カザノヴァ回想録 第一巻
カザノヴァ/田辺貞之助訳
カザノヴァ回想録(第一巻) 一七二五〜五三
目 次
第一章
[私の家系について]
[魔法使いの祝福]
[喜劇俳優の死]
[パドヴァ遊学]
第二章
[健康で空腹な下宿生活]
[祖母に助けを求める]
[女ぎらいの恩師]
[最初の文学的成功]
[最初の恋人ベティーナ]
[裏切られた夜]
[ベティーナの悪魔祓い]
第三章
[美男の修道士]
[小悪魔の策略]
[信じがたい告白]
[ベティーナが天然痘に]
[医者か弁護士か]
[大学生対警官]
第四章
[ヴェネチアで聖職につく]
[老元老院議員の夜会]
[十五歳の説教師]
[歌姫ジュリエッタ]
[純潔な娘と無邪気な娘]
[ルチーアとの戯れ]
[罪ぶかい禁欲]
[聖処女アンジェラ]
[四階でのランデ・ヴゥ]
第五章
[暗闇の鬼ごっこ]
[あてのはずれた夜]
[戯れに接吻は許すまじ]
[ナネッタとマルタ]
[姉妹との三人遊び]
[スキャンダルの原理]
[思いやりは不幸を招く]
[好都合な夕立]
第六章
[祖母の死と幸運の手紙]
[パトロンに追放される]
[踊り子チントレッタ]
[神学校入学]
[真夜中の訪問と放校]
[はじめての監獄生活]
第七章
[聖アンドレア要塞監獄]
[優雅な謝礼とその結末]
[完全犯罪の快楽]
[ボナフェーデ伯爵令嬢]
[釈放と幻滅]
[女性は書物である]
[ヴェネチアを去る]
第八章
[あばずれ女と博打うち]
[親切な僧侶と若い女中]
[アンコーナ検疫所]
[ギリシャの奴隷女]
[ローレットの巡礼救護所]
[托鉢僧の正体]
[宿のおやじに襲われる]
[ランプが消えれば]
[ピラミッド形の焔]
[策略は美徳である]
[約束の土地の憂鬱]
第九章
[遠い先祖に助けられる]
[ドンナ・ルクレツィア]
[ベッドの底がぬけて]
[ローマで成功する方法]
[枢機卿に仕える]
[心には中庸がない]
[おくゆかしい遊び]
[若い恋人たちを助ける]
[ルドヴィジの蛇]
[迷宮の芝生のベッド]
第十章
[枢機卿の夜会]
[法王の聖なる上靴]
[ティヴォリの神聖な夜]
[ドンナ・アンジェリカ]
[S・C枢機卿の寵姫]
[愛の詩を代筆する]
[G侯爵夫人の唇]
[バルバーラ誘拐未遂事件]
[不幸な娘のための策略]
[スキャンダルの政治学]
[私の不幸とローマ出発]
第十一章
[女形ベルリーノの魅惑]
[心やさしいチェチリア]
[美しい奴隷女の木の実]
[マリーナの懸命な口説]
[ベルリーノと旅に出る]
[同性愛についての論争]
第十二章
[触覚は指の先端に]
[歌姫テレザの告白]
[初めて結婚を決意]
[スペイン軍につかまる]
[思いがけない脱走]
[逃亡者の愛の一日]
第十三章
[僧衣を軍服に着かえる]
[愛情は自尊心より弱い]
[にせ士官の帰郷]
[姉妹で交替に]
[ヴェネチア軍の旗手]
第十四章
[恋愛は医者をなおす]
[ケルキラ島の軍隊生活]
[コンスタンチノープル]
[パシャの昼食会]
[哲学者ユズフ・アリ]
[信仰についての対話]
[思いがけない申し込み]
[回教徒になるべきか]
[長官のハレムの踊り子]
[友情のわなに落ちる]
[ヴェールと貞操の関係]
[艦隊司令官副官となる]
[F夫人の残酷な仕打ち]
[夫のための譲歩]
[私の従卒が殿下となる]
[ケルキラ島の茶番劇]
[にせ公爵との決闘]
[監禁命令と脱走]
[カゾポ島の小宮廷]
[総督の軍使]
[ケルキラ島へ凱旋する]
第十五章
[わが恋の進展]
[恋の話は恋を育てる]
[謝肉祭の芝居の興行]
[いさかいと仲直り]
[恋と義理との板挾み]
[F氏の副官となる]
[仮病の功徳]
[髪の毛入りのボンボン]
[女神の接吻の甘露]
[幸運を招いたかすり傷]
第十六章
[若妻の燃えさかる竈《かまど》]
[神殿参入の一瞬]
[娼婦メルラの呪い]
[ヴェネチアへ帰る]
第十七章
[軍職を去り楽師になる]
[八人のならず者と人妻]
[思いがけないチャンス]
[カバラの予言]
[大金持の殿様になる]
解説――カザノヴァ管見
[#一八世紀中頃のイタリアの地図(map.jpg)]
「自分の知っていることから利益を引き出さないものは、なにも知らないのである」
――キケロ『トレバティウスへの手紙』
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まずはじめに読者諸君に申しあげておきたいことがある。私は一生のあいださまざまの善《よ》いこと悪いことをしてきたが、そのいっさいについて、よかれあしかれ、相応の返報をうけてきたと確信している。したがって、いまは自由の身になっているはずだということである。ストア哲学者や、そのほか運命《ヽヽ》の力を強調するすべての学派の理論は、無神論にむすびつく空想の怪物である。私は一神論を奉ずるばかりでなく、哲学によってきたえられたキリスト教徒であり、かつて何ものをもけがしたことのない身である。
私はすべて形あるものの創造者であり支配者である、非物質的な神の存在を信ずる。私がこの神を一度も疑ったことのない証拠は、つねに神の摂理を当てにし、困窮の際にはかならず祈りによって神に頼ったし、その願いがつねにかなえられたのを見てもあきらかである。絶望は人を殺すが、祈りは絶望を消滅させる。それゆえ、祈りのあとでは、人は自信を得て、活動できるのである。神が救いをもとめるものからさしせまった不幸を遠ざけるために、どんな方法を用いるか調べてみようとしても、それは人間の判断力をこえることなのだ。人はそうした理解しがたい神の摂理を熟視しているうちに、神を崇拝せずにいられなくなるのである。われわれの無知はわれわれを救う唯一の手段となる。真に幸福なものは、この無知を大切にする。したがって、神に祈り、たとえ外観は恩寵が得られなかったように見えても、恩寵を得たと信じなければならない。神に願いをかけるときにとるべき身体の姿勢については、ペトラルカの次の句があきらかにしめしている。
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魂と膝とをかがめねばならぬ。(『ラウラの死によせて』)
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人間は自由である。しかし、自分が自由であると信じなければ、自由ではない。なぜなら、運命の力を仮定すればするほど、神が理性《ヽヽ》をお分けくださることによって人間にさずけた力を、ますます失うからである。
理性は創造主の神性の一部である。もしわれわれが謙虚かつ公正であるために理性を用いるなら、理性を授けてくださったお方からいっそう喜ばれるのである。神は神の存在に疑念をもつ者どもにだけ、神であることをやめる。彼らにとってこれよりも大きな処罰はありえない。
人間は自由ではあるが、思うことをなんでもかってにできると考えてはならない。情欲に心をかきみだされて、なにかの行動にうつろうと決心するとき、人間は奴隷になる。≪彼は服従させなければ命令する≫(ホラティウス『書翰集』)。心が平静になるまで行動を中止する力のある人は賢者である。だが、そういう人はまれだ。
考えることの好きな読者は気づくであろうが、この回想録で、私はけっしてきまった一点を目標としなかった。もしもなにか方針があったとすれば、それは風のまにまに流されていったことだけである。それが私の唯一の方針であった。しかし、この何ものにもとらわれないという流儀のなかにも、どれほどの有為転変があったことだろう! 私の不幸も、また幸福も、この世界では、肉体と精神の両面において、善が悪から生まれ、悪が善から生まれることを教えた。私の迷いは、物を考える人々に、反対の道があることを示すだろうし、また堀のなかから馬にとびのるように窮地を脱する離れわざのあることも教えるだろう。問題は勇気をもつことだけだ。確信のない力はなんの役にもたたぬ。私は軽率な行動の結果として、当然絶壁の底へおちこむはずであったのに、かえって幸福に見舞われたことが何度あったかしれない。そして、自分を非難しながらも、神に感謝したものだ。また、反対に、じっくりと考えた賢明な行為から、たえがたい不幸が出てくるのも見た。それを私は恥ずかしく思ったが、自分のやり方は正しかったと確信していたので、容易にあきらめることができた。
私は心のなかに深く根をおろした神の掟《おきて》の必然的な果実として、すぐれた道徳性の素質をもっていたが、それにもかかわらず、一生のあいだ官能の犠牲となってしまった。私は迷うことが喜ばしく、たえずあやまちのなかに生き、しかも、自分がそういうあやまちのなかにいることを知るのが、唯一の慰めであった。こういう理由から、読者諸君よ、私の回想録のなかに、あつかましい自慢話を見つけようとはなさらずに、一般的な告白にふさわしい性質のものをおくみとりいただきたい。もっとも、私の記述の調子には、苦行者の風貌《ふうぼう》など少しもなく、羽目をはずした行為を告白して顔をあからめる困惑さえ見当らないかもしれないが、それは若気のあやまちである。私がそれを笑っていることは、諸君にもいずれおわかりになるだろうと思うが、もしも親切な心をおもちなら、私といっしょに笑っていただきたい。
私が、必要なときには、粗忽者《そこつもの》やペテン師やばか者をだますのに、全然、容赦しなかったのを見て、諸君はお笑いになるだろう。女についていうと、それはお互いのだましあいで、差引勘定ゼロである。というのも、恋愛がからまってくると、お互いにだましあうのが常道であるからである。しかし、ばか者については、事柄はべつである。私は彼らをうまうまと網のなかに追いおとしたことを思いだすたびに、いつも快心の喜びを感じる。彼らが傲慢《ごうまん》で、あつかましく、私の才気をないがしろにしたからである。したがって、ばか者をだますのは、仇討《あだう》ちをしたことになり、勝利はその労にむくいてくれる。というのも、彼らは鎧兜《よろいかぶと》に身をかためており、どこから攻めたらいいのか見当もつかないからである。要するに、ばか者をだますのは、才気あるものにふさわしい功名である。生まれてこのかた、こうした手合いにたいする押えがたい憎しみを、私の血のなかに植えつけたのは、彼らとつきあうと、そのたびに自分までがばかになるような気がしたからである。しかし、彼らばか者どもを、世間で≪愚物≫と呼んでいる連中と区別しなければならない。愚物は教育がないから愚物なので、私は彼らをかなり愛している。ひどく正直な愚物もいろいろ見たが、彼らは愚鈍な性格のなかに一種の才気をももっている。いうなれば、白内障《そこひ》さえなかったら非常に美しかろうと思われる目のようなものである。
親愛なる読者諸君、この序文の性格をよくごらんいただいたら、私の意図するところも容易にご推量になられるであろう。私がこれを書いたのは、本をお読みになるまえに、私というものをよく知っていただきたいからである。面識のない人間と言葉をかわすのは、カフェか宴会のテーブルだけである。
私は自分の回想録を書いた。だれもこれにたいして難癖をつける余地はない。しかし、この本を民衆に与えるのは、はたして賢明なことであろうか。民衆については、私は民衆の大きな不利になるようなことしか知らぬのだから。まったく、こんな本を出すのが気違い沙汰だということは、自分にもよくわかっている。しかし、私はいそがしく仕事がしたいし、また笑いこけたい欲求を感じているのだから、なにもその気持をおさえつける必要はあるまい。
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余はヘレボルスを用いて病気と忿懣《ふんまん》とを追いはらう。(ホラティウス『書翰集』)
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古人は教師口調で私にいう。≪もしも書くに値することを書かぬなら、せめて読むに値することを書け≫(小プリニウス)と。これはイギリスでみがいた第一級の光耀《こうよう》をもつダイヤモンドのように美しい教訓である。だが、この教訓は私にはあてはまらない。なぜなら、私は名士の歴史も書かず、小説も書かないからである。値するしないにかかわらず、私の生活は私の素材であり、私の素材は私の生活である。私は自分の生活を書物にしようという気持がおころうとは夢にも考えずに生きてきた。だから老後におよんで生涯のことを文字に書き、さらに出版しようという意図をもって生活してきた場合よりも、はるかに興味ぶかい性質のものになりうると思う。
今年、一七九七年、私は七十二歳で、まだ呼吸しているものの、≪私は生きてきた≫といえる年齢に達してみると、自分自身について腹蔵なくしゃべるよりも楽しいことはない。そして、私の言葉に耳を傾け、つねに友情のしるしを与え、いまでもなお交際をつづけてくれているよき仲間たちに、高尚な笑いの種を提供するにこした喜びはない。おもしろいことを書くにも、仲間の人々が読んでくれると想像すると、いっそうはげみになる。≪私のしゃべることがさいわいにも気に入られるかどうか、それをきめるのは聞き手次第である≫(マルティアリス)。その他の俗物どもについては、私の本を読むのを禁ずるわけにはいかないが、私がこの本を書いたのが彼らのためではないことがわかれば、それで十分である。
私はかつて感じた快楽を思いだして、あらためて楽しい気持になっており、また身に受けた種々の苦痛は、もはやそれを感じることもないので、笑いとばしている。世界の人々よ、私は虚心坦懐《きょしんたんかい》に話をする。そして、執事が引きさがるまえに殿さまに向かってなすように、自分の受持ちの報告をしようと思う。将来のことについては、私は哲学者として、少しも気にかけようと思ったことがない。というのも、将来のことはなにひとつわからないからである。それに、キリスト教徒として、信仰は理屈ぬきにして信ずべきであり、もっとも純真な信仰はふかい沈黙をまもるものだと信じているからである。私は自分というものがこの世に存在したことを知っており、それはこの身に感じたのだから確実だと思っている。したがって、感じることをやめたら、自分が存在しなくなるだろうということも知っている。もし死後にもなお感じるようなことがあると、私はもはやなにも疑わないであろう。それどころか、おまえは死んだのだといいに来るすべてのものに、反駁《はんばく》をくわえるであろう。
私の回想録は記憶のおよぶかぎり古い事実からはじめるべきなので、八歳と四か月のときを発端とするであろう。この時期以前は、≪生きることは考えることである≫(キケロ)という言葉が真実であるとすれば、私は生きてはいず、ただ植物のように生育していただけだ。人間の思考は、種々の相関関係を検討するために行なわれる比較対照のなかにしかないのだから、記憶よりもまえに存在することはできない。思考に固有の器官は、私の頭のなかでは、出生以来八年と四か月たたなければ発展しなかった。この時代にいたってはじめて私の魂は種々の印象をうけられるようになった。≪触れることも触れられることもできない≫(ルクレティウス)非物質的な実体がどうして実体でありえるか、それを説明できるものはだれもいない。
ある哲学者は、こうした疑念をごまかすために、宗教と口をそろえて、こう主張する。すなわち、霊魂、感覚および器官の従属関係は偶然的、一時的なものだ。霊魂は肉体の死によって感覚や器官の圧制から解放されるとき、はじめて自由かつ幸福になれるというのである。たいへんりっぱな説だが、宗教はべつとして、これは確実ではない。こういうわけで、私は生きることをやめたあとでなければ、自分が不滅であるという完全な確信をもてないので、たとえこの真理を早く知ろうといそがなくても、人は私をゆるしてくれるであろう。命をかけなければ得られない知識なんて、あまりにも高価に思われる。それゆえ、私は、それまで、あらゆる不正な行為をつつしみ、不正な人々を憎み、ただ神をあがめよう。さりとて彼ら不正の徒にたいしては悪をなすことをさけ、ただ善をなすことをさしひかえるだけにとどめよう。蛇をやしなう必要はないのだから。
ここで私は自分の気質や性格についてなにかいわなければならないが、読者のなかの寛容な人々はきわめて誠実、また才気|横溢《おういつ》であろうと思われる。
私は四つの気質をすべてもっていた。少年時代には粘液質、青年時代には多血質、その後は胆汁質、そして最後に憂鬱症。この憂鬱症はもはや私から離れることがあるまい。私は食物を体質に合致させたので、つねに健康を享受してきた。さらに、健康を悪化させるのは栄養の過多や節制の行きすぎによるときいたので、自分自身を医者とするよりほかはなかった。しかし、節制のほうがはるかに危険であると思った。栄養の過多は不消化をおこすが、過少は死をもたらす。現在、私は年をとって、胃はすばらしく丈夫なのだが、一日一食にする必要がある。しかし、この減食の埋合せをするものは快適な睡眠である。それからもうひとつ、紙の上に自分の推理を横たえるたやすさである。というのも、私には読者よりも自分をあざむくために、逆説を弄《ろう》したり詭弁《きべん》をひねくったりする必要が毫《ごう》もないからで、贋金《にせがね》と知りつつ贋金をつかませる決心はとうていできないのである。
多血性の気質は私をあらゆる快楽の魅力にたいして非常に敏感にした。私はいつも快活で、享楽から享楽へとせわしく移りゆき、また享楽を発明するのが巧みであった。このことから、たえず新しい知合いをつくるという傾向が生じ、またその知合いとたやすく絶縁するにもいたった。これはけっして軽薄のためではなく、十分に根拠はあったのである。気質の欠点は、気質そのものがわれわれの力とは無関係なので、とうてい矯正できないものである。しかし、性格はそうではない。性格を構成するものは心と精神とである。しかも、気質はこれにたいしてほとんど影響力をもたないから、その結果として、性格は教育に依存し、矯正や改造を可能とするのである。
私の性格のよしあしの判断は他人にまかせるが、だれでも目のきく人なら、私の容貌からあるがままの姿をたやすく見破ることができる。人の性格はその容貌を見ることで容易にとらえられるものだ。というのも、容貌こそ性格の座であるからである。容貌をもたない人々、その数は非常に多いが、そういう人々は同時に性格と呼ばれるものをもっていないことに注意しよう。したがって、容貌の多様性は性格の多様性とひとしいものなのである。
私は一生のあいだ、思慮よりも感情のおもむくままに行動してきた。それは自分でもはっきり認めているので、私の行為はあきらかに精神よりも性格によるところが多い。このふたつはそこにいたるまでに長い闘争をつづけたが、その闘争のあいだに、私は性格に相応するだけの精神をもたず、また精神に相応するだけの性格をもたないという状態を交互にくりかえしたのであった。だが、この話はやめよう。なぜなら、≪簡単にしようとすると曖昧《あいまい》になる≫(ホラティウス)という場合にあてはまるからである。私は謙譲の道にそむくことなく、大好きなウェルギリウスの次の言葉を自分にあてはめることができると思う。
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私は醜くもなく、不恰好《ぶかっこう》でもない。私は、最近、海が凪《な》いでいたとき、海岸に立って自分の姿をうつしてみた。(『田園詩』)
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官能の快楽をつちかうことが、一生を通じて、私のおもな仕事であった。それよりも重要な仕事はなかった。私は異性のために生まれたと感じて、つねに異性を愛し、できるだけ異性から愛させた。私はまた美食をこよなく愛し、好奇心をかきたてるべくつくられたすべてのものに情熱をそそいだ。
私は親切にしてくれる友人をたくさんもっていたし、彼らにたいしてあらゆる機会に感謝の念をあらわすことができたのをうれしく思っている。また、私を迫害した憎むべき敵も多かったが、力がおよばなかったので、彼らを絶滅させることができなかった。もしも加えられた害悪を忘れなかったら、けっして彼らの罪をゆるしはしなかっただろう。人間は侮辱を忘れても、けっしてそれをゆるしたのではない。ただ忘れただけなのだ。というのも、ゆるすということは高尚な心や寛容な精神の英雄的な感情から発するが、忘れるということは記憶の弱さや、平和な魂の友である穏やかな無頓着、および平静や平和への欲求などからくる。憎悪は、ながいあいだには、それを好んで心のなかに養っている不幸な者を殺してしまうからである。
私を好色と呼ぶなら、それはまちがっている。なぜなら、官能の力も、なにかの義務を負っている場合には、その義務から私を引きはなしはしなかったからである。これと同じ理由で、人はホメロスを酔いどれと呼ぶべきではなかったろう。
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酒を溺愛すとて、人はこの詩人を責めたれど、そはこの崇高なる詩人をあがめんためなりき。(ホラティウス『書翰集』)
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私は風味のたかい料理を好んだ。ナポリの優秀な料理人の手になるマカロニのパテ、スペインふうの八宝菜、こってりしたニューファウンドランドの鱈《たら》、歯ぎれのよい野鳥の肉、それからチーズなどだ。チーズはそのなかに住む微生物が目に見えはじめるころ、ようやく成熟しきったことがあきらかになるのだ。女については、よい匂いのする女を好ましいと思った。体臭が強ければ強いほど、甘美に思われた。
なんという堕落した趣味だろう! そういう趣味をもつことを認め、それでいながら赤面もしないとは、なんたる恥知らずだろう! 私にこういう非難をするものがあれば、それは私の嘲笑をさそう。私はその堕落した趣味のおかげで、他の男よりも幸福だと思うほど鉄面皮であるが、それというのも、こうした趣味がより多くの快楽を感じる力を与えてくれた、と確信しているからである。だれにも迷惑を与えずに快楽を得られるものは幸福である。また犠牲《いけにえ》としてささげられる悲哀、苦悩、節制を神が享楽することができ、また神がそういう苦行を甘受するとっぴな人間だけを愛すると想像する連中は大ばかである。神はその創りたもうた人間から、美徳の実行だけしか要求できない。人間の魂のなかに美徳の萌芽《ほうが》をうめたからである。神がわれわれにたまわったものは、われわれを幸福にするためのものでしかない。自尊心、名誉欲、競争心、体力、勇気、またいかなる圧政もうばうことのできぬ権利。この権利とは正しい、あるいはまちがった計算のあとで、不幸にもそれを是《ぜ》とするならば、自分自身を殺してもよい権利である。詭弁論者はこの権利を強く非難したが、自殺こそわれわれの精神的自由のもっとも強い立証である。とはいえ、これはまさしく天性にもとるもので、あらゆる宗教が禁止したのも当然である。
強い精神をもつと自称する男が、きみは自分を哲学者と呼ぶこともできないし、神の啓示を受け入れることもできない男だと私にいった。ところで、この神の啓示だが、それを具体的に疑っていないなら、どうして宗教的にも受け入れないのだろうか。問題は形式だけのことである。精神は精神に語るのであって、耳に語るのではない。われわれの知っているすべての事の原理は、いっさいの原理を包含する最大最高の原理すなわち≪神≫によって啓示された人々が、われわれに教えたものなのである。蜜蜂は蜜房をつくり、燕は巣をつくり、蟻は穴を掘り、蜘蛛は網を織るが、彼らはあらかじめ永久の啓示がなかったら、なにもできなかっただろう。われわれは、事はすべてそうであると信じるか、物質が考えるということを認めるか、どちらかである。神がそれを望んだなら、どうして否定できよう、とロックはいうだろう。しかし、物質にたいしてそれほどの名誉を与えるわけにはいかない。だから、啓示によると信じようではないか。
この偉大な哲学者は自然を研究したあとで、自然を神の賜物とみることによって凱歌を奏しうると信じたが、あまりにも早く死んでしまった。もう少し生きながらえたら、さらに遠くまで行くことができ、日ならずして宿望を達しえたであろう。おのれをつくりたまわった神のなかにあって、もはや神を否定することができなくなったであろう。≪われらは神のうちにおいて動き、かつ存在する≫(使徒行伝)彼は神を不可解なものと思ったかもしれぬが、それについて不安を感ずることはなかったであろう。神はあらゆる原理のうちの偉大なる原理であり、それ自身けっして原理をもつものではないが、もしも神がおのれを理解するために自分の原理を知る必要があったら、みずからおのれを理解できるであろうか。おお、それこそ幸福なる無知である! スピノザは、あの徳高きスピノザは、この無知を所有するまえに死んだ。もしも長命を得たら、事の奥儀をきわめ、おのが魂の不滅を仮定して、美徳の報償をもとめる権利をもつものとして死んだであろう。
報償の要求が真の美徳に反するとか、美徳の純粋性をけがすとかいうことは真実ではない。なぜなら、反対に、人間は自己に満足するためにのみ徳高くあろうとするには、あまりにも弱いものであるから、報償の要求は美徳をささえる支柱となるのである。≪人間は善良に見えるよりも善良であることを欲する≫(アイスキュロス『テーバイを攻める七将』)といった、あのアンフィアラオスの言葉は、架空のものと思われる。要するに、私はいかに誠実な人間でも、なんらかの要求をもたないものはないと信じている。では、次に私自身の要求についてしゃべろう。
私は読者の友情と尊敬と感謝とを要求する。もしも私の回想録を読んで教えられるところがあり、また愉楽《ゆらく》をおぼえたとしたら、感謝してもらいたい。私を公平に見て、欠点よりも長所が多いと思ったら、尊敬してもらいたい。また、私の率直さと、なんの虚偽もなく、あるがままの姿を読者の判断にゆだねるまじめさが、友情に値すると認めたら、友情を寄せてもらいたい。
私がつねに情熱をもって真実を愛したことを認めていただきたい。しばしば私は話のはじめに嘘をついたが、それは真実の魅力をしらぬ読者の頭に真実を押しこむためであった。遊蕩《ゆうとう》の気まぐれを満足させる費用として、友人たちの財布をからにするのを見ても、私を罪人あつかいしてくださるな。彼らは空想的な計画をいだいていたので、それが成功するかのように期待させておいて、次に迷いの夢をさまし、同時に狂気をいやしてやろうというのが、私の希望であったのである。私は彼らを賢明にするためにあざむいてやったのだ。だから、悪いことをしたとは思わなかった。私を行動させたものは貪欲の精神でなかったからだ。私は自然の道理から持っているわけにいかないと思われる金を、すべて快楽の支払いに用いた。だから、もしもいま金持になっていたら、自分を罪あるものと思うだろう。しかし、私はなにも持っていない。いっさいをなげうってしまった。このことは私をなぐさめ、私の潔白を証明してくれる。それは狂気にふりむけられた金であった。私はその使途をかえて、自分の狂気のために役だてたのである。
もしも読者を喜ばせようとした気持がまちがいだとすれば、私ははっきりいって残念に思う。しかし、本を書いたことを後悔するほどではないであろう。私は私なりに楽しんだわけなのだから。残酷な倦怠《アンニュイ》! 地獄の刑罰の著者たちがこのアンニュイを述べなかったのは、度忘れをしたため、だとしか思われない。
しかし、白状すると、私は口笛を吹かれる心配をおさえることができない。この心配はあまりにも当然で、そんなものは歯牙にもかけないとお高くとまっていることができない。また回想録が世に出る時分には、もうこの世にいないだろうと希望して、自分を慰めるわけにもいかない。自分の唾棄《だき》する死にたいしてなんらかの恩義を感じるのは、思うだに不愉快きわまる。幸福であれ不幸であれ、生命は人間の有する唯一の宝である。この生命を愛さないものは生きるに値しない。ときに生命よりも名誉を好むことがあるが、それは恥辱が生命を褪色《たいしょく》させてしまったからである。また二者択一をせまられて自殺することがあるが、そういう場合には、哲学は口をとざさなければならない。おお、死よ! 死は自然の残酷な法則だ。理性はこれを排斥せねばならぬ。死は理性を破壊するためにのみあるからである。キケロは死が苦痛から解放するといった。この偉大な哲学者は計算書に支出ばかり記録して、収入を記入しようとしない。彼が『トゥスクルム論叢』を書いたとき、彼の娘のテュリオールが死んでいたかどうか、私はおぼえていない(すでに死んでいた)。死は熱心な観客が、おもしろがって見ている芝居のまだ終わらぬうちに、観客を大劇場から追いだす怪物である。この理由だけでも、死を嫌悪するのに十分でなければならない。
読者はこの回想録で、私の経験した事件を残らず読むわけにはいくまい。関係した人々が悪玉として出てきて、不快をおぼえるような事件は除外したからである。それにもかかわらず、ときとしてあまりにも不謹慎なと思われることもあるだろう。それは私の遺憾とするところである。もしも死ぬまえに賢明な人間になり、そして、まにあうだけの時間があったら、全部を焼きすててしまおう。しかし、現在はそれだけの勇気がない。
若干の恋愛事件をこまかく物語るとき、あまり書きすぎると思う人々があるかもしれないが、私の描写がまずいと考えるならともかく、そういう人々はまちがっている。私の年とった魂が過去の回想を唯一の楽しみとする状態に追いこまれているとしても、それはぜひおゆるしをいただきたい。美徳を建前とする人々は、徳性上さしつかえのある描写をすべてとばしてしまわれるがよい。この序文でそういう忠告を与える機会を得たのは、私の喜びとするところである。序文を読まない人はお気の毒である。序文が作品から切りはなせないのは、芝居にとってビラがなくてはならないのと同様である。この回想録は、若い人々のために書かれたのではない。若い人々は堕落から身をまもるために、青年時代を無知にすごす必要があるからである。この書物は、人生を生きぬいて誘惑に動じなくなった人々や、ながらく火のなかにいて、燃焼することのない|火とかげ《ヽヽヽヽ》になった人々のために書かれたものである。真の美徳は習慣にほかならないから、あえて私はいおう、真の有徳者はなんの苦痛も感ぜずに美徳を実践する幸福な人々で、そういう人々はけっして狭量ではない。この書物はそういう人々のために書かれたのである。
私はこの書物をイタリア語ではなくフランス語で書いた。フランス語のほうが私の母国語よりも普及しているからである。言語について潔癖な人は、私の文章のなかにイタリア的な言いまわしを見いだして非難するであろうが、そのために、いおうとすることが明瞭を欠くなら、この非難は正しい。ギリシャ人はエレソスふうの表現がまじっていたのにテオフラストスを味わい、ローマ人はパドヴァ訛《なま》りがあったのにティトゥス・リウィウスを読んだ。もしも私の書物が興味を与えるなら、同じ寛大さを希望してもさしつかえないように思われる。アルガロッティの文章はフランスの語法でこねあげられているが、イタリア人は十分にこれを味わって読む。
しかし、次のことはひとこと注意する価値がある。すなわち現在文学という共和国にあらわれるすべての生きた言語のうちで、他国のものを横取りして言語を富ませないように、指導者が禁じているのは、フランス語だけである。ところが、他の国々の言語はいずれもフランス語より富んでいるのに、ちょびちょびとした窃盗が自国語を美化すると気づくやいなや、フランス語から言葉や表現をかすめとった。フランス語をいまのべたような法則に服従させた人々は、それでもなおフランス語の貧しさを認めている。彼らの話によると、フランス語は納めうるかぎりの美点を所有するにいたったから、些少《さしょう》な外国の表現がまじっても醜悪化されるというのである。しかし、このような判定は先入観によっていわれたのかもしれない。フランスの全国民はリュリ以来、ラモーがその迷いをさとしに来るまで、自国の音楽について同じ判断をもっていた。現在では、共和政府のもとで、雄弁な演説者や博学な著者は、いままで世界が他のいかなる言語にも認めたことがないほど高度な美と力とへフランス語を引きあげると、すでに全ヨーロッパを説得した。わずか五年の短い期間内にも、フランス語は、優雅さや荘重さや高尚な調和の点でおどろくに足る百ばかりの言葉を獲得した。たとえば、アンビュランス(移動野戦病院)、フランシアード(フランス共和暦の周期)、モナルシアン(自由王党派)、サンキュロティスム(過激共和主義)など、言語に関してこれより美しいものをだれが発明できたであろう。フランス共和国万歳! 頭のない肉体がばかげた振舞いをすることは不可能だ。
私が標語としてえらんだ次の文句は、おそらく万般の手柄話についてあまりしばしば行なうかもしれない余談や注釈が当を得ないものではないことを弁護してくれるだろう。曰《いわ》く≪自分の知っていることから利益を引き出さないものは、なにも知らないのである≫(キケロ『トレバティウスへの手紙』)。同じ理由で、私は上流社会から賛辞を呈される必要を感じた。
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聴衆は役者を興奮させ、賛辞は徳を倍加し、光栄は強力な刺激剤となる。(オウィディウス『ポントゥス書翰集』)
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事が思うにまかせないとき≪それはわしのせいではない≫とさけぶ多数の人たちを憤慨させる心配がなかったら、私は≪人はつねにおのれ自身の不幸をつくる職人である≫(セネカ)という高潔な公理を喜んでご披露したであろう。しかし、彼らにはそういう小さな慰めを残しておいてやらなければならない。この慰めがなければ、彼らはおのれを憎み、その憎しみの次に自殺の計画がくるからである。
私自身についていえば、自分におこったあらゆる不幸の主要な原因はわが身であるとつねにみとめていたから、好んで自分を自分自身の生徒であると見、その先生である自分自身を愛する義務があると心得ていたのである。
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第一章
[私の家系について]
ドン・フランシスコの庶子として、アラゴンの首都サラゴサに生まれたドン・ハコボ・カザノヴァは、一四二八年、ドニャ・アンナ・パラフォクスが修道の誓願をたてた翌日、これを修道院から誘拐した。ドン・ハコボはドン・アルフォンソ王の秘書をつとめていた。彼はドニャ・アンナとともにローマへのがれ、一年を監獄にすごした。法王マルティヌス三世は、ドン・ハコボの伯父で法王庁の執事の職にあったドン・フアン・カザノヴァの乞いをいれ、ドニャ・アンナの誓願を解き、婚姻の祝福を与えた。この結婚から生まれた子どもたちは、ドン・フアンをのぞき、すべて幼少のころに死んだ。ドン・フアンは一四七五年にエレオノーラ・アルビニと結婚して、マルカントニオと呼ぶ息子をひとりもうけた。
一四八一年、ドン・フアンはナポリ王の将校を殺した罪により、ローマを立ちのかねばならなくなった。彼は妻子とともにコモにのがれた。それから幸運をもとめて奔走したが、クリストファー・コロンブスの一行にくわわって、一四九三年、異郷で死んだ。
マルカントニオはマルティアリスの趣味を追う好個の詩人となり、ポンペオ・コロンナの秘書をつとめた。しかし、現在でもその詩集中に残っている、ジュリオ・ディ・メディチにたいする諷刺詩のために、ローマを退去せざるを得なくなり、コモにもどった。そして、アボンディア・レツォニカを妻に迎えた。
このジュリオ・ディ・メディチはその後法王クレメンス七世となったが、マルカントニオの罪をゆるし、妻とともにローマへもどらせた。彼はローマが神聖ローマ帝国の軍隊に占領され略奪されたのち、一五二六年、ペストで死んだ。しかし、たとえこの死をまぬがれたとしても、窮乏のために死んだであろう。カルロス五世の兵士たちに所有物を根こそぎ略奪されたからである。ピエトロ・ヴァレリアーノは『文人の不運』という書物のなかで彼のことをかなりくわしく語っている。
彼の死の三か月後、未亡人はジャーコモ・カザノヴァを生んだ。このジャーコモは後年ナヴァール王、ついでフランス王となったアンリ四世に対抗したファルネーズ軍の大佐となり、相当高齢に達してフランスで死んだ。彼はパルマにひとりの息子を残していったが、その男子はテレザ・コンティと結婚し、ジャーコモという息子を得た。ジャーコモは一六八○年、アンナ・ロリを妻とした。そして、ふたりの男子をもうけたが、長男のジョヴァンニ・バティスタは一七一二年にパルマを出奔、その後の消息は不明である。弟のガエターノ・ジューゼッペ・ジャーコモも一七一五年に十九歳のとき家族のもとを去った。
以上は私が父の備忘録のうちに見いだしたことであるが、次のことは母の口から直接きいた。
ガエターノ・ジューゼッペ・ジャーコモは腰元役をやっていたフラゴレッタという女優の魅力に心酔して家を出たのであった。しかし、恋にのぼせても食う道がなかったので、身体を元手に生活費をかせごうと決心をきめた。そして、舞踊家として身をたてることにし、五年後には喜劇の舞台をふんだが、彼の名は才能よりも謹厳な素行によって有名になった。
彼は気まぐれか、それとも嫉妬にかられてか、フラゴレッタと別れてヴェネチアへおもむき、サン・サムエーレ座に出演していた喜劇俳優の一座にくわわった。彼の下宿していた家の向かいにジロラモ・ファルッシという靴屋が住んでいた。妻の名はマルツィア、ひとり娘はツァネッタといった。この娘は十六歳だったが、申しぶんのない美貌の持主であった。若いコメディアンはこの娘に惚《ほ》れこみ、ついには恋心をおこさせて、いっしょに駈落ちをする気持にならせた。彼はコメディアンだったので、母親のマルツィアや、まして父親のジロラモの同意を得て、正式に娘をもらうことは思いもおよばなかった。父親にとっては、コメディアンは人間のかすとしか思われなかったのである。そこで、若い恋人たちは必要な証明書をたずさえ、ふたりの証人を連れて、ヴェネチアの総大司教のところへ出頭し、正式に結婚させてもらった。娘の母親のマルツィアは大声で泣きかなしみ、父親は心痛のあまり死んでしまった。私はそれから九か月ののち、この結婚から生まれた。一七二五年四月二日である。
翌年、母は私を自分の母の手にゆだねた。祖母は父が妻をむりに舞台へのぼらせないという固い約束をしたと知ると、すぐに娘の罪をゆるしたのであった。このような約束は堅気の娘をめとったコメディアンならだれでもすることだが、ほとんどだれもまもらない。細君が約束違反を責める気づかいがないからである。それに、母は喜劇を演ずるのを習ったことをたいへん喜んでいた。というのも、九年後に六人の子どもをかかえて未亡人になったが、舞台にでもたたなければ、子どもらをそだてる方法がなかったからである。
こういうわけで、私が一歳のとき、父母は私をヴェネチアに残して、ロンドンへ巡業に行った。母はこの大都会ではじめて舞台にのぼったが、やはりこのロンドンで、一七二七年に弟のフランチェスコを生んだ。フランチェスコは後に有名な戦争画家になって、一七八三年以来ウィーンに住み、いまでもそこで仕事をつづけている。
母は父といっしょに一七二八年の終わりごろヴェネチアにもどった。もう一人前の喜劇女優になっていたので、その後もずっと女優稼業をつづけた。一七三〇年、母は弟のジョヴァンニを生んだ。このジョヴァンニは美術学校の校長として選挙侯につかえたが、一七九五年の終わりごろドレスデンで死んだ。その後三年間に、母はふたりの娘を生んだ。ひとりは幼少のときに死んだが、もうひとりはドレスデンで結婚し、今年一七九八年にはいまだ存命である。私にはもうひとり、父の死後に生まれた弟があったが、これは僧侶となり、十五年まえにローマで死んだ。
[魔法使いの祝福]
さて、次に、物心がついてからの私の生涯の初期の話にうつろう。一七三三年のはじめ、私は記憶の器官が発達しはじめた。当時、私は八歳と四か月であった。この時期以前のことは、なにひとつ記憶がない。最初の記憶というのは、次のとおりである。
私は部屋の片隅に立ち、壁へ向かってうつむき、頭をおさえながら、どくどくと湧きだす鼻血が床を流れるのを、じーっと見つめていた。私をたいへんかわいがってくれた祖母のマルツィアがやってきて、冷い水で顔をあらってくれた。それから、家じゅう、だれにも気づかれずに、いっしょにゴンドラにのって、ムラーノ島へ連れていった。ヴェネチアから半里(二キロ)ばかりのところにある、非常ににぎやかな島である。
ゴンドラからおりると、一軒の荒屋《あばらや》へはいっていった。年をとった女が一匹の黒猫を抱いて、粗末なベッドにすわっていた。まわりにも猫が五、六匹いた。それは魔法使いであった。その老婆と祖母とは長いあいだしゃべっていた。きっと私のことにちがいなかった。フリウリ語のながいおしゃべりのあとで、魔法使いは祖母から一枚の銀貨を受け取ると、ひとつの箱をあけ、私を抱いてそのなかに入れた。そして、こわいことはないからといって蓋をしめた。私がもっと利口な子だったら、きっとおびえたであろう。しかし、私は愚鈍な子であった。だから、まだ鼻血がでるので、ハンケチを鼻にあてながら、おとなしくしていた。箱の外で大騒ぎをしている音が聞こえたが、気にもとめなかった。笑う声、泣く声、叫ぶ声、唄をうたう声、それから箱をたたく音が交互に聞こえてきた。だが、そういうことにもほとんど驚かなかった。しまいに私は外へ引き出されたが、鼻血はとまっていた。その奇妙な女は、私をちやほや撫《な》でまわしてから、着物をぬがせ、ベッドへねかせた。それから、いろいろの薬を火にくべて、その煙を毛布にくるみ、その毛布で私をつつんで、なにやら呪文をとなえた。呪文が終わると、毛布をはがし、これを食べろといって、たいへんうまいボンボンを五|粒《つぶ》くれた。それからすぐに、さわやかな匂いのする軟膏をこめかみや頸筋《くびすじ》へなすりこみ、やっと服を着せてくれた。
彼女は私をなおした方法をだれにもしゃべらなければ、鼻血はおいおいとなおっていく。だが、反対に、彼女の秘密をだれかに吹聴したら、身体じゅうの血が残らず流れだして死んでしまうといっておどかした。こういうふうに教訓をしてから、今夜おまえのところへとてもきれいな女の人が訪ねていく。もしもその人の訪問をだれにも洩らさないだけの力があったら、おまえはその人から幸福をさずけてもらえるのだといった。私たちはそこで婆さんに別れをつげて、家へもどった。
ベッドに横になると、私は今夜訪ねてくるはずの美しいお客さまのことなどすっかり忘れて、ぐっすり眠ってしまった。しかし、何時間かたって、ふと目をさますと、目のくらむような婦人が煙突からおりてくるのが見えた。いや、見えたように思ったのかもしれない。その婦人はスカートに大きな輪骨をつけ、すばらしい生地の服を着て、宝石をちりばめた冠を頭にのせていた。それが火花をちらしてきらめくように思われた。彼女は威厳のこもった、だが物やさしいようすで、ゆっくりと私のベッドのところへ歩いてきて、腰をおろした。そして、ポケットから小さい箱をいくつも取りだし、なにか文句をつぶやきながら、その箱を私の頭の上でさかさまにした。それから、私には全然わけのわからないことを、ながながとしゃべったあとで、私に接吻し、さっき来た道を通って帰っていった。私はまた眠りにおちた。
翌日、祖母は、私に服を着せにベッドのそばへ来ると、なにもしゃべってはならないといった。ゆうべ見たことを人に話しでもしたら、死んでしまうのだとおどかした。祖母は日ごろ私にたいして絶対的な力をもち、どんな命令にも盲目的にしたがわせる習慣になっていたが、その祖母のきびしい命令だったので、あの幻影がふかく私の心にきざみつけられたにちがいない。それで、私はあの幻影に封印をはり、生まれかけていた記憶のもっとも秘密な片隅へしまいこんでしまったのだ。しかし、あのことをだれかにしゃべろうという気持は少しもなかった。そんな話に人が興味をもつかどうかわからなかったし、だれに話したらいいのかもわからなかったからである。私は病気のために陰気になり、全然かわいげがなかった。みんな私をかわいそうがって、そっとしておいてくれた。私の命がながくはなかろうと思っていたのだ。父と母は全然私に言葉をかけなかった。
ムラーノ島へ行ったり、夜中に仙女の訪問をうけたりしたあとでも、鼻血はやっぱり出ていたが、分量はだんだん少なくなった。それにつれて、記憶力が少しずつ発達して、ひと月もたたないうちに、文字を読むことをおぼえた。病気の回復をあのふたつの奇怪な出来事のおかげだとするのはおかしいかもしれないが、なんの効き目もなかったというのもまちがっているだろう。美しい女王さまの出現は、だれかがわざと変装して出てきたのでないかぎり、私はずっと夢だと信じてきた。しかし、大病をなおす薬はいつも薬屋にばかりあるわけではない。毎日、なにかの現象がわれわれのそうした無知を証明している。完全に迷信から脱却した精神をもつ学者がきわめてまれなのは、こうした理由によるのだと思う。世の中には魔法使いなんてものはいなかった。だが、魔法使いだと思いこませる才能に圧倒された人々にとっては、魔法使いの力というものはつねに存在していたのである。
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そなたは夢のなかで夜の精やテッサリアの怪物を軽蔑する。(ホラティウス『書翰集』)
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まえには想像のうちにしか存在しなかったいろいろのことが現実となる。したがって、信仰のためと思われる多くの結果がかならずしもつねに奇跡的なことではなくなることもある。信仰に無際限の力を与える人々にとって、とくにこういうことがおこる。
私自身に関係することで、記憶に残っている第二の事実は、ムラーノ島へ行ってから三月あと、父の死の六週間まえにおこった。その話をここでもちだしたのは、私の性格がどういうふうに発達していったかを読者に知ってもらうためである。
十一月のなかばごろのある日、私はふたつ年下の弟のフランチェスコといっしょに、父の部屋で、父がレンズで仕事をしているのを、注意ぶかくながめていた。
テーブルの上に円い大きな水晶球があって、切子がきらきら光るのに気がついた。それを目にあてると、どんなものでもたくさんに見えるので、とてもおもしろかった。私はそれがほしくなり、だれも見ていないすきをねらって、ポケットへ入れてしまった。
二、三分たつと、父は腰をあげて、水晶球をとりに行った。だが、どこにも見えなかったので、ふたりのうちのだれかがとったにちがいないといった。弟はなにも知らないと断言した。私は、下手人であるにもかかわらず、同じ返事をした。父は裸にしてしらべるぞとおどかし、嘘をついたものは鐙革《あぶみがわ》でなぐりつけると誓った。私は部屋のすみずみを捜しまわるようなふりをしながら、水晶球を弟の服のポケットへじょうずにすべりこませた。だが、そのとたんに失敗したと思った。どこかから捜しだしたようなふりをすることもできたからだ。しかし、悪事はもう行なわれてしまった。父は私たちがなかなか見つけださないのに業をにやし、私たちを裸にしてしらべて、罪もない弟のポケットから水晶球を捜しだした。そして、弟に約束どおりの罰をくわせた。三、四年たってから、私はおろかにも、悪戯《いたずら》をしたことを弟自身に向かって自慢した。弟はけっしてそれをゆるそうとせず、その後、機会あるごとに腹いせをした。
ある総告解のとき、私はこの罪の一部始終を懺悔聴聞僧に告白したが、おかげでおもしろい勉強をすることができた。懺悔聴聞僧はイエズス教徒であった。彼は、きみはその悪事によって自分のジャーコモという名前の意味の真実さを証明したのだといった。ジャーコモの原名ヤコブはヘブライ語では≪人の地位を奪いとる者≫という意味だからである。この理由で、神は古の太祖ヤコブの名を≪予言者≫の意のイスラエルにかえた。ヤコブはかつて弟のエサウをあざむいたことがあったのである。
[喜劇俳優の死]
この事件から六週間たったころに、父は耳の奥の頭の内部に膿瘍ができ、一週間後には、もう墓場へさらっていかれてしまった。医師ツァンベリは患者に阿片剤《あへんざい》を与えたが、その失敗をつぐなうには海狸香《カストレウム》がよいと判断した。その結果、患者は痙攣をおこして死んでしまった。膿瘍は死の直後、耳からとびだした。父を殺して、もうこんな身体に用はないとばかり逃げだしたようであった。
父は三十六歳の血気盛りの年でこの世を去り、世間の人々からその死を惜しまれた。ことに貴族たちは、父を素行の正しさだけでなく、機械にたいする深い知識からも、仲間の俳優たちよりはるかにすぐれたものと認めて、たいへん残念がってくれた。父は死ぬ二日まえ、みんなの顔が見たいといって、母や子どもたちを全部枕辺に呼びあつめた。またヴェネチアの貴族グリマーニ家の人々もその場へ呼んで、私たちのめんどうを見てくれるように頼んだ。
父は私たちに祝福を与えたあとで、涙にくれている母に、子どもらはだれも俳優になるように育てないと誓わせ、自分も不幸な情熱にとりつかれなかったら、けっして舞台に立ちはしなかったのだからといった。母はそれを固く誓い、三人の貴族がこの誓約をきっとまもらせると保証した。何人も立会人のあったことが母に誓約をまもらせる助けになった。
おりしも母は六か月の身重だったので、復活祭まで舞台をやすむことにした。まだ若く美しかったから、再婚を申し込む人がたくさんあったが、母はすべての縁談をことわった。そして、少しも気をおとさずに、私たちを育てることを唯一の生き甲斐とした。母はまず私のことに専心しなければならないと考えた。私をいちばんかわいがっていたからではなく、私が病身で、どういうふうに扱ったらいいのか見当がつかなかったからである。私は非常にひよわで、食欲もなく、腑抜《ふぬ》けのようなようすで、何事にも身が入らなかった。医者たちは私の病気の原因についていろいろ議論した。「この子は毎週二ポンドの血を失っている。だが、全体として十六ないし十八ポンドしか血液をもちえないのだから、この旺盛な造血作用はどこからくるのだろう」と、彼らはいった。ある医者は私の乳糜《にゅうび》がみんな血にかわるのだといい、他の医者は私の呼吸する空気が呼吸のたびに肺臓のなかの血液の分量をふやすにちがいない。そのために私がいつも口をあけているのだと主張した。以上のことは、六年後に、亡き父の親友であったバフォ氏から聞いたのである。
バフォ氏はパドヴァにすむ有名なマコッペ先生に相談した。先生は書面で忠告を与えてくれた。私はまだその手紙を保存しているが、それにはこう書いてある。われわれの血液は弾力的な液体であって、その濃度は減少も増加もできる。しかし、分量には変化がない。私の出血は血液全体の濃度から生ずるにちがいない。循環を容易にするためによけいな分量を排泄するのである。先生の言葉によると、もしも生きようとする自然が自力更正の方法を講じなかったら、私はもう死んでいるにちがいないということであった。そして、血液が濃厚になる原因は私の呼吸する空気のなかにあるから、転地をさせるか、手をつかねて死ぬのを待つか、二つに一つだと結論した。先生の意見によると、私がうすばかづらをしているのも、血液が濃厚すぎるのが原因しているということだった。
[パドヴァ遊学]
このバフォ氏というのは、きわめてすばらしい才能をもち、すべてのジャンルを通じて非常に淫靡《いんび》な詩を書いたが、偉大であり、卓抜であった。この人の意見で、私はパドヴァへ下宿することにきめられた。したがって、バフォ氏は命の恩人であった。彼は二十年後に、古い貴族の家柄の最後の人として死んだ。しかし、その詩は、けがらわしいものでこそあれ、けっして彼の名を滅びさせないであろう。ヴェネチアの風紀検閲官は敬虔《けいけん》の念から、彼の名声の持続に寄与するであろう。彼らはバフォ氏の詩稿を迫害することによって、かえってそれを貴重なものとなした。きっと≪人の軽蔑するものは時とともに忘れられる≫(タキトゥス『年代記』)ことを知っていたにちがいない。
マコッペ教授のご託宣を採用することにきまると、グリマーニ司祭がパドヴァによい下宿をさがすことを引き受け、その町に住む知合いの化学者に依頼した。その人はオッタヴィアーニといい、考古学者でもあった。下宿はまもなく見つかった。それで、一七三四年四月二日、満九歳の誕生日に、私は大形のゴンドラでブレンダ運河をさかのぼり、パドヴァへ連れていかれることになった。夜食をすませてから、夜の十時に船へ乗りこんだ。
この大形ゴンドラは水に浮く小屋とも見ることができる。広間があり、その両側に一つずつ小部屋がついていた。艫《とも》と舳《へさき》には召使たちの溜り場があった。広間は屋上のある矩形の部屋で、まわりにガラス戸をはめた窓をめぐらし、鎧戸もついていた。この旅行は八時間を要した。私に同行してくれたのは、母のほかに、グリマーニ司祭とバフォ氏であった。母は私を抱いて広間で寝、ふたりの友だちは小部屋にねた。
母は夜が明けるとすぐに起きあがった。そして、ベッドに向かった窓をあけたので、朝日の光が私の顔にあたって、目を開かせた。ベッドは低く、陸地が見えなかった。窓からはとだえることなく運河のふちにならんでいる木立の頂上だけしか見えなかった。船は進んでいたが、同じ調子だったので、動いているとも思われなかった。だから、木立が目のまえからすばやく消えていくのを見て、私は不思議に思い、「ああ、お母さん、どうしたんだろう。木が歩いていく」とさけんだ。
そのとき、ふたりの紳士がはいってきた。そして、私がおどろいているのを見て、なにをきょろきょろしているのだとたずねた。私は「木が歩いていくって、どういうわけなの」と聞いた。
ふたりは笑いだした。だが、母は溜息をついて、なさけなそうな口調でいった。「船が進んでいるのよ。木が歩いているのではないのよ。さあ、服をお着けなさい」
私はすぐに、まだ生まれたてで、いっこう取りとめのない理性でいろいろ考え、その現象の理由を思いついた。そして、母にいった。「それじゃ、お天道さまも進んでいくのではなく、ぼくたちが西から東へ動いているのかもしれないね」母はばかなことをおいいでないと叱った。グリマーニ氏も私の低能ぶりをあわれんだ。私はすっかり悄気《しょげ》かえり、悲しくて、泣きだしそうになった。だが、バフォ氏が私を勇気づけてくれた。あの人は私にとびついてきて、やさしく抱きしめ、「きみのいうとおりだ、坊や。太陽は動かないのだ。勇気をだすんだよ。いつも筋道をたてて理屈を考え、笑いたいものには笑わせておくがいいのだ」
母はそんなことをこの子に教えるとは、気でも違ったのではないかと、バフォ氏に聞いた。しかし、哲学者は母には返事もせずに、私の純真で単純な頭でもわかるような理論を説明しつづけた。それは私が生まれてはじめて味わった真実な喜びであった。もしもバフォ氏がいなかったら、あの瞬間は私の判断力をめちゃめちゃにしてしまったにちがいない。人の言葉をわけもなく信じこむ卑劣さがそこへはいりこんだであろう。他のふたりの愚かしさはきっと私のうちのある能力をにぶらせたにちがいない。その能力で私がどこまでいけたか自分にもわからないが、私が自分自身と相対するときに享受するすべての幸福が、もっぱらこの能力のおかげであることはわかっている。
私たちは朝はやくパドヴァのオッタヴィアーニ家に着いた。奥さんは私をちやほやしてくれた。その家には五、六人の子どもがいたが、そのなかにマリーアという八歳の娘とローザという七歳の娘がいた。ローザは天使のようにきれいだった。マリーアは十年ののちに仲買人コロンダの妻となり、ローザはさらに数年後、貴族ピエロ・マルチェロにとついだ。マルチェロは彼女によってひとりの息子とふたりの娘を得たが、娘のひとりはピエトロ・モチェニーゴ氏にとつぎ、もうひとりはコラロ家の貴族に嫁した。しかし、その結婚はまもなく無効と宣告された。これらの人々については、いずれ話さなければならなくなるであろう。オッタヴィアーニ氏ははじめに私たちを、私が下宿するはずの家へ連れていった。
それは彼の家から五十歩ほどはなれた、サン・ミケーレ教区に属するサンタ・マリーア・イン・ヴァンツォ街にあり、スラヴォニア生れの老婆が住んでいた。彼女は二階を同郷のミダ大佐の夫人に貸していた。母は私の小さなトランクをあけて見せ、なかにはいっている品々の目録を渡した。それから、向う六か月間の下宿料として六ゼッキーニの金を支払った。老婆はそんなわずかばかりの金で、私に食べさせ、身のまわりの世話をし、学校へもやらなければならないのだった。これでは足りないという彼女の言葉も取りあげられなかった。みんなは私に接吻し、いつもお婆さんのいいつけをよくまもるようにと命令し、それから、私をそこへ残して出ていった。こうして私は厄介ばらいをされたのであった。
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第二章
[健康で空腹な下宿生活]
スラヴォニアの老婆とふたりきりになると、彼女はすぐに私を屋根裏部屋へ連れていって、私のねるベッドをおしえた。それは四つのベッドの向うの端にあった。はじめの三つは私と同年輩の男の子たちのベッドだが、その子たちは学校へ行っていた。四番目は女中のベッドで、女中は私たちにお祈りをさせたり、小学生にありがちの悪戯《いたずら》をさせないように見張りをすることを命令されていた。それから老婆は私を庭へおりていかせ、昼食の時間になるまで遊んでいてもよいといった。私は幸福でも不幸でもなかった。ひとことも口をきかなかった。恐怖も希望も、またどんな種類の興味も感じなかった。嬉しくも悲しくもなかった。ただひとつ気に入らなかったのは、女主人の人相だった。まだ人の顔の美醜についてはっきりした観念はなかったが、彼女の顔つきや、ようすや、口調や、言葉づかいが我慢できなかった。彼女のいうことを聞こうと思って目をあげるたびに、男みたいな顔が私の心をむかむかさせた。まるで兵隊のように背が高く太っていて、顔色が黄色く、髪が黒く、眉毛が濃くて長かった。顎《あご》に何本も長い毛がはえ、目もあてられない皺《しわ》だらけの乳房がなかばはみだし、大きな胴体の半分あたりまで垂れさがっていた。年は五十ぐらいであった。女中は百姓出の太った女で、家事万端をやらされていた。庭と呼ばれていた場所は三、四十歩の四角い場所で、緑色をしている以外には、なにも楽しいことはなかった。
昼ごろ三人の子どもが帰ってきた。そして、古い知合いのように、私がなんでも心得ていると思って、いろいろの話をした。私はなんのことだかわからないので、返事もしなかった。しかし、彼らはべつだんそれを気にかけるようすもなく、むりやりに私を無邪気な遊びの仲間に入れた。駆けっこや肩車やとんぼ返りなどであった。それで、昼食に呼ばれるまで、かなりきげんよく遊び方をおそわった。食卓にすわると、まえに木のさじがおいてあったので、それをほうりなげ、銀の食器を出せといった。それは祖母から贈り物にもらって大事にしていたものである。女中はおかみさんがだれでも同じようにしているのだから、習わしにしたがわなければいけないといった。私は気に入らなかったが、我慢した。そして、みんな同じにしなければというので、みんなのまねをして、皿からじかにスープを食べた。彼らの食べ方の早いのは気にもさわらなかったが、そんな食べ方をしてよくも叱られないものだとびっくりした。ひどくまずいスープのあとで干鱈《ひだら》の小さな切り身が出、林檎《りんご》が出、それで昼食は終りだった。四旬節の肉断ちの時期であったのだ。コップもなければ湯呑《ゆの》みもなく、グラスピアというひどい飲物を、同じ素焼の広口瓶からみんなでじかにのんだ。グラスピアというのは皮をむいた葡萄の粒を煮たてた水である。次の日からは、私はただの水しかのまなかった。そこの食卓は私をひどくおどろかした。まずいという言葉であらわせるかどうかわからないくらいだったからである。
食事のあとで、女中は私を学校へ連れていった。先生はゴッツィ博士という若い坊さんであった。スラヴォニア人の老婆はこの先生に毎月四十ソルディ払う約束をした。それは一ゼッキーノの十一分の一である。勉強はまず書き方の初歩からはじめることにした。それで、私は五歳の子どもらの仲間へ入れられたが、彼らははじめ私をばかにした。
夕食は、当然のことながら、昼食よりもいっそうひどいものであった。だが、不平をいうこともゆるされないのにはおどろいた。それからベッドへねかされたが、人も知る三種の虫が目をつぶらせなかった。そればかりか、鼠《ねずみ》が部屋のなかを駆けまわり、ベッドへとびあがってきて、血も凍るほどの恐怖を与えた。私が不幸に敏感になり、そして、それを耐えしのぶことを習ったのは、このときからである。しかし、虫にさされる痛みが鼠の恐怖をやわらげ、また同時に鼠の恐怖がかえって虫にさされる痛みをやわらげた。魂が苦痛と恐怖の争いを利用したのである。女中は私のさけび声にはしじゅう耳をとざしていた。
空が白みはじめると、私は毒虫の巣からとびおりた。ひと晩じゅう我慢しつづけた苦痛について少し文句をいってから、新しいシャツを求めた。身につけていたのは南京虫のためにひどくよごれてしまったからである。しかし、女中はシャツは日曜でなければかえないと答えた。お婆さんにいいつけるとおどすと、ふふんと笑った。私は仲間がばかにして嘲笑するのを聞いて、はじめて悲しさとくやしさに泣いた。彼らは私と同じ条件なのだが慣れてしまったのである。だから、もうなにもいうことはなかった。
私は悲しみに打ちひしがれ、午前中学校で居眠りばかりしていた。仲間のひとりがその理由を先生に話した。それは私を笑いものにするためであった。しかし、永遠なる摂理が私をあわれんで授けてくれたにちがいない、あの善良な坊さんは、私を小部屋へ連れていった。そして、私の話を聞き、いっさいを自分の目でたしかめると、私のきれいな肌が虫くいの跡でおおわれているのを見て、すっかり感動してしまった。彼はすぐに外套を着て、私を下宿へ連れていった。そして、私がどんなありさまになっているかを人喰い婆に見せた。婆さんはいかにも驚いたようなふりをし、罪を女中になすりつけた。しかし、この子のベッドを見たいという坊さんの申し出をこばむことができなかった。私もゆうべいたましい一夜をすごした夜具の不潔さを見て、坊さんと同じように驚いてしまった。鬼婆はいっさいを女中のせいにし、すぐに追い出すとどなった。しかし、ちょうどそこへもどってきた女中が婆さんの叱言《こごと》を我慢できず、面と向かって、罪は婆さんにあるといい、ほかの三人の仲間の寝具をまくってみせた。その不潔さは私のと同じであった。婆さんはそこで女中に平手打ちをくわせたが、女中はさらにはげしい平手打ちを返して、逃げだしていった。先生はこの子をほかの生徒たちと同じように清潔にしてよこさなければ学校へ入れないと婆さんにいいきかせ、私をそこに残して帰っていった。婆さんはひどい叱言を私にあびせたが、その終りに、もういちどこんな騒ぎをおこしたら追い出してしまうといった。
私にはわけがわからなかった。私は自分が生まれ、育てられた家のことしか知らなかった。そこではなにもかも清潔で、万事に手がたいゆとりがあった。ところが、ここでは虐待され、叱言をくらう。だが、自分がわるいとは、どうしても思われなかった。婆さんは私のまえにシャツをひとつ投げ出した。それから一時間たつと、新しい女中が来て、夜具をとりかえ、それから昼食を食べた。
学校の先生は私をおしえるのに特別の心づかいをして、自分のテーブルへすわらせてくれた。私はそうした優遇にふさわしい子だと思ってもらうために、全力をあげて勉強に熱中した。それで、ひと月もたつと、非常にじょうずに字が書けるようになったので、文法のほうへまわされた。
こういう新しい生活と、むりに押しつけられた空腹と、それ以上にパドヴァの空気とが、以前には考えても見なかったような健康を与えてくれた。しかし、そうした健康は空腹をいっそう耐えがたいものにし、私をまるで飢えた犬のようにしてしまった。私は目にみえて大きくなった。毎晩まる九時間、どんな夢にもわずらわされずに、ぐっすり眠った。見る夢といえば、ただひとつ、はげしい食欲をみたすために大きな食卓に向かってすわる夢ばかりであった。うれしい夢は不愉快な夢よりもずっとわるいものだ。
このはげしい空腹は、もしも盗みぐいをする決心をしなかったら、すっかり私を憔悴《しょうすい》させてしまったろう。私はだれも見ていないのをたしかめると、どこででも食べられるものはなんでものみこむことにした。そして、夜陰に乗じて台所へおりて行き、わずか数日のうちに戸棚にあった燻製《くんせい》にしんを五十本ばかり食べた。それから、暖炉の天井につるしてあったソーセージを、不消化もかまわずに全部たいらげた。鶏小屋《とりごや》でせしめた生みたて卵のあたたかいのは、このうえもない栄養物だった。それからさらに、先生の家の台所にまで盗みに行った。スラヴォニアの婆さんは泥坊をさがしだせないのにがっかりして、次から次へと女中を追い出すよりほかに手がなかった。しかし、盗み食いをする機会はいつでもつかめるわけではなかったから、私は骨と皮、まるで骸骨《がいこつ》のようであった。
[祖母に助けを求める]
四、五か月のあいだに、私の進歩はめざましく、先生は私を級長にした。私の任務は同級生三十人の宿題をしらべ、まちがいをなおし、そのできばえによって可とか不可とかいう形容詞をつけて先生に報告することであった。しかし、私の厳格さはながくつづかなかった。彼らはラテン語がまちがいだらけだと、焼いた牛肉や雛鳥《ひなどり》の肉をつかって私を買収し、また時には金さえくれた。しかし、私はできない連中から賄賂《わいろ》をとるだけでは気がすまず、貪欲さをさらにおしすすめて暴君にさえなった。成績のよいものでも、要求する賄賂をことわると、可をつけるのをこばんだ。彼らは私の不正行為に我慢できなくなり、ついに先生にいいつけた。先生は私が恐喝行為をみとめたので、私の任務をといた。しかし、運命は私のひどい修練に終止符を打とうとしていた。
先生は、私を書斎へ連れていって、ふたりきりになると、スラヴォニアの婆さんの家から出て、先生の家へ下宿する気があるなら、うまく取り計らってやるがどうだと聞いた。私がたいへん喜んだので、先生は私に三通の手紙をうつさせた。はじめのはグリマーニ氏に、次のは仲よしのバフォ氏に、最後のは祖母に宛てたものであった。当時、母はヴェネチアにいなかった。六か月の契約期間がまもなく終わろうとしていたので、ぐずぐずしてはいられなかった。その手紙で、私はいままで耐えてきた苦しみを残らず語り、もしもあのスラヴォニア人の手から引き出して、私を引き取ってもいいという先生の家へ下宿させてくれなかったら、死んでしまうかもしれないと書いた。しかし、先生はひと月に二ゼッキーニを要求していると書きそえた。
グリマーニ氏は私には返事をよこさずに、友人のオッタヴィアーニ氏に私がそんな誘惑にかかったのをきびしく叱るようにと命令した。しかし、バフォ氏は祖母に会いに行って、文字の書けない祖母にかわり、おまえはまもなくもっと幸福になるだろうといってよこした。
一週間ののち、死ぬまでたえず私をかわいがってくれた、あのすばらしい祖母は、私が夕食のテーブルに向かおうとしていたときに、ひょっくり目のまえへあらわれた。祖母は下宿の婆さんといっしょにはいってきた。祖母の姿を見ると、私は首っ玉へかじりついて、泣きだしてしまった。祖母もいっしょに泣いて、私を膝のあいだに抱きよせた。そこで、私は気がつよくなり、スラヴォニアの婆さんのまえで、いままでの苦しかったことを、洗いざらいぶちまけた。それから、私の寿命をつなぐ乞食のような食卓を見せてから、ベッドへ連れていった。しまいに、六か月間空腹でくるしみぬいてきたのだから、どこかへご飯を食べに連れていってほしいと頼んだ。ずうずうしいスラヴォニアの婆さんは、あてがわれた金ではあれよりできなかったとしきりに弁解した。それはたしかにそうだった。しかし、下宿屋をはじめ、下宿料がやすいのであずけられた食い盛りの少年たちに、四苦八苦の思いをさせるとは、いったいだれに頼まれてのことなのだ。
祖母は連れて帰るから、身のまわりのものを残らずトランクへつめるようにと、しごくおだやかな口調で婆さんに命じた。私は大好きな銀の食器を見て非常にうれしくなり、すぐにポケットへねじこんだ。そのときの喜びは筆にも言葉にもあらわせないくらいだった。私ははじめて満足感の力というものを痛感した。それを身に感じるものの心に寛恕《かんじょ》を強制し、人の心からそれまでのあらゆる不快を忘れさせるのである。
祖母は私を自分のとまっている旅館へ連れていったが、私があまりにも猛烈にがつがつ食うのにおどろいて、自分はろくになにも食べなかった。やがて祖母が通知しておいたので、ゴッツィ先生がやってきた。祖母はその姿を見てたいへん好感をいだいた。先生はまるまるふとり、謙遜《けんそん》で、礼儀ただしい、二十六歳の美男の坊さんであった。十五分ののちに、いっさいの相談がまとまった。祖母は一年間の下宿料二十四ゼッキーニを払い、領収証を受け取った。しかし、私に司祭の服装をさせたり、また不潔だといって髪を刈らせたために、鬘《かつら》をつくらせるなどの用事があったので、三日間私を自分の手もとにとめておいた。
三日たつと、祖母は私につきそって先生の家へ行き、先生の母親によろしく頼んだ。その母親ははじめ私のためにベッドを送ってよこすか買い与えるかしてほしいといった。しかし、先生が自分のベッドは非常に大きいからいっしょにねてもいいといってくれたので、祖母はその親切にたいへん感謝した。
[女ぎらいの恩師]
先生の家族は母親と父親だった。母親は百姓の生れで、僧侶の息子をもつ資格なんかないと思っていたし、しかもその息子が博士になったので、とても先生を尊敬していた。彼女は顔立がまずく、年をとり、怒りっぽかった。父親は靴屋で、一日じゅう働いていたが、だれとも口をきかず、食卓でも物をいわなかった。彼が社交的になるのは祭りの日だけであった。そういう日には、一日じゅう友人たちと酒場ですごし、夜中に、立っていることもできないくらい酔っぱらって、タッソーの詩をうたいながら帰ってきた。そういう状態になると、彼はねる気になれず、むりにねかそうとすると暴れだした。彼は酒の力をかりなければ頭も働かず分別もつかない男で、だから、しらふのときには、家のなかのことは、どんなこまかいことでも手におえなかった。細君がよく話していたが、彼は教会へ行くまえに十分飲み食いをさせるように気をつかわなかったら、きっと彼女と結婚しなかったろうということだった。
ゴッツィ先生にはまた十三歳になる妹がいた。名前はベティーナといい、きれいで、陽気で、小説が大好きだった。父親と母親は彼女がいつも窓から外を見すぎるといって叱言をいい、先生は先生であまり読書に熱中しすぎると叱った。私は、自分でもなぜだかわからなかったが、最初からその娘が好きになった。情欲は後には私を支配する最大の力をもつにいたったが、その最初の火花を徐々に私の心に投げこんだのはこの娘であった。私が先生の家に下宿してから六か月後には、先生には生徒がひとりもいなくなってしまった。先生が私にばかり注意を集中したので、みんなが去っていったのである。そこで、先生は年若い生徒を寄宿させる、ささやかな私塾をつくろうと決心した。が、その計画が実現するまえに二年の月日が流れさった。
その二年間に、先生は知っていることをぜんぶ私に教えこんだ。それは実際には取るに足りないことであったが、私にはあらゆる学問への手引きとなった。先生はさらにヴァイオリンの弾き方を教えてくれたが、あとで話すような境遇におちたとき、私はこのヴァイオリンでたいへん助けられた。先生はいっこう哲学者ではなかったので、アリストテレス派の論理と、古いプトレマイオス式の宇宙学を教えた。この宇宙学を私はしじゅうばかにし、いろいろの定理をもちだして先生をこまらせたが、先生はそれにたいしてどう答えるべきかわからなかった。しかし、彼の品性は一点も非の打ちどころがなかった。宗教についても、こりかたまり屋ではなかったが、きわめて厳重であった。彼にとってはいっさいが信仰箇条であったから、彼の理解力にはなにごとも解きがたいものはなかった。ノアの洪水は世界全般におこったことで、この不幸以前には、人間は千年の齢《よわい》をかさね、神と言葉をかわしていた。ノアは百年かかって方舟《はこぶね》をつくり、地球は空中につるさがり、神がゼロからつくった宇宙の中心に、しっかり定着していた。私が無の存在とは非常識だといって、それを証明しようとすると、先生はおまえはばかだとどなって、ぴたりと口をとざさせた。彼はよいベッドと半リットルの葡萄酒《ぶどうしゅ》と家庭のにぎやかさを好んだ。しかし、才気や酒落《しゃれ》や批評をきらった。そういうものはともすれば悪口になりやすいからというのである。そして、熱心に新聞を読む人々のおろかさを笑った。彼の言葉によると、新聞は年じゅう嘘をつき、同じことばかりいっていた。彼は不確実なことくらい不都合なものはないといい、その理由で、思考を排斥した。思考は疑念を生ずるからである。
彼が大きな情熱をそそいだのは説教で、その容貌と音声とは説教にはうってつけであった。したがって、彼の説教をききにくるのは女ばかりであったが、女は不倶戴天《ふぐたいてん》の敵だと思っていた。女と話をしなければならないときでも、相手の顔をまともに見なかった。彼によると、肉の罪はあらゆる罪のうちの最大のもので、私がそれはいちばん小さい罪だというとおおいに腹をたてた。彼は説教をギリシャの作家からとった文章でこねあげ、それをラテン語で表現した。それで、私はある日、ギリシャ語もラテン語も、祈りの文句をつぶやきながら説教をきいている女たちにはわかりっこないのだから、イタリア語で表現すべきだといった。しかし彼が私の忠告をきいて憤然と色をなしたので、私はその後二度と口だしする勇気がなかった。彼は私を天才児だといって友人たちに吹聴した。私が文法書の助けをかりるだけで、たったひとりでギリシャ語を読むことをおぼえたからである。
[最初の文学的成功]
一七三六年の四旬節の最中に、母は先生に手紙を書いて、まもなくペテルスブルグへ出発しなければならないので、出発まえに子どもに会いたいから、三、四日のあいだヴェネチアへ連れてきてもらえまいかと頼んだ。この招待は彼を考えこませた。というのも、彼はいちどもヴェネチアを見たことがなく、上流社会とつきあったこともなかったが、おのぼりさんのように思われたくはなかったからである。とにかく、私たちは家族の人々に大形ゴンドラまで見送られて、パドヴァから出発した。
母は上品なうちにも打ちとけた態度で先生を迎えた。しかし、母は太陽のように美しかったので、先生は気の毒にもすっかりあがってしまった。顔をまともに見ずに話をしなければならなかったからである。母はそれに気づいて、少しからかってやろうとした。だが、みんなの注意を一身に集めたのは私であった。以前はうすばかだとばかり思っていた私が、わずか二年という短い期間のあいだに、すっかり垢《あか》ぬけがしたからである。先生はこれもひとえにあなたの力だといわれて、すっかりごきげんであった。母の感情を害した第一のことは、私のブロンド色の髪であった。それは褐色の顔と全然つりあいがとれず、またどちらも黒い眉毛や目の色ともひどく不調和であった。母からなぜこの子の髪をのばしてくれなかったのだときかれると、先生は鬘《かつら》をつかったほうがこの子をさっぱりさせるのに、妹がずっとらくだからだと答えた。みんなはこの返事でさんざん笑ってから、妹さんは結婚しているのかときいた。そこで、私が先生にかわって、ベティーナは十四歳で、町じゅうきっての美人だといったら、みんなはまたやんやとはやしたてた。母はその妹さんへなにかすばらしい贈り物をしたいといったが、それは私の髪を伸ばしてもらうという条件つきであった。先生はそれを約束した。母はとりあえず鬘屋をよんで、私の顔色ににあわしい鬘をとどけさせた。
みんながトランプをはじめた。先生だけは見物にまわった。私は祖母の部屋へ弟たちに会いに行った。フランチェスコは建築の設計図を見せた。私はまあまあの出来だと思うようなようすをしてみせた。ジョヴァンニはなんにも見せなかった。まるでばかみたいなようすだった。ほかの弟たちはまだ小さくてベビー服を着ていた。
夕食になると、先生は母のわきにすわったが、ひどくぶきっちょうだった。もしもあるイギリスの文学者がラテン語で話しかけなかったら、ひとこともいわなかったかもしれない。先生は謙遜《けんそん》して英語はわからないと答えた。それでまた大笑いになった。バフォ氏はイギリス人は英語を読むための規則にしたがってラテン語を読むといって、私たちを窮地から救いだしてくれた。それにたいして私はイギリス人がそういう読み方をするのはまちがいだ。ちょうど私たちがラテン語を読む規則で英語を読んだらまちがいなのと同じだと答えた。イギリス人は私の理屈をすばらしいといって、次のような古い対句を書いて私に読ませた。
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文法家よ、教えられよ。クンヌス(女器)が男性なるに、なにゆえメントゥラ(男器)が女性なるやを。(ヨハネス・セクンドス)
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私はこの対句を大声で読んでから、これこそたしかにラテン語だといった。すると、母はそれはわかっているが、意味を説明しなければだめだといった。私は意味の説明をするだけでは足りない、この対句はひとつの質問なのだから、いまそれに答えてみせると答えた。それから少し考えていて、次のような詩句を書いて見せた。
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そは奴隷がつねに主人の名を名のるべきものなればなり。
[#ここで字下げ終わり]
これが私の最初の文学的成功であった。そのときはじめて文学的光栄への愛が私の魂のなかに蒔《ま》かれたといえる。みんなの喝采が私を幸福の絶頂へおしあげた。イギリス人はおどろいて、十一歳の子どもでこんなにできる子は見たことがないといって、何度も私に接吻し、褒美《ほうび》に時計をくれた。母は好奇心がつよかったので、いまの詩はどういう意味なのかとグリマーニ氏にたずねた。しかし、グリマーニ氏にもわからなかったので、バフォ氏が母の耳に口をつけて教えた。母は私がえらい物知りになったのにびっくりし、金時計をとりに行って、先生に贈呈した。先生はどうしたら大きな感謝をあらわせるかわからず、その場の情景をとても滑稽なものにした。母は不得手な挨拶《あいさつ》をさせないように顔をさし出した。両方の頬《ほお》に一度ずつ接吻をすればいい。上流階級ではごく簡単なことだし、深い意味もないことだ。しかし、気の毒な男はすっかり度を失い、母に接吻するより死んだほうがましだといいたそうなようすだった。そして、頭をうなだれて部屋を出ていった。みんなはねに行く時間まで、先生を休ませておいた。
先生は寝室で私とふたりになると、はじめて自分の気持を自由に打ち明けた。そして、パドヴァへ帰ってからあの詩句も私の返答も発表できないのが残念だといった。
「なぜですか」
「だって、みだらな話だからさ」
「でも、すばらしいですよ」
「さあ、ねよう。その話はもうおしまいだ。きみの返事がりっぱだったのは、きみが詩の意味も知らず、詩をつくることもできないからだ」
詩の意味については、理屈のうえでは知っていた。先生から禁じられていたので、ないしょでムールシウス〔オランダの考古学者。春本『アロイジア・シゲアの対話――愛とヴィーナスの秘技に関する好色的諷刺』をスペイン語からラテン語に訳した。それが一六八○年ごろ刊行され、評判となった〕を読んだからである。しかし、私が詩をつくれたのにおどろいたのはもっともであった。先生は私に韻律法を教えても、自分ではひとつもつくれなかったのである。「何人《なんぴと》もおのが持たざるものを与ええず」という文句は精神の科学ではまちがった公理である。四日後、パドヴァへ帰ろうとしたとき、母から包みをひとつ渡された。それにはベティーナへの贈り物がはいっていた。グリマーニ神父は本を買えといって四ゼッキーニくれた。それから一週間たって、母はペテルスブルグへ出発した。
[最初の恋人ベティーナ]
パドヴァへ帰ると、善良な先生は毎日、何事につけても、母のことしか話さなかった。しかも、それが三、四か月もつづいた。ベティーナは、包みのなかに艶絹《リュストル》と呼ばれる黒い絹を五オーヌ(約六メートル)と手袋を十二ダースみつけてから、妙に私に愛情をしめしはじめた。そして、私の髪の毛の世話をたいへん念入りにやってくれたので、六か月とたたないうちに、鬘をとることができた。彼女は毎日髪をとかしにきてくれた。ときには、私が服を着るのを待っている時間がないといって、まだ寝床にいるうちからやってきた。そればかりか、私の顔や頸《くび》や胸を洗い、子どもらしい愛撫を与えてくれた。それを私は無邪気なものと思わなければならなかったのに、妙にむずむずした気持になるのが、我ながら腹だたしかった。なにしろ、私は彼女より三つも年下であったのだから、なにか下心があって私をかわいがるわけでもないと思われたから、自分の心のうずきにたいしてふきげんになった。彼女が私のベッドにすわって、あんたはふとったといい、それを納得させるために、両手でなでてたしかめるとき、私は非常にはげしい興奮を感じるのであった。しかし、そうした感じやすさをさとられやしまいかとおそれて、なすままにさせていた。そして、彼女があんたの肌はなめらかだというとき、私はくすぐったくて身をひかなければならなかった。私は彼女にたいしても同じようにしてやる勇気がないのを、我ながら不甲斐なく思ったが、そんな気持をもっていることを見やぶられないのが嬉しかった。私の顔を洗ってしまうと、彼女は私を「あたしのかわいい坊や」と呼んで、とてもやさしく接吻してくれた。心のなかでは接吻をかえしたくてたまらなかったが、その勇気がなかった。しまいに、彼女があんたははにかみやだといって笑ったので、私もずっとじょうずに接吻を返しはじめた。しかし、ひどく興奮して、もっとさきへ行きそうになると、すぐにやめてしまった。そして、なにか捜すようなふりをして、顔をそらせた。すると、彼女は出ていった。彼女が出ていってしまうと、私は天性のおもむくままにふるまえなかったのに失望落胆した。彼女のほうはやすやすと私を思うままにしているのに、私のほうは衝動をおさえようと骨をおっているのがばからしく思われ、これからは行き方をかえようと、そのたびに決心するのであった。
秋のはじめに、先生は三人の子どもを自宅へ下宿させた。そのうちのひとりで十五歳になるコルディアーニというのが、ひと月とたたないうちに、ベティーナと非常に仲よくなったように見えた。それに気がつくと、私はいままで全然思っても見なかったような気持になった。それは嫉妬でも憤慨でもなく、おさえがたい高尚な軽蔑《けいべつ》であった。というのも、コルディアーニは百姓の倅《せがれ》で、無知で、下品で、才気も教養もなく、私と対抗できるような子ではなかった。私よりすぐれたところといえば、思春期の年齢になっていることだけだが、そのために私よりも好かれるとは思われなかった。私の若い自尊心は彼よりも私のほうがずっと値うちがあるとささやいた。私は自分ではそれと気づかずにベティーナを愛していたのだが、そのベティーナにたいして、誇りをまじえた軽蔑の念を抱くようになり、それをはっきり身ぶりにあらわした。ベティーナは私のベッドへ髪をとかしにくるとき、その愛撫を受ける態度のちがいから、すぐに私の気持の変化を察した。私は彼女の手をおしのけ、接吻にも答えなかった。ある日、彼女は腹をたてて、私の態度が変わった理由をたずねたが、返事もしなかったので、さも気の毒そうに、あんたはコルディアーニにやきもちをやいてるのねといった。この非難は私の人格を侮辱する悪口のように思われた。それで、コルディアーニときみとはとてもお似合いだと思うといってやった。彼女は微笑しながら出ていったが、心のなかでは私の言葉にたいして腹いせをする方法を考えていたらしい。それには私の嫉妬心をかきたてるのがいちばんだと思ったが、そうするためには私に恋心を燃やさせる必要があるので、そういうふうに仕向けはじめた。
彼女はある朝自分で編んだ白い長靴下を持って私のベッドへやってきた。そして、髪をとかしてから、靴下のどこかにぐあいのわるいところがあるかもしれないし、こんどつくるときの参考にもしたいから、自分ではかせてみなければならないといった。そのとき、先生はミサを唱えに行っていた。彼女は靴下をはかせながら、あんたの股《もも》がよごれているといい、私のゆるしも求めずに、さっさと洗いはじめた。
私は恥ずかしがっているように思われるのが恥ずかしかったし、どんな結果になるのか見当もつかなかった。彼女は私のベッドにすわり、清潔への熱意をどこまでもおしすすめた。彼女の好奇心は私にたいへん快感を覚えさせたが、その快感はこれ以上大きくなれない状態に行きつくまでとまらなかった。やがて気持がしずまると、私はとんでもない悪事をしてしまったと考え、彼女にあやまらなければならないと思った。ベティーナはそんなことを予期していなかったので、少し考えてから、鷹揚《おうよう》な口調で、いっさいの責任はあたしのほうにある。けれど、もう二度とこんなことはしまいといった。彼女が帰っていってから、私はすっかり考えこんでしまった。
私の反省は胸にせまるものがあった。彼女を疵物《きずもの》にした。両親の信頼を裏切った。友愛の法則をやぶった。最大の罪をおかしたと、思われてならなかった。彼女と結婚しなければつぐなうことのできない罪だった。しかし、私のように破廉恥《はれんち》で、彼女にふさわしくない男を夫にする、そんな決心を彼女がするかどうかわからなかった。
こうした反省のあとで、私は救いのない悲哀におそわれ、それが日に日にふかくなっていった。ベティーナが私のベッドへ来るのをやめてしまったからである。最初の一週間がすぎると、彼女の決心は正しいもののように思われ、私の悲哀は日ならずして完全な愛になったかもしれない。しかし、コルディアーニにたいするこの娘の態度が私の心に嫉妬の毒をそそぎこんだ。もっとも彼女が私とともにおかした罪をコルディアーニを相手におかそうとは思ってもみられないことではあったが。
こうした反省のなかで、私は彼女が私とあんなことをしたのは自発的だったと確信し、強い後悔から私の寝室へ訪ねてこられずにいるのだと想像した。私はこう考えて嬉しくなった。彼女が私に恋しているのだと推量したからである。私はこうしたつじつまのあわない推理のなかで、手紙を書いて彼女の恋心をかきたてようと決心した。
そして、短い手紙を書いたが、その手紙で、私は、彼女が罪をおかしたと考えていようとも、または彼女の自尊心が要求するのとは反対の感情を私がもっているように疑っているとしても、とにかく彼女の気持をやすらかにさせようとつとめた。その手紙はわれながらたいした傑作のように見え、自分を大好きにさせて、コルディアーニよりも私をえらばせるのに十分だと思われた。コルディアーニなんか、動物同然のやつで、彼女が私と彼のどちらをとろうかと一瞬でもためらう値うちなんかありもしなかった。彼女は手紙を受け取って三十分たってから、あしたあんたの部屋へ行くわと口頭でいったが、来なかった。私は侮辱されたような気持になったが、昼食のとき、隣のお医者のオリヴォさんのところで、四、五日中にダンス・パーティーがあるはずだが、あんたに女の子の服をきせて連れていきたいといって、私をおどろかせた。食卓についていた連中がみんな拍手喝采したので、私も承知した。そういうことになれば、ふたりはお互いに意志も疎通して、親しい友だちになれるだろうし、官能の弱点による不意うちからもまぬがれるだろうと考えた。ところが、思いがけない突発事件がおこって、ダンス・パーティーへも出られなくなるし、とほうもない悲喜劇がもちあがってしまった。
[裏切られた夜]
ゴッツィ博士の名付け親に、田舎で裕福に暮らしている老人がいたが、長い病気のあとで死期が近いことを知り、先生のところへ馬車をよこして、父親といっしょに自分の死にたちあい、魂が神のみもとへ行けるように斡旋《あっせん》してもらいたいと頼んできた。年老いた靴屋はまず徳利を一本からにすると、服を着かえて、息子といっしょに出かけた。
私はそれをみると、ダンス・パーティーの夜まで待たずに、すきをねらって、ベティーナに、外の廊下に向かったドアをあけておくから、みんなが寝しずまったらすぐに来るようにとささやいた。ベティーナはきっと行くといった。彼女のいつもねる部屋は一階で、父親の部屋と壁ひとえで隣りあっていた。先生は留守。私は広い部屋にひとりでねていた。三人の下宿人は穴倉に近いひと部屋に住んでいた。だから、不時の出来事をおそれる心配もなかった。私はいよいよ待望のときにたどりついたと思って、たいへん喜んだ。
部屋に引きあげると、正面のドアを閂《かんぬき》でしめ、外の廊下に向かったドアは、ベティーナが押したらすぐ開くように、かぎをかけずにおいた。それから、服をぬがずに、蝋燭《ろうそく》を消した。小説のなかで読むこうした場面は、おおげさに書いてあると思われがちだが、そうではない。アリオストがアルチーナを待つルッジェロについていっていることは、自然にのっとった美しいポルトレーである。
私はたいして気をもまずに、夜中まで待っていた。しかし、二時がすぎ、三時がすぎ、四時がすぎても娘が姿を見せないので、非常に腹がたってきた。綿雪がふっていたが、私は寒さよりも怒りで死ぬ思いであった。夜明けの一時間まえ、私は犬が目をさますのをおそれ、靴をぬいで下へおりていこうと決心した。階段の下へおり、ベティーナの部屋のそばまで行ってみようと思ったのである。もしもベティーナが部屋から出ているなら、ドアはあいているはずであった。だが、ドアはしまっていた。内側からかぎをかけてあるにちがいない。ベティーナは眠っているのかもしれない。だが、彼女を起こすには、ドアをつよくたたかなければならない。そうすると、犬が吠えだすだろう。そのドアと彼女のドアのあいだには、まだ十ないし十二歩の距離があった。私は悲しみに打ちのめされ、どうしたらよいかわからず、最後の階段に腰をおろした。夜明けごろ、私は寒さにこごえ、手足がかじかみ、がたがたふるえながら、自分の部屋へ帰ることにした。もしも女中に見つかったら、気が違ったと思われそうだったからだ。
そこで、私は立ちあがった。が、そのとき、部屋のなかで音がしたので、ベティーナが出てくるにちがいないと思って、ドアのほうへ行った。ドアがあいた。しかし、出てきたのはベティーナではなくコルディアーニだった。彼はいきなり私の腹をはげしくけった。私はあお向けにひっくりかえり、雪のなかにうずまってしまった。彼はそれから自分の部屋へかけこんでドアをしめた。仲間のフェルトル人の連中とベッドをならべている部屋である。
私はベティーナを締め殺してやろうと思って、すぐにはねおきた。あの瞬間、私の忿怒に刃向かえるものはなにもなかったろう。だが、ドアはしまっていた。私はドアをはげしくけった。犬が吠えた。私は自分の部屋へあがってドアをしめ、魂と身体の力をとりもどすために寝床へはいった。まったく半死半生のありさまであったからである。
裏切られ、侮辱され、虐待され、恋を得て勝ちほこるコルディアーニの愚弄の的となった私は、三時間のあいだ手ひどい復讐の計画をめぐらした。あのみじめな瞬間には、ふたりを毒殺するのもなんでもないように思われた。まず先生のいる田舎へ行って、なにもかもぶちまけてしまおうという卑怯な計画もたてた。なにしろまだ十二だったので、私の精神は名誉という人為的な感情から生まれる英雄的な復讐計画をたてるだけの冷静な能力をもっていなかった。この種の事件には私はまだずぶの素人《しろうと》で、はじめてかかりあったのであった。
こういうことをとつおいつ考えていたとき、私の部屋の内側のドアをたたく音がして、ベティーナの母親のしゃがれた声が、娘が死にそうだからすぐにおりてきてほしいと頼んだ。
彼女がぶっ殺してやらないうちに死んでしまうのは残念だったが、私は起きて、下へおりていった。彼女は父親のベッドのなかで、家族一同にとりまかれ、ひどい痙攣《けいれん》にもだえていた。着物もろくに着ていず、右に左にもがき苦しんだ。弓なりになったり、くの字にまがったり、出鱈目《でたらめ》に拳骨《げんこつ》をふりまわしたり、足でけりつけたり、はげしくあばれて、おさえつけようとする人々の手をはねとばした。
こうした光景を見ながら、私は心のなかが昨夜の事件でいっぱいだったので、どう考えたらいいのか見当もつかなかった。私は人間の天性やその策略についてはなにも知らなかった。それで、自分が冷静な見物人としてそこに立っており、また殺してしまいたい侮辱してやりたいと思うふたりの人間をまえにしても気持が落ちついているのに、われながらおどろいてしまった。一時間ばかりたつと、ベティーナは眠った。
産婆とオリヴォ医師が同時にやってきた。産婆はヒステリーの発作だといった。医者は子宮の問題ではないといい、安静と冷水浴を命じた。私はなにもいわずにいたが、腹のなかではふたりを軽蔑していた。この娘の病気が昨夜の労働からか、私にコルディアーニの姿を見られた恐怖から来たにちがいないと知っていたからである。私は復讐を先生の帰るまでのばすことにした。ベティーナの病気が仮病だとはとうてい思われなかった。彼女が仮病でこれだけあばれる体力をもっていようとは考えられなかったからである。
やがて自分の部屋へ帰ろうとしてベティーナの部屋を横切ったとき、ベッドの上に彼女のハンドバッグがおいてあったので、あけてみようと思いついた。すると、手紙が一通出てきた。それがコルディアーニの筆跡だと見てとったので、自分の部屋で読んでみることにしたが、彼女の軽率さにはおどろいてしまった。もしも母親に見つけられたら、母親は字が読めないので、息子の先生に渡して読ませるかもしれないからだ。彼女はきっと頭がどうかしていたにちがいないと私は思った。が、それを読んでみて、こんどは私も頭がどうかしてしまった。
「きみのお父さんは出かけた。いつものようにドアをあけておく必要はない。ぼくは夕食がすんだらすぐきみの部屋へもぐりこもう。そして、きみのもどるのを待っていよう」
私は少し考えてから、急に吹きだしたくなった。こんなふうにまんまと手玉にとられては、恋の病いもけろりとなおってしまったような気がした。コルディアーニの罪は大目に見てやってもいいが、ベティーナは見さげはてた女だと思われた。そして、将来の生活にたいしてすばらしい教訓になったと、心ひそかに喜んだ。またベティーナにしても、私よりコルディアーニをえらんだのはむりもないことだと気がついた。私はまだ子どもだが、コルディアーニはもう十五歳なのだから。しかし、腹へ加えられた一撃を思いだすと、やっぱりコルディアーニのことがしゃくにさわってたまらなかった。
十二時になった。ひどく寒かったので、私たちは台所で食事をすることにしたが、ベティーナがまた痙攣をおこした。私以外、全部のものが駆けつけた。私は落ちついて食事をすませ、それから勉強にいった。夕食のときに見ると、ベティーナのベッドを台所へはこび、母親のベッドとならべておいてあった。その夜はひと晩じゅう物音が聞こえ、翌日また発作がおこったときも大騒ぎだったが、私はいっさい無関心をよそおった。
夕方、先生が父親といっしょに帰ってきた。コルディアーニは私の復讐をおそれ、きみはどうするつもりだとききにきたが、ナイフをもって向かっていくと、あわてて逃げだした。私はあのふしだらな事件を先生に話そうとは、一瞬も考えたことがない。私の性格では、そんな計画は怒りにかられた刹那《せつな》しか起こりえないことであった。≪わしは速やかに怒り、また速やかに鎮まる≫(ホラティゥス『書翰集』)
[ベティーナの悪魔祓い]
翌日、私たちが勉強をしていると、先生の母親がはいってきて、長い前おきのあとで、ベティーナの病気は知合いの魔法使いの投げかけた呪いによるにちがいないと息子にいった。
「そうかもしれないけど、見当ちがいじゃありませんか。その魔法使いってだれですか」
「家に来ているお手伝いの婆さんだよ。わたしちゃんとたしかめたんだよ」
「どういうふうにして?」
「箒《ほうき》の柄を二本ぶっちがいにして、ドアをふさいでおいたんだよ。部屋へはいるにはそれをどかさなければならないのだが、あの婆さんはほかのドアからはいってきたのさ。魔法使いでなかったら、あれをどかしたにちがいないよ」
「それはどうかわかりませんね、お母さん、とにかく、その婆さんをここへよこしてくださいよ」
そこでお手伝いの婆さんが呼ばれて、先生の尋問をうけた。
「どうしておまえはけさ、表のドアからわたしの部屋へはいらなかったのだい」と、彼はきいた。
「どういうことをおききになりたいのか、あたしにはわかりませんね」
「ドアのまえにX形にくんだ聖アンドレアの十字架を見なかったかい?」
「その十字架はなんですか」
「おまえはわざと白ばっくれているんだよ」と、母親がいった。「まえの木曜日に、おまえどこへとまったの?」
「お産をした姪のところへとまりました」
「嘘ばっかり。きっと魔法使いの夜の宴会へ行ったにちがいない。おまえは魔法使いだからね。そして、わたしの娘に魔法をかけたんだろ」
この言葉をきくと、哀れな老婆は母親の顔へ唾《つば》をふっかけた。母親は婆さんをたたきのめそうと杖をふりあげた。先生は母親のところへ駆けよって、その手をおさえた。しかし、婆さんが近所の連中をけしかけようと、大声をあげて階段を駆けおりていったので、先生はそれを押えるために後を追わなければならなかった。そして、金をやってごきげんをとり気分をしずめた。それから、彼は僧服に着かえて、妹に除魔の修法を行ない、はたして身体のなかに悪魔が巣くっているかどうかしらべようとした。
いままで見たこともない摩訶《まか》不思議な光景がおおいに私の興味をひいた。彼らはみんな狂人かばかのように思われた。ベティーナの身体に悪魔がはいっているなんて、考えただけでも吹きだしたくなるくらいであった。私たちはそれからベティーナのべッドのそばへ行ってみたが、ベティーナはまるで呼吸がとまったように見え、先生がお祓《はら》いをしてもなんにもならなかった。そこへオリヴォ医師がひょっくり顔をだして、わしはここではよけい者かと聞いた。先生はもしも信仰をお持ちならけっしてそんなことはないと答えた。すると、医師は福音書に書いてある奇跡以外は信じないといって帰っていった。先生は自分の部屋にもどった。私はベティーナとふたりだけであとへ残ると、ベティーナの耳へこうささやいた。「勇気をだして、早くおなおりよ。ぼくはなにもいわないから、安心しておいでよ」彼女は返事をせずに向うへ寝返りをうち、その日は二度と痙攣をおこさなかった。私は彼女の病気をなおしたと思った。しかし、翌日、痙攣が頭へのぼり、囈語《うわごと》でラテン語やギリシャ語をめちゃくちゃにつぶやいた。そこで、もう病気の性質を疑うものはだれもいなかった。母親は外へ出ていったが、一時間もすると、パドヴァでいちばん有名な悪魔祓いの行者を連れてきた。それは顔つきのひどく醜いカプチン僧で、名前を修道士プロスペロ・ダ・ボヴォレンタといった。
修道士の姿を見ると、ベティーナはげらげら笑いだして、ひどい悪態をわめきちらした。居合わせた人々はみんな大喜びだった。カプチン僧をそんなふうにやっつけられるのは、よほど大胆な悪魔でなければできないことだからであった。しかし、カプチン僧は物知らずだ、ペテン師だ、鼻もちならないインチキ屋だとののしられると、悪魔を打ちこらすのだといって、大きな十字架でベティーナをたたきはじめた。そして、ベティーナが溲瓶《しびん》をつかんで身がまえ、彼の頭へ投げつけようとするまでやめなかった。ほんとに溲瓶を投げつけたら、どんなにおもしろかったろう。
「もしも悪口をいってあんたに腹をたてさせたのが悪魔だったら、その悪魔をあんたの言葉でやっつけたらいいじゃないの。おばかさんねえ!」と、彼女はカプチン僧にいった。「けれど、それが悪魔でなくてあたしだったら、このうすのろさん、あたしのいったことを尊敬しなくちゃいけないわ。そして、さっさとお帰りなさい」
その言葉にゴッツィ先生が顔をあからめたのを私は見てとった。
カプチン僧は頭のてっぺんから足のさきまでこわばらせると、はげしい除魔の祈りを読みあげてから、悪の精霊に名前を名のれときびしい言葉で命令した。
「わしの名前はベティーナだ」
「いや、それは洗礼を受けた娘の名前だ」
「それでは、悪魔は男の名前でなければいけないと思っているのか。無知|蒙昧《もうまい》のカプチン僧よ、よくおぼえておくがいい。悪魔というものは性をもたない天使なんだぞ。しかし、おまえはこの子の口をかりてしゃべっているのが悪魔だと思ってるのだから、なんでもほんとのことを答えると約束しろ。そうしたら、わしもおまえの悪魔|祓《はら》いにしたがうと約束するから」
「よろしい。なんでもほんとのことを答えると約束しよう」
「おまえはわしよりも物知りだと思っているのか?」
「いや、だが、いとも聖なる三位一体の御名により、またわしの神聖なる資格によって、おまえよりもずっと力づよいと思っている」
「もしもおまえがわしよりも力がつよいなら、わしがおまえのほんとのことをしゃべりたてるのをとめてみろ。おまえはそのひげを自慢している。そして、一日に十ぺんも櫛《くし》を入れるんだろ。だから、この身体からわしを追い出すために、ひげを半分切れといわれても、切りゃしまい。くやしかったら、そのひげを切ってみせろ。そうしたら、この身体から出てやる」
「この大嘘つきめ! きさまの刑罰を何倍にもしてやるぞ」
「そんなこと、できるものか」
ベティーナはこういうと、げらげら笑いだした。私もつりこまれて吹きだした。すると、カプチン僧は私をにらみつけて、この子には信仰心がない、外へ追い出さなければならぬと先生にいった。私はご推量のとおりだといって外へ出ていったが、出がけに、カプチン僧が接吻しろと命じながら差し出した手へ、ベティーナが唾《つば》を吐きかけるのを見た。
ベティーナはまったく頭のいい、えたいのしれない娘だ。さんざんカプチン僧をへこませたが、みんなは彼女の言葉を悪魔のせいにしていたので、だれもおどろかなかった。しかし、どういう目的でそんなことをするのか、私には見当もつかなかった。
カプチン僧は私たちといっしょに夕食を食べ、愚にもつかぬことをしゃべりたててから、悪魔につかれた娘に祝福を与えようと、ベティーナの部屋へはいっていった。すると、ベティーナは薬剤師のよこした黒い薬のはいっている瓶を彼の頭にたたきつけた。カプチン僧のそばにいたコルディアーニはとばっちりをうけて、薬を身体にあびてしまった。私は溜飲《りゅういん》のさがる思いであった。ベティーナはまったくうまい機会をつかんだものだ。だが、みんなはそれも悪魔のせいにした。プロスペロ神父は帰りがけに、あの娘はたしかに悪魔につかれているが、その悪魔を祓う恩寵《おんちょう》を神はわしにお与えくださらないもようだから、ほかの祈祷師をさがさなければいけないと先生にいった。
カプチン僧が帰ると、ベティーナは六時間ばかりのあいだ、たいへん静かにしていた。そして、夕食になると、のこのこ起きてきて、私たちといっしょに食卓についた。みんなは意外のことにびっくりしてしまった。しかし、彼女はもうなんともないといって、父や母や兄を安心させてから、あしたはダンス・パーティーだから、夜が明けたら女の子の髪を結いにあんたの部屋へ行くと私にいった。私は礼をいったが、たいへんな病気だったのだから、大事にしなければいけないと注意した。彼女はやがてねに行ったが、私たちはいつまでも食卓からはなれずに彼女のことを語りあった。それからねに行くと、ナイト・キャップのなかにこんな手紙がはいっていた。
「女の子の恰好《かっこう》をしてダンス・パーティーへ行くか、さもなければ、あんたが泣きだすような芝居を見せてあげるわ」
この手紙にたいし、私は先生が眠ったのを見すまして、次のような返事を書いた。
「ぼくはダンス・パーティーへは行きません。きみとふたりきりになる機会をいっさいさけようときめたからです。きみは悲しい芝居を見せてやるとおどかしたが、きみはとても頭がいいから、きっとその言葉どおりにするでしょう。しかし、ぼくの心をいためつけるのは勘弁してください。きみをお姉さんのように愛しているのですからね。ぼくはきみをゆるし、いっさいを忘れようと思っています。いとしいベティーナよ。ここに一通の手紙を添えておきます。これが手へもどるのを見たら、きっときみは喜ぶと思います。こんな手紙をハンドバッグのなかへ入れて、ベッドの上へほうりだしておくなんて、ほんとにあぶないことだったとおわかりになるでしょう。これを返してあげたことで、きっとぼくの愛情を信じてくれると思います」
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第三章
[美男の修道士]
ベティーナは例の手紙がだれの手に落ちたかわからないので気をもんでいるにちがいない。だから、その心配から引き出してやれば、友情のしるしとして、これより確実なものは与えられないだろう。しかし、彼女をひとつの心痛から解放してやろうという私の寛大さは、彼女にもっとひどいべつの心痛を与えるにちがいない。不行跡を私に見つけられたことがはっきりするからである。コルディアーニの手紙は彼女が毎晩彼を迎えていたことを証明している。そうとすれば、おそらく私をたぶらかすために思いついたにちがいない、あの茶番劇も無効になる。そこで、彼女のこうした煩悶《はんもん》をやわらげてやりたいと思って、翌朝、彼女のベッドをたずね、私の返事といっしょに例の手紙を渡した。
この娘の才気|煥発《かんぱつ》には、私はすっかり感心し、軽蔑の気持はもうどこかへ消えてしまった。私は彼女を体質にあやつられている女だと考えた。彼女は男が好きなのだ。彼女を気の毒な女と見るのは、ただその結果によるだけだ。私は事実の実際の姿をながめるつもりでいたので、恋する男としてではなく、理性的な男として見てみようと決心した。例のことは彼女にとっては赤面すべきことだが、私にとってはそうではない。私の知りたいのは、フェルトル出身の生徒たちも彼女とねたかどうかということだけであった。それはコルディアーニのふたりの仲間である。
ベティーナは昼のあいだはたいへん陽気にふるまっていた。そして、夕方ダンス・パーティーへ行くために着がえをしたが、嘘かまことか、急にぐあいがわるくなり、床につかなければならなかった。家じゅうがまた大騒ぎになった。だが、私はいっさい知りぬいているので、だんだん手のこんでくる、新しい場面を待ちもうけるだけであった。私は彼女をぐっとおさえつけてしまったが、それは彼女の自尊心にとってはとうてい耐えられないことだろう。私は青年期に達するまえに、こういうりっぱな教訓をさずけられていたにもかかわらず、六十の年まで女にだまされつづけてきた。十二年まえにも、守護神のご助力がなかったら、ウィーンで若い尻軽女に惚れこみ、結婚してしまったかもしれない。いまではこうした種類の狂気沙汰とはすっかり縁をきった。だが、あきれたことに、内心ではそれをくやしがっている。
翌日になると、ベティーナにとりついていた悪魔は彼女の理性までうばってしまった。家じゅう悲嘆にくれた。先生は妹の囈語《うわごと》には冒涜《ぼうとく》の言葉がある。きっと悪魔につかれているにちがいない、プロスベロ神父を手ひどくやりこめたのも、たんなる気違いとしてはありえないことだと私にいった。そして、妹をマンチア神父の手にゆだねようと決心した。マンチア神父はジャコバン派つまりドミニコ教団の有名な祓魔《ふつま》師で、悪魔につかれた娘は残らずなおしたという評判をとっていた。
日曜であった。ベティーナは十分に昼食をとり、一日じゅう上きげんであった。夜中ごろ、父親が立っていられないほど酔っぱらって、タッソーをうたいながら家へもどってきた。そして、娘のベッドへ行くと、やさしく接吻してから、おまえは気が違ってはいないといった。彼女はお父さんも酔っぱらってはいないと答えた。
「おまえは悪魔につかれてるのだよ、かわいい娘や」
「そうよ、お父さん。あたしの病気をなおせるのはお父さんだけよ」
「よし、それじゃ、なおしてやる」
彼は神学者のようにしゃべりはじめ、信仰の力や父親の祝福の力について理屈をこねた。それから、マントをぬぎすてると、片手で十字架をつかみ、片手を娘の頭にのせた。そして、いつもとんまでふきげんで怒りっぽい細君さえ大口あいて笑いこけたほど、滑稽な口調で悪魔に語りはじめた。笑わないのはふたりの役者だけで、そのために場面がいっそう愉快になった。ひどい笑い上戸《じょうご》のベティーナが一所懸命に我慢して、生まじめにやっているのには感心した。ゴッツィ先生も笑ったが、なんとかしてこの茶番劇をやめさせようとやきもきしていた。父親の支離滅裂な文句が祓魔術の神聖にたいする冒涜であったからである。しまいに素人祓魔師は悪魔は今夜ひと晩じゅう娘を静かにしておくだろうと確信ありげにいって、ベッドへはいった。
翌日、私たちが食卓から立ちあがったとき、マンチア神父がはいってきた。先生は家族一同をひきつれて、神父を妹のベッドへ案内した。私は修道士の顔を見、ようすをさぐるのにすっかり気をとられて、まるで有頂天《うちょうてん》のていであった。その容貌は次のとおりである。
身の丈がたかく堂々としており、年はおおかた三十がらみ、髪の毛はブロンドで、目は青。顔つきはベルヴェデールのアポロ〔ヴァティカン所蔵の有名なギリシャ彫刻〕のようであった。あのアポロとちがうところは勝利も自負もしめしていないことだけであった。まぶしいほど色が白く、血の気がうすく、そのために白い歯ののぞく洋紅色の唇をいっそうさえざえしくみせた。痩せてもいず、太ってもいず、顔にみなぎる悲痛な表情が人柄のやさしさをいっそうひきたてた。歩き方がおそく、内気そうなようすで、非常に謙遜な精神の持主であろうと推量された。
私たちがはいっていったとき、ベティーナは眠っていた。あるいは眠っているふりをしていたのかもしれない。マンチア神父はまず聖水|刷毛《はけ》をつかみ、浄《きよ》めた水にひたした。ベティーナは目を開いて、修道士を見、すぐに瞼《まぶた》をとじた。それから、また目をひらき、少しよく修道士をながめ、あお向けになり、両腕を下へ垂らし、首をきれいにかしげて、眠りにおちた。そのようすは見るからに心なごむ風情《ふぜい》であった。
祓魔師はそばに立って、ポケットから典礼定式書を取りだし、輪袈裟《わげさ》を出して首にかけ、また聖遺物匣《せいいぶつばこ》を出して眠っている娘の胸にのせた。それから、聖者のような態度で、私たちみんなにひざまずいてほしいといった。病人が悪魔にとりつかれたのか、ふつうの病気にかかったのか、神に祈って教えてもらおうというのであった。彼は私たちを三十分もひざまずかせたまま、小声で経文を読んだ。ベティーナは身動きもしなかった。
修道士は、そういう役割に疲れたのだと思うが、先生に離れたところへ行って聞いてほしいと頼み、ふたりで別室へはいっていった。が、十五分もすると、ベティーナの高笑いにさそわれて、その部屋から出てきた。ベティーナはふたりがまた姿をあらわすのを見ると、くるりと背を向けてしまった。マンチア神父はにっこり微笑し、何度も聖水刷毛を聖水盤のなかにひたして、気前よく私たちみんなに振りかけた。そして、帰っていった。
先生の話では、マンチア神父はあしたまたやってきて、もしも悪魔がついているのなら、三時間で追いはらおう。しかし、気が違っているのだったら、引き受けかねるといったそうだ。母親はあの聖者は娘を救ってくれるにちがいないと確信し、死ぬまえに聖者をおがむ恩寵をさずけてくださったことを神に感謝した。
翌日のベティーナの取り乱し方はすばらしかった。まず詩人でも思いつきそうな、奇想天外の文句をしゃべりはじめ、美男の祓魔師があらわれてもやめようとしなかった。祓魔師はものの十五分もそれを楽しんでいてから、寸分のすきもなく身じまいをととのえると、私たちに出ていってほしいといった。私たちはすぐその命令にしたがった。ドアはあけっぱなしになっていたが、それはどうでもいいことで、だれもはいっていく勇気なんかなかった。私たちは三時間というながいあいだ、ただ陰鬱な沈黙に耳をかたむけるだけであった。十二時になると、祓魔師が呼んだので、私たちははいっていった。ベティーナは悲しげな、とても落ちついたようすであった。修道士は荷物をかたづけていた。彼は希望があるといい、ようすを知らせてもらいたいと先生に頼んで帰っていった。ベティーナはベッドのなかで昼食を食べ、夕食は食卓についた。翌日はたいへんおとなしかった。だが、次に話すような事件がおこって、悪魔につかれたのでも気が違ったのでもないと私に確信させた。
[小悪魔の策略]
聖母マリアお潔めの祝日(二月二日)の前々日であった。先生は従来の習慣から、教区の教会で私たちに聖体を拝受させた。しかし、告解はパドヴァのドミニコ派が管理しているサン・アウグスティーノ教会へ私たちを連れていくことにしていた。そして、食卓にならんだとき、あさっての支度をしておくようにといいきかせた。しかし、母親は「それよりみんなでマンチア神父さまのところへ行ったほうがいいよ。あんなにりっぱな聖者さまから赦免をいただくなんて、とてもすばらしいことだよ。わたしもあの聖者さまのところへ行くつもりだよ」といった。コルディアーニとフェルトル出身のふたりはそれに同意した。私はなにもいわなかった。
この計画は私には気に入らなかった。しかし、土壇場になったら実現させないようにしようと決心して、しらばっくれていた。私は告解の秘密がまもられることを信じていたので、虚偽の告解をすることはできなかった。しかし、懺悔僧をえらぶのは自分の自由だと知っていたから、マンチア神父のところへ行って、ある娘とのあいだに起こったことをしゃべるなんてばからしいことはとうていできなかった。それがベティーナ以外の娘でありえないことを、神父はすぐに見ぬいてしまうだろうから。だが、コルディアーニはきっと洗いざらいしゃべってしまうにちがいない。そう思うと、私は心配でたまらなかった。
翌日、朝はやく、ベティーナは小さい胸飾りを渡しに私のベッドへやってきて、次の手紙をすべりこませた。
「あたしの生活を憎んでも、あたしの名誉と、あたしが求めている平和の影とを大事にしてちょうだい。あんた方のうちのだれもマンチア神父のところへ告解に行ってはいけないわ。それをお流れにできるのはあんただけよ。どんな方法をとったらいいか、それはいわなくてもわかってるわね。あんたがあたしにたいして友情をもっているというのがほんとうかどうか、この際、はっきり見せてくださいよ」
この手紙を読んで、哀れな娘がどんなに気の毒に思われたか信じられないほどだ。それでも、私は次のような返事を書いた。
「告解にはおかすことのできない規則がいろいろあるが、それにもかかわらず、きみはお母さまの計画で気をもんでいるにちがいないと思う。だが、その計画をお流れにさせるのに、なぜコルディアーニよりもぼくを当てにしているのか、ぼくにはさっぱりわからない。コルディアーニは公然と賛成したんだからね。ぼくが約束できるのは、ただ仲間にはいらないということだけだ。だが、ぼくはきみの恋人にたいしてはなにもできない。きみからじかに話すがいいよ」
すると、彼女はまたこう書いてよこした。
「あたしはあたしを不幸におしこんだあの悲しい夜以来、コルディアーニとは口をきいたことがないの。たとえ彼にものをいうことで幸福になれるときがくるとしても、もう二度と言葉をかけないつもりでいます。あたしは命と名誉とをまもるのに、ただあんただけを頼りにしているのです」
私はいくらも読んだ小説のなかで、きわだってすばらしい女だといわれる女をいろいろ見たが、ベティーナはそのだれよりも驚くべきものだ。私はベティーナから類例のないあつかましさで翻弄されているように思った。もう一度私を鎖でしめつけようとしているにちがいない。だから、彼女のことには全然無関心だったが、それにもかかわらず、あんたにしかできないといって頼まれた以上、彼女の望む寛大な勤めをはたしてやろうと決心した。彼女は成功まちがいなしと信じている。だが、いったい、どういう学校で、あれほど男心を知りつくす勉強をしたのだろう。きっと小説で習ったにちがいない。小説を読むことは多数の娘にとって堕落の原因になるといわれている。しかし、よい小説を読むことは、若い人々に親切な心づかいと社会道徳の訓練とを教えるものである。
こうして、私はあの娘が私ならできると信じている親切な取り計らいをしてやることにきめ、ベッドにあがろうとしたとき、先生にこうたのんだ。私は良心的に考えて、マンチア神父のところへ告解に行くのを、勘弁してくださるようにお願いしなければならないが、そのためにみんなとべつになるのも好ましくないのですと。先生はきみの考えている理由は十分に察しがついたから、みんなをサン・アントニオ教会へ連れていくといってくれた。私は喜んで彼の手に接吻した。事柄はそのように実行された。十二時に食卓へ出てきたベティーナは顔に満足そうな表情をたたえていた。
私は霜焼けが割れてしまったので、床についていなければならなかった。先生はほかの仲間をみんな連れて教会へ出かけた。家のなかにひとり残されたベティーナは私の部屋へ来て、ベッドに腰かけた。私もそれを予期していた。いよいよ万事を釈明しあう時期がきたのだ。私は内心不愉快ではなかった。
[信じがたい告白]
彼女はまずこんな機会をえらんで話しにきたのを怒っていやしないかときいた。
「いや」と私は答えた。「なぜなら、きみがきてくれたおかげで、きみにたいするぼくの気持は友情以外の何ものでもないから、将来、ぼくのために気をもむようなことは二度とおこらないと確信してほしいと、はっきりいっておく機会を得たのだからね。だから、きみはなんでもしたいことをしたらいいのだ。だって、ぼくがいまいったのとはべつの考えをするとすれば、それはきみに恋していなければならないことになるが、ぼくはもうきみに恋してなんかいない。きみは美しい情熱の芽をいちどきに押しつぶしてしまった。コルディアーニに腹をけられてこの部屋へもどってきたときには、ほんとにきみを憎んだ。それから軽蔑した。それからきみのことなんかなんとも思わなくなった。しかし、最後に、きみの才気がどえらいことをするのを見て、その無関心も消えてしまった。そして、いまはきみの友だちとなり、きみの弱点をゆるした。それから、きみのあるがままの姿を見なれてくると、きみのずばぬけた才気にたいして、奇妙な尊敬をいだくようになった。ぼくはきみの才気にいっぱいくわされたが、そんなことはどうでもいい。きみの才気はちゃんと存在し、人の度胆をぬくばかり、まったく神業のようだ。ぼくはそれに感服し、心から愛している。ぼくがきみの才気にたいしておくる称賛は、それをもつきみにたいして純真|無垢《むく》な友情をやしなわせるものだ。だから、ぼくにも相応したお返しをしてもらいたいのだ。それは真実とまじめさだよ。逃げ口上はもうやめにしてくれ。ばかげた芝居はいっさいごめんだ。きみはぼくにたいして要求できるものを、もうみんな手に入れてしまったのだからね。恋ということは考えるだけでも不愉快だ。なぜなら、自分だけが愛されているという確信がなければ、ぼくは愛することができないのだからね。きみはこういうおろかしい気むずかしさは年のいたらないせいだというだろう。それはごかってだが、事はそれ以外にありえないのだ。きみの手紙だと、もうコルディアーニと口をきかなくなってしまったそうだが、もしその仲たがいがぼくのせいなら、とても残念に思うよ。きみの名誉はきみが身持をあらためる努力をするように要求している。だから、ぼくも将来きみの名誉に少しでも影をさすようなことはしないように気をつけよう。だから、考えてごらん。もしもぼくにしたのと同じ方法で彼を誘惑し、恋心をおこさせたのなら、きみは二重の罪をおかしたことになるのだよ。なぜなら、もしも彼がほんとにきみを愛しているのなら、その彼をきみは不幸にしてしまったのだからね」
「あんたのいったことは」と、ベティーナが答えた。「みんなまちがった土台のうえに立っているのよ。あたしコルディアーニを愛してもいず、愛したこともないわ。以前も憎み、いまも憎んでいるのよ。なぜなら、あの人はどんなに憎まれてもしかたのないようなことをしたんだもの。表面はあたしが悪いように見えるけど、このことだけは信じてちょうだい。あんたはまた誘惑なんてことをいったけど、そんな下品な非難は勘弁してちょうだい。もしもあんたがさきにあたしを誘惑しなかったら、いくらあたしだって、考えても見てちょうだい、いまこんなに後悔していることをしやしなかったのよ。その後悔の理由はあんたはご存じないけど、いずれお話するわ。とにかく、あたしのおかしたあやまちだって、あんたのような恩知らずがいて、経験のない頭のなかで、あたしのことを大それた女のように非難するかもしれないと、さきに見ぬけなかったので、大事になってしまっただけなのよ」
ベティーナは泣いた。彼女がいまいったことはいかにももっともらしく、そして不愉快ではない。しかし、私はすっかり見ぬいていた。そればかりでなく、彼女の才気の途方もない腕前を見て、私をいいくるめようとしているのだ。彼女のあがきは自尊心の結果でしかなく、彼女をひどく侮辱した私の勝利をだまって見すごしていられないからだと思わずにいられなかった。
そこで、私は頑として自分の考えをまげず、きみがぼくに恋心をおこさせたあの悪ふざけ以前の気持については、いまいったとおりだと思う。それだから、今後はきみを誘惑女などと呼ばないように約束すると答えた。そして、こうつけたした。
「だが、いいかい、きみの情熱のはげしさはほんの一時的で、ちょっと風がふけば、すぐに消えてしまうようなものだった。しかし、きみの美徳がほんのしばらく義務から遠ざかりはしたが、じきに悪いとさとって、官能の迷いをおさえつけたのは、いくらかほめてやってもいいよ。だが、きみはあれほどぼくのことが好きだったのに、たちまちぼくの苦しみに目もくれなくなってしまった。そして、その苦しみをいくらきみに知らせようとしても受けつけてもらえなかったのだからね。ところで、最後にひとつききたいが、どうしてその美徳というやつが、きみにはそんなに大事なんだね。コルディアーニの腕のなかで、毎晩沈没させられていたくせに」
「それがあたしの話したいことだったのよ」と彼女は、勝利を確信しているときのあの目つきで私を見つめながら答えた。
「それはあたしがあんたに知ってもらうことも、話してきかせることもできなかったことなのよ。だって、ほんとうのことを知ってもらいたいと思って、ただそれだけのために会ってほしいと頼んでも、あんたはことわってばかりいたんですからね」
「コルディアーニは」と、彼女はつづけた。「この家へ来てから一週間目に、あたしに恋の告白をしたの。勉強が終わったらすぐお父さんに頼んで結婚の申し込みをしてもらうから承知してほしいというのよ。あたしは、あんたのことはまだよく知らないし、いまはまだ結婚する気なんかないと答えたの。そして、もう二度とそんな話はしないでと頼んだの。コルディアーニはそれで納得したように見えたわ。けれど、それから少したって、ぼくの髪もときどきとかしにきてほしいと頼みにきたときのようすだと、少しも納得してないようだったわ。あたしがそんなひまはないと答えると、あんたのことをいいだして、あいつはおれよりもしあわせだといったのよ。けれど、あたしはそんな非難や疑いなんか屁《へ》とも思わなかったわ。だって、あたしがあんたの世話をするのは、家じゅうが承知だったんですからね」
「あたしがそういうふうにことわってから二週間たったときだったのよ。ほら、あんたとここであんな悪ふざけをしてさ、あんたが夢にも思わなかった胸の火をもやしはじめたのは。あたしだって、とっても嬉しかったわ。まえからあんたのことが好きだったし、自然におこった気持に身をまかせたんだから、なんの後悔にも苦しめられなかったわ。あの翌日も早くあんたのそばへ行きたい気持でいっぱいだったわ。けれど、その日、夕食のあとで、あたしの最初の苦しみがはじまったのよ。コルディアーニのやつがあたしの手へこんな紙きれと手紙をすべりこませたの。これを、あたし、いつかいいおりと場所を見つけて、あんたに見せようと思って、壁の穴のなかへかくしておいたのよ」
ベティーナはそういって、手紙と紙きれを私に渡した。紙きれにはこう書いてあった。
「今夜、中庭に向かったドアを細目にあけておいて、きみの部屋にぼくを迎え入れてくれるか、さもなければ、写しをここに同封した手紙をあした先生に渡すから、自分でかってに始末をつけるがいい」
手紙は怒りにもえる下劣な密告者の文句が綿々と書きつらねてあり、実際にひどくめんどうな結果になることはあきらかだった。手紙では、毎朝、先生がミサをとなえに行っているあいだに、先生の妹は私と肉のいとなみにふけっている。このことについては、疑う余地のない証拠を見せられると書いてあった。
「あたしはいろいろ考えたすえに」と、ベティーナがつづけた。「こうなったらしかたがないから、あのけだもののいうことをきく覚悟をしたの。そして、ドアを半開きにし、父の短刀をポケットにしのばせて、待っていたの。あたしの部屋は壁ひとえで父の部屋と隣りあっているから、ちょっとでも音をさせると、父を起こしてしまうわ。それで、あたし、ドアのところであいつの話をきこうと思って、待ちかまえていたの」
「そして、あんたが兄に渡すとおどかしている手紙には、嘘八百の中傷が書いてあるが、あれはなんのことだときくと、あいつは、あれは中傷じゃないというのよ。あいつは、あの朝、あたしがあんたの部屋へはいっていくのを見ると、すぐに屋根裏部屋へあがっていって、あんたのベッドの真上の天井に穴をあけ、あたしたちのすることをみんな見てしまったんですって。それで、あたしがいつまでも我《が》をはって、あんたにしたのと同じもてなしをしてくれなければ、いっさいを兄や母にぶちまけてしまうというのよ。あたしはもちろん腹をたてて、さんざん悪態をついてやったわ。卑怯者だ、スパイだ、嘘つきだってね。そりゃそうでしょ、あいつの見たのは、ほんの子どもじみた悪戯《いたずら》だけだったんだものね、そして、しまいに、脅《おど》し文句であたしを追いつめたら、同じようなもてなしをしてもらえると自惚《うぬぼ》れるなら大まちがいだといってやったのよ。すると、あいつはペコペコあやまりはじめてね、おれがこんなことをしたのも、きみがあんまりそっけないからだ。おれはきみを見てから恋心をもやし、すっかり不幸になってしまったが、さもなければ、あんなことはしやしなかったのだといったわ。それから、あの手紙はやっぱり中傷かもしれないし、自分の行ないは裏切り行為だったとみとめ、きみの好意を得るためにも、もう力ずくでやるなんてことはしない、ただ変わらない愛情にたよるだけにしようと、えらくおとなしく出てきたのよ。それで、あたしも、いずれあんたのことが好きになるかもしれないし、今後、兄がいないときには、もうあの人のベッドへは行かないと約束せずにいられなかったの。そして、いつかまたここで話しあおうというと、すっかり喜んで、接吻ももとめずに帰っていったわ」
「それから、あたしは床についたけど、もう兄がいないときにはあんたと会うこともできないし、そういうことになった理由をあんたに知らせることもできないと思って、すっかり悲しくなってしまったわ。こうして三週間がすぎさったけど、そのあいだのあたしの苦しみといったらなかったわ。だって、あんたはやいのやいのとせっついてくるし、あたしはそれをはぐらかさなければならなかったんですからね。あたしはあんたとふたりきりになる時をさえおそれていたの。だって、ふたりきりになると、あたしの態度の違ってきたわけを話さずにいられなくなるものねえ。そのうえ、あたしは毎週一度は庭の木戸のところへ行って、あのけだものと話をし、いらだつ気持をうまい言葉でやわらげなければならなかったのよ」
「おしまいに、あたしは、あんたからさえおどかされるのを見て、この苦しみにけりをつけてしまおうと決心したの。そして、あんたに女の子の服をきてダンス・パーティーへ行くようにすすめたのだけど、そのときは、いっさいの経緯《いきさつ》をあなたにぶちまけ、なんとか始末をつけてもらおうと思っていたのよ。あのダンス・パーティーはコルディアーニには気に入らなかったにちがいないけど、あたしはもう固く決心していたの。けれど、それがどんな事情でだめになったか、ご存じのとおりだわ。兄が父といっしょに出かけると、あんた方ふたりは同じことを思いついたのね。あんたの部屋へ行くって約束したときには、まだコルディアーニから紙きれを渡されていなかったのよ。その紙きれはあたしに会ってくれというのではなく、じかにあたしの部屋へ行くと知らせてきたのよ。だから、あたしには、来ちゃいけないとことわるひまもなければ、十二時がすぎてからあんたの部屋へ行くと知らせるひまもなかったのよ。あたし、一時間も話しあったら、あいつを自分の部屋へ帰らせられると思って、十二時すぎにはあんたのところへ行けると見当をつけていたのよ。けれども、あいつは考えている計画を打ち明けなければならないといって、いつまでもしゃべりつけたの。だから、あいつを帰らせることもできず、とうとうひと晩じゅうきいてやらなければならなかったのよ。とてもつらかったわ。いろいろ愚痴をならべたり、大げさに不幸を嘆いたり、あいつは際限もなくしゃべりまくったわ。おれの計画は、きみに愛情さえあれば、きっと賛成するにちがいないのだが、それに同意してくれようとしないのは悲しいというのよ。あいつは、聖週間にあたしを連れて、フェラーラへ駈落ちしようといったのよ。フェラーラには伯父さんがいるが、その伯父さんがあたしたちを引き取ってくれるし、父親を口説いて話をまとめてくれるから、あとは一生涯幸福になれるというわけなの。あたしがそんな計画に難癖をつけると、あいつはやっきになっていい返し、こまかい話をはじめて、どんな困難もこうすれば乗り越えられるつて、くどくどと説明したの。それでまるひと晩かかってしまったのよ。あたし、あんたのことを考えると、じれったくてたまらなかったの。でも、あたしが悪いんじゃないわ。あんたの尊敬にそむくようなことはなにも起こらなかったんだもの。あんたがもうあたしを尊敬しなくなるとすれば、それはいま話したことがみんなつくり話だと思うよりほかはないけど、それはあんたのまちがいよ。あんたの考えが正しくないことになるのよ。もしも愛がなければできないような犠牲を払う決心があたしにできたら、あのろくでなしは部屋へはいってきてから一時間で追い出すこともできたのよ。けれど、あたしはそんなけがらわしい方法をとるよりも死んだほうがましだと思ったの。あんたが風と雪に打たれながら部屋の外に立っているなんて、夢にも考えなかったわ。あたしたちふたりとも、ずいぶんひどい目にあったのね。けれど、あたしのほうがずいぶんつらかったわ。そのためにあたしが健康と理性を台なしにするってのは、はじめから運命できめられていたのね。しかも、いまでもときどきしかもとにもどらず、いつまた痙攣がはじまるかわからない状態なのだからね。みんなの話だと、あたしは悪魔につかれ、悪魔にがっちり押えつけられているということだけど、そんなこと、あたしにはわかりゃしないわ。けれど、もしそれがほんとうなら、あたしはすべての娘のうちでいちばんみじめになってしまったのね」
ここまで話してくると、彼女は言葉をきってさめざめと泣きだし、うめき声をあげた。彼女のかきくどいた話は事実らしくもあったが、とうてい信じられるものではなかった。
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それはおそらく真実かもしれぬが、良識あるものには信ずべくも思われなかった。(アリオスト『狂乱のオルランド』)
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しかも、私は良識をもっていた。あのとき私を感動させたのは彼女の涙で、それが空涙でないことは疑う余地がなかった。しかし、私には自尊心のなすわざとしか思われなかった。彼女の言い分をみとめるにはたしかな証拠が必要であった。人を説得するにはほんとうらしく見える話だけではなく明白な事実をもってしなければならない。ところが、私にはコルディアーニがそんなにおとなしかったとも、ベティーナがそんなに我慢づよかったとも、また七時間のあいだ同じ話をつづけたとも信じられなかった。が、それにもかかわらず、彼女がならべてみせた贋金を本物として受け取ることに一種の喜びを感じるのであった。
彼女は涙をふくと、例の美しい目でじーっと私の目をみつめた。自分の口説《くぜつ》の勝利をそこに読みとったと思ったのである。しかし、私は彼女があの弁舌のなかで故意にいいおとしていた一か所をずばりとあばいて、度胆をぬいてやった。修辞学は自然の秘密を用いるときにも、それを模倣しようとする画家と同じことしかできぬ。彼らがもっとも美しいものとしてしめすことは、すべていつわりである。
あの娘の鋭敏な精神も、教養によってみがかれていなかったので、自分には純情で技巧を弄しないと思われる利点があると自惚《うぬぼ》れていた。彼女の精神はこの利点の効力をよく知っていて、それに物をいわせるために、この自惚れをつかったのである。しかし、そのためにかえって老獪《ろうかい》さがいっそう目につくのであった。
「いやはや、いとしいベティーナよ」と、私はいった。「きみの話はぼくの胸をゆすぶったよ。だけど、きみが悪魔祓いのときに、あんなにうまくやってみせた、あの痙攣や、迷った理性のとてつもない囈語《うわごと》や、さも悪魔につかれたらしい徴候などを、どうして自然なものと思いこめというのだね。きみもその点については疑いをもっていると、非常にもっともらしくいってはいるけどね」
この言葉に、彼女は五、六分もじっと私を見つめたまま黙っていた。それから、目をふせて泣きだし、ときどき「あたしって、ほんとに不幸だわ」とだけつぶやいた。こんな状態がいつまでもつづいたので、私はしまいにじれったくなって、「なにかきみのためにできることがあるか」ときいた。すると、彼女は悲しげな口調で、「あたしにたいして愛情をもってくれなければ、なにをお願いしたらいいのか見当もつかない」といい、さらに、「あたし、あんたの心にたいして、失った権利を取りもどせると思っていたのよ。けれど、もうあんたはあたしのことなんかなんとも思っていないのね。それなら、これからもあたしをすげなく扱い、ほんとうの苦しみも仮病だときめてしまうがいいわ。あの病気ももとをただせばあんたが原因なのに、いまでもあんたはそれをますます悪くしているんだものねえ。きっとあとで後悔するわ。そして、その後悔のために幸福になれないようになるわ」
彼女は出ていこうとした。だが、どんなことでもやりかねない女だと思うと心配になって、私は彼女を呼びかえし、私の愛情を取りもどそうとするなら、方法はただひとつしかない。それは向う一か月痙攣をおこすのをやめ、美男子のマンチア神父を呼ぶ必要がないようにすることだといった。
「それはあたしにできることじゃなくてよ」と、彼女は答えた。「けれど、いまあんたがあのジャコバン僧につけた美男子のという形容詞は、どういうわけなの? なにかうたぐってるの?」
「とんでもない、なにもうたぐっちゃいないよ。なぜって、なにかをうたぐるには、ぼくがやきもちをやく必要があるんだからね。だが、きみの悪魔がまえのきたないカプチン僧よりもあの美男の修道士を好くということは、へんに解釈されると、あんまりきみの名誉にならないといっているんだよ。だが、それはとにかく、きみの好きなようにしたらいいさ」
[ベティーナが天然痘に]
彼女は帰っていった。それから十五分もたつと、みんながもどってきた。夕食のあとで、女中は、私がなにもきかないのに、ベティーナがひどく寒気がするといって、ベッドを台所の母親のベッドのそばへはこばせてねてしまったと話した。その熱は本物かもしれないが、信用できなかった。彼女は丈夫になる決心がつかないのだと私は確信していた。というのも、うっかり丈夫になると、嘘つきなんだと思わせる十分の証拠を私に提供することになるし、それからおして、コルディアーニとの話合いが清浄潔白なものだったという話も眉唾《まゆつば》ものになるからだ。だから、私はベッドを台所へはこばせたことも例の策略にちがいないと見てとった。
翌日、オリヴォ医師が来たとき、彼女が高い熱なのを見て、先生に、妹さんは囈語《うわごと》をいうだろうが、それはこの熱のためで、悪魔のためではないといった。そのとおり、ベティーナは一日じゅう囈語をいったが、先生は医師の意見にしたがい、母親がなんといってもジャコバン僧を呼びにやらなかった。三日目には熱がさらにひどくなり、皮膚に斑点《はんてん》が出て、天然痘の疑いがかけられたが、はたして四日目になって、はっきり天然痘だとわかった。コルディアーニとほかのふたりのフェルトル人はまだ天然痘にかかっていなかったので、よその家へとまりにいかせられた。しかし、私はその心配がなかったので、ひとりあとに残った。
六日目になると、気の毒なベティーナはすっかり発疹でおおわれ、身体じゅうどこも皮膚が見えないくらいであった。目もあかなくなり、髪も全部切らなければならなかった。口も喉《のど》も発疹でふさがり、食道へ蜂蜜を二、三滴流しこむこともできなくなったので、人々は彼女の命さえあやぶんだ。もう呼吸以外になんの動きも見られなかった。母親は彼女のベッドのそばにつきっきりだった。私がそばへテーブルと帳面をもっていくと、みんなは感心な子だとほめてくれた。ベティーナは見るも無残な姿になった。顔は三分の一ぐらい脹《は》れあがり、鼻はもう見えなくなった。たとえ病気がなおっても、目が見えなくなるのではないかと心配された。私がとくに不快に思ったのは、彼女の汗のくさい匂いであった。しかし、私はあくまでそれに耐えようとした。
九日目に、教会の司祭がやってきて、免罪の宣告を与え、終油の秘跡をさずけた。そして、この娘を神の御手にゆだねるといった。こうした悲しい場面で、ベティーナの母親と先生との会話は私を吹きださせてしまった。母親は、こういう状態になっても、娘にとりついている悪魔は乱痴気さわぎをさせることができるかどうか、それから、もしも娘が死んだら悪魔はどうなるのか知りたがった。というのも、悪魔はこんな気持のわるい身体のなかにいつまでも頑張っているほどばかじゃあるまいと、さすがの彼女も気がついていたからである。母親はまた悪魔はかわいそうな娘の魂をうばうことができるのだろうかともきいた。キリスト遍在論を信ずる神学者である先生は、これらの質問にたいして、良識の影もみとめられないような返事をした。それがいっそう哀れな女を当惑させた。
十日目と十一日目には、いまにも息を引き取るかと、始終手に汗にぎっていた。くさった発疹がまっ黒になって膿を流し、たまらない臭気を部屋のなかにみなぎらせた。それにはだれも我慢できなかったが、私だけは気の毒な娘の容態を悲しんで、よく耐えしのんだ。病気がなおってから、私は熱い想いを彼女にしめしたが、それもこういう無残な容態のさなかに私の心に芽ばえたのであった。
十三日目、熱がなくなると、彼女はたまらないむずがゆさのために身をもがきはじめた。その苦しみをやわらげるには、私がたえずかけてやる力づよい言葉にまさる薬はなかった。
「いいかい、ベティーナ、よくおぼえておくんだよ。きみは病気がなおりかけているのだが、もしも顔をかきむしると、もうだれひとり愛してくれるもののないような、醜い顔になってしまうんだよ」
まえには器量のよかったことを知っている娘なら、痒《かゆ》いところをかいてしまうと、われとわが手で醜い女になることになるのだから、世界じゅうのどんな医者でも、私の言葉以上に強力な痒みどめはさがしだすことができまい。
彼女はついに目をあいた。人々は彼女のベッドをとりかえ、自分の部屋にはこんだ。しかし、彼女は頸《くび》にできた腫《は》れ物のために、復活祭までねていなければならなかった。彼女は私に八つか十の痘瘡をうつし、そのうちの三つが私の顔に消すことのできない痕跡をのこした。それは私にとってはまったく晴れがましいしるしで、このしるしのゆえに、彼女は私こそ自分の愛情に値する唯一の友だと認めた。彼女の肌は赤い斑点でびっしりおおわれ、一年たたなければ消えなかった。それから、彼女は私をなんのてらいもなく愛してくれ、私も彼女に愛情をそそいだが、運命としきたりとが婚姻の神のために保留する一輪の花を摘みとるようなことはけっしてしなかった。
しかし、なんというみじめな婚姻であったろう! それから二年たって、彼女はピゴッツォという靴屋と結婚した。しかし、この恥知らずのならず者は彼女を貧乏と不幸のなかへおとしこんでしまった。それで、兄の博士が彼女のめんどうを見なければならなかった。彼は十五年ののち、サン・ジォルジォ・デラ・ヴァレ教会の首席司祭にえらばれ、妹を連れて赴任した。十八年まえに訪ねていったとき、彼女は年をとり、病気にかかって、死にかけていた。彼女は、一七七六年に、私がついてから二十四時間ののちに、私の目のまえで息をひきとった。彼女の死についてはいずれそのおりに話すであろう。
[医者か弁護士か]
このころ、母はペテルスブルグから帰ってきた。女帝アンナ・イワァノヴナはイタリア喜劇にあまり興味をよせなかった。一座はそのまえにもうすべてイタリアに帰ってきていたが、母は道化役《アルルカン》のカルリーノ・ベルティナツィとあちこち旅行をしてきたのであった。この男は一七八三年にパリで死んだ。母はパドヴァへ着くとすぐ、ゴッツィ先生にそのむねを知らせた。先生はいそいで母が旅の道連れとともにとまっている旅館へ私を連れていった。私たちはそこでいっしょに食事をしたが、別れるまえに、母は先生に毛皮の外套をおくり、ベティーナへのお土産《みやげ》だといって、山猫の毛皮を私にわたした。それから六か月ののち、母はドレスデンへ行くまえにもう一度会いたいからといって、私をヴェネチアへ呼びよせた。サクソニアの選挙侯でありポーランドの王であるアウグストゥス三世と終身雇用の契約をむすんだのであった。彼女は当時八歳だった弟のジョヴァンニをいっしょに連れていった。弟は出発のとき、夢中になって泣きわめいた。私は彼の性格には非常にばかな面があると推量した。この別離には全然悲劇的なことがなかったからである。彼だけはまったく母のおかげで成功したようなものだが、母から格別にかわいがられているというわけではなかった。
その後、私はさらに一年間パドヴァですごし、法律の勉強をした。そして、十六歳のときに博士号を得た。論文は、民法では『遺言について』、教会法では『ユダヤ人は新たなる教会をつくりうるや』という題であった。
私の希望は医学をまなんで医術を行なうことで、この職業にたいしては非常な愛情をもっていた。だが、それは聴き入れられず、法律の勉強に専心しろといわれた。ところが、法律はどうしても性にあわなかった。立身出世をするには弁護士になるよりほかはないということであったが、なお悪いことに、教会づきの弁護士になれ、おまえは弁舌がたつからというのであった。もしもよく考えてくれたら、私を希望どおり医者にならせたにちがいない。医者という職業は弁護士よりも山師的行為がずっと効果的に行なえるのだから。しかし、私は医者にも弁護士にもならなかった。それも運命でしかたがなかったのだ。私がいままで法律上の主張をする必要がおこったときでも弁護士をたのまず、病気になっても医者を呼ばなかったのは、おそらくこうした理由によるのかもしれない。訴訟沙汰は多くの家庭を擁護するよりも破滅させてしまう。また医者に殺された人間は医者になおしてもらった人間よりもはるかに数が多い。この結果からみると、この二種類のやつらがいなかったら、世の中はずっと不幸でなくなるだろう。
[大学生対警官]
私は通常≪ボー≫と呼ばれていたパドヴァ大学へかよって教授の講義をきくという義務から、単独で外出する必要を生じた。それは嬉しいことであった。というのも、そのときまで私はけっして自由な人間とみとめられなかったからである。それで、私は自分の獲得した自由を十分に享楽しようと思い、名うての不良学生どものあいだに、できるだけ悪い友人をもとめた。そういう学生の錚々《そうそう》たる連中は非常に放縦で、博打《ばくち》好きで、悪所がよいに憂き身をやつし、酒のみで、道楽者で、堅気な娘を食い物にし、乱暴で、嘘つきで、美徳のかけらも身につけられないという無頼漢であった。私はこういう連中とつきあうことにより、経験というやんごとなき書物をとおして、世の中を学びはじめたのであった。
人情風俗についての学説というものが人間生活になにかの効果をもつとすれば、それは書物を読むまえに目次へ目をとおす場合と同じものにしかすぎない。書物の目次を読んでも、わずかにテーマがわかるだけである。説教や、戒律や、われわれを教育する人々の語ってきかせる逸話などの与える道徳教育とはそんなものである。われわれは彼ら教育者の言葉におとなしく耳をかたむける。しかし、与えられた忠告を利用するだんになると、はたしてさきに教えられたとおりであるかどうか見てみたい気持になる。それで、しゃにむにぶつかっていって、後悔のほぞをかむという処罰をうける。そのあげく、多少ともこうした処罰の埋合せをしてくれるのは、自分が物知りになり、他人を教える権利を得たと思うことである。ところが、われわれの説教をきくもののすることも、われわれのしたこととおつかつで、なんの変りもない。したがって、世の中はいつも同じところにとどまるか、あるいはだんだん悪くなっていくよりほかはないのだ。
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わが両親の世代は祖先の世代よりも悪く、われわれをいっそう悪意あるものとしてつくった。それゆえ、われわれは、やがてはさらに邪悪な子孫を世に出すように運命づけられているのである。(ホラティウス『カルミナ』)
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こういうわけで、ゴッツィ先生から与えられた単独外出という特権のおかげで、私はそれまで全然知らなかっただけではなく、その存在さえ気づかなかったような、かずかずの事実を知ることができた。私が出ていくと、その道の猛者《もさ》どもが私をとらえ、私の能力に探りを入れた。そして、万事につけ新米であることを知ると、あらゆるわなに引きずりこんで教育しようと決心した。博打をさせ、なけなしの所持金をうばいとると、口約束の賭けをさせ、そのあげく、借金を払うために悪事をはたらくように教えこんだ。そのとき、はじめて、私は心痛をもつということがどんなことだかを悟ったが、同時に、面と向かって人をほめる連中を信用できないこと、人をおだてる連中の言葉をけっしてあてにしてはならないことを知った。またたえず喧嘩をふっかけて歩いている連中とのつきあい方もおぼえたが、彼らとの交際ははじめから避けるか、またはいつも瀬戸際のところで身をかわすべきだと知った。自堕落な商売女については、そのわなには全然ひっかからなかった。というのも、ベティーナほどきれいな女にはひとりも出会わなかったからである。しかし、生命への軽蔑感による勇気から由来する種類の光栄をのぞむ気持はおさえることができなかった。
パドヴァの大学生は、その当時、大きな特権をうけていた。それは権利の濫用なのだが、古くからのしきたりとして合法化されたものであった。こういうことはすべて特権というものの元来の性格にほかならない。しかし、これは法律的な特典とはちがうものである。ところで、当時の大学生は、この特権を力ずくでまもるために、しばしば罪をさえおかした。しかし、世人はその罪人を厳重に処罰しなかった。というのも、国家の方針として、あまり厳格にすると、この有名な大学へヨーロッパじゅうから集まってくる学生の数を減らしはしないかとおそれたからである。ヴェネチア政府の主義は著名な教授たちに高い給料を払い、その講義をききにくる学生には大きな自由を与えて暮らさせるということであった。学生たちはシンディックと呼ばれる学生長に服従するだけであった。それは相当な暮らしのできる外国の貴族で、学生の行動について国家に責任を負うべきであった。彼は学生が法律に違反したときには、司直の手に引き渡さなければならなかったが、学生はその裁決に服した。というのも、学生のほうに道理があると見えれば、シンディックはこれを擁護したからである。彼ら学生たちはたとえば、税関吏がトランクをしらべることをゆるさず、また一般の警官が逮捕することもゆるさなかった。思うがままに禁制の武器をなんでも身につけ、両親の監視をふりきって逃げだした娘を玩具にしても罰せられなかった。しばしば夜もふけてから乱痴気さわぎを演じて、公衆の安寧を妨害した。要するに、彼らは羽目をはずした若者たちで、気まぐれを満足させ、遊びたわむれ、笑いこけることしか求めなかった。
そのころのこと、ひとりの警官がとあるカフェへはいっていった。そこには学生がふたりすわっていたが、ひとりが警官に出ていけと命じた。警官はこの命令を無視した。すると、学生はピストルを一発ぶっぱなした。弾丸はそれた。警官は反撃に出、その学生を傷つけて逃げた。学生たちは大学に集合し、数班にわかれて警官をさがし、これを皆殺しにして、うけた侮辱の報復をしようとした。しかし、ある場所での衝突で、ふたりの学生が死んだ。学生の群は一団となって、パドヴァの警官を絶滅するまで武器を捨てないと誓った。そこで、政府が干渉に乗り出したが、シンディックは元来警官のほうが悪いのだから、罪のつぐないをするなら、学生に武器を捨てさせると約束した。その結果、はじめに学生を傷つけた警官が絞首刑に処され、騒動はおさまった。しかし、平和にもどるまでの一週間というもの、学生たちはいくつものパトロール隊にわかれて街路を練りあるいた。私も意気地なしだと思われたくなかったので、その仲間に加わった。そして、先生の忠告には耳もかさなかった。
ピストルや騎兵銃で武装し、私は毎日仲間といっしょに敵を捜しにいった。だが、私の属していた隊がひとりの警官にも出会わなかったのは、非常に腹がたった。この戦争が終わったとき、先生は私を軽蔑して嘲笑したが、ベティーナは私の勇気に感激してくれた。
こういう新しい生活にはいってみると、新しい友人たちよりも裕福でないと思われたくなかったので、とうてい負担しきれないような濫費をやってのけた。持ち物を残らず売りとばしたり質へ入れたりした。あちこちから借金もした。だが、借金をかえすめどがたたなかった。これは私の最初の心痛であったが、若者の身にとっては、これにまさる心痛はなかった。
そこで、親切な祖母に手紙を書いて救いをもとめた。すると、祖母は金を送ってよこすかわりに自分でパドヴァへ出向いてきて、ゴッツィ先生やベティーナに礼を述べ、私をヴェネチアへ連れかえった。
別れるとき、先生は涙を流しながら、いちばん大事にしていたものを私に贈ってくれた。それはもうどういう聖者のだったか忘れたが、尊い聖者の遺物で、先生はそれを私の首にかけてくれた。もしもあれが金鎖で吊ってなかったら、いままで持っていたかもしれない。その遺物が私になしてくれた奇跡は、さしせまった必要にたいして役にたってくれたことだけであった。私は法律の勉強を仕上げるためにパドヴァへもどるたびに、先生の家へとまった。しかし、そのたびに、ベティーナと夫婦になる予定のならず者が彼女のそばにくっついているのを見て、心をいためた。彼女がそんな男の妻になるようにできた女だとはとうてい思いきれなかった。こんな男にくれてやるために彼女に手をつけなかったとは、返す返すも残念だった。これは私の思いすごしだったが、それもほどなく忘れてしまった。
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第四章
[ヴェネチアで聖職につく]
「この方はパドヴァで勉強していらっしゃった方です」
私はどこへ行っても、こういうきまり文句で紹介された。この言葉が口にされるとすぐ、身分も年齢もおつかつの連中からは無言の注目を寄せられ、娘をもつ父親たちからはにこやかに挨拶《あいさつ》され、年とった女たちからはちやほやお世辞をいわれ、まだそれほど年をとっていない女たちは体裁よく私に接吻するために年寄ぶってみせた。トゼルロという名前のサン・サムエーレ教会の司祭は私をその教会に所属させ、ヴェネチアの大司教コルレル猊下《げいか》に紹介した。猊下は私に剃髪《ていはつ》させ、四か月後に、特別のはからいをもって、四種の下級聖品をさずけてくれた。
祖母の喜びはたとえようもなかった。人々はなお勉強をつづけるようにと、私のためによい先生たちをさがしてくれた。ことにバフォ氏は私がイタリア語を、またとくに詩の言葉を正しく書けるように、スキアヴォ神父をえらんでくれた。詩にたいしては、私はまえからゆるぎなき興味をもちはじめていたのであった。私はおりから劇場建築の勉強をはじめていた弟のフランチェスコといっしょに、申し分のない暮らしをしていた。妹と父の死後に生まれた弟とは、祖母といっしょに、祖母の所有する家に住んでいた。祖母は夫がそこで死んだので、自分もそこで死にたいと願っていた。私の住んでいた家は父の死んだ家で、母はその家賃を引きつづき払っていた。広い家で、りっぱな家具がついていた。
グリマーニ司祭は私のおもだった保護者のはずだったが、私はごくまれにしか訪ねていかなかった。とくに懇意にしていたのは、トゼルロ司祭から紹介されたマリピエロ氏であった。この人は元老院議員だが、年は七十歳で、もはや国の政治にかかりあうことを望まず、自分の邸宅で、美食を楽しみにして、幸福な日々を送っていた。そして、毎晩、よりぬきの紳士淑女を集めて夜会をもよおした。淑女はいずれもはでな情事を経験してきた女たち、紳士は市中に起こった新しいことはなんでも知っているという通人たちであった。
老元老院議員は独身で富裕であったが、一年に三、四回はひどい痛風の発作《ほっさ》におそわれた。そのたびに一方の手足が動かなくなり、したがって、全身が不随になるのであった。ただ、頭脳と肺臓と胃だけはこの難をまぬがれていた。彼は美貌で、食通で、美食家であり、才気にとみ、世事にくわしく、ヴェネチア人特有の雄弁をもっていた。しかもなお、四十年間共和国を支配したのち、いさぎよく身を引いた元老院議員の明敏さは消ゆべくもなかった。彼は二十人の情婦をもてあそびながら、なおも美しい女と見れば食指を動かす男であったが、いまやどんな女からも好かれてみせるという主張のむなしさを思い知らされていた。ほとんど全身不随に近かったにもかかわらず、すわっているときや、ものをいうときや、食卓についているときは、いっこうそれらしく見えなかった。彼は一日に一度しか食事をしなかったが、しかも、ただひとりで食卓についた。歯が一本もなくなっていたので、ほかの連中が同じ食事をする場合にくらべて二倍の時間を要したからである。客を食卓に招くと、礼儀上いそいで食わねばならず、また丈夫な歯茎で食いたいものをゆっくり噛《か》むのを客は待っていてくれるだろうが、どちらも好ましくなかった。こうした理由から、ひとりぼっちでものを食うという不愉快を耐えしのんでいたが、腕ききの料理人にとっても、それはたいへん張り合いのないことであった。
司祭の案内ではじめて閣下に紹介される光栄に浴した日、私は世間から公然と認められているこの理由にたいして、たいへんうやうやしく異議を申したてた。そして、生れつき二人前の食事をしなければ気のすまない人を食卓へ招けばよろしかろうとすすめた。
「そんな連中がどこにいるかね」
「問題は微妙です。まずお客をおためしになってみるのですね。そして、御意にかなうものをお見つけになったら、理由をお話しにならずに、お手もとへ引きつけておかれるのですな。なぜなら、身分のよいものなら、ご陪食の光栄にあずかるのが、ただ二人前食べるという理由だけからだとは、だれも口にしたくはないでしょうからね」
閣下は私の言葉に納得して、翌日昼食に私を連れてくるようにと司祭にいった。そして、私がすぐれた方針にもまして、さらにすぐれた実例をしめしたのを見て、私を日々のお相伴役にとりたててくれた。
この元老院議員はおのれ自身をのぞいてはいっさいの物事をあきらめてしまっていたが、それでもなお、高い年齢と痛風の苦しみにもかかわらず、生来の好色を心にはぐくんでいた。そして、イメールという喜劇俳優の娘テレザを愛していた。このイメールの家は彼の邸宅の隣にあり、その窓は彼が寝起きする部屋と向いあっていた。テレザは当時十七歳だったが、器量がよく、お茶っぴいで、仇《あだ》っぽかった。いつかは舞台へ出るつもりで音楽をならっていたが、たえず窓際に姿を見せ、その魅力はすでに老人を酔い心地にさせていた。しかし、老人にたいする態度はひどくそっけなかった。ほとんど毎日のように着飾って訪ねてきたが、いつも母親といっしょであった。その母親は古い女優で、魂の救いのためにすでに舞台をひいていたが、当然のこと、神と悪魔を妥協させる計画をたてていた。彼女は毎日娘をミサへ連れていき、また日曜ごとに懺悔をさせた。しかし、午後は例の狒々爺《ひひじい》さんのところへ連れてきた。だが、娘が接吻をこばんだときの爺さんの憤激はすさまじいものがあった。娘は午前中にお勤めをして、聖体を拝受してきたのだから、まだ神さまがおなかのなかにいらっしゃるかもしれない。それなのに、神さまのおぼしめしにそむくようないやしいことはできないといいはったのである。
私はまだ十五歳にしかならなかったが、老人はその私にただひとり、こうした場面を黙って見せておいたのだから、まったく奇妙な図だった。腹黒の母親は娘の抵抗をほめそやし、好色爺さんにもっともらしい意見さえした。老人は彼女のひどくキリスト教徒気取りの、またはいっこうキリスト教徒らしくない説教にたいして、なんとも反駁《はんばく》することができなかったが、手にさわるものを顔へ投げつけてやりたい衝動をじっとこらえていなければならなかった。なんといい返したらいいのか、見当もつかなかったのである。憤怒が色欲にとってかわった。そして、ふたりが帰っていくと、私に哲学的な反省をしゃべりつづけて、わずかに胸のつかえをおろすのであった。
私はなにか返事をしなければならなかったが、いうべき言葉も見つからなかったので、ある日、結婚したらどうだろうとほのめかした。老人は、おどろいたことに、あの娘はわしの妻にはなりたくないのだと答えた。
「どうしてですか」
「家族から憎まれるのがおそろしいのさ」
「では、莫大なお金か、なにかの地位をやったらいかがです」
「あれの言葉によると、世界の女王にしてやるといわれても、大それた罪はおかしたくないというのさ」
「腕ずくでものにしてしまうか、それともお邸へ出入りをさせないようになさったら」
「腕ずくということはできん。追っ払うことも、そこまで決心がつかんのだ」
「では、殺しておしまいなさい」
「そうなるかもしれんな。わしのほうがさきにござらない限りはな」
「閣下はじつにお気の毒な方ですね」
「そちはあれの家へ行かぬのか」
「はい。うっかり行くと、恋するようになるかもしれませんし、それに、ぼくにたいしてもこちらで見かけるような態度をとったら、ぼくはきっと不幸になるにちがいありませんから」
「なるほど。もっともじゃ」
[老元老院議員の夜会]
あのような場面に立ちあい、またこんなことまで語りあう光栄に浴して以来、私はすっかりこの殿さまのお気に入りになってしまった。そして、夜の会合にくわわることをゆるされた。それは、まえにも述べたように、薹《とう》のたった貴婦人や才子などの集まりであった。老人はこの集まりではガッサンディ〔フランスの哲学者、科学者〕の哲学よりもはるかに偉大な学問を習うであろうと私にいった。当時、私は、彼の命令で、その軽蔑するアリストテレス派をやめて、ガッサンディの哲学を学んでいたのであった。彼は私にいろいろの訓戒を与えた。そして、私のような年齢の子どもが夜会の仲間にはいっているのは異様に思われるにちがいないから、それをはぐらかすためにも、つぎの訓戒をよくまもらなければならないといった。訓戒の第一として、人の質問に答える場合以外はけっして口をきかないこと、またとくに、どんなことについても意見を述べないことなどであった。十五歳で意見をもつなんてゆるされることではないからというのであった。私はこうした命令を忠実にまもったので、彼の尊敬をかちえ、何日もしないうちに、常連の貴婦人たちからその家の子どものように見られはじめた。そして、娘や姪が寄宿している修道院女学校の談話室へ面会に行くとき、気のおけない若い司祭という資格で、いっしょに行ってほしいと頼まれた。それで、私は時間にかまわず、案内もこわずに、若い娘たちのところへ行くようになった。一週間も顔を見せないと小言をいわれるありさまであった。私が娘たちの部屋へはいっていくと、わらわらと逃げだす音が聞こえたが、私だとわかると、あんなにあわてて隠れたりして、ばかだったわと娘たちはつぶやいた。そうした信頼感は私にはとても嬉しいものであった。
マリピエロ氏は、夕食のまえに、この邸で知りあった貴婦人たちからちやほやされて、相当いい思いをしているのだろうと冷やかすのを楽しみにしていた。そして、私が返事をしないうちに、あの女たちはみんな貞淑そのものなのだから、社交界で得ているよい評判に反対するようなことをしゃべると、世間からならず者だと思われるぞといった。こうして彼は人の秘密をまもる美徳を私に教えこんだ。マンツォーニ夫人という公証人の妻と知合いになったのも、この老人の邸であった。いずれ話をしなければならないが、このりっぱな貴婦人は私に大きな愛着を感じさせた。彼女は私にいろいろのことを教え、賢明な忠告をしてくれた。もしもそれを忠実にまもっていたら、私の生涯にはなんの波瀾もおこらず、したがってこんにちそれを筆にする値うちもないものとなったであろう。
私はいわゆる上流階級の美しい婦人たちの知合いがたくさんできたので、容貌や身なりの優美さで喜ばれようという気持になった。しかし、主任司祭は、善良な祖母とともに、この私の気持に反対した。彼はある日私を片隅へ呼ぶと、私のえらんだ身分では、精神によって神のお気にめすように心がけるべきで、風采によって好かれようなどと思うべきではないと、ものやわらかな言葉で訓戒した。そして、髪の縮らせ方が凝りすぎており、ポマードの匂いが強すぎると非難した。それから、悪魔がそなたの髪をとらえてしまったのだ、もしもこれ以上髪の手入れに憂き身をやつすと破門されるぞとおどし、≪髪をのばす僧侶は破門される≫というカトリック万国会議の取決めを引用してきかせた。私は髪粉《かみこ》などもほんの影ほどにしかつけていないが、私の四倍もつけた坊さんもいるし、私のつかっているジャスミンのポマードは行くさきざきの婦人たちからほめられるが、竜涎香《りゅうぜんこう》の匂いのするポマードをつけて、産褥《さんじょく》にある女を死なせた坊さんさえもいる。しかし、そういう坊さんたちも破門に値するものとは思われず、安閑と暮らしていたと、多数の坊さんの例をあげて反駁《はんばく》した。そして、しまいに、もしもいやな匂いをさせたければカプチン僧になっていたろう。だから、この問題でお言葉にしたがえないのはたいへん残念だがしかたがないと答えた。
そののち三、四日してから、司祭は祖母を説きつけて、朝はやく、私がまだ眠っているところへはいってきた。あとで祖母は司祭さんがどんなことをするかわかっていたら、けっしてはいらせはしなかったのにと私にあやまった。あの誇り高き僧侶は、私を愛するあまり、そっと私のそばへ近づくと、よく切れる鋏で、耳から耳へかけて、前髪を全部、情け容赦もなく切りとってしまった。弟のフランチェスコはべつの部屋からそれを見ていたが、全然妨害をしないどころか、かえって喜んでいた。弟は鬘をかぶっていて、つねづね私の美しい髪をねたんでいたからである。弟は一生私をねたんでいた。彼のねたみには友情もまじっていたが、そのかねあいは私には見当がつかなかった。しかし、そうした悪徳も、私の悪徳と同様、いまは年をとって消えてしまっただろう。
私は事がすんでしまってから目をさました。司祭はりっぱな仕事を終わると、なにもしなかったように平然と出ていった。私はなにげなく両手を頭へもっていって、はじめて前代未聞の残酷な懲罰に気がついたのであった。
鏡を手にもって、あの不届き千万な坊主からみじめな姿にされたのをながめたとき、どんなに腹をたて、憤慨したことだろう! そして、復讐の計画をあれこれと思いめぐらした。私のさけび声を聞いて、祖母が駆けこんできた。弟はげらげら笑っていた。祖母は司祭さんのなさり方はゆるされた懲罰の限度をこえているといって、私のいきりたつ気持を少ししずめた。
私はかならずこの恨みを返してくれると決心し、無数の手ひどい計画を思いめぐらしながら服を着た。あらゆる法律の庇護《ひご》のもとに、血なまぐさい復讐をする権利があると思いこんだ。ちょうど劇場が開かれていたので、私は仮面をつけて家を出た〔ヴェネチアでは劇場シーズンのあいだ仮面をつける権利がある。一種のフードつき仮面だったから、髪を隠すこともできた〕。そして、マリピエロ氏の邸で知合いになった弁護士カルララさんのところへ行って、主任司祭を告訴できるかどうかたずねた。彼はずっと以前にある家長がスラヴォニアの商人の髭《ひげ》を切りおとしたかどで、一家破産の憂き目を見たことがある。ところが、あなたの場合は前髪全部なのだから、事ははるかに重大だ。だから、まず主任司祭を調停裁判にかけるつもりがあるなら、そのように指図してくれさえすればいい、先方はきっと度胆をぬかれるだろうといった。私はそれではそうしてほしい、それから、マリピエロ氏へ私が夕食に行けなくなったわけを話してほしいと頼んだ。もちろん髪が伸びないかぎり、仮面をつけずに外出することはできない相談であった。
私は弟といっしょに非常にまずい夕食を食いに行った。マリピエロ氏の邸で食べなれた上等の料理とも、当分はこの不幸のために縁をきらなければならない。それは並み大抵の苦しみではなかった。これもひとえに名付け親であるあの乱暴な司祭の仕打ちのためなのだ。私ははげしい怒りのあまり、さめざめと泣いてしまった。この侮辱にはなにやら喜劇的な性格があり、私を滑稽なものにしてしまったのが、くやしくてたまらず、罪悪をおかすよりもはるかに不名誉なことのように思われた。その晩は早くから寝床にはいった。十時間ぐっすり眠ったら、いきりたつ気持も多少はしずまったが、法律の力で復讐をしてやろうという決心は少しもにぶらなかった。
翌朝、調停裁判の訴状を読むためにカルララさんのところへ出かけようと思って服を着かえていると、コンタリーニ夫人のところで知合いになった腕のいい理髪師がはいってきた。そして、私が外出できるように髪の始末をしてこいとマリピエロ氏から命令されてやってきたといった。彼はその日私がいっしょに夕食をしにくるようにと希望していたのであった。理髪師は私のうけた被害を見ると、笑いだしながら、自分にまかせてほしい、まえよりもずっとしゃれた髪にして外出できるようにしてやるから安心するがいいといった。この器用な男は私の前髪を同じ長さに切りそろえ、ブラッシできれいに縞《しま》をつけた。私は大満悦の上きげんとなり、もう敵《かたき》を討ったような気がした。
そこで、すぐに侮辱を忘れてしまい、弁護士のところへ行って、もう敵討ちはやめたと知らせ、マリピエロ氏の邸へとんでいった。そこには偶然にも司祭が来合わせていた。私は心が嬉しさでうきうきしていたが、それでもけわしい目で司祭をにらみつけた。一件のことは話題にのぼらなかったが、マリピエロ氏はすべてを見とおしていた。やがて、司祭は帰っていったが、きっと自分の仕打ちを後悔したにちがいない。なぜなら、私の髪形はたいへん凝ったもので、一も二もなく破門されるだけの値うちがあったからである。
残酷な名付け親が帰ってしまうと、マリピエロ氏になにもかも隠さずに打ち明けた。そして、べつの教会をさがしたい、あんな極端なことのできる男の教会に所属しているのは絶対にいやだと、はっきり断言した。賢明な老人は「そなたのいうとおりじゃ」といってくれたが、それは自分の思うままのことを私にさせるためであった。その晩、集まった人々はすでに事件を知っていて、その髪形はとてもきれいだとほめてくれた。私はたいへん喜んだが、事件がおこってから二週間たっても、マリピエロ氏が教会へ帰れといいださなかったので、なおいっそう大喜びだった。うるさいのは祖母だけで、祖母はたえず教会へ帰れ帰れと口やかましくいった。
[十五歳の説教師]
だが、殿さまはもう教会のことは口にするまいとかたく思いこんでしまった時分になって、突然、あの主任司祭はたいへんわしの意にかなったから、そろそろ教会へもどるがよいといわれた。私はびっくり仰天してしまった。彼はさらに言葉をついで「今月の第四日曜はちょうどキリスト降誕祭の翌日にあたるが、その日ご聖体称賛の説教をするものをえらぶのは、ご聖体賛仰会会長の資格をもつわしの役目だ。そこで、わしは主任司祭にそなたを推薦しようと思っておる。司祭もよもやことわりはせんだろう。どうじゃ、この成功は? すばらしいとは思わんか」
この言葉は私を極度におどろかした。なにしろ私は説教者になろうなんて夢にも思わなかったし、説教の文句を自分でつくって、人前で読みあげることができようとは考えてもみなかったからである。それで、それはきっとご冗談にちがいないというと、彼はまじめに話しているのだといい、「そなたは当代のもっとも著名な説教師になるように生まれついたにちがいない。いまでこそひどく痩せているが、やがては肥え太ってくるだろう。そうしたら貫録は十分だ」とつけくわえて、ものの一分とかからないうちに、私を納得させ、私もすっかりそう確信してしまった。元来、私は声にも態度にも自信があったし、作文については傑作をものするだけの力があると、簡単に考えていた。
そこで、委細承知しました。それではさっそく家へ帰って、賛辞を書きはじめましょうと答え、さらに、私は神学者ではないが、内容はよくわかっています。人の意表をつくような、ごく新しいことを申しましょうとつけくわえた。
翌日、訪ねていくと、司祭は彼の推薦をたいへん喜び、ことに私が欣然《きんぜん》として神聖な役目を引き受けたのにいたく満足のもようであった。しかし、賛辞を書きあげたら、すぐに見せてほしい、なにしろ内容が最高の神学の領域に属するので、邪教的なことをいっていないかどうかたしかめなければ、私が説教壇へのぼるのをゆるすわけにいかないと要求したといった。私は異議なくこの条件を承知した。そして、その週のうちに賛辞を書きおえて清書した。それはいまでも保存しているが、われながらすばらしい出来のように思われた。
善良な祖母の喜び方はとうてい筆にも言葉にもつくせなかった。彼女は自分の孫が使徒になった嬉しさに、ただ泣くばかりであった。そして、作文を読んできかせろというので、読んでやると、数珠《じゅず》をつまぐって祈祷《きとう》の文句をとなえながらきいていたが、たいへんよくできたとほめてくれた。祈祷をとなえずにきいていたマリピエロ氏は、これは司祭の気にいるまいといった。私はホラティウスの≪彼らは望める恩恵がおのが価値にふさわしからぬとていたく嘆きぬ≫(『書翰集』)という文句を基礎にして文章をまとめたのだが、そのなかで、神の英知が人類の罪をあがなうためにたてた計画を失敗に終わらせた人類の悪意と忘恩とを嘆いた。マリピエロ氏は異端者の文章から題材をえらんだのをこころよく思わなかったが、私の説教にラテン語の引用がまざっていないのを喜んだ。
私は次に司祭に読んできかせるために訪ねていった。おりから司祭は留守で、帰りを待たなければならなかったが、そのあいだに司祭の姪のアンジェラに惚《ほ》れこんでしまった。アンジェラは丸枠《まるわく》で刺繍《ししゅう》をしていたが、私と知合いになりたいと思っていたといい、根が冗談好きだったので、尊い伯父さまがあなたの前髪を切ったお話をしてちょうだいといった。この恋愛は私には致命的であった。これが原因になって他のふたつの恋が生じ、それがまた原因となって、つぎつぎと多くの恋を生み、ついに僧籍を捨てることになってしまった。しかし、話はゆっくりすすめていこう。
やがて司祭が帰ってきたが、同い年の姪の相手をしているのを見ても、腹をたてたようすはなかった。私の説教を読むと、なかなかよくできた警句で、アカデミックなものだが、残念ながら説教壇には向かないといった。
「じつはわしの流儀で書いたのがひとつあるのだ。まだだれも知らない。それを暗記するがいい。きみが書いたものだといってやるから」と、彼はいった。
「ありがとうございます、神父さま。しかし、わたしはやはり自分のものをやりたいと思います。さもなければ、やめさせていただきます」
「だが、わしの教会でこんなものをやるわけにはいかんよ」
「それはマリピエロさんにお話しください。そのあいだに、わたしはみなさんの批判をあおぎ、さらに大司教|猊下《げいか》にもお見せします。そして、どなたも不適当だとおっしゃったら、印刷させます」
「まあ、まあ、おまえ、大司教さまもわしと同じご意見だろうよ」
その晩、私はマリピエロ氏のところに集まった人々へ司祭との議論のことをしゃべった。人々は私に説教を読ませたが、満場一致で賛成してくれた。人々は教父たちの言葉を全然引用しない謙遜さをほめ、まだ若くてそういうものを知っているはずはないのだから、そのほうがいいといった。婦人たちはホラティウスの文句以外にはひとつもラテン語の文章が引用してないという点で、りっぱだといい、ホラティウスはたいへん放埓《ほうらつ》な人間だったが、なかなかいいことをいっていると感心した。そこに居合わせた大司教の姪のひとりが、それではあなたが訴えでようとしていることを、さきに伯父の耳へ入れておくと約束してくれた。マリピエロ氏はあした奔走をはじめるまえにわしのところへ相談に来いといった。
この言葉にしたがって、翌朝訪ねていくと、彼は司祭を呼ばせた。司祭はすぐにやってきた。私は司祭にしゃべりたいだけしゃべらせておいてから、もしも大司教が私の説教を承認したら、教会で読みあげる。あなたには全然迷惑はかけない。またもし大司教がいかんといったら、いさぎよく服従しますといって、司祭を説きふせようとした。
すると、司祭は私の決心におそれをなして、
「大司教のところへ行くのはやめたまえ。きみの説教は承認しよう。ただし、引用句を変えてほしい。ホラティウスは悪徳漢だったのだから」
「だが、それならなぜセネカやオリゲネスやテルトゥリアヌスやボエティウスなどを引用なさるのです。あの連中はみんな邪教徒だったではありませんか。しかも、ホラティウスが結局のところキリスト教徒ではありえないとしても、いまあげた連中はそのホラティウスよりもいっそう唾棄《だき》すべきもののように思われるにちがいないのですが」
しかし、私はマリピエロ氏の意をむかえるために、ついに妥協し、私の説教とはうまくあわなかったが、司祭の望む引用句に変えた。そして、草稿を司祭に渡した。翌日それを取りに行くという口実で、姪と話をする機会をつくろうという下心であった。
しかし、おもしろかったのはゴッツィ先生である。私は虚栄心も手伝って、説教の写しを先生に送った。先生はたいへんけしからんものだ、きみは気でも違ったのかといって、送り返してきた。そして、もしもこれを説教壇でしゃべることをゆるされたら、きみを教育したわしまで名誉を失墜することになるといった。
しかし、私は先生の言葉を意に介さず、決められた日に、サン・サムニーレ教会で、えりすぐった聴衆をまえにして説教を行なった。人々は盛んな拍手喝采をあびせたあとで、口々にあの子の将来はすばらしいと語りあった。あの子は当代随一の説教師になるだろう。なにしろ十五歳の若さであれほどりっぱに大役をはたした子はひとりもいなかったのだからというのが一般の意見であった。
当時は聴衆のあいだに財布をまわして、説教僧に喜捨をするならわしであった。寺男がその財布をあけると、五十ゼッキーニばかりの金と何通かの恋文がでてきた。信心にこりかたまった連中はこの恋文に眉《まゆ》をひそめた。そのなかの匿名の一通は、だれが書いたのか、およその見当がついたが、その一通が私に道をあやまらせてしまった。しかし、ここではその話はやめておこう。その時分、私はたいへん金に困っていたから、豊かな収穫を得て、説教師になってもいいなと、まじめに考えたものだ。それで、そうした希望を主任司祭に打ち明け、援助をもとめた。こういうわけで、私は毎日司祭の家へ行く口実ができたが、行くたびに、ますますアンジェラを思う心がつよくなった。アンジェラは私から愛されるのを望んでいたが、道徳堅固にかまえて、いささかの恩恵もめぐんでくれようとしなかった。私が僧籍を捨てて彼女と結婚することを望んでいたのである。しかし、私はそこまで決心がつかなかったので、ひたすら彼女の考えをかえさせようと努力をつづけた。
彼女の伯父は私の最初の賛辞の値うちがようやくわかったと見え、ある日、私に聖ヨゼフ称賛の辞を書くように命じた。そして、それを一七四一年三月十九日に発表しろとすすめた。私はいわれるままに賛辞をつくった。主任司祭はその出来栄えに感激して、ほうぼうへ吹聴してまわった。しかし、私は生涯に一度しか説教ができないように運命づけられていたにちがいない。その顛末《てんまつ》は次のとおりである。じつにみじめな話だが、真実のことで、これを滑稽と見るのは、まことに心なきわざである。
私は自分の説教を暗記するためにあまり骨をおる必要はないと考えた。自分で書いたものだから、よくわかっているつもりでいた。それを度忘れするような不幸が起ころうとは、夢にも考えられなかった。文章のひとつぐらいは忘れることがあっても、自由にべつの文句でおぎなうこともできるはずだ。なにしろ上流の人々と話すときにも、言葉につまることのなかった私だ。聴衆をまえにして無言の行《ぎょう》をやらかすなんてことが起ころうとは、ありうることではないという気がしていた。しかも、その聴衆のなかには、私の英気をくじき、推理の能力を失わせるようなものはひとりも知らなかった。それで、私はいつものとおりに遊びほおけ、ただ自分の作文をよく頭へ入れておくために、朝晩読みかえしてみるだけにとどめた。記憶力については、いままで一度も不安を感じたことがなかったのである。
さて、いよいよ十九日になった。その日の午後四時、私は説教壇にのぼって、自分の説教を暗誦するはずであった。しかし、私は当時私の家に滞在していたモンテ・レアーレ伯爵と食事をともにする楽しみをすてる気になれなかった。伯爵は貴族のバロッツィを招待していたが、この貴族は復活祭がすんだら伯爵の娘ルチーアと結婚するはずになっていた。
私がまだりっぱなお客たちと食卓についていたとき、ひとりの寺僧がやってきて、教会でみなが待っていると知らせた。そこで、私は胃袋がいっぱい、頭もぼんやりしている状態で腰をあげ、教会へ走っていって、説教壇にのぼった。前口上はうまくいった。そこで、私はひと息いれた。しかし、それから百語ばかりしゃべるうちに、自分がなにをいっているのか、なにをいうべきなのか、さっぱりわからなくなってしまった。それで、むりに話をつづけようとして、とりとめのないことをしゃべりまくった。だが、私の混乱ぶりにはっきり気づいた聴衆が気をもんで、ごそごそつぶやきはじめたのを耳にすると、気も心もすっかり動顛してしまった。ぞろぞろと会堂から出ていく人の姿が見えた。笑い声も聞こえるような気がした。私はすっかりあがってしまい、なんとか苦境を切りぬけようという希望も消えはてた。
そして、その場へどさっと倒れてしまった。これがわざと失神をよそおって倒れたのか、それともほんとに卒倒したのか、自分にもわからなかったことを、申し添えておこう。とにかく、わかっていることは、いっそのこと頭が割れてしまえばいいと思いながら、大きな音をさせて頭を壁にぶつけながら、説教壇の床に倒れたことだけである。ふたりの僧侶が駆けよって、私を聖器室へ連れかえった。私はだれにもなにもいわずに、マントと帽子をとると、いちもくさんにわが家へ駆けもどった。自分の部屋へとじこもると、神父が田舎で着るような短い服を着た。そして、トランクに身のまわりのものをつめこみ、祖母から金をもらって、パドヴァへ第三期の試験をうけに出発した。パドヴァへは夜中に着いた。そして親切なゴッツィ先生といっしょにねたが、先生には例の失敗の話をする気になれなかった。それから、翌年の学位試験の準備のために、できるだけの努力をし、復活祭後にヴェネチアにもどった。私の失敗は早くも忘れられていたが、もう私に説教をさせることは問題にならなかった。はげましてくれる人もなくはなかったが、私はその仕事をすっかりあきらめてしまった。
[歌姫ジュリエッタ]
キリスト昇天祭の前日、マンツォーニ夫人の夫がひとりの若い歌姫を私に紹介した。当時ヴェネチアで非常な評判になっていた女であった。カヴァマッキーと呼ばれていたが、これは≪洗濯屋の娘≫の意味で、父親が洗濯屋をしていたからである。それで、彼女はプレアトと呼んでもらいたがっていた。これは家の苗字《みょうじ》であった。しかし、友人たちは彼女をジュリエッタと呼んでいた。彼女の洗礼名だが、これならかなり美しい名で、物語にのせてもよさそうだ。
この娘の評判はパルマ王国のサンヴィタリ侯爵が彼女の愛情にむくいるために十万デュカの金を支払ったことからきていた。ヴェネチアではその美貌の噂でもちきりであった。男たちは彼女に言葉をかけられるだけでも幸福に思い、お取巻き連の仲間に入れてもらえたら、もう有頂天の喜びようだった。この回想録のなかで、私は何度か彼女のことにふれるであろうから、ここでその生い立ちを手短に話しておくのもむだではあるまい。
一七三五年、十四歳のとき、彼女は洗濯した服をマルコ・ムアッツォという貴族のところへとどけに行った。この貴族は彼女がみすぼらしい身なりをしていながら、ずばぬけて器量がいいのに気づき、セバスチアノ・ウッチェリという有名な弁護士をともなって、父親の家へ彼女を訪ねていった。ところが、このウッチェリという男は、彼女の美貌もさることながら、色っぽくてちゃめっけたっぷりの気性に魅せられ、彼女を引き取って、十分に家具をそなえたアパートに住まわせた。そして、音楽の教師をつけ、情婦にしてしまった。昇天祭の日の市《いち》が開かれる時期には、彼女を連れて盛り場へ散歩に出かけたが、その美貌は好き者たちの目をそばだたせた。彼女は六か月もたつと、ひとかどの音楽家になったように思い、ある興行師と契約をむすんだ。その興行師は彼女をウィーンへ連れていって、メタスタシオのオペラのなかのカストラト(去勢したソプラノ歌手)の役を演じさせた。
そこで、弁護士は彼女を手放すべきだと思い、ある金持のユダヤ人にゆずった。そのユダヤ人もやがて彼女にダイヤモンドを贈って、縁をきった。ウィーンでは、彼女は美貌のおかげで非常な喝采を博したが、それはふつう以下の彼女の才能では望むべくもない成功であった。崇拝者は群れをなしてこの偶像へ供物をささげに行き、しかもそれが日に日に数をます一方だった。それで、いかめしい女帝マリア・テレジアはこの新しい礼拝に終止符を打つべきだと考え、新しい女神に即刻オーストリアの首府から退去するように命じた。
そこで、ボニファツィオ・スパダ伯爵が彼女を引き取ってヴェネチアへ連れかえったが、彼女はそこからパルマへ歌をうたいに行った。そして、パルマでジャーコモ・サンヴィタリ侯爵に恋の焔《ほのお》をもやさせたのだが、この恋は実をむすばなかった。というのも、歌姫がなにか生意気な口をきいたという理由で、いやしくも無礼の振舞いをゆるさない侯爵夫人が、自分の桟敷で彼女に平手打ちをくわせたからである。この侮辱から、ジュリエッタは舞台生活にいやけがさし、永久に舞台をしりぞくことになった。そして、祖国にもどった。しかし、彼女はウィーンから追放されたという評判にさいわいされて、財産をつくる道に事欠かなかった。ウィーン追放はひとつの肩書になった。それで、踊り子か歌うたいをけなそうとすると、あの女はウィーンへ行ったが、人々から軽蔑され、女帝も国外へ追放するにはおよばないと考えたというようになった。
ステファーノ・ケリーニ・デレ・パポッツェがはじめ彼女の正式の情人となった。しかし、三か月後、一七四〇年の春には、サンヴィタリ侯爵が彼女の情夫であると公表した。彼はまず十万デュカの現金を贈った。そして、そんな途方もない金を贈ったからには、よほど惚れこんでいるにちがいないと世間から思われるのをふせぐために、あの歌姫が自分の妻から受けた平手打ちのつぐないとしては、これだけの金でもまだ足りないといった。しかし、ジュリエッタはそうした事情をみとめようとはしなかった。それはもっともなことで、侯爵の粋《いき》な心づかいに感謝すれば、かえって自分の恥をさらけだすことになるからである。世間から無類の宝のように思われ、彼女の誇りとなっている美貌も、平手打ちの話が一般に知れわたったら、たちまち色あせてしまったであろう。
次の一七四一年に、マンツォーニ氏がこの美人にそろそろ名をなしかけている若い司祭として私を紹介してくれた。当時彼女はサン・パテルニアーノ寺院のかたわらの橋の袂《たもと》の家に住んでいた。その家はビアイ氏の持物であった。彼女は常連のお取巻き六、七人にかこまれ、ケリーニ氏とならんで、だらしない恰好でソファにすわっていた。その人柄は私をびっくりさせた。私のことをまるで売物のようにじろじろ見ながら、女王さま然とした口調で、私と知合いになるのは不愉快ではないといった。そして、腰をおろせとすすめたので、私も腹いせにゆっくり彼女を観察しはじめた。部屋は広くなかったが、二十本以上の蝋燭《ろうそく》がついていた。
ジュリエッタは年は十八、大柄の美人であった。肌の白さはまぶしいほど。頬《ほお》の薄桃色、まっ赤な唇、まっ黒で、細い線をえがいた眉などは作り物と見えた。ふたならびの美しい歯は口が大きすぎるのをかくしていた。それで、彼女は生れつきかわざとか知らないがいつも笑い顔を見せていた。胸は美しくゆったりした祭壇のようで、そのうえに気取ってかけたネッカチーフはおいしいご馳走がそこにならべられそうに想像させた。しかし、私はあまりぞっとしなかった。指輪や腕輪をたくさんはめていたが、その手が大きく厚ぼったいのを、私は見のがさなかった。また足を見せないように気をつかっていたが、ドレスの下にのぞいている上靴から見て、足も身体と同じように大きいのだろうと思わせた。そういう不愉快な大きさはシナ人やスペイン人だけでなく、あらゆる通人の好むところではない。大柄な女は足が小さくなければならない。それはホロフェルネス将軍〔アッシリア王ネブカドネザル軍の司令官。イスラエルのペトゥリアを包囲攻撃した際、ユダヤの美女ユディットに殺された〕の趣味で、さもなければユディット夫人を美しいとは思わなかっただろう。聖書も≪彼女の上靴が彼の目をとらえた≫といっている。私はジュリエッタをつくづくとながめながら、パルマの殿さまが彼女に贈った十万デュカの金と彼女とを比較して、私ならたとえ≪衣服にかくされている≫ほかの美点を残らずながめても、一ゼッキーノも出すまいと思い、われながら自分の気持におどろいたのであった。
私が行ってから十五分もすると、近づいてくるゴンドラの櫂《かい》にかきみだされる水の音が、濫費家の侯爵のご入来を知らせた。私たちはすぐ腰をあげた。ケリーニ氏は少し顔をあからめながら、あわてて席をはなれた。サンヴィタリ侯爵は相当旅行もした人で、どちらかというと老《ふ》けた感じであった。彼はジュリエッタのそばに腰をおろしたが、ソファの上ではなかったので、彼女は身体の向きを変えなければならなかった。それで、私は彼女の顔を正面から見ることになった。それは横顔よりもずっと美しかった。
こうして、私は彼女を四、五回訪ねてから、マリピエロ氏の邸の集まりのときに、あの人は遊びに疲れた無趣味な道楽者にしか好かれない女だ。なぜなら、生地のままの美しさも、社交の才も、とりたてていえるほどの芸も、態度物腰の鷹揚《おうよう》さもないからだといった。一座の人々もみんなこの意見に同意したが、マリピエロ氏は私の耳に笑いながらささやいた。いまそなたが加えた批評はきっと彼女の耳にはいって、彼女はそなたの敵となるであろう、と。この言葉はまったく図星であった。
私はこの有名な美人を妙な女だと思っていた。というのも、私にはあまり言葉をかけず、また私を見るときには、いつも凹面レンズを近眼の目に近づけたり、瞼《まぶた》を細めたりして、おまえにはわたしの申し分なく美しい目をじかにみる資格がないといわんばかりのようすだったからだ。その目は青く、切れ長で、少し出っぱり、自然がときとして若い人々に与える、いうにいえない虹彩に輝いていた。この虹彩は多くの奇跡を演じるが、四十歳ごろにはふつう消えさるものである。いまはなきプロシア王はこれを死ぬまで維持していた。
私がマリピエロ氏の邸でいった批評はジュリエッタの耳にはいった。告げ口をしたのは彼女から金をめぐんでもらっていたザヴェリオ・コンスタンティーニであった。彼女は私のいるまえで、マンツォーニ氏に、あるえらい通人があたしの欠点をさがして、ひどくもっさりした女だといったそうよ、といった。しかし、その欠点についてははっきりいわなかった。もちろん私のことをあてこすっているのに感づき、私はお払い箱になるのを覚悟したが、それにはかなり長いあいだ待たされた。一座の話題は俳優のイメールがもよおした音楽会のことになった。この音楽会ではイメールの娘のテレザがいちだんと光彩をはなったが、ジュリエッタはいきなり私に声をかけて、マリピエロ氏は彼女をどういうふうにあつかっているのかときいた。私はいろいろと教育してやっていると答えた。
「あの方なら、そういうこともおできになるわね。たいへん頭のいい方ですから」と、彼女が答えた。「けれど、あなたのことは、どういうふうになさってるの」
「できることは、なんでもしてくれます」
「あの方、ひとさまのお話だと、あなたのことを少しぬけているとお考えのようね」
みんなは、当然のこと、彼女の肩をもって、どっと笑った。私は返事のしようがなくて、あやうく顔をあからめそうになった。そして、十五分ののち、こんな女の家へは二度と足踏みをしまいと心に決めて帰ってきた。翌日、夕食に行って、この縁切りの話をすると、老いたる元老院議員はおおいにおもしろがって笑った。
[純潔な娘と無邪気な娘]
その夏は、刺繍をならいに学校へかよっているアンジェラを訪ねて、清らかな愛のささやきに明け暮れした。しかし、彼女が頑として操をまもり、愛情のしるしをゆるしてくれないので、私はいらだつ思い。愛は苦痛になりはじめていた。私は本能の力がはげしかったので、ベティーナのように愛の焔を消そうともせず、かえって十分に堪能《たんのう》させてくれる娘が必要だったのである。しかし、そういう軽薄な好みはまもなくけちらしてしまった。私自身、いまだ一種の純潔さをたもっていたので、娘の純潔さには大きな尊敬をいだき、それをケクロプスの女神パラスのようにあがめていた。私は結婚している女はいやだった。まったくばかな話だ! うぶのなんのって、旦那さまに嫉妬をするような気持にさえなったのだから。アンジェラは色気がないわけではなかったが、極端に消極的だった。そして、私の気持をひからびさせていった。私はしだいに痩せてきた。彼女が円い枠をつかって刺繍をしているそばで、悲痛な恨みをこめた言葉で口説きに口説いたが、その熱意はかえっていっしょに刺繍をしていたふたりの姉妹のほうを感動させた。彼女のほうは道徳の掟《おきて》にしばられ、私の熱意を受け入れようとしなかった。もしも彼女ばかりに目をつけていなかったら、ふたりの姉妹のほうがずっと魅力的なのに気がついただろう。しかし、私は彼女のことが頭にこびりついてはなれなかった。彼女はいつでも私の妻になるつもりだといい、それ以上望むところはなかろうと思っていた。そして、最高の恩恵だと思って、こうしてはやる気持をおさえているのは、あたしにも同じように苦しいのよ、といった。それを聞いて、私はげっそりしてしまった。
秋のはじめに、モンテ・レアーレ伯爵夫人から手紙が来て、フリウリの別荘へ遊びにこないかとさそってくれた。その別荘はパゼアーノという彼女の所有地にあった。そこには彼女のお客だけでなく、ヴェネチアへ嫁入った娘のお客も来るので、たいへんはなやかなことになるはずであった。その娘というのは才気ゆたかな美貌の持主で、目星のために片目はだめになっていたが、もう片方の目がひどく美しいので、十分に埋合せをしていた。
パゼアーノはたいへんにぎやかだったので、しばらくは残酷なアンジェラのことを忘れ、にぎやかな雰囲気をさらに盛りあげる手伝いをするのも骨ではなかった。あてがわれた部屋は庭に向かった一階の部屋で、たいへん居心地がよかった。隣にどういう人が住んでいるのか気にもかけなかった。翌日の朝、目をさましたとき、美しい姿が私のベッドに近づいてきてコーヒーのお給仕をしてくれるのを見て、私は心持よいおどろきをおぼえた。ごく若い娘であったが、都会育ちの十七歳の娘たちの身体をしていた。だが、まだ十四歳でしかなかった。色が白く、目も髪の毛も黒く、その髪がみだれており、シュミーズと短いスカートだけしか身につけていなかった。そして、すんなりした脚と申し分のない小さな足を見せていた。風変りで完全な美しさをそなえた彼女を私に見せようとすべてが力をあわせていた。私は強い興味をもって彼女を見つめた。彼女は、まるで古い知合いのように、少しもはにかまず、こだわらないようすで私を見た。
「ベッドの寝心地はどうでしたか」と彼女はきいた。
「うん、とてもよかったよ。寝床の用意をしてくれたのは、きっときみだったんだろうね。きみはどういう人なの」
「あたしはこちらの門番の娘で、ルチーアといいます。男の兄弟も女の兄弟もなく、ひとりっ子で、十四になります。あなたがお供を連れておいでにならなかったので嬉しいんですの。あたし自分でお世話ができますものね。きっと喜んでいただけると思いますわ」
私はさいさきよい出鼻に気をよくして、ベッドの上へ起きあがった。彼女はなにかわからないことをしきりにしゃべりながら、部屋着を着せてくれた。それから、私はコーヒーを飲みはじめたが、彼女のあまりにも親しげな態度にどぎまぎするとともに、その美しさにおどろいてしまった。だれでもとうてい無関心でいられないほどの美しさであった。彼女はベッドの裾《すそ》に腰をおろしたが、笑い声がいかにもほがらかで、天真|爛漫《らんまん》な人柄を十分に説明していた。
私がまだ茶碗を口につけているところへ、彼女の父と母がはいってきた。ルチーアはその場を動こうともせず、自分にあてがわれた職務を得意になっているようなようすで両親をながめた。両親はやさしく彼女の無作法をしかり、私に詫《わ》びをいった。
この善良な人々はいろいろうちとけた話をしてきかせた。そして、ルチーアが仕事をしに出ていくと、その自慢話をはじめた。彼女はひとりっ子で、かわいくてたまらず、年寄どもの唯一の楽しみであった。
「ほんとにすなおな子でしてね、神さまをうやまい、魚のように元気なのです。欠点といっても、ただひとつしかございません」
「それはどういうことですか」
「あんまり子どもっぽすぎるのですよ」
「いや、かえってかわいい欠点じゃありませんか」
一時間たらずのうちに、私はこの両親こそ誠実で、律気で、社会的美徳を心得、真の尊敬に値する人々だと信じこんでしまった。
やがて、ルチーアが笑いながらもどってきた。顔をあらい、自己流に髪を結い、靴をはき、服も着かえていた。そして、私に田舎ふうの丁寧なお辞儀をすると、母親へ接吻しに行き、それから父親のそばへ来て膝《ひざ》の上に腰をおろした。私はベッドにすわったらいいといったが、ちゃんと服をつけたときには、そんな身分不相応の光栄はゆるされないのだと答えた。
この返事にこもる、単純で、素朴で、かわいらしい考えは、私を微笑させた。そして、一時間まえとくらべてどちらが美しいだろうと考えてみたが、まえのほうに軍配をあげ、アンジェラよりも、またベティーナよりもまさっているときめた。
理髪師が来た。律気な家族は出ていった。私は服を着、二階へあがっていった。よりすぐった仲間と田舎ですごすときはいつもそうだが、一日を楽しく遊んだ。
翌日、目をさますとすぐに呼鈴を鳴らした。ルチーアが私のまえに姿をあらわした。きのうと同じく利発で、天真爛漫であった。
彼女のうちのすべてが、素朴と無邪気の釉薬《うわぐすり》の下で輝いていた。あんなに利口で正直で、少しも抜けたところがないのに、どうして私のまえへ平気で姿をあらわし、私が胸の焔をもやすのを気にもかけずにいるのか、合点がいかなかった。「この子は、なんとも思わずにいろいろのことをしゃべるが、してみると、あまりものごとを気にかけない性質なのかも知れない」こう考えて、私は彼女を十分理解したことを納得させようと決心した。だが、両親にたいして格別わるいことをするとも思わなかった。彼らが娘と同じように無頓着《むとんじゃく》な性質だと考えたからである。また、彼女のうるわしい純真さをおびやかし、魂に悪の暗い光を導入する第一の男になることも意に介さなかった。要するに、私は感情におぼれることも、その反対の行動することも望まず、ようすを見てみようとした。そして、なにくわぬ顔で彼女のほうへ淫《みだ》らな手をのばした。すると、彼女は無意識と見える動作で後じさりをし、顔をあからめた。いままでの快活さは消え、なにか自分にもわからないものをさがすふりをして脇を向いた。そして、心の乱れがおさまるまでそうしていた。それはほんの束《つか》の間《ま》のことであった。それから、またそばへよってきたが、彼女の心のなかには、無愛想なしぐさをしたのを恥じ、また無邪気な、あるいはたんなるお愛想にしかすぎなかったかもしれない動作を妙に勘ぐったのをすまなく思う気持だけしか残っていなかった。そして、もう笑っていた。私はいま書いたようなことをすべて彼女の心のなかに読みとり、いそいで彼女を安心させてやった。そして、行動に出るのは危険が多すぎると見てとり、翌日の午前中は、もっぱら彼女をしゃべらせようと考えた。
[ルチーアとの戯れ]
そこで、コーヒーを飲んでしまうと、計画どおり、彼女の話の言葉じりをとらえて、だいぶ寒いが、ぼくのそばへ来て夜具のなかにはいったら、寒さを感じなくなるよといった。
「でも、窮屈ですわよ」
「いや、かまやしないよ。けれど、お母さんが来るといけないね」
「お母さんはへんに思やしませんわ」
「じゃ、おいでよ。けれど、ルチーア、なんだかあぶない橋をわたるみたいだね」
「そうね、そりゃあたしもまんざら、ばかではないからわかっていますわ。けれど、あんたはまじめな方だし、それに司祭さんですからね」
「それじゃ、おいでよ。だが、さきにドアをおしめよ」
「だめよ、だめよ、そんなことをしたら、なんて思われるかわかりゃしませんわ」
彼女は私のそばへはいってきて、なにか長い長い物語をはじめた。だが、私には全然意味がわからなかった。なにしろこういう奇妙なことになりながら、本能的な動作に身をまかせまいと、はやる心をおさえていたので、身体がしびれたようになってしまったからである。
とにかく、彼女の大胆さは、たしかに見せかけとも思われなかったが、私を威圧し、あからさまな姿を見せるのが恥ずかしく思われるくらいであった。最後に、ルチーアは「十五時(午前十時)が鳴ったから、アントニオ伯爵のおじいさんがおりてくるかもしれませんわ。そして、あたしたちがこんなことをしているのをごらんになったら、きっとあくどい冗談をいって、あたしを困らせるでしょう。あたし、いつも、あの人の顔を見ると、逃げだすことにしていますのよ。では、あたし、行くわ。あんたがお床から出るのを見ていたいわけでもありませんから」といった。
私はそれから十五分以上、身動きもせず、哀れな姿で、寝床に横たわっていた。まったく気でも狂いそうな状態であった。翌日は彼女をベッドへさそわないで、いろいろ話をさせてみた。それによると、彼女は両親から目のなかへ入れても痛くないほどかわいがられ、物にこだわらない精神や行ないは、性質の無邪気さと魂の純潔さとからくるものにほかならないらしいと思った。彼女のあどけなさ、活発さ、好奇心、それからすぐに顔をあからめる癖《くせ》――彼女がなにかいって私か笑いだしても、なんで笑われたのかわからないと、すぐに顔をあからめたが――いっさいのことが、彼女こそ人間の姿をした天使で、誘いをかける最初の道楽者の餌食《えじき》になるにちがいないと思わせた。だが、私はその誘惑者にはなるまいと固く決心した。そういうことを考えただけで、身ぶるいがした。私の自尊心そのものが、律気な両親にたいしてもルチーアの名誉をまもってやらなければならないと思った。両親は私を素行の正しいものと信じこんで、このように娘をまかせきっているのだ。だから、彼らの信頼を裏切ったら、下劣きわまる人間になってしまうだろう。そこで、私は欲望への報酬として、彼女の姿を見ることだけで満足し、あくまで苦しもう、かならずや勝利を得るにちがいないから、戦いぬこうと決心した。当時、私はまだ≪戦いがつづくかぎり、勝利はつねに確実ではない≫という公理を教わっていなかったのであった。
私は彼女の話がおもしろかったので、毎朝なるべく早く来てほしい、よく眠っていてもかまわずに起こしてくれたら嬉しいといった。そして、自分の頼みに重みをつけるために、ぼくは睡眠が少なければ少ないほど身体の調子がいいのだからとつけくわえた。それで、二時間のおしゃべりが三時間になったが、その三時間もいなずまのようにすぎ去った。
母親が娘をさがしにきて、私のベッドに腰かけているのを見ると、娘のわがままを大目に見てくれていると私の善意に感心し、娘にはなんの叱言もいわなかった。ルチーアは母親になんども接吻をした。このあまりにも善良な女はルチーアが利口になるように教訓し、勉強もさせてやってほしいと私に頼んだ。だが、母親が出ていくと、ルチーアはまえと同じように不遠慮にふるまった。
この天使とのつきあいは私に非常な喜びと同時に地獄の苦しみをなめさせた。彼女があんたの妹になりたいわといって、笑いながら顔をすぐそばまで寄せてくるとき、私はその顔へ接吻の雨を降らせてやりたいと思うのだが、そういう誘惑にかられるたびに、手をとるのさえ我慢した。一度でも接吻したら、せっかくの決心もとたんに吹っとんでしまうだろうという気がした。自分が藁《わら》のように頼りなく思われたからだ。彼女が出ていくたびに、私はからくも勝利を得たことを不思議に思った。しかし、勝利の月桂冠を得たい気持はやむときなく、あの甘ったるい、危険な闘争を再開するために、あしたの日の来るのが待たれてならなかった。青年を大胆にするのは小さな欲望である。大きな欲望はかえって彼を呆然とさせ自制させる。
十日か十二日たつと、私はこういう闘争に終止符を打つか、それとも悪党になるか、ふたつにひとつを選ばなければならないところまで追いつめられた。そこで、終止符を打つほうをえらんだ。なぜなら、悪党になるにしても、相手の同意を得て、安閑と報酬を手に入れることは、どこからみても不可能に見えたからだ。ルチーアは身をまもるだんになると、きっと竜のように猛々《たけだけ》しくなるだろうし、部屋のドアはあけっぱなしだから、とんでもない恥をかき、後悔にさいなまれるにちがいない。こう考えると私はふるえあがった。だから、終止符を打たなければならないが、どういうふうにしたらいいのか見当がつかなかった。夜のほのぼの明けに、シュミーズの上にスカートしかはいてない娘がうきうきと楽しげに駆けこんできて、よく眠れたかときき、唇と唇をあわせそうにしてしゃべる。そういう娘には、もう抵抗することができなかった。そこで、蒲団のなかへ首をすっこめると、彼女は笑いだして、あたしが少しもこわがっていないのに、あんたがそんなにこわがるのはおかしいと叱言をいう。そこで、まだほんの子どもでしかないきみをぼくがこわがっていると思うなら、それは大まちがいだと、愚にもつかない返事をする。だが、彼女はふたつくらいの年の違いはなんでもないと答える。
そこで、もうやりきれなくなって、ますます恋の焔をもやしていった。これもまさしく若い学生独特の性向によるものだ。この性向は一瞬のうちにエネルギーを消耗して本能の力を無に帰するが、本能は仇《あだ》をむくいるために、自分をおさえつけた暴君の欲望を倍ましにし、逆に本能を刺激して興奮させるように仕向ける。こうして、私はひと晩じゅうルチーアの幻とともにすごし、あしたの朝を最後として、もう二度と会うまいと決心した。その心根はじつに悲壮であった。しかし、彼女自身に面と向かってもう来てくれるなと頼むという決心は、きわめて崇高で、健気で、卓抜《たくばつ》で、必然的なことのように思われた。だから、ルチーアも私の計画の実行に協力してくれるだけでなく、一生のあいだ私にたいして大きな尊敬を寄せるであろうと考えた。
[罪ぶかい禁欲]
朝日がきらきらとさしはじめたころ、彼女がやってきた。輝くばかりに美しく、にこやかに笑みをたたえ、髪をみだし、両腕をひろげて駆けよった。しかし、私が色あおざめ、ぐったりと悄気《しょげ》かえっているのに気づいて、急に悲しげになって、
「あら、どうしたの?」ときいた。
「眠れなかったんだよ」
「どうして?」
「ある計画をあんたに知らせようと思ったからなんだ。それはぼくには悲しいことなんだが、あんたからとても尊敬されるにちがいないのだよ」
「もしもあたしから尊敬されようと思ったら、反対に、もっと明るい顔をしなければだめよ。きのうはうちとけた言葉づかいをしてくれたのに、なぜきょうはお嬢さんにいうみたいな口をきくの。いったい、あたしがなにをしたのです、神父さん。あたし、さきに、コーヒーをとってきますから、コーヒーを飲んでから話してください。早くお聞きしたいから」
彼女は出ていって、じきにもどってきた。私はコーヒーを飲む。真剣だ。彼女は無邪気なことをいって私を笑わせ、自分も喜ぶ。それから、あと片づけをし、風があったのでドアをしめに行き、私のいうことをひとことも聞きもらすまいとして、少し場所をあけてほしいという。私は死人にひとしいように自分を思いなしていたので、なんのおそれもなく彼女の場所をつくってやった。
私は彼女の魅力のためにひきおこされた心の状態や、はっきりした愛情のしるしをみせたい気持をおさえるためにいままで耐えしのんできた苦痛などを事こまかに話してから、きみの顔を見ていると、心のもだえがいよいよはげしく、どうにも我慢できなくなってしまったから、こんごは二度とぼくのまえへ姿を見せないでほしいと頼むよりしかたがなくなったと打ち明けた。私の情熱は真実きわまりないものであったし、私のえらんだ方法が完全な愛の必死の努力にほかならないと悟らせたい一心から、すばらしく雄弁にしゃべった。そして、これもひとえにふたりのまじめな心がいわせることで、これとちがった行為をすると、おそろしい結果がおこって、ふたりとも不幸になるにちがいないと説明した。
私の長いお説教が終わると、彼女はシュミーズのまえをまくって涙をふいてくれたが、この親切なしぐさがどんなに熟練したパイロットでも遭難させるふたつの岩を私の目のまえにならべたことに、彼女は気づきもしなかった。
しばらく黙っていてから、彼女は悲しげな口調で、あんたの涙に心をかきむしられた。あたしがあんたに涙を流させる原因になろうとは夢にも知らなかったといった。そして、言葉をついで、
「いまのお話から、たいへんあたしを愛してくださっていることがよくわかりました。けれど、あんたの愛情はあたしをとても喜ばせるのに、どうしてあんたがそれをそんなに苦になさるのかわかりません。あんたはご自分の愛情がおそろしくて、私を目につかないところへ追いやろうとなさるけど、もしも私を憎んでいたら、どうなさるのです。あんたに恋心をおこさせたからって、どうしてあたしが悪いのでしょう。かりにそれが罪だとしても、はっきりいいますけど、その罪をおかす気なんかあたしには毛頭なかったのですから、あんたはまじめに考えて、あたしを罰することはできないはずです。けれど、あたしが少し不遠慮すぎたことはたしかですわ。愛しあうものが出会う危険については、あたしよく知っていますが、それはふたりの気持次第で乗りきれるのではないでしょうか。あたしが不思議に思うのは、そんなこと、なにも知らないあたしにさえむずかしいとも思われないのに、みなさんのお話だと、たいへん頭がよいといわれるあんたがかえってこわがっていることですわ。それから、恋というものが、病気でもなんでもないのに、あんたを病気にしてしまったけれど、あたしにはまったく反対の結果になったのもわけがわかりませんわ。あたしがまちがっているのでしょうか、そして、あんたにたいして感じているのが恋ではなかったのでしょうか。さっき来たとき、あたしとてもうきうきしていたけど、それはひと晩じゅうあんたの夢を見ていたからですわ。けれど、そのために眠れないってことはなかったわ。ただ腕に抱いているのがほんとにあんたかどうかたしかめるために五へんか六ぺん目をさましただけですわ。そして、あんたではなかったことがわかると、夢をとりもどすために寝直したの。そしてうまくとりもどせましたわ。だから、けさうきうきしてたのもあたりまえでしょう。ねえ、いとしい神父さん、恋が苦痛だなんておっしゃって、ほんとにうらめしいわ。あんたは恋ができないように生まれついたのでしょうか。あたし、あんたのご命令ならなんでもしますが、たとえあんたの病気がそれでなおるとしても、あんたを愛するのをやめるわけにはいきませんわ。けれど、病気がなおるために、あたしを愛さなくなる必要がおありなら、しかたがないから、お望みのようになさるがいいわ。だって、あたしには、あんたが恋のために死ぬよりも恋を捨てて生きていらっしゃるほうがいいんですもの。ただほかになにか方法がないかどうかさがしてちょうだいよ。さっきお話になった方法はひどすぎるんですもの。ねえ、ああいう方法ばかりじゃないかもしれないわ。べつの方法を考えてちょうだいよ。そして、ルチーアを信用してね」
この真実で無邪気でありのままの話は、自然の雄弁が哲学的精神の雄弁にくらべて、どれほどたちまさっているかを痛感させた。私ははじめて気高い娘を腕に抱きしめながら、こういった。
「そうだ、いとしいルチーアよ、きみはぼくをくるしめている病気に力づよい鎮痛剤を与えてくれる。ぼくを幸福だといった気高いきみの舌と口に接吻させておくれ」
私たちは一時間あまり、きわめて雄弁な沈黙のうちにすごした。ルチーアがときどき「ああ! 嬉しいわ! 夢を見ているのではないかしら!」とさけぶ以外には、ひとことも言葉をかわさなかった。私は、それにもかかわらず、本質的には彼女を尊敬していた。しかも、それはまさしく彼女が少しも抵抗しなかったからであった。それは私のまちがいであった。
「あたし心配だわ。なにか虫が知らせるみたいだわ。もういかなければ」
彼女は急にこういいだして、ベッドからとびおり、すばやくシーツの皺《しわ》をのばすと、足もとのほうへ行って腰をおろした。そのすぐあとで、母親がはいってきて、ドアをしめ、風がつよいからしめておいたほうがよかったといった。そして、私がいい顔色をしていると喜び、娘にミサへ行くのだから服を着かえてくるようにいった。彼女は一時間ばかりたつともどってきて、「あたし奇跡を演じちゃって、とても鼻が高いわ。だって、みんなあんたがとても元気そうだといっていたけど、けさのあのみじめなようすから考えると、それはどうしてもあたしを愛していらっしゃるからにちがいないんですもの。もしもあんたの満足するような幸福があたし次第できまるのなら、どうにでもお好きなようにしてちょうだい。けっしてさからいはしませんから」といった。
彼女はこういうと出ていった。私の官能はまだ酔心地と恐怖のなかをふらついていたが、いまや絶壁のふちに立っているのだと考えずにいられなかった。そして、そこへ落ちこまないようにするには、超自然的な力が必要だと思った。
私は九月いっぱいこの田舎ですごしたが、十一夜つづけてルチーアと褥《しとね》をともにした。彼女は母親が眠ったのを見とどけると、すぐに私の腕のなかへ夜をすごしに来た。私たちを夢中にさせたのは禁欲であった。彼女は私にそれをやめさせようとして全力をつくした。禁断の木の実は、私にむさぼり食わせなければ、彼女にもその甘味が味わえなかったのである。彼女は私がもうそれを摘みとってしまったといって、なんども私をだまそうとしたが、私はベティーナに十分教育されていたので、その手にのらなかった。それから、春になったらまた来ると彼女を安心させてパゼアーノを発《た》ったが、そのときの彼女の精神状態は将来の不幸の種になるにちがいなかった。この不幸は二十年後、オランダに行ったとき、おおいにわが身をせめたことであるが、また死にいたるまで、私の良心を責めさいなむであろう。
[聖処女アンジェラ]
ヴェネチアへ帰ってから三、四日すると、ふたたびアンジェラに思いを寄せて、もとの習慣にたちもどり、少なくともルチーアと行きついたところまで持っていきたいと希望した。現在では私の性情のなかに見あたらないある心配、将来の生活に致命的な結果をおよぼすことをおそれる恐怖が、思うままの享楽をさまたげていた。私は自分がかつて完全に誠実な人間であったかどうか知らぬ。しかし、青年時代の初期にいとしんでいた感情のほうが、長く生きてきて習慣となったものよりもはるかに繊細であった。あやまった哲学は人が先入見と呼ぶものの数をあまりにも減少する。
アンジェラとともに刺繍の勉強をしていたふたりの姉妹はアンジェラの親友で、その秘密をすべて知っていた。私はこのふたりと知合いになってから、ふたりもまたアンジェラのはなはだしい厳格さを非難していることを知った。だが、私がアンジェラにたいして哀願をくりかえすのをきいて、この娘たちが私を恋い慕うようになるかもしれないと思うほど自惚《うぬぼ》れではなかったので、彼女らを警戒しなかったが、そればかりでなく、アンジェラがそばにいないと、心の苦しみを綿々としてふたりに打ち明けた。私の情熱に水をさす無情な女に話すときよりもはるかに熱烈な情感をこめて、しばしば彼女らに語った。真実な恋人は恋の相手から大袈裟《おおげさ》なことをいうと思われるのをつねにおそれている。それで、しゃべりすぎやしないかという心配から、実際に思っていることの半分もいえなくなってしまうものである。
刺繍学校の校長は年をとった信心ぶかい女であったが、はじめは私がアンジェラに向かってしめす愛情にたいして無関心をよそおっていた。しかし、しまいには、私があまり足しげく訪ねていくのをあやしみ、彼女の伯父のトゼルロ神父に告げ口をした。そこで、神父はある日、穏やかな言葉で、あの家へはあまりひんぴんと訪れないようにと注意した。私の熱意が悪く解釈され、姪の名誉をそこなう心配があるからというのであった。それは私には雷の一撃にもひとしかった。しかし、冷静な気持で神父の忠告を受け入れ、刺繍学校ですごしていた時間はほかのところでつぶしましょうと答えた。
三、四日たってから、私は彼女に儀礼的な訪問をしたが、刺繍枠のそばへは一瞬も足をとめなかった。しかし、ナネッタというふたり姉妹の姉のほうの手へ一通の手紙をすべりこませた。それにはいとしいアンジェラへの手紙を同封しておいた。その手紙で私は訪問を中止しなければならなくなったわけを話し、思いのたけを心ゆくまで話せるような方法をさがしてほしいと頼んだ。ナネッタへは翌々日返事をもらいにいくから、うまく工夫をして返事を渡してほしいと書いた。
この娘は私の頼みをじょうずにはたしてくれた。そして、二日後、私が広間から出ようとしていたとき、人目をしのんでこっそり返事を手渡した。
アンジェラは手紙を書くのが好きではなかったので、短い手紙のなかで、変わらぬ愛を約束し、ご希望のことはなんでもするように努力しよう、詳しくはナネッタの手紙に書いてあるからといった。ナネッタの手紙の翻訳は次のとおりである。私はどんな手紙でも保存して、この回想録に収めたが、ナネッタの手紙もそのひとつである。
「神父さま、私は親しい女友だちのためなら、どんなことでもいたすつもりでございます。あの人は祭日のたびにあたしの家へ来て、お夕食をし、とまっていきます。あなたはなによりもまずあたしたちの伯母のオリオ夫人に取り入る方法をお考えにならなければいけませんわ。そして、うまくあたしたちの家へおはいりになっても、アンジェラへ興味をおもちのようなようすをお見せにならないようになさらなければなりません。伯母はあなたが自分の家のものでもない人と楽に話しあうために、家へ来られると知ったら、きっと悪くとるにちがいありませんから。では、さっき申しあげた方法というのをお話しますが、それにはあたしもできるだけお手伝いします。オリオ夫人は身分はよろしいのですが、お金持ではありません。それで、貴族未亡人会の名簿にのせられ、ご聖体賛仰会の恩典を得たいと望んでおりますが、この賛仰会の会長はマリピエロさんでいらっしゃいます。じつは、まえの日曜日に、あなたがあの殿さまのお気に入りで、あの方の推薦を得るにはあなたから頼んでいただくのがいちばん確実だと、アンジェラが話したのでした。アンジェラはばかな子でございまして、あなたはあたしにおぼしめしがおありになり、刺繍学校へ訪ねてこられるのも、あたしと話がなさりたいためで、だから、あたしからお話すれば、伯母さまのことを心配していただけると申したのでございます。すると、伯母は、あの方はお坊さまだから、なんの気づかいもいらない。おまえからお立ち寄りくださるように手紙を書くがいいと申しました。でも、私はことわりました。代訴人のローザさんは伯母の魂を左右している人ですが、それはナネッタの言い分が正しい、ナネッタが手紙を差し上げるのは穏当ではない、むしろ伯母が大事なことをご相談したいからお出向きいただきたいとお願いすべきだと申しました。もしもナネッタに興味をおもちだという話がほんとうなら、きっと来てくださるだろうから、ぜひ手紙をあげなければいけないとすすめました。ですから、伯母の手紙もおっつけお手もとにとどくことでございましょう、手まえどもの家でアンジェラとお会いになりたいおぼしめしなら、ご来訪はあさっての日曜日までおのばしなさいませ。もしもマリピエロさんから伯母の望む恩典をいただいてくださいましたら、あなたは家族同然の扱いをお受けになるでしょう。たいへんぶしつけなことを申しあげましたが、どうぞおゆるしくださいませ。あなたをお愛ししてはいないと申しあげたのでございますから。けれども、伯母には、六十歳でございますけど、甘い言葉をおっしゃったほうがよろしいかと思います。ローザさんもけっしてお焼きにはなりますまい。それどころか、あなたは家じゅうの人気者になられるでしょう。アンジェラと差し向いでお話ができるように、うまく取り計らいましょう。あたし、あなたへの友情のあかしとして、どんなことでもいたすつもりでございます。かしこ」
[四階でのランデ・ヴゥ]
この計画はうまくできていると思った。夕方オリオ夫人の手紙を受け取った。そして、ナネッタの指示どおり夫人の家を訪ねた。彼女はぜひひとはだぬいでほしいと頼み、必要と思われる証明書類をそろえてよこした。私はできるだけ努力をしようと約束した。アンジェラとはろくに口をきかず、たいへん無愛想だったが、もっぱらナネッタに甘い言葉をささやいた。老代訴人ローザとも親しくなった。この人はのちにたいへん役にたってくれた。
オリオ夫人の頼みは私にもおおいに利害関係があるので、一所懸命にならずにいられなかった。それで、マリピエロ氏から夫人の願う恩典を得るには、どんな方法をとったらいいかと考えて、美しいテレザ・イメールに頼むことにした。老人は依然としてこの娘に恋いこがれていたので、彼女は老人へいろいろのねだりごとをしたが、老人はこれをかえって嬉しがっていた。そこで、私はある日ふいに彼女を訪ね、案内もこわずに部屋のなかへはいっていった。彼女は医者のドロ氏とふたりきりであった。医者はとっさに職務上の理由で来ているにすぎないようなふうをよそおって、処方箋を書き、脈を見て、帰っていった。
このドロ氏はテレザに恋いこがれているという評判であった。マリピエロ氏はやきもちをやき、テレザにこの医師を出入りさせるのを禁じた。テレザもそれを約束したのであった。私がそういう事情を承知していることはテレザも知っていた。だから、老人との約束を踏みにじった現場を私にみつかったのは、少なからずぐあいがわるかったにちがいない。私に秘密をばらされたらと気をもんだことだろう。だが、私にとっては、それは希望することをなんでも承知させる絶好の機会であった。
私は訪ねてきた用事を手短に話し、同時に、私を腹黒いことのできる男のように思ってはならないと念をおした。テレザは、かねがねあなたのためになにかお役にたちたいと願っていたが、これはまたとない機会だから、お手伝いしましょうといい、例の夫人の証明書を残らず渡してほしいと頼んだ。それから、同じように斡旋《あっせん》を頼まれたべつの婦人の書類を出してみせ、この方はあとまわしにしようといって、そのとおりに取り計らってくれた。それで、早くも翌々日、私はご聖体賛仰会会長という資格で閣下が署名した命令書を手に入れた。こうしてオリオ夫人の名は年に二回抽籤によって恩典を与えられる人々の名簿に記入された。
ナネッタと妹のマルタはオリオ夫人の妹の娘で、孤児であった。夫人は財産といってもいま住んでいる家だけしかない。二階を人に貸し、そのあがりと、十人委員会の書記をしている兄からの仕送りとでやっていた。家には美しいふたりの姪しかいなかったが、姉は十六、妹は十五。召使いのかわりに月四リラで水くみ女を頼んでいたが、その女が毎日来て、家事いっさいのめんどうを見ていた。夫人の唯一の友だちは代訴人のローザ氏であったが、年は夫人と同じく六十歳、いずれ夫人と結婚するために、妻の死ぬのを待っているだけであった。ナネッタとマルタとはいっしょに四階で大きなベッドにねたが、アンジェラも祭日にはそこへ来てふたりとねた。ふつうの日には三人そろって刺繍の学校へかよった。
オリオ夫人の証書を手に入れるとすぐ、私はちょっと刺繍学校へ寄って、ナネッタに手紙を渡した。その手紙で私は恩典が得られたというよいニュースとともに、あさっての祭日に伯母さんへ証書を渡しに行くと知らせた。それから、アンジェラとふたりきりで話ができるように取り計らってほしいとくれぐれも頼んだ。
翌々日、ナネッタは私の行くのを待っていて、一通の手紙を渡し、お帰りになるまえにぜひ読んでほしいとささやいた。客間へはいっていくと、アンジェラ、オリオ夫人、老代訴人、それからマルタという顔ぶれがそろっていた。私は早くナネッタの手紙が読みたくて、腰もおろさずに、未亡人へ証明書類と恩典を保証する命令書とを渡し、その手に接吻する以外には、なんの褒賞《ほうしょう》ももとめなかった。
「まあ、わたしの大好きな司祭さん、せめて接吻をなさってくださいな。わたしあなたさまより三十も年上なのですから、だれも文句はいわないでしょうよ」
だが、彼女は見たところ四十五になるやならずであった。その両方の頬《ほお》に接吻すると、彼女はそれに満足したらしく、ふたりの姪にも接吻してやってほしいといった。が、ふたりはあわてて逃げだした。ただアンジェラだけはあとにのこって、平然と私の接吻をうけた。未亡人は腰をおろすようにすすめた。
「奥さま、そうしてはいられないのです」
「なぜですの。よろしいじゃございませんか」
「いずれまたうかがいます」
「まあ、そうおっしゃらずに」
「急ぎの用事がございますので」
「ああ、わかりました。では、ナネッタ、上へご案内しなさい」(四階に便所があったのである)
「伯母さま、それは堪忍《かんにん》してくださいな」
「まあ、かまととねえ。では、マルタ、あんたいらっしゃい」
「伯母さま、ナネッタに行かせてちょうだいよ」
「いやはや、奥さま、お嬢さんたちのおっしゃるとおりです。私はこれで失礼します」
「いけませんわ、姪たちはほんとにおばかさんで困りますわ。では、ローザさん、どうぞご案内をお願いします」
ローザ氏は私の手をとって、問題の四階へ連れていき、私をそこへ残しておりていった。ナネッタの手紙は次のとおりであった。
「伯母はお夕食をいっしょにとおすすめするでしょうが、おことわりしてください。そして、あたしたちが食卓についたら、お帰りください。マルタが明りをつけて通りへ出る戸口までお送りし、ドアをあけるでしょうが、外へはお出にならないでください。マルタがドアをしめて、上へあがってくると、みなはあなたがお帰りになったものと思うでしょう。そうしたら、暗い階段をおのぼりになり、四階までいらしって待っていてください。ローザさんがお帰りになり、伯母をベッドへ納めてしまったら、すぐにまいります。アンジェラのごきげん次第で、ひと晩じゅうお望みどおり、おふたりだけでお話しになることもおできになります。では、ご幸福をお祈りします」
なんという喜びだったろう! 偶然とはいいながら、まさしくいまこの手紙を読んでいる場所で、暗闇にまぎれて、愛する乙女を待つことになるのだ。偶然に感謝しよう! 私はふたたびここへもどってくるのになんの困難もあるまいと確信し、不慮の故障も予想できず、幸福感で満ちあふれながら、オリオ夫人の部屋へおりていった。
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第五章
[暗闇の鬼ごっこ]
オリオ夫人はながながと礼の言葉を述べてから、こんごはこの家の友だちとして、遠慮なくふるまってほしいといった。私たちは四時間のあいだ冗談をいって笑ったり、お互いに冷やかしあったりしてすごした。それから、うまい口実をならべて、夕食のご馳走《ちそう》になっていかれないとことわったので、夫人もとうとう我《が》をおってしまった。マルタが明りをつけて私を送っていこうとした。しかし、伯母さんはナネッタのほうが私のお気に入りだと思いこんでいたので、きつい言葉でナネッタに命令し、燭台を持ってお送りしろと命令した。利口な娘は足ばやに階段をおりると、ドアをあけ、大きな音をさせてしめ、蝋燭《ろうそく》を吹き消した。そして、私を暗がりに残して、階段をかけあがり、伯母のいる部屋へもどった。伯母はそれがはしたない失礼な態度だったと、姪をつよく叱った。私は手さぐりで約束の場所へのぼっていき、敵の目をかすめて幸福の時を待つ男のように、長椅子に身を横たえた。
一時間ばかり心地よい空想にふけっていると、往来の戸口のドアのあく音がし、二重鍵でしめる音がし、それから十分もすると、ふたりの姉妹がアンジェラを連れてはいってきた。私はアンジェラにしか注意を向けず、たっぷり二時間、彼女とだけ語りあった。十二時が鳴った。みんなは私が夕食を食べていないのを気の毒がった。しかし、私はそういう同情の口調が気にさわり、幸福のさなかには、ほかの欲求にさまたげられるのは好ましくないと答えた。だが、私はとらわれの身も同然になってしまったということであった。大きなドアの鍵は伯母さんの枕の下においてあって、伯母さんはあした夜明けに最初のミサに行くときまで開けないのであった。みんな私がさだめし困るだろうと思ったが、それが私には不思議だった。困るどころか、これから五時間、愛する乙女といっしょにすごせるので、かえって大喜びであった。一時間ほどすると、ナネッタがクスリと笑った。アンジェラがなぜ笑うのときくと、彼女は耳へなにかささやいた。マルタもまた笑いだした。そこで、なにをみんなで笑っているのかときくと、ナネッタがさも困ったというようすで、じつはかわりの蝋燭が一本もないので、これが燃えつきると、まっ暗になってしまうのだといった。この話は私にはとても嬉しかったが、そんな気《け》ぶりは少しも見せなかった。そして、ベッドにはいって、ゆっくり眠ったらいい、けっして道ならぬことはしないからとすすめた。この言葉をきいて娘たちは笑いだした。
「まっ暗ななかでなにしましょうか」
「お話しましょうよ」
私たちは四人、もうすでに三時間もまえからしゃべっていた。私はこの舞台の立役者であった。恋は偉大な詩人だ。詩の素材はこんこんとしてつきない。しかし、目ざす最終の目的にたどりつけないときには、パン屋の練粉のように意気消沈してしまうものだ。いとしのアンジェラはじっと聴いていた。が、しゃべるのがあまり得意でなかったので、ろくに返事をしなかった。彼女は輝かしい才気をもたず、むしろ良識をひけらかして得意になるのであった。それで、私の議論に水をさすために、まるでローマ軍が弩砲《どほう》をうったように、しばしば諺《ことわざ》を投げつけた。そして、恋の口説《くぜつ》の助けをさせるために手をのばすと、さっと身をかわすか、哀れな手をおしのけたが、その動作のしとやかさは不愉快きわまるものであった。それにもかかわらず、私は失望もせずに身ぶりをまじえて話をつづけた。しかし、私のあまりにも微妙な話が彼女を説得させずに茫然とさせ、彼女の心をしっとりと感動させるかわりにかきみだしてしまうのに気がついて、すっかり悲観してしまった。しかし、アンジェラへ向かってまっすぐに射込んだ矢が、かえってナネッタやマルタの顔に感動の表情をえがきだしたのを見て、びっくりしてしまった。この微妙な精神的曲線は自然以外のものと見えた。一種の角《かく》ともいうべきものであったかもしれない。不幸にして当時私は幾何学をやっていたのであった。おりからうすら寒い季節であったが、それにもかかわらず、私は汗びっしょりになった。ナネッタが立ちあがって、燭台を外へ出した。そばで消えかかると、いやな匂いがするからである。
あたりがまっ暗になると、私の腕はそのときの心の状態になくてはならない対象をとらえるために、つとのびていった。しかし、その寸前、アンジェラがつかまるまいとして身をひいているのに気づいて、私は笑いだしてしまった。それから一時間、私は恋が思いつけるすべての陽気な言葉をならべて、そばへ来るようにすすめた。が、それも甲斐《かい》なき努力であった。だが、アンジェラが本気でそんな態度をしているとは思われなかったので、とうとうしびれを切らせて、しまいにこういった。
「悪ふざけにもほどがありますよ。ふつうじゃありません。ぼくはきみのあとを追いまわすわけにはいかないんですからね。それなのに、よくもそんなに笑っていられますね。そんな妙なしぐさをされると、ばかにされているような気がしますよ。さあ、ここへ来てすわりなさい。きみの姿を見ずに話をしなければならないのだから、少なくともきみの手をとって、空に向かってしゃべっているのではないことをたしかめなければならないのです。もしもきみがぼくをばかにしているなら、それは大きな侮辱だと悟るべきです。だが、恋は侮辱の試練を課せられるべきではないと思いますよ」
「まあ! 少し落ちつきなさいよ。おっしゃることはひとことものがさずに聞いておりますわ。けれど、正直なところ、こんなまっ暗ななかで、あんたのそばにくっついていられないことは、あんたにもよくおわかりのはずです」
「では、夜の明けるまでここにこうしていろというのですか」
「それでは、ベッドへ横になって、お休みなさいよ」
「そんなことがぼくにできますか。それがぼくの情熱にふさわしいと思うなんて、あんたはとんでもない人だ。それじゃあ、ひとつ鬼ごっこでもしてみますか」
私はこういって立ちあがり、部屋のなかを隅から隅までさがしてまわったが、むだなあがきであった。だれかをつかまえたが、それはいつもナネッタかマルタであった。ふたりは自尊心にかられて、すぐに名前をいってしまった。すると、愚かなドン・キホーテはすぐに手を放さなければならないと思った。恋と先入観念のためのそうした律気さがどんなにくだらないことか、わからなかったのである。当時私はまだフランス王ルイ十三世の逸話を読んでいなかったが、ボッカチオの本は読んでいた。私はなおも彼女をさがしつづけた。そして、彼女の無情をせめ、どうしてもつかまえてみせるといいきかせた。すると、彼女はあたしのほうもあんたを見つけるのに同じように骨をおっているのよと答えた。部屋はさして広くなかった。それなのに、私はどうしても彼女をつかまえることができず、気持がいらだちはじめてきた。
[あてのはずれた夜]
とうとう、疲れたというよりもうんざりしてしまって、腰をおろした。そして、一時間ばかり、ルッジェロの話をした。この恋する騎士はあまりにもお人よしで、相手のアンジェリカに魔法の指輪を渡してしまう。すると、アンジェリカはその指輪をつかって、姿をくらましてしまったのである。
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かく語りつつ、泉のまわりを、盲人のごと、
彼はよろめきさまよいぬ。
おお、いくたびか、美女をいだかんとして、
虚空を抱きしめし彼なりき!
(アリオスト『狂乱のオルランド』)
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アンジェラはアリオストを知らなかったが、ナネッタは何度も読んでいた。それで、アンジェリカを弁護し、ルッジェロの人の好さを非難しはじめた。ルッジェロはもしも賢い男だったら、仇《あだ》し女に指輪を渡しはしなかったろうというのであった。ナネッタは私を感心させた。しかし、そのころ私はとてもおぼこで、わが身に引きくらべて適当な反省をすることができなかった。
もうあますところ一時間しかない。べんべんと夜明けを待ってはいられない。オリオ夫人はミサに欠席するよりは死んだほうがましだと思うにちがいないのだから。この最後の一時間のあいだ、私はアンジェラだけに言葉をかけ、彼女を説きふせて、そばへすわりにいかなければいけないと思いなおさせようとした。私の心は四苦八苦の苦しみにもだえた。しかし、その苦しみはそういう境地におちいったものでなければ、とうていはっきり想像できまい。私は思いつくすべての理由をあげたあとで、手を合わせて頼み、さらに、あろうことか、涙さえ流してみせた。しかし、いっさいがむだだとわかったとき、私の心をさらった気持は≪怒りを正当化する正しい憤慨≫(ウェルギリウス『アエネイス』)であった。もしもあたりがまっ暗でなかったら、私をまる五時間も手ひどい困窮のなかにとじこめた高慢な怪物を打ちのめさずにおかなかったであろう。私は軽蔑された恋がいらだつ心に暗示しうる、あらゆる悪口雑言を彼女にあびせ、狂わしいほどの呪いをかけた。そして、いままでの恋は憎しみに変わったといい渡し、最後にぼくのことを警戒するがよい、いつか目のまえに姿をあらわしたら、ひと思いに殺してしまうからとどなった。
こうした悪態は暗闇とともに終わった。やがて夜明けの光がさしはじめ、大きな鍵と閂《かんぬき》の音が聞こえてきた。オリオ夫人が毎日欠くことのできない魂のやすらぎをもとめに出かけようと、ドアをあけたのだ。そこで、私は外套と帽子をとって帰ろうとした。しかし、三人の娘の顔へちらりと目をやり、三人とも涙にくれているのを見たときの、どうにもやり場のない気持は、とうてい言葉にあらわすことができなかった。私は恥ずかしく、やるせなく、いっそのこと自殺してしまおうかとまで思いつめて、ふたたびそこに腰をおろした。私の乱暴な振舞いがこの美しい三人の娘を泣かせてしまったのだ。私はいうべき言葉もなかった。胸がせまって息もつまる思いであった。しかし、涙が救いの手をさしのべてくれ、私は気のすむまで泣いた。ナネッタが立ちあがって、伯母さまがじきに帰ってくるといった。私は目をふき、娘たちの顔も見ず、言葉もかけずに、帰ってきた。そして、すぐベッドへはいったが、全然眠れなかった。
昼食のとき、マリピエロ氏は私の顔つきがひどく変わっているのを見て、どうしたのかとたずねた。私は胸のもやもやを吐きだしたくて、なにもかもしゃべってしまった。賢明な老人は笑わなかった。それどころか、たいへん物わかりのよい意見をして、私を力づけてくれた。また私の場合を自分とテレザとの関係に比較して見たりした。しかし、私ががつがつ物を食べるのを見て笑いだした。私もさそわれて笑ってしまった。私は前夜から食事をしていなかったのである。しかし、彼は私の体質のいいのを喜んでくれた。
私はもう二度とオリオ夫人のところへは行くまいと決心したが、その数日のあいだに哲学的な論文を書いてみた。そのなかで、≪抽象的な観念しかもてない相手は、すべて抽象的にしか存在しえない≫と主張した。私の言葉は正しかったが、人々は早計にも不信心の傾向があるとなし、取消しをせまった。私はパドヴァへ行って、法学博士号を得た。
ヴェネチアへ帰ると、ローザ氏から手紙が来ていた。オリオ夫人からの伝言で、自宅へ会いに来てほしいということであった。私はそこでアンジェラと出っくわすはずはないと思い、その晩、さっそく出かけた。アンジェラのことは、もう考えるさえいやであった。ナネッタとマルタは陽気にはしゃいで、二か月もご無沙汰をしたバツのわるさを吹きとばしてくれた。また、私の論文と博士号とはオリオ夫人にたいして言訳の役にたち、夫人は私が寄りつかなくなったのを愚痴るほかには、いうこともなかった。帰りしなにナネッタは一通の手紙を渡した。それにはアンジェラの手紙が同封してあった。アンジェラはこういっていた。
「もうひと晩、あたしとおすごしになる勇気がおありなら、不平をおっしゃる理由はおなくなりになるでしょう。だって、あたし、あんたをお愛ししているのですからね。もしもあたしがふしだらな女になることを承知したら、これからも愛してくださるかどうか、あんたのお口からじかにうかがいたいのでございます」
ナネッタの手紙は次のようなものであったが、さすがに彼女だけは才気があった。
「ローザさんがあんたがまたおいでくださるようにしてみせると約束してくれましたの。それで、アンジェラがあなたを失ってたいへんがっかりしていることをお知らせするために、この手紙を書いておきましたの。あたしたちがごいっしょにすごした夜は、ほんとにひどかったと思います。けれども、そのために伯母にさえ会いに来まいという決心までなさるにはおよばないのでないかと思います。もしいまでもアンジェラを愛していらっしゃるなら、もうひと晩、危険をおかしてみるようにおすすめします。あの人もいろいろわけをお話し、あんたもお気がすむことでしょう。では、いらっしゃってくださいね、かしこ」
この二通の手紙は私を喜ばせた。思いきりひどい侮辱でもってアンジェラに復讐してやれると思った。それで、次の祭日に、キプロスの葡萄酒を二本と燻製《くんせい》の舌をポケットへしのばせて訪ねていった。だが、意外にも例の薄情女は来ていなかった。ナネッタは彼女のことに話題をもっていって、けさのミサであったときの話では、お夕食の時刻にならなければ来られないということだったといった。私はそれを疑わず、オリオ夫人がゆっくりしていってほしいとすすめるのをことわった。そして、夕食の時刻の少しまえに、はじめのときと同じように帰るふりをして、約束の場所へあがっていった。まえから考えていたすばらしい役割を早くはたしたいと気がせいていたのだ。たとえアンジェラが態度を変えようと決心しても、きっと取るに足りないお愛想しかしないにちがいない。だから、そんなことは全然眼中になく、ただもう復讐のはげしい希望に駆られるばかりであった。
[戯れに接吻は許すまじ]
四十五分ばかりたつと、往来に向かったドアのしまる音がし、それから十分もすると、階段をあがってくる足音がし、ナネッタとマルタが目のまえにあらわれた。
「アンジェラはどうしたの」と、ナネッタにきいた。
「きっとここへ来ることも、来られないわけを知らせてくることも、できなかったのでしょう。でも、あんたがここにいらっしゃってることは知っているはずですわ」
「きっとぼくにいっぱい食わしたつもりでいるんですよ。だが、ぼくはあの人がくることをあてにしてはいなかったんです。こうなると、あんた方にも、よくわかったでしょう。あの人はぼくをばかにしているんですよ。いまごろベロを出していますよ。ぼくをだまかすために、あんた方を道具につかったんですよ。でも、かえって得をしたというものです。もしもここへ来たら、うんとやっつけてやるつもりだったんですからね」
「まあ、嘘ばっかり!」
「いや、嘘じゃありませんよ。いとしいナネッタ、今夜はアンジェラをぬきにして、三人で楽しくすごしましょう。そうしたら、嘘でないことがわかるでしょう」
「つまり、あんたはおつむがいいものだから、お気に入らないときでもうまく調子を合わせることがおできになるんですよ。とにかく、あんたはここへお休みなさいな。あたしたちは隣の部屋の長椅子へ行ってねますから」
「そりゃご自由ですがね、むしろひどいいたずらというものですよ。だいいち、ぼくはねやしませんからね」
「まあ! 七時間もあたしたちとおすごしになる気力がおありになって? きっとじきにお話がなくなって、眠っておしまいになりますわ」
「さあ、どうですかね。じつは、舌の燻製とキプロスの葡萄酒を持ってきたんですが、まさかぼくにひとりで食べさせるほど残酷じゃないでしょうね。パンはありますか」
「ありますよ、あたしたち、そんなに残酷じゃございませんわ。お夕食の食べなおしをしましょうよ」
「ぼくはきみに恋すべきだったかもしれませんね、美しいナネッタ。もしもそうなったら、きみもアンジェラと同じようにぼくを不幸にしたでしょうか」
「へんなことをおききになるのね。ずいぶんしょってらっしゃるわ。あたしにご返事できるのは、なんにも知らないってことだけですわ」
彼女はすぐに三人分の食器をそろえ、パンとパルマ産のチーズと水とを持ってきた。そして、奇妙な夜食をおもしろがって笑いながら食べはじめ、すすめられるままにキプロス島の葡萄酒を飲んだ。ふたりは酒に馴れていなかったので、すぐに酔ってしまい、はしゃぎ方もなかなか色っぽくなった。ふたりをながめながら、いままでその値うちに気がつかなかったのに、われながらあきれてしまった。
夜食がすむと、私はふたりのあいだにすわり、手をとった。そして、その手に接吻しながら、ほんとの友だちになってくれるか、それとも、私にたいするアンジェラの不当な仕打ちに賛成しているかときいた。ふたりは口をそろえて、あんたの話をきいていて涙を流してしまったわと答えた。私はさらにいった。「きみたちには、ほんとの兄のような愛情を寄せさせてください。きみたちもほんとの妹のようにぼくの愛情を分けあってほしい。清らかな心で、そうする約束をしあおうじゃないか。お互いに接吻して、永遠の真心を誓いあおう」
彼女らに与えた最初の接吻は恋の欲望からでもなく、誘惑の計画からでもなかった。彼女たちのほうでも、何日かたって告白したが、誠実な兄弟愛をもちあおうという私の気持に同意したことを証明するために接吻をかえしたにすぎなかった。しかし、この無邪気な接吻もじきに焔を吹きはじめ、三人ともかっかと燃えあがって、われながら度胆をぬかれた。それで、接吻もやめてしまい、目をまるくして、真剣な気持で互いに顔を見合わせた。ふたりの姉妹は口実をつくって席をはずした。私はあとに残って物思いにふけった。あの接吻が私の心に点じた火は全身の手足をめぐって、たちまち、ふたりの娘にはげしい恋情をもやしはじめたが、それもあやしむに足らなかった。ふたりともアンジェラよりずっと美しかった。ナネッタは才気により、マルタは純でやさしい人柄によって、アンジェラよりもはるかにすぐれていた。私はそのときまでふたりの値うちに気がつかなかったのを非常に驚いたが、彼女らは心根が気高く、たいへん堅気で、ふたりを私の手にゆだねた偶然も不幸の原因となるべきものではなかった。私はふたりから愛されていると思うほど自惚《うぬぼ》れてはいなかったが、あの接吻が彼女らにも私に与えたのと同じ結果をひきおこしたと推量できた。この推量のもとに、私はふたりにたいしてはかりしれない力をもつ策略や美辞麗句をもちいたら、長い一夜をいっしょにすごすあいだには、楽しい遊びを承知させるのも困難ではあるまいと見てとった。そして、その遊びはいずれは決定的なものとなるにちがいない。こう考えて、私は愕然《がくぜん》となった。それで、厳格な掟《おきて》をわが身に課することにし、それをまもるに必要な力があると信じて疑わなかった。
ふたりがまた姿をあらわしたとき、その顔に信頼と満足の表情を見てとって、私はもう接吻の焔に身をさらすまいと決心し、すぐに同じ表情をよそおった。
[ナネッタとマルタ]
私たちはアンジェラの噂に一時間をすごした。あの人はたしかにぼくを愛していないのだから、もう二度と会わないことにきめたといった。しかし、無邪気なマルタはこう答えた。
「アンジェラはあんたを愛してるわ。それはたしかですわ。けれど、あの人と結婚しないつもりなら、すっかり縁を切ったほうがいいと思うわ。あんたが恋仲になることだけしか考えないのなら、一度の接吻もゆるすまいと心にきめているのですからね。だから、あの人をあきらめるか、無愛想な仕打ちをされるのも覚悟しなければいけませんわ」
「きみは天使みたいな理屈をいうんですね。だが、どうしてアンジェラがたしかにぼくを愛しているというんですか」
「それはたしかですよ。お互いに兄と妹の愛情を約束しあった間柄ですから、隠さずにいえるのですけどね、アンジェラはいっしょにねるとき、あたしにめちゃめちゃに接吻して、あたしの大好きな神父さんと呼ぶんですの」
ナネッタが笑いだして、妹の口に手をあてた。だが、その無邪気さは私をかっかと燃えたたせ、平静をよそおうのに、とても骨がおれた。
マルタはナネッタに、この方はおつむがいいから、仲よしの娘たちがいっしょにねたらどんなことをするか、ご存じないはずはないといった。
「もちろん、それはありふれたことで、だれでも知っていますよ」と、私はあいづちを打った。「だが、かわいいナネッタ、妹さんの打明け話が口さがないと思ってはいないでしょうね」
「いまとなっては、しかたがないわ。けれど、そんなこと、口にだすことじゃなくてよ。アンジェラがきいたら、なんていうでしょう」
「きっと、しゅんとしますよ。よくわかっていますよ。けれど、マルタははっきりした愛情の証拠をみせてくれたんだから、マルタには死ぬまで感謝しなければなりませんね。でも、しかたがない。ぼくはアンジェラなんか大嫌いだ。もう二度と会いませんよ。ありゃ偽善者だ。ぼくを奈落《ならく》の底へひきずりこもうとしているのです」
「でも、あんたを愛しているなら、あんたと結婚したいと願うのは、まちがってはいませんよ」
「そりゃそうです。しかし、あの人は、結婚するにしても、自分の利益しか考えていないのです。だから、ぼくが苦しんでいると知っても、ぼくを愛していないようなやり方しかできないのです。それで、あやしげな空想をめぐらして、夫の役目をつとめてくれるこのかわいいマルタ相手に、獣的な欲望をまぎらせているのです」
すると、ナネッタがげらげら笑いだした。しかし、私はまじめそうなようすをすてず、またマルタにたいする態度もかえずに、口をきわめて彼女のうるわしい誠実さをほめそやした。
こういう話は私をおおいに喜ばせた。そして、アンジェラも代りあってきみの夫になったにちがいないとマルタにいった。すると、マルタは笑いながら、アンジェラはナネッタの夫にしかならないといった。ナネッタもそれを認めずにいられなかった。
「けれど、ナネッタは興奮すると、夫をなんて呼ぶんです」
「そんなことわからないわ」
「すると、きみはだれかを愛してるのですか」と、ナネッタにきいた。
「ええ、けれど、あたしの秘密はだれにも教えられないわ」
ナネッタはひそかにアンジェラをライヴァル視しているのかもしれないと思って、いい気持になった。しかし、こういう艶っぽい話をしているうちに、ふたりの娘となんにもせずに一夜をすごそうと思っていた気持が消えはじめた。ふたりは恋のためにできているような娘であった。そこで、こういった。
「きみたちにたいして友愛の感情しかもたないことは、たいへん嬉しい。さもなければ、愛情のしるしを与えたり受けたりしたい気持をおさえて、いっしょに夜をすごすのが、たいへん骨のおれることになりますからね。というのも、きみたちはふたりともうっとりするほど美しく、きみたちを十分に知ったら、どんな男でも頭を狂わせずにおかないようにできているのですからね」と冷静な口調でつけくわえた。
そして、こうしゃべってから、ねむたそうなようすをしてみせた。ナネッタが、ご遠慮にはおよばないのよ、ベッドへお休みなさい。あたしたちは隣の部屋へ行って、長椅子の上でねますからといった。
「そんなことをしたら、世界じゅうでいちばん礼儀を知らない男になってしまいますよ。話をしましょう。そうすれば、眠気もさめるでしょう。ぼくはただきみたちのことが気にかかるのですよ。きみたちがここへねて、ぼくは隣の部屋へいかなければならないのです。もしもぼくのことを危険だと思うなら、鍵をかけなさい。けれど、そんなふうに考えるのはまちがいですよ。ぼくは腹の底からほんとの兄のつもりできみたちを愛しているのですからね」
「あたしたち、そんなことできませんわ」と、ナネッタがいった。「そんなに我《が》をはらずに、ここへお休みなさいよ」
「服を着たままじゃ、眠れませんよ」
「それじゃ、服をおぬぎなさいよ。見ていませんから」
「そりゃどうでもいいけど、きみたちを眠らせずにおいて、ぼくばかり眠るわけにいきませんよ」
「それじゃ、あたしたちもねますよ。けれど、服はぬがないことよ」と、マルタがいった。
「そういう疑いはぼくの誠実さを恥ずかしめるものですよ。ねえ、ナネッタ、きみはぼくをまじめな男だと思っている」
「もちろんですよ」
「よし、じゃあ、それを証明してほしいね。きみたちはふたりともすっかり服をぬいで、ぼくのわきにねるのだ。指一本さわらないというぼくの誓いを信用するんだよ。きみたちはふたりで、ぼくはひとりなんだもの、なにを心配するんだね。もしもぼくがへんなことをしたら、きみたちはかってにベッドからとびだしたらいいじゃないか。要するに、少なくともぼくが眠ったのを見とどけてから、そういう信頼のしるしを与えると約束してくれなければ、ぼくは横になりませんよ」
[姉妹との三人遊び]
こういうと、私はしゃべるのをやめ、眠ったふりをした。ふたりは小声でなにか話しあっていた。それから、マルタがベッドへねに行きなさい、あたしたちもあんたが寝入ったのを見たら、ねに行きますからといった。ナネッタも同じ約束をした。そこで、私は彼女らに背を向け、すっかり服をぬいでからベッドにはいり、お休みなさいをいった。はじめ私は眠ったふりをしていたが、十五分もすると、ほんとに眠ってしまい、ふたりがねにきたときまで目をさまさなかった。しかし、また眠ろうとするように寝返りをうった。そして、ふたりがよく眠ったと見とどけるまで、じっと動かずにいた。ふたりはたとえ眠っていなくても、眠ったふりをするのはなんでもないことであった。ふたりは私に背を向けていた。あたりはまっ暗であった。
私はそれがナネッタかマルタかも知らずに、まずまえにねているほうからはじめた。丸く身体をちぢめ、シュミーズだけ着ていた。そこで、少しも手荒なことをせずに、そろりそろりともちかけていった。相手は眠っているふりをして、するままにさせたほうがいいと心をきめた。私は少しずつ向うの姿勢をほぐしにかかった。向うも少しずつほぐれてきた。そして、非常にゆっくりと、しかし、まったく自然のままの動作で、寝相をなおしていき、ついにある姿勢をとった。彼女は露骨にするのでないかぎり、これより都合のよい姿勢をとることはできなかったろう。そこで、私は仕事にかかったが、それを完全にしとげるためには、やりそこないをしないように、相手が力をかしてくれなければならなかった。ところが、ついに自然の情熱が燃えあがり、彼女も積極的に応じてきて、首尾よく目的を達した。
この最初の娘はなんの懸念も感じていないようであった。私は相当の痛みをしのばなければならなかったのだろうにと思って、事の意外におどろいてしまった。こうして生まれてはじめて恋の歓楽を十分に味わった私は、その喜びを与えてくれたお初穂《はつほ》へ仕来《しきた》りどおり宗教的な尊敬を寄せる義務があったので、生贄《いけにえ》となった乙女をそっとしておいて、べつの側へ寝返りをうった。そして、私の感謝を心待ちにしているにちがいないべつの姉妹へ同じことをもちかけた。
彼女はなんの恐怖もなくあお向けに深く眠ったときの姿勢で、じっと動かずにいた。私は目をさまさせまいと気をつかうように見せかけながら、こまかい手心を加えつつ、彼女も姉妹と同じく生娘だと信じて、その情熱をあおりはじめた。そして、相手がごく自然の動作をよそおい、私に勝利を与える助けをしてくれるまで、同じしぐさをやめなかった。そういう助け船を出してくれなければ、仕事を仕上げることができなかっただろう。しかし、クライマックスに達したとき、彼女はそれ以上しらばっくれていることができなくなって、マスクをかなぐりすて、私を両腕でひしと抱きしめて、唇を私の唇へおしつけてきた。
「どうもようすを見ると、きみはナネッタらしいね」と、私は彼女にいった。
「そうよ。もしもあんたがまじめで、いつまでも心変りをしなかったら、あたしも妹もしあわせな女になるのよ」
「死ぬまで心変りなんかしないよ、ぼくの天使たちよ、ぼくらのしたことは、みんな愛の仕業《しわざ》なのだからね。もうアンジェラなんか問題じゃないよ」
そこで、私は起きていって蝋燭《ろうそく》に明りをつけるように頼んだ。マルタがきさくに起きてくれた。私は私の腕のなかで恋の焔に上気しているナネッタの姿を見、それから蝋燭を手にして私たちふたりをみつめているマルタを見て、しみじみとわが身の幸福を感じた。マルタの顔は自分が最初に私の愛撫に身をまかせて、姉にもそれを見習う気持をおこさせたのに、私たちふたりがひとことの礼もいわない恩知らずをなじっているようであった。
「起きよう。そして、お互いに永遠の愛を誓い、なにか食べようじゃないか」と、私はふたりにいった。
三人はベッドを出ると、水のいっぱいはいったバケツで身体のよごれをおとした。これは私の思いつきだったが、みんなおもしろがって笑った。こんなことがまたわれわれの情熱を呼びおこした。それから昔なつかしき黄金時代そのままの姿で舌の残りともう一本の葡萄酒をたいらげた。そして、官能の陶酔におぼれた恋人たちだけにしかわからないさまざまのことを語りあってから、またベッドにはいった。こうして、夜の明けるまで、いろいろにポーズをかえて愛の組打ちをつづけた。殿《しんがり》をうけたまわったのはナネッタであった。オリオ夫人がミサへ出かけたので、私は挨拶《あいさつ》もそこそこに引きあげなければならなかったが、帰りしなに、アンジェラのことはもう考えていないと固く誓った。そして、家へもどり、昼食の時間までぐっすり眠った。
マリピエロ氏は私が嬉しそうなようすで、目に隈《くま》をこしらえているのを見て、彼独得の想像をめぐらしたが、私は相手にならず、なにも打ち明けなかった。その翌々日、オリオ夫人のところへ行った。アンジェラが来ていなかったので、夕食のご馳走になり、ローザ氏と連れだって帰った。ナネッタはすきを見て、私に手紙と小包を渡した。小包にはパンの練粉の塊がはいっており、それに鍵の形がついていた。手紙はこれで合鍵をつくらせ、あたしたちと夜をすごしたくなったら、いつでもいらっしゃいと書いてあった。そのほか、アンジェラのことを報告してあった。アンジェラはあの翌日の晩訪ねてきたが、いつものような遊びをしているうちに前夜のことを見やぶった。だが、ふたりは口をそろえて、これももとはといえばあんたが悪いのだと非難した。アンジェラはたいへん腹をたてて、とても下品な悪態をわめきちらし、もうこんな家へは二度と足踏みをしないと誓った。しかし、ふたりはそんなことは気にもとめていないということであった。
それから数日ののち、幸運がわれわれをアンジェラから解放してくれた。彼女の父が向う二か年の予定で、ヴィチェンツァの多くの邸へ壁画を描きに行くことになったので、娘を連れて出かけたのである。こんなわけで、少なくとも一週に二晩は例の合鍵をつかって、ふたりの天使が待ちこがれている部屋をおとずれ、思うままに可憐な肉体をもてあそんだ。
[スキャンダルの原理]
謝肉祭の終りごろ、あの有名なジュリエッタが私と話したがっている、私がいっこう姿を見せないので不平たらたらだということをマンツォーニ氏からきかされた。そこで、どんなことを話したいのだろうと好奇心をおこして、マンツォーニ氏といっしょに訪ねていった。彼女は私をかなり丁重に迎えてから、お宅には美しい客間がおありだとききましたが、費用はわたしが持ちますから、お宅で舞踏会を開いてくださいませんかといった。私はふたつ返事で承知した。すると、私に二十四ゼッキーニ渡した。彼女のほうから下男をよこして、客間や部屋部屋にシャンデリヤをつけさせ、私はオーケストラと夜食の手配だけすればよいということであった。サンヴィタリ氏はもう立ち去っていた。パルマの政府が彼の濫費に制限を加えたからである。この人とは十年後ヴェルサイユで出会ったが、ルイ十五世の長女、パルマ公爵夫人の主馬頭《しゅめのかみ》として、王室の勲章で胸を飾りたてていた。この公爵夫人はフランスのすべての公妃と同じく、イタリアでの生活に耐えられなかったのである。
舞踏会はすっかり準備がととのった。客はみんなジュリエッタのお取巻き連であった。オリオ夫人とふたりの姪、それから代訴人のローザ氏とは小さい部屋におさまった。この連中は毒にもならない客として、彼女が呼ぶことを許可したのである。
夕食のあとで、人々がメヌエットを踊っているあいだに、美人は私を小脇へ呼び、「すぐにあなたのお部屋へ連れていってちょうだい。おもしろいことを思いついたんですよ。きっと大笑いになるわよ」といった。
私は四階の自分の部屋へ彼女を案内した。彼女はドアに閂《かんぬき》をかけた。それをどう考えるべきか、私には見当もつかなかった。
「わたしね、あなたの服をお借りして、すっかり坊さんのなりをさせていただきたいの。それから、あなたにはわたしの衣装をお貸しして、女のなりをさせてあげますわ。ふたりでそういうふうに変装して下へおりていって、コントルダンスを踊りましょうよ。さあ、あなた、早くなさるのよ。まず第一に髪の形を変えなければ」といった。
私はおもしろいことになりそうだと思い、聞いたこともない趣向にほくほくして、手ばやく彼女の長い髪をまるくたばねた。それから、彼女は私の髪を編んで、手ぎわよく自分の帽子の下におさめた。それから、私の頬《ほお》に紅をぬり、黒子《ほくろ》をつけた。私は大満悦、すなおな少年らしく喜んでみせた。すると、彼女もたいへんきげんよく、甘い接吻を与えてくれた。ただし、後ねだりをしないという条件つきであった。私はなにもかもおぼしめし次第だと答え、まえからあなたのことが好きでたまらなかったのだといった。
私はベッドの上に、シャツ、小さなカラー、パンツ、長い黒靴下、ひとそろいの服などをならべた。スカートを下へおとすだんになると、彼女はじょうずにパンツをはき、ぴったりだといった。しかし、ズボンをはこうとすると、腰まわりや太腿のところがせますぎた。それには方法がない。うしろで縫目をほどくか、やむをえなければ布をやぶるよりしかたがない。私はいっさいを引き受け、ベッドの足もとに腰をおろした。彼女は背を向けてまえに立った。しかし、私があまり見たがる、やり方がまずい、手さばきがおそすぎる、さわる用のないところへさわるなどと癇癪《かんしゃく》をおこし、私をつきのけ、自分で布をやぶり、ズボンの始末をつけた。それから、彼女に靴下や靴をはかせ、シャツを渡し、胸飾りや小さいカラーのぐあいをととのえてやったが、私の指先があまりいじりまわしすぎるといった。胸に乳おさえをしてなかったからだ。そして、口ぎたなく私をののしり、無作法者だときめつけたが、だまっていわせておいた。すぐに腹をたてる男のように思われるのもいやだったし、それに、相手は十万デュカの金をみつがせた女だ。心あるものの興味をそそる値うちがあるはずだから。彼女の着つけがようやく終わった。次は私の番だ。
彼女はズボンをはいたままでいいといったが、私はすぐにぬいだ。それから、彼女がシュミーズやスカートを私に渡す順序だったが、急にもったいぶって、私が彼女の魅力からうけた、あまりにも赤裸々な感動をかくしもしないのに腹をたてた。だが、一瞬でその感動をしずめられるはずの慰撫《いぶ》をこばんだ。そこで、せめて接吻だけでもと頼んだが、それも承知しなかった。今度は私がいらだち、彼女がさえぎるいとまもなく、おさえかねた情熱のほとばしりが、シュミーズにしみをつけた。彼女は悪口雑言をならべた。私はそれに口返答をし、彼女のほうが悪いのだと理屈をならべた。だが、なんといってもむだで、彼女はますますいきりたった。しかし、仕事を終えなければならなかったので、ようやく私の着つけを終わった。
もしも堅気な女であったら、私を相手にこういう事態になった場合、もっとしおらしい心づかいをするだろう。そして、自分の誘いに私がのってきたのを見ながら、急に変改《へんかい》をするなんてことはあるまい。しかし、ジュリエッタのような種類の女は呪われた精神に支配されていて、自分自身をさえ裏切るようなことをする。ジュリエッタは私が案外しっかりしているのを見て、一杯くわされたと気づき、私の磊落《らいらく》な振舞いを無礼きわまることのように思ったにちがいない、きっと自分では少しも気がつかないようなふりをして、二、三の恩恵をかすめとらせるのを望んでいたのだろう。だが、そうすると、あまりにも彼女の虚栄心を甘やかすことになる。
とにかく、こういうふうに変装して、われわれは客間へおりていった。はじけるような拍手がはじめわれわれを上きげんにした。みんなは私が手に入れそこなった艶福にすでにあずかったように想像した。しかし、そう思われるのは悪い気持ではなかった。そして、贋《にせ》の司祭とコントルダンスを踊りはじめたが、贋の司祭がひどくチャーミングに見えたので、癪《しゃく》にさわってならなかった。ジュリエッタはそのひと晩じゅう私を非常にちやほやしてくれた。それで、きっとさっきの下品な仕打ちを後悔してのことだろうと考え、私も自分の振舞いを後悔した。しかし、それはひとりよがりの感情で、当然神から罰せられるべきものであった。
コントルダンスが終わると、男の客はみんな司祭になったジュリエッタと踊る自由を与えられたものと思いこんだ。私も娘たちと羽目をはずして踊った。娘たちは私一流の踊り方に反対したら、阿呆だと思われやしまいかと心配しているようであった。ケリーニ氏はひどく間抜けで、私がズボンをはいているかどうかと聞いた。ズボンは司祭にゆずらなければならなかったと答えると、青くなり、客間の隅へいって腰をおろして、もう踊ろうともしなかった。
みんなは私が女のシュミーズを着ているのを見て、私が艶《つや》っぽい勝利を得たことをうたがわなかった。しかし、ナネッタとマルタはべつで、私にそういう不実なことができようとは考えなかった。ジュリエッタはとんでもないヘマをやったと気がついたらしいが、もう取返しがつかなかった。
それから、服を着がえに、四階へもどっていったが、彼女が後悔したものと思いこんでいたし、彼女のことを好ましくなっていたので、接吻してもいいように思い、同時に、彼女の当然うけるべき満足を与える用意のあることを納得させるために、その手をとってもいいと思った。ところが、彼女はいきなり私に平手打ちをくらわせた。それがあまりにも激しかったので、私もあやうくやりかえしそうになった。そこで、私は彼女のほうを見ずに服をかえ、彼女も同じようにした。それから、ふたりは下へおりていりたが、冷たい水であらったにもかかわらず、私の顔をなぐった大きな手の跡は一座の人々からはっきり見られてしまった。
彼女は帰るまえに、私を片隅へ呼んで、きびしい口調で、窓から投げとばされたかったら、わたしの家へ来るがいい、またふたりのあいだに起こったことを世間に吹聴したら、人に頼んで刺し殺してやるといった。
私はふかく用心して、彼女にそんなことをする口実を与えなかったが、われわれが下着まで取りかえたという噂をおさえることはできなかった。その後、私は全然彼女の家へ姿を見せなかったので、人々は彼女がケリーニ氏へ気兼ねをして、そうさせているのだと信じこんでしまった。この有名な娘は、それから六年後、この一件をまったく忘れてしまったようなふりをしなければならない事態に立ちいたるが、その顛末《てんまつ》は、いずれそのときに話そう。
四旬節のあいだは、ふたりの天使と遊んだり、マリピエロ邸の集会に行ったり、サルーテの修道院で実験物理学の研究をしたりして、たいへん楽しくすごした。
[思いやりは不幸を招く]
復活祭がすぎると、モンテ・レアーレ伯爵夫人との約束もはたしたいし、かたがたかわいいルチーアの顔も見たいと思って、パゼアーノへ出かけた。しかし、集まった連中の顔ぶれは、去年の秋とはすっかり変わっていた。一家の総領であるダニエル伯爵はゴッツィ伯爵の令嬢と結婚し、老伯爵夫人の名付け子と結婚した裕福な農夫の倅《せがれ》が妻や義母とともに呼ばれてきた。夕食は非常に長ったらしく思われた。住居はもとの部屋をあてがわれた。ルチーアに早く会いたかったが、もう彼女を子どもあつかいにするのはやめようと心にきめた。
ルチーアはねる時刻まで姿を見せなかったので、夜が明けたらきっと来るだろうと思って、目がさめたときから待っていた。しかし、やってきたのは、下品な百姓女の女中だった。その女中にルチーア一家の消息をきいたが、フリウリ語しか話さなかったので、要領を得なかった。それはこの土地の方言である。
私は心配になってきた。ルチーアはどうしたのだろう? ふたりの関係が暴露したのだろうか? それとも病気なのだろうか? 死んだのだろうか? 私は黙りこくって、服を着た。もしも彼女に会わせまいとするなら、仕返しをしてやるまでだ。なんとしてでもルチーアと会う方法をさがし、復讐のつもりで、まえには愛していながら体面上できなかったことを、思いきってやっつけようと覚悟をきめた。
しかし、そこへ門番のじいさんがしおれかえったようすではいってきた。私はまず細君や娘が元気にやっているかどうかきいた。ところが、娘のことをいわれると、彼は泣きだしてしまった。
「死んでしまったのですか」
「いや、死んでくれたほうがましなくらいですよ」
「どうしたんです」
「ダニエル伯爵さまの走りづかいのレーグル(鷲)とずらかっちまったのです。どこにいるのやらわからないのです」
そこへ母親もはいってきた。そして、ふたりの話をきくと、悲しみがぶりかえしてきて、気が遠くなってしまった。門番は私が真剣になって同情しているのを見て、この不幸が起こったのは、わずか一週間まえだといった。
「そのレーグルなら知っていますよ」と、私はいった。「なうてのならず者でしょう。あなたに結婚を申し込んだんですか」
「いや、申し込んだって承知しないことは、あいつにもわかってましたからね」
「だが、どうしてルチーアがねえ」
「あいつにたぶらかされたんですよ。ずらかったあとで、はじめてわかったのですが、ルチーアは身重になっていたのです」
「では、まえから会っていたんですね」
「あなたがお帰りになってからひと月ばかりして、できちまったらしいんです。きっとあいつが魔法をかけたんですよ。だって、あの子は小鳩のように無邪気でしたからね。それはあなたもりっぱに証明してくださるでしょう」
「で、どこにいるのか、だれも知らないのですか」
「ええ、あいつがあの子をどうするつもりか、見当もつかないのです」
私はこの律気な人々と同じように心をいため、わが悲しみを噛《か》みしめるために、森の奥ふかくはいっていった。そして、二時間もあれこれと思いふけったが、いっさいは≪もしも≫という言葉ではじまっていた。もしも一週間はやく訪ねてきていたら、それもできないことではなかったのだが、心やさしいルチーアのことだからいっさいを私に告白しただろう。そうしたら、こんな途方もないことにはさせなかったのに。もしナネッタやマルタと同じようにルチーアにも愛の歓びをたっぷり味わわせておいたら、あの子も別れるとき、ああまでのぼせあがっていなかっただろう。ルチーアがあのならず者の誘惑に負けたのも、それが第一の原因だったにちがいない。またもしもルチーアがあの走りづかいよりまえに私を知るようなことがなかったら、純真な心の持主だったから、よもやあいつの口車にのせられるようなことはなかっただろう。私は事実上あの人でなしの誘拐者の手先となり、お先棒をかついだことを認めずにいられなくなり、すっかり悲観してしまった。私はけっきょくあいつのために下地をつくっておいたようなものだ。
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その一輪、神の座に我を置くべくおもほえし花、
あわれ! 清らなるその心を掻《か》きみださじと、
そこなわず摘みとらんとて訪ねきし花なれど、
あわれ! かの美しき花、彼は摘みとりて汚しはてぬ。
(アリオスト『狂乱のオルランド』)
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もしも彼女の居所が見当だけでもついたら、私はすぐに出かけていっただろう。ルチーアの災難を知るまえには、彼女を疵物《きずもの》にしなかった自分の徳行を誇りとし、得意になっていたが、いまとなってはそれを後悔し、つまらない心づかいを恥ずかしく思った。そして、今後はもっと賢明な行為をしよう、よけいな手心は加えまいと決心した。私を悲しませたのは、ルチーアはまもなく貧困と、おそらくは汚辱のなかにしずむであろうが、そのときになって私のことを思いだし、自分の不幸の種をまいた男として、憎みうらむかもしれないということであった。この宿命的な事件は私に新しい流儀をとらせることになったが、あとになると、この流儀をあまり発展させすぎてしまった。
それから、庭でさわいでいる連中のところにもどった。そして、そのにぎやかさにあおりたてられ、食卓では陽気にしゃべりまくった。私の心痛はたいへん激しく、脚をそろえてそれをとびこすか、その場を立ち去るかしなければならなかった。私をおおいにはしゃがせたのは、新婚の花嫁の顔つきであり、さらにまたその性格であった。それは私にはたいへん珍しく思われた。彼女の妹は彼女よりも美人であった。しかし、少女たちは私に警戒心をおこさせた。あまりにもはにかみすぎていたからである。
花嫁は十九歳か二十歳。借物めいたわざとらしい態度物腰で一座の注意をひいた。口数が多く、話には格言をふんだんにはさんだ。格言をひけらかすのを義務とでも思っていたらしい。それから信心ぶかそうによそおい、夫に首ったけというようすをしてみせた。しかし、食卓ではいつも夫が妹と向かいあってすわり、なにかと世話をし、有頂天になっていたので、彼女もさすがに内心のいきどおりを隠せなかった。その亭主はもともとうすばかで、女房を愛しているのだろうが、人前をつくろうために無頓着さをよそおうべきだと考え、虚栄心から女房に嫉妬心をおこさせるようなことをして喜んでいた。女房のほうはそれをいちいちとがめないとばかだと思われやしないかと気をつかっていた。上品な相手は彼女には気づまりだったらしい。調子をあわせるのに骨がおれたからだ。私がむだ話をしかけると、注意ぶかく耳をかたむけ、まがぬけていると思われまいと、とんでもないときに笑ったりした。とにかく、私は彼女に興味をおぼえ、ひとつあたってみようと心にきめた。私のいんぎんさ、気取り、大小とない心づかいなどは、三日とたたないうちに、私が彼女にわなをしかけはじめたことを、すべての人に感づかせた。人々はそのことを公然と亭主に話した。しかし、亭主は太っ腹のところを見せようとして、あれはおそろしい男だといわれても鼻先で笑っていた。私はわざと慎重さをよそおい、またしばしば無頓着な態度にでた。亭主のほうは同じ態度をつづけて、私をけしかけて女房のごきげんをとらせるようにし、女房は女房で屈託のない女らしくふるまおうとしたが、それがどうも板についていなかった。
五日目か六日目に私は彼女と庭を散歩しながら、熱心にいいよった。すると、彼女は愚かにも、妹についての自分の心配が正しい理由を説明し、そういう心配の種をまいた亭主が悪いと訴えた。私はいとも親しげな口調で、旦那さまになるべく早く目をさまさせる、ただひとつの方法は、旦那さまが妹さんのお世辞をとるのを見て見ないふりをし、逆に私に思いを寄せているように見せかけることだといった。そして、そういう決心をするようにすすめるために、これはなかなかむずかしいことで、この見せかけの役割をはたすには、よほど頭を働かさなければならないといった。彼女はみごとにやってのけると断言したが、とても演技がまずかったので、みんなはその計画が私のでっちあげだと感づいてしまった。
庭の小径を彼女とふたりだけで歩いていたとき、だれも見ていないのをたしかめて、彼女に本気で例の役割を演じさせようとした。すると、彼女はまじめな顔つきになり、それからそっけない調子になり、最後に私のそばから逃げだして、ほかの連中のところへ走っていくという軽率なことをしてしまった。そこで、人々はへたくそな猟師だといって私をひやかした。こういう事件のあとで、私は彼女がとんだへまをやって、かえって逆に夫に勝利をえさせてしまったのをなじったが、それもむだであった。そこで私はわざと彼女の才気をほめ、そのうけてきた教育をあわれんだ。そして、彼女の心をしずめるために、あんたのような才女にたいしては、態度物腰をすべて上流社会のとおりにすることにしているのだといった。しかし、十日か十二日たったとき、彼女はあなたは坊さんだから、恋愛については、ちょっとでも手足にさわることはたいへんな罪になるとか、神さまはいっさいをお見とおしだとか、あたしは魂を地獄におとすのもいやだし、すっかり堕落してしまって、ある坊さんととんでもないことをしたと懺悔僧に告解するような恥ずかしい思いをするのもいやだといって、私をがっかりさせた。私は坊さんではないといったが、彼女はあなたの目論んでいることが罪にはならないと思っているのかときいて、私をたじたじとさせた。しかし、罪にはならないといいきる勇気もなかったので、もうこの情事はあきらめるよりほかはないと見きりをつけた。
そして、彼女にたいし冷ややかな態度をとるようになったので、老伯爵は、みんながテーブルにそろったとき、きみがつめたくなったのは、例のことがめでたく落着したからだといった。そこで、私は得たりかしこしと、信心ぶかい女に、あんたの振舞いはわけ知りの人々からああいうふうに思われているのですよと注意したが、それはなんにもならなかった。しかし、次のようなおもしろい事件がおこって、芝居をおおいに進展させた。
[好都合な夕立]
昇天祭の日、みんなでイタリア詩壇の明星といわれるベルガーリ夫人を訪ねていった。引き上げるだんになると、例の美しい百姓女はパゼアーノへもどるために、四人乗り馬車へ乗りこもうとした。そこにはすでに夫が義妹といっしょにすわりこんでいた。私は二輪の幌馬車にたったひとりになってしまった。そこで、大声をあげて文句をいい、こんなにぼくのことを疑っているのはひどいとわめきたてた。みんなもこの人にそんな侮辱を加えてはいけないと彼女をたしなめた。そこで、彼女は私の馬車へ乗ってきたが、私がいちばん近道を通っていけといいつけたので、御者はすべてのほかの馬車とわかれて、チェキニの森のなかの道を通った。空は美しく晴れていたが、ものの三十分もすると、夕立雲がわいてきた。それはイタリアではよく見るやつで、夕立は三十分ばかりつづく。その激しさといったら、大地をひっくりかえし、草も木も根こぎにするほど荒れくるうが、すぐにけろりと納まってしまうのである。そして、空はぬぐったように晴れあがり、大気がすずしくなるので、ふつうは害よりも利益のほうが大きかった。
「まあ! どうしましょう! 夕立が来そうですわ」と、百姓女がいった。
「そうですね、馬車には幌がかけてあるが、雨が吹き込んであんたの服を台なしにするでしょうね。それがお気の毒ですよ」
「服は我慢できますが、雷さまがこわくて」
「それじゃ、耳をふさいでいなさいよ」
「でも、落ちてきたら?」
「おい、御者、どこかで雨宿りをさせてくれ」
「ここから半時間も行かなければ、家はありませんよ」と、御者が答えた。「だが、半時間もすりゃ、夕立はあがってしまうでしょう」
御者はこういいながら、落ちつきはらって馬車を走らせた。やがていなびかりがしきりに光りだし、雷が鳴りとどろき、哀れな女はふるえだした。雨が降りはじめた。私は外套をぬいで、ふたりのまえへかけた。大きないなびかりがして、これはあぶないぞと思っていると、百歩ばかり先のところに落ちるのが見えた。馬が棹立《さおだ》ちになった。気の毒に、夫人は痙攣でもおこしたようになってしまった。そして、私にとびついてきて、ひしと抱きしめた。私はずりおちた外套をひろおうと思って身をかがめた。そして、外套を引き上げるときに、彼女のスカートをいっしょにまくった。彼女がスカートをさげようとしたとき、また激しく雷がとどろいた。彼女はおびえあがって、身動きもできなくなった。私は外套を彼女にかけてやろうとして引きよせた。すると、彼女はすっかり私の上にかぶさるようになってしまったので、すかさず膝の上へまたがらせた。まさに好都合きわまりない姿勢だ。私は間髪を入れず、ズボンのバンドにつけてある時計の位置をなおすようなふりをして支度をした。彼女はすぐに身体をかわさなければ身をまもることができなくなると気づいて、しきりにもがいた。しかし、私は気絶したふりをしていなければ、御者が振りむいて、すっかり見てしまうとおどかした。こういいながら、彼女が私のことを口ぎたなくののしるのを聞き流して、腰をおさえつけ、昔の格闘士の勝利も顔負けの完全な勝利をかちえた。
雨が篠《しの》つくばかり、向かい風が吹きすさんでいた。彼女は身動きもならず、御者が一部始終を見てしまったにちがいないから、あたしの名誉も台なしだと、真剣になって文句をいうよりほか、どうにもできなかった。
「ぼくはさっきから御者に目をつけていたが、振りむこうともしませんでしたよ」と、私は答えた。「それに、外套がふたりをすっぽりつつんでいますからね。さあ、おとなしくして、気を失ったようなふりをしていらっしゃい。ぼくはこの手を放しゃしませんから」
彼女はあきらめたようであった。そして、どうして雷さまをなんとも思わずに、こんなひどいことができるのだときいた。「雷さまはぼくと腹をあわせているのですよ」と私は答えた。彼女はそのとおりだと思う気持になったらしく、恐怖もほとんど消えうせた。そして、私がうっとりしているのを見たり感じたりして、もう終わったのかときいた。私は笑いながら、まだだと答えた。夕立の終わるまで彼女を納得ずくでかかえこんでいたかったからだ。
それで、「このままにしていらっしゃい。さもなければ、外套をおとしてしまいますよ」といった。
「あんたって、ほんとにおそろしい方ねえ。あたしのこれからの一生はめちゃくちゃにされてしまったわ。これで気がすんだでしょ」
「いや」
「まだなにをお望みなの」
「接吻の夕立ですよ」
「まあ、ずうずうしいのね。それじゃ、さあ!」
「ぼくをゆるすとおっしゃい。楽しかったと白状しなさい」
「ええ、ごらんのとおりよ。ゆるしたげるわ」
そこで、私は彼女をおさえていた手をはなし、彼女をきれいにしてやった。そして、ぼくにも同じサービスをしてほしいというと、彼女は口もとをほころばせた。
「ぼくを愛しているといいなさい」と、私は彼女にいった。
「だめ。あんたは無神者で、地獄が待ってるんですもの」
そこで、彼女をもとの場所へもどらせた。空はすっかり晴れあがっていた。私は彼女に接吻し、御者が一度も振りむかなかったといって安心させた。それから、冗談まじりにいまのことをしゃべりながら、たしかにぼくはあんたの雷恐怖症をなおしてやったが、あの治療の秘訣はだれにもあかしてはいけないといった。彼女はたしかにどんな女もこういう方法で直してもらったものはあるまいと答えた。
「こんなことは千年のあいだに百万べんもおこることですよ。じつをいうと、馬車に乗るときから、こうなることを予期していたんです。だって、あんたをものにするには、ほかに方法が考えつかなかったんですからね。だが、あきらめるんですね、ああいう場合にぶつかって怖気づいた女は、とうてい抵抗しとおせるものではないのですからね」
「そりゃそうね。だから、これからは夫以外の男とは旅行しないことにするわ」
「そりゃまちがっていますよ。旦那さまはぼくのようなやり方であんたを慰めるほど気がきく人じゃありませんからね」
「それもそうね。あなたといっしょにいると、妙なことばかり教わるのね。けれど、よくおぼえていらっしゃい、あんたとは二度といっしょに旅行しませんから」
こういうことをしゃべりながら、私たちはほかの連中よりもさきにパゼアーノに着いた。馬車からおりると、彼女はすぐに自分の部屋へ走っていって、とじこもってしまった。私はあとに残って御者にやる銀貨をさがした。御者は笑っていた。
「なにを笑っているんだね」
「そりゃご自分でおわかりでしょう」
「おい、金貨を一枚やるぞ。他言は無用だ」
[#改ページ]
第六章
[祖母の死と幸運の手紙]
夕食では夕立の話で持ちきりだった。細君の雷ぎらいを知っている農夫は、家内と旅行するのはもうこりごりでしょうといった。すると、細君が答えた。
「ほんとうに、あたしもこりごりですわ。この方は信心気なんか全然なくて、雷除けだといって、あくどい冗談ばかりおっしゃるんですもの」
この女はじょうずに立ちまわって私を避けたので、その後は一度もふたりきりになることができなかった。
ヴェネチアへ帰ると、善良な祖母が死病にとりつかれていた。そのために、いままでの習慣を全部中止して、祖母につきそい、祖母が息をひきとるまで片時もそばをはなれなかった。祖母にはなにも私に残すものがなかった。生きているあいだに持っているものは全部私にくれてしまったからである。祖母の死はいろいろの結果をもたらし、私もいままでの生活ぶりを変えなければならなくなった。ひと月後に母から手紙が来て、もうヴェネチアへもどる見込みもなさそうだから、ヴェネチアで借りている家は引き払うことにした、それから、わたしの意向はグリマーニ司祭につたえてあるから、いっさいあの方のはからいにしたがうようにということであった。グリマーニ司祭はまたあるだけの家具を売りはらい、私をはじめ、弟たちや妹を、どこかよい下宿へ移すことも依頼されていた。私はグリマーニ氏の家へ行き、万事ご命令にしたがいますとつたえた。いままでの家の家賃は年末まで支払い済みになっていた。
年末になると、もう家もなくなり、家具も売り払われるのだとわかると、私は欲望に手加減を加える必要もなくなった。食卓布類、つづれ織りの壁掛、陶器などは、すでに売りはらってしまった。姿見やベッドもかってに処分するつもりでいた。そんなことをするとわるく思われるのはわかっていた。しかし、それは私が父から受けついだもので、母には口出しをする権利なんか全然なかった。私はいっさい自分の自由だと思っていた。弟たちとはいずれとっくりと話しあうひまがあると思った。
四か月たってから、また母の手紙を受け取った。ワルシャワから出したもので、べつの手紙が同封してあった。母からの手紙は翻訳すると、次のようなものである。
「当地でミニモ会〔フランシスコ修道会のいっそう戒律の厳格な一派である托鉢修道僧団〕の修道者でたいへん学のあるお方と知合いになりました。カラブリア出身のお方ですが、たいへんりっぱな素質をそなえていらっしゃって、訪ねてきてくださるたびに、いつもあんたのこと思いだします。一年まえに、そのお方に、わたしには僧籍へはいったひとりの息子がありますが、めんどうを見てやる力がないのですと申しあげました。すると、そのお方はあなたから女王さまにお願いして、わしをわしの国の司教管区へ転任させていただけたら、息子さんをわしの息子にしようとお答えになり、こちらの女王さまからナポリの国の王女さまへお話しいただいたら、事はすらすらはこぶだろうとおっしゃいました。わたしは神さまをご信頼して、陛下のお膝もとにひれふし、そして、ご恩寵をいただきました。女王さまはあちらの王女さまへお手紙を書いてくだされ、王女さまは法王|猊下《げいか》にお話しになって、あのお方をマルトラーノの司教に昇任させてくださいました。それでお約束にしたがい、来年の半ばごろ、あのお方はあんたを連れにいかれることになるでしょう。カラブリアへ行くにはヴェネチアを通らなければなりませんからね。あのお方からあんたへお書きくださったお手紙を同封しておきます。すぐにご返事を書いて、わたし宛てに送ってください。あのお方へお渡ししますから。あのお方はきっとあんたを教会の高い位へのぼれるよう、おみちびきくださることと存じます。いまから二、三十年して、あんたが少なくとも司教になるのを見たら、わたし、どんなに嬉しいか、想像してみてください。あのお方が到着なさるまでは、いっさいグリマーニ神父さまのお指図にしたがってください。では、祝福をお送りします。かしこ」
司教の手紙はラテン語で書かれ、同じようなことをいっていたが、感動的な言葉に満ちていた。そして、ヴェネチアには三日しか滞在しないつもりだとつけ加えてあった。私はすぐに返事を書いた。この二通の手紙は私を陶然とさせた。さらば、ヴェネチアよ! いまや道の行手に光輝ある運命が待っているのだという確信が胸中に満ちあふれ、一刻もはやくその道へつきすすんでいきたい気持でいっぱいだった。それで、祖国を去るにあたって捨てていこうとするいっさいのものにたいして、なんの未練も感じないのが、かえって嬉しかった。くだらない瑣末《さまつ》の時代は終わった。将来私の興味をひくものは偉大で堅実なものだと、私は考えた。グリマーニ氏は私の運命にたいして最大級の祝辞をのべ、来年のはじめまでに、よい下宿をさがしてやるから、そこへ落ちついて司教の到着を待つようにとすすめた。
マリピエロ氏は彼なりに賢明な人であって、私がヴェネチアではむなしい歓楽にひきずりこまれているのを見ていたから、私がほかの土地へ行って自分の天稟《てんぴん》を達成する時期の来たのを見、また運命の組合せが提示してくれた幸運を私がすばやくとらえ、魂を飛躍させようとしているのを見て、おおいに喜んだ。そして、ひとつの教訓をさずけてくれたが、これはいまだに忘れずにいる。彼の言葉によると、ストア哲学者の≪神にしたがえ≫という有名な掟《おきて》は、運命の提示するものにたいしてとくに顕著な嫌悪を感じないかぎり、すすんでそれに身をまかせよということにほかならず、これは≪しばしば人をはばみ、人をうながすことまれなり≫(キケロ)というソクラテスの悪魔であり、同じストア哲学者たちの≪運命は人をみちびく≫(ヴェルギリウス)もこの原理から来るといった。マリピエロ氏の学問はこのような知識から成りたっていた。精神界以外の本を読んだことのない学者であったからである。しかし、私はこうした流派の格言をまもっていながら、ひと月後にある事件がおこり、マリピエロ氏の不興をまねいたばかりでなく、結果的にはなにも得るところがなかった。
[パトロンに追放される]
マリピエロ氏は幸運が青年たちにはたらきかけているときには、その絶対的な勢力を指示する徴候が顔の上に読みとれると信じていた。そして、そういう徴候を見てとると、青年たちを手もとへひきつけて教訓をたれ、賢明な行動によって運命の女神に力をかそうとするのであった。というのも、「思慮なきものの手にかかるときは良薬も毒となり、毒も賢者があつかえば良薬となる」と、つねづね深い意味をこめて語っていたからである。
こういうわけで、彼には三人のお気に入りがあり、その教育にはできるだけのことをしていた。第一がテレザ・イメール。この人の運命の浮沈はきわめてはげしかったが、読者もその一部をこの回想録のなかに見るであろう。次は私で、私については、どうなりとごかってにご批判いただきたいが、第三はゴンドラの船頭ガルデラの娘であった。その子は私よりも三つ年下であったが、美しい顔には人目をひく魅力をもっていた。山気の多い老人はこの娘を舞台へ出してやるために踊りをならわせていた。というのも、彼の言葉によると、玉突きの玉も、人がおしてやらなければ、玉受けにはいれないからである。このガルデラの娘はアガタという名でシュツットガルトで名声をはせた、あの女優である。一七五七年にヴュルテンベルク公の第一寵妾となった。うるわしい女であった。ヴェネチアで別れて以来会わなかったが、二、三年まえにその地で死んだ。夫のミケーレ・ダル・アガタはその直後毒をあおいで死んだ。
さて、ある日、マリピエロ氏は私たち三人に食事のお相伴をさせてから、いつもの習慣どおり、三人をその場へのこして昼寝に行った。小さいガルデラは稽古《けいこ》に行かなければならなかったので、私とテレザをおいて出ていった。私はそれまで一度もテレザに甘い言葉をかけたことがなかったが、気にはなっていた。ふたりは小さなテーブルをまえにし、保護者が眠っているはずの部屋のドアに背を向けて、寄りそってすわった。そして、あれこれとしゃべっているうちに、生れつきの無邪気な快活さから、われわれの身体の形の相違をくらべてみたい気持になった。ところが、この比較研究がもっとも興味ある状態に達したとき、私は頸筋《くびすじ》へはげしいステッキの一撃をくらった。さらにもう一撃。とっさにドアのほうへ逃げださなかったら、雨あられと打ちおろされる打撃はいつまでつづいたかしれない。私は外套も着ず帽子もかぶらずにわが家へ逃げかえった。十五分ばかりすると、元老院議員の老家政婦がたずねてきて、以上の忘れ物といっしょに一通の手紙を渡した。それには、もう二度と閣下の邸へ足踏みをしてはならぬと書いてあった。
私はすぐ閣下へ向かって次の返事を書いた。
「あなたは怒りにまかせて私をお打ちになりました。ですから、教訓を与えたと自負なさるわけにはまいりません。したがって、私はあの打撃からなにも教えていただかなかったものと考えます。私はあなたが賢い方であることを忘れなければ、あなたをゆるすわけにはまいりませんが、それは私のとうてい忘れられないことでございます」
あの殿さまがわれわれの見せた光景を不満に思ったのは正しかったかもしれない。しかし、日ごろの慎重な性格にもかかわらず軽率なことをしたものである。すべての召使たちはどういうとがで私が放逐されたかを推量した。それで、この一件は町じゅうの笑いぐさになった。テレザは、その後しばらくして私に話したところでは、なんのとがめも受けなかった。しかし、彼女は当然のこと私のゆるしをもとめることができなかった。
さて、わが家をからにする時期が近づいてきた。ある朝、黒い鬘《かつら》をつけ、深紅色の外套を着た、ひどく陽にやけた四十がらみの男が私のまえにあらわれた。そして、グリマーニ氏の手紙を渡した。それには、このものの持参する財産目録、その写しはきみの手もとにもあるはずだが、それにしたがって家のなかの家具をひとつひとつ点検し、すべてをこの男に委託するようにと命じてあった。そこで、まず私のところにある写しを取りに行って、書類にのっている家具のうち現存するものはひとつひとつしめし、欠けているのは、自分が処分したもので、ちゃんとわかっていると説明した。その野卑《やひ》な男は、だんだん主人めいた口調になり、その処分の方法をくわしく教えろと要求した。そんな報告をする必要がないと答えると、声をあらげはじめたので、私は断固たる口調で出て行けと命じ、この家では私のほうがつよいのだということを見せつけてやった。
しかし、グリマーニ氏に委細を報告する必要があったので、同氏が起きたころを見はからって訪ねていった。ところが、例の男がさきに来て、一部始終をしゃべってしまっていた。私はグリマーニ氏からひどく叱られ、目録どおりにそろっていないのはどういうわけか釈明しろと要求された。私は借金をしまいとして売りはらったのだと答えた。すると、司祭は私をならず者だとののしり、なにもかもおまえの自由にはならないのだ、わしがどう始末するか見ておれといい、とっとと出て行けとどなりつけた。
私は腹がたってたまらず、残っているものを残らず売りとばしてやろうと思って、あるユダヤ人を訪ねていった。しかし、家へ帰ると、門口に執達吏がいて、裁判所の命令書を渡した。読んでみると、それはアントニオ・ラツェッタの訴えによって作成されたものとわかったが、アントニオ・ラツェッタとは、つまりあの陽灼《ひや》けした男であった。すでにドアというドアに封印がはられ、私は自分の部屋へさえはいることができなかった。執達吏は見張りを残して引きあげていった。そこで、私はローザ氏を訪ねていって、裁判所の命令書を見せた。ローザ氏はそれを読むと、封印は明朝はがさせよう。だが、そのまえにラツェッタという男を高等裁判所《アヴォガドール》へ出頭させようといい、
「今夜はだれか友人の家へ行ってねるんですな」と、つけくわえた。「これはたしかに人権侵害だが、あの男にとっては、かえって高いものにつくでしょうよ」
「あいつはグリマーニ氏の指図でこんなことをするのですね」
「それが、あの人の商売なのさ」
私はふたりの天使たちのところへ眠りに行った。
翌日の朝、封印ははがされ、私は自分の部屋にはいった。ラツェッタが姿を見せなかったので、ローザ氏は私の名で彼を裁判所へ召喚し、もし翌日も出頭しなかったら、その身柄を逮捕すると命じた。三日目の朝はやくグリマーニ氏の従僕が来て、直筆の手紙を渡した。それには自宅へ会いに来るようにと命じてあったので、私はすぐに出かけた。
私の姿を見ると、彼は荒々しい口調で、いったいどうするつもりなのかときいた。
「法の庇護のもとに暴力から身をまもろうとするだけですよ。あいつはなんの関係もないのに、ぼくを強制してよからぬ場所へ一夜をすごしに行かせたんですからね」
「よからぬ場所だって?」
「そうですよ。なぜ自分の家へねに帰るのをじゃましたんです」
「だが、いまはちゃんと帰れたじゃないか。だが、すぐに代訴人のところへ行って、訴訟手続を中止するようにいいたまえ。ラツェッタはいっさいわしの命令で行なったにすぎないのだからな。ああでもしなかったら、きみは家具を残らず売りとばしてしまっただろう。そこで、予防手段を講じたってわけだ。きみにはサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ街にあるわしの持家の一部屋を提供しよう。二階にはわが国一流の踊り子チントレッタが住んでいる。きみの衣類や書物をそこへはこばせたまえ。そして、食事は毎日わしのところへ食《く》いに来るがいい。きみの弟もよい下宿に入れてやったし、妹にもべつの下宿をさがしてやった。これでいっさいけりがついたというものだ」
[踊り子チントレッタ]
私はそれからすぐローザ氏のところへ行って一部始終を報告すると、万事グリマーニ司祭のいうとおりにするがよいということだったので、その忠告にしたがった。こういう解決は私にも異存はなかったし、司祭と食卓をともにするのは一種の名誉でもあった。それに、チントレッタの住んでいる家へ引っ越していくことにも興味があった。チントレッタは、ワルデックの一公子が莫大な金をつかっているということで、当時非常な評判になっていた。
司教は夏ごろに来るはずであった。だから、私を法王の位にまでみちびいてくれるかもしれないあの司教をヴェネチアで待つのも、わずか半年だけでよいわけだ。私はこういうふうに空中の楼閣をきずいていた。
その日、はじめてグリマーニ氏の家で昼食をしたが、かたわらにすわっていたラツェッタにはひとことも言葉をかけなかった。食事のあとで、サン・サムエーレ街のわが家へもどった。このうるわしい家とも最後のお別れだと思うと、感慨胸にあふれるものがあった。だが、自分のものだと考えた品々をすべて船へのせて、新しい住居へ運ばせた。
チントレッタ嬢とは面識がなかったが、その態度物腰や性格はよく知っていた。彼女は平凡な舞姫で、美しくも醜くもなく、ただ才気ばしっているだけであった。ワルデックの公子は彼女のために大金をつかっていたが、彼女が以前のパトロンと関係をつづけるのをさまたげはしなかった。それは現在では断絶してしまったが、リン家に属するヴェネチアの貴族で、年は六十歳、一日じゅう彼女の部屋に入りびたっていた。この殿さまは私を知っていて、引っ越した日の夕方、一階の私の部屋へやってきた。そして、チントレッタ嬢の代理として歓迎の挨拶を述べ、あなたをわたしの家へお迎えしたのはたいへん嬉しい、こんごはわたしのところの集まりにご出席いただけたらありがたいきわみですということづてを伝えた。私はこの家にチントレッタさんが住んでいらっしゃることはグリマーニさんからも聞かされていなかった。もしもさきに承知していたら、わずかばかりの荷物を運びこむまえに敬意を表しにうかがったのだがとリン氏に答えた。こういう言い訳をしてから、私はリン氏に連れられて二階へあがっていった。そして、リン氏からチントレッタに紹介され、正式に知合いになった。
彼女は王女さまのような態度で私を迎え、手袋をぬいでその手へ接吻させた。それから、居合わせた五、六人の外国人に私の名前を教え、次にそのひとりひとりの名前をいって私に紹介し、私を自分の脇へすわらせた。彼女はヴェネチア生れであったが、私に話しかけるのに、私の知らないフランス語をつかったので、それはおかしいと思い、わが国の言葉で話していただきたいと頼んだ。彼女は私がフランス語を話さないのを驚き、わたしの家へは外国の方しかいらっしゃらないから、それではここで人気を集めるわけにはまいらないでしょうと、少しふきげんな口調でいった。私はフランス語をならうことを約束した。それから一時間もすると、例の大立物が到着した。この鷹揚《おうよう》な貴公子はたいへんじょうずなイタリア語で私に話しかけ、謝肉祭のあいだじゅう非常に愛想よくもてなしてくれた。そして、謝肉祭の終りごろ、私が美しいグリゼリーニのためにつくったへたな十四行詩の返礼として、金の煙草《たばこ》入れをくれた。グリゼリーニとは彼女の家の苗字だが、父親が染物屋であったので、チントレッタと呼ばれていたのであった。あのジューゼッペ・ブリジード伯爵が出世させてやったグリゼリーニは彼女の兄弟である。もしもまだ生きているとしたら、きっとロンバルディアの美しい首府で幸福な老後をおくっているはずである。
チントレッタは分別のある男を恋させるにはジュリエッタよりははるかにすぐれた美質をもっていた。彼女は詩が好きであった。もしも私が司教を待っていなかったら、きっと彼女に夢中になったにちがいない。彼女はレゲリーニという才能ゆたかな若い医師に心を寄せていたが、この医師は人生の花という年ごろで死んでしまった。私はいまもなおその死を惜しんでいるが、その後十二年たって、ふたたび彼のことを語る機会にめぐりあうであろう。
謝肉祭の終りごろ、母がグリマーニ司祭へ手紙をよこして、私が踊り子と同じ家に住んでいるのを司教に見られたら恥ずかしいといってきた。そこで、司祭は私の体面をけがすことのない、相応なところへ下宿させる決心をし、トゼルロ司祭と相談した。そして、私にもっとも適した場所についていろいろ話しあったすえ、ついに神学校へ入れるのが最良の策だということになった。
ふたりは全然私に相談なしに事を決めたのであった。そして、司祭が私にこの取決めを伝え、こころよく喜んで出かけるように説得する役を引き受けた。司祭が私をなだめ、まるめこもうとして、猫なで声でしゃべるのを聞いて、私は吹きだしてしまった。そして、どこへでもみなさんがよいとお考えになるところへ参りますと答えた。
彼らの考えはばかげていた。なぜなら、私のように十七歳にもなっていて、しかも司祭の資格をもったものを神学校へ入れるなんて、考えられることではなかった。しかし、いつもソクラテスの弟子で、何事にも不快を感じなかったので、すぐに承諾したばかりか、これも一興と考えて、早く行ってみたいとさえ思った。それで、ラツェッタさえくちばしを出さなければ、なんでもいうとおりにすると、グリマーニ氏に答えた。彼はそれを約束してくれたが、神学校へ行ってからはこの約束をまもらなかった。このグリマーニ司祭という人はばかなるがゆえに善良なのか、その愚かさが善良さの欠点なのかけじめがつかなかった。だが、彼の兄弟はみんな同じタイプであった。才能をもつ青年にたいして運命のおこなう、もっともひどい悪戯《いたずら》は、彼を愚昧《ぐまい》なものの意志にしたがわせることである。司祭は私に神学校生徒の服を着せ、校長に紹介するためにムラーノのサン・チプリアーノ神学校へ連れていった。
[神学校入学]
サン・チプリアーノの大司教教会はソマスカ会〔通常の聖職者から成る、孤児を養うための修道会〕の修道士たちに管理されていた。これはヴェネチアの貴族、至福者ジロラモ・ミアーニの創設した教団である。校長は柔和な態度で私を迎えた。だが、いやに感動的な口調でいわれた言葉によると、私を神学校へ入れたのは懲罰のためか、少なくとも恥ずべき生活をつづけるのをさまたげるためだと信じているらしく思われた。
「尊い神父さま、わたしはだれからも懲罰をうけるはずはないと思うのですが」
「そのとおりじゃ、わしはただきみがわしらの仲間にはいっておおいに満足するだろうといいたかったのじゃ」
私はそれから案内されて、少なくとも百五十人ははいれる三つの部屋、十ないし十二の教室、食堂、寝室、休憩時間の散歩のための校庭などを見てまわった。校長はここの生活は青年の望みうる、もっとも幸福な生活で、司教猊下が迎えに来られても棄てかねる思いがするだろうといった。だが、それと同時に、ここにいるのもせいぜい五、六か月にすぎないだろうから我慢するがいいといって、私を力づけた。彼らの弁舌は私を吹きださせた。私は三月のはじめにそこへはいったのだが、そのまえの晩はふたりの女友だちのあいだですごした。このふたりはオリオ夫人やローザ氏と同じく、私のような気質の男がそんなに素直に人の命令にしたがうのを意外に思い、寝床もぬれるほどしとどに涙を流した。その涙には私の涙も少なからずまじっていたのであった。
神学校入学の前日、私はすべての書類をまとめて、マンツォーニ夫人のところへあずけに行った。それはかなり大きな包みだったが、この尊敬すべき夫人の手からそれを返してもらったのは、十五年のあとであった。彼女はいま九十歳になるが、なおもかくしゃくとしている。彼女は私を神学校へ入れようなんていうばからしい考えに腹の皮をよじって笑い、せいぜいひと月ともつまいといった。
「それはおまちがいですよ。わたしは喜んで出かけるのですからね。そして、あそこで司教さまをお待ちするつもりなのです」
「あなたはご自分がわかっていらっしゃらないのですよ。それから司教さまのことも。あなたはその司教さまとも長くはいっしょにいられないでしょうよ」
司祭は私を神学校へ連れていった。しかし、途中で、私が吐気をもよおし、息もつまりそうになったので、サン・ミケーレでゴンドラをとめなければならなくなった。薬剤師の修道者が気付け薬をまぜた水で私を元気づけてくれた。これも私が夜を徹してふたりの天使と愛のいとなみをつとめすぎた結果であった。ふたりを腕に抱くのもこれが最後かと思うと、それも余儀ないことであった。愛する女と別れる男が、もはや二度と会えないのではないかと気づかう気持、それを読者がご存じかどうか知らぬが、彼は最後の挨拶をすませると、それを最後にさせたくない気持にせまられて、また挨拶をくりかえし、ついには魂が血のほとばしりとなって散りはてるまでやめないものなのである。
司祭は私を校長にあずけて帰っていった。私は外套と帽子をおくために寝室へはいったが、そこにはすでに私の荷物やベッドが運びこまれていた。私は背丈はもう十分だったが、まだ年齢が足りなかったので、青年組へははいれなかった。それに、私は当時でもうぶ毛を剃《そ》らずにおいて、それを自慢にしていた。うぶ気は若さを証明するので、かわいくてならなかったのである。まったくおかしな見栄だが、人間というものは、いくつになっても、なにかしら見栄のないものはない。この見栄よりも悪徳のほうがずっと容易に克服できる。世の暴政も私にひげを剃らせるほどにまでは圧制を加えることができなかった。私が暴政をまだ恕《じょ》しえると思ったのも、この一点によるのである。
「どういう組へはいりたいかな」と、校長がたずねた。
「教義神学の科へはいりたいと思います。尊き神父さま、教会史を勉強したいので」
「では、試験係のところへお連れしよう」
「私は博士号をもっております。試験など受けたくありません」
「いや、受けなければならぬのじゃ、こちらへ来なさい」
それは私には侮辱と思われ、おおいに憤慨した。だが、すぐに風変りな復讐を思いつき、非常に嬉しくなった。それで、試験官がラテン語で行なった質問には、文法上の誤りをふんだんに織りこんで、とんちんかんな返事をした。試験官もあきれて、私を低学年の文法科へまわさなければならなかった。その組は、うれしいことに、十八人ないし二十人の同級生がすべて九歳から十歳の子どもばかりで、私が博士だと知ると、「金を巻きあげて、こののろまを国へ追い返そう」と口々にはやしたてた。
休み時間になると、寝室の仲間は、みんな少なくとも哲学科だったが、私を軽蔑の目でながめた。そして、互いに高級な問題を論じあっているとき、それは私には謎のように不可解なはずであったのに、私が注意ぶかく耳をかたむけているのを見て、私を嘲笑した。自分には正体をあらわそうという気持など全然なかったが、三日後に、ある余儀ない事件がおこって、仮面をはいでしまった。
ヴェネチアのサルーテ修道院のソマスカ会士であるバルバリーゴ神父はかつて私に物理学を教えてくれた人だが、校長を訪ねてきて、私がミサから出てくるのを見つけた。そして、いろいろ言葉をかけてくれた。彼が最初にきいたのは、どういう学科を勉強しているかということであった。文法科にいると答えると、冗談だと思って信じようとしなかった。そこへ校長がやってき、生徒たちはみんなそれぞれの教室へはいった。一時間すると、校長が来て私を外へ呼び出し、
「なぜきみは試験のときに、なにも知らないふりをしたんだね」と、きいた。
「では、うかがいますが、どうして私に試験をうけさせるようなまちがったことをなさったのですか」と、私はやりかえした。彼は少しきげんをそこねたようすで、私を教義神学の組へ連れていった。寝室の仲間は私がはいってきたのを見て、びっくりしたようであった。しかし、昼食のあとの休み時間には、みんな仲よしになって私を取巻き、おかげで私は上きげんだった。そのなかに、十五歳になる美少年がいた。いま生きていれば、きっと司教になっているにちがいないが、その少年が、容貌といい才能といい、とくに私をつよく打ち、深い友情を感じさせた。それで、休みの時間にも、他の連中と九柱戯をやるかわりに、もっぱら彼といっしょに散歩した。話題は主として詩のことで、ホラティウスの美しい短詩はわれわれを恍惚《こうこつ》とさせた。われわれはタッソーよりもアリオストを好み、ペトラルカは称賛の的であった。このペトラルカを非難したタッソーニとムラトーリは軽蔑の的であった。ふたりは四日もするとすっかり愛情におぼれ、互いに嫉妬するまでになった。どちらかがべつのものと散歩でもすると、すぐに膨《ふく》れ面《づら》をする始末であった。
平服の一修道士が寝室の監督をしていた。その役目は風紀の取締りであった。寝室の同じなものは、夕食がすむと、生徒監と呼ばれたこの修道士にひきいられて寝室へはいることになっていた。そして、めいめい自分のベッドへ行き、小声で祈りをとなえてから、服をぬぎ、静かに床につくのであった。生徒監はわれわれがすべて床についたのを見さだめて、それから自分も床についた。寝室は間口十歩奥行八十歩の矩形の部屋であったが、大きなランプがあたりを照らしていた。ベッドは同じ間隔をおいてならべてあった。おのおののベッドの頭のほうに祈念台つきの踏台と椅子と生徒の行李などがおいてあった。寝室の一方の端には片側に洗面所、片側に便所があった。またべつの端、ドアの近くに、生徒監のベッドがすえてあった。私の友人のベッドはべつの側で、私のベッドと向かいあっていた。例の大きなランプはわれわれふたりのあいだにあった。
生徒監の監督に関する主要な任務は、生徒がほかの生徒のところへねにいかないように見張ることであった。この種の訪問はけっして清浄なものとはみなされず、むしろ大きな罪と思われていた。なぜなら、神学生のベッドは眠るためにできているのであって、友人と語りあうためのものではなかったからである。ふたりの仲間がこの規則を踏みにじったとすれば、それは不倫な理由からでしかない。彼らはめいめいひとりでねる場合には、なんでも好きなことがかってにできるのだから。しかし、この自由を濫用するとなると、どんな結果になろうが、自業自得というほかはない。ドイツの青年たちの集団では、指導者が自淫をさまたげようととくに気をくばると、かえっていっそうさかんになったという。
そんな規則をはじめたものは自然も倫理も知らない連中である。なぜなら、自然は女性の助力をもたない健康な男性にたいして、自己保存のためにこの鎮静手段を要求するし、また倫理は≪われわれの努力と欲望はつねに人と神の掟《おきて》の禁ずる方向へ向かわんとする≫(オヴィディウス)公理によって攻めたてられるからである。禁止はかえって扇動する。立法者に学理的配慮のない国は不幸なるかなだ。ティソーのいったことは、青年が自然の欲求なくして自淫にふける場合にしか真実ではない。しかし、学生にとっては、そういうことは、人が禁止しようと思いつかないかぎり、起こりうることではない。なぜなら、この場合、彼は禁をおかす喜びのために行なうので、この禁断の喜びたるや、アダムとイヴ以来、すべての人間にとって自然な喜びであり、機会あるごとに欣然《きんぜん》として身をまかせるのである。この問題については、娘たちの修道院の院長は男たちよりもはるかに賢明な態度をしめす。彼女らは経験によってどんな娘でも七歳になると自淫をはじめることを知っているが、そうした幼稚なたわむれを禁じようとは思わない。自淫は娘たちにも害をなしうるが、分泌物が稀薄なので、その害も論ずるに足りないからである。
[真夜中の訪問と放校]
神学校へはいってから九日か十日目の晩、私はだれかが私のベッドへはいってくるのに気づいた。彼はまず自分の名前をいって私の手をにぎりしめ、私をわらわせた。ランプが消えていたので、顔は見ることができなかったが、親友の司祭で、寝室がまっ暗なのを見て、気まぐれに訪問してきたのである。私はそれを笑ってから、帰ってほしいと頼んだ。生徒監が目をさまして、寝室がまっ暗なのに気がついたら、起きてくるにちがいないからだ。そうすれば、ふたりは、いろいろの人のいうように、罪のうちのもっとも古いものをおかしたと責められる。私がこういう忠告を与えたとたん、人の足音が聞こえた。司祭は逃げていった。しかし、その直後、人のたおれる大きな音とともに、「ちくしょう! あした、あした、おぼえておれ!」とどなる生徒監のしゃがれ声が聞こえた。彼はランプをつけて、自分のベッドへもどった。
翌日、起床を命ずる鐘の鳴るまえに、校長が生徒監といっしょにはいってきて、われわれにこういった。「諸君、よく聞きたまえ。諸君は昨夜おこった騒ぎを知らなくはないと思う。諸君のうちのだれかふたりがその犯人にちがいない。だが、わしはゆるしてやるつもりだ。そのうえ、ふたりの名誉をまもるために、名前も公けにしまい。とにかく、諸君は全部、休憩時間まえにわしのところへ告解にくるように」
校長は出ていった。われわれは服を着て、食事が終わると、すべて校長のところへ告解にいった。そして、それから校庭へ出たが、司祭の話だと、不幸にも生徒監と出っくわしてしまったが、ほかに手がなかったので、生徒監を床へおしたおし、そのすきにベッドへ逃げもどったということであった。
「それじゃ、目下のところ、きみは確実に罪をゆるしてもらえるってわけだね、いとも賢明に事実を校長に告解したらしいからね」
「冗談をいうな。ぼくはたとえきみを訪ねていった無邪気な訪問が罪になろうとも、校長にはなにもいうつもりはなかったのさ」
「すると、きみは虚偽の告解をしたのだね。不服従の罪をおかしたのだからね」
「そうかもしれない。しかし、いっさいは彼の責任だよ。ぼくらに不服従を強制したのはやつなんだからね」
「きみはなかなかもつともらしい議論をするね。いまこそ校長|猊下《げいか》はわれわれ学生のほうが自分よりもずっと学者だってことを知るべきだね」
この事件は、もしもそれから三、四日して、今度は私のほうから友だちを訪問しようという気まぐれをおこさなかったら、そのままけりがつくはずであった。夜半の一時ごろ、私は便所へ行く必要が起こったが、帰りに生徒監のいびきが聞こえたので、すばやくランプの明りを消し、親友のベッドへはいった。彼はすぐに私だとわかって、いっしょに笑いだしたが、ふたりとも番人のいびきには聞き耳をたてていた。彼はまもなくいびきをやめた。私はあぶないと思って、すぐに親友のベッドから出、一瞬のうちに自分のベッドへもどった。ところが、ベッドへはいるやいなや、意外なふたつの椿事《ちんじ》にびっくり仰天してしまった。ひとつは私のベッドにだれかがねていたことであり、ふたつは生徒監がシャツのまま起きだして、手に蝋燭《ろうそく》を持ち、ゆっくりと、左右の学生のベッドを見てまわりはじめたことである。だが、現に私の目にうつっている事実をどう考えるべきだろう。私のベッドにはいりこんだ学生は、私のほうへ背を向けて眠っていた。そこで、私は、無分別にも、眠ったふりをしようときめた。そして、生徒監から二、三度ゆすぶられて、ようやく目をさましたような恰好《かっこう》をした。相手の学生はほんとに目をさました。そして、私のベッドにはいっているのに気づいて、言い訳をいった。
「暗闇のなかを、便所からもどってきたら、このベッドがからっぽだったんで、まちがえちゃったんだ」
「そうかもしれない、ぼくも便所へ行ったんだから」と、私もいった。
「しかし、きみの場所がふさがっているのを見ながら、どうしてなにもいわずにねたんだね」と、生徒監がいった。「それからまた、いくら暗闇だといっても、ベッドをまちがえたことに、どうして気づかずにいられたんだね」
「ぼくはまちがえたのじゃありません。なぜなら、手さぐりで、ここにある十字架の台をさぐりあてたのですからね。それから、ここにだれかがねていることについては、全然気がつかなかったのです」
「それはどうもあやしいぞ」生徒監はそういいながらランプのところへ行って、芯《しん》がつぶれているのを見て、
「これは自然に消えたのではない。ランプの芯が油のなかに落ちている。きっと、きみたちふたりのうちのどちらかが、便所へ行くまえに、わざとランプを消したのだ。とにかく、あしたはっきりさせよう」
ばかな級友は私のベッドと隣りあった自分のベッドへもどり、生徒監もランプに火をつけてから、自分のベッドへもどった。この事件は部屋じゅうのものを起こしてしまったが、私は校長がはいってくるまでぐっすり眠った。校長は夜が明けるやいなや、生徒監をつれて、物すごい形相でやってきた。
そして、現場を調査し、私のベッドにいた学生と私とへ長々しい尋問を行なった。その学生は、当然のこと、もっとも罪が重いと見られるべきだったが、私はどうしても自分に罪があるとは考えられなかった。校長は尋問をすませると、服をつけてミサへ出ろと全部のものに命じて帰っていった。しかし、われわれが支度をすましたころへまたやってきて、隣の学生と私とへやさしい口調で話しかけた。
「きみたちふたりは気脈をあわせて、けしからぬ結託をしたものとみとめられる。なぜなら、ランプを消したのも、いっしょにやったにちがいないからだ。こうした不始末の原因は、無邪気な悪戯《いたずら》からでないかぎり、少なくとも笑うべき軽率さから起こったものとわしは信ずる。しかし、同室者が迷惑をこうむり、規律はふみにじられた。したがって、校内の取締り上、当然つぐないが要求されなければならない。さあ、外へ出たまえ」
われわれはその命令にしたがったが、寝室のドアまで行くか行かないうちに、四人の下男がわれわれをとらえ、後手にしばりあげて、寝室のなかへ押しもどし、大きな十字架のまえにひざまずかせた。そして、同室のものが全部見ているまえで、校長はわれわれに短い説教をし、説教がすむと、うしろにひかえていた手下どもに命令を実行せよといった。
すると、私の背中へ革紐か棒の打撃が七、八回にわたってうちおろされた。私は、ばかな相棒と同じく、不平もいわずになぐられていた。それから綱をとかれたので、私は校長に、十字架の足もとで二行ばかり文章を書いてもいいかときいた。すると、校長がインクとペンをすぐに持ってこさせたので、こう書いた。
「私は私のベッドのなかに発見された神学生とはかつて一語もかわしたことがなかったことを、この神にかけて誓う。したがって、私の潔白さは私が抗議を提出し、この破廉恥なる暴行についてヴェネチアの大司教猊下に提訴することを要求する」
懲罰をいっしょに受けた仲間もこの抗議文に署名した。私は周囲をとりまいていた連中に、私が文書をもって誓ったことにたいして反証をあげうるものがあるかときいた。すべての神学生が声をそろえて、ふたりが話しあっているのを見たことは一度もない、まただれがランプを消したのか全然わからないと答えた。校長は口笛をふかれ、やじられ、ほうほうのていで出ていった。が、それにもかかわらず、われわれふたりを六階の牢獄へ引きずっていって、べつべつに押しこめた。それから、一時間ののちに、私のベッドと行李が運びあげられ、毎日の昼食と夕食も運んできた。四日目に、トゼルロ神父が私をヴェネチアへ連れかえる命令をうけて訪ねてきた。今度の事件をくわしく知っているのかときくと、相手の神学生とも話し、事件の一部始終は知った。ふたりとも潔白だと信じているが、どうにもならない。校長がどうしても非をみとめようとしないのだからと答えた。
そこで、私は神学生の異様な服装をぬぎ、ヴェネチアの町で着ているような服に着かえ、神父の乗ってきたグリマーニ氏のゴンドラに乗りこんだ。私のベッドや荷物も同時に積み込まれた。神父は船頭にいっさいをグリマーニ邸へはこびこめという命令を与えた。しかし、道すがら、彼はもしも私がヴェネチアで下船してからグリマーニ邸へ行こうというずうずうしい考えを起こしたら、下男たちに追いはらわせるというグリマーニ氏の意向を伝えた。
こんなわけで、私はイエズス僧院で船をおり、そこに滞在することにしたが、無一物の着たきりとんぼというありさまであった。
昼食はマンツォーニ夫人のところへとりに行った。彼女は自分の予言が適中したのを喜んで笑った。食事のあとで、ローザ氏を訪ね、グリマーニ氏の暴虐《ぼうぎゃく》にたいし法律的制裁を加えてもらうように頼んだ。ローザ氏は裁判書類をつくってオリオ夫人のところへ持っていくと約束してくれた。そこで、私は彼を待ち合わせるために、またふたりの天使の驚く顔を見たいと思って、オリオ夫人のところへ行った。はたして、彼女たちの驚きは筆舌につくしがたいものがあった。私の身にふりかかったことを話すと、彼女らはあきれかえって二の句がつげなかった。そこへローザ氏がやってきて、訴状の文案を読んできかせた。それを公正証書にするひまがなかったが、あしたは方式どおりのものにして持ってくると保証してくれた。それから、私はグアルディという画家の家に下宿している弟のフランチェスコのところへ夕食をとりに行った。弟も私と同じようにグリマーニ氏の暴虐にくるしんでいたが、きっと解放してやると約束した。夜中ごろオリオ夫人の家の四階へ訪ねていった。ふたりのかわいい女は私がきっと来ると信じて待っていた。その晩は、恥をしのんで告白すると、二週間の禁欲をつづけたにもかかわらず、心痛にさまたげられて、愛の情熱を発揮することができなかった。これは考えるべきことで、≪ペニスは心痛をいとう≫という諺《ことわざ》は反駁《はんばく》の余地がない。朝、ふたりの娘は心から同情してくれたが、あすの晩はすっかり元気をとりもどしてくるといって、ふたりをなぐさめた。
[はじめての監獄生活]
翌日はどこへ行ったらいいかわからなかったし、一文も金がなかったので、午前中サン・マルコ図書館ですごした。それから、マンツォーニ夫人のところへ昼食に行くために外へ出た。すると、ひとりの兵士が近よってきて、ある人がお話したいといってゴンドラのなかで待っているから行ってほしいといって、小広場の岸につないであるゴンドラを指さして見せた。私は話がしたければ自分でゴンドラから出てくればいいと答えた。だが、兵士がその人には連れがあるので腕ずくでも連れてこいというのだと小声でささやいた。そこで、私は一瞬もためらわずに歩いていった。騒ぎを起こして、みんなからじろじろ見られるのも、恥ずかしくていやだった。抵抗しても、逮捕されはしなかったろう。兵士たちは武装していなかったし、そういうふうに人をとらえることは、ヴェネチアではゆるされなかったからだ。しかし、そういうことは少しも考えなかった。≪神の命にしたがえ≫という言葉が、いくぶん私の行動を支配していた。私は呼ばれたところへ行くのに、なんの嫌悪も感じなかった。そればかりでなく、たとえ勇者といえども、勇敢でなかったり、勇敢であることを望まない時期があるものだ。
私はゴンドラに乗った。すぐに帷《とばり》がひかれた。目のまえにすわっていたのは、ラツェッタとひとりの将校であった。ふたりの兵士は舳《へさき》のほうへ行って腰をおろした。それがグリマーニ氏のゴンドラで、リドのほうへ進んでいくことがわかった。だれも口をきかなかった。私も同じように沈黙をまもった。三十分ばかりすると、船はアドリア海の口にある聖アンドレア要塞の小門に着いた。昇天祭の日、ヴェネチアの統領が海との婚礼の式典を行なうとき、ブチントーロ号〔共和国のガレー船。毎年の昇天祭に、総監をアドリア海まで運び、総監は金の指輪を水中に投げた。これはヴェネチアと海の結婚を象徴する〕が錨をおろす場所である。
哨兵が伍長を呼んだ。われわれはゴンドラからおりた。私に同行してきた将校が要塞司令官の少佐に私を紹介し、手紙を渡した。少佐は手紙を読むと、副官のツェン氏を呼んで、私を衛兵所へ連れていって、そこにとどめておくようにと命じた。十五分たつと、私を護送してきた連中が帰っていった。それからまた副官のツェン氏が姿を見せて、三リラ半の金をよこし、一週間ごとにこれだけの金を渡すといった。一日にわると十ソルディ、まさしくふつうの兵士の給料である。
私は少しも腹だたしい気持は起こらなかったが、はげしい憤慨を感じた。夕方、空腹と衰弱で死なないように、食べるものを買わせた。それから板張りの腰掛の上に横たわり、まんじりともせずに一夜をすごした。まわりにはスラヴォニア出の兵士が五、六人いて、唄をうたい、にんにくを食い、くさい匂いのする煙草《たばこ》をすい、スラヴォニアと呼ばれる葡萄酒を飲んでいた。インクのような酒で、スラヴォニア人だけしか飲めないしろものだった。
翌日、かなりはやく、ペロドロ少佐(それが要塞司令官の名であった)は私を二階の自室へ呼び、あなたをゆうべ衛兵所ですごさせたのは、ヴェネチアで≪文書の賢者≫と呼ばれる陸軍大臣の命令にしたがったまでのことだといった。
「司祭殿、わたしがいま受けている命令は、あなたをここへ留置し、あなたの一身を保護することだけです。あなたには上等の部屋を用意してあります、あなたのベッドも荷物もきのうすでに運んであります。どこでもお好きなところを散歩なさるがよろしい。しかし、もし脱走でもなさると、わたしを破滅させる原因になることをご記憶ください。それから、残念なことに、あなたには一日に十ソルディしか渡すなという命令が来ております。もしも金を都合してくれる友人がヴェネチアにあるなら、手紙をお書きなさい。手紙の安全についてはわたしを信用してください。では、お休みになりたかったら、お休みになってけっこうです」
それから自分の部屋へ案内された。りっぱな部屋であった。二階で、窓がふたつあり、窓からのながめがすばらしかった。ベッドはちゃんと整理されていて、行李もあり、鍵もあった。蓋《ふた》をこじあけたようすはなかった。少佐はとくに気をくばって、テーブルの上に、手紙を書くのに必要なものをいっさいそろえさせていた。スラヴォニア人の兵士がはいってきて、あなたのご用をつとめることになったが、心づけはご都合のつくときでけっこうだといった。私が毎日十ソルディしかもらわないことをだれでも知っていたからだ。私はうまいスープを食べてから、ベッドにはいり、九時間ぐっすり眠った。目がさめると、少佐が私を夕食に呼んだ。これならあまり不愉快なことにもなるまいと見てとった。
私はその実直な男の部屋へあがっていった。そこにはすでにりっぱなお客がたくさん集まっていた。少佐は私を妻に紹介してから、居合わせたすべての客に私の名を教えた。数名の陸軍士官、要塞づきの礼拝堂司祭、パオリ・ヴィダというサン・マルコ寺院の楽師。その妻は少佐の妹だが、まだ若かった。夫が非常に嫉妬ぶかく、妻を要塞のなかに住まわせていたのである。ヴェネチアではやきもちやきはすべてろくなところに住んでいない。そのほか居ならぶ女たちは美しくも醜くもなく、若くも年とってもいなかった。しかし、気立てのよさそうなようすには相当好感をもつことができた。
私は生れつき快活な性質だったので、律気な人々との食卓は私を容易に上きげんにした。グリマーニ氏が私をここへ閉じこめるにいたった経緯を、みんなが知りたがったので、私は善良な祖母が死んで以来身にふりかかったいっさいのことを、ありのままくわしく話してきかせた。この話は三時間にわたったが、私は少しも言葉をとがらせず、ある場面については冗談さえまじえてしゃべった。さもなければ、一座がしらけてしまっただろう。それで、一座の人々はねに行く時分には、みんな私に心からなる友情をしめし、それぞれ援助を申し出たほどであった。
それは五十の齢にいたるまで、逆境におちいるたびに、いつも私のかちえた変わらざる幸運であった。私はつねに私をくるしめる不幸の物語をききたがる、心やさしき人々を見いだし、その物語をすることによって、友情を寄せられたが、人々を味方につけ有効に利用するには、この友情は必要欠くべからざるものであった。そのために私の用いた策略は事実をありのままに語り、相当の勇気をもたなければしゃべりにくいような事情も除外しないことであった。このふたつとない秘訣を利用することは、かならずしもすべての男にできるわけではない。なぜなら人類の大部分は臆病者で構成されているからだ。私は経験によって真実は護符にひとしいものであることを知っている。その魔力は、下劣な連中にたいして濫用しないかぎり、必要欠くべからざるものである。いかなる罪人でも、公明正大な裁判官にたいして、あえて真実を述べるなら、言葉をにごし逃げ口上をいう無罪のものよりも、はるかにたやすく罪をゆるされるであろうと、私は信じている。もちろん、この場合には、語り手は青年でなければならない。少なくともあまり年寄であってはならない。なぜなら年をとった男は全自然を敵にまわさなければならないからである。
少佐は神学校の生徒たちがお互いにベッドへ訪問したりされたりする話をおもしろがって、さかんに冗談をとばした。しかし、礼拝堂司祭や婦人たちはそれをたしなめた。彼は陸軍大臣に書面を書いていっさいを具申しろ、手紙は自分が引き受けて、かならず大臣にとどけるからとすすめ、保護者になってやると約束してくれた。婦人たちもすべて少佐の忠告にしたがうようにと私を激励した。
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第七章
[聖アンドレア要塞監獄]
この要塞には、共和国は通常スラヴォニア出身の廃兵百名を駐屯させておくにすぎなかったが、そのときは二千のアルバニア兵が収容されていた。この兵士たちはシマラ人と呼ばれた。
ヴェネチアでは≪文書の賢者≫と名づけられた陸軍大臣が就任の際に彼らを近東から移駐させたのであった。これはその将校たちが各自の価値を十分にみとめられ、かつ相応にむくいられるように望んでの処置であった。彼らはアルバニアと称するエペイロス地方の一部の出身で、ヴェネチア共和国の領土に属していたのである。その二十五年まえ、共和国がトルコと戦った最後の戦争のとき、彼らはかくかくたる功績をあげた。いずれも老齢の十八人ないし二十人の将校たちはなおも元気旺盛で、顔や、また一種の見栄からわざとはだけている胸などに、無数の傷痕をしめしている図は、ひどく目新しく、また奇異の感をそえる光景であった。ことに中佐の傷ははなはだしく、顔の四分の一が欠けていた。片方の耳や目がなく、顎《あご》もなかった。しかし、彼はよくしゃべり、よく食った。非常に快活で、しかも、全家族を引きつれてきていた。その家族は娘ふたりに息子七人、娘たちはいずれも美しかったが、奇妙な服装がいっそう人の興味をそそった。息子たちはみな兵士であった。その男は六フィートのりっぱな身体をもっていたが、ひどい傷痕のために、見るからにおそろしいほど醜かった。それにもかかわらず、私はすぐ彼のことが好きになった。もしも彼がパンでも食べるように大量ににんにくをかじるのをやめてくれたら、おおいに彼と語りあったかもしれない。彼はわれわれがボンボンをポケットにしのばせるように、いつでも二十粒をくだらないにんにくでポケットをふくらませていた。だが、にんにくが毒になることはだれが疑えよう。その唯一の医学的効力は食欲のなくなった動物に食欲を与えることだけである。
その男は文字が書けなかったが、それを少しも恥ずかしいと思わなかった。この連隊では僧侶と薬剤師以外にはだれも文字を書く才能をもちあわせていなかったからである。将校も兵士もみな金貨でふくらんだ財布を持っており、大半は結婚していた。それゆえ、要塞のなかには五、六百人の女とおびただしい子どもがいた。こういう光景を見るのは、はじめてだったので、おおいに関心をそそられ、興味を感じた。幸福な青春よ! 青春は新しいものをしばしば与えてくれたから、それを失ったことを私はいまでも惜しんでいる。しかし、同じ理由で、わが老廃を憎む。老廃の境地にいたっては、当時はその存在を好んで軽蔑していた新聞と、それから種々の予想を強要するとっぴな雑報のうちにしか、新しいものを見いだせない。
私は部屋のなかでは自由だったので、まず手をつけたのは、持っていた僧服を行李《こうり》のなかから全部引き出し、それを容赦なくユダヤ人にたたき売ることであった。第二の仕事は質に入れた品物の質札をローザ氏に送り、全部を売りはらって、残金を送ってくれるように依頼した。このふたつの手続きによって、毎日提供される呪わしい十ソルディは従卒にまわしてやれるようになった。もうひとり、床屋だった兵士がいて、神学校の規則から余儀なくかまわずにおいた髪の毛の手入れをしてくれた。こうして身なりをととのえると、私は気晴らしをさがして兵営のなかを歩きまわった。少佐の住居は親愛の気持から、傷だらけの中佐の営舎はアルバニア女にたいする多少の恋心から、どちらもかけがえのない避難所となった。中佐は上官の大佐が旅団長に任命されることを知って、連隊長になりたいと望んでいたが、それには競争者があって、だしぬかれやしまいかと心配だった。そこで、私はごく手短な、しかし激しい調子の請願書を彼のために書いてやった。陸軍大臣は、この請願書はだれが書いたのだときいてから、要求をいれてやると約束した。彼は喜色満面で要塞へもどってくると、私を胸に抱きしめ、心から恩を感謝した。そして、家族の昼食に招待してくれたが、にんにく入りの料理には胸をやかれる思いだった。それから、お礼として、鰡《ぼら》の卵の塩漬を一ダースと上等の煙草を二斤くれた。
私の請願書がこういう効果をきたしたので、ほかの将校も私の筆をかりなければ出世できないと思いこんでしまった。私はだれからの頼みもことわらずに書いてやったが、そのために人から喧嘩をしかけられる結果になった。ひとりの男から金をもらって請願書を書いてやりながら、同時にその競争相手にも同じサービスをしてやったからである。しかし、おかげで三、四十ゼッキーニの金ができ、もはや貧乏の心配はなくなった。ところが、あるいやな事件が突発して、以後六週間、不愉快な日々をすごすことになった。
[優雅な謝礼とその結末]
四月二日、それは私がこの世に生まれた宿命的な日だったが、ベッドから出るやいなや、美しいギリシャ女が私の目のまえに立った。その話によると、彼女の夫は少尉で、中尉になる資格を十分にそなえているが、大尉がじゃまをして中尉になることができない。それというのも、人妻の名誉にかけて夫以外に与えてはならない厚遇を提供するのをこばんだためであった。彼女はこういって、いろいろの証明書を見せてから、請願書を書いてほしい、自分で陸軍大臣のところへ持っていくからと頼んだ。そして、あたしは貧乏なので、お骨折にたいしても、気持だけでお礼をするよりほかはないとつけくわえた。そこで、私はその気持だけでお礼というのは、ぼくの欲望に答えるという謎だろうといって、謝礼の先払いを求めるためにいどみかかった。彼女はきれいな女がよく見せる、あの申し訳ばかりの抵抗しかしめさなかった。事が終わると、私は正午ごろまでに書いておくから取りにきてほしいといった。彼女は時間どおりにやってきた。そして、またあまり躊躇《ちゅうちょ》せずに二度目の謝礼を払った。それから、夕方、二、三訂正をしてもらいたいという口実でやってきて、さらにもう一度謝礼を払った。
しかし、快楽においてはすべてが薔薇色《ばらいろ》ではない。この濡《ぬ》れ事の翌々日、私は謝礼どころか、手ひどい懲罰をくらったことに気がついて、怖毛《おぞけ》をふるった。花の下に蛇がかくれていたのだ。そして、余儀なく医者の手にかかり、六週間の治療の結果、ようやく完全な健康をとりもどすことができた。
その女は、私がまぬけにも不都合な仕打ちをなじると、わたしは持合せのものを差し上げただけで、用心するのはそちらの義務だったんですよと笑った。しかし、読者はこの不幸が私に与えた心痛や恥辱を想像することはできまい。われながら自分をひどく堕落した人間のように思いなしたが、そればかりでなく、この事件のために、弥次馬《やじうま》連中から迂闊《うかつ》千万な男と思いこまれるようになってしまった。
少佐の妹のヴィダ夫人は、亭主が名うてのやきもちやきだったが、ある朝、ふたりだけになったとき、夫のやきもちやきからひきおこされる心の悩みを打ち明けた。が、そればかりでなく、まだ花の盛りの年ごろなのに、四年まえから残酷な夫に独り寝の淋しさを強要されているという愚痴までしゃべりたてた。そして、「どうぞ、神さま、こうしてあなたといっしょに一時間をすごしたことが、夫の耳にはいりませんように。それを知ったら、夫はあなたをひどい目にあわせるでしょうから」と、つけくわえた。
私は彼女の悲しみにすっかり感動して、「では、ぼくも打ち明けていってしまいますが、あのギリシャ女から不面目きわまる容態にされなかったら、ぼくをご主人にたいする復讐の道具におえらびくださったことを、たいへん嬉しく思うのですが」といってしまった。この言葉を、私は誠心誠意でいったのだし、挨拶としても礼儀にかなっているつもりだったが、彼女は、いきなり立ちあがり、怒りたけって、悪態のかぎりをあびせかけた。まるで堅気な女がつつしみを忘れたずぶとい男から侮辱されたときに投げつけるような罵詈讒謗《ばりざんぼう》であった。私はすっかり度胆をぬかれ、彼女の期待にそむいたのに気がついて、言葉をつくして詫《わ》びをいった。すると、彼女は、あなたは身分のある女と口をきく資格のない自惚《うぬぼ》れ屋《や》だから、もう二度とわたしのところへ足踏みをしてはならないと命じた。私は彼女が帰りがけたとき、身分のよい女なら、ああいうことについては、あなたよりもずっと口がかたいものだといってやった。だが、すぐそのあとで気がついたが、もしも私が丈夫で、彼女を慰めるために適当な方法をとったら、彼女はけっして腹をたてはしなかったであろう。
そのうちにまたひとつくやしい事情がおこって、ふたたび例のギリシャ女をのろわせた。キリスト昇天祭の日、ブチントーロ号の儀式があり、いとしきふたりの天使が伯母とローザ氏に連れられて、要塞を訪ねてきたのだ。私は自分の部屋で昼食をふるまい、一日じゅう要塞を案内してやった。三人だけで、だれもいない地下の牢獄へはいっていったとき、ふたりの天使は私が変わらぬ愛情のはっきりした証拠をいそいで見せてくれるものと思い、両方から首っ玉へとびついてきた。しかし、残念至極! 私はだれかがはいってきやしないかと心配するようなふりをして、たっぷり接吻してやるよりほかにはなにもできなかった。
その後、母に私が司教の到来までどんなところに押し込められているか書いてやったら、母はグリマーニ氏へ手紙を書いたから、おっつけ自由の身にしてもらえるにちがいないといってきた。そしてまた、ラツェッタの売りとばした家具類については、グリマーニ氏はそれをいちばん末の弟の財産にするように約束したと知らせてよこした。
しかし、それは瞞着《まんちゃく》であった。あれが弟の財産になったのは十三年あとでしかなかった。しかも、名儀上だけのことで、詐欺的な転売によったのだった。この気の毒な弟については、またその場所で話そう。彼は二十年まえにローマで困窮のうちに死んだ。
六月のなかばに、シマラ人たちは近東へ転属になり、要塞にはもとから駐屯していた百人の廃兵だけが残った。私はあたりが淋しくなるとともにすっかり退屈して、妙に怒りっぽくなった。暑さがひどかったので、グリマーニ氏へ手紙を書き、夏の服を二着送ってほしい、もしもラツェッタが売りとばしてなければ、これこれの場所にあるはずだからといってやった。ところが、おどろいたことに、一週間後、当のラツェッタがべつの男をともなって、少佐の部屋へはいってきた。そして、連れの男を、この人はペトリロ閣下と申し、前ロシアの女帝の有名なお気に入りで、ペテルスブルグから来られたのだと紹介した。その男の名はまえから知っていたが、|有名な《ヽヽヽ》というより|恥知らずの《ヽヽヽヽヽ》というべきだし、|お気に入り《ヽヽヽヽヽ》というより道化役《ヽヽヽ》というべき男であった。少佐は彼らに腰をおろすようにすすめた。ラツェッタは腰をおろしながら、グリマーニ氏のゴンドラの船頭の手から包みをとって、「ほら、おまえのボロを持ってきたぞ」と私に渡した。
私は「いつかきさまにリガノを持っていってやるからな」と、答えた。リガノとは徒刑囚の服である。
すると、あの生意気なやくざ者はステッキをふりあげようとした。しかし、少佐は衛兵所でひと晩すごしたいのかと叱りつけて、相手を立ちすくませた。ペトリロはなにもいわなかったが、そのとき、ヴェネチアで会えなかったのは残念だ、淫売屋へ案内してもらったのにと私にいった。
「そうすれば、きみの女房に会えたろうにな」と、私はやりかえした。
「わしはな、人の人相をおぼえるのはお手のものだ。きっときさまを首吊り台にぶらさげてやるぞ」と、彼はいい返した。
私は怒りに身体がふるえた。少佐も彼の言葉に私と同じく不快をおぼえたにちがいない。いきなり腰をあげると、まだ片づけなければならぬ仕事があるからといったので、彼らは引きあげていった。少佐は別れしなにあした陸軍大臣へ訴え出てやると、私に断言した。しかし、私はこの場面のあとで、復讐の計画を実行しようと、真剣に考えはじめた。
[完全犯罪の快楽]
聖アンドレアの要塞は四方を海にかこまれ、私の部屋の窓を見ることのできる歩哨は全然いなかった。だから、窓の下へひそかに船をつけ、それに乗りうつれたら、夜のうちにヴェネチアへ行き、一撃を加えたあとで、日の出ぬうちに要塞へもどってこられよう。問題は、金にさえなれば牢屋へ行く危険でもおかすような船頭をさがすことだ。
要塞へいつも食糧を運んでくる数名の船頭のうちにビアジョというものがいたが、私はその顔つきが気に入ったので、その男に目をつけた。そして、計画を打ち明け、一ゼッキーノの褒美《ほうび》を約束すると、彼は翌日まで返事を待ってほしいといった。そして、翌日、準備はととのったといってきた。彼は私が重大な罪をおかした囚人かどうか問いあわせ、少佐の妻から若気のあやまちで拘留されているにすぎないと教えられたのであった。そこで、彼が宵の口に長い帆柱のついた船を窓の下へつけ、私はその帆柱をつたわって船へすべりこむという手はずをつけた。
彼は予定の時刻にやってきた。空は曇って、波が高かった。風が逆であったので、私は彼と力をあわせてこいだ。そして、セポルクロ教会に近いスラヴォニア河岸で船をおり、待っているように命じた。私は船乗りの頭巾つき外套を着て、まっすぐにベルナルド街のサン・アゴスティーノへ行き、カフェのボーイに案内させてラツェッタの家の戸口へたどり着いた。
だが、いまの時間には家にいまいと思いながら、呼鈴を鳴らした。すると、なかから声が聞こえ、ラツェッタさんに会いたければ、朝のうちにいらっしゃいといった。それはたしかに妹の声だとわかった。私は橋の下へ行って腰をおろし、彼がどっちの方角からこの道へはいってくるか見張りをはじめた。すると、十二時十五分まえぐらいになって、サン・パウロ広場のほうからやってくるのが見えた。そこで、もうそれ以上知る必要がなかったので、船にもどり、要塞へ帰って、なんの支障もなく同じ窓から部屋へはいった。朝の五時には、私が要塞のなかを歩きまわっているのを、だれもかれも見た。
あの悪党にたいして思う存分に恨みをはらし、しかも、内心望んでいるように息の根をとめてしまった場合には、確実にアリバイを証明できるようにしておきたい。私はそう考えて慎重に考慮をめぐらし、次のような方策を講じた。
今夜いよいよ決行とビアジョと打ち合わせた日、私は副官の息子のアルヴィーゼ・ツェンと散歩をした。その子はまだ十二歳でしかなかったが、利口な悪党ぶりがおおいに私を楽しませた。この子はのちに有名になり、ついに二十年まえに政府からケルキラ島へ追放されたが、これについては一七七一年のところで語ろう。
とにかく、その子と散歩しながら、私はとある稜堡《りょうほう》からとびおりて、足をくじいたふりをした。ふたりの兵士に部屋へ運ばれていくと、要塞の外科医が脱臼《だっきゅう》したものと推量し、カンフル液をしみさせたタオルを足首に巻き、静かにねていろと命じた。みんなが見舞いにきた。私は従卒を私の部屋へとめて、看病してもらうことにした。その男はブランデー一杯でベロベロに酔っぱらい、大山鼠《おおやまねずみ》のようにぐっすり眠ってしまう男であった。私は彼がよく眠ったのを見すまし、外科医と司祭に引き取ってもらった。司祭は私の部屋の真上に住んでいた。それから、十時半ごろ船に乗りうつった。
ヴェネチアに着くと、一ソルドの金を奮発して丈夫な捧を一本買い、サン・パウロ広場へつづく通りのふたつ手前の戸口のきわへ行って腰をおろした。通りのわきに狭い小さな運河があったが、それは敵を放りこむのにうってつけだと思われた。この運河はいまではもう見られない。あれから数年後に埋められてしまった。
十二時に十五分ぐらいまえ、彼がしっかりした足取りでゆっくり歩いてくるのが見えた。私はすばやく往来へとび出し、壁際について走った。彼はどうしても私をさけて運河のほうへ寄らなければならなかった。私は彼の脳天へ一撃、次に腕へ一撃くわせた。さらにもう一撃あびせかけると、彼は大声でわめき、私の名を呼びながら、運河のなかへのめりこんだ。それと同時に、ひとりのフリウリ人が手に提灯を持って、左手の家から出てきた。私はとっさに提灯を持った手へ一撃をくわせた。彼は提灯を捨て、往来を逃げていった。私は棍棒《こんぼう》を捨て、鳥のように広場を横切り、橋をわたった。人々は事件の起こった広場のほうへわらわらと走っていった。そのあいだに、私はサン・トマ寺院のところで大運河をわたり、数分ならずして船へとびこんだ。風が非常に強かったが、さいわいにも追風だったので、帆をあげて沖へ出た。窓から自分の部屋へはいこんだとき、十二時が鳴っていた。すばやく服をぬぐと、甲高い声で兵士を起こし、腹がいたくて死にそうだから、医者を呼んでこいと命じた。司祭が私の声に目をさまし、下へおりてきたとき、私は身をもがいて苦しんでいた。司祭は阿片剤《あへんざい》がきくだろうといって、捜しにいき、すぐに持ってきてくれた。しかし、私はそれをのまず、彼が水をとりに行ったすきに、隠してしまった。それから三十分ほど苦しそうに顔をしかめてみせてから、だいぶよくなったといって、みんなに礼をいった。みんなはぐっすり眠るようにとすすめて、引きあげていった。私はいわれたようにぐっすり眠ったが、足を捻挫《ねんざ》したことにしてあるので、ベッドから起きずにいた。
少佐はヴェネチアへ出かけるまえに私を見舞いにきて、あの腹痛はゆうべ食べたメロンのためだろうといった。
午後の一時、少佐がふたたび姿をあらわした。そして、笑いながらいった。
「きみに聞かせたい、すばらしいニュースがあるんだ。ラツェッタがゆうべ梶棒でひどくなぐられ、運河へたたきこまれたんだよ」
「ぶち殺されたんじゃないんですか」
「うん、殺されやしなかった。だが、そのほうがきみにゃ好都合さ。もしも殺されたら、きみにゃずっと不利になるからね。というのも、あの事件の下手人はきみにちがいないという、もっぱらの評判なんだから」
「そう思われるのは、かえって嬉しいですよ。いくぶんぼくが敵討ちをしたことになりますからね。しかし、ぼくがやったってことを証明するのはむずかしいでしょう」
「そのとおりだ。ラツェッタは、いまのところ、きみだとわかったといっているし、提灯を持っていた手を打ちくだかれたフリウリ人のパティッシもそういっている。ラツェッタは鼻をかかれ、歯を三本すっとばされ、右腕に打撲傷をうけただけだ。きみは検事総長に告訴されている。グリマーニ氏は事件を知るとすぐ、陸軍大臣に手紙を書き、自分にひとことのことわりもなくきみを放免したのはけしからんと文句をいった。わしが陸軍省へ着いたとき、ちょうど大臣がその手紙を読んでいるところだった。そこで、わしは大臣に向かい、これは根も葉もない嫌疑だ。現にいま出てくるとき、きみが捻挫のために身動きもできない状態でベッドにねているのを見てきたと保証し、さらに、ゆうべ夜中にきみが腹痛のために死ぬほど苦しんだこともいっておいた」
「やつがなぐられたのは、真夜中なんですか」
「告訴状にはそう書いてある。大臣はまずグリマーニ氏に返事を書き、きみが要塞から一歩も出なかったことを保証するといったが、さらに原告は事実をたしかめるために検察官を派遣してもいいと許可した。だから、三、四日じゅうに尋問に来るかもしれんぞ」
「いいです。自分のやったことでなくて、たいへん残念だといってやります」
三日後に、検察官が検事局の書記を連れてやってきた。しかし、取調べはすぐすんでしまった。要塞じゅうのすべての人が私の捻挫のことを知っていたし、司祭や外科医や従卒をはじめ、なにも知らない人々まで、私が真夜中に腹痛で死にそうになったと証言した。こうして、私のアリバイが完全に認められたので、検事総長はラツェッタと提灯持ちに、私の権利を侵害することなく、訴訟費用を支払えと命令した。
この事件ののち、私は少佐の忠告によって、陸軍大臣に釈放を請求する請願書を書き、そのことをグリマーニ氏へ知らせた。それから一週間して、少佐は私が自由の身になったことを知らせ、グリマーニ氏に口をきいてやろうといった。この知らせを受けたのは、ちょうど食卓に着いていて、気分がはしゃいでいるときであった。それで、ほんとうのこととも思われなかったが、真《ま》にうけたようなふりをし、私にはヴェネチアの町よりもお宅のほうがずっと住み心地がいい、それを証拠だてるために、もしもおじゃまでなかったら、もう一週間要塞のなかで暮らそうといった。人々はこの挨拶を言葉どおりにとり、喜びの喚声をあげた。
二時間ののち、少佐から確実な釈放の知らせをうけ、もう疑う余地がないとわかると、私は彼に進呈した一週間の贈り物を後悔した。しかし、取り消す勇気はなかった。ことに、少佐の細君がひどく嬉しそうなようすを見せたので、いまさら期限をみじかくしたら、約束をまもらない男だと軽蔑されるだろう。この善良な夫人は一所懸命に私の世話をしてくれたつもりでいたが、私がそれに気づかないのではないかと内心気にしていたのであった。
それはとにかく、要塞では最後に次のような事件が起こり、私の心をかきみだしたが、これはしゃべらずにすごしてしまうわけにはいかない。
[ボナフェーデ伯爵令嬢]
翌日正規軍の軍服を着た将校が剣をつった六十ばかりの男を連れて、少佐の部屋へはいってきた。将校は陸軍省の封印をおした手紙を少佐に渡した。少佐はその手紙をあけて読んでみて、すぐに返事をしたためた。将校はひとりで帰っていった。
将校がかえると、少佐はその紳士を伯爵と呼んで、あなたを至上命令によってここへ監禁するが、あなたの牢獄はこの要塞全部だと見なしてよろしいといった。伯爵は剣をはずして少佐に渡そうとしたが、少佐はうやうやしい態度でそれをこばみ、予定された部屋へ案内していった。一時間後に、仕着せをきた下僕が監禁されたもののベッドと行李を運んできた。翌日の朝、同じ下僕が私の部屋へ来て、私を朝食にまねきたいという主人の伝言を伝えた。私は出かけていった。すると、いきなり伯爵はこういった。
「司祭殿、ヴェネチアでは、信ずべからざるアリバイ工作を実行されたあなたの豪胆さがたいへん評判になっております。ですから、わしがあなたとお知合いになりたいと願うのも、あながち奇妙にお思いにならないでください」
「伯爵さま、あのアリバイは真実のことでございますから、それを証明する豪胆さなんてありようがございません。失礼ながら、それを信じない人々は、私について悪い評判をたてることになるのです。と申しますのは……」
「いや、この話はもうやめましょう。たいへん失礼しました。しかし、こうしてお仲間同士になったのですから、以後はどうぞごじっこんにお願いしますよ。では、食事をはじめましょう」
食事中、私は自分がどういう身分のものか話してきかせた。それで、彼も食事がすむと、礼儀上、同じく身分を明かさなければならないと思い、こう話しだした。
「わしは伯爵ボナフェーデというものです。若いころは、ウージェーヌ大公の軍隊で働きましたが、のちに軍務を去って、オーストリアで文官の職につきました。しかし、決闘事件を起こし、バヴァリアへ移りました。ミュンヘンで身分の高いある娘を誘拐し、ヴェネチアへ連れてきて、結婚しました。それ以後、わしは二十年もこの地に住んでいます。子どもも六人あり、わしのことは町じゅう知らぬものもないくらいです。ところで、一週間まえ、わしあてに来ている郵便物を受け取るために、下男をフランドル局へやりました。しかし、下男は郵便料を支払うだけの金を持っていなかったので、郵便物を渡してもらえませんでした。そこで、今度はわしが自身で出向いていって、次の定期便がとどいたときいっしょに支払うからといいましたが、それでもききいれず、どうしても手紙を渡してくれません。そこで、局長であるフォン・タクシス男爵の部屋へあがっていって、侮辱にたいする文句をいいました。しかし、男爵は部下はすべてわしの命令にしたがって行動している。所定の郵便料さえ払えば、いつでも手紙は渡すと、横柄な返事しかしませんでした。わしはむらむらと腹をたてたが、場所柄を考えて、胸をさすって帰ってきました。しかし、十五分たってから、彼に手紙を書き、わしは侮辱されたのだから、正当な謝罪を要求する。今後はつねに剣をつって外出し、どこででも、出会いしだい、話をつけるといってやりました。
彼の姿はどこにも見あたりませんでしたが、きのう、司法裁判所の書記官が訪ねてきて、あなたは男爵の無礼を忘れなければならない。それには、外で待っている将校といっしょに要塞へ行って、しばらく謹慎するがよい、期限は一週間だと、口頭で伝えました。こういうわけで、あなたとごいっしょにここで一週間すごす喜びを得たわけです」
私はもう二十四時間まえから自由の身となっているのだと答えたが、腹蔵のない打明け話をしてくれた好意にたいして感謝をしめすつもりで、それでは今後あなたのお相手をさせていただきましょうといった。しかし、すでに少佐にも同じ約束をしていたので、この挨拶はたんなる儀礼上の嘘にしかすぎなかったわけである。
昼食ののち、彼とふたりで要塞の塔にのぼって、あちこちながめていると、二丁|櫓《ろ》のゴンドラが小さい門へ向かって走ってくるのに気がついた。伯爵に教えると、伯爵は望遠鏡を目にあててながめ、あれは家内が娘を連れて会いに来たのだといった。われわれはふたりを出迎えにおりていった。
夫人はいかにも誘拐されるだけの値うちをそなえた女であった。娘は十四ないし十六だが、もうすっかり成熟していて、新しい種類の美人だと思われた。髪があかるいブロンド色、空色の目が大きく、鷲鼻《わしばな》で、口が美しく、ときおり笑みをふくんで口もとがほころびるときには、すばらしい二列の歯並をのぞかせた。その歯はまっ白であったが、肌もほんのりと淡紅色にそまっていなかったら、さだめしこの歯と同じようにまっ白だったにちがいない。胴体は作り物かと思われるほど華奢《きゃしゃ》であったが、胸のあたりが非常に広く、まるでみごとな祭壇のようで、そこに、ぽつんとふたつ、薔薇色のつぼみが見えていた。痩せぎすながら、新しい種類の豪華さをくりひろげた逸品であった。私はまったくお飾りのない、うるわしい胸を恍惚《こうこつ》としてながめ、あくなき目をほかへそらすことができなかった。私の魂もたちまちその胸のとりこになって、なにを犠牲にしても惜しくない気持だった。それから、令嬢の顔のほうへ目をあげると、令嬢のにこやかな顔は「もう一、二年待ってちょうだい、そうしたら、あなたのご想像になっているものを、すべて身につけてお目にかけますから」といいたげであった。
彼女は当時の流行にしたがって、優美なよそおいをしていた。スカートを大きな輪骨でふくらませ、まだ妙齢に達しない貴族の娘らしい服装であった。しかし、若い伯爵夫人という風格はすでにそなわっていた。私は身分のある娘の胸をこれほど無遠慮にながめたことはない。なにもなく、しかもそれをはなやかな飾りとする場所は、いくらでもながめることをゆるされているように思われたのである。
夫妻のドイツ語による話合いが終わって、私の順番になった。夫は私を極上とびきりの言葉で紹介し、思いつくかぎりの世にも楽しいお世辞をいわれた。少佐は伯爵夫人を案内して要塞のなかを見せてまわる義務があるように思った。そこで、私は身分の低さを十分に利用することができた。そして、少佐に腕をかした母親のあとについて、令嬢に腕を与えた。伯爵は自分の部屋に残った。
私は貴婦人のサービスをするにも、ヴェネチアの古い流行しか知らなかったので、手を腋《わき》の下へ通すのが、もっとも気品よく彼女をもてなす方法だと考えた。しかし、彼女はけらけら笑いながら身をひいた。母親は娘がなにを笑っているのかとあやしんで振り向いた。すると娘が、この方わたしの腋の下をくすぐるのよと答えたので、あきれかえってしまった。
「礼儀ただしい殿方が腕をかすやり方はこうなのよ」と、彼女はいった。
そして、私の腕の下に手を通した。私は恰好《かっこう》をつけようと思って、ぎごちなく腕をまげた。若い伯爵令嬢は私をずぶの初心者だと思い、私をなぶり者にして楽しもうという計画をたてた。
そして、まずそういうふうに腕をまげると、あなたの身体をわたしから遠ざけて、デッサンの外へ押しだしてしまうと教えた。私は絵をかく道を知らないと告白し、あなたは絵がじょうずなのかときいた。彼女はいま絵をならっているから、いつかお出でになったら、リベリ勲爵士の『アダム』と『イヴ』を模写したのをお目にかけよう、先生方はわたしがかいたとは知らず、たいへんみごとにできているといってくれるといった。
「なぜ隠しているのです」
「だって、人物が両方ともあんまり裸すぎるのですもの」
「アダムは見たくありませんが、イヴはぜひ見たいですね。きっとおもしろいものでしょう。秘密はかならずまもりますよ」
こういうと、彼女がまた笑いだしたので、母親はふたたび振り向いてみた。私はわざとまぬけづらをしてみせた。というのも、彼女が私に腕の組み方を教えようとしたとき、そういうとぼけたようすをするほうが得るところが大きいと気がついたからである。彼女は私がひどいおぼこだと見てとって、自分のかいたアダムはイヴよりもずっといい、アダムは筋肉のひとつもぬかしてないが、イヴにはそういうものはなにも見えないのだからといった。
「ほんとに、イヴの絵にはなんにもかいてないのですよ」
「いや、そのなんにもかいてないほうが、ぼくにはおもしろいと思いますよ」
「とんでもない。アダムのほうがずっとお気にめしますよ」
この会話はひどく私の情をあおり、下品な恰好さえ見せそうになった。なにしろ暑さがひどく、薄い麻のズボンしかはいていなかったので、隠すに隠せなかったからだ。十歩まえを歩いている夫人や少佐が振りかえって私を見て、笑いだしはしないかと、気が気でなかった。
ところが、彼女が足をふみちがえて、片方の靴の踵《かかと》が少しぬげかかった。彼女は脚をのばして、靴をはかせてほしいといった。私は彼女のまえにひざまずいて、仕事にかかった。彼女は大きな輪骨をつけていたが、パンツをはいてなかった。しかも、それを忘れて、少し服の裾《すそ》をたくしあげた。それはほんの少しだったが、あるものを垣間みさせるにはそれだけで十分。私はあやうく息がとまって前へのめりそうになった。それで、ふたたび立ちあがったとき、彼女がどこかぐあいでもわるいのかときいたくらいであった。
それから、地下の牢獄から出たとき、彼女の帽子が少しゆがんだので、彼女は頭をうつむけて、直してほしいと頼んだ。そうなると、私はもうぶざまな恰好を隠すことができなくなってしまった。だが、彼女は私の時計の紐はだれか美しい方の贈り物ではないかといいだして、私を窮地から救ってくれた。私はどもりながら、妹がよこしたのだと答えた。すると、彼女は自分の無邪気さを納得させようと思って、そばへよって見せてほしいといった。私はポケットに縫いつけてあるからだめだとことわった。それはほんとうであった。しかし、彼女は信用せず、時計を外へ引き出そうとした。私はやりきれなくなって、彼女の手をおしのけたので、彼女もこれ以上せがまずにあきらめるべきだと思った。きっと気をわるくしたにちがいない。彼女のいたずらを見やぶって、ぶしつけな振舞いをしてしまったからだ。彼女は急にまじめになり、もう笑おうとも口をきこうともせず、物見櫓《ものみやぐら》のところへ行った。そこでは少佐が母親にシュレンブルク元帥の遺骸を見せていた。遺骸は霊廟《れいびょう》ができるまでそこに安置されていたのであった。しかし、私は自分のしたことに非常な恥ずかしさを感じ、わが身をあさましく思うとともに、彼女もきっと私を憎み、極度に軽蔑しているにちがいないと思わずにいられなかった。自分こそきっと彼女の貞操をおびやかした最初の罪人だろうという気がし、もしもつぐないをする方法を教えてくれるものがあったら、どんなことでもことわりはしなかっただろう。
あの当時における私の心づかいのこまやかさは、ざっとこんなものであった。だが、それも自分が恥ずかしめたと思う相手についての評価にもとづくもので、この評価はまちがっていたかもしれない。このまじめさはその後、時とともに減少し、いまでは非常に微弱になり、影のようなものしか残していない。しかし、それにもかかわらず、私は年齢や経験を同じくする人々にくらべて、とくに自分が悪人だとは思っていない。
われわれは伯爵の部屋にもどり、一日をうらわびしい気持ですごした。日の暮れ方に、婦人たちは帰っていったが、母親からその住居だというバルバ・フルッタロル橋の邸へ訪ねていくという約束をさせられた。
その令嬢には、私はひどい侮辱を加えたように思いこんでいたが、与えられた強い印象が忘れられず、一週間がすぎさるのをいらだたしい気持で待っていた。早く会って、心から後悔していることをわかってもらい、ゆるしを得たい気持でいっぱいだった。
翌日、伯爵の部屋で、伯爵の長男という人と出会った。顔つきは醜かったが、気品のある態度と謙虚な心の人のように見受けた。その後二十五年たって、マドリードで、この人がスペインのカトリック陛下の近衛軍の特務曹長になっているのを見た。彼はこの地位に達するまでに二十年間一兵卒として勤務したのであった。彼については、そのときにまた語るであろうが、彼は私を知らず、会ったこともないといい張った。身分の低いのを恥じて、嘘をつかずにいられなかったのだろう。私は気の毒に思った。
[釈放と幻滅]
伯爵は八日目の朝、要塞から出ていった。私も同じ日の夕方、要塞をあとにしたがサン・マルコ広場のカフェで少佐と出会い、いっしょにグリマーニ氏に会いに行く手はずにした。ヴェネチアへもどるとすぐにオリオ夫人を訪ね、夕食のご馳走になった。そして、夜は天使たちとともにすごしたが、ふたりは司教が旅の途中で死ねばいいと願っていた。少佐の奥さんは典型的な女性で、この人のことはいつまでもなつかしく思われるが、別れの挨拶をしたとき、私がアリバイを証明するためになしたことに感謝するとともに、「わたしがあなたの人となりを十分に見ぬくだけの頭があったことにも感謝してくださいよ。宅はあとになってようやく勘づいたのですからね」といった。
その翌日、正午に、少佐が約束をたがえずに来てくれたので、いっしょにグリマーニ司祭のところへ行った。彼はまるで罪をおかした人間のような態度で私を迎えた。そして、ラツェッタとパティッシのことは勘弁してやってほしい、勘違いをしたのだからというのを聞いて、私はその愚鈍さにあきれかえってしまった。彼は、司教の到着もまぢかなので、私に部屋をひとつ工面し、食事も自分のところでとるように手配をさせたといった。グリマーニ司祭の家を出ると、少佐とふたりでヴァラレッソ氏に敬意を表しに行った。この人はなかなか聡明な人だが、任期が終わったので、もう陸軍大臣をやめていた。少佐が辞去すると、ラツェッタをやっつけたのはきみだろう、白状してもらいたいといった。そこで、私も率直にそれを認め、一部始終をくわしく話した。彼はおもしろがって笑った。そして、いろいろ考え、やつを夜中になぐるというのは、時間的に見てとうていありえないことだから、あのばかどもは訴状に書き違えをしたにちがいない。しかし、アリバイを証明するには、足の捻挫《ねんざ》が事実と思われていたのだから、それだけで十分で、時刻のことなど問題ではなかったのだといった。
こうして、ついにわが心の女神に会いに行く時刻となった。ゆるしを求めるか、その足もとで死ぬか、ふたつにひとつ。どうしてもけりをつけなければという気持であった。邸はなんなく見つかった。伯爵は不在であった。夫人は愛想よく迎えてくれたが、そのようすを見て、私は驚きのあまり、なんとも応対のしようがなかった。
もともと、私は天使に会いに行ったので、天国の片隅へ伺候するものと思っていた。ところが、通された客間には木のくさった椅子が三、四脚ときたないもの古りたテーブルがひとつあるだけであった。鎧戸がしまっていたので、ほとんどなにも見えなかった。それは暑気の侵入をふせぐためであったろうか。けっしてさにあらず、窓にガラス戸がないのを隠すためにほかならなかった。しかし、私を迎えた夫人がぼろぼろになった服を着、シュミーズもよごれているのをはっきり見てとった。彼女は私がぼんやりしているのを見て、娘を呼んでくるといって出て行った。
まもなく、令嬢が気品のある、しかし打ちとけたようすでやってきて、お出でを待ちかねていたが、こんなときにお見えになるとは思わなかった。お客を迎える時刻ではないのでといった。
私は返事に窮した。まったく別人のように見えたからである。みじめな不断着が彼女をほとんど醜い女のように思わせ、罪の意識もかき消すように消えてしまった。そして、要塞ではどうしてあんなに感動させられたのか、不思議でならなかった。彼女は私の顔の上に、こうした驚きや心の動きの一部を見てとり、うらみというよりもくやしそうな表情をうかべたので、私は気の毒になってしまった。もしも彼女に心理分析の力かあるいは勇気があったとしたら、彼女の外観だけに興味をひかれ、その外観から気高い身分や莫大な財産を想像して恋の思いを寄せる、そうした男を私のうちにみとめて、当然私を軽蔑せずにいなかったであろう。
しかし、彼女はまじめに私と語りあって、私の気分を引き立てようとしはじめた。もしも私の感情を動かすことができたら、それが自分の弁護士をつとめてくれるであろうと気がついたのである。
「あなたはびっくりしていらっしゃるのね、神父さま、その理由もわたしにはちゃんとわかりますわ。豪奢《ごうしゃ》な邸を想像していらっしゃったのに、こんなに貧乏で、みじめなようすをごらんになって、げっそりしておしまいになりましたのね。政府は、ほんのわずかなお手当しか父にくださいませんの。しかも、家族が九人もおりますの。祭日には教会へ行かなければならず、それには身分にふさわしい身なりをしなければなりません。それで、わたしたちは余儀ない必要から質に入れた服や肩掛けを請け出すために、ご飯をぬきにしなければならないこともよくありますの。そして、また翌日、質屋へとんでいく始末なのです。教会の神父さまは、わたしどもがミサへ行かないと、貧民救済会の扶養手当をいただいているものの名簿から、わたしどもの名前をけずっておしまいになるのです。けれど、わたしどもはその扶養手当のおかげで露命をつないでいるのですからね」
なんという哀れな話だ! 彼女の思惑は的中した。私はすっかり心をゆすぶられてしまった。だが、それは私を感動させるどころか、穴があればはいりたい気持にさせたのであった。私は金持でもないし、恋心ももう消え去ってしまったので、大きな溜息《ためいき》をつくと、心は氷よりもつめたくなった。
しかし、私は誠意をもって彼女に答え、言葉やさしく、同情をおもてにあらわして、道理をといた。そして、「もしも私が金持なら、せっかく恥をしのんでお話くださった不幸のお話を黙って聞きながすような薄情者ではないことを、容易に納得していただけるのですが」といい、出発もまぢかなので、いくら友情をもっていても、なんの役にもたてないとことわった。
それから、いくら堅気でも必要にせまられている娘をなぐさめる、くだらない紋切型の言葉をならべ、あなたほどのご器量なら、世間が放っておくはずはないから、そのうちにはきっと幸福になれますよといった。
すると、彼女は深く思いつめた口調で、「そういうことも起こるかもしれません。けれど、わたしを美しいと思ってくださる方は、その美しさが私の感情と切りはなせないものだと知ってくださらなければなりませんわ。そして、そこのところを十分ご承知のうえ、わたしの当然うけるべき正しい取扱いをしていただきたいのです。わたしの望むのは、正当な結婚だけです。身分や財産をとやかく申しません。なにせ、貴族という身分にはもうこりごりですし、財産とも縁がないのでございますからね。もう長いこと貧乏にはならされ、ぎりぎりの必要にさえ事欠く始末ですもの。ほんとにわけのわからないお話ですわ。それはそうと、わたしの絵を見に行きましょうよ」と、いった。
「それはどうも光栄です、お嬢さま」
そんなこと、私はもう忘れていた。彼女のイヴも、どうでもよかった。しかし、私は彼女のあとについていった。
連れていかれた部屋には、テーブルがひとつ、椅子がひとつ、小さな鏡がひとつ、それから掛け蒲団《ぶとん》をはいだベッドだけしかなかった。ベッドは下の藁蒲団《わらぶとん》がむき出しになっていた。かつてはそこに敷蒲団があったのだろうと見るものに想像させたが、私に止めの一撃を与えたのは、あたりにただよっている臭気であった。それはあまり古いものとは思われず、私は完全にへたばってしまった。どんな恋人でもそのときの私ほどまたたくまに熱のさめたものはあるまい。早く逃げだしたい、もう二度とこんなところへ足を踏み込むまいという気持でいっぱい。ひとつかみの金貨をテーブルの上に残してこられないのが、なんとしても残念だった。そういう身代金《みのしろきん》を払ったら、良心もさばさばと重荷をおろしたことだろう。
彼女は自分のかいた絵を見せた。それはなかなか美しく見えたので、おおいにほめてやったが、彼女のイヴのまえにも足をとめず、アダムについても冗談ひとついわなかった。ほかの場合だったら、才気をひけらかして、相当しゃべったにちがいない。そして、ただおざなりに、これほどの才能をおもちになりながら、なぜパステル画をならって、利益をあげようとなさらないのですと聞いた。
「わたしもそうしたいのです。けれど、絵具一箱が二ゼッキーニもするのですもの」と、彼女は答えた。
「では、いかがでしょう。六ゼッキーニばかり差し上げたいと思うのですが、受け取っていただけますか」
「まあ! でも、いただきますわ。ありがとうございます。あなたからこういうご恩をいただくのは、わたし、ほんとに嬉しいんですの」
彼女は涙をおさえることができず、それを私に見せまいとして脇を向いた。私はすばやく金をテーブルの上においた。そして、ひとつには社交的な礼儀から、また彼女に屈辱感を与えないために、その唇に接吻を与えた。が、それを愛のしるしとして受け取るかどうかは彼女の心次第だ。ただ、私のひかえ目な態度を敬意のあらわれと見てほしかった。帰りしなに、いずれまたおうかがいして、お父さまにご挨拶をしたいといった。だが、この約束ははたさなかった。それから十年たって彼女にめぐりあったとき、彼女がどういう境遇にあったか、いずれその場所で話そう。
[女性は書物である]
この家をあとにしながら、私はどんなにはてしない思いにかられたことだろう! なんという教訓だったことか! 現実と想像とを考えるとき、私は後者をえらんだ。現実は想像に依存するからである。恋愛の基礎は、のちに悟ったことだが、好奇心である。これは種族保存のために自然がわれわれに与える性向と力を合わせて、すべてをなすのである。女は書物と同じだ。書物は、よかれあしかれ、まず口絵によって読者の興味をさそわなければならない。口絵がおもしろくなければ、読んでみようという意欲をおこさせない。しかも、この意欲は、その力において、書物が与える興味に匹敵するのだ。女の口絵も書物の口絵と同様、ピンからキリまである。そして、私のようにできあがった多くの男をおもしろがらせる女の足は、作品の装幀が文学者に与えるのと同じ興味を感じさせる。したがって、女が顔や着物に神経をつかうのはまちがいではない。なぜなら、生まれたときに自然から盲目に生まれつくのが当然だと刻印をおされなかった男たちに、彼女らを読んでみたいという好奇心を起こさせるには、それよりほかに手がないからである。ところで、たとえ悪いものでも、多くの書物を読んだものはさらに新しい書物を読みたがると同様に、美しい女をたくさん愛した男は、しまいには、新しい女だと思えば、醜い女たちにさえも興味をおぼえるものである。たとえば、紅白粉で飾りたてた女を見るとしよう。紅白粉がすぐ目にとびこんでくる。しかし、それは彼を尻込みさせない。悪徳と化した彼の情欲は贋《にせ》の口絵をかばうために、屁理屈を暗示する。この本はたいして悪くないかもしれない。こんな滑稽《こっけい》なまやかしなんか必要ではないのかもしれない、と、彼は独り言をいう。そして、ざっと目をとおしてみよう、ペラペラとめくってみようと思う。しかし、そうはいかない。生きた書物は抵抗する。まじめに読んでもらいたがるのだ。こうして、読書狂は化粧の犠牲となる。この化粧というものは愛にいそしむすべての男を迫害する怪物なのだ。
アポロが私のペンの先からほとばしらせた、この最後の二十行を読んだ才子よ、もしもきみの迷いをはらすのにこの二十行がなんの役にもたたなかったなら、きみは破滅である、つまり、きみは生命の最後の瞬間にいたるまで、女の犠牲となるであろうといわせていただきたい。しかし、私の言葉がきみに不快の念を与えなかったら、心からお喜びを申しあげよう。
夕方、オリオ夫人を訪ねた。グリマーニ氏の家へ寄寓することになったので当分外泊できない旨をふたりの妻に伝えるためであった。ローザ老人は世間ではきみの勇敢なアリバイ工作の噂でもちきりだが、こう評判になったのも、アリバイが嘘だという確信からきているにちがいない。とすると、ラツェッタのほうでも同じ趣向で復讐してこないともかぎらない。だから、きみも、とくに夜は、十分に警戒する必要があるといった。この賢明な老人の忠告は軽々しく聞き流すべきではない。そこで、私は人と連れだつか、ゴンドラをやとうかしなければ外出しないように心がけた。マンツォーニ夫人はこの考えに賛成し、「裁判所はあなたを無罪としなければならなかったが、世間の評判というものはかならず壷をおさえているものだから、ラツェッタがあなたをほっておくはずがありませんわ」といった。
[ヴェネチアを去る]
三、四日たって、グリマーニ氏が司教の到着を知らせた。司教はその所属するミニモ会のサン・フランチェスコ・ディ・パオラ修道院に宿をとっていた。グリマーニ氏は私が大事な宝石で、それを見せるのは自分以外にないといいたげな恰好《かっこう》で、私を司教のところへ連れていった。
私が見たのは、司教の十字架を胸にさげたりっぱな修道者だった。もしも身体がもう少し華奢《きゃしゃ》で、態度がもっとひかえ目だったら、パドヴァのマンチア神父を見る思いがしただろう。年は三十四歳、神と聖座と私の母とのおかげで司教になれたのであった。私がひざまずいてその祝福を受け、手に接吻すると、彼は祝福を与えてから、私を胸に抱きしめて、ラテン語で≪わが愛する息子よ≫と呼んだ。そして、その後はラテン語でしか話しかけなかった。私は彼がカラブリア人なので、イタリア語でしゃべるのが恥ずかしいのだろうと考えた。しかし、グリマーニ氏にはイタリア語で話したので、私の思いすごしであることを知った。
彼は私にこういった。――
「ローマまでは、きみといっしょに行くわけにいかない。だから、グリマーニ氏にお願いしてローマへ行く手配をしていただくがよい。アンコーナの町にわしの友人のミニモ会修道僧でラザリという人がいるから、その人にわしの落着き先をきき、旅行の便宜をはかってもらうように。ローマからは、もうはなればなれになることはあるまい。そして、ナポリを通ってマルトラーノへ行くつもりだ」
彼は翌朝早く訪ねてこい、ミサをとなえてから、いっしょに食事をしよう。出発は翌々日になるはずだといった。
グリマーニ氏は私を連れて帰ったが、その途中、いろいろ道徳上の訓話をした。私はあやうく吹きだしそうになった。ことに彼はあまり勉強に熱中しないようにとすすめた。カラブリアは空気が重苦しいので、勉強に身を入れすぎると肺病になるからというのであった。
翌日、夜明けに、司教のところへ行った。ミサをとなえ、朝食をとったあとで、彼は三時間にわたって私に説教した。私をあまり好いていないことはあきらかにわかった。しかし、私のほうでは、彼におおいに満足した。だいいち、非常に雅味のある人のように思われたし、それに、教会の大道へ案内してくれるはずの人だから、好きにならないわけにいかなかった。というのも、当時、私は人からえらく出世しそうにいわれていたが、内心では少しも自信がなかったからだ。
この親切な司教が出発したあとで、グリマーニ氏は司教が残していった手紙を渡してくれた。アンコーナの町のミニモ会修道院のラザリ神父に差し出すべきものであった。まえにもいったと思うが、この修道者は私をローマへ送るのを引き受けてくれたのであった。グリマーニ氏は、ヴェネチアの大使がちょうど出発しようとしているから、アンコーナまでそれに同行させるといった。それで、いそいで出発の準備にかからなければいけなかったが、なにもかも好都合に思われた。一刻もはやく、グリマーニ氏の手からのがれたかった。
ヴェネチア共和国の大使ダ・レッツェ勲爵士の一行が乗船する日取りがわかると、知合いの家々へ別れを告げにまわった。弟のフランチェスコは劇場建築で有名な画家ジョリ氏の塾へ残していくことにした。
キオッジャへ行く小形ゴンドラは夜明けにならなければ河岸から出ないということだったので、短い一夜をふたりの天使の腕のなかですごしに行った。ふたりには今度こそ、またの逢瀬を期待することができなかった。私としても、さきざきのことは全然予想がつかなかった。こうして運命に身をまかせた以上、将来のことを思いわずらうのは無益の骨折だと思われたからである。われわれはその一夜を喜びと悲しみ、笑いと涙のなかですごした。私は私のつくらせた鍵を彼女らにかえした。この恋は、私の最初の恋だったが、世態人情を知るという点では、ほとんどなにも教えてくれなかった。完全に幸福で、なんの障害にも中断されず、また利害関係に傷つけられることもなかったからである。われわれ三人は永遠な神意が直接の加護を垂れて、われわれに賜わった甘美な平和をかきみだすような事件を遠くしりぞけてくださったのに感謝するために、しばしば魂をたかくたかく神に向かって高揚しなければならないと感じたのであった。
私は手もとにあったすべての書類と禁制の書物とをマンツォー二夫人にあずけた。この夫人は私よりも二十歳年上であったが、運命論者で、運命という大きな書物をひもとくのを楽しみにしていた。それで、いまおあずかりしたものは、おそくとも一年後には、お返しするようになるだろうと、笑いながらいった。彼女の予言は私をおどろかせるとともに楽しませた。そして、彼女をたいへん尊敬していたから、その予言が実現するように力をかさなければならないという気さえした。彼女に未来を予想させたものは、迷信でもなく、またつねに理性を欠くむなしい予感でもなかった。それは彼女が非常に興味をよせていた世の中のことや人間の性格などについての知識であった。そして、自分の予想はかつてまちがったことがないと笑っていた。
私はサン・マルコの小広場から船に乗り込んだ。その前日、グリマーニ氏が十ゼッキーニくれた。彼によると、アンコーナの検疫所で隔離期間〔伝染病の疑いのある人々の隔離は、ヴェネチア共和国では十五世紀からきびしく行なわれ、旅行者はすべてこの規定に従わねばならなかった〕をすごすには、これだけの金があれば十二分だということであった。検疫所を出たあとで、金の必要が起こるかどうか、それは予想がつかなかった。そういう点については、彼らはなんの懸念《けねん》ももたなかったので、私も同じように安心してかかるよりしかたがなかった。だが、そんなことはあまり気にならなかった。とにかく、嬉しかったのは、私の財布のなかに、世界じゅうのだれも知らない四十ゼッキーニがひそんでいたことだ。この金はおおいに若い勇気をあおりたてた。私はなんの未練も残さず、喜びいさんで出発した。
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第八章
[あばずれ女と博打うち]
大使の一行は仰々しい名で呼ばれていたが、あまりたいしたものには思われなかった。随員はカルニチェリというミラノ人の給仕頭、この給仕頭が無筆だったので秘書の役をつとめる僧侶、家政婦と呼ばれる婆さん、料理人、ひどく不器量なその妻、それから十人ほどの下男だけであった。
正午にキオッジャで船をおりるとき、どこへとまったらいいのかと、カルニチェリに丁寧にきいた。
「どこでもお好きなところへ。ただし、船がアンコーナへ出帆するとき、お知らせできるように、ここにいる男にお宿だけ教えてやっといてください。わしの役目は、ここを出帆してからは、あなたを無料でアンコーナの検疫所まで送りとどけることだけですからな。とにかく乗船まで、ゆっくり遊んでおいでなさい」
ここにいる男というのは乗っていくはずの帆船の船長であった。私はその男にどこへとまったらいいかときいた。
「わたしの家へおいでなさい。ただし、料理人の旦那と大きなベッドへいっしょにやすんでもらいますがね。おかみさんは今夜この船へねるはずですから」
私は承知した。ひとりの水夫が荷物を持っていってくれ、ベッドの下に押し込んだ。ベッドで部屋がいっぱいだったからだ。この際、気むずかしいことをいうわけにもいかなかったので、私はベッドのことをさんざん笑ってから、宿屋へ昼食を食べにいき、それからキオッジャの町を見物に行った。これは半島の先にあるヴェネチアの海港で、人口は一万、水夫、漁夫、商人、三百代言、共和国の塩税署や税務署の小役人などが住んでいた。私は一軒のカフェを見つけて、はいっていった。パドヴァの大学で同級生だった若い法学博士が私に抱きついてきて、そのカフェのとなりに店をもっている薬剤師を紹介した。その店へはこの土地の文士たちがみんな集まるということであった。
十五分ばかりたつと、ヴェネチアで知り合った大柄でめっかちのドミニコ教団の修道士が私を見て、大袈裟《おおげさ》に挨拶をした。それはモデナ出身でコルシーニという名の男であった。彼はちょうどよいときに来なさった。あしたはアカデミー・マカロニックという会合がひらかれ、めいめいの会員がマカロニという雅俗混淆体《がぞくこんこうたい》の詩形をたたえて一篇ずつ自作を朗読してから。ピクニックに行く予定だ。あなたもアカデミーの名誉と光栄のためにお得意の詩を発表して、ピクニックにも参加しませんかとすすめた。私は承知した。そして、会合にのぞむと、十章節から成る詩を読みあげ、拍手喝采のうちに会員に推挙された。それから、食卓に着くと、マカロニを猛烈にたいらげて、おおいに人気をあつめ、まさにマカロニ王をもって称するに足りると喜ばれた。
若い博士は、これもアカデミー会員であったが、私をその妻に紹介した。たいへん裕福なその両親は丁重に私をもてなしてくれた。彼には非常にかわいらしい妹があったが、もうひとり、誓願修道女になっている妹がいた。このほうはまさに絶品と思われた。こういう人々を相手にしていたら、私は船の出帆まで愉快に時間をつぶすことができたかもしれない。しかし、キオッジャではひどい災難にくるしむように運命づけられていたのであった。若い博士はさらにもうひとつ友情のしるしをみせてくれた。コルシーニ神父というのは風《ふう》のわるい人で、どこでもきらわれているから、なるべく避けたほうがよいと忠告してくれたのである。この忠告にはもちろん感謝したが、そういう悪い評判も素行がおさまらないことから来ているのだろうと思って、あまり気にとめなかった。私は生れつき鷹揚《おうよう》であったし、かなり軽率で人からわなをかけられるのも気にかけなかったので、あの修道士は逆に多くの楽しみを提供してくれるであろうと考えた。
三日目に、その呪われた修道士は私をある場所へ連れていった。そこはひとりでも行こうと思えば行けるところだったが、私は男らしいところを見せようと思って、ひどく醜いあばずれ女を買った。やがて、そこから出ると、彼はある宿屋へ夕食に連れていった。そこには、彼の友だちの四人のやくざ者がいた。夕食のあとで、彼らのうちのひとりが銀行になって、ファラオの博打《ばくち》をはじめた。私は四ゼッキーニすってから、腰をあげようとした。すると、親切な友人コルシーニは相乗りでもう四ゼッキーニ賭けてみないかとすすめた。彼が銀行になったが、銀行が破産してしまった。私はもうやる気がしなくなった。しかし、コルシーニは損をさせて申し訳ないと、いかにも恐縮しきったようすで、二十ゼッキーニの親になって、もうひと勝負してみたらどうかとすすめた。だが、掛金はみんなさらわれてしまった。私はそんな莫大な損害をあきらめることができず、それからはすすめられるまでもなく、みずからすすんで勝負をいどんだ。そして、失った金を取りもどそうといきりたって、結局は有り金を全部はたいてしまった。それで、しおしおと寝にかえり、眠っている料理人のわきにもぐりこんだ。料理人は目をさまして、きみは道楽者だなあといった。私はそのとおりだと答えた。
私はこの大きな不幸に懊悩煩悶《おうのうはんもん》、もはや死の兄弟といいつべき眠りの底にしずんで、いっさいを忘れるよりほかはなかった。ところが、昼ごろ、例の憎むべき悪者が起こしに来て、ある金満家の若造を夕食に呼んだが、その男は手ばたきになるにちがいないから、きみもなくした金を取りもどせるだろうと、意気揚々と話してきかせた。
「だが、ぼくは有り金全部すっちまったんだ。二十ゼッキーニ貸してくれ」
「わしは人に金を貸すと、きまって負けるんだ。こりゃ迷信だが、いやになるほど経験してるんでな。どこかほかへ行って工面してこいよ。じゃあ、失敬」
例の賢明な友人に災難の話をするのは恥ずかしかったので、道行く人に担保をとって金を貸す確かな男はいないかときいた。すると、ある老人の家を教えられたので、その老人を連れて宿へ帰ってきた。行李をぶちまけて見せると、彼は品物を残らずしらべてから、おそくとも三日以内に返済をしないと流してしまうという条件で、三十ゼッキーニ貸してくれた。利子もとろうとしない。じつに律気な男だった! 私は売却証書を書いて渡した。彼はま新しい三十ゼッキーニの金をおいて、品物を全部持っていったが、親切な男で、シャツを三枚と靴下とハンケチをおいていってくれた。だが、私はなにもほしいと思わなかった。今夜はなくした金を全部取りもどすという、かたい予感がしていたからだ。
それから数年後、私はこのときの腹いせに、予感にたいする誹謗《ひぼう》の文章を書いた。賢明な男にとって信用のおける予感は不幸を知らせる予感よりほかにない。幸福を知らせる予感は感情から出るが、この感情というやつは頼みがたい僥倖《ぎょうこう》をあてにするばか者にほかならない。
私は取るものも取りあえず、例のまじめな仲間のところへ駆けつけたが、仲間たちも私が姿を見せるのを一刻千秋の思いで待っていたのであった。夕食のあいだはだれも博打のことをいいださず、口をきわめて私の卓越した素質をほめそやして、ローマへ行ったら巨万の富をなすにちがいないとはやしたてた。食事がすんでも、だれも博打のことを切り出さなかったので、私のほうから威丈高になって敵討ちをいどんだ。すると、みんなはきみが銀行になるがいい、そうしたらわれわれは反対の目へかけるからといった。そこで、私は銀行になったが、例によってすっからかんにされてしまった。しかたがないので、例の修道士にここの勘定は立替えておいてくれと頼んだ。修道士は委細引き受けたといった。
こうして、私は失望落胆、寝床へもぐりこんだが、泣き面に蜂とはこのこと、ようやく二か月まえになおったばかりのあの病気のあさましい徴候がまたもはっきりあらわれてきた。私は途方にくれて眠りにおちた。十一時間ののちに目がさめたが、どうにも気持が晴れず、いつまでもうつらうつらとしていた。思うことのひとつひとつがうとましく、太陽の光さえ、身にうける資格がないように思われて、いとわしかった。はっきり目をさますのがおそろしかった。そうしたら、残酷な事態と対決し、なんとか決心をきめなければならないことになるからだ。実際はヴェネチアへ帰らなければならなかったのだが、そういう気持も全然おこらなかった。またあの若い博士に事情を説明に行くよりは、むしろ死んだほうがましだと思われた。生きていくのが重荷だった。ここにこのまま動かずにいて餓死にしてしまいたいという気さえした。帆船の船長のアルバーノおやじが揺り起こしにこなかったら、いつまでも起きあがる元気がでなかっただろう。おやじは風がいいので出発したいから、すぐに船へ乗り込むようにといった。
[親切な僧侶と若い女中]
その方法がどうであろうと、大きな困窮からぬけだしたものは、ほっと肩の荷のおりた思いがするものだ。アルバーノ船長は絶体絶命の窮地にあった私に、まだ生きる道があると教えに来てくれたようなものだ。そこで、いそいで服をつけ、シャツをハンケチにつつんで、船へ駆けつけた。一時間ののちに帆船は錨をあげ、翌朝、オルサラというイストリアの港に錨をおろした。われわれはすべて町ともいいがたい町を見物に行った。その町は法王の所領であった。ヴェネチアの政府は法王座に敬意を表するために、この町を献上したのであった。
アッシジの聖フランチェスコの信者であるアルバーノ船長がお情けで船へ乗せてやったフランチェスコ会の若い托鉢僧がいた。ベルルーノの出身で、名前はF・ステファーノといった。この坊主が私のそばへ寄ってきて、病気なのかとたずねた。
「神父さま、わたしにはいろいろ心配事があるのです」
「では、いっしょにある女の信者のところへ朝食をやりに行こう。そうすれば、心配なんか消えてしまうよ」
私は三十六時間のあいだ、食物と名のつくものはなにひとつ胃袋へ入れていなかった。しかも、荒海は胃袋に残っていたものを全部吐き出させてしまった。そればかりでなく、一文なしのための意気|沮喪《そそう》にかててくわえて、例の秘密の病気にひどく苦しめられていた。じつに哀れきわまる状態で、なにをいわれてもことわる力さえなかった。そこで、まったく精神|朦朧《もうろう》の状態で托鉢僧についていった。
彼は私をその女信者に紹介し、この人はローマへ行って聖フランチェスコ会の法衣を着ることになっているので、ローマまで連れていくのだといった。ほかの場合なら、こういう嘘を黙って聞きながす私ではなかったが、そのときは、このような瞞着《まんちゃく》がかえって滑稽に思われた。善良な女は小ぎれいな食事を出してくれた。その土地はとくに油がいいので、魚の揚げ物がうまかったし、レフォスコという赤葡萄酒もすばらしかった。
そこへ偶然来合わせた僧侶が、今夜は船のなかでねずに、わしの家へこい、風のぐあいで出帆がおくれたら、昼食もふるまおうといってくれた。私はふたつ返事で承知した。女の信者にあつく礼を述べてから、その僧侶といっしょに散歩に出かけた。僧侶は自分の家へ連れていって、女中のつくったうまい夕食を食わせた。女中は同じ食卓にすわっていっしょに食べたが、好ましい娘だった。そこのレフォスコは女信者のところのよりも上等で、心の憂《う》さを忘れさせた。それで、その僧侶と上きげんで話しあった。彼は自作の詩を朗読するから聞いてほしいといった。しかし、私はもう眠くて目があいていられなかったので、あした聞かせてもらおうと答えた。
それからベッドへはいったが、例の膿がシーツにつかないように細心の用心をした。十時間ののち、私が目をさますのをうかがっていた女中がコーヒーを持ってきてくれた。そして、私が気楽に服を着られるように、部屋を出ていった。その女中は若くて器量がよく、注目に値するように思われた。が、あいにくの病気で、その美貌に心酔していることを態度でしめしてやれないのが残念であった。それで、冷ややかな男だとか、礼儀知らずの男だとか思われやしまいかと気が気でなかった。
私はお礼のかわりに主人の詩をとっくり聞いてやろうと心にきめ、憂鬱な気持を追っぱらった。そして、彼の詩句にたいしていろいろ感想を述べて、喜ばせた。彼は私が自分の想像していた以上に才気にとんでいるのに気がつき、次に牧歌詩を読んできかせようといいだした。私は甘んじてその苦役を受けた。その日は一日彼の相手をしてしまったが、女中の心づかいがだんだんこまやかになってきて、私に好意を寄せているようすがはっきり見てとれた。そこで、私も魚心あれば水心ありというわけで、すっかり好きになってしまった。僧侶の作品はどれもみな三文の値うちすらないものであったが、かずかずの美点をひろい出してやったので、彼は有頂天になり、その一日はいなずまの速さですぎさったらしい。しかし、私には、あの女中にベッドへいざなわれるときのことが気にかかり、際限もなく長い一日であった。そのときの気持を思いだしてみると、恥ずかしがるべきか喜ぶべきか、自分にもわからない。肉体的にも精神的にもじつに悲惨な状態にありながら、私の心は快楽に身をまかせようとしていたのだ。いやしくも分別のある人間なら悲嘆にくれるはずであるのに、私は身にせまるすべての不幸を忘れてしまっていた。
ようやく待望の時間がやってきた。そこで、小当りに当ってみると、娘はまんざらいやでもなさそうであったが、さらにつっこんで、彼女の魅力へ十分に敬意を表したいようなそぶりを見せると尻込みをした。しかし、私はそこまでこぎつけたのに満足し、また彼女が実際には私の話を言葉どおりにとっていないのに気をよくして、その晩はぐっすり眠った。翌朝、コーヒーを持ってきたとき、彼女は私と親密になったのをたいへん喜んでいるらしかった。そこで、私は手をつくして、昨夜の愛情が酒のせいではなかったことを納得させようとした。彼女はその手にのってこなかったが、ことわりの理由がとてもよかったので、私はことわられてもふきげんにならなかった。人に見られると困るから、晩までのばしたほうがいい、南西の風がきのうより強いからだいじょうぶだといったのだ。これは明白な約束だ。私は万遺漏なく立ちまわって、この約束をはたしてもらおうと心にきめた。
その一日もまえの日と同じであった。そして、寝る時刻になると、女中は部屋を出ていくとき、あとでまた来るといった。私は病状をよくしらべてみたが、注意さえしたら、ゆるすべからざる不正をおかしたとわが身を責める危険もなく事をすませられそうに思われた。もしも行ないをつつしみ、その理由を彼女に話したら、私は面目まるつぶれだし、彼女にもひどい恥をかかせることになると思った。利口な人間なら、最初から手を出すべきではなかったのだが、いまとなってはもうあとへ引けない。やがて彼女がやってきた。そこで、期待してきたとおりに手あつくもてなしてやった。彼女はたっぷり二時間、楽しみをきわめてから、自分の部屋へ帰っていった。二時間後に、アルバーノ船長がやってきて、はやく支度をしろ、イストリアの海岸にそって船を走らせ、夕方ポラへ着きたいのだといった。そこで、いそいで船へ行った。
[アンコーナ検疫所]
托鉢僧のF・ステファーノは一日じゅうおもしろい話をして私を楽しませてくれた。その話は単純素朴のかげに無知と狡猾《こうかつ》をちらつかせていた。彼はオルサラでもらってきた施物を残らず出してみせた。パン、葡萄酒、チーズ、ソーセージ、ジャム、チョコレート。法衣の大きなポケットは全部そうした食糧でいっぱいだった。
「お金ももらうのかね」
「いや、それは神から禁じられている。第一にわが光栄ある教団の規則は金に手をふれるのを差し止めている。第二に、托鉢にまわるとき、金を受け取ると、一ソルドか二ソルディで追い払われてしまう。だが、食べ物となると、その十倍もくれるからね。聖フランチェスコはまったく頭のいいお方だったよ」
そこで、この坊主が富をなす理由は、まさしく私が無一物になったのと同じだと考えた。彼はいっしょに食事をしようとすすめた。喜んで承知すると、それを非常に光栄にした。
われわれはポラで船をおりた。その港はいまはヴェルーダと呼ばれている。坂道を十五分ばかりのぼると町にはいった。二時間ばかりローマ時代の古跡を見て歩いた。この町はかつてはローマ帝国の首府であったのである。しかし、荒廃した闘技場以外には昔の偉大さを語るものはなにもなかった。それからヴェルーダへもどり、また帆船に乗りこんで、翌日、アンコーナの見えるところまで行った。しかし、ひと晩じゅう逆風に苦しめられ、港へはいったのはその翌日になってしまった。この港の築港はトラヤヌス帝の顕著な業績として知られているが、莫大な費用をかけてつくった防波堤がなかったら非常に悪い港で、その防波堤のおかげでどうやら役にたっているのである。アドリア海のおもしろい特長は北部の海岸には港が多いのに、反対側にはひとつかふたつしかないことだ。海はあきらかに東のほうへ後退している。あと三、四世紀もすれば、ヴェネチアは陸つづきになってしまうであろう。
アンコーナへ着くと、古い検疫所へ上陸した。そこでわれわれは二十八日間の検疫期間をすごすように言い渡された。というのも、最近ペスト愚者の出たメッシナ地方から来た二隻の船の乗員を、ヴェネチアが三か月の検疫期間で受け入れたからである。私は自分とステファーノのために一室を要求した。ステファーノはそれを非常に感謝した。私は数名のユダヤ人から、ベッド、テーブルおよび二、三脚の椅子を借りたが、借り賃は検疫期間の終りに払う約束だった。坊主は藁蒲団《わらぶとん》さえあればいいといった。もしも彼がいなかったら、私は餓死したかもしれないということがわかったら、彼も私と同じ部屋にとまるのを、そうまで喜びはしなかっただろう。私から酒手をせしめようとする水夫が、行李はどこにおいてあるのかとききにきた。私はなにも知らぬと答えた。すると、水夫はアルバーノ船長といっしょに、一所懸命になって捜しまわった。そして、そのあげく、あなたの行李を積み忘れてきたのは、まことに申し訳ないとあやまりに来、三週間以内にはかならずお手もとへとどくようにすると約束した。私は腹のなかで笑いこけてしまった。
いっしょに四週間をすごすはずの坊主は、私の費用で暮らすつもりでいたらしい。ところが、この男こそ私の寿命をつながせるために神さまがおつかわしになった恩人であった。彼はふたりで一週間は食っていけるだけの食糧を持っていた。
夕食のあとで、私は彼に目下の窮状を悲痛な口調で語り、ローマへ行けば外交文書係の書記という資格で(それは嘘だが)、大使館に勤めるはずだが、ローマへ行くまでの物入りが苦労の種だと打ち明けた。
ところが、ステファーノは私の不幸のみじめな話を聞いて、非常に嬉しそうなようすを見せた。私はあっけにとられてしまった。
「ローマまではわしが引き受けるよ」と彼はいった。「だが、きみは字が書けるのかね」
「冗談じゃない」
「そりゃすばらしい! じつは、わしは自分の名前しか書けないのさ。自分の名前なら、左手でも書けるんだがね。まったく、字が書けたら、どんなに重宝だろうね」
「こりゃ驚いた。ぼくはあんたを神父さんだとばかり思っていたんだが」
「いや、わしは神父じゃない、ただの托鉢僧さ。そりゃミサはあげるよ。だから、字は読めるのだ。わしは聖フランチェスコさまの不肖の弟子なんだが、あの聖者さまも字がお書けにならなかったのさ。人の話ではお読みになることもできなかったようだ。それで、一度もミサをおあげになったことがない。それはとにかく、きみは字が書けるのだから、あした、わしが名前をいう人たちに、わしの名で手紙を書いてくれえ。そうしたら、きっと、検疫期間の終わるまで、ふんだんに食べ物をとどけてくれるからね」
その翌日一日、彼は私に八通の手紙を書かせた。というのも、彼の教団の口伝のなかに、托鉢僧は七軒のとびらをたたいてことわられても、確信をもって八軒目のとびらをたたかなければならぬ。かならず十分に喜捨《きしゃ》を与えられるであろうとあるのにちなんだものである。彼は以前ローマに旅行したとき、アンコーナで聖フランチェスコを信心する親切な家や、裕福な修道院長たちと知合いになったのである。私は彼が名前をあげるすべての人に、彼のいう嘘八百をそのまま書かなければならなかった。彼はまたその手紙に、自分にかわって署名させた。もしも自分で署名したら、筆跡がちがうので、わしの書いた手紙ではないと見やぶられて、まずいことになるだろう。いまの腐敗した世の中は学者しか尊敬しないからという理屈であった。
彼はまた、女にあてたものにまで、ラテン語の文句をいっぱい入れさせた。いくら文句をいってもむだで、書きしぶっていると、もう食物をやらぬとおどかされた。手紙のなかにはべつの手紙と矛盾した嘘をついているのがいくらもあった。しかし、私は彼の言いなりになるよりしかたがないと決心した。イエズス派の修道院長へあてた手紙では、カプチン会の僧侶たちは無神者で、そのために聖フランチェスコは彼らをおゆるしになることができなかったのだから、彼らには助力を求めないことにしていると書かせた。聖フランチェスコの時代にはカプチン派も托鉢僧もなかったと注意してもむだで、彼は私を物知らずとどなりつけた。そこで、こんなやつは気違いあつかいをされ、だれも喜捨をしてくれやしまいとたかをくくった。
ところが、それは大まちがいだった。三日目から四日目にかけて、莫大な分量の食糧が殺到してきたので、あきれかえってしまった。検疫所にいるあいだの飲み料として、三、四か所から葡萄酒をとどけてきた。それはみんな煮酒であった。その時分、私は病気がなかなかよくならないので、養生のためにも、水しか飲まないことにしていたが、そんな酒を飲んだら、気持がわるくなったかも知れない。食い物については、毎日五、六人分はあった。余分のものは、家族が多くて貧乏している守衛にまわしてやった。しかし、彼はこういう喜捨にたいしても、聖フランチェスコをありがたがるだけで、恵んでくれた善男善女には全然感謝しなかった。
私の下着は人に見られたら恥ずかしいような汚れ方であったが、その洗濯を守衛に頼むのを、彼はすすんで引き受けてくれた。托鉢僧が下着をきないことはだれでも知っているのだからかまやしないというのであった。彼は私のかかっているような病気が世の中にあることを、全然知らなかったのである。私は一日じゅうねていたから、彼から手紙をもらって挨拶に行かなければならないと思って訪ねてくる人とも顔を合わせずにすんだ。訪ねてこない人々はじょうずにいいつくろった支離滅裂の返事をよこした。私はそれを彼に勘づかせまいと気をつかい、これらの手紙は返事をもとめていないと納得させるのに骨をおった。
[ギリシャの奴隷女]
二週間の養生の結果、病気がだいぶ楽になったので、朝はやく検疫所の構内を散歩した。しかし、サロニカから来たトルコの豪商が召使を大勢引きつれて検疫所へはいり、一階に住むことになったので、散歩を中止しなければならなくなった。その一行のなかに驚くほど美しいギリシャ女の奴隷がいて、私の興味をひいた。その女はほとんど一日じゅう自分の部屋の戸口に腰をおろし、日かげで編物をしたり、本を読んだりしていた。暑さがひどかった。彼女はふっと美しい目をあげて私と目があうと、さっとほかへ目をそらしたり、またはしばしばいかにも驚いたようなふうをして立ちあがると、のろのろと部屋のなかへもどっていった。「見られていたのを知らなかったのよ」といいたげなようすであった。大柄な女だったが、態度物腰には若い娘のあどけなさがあった。皮膚が白く、目は眉や髪の毛と同じく漆黒《しっこく》であった。衣服はギリシャふうで、したがって非常に扇情的であった。
検疫所の生活は退屈なものであったし、天性と習慣でそういうふうにでっちあげられていたので、私は毎日四、五時間もそんな美人をながめているうちに、いつしか彼女に首ったけになってしまった。そのうちに、彼女がフランス語で主人と話をしているのを耳にした。主人というのは老人だがりっぱな男で、彼女と同じように退屈していた。ときどきパイプを口にくわえて出てきたが、すぐに引っ込んでしまった。私はその娘に話しかけたかったが、そのために娘が身をかくしてしまい、二度と顔が見られなくなると困ると思って、声もかけられなかった。そこで、いろいろ考えたすえ、手紙を書くことにした。手紙を渡す方法はたいしてむずかしくはない。足もとへほうり投げればよい。だが、はたしてそれを拾ってくれるかどうかわからなかったので、ヘマをやらないように、次の方法をとった。彼女がひとりきりになるのを待って、私は手紙の恰好《かっこう》に折った紙をおとしてみた。だが、それにはなにも書いてなく、ほんとうの手紙は手に握っていた。ところが、彼女が身をかがめて、贋《にせ》の手紙を拾おうとしたので、すかさず次の手紙をおとした。彼女はふたつの手紙を拾うと、ポケットへねじこんで、そそくさと姿を消した。手紙にはこう書いておいた。
「ぼくの恋いこがれている近東の天使よ。ぼくは今夜ひと晩じゅうこのバルコニーの上に出ています。だから、ほんの十五分でもいい、ぼくの足もとにある穴から、ぼくの声をききにきてください。ひくい声で話しあいましょう。その穴の下にある荷物の上へお乗りになれば、ぼくのいうことがよくおわかりになるでしょう」
それから、守衛に、毎晩するように部屋のドアに鍵をかけずにおいてほしいと頼んだ。守衛はなんなく承知してくれた。ただし、もしもあなたが下へとびおりるなんて考えをおこしたら、わしは首を切られてしまうから、見張りだけはするといった。しかし、バルコニーのほうまではあがってこないと約束してくれた。そこで、バルコニーへ出て待っていたが、夜半ごろ、そろそろ絶望しはじめた時分に、彼女の姿が見えた。私は腹ばいになり、穴に顔をおしつけた。穴は五、六寸ぐらいのでこぼこの多い四角な穴だった。彼女は荷物の上へ乗った。顔がバルコニーの床から一尺ばかり下に近づいてきた。だが、彼女はぐあいのわるい姿勢のために身体がふらつくので、片手を壁につかなければならなかった。こういう状態で、ふたりはお互いの身の上や、愛していることや、抱きあいたいことや、だが、いろいろじゃまがあって、それもかなわぬ願いだから、なんとか計略を考えなければならないことなどを語りあった。私が下へとびおりるわけにいかないと話すと、彼女も、たとえとびおりてきても、あとで上へもどれないのだから、やはりだめだといった。そればかりか、もしもふたりがいっしょにいるところを見つかったら、主人からどんな目にあわされるかわからないともいった。
そして、毎晩ここへ話をしに来ると約束してから、穴のなかへ片手をのばした。ああ、その手! いつまで接吻していても、満ち足りた思いがしないくらいだった。いままであんなにやわらかくなめらかな手にさわったことがない。しかし、彼女が私の手を求めたときには、どんなに嬉しかったろう! 私はいそいで腕の付根まで穴のなかへつっこんだ。彼女は肘《ひじ》のしわへひしと唇を押しつけた。それから、私の貪婪《どんらん》な手は、ギリシャ女のむっちりした胸を、あちこちとできるかぎりさわった。私は彼女の手に接吻したときよりもなおいっそう夢中になって、その胸をなでまわした。ふたりはそれで別れたが、守衛が広間の隅でぐっすり眠っているのを見て、私は思わずほくそえんだ。
私はああいう窮屈な姿勢でも、手に入れられるだけのものを手に入れたのに気をよくし、次の晩をもっと甘美なものにしようと脳味噌をしぼりながら日の暮れるのを待った。しかし、同じ思いだったギリシャ娘は、私よりもずっと知恵の働きの豊かなことを認めさせた。
彼女は昼食ののち、主人と庭を歩いていたが、主人になにかいうと、主人はそれにうなずいた。見ていると、トルコ人の下男が守衛に手伝わせて、商品のはいった大きな籠《かご》を外へ引き出してきて、バルコニーの下へおいた。彼女はそれから籠のまわりをひろくあけるためのように、ひとつの梱《こり》を他のふたつの梱の上へ重ねさせた。私は彼女の腹のなかを見抜いて、喜びに胸をおどらせた。こうすれば、晩に彼女はたしかに二尺ばかり高くあがれることになる。だが、だめだ! と、私はひとりごちた。彼女はかえってぐあいのわるい姿勢になる。天井に頭がつかえて身体をまげていなければならないが、それは長くしんぼうできまい。穴は彼女が首を全部つっこんで楽に立っていられるほど大きくはない。
私はその穴をひろげる工夫がつかないのに腹をたて、バルコニーに腹ばいになって、いろいろしらべてみた。だが、下のふたつの梁《はり》から古い床板を一枚はがしてしまうよりほかに方法が見つからなかった。そこで、広間へ行ってみた。守衛はいなかった。私は目についた釘《くぎ》ぬきのうちのもっとも丈夫そうなのをえらんできて、仕事にかかった。そして、何度もやりなおしたすえ、ついに床板をふたつの梁へとめてある四本の太い釘をぬいてしまった。あとは自由にはずすことができる。床板をそのままにして、夜の来るのをいらだたしい気持で待った。そして、パンの小さな塊りをひとつ食べると、さっそくバルコニーへ出ていった。
あこがれの的は夜半にやってきた。彼女が新しい梱《こり》の上へ乗るにはなかなか技量がいると見てとって、おおいに気をもみ、さっそく床板をはがして脇へ置くと、腹ばいになって、腕をできるだけ彼女のほうへのばした。彼女はその腕につかまってのぼってきたが、立ちあがったとき、身体が鳩尾《みずおち》のところまでバルコニーの上に出ているのに気づいて、驚いてしまった。彼女は肩の付根までまるだしの両腕を穴のなかへさしこみ、なんなくにゅっとのばした。ふたりは期せずして同じ目的のために力をあわせたのを喜びあったが、そのために貴重な時間を空費するようなことはしなかった。まえの晩は私のほうがよけいに彼女をいじりまわしたが、その晩は逆になって、彼女のほうが私の全身を思う存分に愛撫した。悲しいかな! 私のほうはのびるだけ腕をのばしても、彼女の上半身にしか手がとどかなかった。私はがっかりしてしまったが、彼女も、私の全身を手のうちにおさめているとはいえ、口だけしか満足させられないのに業を煮やした。そして、少なくとももう五寸ばかり梱を大きくしておいてくれなかったのを、ギリシャ語で口ぎたなくののしった。まったく、梱がもう少し大きかったら、十分な満足はえられないとしても、私の手がギリシャ娘の情火を少しはしずめることができたであろう。とにかく、その夜の楽しみはむなしいものではあったが、空の白みはじめるまでふたりをとらえてはなさなかった。彼女はこっそり足音もさせずに帰っていった。私は床板をもとへもどしてから寝床にはいったが、へとへとに疲れてしまい、ぐっすり眠って体力をとりもどす必要をおおいに感じた。別れるまえの話だと、その日から回教徒の小ベイラン祭がはじまって四日つづくので、四日目でなければ来られないと彼女はいっていた。この祭はトルコ人の復活祭で、小ベイラン祭は大ベイラン祭よりも長かった。私はその三日間、彼らの儀式やたえまない大騒ぎをながめて暮らした。
ベイラン祭の終わった晩、彼女は恋しげに私を抱きしめながら、あたしはもうあなたのものにならなければ幸福になれない。あたしはキリスト教徒だから、あなたはアンコーナであたしを待っていて、あたしが検疫期間を終わったら買いとってほしいといった。しかし、私は貧乏で、金の工面がつかないと白状せずにいられなかった。この言葉をきいて、彼女はふかい溜息《ためいき》をもらした。次の晩、彼女は二千ピアストル出せば主人はあたしを手放すだろう、そのお金はあたしがあげる、あたしは処女だ。梱がもっと大きかったら、それをあなたに納得してもらうことができたのだといった。そして、さらに言葉をつづけて、ダイヤモンドのいっぱいはいった箱をもってこよう。そのダイヤモンドは一個で二千ピアストルの値うちがある。だから、残りを売り払ったら、貧乏の心配なんかせずに、ふたりで安楽に暮らしていける。主人は宝石箱を盗まれたことを検疫期間がすぎるまで気がつくまいし、気がついても、あたしよりもほかの召使に疑いをかけるだろうと話した。
私はその娘に惚《ほ》れぬいていたが、この申し出には心をなやました。しかし、翌日目をさましたときには、もうためらってはいなかった。次の晩、彼女は宝石箱を持ってきた。私は窃盗の共犯者になる決心がつかないといった。彼女は泣きながら、あたしがあなたを愛しているほどあなたはあたしを愛してくれていないのだと嘆いたが、それでこそほんとうのキリスト教徒だといってほめてくれた。
これが最後の夜であった。翌日、正午に、検疫所の所長が来て、出所してもよいと告げることになるからだ。ふたりはまったく官能のとりことなってしまった。うるわしいギリシャ娘は、もはや胸をもやす焔に耐えられず、私に立って腰をまげ、あたしの腋の下をおさえて、バルコニーの上へ引き上げてほしいと頼んだ。このような願いをむげにことわれる恋人がいるだろうか。私は格闘士のようにすっ裸で、身を起こすと、腰をまげ、彼女の腋の下をつかんだ。そして、クロトナのミロ〔もっとも有名な古代ギリシャの競技者。彼は連続六回オリンピアで優勝した〕もかくやとばかり、渾身《こんしん》の力をこめて、彼女を引き上げようとした。だが、そのとき、両肩をむずとつかまれたのを感じ、「なにをしているのです」という守衛の声が耳を打った。
私は手をはなした。彼女は逃げていった。私はうつむけにたおれた。そして、もう起きあがる気にもならず、守衛がゆすぶっても知らん顔をしていた。彼は私が骨をおりすぎて死んでしまったと思った。しかし、私は死にもまさる姿だった。私が起きなかったのも、彼を殺してしまいたいと思ったからである。最後に、私はひとこともいわず、床板をなおしもせずにねに行った。
[ローレットの巡礼救護所]
朝、所長が来て、出所を許可した。私はちぢに胸をくだきながら検疫所を出たが、ギリシャ娘は泣きぬれた目で私を見送っていた。私はF・ステファーノと取引所で落ち合うことにし、家具の借り賃の支払いをするために、ユダヤ人をミニモ会へ連れていった。そして、ラザリ神父から十ゼッキーニ受け取った。神父は司教の住所を教えてくれた。司教はトスカナの国境で検疫をすませてからローマへ行く予定なので、私もローマで司教と落ち合うことになった。ユダヤ人に金を払ってから、ある宿屋でそまつな昼食を食い、F・ステファーノと会うために取引所へ向かって歩きだした。だが、途中で運悪くアルバーノ船長にでっくわしてしまった。船長は荷物をわしの家へ置き忘れてきたなんて嘘をつきやがってと、悪態をわめきちらした。私はあの災難をくわしく話して、彼の立腹をなだめ、なにも請求すべきものはないという証文を書いて渡した。それから短靴と青いフロック・コートとを買った。
取引所で、F・ステファーノにローレットの聖母堂〔アンコーナの南にある有名な巡礼地〕へ行きたいから、三日ほどしたら訪ねてきてくれ、そうしたら、ローマへいっしょに歩いて行こうといった。彼はローレットへは行きたくない。きみは聖フランチェスコのご恩沢《おんたく》をないがしろにしたことを後悔するだろうといった。しかし、私は翌日、元気よくローレットへ出発した。
この聖なる町へ着いたときには、どうにもならないほど疲れていた。煮酒は胸が焼けるので、水だけしか飲まずに、十五マイル(ローマ・マイルで、約二二キロ)の道を歩いたのは、生まれてはじめてであった。私は懐《ふところ》が非常に淋しかったが、乞食のような恰好ではなかった。暑さがひどかった。
町へはいると、相当年配の上品な司祭に出会った。私のことをじろじろ見ているのに気づいて、帽子をとり、かたい旅館はあるまいかとたずねた。
「あなたのような方が歩いて来なさったところを見ると、さだめしご信心のためにこの聖なる町へおいでになったのでしょう。さあ、わしといっしょにいらっしゃい」と、彼はいった。
彼は来た道をとってかえし、りっぱな構えの家へ連れていった。そして、そこの主人を脇へ呼んで耳うちをしてから、上品なようすで「十分にお取りもちいたすでしょう」といって出ていった。
人違いをしているのだろうと思ったが、するままにさせておいた。
やがて、三間つづきの一画へ案内された。寝室は緞子《どんす》の壁掛けで飾り、ベッドには天蓋がついていた。書き物机は蓋をあげてあり、物を書く用具がすっかりそろっていた。ひとりの下男が軽い部屋着を渡して出ていった。それから、水のいっぱいはいった大きな盥《たらい》を両方の取っ手で持った男を連れてもどってきた。その男は盥を私のまえへ置き、靴をぬがせて、足を洗ってくれた。それから、たいへん身なりのいい女が、夜具を持った女中を連れてはいってきて、うやうやしくお辞儀をすると、ベッドをつくった。洗足が終わったとき、鐘が鳴った。みんなひざまずいたので、私もそれにならった。≪お告げの鐘≫であった。下男は小さいテーブルに食器をならべ、お酒はなににいたしましょうとたずねた。私はキャンティと答えた。それから、新聞と銀の燭台をふたつ運んできて、出ていった。一時間たつと、非常にうまい、肉ぬきのスープを出してきた。床につくまえに、朝食はご出発のまえになさいますか、それともミサのあとになさいますかときかれた。私はこの質問の理由を察して、出発のまえにすると答えた。そして、床にはいった。下男が常夜灯を持ってきて時計のまえへおき、引きさがっていった。ベッドはフランスでなければ見られないような、上等の代物で、どんな不眠症でもすぐに直ってしまいそうであった。だが、私はそういうベッドのごやっかいになる必要すらなく、十時間ぐっすり眠った。こういう手あつい待遇を受け、そこが旅館でないことはたしかだったが、巡礼の救護所であろうとは夢にも知らなかった。朝食をすませると、いやに気取った床屋がやってきた。その男は聞かれないさきからいろいろのことをしゃべりちらした。私がひげを立てるのを望まないと見てとると、鋏の先で産毛《うぶげ》をそろえるようにすすめ、そうすると、もっと若く見えるといった。
「ぼくが年をかくそうと考えているって、だれから聞いてきたんだい」
「そりゃすぐわかりますよ。旦那さまがそうお考えにならなければ、ずっとまえからお剃《そ》らせになったでしょうからね。それはそうと、マルコリーニ伯爵の奥方がこちらへいらっしゃっているのですよ。あの奥方をご存じですか。わたしもお昼におぐしをあげにまいるのです」
私が伯爵夫人にたいして興味をもたないと見ると、そのおしゃべりは話題をかえた。
「こちらへおとまりになるのははじめてですか。法王さまのご支配になるどこの国へまいりましても、この救護所くらいりっぱなところはございませんよ」
「そうらしいね、法王さまにあつくお礼を申しあげよう」
「なあに、法王さまはもうここをご存じですよ。ご就任になるまえにおとまりなさいましたからね。もしもカラファさまがあなたを存じあげていなかったら、ここへご紹介なさらなかったでしょう」
これだから、ヨーロッパじゅうどこでも、床屋は外国人にはとても役にたつのだ。しかし、うっかり彼らにものをきいてはいけない。虚と実を取りまぜて、こっちの聞くことには答えようともせず、逆にこっちのようすをさぐろうとするからだ。私はカラファさんに礼をいわなければならないと思い、床屋に案内させた。彼はあいそうよく私を迎え、図書室を見せたあとで、案内人として私と同年輩の司祭をつけてくれた。非常に利発な人で、あちこち見物させてくれた。いまでも生きているなら、ラテラーノのサン・ジョヴァンニ教会〔ローマの四大巡礼教会のひとつ〕で参事会員をつとめているはずである。その人には二十年たってから、ローマでいろいろ世話になった。
翌日、私は聖母マリアがその創造主をうみたもうた聖堂で聖体を拝受した。三日目はこのすばらしい聖堂の宝物を残らずながめ、その翌日、朝はやく出発した。そのあいだの費用は床屋にやった三パオリだけであった。
[托鉢僧の正体]
マチェラータへ行く途中で、ぶらぶら歩いているF・ステファーノに追いついた。彼は私に会ったのをたいへん喜び、アンコーナを私より二時間しかおくれずに出発したのだが、一日に三マイルしか歩かなかったといった。ローマへは徒歩でも一週間かかれば行けるのだが、彼は二か月かけるといって得意になっていた。
「わしは元気はつらつ、五体壮健でローマへはいりたいのさ。なにもいそぐことはないやね。きみもこういう流儀で旅行をする気があったら、いっしょに行こう。聖フランチェスコはわしらふたりをやしなうのにお困りにはならないだろうから」
この横着者は年のころ三十、赤毛で、体格が非常によい、生粋の百姓だが、托鉢僧になったのは骨をおらずに生きていくためであった。私はさきをいそぐので道連れになるわけにいかないといった。すると、「この重たい外套を着てくれるなら、きょうはいつもの二倍歩こう。どうも外套が重くてやりきれないのだ」といった。そこで、それも一興とばかり、私が外套を着、彼にフロックコートを着せた。ふたりともひどく滑稽な恰好になってしまい、道行く人々を笑わせた。彼の外套はまったく騾馬《らば》に積みたいほどであった。十二もあるポケットが全部いっぱいで、しかも、彼がバッティクロと呼んでいるうしろの大きなポケットはほかの全部のポケットの二倍も物が入れられた。パン、葡萄酒、煮た肉、生肉、塩漬肉、雛鳥《ひなどり》、卵、チーズ、ハム、ソーセージ、ゆうにふたりを二週間やしなうだけのものがあった。ローレットでどんな待遇を受けたか話してやると、それならそのカラファ氏からローマまでのすべての巡礼救護所へ紹介状をもらってきたら、どこででもほとんど同じ待遇をうけられたものをと惜しがった。
「巡礼救護所というのは、みんな聖フランチェスコさまの呪いをうけているのだ」と、彼はいった。「だって、乞食坊主をとめてくれないのだからね。だが、あれはあんまりひとつひとつの距離がありすぎるので、わしらはあてにしていない。わしらは一時間ごとに見つける同じ宗派の信者の家のほうが好きなんだ」
「なぜきみはきみたちの宗派の修道院へとまらないのだ」
「わしはそんなあほうじゃない。第一、とめてくれやしないよ。わしは脱走者なので、旅行許可証というのを持っていないが、それをどこでも見せろというのさ。へたをすると牢屋へぶちこまれてしまうよ。性《しょう》のわるい連中だからね。第二に、修道院へとまっても、わしらの恩人たちのところほど大事にしてくれないよ」
「へええ。だが、どうして脱走者になったのだね」
この質問にたいして、彼は入牢と逃亡の話をしてくれたが、荒唐無稽《こうとうむけい》、嘘八百でかためたものであった。彼は道化役者の才能をもつばか者だったが、自分の話に耳を傾けるものをいっそうばか者あつかいにしていた。だが、彼の愚かしさにはぬけ目のないところがあった。彼の宗教も奇妙なもので、信仰の凝りかたまりになるまいとして、道を踏みはずしてしまった。そして、聴き手を笑わせるためには、きくにたえない猥談《わいだん》までやった。彼は女やすべての種類の情事には、全然関心をもたなかった。それは実際には体質の欠陥にほかならなかったのだが、彼は美徳として認めてもらいたいと主張した。こういう話はすべて彼には冗談の種になった。少し酒がまわると、食卓を共にしているだれかれに、夫でも妻でも息子でも娘でも、相手かまわずけしからぬ質問をして、顔をあからめさせた。しかも、このやくざ者はそれをおかしそうに笑うばかりだった。
やっかいになるはずの家まで百歩ほどのところへくると、彼は外套をとりもどした。そして、その家にはいると、家族一同に祝福を与えた。みんな彼の手へ接吻しに来た。おかみさんがミサをあげてほしいと頼んだ。彼は気軽に引き受けて、二十歩とはなれていない教会の聖器室へ案内させた。
だが、ちょっと隙《すき》をみて、私は彼の耳にささやいた。
「もう朝食をすませてきたのを忘れたのかね」
「それはきみの知ったことじゃない」
私はいい返す気にもならなかった。だが、彼のミサを聞いているうちに、方式どおりの身のこなしさえ知らないのに驚いてしまった。だから、見ていてひどく滑稽《こっけい》だった。滑稽といえば、ミサをすませてから、告解室へおさまった姿はとびきりおかしかった。しかし、彼は家族じゅうの告解をきいてから、おかみさんの娘に赦免を与えるのをこばんだ。十二、三のかわいらしいきれいな娘だった。彼はこの拒絶をみんなの見ているまえで行ない、大声で叱りつけて、地獄へおちるとおどかした。哀れな娘は恥ずかしさに耐えられず、泣きながら教会から出ていった。私はすっかり感動し、娘のことが気の毒になって、F・ステファーノを大声で「きさまは気違いだ」とどなりつけると、娘を慰めてやろうと思って駆けだした。しかし、彼女は姿を消し、どうしても食卓へ出てこようとしなかった。
私は彼のむちゃな振舞いにすっかり腹をたて、ぶちのめしてやりたいと思った。それで、家族のそろっているまえで彼をくわせ者と呼び、娘の名誉を台なしにした人でなしだとののしって、なぜあの子の赦免をこばんだのだとなじった。だが、彼は落ちつきはらって、告解の秘密はもらすわけにいかないといって私の口を封じた。私はこのけだものと別れてしまおうと決心し、食事もせずに外へ出た。しかし、出がけに、あのならず者のあげたあやしげなミサの謝礼として、一パオロをおしつけられた。きっとあいつの会計係だと思われたにちがいない。
大道へ出るとすぐ、おまえのようなものといっしょにいると、しまいには牢屋へぶちこまれる危険があるから、ここで別れるといった。こうして言い合いをしているうちに、私は物知らずの悪党と呼んだ。すると乞食坊主といい返したので、私はわれを忘れて一発平手打ちをくわせた。彼は杖で打ちかえしてきた。その杖を私はとっさに彼の手からもぎとった。そして、彼を置きざりにして、マチェラータへ向かってすたすたと足をはやめた。十五分ばかり歩くと、トレンティーノからもどってきた空馬車の馬子がマチェラータまで二パオリでやろうといったので、私は承知した。あと六パオリ出せばフォリーニョまで馬車で行けたのだが、少しでも倹約しようというあさましい考えをおこした。それに身体の調子もよかったので、ヴァルチマーラまでは歩いて行けると思った。だが、五時間歩いてそこへ着いたときには、もうへとへとに疲れきってしまった。いくら若くて丈夫でも、歩きつけないものは、五時間も歩きつづければ顎《あご》を出してしまうのは当然だ。私はそこで宿をとった。
[宿のおやじに襲われる]
翌日、服のポケットにあった銅貨で亭主に払いをしたとき、ズボンのポケットへ入れてあるはずの財布がないのに気がついた。財布にはたしか七ゼッキーニはいっていたはずだ。とんでもないことになったぞ! トレンティーノの宿屋で亭主に払うために、一ゼッキーノをくずしたとき、テーブルの上へ忘れてきたのだった。ああ、どうしよう! 全財産のはいっている財布をとりもどすために、とってかえそうとも思ったが、ばからしい考えだと思ってあきらめた。財布を手に入れたものが返してくれるはずはないから、ふたしかな希望のためにたしかな失費をする気になれなかったのである。ともかく、私は宿賃を払って、悲嘆に胸をしめつけられながら、セラヴァーレへの道についた。しかし、ムッチアで朝食を食い、五時間歩いて、もう一時間でセラヴァーレへ着くというとき、溝をとびこそうとして足を踏みちがえてしまった。ひどい捻挫《ねんざ》で、歩くこともできなかった。そこで、溝のふちにすわりこんでしまったが、窮地におちた不幸なものへいつも宗教が与えてくれる救済以外には、ほかに頼る道とてなかった。だれか親切な人が通りがかって助けてくれるようにと、一心こめて神に祈った。
三十分ばかりたってから、驢馬《ろば》の子をひいたひとりの百姓が通りかかった。彼は一パオロでセラヴァーレまで乗せていってくれた。有り金は全部で銅貨十一パオリというなさけなさであった。彼はよけいな出費をさせまいとして、人相のよくない男のところへ連れていった。その男は二パオリの前払いでとめてくれた。外科医を呼んでくれと頼んだが、翌日までやってこなかった。みじめな夕食をすませると、ひどくよごれたベッドにはいった。それでも希望どおりぐっすり眠れたらよかったのだが、私につきまとう悪霊はちゃんとそこに待伏せしていて、地獄の苦しみを味わわせた。
手に手に騎銃を持った獰猛《どうもう》な面構《つらがま》えの男が三人どかどかとはいってきて、私がねているのも頓着なく、どこの言葉かわからない方言で、しゃべったり、わめいたり、ののしりあったりした。彼らは夜中まで酒を飲んで唄をうたい、藁束《わらたば》の上にねこんでしまった。ところが、驚いたことに、宿屋の亭主が酒に酔い、すっ裸で、私のベッドへもぐりこんできた。いくら文句をいっても、せせら笑って、冒涜的な言葉をわめきたて、地獄の鬼どもが総がかりでかかってきても、おれはおれのベッドへねるんだといい張った。しかたがないので、「なんてやつの家だ!」とさけびながら、少し脇へよった。彼はこのさけびを聞くと、ここは法王領でもいちばんまじめな警官の家だと答えた。
こんな全人類の敵ともいうべきのろわれた連中と同じ部屋にねようとは、われながら想像もできないことであった。しかも、それだけではなかった。乱暴な豚おやじはねるとすぐ、言葉と動作で恥知らずな計画を私にいい渡した。それがあまり臆面なしだったので、私は堪忍袋の緒を切らせ、彼の胸をはげしくついて、ベッドの下へはねとばした。彼は大声でどなりながら起きあがると、私が制止するのもきかずに、また攻めかかってきた。私はついに腹をきめ、ベッドからはいおりて、椅子に腰をおろした。さいわいにも彼はそこまで迫ってこず、すぐに眠ってしまった。私は四時間というもの、そこでねもやらずにみじめな夜をすごした。夜が明けはじめると、あの悪党は仲間にたたきおこされて目をさました。彼らはまた酒を飲み、騎銃をかついで出ていった。
こういう目もあてられない状態で、私はなおも一時間、だれか来てくれとどなりつづけた。ようやくひとりの男の子があがってきた。その子に小銭をやって、外科医を呼びにやった。外科医は私を診察してから、三、四日安静にしていればなおるといい、宿屋へ連れていってもらえとすすめた。その忠告にしたがい、彼の世話で宿屋へ行くと、すぐにベッドにあがり、シャツを洗濯に出した。宿屋の待遇はたいへんよかった。私はなおりたくないと思うまで追いつめられた気持だった。宿賃のかわりにフロックコートを売らなければならない時期のくるのがおそろしかったのだ。それは考えるさえ恥ずかしかった。もしもF・ステファーノが赦免を与えるのをこばんだ娘に同情しなかったら、こんなみじめな状態にはならなかったろうとくやまれた。そして、あんなにむきになったのはまちがいであったと認めずにいられないような気持がした。もしもあの托鉢僧のことを大目にみてやることができたら、また、もしも、もしも、もしも……こののろわれたすべてのもしもは、物を考える不幸な者の心を引き裂くが、その男はふかく考えたすえ、なおいっそう不幸になるのだ。しかし、それによって生き方をならうというのも真実だ。考えまいとするものは、なにもならいはしない。
四日目の朝、医者が予言したとおり歩けるようになったので、私は医者にフロックコートを売ってきてほしいと頼もうと思った。余儀ないこととはいえ、おりから雨が降りだしたので、じつに情けない思いだった。宿屋には十五パオリ、医者に四パオリの借りがあった。ところが、このいたましい頼みをいいだそうとした瞬間、F・ステファーノが気違いのように笑いながらはいってきた。そして、このあいだくらわせた杖の一撃を忘れてしまったかときいた。
私はあっけにとられてしまった。そこで、医者にちょっとこの場をはずしてほしいと頼んだ。彼は出ていった。
[ランプが消えれば]
こういう偶然が起こりうるものであるかどうか、それでもなお迷信を排斥する気持をもちつづけられるかどうか、私は読者におうかがいしたい。じつに驚くべきことは時間の合致だ。托鉢僧が最後の土壇場にひょっくりやってきたことだ。さらにまたより以上に驚いたのは、神と運命と偶然の力である。これらの力が必然的に相寄って、はじめキオッジャの災難で窮地におちたとき、私の守り神となってくれた、あの因縁の托鉢僧に、最後の希望をかけるように私に命じ、強制したのであった。しかし、なんという守り神だろう! 私はその力を恩恵というよりむしろ刑罰と見なければならなかった。
あのばかでやくざで無知な悪党が目のまえにあらわれたとき、じつは私はほっとした。彼が来て窮地から救いだしてくれるだろうということは、一瞬もうたがわなかったからである。彼を送ってよこしたのが天であれ地獄であれ、彼の意志にしたがわなければならないと悟った。私をローマへ連れていくのは、彼をおいてほかにない。それは運命の定めるところであった。
F・ステファーノが私にいった最初の言葉は≪ゆっくり行くものは無事に行く≫という諺《ことわざ》であった。彼は私が一日で来た道に五日かけた。しかし、彼は健康もそこなわず、不幸にも出会わなかった。彼の話だと、道を歩いているうちに、ヴェネチアの大使館の文書係になる司祭がヴァルチマーラで財布を盗まれ、そのうえ、病気になって宿屋でねていると聞いたのだそうだ。
「そこで、見舞いに寄ったのだが、元気になったようだね。いままでのことはみんな忘れて、早くローマへ行こう。これからは、あんたのごきげんをとって、一日に六マイル歩くことにするよ」
「それがだめなんだ。じつは財布をなくしちゃったばかりか、二十パオリの借金があるんでね」
「それは聖フランチェスコさまにお願いして、さがしてくるよ」
一時間ののちに、彼はあの酔っぱらいで男色家の警官を連れてきた。警官はもしも身分をあかしてくれたら、ずっと自分の家で世話をしたのにといった。
そして、さらに言葉をついで、
「大使に話して、わしを雇ってくれるように取り計らうと約束してくれたら、四十パオリあげよう。だが、ローマへ行って、話がまとまらなかったら、返してもらうよ。どうだね、ひとつ書付を書いてもらえるかね」
「いいとも。書くよ」
十五分でいっさい片づいた。私は四十パオリ受け取り、借金を払い、托鉢僧といっしょに出発した。
午後の一時、彼はコレフィオリートはまだだいぶ遠いから、今夜はあの家にとまろうといって、街道から百歩ばかり奥にある一軒の家を指さした。ひどい荒《あばら》屋だった。私はあんなところへとまると病気になるといった。だが、私の注意はいっさいむだで、彼は頑としてきき入れず、彼の意志にしたがわなければならなくなった。その家へはいっていくと、痩《や》せおとろえた老人が床について咳をしていた。そのそばに三十か四十のきたない女がふたり、すっ裸の子どもが三人、それから片隅に牝牛が一頭と、やけに吠える憎ったらしい犬が一匹いた。みるからに貧乏のどん底だった。しかし、因業《いんごう》な坊主は彼らに施し物をやって立ち去るどころか、聖フランチェスコの名によって夕食をねだった。死にかかった老人は鶏を煮て、わしが二十年まえからしまってある瓶を出してこいと、女たちに命じた。それと同時に、ひどい咳がはじまり、私は目のまえで死ぬのではないかと思った。托鉢僧はきっと聖フランチェスコさまが元気にしてくださると約束した。私はその家のみじめさに感動し、ひとりで出かけてコレフィオリートまで行き、そこで待っていようといった。しかし、女たちは反対するし、犬がおそろしい歯で服の裾《すそ》をくわえたので、腰をすえなければならなかった。鶏は四時間煮てもまだ固かった。そこで瓶の栓をぬいたが、酒は酢に変わっていた。私は我慢できなくなって、托鉢僧の外套から食い物を引き出した。女たちがたくさんのうまいものを見て、目をかがやかすのを私は見のがさなかった。
みんなで十分に食事をすますと、女たちはわれわれのためにかなりよい藁《わら》で大きな寝床をふたつつくった。そこには蝋燭《ろうそく》もランプもなかったので、暗闇のなかでねた。五分ばかりたつと、托鉢僧が女がひとりわしのそばへねに来たぞというと同時に、私もべつの女が寝床へはいってくるのを感じた。その女はずうずうしくも私にからみつき、いくらはねつけてもかまわず、しゃにむにいどみかかった。托鉢僧が女から身をまもろうとして大騒ぎをはじめたので、場面がとても滑稽なものになり、私は怒るにも怒れないありさまだった。托鉢僧は私の助けがたよれないので、大声をあげて聖フランチェスコに助けをもとめた。
私は彼よりもずっと困った立場に追いこまれた。起きようとすると、犬が首へくいついてくるのだから、こわいのなんの。その犬は私から托鉢僧へ行き、托鉢僧から私のところへもどってき、われわれを手も足も出せなくするために、あばずれ女どもとぐるになっているようであった。ふたりは大声で人殺しとどなった。しかし、野中の一軒屋だったから、なんにもならなかった。子どもたちは眠っており、爺さんは咳をしていた。私はどうにも逃げ出す手がなかったし、女が少しおとなしくしていてくれたら帰っていくといったので、するままにさせた。そして、≪ランプが消えれば、どんな女も同じだ≫(エラスムス)といった男の言葉は正しいと気がついた。だが、愛が全然まじらないときには、ああした行為はあさましいかぎりだ。
しかし、ステファーノは私とはちがい、大きな外套を楯《たて》にして犬をよけながら立ちあがり、愛用の杖をみつけた。そして、杖をふりまわして、やみくもに右や左をたたきまわした。「ああ、やられた!」という女の声と同時に「ぶちのめしたぞ!」という托鉢僧の声が聞こえた。彼は犬もやっつけたらしい。犬の声が聞こえなくなった。また爺さんもやられたらしい。全然咳をしなくなった。彼は太い杖を持ったまま私のそばへ来て横になり、ふたりは夜明けまで眠った。
目をさますと、ふたりの女の姿が見えないのに驚き、また爺さんが生きている気配をまったく見せないのにおびえて、いそいで服を着た。事実、爺さんは死んでおり、こめかみに傷がついていた。F・ステファーノにそれを教えたが、彼はわざと殺したのじゃないと、すましこんでいた。しかし、外套がからになっているのを見て、めちゃくちゃに腹をたてた。私は内心ほくそえんだ。ふたりのじだらく女がいなくなったのを見たとき、私は警官を呼びに行ったのではないか、とんでもない災難がわいてくるのではあるまいかと案じた。しかし、外套のなかの食糧が略奪されているのを見て、女たちは取り返されるのをおそれて逃げたのだとわかった。
それでも、ふたりの身に迫っている危険を托鉢僧に説明して、早く出発しようとうながした。街道へ出ると、フォリーニョへ行く馬車を見つけたので、渡りに船だ、この馬車を利用して、一刻も早くこの場を遠ざかったほうがいいと彼を説きふせた。そして、フォリーニョへ着くと、いそいで食事をすませ、さらにべつの馬車に乗って、ピジニャーノへ着いた。そこでは、親切な信者が手あつくとめてくれたので、逮捕される心配も消え、ふたりはぐっすり眠った。
[ピラミッド形の焔]
翌日は朝のうちにスポレットに着いた。そこにはふたりの慈善家がいたので、彼は両方へ平等に敬意を表そうとした。まず第一の家では昼食のご馳走になり、王侯のようなもてなしを受けた。彼はそれから夕食をとり、とめてもらうために第二の家へ行った。裕福な酒屋で、家族が大勢だったが、みんな親切だった。だから、万事都合よくいくはずだったが、はじめの家ですでに飲みすぎていた、ろくでなしの托鉢僧は第二の家でべろべろに酔ってしまった。そして、旦那や奥さんのきげんをとろうとして、昼食をふるまってくれた家の悪口をいいはじめ、途方もない嘘をつくので、私はとうてい我慢できなかった。それで、向うの家ではお宅の酒には混ぜものがある、泥坊だといったといいだしたとき、私はいまの話は根も葉もない作り事だと、はっきりした証拠をあげて、この人非人! とどなりつけた。旦那や奥さんはわたしらには人を見る目がありますからと私をなだめたが、私がさらに詐欺だペテン師だ大嘘つきだときめつけると、彼は私の顔にナプキンを叩きつけた。旦那はおだやかに彼をかかえてひと部屋へ連れていき、そこへ閉じこめてしまった。それから、私をべつの部屋へ案内した。
翌日、朝早く、私がひとりで出発しようとしていると、酔いのさめた托鉢僧がやってきて、われわれはこれからさきも仲よくいっしょに暮らさなければならないといった。私はこれも運命だとあきらめ、いっしょにソマへ行った。そこの宿屋のおかみさんは絶世の美人だったが、昼食をふるまい、キプロスの葡萄酒を出してくれた。それはヴェネチアの飛脚が持ってきて、おかみさんの与えるすばらしい松露と交換したのであった。飛脚はその松露を帰りにヴェネチアへ持っていくのだ。
私は宿屋を出るとき、すばらしいおかみさんにたいして別れがたい思いを感じたが、テルニから一、二マイルきたころ、あのろくでなしが盗んできた松露の小さい袋を出してみせた。それを見て、私はカーッと頭にきてしまった。せいぜい二ゼッキーニほどの盗みだったが、私はむしょうに腹をたて、彼の手から袋をひったくって、これはぜったいにあの美しい貞淑《ていしゅく》なおかみさんに送り返すんだといきまき、ついに喧嘩になってしまった。ふたりは夢中になってなぐりあった。しまいに私は彼の杖をうばいとり、彼を溝のなかへ投げとばした。そして、すたすた歩きだした。テルニへ着くとすぐ、詫状《わびじょう》をつけて袋をおかみさんに送りかえした。
古代のりっぱな橋をゆっくりながめたいと思って、オトリコーリまで歩いていった。そこからは四パオリで馬車屋がカステル・ヌオーヴォまで運んでくれた。そこを徒歩で出発したのはま夜中であった。そして、九月一日の午前九時ローマに着いた。だが、途中で、あるめずらしい現象にぶつかった。それは二、三の読者の興味をひくかもしれないので、書きそえておこう。ローマへ向かってカステル・ヌオーヴォを出て一時間ばかりたったころだった。風もなく、夜空は晴れわたっていた。十歩ばかりさきの右手に高さ二尺ばかりのピラミッド形の焔が地面から四、五尺ほど上を、私といっしょに進んでいった。私が立ち止まると、焔もとまった。道端に立木があるところへ行くと見えなくなったが、立木を通りすぎると、また見えてきた。何度かそばへ駆けよってみたが、私が近づこうとすると、それだけ遠ざかっていった。わざとうしろへ引き返してみると、見えなくなったが、またローマのほうへ歩きだすと、ちゃんともとの場所にあった。この焔は朝日がさしはじめるまで消えなかった。
もしもこの事実について証人があり、私がローマへ行って大きな財産でも手に入れたとしたら、迷信ぶかい無知な連中にはどんなにすばらしい驚異だったろう! 歴史はこの種の無価値な事件に満ちている。科学が人間精神に光をもたらしたというが、世の中はいまだにこんな無価値なことを重んずる頭が無数にいる。しかし、実際をいうと、私は物理学の知識を十分身につけていたにもかかわらず、この小さな大気現象を見て、奇怪の念をおさえることができなかった。だが、用心してこのことはだれにも話さなかった。ローマへ着いたときには、ポケットに七パオリしかなかった。
私は脇目もふらずに歩いていった。無知な連中が≪|人民の門《ポルタ・デル・ポポロ》≫という≪|ポプラの門《ポルタ・デル・ピオツボ》≫からはいる広場の入口の美しさも、寺々の正面の玄関にも、この壮麗な都会がはじめて見るものを威圧するすべての景観にも、私は足をとめなかった。私はまっすぐにモンテ・マニャノポリへ向かって進んだ。アドレスによれば、そこで司教と会えるはずであった。だが、司教はすでに十日まえに出発してしまっていた。ナポリでの住所を書き残していくから、私をそこへ送ってほしいといって、全部の費用を前払いしてあった。馬車は翌日出ることになっていた。べつにローマを見物したいと思ってもいなかったので、私はすぐ床につき、馬車の出発の時刻までねていた。ナポリへは九月六日に着いた。途中は三人の田舎者といっしょに食べたり飲んだりねたりしたが、ひとことも言葉をかわさなかった。
馬車からおりるとすぐ、アドレスに書いてある場所へ案内してもらったが、司教はそこにもいなかった。ミニモ会へ訪ねていってみると、司教はすでにマルトラーノへ向かって出発したということだった。いくら事情を訴えてもむだで、私についてはなんの命令も残していってくれなかった。私はわずか八カルリーニの金しか持たずに、大きなナポリの町に投げすてられたのであった。どこへ行ったらいいのか見当もつかなかった。それにもかかわらず、運命は私をマルトラーノへ呼んでいる。どうしてもそこへ行きたかった。距離は二百マイルにしかすぎない。
コゼンツァへ向かって出発しようとしている馬車屋を見つけたが、私が荷物をひとつも持っていないのを見て、先払いでなければいやだといった。それももっともな話だと思うが、私はなんとしてもマルトラーノへ行かなければならない。それで、托鉢僧のF・ステファーノが教えてくれたように、ずうずうしくどこででも食い物をねだって、歩いていこうと決心した。そこで、二カルリーニ奮発して飯を食いにいった。まだ六カルリーニ残っている。サレルノ街道を行くがいいと教えられたので、一時間半かかってポルティチへ着いた。そして、足の向くままにある宿屋へ行って部屋をとり、夕食を命じた。サービスがとてもよく、腹いっぱい食って、床につき、ぐっすり眠った。翌日、床を出ると、王宮を見に行くといって出かけた。亭主には昼食に帰るといっておいた。
[策略は美徳である]
王宮にはいっていくと、近東ふうの服装をした、感じのよい顔つきの男が近づいてきて、王宮を見たかったら、隅から隅まで案内してやる。そうすれば、いっさいの費用が助かるだろうといった。私はふたつ返事で承知し、あつく感謝して、いっしょに歩きだした。私がヴェネチア人だというと、自分はザキントスの出身だから、あんたの家来みたいなものだといった。私はこのお世辞にたいして、軽く会釈《えしゃく》してみせた。
「わたしは近東産のすばらしいマスカット葡萄酒を持っているのですが、お望みなら、安くお分けしてもいいですよ」と、彼はいった。
「買ってもいいけど、ぼくは酒がよくわかるんですよ」
「けっこうです。お好きな酒はなんですか」
「キシラです」
「ごもっともで。キシラなら、極上のを持っておりますよ。昼食をごいっしょにできたら、賞美していただけると思います」
「喜んでお相手しましょう」
「そのほか、わたしはサモスやケファリニアの酒も持っております。それから、大量の鉱石、硫酸塩、辰砂《しんしゃ》、アンチモンなどのほか、水銀も五百キロ持っております」
「みんなここにあるのですか」
「いや、ナポリです。ここにはマスカットと水銀しか持ってきていません」
「よし、水銀もいただきましょう」
貧乏で世間知らずの青年が見知らぬ金持と話すとき、自分の貧乏を恥ずかしがって、金もないのに買いましょうなどという。これは持って生まれた性質で、格別だまそうという根性ではなかったのである。そのとき、私は鉛と蒼鉛《そうえん》でつくった水銀の化合物を思いだした。この方法によると、水銀は四分の一だけ分量がふえる。私はなにもいわなかったが、もしもこのギリシャ人がその秘法を知らなかったら、金儲けができると見当をつけた。それにはうまく立ちまわらねばならぬぞと思った。いきなり秘法を売ろうといいだしたら、かえって軽蔑されるだろう。そのまえに水銀増量の奇跡を演じて彼を驚かし、それを笑いとばして、相手の出ようを待つにこしたことはない。ペテンは悪徳である。しかし、正当な策略は慎重な精神の働きにほかならない。これは美徳である。この美徳が瞞着《まんちゃく》に類似していることは事実だが、そこのところは目をつぶるよりしかたがない。この策略ができないものはばかだ。これはギリシャ語でケルダレオフロンというが、ケルダとは狐《きつね》である。
われわれは王宮を見物してから宿屋へもどった。ギリシャ人は私を自分の部屋へ案内した。そして、二人分の昼食を出すように亭主に命じた。隣の部屋には、マスカット葡萄酒のいっぱいつまった大きな瓶《びん》が何本かと、水銀のはいったのが四本あった。どの瓶にも十ポンドはいっていた。私は頭のなかに計画があらかたできあがったので、水銀を一本定価で買い、自分の部屋へ持っていった。彼は用事があるから、昼食の時間に会おうといって出ていった。私も外へ出て二ポンド半の鉛と同量の蒼鉛を買った。薬屋にはそれだけしか手持ちがなかったのだ。それから部屋へ帰ると、亭主に大きな空瓶を何本か貸してもらって、例の化合物をつくった。
われわれは快活に食事をした。ギリシャ人は私が彼のキシラのマスカットをうまそうに飲むのを見て悦に入った。そして、笑いながら、なぜ彼の水銀をひと瓶買ったのかときいた。私はぼくの部屋へ見に来るがよいといった。食事がすむと、彼は私についてきて、水銀がふたつの瓶に分けられているのを見た。私はかもしかの皮をもとめ、水銀をこして、彼の瓶をいっぱいにした。しかも、あとには美しい水銀が瓶の四分の一と、同量の彼の知らない粉末の鉱物が残ったので、彼はひどく驚いたようであった。その鉱物は蒼鉛であった。私は彼のびっくりした顔を見ながら、わざとげらげら笑った。そして、宿屋の小僧を呼び、残りの水銀を薬屋へ持っていって売ってこいと命じた。彼はまもなくもどってきて、私に十五カルリーニ渡した。
ギリシャ人はあっけにとられながら、いっぱいはいっている自分の瓶を返してもらいたいと頼んだ。それは六十カルリーニである。私はにこやかに彼に返してやり、十五カルリーニもうけさせてもらったことを感謝した。そして、同時に明朝はやくサレルノへ出発するつもりだといった。では、今夜もいっしょに食事しましょうと、彼はいった。
われわれはその日の午後をヴェスヴィアスですごした。いろいろのことをしゃべったが、水銀のことは全然話に出なかった。しかし、彼は考えこんでいるように見うけられた。夕食のあいだに、彼は笑いながら、もう一日滞在して、まだあとに残っている三つの瓶の水銀で、四十五カルリーニもうけたらどうだといった。私は取りすましたまじめな態度で、その必要はない。あなたをちょっと驚かすために分量を増しただけなのだからと答えた。
「そうすると、あなたはさぞお金持なのでしょうな」
「いや、じつは黄金の増量を研究しているのですが、それがなかなか金をくいましてね」
「では、大勢でおやりですか」
「伯父と私だけです」
「だが、黄金をふやす必要はないでしょう。水銀をふやすだけで十分じゃありませんか。ところで、ひとつうかがいたいのですが、あなたのおふやしになった水銀は、さらに同じ方法でもっとふやせるのでしょうか」
「いや、それはだめです。そんなことができたら、それこそ金の成る木になってしまいますよ」
「あなたのまじめさは、じつに敬服しますな」
夕食が終わると、私は亭主に金を払い、朝早くサレルノへ出発するので、二頭立ての馬車をさがしておいてほしいと頼んだ。そして、ギリシャ人にうまいマスカットをご馳走になった礼をいい、ナポリの住所をきいて、ぜひあなたのキシラをひと樽《たる》ほしいから、おそくとも二週後には訪ねていくといった。
それから、彼と親しげに抱擁して別れをつげてねに行ったが、一日をかなり有効につかったので上きげんだった。ギリシャ人は秘法を売ってくれと頼まなかったが、それは少しも気にかけなかった。きっとひと晩じゅう考えて、あした夜明けに交渉に来るだろうと目星をつけていたからである。とにかく、トーレ・デル・グレコまで行く十分の金は手にはいった。そこからさきは、神さまがなんとかしてくださるだろう。施しを求めながらマルトラーノまで行くことは、私にはできそうもなかった。私のような性格では、人に憐憫《れんびん》の心をおこさせることはできない。私は私が困っていないと見ぬいた人々にしか関心をもたせることができない。これではほんとうの乞食になる資格はない。
ギリシャ人は、期待していたとおり、夜明けに私の部屋を訪ねてきた。そして、いっしょにコーヒーを飲もうとすすめた。
「いかがでしょう、司祭さん」と、彼はいった。「あなたの秘法を売っていただけませんでしょうか」
「よろしいですよ。いずれナポリでお目にかかったとき、話しあいましょう」
「どうしてきようではいけないのです」
「サレルノで待っている人があるのです。それに、あの秘法は相当値が張りますし、あなたのこともよく存じあげておりませんからね」
「それは理由にはなりませんよ。わたしはこの土地でも相当名を知られておりましてね、現金でお払いできますよ。いかほどお望みですか」
「二千オンチェです」
「よろしい、差し上げましょう。ただし、あなたのおっしゃる材料を自分で買いに行って、いま持合せの三十ポンドを、わたし自身で増量してみるという条件にしましょう」
「それはむりですね。この土地には材料はありません。ナポリならほしいだけありますがね」
「金属なら、トーレ・デル・グレコでも見つかるでしょう。なんならごいっしょに参りましょう。だが、増量はどのくらいかかるのです」
「原価の一・五パーセントです。だが、トーレ・デル・グレコでもこの土地同様に信用がおありなのですか。よけいな時間をつぶされるのは困るのですが」
「そこまで疑われては、どうも」
彼はペンをとって、次のような書付を書いて、私に渡した。≪一覧払い。持参人に金貨にて五十オンチェ支払われたし。パナジォッティ。ジェンナーロ・ディ・カルロ様≫
そして、この銀行家は宿屋から二百歩のところに住んでいるから、自分で行ってきなさいとすすめた。私はもったいぶらずに出かけていって、五十オンチェ受け取った。そして、彼の待っている私の部屋へもどって、金をテーブルの上へおいた。それから、いっしょにトーレ・デル・グレコへ行き、互いに契約書を取り交わしたうえで結着をつけることにしようといった。彼は馬と馬車を持っていたので、その五十オンチェはお納め願いたいと気品のある態度ですすめてから、乗物の支度をさせた。
トーレ・デル・グレコへ着くと、彼はまずひとつの提案をした。どういう材料をどういうふうに用いたら、私がポルティチで彼の面前で売ったのと同様、純粋さを害することなく、水銀を四分の一だけ増量できるかということを教えたら、二千オンチェ前払いをしようというのであった。
彼はジェンナーロ・ディ・カルロ宛に一覧後八日払いの手形を書いた。そこで、私は鉛がその本質上水銀と化合すること、蒼鉛《そうえん》は羚羊《かもしか》の皮を通るに必要な流動性を完全にするために役だつことを説明した。ギリシャ人はだれかの家へこの実験をしに行った。私はひとりで昼食をとった。だが、夕方、彼が悲しげなようすでもどってきた。それは私の予期したところであった。
「実験してみましたが、水銀は完全なものができないのです」と、彼はいった。
「それはぼくがポルティチで売ったのと同じものですよ。あなたの契約書にちゃんと書いてあるじゃありませんか」
「だが、契約書にはまた純粋さを害することなくと書いてありますよ。ところが、純粋性が害されました。ですから、増量が可能でないことは事実です」
「ぼくはあなたの面前で売ったのと同様というところを固執します。裁判になったって、あなたの負けですよ。ぼくはあの秘法が公けに知られたら困るのですよ。とにかく、どっちみち、あなたは金儲けができるのですから、喜ぶべきですよ。いずれはただ同然に私から秘法をうばいとったと思うようになるでしょうよ。パナジォッティさん、あなたがそんなふうに私をだませる方だとは思いませんでしたね」
「司祭さん、わたしは人をだますことのできる人間ではありませんよ」
「でも、あなたは秘法を教えさせたじゃありませんか。あんな契約をしなかったら、ぼくは教えやしなかったんですからね。こんなことが世間に知れたら、ナポリじゅうの笑いぐさになるでしょうし、裁判でも起こしたら、弁護士を儲けさせるだけですよ」
「いやはや、それでなくても、この一件はもううんざりなんですよ」
「では、いただいた五十オンチェをお返ししますよ」
私は彼が受け取りはしまいかとびくびくもので、例の五十オンチェをポケットから出したが、彼はいらないといって出ていった。われわれはべつべつに自分の部屋でひとりぼっちで夕食をとった。戦闘開始という恰好《かっこう》であった。しかし、私はじきに平和条約となるだろうと見当をつけていた。朝になって、私が出発の支度をしていると、彼がもう馬車の用意ができているといいに来た。例の五十オンチェを返したいというと、彼はもう五十オンチェ受け取ってほしい、そのかわり二千オンチェの手形を返してもらいたいといった。そこで、ああのこうのと議論になったが、二時間ののちに、とうとう私のほうがゆずった。そこで、彼はさらに五十オンチェ差し出し、いっしょに食事をして、食事のあとで抱擁しあった。彼はさらにナポリの自分の店でマスカットをひと樽差し上げるという書付を書き、銀の柄の十二本の剃刀《かみそり》を入れたりっぱな箱をよこした。この剃刀はトーレ・デル・グレコの有名な特産品である。われわれは完全に仲良しになって、袂《たもと》をわかった。
サレルノでは二日間滞在し、シャツ、靴下、ハンケチ、その他必要なものを買った。なにしろ、懐《ふところ》には百ゼッキーニばかりできたし、健康は上々、例の手柄で鼻たかだかだった。しかも、あの手柄は、私としては、なんらかえりみてやましいところはなかったのだ。私が秘法を売るのに用いた才気の巧妙な行動は、世の中の商取引では見られない公民道徳から非難されるにすぎない。私は自分が自由で、金持で、また乞食の風体ではなく、すてきな青年として司教のまえに出られると確信して、もとどおりの快活さをとりもどした。そして、高い授業料をはらったものの、コルシーニ神父たちや、騙《かた》りの博打《ばくち》うちたちや、商売女や、ことに当人の目のまえでほめちぎる連中から身をまもることをならったのを喜んだ。私はいそいでコゼンツァへ行くというふたりの僧侶といっしょに出発した。百四十マイルを二十二時間で走破した。このカラブリアの首府へ着いた翌日、小さい馬車をやとって、マルトラーノへ行った。
[約束の土地の憂鬱]
この旅行のあいだ、私は有名なアウソニウム海をながめ、ピタゴラスの滞在で二十四世紀まえからその名を知られてきたマグナ・グレキアのなかにはいってきたのを喜んだ。しかし、地味の豊かさで有名な土地でありながら、自然の潤沢《じゅんたく》さにもかかわらず、貧困だけしかないのを見て、大きな驚きをおぼえた。そのすばらしい表面は見ただけでも人生を好ましく思わせるべきであるのに、人々が食物に餓《う》えていること、またそこに住む人間が私の同胞であることを思い、はなはだしい恥ずかしさをおぼえた。労働を忌《い》みきらう耕作地はすべてこうなのである。というのも、そこでは収穫物がすべて安く、住民は彼らの提供するあらゆる種類の作物の引き取り手さえ見つかれば重荷をおろした気になるのだ。ローマ人が彼らをブルティウム人と呼ばずにブルート(未開人)と呼んだのもまちがってはいないと見てとった。同行の僧侶たちは、私が毒蜘蛛や毒蛇のおそろしさを語ると、鼻のさきで笑うだけであった。そんな毒虫のことをいいだしたのも、その与える病気は性病よりもおそろしいと思われたからである。僧侶たちは、それはお伽話《とぎばなし》だといって、ウェルギリウスの『農事詩』や私が恐怖を立証するために引用した詩句をあざ笑った。
私はベルナルド・ダ・ベルナルディス司教が貧弱なテーブルに向かってぐあいわるそうに腰をかけ、なにか書いているところへはいっていった。そして、彼のまえにひざまずいたが、彼は立ちあがって私を立たせ、祝福を与えるかわりに、固く抱きしめた。ナポリではあなたの足もとにひれふしに行くためにも、全然手がかりがみつからなかったというと、心から気の毒そうなようすをしたが、だれのお世話にもならずに、しごく元気でここまでたどり着いたと話すと、安心した模様であった。
彼は溜息《ためいき》をついて、自身の現在の心境や貧困のことを話し、下男に三人分の食器をそろえるように命じた。司教のところには、この下男のほかに、かなり年配の女中とひとりの僧侶がいた。その僧侶は食卓での二、三の話から推量すると、まったくの物知らずだと見えた。司教の住んでいた家はかなり大きかったが、出来が悪く、朽《く》ちかけていた。家具もろくになく、自分の隣の部屋のそまつなベッドに私をねかせたが、そのためにも、自分の固い藁蒲団を一枚私に融通しなければならなかった。そのみじめな昼食は私をふるえあがらせた。彼は自分の教団の規則を厳守し、その日は精進《しょうじん》料理だったし、油もひどいものであった。
しかし、彼は頭脳明晰で、まじめな男であった。その話によると、彼の司教区はあまり貧しいものではなかったが、一年にナポリの金貨で五百デュカしかくれぬ。しかも、不幸なことに、彼には六百デュカの借金があるということで、私はあきれてしまった。食卓での話だと、彼の唯一の喜びといえば、修道士たちの爪牙《そうが》からまぬがれたことで、その迫害は十五年間ぶっとおしで彼に煉獄《れんごく》の苦しみを与えたという。こうした打明け話は私をがっかりさせた。私が来たことが彼には重い負担になることがわかったからである。彼はまえに私にくれた贈り物がみじめだったことを自分でも認めて、それを苦にしているようであった。それは気の毒というより言葉がなかった。
一、二時間愉快にすごせるようなよい本か、文学者の集まりか、あるいは高尚な話し相手がないのだろうかときくと、彼は苦笑をした。そして、全教区をさがしまわっても、十分に文字が書けると自慢できるものはただのひとりもいない。まして趣味をもっていて、文学のわかるものはなおさらのこと、新聞に興味をもつような連中さえいないと打ち明けた。だが、ナポリへ注文した本がきたら、いっしょに文学を勉強しようと約束した。
それもできたかもしれない。しかし、よい図書館もなく、集会もなく、お互いにきそいあう相手もなければ、文学的通信もできない、そんな土地は、はたして十八歳の私が身をたてるべき土地だろうか。私は彼の家ですごす生活の悲しむべき様相に、すっかり考えこみ、打ちのめされた気持になってしまった。それを見て、彼はきみを幸福にするために自分の力のおよぶだけはするといって私をはげました。
翌日、司教は盛大な儀式を挙行することになった。私は大聖堂にあふれる彼の部下の僧侶や善男善女のすべてを見た。私が決心をきめなければならないと思ったのはそのときである。そして、その決心がきまったことを非常に喜んだ。目のまえに見たものは、私の身なりをあさましいものに思って不快を感じるけだものばかりであった。それに女のみにくさと男たちの下品で愚鈍そうなようすはどうだったろう! 私は帰ってからこの町でわずかのあいだに殉教者として死ぬなんて使命は全然感じないと、はっきり猊下《げいか》にいった。
「私に祝福を与えて、おひまをください」と、私はいった。「あるいはわたしといっしょに出かけましょう。きっと好運がつかめると思います。司教管区はあなたにこんなみじめな贈り物をした連中に返しておしまいなさい」
この提案はその日一日じゅう何度か彼を笑わせた。しかし、もしも私の提案をいれていたら、彼は二年の後に若盛りの年で死にはしなかっただろう。あのりっぱな男は私の不快な気持を察し、そんなところへ呼びよせた失策を詫《わ》びた。そして、私をヴェネチアに送り返さなければならないと認めたが、自分には金がないし、私が金を持っていることを知らなかったので、私をナポリまで送り、ある金持に紹介状を書くから、その人からナポリ金貨で六十デュカ受け取り、その金で祖国へもどれといった。私は彼の申し出をありがたく受け、いそいで荷物のなかからパナジォッティのくれた剃刀のはいっている美しい箱を出してきた。それは彼がくれる六十デュカの値うちがあったので、彼に受け取らせるのに非常に骨がおれた。もしもこれを納めてくれなかったら、ここに腰をすえるとおどかして、ようやく受け取ってもらった。彼はコゼンツァの大司教への添書を渡した。そのなかで、彼は私をほめそやし、猊下のポケット・マネーをさいてこの者をナポリへ送ってほしいと依頼した。こうして、私は到着してから六十時間後にマルトラーノを去ることになった。涙を流して百度も祝福を与えてくれた司教をその地へ残してくるのは後ろ髪をひかれる思いであった。
コゼンツァの大司教は才気に富む裕福な人で、私を自分の邸へとまらせた。食卓で、私は心をこめてマルトラーノの司教をほめそやしたが、その教区とカラブリア全域とを容赦もなくやっつけた。それが辛辣《しんらつ》きわまる言葉であったので、猊下をはじめ会食者一同をおおいに笑わせた。会食者のなかには、猊下の親戚筋にあたるふたりの婦人がまざっていた。そのふたりのうちの若いほうが自分の国に加えられた痛烈な諷刺《ふうし》に腹をたて、私に議論をいどんできた。しかし、私は住民のせめて四分の一でも、あなたに似ていたら、カラブリアも楽しい土地になるだろうといって、彼女をなだめた。翌日、大司教は盛大な晩餐会をひらいたが、それは私の言葉にたいして反証をあげるためであったらしい。コゼンツァという町はひとかどの男には楽しく暮らせるところだ。裕福な貴族や美しい女や通人たちがいるからだ。私は三日目に有名なジェノヴェシ〔哲学者、経済学者で、ナポリ大学とミラノ大学の教授。政治経済学を教えたヨーロッパ最初の学者〕宛ての大司教の手紙をふところにして出発した。
旅の道連れは五人いたが、いずれも海賊か泥坊を本業にするものと見てとった。そこでたっぷり金のはいった財布を持っていることは気ぶりにも見せないように注意した。そして、いつもズボンをはいたままで眠った。金を警戒しただけではなく、一般に変態的な趣味をもつ土地では必要な用心だと思ったのである。
一七四三年。九月十六日、ナポリに到着した。最初にマルトラーノの司教の手紙をその宛名へとどけに行った。それはサンタ・アンナのジェンナーロ・パロ氏であった。この人の役目は私に六十デュカくれるだけであるはずであったが、同じく詩人であるその息子と知合いになってもらいたいからと、私を自分の邸にとまらせた。司教は私のことを卓越した詩人だといったのであった。私は習慣にしたがい一応辞退してから、その申し出を承知し、小さい荷物を彼の家へ運ばせた。そして二度目に訪ねていくと、彼はまず自分の部屋へ私を招じいれた。
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第九章
[幸福な短いナポリ滞在]
私はジェンナーロ氏からどんな質問をかけられても、答えられずに困るということはなかった。しかし、私の与える返事にたいして、彼がたえず胸から吹きだす高笑いを見て、途方もないことだという異様な感じがしてならなかった。みじめなカラブリアの姿やマルトラーノ司教の窮状などの描写は相手を感動させるためのものであったが、逆に哄笑《こうしょう》をあおりたてた。いつかこの哄笑が彼には不吉なものになるのではあるまいかと思われるほどであった。
彼は太って脂ぎり、まっ赤な顔をしていた。私をばかにしているのだと思い、怒りだそうかと考えていると、ようやく落ちついて、どうかご勘弁ください、このばか笑いは家族の遺伝的な病気のせいで、現に伯父のひとりがそのために死んでいると、嘆かわしげにいった。
「笑いすぎて亡くなったのですか」
「そうです。それはヒポクラテスも知らなかった病気で、リ・フラチと呼ばれています。一種の気鬱症ですな」
「なんですって? 気鬱症といえば、それにかかった患者はすべて陰気になるものなのに、あなたは陽気になられるのですか」
「わしの気鬱症は腹部に影響せずに、脾臓に炎症をおこすのです。わしの主治医は脾臓が笑いの器官だと認めています。ひとつの発見ですな」
「そんなことはありません。それは非常に古くからあった考えです」
「そうですかね。そのことは、いずれまた食卓で話しましょう。二、三週間はここですごしていただきたいと思いますから」
「いや、せっかくですが、おそくともあさっては出発しなければなりません」
「では、お金はあるのですね」
「じつはあなたから六十デュカいただくつもりで、それをあてにしているのです」
すると、彼はまた笑いだした。だが、笑いが静まると、あなたを望むだけ引き止めておけると思った考えがおかしかったのですと言い訳をいった。そして、とにかく息子に会ってやってほしいと頼んだ。息子は十四歳だが、すでに大詩人であった。女中に案内されて、その部屋へはいっていくと、少年はなかなかの美男子で、態度物腰もひと目で人をひきつけるものがあり、私はおおいに嬉しくなった。彼は丁重に私を迎え、じつはあした印刷にかける歌謡の原稿を書いているので、ろくにお相手もできず、たいへん申し訳ないといった。それはサンタ・キアラ寺院にいるデル・ボヴィーノ公爵夫人の親戚の娘の着衣式のためにつくる歌謡だということであった。その言い訳がしごく正当なものに思われたので、私はお手伝いしましょうかと申し出た。そこで、彼は自分の歌を読んできかせた。ギディふうを模し、なかなか情熱に満ちていると思われたので、≪オード≫(抒情小曲)と呼ぶがいいとすすめた。そして、ほめるべきところをほめてから、あえて二、三の箇所を訂正してやった。いくぶん力が弱いと思われる詩句があったので、べつのものにかえたほうがずっと引き立つと思ったのである。彼は礼を述べ、あなたはアポロの再来ではないかときいた。そして、印刷屋に渡すために写しはじめた。彼が写しているあいだに、私は同じ題目で一篇の十四行詩《ソネ》をつくった。パオロは非常に喜び、私の名をそれへ書きくわえ、彼の≪オード≫といっしょに印刷屋へ送ろうといってきかなかった。
そこで、私が二、三|綴字《ていじ》のまちがいを除くために写しかえているあいだに、彼は父親のところへ行って、あれはどういう人だときいた。すると、父親はまた笑いだして、食卓につくまで納まらなかった。人々は私のベッドを少年の部屋に用意してくれた。それを私はたいへん嬉しく思った。
ドン・ジェンナーロの家族はこの息子と、あまり美しくない妹と、妻と、非常に信心ぶかい年とったふたりの姉妹とであった。夕食には文学者を何人か呼んだ。その席でガリアーニ侯爵と知合いになった。この人はウィトルウィウス〔古代ローマの建築家〕の注釈をしていたが、弟にひとりの司祭がおり、二十年後にその司祭がカンティラーナ伯爵の秘書をつとめていたときパリで知合いになった。翌日の夕食のとき、有名なジェノヴェシ氏と知りあった。彼はすでにコゼンツァの大司教からの手紙を受け取っており、アポストロ・ツェノとコンティ司祭のことをいろいろ話した。この夕食のあいだに、僧侶は二カルリーニよけいにかせぐために、一日に二度ミサをあげることがあるが、これは僧侶のおかすもっとも軽い罪だ。しかし、同じ罪でも、俗人がおかすと火刑の値うちがあると私はいった。
翌日、あの修道女が着衣式を行なったが、この式を祝って読みあげられた詩歌のなかでもっとも人々の賞賛をうけたのはジェンナーロ少年と私の二篇であった。カザノヴァというナポリ人が、私が外国人であることを知って、知合いになりたいという好奇心をおこした。そして、私がドン・ジェンナーロのところにとまっていると知ると、サンタ・キアラの修道女の着衣式の翌日もよおされた聖者ジェンナーロの祭りのときに、ドン・ジェンナーロに挨拶に来た。
ドン・アントニオ・カザノヴァは、自分の名前を名のってから、あなたのご家族は元来ヴェネチアのご出身ではありませんかと私にきいた。私はつつましやかな態度で、こう答えた。
「わたしはアントニオ・カザノヴァというものの孫の曽孫《ひまご》にあたります。この人は枢機卿ポンペオ・コロンナの秘書でしたが、一五二八年、クレメンス七世が法王のころ、気の毒にもペストのためにローマで死にました」
この話をきくと、彼は親戚だといって、私を抱擁に来た。だが、そのとき、ドン・ジェンナーロがはげしく笑いだし、席にいた人々はみな命にさわるのではないかと案じた。そんなに笑って、なおも命がつづこうとは考えられなかったからである。彼の妻は、腹をたてたようすで、ドン・アントニオに、夫の病気はまえからご存じなのだから、あんな悪ふざけはつつしんでいただきたかったといった。彼は旦那さまがこんなことをおかしく思われるとは考えても見なかったと答えた。私はなにもいわなかった。心のなかでは、そんな親戚関係なんて滑稽だと思ったからである。ドン・ジェンナーロの笑いがおさまると、ドン・アントニオは依然としてまじめさをくずさず、私を昼食にまねいた。私のはなれがたい友となった若いパオロといっしょに。
[遠い先祖に助けられる]
このりっぱな親戚のところへ行くと、彼はまず系図樹を出して見せた。それはドン・ファンの兄弟のドン・フランチェスコからはじまっていた。私が暗記している系図樹だと、私の直系の祖先であるドン・ファンは父親の死後に生まれている。してみると、マルカントニオに兄弟がいたのかもしれない。とにかく、私の系図樹が十四世紀の終りに生存していたアラゴン人ドン・フランシスコからはじまり、したがって、サラゴサの著名なカザノヴァ家の系図がすべて自分の系図になることを知ると、彼の喜びはたいしたもので、私の血管のなかを流れている血が自分のものと同じだということを私に信じこませようと一所懸命になった。
彼は私がどういう事情でナポリへ来たのか、そのわけを知りたがっているようだったので、父の死後僧籍にはいったので、ローマへ行って出世の道を講じようとしているのだと答えた。それから家族に紹介されたが、細君はあまりいい顔をしなかった。しかし、美しい娘と、さらに美しい姪とはお伽話《とぎばなし》的な肉親の力というものを容易に私に感じさせた。
昼食ののち、デル・ボヴィーノ公爵夫人がカザノヴァ司祭とはどういう人だか知りたがっていらっしゃるから、親戚という資格で接見室へ紹介させてもらったら、たいへん名誉になるといった。そのとき、ほかにだれもいなかったので、それはご勘弁願いたい、なにしろこういう旅装束しかもちあわせていないのだからと答えた。そして、一文なしでローマへ着きたくないから、財布のほうも大事にしなければならないといい添えた。
この言い訳をきくと、彼は喜び、それももっともだと思いこみ、金なら心配はない、気兼ねをせずに仕立屋のところへ案内させてもらいたいといい、このことはだれにも漏らさないから安心してほしい、こういうサービスをする喜びまでことわられてはたいへん残念だといった。そこで、私は彼の手を握りしめ、万事お言葉どおりにすると答えた。彼は私を仕立屋へ連れていき、いろいろ命令して寸法をとらせた。仕立屋は翌日、上品な司祭らしく見せるのに必要なものをすべてドン・ジェンナーロのもとへとどけてきた。
ドン・アントニオはまもなくドン・ジェンナーロの邸を訪ねてきて、昼食をともにし、若いパオロとともに私を公爵夫人の邸へ連れていった。貴婦人は私をナポリふうにもてなすために、最初からうちとけて二人称単数で話しかけた。そばに十歳か十二歳の非常に美しい令嬢がついていた。この令嬢は数年後にマタローナ公爵夫人となった。貴婦人は全面に金の象眼《ぞうがん》入りのアラベスク模様をきざんだ鼈甲《べっこう》の煙草入れを贈ってくれた。そして、あした昼食に来ていただきたい、そのあとで新しい修道女をサンタ・キアラ寺院へごいっしょに訪ねていこうといった。
公爵夫人の家を出ると、例のマスカット葡萄酒の樽を受け取るために、ひとりでパナジォッティの店へ行った。支配人は親切にふたつの小さい樽へ分けてくれたので、ひとつをドン・ジェンナーロへ、ひとつをドン・アントニオへ送らせた。店から出ると、あの善良なギリシャ人とぱったり出っくわしてしまった。彼は私にまた会えたのを喜んでくれた。私は物のみごとに瞞着《まんちゃく》した当の相手と顔をあわせて、赤面する思いであったが、その心配もなかった。反対に彼は私が礼儀ただしい紳士として応対したと思って好意をいだいていたのであった。
ドン・ジェンナーロは夕食のとき、笑いもせずに、私の貴重な贈り物にたいして礼を述べた。翌日、ドン・アントニオは私がおくらせた上等のマスカットの返礼に、少なくとも二十オンチェはするステッキをくれた。それから、仕立屋が旅行服と金のボタン穴のついた青いフロックコートをとどけてきた。どちらも極上のラシャを用いてあった。これで服装は十分ととのった。ボヴィーノ公爵邸ではナポリ随一の賢者といわれる著名なドン・レリオ・カラッファと知合いになった。これはマタローナ公爵家の一族で、ドン・カルロス王の信任があつく、友人として待遇される名誉をになっていた。
サンタ・キアラの応接室では、格子のなかに隔離されたすべての修道女たちに応対して、軽妙な返答で好奇心を満足させ、はなやかな二時間をすごした。もしも私の運命がナポリにとどまらせたら、ここで立身出世することもできたであろう。しかし、確たる目的はなかったが、ローマへ行かなければならないような気がしていた。それで、ドン・アントニオが多くの名流家庭を指名し、そこの長子の教育の指導にあたるという、おおいに名誉ある職を斡旋《あっせん》してくれたが、片っぱしからことわってしまった。
ドン・アントニオ邸の昼餐は豪華なものであった。しかし、私はうわの空でふきげんであった。彼の細君が横目で私を見ていたからである。彼女は何度か私の服をながめては、隣の人の耳へなにかささやいた。彼女は事情をすっかり知っていたのである。人生にはこういう我慢できない境遇におかれることがよくあるものだ。どんなにりっぱな人々の席にいても、そのなかにひとりでもこっちをじろじろ見るものがいたら、私はとたんにふきげんになる。むしゃくしゃに腹が立って、分別をなくしてしまう。これは大きな欠点だ。
ドン・レリオ・カラッファはこの地にとどまって、当時十歳になる甥のマタローナ公爵の学業の指導をしてくれたら、莫大な報酬を出そうと申し出た。私はあつく感謝したが、それよりも私の真の保護者となって、ローマへの有力な紹介状を書いていただきたいと頼んだ。この殿さまは翌日二通の紹介状を渡してくれた。一通はアッカヴィーヴァ枢機卿に宛てたもの、他はジォルジ神父宛てのものであった。ジォルジ神父は強力な教団の指導者であった。
人々はどうしても私に女王陛下の手へ接吻する光栄に浴させようと奔走しはじめた。そこで、すぐに出発の決意をかためた。もしもいろいろご下問をたまわったら、私はそれに答えて、マルトラーノから帰ってきたことや、気の毒な司教について、陛下のとりなしがあの善良なミニモ会員の身の上にひきおこした悲惨事などを申しあげなければなるまい。そればかりか、陛下は私の母を知っているから、話がドレスデンにおける母の生活におよぶのをさえぎるわけにいくまい。そうしたら、ドン・アントニオは面目をつぶし、私の系図樹もおかしなものになってしまう。私は世に行なわれている偏見の力のぬくべからざる煩《わずら》わしさを知っていた。私の名声はいちどきにべちゃんとつぶれてしまうだろう。私は機会を見て出発することにした。ドン・アントニオは金を象眼した鼈甲側の時計を餞別として贈ってくれ、それから、自分の最良の友と呼んでいるドン・ガスパール・ヴィヴァルディ宛ての紹介状をくれた。ドン・ジェンナーロは六十デュカ渡してくれた。息子はいつまでも変わらない友情を誓い、手紙をくれるようにといった。彼らは私を馬車まで見送ってくれたが、お互いに別れを惜しんで泣いてしまった。私は馬車のいちばんうしろの席をとった。
キオッジャで船をおりてナポリへ到着するまで、運命の神は私にたいして不当に苛酷《かこく》な待遇しか与えなかった。だが、ナポリへ来てようやく息をつくことができた。この回想録のなかでもごらんになると思うが、ナポリはいつも私を優遇してくれた。ポルティチでは、精神が堕落しようとするおそろしい時期にものぞんだ。精神の堕落にたいしては薬がない。精神は一度堕落したが最後、それを引き上げることはだれにもできない。それは策の施しようもない自暴自棄である。マルトラーノの司教はドン・ジェンナーロ宛ての紹介状によって、私にたいするすべての失策を埋め合せてくれた。司教にはローマへ着いてはじめて手紙を書いた。
[ドンナ・ルクレツィア]
私は美しいトレド街に気をとられ、また涙をふくのに忙しく、ナポリの市門にいたるまで、三人の相客の顔を見る気にもならなかった。私の脇にすわっていたのは四十から五十がらみの男で、人好きのする敏捷《びんしょう》らしい顔をしていた。うしろの席にいたふたりの女は若くて美しかった。小ざっぱりした身なりをし、態度はあまり取りすましていなかったが、堅気だった。われわれは無言の行でアヴェルサに着いた。そこでは、馬車屋が騾馬《らば》に水をやるあいだしかとまらないといったので、われわれはおりなかった。夕方ごろカプアに着いた。信じられないことだ! 私は一日じゅう口を開かずに、ナポリ生れの男の方言やふたりのローマ女の姉妹の美しい言葉に喜んで耳を傾けていた。ふたりのうるわしい娘か女をまえにして、五時間も辛抱づよく黙ってすごしたのは、生まれてはじめてであった。カプアでは、イタリアによく見るとおり、ベッドのふたつある部屋をあてがわれた。すると、同室の男が「では、今夜は司祭さまとごいっしょにねますかな」といった。
そこで、私は冷ややかな口調で、「いや、べつの組合せをおきめになってもけっこうですよ」と答えた。この答えはふたりの女のひとりを微笑させた。それはまえから目をつけていた女だった。これはいい前兆だと思った。
夕食は五人になった。というのも、特別の取り極めのないかぎり、慣習によって馬車屋が客のまかないを受け持ち、その際には食卓をともにすることになっていたからである。食卓でのとりとめのない話のうちに、相客が礼儀ただしく、かなり利口であることに気がついた。そこで、私は好奇心をおこし、夕食後、下へおりていって、馬車屋に三人の身もとをきいた。男は弁護士で、姉妹のひとりはその妻だということだったが、どちらだかわからなかった。
私は礼儀をまもって婦人たちが自由に支度ができるように、夜はまっさきに床につき、朝もまっさきに起きて外へ出ていき、コーヒーに呼ばれるまでもどらなかった。私がそのコーヒーをほめると、愛想のいいほうの女が毎日ご馳走しますわといった。
床屋が来て、弁護士のひげを剃《そ》ってから、あなたもいかがですかと私にきいた。その態度が気に入らなかったので、いいと答えた。すると、その男はひげは不潔ですよと捨台詞《すてぜりふ》をのこして出ていった。
一同馬車に乗りこむと、弁護士が床屋というものはほとんど全部生意気だといった。
「でも、ひげは不潔なんでしょうか」と、美しい女がきいた。
「そりゃ、不潔さ、排泄物だもの」と、弁護士が答えた。
「そうとばかりもいえませんよ」と、私は彼にいった。「たとえば髪の毛は排泄物といえましょうか。髪の毛は反対に十分手入れをし、その美しさや長さをほめそやすではありませんか」
「だから、床屋はばかなのですよ」と、婦人が相槌をうった。
「しかし、ぼくにはひげがあるでしょうか」と、私はきいた。
「おありになると思っておりましたわ」
「では、ローマへ着いたら、あたらせることにしましょう。ああいう非難をきいたのははじめてですからね」
「おい、おまえ、よけいなことはいうんじゃないよ。この方はローマへ行ってカプチン僧になられるのかもしれんからね」
この機知は私を笑わせた。しかし、私は黙ってやりこめられていたくなかったので、
「お察しのとおりです。その考えも奥さんのお話をきいてから起こったのですよ」と、彼にいった。
すると、彼はすぐに「家内はカプチン僧が大好きなんですからね、あなたはそういうご志望をおかえになるべきではありませんよ」と、やりかえした。
こういう埒《らち》もないむだ話で、ガリリアーノまで一日を愉快にすごした。ガリリアーノの宿屋では、食事がまずかったが、気のきいた会話が埋合せをしてくれた。私の生まれたばかりの慕情は親切な乳母を見つけて、すくすくと育っていった。
翌日、馬車へ乗るとすぐ、美しい婦人が、ヴェネチアへ行くまえに、ローマで何日か滞在する予定かときいた。私はローマには知合いがないので、退屈するのではないかと思うと答えた。すると、彼女はローマ人は外国の方がたいへん好きだから、きっとお気に召すにちがいないといった。
「それでは、ごきげん伺いに参上してもよろしゅうございますか」
「けっこうですよ」と、弁護士が答えた。
美人は顔をあからめた。だが、私は見て見ないふりをした。一日はきのうと同じように、気のきいた言葉のやりとりのうちに、楽しくすぎていった。われわれはテラチナにとまった。三つのベッドのある部屋へ通された。シングル・ベッドがふたつ、そのあいだに大きなダブル・ベッドがすえてあった。割振りは簡単だった。ふたりの姉妹がダブル・ベッドへいっしょにねた。そのあいだ、弁護士とともに女たちのほうへ背を向け、テーブルにすわって、煙草を吸いながら四方山《よもやま》話をした。それから、弁護士はさきに自分のナイト・キャップをのせておいたほうのベッドへねに行った。私はべつのベッドへねた。それは大きいベッドと一尺ほどしかはなれていず、弁護士の細君は私に近いほうへねていた。自惚《うぬぼ》れではないが、こういう配置が偶然にすぎないとは考えられなかった。
私は服をぬぎ、蝋燭《ろうそく》を消して、横になった。頭のなかではあれこれと計画がうごめき、気持が落ちつかなかった。彼女を抱こうかあきらめようかと、決心がつかなかったからである。それで、ねつくことができなかった。ほのかな光のなかにベッドが見え、そこに美しい女がねているとあっては、目をつぶれないのも当然であった。だが、そのあげく、私はどんな決心をしたか、それはいわぬが花である。というのも、一時間もこうして悪戦苦闘したあとで、彼女はベッドの上におきあがったが、どうするのかと見ていると、ベッドからおり、そーっとまわって、夫のベッドへはいっていったのだった。それからあとは、物音ひとつ聞こえなかった。私は極度に不愉快になり、腹がたち、いやになり、くるりと寝返りをうつと、そのまま眠ってしまった。夜の明けるまで目をさまさなかった。見ると、細君は自分のベッドでねていた。
私は非常にふきげんで服をつけ、まだ眠っている三人をおいて外へ出た。そして、近所をぶらついてきた。帰ったときにはもう馬車の支度ができて、女たちと弁護士が首をながくして待っていた。
美人はやさしい、うちとけた口調で、私が彼女のコーヒーを飲まなかったのを恨んだ。私は散歩がしたかったのでと言い訳をいった。午前中は口もきかず、彼女のほうへ目もやらずにすごした。歯がひどく痛むようなふりをした。ピペルノで昼食を食べたとき、彼女は歯の痛みは仮病じゃないのですかといった。この言葉は私の気分を明るくした。いつかその説明をする権利を与えてくれたようなものだったからだ。
昼食ののちも私はセルモネータまで同じ態度でおしとおした。セルモネータではとまる予定であったが、かなり早く着いた。天気がよかったので、美人は近所を歩いてみたいといいだし、まじめそうなようすで、私に腕をかしていただけませんかときいた。私はすぐに承知した。礼儀上ことわるわけにはいかなかったのだが、それでも気持が晴れなかった。早くいつもの顔にもどりたかったが、それにはなんとか話合いの機会をつかまなければならない。ところが、どうしてもそのきっかけがつかめずに困っていたのだ。
彼女の夫は細君の妹に腕をかして、あとからついてきた。そのふたりとの距離がだいぶはなれたのを見て、私の歯痛が仮病だとどうしてわかったのだときいてみた。
「では、あけすけに申しましょうね。第一にあなたのごようすがあまりはっきりと変わりすぎたのと、一日じゅうわたしのほうへ目をやるまいと気をつかっていらっしゃったからですよ。いくら歯が痛くても、礼儀にまでそむく必要はございませんものね。ですから、これは仮病だなとわかりましたの。それに、わたしたち三人のうち、だれもあなたのごきげんを急に損じるようなことはしませんでしたからね」
「しかし、なにかほかに理由がおありになったはずです。あなたはまだお考えになっていることを半分しかおっしゃっていませんよ」
「あら、そんなことはございませんわ。わたし、みんな申しあげましたわ。たとえなにか理由があったとしても、それはわたしにはわかりませんし、またわかってはいけないことですわ。いったいわたしがどんな失礼をしたのか、どうぞおっしゃってちょうだい」
「失礼だなんて。わたしにはなにも要求する権利はないのですからね」
「いいえ、ございますよ。わたしの持っているのと同じ権利ですわ。それは上流社会のメンバーのひとりひとりに与えられている権利です。さあ、おっしゃいよ。わたしと同じようにあけすけにおっしゃいよ」
「あなたはその理由をおわかりになってはならないのです。というより、知って知らないふりをしていなければならないのです。まったくそうなのです。ですから、わたしもそれを申しあげない義務があるとお考えください」
「それならけっこうですわ。これですっかりお話合いはすみましたね。けれども、ごきげんのお変わりになった理由をおっしゃらない権利がおありなら、その権利は同時にきげんのわるいお顔を人にお見せしないように強制するはずです。礼儀の道はときとして上品な人々に他人の迷惑になるような感情をかくすことを命じます。それが気づまりなことは、私も承知しておりますが、その気づまりを我慢する人をいっそう好ましく思わせるのに役だてば、骨おり損ではないわけです」
こういうふうに力づよく理路整然と意見をされたので、私は恥ずかしさに顔の赤らむ思いがした。それで、うやうやしく彼女の手に唇をおしつけ、わたしが重々わるかった、ここが往来でなかったら、あなたの足もとにひれふしておゆるしを願うのだがといった。
「もうそのお話はやめましょうね」と、彼女はいった。
彼女は私がたちまち後悔したのに気をよくし、私をじっと見つめたが、その目には私をゆるす気持がありありとうかがわれた。それで、彼女の手から唇をはなして笑みをたたえた美しい口へいかせても、あまり叱られはしまいとさえ思われた。私は幸福に酔い、手の裏をかえすように、いままでの仏頂面《ぶっちょうづら》を忘れて陽気にはしゃぎだした。それで、弁護士は、夕食のあいだ、私の歯痛やそれをなおした散歩について冗談をとばした。翌日はヴェレトリで昼食をとり、夜はマリーノにとまった。その町にはたくさんの軍隊がはいりこんでいたが、小さい部屋をふたつとることができ、夕食もよかった。
[ベッドの底がぬけて]
私はローマの美人ととても仲良しになった。彼女からは約束しかとりつけてなかったが、それはきわめてしっかりした愛の約束で、ローマへ行ったら彼女が完全に私のものになることを保証した。馬車のなかでは、ふたりは目よりも膝《ひざ》で語りあい、したがって、われわれの言葉は人に聞かれる心配もなかった。
弁護士の話だと、彼はある宗教上の訴訟のためにローマへ行くので、ミネルヴァ寺院の細君の母親の家にとまるということであった。彼女は結婚以後もう二年越し母親に会わないので、一日も早く会いたがっていた。妹のほうはサント・スピリト銀行の事務員と結婚してローマにとどまりたいと希望していた。遊びに来いとすすめられたので、ご好意にあまえて、用事のゆるすかぎりおうかがいしようと答えた。
デザートにはいってから、わが美人は私の煙草入れの美しさをほめそやし、わたしもこういう趣向のものをひとつほしいと夫にねだった。夫は見つけてやろうと約束した。
「では、これをお買いください」と、私は彼にいった。「二十オンチェでよござんすよ。ただし、持参人払いの手形で払っていただきたいのです。あるイギリス人にそれだけの借りがありますので、ちょうどいいから、その手形で返してやりたいのです」
「この煙草入れはたしかに二十オンチェの値うちはある」と、弁護士が私に答えた。「これが家内の手へ渡ったら、あなたのことを思いだすよすがにもなりますから、わしとしても嬉しいですよ。だが、現金で払わせてくださらなければ、いただけませんよ」
私が承知しないのを見て、細君はこの方のお望みになるように持参人払いの手形を書いても同じではないかといった。すると、夫はこの人には気をつけたほうがいい。いまのお話はじょうずなペテンなのだよと、細君にいった。そして、
「イギリス人だなんて、つくりごとだとわからないのかい。そんなものはいっこう姿を見せずに、煙草入れはただでわしたちのものになるのだよ。この司祭さんは、おまえ、たいしたペテン師なんだからね」
彼女は私を見つめながら、夫に、
「わたし、世の中にそんなペテンがあるなんて思いませんわ」といった。
私も悲しげに、そんなペテンができるほど金持になりたいと答えた。
人に恋しているときには、つまらないことで絶望し、また幸福に満たされるものだ。われわれが夕食をとった部屋にはドアなしで小部屋がついており、両方にベッドがひとつずつあった。小部屋は夕食の部屋を通らなければ行けなかった。ふたりの姉妹はもちろん小部屋をえらんだ。ふたりがねてしまうと、弁護士がね、私が最後にベッドにはいった。蝋燭を消すまえに、私は小部屋のほうへのぞきに行って、よくお休みなさいと挨拶した。細君がどちら側にねているか見るためであった。私の胸のなかの計画はできあがっていた。
今夜はひと晩じゅう目をつぶるまいと決心してベッドへあがった。だが、そのときのはげしいきしみようといったら、死人も目をさましそうな音だった。私はその音をきいて、ベッドに悪態をついたのだった。細君からなにも約束をとってはいなかったが、こっちの気持を察してうまくやってくれるだろうと思い、弁護士がいびきをかきはじめるのを待った。そして、彼女を訪ねるために抜けだそうとした。ところが、身を起こすやいなやベッドがわめきだした。弁護士が目をさまして手をのばし、私がいるのをたしかめると、また眠った。三十分ののち、私は同じことを試みた。ベッドが同じ悪ふざけをし、弁護士が同じに手をのばした。そして、私がそばにいるのをたしかめると、また眠った。私はベッドの不謹慎に業をにやして、計画をあきらめる決心をした。だが、思いがけない好機が到来した。
恋愛の神は神々のうちでももっとも狡猾《こうかつ》な神である。あまのじゃくというのが彼の第一の特質である。だが、その生命は彼に熱烈な礼拝を寄せる人々の満足感にも依存するものであるから、万事が絶望のふちに落ちこんだと思うとき、この目さきのきくめくらの小人はすべてを成功させる。
私がすっかり失望してふかい眠りにはいろうとしたとき、とつぜんひどい物音がきこえはじめた。階段をあがったりおりたり、行ったり来たりする人々の大きな物音が家じゅうに鳴りひびいた。鉄砲のはじける音、太鼓をたたく音、警戒を命ずる声、人を呼ぶ声、わめきたてる声、われわれの部屋のドアをどんどんたたく。弁護士はおそろしさにおびえて、何事だと私にきいた。私はわざと無関心をよそおい、なんだかわからない、静かにねかしてほしいと答えた。姉妹はおどろいて、お願いだから明りをつけてくださいといった。私は少しもいそごうとしなかった。弁護士はシャツのまま起きて明りをさがしに行った。私もそのあとから起きた。そして、ドアを閉めようとしたが、あまりつよくおしすぎ、錠がかかってしまい、鍵をつかわなければ開かなくなった。だが、鍵がなかった。その原因はわからなかったが、あたりの混乱がはげしかったので、私は力をつけてやろうと思って、ふたりの姉妹のベッドへ行った。そして、弁護士さんはじきに明りを持って帰ってくる、そうしたら、騒ぎの原因もわかるだろうとなぐさめた。だが、私は一瞬もむだにせずに、攻勢にうつった。相手の抵抗が弱かったので、ずうずうしくなり、身をかがめ、いとしい女を両腕で抱きしめようとしたが、そのとたんに、女の上へ倒れかかった。すると、藁蒲団の乗っていた板がはずれ、ベッドの底がぬけて、三人はごちゃごちゃにひっくりかえってしまった。弁護士がドアをたたく、妹が起きた。わが女神が放してほしいといった。私はこの言葉にしたがい、手さぐりでドアのほうへ行った。そして、錠がかかってしまったので開けられないとどなった。彼は鍵をとりにまたおりていった。ふたりの姉妹がシュミーズのまま私のうしろへ来た。私はけりをつけるひまがあると思って手をのばした。だが、ひどくはねつけられたので、妹のほうだと感づき、べつの女の手をとった。その手は逃げなかった。弁護士が鍵輪を持ってやってきたので、彼女は後生だからねに行ってください、あなたはきっとひどい恰好《かっこう》をしているでしょうから、夫が見たら一切を推量してしまうといった。私は手がねばつくのを感じ、彼女のいおうとすることがよくわかったので、すぐベッドへもぐりこんだ。姉妹も自分らのベッドへもどり、弁護士がはいってきた。
彼は細君たちを安心させようと思って、まっすぐ小部屋へ行った。だが、ふたりが底の抜けたベッドのなかにもぐっているのを見て、げらげら笑いだした。そして、私にも見にこいとけしかけた。もちろん私は遠慮した。彼の話だと、ドイツの分遣隊がこの町にいたスペインの軍隊へ不意打ちをかけたので、そのためにスペインの軍隊は退いていったのだそうな。十五分もすると、人っ子ひとりいなくなり、あれほどの騒ぎも嘘のように、ひっそりと静まりかえった。弁護士は私がベッドから動きもしなかったのをほめそやしてから、ベッドへもどってきた。
私はまんじりともせずに夜明けを待ち、下へおりていって、身体をあらい、シャツを変えた。そして、自分の目もあてられない姿を見て、恋人の気転に感心した。弁護士はいっさいを見ぬいてしまっただろう。シャツだけでなく、両手までよごれていた。どうしてだか自分でもわからなかったが、顔までベトベトだった。ああ! これを見たら、彼は私がとんでもない罪をおかしたと思ったかもしれない。だが、私は全然そんなことはしなかったのだ。この夜襲のことは歴史にものっているが、私のことは書いてない。私は上品なボナミチ〔このヴェレットリの戦いを論評した史家。同時代の人々は彼をローマの歴史家サルスティウスになぞらえている〕の歴史でこのときのことを読むたびにほくそえむ。それはサルスティウスよりもよく書いてある。
私は朝食に部屋へもどった。わが女神のつくったコーヒーはいつもよりもいちだんとうまく思われた。だが、妹が膨《ふく》れ面《づら》をしているのに気がついた。しかし、わが愛する天使の顔には愛と友情と満足感が見てとれた。幸福を自覚するのは大きな喜びだ! だが、人はこの喜びを肉体的に感ずることなしに幸福になれるであろうか。神学者はウイという。やつらは追っぱらわなければならない。彼女はドンナ・ルクレツィアという名で、私は彼女からはなにも得ていなかったが、すでにこれを所有したと自分を見なしていた。彼女の目もちょっとした身ぶりもこの気持を否定するものではなかった。彼女と私とはお互いに笑う口実としてスペイン人の驚愕《きょうがく》を種にしたが、じっさいには、それは彼女自身の知らない事件であった。
朝早くローマに着いた。オムレツを食べに寄った料理屋トール・ディ・メッツァ・ヴィアで、私は弁護士にやさしい愛撫をあびせた。彼をパパと呼び、何度も接吻を与えた。また男の子が生まれるだろうと予想し、旦那さまに男の子を差し上げると誓いなさいと細君にすすめた。そのあとで、恋人の妹へいろいろ耳ざわりのいいお世辞をいった。それで、彼女はベッドの底をぬいたのをゆるさないわけにいかなくなった。彼らと別れるとき、私はあした訪ねていくと約束した。そして、スペイン広場の近くの旅館のまえで馬車をおりた。馬車屋はさらに彼らをミネルヴァ寺院の母親の家まで運んでいった。
[ローマで成功する方法]
こうして、私はローマにはいった。身なりは申し分がない。金もかなりある。宝石も身につけている。経験も相当つんだ。りっぱな紹介状も持っている。そして、完全に自由の身である。しかも、年齢は、少しばかりの勇気と近づきになる人々に好感を与える顔さえあれば、幸運を期待しうる年齢である。私の持っていたのは美貌ではなかった。なんだかよくわからなかったが、美貌にまさるなにかであった。それで、なんにでもなれそうな気がしていた。ローマは裸一貫から出発して、非常に高い地位にのぼれる唯一の都だということを私は知っていた。私がそれに必要な長所を全部持っていると思い込んでいたのも不思議ではない。私は金があるので、際限もなく自惚《うぬぼ》れていたが、経験が浅いので、金があてにならないことには気がつかなかった。
このイタリアの古い首府で身をたてるようにできているものは、身を置く環境にしたがってすべての色に変わることのできるカメレオンでなければならない。順応性に富み、じょうずに人に取り入り、本心をふかく隠して、胸中をのぞかせることなく、お世辞がうまく、ときにはへりくだり、きまじめをよそおい、知っていることもつねに知らないように見せかけ、声の調子を変えず、顔の表情をおさえ、相手が自分の立場に立ったら燃えあがるようなときにも、氷のように冷静でなければならない。もしも不幸にして心に宗教をもたないなら、頭に宗教をもち、誠実なものなら、自分を偽善者と認めねばならない苦しみにも、平然として耐えしのぶ必要がある。このような擬装をいとわしく思うなら、ローマを去って、イギリスへ幸運を求めに行くがよい。しかし、私はこうした立身出世に必要な素質のうちで、自慢したらいいのか懺悔したらいいのかわからぬが、お世辞がうまいという長所だけしか持っていなかった。ただそれだけでしかなかったので、一種の欠点と見るべきであった。私はおもしろい粗忽者《そこつもの》であった。いうなれば血統のいいかなりりっぱな馬ではあったが、調教されていない。いやむしろ悪い調教を受けている。これはなおいっそう悪い。
私はまずジォルジ神父のところへドン・レリオの手紙を持っていった。この学識ゆたかな僧侶はローマ全市から人望を得ていて、法王も彼にたいしては大きな尊敬を払っていた。イエズス派の味方ではなかったので、仮面をかぶる必要がなかったからである。しかし、イエズス派は力をたのんで彼を軽蔑していた。
彼は手紙を注意ぶかく読んでから、喜んで相談相手になってやろう。きみの心がけ次第では、きみの身に不幸がおこらないように責任をもってめんどうを見る。行ないさえ正しければ、人間は不幸に見舞われる心配はないのだからといった。そして、ローマでどんなことがしたいかと聞かれたので、じつはそれを教えていただきたいのだと答えた。
「そうかも知れんな。それなら、ちょいちょいわしのところへ来なさい。そして、きみにかかわりのあることや、きみの身に起こったことを、なにひとつ隠さず話すがいい」
「ドン・レリオはアッカヴィーヴァ枢機卿へも紹介状をくださったのですが」
「それはけっこうだ。あの人はローマでは法王よりも実力のある人だから」
「すぐにうかがいましょうか」
「いや、今夜お知らせしておこう。とにかく、あしたの朝、また来なさい。どこで、何時にお訪ねしたらいいか知らせるから。ところで、金はあるのかね」
「少なくとも一年はやっていけるだけあります」
「それはすばらしい。この土地に知合いはあるかね」
「いや、一軒もありません」
「わしに相談せずに知合いをつくってはいかんよ。とくに、カフェやレストランへ行かぬことだ。たとえそういう場所へ行く気になっても、自分ではしゃべらずに、人の話をきいていなさい。こっちのことをききたがるものは、なるべく避けること。礼儀上返事をせずにいられない場合にも、重大な結果になりそうだったら、返事をはぐらかしなさい。きみはフランス語をしゃべれるのかね」
「いいえ、ちっとも」
「それはいかん。ぜひ習うんだね。勉強はしたのかね」
「あまりしませんでした。しかし、常識家ですから、会合のときにもけっこうまにあいます」
「それはいい。だが、用心するんだよ。なにしろローマは常識家の町で、お互い同士仮面をはがしあって、いつもいがみあっているんだからね。枢機卿のところへは、そういうしゃれた服装ではなく、もっと地味な僧侶の身なりをして行くようにな。その服装は恩顧を願うものの服装ではない。では、あした、また」
私はこの僧侶におおいに満足して、親戚のドン・アントニオの紹介状を、ドン・ガスパール・ヴィヴァルディに差し出すために、カンポ・ディ・フィオレへ行った。この親切な人は私を図書室へ通させたが、そこにはすでに尊敬すべき司祭がふたり来ていた。とても愛想のいい態度で応待してから、ドン・ガスパールは私の住所をきき、あした昼食に来るようにとすすめた。それから、ジォルジ神父のことをほめそやし、私を階段まで送ってきながら、あしたドン・アントニオから渡すように命じられている金をあげようといった。
あの気前のよい親戚はまたも私に金をくれたのだが、私はそれをことわることができなかった。人に金を与えるのはむずかしくないが、与え方を知るのはむずかしい。
旅館へ帰る途中で、ばったりステファーノにぶつかった。彼はいつも同じで、いろいろお愛想をいった。私はこの軽蔑すべき変り者にたいして、一種尊敬の念を持っていたにちがいない。神は私が絶壁の底へ落ちるのを助けるために、この変り者を道具におつかいになったのだ。
ステファーノは法王からいっさい望むことをかなえてもらったと話をしてから、まえに二ゼッキーニ借りたあの警官に出会わないように気をつけろと注意した。だまされたと思って、復讐を考えているからというのであった。それももっともなことだ。そこで、私の書付をだれか商人のところへあずけるように伝えてほしいと頼んだ。その商人の住所がわかれば、あとで払いに行くつもりだった。このことは、頼んだとおりに行なわれて、私は借金を払い、あのいやな事件もけりがついた。
その晩、私はレストランでローマ人や外国人といっしょに夕食を食べたが、ジォルジ神父の忠告を忠実にまもった。人々はしきりに法王や大臣をつとめる枢機卿たちの悪口をいった。法王領内にドイツ人やスペイン人が八万もはいりこんできたのは彼らのせいだというのであった。私を驚かせたのは、土曜日だったのに肉食をしていることであった。しかし、ローマでは、どんな驚きも一週間とはつづかなかった。世界のカトリック教のどんな町へ行っても、ローマほど宗教にたいして気兼ねをしないところはない。ローマ人はほしいだけただで煙草のとれる煙草畑の雇人のようなものだ。法王の布告をのぞいては、まったく自由に暮らしている。ただこの法王の布告だけは、あの残虐な大革命以前のパリで秘密逮捕状が恐怖の的であったと同様におそれられていたのであった。
[枢機卿に仕える]
一七四三年十月一日、ひげを剃《そ》らせる決心をした。産毛はもうりっぱなひげになっていた。もはや青年時代初期のある種の特権は放棄する時期に来たように思われた。そして、ドン・アントニオの仕立屋が望んだように、寸分狂いのないローマふうの服装をした。ジォルジ神父は私のそういう恰好を見て、しごく満足のていであった。
彼は私と一杯のショコラを飲んでから、枢機卿はすでにドン・レリオから手紙で知らされて、きみのことは承知しておられる。それで、きょうの昼ごろヴィラ・ネグローニへ散歩に行くので、そこできみに会おうといっておられるといってくれた。きょうはヴィヴァルディ氏のところの午餐に行く約束になっているのだがというと、あの人ならちょいちょい訪ねるがよいといった。
ヴィラ・ネグローニへ行った。枢機卿は私の姿を見ると、お供をしていたふたりの人物と別れ、足をとめて、紹介状を受け取った。手紙は読まずにポケットへ入れたが、ものの二分も物をいわずに、じっと私を見ていてから、きみは政治に興味をもっているかときいた。私はいままでくだらない興味にのみ心をとらわれていましたので、もしも猊下が召使う値うちがあるとお考えくださっても、喜んでお受けしますとお答えする勇気がないのでございますと答えた。
すると、彼はそれではあしたわしの事務所へガマ神父をたずねるがよい、わしの意向を伝えておくからといった。そして、早くフランス語の勉強をはじめるように、これは必要欠くべからざるものだから、とすすめた。それから、ドン・レリオの近況をたずね、手に接吻をさせて、歩み去った。
枢機卿のもとを辞してから、カンポ・ディ・フィオレへ行った。そして、ドン・ガスパール邸でよりすぐった客とともに昼食をふるまわれた。ドン・ガスパールは独身で、文学に情熱をかたむけていた。イタリアの詩よりもラテンの詩を好み、ホラティウスに傾倒していたが、ホラティウスなら私は暗記していた。食後、彼の部屋へうつって、ドン・アントニオ・カザノヴァから依頼された百ローマ・エキュを渡してくれた。受領証を書かせると、気が向いたらいつでもわしの書斎へ朝のショコラを飲みに来い、喜んで迎えるからといってくれた。
その邸を出てからミネルヴァ寺院へ行った。ドンナ・ルクレツィアとその妹アンジェリカのおどろく顔が早く見たかったのだ。その家をさがすために、ドンナ・チェテリア・モンティの住居を訪ねた。それは彼女の母である。
出てきたのはふたりの娘の姉かと思われるほど若い未亡人であった。私は名前をいう必要もなかった。彼女は私の来訪を待っていてくれた。娘たちも出てきた。その応待はまず私を楽しませた。私が別人のように見えたので、彼女たちは一瞬とまどってしまった。ドンナ・ルクレツィアは妹と弟を紹介した。妹はまだ十一歳、弟は司祭で、十五歳、とびきりの美男子であった。
私は万事母親の気に入るようにふるまった。謙遜な態度をくずさず、尊敬の念を面にあらわし、目にするすべてのものから受ける興味を最大限に表現して見せた。弁護士がやってきた。彼は私がすっかり変わったのに驚き、私がパパと呼んだことを忘れずにいたのをおおいに喜んだ。そして、冗談をとばしはじめた。私もそれに調子をあわせたが、馬車のなかではおおいに笑わせた、あの見せかけの快活さへ走らないように十分注意した。彼はあなたは口ひげを剃って、気持もだいぶ大人びてきましたねといった。ドンナ・ルクレツィアは私の態度が変わったのを、どう考えたらよいのかわからないようであった。夕方になって、美しくも醜くもない女たちと、研究してみる価値がありそうな五、六人の司祭がはいってきた。その司祭たちは私の話に注意ぶかく耳を傾けた。だが、それをどう推量するかは、彼らのかってにまかせておいた。ドンナ・チェチリアは弁護士に、あなたはすぐれた画家だが、あなたのかく肖像画は少しも似ていないといった。すると、彼はお母さまはいつも色眼鏡でわたしの絵を見ているからだと答えた。私はこの弁解をひどいと思うようなふりをしてみせた。ドンナ・ルクレツィアは私が少しも変わっていないといい、ドンナ・アンジェリカはローマの空気は外国の方にまったくちがった外観を与えるのだと主張した。一同がこの意見に拍手喝采したので、彼女は嬉しさで顔をあからめた。四時間ののちに、私はそっとぬけだしたが、弁護士が追いかけてきて、ドンナ・チェチリアはあなたにこの家の親しい友だちになってもらいたがっているから、いつでも気の向いたときに遠慮なくやってきてもらいたいといった。それから、私は旅館へもどったが、あの連中が私を楽しませてくれたと同様、私もあの連中に満足を与えたことを期待してやまなかった。
翌日、ガマ神父を訪ねた。ポルトガル人で、四十がらみ、美男子で、純真さと、快活さと才気とが顔にあふれていた。人づきがよくて、ひと目で信頼の念をいだかせた。言葉づかいや態度物腰は生粋《きっすい》のローマ人だといえるくらいであった。彼はたいへん物やさしい言葉で、猊下ご自身から執事にご命令があって、きみを館のなかに住まわせることになっている。昼食と夕食は秘書たちの食卓でとること、フランス語を習得するまでは、その妨げとならない程度に、与えられた文書の抜粋をつくることなどをいい渡された。それから、彼はまえに話のあったフランス語の先生のアドレスを渡してくれた。それはダラッカというローマ人の弁護士で、ちょうどスペイン宮のまん前に住んでいた。
彼はこういう短い指示を与えると、今後は万事わしの友情に信頼するがいいといいながら、執事の部屋へ連れていった。執事は無数の名前が書きこんである大きな帳簿の一頁の下のほうへ私の名を署名させてから、向う三か月の給料だといって六十ローマ・エキュの銀行紙幣を渡してくれた。それから、下男を連れて、四階へあがり、私にあてられた部屋を見せた。控え室をはいると、奥の間には壁にアルコーヴがついており、隣に便所があった。どこにも小ぎれいな家具がそなえつけてあった。外へ出るとき、下男は私に鍵を渡しながら、毎朝ご用をうかがいにまいりますといった。それから私を表門へ連れていって、門番に引き合わせた。私は一刻もむだにせずに、旅館へとってかえし、小さな荷物をスペイン宮へ運ばせた。こうして私はまたたくまに新しい家へ移ったが、そこで私の性格とまったく反対な行ないをしていられたら、はなばなしい出世をしたにちがいない。だが、もって生まれた性分で、私にはそれができなかった。≪彼は従おうとするものを導き、さからうものを引きずっていく≫(セネカ『書翰集』)
[心には中庸がない]
私はまず指導者のジォルジ神父のところへ行って、いっさいを報告した。彼は、きみの道はすでにはじまったと見るべきである。こういうりっぱなところへ身をおくことができたからには、今後の出世はきみの行動のいかんによるだけだといった。この賢明な男はさらに言葉をつづけて、「きみの行動を非難の余地のないものにするには、相当自制してかからなければならないということを胆《きも》に銘じておきたまえ。もしもきみの身にいまわしいことが起これば、それはだれからも不幸や不運とは思われまい。これらの言葉は意味のない空虚な言葉だ。いっさいはきみの不行跡のせいにされるのだ」と教えた。
「尊い神父さま、わたしは若さや無経験のために、さだめしご迷惑をおかけするのではないかと、心配しているのでございます。あるいは神父さまの荷厄介になることがあるかもしれないと思いますが、いつも従順に、お言葉にしたがうつもりではおるのでございます」
「わしもときには厳格すぎると思われることがあるだろう。しかし、どうもきみはいっさいを打ち明けてくれないのではないかと思われてならんよ」
「いいえ、なにもかも全部申しあげます」
「冗談じゃない。だいいち、きみはきのうの四時間をどこですごしてきたか、いわないじゃないか」
「それはべつにたいしたことではありません。じつは旅の途中で知合いになった家族があるのですが、たいへんまじめな家庭なので、つきあってもいいかと思うのです。神父さまがいけないとおっしゃればやめますけど」
「とんでもない。あれはまじめな家庭で、誠実な人々がよく訪ねていく。そこの人々はきみと知合いになれたのを喜んでいる。きみはみんなの気に入られ、みんなきみを引きつけておこうとしている。わしはけさすっかり聞いたんだよ。だが、あの家へ足しげく行ってはいかんよ」
「ぷっつり縁を切らなければいけないのですか」
「いや、それじゃきみとしても顔がたつまい。だから、行ってもいいが、せいぜい週に一、二回にしておきたまえ。あまり熱心に通うのはよくない。きみには気に入るまいがね」
「いいえ、そんなことはありません。お指図に服従いたします」
「いや、服従のなんのと、そういうことではなくしてもらいたいね。それから、きみの心がそれをあまり不平に思わないように願いたい。とにかく、この心というやつは克服しなければいかん。理性の最大の敵は心をおいてほかにないということを覚えておくのだね」
「けれども、両方を妥協させることはできないのでしょうか」
「人は得意そうにそういうがね。きみのご贔屓《ひいき》のホラティウスの≪心《アニムム》≫は信用しないほうがいい。心には中庸というものがない。≪心は服従しなければ命令する≫(ホラティウス『書翰集』)のだからな」
「それは存じております。≪心は鎖もてつなぎておくべし≫(同『書翰集』)でしょう。しかし、ドンナ・チェチリアの家では、私の心はなんの危険もございません」
「それはけっこうだ。そうとすれば、きみはあそこへ足しげく通わなくなっても、あまり苦痛に感じまいからね。とにかく、わしの務めはきみを信ずることにあるのを覚えておいてくれたまえ」
「わたしの務めはあなたのご意見にしたがうことにあります。ですから、ドンナ・チェチリアの家へはなるべく足を遠のかせましょう」
私は胸に悲哀の念を秘めながら、彼の手を取って接吻しようとした。だが、彼はその手をひっこめて私を胸に抱きしめ、涙を見せまいとして、脇へ顔をそらせた。
昼食はスペイン宮で、ガマ神父のかたわらですませた。十人ないし十二人の司祭が同じ食卓についた。ローマではだれでも司祭であるか、司祭になりたがっている。司祭の服を着ることはだれにも禁じられていないから、人から尊敬されたいと思うものはみんなこの服を着る。ただし貴族はべつで、貴族は宗教上の要職につかない。この食卓では、私は心にいだく苦痛のためにひとこともいわなかったが、人々はそれを私の聰明さのせいにした。ガマ神父はいっしょに午後をすごすようにすすめたが、手紙を書かなければならないといって辞退した。じっさい、私はドン・レリオ、ドン・アントニオ、若き友のパオロ、マルトラーノの司教などへ手紙を書くために七時間を費した。司教はできたらきみの地位につきたいという誠意のこもった返事をよこした。
私はドンナ・ルクレツィアに恋いこがれ、いろいろ楽しい妄想をえがいていたので、彼女と疎遠になるのは不実きわまる行為のように思われた。しかし、いうところの将来の生活の幸福のために、まず現在の幸福の拷問者《ごうもんしゃ》となり、わが心の敵となろうと決心した。しかし、こうした功利的な理屈は私の理性の法廷では軽蔑の対象となるものとしか思われなかった。ジォルジ神父はあの家庭への出入りを禁じたとき、まじめな家だなどというべきではなかった。そんなことをいわれなかったら、私の苦痛はもう少し小さかったであろう。一日と夜の一部を私はこんなことを考えてすごした。
翌日の朝、ガマ神父は公用文書を綴《と》じこんだ大きな本を持ってきた。ひまつぶしにまとめて見ろというのであった。私はその仕事をすませて外へ出、フランス語の最初のレッスンを受けに行った。それから、少し散歩しようと思って、コンドッタ通りを歩いていると、あるカフェのなかから私の名を呼ぶ声が聞こえた。ガマ神父であった。私はその耳にミネルヴァからローマのカフェへはいるなと禁じられているのでとささやいた。
「いや、ミネルヴァはローマのカフェの概念を知っておけときみに命じているよ。さあ、わしの脇にすわりたまえ」と、彼は答えた。
若い司祭が真偽のほどは知らぬが、法王の裁判権を直接に攻撃するような事実を大声でわめいている声が聞こえた。だが、それにはいっこう辛辣《しんらつ》さがなく、みんな笑いながら、同意のさけびをあげていた。ほかの司祭はなぜ枢機卿Bのところをやめたのかときかれると、猊下《げいか》はナイト・キャップをかぶってから要求する、ある特別なサービス以外には、給料を払う義務がないと主張したからだと答えた。居合わせたものはみんなやんやと笑いこけた。またべつの司祭はガマ神父のところへ来て、もしも昼食後ヴィラ・メディチへおいでになるおぼしめしがあったら、一カルティーノで承知するふたりのローマ娘といっしょにお待ちしておりますといった。カルティーノというのは四分の一ゼッキーノの金貨である。ほかのものは扇動的な政府攻撃の十四行詩を読みあげた。数名のものがその文句を写していた。人好きのする顔の司祭がはいってきた。その腰や腿《もも》のようすで、私は娘が変装しているのだと思い、それをガマ神父にいった。神父はあれはベッビノ・デラ・ママナといって、有名な去勢者だと教えた。そして、その男を呼び、この人がきみを女だと思ったよと、笑いながら話した。すると、恥知らずの男は私を見て、もしもわたしと一夜をすごしにゆく気があるなら、女でも男でもお望みどおりの役をしますよといった。
昼食のとき、同席の連中はしきりに私に話しかけたが、私はどんな返事にも細心の注意をはらった。ガマ神父は私を自分の部屋へ連れていってコーヒーを飲ませ、いまいっしょに食事をした連中はみんな誠実な人々だが、きみはみんなから好意をもたれたと思っているかときいた。
「そう信じているのですが」
「ところが、そうじゃないのだ。きみはなにをきかれても、はっきりそれとわかるほど、返事をはぐらかしていたね。だから、きみが用心ぶかくかまえていることをみんな勘づいてしまった。もうだれもきみにはものをきくまいよ」
「それは困ります。では、自分のことを吹聴すべきだったのですか」
「いや、だが、何事にも中庸というものがあるよ」
「ホラティウスの中庸ですね。それはたいがいの場合なかなかむずかしいものです」
「人から尊敬されると同時に好かれなければならんよ」
「わたしはそれだけをねらっているのですが」
「これはどうも! きみはきょうは好かれるよりも尊敬されるほうをねらったね。それもけっこうだが、嫉妬とたたかう用意もしておかなければいかんよ。嫉妬は中傷を生むからね。このふたつの怪物のために没落させられなければ、きみは勝ったのさ。食卓で、きみはサリチェッティを手ひどくやっつけたね。あれは医者で、しかもコルシカ人だ。きっときみに恨みをいだくにちがいないよ」
「では、彼の説に同調して、妊娠した女の嫉妬が胎児の皮膚になんの影響も与えないというべきだったのですか。わたしはその反対のケースを知っているのです。わたしの意見をお認めいただけませんか」
「わしはきみの意見にも彼の意見にもつかないよ。そりゃ、母斑と呼ばれるしみをもった子どもは何人も見たけれど、そのしみが母親の嫉妬から来ていると断言することはできないのでね」
「しかし、わたしには断言できます」
「きみがそのことをそれほど明瞭に知っているなら、たいへんけっこうだし、サリチェッティがその可能性を否定するのは気の毒千万だ。しかし、彼の誤りはそのままにしておきたまえ。彼を説きふせて敵にまわすよりも、そのほうがはるかにましだよ」
[おくゆかしい遊び]
その晩、私はドンナ・ルクレツィアの家へ行った。人々は私の身分のことをもう知っていて、お祝いをいってくれた。彼女は私が悲しそうに見えるといった。私は自分の時間を葬《ほうむ》ってしまったので、もう自由に時間をつかえなくなったのだと答えた。夫はこの人はあんたに惚《ほ》れているのだよと妻にいった。すると、義母がそんな人聞きの悪いことをいうものではないとたしなめた。彼女の家にはたった一時間しかいずに引き上げたが、歩いて帰るあたりの空気が恋の溜息《ためいき》で燃えあがるばかりだった。その晩、私は夜を徹して一篇のオード(抒情小曲)をつくった。そして、翌日、弁護士へ送った。きっと詩の好きな細君に渡すだろうと思ってのことだが、私がそれほどの情熱を寄せていようとは、彼女も気がつかなかったのである。それから三日、私は彼女の顔を見に行かずにすごした。そして、もっぱらフランス語の勉強と公文書の整理に没頭した。
枢機卿のところでは毎晩集まりがあり、ローマ第一流の貴族の紳士淑女が会合した。私は出席しなかったが、ガマ神父はわしのようになにもこだわらずに行けといったので、出席してみた。だれも私に話しかけなかったが、私が新顔だったので、みんなだれだか知りたがった。ガマ神父はどの婦人をいちばん好ましいと思うかときいた。私はあの人だと教えた。だが、そのとたんにしまったと後悔した。世話焼きの神父がすぐその人のところへご注進に行ったからである。彼女は私を横目で見て、微笑をもらした。それはG侯爵夫人〔おそらくフェラーラの、カテリーナ・ガプリエッリ侯爵夫人〕で、枢機卿S・C〔プロスペロ・スキアラ・コロンナのこと。一七四三年より枢機卿〕がもっぱらごきげんを取り結んでいた。
今夜はドンナ・ルクレツィアの家へ遊びに行こうときめていた日の朝、その夫が私の部屋へやってきて、家内に惚れていないことをわたしに証明するために、あまり顔を見せないようにしているのなら、それはまちがったやり方だといい、次の木曜日に家じゅうでテスタッチオへ軽い食事をしに行くのだが、いっしょに行かないかと誘った。そして、テスタッチオではローマにあるただひとつのピラミッドが見られること、細君が私の抒情小曲を暗記してしまったこと、義妹のドンナ・アンジェリカの許婚《いいなずけ》も詩人で、テスタッチオへ同行するので、ぜひ引き合わせたいことなどを話した。私は二人乗りの馬車で指定された時間に訪ねていくと約束した。
あの当時、ローマでは、十月の木曜日はいつもにぎやかであった。ドンナ・チェチリアの家では、その晩、テスタッチオ行きのことばかり話題になった。ドンナ・ルクレツィアも私と同様この遊びに期待をかけているように見えた。どういうわけだかわからなかったが、われわれは愛の女神に真心をささげ、その擁護をひたすら頼りにする気持だった。ふたりは互いに愛しあい、愛の確証を与えあうことができないのを嘆いていた。
そこで、親切なジォルジ神父がこの遊びの一件を人からきかないうちに、自分で報告しなければまずいと考え、思いきって許可をもとめに行った。彼はあまり気にもとめないようすを見せ、格別反対をする理由もあげなかった。そして、ぜひ行くがよい、おくゆかしい家庭的な遊びだし、それに、ローマを知るのは悪いことではない。ときにはまじめな気晴らしもよかろうといった。
私はロランというアヴィニョン人から借りた小形の馬車に乗って、きめられた時間にドンナ・チェチリアの家へ行った。このロランという男と知合いになったことは、あとで重大な結果をひきおこすが、それは十八年後に語ろう。美しい未亡人は未来の婿となるドン・フランチェスコを紹介した。文人たちの親友で、自分もすぐれた文学をものしているということであった。私はこの言葉をそのまま受け取り、敬意をこめて応待した。しかし、見ていると、どうも痴鈍なようすがあり、アンジェリカのような美しい娘をめとろうというギャラントな男にはふさわしくない態度を見せた。しかし、彼は正直で金持であった。それはしゃれた風采や豊かな学識よりもはるかにましである。
馬車へ乗るだんになると、弁護士は私の馬車に乗って私の相手をし、三人の婦人はドン・フランチェスコといっしょにべつの馬車に乗るというふうに取り計らった。そこで、私はあなたはドン・フランチェスコといっしょがいい、私はドンナ・チェチリアのお供をしよう、そうしないと、私の面目が台なしになるといった。私はこういいながら美しい未亡人に腕をかした。未亡人は私の取り極めを堅気な上流社会の規則にあっていると思った。ドンナ・ルクレッィアの目には賛成の色がうかがわれた。しかし、弁護士の提案には驚いた。彼はまえの話からすれば、細君を私の馬車に乗せるべきであることに気づいているはずだったからだ。≪彼は嫉妬しているのであろうか≫と私は考え、少しふきげんになった。しかし、テスタッチオへ行ったら、やつになすべきことを教えてやろうと心にきめた。
散歩をしたり、弁護士に軽い食事をふるまわれたりして、日の暮れまでなんとなくすぎていった。私はさきに立ってはしゃいだ。ルクレツィアにたいする私の愛は一度も話題にならなかった。私はドンナ・チェチリアにばかり気をくばって、しゃべりかけた。ドンナ・ルクレツィアには行きずりにちょっと言葉をかけるだけ、弁護士とはひとこともかわさなかった。私を罠《わな》にかけようとした彼の目算がはずれたことを思い知らせるには、これよりほかに手はないと考えたのだ。
それから、帰るために馬車に乗るだんになると、弁護士は私からドンナ・チェチリアを横取りして、すでにドンナ・アンジェリカとドン・フランチェスコの乗りこんでいる四人乗りの馬車へ連れていった。それで、私は気も遠くなるような喜びをおぼえながら、ドンナ・ルクレツィアに腕をかし、うやうやしく挨拶をした。弁護士は腹の底から笑いこけ、私にいっぱいくわせたのを得意になっているようだった。
もしも時間に追われていなかったら、われわれは愛情に身をまかせるまえに、どんなに多くのことを語りあっただろう。しかし、三十分しか余裕がないことを知りぬいていたので、たちまちのうちに一体となってしまった。私は幸福の絶頂におしあげられ、陶然と満足感に酔っていたので、「あら! どうしましょう、たいへんだわ!」という言葉がドンナ・ルクレツィアの口から出るのをきいて、びっくりした。彼女は私をおしのけ、服をなおした。御者が馬車をとめ、馬丁がドアをあけた。
「どうしたのです」と、私も身じまいをなおしながらきいた。「家へ着いたのよ」
あの一件を思いだすたびに、なんとなくお伽話じみた不思議な気がする。馬はまったくの駑馬《どば》だったとはいえ、時間をあれ以上切りつめることはできない。一瞬のことでしかなかったからだ。しかし、ふたつのことがわれわれにさいわいした。ひとつはあたりがもう暗かったこと、ふたつはわが天使がさきにおりる位置にあったことである。弁護士は馬丁がドアをあけると同時に昇降口へやってきた。女くらいすばやく身づくろいのできるものはない。だが、男は! もしも私が出口の近くにいたら、きっとボロを出してしまっただろう。彼女はゆっくりおりていった。いっさいはすばらしくうまく運んだ。私は夜中までドンナ・チェチリアの家にねばっていた。
それから、ベッドへはいったが、どうして眠れよう。心のなかはかっかと燃えさかっていた。テスタッチオとローマの距離があまりにも短かったので、胸の焔《ほのお》をそのもとをなすあの太陽へ心ゆくまで送りかえすことができなかった。それで、焔は私の五臓六腑を焼きただらせた。ヴィーナスの歓楽が互いに愛しあい、完全な和合に達した心と心から来るのでなければいうに足りないと信じているものは不幸なるかな!
[若い恋人たちを助ける]
私はレッスンに行く時刻を見はからってベッドからおりた。フランス語の先生にはバルバーラという美しい娘があった。レッスンへ行きはじめたころには、いつもその席に出ていた。そして、ときによると、自分でレッスンをつけてくれたが、父親よりもずっと正確であった。同じようにレッスンを受けに来ていた、眉目秀麗《びもくしゅうれい》の青年がいたが、それが彼女の恋人であった。私はふたりの間柄になんなく気がついた。その青年はよく私のところへ遊びに来たが、おとなしい男だったので、私も好意を寄せていた。十度も私は彼にバルバーラのことをいいだし、彼の気持をたしかめようとした。だが、彼はいつも話をそらせてしまった。そこで、私は彼の秘密を尊重することにし、数日まえからその話はぷつりともしなかった。ところが、青年は私のところにも、先生のところにも顔を見せなくなり、バルバーラも姿を消した。そこで、たいして興味をそそられたわけでもないが、事の成行きを知りたいと思っていた。
ところが、ある日、サン・カルロ・アル・コルソ寺院のミサから出ると、青年の姿を見つけた。私は彼のそばへ寄っていって、姿を見せなくなったのをなじった。すると、彼は悲しみに胸を裂かれ、頭も狂うばかりで、いまや絶壁のふちに立つ思い、絶望落胆の極にあると答えた。
そして、目に大粒の涙をうかべ、そそくさと別れていこうとした。私は彼を引きとめ、その苦しみを打ち明けてくれなければ、もう友だちだと思ってもらうわけにいかないといった。すると、彼は足をとめ、私を回廊のなかへ連れていって、こういう話をした。
「ぼくは六か月まえからバルバーラを愛してきた。三月まえには彼女も愛の確証を与えてくれた。ところが、五日まえの朝の五時ごろ、道ならぬ恋にふけっているところを、彼女の父親に見つかってしまった。彼は怒りをこらえて出ていった。あとを追っていって、その足もとにひざまずこうとすると、ぼくを戸口までひきずっていって、もう二度と足踏みをしてはならぬとどなりつけた。ふたりを破滅におとし入れたのは、下女の告げ口であった。ぼくは彼女を嫁にほしいと申し込むわけにもいかない。結婚している兄はいるし、父は金持でないし、ぼくには職もないのだから。それにバルバーラも無一物だ。ああ! こうして秘密を打ち明けたのだから、彼女がどうしているか教えてくれ。ぼくと同じように絶望しているにちがいない。ふたりは同じ気持なのだから。ぼくには手紙を渡すこともできない。彼女はミサにさえ行かないのだから。ああ、悲しい! どうしたらいいのだろう!」
私は彼を哀れむしかできなかった。体面上、この恋愛事件に介入するわけにいかなかったからだ。それで、五日まえから彼女の姿を見ないといったが、どう慰めたらいいかわからなかったので、こういう場合にすべてのばか者が与えるような忠告をした。つまり彼女を忘れてしまえとすすめたのだ。ふたりはリベッタ河岸で話しあったのだが、彼がティベル河の流れを見つめている狂ったような目つきから、絶望のあまり、とりかえしのつかないことをするのではないかと心配になってきた。そこで、父親にバルバーラのことをきいて、なにか消息を伝えてやると約束した。彼はその約束を忘れないようにと頼んだ。
テスタッチオでの遊楽以来、私は胸に情火をもやしていたが、それにもかかわらず、あれから四日、ドンナ・ルクレツィアに会わなかった。ジォルジ神父の温情がおそろしく、さらにまたもう忠告を与えまいと決心するのではないかと気がもめたのであった。
レッスンがすんでから、ドンナ・ルクレツィアを訪ねていった。彼女は自分の部屋にひとりでいた。そして、悲しげなやさしい声で、わたしに会いに来るひまもないはずはないといった。
「ああ! 心やさしい友よ! ぼくは時間がないのではない。ぼくらの愛をとても大事にして、表沙汰になるくらいなら死んだほうがいいと思っているのだ。ぼくはみなさんをフラスカティへ昼食にお呼びしようと考えているので、いずれ馬車を送ります。きっとふたりきりになれると思うから」
「では、そうしてください。だれもおことわりするものはないと思うわ」
十五分ののちに、家族がみんな集まってきた。そこで、私はいっさいの費用を持つから、次の日曜に出かけようといいだした。それはちょうどわが天使の末の妹と同じ名前の聖女ウルスラの日であった。私はドンナ・チェチリアに末娘や息子を連れていくように頼んだ。一同は承知した。私は四人乗りの馬車を正七時に門前へまわし、私は二人乗りの馬車で迎えに行くといった。
その翌日、ダラッカ氏のところでレッスンを終わってから、帰るために階段をおりていると、ひとつの部屋から他の部屋へ行こうとしていたバルバーラが私を見ながら手紙を落とした。そのとき下女があがってきたので、見られると困ると思って、手紙を拾わずにいられなかった。その手紙にはべつの手紙がはいっていたが、私へはこう書いてあった。
「もしも同封の手紙をお友だちへお渡しになるのを悪いことのようにお考えになったら、どうぞ燃やしてください。けれども、不幸な女をあわれみ、他言はご無用にお願いします」
同封の手紙は封がしてなく、次のような内容であった。
「あなたの愛がわたしの愛と同じなら、あなたもわたしなしで幸福に暮らせるとはお考えになっていないでしょう。わたしたちはこうして思いきってやってみた方法以外には、話しあうことも手紙をやりとりすることもできないのです。わたしは死ぬまであなたと運命をひとつにするためなら、どんなことでもかまわずにやってみるつもりです。どうか、よく考えて、おきめください」
私は娘の気の毒な境遇にすっかり同情してしまった。しかし、彼女の頼みをはたせなかったら、ゆるしを求める手紙を書いて、彼女の手紙を同封して返そうと、ためらうことなく心にきめた。そこで、そういう手紙をその晩書き、ポケットへ入れた。
翌日、それを彼女に渡そうとしたが、ズボンを変えていったので、家へ忘れてきてしまい、手紙がみつからず、翌日にのばさなければならなかった。それに、娘には出会わなかった。
しかし、その日、昼食をすました時分、例の気の毒な恋人が悲嘆にくれながら、私の部屋へはいってきた。彼は長椅子につっぷして、絶望の思いをあざやかな色合いでえがきだした。そこで、私は心配になり、ついにバルバーラの手紙を渡して、苦しみをやわらげてやるよりほかに手はないと思った。彼は直観でバルバーラが自分のことを忘れようと決心したことがわかるから、死んでしまおうと思うといった。そこで、私は彼に手紙を与えて、彼の直感はまちがいだと納得させようとした。これは私が心の弱さからこの宿命的な事件についておかした最初のあやまりであった。
彼は手紙を読み、読み返し、接吻し、涙を流し、私の首へとびついて、命を助けてくれたと感謝した。そして、しまいに、きみがねるまえに返事を持ってくる。恋人も自分と同じような慰めを必要としているにちがいないからといった。彼はけっしてきみの迷惑になるような手紙は書かないし、なんなら読んでもらってもいいといいきって帰っていった。
じっさい、彼が書いてきた手紙は、長文のものではあったが、永遠の変わらぬ愛を誓い、空想的な希望を述べたものでしかなかった。しかし、それにもかかわらず、私はこの事件の取持ち役になるべきではなかった。そのためには、きっとジォルジ神父は私のお節介に賛成しないだろうと考えればよかったのであろう。
翌日行ってみると、バルバーラの父親が病気だったので、さいわいにも娘が枕もとにつきそっていた。そこで、父親は娘をゆるしたのだろうと思った。彼女は父親のベッドからあまり遠ざからずに、私にレッスンをつけてくれた。私が恋人の手紙を渡すと、彼女はまっ赤になって、ポケットへねじこんだ。私は彼らにあしたは来られないといった。聖女ウルスラの祭日であったからだ。この聖女は処女で、王家の血をひく無数の殉教者のひとりであった。
[ルドヴィジの蛇]
枢機卿の夜会は几帳面《きちょうめん》に出席していたが、名士たちから言葉をかけられることもろくになかった。だが、その晩、枢機卿からそばへ来るようにと合図された。彼はあの美しいG侯爵夫人と話をしていた。すべての婦人たちのうちで私がいちばん美しいといったとガマ司祭が告げ口をした人である。
「奥方はフランス語をじつにおじょうずに話されるのだが、きみのフランス語は進歩したかどうかとお聞きになっているよ」
私はイタリア語で、だいぶならいましたが、まだ思いきって話すまでにはいっておりませんと答えた。
「思いきって話さなければいけませんよ。気どらずにね。そうすればだれからもなんともいわれませんよ」と、侯爵夫人がいった。
夫人は気がつかずにいったらしいが、私はこの「思いきって」という言葉をある意味にとらずにいられなかったので、顔を赤らめた。彼女はそれに気づいて、枢機卿とべつの話をはじめた。私はそっと抜けだした。
翌日、七時、私はドンナ・チェチリアのところへ行った。命じておいた四輪馬車は門前にとまっていた。往きはまえのときと同じ組合せで出発した。フラスカティへは二時間で着いた。
私の馬車はこんどはふたりが向かいあってすわるしゃれたもので、クッションがやわらかく、バネもよくきいていて、ドンナ・チェチリアはしきりにほめそやした。「ローマへ帰るときには、わたしの番よ」と、ドンナ・ルクレツィアがいった。私はそれを言葉どおりに受け取ったように、彼女に頭をさげてみせた。こうして、彼女は疑いをはらいのけるために、あえて攻勢に出たのであった。私は帰り道に十分楽しめると確信して、持ち前の快活さを発揮した。そして、金に糸目をつけずに料理を注文してから、ヴィラ・ルドヴィジへ案内されて行った。しかし、途中ではぐれるかも知れないというので、一時にレストランのまえで落ちあうことにした。つつましやかなドンナ・チェチリアは婿の腕をとり、ドンナ・アンジェリカは許婚の腕をとった。ドンナ・ルクレツィアは私と組になった。ウルスラは兄といっしょに駆けだしていった。十五分もすると、われわれはふたりきりになった。
「ねえ、聞いたでしょ、あたしがどんなに無邪気にあなたと差し向いで二時間すごすようにきめたか。これがほんとの水入らずね。恋はなんて賢いんでしょ!」
「そうだね、わが天使。恋はぼくらの頭をひとつにしてくれたのさ。ほんとにあんたが好きだよ。毎日あんたに会いに来ずに我慢してるのも、一日をゆっくり楽しむためなんだよ」
「こんなことができるとは夢にも思わなかったわ。なにもかもあんたのお膳だてなのね。あんたの年で、ほんとにえらいものだわ」
「ひと月まえには、わが心よ、ぼくはなにも知らなかったのさ。あんたはぼくに恋の神秘を教えてくれた最初の女だよ。きみが帰っていってしまったら、ぼくはどんなに不幸になるだろう。だって、イタリアじゅうにルクレツィアはひとりしかいないものね」
「なんですって! あたしがあんたの最初の恋人ですって! まあ! お気の毒に! じゃあ、恋の病いはなおりっこないわ! あたし、どうしてあんたのものじゃないのでしょ! あんたはあたしの心にも最初の恋人よ。きっと最後の恋人になるでしょうよ。あたしのあとであんたを愛する女はほんとに幸福だわ。あたし、焼いたりはしないけど、ただその人があたしと同じ気持をもちはしないだろうと思うとつらいのよ」
ドンナ・ルクレツィアは私の涙を見て、自分もあふれるほど涙を流した。芝生のところへ行くと、ふたりは腰をおろして、ひしと唇を合わせた。涙が唇へ流れてその味をあじわわせた。昔の医者は涙は甘いといったが、たしかにそうだ、誓ってもいい。いまの医者はくだらない饒舌家にすぎない。われわれは接吻が恋する魂からしぼりだす甘露と融けあった涙を心ゆくまで飲みほした。そして、一体となった。少し気持が落ちついたとき、とりみだした彼女のうっとりするような姿を見ながら、だれかに見られるかもしれないというと、
「だいじょうぶよ。あたしたちの守護神がまもってくださるわよ」と、彼女はいった。
最初の短いいどみ合いのあとで、じっと静かにしていた。物もいわずに互いに顔を見合わせ、新しい力のわいてくるのを待っていた。そのときルクレツィアが右手を見て、
「ねえ、あたしたちの守護神がまもってくださるといったでしょ。ああ、あんなにあたしたちを見てるわ! あたしたちを安心させようとしてるのよ。あの小さな魔物を見てごらんなさい。あれこそ自然のなかでいちばん秘密なものよ。あれを見てごらんなさいよ。きっとあんたの守護神よ。それともあたしのかしら」
彼女は気がくるったのかと思った。
「なにをいってるの、天使よ。全然わからないね。なにを見ろっていうの」
「あのきれいな蛇が見えないの。皮がきらきら光って、鎌首をもたげて、あたしたちに見とれているようだわ」
そこで、彼女が見つめているほうを見ると、玉虫色にひかる一オーヌ(一メートル)ほどの蛇が、じっさいわれわれを見つめていた。それはあんまりいい感じではなかった。が、意地をはって、彼女よりも度胸のないようなようすを見せたくないと思った。
「あれを見て、こわくないの、かわいい友よ」
「あの姿はうっとりするようだわ。あの守護神はきっと蛇の姿をしているだけなのよ」
「だが、きみのところまで、しゅうしゅう音をたてながらはってきたら」
「あんたをもっとつよく胸に抱きしめるだけだわ。そして、あたしに害をしないようににらんでやるわ。ルクレツィアは、あんたの腕に抱かれていれば、なにもこわいものなんかないわ。あら、いっちゃったわ。早く、早く。あの蛇が姿を消したのは、俗人が近づいてくるから、ほかの芝生へ行って楽しみをやりなおせっていってるのよ。早くおきて、身なりをなおしなさいよ」
起きあがると、われわれはゆっくり歩きだした。そして、隣の小径からドンナ・チェチリアが弁護士といっしょに出てくるのに出会った。私は自然に出会ったときのように、彼らを避けようともせず、格別いそぎもせずに近づいていって、ドンナ・チェチリアにお嬢さんは蛇をこわがるかどうかときいた。
「この子は、しっかりした気性なのに、雷さまをこわがって気絶するくらいですし、蛇を見ようものなら、金切り声をあげて逃げだす始末ですわ。ここにも蛇がいますね。でも、この子がこわがるのはまちがっていますよ。毒がないのですからね」
私はゾッとした。この言葉は恋の奇跡を目のあたり見たことを立証したからである。そこへ子どもたちがやってきたので、私たちはまたそのまま別れていった。
「まったく、きみには驚くね。もしもあの最中にご主人とお母さんがひょっくり現われたら、どうするつもりだったの」
「どうもしないわ。ああいう神聖なときには、恋だけしかないってことをご存じないの。あんたはあたしをすっかり自分のものにしたと思えないんですの」
若い女の言葉は自分でも気づかぬうちに、一篇のオードになっていた。
「きみはだれもぼくらのことを疑っていないと信じてるの」
「主人はあたしたちが恋しあっていると思っていないし、若い連中がいつも話しあう恋だの愛だのって話は、てんで問題にしていないわ。母は頭がいいから、きっと気がついてるでしょう。けれど、自分のかかりあうことじゃないと思ってるのよ。かわいい妹のアンジェリカはなにもかも知ってるわ。だって、あのベッドをおしつぶした一件は、忘れっこありませんからね。けれど、あの子は用心ぶかいし、それに、あたしを可哀そうに思ってるのよ。でも、あの子にはあたしの情熱がどんなものだかわかっちゃいないわ。あたしだって、あんたとこうならなかったら、恋ってどういうものか、死ぬまで知らなかったでしょうからね。だって、主人にたいしては妻として持つべき好意しか感じたことがないのですもの」
「ああ、きみのご主人はすばらしい特権を持ってるんだね。それを思うと、ぼくは焼けてくるよ。ご主人は気の向いたときには、いつでもきみの美しい身体を抱けるんだからね。布一枚でも、官能や目や心が楽しむのをさえぎるものがないんだからね」
「いとしい蛇よ、どこにいるの。あたしの番兵に出てきておくれ、そうしたら、すぐに恋人を満足させてあげるのだから」
ふたりはこうして、互いに熱烈な愛を語りあったり、人目につく心配がないと、どこででも愛の契りをかためあったりして、午前中をすごした。
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絶えまなく愛のくびきをになえども、欲望に疲れはつることまったくなかりき。
(アリオスト『狂乱のオルランド』)
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[迷宮の芝生のベッド]
昼食は手のこんだうまい料理ばかりだったが、そのあいだ私は心をこめてドンナ・チェチリアの世話をした。私のスペイン煙草《たばこ》がうまかったので、きれいな煙草入れがなんども食卓を一巡した。それが私の左側にすわっていたドンナ・ルクレツィアの手に渡ると、彼女の夫は指輪と交換にいただいておいたらいいといった。指輪のほうが安いと思って、「けっこうです」といったが、実際には指輪のほうがずっと高かった。ドンナ・ルクレツィアはそんなことにはおかまいなく、煙草入れをポケットへねじこんで、指輪をくれた。しかし、指輪が小さすぎたので、私もそれをポケットへしまった。
デザートも終りのころ、話に熱がはいってきたとき、アンジェリカの許婚がわれわれに沈黙をもとめてポケットから十四行詩をとりだした。私の名誉と光栄のために、頭をしぼってつくったのだそうだが、それを朗読しようというわけ。みんなが喝采した。私は余儀なくあつく感謝して、十四行詩をもらい、ポケットにおさめて、いつかお返しをしようと約束した。彼は私が競争心をかきたてられて、その場で返歌を物するために、書くものを求め、三時間を愚にもっかないアポロ相手に彼とともにすごすものと思っていたらしい。だが、私にとっては、その三時間は愛にささげた貴重な時間だった。コーヒーがすみ、勘定をすっかりすませると、われわれはばらばらになって、アルドブランディニのヴィラの迷宮のなかへはいっていった。
「ぼくのルクレツィア、ぼくはいまはじめてきみといっしょに恋の快楽《けらく》のなかへ分けいるような気がするよ。だが、この気持がどこから来るのか、きみの愛の洞察力で説明してくれないか」と、私は彼女にいった。「早くヴィーナスの祭壇の見える場所を捜しにいこう。そして、たとえ蛇が姿をあらわさないでも、死ぬほどにまで愛の女神にお供物をささげよう。たとえ法王がすべての枢機卿を引きつれてやってきても、動くことじゃない。きっと法王猊下もぼくらに祝福を与えてくれるだろう」
われわれはいく曲りかしたあとで、上を梢《こずえ》におおわれた、かなり長い小径にはいった。その奥の半分はいろいろの形の芝生の椅子がいっぱいちらばる部屋になっていた。そのひとつに、とくに目をひくものがあった。それはベッドの形をしていた。ふつうの長枕のほかに、もうひとつ二クーデ(約一メートル)ばかりはなれて四分の三ほど低いべつの長枕があり、大きいのと平行にベッドを横切っていた。われわれは笑いながらそれをながめた。誘いかけるようなベッドであった。そこで、まず寝心地をためしてみようという気になった。そのベッドの正面には広大な人影もない平野がひらけていた。兎《うさぎ》一匹見つからずに近よることはできまい。ベッドのうしろの小径は近づきがたく、左右の端が同じ距離に見えた。だれでも、この小径へはいったら、走らずには、十五分でここまでくることができないだろう。ここ、デュコフの庭園でも、同じ趣向の場所を見たが、ドイツの庭師はベッドのことを考えなかった。この好都合な場所では、お互いの気持を伝えあう必要なんか少しもなかった。ふたりは互いに向かいあって、真剣な顔で立ち、目と目をじっと見かわした。それから、胸をときめかせながら、紐をとき、ボタンをはずした。すばやく手をはたらかせて、いらだつ思いを早くみたそうといそいだ。こうしてさきをきそって支度をすると、互いに奪おうとする相手をがっきと抱きしめるために、ふたりの腕が大きく開いた。最初のいどみ合いは美しいルクレツィアを笑わせ、頭のいいものはそつがないから、どんなところでもやりそこなうことはないといった。そして、小さい長枕の心地よさを賛美した。われわれのいとなみはそれからいろいろに変わった。いずれもみなこころよいものであったが、すぐにそれをやめて、ほかの仕方に移った。二時間ののち、ふたりはひしと抱きあい、満ち足りたおだやかなようすで、お互いの顔を見つめながら、「愛の神よ、ありがとう」という貴重な言葉をいっしょに口にした。
ドンナ・ルクレツィアは私の敗北を物語るあきらかなしるしへ、感謝のこもった眼差《まなざし》をすべらせると、笑いながら悩ましげに接吻をした。しかし、その接吻で私がまた息を吹きかえしたのを見ると、「もうたくさんよ、もうたくさんよ、最後の勝利はおあずけよ。さあ、服を着ましょう」とさけんだ。われわれはそれからいそいで服をつけはじめたが、目は自分を見るかわりに、見とおせないヴェールがあくなき情念からかくしていくものへとそそがれた。すっかり服をつけてしまうと、恋の歓楽の邪魔物をいっさい遠ざけてくれたことを、愛の神に感謝するために灌祭《かんさい》をささげようと意見が一致した。ちょうど騾馬《らば》の背のように盛りあがった、長くて狭い、寄り掛りのない椅子があったので、期せずしてそれへまたがることにした。いどみ合いがはじまり、力づよく行なわれたが、なかなか手間どるし、灌祭もあぶなっかしいと見てとったので、少し延期して、馬車へ乗ってから、夜の闇のなかで、四頭の馬の蹄《ひづめ》の音を聞きながら、ささげることにした。
それから、ゆっくりと馬車のほうへ歩いていった。語りあうことはまったくとけあった恋人同士の打明け話であった。彼女の話だと、未来の義弟は金持で、ティヴォリに家を持っているので、そこへひと晩どまりで遊びにいくように誘うだろうということであった。彼女はそのひと晩をどうしたらふたりだけですごせるか、その方法を教えてくれるように愛の神に頼もうと考えていた。だが、しまいに、夫のやっている宗教上の裁判がうまくいっているので、まもなく判決がおりるのではないかと、悲しげに話した。
馬車のなかでの二時間は奇抜な喜劇を演じるのにつかった。芝居はまだ終わらなかったが、家のまえへ来たので、幕をおろさなければならなかった。もしも私が二幕にわけてやろうなんて気まぐれをおこさなかったら、大団円までもっていけただろう。私は少し疲労をおぼえながら別れをつげた。しかし、ひと晩ぐっすり眠ると、すっかり元気が回復し、翌日はきまった時刻にレッスンを受けに行った。
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第十章
[枢機卿の夜会]
レッスンをつけてくれたのは、バルバーラであった。父親の容態がひどく悪かったからである。帰りがけに、彼女は私のポケットへ手紙をねじこみ、ことわるひまもくれずにすばやく逃げていった。それももっともだが、手紙はことわられるようなものではなかった。私自身に宛てたもので、強い感謝の気持で書いてあった。彼女はその手紙で、父親が口をきいてくれるようになったことと、病気がなおったらべつの下女を雇うらしいということを恋人に伝えてほしいと頼んであった。そして、最後に、けっしてあなたにご迷惑はかけないと誓っていた。
父親は病気のために二週間もぶっとおしで床についていなければならなかったので、彼女がレッスンをつけてくれた。彼女は私に興味を与えたが、それは美しい若い娘にたいするいままでの気持とはまったくちがった新しい感情であった。いわば憐憫《れんびん》の情で、彼女がそれをあてにしているのをはっきりみて、私は内心得意であった。しかし、彼女の目は私の目といきあったこともなく、彼女の手は私の手と出会ったこともなく、彼女のお化粧には私からかわいく思われようと気をつかっているようすがまったく見られなかった。しかし、こういうことに気づいても、私は名誉心と誠意とから義務づけられていると思われることをせずにいなかった。彼女が私を弱味につけこんであくどいことのできる男ではないと思っているのが、愉快であった。
父親は病気がなおるとすぐ、まえの下女を追い出して、新しい下女をやとった。彼女はこのニュースを恋人に伝え、少なくとも手紙をやりとりできるように、新しい下女を味方につけようと思っていると知らせてほしいと私に頼んだ。かならず伝えようと約束すると、私の手をとって接吻しようとした。しかし、私がその手をひっこめて、接吻を与えようとする身ぶりを見せると、彼女は赤くなって顔をそむけた。私はそれをかわいいと思った。私はニュースを恋人に伝えた。彼は下女と話しあい、うまく味方につけた。そこで、私は彼らの情事にかかりあうのをやめた。悪い結果に終わることが、はっきりわかっていたからだ。だが、不幸はすでに始まっていた。
ドン・ガスパールの邸へはあまり行かなかった。フランス語の勉強でそのひまがなかったのである。しかし、ジォルジ神父のところへは毎晩行った。神父の懇意な知合いという資格でしかなかったが、それが私の評判を高めていた。そこでは私はほとんど口をきかなかったが、退屈はしなかった。人々は悪意のこもらない批判を行ない、政治や文学を論じたので、教えられるところが多かった。この賢明な僧侶の修道院から出ると、主人の枢機卿の盛大な集まりへ行ったが、行かなければならない理由があったのである。
会合のたびに、G侯爵夫人はトランプをしているテーブルのそばに私を見かけると、いつも二言三言フランス語で話しかけた。それにたいして私はイタリア語で答えた。人前で彼女を吹きださせるようなことをしてはならないと思ったからだ。まことに不思議な感情だが、これは読者のご明察にまかせよう。私は彼女を非常に魅惑的だと思ったが、わざと避けていた。彼女に恋するのをおそれたからではない。ルクレツィアを愛していたので、そんなことは不可能だと思っていた。しかし、じつは彼女が私に恋するか、異常な興味をおぼえるかするのをおそれたのである。それは自惚《うぬぼ》れだろうか、遠慮だろうか。悪徳だろうか、美徳だろうか。≪アポロの神よ、解決を見いだしてください≫彼女はそばに立っていたガマ神父に命じて、さらに私を呼ばせた。彼女のそばには私の主人とS・C枢機卿がはべっていた。そばへ行くと、彼女は思いがけなくイタリア語で話しかけて私を驚かせた。
「フラスカティはお気にめしまして」
「はい、たいへん気に入りました。奥方さま。あんな美しいところを見たのは、生まれてはじめてでございます」
「でも、お連れの方はもっと美しく、あなたの馬車はたいへんおりっぱでしたわね」
私は返事のかわりにうやうやしく一礼した。一分ののち、アッカヴィーヴァ枢機卿が親切そうにいった。
「わしらが知っているのに、驚いただろうね」
「いいえ、猊下《げいか》、しかし、あんなことがみなさまの話題になるのを驚いておるのです。ローマがそんなに狭いとは思いませんでした」
「ローマに長くいればいるほど、狭く思われるよ」とS・C枢機卿がいった。「きみはまだ法王さまのおみ足へ接吻しに伺候してはいないのかね」
「はい、まだです、猊下」
「伺候せねばいかんよ」と、アッカヴィーヴァ枢機卿がいった。
私はうやうやしく頭をさげて、それに答えた。
会合から出たとき、ガマ神父があしたまちがいなく法王のところへ伺候しろといった。
「きみはG侯爵夫人のところへ顔出ししているのだろうね」
「とんでもない、一度もうかがったことがありません」
「そりゃ驚いた。だが、あの方はきみを呼んで、話しかけたじゃないか」
「では、ごいっしょに行きましょう」
「わしは行ったことがないよ」
「でも、あなたにお話になってたじゃありませんか」
「うん、だがね……きみはローマというところを知らないのだ。ひとりで行きなさい。行かなければいかんよ」
「でも、入れてくれるでしょうか」
「冗談じゃない。案内を乞う必要もないだろう。夫人のいる部屋のドアが左右に大きくあいていたら、はいっていきたまえ。ごきげんうかがいの連中が山と集まっているだろう」
「会ってくださるでしょうか」
「そんな心配はないよ」
[法王の聖なる上靴]
翌日、モンテ・カヴァロへ行った。そして、まっすぐに法王のお部屋へはいった。通ってもよい、おひとりでいらっしゃるといわれたからだ。私は≪いとも聖なる上靴≫の上に刺繍された≪いとも聖なる十字架≫に接吻した。法王はだれであるかとおききになったので、こうこういうものでございますと申しあげると、それなら知っておるとおっしゃって、ああいう有力な枢機卿のところに勤めているのは幸福だと喜んでくださった。それから、どういう経緯《いきさつ》であの枢機卿に仕えるようになったのかとおききになったので、マルトラーノへ到着したときからはじめて、ありのままを申しあげた。法王は司教について申しあげたことをたいへん笑われてから、むりにトスカナ語で話さなくてもよい。わしがボローニャ語で話しているように、ヴェネチア語で話すがよいとおっしゃった。私がいろいろのことを申しあげたので、きみの話はたいへんおもしろいから、いつでも会いに来いとおおせられた。そこで、すべての禁書を読む許可を求めた。法王は祝福によって許可を与えてくだされ、いずれ許可証を送るとおっしゃったが、忘れておしまいになった。
ベネディクト十四世は学者で、しゃれがじょうずで、とても愛想がよかった。二度目にお言葉をたまわったのはヴィラ・メディチであった。私を近くへお呼びになって、四方山《よもやま》の話をなされた。アンニバレ・アルバニ枢機卿とヴェネチアの大使がいっしょだった。そこへいかにも謙虚そうな男が近づいてきた。法王がなんの用かとおききになると、その男は小声でなにかいった。法王はじっと話をおききになってから、そなたのいうとおりだ、神さまにおすがりしなさいとおっしゃった。そして、祝福をお与えになった。その男は悲しげなようすで立ち去った。法王はさらに散歩をおつづけになった。
「あの人は法王さまのご返事に満足していないようでございますね」
「なぜだね」
「法王さまへおうかがいに来るまえに、もう神さまにおすがりしたようですが、また神さまへおすがりしろと法王さまからおっしゃられたのですから、諺《ことわざ》で申します≪ヘロデ王からピラトゥスへ送られる≫というわけでございます」〔この諺は「フライパンからとびだして、火のなかにおちる」ともいう。どちらにも救いがもとめられないという意味〕
法王は吹きだした。ふたりの連れも誘われて笑いだした。だが、私はにこりともしなかった。
「わしは神さまのご援助に価せぬことはなにもできぬのだ」と、法王さまはおっしゃった。
「ごもっともでございます。しかし、あの人は法王さまが天主さまの第一の代理でいらっしゃることを承知しております。ですから、また天主さまのところへ送りかえされて、いまどんなに困っているか想像がつきます。あの人にはもはやローマの乞食どもにお金をやりにいくよりほかに策が残っていないのですからね。乞食どもに一バイオッチョやると、みんなあの人のために神さまにお祈りし、貧者の功徳《くどく》を自慢するでしょう。しかし、わたくしは法王さまのご功徳しか信じたくありません。ですから、精進料理をご免除いただいて、ひりひりする目の炎症をまぬがれたいのでございます」
「では、肉を食べてもよろしい」
「いとも聖なる法王さま、どうぞお祝福を」
法王は断食の免除は与えぬぞとおっしゃりながら、祝福を与えてくださった。
その晩、枢機卿の夜会へ出ると、法王と私との対話が噂にのぼっていた。それで、みんな私と話をしたがった。私をもっとも楽しませたのはアッカヴィーヴァ枢機卿の顔に隠しきれない喜びがうかがわれたことであった。
それから、ガマ神父の忠告をおろそかにせずに、だれでも訪ねていける時刻にG夫人の邸を訪れた。そして、夫人の顔を見、彼女の枢機卿を見、多くの司祭たちを見た。しかし、私はまるで隠れ蓑《みの》でも着ているような気がした。夫人が一瞥《いちべつ》も与えてくれず、だれも言葉をかけてくれなかったからである。そこで、三十分ばかりして帰ってきた。ところが、それから五、六日して、夫人は気高い優雅なようすで、あなたを先日わたくしの客間でお見かけしたといった。
「しかし、お目をとめていただく光栄にあずかるとは思っておりませんでした」
「まあ、わたくし、どなたにでもお会いしますわ。人さまのお話では、あなたはたいへん才気がおありのようですが」
「そういうことを申しあげた人々が、才気というものをよくご存じでしたら、とても嬉しいことをお知らせいただいたわけです」
「そうですよ、あの方々はよくご存じですわ」
「けれど、一度もわたしと話したこともないのに、なぜそういうことがわかるのでしょう」
「それもそうですね。とにかく、ときにはわたくしの宅へもいらっしゃい」
私のまわりに小さい輪ができた。S・C枢機卿は侯爵夫人がフランス語で話しかけたときには、じょうずでもへたでも、同じ言葉で返事をしなければならないといった。世故《せこ》にたけたガマ神父は私をわきへ呼んで、きみの返事は辛辣《しんらつ》すぎるから、しまいに人から嫌われると注意してくれた。
フランス語はかなり上達したので、もうレッスンを受けに行かなくなった。あとは練習で言葉の使い方を覚えればそれでいい。ドンナ・ルクレツィアのところへは、午前中にときどき行った。そして、晩はジォルジ神父を訪ねた。神父はフラスカティへ遊びに行ったことをもう知っていたが、べつに叱言もいわなかった。
侯爵夫人からごきげんうかがいに来いという命令みたいなものがあったので、二日後に彼女の客間を訪れた。私を見ると、彼女はにっこり微笑した。私は謝意を表すべきだと思って、深くお辞儀をした。しかし、それだけであった。十五分ばかりたつと、彼女はトランプをはじめたので、私は昼食に帰った。彼女は美しく、ローマ随一の権力者であったが、その足もとにはいつくばる気にはなれなかった。ローマのしきたりがやりきれなかった。
十一月の末ごろ、ドンナ・アンジェリカの許婚《いいなずけ》が弁護士といっしょにやってきて、フラスカティへ招待したときと同じメンバーで、ティヴォリの自分の家へ一日ひと晩遊びに来てほしいと申し入れた。私は喜んで承諾した。聖女ウルスラの日以来ドンナ・ルクレツィアと一瞬でもふたりきりになれたことが一度もなかったからだ。そして、定められた日の夜明けに馬車でドンナ・チェチリアの家へ訪ねていくと約束した。ティヴォリはローマから十六マイルもあったし、見物すべきものが多く、時間を要したので、できるだけ早く出発しなければならなかったのだ。ひと晩外泊しなければならなかったので、枢機卿へじかに許可をもとめた。枢機卿はだれと行くのかと聞いて、そういう機会をとらえて、りっぱな人々とあの有名な名勝を見てくるのは、たいへんよいことだとゆるしてくれた。
[ティヴォリの神聖な夜]
定めの時刻に、まえと同じ四頭立のふたり乗りの馬車をドンナ・チェチリアの門前へ横づけにした。こんどもまた同じように彼女と同席することになった。この愛すべき未亡人は風儀の正しい人であったが、私が自分の娘を愛するのをたいへん喜んでいた。他の家族はすべてドン・フランチェスコの借りた六人乗りの馬車へ乗りこんだ。七時半にある小さいレストランで足をとめた。ドン・フランチェスコがしゃれた朝食をふるまった。それは昼食兼帯だったが、十分だった。ティヴォリでは食事をするひまがなさそうだったからである。こうしてうまい朝食で腹をふくらませてから、また馬車に乗り、十時に彼の家へ着いた。私はドンナ・ルクレツィアのくれた指輪を自分にあうようにひろげさせて、指にはめていた。しかし、その表にべつの珠をひとつつけさせた。それは七宝の地の上に一匹の蛇が輪をなしているものであった。蛇はギリシャ文字のアルファとオメガのあいだにはさまれていた。この指輪は朝食のあいだじゅう話題になった。というのも、裏にドンナ・ルクレツィアの指輪と同じ石がついているのに気がついたからである。弁護士とドン・フランチェスコはこの象形文字の謎を解こうとして頭をしぼった。それはすべてを知っているドンナ・ルクレツィアをおおいに楽しませた。
ドン・フランチェスコの家を見るのに三十分かかった。まさに宝石ともいいつべき家であった。それからみんなそろってティヴォリの古跡を見に行ったが、たっぷり六時間かかった。ドンナ・ルクレツィアがドン・フランチェスコになにかいっているあいだに、私はドンナ・アンジェリカにあなたがこの家の主人になられたら、よい季節のあいだお姉さまといっしょに二、三日とまりがけで来ますよと小声でささやいた。すると、彼女は、
「けれど、わたしがここの主人になったら、門前払いをくわせる第一のお方はあなたですのよ」と、答えた。
「お嬢さま、まえもってお知らせいただいて、まことにありがとうございます」
おもしろいのは、この無作法な言葉を私が非常に美しくまたはっきりした愛の告白と受け取ったことである。そして、茫然《ぼうぜん》と立ちすくんだ。ドンナ・ルクレツィアは私をこづいて、妹がどんなことをいったのだときいた。そして、話の模様を知ると、
「あたしが向うへいったら、あの子に自分のあやまりを思い知らせてやってちょうだい、あの子はあたしのことあわれんでいるのよ。あたしの代りにかたきをうってちょうだい」といった。
オレンジ畑に向かった小さい部屋をほめたら、ドン・フランチェスコはそれではここにお休みくださいといった。ドンナ・ルクレツィアは聞こえないふりをしていた。ティヴォリの美景をみんなで見に行かなければならなかったので、その日はふたりきりになることは期待すべくもなかった。景色を嘆賞するのに六時間かかったとまえにいったが、私はろくに見なかった。もしも読者が実地に行かずにティヴォリについてなにか知りたいと思ったら、カンパニャーニを読むがいい。私がティヴォリをよく見たのは、二十八年後にしかすぎなかった。
夕方、疲れきって、空腹に死にそうになりながらもどった。食卓へつくまえの休息の一時間、食卓の二時間、上等な料理とすばらしいティヴォリの葡萄酒、それらはすっかりわれわれの元気を回復し、もはや眠るためか、もしくは愛をことほぐために、床につくことしか考えなかった。
だれもひとりでねようというものがなかったので、ドンナ・ルクレツィアが、わたしはアンジェリカとオレンジ畑に向かった部屋にねるから、夫は若い司祭と、幼い妹は母親といっしょにねたらいいと提案した。この割振りはみんなから賛成された。そこで、ドン・フランチェスコは蝋燭《ろうそく》を持って、私を例の小部屋へ案内し、ドアの閉め方を教え、お休みなさいをいって出ていった。その小部屋はふたりの姉妹がねるはずの部屋と隣りあっていた。しかし、アンジェリカは私が隣の部屋にねることを全然知らなかった。
五分ばかりたってから、鍵穴からのぞいてみた。手に燭台を持ったドン・フランチェスコが親切そうにふたりを連れてはいってきて、夜のランプをつけると、お休みなさいをいって出ていった。美しいふたりは鍵をしめると、長椅子に腰をおろして夜の化粧にかかったが、それはこのよい季節には、われらがはじめの母の化粧のようであった。ルクレツィアは私が聞いているのを知って、妹に窓のほうへねなさいといった。うらわかい乙女は見られているのを知らずに、シュミーズまでぬいで、悩殺的な姿勢で部屋の向う側へ行った。ドンナ・ルクレツィアは蝋燭とランプを消し、ベッドへはいって、けがれなき乙女のそばへ身を横たえた。
二度と期待できない幸福な瞬間だ。そのいとしい思い出は、死をもってしか消すことができまい。私はあのときほど手ばやく服をぬいだことがない。そして、ドアをあけ、大きく開かれたルクレツィアの腕のなかへとびこんだ。ルクレツィアは妹に「あたしの天使よ、黙って、お休みなさい」といった。
彼女はそれ以上になにもいえなかった。ひしと合わされた口と口は、ものをいう器官でも、息をとおす通路でもなくなった。ふたりはたちまち一体となって、一分間も第一の欲望をおさえる力がなかった。接吻の音もさせず、身動きもさせないで、欲望はクライマックスに達した。はげしい情火にあおられて、無我夢中になった。もしもその情火をおさえようとしたら、たちまちわれわれを燃やしつくしたかもしれない。
短い休止のあとで、われわれは巧妙な愛の達人として、またしても動脈にうずきだした情念をおさえながら、ものもいわず、まじめに、物音もさせず、最初の射精のおびただしい洪水を拭ききよめた。ふたりはこの神聖な仕事を、上質の布で、宗教的な沈黙をまもりつつ、敬虔《けいけん》な気持ではたした。この涜罪が終わると、ふたりはぬらしたあらゆる箇所へ、こもごも接吻をふらせて敬意を表した。
次に私はふたたび戦闘を開始するように美しい戦士をまねいた。そのかけひきは愛の神しか知らないものだ。この闘争はあらゆる官能を魅惑するが、欠点といえば、あまりにも早く終わることだけである。しかし、私はそれを引きのばす術にたけていた。最後に、眠りの神がわれわれの感覚をうばい、暁の光がさしそめるまで、なごやかな死のなかにしずんだ。しかし、暁の光は目をあくやいなや、まったく新しい欲望の無限の泉をみとめさせた。ふたりはすぐその欲望に身をまかせたが、それは欲望を圧殺させるためであった。うるわしい圧殺。これは欲望を十二分に満足させなければ、とうてい達成されないことであった。
[ドンナ・アンジェリカ]
「おお、ぼくのルクレツィア、きみの恋人はとてもしあわせだよ。だが、妹さんに気をつけなさいよ。こっちへ寝返りをうって、ぼくらを見てしまうかも知れないから」
「いいえ、妹はとても気がきくのよ、あたしを愛しているし、あわれんでくれているの。ねえ、そうでしょう、アンジェリカ。こっちを向いて、ヴィーナスの神につかまっている姉さんを見てごらんなさい。さあ、こっちを向いて。あんたが恋の奴隷になったとき、どんなことが待っているか、よく見ておくのよ」
アンジェリカは十七歳の娘で、さだめし地獄のような一夜をすごしたにちがいないが、姉をゆるしたしるしを見せるために振りむく理由をとらえるには、願ってもないチャンスだった。彼女は姉に何度も接吻して、ひと晩じゅうまんじりともしなかったと告白した。
「あたしを愛し、あたしも夢中になって愛している恋人をゆるしてやってね。さあ、この方をごらん、それからあたしをごらん。あたしたちは七時間まえとおんなじよ。これが恋の神のお力なのだわ!」
「ぼくはアンジェリカから憎まれているので、どうも……」
「いいえ、憎んでなんかいないわ」と、アンジェリカがいった。
ルクレツィアは妹を抱いてやってほしいといって、私の上をとびこえた。そして、妹が少しも抵抗する気配を見せずに、私の腕のなかで悩ましくあえぐのを心地よげにながめた。しかし、私は愛情ばかりでなく人情からしても、ルクレツィアに感謝をささげるべき身でありながら、その目のまえで彼女を裏切るのはゆるされることではない。そこで、夢中になってルクレツィアにいどみかかった。そういううるわしい闘争をはじめて見るアンジェリカが茫然と目を見はっているのは、見るからに楽しかった。ルクレツィアは息もたえだえになって、やめてほしいといった。しかし、私が頑として聞き入れないのを見て、私を妹のほうへはねとばした。妹は私をおしのけるどころか、ひしと胸に抱きしめ、ほとんど私が手伝う必要もなく幸福になりそうなようすであった。神々がこの地上に住んでいられたころ、西風の甘くやさしい息吹に恋した多情の女アナイデイアがその息吹に両腕をひらいて身ごもったのも、これと同じであった。それは神なるゼフィロス(西北風)であった。自然の情火にあおられたアンジェリカはどんな苦痛もはねのけて、激しい欲望を満足させる喜びを感じるだけであった。
ルクレツィアはこれを見て、驚きかつ喜び、われわれふたりに接吻をあびせたが、妹がたえ入るのを見て有頂天になってしまった。が、また私がそれでもやめずにつづけているのを見て、うっとりと感にたえない面持であった。そして、私の額にしたたる汗の滴《しずく》をふいてくれた。アンジェリカはついに三たびうっとりと正気を失った。その可憐な姿は見るからに私の心をうばった。
窓のすきまから陽の光がさしこんできたので、私はふたりと別れて、自分の部屋にもどり、ベッドにはいった。だが、ほどなく弁護士の声が聞こえ、妻と義妹に朝寝坊の叱言をいった。彼は次に私の部屋のドアをたたき、私がまだシャツのままでいるのを見て、隣の女どもを押しかけさせるぞとおどかした。そして、床屋をよこすといい置いて出ていった。私はふたたびドアをしめ、冷たい水で丹念に身体を洗って、どうやらいつもの姿にもどった。一時間後に客間へはいっていったが、もはやなんの気配もとどめなかった。わがものとしたふたりの美人の顔がいきいきとして花の匂うばかりだったので、とても嬉しかった。ドンナ・ルクレツィアはなんのこだわりもなくふるまい、アンジェリカはいつもより快活で、明るい顔をしていた。しかし、なんとなくそわそわと落ちつかず、右に左に顔をそむけたので、横顔しか見ることができなかった。まともに彼女の目を見ようとしても、どうしても見せまいとするので、私はドンナ・チェチリアにお嬢さんは白粉をつけているが、それはかえってよくないといった。母親はこの悪口にだまされて、私に彼女の顔へハンケチをかけさせた。それで、彼女は私を見た。私は彼女に詫《わび》をいい、まえの言葉をとりけした。ドン・フランチェスコは未来の妻の肌の白さがこういう問答をひきおこしたと思って悦に入った。
朝食をすませてから、りっぱな庭を見に行った。途中でドンナ・ルクレツィアとふたりきりになったので、彼女の残酷さを非難した。すると、彼女は女神のような態度で私をにらんで、私の忘恩を責めた。
「あたしを責めることなんかないわ。ほめてもらいたいほどなんですからね。あたし、妹の心に明りをつけてやったのよ」と、彼女は答えた。「楽しい恋の神秘の手ほどきをしてやったのよ。あの子は私をあわれむどころか、いまではあたしをうらやんでいるにちがいないわ。そして、あんたを愛し、じきにお別れしなければならないのを悲しんでいることでしょうよ。あたし、出発も間近いので、妹をあんたに残していくわ。あたしのかわりをすることよ」
「だが、どうしてぼくはあの人を愛せよう」
「かわいい子じゃなくて」
「そりゃかわいいけど、ぼくはすっかりあんたの魅力にとらわれてしまっているので、ほかの女に目をくれる気持なんかないよ。それに、いまではドン・フランチェスコだけがあの子を独占すべきで、ふたりのあいだを冷たくさせたり、家庭の平和をかきみだすようなことはつつしまなければいけない。なおまた、妹さんはあんたとはちがった性質だと思うね。ゆうべはあの子もぼくと同様に官能の犠牲になったのさ。だから、ぼくはあんたにたいして不実なことをしたとは思っていない。しかし、アンジェリカは、きっと、もういまでは、欲望に誘惑されたことに腹をたてているにちがいないと思うね」
「そうかもしれないわね。けれど、あたしががっかりしているのは、今月の末に帰らなければならないことなのよ。主人は今週中に判決がくだるつもりでいるの。そうしたら、あたしたちの楽しみもおしまいだわ」
この知らせは私を悲しませた。食卓では、私は寛大なドン・フランチェスコにばかり話しかけ、一月に行なわれるはずの結婚式のために祝婚歌をおくろうと約束した。
ローマにもどった。二人乗りの馬車のなかで差し向いですごした三時間のあいだ、ルクレツィアは私の愛情が彼女のすべての富を手に入れるまえよりも弱まったと私を責めることがどうしてもできなかった。往きに朝食をした小さいレストランへ足をとめて、ドン・フランチェスコからアイスクリームをおごられた。ローマへは八時に着いた。私はたいへん疲れ、おおいに休息の必要を感じていたので、そのままスペイン宮へもどった。
ルクレツィアがいったように、それから三、四日すると、判決がおりたので、弁護士が訪ねてきて、ねんごろな言葉で別れを告げた。彼は訴訟に勝ったらナポリへ帰るつもりでいた。出発は翌々日であったので、私は彼のローマ滞在の最後の二晩をドンナ・チェチリアの家ですごした。出発の時間がわかっていたので、彼らがとまるだろうと見当をつけた町へ二時間まえに行って、最後の晩餐を楽しもうと待っていた。しかし、彼らはさしつかえがあって出発が四時間おくれたので、翌日の昼食をともにする喜びだけしかえられなかった。
[S・C枢機卿の寵姫]
あの得がたい女が帰っていってからは、私はうつろな心が青年に与える、あのアンニュイにおちいってしまった。そして、一日じゅう自分の部屋にとじこもり、枢機卿自身のフランス語の手紙の要約をつくった。枢機卿は私の抜粋が非常に正確にできているとほめてくれたが、あまり仕事に熱中してはいけないと注意した。この嬉しいおほめにあずかったとき、G夫人も同じ席に居合わせた。しかし、私が二度目にごきげんうかがいに行ったとき以来、一度も彼女を訪ねたことがなかった。それで、彼女はむしろふきげんな顔をしていた。枢機卿があまり仕事に熱中するなと叱言をいうのをきいて、この人はドンナ・ルクレツィアが帰っていったあとのアンニュイを追い払うために仕事をしているにちがいないといった。
「おっしゃるとおりでございます、奥方さま、わたしはそれをたいへん悲しんでおります。あの人は親切でした。わたしがたびたび訪ねていけなくても、鷹揚《おうよう》にゆるしてくれました。それに、わたしたちの友情はまったく潔白なものであったのでございます」
「それはわたくしも疑いません。あなたのオードには恋する詩人が出ておりますけどね」
「だが、詩人は恋するようなふりをせずに詩を書くことはできませんよ」と、親切な枢機卿がとりなしてくれた。
「しかし、現に恋しているなら、なにもふりをする必要はないわけですわ」
彼女はこういいながら、ポケットから私のオードを取り出して、S・C枢機卿に渡した。そして、これは作者の名誉を盛りあげるような詩で、ローマのすべての才人たちから承認された小傑作である。ドンナ・ルクレツィアはこれを暗記しているといった。枢機卿は微笑しながらそれを夫人にかえし、自分にはイタリア語の詩はわからない、美しい詩だとお認めなら、どうぞご自身でフランス語に訳していただきたいといった。夫人は自分はフランス語では散文しか書かない。詩の散文訳はきまってよくないものだと答えた。
そして、私をじっと見つめながら、
「わたくしは、ときどき、人にてらう気持もなく、イタリア語の詩をつくってみるくらいですわ」と、つけくわえた。
「奥方さまのおつくりになった詩を拝見させていただけましたら、たいへん嬉しゅうございますが」と、私はいった。
「ここにあるよ、奥方の十四行詩だ」と、枢機卿がいった。
私はうやうやしく受け取って、読もうとするポーズをとった。すると、夫人は、わたくしの十四行詩はとるに足りないものだが、ポケットへ入れていって、あした猊下《げいか》にお返ししてほしいといった。すると、枢機卿が、
「もしも午前中に外出する用事があったら、その詩を返しがてら、昼食をやりに来たらいい」といった。
すると、アッカヴィーヴァ枢機卿がすかさず、
「そういうことなら、この人は用事がなくても外出しますよ」と、いった。
私はふかく一礼して返事にかえ、少しずつうしろへさがっていって、自分の部屋へあがった。早く夫人の十四行詩が読んでみたかった。だが、詩を読むまえに、一応自分自身のことを考えてみた。現在の地位や、今夜の会合でえられたと思われる大きな飛躍について。G侯爵夫人は私に興味をもっていることを、非常にはっきりしめしたのだ。
表に尊大なふうをよそおいながら、彼女は公けの席で恥も外聞もかまわず私にいい寄っている。それはだれも否定できないことだ。私のような若くて、なんの取柄もない司祭は、彼女の庇護をしか期待できない。しかも、彼女は庇護を要求する資格があると自覚しても、それを表にあらわさない人々にしか与えないような性格の人だ。この点については、私の謙譲さはだれの目にもあきらかだ。侯爵夫人はおれにおぼしめしがあるらしいなどと想像するような人間だと思ったら、きっと私を侮辱しただろう。いや、私にはそんなことはできない。そんな自惚《うぬぼ》れは不自然だ。現に枢機卿自身が私を昼食に呼んだのを見てもあきらかだ。もしも私が侯爵夫人のお気に入るかもしれないと思ったら、彼はそんなことをするだろうか。事実はその反対だった。彼が夫人の言葉をとりあげて昼食を食いに来いといったのも、なんの、まったく、なんの危険もなしに話し相手をさせられる人間だと私のことを考えたからだ。ナンセンスなんだ!
読者にたいして偽装をする必要があろうか。私を途方もない自惚れだと思うなら、それでもよい。しかし、私は侯爵夫人のお気にめしたものと確信した。そして、彼女がむずかしい第一歩を踏みだしてくれたのを喜んだ。さもなければ、いつもの方法で攻撃をかけるわけにもいかなかったし、だいいち、彼女に目をつける気にもならなかっただろう。その晩になるまで、私は彼女が私に思いを寄せるような女だとは思わず、ましてドンナ・ルクレツィアの後釜《あとがま》にすわる十分の資格があろうとも考えなかった。彼女は美しく、若く、才気にあふれ、教養が高く、文学に通じ、ローマの権力者であった。私は彼女の気持に気がつかないふりをし、翌日から、少しも希望をかけずに慕っていたように思いこませることにしようと決心した。万事思いどおりにいくという確信があった。この企ては、ジォルジ神父さえ喝采するふりをするにちがいない。S・C枢機卿が私を昼食に呼んだのをアッカヴィーヴァ枢機卿がたいへん喜んでいるのを見て、非常に愉快に思った。そういう名誉はアッカヴィーヴァ枢機卿自身も私に与えたことがなかったのである。
私は侯爵夫人の十四行詩を読んだ。流暢《りゅうちょう》で、平明で、言葉づかいも申し分なく、すばらしい出来であった。そのころシレジアを暴力でうばいとったプロシア王を賛美していた。その詩を写しながら、シレジアを女に仕立て、十四行詩にたいする返答をさせようと考えた。その作者である愛の神が自分を征服したものを喝采するとは何事であるか、しかもその征服者は愛の神の公然たる敵ではないかと、シレジアが嘆くという趣向だった。
詩をつくりなれている男には、美しい詩想が胸にうかんでくるのを頭からおさえることはできない。私の詩想はすばらしいものに思われた。それが大事なところだ。そこで、私は同じ韻律で侯爵夫人へ返詩を書き、ベッドにはいった。朝おきると、さらにそれにみがきをかけ、清書して、ポケットへ入れた。
ガマ神父は私と朝食をともにしながら、S・C枢機卿から与えられた名誉を喜んだ。だが、猊下は非常に嫉妬ぶかい人だから、くれぐれも注意するようにと忠告してくれた。私は感謝しながら、侯爵夫人にたいしてどうという気持ももっていないから、そのほうの心配はないと断言した。
[愛の詩を代筆する]
S・C枢機卿はにこやかに私を迎えてくれたが、その態度には恩恵を与えたことを感じさせようとして、わざと威厳をつくっているようすがまじっていた。
「どうだね、侯爵夫人の十四行詩はよくできているだろう」と、彼はすぐにいった。
「すばらしいですね、猊下、ここに持ってまいりました」
「あの人はたいした才能の持主だからな。じつは、あの人の作になる十章節の詩を、きみに見せたいのだが、これは秘中の秘だよ」
「はい、その点はご安心ください」
彼は書物机をあけて、十章節の詩を読んできかせた。主人公は彼であったが、全然情熱が見られず、ただ熱情的な詩体で並べられたイメージにすぎなかった。しかし、それは明瞭な愛の告白であった。そんなものを人に見せるとは、枢機卿もうかつなことをしたものだ。私はこの詩にお返しをしたのかときいた。彼はしてないと答え、笑いながら、代作をしてもらえまいか、もちろん極秘でといった。
「秘密のほうは、首にかけてもお約束しますが、奥方さまは詩体の相違にお気づきになるでしょう」
「いや、わしはいままで一篇も詩を差しあげておらんし、あの方もわしをよい詩人だとは思っておるまい。そういうわけだから、きみの詩も、わしの作ではなかろうと思われるような出来栄えでなくしてもらいたいのだ」
「では、お書きしましょう。よしあしのご判断は猊下におまかせします。そして、もしも猊下ご自身のものとして差しあげられないとごらんになったら、お渡しにならなければよろしゅうございましょう」
「よし、わかった。すぐにつくってくれるかね」
「すぐですか。しかし、散文とはちがいますから」
「とにかく、あした渡してもらえるようにしてほしい」
こんなわけで、昼食は二時になった。私の健啖《けんたん》ぶりは彼を喜ばせ、わしに負けずにたいらげるじゃないかとほめた。私はそれはほめすぎと申すものでございます、私などとうてい猊下にはかないませんと答えたが、腹のなかでは、枢機卿の風変りな性格をわらい、これはうまく利用できそうだと思った。しかし、そこへ侯爵夫人が、当然のことながら、案内なしにひょっくりやってきた。彼女が一点も非のうちどころのない美人であることを、そのときはじめて私は知った。夫人の姿を見て、枢機卿は席を立とうとした。だが、夫人がそのひまも与えずにそばへ来て腰をおろしたので、枢機卿は苦笑してしまった。私はもちろん立ったままであった。それが規則だ。彼女は才気のひらめくいろいろのことをしゃべった。コーヒーが出た。そのときになって彼女はようやく腰をおろせといったが、施しでもするような口調であった。
「ところで、司祭、わたくしの十四行詩をお読みになりましたか」
「はい、拝見して、猊下にお渡ししました。まったく敬服いたしました。すばらしい傑作でございます。さだめし長い時間をおかけになったこととお察しします」
「時間だって」と、枢機卿がいった。「きみは奥方を存じあげぬのだな」
「猊下、骨をおらなければ、価値あるものはできません。それで、私もお返しの詩を三十分ばかりでつくったのですが、猊下にお見せできなかったのです」
「あら、どういう詩をおつくりになったの。読ませてくださいな」と、侯爵夫人がいった。
『シレジアより愛の神への返詩』彼女はこの表題に顔を赤らめたが、ひどくまじめな面持になった。枢機卿はここでは愛の神なんか問題ではあるまいといった。
「お待ちなさい。詩人の考えは尊重しなければいけませんわ」と、夫人がいった。
彼女は熱心に私の詩を読み、読み返した。そして、シレジアが自分に向かっていう非難を正しいと思い、シレジアがプロシア王に征服されたのをうらむのは当然だと、その理由を枢機卿に説明した。
「ああ、そうですね、シレジアは女ですからね……そして、相手はプロシアの王……うん、たしかに、その考えはすばらしい」
枢機卿はそういって笑いだし、七、八分も笑いのおさまるのを待たなければならなかった。
「わたしはぜひともこの詩を写しておきたい」と、彼はいった。
すると、侯爵夫人は微笑しながら、
「司祭さんが書いてくださいますよ」
「では、わたしが読みましょう。おや、これはみごとだ。あなたの詩と同じ韻律で書いてありますよ、侯爵夫人、お気づきになられましたか」
侯爵夫人は私に流し目をくれた。その一瞥《いちべつ》で私はすっかり心をうばわれてしまった。その眼差《まなざし》は自分と同様に枢機卿をよく知ってほしい。そして、お互いに相棒になろうといっているようであった。私はなんでもやってみる気になった。十四行詩を写してしまうと、私はふたりを残して退席した。枢機卿はあしたも昼食に来いといった。
それから、自分の部屋にとじこもった。すぐに書くつもりの十章節の詩が奇妙な種類のものであったからである。私は極度の巧妙さをもってうまく調子をあわせなければならなかった。というのも、たとえ侯爵夫人は返詩の作者が枢機卿だと信ずるようなふりをしても、私の作であることを見やぶってしまうだろうし、それを私が感づいたことも見ぬくだろう。とすると、彼女のプライドをいたわると同時に、詩のなかに情熱をみとめさせる必要がある。しかもそれはたんに詩的空想からではなく、私自身の愛情から発するものでなければならない。さらにまた枢機卿にたいしても、できるだけうまくやらなければならない。枢機卿は詩がうまくできれば、自分のものにするのにうってつけだと考えるであろう。要はただ明瞭さのいかんにかかっているが、詩においてはこれがいちばんむずかしい。曖昧《あいまい》にすることは、いちばんやさしいし、枢機卿はそのほうがすばらしいと思うだろう。枢機卿からはなんとしてもご愛顧を得るように努力しなければならないのだから、そこのかねあいが問題だ。さらにまた、侯爵夫人は十章節の詩のなかで、肉体と精神の両面にわたる枢機卿の美点を描写したから、私も夫人について同じ返礼をしなければならない。そこで、彼女の両方面の美点をかぞえあげた。まず目に見える美貌をえがき、さらに内にひそむ美質をさぐり、最後の一節をアリオストの美しい二行の詩句でむすんだ。
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神のさずけたまいし天使のごとき美貌は
いかなるヴェールにても隠すあたわず。
(『狂乱のオルランド』)
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私は自分の小さい作品にかなり満足して、枢機卿のところへ行った。そして、こんな小学生じみたものでは猊下がご自分の作だとおっしゃれるかどうか疑わしいといいながら差し出した。彼はまずい口調でそれを読み、さらに読み返して、実際にたいした出来ではないが、この程度のもののほうがいいといった。しかし、アリオストの二行の詩を挿入したことに感謝し、夫人の美貌は、アリオストの助けをかりなければえがけないと思わせるにちがいないといった。そして、詩を写しながら、私をなぐさめるように、少し詩の格調をはずそう、そうしたらわしの作であることを疑うまいとつけくわえた。私たちは早目に食事をし、夫人の来訪までに枢機卿が詩を浄写できるように、暇《いとま》をつげた。
その翌日の夜、館の入口で夫人と出会ったので、馬車から降りるのに手をかした。すると、夫人はあけすけに「もしもあなたの詩とわたくしの詩がローマじゅうに知れわたったら、あなたの敵になりますわよ」といった。
「奥方さま、どういうことをおっしゃっていらっしゃるのか、見当もつきかねますが」
「そういうご返事をなさると思いましたわ。それでも、あなたにはこれだけで十分おわかりになるはずですよ」
彼女がそのまま客間にはいったので、私はがっかりして自分の部屋にもどった。彼女がほんとに腹をたてたと思いこんでしまったからだ。「ぼくの詩はあんまり色合いがつよすぎたので」と、私はひとりごちた。「彼女の名誉をあやうくするかもしれないのだ。彼女はぼくが彼女の情事に首をつっこみすぎたのをおこっているのだ。さっきの言葉は、ぼくの無遠慮をおそれてのことだ。しかし、それは見せかけにすぎないだろう。ぼくを追い払うための口実なんだ。もしも詩のなかであの女の正体を暴露したら、どうしただろう」私はそうしなかったのを残念に思った。そして、服をぬぎ、ベッドにはいった。それから三十分ほどして、ガマ神父がドアをノックした。ドアの綱をひくと、神父がはいってきて、猊下がきみにおりてこいとおっしゃっている。G侯爵夫人とS・C枢機卿がお待ちなのだと伝えた。
「それは残念ですが、ほんとのことをおっしゃってください。よろしかったら、病気でねているとでもお伝えください」
神父はもどってこなかったから、頼んだことをうまくやってくれたにちがいない。
[G侯爵夫人の唇]
翌日の朝、S・C枢機卿から手紙が来た。昼食に待っている。瀉血《しゃけつ》をした、話したいことがあるから、たとえ病気でも早めにやってきてもらいたいとあった。なにしろいそがしい話なので、私はなにも推量することができなかったが、悪いことだとは思わなかった。
服をつけるやいなや、私はミサをききにいった。きっと猊下に会えると思ったからである。ミサのあとで、猊下が私を脇へよび、ほんとに病気なのかときいた。
「いいえ、猊下、ただ眠かっただけなのです」
「そりゃまちがってるよ。きみは愛されてるんだ。S・C枢機卿は瀉血をされるのだ」
「それは存じております。この手紙のなかに書いてあります。もし猊下がよいとおっしゃったら、ごきげんうかがいに来いというご命令なのです」
「けっこうだ。しかし、これはおもしろいぞ。枢機卿が第三者を必要とするとは思わなかった」
「では、ほかにだれか」
「わしはなにも知らんよ。あまり好奇心がつよくないのでな」
人々は猊下が私に国事の話をしたように思いこんだ。私はそれからS・C枢機卿のところへ行った。枢機卿は床についていた。
「絶食を強いられているので、きみひとりで食事をしてほしい。しかし、迷惑はかけん。料理人にはなにも知らせてないからな。きみにいいたいのは、きみの書いた詩が美しすぎやしないかと心配していることなのだ。侯爵夫人はあれにもう夢中さ。もしもあの人が読んだような口調で、きみが読んでくれたら、わしもあれにきめはしなかったのだ」
「しかし、候爵夫人は猊下のお作だと信じていられるのでしょう」
「それは疑っちゃいない。だが、夫人がもう一度わしに詩をつくらせようと思いついたら、どうしたらよかろう」
「猊下、いつなんどきでも、わたしをお使いください。そして、猊下の秘密をもらすくらいなら、死んだほうがよいと思っていることをお認めください」
「これは軽少だが、心ばかりのお礼だ。受け取ってほしい。ハヴァナのネグリロという煙草だ。アッカヴィーヴァ枢機卿からいただいたのだ」
煙草はうまかったが、ケースはもっとすばらしかった。七宝塗りの金であった。私は心から感謝をこめて、うやうやしくちょうだいにおよんだ。猊下は詩をつくることは知らなかったが、少なくとも労にむくいることは知っていた。高貴の人々においては、そのほうが詩をつくるよりもはるかにりっぱだ。
昼になると、侯爵夫人が非常にしゃれた部屋着を着てあらわれたので、私は驚いてしまった。
「あら、こんなにりっぱなお相手があると知ったら、わたくし、来るのではありませんでしたわ」と、彼女は猊下にいった。
「いや、司祭をあまりおじゃまになさるとは思いませんが」
「そうね、この方は誠実な方ですからね」
私はなにもいわずに立っていた。しかし、彼女が少しでもあてこすりをいったら、美しい煙草入れを持って、早々にひきさがろうと思っていた。猊下は昼食をとるかと彼女にきいた。そして、自分は絶食を命ぜられているとことわった。
「食事はしますが、あまりおいしくありますまいね。わたくし、ひとりで食べるのがきらいですから」
「もしよろしかったら、司祭にお相伴をさせましょう」
彼女はにっこり私を見ただけで返事をしなかった。こんな傲慢《ごうまん》な女を相手にしたのははじめてだ。彼女のさも保護者らしい権高い態度には馴れることができなかった。それは恋愛とはなんのかかわりもありえない。しかし、枢機卿のまえでは、そういう態度をとるよりしかたがないのだろうと見てとった。彼女は女の傲慢な態度が男を卑屈にすることを、知っているにちがいない。
猊下のベッドのそばに食卓をすえた。侯爵夫人はほとんど食べず、私の旺盛な食欲に感心して、おおいにはげました。
「まえにも申しあげたでしょう。司祭の健啖《けんたん》ぶりはわたしに負けませんよ」と、枢機卿が彼女にいった。
「近からずといえども遠からずというところですわね。けれども、あなたのほうがずっと美食家ですわ」と、彼女は愛想よく猊下にいった。
私は私を大食漢だと信ずるのは何にもとづいているのか教えていただきたいといった。
「奥方さま、わたしはどんなものでも、上等のおいしいものしか好きではないのです」
「|どんなものでも《ヽヽヽヽヽヽヽ》とはどういうわけだね」と枢機卿がきいた。
私はそこで思いきって笑いだし、即興の詩で、あらゆる種類を通じ、よりぬきといわれるに値するものをすべて列挙してみせた。侯爵夫人は手をたたいて、その勇気はりっぱなものだとほめそやした。
「わたしの勇気は、奥方さま、あなたからいただいたものでございます。わたしは勇気を与えられないと兎《うさぎ》のように臆病《おくびょう》なのです。わたしの即興詩の著者はあなたです。≪余がなにか心地よきことをいうとき、それを口授せるは読者なり≫(マルティアリス)です」
「あなたはすばらしいですわ。わたくしはたとえアポロの神さまからはげまされても、筆をとって書かなければ、四行の詩もかけませんの」
「奥方さま、思いきってご天分におまかせなさってごらんになったら。そうしたら、天来の名句をおっしゃられるでしょう」
「わたしもそう思いますな。いかがでしょう、あなたの十章節の詩を司祭に見せてもよろしいでしょうか」
「あれは粗雑なものですが、かまいませんわ。ここだけのことにしていただければ」
枢機卿は侯爵夫人の詩を出してみせた。私はよい詩を読むときのあの情感をこめて、声高に読んだ。
「まあ! 読み方がおじょうずですのね!」と、侯爵夫人がいった。「自分で書いたものとも思われないくらいですわ。ほんとにありがとう。では、猊下がわたくしの詩へお返しにくださった十章節の詩を、同じ口調で読んでみてくださいませんか。きっとわたくしのよりもずっとすぐれておりますわ」
「お言葉を信じちゃいかんよ」と、枢機卿が私にいった。「しかし、詩はここにあるよ。読むときに少しもぬかさないように気をつけてくれよ」
枢機卿はこんな注文をつける必要はなかった。自分のつくった詩であったのだから。私はいくらまずく読もうとしても、思いのままにならなかった。ましてや、目のまえにいる侯爵夫人が私の心につけた情火を、バッカスの神がいっそうあおりたてたのだから、それもしかたのないことであった。
私は抑揚ゆたかに朗々と読みあげた。枢機卿はうっとりと聞きほれた。侯爵夫人は詩だけでしか称揚することをゆるされないある美点の描写になると、サッと顔をあからめた。しかし、その美点は残念ながら私には瞥見《べっけん》もゆるされないものであった。彼女は詩の文句をお変えになったのねといって、腹だたしげに私の手から詩をとりあげた。それは事実だった。だが、私はそれに気づかないようなふりをした。私は身体じゅうがかっかと燃えていたが、彼女も同じように興奮していた。枢機卿が眠ってしまったので、彼女は立ちあがってテラスへ腰をおろしに行った。私もあとからついていった。
彼女が手摺《てすり》の上に腰をおろしたので、私はそのまえにうずくまった。彼女の片方の膝が時計を入れてある私のチョッキのポケットにさわった。私は心をこめてうやうやしく彼女の手をとり、あなたはわたしの心を燃えあがらせておしまいになったといった。
「奥方さま、私はもう夢中でお慕いしているのでございます。もしもこの気持をおくみとりいただけませんでしたら、永久にお目にかからない決心でございます。どうぞおぼしめしをおっしゃってくださいませ」
「あなたは道楽者で、浮気な方だと思っておりますわ」
「けっしてそんなことはございません」
こういいながら、私は彼女を胸に抱きしめ、その唇に愛の接吻を寄せた。彼女はいささかも乱暴な振舞いに出られないような上品な態度で接吻を受けた。しかし、私の飢えた手が最後の道を開こうとして動きだすと、彼女はさっと姿勢をかえ、いともやさしい声で、わたくしを尊敬してちょうだいといった。それで、私は思いかえして、興奮をおさえ、ゆるしを乞うた。すると、彼女はドンナ・ルクレツィアのことを話しだしたが、私が頑として口をわらないのを見て、内心ではきっと喜んだにちがいない。
そのあとで、彼女は枢機卿の話をはじめ、清らかな友だちであると思いこませようとした。それから、美しい詩の傑作を次から次へと互いに朗誦しあった。そのあいだ彼女は腰をおろし、膝の上にくんだ片方の脚の半分を見せていた。私はまえに立っていたが、脚には気がつかないふりをしていた。その日はすでに得た恩恵よりも多くを求めまいと心をきめた。
そこへ枢機卿がナイト・キャップのままでひょっくりやってきて、待ちくたびれやしなかったかと、まじめくさってきいた。
その日は夕方になってようやく引きさがったが、自分の運命に非常な満足をおぼえた。いつか都合のよい時期がくるまで、この新しい恋に手綱をかけていようと心にきめ、時期さえ来たら勝利の栄冠まちがいなしと信じて疑わなかった。その日以来、うるわしい侯爵夫人は少しも気取らずに、特殊な尊敬のしるしをみせてくれた。それで、間近にせまった謝肉祭を期待できるのではないかと思っていた。
彼女の高雅な心がまえを尊重すればするほど、彼女は私の愛情や誠実さや慎重さにたいして十二分にむくいる機会を、自分のほうから提供しようと考えるにちがいないと思われたのである。しかし、私の運命はほとんど予期しないときに、まったくちがった方向へまがっていった。おりしもアッカヴィーヴァ枢機卿と法王自身も私の運命を堅実なものにしようと考えていたのであった。法王はG侯爵夫人のことは口にしなかったが、S・C枢機卿からもらった煙草入れをたいへんほめてくれた。アッカヴィーヴァ枢機卿は寛大な同僚が自分の贈ったネグリロを入れて私にくれた美しい煙草入れをみて、嬉しさをかくさなかった。ガマ神父は私がりっぱな栄達の道を歩きはじめたのを見て、もう忠告を与えようとはしなかった。ジォルジ神父はいっさいを見ぬいていて、G侯爵夫人の恩寵に満足し、彼女以外にほかの女性へ目を向けないようにしろと注意した。私の当時の地位はざっと以上のようなものであった。
[バルバーラ誘拐未遂事件]
ところが、クリスマスの日に、バルバーラの恋人が私の部屋へはいってきて、ドアに鍵をかけ、長椅子につっぷすと、きみに会うのもこれが最後だといった。
「きみによい忠告を求めにきたのだ」
「どんな忠告をすればいいんだね」
「さあ、これを読んでみてくれ。なにもかもわかるから」
それはバルバーラの手紙で、こう書いてあった。
「恋しい友よ、あたし赤ちゃんができましたの。もう疑うことはできません。あなたがお世話してくれなかったら、たったひとりでローマから出ていき、どこでなり神さまのお望みのところで死のうと決心したことをお知らせします。あたしたちふたりが落ちこんだみじめな状態を父の目にさらすよりは、あたし、どんな苦しみでも我慢します」
私は彼にいった。
「きみが誠実な人間なら、彼女を捨てることはできない。きみのお父さんや彼女のお父さんがなんといおうと、結婚したまえ、そしていっしょに暮らしたまえ。永遠の神がめんどうを見てくれるよ」
彼は考えこんでいたが、少しは気持が落ちついたらしく、そのまま出ていった。
一七四四年一月のはじめに、彼はひどく嬉しそうな顔で、私のまえにあらわれた。
「ぼくはバルバーラの家の隣のいちばん上の部屋を借りたよ。彼女もそれを知っている。今夜、屋根裏部屋の天窓からぬけだして、彼女の家の天窓からはいるんだ。そして、駈落ちをする時刻を相談するよ。決心はもうきまっている。ナポリへ連れていくつもりだ。下女が屋根裏部屋でねているので、バルバーラの出奔を知らずにはいないだろうから、それもいっしょに連れていくよ」
「神さまがきみたちに祝福をたまわるように!」
一週間ののち、夜半の一時間ばかりまえに、彼はひとりの司祭を連れて私の部屋へはいってきた。
「今時分、なんの用だね」
「美しい司祭を紹介するよ」
それがバルバーラだと知って、私はびっくりした。
「だれかにここへはいるのを見られやしなかったかい」
「いや。たとえ見られても、司祭だからね。ぼくらは毎晩いっしょにすごしてるんだ」
「それはけっこうだね」
「下女も承知した。いっしょに行くはずだ。じきに出かけるよ。二十四時間たてばナポリに着いてるだろう。馬車を一台やとって、最初の宿場まで行く。そこで、きっと、馬がかりられるだろう」
「では、さよなら。幸福をいのるよ。これで引き取ってくれたまえ」
「さよなら」
それから二、三日たって、ガマ神父とヴィラ・メディチを散歩していたとき、今夜スペイン宮で手入れがあるだろうという話だった。
「手入れって、どういうことなのです」
「法王庁の警視総監かその代理が至上命令を実行しに来るのさ。それとも、どこか怪しい家を捜索して、思いもかけない人間を逮捕していくだろう」
「それがどうしてわかったのです」
「猊下もご承知のはずだ。法王は猊下の許可なしには猊下の管轄へ手をつけることができないのだからね」
「では、法王は許可を求めたのですか」
「そうだ。けさ、法王の法務官が許可を申請に来たよ」
「しかし、猊下は拒絶することもできたのでしょう」
「それはそうだが、拒絶したことは一度もないね」
「もしも嫌疑者が猊下の庇護のもとにあったら」
「そういうときには、猊下が本人に予告するのさ」
十五分ののちに神父と別れると、私は心配になってきた。その至上命令がバルバーラかその恋人に関係しているのではあるまいかと考えたのだ。ダラッカの家はスペインの管轄にあった。私は青年をあちこち捜してまわったが、見つからなかった。彼の家やバルバーラの家へ訪ねていったら、まきぞえをくう心配がある。それでも、たしかに自宅にいるとわかっていたら、訪ねていっただろう。しかし、私の疑いにもはっきりした根拠があるわけではなかった。
夜半ころ、ねようと思って、鍵をはずすためにドアをあけた。すると、いきなり、ひとりの司祭がとびこんできて、息を切らせながら肘掛椅子へつっぷした。それがバルバーラだとわかると、私はドアをしめた。いっさいを了解し、結果を予想して、これは身の破滅だと思った。そこで、当惑し、狼狽《ろうばい》して、なにもきかずに、愚痴をならべて、私の部屋へ逃げこんで来たのをなじり、出ていってほしいと頼んだ。
これは失敗だった! 頼むのではなく、追い出すべきだった。彼女が出ていこうとしなかったら、人を呼ぶべきだった。しかし、私にはその勇気がなかった。
彼女は出ていってほしいといわれると、私の足もとにひれふして、泣いたり、うめいたりして、憐れみをもとめた。私は余儀なく承知したが、もうふたりとも破滅だといってきかせた。
「あたしはこのお邸へはいってくるにも、階段をあがるにも、だれにも見つかりませんでしたわ。十日まえに一度おうかがいしといてよかったと思います。さもないと、あなたのお部屋がどこだか、見当がつかなかったでしょうからね」
「いやはや! ぼくの部屋を知らずにいてくれたほうが、どれほどよかったか知れませんよ。恋人の博士はどうしたのです」
「巡査があの人と下女を連れていってしまいましたの。くわしくお話すると、こうですの。ゆうべあの人が今夜の十一時にトリニタ・デイ・モンティ教会の階段の下に二輪馬車をとめて待っているといったので、あたし、一時間まえに、下女を連れて、家の天窓から出たのです。そして、あの人の部屋へはいって、ごらんのような服に着かえると、下へおりて、馬車のあるところへ行きました。下女が荷物を持って、先に立って行きました。街の角へくると、靴の留金がはずれたのに気がついて、足をとめ、身をかがめてなおしました。下女はあたしがついてくるものと思って、ずんずん先へ行きました。そして、馬車のところへ行って、乗り込んでしまいました。あたし、三十歩ばかりおくれていたかしら。けれども、あたしはギョッとして、まえへ出られなくなりました。下女が乗るとすぐ、角灯の光で、馬車のまわりに巡査が大勢集まってくるのが見えたのです。それと同時に、御者が馬からおり、かわりにひとりの巡査が乗って、まっしぐらに走っていってしまいました。あの人はきっと馬車のなかであたしを待っていたんでしょうが、下女といっしょに連れていかれてしまったのです。ああいうおそろしい場合に、あたしになにができたでしょう。もう家へも帰れないので、あれが無意識の動作というのでしょうか、あてもなく歩いているうちに、ここへ来てしまったのです。こういうわけなのです。こんなことをされて、もう身の破滅だとおっしゃられると、あたし死ぬ思いですわ。どうぞなにかいい方法をさがしてください。どんなことでもします。あなたを救うためなら、あたし死んでもいいのですから」
彼女はこういいながら、さめざめと泣きはじめた。たとえようもない、哀れな涙であった。私は彼女がにっちもさっちもいかない境遇に追い込まれたのを理解して、私のほうがまだましだと思った。だが、それでも、全然自分に罪がないのに、もう奈落《ならく》の底へおちる瀬戸際に来ていると思わずにいられなかった。
「では、ぼくがいっしょに行ってあげますから、お父さんの足もとにひざまずいてあやまりなさい。あなたを恥辱から救わなければならないと、お父さんに納得させるだけの力は、ぼくにもあると思いますから」
これは唯一の方法だったのだが、私がこういうと、不幸な娘はがっかりしたようだった。そして、さめざめと泣きながら、
「あたしには父の性質がよくわかっていますから、それよりも往来へほうりだして運命のままに棄ててもらったほうがいいですわ」と答えた。事実、私は自分の利害を憐憫よりも重く見るなら、そうすべきだったし、それを考えないでもなかった。だが、思いきって決心するだけの勇気がなかった。私にそうさせなかったのは涙だった。
親愛なる読者よ、堅気でありながら身をあやまった娘の若くかわいらしい顔の美しい目から流れる涙の力がどういうものだかご存じですか。あの力にはどうにもさからうことができない。≪身に覚えのあるものは信じたまえ≫(『狂乱のオルランド』)私には彼女を追い出すのが生理的に不可能になった。なんという涙だったろう! 三十分のうちに三枚のハンケチがびしょびしょになってしまった。あのようにとめどなくあふれる涙をいままで見たことがない。彼女の苦痛をやわらげるのに、あれだけの涙が必要だとしたら、涙の分量からおして、彼女の苦痛に匹敵するものは世界になかっただろう。
涙がおさまると、私はとうに十二時が鳴ったから、もう夜明けもまがないが、夜が明けたらどうするつもりかときいた。
彼女はすすりあげながら答えた。
「このお邸から出ていきますわ。こういう身なりですから、とがめだてをする人はないでしょう。ローマの町から出て、息がとまるまで歩いていきますわ」
彼女はこういうと、床の上に崩れおちた。死んでしまうのかと思った。そして、息がつまったので、呼吸を楽にするために、指を一本|襟《えり》にはさんだ。顔色が見る見るまっさおになった。私は当惑の極に達して、茫然としてしまった。
だが、襟をゆるめ、身体じゅうをしめつけているボタンをはずし、顔に水を吹きかけて、ようやく正気にもどらせた。
ひどく寒い夜だったし、火の気もなかったので、けっして変なことはしないから、安心してベッドへはいれとすすめた。彼女はあたしはただ哀れをそそる姿でしかないと思うが、あなたの手のなかにあるのだから、どんなことをされてもしかたがないといった。
しかし、私は極度に感動していたし、また途方にくれていたので、欲望は全然わかなかった。彼女は気力をとりもどし、血のめぐりをよくしなければならなかったので、服をぬいで床にはいるように納得させた。だが、すっかり力がなくなっていたので、私が手をかして裸にし、ベッドへ運んでいってやらなければならなかった。
この機会に、私は自分自身にたいする新しい経験をした。それは一種の発見だった。彼女の美しい肢体を見ながら、なんの困難もなく誘惑に抵抗することができたのだ。彼女はぐっすり眠った。私もそのかたわらへ横になったが、服をつけたままであった。夜明けの十五分まえに、彼女を起こした。彼女はもう体力が回復していたので、私の助けをかりずに服を着ることができた。
[不幸な娘のための策略]
日がでると、私は私の帰るまでじっとしていなさいといって外へ出た。彼女の父の家へ行き、できるだけのことをして彼女の罪をゆるさせるつもりだった。しかし、宮殿のまわりに警官がたくさんいたので考えをかえ、遠くからつけてくるものを見ながら、コンドッタ街のカフェへはいった。
そして、ショコラを飲んでから、ビスケットを買ってポケットへねじこみ、邸へ帰った。あいかわらず同じ尾行がうしろからついてきた。そこで、獲物をとりにがした警視総監が非常線を張ったにちがいないと知った。門番はこちらからなにもきかないのに、ゆうべ計画した逮捕が失敗に終わったのだろうと話した。そこへ枢機卿代理の法務官が来て、ガマ神父には何時にお目にかかれるかときいた。そこで、もう一刻もぐずぐずしていられないと思い、決心をきめるために部屋へあがっていった。
カナリア島の葡萄酒にひたしたビスケットを二枚、むりにバルバーラに食べさせてから、彼女を邸のいちばん上のごみごみした場所へ連れていった。そこはだれも行かないところだった。そして、下男がくるにちがいないと思って、じきにもどってきて考えをきめるから待っていなさいといっておりてきた。下男は二、三分あとでやってきた。そこで、仕事が終わったら私の部屋の鍵をもってきてほしいと頼んで、ガマ神父のところへ行った。
神父は枢機卿代理の法務官と話をしていた。話がすむと、私のそばへ来て、まず下男にショコラを命じた。そして、じつは妙な話があるんだといって、枢機卿代理の伝言の話をした。この邸へゆうべ夜半に逃げこんだものがあるらしいから、それを引き出すように猊下に頼んでほしいというのであった。神父はさらに言葉をついで、しかし、猊下のおめざめを待たねばならぬ。猊下のご存じのないうちにこの邸にはいったものがあるなら、もちろん追い出すだろうといった。それから、下男が私の部屋の鍵をもってくるまで、寒さの話をした。私はまだ少なくとも一時間の余裕があると見て、バルバーラをまちがいなく恥辱から救うことのできる方法を思いついた。
だれからも見られていないのをたしかめて、バルバーラのかくれている場所へ行った。そして、正しいフランス語で、次のような文意の手紙を鉛筆で書かせた。
「猊下、私は司祭の服装をしておりますが、まじめな娘でございます。名前はお目にかかってじきじきに申しあげさせていただきます。猊下のご寛大なお心におすがりして、私の名誉を救っていただきたく、せつにお願い申しあげる次第でございます」
そこで、私は彼女にいった。
「九時きっかりにここから出ていきなさい。三つ階段をおりて、右手の部屋へはいりなさい。そして、控えの間までいくと、ストーブのまえに太った人がすわっているから、その人にこの手紙を渡して、すぐ枢機卿に手渡してほしいと頼みなさい。その人が手紙を読む心配はありません。そんな時間なんかないのですから。枢機卿は手紙を受け取ったら、きっとすぐにあんたをはいらせて、立会人なしで話をきいてくれるでしょう。そうしたら、ひざまずいて、いままでのことをすっかり話しなさい。まじりけのない真実のことを話すのですよ。ただし、ゆうべぼくの部屋ですごしたことや、あのときあんたのいったことはふせとかなければいけません。恋人がつかまったのを見て、おそろしくなり、この邸へとびこんで、いちばん上のほうまでのぼっていって苦しい一夜をすごした。それから、ふと気がついて、お渡ししたような手紙を書いたといいなさい。可哀そうなむく犬さん、猊下はなにか方法を考えて、あなたを恥辱から救ってくれるでしょう。あなたが恋人と結婚できる方法はこれしかありませんよ」
彼女が私の指示どおりまちがいなくやるというのをきいて、私は下へおり、頭を直し、服を着た。そして、枢機卿の面前でミサをきいてから、昼食の時間までもどるまいと外へ出ていった。
食卓では例の事件のことでもちきりであった。めいめい自分の考えにしたがって事件を話した。ガマ神父だけはなにもいわなかった。私もそのまねをしてだまっていた。私にわかったことは、捕えようとした人物を、枢機卿が自分の保護のもとにおさめたということであった。願ったとおりになったのだ。私はもうなにも心配はないと思って、自分の小細工の効果を黙って楽しんでいた。それはまさに小傑作と思われた。昼食のあとで、ガマ神父とふたりきりになったとき、事件の真相はどういうことかときいてみた。神父の返事は次のとおりであった。
――ある父親が枢機卿代理に嘆願書を出して、息子がある娘を誘拐して国外へ逐電《ちくでん》しようとしているから、取りおさえてほしいと願った。誘拐はゆうべ真夜中にわが広場で行なわれるはずであった。枢機卿代理は、きのうも話したように、猊下の同意を得てから、警視総監に通告を発し、部下を動員して、罪人たちを現行犯でとらえろと命令した。命令は実行された。しかし、巡査たちは警視総監のもとに帰って、拘留者を馬車からおろしたとき、当の娘のかわりに、だれも誘拐しようなどと考えるはずのない女の顔が出てきたので、だまされたと気がついた。それから数分ののち、ひとりの密偵が帰ってきて、馬車が広場から立ち去った直後、ひとりの司祭がスペイン宮のなかへ駆けこんだと報告した。警視総監はすぐ枢機卿代理のところへ行って、娘をとりにがした次第を報告し、宮殿へ駆けこんだ司祭はその娘かもしれないという疑いをはっきり申し述べた。そこで、枢機卿代理はわれわれの主人に司祭の服を着た娘がこの宮殿にかくれているらしいと報告し、その人物が娘であれ司祭であれ、猊下が怪しくないとお認めにならないかぎり、外へ追い出していただきたいと懇請した。アッカヴィーヴァ枢機卿は、けさわしと話しているのをきみも見たろう、あの法務官から九時まえに知らされたのだ。枢機卿はくまなく家宅捜索をし、身もと不明のものがいたら、すべて外へ放逐させるといって、法務官を帰した。
枢機卿は、約束のとおり、さっそくこの命令を執事に伝えた。執事はただちに捜索を開始した。ところが、十五分すると、いっさいの捜索を中止せよという命令をうけた。この中止の理由は次のことにちがいない。
下男頭の話だと、九時きっかりに、娘が変装したとしか思われない、非常な美男子の司祭が来て、猊下へお渡し願いたいと一通の手紙を渡した。彼はその手紙をすぐ猊下に渡した。猊下は手紙を読むと、その司祭を通せと命令した。司祭は下男頭の部屋から出ずに待っていたのだ。ところが、司祭を案内していった直後に捜索中止の命令が出たので、あの司祭はたしかに巡査の捕えそこなった娘で、邸のなかへ逃げこみ、ひと晩じゅう隠れていて、ふとした思いつきから枢機卿に救いを求めたにちがいないと信じられるようになった。
「では、猊下は、きょうにでも、その娘をまさか警官にはお渡しにならないでしょうが、枢機卿代理の手にお引渡しになるのでしょうね」
「いや、法王の手にさえ渡すまいよ。きみはまだ猊下の保護がどんなものか、正確にわかっていないらしいな。こんどだって、猊下が保護されたことは公然の事実になっているのだ。なにしろその人物は宮殿のなかにいるばかりでなく、猊下ご自身の部屋にかくまわれているのだからな」
この物語はおもしろかった。私は耳をかたむけてガマ神父の話にききいったが、明敏な神父でも疑いをかけることはできなかった。もっとも、この事件に私が大きな役割を演じており、また少なからず利害関係をもっているとわかっても、彼はなにもいわなかったにちがいない。私はそれからアリベルティ座のオペラを見に行った。
[スキャンダルの政治学]
翌日の朝、ガマ神父がにこにこ顔で私の部屋へはいってきて、枢機卿代理からきいたが、娘を誘拐したのはきみの友だちで、きみもあの娘の友だちにちがいないということだよ。娘の父親はきみのフランス語の先生だというじゃないかといった。
「だから、きみは事件の顛末《てんまつ》を知っているはずだと、みんな信じているぞ。あの可哀そうな娘がきみの部屋で一夜を明かしたと考えるのも不思議じゃない。しかし、わしにたいするきのうのきみの慎重さには敬服したな。きみがあんまり取りすました顔をしているので、わしはきみはなにも知らないと賭けをするところだったよ」
私はまじめな落ちついた態度で答えた。
「じっさい、わたしはなにも知らなかったのです。神父さんからうかがって、いまはじめて知ったのです。その娘は知っておりますが、六週間まえにフランス語のレッスンをやめましたので、それ以来会っておりません。あの若い博士もよく知っておりますが、逐電の計画は一度も聞いたことがありません。しかし、世間の人がどう考えようと、それはごかってで、どうもしかたがありません。あの娘がわたしの部屋で一夜を明かしたのも不思議ではないとおっしゃいましたが、まったく、笑っちゃいますね、当て推量を事実のように思い込む人たちばかりで」
「それはローマ人の悪い癖だよ。それを笑えるものは幸福さ。しかし、こういう冤罪《えんざい》は、わしも冤罪だと思うがね、きみにわざわいをするかもしれんよ。われわれのご主人すら、誤解していないとはかぎらないしね」
その晩はオペラがなかったので、猊下の会合に出席した。猊下をはじめほかの人々の口調にも全然変わったところがなかった。侯爵夫人はいつもよりずっと愛想よく応対してくれた。その翌日、昼食ののちに、猊下は例の娘を修道院へ入れ、猊下の費用で手あつくあつかわれていると、ガマ神父からきかされた。
「あの子が修道院から出るとすれば、それは誘拐しようとした青年の妻になるためだと思うな」と、彼はいった。
「そうなれば、わたしも嬉しいですよ。彼女はあの青年と同様に、たいへん誠実で、世間の尊敬を受ける十分の値うちがあるのですからね」と、私は答えた。
一、二日あとで、ジォルジ神父が、目下ローマじゅうがダラッカ弁護士の娘の誘拐事件の噂話でもちきりだ。そして、きみがこの芝居の黒幕だというもっぱらの評判だ。これはわしとしても非常に不愉快だといった。私はガマ神父に答えたのと同じことを答えた。彼はそれを信ずるようだったが、「ローマというところは、あるがままの事実よりもあるかもしれない事実のほうを好むものなのだ」といった。
彼はさらに言葉をついで、
「きみが毎朝ダラッカのところへ行ってたことや、あの青年がちょいちょいきみを訪ねてきたことも知れわたっている。それだけで十分さ。世間の連中は悪い噂を否定するようなことは知りたがらない。この神聖な都会では、そういう噂が大好きだからさ。きみはいくら罪がなくても、こんご四十年、たとえばきみを法王にえらぼうという選挙会がひらかれたとしても、枢機卿のあいだでは、この一件がきみの仕業《しわざ》として話題にのぼるだろう」
その後数日間、このいやな噂が私をくさくささせてしまった。どこへ行ってもその話ばかりだった。私の話をいくら神妙に聞いていても、私の言葉を信ずるようなふりもしない。それがはっきり見てとれた。というのも、彼らにはほかに考えようがなかったからだ。
G侯爵夫人はしらばっくれて、ダラッカのお嬢さんはあなたにずいぶんお世話になったようですわねといった。しかし、私にいちばんこたえたのは、謝肉祭の終りごろになって、アッカヴィーヴァ枢機卿がいままでのようなうちとけた口調で話してくれなくなったことだ。だれもそれには気がつかなかったが、私にははっきりわかって、疑う余地もなかった。
ちょうど四旬節の初めごろ、誘拐事件はもう人々の話題にのぼらなくなっていたが、枢機卿は私を自分の部屋へ呼んで、こういう話をした。
「ダラッカの娘の事件は終わった。もうだれもあの一件を口にするものはない。しかし、娘を誘拐しようとした青年の不手際を利用したのはきみとわしだときめてかかっている。これはあながち中傷とばかりもいえん。わしは人の噂など問題にはしておらん。もしもわしがきみと同じ立場に立ったとしても、ほかに始末のつけようがなかったろうからな。わしはきみに口をわらせようとも思わんし、きみが名誉ある人間として口外すべきでないことを知ろうとも思わん。たとえきみがまえもってなにも知らなかったとしても、これはあの娘をきみがかくまったと仮定しての話だが、もしもきみが追い出したら、それは野蛮で卑怯な行為になる。そのためにあの娘は一生不幸になるだろうし、きみはやはり共犯の疑いをうけ、さらに裏切りの汚名さえ着ただろう。しかし、それにもかかわらず、わしはいくらこの種の噂を軽蔑しても、まったく無関心でいるわけにいかないのだ。それはきみにもよくわかるだろうと思う。そこで、これは非常に遺憾なことだが、きみにわしのもとを離れ、ローマからも出ていってもらいたいのだ。しかし、きみの名誉をまもるだけの口実は考えてやる。そして、わしがきみをおおいに尊敬していることを十分世間に見せつけることにする。きみは好きな人の耳へささやいてもいいし、世間に向かって公然といってもいい。わしから与えられた重大な使命のために旅行に出るというふうにな。
きみの行きたい国を考えておきたまえ。わしはどこにでも友人があるから、適当な職がえられるように斡旋《あっせん》しよう。推薦状はわし自身で書く。だから、きみの考え次第では、どこへ行くかだれにも知られずにすむわけだ。あしたヴィラ・ネグローニへ訪ねてきなさい。それまでに、どの方面へ推薦してもらいたいかきめておくがいい。そして、一週間後に出発できるように準備をはじめなさい。わしとしても、きみを失うのは非常に残念だが、これも大きな偏見によってしいられた犠牲でな、どうにもしかたがないのだ。頼むから、そんな悲しそうな顔は見せんでくれよ」
この最後の言葉は私の涙を見ていわれたのだが、猊下はそれ以上私の涙を見まいとして、返事をするひまもくれなかった。しかし、私はどうやら立ち直る力を得て、猊下の部屋から出たときには、居合わせた人々に明るい笑顔を見せることができた。食卓ではきわめて上きげんにふるまった。ガマ神父は自分の部屋へ連れていってコーヒーをふるまってから、きみは非常に嬉しそうなようすだといって喜んでくれた。そして「きっとけさ猊下からなにか話されたからなのだろうね」といった。
「そうなんです。けれど、わたしが胸に大きな苦しみをかくしているのが、おわかりにならないからですよ」
「苦しみだって?」
「そうです。けさ、枢機卿から与えられたむずかしい使命を無事にはたせるかどうか心配なのです。けれども、わたしの少しばかりの才能を高く買ってくださった猊下の信用をおとしちゃならないと思って、全然自信のないのを一所懸命にかくしているのです」
「もしもわしの忠告がなにかの役にたつなら、いくらでも忠告するがね。きみが表向きほがらかな落ちついた態度をとっているのはいいことだよ。その使命ってのは、ローマのなかでかい」
「いいえ、外国です。一週間か十日のうちに出かけなければならないのです」
「どの方面だね」
「西のほうです」
「それじゃ、わしにはあまり興味がないな」
[私の不幸とローマ出発]
それからひとりでヴィラ・ボルゲーゼへ散歩に行った。そして、懊悩煩悶《おうのうはんもん》のうちに二時間をすごした。私はローマが好きだったし、栄達の大道を歩いていたのに、たちまち失墜して、美しい希望を失ったばかりでなく、行方さだめぬ旅に出なければならなくなったからだ。いままでの行動をふりかえってみても、私には全然悪いところがない。しかし、ジォルジ神父の言葉が正しかったことがはっきりわかった。バルバーラの事件には全然関係すべきではなかった。そればかりでなく、彼らの計画を知ったとき、すぐに語学の先生をかえるべきであった。しかし、年も若かったし、まだ不幸というものも十分知らなかったから、長い経験の成果でしかない警戒心をもつことは、不可能であった。私はどこへ行ったらいいか考えた。ひと晩じゅう考え、翌日も午前中考えぬいた。しかし、行先をこことはっきりきめることがどうしてもできなかった。それで、自分の部屋へ引きこもって、夕食に出る気もしなかった。ガマ神父が来て、猊下からの伝言だが、用事があるから、明晩はだれとも夕食の約束をしないようにということだといった。
ヴィラ・ネグローニへ行くと、猊下はひなたを散歩していた。秘書といっしょだったが、私の姿を見ると、秘書を去らせた。猊下とふたりきりになると、私はごくこまかいところまで隠さずに、バルバーラの事件を初めから終りまで、ありのままに話した。それから、猊下のもとを去る悲しみを、綿々と、色あざやかに描いてみせた。「一生をかけて希望したあらゆる幸運がいっきょに無に帰してしまったような気がします。猊下にお仕えしていなければ、そんな幸運は実現できないと確信していたからでございます」と、私はいった。そして、ほとんど終始涙を流しながら、一時間もかきくどいた。だが、なにをいってもむだであった。猊下は親切に力づけてくれたが、ヨーロッパのどこへ行きたいか、早くいえとせきたてた。絶望とくやしさのあまり、私の口から無意識に出た言葉は、コンスタンチノープルであった。
「コンスタンチノープル?」と、猊下は思わず二歩ばかりうしろへさがっていった。
「はい、猊下。コンスタンチノープルです」と、私は涙をふきながらくりかえした。
この枢機卿は、才気にあふれていたが、気持はスペイン人であった。二、三分ふかい沈黙をまもっていてから、にこやかに私の顔を見ながら、
「ありがとう。イスパハンへ行きたいといわれなくてよかったよ。あそこはちょっとさしつかえがあるのでな。ところで、いつ出発するね」
「猊下のご命令どおり、一週間以内に」
「ナポリから船に乗るかね、それともヴェネチアにするか」
「ヴェネチアにします」
「広範囲のパスポートをあげよう。ロマーニャにはオーストリアとスペインの軍隊が冬の陣をしいているからな。きみはわしの命令でコンスタンチノープルへ行くんだとみんなにいってもいい。だれも信用せんだろうからな」
この政略的な駆引きは私を吹きださせそうになった。彼は手を差し出して私に接吻させた。そして、昼食をいっしょにしようといいながら、べつの小径で待っている秘書を呼びに行った。
スペイン宮へ帰ると、コンスタンチノープルをえらんだことを考えて、われながら驚きあきれ、気でも狂ったのだろうか、それとも、守護の神の冥々《めいめい》の力によってあの言葉を口にしたのだろうかと思いまどった。そして、守護の神が私の運命に力を添えるために、呼んでいるのかもしれないと考えた。私を驚かせたのは、枢機卿がすぐに同意したことである。彼は自尊心からほかの所へ行くように忠告できなかったのかもしれない。また、どこにも友だちがあるといったのが大風呂敷だったと、私に考えられるのがこわかったのかもしれない。いったい、だれに紹介するつもりだろう。コンスタンチノープルへ行って、なにをしたらいいのだろう。それはなにもわからないが、行かなければならなかった。猊下は私と差し向いで食事をしたが、私にたいして非常な好意を寄せているようにふるまい、私もそれを喜んでうきうきしているように見せかけた。悲嘆の思いよりも自尊心のほうがつよかったので、まわりのものに失脚したと思わせるような気ぶりを見せたくなかったのだ。私の悲哀のおもな原因はG侯爵夫人と別れなければならないことだった。彼女には熱い想いをもやしていたが、肝心なことはまだなにひとつ手に入れてなかった。
翌々日、猊下はヴェネチアへの旅券とコンスタンチノープルのオスマン・ボンヌヴァルにあてた封書を渡してくれた。オスマン・ボンヌヴァルはカラマニアのパシャであった。このことについては、人には秘密にしておいてもよかったのだが、枢機卿から禁ぜられていなかったから、知合いのだれかれに封書の宛名を見せた。
ガマ神父はきみはコンスタンチノープルへは行きそうもないな、わしにゃわかっているよと、笑いながらいった。ヴェネチア大使のダ・レッツェ勲爵士は友人である親切なトルコの富豪に紹介状を書いてくれた。ドン・ガスパールとジォルジ神父は手紙をほしいといった。
ドンナ・チェチリアのところへ別れに行くと、娘の手紙の一部分を読んでくれた。妊娠したという嬉しい便りであった。ドンナ・アンジェリカも訪ねた。婚礼には呼ばれなかったが、彼女はすでにドン・フランチェスコと結婚していた。
法王の祝福を受けに行くと、法王はコンスタンチノープルの知合いをたくさん話してきかせて、私を驚かせた。ことに、ボンヌヴァル氏のことはよく知っていて、よろしく伝えてほしい、祝福を送れないのを残念に思っているといってほしいといった。そして、私に力づよい祝福を与えてくれてから、こまかい金の鎖でつないだ瑪瑙《めのう》の数珠をくださった。十二ゼッキーニの値うちはあった。
最後にアッカヴィーヴァ枢機卿に別れの挨拶をしに行ったとき、財布をひとつくれたが、それにはカスティリアのドブロネス・ダ・オッチョと呼ぶ金貨が百枚はいっていた。七百ゼッキーニの値うちがあった。私はすでに三百ゼッキーニ持っていた。そのうち、二百ゼッキーニだけ手もとにおき、アンコーナに店を持っているジォヴァンニ・ブッケッティというラグーザ人宛てに、千六百ローマ・エキュの為替をふりこんだ。そして、娘を連れた婦人とともにベルリン馬車に乗り込んだ。その娘が大病になったときローレットの聖母堂へ願をかけたが、おかげで墓場へ送らずにすんだので、そのお礼参りに行くのだということであった。しかし、その娘は不器量であった。旅のあいだじゅう、私はひどく退屈した。
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第十一章
[女形ベルリーノの魅惑]
一七四四年二月二十五日の日没直後、アンコーナに到着して、町でいちばんりっぱな旅館に宿をとった。案内された部屋に満足して、主人に肉を出してもらいたいといった。主人は四旬節にはキリスト教徒は精進《しょうじん》するものだと答えた。そこで、法王から肉食の許可をいただいておるといった。すると、それでは、書付を見せてくださいという。口頭で許可されたのだと答えると、そんなことは信じられないという。きみはばかだとどなりつけると、では、ほかへとまりに行きなさいときめつけた。
私は主人のそういう申し出を予期していなかったので、びっくりしてしまった。それで、ののしりわめきたてた。すると、りっぱな風采の紳士がある部屋から出てきて、アンコーナでは精進料理のほうがずっとうまいのに、肉を食べようというのはまちがっている、口でいっただけで肉食の許可をもっていると信じさせようとするのはまちがっている、たとえ許可を得たとしても、あなたの年でそれを要求したのはまちがっている、書付にしてもらってこなかったのはまちがっている、主人にばかというあだ名をつけたのはまちがっている、あなたをとめるかとめないかは主人の自由なのに、大声でわめきちらすのはまちがっていると、まくしたてた。
その男は呼ばれもしないのに私の問題に口をだしてきたが、しかも、まちがっているを際限もなく連発するために、わざわざ自分の部屋から出てきたのだから、笑いだしたくなった。
「あなたがならべてくださったまちがっているは、残らず認めます」と、私はいった。「しかし、あいにく雨が降っているし、腹もひどくすいているので、この時刻に外へ出て、べつの旅館をさがす気にもなれません。そこで、お願いするのですが、主人にかわって、あなたが夕食を出してくださるわけにはまいりませんか」
「それはだめです」と、彼は落ちついて答えた。「わしはよきカトリック教徒なので、断食をしているのです。しかし、これから主人をなだめに行って、精進料理でも、うまい夕食を出させましょう」
彼はこういいながら下へおりていった。私は彼の冷静な賢明さと自分のはげしい性急さとをくらべて、まさに説教をする資格のある男だと認めた。やがて彼はあがってきて、私の部屋へはいり、話がついたから、じきにうまい夕食を持ってくる、自分も同席するといった。私は光栄の至りだと挨拶して、名前を名のらせるために、自分の名前をいい、アッカヴィーヴァ枢機卿の秘書だといった。
「わしはカスティリア人で、サンチョ・ピコといいます。スペインのカトリック陛下の軍団の監督官です。その軍団は総司令官モデナ公爵の命令のもとにガージュ伯爵が指揮をとっております」
彼は私が出てきた料理を残らずたいらげた健啖《けんたん》ぶりに感心して、昼食は食べたのかときいた。食べなかったというと、いかにも嬉しそうだった。
「夕食をそんなに食べたら、身体にさわりませんかね」
「いや、かえって身体によいと思いますよ」
「では、あなたは法王さまをだましたのですね」
「いや、ぼくは食欲がないとはいわず、精進よりも肉食のほうが好きだといっただけです。だから、だましたわけではありません」
「よい音楽を聞きたかったら、いっしょに近くの部屋までいらっしゃい。一流の女優がとまっているのです」と、彼はちょっとだまっていてからいった。
私は女優ときいて、興味をひかれ、ついていった。年輩の女がふたりの少女とふたりのきれいな少年といっしょに、食卓にすわって夕食を食べていた。女優をさがしたが、目につかなかった。ドン・サンチョは少年のひとりを女優だといって紹介した。うっとりするほどの美男子で、年は十六、七にしかなっていなかった。そこで、ローマで行なわれているように去勢して、アンコーナの劇場で立女形《たておやま》を勤めているのだと、すぐに勘づいた。母親は次の息子を紹介した。それも器量よしだったが、去勢者ではなく、ペトロニオという名で、プリマドンナを勤めていた。ふたりの娘のうちの年上のはチェチリアといい、音楽を習っていて、十二歳。妹は踊り子で、名前はマリーナといい、十一歳だった。どちらもきれいだった。この家族はボローニャの出身で、芸を売り物にしてほそぼそと暮らしをたてていた。愛嬌《あいきょう》と陽気さとが貧乏をおぎなっていた。
食卓から立つと、ベルリーノは、それは立女形の名前だったが、ドン・サンチョの乞いを入れて、クラヴサンに向かった。そして、自分で伴奏しながら、天使の声で唄をうたった。まったくうっとりさせるような風情《ふぜい》であった。スペイン人は目をとじて聞きいっていた。まったく感に耐えたというようすであった。私は目をとじるどころか、ベルリーノの目に見とれていた。その目は宝石のように輝き、ほとばしる火が私の心を燃やした。彼はいくぶんドンナ・ルクレツィアに似た顔立で、G侯爵夫人の態度物腰をしていた。面差《おもざし》はまごうかたなく女であった。男の服装はしているものの、胸のふくらみはかくせなかった。だから、男だと紹介されたにもかかわらず、どうしても娘としか思われなかった。こういう確信のもとに、私は心にわいてくる欲望をおさえようともせず、すっかり彼に惚《ほ》れこんでしまった。こうして愉快に二時間すごしてから、ドン・サンチョはいっしょに私の部屋へもどってきて、明朝早くヴィルマルカティ神父とシニガリアへ出発するが、あさっての夕食にはもどってくるといった。私は道中ご無事にと挨拶して、それでは途中で出会うかもしれない、ぼくもあしたは夕食までにシニガリアへ行くつもりだからといった。私はアンコーナでは銀行へ行って為替《かわせ》を差し出し、一部をボローニャへ振り替えてもらうだけの用事しかなく、滞在も一日ときめていたのである。
[心やさしいチェチリア]
私はベルリーノから与えられた強い印象を胸に抱いて床に着いた。その変装にまどわされず、彼の魅力に魅せられたしるしを与えずに出発するのが残念でならなかった。しかし、翌朝ドアをあけるとすぐ、彼がはいってきて、弟を雇い給仕のかわりにつかってもらえまいかと頼んだ。私が承知すると、弟がすぐに来たので、きみの家族全部にコーヒーをおごるから注文してこいと命じた。私はベルリーノを女としてあつかおうと心にきめ、ベッドの上にすわらせたが、ふたりの妹がとびついてきて、せっかくの計画をはぐらかしてしまった。しかし、私は目のまえにみる三人像のうるわしい光景にすっかり満足した。陽気な雰囲気、粉飾されない三様の美しさ、なごやかな親愛感、劇場のような気分、しゃれたおしゃべり、いままで知らなかったボローニャ人の渋面《じゅうめん》など、すべて極度に私を楽しませた。ふたりの小さい娘は生きた薔薇《ばら》の蕾《つぼみ》ともいいたいほどで、西風よりも愛の神の息吹によって花とひらこうとしていたのであった。ベルリーノがこのふたりと同じように女であると思わずに、みじめな人間のくずか、宗教的残酷さのあわれな犠牲だとしか見なかったら、むしろベルリーノよりも先にえらばれる値うちがあった。まだ年はおさなかったが、白い胸にははやくも思春期のふくらみがうかがわれた。
ペトロニオがコーヒーを持ってきて、給仕をした。母親は自分の部屋から出たことがなかったので、彼は一杯運んでいった。このペトロニオは給仕がじつにじょうずで、本職といってもいいくらいであった。しかし、それはイタリアという奇妙な土地ではめずらしいことではない。この点についての厳格さはイギリスのようにむちゃなものでもなく、スペインのように残酷なものでもない。私はコーヒー代をはらえといって一ゼッキーノ渡した。お釣りの十八パオリは彼にやった。彼はチップを受け取るとき、ある感謝のしるしをしめしたが、それは彼の趣味をはっきりあらわすものであった。口をなかばひらいて、私の唇に接吻をおしつけてきたのである。私がそういう艶っぽいことを好むと思ったのだろう。そこで、あっさり彼の思いちがいをただしてやったが、彼はべつに恥ずかしそうなようすも見せなかった。六人分の夕食を出すように頼めというと、四人分にしますと答えた。ベッドにねたまま食事をする母親の相手をしなければならないからということであった。
二分もすると、旅館の主人があがってきて、あなたがごいっしょに食事をなさろうとおっしゃる方々は少なくとも二人前は食べますから、ひとりあたり六パオリいただかなければお食事は出せませんといった。「承知した。だが、十分にご馳走を出すんだぞ」
それから、身支度をすませると、あの愛想のいい母親に朝の挨拶をしに行かなければならないと思って、彼女の部屋へはいっていった。そして、器量よしの子どもらのことをほめそやした。彼女はかわいい息子に恵んでもらった十八パオリの礼をいい、自分らの困窮ぶりを話した。
「興行主のロッコ・アルジェンティさんはとてもひどい人で、謝肉祭のあいだじゅう舞台に立たせておきながら五十ローマ・エキュしかくれないのですの。そのお金はもう食べてしまいました。ですから、ボローニャに帰るにも、乞食をしながら歩いていかなければなりませんわ」
私はこの話に同情し、財布からスペインのオッチョ金貨を一枚やった。彼女は嬉し泣きに泣いた。私は、あることを打ち明けてくれたら、もう一枚やるといった。
「ねえ、お母さん、ベルリーノは女なんじゃないですか」
「いいえ、そんなことございませんわ。ただそういう恰好《かっこう》をしているだけですよ。ちゃんと検査をしてもらったのですからたしかです」
「検査って、だれに」
「司教さまづきのたいへん尊い告解僧の方ですよ。ほんとかどうか、ご自分でききにいらしってもよろしゅうございますわ」
「ぼくは自分でしらべてみなけりゃ、信じられませんね」
「では、しらべてごらんなさい。でも、わたしは、気がとがめて、立ち会うわけにはまいりませんよ。だって、あなたがどういうおつもりなのか、全然見当がつきませんものね」
私は自分の部屋に帰って、ペトロニオにキプロスの葡萄酒を一本買わせた。持たせてやったオッチョ金貨のお釣りが七ゼッキーニだったので、それをベルリーノとチェチリアとマリーナに分けてやった。それからふたりの小娘に兄さんとふたりきりにしてほしいと頼んだ。
「いとしいベルリーノよ、きみが男だとは思われないのだがね」
「ぼくは男ですよ。ただ去勢したのです。検査も受けたのですからね」
「ぼくにも検査をさせてくれないか、金貨を一枚あげるから」
「だめですよ。というのも、あなたがぼくを愛していることがはっきりわかっているからです。でも、そんなこと、宗教で禁じられているんです」
「しかし、司教の告解僧にはそんな心配をしなかったんだろう」
「あの人は年寄りだったし、ぼくの哀れな身体つきを、大いそぎでちらりと見ただけだったのです」
私が手をのばすと、彼はその手をはねかえして立ちあがった。その依怙地《いこじ》な態度に、私はちょっと腹がたった。妙な好奇心を満足させようとして、もう十五、六ゼッキーニもつかっていたからだ。そこで、膨《ふく》れ面《づら》をして食卓についたが、三人のかわいい子どもらのさかんな食欲を見ているうちにきげんがなおった。そして、使った金をその子どもらで埋め合せようと心にきめた。
三人は火のまえにすわって、マロンを食べていた。私は彼らを順々に接吻しはじめた。ベルリーノも無愛想な態度をしめさなかった。チェチリアとマリーナのふくらみはじめた喉にさわったり、接吻したりした。ベルリーノのブラウスのなかへ手をつっこんだが、にこにこしていて、べつにさえぎろうともしなかった。そこで、手をのばすと、むっちりした乳房にあたった。もう疑う余地はなかった。
「この乳房じゃ、きみはりっぱな女だ。男だなんていわせないよ」
「いいえ、これはぼくらのような連中の欠点なのです」
「いや、これは十分に成熟した女のものだ。ぼくはこの道のヴェテランなんで、去勢者のぶざまな胸と美しい女の胸との区別はちゃんと知ってる。かわいいベルリーノよ、この雪花石膏《アラバスター》のような乳房は十七の娘のうるわしき乳房にちがいないよ」
若いときには、愛の情火が刺激をうけて燃えあがると、すっかり満足するまではとうていおさまらないし、たとえ恩恵を得ても、それが刺激となって、さらに大きな恩恵をのぞむことはだれでも知っている。私はかっかと気持が燃えていたし、乳房をもてあそぶ手を彼が払いのけようともしなかったので、興奮のあまり燃える唇をあけて、手のもてあそんでいたものへ押しつけようとした。しかし、ペテン師は、私が感じはじめたよこしまな快楽に、そのときようやく気がついたように、さっと立ちあがって、逃げていった。私は怒りが愛情にかきたてられて、非常に腹をたてたが、まず自分を軽蔑すべきだったので、彼女を責めることもできなかった。そこで、気持をしずめる必要から、ベルリーノに唄を習っているチェチリアに、なにかナポリの唄をうたってほしいと頼んだ。
それから外へ出て、ラグーザ人のブッケッティを訪ねた。彼は私の差し出したのと引きかえに、ボローニャ宛ての一覧払いの手形をよこした。旅館へ帰ると、娘たちといっしょにマカロニを一皿食べてから、床にはいった。ペトロニオには、あしたの朝はやく出発するから、駅馬車を頼んでおけと命令した。
ドアをしめようとしていると、チェチリアが、ほとんどシュミーズ一枚でやってきて、ベルリーノがリミニまで乗せていってほしいといっていると告げた。彼は復活祭のあとでリミニでもよおされるオペラで、唄をうたう契約をしていたのである。
「小さい天使よ、じゃあ、帰ったらベルリーノにこうおいい。その頼みはきいてやるから、ぼくの頼みもきいてくれ、きみのいるまえで、男か女か見せてほしいってね」
彼女は出ていったが、すぐにもどってきて、兄はもうねてしまったが、もう一日出発をのばしてくれたら、気のすむようにしてあげると約束したといった。
「ねえ、ほんとのことをいっておくれ、ベルリーノは男なのか女なのか。そうしたら、六ゼッキーニあげるよ」
「そのお金はいただけないわ。あたし、兄さんがすっかり服をぬいだところを、一度も見たことがないので、たしかなことがいえないんですもの。けれど、きっと男よ。だって、男でなけりゃ、この町でうたっていられないもの」
「よくわかった。では、出発はあさってにのばそう。ただし、きみに今夜いっしょにねてもらいたいね」
「じゃあ、あたしのこと好きなの」
「とても好きだよ。でも、いい子になってくれなくちゃだめだよ」
「とてもいい子になるわ。だって、あたしもあんたのこと好きなんですもの。じゃあ、お母さんにいってくるわ」
「きみ、きっと恋人があったんだろうね」
「そんなもの、なかったわ」
彼女は非常に嬉しそうにもどってきて、お母さんがあの人はまじめな人だからだいじょうぶだといったと告げた。きっと私の財布をあてにしていたのだろう。チェチリアはドアに鍵をかけると、恋しそうに私の腕のなかへころげこんできた。私は彼女が初物らしいとわかったが、惚れこんでいるわけでもなかったので、あっさり味を見るだけにとどめた。
愛は天与のソースで、このような糧《かて》をさえ楽しく思わせる。チェチリアは美しかったが、彼女に没頭する余裕はなかった。したがって、ルクレツィアにいったように、「きみはぼくを幸福にしてくれたよ」ということができなかった。逆に彼女のほうがそういった。私はあまり嬉しくなかったが、そう思おうとした。ふたりとも心のやさしい男女《めおと》であったのだ。そして、彼女の腕のなかでやすらかに眠った。目がさめると、恋人同士の挨拶をすませてから、金貨を三枚渡してやった。彼女には変わらぬ愛の誓いよりもそのほうがずっとよかったにちがいない。そんな誓いはくだらないきわみだ。男としてどんなに美しい女にたいしてもいえることではない。チェチリアは宝物を母親のところへ持っていった。母親は嬉し泣きに泣き、あらためて神への信念を誓った。
[美しい奴隷女の木の実]
私は旅館の主人を呼んで、費用をかまわず五人前の夕食を用意しろと命じた。かの気高いドン・サンチョも、夕方もどってくるはずだから、私と食卓をともにするのをこばみはしまいと思ったのだ。私は昼食はとらないことにした。しかし、ボローニャ人の家族は夕食をうまく食べるためにこういう節制をする必要がなかった。ベルリーノを呼んで約束の催促をすると、彼は笑いながら、まだきょうの一日は終わっていないし、リミニまでいっしょに行くことにきめてあるのだからといった。そこで、散歩に行かないかと誘うと、服を着がえに行った。
ところが、そこへふきげんな顔でマリーナがやってきて、あんたからなぜこんなに露骨に軽蔑されるのか見当がつかないと文句をいった。
「チェチリアはあんたとひと晩いっしょにねたし、ベルリーノはあしたいっしょに出かけるのに、あたしだけかまいつけられないなんて……」
「お金がほしいの」
「いいえ、あんたが好きなのよ」
「でも、きみは子どもすぎるよ」
「年なんかなんでもないわ。あたし姉ちゃんよりも身体がいいのよ」
「それじゃ、きみにも恋人があったかもしれないね」
「そんなことないわ」
「よし、じゃ、今夜見てみよう」
「それでは、お母さんにいって、あしたの朝シーツを用意しておくように頼むわ。旅館の女中にほんとのことを見ぬかれるといけないから」
この喜劇は途方もなく私を楽しませた。ベルリーノと港へ行くと、ドン・サンチョを十分もてなすために、ヴェネチアの武器庫跡で牡蠣《かき》の小樽をひとつ買った。それを旅館へとどけさせてから、ベルリーノを連れて突堤のほうへ歩いていった。そして、検疫を終わったばかりのヴェネチア航路の船へ乗ってみた。だが、知った人がひとりも見つからなかったので、アレクサンドリアへ向かって出帆しようとしていたトルコ船のほうへ行った。
船に乗るとすぐ目についた最初の人物は、あの美しいギリシャ娘であった。七か月まえにアンコーナの検疫所でせつない別れ方をした女だ。彼女は年とった船長と並んでいた。私は彼女に気がつかないふりをして、なにかめぼしい売り物はないかときいた。船長は自分の部屋へ連れていって、戸棚をあけた。ギリシャ娘が私に気づいて嬉しそうに目をかがやかすのが、はっきり見てとれた。
トルコ人の見せたものはみんな気に入らなかったので、それでは美しい奥さんのお気にめしそうな、なにかきれいなものを買おうといった。彼は笑いだして、トルコ語で彼女としゃべり、すぐに出ていった。
その姿が見えなくなると、彼女はとんできて私の首っ玉へかじりつき、ぎゅうぎゅう胸に抱きしめて、「いまだわ!」といった。私もまけずに勇気をふるって、腰をおろし、彼女を向かいあわせに抱きよせた。そして、ものの一分とたたないうちに、彼女の主人が五年間のあいだにしてやれなかったことを、彼女にしてやった。そして、木の実をつみとり、がつがつと食べた。しかし、それをのみくだすには、なお一分を要した。不幸なギリシャ娘は主人がもどってくる足音を聞いて、さっと私の腕からぬけだし、背を向けて立った。そして、私が身なりをととのえるひまをつくってくれた。さもなかったら、乱れた姿を主人に見られて、首がとぶか、示談ですませるために、有り金を全部とられただろう。こういう危機一髪の際、私はベルリーノが驚きのあまり身動きもせず、恐怖にふるえているのを見て、思わず笑いだしてしまった。
美しい女奴隷がえらんだ安物の装身具は二、三ゼッキーニしかしなかった。彼女は「|たいへんありがとう《スポレーテイス》」と自分の国の言葉でいった。しかし、主人からこの方に接吻しなさいといわれると、顔を両手でおおって逃げていった。あの美しい女は、あんなに勇気がありながら、天は意地悪く満ち足りぬ思いに終わらせてしまった。私は彼女を気の毒に思い、念願をはたして愉快になるどころか、むしろ悲しい気持でその場を立ち去った。ベルリーノははしけに乗ると、恐怖もおさまり、とうていありそうにもない場面を見せられて、あなたが非常に変わった性格の人だということがわかった。あのギリシャ女も、あの国の女はみんなああなのだといわれないかぎり、とても理解できないといった。そして、ギリシャの女はみんなあばずれにちがいないときめつけた。
「では、ぐずぐずと気をもたせる女のほうが堅気だと思うのかい」
「ぼくはどちらもいやです。女は恋にまけるにしても誠意をもっていて、自分と戦いぬいたあげく身をまかせるほうが好きです。男が気に入るとすぐ夢中になってしまって、本能にあやつられる牝犬のように身体を投げだすなんて、そんな女、ぼくはきらいです。あのギリシャ女はあなたが好きだというたしかな証拠を与えたが、同時に動物みたいな性質だということを、はっきり見せたわけですね。あのとき、あなたにことわられて、とんだ恥をかくかもしれなかったのに、それも考えないずうずうしい女なんですね。だって、いくらあなたが好きになっても、同じようにあなたから好かれるかどうかわからないんですからね。あの女は非常に美しく、万事がうまくいったけど、ぼくは身体がふるえちゃった」
私はベルリーノの気持をやわらげ、まえからの経緯《いきさつ》を話して、彼の正しい理屈にブレーキをかけることもできた。しかし、それは自分の得にはならなかっただろう。もしもベルリーノが女だったら、私が男女の交わりをあまり重大なことに思っていず、またあとの結果をさけるためにあれこれと策をめぐらす値うちもないと信じていることを彼に認めさせるほうが私の利益であったのである。
われわれは旅館に帰った。そして、夕方ごろ、ドン・サンチョが馬車で中庭へはいってくるのを見た。私は彼を出迎えに行って、ベルリーノとふたりで夕食のお相伴《しょうばん》をさせていただくように手配をしてあるが、失礼であったろうかときいた。彼は折目ただしく丁重な言葉で私のはからいを感謝し、喜んでお受けすると答えた。
[マリーナの懸命な口説]
じょうずにつくられたよりぬきの料理と、スペインのうまい酒と、美しい牡蠣《かき》。それらにもまして、ベルリーノとチェチリアが陽気に美声をはりあげて、二重唱をうたい、アンダルーシヤのダンスを踊った。スペイン人は五時間のあいだ天国の楽しみを味わった。そして、夜中にわかれたが、彼は今夜はおかげで十分に歓《かん》をつくしたが、明晩わしの部屋で同じ顔ぶれで夕食をすることを、ねに行くまえに承知していただかないと気がすまないといった。とすると、出発をもう一日延期しなければならないが、私は喜んで承知した。彼は驚いたようであった。
そこで、ベルリーノに約束をはたしてほしいと催促した。しかし、彼はマリーナがあなたを待っているし、あしたあなたを満足させる時間があるのだからと答え、お休みなさいといって出ていった。マリーナとふたりきりになると、マリーナは嬉しそうにドアをしめに行き、たちまち暖炉のまえへもどってきた。
彼女はチェチリアよりも年が下だが、身体はずっとできていた。そして、姉よりも好かれる値うちがあると私に思わせようと一所懸命になっていた。それは目の光を見ただけですぐにわかった。しかし、まえの晩の疲労のために十分相手をしてくれないのではないかと心配して、思いつくかぎりの色っぽいことを残らずしゃべった。知っているだけの方法をことこまかに説明し、その道の理論を残らず並べたて、いままで恋の神秘をきわめつくした経験や、その見本を味わうために用いた手段などをくわしく話した。しかし、処女でないことがわかって、文句をいわれやしないかと気をもんだ。その心配がかわいかったので、私はたわむれに娘の処女性というものは幼稚な空想にしかすぎない。大部分の娘は自然からそのしるしさえ与えられていないのだからといって、安心させてやった。そして、そのために娘をいじめる男がよくあるが、そんなのは滑稽だといった。私のこうした考えはマリーナを喜ばせたらしい。すっかり気をゆるして私の腕のなかへはいってきた。実際、彼女は万事につけて姉よりもまさっており、そういうと、すっかり得意になった。しかし、ひと晩じゅう眠らずに、私を堪能《たんのう》させるといいだしたので、それはかえって損だ、なぜなら、眠りのなごやかな休息をとると、目をさましたとき、身体がそれに感謝して、情熱の力を何倍にもしてくれるのだからといって、彼女の決心を思いとどまらせた。
こういうわけで、十分に楽しみ、よく眠ってから、翌朝、また例の祭りをくりかえした。マリーナは金貨を三枚もらって、大満悦で帰っていった。そして、胸をはずませながら、母親に渡した。母親はますます大きくなる神の賜物に相好《そうごう》をくずして喜んだ。
私はボローニャまでの旅行中にどんなことがおこるかわからなかったので、ブッケッティのところへ金をさげに行った。相当楽しい思いをしたが、金もかなりつかった。それに、まだベルリーノが残っている。もしもベルリーノが女なら、ふたりの姉妹のときよりもけちをしたと思われたくない。それはかならずやその日のうちにあきらかになるが、たしかにまちがいのないことだと思われた。
人生が不幸の集まりだという連中がいるが、そうすると、生きていること自体が不幸であり、生きていることが不幸なら、死ぬことが幸福だということになる。死は生の正反対なのだから、この結論にまちがいはない。そんなことをいうものは病人か貧乏人にちがいない。もしも私のように健康にめぐまれ、金をざくざく持ち、満ち足りた心をいだき、チェチリアやマリーナのような娘を腕に抱き、将来さらに多くの女をわがものにする確信をもっていたら、あんな説ははかなかっただろう。彼らはペシミストの一族だ(フランス語よ、こんな新語をつかう非礼をゆるしていただきたい)。この一族は乞食のような哲学者やペテン師か憂鬱症の神学者のうちにしか生存しえない。もしも快楽というものがあり、それは生きているあいだしか楽しめないとしたら、生きていることが幸福になる。もちろん不幸というものもあるにはある。それも私は知っている。しかし、不幸の存在すること自体、幸福のほうが全体としてずっと力づよいことを証明している。暗い部屋にいて、ひろびろとした地平線に向かった窓から光がはいってくるのを見るとき、私は無限の喜びを感じる。
夕食の時刻に、ドン・サンチョの部屋へ行った。彼はただひとりで、豪勢な暮らしをしていた。食卓には銀の皿がぎっしり並び、下男たちは揃《そろ》いの仕着せを着ていた。ベルリーノは気まぐれからか策略からか娘の服装をして、ふたりの妹を連れてはいってきた。妹たちはひどくきれいにめかしこんでいたが、ベルリーノのためにすっかり光をうばわれてしまった。私はそういうベルリーノを見て、女であることを確信し、一パオロに命をかけてもいいと思った。これより美しい娘を想像することは、まったく不可能なほどであった。
「どうです。これでもベルリーノが女ではないと思っていますか」と、私はドン・サンチョにきいた。
「女でも男でもかまやしませんよ。ただ非常にきれいなカストラト(去勢者)だと思っているだけです。ほかにもこういう美しいカストラトをたくさん見ましたからね」
「だが、それはたしかにカストラトでしたか」
「いやはや、わしはたしかめようなどと思ったことがありませんよ」
そこで、私はスペイン人が私にはない賢明さをもっているのに感服し、もうなにもいい返さないことにした。しかし、食卓では、この麗人から目をはなさなかった。私の好色な性質はひたむきにベルリーノを愛させ、彼が私の必要とする性であると信じて、楽しい喜びを味わわせた。
ドン・サンチョの夕食はすばらしかった。当然のこと、私の出したご馳走よりははるかにまさっていた。そうしなかったら、彼は面目を失うように思ったのだろう。出たものは白い松露、さまざまの貝類、アドリア海の極上の魚、泡のたたないシャンペン、ペラルタ、クセレス、ペドロ・クシメネスなどの葡萄酒。食事のあとで、ベルリーノが唄をうたったが、私たちはすばらしい酒で失いかけていた分別の残りがいちどきにふっとぶ思いだった。彼の身ぶり、目の動き、立居、振舞い、姿かたち、顔つき、声音《こわね》、私の本能など、いっさいが私の想像の正しいことを確信させた。ことに私の本能は日ごろの経験からしても、去勢者などに興味をもたせることはできなかった。しかし、自分の目ではっきりたしかめなければ気がすまなかった。
われわれは気品の高いスペイン人にあつく礼を述べ、ぐっすりお休みくださいと挨拶して、私の部屋へもどった。ベルリーノは約束をはたすか、あるいは私の軽蔑をまねいて、私が夜明けにひとりで出発するのを見送るか、どちらかにけりをつけねばならなかった。
[ベルリーノと旅に出る]
私は彼の手をとって、火のまえに並んで腰をおろさせ、妹たちにこの場をはずしてほしいといった。ふたりはすぐに出ていった。
「ベルリーノ、物事にはしおどきというものがある。きみは約束したのだから、すぐにけりをつけよう。もしきみがぼくと同じ性なら、事は簡単だ。すぐにきみの部屋へ帰ってもらおう。しかし、性がちがうなら、今夜ぼくといっしょにすごすかどうかは、きみの考え次第だ。場合によっては、きみに百ゼッキーニやって、いっしょに出かけることになるのだ」と、私はいった。
「ひとりで出かけなさい。だが、ぼくが約束をはたせなくても、ぼくの意気地なさをゆるすだけの寛大さをもってください。ぼくは去勢者です。自分の恥を見せたり、それがあきらかにわかったあとのおそろしい結果に立ち向かう決心がつかないのです」
「そんなことはない。ぼくは見るかさわるかして、そうとわかったら、ぼく自身、どうぞ部屋へ帰ってお休みなさいというだろうからね。そして、あしたはすっかり落ちついた気持でいっしょに出かけ、もうこのことはふたりのあいだで問題にならなくなるだろう」
「いや、ぼくはもうきめているんです。あんたの好奇心を満足させるわけにはいきません」
この言葉をきいて、私は無性に腹がたち、暴力にうったえようと思った。だが、じっとこらえて、おだやかに事を運ぶことにした。そして、自分の想像が正しいかまちがっているかさぐりあてようとして、その場所へそろそろと手を動かしはじめた。しかし、彼は私の望むような探索をさせまいとして、その手をおさえた。
「手をはなしなさい、かわいいベルリーノ」
「だめです、絶対にだめです。あんたはこわいみたいな状態にあるのだから。それはまえからわかっていたのです。そんなひどいこと、ぼくには承知できません。妹たちをよこしますから」
私は彼を引きとめ、気持がしずまったようなふりをした。しかし、いきなり不意をついて、腕をうしろから彼の腰の下にのばした。私のすばやい手はこの道から探索をすすめようとした。しかし、彼はすっと立ちあがって身をかわし、自分で恥だといっている場所を押えていた手で、しつっこい私の手をさえぎった。そのとき、私は彼が男であると見た。いくら隠していても、はっきりそう見ぬいたと思った。そして、驚き、がっかりし、腹をたて、つまらなくなって、彼を出ていかせた。ベルリーノはほんとの男だった。しかも、身体を不具にされたことばかりか、恥ずべき冷静さによって、軽蔑すべき男だった。あの際、彼があんなにも冷静で、無感動なそぶりをはっきり見せつけようとは、思ってもみなかった。
それからまもなく、妹たちがはいってきた。だが、私は眠たいから帰ってほしいと頼んだ。そして、ベルリーノにあしたはいっしょに出かけよう、もうつまらない好奇心はおこさないからと伝えてほしいといった。それから、ドアに鍵をかけて、床にはいったが、気持はおだやかでなかった。見とどけたことがいままでの迷いを晴らしてくれたとはいえ、まだなにかもやもやと心に残るものがあった。しかし、これ以上なにを望んでいるのだ。ああ! 私はあれを思いこれを思い、どうにも納得がいかなかった。
翌朝、うまいスープをたいらげてから、彼といっしょに出発した。だが、妹たちや母親にさんざん泣かれて、胸をかきむしられる思いだった。母親は数珠《じゅず》をつまぐりながら祈りの文句をつぶやき、≪神よ、助けたまえ≫のきまり文句をいつまでもくりかえした。
法律や宗教の禁ずる職業で生きているものの大部分は、永遠の神にたいしてあつい信仰をよせるものだが、それは不合理でも、見せかけでも、偽善から出ていることでもない。真実であり、本物である。それはそれとして敬虔《けいけん》なことなのである。というのも、そのよって来たる源がりっぱだからだ。その道がどうであれ、働きかける源はつねに神の摂理なのだ。いっさいのことにかかわりなく神をあがめるものは、職業上どんな違反をおかしていようとも善人でしかありえないのだ。
[#ここから1字下げ]
美しきラヴェルナ〔利得の神〕よ、
われあざむきて、|正しく聖なるごとく《ユスト・サンクトッケ》よそおうをゆるしたまえ、
わが罪を夜もておおい、わが偽りを雲もてかくしたまえ。
(ホラティウス『書翰集』)
[#ここで字下げ終わり]
ホラティウス時代のローマの盗賊たちは、彼らの女神にラテン語でこう話しかけている。あるイエズス僧が、はたして作者が≪ユスト・サンクトッケ≫と書いたとしたら、自分の国の言葉を知らなかったことになるといったが、イエズス僧のなかにも無学なものがいくらもいたのだ。泥坊たちは文法なんか頭から軽蔑している。
さて、私はベルリーノと旅に出た。彼は私が迷いの夢をさましたと信じ、もう二度と妙な好奇心をおこすまいと期待していたらしいが、それもむりではない。しかし、彼はものの十五分とたたないうちに、それが誤りであったことに気づいた。彼の美しい目を見つめる私の目は恋に燃えていた。それは男の目の与える感動ではなかった。
それで、私はきみの目は女の目であって男の目ではないから、ゆうべきみが逃げていくときに見た突起が大きな陰核《クリトリス》ではなかったかどうか、手でさわってたしかめる必要があるといった。「あれはクリトリスかも知れない。だが、そういう異常さについてきみをせめるつもりは少しもない。ただおかしいというだけのことだからね。しかし、もしもクリトリスでなかったら、それをたしかめる必要がある。それはごくやさしいことだ。もう見せろなんていわないよ。手でさわるだけでいい。そして、はっきり事実がわかったら、鳩《はと》のようにおとなしくなると断言するよ。だって、きみが男だとわかったら、きみをいままでどおり愛することができなくなるからね。男が男を愛するなんて、けがらわしいことだ。ありがたいかな、ぼくにはそんな趣味はないよ。きみの魅力と、さらにまたきみの胸、きみはぼくのまちがいだと納得させるために、ぼくの手と目にそれをゆだねてくれたが、そのためにかえってぼくはあくまできみが娘だと信じようとする、どうにもならない印象を受けてしまったのさ。きみの脚や膝や腿や腰やお尻など、きみの身体の特長は、ぼくがなんども見た、あの海から出たヴィーナスの完全なコピーなのだ。それでもなおきみがたんなる去勢者にしかすぎないということがほんとなら、きみには悪いけど、ぼくはこう思わなければならない。つまり、きみは自分が寸分のちがいもなく娘に似ていることを知って、ぼくに惚《ほ》れこませ、事実をたしかめさえすれば、ぼくはすぐ納得するのに、それをこばんで、ぼくを気違いにしてしまおうという残酷な計画をたてたんだとね。まったくすばらしい医者だ。きみは呪われた学校で教わってきたんだな。恋にとりつかれた青年の情熱をなおさせないようにする確実な方法は、いつまでもじらしておくにかぎるということをね。しかし、かわいいベルリーノよ、そういう残酷なことは、そのためにひどい目にあわされる人間を憎んでいなければ、できないことだよ。こんなわけだから、ぼくはきみが男であろうが女であろうが、きみのまねをして、まだ残っている理性を、きみを憎むことにつかわなければならない。またさらに、ぼくの要求する検査をあくまでことわると、きみを去勢者として軽蔑せずにいられなくなることも考えてほしい。ぼくに調べさせるのを、妙に重大なことのように思っているが、それは幼稚な考えだし、意地悪な仕打ちというものだ。人間らしい気持をもっていれば、意地をはってあくまでことわるなんてできないはずだ。そんなことをされると、ぼくはいろいろ勘ぐって、どうしても疑いをかけずにいられなくなる。こういうぼくの気持からすると、最後の最後には暴力を用いる決心をするようになると覚悟していてほしい。なぜなら、きみが敵だとすると、ぼくも容赦せずにきみを敵として扱わなければならなくなるからね」
こういう荒々しい調子の話を、彼はひとことも口をださずに聞いていたが、話が終わると、ぽつりと次のような短い返事をした。
「考えてみてください、あんたはぼくの主人ではないのだし、ぼくはあんたがチェチリアにいわせた伝言を信用して、ついてきたのだから、暴力なんか用いたら、人殺しの罪をおかすことになりますよ。御者にいって、馬車をとめさせてください。ぼくはおりますから。けれど、だれにも訴えたりしませんよ」
この短い返事のあとで、彼がさめざめと泣きだしたので、私のみじめな魂は途方にくれてしまった。なんだか自分が悪いような気がした。なんだかというのは、ほんとに悪いと思ったら、あやまっただろうからだ。私は自分自身の罪をさばく裁判官にはなりたくなかった。そこで、ふきげんな沈黙のなかにとじこもり、シニガリア街道の三番目の宿場へ行く途中まで、ひとことも口をきくまいと固い決心をした。しかし、シニガリアへ着いたら宿をとり、夕食を食べるつもりでいたから、それまでにきめることはきめておかなければならなかった。もう一度話しあったら、わけがわかってもらえそうな気がした。
「ぼくらは仲良しの友だちとしてリミニで別れることができただろう。それもきみがぼくにたいして友情らしいものを持っていてくれたら、できないことではなかった。結局なんてこともないようなちょっとした親切で、きみはぼくのいきりたつ気持をしずめることができたんだ」
[同性愛についての論争]
ベルリーノは私をびっくりさせたほどの落ちついた口調で、思いきって答えた。
「あんたはなおりゃしないでしょうよ。だって、ぼくが男であろうが女であろうが、ぼくに恋してるんですからね。たとえぼくが男だとわかっても、やっぱり恋しつづけるでしょう。そして、ぼくがこばんだら、もっと腹をたてるでしょう。ぼくのことを強情で情け知らずだと思って、乱暴なことをして、役にもたたない後悔の涙をながすのが落ちですよ」
「そういうことをいって、きみは自分の片意地に道理があると納得させるつもりなんだね。しかし、ぼくはいくらでも反駁《はんばく》できるんだよ。ちょっとでも気のすむようにしてくれたら、きっとぼくは親切で誠実な友だちになるよ」
「ところが、あんたは、いまもいったように、むしゃくしゃに腹をたてるにちがいありませんよ」
「ぼくに腹をたてさせたのは、きみがぼくのまえへ魅力のありったけを並べたてたからなんだ。その結果がどうなるか、きみも知らなかったわけじゃあるまい。そのときは、きみはぼくが恋しさで夢中になるのをおそれなかった。ところが、いまはぼくをがっかりさせるものにさわらせてくれと頼んでいるだけなのに、きみはその結果をおそれているように、ぼくに思いこませようとしているんだ」
「ああ! がっかりさせるんですって! きっとその反対ですよ。結論をいえばこうなるんです。もしも女だったら、ぼくはどうしてもあんたを愛さずにいられないでしょう。それはわかっています。しかし、ぼくは男なんですから、義務として、あんたの望むことには少しでも好意を見せるわけにいかないのです。なぜなら、あんたの情熱は、いまでこそ正常ですが、すぐ道にはずれたものになってしまうにちがいないからです。あんたのはげしい本能は理性の敵になるでしょう。しかも、あんたの理性はじきに腰がくだけて、あんたの迷いの片棒をかつぎ、本能と結託するようになるでしょう。ですから、あんたはその結果もおそれずに、検査をしたがって、ぼくにせついていますが、それはかえって火つけ役になって、自分で自分をおさえることができなくなるでしょう。あんたの目や手は見つけられないものをさがして、見つけたものへ腹いせをするでしょう。そして、ふたりのあいだには、もっともいまわしい男同士の関係が起こるでしょう。あんたはとても聰明《そうめい》な人なのに、どうしてぼくが男だとわかったら愛さなくなるだろうなんて想像したり自慢したりできるのですか。事実をつきとめたあとで、ぼくの魅力と呼び、恋してるといっているものが、たちまち消えてしまうと思うのですか。その魅力はたぶんずっと強くなるでしょう。そして、あんたの情火をあおりたて、あんたはそれをしずめるために、恋に迷った精神が思いつくすべての方法をとるでしょう。ぼくを女に変身させることができると思いこむかもしれないし、自分が女になれると想像して、あんたを女として扱えとせまるかもしれません。情欲に誘惑されたあなたの理性は数限りないごまかしをやるでしょう。そして、男であるぼくにたいする恋はぼくが女であった場合よりもずっと合理的だというでしょう。その理由として、そういう恋の源を純粋な友情のなかに見つけられると考えるでしょう。そして、変態の例をいくらもならべるにちがいありません。こうして、自分の弁舌のまちがった輝かしさにさそわれて、あんたはどんな堤防でもふせげない激流となり、ぼくにはまちがった理屈を打ちけす言葉も、乱暴な熱狂をおしかえす力もなくなるでしょう。そして、最後に、神聖なお寺のなかにはいるのをじゃましたら、ぼくを殺すとおどかすでしょう。あのお寺の扉は賢明な自然から出るときしか開かないようにつくられているのですからね。それはひどい冒涜《ぼうとく》ですが、ぼくが承知しなければできないことです。けれど、ぼくはそんなことを承知するより死ぬほうがましなのです」
私は彼の力づよい理屈にたじたじとなりながら答えた。
「そんなことは、なにも起こりゃしないよ。おおげさだよ。しかし、たとえきみのいうようなことが起こっても、それぐらいの変態を本能にゆるしても、悪いことはあるまい。哲学者はあれをなんの害もないつまらぬ遊びとしか見ていないよ。それよりむしろ分別をもって扱えば一時的な症状でしかない精神の病気を不治のものにするほうがずっと悪いよ」
立ちさわぐ情欲が魂の神聖な能力をまよわせるときに理屈をこねようとすると、貧弱な哲学者はえてしてこんなことをしゃべるものだ。正しく推理しようとすれば、恋したり怒ったりしていてはならない。このふたつの情念はわれわれをけだものに等しくするからだ。しかし、不幸なことに、われわれが理屈をこねたくなるのは、いつもどちらかの情念で興奮しているときに限られている。
かなり平和にシニガリアへ着いた。もう日がとっぷり暮れていた。私たちはいちばんよい宿屋にとまった。荷物をといて、わりによい部屋へ運ばせてから、夕食を注文した。その部屋にはベッドがひとつしかなかったので、私はかなり落ちついた声で、べつの部屋へ明りをつけさせたらどうかとベルリーノにいった。ところが、ベルリーノはあんたのベッドへねてもいっこうさしつかえないと、おだやかに答えて、私をびっくりさせた。
こんな返事はまったく予期していなかったので、私がどんなに驚いたか、読者にも想像がつこう。しかし、私を苦しめていた不快な気持を心のなかから一掃するには、どうしてもこういう返事が必要であった。ここで、私はいよいよ芝居も大詰めへ来たと見てとったが、喜ぶ気になれなかった。結果が吉と出るか凶と出るか見当がつかなかったからである。はっきりわかっていたことは、たとえ彼が服のままでねるという失礼なことをしても、いっしょにねれば、もう袋のなかの鼠《ねずみ》で逃げることができないということであった。そこで、私はついに勝ったと内心ほくほくもので、たとえ男だとわかっても、彼を苦しめずに、次善の勝利を手に入れるにとどめようと心にきめた。しかし、そんなことは信じられなかった。また、もしも娘であったら、たんにいままでの埋合せをするためにも、彼はきっと愛情こまやかな応対をしてくれるであろうし、それだけの心得はあるにちがいないと疑わなかった。
われわれは食卓に向かった。私は大きな重荷をおろした気持で、夕食をなるべく早くきりあげたが、彼の話しぶりや、態度物腰や、目の表情や、微笑などが、まったく別人のようになった。やがて、食卓をはなれるとすぐ、ベルリーノは常夜灯を持ってこさせ、服をぬいで、床にはいった。私も、ひとことも口をきかずに、同じようにした。そして、いっしょにねた。読者は待ちかねていた結末がどんなことになるか、まもなくおわかりになるだろうが、そのまえに、私は読者のためにも自分のためにも、楽しき夜を祈ろう。
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第十二章
[触覚は指の先端に]
読者よ、私は諸君にいとも楽しき結末を予告したが、どういう言葉をもってしても、あのうるわしい存在が私に与えてくれた快楽を理解していただくことはできないであろう。
床につくとすぐ、彼がにじりよってきたので、私は身体がふるえてしまった。そして、ひしと胸に抱きしめた。彼も同じ興奮におののいていた。ふたりの対話の大詰めは、入りみだれた接吻の大洪水だった。彼の手が先に私の背中から腰へとおりていった。私はもっと下へ手をすすめた。そして、しらべてみるまでもなく、私は幸福になった。しみじみと幸福を感じ、はっきり幸福をみとめた。もうまちがいない。たしかだ。疑う余地は全然ない。どうして幸福なのか知ろうとも思わない。口をきくと幸福でなくなるような気がする。あるいは、自分で望まなかったような幸福になる心配がある。私は私の全体をおぼらせる喜びに身も心もまかせる。彼はその喜びをともにしてくれる。絶頂に達した幸福感が私の官能をすべてうばいとり、極度の快楽におぼれた本能がぐったりと萎《な》えしぼむ、そうした程度にまでいたってしまった。そして、しばらくはわが偶像を心でながめ崇拝するために心魂をこらして、じっと身動きもせずにいた。
この芝居では、視覚と触覚が主要な人物となると思っていたが、それも二義的な役割しかしない。視覚は固く目を閉じて、自分を魅了した顔をじっとみつめる幸福よりも大きな幸福を求めなかった。また触覚は指の先端に集中されたが、より以上のものを探りあてられようとは考えられなかったので、ほかへ動こうともしなかった。もしも自然が私の同意なしに私が所有していると思う場所から逃げだそうとしたら、卑怯きわまる臆病者だと非難しただろう。
こうして、二分の時間がすぎるかすぎないうちに、われわれは雄弁な沈黙をやぶることなしに、互いの幸福の実相を何度もたしかめてみるために、心を合わせて働きはじめた。ベルリーノは十五分ごとにやさしいうめき声を出して、幸福にひたっていることを知らせた。私はふたたび精魂をからしてしまわないように心をつかった。一生を通じて、私は乗馬がすねて前進をこばむのをおそれる気持に支配されてきた。しかし、そうした節約はあまり苦痛ではなかった。というのも、目による快楽がいつも私の快楽の五分の四を占めていたからである。この理由で、本能は老齢をきらう。それは快楽を得ても与えることができないからである。青春は老齢を避ける。そのおそるべき敵は老齢だ。だから、ついには、みじめで力弱く、ぶざまで、醜く、つねに早く終わりすぎる老齢を孤独な隠居生活に追いこむのだ。
[歌姫テレザの告白]
われわれはついにひと休みした。中止が必要になったのだ。べつに疲労|困憊《こんぱい》したわけではないが、官能が常体にもどるために、精神の安静を必要としたのである。
ベルリーノはさきに沈黙をやぶって、
「ねえ、あたしがどんなにあんたを愛してるか、わかったでしょう」といった。
「あたしだって? それじゃ、きみは女であることを認めるんだね。この強情っぱりめ。そんなにぼくを愛してるなら、どうしてあんなに頑張って、ふたりの幸福を引き伸ばしたんだね。だが、きみはほんとに女なんだろうね。たしかにそうだと思ったんだが」
「なにもかも御意のままよ。嘘じゃないわ」
なんという試験! なんという魅力! なんという享楽だったろう! しかし、きのう私を尻ごみさせた巨大なものが全然みつからないので、
「きのう見た大きなクリトリスはどこへいったんだい」
私は十分な確信をもって、息の長い感謝をささげたが、そのあとで、あの魅惑的な娘は次のような身の上話をはじめた。
「あたしのほんとの名前はテレザというのよ。ボローニャの学校の貧しい事務員の子なの。家にとまっていた有名な音楽家のサリンベニと知合いになったの。あたしは十二で、美しい声をもっていたわ。サリンベニは去勢者だったけど、美男子だったわ。あたしはあの人から気に入られ、ほめられるのが嬉しく、あの人にはげまされて、音楽を習い、クラヴサンの稽古をしたの。そして、一年たつと、かなり勉強がすすみ、あの大家の優美な調子をまねて、クラヴサンをひきながら唄をうたえるようになったの。先生にはポーランド王だったサクソニアの選挙侯が心酔していたわ。先生はやむにやまれない愛情から、報酬として、あたしをお求めになったの。あたしは先生を崇拝していましたから、そういうお礼をあげるのをべつだん恥とも思わなかったわ。
あんたのような男たちは、もちろんあたしのあの最初の恋人のような人たちよりもずっと選ばれる値うちがあるわ。けれども、先生はべつだったわ。先生の美貌や才気や身ごなしや才能や、また心や魂のすぐれた長所は、そのときまで知合いになった、五体のそろった男たちよりも、ずっと好ましく思われたわ。そのうえ、つつしみぶかく謙遜で、またお金持で鷹揚《おうよう》でした。先生は自分になびかないような女に、きっと会ったことがないと思うわ。けれども、女をものにしたと自慢するのを聞いたことがないわ。片輪にされたことが、そういう目にあった人たちと同じように、先生を怪物にしたけど、あの人はすばらしい長所をもつ怪物だったわ。あたしがあの人に身体をまかせたとき、とてもあたしを幸福にしてくれたわ。けれど、あの人もたいへんいさみたったので、きっと幸福にしてあげたと思うわ。
サリンベニはリミニの音楽の先生のところに、あたしとおない年の男の子をあずけていたの。その子のお父さんは死の床で、声を保存するためにその子を去勢したの。たくさんの家族のために、その子を舞台へのぼせて、かせがせようとしたのよ。その子はベルリーノといって、あんたがアンコーナで知合いになった、あの小母さんの子だったの。みんなはあの小母さんをあたしの母親だと思っているけど、じつはそうじゃないのよ。
先生といっしょになってから一年のあいだ、あたしはとても恵まれた暮らしをしていたけど、ある日、ローマへ行くので別れなければならないという悲しい知らせを、あの人自身から聞かされたの。じきに会いに来てくれるといってたけれど、あたし、とてもがっかりしたわ。あの人はあたしが勉強をつづけられるように手はずをつけ、父にお金をあずけてくれましたが、ちょうどその時分、父は性《しょう》のわるい病気にかかって死に、あたしは孤児になってしまったの。
サリンベニはあたしの涙を黙って見ていられなくなり、あたしをいっしょにリミニへ連れていって、音楽の先生の家へ下宿させることにしたの。そこにはまえに話したように、チェチリアとマリーナの兄弟の去勢された子があずけられていたのよ。あたしたちは夜中にボローニャを出発したので、あの人に連れられていくことをだれにも知られなかったわ。それでも、あたしは大好きなサリンベニ以外にはだれも知らず、だれにも愛されていなかったので、平気でしたわ。
リミニへ着くと、あの人はあたしを宿屋へ残して、あたしのことを音楽家と打ち合わせに行ったの。けれども、三十分もすると、すっかり考えこんだようすでもどってきて、ベルリーノがまえの晩死んでしまったといったのよ。
あの人は手紙でその知らせをうけたときの母親の嘆きを考えて、あたしに死んだベルリーノの名前を名のらせて母親のところへ下宿させようと考えたの。その母親は貧乏だったから、秘密をまもったほうが得になると思うだろうというわけだったの。あの人は、
≪きみが勉強をやりとげるまでのいっさいの費用をお母さんに渡しておく。いまから四年たったら、きみを娘としてではなく、カストラトとしてドレスデンへ連れていく。そして、いっしょに暮らそう。だれも文句をいうものはあるまい。そうしたら、死ぬまでわたしを幸福にしておくれ。ボローニャの人々にはきみをあくまでベルリーノだと思わせておけばいいのだ。きみはだれも知合いがないのだから、むずかしいことではあるまい。秘密を知っているのはお母さんだけで、子どもたちはきみを兄さんだと思うだろう。わしは子どもらがごく小さいときにベルリーノをリミニへ送ったのだからね。きみは、もしもわしを愛してくれるなら、自分の性をすて、その思い出までも忘れなければいけないよ。いまからベルリーノという名前を名のり、いっしょにボローニャへ行くことにしておくれ。二時間もすれば男の子の服を着せてあげるからね。きみが第一に心がけるべきことは、だれからも女だと見やぶられないようにすることだ。ねるときもひとりでね、服を着るときも十分注意しなさい。一、二年たつと、胸がふくらんでくるだろうが、それはかまわない。胸が張りすぎるのは、わしらのようなものの欠点だからね。そのほか、別れるまえにある道具を渡して、使い方を教えよう。もしも検査を受けるようなことになったら、人がわけなく納得するように、性のちがいをしめす場所へそれをあてがうのさ。わしの計画に賛成してくれれば、わしは信心ぶかい女王〔ポーランド王妃。アウグストゥス三世の妻〕さまから文句をいわれることもなく、安心してきみとドレスデンで暮らせるのだ。賛成するといっておくれよ≫といったの。
あの人はあたしが賛成することを少しも疑わなかったわ。あたしにしても、あの人の希望どおりにするのがいちばん嬉しかったんですからね。あの人はあたしに娘の服をすっかりぬがせて、男の子の服を着せ、下男にリミニで待っているようにといって、ボローニャへ連れていったの。そして、日暮れの少しまえに着くと、あたしを旅館に残して、ベルリーノのお母さんに会いに行ったわ。お母さんは、計画の話をきくと、すぐに賛成し、息子をなくした悲しみもいくらかうすれたらしいの。それから、サリンベニはお母さんといっしょに旅館へもどってきて、お母さんはあたしを息子と呼び、あたしはあの人をお母さんと呼んだの。サリンベニは待っていろといって、出ていったけど、一時間ばかりして帰ってくると、ポケットから必要の場合にあたしを男と思わせる道具を出したわ。それ、あんた見たわね。拇指《おやゆび》ぐらいの太さの長い腸詰みたいなもので、白くてやわらかく、表面がすべすべしているのよ。けさあんたがあれをクリトリスだといったとき、あたしおなかのなかで笑ってしまったわ。その道具はとても薄く透明で長さ六インチ、太さ二インチの楕円形の皮のなかにはいっていたけど、それをトラバントゴムであそこへつけると、女が消えてしまうのよ。サリンベニは新しいお母さんのいるまえであたしに試してみたんですが、それをつけると、いとしいあの人と同じになったのよ。もしも恋しい人がすぐ出かけてしまうので胸をしめつけられる思いでなかったら、あたし、きっと吹きだしたかもしれないわ。
あたしはもう二度とあの人に会えないような予感がして、死んだような気持であとに残ったの。人々は予感を軽蔑するわね。心はほかの人には話しかけないから、それももっともだけど、あたしの予感はまちがっていなかったわ。サリンベニは去年、ティロルで、ほんとうの哲学者として、たいへん若死をしてしまったんですからね。
それで、あたしは自分の才能を利用しなければならなくなったの。お母さんはあたしをローマへうたいにいかせようと思っていたので、あたしを男だと思わせておくほうがいいと考えたのよ。それで、ローマへ行くまでアンコーナの劇場と契約して、ペトロニオを娘としてうたわせるのにつかったの。つまり、ふたりとも逆の生き方をさせられていたのよ。
サリンベニが死んだあとでは、テレザが男の腕のなかで完全な愛にほんとの贈り物をしたのは、あんたがはじめてよ。きょうからあたしにベルリーノの名前を捨てさせるかどうかは、あんたの気持次第ですわ。この名前はサリンベニが死んでからは、あたしいやでしょうがないし、どうも窮屈で、いらいらしはじめているんですからね。あたしはふたつの劇場にしか出なかったけど、許可をおろしてもらおうとすると、どこででも恥ずかしい検査を受けなければならなかったのよ。あたしがとても女の子らしく見えるといって、実際にたしかめてみなければ、だれでも男だと信じられなかったのね。でも、いままでは、検査をするのが年とった坊さんばかりで、みんな人がよく、ちょっと見ただけで満足し、司教さまへ保証してくれたわ。
けれども、あたしはたえず二種類の男につきまとわれ、道ならぬえげつない恩恵を与えろとせがまれどおしでしたの。あんたのようにあたしに恋した男たちは、あたしが男だと信じられないで、ほんとうのところを見せろと要求したの。でも、あたし、見せる決心ができなかったわ。だって、そういう人たちは目で見るだけでなく手でさわってたしかめようとする心配があったんですもの。あたしはマスクをはずされるだけでなく、好奇心にかられて道具をいかがわしい欲望につかわれやしないかと心配だったんです。しかし、それよりもいっそうあたしをくるしめたのは、あたしを見せかけているとおり去勢者と見て、そのあたしにいまわしい愛情を打ち明けるあさましい人々だったわ。あたし、そういう人々をひとりぐらい刺し殺しはしないかと気が気でなかったわ。
ねえ、あたしの天使よ! こういう恥ずかしい身分から引き出してちょうだい。いっしょに連れていってちょうだい。奥さんにしてほしいなんていわないわ。サリンベニのときと同じように、あんたのやさしいお友だちにしていただければいいのよ。あたしの気持は純真よ。恋人にたいして操をまもって暮らすようにできた女だと思うわ。あたしを見捨てないでね。あんたがあたしの心に植えつけた愛情はほんとの気持よ。サリンベニにたいしていだいた愛情は子どもらしい無邪気さからだったわ。あたし、あんたの腕のなかで完全な恋の楽しみを味わってから、はじめてほんとの女になったような気がするのよ」
[初めて結婚を決意]
私は涙が出るほど感動して彼女の涙をふいてやり、本心から彼女と運命をともにしようと約束した。もちろん、彼女が打ち明けた世にもたぐいのない話にいたく興味をそそられ、真実のことにちがいないと見てとったが、しかし、アンコーナに滞在していたあいだに、真の恋を彼女にいだかせたと信ずるわけにはいかなかった。アンコーナではいろいろの場面が、反対に、刹那的な欲望しか彼女にいだかせなかったかもしれないからだ。それで、
「もしもそんなにぼくを愛していたのなら、どうしてぼくをあんなに苦しめ、ぼくがきみの妹たちに身をまかせるのを黙って見ていられたのだね」と、きいた。
「だって、あんた! あたしたちはひどい貧乏でしたし、とても本性をあらわす気になれなかったからよ。あんたを愛してはいたけど、あんたの見せる情熱が一時的の気まぐれだけではないかと思わずにいられなかったのよ。だって、あんたが平気でチェチリアからマリーナへ乗りかえていくのを見て、欲望を満足させてしまったら、あたしのことも同じように見捨てるのだろうと思わずにいられなかったんですもの。それから、トルコの船の上でしょ。あたしが見ているのもかまわずに、女奴隷にたいしてあんなことをしたのを見て、あたし、あんたが浮気な性質で、恋の幸福をあまり重んじていないことが疑えなくなったの。もしもあたしを愛していたら、あんたはきっとあの女奴隷に手をやいたと思うわ。それなのに、あんたは平気だったから、あたし、身をまかせたあとで袖にされるのではないかと思って、どんなに苦しんだかわかりはしないわ。そんなことも知らずに、あんたはいろいろなやり方で、あたしを侮辱したわね。それでも、あたしはあんたのことを悪く思うまいとしていたのよ。あんたがいらいらして、腹いせをしようとするのもわかっていたわ。きょうも馬車のなかで、さんざんあたしをおどかしたわね。ほんとをいうと、あたしとてもこわかったわ。けれども、そのためにあんたになびく気になったと思わないでね。いいえ、いとしい友よ、あんたに身をまかせようと決心したのは、アンコーナから連れだしていただいたときからよ。それより、チェチリアに頼んでリミニまで連れていってくださいとお願いさせたときからよ」
「リミニの約束は忘れよう。そして、話をさきへすすめよう。ボローニャには三日しか足をとめずに、女の服を着、べつの名を名のって、ヴェネチアへいっしょに行こう。リミニのオペラの興行主に見つかったってかまやしないよ」
「いいわ。これからはあんたの思うようにしてちょうだい。サリンベニが死んで、あたしは自由の身体になったのですから、喜んであんたにまかせるわ。あたしの心はあんたのものよ。そして、あんたの心もあたしのものにしておけると思ってるのよ」
「わかった。ところで、サリンベニがきみによこした奇妙な道具をもう一度つけて見せてくれないか」
「いいわ。すぐにつけるわ」
彼女はベッドから出ると、湯呑茶碗に水をつぎ、荷物をあけて、道具を出した。そして、ゴムをとかし、マスクを身につけた。それはまったく奇想天外の恰好《かっこう》だった。どこへ行っても美人と見られる娘がそういう奇妙な道具をつけた姿は、いっそう興味しんしんたるものがあった。というのも、その白い切れ端は性の壷にたいして少しのじゃまもしなかったからだ。私は彼女に、もしもこれにさわらせていたら、私を酔い心地にさせたろうし、すぐに私の迷いをはらしてくれなかったら、途方もない欲念をおこしたかもしれないから、頑張ってさわらせなかったのは、かえってよかったといった。そして、それは嘘ではないといい張った。こんなわけで、それからのわれわれの言い合いは滑稽なものになった。ふたりはそのあとでぐっすり眠り、翌朝はひどく寝坊をした。
私は娘の口から聞いたことや、その美貌や才能や純情さや不幸など、すべてのことにつよく打たれて、彼女を自分の運命にむすびつけるか、自分を彼女の運命にむすびつけるか、どちらかにしようと決心した。ふたりの境遇はほとんど同じであったからだ。ことに彼女がにせの人物に扮し、そのために人からさげすまれて、つまらぬ恥辱を受けるのは見ていられなかった。
私はこの考えをさらにすすめて、彼女をわがものとし、わが身を彼女に与えるからには、その結合に正式の結婚という官印をおすべきだと決心した。そのときの考えでは、それこそお互いの愛情や信頼や社会全般の尊敬をますものにほかならないと思われた。社会は民法によって承認されないかぎり、われわれの関係を正しいものと見もせず認めもしまいと考えたのである。彼女の才能を考えると、ふたりの生活費に事欠くとも思われなかったし、私もまだなにをし、どんな方法で利用すべきか知らなかったが、自分の才能に絶望してはいなかった。しかし、もしも彼女の収入で暮らすことが私に屈辱感を与えたり、彼女がそれを自慢して私をさげすみ、私を恩人と見るべきなのに、恩をほどこすように思って、こまやかな感情がぎすぎすした理性に変わるようなことがあったら、お互いの愛情は傷つけられ、無に帰するであろう。もしもテレザがそういう下品なことのできる魂をもっていたら、はげしく軽蔑せずにいられなくなるだろう。こう考えて、彼女の本質をさぐり、この点をつきとめる必要があると思った。彼女の魂を明瞭に暴露するような試練をくわえてみなければならない。私が次のようなことをしゃべりはじめたのも、こういう考えからであった。
「かわいいテレザよ。きみの話をきいて、ぼくを心から愛していることがよくわかった。きみがぼくの心の恋人になったと固く信じていることが、ぼくをすっかり恋のとりこにしてしまった。だから、きみにそうした気持がまちがっていないとわからせるために、なんでもしたい気持になっている。きみはぼくを信頼してくれた。きみの信頼はこのうえもなく気高い。だから、ぼくはきみに負けない真剣さで、きみの信頼に十分値する人間であることを見せたいのだ。ぼくらの心は、だから、完全な平等の立場に立って、お互いに向きあわなければならない。ぼくはいまはきみをよく知っているが、きみはぼくをまったく知らない。きみはそんなことはどうでもいいという。そういう無頓着は完全な愛情のしるしだが、きみがへりくだってそんなに愛想よくしてくれると、ぼくのほうが逆に肩身がせまくなる。きみはなにも知ろうとせず、ぼくのものになることだけを求め、ぼくの心を得ることしか望んでいない。それはりっぱなことだよ、美しいテレザ。けれども、ぼくはかえって気がひけるんだよ。きみはきみの秘密を打ち明けてくれた。だから、ぼくもぼくの秘密を打ち明けなければならない。そして、ぼくのいうことをすっかりきいたら、きみの心にどういう変化がおこったか、率直に話してもらいたいのだ。
誓っていうが、ぼくはなにひとつ隠しはしないよ。しかし、心にもない返事をするような残酷なことはしないでほしい。さきにいっておくけど、そんなことをしても、きみにはなんの得にもなりゃしないよ。そんなことをして、ぼくがきみの愛情にあまりふさわしくないと思っているようなふうを見せたら、ぼくが心のなかできみにたいしてもっている尊敬を少しおとしてしまうだろう。きみがそんな策略のできる女だとは思いたくない。だからぼくがきみを信じているように、きみもぼくを信じておくれ。では、あけすけにほんとのことをいうよ。
こういうわけだ。きみはぼくが金持だと思っているが、ぼくは金持ではない。財布をからにしてしまったら、もう一文も手にはいらないだろう。また、ぼくを生れがいいと思っているらしいが、ぼくの身分はあまりよくない。きみと同じぐらいだ。ぼくには金になるような才能も、仕事も、財産もない。だから、三、四か月たったらなにをして食っていったらいいのか見当がついていない。ぼくには親戚も友人もないし、世の中に向かって主張するなんの権利もない。またしっかりした計画もない。要するに、ぼくの持っているのは若さと健康と勇気と少しばかりの才気と名誉心と誠実さと、いくらか文学の初歩を知っていることだけだ。ぼくの大きな財産はまったく自由の身で、だれの命令もうけず、また不幸をおそれないことだ。ぼくの性格は浪費的な傾向がある。以上がぼくという男だ。美しいテレザよ、きみはどう思うか、返事をしておくれ」
「まず第一に申しあげたいのは、いまのお話がみんなほんとうにちがいないと信じていることだわ。それから、お話をきいても少しも驚かなかったことも承知していただきたいわ。驚いたのは、ただああいうことをつつまずお話になった気高い勇気だけですわ。アンコーナでは、あんたのことをいまおっしゃったように思ったことがあったけど、少しも不安には思わず、かえってあんたを買いかぶるまいと願っていたことも知っていただきたいわ。だって、あの時分には、そのほうがあんたをあたしのものにするのに都合がいいと思っていたからよ。手短にいえばね。あんたが貧乏で、なんの職もなく、経済の道にもくらいというのがほんとうだとすると、あたし、実際のところ、とても気が楽なのよ。なぜなら、あたしを愛してくださるかぎり、あたしの贈り物をあまり軽蔑なさらないだろうと思うからよ。その贈り物というのは、あなたの愛する身体についているのよ。あたしはあんたに身も心もささげ、あんたのものとなり、あんたのお世話をするわ。あんたはあたしを愛するだけで、将来のことなど考えなくてもいいの。ただそれだけでいいの。いまからあたしはベルリーノじゃないのよ。さあ、それではヴェネチアへ行きましょう。あたしの才能があたしたちの生活費をかせいでくれるわ。けれど、もしもあんたがヴェネチアへ行きたくなかったら、どこでもお好きなところへ行きましょう」
「ぼくはコンスタンチノープルへ行かなければならないのだ」
「それでは、そこへ行きましょうよ。もしもふたりの関係が不安定で、そのためにあたしを失う心配がおありなら、結婚しましょう。そうしたら、あたしにたいする権利は法律で保証されるわ。正式の夫になってくれたら、いっそうあんたを愛するようになるなんていわないわ。けれども、あんたの妻だという肩書は、あたしとても嬉しいのよ。おかしな話ねえ」
「よくわかった。おそくともあさってには、ボローニャで正式に結婚式をあげよう。ぼくは想像できるあらゆる絆《きずな》できみをつなぎとめておきたいのだ」
「あたし、とても嬉しいわ。そうすると、もうリミニには用がないのですから、あしたの朝出発しましょう。起きなくてもいいわよ。お床のなかでなにか食べて、そのあとで、愛をしましょうよ」
「そりゃ、いい考えだね」
[スペイン軍につかまる]
二日目の夜を快楽にすごして、おおいに満足してから、われわれは夜明けに出発した。そして、四時間の旅ののち、朝食をとろうと考えた。そこはペザロであった。食事をすませてから、旅をつづけるために馬車に乗ろうとしていると、ふたりの射撃兵を連れた下士官がふたりの名前をたずね、さらに、旅券を見せろといった。ベルリーノはすぐ出して渡した。私は自分のを捜したが、どうしても見つからなかった。枢機卿やダ・レッツェ勲爵士の紹介状といっしょに入れといたのに、手紙はあったが、旅券はなかった。いくら事情を訴えてもむだであった。伍長は御者に待っていろといって、立ち去った。そして、三十分ほどすると、もどってきて、ベルリーノに出発してもいいといって旅券を返したが、私には司令官のところまで来いと命令した。司令官はなぜ旅券を持たないのだときいた。
「なくしてしまったのです」
「旅券をなくすやつがあるか」
「いや、ありますよ。現にわたしはなくしたんですからね」
「では、どこへも行けないぞ」
「わたしはローマから来たものです。枢機卿アッカヴィーヴァの手紙をコンスタンチノープルへとどけに行くのです。これが枢機卿の手紙です。ここに枢機卿の紋章で封印がしてあります」
「では、ド・ガージュ氏のご意見をきこう」
そこで、あの有名な将軍のまえへ連れていかれた。将軍は幕僚にかこまれていた。私は司令官にいったとおりを将軍に話し、旅行をつづけさせてほしいと頼んだ。
「わしがきみにしてあげられることは、きみが歩哨に名のったと同じ名前の旅券があらためてローマからとどけられるまで、きみをとどめておくことだけだ。旅券を紛失するなんて不幸は軽率なものにしか起こりえぬことだが、枢機卿はそういう軽率なものに使命を託すべきでないことをお悟りになるだろう」
彼はこういうと、ローマへ旅券の再交付をもとめる手紙を書いたら、私を町の外のサンタ・マリーアという大きな監視所へ留置しろと命じた。下士官は私をふたたび歩哨所へ連れていった。私はそこで枢機卿宛てに災難に会ったことを報告し、ときを移さず旅券を送ってくれるように嘆願状を書いた。そして、早飛脚で送らせた。旅券は衛戌《えいじゅ》司令部へ直接送ってほしいと頼んだ。それがすむと、思わぬ不幸にがっかりしているベルリーノことテレザを抱きしめた。そして、リミニへ行って待っているようにいい、むりに百ゼッキーニの金をにぎらせた。
彼女はペザロにとどまっていたいと望んだが、私は承知しなかった。そして、荷物をおろさせ、彼女が出かけたのを見とどけて、大監視所へ連れていかれた。こういう場合になったら、どんな楽天家でも途方にくれるだろう。しかし、私のようにあまり厳格でない克己主義を奉ずるものは悪い影響をにぶらせることができる。私をもっとも苦しめたのはテレザの悲嘆であった。せっかく結ばれたとたんに、私がこうして自分の腕のなかからもぎとられていくのを見て、テレザはあふれる涙をおさえようとして息をつまらせた。十日もすればリミニで会えるのだからと安心させなかったら、挺子《てこ》でも離れなかっただろう。それに、私はペザロにとどまるべきでないことを、言葉をつくして納得させたのであった。
サンタ・マリーアへ着くと、士官が衛兵所に入れたので、私は行李の上に腰をおろした。それは下劣なカスティリア人で、金があるからベッドをあてがってほしい、身のまわりの世話をさせるのに下男をやとってほしいと頼んでも、返事さえしない無礼者であった。それで、私は、カスティリアの兵士たちのあいだで、食事もせずに、藁《わら》の上へねて、その夜をすごさなければならなかった。歓楽のあとでこういう夜をおくったのは、これが二度目である。私の守護神は比較をする楽しみを味わわせるために、私をこういうふうにあつかって喜んでいるのだ。まことにつらい教訓だが、とくに遅鈍でのんきな性質のものには、その効果はいちじるしい。
哲学者のなかには、人間が一生のあいだに受ける苦痛の総和は快楽の総和よりもまさるというものがあるが、そういう連中の口をふさぐために、苦痛も快楽もないような人生を望んでいるのかと聞いてみるがよい。きっと、返事をしないか、返事をごまかすだろう。というのも、ノンと答えたら、人生を愛していることになるが、人生を愛するというのは、人生を愉快なところだと認めるからだ。しかし、人生が苦痛であったら、愉快にはなりえない。またもしウイと答えたら、ばかだと告白することになる。快楽にたいして無関心だといわざるを得ないからである。
われわれは、苦しむときには、その苦しみの終末を期待する喜びを得る。これはけっしてまちがいではない。なぜなら、そういう場合、最後の手段は睡眠だが、睡眠中は楽しい夢が悩みを慰め、しずめてくれる。しかも、享楽にいそしんでいるときには、楽あれば苦ありという反省はけっして歓楽をかきみだしにこない。したがって、快楽の現実性はつねに純粋であり、苦痛はつねに緩和されるものだ。
きみがいま二十歳だと仮定しよう。大学の学長がやってきて、きみに今後三十年の生命を与えよう。そのうち十五年は苦痛で、十五年は快楽だ。前者と後者はまじりあっているのではない。だから、選びたまえ、きみは苦痛からはじめようと思うか、それとも、快楽からはじめようと思うかときく。
読者よ、こういわれたら、きみは、どういう人であろうと、それはいうまでもありません。わたしは不幸の十五年からはじめます。幸福の十五年をかたく期待して、かならずや苦痛にたえる力をもつと思いますと答えるにちがいない。
しかし、親愛なる読者よ、こうした推理の結果を考えてごらんなさい。賢明なる人間も、実際のところ、けっして徹底的に不幸ではないだろう。現にわが師ホラティウスも≪粘液質にわずらわされざるかぎり≫(『書翰集』)彼はつねに幸福であるといっている。
しかし、つねに粘液質にわずらわされる人間とはどういう人間だろう。
実際、あのペザロのサンタ・マリーアのひどい一夜でも、私は失うところが少なく、得るところが多かった。テレザについては、十日たてば会えると確信していたから、苦労ではなかった。利するところというのは、処世術についてで、軽率さにたいする教訓を得たのである。すなわち用意周到である。一度は財布をからにされ、一度は旅券をなくした若者が、もうどちらもなくさなくなることは、賭けてみるなら百対一である。したがって、このふたつの不幸は二度と私に起こらなかった。もしもつねにこうした不幸をおそれていなかったら、さらに何度も面くらったにちがいない。
[思いがけない脱走]
翌日、衛兵が交替したとき、私は感じのよい士官に渡された。それはフランス人であった。私はつねにフランス人が好きで、スペイン人は好きではなかった。だが、フランス人にはよくだまされたが、スペイン人にはだまされたことがない。好みというものは警戒を要する。
「司祭どの、どういう偶然で、あなたの監視をする名誉にあずかったのですか」と、その士官がきいた。
これは人の心をほっとくつろがせる文句だ。私は一部始終を話した。彼はじっときいていたが、非常におもしろがった。実際には、私は自分のつまらない事件を少しもおもしろいとは思っていなかったが、それをおもしろがる人間は不愉快ではなかった。彼はまず私の世話をするようにひとりの兵士をつけてくれた。その兵士に金をやって、ベッドや椅子やテーブルや必要なものを集めさせた。士官は私のベッドを自分の部屋へ入れさせた。
それから、食事をふるまってくれたあとで、ピケ〔トランプのゲーム〕の勝負をしようとすすめた。私は夕方までに金貨で三、四デュカまき上げられた。しかし、彼は私の実力が彼の比ではないことや、さらに翌日の当直にあたっている士官にもはるかに劣るといい、けっして勝負に手を出すなと注意してくれた。私はその忠告にしたがった。彼はさらに、夕食には大勢客があり、食事のあとでファラオの博打《ばくち》をするが、銀行になる男は|ギリシャ人《ヽヽヽヽヽ》で油断がならないから、賭けてはいけないといった。そのうちに博打をやる連中が集まってきて、ひと晩じゅう勝負をつづけた。賭けたものはみんな金を取り上げられて、銀行をこづきまわした。しかし、銀行になった男はいっさい知らん顔で、銀行へ投資した私の友人の士官に分け前を払うと、金をざくざくとポケットへねじこんだ。その男はドン・ベッペ・イル・カデットという名であったが、言葉づかいからナポリ人であることを知り、例の士官になぜギリシャ人だといったのだときいた。士官はこの言葉の意味を説明してくれた。彼がその説明につけた教訓は後日たいへん役にたった。
その後四、五日のあいだ、私にはなにも起こらなかった。六日目に、私を優遇してくれたフランス人の士官が姿をあらわした。そして、私の顔を見ると、また会えたのをまじめに喜んだ。私も彼の挨拶を言葉どおりにとって礼をいった。夕方になると、同じ博打うちどもがやってきた。そして、同じドン・ベッペが金をまき上げた。彼は詐欺師とののしられ、ステッキでなぐられたが、けなげにも怒った顔さえ見せなかった。彼とは九年後にウィーンで会ったが、そのときは大尉になり、アフリジオという名で皇后マリア・テレジアに仕えていた。それから十年たったときには大佐になっており、それから百万長者になった。そして、最後に十三、四年まえには監獄へはいっていた。彼は美男子だった。おもしろいことに、彼の容貌は、眉目秀麗《びもくしゅうれい》ではあったが、絞首台へひかれる悪党の相をしていた。この種の人相はほかにもいろいろ見た。たとえばカリオストロ〔アレッサンドロ・カリオストロ伯爵。当時の有名な山師。錬金術や神秘術で、ヨーロッパの上流社会で名声と富をかちえた〕、それからもうひとり。それはまだ漕刑囚にはなっていないが、早晩まぬがれないだろう。
九日か十日たつと、私はまもなく旅券がくるだろうと、首を長くして待っていたが、その時分には、もう軍隊じゅうの人々から知られ、愛されるようになった。それで、歩哨の目のとどかないところまで散歩に出かけた。人々が私の逃亡を気づかわなかったのも当然だ。そんなことをしたら、かえって損になるのだから。しかし、私の一生のうちでもめずらしいほどの、奇妙な事件が起こった。
朝の六時に、衛兵所から百歩ばかりのところを散歩していると、ひとりの士官が馬からおり、手綱を馬の首にかけたまま、どこかへ行ってしまった。その馬がひどくおとなしく、まるで主人から待っておれと命じられた忠実な下男のように、動きもせずにいるのを見て、私はそばへ行くと、なにげなく手綱を取り、鐙《あぶみ》に足をかけて、鞍にまたがってみた。馬に乗ったのは生まれてはじめてだった。ところが、ステッキがさわったのか、踵《かかと》で押したのか知らないが、馬はいきなり走りだした。私は右の足が鐙からはずれたので、身体をささえる必要上、両方の踵に力を入れて馬の腹をしめつけただけなのだが、馬は拍車をかけられたとでも勘ちがいしたのだろう、まっしぐらに矢のようにすっとんでいった。最前線の哨所で止まれと命じられたが、その命令は私には実行できなかった。馬がかってに走っていくのだから、どうにもしようがない。鉄砲の音がビュンビュン聞こえたが、私にはあたらなかった。そして、オーストリア軍の最前哨所まで行くと、ようやく馬をとめてくれた。私は神に感謝しながら馬からおりた。
軽騎兵の士官がそんなに急いでどこへ行くつもりなのかときいた。私は深い考えもなく、ロブコヴィッツ大公でなければ申しあげられないと答えた。大公はリミニにあって全軍を指揮していたのである。その士官はすぐふたりの軽騎兵を馬に乗せ、べつの馬に私を乗せて、駆足でリミニへ連れていかせた。兵士たちは私を大監視所の士官に引き渡した。その士官はすぐに私を大公のまえへ案内した。
大公はひとりでいた。私はありのままをつつまずに話した。彼はそれはちょっと信じがたいといって、笑いだした。そして、本来ならあなたを留置すべきだが、そういう刑は免除してあげたいといって、副官を呼び、この方をチェゼーナの城門の外へお連れしろと命じた。そして、私のほうへ向くと、士官のいるまえで、城門の外へ出たら、どこでもお好きなところへ行ってよろしいといったが、もはや二度と旅券なしでわれわれの陣中にもどってこないように気をつけよ、そういうことになると、こんどは留置せざるを得なくなるからといい渡した。私は馬を返してもらえるかときいたが、馬はきみのものではなかろうといって取り合わなかった。
あの馬をスペイン軍へ送り返してほしいと頼むのを忘れたのは残念だった。
私を町の外へ送り出す命令を受けた士官は、あるカフェのまえを通ると、ショコラを一杯飲もうといって、いっしょにはいっていった。その店にペトロニオが働いていた。士官がほかのものと話をしているすきに、私はペトロニオに知らないふりをしていろといい、同時に住んでいるところをきいた。彼はすばやく教えてくれた。ショコラを飲んでしまうと、士官が金を払い、ふたりはそこを出た。途中で彼は名前を名のり、私も名前を告げ、私をリミニへ運んできた珍妙な事件を話した。彼は何日かアンコーナに滞在したことがあるかときいたので、あると答えると、にっこり笑った。そして、ボローニャへ行けば旅券を手に入れられようから、なんの心配もなくリミニへ、それからペザロへもどり、きみが馬を取り上げた士官に金を払ったら、荷物を取りもどせるだろうといった。こんな話をしているうちに城門の外へ出たので、彼は旅路の平安を祈って別れていった。
私はこれでようやく自由の身になった。金もあり、宝石もあるが、荷物がない。テレザがリミニにいることはわかったが、リミニへもどるのは禁じられている。そこで、いそいでボローニャへ行き、旅券を手に入れたら、スペイン軍のところへもどってこよう。その時分にはローマからの旅券もとどいていようと目算をたてた。荷物をすててしまうのも惜しかったし、テレザがリミニのオペラの興行主との契約をはたすまで、はなればなれに暮らすのもいやであった。
[逃亡者の愛の一日]
雨が降っていた。絹の長い靴下をはいていたので、馬車に乗りたかった。そこで、ひとまず雨やどりをしようと思って、とある礼拝堂の軒下にはいった。そして、司祭と見られないように、りっぱなフロックコートを裏返しにして着た。おりよくひとりの百姓が通りかかったので、チェゼーナまで行きたいのだが、馬車はないかときくと、三十分ばかりのところに置いてあるというので、かならずここで待っているから、馬車をひいてきてほしいと頼んだ。ところが、まもなくリミニのほうへ行く四十頭ばかりの荷物を積んだ騾馬《らば》がまえを通った。雨は依然として降っていた。私はなにげなく一頭の騾馬のそばへ行って、その首に手をかけた。そして、騾馬のゆっくりした足取りについて、ふたたびリミニへもどった。まるで馬方同然の恰好だったので、だれもとがめるものがなかった。馬方たちさえ私に気がつかなかったらしい。リミニへ着くと、最初に見かけた洟《はな》たらし小僧に小銭を二枚やって、テレザのとまっている家へ連れていかせた。髪の毛はナイト・キャップのなかへまるめこみ、帽子の縁をさげ、りっぱなステッキは裏返しにしたフロックコートの下にかくし、私はえたいのしれない恰好だった。彼女の家へ着くと、ベルリーノの母親はどこにとまっているかと下女にきいた。下女は私を彼女の部屋へ連れていった。ベルリーノの姿がまず目についたが、彼女は女の服を着ていた。家族も全部そろっていた。ペトロニオがさきに知らせておいたのだ。私は手短に事件の話をしてから、固く秘密をまもってくれるようにいいきかせた。一同はだれにも私が来たことはもらさないと誓った。テレザは私がそんな大きな危険におちこんだのをなげき、私とめぐり会えた嬉しさなつかしさもさることながら、私の向う見ずな行動を非難した。そして、なにはともあれボローニャへ行く方法を考えなければいけない。そして、ヴェ氏があんたにすすめたように、旅券を手に入れてもどってくるのが専一だといった。ヴェ氏とは私にショコラをふるまった士官である。彼女はあの士官を知っており、誠実な人で、毎晩遊びにくるということであった。だから、そのためにも、私はかくれていなければならないわけだった。だが、まだ朝の八時でしかなかったから、考えるひまは十分にあった。私は彼女にかならずボローニャへ行くと約束し、人に見られずに出発する方法を見つけるからといって安心させた。そのあいだに、ペトロニオが馬方たちが出かけるかどうかようすを見にいった。来たときと同じようにすれば、わけなく町から脱出できるだろう。
テレザは私を自分の部屋へ連れていって、リミニの町へはいるまえにオペラの興行主と出会い、その世話で家族といっしょに住む家をきめてもらったこと、興行主とふたりだけになったとき、あたしはほんとは女なのだから、もうカストラトのふりをしたくはない、だから、これからは女のなりをした姿しかお目にかけないといったら、興行主はかえって喜んだことなどを話した。リミニは同じ法王領でもアンコーナとはちがい、女が舞台へあがるのを禁じていなかったのである。彼女は話のしめくくりとして、契約は復活祭後にはじまる舞台に二十回出ることになっているだけだから、五月の初めには身体があく。だから、あんたがリミニに住めないようなら、契約の終り次第、どこへでもお好きなところへ行くといった。私は旅券さえ手にはいれば、リミニだってなにも心配はないのだから、仕事がすむまでの六週間いっしょに暮らすことができるといった。そして、ヴェ男爵が彼女のところへくるということなので、私が三日間アンコーナに滞在したことを話したのかときいた。彼女はそうだと答え、また私が旅券を持っていなかったので留置されたことも話したといった。そこで、私はようやく彼が微笑したわけがわかった。
こういう肝心の話がすむと、私は母親や私の幼い妻たちの挨拶を受けた。その姉妹は以前ほど快活でなく、なにか打ちとけないようすであった。ベルリーノが去勢者でもなく、兄でもなくなったら、テレザというひとりの女になって私をひとり占めにするだろうと感づいていたからである。それは誤解ではなかった。私は一度の接吻も彼女らに与えようとしなかった。母親はテレザが女の正体をあらわしたのは、大損だ。カストラトでいたら次の謝肉祭ではローマで千ゼッキーニはかせげたろうにと、愚痴たらたらだった。私はそれを辛抱してきいていたが、テレザはローマへ行ったらすぐに化けの皮をはがれて、ひどい修道院へ一生とじこめられてしまうだろうといった。
私はこういうみじめな状態で、危険な境遇にありながらも、一日じゅういとしいテレザとふたりきりですごし、一瞬ごとに彼女の新しい魅力を見いだし、ますます恋の思いを燃やした。夜の八時になると、彼女はだれか訪ねてきた気配を感じて、私の腕のなかから抜けだし、私を暗闇のなかへ残していった。ヴェ男爵がはいってくるのが見えた。彼女は女王のような態度で手を差しのべて接吻させた。男爵がまず話しだしたのは私に関することであった。彼女はそれをおもしろがってみせた。そして、彼が私に旅券を手に入れてリミニへもどってこいと忠告したといっても、全然気にとめないようすできいていた。彼は彼女のそばに一時間ばかりねばっていたが、テレザの応対ぶりには感心した。私の心に嫉妬のかけらもいだかせないような態度であった。十時ごろになると、マリーナが蝋燭《ろうそく》を持って男爵を送っていった。テレザはすぐ私の腕のなかへもどってきた。それから、楽しく夕食を食べ、ねに行こうとしていると、ペトロニオがもどってきて、夜明けの二時間まえに、六人の馬方が三十頭の騾馬をひいて、チェゼーナへ向かうことになっている。だから、彼らが出発する十五分まえに馬小屋へ行って、一杯おごってやったら、こそこそしないでも、安心して彼らといっしょに出かけられるにちがいないといった。私はいかにももっともだと思い、すぐペトロニオの意見にしたがうことにきめた。彼は朝の二時に起こしにくると約束してくれた。しかし、起こしてもらう必要もなかった。私はいそいで服をつけ、いとしきテレザをあとに残して、ペトロニオといっしょに出かけた。テレザは私の愛情を信じ、心変りの不安もいだかなかったが、リミニからうまく脱出できるかどうか気をもんでいた。そして、まだ残っている六十ゼッキーニを返そうとした。私は彼女を抱きしめながら、もしもそれを受け取ったら、ぼくのことをどう思うかときいてやった。
馬方のひとりに酒をふるまって、サヴィニャンまで騾馬に乗せてくれまいかときくと、乗せてはやるが、町の外へ出てからにしたほうがいい。城門へつくまでは歩いていって、馬方のひとりのように見せかけるほうが安全だと答えた。
それには私も異存がなかった。ペトロニオは城門までいっしょに来てくれたので、そこでたっぷり礼をしてやった。このようにして、リミニへはいったときと同様、出ていくときもしごく都合よくいった。それから、サヴィニャンで馬方たちと別れ、四時間ばかり眠ってから、駅馬車でボローニャに着き、そまつな旅館に宿をとった。
この町では一日とたたないうちに、旅券を発行してもらえないことがわかった。そんな必要はないという理由であった。それももっともだが、私にはどうしても必要だった。そこで、リミニの大監視所に留置された二日目に私を優遇してくれたフランス人の士官へ手紙を書き、衛戌《えいじゅ》司令部に旅券がとどいているかどうか、もしもとどいているなら、こちらへ送ってもらいたいと頼むことにした。その手紙には、私に馬を盗まれた士官の名前もおしえてほしい、弁償しなければならないからと書きそえた。とにかく、私はボローニャでテレザを待つ決心をし、その決心を同時に彼女に手紙で知らせることにした。そして、ちょいちょい手紙をよこしてほしいと頼んだ。しかし、この二通の手紙をポストへ入れてしまってから、その日のうちに新たな方向をきめたことは、いずれ次章で話そう。
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第十三章
[僧衣を軍服に着かえる]
ボローニャへ着くと、人目をさけて、だれも行かないような旅館に宿をとった。手紙を書いてしまって、その地でテレザを待つことにきめると、着がえるためにシャツを買った。荷物がもどるかどうか自信がなかったので、衣服をととのえようと考えたのだ。僧侶という資格や職業では、出世の見込みもないので、軍服を身につけようという計画をたてた。そして、だれにたいしても行動の報告をする義務がないので、なんでもかまわんから気に入ったのを着ることにした。この考えは私の年齢ではむりではなかった。いままでふたつの軍隊を見てきたが、すべての服装のうちで軍服がいちばん尊敬されていたから、私も軍服を着て尊敬されようと思ったわけだ。それにまた、祖国では僧侶の服でもあまりよい待遇を受けなかったから、その祖国へ名誉の制服をまとって帰るのはまったく愉快であった。
そこで、じょうずな仕立屋はいないかときくと、さっそく死神をよこした。というのも、モルテ(死という意味)という名の男を連れてきたからだ。私はつくらせるつもりの軍服の色や形をその男におしえた。彼は寸法をとり、生地の見本を見せたので、そのひとつをえらんだ。仕立屋は翌日はやくも軍神マルスの弟子となるに必要なものをすべてとどけてよこした。私は長い剣をつり、りっぱなステッキを手に持ち、縁が十分上にそっている、黒い徽章をつけた帽子をかぶり、髪の毛は鬢《びん》を刈り上げ、長い入毛を垂らした。そして、ずばぬけた姿を見せびらかそうと町へ出ていった。
新しい身分には着いたときにとまったのよりもりっぱな旅館がよいと思い、アル・ペレグリノ旅館へ宿をかえた。旅館の鏡にりゅうとした服装を写してみたときの嬉しさといったら! あんな嬉しさはついぞ感じたことがない。まるで軍人になるように生まれついたような気がした。きっと世人の耳目を聳動《しょうどう》させるだろうと思われた。そして、だれからも見やぶられる心配がないと思い、町のもっともにぎやかなカフェへ姿をあらわしたら、並みいる客がどんな話をでっちあげるだろうと、気も心もうきうきした。
私の軍服は白、チョッキは青、金と銀の肩章をつけ、剣にもそれにふさわしい金モールがついていた。私は自分の風采にすっかり満足し、大きなカフェへはいっていった。そして、ショコラを飲みながら新聞を読んだが、新聞の文字は目にもはいらなかった。周囲のものの目が自分に集中しているのが嬉しくてたまらなかったが、気がつかないふりをしていた。人々は好奇心をあおられて、ひそひそ耳うちをはじめた。なかにひとりずうずうしい男が、お話をうかがいたいと、言葉をかけてきた。しかし、ぶっきらぼうな短い返事しかしなかったので、カフェじゅうの口達者な聞きたがり屋も閉口してしまった。それから、りっぱな供門《アーチ》の下を十分に行きつもどりつしてから、旅館へ昼食を食べに行った。
食事がすんだあとで、主人が私の姓名を書きこむために、台帳を持ってきた。
「お名前は?」
「カザノヴァ」
「ご身分は?」
「士官」
「ご勤務の隊は?」
「ない」
「お国は?」
「ヴェネチア」
「どちらからいらっしゃいましたか」
「それはきみに関係のないことだ」
身なりにあわせたそっけない返事はおおいに効果があった。主人はひきさがっていった。私は自分の返事におおいに満足した。主人がこういうことを聞きにきたのは、だれか好奇心のつよいやつにけしかけられたにちがいないと見てとった。ボローニャでは市民の暮らし方が非常に無遠慮だということを知っていたからだ。
翌日はオルシ銀行へ行って、現金で百ゼッキーニ受け取り、六百ゼッキーニをヴェネチア宛ての為替《かわせ》に組んでもらった。それから、モンタニョラの丘へ散歩に行った。三日目に昼食後のコーヒーを飲んでいると、銀行家のオルシの来訪を知らされた。意外な訪問におどろきながら部屋へとおさせると、コルナーロ〔ヴェネチアの貴族〕猊下《げいか》がいっしょにはいってきた。しかし、私は面識のないふりをしていた。銀行家は私の手形にたいして金をとどけにきたといい、司教を紹介した。私は立ちあがって、初対面の挨拶をした。すると、司教は、あなたとはヴェネチアとローマとでお知合いになっているといった。私は困った顔をして、それは猊下の思いちがいでしょうと答えた。すると、司教はまじめな顔になって、それ以上追及せずに、言い訳をいった。私が身分をかくしている理由を感づいたらしい。そして、いっしょにコーヒーを飲んでから、翌日朝食にこいといい残して帰っていった。
私はあくまで素姓をあかすまいと決心して、朝食に行った。士官というにせの肩書を名のっているので、猊下の知っているカザノヴァと同じ男だと認められたくなかった。当時私は詐欺やペテンには素人《しろうと》だったので、ボローニャではなんの危険もないことを知らなかったのである。
司教は、当時は法王庁の秘書長にすぎなかったが、いっしょにショコラを飲みながら、あなたが身分を隠しているのは、それ相当の理由があるのかもしれないが、わたしまでも信用しないのはまちがっている。いま問題になっている事件はあなたには名誉なことなのだからといった。いったいどういう事件なのかときくと、まえにあったペザロの新聞をとりあげて、この記事を読んでみろといった。新聞にはこう書いてあった。
「女王陛下の連隊の士官カザノヴァ氏は中隊長を決闘で殺したのち脱走した。決闘の事情は不明であるが、目下判明していることは、前記の士官が中隊長の死体をその場に放置して、リミニ方面へ逃走したことだけである」
私はひとつまみの真実に嘘八百をまぜあわせた記事に、非常に驚いたが、顔色ひとつかえずに、新聞にのっているカザノヴァはもちろん私とは別人だといった。
「そうかもしれませんな。しかし、あなたはひと月まえにアッカヴィーヴァ枢機卿のところで、また二年まえに妹のロレダン夫人のところでお目にかかった方と同じであるにちがいないですな。アンコーナのブッケッティもオルシへ宛てた手形のなかで、あなたのご身分を司祭とうたってあります」
「そのとおりでございます、猊下。そこまでおっしゃられると、兜《かぶと》を脱がないわけにまいりません。私はまさしく同一人でございます。しかし、この問題につきましては、今後ともこれ以上おききにならないでいただきたいのです。目下のところ、わたしは体面上、厳重に沈黙をまもらなければならないのですから」
「いや、けっこうです。わしもこれで気がすみましたから」
「では、ほかの話をしましょう」
それから、儀礼的なことを三つ四つしゃべってから、彼の援助の申し出をあつく感謝して別れを告げた。この司教とふたたびめぐり会ったのは十六年後で、それはまたそのときに話そう。
[愛情は自尊心より弱い]
私はこうした虚偽の報道や、それを真実らしく見せるためにでっちあげた情況を、心のなかで笑い、その後は歴史的真実といわれることにたいして、非常に懐疑的になった。それはとにかく、身分をかくしていたために、かえって私がペザロの新聞のいっているカザノヴァにちがいないと、コルナーロ司教に固く信じこませたのは、まったく愉快だった。彼はきっとこのことをヴェネチアへ知らせるだろう。そして、ヴェネチアでは、少なくとも事実が判明して、私の否認がみとめられるまでは、私を英雄扱いにすることだろう。こういうわけで、私はテレザの手紙が来次第、ヴェネチアへ出かけようと決心した。そして、テレザをヴェネチアへ呼びよせよう、ヴェネチアのほうがボローニャよりも彼女を待つのに都合がいいと考えた。祖国へ帰りさえすれば、正式に彼女と結婚するのにだれも反対しないだろう。こういうふうに考えるにつけても、決闘事件のつくり話はおかしくてならなかった。士官カザノヴァというものがいたとしたら、馬をうばって逃げたとペザロの新聞記者が書いているつくり話をおおいに笑っているにちがいないが、それは私がボローニャへ来て軍服を着るなどという気まぐれを起こしたために、思わぬ噂に材料を提供したのを愉快がっているのとまったく同じだ。
ボローニャへ来てから四日目に、テレザの分厚い手紙を早飛脚から受け取った。それにはべつに二枚の紙片が同封してあった。手紙によると、私が出発した翌日、ヴェ男爵がカストロピニャーノ公爵を彼女の家へ連れてきたが、公爵は彼女がクラヴサンでうたうのをきくと、もしもナポリのサン・カルロの劇場でうたってくれたら、一年に千オンチェ出そう、旅費もいっさい負担するということだった。この申し出を承知すれば、五月中に向うへ行っていなければならないがと、公爵がよこした契約書の写しを同封してあった。彼女は返事を一週間のばしてほしいと頼み、公爵はそれを承知した。それで、いま公爵の契約書に署名すべきか、それともその申し出をことわるべきか、私の返事を待ってきめるつもりだというのであった。
べつの紙片は彼女が自分で書いたもので、
「あたしはあくまでもあんたのお世話になりたい。もしもあんたがいっしょにナポリへ行く気があれば、どこでもあんたのきめるところで落ちあおう。またもしナポリへもどるのがおいやなら、この幸運は手放してもいいのです。あたしにとっては、あんたを喜ばせ満足させること以外には、幸運も幸福もないのだから」
といっていた。
これはおおいに考えなければならない手紙だった。心を決めるまえにこれほど考えさせられたのは、生まれてはじめてだ。そこで、早飛脚にあした来てほしいといった。だが、どうにも考えがきまらなかった。同じ力をもつふたつの理由が秤《はかり》の両方の皿にのっかって、どちらへも傾かせなかった。テレザにそんなまたとないいい話をことわらせることも、ひとりでナポリへ行かせることも、いっしょにナポリへ行く決心をすることも、私にはできなかった。私の愛が彼女の幸運のさまたげになると考えると、たまらなかった。またテレザにくっついてナポリへもどるのは、自尊心がゆるさなかった。そうした自尊心は彼女のために燃えさかっている胸の焔よりも強かった。わずか七、八か月しかたっていないのに、女房とも情婦ともつかない女の紐という資格しかもたずに、どうしておめおめとナポリへもどれようか。親戚のドン・アントニオやパオロ父子やドン・レリオ・カラッファをはじめ、知合いのあらゆる貴族がなんというだろう。私はまたドンナ・ルクレツィアやその夫のことも考えて身ぶるいをした。ナポリへ行って、世間から軽蔑されたら、いくらテレザに血道をあげていても、そのために不幸にならずにいられようか。夫ないし情人として、彼女の運命にしばりつけられたら、そうした身分や職業からいっても、つねに人から軽蔑され、侮辱され、はいつくばっていなければなるまい。まだ青春の盛りでありながら、いずれは高い身分になれそうな生まれついての希望をいまや全部見捨ててしまおうとしている、そう考えると、秤がぐらぐらと動きだして、理性が愛情に沈黙を命じた。
そこで、時間をかせぐためにある方法を思いつき、筆をとって、ともかくナポリへ行け、ぼくも七月中に、あるいはコンスタンチノープルから帰ったら、まちがいなくきみのところへ行くと書いた。そして、さらに、ナポリの大都会でれっきとした身分だと思われるようにしかるべき侍女をやとえ、そして、ぼくがきみの夫となるときにも赤い顔をせずにすむように、十分素行をつつしめとすすめた。私の見るところでは、テレザのこんどの幸運は才能よりも美貌にかかっているので、私のような性格の男はとても見て見ないふりや聞いて聞かないふりのできる重宝な亭主にはなれそうにもなかった。
ついに愛情が理性に負けたのだ。しかし、この話がもう一週間早かったら、私の愛情もそれほどおとなしくはなかっただろう。私はさらに折返しボローニャ宛てに返事を書き、この早飛脚に持たせてよこせと書いた。そして、三日後に、彼女の最後の手紙を受け取った。それには、契約書に署名をした、母親だといってもいいような侍女をやとった、五月の半ばに出発する、そして、もうあたしのことは忘れるという手紙でも来ないかぎり、いつまでもあんたを待っていると書いてあった。私はこの手紙を受け取ってから四日後にヴェネチアへ向けて出発したが、そのまえに次のようなことが起こった。
まえにフランス人の士官へ手紙を出して、行李を送り返してもらうかわりに、私がさらったというよりも私をさらった馬の代金を払うことを通知したが、その士官から返事がきて、私の旅券が到着し、衛戌《えいじゅ》司令部に保管してあることや、馬の代金として五十ドブロン送ってくれば行李を送り返すことや、馬を盗まれたのはマルセロ・ビルナ氏といい、スペイン軍の御用商人で、これこれのところに住んでいることなどを知らせてくれた。手紙にはさらに、いちぶしじゅうをそのビルナ氏へ書き送り、ビルナ氏は金を受け取ったら、行李や旅券を私の手もとへとどけると約束したとつけくわえてあった。
私はいっさいが手順よく片づいたのを喜び、すぐ御用商人を訪ねた。彼はヴァタジァという私とも面識のあるヴェネチア人といっしょに住んでいた。私は彼に金を払い、ボローニャを立つその日の朝、行李と旅券を受け取った。私が金を払ったことはボローニャじゅうに知れわたった。それでコルナーロ司教は中隊長を決闘で殺したのは、やはり私にちがいないと思いこんでしまった。
ヴェネチアへ行くには、検疫を受けなければならなかったが、私はそれを受けまいときめた。両国の政府〔法王領政府とヴェネチア共和国の政府〕のあいだに紛争がつづいていたので、この制度がまだ存続していたのである。ヴェネチア人は法王こそさきに旅行者へ国境を開放すべきだといい、法王はその反対を主張した。この問題はまだ調整がつかず、商業はひどい打撃を受けていた。私はこの規則をまぬがれるために、次の方法をとった。ヴェネチアでは、衛生についてはきわめて厳重であったので、なかなかむずかしいことだったが、敢然としてやってみた。というのも、当時、私の最大の喜びは、禁じられていることを、または少なくとも困難なことを、なんでもやってのけることであったからである。
私はマントヴァの国からヴェネチアの国へ、またモデナの国からマントヴァの国への出入が自由であることを知っていた。だから、モデナの国から来たようなふうをしてマントヴァの国へはいることができれば、万事解決すると見てとった。そして、どこかでポー河を渡れば、まっすぐにヴェネチアへ行ける。そこで、馬車をやとい、レヴェレまで運ばせた。これはポー河にのぞむ町で、マントヴァの国に属している。馬車屋は間道を通ればレヴェレへ行って、モデナから来たということができるが、モデナでの健康証明書を見せろといわれたら困るといった。そこで、もしもそういうことになったら、失くしたといえ、あとはぼくが引き受けるからと命じた。彼は少しばかりの金で承知した。
[にせ士官の帰郷]
レヴェレの城門へ着くと、私はスペイン軍の士官でヴェネチアへ行く。ヴェネチアにはモデナの大公が滞在していられるが、重大な用件で大公と面談する必要があるのだといった。
すると、兵士たちはモデナの健康証明書の提示を馬車屋に命ずることを忘れたばかりでなく、軍隊的な敬礼はもとより、非常に丁重に私を待遇して、レヴェレから来たという証明書を簡単に発行してくれた。それからオスティリアでポー河を渡り、レニャゴへ行った。ここで馬車を返したが、馬車屋は十二分の謝礼をもらって大喜びであった。レニャゴからは駅馬車に乗り、夕方ヴェネチアに着いた。そして、リアルトの旅館に宿をとった。ときに一七四四年四月二日、私の誕生日であった。私の全生涯を通じ、なにか異常な出来事の起こった誕生日は前後十回にものぼっている。翌日、正午に、コンスタンチノープル行きの便船の切符を買おうと思って、取引所へ行った。しかし、便船の出航は二、三か月後になるということだったので、その月のうちにケルキラ島へまで行くヴェネチア線の船に部屋を予約した。その船は≪ロザリオ聖母号≫で、船長はツァネといった。
私は迷信ぶかい気まぐれから、運命がコンスタンチノープルに呼んでいる、どうしても行かなければならないという気がしていたので、こうして運命に服従する手続きをしたのだが、それがすむと、サン・マルコ広場のほうへ歩いていった。以前の知合いと顔を合わせるのが楽しかった。彼らは私が司祭ではなくなっているのを見て驚いたことだろう。いい忘れたが、レヴェレを出てから、私は帽子の徽章を赤いのに取りかえていた。最初に訪問したのはグリマーニ司祭であった。彼は私を見ると大声をあげた。なにしろ私がアッカヴィーヴァ枢機卿のところで政治関係の仕事にたずさわっていると信じこんでいたのに、軍服姿であらわれたのだから、驚くのもむりではない。彼はちょうど大勢の客をしているところだったが、あわてて食卓から立ちあがった。客のうちにひとり、スペインの軍服を着た士官が目についたが、私はそのためにどぎまぎすることもなく、旅の途中でちょっとヴェネチアへ立ち寄ったので、ご挨拶にうかがったといった。
「そういう服装をしたきみに会おうとは、夢にも思わなかったよ」
「教会の服を着ていたのでは、思うような出世ものぞめませんから、いろいろ考えたすえ、脱ぎすててしまったのです」
「それで、どこへ行くのかね」
「コンスタンチノープルです。ケルキラ島まで行って、早い船をつかまえるつもりです。アッカヴィーヴァ枢機卿からご用を仰せつかったのです」
「いままでどこにいたのだね」
「スペイン軍にいたのです。十日まえまで勤務していました」
こういうと、ひとりの若い貴公子が私をにらみながら「それは嘘だ」という声が聞こえた。私は「わしの身分では、人の反駁《はんばく》はゆるさん」ときめつけた。そして、ぐるりと一巡敬礼すると、引きとめるのもかまわず、だれにも注意せずに出てきた。
身に軍服をつけてみると、軍人らしくいかつい態度をとらなければならないような気がした。もう司祭ではないのだから、人の悪口を聞いても聞かぬふりをする必要はない。それから、マンツォーニ夫人を訪ねた。夫人には早く会いたくてならなかったが、いたれりつくせりの歓迎をしてくれた。彼女は自分の予言を思いださせて、得意になった。そして、詳しい事情を知りたがったので、すっかり話してやった。彼女はあなたがコンスタンチノープルへ行ってしまったら、もう二度と会えないかもしれないと笑いながらいった。
夫人の家から出ると、オリオ夫人を訪ねた。一家の驚きはじつに愉快だった。彼女と老代訴人ローザとナネッタとマルタとは、茫然と石になったようだった。ふたりの姉妹は九か月も会わないうちにずっと美しくなったように見えた。いままでのことを全部話してほしいとせがんだが、相手にならなかった。あの九か月間のことは、オリオ夫人や姪《めい》たちの気に入るものではなかった。潔白な心の持主ゆえ、夫人は見さげはてた男だと思ってしまうだろう。しかし、私は都合のいい話をして、彼らに楽しい三時間をすごさせた。そして、老夫人がおおいに感激しているのを見て、乗っていく船の出帆を待つあいだ、四、五週間ヴェネチアにいなければならないが、そのあいだ夕食つきで下宿させてくれまいか、それはお気持次第だが、けっして負担はかけないといった。彼女は部屋さえあれば、喜んでお引き受けするのだがと答えた。すると、ローザが部屋はあるじゃないかといい、二時間以内に家具をそろえると請けあった。それは姪たちの部屋の隣の部屋だった。ナネッタはそれではあたしは姉さんといっしょに下へおりて、ふたりで台所へねようといった。そこで、私はおふたりに迷惑をかけるのは気の毒だから、いままでどおり旅館暮らしをしようと答えた。すると、オリオ夫人はなにも下へおりなくても、鍵をかければいいではないかといった。
「奥さん、鍵なんかかける必要はありませんよ」と、私はまじめくさった顔で答えた。
「それはよくわかっておりますがね、この子たちはなかなかの淑女で、いろいろ気をつかうのですよ」
話がきまると、むりに夫人の手へ十五ゼッキーニにぎらせ、私は金持だし、旅館に一か月とまればずっと金がかかるのだから、たいへん得になるといいきかせた。そして、あとで行李を運ばせ、あしたからごやっかいになることにするといった。若い妻たちの顔には喜びの色がうかがわれた。私は心の目のまえにたえずテレザの姿がちらついていたが、彼女らはふたたび私の愛情にたいする権利を取りもどしたのである。
[姉妹で交替に]
翌日、行李をオリオ夫人のところへ送らせてから陸軍省へ行った。しかし、悶着《もんちゃく》がおこるのをおそれて、徽章ははずした。ちょうどペロドロ少佐がいて、私が軍服を着ているのを見ると、喜んで首っ玉へとびついてきた。私がこれからコンスタンチノープルへ行かなければならないことを話し、ごらんのように軍服を着ているが、べつに任務をもっているわけではないというと、それなら大使《バイロ》がおそくとも二か月以内にはコンスタンチノーブルへ出発する予定だから、それに同行するほうが得だ。それから、ヴェネチア軍にはいるように工夫するがよいとすすめた。私はなるほどと思った。陸軍大臣はまえのときと同じ人だったが、私の姿を見て呼びとめた。そして、ボローニャからの手紙で、きみが決闘で相手を殺すという武勲をたてたことや、きみがそれを認めていないことなどを知ったといった。そして、スペイン軍をやめたのは辞職したのかときいた。私は辞職したのではない、はじめから勤務しなかったのだと答えた。すると、どうして検疫をうけずにヴェネチアへ来られたのかときいたので、マントヴァの国から来るものは検疫をうける心要がないと答えた。彼も同じように祖国の軍隊にはいれとすすめた。
大公の庁舎から出ると、柱廊の下でグリマーニ司祭と出会った。彼は私が無愛想に帰っていってしまったので、居合わせた連中に不快の念を与えたといった。
「あのときにいたスペインの士官もですか」
「いや、あの人は反対に十日まえまでスペイン軍にいたということが事実なら、腹をたてるのがもっともだといい、さらに、きみはたしかにスペイン軍にいたといったよ。そして、一通の新聞を見せ、きみが中隊長を殺したと話したよ。あれは事実無根なのだろうね」
「だれがそういったのです」
「それじゃ、ほんとのことなのか」
「そうはいいません。しかし、ほんとかもしれませんね。わたしが十日まえまでスペイン軍にいたのと同じように」
「そんなはずはない。きみが検疫法をやぶらないかぎりね」
「いや、やぶりはしませんでした。正々堂々とレヴェレでポー河を渡って、ここへ来たのです。ただ残念なのは、私の言葉を否認した男が十分の釈明をしないかぎり、もはやお宅へうかがうわけにいかないことです。謙虚を徳とする職業についていたときには人の侮辱にも耐えられましたが、現在では名誉を第一とする職業ですからね」
「物事をそういうふうに固苦しく考えるのはまちがっているよ。きみの話に横やりを入れたのは現在衛生監督官をしているヴァルマラナという人だが、まだ自由な往来がみとめられていないから、きみがここへ来られるはずがないと主張しているのさ。釈明しろだなんて! きみは自分の人となりを忘れてしまったのか」
「いいえ。しかし、いまどんな人間だかわかっています。去年、わたしは意気地なしだと思われたかもしれませんが、いまは失礼なことをいうものには後悔のほぞをかませてやります」
「いっしょに昼食に来たまえ」
「せっかくですが、あの役人に知れるとまずいです」
「知られるどころか、会うだろうよ。毎日わしのところへ昼食に来るのだから」
「わかりました。では、うかがいましょう。もしも喧嘩になったら、あの人に裁き役をしてもらいましょう」
ペロドロ少佐や三、四人の士官と昼食をやっていると、みんな口をそろえてヴェネチア軍にはいれとすすめた。それで、私もその気になった。ひとりの若い中尉が病気のために近東へ行けなくなったので、その地位を売りたいといっているということだった。金額は百ゼッキーニだが、この取引は、それだけではすまず、陸軍大臣の許可が必要だった。ペロドロに百ゼッキーニはすぐにも払えるというと、大臣に話してみると引き受けた。
夕方オリオ夫人のところへ行った。部屋のぐあいは上々だった。十分に夕食をすませると、伯母は姪たちに私の部屋へついていって身のまわりの世話をしろと命じた。
最初の夜はふたりとも私といっしょに寝たが、その後は交替制ということにし、部屋の仕切りの板を一枚はずして、そこから行ったり来たりするようにした。われわれはこの仕事を見つからないようにじょうずにやった。たとえ伯母さんが姪たちのようすを見に来ても、ドアには鍵がかかっているし、私とねているほうがその穴をくぐって、板をはめるひまは十分にあるから、尻尾《しっぽ》をつかまれる心配はないというわけだ。しかし、伯母さんは一度も見に来なかった。われわれのまじめさに信頼していたのである。
二、三日たってから、グリマーニ司祭がカフェー・デラ・スルタナでヴァルマラナ氏と話しあう機会をつくってくれた。同氏は検疫をまぬがれる手段があると知っていたら、私の話を嘘だときめつけるようなことはしなかったろうといった。そして、いいことを教えてもらってありがたいと礼を述べた。これでいざこざもけりがっき、私は出発まで毎日グリマーニ司祭のところへ昼食に行った。
[ヴェネチア軍の旗手]
その月の末に、私は共和国の軍隊にはいり、旗手としてケルキラ駐屯のバラ連隊に配属された。私から百ゼッキーニもらって軍隊をやめた男は中尉だった。しかし、陸軍大臣は軍に勤務したければ、わしの決定にしたがうべきだと、いろいろ理由をあげて説得した。そして、一年たったら中尉に昇進させるし、コンスタンチノープルへ行くのに必要な休暇も与えようと約束した。私は軍人になりたかったので、彼の意見をいれることにした。
大使の資格でコンスタンチノープルへ行くヴェニエ勲爵士に同行する許可をとってくれたのは、有名な元老院議員のピエトロ・ヴェンドラミン氏であった。彼の紹介でヴェニエ氏に会ったが、ヴェニエ氏はケルキラ島へは私よりひと月おくれて着くが、そこで待ち合わせてコンスタンチノープルへ連れていこうと約束してくれた。
出発の数日まえ、テレザから手紙が来た。それによると、公爵は彼女をナポリの劇場の専属にし、自分でナポリへ連れていった。公爵は年寄だが、たとえ若くてもご心配はいらないとあった。そして、もしもお金が必要なら、あたしの名前で手形をふりだしてほしい。たとえもっているものを残らず売っても支払うからといっていた。
ケルキラ島へ行く船に、参事官としてザキンソス島まで行くヴェネチアの一貴族が乗ることになった。彼は大勢の供を連れていた。船長の話だと、私はひとりで食事をしなければならないが、それではうまくあるまいから、だれかに頼んで紹介してもらったら、きっと食卓へ招待してくれるだろうと忠告してくれた。その貴族はアントニオ・ドルフィンといったが、通称はブチントーロと呼ばれた。あの豪壮な船の名が彼のあだ名になったのは、威風堂々たる態度と優雅な身なりのためであった。グリマーニ司祭はこの殿さまがザキンソスまで乗っていく船に私が部屋をとったと知ると、私が頼まないさきに私を紹介し、同じ食卓で食事をする名誉と利益をえさせてくれた。殿さまはたいへん愛想のよい態度で、家内も同じ船で行くので、知合いになってもらえたら嬉しいといった。そこで、翌日訪ねていった。もう中年すぎだが、美しい女だった。しかし、まったくのつんぼだったので、私としてはなにも希望する余地がなかった。彼女にはかわいい娘があって、修道院へあずけていくことにしたが、その娘はときとともに有名になった。行政長官トロン氏の未亡人として、いまでも存命だと思う。しかし、トロン氏の家系はすでに断絶した。
この夫人の父親であるドルフィン氏ほど風采がりっぱで身なりのきわだった男を見たことがない。そのうえ、才気においてもすぐれていた。非常に雄弁で、礼儀ただしく、つねに損をしていたが、すばらしい博打うちで、目をつけたすべての女から愛され、幸運に恵まれたときも非運にみまわれたときも、一様に泰然自若として変わらなかった。かつて許可なくして旅行をしたので政府の忌諱《きい》にふれ、外国の軍隊に勤務した。ヴェネチアの貴族としてこれより大きな罪はない。そこで、人々はむりに彼をヴェネチアへ呼びかえし、罰としてしばらく鉛屋根《イ・ピオンビ》の監獄ですごさせた。
この美男子で鷹揚で、しかし裕福ではない貴族は大議会へ有利な知事職をもとめる必要にせまられた。そこで参事官としてザキンソス島へ行くようにえらばれたのだが、こんなに仰々しい大名旅行では、大きな利益を期待することはできないだろう。この高貴なヴェネチア人ドルフィンは、いま述べたような人柄であったから、ヴェネチアでは財産をつくることができなかった。貴族政治では、貴族相互のあいだの平等を基本とし原則としないかぎり平和を希望することはできない。ところが、肉体的あるいは精神的平等ということは、外観以外に判断することが不可能だ。したがって、生れつきほかのものよりもすぐれたり劣ったりしている市民は、迫害されまいとすれば、人なみに見せるために、あらゆる方策を講じなければならない。多くの才能をもっているものはそれを隠し、野心的なものは名誉を軽蔑するふうをよそおい、利益を得ようとすれば、なにも要求してはならない。容貌がすぐれていればそれをおろそかにし、身なりをかまわず、ことさらにわるくつくるように心がけ、凝ったものを身につけることをさけるべきだ。さらにまた、自分に関係しないことをすべてちゃかし、挨拶も型どおりにせず、礼儀正しさを誇らず、美術を尊敬せず、よい趣味をもっていてもそれを隠し、外国人の料理人をつかわず、ろくに櫛《くし》を入れない鬘《かつら》をかぶり、少し不潔にしていなければならない。しかし、ドルフィン氏はこういう自己|欺瞞《ぎまん》の素質を少しももたなかったので、祖国ヴェネチアでは好運にありつくことができなかった。
出発の前日は、オリオ夫人の家から一歩も外へ出なかった。彼女は姪たちにおとらず涙を流し、私も彼女らに負けずに泣いた。この最後の一夜、若い姉妹は私の腕のなかで愛の交歓に息もたえだえとなりながら、もう二度と会えないと百度もくりかえした。それはまさに図星であった。もしもふただび会えたとしたら、この予言は適中しなかったわけだ。ここに予言のすばらしさがある。
私は五月五日、りっぱな服装をし、多くの宝石を身につけ、現金もざくざく持って、船に乗りこんだ。金は五百ゼッキーニあった。その船は二十四門の大砲をそなえ、二百人のスラヴォニア兵を乗せていた。夜のあいだにマラモッコからイストリアを通過し、底荷を積むためにオルサラの港に錨《いかり》をおろした。船艙《せんそう》の底へ十分の石を積みこむ仕事をこういうのだ。船が軽すぎると、航海に都合がわるいのである。私は九か月まえに、三日すごしたので、このきたない町はよく知っていたが、散歩をするために数名の人と上陸した。そして、以前の身分と現在の身分とのちがいを考えて、笑ってしまった。押しも押されもしないいまの姿を見たら、これがあの貧弱な司祭で、ろくでなしのステファーノがいなかったらどうなったかわからない男とは、だれひとり気づくものはあるまい。
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第十四章
[恋愛は医者をなおす]
ばかな下女は悪性《あくしょう》の下女よりも危険だ。主人にひどい迷惑をかける。しかし、悪性の下女は罰してもさしつかえないが、ばかな下女は罰するわけにもいかない。こういう下女はほうりだして、生き方を習わせるよりほかはない。しかし、結局は人をかえてももとのもくあみ。諺《ことわざ》にいう≪カリブドからスキラへおちる≫〔カリブドはメッシナ海峡の渦流。スキラは同所の暗礁。一方の難をさけて他方の難に会うの意〕だけだ。私の下女はこの章と次の二章にまとめようと思ったことをこまかく記した三冊のノートを、雑用につかってしまった。しかも、その言い訳ときたらどうだ。ノートの紙がすり切れ、汚い字が乱雑に書いてあり、消したところも多かったので、使ってもいい反古紙《ほごがみ》だと思ったという始末。彼女にはテーブルの上にあったきれいな、なんにも書いてないノートのほうが大切に思われたのである。これはよく考えてみれば怒ることでもなかったが、怒りの最初の衝動はまさしく人の精神から考える能力をうばいとるものだ。ただ私のいいところは、腹をたてても永続きがしないことだ。≪私はすぐ怒りだすが、またすぐに鎮まる≫(ホラティウス『書翰集』)私は彼女に悪口雑言をたたきつけて、むだな時間をつぶし、いろいろの明白な理由をならべて、おまえはばかだと説明した。だが、彼女のほうはいくらどなられても馬の耳に念仏。返事ひとつしないで、私の文句をはねつけた。私はしかたなくまたはじめから書き直すことにした。だが、きげんが悪かったので、思うように書けなかった。きげんさえよければ、かなりうまく書けたはずなのに、残念至極だ。しかし、読者には損はかけないつもりだ、なぜなら、読者は、機械技師の言い草ではないが、力で失ったものを時間で取り返すであろうからだ。つまり出来のわるい文章でも、ながながと書いたから差引ゼロと相成るわけ。
さて、オルサラへ着くと、船が軽すぎた場合には航海に必要な均衡がとりにくくなるので、船員たちが船の底に石を積みはじめた。そのあいだ、私は船をおりて散歩することにした。途中で、人好きのする顔つきの男に気がついた。その男は立ちどまり、しげしげと私をみつめた。そういう男に借りがあるとも思われなかったので、きっと私の顔に興味をひかれたのだろうと考え、あまり悪い気持もせずに、すたすた歩いていった。すると、その男が声をかけてきた。
「大尉殿、つかぬことをおうかがいするようですが、この町へいらっしゃったのは、はじめてでございますか」
「いや、まえに一度来たことがあります」
「去年ではございませんか」
「そのとおりです」
「しかし、そのときは軍服を着てはいらっしゃいませんでしたね」
「それも、そのとおりです。しかし、お聞きになることが、少し立ち入りすぎているように思われますが」
「それはひらにおゆるしを願います。と申しますのも、感謝の気持からなのでございますから。わたしはあなたからたいへんご恩を受けたものでございます。あなたがまたここへいらっしゃったのも、もっと大きなご恩をいただくように、神さまがおつかわしくださったとしか思われないのです」
「いったい、ぼくがなにをしたのです。そしてまた、なにができるのです。さっぱり見当がつきませんね」
「とにかく、わたしのところへおいでになって、朝のご飯をめしあがってください。あの開いてるドアがそうなのです。まあ、一杯、わたしの大事にしているレフォスコ(イストリアのワイン)を味わってください。そうしたら、わたしの真の恩人でいらっしゃることを、手短に申しあげ、また二の返しにここへいらっしゃったのも、新しくご恩を施してくださるためだということを納得していただけましょう」
その男はまんざら気違いとも思われなかったので、きっと手持ちのレフォスコを売りつけるのだろうと想像し、導かれるままに彼の家へついていった。そして、二階へあがり、ひとつの部屋へはいった。彼は私をそこへ残して、約束の朝食を注文しに出ていった。部屋のなかには外科医の器具がいろいろならべてあった。そこで、あの男は医者なのだろうと想像し、もどってくると、そうきいてみた。
「さようです、大尉殿。わたしは二十年来この町で開業しておりますが、それはもう貧乏な暮らしがつづきました。なにしろ、仕事といっても、瀉血《しゃけつ》をしたり、吸い玉をかけたり、擦り傷をなおしたり、挫《くじ》いた脚をもとにもどしたりが関の山でしたからね。かせぐ金では暮らしもたてられませんでした。ところが、去年から、事情が文字どおり一変いたしました。金がぞろぞろはいってきましてな、有利にまわせるようになりました。これもひとえにあなたのおかげです。どうか神さまがあなたに祝福をお与えくださいますように!」
「それはどういうわけなのです」
「かいつまんで申しますとですな、あなたはドン・ジロラモのところの下女に愛の形見を残していかれましたな。彼女はそれをある男友だちにつたえました。その男はさらに細君にうつしました。ところが、その細君がさる道楽者に与えました。すると、その道楽者は大安売をはじめまして、ひと月とたたないうちに、わたしの診察室へ五十人ばかりの患者を送りこんでくれました。それから毎月毎月、患者がわんさと押しかけてきました。もちろんのこと、わたしは十分の謝礼をいただいて、全部なおしてやりました。いまでも五、六人は残っておりますが、もうひと月もたてば、ひとりもいなくなってしまうでしょう。病気を絶滅させたのですからな。こういうわけで、あなたのお姿を見たとき、わたしは嬉しさをおさえることができなかったのです。あなたはまさに幸運を運んでこられた魔法の鳥のような方です。いかがでしょう、四、五日ご滞在になって、またお恵みをおさずけくださるわけにはまいりませんでしょうか」
私は腹をかかえて笑った。そして、いまはあの病気もなおって健康が上々だというと、彼はがっかりしてしまった。そして、お帰りにはそういう大きな口がきけなくなるかも知れない、あなたの行こうとしている国には粗悪品が氾濫《はんらん》しているが、だれもわたしのように根治する秘訣を知らないのだからといい、そういう場合になったら、わたしをあてにしてほしい。いろいろの薬を売りつける詐欺師を信用してはならないと忠告した。私は彼のいうことを全部約束し、礼を述べて船にもどった。
[ケルキラ島の軍隊生活]
ドルフィン氏にこの話をすると、おもしろがっておおいに笑った。船はその翌日出帆したが、四日目にクルゾラ島の沖合でひどい時化《しけ》をくらい、私もあやうく命をおとすところであった。その顛末《てんまつ》は次のとおりである。
その船にはスラヴォニア人の僧侶が司祭として乗り込んでいたが、無知で、横柄で、粗暴だったので、私は機会あるごとにひやかしてやった。それで彼は当然のことながら私の敵となった。信仰をてらうものはえてして憎悪のはげしいものだ。時化《しけ》の最中に、彼は甲板に陣取り、手に典礼定式書をもって、雲のなかに悪魔が見えると、悪魔祓いの儀式をはじめた。そして、水夫たちにもあそこに悪魔がと指さしておしえた。水夫たちはもうだめだと観念して泣きさけんだ。こうして、彼らは絶望のあまり、左右に見える岩礁《がんしょう》から船を守るための仕事を放りだしてしまった。
私は本来なら水夫を力づけるべき僧侶が悪魔祓いなんかやって、逆に船員の英気をくじく結果になった、途方もないまちがいと危険をはっきり見てとり、軽率にもなんとかしなければならないと考えた。そこで、綱具の上へよじのぼり、水夫たちに向かって、悪魔なんかいないぞ、諸君に悪魔を見せた坊主は気違いだぞ、さあ危険をおそれずに、せっせと働けと激励した。しかし、私がいくら必死になってどなってもそのかいなく、僧侶は私を無神論者だとののしり、水夫をけしかけて私に刃向かわさせた。風は翌日も依然として吹きつのった。そして、三日目、忿怒に分別をなくした僧侶は、彼に心服している水夫たちに、私が船の上にいるかぎり、天気が回復する見込みはないと信じさせた。水夫のひとりは、僧侶の希望をかなえるのに都合のよい時期をねらって、甲板に立っている私にうしろからおそいかかり、綱でなぐって私を舷側へ押していった。私はもちろんそこへひっくりかえった。まさに間一髪だった。海へ落ちずにすんだのは、服が錨《いかり》の爪にひっかかったおかげだった。そこへ人々が助けにきて、私を救い出してくれた。ひとりの伍長が私を殺そうとした水夫を指さして教えたので、私は彼の持っていた梶棒《こんぼう》をうばいとり、さんざんになぐりつけた。そこへほかの水夫や僧侶が駆けつけてきた。もしも兵士たちがかばってくれなかったら、ぶち殺されてしまっただろう。
こういう騒ぎのところへ、船長がドルフィン氏といっしょにひょっこりやってきた。そして、僧侶の言い分をきいたのち、ろくでなしをなだめるために、私をできるだけ早く下船させると約束せずにいられなかった。しかし、僧侶はそれでも満足せずに、私がマラモッコで乗船するときに買った羊皮紙を渡せと要求した。私はもう忘れていたが、羊皮紙を買ったのは事実であった。そこで、笑いだしてしまったが、すぐにドルフィン氏に渡した。ドルフィン氏はそれを僧侶に渡した。僧侶は大喜びで、大火鉢をもってこさせ、まっ赤に燃える炭火のなかに羊皮紙を放りこんだ。羊皮紙は灰になるまでに、三十分も身もだえをつづけた。それを見て、水夫たちは羊皮紙が悪魔の呪文を書きこんだものだと信じこんでしまった。
じつをいうと、この羊皮紙の効験というのは、それを身につけていると、あらゆる女から惚れられるというのであった。しかし、ここで読者におことわりしておきたいが、私はどんな種類の惚れ薬も信用しない。半エキュで羊皮紙を買ったのも、たんに一時のたわむれにすぎなかった。
イタリア全土、それから新旧のギリシャには、すばらしい効き目があるという紙をあほう者に売りつけるギリシャ人、ユダヤ人、星占いが山といる。わけても、刀できっても傷がつかないという|お守り《ヽヽヽ》、または|エキッス《ヽヽヽヽ》というものをふくむ丸薬をつめた小袋などがよく目につく。こういうものはドイツ、フランス、イギリスおよび北欧諸国には全然見あたらない。そのかわり、これらの国でははるかにおおげさな種類の瞞着《まんちゃく》がはやっている。つまり、錬金術での哲人の石〔卑金属を黄金に変え、すべての病気をいやす物質〕というやつ。人々はそれをでっちあげようと骨をおっているが、だれもまだそのあほらしさに気がついていない。
三十分かかって私の羊皮紙を燃やしているあいだに、時化《しけ》もおさまってきた。すると、一味の連中はもう私を亡きものにしようとは考えもしなくなった。それから一週間、平穏な航海をつづけて、船は無事にケルキラ島に着いた。私は適当な宿をえらんでから、総督閣下や|艦隊の上官《カピ・デイ・アル》のところへ推薦状を持って伺候した。それから、わが連隊の大佐や士官たちへ挨拶まわりをすませると、コンスタンチノープルへの途中私を連れに寄ってくれるはずの勲爵士ヴェニエが到着するまで、気晴らしのことしか考えなかった。ヴェニエ氏は六月の半ばに到着したが、それまでに、私はバセット〔トランプのゲーム〕の博打に夢中になって、有り金を全部なくし、宝石もすべて売ったり質に入れたりした。生来博打の好きな男の運命は、えてしてこのようなものだ。
私は大使の到着を待って、ケルキラ島でひと月すごしたが、そのあいだ物心両面にわたってこの土地をしらべてみようと足をとめたことは一度もなかった。衛兵勤務のある日を除いて、四六時中カフェで暮らし、ファラオの勝負に血道をあげた。そして、もちろん非運に打ちのめされたが、性こりもなく立向かっていった。勝負に勝った喜びをいだいて家に帰ったことは一度もなかったが、持金を全部なくしても、質草になるものが残っているかぎり、見切りをつける気になれなかった。私の唯一の喜びは、じつにばかげたことだが、決定的な札を失うたびに、親が「すばらしい打ち手だ」とほめてくれることであった。
こういうみじめな状態にあった私は、大使《パリオ》の到着を知らせる大砲の音を聞いて、生きかえる思いがした。彼は≪ヨーロッパ号≫に乗ってきた。これは大砲を七十二門|搭載《とうさい》した軍艦で、ヴェネチアからわずか一週間で走ってきたのであった。艦が錨を入れるとすぐ、彼は共和国海軍総司令官の旗をかかげさせた。すると、ケルキラ島総督はすぐに自分の旗をおろさせた。ヴェネチア共和国では、海上にあっては、オットマン海峡の大使よりも上位に立つ役職はなかったのである。
ヴェニエ勲爵士はりっぱな随行者をしたがえていた。いずれもヴェネチア貴族のアンニバル・ガンベラ伯、カルロ・ツェノビオ伯、およびブレーシャの貴族アルケッティ侯は好奇心を満足させるためにコンスタンチノープルまで同行することになっていた。彼らがケルキラ島ですごした一週間のあいだ、すべての海軍の上官が交互に大使とその随員を歓待して、大晩餐会や舞踏会をもよおした。私が総督閣下のまえへ伺候すると、閣下はきみのことはもう総司令官に話して、わしの副官としてコンスタンチノープルへ行けるように、六か月の休暇をいただいてあるといった。この許可を得ると、私は小さい荷物をさげて軍艦に乗った。
軍艦は翌日、追い風をうけて出航した。大使は総司令官のはしけで乗りこんできた。艦はまず帆走をしたが、六日間つづけて順風にのり、キシラ島の沖合に着いた。そして、錨をおろし、給水のために多数の水兵を上陸させた。私は太古のキシラだといわれるこの土地が見たかったので、上陸の許可を求めてみようという気持になった。だが、艦に残っていたほうがよかったかも知れない。というのも、よからぬ知合いをつくったからだ。私は艦の衛兵たちを指揮していた大尉と同道した。
顔つきが悪く、きたない服を着たふたりの男が寄ってきて、施し物を求めた。きみたちはだれだときくと、ふたりのうちのはしっこそうな男がこう話した。
「われわれは十人委員会の暴虐な決定のために、ほかの三、四十人の不幸な連中といっしょに、この島で暮らすように、いや、おそらくは死ぬように宣告されたものです。しかし、われわれの罪といわれるのは、じつはけっして罪ではないのです。われわれはいつも情婦といっしょに暮らす習慣でしたが、友だち同士けっしてやきもちをやかず、友だちの情婦が美しいと思うと、友だちの許可を得て、女の魅力を楽しんだのです。われわれはみんな金持ではなかったから、それによって利益をあげようなんて気は毛頭ありませんでした。それなのに、十人委員会はわれわれの関係を不義非道と見なし、ここへ島流しにしたのです。生活費は一日に長い銅貨で十枚しかくれず、人からは|腑抜け《ヽヽヽ》と呼ばれています。実際、われわれの境遇は漕刑囚よりもひどいです。退屈になやまされ、空腹に食い殺されそうなんですからね。わしはアントニオ・ポッキニといい、パドヴァの貴族です。母は有名なカンポ・サン・ピエロ家の出です」
ぼくらは施し物をやり、島を歩きまわって、要塞をながめてから艦に帰った。このポッキニについては、十五、六年後にまた話す機会があるだろう。
[コンスタンチノープル]
その後も順風がつづいて、八日か十日もすると、ダーダネルス海峡にはいった。ギリシャの船が漕ぎよせてきて、われわれをコンスタンチノープルへ運んでいった。一里(四キロ)先から見るこの町のながめはおどろくべきものであった。世界じゅうであれほど美しい光景はどこにもない。このすばらしい景観はローマ帝国の終末とギリシャの発端の原因となった。海路ここへ到着したコンスタンティヌス大帝はビザンティウムの風光に幻惑されて、「これこそ全世界の帝国の首都だ」といった。そして、自分の予言を成就するために、ローマを去ってここへ居を定めた。もしもホラティウスの予言〔『カルミナ』の有名なオードには、もしローマ人が伝説上の故国の都市トロイ(ローマの建設者はトロイの勇者アエネアスと考えられていた)を再建しようとすれば、ユノはふたたびトロイを破壊するだろう、という予言が書かれている。帝国の首都がローマからコンスタンチノープルに移ったことで、この予言は成就したとカザノヴァは見ている〕を読むか信ずるかしていたら、彼もけっしてこうした愚行をなしはしなかっただろう。詩人はアウグストゥスの後継者が首都をおのが生地へ移そうと思いつかないかぎり、ローマ帝国は終末への道を歩まないであろうと書いた。トロアスはトラキアからあまり遠くない。
われわれは七月の半ばごろ、ペラのヴェネチア宮に到着した。めずらしいことだが、そのとき、この大都会ではペストが流行していなかった。われわれの住居はすべて申し分のないものであった。しかし、暑さがひどかったので、大使たちは涼気を求めてドナー大使の借りていた別荘へ移ることにした。それはブユクデレにあった。私の受けた最初の命令は大使に無断で外出してはならないこと、外出するときにはかならず近衛歩兵に護衛させることであった。私はこの命令を忠実にまもった。当時ロシア軍はトルコ民衆の暴状を克服するにいたっていなかったのである。人の保証するところによると、現在ではすべての外国人がなんの恐怖もなく行きたいところへ行けるということである。
到着の翌々日、私はカラマニアのパシャ、オスマンの邸へ案内させた。ボンヌヴァル伯爵は回教に改宗してからこう呼ばれていたのである。
紹介状を提出すると、フランスふうの家具をそなえた一階の部屋へ案内された。そこにすっかりフランスふうの服装をした年配の太った貴人がいた。私がはいっていくと椅子から立ちあがって、にこやかな態度で、キリスト教教会はわしにはもはや母なる教会とはいえないのだが、その教会の枢機卿から紹介されて来た方に、このコンスタンチノープルでなにをしてあげられるだろうかときいた。私は返事のかわりに、懊悩煩悶《おうのうはんもん》にわれをわすれて枢機卿にコンスタンチノープルへの紹介状をお願いした顛末《てんまつ》を語り、そして、紹介状を受け取ると、どうしてもここまで持って来なければならないような迷信的な気持になった次第を語った。すると、彼は「それでは、紹介状をもらわなかったら、ここへ来る気はなかったのですね。べつにわしを訪ねてきてどうかしてもらいたいという気持もなかったのですね」ときいた。
「そうです。全然ありませんでした。しかし、こういう方法によって、全ヨーロッパの話題となっていらっしゃる閣下を存じあげる名誉を得ましたことを、たいへん嬉しく思っております」
私のようになんの苦労も、計画も、目的もなく、したがって、なにもおそれず、また期待せずに、運命の神に身をまかせる、そうした青年の幸福について、彼はいろいろ考えを述べてから、せっかくアッカヴィーヴァ枢機卿の紹介状を持って見えたのだから、なにかしてあげなければならないが、三、四人トルコの友人に紹介しよう、知合いになるだけの値うちのある人々だからといった。そして、木曜日ごとに昼食に来てほしい、賎民たちから乱暴されるといけないから、護衛をひとりつけてあげるが、ついでに見る価値のあるところを案内してもらったらいいとすすめてくれた。
枢機卿の紹介状には私を文学者と書いてあったので、彼は立ちあがると、わしの書庫を見てほしいといった。そこで、うしろからついていって、庭を横切り、格子戸《こうしど》のはまった棚をとりつけてある部屋へはいった。真鍮線《しんちゅうせん》の格子のうらにはカーテンがはってあった。そのカーテンのうしろに書物がならんでいるにちがいないと、私は思った。
しかし、大パシャが鍵のかかっている書棚をあけると、書物のかわりに、あらゆる種類の葡萄酒の瓶がずらりとならんでいたので、われわれは大声で笑いだしてしまった。
「これがわしの書庫兼ハレムさ」と、彼はいった。「わしのように年をとると、女は寿命をちぢめるが、よい酒は長寿をたもたせるか、少なくとも生きることをいっそう快適にしてくれる」
「閣下は大法官《ムフチ》〔学識ある回教徒で、宗教関係法規の裁判官〕からある種の免除をお受けになられたのでしょうね」
「そんなことはない。トルコの法王の権力はキリスト教の法王の権力には遠くおよばないよ。彼はいかなる場合にもコーランの禁じていることをゆるす力はない。しかし、それはめいめいが好きなことをして地獄におちるのをさまたげはしない。信心ぶかいトルコ人は道楽者を気の毒がりはするが、けっして迫害などしない。ここには宗教裁判というものもないのさ。宗教の掟《おきて》をまもらぬものは、来世で不幸になるだろうから、それだけで十分だ。この世で懲罰をくわえるにもおよばないというのが彼らの考えだ。わしが請求してなんなくゆるされた免除は諸君が割礼というものだけさ。あれは厳密には割礼と呼べないが、わしの年では危険だからね。これは一般にまもられている儀式だが、けっして掟ではない」
私はこうして伯爵と二時間すごしたが、そのあいだに、彼はヴェネチアの友人たちの消息をきいた。とくに気にかけていたのはマルカントニオ・ディエド氏のことであった。私はあの人はあいかわらず人々から愛されており、ただキリスト教を棄てたことだけを惜しまれているにすぎないと答えた。パシャは自分はかつてキリスト教徒であったと同じ程度の回教徒で、福音書をあまりよく知らなかったように、コーランもよく知らないといった。そして、語をついで、
「わしは静かに死ねると確信している。その際になったら、ウージェーヌ公〔サヴォワの公爵で、当時最もすぐれた陸軍司令官〕よりもはるかに幸福になるだろう。わしは神は神で、甲乙があるべきものではなく、マホメットはその予言者にすぎないといわざるを得なかった。それで、はっきりそういったのだが、トルコ人はわしが実際にそう考えているのかどうか知ろうともしなかった。わしはまたターバンをまいているが、これは主人のきめた制服を着ないわけにいかないからさ」
それからさらに、「わしは戦争商売しか知らなかったので、どうして生きていったらいいか見当がつかなくなったとき、トルコ大帝の中将としてここへ働きにくる決心をしたまでのことだ」といったが、別れしなに、「ヴェネチアを立つ決心をしたときには、スープの皿までかじりたいくらい貧乏だった。だから、もしもユダヤ人の国家が五万の兵士の指揮をまかせてくれたら、イェルサレムを包囲しに行ったかもしれんよ」
彼は少し太りすぎの気味だが、美男子であった。腹にサーベルの傷を受けたので、脱腸をふせぐために、いつも銀の板をまいていた。一度アジアに流されたが、それも長いあいだではなかった。彼の言葉によると、トルコ人の策動はヨーロッパ人、とくにヴェネチア人ほど執念ぶかくはないそうな。いとまをつげたとき、彼はトルコへ来て以来、きみとすごした二時間ほど愉快なことはなかったといい、大使諸公へよろしく伝えてほしいと頼んだ。
ジォヴァンニ・ドナー大使はヴェネチアで彼と親交があったので、こんど会ったらくれぐれもよろしく伝えてほしいといい、ヴェニエ勲爵士は彼と個人的な知合いになる喜びが得られないのを残念がった。
[パシャの昼食会]
この最初の訪問の翌々日が木曜日だった。彼は護衛を送ると約束したが、約束をたがえず、十一時に護衛がやってきて、パシャのところへ連れていった。パシャはこんどはトルコ服を着ていた。ほどなく客がぞくぞくと到着した。食卓に居並んだのは合計八人であったが、みんなにぎやかに調子づいてきた。食事は方式も料理もフランスふうであった。給仕頭はフランス人、料理人もまじめなフランスの棄教者であった。
パシャは私を一同に紹介してくれたが、口をきく機会を与えてくれたのは、食事の終りに近くなってからであった。言葉は始終イタリア語であった。注意してみていると、お互いに話しあうときにもけっして自国語をつかわなかった。めいめい左手に白葡萄酒か蜂蜜水《ヒドロメル》の瓶を置いていた。蜂蜜水とはどんなものか私にはわからなかった。私は右手にすわったボンヌヴァル氏と同じく、すばらしいブルゴーニュの白葡萄酒を飲んだ。人々は私にヴェネチアのことや、とくにローマのことをしゃべらせた。そこで、話が宗教のことになっていった。しかし、それは教理についてではなく、戒律や儀式のことばかりであった。かつて外務大臣であったので長官《エフェンディ》と呼ばれていた愛想のいいトルコ人がローマでヴェネチア大使と友だちになった話をし、大使を非常にほめそやした。私は相槌をうって、じつは大使から親友だという回教の紳士に宛てた紹介状をもらってきているといった。その名前をきかれたが、思いだせなかったので、紹介状を入れてある紙入れをポケットから出した。紹介状の宛名を読むと、それが自分の名前だったので、彼は非常に喜んだ。そして、その手紙を読ませてほしいというので渡すと、署名のところへ接吻し、立ってきて私に接吻した。この場面はボンヌヴァル氏をはじめ一座の人々をたいへん感動させた。エフェンディはイスマイルという名前だったが、日をきめて、私を午餐会に連れてきてくれるようにとオスマン・パシャに頼んだ。
好人物の長官がいろいろ愛想よくもてなしてくれたが、この楽しい午餐会でもっとも私の心をひいたのは、男ぶりのいい六十ばかりのトルコの紳士であった。その高貴な顔には英知と柔和《にゅうわ》さがあふれていた。私はそれから二年後に、この人の容貌をヴェネチアの元老院議員ブラガディーノ氏の美しい顔に見いだした。このブラガディーノ氏については、またそのときに話そう。その人は、食卓で人々が私にしゃべらせる話にたいして、ひとこともいわずに、じっと耳を傾けていた。社交の席で容貌や態度に心をひかれた人が全然物をいわないと、その人となりを知らないものは否応なく好奇心をそそられるものだ。それで、食事をした部屋から出るとき、ボンヌヴァル氏にどういう人かきいてみた。すると、ボンヌヴァル氏は、あれは裕福で聰明《そうめい》な哲学者で、素行が正しく信仰心があつく、その誠実さはだれ知らぬものもない。もしもあの人から声をかけられたら、深いおつきあいを願うがいいとすすめた。
この忠告は私を喜ばせた。木陰を散歩してから、トルコふうにつくったサロンへはいったとき、ユズフ・アリと並んで長椅子へ腰をおろした。これは私が心をひかれたトルコ人の名前である。彼はすぐ私にパイプをすすめた。私はそれを丁重にことわって、ボンヌヴァル氏の下男が差し出したのを手にとった。煙草を吸う人といっしょにいるときには、かならず自分も吸うか、外へ出なければならない。さもないと、ほかの人の口から出た煙を吸いこむと想像せずにいられないからだ。この考えは事実にもとづいているが、不愉快で腹がたつ。したがって、ドイツで美しい女性が煙草のみの群れの吐きだす煙を平気で吸っているのが、どうしても了解できない。
ユズフ・アリは私がわきへ腰をおろしたのを見てきげんをよくし、いろいろのことをきいたが、それは食卓で話させられたことと似たり寄ったりだった。しかし、彼は主として私が聖職という安穏な身分を捨てて軍職につくようになった理由をききたがった。私は彼の好奇心を満足させるため、また私のことを悪く思わせないために、生まれてこのかたのことを手短に話すほうがよいと思った。天職を感じて僧籍にはいったのではないことを、納得してもらいたかったのである。彼は満足したように見えた。彼がストア派の哲学者として天職を論ずるのをきいて、宿命論者であるのに感づいた。そこで、彼の理論にまっこうからぶつかっていくのを避け、要領よく反駁《はんばく》をこころみた。彼はきげんよく私の言葉に耳を傾けたが、それは自分の議論のほうが、ずっと強力で、私の意見などなんなく粉砕できるという自信をつけたからである。
その結果、彼は私にたいして相当の敬意をもつようになり、私を弟子とするに足りると信じたらしい。弱冠わずか十九歳で、しかも彼の考えではまちがった宗教に迷いこんでいる私が、彼の先生になれるはずもないと考えたからだろう。
こうして一時間のあいだ、私に説教をし、また私の議論をきいてから、きみは真理を知るために生まれついた人のように思われる。それはきみが真理に関心をもっていることをはっきり見てとったからだが、まだそうした天性に十分気づいていないようだといった。それから、いつか一日ゆっくり遊びにこいとすすめて、その週のうちでまちがいなく家にいる日をあげたが、そういう楽しみを約束してくれるまえに、パシャ・オスマンに相談してもらいたいといった。しかし、あなたの高潔なご人格はもうパシャからうかがっていると答えると、おおいに気をよくしたらしい。そこで、これこれの日に昼食をご馳走になりに行くと約束して、別れた。
こういうことをボンヌヴァル氏に話すと、彼はたいへん喜んで、護衛を毎日ヴェネチア大使の官邸に差し向けるから、自由につかっていいといった。
家へ帰って、ボンヌヴァル伯の邸でその日知合いになった人々のことを報告すると、大使たちもおおいに満足のていだった。ヴェニエ勲爵士は外国人にとってこの国では退屈はペストよりもおそろしいのだから、そういう知合いは大切にしなければいけないと教えてくれた。
[哲学者ユズフ・アリ]
定めた日に、朝かなり早くからユズフの家へ訪ねていった。ユズフはもう出かけていた。しかし、園丁が私の訪問を聞かされていて、主人の庭の美しいたたずまいや、ことに豪奢《ごうしゃ》な花々を見せてまわって、二時間のあいだ楽しく遊ばせてくれた。この園丁はナポリ人で、三十年来ユズフに仕えていた。態度物腰から察して、教育もあり、家柄もいい男だと想像したが、彼は率直に自分は字を読むことを習ったことがありません、奴隷にされるまでは水夫でしたといった。ユズフさまへお仕えするようになってからはたいへんしあわせで、自由の身にされたら、かえって罰をくったような気がするでしょうということだった。私は主人のことをいろいろ聞いてみたかったが遠慮した。園丁が非常につつしみぶかい男だったので、なまじっかよけいなことをきいたら、かえってこっちが赤面するだろうと思ったのである。
ユズフは馬に乗って帰ってきた。そして、仕来《しきた》りどおりの挨拶をすませてから、海の見えるはなれ家へ行って、ふたりだけで昼食をとった。気持のよい風が吹いてきて、ひどい暑さをやわらげてくれた。この風は毎日同じ時刻に吹いてくるが、メストラレと呼ばれる北西風である。
料理はどれもすばらしかったが、手のこんだものはカヴルマ(トルコふううで肉料理)だけであった。私は水と蜂蜜水を飲んだ。そして、このほうが葡萄酒よりも好きだといった。当時私はあまり葡萄酒は飲まなかったのだ。それで、蜂蜜水をほめ、葡萄酒を飲んで掟《おきて》を乱す回教徒は神さまの慈悲を受ける資格がない。禁じられているから飲むだけなのだからといった。
すると、彼は、信者のなかには葡萄酒を薬だと思って飲めば掟にそむかないと信じているものがいると笑って、この薬をはやらせたのはサルタンの侍医で、その男はおかげで財産をこしらえたばかりか、サルタンの寵《ちょう》を一身に集めた。事実、サルタンはいつもご病気だが、それもこの薬をあびるほど飲むからだといった。
私が酔っぱらいはヴェネチアではごくまれで、この悪癖は下層社会に限られていると答えると、彼は非常に驚いた。そして、葡萄酒は人間から理性の働きをうばってしまうのに、どうして他のすべての宗教でゆるしているのか理解できないといった。私はどんな宗教も酒を濫用することは禁じている、何事も過度に流れると罪悪をひきおこすからと答えた。そして、阿片《あへん》の害も同じだ、阿片は酒よりもずっと強いから、回教はこれを禁じるべきだろうというと、彼は生まれてこのかた、酒も阿片も用いたことがないと答えた。
食事が終わると、パイプと煙草を持ってきた。われわれは自分で煙草をつめた。その当時、私は好んで煙草を吸ったが、いつも唾《つば》を吐く習慣であった。ユズフは唾を吐かなかった。そして、いま飲んでいる煙草は上等のジンジェで、唾のなかにかんばしい匂いがとけるのだが、それを飲みこまないのは損だ。そういうふうに唾をはいてしまうのはまちがっていると注意した。唾を吐くのは煙草が悪いときに限るというのが彼の結論であった。私はこうした議論をなるほどと思い、お言葉のとおり、パイプが真の楽しみと思われるのは、煙草が上質のときだけだと答えた。
「煙草が上質のものであることは、もちろん煙草を飲む楽しみには欠くことのできないことです。しかし、それは主要なことではありませんよ。なぜなら、よい煙草の与える楽しみも感覚に訴えるだけですからね。だが、ほんとの楽しみというものは、感覚とは全然無関係で、魂にだけ作用するものです」
「しかし、ユズフさん、私には感覚が仲立ちをせずに、魂だけが楽しむ快楽なんて想像できませんよ」
「まあ、聞きなさい。きみはパイプに煙草をつめるとき、楽しい気持になりますか」
「そりゃなりますよ」
「その楽しみが魂と関係がないとするなら、きみの感覚のどれと関係するのです。話をさらにすすめましょう。きみは煙草をすっかり吸ってしまって、パイプを下へおくとき、満足を感じる。それはほんとでしょう。パイプのなかに灰だけしか残っていないのを見るとき、いい気持になるでしょう」
「そのとおりです」
「以上ふたつの場合に、きみの感覚が関係していないことはたしかです。しかし、三つ目の場合があるのですが、あててみなさい。これがいちばん大事なことです」
「いちばん大事というと? 煙草の匂いでしょう」
「とんでもない。匂いは嗅覚の快楽で、だから、感覚です」
「それじゃ、見当がつきませんね」
「まあ、ききなさい。煙草を吸う主要な楽しみは煙を見ることですよ。パイプから出る煙は見てもしかたがないが、あまり頻繁《ひんぱん》でない一定の間隔をおいて、口の端から出る煙を見てごらんなさい。この楽しみが主要なものである証拠に、どこへ行っても、盲人がよろこんで煙草を吸うのを見たことがないでしょう。ためしに、夜、明りをつけない部屋で、煙草を吸ってごらんなさい。きっと火をつけるとすぐ、パイプを下へおいてしまいますから」
「おっしゃることは重ね重ねごもっともです。しかし、こう申しては失礼ですが、わたしには、魂をしか喜ばせない快楽よりも、感覚を喜ばせる快楽のほうがずっと好ましいですよ」
「わしも四十年まえには、同じように考えていました。しかし、きみもこれから四十年たって、賢明な人間になることができたら、わしのように考えるでしょう。情念を動かす快楽は、かわいい息子よ、魂をかきみだします。これを見ても、そういうものは正当に快楽と呼ばれることができないのです」
「しかし、どんな快楽でも、快楽と呼ばれるにふさわしくあるためには、ふさわしいと思いさえすれば、それで十分なのではありますまいか」
「いかにも。しかし、快楽を現実に味わってみてから、それを吟味する骨おりをいとわなければ、純粋なものでなかったことがわかるでしょう」
「そうかもしれません。しかし、せっかく感じた快楽を減少させるにしか役だたない吟味なんか、わざわざやってみる気になれませんよ」
「いずれ年をとると、そういう骨おりも楽しみになるでしょうよ」
「大好きなお父さん、あなたはお見うけしたところ、青年時代より中年時代のほうがお好きのようですね」
「遠慮はいらん、老年時代といいなさい」
「驚きましたね。してみると、お若いとき不幸な目におあいになったとしか思われませんね」
「とんでもない。わしはいつも健康で幸福でしたよ。情欲の犠牲になったことも全然ありません。同輩の連中の行動に見るいっさいのことが、わしにはかなりよい教訓になって、人間の本性を教えるとともに、幸福への道をしめしてくれたのです。もっとも幸福な人間はもっとも快楽的なものではなく、大きな快楽を取捨選択できるものです。この大きな快楽というのは、くりかえしていうと、情欲をかきみださず、魂の平穏を助長するものでしかありえません」
「それはあなたが純粋な快楽とお呼びになるものなのですね」
「たとえてみれば、一面に草でおおわれた広大な牧場の景色のようなものです。われわれの尊い予言者があれほど推奨した緑の色が目をうばいます。そうすると、わしは精神がこころよい平安のなかを泳ぐ心地がし、天地の造物主に近づくように思うのです。川のふちにすわっているときにも、同じ平和を、同じ安らぎを感じます。川の水はわしのまえを流れていくが、けっして見えなくなることがなく、そのたえざる動きも水を濁らせません。川の水はわしの一生の姿を想像させます。わしは目のまえにながめる川の流れのように、一生が静かに流れて、終局に達することを願っています。その終局はいまは目に見るよしもないが、いずれは流れのはてにあるにちがいないのです」
トルコ人はこんな調子で、四時間にわたって議論をすすめた。彼には以前ふたりの妻があり、その妻たちからふたりの息子とひとりの娘とを得た。長男は財産を分けてもらって、サロニカで商業に従事し、裕福に暮らしていた。次男はサルタンに仕えて、その宮殿に住み、彼の分の財産は後見人にあずけられていた。娘はゼルミといったが、十五歳で、父の死後は全財産を相続することになっていた。彼は娘が神から夫と定められた男を十分幸福にするために、希望できるかぎりの教育をさずけた。やがてこの娘のことが話題にのぼるであろう。彼はふたりの妻が死んでしまったので、五年まえにキオス島生れの三人目の妻をめとった。それはごく若く、申し分のない美人であった。しかし、彼はもう年をとったので、新しい妻からは息子も娘も得る希望がないと私にいった。だが、年はまだ六十だった。私は別れを告げるとき、これからは少なくとも一週に一日は遊びに来るように約束させられた。
夕食のとき、一日じゅうのことを大使たちに話すと、彼らは「きみは向う三か月間愉快にすごすことができてしあわせだが、わしらは外交使節としてこの国へ来ているので、退屈の虫にくい殺されそうだ」と嘆いた。
[信仰についての対話]
それから三、四日後に、ボンヌヴァル氏がイスマイル氏のところの午餐会へ連れていってくれた。そこで、すばらしく大きくて豪奢なアジアの絵を見た。しかし、客が大勢で、ほとんどみなトルコ語でしゃべっていたので、ひどく手持ち無沙汰であった。ボンヌヴァル氏も同様らしく見えた。イスマイルはそれに気づいて、帰りがけに、できるだけちょいちょい朝食に来てほしい、いつでも喜んで歓迎するからといった。私はかならずうかがうと約束し、十日か十二日後に行った。しかし、それはそのときに話すことにして、いまはユズフのことにもどらなければならない。彼は二度目の訪問のとき、すばらしい性格の持主であることをしめして、大きな尊敬と愛着を感じさせた。
最初のときと同じように差向かいで昼食をしていると、話が芸術のことになった。私は絵画彫刻の作品を鑑賞するというたわいのない楽しみを信者に禁止しているコーランの掟について、意見を述べた。彼はマホメットは真の賢者としてイスラム教徒の目からあらゆる影像を遠ざけなければならなかったのだと答えた。
「考えてもごらんなさい。わが偉大な予言者が神を知らしめた国々の民はみんな偶像崇拝者だったのですよ。人間は弱いものです。もしもまた同じものを見せたら、たちまち昔のあやまりに落ちないともかぎりませんからね」と、彼はいった。
「大好きなお父さん、どんな国の人間でもたんなる影像をおがんだことはありません。影像のあらわす神をおがんだのだと思いますよ」
「わしもそう信じたい。しかし、神は物質ではないのだから、神が物質でありうるような考えは、俗人の頭から遠ざけなければならない。神を目に見るように思うのは、きみたちキリスト教徒だけですよ」
「そのとおりです。それはわたしたちも確信しております。しかし、どうか考えてみてください。われわれにそうした確信を与えるのは信仰にほかならないのです」
「それは知っています。しかし、それにもかかわらず、きみたちも偶像崇拝者ですよ。なぜなら、きみたちの見るものはやはり物質にすぎず、しかも、この幻影にたいする確信は徹底していますからね。ただし、信仰の力が幻影を弱めるというならべつですがね」
「そんなことは、とてもいえませんよ。なにしろ、信仰は幻影をいっそう強めますからね」
「だが、そういう幻影は、ありがたいかな、わしらには必要がありませんね。世界のどんな哲学者でも、その必要を証明できるものはないでしょう」
「大好きなお父さん、これは哲学の関知することではなく、哲学よりもずっと優秀な神学の問題ですよ」
「きみはわが国の神学者のようなことをいうんですね。しかし、波らはきみたちの国の神学者とはちがいますよ。彼らは学問を、わしらの知らなければならない真理を曖昧《あいまい》にするのにつかわずに、より明瞭にするのにつかっておりますからね」
「でも、考えてみてください、大好きなユズフさん、問題は神秘のことなのですよ」
「神の存在はひとつの神秘です。人間が議論をくわえる余地のないほど大きな神秘です。しかし、神そのものはきわめて単純です。それは神の予言者《マホメット》がはっきり教えていることです。だから、神の本質になにかくわえようとすると、その単純性を破壊してしまうことを認めてください。きみたちは神は一体であり、また三体だといいますね。それは矛盾した、不合理な、また不敬な定義ですよ」
「そこが神秘なのです」
「それは神のことですか、定義のことですか。わしは定義のことをいってるのですが、それは神秘であるべきではなく、理性によって証明されなければならないものです。かわいい息子よ、常識は内容の不合理な議論を不穏当だと思うにちがいないですよ。証明してください。三が複数ではないことを、あるいは複数でないこともありえることを。そうしたら、わしはすぐにキリスト教徒になりますよ」
「わたしの宗教は理屈をいわずに信ずることを命じます。大好きなユズフさん、理屈をこねまわしたら、そのあげく、いとしい亡き父の宗教をすてるようなことになるかもしれないと思うと、身ぶるいがします。それにはまず父がまちがっていたことを認めなければなりません。ねえ、わたしは、父の思い出を尊重しながら、父の処罰を宣告する意図をもって父の裁判官となるほど、思いあがったことをしなければならないのでしょうか」
私が勢いこんでこうつめよると、誠実なユズフは感動したように見えた。そして、二分ばかり口をとざしていてから、きみは神から愛され、したがって救霊を予定されている人だ。しかし、もしもきみがまちがっていると思っても、きみをそのまちがいから引き出せるのは神よりほかにない。なぜなら、いまの話のようなきみの感情を正しく反駁できるものはひとりも知らないからだといった。それから、話がほかのことへ移り、愉快に際限もなくしゃべって、夕方別れた。私は彼の友情がきわめて純粋だという大きな確信を得た。
家へ帰ってから私は考えた。神の本質についてユズフがいったことはすべて真実かもしれない。たしかに|全存在中の存在《ヽヽヽヽヽヽヽ》は本質的にあらゆる存在のうちでもっとも単純なものであるべきだ。しかし、キリスト教に誤謬があるからといって、トルコの宗教を受け入れる気にはなれない。トルコの宗教は神について非常に正しい考えをもっているかもしれないが、その教理が途方もない食わせ者から出ている点で、私を笑わせてしまった。しかし、ユズフが私を改宗させようという目論見をもっていたとは考えられなかった。
三度目に訪ねていって、昼食をともにしたとき、話が例によって宗教のことになったので、あなたは自分の宗教だけが人間を永遠の救いの道へすすませるものだと確信していますかときいてみた。すると、彼は唯一の宗教だという自信はないが、キリスト教は世界的な宗教にはなれないのだから、まちがった宗教であることはたしかだと答えた。
「それはなぜですか」
「わが地球の三分の二には、パンも葡萄酒もないからです。ところが、コーランは世界じゅうどこへ行っても信奉できますよ」
私は返事のしようがなかった。しかし、話をそらせる気にもならなかった。そこで、神が物質でないとすると、霊であるかときいてみた。彼は答えて、われわれは神がこれこれのものではないということは知っているが、これこれのものだということは知らない。したがって、神が霊だと断定するわけにはいかない。霊というものについても抽象的な観念しか持てないのだからといった。
「神は非物質的です」と、彼は語をついだ。「それはわしらの知っていることの全部で、それ以上はわれわれにはとうていわからないでしょう」
私はプラトンが同じことをいっているのを思いだしたが、ユズフはきっとプラトンを読んでいないのだろう。その日、彼はまた、神の存在は神をうたがわない人々にしか役にたたない。したがって、人間のうちでもっとも不幸なのは無神論者だともいった。
「神は人間をご自分の姿に似せておつくりになった。それはおつくりになったすべての動物のうちで、神の存在に敬意を表することのできるものがほしかったからです。人間がいなければ、神はご自身の光栄の証人をもたぬことになるでしょう。したがって、人間は自分の第一の義務が正義の道をまもり、神の摂理《せつり》を信頼して、神の光栄をたたえるにあることを理解すべきです。逆境にあっても神に悪口をいわず、ひたすら神の救いをねがうものを、神がけっしてお見捨てにならないことにも注意しなさい。また、祈りなど不必要だと思う破廉恥漢どもを、神が絶望のうちに自滅させることも忘れてはいけません」
「しかし、幸福に暮らしている無神論者もおりますよ」
「そりゃそうだ。しかし、彼らの魂がなんの呵責《かしゃく》を感じなくても、わしは彼らを気の毒に思いますよ。なぜなら、彼らは来世にたいしてなんの期待ももてないし、動物よりもまさっていることを自覚できないのですからね。そればかりでなく、物を考える人間なら無知のなかで苦しまなければならないし、なにも考えない人間なら逆境に際して頼るところがないからです。要するに、神は人間が神の存在を疑わない場合しか幸福になれないようにおつくりになったのです。人間はどういう身分にあろうと、このことを認めようとする強い要求をもっているのであって、さもなければ、けっして神を万物の創造主とは認めなかったでしょう」
「しかし、わたしの知りたいのは、無神論が学者の論議のなかにしか見いだされず、国民全体の論議のなかにあったためしがないのはどういうわけかということです」
「それは貧しいもののほうが富んだものよりも宗教への欲求がはるかにつよいからです。わしらのあいだにも、メッカへの巡礼にいっさいの望みをかける信者を軽蔑するような不信者が大勢いますよ。けしからんやつらです! 彼らは古い昔の記念物を尊重しなければならないのです。それは信者の信仰心を刺激し、宗教心をやしない、困難を耐えしのぶ力になったのですからね。人の心をなぐさめる、こうした記念物がなかったら、無知な人民は絶望のあまり、どんなに過激な行動に出たかわかりませんよ」
ユズフは私が注意をこらして自分の議論に耳をかたむけているのを喜び、私を教化しようとする熱意にますます拍車をかけた。私はやがて招かれなくても訪ねていって、一日じゅう遊んでくるようになった。そこで、彼の友情はますます強くなった。
[思いがけない申し込み]
ある朝、まえに約束してあったように、朝食をともにしようと思って、長官のイスマイルのところへ護衛に連れていかせた。このトルコ人は非常に丁重に私を迎えて、いろいろもてなしたあとで、庭をひとまわりしようといって、小さい庭へ連れだした。そして、四阿《あずまや》へはいっていくと、私の趣味にあわない、ある気まぐれをおこした。私は笑いながら、そういうことは好きではないとことわったが、あまりにもしつっこくもちかけるので、我慢できなくなり、いきなりさっと立ちあがった。すると、イスマイルは、私の潔癖さに感心したようなふりをし、いまのは冗談だといった。それから、時候の挨拶をして、もう二度とここへは足踏みをしまいと心にきめて、いとまをつげた。しかし、やがてまた訪ねていかなければならなくなったが、それはあとで話そう。
ボンヌヴァル氏にこの小事件の話をすると、それはトルコの風習にしたがって、きみに友情のあきらかなしるしをしめそうとしたまでのことで、こんど訪ねていっても、そういうまねは二度としないであろうといった。イスマイルは、この点を除けば、非常にりっぱな男だし、美しい女奴隷を何人もたくわえていた。ボンヌヴァル氏はこのまま訪ねていかないと礼儀の道に反すると注意してくれた。
知合いになってから五、六週間たったころ、ユズフが結婚しているのかときいたので、していないと答えると、話は貞潔という問題におよんでいった。彼によると、貞潔は節欲という見地からしか美徳と見なされないものである。それは造物主が人間に与えた第一の掟を乱すものであるから、神の意にかなうどころか、むしろ神の忌《い》みきらうことだというのであった。
「しかし、わしの知りたいと思うのは」と彼はいった。「きみたちのマルタ教団の騎士たちの貞潔とはどういうものかということです。彼らは貞潔の誓願をたてるが、それはあらゆる肉のいとなみをたつというわけではない。もしも肉が罪であるならば、すべてのキリスト教徒が洗礼のときにこの誓願をたてるべきです。この誓願はたんに結婚しないという義務を背負うことでしかありません。つまり、この誓願を破るものは結婚だけです。ところが、結婚はきみたちの秘跡のひとつでしたね。だから、騎士諸公が約束することはほかでもない、神の掟がゆるす形ではけっして肉のいとなみを行なわないということになります。しかし、非合法的には、思う存分、かってに行なうことができるのです。そのうえ、二重の罪によってしかえられない子どもをわが息子として認知するまでにいたっているのです。そういう子どもを自然児(私生子のこと)と呼んでいるが、それでは、秘跡によって正式にみとめられた夫婦の結合から生まれるのが不自然な子のように聞こえるではありませんか。要するに、貞潔の誓願は神にも、人にも、誓願をたてる個人にも好ましいものではありませんよ」
ここで彼がまた結婚しているのかときいたので、結婚はしていないし、そういう絆《きずな》で縛られる気は毛頭ないといった。
「なんですって!」と、彼は答えた。「そうすると、あなたは五体のそろった人間でないか、それとも、外見だけのキリスト教徒でしかないといわないかぎり、地獄へ落ちるつもりか、どちらかだと思わなければなりませんね」
「わたしは五体そろっていますし、キリスト教徒です。それに、女性を愛し、女性を十分に享楽しようと思っています」
「すると、あなたの宗教にしたがって地獄におとされますよ」
「いや、けっしてそうは思いません。なぜなら、わたしたちの宗教では、罪を懺悔さえすれば、司祭は赦免を与えなければならないのですからね」
「それは知っています。しかし、懺悔さえすれば神がゆるしてくれると信じて、おかさなくてもすむ罪をおかした場合に、そういう罪さえ神がゆるしてくれると主張するのはばかげていますよ。神は悔悛の情の顕著なものにしか赦免を与えないのですからね」
「もちろんです。懺悔はそれを前提としています。悔悛の情がなければ、赦免は無力なものです」
「お国では、手淫も罪になりますか」
「不倫なまじわりよりもずっと重い罪です」
「それは知っていますが、わしがいつも意外に思っていることです。なぜなら、実行不可能の掟をつくる立法者はばかだからです。身体がじょうぶで、妻をもたない男は、はげしい本能にせまられるときには、どうしても手淫を行なわざるを得ないでしょう。そのために魂をけがすのをおそれて、むりに自制するものがあったら、きっと死病にとりつかれますよ」
「わたしのところでは、まったく反対に考えています。そういうことをする青年は体質を害し、寿命をちぢめるといいます、多くの修道団体では厳重に青年を監督して、そういう罪をおかす暇を絶対に与えません」
「そんな監督者はばかだし、そんな連中に金を払うものは大ばかです。なぜなら、掟が圧制的で自然に反する場合には、かえって禁制を破ろうという気持をあおりますからね」
「しかし、ああいう違法なことが度をすごすと、健康を害するにちがいありません。あれは精力をそぎ、体力を弱めますからね」
「そのとおりです。しかし、度をすごすといっても、脇からそそのかさなければ、ありえないことです。したがって、禁止する連中はかえってそそのかすことになるのです。お国では、この点について、女の子には大目に見ているのに、どうして男の子にばかりむずかしくいうのがよいと思っているのか、わしにはわかりませんな」
「女の子にはたいした危険がないのです。実質的に失うところが非常に少なく、しかも、男の子のように生命の萌芽《ほうが》の出てくる泉から湧くのではないのです」
「わしはなにも知りませんが、医者のなかには、女の子があお白い顔をしている場合には、そのためだというものがいます」
ユズフ・アリはこういう話やその他いろいろの話で、私が自分の意見に同意しない場合でも、私の返事がたいへん合理的だと思ったらしい。そして、ほぼ次のような言葉である提案をして私を驚かした。文句はそっくりそのままではないが、大同小異である。
「わしにはふたりの息子とひとりの娘があるが、息子たちにはそれぞれの取り分を贈与してやってあるから、もはや気にかけておりません。しかし、娘には、わたしの死後、全財産をおくるつもりでいます。しかも、婿《むこ》となる男には、わしの生前からも財産をつけてやることができます。わしは五年まえに若い女を妻にしましたが、いままで子を生んでおりません。今後も見込みはなかろうと思います。わしが年をとりすぎておりますからな。ところで、娘はゼルミといい、十五歳です。なかなか器量よしで、目も髪の毛も死んだ母親に似て褐色です。それに背が高く、姿がよく、気立もやさしく、いろいろ教育を与えましたので、わしらの主人のサルタンさまのお心さえ得られそうにまでなっております。そして、ギリシャ語とイタリア語を話し、竪琴に合わせて歌もうたいますし、絵もかき、刺繍《ししゅう》もし、いつも陽気です。いままで全然世の中に出したことがないので、あれの顔を見たと自慢できる男はいないはずです。わしをとても愛し、何事もわしの意志にすなおにしたがい、我《が》をはることがありません。あれはわしの宝なのですが、もしもあなたが一年間アンドリアノーブルのわしの親戚へ行って、わしらの言語や宗教や風習をならってくれたら、きみに差し上げたいと思うのです。一年たって、きみがここへもどってきて、回教徒になられたら、わしの娘を妻とし、屋敷を一軒と、自由につかえる奴隷を数名と、一生裕福に暮らせるだけの収入を手に入れられるのです。こういうわけですが、返事はいますぐともあすとも、期限はきめません。きみの神から返事をせよという催促があったと思ったら、返事をしてください。ただし返事はわしの申し出を受ける場合だけでいいです。受けてくれない場合は、くりかえし話してもむだですからな。またわしはこの問題をよく考えてほしいともいいません。いまこうしてきみの心に種を蒔《ま》いてしまったら、もうきみはその芽の生長に同意することも反対することも、かってにできなくなるからです。とにかく、急がず、延ばさず、気をもまず、きみの運命の必然的な決定にしたがい、神のご意志のままにしてください。わしの見るかぎり、きみは幸福になるためには、ゼルミといっしょになるよりほかはないと思われるのです。きみは、わしにははっきりわかっていますが、オットマン帝国の柱になることでしょう」
[回教徒になるべきか]
こういう長談義ののち、ユズフは私を胸に固く抱きしめ、返事をする暇を与えまいとして、その場を立ち去った。私はそのまま家へもどったが、ユズフの申し出に気も心もわくわくして、どこを歩いてきたのか気がつかないほどであった。大使たちはもちろん、その翌日に出会ったボンヌヴァル氏までも、私が考えこんでいるのに気がつき、理由をたずねた。しかし、ひとことも答えなかった。ユズフの言葉はじつにもっともだと思われた。この問題は非常に重大なので、だれにももらすべきでないだけでなく、自分も気持が十分に落ちつくまでは考えることをさし控えるべきであった。少しでも外気がはいって、決定をきめる秤《はかり》をくるわせてはならなかった。いっさいの情念だけでなく、先入観、偏見、さらに個人的な利害さえ、口をとざすべきであった。
翌日目がさめたとき、少しこの問題を考えてみたが、考えることがかえって決心をさまたげることや、決心するとすれば、それは考えないことの結果でなければならないとわかった。つまり、ストア哲学者の≪なんじの神にしたがえ≫の場合である。
私は四日間ユズフのところへ行かずにいた。五日目に訪ねていったとき、われわれは快活に語りあい、例の問題についてはひとこともしゃべろうと考えなかった。しかし、それは考えずにすまされることではなかった。われわれはこんな状態で二週間すごした。例のことについて口をとざしていたのも、わざと本心を隠したり、作意をてらったりするためではなかった。それはお互いにいだいている友情や尊敬に似合わしくないことであった。ある日、ついに、彼は自分の出した申し出に話をもっていって、おおかたよい忠告を求めるためにだれか賢明な人に打ち明けたろうと想像しているといった。私はけっしてそんなことはない、こんなに重大なことは人の忠告にしたがうべきではないと思うといった。そして、
「わたしは神に全幅の信頼をよせて、いっさいをゆだねておりますから、あなたの息子になるか、このままでいるか、どちらの決心をするにしても、かならずや正しい判断がつくと思います。じっと自分と対坐しているときには、朝な夕なにこのことについての考慮がさまざまにわたしの心をためしておりますが、心はきわめて冷静です。いずれ決心がきまり次第、お父さん、あなたにだけ申しあげます。そうしたら、わたしにたいして父親の権威を行使しはじめてください」
この説明をきくと、彼は目に涙をうかべた。そして、左手をわたしの頭にのせ、右手の人差し指と中指を額のまんなかにあてながら、今後もそういう態度をつづければ、あやまつことがないと確信しなさいといった。私はもしかしてお嬢さまがわたしのことをお気にめさないようなことはないでしょうかときいた。
「いや、娘はあなたを愛しています。もうあなたを見たし、わしらが食事をするときには、家内や下女たちといっしょに、あなたを見ているのです。そして、たいへん興味をもってあなたの話をきいていますよ」
「では、お嬢さまはあなたがわたしと結婚させようと思っていることをご存じですか」
「あれはあれとあなたの運命をむすぶために、あなたが信者になればよいとわしが望んでいることを知っています」
「わたしにお嬢さんを見せることが掟としてゆるされないのは、かえって好都合です。お目にかかったら、眩惑《げんわく》されてしまうかもしれません。そうしたら、情念によって秤をかきみだされ、清らかな心で事をきめたと自慢できなくなりますからね」
私がこういうふうに推理するのをきいて、ユズフの喜びは大きかった。そこで、私は言葉をかざらずに、率直に話した。ゼルミに会う場合を考えると、それだけで身体がふるえだした。もしも彼女に恋してしまったら、なんのためらいもなくトルコ人になってしまうのはたしかであった。ところが、平静な気持でいると、私にとってなんの魅力もないばかりか、現在未来の生活について非常に不愉快な予想図しかしめさない、そんな行為に走る気になれないこともたしかであった。財産については、宗教を変えるような恥をしのばなくても、運命の神の恩寵さえ得れば、ヨーロッパじゅうどこへ行っても、そのくらいのものは手に入れられるだろう。私には知人が多く、かねがねその尊敬を得たいと望んでいたが、そういう人々から軽蔑をまねくのも耐えられなかった。また、文明社会で、美術、文学その他の職業によって名をあげたいと思っていたが、そういう美しい希望を捨てる気にもなれなかったし、同輩の人々といっしょに暮らしていたら、あるいは得られるかも知れない勝利を、みすみす人にやってしまうと考えるのも忍びがたかった。ターバンを頭にまこうという決心は、世の中に絶望した連中にしかふさわしくない。これはまちがいではないと思うが、自分がそういう連中の仲間だとは考えられなかった。
ことに私にとって不愉快だったのは、野蛮な言葉をならうために、向う一年間アンドリアノープルへ行って暮らすことであった。トルコ語にはなんの興味も感じず、したがって、完全に習得できると自負するわけにはいかなかった。いままでどこで暮らしても、話し上手という評判をとって、内心得意だったが、そういう嬉しい評判をむげに捨ててしまうのも惜しかった。そのほか、ゼルミは美しいというが、私の目にはそう見えないかもしれない。そうしたら、私は非常に不幸になってしまうだろう。なぜなら、ユズフはまだ二十年は生きるだろうが、その娘にたいして夫として当然もつべき思いやりをすべて失って、好人物の老人に悲嘆をかけるのは、彼によせている尊敬と感謝の念からしても、とうていできることではなかったからである。私の考えは以上のようであったが、これはユズフには想像もつかないことであり、また彼に打ち明ける必要もないことであった。
[長官のハレムの踊り子]
数日後、パシャ・オスマンの家の午餐会でイスマイル長官と出会った。ねんごろに挨拶してくれたので、こっちも丁重に応対したが、このごろとんと朝食にこないと不平をいったので、言葉をにごしてうまく受け流した。しかし、やがてボンヌヴァル氏のお供をして、彼の邸へ昼食に行かなければならなくなった。定めた日に行くと、食事のあとで、きれいなアトラクションを楽しませてくれた。男女のナポリの奴隷が滑稽なパントマイムをやり、カラブリアの牧夫のダンスを踊ったのである。ボンヌヴァル氏はフルラナと呼ばれるヴェネチアの踊りの話をした。イスマイルがその踊りにたいへん興味をよせたので、私はわが国の踊り子と曲を演じられるヴァイオリン弾きがいないとお目にかけられないといった。そして、ヴァイオリンをとって、曲を演じてきかせた。しかし、たとえ踊り子が見つかっても、私にはヴァイオリンをひきながらうたうことはできなかった。
すると、イスマイルは立ちあがって、ひとりの宦官《かんがん》を小脇へよんでなにかささやいた。宦官は外へ出ていったが、三、四分もするともどってきて、主人にひそかに耳うちをした。イスマイルは踊り子はみつかったといった。そこで、私はヴェネチア宮へ手紙をとどけてくれればヴァイオリン弾きをさがそうと答えた。それは手ばやく行なわれた。私が手紙を書き、彼がヴェネチア宮へとどけさせると、ドナー大使の従僕が三十分とたたないうちにヴァイオリンをもって駆けつけてきた。
そのすぐあとで、客間の隅のドアがあいて、仮面をつけた美しい女が出てきた。その仮面はヴェネチアでモレッタ〔黒のベルベットのマスク。これをちゃんとつけるには、口にボタンをくわえねばならないので、話はできない〕と呼ぶ楕円形の仮面に似ていた。この美しい仮面の出現は一座のものを驚かせ、うっとりさせた。姿のあでやかさや装いのうるわしさで、これより興味ある女性を想像することはできなかった。女神がポーズをとった。私も共演することにした。そして、フルラナを六ぺんつづけざまに踊ると、私は息をきらしてしまった。わが国の踊りでは、これよりはげしいものはなかった。しかし、美人は身動きもせずに立ったままで、いささかも疲れたようすをみせず、私を見くびっているようであった。バレエの円舞《ロンド》では、これはいちばん疲れるものだが、彼女は空を翔《か》けるようであった。私は驚きのあまり茫然としてしまった。ヴェネチアでさえ、このバレエをこれほどじょうずに踊る踊り子を見た記憶がない。
私はちょっと休んだあとで、自分の疲れ方を恥ずかしく思いながら、ふたたび美人のそばへ近寄って、「もう六ぺん踊って、おしまいにしましょう。それ以上踊ると、ぼくは死んでしまいますよ」といった。彼女はもしもできたら返事をしてくれただろう。ああいう仮面をつけていたので、ひとことも口をきくことができなかった。しかし、だれにも見られないように私の手を固くにぎりしめて、口でいうよりも多くのことを語った。二度目にフルラナを六ぺん踊ると、宦官がまえのドアをあけ、美人は姿を消した。
イスマイルは言葉をつくして私に礼をいった。しかし、礼をいいたいのは私のほうであった。コンスタンチノープルへ来て心から楽しく思ったのは、これがはじめてであった。私はイスマイルにあの婦人はヴェネチアの人かどうかきいてみた。しかし、彼は意味ありげに微笑しただけであった。われわれは夕方いとまをつげて帰った。
ボンヌヴァル氏が私にいった。「あのお人好しはきょうはあまり見栄をはりすぎて失敗したなあ。いまごろはきっと美しい女奴隷にきみと踊らせたのを後悔しているだろうよ。この国の風習によると、彼は自分の名誉にかかわるようなことをしたことになるのだよ。よくいっとくがね、きみも十分警戒したほうがいいよ。なぜなら、あの娘はきみのことが気に入ったにちがいないから、きみを情事へひきずりこもうと計略するかもしれんからな。いいかい、慎重にやるんだぜ。トルコの風習は非常にはげしいもので、この種の情事は大きな危険をともなうからね」
私はそんな失敗はしないと約束したが、この約束はまもらなかった。三、四日たってから、往来で出会ったひとりの老婆が金糸で刺繍した煙草の袋を差し出して、一ピアストルで買ってほしいといった。そして、私の手に握らせたとき、なかに手紙がはいっているのを感づかせた。老婆がうしろからついてくる護衛の目をさけているのに気がついた。彼女は金をもらうと帰っていった。私はそのままユズフの邸のほうへ歩いていった。しかし、ユズフは留守だったので、庭へ散歩に出た。手紙は固く封をし、宛名が書いてなかった。ひょっとしたら、あの老婆は人違いをしたのかもしれない。そう考えると、好奇心がますますつのってきた。次にその手紙の翻訳をのせよう。かなりじょうずなイタリア語で、正確に書いてあった。
「もしごいっしょにフルラナを踊った女を見たいとおぼしめしたら、夕方、池の向うの庭へ散歩にいらっしゃい。そして、レモネードをお言いつけになって、園丁の年とった下女とお知合いにおなりなさい。そうなさると、たぶん、なんの危険もなく、踊りの相手をごらんになれるでしょう。たとえあとでイスマイルとお会いになってもだいじょうぶです。その女はヴェネチア人です。大事なのは、どなたにもこのお招きをおもらしにならないことです」
私はおおいに感激して、相手がそばにいるかのように、「いとしい同国の美人よ、ぼくはそんなにばかじゃないよ」とさけんだ。そして、手紙をポケットへねじこんだ。しかし、とつぜん美しい老婆が茂みのかげから私のそばへ来て、なんのご用ですか、どうしてわたしの姿にお気づきになりましたかときいた。私は笑いながら、だれもきいていないと思って、ひとりごとをいったのだと答えた。すると、彼女は接ぎ穂もなく、あなたさまにお話ができてたいへんうれしい、わたくしはローマの生れで、お嬢さまをそだて、歌をうたうことや竪琴をひくことを教えたのですといった。そして、自分の生徒の美貌や長所をほめそやし、もしもお嬢さまをお目にかけたら、きっとお好きになるにちがいないのに、そういうことがゆるされないのはたいへん残念ですといった。
「お嬢さまは向うの緑色の鎧戸《よろいど》のうしろから、いまわたくしたちを見ていらっしゃるのですよ。旦那さまのお話で、あなたさまがアンドリアノープルからお帰りになったら、ゼルミさまとご結婚なさるかもしれないとおっしゃいましてから、わたくしどもはみんなあなたさまが好きになったのでございます」
私がその打明け話をユズフに伝えてもいいかときくと、彼女はいけませんといったが、その口調から、少しきつくせがんだら美しい弟子を見せる決心をするだろうと見てとった。しかし、親愛な主人の気にそわない行動をとるのは、考えるだけでもこころよくなかったが、さらにまたうかうかと迷宮へまよいこんで、にっちもさっちもいかなくなるのをおそれた。遠くからターバンがちらついて、私は心おだやかでなかった。
やがてユズフがやってきた。彼は私がローマの老婆と話をしているのを見ても、きげんをそこねたようすはなかった。彼は色好みのイスマイルのハレムにしまいこまれた美女のひとりと踊って、さだめし楽しかったろうといった。
「あれがそんなにめずらしいことなのですか。人の噂にのぼるところを見ると」
「そうですよ、めったにないことです。この国では自分のもっている美人を油断のならぬ男の目にさらさないという習わしが一般にありますからね。しかし、だれでも自分の家ではかってなことができますよ。それに、イスマイルはなかなかのしゃれ者で才人ですからね」
「わたしと踊った女がどういう人だか、みんな知っているのですか」
「さあ、それはどうですかな。あの女は仮面をつけていましたしね。ただ、イスマイルが半ダースばかりの、逸品ぞろいの女をかかえていることは、だれでも知っていますよ」
[友情のわなに落ちる]
われわれは一日じゅういつものように愉快にすごした。そして、彼の家から出ると、同じ山の斜面にあるイスマイルの家へ連れていかせた。
召使たちは私のことを覚えていて、黙っていれてくれた。私はまっすぐ指定された場所へ行った。宦官が私の姿を見かけて、そばへよってきて、旦那さまはお留守ですが、あなたさまがこちらへ散歩に来られたと知ったら、たいへんお喜びになるでしょうといった。そこで、レモネードを一杯所望したいというと、四阿《あずまや》へ連れていかれた。そこには例の年とった女奴隷がいた。宦官はうまい飲物を出させたが、私が老婆に銀貨を一枚やろうとすると、それをさえぎった。それから、われわれは池のうしろへ散歩に行った。しかし、宦官は引き返さなければいけないといって、三人の婦人に注意を向けさせた。礼儀として婦人たちのまえを避けなければならなかったのである。私は彼に感謝し、旦那さまによろしくお伝えくださいといって、家へ帰った。しかし、私はその散歩に不満ではなく、次のときにはもっといい目をみたいと希望した。
その翌日の朝、イスマイルから手紙がきた。手紙はあすの夕方魚釣りをしようという誘いであった。美しい月光のもとで、夜の更《ふ》けるまで釣りを楽しむという趣向であった。私はもしかしたらイスマイルが例のヴェネチア美人を連れてくるかもしれないと想像し、もちろん彼がそばにいることはわかっていたが、それでも尻込みをせずに行こうと思った。そして、ヴェニエ勲爵士に一夜を外ですごす許可を求めた。彼はしぶしぶ承知してくれた。なにか艶っぽい事件を起こし、その結果みょうなことになるといけないと心配したのである。いっさいをぶちまけたら、彼も安心したであろうが、この際は慎重のうえにも慎重にしなければならないと思って、黙っていた。
こういうわけで、いわれた時間にトルコ人の邸へ行った。トルコ人は心から親しげに迎えてくれた。しかし、船に乗るだんになると、彼とふたりきりなのであてがはずれてしまった。船頭がふたりと舵取《かじと》りがひとり乗っていた。われわれは何匹か魚をとり、それを四阿へ持っていって、月光のもとで油であげて食べた。かがやくばかりの月夜で、昼間よりも明るいくらいであった。しかし、私は彼の趣味を知っていたので、ふだんほど快活にふるまえなかった。ボンヌヴァル氏の話もさることながら、イスマイルが三週間まえに見せ、私が手ひどくはねつけた、ああいう友情のしるしを与えようという気まぐれを起こしはしまいかと、心配でならなかった。そんな夜更けに、男同士の差し向かいなんてまったく不自然だったので、怪しめばきりがなく、いつまでも気が気でなかった。しかし、その夜の大詰めは次のようなことであった。
彼は急に、「声をさげて。なにかおもしろいことのありそうな音が聞こえるから」というと、下男たちを帰らせ、私の手を取った。
「さあ、向うの小部屋へはいろう。さいわい鍵はポケットのなかにある。だが、ことりとも音をたてないようにな。小部屋には池へ向かった窓があるが、わしの姫ぎみたちが二、三人、池へ水浴びにきたらしいから、のぞいてやろうじゃないか。なまめかしい光景が楽しめるかもしれないよ。向うさまは見られているとは夢にも知らんだろう。この場所はわし以外にはだれも近寄れないものと思っているのだから」
こういいながら、彼は私の手をつかんだままドアをあけた。そして、まっ暗な部屋へはいった。陰にひそんでいるわれわれからは月は見えなかったが、池は隅から隅まで、皓々《こうこう》たる光に照らされていた。その月光の下、ほとんど目のまえに、一糸《いっし》もまとわぬ三人の娘を見た。彼女らはときには泳ぎ、ときには水から出て、大理石の階段をのぼり、そこに立ったりすわったりして、身体をふくために、ありとあらゆるポーズをとった。この艶なる光景はすぐ私を燃えあがらせずにいなかった。
イスマイルは喜びにうっとりしながら、遠慮はいらないといい、逆に私をはげまして、あでやかなながめが私の心におこした欲求に身をまかせるようにすすめ、まずみずから模範をしめした。そこで私もそばにいるものを代役に、三人の人魚が燃えあがらせた火を心ゆくまで消すよりほかに道がなかった。まったく、三人の人魚は窓のほうは見なかったが、あたかもそこにかくれて目をこらしている見物人の五体を燃えあがらせようと目論んで、ありとあらゆる扇情的な動作をつづけるかのようであった。私は娘たちはきっとそのつもりでやっているにちがいないと思い、いっそう快感をかきたてられた。
イスマイルは手のとどかない相手の代りをさせられたのを非常に喜んでいた。私は彼がしたり顔で攻めかけてくるのも我慢しなければならなかった。もしも相手にならなかったら失礼にあたるし、忘恩のそしりもまぬがれなかっただろう。それは私の性格としてできることではなかった。一生のうちであのときほどばかばかしく思ったこともないし、またあんなに興奮したこともなかった。三人のうち、どれが例のヴェネチア娘かわからなかったので、私はようやく気持のおさまったらしいイスマイルを相手に、次から次へと三人へ愛をささげた。あのお人よしはこころよく代理役をつとめ、いとも嬉しい復讐を味わったにちがいない。しかし、礼をいわせようというなら、自分でいうべきだったろう。あの際、ふたりのうちのどちらが得をしたかというむずかしい計算は読者におまかせしよう。イスマイルがいっさいの費用を出したものの、秤の皿は彼のほうへ傾いているにちがいないからだ。私はこのこと以来、二度と彼の邸へ足踏みをせず、このときのことはだれにも話さなかった。やがて三人の娘が引きあげていったので、私も饗宴をおしまいにしたが、ふたりはなんともいうべき言葉がなく、てれくさく笑うばかりであった。それからすばらしい果物の砂糖煮を食べ、コーヒーを二、三杯飲んで別れをつげた。これはコンスタンチノープルで私の味わった唯一の快楽だが、むしろ現実よりも空想の産物であった。
[ヴェールと貞操の関係]
それから二、三日たってユズフの邸を訪ねた。あいにく小雨が降っていて、庭を散歩できなかったので、昼食をとるサロンへはいっていった。そこにはいつもはだれもいなかったのだが、そのときは美しい顔の女がいて、私の姿を見ると、さっと立ちあがった。そして、すばやく顔へ厚手のヴェールをかけ、額の際から下へ垂らした。ひとりの女奴隷が背を向けて窓際にすわり、円枠で刺繍をしていたが、身動きもしなかった。私は失礼を詫びて引きさがろうとした。
しかし、その女は私をひきとめ、天使のような声音の美しいイタリア語で、旦那さまがお出かけのとき、あなたさまがお見えになったらお相手をしているようにといいおかれたといった。そして、ゆったりした二枚の座蒲団を下にしいたみごとなクッションをしめして、それへすわるようにいった。私はすすめられるままに腰をおろした。それと同時に、彼女も両脚をくんで私と向きあってすわった。私は目のまえにいるのがゼルミにちがいないと信じ、ユズフがついにイスマイルに劣らず大胆なところをしめそうと決心したのかと考えた。しかし、そんなことをすると、彼は自分の主張に反し、私に恋心を起こさせて、彼の計画にたいする私の同意の純粋性をそこなう結果になるのに驚いた。しかし、本人の顔を見なければなんともきめられないので、あわてて気をもむ必要はなかったわけだ。
「わたくしがだれだか、おわかりにならないでしょうね」と、ヴェールの女がいった。
「見当もつきませんよ」
「わたくし、ユズフの妻ですの。五年まえからいっしょになっております。キオス島の生れですの。結婚しましたのは、十三のときでございました」
ユズフが自分の細君と話をさせるほど磊落《らいらく》にふるまうのに度胆をぬかれながらも、私はすっかり気が楽になった。そして、このアヴァンチュールをおしすすめてみようと考えたが、まず相手の顔を見る必要があった。衣装をつけた美しい身体も、顔が見られないでは、容易に満たされる欲望だけしかかきたてられない。そのつける火は藁火《わらび》にひとしい。優美な姿は見えるが、魂は見られない。薄紗が目をかくしているからだ。むきだしの腕は形といい白さといい、まぶしい思いをさせたし、アルチナのような手には≪ふしもすじも見えなかった≫(アリオスト『狂乱のオルランド』)。それで、私はすべての他の部分をあざやかに想像した。モスリンのやわらかなひだはその生ける表面しかかくすことができず、なにもかも美しいにちがいなかった。しかし、彼女の目を見て、私の想像するすべてのところが生きていることをたしかめたいと思った。近東の衣服はサクソニアの陶器の美しい釉薬《うわぐすり》のように、花や模様の色には手をふれさせないが、肢体をあざやかにえがきだし、欲望の目からなにも隠しはしない。
この女はトルコの貴婦人の服装ではなく、キオス島の女たちの服装をしていたので、スカートは脚の半ばや腿の形や固く張った腰などを見るのをさまたげなかった。腰はしだいに細まって、胴体につづいていたが、銀糸でアラベスク模様を刺繍した幅のひろい帯でしめつけられた胴体は、ほれぼれするほど華奢《きゃしゃ》であった。胸はむっちりと盛りあがって、ゆるやかに息づいていたが、ときどきその動きがみだれて、魅惑的な丘が命あるものであることを物語った。ふたつのかわいい円丘をへだてる溝は狭いなめらかな窪みをなし、さながら乳のながれる小川かと思われ、そこに唇をつけて、心ゆくまで渇《かわ》きをいやしたい気持をおさえることができなかった。
私は称賛の念にかられて、われを忘れ、ほとんど無意識の動作で腕をのばして、大胆にもヴェールをまくりあげようとした。しかし、彼女はさっと身を起こすと爪先だってその手をはねのけ、毅然《きぜん》とした態度にふさわしい威圧的な声で私の道ならぬあつかましさをなじった。
「夫の好意を裏切って、わたしを恥ずかしめなさるとは、ユズフの友情にたいして面目ないとは思いませんか」
「奥さま、どうぞおゆるしください。わたしの国では、どんなに身分のいやしい男でも女神の顔をしげしげとおがむことができるのです」
「けれども、その顔をかくしているヴェールまで剥《は》ぎとることはできないでしょう。ユズフに頼んで、この仕返しをしてもらいます」
この脅迫をきいて、私はすっかり怖気《おじけ》づき、彼女の足もとにひれふして、言葉のかぎり詫びをいった。彼女もようやく怒りをしずめて、私にすわれといい、自分も脚をくんですわった。それで、スカートの乱れが、一瞬、魅力のあれこれをかいまみさせた。その光景がもう一瞬つづいたら、私はすっかり分別をなくしてしまったであろう。そこで、ようやく自分のあやまちに気づいたが、後悔もあとの祭りであった。
「あなたは燃えていらっしゃるのね」と、彼女がいった。
「どうして燃えずにいられましょう。奥さまがさかんにたきつけていらっしゃるのですからね」
私ははやる心をおさえて、もう顔のことは考えずに、手をとろうとした。そのとき、彼女が「宅が帰りましたわ」といった。彼がはいってきたので、われわれは立ちあがった。私は平静をとりもどし、彼に感謝した。刺繍をしていた女奴隷はそそくさと出ていった。彼は私の相手をしてくれたことを妻に礼をいった。そして、彼女を部屋へ連れもどるために腕をかした。戸口まで行くと、彼女はヴェールをあげ、夫に接吻を与えながら、横顔をまざまざと私に見せてくれた。私はそれには気づかぬようなふりをしていたが、彼女が最後の部屋へはいるまで食い入るように目をはなさなかった。ユズフはもどってきて、笑いながら、妻がいっしょに食事をしたいといっていると告げた。
「わたしはお嬢さまかと思いましたよ」と、私はいった。
「それはあまりにもわが国の風習とちがうことですよ。家内にあなたのお相手をさせたのはとるに足りないことですが、自分の娘に外国人の相手をさせるような、思いきったまねは、いやしくも身分のあるものならしませんね」
「奥さまはお美しい方のようですが、お嬢さまよりもお美しいですか」
「娘の美しさは明るい美しさで、気立もやさしいです。ソフィアは見識の高い性質ですよ。あれはわしが死んでもしあわせに暮らせますよ。あれと結婚するものはあれが処女のままであることを知るでしょうからね」
私はボンヌヴァル氏にこの話をし、ヴェールを剥ぎとろうとして、とんでもない目にあうところだったと誇張していうと、彼はこう答えた。
「なあに、危いことなんかなかったのさ。そのギリシャ女は悲喜劇の一芝居うって、きみをからかったまでのことさ。きみがうぶなので、きっとじれったかったにちがいないよ。きみは男らしくふるまうべきだったのに、フランス的なファルスを演じたのさ。どうして女のご面相なんか見ようとしたんだね。単刀直入に本陣をつくべきだったよ。もしもわしが若かったら、うまく立ち回って、その女に仕返しをし、ユズフの軽率さを罰してやるのだったがな。きみはイタリアの男の価値について、まちがった観念を女に与えてしまったな。トルコの女なんて、どんなにしとやかに見えても、その羞恥心《しゅうちしん》は顔の上だけのことだよ。ヴェールをかぶっているから、どんなに恥ずかしいことでも顔をあからめずにできるってわけさ。あのユズフの細君は、亭主とふざけるときには、いつも顔をかくすにちがいないよ」
「あの女は処女だってことですよ」
「そりゃあやしいものだ。わしはキオス島の女を知っているが、みんな処女に見せかけるうまい手を心得ているからね」
ユズフは二度と私にそういう歓待をしなかった。彼は、数日後、私がアルメニア人の店で品物を見ているところへはいってきた。私はあまり値が高かったので、買わないことにした。彼は私が高いと思った品物へ全部目をとおし、私の趣味をほめた。しかし、この品ならたいして高くはないといって、全部自分で買って帰っていった。そして、翌日早朝に、その品物を残らず私へ贈ってくれた。しかし、私がことわれないように、ケルキラ島へ行ったら、この品々を次の人々にお渡し願いたいと、達筆な手紙がそえてあった。ローラーをかけて金銀の艶《つや》をつけたダマスコ織の反物、財布、紙入れ、帯、肩掛け、ハンケチ、パイプなどであった。全部で四、五百ピアストルの値段であった。私が礼に行くと、彼はようやく私に贈ったものであることを認めた。
帰郷の前日、別れの挨拶に行くと、この善良な男は涙を流した。私もそれに劣らず涙を流した。彼はきみがわしの申し出た縁談を受け入れなかったので、いっそう尊敬の念をました。もしも受け入れて息子になっていたら、こんなに尊敬しなかったかもしれないといった。ジォヴァンニ・ドナー大使と船へ乗り込むと、さらに彼の贈ってくれた梱《こり》がひとつおいてあった。それにはモカ・コーヒーを二キンタル(一キンタルは五○キロ)、ジンジェの葉煙草百ポンド、それぞれ大瓶につめたザパンディとカミュサードの煙草であった。そのほか、金の線条細工をほどこしたジャスミンのキセルもあった。このキセルはケルキラ島で百ゼッキーニで売った。ケルキラ島では彼の贈り物を全部売ってひと財産つくったが、感謝のしるしとしては、この島で書いた一通の手紙しか送ることができなかった。
イスマイルはダ・レッツェ勲爵士に宛てた紹介状と蜂蜜水をひと樽《たる》送ってくれたが、紹介状は途中で紛失し、蜂蜜水は同様に売りとばした。ボンヌヴァル氏はアッカヴィーヴァ枢機卿宛ての手紙をことづけた。その手紙はこの旅行の顛末《てんまつ》を報告した私の手紙といっしょにローマへ送った。しかし、猊下は返事をくださらなかった。ボンヌヴァル氏はまたラグーザ産のマルヴォワジー(白葡萄酒)を一ダースと本物のスコポロ酒を一ダースくれた。本物のスコポロ酒は非常に珍重されていたもので、ケルキラ島ではこれを贈り物にして、非常に役にたてた。それはそのところで話そう。
コンスタンチノープルでよく出会い、とくに親切に扱ってくれた外国の外交官はスコットランド出身の元帥キース卿だけであった。この人はプロシア王の使節として駐在していた。この人と知合いになったことは、六年後にたいへん役にたったが、それはまた話そう。
九月初旬、来たときとおなじ軍艦で出発した。そして、二週間でケルキラ島に着いたが、大使閣下はおりなかった。彼は優秀なトルコ馬を八頭連れてきたが、一七七三年にそのうちの二頭がまだ生きているのをゲルツで見た。
[艦隊司令官副官となる]
小さい荷物を持って上陸し、けちな旅館に宿を定めると、私はさっそく総督のアンドレア・ドルフィンのもとに伺候した。総督は次の査閲のときに中尉に昇進させると、重ねて約束してくれた。総督邸を出ると、私の所属する中隊の隊長カンポレーゼ大尉のところへ行った。わが連隊の幕僚たちは全部|留守《るす》であった。
三番目に訪問したのはガレアス艦隊の司令官D・R氏であった。まえにヴェネチアからケルキラ島まで同行したドルフィン氏が推薦してくれたのである。D・R司令官は型どおりの挨拶がすむと、副官としてわしのもとで働く気はないかときいた。私は一瞬もためらわずに、私にとってそれより大きな幸福はない、つねに従順にご命令にしたがいますと答えた。すると、すぐ私を予定された部屋に案内させた。私は翌日さっそくそこへ移った。大尉はフランス人の従卒をつけてくれた。それはもとは床屋で、非常なおしゃべりだった。髪の手入れもしてもらえるし、フランス語の会話の練習にはもってこいで、私は大喜びだった。彼はピカルディの百姓あがりで、やくざ者で、酒飲みで、道楽者で、文字もろくに書けなかったが、私はそんなことには頓着しなかった。彼がフランス語をしゃべれるだけで十分だった。おどけたやつで、ヴォードヴィルや滑稽な話をたくさん知っていて、みんなを笑わせた。
四、五日すると、私はコンスタンチノープルからもらってきた土産《みやげ》を全部売り、およそ五百ゼッキーニの金を得た。手もとに残しておいたのは酒だけであった。それから、コンスタンチノープルへ行くまえに博打で負けて質に入れたものをユダヤ人から受け出し、それも全部売った。そして、もう二度とインチキ博打にはひっかかるまい、どうせ博打をするなら、聰明で才気のある青年らしく、りっぱに勝利をしめて、人から非難されるようなことはしまいと固く決心した。
ここで、ケルキラ島での生活の模様を知らせるために一応説明をしよう。しかし、風景については多くの人の旅行記でだれでも知ることができるのだから、話題にしないことにする。
当時、ケルキラ島には、君主の実権をにぎり、豪奢《ごうしゃ》な生活をしている総督がいた。それはドルフィン氏であった。七十がらみの老人で、厳格で、頑固で、無知で、女のことにはもう心を労さなかったが、女からごきげんをとられるのを喜んでいた。毎晩客を集め、二十四人分の夕食をふるまった。
ケルキラ島の海軍には軽装備のガリー艦隊と称する艦隊に高級士官三名、重装備の大艦隊と称する艦隊にも高級士官が三名おり、軽装備のほうが重装備よりも上位に立っていた。各ガリー艦にはソプラコミトと呼ばれる指揮官がひとりずついて合計十名、各々の軍艦にも艦長がひとりずついて、これも合計十名、それに三名の提督《カピ・デイ・マール》がふくまれていた。これらの高級士官はすべてヴェネチア人であった。このほか二十歳ないし二十二歳のヴェネチアの貴族がいわゆる艦隊貴族《イ・ノビレ・デイ・ナヴエ》として海軍生活の見習いをしていた。以上の士官のほかに、この島では八人ないし十人のヴェネチア貴族が治安や司法関係の事務をとっていた。これは陸軍の高級士官と呼ばれていた。結婚している人々は、妻が美しいと、そのおぼしめしにあずかろうとする伊達男がおしかけてきて、おおいに悦に入っていた。しかし、はなばなしい恋愛沙汰はおこらなかった。というのも、ケルキラ島にはそのころ多数の娼婦がいたからだが、どこでも博打が公然とゆるされていたので、人目をしのぶ恋はあまりはやらなかった。こうしたすべての夫人たちのうちで、美しさやあだめかしさでひときわぬきんでていたのはF夫人であった。その夫はガリー艦の指揮官であったが、去年、夫人を連れてケルキラ島へ赴任してきた。夫人の容姿は提督連に目を見はらせたが、彼女は選択の自由は自分にあるとばかり、さっそくD・R氏に白羽の矢をたて、いい寄る遊冶郎《ゆうやろう》を全部閉めだしてしまった。F氏はガリー艦へ乗り込むその日に夫人と結婚したのだが、夫人も七歳のときに入れられた修道院からその日はじめて出てきたということであった。彼女は十七歳。
私はD・R氏の邸へ移った日に、はじめて彼女と食卓で向かい合ったが、彼女の美貌にはげしく心を打たれた。いままで出会ったどんな女よりもずばぬけていて、なにか神々しいような感じさえし、この女に惚《ほ》れこむことがあろうなどとは、夢にも思われないくらいであった。自分が彼女とはまったくちがった、ずっと下等の種類のように思われ、近づくこともできない高嶺《たかね》の花と見えた。私はすぐにD・R氏とのあいだには冷たい習慣的な友情しかないと見ぬき、F氏がやきもちをやかないのももっともだと考えたが、このF氏というのはこういう細君の亭主としては底抜けのあほうだった。
ともかく、F夫人が目前にあらわれた最初の日に、彼女の美貌から受けた印象は以上のようであった。こうした印象はじつにばかげていた。しかし、やがてそれは私には新しい経路をとって、まったくちがったものになっていった。
私は副官という資格から、彼女と同じ食卓につく名誉を得ていた。しかし、それだけのことであった。私と同じく少尉で、とびきりまぬけの副官がもうひとりいたが、これも同じ名誉を与えられていた。しかし、われわれは人並みの会食者とは見なされなかった。だれひとりわれわれには言葉もかけず、目もくれなかった。これは私には我慢のならないことであった。もちろんそれが理由のある軽蔑から来ているのでないことはよくわかっていたが、そういう境遇は私にはやっぱりやりきれなかった。サンゾニオという名前の同僚は腑抜けだったから不平をいうこともなかったろうが、私はそいつと同じ待遇をうけるのに甘んじていられなかった。
F夫人は八日から十日と日がたっていっても、私の顔へは一顧もくれなかったので、私は彼女が嫌いになりはじめた。なにか考えることがあってわざと私の目をさけているとも考えられなかったから、それだけになお私は不愉快になり、癪《しゃく》にさわり、気持がいらだった。もしもそれが理由のあることなら、私も腹をたてなかっただろう。しかし、彼女には私なんか全然眼中になかったにちがいない。それではあまりひどい。私はひとかどの人間だという自信があったので、それを彼女も知っておく必要があると、心のなかでいきりたった。だが、ついに機会がきて、彼女は私に言葉をかけ、したがって正面から私を見なければならないことになった。
宴会のとき、私のまえに焼いた七面鳥がおいてあったが、D・R氏はそれがえらくりっぱなのに目をとめて、私にそれを切れといった。私はすぐ仕事にかかった。そして、十六に切りわけたが、不手際のところは大目にみてもらわなければならなかった。しかし、F夫人は笑いだして、私のほうを見、方式どおりに切れないのがわかっていたら、はじめから手を出さなければよかったのにといった。私はいい返す言葉もなく、あかくなって腰をおろし、彼女を憎んだ。
ある日、話のぐあいで私の名前を呼ばなければならなかったとき、彼女はあなたの名はなんというのだときいた。そのときはD・R氏の副官になってから二週間にもなるのだから、私の名前ぐらい知っていたはずだし、またさらに、そのころ博打でたえず勝運にめぐまれ、私の名は早くも有名になっていたのであった。だから、私の憤慨はいっそうひどかった。
私は要塞づきの少佐で、職業的な賭博者《とばくしゃ》といえるマロリという男に金をあずけていた。この男はカフェのファラオ賭博に銀行をやっていたが、私は彼と相棒になり、彼が銀行になるときは、賭け金のまとめ役をした。私が銀行になるときには、彼がまとめ役をした。彼は客から憎まれていたので、私が銀行をすることがよくあった。彼が札を持つときのようすは、見ていてもゾッとするような感じを与えたが、私は反対だった。それでも、私はいつも勝った。負けてもにこにこしており、勝ったときにはかえって気の毒そうな顔をした。
コンスタンチノープルへ出発するまえに、私の持ち金を残らずまきあげたのはこのマロリであった。しかし、私がもどってきて、もう博打には手を出さない決心をしているのを見ると、私を賭博の秘法を教えこむ資格があると思い、仲間にひきずりこんだのであった。賭博はこの秘法を知らないと、博打好きを全部破産させてしまう。だが、私はマロリの誠実さを全面的に信用していたわけではないので、警戒をおこたらなかった。それで、毎晩、勝負がすむと勘定をし、賭け金は会計方の手に残った。それから、もうけた現金を分配し、家へもって帰って財布へぶちまけた。
[F夫人の残酷な仕打ち]
博打では運がいいし、身体はじょうぶだし、同僚たちにはときによって気前のいいところも見せたので、私はみんなからかわいがられていた。だから、D・R氏の食卓でもう少し目をつけられ、F夫人からあんなに高慢ちきな扱いをされなかったら、自分の境遇におおいに満足したであろう。F夫人はなんの理由もなく、ときどき私を侮辱するのを楽しみにしているようであった。私は彼女を心の底から憎んだ。そして、その完璧《かんぺき》な美貌をながめながら、彼女が私にいだかせた憎悪の情を考えるとき、あの女は生意気なだけでなくばかだと思わずにいられなかった。なぜなら、彼女は心がけ次第で、私を愛さずとも、私を夢中にさせることができるのだからと、私は心ひそかにつぶやいた。私の願いはただひとつ、憎悪の気持をあおるのをやめてもらうことであった。もしそれがなにかの目論見からだとしても、彼女にはなんの得にもならないのだから、じつに奇妙なことだ。
彼女の行動はまた気取りからくるとも思われなかった。というのも、私は彼女に心服しているようすを少しも見せたことがなかったからである。また彼女がほかのだれかに熱をあげていて、その人が私を憎むように仕向けるというふうにも考えられなかった。ここで彼女の情事を想像したのは、彼女がD・R氏にすらあまり強い関心をよせていず、夫のことは木偶《でく》の坊扱いにしていたからである。とにかく、あの若い女は私を不幸にしていた。そして、われながら自分に腹をたてた。私の心をせめつける憎悪の念がなかったら、彼女のことなど念頭になかったろうに。自分にそれほどまで人を憎む心があるのに気づいて、自分がいやになった。いまだかつて自分がそんな残酷なことのできる男とは思ってもみなかったのである。
ある日、昼食のあとで、ある男が私のところへ金をもってきた。勝負に負けたので口約束で貸してあった金である。それをみて、彼女はいきなり私にきいた。
「そのお金をなんになさるの」
「しまっておきますよ、奥さま、いつか損をしたときの用意に」
「ほかのことに使わないのなら、博打なんかなさらないほうがよくなくて。時間のむだではありませんか」
「遊びにつかう時間はむだとはいえません。悪いのは退屈してすごす時間です。退屈した青年は恋に血道をあげて、人から軽蔑されるのが落ちですからね」
「それはそうかもしれないわね。けれども、お金の番人になって喜んでいるのは、守銭奴《しゅせんど》だと自分から吹聴《ふいちょう》するようなものですわ。守銭奴は恋の奴《やっこ》と同じように軽蔑すべきですよ。でも、あなたはどうして手袋をお買いになりませんの」
一座のものがげらげら笑いだした。私は閉口して二の句がつげなかった。彼女のいうことはもっともであった。貴婦人が帰るときには馬車まで送るのが副官の役目であったが、そのとき、ケルキラ島の風習として、左手で婦人のドレスの袖をかきあげ、右手を腋の下へ入れるきまりであった。だから、手袋をはめないと、手の汗がドレスをよごす心配があった。私はすっかり恐縮したが、守銭奴と思われた恥辱には心をえぐられた。この落度を教育の不足のせいにしてもらったほうが、ずっとありがたかったろう。しかし、私は腹いせに、手袋を買わずに、彼女を避けようと決心し、この愚にもつかぬサービスをサンゾニオにまかせた。サンゾニオは歯がくさり、ブロンドの鬘《かつら》をかぶり、肌が黒く、口臭がつよかった。
こうして、私は怏々《おうおう》として楽しまず、彼女への憎しみを消すことができないのにいらだって毎日をすごした。というのも、率直にいうと、彼女を軽蔑していい気持になることができなかったからで、落ちついて考えれば、彼女には悪いところがひとつも見つからなかったのである。彼女は私を憎んでもいず、愛してもいなかった。事はすこぶる簡単であった。それに、彼女は年がごく若く、ふざけたい盛りであったので、人形でも玩具にするように、私を悪ふざけの相手にえらんだだけである。だが、私はそういう扱いをうけるようにできた人間だったろうか。私は彼女を罰し、後悔させてやりたいと思い、腹のなかでひどい復讐を目論んでいた。彼女を私に惚《ほ》れこませて、乞食女のように扱ってやろうということも、目論見のひとつにはいっていた。しかし、いちおう考えてみると、問題にするに足らぬ計画だったので、あきらめてしまった。彼女の魅力をあくまでこばみとおす勇気があるとも思われなかったし、ましてや、たとえ彼女がいい寄ってきたとしても、むげにはねとばす決断がつくとも考えられなかった。しかし、雷の一撃のような変化がおこって、私の境遇を一変させた。
[夫のための譲歩]
ある日、昼食後、D・R氏から大型ガリー艦の艦長コンドゥルメール氏のところへ手紙を持っていって、その命令を待てといいつけられた。提督は私を夜半まで待たせたので、帰ってきたときにはD・R氏はもう寝室へ引き取っていた。私もしかたがないからねに行った。それで、夜が明けると、D・R氏が目をさますのを待って、すぐ彼の部屋へ行き、使いの件を報告した。そこへ従卒がはいってきて、一通の手紙を渡し、F夫人の使いとして副官がご返事を外で待っていると告げた。従卒は口上を終わると出ていった。D・R氏は手紙の封を切って読んだ。読み終わると、手紙を引き裂き、たいへん立腹して、足で踏みつけた。それから、部屋のなかを歩きまわり、ようやく返事を書くと、封をして、呼鈴を鳴らし、副官を呼びつけて、返事を渡した。それから、きわめて平静なようすで、提督からの通達を読み、私に一通の手紙を書きとらせた。彼がそれを読んでいるとき、従卒がまたはいってきて、F夫人が私に話したいことがあるという伝言を伝えた。D・R氏はもう用事はないからどんな話がしたいのか行ってもよろしいといった。私はすぐに出かけようとしたが、呼びかえされて、口をつつしめと注意された。それは私には必要のない注意であった。夫人がなぜ私を呼ばせたのか見当がつかなかったが、夫人の家へとんで行った。彼女の家へは何度か行ったが、呼ばれたことは一度もなかった。彼女は一分と待たせなかった。彼女の部屋へはいっていくと、驚いたことに、彼女はあかい顔をして、ベッドの上にすわっていた。うっとりするほど美しかったが、目がはれぼったく、白目に血がさしていた。ひどく泣いたらしい。それは疑えなかった。私は胸がしきりにときめいたが、その理由はわからなかった。
「その小さい肘掛椅子へおすわりください。お話したいことがありますから」と、彼女がいった。
「立ったままでうかがいます、奥さま、それではご好意に甘えすぎますから」
彼女はそれ以上むりにすすめもしなかった。おそらくいままで私にたいしてそんなに丁重にしたことがなく、また私を寝室へ迎えたこともなかったのを思いだしたのであろう。
「ゆうべ宅がカフェであなたのお仲間と博打をし、口約束で二百ゼッキーニ負けてしまったのです。宅はそれだけのお金がわたしの手もとにあるから、きょう払えると思っていたのですが、わたし、そのお金をもうつかってしまったのです。ですから、どうにかして宅のために二百ゼッキーニ工面してやらなければならなくなったのです。それで、あなたからマロリに宅に融通したお金は宅から受け取ったといっていただけないかしらと考えましたの。ついては、この指輪をあずかっておいてください。元日には残らずご返済しますから、指輪はそのときお返しください。それから証文も書きますから」
「証文はいただきますが、指輪までお取り上げしたくありません。十分もお待ちくださればお金をとってきますから、ご主人がご自分でいらっしゃるなり、人をやるなりなさって、銀行へお返しになったらよろしいでしょう」
私はこういうと、彼女の返事も待たずに外へとびだし、D・R氏の館へもどって百ゼッキーニの棒包みを二本ポケットへねじこむと、彼女のところへ持っていって渡した。そして、一月元日に返済すると書いた証文を受け取った。
私が帰りがけたのを見て、彼女ははっきりこういった。
「あなたがどんなふうにわたしのご無心をきいてくださるかまえからわかっておりましたら、お願いする決心がつかなかったと思いますわ」
「いや、奥さま、奥さまがご自分でおっしゃりさえすれば、こんな些細なことをおことわりできる男は世の中にひとりもおりますまい。これからは、そうおきめになるのですな」
「まあ、嬉しいことをおっしゃるのね。けれども、こんなにつらいことは二度と経験したくございませんわ」
私はこの答えの隠れた意味を考えながら帰っていった。彼女は私の予期していたように、それは勘ちがいだとはいわなかった。さもなければ、体面をけがすことになっただろう。彼女は副官に手紙をとどけさせたとき、私がD・R氏の部屋におり、D・R氏に二百ゼッキーニの融通を依頼して拒絶されたのを私が見ていたことを知っていたが、それはおくびにもださなかった。ああ! 嬉しい極みだった! 私はいっさいを推量した。彼女はじつに名誉を大事にする女だ。私はそういう彼女がかわいくてたまらなかった。私は彼女がD・R氏を愛していず、D・R氏も彼女を愛していないと見抜いた。この発見は私の心をおおいに楽にした。その日以来、私は夢中になって彼女を愛しはじめ、いつか彼女の心を得たいと希望をもやした。
部屋へつくと、F夫人が証文に書いたいっさいの文字をインクでまっ黒に消し、名前だけ残して封をし、公証人のところへ持っていってあずけた。そして、受領証を受け取ったが、それには、この封印した書類はF夫人から要求のあった場合に直接本人に手渡すべしと明記させた。その日の夜、F氏が賭博の席に来て、私に二百ゼッキーニ支払い、現金で勝負して、四、五十ゼッキーニもうけた。この嬉しい事件で私の注意をひいたのは、D・R氏が依然としてF夫人にたいして愛想よくしていること、彼女もD・R氏にたいして態度を変えなかったこと、D・R氏が館で出会ったとき、彼女の用事がどんなことであったか聞かなかったことなどである。
しかし、F夫人はその後私にたいする態度を一変した。食卓で向かい合うたびに、かならず私に声をかけて、なにかきいた。それにたいして、私は謹厳な態度を失わずに、丁重な言葉で批評的な注釈をする必要にみちびかれた。自分は笑わずに人を笑わせるというのが、当時私の得意芸であった。これを教えてくれたのは最初の主人マリピエロ氏であった。≪人を泣かせようと思うときには、泣かなければいけないが、人を笑わせようとするときには、笑ってはいけない≫と彼はよくいっていた。F夫人が列席しているときに、私がなにをいいなにをしても、その唯一の目的は彼女からよく思われることであった。しかし、正当な理由なしにはけっして彼女の顔を見ず、気に入られることをねらっているような気配は少しも見せなかった。彼女に否応なく好奇心を起こさせ、真実を推量させ、私の真意をさぐりあてさせるようにしたかった。それにはゆっくり前進しなければならなかったが、ひまは十分にあった。そのあいだにも、自分の金や善行が世人の尊敬をひきよせるのを見て、心を楽しませた。そういう尊敬は私の職務や年齢やまた私が手をつけていた賭博のような仕事の才能からは期待すべくもないことであった。
[私の従卒が殿下となる]
十一月の中ごろ、私の従卒が肺炎をおこした。カンポレーゼ大尉は私の意見にしたがって、彼を病院へ運ばせた。四日目に、大尉はもうあの男は見込みがない、すでに終油もさずけたといった。その日の夕方、たまたま大尉のところにいたとき、従卒に終油の秘跡をさずけた僧侶がやってきて、小さい包みを渡した。故人が断末魔の苦しみにはいるまえに、自分の死後大尉に渡してもらいたいといって、僧侶にあずけたものであった。包みには、公爵家の縁をめぐらした紋章のついている真鍮《しんちゅう》の印鑑と洗礼の証明書と一枚の紙がはいっていた。その紙にはへたな、まちがいだらけのフランス語で、次のように書いてあった。大尉はフランス語が読めなかったので、私がかわって読んでやった。
[#ここから1字下げ]
私は自分で書き、自分の手で署名したこの書類を、私が完全に息をひきとったあとに、隊長殿へ渡すように要求する。私が死なないかぎり、懺悔僧はこの書類をどんな用途にも使用してはならない。なぜなら、懺悔の神聖な刻印のもとに、寄託したものであるからである。第一に隊長にお願いしたいことは、父公爵の要求があった場合に、私の遺骸を取り出せるよう、どこか地下の墓室へ葬っていただきたい。次のお願いは、私の長子権は弟の公子に譲るべきものであるゆえ、洗礼証明書と家族の紋章のついた印鑑と正式の死亡証明書とを、ヴェネチア駐在のフランス大使に送り、父公爵のもとへとどけるようにお手配いただきたい。
右の証として次に署名する。
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シャルル・フィリップ・ルイ・フーコー、
ド・ラ・ロシュフーコー公爵、フランソワ六世。
[#ここで字下げ終わり]
サン・シュルピス教会の発行した洗礼証明書にも同じ名前がしるしてあった。父公爵はフランソワ五世、母親の名はガブリエル・デュ・プレシであった。
この書面を読み終わると、私はげらげら笑いださずにいられなかった。しかし、とんまな大尉は私の高笑いをこの場合にふさわしくないと叱りつけ、あわてふためいて総督のところへ報告にとんで行った。私は大尉と別れてカフェへはいっていった。心のなかでは閣下が大尉を嘲笑し、この桁《けた》はずれの茶番劇はケルキラ島じゅうの大笑いになるだろうと確信していた。私はローマにいたとき、アッカヴィーヴァ枢機卿の邸でド・リアンクール司祭と知合いになった。神父はシャルル・ド・リアンクールの曽孫で、このシャルルの妹のガブリエル・デュ・プレシはフランソワ五世の妻であった。つまり、それは前世紀初頭のことであった。私は枢機卿の秘書課で、ド・リアンクール司祭がマドリードの宮廷へ申告する必要のある公文書の筆写をしたことがあったが、それにはプレシ家に関する種々の記録がふくまれていた。それにまた、従卒ラ・ヴァルールのペテンは奇妙でもあり、あほらしくもあった。なぜなら、いっさいは彼の死後にならなければ人に知られず、彼にとってなんの利益にもならなかったからだ。
三十分ののち、トランプの包みをあけていたとき、副官のサンゾニオがはいってきて、まじめくさった声音《こわね》で重大なニュースだと知らせてくれた。彼は総督の官邸にいて、カンポレーゼが息せききって駆けつけると、閣下に故人の印鑑と遺言書とを差し出すのを見たのである。閣下はまず故人の家柄にふさわしい葬式を行なって、公子の遺骸を地下の墓室へ埋葬せよと命じたということである。それから三十分ばかりすると、総督の副官ミノットー氏が来て、閣下がお呼びだと私に伝えた。そこで、ひと勝負終えると、トランプをマロリ少佐に渡して、総督官邸へ行った。閣下はおもだった貴婦人たちや三、四人の提督たちと食卓についていた。F夫人やD・R氏の顔も見えた。
「どうだ」と、老総督はいった。「きみの従卒は公爵家の御曹司《おんぞうし》だったのだな」
「閣下、それは全然気がつきませんでしたが、いまでもとうてい信じられません」
「なんだって! 彼は死んだが、ばかでも狂人でもなかった。きみは現に彼の洗礼証明書や印鑑や直筆の遺言書を見たのだろう。だれでも死にのぞんだら、へんな狂言はせぬものだぞ」
「あくまでそうお信じになられるなら、閣下にたいする尊敬の念から、わたしは沈黙をまもらなければなりません」
「これは真実のことにちがいない。きみが妙に疑うのは不思議だ」
「それはわたしがラ・ロシュフーコー家やデュ・プレシ家について詳しく存じておるからでございます。また、問題の男のことも知りすぎるほど知っております。ばかや狂人ではありませんが、途方もないほら吹きでした。文字を書いているのを一度も見たことがなく、字を習ったことがないと何度となく話しておりました」
「しかし、彼の遺言書がその反対を証明しているぞ。公爵家の縁をつけた印鑑もある。きみはラ・ロシュフーコー家がフランスの公爵であり大重臣であることを知らぬのだろう」
「お言葉を返して失礼ですが、わたしはそういうことはもちろん、それ以上のことを知っております。フランソワ六世がヴィヴォンヌ家の令嬢を妻としておることも知っているのですから」
「きみはなにも知らんのだ」
こうどなりつけられると、私は口をとざすよりしかたがなかった。男たちは「きみはなにも知らんのだ」のひとことに、私がしゅんとなったのを見て、おもしろがったが、私はそれを愉快な気持でながめた。ある士官は故人は美男子で高貴の風貌をし、才気にとんでいたが、じつに用心深く隠していたので、だれもその本性を見やぶることができなかったといった。ある貴婦人はもしもお知合いになれていたら、仮面を剥《は》いでお目にかけたのにといった。またひとりのおべっか使いはあの人はいつも快活で、仲間にたいしても高ぶったようすがなく、天使のように歌がじょうずであったといった。
サグレド夫人が私を見つめながら、
「あの方は二十五歳でいらっしゃいましたわね。いまのお話のような長所をお持ちだったことが事実なら、あなたは当然お気づきになったはずですが」と、いった。
「奥さま、わたしは見たままのことしか申しあげられません。あの男はいつも陽気で、よくばか騒ぎをし、とんぼ返りまでしてみせました。みだらな小唄をうたい、魔法や奇跡の小話を驚くほど多く知っていましたし、奇妙な武勇談をしゃべりましたが、常識では判断しかねるようなものでしたので、人を笑わせることができました。彼の欠点は飲んべえで、小ぎたなく、道楽者で、喧嘩っぱやく、少し手癖《てくせ》がわるかったことです。しかし、髪の手入れがじょうずでしたので、わたしは我慢していました。それに、私はフランス語の真髄に徹し、慣用語をまじえて話す練習をしたいと思ったからです。彼はいつもピカルディの百姓の息子として生まれたが、軍隊から脱走してきたものだといっておりました。文字が書けないと申したのは、あれは嘘だったかもしれません」
[ケルキラ島の茶番劇]
私がこういうふうに話をしていたとき、カンポレーゼがはいってきて、ラ・ヴァルールがまだ息をしていると閣下に報告した。すると、総督は私のほうをちらりと見て、彼が死病をまぬがれたら、わしも嬉しいといった。
「わたしも嬉しゅうございます、閣下、しかし、今夜、懺悔僧がきっと彼を死なせてしまうでしょう」
「なぜきみは懺悔僧に彼を殺させたいのだ」
「漕役刑をまぬがれるためです。懺悔の秘密を乱した罪によって、閣下はきっとあの僧侶を漕役刑になさるでしょうからね」
人々はおもしろがって吹きだした。老将軍は黒い眉をひそめた。夜会が終わると、D・R氏がF夫人に腕をかしたので、私はそのまえに立って馬車まで案内した。彼女は雨が降っているからあなたも乗れといった。私にたいしてこれほど丁重な態度を見せたのは、はじめてであった。
「わたしもあなたと同じに考えますわ。けれども、あなたは将軍のごきげんをひどくそこねておしまいになりましたね」と、彼女はいった。
「それは避けがたい不幸ですが、奥さま、わたしはまちがったことは申せませんでした」
D・R氏がそこへ口をだして、「懺悔僧が公子を死なせるだろうなんて、あんな冗談を将軍にいわんほうがよかったな」
「閣下も奥さまもお笑いになりましたが、将軍のことも笑わせてあげたいと思ったのです。だれしも笑わせるものを好むものでございますから」
「しかし、笑わぬものは笑わせるものをきらうぞ」
「百ゼッキーニ賭けてもよろしゅうございますが、あの気違いはなおりますよ。そして、将軍を味方に引き込んで、詐欺とペテンの芝居を演じるでしょう。公子としてちやほやされたり、サグレド夫人にいい寄るのが、早く見たいものです」
こういうと、サグレド夫人を好まないF夫人はげらげら笑いだした。馬車からおりると、D・R氏が寄っていけといった。彼は将軍のところで夕食を食べたときは、いつも夫人のところでふたりきりの三十分を楽しむ習わしであった。F氏はいつも姿を見せなかった。このうるわしい恋人たちが他人をまじえたのは、はじめてであった。私はこういう好遇を喜ぶとともに、なにかの結果を生ずるものと思わずにいられなかった。私のこうした満足感はじっと隠していなければならなかったが、それにもかかわらず、ご両人の持ちだす話を陽気にし、滑稽な色に塗りあげずにいなかった。三人の歓談は四時間もつづいた。D・R氏と私とは午前二時に館へ帰った。ふたりはこの夜はじめて私の真価を知ったのだった。F夫人はいままでこんなに笑ったこともないし、ちょっとした話がこんなに笑わせるとは思わなかったとD・R氏にいった。
彼女が私のしゃべることになんでも笑いこけたので、私は彼女が無限の才気をもっていることに気づき、彼女の陽気さが私にたちまち恋心をおこさせた。そして、もう彼女にたいして無関心をよそおうわけにはいかないと心にきめて寝に行った。
翌日目をさますと、新しく来た従卒が、ラ・ヴァルールは病気が快方へ向かっただけでなく、病院の医者ももう危険を脱したと断言したといった。食卓ではその話でもちきりだったが、私は口をひらかなかった。翌々日、彼は将軍の命令で非常にきれいな部屋へ運ばれ、従卒をひとりつけられた。りっぱな服を着せ、シャツを与え、善良すぎる総督閣下がごきげんうかがいに行ったのを皮きりに、すべての将軍が足を運んだ。D・R氏もそのなかにまじっていた。それには好奇心も手伝っていたらしい。サグレド夫人が訪ねていってから、すべての貴婦人が彼と知合いになりたがった。しかし、F夫人はべつで、夫人はあなたが紹介してくださらなければ行かないと笑いながらいった。私はそれはごめんこうむりたいと答えた。人々は彼に殿下という尊称をたてまつり、彼はサグレド夫人を王女さまと呼んだ。D・R氏がきみも顔出しをしてこいとすすめたが、あの男についてはあまりしゃべりすぎたので、いまさらそれを取り消す勇気もなければ、そんなさもしい根性もないと答えた。あらゆる高家の系図がのっている貴族年鑑を見たら、ペテンはいっさい暴露するのだが、だれもそんなものを持っていなかった。フランスの領事さえ、とびきりののろまで、なにも知らなかった。
例の狂人は、公爵に変身してから一週間目に、外へ出はじめた。将軍の食卓で昼食と夕食を食べ、毎晩夜会に出席してぐっすり眠ってしまった。腹がいっぱいだったからだ。それにもかかわらず、人々はなおも彼を公爵だと信じていた。それにはふたつの理由があった。第一は将軍が急遽《きゅうきょ》ヴェネチアへ送った問い合せの手紙にたいする返事がまもなく来るはずなのに、落ちつきはらってそれを待っていたこと。第二は懺悔の掟をおかして秘密を公けにしたかどで、例の懺悔僧に厳罰をくわえるよう司教へ懇請していることであった。懺悔僧はすでに監獄へ入れられており、将軍もこれを擁護する力がなかった。すべての提督連中が彼を午餐会に招待した。しかし、D・R氏はその決心がつかなかった。F夫人がその日は自宅で昼食をとるとはっきりいっていたからである。私ももし彼を招待なさるなら、食卓にはつらなれないと、すでに丁重にことわっておいた。
[にせ公爵との決闘]
ある日、旧要塞を出たとき、要塞のまえの広場へおりる橋の上で、彼とばったり出会った。彼は私のまえへ立ちはだかり、一度もごきげんうかがいに来ぬのはけしからんと、いやに気取って文句をいった。私は思わず吹きだしたが、やがて笑いやめて、ヴェネチアから返事が来て、将軍が真相を知ったら、ひどい目にあうから、そのまえに逃げだす工夫をしたほうがいいぞと答えた。そして、なんなら、手伝いをしてやってもいい、すぐに出帆するナポリの船の船長を知っているから、かくまってくれるように頼んでやるといった。しかし、あの無頼漢《ぶらいかん》は私の提案を受け入れるどころか、悪口雑言をあびせかけた。
この狂人はサグレド夫人に目をつけ、さかんにごきげんをとっていた。夫人は多くの女のうちでとくに自分だけがフランスの公爵から値うちを認められたのに気をよくし、並々ならずもてなしていた。D・R氏の邸で盛大な午餐会がもよおされたとき、夫人はどうして公爵に逃亡をすすめたのかときいた。
「公爵ご自身からうかがったのですが、あなたが執念ぶかくあの方をペテン師だと思っているのにあきれていらっしゃいましたわ」と、夫人がいった。
「あいつにそういう忠告をしてやったのも、わたしが親切な心とたしかな判断をもっているからですよ」
「では、わたくしたちは、将軍さまもふくめて、みんなばかなのですね」
「いや、それはいちがいには申せませんね。人とちがった意見をもっていても、あながちばかだとはいえませんからね。これから十日もしたら、わたしのまちがいだったとわかるかもしれませんが、そのためにわたしがほかの人よりもばかだとは思いません。あなたのように才気にたけたご婦人なら、あの男が公爵か百姓かは、態度や教養でお見分けがつくはずです。彼はじょうずに踊れますか」
「ひと足もお踏みだしになれませんわ。けれども、そんなことばかにしていらっしゃいます。ダンスなんか習う気もなかったとおっしゃって」
「食卓では行儀がいいですか」
「無遠慮にお振舞いになられます。お皿もかえさせませんし、まんなかの大皿からご自分の匙《さじ》でめしあがります。おくびを胃袋のなかへしまいこんでおくこともおできにならないし、あたりかまわずあくびをなさり、食事がすんだと思うと、まっ先にお立ちになります。まったく天真|爛漫《らんまん》でございまして、お行儀はよくありませんね」
「それでも、お愛想はとてもいいのでしょうね。身ぎれいにしていますか」
「いいえ、下着などもまだ十分にそろっておりません」
「お酒は飲まないそうですね」
「とんでもない。一日に二度はベロベロに酔っぱらって食卓からお立ちになりますよ。でも、お酒については、お気の毒ですのよ。お酒を飲むたびに、おつむへあがってしまいましてね。まるで兵卒のようにわめきちらし、わたくしどもはつい笑ってしまうのです。けれども、そんなことでお腹だちになったことは一度もございませんわ」
「頭がいいですか」
「ご記憶はとてもすばらしくて、毎日新しいお話をしてくださいますわ」
「家族のことは話しますか」
「お母さまのことはよくお話しになります。たいへんお慕いになっていらっしゃいますわ。デュ・プレシ家の方なのですね」
「もしその母親が生きていたら、もうかれこれ百五十歳にはなっているでしょうな」
「まあ、ご冗談を!」
「いや、ほんとですよ。マリ・ド・メディシス〔フランス王アンリ四世の妻〕の時代に結婚したのですからね」
「洗礼証明書にもお母さまのお名前がのっておりますのよ。それに、ご印鑑も……」
「彼は自分の家の楯形のなかにどんな紋がついているか知っていますかね」
「それまでお疑いになるのですか」
「なにも知っていやしまいと思いますね」
食事が終わって、人々は席から立った。そのとき、公爵のご入来が知らされ、同時に公爵がはいってきた。すると、サグレド夫人が彼にこういった。
「公爵さま、カザノヴァさんはあなたがご自分の家の紋章をご存じないだろうとおっしゃっていますのよ」
この言葉をきくと、彼は嘲笑をうかべながら、ずかずかと私の前へやってきて、この悪党めとさけび、手の甲で私の頬を張りとばした。私は髪が乱れ、茫然となってしまった。それから、ゆっくりとドアのほうへ行き、途中で帽子とステッキをとって階段をおりた。うしろでD・R氏が大声で、ばか者を窓からほうりだせと命令する声がきこえた。
私は館から出ると、彼を待伏せするために広場のほうへ歩いていった。そして、彼が小門から出てくるのを見ると、道路を走っていった。彼がその道をくるにちがいないから、きっとぶつかれると考えたのである。はたして、彼がその道を歩いてきたので、私は駆けよっていった。そして、壁と壁の合わさった隅へ追い込み、ステッキをふりあげて、ぶち殺しそうな勢いでなぐりはじめた。彼はそこから逃げだすには、剣をぬいて応戦するより手はなかったであろうが、そんなことは思いつきもしなかった。私は彼が血だらけになって、ぐったりと地面に横たわるまで、なぐる手をやすめなかった。弥次馬《やじうま》の群れがまわりへ垣をつくった。私はその人垣をかきわけてスピレアのカフェへ行き、砂糖を入れないレモネードを注文した。口にたまった苦い唾をのみくだしたかったのである。四、五分もすると、駐屯部隊の若い士官たちがやってきて私をとりまいた。そして、口をそろえて、殺してしまうべきだったとわめきたてたので、かえってうるさくなってしまった。というのも、私は息の根をとめてやるつもりでかかったのだから、彼が死ななかったのは、私のせいではない。もしも向うが剣をぬいたら、おそらく殺してしまっただろう。
[監禁命令と脱走]
十分ばかりたつと、将軍の副官が来て、パスタルダ号へ監禁するという閣下の命令を伝えた。これは司令官の坐乗している中型のガリー艦で、これへ監禁されると、囚人のように両脚を鎖でしばられることになっていた。承知したと答えると、副官は帰っていった。私はカフェから出たが、道路のはずれまで行ったとき、広場へは行かずに、左へとり、海岸のほうへ行った。
十五分ばかり歩くと、二本の櫂《かい》のついただれもいない船が岸につないであった。私はそれへ乗り、綱をといて、船を漕ぎだしたが、六丁櫓のカイックと呼ばれる大型ボートが風にさからって進んでいくのを見て、そのほうへ向かっていった。そして、船に追いつくと、向うにヴィドの岩礁のほうへ進んでいく大型の漁船が見えるが、風に乗ってあの船までとどけてほしいと船長に頼んだ。私の乗ってきた船は波のまにまに打ち捨てた。そして、カイックに十分謝礼をして、漁船へ乗りうつり、親方と談判をした。
話がまとまると、彼は三枚の帆をあげた。船は順風に乗って走っていった。二時間たつと、もうケルキラから十五マイルのところへ来たということであった。しかし、突然風がやんでしまったので、潮にさからって櫂で漕げと命じた。夜半ごろ、彼らは風がなくては漁ができないし、もうみんな疲れきってしまったといい、夜明けまで眠ったらどうだとすすめた。私はそれをことわり、わずかの割増しを与えて、船を岸へつけさせた。そこがどういうところだか見当もつかなかったが、怪しまれるといけないと思って、ききもしなかった。
わかっていたのは、ケルキラ島から二十マイルはなれていて、私がそんなところにいようとはだれも想像できまいということだけであった。月の光でみると、目の前に小さい教会堂があり、それにくっついて家が一軒建っていた。その家は屋根のついた細長い、バラックで、両側があいていた。うしろには百歩ばかりの空地があり、その向うは山がつらなっていた。私はそのバラックにはいり、藁の上へかなりぐあいよく身体をのばして、寒さがきびしかったが、夜明けまでぐっすり眠った。おりしも十二月一日で、気候の温暖な土地ではあったが、外套《がいとう》もなく、薄手の軍服を着ていただけなので、目をさましたときには寒さに凍えてしまった。
鐘の音がきこえたので、教会堂へ行ってみた。長いひげをはやした、パパと呼ばれるギリシャ正教の司祭は、私がひょっくり姿をあらわしたのにびっくりし、ギリシャ語で、あなたはロメオつまりギリシャ人かときいた。私はフラジョつまりイタリア人だと答えた。すると、彼はくるりと背を向け、私のいうことには耳もかさずに、自分の家へはいって戸をしめてしまった。私は海のほうへ引き返した。島から百歩ばかりのところに錨をおろしていた小型の帆船から一隻のはしけがはなれた。そして、四丁の櫂で私の立っているところへ客をおろすために漕ぎよせてきた。客は顔つきのよいギリシャ人と細君と十一、二の男の子であった。私はその男に旅行は平穏でしたか、どこから来たのですかときいた。彼はイタリア語でごらんの妻や子どもを連れてケファリニアから来たが、これからヴェネチアへ行くつもりだと答えた。しかし、そのまえにカゾポの聖母さまに義父がまだ生きているか、妻の持参金を払ってくれるかうかがうために、ミサを聞きに来たといった。
「それはどうしてわかるのですか」
「パパ・デルディモプロからきくのです。聖母さまのご託宣を忠実に話してくれます」
私は頭を垂れた。そして、彼について教会堂へ行った。彼はパパに話し、金を渡した。パパはミサをあげ、≪いとも聖なる密室≫へはいり、十五分ほどたって出てきた。そして、ふたたび祭壇へのぼり、われわれのほうへ向かって、しばらく冥想した。そして、長いひげをしごいてから、十言ばかりで託宣を述べた。そのケファリニアのギリシャ人はオデュッセウスのような性格ではなかったと見え、非常に満足そうなようすで、ペテン師へさらに金を与えて、教会堂から出た。私は彼について船まで行きながら、ご託宣に満足したのかとたずねた。
「非常に満足しました。義父はまだ生きていて、息子をあずけさえすれば、持参金を払ってくれるということです。義父はこの子がかわいくて目のなかへ入れてもいたくないほどですから、あずけようと思います」
「あの司祭とはお馴染《なじみ》ですか」
「いや、あの方はわたしの名前さえ知りません」
「船のなかにはめぼしい売り物がありますか」
「たくさんあります。いっしょにきて朝食をなされば、お目にかけますよ」
「では、そうさせていただきましょう」
私は託宣というものが依然として存在することを知って愉快になり、ギリシャの僧侶がいるかぎり、託宣もたえることはあるまいと知って、その善良な男と帆船へ乗った。彼は非常にうまい朝食をふるまってくれた。彼の持っていた商品は木綿、麻布、コリント産の葡萄、油、極上の葡萄酒であったが、さらにまた、靴下、木綿の帽子、近東ふうの大外套、雨傘、軍用乾パンなどもあった。この乾パンは私の大好物であった。なにしろ当時はこれよりりっぱな歯はあるまいというほどの歯を三十本そろえていたのだから。しかし、その三十本のうちで現在残っているのはわずかに二本、二十八本はほかのもろもろの道具とともに、わが身からさよならをしてしまった。しかし、≪命のこるかぎり、そはよきものなり≫(メッセナ)だ。私は木綿をのぞいて全部を少しずつ買った。木綿は使いようがなかったからである。そして、値切らずに言い値どおり三十五か四十ゼッキーニ払った。彼はりっぱな「からすみ」を六本くれた。
彼がゲネロイデスと呼んだザキンソスの酒を私がひどくほめるので、ヴェネチアまでいっしょに行ってくれたら、検疫期間のあいだも毎日一本ずつ差しあげようといった。私はいつも迷信ぶかかったので、この勧誘を神の声だと思いこんだ。そしてそういうばからしい理由から、あやうく承知しそうになった。まったく行き当りばったり、まえもって考えたこともない妙な決心だった。私はそういう人間だったのだが、いまはまったくちがう人間になってしまった。人は年をとると利口になるからだというが、これは呪うべき原因のもたらした結果だともいえる。どうしてそんなことを喜べようか。
こんなわけで、承諾の返事をしようとしていたとき、彼はりっぱな小銃をとりだし、これは十ゼッキーニでお譲りしよう。ケルキラ島ではだれから買っても十二ゼッキーニはとられるといった。私はケルキラ島という言葉をきいたとたんに、さっきと同じ神がそこへもどれと命じているように感じた。私はその小銃を買った。人のいいケファリニア人は弾丸や火薬をいっぱいつめた、美しいトルコの袋をおまけにくれた。
私は彼に一路平安を祈り、りっぱな大外套に小銃をつつみ、買ったものを袋へつめて海岸へもどった。否でも応でもあのペテン師の坊主のところへとまろうと心にきめて。ギリシャの酒でほろ酔いきげんになっていたので、その効き目がさっそくこんな決心になったわけである。ポケットには四、五百ガゼッタの銅貨を持っていて、ひどく重かったが、カゾポの島ではこういう小銭も必要になるだろうと予想して、手に入れてきたのであった。
こういうわけで、袋をバラックにおくと、小銃を肩にかついで、パパの家へ向かっていった。教会堂はしまっていた。ここで、この本を読んでくださる方々に、そのときの気持を率直に知らせなければならない。私は表面落ちついていたものの、内心絶望していた。ポケットには三、四百ゼッキーニの金があったが、こういうところでは安心ならないと考えずにいられなかった。とうてい長く腰をすえるわけにはいかないし、少したつと素姓をかぎだされ、重要な脱走犯人として取り扱われるだろう。私はどうにも決心のつけようがなかった。それだけでどんな境遇でも耐えがたいものにするのに十分だ。私はもはや自発的にケルキラ島へもどることはできない。そんなことをしたら、狂人だと思われるだろう。私のことを軽率だ腰抜けだと見なさせる動かぬ証拠になるだろう。だが、あくまで脱走しとげようという勇気もなかった。こういうふうに決心をきめかねた精神的無気力の主な原因は大カフェの会計係にあずけてある千ゼッキーニの金でも、かなり豊富な衣類でも、ほかの土地では生活に困るという心配でもなかった。じつは心の底から慕っていながら、まだ手にさえ接吻したことのないF夫人であった。しかし、こういう窮地にあっては、くだらないことでも、当面の必要に身をまかせるよりしかたがなかった。まずさしあたって、とまるところと食うものとの工面をすることだ。
[カゾポ島の小宮廷]
私は僧侶の家のドアをはげしくたたいた。彼は窓のところへ来たが、私が話しかけるのも待たずに、閉めてしまった。私はまたたたき、大声でどなり、悪態をついた。が、返事がない。そこで、腹だちまぎれに、二十歩ばかり向うで草を食っていた羊の一頭へ向かって小銃をうった。羊飼いが金切り声をあげた。パパがまた窓から顔をだして、泥坊だとどなり、すぐに半鐘を鳴らした。三つの半鐘がいっしょに鳴りだした。人がたかってくるだろう。どんなことになるのだろう。見当がつかなかった。そこで、また小銃に弾丸をこめた。
十分ばかりすると、百姓の群れが手に手に小銃や熊手や長い半矛《はんぼこ》を持って、山からおりてくるのが見えた。私はバラックのなかへ逃げこんだが、こわいとは思わなかった。こっちはひとりだから、あの連中も話をきかずにぶち殺すはずはないと考えたのだ。
最初に駆けつけたのは十二人ばかりの若者で、みんなそろって小銃を持っていた。私は彼らの足をとめるために、銅貨をつかんで投げた。彼らはそれをひろい、きょとんと目をまるくしていた。それからいく組もやってきたが、そのたびに銅貨をなげ、銅貨がなくなった時分にはもうだれも来なかった。田舎者《いなかもの》どもはにこやかなようすで金を投げる青年にたいして、どうしたらよいのかわからず、茫然と立っていた。私は耳も聾《ろう》するばかりの鐘がしずまるのを待って口を開いた。しかし、羊飼いと坊主と寺男が私の言葉をさえぎった。私がイタリア語でしゃべったせいでもあった。三人は口をそろえて泥坊だとわめきたてた。私は袋の上に腰をおろし、落ちつきはらっていた。
百姓のひとりで、物のわかりそうな年配の男がそばへよってきて、なぜ羊を殺したのかとイタリア語できいた。
「金を払ってから、食べようと思ったのだ」
「だが、聖なる和尚さんが一ゼッキーノ要求しますぜ」
「では、金は出す」
坊主は金を受け取ると、ひっこんでいった。これで喧嘩は終わった。私に声をかけた百姓が十六年の戦争に参加して、ケルキラ島を守ったと話した。私はそれをほめてやり、居心地のいい住居と食事の世話をするよい下男とをさがしてほしいと頼んだ。彼は家を一軒全部貸そう、食事は自分がめんどうを見る。だが、山へのぼらなければいけないといった。私はそれに同意し、山をのぼっていった。うしろからふたりの青年が、ひとりは袋を、ひとりは羊を背負ってついてきた。道々、私は例の百姓に、この若者のような男を二十四人やとって、軍事教練をさせたい。日当は一日に二十ガゼッタ出そう。きみはわしの副官として四十ガゼッタやるといった。彼はあなたは目が高い、きっとりっぱに護衛の役をつとめ、ご満足をいただきますと答えた。
やがて非常に住みよさそうな家に着いた。一階に三部屋と台所と長い馬小屋があった。馬小屋はすぐ兵舎に模様がえをさせた。彼は私を残して必要なものを、ことに下着をすぐつくってくれる女を捜しに行った。一日で全部そろった。ベッド、家具、うまい昼食、炊事道具、全部銃を持った二十四人の護衛兵、年とった裁縫女、シャツを断ったり縫ったりする若い見習いの娘たち。夕食ののち、私は私を君主と仰ぐ三十人の男女にとりまかれ、たいしたごきげんであった。しかし、彼らには私がその島でなにをしようとしているのか全然わからなかった。ただひとつ気に入らなかったのは、娘たちがだれもイタリア語をしゃべれないことであった。しかも、私のギリシャ語は片言であったので、言葉によって彼女らの気持に磨《みが》きをかけることも期待できなかった。
翌日の朝になってみると、護衛兵はちゃんと部署についていた。いやはや、腹をかかえて笑ってしまった。私のりっぱな兵士はみんな屈強の勇士たちであったが、制服も着ず、規律もない烏合《うごう》の衆だった。羊の群れよりも劣っていた。しかし、彼らは捧げ銃《つつ》を習い、将校の命令に服することも教えられた。私は三人の歩哨を立てた。ひとりは兵舎に、ひとりは私の私室に、ひとりは海岸の見える山の登り口に。最後の歩哨はもしも武装した船が来るのを見たら、さっそく知らせる義務を与えられた。はじめの二、三日は自分でもままごとのように思われた。しかし、身をまもるために武力をもちいなければならない場合が来るかもしれないと思うと、もはやままごとではすまされなかった。そこで、兵士たちに忠誠の誓いをたてさせようと考えたが、そこまで決心がつかなかった。副官は私の心次第だと保証した。物惜しみをしない私の鷹揚さが島じゅうの人気をさらってしまった。
シャツを縫わせるためにお針子を集めてくれた料理女は、娘たちの全部はむりだろうから、せめてひとりはかわいがってやってほしいと希望した。しかし、私は彼女の希望をはるかにこえ、彼女の世話で気に入った娘をかたっ端からかわいがったので、彼女はおおいに感謝した。私の生活は幸福そのものであった。食卓の料理もすばらしかった。滋味《じみ》したたるばかりの羊肉や鴫《しぎ》など。あんなにうまい鴫は二十二年後にペテルスブルグで食べただけだ。酒はスコポロの酒やエーゲ海の島々の極上のマスカットだけしか飲まなかった。お相伴役は副官だけであった。外へ出るときにはかならず副官と屈強な若者をふたり供に連れることにした。村の若い連中が恋仲のお針子たちを私にとられたと思って恨みをいだき、いつおそってくるかしれなかったからである。つくづく考えてみると、もしも金がなかったら、どんなに不幸になっただろう。しかし、金がなかったらケルキラ島から逃げだす気にならなかったかもしれない。
一週間ののち、午後の九時ごろ、食卓についていると、衛兵所の歩哨の誰何《すいか》する声が聞こえた。副官が出ていったが、すぐにもどってきて、イタリア語を話すまじめそうな男が来て、ある重大な用件を知らせたいといっていると報告した。そこで、部屋へはいらせると、その男は、副官のいる前で、次のようなことを悲しげなようすでいって、私を驚かした。
「あさっての日曜日に、いとも聖なるパパ・デルディモプロはあなたにたいしてカタラモナキア(ギリシャ語、呪詛の意)をほどこします。もしもそれをやめさせないと、あなたは微熱のつづく病気にかかって、六週間ののちにあの世へ送られてしまいます」
「そういう薬は聞いたことがないな」
「薬ではありません。呪いです。聖体をささげながらその呪いをかけると、そういう力を出すのです」
「あの坊主はどういう理由でわしを呪い殺そうとするのだ」
「あなたが教区の平和と風儀をみだすからです。あなたは多くの処女を玩具になさいましたが、まえの恋人たちはみなその娘たちを嫁にもらわんといっております」
私は彼に酒を飲ませ、礼をいって帰した。事は重大に思われた。カタラモナキアは信じないにしても、毒薬の効き目はおおいに信じていたからである。翌日土曜日の夜明けに、私は副官にはなにもいわずに、ひとりで教会堂へ行って、坊主をどなりつけた。
「熱が出はじめたらすぐにきさまの脳味噌を鉄砲でぶっとばすぞ。だから、十分覚悟をしてかかるがいい。呪いをかけるなら、一日で死ぬような呪いをかけろ。さもなければ、遺言を書いとくがいいぞ。わかったか」
坊主にこういう忠告を与えると、そのまま宮殿へもどってきた。月曜の朝はやく、坊主が私を訪ねてきた。そのとき私は頭がいたかった。それで、身体のぐあいはどうかときかれたので、ありのままを答えた。すると、彼があわてて、それはカゾポ島の空気が重すぎるためだと断言した。それを聞いて、私は笑いだしてしまった。
[総督の軍使]
この訪問から三日目に、食卓へつこうとしていたとき、海岸を見張っていた前衛の歩哨があわただしく警戒のさけびをあげた。副官がとびだしていったが、四分ののちにもどってきて、ついいまし方ついた武装のフェラッカ船から士官がひとりおりてきたと報告した。私は部下に戦闘の構えをさせてから出ていった。ひとりの士官が百姓に案内させ、私の陣地へ向かって登ってきた。帽子をまぶかにかぶり、道をさえぎる藪をステッキで払いのけるのにてこずっていた。ひとりきりだった。べつにおそれるところはない。私は部屋にもどり、戦場での礼儀をもって彼を迎え、ここへ案内しろと、副官に命じた。そして、剣をつって、立ったまま待っていた。
はいってきたのは、さきにバスタルダ号へ行けという命令を伝えにきた総督副官のミノットーであった。
「やあ、きみはひとりですか。それでは、友人として来てくれたんですな。接吻しましょう」
「もちろん友人としてしか来られやしませんよ。敵としてじゃ、ぼくにはこんな役目をはたす力がありそうもないですからな。だが、なんだか夢でも見ているようですよ」
「まあ、おかけなさい。いっしょに昼食をしましょう。うんとご馳走しますよ」
「では、ご馳走になりますかな。それから、いっしょに帰りましょう」
「帰りたければ、ひとりで帰りなさい。ぼくは監禁されないことだけでなく、あいつに謝罪をさせることを確約されないかぎり、ここから一歩も動きませんよ。将軍はあいつを漕役刑に処するべきです」
「まあ、そうむちゃをいわんで、おとなしくぼくといっしょに帰りなさい。ぼくはきみを力ずくでも引っぱってこいという命令を受けたのだが、それだけの力がないから、ありのままを報告するだけさ。そうしたら、きみは否応《いやおう》なく帰らざるを得ないようにされるだろう」
「そんなことはさせんよ、きみ、ぼくは死んでも帰らんよ」
「気でもちがったのかね。そりゃまちがっているよ。きみはぼくの伝えたバスタルダ号へ行けという命令にそむいた。それがきみの罪状さ。例の事件については、十分きみに道理があったんだからね、将軍もそれを認めていらっしゃるんだ」
「じゃあ、ぼくはおめおめと監禁されなければならなかったのか」
「もちろん。服従はぼくらの第一の義務だからね」
「ぼくの立場になったら、きみはすなおに監禁されたろうか」
「それはわからん。しかし、命令に服さなかったら罪をおかすことになるということは知っている」
「それじゃ、これから帰ったとすると、あの無法な命令にすなおにしたがった場合よりもずっと重い罰をくうのかね」
「そうは思わんね。とにかく帰りたまえ。そうしたらいっさい判明するのだから」
「どんな目にあうかわからずに、ただ帰れというのかね。そんなことは期待しないでくれ。とにかく飯にしよう。ぼくが武力を用いるほどの罪をおかしたというなら、こっちも武力をもって対抗し、敗北したら降参することにしよう。たとえ血を流しても、そのためにぼくの罪はいっそう重くなるわけではないのだからね」
「いや、罪はずっと重くなるよ。だが、飯をご馳走になろう。きみもうまい飯を食ったら、少しは理屈がわかるようになるかもしれんからね」
食事が終わるころに、ただならぬざわめきがきこえてきた。副官の報告によると、フェラッカ船がついたのは、私を検束するためだという噂がひろまったので、百姓の群れが私の命令を受けようと、家のまわりに集まってきたのだということであった。私は善良で律気な連中にそれは誤解だと説明し、カヴァラの葡萄酒をひと樽やって解散させろと副官に命じた。
彼らは立ち去るとき空へ向かっていっせいに鉄砲をぶっぱなした。ミノットーはにこにこしながら、こりゃたいしたものだ、しかし、きみを連れずにぼくだけケルキラ島へ帰すとたいへんなことになるぞ。ぼくは義務としてきわめて正確な報告をしなければならぬのだからといった。
「よし、それじゃ、いっしょに帰ろう。ただし、自由な人間としてケルキラ島へ上陸させるという約束をしてもらいたいね」
「ぼくはきみをバスタルダ号のフォスカリ氏に引き渡して監禁しろという命令を受けているのだ」
「だが、こんどの命令は実行しないようにしてもらいたいね」
「もしもあくまで命令に服従しないと、将軍の体面を踏みつぶすことになるから、将軍も思いきった手をうつにちがいないよ。だが、将軍が気まぐれをおこして、きみをここへほったらかしておくとしたら、いったいきみはどうするつもりなんだね。だが、そんなことはあるはずがない。ぼくの報告にしたがって、血を流さずに事件を決着させる方法をとるだろう」
「殺戮《さつりく》なしに決着をつけるというのはむずかしいね。五百人の百姓を動員したら、三千人の軍隊もおそれるに足りんからね」
「いや、ひとりしかつかわんよ。きみは暴動の首魁《しゅかい》と見なされるだろう。いまああしてきみに忠誠をちかっている連中もだね、きみの脳髄を吹っとばすために金で買われたただひとりの男からきみをまもることはできんよ。もっとつっこんだ話をしよう。きみをとりまいているギリシャ人のなかにも、二十ゼッキーニの金をかせぐためなら平気できみを闇討ちにするものがいくらもいるのだよ。まあ、悪いことはいわないから、いっしょに帰りたまえ。ケルキラ島へ来て、ちょっぴり凱旋将軍の栄誉を楽しみたまえ。きみは拍手喝采され、盛大な歓迎を受けるだろう。ここでの乱痴気騒ぎを自分の口から話してやりたまえ。みんな腹をかかえて笑うだろう。そして、ぼくが訪ねていって事理を説明したら、さっそく承服したことを知ったら、きっと感心するだろう。ケルキラじゅうの人がきみを尊敬するだろう。D・R氏もきみがあの狂人の身体へ剣をつきささなかった勇気を高く買っているよ。わしの館にたいする敬意を忘れない心づかいが奥ゆかしいといってね。将軍ご自身もきみには感服しているだろう。きみのいったことを覚えているにちがいないからね」
「ところで、あのならず者はどうなったんだね」
「四日まえにソルディナ少佐のフリゲート艦が急送公文書を積んで到着したのさ。閣下はその公文書で、ご自分のなすべきことにたいして必要な資料を全部手に入れられたらしい。あの気違いを雲がくれさせてしまわれたのさ。やつがどうなったのかだれも知らないし、将軍のお邸ではそのことを口にするのを、みんな遠慮している。将軍の大失策がわかりすぎるほどわかっているのでね」
「しかし、ぼくにステッキでうちのめされたあとでも、夜会には呼んでいたのかね」
「とんでもない! やつが剣をつっていたのを覚えていないかね。それだけで、もうだれもやつの顔を見たくなくなったのさ。やつは前腕を折られ、顎《あご》をくだかれていた。ところが、そういうみじめな恰好《かっこう》もおかまいなしに、閣下は彼を追っ払っておしまいになった。しかし、ケルキラじゅうのものがいちばん度胆をぬかれたのはきみの脱走さ。はじめの三日間はD・R氏が邸へかくまっていると、だれも彼も思いこんで、おおっぴらに攻撃したものさ。しかし、D・R氏は将軍の邸の食卓で、きみの行方を全然知らないと、大声で言明したので、その疑いもとけたんだ。そこで、閣下もきみの脱走にひどく気をもまれたが、きのうの昼になって、ようやくいっさいがあきらかになった。ここの司祭が司教のブルガリに手紙をよこして、イタリア人の士官が十日まえからこの島を占領して、乱暴|狼藉《ろうぜき》を働いていると知らせてきたのさ。そして、きみが娘という娘をたらしこみ、呪誼《じゅそ》をかけたら殺すといって脅迫したと訴えたのだ。その手紙は夜会のときに読みあげられて、将軍を笑わせたが、それにもかかわらず、将軍はけさ、十二名の擲弾兵《てきだんへい》をひきいてきみを取り押えに行けとぼくにご命令になったんだ」
「こんどの騒ぎの原因は、もとをただせば、サグレド夫人なんだが」
「そのとおりだ。それで、夫人は困りきっているよ。あしたにでも、いっしょに夫人を見舞ってやろうじゃないか」
「あしただって? それなら、きみはぼくが監禁されないと確信してるんだね」
「そうだ。確信してるさ。閣下は名誉を重んずる方だからね」
「ぼくもそうだ。接吻しよう。そして、今夜、夜半すぎに出発しよう」
「なぜいますぐじゃいけないのだ」
「今夜バスタルダ号のなかで夜をすごすような憂き目は見たくないからさ。ぼくはまっ昼間堂々とケルキラ島へ乗り込みたいのだ。そうしたら、きみの武勲も輝かしくなるだろう」
「だが、いまから八時間、なにをしたらいいのかね」
「ケルキラ島では見られないような娘たちを見に行こう。それから、うまい夕食を食おう」
そこで、私は副官にフェラッカ船の兵士たちに食物をとどけろ、それから、物惜しみをせずに、できるだけうまい夕食をつくれ、今夜の夜半に出発するのだからと命じた。そして、とっておきたいものはフェラッカ船に送り、かさばった貯蔵品はすべて彼に与えた。わが二十四人の部下には一週間分の給料を払ったが、副官の指揮のもとに私をフェラッカ船まで送ろうといい出し、ミノットーをひと晩じゅう笑わせた。われわれは午前八時にケルキラ島のバスタルダ号に着いた。ミノットーはそこへ私をあずけると、これからきみの荷物をD・R氏にとどけ、将軍にいっさいの報告をするといって立ち去った。
[ケルキラ島へ凱旋する]
このガリー艦の艦長フォスカリ氏は私をひどい待遇で迎えた。心のなかに少しでも高尚なところがあったら、いそいで私に鎖をつけることもなかったであろう。なにか話をして十五分もひきのばしてくれたら、あんな屈辱を受けずにすんだのだ。ところが、彼はひとこともいわずに私を営倉係の隊長のところへやった。その男は私を椅子にすわらせ、片方の脚をのばさせて、鎖をつけた。しかし、この国では、この鎖はだれの名誉も傷つけない。兵士よりも尊敬されている漕刑囚についても、残念ながら同様である。
すでに私の右足には鎖がつけられ、左足にもつけるために靴をぬがせようとしていた。そのとき、閣下の副官が到着して、私に剣を返し、自由の身として釈放せよと、フォスカリ艦長に命じた。私は気高い総督閣下に敬意を表しに行きたいといったが、副官はそれにおよばぬという閣下のお言葉だと答えた。
私はすぐに将軍を訪ねて、ひとこともいわずにふかく頭をさげた。将軍は重々しい態度で、今後はもっと賢明になるよう、またきみの志す職業においては、服従こそ第一の義務だと知るべきであるといった。そして、とくに慎重《ヽヽ》と謙虚《ヽヽ》とをまもれと訓《おし》えた。私はこのふたつの言葉のもつ力を肝に銘じて、以後はそのとおりに自分を律することにした。
D・R氏の邸へもどると、すべての人の顔に喜びの色が見えた。こういう一瞬は苦しい時期の埋合せをしてくれ、不幸の原因さえなつかしく思わせる。人はなにかの苦しみのあとでなければ喜びを十分に感じられないし、また喜びは耐えしのんだ苦しみに比例して大きくなるものだ。D・R氏は私を見て大満悦、両腕をひろげて抱きしめてくれた。そして、きれいな指輪をひとつくれ、私が身を隠した場所をだれにも、とりわけ自分に知らせなかったのは非常によかったとほめてくれた。
彼はまじめな口調で率直にいった。
「F夫人がどんなにきみのことを心配していたか、きみには想像もつかぬくらいだったぞ。これからすぐに訪ねていったら、きっと大喜びだろう」
彼自身の口からこういう忠告を受けるとは、なんという嬉しさだったろう! しかし、これからすぐにというのはおおいに困った。なにしろ船のなかでひと晩明かしてきたので、ひどい恰好をしていると思われやしまいかと心配だった。しかし、行かなければならない。行って不体裁な身なりをしている理由を打ち明け、それを誠意のあらわれと思ってもらおう。
そこで、私は出かけた。彼女はまだ眠っていた。侍女は、奥さまはまもなくわたしをお呼びになるでしょうし、あなたが来ていらっしゃると聞いたら、きっとお喜びになるでしょうといって、自分の部屋へいれた。侍女は三十分ばかりいっしょにすごすうちに、その邸で私の喧嘩や脱走について話したことを、あらかたしゃべってくれた。彼女のいったことは私に大きな喜びを与えずにおかなかった。私の行動がすべての人から称賛されたことがわかったからである。
侍女は、呼ばれて行ってから一分とたたないうちに、私を呼びに来た。彼女がベッドのカーテンを引いたとき、私はアウローラの神が薔薇《ばら》と百合《ゆり》と黄水仙とをまきちらすのを見る心地がした。私はまず、D・R氏から命令されなかったら、こんな見苦しい恰好でおうかがいしなかったのだがと言い訳をいった。すると、彼女はあの方はわたくしがあなたのことを心配しているのをよくご存じだからですよ、あの方もわたくしもあなたをとても尊敬しているのですからといった。
「奥さま、それは身にあまるお言葉でございます。私はただご寛大なお情けだけを願っていたのですから」
「わたくしどもはあなたが剣をぬいて、あの狂人の身体をお刺しにならなかった自制力に感心いたしましたのよ。あんなやつ、自分からさきに逃げださなかったら、窓からほうりだしてやるところでしたものね」
「奥さま、じつを申しますと、あなたがあの席においでにならなかったら、わたしはあいつを殺してしまったかもしれません」
「それはどうもご丁重なお言葉でおそれいりますが、あの騒ぎのときに、わたくしのことをお考えになったとは、どうも信じられませんわ」
こういわれて、私は目をふせ、顔をそむけた。彼女は私の指輪に目をとめ、D・R氏がそれをくれたときのことを話すと、D・R氏をほめちぎった。そして、脱走後の生活をこまかく話してほしいと望んだ。私は娘たちとのことははぶいて、いっさいを忠実に話した。あの情事は彼女には気に入るまいし、私にも名誉にならなかったからである。人と人との関係においては、打明け話にも制限をくわえることを知らなければならない。たとえ真実のことでも、いわずにおくべき事実の数は、公けにできる、体裁のよい事実の数よりもはるかに大きいのだ。
F夫人は笑いだし、私の行動をあっぱれだと感心して、総督閣下のまえでそのおもしろい話をいまと同じ言葉で話す勇気があるかときいた。私は将軍がご希望になれば、まちがいなく話すと断言した。すると、彼女はその心がまえをしておくようにと答えて、
「わたくし、あの方があなたをお好きになり、あなたの第一の保護者になって、特別にあなたをお引き立てくださるように願っておりますの。万事わたくしにおまかせくださいね」
それから、私はマロリ少佐のところへ行って、博打のようすをきいた。そして、私の失踪以来、胴元の仲間からはぶいておいてくれたのを知って嬉しかった。そこで、事情が好転したらまたいっしょにやるからといって、あずけてあった四百ゼッキーニを引き出した。
身なりをととのえて、ミノットーといっしょにサグレド夫人を訪ねたのは、もう夕方であった。彼女は総督のお気に入りで、F夫人をのぞいては、ケルキラ島に来ているヴェネチアの婦人のうちでいちばん美しかった。彼女は私を脱走させた事件の張本人なので、私が恨んでいると思っていたので、私を見てたいへん驚いた、だが、私は率直に話して、彼女の思いちがいを正してやった。彼女はねんごろな言葉で応対し、ときにはわたくしの家の夜の集まりにもお顔を見せてくださいといった。私は頭をさげたが、その招待を受けもせずことわりもしなかった。F夫人が彼女を心よく思っていないのに、どうして出かけて行かれようか。それだけでなく、この夫人は博打が好きだが、負けて損をするものやもうけさせてくれるものしか気に入らなかった。ミノットーは博打はしなかったが、恋の取持ち役をして、彼女から厚意を寄せられていた。
館へもどると、F夫人が来ていたが、D・R氏がしきりに書き物をしていたので、彼女はひとりぽつねんとしていた。それで、私にコンスタンチノープルで起こったことを話してほしいと頼んだ。私として、あそこではうしろ暗いことはなにもなかった。ユズフの細君との出会いはおおいに彼女を楽しませたが、イスマイルと一夜をすごしたとき、彼の三人の情婦のゆあみ姿をのぞいた話は夢中になるほど彼女の興味をあおった。私はできるだけ婉曲に話したが、話が少し曖昧《あいまい》になると、もっとはっきり説明しろとせがんだ。そのくせ、記憶よりも彼女の目からみだりがましい釉薬《うわぐすり》をくみだして、話にぬりつけると、あまり露骨すぎるといって、叱りつける始末だった。そこで、私はこの調子でおしていけば、いつかはこっちへおぼしめしを向けさせられるだろうと確信した。欲望に火をつけたものは、否応なくその欲望をもみ消さなければならなくなるものだ。私はこういう因果応報を希望し、まだ遠いさきのこととしか思われなかったが、心ひそかに期待していた。
その日、偶然にも、D・R氏が夕食にたくさんの客を呼んだ。それで、当然のことながら、私はバスタルダ号へ行って監禁されろという命令を受けたあとのことを、細大もらさず、あらゆる場合をあげて説明し、食卓に興を添えなければならなかった。私の隣にバスタルダ号の艦長フォスカリ氏がすわっていたのは皮肉だった。私の話は一座の人々を喜ばせ、総督閣下にも私自身の口から申しあげて座興にしていただこうと衆議一決した。D・R氏はケルキラ島には秣《まぐさ》がまったくないが、カゾポ島には豊富にあるという話をきいて、それならさっそく総督に申しあげ、ご愛顧をいただくチャンスにしなければいけないといった。そこで、私は翌日すぐ閣下のところへ伺候して、委細を申しあげた。閣下はただちにガリー艦隊の艦長たちに指令を発し、それぞれ十分の人数を派遣して、秣を刈りとり、ケルキラ島へ運んでこいと命令した。
三、四日後の夕方、カフェにいると、副官のミノットーがさがしに来て、総督から話があるそうだと知らせた。そこで、さっそく出向いていった。
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第十五章
[わが恋の進展]
総督の館には大勢の人が集まっていた。私は爪先だってこっそりはいっていった。閣下は私に気づくと、額の皺《しわ》を伸ばし、大声でこういって、一座の人々の目を私のほうへ向けさせた。
「ほほう、殿下の目利きのじょうずな青年がやってきたぞ」
「閣下、わたくしがそういう目利きになりましたのも、閣下のようなかたがたとお近づきにさせていただいたおかげでございます」と、私はいった。
「ここにいらっしゃるご婦人がたは、ケルキラから失踪した以後のことを、きみの口からじかに聞きたがっていらっしゃるぞ」
「それでは、みなさまの前で懺悔をせよとおっしゃるのですか」
「そのとおりだ。こまかいところまで忘れずに話すのだぞ。わしがここにいないつもりでしゃべれ」
「とんでもございません。わたくしは閣下からお聞きいただいて、おゆるしをたまわりたいとしか考えていないのでございます。しかし、わたくしの話はたいへん長くなると思いますが」
「では、懺悔僧はきみの着席をゆるすぞ」
私は羊飼いの娘たちとの情事だけはぶいて、ちくいち話をした。
「まったく教えられるところの多い事件だな、これは」と、老将軍がいった。
「さようでございます、閣下。若い者が大きな情熱にさいなまれていて、しかも、ポケットにいっぱい金を持ち、かってなことができると思うときほど、身をほろぼす危険に出会うことはないと教えております」と、私は答えた。
それから、食事が出たので帰ろうとすると、閣下から晩餐に残ることをゆるすというお言葉があったと、執事がいった。そこで、私は閣下の食卓につらなる光栄に浴したが、なにも食べることはできなかった。あちこちから質問が殺到して、応接にいとまなく、物を食べるどころではなかったのだ。ちょうどギリシャ司教ブルガリが隣の席にいたので、話のなかでデルディモプロ司祭の託宣を笑い物にして申し訳ないと詫びた。しかし、司教はそれは大昔からのまやかしで、どうもおさえかねるのだと答えた。
デザートになると、F夫人が将軍の耳になにかささやいた。将軍はそれをすなおにきいていたが、やがてあるトルコ人の細君とのことや、べつのトルコ人の家でゆあみの場を見たことなど、コンスタンチノープルで見聞したことを話せといった。私はこの注文に驚いて、それは若げのあやまちで、お耳に入れる値うちなどございませんと答えた。彼はそれ以上強要しなかったが、F夫人の軽率さには驚いてしまった。なにもふたりだけでどんな話をしたかを、ケルキラじゅうの人に知らせる必要はなかったのだ。私は彼女の人柄よりも名誉を大切に思っていたので、それをあやうくするようなことは、どうしてもできなかった。
二、三日して、彼女とテラスでふたりきりになったとき、
「なぜ将軍さまにコンスタンチノープルのことをお話しにならなかったの」と、彼女がきいた。
「ああいうアヴァンチュールの話を奥さまがおゆるしになったことを、世間の人に知られたくなかったからです。内々でお話したことでも、人さまの前では申しあげられないことがあります、奥さま」
「どうしてですの? もしもそれがわたくしにたいする気兼ねからでしたら、反対に、人さまとごいっしょのときよりもひとりでいるときのほうが、よけいに気兼ねをしてくださるべきではありませんか」
「奥さまのおなぐさみにと思ってお話したことでしたが、かえってお気にさわったようですね。これからはもうああいうお話はいたしません」
「あなたのお気持を穿鑿《せんさく》するつもりはありませんが、わたくしに気に入られようとして、かえって気にさわるようなことをなさるのはまちがっていると思いますわ。今夜わたしどもは将軍のお邸の晩餐会へまいりますが、将軍はD・Rさんにあなたをお連れするようにおっしゃいました。きっとあのふたつのお話をききたいとおっしゃるでしょう。そうしたらもう逃げるわけにまいりませんよ」
D・R氏が彼女を迎えにきて、三人いっしょに出かけた。その途中で、私は考えた。テラスでの話では、彼女は私をやっつけようとしたが、私は運命が彼女を引きよせてくれたのを喜んだ。言い訳をさせようとして、かえって情のからんだ告白をうけることになったのである。
総督閣下はまずコンスタンチノープルからの至急便のなかにあった私宛ての手紙を手ずから渡してくれた。それをポケットへしまいこもうとすると、わしはめずらしい話が好きだから、それをここで読んでみろといった。手紙はユズフから来たもので、ボンヌヴァル氏が死んだという悲しい知らせであった。ユズフ氏の名前を聞くと、将軍はそのユズフとかいう人の細君と語りあったことを話してほしいといいだした。そこで、もうのがれられなくなり、一時間にわたって、ある物語をし、一座の人々を楽しませたが、それは即興のつくり話であった。この天から降ってきたような話はわが友ユズフにもF夫人にもまた私の性格にも、なんら累をおよぼさなかった。それは感情のこまやかなところを披露して、おおいに私の名誉を高めてくれた。私はF夫人を横目でみて、夫人がいささかあっけにとられながらも、たいへんご満悦らしいようすだったので、大きな喜びを感じた。
[恋の話は恋を育てる]
その晩、いっしょに彼女の邸へもどったとき、彼女はD・R氏の前で、この人の話したユズフの奥さんとの物語はみんなつくりごとだが、たいへん美しい話だったので、おこるわけにもいかない。けれども、わたしの頼んだとおりに話してくれなかったのは事実だといった。そして、言葉をついで、
「物語をありのままに話すと、きわどい話でわたしを楽しませたようにみなさんから思われるとおっしゃるのですよ」と、D・R氏にいって、それから私に向かい、「わたしとふたりきりのときにお話しになったのと同じ言葉で、あの出会いのことを話してくださいません。どう、おできになって?」
「ええ、奥さま、もちろんできますし、ぜひお話しさせていただきます」
まだ女というものをよく知らなかったので、彼女のみだらがましさが例のないことのように思われて腹がたち、私は意を決して、やけのやんぱちという勢いでしゃべりだした。そして、例の出来事を残らず話し、あのギリシャ女の美貌を見て、愛の焔が心に目ざめさせた衝動を細大もらさず絵描きのようにえがきだした。
すると、D・R氏が夫人にきいた。
「では、奥さんはこの人が大勢の前で、いまの話をそのまま話さなければいけないと思うのですか」
「大勢の人の前で話すのがわるいなら、わたしの前で話したのもわるいではございませんか」
「わるいかわるくないか判断するのは、あなたのごかってです。あなたはそれでごきげんをそこねたのですか。しかし、わしはいま話したようなことを大勢の前で話されたら、きっと不愉快になっただろうといえますね」
すると、彼女は、「わかりましたわ。では、これからは、わたしとふたりきりのときにも、五十人の人の前で話すようなことしか話さないでちょうだいね」
「かしこまりました、奥さま。かならずそういたします」
D・R氏が口をだして、
「だがね、わかりきっているよ、奥さんは気が向くと、いまの命令を自分からかってに取り消すにちがいないよ」
私は腹がたったが、それを表にも出さず、十五分ばかりすると別れを告げた。彼女の根性が底の底までわかった。そして、さまざまのひどい試練をくわえられるのだろうと予測した。しかし、私の愛は勝利を約束し、希望を捨てるなと命じた。それで、私は薔薇の花をつみとるまでいばらとたたかおうと勇気をおこした。それはとにかく、私はD・R氏が私に嫉妬してはいず、彼女が嫉妬させようと水をむけても動じないことがわかった。このことは重要であった。
夫人からこういう命令を与えられてから数日後、一文なしでアンコーナの検疫所へはいった災難のことが話題になった。
「それでも、わたしはギリシャの女奴隷に惚《ほ》れこみましてね、あやうく検疫所の規則をやぶるところでした」
「それ、どういうこと?」
「けれども、奥さま、きょうは奥さまとふたりきりですから、先日のご命令を思いださなければなりません」
「では、みだらなお話ですの?」
「そうじゃありませんが、大勢の人の前で申しあげるわけにはいかない話なのです」
「いいわ! あの命令は取り消しますわ。D・Rさんのおっしゃったようにね」と、夫人は笑いながら答えた。「さあ、お話しなさいよ」
そこで、あのときのことを微に入り細をうがって話した。すると、彼女がじっと考えこんでしまったので、さらに災難を誇張してしゃべった。
「あなたそれを不幸だとおっしゃるの? 可哀そうなギリシャ娘のほうがよっぽど不幸じゃありませんか。その後、その人とは出会わなかったのですか」
「それはご勘弁ください。とてもお話できませんから」
「かまやしませんわ。そんな遠慮はばからしいことよ。さあ、残らず話しておしまいなさい。なにかうしろ暗いことでもなさったんでしょ?」
「うしろ暗いことだなんて、とんでもありませんよ。完璧とはいえませんでしたが、ほんとに楽しい思いをしたのですから」
「では、おっしゃいよ。ただし、言葉に気をつけて、そのものずばりでいわないことよ。それが肝心ですわ」
この新しい命令にしたがって、私は彼女の顔を見ずに、ベルリーノの前でギリシャ娘にしてやったことをこまかく話した。そのうちに返事が聞こえなくなったので、べつの話に転じた。私はこれで地盤はしっかり固まったが、じわじわといかなければならないと見てとった。なぜなら、彼女は若かったので、いままで自分より身分の低いものと結ばれたことがなかったにちがいないが、私など彼女の目には身分の低いふつりあいな相手の最たるものとうつっていたであろうからだ。
運命の女神はきわめて絶望的な場合にも私を庇護《ひご》してくれたが、こんども私を継母のように扱うことをのぞまず、その日のうちに、思いがけない奇妙な種類の恩恵を与えてくれた。彼女は中指を針でかなりひどく刺してしまった。そして、するどい悲鳴をあげてから、私に血をとめるように指を吸ってほしいと頼んだ。もしも読者に恋をした経験がおありなら、私がどんなにいそいで美しい手をつかみ、楽しい仕事をはたしたか、すぐおわかりになるであろう。いったい接吻とはなんであろうか。まごうかたなく、愛する人からなにかを吸いとろうとする欲望のあらわれにほかならない。私がその美しい傷口から吸った血は熱愛する人の一部分ではないだろうか。手当が終わると、彼女は私に礼をいい、吸った血をハンケチに吐きだすようにすすめた。
「いや、奥さま、のみこんでしまいましたよ。どんなに喜んでのみこんだか、神さまだけがご存じです」
「まあ! わたしの血を喜んでのみこんだのですって! それなら、あなたは人食い人種でいらっしゃるの?」
「そうは思いません。奥さま、しかし、一滴でもむだにしましたら、奥さまに失礼にあたると思ったのです」
[謝肉祭の芝居の興行]
ある日の宴会に大勢の客が集まったとき、間近かにせまった謝肉祭の楽しみが話題になったが、どうも芝居が見られそうにもないと人々が残念がった。芝居が見たければ、一刻もぐずぐずしているひまはなかった。そこで、私はオトラントへ行って芸人の一座を雇ってこようと提案した。ただし、桟敷《さじき》を全部買いとってもらうことと、ファラオの賭博で私に銀行を独占させることを条件とした。人々は双手をあげて賛成した。総督閣下はフェラッカ船を一艘提供してくれた。私は三日間ですべての桟敷を売り、平土間は一週に二日ずつ私が使う以外を、全部あるユダヤ人に売った。
その年は謝肉祭が非常に長かったので、たっぷりもうけられそうであった。よく世間では興行師の仕事はむずかしいという。だが、たとえそうだとしても私にはそんな経験がなかったし、私の見るところでは反対のことを主張したい。
私は日の暮れ方にケルキラ島を出帆し、翌日夜明けにオトラントへ着いた。追い風にのっていったので、漕ぎ手は櫂《かい》をぬらすこともなかった。ケルキラ島からオトラントまではざっと十四、五里(約六○キロ)しかない。
イタリアでは近東から来たものにたいしてつねに検疫をおこなう規則だったので、私は上陸することは考えず、面接室へおりていった。そこには二トワーズ(四メートル)の間隔をおいて二本の横木が渡してあり、その両側で向かいあって話すことになっていた。
私がケルキラ島へ連れていくために芸人の一座をつのりにきたとわかると、まもなく当時オトラントにいたふたつの劇団の座頭が面会をもとめてきた。私はとりあえず、芸人たちをゆっくり見せてもらいたいが、ひとつの劇団を見てから次の劇団を見ることにするといった。
すると、ふたりの座頭のあいだに争いがおこったが、それがひどく奇妙で滑稽だった。ふたりとも座員を見せる順番をあとのほうにしたいとせりあったのである。港の役人は、この口争いをやめさせ、どちらの劇団をさきに見るかは、あなたの考えできめたらいいと私にいった。劇団のひとつはナポリ、他はシチリアであった。そこで、私はどちらも知らなかったので、まずナポリの一座を見るといった。その座頭のドン・ファスティディオはすっかりしょげたが、反対にシチリアのドン・バッティパリアは上きげんで、比較の結果に確信をもち、自分の一座がえらばれると思いこんだ。一時間ののちに、ファスティディオが座員を連れてやってきた。
だが、その一座にペトロニオと妹のマリーナがはいっているのを見て、少なからず驚いた。マリーナはずっと大きくなっていたが、私を見ると、大声をあげて横木をとびこえ、私の腕のなかにとびこんできた。そのとき、ドン・ファスティディオと港の役人のあいだに大騒ぎがもちあがった。マリーナはドン・ファスティディオに雇われていたが、港の役人は私に彼女を検疫所へ送り、所定の期間のあいだ自費ですごさせるべきだと強要した。娘は可哀そうに泣きだしてしまった。しかし、私は彼女の軽率な振舞いをどうしてつぐなったらいいかわからなかった。
そこで、ドン・ファスティディオに一座の芸人をひとりずつ見せろと命じ、ひとまず騒ぎを中断させた。ペトロニオもそのひとりで、恋人役をつとめていた。彼は私に宛てたテレザの手紙を持っているといった。ヴェネチア人で旧知の男がパンタロンの役をしていた。ほかに三人、ちょっと踏める女優がおり、ポリシネル、スカラムッシュその他もみんな受けそうだった。〔パンタロン、ポリシネル、スカラムッシュは即興仮面喜劇でもっともよく知られた三つの役柄。パンタロンは老人だがまだ頑健でぬけめのない商人、ポリシネルはナポリの滑稽な侍僕で強欲で無分別、スカラムッシュはナポリの船長で法螺吹きの臆病者〕
私はファスティディオに一日にいくら要求するか手短にいってくれ、もしもドン・バッティパリアがもっと安い値で引き受けたら、そのほうにきめるといった。
彼は二十人の座員に六つの部屋をあてがい、自分には自由につかえるサロンをひとつ願いたい。ベッドは十台、旅費はいっさい旦那もちで、日当はナポリ金貨で三十デュカというところではいかがでしょうといった。彼はこういいながら、一座が演出できる喜劇の上演目録をしるしたノートを出し、外題《げだい》の選択はすべて旦那のご命令にしたがいますといった。
そこで、私はもしもファスティディオの一座を連れていかなかったら、検疫所へ罐詰にならなければならないマリーナのことを考え、契約書をつくれ、すぐ出発するからといった。
だが、こういうとすぐ、滑稽な場面がえらばれた座頭とはずされた座頭のあいだにおこった。ドン・バッティパリアがマリーナを売女《ばいた》とののしり、旦那に色仕掛けで選ばせるために、ドン・ファスティディオと腹をあわせて、わしを蹴落としやがったとわめきたてた。
そこで、ペトロニオとドン・ファスティディオは彼を外へ引きずり出し、拳骨でなぐりあった。
それから十五分後に、ペトロニオはテレザの手紙を私に渡した。テレザは公爵を破産させて大金持になったが、いつまでも私に操をたてて、ナポリで待っているということであった。
夕方、すっかり用意ができたので、二十人の芸人と六つの大きな箱を積み込んで、オトラントから出帆した。箱には芸人たちが芝居をやるのに必要なものがいっぱい詰まっていた。出帆のときには南の微風が吹いていたので、十時間でケルキラ島へ着けると目算をたてた。ところが、一時間ばかり走ると、船長は月の光の下に一艘のギリシャ船が見えるが、あれが海賊だったら、なにもかもうばわれてしまうといった。私は危険な目にあいたくなかったので、帆をおろさせてオトラントへもどった。そして、夜明けに出なおした。おりよく西風が吹いていて、ケルキラ島へ行くのに都合よかったが、二時間もすると、船長が二本マストの帆船が見えるが、あれは海賊船にちがいない、いつもこっちの船を風下へおこうとしているからといった。私は船を風下に向け、右舷へまわして、あの船がついてくるかどうか見てみろといった。船長はいわれたとおりに右へまがったが、船はやはりついてきた。しかし、いまとなってはオトラントへもどることもできず、さりとてアフリカへ行くわけにもいかないので、櫂で漕がせて、いちばん近いカラブリアの海岸へつけさせた。
芸人たちは、水夫たちの恐怖が伝わって、わめいたり泣いたり、思い思いの聖者に必死になって救いをもとめた。だが、神に祈るものはひとりもなかった。スカラムッシュやまじめくさったドン・ファスティディオの渋面《じゅうめん》は、危険がさしせまっていなかったら、私をおおいに笑わせただろう。
マリーナだけは危険も知らずに大はしゃぎで、みんなの恐怖をひやかしていた。
夕方、強い南風が起こったので、風を船尾へ受けるようにして、風がもっとつよくなっても、そのままつっぱしれと命じた。そして、海賊船からのがれるために、湾を横断することにした。こうしてひと晩走ったあげく、あとは櫂で漕がせることにした。ちょうどケルキラまで八十マイルの地点で、湾の中央であった。日のおちるころには、水夫たちはもう漕ぐ力が失せてしまったが、私はもはやなにもおそれなかった。
おりしも北風が吹きだし、一時間とたたないうちに、烈風となったので、帆をいっぱいふくらませて、おそろしい勢いで走った。船はいつなんどき海へつっこむかわからなかった。私は自分で舵棒をにぎった。騒ぐものは殺すといったので、だれも彼も口をつぐんでいたが、スカラムッシュのすすり泣きだけが、妙に滑稽に聞こえた。風はむらがないし、舵手がしっかり舵棒をにぎっていたので、私は安心しきっていた。夜明けにケルキラ島が見えてきた。そして、九時に平常は鎖でとざされている港に到着した。人々はわれわれがそんなところへ船をつけたのを見て驚いていた。
一座が船からおりると、すべての若い士官がさっそく女優たちを見にきた。しかし、マリーナを除いて、どれもみな不器量だと思われた。私はマリーナにきみの恋人になるわけにはいかないとことわったが、彼女は不服もいわずに承知した。そのうちにはきっと恋人を手に入れると私は信じていた。女優たちは、素顔ではいっこう伊達男たちから認められなかったが、舞台姿はおおいに人気を博した。パンタロンの細君がいちばんもてはやされた。
戦艦の艦長のデュオド氏が彼女の楽屋を訪れたが、亭主が野暮だったので、ステッキで艦長をなぐりつけた。その翌日、ファスティディオが来て、パンタロンも細君ももう舞台へはのぼらないといっていると告げた。
私は一回の興行の上《あが》りをやって、ごきげんをとった。
パンタロンの細君は非常に喝采されたが、その喝采のあいだに観衆が「ブラボー、デュオド!」と半畳《はんじょう》を入れるので、侮辱されたと思い、将軍の桟敷へ泣き言をいいに来た。私はほとんどいつも将軍の桟敷にいたが、将軍は彼女をなだめるために、謝肉祭の終りにもうひと興行分あげさせるようにするといった。私も余儀なく承知した。そればかりか、ほかの芸人たちの不平をなだめるために、自分の分としてとっておいた十七興行のあがりを全部やってしまう仕儀にたちいたった。兄といっしょに踊ったマリーナにもやったが、それはF夫人の口ぞえであった。彼女はマリーナがカツェッティの所有する郊外の小さな家でD・R氏と朝食をともにしたことを知ってから、彼女の擁護者になると公言していたのであった。
私はこういうふうに気前よくやったので、少なくとも四百ゼッキーニすってしまった。しかし、ファラオの博打のほうは、ひまがなかったので、一度も親をやらなかったが、千ゼッキーニ以上のもうけがあった。私がおおいに評判をよくしたのは、女優のだれとも全然情事を起こさなかったためであった。F夫人もあなたがそれほど堅気だとは思わなかったとほめてくれた。しかし、謝肉祭のあいだは、芝居のほうがいそがしくて、恋を考える余裕がなかったのだ。
まじめに恋の糸をたぐりはじめたのは、芸人たちが出発して、四旬節がはじまってからであった。
[いさかいと仲直り]
ある朝、F夫人から呼びに来た。十一時であった。私はすぐに駆けつけて、どういうご用かときいた。
「あんなに気持よく貸してくださった二百ゼッキーニをお返ししようと思ったのですよ。さあ、お受け取りください。そして、証文をお返しくださいな」
「奥さま、あなたの証文はもうわたしの自由にならないのです。厳重に封をして、公証人***さんのところにあずけてありますが、この領収書のただし書によりまして、封筒は奥さまご自身にしかお渡しできないことになっております」
彼女は領収書を見て、どうして自分で保管しておかなかったのかときいた。
「人に盗まれたり、なくしたりするのを心配したのです。また、わたしが死んだり、事故が起こったりする場合もあると思いましてね」
「そのお心づかいはほんとにありがたいですわ。けれども、公証人からご自分で受け取る権利を保留しておくべきだったように思われますが」
「ところが、わたしには自分で受け取る必要が起こるなんて考えられなかったのです」
「でも、そういう場合はすぐに起こることではありませんか。それでは、公証人のところへ使いをやって、ここへ自分で持ってくるようにいってもいいのですね」
「そうです、奥さま」
彼女は副官を使いにやった。公証人があずかった封筒を自分で持ってきた。
封を切ると、一枚の紙が出てきたが、それには彼女の名前しか見えず、ほかの部分は抹殺するまえに書いてあった文字がとうてい判読できないほどまっ黒にインクで塗りつぶされていた。
「こういうなさり方は、ほんとに気高く奥ゆかしいお心づかいですわ。けれども、わたくしの名前は残っているものの、これがわたくしの証文だとは、とても信じられないではありませんか」
「おっしゃるとおりです。奥さまが信じられないとお思いになるのも、ひとえに、わたしが悪かったのでございます」
「そりゃ、もちろん信じますわよ。信じなければなりませんものね。しかし、わたくしにもこれが自分の証文だと断言できないことは、お認めくださいね」
「はい、認めます、奥さま」
その後、彼女はあらゆる機会をとらえて、私にいやがらせをするようになった。訪ねていっても、ふだん着のままで会ってくれず、女中に着がえをさせるのを待ちくたびれなければならなかった。
おもしろいことをいっても、なにがおもしろいのかわからぬふりをした。しかも、私がしゃべっているとき、全然私のほうを見てくれず、そのために話がうまくいえなかった。また、D・R氏が私のいったことに笑いだすと、どんな話かと聞きかえし、やむなくくりかえしてやると、つまらないという顔をした。腕輪がはずれると、それを直すのは私の役だったが、全然私にはさせずに、わざわざ侍女を呼んだ。あなたにはバネがわからないからというのだった。彼女のこうした仕打ちが私をふきげんにしたことは、だれの目にもあきらかだったが、彼女は気のつかないふりをした。D・R氏が愉快なことをしゃべらせようと水をむけても、とっさに話のできないことがあったが、そんなとき、彼女は笑いだして、この人、あまりしゃべりすぎて袋がからっぽになり、すっかり種ぎれになっちゃったのよといった。私は腹をたて、すっかり沈黙してしまった。それは私も認める。しかし、すっかり意気消沈してしまった。というのも、彼女の気分がこんなに変わったのはなぜなのか、見当もつかなかったからだ。原因が私にあるとはどうしても思われなかった。そこで、なんとか腹いせをしてやろうと考え、公然と軽蔑のしるしを与えようと、日夜心をくだいたが、いざとなると、考えたことを実行できなかった。それで、ひとりになると、よく泣いた。
ある晩、D・R氏がきみはいままでに何度も熱烈な恋をしたことがあるのだろうときいた。
「三度あります、閣下」
「いつも上首尾だったんだろうね」
「いや、いつも不首尾でした。最初のは、うまくいくかもしれませんでしたが、司祭だったので、気持を表にあらわせませんでした。二度目はどたん場のところで事件が起こって、愛する女から引きはなされてしまいました。三度目は相手のためを思ってやったことが、私を幸福にしてくれるどころか、逆に私の熱をさまそうと、その人を躍起にさせてしまいました」
「その女はきみの熱をさますのに、どんな手をつかったんだい」
「愛想よくしてくれなくなったのです」
「わかった。そっけなくしたんだな。それで、きみはためを思ってしてやったのが悪かったと思っているのだな。それは思いちがいだよ」
「そうですわ」と、F夫人が口をだして、
「女というものは、愛している人に憐れみをかけるものですわ。ですから、熱をさまそうとして不幸な目にあわせるなんてことありませんわ。そんな人ははじめから愛していなかったのですわ」
「わたしには、そうは思われません、奥さま」
「あなたは熱がおさめになって?」
「すっかりさめました。その人のことを思いだしても、全然平気になりましたからね。しかし、回復には、長くかかりました」
「たぶん、ほかの人に気持がうつるまでかかったのでしょうね」
「ほかの人に? さっきこの三度目のが最後の恋だと申しあげたのですが、お耳にはいらなかったのですか」
三、四日ののち、食卓から立つと、D・R氏から、F夫人が気分がすぐれず、ひとりぼっちでいるが、わしは用事があって相手をしに行けぬから、きみ、行ってやってくれ、きっと喜ぶからという話だった。私はすぐに行って、D・R氏の言葉をそのまま伝え、見舞いをいった。彼女は長椅子の上にねていたが、私のほうは見ずに、熱があるらしいが、あなたは退屈するにきまっているから、お引きとめはしないと答えた。
「奥さまのおそばで退屈するなんて、とんでもありません。それに、奥さまからどうしても帰れとおっしゃられないかぎり、帰れませんし、たとえそういうご命令が出ても、お次の間で四時間ばかりすごさせていただきます。D・Rさんからわしの行くまで待っておれといわれておりますから」
「それでは、よろしかったら、おかけになっていてください」
こういうそっけない言葉に内心憤慨したが、私は彼女を愛していた。いままであんなに美しいと思ったことがない。病気で顔がほてって、まるで輝くばかりであった。私は彫像のように黙りこくって身動きもせず、十五分ばかりそばについていた。彼女はレモネードをコップに半分ばかり飲むと、私にちょっと席をはずしてほしいといって、侍女を呼んだ。それから、また呼ばれていくと、ようやく、いままでの快活さはどこへいってしまったのかときいた。
「わたしの快活さは、奥さま、どこかへ行ってしまいましたが、それも奥さまのご命令によるように思われます。どうぞ呼びかえしてください。喜んでおん前へ駆けもどってくるにちがいありません」
「どうしたら呼びかえせますの?」
「わたしがカゾポからもどってきたときと同じようになさってくださればよろしいのです。四月まえから私は奥さまにきらわれておりますが、どういうわけなのかわからず、悲嘆にくれております」
「わたくしはいつも同じですよ。どういうところが変わったとお思いになるのです」
「いやはや! お人柄はべつにして、なにからなにまでですよ。それで、わたしは決心しました」
「どんな決心ですの」
「黙って苦しむこと。奥さまへの尊敬をけっして減らさないこと、あくまでわたしの絶対的服従を奥さまに納得していただくように努力すること、わたしの熱意の新たなしるしをお目にかける機会をとらえるために、つねに注意をおこたらないことです」
「それはありがとう。けれども、あなたがわたくしのために黙って苦しむって、どういうわけだかわかりませんわ。わたくしはあなたに興味をもっていますし、いつもあなたの物語を喜んでうかがっていますわ。たとえば、先日お話しになった三つの恋愛だって、とてもおもしろく思ったのですもの」
そこで、ごきげんをとりむすぶ必要上、三つの小さなロマンスをでっちあげ、申し分のない心の綾《あや》と愛の熱意を見せつけた。しかし、ぬれ場の話は、彼女がそれを期待していると見てとると、逆にするりと身をかわして、全然口にしなかった。
「繊細な心づかいや、尊敬の念や、貞節の義務などは、いつも享楽の障害になるものです。しかし、真の恋人はそういう障害にさまたげられても、幸福を謳歌《おうか》できるものです」と、私はいった。彼女は私の伏せている事柄をありのままに想像するらしかったが、私の思慮とつつしみは彼女を喜ばせたと見てとった。彼女の人となりはよくわかっていたから、決心をさせるには、これよりほかにきめ手はないと思ったのである。彼女は私の愛した三番目の女について、いろいろ考えをのべた。それは彼女が私にたいしていだいた憐れみの情の結果で、私の悩みをいやそうとしはじめた。嬉しいきわみだったが、なにも気のつかないふりをしていた。
「その人がほんとにあなたを愛しているなら、あなたの恋をさまさせようとしたのではなく、自分の気持をさまさせようとしたのかもしれませんわ」と、彼女はいった。
[恋と義理との板挾み]
こうした仲直りの翌日、F氏は副官が重い病気なので、そのかわりに私をブトリントまで行かせてほしいと、D・R氏に頼んだ。往復三日間の予定だった。
ブトリントはケルキラ島の対岸七マイルの距離にある、いちばん近い陸地である。要塞ではなく、エピロスの一村落で、現在はアルバニアと呼ばれ、ヴェネチア共和国に所属している。≪権利を粗略にするは、これを放棄するにひとし≫という政治上の公理によって、ヴェネチア政府は毎年四艘のガリー船を送り、漕刑囚を船からおろして材木を切らせ、それを船に積んでケルキラ島へ運んだ。正規軍の一分団が四艘のガリー船の護衛にあたり、同時に囚人たちの監視をした。彼らは監視していないと容易に脱走し、トルコ人になってしまうのである。F氏はこのガリー船の一艘の指揮官で、副官を必要としたために、私のことを考えたのである。
私はF氏のフェラッカ船に乗って二時間で到着した。もう材木の伐採は終わっていた。あとの二日で積込みを終わり、四日目にケルキラ島へもどった。そして、F氏に挨拶をしてD・R氏のもとに帰った。D・R氏はひとりでテラスに立っていた。聖なる金曜日であった。閣下は平常よりもずっと物思わしげに見えたが、次のようなことをいった。それは容易に忘れがたいことであった。
「F氏の副官がゆうべ死んだ。後釜《あとがま》の副官が見つかるまで、どうしてもひとり必要なので、彼はきみのことを考えたのさ。そして、けさ、きみをゆずってほしいと頼みにきた。わしはわしの一存できみをどうすることもできんから、きみに直接話をするようにといった。だが、もしもきみがわしに許可をもとめたら、わしにはべつに異存はない。わしとしては副官はふたりいてもらいたいのだがとな。F氏はけさきみになにかいわなかったかね」
「なにもおっしゃいませんでした。あの人のガリー船に乗ってブトリントへ行ったお礼をおっしゃっただけです」
「それでは、きょう話すだろう。で、きみはどういう返事をするつもりだね」
「もちろん閣下のご命令がなければ、おそばをはなれません」
「そんな命令はださんよ。それでは、行かずにいるがいい」
そのとき、歩哨が二度たたいて、F氏が夫人といっしょにはいってきた。私は三人を残してその場をはずした。それから十五分後に呼びだされた。F氏が信頼しきった声でいった。
「カザノヴァ、きみはわしの副官として、喜んでわしの家へ住みにきてくれるだろうね」
「では、閣下はわたしにおひまをくださるのですか」
「そんなことはない。きみの自由にまかせるよ」と、D・R氏がいった。
「それなら、わたしは恩知らずになりたくありません」
私はひどく途方にくれ、つらい立場にたたされた困惑を隠そうともしなかった。じっと床を見つめ、目をあげて夫人の目を見るくらいなら、目玉をぬいてしまったほうがいいとさえ思った。夫人は私の心を見ぬいているにちがいない。彼女の夫はしばらくたって冷ややかに、わしのところへ来ると、副官はひとりきりだから、仕事もふえるだろうし、ガリー艦隊の司令長官に仕えるほうが、一艦長のもとで働くよりもずっと名誉だからといった。
F夫人は心得顔で、
「カザノヴァさんのお考えはもっともだわ」といった。 やがて、話がほかのことに移った。私は次の間へ行って、肘掛椅子に身を投げ、この問題をよく考え、はっきり見きわめようとした。
F氏がD・R氏に私を割愛してほしいと頼んだのは、あらかじめ夫人の同意を得たにちがいない。あるいは夫人からけしかけられたのかもしれないと思った。それはおおいに私の情念を喜ばせた。しかし、義理としてもD・R氏の意にかなうことをたしかめなければ、F氏の提案を受け入れるわけにいかなかった。だからD・R氏が率直にF氏のところへ行け、そうしたらわしも満足だといったら承知することにしよう。D・R氏にこういわせるのは、F氏の仕事だ。
その夜、イエス・キリストが十字架上で死んだのを記念して、すべての貴族が徒歩で大行列をおこなった。そのさい、私はF夫人に腕を貸す名誉に浴したが、夫人はひとことも口をきいてくれなかった。私の恋心は絶望して、その夜はベッドへはいっても一睡もできずにすごした。私の拒絶を夫人が軽蔑のしるしととりはしまいかと気になり、そう考えると、胸を刺される思いであった。翌日は食事をとることができず、晩の会合でもひとことも物をいわなかった。そして、悪寒《おかん》をおぼえながらベッドにはいったが、やがて熱が出てきて、復活祭には一日じゅう床についていた。翌月曜日も非常に身体が弱っていたので、外へ出まいと思っていたが、F夫人の下男が来て、奥さまがお話ししたいそうだといった。私はその下男に私がねていたとはいうな、一時間後にはおうかがいすると伝えろと命じた。
そして、死人のようなまっさおな顔で彼女の部屋へはいっていった。夫人は侍女となにか捜していた。私がげっそりしているのを見ながら、どうしたのだともきかなかった。侍女が出ていくと、はじめて私のほうを見、なぜ私を呼んだのか思いだそうと、一瞬考えているようすだった。
「ああ、そうだったわ。わたしのところの副官が死んだので、代りをさがさなければならなくなっていることはご存じでしたわね。宅はあなたのことが好きなので、D・Rさんはあなたのおぼしめしどおりになさるだろうと思い、わたしからあなたにお願いしてみたらどうだといいますの。それは宅の思いちがいだったでしょうか。来てくださったら、あの部屋へおはいりいただきますのよ」
彼女はそういって、窓から自分の寝室と隣りあった部屋の窓を指さした。その部屋は鉤《かぎ》の手にまがって側面が見えていた。だから、彼女の部屋の内部は窓へ行かなくても全部見えた。彼女は私が返事をためらっているのを見て、D・R氏は従前どおりあなたをかわいがってくださるだろうし、毎日ここで会えるのだから、あなたのことは忘れないだろうといった。
「さあ、ご返事をなさいよ。いらっしゃるの、いらっしゃらないの」
「奥さま、わたしには返事ができないのです」
「ご返事ができないんですって。それは変だわね。まあ、おかけなさいな。ここへいらっしゃれば、D・Rさんもきっとお喜びになるのに、どうしてご返事ができないのです」
「もしそれがたしかなら、一瞬もためらいなんかしません。D・Rさんのお口からうかがったのは、わたしの好きなようにしろということだけなのです」
「では、わたしどものところへ来ると、あの人からわるく思われると心配していらっしゃるのね」
「そうかもしれません」
「わたしにはそうは思われませんがね」
「では、あの方からじかにそういってくださるようにしてください」
「そうしたら、来てくださるのね」
「そりゃ、もちろんですよ」
このさけび声は少し度をすごしたらしいので、彼女が顔をあからめはしまいかと気がつき、すぐに目をそらした。彼女はミサへ行くためにケープをもってこさせた。そして、階段をおりながら、はじめて、素肌の腕を私の腕にもたせかけた。手袋をはめながら、あなたは手が燃えるようだが、熱があるのかときいた。
教会から出ると、偶然出会ったD・R氏の馬車へ彼女を乗せるために手をかした。そしてすぐに、部屋へ帰った。自由に息をつき、思いきり心の喜びにひたりたかった。ようやくF夫人の行動が私を愛していることをはっきりしめしてくれたからだ。そして、D・R氏はきっと彼女の家へ住みに行けと命令するにちがいないと思った。
[F氏の副官となる]
恋とはいったいなんだろう。私は賢者といわれる人々が恋の性質について書いたものをすべて読み、年をとるにつれていろいろ考えてみたが、恋がとるに足らぬむなしい瑣事《さじ》だとはどうしても認められない。それは哲学も手をくだすことのできない一種の狂気であり、年齢の上下を問わず男のかかる病気である。しかも、老境にはいってからこの病気にかかると、とうてい治療する道がない。定義しがたい恋よ! 本能の神よ! 恋はそれより甘いもののない苦味《にがみ》であり、それより苦いもののない甘味だ。逆説によってしか定義できない崇高な怪物だ。この怪物は人生に無数の苦悩をまきちらすが、また同時に多くの快楽をもめぐむ。恋がなければ、存在と虚無とが結合し混同してしまうであろう。
F夫人との短い会話の翌日、D・R氏からF氏の部下として、ガリー船へ乗りこみ、ゴヴィノへ行ってこいという命令が出た。そこには四、五日滞在する予定であった。私はいそいで荷物をつくり、F氏のところへとんでいって、ご命令のもとで働くのはたいへん嬉しいと挨拶した。彼も喜ばしいことだと答えた。夫人がまだ眠っていたので、われわれは会わずに出発した。
五日後に、ケルキラへ帰ってきた。そして、ほかになにか命令があるかきいたら、すぐにD・R氏のところへもどろうと考えながら、F氏の部屋へついていった。しかし、そこへD・R氏が長靴姿ではいってきて、F氏に「お帰り」と挨拶してから、私が気に入ったかときいた。それから私に同じ質問をし、ふたりとも気があっているのだから、このままここに住んでくれればわしも嬉しいと私にいった。私はすぐに承諾したが、謹厳な服従の態度をしめしながらも、喜びの気持をかくすことができなかった。F氏はすぐに私の部屋へ連れていった。夫人が見せたのと同じ部屋であった。そこで、一時間たらずのうちに小さな荷物を運ばせ、夕方会合へ出た。F夫人は私がはいっていくのを見ると、いよいよ来てくださるそうで、とても嬉しいわと大声でいった。私はふかく頭をさげた。
こういうわけで、火のなかに住むという|火とかげ《サラマンドル》のように、かねて熱望していた猛火のなかへとびこんだ。朝起きるとすぐムシュのご用をうかがい、マダムのご命令を待ち、不平がましいようすも見せず心をこめて勤務にいそしみ、しばしばマダムと差向いで食事をし、D・R氏が行けないときには、どこへでもマダムのお供をし、いつも彼女のそばで暮らし、ものを書くときにも彼女の目のもとにあり、彼女もつねに私の目のもとにあった。
新しい住居にうつってから、こうして三週間が流れ去ったが、胸の焔をしずめる機会は全然なかった。私は希望を失うまいとしていろいろ自分にいいきかせたが、結論は彼女の愛がまだ誇りをおしふせるほど強くなっていないのだということであった。そこでいつか好機が訪れるものと期待し、じっと待っていた。愛の対象への関心を弱めて、相手をおとしめるようなことはしまいと決心し、ひたすら機会のあらわれるのを待っていた。運命の女神が前髪につけている毛をつかむことのできぬ恋人は破滅だ。
おもしろくなかったのは、夫人が人前ではちやほやしてくれるのに、ふたりだけになると妙に固くるしくなることだった。私はその反対を希望した。みんなは私を幸福だと信じこんでいたが、私の恋はプラトニックなものでしかなかったので、得意になるわけにいかなかった。
ある日、ふたりだけのときに、彼女がいった。
「あなたには何人も敵がおありになるのね。けれども、ゆうべ、あなたの味方をして、みんな黙らせてやりましたわ」
「あれらはねたんでいるのですよ。奥さま。しかし、ほんとのことを知ったら、むしろ私をあわれむでしょう。そうしたら、奥さまもわけなくわたしをあれらから解放してくださることができるのですがね」
「どうしてあの人たちがあなたをあわれみ、わたしがあなたを解放できるのですか」
「わたしが苦しみ悩んでいることがわかれば、あわれんでくれますよ。だから、人前で私を冷たくあしらってくださったら、あれらから解放されるのです」
「では、わたしの冷たい待遇よりも意地わるな連中の憎しみのほうがこわいのですか」
「そうです、奥さま。ただし表向きの冷たい待遇を、内々でのご親切で埋め合わせていただければの話です。と申しますのも、わたしはあなたにお仕えするのを幸福に思ってはおりますが、自惚《うぬぼ》れた気持など毛頭ないからでございます。人があわれんでくれれば、それが彼らの思い違いであるかぎり、私は満足なのです」
「わたし、そんな役目はできませんわ」
私はよく彼女の寝室からいちばん遠い窓のカーテンにかくれて、だれからも見られていないと安心しているときの彼女を見ようとした。彼女がベッドからおりるところを見たら、恋の空想のなかで彼女を享楽することもできるだろう。しかも、彼女は体面をけがさずに、私の胸の火をやわらげることになる。私がのぞいているのに気がつかないふりもできるのだから。だが、彼女はそういう恩恵を与えてくれなかった。窓のカーテンをあけさせるのも、私をもどかしがらせるためでしかなかった。ベッドでねている彼女をながめていると、侍女が服を着せにはいってくる。だが、侍女は夫人の姿を私の目からさえぎろうとするように、前へ立ちはだかってしまう。たまにベッドを出てから天気模様を見に窓へ来ることがあっても、私の部屋の窓のほうへ目を向けようともしない。たしかに私がのぞいているのを意識しているにちがいない。彼女は私を思っていると推量させる動作をして、はかない喜びを味わわせようとは、全然考えてくれなかった。
[仮病の功徳]
ある日、侍女が夫人の長い髪のさきの枝毛を切った。私は床におちた毛を残らず拾って化粧台にのせたが、気づかれはしまいと思って、ひとかたまりだけポケットへねじこんだ。しかし、侍女が出ていくとすぐ、彼女は声はやさしいが、少しけわしすぎる態度で、拾った髪の毛をポケットから出せといった。私はこんなことに目くじらをたてるのはひどい、そのような厳格さは不正で、残酷で、当を得ないと思った。そして、くやしさよりも腹だたしさでふるえながら、いわれるとおりにした。しかし、彼女は非常に傲慢《ごうまん》な態度で、髪の毛を化粧台の上へほうりなげながら、
「あなた、身のほどを忘れていらっしゃるのね」といった。
「とんでもない。こんな愚にもつかぬ盗みは見て見ぬふりをなさればよかったのですよ」
「そんなこといやですわ」
「わたしがあんなものを取ったのを見て、なにか腹黒いことでもたくらんでいるように疑うのですか」
「腹黒いことなんか考えやしないわ。けれど、わたくしにたいして持つことをゆるされない感情をお持ちだからですよ」
「その感情をわたしに禁じようとなさるなら、憎しみや軽蔑によるよりほかはありませんが、奥さまは人情のあついお方ですから、どちらの犠牲にもならないでしょう。奥さまはするどい才気しかお持ちにならない方です。しかし、人を好んで侮辱するところから察しますと、それはきっと意地のわるい才気にちがいありません。奥さまはわたしの秘密をあばきましたが、わたしはかえってあなたというお方がわかりました。私の気づいたことは、あなたがおみつけになったことよりもずっと有益です。おそらく、わたしは利口になるでしょう」
こういうふうにどなりちらすと、私は夫人の部屋を出た。だが、呼びもどされなかったので、自分の部屋へもどった。そして、ひと眠りしたら気持がしずまるかと思って、服をぬいで寝床にはいった。こういう場合には、恋する男は相手の女を卑劣で憎むべく軽蔑すべきもののように思うものだ。夕食に呼びに来たが、病気だといってことわった。どうしても眠れなかった。だが、どういうことになるのか、成行きを見たいと思って、昼食に呼ばれたときも、やはりぐあいがわるいといい張って、起きなかった。夜になると、嬉しいことに、ひどく苦しくなってきた。F氏が見に来たので、頭が非常に痛いが、よくあることなので、絶食さえしていればなおるといって追い払った。
十一時ごろ、夫人とD・R氏がはいってきた。
「お気の毒に、カザノヴァさん、どうなさったの」と、夫人がきいた。
「頭がひどく痛むのです、奥さま、だが、あしたになればなおりますよ」
「なぜあしたまでお待ちになるの。すぐになおさなければいけませんわ。スープと新鮮な卵をふたついいつけておきましたわ」
「なにもいりません、奥さま、絶食さえしていればなおるのです」
「そのとおりだ。わしもこの病気は知っている」と、D・R氏が言葉をそえた。
D・R氏が私のテーブルの上にかけてあるデッサンをながめているすきに、彼女はそんなことをしていると疲れきってしまうから、わたしの見ている前でスープを飲んでくれたら、とても嬉しいといった。私はあなたの前で身のほどをわきまえないことをしたものは死んでしまうほうがいいのだと答えた。すると、彼女は返事のかわりに私の手へ小さい包みをにぎらせ、D・R氏といっしょにデッサンを見に行った。
包みをあけると、髪の毛の匂いが鼻をついたので、いそいで夜具の下にかくした。が、われながらおそろしいくらい、頭に血がかっかとのぼってきた。そこで、つめたい水を求めた。夫人がD・R氏といっしょにもどってきて、ついさっきまで死人のようであった私が、まっ赤な顔をしているのを見て、あっけにとられた。彼女は私が飲もうとしていた水に、カルム水〔ヴェネチアの上流婦人がつかった流行の気つけ薬。薄荷水やレモンの皮のしぼり汁を主成分とする〕を少しまぜた。それを飲むと、胆汁のまじった水を吐いてしまったが、そのおかげか、すぐに気分がよくなって、食物を求めた。彼女は笑いだした。侍女がスープと新鮮な卵をふたつ持ってきた。私はそれをがつがつ食べ、いっしょに笑いだして、ついでに『パンドルフォ〔イタリア喜劇のおきまりの役柄〕』の話をした。D・R氏は奇跡でも見たような顔をしていたが、夫人の顔には愛情と憐憫《れんびん》と後悔の表情がはっきり見てとれた。D・R氏さえいなかったら、その瞬間、思いをとげて幸福になれたかもしれない。しかし、私はたんに延期されただけだと確信していた。とにかく、私は三十分ばかりきれいな話で彼らを楽しませたが、D・R氏はもしも吐くのを見ていなかったら、仮病だと思ったかもしれない。こんなに急に悲哀から快活へと移るのは見たことがないと夫人にいった。
「わたしの水がきいたんですわ。瓶はここへ置いておきましょう」と、夫人が私を見ながらいった。
「いいえ、奥さま、どうかお持ちになっていってください。奥さまがそばにいらっしゃらないと、この水もききませんから」
「わしもそう思うな。それでは、あなたを病人のそばへ残していくことにしよう」と、D・R氏がいった。
「いいえ、いいえ、この人は眠らせなければいけませんわ」
私はぐっすり眠った。だが、夢のなかでは、しじゅう彼女といっしょだった。濃艶な夢だった。現実もあれほどの歓喜を与えることはできなかったろう。恋の道のりがだいぶはかどったように思われた。三十四時間の絶食は彼女にあからさまに恋を語る権利を与えてくれた。髪の毛を贈ってくれたのは、私が熱烈な愛をささげつづけているのを、嬉しく思うことを語る以外の何物でもなかった。
[髪の毛入りのボンボン]
翌日、F氏に挨拶にいってから、夫人がまだ眠っていたので、侍女の部屋へ行って腰をおろした。夫人は目をさまして、私が侍女の部屋にいると知ると、笑いだし、その声が私を喜ばせた。そして、彼女の部屋へ呼ばれていくと、私に挨拶もいわせずに、あなたが元気になったのを見て嬉しい、わたしのかわりにD・Rさんのところへ朝の挨拶に行ってほしいといった。
美しい女は、目をさましたばかりのほうが、化粧をしたあとよりも百倍も美しい。これは恋人の目にそううつるばかりでなく、そういう場面を見ることができたものなら、だれでも同じ思いをするものだ。私に用たしを頼んだときの夫人は、神々しい顔からあふれる光を私の魂にそそぎかけたが、それは宇宙に光をみなぎらせる暁の太陽の光線と同じ速度であった。しかし、女は美しければ美しいほど化粧に憂き身をやつす。もてるものはさらに多くをのぞむのだ。私を出ていかせた夫人の命令のうちに、私は幸福が間近にせまった確証をみとめた。私をD・R氏の邸へやるのは、もしもふたりだけになったら、私が報酬を、少なくとも手付金をねだるかもしれぬが、彼女にはそれをこばむ力がないからだろうと、私はひとりごちた。
彼女から髪の毛をふんだんにもらったので、これをどうしたらよいか、わが恋する心に相談した。彼女は私のひろったわずかばかりの切れ端をとりあげた過失をつぐなうつもりで、組紐にできるくらい大量によこしてくれた。長さは一オーヌ半(二メートル弱)もあった。そこで、いろいろ考えたすえ、ジャムをつくっているユダヤ人のところへ行った。そこの娘は刺繍がじょうずだった。そして、緑のサテンの腕飾りにふたりの名前の四つの頭文字を髪の毛で刺繍するように教え、残りは長い組紐につくらせた。それは細い綱のような形になった。そして、片方の端に黒いリボンを、他の端にはふたつに折ったリボンを縫いつけ、そのあいだに黒いリボンを通せるようにした。まぎれもない絞首刑の綱だ。この恋が絶望におちいったら、それでわが首をしめようという趣向である。できあがった綱を首へじかにかけたが、四まわりあった。
さらに、少し残った髪の毛をよく切れる鋏《はさみ》で粉のようにこまかく切らせ、目のまえで、ジャム屋に竜涎香《りゅうぜんこう》、アンゼリカ、ヴァニラ、アルケルメス、安息香などの匂いをつけた砂糖のなかへねりこませた。そして、これらの原料でボンボンができあがるまで待っていたが、さらに、形や原料がまったく同じで、髪の毛のはいっていないのもつくらせ、髪の毛のはいったのはクリスタル・ガラスのきれいな箱に、他のものはブロンド色の鼈甲《べっこう》の箱に入れた。
髪の毛を贈られてからは、彼女の部屋ではつくり話をして時間をつぶすことをやめ、もっぱら情熱や欲望のことばかり話すようにした。そして、私を目の前から追い出すか、思いをとげさせるかしてもらいたいとせまった。だが、彼女は承知せず、義務をみだすのをつつしまなければ幸福にはなれないと答えた。私が彼女の足もとに身を投げ出し、彼女にくわえようとしている暴力にたいして、あらかじめ十分に許可を得ようとすると、彼女はつよい力でおさえつけたが、その力たるや、ずうずうしい恋人の攻撃をはねつけるために世の女の用いる力にくらべてはるかに物すごい怪力であった。しかし、腹をたてるでもなく、見識ぶったようすもなく、えもいえぬやさしさをこめて、次のようにいったが、その目には身をまもることもできかねるほど愛の思いがあふれていた。
「いいえ、いけません。落ちついてちょうだい、わたしの愛情を踏みにじらないでちょうだい。わたしを尊敬してくださいとはいいませんが、せめてわたしをいたわってちょうだい。お愛ししているのですから」
「わたしを愛していながら、思いをとげさせてくれる決心がつかないとおっしゃるのですね。それは信じられないし、自然の道理にも反します。そんなことをいわれると、愛していてはくださらないと思わずにいられません。ほんの一瞬でよいから、あなたの唇とわたしの唇をあわさせてください。そうすれば、もうそれ以上はお願いしませんから」
「だめです。そんなことをすれば、あなたの欲望がいっそう燃えあがり、わたしの決心をぐらつかせて、わたしたちはもっと不幸になるばかりです」
彼女はこうして私を絶望の底に蹴込んだ。そして、あなたといっしょにいても、コンスタンチノープルからお帰りになった時分、あんなに楽しませてくださった、あの才気や快活さがもうすっかりなくなってしまったとなげいた。D・R氏は親切な心づかいからよく私に意見をしてくれたが、私がこのごろ目に見えて痩せてくるといった。
彼女は、ある日、あなたが痩せるのはわたしにもおもしろくない。意地のわるい人々はあなたの痩せ方を見て、わたしがあなたを虐待しているようにとるかもしれないからといった。まったく不自然な考えだが、それが恋している女の言い草なのだからあきれてしまう。そこで、このことを主題にして牧歌ふうの恋歌をつくったが、それを読むたびに、いまでも涙がながれる。
「なんですって! それではあなたはわたしにたいする残酷ななさり方をおみとめになるのですね。世間の人から見やぶられるのを心配しながら、あくまでまちがったお仕打ちをつづけようとなさるのですか。わたしにタンタロスのあらゆる苦しみをつづけさせるおつもりですか。そして、それがせつない恋と一致できない、高尚なお気持の恐怖だとでもおっしゃるのですか。奇妙なものですね。では、あなたはわたしが太ってあから顔をしていたら、お喜びになるのでしょうね。たとえそれが私の愛情にたいして天与の慈養をおめぐみになるためだと、世間から思われてもね」
「世間がどう思おうと、ほんとのことでなければかまやしないわ」
「なんという矛盾でしょう! そんな不自然な矛盾がありましょうか、わたしがあなたを愛さないことが可能だなんて! しかし、あなたもお痩せになりましたよ。あなたの詭弁《きべん》の結果、どんなことがおこるか、申しあげなければなりません。わたしたちはまもなく死んでしまうでしょう。あなたは肺病で、わたしは衰弱で。というのも、わたしは、あなたの前以外では、夜となく昼となく、いつでも、どこでも、あなたの幻と楽しんでいるのですからね」
この話をきいて、彼女が驚き、また感動するのを見て、幸福の時期が来たと信じた。そして、両腕で彼女を抱きよせた。彼女もついにくじけるかと思われた……そのとき、歩哨役の侍女がドアを二度たたいた。なんてじゃまをしゃがるんだ! 私は身じまいをなおし、腰をあげて、彼女の前に立った。D・R氏がはいってきた。そのときは、私はおおいに快活にしゃべり、彼はわれわれといっしょに夜半の一時まで遊んでいった。
[女神の接吻の甘露]
私のボンボンが世間の噂になりはじめた。しかし、ボンボン入れにいっぱいにして持っているのは、夫人とD・R氏と私とだけであった。私はこのボンボンを非常にけちみ、これは非常に高価なもので、ケルキラにはこれを分析できる学者はひとりもいないといい触らしたので、だれもほしいといいだせなかった。ことにクリスタル・ガラスにはいったのはだれにもやらなかった。F夫人はそれに気がついた。私はそれが惚《ほ》れ薬だとも思わず、髪の毛を入れたので味がよくなったとも思わなかった。しかし、恋心がそれを大切にさせた。彼女の身体の一部を食べていると考えるのが、妙に嬉しかった。
F夫人はきっと内心に相通じるものがあったのだろう、私のボンボンに夢中だった。そして、これは万能薬だといったが、自分がそれを製造したものの女主人であると承知していたから、成分がなんなのか知ろうともしなかった。しかし、私が彼女に鼈甲の箱のしか与えず、クリスタル・ガラスのはひとりで食べているのを見て、その理由をきいた。そこで、ふかくも考えずに、私の食べているボンボンには彼女を愛させるなにかがはいっているのだと答えた。
「わたくし、そんなことは信じませんが、それではわたくしの食べているのとはちがうのですね」
「同じものです。しかし、あなたを愛させる力のある原料はわたしのにしかはいってないのです」
「その成分というのがどんなものなのか、教えてちょうだいよ」
「それは打ち明けることのできない秘密なのです」
「それでは、もうあなたのボンボンはいただきませんわ」
彼女はこういうと立ちあがって、ボンボン入れを空《から》にし、チョコレート・ボンボンをいっぱいつめた。そして、膨《ふく》れ面《づら》をしたが、それからは膨れ面がなおらず、ふたりきりになるのをつとめて避けた。それは私を悲しませ、すっかり憂鬱になってしまったが、彼女の髪の毛を喜んで食べていると打ち明ける決心がつかなかった。
四、五日たってから、彼女は私がどうして悲しそうにしているのかときいた。
「わたしのボンボンを食べてくださらないからです」
「あなたはごかってに秘密をおまもりになっていらっしゃるがいいのよ。わたくしはわたくしの好きなものを食べますから」
「あなたにうっかり打明け話をすると、ひどい目にあうのですね」
こういいながら、私はクリスタル・ガラスの箱をあけ、全部を口のなかへぶちまけた。そして、
「もう二度とこんなことをしたら、奥さまに恋いこがれて死んでしまいますよ。そうすれば、奥さまは秘密をあかさないとおこっていらっしゃるお恨みをみごとにはらせるわけですよ。では、奥さま、さようなら」
彼女は私を呼びかえし、椅子にすわらせた。そして、わたくしを悲しませるようなばかげたことはしないでちょうだい、ご存じのとおり、わたくしはあなたを愛しているのだし、それがこのボンボンのせいでないことはよくわかっているのだからといった。
「では、あなたを愛するにも、そんなボンボンが必要でないことをはっきりさせるために、さあ、愛の証拠を差し上げますわ」
彼女はこういうと、口をつきだして、私の口にゆだねた。私は息がつまってはなさなければならなくなるまで、彼女の唇にしがみついていた。やがて興奮がうすらぐと、彼女の足もとにうずくまり、感謝の涙に頬《ほお》をぬらしながら、ゆるすと約束してくれたら、罪を告白するといった。
「罪ですって? まあ、こわい! ゆるしますわ、さあ、早く、なにもかもおっしゃって」
「すっかり申します。私のボンボンには奥さまの髪の毛を粉にしたのがねりこんであったのです。それから、この腕を見てください。腕飾りにはあなたの髪の毛でふたりの名前が書いてありますし、また首にはやはりあなたの髪の毛でつくった綱がまいてあります。あなたが愛してくださらなくなったら、これでひと思いに首をしめるつもりです。これがわたしの罪のすべてです。もしも奥さまに恋いこがれていなかったら、こんな罪はひとつもおかさなかったでしょう」
夫人は笑いだし、私を立たせて、実際あなたは男のうちでもいちばん罪のふかい男だといい、私の涙をふいて、けっして首をしめさせるようなことはしないと誓った。
こうした会話のあいだに、愛はわが女神の接吻の甘露をはじめて味わわせてくれたが、その後、私は強く自制し、まったくちがった態度をとるようにつとめた。彼女は私が燃えているのを見、自分もおそらく燃えていたのであろうが、私が攻撃をさし控えるだけの力を持っているのに感心した。そして、ある日、こうきいた。
「そういうふうに、ご自分をおさえる力は、いったいどこから来たのでしょうね」
「あなたがすすんでおゆるしくださった接吻の楽しさを味わってからは、奥さまの完全なご同意から来ることしか望むべきでないことがわかったからです。あの接吻がどんなに嬉しかったか、ご想像もおつきにならないでしょう」
「わたくしだってその楽しさを知らないわけではありませんわ。ひどい方ねえ。わたくしたちふたりのうち、どちらがあの接吻をしたのでしたっけね」
「おっしゃるとおりです、わが天使よ、どちらでもありません。愛がしたのですよ」
「そうよ、あなた、愛なのよ。愛の宝はつきるものではありませんわ」
それからは、もう口もきかず、互いに際限もなく接吻をかわした。彼女は私がほかの楽しみを味わえないように、私の腕も、さらに手までもがっちりとおさえて、私を胸にだきしめた。私はそうしたひどい抱かれ方をしながらも、幸福であった。このうるわしい争いのあとで、私はいつまでもこの状態でとどまっていられると信じているのかときいた。
「いつまでもよ、これ以上はだめ。愛は子どもですから、軽いお菓子でなだめなければいけませんわ。精のつよすぎる食物は愛を殺してしまいます」
「愛なら、わたしのほうがずっとよく知っていますよ。愛はこくのある食物をのぞみます。それをやるまいと頑張っていると、立枯れになってしまいます。どうかわたしの希望をくじかないでください」
「そのほうがよろしいとお思いなら、希望していらっしゃい」
「希望がなかったら、なにができましょう。あなたにあたたかいお心があると思わなかったら、わたしは希望などしなかったでしょうからね」
「そうそう! ひどくご立腹になって、わたくしに侮辱をくわえようと、わたくしには才気しかないとおっしゃった日のことをおぼえていらっしゃるでしょ。ああ、わたくし、あとで、それを思いだしては、ずいぶん笑ってしまいましたわ。そうよ、あなた、わたくしにはあたたかい心がありますわ。それがなかったら、いま、これほどしあわせには思いませんわ。ですから、いま楽しんでいるような幸福を大事にしましょう。そして、それよりさきは望まないで満足するようにしましょうよ」
[幸運を招いたかすり傷]
私は彼女のこうした掟《おきて》にしたがいはしたが、日々に愛欲の思いがつのるばかりであった。そこで、自然の情に希望をかけた。これは長いあいだには世上の掟《おきて》よりも強い力を発揮するからである。しかし、自然の情のほか、運命の神も私をたすけて、希望をかなえさせてくれた。それはある不幸のおかげだが、その顛末《てんまつ》は次のとおりである。
F夫人はD・R氏に腕を託して庭園を散歩していたとき、薔薇の木の幹へはげしくつまずいて、足首に長さ二インチの擦り傷をうけた。D・R氏は血を吹く傷口をすぐにハンケチでしばった。私は彼女が轎《かご》のようなものに乗り、ふたりの下男にかつがれて家へ帰ってくるのを窓から見た。
ケルキラ島では脚の傷は非常に危険だ。十分に手当をしないと、なおらなくなることがある。傷口を癒着《ゆちゃく》させるために転地を余儀なくされる場合も少なくない。
外科医はすぐ床につくように命じた。そこで、私は幸福にも役目がらしじゅうそばにつきそって命令を待つことになった。最初の三日間は見舞い客がひきもきらず、彼女とふたりきりになることができなかった。だが、日が暮れて、客が帰ってしまうと、われわれはほっと溜息《ためいき》をつき、夫も自室へ引き取った。D・R氏もそれから一時間ほどで帰った。礼儀のうえから、私もまた引きさがらなければならなかった。だから、負傷のまえよりもずっとぐあいがわるくなったわけである。そこで、そのことをおどけた口調で彼女にいってみた。すると、翌日は楽しい時間を与えてくれた。
年とった外科医が毎朝五時に訪ねてきて、傷の手当をした。そばにつきそっているのは侍女だけであった。外科医が来ると、私はナイト・キャップのままですぐに侍女の部屋へ行った。わが女神の容態をだれよりもさきに聞きたいと思ったのである。
私が短い不平をいった翌日、外科医がまだ包帯をしているのに、侍女が呼びに来た。
「脚の赤味が減ったかどうか見ていただきたいのよ」
「でも、奥さま、きのう拝見していませんから、よくわかりませんよ」
「それもそうね。でも、ずきずき痛むので、丹毒になるのじゃないかと心配ですの」
「ご心配にはおよびません、奥さま」と、外科医がいった。「静かにお休みになっていらっしゃれば、かならずなおしてあげますよ」
それから外科医が罨法《あんぽう》の支度をするために窓のそばのテーブルのところへ行き、侍女が布をとりに行ったので、私は、ふくらはぎにしこりができていないか、赤味が血管をつたわって腿までいってはいないかときいた。もちろんこう聞きながら、手と目でその箇所をたどったのはいうまでもない。だが、しこりも手にさわらず、赤味も目につかなかった。しかし、心やさしい病人はうきうきしたようすで、すばやくベッドのカーテンをさげると、その唇から接吻をつみとらせてくれた。四日まえから私は愛のしるしをたたれていたので、この接吻の甘味はえもいえず心よかった。愛の熱狂よ、魅力に満ちた陶酔よ! そのあとで、私は自分の舌が薬になると固く信じ、彼女の傷を丹念になめてやった。この甘い薬は愛の医者が効験あらたかなりと私に信じさせたのだが、あいにく侍女がもどってきたので、中止しなければならなかった。
あとでふたりきりになると、私は欲望にもえ、せめて目の楽しみだけでもゆるしてほしいと哀願した。
「あなたの美しい脚や腿の三分の一を拝見して、わたしの魂が大きな喜びを感じたことは、どうにもお隠しできません。けれども、わが天使よ、その喜びが盗みとったもののように思われて、なんだかうしろめたい気がするのです」
「それはあなたの思い違いかもしれなくてよ」
翌日も同じ包帯がけに立ちあったが、外科医が帰ってから、彼女は枕やクッションをなおしてほしいと私に頼んだ。私はすぐ仕事にかかった。そして、彼女は私の仕事を楽にさせようとし、足をふんばるために、掛け蒲団を上へ引きあげた。それで、私は彼女の頭のうしろへ頭をかしげながら、ピラミッドの両側をまもる二本の象牙の円柱を見た。その円柱のあいだで最後の息をひきとることができたらどんなに幸福だろうと、そのとき私は考えたのであった。ピラミッドの頂点は意地のわるい布にかくされていたが、私の欲望はその幸福の頂角に残らず集中された。こうした一時的な歓喜において私を満ちたりた思いにさせたのは、わが偶像がクッションをなおす仕事ぶりをあまりのろますぎると思わなかったことである。
仕事が終わると、私は肘掛椅子にぐったり腰をおとして、物思いにふけりながら、気高い姿をうっとりとながめていた。この人はなんの技巧も心得ていないのに、なにかの快楽を与えてくれるときには、いつもより大きな快楽を約束せずにはいないのだ。
「なにを考えていらっしゃるの」と、彼女がきいた。
「いま楽しませていただいた大きな快楽のことを」
「まあ、ひどい方ねえ」
「いや、ひどくはありませんよ。わたしを愛してくださるなら、どんなに寛大になさっても、お顔をあからめるにはおよびませんからね。それからまた考えてください。あなたを完全にお愛しするには、うるわしい美点を盗みみるようなことではいけないのだと、わたしは信じております。なぜなら、身分がいやしく、意気地がなく、とるに足らないやつでも、運がよければ同じ幸福にありつけると思うからです。感覚のひとつでもどんなにわたしを幸福にしてくれるか、けさ教えてくださったことにたいして、どうか感謝をいわせてください。こんなことをいうと、わたしの目にたいしてお腹だちになるかもしれませんが」
「それはあたりまえですわ」
「それでは、この目をくりぬいてください」
翌日、外科医が帰ってから、夫人は侍女を買物にやった。それからしばらくして、
「あら! あの子はあたしにシュミーズを渡していくのを忘れたわ」
「そりゃ困りましたね。では、わたしがさがしてあげましょう」
「いいわ。けれども、目だけしかゆるさないわよ、よくて」
「承知しました」
そこで、彼女はコルセットの紐をゆるめて、ぬいだ。それから、シュミーズを下へ投げ、白いのを渡してといった。私はうるわしい彼女の上半身をうっとりとながめた。
「シュミーズを渡してよ。小さいテーブルの上にあるのよ」
「どこですか」
「そこの、ベッドの下よ。いいわ、自分で取るから」
そこで、彼女は身をかがめ、小さいテーブルのほうへ身体をのばして、かねて自分のものにしたいと思っていたあでやかな部分をすっかり見せてくれた。しかも、彼女はいそがなかった。私は息もたえる思いであった。そして、彼女の手からシュミーズを受け取ったが、彼女はその手が中風患者のようにふるえているのを見、私にあわれみをかけてくれた。しかし、ゆるしてくれたのは私の目だけであった。そして、すべての魅力をさらけだし、新しい驚異で私をうっとりと酔わせた。と同時に、彼女は自分の肢体をしげしげとながめて、うっとりとなり、自分の美しさに得意になっているらしかった。彼女はついにうなずいた。私はシュミーズを渡しながら、彼女の上へ倒れかかって、腕に抱きしめた。彼女は噛《か》みつくような接吻をゆるして、私を正気にかえらせたが、目では表面だけしか見えなかったところを、私の手がくまなくさぐるのもさえぎらなかった。唇と唇がひしとはりついた。そして、愛恋のきわみ、しばらくは陶然と正気をなくして、息が苦しくなるまで、身動きもせずにいた。それは十分に欲望を満たすには足りなかったが、非常に心地よく、思いをはらすことができた。彼女はこういう場合にはめずらしいことだが、私が神殿へはいれないように身をかまえ、しかも、私の手をしっかりおさえて働かせず、身をまもることを不可能にするものを露出させまいと、しじゅう気をくばっていた。神殿の入口はまだ私にゆるされなかった。
[#改ページ]
第十六章
[若妻の燃えさかる竈《かまど》]
彼女の傷はしだいになおった。ベッドから出て従前の習慣にもどる時期も近づいた。
ガリー艦隊の総司令官ルニエ氏がゴヴィノで観艦式を行なう命令をだした。F氏はその前日出かけたが、私には翌日早朝にフェラッカ船で来いといい置いていった。夫人と差し向いで夕食をとりながら、あしたはお顔が見られないと嘆いた。
「では、その埋合せに、今夜はひと晩じゅうお話しましょうよ。さきにお部屋へ帰って、それから、主人の部屋を通ってここへいらっしゃい。鍵をお渡ししておきますから。でも、侍女が出ていくのを窓からたしかめてからにしてちょうだいよ」
私は命令どおりにやって、彼女とふたりきりになった。夜明けまでに五時間の余裕があった。おりしも六月のことで、焼けるような暑さだった。彼女はベッドに横になっていた。私は彼女を腕に抱きしめた。彼女も私を抱きしめた。しかし、彼女は残酷なまでに自分をおさえ、私が耐えがたい忍耐をしているとしても、自分も同じように苦しい自制をしているのだから、なにも不平をいうことはないと信じこんでいた。いくらすすめても、頼んでも、言葉をつくしてしゃべっても、なんにもならなかった。
「愛は厳重な手綱をこらえ、いくらきびしい掟《おきて》をしいられても笑っているべきなのよ。それでも嬉しいクライマックスに達して、欲望をしずめることができるのですからね」と、彼女はいった。
陶酔からさめると、ふたりの目と口は同時にひらいた。そして、お互いに少し身体をはなし、どんなに満ちたりた表情が相手の顔に輝くかうかがおうとした。すると、欲望がまたよみがえり、それを満足させにかかった。彼女は私の天真|爛漫《らんまん》な状態が目のまえにさらけだされているのをちらりと見ると、まるで立腹のあまり狂いだしそうなようすになった。そして、暑さを耐えがたくし、快楽をさまたげているものをすべて脱いで遠くへほうりとばし、私にとびかかってきた。熱狂以上のなにか、むしろ錯乱状態とでもいいたいものに見えた。私はこの時期をのがしてはと思い、彼女と同じように無我夢中になった。そして、人力を絶した力で彼女を抱きしめた。息もとまるかと思うほどの快楽を味わった。ところが、決定的な瞬間になると、彼女はもがきだして、身をかわした。そして、やさしく、にこやかに、氷のような冷たい手で私の情熱を堪能させようとした。中途でさえぎられた情熱はまさに一触即発の危機をはらんでいた。
「ああ、心のむごい恋人よ。汗びっしょりですね」
「ふいてちょうだい」
「こりゃ、なんて美しいんだろう! あなたは歓楽を分けあってくれなかったが、ぼくはこのうえもない快楽に死ぬ思いでした。さあ、うるわしの女神よ、あなたを完全に幸福にさせてください。愛がまだぼくを生かしているのは、すすんでもう一度死ぬためなのです。しかし、あなたがいつも入口をふさいでいる、あの天国のなかでなければ死ねません」
「ああ! かわいい友よ! あそこは燃えさかる竈《かまど》なのよ。指をお入れになると、わたしを燃やしている火が、その指まで燃やしてしまうわよ。ああ! 友よ! おやめなさい。わたしをいくら力いっぱいに抱いてもいいわ。けれど、お墓のそばまでいっても、なかへはいってはいけないことよ。あんたはあたしの魂でも心でも、代りのものはなんでもかってにできるのですからね。あら、あたしの魂がとびだしたわ。あんたの唇でつかまえてちょうだい。そして、あんたの魂をあたしにちょうだいよ」
陶然たる沈黙の時期はかなり長くかかった。しかし、その快楽は自然に反しており、そうした享楽の不完全さが私を苦しめた。
「なにを文句おっしゃるの。こうして我慢していればこそ、あたしたちの愛が長つづきできるのよ。十五分まえに、あたしあんたを愛しましたが、いまもまたそれ以上に愛しているわ。あたしの欲望をすっかり満たして、喜びを根こそぎにしてしまったら、こんなにあんたを愛せないことよ」
「そりゃまちがいだ。いとしい友よ、欲望は苦痛なんです。希望がその殺人的な力を軽減してくれなければ、ぼくらを殺してしまう苦痛なんです。満たされない欲望は、地獄の苦しみよりもつらいものですよ」
「でも、欲望はいつも希望といっしょだわよ」
「いや、地獄には希望はない」
「それなら、欲望もないはずよ。だって、狂人でないかぎり、希望せずに欲望することはできませんからね」
「では、答えてください。あんたが実際はすっかりぼくのものになりたがって、それを期待しているとしますね。もしもそうなら、なぜ自分の希望に自分でじゃまを入れるのです。いとしい友よ、詭弁《きべん》で自分の目をくらますのはやめなさい。さあ、完全に幸福になりましょう。そして、何度享楽の底をついた欲望を満たしても、欲望はすぐ生き返ってくることを確信しましょう」
「でも、現に目のまえに見ていることがその反対を証明しているわよ。あんたはいまは元気がよいけど、宿命的なお墓のなかへはいったら、生ける姿もなくなるでしょうし、生き返るには長い時間がかかるでしょう。それは、あたし、経験でちゃんと知ってますわ」
「ああ、わがいとしい友よ! お願いだ、やめなさい。あんたの経験を信じるのをやめなさい。あんたには愛なんかわかっていないのだ。あんたがお墓とよぶものは、愛にとっては歓喜の家なのだ。そこに滞在するものを不滅にさせる唯一の家なのだ。要するに、ほんとの天国なのだ。わが天使よ、ぼくにはいらせてください、きっと死んでみせますから。しかし、その死に方も、恋愛の死と結婚の死ではまったくちがうことがわかるでしょう。結婚は命を追い払うために死ぬのですが、恋愛は命を楽しむために喜んで死ぬのです。さあ、迷いをさましなさい。美しい友よ、そして、十分に楽しんだあとでも、よりいっそう愛しあえることをさとってください」
「よくわかったわ。あたしもおっしゃるとおりに信じたいわ。でも、少しさきへのばしましょう。それまで、いろいろおしゃべりをして、気持をかきたてましょう。手綱をくわえずにどんなことでもしましょう。あたしをめちゃくちゃにしてもいいわ。あたしにも思う存分にさせてちょうだい。今夜だけで短すぎると思ったら、ふたりの愛が新しい楽しみを与えてくれることを信じて、おとなしくあしたを待ちましょうよ」
「でも、ひょっとしてぼくたちのことが世間に知れたら?」
「なにも秘密にしておくことはないわ。あたしたちが愛しあっていることは、みなさんご存じですわ。あたしたちがまだ幸福になっていないと考える人々もいますが、そういう人々が反対のことを考えるようになったらこわいのよ。だから、罪の現場をつかまらないように気をつけることが専一だわ。けれども、あたしたちのような愛し方は罪にならないのだから、神さまも自然もまもってくれる義務があるのだわ。あたしは物心がついてから、いつも愛の喜びにあこがれていたのよ。男の人を見るたびに、あたしのために生まれたような気がして嬉しくなり、あたしはこの人のためにつくられたのだから、早く結婚の絆《きずな》で結ばれたいと気がせいたものよ。あたし、人が愛と呼ぶものは、結婚のあとで始まるように思っていたの。だから、夫があたしを女にしたとき、自分が女になったと知ったのは苦痛だけで、その埋合せをする快楽がひとつもないのに驚いてしまったわ。修道院にいた時分の空想のほうが、ずっと楽しみが多かったように思われたわ。それで、あたしたち夫婦はかなり冷たく、いっしょにねることもろくになく、お互いに全然好奇心をもたない、ただの友だちになってしまったの。それでも、わりに気は合っているのよ。だって、あの人があたしを求めるときには、あたしいつもすなおにいうことをききますからね。けれども、そういうおざなりの料理は愛の味つけがしてないから、あの人もうまくないと思ってるでしょうよ。だから、せっぱつまったときでなければ欲しがらないわ。こんなわけで、あんたがあたしを恋していると気がつくと、あたし、とても嬉しかったわ。それで、あんたの恋心をあおるために、できるだけ機会をつくってあげたのよ。自分ではけっしてあんたを愛することなんかあるまいと思ってね。ところが、それがまちがいで、あんたが好きになりだしたので、あたしをそんな気持にした罰に、あんたにつらくあたるようにしはじめたの。けれど、あんたの我慢づよさと抵抗力にはとても驚いたわ。そして、つくづく自分がわるかったとさとり、あの最初の接吻のあとでは、もう自分の気持をおさえきれないと気がつきましたの。一度の接吻があんなに大きな結果をもたらすとは、思いもかけなかったわ。そして、あなたを幸福にしなければあたしも幸福になれないことがわかったんですが、そのときはとても嬉しかったわ。けれど、今夜は、あんたが幸福になればなるほど、あたしも幸福になることが、はっきりわかったの」
「いとしい友よ、それはあらゆる恋愛感情のうちで、いちばんデリケートなところです。しかし、ここへ入れさせる決心をしてくれなければ、ぼくはいつまでも完全に幸福にはなれないのですよ」
「ここはいけません。けれど、小径や四阿《あずまや》はごかってにしてもいいのよ。あたしにはそういういいところがいくらもあるではありませんか」
ふたりはその夜の残りを、いらだつ欲望に刺激されて、あらゆる熱狂にささげた。私のほうでは、彼女のそそのかすままにさまざまの狂態を演じたが、彼女に自制の埋合せをさせようとする希望はすべて徒労に終わった。
暁の光がさしてくると、私はゴヴィノへ行くために出ていかなければならなかった。だが、彼女は私がすっかり思いをとげたように堂々と別れていくのを見て、嬉し泣きにないた。彼女には超人的なことのように思われたのである。
この歓喜に満ちた夜から十日あまり、身を燃やしている情火の火花さえ消す機会がなかった。が、そのころおそるべき災難がおそってきて、私を奈落の底へ蹴おとした。
[神殿参入の一瞬]
夕食がすみ、D・R氏も帰っていってから、F氏は私のいる前で、これから短い手紙を二通書いてしまったら、お前のところへ寝にいくと細君にいった。夫が出ていくと、彼女はベッドの裾《すそ》のほうへすわって、じっと私を見つめた。私は恋にもだえながら彼女の腕のなかにころげこんだ。彼女は身をまかせ、神殿へ参入させた。私の魂はついに幸福のなかを泳いだ。しかし、彼女は一瞬も私を引きとめておかなかった。宝の山にはいったと思う、えもいえない快楽を一瞬も楽しませてくれなかった。私をおしのけて急に身を引き、すっと立ちあがると、途方にくれたようすで、肘掛椅子へくずれていった。私はじっと身動きもせずに、あきれかえって、この不自然な動作がどこからきたのかつきとめたいと、ふるえながら彼女を見つめた。
「あなた、あたしたちはもう破滅ですよ」
「なにが破滅なのです。そりゃひどすぎる。そんなことをいうと、ぼくは死んでしまいますよ。もう二度と会えないかもしれません」
こうどなると、私はすぐに彼女の部屋から出、さらにその家から出て、涼しい空気を吸いに、広場のほうへ歩いていった。ほんとに死にそうな気持だった。そういうときのみじめな気持は、実際に経験したものでなければ想像もつかない。私にもとうてい描写できないだろう。
こうしたひどい混乱に苦しんでいたとき、近くの窓から呼ぶ声が聞こえた。返事をして、そばへ行ってみると、美しい月の光をあびて、バルコニーにメルラが立っていた。
「そこでなにをしているんだね、こんな時間に」と、私はいった。
「涼んでるのよ、あたし、ひとりぼっちなので、ねる気もしないの。ちょっとあがっていらっしゃいよ」
このメルラはザキンソス出身の娼婦で、とびぬけた美貌のために、四月まえからケルキラじゅうの男たちを悩殺していた。彼女に会ったものはその魅力をほめそやし、彼女の話でもちきりだった。私は何度か会っているが、彼女がいくら美しくても、F夫人にはおよぶべくもないと思っていた。たとえ夫人に恋していなくても、そう思ったにちがいない。一七九〇年に、ドレスデンでメルラと瓜《うり》ふたつの女を見た。その女はマニュスといったが、二、三年後に死んだ。
私は機械的にあがっていった。彼女は私をなまめかしい寝室へ案内した。そして、あなたはひどい方だ。あなただけは一度も会いにきてくれたことがなく、あたしのことを軽蔑しきっている。だけど、お友だちにしたいと思うのはあなただけだと、さんざん口説《くぜつ》をならべてから、こうしてつかまえたからには、もう逃がさない、どうしても敵《かたき》を討ってやるといった。私は冷ややかにかまえていたが、そんなことにへこたれる女ではなかった。この商売のヴェテランだったので、持ってるだけの魅力をさらけだし、私の欲情をむりやりにかきたてた。私はもともと意気地のない男なので、むざむざと絶壁の底へ引きずりこまれてしまった。彼女の美しさは、いましも恥ずかしめてきた女の美しさにくらべたら、百倍もおとっている。しかし、私の暗黒な運命を達成しようとして地獄からやってきたあばずれ女は手練手管《てれんてくだ》で苦もなく私をおとしてしまった。さっきのことで、もう自分を制御できない状態になっていたのがいけなかったのだ。
それは愛情からでも、空想にかられたからでも、彼女がすばらしかったからでもない。彼女には私ほどのものを自由にする値うちなんかありはしなかった。ただ手練手管で籠絡《ろうらく》されたのだ。わが天使と仰いでいる女が妙な気まぐれから気に入らないことをした。その気まぐれも彼女にふさわしくない悪党でなかったら、愛情を倍加すべきものであったろうが、こんなわけで、私はどうにでもなれという投げやりな気持になり、意地も張りもなく、無性に人肌が恋しかったというのが、そもそものつまずきだったのだ。メルラは私を惚れこませたと思いこみ、渡そうとした金貨も受け取らず、二時間後に私を送りだした。
われにかえると、私はわが気高い女神に対してこんな侮辱をくわえさせたあばずれ女を呪い、わが身を憎んだ。そして、後悔にさいなまれながら、自分の部屋へもどってベッドにはいった。しかし、火のようにほてるまぶたには、一瞬も眠りが訪れずに四時間をすごした。そして、F氏から呼ばれたので、服を着かえて出ていった。命じられた用事をすませると、家へもどり、夫人の部屋へはいっていった。夫人は化粧台に向かっていた。そこで、鏡のなかの彼女に朝の挨拶をした。彼女の顔にはいかにも無邪気で潔白そうな快活さと落ちつきが見られた。やがて美しい目が私の目と出会った。すると、突然、気高い顔に悲しみの雲がひろがった。そして、目を伏せ、ものもいわなくなった。それから、目をあげて、私の心をたしかめ、気持を読みとろうとするように、じっと私を見つめた。そして、また深い沈黙におち、ふたりきりになるまで口をひらかなかった。
「ねえ、あなた」と、彼女はいともやさしく、またおごそかな口調でいった。「お互いに猫っかぶりはやめましょうよ。ゆうべあなたが出ていってから、わたしとても悲しかったわ。わたしのしたことが、あなたのような気性の方には、どんなむちゃな乱暴をさせるかわからないと気がつきましたの。それで、これからはあんな中途はんぱなことはしまいと決心しましたの。でも、はじめはあなたが涼みにいらっしたのだと思って、悪いことをしにいらっしたとは考えませんでしたの。そして、それをたしかめようと、窓のところへ行って、一時間も立っていましたが、あなたのお部屋に明りがつかなかったんですの。そのうちに、主人がまいりましたので、寝にいかなければなりませんでしたが、あなたが帰ってきていらっしゃらないと思うと、胸もはりさけるようでしたわ。それで、自分のしたことに腹がたち、あなたへの思いがつのるばかりで、ろくに眠れませんでしたわ。けさ、主人があなたに話したいことがあるからと下士官にいいましたら、あなたはゆうべおそくお帰りになって、まだ眠っていらっしゃると答えるじゃありませんか。でも、わたくしやきもちをやいてるのじゃなくてよ、あなたがわたくし以外の女を愛せないということはよくわかっていますからね。
けさ、あなたのことを考えて、後悔していることをお知らせしようと思ってましたら、ちょうどそこへあなたがはいってきたので、じっとあなたのようすを見ていたのですが、ほんとに、べつの人を見るような気がしましたわ。それで、なおよくあなたを見ていたら、あなたのお顔に、なにかわたしの気にそまない、わたしを恥ずかしめるようなことをなさったようすが、ありありと読みとれるじゃありませんか。それがどういうしかたでか存じませんが、ねえ、あなた、はっきりおっしゃってよ。わたしの読みちがいだったかどうか。愛の名によって、ほんとうのことをいってちょうだい。わたしを裏切るようなことをなさったのなら、ごまかさないでいってちょうだい。わたしはその原因がいっさい自分にあると認めておりますから、自分をゆるせないと思いますわ。けれども、あなたのことはゆるしてあげますから、心配なさらないでもいいのよ」
私は一生のあいだに愛する女に向かって嘘をいわなければならない、つらい立場に追いこまれたことが何度もある。しかし、こういう情のこもった言葉をきいたあとでは、誠実な愛情を持つかぎり、わが天使に嘘をつくなんて、どうしてできよう。私はこうした気持に圧倒されて、嘘をつくつもりは毛頭なかったが、あふれ出る涙をぬぐってしまわないうちは、返事ができなかった。
「いとしい友よ、あんた泣いているのね。さあ早くおっしゃいよ、あたしを不幸にしたのかどうか。いったいどんなひどい復讐をしたんですの。あたしはあんたの気にさわることなんかとてもできないのに。あんたに悲しい思いをさせたのも、恋のやりとりについてとてもうぶだったから、だけなのよ」
「とんでもない。復讐なんか考えもしませんでした。あなたを愛することをやめるなんて夢にも思いませんでしたからね。それなのに、つまらない罪をおかして、一生のあいだあなたのご好意にふさわしくない人間になってしまいました。それも、うかうかとだらしのない気持にひきずられていったのです」
「では、だれかいやしい女に身をまかせたのね」
「二時間ほどいかがわしいところですごしたのですが、私の心はただ悲しみと後悔と不甲斐なさをありありと見せつけられる思いでした」
「後悔にさいなまれて、悲しい思いだったのね。わかるわ。それもあたしが悪かったのよ。おゆるしを願わなければならないのは、あたしだわ」
彼女が涙をながすのを見て、私も涙をおさえることができなかった。偉大な魂よ! 男という男のもっともひどい乱行さえゆるそうとする気高い魂よ! 彼女は自分だけが悪かったのだと思いこみ、あなたが心からなる愛情に値する男だと十分に認めていたら、こんなことにはならなかったということを、それはまったくそのとおりなのだが、十分納得させるように、頭のまわるかぎり、いくらでも文句をいってほしいといった。
その日は、お互いの悲哀を胸にしまって、平穏にすごした。彼女はあのあさましい遊蕩の顛末《てんまつ》をくわしく知りたがった。そして、ふたりともその事件は宿命的なものと見なければならない、いくら賢明な人でも男にはありがちなことなのだといい、それはあなたのせいではないのだから、わたしの愛情は少しも減りはしないと安心させた。そこで、いつに変わらぬ愛情のしるしをあらためて交換しあう機会がつかめそうだと思った。しかし、しばしば正しい裁きを見せる天意はそれをゆるさなかった。天は私に裁きをくだし、私はその懲罰を受けなければならなくなった。
[娼婦メルラの呪い]
三日目に、ベッドから出たとき、いつもと身体の調子がちがうのに気づいた。きりきり痛むのだ。ひょっとしたらと気がついて、ふるえだした。そして、くわしくようすをしらべ、メルラから毒をうつされたのを見て、途方にくれた。腕がだらりと下へおちてしまった。そこで、またベッドにのぼり、悲惨なもの思いにふけった。もしもゆうべおこったかもしれない大事を思うと気も狂わんばかりだった。F夫人が愛情の変わらないことを納得させるために、残りなく恩寵《おんちょう》を与えてくれたとしたら、どういうことになっただろう。夫人を行末ながく不幸にしてしまったら、私はどうしたらよかったのだろう。この恋の一部始終を知るものがいたら、私が後悔の責苦からのがれるために自殺したとしても、けっしてとがめだてはしないだろう。少なくとも事の道理のわかった人なら、私を絶望のあまり死をえらんだ背教徒とは見ず、罪にふさわしい刑罰をわれとわが身に課した正当さをみとめてくれるだろう。どっちみち、わたしはみずから命をたったにちがいない。
私は悲嘆の底にしずみながらも、このあさましい病気にかかったのは、これで四度目なので、だれにも知られずに六週間で健康を回復させる療法をやろうと考えた。だが、それも誤算だった。メルラは堕地獄の災厄《さいやく》をすべて私に伝えたのだった。一週間目にはみじめな兆候がすべて目のまえへあらわれてきた。そこで、その道に十分の経験をもつ老医を頼っていった。その医者は二か月で全快させると保証したが、そのとおり約束をまもってくれた。そして、九月のはじめには、もうすっかり元気になったが、そのころヴェネチアへもどることになった。
私が第一に決心したのは、一部始終をF夫人に告白することであった。告白がおくれて、彼女が自分の意志薄弱を恥じて赤面するようなことにさせてはならない。私にたいして情熱をおこしたためにそんなひどい危険に身をさらす仕儀になったと考える憂き目を見せたくなかった。彼女の愛情は私には貴重きわまりないものであったから、その愛情がぐらつくのをおそれてかえって彼女を失うようなへまはやりたくなかった。彼女の才気も魂の潔白さも知っていたし、私を同情に値するとしか認めない寛大さにも敬服していたので、少なくとも誠心誠意を披瀝《ひれき》して、彼女の敬意に値する男であることをしめさなければならなかった。
そこで、私は容態を率直に話したばかりでなく、あの罪を告白して以後、もしも愛の興奮に身をまかせたら、どんなおそろしい結果になったか考えると寒気がするくらいだと、自分の気持をはっきりしゃべった。彼女はそれをきいてぎょっとしたらしいが、さらに私がもしもそういうことになったら自殺をしてお詫《わ》びするつもりだったというと、まっさおになってふるえだした。私がしゃべっているあいだ、彼女はけがらわしいメルラを人でなしとののしりつづけた。
私もこの言葉を自分にたいしてくりかえした。あさましい放蕩のために、かけがえのない宝をなげうってしまったのがくやしくてならなかった。
私がメルラのところへ行ったことはケルキラじゅうの人が知っていた。だが、表面私が元気そうにしているのをみて、みんな驚いてしまった。というのも、私のような目にあった青年の数が少なくなかったからである。
しかし、私には病気以外にも、いろいろの煩悶《はんもん》があった。まず、来たときと同じ少尉でヴェネチアへ帰るようにきめられたことである。総督は約束をたがえて、ある貴族の私生児を、本人はヴェネチアにいるのに、私のかわりに中尉に任命したのであった。そこで、私は軍職を去る決心をした。もうひとつ、さらに私を悲嘆にくれさせたのは、財産をまったくなくしてしまったことである。私は憂鬱をまぎらせるために、博打に身を入れたが、毎日負けてばかりいた。メルラに抱かれるというくだらぬことをして以来、あらゆる呪いが私にふりかかってきた。最後に、止めをさされた思いがしたのは、――しかし、私の良識はまもなくそれをかえって恩恵のように見なした――全軍のヴェネチアへ帰る十日ばかりまえに、D・R氏が私を手もとへ呼びもどし、F氏が新しい副官を物色することになったことである。F夫人は悲しげなようすで、ヴェネチアへ帰ったら、いろいろの理由から、もうお目にかかるわけにはいかないといった。そこで、その理由は私をがっかりさせるものばかりにちがいないから、どうかいわないでほしいと頼んだ。
そのとき以来、私は女神とすらあおいだ女の正体を見やぶり、彼女のために死のうとまで考えたのはばからしかったと思いはじめた。というのも、ある日、私をあわれむようなことをいったからで、彼女の気持がはっきりわかった。そういう感情をもつのは、もう私を愛さなくなったからにほかならない。それにまた、あわれみという不愉快な感情のあとには、かならず軽蔑の念がおこってくるものだ。
その後は彼女と差し向いになったことは一度もない。私はまだ彼女を愛していた。だから、彼女の情熱のさめる非常な速さを非難して赤面させるのはなんでもなかったが、そんなことをする気になれなかった。
ヴェネチアへ帰ると、彼女はすぐにD・R氏の情婦となり、相手が肺病で死ぬまで愛しつづけた。彼女は二十年後に盲目になったが、いまでもまだ生きているだろうと思う。
ケルキラ島で暮らした最後の二か月に、私は親愛なる読者の心の目にふれる値うちのあることを見た。それはついてない男とはどういうものかを教えてくれた。
メルラの一件以前には、私は丈夫で、金もふんだんにあり、勝負につよく、人々から好意をよせられ、町一番の美人から愛されていた。私がなにかいうと、みんな私の肩をもった。ところがあの呪うべき女を知ってからは、健康も金も信用も快活さも尊敬も才気もすべてなくなってしまった。自分の考えを明快に説明する能力も失せ、人を説得することができなくなった。それだけでなく、F夫人の精神にたいしてもっていた影響力も消えうせ、夫人は自分でも気づかぬうちに、私にたいして、どんな女よりも無関心になった。
こんなわけで、私は持物を全部売ったり質に入れたりしたあげく、無一物で出発したが、さらに相当の借金さえした。この借金はついぞ返済しようと考えたことがないが、それは悪意からではなく、無頓着からであった。
金があり健康にめぐまれていたときには、だれでも私をちやほやしてくれたが、憔悴《しょうすい》して、金もなくなると、だれひとり尊敬のしるしを与えてくれなくなった。なにをいっても耳を傾けず、金のあるときだったら、才気|横溢《おういつ》だと思われたことも、面白味のない話だとけなされた。なぜなら、≪説得と美の女神はつねに金貨を持つものへ恩恵をくだしたもう≫(ホラティウス『書翰集』)からである。もしも私がまた金持になったら、また人から才子としてあがめられるだろう。おお、人間よ! おお、幸運よ! 人々は私を苦しめる不運が伝染でもするように私をさけた。それもおそらくむりからぬことであったのだろう。
九月の末、われわれはガリー船五隻、ガレアス船二隻と小型の船数隻で、ルニエ氏の指揮のもとにケルキラ島を出帆した。そして、アドリア海の北岸にそって進んだ。この海岸は南の対岸とちがって港が非常に多い。われわれは毎晩港に碇泊《ていはく》した。したがって、F夫人が夫とともにガレアス船へ夕食をとりにくるのをよく見た。航海はきわめて順調で、一七四五年十月十四日にヴェネチアの港へ錨をおろした。そして、ガレアス船の上で検疫期間を終わり、十一月二十五日に解放された。それから二か月後に、ガレアス船は廃止された。この型の船は非常に旧式で、古い昔から使用されていた。しかし、維持に金がかかり、効用もほとんど認められなかったのである。ガレアス船の船体はフリゲート艦と同じで、ガリー船と同様に腰掛がならび、風のないときには、そこで五百人の漕刑囚が櫂をあやつった。
この賢明な廃止が行なわれるまえに、元老院では一大論戦が展開した。反対する人々はいろいろの理由をあげたが、最大の理由は古いものを尊重し保存しなければならないということであった。この理由は滑稽に見えるが、どこの共和国でもいちばん強力である。重要なことであれ、瑣末《さまつ》なことであれ、新規という一語にふるえあがらない共和国はない。≪彼はリビティナ〔愛欲と死の女神で、葬儀を主催した〕の制定せることのみあがめぬ≫(ホラティウス『書翰集』)つねに迷信がさきにたつのである。
しかし、ヴェネチア共和国はけっしてガリー船を廃止しないであろう。この型の船は風がないときでもつねに狭い海域を自由に航行できて便利であった。また、もうひとつの理由として、漕役刑を課した囚人のやり場に困ったからである。
私がケルキラでとくに注意をひかれ奇妙に思ったのは、ケルキラには漕役囚の数が三千人にのぼることがよくあったが、なにかの罪をおかした結果この刑に処されるものが世間の指弾を受けているのに反し、みずからすすんで漕役を志願するものがある程度の尊敬を受けていることであった。私はいつもこれは理屈が逆だと考えていた。なぜなら、不幸は、どんなものであっても、一種の尊敬を要求するが、みずからすすんで奴隷的な仕事に身をおとすならず者は最大の軽蔑に値するからである。
この国では、漕役に従事するものは万事につけて一般の兵士よりもよい条件に恵まれ、いろいろの特権を与えられていた。そこで、多数の兵士が軍隊から脱走してガリー船の艦長に身売りをしに行く。兵士に逃げられた隊長は我慢しなければならない。脱走兵の引渡しを要求しても相手にされぬからである。ヴェネチア政府は当時にあっては兵士よりも漕役夫のほうが必要だと信じていたのである。しかし、現在ではこの考えはあらためられた(私はいま一七九七年にこれを書いている)。
漕役夫の特権のうちでとくに注目すべきものは、物を盗んでも罰せられないことであった。そうした罪は取るに足らず、当然ゆるすべきだと人々はいっていた。「まあ盗まれないように、ご自分で警戒するんですな。盗みの現場をつかまえたら、いくらなぐってもいいが、片輪にしないように気をつけてください。彼らに払った百デュカを弁償してもらわなければなりませんからな」とガリー船の隊長はいっていた。
裁判所も隊長が支払った金を弁償しなければ漕役夫を絞刑に処することができなかった。
[ヴェネチアへ帰る]
検疫期間を終えてヴェネチアに上陸すると、その足でオリオ夫人のところへ行った。しかし、夫人の家は空家になっていた。隣の人にきくと、夫人はローザ代訴人と結婚し、その邸へ引越したということであったので、すぐに訪ねていった。そして、おおいに歓迎された。彼女の話では、ナネッタはR伯爵と結婚し、夫とともにグアスタラへ行ったということであった。二十四年後に、彼女の息子と出会ったが、優秀な士官になって、パルマ王子に仕えていた。マルタはムラーノ島で修道女になっていた。彼女は二年後に、イエス・キリストと聖母マリアの御名《みな》により、会いに来てくれるなと手紙をよこした。その手紙には、あなたがわたしを誘惑した罪はゆるしてあげなければならない。なぜならわたしはあの罪を後悔するのに一生をささげ、永遠の救いを得ることを確信しているからだといい、あなたがキリスト教へ復帰するようにたえず神さまにお祈りをしていると結んであった。私は二度と彼女に会わなかったが、彼女は一七五四年に私の姿を見ている。それはそのときになったら話そう。
マンツォーニ夫人はあいかわらずであった。私が近東へ出発するまえに、あなたはいつまでも軍隊にとどまっている人ではないと予言したが、私が軍隊から身をひく決心をした、約束にそむいて他のものを昇進させるような不正は我慢できないというと、彼女は笑いだした。そして、軍職をひいたら、どういう職業につくのだときいたので、弁護士になるつもりだと答えた。彼女はまた笑いだして、それはおそすぎるといった。だが、私はまだ二十歳でしかなかった。
グリマーニ氏の邸を訪ねると、喜んで迎えられたが、弟のフランチェスコがどこにいるのかきくと、聖アンドレア要塞にいれてあるということで驚いてしまった。私がマルトラーノ司教の到着するまえに入れられていた要塞だ。
「フランチェスコはあの要塞で少佐につかえ、シモニーニ〔当時の有名な戦争画家〕の戦争画を模写して、金をもらっている。彼はこうして生活もできるし、絵もじょうずになっている」
「べつに監禁されているわけではないのでしょうね」
「まあ、そんな恰好《かっこう》ではあるな。要塞からかってに出るわけにはいかないのだから。少佐はスピリディオンという男、だが、ラツェッタの親友でな、少佐に頼んできみの弟を優遇してもらっている」
そのラツェッタがいつまでも私の家族につきまとって苦しめているのに驚き、どういう因縁なのだろうとあきれかえってしまったが、さらに、妹はいまでもラツェッタの家にいるのかときいた。彼女は母親といっしょに暮らすためにドレスデンへ行ったということであった。この便りは私を喜ばせた。
グリマーニ氏の邸から出ると、すぐに聖アンドレア要塞へ行った。弟はしごく元気に絵筆をにぎっていた。自分の身の上には満足でも不満でもなさそうだった。
「ここへぶちこまれるには、どんな罪をおかしたんだい」と、きいてみた。
「そりゃ、あそこへきた少佐にきいてみるといいよ」
少佐がはいってきた。弟が私を紹介した。私は敬礼をして、どういう理由で弟を留置しているのかきいた。彼は、
「きみに報告する義務はない」とつっぱねた。
「いずれわかるでしょう」
私は弟に帽子をかぶって外套を着ろ、いっしょに昼食を食いに行くからといった。すると、少佐が笑いだして、「歩哨がゆるしたら行ってもいい」といった。私は腹がたったが表にあらわさず、陸軍大臣に話しにいこうと決心して、ひとりで帰ってきた。
翌日陸軍省へ行った。さいわいにもなつかしいペロドロ少佐が居合わせた。彼はキオッジャの要塞に転任していた。私は弟のことについて長官へ嘆願しようと思っていることや、軍職を辞したいという希望を話した。彼は大臣の許可を得たらまえに払った金額で資格を売ってやるといった。そのうちに大臣がやってきて、三十分間で万事解決した。大臣は後任者が適当な能力をもつものと認めたら、辞職を許可しようと約束した。そのとき、スピリディオン少佐が姿を見せた。大臣は私の面前で厳重に少佐をしかりつけてから、弟を自由にするように命令した。そこで、昼食をすますとすぐに弟を迎えにいき、サン・ルカ地区のカルボン小路に家具つきの部屋をかりて、いっしょにすむことにした。
それから二、三日あとで辞職を許可され、百ゼッキーニの金を受け取って、軍服をぬいだ。
生計をたてるためになにか職業をえらばなければならないと考え、本職の博打うちになることにした。だが、運命の神が私の計画を支持してくれず、一週間とたたないうちに、一文なしになってしまった。そこで、ヴァイオリン弾きになろうと決心した。ゴッツィ先生から十分ヴァイオリンをおそわっておいたので、劇場のオーケストラで弾くくらいなんでもなかった。グリマーニ氏に斡旋を頼んだら、すぐに自分のサン・サムエーレ座に雇ってくれた。日当は一エキュ、これでどうやら自分ひとりは食っていける。しかし、こういう下賎な職についてしまっては、体面上からも、以前出入りしていた家庭や、親しくつきあっていた上流の人々とは、疎遠にするように心がけねばならなかった。きっと私のことをならず者と見なすであろうが、それは気にもとめなかった。人は私のことを軽蔑するにちがいないが、その軽蔑に値する人間ではないと思って、自分をなぐさめた。いままでのりっぱな資格からこんな身分におちたことを考えると、とても恥ずかしかったが、そうした心のうちはだれにも漏らさなかった。卑下した気持にはなったが、そのために自分をいやしめようとは思わなかった。運命の神を見かぎったわけでもないので、なお望みをつなぐことができると信じていた。運命の神は若いものでさえあれば、だれにでも相談なしに恩恵をほどこしてくれることを私は知っていた。私は若かった。
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第十七章
[軍職を去り楽師になる]
私は十分の教育を受けた。この教育は文学の基本的な素養に精神の種々の長所をくわえ、さらにいたるところでつねに人を引きつける人品骨柄《じんぴんこつがら》をもってすれば、当然のこと、青年を名誉あるりっぱな地位につかせるべきものであった。しかし、それにもかかわらず、私は二十歳にもなりながら、楽団の下っ端になった。楽団では優秀なものは尊敬されるが、平凡なものは、人から二束三文に軽蔑される。私はある劇場のオーケストラの一員となった。その地位では人の尊敬を要求すべくもなかったし、博士、聖職者、次に軍人という私の前歴を知り、私がお歴々の紳士淑女から歓待《かんたい》されるのを見た人々から嘲笑されるのも覚悟しなければならなかった。
そんなことはすべてわかりきっていた。しかし、軽蔑はいっこう姿を見せなかった。私の性格として、軽蔑にたいしては無関心でいられなかった。これは卑怯な振舞いにたいしてのみなされるべきものだと承知していたが、私にはかえりみてやましいところは全然なかったから、人の軽蔑を容赦できなかったのである。私が以前から求めてやまなかった尊敬については、しばらく野心を眠らせておいた。そして、だれにも従属しないのを喜びとし、将来のことに取越し苦労をせずに、暢気《のんき》に暮らしていった。
もしもあのまま僧侶となるように強制され、偽善の道によらなければ出世できないとなったら、自分で自分を軽蔑しただろう。また軍職をつづけていたら、とうてい我慢できないほどの忍耐をしなければならなかっただろう。職業はどんなものを選ぼうと、生活の必要を満たすだけの収入を生ずべきものだと私は信じていたが、共和国の軍隊から受ける給料では、とうてい足りなかっただろう。私の欲求は、受けてきた教育のために、ほかの連中よりはずっと大きかったからである。ヴァイオリンを弾いていれば、だれのやっかいにもならずに、暮らしをたてられるだけのものがかせげた。みずから足りると自負できるものは幸いである。
私の仕事は高尚ではなかったが、そんなことは気にもかけなかった。そして、いっさいを偏見と見なし、わずかのあいだに下種《げす》びた仲間の習慣をすべて身につけた。劇場がはねると、彼らとともにキャバレーへ行き、ぐでんぐでんになるまで飲んで、悪所で夜をすごした。客がたてこんでいると、割りこんでいって追っ払った。ときにはわれわれの獣性の玩具になる不幸な女たちにたいして法律が定めた謝礼すら踏みたおした。だが、こういう乱暴のために、見えすいた危険に身をさらしたことが何度あったかしれない。
ときにはひと晩じゅう町から町をうろつき、想像できるかぎりの悪戯《いたずら》をしてまわった。個人の家の岸につないであるゴンドラの綱をといておもしろがつた。ゴンドラは潮にのって大運河を右へ左へ流れていった。翌朝、ゴンドラがつないでおいたところにないのに気づいて、船頭がわめきちらすのを聞くのが楽しみだった。
またよく産婆を起こしにいった。産婆はさっそく服を着て出かけ、いわれた家へお産をさせにいったが、向うへ着くと狂人扱いをされた。有名な医者にたいしても同じ悪戯をし、えらい殿さまが卒中におそわれたからすぐに来てくれといって、ぐっすりねているところをたたき起こした。坊主にたいしても同じ筆法で、本人はぴんぴんしているのに、死にそうだから魂を救いに来てほしいと寝床から引きずりだした。
歩いていくすべての通りで、家々の戸口にぶらさがっている呼鈴の紐を容赦もなく切ってしまった。閉め忘れて開いている扉を見つけると、手さぐりで階段をあがっていって、部屋の戸を片っ端からたたいて眠っているものを驚かし、門口の扉があいているとわめきたてた。そして、はいっていったときと同様、扉をあけっぱなしにして逃げだした。
あるまっ暗な夜、われわれは大きな大理石のテーブルをぶちこわそうときめた。これは町の記念物のようなもので、サンタンジェロの広場のほとんどまんなかにおかれていた。人の話によると、ヴェネチア共和国とカンブレー同盟〔一五〇八年、法王ユリウス二世、皇帝マクシミリアン、フランスのルイ十二世、アラゴンのフェルディナンドのあいだでヴェネチアに対抗して締結された同盟〕とのあいだに戦争がおこったとき、このテーブルの上で、サン・マルコ(ヴェネチア共和国のこと)の兵役を志願した新兵へ役人が金を支払ったという。
鐘楼へはいりこめたときには、大喜びで、火事を知らせる警鐘を鳴らして教区じゅうを驚かしたり、釣鐘の綱を残らず切ってしまったりした。大運河を渡るときには、同じゴンドラへ乗らずに、めいめい一艘ずつ、コンドラを雇い、向う岸へ着くと、金を払わずに逃げだして、船頭に追いかけさせるのを楽しみにした。
町じゅうのものがこうした夜の悪戯に文句をいいはじめた。そして、民衆の安寧《あんねい》を妨害する犯人を逮捕しようと、警察は躍起になって捜索したが、われわれは鼻のさきで笑っていた。しかし、お互いに秘密はかたくまもらなければならなかった。もしも悪戯が露顕したら、しばらくは十人委員会のガリー船を漕がされて、世間のやつらを嬉しがらせなければならなかったからだ。十人委員会はサン・マルコの小さい広場のふたつの偉大な円柱の正面にあった。
われわれは総勢七人だったが、ときには八人になった。そのひとりは弟のフランチェスコで、私は弟が大好きだったので、よく仲間に入れてやった。しかし、次のような事件が起こって、われわれは恐怖心から悪戯にブレーキをかけ、ついにはやめなければならなかった。
ヴェネチア全市の七十二の教区には、それぞれ一軒ずつマガツェニ(雑貨店)と呼ばれる大きな居酒屋があった。そこでは酒の小売りをし、ひと晩じゅう店をあけていて、町のほかの居酒屋より安く飲めたし、食事もできた。その居酒屋ではまた肉屋から好きな料理をとって食べることもできた。肉屋は制度によってそれぞれの教区でほとんどひと晩じゅう店をひらいていた。その料理はえらくまずかったが、なんでも安かったので、貧乏人にはたいへん重宝だった。ふつうの居酒屋でさえ、貴族や裕福な中流市民の姿はいっこう見えなかった。あまり清潔とはいえなかったからである。だから、これらの店には下層の連中だけしか来ず、いくらも小部屋があって、テーブルのまわりには長い腰掛がおいてあった。
[八人のならず者と人妻]
おりしも一七四五年の謝肉祭で、夜半の十二時の鐘もとうに鳴った。われわれは八人だった。みんなマスクをつけ、なにか新しい悪戯を発明して仲間からほめられようと考えながら、町をうろついていた。そして、サンタ・クローチェ(十字架)と呼ばれる教区のガマツェニのまえへさしかかったとき、一杯飲みたくなった。そこで、店へはいって、歩きまわってみると、とある部屋で、おだやかそうな三人の男がかなりきれいな女を相手に酒を飲んでいた。われわれの隊長格はバルビ家から出たヴェネチアの貴族だが、あの三人の野郎どもを別嬪《べっぴん》さんとべつべつにどこかへさらっていって、別嬪さんを思う存分楽しむという趣向はどうだ。斬新《ざんしん》奇抜な遊びじゃあるまいかといった。そして、計画をくわしく説明したので、みんな賛成した。そこで、いろいろ打ち合わせたあげく、しっかりマスクをつけて、隊長を先頭にその部屋へはいっていった。彼は素顔を見せても人相をおぼえられる心配はないと思い、マスクをぬいで、驚きあきれている三人の男にこういった。
「十人委員会の長老たちの命令できみらを連行する。おとなしくついてこい。命令にしたがわぬと死刑だぞ。ところで、奥さん、あなたはなにも心配はいらん。お宅まで送りとどけてあげる」
言い渡しが終わるとすぐ、仲間のふたりは女をおさえつけ、隊長が指示した場所へ連れていった。われわれ残ったものは三人の男をひったてた。彼らはがたがたふるえだし、抵抗することなど考えもしなかった。そこへ居酒屋のボーイがとんできて、支払いをもとめた。隊長は金を払い、他言したら死刑だとおどかした。われわれは三人の男を大きな船に乗せて連れていった。隊長が船尾に乗り、船頭には船首で漕げと命じた。船頭は行先もわからずに命令のまま漕がなければならなかった。行先はすべて船尾の隊長の腹のなかにあった。われわれさえ、三人の気の毒な男を隊長がどこへ連れていくつもりなのか、全然知らなかった。
船は外海へ出る道をとっていった。そして、運河を出ると、十五分ばかりでサン・ジォルジォ島へ着き、そこで三人をおろした。彼らは殺されるのかと気が気でなかったので、そこにおろされると大喜びであった。それから、隊長はさすがに疲れたらしく、船頭を船尾に呼び、サン・ジェレミアへ船をまわせと命じた。そして、到着すると、十分に金を払って船を捨てた。
サン・ジェレミアからサン・マルクオラの製櫓場の小さい広場までいそいで行った。そこには弟ともうひとりの仲間がめそめそ泣いている女をなかにはさんで、片隅で地面へすわって待っていた。
「別嬪さん、泣くんじゃないよ。べつに悪いことはしないからね。では、リアルトへ行って一杯飲み、それからお宅へ送っていこう」
「うちのひとは、どこにおりますの」
「あしたの朝になれば会えるよ」
女はこの返事に安心し、羊のようにおとなしくなって、いっしょに≪二本の剣≫旅館までついてきた。上のほうの部屋へ火をさかんにたかせ、飲物や食物を持ってこさせてから、給仕を引き取らせた。そこで、われわれはマスクをとった。とらわれの女はわれわれの若くいきいきした顔つきや態度物腰を見て、すっかりくつろいだ気持になったらしい。それから、いろいろしゃべったり、葡萄酒を飲ませたり物を食べさせたりして、女を元気づけ、彼女が当然覚悟していたはずのことがはじまった。もちろん、隊長が一番槍をつけて、愛の供物をささげた。彼女はみんなの見ている前で彼の愛情を受けるのをしぶったが、彼は礼儀にかなった態度でなだめすかした。それで、彼女もいっさいを冗談事と見なそうというよい決心をし、なすがままにさせた。
私が二番槍をうけたまわってそばへよると、彼女は驚いたように見えた。そして、感謝をしめさなければならないと思ったらしかった。それから、三番目のものを見ると、幸福な運命が食卓をともにしたすべての面々を彼女に味わわせようとしていることをもはや疑わなかった。それはまさにそのとおりであった。ことわったのは弟だけであった。彼は病気だというふりをした。ほかに理由が考えられなかったからである。というのも、仲間のあいだには何事も行動をともにしなければならないという掟があったからである。
こうしたうるわしい勲功をたててから、われわれはふたたびマスクをかぶり、旅館の主人に金を払って、サン・ジォッベの家へ幸福な女を連れていったが、彼女がドアをあけるまでちやほやとごきげんをとった。彼女は心からあつく礼を述べたので、みんな笑いこけてしまった。そのあとで、われわれは別れ、めいめい自宅に帰った。
翌々日になって、この悪戯が評判になりだした。若い女の夫はほかのふたりの友人と同じく紡績工であった。彼らは三人連名で、十人委員会へ訴状を提出し、事実をありのままに報告した。事件の凶悪さはある一点で手加減されていたが、それは三人の裁判官をはじめ全市の人々を失笑させずにはおかなかった。訴状にはマスクをした八人の男は女にたいして全然危害をくわえなかったと書いてあったのである。彼女を拉致《らち》したふたりの覆面男は彼女をしかじかの場所へ連れていき、一時間後にほかの六人がやってきて、いっしょに≪二本の剣≫へ行き、一時間のあいだ飲食についやした。彼らはそれから女を自宅へ送りかえし、夫に悪戯をしたことをゆるしてほしいと詫《わ》びた。いっぽう、三人の男は夜の明けるまでサン・ジォルジォ島をはなれることができなかった。夫が家に帰ると、妻はベッドのなかでぐっすり眠っており、目をさましてから、一部始終を語った。彼女が苦情をいうのは、非常な恐怖を感じさせられたことだけで、これにたいして正当な裁判と処罰を要求するというのであった。この訴状では、どこをとってみても滑稽だった。夫は八人の覆面男の隊長が尊ぶべき裁判所の名を口にしなかったら、三人ともあのようにやすやすと瞞着《まんちゃく》されはしなかったと力みかえったのだった。
この訴えには三つの効果があった。第一は町じゅうを笑わせたこと。第二は例の細君から事情をきくために暇人どもがサン・ジォッベへ足を運んだこと。第三は裁判所が布告を出し、下手人を発見したものに五百デュカの懸賞金をかけたことである。布告には、隊長以外の者なら一味の仲間でもいいと記してあった。
われわれのなかで密告しそうな性格は隊長だけであったから、この布告は、隊長がヴェネチア貴族でなかったら、われわれをふるえあがらせたであろう。隊長のこの資格から考えて、たとえわれわれのうちのだれかが五百デュカの金を手に入れるために裏切り行為をしたとしても、裁判所はなにもできないであろうと私に確信させた。貴族を処罰せざるをえなくなるからである。われわれはみんな貧乏だったが、そういう裏切者はひとりもいなかった。しかし、みんな怖気《おじけ》づき、すっかりおとなしくなって、夜歩きもやめてしまった。
三、四か月ののち、裁判所判事をしていたニコロー・トロン勲爵士は事件の模様を残らず私に語り、仲間のひとりひとりの名前をあげたので、私はびっくりしてしまった。
[思いがけないチャンス]
翌一七四六年の春のなかば、コルナロ・デラ・レジナ家の長子ジロラモ・コルナロがソランゾ・ディ・サン・ポロ家の一令嬢と結婚した。ソランゾ宮ではこの婚儀を祝って三日間舞踏会をもよおした。この盛儀に呼ばれた多くの楽団のひとつのヴァイオリン弾きとして、私もその舞踏会につらなった。
三日目の夜明けの一時間まえ、そろそろ、祝宴の終わるころ、私はつかれたので、まっすぐ家へ帰るつもりで楽団の人々と別れ、階段をおりていった。すると、赤い服を着た元老院議員がゴンドラに乗ろうとしているのに気がついた。彼がポケットからハンケチを出そうとしたとき、一通の手紙が足もとにおちた。私はいそいでその手紙をひろい、りっぱな殿さまが石段をおりきったところへ追いついて、手紙を渡した。彼は私に礼をいい、私の住所をきいた。私が住所をいうと、どうしても送ってやるといってきかなかった。そこで、好意を受けることにし、彼と並んで腰掛にすわった。三分ののち、彼は私に左の腕をゆすぶってほしいと頼んだ。
「わしはな、この腕がひどくしびれて、まったく腕がついていないような気がするのだ」といった。私は力いっぱいにゆすぶってやったが、やがて、呂律《ろれつ》のまわらない声で、脚も付け根からしびれてきた、死にそうな気がするというのが聞こえた。
私はびっくりして、カーテンを引き、角灯をとって、彼の顔を見た。すると、口が左の耳のほうへまがり、目が死にそうになっていたので、すっかりおびえあがってしまった。
そして、船頭たちに、閣下は卒中をおこされた。医者を呼んできて瀉血《しゃけつ》をさせるのだから、船をとめて、おれをおろしてくれとどなった。
船からおりると、そこはベルナルド街の橋のそばで、はからずも三年まえにラツェッタを棒でぶちのめしたところであった。私はカフェへ走っていって、医者の住居をきくと、医者の門口をどんどんたたき、大声でどなった。人が出てきて、医者を起こした。私は医者をせきたてて、着がえをするひまも与えなかった。医者は私にひっばられてゴンドラへ来て、瀕死の病人に瀉血をした。私はシャツを切って包帯をしてやった。
それから、すぐにサンタ・マリーナの邸へ行き、下男たちを起こして、病人をゴンドラからかつぎ出し、二階の閣下の部屋へ運んだ。そして、服をぬがせ、ほとんど死んだにひとしい病人をベッドにねかせた。私は下男に医者を呼んでこいと命じた。下男は出ていって医者を連れてきた。その医者はふたたび瀉血をした。しかし、私はこのまま帰ってしまってはいけないような気がし、ベッドのそばにつきそっていた。
一時間ばかりたつと、友人の貴族が訪ねてきた。やがてまたもうひとりやってきた。彼らはすっかり絶望して、船頭たちに事情をきいた。船頭たちは私を指さし、自分らよりもあの方のほうがずっとくわしく知っていると答えた。そこで、彼らは私にいろいろ問いただした。私は知っていることをすべて話してやった。彼らは私がだれだか知らず、また聞きもしなかったので、私もなにもいわなかった。病人は身動きもせずにねていた。まだ生きているしるしとしては息がかよっているだけであった。医者は温罨法《おんあんぽう》をした。呼ばれてきた神父は病人の死ぬのを待っていた。見舞い客をことわったので、ふたりの貴族と私とだけが枕元につきそっていた。翌日の正午に、その部屋から出ずに、彼らとともに軽い昼食をとった。夕方、年をとったほうの貴族が用事がおありならお引き取りください。わしらは敷蒲団をもってこさせて、病人のそばで朝までねることにするからといった。そこで、私はいますわっているこの肘掛椅子で寝ます。わたしが帰ると、ご病人がなくなってしまうような気がするのです。しかし、わたしがついているかぎり、けっしてなくなるようなことがないと保証しますと答えた。ふたりの貴族はこのしかつめらしい返事にびっくりして、顔を見合わせた。
夕食のときに彼らの口からきいたところでは、死にかかっている殿さまはブラガディーノ氏といい、同じ名の行政長官のたったひとりの弟であった。このブラガディーノ氏はその雄弁と政治的才能を高く評価されていたが、また青年時代に放蕩で頭角をあらわし、濃艶な情事の数々でも有名であった。彼は女のためにばかのかぎりをつくし、女も彼のために羽目《はめ》をはずした。彼はおおいに博打をうち、おおいに損をした。兄の行政長官は弟が自分を毒殺しようとしていると思いこみ、不倶戴天《ふぐたいてん》の敵となった。そして十人委員会に弟を告訴した。委員会は八か月の慎重審議の結果、全会一致で無罪を宣告した。しかし、それでも兄は意見をかえなかった。
弟はこうして不正な兄から無実の罪をきせられただけでなく、収入の半分を横領されてしまった。しかし、彼は友情にめぐまれ、温厚な哲学者として、ゆたかに暮らしていた。ブラガディーノ氏にはふたりの親友があった。それは私の前にいるふたりだったが、ひとりはダンドロ家、他はバルバロ家の人で、いずれも彼と同じく親切で愛想がよかった。ブラガディーノ氏は美男子で、博学で、冗談好きで、おだやかな人であった。当時の年は五十歳にしかならなかった。
医者はフェロという名前だったが、病人を治そうと躍起になって、独特の理屈から、胸に水銀剤を塗れば健康を回復させることができると想像した。人々は彼の意見にしたがった。この薬の急速な効能は、ふたりの友人からよい意味に解釈されたが、私は不安にかられた。その急速さは二十四時間とたたぬうちに、病人がひどい脳震盪《のうしんとう》をおこす気配を見せたことにあらわれた。医者は水銀の塗布がこういう結果をしめすことはわかっているが、あしたはその力が頭からうすらいで身体のほかの部分に移るであろうが、病人の身体は技術によって血液循環の均衡をうながし、活気づける必要があるといった。
夜半の十二時にブラガディーノ氏ははげしい高熱をおこし、死ぬほどの苦しみにもだえた。立ちあがってのぞいてみると、目に生気が失せ、息もたえんばかりであった。私は敷蒲団からふたりの友人を起こし、病人を殺そうとしている薬を取りのぞかなければいけないといった。そして、彼らの返事を待たずに、胸をあけ、塗布剤をはぎとって、ぬるま湯できれいにふいた。すると、三、四分で病人は熱がひき、すっかり楽になって、やすらかな眠りにおちた。われわれはふたたびねた。
医者は翌朝非常に早くやってきて、病人の容態がよくなっているのを喜んだ。ダンドロ氏がゆうべしたことや、それによって病人が持ち直したように見えることを話した。すると、医者はこんなことをすると病人を殺してしまうと文句をいい、だれが自分の療法をめちゃくちゃにしたのだときいた。ブラガディーノ氏はわしを殺そうとしていた水銀剤から救ってくれたのは、きみよりもずっと学のあるべつの医者だといった。そして、私を指ししめした。
そのとき、われわれふたりのうち、どっちがいちばん度胆をぬかれたか、私にはわからない。きみよりも学のある男として、見も知らぬ若者を見せられた医者か、たちまち名医にでっちあげられた私か。私は吹きだしたいのをむりにおさえて、てれくさく、つつましやかな沈黙をまもっていた。医者のほうは私をにらみつけ、私のことを彼にとってかわろうとするずうずうしいペテン師だと見なした。それもむりからぬことである。医者は病人に向かって冷ややかにこの男に席をゆずるといった。そしてその言葉どおりに承諾された。こうして、彼は帰っていって、私はヴェネチア元老院のもっとも著名な議員の主治医になった。しかし、心のなかでは大喜びであった。私は病人にこれからは養生さえすればいい、気候がよくなるから、ほかの事は自然がうまくやってくれるといった。
ひまを出されたフェロ医師はこの話を町じゅうへ吹聴した。しかし、病人は日増しに快方へ向かっていったので、ある日見舞いに来た親戚のひとりが劇場のオーケストラのヴァイオリン弾きを主治医に選んだのを世間が驚いているといった。ブラガディーノ氏は笑いながらヴァイオリン弾きでもヴェネチアじゅうの医者よりも腕がいいかもしれないと答えた。
[カバラの予言]
この殿さまは私の言葉を神託のように聞いた。ふたりの友人も驚いて、同じように私に注意を向けた。私はこうした心服ぶりに勇気をかきたてられて、医学者めいた口をきき、ひとりよがりの議論をし、読みもしない大家の説を引用したりした。
ブラガディーノ氏は純正科学に夢中になる弱点があったが、ある日、きみは青年としては博識すぎる、だから、なにか超自然的な力を身につけているにちがいないといい、真実のことを話してほしいとせがんだ。
そこで、私はそれは思いちがいだといって彼のひとりよがりの空想を傷つけるにしのびなかったので、珍妙な一計を案じ、ふたりの友人の前で次のような嘘八百のばからしい打明け話をした。つまり、私は数字による予言の方法を心得ているが、それはまず質問を紙に書き、その文章を数字によって置きかえる。それから、知ろうと望むことをすべて教える答えを、これまた数字で受けるのだが、この答えはだれも与えられないようなものだというのであった。ブラガディーノ氏は、それはソロモンのクラヴィクラ(占術書)、俗にカバラ(算易《さんえき》)と呼ばれるものだといった。そして、その学問をだれから習ったのかときいた。
「スペイン軍にとらわれていたあいだにカルペーニャの山のなかに住んでいた隠者からおそわったのです」と私は答えた。すると、彼は、
「その隠者はきっときみの知らぬ間に、うかがい知ることのできぬ知性を数字の計算へないあわせたにちがいない。簡単な数字にはとうてい推理の能力などありえないから」と答えた。そして、
「きみはえらい宝をもっているのだ。きみの気持次第では、その宝から巨大な利益が引き出せるぞ」といった。
そこで、巨大な利益を引き出せるといわれても、どういう方法をとったらいいか見当がつかない。まして、自分の計算の与える答えが自分にもよくわからず、それで、しばらくまえから嫌気がさして、ほとんど質問を出したことがないと答えた。そして、こうつけくわえた。
「しかし、もしも三週間まえにこのピラミッド占術〔数字を文字化する術や、文字を数字化する術は、カバラ術者の得意の手だった。ヘブライのアルファベット二十二文字は文字も数字も表現できるので、ふたつのことなったアルカナ(神秘の意)をピラミッド形に並べることが可能だった。すなわち二十二文字によるいわゆる「大神秘」と、一から九までの数字による「小神秘」とのふたつ。このアルカナはオリエントから中世の魔術師や錬金術師へ、さらに彼らから薔薇十字団員に伝わった。アグリッパ(一四八六〜一五三五)は、この問題を詳細に扱った著作を一五一〇年に出版している〕をやっておかなかったら、閣下のご面識を得る幸福を得られなかったでしょう」
「それはどういうことだな」
「ソランゾ家の祝宴の二日目の日に、私は託宣にこの舞踏会でだれかぜひとも会いたい人に会えるかどうかうかがってみたのです。すると、十時(午前四時)きっかりに祝宴から引きあげよという答えでした。これは日の出の一時間まえです。それで、そのとおりにしましたら、閣下にお目にかかったのです」
ブラガディーノ氏とふたりの友人は驚きのあまり石になったようであった。やがて、ダンドロ氏は、ではひとつ質問を出すから、それに答えてほしい。しかし、質問の内容はわししか知らぬことだから、回答の解釈もわしにまかせてほしいといった。そして、質問を書いて私に渡した。私はそれを読んだが、質問の内容も事実もかいもくわからなかった。しかし、それはどうでもよいことで、ともかく私は答えなければならない。質問が全然理解できないほど曖昧なのだから、返事も同様に自分にさえわからないことでなければならない。そこで、ふつうの数字によって四つの詩句を答えとして差し出した。それをいかように解釈しようとさきさまのご随意なのだから、私は解釈についてはひどく無関心をよそおっていた。ダンドロ氏はそれを読み、さらに読みかえし、非常に驚いたようすで、この人はなんでもわかるのだ。神業《かみわざ》だ。またとないことだ、天の至宝だ、数字は媒介物にすぎぬが、回答は不滅の知性から発するものにほかならないとさけんだ。
ダンドロ氏があまり感激するので、バルバロ氏とブラガディーノ氏にもそれが伝染して、雑多な問題について質問を出した。私の答えは自分には全然わからなかったが、いずれも神業だと見えた。私は彼らに喜びを述べ、これまでは全然重きをおいていなかったが、こういう能力を持っているのは嬉しい。みなさんのお役にたつとわかったら、今後はせいぜい身を入れてやってみようといった。
そこで、彼らは三人口をそろえて、その算易の規則をおそわるには、どれほど時間がかかるのかときいた。私はそれはほんのわずかな時間です。隠者は五十になるまえにだれかに教えたら、三日以内に頓死《とんし》するといったが、かまやしない、そんな脅迫など信用していないのだから、すぐにも教えてあげると答えた。
すると、ブラガディーノ氏が非常に真剣な口調で、それは信用しなければいけないといい、その後は、三人とももはや算易の秘訣を教えてもらおうとしなくなった。私を手もとへひきつけておけば、自分で秘訣を体得するのと同じことになると考えたのだ。こうして私は三人の男の大神官となった。彼らは非常に誠実で親切だが、三人とも私の嘘八百を学問の神秘と呼んで凝《こ》りかたまってしまったところを見ると、けっして頭はよくない。精神的に不可能なことを可能だと信じこんでいる。彼らは私を権力下におくことで、哲人の石を、不老不死の薬を、基本的な精霊〔カバラ術者によると、物質を統轄するきわめてつかまえにくい精霊、ノウメ(地の精、年寄の小人の姿をしていて、地中の宝をまもると信じられた)、ウンディネ(水の精)、シルフ(空気の精)、サラマンダ(火の精)のこと〕との交通を、天界の知性を、すべて手に入れ、さらにヨーロッパ各国の内閣の秘密をすらつきとめられると思いこんだ。彼らはまた魔法をすら信じ、これに隠微《いんび》学という仰々しい名前を与えた。
彼らは過去のことについての種々の質問で、私の算易の神秘な力をたしかめると、現在および未来のことについても質問して、これを利用しようと決心した。その予言はむずかしいことではなかった。なぜなら、私はいつも二様の意味にとれる答えしか与えなかったからだ。しかも、そのひとつの意味は自分にだけしかわからぬもので、事件の起こったあとではじめて解釈がつくというふうにしておいた。私の算易はデルフォイの神託のように、けっしてあやまることがなかった。
そこで、古代の偶像教の神官たちにとって、無知で信じやすいやからに託宣を強制するのが、どんなに易々たるものであったかがわかった。しかし、さらに私を驚かしたのは、聖なるキリスト教の教父たちが、わが福音書の著者たちほど単純でも無知でもなかったのに、託宣の神秘性を否定できぬものと信じ、これを悪魔のせいにしたことである。彼らは、もしも算易ができたら、そうは考えなかっただろう。私の三人の友人はこうした聖者たちに似ていた。彼らは私の解答が霊験あらたかなのを見、しかも私を悪魔と見なすほど人が悪くもなかったので、私の託宣が天使の加護によるもののように思いなした。
この三人の殿さまはその宗教にたいして非常に忠実なキリスト教徒であったばかりでなく、信心ぶかく、小心翼々と戒律をまもっていた。いずれも独身で、女を見かぎってからは、その相容れない敵となっていた。彼らによると、この女性嫌悪は、いやしくも常識ある男なら、自分に交際をもとめてくる人々にたいして要求する主要な条件だということであった。つまり、友を求めるか女を愛するかの二者択一であった。
[大金持の殿様になる]
三人の貴族と交際をはじめた最初のころ、私がたいへん奇妙に感じたのは、彼らがいわゆる精神主義者であったことである。先入観にとらわれた精神は正しく推理できない。しかし、肝要なのは何事も正しく推理することにある。彼らがわがキリスト教の秘儀について論じているのをきいて、私はよく腹のなかで笑ったものだ。彼らは知的能力が低くて、この秘儀を不可解だとするものを嘲笑し、御言葉《みことば》のご託身は神にとってはなんでもないことだし、キリストの復活も些細なことで、格別驚くに足りない。なぜなら、肉体は付属物にすぎず、神は死ぬことがないのだから、イエス・キリストは当然復活すべきものだったのだ。また聖体の秘跡、つまり神の現実的存在、パンと葡萄酒をキリストの肉と血に変化させる化体《けたい》も、≪前提が容認されたるゆえに≫きわめて明白なことである、というのであった。彼らは毎週懺悔に行ったが、懺悔僧の無知をあわれみこそすれ、その前にでてもけっしてたじろがなかった。自分で罪だと思うことだけしか懺悔する必要がないと信じていたからで、この理屈はおおいに正しかった。
この変人たちは、誠実さ、家柄、信用、年齢からいっても尊敬すべき人々であったので、私は非常に愉快な日々をすごした。ただし、彼らはあくなき知識欲をもっていて、ときによると、人を近づけずに、四人だけで、一日に八ないし十時間も一室にとじこもり、私を苦しめることがあった。
私はそれまでの一生におこったことをいろいろ話して、彼らを親しい友人にした。その話はかなり詳細にわたったが、彼らが神にたいしてよしなき罪をおかすのをおそれ、いままで書いてきたことを残らず全部というわけにはいかなかった。
デルディモプロが女神の神託をうかがいに行ったギリシャ人をあざむいたように、私も彼らをあざむいていることは、自分にもよくわかっており、したがって、言葉の厳密な意味からすれば、誠実な人間として行動していないことも承知していた。しかし、もしも読者が処世の知恵をお持ちなら、私を寛大の措置に値しないと断ずるまえに、しばらくお考えを願いたい。
もしも私が純粋な道徳を堅持しようとしたら、彼らと交際すべきでなく、あるいはまた彼らの迷いをさますべきであったと、読者はいうであろう。しかし、彼らの迷いをさますことは、断じていうが、不可能であった。自分にそれだけの力があるとは思われなかった。彼らは笑いだして、私を物知らずとさげすみ、私を追っ払ってしまっただろう。そんなことをしても、彼らから全然感謝されないだろう。しかも私は彼らの使徒となる使命など少しも持ちあわさなかった。また彼らが幻想家だとわかったとたんに、交わりを断つという雄々しい決心ができたかどうかという点だが、それには厭世家《えんせいか》たるにふさわしい道徳をもつ必要があったろうと答えよう。しかし、厭世家は人間と自然と礼儀とおのれ自身とへの敵である。ところが、私はよい生活をし、体質に応じた快楽を楽しむ必要のある青年として、ブラガディーノ氏を見殺しにするようなことはできなかったし、また彼ら三人の誠実な男を悪辣《あくらつ》な詐欺師の瞞着にゆだねるような、不実なこともできなかった。そういう詐欺師はきっと彼らを仲間に引きずりこみ、錬金術などという荒唐無稽《こうとうむけい》な仕事に血道をあげて破産させてしまっただろう。それにまた、自分が無知で、傲慢《ごうまん》で、礼儀知らずのために、彼らの友情に値しない人間だとはっきりいうのは、私のはげしい自尊心がゆるさなかった。彼らとのつきあいを軽蔑すれば、自分にそういう弱点のあることを、あきらかに証明することになる。
こういうわけで、私はきわめてりっぱで、高尚で、また自然の理にかなう方法をとることにきめた。つまり、もう衣食住に困らないようにしようという決心である。生きるための必要については、私ほど痛切にその重要性を知っているものはあるまい。
とにかく、三人の人物の友情のおかげで、私は尊敬と信用を与えられる資格のある人間になった。しかも、それがわが祖国でのことなのだからたいしたものだった。そのうえまた、さらに嬉しかったのは、目に見る精神現象の原因をつきとめようとする暇人たちの話題になり、議論の対象になったことである。
ヴェネチアでは、ああいう性格の三人の人物と私とのあいだに、どうして親密な関係がはじまったのか、人々は理解できなかった。なにしろ、三人はまったく天上的なのに、私はどこまでも現世的であったからだ。彼らは身を持するに厳格な君子たちであったのに、私は放蕩三昧《ほうとうざんまい》の俗人であったからだ。
夏のはじめに、ブラガディーノ氏は元老院へ出られるまでに健康を回復した。はじめて外出するという日の前日、私に次のようなことをいった。
「きみがだれだろうと、わしはきみのおかげで命びろいをした。いままでのきみの保護者たちは、きみを司祭に、博士に、弁護士に、兵士に、それからヴァイオリン弾きにしたが、いずれもきみの価値を知らぬばか者だった。そこで、神さまは天使に命じて、わしの手のなかへきみを送ってこられた。わしはきみの人となりがよくわかった。もしもわしの息子になる気があるなら、わしを父と見なしてくれさえすればいい。そうしたら、今後は死ぬまでこの家できみを息子として待遇しよう。きみの部屋はもう用意してあるから、衣類を運ばせたらいい。きみのために下男をひとり、ゴンドラを一艘つけてやろう。食事もわしといっしょにし、月々十ゼッキーニあげよう。きみの年では、わしも父親からそれ以上の手当はもらわなかったのだからな。将来のことにくよくよする必要はない。ただ遊ぶことを考えるんだな。そして、どんなことが起ころうと、なにを目論もうと、わしに相談するがいい。どんなときでも、きみのよき友だちになってやるから」
私はすぐ彼の足もとにひれふして、心からなる感謝をあらわし、彼を父という嬉しい名前で呼んだ。そして、息子としての服従を誓った。同じ邸に住んでいたふたりの友人も私を抱擁し、互いに永遠の友情を誓いあった。
わが親愛なる読者よ、以上が私の変身の顛末《てんまつ》であり、いやしいヴァイオリン弾きからお歴々の身分へ飛躍した幸福な時代の物語である。
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解説――カザノヴァ管見
八千五百枚におよぶ原稿を一気に訳し終えて、いま私は心身消耗、腑抜けのようになっているが、夜に日をついでペンを走らせたこの十五、六か月、カザノヴァはその異様に充実した生活で私を十分にみたしてくれた。生まれおちたときから小市民階級のちいちいした規律になじんできた私にとっては、カザノヴァのような破天荒な傑物は人倫を絶した怪物でしかない。この怪物を理解するなどということは≪群盲象を撫《な》ず≫の図であろう。しかし、日夜侍従のようにかしずいているあいだに、この巨象がスペインのドン・フアンのような冷血無残な魔物ではなく、温かい血のかよったふつうの男であることがどうやらわかってきた。この男はある点をのぞけば――その点がカザノヴァの名を不朽にしたのだが――凡庸な私とちがわない喜怒哀楽に右往左往している、ということに気がついて、私は気がらくになり、彼の人となりを揣摩臆測《しまおくそく》してみる気になった。
ジャーコモ・カザノヴァは一七二五年四月二日にヴェネチアで生まれた。父親は喜劇俳優でガエターノ・カザノヴァ。母親は夫の死後舞台にのぼって女優になった。伝記作者のなかにはヘルマン・ケステンのように彼の実父を貴族のミケーレ・グリマーニだときめているものもある。それかあらぬか、このグリマーニはカザノヴァの後見者となるが、だいぶもてあまし気味のようすが見える。
それはとにかく、『回想録』は一七二五年の出生から一七七四年、つまり四十九歳の春までがしるされている。彼は一七九八年に七十三歳で死んだから、回想録以後二十五年生きていたことになるが、このあいだの自伝はない。じっさい、一七九三年七月に彼はドイツの詩人オーピッツに宛てた手紙で、「私の回想録のことですが、途中で筆をおくことになるかもしれません。というのも、五十歳をすぎると、もはや心をいためることしか書けないからです。そして、もう一度私をみじめな気持にさせることでしょう。私が回想録を書いたのは、読者とともに楽しむためだったのですから」といっている。
事実、回想録の終わったあとの二十五年間はみじめな敗残の姿をむきだしにして、意地のつよい彼には耐えがたいものであったらしい。前半生が極度に華やかでしかも濃艶であっただけに、≪命長ければ恥多し≫を地でいった思いであったろう。彼の生涯も、兼好法師ではないが、四十歳で終わっていたら、どんなに後味がよかったかしれない。
このカザノヴァをカザノヴァたらしめたいろいろの特性をここで考えてみようと思うが、第一にあげるべきものは非常な美男子であったことだ。一七六四年のある日、ドイツのフリートリッヒ大王がサン・スーシーの庭園を彼と散歩していたとき、ふと足をとめて、彼の顔をまじまじとながめ、「ところで、あなたはすばらしい美男子ですね」といったという逸話は非常に有名だが、顔が美しかっただけではなく、背が高く、威風堂々としており、顔色が浅黒くて男らしい逞《たくま》しさをしめし、衣服もじつにきらびやかで、いかにも高貴なひとらしく悠揚せまらない風格であったようだ。しかも、弁舌さわやかで人を魅し、挙措《きょそ》動作には下賎な生まれをあばく野暮たらしさが微塵もなく、上流階級の礼儀作法を十分身につけ、生え抜きの貴族といってもだれも疑わないほどであった。
こういう彼が下賎の身ながら貴族的な矜持《きょうじ》をもち、つねに自分を別格のものと考えていたのは当然である。彼は元来大公の御曹子たるべき資質を十分に身につけて生まれてきたものであったのだ。それなのに喜劇俳優の子として、あるいは貴族の私生児として生まれてきた運命の矛盾が彼の一生をあやつる原動力になっていると思われる。
次に、彼は非常に頭がよかった。若いころから将来の回想録にそなえて備忘録をとっていたらしいが、一度出会ったものは、たとえ社交界の雑踏のなかであったとしても、何十年のちにはっきり思いだすという、おそるべき記憶力をもっていた。そうした絶倫の記憶力は異常な聰明《そうめい》さの賜物であった。彼は十六歳のとき博士号を得たという。あのころの博士号がどういう程度のものであったか知らないが、彼は終生書物をはなさずに、ひまさえあれば読書にいそしんでいる。文学、哲学、神学、物理化学をはじめ心霊術、錬金術など中世紀の神秘学についてさえ相当の知識をもっていた。しかも、その知識を五倍にも十倍にも活用する聰明さがあった。パリのデュルフェ夫人やアムステルダムのD・O氏などを煙にまいてりっぱなパトロンにした算易《カバラ》の技術についても、その欺瞞を巧みにこなす腕前は常人のよくするところではない。しかし、彼は生得のこうした聰明さにたよりすぎた傾向が少なくない。
この自己の身体と精神とにたいする自信は彼から謙虚さをうばったようだ。その結果として、第一に彼はきわめて倨傲《きょごう》であった。シャルル・ド・リーニュ侯すら「カザノヴァの前で一礼することをおこたってはいけない。そうしないと、彼は諸君の敵になるであろう」といっている。ひとから尊敬されるだけの地位も財産もない彼がそういう破格な自尊心をもって世の中を押しわたったかげには、容貌や精神にたいする過剰きわまる自負があったにちがいない。もっとも、彼が好んでつき合ったヨーロッパの貴族たちには生来の家柄をかさにきて≪沐猴《もっこう》にして冠す≫という連中が大部分であったろうから、彼ほどの秀才が敵対意識をもやして、自尊心をたかぶらせたのもむりではないかもしれない。
結果の第二は独立独歩の精神である。といっても、彼は自分にあった職務あるいは業務について大成しようとする気はなかった。彼はつねに食客であった。まずローマの枢機卿アッカヴィーヴァ、次にヴェネチアの元老院議員ブラガディーノ、さらにパリのデュルフェ侯爵夫人、デュ・リュマン夫人、ついでアムステルダムの実業家D・O氏など。彼の気持では定職につくなら法王か帝王にならなければ満足できなかったであろう。しかし、それが不可能なので、人に膝を屈すまいとして食客になった――というと、妙な感じがするであろうが、あの当時、ヨーロッパの上流階級では食客をもつことを名誉と心得、むしろ家の飾りとしていたようであるから、食客となるほうも近代のような卑屈感を味わう必要がなかったのであろう。いや、むしろ、名家の当主から見いだされてその食客となるのは光栄であったのかもしれない。
結果の第三と考えられるのは、いわゆるいんちきである。回想録の時代の彼の生活をささえた唯一の財源はこのいんちきであった。聰明な彼には身分の上下をとわずあらゆるものがばかに見えたであろう。自分の弁舌にころりとまいる「いいカモ」に見えたであろう。いんちきを成功させるには堂々たる自信をもってするのが第一だ。相手はその威風にひとたまりもなく慴伏《しょうふく》するだろう。だから、彼は堂々といんちきをやった。そして、みごとに成功した。彼のパトロンはみんなこの手で籠絡《ろうらく》され、しかもそれをいんちきと見ずに、むしろ崇拝し、憧憬《しょうけい》し、感謝の念をもって後援をおしまなかった。いんちきも彼ほどになると絶大な人徳といわなければならない。したがって、そういう利器をもつ以上、なにを好んで人の頤使《いし》に甘んじよう、という気がカザノヴァには十分にあったにちがいない。パリに富籤《とみくじ》をはじめさせて成功したのも、ダンケルクの艦隊の調査で認められたのも、アムステルダムの商工会へ没落寸前のフランスの国債を売りつけたのも、生得の臨機応変の才能と自由|無碍《むげ》の社交術があずかって力があったが、やはり大本はこのいんちきであった。
「自分は自由人だ、世界市民だ」という大言壮語も以上のことから自然に湧きだした言葉であろう。≪人生到るところに青山あり≫はカザノヴァの心であったにちがいない。
しかし、なぜ彼はあんなふうに一生流浪の旅で暮らさなければならなかったのか、どうも腑《ふ》におちない。ツヴァイクによると、都市国家にひとしい当時の小さな国々の宮廷では、田舎貴族が日々の話題にすら困窮し、退屈の虫に手を焼いていたので、文化程度の高いイタリア(ことにヴェネチア)やパリからの劇団や訪問客を歓迎したので、売春婦をかねた女優たちや一攫千金を夢みるいかさま師たちがヨーロッパを股にかけて押し歩いていたという。じっさい、回想録を見ても、あの交通不便の時代によくもこれだけの人数が歩いていると驚くくらいだ。しかし、そのいかさま師たちはぼろが出るのをおそれ、ひとつの国に腰を落ちつけることができずに、各地をながれ歩く。カザノヴァもそのひとりであったのではあるまいかといっているが、カザノヴァはそういういかさま師と同日には談じられない。彼は各地で何度も所払いをくっているが、すべて被害者の立場にたっており、たとえばワルシャワを追われたときなど莫大な餞別《せんべつ》を国王から下賜されている。ロンドンから脱走したときも、身におぼえのない偽造手形の罪で絞首刑になる恐怖にせまられたのだし、封印状でパリを二十四時間以内に退去せよと命じられたのも、恩人デュルフェ夫人の甥に軽い気持でいった暴言のためであった。
としてみると、彼はどうして一生を流浪しなければならなかったのだろう。同じような例として私は有名な『ポールとヴィルジニー』の著者ベルナルダン・ド・サン・ピエールを思いだす。彼もカザノヴァと時代を同じゅうして、各国の宮廷を訪ねまわり、前半生をすごした恰好《かっこう》だが、それは『ロビンソン・クルーソー』の例にならってどこかに民主的な植民地をつくり、あらゆる人種のまじめな人々を収容して、その平和な立法者になろうという野心にあやつられてのことであった。しかし、カザノヴァにはそういう政治的な理想は毫《ごう》もなかった。
ここでまた思いだしたが、いまの話のサン・ピエールも非常な美男子であったし、またそれだけでなく、カザノヴァと同じく、貴族でもないのに貴族を称していたことである。この同時代のふたりの美男子を並べて考えてみると、ようやく道らしい道が通じた十八世紀後半のヨーロッパの気風がなにかうかがわれるような気がする。
おりしも海の上では異郷との貿易がはじまり、植民地獲得のためにしのぎをけずりはじめた時代である。陸上に住む人々にも外国への好奇心がさかんになり、海賊が宝島をあさったように、地上のどこかに幸運を求めようという気分が世上一般のことになったのではあるまいか。それかあらぬか回想録にはla fortuneを捜すという言葉がしきりに出てくる。la fortuneは幸運でありまた財産である。自由人、世界人をもって自任したカザノヴァはこの風潮に無意識にあやつられて、ドイツの詩人カール・ブッセが≪山のあなたの空遠く、さいわい住むと人のいう≫とうたったそのさいわいをもとめて歩いたのかもしれない。しかし、ブッセがさらにうたっているように≪涙さしぐみかえりきぬ≫ということになってしまった。
彼の伝記研究家のなかにはこの間の理由がわからないままに、彼が国際的スパイの密命をうけたのであろうと想像するものがいる。しかし、回想録にはそうした記事はもちろん全然ないし、もしも彼がどこかの国の、あるいは国々のスパイとしてあの終生の旅行をしたとしたら、少なくとも彼の旅を一種のポエジーと感じている私には大きな幻滅を与えるだろう。
それなら、女をもとめて旅をしたのであろうか。そうとも思われない。彼は一生に百数十名の女と関係しているようだが、その女たちはいずれも偶然に彼の眼前にあらわれたものだ。彼のように若くて美しい女と見れば、その住むところが金殿玉楼であろうと虱《しらみ》のわく荒屋《あばらや》であろうとかまわなかった男なら、ヴェネチアにしろ、パリにしろ、ロンドンにしろ、大きな都市なら一個所で百人でも二百人でも見つけられたであろう。まして、彼には世にいう百人斬り千人斬りの野望もなく、さりとてヨーロッパのあらゆる民族の女を味わって比較検討しようという研究心もなかった。
こういうふうに考えてくると、彼の一生をああいう根なし草にしたのは、やはり祖国ヴェネチアから追放されて世界に家なき子となった悲劇からはじまっているように思われる。彼が理由も知らされずにサン・マルコの鉛屋根の牢獄へ幽閉されたのは、一七五五年、三十歳のときの七月二十五日。その翌年十一月一日に世界的に堅牢をほこる牢獄から脱走して国外へのがれたが、その後、一七七四年、四十九歳の九月十四日にゆるされてヴェネチアへ帰るまで、二十年のあいだの無国籍人としての生活は、自由人だ世界人だと表面いかに強がりをいっていても、どんなにわびしかったろう。このわびしさが彼を流浪させ、女をあさらせたと考えられないであろうか。
女! いよいよカザノヴァの本題にはいってきたわけだが、カザノヴァは異常な体質をもっていたらしい。まだ七つ八つのころ、両親がロンドンへ巡業に行っていた留守、彼は祖母に育てられていたが、そのころ、しきりに鼻血を出した。そのために祖母は彼をムラーノの島の魔法使いの女のところへまで連れていったが、鼻血の原因は彼の身体の異常な造血作用にあったらしい。食物が、空気が、彼にあってはすべて血になるのだった。彼は恋のクライマックスにおいて何度もはげしい鼻血を出している。
こういう旺盛な体力が彼を幼少のころから好色にしたらしい。十六のときナネッタとマルタという十三、四の姉妹を相手に童貞をうしなって以来、東はコンスタンチノープルから西はロンドンまで、北はペテルスブルグから南はマドリードまで、当時のヨーロッパのめぼしい都会のすべてで艶福にめぐまれ、後世に名を残す女蕩らしとなった。しかし、彼はドン・フアンとはちがう。ドン・フアンは回想録のマドリードの章でもわかるように、カトリックの偏見のきわめて強烈なスペインの男だった。彼にとっては女は人間社会の諸悪の源だ、男を堕落させる蛇の権化だ。ドン・フアンはこういう固定観念にあやつられて、女をこらしめるために女体を踏みにじった。彼は女にたいしていささかの愛情も憐憫《れんびん》も感ぜず、仇敵のように女を汚してあるいた。
しかし、カザノヴァはちがう。彼は女を愛した。女をいつくしみ、さらに崇拝さえした。相手が娼婦の場合はべつとして、彼は女から肉体よりもまず愛情をもとめた。心をひかれた女にたいして、彼はよく「十分の敬意を表したい」といった。その意味は彼にとってはふたりの霊と肉を渾然と一致させることであった。女が愛情に燃えて身も心もささげてくるのでなければ、彼は女を十分に賞味することができなかった。この賞味は彼にとっては自分の享楽である以前に女への敬意であった。この意味でカザノヴァは世界随一のフェミニストだったといえるであろう。彼の手にかかった女が少しも彼を恨まず、のちのちまでも愛着と思慕をよせたというのはこのフェミニスムのなせるわざであろう。だが、打算的にそうしたのではなく、まじめな本心からであったところに、彼の真面目がある。
カザノヴァは女を心服させるために、惜しげもなく金銭を浪費し、贈り物で息の根もとまる思いをさせた。そして、女が十分に納得し、色欲が高調するのを待って、相共に享楽した。その点ではじつに忍耐心がつよく、懇切丁寧だ。妊娠している女に目をつけ、出産まで至れり尽くせりの世話をして、身体が回復するのを待って楽しんだことも何度かある。しかし、女に目をつけたとなると、彼はきわめて大胆で、猛烈に無遠慮に露骨にせまっていく。しかし、それは彼にとっては一種の探りであり瀬踏みであり起爆的方法なのだ。この方法がすぐに効を奏さないと、彼はじっくり構えて本格的な攻城にうつる。
したがって、彼はけっして強姦はしない。そのかわりに術策を用いる。いんちきな堕胎剤アロフをある妊婦に用いた例などそのいちじるしいものだ。この薬は一種の練り薬でそれを子宮口に一日数回塗ると子宮口がゆるみ、胎児がおちてくるというのだが、カザノヴァはそれが自然のままの温度をたもったスペルムと練りあわされないと効力がないといって相手をだまし、自分の亀頭にぬって塗布することを承知させる。ぺてん師カザノヴァの面目躍如たるものがある。
しかし、彼が稀代の女蕩らしとなりえたのは時代の趨勢《すうせい》に負うところが多いようである。十八世紀後半のヨーロッパでは、貴族支配の末期現象として風俗がいちじるしく頽廃し、身分の上下を問わずきわめて享楽的になっていた。それで、恋愛が、いやむしろ性愛が楽しい遊戯と見なされた。したがって、女も、人妻と処女の別なく、カザノヴァのような美男子から上品に丁重にかつ猛烈に愛されたら非常な喜びであったであろう。しかも、彼の愛はあくまで粘膜の問題であって、けっして魂のなかにくいこまなかった。
彼は何度か愛する女と本気になって結婚しようと決意したが、その都度ひとりの女に定着して家庭をもつことに嫌悪を感じ、泣きながら別れてしまった。これは彼の自由人としての理想から見れば当然のことだが、彼の愛がどの女にたいしても自他ともにふかく魂のなかに根をおろさなかったことに原因している。彼は女の身体をもてあそんだが、魂は自由にしておいたのだ。性愛の花園を蝶のように飛びまわっていただけであったのだ。彼と哀歓をともにした娘たちが後に適当な夫を得て幸福になっているのもおおかたはそのためであった。
愛欲と並んで彼の生涯をにぎわしたものは賭博だった。彼はあらゆる種類の賭博を十分に心得ていたらしいが、賭博は愛欲ほどの成功を彼に与えなかった。通算すると、勝った金よりも負けた金のほうが多かったのではあるまいか。というのも、当時は賭博といえばいかさまときまっていた。いかさま師は≪運命を調整するもの≫と呼ばれ、けっして罪悪視されなかった。しかし、彼は賭博が好きだった。女にうつつをぬかしていないときには始終賭場に出入りした。賭博は多くの国で公けにゆるされていた。
この賭博好きのために、日ごろ貴族をもって自任している彼でありながら、札つきのわると行くさきざきで交渉をもたざるをえなくなり、何度か苦杯をなめている。目から鼻へ抜ける才気の持主であった彼が、女はともあれ、いんちき賭博であれほど苦しむとは、どうしたわけだろう。
ともあれ、彼は享楽の都ヴェネチアの生粋のヴェネチア児として、あらゆる知能と感情とを傾け、当時の世界を股にかけて、青春を楽しんだ幸福な男といえるであろう。しかし、それだけに彼の老後はみじめだった。回想録以後の二十五年は巻をあらためて書くつもりだが、尾羽打ちからして、おのれを鉛屋根の牢獄へ投じたヴェネチアの司法裁判所の密偵にまで成りさがった姿は、まさに≪英雄の末路≫である。