手紙を書いた。そして、Ch氏にぜひご面談したい重要な用件があるのでお訪ねしたいが、ご都合のよい日時をお知らせ願いたいと申し入れた。私はその手紙をとどけるのはあすまで待ってほしいと頼んだ。
夜中にC・C嬢の家へ行くと、彼女は兄の部屋で両腕をひろげて待っていた。そして、
「なにも心配することはないわ。お父さんは無事にもどって来たけど、もうみんな眠ってしまっているから」と、彼女はいった。ふたりは愛のいとなみに身をゆだねた。
しかし、彼女はあす父親が決定的な手紙を受け取ることになっているときくとふるえだして、次のように筋のとおった推量をした。
「お父さんはまだあたしをほんの子どものようにしか考えていないの。だから、目をまるくしてあたしを見るでしょう。そして、あたしのしたことをつきとめるために、どんなことをするかわからないわ。いま、あたしたちは毎晩いっしょにここですごせるから、ツェッカへ行ったときよりもずっと幸福だけど、もしもあたしが恋人をつくったと知ったら、お父さんはどうするでしょう」
「お父さんがどうするかって? ぼくはもしもことわられたら、きみをさらって逃げるよ。そうしたら、総大司教もぼくらに婚姻の祝福をさずけるのをこばむことはできまい。ぼくらは死ぬまでがっちりと結ばれるんだ」
「あたしもそうなることを願っているのよ。そのためなら、どんなことでもするわ。けれど、あたしにはお父さんの気質がよくわかっているので、それがこわいのよ」
それから二時間、愛の快楽もさることながら、行末の心配を語りあってすごしてから、私はまたあすの晩しのんでくると約束して、彼女と別れた。そして、悲しい気持で一夜を明かした。ブラガディーノ氏は正午ごろC・C嬢の父親へ手紙を届けさせた。父親はあすこちらからお邸へご命令をうかがいに行くという返事をよこした。夜中に私はいっさいをいとしいC・C嬢に報告した。彼女は父親がいままで全然面識のないブラガディーノ氏の手紙に驚いて、どんな用事なのだろうと首をひねっているといった。不安と恐怖と仇《あだ》な希望とで、いっしょにすごした最後の二時間も、恋の悦楽はかなり生彩のないものになってしまった。Ch氏はブラガディーノ氏の申し入れを聞いて家に帰ると、きっと娘に根ほり葉ほりきくだろう。そして、これは彼女も覚悟をしていなければなるまいが、さんざん小言をいって、彼女にとどのつまり事実を白状させるだろう。それは疑う余地がなかった。彼女自身もそれは覚悟のまえで、非常に苦しんでいた。
私は彼女のことが可哀そうで、胸も裂ける思いだった。だが、なにも知恵をつけてやることができなかった。父親がどういうふうにでるか見当がつかなかったからである。彼女は貞操に疵をつけた話は隠さなければならないのは当然だが、結局のところ、事実をありのままに話して、父親の意志にすなおにしたがわなければなるまい。こう考えてくると、私の立場が奇妙なものになり、大がかりな手配をしたのがかえって悔やまれてならなかった。否でも応でも最後の決着をつけなければならなくなったからだ。そこで、私は魂を責めさいなむひどい不安から一刻もはやくのがれたかったが、C・C嬢が案外落ちついているので、びっくりしてしまった。ふたりは恋しい思いで別れたが、私は次の晩も会えると確信していた。会えなくなろうなどとはとうてい考えられなかった。
[求婚とその最悪の結果]
翌日、昼食後、Ch氏がブラガディーノ氏を訪ねてきた。私は顔を出さなかった。Ch氏はブラガディーノ氏やふたりの親友と二時間ばかり語りあってから帰っていった。私はすぐあとで、彼の返事がすでにその妻から聞いたのと同じであるのを知ったが、それにはさらに悲しむべき条件が付随していることを教えられた。彼は娘の結婚をゆるすまでの四年間、彼女を修道院へ入れようと考えているといったのであった。そして、最後に、この四年後に私が然るべき地位についていたら、結婚をゆるしてもいいといったそうである。私はこの返事にがっかりしてしまった。それで、懊悩煩悶のどん底に落ちいっていたので、夜中に訪ねていったとき、C・C嬢の家の小門に内側から鍵がかかっているのを見ても、あまり意外に思わなかった。
私は生きた心地もなく家にもどった。そして、二十四時間というもの、なんとか決心をつけなければならないと思いながら、どうにも決心がつかず、はげしい困惑のうちにすごした。そうなってみると、彼女を誘拐しようにも、いろいろの困難が胸に浮かんできて、どうにも手が出せなかった。しかも、P・Cは監獄へはいっているのだから、いとしの妻と文通したくても伝手《つて》がなかった。というのも、彼女は僧侶の認可や公証人の前での契約で獲得する絆《きずな》よりももっと強い絆にとらわれていると考えたからである。
こうして、暗い、絶望的な無数の想像に苦しんでから、翌々日の昼ごろ、C夫人を訪ねてみることにした。そして、彼女の家へ行って、大きな門の呼鈴を鳴らした。しかし、女中がおりてきて、奥さまは田舎へいらっしゃいまして、いつお帰りになるかわかりませんと答えた。これはまるで雷の一撃のようであった。私は絶望のどん底に落ちこんで、彫像のように身動きもできなくなってしまった。心にかかることをさぐりだそうとする道がすべて断たれたのだ。三人の友人の前ではつとめて平静をよそおっていたが、心のなかはみじめきわまるものであった。私は万策つき、藁《わら》にすがる思いで、なにか手懸りがあろうかと、ついにP・Cを監獄へ訪ねていくという哀れな境地へ追い込まれた。
彼は私の意外な訪問に驚き、心から感謝した。そして、借金の状態を語り、嘘八百を並べたてた。私はそれを信ずるようなふりをした。彼は十二日ほどしたら監獄から出してもらえると断言し、約束の百ゼッキーニを渡せなかった言訳をいい、裏書してもらった二百ゼッキーニの手形は期限が来たらかならずおとすと誓った。彼にいうだけのことをいわせてしまうと、私は冷静をよそおって、彼の家族の消息をきいた。しかし、彼はなにも知らず、べつに変わったこともなかろうと信じていた。そして、ときどき母親を訪ねないのはまちがっている、妹にも会えるのだからといった。私は訪ねていこうと約束し、二ゼッキーニやって、帰ってきた。
それから、なんとかしてC・C嬢の身の上をさぐりだす方法を見つけようと、頭をしぼった。彼女はきっとひどい目にあっているにちがいない。それも原因は自分にあるのだと考えると、居ても立ってもいられず、われとわが身の罪をゆるすことができなかった。そして、食べることも眠ることもできなくなった。
Ch氏にことわられた翌々日、ブラガディーノ氏とふたりの親友は聖アントニオの定期市を機会に、一か月滞在の予定でパドヴァへ出かけた。しかし、私は襖悩煩悶の極致にあったし、C・C嬢の消息もつきとめられなかったので、いっしょに行く気になれなかった。それで、たったひとり邸に残った。といっても、邸に帰るのはねるときだけで、一日じゅう博打場に入りびたっていた。そして、たえず負けた。持物を売りはらい、または質に入れた。いたるところに借金ができた。助けが得られそうなのは三人のいつも変わらぬ実意の友人しかなかったが、三人ともパドヴァへ行ってしまったし、恥ずかしくて手紙も書けなかった。
こういう状態で、ついに私は自殺しようとまで思いつめた。それは聖アントニオにささげられた日、六月十三日であった。しかし、死出のよそおいにひげをそっていると、下男が女の客の来訪を告げた。その女は手にさげた買物籠から手紙を一通とりだした。
そして、「この封筒に書いてある名前のお方ですか」ときいた。
封じ目にはまえにC・C嬢に贈った封印が押してあった。私はあやうく息がとまって倒れそうになった。気持をしずめるために、ひげをそってしまおうと思って、その女にちょっと待ってほしいといった。しかし、手がふるえて、どうにもならなかった。そこで、剃刀《かみそり》を下に置き、女に背を向けて、封を切り、手紙を読んだ。文面は次のとおりであった。
「この手紙をお届けする人が信用できるかどうか確かめるまでは、長い手紙を書くわけにいきません。あたしはいまこの修道院の寄宿舎にはいっています。扱いはたいへんいいようです。いろいろ悩みがありますが、健康は申し分ありません。院長さまはあたしに、だれとも会わせず、だれとも文通をさせないようにといわれていらっしゃるようです。けれども、院長さまがなんとおっしゃろうと、あんたに手紙をあげられることはたしかです。いとしい旦那さま、あたしはあんたの誠意を疑ってはおりません。あんたもあたしの誠意を、いまも、また将来もずうっと、お疑いにならないと信じております。あたしはあんたのおっしゃることなら、なんでも喜んでいたします。だって、あたしはあんたのものなのですからね。使いの人が信用できると見きわめのつくまでは、ごく短いご返事をちょうだい。
ムラーノにて、六月十二日」
今後引用する手紙はすべていまでも保存している元の手紙の忠実な翻訳である。
[修道院からの密使]
この娘はわずか三週間のうちにすっかり処世術を身につけてしまった。その先生は愛情にちがいない。愛情だけが奇跡を演ずるものだからだ。人間が死から生へとうつる場合、それは一瞬のことでしかなくても、危機ともいうべき転換を必要とする。したがって、私は立っていられなくなって腰をおろし、平常の状態にもどるまでに四、五分の時間を要した。
私はその女に字が読めるかときいた。「まあ、旦那さま、字が読めなかったら、わたし、とてもみじめになってしまいますわ。わたしどもは七人でムラーノの***修道院の尼さんの方々のご用をつとめております。めいめい順番に、一週間じゅうの受持の日にヴェネチアへまいります。私の受持は水曜日です。ですから、いまお手紙を書いてくだされば、ご返事は次の水曜日に持ってまいります。わたしどもに仰せつけられるご用のうちで、いちばん大事なのはお手紙ですから、もしも渡されたお手紙の宛名が読めなければ、さっそくお払い箱ですわ。ねえ、そうでしょう。わたしどもは、パオロさま宛てにお出しになったものをまちがってピエトロさまへお渡しするようなことはないと、尼さんの方々から信用していただかなければなりません。それはあたりまえのことですわ。それでも、あの方々はわたしどもがそういうヘマをやりはしないかと、いつも心配していらっしゃいます。とにかく、こういうわけですから、来週のきょう、また同じ時間におうかがいします。けれどもお休みになっていらっしゃったら、お起こしするようにお言いつけになっておいてください。このような商売では時は金なりでございますから。また、わたしにご用をおっしゃるときには、秘密がもれやしないかなどとお気をつかわないようになさってください。うっかり口をすべらしますと、パンを取りあげられてしまいますからね。そうしたら、男の子をひとりと女の子を三人かかえて、後家のわたしがどうして暮らしていけましょう。男の子は八つですが、女の子は上が十六、下が十三で、みんなとても器量よしですわ。ムラーノへいらっしゃったら、いつでもお目にかけますわ。住居は教会にいちばん近い橋から十歩ばかりのところにある家の一階です。並木道をまいりますと公園のそばでして、家の入口には外に石段が四段ついております。いつも家にいますわ。さもないときには、修道院の鐘楼か応接室におりますが、こうしてお使いに出ることもあります。お使いは毎日ないってことがございませんからね。ところで、このお嬢さまはまだ一週間まえにいらっしゃったばかりで、お名前も存じませんが、ほんとに申し分のないご器量で、神さま、どうぞあの方をごじょうぶにおまもりくださいませ、このお手紙も、ほんとにおじょうずにお渡しになりましたわ! いっしょにいらっしゃる三人の方々もきっと気がつかなかったでしょうよ。よほど頭のいいお方にちがいありませんわ。あの方はお手紙といっしょに、この書付をお渡しになったのですが、これも置いてまいりますわ。固く秘密をまもるようにとおっしゃっているのですが、ほんとにお気の毒ですわ! どうぞ安心なさるようにお書きになってくださいまし。あなたさまも、ご心配なしにわたしをご信用なさってください。けれど、ほかのものはご信用にならないほうがいいですよ。もちろん、ひとさまのことを悪く考えるのは、神さまがお差し止めになっていらっしゃいますから、みんな正直だとは思いますがね。でも、あの人たちはまったくのわからず屋ですし、神父さまにつべこべとお懺悔するにちがいないと思いますわ。ところが、わたしは神父さまには自分の罪だけ申しあげればいいということをちゃんと知っております。女の信者の方のお手紙を男の信者の方へお渡しするのは罪ではありませんわ。それに、わたしの懺悔をきいてくださるのは年をとったお坊さんで、神さま、どうぞおゆるしください、どうも耳が聞こえないようなのです。だって一度も返事をなさったことがないのですもの。けれど、たとえそうであっても、それはあの方のことで、わたしがつべこべ口をだす筋合いではございませんわ」
私は最初からその女になにも聞こうとは思わなかったが、向うから問わず語りにべらべらしゃべって、知りたいことをみんな教えてくれた。それもただこの内証事には自分だけをつかってもらいたいと頼むためだった。しかし、ちょっと忘れがたい、そうしたおしゃべりのなかには、彼女を信用してもだいじょうぶだと思わせるだけのすばらしい雄弁が認められた。
私はすぐ囚《とら》われの恋人へ、彼女がいってきたとおり、五、六行の手紙を書こうとペンをとった。しかし、思っていることをそんな短い手紙にまとめるには時間がなかった。私の手紙は四頁にわたった。しかし、その内容は彼女が一頁に書いてきたよりも少なかったかもしれない。その返事ではまずきみの手紙がぼくの命を救った。なにしろきみがどこにいるのか、生きているのか死んでいるのか見当もつかなかったからだと書き、たとえ話はできなくても、顔だけでも見られるようにできないだろうかときいた。それから、使いの女には一ゼッキーノやったが、もう一ゼッキーノこの手紙の封蝋《ふうろう》の下へ入れておく。なお金が必要なら、いくらでも送るといった。そして、水曜日ごとに手紙をよこしてもらいたい、いくら長くてもいい。しかし、そこでのきみの生活のこまかいことばかりでなく、あらゆる鉄鎖を断ちきり、ふたりの結合をさまたげているすべての障害を力ずくで打ち破る計画についても考えをいってほしい。きみの手紙にもあったが、きみが身も心もぼくのものであるように、ぼくは身も心もきみのものなのだからといった。それから、尼さんたちだけでなく、寄宿している人たち全部からかわいがられるように、せいぜい気をつかわなければいけない。だが、打明け話はけっしてしてはならないし、そこに入れられていることに不平がましい態度を見せてもいけないと教えた。そして、院長から禁止されているのに、手紙をよこす方法を捜したのは見上げた才覚だとほめてから、しかし、手紙を書いているところをふいに見つからないように、十分気をつけてほしい、もしも見つかったら、部屋や箪笥《たんす》やポケットのなかまで捜されて、書いたものを残らず取り上げられてしまうだろうと注意し、だから、この手紙も燃やしてしまうようにとすすめた。また、ちょいちょい懺悔にいかなければならないのだろうが、そのときにはくれぐれも気をつけてほしい。ぼくがなにをいおうとしているのか、これだけできみにはよくわかると思うがと書いた。そして、最後に、辛いことがあったら、なんでも話してほしい、きみの苦しみはきみの喜び以上に、ぼくには気にかかるのだからと頼んだ。
それから手紙に封をし、わからないように封蝋の下へ一ゼッキーノまぎれこませると、もう一ゼッキーノ女にやって、このお嬢さんの手紙を届けてくれるたびに、同じだけのお礼をするといった。女はありがた涙にくれた。そして、わたしはいつでも自由に出入りができるのですから、お嬢さんがおひとりのときにこのお手紙をお渡ししますといった。
C・C嬢がその女に手紙をあずけるとき、いっしょに渡した紙きれには次のように書いてあった。
「親切な奥さん。ほかのどなたよりもあなたを信用する気にさせたのは、ほかならぬ神さまのおはからいです。この手紙を宛名の人へお届けください。もしもヴェネチアにいらっしゃらなかったら、持ち帰ってください。いらっしゃったら、ぜひ本人へじかにお渡しください。そして、おり返しご返事をいただいて、だれからも見られないように、そっとあたしにお渡しください」
恋は享楽をいそぐときには軽はずみなことをする。しかし、不幸な事情によってさまたげられた幸福をとりもどそうと心をくだく場合には、いくら目のきくものでも見落とすようなことまで見ぬき、また予想するものである。妻の手紙は私を有頂天に喜ばせ、一挙に極端な絶望から極端な希望へと移った。たとえ修道院の塀が砲兵隊でまもられていようとも、かならず奪いとれると、おおいに張り切った。
[賭けと恋は両立しない]
そして、最初に考えたことは、二度目の手紙をもらうまで、この一週間をはやくすごす方法を考えようということであった。そうしたいらだたしい気分をまぎらせるには賭博よりほかになかった。しかし、みんなパドヴァへ行ってしまっていた。そこで、すぐに下男を呼んで荷物をつくらせ、ちょうど出ようとしていた定期船へ運ばせた。そして、すぐフジーナへ向かって出発し、そこから全速力で馬車を走らせ、三時間たらずでブラガディーノ邸の門口に着いた。
わが恩人はちょうど昼食にもどってきたところであった。彼は私を抱き、私が汗にまみれているのを見て、笑いながら、なにもそういそぐことはなかったろうといった。私は腹がへって死にそうだと答えた。
私が行ったのを、みんな喜んでくれたが、六日間滞在するというと、その喜びはさらに大きくなった。食事がすむと、ダンドロ氏はド・ラ・エーといっしょに自分の部屋へとじこもって、たっぷり二時間も出てこなかった。それから、私がねているところへ来て、きみはちょうどよいところへ来てくれた。わしの身の上に重大なことが起こったので、託宣にうかがってもらいたいといって、質問を見せた。それはド・ラ・エーが申し出た計画に同意すべきかどうかということであった。
私は拒絶せよという解答を与えた。
ダンドロ氏は驚いて、次の質問を出し、拒絶の理由として、どういうふうにいったらいいかときいた。
そこで、私は算易のピラミッドをつくり、「カザノヴァの意見をきく必要があると思って相談したら、彼が反対だったので、もうこの問題は口にしないことにする」という答えを出した。
幻想の力はたいしたものだ! ダンドロ氏は私に責任をかぶせられるのを喜んで出ていった。私はド・ラ・エーの計画がどういうことなのか知らなかったし、知りたいとも思わなかった。しかし、ダンドロ氏がきっぱりことわったら、ド・ラ・エーはわが親友たちになにかさせようとしても、私という関門を通らなければならないことを、肝に銘じて知るだろう。私はそれで満足だった。
私はすぐにマスクをつけて、オペラへ行った。そして、ファラオの銀行になって博打をしたが、有り金を全部すってしまった。運命の神は博打と恋愛とがつねに両立するものでないことを教えたのである。この失策のあとで、私は心痛を忘れるには眠るにこしたことがないと思って、ベッドへはいった。
翌朝目をさますと、枕もとにド・ラ・エーがにこにこ顔で立っていた。そして、おおげさな言葉でお世辞をいってから、自分の提案した計画をどうしてダンドロ氏に拒絶させたのかときいた。
「どういう計画です」
「それは知ってるのでしょう」
「いや、なにも知りませんよ」
「だが、ダンドロ氏はきみがことわれとすすめたからと、ご自分でいっていましたよ」
「ことわれとはいいませんよ。ただあまり賛成しないといっただけですよ。あの人がはじめから賛成なら、ぼくの意見をきく必要はなかったんですからね」
「それはどうでもいいが、きみの賛成しない理由をきかせてください」
「それよりまえに、どういう問題なのか話してみてください」
「あの人が自分で話したのじゃないのですか」
「そうかもしれない。しかし、ぼくの理由をいえというなら、あなた自身の口からはっきりきかなければなりませんよ。あの人は内密で話をしたのですからね。あなただって、ぼくの立場にたったら、同じようにするでしょう。あなたがいつもいってるように、秘密の事柄は人から見ぬかれないようにすべきですからね」
「わしは友だちの秘密をあばくようなことはできませんよ。だが、きみのいう金言は正しい。わしも慎重にやるのが好きですからね。では、問題の事実を話しましょう。きみはティエポロ夫人がいまだに独身でいることや、ダンドロ氏が熱心にごきげんをとっていることは知っているでしょう。それはもう十年来、夫人のご亭主が生きている時分からのことでしたよ。あの夫人はまだ若くて美しく、いきいきしているし、賢くて人柄も柔和ですが、ダンドロ氏の奥さんになりたがっているのです。そして、わしに意中を打ち明けたんです。わしはこの結婚は精神的にも肉体的にも、肉体的にもなんてけしからんですが、われわれも男ですからね、とにかく、申し分のない縁談だと見たので、本腰をいれてお世話しようと思ったのです。わしの見たところでは、ダンドロ氏もきょう返事をするとおっしゃったときには、だいぶ気が向いてるようでしたがね。そりゃ、きみに相談したことについては、正直にいって、わしは少しも意外に思っていませんよ。賢明な人なら、とりかえしのつかない重要な行動に出る決心をするまえに、慎重な友人の意見を徴するのは当然のことですからね。しかし、この結婚がきみの同意を得られなかったのに驚いているのですよ。それで、後学のためにうかがいたいのですが、きみの意見とわしの意見とに食いちがいをきたした理由は、どこにあるのでしょう」
私は事情がわかると、ちょうどいいときにやってきて、善良そのものの友人がそんなくだらぬ結婚をするのをさまたげたのを喜んだ。そこで、ド・ラ・エーに、ぼくはダンドロ氏を愛しており、彼の体質を知っているので、ティエポロ夫人のような女と結婚したら寿命をちぢめてしまうと確信するといった。そして、さらに言葉をついで、
「それだから、真の友人として、思いとどまらせるのも当然じゃありませんか。あなた自身も同じ理由で一度も結婚しなかったと、ぼくに話したことがありましたね。パルマでは独身者の弁護人として、おおいに熱弁をふるったこともおぼえているでしょう。それに、もうひとつ注意してもらいたいのは、男はだれでもいくぶんエゴイストだということです。ぼくもご多分にもれません。そこで考えるのですが、ダンドロ氏がよその女と結婚すると、奥方の勢力がずんと重味をましてきて、旦那さまの心をひっぱっていくでしょう。そうしたら、ぼくのほうがそれだけ損をすることになるじゃありませんか。だから、みすみす自分の損になるようなことに賛成しなかったのもあたりまえだと思いませんか。もしもぼくの理由が軽率だとか詭弁《きべん》だとか証明できるなら、話してみてください。そして、ぼくを納得させてくれたら、いさぎよくダンドロ氏に前言をとり消しますよ」
「いや、わしにはきみを説きふせるだけの力があるとは思われません。ひとつティエポロ夫人に手紙を書いて、きみに相談するようにいいましょう」
「そんな手紙は書かないほうがいいですよ。夫人からばかにしてると思われるだけですからね。あの人はぼくが同意すると自惚《うぬぼ》れるほどおめでたいと思っているのですか。ぼくが好意をもっていないとは承知しているんですからね」
「どうしてきみが好意をもっていないことを、あの人は知っているのです」
「ダンドロ氏があの人のところへいっしょに行こうとさそっても、一度も取り合わなかったのを知っているからですよ。とにかく、あの三人の友人たちはぼくといっしょに暮らしているかぎり、ぼく以外に配偶者はもてないことを承知しといてください。あなたについちゃ、だれとでも気に入った女と結婚したらいいでしょう。反対はしませんよ。しかし、お互いに仲よくしていきたいと思うなら、あの三人をぼくから引きはなすような計画は捨てることですね」
「けさはばかに辛辣《しんらつ》ですね」
「ゆうべ有り金を全部すっちまったのです」
「それじゃ、わしは悪いときに来たってわけですね。さよなら」
その日から、彼はひそかに私を敵視するようになった。そして、二年後に私を監獄へ入れるために少なからず力をかした。それは中傷によるのではない。彼はそんな気のきいたことのできる男ではない。しかし、信心ぶかい連中に信心ぶかい話を触れまわったのである。もしも読者が信心ぶかい連中をお好きなら、この回想録をお読みにならないほうがよろしい。例の結婚のことは、私がヴェネチアへ帰るまでは問題にならなかった。ダンドロ氏は依然として毎日未亡人のところへごきげんとりにいったが、私は託宣を楯にとって、一度もお供をしなかった。
ド・ラ・エーと入れかわりに、ミラノ人のアントニオ・クローチェが訪ねてきた。これはレッジォで知り合った青年だが、えらい博打うちで、不運の埋合せには抜群の達人だった。彼は私が負けたのを見ていたので、自分の家でファラオ賭博を開いて銀行をやるから、半口のってとりもどしたらどうかとすすめにきたのであった。賭けにまわる客は七、八人だが、みんな外国の金持で、彼の女房に目をつけているということであった。
「おれの銀行へ三百ゼッキーニ払い込めば、相棒にしてやるよ。おれも三百ゼッキーニはあるんだが、相手がしこたま持ってやがるんで、とうていまにあわないんだ。とにかく、きょうおれのところへ昼食に来て、みんなと知合いになるがいい。あすは金曜日でオペラがないから、ゆっくりやれるよ。ごっそりもうかることは請け合いだ。なにしろジレンスペッツというスウェーデン人はひとりで二千ゼッキーニはすれるんだからな」
私は一文なしだった。ブラガディーノ氏に頼むよりほかなかったが、恥ずかしくていいだせなかった。それに、クローチェの申し出が厳密にいえば道徳にかなってもいなかったので、ほかにもっとよい仲間が見つかるかもしれないと思った。しかし、私がことわっても、クローチェの細君へ鼻毛をのばしている連中の財布はやはりひどい目にあうだろう。ほかのものが幸運をせしめるにちがいない。こう考えて、このさいあまり几帳面なことはいわないことにし、相棒として彼をたすけ、利益の分け前にあずかるほうが賢明だと思った。そして、昼食の招待を承知した。
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第三十七章
[ふたたび金持になる]
必要は絶対的な力をもつ法則だ。私はあのさい、この必要を唯一の口実にして、いかさま師の仲間にはいったが、三百ゼッキーニの金をつくるのは並み大抵のことではなかった。しかし、それはあとまわしにして、ともかく鼻の下のながい金持連と彼らが崇拝する偶像を見てみることにした。そして、クローチェと連れだって、プラト・デラ・ヴァレへ行った。カフェで、クローチェ夫人が多くの外国人にとりまかれていた。彼女は美しかった。お取巻き連のなかにオーストリア大使ローゼンベルク伯爵の秘書がまじっていた。ヴェネチアの貴族がよりつかないのもそのためであった。私の関心をひいたのは、スウェーデン人のジレンスペッツ、あるハンブルグ人、これはまえに話したことがあるが、メンデックスというイギリス系ユダヤ人、その他三、四人の外国人で、これらの連中にクローチェはとくに目をつけさせた。
みんなそろって昼食に行ったが、そのあとで、一同は銀行になれとクローチェをうながした。しかし、彼は応じなかった。これは私も意外に思った。彼のように練達の腕があれば、持っているという三百ゼッキーニで十分賭博ができるはずだから、あるいは持っていないのかもしれない、と私はあやしんだ。しかし、彼は私を別室へ連れていって、スペインのりっぱな金貨を五十枚見せて、私の疑いをはらした。それはちょうど三百ゼッキーニになる。私はかならず約束の三百ゼッキーニ捜してくると約束した。そこで彼は翌日の夕食に一同を招いた。われわれのとりきめた条件は、明晩別れるまえに金を分配すること、だれにも口約束で博打をさせないということであった。
どうしても資金を見つけなければならないことになった。だが、だれに頼んだらよかろう。あてになるのはブラガディーノ氏だけであった。だが、この親切な老人は金を持っていなかった。彼の金庫はつねにからっぽだったが、ひとりのユダヤ人の高利貸を捜してくれた。その男はブラガディーノ氏が保証人になれば、ヴェネチア金貨で千デュカ貸してやるといった。ひと月の期限で、五分の利息を天引きした。私はこうして入用の金を手に入れると、クローチェの家の晩餐に出かけた。彼は夜明けまで銀行をつとめ、われわれはめいめい八百ゼッキーニずつ分けどりにした。土曜日には、ジレンスペッツひとりで二千ゼッキーニすり、ユダヤ人のメンデックスが千ゼッキーニすった。日曜にはやらなかったが、月曜日には銀行は四千ゼッキーニもうけた。火曜日には私がヴェネチアへ帰らなければならないといったので、クローチェは晩餐会をひらき、食事がすむと博打をはじめた。
しかし、日の暮れたころ、次のような事件が起こった。市長の役人が来て、閣下からの命令で内密に話したいことがあるとクローチェに伝えた。彼らはいっしょに出ていった。二分もすると彼がもどってきて、だいぶ悄気《しょげ》たようすで、もはや自宅で銀行をするわけにいかなくなったと一同に告げた。夫人は気分が悪いといって、引っ込んでしまった。そこで、客はみんな散っていった。私もテーブルの上にあった金貨を半分もらって、その場を立ち去ったが、彼はいずれヴェネチアで会おう、二十四時間以内に退去するように命じられているから、といった。私もそのことは予期していた。彼があまりにも有名だったし、また劇場へ行かなかったからだ。というのも、劇場での博打の銀行は大部分がヴェネチアの貴族だったが、賭博者はもうけた金をそこへおとしにいくのを儀礼とされていたからである。
夜にはいってから、私は馬に乗って、まっしぐらに出発した。天気が悪かったが、どんなことが起ころうと、私を引きとめることはできなかっただろう。翌朝はやくC・C嬢の手紙を受け取らなければならなかったのだから。
パドヴァから六マイルのところで、乗っていた馬が横倒しになり、私の左の脚が馬の腹の下敷きになった。長靴の革がやわらかかったので、脚を折ったかと思った。さきを走っていた馬方が駆けもどってきて、私を助け起こした。しかし、私の馬は不具になっていた。私は当然の権利だと思って、馬方の馬に乗った。しかし、馬方は不届きにも轡《くつわ》をおさえて、行かせようとしない。私はその非をなじったが、いっこう聞きいれず、悪態をついて引きとめようとした。そこで、いきなりピストルをぶっぱなしてやると、驚いて逃げだしたので、そのまま道をつづけた。ドロへ着くと、すぐ馬小屋へとびこんだ。そして、馬方に一エキュやると、すばらしい馬だといって一頭の馬に自分で鞍をつけた。彼はまえの馬方があとに取りのこされたのも不思議に思わなかった。ちょうど夜中の一時で、嵐のために道がひどくぬかるみ、あたりは墨をながしたようにまっ暗であった。フジーナへ着いたときに、ようやく空がしらみはじめた。
船頭たちは二度目の嵐がくるとおどかしたが、私はそんなこと気にもかけず、四挺櫓の船を雇って荒れくるう嵐をつっきり、雨と風に打ちのめされながらも、無事にわが家へたどりついた。それから十五分後にムラーノの女がC・C嬢の手紙を持ってきた。そして、二時間後に返事をもらいに来るといって立ち去った。
[長い恋文の抜書き]
手紙は七頁にわたる日記であった。それを翻訳してお目にかけるのは、さだめし読者を退屈させるであろうから、要点だけあげることにする。彼女の父はブラガディーノ氏の話をきいて家へ帰ると、彼女と母親とを自分の部屋へ呼び、私とどこで知合いになったのかとやさしくきいた。彼女は兄さんの部屋で四、五度私と会い、私から妻になってくれるかときかれたので、それはお父さんやお母さんのお考え次第だと答えた。すると、父親は彼女はまだ結婚を考えるには年が若すぎるし、それに私にはきまった地位がないといった。そのあとで、父親は息子の部屋へ行って、小路へ向かっているドアと母親の部屋に通じるドアを閂《かんぬき》でしめ、もしも私が訪ねてきたら、田舎へ行ったといわせろと命令した。
それから二日あとで、父親は病気でねていた母親の枕もとへきて、娘は叔母に頼んである修道院へ連れていってもらう。父と母から適当な夫を与えられるまでそこに寄宿させることにしたといった。彼女は万事父親の意志にしたがうと答え、すなおに修道院へ行くことにした。父親は自分もそのうちに訪ねていくし、母親も病気がなおり次第会いに行くと約束した。彼女は、それから十五分ばかりして、父親の妹の叔母といっしょにゴンドラに乗り、いまいる修道院へ送られた。ベッドや身のまわり品もその日のうちに届けられた。彼女はあてがわれた部屋に満足したが、院長から目付役としてつけられ、彼女の面倒をみることになった修道女も気に入った。その修道女は彼女に人から訪問や文通を受けること、また人に手紙を出すことを禁じ、この禁をおかすと破門にされるし、そのほかいろいろの罰を受けるといい渡した。しかし、その修道女は彼女に読みたい本や、気に入った箇所を写すのに必要なものをすべて与えた。だが、彼女はその好意を無視し、破門なんかされるはずもないとたかをくくって、その晩、私に手紙を書いた。文使いの女はつつましく忠実なので、信用できると思うし、貧乏だから、毎月四ゼッキーニの収入はばかにできない金額なので、いつまでも忠勤をはげんでくれるにちがいないといった。それから、彼女は私の送った一ゼッキーノの礼をいい、こんど送ってもらう必要が起こったら知らせるから心配しないようにとことわった。
さらに彼女の報告によると、修道女のうちでいちばん美しい人が彼女を夢中になって愛して、一日に二回フランス語を教えてくれ、ほかの寄宿生とつき合ってはいけないととめている。この修道女は二十二歳にしかならないが、金持で信仰心があつく、ほかの人たちはすべて彼女を尊敬しているということであった。またその修道女は彼女とふたりきりになると、とても心のこもった接吻をしてくれるが、もしもそれが異性なら、あんたを嫉妬させるような接吻だということであった。誘拐の件については、彼女はたいして実行困難だとは思わないが、修道院のなかの見取図をはっきり書いて送れるようになるまで待ったほうが賢いと思うといった。そして、いつまでもけっしてほかの女に目をつけないように、そうしたら、ふたりの愛にもひびがはいるのだからといい、終りに、だれにもわからないような秘密の仕掛けにした指輪に私の肖像を入れて届けてほしいと頼んだ。母親は病気もなおり、毎日ひとりでP・S教会の第一ミサに行くから、指輪ができたら母親に渡してほしい、きっと喜んで引き受けてくれるだろうといい、「もしもここにいつまでもわたしをとめておくなら、五、六か月したら修道院の人々を仰天させ、また修道院へ恥をかけるような身体になってやりたい」と手紙をむすんだ。
私はすぐ返事を書きはじめ、文使いの女がもどってきたときにようやく書き終えた。彼女はラウラという名前であった。私は彼女におきまりの一ゼッキーノを与え、美しい紙とスペインの封蝋と火打ち道具の箱のはいった包みを渡した。彼女は私の従妹《いとこ》が日に日に美しくなるといいながら帰っていった。C・C嬢は私を従兄だと教え、ラウラはそれを信ずるふりをしていたのである。
私はヴェネチアにいてもすることがなかったし、名誉の点から考えても、パドヴァにもどるべきだと気がついた。私があわてて出発したのが、クローチェの出発とあいまって、好ましからぬ臆測を起こさせる心配があったからだ。そこで、ローマ門の建て場へ自分で駅馬車の切符を買いにいった。フィエッツォでぶっぱなしたピストルの一撃と、不具になった馬のことは建て場の親方たちの感情を害し、私に馬を貸すのをこばむかもしれない。しかし、イタリアでボレトンと呼ばれる駅馬車の切符を見せられてはことわるわけにいくまい。ピストルの一撃については、なにも心配していなかった。わざと狙いをはずしてうったからだ。しかし、たとえうち殺したとしても、何事も起こらなかったであろう。
やがてフジーナへ着いたが、非常に疲れていて、馬に乗れる状態ではなかったので、駅馬車に乗った。ドロへ着くと、建て場の連中が私のことをおぼえていて、馬をことわった。建て場の親方が出てきて、不具にした馬の弁償をしなければ逮捕させるとおどかした。私は馬が死んだなら、パドヴァの建て場の親方に話すとつっぱねて、切符を見せた。彼は馬方を半殺しにしたのだから、自分の手のものにはだれもあなたの案内をさせないといった。そこで、「それならきみ自身で案内したらいい」とやりかえした。彼はふふんと笑って引っ込んでしまった。私はふたりの証人を連れて公証人のところへ行き、調書をとってもらって、あくまで馬を出すのをことわったら、一時間につき十ゼッキーニの罰金を課するという判決をつきつけた。
すると、彼はまえから仕組んでいたにちがいないが、非常に気の荒い馬を二頭曳いた馬方をよこした。私を河のなかへ振りおとそうという魂胆であることはわかりきっていた。そこで、私は馬方に、もしも私を落馬させるようなことがあったら、すぐピストルで脳味噌をぶっとばすぞと冷ややかにいい渡した。彼はすぐに二頭の馬を曳いて引っ込んでいき、親方に私の供はしたくないとことわった。そのとき、パドヴァからベルリン馬車に乗って全速力で走ってきた飛脚が馬車につける馬を六頭と鞍をおいた馬を二頭注文した。そこで、私はこっちの話をきめないうちはだれにも馬を出させない、もしも腕ずくで横車を押そうとするなら血を見るのもいとわぬと親方にいった。そして、こういいながら、両手にピストルを握って突きつけた。彼は悪態をつきながら引っ込んでいった。まわりに集まった弥次馬どもが、親方のほうがいけないと口々にわめきたてた。
五、六分すると、クローチェが六頭立てのりっぱなベルリン馬車に細君や女中や仕着せを着た下男たちを乗せてやってきた。りっぱな軍服を着ていた。彼は馬車からおりて私と接吻した。私は気の毒そうな顔をつくって、私よりまえには出発できないのだと、そのわけを話した。彼は私のいうことが正しいといって、どなりはじめた。建て場の連中はふるえだし、親方は逃げてしまった。すると、その女房がおりてきて、私の供をするように馬方に命じた。クローチェはきみも命令で追放されたという噂がながれているから、パドヴァへ引き返して顔を見せるのはたいへんいいことだといい、
「わしと同じように自宅で賭博を開帳したモデナ軍のゴンドワン大佐も追放を命じられたよ」と話した。
私は来週ヴェネチアで会おうと約束した。まるで天から降ってきたようなこの男は、四度の賭博で一万ゼッキーニもうけ、そのうち私に四千九百ゼッキーニよこした。私はその金で借金を払い、質に入れておいた品物を受け出したが、それでもなお莫大な金が手もとに残った。
[聖女カテリーナの指輪]
無事にパドヴァへ着いた。馬方はおそらく恐怖のためだろうが、十分注意して私を案内したので、たっぷり礼をやって喜ばせた。それで、私もあの連中と喧嘩するのはやめた。出発まえに手文庫をあずけておいたブラガディーノ氏はべつとして、三人の友人は私の失踪に気をもんでいたので、私がひょっくり顔を見せたら、みんな大喜びであった。彼らは私も市長から追放に処されたという噂を信じていた。私がヴェネチア人だから、そういう命令を出せないことには気がつかなかったのである。私はそのままベッドへはいらずに、りっぱな衣服に着かえて、マスクをせずにオペラへ行った。友人たちには私に関する悪い噂をとり消させに行くのだと説明した。
ド・ラ・エーが私にいった。
「きみの噂が根も葉もないことであったのは、わしとしてもおおいに嬉しい。しかし、あの噂のもとはきみにあると思わなければなりませんよ。あんなにあわてて出発したのがいけなかったのです。民衆というものは万事につけて理由を知りたがるものだが、その理由がわからないと、かってな理由をでっちあげますからね。しかし、きみが馬方を殺そうとしたのはたしからしいですね。的がはずれたのを神さまに感謝すべきですよ」
「それもデマですよ。怒りにまかせて目と鼻の先でうったとしたら、どんな弾丸だってあたらないはずはありませんからね」
「しかし、馬が死んでますよ。弁償はするんでしょうね」
「いや、たとえあの馬があなたのものでも弁償はしませんよ。馬方がさきに立って走っていたんですからね。弁償はしませんよ。あなたは物知りにも似合わず、駅馬の規則を知らないのですか。それに、ぼくはいそいでいたのです。けさあるきれいな婦人と朝食をする約束をしていましてね。そういう約束は反古《ほご》にできないものですよ」
ド・ラ・エーは私がこういう話に加味した辛辣な皮肉に感情を害したようであったが、そのあとで、私がポケットからゼッキーニの棒包みを引き出し、ウィーンで借りた金を全部返したら、彼はさらに立腹したようであった。人間というものは、立ち騒ぐ情欲に悩まされていないかぎり、金を持っていれば正しい議論ができるものだ。ブラガディーノ氏はマスクをつけずにオペラへ行くのはたいへんけっこうだといった。
私が平土間へ姿をあらわすと、すべての観客が驚き、嘘かまことか、私に話しかけたものが全部喜びをいった。それから、最初のバレーが終わると、賭博場へ行って、三、四回銀行をして五百ゼッキーニもうけた。しかし、空腹と睡気で死にそうだったので、家へ勝利をうたいにもどった。親愛なるバヴォワがあとを追ってきて五十ゼッキーニ借りていったが、その金はとうとう返さなかった。もっとも、私が一度も催促しなかったのも事実である。
私はいつもC・C嬢のことが気になっていたので、翌日は一日かかってじょうずなピエモンテ人の画家に自分の肖像を微細画にうつさせた。このピエモンテ人は定期市をあてこんでパドヴァへ来ていたのだが、のちにヴェネチアで大金もうけをした。私は自分の肖像ができると、同じ寸法で聖女カテリーナの肖像をかかせた。それから、あるヴェネチア人の優秀な細工師を訪ねて、きわめて精巧な指輪をつくらせた。指輪は最初目につくのは聖女カテリーナであった。しかし、肖像の縁の白い琺瑯《ほうろう》のなかのほとんど目にもとまらない青い一点をピンの先で押すと、聖女カテリーナがとんで、たいへんよく似た私の肖像があらわれた。彼は約束どおり四日後に仕上げて渡してくれた。
金曜日に食事をすませたとき、一通の手紙を渡された。驚いたことに、それはP・Cからの手紙で、すぐに星旅館《ステラ》(それは建て場の旅館であった)へ来てほしい、きみにとってたいへん重大なことを知らせたいからとあった。私はなにか彼の妹に関係したことだろうと思い、すぐに出かけていった。
予期したとおり、彼はC夫人といっしょだった。彼の出獄について喜びを述べてから、重大なことというのはなんだときいた。彼は妹はどこかの修道院に監禁されているらしいが、ヴェネチアへ帰ったらすぐにその名前をつきとめると断言した。私はそれはありがたいと礼を述べた。
しかし、この話は私を呼びよせるための口実にしかすぎなかった。いそいで手紙をよこした理由はほかにあった。彼は向う三年間の約束で牛の買入れの権利を一万五千フロリンで売った。その取引の相手が保証金を払って監獄から出してくれ、さらに四枚の手形で六千フロリンを前貸ししてくれたといった。そして、すぐに、私の知らない男の名が引受人として署名してある四枚の手形を見せ、その男のことをほめそやした。それから彼はさらに言葉をつづけて、
「ぼくはヴィチェンツァの工場から絹布を六千フロリン買いつけたいのさ。製造元への支払いにはこの手形をあてるつもりだ。その絹布はすぐに売れることは確実で、一割のもうけがある。どうだい、いっしょに来ないか。二百ゼッキーニやるぜ。そうしたら指輪を買うとき保証に立ってもらった二百ゼッキーニが浮くじゃないか。二十四時間もあれば、いっさいかたがつくよ」
行きたくなかったが、保証をした二百ゼッキーニを手に入れたい気持が判断をくるわせ、私は承知した。そして、ぼくが行かなければ、彼は二割五分損をして反物を売り、ぼくの手へは一文もはいってこないと考えた。そこで、翌朝はやくいっしょに出発することにした。彼はヴィチェンツァの一流の製造元へ宛てた開封の紹介状をいくらも見せた。貪欲ということは私の性格ではなかったが、それが私を彼の奸策へ巻きこんだのであった。
[善良な亭主役の悲劇]
翌日はかなりはやく星旅館へ出向いた。やがて四頭立ての馬車の用意もできた。旅館の亭主があがってきて勘定書を出した。P・Cは私に払っておいてほしいといった。勘定書には五ゼッキーニとあったが、そのうちの四ゼッキーニは亭主の立て替えたもので、旦那さまご夫妻がフジーナから乗ってこられた馬車賃ですといった。私はひそかに笑いながら払ってやった。悪党は一文なしでヴェネチアから来たのだった。われわれは馬車に乗り込み、三時間でヴィチェンツァへ着いた。そして、帽子旅館《カペロ》へ宿をとった。彼は上等の昼食を注文すると、絹布の製造元へ交渉に行くために、夫人と私を残して出ていった。
すると、C夫人があなたはわたしを軽蔑していると文句をいいはじめた。そして、十八年まえからあなたを愛してきたのです。だって、パドヴァではじめてお目にかかったのはふたりとも九歳のときでしたものといった。この言葉で私も思いだした。彼女の父親はグリマーニ司祭の友人の古物商で、私をあのスラヴォニア人の婆さんのところへ下宿させたのであった。私は彼女の母親がかわいがってくれたことを思いだし、思わず笑いだした。
しかし、まもなく、店の若いものが大勢で、どんどん反物を運びこんできた。C夫人は大喜びであった。二時間とたたないうちに、部屋のなかは足の踏み場もないほどになった。P・Cは昼食をふるまうといって、製造元の主人をふたり連れてきた。C夫人は濃厚な愛嬌をふりまいた。食卓では上等の葡萄酒がふんだんに抜かれた。食事がすむと、また反物を持ち込んできた。P・Cは買った品物の一覧表をつくり、値段を書きこんだ。そして、もっとほしいといった。商人たちは翌日が日曜だったにもかかわらず、あす届けると約束した。
夕方になると、伯爵たちがぞくぞくとやってきた。ヴィチェンツァではすべての貴族が伯爵であった。P・Cは彼らの家へ紹介状をくばってきたのであった。ヴェロ、セッソ、トレントといった面々で、みんな愛想がよかった。彼らは貴族の集まるカジノへわれわれを招待した。C夫人はその美貌と愛嬌でおおいにちやほやされた。そこで二時間ばかり遊ぶと、P・Cは彼らを夕食に招待した。一同は嬉々としてふんだんに料理を平らげた。私は非常に退屈で、ろくにものをいわず、したがって、だれも私に話しかけなかった。私は腰をあげると、愉快にはしゃいでいる連中にかまわずに四階の一室へ行ってねてしまった。
夜が明けて、下へ朝食におりていった。正午までに部屋へはいりきれないほどの反物が持ち込まれた。P・Cの六千フロリンではとても支払えそうになかった。彼は取引はあすすむはずで、土地の貴族が全部集まる舞踏会へ招待されているといった。商談の相手の製造元の主人たちが来て、昼食をともにした。あいかわらず大盤振舞いだった。
夜の舞踏会では、私はほんとに癇《かん》を起こしてしまった。だれも彼もC夫人やP・Cにばかり話しかけたが、P・Cのいうことはなっていなかった。私がときどき言葉をはさんでも、だれもきいてくれなかった。私はある夫人をつかまえてメヌエットをおどったが、その夫人はおどっているあいだもたえずきょろきょろとあたりを見まわした。コントルダンスがはじまったが、私はのけ者にされた。ある夫人は私をことわりながら、ほかの男とおどった。私もきげんがよかったら、そんなことを苦にしはしなかっただろう。しかし、ヴィチェンツアの貴族たちがどうして私をこんなに粗略にあつかうのか、その理由がのみこめず、ついに旅館へ帰ってねてしまった。きっとP・Cの差し出した紹介状に私の名前がのっていなかったので、私を無視したのだろう。しかし、彼らも礼儀は心得ているはずだ。私は翌日出発するのだからと思って、万事胸をさすって我慢した。
翌日、P・Cらは疲れて昼まで眠っていた。昼食後、彼は選んだ反物の代価を支払いにいった。われわれは翌日火曜日の朝はやく出発することにした。C夫人にたぶらかされた伯爵たちが夕食にやってきた。私はあすになるのが待ちどおしく、彼らを食卓へ残してねにいった。水曜日の朝はやくヴェネチアへ帰らなければならなかったからである。
翌日の朝、下の部屋に朝食の支度ができたといいにきた。私が少しぐずぐずしていると、また給仕があがってきて、奥さまがはやくいらっしゃるようにとのことですといった。この奥さまという言葉をきくと、そのとたんに、私の拳《こぶし》が罪もない哀れな給仕の顔へとび、足が腹を蹴って、階段のきわまで追いこくった。彼はころげるように階段をかけおり、あやうく首の骨を折るところであった。私は怒りくるって下へおりて行き、ふたりの待っている食堂へとびこんで、ぼくのことをC夫人の夫だと旅館へ知らせたのはだれだときいた。P・Cはなにも知らないと答えたが、そこへ旅館の亭主が大きな庖丁をつかんでとんできて、なぜわしの甥を階段からつきとばしたのだとくってかかった。私はピストルを構えながら、だれがぼくをこの女の亭主だといったのだときいた。
「それはP・C大尉です。大尉はご自分で宿帳へそうお書かせになったのです」と彼は答えた。
そこで、私は大尉の襟をつかみ、壁へ押しつけて、ピストルの台尻で頭をぶち割ってやろうとした。が、亭主が庖丁をほうり出してふたりを引きはなしにきた。夫人は例によって気絶したふりをした。悪党は「そりゃ嘘だ。そりゃ嘘だ」とうめくばかりであった。
亭主は下へ駆けおりていって、帳場から宿帳を持ってきた。そして、宿帳を卑怯者の目のまえへつきつけ、≪オーストリア軍P・C大尉、およびカザノヴァ夫妻≫と書かせたのが自分ではないと、もう一度いってみろとつめよった。P・Cはそれはきみの聞きちがいだと答えた。すると、亭主は彼の顔を宿帳で叩きのめし、壁ぎわへすっとばした。
意気地なしが剣を吊っているのも忘れてこの侮辱をこらえて、軍服を着はじめたのを見ると、私は食堂からとびだし、階段を駆けのぼって、亭主の甥にパドヴァへ帰るのだから馬車へ馬を二頭つけさせろとどなった。そして、怒りに燃えながら、持物を手当り次第にトランクへぶちこんだ。そのとき、ようやく、名誉ある人間が悪党の仲間へはいると、こういうゆるすべからざる過失をおかすものだということを、つくづく悟ったが、それもあとの祭りであった。そこへC夫人がはいってきた。
「すぐ出ていってくれ。ぼくは腹がたっているんだから。女だって容赦しないぞ!」
彼女は肘掛《ひじかけ》椅子にぐったりと腰をおとして、涙にむせびながら、わたしのせいではない、あのあつかましい男が宿帳に書きこませたときには、わたしはそばにいなかったと誓った。そこへ旅館の女将がひょっくり顔を出して、同じことをいった。私は怒りにまかせてどなり散らした。窓から見ると、命じておいた馬車の支度ができて、門口にとまっていた。私は自分の分がいくらになるか、金を払おうと思って亭主を呼んだ。彼はあなたは全然ご注文なさらなかったのだから、なにもお払いになる必要はありませんといった。そのとき、ヴェロ伯爵がやってきた。
「伯爵、あなたもこの婦人がぼくの妻だと思っていたのでしょうね」
「町じゅうがそう思っていますよ」
「ちくしょう! あなたまでそう思いこんだとは心外ですな。ぼくがこの部屋にひとりでとまっていることもご存じだし、ゆうべだってこの人をみなさんにまかせて、ひとりで帰ってきたのをごらんになっているのに」
「世の中には細君に甘い旦那さまもたくさんいますからね」
「ぼくはそんな男じゃありませんよ。あなたは名誉ある男がどんなものかわかっていないのだ。さあ、外へ出ましょう。名誉ある男はいかにすべきか説明してあげるから」
伯爵は階段を駆けおりて、旅館から逃げだした。C夫人は涙にむせんでいて、私はちょっと不憫になった。女の涙は私には一生さからえない力をもっていたからだ。そのとき、私はもし一文も払わずに帰ったら、わざと騒ぎを起こし、それを利用して詐欺を働いたとさげすまれるだろうと気がついた。そこで、亭主に、かかった費用の半分はぜったいに払うから、勘定書を持ってこいと命じた。彼はすぐ取りにいった。しかし、また思いがけないべつの椿事《ちんじ》がもちあがった。C夫人がそこにひざまずき、涙をながしながら、ここであなたに捨てられたら、もうなにもかもおしまいです。お金は一文もないし、借金のかたに置いていくものもないのですと訴えた。
「なんですって? 六千エキュの手形やその金額に相当する反物があるじゃありませんか」
「反物はみんな持っていかれてしまいました。ご存じなかったのですか。ごらんになったあの手形は、わたしたちも現金同様に考えていたのですが、製造元の人たちはふふんと笑って、わたしどもの選んだ反物をみんな引きあげてしまいました。ほんとに、こんなことがあるでしょうか」
「あの悪党はなにもかも見とおしていたんだ。それで、ぼくにも来いとすすめたのだ。だが、愚痴をいうのも恥ずかしい。自分でくだらん失敗をしたんだから、その償いはしなければならない」
亭主の持ってきた勘定書は四十ゼッキーニだった。三日間の出費としては莫大なものだ。計算書のなかには、立替金もまざっていた。私は名誉にかけても残らず払わなければならないと知り、即座にこの義務をはたした。そして、ふたりの証人に署名させて、領収証を受け取った。亭主の甥にも虐待した弁償として二ゼッキーニやった。しかし、C夫人が女将に頼んで二ゼッキーニ恵んでほしいといわせたが、それはことわった。
こうして、あさましい事件は終わった。それは私に入用もなさそうな処世の道を教えた。それから二、三週間たって耳にしたが、私に見捨てられたふたりのやくざ者はトレント伯爵の肝入りで帰っていったということだ。この事件のひと月後、P・Cは、保釈の証人になった男が破産したので、監獄へ逆もどりした。彼はあつかましくも長い手紙を書いて、面会に来てほしいと頼んできたが、私は返事も出さなかった。C夫人にたいしても同じ態度をとり、夫人は貧乏のどん底へ落ちこんだ。
[信心ぶかい贈り物]
私はパドヴァにもどっても、指輪を受け取り、ブラガディーノ氏と食事をする時間しかいずに、いそいでヴェネチアへ出発した。ブラガディーノ氏も数日中に帰る予定であった。
翌日ラウラが予定どおりに手紙を届けてきた。それにはなにも目新しいことがなかった。私は返事のなかで、彼女の兄がしかけた悪辣な策略をくわしく書き、また指輪ができたことを知らせて、その秘密のからくりを説明した。
ある朝、夜明けに、彼女の指図にしたがい、ある場所へ行って待っていた。すると、母親が来て教会へはいっていった。そこで、私は彼女のそばにひざまずき、ちょっとお話したいことがあると耳打ちした。すると、彼女は廻廊へ出た。私は一心に彼女をなぐさめ、お嬢さんにたいしては死ぬまで変わらぬ愛をささげると誓ってから、近いうちに面会に行かれるかときいた。彼女は日曜日ごとに行くことにしているが、どこの修道院だか教えられないのがつらいと答えた。私はそれは聞いてもしかたのないことだが、ただ私の心がいつもお嬢さんを慕っていることだけを伝えていただきたいといった。そして、指輪を出して見せ、これを届けてほしいと頼んだ。
「この指輪はお嬢さんの守護の聖女カテリーナさまのお姿なのです。お嬢さんはこの聖女のご庇護《ひご》がなければ、ぼくの妻にはなれないのです。これからは夜も昼もこれを指にはめて、毎日パーテル(主祷文)とアヴェ・マリア(天使祝詞)をとなえるようおっしゃってください。ぼくも守護の聖ヤコブさまへ毎日クレド(使徒信経)をとなえてお祈りしますから」と私はいった。
母親は私の信心ぶかい気持をほめ、また娘にこの新しい信心を教えることができるのをたいへん喜び、指輪を受け取って、かならず渡すと約束した。それから、私は二ゼッキーニ出して、小遣の足しにしてくれるように、お嬢さんに渡してほしいと頼んだ。彼女は娘にはなにも不自由はさせてないといいながらもそれを受け取った。
次の水曜日によこした手紙には愛情のエッセンスとでもいうべきものが盛り込まれていた。彼女はひとりきりになるとすぐに、聖女をすっとばした。そして、私の肖像にかぎりもない接吻をよせたが、人がはいってきても、その接吻をやめなかった。すぐに肖像を裏返しにしてしまうからだと書いてきた。修道女たちは彼女が至福な聖女の庇護に信頼していると信じこみ、偶然にも、聖女の面影が彼女によく似ていると、修道院じゅうが噂をしている。それで、彼女にフランス語を教えている修道女は、指輪を五十ゼッキーニで譲ってほしいといった。聖女カテリーナのことは伝記を読んで軽蔑しているのだが、肖像が彼女にそっくりだったからである。彼女はこんなことを書いてから、いただいた二ゼッキーニはとてもありがたい、あたしがなにかむだづかいをすると、どこからお金がくるのだろうと、穿鑿《せんさく》好きな人たちからあやしまれやしないかと思ってひやひやしていたが、あのお金は人前で公けにお母さんから渡されたので、そんな心配をしなくてもすむと喜んでいた。彼女は同じ寄宿舎の友だちにちょっとした贈り物をするのが好きだったのだ。最後に、彼女はお母さんがあんたの信心ぶかいのをたいへんほめていたといい、二度と兄のことはいわないでほしいという頼みで、長い手紙を終わっていた。
その後三、四週間のあいだ、彼女は手紙ごとに、指輪が目の悪い人の手に渡ると、眼鏡でそれを見ようとして、目のすぐそばへくっつけ、表面の琺瑯をなでまわすので、聖女カテリーナのことが心配でたまらないといってきた。
「どうしたらいいのでしょう。もしもそんなときにバネがとんで、いくら上品でも、いっこう聖者さまらしくない顔が尼さんたちの目のまえにあらわれたら」と、彼女は訴えた。
P・Cがふたたび監獄にはいってからひと月後に、彼に二百ゼッキーニで指輪を売った男がやってきた。いろいろ談判のすえ、彼は二十ゼッキーニまけて、手形を置いていった。私は監獄のなかからたえず金をせびってくるあの悪党に手形を送ってやった。
クローチェはヴェネチアで評判になっていた。りっぱな家に住み、ファラオの銀行をして、来るものを洗いざらい裸にした。私はいつかはとんでもないことになるだろうと見ぬいて、彼の家へは足踏みをしなかった。しかし、彼の妻が男の子を生み、名付け親になって洗礼へ連れていってほしいと頼まれたので、いやともいえず訪ねていって、夕食のご馳走になった。しかし、その後は二度と寄りつかなかった。私があんなに賢明な行動をしたのは二度とないことだった。
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第三十八章
[C・Cの不幸]
まえにも話したように、わが相棒クローチェは巧妙でしかも大胆な財産の蒐集者で、ヴェネチアで大仕事をした。彼は人あしらいがよく、世間でいうよい仲間だったから、博打《ばくち》だけに身を入れていたら、いつまでもやっていられたろう。なぜなら、司法裁判所は狂人どもに財布を大事にさせ、お人好しに用心ぶかくさせ、いかさま師にばか者どもをだまさぬようにさせようとしたら、とうてい手がまわらなかったであろう。しかし、若気のあやまちからか風儀の堕落からか、彼の追放の原因はまったく異常で破廉恥なことであった。グリッティ家に属するヴェネチアの貴族に、スゴンブロ(女街《ぜげん》)というあだ名の男がいた。家柄はいいのだが、非常に素行が自堕落であった。これがクローチェに変態的な恋心を寄せた。クローチェは冗談からか趣味からか、あまりつれなくしなかった。しかも、困ったことに、このけしからぬ恋愛が一般に知れわたってしまった。そして、噂が噂を生み、世間を騒がせるようになった。そこで、当局も捨ててはおけず、彼にヴェネチア以外の土地へ住居をかえるように命じたのであった。
しかし、それからまもなくスゴンブロの身に起こったことは、重大な結果を引き起こした。彼は次に自分のふたりの息子に恋したが、そのために、若いほうの子を外科医にかけるようにしてしまった。哀れな少年は生みの親の希望にさからう勇気がなかったと告白した。この父親の愛情への服従は当然息子として父につくすべき義務のなかにかぞえられない種類のことだと思われた。司法当局は暴虐な父をカッタロの城塞に送った。彼は一年ののち、その土地の空気に毒されて死んだ。
裁判所はそこの空気が有害な毒性をもっていることをよく知っていて、裁判の経過を公表できないような罪をおかして、当然死刑に処すべき市民だけ、この空気を吸いに行く刑に処したのであった。
いまから十五年まえ、十人委員会は有名な弁護士コンタリーニをこのカッタロに送っている。これはヴェネチアの貴族だが、すばらしい雄弁によって大議会を籠絡し、憲法を変更しようと目論んだのであった。彼は一年ののちに死んだ。しかし、共犯者については、当局は賢明にもおもだったもの四十五名を処刑するのにとどめた。
いま話したスゴンブロは美しい細君をもっていた。おそらくいまでも生きていることと思う。彼女はコルネリア・グリッティといい、年にもめげぬ美貌の持主であったが、それよりもずばぬけた才気で知られていた。夫が死んで自由の身となったが、その自由を捨てさせようとすすめにくる男たちをてんで問題にしなかった。しかし、恋愛にたいして公然と敵意を表明したわけでもなかったので、彼らの敬意はいつも喜んで受け入れていた。
七月の終りのある月曜日のことであった。まだ夜の明けきらない時分に下男が起こしにきて、いつも水曜日に来る女がぜひお話したいということだと知らせた。彼女はひどく悲しげなようすで一通の手紙を渡した。文面は次のとおりであった。
「日曜日の夜。けさ不幸なことが起こりました。それをみなさんに隠しておかなければならないので、困りきっております。出血がとまらないのです。どういうふうにしてとめたらいいのかわかりませんし、下着類もあまり持ってきておりません。ラウラの話だと、出血が長びくようなら、たいへんたくさんのタオルがいると申しますが、あんたのほかには、どなたにも打ち明けてお頼みすることができません。どうかタオルをお届けください。ラウラにいっさいをまかせなければならなくなったのも、わかっていただけると思います。ラウラだけは毎日いつでもあたしに会いにこられるのですから。もしもあたしがこの出血で死んだら、修道院じゅうの人にあたしがなんで死んだかわかってしまうでしょう。けれども、そんなことよりも、あたしはあんたのことを考えてふるえています。あんたは苦しまぎれにどんなことをするでしょう! ああ、いとしい友よ! ほんとに困ってしまいます!」
私はいそいで服を着ながら、事情をいろいろ考えてみた。そして、ラウラに出血はどういう種類のものだときいた。ラウラはたしかに流産だとはっきり答え、あのお嬢さまの評判にかかわることだから、ごく秘密にしなければならない。しかし、タオルさえあればすむことで、病気はたいしたこともないのだからといった。しかし、それはありきたりの慰めにしかすぎない。服をつけるとすぐ、私はゴンドラにもうひとり船頭を乗せ、ラウラを連れて、いそいでゲットーと呼ばれるユダヤ人街へ行って、あるユダヤ人から店にあるシーツを全部と二百枚のタオルを買い、すべてを袋へつめこんで、ラウラといっしょにムラーノへ行った。その途中、船のなかで、私はラウラを全面的に信用している、きみの出血がとまるまでムラーノに滞在すると、鉛筆で手紙を書いた。ラウラはゴンドラをおりるとき、あなたの姿を人に見せたくないから、わたしの家へ隠れているほうがよいといった。そして、ぼろのいっぱいちらばった一階の部屋へとおした。そこにはベッドがふたつ見えていた。彼女はスカートの下へ入れられるだけのタオルをたくしこみ、いそいで病人のところへ行った。彼女も病人とは前日の夕方から会ってなかったのだ。私はもう危険を脱していてくれればいいと心に念じ、はやく彼女のようすが知りたかった。
ラウラは一時間ほどでもどってきて、お嬢さまはゆうべだいぶ血をなくして、すっかり衰弱してねていらっしゃる。もしもこのまま出血がとまらないと、二十四時間でだめになってしまうから、神さまにおすがりするよりほかはあるまいといった。
こういいながらスカートの下から引き出した下着類を見て、私はあやうく失神しそうになった。まるで屠殺場であった。彼女は私を慰めるつもりで、「秘密の点ではなにも心配することはありませんが、むしろ命のほうが、ずっと心配です」といった。「秘密なんかどうでもいい! 助かってくれえ! そして、世界じゅうのものにぼくの妻だと知らせてくれえ!」と私はさけんだ。べつのときなら、ラウラの愚かしさは私を大笑いさせただろう。だが、この悲しい瀬戸ぎわでは、そのばからしさを笑う気力もなかった。ラウラはまたこういった。
「おかわいそうなご病人はあなたさまのお手紙を見て、お口もとをにっこりほころばせ、あの人がそんなに近くに来ていらっしゃるなら、あたしはきっと死ぬはずがないわとおっしゃいましたわ」
私はそれをきいて嬉しかった。だが、男を慰め苦痛をやわらげるには、ちょっとしたことで足りるものだ。
私は善良な女から血にまみれた小さいぶざまな塊を見せられたとき、ぞっと身ぶるいをしてしまった。彼女はこれを自分で洗いにゆき、もどってきたら、修道院の人たちが食事をしている頃合を見はからつて、下着類をもっていってみると話した。
「見舞いに来る人があるの?」
「ええ、修道院じゅうの人が来ますわ。けれど、どなたも病気の原因はお気づきになっていらっしゃいません」
「だが、この暑さでは、薄い掛蒲団しかかけていないだろうから、そんなにタオルがかさばっては、人目につかないはずはないだろう」
「そんな心配はありませんわ。あの方はベッドの上にすわっていらっしゃいますから」
「なにを食べているんだね」
「なにも召しあがりません。あの病気は召しあがっちゃいけないのです」
[修道院での流産]
彼女はこういうと出かけていった。私もいっしょに出かけた。そして、医者のペイトンを訪ね、長ったらしい処方箋を書いてもらったが、それは全然つかわなかったので、時間と金のむだだった。もしもそんな処方をつかったら、わが天使の病気が修道院じゅうへ知れわたってしまうだろう。しかも、それを吹聴するのは、修道院づきの医者で、おそらく商売敵という気持から、しゃべりちらすにちがいない。
私はまたラウラのところへもどった。三十分もすると、ラウラが目に涙をためて帰ってきて、C・C嬢のほとんど読めない手紙を渡した。
「いとしい友よ、もう手紙を書く力もありません。出血はとまらないし、とめる薬もないのです。こうなっては神さまにおまかせするよりほかはありません。でも、名誉はまだまもられています。あまり心配しないでください。あたしのただひとつの慰めは、あんたが近くにいるとわかっていることだけです。ひと目でもお目にかかれたら、死んでもいいと思います」
ラウラはまた血にそまったタオルを十一、二枚見せて、私をふるえあがらせた。彼女は私を慰めるつもりで、一ポンドの血で百枚のタオルがびっしょりになるといったが、そんな気休めを受けつける気になれなかった。私は絶望の極みだった。あの清浄無垢な娘を死にいたらせた極道者は自分だと固く信じていたので、彼女が死んだらあとに生き残る気もなかった。それで、茫然《ぼうぜん》と途方にくれ、ベッドの上にたおれて、ものの六時間もぐったりしていた。そこへラウラが二十枚ばかりの血のしみたタオルをもってもどってきた。彼女は日が暮れてから修道院へ行くことをゆるされなかったので、夜明けを待たなければならなかった。私は眠ることも、食べることも、ラウラの娘たちが一所懸命に世話をしようとする手もはねのけて、夜明けを待った。その娘たちは美しくはあったが、見るのもいやだった。というのも、天使の化身ともいうべき娘を殺すことになった、私の破廉恥な淫欲の道具のように思われてならなかったからである。
東の空が白みはじめたころ、ラウラがはいってきて、非常に悲しげなようすで、哀れな娘はもう出血しなくなったと告げた。私は彼女が死んでしまうものと思い、大声をあげて、
「もうだめか」ときいた。
「まだ生きていらっしゃいます。けれどもきょういっぱいおもちになるかどうかわかりません。すっかり衰弱しておしまいになりましてね、ようやく目をあいている力しかないのですよ。お顔色はまるで白蝋のようで、脈もほとんど感じられないくらいですの」と、彼女はいった。
私はほっとして、わが天使は助かると思った。
「しかし、ラウラさん、それは悪いことではないよ。出血がとまったら、なにか力になるものを食べさせなければいけないね」
「修道院でお医者を呼びにやりましてね、そのお医者が食べていいものを指図なさることになっております。けれども、ほんとのことを申しますと、どうもそれだけの希望がもてないのじゃないかと思われるのです。あの方はお医者にほんとのことはおっしゃらないでしょうから、お医者がどういうものをすすめるかわかりませんわ。で、わたし、なにも召しあがらないように耳打ちをしましたが、あの方にはよくわかったようですわ」
「しかし、もしもあすまでに衰弱で死ななかったら、きっと助かるよ。自然がなおしてくれるだろう」
「どうぞそうありたいものです。お昼にまた行ってみます」
「そのまえには行かれないのかね」
「あの方のお部屋がお見舞いの人でいっぱいでしょうからね」
私は希望をつなぐ必要があったので、自分の命を見すてるわけにはいかないと思い、食事をつくらせた。そして、食事の支度ができるまで、C・C嬢が字を読めるようになるときのために、手紙を書きはじめた。悔恨に悩まされるということはじつに悲しいものだ。私はまったくみじめな気持であった。そして、ラウラが帰ってきて、医者の託宣を伝えてくれるのを待ちこがれた。
私は託宣を嘲笑する理由をかずかずもっていたが、それにもかかわらず医者の託宣が、それもとくに病気の好転を知らせるものが必要であった。
ラウラの娘たちが昼食を持ってきたが、なにも口に入れることができず、ただ私がすすめると、彼女らがすさまじい食欲で私の昼食を残らず平らげるのを見て気持をまぎらせるだけであった。長女はかなり手ごわい女だと見えて、私のほうは一度も見なかった。ふたりの妹もちょっと踏める娘たちだったが、その顔を見るたびに私はひどい悔恨になやむばかりであった。
待ちかねていたラウラがようやく帰ってきた。そして、病人はやはり同じ衰弱状態をつづけていて、医者はそのひどい衰弱がどういう原因からきているのか見当がつかなかったと知らせた。
「お医者は強壮剤と軽いスープを飲むようにお命じになり、よく眠れれば健康を回復できるとおっしゃいました。そして、夜の付添人をつけるようにということでした。すると、ご病人があたしをお名ざしになるように、あたしのほうへ手をお出しになりましたから、これからは夜も昼も付きそうことにいたします。そして、ご容態をいちいちお知らせ申します」
私は彼女に感謝し、十分に礼をすると約束した。C・C嬢の母親が見舞いにきたが、なにも気づかず、ただやさしい愛撫をして帰っていったときいて、私も嬉しかった。そして、彼女がよく眠れれば、きっとなおるだろうと信じ、翌日を期待した。私は少し気持がやすまり、ラウラに六ゼッキーニと三人の娘に一ゼッキーノずつやった。そして、夕食に魚を食べた。それから、同じ部屋にあったみじめなベッドのひとつにねた。ベッドが悪かったが、服をぬいでねた。妹たちは私がねたのを見て、自分らも無造作に服をぬぎ、隣のベッドへいっしょにねた。この無邪気な信頼ぶりが私を喜ばせた。ただし、姉娘だけはもう事わけを心得ていると見え、隣の部屋へねにいった。彼女には恋人があり、秋に結婚するはずになっていた。そのときは、私は肉の悪魔にとりつかれていなかったので、清浄な娘に少しも試練を加えようとせず、静かに眠らせた。
翌日、朝はやく、ラウラが明るい顔でもどってきて、病人がゆうべよく眠ったと告げ、これからスープを持って引き返すのだといった。私はそれを聞いて非常に喜び、アポロンの予言よりも千倍もたしかなアスクレピオス〔ギリシア神話の医神〕の予言を信じた。しかし、体力を回復し、うしなった血をとりもどさなければならないから、まだ手放しで安心するわけにはいかなかった。それは時間と、熱心な、遺漏のない手当によるほかはなかった。だが、それでも、私は彼女がきっと健康にもどると確信した。事実はそのとおりに運んだ。
しかし、C・C嬢が四頁にわたる手紙でもう帰るようにと、なかば命令的にいってくるまでは、なかなか帰る決心がつかず、なお一週間ラウラの家にとまった。
いよいよ別れるときになると、ラウラは病人のために買ったりっぱなシーツやタオルをほとんど全部お礼にもらって嬉し泣きだった。ふたりの下の娘もやはり泣いたが、それはあきらかに十日も同じ部屋に寝起きしながら一度も私に接吻したい気持をおこさせられなかったためであるらしかった。
やがてヴェネチアに帰って、もとの習慣にもどった。しかし、私は現実の幸福な恋愛がなければ、とうてい満足できない性分であった。それなのに、楽しみといえば、水曜日ごとにかわいい妻から手紙をもらうだけであった。彼女はあたしを誘拐するようなことは考えずに、辛抱づよく待っていてほしいとはげました。ラウラも彼女がずっと美しくなったという。私は会いたい見たいの気持がつのるばかりであった。
[私は痩せ細っていった]
やがてその機会が訪れた。私はそれをのがそうとしなかった。八月の終りごろ、ラウラが着衣式〔尼僧がヴェールをつけて聖職の誓いをたてる儀式。親類や友人はこの厳粛な儀式に出席を許された〕の話をし、修道院じゅうがごったがえしているといった。そこで、この機会にわがうるわしの天使に会いにいこうと決心した。面会室は客が山をなすにちがいない。修道女たちは修道院の門前で訪問を受けることになっていたから、寄宿している娘たちも姿をあらわすにちがいない。C・C嬢もそのなかにまじって出てくるだろう。未知の人々がたくさん集まる日だから、人目につく心配もあるまい。そこで、ラウラにもなにもいわず、C・C嬢へのその直前の手紙でもなにも書かずに出かけていった。
目のまえ四歩ばかりのところで、彼女が私がいるのに驚いて、じっと目をすえて見つめているのを見たとき、私は嬉しさのあまり死ぬかと思った。彼女は以前にくらべてずっと大きくなり、身体もでき、器量もいちだんと美しくなって、ほんとに信じられないくらいであった。私は彼女にばかり目をそそぎ、閉門の時間になるまで、その場を動かなかった。
それから三日目によこした手紙で、彼女は私に会えた喜びをあまりにも色あざやかに書いてきた。それで、そういう喜びをしばしば味わわせてやろうという気になり、すぐに、これから祝日ごとに修道院の教会のミサへ行くから顔を見てほしいと書いた。そして、すぐ実行にうつったが、それは私にはなんでもないことであった。彼女の姿は私には見えないが、彼女が私を見て喜んでいると思えば、嬉しい極みであった。私としてはなにも気づかうことはなかった。その教会にはムラーノの善男善女しか行かず、人に知られるはずもなかったからである。
こうして、二、三回ミサに出たあとで、ある日、渡しのゴンドラへ乗りにいった。ゴンドラの船頭たちは私の素姓を知ろうという好奇心をもつはずもなかったが、私は油断しなかった。C・C嬢の父親が彼女に私を忘れさせるつもりであることはわかっていたから、もしも私がひんぴんと姿を見せることを知ったら、文通さえ全然できないような他の修道院へ送ってしまうにちがいなかったからだ。
私は文通もできなくさせられる心配からこういうふうに考えたのだが、それは修道女たちの性格やその好奇心の奇妙な種類を知らなかったからである。またそればかりでなく、私の人品骨柄が目立ちやすかったし、しかも、私が熱心に教会へかようのを見て、彼女らがみなこれにはなにか理由があるにちがいないと勘ぐり、すぐにその理由を穿鑿《せんさく》するためにできるだけの手を打つかもしれないということも考えなかった。
五、六回の祝日のあとで、C・C嬢は、おどけた調子で、あんたは修道女と寄宿生の別なく、修道院全体の謎になってしまったと書いてよこした。みんな目をこらしてミサの時間になるのを待っている。そして、いまあの方が教会へはいってきた。いま聖水盤に手をふれたとささやきあうということであった。また彼女らは私が修道女たちのいる格子戸のほうへけっして目を向けず、教会へ出入りする女たちや娘たちに目もくれないことも、すっかり見とどけていた。年とった修道女たちは、あの人にはなにか大きな悩みがあり、その悩みから解放されるために、全幅の信頼をよせている聖母マリアさまのご加護を求めにくるにちがいないといった。若い修道女たちはあの人は憂欝症の病人か厭世家で、世間を避けているのだろうと想像した。
愛する妻は事情をいっさいのみこんでいたし、ほかになんの理由も考えられなかったので、こんなことをおもしろがり、それを報告して私を楽しませた。しかし、私はもしも素姓が知れるような心配があるなら、ミサへ行くのはやめると書いた。彼女はあんたの姿を見るのは、いまのところあたしのただひとつの生き甲斐なのだから、それをうばわれたらとても悲しいという返事をよこした。しかし、ラウラの家へは立ち寄らないほうがいいと思った。なぜなら、修道女たちが好奇心にかられて事情をつきとめ、よけいなことまでほじくりだすかもわからなかったからだ。
だが、私はだんだん痩せて、健康がすぐれなくなった。もうこうした生活を長く耐えていくことはできない。私の生れながらの性分は、気に入った情婦をもち、その女と幸福に暮らすことにあった。それがかなわなくなったのだから、もうなにをしたらよいかわからず、毎日賭博場へひまをつぶしにいった。賭博はほとんどいつも勝ったが、それでも退屈がなおらなかった。天からめぐまれた相棒クローチェのおかげで、パドヴァで五千ゼッキーニもうけたあとは、ブラガディーノ氏の忠告にしたがい、カジノの一部屋を借り、ファラオの銀行をはじめた。資金はある大立者と半々に出しあったが、その男がにらみをきかせていたので、横暴な貴族どものインチキ手段からまぬがれることができた。私の楽しい遊びでは、ふつうの市民はつねに彼らにたいして歩の悪い立場におかれていたのであった。
[修道女の匿名の手紙]
諸聖人祭の日(十一月一日)、ミサをきいてからヴェネチアへもどろうと思ってゴンドラに乗ろうとしていると、ラウラと同じ風体の女と出会った。その女は私を追い越しながら、一通の手紙を私の足もとに落とした。私はそれをひろった。女は私がひろったのを見とどけると安心したように、すたすた歩み去った。手紙は宛名も差出人もなくまっ白で、砂金石色のスペイン蝋で封がしてあった。封印には活索《ひっこき》(綱の結びかたの一種)の模様がついていた。ゴンドラに乗るとすぐ、封を切って読んでみた。
「二か月半以前から祝日ごとにあなたさまを教会でお見受けしてまいりましたある修道女が、あなたさまとお近づきになることを希望しておるのでございます。あなたさまがおとしていかれたご本を偶然にひろいましたが、ご本からお察し申しますと、あなたさまはフランス語がおわかりのようでございますね。けれども、お望みによっては、イタリア語でご返事くださってもけっこうでございます。そのものは明瞭と正確を望んでおるのですから。そのものはあなたさまがすぐに面会室へお呼びくださるようにお願いしておるのではございません。ぜひお話をなさりたいというお心持におなりになるまえに、そのものをごらんいただきたいからでございます。それで、ひとりの婦人をお教えいたしますから、その婦人とごいっしょに面会室へおいでくださいませ。その婦人はあなたさまを存じあげないはずですから、お名前を知られたくないお気持でいらっしゃるなら、その婦人はあなたさまをわたくしにご紹介する義務もないわけでございます。
もしもこういう方法が好ましくないとおぼしめすようでございましたら、この手紙を書いております修道女はこのムラーノのある別荘をお教えいたします。日にちをおきめくださいましたら、日暮れの一時間後に、ひとりでその別荘へまいっておるでございましょう。あなたさまはそこでごいっしょにお食事をなさっても、ご用がおありでしたら、十五分後にお帰りになっても、どちらでもけっこうでございます。
またもしもヴェネチアでお夕食をいっしょにあそばしたいお気持でいらっしゃいましたら、日取りと、夜分の時刻と場所とをお申し聞けくだされば、かならずまいります。マスクをつけてゴンドラからおりますから、あなたさまもおひとりで、下男をお連れにならず、マスクをつけて、蝋燭をお持ちになっていらしってください。
きっとご返事くださるものと存じますし、あなたさまも十分お察しと思いますが、はやくご返事を読ませていただきたく気がせいておりますので、どうぞ、あす、この手紙をお届けしました女へご返事をお渡しいただきたいと存じます。その女は正午の一時間まえにサン・カンツィアノ教会の右手のとっつきの祭壇の前でお待ち申しあげます。
どうぞお察しくださいませ。あなたさまをお気立がやさしく誠実なお方と考えませんでしたら、さだめしはしたない女だとおさげすみをいただくような手紙を書く決心はつかなかったでございましょう」
この手紙は一語一語忠実に写したものだが、その調子は事柄そのものよりも私を驚かした。そこで、ほかに用事もあったのだが、いっさいをなげうって部屋にとじこもり、返事を書くことにした。この申し入れはたしかに正気の沙汰ではない。しかし、手紙には気品があって、無下にしりぞけるわけにもいかなかった。私はまずこの修道女がC・C嬢にフランス語を教えている人ではないかと思った。彼女の話だと、その修道女は美しく、裕福で、相当さばけた女だということであった。また私のいとしい妻が口をすべらしたのかもしれないと考えてみたが、それにしても、彼女は友だちのこうした突拍子もない行動を知らないにちがいない。さもなければさきに通知してくるはずだと思った。しかし、ともかくも楽しい申し入れだったので、よけいな疑いはさらりと捨ててしまった。C・C嬢の便りによると修道女のなかには彼女に教えてくれている人以外にもフランス語に堪能な人がいくらもいるということであった。私はC・C嬢が固く秘密をまもっていることを疑わなかったし、非常にまじめな娘だから、ちょっとでもその修道女に打ち明けたら、かならず知らせてこないはずはないと思った。とにかく、私に恋文をよこした修道女がC・C嬢の美しい友だちであろうと、ほかの修道女であろうと、それはあまり気にかけないことにして、礼儀の道にはずれない程度に、ごくあたりさわりのない返事を書いた。
「あなたのお手本にならって、フランス語でご返事を差し上げますが、ご希望になる明瞭と正確には事欠かないかと存じます。
お申越しの件はたいへん興味ぶかいものに思われます。しかし、事情が事情でございますから、私にはたいへん重大なことに思われます。なにしろ全然存じあげない方へご返事するのですから、自惚《うぬぼ》れやばかでないかぎり、人をかつぐ悪戯《いたずら》ではあるまいかと心配するのも余儀ないことでございます。私にいちおうは警戒するように強制いたしますのも、名誉を重んずる気持にほかなりません。
しかし、お手紙をくださったお方が尊敬すべきご婦人で、私のこともご自分と同様に気高い魂と善良な心をもっているものとご判断くださいました以上、次のようにお答えいたしたいと思います。
私を外観だけからご判断になって、個人的にお知合いにさせていただく価値あるものとお考えくださいましたのなら、私といたしましては、喜んでおぼしめしにしたがう義務があると思います。たとえ、お目にかかりましたあとで、私という男がお見込みちがいであったとお気づきになろうと、それはいたしかたのないことでございます。
ご親切にもおしめしくださった三つの方法のうち、第一の方法を選ばせていただきます。もちろんふかいお考えからお命じになったご注意を固くまもりますことは申すまでもございません。そして、そのご婦人のお供をして面会室へまいりましょう。そのご婦人はお名前をお聞かせいただいても存じあげない方でしょうから、私をご紹介くださることなど問題にならないわけでございます。
たいへん失礼ながら、いろいろの理由から名前を申しあげるわけにまいりませんが、ご無礼はひらにおゆるしください。そのかわり、あなたのお名前もおうかがいしないことにいたします。もしも将来お明かしくださるようになりましたら、そのときは私も名前を申しあげることにいたしましょう。とにかく、これならさしつかえないとおぼしめして、お言葉をかけてくださいましたら、ふかい敬意をこめて、うやうやしくお答えするつもりでございます。ところで、ひとつお願いがございますが、面会室へはどうぞおひとりでおいでください。それから、念のために申し添えますが、私はヴェネチア人で、あらゆる意味で自由の身でございます。おしめしくださった他のふたつの方法も、無上の光栄なのですが、お受けできませんでしたのは、くどく申しあげるようですが、悪戯を警戒してのことなのでございます。しかし、あなたをよく存じあげるようになり、はなはだしく嘘をきらう私の心をなんの疑惑もかきみださなくなりましたら、おっしゃるような楽しい会合も実現できるかと存じます。ともかく、私もお目にかかる日を待ちこがれておりますので、あす、同じ時刻にサン・カンツィアノへご返事をいただきにまいります」
指定された場所へ行くと例の女が待っていたので、手紙と一ゼッキーノ渡した。翌日、またそこへ行くと、女が近づいてきて、きのうの一ゼッキーノを返し、次のような手紙を渡し、どこかへいらっしゃってこれをお読みください。そして、ご返事をいただくためにお待ちしたほうがよろしいかどうか、ここへおもどりになってくださいといった。例の修道女の手紙にはこう書いてあった。
「わたくしの思ったとおりでございました。わたくしもあなたさまとご同様に嘘はきらいでございます。それが重大な結果を生じる場合には、とくにきらいでございます。けれども、だれにも害にならないような嘘は冗談としかみなさないことにしております。あなたさまは申しあげた三つの方法のうちで、第一のものをおとりになりましたが、ご配慮のふかさには感服のほかございません。あなたさまがお名前をお隠しになるのもごもっともと存じますので、S伯爵夫人へ同封の手紙を書きましたから、お読みくださいませ。そして、封をなさって夫人へお渡しくださいませ。夫人へはべつに手紙を差し上げておきます。ご都合のよろしいときに夫人をお訪ねくださいますれば、時間をお知らせし、ご自分のゴンドラでここへお連れいたすでございましょう。夫人はあなたさまになにもおききにならないはずですから、あなたさまもなにもお話しになる必要はございません。紹介などもご無用でございます。けれども、夫人はわたくしの名をお知らせするでしょうから、お気の向いたおりにマスクをつけておいでになり、伯爵夫人からのお使いとおっしゃってお呼びくだされば、お目にかかることができます。こうしますと、あなたさまは、きっとご貴重にちがいない夜の時間をおさきになる必要もなく、お会いくださることがおできになるわけでございます。もしも伯爵夫人をご存じで、お会いになるのをお望みにならないこともあるかと思いまして、下女にお返事をお待ちするように申しつけました。もしもわたくしのはからいがお気にめしましたら、下女にご返事はないとおっしゃってくださいませ。そうしましたら、下女はわたくしの手紙を伯爵夫人のところへお届けするでしょう。もう一通の手紙はご都合のよろしいとき、ご自分で夫人へお渡しくださいますよう」
私は下女に返事はいらないといった。この伯爵夫人の名前は聞いたこともなく、夫人が私を知っているはずはないと確信したからである。彼女に渡すべき手紙の文面は次のとおりであった。
「おなつかしい友よ、どうぞおひまのときお話しにいらしってください。そのときには、この手紙をお届けするマスクをつけたお方に時間をおっしゃって、ごいっしょにいらしってください。その方はきっと正確に時間をおまもりくださるでしょう。では、どうぞよろしくお願い申します」
宛名にはロマリン河岸《かし》のS伯爵夫人とあった。この手紙は恋の策略としてはじつにすばらしい、気のきいたものに思われた。しかも、彼女のやり方にはなにか上品なところがあり、私が彼女から恩恵をほどこされている男のようにわざとこしらえてあった。私はそうした彼女の魂胆をいっさい見ぬいてしまった。
[面会室での初顔合わせ]
修道女は二度目の手紙でも私の素姓を知ろうとはせず、私が第一案を選んだのをほめ、夜の密会を求める気配さえ見せなかった。しかし、彼女をひと目見たあとで、私が彼女を面会室へ呼びだすことをあてにし、またそう信じているらしいようすであった。そうした自信が私の好奇心をあおった。若くて美しい女ならそういう希望をもつのも当然である。面会を三、四日のばして、C・C嬢から修道女のことを聞きだそうとすれば、できないことではなかった。しかし、それは腹黒い仕打ちであるばかりでなく、せっかくの艶事を台なしにし、後悔のほぞをかむようにならないともかぎらない。彼女は都合のよいときに伯爵夫人を訪ねろといった。体面上から気がせいているようなようすは見せたくなかったのであろうが、私のほうがいそいでいることを百も承知のうえだった。彼女は恋の手管にはたいへんくわしいようだったので、経験のないうぶな生娘《きむすめ》だとはとうてい信じられなかった。だから、つまらないひまつぶしだったとあとでくやむ心配がなくもなかった。しかし、相手が姥桜《うばざくら》だったら笑ってすます覚悟はできていた。彼女のさそいに乗ろうときめた気持のうらに、ヴェネチアへいっしょに夕食を食べにいこうといいだした修道女が私にたいしてどういう態度に出るか、それを見きわめたいという好奇心がなくもなかったのは事実である。それにまた、禁足の掟《おきて》をやすやすとやぶる、あの童貞女たちの奔放さにも非常に驚いたのであった。
午後三時に、伯爵夫人の邸を訪ねて、例の手紙を差し出した。彼女は客の相手をしていた部屋からすぐに立ってきて、あすのこの時間に訪ねてきてくださったらたいへん嬉しいといい、しとやかに挨拶をしてひきさがっていった。これは相当の年配の夫人であったが、まだ美しかった。
翌日は日曜日であったので、朝、私は非常にしゃれた服や帽子をつけて、いつもの時間にミサへ行ったが、空想のなかではすでにいとしのC・C嬢を裏切っていた。自分の姿を彼女に見せることより、彼女より年上か年下かわからぬ修道女に見せることをよけいに考えていたからである。
昼食をすませると、マスクをつけ、定められた時間に伯爵夫人を訪ねた。夫人は支度をして待っていた。われわれは下へおりて、二挺櫓のゆったりしたゴンドラへ乗った。やがて***修道院へ着いたが、途中では秋の天気の美しさのほかはなにも語りあわなかった。夫人はM・Mを呼んでくれるようにといった。M・Mときいて、私は驚いてしまった。この名前をもっている女性がたいへん有名な人であったからである。それから、小さい面会室にはいった。五分もすると、例のM・Mがあらわれた。彼女はまっすぐに格子垣のそばへ来て、バネをおして格子の四つの枠を開き、女友だちに接吻すると、ふたたび巧妙にできた枠をしめた。四つの枠は合計して十八インチの四角になる。私ぐらいの体格の男ならだれでもはいっていくことができる。伯爵夫人は修道女と向かい合って腰をおろした。私は少しわきへよって、類いまれな美人をゆっくり見られるような位置にすわった。そして、すぐにこれはC・C嬢がほめちぎっている女、彼女を心をこめて愛し、フランス語を教えている女にちがいないときめた。
私はただうっとりと、魂を天外にとばす思いで、その美しさに見とれていたので、ふたりが話しあっていたことは全然耳にはいらなかった。修道女はひとことも私に言葉をかけなかっただけでなく、目さえ向けてくれなかった。しかし、彼女は二十二、三歳、完璧な美しさの持主で、背が高く、肌が青く見えるほど白く、高貴な、きりりとしたようすで、同時につつましく、ひかえ目であった。青い目がぱっちりと大きく、顔立はおだやかで笑みをたたえ、美しい唇はしっとり濡れて、ふた並びのみごとな歯をのぞかせていた。修道女の被《かぶ》り物のために髪の毛は見えなかったが、髪を剃《そ》っていようがいまいが、明るい栗色にちがいなかった。眉毛がそれを証明していた。しかし、私を驚かせ引きつけたのは肘《ひじ》まで見える腕と手であった。これよりととのった手にはとうていお目にかかれないだろう。血管はひとすじも見えず、また筋肉のかわりにえくぼしか目につかなかった。しかし、こういう完璧の美にもかかわらず、彼女の提案した夕食をまじえての密会をふたつながらことわったのを、私は後悔しなかった。ほどなくこの美人をわがものにすることを確信していたので、私はうやうやしく情念をささげる喜びを心ひそかに味わっていたのであった。しかし、はやくこの面会室でふたりきりになりたかった。彼女の資質が当然うけるべきふかい敬意をささげていることを見とどけてもらうのをあすまで延ばしたら、大きなあやまちをおかすことになると思われてならなかった。彼女は依然として私のほうへ視線を向けなかったが、しかし、そうしたつつましさもしまいには好ましいものに思われてきた。
突然、ふたりは声をさげ、顔を近寄せて、なにかひそひそと語りはじめた。それは私がじゃまだというしるしであった。そこで、私は腰をあげてゆっくり格子から遠ざかり、壁にかけてある絵をながめた。十五分ほどすると、ふたりは別れをつげ、動く窓越しに接吻した。修道女は私がお辞儀をするいとまもくれずに、さっさと背を向けてしまった。それから、伯爵夫人といっしょにヴェネチアへもどったが、夫人は私がものもいわずにいるので気づかれがしたのだろう、笑顔をつくりながらこういった。
「M・Mさんはお美しい方ですが、おつむのほうもちょっと類のないくらいご聰明ですのよ」
「ぼくはご器量のほうしか拝見しませんでしたが、もう一方のほうもすばらしかろうと思います」
「あの方はあなたにひと言もおっしゃいませんでしたね」
「紹介していただこうとしなかったので、わざとぼくがそばにいるのをご存じないふりをなさったのですよ。そうして、ぼくをお罰しになったのです」
伯爵夫人がなにもいい返さなかったので、われわれは彼女の家へ着くまで全然口を開かなかった。そして、夫人の邸の門前で別れた。それから、あてもなく歩きながら、この奇妙な事件のことをいろいろ考えてみた。かならずやなにか進展を見せるであろうが、その成行きが見たくてたまらなかった。
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第三十九章
[すっぽかされた約束]
美しい修道女は私に言葉をかけなかったが、私にはそのほうが気楽だった。彼女の美貌に茫然とわれを忘れていたので、たとえ言葉をかけられても、ろくな返事はできなかったであろう。彼女が私からことわられるような侮辱をおそれているとは思われなかった。しかし、あのような女にとってそうした危険をおかすには大きな勇気を必要とした。彼女の年であんな大胆さがあろうとは、まったく驚きいった次第だ。またあのような放縦さも理解できなかった。ムラーノの小別荘! かってにヴェネチアへ夕食に行ける! 私は彼女に公認の恋人があって、それが彼女に奔放な楽しみを味わわせるのを喜びとしているにちがいないと見ぬいた。この考えは私の自惚《うぬぼ》れにブレーキをかけた。私は愛するC・C嬢にたいして不貞を働きかけているのに気づいた。が、なんの懸念にも引きとめられなかった。このような不貞は、よし彼女に気づかれても、彼女を怒らせはしなかったろう。なぜなら、この不貞は意気消沈した私をよみがえらせ、したがって彼女のために私の命を保存する力をもっていたからである。
翌日の朝、コロニーニ伯爵夫人を訪ねた。伯爵夫人は自分の好みからサンタ・ジウスティーナ修道院に住んでいた。彼女はヨーロッパの宮廷のさまざまの事件にくわしいだけでなく、自分もそれらの事件に関係して評判になった人であった。しかし、人の世をいとう気持から隠栖《いんせい》の地を求めて、この避難所をえらんだのであった。私はダンドロ氏の親戚にあたるある修道女から紹介してもらったのだが、彼女はむかしは美貌の聞え高く、ゆたかな才気をもっていたが、もはや君主や大公たちの利害の思惑にその才気をもちいることを望まず、いま住んでいる都会が提供する瑣末な事件を楽しんでいた。したがって、彼女はなんでも知っていたし、また当然のことながら、なんでも知ろうと望んでいた。そして、修道院の面会室では、共和国の一流の人物の訪問を受け、すべての外国人を紹介された。元老院の何人かの重鎮はときどき彼女を訪ね、長時間にわたって会談していった。この会談は訪ねるほうも訪ねられるほうも好奇心が主になっていたが、彼女は現在の種々の事件にたいして上流階級が持つかに見える利害については、いっさい秘密をまもっていた。要するに、この夫人はなんでも知っていて、私が訪ねていくと、私を若造扱いし、非常に愉快な道徳上の教訓をたれて喜んでいた。その日の午後、M・M嬢と会うことになっていたので、この物知りの夫人からあの修道女についてなにかおもしろいことでもききだせるかと思って訪ねたのであった。
そして、あれこれとつかぬ話をしてから、なんの苦もなくヴェネチアの修道院の話へもっていき、チェルシー修道女の才気と信用について語りあった。この修道女は顔こそ醜かったが、関心を寄せるいっさいの事柄にたいして大きな影響力をもっていた。ついで若く美しいミケリ修道女の話にうつった。この人は才気の点で母親よりもまさっていることを見せつけるために尼僧のヴェールをかぶったのであった。その他、世間から粋筋の評判をたてられている美しい修道女たちの話をしてから、M・Mの名前をだし、この人もそのうちのひとりだろうと思うが、どうも真相のつかめない謎だといった。伯爵夫人はにっこりして、あの方はだれにたいしても謎だとはいえまいが、一般的にいえばそうかもしれないと答えた。そして、言葉をついで、
「ほんとの謎というのは、あの方が美しく、裕福で、才気にとみ、教養も高く、それに、わたくしの知るかぎりでは、信仰に拘泥しているわけでもないのに、修道院へはいったことですわ。つまり、肉体的にも精神的にもなんの理由なしに尼さんになったのですよ」と、いった。
「奥さま、あの人は幸福だとお考えになりますか」
「ええ、もしもあの方がいままでのことを後悔なさったわけでもなく、また後悔に責められてもいらっしゃらなければね。しかし、あの方がお利口なら、そんなことはどなたにもおもらしなさいますまいよ」
伯爵夫人の意味ありげな言葉のうらから、M・Mに恋人があることを知ったが、私はそんなことを苦にしまいとした。それで、食べたくもない昼食をすませてからマスクをつけ、ムラーノへ行って、教会の呼鈴を鳴らした。そして、胸をときめかしながら、S伯爵夫人の使いとしてM・M嬢に面会を求めた。小面会室はしまっていた。受付は私に待つべき場所を教えた。私はマスクをとり、帽子の上へのせ、腰をおろして女神の出現を待った。
胸が早鐘をつくようにとどろいた。彼女はなかなか出てこなかった。しかし、それは私をいらだたせるよりも、むしろそのほうが好ましかった。彼女との会見やその結果がおそろしかったからである。しかし、一時間がまたたく間にすぎてしまった。そんなにおくれるのはふつうではない。きっと取次がなかったのだろう。私はマスクをつけて立ちあがり、受付へもどって、M・M修道女に取り次いでくれたかどうかきいた。なかから声がして、取り次いだと答え、しばらくお待ちくださいといった。私は首をかしげながら元の席へもどった。しかし、五、六分もすると、きたない年寄の修道女が出てきて、
「M・Mさまは一日じゅうご用がおありです」といい、すぐに背を向けて行ってしまった。
幸運にめぐまれている男でも、ときにはこういう災難に出っくわすものだが、災難としても、もっとも手ひどい災難だ。それは人を辱しめ、苦しめ、死にさえいたらせる。
私は侮辱されたと思って憤慨したが、とっさに感じた気持は自分自身への軽蔑であった。自分がいやでたまらないほどの絶望的な軽蔑であった。次に感じた気持は修道女にたいする侮蔑的な憤慨であった。そして、彼女にふさわしいと思われる批判を加えた。気違いだ、あばずれだ、放埓《ほうらつ》だと。彼女をそう考えなければ、どうにも気がすまなかった。私にたいして門前払いをくわせるからには、きっとずぶとくて常識のまったくない女にちがいない。私の手もとにある彼女の二通の手紙は、私が意趣返しをしようとすれば、彼女の名誉を台なしにしてやる材料になるし、彼女のしたことは当然復讐に値する。しかも、この復讐をばかにするのは、まさに狂人以上のものでなければならない。彼女のやり方はまったく常軌を逸している。私はもしも伯爵夫人と話しあっているのを見なかったら、最初から狂人だと考えたにちがいない。
しかし、恥と怒りとで≪地面へ釘づけにされた≫(ホラティウス)私の魂は、忿怒にかられた。ひとは時が忠告をもたらすというが、時はまた心の落ちつきをもたらす。反省は思想に明晰《めいせき》さを与える。私はその束の間の明晰さを利用して、自分をはげました。そして、自分自身をあざけりながら、相手が修道女だという特殊な興味がまじらなかったら、あの女がいかに美しく魅力にとんでいても、目をくらまされて惚れこみはしなかったろうから、こんどの恋愛沙汰はたいしたことではないと気がついた。そこで、こんなことははじめから歯牙にもかけていなかったようなふりをすべきだし、私がふりをしているだけなのを彼女に見ぬかせるようなことはしまいと決心した。
[恋の恨み]
しかし、それにもかかわらず、私は侮辱されたものと認め、この復讐をしなければならないと思った。しかし、その復讐には低劣なものがまじってはならないし、あの悪辣《あくらつ》な道化女にいささかも勝利感を与えてはならない。そこで、腹をたてたような気配は見せないにかぎるときめた。彼女は用事があるといわせた。それはごく月並の言訳だ。だから、私も全然気にかけないふりをしなければならない。こんどのときには手がすいているだろう。しかし、私は油断をせず、もう二度とだまされはしないぞと考えた。あんな門前払いをくわされても、こっちはただ笑ってすましただけだと、見せつけてやらなければならない。もちろん、手紙もそのまま送り返してやるべきだが、短い耳ざわりのよいことを書いて、同封してやろう。ただひとつ残念なのは、彼女の教会のミサに行くのを、どうしてもやめなければならないことだった。というのも、彼女は私がC・C嬢のために行くとは知らないから、私が行くのを、彼女に詫びをいわせ、まえに私のことわった密会をもう一度むしかえさせようとしているととられるかもしれないからだ。
だが、私は彼女を軽蔑していることを思い知らせてやりたかった。一瞬、あの密会のさそいも、私をかつぐための思いつきにすぎなかったのではあるまいかという気がした。
私は心にこうした計画をいだきながら、十二時ごろベッドへはいった。朝、目がさめると、計画はかなり熟していた。そこで、手紙を書いたが、慎重を期して、二十四時間ねかしておくことにした。彼女がその手紙を私の胸をかんでいる恋の恨みの亡霊のようなものだと感じやしないかどうか、もう一度読み返してみるためであった。
それはよいことであった。翌日読み返してみると、どうもうまくなかったので、こなごなに破ってしまった。私が意気地なく、卑怯で、恋をあきらめかねていることをまざまざとしめす箇所があちこちに見え、彼女の嘲笑をさそう心配が大ありだった。また、彼女を手に入れそこなったのに腹をたてたり、憤慨している箇所もあった。
そこで、翌日、C・C嬢へあるやむをえない事情から彼女の教会のミサをききに行くのを今後やめなければならなくなったという手紙を書いてから、もう一通M・Mに宛てたのを書いた。しかし、また翌日になって読み返してみると、どうも滑稽な手紙だったので、それも破ってしまった。どうも自分にはもう手紙を書く能力がなくなったような気がした。しかも、手紙を書くむずかしさの理由に気づいたのが、侮辱をうけてから十日後なのだからあきれてしまった。その理由というのは、ほかでもない、次の言葉にあらわれている。
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器がきれいでなければ、入れたものがすべて汚れる。
(ホラティウス『書翰集』)
[#ここで字下げ終わり]
M・Mの面影が私の心にきざみつけた印象はきわめて強く、あらゆる抽象的存在のうちのもっとも大きくかつ力づよいもの、つまり時の力をもってしなければ消すことができないほどであった。
私はこんなばからしい立場にあって、何度となくS伯爵夫人のところへ愚痴をいいに行こうかと思った。しかし、ありがたいかな、門前までしか行かなかった。最後に、あの軽率な女は私が二通の手紙を利用して彼女の評判を台なしにし、修道院にも累《るい》をおよぼすかもしれないと思って、たえず気をもんでいるにちがいないと考え、次のような短い文章をそえて送りかえす決心をした。あのあと十日か十二日目であった。
「同封いたしました二通のお手紙、もっとはやくお返しすべきでしたのに、ついうっかりしていて、たいへんおくれてしまい、まことに申訳ありません。ぼくは不当な復讐など、自分にふさわしくないことをする気など毛頭ありませんでした。あなたのおかしたふたつのはなはだしい軽率さは、自然なお気持で前後のお考えもなくなさったにせよ、私をからかうためになさったにせよ、あっさりゆるしてあげます。しかし、ああいうことは、ほかの男にはなさらないようにおすすめします。ぼくのような男はあまりおりませんからね。あなたのお名前も知っておりますが、なにも知らないようにいたすつもりですからご安心ください。こういうことを申しあげましても、あなたはぼくのつつしみなどお心にかけられないかもしれません。もしもそうならば、お気の毒な方だと思います。
お宅の教会へは二度とまいらないつもりです。それはぼくにはなんでもないことです。ほかの教会へ行けばいいのですからね。しかし、その理由をちょっと申しあげておく必要があるかと思います。あなたはさらに三度目の軽率なお振舞いに出て、修道院のどなたかに今夜の小さい勲《いさおし》をお打ち明けなさるかもしれませんから、ぼくは姿を見せるのが恥ずかしいのです。あなたより五つも六つも年上でありながら、まだ世の偏見を踏みつけにするにいたらないのをおゆるしください。世の中には牢固としてゆすぶることもできない偏見がいろいろあることをお考えください。あきらかにぼくをおからかいになるためにお与えくださった大きなご教訓のあとで、このささやかな教訓を差し上げることを軽蔑なさらないでください。あのご教訓は一生身にしみて利用させていただくつもりでございます」
この手紙では、あの悪戯好きの女をかなりやさしく扱ったつもりだった。それから外へ出て、ひとりのフリウリ人を呼びとめた。マスクをしていたから、私がだれだかわからなかっただろう。そして、二通の手紙を同封した封筒を渡し、すぐにムラーノの宛名のところへ届けろと四十ソルディ渡した。そして、たしかに役目をはたしたと報告にきたら、もう四十ソルディやると約束した。それから、この封筒を受付の女に渡し、待っているようにいわれても、返事を待たずにすぐ帰ってこいといいつけた。しかし、私としては、彼の帰りを待つのは一種の悪事に類することであった。わが国で働いているフリウリ人はきわめて確実かつ忠実で、十年まえのパリのサヴォワ人と同様であったからである。しかし、世の中ではなにもかも変わるものだ。五、六日たって、オペラから出てきたとき、同じフリウリ人が提灯《ちょうちん》を持って立っているのを見かけた。私は彼を呼び、マスクをはずさずに、私のことがわかるかときいた。彼は私をじろじろながめていたが、わからないと答えた。そこで、先日頼んだムラーノへの文使いはちゃんとすましたろうなときいた。
「ああ、あのときの旦那でしたか。こりゃありがたい! 大事なお話があったんですよ。ご命令どおりお手紙を持っていって、受付の尼さんに渡し、待っていろといわれましたが、そのまま帰ってきました。ところが、翌朝、旦那のお手紙を受付に渡したときに居合わせた知合いのフリウリ人が起こしにきまして、受付の尼さんがぜひとも話したいことがあるそうだから、もう一度ムラーノへ行けといいました。さっそく行ってみますと、少し待たされてから、面会室へ行けといわれ、そこで、べつの尼さんと会いました。それは夜明けの星のように美しい尼さんでしたが、一時間以上もあたしをひきとめて、旦那がだれだということはわからないにしても、旦那に会える場所をつきとめる方法を捜せということでした。だが、いくらいわれたって、あたしにも全然わからないのだから、どうにもしようがありませんや。
その尼さんは待っていろといって出ていきましたが、二時間もすると、手紙を持って出てきました。そして、手紙をあたしに渡し、これを旦那に渡して返事をもらってきたら、二ゼッキーニやるといいました。だが、旦那に会えなくても、毎日ムラーノへ行って渡された手紙を見せたら、そのたびに四十ソルディくれるということで、いままでに二十リラもらっています、だが、あの尼さんがあきらめちゃうのじゃないかと心配なんです。旦那、その手紙に返事を書いて、あたしに二ゼッキーニもうけさせてくださいよ」
「手紙はどこにあるんだね」
「家に鍵をかけてしまってありますよ。なくすとたいへんですからね」
「きみはどういうふうにしてぼくに返事を書かせようとするのだね」
「ここに待っていてください。十五分もたてば、手紙を持ってきますから」
「待つのはいやだよ、その返事はいっこう興味がないからな。だが、きみはどうしてあの尼さんにぼくを見つけだすなんて希望をもたせたんだね。インチキだぞ。きみがぼくを見つけだすと請け合わなかったら、あの尼さんも手紙をあずけやしなかったろう」
「そりゃ、そうです。あたしは旦那の服や締め金や身の丈のことを話したのです。そして、この十日というもの、旦那と背恰好が同じでマスクをした人を、ひとりひとり念入りに見てきたんですが、だめでした。きょうも、その締め金でわかったんですが、服を見ただけじゃわからなかったでしょう。とにかく、旦那、一行お書きになるのは、旦那にとっちゃなんでもないことなんですから、お願いしますよ。そこのカフェで待っていてください」
[みごとな弁明]
私は好奇心をおさえかね、カフェで待つかわりに、彼の家へついていった。「お手紙たしかに受け取りました、さようなら」とだけ書けばそれでいい。そして、あすになったら締め金をかえ、服も売ってしまおうと思った。私はフリウリ人の家へ行って、戸口で待っていた。彼は手紙をとってきて渡した。私は彼をある旅館へ連れていき、ゆっくり読むために一部屋とって、火を起こさせ、彼には外で待っていろといった。そして、封筒の封を切ると、最初に目についたのは、彼女の心の平和のために返さなければいけないと思った二通の手紙だった。それを見て、私ははやくも自分の敗北を知らせる胸の鼓動を感じた。この二通のほかに、Sと署名した短い手紙があった。M・M嬢に宛てたものだ。あけてみると、次のような文面であった。
「あのマスクのお方は行きも帰りもなにもおっしゃいませんでした。ただ、あなたのご器量もさることながら、あなたの才気にはいっそうつよく心をひかれると申しましたら、ご器量はよくわかったから、才気のほうもきっとすばらしいにちがいないとお答えになりました。またあなたがどうしてお話をなさらなかったのか不思議だと申しましたら、にっこりなさって、きっと罰をおくだしになったにちがいない、紹介していただこうとしなかったので、見て見ないふりをなさったのだろうとおっしゃいました。わたしどもの話しあったことはこれだけでした。この手紙、けさお送りするつもりでしたが、余儀ない事情でおくれました。さようなら、S・F」
この伯爵夫人の手紙は事実へ一語も加えずまた減らさず、まるで証明書のようなものであったので、読んでしまうと、心の鼓動もいくらか静まった。そして、いっさいが自分の早合点であったことに気づいて嬉しくなり、勇を鼓して、M・Mの手紙を読みはじめた。
「あなたさまが伯爵夫人とごいっしょにここへお訪ねくだされ、またごいっしょにお帰りになる途中で、わたくしにたいしてどういうご意見をおもらしになったか、それが知りとうございました。これも女心の弱さでゆるしていただけると存じます。それで、あなたさまが面会室のなかをお歩きになっていらっしゃるすきに、伯爵夫人に報告してくださるようにお願いし、お帰りになったらすぐに、あるいはおそくとも翌日の朝までに知らせてくださることにしたのでした。あなたさまが午後に訪ねてきてくださると思ったからでございます。しかし、お読みいただきたいと思って同封しました手紙は、あなたさまをお帰ししてから三十分後に届きました。これが第一の不幸なつまずきでございました。あなたさまがお訪ねくださったときには、まだその手紙を受け取っておりませんでしたので、お会いする勇気がなかったのです。これが第二のつまずきでした。これもゆるしていただけると存じます。わたくし、下働きの修道女に『一日じゅう身体の調子が悪いから』と申しあげるようにいったのでした。嘘であれ本当であれ、この言訳は方式どおりのものであったのです。なぜなら、これは善意の嘘でございまして、『一日じゅう』という言葉がいっさいを説明しておるからです。けれど、あの頭の足りない年寄が『身体の調子が悪い』と申しあげずに『用事がある』と申しあげたといってまいりましたときには、もうあなたさまがお帰りになったあとで、あとを追わせることもできませんでした。これが第三のつまずきでした。わたくしが正しい怒りにかられて、あの年寄にたいしてなにをいいなにをしてやりたかったか、それはご想像もつかないでしょう。けれども、ここではなにもいったりしたりしてはならないのです。あやまちが悪意からではなく無知から出たときには、いっさい我慢し、表にあらわさず、神に感謝しなければならないのです。けれども、そのためにどういうことが起こるか、すぐにいくらか見当がつきました。人間の理性も全部を予想することはできませんからね。あなたがばかにされたとおぼしめしてご立腹になることも想像しましたが、次の祝日までに、本当のことをお知らせする方法が見つからず、とても苦しみました。でも、きっと教会へ来てくださると確信しておりました。お手紙でわたくしの目のまえへおしめしになった、あんなはげしいお怒りをまねこうとは、どうして想像できたでしょう。祝日になりまして、教会にお姿が見えなかったとき、わたくしの苦しみは耐えられないものになりはじめました。それは致命的なものだったからです。けれども、あれから十一日たって、お送りくださった残酷で野蛮で不正なお手紙を拝見して、わたくしはすっかり絶望し、胸をかきむしられる思いでした。すぐにでもいらしって、お詫びをしてくださらなかったら、わたくしは不幸のあまり死んでしまうでしょう。あなたはおもちゃにされたと思っていらっしゃる。あなたのおっしゃれるのはそれだけです。けれども、いまはお勘違いなさったことがおわかりになったのですからね。けれども、たとえおもちゃにされたとお考えになっても、ああいうご決心をし、ああいうひどいお手紙をお書きになるには、わたくしを怪物のようにお思いになっていらっしゃるにちがいありませんわ。けれども、わたくしのような身分も教養もある女のなかには、そんな怪物はおりませんことよ。わたくしの心配をおしずめになろうとしてお送りくださった二通の手紙はお返しします。わたくしはあなたさまよりもずっとすぐれた観相家でございますの。わたくしのしたことは、けっして軽率な気持からではありません。たとえあなたにたいして道ならぬ仕打ちをいたしましても、あなたはけっして腹黒いことのできるお方ではございません。けれども、あなたはわたくしの顔にあつかましい心しかお認めになりませんでしたのね。もしもお考えちがいをはっきりおっしゃってくださいませんでしたら、わたくしはそのために死を招くことになるか、少なくとも一生不幸になってしまうでしょう。なぜなら、わたくしに関するかぎり、もう申しあげるべきことはみんな申しあげたつもりでございますものね。
たとえわたくしの命などどうでもよいとおぼしめしても、ご自分のご名誉にかけて、一刻もはやくお話しにいらっしゃらなければならないとお考えください。お手紙でお書きになったことを、ご自身でとり消しにいらっしゃらなければなりませんわ。むごいお手紙が罪もなく、ばかでもない女の魂に加えた不吉な結果がおわかりにならなかったら、それこそあなたさまをお気の毒な方だと思いますわ。女の心をまったくご存じないのですからね。しかし、この手紙を頼んだ男があなたを見つけることさえできましたら、きっと来てくださると確信しておりますの。M・Mより」
私はこの手紙を読み返すまでもなく、打ちのめされたようになってしまった。M・Mの言葉は正しかった。私は部屋を出て例の男にきいてみるために、すぐにマスクをかけた。そして、けさ彼女と話したか、病気らしいようすだったかときいた。彼は毎日行くたびに元気がなくなるようで、目をまっ赤にしていたと答えた。そこで、待っているようにいって、ふたたび部屋にはいった。
そして、夜の白みはじめたころ、ようやく手紙を書きおえた。次の手紙は、つまらない邪推のために、ひどい侮辱を加えた、世にも気高い女にたいして書いたものである。一語一語忠実に訳してみよう。
「ぼくが悪うございました。お詫びの言葉もございません。あなたに罪のないことはよくわかりました。ゆるしていただく希望がもてませんでしたら、ぼくはとうてい生きてはいけないでしょう。けれども、どうしてぼくが罪をおかすにいたったか、それをお考えになったら、あるいはおゆるしをいただけるかと存じます。ぼくはあなたのお姿を見て、目もくらむ思いでした。そして、自分の途方もない名誉を考えましたが、あまりにも魅惑的で、まるで夢に夢みる思いでした。これが夢ではないとさとるまでに、二十四時間もかかる始末でした。その二十四時間がようやくすぎ、面会室で分を数えながらお待ちしていたときのあの心臓のときめき。そして六十分がたちました。それはいままで感じたこともない待遠しさのために、非常にはやくすぎ去りましたが、そこへ見るもいとわしい顔があらわれ、剣もほろろに、あなたは一日じゅうご用がおありだといいすてて、出ていきました。そのあとのことはお察しください。ああ、あれはまるで雷の一撃のようでした。ぼくを生かさず殺さずの窮地へ蹴込んでしまいました。せめて、あのとき、たった二行でも、ご自分でお書きになって、あの老尼から渡してくださったら、ぼくは喜んでとはいえずとも、あんなに思いみだれずに帰っていったことでしょう。これはあなたが美しく力づよい弁解のなかでおあげになるのをお忘れになった第四のつまずきです。この雷撃の結果は嘲弄され愚弄されたと思いこませて、ぼくを最後の破局へ追いこみました。それはぼくを憤慨させ、自尊心がわめきだし、人知れぬ恥辱がぼくを悩ましました。あなたが天使のお顔のうらに夜叉《やしゃ》のお心をやしなっていられると信ぜずにいられなくなって、われとわが心を呪うばかりでした。そして、茫然自失の状態におち、十一日のあいだに、すっかり分別を失ってしまいました。差し上げた手紙には重々ご不満がおありのようで、それもごもっともとは思いますが、あれは、じつを申しますと、礼儀ただしく書いたつもりなのです。しかし、いまはなにもかも終わりました。きょう、正午の一時間まえにあなたのお足もとへひざまずきにまいります。今夜はもう床につかないつもりです。どうぞいままでのことばおゆるしください。さもなければ、敵《かたき》を討つつもりでおります。そうです、あなたを侮辱した罪にたいして、われとわが身を罰しようと申すのです。ただひとつご厚意にすがってお願いしたいことは、この手紙をお焼き捨てくださるか、あすはもう問題になさらないでいただきたいのです。この手紙を書いたのは五度目でして、まえの四通は読み返して破ってしまったのです。どの手紙にも、あなたにお寄せしているはげしい情熱を見ぬいてしまわれるような文章がまじっていたからです。ぼくを愚弄した婦人が、たとえ天使の面影をそなえていたとしても、自分の愛情にふさわしい人ではなかった。この考えはまちがっていない……とんでもない! あなたのお顔を拝見しながら、どうしてそんなことを考えたのでしょう。これから、三、四時間、ベッドにつっぷして、罪を悔いるつもりです。さだめし涙が枕をびしょびしょに濡らすことでしょう。お目ざめと同時にこの手紙をごらんになっていただくように、使いの男をすぐ修道院へ差し向けます。この男も、もしぼくがオペラを出たときに声をかけなかったら、とうていぼくを見つけだせなかったでしょう。もはやこの男に用はございません。ご返事はくださらないように」
手紙に封をすると、使いの男に渡し、すぐに修道院の受付へ行って、宛名の修道女へじかに手渡すように命じた。その男はいわれたとおりにすると固く約束し、一ゼッキーノもらって出かけた。
[来たるべき幸福の保証]
六時間をいらいらしてすごしてから、マスクをつけて、時間をたがえずムラーノ島へ行った。受付へ申し込むとM・Mはまもなくおりてくるからと、小面会室へ通された。M・MはS伯爵夫人といっしょに待っていた。私はすぐ彼女の前へひざまずいた。彼女は人に見られるといけないから、はやく立つようにといって、顔をまっ赤に染めた。目は女神の光をたたえていた。それから腰をおろしたので、私もその前へ腰をおろし、ものの十五分も互いに黙って顔を見合わせていた。が、最後に私が沈黙をやぶって、いままでのことを水に流していただけるかどうかときいた。すると、彼女が美しい手を格子の外へ出したので、百度もそれに接吻しながら、しとどに涙でぬらした。
すると、彼女は口をひらいて、
「わたくしどもの関係ははげしい嵐ではじまりましたが、永遠の平和を期待したいものですね。わたしどもが話しあうのは、これがはじめてですが、いままでのことで、お互いにすっかり知りあったといってもよいくらいではございません? わたくしたちの友情が真心からのものであると同時に、やさしい愛情にめぐまれたものでありたいと思いますわ。そして、お互いの欠点も寛大に見すごすようにいたしましょうよ」といった。
「あなたのような天使に、欠点などありましょうか」
「とんでもない。欠点はどなたにもございますわ」
「いつか、こういう壁の外で、喜びにつつまれながら、ゆっくりぼくの気持をきいていだだくことができるでしょうか」
「ご都合のよいときに、わたしの別荘でお夕食をいたしましょう。二日まえにお知らせくださればけっこうですわ。それとも、おいやでなかったら、ヴェネチアへまいってもよろしゅうございますわ」
「それは嬉しい極みでございます。いちおう申しあげておきますが、ぼくはかなり裕福でして、お金の乱費をおそれるどころか、かえって大好きなのです。それに、ぼくの持っているものは、すべて愛する方にささげるつもりです」
「そういう打明け話はたいへん楽しゅうございますわ。わたしもかなりお金持でございまして、恋人にはなにも不自由はおかけしますまいと思いますの」
「けれども、あなたには恋人がおありにちがいありませんが」
「ええ、ございます。その方がわたしをお金持にしてくれ、わたしの絶対的な主人でございますの。ですから、わたし、その方にはなにもかも話しておりますの。あさって、別荘へまいりましたら、もっとくわしくお話しましょう」
「しかし、その恋人が……」
「別荘へ来ないようにとおっしゃりたいのでしょ? そういうご心配はいりませんわ。でも、あなたにも恋人がおありなのでしょ」
「ええ、ありましたが、生木をさくように別れさせられてしまいました。それで、六か月まえからまったくの独身生活をつづけております」
「けれど、その方をまだ愛していらっしゃるのでしょ」
「ええ、思いだすたびに、いとしくてなりません。けれども、あなたのうっとりするようなお美しさがその恋人を忘れさせるようになるのじゃないかと思います」
「あなたがその方と幸福でいらっしゃったのなら、たいへんお気の毒ですわ。むりに別れさせられておしまいになったそうですが、そのお悲しみに耐えかね、にぎやかな世間を避けて、ここへいらっしゃったわけですのね。きっとそういうことではないかとお察ししていましたのよ。けれども、たとえその方の席をわたしが横取りすることになりましても、こんどはどなたもわたしをあなたのお心からもぎとることはございませんわ」
「しかし、あなたの恋人はなんとおっしゃるでしょう」
「あの人はあなたのような恋人を得てやさしく愛しあい、幸福になるのを見たら、とても喜ぶでしょうよ。そういう性格の人なのです」
「すばらしいご性格ですね。わたしなどとうていおよびもつかないりっぱなご気性ですね」
「ヴェネチアではどういうご生活をしていらっしゃいますの」
「芝居を見たり、社交界へ顔出しをしたり、カジノへ行って運命の神と戦ったりしていますが、ときによって、よかったり悪かったりです」
「外国の大使の方々ともおつき合いになりますの」
「いいえ、つき合っていません。貴族の方々とふかい因縁がありますのでね。しかし、よく存じてはおります」
「お会いにならないで、どうしてご存じですの」
「みんな外国で知り合ったのです。パルマでスペイン大使のモンタレグレ公と、ウィーンでローゼンベルク伯と、パリでは、およそ二年まえにフランス大使と知合いになりました」
「では、お名残りおしいですが、もうお帰りくださいな。十二時の鐘が鳴りますから。あさって、きょうの時間においでください。ごいっしょにお食事をするのに必要な手配を申しあげますから」
「ふたりだけでしょうね」
「もちろんですわ」
「いかがでしょう、その保証がいただきたいのですが。幸福があまり大きすぎるので」
「どんな保証ですの」
「小さい窓の前へ立っていただき、S伯爵夫人と場所を入れかわらせていただくのです」
彼女は立ちあがると、えもいわれぬ愛嬌のよい微笑をたたえながら、小窓のバネを押した。私は甘く切ない接吻で彼女を喜ばせてから、別れをつげた。彼女は私が戸口に姿を消すまで、恋しげな眼差《まなざし》で見送っていた。
その二日間、喜びと待遠しさで、私は食べることも眠ることもできなかった。まるでいままで一度も恋の愉悦を味わったことがなく、はじめて幸福になろうとしているようであった。
高貴な血統だけでなく、美貌と才気とによってもM・Mはこよなくりっぱな女であったが、それに彼女が修道女であるという特別の条件も加わって、自分の幸福の大きさがはかり知れないものに思われた。いわば相手は巫女《みこ》である。私は禁断の木の実を味わおうとしているのだ。神の後宮から絶世の寵姫《ちょうき》をうばって、全能の夫の権力を踏みにじろうとしているのだ。
もしもあのとき私の理性が自由であったら、あの修道女も私が愛の戦場に乗り出して以来十三年間に手がけた美女たちとべつだんちがうものではないと見ぬいたことだろう。しかし、恋する男なら、こう考えて足踏みをするものがいるであろうか。彼はこんな考えが頭にうかぶと、いやらしげに投げすててしまう。それで、私はM・Mが世界のどんな女よりも美しく、ぜったいにちがった女だと固く信じて疑わなかった。
科学者が動物界と呼ぶ生物の性情は、己が永続に必要な三つの手段を本能的に求めるものである。
この三つは真実の欲求である。彼らはまずわが身をやしなわなければならない。しかし、それが苦役《くえき》とならないように、食欲と呼ばれる感覚をもち、それを満たすことに快楽を感じる。第二は生殖によって種族を保存しなければならない。しかし、彼らは聖アウグスティヌスやその他の賢者がなんといおうと、それが快楽でなかったら、きっとこの義務をはたしはしないであろう。第三は敵に打ちかとうとするおさえがたい性向である。彼らは自分を打倒しようと企て、あるいは望むものを憎まずにいられない。
この一般的な法則では、各種族とも個別的に行動する。空腹と生殖の欲望と敵を打破しようとする憎悪との三つの感覚は動物においては習慣的な満足で、これを快楽と呼ぶのはさしひかえよう。これらは各個体の関係において快楽となりうるにすぎず、彼らはこれについて推理を加えることがない。しかし、人間だけは快楽を味わうことができる。というのも、人間は推理する能力を与えられているので、快楽を予想し、追求し、構成し、それを味わったあとで、いろいろと推測する。親愛なる読者よ、どうぞ私の駄弁におつき合いください。そっぽを向くのは失礼ですぞ。事の趣きをはっきり見てみましょう。
人間は全然理性を加えずに以上の三つの性向に身をまかす場合には動物と同じ状態にある。しかし、精神が加わるときには、この三つの満足感はいずれも快楽となる。この快楽というのは説明しがたい感覚で、いうところの幸福感を味わわせるが、この幸福感もまた、われわれはそれを感じながら説明することができない。
快楽を好む通人はがつがつとものを食う貪食や、相手かまわず淫欲をとげる放蕩や、怒りの発作による乱暴な復讐などを軽蔑する。彼は美食家であり、恋はしても、相手から愛されていると確信しなければ、恋の相手を楽しもうとはしない。また人から侮辱されて復讐をするときにも、冷静になるのを待って、復讐を快楽とするにふさわしい手段方法を講じたあとでなければ実行にうつらない。復讐がそのためにいっそう残酷なものとなろうとも、少なくとも理にかなったものと思ってみずから慰める。以上の三つの行動は魂の成果で、魂は快楽を得るために、≪服従させなければ命令する≫(ホラティウス『書翰集』)ところの情火を克服する。われわれは珍味を十分に味わうために空腹に耐え、恋の享楽をいきいきとさせるためにこれをひきのばし、復讐をさらに残酷にするために一時中断する。もっとも人はしばしば飽食しすぎて死ぬことがあり、恋においても見当違いをしたり、理屈にごまかされることもあり、また思いきりこらしめてやろうと思う相手にするりと逃げられることもある。しかし、われわれは好んでこういう危険にたち向かうものである。
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第四十章
[愛の陰謀]
考える人間にとって、生命よりも貴重なものはなにもない。しかし、それにもかかわらず、快楽の通人といわれるものは、この生命を敏速に経過させるという、非常に困難なわざをもっともじょうずに実行するものである。といっても、それは生命を短縮しようとするのではなく、歓楽が時の流れを忘れさせることを望むのである。もしも人がそのために義務にそむくことがなければ、こうした考えも正しい。しかし、官能を喜ばせること以外に義務はないと考えるのはまちがっている。しかし、人はえてしてこのようなまちがいにおちいりやすい。わが愛するホラティウスがユリウス・フロルスに≪わしが遺産を十分にふやさなかったとて、相続人が文句をいおうとも、わしは毫《ごう》もおそれはせぬ≫(『書翰集』)といったとき、彼もまちがっていたのではあるまいか。
もっとも幸福な男は、義務を踏みにじることなく幸福になる術を十分に心得たものである。そして、もっとも不幸な男は、毎日朝から晩まで将来を予想せずにいられない、憐れむべき境遇を受け入れたものである。
私はM・Mが約束をたがえるはずがないと確信して、午前十時に面会室を訪れた。案内されるとすぐに彼女が出てきた。
「まあ! どこかお悪いのではございません?」
「いや、病気ではありません」と、私は答えた。「幸福の不安な期待に責めさいなまれているものですから、病気のように見えるのかもしれません。じつは眠ることも食べることもできずにいるのです。もしも幸福がさらに延びるようなことがあったら、命も請け合えなくなりそうです」
「延びるなんてことはございませんよ。けれど、ずいぶんせっかちですのね。まあ、すわりましょうよ。これがあなたのいらっしゃる別荘の鍵です。あちらには何人も人がおります。世話をしてくれるものが必要ですからね。けれども、だれもあなたに言葉をかけませんし、あなたも口をきく必要はございません。マスクをなさって、日没後一時間半したらいらしってください。それよりはやくてはいけません。往来の戸口と向かいあって階段がありますから、それをおのぼりください。階段の上へいらっしゃると、ランプの光で緑色のドアが見えますから、それをあけておはいりください。明りがついておりますから。わたしはその次の部屋におります。もしもいなかったら、お待ちになってください。長くはお待たせしないつもりです。マスクをお取りになり、火の前に腰をおろして、本でも読んでいてください。本はいくらもそなえてあります。別荘の門はこれこれのところにあります」
彼女の描写はきわめて明確で、まちがうはずもないのが嬉しかった。私は鍵を渡した手に接吻し、またポケットへしまうまえに、その鍵にも接吻した。そして、いまのように修道女の服を着て来るのか、それともふつうの身なりで来るのかときいた。
「ここを出るときには修道女の姿で出ますが、別荘ではふつうの服に着かえます。入用なものが全部そろえてあるのです。マスクの支度もしてございますの」
「今夜は修道女の服のままでいていただきたいのですが」
「どうしてですの?」
「そういうふうに修道女の被り物をおつけになったお姿がとても好きだからです」
「ホ、ホ、わかりましたわ。わたしの頭に髪の毛がないと思って、こわいのですね。でも、わたし、とても上等にできた鬘《かつら》をかぶっておりますのよ」
「こりゃ、なにをおっしゃるのです! 鬘という言葉をきいただけで、ぼくは寒気がするのです。いや、いや、そんなことはお考えにならないでください。あなたはどんな姿でも、ぼくにはやっぱりお美しいのです。ただ、ぼくの前で鬘をおつけにならないようにしてください。なんだかがっかりしてるようですね。ごめんください。こんなことをしゃべってしまって申訳ありません。それはそうと、だれにも見つからずに修道院から出ることができるのですか」
「この島をゴンドラでひとまわりなさったら、あなたにもおわかりになるでしょうよ。小さい桟橋が目につくでしょうが、わたし、その桟橋に向かっている部屋の鍵を持っておりますし、用を足してくれる修道女も信用がおけますから」
「それから、ゴンドラは?」
「ゴンドラの船頭たちの忠実なことは、わたしの恋人が保証してくれております」
「あなたの恋人というのは、どういう方なのですか。お年寄のように思われますが」
「とんでもない。そんな年寄だったら、わたし恥ずかしいですわ。まだ四十にもなりませんのよ。そして、愛される資格をいっさいもっております。美男ですし、才気もゆたかですし、性格もやさしく、それに態度物腰も鷹揚ですの」
「そして、気まぐれもゆるしてくれるのですね」
「気まぐれって、どういう意味ですの。あの人に心をうばわれてから一年になりますの。それまではどんな男も知りませんでしたのよ。それはあなたをお見かけするまえにはわたしにこんな気まぐれを起こさせた男がいなかったのと同じですわ。あの人はわたしがなにもかも打ち明けたら、少し驚いて、それから笑いだしましたわ。そして、つつしみのない男に身をまかせるとあぶないと、ちょっと意見をしただけでした。あの人は事を運ぶまえに少なくともあなたがどういう方だかつきとめたほうがいいといいましたが、もうあとの祭りでした。わたし、あなたのことは請け合うといいましたの。そうしたら、知りもしない人のことを請け合うなんておかしいといって、また笑いましたの」
「そういうことを、その人にいつ打ち明けたのです」
「おとといです。なにからなにまでくわしく話しましたの。そして、わたしの書いた手紙の写しやあなたのお手紙を見せました。あの人はあなたのお手紙を読んで、この人はヴェネチア人だといっているが、どうもフランス人らしいといい、あなたがどういう方か知りたがっておりました。それだけでしたわ。けれども、わたしはそういう好奇心は少しもありませんから、ご心配いりませんわ。固くお約束しときますけど、あなたのお身の上を知ろうと穿鑿《せんさく》がましいことはけっしてしないつもりです」
「わたしもあなたと同様にずばぬけたその方がどういう人か穿鑿しません。ただあなたのお気持を苦しめたことを思うと、とても申訳ない気がするのです」
「そのお話はもうやめましょう。でも、ご心配にはおよびませんわ。だって、あなたにしても、よほどの抜け作でないかぎり、わたしのおさそいをおことわりにはなれなかったでしょうからね」
別れるまえに、彼女は例の小窓越しに、愛情の保証を与えてくれ、私が面会所から出ていくまで、そこでじっと見送っていた。
[修道女との最初の密会]
その夜、きめられた時刻に、私は難なく彼女の別荘を見つけて、ドアをあけた。そして、教えられたとおり部屋へはいると、非常に優美な衣装に着かえた彼女が待っていた。その部屋は鏡の前の枝付燭台にさしたたくさんの蝋燭と、テーブルの上の四つの燭台とであかあかと照らされ、テーブルには書物を積みかさねてあった。M・Mは修道院の面会所で会ったときとはまったく違った美しさに見えた。被り物はつけずに、巻毛をゆたかに高々とふくらませて髪を結っていた。しかし、あの場合、鬘の美しさをほめるくらいばかげたことはなかったので、私はざっとその髪に目をはせるだけにした。そして、彼女の前にひざまずき、美しい手にくりかえし接吻して、はげしい感謝の気持を何度となく披歴した。これを歓喜の幕あきとして、その結末は規則どおりの愛のいどみあいになるはずであった。しかし、M・Mは身をまもるのを第一の義務と心得ていた。ああ! そのうるわしい拒絶! うやうやしく、やさしく、しかも同時に大胆に執念ぶかく攻めかける恋人を押しかえすふたつの手には、あまり力がこもっていなかった。彼女が私の情熱をおさえ、情火をしずめるためにもちいた武器は、愛のこもった力づよい言葉であらわされたいろいろの理由であった。しかもその言葉はたえず熱い接吻でつよめられ、私の魂をとろとろにとかしてしまった。ふたりにとって嬉しくもまた辛い、こうした争いのうちに、二時間がすぎていった。そして、この戦いの終りに、ふたりは互いに自分の勝ちだったと思って、勝利を喜びあった。彼女は私のあらゆる攻撃から身をまもりえたことを、私はいらだつ感情をおさええたことを。
四時になると(私はいつも時間をイタリアふうに数える)、彼女はたいへんおなかがすいたが、あなたも同じなら嬉しいといった。そして、呼鈴を鳴らすと、中年の身なりのいい女が出てきた。いかにも正直そうな顔立の女だった。そして、ひとつのテーブルに二人前の食器を並べ、わきにおいたべつのテーブルに必要なものを残らず並べて、給仕をはじめた。食器はみなセーヴル焼きの陶磁器であった。料理は大皿に盛ったのが八品で、いずれも熱湯をみたした銀の箱にのせて、冷めないようにしてあった。じつに凝《こ》った極上の料理ばかり。私は感にたえて、ここの料理人はみんなフランス人にちがいないとさけんだ。彼女はそのとおりだと肯定した。酒はブルゴーニュ産の葡萄酒ばかり飲んだが、山鳥の目といわれるシャンペン(薔薇色をした二級のシャンペン)や泡のたつ白葡萄酒もなぐさみに一本ずつあけた。サラダは彼女が自分でつくった。
彼女の食欲は私におとらなかった。食事がすむと、彼女は呼鈴を鳴らして、デザートとポンスの材料とをとりよせた。私は彼女の仕草にその道の豊富な知識と手ぎわよさと優美さとを称賛せずにいられなかった。それはあきらかに彼女の恋人が非常な通人で、彼女を仕込んだにちがいないと思われた。そこで、それがどういう男なのか無性に知りたくなって、彼女が心と魂とをにぎっている、その幸福な恋人の名前を教えてくれたら、私も即座に名前を名のろうといった。しかし、彼女はお互いの好奇心を満足させるには、時のたつのを待たなければならないと答えた。
彼女は時計の鎖につけた飾りのなかに、水晶の小さい瓶をつけていたが、それは私の時計の鎖についているのと寸分ちがわなかった。私は自分の瓶を彼女に見せ、薔薇の香油が小さい綿の塊にしみこませてあるのだと自慢した。彼女も水晶の瓶を見せたが、それにも同じ香油がはいっていた。
「驚きましたね。なにしろ、これは非常にめずらしい香油で、ひどく値が高いんですから」と、私は彼女にいった。
「ですから、売ってはおりませんわ」
「そうです。この香油をつくったのはフランスの王さまで、一ポンドつくるのに一万エキュかかったそうですよ」
「これ、恋人がひとからいただいたのを、わたしにくれたのです」
「二年まえにポンパドゥール夫人がパリ駐在ヴェネチア大使だったモチェニーゴ氏にこの小さい瓶をお贈りになりました。その仲立ちをしたのが現在フランス大使としてヴェネチアに来ていられるド・B〔アベ・ド・ベルニ。司祭、作家で、フランス・アカデミーならびにアルカディア・アカデミーの会員。枢機卿。外交畑の高官を歴任した〕司祭だったのです」
「あの方をご存じですの」
「ええ、ここへご赴任になるので、ヴェネチアの大使へお別れに見えた日に、昼食をともにする光栄に浴しましたので、ご面識を得たのです。じつに幸運にめぐまれた方ですが、人柄もりっぱだし、才気もゆたかで、家柄もすぐれていましてね、たしかリヨン伯爵です。それにずばぬけた美男子で、ベル・バベ〔パリの美貌の花売娘バベにちなむ〕とあだ名されております。小さい詩集も出していて、それも評判の出来栄えですよ」
夜中の十二時が鳴った。時間が貴重なものになりはじめた。われわれは食卓をはなれて、暖炉の前にすわった。私はだんだん性急になった。しかし、彼女はなおもこばんだ。
「残酷な友よ、あなたがここへお呼びくださったのも、タンタロスの苦しみを味わわせるためだったのですか。たとえ愛情に屈することをおいといになっても、自然の欲求にはしたがうものです。ああいうおいしいご馳走のあとでは、ベッドへ行かなければなりませんよ」
「あなた、おねむいんですの?」
「いや、ちっとも。しかし、いまの時間では、だれもベッドへはいるものですよ。さあ、あなたをベッドへ運ばせてください。そして、おゆるしのいただけるかぎり、枕もとにいさせていただきます。さもなければ、このままひきとらせてください」
「あなたが行っておしまいになったら、わたしとても辛いことよ」
「そりゃ、ぼくだって同じですよ。このままお別れしてしまうなんて、たまりませんよ。けれど、この暖炉の前で、夜の明けるまでなにをしたらいいのです」
「ふたりとも服を着たまま、そこの長椅子で眠ったらよろしいわ」
「服を着たままでね。よろしゅうございます。では、ぐっすりお休みなさい。だが、ぼくは眠りませんから、どうぞ悪しからず。あなたのおそばで、しかも、じゃまな服を着たままで、どうして眠れましょう」
「けっこうですわ。それに、この長椅子はまるでベッドみたいですの。すぐわかりますわ」
彼女はこういいながら立ちあがると、長椅子の片側をひっぱり、クッションや毛布や掛蒲団を取りだしてひろげた。すると、まぎれもないベッドに早変りした。それから、大きなハンケチで私の髪をつつみ、ナイト・キャップを持ってこなかったから、自分にも同じにしてほしいといって、べつのハンケチを渡した。私は鬘へさわるのはいやだったが、それは顔に出さずに、仕事にかかった。しかし、そのとき、思いもかけないことに気づいて、こころよい驚きを感じた。手にふれたものが鬘ではなく、こよなく美しい本物の髪の毛だったのである。彼女は思いきり笑ってから、修道女は唯一の義務として髪の毛を俗世間の目にふれさせてはならないのだと説明した。そして、そのままながながと長椅子の上へ身を横たえた。私はすぐに服を脱ぎさり、靴をはねとばすと、彼女のわきというよりも彼女の上へ倒れかかった。彼女は私を両腕で抱きしめたが、自然の本能をないがしろにする圧制をわが身に加えた。それで、私も彼女の抵抗が与えるすべての苦痛をゆるすべきだと信じた。
[愛の根くらべ]
私は施しを求めるような目で彼女を見つめながら、おどおどとふるえる手で、彼女のドレスの前身頃をとじていた六本の幅のひろいリボンをほどいた。しかし、彼女は少しもさえぎらなかったので、私は非常に喜び、たぐいなく美しい胸をあからさまにながめることができた。しかし、心はやたけにはやる。私はしばらくうっとりとながめていてから、噛みつくようなはげしい接吻を乳房にあびせたが、彼女はなすままにさせていた。やがて、私は目をあげて彼女の顔を見た。すると、愛情あふれるやさしい眼差が「それだけにしてください。わたしから節制の道をならうつもりで」といっていた。私ははげしい愛情と本能の力にせまられて耐えがたい思いだったが、彼女が私の手をほかへ行かせるのを承知しないのに絶望し、彼女の厚遇に値することを納得させる場所へ彼女の手をみちびこうと、必死の努力をした。しかし、彼女は私よりもずっとつよい力で、なにひとつおもしろいものの見いだせない私の胸から手をはなそうとしなかった。しかし、それにもかかわらず、彼女の口は私の口からはなれたとたん、そこへおちていってしまった。
こうして何時間も、自分の唾《つば》にまじった彼女の唾をたえずのみこむよりほかなにもできずにすごしてから、私は自然の欲求だろうか疲労の結果だろうか、彼女を抱きしめながら、その腕のなかで眠ってしまった。
私は鳴りひびく鐘の音にぎょっとして目をさました。
「なんです、あれは?」
「さあ、あなた、いとしいお友だちよ、はやく服を着ましょう。修道院へ帰らなければいけませんのよ」
「では、服を着なさい。聖女としてマスクをおつけになるところを見せて、ぼくを喜ばせてください」
「きょうはこれだけで満足してちょうだい。わたしから自制の道をならったおつもりでね。次のときにはもっと幸福になりましょう。わたしが帰ったあとでもしもおいそぎでなかったら、ここでお休みになってもよろしくてよ」
彼女は服をつけてしまうと、呼鈴でまえの女を呼んだ。その女はきっと彼女の恋のひめごとをすべて打ち明けられている腹心なのだろう。彼女は髪を結わせると、ドレスをぬぎ、時計や指輪や俗界の装飾品をすべて机の引出しにしまいこんで鍵をかけた。それから、教団の靴やコルセットを身につけ、その霊液で私をやしなってくれた、かわいい、かけがえのないふたつの乳房を、窮屈な牢獄のなかへ封じ込めると、最後に修道服を身にまとった。腹心の女がゴンドラを命じるために出ていったすきに、彼女は私の首へとびついてきて、あさって面会室へ会いにきてほしい、ヴェネチアであなたと一夜をすごす手順をきめ、ふたりともすっかり幸福になろうとささやいた。そして、出ていった。私は満たされない欲望でいっぱいだったが、自分の運命におおいに満足して、蝋燭を消すと、正午までぐっすり眠った。
それから、だれにも見られずにその別荘から出ると、しっかりマスクをしてラウラの家へ行った。ラウラは次のようなC・Cの手紙を渡した。
「いとしい旦那さま、あたしがものごとをどんなふうに考えているか、そのよい見本をお目にかけます。きっとあたしがますますあんたの奥さんとして申し分のない女になったと思うことでしょう。そして、あたしが年は若くても秘密をまもることができ、あんたがなにかかくしているのを悪く思わないだけのつつましさをもっていると信じてくださるでしょう。あたし、あんたのお心を信じていますから、あんたの気持をまぎらせ、別れ別れに暮らす辛さを我慢する助けをしてくれることに、やきもちなんかやいていません。
じつはきのうのことでしたが、小面会室の上の廊下を歩いていたとき、手から落ちた小楊枝をひろおうと思って、壁ぎわにあった腰掛をどかしました。そして、小楊枝をひろいながら、床板と壁のあいだの目にもつかないほどの隙間から見てしまいましたの。恋しい恋しいあんたが親しいお友だちのM・M教母さまと話していらっしゃるのを。そのときのあたしの驚きや喜びは、あんたには想像もつかないでしょう。けれども、その驚きや喜びもすぐにだれかから見られやしまいか、口の軽い人から話の種にされやしまいかという心配にかわりました。それで、すぐに椅子を元の場所へもどして逃げだしたのでした。ああ! 恋しい友よ、なにもかも話してちょうだい。こんなにあんたを愛してるんですもの、どうしてあのような場面のことをききたがらずにいられましょう。あの方があんたとお知合いなのかどうか、またどういうふうにしてあの方とお知合いになったのか話してちょうだい。あの方はいつかお話したやさしいお友だちなんですが、お名前をお知らせする必要もないと思っていたのでした。あたしにフランス語を教えてくださったのもあの方ですし、ご自分の部屋にある本をたくさん貸してくださって、あるたいへん大事な事柄について、ふつうの女には見られないほど、あたしを物知りにしてくださったのです。それから、あたしをすんでのことで殺しそうになった、あのおそろしい病気も、あの方がいなかったら、みなさんに見つかってしまったかもしれません。すぐにタオルやシーツをたくさんもってきてくださったのですもの。あたしがもの笑いにならなかったのも、あの方のおかげですの。それで、あの方はあたしに恋人があることをお知りになったのですが、あたしもあの方に恋人があるのを知りました。けれど、ふたりともけっしてお互いの秘密を穿鑿しようとはしません。M・M教母さまはまったく類のないお方です。いとしいお友だちよ、あんたがあの方を愛し、あの方があんたを愛していることをあたしは固く信じています。けれど、あたし、少しも嫉妬などしていないのですから、なにもかも話していただく資格があります。でも、あたし、おふたりともお気の毒だと思います。だって、おふたりはどんなに骨をおっても、お互いの情熱をかきたてるだけしかできないのですものね。修道院の人たちはあんたがご病気だと思っています。それで、あたし、お目にかかりたくて死にそうですの。せめて一度おいでになってください。さようなら」
この手紙は私を不安な気持にさせた。C・Cについては心配はなかったが、その隙間からほかの人々に見られるかもしれなかったからだ。それだけでなく、名誉や愛情から真実をしゃべるわけにはいかないので、いとしい恋人に作り話をしなければならなかったからだ。そこで、折返し彼女に送った返事のなかで、M・M教母にだれかマスクをかけた人と話しているのを床の隙間から見てしまったとすぐに打ち明けるようにと教えた。その修道女と知合いになった顛末《てんまつ》については、彼女がまれに見るりっぱな人だときいたので、偽名をつかって面会室へ呼んだのだが、私がよくミサを聞きにいく男と同じだと見ぬいたようだから、私のことはぷつりとも口にしてはいけないといいふくめた。また、M・M教母はきみのいうとおり美しい人だが、ふたりのあいだに恋愛なんて気持は全然ないとずうずうしく断言した。
C・Cの守護の聖女カテリーナの日、私は彼女の教会のミサに行った。そして、帰りにゴンドラに乗ろうと思って船着場へきたとき、あとから人がつけてくるのに気がついた。これは確かめてみる必要があった。同じ男がやはりゴンドラに乗って、あとからついてきた。それもべつに怪しいことではない。しかし、私はさらに確かめようと思って、ヴェネチアへ来ると、モロジーニ宮の庭園のところでゴンドラをおりた。すると、例の男も同じところでおりた。もう疑う余地はない。私はフランドルの建て場へつづく小路で足をとめた。そこへ、密偵がやってきたので、私は手に短刀をにぎり、道の隅へ押しつけて、短刀の切先を喉へつきつけながら、だれに頼まれてあとをつけてきたのだときいた。彼は白状しそうになったが、折悪しくその小路へはいってきたものがあったので、それをしおに彼は私の手から逃げだし、とうとうなにもつきとめることができなかった。しかし、だれかが執拗に私の正体をしらべようとしたら、わけなくわかってしまうと気がついたので、今後ムラーノへ行くにはマスクをつけるか、日が暮れてからにしようと固く決心した。
[聖なる式場の準備]
翌日はM・Mがヴェネチアへ夕食をしにくる手順を聞くはずの日だったので、早目に面会室へ行った。私の前へあらわれた彼女の顔には、心にみなぎる満足の色があふれていた。そして、まず第一に、三週間ぶりで教会のミサに姿を見せてくれたのはたいへん嬉しいと挨拶した。院長もたいへん喜び、そのうちにきっとどういう方だかつきとめてみせるといっていると話した。
そこで、私は密偵の一件をくわしく報告し、もう彼女の教会のミサにはこないつもりだと決心を打ち明けた。
彼女もできるだけムラーノへ顔を見せないほうがいいと答え、古い床板の割れ目のことをくわしく話して、もうあの隙間はふさがせた。このことはわたしにとてもなついている寄宿生のひとりから知らされたのだといったが、その名前は口にしなかった。
こうした雑談のあとで、私の幸福は日延べになったのかときいた。彼女は新しく誓願式をすませた人が自分の部屋へ夕食にきてほしいというので、二十四時間だけ日延べをすると答えた。
「こういう招待はあまりちょいちょいはありませんが、呼ばれたときにはことわれないのです。万が一ことわると、呼んでくれた人を敵にしなければなりませんから」
「病気だというわけにもいかないのですか」
「ええ、病気だなんていうと、お見舞いの人が押しかけてきてたいへんですわ」
「わかりました。その見舞いをことわると、脱走の疑いをかけられるのですね」
「まあ、そんなことはありませんわ。脱走なんて、ここではだれにもできることではないと信じられていますわ」
「それでは、そういう奇跡の演じられるのは、あなただけだというわけですね」
「もちろん、わたしだけだと思っていただきたいわ。そういう奇跡を演じる力づよい神はやっぱりお金ですのよ。ところで、あすの晩、日暮れから一時間半たったら、どこで待っていてくださいますの」
「例の別荘で待っているわけにはいかないのですか」
「それはだめです。だって、ヴェネチアへ連れていってくれるのは、わたしの恋人なのですもの」
「あなたの恋人ですって?」
「ええ、そうですの」
「そりゃ変わってますね。それでは、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ広場のバルトロメオ・ダ・ベルガモ〔一四五五年よりヴェネチア共和国の最高司令官だったバルトロメオ・コレオニのこと〕の騎馬像の下で待っていましょう」
「わたし、その騎馬像も広場も版画で見ただけですが、まちがいなく行きますわ。打合せはこれで十分ね。お天気がひどく荒れないかぎり、かならず行きます。けれど、きっとよいお天気になりますわ。では、さようなら。あすの晩は思いきりお話しましょうよ。そして、もしも眠るのでしたら、心から満ち足りた気持で眠りましょう」
私には別荘がなかったので、おおいにいそがなければならなかった。そこで、ゴンドラの船頭をもうひとりふやし、十五分足らずでサン・マルコの広場へ着いた。そして、適当な場所を捜しにかかった。人がプルトゥス〔富の神〕の神の恩恵に浴し、かつ頭も悪くないときには、何事もたいがいうまくいくものだ。五、六時間かかって、いろいろの小別荘を見てまわったあとで、いちばんしゃれた、したがっていちばん高いのをえらんだ。そこはもとはイギリス大使のロード・ホルダーネスの持ち物であったが、帰国の際に料理人のひとりに安く売っていったのであった。私は客にふるまう昼食と夕食とを持主が自分で料理するという条件をつけ、復活祭まで百ゼッキーニの前払いで借りうけた。
その小別荘は五つの部屋から成り、そなえつけてある家具も凝《こ》った趣味のものばかりであった。恋と美食とあらゆる種類の快楽のために至れり尽せりの設備がととのえてあった。まず食堂は、壁にはめこまれた窓に廻転自在の食品台がとりつけられ、料理はその窓から出されたが、食品台が廻転すると窓がまったくふさがれるようになっていた。だから、主人と下男は顔を合わせることがなかった。その部屋は多くの鏡やシャンデリヤで飾られ、白い大理石の暖炉をすえ、壁にはすべて彩色したシナの陶器の小さな四角い板が張ってあった。この四角い板には自然の姿のままの男女のたわむれる姿がえがかれ、その奔放な姿態は空想を燃えあがらせた。左右に置かれたソファと対応して、それぞれ小さい肘掛椅子がすえてあった。次の部屋は八角形で、壁も床も天井もすべて鏡張りであった。その鏡は残らず対照をなし、同じものを無数の角度からながめさせた。その隣は秘密の出口のふたつついた寝室であったが、一方は化粧室へ、他方は浴槽と便所のある小部屋へ通じていた。すべての鏡板は金粉で縁どりし、花模様や唐草模様がえがかれていた。
私はベッドのなかに毛布を、すべてのシャンデリヤや部屋ごとの燭台に蝋燭を残らず立てるように注意してから、すぐその晩ふたり分の夕食を用意するように命じた。酒はブルゴーニュとシャンペン、料理は八品、金に糸目をつけずに極上のものをえらべと注文した。デザートも料理人の好みにまかせた。街路に向かったドアの鍵を受け取るとき、出入りには人に見られないようにしてほしいとことわった。夕食は日没一時間半後、呼鈴を鳴らしたら出すようにといった。
寝室には掛け時計がかけてあったが、それが目覚し時計をかねているのに気づいて、嬉しかった。というのも、恋の思いに燃えながら、眠くなることがよくあったからである。
以上のような手順をつけると、私は街へ出て、とある婦人用品店でスリッパとナイト・キャップを買った。ナイト・キャップはアランソン織りのレースを二重にしたものであった。
読者はこの密会について私があまり神経質すぎると思われるかもしれないが、なにしろ食事をふるまう相手は世界を統べる君主の類《たぐい》まれな美貌の寵妃なのだから、まえの晩に準備万端ととのっているかどうか確かめてみたかった。それに、小別荘を一軒持っているといった以上、万事手馴れたようすを見せなければならなかったからである。
日没から二時間たって、きめた時刻に、私はわが宮殿へもどっていった。フランスの料理人は私がひとりなのを見て、ひどく驚いたようであった。時間をはっきりいっておいたのだから、まちがうはずもないのに、蝋燭が十分につけてないのがまず気に入らなかった。私はきつく叱言をいい、同じことは二度いいたくないのだとどなりつけた。
「これからはけっしてこんな疎漏《そろう》はいたしません」
「では、蝋燭を全部つけて、料理を出したまえ」
「おふたり分というお話でしたが」
「ふたり分出したまえ。そして、きょうだけは食事ちゅうぼくのそばについていてほしい。ぼくの好みを十分に知っておいてもらいたいから」
料理は一度に二皿ずつ順序よく食品台にのってせりあがってきた。私は出される料理のひとつひとつについて意見を述べたが、サクソニアの陶器や銀メッキの食器に盛られた料理はすべてすばらしかった。小鳥、ちょうざめ、松露、牡蠣《かき》、葡萄酒、どれもみな申し分なかった。
ただ、サラダをつくるためのゆで玉子とひしこいわしとドレッシングとを皿にのせて出すのを忘れたことを責めた。彼は天をあおいで嘆息し、大きな手ぬかりをしたと詫びた。私はまた次のときにはポンスに味をつけるためにすっぱいオレンジを用意するよう、またラック酒よりもラム酒のほうがいいと注意した。
こうして食事に二時間かけてから、いっさいの費用を計算して勘定書を持ってこいと命じた。主人は十五分ほどして持ってきたが、まず満足のいく値段だった。金を払ってから、呼鈴を鳴らしたらコーヒーを持ってくるようにいって、寝室のすばらしいベッドへねにいった。そのベッドとうまい夕食とはきわめて快適な眠りを与えてくれた。さもなければ、次の夜この同じベッドで美しい女神を抱くことを考えて、おちおち眠れなかっただろう。朝、出がけに、主人を呼んで、今夜のデザートには見つけられるかぎりの新鮮な果物と、とくにアイスクリームを用意するように注意した。そして、その一日をあまりにも長く思わないように、夕方まで賭博場でひまをつぶした。運命の神は恋の神におとらずにこやかな笑顔を見せてくれた。私は心の底でこれもわがうるわしい修道女の力づよい功徳《くどく》だと感謝した。
[男装のM・M]
予定よりも一時間ばかりまえに、私は英雄コレオーニの騎馬像のところへ行った。時間はかなりあったが、待つ楽しみを味わいたかったのだ。寒い晩であったが、さわやかで、風もなかった。
きめた時間きっかりに、二挺櫓のゴンドラが着いた。そして、マスクをつけた人物がおり、舳《へさき》の船頭になにかいってから、騎馬像のほうへ歩いてきた。近づくにつれて、私の胸は高鳴った。しかし、それが男のマスクだったので、私は非常に驚き、うまくやりすごした。ピストルを持ってこなかったのがくやまれた。マスクの男は騎馬像をひとまわりし、私に近づいてきて、おだやかに手を差しのべた。もう疑う余地はなかった。わが天使は男装をしてきたのであった。彼女は私の驚きを笑いながら、私の腕にすがりついた。ふたりはひとことも言葉をかわさずにサン・マルコの広場へ向かい、それを横切って、小別荘へ行った。それはサン・モイゼ劇場から百歩しかはなれていなかった。
なにもかも命令したとおりになっていた。階段をのぼると、私はすぐにマスクをとった。しかし、M・Mは迎え入れられた気持のよい部屋をあちこちゆっくりと歩きまわった。そして、私が彼女のあらゆる横顔を、ときには正面から艶なる面差をうっとり見とれているのを喜び、また私が彼女をわがものとする恋人はなんたる果報者だろうと感に耐えているのをおもしろがった。彼女はじっと動かずにいても、周囲くまなく、しかも同時に、雑多な角度から自分の姿を見せる不思議な仕掛けに目をみはった。とくに効果を考えて配置された蝋燭の光によって、天地八方くまなくはめこまれた鏡のえがきだす無数の姿態は彼女にまったく新しい光景を提供し、自分自身をいとおしむ気持さえおこさせた。私は円椅子に腰をおろして、彼女の優美な衣装をうっとりとながめた。
上着は金糸で縁かがりをした、薔薇色のなめらかなビロード、胴着もそれに相応して、豪著きわまりないこまかな刺繍がしてあった。下ばきのパンタロンは黒繻子《くろじゅす》、レースは針編みレース、ダイヤのイヤリング、小指に高価な単玉のダイヤの指輪がきらめき、もう一方の手には、凸状の水晶でおおわれ、白いタフタ色の表面しか見せない指輪がはまっていた。ブロンド色の頭巾《ずきん》は生地といい模様といい、まことに美しいものであった。彼女はもっとよく見せるために、私の前へ来て立った。ポケットをさぐってみると、煙草入れ、ボンボン入れ、香水の瓶、小楊枝入れ、オペラ・グラス、強い香気をはなつハンケチなどがでてきた。それからふたつの時計と、小粒のダイヤを無数にはめこんだ細い鎖につけた梨形の印形など。そのぜいたくさと細工とは目をみはるばかりであった。最後にわきのポケットをさぐると、発火装置のついたピストルが出てきた。それは精巧なイギリスの製品であった。
「どれもこれもみごとなものばかりだが、あんたにはとてもおよびませんね。だが、それにしても、あんたを実際の恋人として心服させているすばらしい人物には驚きましたね、ふかく敬意を表しますよ」
「そうですの。ヴェネチアへ連れていって、あとはかってにさせてほしいと頼みましたら、きみはぼくの実際の恋人なのだからと念を押しましてね、楽しく遊んでおいで、それからきみが幸福にしてやる人がそれだけの値うちがあると固く信じられるように祈っているといいましたの」
「まったく途方もないことですね。そういうタイプの恋人はふたりといないでしょう。ぼくはそんな幸福に値するか、どうかわかりませんよ。もっとももう目のくらむ思いですがね」
「向うへいって、ひとりでマスクをはずしたいのですが」
「どうぞご自由に」
十五分ののちに、彼女は私の前に出てきた。化粧粉をおとした美しい髪を男髷《おとこまげ》に結い、長く輪をなした巻毛が頬の下まで垂れていた。黒いリボンで髪をうしろにたばね、おさげが揺れる尾のようにひかがみまでとどいた。M・Mは女としてはアンリエットに似ており、男としてはパリで知合いになった近衛士官のレトリエールに似ていた。あるいはむしろ、フランスふうの衣装にもかかわらず連想をゆるされるならば、いまだにその彫像をあちこちに見かけるアンティノウス〔ハドリアヌス皇帝の寵童であったビシニアの美青年〕を思わせた。
そのような魅惑に圧倒されて、私は気分が悪くなるように感じ、ソファにつっぷして、頭をかかえた。
「ぼくはすっかり自信をなくしてしまいました。あんたはとうていぼくのものにはなりっこない。今夜のうちに、なにか思いがけない故障が起こって、ぼくに思いをとげさせずに、あんたをさらっていってしまうかもしれません。きっとそれは神なるあんたの夫がしがない人間に嫉妬を感じて、奇跡を行なうにちがいない。ぼくはもうくたくたです。十五分もすると、息の根がとまってしまうでしょう」
「あなた、気でも狂ったのですか。わたしはお望みならば、いますぐにでもあなたのものになりますわ。おなかはすいてますけど、お夕食なんか、どうでもよくてよ。さあ、ねにいきましょう」
[七時間の幸福な快楽]
彼女は寒がっていた。われわれは暖炉の前にすわった。彼女は胴着をぬいできたのだといった。私はもうたまりかねて、ブラウスをとめている、ダイヤをちりばめた心字形の留め金をはずした。読者よ、感覚のなかには、非常にはげしくまた非常にこころよくて、その思い出が何年たっても弱まらず、時の力もこわすことのできないものがある。私の口はすでに男心を夢中にするうるわしい胸を接吻でおおった。しかし、じゃまなコルセットが完全な姿をながめることをゆるさなかった。しかし、彼女はすっかり気持がくつろぎ、不用なじゃまだてもしなくなった。私はかつてあれよりも美しいものを目に見たことも手にさわったこともない。メディチのヴィーナスのふたつのすばらしい乳房が、たとえプロメテウスの火花で生命を与えられようとも、わが気高い修道女の胸にくらべたらもののかずでもなかろう。
私は燃えに燃えた。すぐに情欲を満足させようとした。だが、彼女はただ一度の接吻と、「お夕食のあとでね」という短い言葉だけで、私のはやりたつ気持をしずめた。
私は呼鈴を鳴らした。そして、彼女がぎょっとするのを見て、食品台を教えてやった。
「だれにも見られやしませんよ。このからくりを恋人に話してあげなさい。たぶんご存じないと思うから」
「いえ、知っていますよ。けれども、あなたのお心づかいに感心するでしょう。そして、あなたが女を喜ばせる道にかけてはヴェテランで、この家でごいっしょに恋の喜びを味わったのもわたしだけではあるまいというでしょうよ」
「そりゃまちがいですよ。ぼくはここでは人と夕食をしたりねたりしたことは一度もありません。あんたは、気高い友よ、ぼくが情熱を燃やした最初の人ではないけれど、最後の人になるでしょう」
「そんなに実がおありなら、わたし、とても嬉しいわ。わたしの恋人もそうですの。親切で、やさしくて。でも、あの人とでは、わたしの心はいつも満たされませんの」
「その人の気持も同じだろうと思いますね。もしもぼくのような愛情を寄せていたら、今夜みたいにあんたを手放すことはないでしょうからね。とても我慢できますまい」
「あの人は、わたしがあなたを愛するように、わたしを愛してますわ。ねえ、わたしがあなたを愛してると信じていらっしゃるの?」
「そりゃ、信じなければなりません。しかし、あんたには我慢できないでしょう、その……」
「とんでもない。だって、わたし、あなたが打ち明けてさえくだされば、どんなことでもゆるしてあげるつもりなんですもの。わたしがいま心に感じている喜びは、あなたと楽しい夜がすごせることよりも、あなたを十分に満足させてあげられる確信からきてるのですわ。こんな気持、生まれてはじめてですわ」
「では、そのりっぱな恋人とは、いっしょに夜をすごしたことがないのですか」
「そりゃ、ありますわ。けれど、そういう夜も、友情とか感謝とか親切とか、そんな気持に動かされただけですの。肝心なのは愛だけなのですけどね。それでも、わたしの恋人はあなたにそっくりですわ。あなたと同じように頭がよくて、陽気で、きさくですの。顔立や姿形も同じようにりっぱですが、その点ではあまりあなたに似ていません。お金持という点では、この別荘から考えると反対のようですけど、あの人のほうがお金持だと思います。けれども、こんなことをいっても、あなたがあの人より劣っているように考えていると思わないでちょうだい。あなたはわたしをほかの男にまかせるような英雄主義はできないっておっしゃるからよ。だって、もしもあなたがわたしの気まぐれをあの人と同じように寛大に見すごすとおっしゃったら、わたしはあなたからしていただきたいと思っているような愛され方をしていないと思うでしょうからね」
「あの人は今夜のことをくわしく聞きたがるでしょうか」
「きっといろいろ聞いたほうがわたしが嬉しがると思うでしょうよ。ですから、わたしもみんな話してしまいますわ。あの人にひけ目を感じさせるようなことは黙っていますが」
夕食はもちろん、アイスクリームや牡蠣を、彼女はとてもうまくてすばらしいと喜び、そのあとでポンスをつくってくれた。しかし、私は愛の喜びが待ち遠しくて、ポンスを二、三杯飲むと、
「もうあますところ七時間しかないが、その七時間をベッドのなかですごそうとしないのはたいへんなまちがいですよ。よく考えてください」と頼んだ。
「あなたのおっしゃることはソクラテスより正しいわ。よくわかりましたわ。さあ、いらっしゃい」と彼女は答えた。
それで、われわれは寝室へ移ったが、寝室は明るく燃える十二本の蝋燭に照らされていた。それから化粧室へはいった。そこで、私はしゃれたレースのナイト・キャップを出し、女の髪に結ってもらいたいと注文した。彼女はそのナイト・キャップをすばらしいとほめてから、私にサロンへ行って服をぬいでほしいといい、ベッドへはいったらすぐに呼ぶからと約束した。それは二分とかからなかった。私は恋しさで夢中になり、愛と幸福とに酔った彼女の腕のなかへとびこんだ。そして、七時間ぶっつづけで、熱烈な愛のしるしを見せた。ただひと区切りごとに十五分ばかり、甘い口説《くぜつ》をかわすだけであった。恋のいとなみの実質では、彼女はなにも新しいことを教えなかった。しかし、そういう場合にくりひろげられる溜息や興奮や歓喜や自然のままの感情などでは、無限の新しさを味わわせてくれた。新しい発見のひとつひとつが私の愛情をいやがうえにも高め、感謝の気持をあらわすために新しい力が湧きあがった。彼女はいままで作り事だとしか思わなかったいろいろのことを見せられ、自分がそれほどの快楽に耐えられるのを知って、あっけにとられた。私は彼女が要求することすらゆるされないと思っていたことまでしてやり、少しでも遠慮があると、どんなに大きな快楽でもだめになることを教えた。夜明けの鐘が鳴ると、彼女はまるで偶像をおがむように第三天国(ヴィーナスを支配する天国)へ目をあげた。それは私に情熱を告白したときの苦しい努力を十分につぐなってくれたことを、聖母とその子キリストに感謝するためであった。
われわれはいそいで服をつけたが、私が彼女のポケットへ美しいナイト・キャップを押しこむのを見て、彼女はこれをいつまでも大事にすると固く誓った。コーヒーを飲むと、われわれは小走りにサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ広場へ行き、明後日訪ねていくと約束して、別れを告げた。そして、彼女がゴンドラに乗るのを見とどけてから、家へ帰った。十時間の睡眠は私を平常の状態にもどしてくれた。
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第四十一章
[情事のための神学]
約束しておいたように、翌々日、昼食をすませてから、修道院の面会室へ行って、M・Mを呼ばせた。彼女はすぐにおりてきたが、恋人がまもなく来るはずだからはやく帰ってちょうだい、そのかわり、あすまちがいなく来てほしいといった。そこで、私はすぐに暇《いとま》を告げた。橋のたもとまでくると、無器用にマスクをつけた男が一艘のゴンドラからおりてくるのが目にとまった。その船頭は顔見知りで、当時、フランス大使のご用をつとめているはずであった。彼は仕着せを着ていず、ゴンドラも、ヴェネチア人の所有するのはすべてそうだが、とても質素であった。ふり返って見ていると、マスクの男は修道院のほうへ歩いていった。もう疑う余地はなかった。私はこの発見に気をよくし、あの大使が私の先棒だったのを喜びながら、ヴェネチアへもどった。しかし、そのことはM・Mにはいうまいと心にきめた。
翌日また訪ねていくと、彼女は恋人がクリスマスまで会えないといって別れを告げにきたと話した。
「パドヴァへ行くんですの。けれども、気が向いたらあの人の別荘へ夕食に行けるように、手配してくれましたの」
「なぜヴェネチアじゃいけないのです」
「あの人が自分の帰るまでは、ヴェネチアへ行かないでほしいといいますの。とても用心ぶかい人なんです。あの人の命令にそむくわけにはいきませんわ」
「それはけっこうですね。ところで、別荘の夕食はいつにしましょう」
「次の日曜日はどうでしょう」
「じゃあ、日曜日には、日の暮れ方にいって、本を読みながら待っています。ところで、ぼくの別荘ではあまり不愉快でもなかったことを、あの人に話しましたか」
「ええ、すっかり話しましたわ。あの人はひとつだけたいへん気をもんでいました。そして、わたしのおなかを大きくさせるようなおそろしいことをなさらないように、あなたに頼めといっていましたわ」
「そんなことは、考えるだけでも寿命がちぢまりますね。だが、あの人とはそういう危険は全然ないのですか」
「ええ、全然」
「それじゃあ、これからはせいぜい用心することにしましょう。だが、クリスマスの九日まえからはマスクをつけられないので、あんたの別荘へは船で行かなければなりませんね。陸《おか》を行ったら、このあいだぼくをつけてきた密偵に簡単に見やぶられてしまいますからね」
「そうですね。そのほうがいいわ。桟橋がすぐわかるようにお教えしましょう。それから、四旬節のあいだにも来ていただきたいと思いますわ。そのあいだ神さまは肉体を苦しめるようにお望みなんですけどね。でも、おもしろいことではなくて? 神さまが、ある時期には羽目をはずして遊べとおっしゃるかと思うと、ある時期には苦行をしなければいかんとおっしゃるんですものね! お誕生日と神さまとどんな関係があるのでしょう。人間のすることが、どうして神さまに影響するのでしょう。神さまは自由独立だと思うんですけどねえ。神さまが人間をご自分の意志にさからうことができるようにおつくりになったのなら、人間が神さまのお禁じになることをするのもあたりまえではございません? ただ神さまに創造のしかたをお教えするためにもねえ。四旬節のあいだ神さまが苦しんでいられるなんて、想像できるでしょうか」
「気高い友よ、あんたの理屈は正しい。だが、あんたはどこでそういう理屈を習い、またどうやってそういうふうに修道院の束縛からとびだしたのです」
「恋人がよい本をいろいろくれたのです。そのおかげで、わたしの理性にのしかかっていた迷信の雲を真理の光が追いはらってくれたのです。よく考えてみると、修道院にはいったのは不幸でしたが、心を照らしてくれる人を見つけたのは、その不幸を十分につぐなうくらい幸福でしたわ。なぜなら、いちばん大きな幸福は安穏に生きて安穏に死ぬことですが、そういう幸福は坊さんのいうことを信じていたら、とうてい望めませんからねえ」
「じつに正しい議論ですね。まったく感服しましたよ。だが、あんたのように迷信にとじこめられた心に光をあてるのは、三月《みつき》や四月《よつき》でできる仕事じゃありませんね」
「まちがった考えがもっとふかくしみこんでいたら、光を見るのもずっと時間がかかったろうと思いますわ。けれども、わたしの心のなかで真実と嘘とをへだてていたのは一枚のカーテンだけだったのです。そのカーテンは理性だけであけることができたのですが、理性は軽蔑すべきものだと教え込まれてきたのです。けれども、理性はおおいに尊重しなければならないということを教えられると、わたしはさっそくそれを活用して、カーテンをひいてしまいましたの。すると、真実の光がきらきらと輝いて、愚にもつかない考えがたちまち消えてしまいました。そういう考えがまたはじまりはしないかなんて心配は全然しておりません。だって、毎日どんどん強くなっていっていますからね。わたしが神さまを愛しはじめたのは、坊さんたちから教え込まれた考えがまちがっているとはっきりわかってからだといえますわ」
「じつに嬉しい話ですね。あんたはぼくよりもずっと幸福です。ぼくが十年かかった旅を一年でしてしまったのですからね」
「では、あなたははじめにボーリンブローク卿〔イギリスの政治家で著述家〕の書いたものをお読みにならなかったのですか。わたし、五、六か月まえにシャロン〔フランスのモラリストでモンテーニュの弟子〕の『英知論』を読みましたわ。だが、それをどうしてだか告解聴聞の神父さまがかぎつけて、告解のときに、ああいう本は捨てるべきだといいました。それで、わたし、それを読んでも良心にやましさを感じないから、お言葉にしたがうわけにはまいりませんと答えましたの。そうしたら、赦免を与えないといいますので、それでも聖体拝受には行くといってやりましたの。すると、神父さんはどうしたらよいかわからなくなって、ディエド〔カルメン会修道士で、ムラーノの尼僧院は彼の管轄区〕司教さまのところへ相談に行きました。それで、司教さまがここへ来て、告解の神父のいうことにしたがわなければいけないとほのめかしましたから、わたし、告解の神父は赦免を与えるのが任務で、こちらが求めないかぎり忠告を与える権利はないと答えました。そして、修道院のなかにつまらない騒ぎを起こさせない義務がありますから、たとえ神父さまが赦免をおことわりになっても、やはり聖体拝受にはまいりますといいました。そこで、司教さまはわたしの良心にまかせておくようにと神父さまにいいました。でも、わたしはどうにも気がすまなかったので、恋人に頼んで、だれでも好きな神父さまに告解してもよいという許可を法王さまからいただいてもらいましたの。修道院のほかの人たちはこの特権をとてもうらやましがりましたが、わたし、この特権は一度しかつかいませんでしたわ。それほどまでにする必要もなかったからです。それで、いまでも同じ神父さまに告解しています。いまでは、神父さまはわたしの話をきいて、簡単に赦免を与えてくれますわ。重大なことはなにもいわないことにしていますからね」
「ほかのことについては、自分で自分に赦免を与えているってわけですね」
「わたしは神さまへじかに告解しております。私の考えを奥底まで理解して、私の行ないのよし悪しを判断するのは、神さまだけですわ」
こうして、私はM・Mという女を知った。じつに才たけた女であった。しかし、それも不思議ではない。なぜなら、彼女の関心は官能の満足よりも良心の平静にあったからである。
[修道女の服装のままで]
私は約束どおり別荘へ行くと念を押してからヴェネチアへ帰った。そして、日曜日の午後、二挺櫓のゴンドラを雇って、ムラーノの島をひとまわりした。別荘の桟橋がどこにあるのか確かめ、かたがたわが恋人が修道院からしのび出る小さい桟橋も見ておきたかったのである。しかし、なにもよくわからなかった。別荘の桟橋がわかったのはクリスマス〔カトリック教会における、宗教的目的のための九日間の祈祷〕の直前だったし、修道院のほうは六か月後のことであった。そのとき私はあやうく命をおとすところであったが、それはそのときに話そう。
日が暮れてまもなく、私は愛の宮居《みやい》へ出かけた。そして、女神のご入来を待つあいだ、寝室の書架に並んでいる本をのぞいてみた。数は多くなかったが、この場にふさわしい、よりぬきの本ばかりであった。きわめて賢明な哲学者たちが宗教を攻撃した書物や、または官能的な筆で愛欲の機微をえがいた書物が、すべてそこに見いだされた。その魅惑的な書物は火と燃える文体で書かれ、読者が脈管のなかにかきたてられる情火を消そうとすれば、唯一の手段として、現実を求めにいかざるをえなくさせる。以上の書物のほかに、二つ折り型の豪奢な装幀本がいろいろあったが、それらは愛欲の版画だけをおさめていた。その大きな価値は画中の人物のみだらな姿態よりも、綿密な描写のなかのデッサンの美しさにあった。たとえば、イギリスでつくられた『シャルトルー会の門衛僧』の版画、あるいはムールシウスやアロイジア・シジェア・トレタナの版画などだが、いずれも出色の出来栄えであった。そのほか壁にかかっていた小形のかずかずの絵は人物が生きているかと思われるほどよくかかれていた。一時間がまたたくまにたっていった。そうした絵を見ているうちに、私は耐えがたい焦燥を感じはじめた。
そこへM・Mが修道女の姿であらわれたので、私は思わず声をあげてしまった。そして、彼女の首へかじりついて、ちょうどいいところへ来てくれた、さもないと、一時間まえから見ていたものに刺激されて、中学生みたいにマスターベーションをするところであったといった。
「そういうふうに聖女の服を着ていると、いちだんと恋しさが増しますよ。さあ、すぐにこの場で愛させてください、わが天使よ」
「すぐにふつうの服に着がえてきますわ、五分とはかかりませんから。わたし、この厚ぼったいラシャがいやなんですの」
「かまやしません。ぼくの情熱をよび起こしたその服のままで、愛のお供物を受けてください」
彼女は大きなソファの上に横たわりながら、いとも敬虔な口調で「|汝の意志の達成せられんことを!(フィアット・ヴォルンタス・トウア)」とだけ答えた。われわれはそのソファの上で、一瞬のあいだ宇宙を忘れた。
楽しい興奮がすぎると、私は彼女が法衣をぬいで、いとも優美なペキン・モスリンの軽いドレスに着かえるのを手伝ってやった。それから侍女の役をつとめ、ナイト・キャップをかぶる介添えをした。
楽しい夕食のあとで、ねにいくまえに、われわれは次のあいびきをクリスマスまえの九日間の祈願日の最初の日にしようときめた。この日から向う十日間は劇場がしまるので、マスクもつけられないのである。彼女は桟橋の戸口の鍵を渡したが、戸口の上の窓に青いリボンを結んでおくから、昼間のうちにそのしるしを見ておいて、日が暮れたらそこへ船を着けてほしいといった。しかし、彼女を有頂天に喜ばせたのは、彼女の恋人が帰るまで私が別荘にとまりこみ、一歩も外へ出ないことにするといったからであった。その十日間の滞在中に、私は四度彼女を所有し、彼女だけが生き甲斐であることを十分に納得させた。
そのあいだに、私は本を読んだり、C・Cに手紙を書いたりしてひまをつぶした。しかし、C・Cにたいする愛情はもう冷静なものになっていた。彼女がよこした手紙のなかで興味をそそられたおもな点は、親友のM・M教母についていっていることであった。彼女は教母さまとの交際を発展させないのはまちがっているといってきたので、正体を知られるのがこわいから交際をつづけなかったと答え、これからも厳重に秘密をまもるようにといいきかせた。
ふたりの女を同時に同じ程度に愛するのは不可能だ。また愛に十分の滋養を与えても、全然与えないでも、いずれにしても、愛をいつまでもいきいきとした状態でたもつことも不可能だ。M・Mにたいする私の情熱はいつまでも同じ強さをたもっていたが、その理由は、彼女を抱くたびに、いつかこの女を失うかもしれないという大きな恐怖を感ぜずにいられなかったからである。
「あんたが自分の部屋にも修道院のなかにもいないとき、だれか修道女があんたに話をする用事を思いつくというようなことが、起こらないともかぎらないね」と私はいった。すると、彼女は、
「そんなことは起こりっこないわ。修道院では、自分の部屋へひきこもって、院長にさえ会わないという自由くらい尊重されているものはないのですから」と、私を安心させた。
彼女がもっともおそれていたのは火事などの不祥な椿事《ちんじ》で、そういうときには修道院じゅうが上を下への大騒ぎになるだろうから、修道女が知らん顔をして、ひとり静かにひきこもっていたら、当然怪しいと思われ、無断外出がいやおうなく発覚してしまう。彼女はさいわいにも下働きの尼と植木屋ともうひとりの修道女を手なずけているといったが、その修道女の名前はどうしても明かそうとしなかった。恋人の金力と才覚がそういうふうにはからってくれたのである。別荘の留守番をしている料理人とその細君の誠実さも彼は保証した。ゴンドラの船頭たちについても、そのひとりは司法裁判所のまわし者にちがいなかったが、やはり心配はいらなかった。
クリスマスの前夜、彼女は恋人がまもなく帰ってくるが、聖ステファノの日(十二月二十六日)に彼といっしょにオペラへ行って、その晩、つまりクリスマス後三日目の祭日に、別荘で夕食を食べることになっていると打ち明けた。それから、大晦日《おおみそか》の夕食に待っていると私に約束し、家へ帰ってから読んでほしいと一通の手紙を渡した。
[思いがけない告白]
夜明けの一時間まえに、私は荷物をまとめて、ブラガディーノ氏の邸へもどったが、彼女の手紙をはやく読みたいと思って、自分の部屋にとじこもった。
「おととい、わたしの恋人についてはあなたにもはっきり打ち明けるわけにいかないと申しあげたとき、あなたはわたしの心を所有するだけで満足しているから、精神のほうは自由にしてやるとおっしゃいましたが、あれはちょっと気にさわりました。そんな心と精神との区別は詭弁《きべん》的な分類としか思われません。もしもあなたにそう思われないとしたら、それはほんとにわたしを愛していらっしゃらないからだとお認めにならなければなりませんわ。なぜなら、精神がなければわたしは存在しませんし、あなたも精神の同意がなければわたしの心を愛することができないからです。もしあなたの愛がそんなことで満足していられるなら、あまりこまやかな愛情ではないといわなければなりません。
けれども、こんなことをいっても、きみだってほんとの愛にふさわしい真剣さをこめてぼくを扱ってはいないではないかと、責められるかもしれませんので、わたしの恋人についての秘密を打ち明ける決心をしました。あの人はわたしがけっしてひとにはもらさないと確信しているのですが。だって、それは裏切りですからね。けれども、そんなこと打ち明けても、あなたの愛情がうすれるようなことはございませんわね。わたし、あなた方ふたりのうちのどちらかをえらび、どちらかをだまさなければならない羽目におちいって、愛が勝ちを占めましたのよ。けれども、すっかり分別をなくしたわけでもないのです。どうか天秤《てんびん》をあなたのほうへかたむかせたいろいろの理由をよく考えてみてください。
あなたとお近づきになりたい気持がおさえきれなくなったとき、わたし、恋人にすっかり打ち明けずにいられませんでしたの。それもあの人の思いやりを疑わなかったからです。さいわい、あの人は面会室をおえらびになった最初のお手紙を読んで、あなたの性格にたいへん好意を寄せました。それから、お知合いになったあとで、あなたがご自分の別荘よりもムラーノの別荘をおえらびになったとき、これは誠実な人だといいました。けれども、ムラーノでお会いすることを話しますと、だれにも気づかれない小部屋で、自分にもその最初のあいびきに立ち会わせてほしいといいました。その小部屋では姿を見られずにわたしたちのすることがすべて見られるだけでなく、話も残らず聞けるのです。まったく想像もつかない部屋ですの。あの別荘で十日間おすごしになりながら、あなたは全然お気づきになりませんでしたのね。けれども、大晦日にはお見せしますわ。とにかく、わたし、そういう楽しみをあの人にことわることができませんでした。それで、しかたなく承知したのですが、そんなことをあなたに隠しておいたのは当然すぎることですわ。こういうわけで、わたしの恋人はわたしたちがはじめていっしょになったときにいったりしたりしたことを、残らず見たり聞いたりしたのでした。けれども、お気を悪くしないでちょうだいね。あの人はあなたのなさったことばかりでなく、わたしにおっしゃったおもしろいお話まで、すっかり気に入りましたの。
じつをいいますと、お話があの人の性格のことになって、あなたが極端な寛大さのことをおっしゃったとき、わたし、とても心配でしたのよ。でも、さいわいに、あなたのお言葉はあの人を喜ばせただけでしたの。わたしの裏切りの告白はこれでおしまいです。けれども、賢明な恋人として、あなたはきっとゆるしてくださると思います。それに、あなたには全然ご迷惑をかけなかったのですからね。わたしの恋人はあなたがどういう方かとても知りたがっております。あの晩、あなたのなさり方には少しもこだわりがなく、またとても丁重でしたわね。けれども、立会人のいることをご存じだったら、どうなさったかわかりませんわ。もしもさきに打ち明けていたら、あなたはご承知にならなかったでしょうが、それも当然のことかもしれませんわね。
いまとなっては、もうお小言をいただくはずもないと信じますので、もうひとついちかばちか打ち明けてしまって、心の重荷をおろしたいと思います。じつは、大晦日の晩には、恋人が別荘へ来て、翌日まで帰らないはずですの。あなたはあの人をごらんになりませんが、あの人はなにもかも見てしまうのです。けれども、あなたはそれをご存じないことになっているのですから、万事自然のままになさらなければならないことは、よくおわかりだと思います。もしそうでなかったら、あの人はとても頭のめぐりが早うございますから、わたしが秘密をもらしたと勘づくかもしれません。あなたが第一に警戒しなければならないのは、お話をなさるときですわ。あの人はどんなことでもよく知っていますが、信仰と呼ばれる神学上のことはだめなのです。ですから、そのことについてなら、なにをお話しになってもだいじょうぶです。それから、文学、旅行、政治のお話もけっこうですし、お好きなだけ逸話をお話しになってもかまいません。みんなあの人を感心させるにちがいありませんから。
ただひとつ問題なのは、あなたが恋の情熱に身をまかせるときに、よその男から見られていてもかまわないとお思いになるか、どうかということです。それがわかりませんので、わたし、いま、とても苦しんでおりますの。ウイかノンか、その中間はないのです。わたしの心配がどんなにひどいか、おわかりになるでしょうか。こういうことを打ち明ける決心をするのがどんなにむずかしいことであったかお察しくださいまし。わたし、今夜は、眠れないでしょう。ご返事を読むまでは気持が落ちつきませんからね。もしも人の見ている前で、しかもその人が知らない人であればなおさらのこと、愛情をしめすことはできないというご返事でしたら、わたしもきっぱりと決心しましょう。けれども、とにかくいらっしゃってください。そして、はじめのときのように恋人の役をお演じになれないとしても、悪い結果にはならないと思います。あの人はあなたの愛情がさめたと信じるでしょうし、わたしもそう信じさせておきますから」
この手紙には非常に驚いたが、それから、よく考えてみて、おおいに笑ってしまった。しかし、私の愛の勲《いさおし》に立ち会おうという粋狂者の素姓を知らなかったら、この手紙も私を笑わせはしなかったであろう。私はM・Mが返事を受け取るまでさだめし気をもんでいることだろうと察して、さっそく次のような手紙を書いた。
「ぼくの気高い天使よ。この手紙でウイとお答えしようとノンとお答えしようと、正午まえにはつくと思いますから、あんたは少しも気をもまずに昼の食事ができるでしょう。
大晦日の晩はあんたといっしょにすごします。ぼくらを見物にくるあんたの恋人には、秘密をぼくにもらしたと勘づかせるようなことは、なにひとつ見せもせず聞かせもしないと固く誓います。安心していらっしゃい、ぼくは申し分なく役割をはたしますよ。もしも人間の義務が理性に隷属することであり、人間が理性に隷属するかぎり、何事も理性を手引きとせずに行なうべきでないということが真理なら、いまのぼくのように、非常に美しい女性に大きな愛のしるしをしめそうとするとき、友だちが見ているのを恥ずかしがるなどという気持は、了解できません。
しかし、念のためにいっておきますが、最初のときにそういうことを打ち明けたら、うまくなかったでしょうね。ぼくはきっとことわったにちがいありません。名誉にかかわると思ったことでしょう。ぼくを夕食によぶのは、覗《のぞ》きの趣味にとりつかれた奇妙な恋人とぐるになっていると早合点したでしょう。そして、あんたにたいして不愉快な考えをいだき、その時分生まれたばかりの愛情がたちまち冷えてしまったことでしょう。うるわしい友よ。人間の心はそうしたものです。しかし、いまは事情がかわっています。あんたのりっぱな恋人についていろいろ話していただいたので、あの人の性格がよくわかり、ぼくにも友だちのように思われて、好意を寄せているのです。もしもぼくと愛の語らいをするところをあの人から見られるのを、あんたの羞恥心《しゅうちしん》がいとわないのなら、どうしてぼくが恥ずかしがったりしましょう。それどころか、むしろおおいに光栄と思わなければならないのですよ。自分の光栄に赤面する男がいるでしょうか。ぼくは、いとしい友よ、あんたをわがものとしたことに赤面するはずもないし、またあんたの愛にふさわしい男だと誇らしく思うときの姿を人に見られて恥じる気持ももてません。
しかし、大部分の男が、理性も否認しない自然な気持から、そういう時期の姿を人に見せるのをいとうことも、ぼくは知っています。この嫌悪の正しい理由をあげることのできないものは、いくぶん猫の性質をおびるものです。彼らも相当の理由をもっているかもしれませんが、それを人にいう必要はないと思っているのでしょう。おもな理由というのは、第三者の姿が目につくと気分がみだれ、そのために交わりの快楽が減少することにあるのでしょう。またべつの大きな理由があり、やはり正当な理由だとみなされます。それは当事者が享楽の方法の拙劣さから見る者に憐憫《れんびん》の情をおこさせるのを承知している場合です。この不幸な連中が、むしろ羨望の念をおこさせるべき行為において憐憫の情をかきたてるのを望まないのも当然のことです。しかし、いとしい友よ、われわれがたしかに憐憫の情をかきたてるものでないことは、お互いに十分承知していますね。あんたの話から考えて、あんたの恋人の天使のような魂は、われわれのいとなみを見て、きっと同じ快楽を味わうにちがいありません。
けれども、そのあとでどういうことになるか、わかっているのですか。それを思うと、ぼくはやりきれなくなるのです。というのも、あんたの恋人は非常なお人好しにちがいないのですからね。きっとわれわれのことを見ているうちに、腹をたてていきりたつか、外へ逃げだすか、むしろ隠れ場所からとびだしてきて、ぼくの足もとにひれふし、われわれのはなやかないどみあいで身内に燃えたった情火を消さずにいられなくなったから、このはげしい欲望へあんたをささげさせてほしいと頼むかもしれません。そういうことになったら、ぼくはあんたをゆずって、すぐに引きあげますよ。なぜなら、ぼくにはほかの男があんたをおもちゃにしているのを、おとなしく見ていることはできませんからね。
では、さようなら、ぼくの天使よ。万事うまくいきますよ。いずれはじめる体操の準備をしておいてください。そして、あなたを崇拝する幸福な男に万事おまかせください」
[もうひとりの恋人の前で]
私は次に彼女と会うまでの六日の休みを、友人たちと賭博場ですごした。そこはリドットーと呼ばれ、当時は聖ステファノの日から開かれることになっていた。ここでは銀行をつとめるのは儀礼的な制服を着た貴族に限られていたので、私は銀行をやれなかったが、昼も夜も博打をした。そして、たえず負けた。賭けにまわったものは損をするときまっているのだ。こうして、私は全財産の四、五千ゼッキーニを残らずなくしてしまった。しかし、そのために恋の火の手はますます燃えさかった。
一七七四年の末に、大議会の法律がいっさいの賭博を禁止し、リドットーを閉鎖してしまった。大議会はこの法律を議決する票を数えてみて、とうていつくれないはずの法律をつくったのに仰天したのであった。少なくとも投票者の四分の三がこの法案に反対であったのに、開票の結果は四分の三が賛成だったからである。議員諸公は唖然《あぜん》として顔を見合わせた。それは光栄ある予言者聖マルコが当時風紀警察の総監で現在枢機卿であるフランジーニ氏と三人の最高裁判官との祈願にこたえた、あきらかな奇跡であった。
約束の日、いつもの時間に別荘へ行くと、上流婦人の衣装をつけた美しいM・Mが暖炉に背を向けて立っていた。
「あの人はまだ来てませんの。来たらすぐに目くばせをしますわ」
「どこです、その小部屋は?」
「ここですよ。壁に寄せかけてあるソファのうしろを見てごらんなさい。壁に浮彫りになっている花模様がたくさんあるでしょう。あの花の芯には穴があいていて、うしろの部屋へ通じているのです。そこにはベッドもテーブルも、入用のものは全部そなえつけてあって、七時間でも八時間でもひとりでゆっくり腰をすえて、ここでしていることをのぞけるのですよ」
「それはあの人が自分でつくらせたのですか」
「そうじゃありません。こんな仕掛けを利用することがあるなんて、思いもっかなかったんですもの」
「そこからのぞいてたら、非常におもしろいだろうと思いますね。だが、気分がわいてきてあんたを抱きたくてたまらなくなっても、それができないとなると、どうするでしょう」
「それはわたしの知ったことではありませんわ。いやになったら出ていってもいいし、ねてしまってもいいのですからね。けれども、あなたが自然のままにふるまったら、いつまでも喜んで見ていると思いますわ」
「もちろんそうしますが、少しお行儀をよくしようかと思うのですが」
「そんなことだめよ。だいいち、自然でなくなるじゃありませんか。愛の情熱に身をまかせる恋人同士がお行儀よくするなんて、そんなことどこで教わってきたんですの?」
「なるほどね。それじゃあ、せいぜいきめこまかくいきましょう」
「それならけっこうですわ。いつもの調子でいいのよ。あなたのお手紙は嬉しかったわ。とてもふかくつっこんでお考えになったのね」
M・Mは帽子をかぶらずにいたが、髪形も無造作であった。衣装は空色のキルティングしたドレスだけで、耳にダイヤの玉をつるしていたが、首飾りはしていなかった。銀糸のはいった絹レースのネッカチーフが、いそいで掛けてきたという風情で、美しい胸をのぞかせ、ドレスの襟《えり》の境い目にきわだった白さを見せていた。履物《はきもの》は上靴であった。ほのかに微笑をたたえたつつましやかな顔は「これがあなたのお愛しになっている女よ」とささやくように見えた。私が異様に感じ、また非常に好ましく思ったのは、口紅をつけていたことで、それはヴェルサイユ宮廷の貴婦人の流行にしたがうものであった。この口紅の楽しみはうっかりすると相手の頬へ赤くしるしをつけるところにある。紅の色は自然でないほうが好まれ、恋の陶酔のしるしをしめして見る目を楽しませるためにつけるが、このしるしはさらに将来の浮気と情熱とを約束するものである。彼女は口紅をつけたのは、恋人が好きだからだといった。私はそういう趣味から考えると、その人はフランス人ではないかと思われるといったが、そのとき彼女は目くばせをした。当の恋人がやってきたのである。いよいよ喜劇の幕をあげなければならない。
「ぼくはねえ、わが天使よ、きみの顔を見ていればいるほど、いくら崇拝してもしきれないような気がするよ」
「でも、あんたは残酷な女神は崇拝しないっておっしゃったでしょ」
「だから、きみの気持をやわらげるのではなく、燃えたたせるために生贄《いけにえ》をささげるつもりさ。ひと晩じゅう礼拝の情熱をいやっていうほど感じさせてやるよ」
「あたしもあんたの生贄に無関心ではいられないと思うわ」
「では、さっそくはじめよう。だが、その効果を百パーセント高めるには、先に夕食をやったほうがいいと思うね。だって、ぼくの胃袋にはココア一杯と、生玉子の白味が六つ分しかはいっていないんだからね。それはルッカのオリーヴ油と四人の盗賊じるしの酢であえたサラダで食べたんだが」
「それでは、きっとどこか悪いのよ」
「そうかもしれない。だが、その白味をひとつ分ずつきみの熱い心のなかにながしこめば、きっと元気になるよ」
「あんたに興奮剤《フリュスタトワ》〔ラテン語のフルストラティオ、「欲求不満」からきているが、俗語ではあきらかに「勃起」を意味する〕がお入り用だとは思わなかったわ」
「きみが相手なら、だれにもそんなものは必要じゃないよ。だが、ひとつ心配なことがあるんだよ。もしも不発に終わるようなことになったら、ピストルで頭をぶちぬかなけりゃならないんでね」
「あら、不発に終わるって、どんなこと?」
「比喩的な意味では、やりそこなうことさ。具体的にいうと、敵に向かってピストルを撃とうとしても弾丸が出ないことなのさ。それで、敵を仕止めそこなうというわけ」
「よくわかったわ。ほんとに、恋しいあんたがそんなことになったら、困っちゃうわ。けれど、頭をぶちわることはなくてよ」
「それじゃ、どういうふうにしてくれるの?」
「さきにこのマントをぬがせてあげるわ。それから、この腰当てもとりましょうよ」
「そりゃ、むずかしいよ。釘づけになってるんだから」
「釘づけって?」
「まあ、手を入れて、見てごらんよ」
「あら、いやねえ、玉子の白味のせいで、こんな釘ができちゃったのね」
「いや、ちがう、ぼくの天使よ。きみの美しい身体のせいだよ」
[六個分の玉子の白味]
そこで、私は彼女を抱きあげた。彼女は目方を軽くするために、私の首にかじりついた。そして、腰当てを下へ落とすと、彼女の腿をつかんだ。彼女は私の釘につかまった。しかし、こうして部屋をひとまわりすると、事の成行きをおそれて、彼女を絨緞《じゅうたん》の上へおろし、自分もそばへすわって、彼女を膝の上へ抱きあげた。彼女は気をきかせて仕事を仕上げ、手のくぼみに最初の玉子の白味を受けとめた。
「まだ、あと五つ残ってるわ」と、彼女はいって、匂いのよい草を入れた壷で美しい手を清めると、その手を私にゆだねた。私はそれへ百度も接吻した。こうして、ひとまず気分が落ちつくと、一時間ばかりおもしろい話をしてきかせ、それから食卓についた。
彼女は二人分食べ、私は四人分食べた。食器はすべて陶器であったが、デザートは銀メッキの器であった。これはそれぞれ四本の蝋燭を立てたふたつの燭台と同じであった。私がそのみごとな出来栄えに感心しているのを見て、彼女は恋人からの贈り物だといった。
「すばらしい贈り物だね。芯切りもついていたろうね」
「いいえ」
「それでは、きみの恋人はりっぱな殿さまにちがいないと思うね」
「どうして?」
「だって、殿さまは芯を切るなんてこと知らないもの」
「あたしたちの蝋燭は芯を切らないでもいいのよ」
「いったい、きみはだれにフランス語を教わったの。あんまりじょうずに話すんで、聞かずにいられないのさ」
「去年なくなったラ・フォレのおじいさんよ。六年間習ったの。あの人は詩の作り方も教えてくれたわ。けれど、あの人の口からは聞いたことのない言葉をいろいろあんたから教わったわね。ア・ゴーゴー《しゃにむにつっこむ》とか、フリエスタトワール(興奮剤)とか、ラテー(不発におわる)とか、ドルロテー(甘やかす)とか。そういう言葉をだれから教わったんですの」
「パリでつき合った愉快な仲間たちからさ。たとえばブッフレ夫人のような。その人はとても頭がよく物知りだったが、ある日、どうしてイタリア語のアルファベットにはコン・ロン(フランス語ではまるい女陰の意)というのがあるのかときいた。ぼくは笑っちゃって、返事ができなかった」
「きっとむかしつかわれた言葉の省略なのね」
ポンスをつくってから、われわれは牡蠣を互いに口移しに交換して食べた。彼女は舌の上へ牡蠣をのせてつきだし、私はかわりに自分の牡蠣を彼女の口へ押しこんだ。恋人同士のあいだでは、これよりも気持がよく情をそそる遊戯はない。これは滑稽でもあるが、滑稽は何事もそこなわない。笑いは幸福な人間だけのものであるからだ。愛する女の口から吸う牡蠣の汁くらいうまい汁があろうか。それは彼女の唾だ。その牡蠣を噛み、その汁を吸うくらい、愛欲の力をますものはない。
彼女は服をかえて、夜の帽子をかぶってくると出ていった。私は手持ち無沙汰になり、あけてあった彼女の机のなかのものを調べてみた。手紙には手をふれなかったが、ひとつの小箱をあけると、コンドーム〔当時は上質の麻布製〕があったので、それをポケットへねじこみ、かわりに次のような詩をいそいで書いた。
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友情の子らよ、恐怖の手先どもよ、
われは愛なり、おののきて、盗人をうやまえ、
またなんじ、神の妻よ、母となるをおそるるな。
息子を生まば、神はその父と名のるらん。
さわれ、通い路をとずる心あらば、いえ。
われに覚悟あり、男のものを断ちなんと。
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M・Mがよそおいをあらたにしてもどってきた。金糸で花模様を刺繍したインド・モスリンの部屋着を着、ナイト・キャップは女王にもふさわしかった。
私は彼女の足もとへひれふし、すぐに思いをとげさせてほしいと哀願した。が、彼女はベッドへはいるまで情火をおさえているように命じた。そして、にこやかに、
「あたし、あんたのエッセンスが絨緞におちやしないかと気にするのがいやなのよ。見ていらっしゃい」
そして、机のところへ行ったが、見つかったのはコンドームではなく、六行の詩であった。彼女はそれを読み、また声高《こわだか》に読み返して、私を泥坊だと呼び、接吻をあびせながら、くすねたものを返してほしいとせめた。それから、もう一度、大きい声でゆっくり私の詩を読んでから、少し考えているようだったが、もっといいペンをとってくるといって出ていった。そして、まもなくもどってくると、次のような返詩を書いた。
[#ここから1字下げ]
われ天使によりてみごもらば、わが夫《つま》は
天地の主にほかならぬと、ひたに信ぜん。
さわれ、由なきやからの疑いをさくるため、
愛の神よ、早々にコンドームを返したまえ。
かくてこそ、神の聖なる御旨《みむね》にしたがい、
おそれなくわれを愛するよう恋人を励まさん。
[#ここで字下げ終わり]
私はさも驚いたようなふうを自然につくって、コンドームを返した。まったく、詩があまりにも意外な出来栄えであったからだ。
十二時が鳴った。彼女にあこがれているかわいいガブリエルを見せると、彼女は寝室は寒いからここでねましょうといって、ソファをなおした。じつは寝室では恋人がふたりの仕草を見られなかったからである。
そのあいだに、私はインド木綿のハンケチで髪の毛をつつんだ。それは頭を四まわりし、まるで後宮におけるアジアの独裁者のようなすさまじいようすになった。それから、有無をいわさずわが女王を生まれたままの姿にし、自分も同じにしてから彼女をねかせ、型どおりに屈服させて、何度か失神するのを見る快感を楽しんだ。私は彼女の尻に枕をあてがい、ソファの凭《よ》りかかりと反対の側に膝をまげさせたが、それは隠れている恋人にとっては、じつに濃艶な見物《みもの》であったであろう。
一時間つづいたいどみあいのあとで、彼女はコンドームをはずしたが、そこにエッセンスがたまっているのを見て、おおいに喜んだ。それでもやはり自分自身の分泌物にまみれているのを感じて、ちょっと洗ったほうが気持が落ちつくということになった。
それがすむと、並んで大きな鏡の前に立ち、互いに腕を相手の背にまわした。そして、鏡にうつる自分たちの姿の美しさに見とれたが、やがて鏡のなかの映像を楽しんでみたくなり、立ったままいろいろのポーズをとっていどみあった。最後の戦いが終わると、彼女は床に敷きつめてあるペルシャ絨緞の上にたおれた。目をとじ、首をかしげ、あお向けに横たわり、腕と脚はまるでたったいま聖アンドレアの十字架(X字形の十字架)からおろしたような形であった。げにも、もし心臓の鼓動が見えなかったら、そのようすはまるで死人の姿であった。最後の戦いが体力をしぼりつくしてしまったのである。私は彼女を≪まっすぐな木≫の形にさせ、その姿勢で彼女を持ちあげた。そういう姿勢をしなければ愛の宮居をむさぼると同時に、彼女の命をうばわずに死ぬほど疵つけた武器をむさぼらせることができなかったからである。
こうした勲《いさおし》のあとで、私は暫時の休戦を申し入れざるをえなくなり、彼女を立たせた。だが、彼女はまもなく私にいどみかかって、復讐をさせてほしいといった。そこで、こんどは私が≪まっすぐな木≫〔ピエトロ・アレティーノの『好色詩篇』にえがかれた三十二の性交体位のひとつ〕になり、彼女は私を持ちあげようとして腰を抱いた。そして、脚をひろげて踏んばったとき、両方の乳房が、血の滴《しずく》となってとけて出た私の魂にまみれているのを見て、愕然《がくぜん》となった。そして、私を下へおとし、自分もいっしょにたおれながら、
「なんでしょう、これは!」とさけんだ。
そのとき、鐘の音が聞こえてきた。
私は彼女を笑いださせるようなことをしゃべって、元気づけた。
「こわがらなくてもいいよ。これは最後の玉子の黄味で、そいつはよく赤いことがあるのさ」
そして、それまで一度も人間の血にけがされたことのない、あでやかな乳房を拭いてやった。彼女はその血をいくらか飲んだかもしれないとたいへん心配したが、たとえ飲んだとしても害はないとたやすく納得させた。それから、彼女は修道女の服を身につけ、私にはそこでねるように、そして、ヴェネチアへ帰るまえに、手紙で身体の調子を知らせてほしいといった。そして、自分のほうからもあす手紙を書いて、別荘の留守居にあずけておくと約束した。
私は彼女の言葉にしたがった。彼女はそれから三十分してようやく帰っていったが、その三十分は恋人とともにすごしたにちがいない。
私は夕方までぐっすり眠り、目をさますとすぐ身体の調子は上々だと手紙を書いた。それからヴェネチアへ帰ると、M・Mとの約束をはたすために、以前C・Cのために肖像をかいてくれた画家を訪ねた。彼は三回ポーズをつけるだけで仕上げた。だが、まえのよりも少し大きめにした。M・Mが人々の目から隠すためになにか聖書の逸話をメダルにはめてみたいといったからだ。そして、その開け方は自分だけしか知らない秘密にしたいと希望したが、はじめのとちがった仕組みにするのは、細工人の腕ひとつであった。画家は受胎告知の絵をかいてくれた。それには、栗色髪の天使ガブリエルと、この神の使者の前で両腕をひろげている金髪の聖母マリアとがかいてあった。有名な画家メングスはこの絵のアイディアにしたがって、十二年後にマドリードで同じ受胎告知の絵をかいた。(完)
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解説――カザノヴァ管見
八千五百枚におよぶ原稿を一気に訳し終えて、いま私は心身消耗、腑抜けのようになっているが、夜に日をついでペンを走らせたこの十五、六か月、カザノヴァはその異様に充実した生活で私を十分にみたしてくれた。生まれおちたときから小市民階級のちいちいした規律になじんできた私にとっては、カザノヴァのような破天荒な傑物は人倫を絶した怪物でしかない。この怪物を理解するなどということは≪群盲象を撫《な》ず≫の図であろう。しかし、日夜侍従のようにかしずいているあいだに、この巨象がスペインのドン・フアンのような冷血無残な魔物ではなく、温かい血のかよったふつうの男であることがどうやらわかってきた。この男はある点をのぞけば――その点がカザノヴァの名を不朽にしたのだが――凡庸な私とちがわない喜怒哀楽に右往左往している、ということに気がついて、私は気がらくになり、彼の人となりを揣摩臆測《しまおくそく》してみる気になった。
ジャーコモ・カザノヴァは一七二五年四月二日にヴェネチアで生まれた。父親は喜劇俳優でガエターノ・カザノヴァ。母親は夫の死後舞台にのぼって女優になった。伝記作者のなかにはヘルマン・ケステンのように彼の実父を貴族のミケーレ・グリマーニだときめているものもある。それかあらぬか、このグリマーニはカザノヴァの後見者となるが、だいぶもてあまし気味のようすが見える。
それはとにかく、『回想録』は一七二五年の出生から一七七四年、つまり四十九歳の春までがしるされている。彼は一七九八年に七十三歳で死んだから、回想録以後二十五年生きていたことになるが、このあいだの自伝はない。じっさい、一七九三年七月に彼はドイツの詩人オーピッツに宛てた手紙で、「私の回想録のことですが、途中で筆をおくことになるかもしれません。というのも、五十歳をすぎると、もはや心をいためることしか書けないからです。そして、もう一度私をみじめな気持にさせることでしょう。私が回想録を書いたのは、読者とともに楽しむためだったのですから」といっている。
事実、回想録の終わったあとの二十五年間はみじめな敗残の姿をむきだしにして、意地のつよい彼には耐えがたいものであったらしい。前半生が極度に華やかでしかも濃艶であっただけに、≪命長ければ恥多し≫を地でいった思いであったろう。彼の生涯も、兼好法師ではないが、四十歳で終わっていたら、どんなに後味がよかったかしれない。
このカザノヴァをカザノヴァたらしめたいろいろの特性をここで考えてみようと思うが、第一にあげるべきものは非常な美男子であったことだ。一七六四年のある日、ドイツのフリートリッヒ大王がサン・スーシーの庭園を彼と散歩していたとき、ふと足をとめて、彼の顔をまじまじとながめ、「ところで、あなたはすばらしい美男子ですね」といったという逸話は非常に有名だが、顔が美しかっただけではなく、背が高く、威風堂々としており、顔色が浅黒くて男らしい逞《たくま》しさをしめし、衣服もじつにきらびやかで、いかにも高貴なひとらしく悠揚せまらない風格であったようだ。しかも、弁舌さわやかで人を魅し、挙措《きょそ》動作には下賎な生まれをあばく野暮たらしさが微塵もなく、上流階級の礼儀作法を十分身につけ、生え抜きの貴族といってもだれも疑わないほどであった。
こういう彼が下賎の身ながら貴族的な矜持《きょうじ》をもち、つねに自分を別格のものと考えていたのは当然である。彼は元来大公の御曹子たるべき資質を十分に身につけて生まれてきたものであったのだ。それなのに喜劇俳優の子として、あるいは貴族の私生児として生まれてきた運命の矛盾が彼の一生をあやつる原動力になっていると思われる。
次に、彼は非常に頭がよかった。若いころから将来の回想録にそなえて備忘録をとっていたらしいが、一度出会ったものは、たとえ社交界の雑踏のなかであったとしても、何十年のちにはっきり思いだすという、おそるべき記憶力をもっていた。そうした絶倫の記憶力は異常な聰明《そうめい》さの賜物であった。彼は十六歳のとき博士号を得たという。あのころの博士号がどういう程度のものであったか知らないが、彼は終生書物をはなさずに、ひまさえあれば読書にいそしんでいる。文学、哲学、神学、物理化学をはじめ心霊術、錬金術など中世紀の神秘学についてさえ相当の知識をもっていた。しかも、その知識を五倍にも十倍にも活用する聰明さがあった。パリのデュルフェ夫人やアムステルダムのD・O氏などを煙にまいてりっぱなパトロンにした算易《カバラ》の技術についても、その欺瞞を巧みにこなす腕前は常人のよくするところではない。しかし、彼は生得のこうした聰明さにたよりすぎた傾向が少なくない。
この自己の身体と精神とにたいする自信は彼から謙虚さをうばったようだ。その結果として、第一に彼はきわめて倨傲《きょごう》であった。シャルル・ド・リーニュ侯すら「カザノヴァの前で一礼することをおこたってはいけない。そうしないと、彼は諸君の敵になるであろう」といっている。ひとから尊敬されるだけの地位も財産もない彼がそういう破格な自尊心をもって世の中を押しわたったかげには、容貌や精神にたいする過剰きわまる自負があったにちがいない。もっとも、彼が好んでつき合ったヨーロッパの貴族たちには生来の家柄をかさにきて≪沐猴《もっこう》にして冠す≫という連中が大部分であったろうから、彼ほどの秀才が敵対意識をもやして、自尊心をたかぶらせたのもむりではないかもしれない。
結果の第二は独立独歩の精神である。といっても、彼は自分にあった職務あるいは業務について大成しようとする気はなかった。彼はつねに食客であった。まずローマの枢機卿アッカヴィーヴァ、次にヴェネチアの元老院議員ブラガディーノ、さらにパリのデュルフェ侯爵夫人、デュ・リュマン夫人、ついでアムステルダムの実業家D・O氏など。彼の気持では定職につくなら法王か帝王にならなければ満足できなかったであろう。しかし、それが不可能なので、人に膝を屈すまいとして食客になった――というと、妙な感じがするであろうが、あの当時、ヨーロッパの上流階級では食客をもつことを名誉と心得、むしろ家の飾りとしていたようであるから、食客となるほうも近代のような卑屈感を味わう必要がなかったのであろう。いや、むしろ、名家の当主から見いだされてその食客となるのは光栄であったのかもしれない。
結果の第三と考えられるのは、いわゆるいんちきである。回想録の時代の彼の生活をささえた唯一の財源はこのいんちきであった。聰明な彼には身分の上下をとわずあらゆるものがばかに見えたであろう。自分の弁舌にころりとまいる「いいカモ」に見えたであろう。いんちきを成功させるには堂々たる自信をもってするのが第一だ。相手はその威風にひとたまりもなく慴伏《しょうふく》するだろう。だから、彼は堂々といんちきをやった。そして、みごとに成功した。彼のパトロンはみんなこの手で籠絡《ろうらく》され、しかもそれをいんちきと見ずに、むしろ崇拝し、憧憬《しょうけい》し、感謝の念をもって後援をおしまなかった。いんちきも彼ほどになると絶大な人徳といわなければならない。したがって、そういう利器をもつ以上、なにを好んで人の頤使《いし》に甘んじよう、という気がカザノヴァには十分にあったにちがいない。パリに富籤《とみくじ》をはじめさせて成功したのも、ダンケルクの艦隊の調査で認められたのも、アムステルダムの商工会へ没落寸前のフランスの国債を売りつけたのも、生得の臨機応変の才能と自由|無碍《むげ》の社交術があずかって力があったが、やはり大本はこのいんちきであった。
「自分は自由人だ、世界市民だ」という大言壮語も以上のことから自然に湧きだした言葉であろう。≪人生到るところに青山あり≫はカザノヴァの心であったにちがいない。
しかし、なぜ彼はあんなふうに一生流浪の旅で暮らさなければならなかったのか、どうも腑《ふ》におちない。ツヴァイクによると、都市国家にひとしい当時の小さな国々の宮廷では、田舎貴族が日々の話題にすら困窮し、退屈の虫に手を焼いていたので、文化程度の高いイタリア(ことにヴェネチア)やパリからの劇団や訪問客を歓迎したので、売春婦をかねた女優たちや一攫千金を夢みるいかさま師たちがヨーロッパを股にかけて押し歩いていたという。じっさい、回想録を見ても、あの交通不便の時代によくもこれだけの人数が歩いていると驚くくらいだ。しかし、そのいかさま師たちはぼろが出るのをおそれ、ひとつの国に腰を落ちつけることができずに、各地をながれ歩く。カザノヴァもそのひとりであったのではあるまいかといっているが、カザノヴァはそういういかさま師と同日には談じられない。彼は各地で何度も所払いをくっているが、すべて被害者の立場にたっており、たとえばワルシャワを追われたときなど莫大な餞別《せんべつ》を国王から下賜されている。ロンドンから脱走したときも、身におぼえのない偽造手形の罪で絞首刑になる恐怖にせまられたのだし、封印状でパリを二十四時間以内に退去せよと命じられたのも、恩人デュルフェ夫人の甥に軽い気持でいった暴言のためであった。
としてみると、彼はどうして一生を流浪しなければならなかったのだろう。同じような例として私は有名な『ポールとヴィルジニー』の著者ベルナルダン・ド・サン・ピエールを思いだす。彼もカザノヴァと時代を同じゅうして、各国の宮廷を訪ねまわり、前半生をすごした恰好《かっこう》だが、それは『ロビンソン・クルーソー』の例にならってどこかに民主的な植民地をつくり、あらゆる人種のまじめな人々を収容して、その平和な立法者になろうという野心にあやつられてのことであった。しかし、カザノヴァにはそういう政治的な理想は毫《ごう》もなかった。
ここでまた思いだしたが、いまの話のサン・ピエールも非常な美男子であったし、またそれだけでなく、カザノヴァと同じく、貴族でもないのに貴族を称していたことである。この同時代のふたりの美男子を並べて考えてみると、ようやく道らしい道が通じた十八世紀後半のヨーロッパの気風がなにかうかがわれるような気がする。
おりしも海の上では異郷との貿易がはじまり、植民地獲得のためにしのぎをけずりはじめた時代である。陸上に住む人々にも外国への好奇心がさかんになり、海賊が宝島をあさったように、地上のどこかに幸運を求めようという気分が世上一般のことになったのではあるまいか。それかあらぬか回想録にはla fortuneを捜すという言葉がしきりに出てくる。la fortuneは幸運でありまた財産である。自由人、世界人をもって自任したカザノヴァはこの風潮に無意識にあやつられて、ドイツの詩人カール・ブッセが≪山のあなたの空遠く、さいわい住むと人のいう≫とうたったそのさいわいをもとめて歩いたのかもしれない。しかし、ブッセがさらにうたっているように≪涙さしぐみかえりきぬ≫ということになってしまった。
彼の伝記研究家のなかにはこの間の理由がわからないままに、彼が国際的スパイの密命をうけたのであろうと想像するものがいる。しかし、回想録にはそうした記事はもちろん全然ないし、もしも彼がどこかの国の、あるいは国々のスパイとしてあの終生の旅行をしたとしたら、少なくとも彼の旅を一種のポエジーと感じている私には大きな幻滅を与えるだろう。
それなら、女をもとめて旅をしたのであろうか。そうとも思われない。彼は一生に百数十名の女と関係しているようだが、その女たちはいずれも偶然に彼の眼前にあらわれたものだ。彼のように若くて美しい女と見れば、その住むところが金殿玉楼であろうと虱《しらみ》のわく荒屋《あばらや》であろうとかまわなかった男なら、ヴェネチアにしろ、パリにしろ、ロンドンにしろ、大きな都市なら一個所で百人でも二百人でも見つけられたであろう。まして、彼には世にいう百人斬り千人斬りの野望もなく、さりとてヨーロッパのあらゆる民族の女を味わって比較検討しようという研究心もなかった。
こういうふうに考えてくると、彼の一生をああいう根なし草にしたのは、やはり祖国ヴェネチアから追放されて世界に家なき子となった悲劇からはじまっているように思われる。彼が理由も知らされずにサン・マルコの鉛屋根の牢獄へ幽閉されたのは、一七五五年、三十歳のときの七月二十五日。その翌年十一月一日に世界的に堅牢をほこる牢獄から脱走して国外へのがれたが、その後、一七七四年、四十九歳の九月十四日にゆるされてヴェネチアへ帰るまで、二十年のあいだの無国籍人としての生活は、自由人だ世界人だと表面いかに強がりをいっていても、どんなにわびしかったろう。このわびしさが彼を流浪させ、女をあさらせたと考えられないであろうか。
女! いよいよカザノヴァの本題にはいってきたわけだが、カザノヴァは異常な体質をもっていたらしい。まだ七つ八つのころ、両親がロンドンへ巡業に行っていた留守、彼は祖母に育てられていたが、そのころ、しきりに鼻血を出した。そのために祖母は彼をムラーノの島の魔法使いの女のところへまで連れていったが、鼻血の原因は彼の身体の異常な造血作用にあったらしい。食物が、空気が、彼にあってはすべて血になるのだった。彼は恋のクライマックスにおいて何度もはげしい鼻血を出している。
こういう旺盛な体力が彼を幼少のころから好色にしたらしい。十六のときナネッタとマルタという十三、四の姉妹を相手に童貞をうしなって以来、東はコンスタンチノープルから西はロンドンまで、北はペテルスブルグから南はマドリードまで、当時のヨーロッパのめぼしい都会のすべてで艶福にめぐまれ、後世に名を残す女蕩らしとなった。しかし、彼はドン・フアンとはちがう。ドン・フアンは回想録のマドリードの章でもわかるように、カトリックの偏見のきわめて強烈なスペインの男だった。彼にとっては女は人間社会の諸悪の源だ、男を堕落させる蛇の権化だ。ドン・フアンはこういう固定観念にあやつられて、女をこらしめるために女体を踏みにじった。彼は女にたいしていささかの愛情も憐憫《れんびん》も感ぜず、仇敵のように女を汚してあるいた。
しかし、カザノヴァはちがう。彼は女を愛した。女をいつくしみ、さらに崇拝さえした。相手が娼婦の場合はべつとして、彼は女から肉体よりもまず愛情をもとめた。心をひかれた女にたいして、彼はよく「十分の敬意を表したい」といった。その意味は彼にとってはふたりの霊と肉を渾然と一致させることであった。女が愛情に燃えて身も心もささげてくるのでなければ、彼は女を十分に賞味することができなかった。この賞味は彼にとっては自分の享楽である以前に女への敬意であった。この意味でカザノヴァは世界随一のフェミニストだったといえるであろう。彼の手にかかった女が少しも彼を恨まず、のちのちまでも愛着と思慕をよせたというのはこのフェミニスムのなせるわざであろう。だが、打算的にそうしたのではなく、まじめな本心からであったところに、彼の真面目がある。
カザノヴァは女を心服させるために、惜しげもなく金銭を浪費し、贈り物で息の根もとまる思いをさせた。そして、女が十分に納得し、色欲が高調するのを待って、相共に享楽した。その点ではじつに忍耐心がつよく、懇切丁寧だ。妊娠している女に目をつけ、出産まで至れり尽くせりの世話をして、身体が回復するのを待って楽しんだことも何度かある。しかし、女に目をつけたとなると、彼はきわめて大胆で、猛烈に無遠慮に露骨にせまっていく。しかし、それは彼にとっては一種の探りであり瀬踏みであり起爆的方法なのだ。この方法がすぐに効を奏さないと、彼はじっくり構えて本格的な攻城にうつる。
したがって、彼はけっして強姦はしない。そのかわりに術策を用いる。いんちきな堕胎剤アロフをある妊婦に用いた例などそのいちじるしいものだ。この薬は一種の練り薬でそれを子宮口に一日数回塗ると子宮口がゆるみ、胎児がおちてくるというのだが、カザノヴァはそれが自然のままの温度をたもったスペルムと練りあわされないと効力がないといって相手をだまし、自分の亀頭にぬって塗布することを承知させる。ぺてん師カザノヴァの面目躍如たるものがある。
しかし、彼が稀代の女蕩らしとなりえたのは時代の趨勢《すうせい》に負うところが多いようである。十八世紀後半のヨーロッパでは、貴族支配の末期現象として風俗がいちじるしく頽廃し、身分の上下を問わずきわめて享楽的になっていた。それで、恋愛が、いやむしろ性愛が楽しい遊戯と見なされた。したがって、女も、人妻と処女の別なく、カザノヴァのような美男子から上品に丁重にかつ猛烈に愛されたら非常な喜びであったであろう。しかも、彼の愛はあくまで粘膜の問題であって、けっして魂のなかにくいこまなかった。
彼は何度か愛する女と本気になって結婚しようと決意したが、その都度ひとりの女に定着して家庭をもつことに嫌悪を感じ、泣きながら別れてしまった。これは彼の自由人としての理想から見れば当然のことだが、彼の愛がどの女にたいしても自他ともにふかく魂のなかに根をおろさなかったことに原因している。彼は女の身体をもてあそんだが、魂は自由にしておいたのだ。性愛の花園を蝶のように飛びまわっていただけであったのだ。彼と哀歓をともにした娘たちが後に適当な夫を得て幸福になっているのもおおかたはそのためであった。
愛欲と並んで彼の生涯をにぎわしたものは賭博だった。彼はあらゆる種類の賭博を十分に心得ていたらしいが、賭博は愛欲ほどの成功を彼に与えなかった。通算すると、勝った金よりも負けた金のほうが多かったのではあるまいか。というのも、当時は賭博といえばいかさまときまっていた。いかさま師は≪運命を調整するもの≫と呼ばれ、けっして罪悪視されなかった。しかし、彼は賭博が好きだった。女にうつつをぬかしていないときには始終賭場に出入りした。賭博は多くの国で公けにゆるされていた。
この賭博好きのために、日ごろ貴族をもって自任している彼でありながら、札つきのわると行くさきざきで交渉をもたざるをえなくなり、何度か苦杯をなめている。目から鼻へ抜ける才気の持主であった彼が、女はともあれ、いんちき賭博であれほど苦しむとは、どうしたわけだろう。
ともあれ、彼は享楽の都ヴェネチアの生粋のヴェネチア児として、あらゆる知能と感情とを傾け、当時の世界を股にかけて、青春を楽しんだ幸福な男といえるであろう。しかし、それだけに彼の老後はみじめだった。回想録以後の二十五年は巻をあらためて書くつもりだが、尾羽打ちからして、おのれを鉛屋根の牢獄へ投じたヴェネチアの司法裁判所の密偵にまで成りさがった姿は、まさに≪英雄の末路≫である。
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カザノヴァの愛した女たち
第十八章
一七四六年(二十一歳)
◆リナルディ伯爵夫人……ヴェネチアの貴族ブラガディーノの養子になって放蕩三昧に暮らしていた時代、名うてのインチキ賭博師リナルディ伯爵の夫人に惚れこみ、色仕掛けで大金をまきあげられる。
◆伯爵令嬢A・S……一七四六年十月のはじめヴェネチアの船着場で助けた娘。故郷Cの町でヴェネチアの貴族ステファーニに言い寄られて処女を与えたが、男が結婚を約束しながら無断で姿をくらましたので単身捜しに来たのである。カザノヴァはその娘を知合いの未亡人のもとに隠し、情を通じたが、二、三週間ののち捜索にきた父伯爵に引き渡す。
第十九章
一七四七年(二十二歳)
◆クリスティーナ……金策のためにトレヴィーゾへ行ったとき途中のゴンドラで出会った美しい田舎娘。伯父の司祭とヴェネチアへ婿捜しにいってむたしく帰ってきたのである。彼は結婚するという約束でこの娘をもてあそんだが、カルロというまじめな男を捜して夫婦にしてやり、おおいに感謝される。
第二十一章
一七四八年(二十三歳)
◆ジェノヴェッファ……チェゼーナの農家の娘。十四歳。その家の倉庫の地下に莫大な宝が隠されているときいて掘り出しに行く。魔法によって宝の守護をしている精霊の好意を得ると称して種々のあやしげな儀式を行ない、そのひとつとして娘の素肌をもてあそぶ。だが、処女をうばうにいたらなかった。
第二十二章
一七四九年(二十四歳)
◆アンリエット……フランスの名家の令嬢。ある事情で彼女が男装をしてイタリアへ来たのとチェゼーナで出会う。彼はその藹《ろう》たけた美貌と才気と教養とに惚れこみ、ともにパルマヘ向かう。そして、同行のハンガリーの老将校からもらいうけ、数か月にわたって同棲し情交をむすぶ。しかし王宮の御苑へ散歩にいったとき王に雇従していた彼女の親戚のダントワーヌに見つかり、余儀なく別れる。その間に二人はミラノへ行きジュネーヴへ行き別れをおしむ。これは彼の心にもっともふかい印象を残した女である。
第二十七章
一七五〇年(二十五歳)
◆マルケッティ……ヴェネチアで知り合った娘。ルジーアの出身。伯父なる司祭のもとに寄寓していたが、彼はその隣の化学者のところへ勉強にいっているうちに見染め、結婚すると称して情を通じた。そして、伯父と手を切らせるために執達吏を頼んで家財道具を引きあげたが、いつまでも結婚しようとしないので訴えられる。
第二十八章
一七五〇年(二十五歳)
◆カティネラ……三十がらみの美人で、色事に練達の踊り子。ホルスタイン伯爵の情婦。フェラーラの旅館で伯爵の来るのを待つうちに一文なしになったので、旅館の息子と夫婦約束をし、母が婚礼衣装やダイヤを持ってくるといって結婚式を引きのばしていた。そこへカザノヴァが来たので渡りに船とばかり母親の使いに仕立て、結婚式のために集まっていた男の親戚たちの目をあざむいた。そして、隣室で彼と関係するが、そこへ伯爵が到着すると、またたっぷり四時間伯爵のおもちゃになり(カザノヴァはそれを隣室からのぞいていた)、堂々と伯爵の馬車に乗って退散する。
◆トリノの洗濯女……彼はパリへ行くためにフェラーラ、レッジォ、トリノと馬車を走らせたが、トリノの宿で出入りの洗濯屋の娘に目をつけ、裏階段で待ちぶせして腕ずくで物にしようとした。しかし、その娘がひと突きごとに高らかにくさい庇をするので、あきらめざるをえなかった。
第三十章
一七五〇年(二十五歳)
◆コラリーナ……パリで成功しているヴェネチアの男優の娘。モナコ大公にかこわれていた。カザノヴァはこれに思いをよせ、ついに馬車で誘いだして兎狩りに行くまでに漕ぎつけたが、途中で他の男に見かえられてしまった。
◆サン・ティレール……パリ郊外シャイヨの門の高等淫売窟オテル・デュ・ルールの女。才色兼備でカザノヴァをひきつけた。彼はパリ滞在中たびたびここに通ってサン・ティレールと一夜をすごした。彼女は一年後にイギリスの貴族に認められ、ロンドンの上流階級で名をなした。
◆リュッフェ公爵夫人……六十歳の醜悪で好色な夫人。カザノヴァはパリ滞在中モナコ大公の紹介でこの夫人をおとずれたが、さっそく「かわいい坊や!」と抱きすくめられて怖気をふるい、淋病と称して逃げてきた。
第三十一章
一七五一年(二十六歳)
◆ミミ……パリで下宿していたカンソン夫人の無邪気な娘。カザノヴァに惚れ、夜昼彼の部屋へ来て喜んで玩具になり、ついに妊娠した。母親は怒って警察へ訴えたが、カザノヴァは詭弁を弄して無罪になる。ミミは男の子を生み、芝居の踊り子になったが、次第に堕落した。
◆ヴェジアン嬢……父親はパルマ出身でフランス軍に勤めていたが、父の死後生活に窮したので、兄とともにフランスの陸軍大臣に嘆願に来て、カザノヴァと同じ旅館にとまった。彼は同じイタリア人というので同情し、いろいろ世話をした。しかし、彼女は女蕩しの若い貴族にだまされ、無断でその男のもとへ走った。だが、一週間で捨てられ、ふたたび元の旅館へもどり、カザノヴァに前非を悔いた。彼は彼女と情交をむすび八方奔走したが嘆願が聞き入れられなかったので、バレッティに頼んでオペラの踊り子にした。
第三十二章
一七五一年(二十六歳)
◆オ・モルフィ……ギリシャ系の貧しい娼婦の妹。十四歳。彼女の蕾を散らすには六百フランという値だったので、カザノヴァは一回十二フランずつ払って、美しい肢体だけを鑑賞した。そして、その肖像をドイツの画家に描かせたが、それがルイ十五世の目にとまり、オ・モルフィは王の愛妾になり「鹿の御苑」のハレムにはいった。そして、男の子を生んだが、三年で寵をうしなった。
第三十四章
一七五三年(二十八歳)
◆C・C嬢……遊蕩児P・Cが恋人のC夫人といっしょに乗っていた馬車がブレンタ河の岸で転覆したのを助けたが、その直後ブチントーロ号の式典を見にいったときはからずもまた出会い、知合いになった。P・Cは彼を利用するために自宅へよんで当時十四歳の妹に紹介した。これがC・C嬢で、父親はまじめな実業家である。カザノヴァはP・Cの腹黒い斡旋でC・C嬢と度々デートをするうちに恋仲になり、サン・ビアジォ島の遊園地の逢引宿で関係をむすぶ。そして、結婚しようと決意し、ブラガディーノ氏を介して申し込んだが、父親は娘が十八歳になるまでは結婚させないといい、逆にC・C嬢をムラーノ島の修道院へ入れてしまう。彼女はこの修道院で流産する。秘密の使いラウラから知らせをうけたカザノヴァはムラーノ島のラウラの家にとまり、必死に回復を祈る。そして、C・C嬢がなおったあとは修道院のミサにかよって姿だけ見せるのをせめてもの心遣りにする。
第三十九章
一七五三年(二十八歳)
◆M・M修道女……ムラーノの修道院の尼僧。貴族出身の才色兼備の情熱的な美人、二十五、六歳。ひそかにフランス大使ド・ベルニと情を通じ、多大の便宜を得ている。ミサに来るカザノヴァを見染め、恋文を送って関係をもとめる。そして、ド・ベルニのムラーノの別荘やカザノヴァがそのために借りたヴェネチアの豪奢な別荘であいびきをかさね、金銭的にも彼を援助する。