エマ(下)
ジェーン・オースティン/ハーディング祥子訳
目 次
第二部
第三十章〜第三十六章
第三部
第三十七章〜第五十五章
訳者あとがき
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第三十章
舞踏会が完璧なものになると確信できるまでに、エマにとって、気がかりなことがひとつだけあった。フランクがサリーに滞在するのが許されている間に、舞踏会の日程を決めることができるかということだ。ウエストン氏は大丈夫だろうと言ったが、エマは、予定の二週間を一日でも越えることを、チャーチル夫妻に許してもらえない可能性もあると思った。だが、そういう可能性は恐らくないだろうと判断された。また、準備にはじっくり時間をかける必要があったので、三週目に入らないときちんとした準備をするのは無理だった。そのため数日の間、みなは計画を立てたり話を進めたりしながら、もしかしてすべてが無駄に終るのではないかという危険を――エマはかなり危険があると思っていたが――恐れながら希望をつないでいなければならなかった。
しかし≪エンスクリーム≫は寛大だった。たとえ言葉の上ではそうでもなくても、実際はお許しが出たのだから寛大と言わなければなるまい。≪ランドルズ≫にもっと滞在したいというフランクの願いが喜ばれるはずもなかったが、反対はされなかった。これで万事順調だ。だが、ひとつ心配事がなくなると、また別な心配事が生まれるものだ。舞踏会開催に心配はなくなったが、今度はナイトリー氏の無関心さが悩みの種だった。自分がダンスをしないからなのか、あるいはこの計画が相談なしに決められたからなのか、彼は舞踏会のことなど鼻にもかけていない。好奇心に駆られている様子もなく、当日も楽しむのは真っ平ごめんと決めてかかっているようだった。エマがわざわざこの計画を伝えに行っても、たいした賛同は得られなかった。
「いいんじゃないかな。二、三時間の騒がしい娯楽のために、ウエストン夫妻がこんな面倒なことをする価値があると思っているなら。ぼくは楽しめないだろうが、それ以外反対する理由もない。ああ! むろんぼくも出席しなければならないだろうね。断るわけにもいかないから。できるだけ居眠りなどしないようにするよ。でも家にいて、ウィリアム・ラーキンスの一週間の計算書に目を通しているほうがどれだけましか。だいたいダンスを見て楽しいなんて言うひとの気がしれないね! たしかにダンスするのはいいだろう。美徳と同じようなもので、ひとが見ていなくてもそれだけの価値はあるだろうから。ただし、そばで見ている人間の思いとはかなり隔たりがあると思うね」
この発言はわたしへの当てこすりなのだ。エマは猛烈に腹がたってきた。しかしナイトリー氏がこれほど無関心でいるのは、いや、憤慨しているのは、ジェーンを愛していないなによりの証拠でもある。舞踏会を非難するのは、ジェーンの気持ちに沿うものではないのだから。というのも、舞踏会をだれよりも楽しみにしているのはジェーンなのだ。舞踏会の計画が決まってからというもの、ジェーンはいつになくはつらつとして、率直にものを言うようになった。
「ねえ、ミス・ウッドハウス。舞踏会が開けなくなるようなことが何も起こらなければいいですわね。そんなことになったらがっかりだわ。わたし、本当に楽しみで、首を長くして待っているんです」
つまり、ウィリアム・ラーキンスと仕事をしていたほうがいいというナイトリー氏の言葉は、ジェーンにとっていい話とは言えないのだ。ウエストン夫人の推測はまちがってる。エマはますます確信を強めた。確かにナイトリー氏はジェーンに対して好意的な思いやりを持ってはいるが、それは恋愛などではない。
ところが! 残念ながらナイトリー氏と言い争っている暇はなくなった。二日間は楽しく安心していられたのだが、その後すべてがひっくり返ってしまったのだ。フランクの許《もと》にチャーチル氏からすぐ帰るよう、催促の手紙が届いた。チャーチル夫人の具合が芳しくない、とても具合が悪いのでフランクがいなくては困る、ということらしかった。二日前、夫人がフランクに手紙を寄越したときはすでに悪かったのだが、迷惑を掛けたくないという思いと、自分のことは後回しにするといういつもの習慣から、自分の病状には触れなかったのだそうだ。だが、いまは深刻な状況なので(チャーチル氏はそう書いている)、フランクに即刻戻って来るよう言ってきた。
この手紙の大方の内容は、ウエストン夫人からの短い手紙でエマにも伝わった。フランクが帰るのはもう避けられない。彼は二、三時間で出発しなければならなかったが、それは実際に夫人が危ないと思っているからではなく、彼の気持ちのなかの嫌悪感を長引かせたくないためだった。チャーチル夫人の病気はわかっている。都合が悪くなると決まって起こる例の病気だ。
ウエストン夫人はさらに、「時間がないので朝食後すぐに出発します。ハイベリーで良くしていただいた方だけにしか挨拶をする時間がありません。≪ハートフィールド≫へはすぐにもうかがうと思います」と書いていた。
この悲しい手紙でエマの朝食は終わった。読んでしまったが最後、後は嘆くことしかできない。舞踏会ができなくなる――あの人がいなくなる――それにあの人はいまどんな気持ちだろう――ひどすぎるわ。きっと、素晴らしい夜になって、みんなどんなに楽しく過ごせたことだろう! なかでも、わたしとフランクはいちばん幸せだったはずなのに! 「わたしが、思っていた通りになったわ」慰めはそれだけだった。
一方、ウッドハウス氏の気持ちは、まったく違っていた。チャーチル夫人の病気のことばかり考えて、どういう治療を行っているのかしきりに知りたがった。もちろん舞踏会がなくなってエマががっかりしているのはこたえたが、やはりみんなで家にいるほうが安全だと思っていた。
エマは準備して待っていたが、フランクが姿を見せるまでにはかなりの時間があった。なぜもっと早く来なかったのかと非難を受けても仕方がないほどだったが、やって来たときの悲しげな顔と元気のない様子を見て、なにも言う気がなくなってしまった。≪エンスクリーム≫に戻るのがあまりにも悲しいのだろう、彼は、話もろくにできないほどだった。見るからに意気消沈し、椅子に腰を下ろすとエマのことも目に入らない様子で、二、三分は物思いに沈んでいた。それから我に返ったように言った。
「いやなことはいろいろありますが、別れの挨拶ほどいやなものはありません」
「でもまたいらっしゃるんでしょう?」とエマは言った。「≪ランドルズ≫にいらっしゃるのがこれっきりというわけではないのですから」
「ああ!――(頭を振りながら)――、でもいつまたここに来られることやら! 一生懸命そうできるようにします! これからはぼくの思いも、望みも、ここに戻ることだけにしぼられるはずです。そう、春になって、伯父と伯母がロンドンに来さえすれば。でも、去年の春にも来なかったし、もうロンドンへ来る習慣はなくなってしまったのかもしれません」
「わたしたちの舞踏会も、残念ですが取りやめなければなりませんね」
「ああ! あの舞踏会ね! ぼくらはどうしてぐずぐずしていたんだろう。さっさとやってしまえばよかった。くだらない準備のために肝心の楽しみがつぶれてしまうとは。そういえば、こういうことになるのでは、とあなたは言っていましたね。ミス・ウッドハウス、あなたの言うことはなぜいつも当たるんですか?」
「当たって本当に残念だわ。賢いより楽しいほうがいいのに」
「もし、また来ることができたら、舞踏会は必ずやりましょう。父もそのつもりですし。ぼくとのあの約束、忘れないで下さいよ」
エマはうれしそうにフランクを見た。
「本当に素晴らしい二週間でした」とフランクは続けた。「毎日毎日がその前の日より大切で楽しい日になった。一日過ぎるごとに、よその土地ではもう耐えられないだろうと思うようになった。ハイベリーに住める方は幸せだ」
「そうおっしゃって下さるのなら、思いきっておききしますけど」エマは笑いながら言った。「初めはどうなることかと思いながらこちらにおいでになったのではないかしら? わたしたち、あなたの予想をかなり越えていたのでは? きっとそうでしょう。わたしたちのことが気に入るなんて、あまり予想してはいなかったんでしょう? だって、ハイベリーが楽しいところだと思っていたら、もっと早くおいでになったはずですもの」
フランクの笑いは不自然だった。エマはともすれば感傷的になりそうな心を抑え、自分が今言ったことは的を射ているにちがいないと確信した。
「午前中に出発しなくてはいけませんの?」
「ええ、父とここで待ち合わせているので、来たら一緒に歩いて帰ります。だからもうおいとましなくては。今にも父が来るのでは、とひやひやしています」
「お友だちのミス・フェアファクスとミス・ベイツのために、五分でもいいからさけませんの? 本当に残念だわ。ミス・ベイツのあの強烈なおしゃべりを聞けば、きっと元気づけられたでしょうに」
「いや――実はもう寄ってきたんです。途中、家の前を通ったので、そうしたほうがいいと思いまして。三分だけと思ってお邪魔したのだが、ミス・ベイツがお留守で、引きとめられてしまいました。お帰りになるまで待たないわけにもいかなくて。ミス・ベイツはおかしなひとで、みんな笑わずにはいられないようなひとだけど、無視するようなまねはしたくないですからね。あのとき、訪問しておいてよかったと思います――」
フランクはちょっと躊躇してから、椅子から立ち上がり、窓のほうへ歩いて行った。
「じつは」と彼は言った。「ミス・ウッドハウス、あなたのことですから、すでにお気づきだとは思うのですが――」
フランクはエマの考えを見すかそうとするように、こちらをじっと見つめた。エマはなんと言えばいいのか分からなかったが、どうやら重大な告白の前触れのように思われた。だが、そんなことをエマは望んでいない。話をはぐらかそうと無理に口を開き、落ち着いた口調で言った。
「本当にいいことをなさったわ。お訪ねになってよかったわね」
フランクはなにも言わなかった。だが、彼がこちらを見つめているのはわかっていた。きっと、エマの言った言葉の意味を考え、彼女の態度を見すかそうとしているのだろう。エマの耳に、フランクのため息が聞こえてきた。ため息をついても当然だと思っているのだろう。エマの態度に、彼の気持ちをうながすようなものがあるとは、到底考えられないのだから。気まずい数分が過ぎ、フランクは再び腰を下ろし、きっぱりとした口調で言った。
「残された時間を≪ハートフィールド≫に捧げることについては、感慨深いものがあります。≪ハートフィールド≫に関しては、どこよりも温かい気持ちを抱いていますから」
フランクはまた黙り込んで、立ち上がった。かなり当惑しているようだ。きっとわたしが思う以上にわたしを愛しているのだわ。もし、ウエストン氏が姿を見せなかったら、どういうことになっていたかしら。だが、続いてウッドハウス氏も姿を見せたので、フランクは冷静にならざるを得なかった。
しかし、二、三分もたつと当面の試練も終わった。ウエストン氏が「もうおいとまする時間だよ」と言った。氏は用事があるときまって迅速に行動するたちで、不確定なことを予見できないのと同様、避けられない災いならさっさと片づけないと気がすまないたちだった。フランクはため息をつくと、そうですねと言うほかなく、立ち上がって別れの言葉を述べた。
「みなさんのお噂を耳にするのがぼくの一番の慰めです。ウエストン夫人と手紙を交換する約束をしたので、あなた方の間で起きることは、残らず耳に入ってくるでしょう。近くにいないひとのことが知りたくてたまらないとき、女性の文通相手がいるというのはなんとありがたいことでしょう! どんなことでも教えていただけると思います。手紙を読めば、愛するハイベリーに戻ってくることができるのです」
親しみのこもった握手と心をこめた「さよなら」で、別れの挨拶は終え、フランクが出ていくと、すぐにドアが閉ざされた。あまりに急な知らせであり、あまりに短い訪問だった。フランクは行ってしまった。エマは残念でならなかった。フランクがいなくなることは、エマたちの小さな社会に大きな痛手となるはずだ。心にぽっかり穴があくのではないかしら。エマは心配になってきた。
それはたしかに悲しい変化だった。彼がこちらに来てからというもの、ふたりは毎日のように顔を合わせていた。彼が≪ランドルズ≫にいたおかげで、この二週間は言葉では表せないほど活気にあふれていた。毎朝、彼に会えるという期待、彼の数々の心細やかなふるまい、快活さ、礼儀正しさ! 本当に幸せな二週間だった。だからこそ、平凡な≪ハートフィールド≫の日常に戻ってしまうのは、なんともわびしい気がした。それにほかのすべての素晴らしさに加えて、彼はもう少しでエマに愛を告白するところだったのだ。それがどれほど強く揺るぎない愛情かは別として、いま彼が、エマに熱い憧れをいだき、愛を自覚していることは疑いようもない。この確信がほかの様々なこととあいまって、エマは、絶対に恋愛などしないと決心していたにもかかわらず、「多少」はフランクに恋心を抱いているに|違いない《ヽヽヽヽ》と思うようになった。
「きっとそうなんだわ」エマは言った。「このけだるく退屈でうつろな気持ち、座ってなにかにとりかかろうとしても、なにもしたくない思い、家のことがすべて退屈でつまらなく感じられる――わたし、きっと恋をしているんだわ。たとえ二、三週間のことだとしても、もし恋をしていないなら、わたしは世界一おかしな人間だわ。やれやれ、だれかにとってのいやなことは、きまってほかのひとにはいいことなのね。フランクのことはともかく、舞踏会ができなくなってがっかりするひとはたくさんいるでしょう。でもナイトリー氏だけは喜ぶはずよ。お望み通り、親愛なるウイリアム・ラーキンスと一緒に夜を過ごすことができるんですもの」
だが、ナイトリー氏は勝ち誇ったように喜んだりなどしなかった。ただ彼にすれば、残念だとも言えなかった。そう言ったなら上機嫌の顔と言葉とが食い違っていただろうから。ナイトリー氏は落ち着いた口調で、みんなががっかりするのは気の毒だ、と思いやりを込めて言い添えた。
「エマ、君にはダンスをする機会がほとんどないので、ついていなかったといえるね。本当についていない」
それから数日後、エマはジェーンに会い、この悲しい変化を残念に思っているかどうか見定めようとした。実際会ってみるとジェーンは憎たらしくなるほど落ち着き払っていた。それでも、体の具合がひどく悪いらしく、頭痛がすると言う。もし舞踏会が開かれていてもきっと出席できなかったでしょう、とミス・ベイツが言ったほどだった。この許せないほどの無関心さも、きっと健康がすぐれないためだと考えるのが、思いやりというものなのだろう。
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第三十一章
エマは相変わらず自分が恋をしていることを疑っていなかった。ただどのくらい想っているかについては、次第に考えが変わっていった。最初は熱烈に愛していると思っていたが、しばらくすると愛していてもほんの少しだと思うようになった。ひとがフランクのことを話しているのを聞くのはとても楽しかったし、フランクのためにウエストン夫妻に会うのも今まで以上に楽しかった。頭の中ではいつも彼のことを考えるようになった。今なにをしているのか、元気にしているのか、チャーチル夫人はどんな具合なのか、春にまた≪ランドルズ≫に来る見込みはあるのか、そういったことを知りたくて、手紙が待ち遠しくてならなかった。しかしその一方、いくらフランクがいなくなったからといって、自分を不幸せだと考えたり、仕事に気が進まないと思ったりするようなエマではなかった。彼が出発した朝を除いて、相変わらず忙しく、快活だった。たしかにフランクは好ましい人物ではあるが、欠点がないわけではない。座って絵を描いたり手仕事をしたりしていると、しきりと彼のことが思い出され、ふたりの愛がどのように進展しどのような結末になるのか、筋書きを想像してみたり、楽しい会話を頭に描いてみたり、洗練された手紙の文面を考えてみたりと、あれやこれやが頭に浮かんでくる。空想のなかでフランクから愛を打ち明けられると、きまってエマはそれを|拒む《ヽヽ》のだった。ふたりの愛はいつも友情に落ち着いた。別れは甘く、やさしくなくてはならないが、やはり別れる運命なのだ。このことに気がつくと、エマは結局、自分はたいして強い恋心を抱いていないことに思い至った。たしかに、父の元を離れまい、結婚はするまいと固く心に決めてはいたが、本当に強い愛情を感じているなら、予期できないほどの葛藤が生まれているはずである。
「だって『犠牲』という言葉など一度だって使おうとは思わないんですもの」とエマは言った。「気のきいた返答や、微妙なニュアンスで『拒絶』しても、そこに『犠牲』を思わせるものはなにもないわ。どうやら彼はわたしの幸せにとって本当に必要なひとではないようね。それは、それでいいわ。無理して気持ちを盛り上げるようなことはしたくないし。たしかにかなり魅かれてはいるけど、これ以上の気持ちになったら困るだけだし」
フランクの気持ちに対する自分の見方についても、エマはだいたいのところで満足していた。
「『彼』がわたしに恋をしているのはまずまちがいないわ。見れば分かるもの。きっと熱烈にわたしを愛しているのね。今度彼が来て、まだその気持ちが薄れていないようなら、それ以上恋心をかきたてないように気をつけなければ。わたしのほうははっきり心が決まっているのだから、そんなことをしたら言い訳がたたないわ。彼だって、わたしが恋心をかきたてるような態度を取ったとは思ってないはずよ。いいえ、わたしも同じ気持ちでいると彼が信じていたら、あんなに打ちひしがれるはずはないわ。わたしの態度に勇気づけられていたら、別れるときにあんな顔をしなかっただろうし、あんなことも言わなかったはずよ。それでも気をつけるに越したことはないわ。もっとも、彼の気持ちが今のまま続くとしてのことだけど。でも、わたしはそれを望んでいるのかしら? わたしは彼をそういう相手とは思っていないし、彼の真面目さや変わらぬ愛をあてにしているわけでもない。たしかに今は熱烈に愛してくれているけど、あのひとはすぐに心変わりしてしまいそう。そう、いろいろな点から考えてみると、わたしの幸せのためにはこれ以上深くかかわらなくてよかったってことね。もう少し時がたてば、またもと通りになるわ。そして、いい思い出として残るだけ。ひとは一生に一度は恋をするというけど、わたしはそこを軽く通り過ぎることができたことになるわ」
フランクの手紙がウエストン夫人の元に届いたとき、エマはそれをすみからすみまで熱心に読んだ。手紙を読んだときの喜びと感激は思ったより大きく、初めは自分の感情に驚いて首を振っていたが、しだいに自分の恋心を過小評価していたのではないと思うようになった。手紙は長々とした見事なもので、旅のことや彼の気持ちが詳しく書いてあり、そこには立派で気取らない愛情や、感謝の気持ち、尊敬の念があふれていた。また、興味を引かれた風景や地方のことも、生き生きと正確に描写してあり、謝罪や、気遣いの言葉にも、疑わしげな美辞麗句はなく、ただ夫人への率直な心情がつづられているだけだった。ハイベリーから≪エンスクーム≫への旅、その違いにも触れ、初めて社交界を楽しむことができたこと、それがどんなに強烈な体験だったかも語り、もし、適度こそ礼儀、という抑制がなければ、きっともっと多くを話しただろうと思えた。エマ自身の名前の出てくるという魅力にも欠けてはいない。手紙に|ミス《ヽヽ》・|ウッドハウス《ヽヽヽヽヽヽ》の名前は何度か出てきて、エマの好みをほめたり、エマの言ったことを回想したりと、必ずなにか嬉しい言葉が述べられていた。そして、手紙の最後の部分まできて、それほど強い愛情は感じなかったものの、エマの影響力をじゅうぶん認められる、最高の賛辞を見い出すことができた。便箋の一番下の空いているところに、次のような言葉が書き込まれていた。「ご承知の通り、火曜日には時間がありませんでしたので、ミス・ウッドハウスの美しく愛らしいご友人にお別れをすることができませんでした。どうぞお詫びと別れの挨拶をお伝え下さい」。これはみなわたしのために書かれたのだと、エマは思った。ハリエットのことを思い出したのは彼女が「エマ」の友人だからなのだ。一方、≪エンスクリーム≫についての情報やこれからの見込みは思っていたほど悪くもなく、良くもなかった。チャーチル夫人はほとんど回復していたが、いつ≪ランドルズ≫に戻れるのかは、たとえ大まかな予測さえつかないようだった。
手紙を元通り折り畳んでウエストン夫人に返しながら、エマは思った。内容も心情も嬉しく、心の躍るものではあるが、この手紙を読んで今の気持ちに熱い想いが加わるとは思えなかった。わたしは彼がいなくてもやっていけるし、彼のほうもわたしなしでもやっていく術を身につけるべきだ。フランクからプロポーズされても拒絶しようという決意は変わらなかったが、その後の彼を、慰め、幸せにするよう筋書きが加わったので、これからの展開がいっそう興味深くなった。エマは、フランクがハリエットを思い出していること、そして彼女を「美しく愛らしいご友人」と表現していることを考え合わせ、ハリエットがエマに代わってフランクの恋の相手となることを思いついたのだ。突拍子もない話だろうか? いや、そんなことはない。たしかに、ハリエットは知力の点でフランクよりはるかに劣っている。しかしフランクはハリエットの愛らしい顔立ちと、温かく飾り気のない態度に心を打たれていた。それに、境遇や親族の点でもハリエットには好都合なことばかりだ。もし実現すればなんと都合がよく、有益で喜ばしい話だろう。
「でもこんな考えにひたってはいけないわ」とエマは言った。「こんなこと考えちゃいけない。危険なのは分かっているもの。それにしても不思議なものね。わたしと彼が愛し合うのをやめれば、わたしが望んでいた、くもりのない友情を確信できるようになるなんて」
そのような想像は賢明とはいえないが、ハリエットに慰めを用意しておくのはいい思いつきだった。というのも、困ったことが起きていたからである。ハイベリーではエルトン氏の婚約話の後、フランクの滞在が話題になり、ひとびとの関心はエルトン氏の婚約よりフランクのほうに向けられていた。しかしフランクがいなくなってしまうと、再びエルトン氏への関心が圧倒的に強くなってきた。エルトン氏の結婚式の日取りが決まったのだ。間もなくまたみんなのところに戻ってくる。あのエルトン氏と花嫁が。フランクからの最初の便りを持ち出す暇もないまま、「エルトン氏と花嫁」が時の話題を占め、フランクは片隅に追いやられてしまい、エマはすっかり気分を悪くしていた。この三週間というもの、エマはエルトン氏のことなど考えずに楽しく過ごした。ハリエットもようやく以前の彼女に戻りつつあるようで、ウエストン氏主催の舞踏会のことを考えているときは、ほかのことにはまるで無関心だった。しかし今のハリエットははたから見ても、目前に迫っているエルトン氏のための真新しい馬車やら結婚式の鐘の音といったものに、心乱されないほど平静でないのは明らかだ。
気の毒に、ハリエットはすっかり動揺していて、エマはできる限り説得し、慰め、心を配ってやらねばならなかった。ハリエットのためならいくら尽くしても尽くしすぎることはない。何と言ってもハリエットには、エマの創造力や忍耐力すべてを要求する権利がある。エマはそう思っていた。しかしなんの効果も上がらないまま、いつまでも説得するのは気が重く、ふたりの意見が一致するはずもないのに、同意を求め続けるのは辛いことだった。ハリエットは素直に耳を傾け、きまって「本当にそうですわ。ミス・ウッドハウスのおっしゃる通りです。あの人たちのことは考える値打ちもありません。もうこれ以上考えないようにします」と言うのだが、話題を変えてもたいした効果はなかった。半時間もするとエルトン夫妻のことを気にして落ち着きがなくなる。とうとうエマは別の方面から攻めてみることにした。
「ハリエット、そんなにエルトン氏の結婚のことで頭がいっぱいなの? そんなに惨めな気持ちになってるの? もしそうならそれは『わたし』に対する最大の非難と取れるわね。わたしが犯した過ちについて、それ以上強烈な非難はないわ。みんなわたしのせいなんだわ。わたし、決して忘れてなんかいないのよ。都合のいいように解釈して、あなたをひどく惑わすことになったのはわたしですもの。わたしにとっては永遠に痛ましい思い出だわ。それをわたしが忘れてるなんて、思わないでちょうだいね」
ハリエットの胸にはエマの言葉が突き刺さり、二言三言必死の声を上げたほかはなにも言えないでいた。エマはさらにこう続けた。
「わたしのために努力して欲しいとか、わたしのためにエルトン氏のことを思い出したり話したりするのを控えてちょうだいと言っているわけではないのよ、ハリエット。あなた自身のためにそうしてもらいたいと思っているの。それはわたしの平安よりもずっと大切なもののため――そう、自制心を保つ習慣をつけることや、自分のすべきことはなにかを考えること、身だしなみに気を配ること、他人の疑いを避け自分の健康と信用を保つこと、そして冷静さを取り戻すこと、こういったことのためなのよ。だからこそ、あなたにうるさく言ってきたの。とても大切なことよ。あなたがこういったことをよくふまえて行動してくれないのは、本当に残念だわ。心の痛みから解放されたいなんていうわたしの願いは二の次でいいの。わたしはあなたにこそ、その大きな悩みから抜け出て欲しいと思っているのですから。そうすればわたしはときとして、あなたが、わたしから受けた恩を忘れないだろう、いえ、わたしの親切を忘れたりしないだろうと、思えるかもしれないわ」
ハリエットの愛情に訴えかけたこの話は、ほかのどんなものより効き目があった。だれよりも敬愛するミス・ウッドハウスに対して、感謝の念や思いやりが足りなかったと思うと、ハリエットは消え入りたいような気持ちになり、激しい悲しみが収まったあとでも自責の念がしばらく残っていた。しかし、その思いがハリエットを立ち直らせ、正しいことをさせる原動力となり、彼女を強く支えたのだ。
「生涯でいちばんのお友だち――そのあなたに対して感謝の気持ちが足りなかったなんて。あなたのような方はどこにもいませんし、あなたほど好きなひともいません。ああ、ミス・ウッドハウス、わたしはなんて恩知らずだったんでしょう」
ハリエットはすべての態度、あらゆる表情で、自分の気持ちを伝えようとした。そんな彼女を見て、エマはこれまでにないほどいとおしい思いに駆られ、その愛情をいままで以上に高く評価した。
「心のやさしさに勝る魅力はないわ」エマは独り言を言った。「やさしさと比較できるものなんてこの世には存在しないのね。心の温かさややさしさに、愛情深くて素直な態度が加われば、世界中のどんな明晰な頭脳にだって負けはしないのよ。絶対そうだわ。お父様があんなに愛されるのも、イザベラがあれほど人気があるのも、心がやさしいからだもの。わたしはやさしさには欠けるけど、それを高く評価して、敬意を払うことだけは知っているつもりよ。やさしさから来る魅力と幸せという点では、ハリエットはわたしよりずっと優れているわ。大好きなハリエット。今この世に生きている女性で、だれよりも頭がよくて先のことを見通せて、なおかつ判断力もあるというひとがいても、あなたとは取り替えるつもりはないわ。それにひきかえ、ミス・フェアファクスの冷たさときたら。ハリエットはあんなひとより百倍の値打ちがあるわ。道理の分かった男性が彼女を妻にするなら、その値打ちも知れないほどになるのよ。名前は言わないけど、わたしをやめてハリエットを妻にする男性ほど幸せなひとはいないわ!」
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第三十二章
エルトン夫人となる女性を初めて見たのは教会でのことだった。けれども礼拝をおろそかにして観察したところで、信徒席に座った花嫁の姿だけでは好奇心は満たされるはずもなく、式の後で結婚のお祝いに訪問したときに、その女性が絶世の美女か、あるいはまあまあの美人か、ちっともきれいではないかなどが判断されることになるだろう。
エマは好奇心からというよりも、自分の誇りと礼儀にかけて、お祝いを述べにいく最後のひとりにだけはなるまいと心に決めた。そして嫌なことはできるだけ早く始末をつけてしまうためにも、ハリエットを一緒に連れていくことにした。
エルトン家を訪れ、しかもあのときと同じ部屋に招じ入れられると、三ヵ月前、靴の紐を結ぶというおろかしい小細工をしてまでその部屋に入ったことが、嫌でも思い出された。それに、数えきれないほどの腹立たしい思いが胸に蘇ってくる。あのお世辞、謎解き詩、そしてひどい勘違い。かわいそうに、きっとハリエットもおなじことを思っているに違いない。けれども、顔色が少しさえず、言葉も少なかった以外は、ハリエットの態度は立派だった。訪問は当然、ごく短く終わった。あまりにも気づまりで、早く済ませようとばかり考えていたので、当の花嫁についてなんの感想も抱くひまもなく、あたりさわりのない「服の趣味が良くて、とても感じのいい人」という意見ぐらいしか述べることができなかった。
エマは花嫁をあまり好きになれなかった。なにもあわててあら捜しをするつもりはないが、なんとなく上品さに欠ける感があった。気がおけないかわりに、慎み深さもない。うら若い女性で、よそ者で、花嫁だというわりには、どうもくつろぎすぎているふしがある。外見はまあまあで、顔もほどほどに美しい。けれども、顔だちや雰囲気や、話し方、それに物腰などに品位が感じられない。どうせすぐに化けの皮がはがれるんだわ、エマは思った。
エルトン氏について言うと、彼の態度はまったく、いやいや、早まったことや批判を述べるのはよしておこう。いつの場合にも、結婚のお祝いの訪問を受けるというのはぎこちないもので、無事に済ませるために男性は始終愛想をふりまいていなければならないのだ。それに比べて女性はいくらか楽だ。きれいな服装の助けを借りて、羞じらってだけいればいいのだから。だが男性の場合は、彼自身の裁量にすべてがかかっているといえる。それにエルトン氏は、結婚した当の女性と、自分が結婚したかった女性と、結婚するものと思われていた女性の三人に囲まれてひとつ部屋にいるという、とてつもない災難に見舞われたのだから、少しばかり愚かしく、非常にわざとらしい素振りで、落ち着きがなかったとしても、大目に見てあげるべきだろう。
「ねえ、ミス・ウッドハウス」ハリエットは言った。訪問を終えての帰り道、友が話し出すのを待っていたのだが、とうとう待ち切れなくなった。「ねえ、ミス・ウッドハウス、(ここでふっとため息をついて)、あの方のこと、どうお思いになりまして? とっても素敵なひとですわね?」
エマの答えはいくらかためらいがちだった。
「あら、そうね、とてもとても感じがいいわ」
「それになんておきれいなんでしょう」
「服の趣味は良かったわ、とっても上品なドレスで」
「エルトン様が恋をなさるのもあたりまえですわね」
「まったくそうよ、少しも驚くことじゃないわ。ちょっとばかり資産家で、それがちょうど彼の前に現れた、ということですもの」
「ほんとうに」ハリエットはまたもやため息まじりに言った。「あの人は心底エルトン様をお慕いしていらっしゃるのでしょうね」
「そう思うわ。でもすべての男性が自分を最も愛してくれる女性と結婚するとは限らないわよ。ミス・ホーキンズは身を固めたかったんじゃないかしら。それで今度のご縁が最もふさわしいと考えたんでしょう」
「そうですわね」ハリエットは大まじめに答えた。「きっとそうお考えだったのですね、あれ以上素晴らしい組み合わせはありませんもの。ええ、わたし、心からおふたりのお幸せをお祈りいたしますわ。ミス・ウッドハウス、今ではもうご夫妻にお会いすることも平気です。エルトン様は前と変わらず素敵な方ですけど、結婚なさったのですから、状況はすっかり変わりました。ミス・ウッドハウス、もうご心配なさらないで。あの方とご一緒しても、悲しい気持ちになったりせずに、ただ尊敬して拝見していられますわ。あの方がご自分を貶めるような結婚をなさらなかったと思うと、ほっといたします。あんなに魅力的でお若くて、エルトン様とはとてもお似合いですね。お幸せな方。エルトン様は『オーガスタ』と呼んでいらしたわ。本当にお羨ましい!」
お祝いのお礼に夫妻が訪れたとき、エマは心づもりをして応対した。今度はしっかりと目を開いて、ちゃんと判断しよう。たまたま≪ハートフィールド≫にはハリエットもいなくて、父がエルトン氏と話があったので、十五分ほど夫人とふたりきりで話すことになり、エマは落ち着いて対応した。エルトン夫人が俗物で、自己満足しきった、自己を過大評価する女性であることを知るのには、その十五分でじゅうぶんだった。いつも目立とう、抜きんでようと画策し、そのくせ程度の低い学校の教育しか受けていないので、図々しく馴々しい。それに考えることはすべて、ある種のひとびとの自分たちに見合った生活様式というものから生まれたもので、頭は悪くないにしろ教養はなく、この女性のつきあうお仲間からエルトン氏が得るものはまずなにもないだろう。
ハリエットのほうがどれほど相手としてふさわしいことか。あの娘自身は頭も良くなく洗練されてもいないけれど、夫を、聡明で洗練された人々と交際させることはできただろう。ところがミス・ホーキンズときたら、そのうぬぼれからもはっきりわかるように、自分が一番素晴らしい人間だと思い込んでいるのだ。ブリストルの近くに住んでいるという義兄が姻戚中の自慢の種らしく、義兄自身は、自分の屋敷と新式の四輪馬車とがご自慢だった。
腰かけてまず最初の話題が≪メイプル・グローヴ≫とかいう「わたしのお義兄さまのサックリング氏のお屋敷」で、≪ハートフィールド≫と≪メイプル・グローヴ≫を比べようというわけだ。≪ハートフィールド≫の庭園は小ぶりだけれど、手入れが行き届いていて美しい。それに建物も現代風で、しっかりした建築である。エルトン夫人は部屋の広さや玄関、そのほか見たり、推測したりする物すべてに、きわめて好感を抱いた様子だった。「本当に、≪メイプル・グローヴ≫とよく似ていますのね! あんまりそっくりでびっくりしてしまいますわ。このお部屋も、広さといい、造りといい、≪メイプル・グローヴ≫の居間と、まったく同じですわ。姉のお気に入りの部屋ですの」ここでエルトン氏に同意を求められた。「驚くほどよく似ていませんこと? まるで≪メイプル・グローヴ≫にいるような気がいたしますわ」
「それに階段も、ねえ、こちらへ入ったときに階段がそっくりだと思いましたの。場所もちょうど同じ位置にあって。思わず声をあげずにはいられませんでしたわ。本当ですのよ、ミス・ウッドハウス、≪メイプル・グローヴ≫のようなわたしの大好きな場所を、思い出させてくれるなんて、本当に嬉しくて。あそこでは何ヵ月も楽しい日々を過ごしたものですわ。(感情たっぷりにため息をついて)。とっても素敵なところですの。みなさんどなたも、美しいので感激なさいますわ。でもわたしにとっては、家庭も同然です。わたしのように、よその土地へ嫁いでみればおわかりでしょうけれど、故郷に残してきたものとよく似たものに出会うのは、とっても嬉しいことですの。結婚につきものの困った面の一つだと、いつも言っているのですけれどね」
エマは出来るだけ返事を少なくした。だがエルトン夫人にしてみればそれでじゅうぶんすぎるくらいだった。自分だけしゃべっていれば満足なのだ。
「本当に≪メイプル・グローヴ≫にそっくりですこと! お家の中だけじゃなくて、お庭も。ここから見るかぎりでは、驚くほど似てるわ。≪メイプル・グローヴ≫の月桂樹も、同じくらいたくさん植わっていて、ちょうど同じふうに並んでいるんですよ。芝生の向こうにずらっとね。さっきあそこの立派な大木の下に、ベンチが置かれているのをちらっと拝見しましたけど、あれも覚えているのとそっくり! 姉夫婦がこのお屋敷を見たら、きっと気に入るに違いありませんわよ。広い庭園を持つ者なら、同じような庭を見ると嬉しくなるものです」
エマはその考えはどうかと思った。広い庭を持つ人間はたいてい、他人の広い庭などにあまり興味を示さない、というのがエマの強い考えだった。けれどもこれほど救いようもないまちがいを指摘したところで意味がないので、こう答えただけだった。
「この土地をもっとよく御覧になれば、≪ハートフィールド≫を買いかぶったとお考えになりましてよ。サリー州には、美しい景色がたくさんありますから」
「あらまあ、もちろん存じておりますわ。まさに英国の庭ですものね。サリー州は英国の庭ですとも」
「ええ。でも景色が美しいからって自慢してばかりもいられませんわね。サリー州のように、英国の庭と言われるところはほかにもたくさんあるでしょうから」
「あら、そんなご謙遜を」エルトン夫人は満面の笑みを浮かべて答えた。「サリー以外の州がそう呼ばれたのなんて聞いたこともありませんわ」
エマは黙ってしまった。
「義兄夫婦が、春か遅くとも夏までにこちらへ遊びに来ると約束しておりますの」エルトン夫人は話し続けた。「そのときこそ、あちこち見て廻ろうと思いますのよ。姉夫婦がこちらにいる間に、思う存分観光するつもりです。きっと幌付きの四輪馬車で来るでしょうから、四人はじゅうぶんに乗れますわ。ですから馬車のことはちっとも心配しないで、いろいろと景色のきれいな場所を見て廻れるんですの。まさかふたり乗り馬車では来ないでしょうから、季節から考えてもね。本当に、その時が近づいたら、絶対あの四人乗り馬車で来るように言っておかなくては。そのほうがずっといいですもの。ここのような美しい土地を訪れるなら、できるだけすべてを見てもらいたいものですわね、ねえミス・ウッドハウス? それにサックリング氏は旅行が大好きですの。キングス・ウエストンへは去年の夏、二度も行きましたわ。そのときはとっても都合良く、四人乗りの幌付き馬車を購入したすぐ後だったんですけど。あちらでのように、毎夏こちらでも大勢の方たちをお迎えするのでしょうねえ」
「いいえ、ここに直接はいらっしゃいませんわ。おっしゃるような方たちが御覧になりたいと思う絶景からは、少し離れておりますので。それにわたくしどもは、どちらかというと引っ込み思案な質《たち》ですから、あれこれと楽しい計画を立てるよりも、じっと家の中にこもっていることが多いんです」
「ほんとに、家にいるのが一番心が安らぎますわね。わたしほど家にいるのが好きなのも珍しいんですのよ。≪メイプル・グローヴ≫ではちょっとした語り草になってしまいましたわ。姉のセリーナはブリストルに出かけていくときにいつもこぼしてましたの、『この子を屋敷から引っ張り出すのは大変ね。結局ひとりで行くしかないわ、連れもなくて四人乗りの馬車に押し込まれて行くのは嫌だけど。だってオーガスタったら、自分から進んで敷地の塀より外へは絶対に出ようとしないんだもの』って。何度そう言われたことかしら。でもね、ずっと閉じこもってばかりいるのも、いいとは思いませんのよ。反対に、世間とまったく縁を切ってしまうのは、良くありませんわ。適度にひとと交わるのがいいのです、どちらかに多く偏りすぎないでね。でもあなたのお立場もとってもよくわかりますわ、ミス・ウッドハウス。(ウッドハウス氏のほうを見て)お父様のお加減が気になりますものねえ。どうしてバースへおいでにならないの? 本当に、行かれるべきですわよ。バースはぜひおすすめしたいわ。きっとお父様のお身体にも良くってよ」
「前に一、二度行ったことがありますけど、あんまり効果がありませんでしたの。ペリーさんは――この方のお名前はもうご存じでしょうけれど――この頃ではちっとも効用を認めていらっしゃいませんのよ」
「まあ! 残念ですわねえ。ねえ、ミス・ウッドハウス、泉質が身体に合いさえすれば、それはもうおもしろいほど効き目がありますのよ。バースにいたとき、そういう例をたくさん見ましたわ。それにとっても気持ちのいい土地ですから、ウッドハウス氏のご気分も明るくおなりになると思いますわよ。沈みがちのことが多いとうかがってますけれど。それにあなたにとっても、おすすめの土地ですよ、わざわざ詳しく説明することもないでしょうけど。若者にとってバースがいいことはよく知られてますもの。引きこもりがちな生活をなさっているなら、ぜひいらっしゃって御覧なさいな。あちらですぐ上流の方たちにご紹介してあげましょう。わたしが一筆書けば、ちょっとした人数のお友だちが集まりましてよ。それからわたしの特別なお知り合いで、パートリッジ夫人という方がいて、バースに行くときはいつもそちらに滞在するんですけれど、きっととても親切に世話を焼いてくださるはずよ、地元の社交界においでになるときにもぴったりのご指南役だと思いますわ」
エマの忍耐心は限界に達し、これ以上我慢すれば無礼な行為に出てしまいそうだった。エルトン夫人のいわゆる紹介という形で力添えを受け、エルトン夫人の知り合いの婦人の介添えで社交界に出席! しかもその婦人とやらは、趣味の悪い、派手好みの未亡人で、間借り人からの収入でやっと生計をたてているような女性に違いない。考えただけでぞっとする。≪ハートフィールド≫のミス・ウッドハウスも、ずいぶんとみくびられたものだ。
けれどもエマは、口にしてしまいたい非難の言葉をぐっと抑え、エルトン夫人に冷静な感謝を述べるにとどめた。「でもバースへ行くことはあまり考えられませんわ。それに父よりもわたしにバースの風土が合うかどうかについても、よくわかりませんし」そしてそれ以上無礼なことを言ったり怒ったりしてしまわないように、すばやく話題を変えた。
「そう、そう、音楽の才がおありなんですってね、エルトン夫人? 話題の女性のことになると、その特徴といったものが先走りするんです。ハイベリーではずいぶん前から、あなたの演奏はすばらしいって評判でしたのよ」
「まあ! とんでもない。そんなことおっしゃってもらっては困ります。すばらしい演奏だなんて! ほど遠いですわ、本当に。その噂がどれだけ偏った方面からきたかお考えになってくださらなければ。音楽はそれは大好きですわ。もう夢中といっていいくらい。それにお友だちも、わたしにまったく才能がないわけじゃないって言ってくれますの。でもほかのことと同様、誓って申しますけれど、わたしの演奏なんてそれは平凡きわまりないものなんですよ。それよりミス・ウッドハウス、あなたのほうこそ、とてもお見事な腕前とうかがってますわ。これからおつきあいする方たちが音楽好きと知って、とっても安心しましたし、嬉しい限りです。音楽なしではとても暮らせませんもの。生きていく上での必要条件ですわ。≪メイプル・グローヴ≫でもバースでも、音楽好きの方たちに囲まれておりましたから、音楽を絶つとしたらそれは大きな犠牲ですもの。E氏がわたしたちの将来の住まいのことを話したときに、わたしそういうふうに言いましたの。社交界からひきこもって暮らすのは辛くないか、と彼が心配してくれたときのことです。それに家も狭くなるしと。わたしがどんな家に住んでいたかよく知っておりましたから、ちょっと不安だったようですわ。あのひとがそういったことをきいてくれたとき、わたし正直に答えました、社交界なんて必要ありませんって。パーティーや舞踏会やお芝居なども。田舎暮らしもちっとも不安じゃありません。幸い心の楽しみをたくさんもってますから、社交界なんてなくても平気ですの。そんなものなくっても、楽しく暮らせますわ。そういうことにしか楽しみを見出だせないひとたちの場合はちょっと困るでしょうけどね。でもわたしは自分で楽しいことを見つけられる質《たち》ですから。それに今までの家より狭い住まいのことなんて、心配の種にもなりませんでしたわ。そういった不便さは、ちっともかまいませんの。たしかに≪メイプル・グローヴ≫では贅沢な生活に慣れていましたけど。だから夫を安心させてあげました、二台の馬車や広大なお屋敷がなくても、わたしはじゅうぶん幸せですからって。『ただね正直なことをひとつ言えば、音楽好きのお友だちがいないところでは暮らしていけません。ほかにはなにもいらないけれど、音楽なしでは人生はとてもむなしいです』ってわたし言ったんですのよ」
「もちろん」エマは微笑しながら言った。「ハイベリーの人たちはみな音楽好きだとエルトン様が請け合ったのでしょうね。でも許される範囲内での誇張ですから、彼を責めないでくださいね、動機はお察しでしょう」
「まあとんでもない、そのことは疑ってもおりませんわ。こちらのようなお仲間に入れるなんて、本当に光栄です。みなさんでささやかな音楽会を開きたいですわね。ミス・ウッドハウス、ふたりで音楽クラブを結成しませんこと? 週に一度、こちらのお屋敷かわたくしどもの家で集まりをするというのはどうかしら。すてきな思いつきじゃありませんこと? わたしたちの力を発揮すれば、たちまちお仲間も集まるでしょう。そういう趣旨のものがあれば|わたし《ヽヽヽ》にとってもありがたいことですわ、練習を続ける気持ちにさせられますから。おわかりでしょうけど、結婚してしまうと女性は残念なことに、みんな、音楽をあきらめてしまうんですもの」
「でもあなたほどお好きなら、その心配はいらないんじゃなくって?」
「そうだといいんですけど。でもねえ、周囲を見まわしますと恐ろしいほどですのよ。姉のセリーナはすっかりやめてしまって、楽器に触れもしません。とても上手だったんですのに。おんなじことが、ジェフリー夫人、旧姓クラーラ・パートリッジの場合にも言えますし、ミルマン家のふたりの娘さん、バード夫人とジェームズ・クーパー夫人もそうなんですのよ。もう数えあげたら切りがないくらい。不安にならざるを得ませんわね。セリーナに、なぜやめたのかとずいぶん当たったりしましたけど、この頃少しわかってきました、結婚いたしますといろいろと気を使わなければならないことが多くなるものですね。今朝は家政婦との打ち合わせに半時間もかかってしまいました」
「まあ、そういったことはなんでも」エマは言った。「じきに整っていくものですわ」
「そうね」エルトン夫人は笑いながら言った。「まあ、そのうちわかってきますわね」
彼女が音楽のことはあきらめると決めてかかっている以上、エマはもう話す気にもなれなかった。しばらく間をおいて、エルトン夫人がほかの話題を持ち出した。
「≪ランドルズ≫にもうかがってまいりましたのよ」彼女は言った。「おふたりともご在宅でしたわ。とってもおやさしそうな方たちですわね。わたし、大好きになってしまいました。ウエストン様はたいそうご立派な方ですね。わたしの一番気に入った方といってもいいほどですわ。それに奥様も、本当にいい方。すぐに人の心をつかんでしまうような、母親らしいやさしい魅力がおありになりますわ。あなたの家庭教師をなさってらしたとか」
エマは驚き呆れて言葉もなかった。だがエルトン夫人は返事などおかまいなく、しゃべり続けた。
「たしかそううかがってましたけど、とても淑女らしいので、ちょっと驚きましたわ。どこから見ても上流階級の方のようですもの」
「ウエストン夫人のおたしなみは」エマは言った。「いつでもとてもご立派でした。きちんと的を射ていて、誠実で、品があって、どんな若い女性にとってもこの上ないお手本ですわ」
「わたしたちがあちらにお邪魔しているときに、どなたがいらしたと思います?」
エマにはさっぱり思い浮かばなかった。口調からだとだれか古い知り合いのようだが、一体だれのことだろう? 「ナイトリーですわ」エルトン夫人が続けた。「ナイトリーご自身がいらしたんですよ。きっとついていたんでしょうね。先日お訪ねしたときはお留守で、わたしはまだお会いしたことがなかったのです。E氏とは大変親しいおつきあいをしていただいているのですから、わたし、ぜひお会いしてみたかったんですの。『友人のナイトリーがね』って主人はしょっちゅう言っておりまして、お会いするのが待ち切れなかったくらいです。わたしの|愛しの夫《カーロ・スポッソ》に、お友達にして恥ずべきところのない素敵な方じゃないですか、と太鼓判を押してあげなくては。ナイトリーは本当の紳士です。あの方がとても気に入りましたわ。まさにあの方こそ、紳士の鑑ですわね」
幸いにして、いとまごいの時間になった。夫妻は出ていき、エマはやっと息がつけるようになった。
「あんな女、とても我慢できない!」これが最初の感想だった。「思っていたよりずっとひどいわ。絶対に我慢できない。ナイトリーですって。まったく信じられない、ナイトリーなんて呼び捨てにして。会ったことすらないくせに、ナイトリーときたものだわ。それで彼が一目で紳士だとわかったんですって! 自分の夫をE氏だの、|愛しの夫《カーロ・スポッソ》だのと呼んだりして、成金の悪趣味もいいところだわ。なにが心の楽しみよ、あのうぬぼれたっぷりの気取りはどう? お里が知れるというものよ。ミスター・ナイトリーが紳士であることがわかったんですって。その同じ賛辞をナイトリーさんがあの女に向けておっしゃったかどうか疑問だわ、淑女であると認めたのかしら。とても信じられない。わたしとふたりで音楽クラブを作るですって。ひとから親友同士と思われてしまうじゃないの。それにウエストン夫人のことも! わたしを教育してくださった方をつかまえて、淑女であるのにびっくりしたですって。ますますひどいわ。あんなひどいひとには会ったこともないわ。あれほどとは思ってもみなかった。あのひとと比べたらハリエットがかわいそうなくらいよ。ああ。フランク・チャーチルがこっちにいてあのひとに会ったら、なんて言うかしら。どんなに腹をたてるか、どんなにおもしろがるか、楽しみだわ。あら、ほらまた。すぐに彼のことを考えてしまう。真っ先に考えつくひとが彼だなんて。どうしたら気をそらせるかしら。フランクのことがいつも心に浮かんできてしまう!」
こういった考えが立て続けに脳裏に浮かび、エルトン夫妻が帰りその騒ぎも静まって、父親が落ち着いて話ができるようになった頃になってようやく、エマは父の相手ができる程度になった。
「ねえ、おまえ」父は慎重に話しだした。「初めてお会いしたが、とてもきれいなひとじゃないか。おまえのことをたいそう気に入った様子だったが。だけど話すのが少し速すぎると思わんかね。あんなふうな速い口調は、とても耳に障るものだ。それでも、わたしは態度には出さなかったよ。きっと、聞き慣れない声が好きになれないせいだろうし、おまえやミス・テイラーのように話す者はほかにはいないからね。でもあのひとも行儀がよくて、上品なひとのようだから、エルトン君の良い奥さんになるだろう。だがわたしの考えでは、彼は結婚しないほうがずっと良かった。このおめでたいときに、お宅に訪問できないことについては、重々お詫びしておいたよ。夏の間にはぜひうかがうと言っておいた。もっと前に行くべきだったね。花嫁にお祝いを言いに行かないとは、ずいぶんと怠慢なことをしてしまった。やれやれ、わたしがどれだけ病弱か、これでわかるというものだ。牧師館への曲がり角がどうも好きになれんのだよ」
「お父様のお気持ちは通じたと思いますわ。エルトン様はお父様をよくご存じですから」
「そうだな。だが若いご婦人に、しかも花嫁に、できればご挨拶に行くべきだったろうね。たいそう失礼なことをしてしまった」
「あら、でもお父様は結婚反対論者ではなくって? なのに花嫁にご挨拶に行かなかったことで、どうしてそんなにお悩みになるのかしら。お父様にとっては遺憾なんでしょ。あのひとたちの結婚をお認めになれば、結婚を奨励していると思われても仕方なくってよ」
「いやいや、だれにも結婚を勧めた覚えはないよ。だがご婦人には礼を尽くさなければいけないからね。それに花嫁となればなおさら、失礼があっては申し訳ない。いくら敬意が払われても足りないくらいだからね。おまえもわかると思うが、花嫁というのは一座の中でもつねに一番のひとでなければいけないのだ、どんなひとたちが同席していたとしてもだ」
「ではお父様、それがもし結婚の奨励でないのなら、いったいなにがそうなのかわかりませんわ。お父様がそのような欺瞞に満ちた誘いを若い女性が受けるのをお許しになるなんて、考えたこともありませんでしたわ」
「おまえは、わたしの言う意味がわかっていないのだね。これは単に礼儀作法の問題なのだ。なにも結婚を奨励するつもりなどさらさらない」
エマは話を切り上げた。父は神経質になってきていて、彼女の言うことがわからないのだ。エマの心はまたエルトン夫人の傍若無人なふるまいへと戻っていって、しばらくはずっとそのことが頭から離れなかった。
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第三十三章
その後、エルトン夫人についていろいろと明らかになったが、エマの最初の悪印象を訂正するまでもなかった。エマの観察は非常に正しかった。二度目にエルトン夫人に会ったときの様子は、次にまた会ったときにも変らず、つまり相変わらずうぬぼれ屋で、でしゃばりで、馴々しく、無教養で、品がなかった。多少は美人で、才能もあるようだが、あまりに常識というものがなく、自分が地域に優れた知識をもたらし、周囲のひとびとを活気づけ、啓蒙したかのように錯覚していた。エルトン夫人となって格は上になったけれども、ミス・ホーキンズとしてもともと社交界でかなりの地位を占めていたのだとも思っているらしかった。
エルトン氏のほうも、妻と意見を異にする様子はまったく見られなかった。彼女を妻にして幸せそうなばかりか、誇りすら感じていた。ミス・ウッドハウスもかなわないほどの素晴らしい女性をハイベリーに伴うことができた自分を、晴れがましく思う気持ちでいっぱいらしい。さらにはエルトン夫人の新しい知り合いの大半が、たやすくほめ言葉を口にしたり、観察力に欠けているひとばかりなので、ミス・ベイツのお人好しにならったり、その花嫁自ら公言するとおり、賢くて感じの良い女性に違いないと思い込んだりしていた。そんなわけでエルトン夫人に対する賛辞が口から口へと伝えられ、ミス・ウッドハウスからも水を差されることはなかった。なぜならエマは喜んで、「とても感じの良い、服の趣味のいい方ですわね」という最初の印象をにこやかに言いつづけたからだ。
だがある意味において、エルトン夫人の態度は当初よりも悪くなった。エマに対する気持ちが豹変したのだ。仲良くしようという申し出にエマが冷たい反応を見せたことがしゃくに障ったのだろう、向こうのほうから遠ざかり、冷ややかに距離を置いてつきあうようになった。こちらにしてみれば願ってもないことだが、そういう態度を取ろうとする歪んだ根性はエマを不愉快にさせずにはおかなかった。ハリエットに対する夫人の態度やエルトン氏の態度も意地の悪いものだった。鼻で笑って、無視をする。エマはこのことでハリエットの傷がかえって早く癒えることを祈った。だがそのような行為を夫婦にとらせるもととなった感情については、ふたりとも気が重かった。かわいそうにハリエットの恋が夫婦の無遠慮な会話の種にされているだろうことは疑いようもなく、その話の中にはエマ自身も登場しているはずで、エマにはいささか不利に、そしてエルトン氏にとっては都合良く尾ひれをつけて語られていることは目に見えている。エマは夫婦にとって明らかに共通の反感の対象だった。お互いになにも話題がないときには、必ずと言っていいほどミス・ウッドハウスの悪口が始まるのだろう。そしてエマに向けてあからさまに不躾な行為をはたらく代わりに、夫婦の敵意はハリエットに対してより大きなはけ口を見出だし、ことさらに侮蔑的にあしらった。
エルトン夫人はジェーン・フェアファクスがいたくお気に召したようだ。それもひと目会ったときからだった。ある若い女性と対立関係にあるために別の女性に好意を寄せるということはよくあることだが、最初からすぐに気に入ったらしい。そうして自然な当たり前のお世辞だけでは満足せずに、頼まれたわけでもなく、そんな権利があるわけでもないのに、ジェーンに手助けを申し出て仲良くなりたいと望んでいるらしかった。まだエマがエルトン夫人の信用を失う以前、三度目に顔を合わせたときに、夫人は自分の善意あふれる思いつきについて語ったことがある。
「ジェーン・フェアファクスって、とっても可愛らしい方ね、ミス・ウッドハウス。わたし、ジェーン・フェアファクスにもう夢中ですのよ。やさしい、心惹かれるひとだわ。とてもたおやかで、気品があって。それにあんなに才能があるなんて! あの才能はそれは非凡なものでしてよ。あのひとの弾くピアノはうっとりするほど素晴らしいですわ。音楽には多少通じているつもりですから、その点は自信をもって言えます。ああ、本当になんて魅力的なひとかしら。わたしの熱狂ぶりをどうぞお笑いくださいまし。でも誓って言いますけれど、ジェーン・フェアファクスのことしか頭にないんですの。それに彼女の境遇はひとの情をくすぐるようにできてますからね! ミス・ウッドハウス、わたしたちひと肌脱いで、あのひとのためになにかしてあげませんこと? あの才能は伸ばしてさしあげなくては。あのような優れた才能が埋もれたままになってしまうのは許しがたいことですわ。こういう美しい詩の一節をご存じでしょう?
ひと知れず、咲き乱れる紅の花よ、
その甘い香も、ただ砂漠に埋もれるのみ(注・十八世紀英国詩人トマス・グレイ)
大事なジェーン・フェアファクスにこの詩の文句が当てはまってなるものですか」
「その心配はちっともいらないと思いますよ」エマは落ち着きはらって答えた。「ミス・フェアファクスの境遇をもっとよくお知りになって、あの方がキャンベル大佐ご夫妻のもとでどんな暮らしをなさっていたのかをご存じになれば、あの方の才能が人知れず埋もれてしまうなんていうご心配はなさらないでしょう」
「まあ、でもミス・ウッドハウス、今はあんなに世間から退いて、人知れず捨ておかれているじゃありませんか。キャンベル家でどれほど楽しい思いをなさったか存じませんが、それももう終わってしまったことですわ! あのひともそれを感じていると思います。きっと感じていますよ。とっても内気で、おずおずして。だれかに元気づけてもらいたがっているのが、はたから見てもわかります。そのせいで余計に惹かれるのですけどね。はっきり言ってそこがまた魅力なんです。わたしは内気なひとが大好きなんですの。そういうひとってこの頃じゃ、珍しいですものね。だけども身分の低いひとが内気にしている様子は、とっても好ましい感じがしますわ。ああ、本当に、ジェーン・フェアファクスはそりゃあ、可愛らしいひとで、言葉にはできないくらい夢中です」
「たいそうなご執心ぶりですわね。でも、あなたにしても、あなたよりずっと古い、ここでの知り合いにしても、今以上の心遣いをどうやって示したらいいのかわかりませんけれど――」
「まあ、ミス・ウッドハウス、本気になればもっとたくさんのことができるはずですよ。遠慮することはないんですわ。わたしたちがお手本を見せれば、それを見習ってみんなができる範囲のことをするんじゃないかしら。すべてのひとがわたしたちのような身分ではありませんけれどね。わたしたちには馬車がありますから彼女を送り迎えすることもできますし、ジェーン・フェアファクスひとり増えたところでなに不自由ない暮らしをしておりますでしょう。もしジェーン・フェアファクスのお口にとても合わないような物をうちのライトが食卓に出して、それを言いつけたのがわたしだとすれば、それは本当に残念なことですわ。でもそんなことは考えられません。これまでのわたしの暮らしからいっても、そんなことがあるはずはありません。それより真剣に心配しなければならないのは、反対に家事をやりすぎることと、出費に無頓着なことでしょうね。いけないことに、つい≪メイプル・グローヴ≫を手本にしてしまって。収入の面で義兄のサックリング氏と競うつもりなんて全然ありませんのよ。ともかく、ジェーン・フェアファクスには気を配ろうと決めましたの。うちへたびたびお招《よ》びして、できるだけ多方面の方に紹介してさしあげたいわ。それに音楽会を開いてピアノの才を引き出したり、いつもあちこちに目を配って、しかるべき家のお仕事に就かせてさしあげたいですわね。わたしはかなり顔の広いほうですから、すぐにあのひとにぴったりのお話が聞けるはずです。それになにより紹介したいのが義兄夫婦ですから、こちらにきたらぜひ会っていただこうと思いますの。きっと気に入ることまちがいなしですわ。そして気心が知れた間柄ともなれば、あのひとの内気なところも薄れていくでしょう、だって義兄たちときたら、とにかく気のおけないひとたちなんですもの。姉夫婦がこちらにいる間はしょっちゅうお招びして、遊覧に出かけるときにはいつか、あの四人乗りの幌付き馬車にも乗せてあげたいわ」
「ジェーン・フェアファクスもお気の毒に」エマは思った。「こんな目にあうなんて。ディクスン氏のことはいけないことかもしれないけれど、これほどの重い罰を受けるには値しないわ! エルトン夫人の親切心と庇護の的にされるとは! 『ジェーン・フェアファクスがどうの、ジェーン・フェアファクスがこうの』。なんてこと! どうかこの女がわたしのことを、エマ・ウッドハウス呼ばわりして話し歩いていませんように。でもこれだけは言えるけど、この女の不作法な舌はとどまるところを知らないようね」
だがエマがエルトン夫人のたまらないおしゃべりを聞かされることはもうなかった。専ら自分に向けられた、むかつくほど「ねえ、ミス・ウッドハウス」で飾りたてられたあのおしゃべりを。エルトン夫人の心変わりはすぐに表れ、エマは平穏に放っておいてもらえることとなった。エルトン夫人の親友になることを無理強いされもせず、ジェーン・フェアファクスの積極的な支援者を自認するエルトン夫人につき従うことも求められず、ただほかのひとびとと同じように、夫人がどう感じて、どう思い、どんなことをしたかを小耳にはさむ程度だった。
エマはいくぶんおもしろがりつつ成り行きを傍観していた。ジェーンに目をかけてくれたことで、ミス・ベイツはエルトン夫人に心から誠意と熱意をもった感謝を捧げた。ミス・ベイツにとってエルトン夫人はたいそうな身分の方であり、ひとから好かれる心やさしいすばらしい女性であった。まさにエルトン夫人がそう評価されたいと願う通りの、よくできた腰の低い女性というわけだ。ただひとつエマが驚いたのは、ジェーン・フェアファクスがエルトン夫人のおせっかいを素直に受け、夫人がしようとすることを受け入れていることだった。ジェーンがエルトン夫人と一緒に散歩をしていたとか、エルトン家に招かれて食事をしたとか、一日一緒に過ごしていたとかいう話が伝わってくる。信じがたいことではないか! ミス・フェアファクスの趣味やプライドから考えても、牧師館で供されるような集まりやひとづきあいに、彼女が我慢できるとはとても思えない。
「不思議なひとだわ、本当によくわからない」エマは言った。「あれやこれやの不自由も忍んで、何ヵ月もここにとどまるなんて! そして今はエルトン夫人の屈辱的なおせっかいや、教養のないおしゃべりのほうを選んで、自分を心底可愛がって、広い愛情で包んでくれるはずの優れたひとたちのところへ帰らないなんて」
ジェーンは表向きは三ヵ月だけハイベリーに滞在するということになっていた。キャンベル夫妻がその三ヵ月の間、アイルランドへ行くからだった。ところが夫妻は、少なくとも夏の半ば頃までは滞在を延ばすことを娘に約束したので、ふたたびジェーンに、ぜひこちらへ来てほしいとの便りが届いた。ミス・ベイツの話だと――もっともこのひとが唯一の情報源なのだが――ディクスン夫人がどうしても、と書いてきたそうだ。ジェーンさえくる気になれば、方法はどうにでもなって、召し使いも、連れの友だちもよこすから、旅に支障はない、と。それなのにジェーンはそれを断ったのだ!
「この誘いを断るなんて、きっとなにか、ひとに知られてはならない大きな理由があるに違いない」というのがエマの結論だった。「彼女はきっとキャンベル一家か、自分自身に対して、なんらかの罪の意識があるんだわ。なにかひどく恐れるような、注意しなければいけない、強い決意があるのよ。ディクスン夫妻と一緒にいてはいけないような。だれかがそう命令しているのかもしれない。それにしてもなぜ、エルトン夫妻と仲良くしなくてはならないのかしら。これはまた別の謎だわね」
この点に関する疑問を、エマのエルトン夫人についての意見をよく知る親しいひとたちの前で話すと、ウエストン夫人がジェーンの弁護にまわった。
「ねえ、エマ。あのひとがかならずしも、心から楽しんで牧師館に行っているとは思えないわ。それでもずっと家にとじこもっているよりはいいんじゃない。彼女の伯母さまはいい方だけど、いつもいつも一緒では気が滅入ることもあるでしょう。あのひとが今しようとしていることの善し悪しを責める前に、ミス・フェアファクスが失ったものを考えてあげなくてはね」
「おっしゃる通りです、ウエストン夫人」ナイトリー氏が力をこめて言った。
「ミス・フェアファクスは、ここにいるだれよりもエルトン夫人がどんなひとかわかっているはずです。彼女にひとを選ぶ自由があれば、わざわざあの夫人を選んだりはしないでしょう。でも、(エマに叱るような微笑を向けて)だれからも受けることのできなかった親切を、エルトン夫人から与えられているのですから」
エマはウエストン夫人がちらりとこちらを見たのを感じた。なにより面食らったのはナイトリー氏の口調の激しさだった。エマはかすかに顔を赤らめ、すぐに反論した。
「エルトン夫人みたいなひとにおせっかいを焼かれれば、ミス・フェアファクスは喜ぶよりも、うんざりするものと思ってましたわ。エルトン夫人の招待なんて、まったく、魅力がないと思うけど」
「わたしはとくに驚きませんよ」ウエストン夫人は言った。「かりにミス・フェアファクスが行きたくなかったとしても、伯母さんがエルトン夫人のご親切をぜひお受けするようにと、熱心に勧めたとすればどうかしら。ミス・ベイツが姪ごさんを束縛して催促したあげくに、彼女自身の良識で考えていたよりもずっと親しい関係になってしまったのじゃないかしら、最初はちょっとした気分転換のつもりだったのが」
ふたりともナイトリー氏が何か言うのを今か今かと待った。しばらく黙っていた後で、彼は言った。
「もうひとつ、考慮しなければいけないことがある。エルトン夫人はひとにミス・フェアファクスのことを話すときのようには、本人には話しかけないのではないだろうか。彼《ヽ》や彼女《ヽヽ》という代名詞と、最も親しいひとに使う|あなた《ヽヽヽ》という代名詞は違うものです。そこには、個人的なつきあいにおける、通常の礼儀正しさ以上のなんらかの要素があると思う。あらかじめ意識に入り込んでいるなにかが。たとえ一時間前には悪感情を抱いていたにしても、当の相手にはそれをみじんも感じさせてはいけないわけだし。ひとはそれぞれに感じ方が違うのだから。一般的な原理としてのこの働きに加えて、ミス・フェアファクスは思考とふるまいのどちらにおいてもエルトン夫人よりはるかに優れているので、面と向かえば、エルトン夫人は精一杯の敬意をもって彼女をもてなすのではないかな。ジェーン・フェアファクスのような女性はエルトン夫人にとってまったく初めてのひとなんだよ。そしてどんなに装ってみたところで、ミス・フェアファクスと比べれば、自分が劣っていることを無意識にしろ認めざるを得なくなるわけだ」
「あなたがジェーン・フェアファクスをどんなに高く買っていらっしゃるか、知っていますわ」エマの頭には幼いヘンリーのことが浮かんで、不安と話の微妙さに、なにを言えばいいかわからなくなった。
「そうだね」彼は答えた。「彼女のことをどれほどぼくが評価しているかは、だれもが知るところだよ」
「それでも」とエマはすばやくいたずらっぽい目つきで言いかけたが、ふと口をつぐんだ。だがいずれにしろ、嫌なことは早くわかったほうがいいと思い、急いで続けた。
「それでも、それがどれほど高い評価かは、きっとご自分ではご存じないのだわ。あんまりおほめになっていると、いつかご自身でもびっくりすることになるかもしれなくってよ」
ナイトリー氏は厚い革ゲートルの下のボタンを留めるために力をこめていたせいか、またはほかの理由があってか、顔を赤くして答えた。
「おやおや、その話ですか! それにしてもずいぶんと遅れてるね。コール氏などそのことを、六週間も前にほのめかしていたよ」
彼は言葉を切った。エマはウエストン夫人が軽く足を踏んだのがわかったが、自分ではいったいどう考えていいのかもわからなかった。少しして彼はまた続けた。「だが、そういうことは絶対にないよ。もしぼくが申し込んだとしても、ミス・フェアファクスは、受けてはくれないだろうね。そしてぼくのほうも、彼女に申し込んだりしないのはたしかだよ」
エマはおもしろがって友人の足を踏み返し、嬉しくなってこう言った。「見栄っ張りじゃありませんのね、ナイトリーさんは。これはほめてさしあげてるのよ」
彼はエマの言葉を聞いていない様子だった。じっと考えこんで、そのあと、不愉快そうに、こう言った。
「つまりぼくがジェーン・フェアファクスと結婚すればいいと、あなたたちは決めつけていたんですね」
「まあ、そんなことはありませんわ。この前、仲人ごっこを厳しく叱られたばかりですもの、あなたにそんな大それたことをしようなんて、思いもよりません。今言ったことには、なんの意味もないんです。ひとはときどきたいして考えもせずに、そんなことを言ってみたりするものですわ。いいえ! とんでもない。あなたがジェーン・フェアファクスにしろ、だれにしろ結婚するなんて、これっぽっちも考えたことがないわ。だってあなたが結婚してしまったら、こんなふうに一緒にお話しすることができなくなってしまうんですもの」
ナイトリー氏はまた考えこんでいる様子だった。考えた結果、こう言った。「いや、エマ、ぼくがどれほど彼女をほめたとしても、その結果に驚くことはないだろうね。あのひとをそんなふうな対象として見たことはないよ、誓ってもいい」そしてすぐに続けて、「ジェーン・フェアファクスは実に魅力的なお嬢さんだ。だが彼女といえども、完璧というわけにはいかない。欠点はだれにでもあるものだ。彼女には男が妻に望むような朗らかな気質がない」
エマはあのジェーンにも欠点があると聞かされて喜ばないわけにはいかなかった。
「それで」とエマは言った。「すぐにコール氏の口をふさいだのね?」
「ああ、すぐにね。彼はちょっとほのめかしただけだったが。それは違うとぼくは言った。彼は謝り、二度とは言わなかったよ。コールは別に、周囲にさきがけて何かを知ろうとか、通じようとかいう気のない男だからね」
「それについてはエルトン夫人となんて対照的なんでしょうね。あのひとはいつもひとにさきがけて賢く、事情通になろうとばかり考えているわ。コール夫妻のことをどう話すのか聞きたいものだわ。なんて呼ぶのかしら。馴々しい下品さたっぷりに、どんな呼び方を考え出しているかしら。あなたのことを、ナイトリーなんて呼ぶのよ。だとしたらコール氏のことはどう呼ぶつもりかしらね。それでも、ジェーン・フェアファクスがあのひとになにかと面倒を見てもらい、一緒にいるのをいやがらないとしても、驚いてはいけないのね。ウエストン夫人の意見が、一番もっともらしく思えるわ。ミス・フェアファクスがエルトン夫人を精神的に圧倒しているという考えよりは、ミス・ベイツから逃れたいからというほうが、ずっとうなずけるわ。だってエルトン夫人が、他人よりも思考や言葉や行動の点で劣っているのを認めるとはとても信じられないのですもの。それに自分の育ちがいいと信じこんでいる度量の狭さを曲げてまで、自分を抑えるなんていうのも考えられないわ。あのひとがお世辞を言ったり、励ましたり、援助を申し出たりして友人を侮辱していないところなんて想像できて? 永久的な地位を約束したり、ご自慢の四輪幌付き馬車でピクニックに連れていってあげるとか言っては、自分の壮大な計画をこと細かにしゃべり散らしたりしない彼女を思い浮かべないことなどできて?」
「ジェーン・フェアファクスにも感情はあるさ」ナイトリー氏は言った。「感情に欠けるなどと非難することはできないよ。あのひとの感受性は、強いほうじゃないかな。それにあの慎みと忍耐と自制の備わった優れた気質。だが朗らかさがない。あのひとは控えめだが、以前よりもいっそうその性質が強くなったように思える。ぼくは朗らかなひとが好きです。いやはや、コールがわたしの恋愛をほのめかしたりするまでは、そんなことは考えてもみなかった。ジェーン・フェアファクスに会うときはいつも、敬意と喜びをもって接してはいたが、そういう感情は抱いたことはなかったな」
「ねえ、ウエストン夫人」彼が行ってしまうと、エマは得意そうに言った。「ナイトリーさんがジェーン・フェアファクスと結婚するという考えを、今ではどう思っているの?」
「あら、なぜ、エマ、あの方は彼女に恋をしていないと否定するのにあまりにも精一杯で、良く考えたらやはり恋していた、ということになってもおかしくはないと思うわよ。あんまりいじめないでちょうだいな」
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第三十四章
ハイベリーやその近辺に住んでいる人間でエルトン氏と親交のあるひとはみな、彼の結婚に敬意を表したがった。晩餐会や夜会が彼とその奥方のために催され、招待状がひきもきらずに届き、約束で埋まっていない日は一日もないのではと心配になるほどで、夫人は嬉しい悲鳴をあげていた。
「だんだんわかってきたわ」夫人は言った。「こちらでどういった毎日を送ることになるのか。きっとくたびれてしまうでしょうね。わたしたちは上流階級だと思われているのよ。こういうのが田舎の生活というなら、それほど悪くもないわ。次の月曜から土曜まで、約束のない日はないと思うわよ! わたしよりも心の楽しみを持っていないひとでも、これならちっとも淋しくないわ」
夫人はどのような招待も大歓迎であった。バースでの習慣で、夜会など当たり前になっていたし、≪メイプル・グローヴ≫を訪れたことから、晩餐会が大好きになっていたのだ。ただ、応接間がひとつしかないこと、夜会用ケーキのぶざまな出来栄え、ハイベリーのカードの集まりにアイスクリームが出ないことなどには、いささか面食らっていた。それにミス・ベイツやペリー夫人、ゴダード夫人などは、社交界についてまったく遅れた知識しかもっていない。けれども、そのひとたちにはわたしが、本物の作法というものをだんだんに教えてあげればいい。春のうちに一度、お礼の意味で大きく立派なパーティーを開こう。そのときは本格的にして、カード用テーブルひとつひとつにろうそくを灯し、未開封のトランプの箱を用意させ、ふつうの家ではとても雇えないほどたくさんの給仕を雇い、軽食の盆は時間も手順も作法通りに運ばせることにしよう。
一方エマも、エルトン夫妻のために≪ハートフィールド≫で晩餐会をしなければならないと考えていた。ほかのひとたちがしているより劣るということがあってはいけない。でないと不愉快な疑いをかけられ、なにか恨みでもあるように思われてしまう。ぜひとも開かなければ。エマがそれについて十分ほど父に話して聞かせると、ウッドハウス氏も嫌とは言わず、ただ例によって食卓の端の席につかなくていいのならということだったので、いつものごとくだれが主人役をつとめるか、という問題が残った。
だれを招待すべきかは考えるまでもなかった。エルトン夫妻のほかに、ウエストン夫妻とナイトリー氏。ここまでは当然といえば当然だ。それからかわいそうだがハリエットも招ばないわけにいかないので、これで八人の客がそろう。だがほかのひととは違ってハリエットを招ぶのは気が進まなかったので、彼女が辞退したいと言ってきたときには、いろいろな点でエマはほっとした。「できますことなら、あの方とはご一緒したくないんです。まだ、あの方と魅力的でお幸せそうな奥様が並んでいらっしゃるのを見るのは、つらくて。もしミス・ウッドハウスさえ御機嫌を悪くなさらないのでしたら、家にいたいと思います」
エマにとってはまさしく願ったり叶ったりであった。エマは年下の友人の、晩餐会に出席せずに家にとどまると決めた勇気に感心した。これで八人目の客にしたいと願っていたジェーン・フェアファクスを招ぶことができる。エマは先日、ウエストン夫人とナイトリー氏と交わした話のせいで、いつも以上にジェーン・フェアファクスに対して心がとがめていた。ナイトリー氏の言葉が忘れられない。彼は、ジェーン・フェアファクスは、ほかのだれからも得られないほどの親切をエルトン夫人から受けているのですよ、と言った。
「それは本当のことだわ」エマは言った。「少なくともわたしに関すればそうだわ。だってあれはわたしに向けられた言葉ですもの。恥ずかしいわ。同い年で、昔からの知り合いなんですもの、仲良くして当たり前なのに。もう今では、嫌われてしまっているかもしれないわね。ずっとないがしろにしてきたから。でもこれからは、もっと親切に接するようにつとめるわ」
全員が招待を快く受けてくれた。ほかに予定があるひともなく、みんな喜んでくれた。けれども晩餐会の準備についての問題は終わったわけではなく、いくぶん都合の悪い事態も生じた。この春、ナイトリー家の上の男の子ふたりが≪ハートフィールド≫の祖父と叔母を訪ねてきて、子どもたちを連れてきた父親も一晩だけ泊まることになっていたのだが、その日がまさしく晩餐会の当日にあたってしまったのだ。父親の仕事の関係で日程をずらすこともできず、ウッドハウス氏と娘はほとほと困ってしまった。ウッドハウス氏の神経には、晩餐会に八人の客というのが、耐えられるぎりぎりの人数で、それが九人になってしまう。それにエマの不安は、九人目の客が、たった一日だけ≪ハートフィールド≫に来るのに、なぜ晩餐会になどぶつかるのかと、必ず不機嫌になるだろうということだった。
エマは自分の気持ちより、父親のほうを上手になだめることができて、たしかに九人にはなるが、あの方はとても口数の少ない方なので、たいして騒がしくはならないからと、口説いた。だがエマには自分の向かいに、兄の代わりに弟のナイトリー氏が座って、あの恨みがましい目つきと気乗りのしない会話につきあわされるのかと思うと、気が重かった。だが、状況はエマよりもウッドハウス氏にとって好ましいものとなった。ジョン・ナイトリーはやってきた。だがウエストン氏がふいの用事でロンドンに呼ばれ、当日はこちらにこられなくなった。夜には加わることもできるだろうが、夕食には間に合わない、と。これでウッドハウス氏は、とても気が楽になった。そして父が安心するのを見たり、ふたりの幼い甥が来たこと、おまけに事情を聞かされた弟のナイトリー氏が落ち着いて諦めてくれたので、エマの一番の心の重荷は取りのぞかれた。
当日、晩餐会には定刻通りに人々が集まり、弟のジョン・ナイトリー氏は早々に愛想を良くするという演技を披露した。夕食を待つ間、兄を窓辺に引っ張って行くかわりに、ミス・フェアファクスに話しかけたのだ。レースと真珠で精一杯上品に着飾ったエルトン夫人のことは黙って見ただけで、イザベラに話してやる分だけ観察すればじゅうぶんだと思ったのだが、ミス・フェアファクスなら昔からの知り合いだし、物静かなので、彼にも話しかけることができた。その日の朝食の前に、息子ふたりを連れて散歩に出た帰りに彼女と会ったのだが、ちょうど雨が降りだしてきて、そのことに触れるのが礼儀だと思った。
「今朝はあまり遠くへ行かれたのでなければいいのですが、ミス・フェアファクス。そうでないと雨にぬれてしまったでしょう。ぼくらもぎりぎりで家に帰りました。あのまますぐ引き返されたんでしょうね」
「ちょっと郵便局まで」彼女は答えた。「それで本降りになる前に帰りつきました。毎朝の日課なんです。こちらにいる間はいつもわたしが手紙を取ってくるんですの。そのほうが手間が省けますし、外へ出るきっかけにもなります。朝食前の散歩は身体にもいいようですし」
「雨の中の散歩では、身体に良くはないでしょう」
「あら、でもわたしが出たときはそれほど降っていませんでしたのよ」
ジョン・ナイトリーは微笑して答えた。
「ということは、どちらにしろ散歩するほうを選んだということですね。お会いしたのはあなたのおうちから六ヤードと離れていないところでした。そのあとすぐ、うちのヘンリーとジョンが数えられる以上の雨粒が降ってきたのですから。郵便局というのは、人生のある時期には実に魅力的な場所なのでしょう。あなたもぼくほどの年になれば、手紙など雨の中を取りにいくほどの値打ちもないと思うようになりますよ」
彼女はわずかに頬を染めて答えた。
「わたしにはあなた様のように、親しいひとたちに囲まれて暮らすような立場は望めそうもありません。だからわたしの場合、年を取っても、手紙に対して無関心にはならないと思いますわ」
「無関心! いいえ、そうではありません! あなたが手紙に無関心になれるなどと言うつもりはありませんでした。手紙にはどうしたって気を取られるものです。あれは一般に言って大いなる災難のもとですな」
「お仕事上のお手紙のことをおっしゃっているのでしょう? わたしの申すのは友人同士のやりとりのことです」
「そのほうがもっと質《たち》がわるい」彼は冷ややかに応じた。「仕事なら金銭をもたらしてくれますが、友情は金には結びつきませんからね」
「まあ、ご冗談を。わたしはジョン・ナイトリー様という方をよく存じております。あなたは、どんなひとよりも友情の大切さをわかっていらっしゃるはずです。あなたにとっての手紙が、わたしにとってよりも意味のないものだというのはうなずけますが、でもその違いはあなたがわたしより十歳上だからということではなく、環境の違いだと思います。あなたにはいつもそばにいとおしい方たちがいらっしゃいますが、わたしはそうはならないでしょう。だからわたしがたとえ情愛の尽きるほど長生きしたところで、郵便局はずっと心惹かれる場所であり続けるでしょうね。たとえ、今日よりひどいお天気の日でも」
「ぼくが年月によってひとは変わっていくものだと言うのは」ジョン・ナイトリーは言った。「年月によって環境が変るという意味だったのです。ひとの変化のなかには、環境の変化も含まれます。時は、日常的にそばにない愛情への関心を薄れさせるものです。だがわたしが言おうとしたのは、その変化のことではありません。幼馴染みのよしみで許していただけるでしょうが、ミス・フェアファクス、あなたが十年後には、ぼくと同じくらいたくさんの愛情に囲まれていることを願いますよ」
それは親しみをこめた言い方で、ちっともいやなところはなかった。彼女は快く「ありがとうございます」と答えて笑いとばそうとしたのだろうが、頬は赤く染まり、唇はふるえ、眼には涙さえ浮かべて、とても笑う気分ではないようだった。今度はウッドハウス氏が言葉をかける番だった。彼は晩餐会の慣習にならって、客たちの間をまわって、ご婦人方に賛辞を述べていたのだが、最後にジェーンのところに来た。そしてこの上なく丁寧にこう言った。
「あなたが、今朝は雨の中をお出かけになったと聞いて、とても残念です、ミス・フェアファクス。若いご婦人はご自分をいたわらねばなりません。若い女性はかよわい野の花です。健康と顔色に気をつけるべきですよ。きちんと靴下を替えましたか?」
「はい、とり替えました。ご親切にありがとうございます」
「ミス・フェアファクス、若いご婦人はいたわられる存在でなければいけません。お祖母さま伯母さまはお元気ですか? おふたりとは古い友人です。体調さえ許せば、もっと親しくおつきあいできるのですが。今晩はいらしてくださって、まことに光栄です。わたしと娘はいつもあなたのことを気にかけておりますから、今夜ここでお目にかかれてたいそう嬉しいです」
心やさしく、礼儀正しい老人はやっと椅子に座ることができた。自分の義務は果たし、すべての女性を歓迎して、ゆったりした気分にさせることができたと安堵していた。
この頃には雨の中の散歩の話はエルトン夫人の耳にも届き、ジェーンに向かって数々の忠告が飛び出した。
「ああ、わたしの大切なジェーン、わたしの聞いたことは本当なの? 雨の中を郵便局に行くなんて! そんなこと、しちゃいけませんわ。困ったひとだこと、どうしてそんなことなさるの。わたしのお世話が行き届いてなかった証拠のようなものだわ」
ジェーンはとても辛抱強く風邪など引いていないと保証した。
「まあ、わたしにそんなこと言ってもだめよ。あなたって本当に困ったひとねえ。もっとご自分を大切になさらなきゃ。郵便局だなんて! ウエストン夫人、お聞きになりまして? あなたとわたしとで、権威を発揮して見張らなくてはいけませんわね」
「わたしも」ウエストン夫人はやさしく言いきかせるように言った。「一言申し上げたい気がいたしますわ。ミス・フェアファクス、そういう危ないことはいけませんね。普段からあなたはお風邪を引きやすいのですから、この季節はとくに気をつけなくては。春はいつも以上の気配りが必要です。また咳き込む危険を冒すよりも、一、二時間か、半日、手紙がくるのを待てばいいのですよ。そのほうがいいとお思いでしょう? あなたはとても賢いひとだと信じています。もうそんなことはしないとお顔に書いてありますわ」
「まあ、そんなこと二度とさせませんわ」エルトン夫人が熱心に言い足した。「絶対にそんな真似をさせてはなりません」そして意味ありげにうなずき、「何か手段を講じるべきだわ、どうしても。うちのE氏に相談してみましょう。うちの手紙を毎朝取ってくる者――下男のひとりだけど名前を忘れたわ――がいるから、その者にあなたのお手紙も取ってこさせて届けさせましょう。それが一番面倒を省ける方法ね。わたしたちからということなら、ジェーン、これくらいの計らいは遠慮せずに受けてくれるでしょうね」
「ご親切にありがとうございます」ジェーンは答えた。「でも朝の散歩だけはやめるわけにいきません。できるだけ外を歩くように忠告されておりまして、どこかを歩かなきゃなりませんから、郵便局を目標にしているんです。それに誓って申しますけれど、今まで具合の悪くなるような朝はありませんでしたわ」
「わたしの大事なジェーン、もうそれ以上おっしゃらないで。話はもう決まったんですから。つまり(気取った笑い方をして)主人の許可を得ないでわたしが物事を決められる限りはね。ねえ、ウエストン夫人、わたしたち物を言うときは気をつけなくちゃなりませんわね。でもね、これはちょっと得意に思うことですけど、ジェーン、わたしの影響力もそれほど落ちたわけではないでしょう。とても解決できないほどの難問にでもぶつからない限りは、その点は決着済みとお考えになって結構よ」
「どうぞお願いですから」ジェーンは真剣に言った。「そういうお話を受けるわけにはいきません、おたくの召し使いにも要らぬ手間をかけてしまいます。もしこれが楽しくないことならしませんわ。わたしがこちらにいないときのように、祖母の召し使いに取りに行かせればいいのですから」
「まあ、まあ。それじゃパティーの仕事が増えすぎてしまうわ。うちの召し使いを使ってもらえばありがたいくらいなのよ」
ジェーンは納得したようには見えなかった。だが返事をする代わりに、またジョン・ナイトリー氏に話しかけた。「郵便局は素晴らしい制度ですね!」ジェーンは言った。「とても規則正しくて迅速で! あの仕事の量を考えますと、あれほど正確にやってのけるのは、驚くべきことですわ」
「たしかに非常によく運営されていますね」
「紛失したりまちがって配達したりということが、ほとんどないのですもの。国じゅうで往復される何千通という手紙の中で、ほとんど配達まちがいがないなんて。それに百万通のうち一通たりとも失くならないなんて。いろいろな筆跡や下手な字を判読することを考えると、ますます不思議に思えます!」
「郵便局員は習慣によって熟練するんですよ。もともと見分ける力と指先の速さは必要とされますが、実地の仕事でさらに上達するんです。それ以上の説明が要るとすれば」彼は笑いながら続けた。「彼らはそれで給料をもらってるんです。それこそ、偉大な能力を解く鍵です。大衆は金を払う代わりに、良いサーヴィスを求める権利がありますからね」
筆跡のさまざまについての話題が続き、彼らしく観察の鋭い意見が述べられた。
「こういう説があります」ジョン・ナイトリーは言った。「よく似た筆跡は家族同士に見られるそうです。それから同じ教師に習った場合、それは当たり前ですね。ですが、その理由からいくと、筆跡が似るのは女性に限られるという気がするのです。男の子は少し年長になると教わることがなくなって、いろいろな筆跡を積極的に取り込みますからね。イザベラとエマの字はとてもよく似ています。ぼくには区別がつかないほどだ」
「そうだね」兄のほうがためらいがちに言った。「似たところもある。言いたいことはわかるが、エマの字のほうが力強いな」
「イザベラとエマは、ふたりともきれいな字を書きますよ」ウッドハウス氏が言った。「いつも上手だった。それにあのウエストン夫人も」そう言って夫人のほうに微笑みかけ、軽くため息をついた。
「わたしの見た男性の筆跡のうちでは」エマはウエストン夫人のほうを見ながら話し始めた。だが夫人の関心が別のひとにあるのを見て、口をつぐんで、その間に考えた。(どうやって彼のことを持ちだせばいいのかしら? こんなに大勢の前では、言うべきではないのかしら。なにか遠回しな言いかたをしたほうがいいのかしら。ヨークシャーのお友だちとか、ヨークシャーの文通相手とか。それではわたしのほうに都合の悪いことがあるみたいだわ。彼の名前を言っても後ろ暗いことなんてないわ。日に日に、気にならなくなってきているんですもの。さあ、今だわ)
ウエストン夫人がだれとも話していないのを見て、エマはまた話しかけた。「フランク・チャーチル氏の筆跡は、わたしの見た中でも一番立派でしたわ」
「ぼくはそうは思わんが」ナイトリー氏は言った。「小さすぎる。それに力強さがない。まるで女のような字だ」
ふたりの女性はこれには納得しなかった。無礼な中傷に対して、ふたりは弁護にまわった。
「力強さがないはずはありません。大きくはないけれど、正確で、力もありますわ。証拠としてお見せできるようなお手紙を、ウエストン夫人はお持ちじゃありませんの?」夫人はごく最近、彼から便りをもらったのだが、返事を書いたのでもう片付けてしまったという。
「別の部屋に行けば」エマは言った。「机の中に、筆跡の見本がありますのに。彼の書いた物がありますわ。覚えていらっしゃらない、ウエストン夫人、あなたが彼に代筆を頼んだことがあったでしょう」
「代筆をいたしましょう、と言ってくれたので」
「そう、そう、そのとき書いたものです。それを夕食のあとでナイトリー様にお見せしましょう」
「なるほど! 女性をもてなすのが好きな、フランク・チャーチルのような青年なら」ナイトリー氏は冷ややかに言った。「ミス・ウッドハウスのような美しい女性を相手にすれば、精一杯上手に書いたに違いないね」
食事の用意ができた。エルトン夫人は言われるまでもなく、準備万端であった。ウッドハウス氏が近寄っていって腕をさしだし、食堂にご案内させてくださいと申し出る前から、こう言っていた。
「わたしが先頭ですの? いつでも先に立ってばかりいるようで恥ずかしいですわ」
ジェーンがどうしても自分で手紙を受け取りに行きたがったことがエマの関心を引いていた。話を聞きながら、一部始終を観察した。そして今朝の雨の散歩は何か効果を生んだのだろうかと興味を持った。たしかに効果はあったようだ。でなければあんなに決然と立ち向かうはずがない。だれかとても愛しいひとからの便りがあると確信していて、それがじゅうぶん報われたのだろう。
いつもよりもジェーンはずっと幸せそうに見える。顔色にも気分にも嬉しさが漂っている。朝の散歩のことやアイルランドへの郵便料金について、二、三質問することもできるにはできる。だが、舌先まで出かかった言葉を飲み込むことにした。ジェーン・フェアファクスを傷つけるような言葉は金輪際口にすまいと決めたのだ。そこでジェーンとエマは互いに腕を組み、それぞれの美しさと優雅さに似つかわしい睦まじさで、ほかの婦人たちに続いて部屋を出た。
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第三十五章
晩餐が済んで婦人たちが応接間に戻ったとき、エマは、客たちがはっきりとふた組に分かれてしまうのをどうすることもできないと悟った。物分かりの悪さと慎みのなさからエルトン夫人はしつこくジェーン・フェアファクスを独占し、エマのことは無視していた。エマとウエストン夫人はふたりだけで話すか、黙って聞いているほかなかった。エルトン夫人のために、そうするよりしかたがなかったのだ。ジェーンが束の間、夫人を黙らせても、またすぐに話しだす。ふたりの会話はほとんどささやき声で交わされ、とくにエルトン夫人のはひそひそ声だったが、主な話の内容は自然ともれてくる。郵便局、風邪を引くこと、手紙を取りに行くこと、友情、などが長々と語られていた。その後話題が変わり、いずれにしてもジェーンにとってはありがた迷惑な話なのだが、ジェーンにふさわしい職は見つかったかと質問して、エルトン夫人が実行しようという計画について詳しく語った。
「もう四月になるわ!」夫人は言った。「あなたのことがとても心配よ。六月はもうすぐじゃないの」
「でも六月にしろほかの月にしろ、何月と決めたわけじゃないんです。ただ夏までにと思っているだけなんですの」
「だけど本当になんのお話も来てないの?」
「まだ問い合わせもしておりませんから。当面はなにもするつもりはありませんので」
「あらまあ、始めるのに遅すぎることはなくってよ。望ましい職を手に入れることの難しさがわかってらっしゃらないのね」
「わたしがわかってないとおっしゃるんですか」ジェーンは首を振った。
「エルトン夫人、わたしほどその問題を真剣に考えている者はいませんわ」
「でもあなたはわたしほど世間を知らないでしょう。一流の職を求めてどんなにたくさんの候補者が名乗りをあげることか。≪メイプル・グローヴ≫の周辺では、そういうのをたくさん目にしたわ。サックリング氏の従姉のブラッグ夫人のところにはそれはたくさんの申し込みがありましたよ。夫人は一流の方々と交際がおありだから、だれもが夫人のお家に勤めたいと願ったのね。子どもの勉強部屋に蜜ろうのロウソクを灯すんですって! なんて素敵かしら。英国じゅうで、ブラッグ夫人のお宅ほど、あなたに勤めていただきたいところはないわ」
「キャンベルご夫妻は夏の半ば頃にはロンドンにお戻りの予定です」ジェーンは言った。「そのときはご一緒しなければならないでしょう。ご夫妻もそれを望まれるはずです。その後で、自分の身のふり方を決めようと思います。だから今のところは、問い合わせのお手間をかけるわけにはいきません」
「まあ、手間だなんて! 遠慮しているのはわかっているわ。迷惑かけまいというのでしょう。でもこれだけは言わせてもらうけどね、ジェーン、わたしはキャンベル夫妻にも負けないほどあなたのことを気にかけているのよ。今日明日にでもパートリッジ夫人に手紙を書いて、好ましい就職口がないかどうか目を光らせておくよう、きちんとお願いしましょう」
「ありがとうございます、でもその方にはなにもおっしゃらないでください。時期が来るまでは、どなたにもご迷惑をかけたくないんですの」
「でもねえ、あなた、時期は迫っているのよ。もう四月でしょう。六月、それから七月でさえ、もうすぐなのに、大事な問題がまだだなんて。本当に世間知らずなひとね。あなたにふさわしいような、そして友人もあなたにぜひともと思うような、そんな職はいつも見つかるわけじゃないし、思いつきで得られるものでもないわ。だから真剣になって今すぐにでも問い合わせを始めたほうがいいの」
「申し訳ありませんが、でも、そのつもりはないんです。問い合わせをする気もありませんし、お友だちにしていただくなんてとんでもない。時期が来るまでは、長い間、職がなくてもかまわないと思っています。ロンドンには職業相談の事務所もあるそうで、そこへ問い合わせればすぐにでも見つかると聞きました。取り引きの会社ですわね、ひとの身体ではなくひとの知識を取り引きするところ」
「まあ、いやだ、ひとの身体だなんて。びっくりさせないでちょうだい。奴隷売買のことをおっしゃるつもりなら、サックリング氏はずっと奴隷制度反対の立場を取っているんですよ」
「そんな意味ではありません、奴隷売買なんて」ジェーンは答えた。「家庭教師のあっせんです、わたしが言おうとしたのは。売買を行う側の罪という点では大きな違いがあるでしょうね。でも売られる側にしてみたら、どちらが不幸かはわかりませんけど。とにかく言おうとしたのは、広告業者があって、そこへ申し込めば適当な職がすぐ見つかる、ということですわ」
「適当な、ですって!」エルトン夫人はオウム返しに言った。「まあ、まあ、謙虚なあなたのことだから、どんなものでも満足なんでしょうけど。なにしろ、欲を知らないひとですもの。でもあなたの友人としたら、それでは不満よ。身分の低い、平凡な家庭で、しかるべき方々とのおつきあいもなく、生活に優雅のかけらもないようなお家の申し出を、あなたが受けるというのはね」
「ご親切にどうも。でもそういうことに関しては、あまり気にしないほうなんです。お金持ちの方のところへ行きたいとも思いません。かえって余計に惨めな気持ちになることでしょう。自分と比べて悲しくなりますから。紳士の家庭であること、それがただひとつの条件です」
「ええ、ええ、わかっていますよ。あなたは、どんなことにも自分を合わせようとするのね。でもわたしはもっといい条件を望みます、きっとおやさしいキャンベル夫妻もわたしの味方になってくれるはずよ。あなたほどの才能があれば、一流の家庭を望む資格はじゅうぶんだわ。音楽的才能だけでも、思う通りの条件を出せて、欲しいだけの部屋が与えられて、好きなように家族とおつきあいできるでしょうね。その、もしハープがお出来になれば――きっと出来ると思うけど――そういう条件を望めます。でもあなたは弾くだけではなくて歌もお上手だから、きっと大丈夫、ハープが出来なくたって、望み通りの条件を求められますよ。あなたは喜んで、誇りを持って、快適に勤められるような職に就いて、キャンベル夫妻やわたしを安心させてくれなくてはいけませんよ」
「あなたが勤め先の素晴らしさ、名誉、快適さを一つにまとめてお考えなのもよくわかります」ジェーンは言った。「たしかに、それらはみな同じことでしょうから。でも、今のところは本気でなにもしていただきたくないんです。ご親切には心から感謝いたします、エルトン夫人。心配してくださる方には感謝の気持ちでいっぱいですけれど、夏までは本当になにもする気はないんです。もう二、三ヵ月は、今のままで、いさせてください」
「本気なのは、わたしも同じよ」エルトン夫人は明るく答えた。
「願ってもないお話を見逃さないように、いつも気をつけているつもりですし、友だちにも気をつけているよう頼みます」
そんな調子でエルトン夫人のおしゃべりは続き、なにがあっても話しやむ気配はなかったが、ウッドハウス氏が部屋に現れるとぴたりと止んだ。夫人の虚栄心は目標を変え、エマには夫人がささやき声でジェーンに言うのが聞こえた。
「さあ、わたしの大事な老紳士のご登場よ! ほかの紳士に先立って入ってくるあの勇姿をごらんなさい! なんて愛すべき方なんでしょうね。わたしはあの方の大ファンですわ。あのちょっと変わった、古めかしい礼儀正しさが好きよ。今ふうの気安さよりもずっと好みに合ってるわ。今のひとの気安い態度ときたら、うんざりするほどですからね。でもウッドハウス氏は違うわ、食卓であの方がおっしゃったおほめの言葉をあなたにも聞かせたかったわ。ああ、うちの愛しの夫が嫉妬をしそうなほどよ。きっとわたしは彼のお気に入りなのでしょうね。このドレスをほめてくださって。あなたはどうお思い? セリーナが選んでくれましたの、上品だけど、飾りが派手すぎやしないかしら。飾り立てるのは一番嫌いなの。派手なのはぞっとするわ。今はちょっぴり、宝石をつけているけれど、それはみなさんの期待に沿わなければならないからよ。ほら、花嫁は花嫁らしく飾る必要があるでしょ。でも本当は質素なものが趣味なの。派手なものに比べたら、簡素な装いほど好ましいものはないわ。でも同じ考えを持つひとは少ないわね。質素なドレスがいいと思うひとなんて滅多にいないわ。見せびらかして、派手に着飾ることがすべてと考えているのよ。今身に着けている飾りを、白と銀のポプリンのドレスにも付けようと思うんだけど、似合うかしら?」
客たちが応接間に集まったちょうどそのとき、ウエストン氏が登場した。屋敷に戻って遅い夕食をすませ、それからすぐに≪ハートフィールド≫まで歩いてきたのだ。察しのよい人たちは彼の到来を待ちうけていたので、驚くことはなかった。ウッドハウス氏ですら、前は渋っていたのに、今は大喜びで迎えていた。ただひとり、ジョン・ナイトリー氏だけは口もきけないほど驚いた。ロンドンで一日仕事をした後は、自分の家で静かに夕べを過ごしてもいいはずだのに、またすぐ他人の家まで半マイルの距離を徒歩でやってきて、寝るまでの時間をひとびとに交じって過ごし、ひとのざわめきに身を投じ、愛想をふりまいて一日を終えるなどということは、彼にとっては衝撃的な行いであった。朝の八時から活動したなら、もうじっとしていてもいい頃だ、一日しゃべっていたなら、無口になっていてもいいはずだ、一日大勢のひとと過ごしたら、今はひとりでいたいはずなのだが! それを静けさと炉端の孤独をあきらめて、四月のみぞれ模様の晩に出かけてきて、またひとの群れに交わろうとするとは! ちょっと指で合図すれば妻を連れ戻すこともでき、その理由はじゅうぶんにあるのに、彼が来たことで夜会はお開きになるどころか、長引くことにさえなった。ジョン・ナイトリー氏は驚きの表情でウエストン氏を見ていたが、やがて肩をすくめてこう言った。
「いくらあのひとにしても、とても信じられない」
その間もウエストン氏は、自分が原因になっている憤懣になど気づきもせず、いつものように楽しく陽気で、一日外出していたひとの特権で話題の中心を占め、人々から喜ばれていた。夕食はどうだったかと妻がきくと、彼女が召し使いに言い付けた命令はすべて守られたと安心させ、外出先での世間のニュースなどを披露して、内々の話になったのだが、それはウエストン夫人に向けられているようでいて、部屋にいるだれもの関心を惹くことを疑ってもいない話し方だった。彼は妻に手紙を渡したが、それはフランクから夫人に宛てた手紙だった。出かける途中で氏が受取り、勝手に封を切って読んでしまっていた。
「読みなさい、読みなさい」彼は言った。「あなたが喜ぶ手紙だよ。ほんの数行だ。すぐ読める、エマにも読んであげなさい」
ふたりの女性は一緒に手紙を読んだ。ウエストン氏はにこやかにそばに腰を下ろし、絶えず話しかけていた。声は多少低められてはいたが、周囲にもじゅうぶんに聞こえた。
「息子が来るんだよ、ねえ。いい報せじゃないか。どう思う。息子はすぐまた来ると、いつも言っていたでしょう。ねえ、アン、わたしがそう言うと、いつもお前は信じてくれなかった。来週にもロンドンへ来るのですよ、遅くともそれくらいには。なにせあの老婦人ときたら、なにかするとなると待つということを知らないのだよ。明日か土曜には着くだろう。伯母の病気については、まったく心配はいらないよ。フランクがロンドンのような近いところに来てくれるなんて、嬉しいじゃないか。ロンドンへ来れば、しばらくは滞在するだろうから、フランクは、そのうち半分くらいはこちらで過ごせるだろう。わたしが望んでいた通りになったよ。どうだい、いい報せだろう。もう読み終わったかい。エマも読んだかね。じゃあ、すぐにしまいなさい。これについては、後でゆっくり話そう、今はいけないよ。ほかのひとたちにはざっとお話ししておこう」
その話を聞いて一番嬉しそうだったのは、ウエストン夫人だった。表情にも口ぶりにもそれが表われている。夫人は幸せだった。自分が幸せだとわかっていたし、そうあるべきなのも知っていた。夫人はあたたかく、夫に心から喜んでおめでとうを言ったが、エマのほうはそれほどなめらかに、喜びを口にすることができなかった。自分の気持ちを秤《はかり》にかけて、心の動揺の度合いを推し量るのに忙しく、実際、感情の揺れはかなりのものだった。
しかし、気もそぞろのウエストン氏はそんなことは気づかず、ひとの話より自分が話すことに夢中だったので、エマの言葉にもじゅうぶん満足して、すでに聞こえている話を、みなに聞かせてちょっぴり喜ばせてあげようと、ほかの客のほうへ行ってしまった。
ウエストン氏が、だれもが当然喜んでくれるはずだと思っていたのはいいことだった。だからこそ、ウッドハウス氏とナイトリー氏がそれほど嬉しそうでもなかったようだなどとは考えもしなかった。彼らは、妻とエマの次に喜んでもらうべきひとたちなのだ。その後、ウエストン氏はジェーン・フェアファクスのところへ行ったが、彼女がジョン・ナイトリー氏との話に熱中している様子なので、邪魔をするのも悪いと思い、たまたまそばで退屈そうにしているエルトン夫人をみつけて、夫人にもこの話をしてあげることにした。
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第三十六章
「もうすぐ息子をご紹介できることでしょう」ウエストン氏は言った。
エルトン夫人は自分に特別の敬意が寄せられたと思い、満面の笑みを浮かべた。
「フランク・チャーチルという男の名は、すでにお聞きのことと思います」ウエストン氏は続けた。「わたしの息子だということも、ご存じでしょうね、わたしの姓を名乗ってはおりませんが」
「まあ、もちろんですわ! お近づきになれましたら、光栄です。エルトン氏もすぐにご挨拶に馳せ参じることでしょう。牧師館のほうへもいらしてくだされば、なお光栄ですわ」
「ご親切にありがとう存じます。フランクもきっと喜ぶでしょう。遅くとも来週にはロンドンに着くそうです。今日の手紙で知ったのです。今朝、出かけますときに手紙を受け取って、息子の筆跡だったものですから、思わず封を切ってしまいました。わたし宛ではなく、妻に宛てたものでしたが。妻が息子の一番の文通相手でして、わたしにはほとんど手紙が来ません」
「まあ、奥様宛のお手紙を開封なさったんですの? あらまあ、ウエストン様(気取った笑い方をして)、そんなことは断固許しませんわよ。穏やかならぬ事態ですわ。ご近所の殿方たちにあなたを見習っては欲しくありませんわ。本当に、そういうことがあるなら、わたしたち既婚女性は気をつけなくてはいけませんね。まあ、ウエストン様、本当に信じられないことですよ!」
「いやはや、男というのは困った生き物ですな。お気をつけください、エルトン夫人。この手紙にはこう書いてありました。事情を知らせるために取り急ぎ書いたのでしょう。すぐにもロンドンへ来る、チャーチル夫人の言葉によれば、冬はずっと体調がすぐれず、≪エンスクリーム≫は寒すぎるのだとか、そう書いてあります。それで即刻、南へ移動することになったのでしょう」
「まあ、そうですか! ヨークシャーから。≪エンスクリーム≫はヨークシャーでしたわね?」
「そうです。ロンドンから百九十マイルもあります。大変な旅ですよ」
「本当に、ものすごい長旅ですわね。≪メイプル・グローヴ≫からロンドンへ来るよりもまだ六十五マイルもあるんですもの。でも、金銭にゆとりのあるひとびとにとって、距離がなんだというのでしょう。わたしの義兄のサックリング氏がどんなによく遠出するか、お知りになったらびっくりなさいますわ。信じていただけないでしょうが、週に二度も、義兄とブラッグ氏は四頭立ての馬車に乗ってロンドンまで往復したんですの」
「≪エンスクリーム≫が遠いことの問題のひとつは」ウエストン氏は言った。「チャーチル夫人の具合が、聞くところによりますと、一週間と続けてソファを離れることができないほど悪いということです。フランクのこの前の手紙では、夫人の言うには、夫と甥とに両脇を支えてもらわなければ、温室に入ることもできないほど弱ってしまったといいます。おわかりでしょうが、これは大変な弱りようです。ところが今は早くロンドンへ行きたくて待ちきれず、途中たったの二回しか投宿しないで行くつもりなのです。フランクはそう書いていました。たしかに、繊細なご婦人というのは、まことに奇妙な体質を持っているようですねえ、エルトン夫人。そうではないですか」
「まあ、とんでもない。わたしは賛成いたしませんよ。つねに女性の立場でものを言うつもりですからね。ええ、そうですとも。忠告いたしますが、わたしはその点では手強い相手ですわよ。必ず女性の味方です。それに姉のセリーナが旅館に泊まるのを嫌がっていたのを知っておりますから、チャーチル夫人ができるだけ泊まりたくないと言うのもよくわかります。セリーナが言っておりましたが、もうそれはぞっとするそうです。わたしもまた、そういうことに神経質なのはちょっと姉に似ていますの。姉は必ず専用のシーツを持参するんですよ。大変な防備ですわ。チャーチル夫人もそうなさいますかしら」
「そういうことに関してなら、チャーチル夫人は貴婦人のするようなことはすべてするでしょうね。チャーチル夫人は英国のどの貴婦人にも劣らず――」。エルトン夫人はあわててさえぎった。
「まあ、ウエストン様、勘違いなさらないで。セリーナを貴婦人だなんて。そんなふうに思われては困りますわ」
「おや、違うのですか。それではその方はチャーチル夫人と比べることはできません。あのひとはだれも見たことがないほど立派な貴婦人ですから」
あまり強く否定しすぎたかしらと、エルトン夫人は思いはじめた。姉が貴婦人でないなどと思わせるつもりはまったくなかったのだが。たんなる謙遜という感じがあまりよく出なかったのかもしれない。どういうふうに訂正すべきか悩んでいると、ウエストン氏が話し続けた。
「たぶんお察しのことと思いますが、わたしはチャーチル夫人をあまり好きにはなれないのです。ここだけの話ですよ。夫人はフランクをとても可愛がっていますし、悪く言うわけにはいかないのですがね。しかも今は健康をそこねておられる。でもその点については、あのひとはいつもそう言っているんです。これはだれにでも言うわけではないんですがね、エルトン夫人、わたしは夫人の病気をあまり信用していないのですよ」
「もし本当にお加減がお悪いのなら、バースへお連れになってはどうです、ウエストン様。バースか、クリフトンへでも?」
「はなから≪エンスクリーム≫は寒すぎると信じ込んでいるんです。実際のところは、≪エンスクリーム≫に飽きたんじゃないでしょうか。これまでにないほど、長いことひとつところにいましたから、転地したくなったんでしょう。あそこは田舎ですから。きれいなところだが、たいそうな田舎だ」
「あらまあ、≪メイプル・グローヴ≫のようですわね。≪メイプル・グローヴ≫ほどの田舎も珍しいんですよ。周囲の農園の広大さといったら! 世間とはかけ離れたところですわ。まったくの片田舎です。きっとチャーチル夫人にはセリーナのような、世間と隔絶された生活を楽しめるような体調や精神がおありにならないのね。それとも夫人には、田舎暮らしを満喫できるほどの心の楽しみがないのでしょう。女性にはそういう楽しみを知らないひとが多いといつも言っているのですが、幸いわたしは多くの心の楽しみに恵まれておりまして、田舎に引っ込んでもじゅうぶん楽しめますわ」
「フランクは二月に二週間ほどこちらに滞在しました」
「そううかがいましたわ。今度こちらにいらしたら、ハイベリーのお仲間におまけが加わったことに気づかれるでしょうね。つまり、わたしが自分をおまけと呼ぶことができればの話ですけど。そんな人間がこの世にいることすら、ご存じないかもしれないのですから」
あまりにもあからさまなお世辞の要求だったのでそこは避けて通るわけにもいかず、ウエストン氏は精一杯の丁重さをもって、ただちに声を張りあげた。
「これは奥様、めっそうもない。そんなことをお考えになるのはあなたひとりですぞ。あなたを知らないだなんて。近ごろの妻が出す手紙は、エルトン夫人の話がほとんどのはずです」
これで義務は果たしたとばかり、彼は話を息子に戻した。
「フランクがこっちを発ったときは」彼は続けた。「いつまた会えるかまったくわかりませんでした。それだけに、今度の報せはいっそう嬉しいものになりました。少しも予期していなかったもので。というのも、わたしはいつも、息子は必ずまたこちらに来る、いいことが起きるという確信があったのですが、そう言ってもだれも信じてくれないのです。息子も妻もひどく落胆していましてね。『どうしたらまた来られるだろう? 伯父と伯母が許してくれることがあるのだろうか?』とかなんとか。わたしはきっとこちらにとって都合の良いことが起きると思っていました。そして今度のことでしょう。つねづね人生においては、ある月悪いことが続けば、次の月には埋め合わせができるものだ、というのがわたしの持論なのです」
「おっしゃる通りですわ、ウエストン様、本当です。ここにいるある紳士に、求婚時代によく申したものです。物事がうまくいかなくて、彼の思うように速やかに運ばないとき、あのひとはすっかり気を落として叫んだものです。こんな調子ではヒュメン(注・古代ギリシアの婚姻の神)のサフラン色の衣装を着ないうちに五月になってしまう!、と。ああ! あのひとの暗い気分を晴らして、明るい展望を持たせてあげようと、わたしはどれほど苦心したことでしょう。馬車で――わたしたちあの馬車にはずいぶん失望いたしましたけど――ある朝彼が、ひどくがっかりして訪れてきたのを覚えています」
夫人が軽い咳払いのために言葉を切ったとき、ウエストン氏はすかさず話の主導権を奪い取った。
「五月とおっしゃいましたな。五月というのはまさに、チャーチル夫人が≪エンスクリーム≫より暖かい土地で過ごすようにと命じられた、あるいは自分で決めた月です。つまりロンドンで、というわけです。そうなれば春の間ずっと、フランクがしょっちゅうこちらに来ることができるという、楽しい見通しも立ちます。選ぶには最適の季節ですな。日は長いし、天候も穏やかで気持ち良く、外に出たいという気分になりますし、運動をしても暑すぎない。以前、息子がこちらへ来たときは、思う存分楽しむつもりが、雨がちで湿気もあり、気の滅入る天気が多かったのです。二月はたいていそんなふうです、それでしたいことの半分も出来なかったのですよ。今度こそ絶好の季節です。思い切り楽しめるでしょう。それとねエルトン夫人、また会えるかどうかがわからず、今日来るか明日来るかといつも期待して毎時間を過ごしているときのほうが、実際に息子が来た瞬間よりも、楽しいのではないかという気がするんです。そういうものではないかと。待っているときのほうが、心が高揚してわくわくするものです。息子のことを気に入ってくださると嬉しいのですが。しかし神童を期待してはいけませんよ。息子はふつうの好青年で、神童などではありませんから。妻の息子に対するひいきぶりは大変なものですが、ご想像の通り、わたしとしては満足に思っています。妻は息子ほど素晴らしい青年はいないと考えているんです」
「言わせていただきますが、ご子息が素晴らしい方だということについては、つゆほども疑っておりませんわ。フランク・チャーチル様を称えるお噂はかねがねうかがっております。と同時に、わたしは厳しい観察眼を備えた者のひとりとして、他人の意見に左右されないということも申しておきましょう。ご子息にお会いしたら、すぐさま自分の目で判断いたします。わたしはお世辞は申しません」
ウエストン氏はなにか考え込んでいる様子だった。
「わたしは」とやがて口をひらいた。「チャーチル夫人のことをあんなに悪く言うべきじゃなかったかもしれない。病気だとすれば、ひどいことを言ってしまったな。でもあのご夫人にはどこか、こちらが望むように寛大な気持ちで見ることのできない性質があるのです。エルトン夫人はきっとご存じでしょうな、わたしとあの夫婦との関係を、わたしがどういう待遇を受けてきたかということも。我々の関係については一方的にあちらに非があるものと思います。すべて夫人が元凶なのですよ。フランクの母親もあの夫人がいなければあんなにひどく冷遇されなかったことでしょう。チャーチル氏も傲慢なひとです。だが彼の傲慢さも妻のそれには及ばない。大人しく、怠慢な、紳士然とした傲慢さで、他人に害を与えず、ただ彼自身をよりどころのない、退屈な存在にするだけのことです。だが妻ときたら、横柄かつ高慢きわまりない! それになにより我慢がならないのは、あの女には家柄や血統などまるでないことです。結婚するまでは名もない女で、たんなる紳士の家庭の娘にすぎませんでした。ところがチャーチルの姓を名乗るやいなや、その奢り高ぶりやわがままときたら、チャーチル家でも並ぶもののないほどです。しかし彼女自身は、ただの成り上がり者にすぎないのですよ」
「まあ、考えただけでもぞっとしますわ。それほど腹立たしいこともありませんわね。成り上がり者は大嫌いですわ。≪メイプル・グローヴ≫でも、そういうひとたちにはほとほと嫌気がさしました。近くにある一家がおりまして、その気取った様子に姉夫妻はたいそう迷惑がっていましたわ。チャーチル夫人のことをおっしゃったときに、すぐにそのひとたちのことが思い浮かびましたの。タップマン家といって、ごく最近移り住んできたばかりのうえ、身分の低い大勢の親族に悩まされているというのに、自分たちはすっかり上流気取りで、由緒ある家柄の方たちと同等のつもりでいますのよ。≪ウェストホール≫に住むようになって長く見積もってもまだ一年半くらいなんですのよ。どうやって財産をこしらえたのかは、だれにもわかりません。バーミンガムからやってきたんですが、あまり有望な地域とは言えませんわねえ、ウエストン様。バーミンガムというところはあまりいいところじゃありませんわ。名前の響きそのものも縁起が悪い感じがします。それ以上たしかなことはあの一家についてはわかっていませんが、疑わしいことがいろいろありそうです。それに態度ひとつとっても、義兄のサックリング氏と堂々と肩を並べているつもりなんですよ、たまたま隣になったのが不運でしたわ。なんてついてないんでしょう。サックリング氏は≪メイプル・グローヴ≫に暮らして十一年になりますが、それ以前からお父上の持ち物でした――少なくとも、そう信じています――お父上のサックリング氏がお亡くなりになる前に、屋敷の購入は完了いたしているはずで」
そこで邪魔が入った。お茶が運ばれてきて、ウエストン氏は自分の言いたいことは言ってしまったので、絶好の機会とばかりその場を離れていった。
お茶が済むと、ウエストン夫妻とエルトン氏は、ウッドハウス氏におつきあいしてカードの席についた。残る五人は好きなようにしていればいいのだが、うまくいくかどうかエマは不安だった。ナイトリー氏はあまり会話に乗り気ではない様子だし、エルトン夫人はちやほやされたがっていたが、だれもそうするふうもなく、エマ自身もどちらかというと黙っていたい気分だった。
兄よりもジョン・ナイトリー氏のほうが、まだ話す気分らしかった。彼は翌朝早くに発つことになっていて、すぐに話しはじめた。
「ところでエマ、子どもたちについてはもうなにも言う必要はないね。姉上からの手紙にすべて詳しく書かれていると思うから。ぼくの要求は妻よりも簡単だよ。それに内容も違う。つけたい注文はただ、子どもたちを甘やかさないこと、それから薬をやたらと飲ませないこと」
「おふたりともがご満足のいくようにするつもりですわ」エマは答えた。「子どもたちの幸せのためにはなんでもする気でいますし、イザベラもそれで満足してくれるはずです。幸せにすることには、見当違いの甘やかしや薬ぜめは含まれませんから」
「それと、もし子どもたちが手に負えないようだったら、すぐに送り返してください」
「きっとそうなるだろうと、思っていらっしゃるのね、そうでしょ?」
「お義父さんにしてみればあの子たちが騒がしすぎるのはわかっている。それにあなたにとっても、煩わしいんじゃないかな。これからも、今のような社交の約束が多くなるとすればね」
「社交の約束ですって!」
「そうだよ。この半年というもの、以前とは大違いの忙しさじゃないか」
「大違いだなんて、そんなことありませんわ」
「昔に比べて、おつきあいが増えたことはたしかでしょう。今度がいい例です。たった一日来ただけなのに、晩餐会をやっているとは! こんなことが以前にもあったと断言できますか? 近隣のひとたちも増え、つきあいも多くなった。つい最近まで、あなたがイザベラに出した便りには、目新しいお祭り騒ぎがたくさん書き連ねてあったではないですか。コール家の夜会、クラウン亭での舞踏会などなど。変化のもとは≪ランドルズ≫でしょう。あなたの社交をうながしているのは、圧倒的に≪ランドルズ≫だと思いますが」
「そうだね」兄がすぐさま言った。「すべての原因は≪ランドルズ≫だ」
「そうですとも。≪ランドルズ≫のことだから、いままで以上にその影響力が減るとは思えないので、エマ、ヘンリーとジョンが邪魔になることも当然あると思うよ。もしそうであれば、送り返してくれて結構なんだ」
「いいや」ナイトリー氏が声高に言った。「それには及ばんよ。≪ドンウェル≫に来させればいい。ぼくは確実にひまだろうから」
「言わせていただきますけど」エマが叫んだ。「おかしなことをおっしゃいますのね。わたしのさかんな社交のうちで、ナイトリーさんがご一緒でなかったことがありまして? どうしてわたしに、甥っ子たちと遊ぶひまがないなんておっしゃるのかしら。驚くほどたくさんの社交って、一体なんのことですの? コール夫妻とのお食事が一度と、お話にあった舞踏会を一度計画して、それも実現しませんでしたわ。あなたのお気持ちはわかりますわ(ジョン・ナイトリー氏のほうにうなずき)、一度にこれだけ大勢のひとに会うという幸運に恵まれたため、とてもその事実を見逃すわけにはいかないと思われたのでしょうから。でもあなたは(ナイトリー氏のほうを向き)、わたしが≪ハートフィールド≫を二時間と留守にすることがないくらいよくご存じのくせに、それを遊びまわっているだなんて、どうしてそんなことがおっしゃれるのかしら。甥っ子たちのことだって、エマ叔母ちゃまがお相手するひまがないとすれば、ナイトリーの伯父様だって、遊んでくださるかどうかわからないでしょ。叔母ちゃまが一時間留守にするところを、伯父様は五時間もお留守なんですからね。そしてお家にいるとしても、本を読んだり、収支の計算でさぞかしお忙しいことでしょうから」
ナイトリー氏は笑うまいと努力しているようだったが、そこへエルトン夫人が話しかけてきたので、その努力は難なく成功した。
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第三部
第三十七章
ほんの少し心を静めて考えてみると、フランク・チャーチルの報せを聞いて、どうして動揺したのかがすぐにわかった。不安や当惑といった感情はすべて自分のためのものではないこともはっきりした。それは彼のためを思ってのことなのだ。エマ自身の恋心はすでに冷めてなんとも感じなくなっている。考える価値もないほどだ。でもふたりのうちでフランクのほうがより激しく恋していたのだから、別れたときと同じくらいの激しい感情を抱いて戻ってくるなら、彼は深く傷つくことになる。二ヵ月の別離さえも彼の心を冷まさなかったとすれば、エマにとっては危険で困ったことになるはずだ。彼にも自分自身にもよく気をつけなければならない。エマのほうで、彼と恋愛関係に戻るとは考えられない以上、彼の気持ちを焚きつけるようなことは避けるのが義務というものだ。
彼が、わたしへの思いをはっきり口に出すのをなんとか止められればいいのだが、とエマは願った。もしそんなことになれば、今のつきあいは痛ましい結果に終ってしまう。だがなにか決定的なことが起きるような予感もしないではない。春の間に、現在の落ち着いた平和な彼女の心を変えてしまうほど重大な事件が、必ず起きるような気がする。
エマが、フランク・チャーチルの気持ちになんらかの答えを見出すまでには、それほど時間はかからなかった。ただし、ウエストン氏が予期していたよりは長く待つことにはなったのだが。
≪エンスクリーム≫一家は思ったより遅れてロンドンに移り、フランクは着くとすぐハイベリーへやってきた。ほんの二、三時間過ごすために馬を飛ばしてきて、それ以上はいられなかった。彼が≪ランドルズ≫から≪ハートフィールド≫へ直行してきたとき、エマはいつもの観察力をすばやく発揮して、彼がどんな状態にあるか、自分はどのように振る舞うべきかを見定めた。ふたりは大の仲良しという感じで再会した。彼はあいかわらず、エマに会えて嬉しそうだった。だが、やさしさは同じでも、以前ほどエマのことを思ってはいないような気がした。エマはよく観察した。前よりも愛情が薄れているのはたしかだ。空白があったことと、エマの無関心が分かったことが、この自然でまことに望ましい結果を生んだのだろう。
フランクは上機嫌だった。前のようによくしゃべり、よく笑い、前回こちらへ来たときのことを話しては、思い出に耽ったりするのを楽しんでいるようだった。だがどこか動揺している感じがある。エマが彼のやや無関心な気持ちを読み取ったのは、彼が落ち着いているからではなかった。落ち着いてなどいなかった。はっきりとわかるほどそわそわしていた。落ち着きがない。元気はあるのだが、どこか満たされない感じの元気さだ。彼の気持ちについて、エマの確信の決定打となったのは、彼がほんの十五分しか彼女のところにいないで、すぐにハイベリーのほかの住人たちに挨拶に出かけてしまったことだ。「こちらへ来る途中で顔見知りの方たちにお会いしました。ぼくは足も止めず、言葉もかけるひまもないほどでしたが、ぼくがもしご挨拶にもうかがわなかったら、きっとがっかりなさるだろうという、うぬぼれも少しあります。≪ハートフィールド≫にもっと長くいたいのはやまやまなのですが、これからすぐに行かなければなりません」
彼の愛情が薄れたことは疑う余地もない。だが彼のうろたえた態度や、急いで出ていったことからみても、彼は完璧には立ち直ってはいないようだ。むしろそれは、彼女の影響力が再び及ぶのを恐れ、また彼女のそばに長くいすぎてはいけないと固く決めていることの証ではないだろうか。エマにはそう思えた。
十日のうちで、フランクがハイベリーを訪れたのはこの一日だけだった。いつも来たいと願い、また努力もするのだが、かならず邪魔が入ってしまう。伯母が放したがらないのもので――≪ランドルズ≫で彼はそんな言い訳をした。もし彼が本当に誠実で、こちらへ来ようと努力しているのであれば、ロンドンへ転地しても、チャーチル夫人の病気のわがままさや気難しさは、少しも良くなったわけではないと、推察するほかはない。伯母の病気がとても重いのはたしかです、と彼は≪ランドルズ≫で証言した。思い込みという点もあるが、振り返ってみれば半年前と比べて、病状はたしかに悪化している。看護や薬によって取りのぞくことのできないなんらかの原因があるとか、もうこの先何年も生きられないとかは、信じていないが、父が怪しむように、伯母の病気は気のせいだとか、以前と変わらずぴんぴんしている、というふうには思えない、と。
ロンドンが伯母の身体に合わないことはすぐに判明した。騒音が我慢ならないのだそうだ。いつも神経が苛々して辛いのだとか。十日が過ぎる頃、フランクから≪ランドルズ≫へ手紙が来て、計画が変ったことが伝えられた。一家はただちにリッチモンドへ移るという。チャーチル夫人はそこの名医の治療を受けるよう勧められ、またその地を気に入った様子でもあった。格好の場所に家具付きの家を借り、この転地で今度こそいろいろ良いことも期待できそうだった。エマの聞くところによれば、フランクはこの転地のことを意気揚々と書いてきたという。親しいひとたちがたくさんいる場所から遠くない地に、二ヵ月も居られることをとても喜んでいるらしい。家は五月と六月の間、借り切ったそうだ。今度はちょくちょく、いつでも好きなときにこっちへ来られると、絶大な自信をもって書いてきた、とエマは聞かされた。この楽しい見通しに、ウエストン氏が大喜びなのはわかった。彼はエマこそが、今度のことをもたらした幸福のすべての原因だと考えていた。エマはそうではないことを願った。結果は二ヵ月経てばわかるだろう。
ウエストン氏自身はあきらかに幸福だった。有頂天といってもよいほどだった。彼はまさしくこんな状況を待ち望んでいたのだ。ついにフランクが身近に住むことになった。若い男にとって九マイルの距離がなんだ。一時間も馬に乗れば着いてしまう。いつでも来られるだろう。その点についてのリッチモンドとロンドンの違いは、いつも息子に会えるか、まったく会えないかという違いにも等しいものだった。十六マイル、いや十八マイル、マンチェスター通りまでの距離も合わせたら十八マイルはある。その距離は重大な障害だ。もし外出を許されても、往復だけで一日はかかってしまう。ロンドンに息子がいてもなんの慰めにもならない。≪エンスクリーム≫にいたほうがましなくらいだ。だがリッチモンドなら、気楽に出入りするのに絶好の距離だ。近すぎることもないし。
今回の転地で、まちがいなく良いことがひとつもたらされた。クラウン亭での舞踏会である。すっかり忘れられていたというわけではなかったが、日にちを決めたところで無駄だと諦められていたのだ。ところが今度は、絶対にやろうということになった。さまざまな準備が再開され、チャーチル家のひとびとがリッチモンドへ移るとすぐに、フランクから短い便りがあり、伯母が転地ですっかり気分を良くしているので、いつでも時間さえ決まれば、丸々一日はそちらにいられるから、できるだけ早く予定を決めてほしいと言ってきた。
ウエストン氏の舞踏会が現実になった。ハイベリーの若者とその歓喜の日まで、もう幾日もない。ウッドハウス氏も渋々承知した。一年のうちのこの季節という考えが、彼の危惧を追い払った。五月は二月に比べれば、何事にも適している。ベイツ夫人が呼ばれて当日の晩≪ハートフィールド≫で過ごすことになり、ジェームズにもじゅうぶんな注意が与えられて、ウッドハウス氏は、大事なエマが出かけている間に、可愛いヘンリーもジョンにも、なにも支障はないだろうと安心することができた。
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第三十八章
今度こそ、舞踏会を妨げるようなことはなにも起こらなかった。刻々と日は迫り、当日になった。みんな待ちわびながら午前中を過ごし、夕食前にはフランク・チャーチルご当人が≪ランドルズ≫に到着し、やれやれということになった。
エマはあれいらい一度もフランクには会っていない。クラウン亭の部屋で二度目の再会を果たすわけだが、普通の集まりの人ごみのなかで顔を合わせるよりはずっといい。ウエストン氏のたっての願いで、エマは夫妻に続いて早めに会場に行くことになっていた。ほかの客が来る前に会場のふさわしさや感じの良さについて意見を述べるように頼まれ、断るわけにもいかなかった。そのために、フランクと一緒に静かなひとときを過ごすことになるだろう。エマがハリエットを伴って、ちょうどいい時間にクラウン亭へ着くと、≪ランドルズ≫のひとびともちょっと前に着いたばかりだった。
フランクは待ちわびていたようだった。口数は少なかったが、楽しい晩を過ごそうと目が期待で輝いている。みんなで歩きまわり、すべての用意が整っていることを確かめていると、いくらもしないうちに別のひとたちを乗せた馬車が到着した。馬車の音を耳にしたとき、エマはひどく驚いた。「信じられないほど早く来るひとがいるものね!」思わず叫びそうになったが、そのひとたちは古くからの知り合いの一家で、エマ同様、ウエストン氏が意見を聞きたいからぜひにと頼んで呼んでいたのだ。それからすぐまた、親戚たちを乗せた馬車が着き、そのひとたちも同じ用件で来たのであり、準備の点検のためにという名目で、すでにパーティーの客の半分は集まってしまったようだった。
ウエストン氏はエマの意見だけを頼りにしていたわけではなかったのだ。こんなに大勢の親友だの、親しいひとがいる男性に、親友だと思われてみたところで、たいした名誉ではないわ。ウエストン氏の開け広げな性格は好きだけど、もう少し慎みがあればもっと立派な男性になれるのに、とエマは思った。すべてのひとと親友になるのではなく、すべてのひとに気遣いを忘れないことが、立派なのよ。わたしは、そういう男性が好きだわ。
全員はまた部屋を一巡し、あちこち見て、賛嘆の声をあげた。それからほかにすることもないので、暖炉を囲んで半円を作り、別の話題が見つかるまで、もう五月ですが夜ともなると暖炉はやはりいいですね、などとお互いにいろいろ話し合ったりしていた。
エマは、私的な相談役がこれ以上増えなかったのは、別にウエストン氏にそのつもりがなかったからではないのだということを知った。ベイツ夫人の家にも寄って、馬車を寄越しましょうと申し出たのだが、伯母と姪はエルトン夫妻の馬車に乗ってゆくことになっているからと言ったのだそうだ。
フランクはエマのそばに立っていたが、片時もじっとしていなかった。落ち着きのなさが、心ここにあらずといった気持ちを語っていた。きょろきょろとあたりに目を配り、戸口へ、ほかの馬車が来てはいないかと見にい行ったりしている。始まりが待ちきれないのか、それとも、エマのそばにいるのを恐れているのか。
エルトン夫人の話になった。「もうすぐ来るのでしょう」彼は言った。「エルトン夫人にはとても興味があるんです。噂はいろいろと聞いてますからね。もう間もなく、来るはずですよ」
馬車の音がした。フランクはすぐにも出迎えに行こうとしたが、すぐ戻ってきてこう言った。
「まだ夫人には紹介されていませんでした。エルトン夫妻とは一面識もないのです。ぼくなんかがでしゃばるわけにはいきませんね」
そこへエルトン夫妻が現れて、笑顔と挨拶の言葉が交わされた。
「ところでミス・ベイツとミス・フェアファクスはどちらに?」ウエストン氏はあたりを見廻して言った。「ご一緒にいらっしゃるとうかがいましたが」
それはほんのちょっとした行き違いだった。馬車がすぐに差し向けられた。フランクのエルトン夫人に対する第一印象を、エマは早く知りたかった。ドレスのわざとらしい上品さや、愛嬌たっぷりのあの笑顔をどう感じただろう。フランクは紹介が終わると、夫人を丁重にもてなし、夫人に対して感想を言うべき資格をすぐにもったようだった。
まもなく馬車が戻ってきた。だれかが雨だと言った。「傘をお持ちしましょう」とフランクは父に言い、「ミス・ベイツのことをおろそかにしてはいけません」と言いながら迎えに出ていった。ウエストン氏も後に続こうとしたが、エルトン夫人につかまり、息子についての賛辞を聞かされた。夫人があまりに性急に話したので、フランクが歩調をゆるめなくても、嫌でも彼の耳に届いた。
「とってもご立派な青年ですね、ウエストン様。わたしが正直にものを言うことはご存じでしょう。ご子息を大変好ましい青年ですと申し上げることができて、本当に光栄です。本当ですのよ。お世辞は申しません。とても美男子でいらして、礼儀作法もわたしが好ましく思う通りのものですわ。まったくの紳士です、うぬぼれたところや生意気さもないし。生意気な若者って、大嫌いですの。ぞっとしますわ。≪メイプル・グローヴ≫では甘やかしはいたしません。サックリング氏もわたしも、そういう若者には厳しいんです。たまにきついことも言ってやったこともあります! セリーナは欠点とも言えるほどおとなしい性格なもので、ずいぶんと我慢していたようですけど」
夫人が息子の話をしている以上は、ウエストン氏の注意を縛りつけることができた。だが話題が≪メイプル・グローヴ≫へ及んだとたん、ご婦人たちが到着したのでご挨拶を申し上げなくてはと断って、朗らかな笑顔を浮かべてその場を去ることができた。
エルトン夫人はウエストン夫人に的を変えた。「きっとミス・ベイツとジェーンを乗せたうちの馬車に違いないわ。うちの御者と馬はそれはものすごく速いんですの。うちのより速く走れる馬車はありません。お友だちに馬車を差し向けてあげられるなんて、本当に光栄なことですわ。おたくさまも馬車をお申し出になったとうかがいましたけど、今度からその必要はありませんわ。あのひとたちのことは、わたしがきちんとお世話いたします」
ミス・ベイツとミス・フェアファクスは、ふたりの男性にエスコートされて、会場へ入ってきた。エルトン夫人はウエストン夫人同様、ふたりを出迎えるのが義務と考えたようだ。エマと同じようにはたから眺めている者には、夫人の身振りや動きはよく見えたが、夫人の言葉はほかのひとびとの会話と同じく、ミス・ベイツのひっきりなしのしゃべり声に負けて聞こえなくなってしまった。ミス・ベイツは入ってくるなり、立て続けに話し、暖炉の前の集まりに迎え入れられてからもまだずっとしゃべりっぱなしだった。ドアが開くと同時にミス・ベイツの声が飛び込んできた。
「まあ、ご親切にありがとう存じます。雨なんか降りませんでしたよ。たいした降りじゃありません。わたしはちっとも気になりません。底の厚い靴を履いておりますから。ジェーンも申しておりますよ、あらまあ(ドアを入るとすぐに)、あらまあ! これは華やかなものですね。お見事。たいした凝りようですこと。完璧です。これほどとは思いもしませんでした。こんなに明かりがたくさん。ジェーン、ジェーン、見てごらん、こんなの見たことがあるかい? まあ、ウエストン様、あなたはきっとアラジンの魔法のランプをお持ちなんでしょうね。ひとのいいストークス夫人は自分の部屋かどうか、わからなくなったことでしょう。こちらへ来たときに見かけましたけど。入り口のところに立っておりました。『まあ、ストークス夫人』とわたしは声をかけましたが、それ以上は話す時間がありませんでした」今度はウエストン夫人に対面して、「大変元気にしております、ありがとう存じます、奥様。あなた様も御機嫌よろしゅうございますか。それはようございました。もしや頭痛でもと案じておりましたので。準備のために、何度も行ったり来たりで、さぞかしご苦労もおありだったでしょう。それをうかがってほっといたしました。
あらまあ、エルトンの奥様、馬車をありがとうございました。ちょうど良い時刻に参りました。ジェーンとわたしは支度を終えたばかりのところでして、馬を待たせずに済みました。大変に乗り心地のよろしい馬車ですねえ。ああ、そのことでは、ウエストン夫人にもお礼を申し上げなくては。エルトン夫人がご親切にジェーンにお手紙をくださいまして、それでなかったらあなた様のに乗せていただいたたことでしょう。一日にお申し出がふたつもあるなんて! こんなに親切なご近所はほかにありませんわ。母にこう申しました、『本当にね、お母様――』、ええ、ありがとう存じます、母はいたって元気です。ウッドハウス様のお屋敷へ参っております。ショールを持たせてやりました。夜はうすら寒いですからね。新しい大判のショールなんですよ。ディクスン夫人のご結婚の祝いの品で。母のことまで考えてくださるとは、たいそうご親切な方です。ウエイマスで買われたのだそうです、ディクスン様のお見立てで。ほかにも三つあって、ジェーンの話ですと、みな様ずいぶん迷われたんだそうですよ。キャンベル大佐はどちらかというとオリーヴ色のをお好みだったそうで。ジェーンや、足を濡らさなかったかい? ほんの一滴か二滴でしたが、心配性なものですから。
ところでフランク・チャーチル様はそれはご親切で、下りましたところに敷物が用意してありましたの。あの方のおやさしいお心遣いはけっして忘れません。まあ、フランク・チャーチル様、母の眼鏡はあれから調子が良いようですわ、二度と鋲がはずれませんよ。母はあなた様のおやさしいことをよく口にいたします。そうだわね、ジェーン? いつもフランク様のお話をするんだったねえ? まあ、ウッドハウスのお嬢様ではないですか。ミス・ウッドハウス、御機嫌よろしゅう。わたしは元気でございます、本当に元気で。まるで妖精の国でお会いしたようですわ。見違えてしまいましたわ。お世辞なんてとんでもない。(エマのほうをにこにこと見て)そんな失礼を申すものですか。本当にお嬢様はおきれいで、ジェーンの髪形はどうですか? 見てやってくださいませ。全部自分でしたんですの。ずいぶんと上手にするものですわ。ロンドンの髪結いだってこれほどの腕前ではありませんよ。おやまあ、ヒューズ先生だわ、それに奥様も。ちょっとヒューズ先生ご夫妻にご挨拶をしてこなくては。御機嫌いかが。御機嫌よろしゅう。ええ、元気でございます。素敵なパーティーですわね。リチャード様はどちら? あら、あちらに。お邪魔をしてはいけませんわね。若いお嬢さん方とお話しているほうがずっと楽しいんですから。御機嫌いかが、リチャード様。この間、馬で町を通っていかれるのを拝見しましたよ。まあ、オトウェイ夫人じゃありませんか! オトウェイ様、それに上のお嬢様のミス・オトウェイに、妹君のミス・キャロライン。なんてたくさんのお友だち。ジョージ様にアーサー様も! 御機嫌いかが。みなさん御機嫌よろしゅう。ええ、大変元気ですよ、ありがとうございます。こんなに調子の良いことはないほどです。
また馬車が見えたようですけど、今度はどなたでしょう。ご立派なコール夫妻でしょうか。こんなにたくさんのお知り合いに囲まれて、本当に幸せですわ。それになんと見事な暖炉かしら。暖かくてすっかり焼けてしまいそう。コーヒーは結構ですわ、わたしはコーヒーはいただきませんの。もしよろしければ紅茶を少し、あとでかまいませんから、急がなくていいんですよ。まあ、もういただけるんですか。どれもこれも素晴らしいことばかり!」
フランク・チャーチはエマの横に戻った。ミス・ベイツのおしゃべりが止むと、エマたちの後ろにいるエルトン夫人とミス・フェアファクスの会話が聞くつもりはなくても耳に入ってくる。フランクは考えこんでいる様子だった。彼もまた聞き耳をたてているのかどうか、エマにはわからない。ジェーンのドレスや姿に対する賛辞がひとしきり述べられ、そのお世辞が静かに上品に受け入れられると、今度は自分をほめてもらいたがっているのは明らかだった。
「わたしのドレスはどう? 装飾品は気に入って? ライトが結ってくれたこの髪はいいかしら?」これと似た貿問がいくつも続き、すべてに対して我慢強い礼儀正しいほめ言葉が返された。そこでエルトン夫人は言った。
「ドレスのことを、わたしほどかまわないひともいないんじゃないかしら。でも今晩のようなときには、みなさんの目がわたしに集まることですし、ウエストンご夫妻の好意にお応えする必要もありますからね。だって今夜の舞踏会はわたしのために催されたに違いありませんものね。みなさんより地味な格好で来るわけにはいきませんわ。わたし以外には真珠をつけている方はほとんどいないみたいね。それよりフランク・チャーチルはとってもダンスがお上手だと聞いたわ。わたしたちでもお相手できるか、後でわかるでしょうね。本当に立派な青年ね、フランク・チャーチルは。とても気に入ったわ」
ちょうどこのとき、フランクがはりきって話し出したので、エマは彼が自分に対するお世辞を耳にして、それ以上は聞きたくなかったのだと思った。そのためふたりの女性の話はしばらく聞こえなくなったが、フランクが話し止むと、またエルトン夫人の声がはっきりと聞こえてきた。エルトン氏がやってきて、夫人は大声をあげた。
「まあ、ここにひっそり隠れていたのに、とうとう見つかってしまったわ。ジェーンに言っていたところなの、あのひとがそろそろわたしたちを探している頃ねって」
「ジェーンとはね」フランクは口真似して、呆れたような不快の表情を見せた。「馴々しすぎる。でもミス・フェアファクスはそれを断ろうともしないようですね」
「エルトン夫人って素敵とお思い?」エマは小声でたずねた。
「全然」
「恩知らずな方」
「恩知らず? どういう意味ですか」そしてしかめ面から笑顔になって、「いいえ、言わないでください。その意味は聞きたくありません。父はどこだろう。ダンスはいつ始まるのかな」
エマには彼のことがさっぱりわからなかった。どうやらなにかの冗談だと思ったようだが。フランクは父親を探しに行き、すぐにウエストン夫妻を連れて戻ってきた。三人はちょっとした問題に直面しているらしく、エマに相談にきたのだ。ウエストン夫人がふと思ったには、舞踏を始めるにあたって、エルトン夫人が一番最初に申し込まれるべきではないかというのだ。夫人もそれを期待しているはずだ。そうするとその栄誉をエマにと望むみんなの願いに反することになる。エマはその残念な知らせを気丈に受け止めた。
「それから夫人にふさわしいお相手をどなたにしたらいいかな」ウエストン氏が言った。「たぶんフランクが申し込むものと思っているだろうね」
フランクはすぐさまエマのほうを向き、彼女との約束を守りますと宣言した。ぼくは決まったひとを持つ身ですからねと誇らしげに言い、父親もそれは大いに認めるところだった。そこで、ウエストン夫人としては夫がエルトン夫人のお相手をすべきだと考え、三人で彼を説得にかかり、すぐに話はまとまった。ウエストン氏とエルトン夫人が先頭を切り、フランク・チャーチルとミス・ウッドハウスが後に続いた。エマはこの舞踏会が自分のために開かれたものと思っていたのに、エルトン夫人の次に甘んじなければならないのかと思うと、このことだけでじゅうぶん、結婚しようかという気になったほどだった。
エルトン夫人も今度ばかりは、圧倒的に優位に立つことができて、その虚栄心は完璧に満たされた。最初はフランクと踊るつもりでいたが、相手が変って失うものはない。ウエストン氏のほうが息子よりも格が上と決まっている。エマも、このちょっとした摩擦をのぞけば、楽しさに顔をほころばせ、ずらりと並んだ男女の列の長さに目をみはり、いつにないお祭り気分がまだ何時間も続くのだと思うと嬉しくなっていた。だがなにより気になるのは、ナイトリー氏が踊らないことだ。彼は立って見ているひとたちにまじっていたが、そこは彼のいるべき場所ではない。踊るべきなのだ。既婚者や父親たちや、ダンスに興味があるふりをしながらカードの時間がくるのを待っているブリッジ愛好家と一緒になってはいけないのだ。まだ、あんなに若いのに! 今、立っている場所ほど彼を引き立たせるところはない。長身で骨格の良いすらりとした姿は、ふくれた腹や歪んだ肩をした年寄りたちの間ではひときわ目立ち、人目を惹かないわけにはいかないと思われた。自分の相手は別としても、踊り手の男性の中で彼に並ぶ者などいはしない。彼が二、三歩こちらに近づいてきて、その歩き方からだけでも、彼がいかに紳士らしく、生まれつきの優雅さをもち、もしその気になりさえすればいかに上手に踊るかがうかがい知れた。ナイトリー氏と目が合う度に、エマは彼を笑わせようとしたが、彼はたいていは沈んだような面持ちをしていた。もっと舞踏会や、フランク・チャーチルのことを気に入ってくれるといいのだが、とエマは思った。ナイトリー氏はときどきエマを見つめているようだった。それが、エマの踊りぶりに感心しているからだと思うほどうぬぼれてはいなかったが、もしエマのふるまいを批判の目で見ているにしても、怖いとは思わなかった。フランクといちゃついてなどいないのだから。恋人というよりは明るく気さくな友人といったところだ。フランクのほうもエマのことを以前ほどには思っていないのははっきりしていた。
舞踏会は愉快に続いた。ウエストン夫人の心尽くしの配慮と絶え間ない気配りはじゅうぶんに報いられた。だれもが楽しそうだった。普通ならば閉幕した後で呈されるはずの、素晴らしい舞踏会でしたという賛辞が、始まると同時にあちこちで聞かれた。こういった会ではありがちな重大かつ記録すべき事件などもあまり起こらなかった。だがひとつだけエマがあんまりだと思ったことがあった。夕食を前に、最後の二回のダンスがあり、ハリエットには相手がなかった。若い女性がひとりぼっちで座っているなんて。踊り手の人数が男女同じなのに、ひとりだけ余るなんて変だわ! だがその疑問は、エルトン氏がふらふら歩き廻っているのを見て解けた。彼は、できることならハリエットにダンスを申し込みたくないと思っているのだ。彼が申し込まないのはたしかだった。エマは彼がカード室へ逃げ込んでいくのを期待した。
ところが彼に逃げ出す気はないらしい。座っているひとたちの集まる場所に来て、だれかに話しかけたり、前を行ったり来たりして、自分の自由意志を見せつけ、この自由を手放してなるものかと思っているようだった。彼はわざわざハリエットの前に来て、彼女の隣のひとに話しかけたりさえした。エマは一部始終を見ていた。踊りはまだ始まらず、エマは行進の最後のほうにいたので、周囲に目を向けるひまがあり、ちょっと顔を振り向けるだけでその様子を見ることができたが、列の中ほどまで来たときには、彼らに背を向ける形になってしまったので、それ以上見ることができなかった。だがエルトン氏はかなり近くにいて、ウエストン夫人と交わす彼の会話が聞こえた。それにエマの少し先にエルトン夫人がいて、その会話を聞いているばかりか夫に意味ありげな目配せを送ってけしかけている。気立てのいいやさしいウエストン夫人が席を立って彼のところへ行き、声をかけた。「踊りませんの、エルトン様」すぐさま彼は応じて「喜んで、ウエストン夫人、ぼくと踊ってくださいますか」
「わたしと! いいえ! とんでもない。もっとふさわしいお相手をお探しいたしましょう。わたしは踊れませんから」
「ギルバート夫人が踊られるなら」彼は言った。「喜んでお相手するのですが。最近ではぼくももう結婚した中年男ですから、ダンスをする時代は終わったと思っています。でもギルバート夫人のような昔からの友だちなら、喜んで踊りましょう」
「ギルバート夫人はお踊りにならないと思いますよ、ですがひとりお相手のない若いお嬢さんがいらっしゃるので、その方と踊っていただけたら大変嬉しいのですが。ミス・スミスですわ」
「ミス・スミスですか。いやいや、気がつかなかった。ご親切にありがとうございます。ぼくが結婚した中年でさえなかったらいいのですが。あいにくぼくのダンス時代は終わりました、ウエストン夫人。どうぞお許しを。ほかのことでしたらなんなりとお申付け通りにいたしますが、ダンスばかりはもう過ぎたことです」
ウエストン夫人はそれ以上言わなかった。夫人がどれほど驚き、屈辱を味わいつつ席に戻ったかがエマにはよくわかった。これがエルトン氏というひとなのだ。ひとに好かれる親切な紳士的なエルトン氏の正体はこれだ。エマは束の間、彼を目で追った。エルトン氏はナイトリー氏に近づき、しばらく話し込む様子だったが、その間もエルトン夫妻は顔いっぱいのほくそ笑みを交わし合っていた。
エマはもう見ないことにした。胸が怒りに燃え、顔までほてっているかと思われるほどだった。
そのすぐ後で、嬉しい光景が目に飛び込んできた。ナイトリー氏がハリエットの手をとって列のほうへ進んでいくではないか。この瞬間ほど驚いたことも、嬉しかったこともなかった。エマはハリエットのためにも自分のためにも感謝の気持ちにあふれ、ナイトリー氏にお礼を言いたいと思った。言葉を交わすには離れすぎていたが、彼と視線が合うとすぐにエマはその思いをたっぷりと表情に込めた。
彼のダンスはエマが思った通り、実に見事だった。ハリエットが少し前にあんなにひどい目にあっていなければ、そして顔じゅうにこの栄誉に対する喜びと感謝をたたえていなければ、ハリエットには過ぎる相手といってもいいほどだった。その栄誉は無駄にはならず、ハリエットはいつもにもまして軽々と跳ね、中央へと軽やかに進み出て、顔は喜びに輝き続けていた。
エルトン氏はカード室に退散し、エマには彼がひどく間が抜けて見えた。彼は妻ほど残酷ではないにしても、だんだんと似てきている。夫人はわざと聞こえよがしに話し相手に向かって感想を述べた。
「ナイトリーはあのかわいそうなミス・スミスに同情したのね。なんておやさしい」
夕食の用意が告げられた。客たちは移動し始め、その瞬間からミス・ベイツのおしゃべりがとぎれることなく続いて、食卓についてスプーンを手に取るまで止まなかった。
「ジェーン、ジェーン、大事なジェーンや、どこにいるの? さあ、肩かけをなさい。ウエストン夫人が肩かけをしなさいとおっしゃってますよ。廊下に隙間風があるかもしれないそうだから。できるだけのことはしてあるけれど。一方のドアは釘を打ってあるし、敷物もたくさん敷いてあるし。さあ、ジェーン、肩かけをなさい。まあ、チャーチル様! ありがとうございます。お上手にかけてくださいましたこと! ありがとうございます! お上手なダンスでしたわ! そうよ、ジェーン、さっき言ったようにわたしはちょっと家まで一走りして、おばあ様が床に就くのを手伝って、また戻ってきたの、どなたにも気づかれませんでしたよ。いま言ったように、だれにも黙って行ってきたの。おばあ様は大変お元気で、ウッドハウス様のお屋敷で楽しい夕べを過ごさせていただきました。おしゃべりをたくさんして、バックギャモンをしたそうです。おいとまする前には、一階で紅茶とビスケットと焼きリンゴとワインをいただいんですって。サイコロの目がたいそう良かったそうですよ。それからジェーン、おまえのことをあれこれと知りたがっていましたよ、楽しかったかとか、ダンスのお相手はどなただったとかね。『あら』とわたしは言いました。『それは後でジェーンに話させましょう。わたしが出るときには、ジョージ・オトウェイ様と踊っていました、明日詳しく話してくれるでしょう。最初のお相手はエルトン様で、次はどなただったかしら、たぶんウィリアム・コックス様でしょう』まあ、腕をお貸しくださいますの。ほかにも腕をお取りになりたい方がいらっしゃいましょうに。ひとりで歩けますとも。ご親切にどうも。まあこれは、片方の腕にジェーンを、もう片方にわたしですか。ちょっと待って、少しさがりましょう。エルトン夫人がお通りだから。まあエルトンの奥様はたいそう優雅でいらっしゃる。きれいなレース。さあさ、あの方について参りましょう。本当に今夜の女王様のようですわね。さあ、廊下に出ましたよ。段がふたつあるのよ、ジェーン、二段に気をつけて。おやまあ、一段しかなかったわ。てっきり二段あると思い込んで。なんてばかなんでしょう。二段あるものとばかり思ってましたが、一段だけでした。
ここほど気持ちのよい、贅沢な場所は初めてですわ。ロウソクがたくさん灯っていて。おばあ様の話を少ししてあげましょうね、ジェーン。ちょっと残念なことがあったのよ。焼きリンゴとビスケットはそれはそれはおいしかったのだそうだけど、初めに仔牛のすい臓の蒸し煮とアスパラガスが出て、おやさしいウッドハウス様がアスパラガスによく火が通っていないからと下げさせてしまわれたそうなの。おばあ様は仔牛のすい臓の蒸し煮とアスパラガスがなによりもお好きでね。それでちょっぴりがっかりしたのだそうよ。でもこのことはだれにも言うまいと話し合ったのよ、もしウッドハウスのお嬢様のお耳にでも届いたら、さぞかしお気になさることでしょうから。
おやまあ、華やかだこと。びっくりいたしますわ。こんなことは想像もしませんでした。なんて素晴らしい、賛沢なお食事でしょう。見たこともないほどです。さて、どこへ座ったらよろしいのかしら。どこにいたしましょう。ジェーンさえ風に当たらない場所ならどこでも。わたしの席はどこだってかまいません。まあ、こちらをお勧めくださいますの。ええ、わかりましたわ、チャーチル様。いい席すぎる気がいたしますね。でもおっしゃる通りに。この家であなた様のおっしゃることにまちがいはございません。ジェーンや、おばあ様にお話ししたいのだけど、どうしたらこのお料理をみんな覚えておけるだろうね。おやまあ、スープもあるのね。なんていいこと。そんなによそっていただいては困りますわ、でもいい匂い、すぐにもいただきたいくらい」
夜食が終わるまでエマはナイトリー氏と話す機会がなかった。だがみなが舞踏室のほうへ戻ってきたとき、エマは彼を目で一生懸命呼び寄せ、お礼を言った。彼はエルトン氏の行為は許すまじき無礼だと、激しく腹をたてていた。エルトン夫人の態度もまた彼の非難を免れなかった。
「あのふたりが傷つけようとしたのはハリエットだけではない」彼は言った。「エマ、どうしてふたりが君の敵になったのかな」
彼は見透かしたように見つめて、答えがないのでこうつけ加えた。「夫人まで君を憎む必要はないはずだが。彼は仕方がないとして。ぼくの推論に君はなにも答えてくれないが、白状したまえ、エマ、彼をハリエットと結婚させようとしたね?」
「ええ」エマは答えた。「それでわたしを許そうとしないの」
彼は首を振ったが、やさしく微笑を浮かべて、こう言っただけだった。
「叱るつもりはないよ。君自身の反省にまかせよう」
「こんな浮ついたわたしを信用なさるの? 奢った心がまちがいを正せるかしら」
「奢ったほうではなく、誠実なほうの心だよ。もし片方が君に道を誤らせたら、もう片方がそれを教えてくれるはずだ」
「エルトン氏のことでは完全に見誤りました。あなたのおっしゃるような卑怯な面があったのに、わたしにはわからなかったんですもの。すっかりハリエットを恋しているものと思い込んで。いろいろと勘違いが積み重なったんですわ」
「君がそこまで認めてくれたのだから、ぼくも公正を期して言わねばなるまい。彼が自分で選んだひとより、君が選んだひとのほうが優れていると、ね。ハリエット・スミスには、エルトン夫人にはない、素晴らしい性質がある。純真でひたむきで、飾ることを知らない少女だ。良い見識と趣味の持ち主であれば、エルトン夫人のような女よりも圧倒的に彼女を選ぶだろう。それに思っていたよりも話のできるひとだった」
エマはとても嬉しかった。そこへウエストン氏がやってきて、みんなにダンスを始めないのかと呼びかけ、話は中断された。
「ミス・ウッドハウス、ミス・オトウェイ、ミス・フェアファクス、一体なにをしているんです。さあ、エマ、お手本を示してください。なんて怠け者のひとたちだろう。眠っているみたいだ」
「すぐにでも踊りますわ」エマは言った。「お申し込みがあればいつでも」
「だれと踊るつもりかな」ナイトリー氏がたずねた。
エマは少し恥ずかしそうにしてから、こう答えた。「あなたとですわ、お申し込みいただけるのなら」
「踊っていただけますか?」彼が手を差し伸べながら言った。
「ええ、喜んで。ダンスがお上手なのはさっき拝見しましたし、わたしたち本当の兄と妹じゃないのだから、別におかしくはないでしょう?」
「兄と妹だって! いや、とんでもない!」
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第三十九章
その夜ナイトリー氏と交わした話はエマに大きな喜びをもたらした。それは舞踏会の良い思い出のひとつとなり、翌朝、芝生を散歩しながら楽しく思い返していた。エルトン夫妻についてあんなにも意気投合し、意見が一致したことが、エマをとても満足させた。それにハリエットのことをほめ、美点を認めてくれたことも嬉しかった。エルトン夫妻の無礼な行為のために、楽しい晩が台無しになってしまうところだったが、それがこの上なく満足のいく結果になった。もうひとつ良いことが期待できそうだった――ハリエットの恋の病がなおりそうなのだ。それは、舞踏会場を出るとき、その晩のことをあれこれ話すハリエットの様子からも、希望がもてそうだった。突然はっきりと物事が見え、エルトン氏が思っていたような素晴らしい人物ではなかったとわかったらしい。それにあの慇懃無礼な振るまいでは、彼女の恋心がかきたてられることは二度とあるまい。エルトン夫妻にはもっと意地悪く無視をしてもらって、ハリエットにはどんどん鍛練を積んでもらいたいものだ。ハリエットは理性に目覚めたし、フランクの気持ちも心配するほどではないし、ナイトリー氏も喧嘩をする気はなくて、この先、なんという楽しみな夏が待っていることだろう。
今朝はフランク・チャーチルと会う約束はなかった。正午には伯母の元に戻ることになっていて、残念ながら≪ハートフィールド≫を訪問する光栄には浴することができそうもないと言っていた。別にがっかりすることもない。
こんなことをすべて頭の中で整理し、思い返し、すべて良しとして、屋敷のほうへ向きをかえ、幼いふたりの甥と父親のためにも気分も新たに戻っていこうとしていた。そのとき大きな鉄の門が開いて、一緒にいるところを予想だにしなかったふたりの人物が入ってきた。フランク・チャーチルと、その腕にもたれかかっているハリエットだ。あれはハリエットに違いない! 何事か異変が起きたことはすぐにわかった。ハリエットは蒼白で、怯え切っており、フランクが励ましている。鉄の門と正面玄関とはさして離れていない。すぐに三人は家の中に入り、ハリエットは椅子に腰かけるやいなや気を失った。
若い女性が失神した場合はすぐに回復させてあげなくてはいけない。いろいろきかなければならないし、失神の理由も説明してもらわなくてはならない。こんな事件は関心をそそるものだが、それだけに長く疑問のままにはしておけないのだ。二、三分のうちにエマはことの全容を知らされた。
ミス・スミスはゴダード夫人のもうひとりの特別寄宿生のミス・ビッカートン――彼女も舞踏会に出ていたのだが――と一緒に散歩していて、リッチモンド街道に出た。そこは人目もあり安全だと考えられていたのだが、にもかかわらず恐ろしいことが起きたのだ。ハイベリーから半マイルほど行くと道が突然折れ、両側の檎の木が暗い木陰を作り、かなり長い距離淋しい場所になる。ふたりの若い女性がそのあたりにさしかかると、少し先の、土手の広い草地に、ジプシーの集団がたむろしていた。こちらをじっと見ていた子供が近づいてきて物をねだった。ミス・ビッカートンはびっくり仰天して、かん高い叫び声をあげると、ハリエットについてくるように叫び、急な土手を駆け登り、頂上の垣根を飛び越えて、近道を通ってハイベリーのほうへ逃げ出した。だがハリエットはついていくことができなかった。夕べのダンスで手足がひどく痛み、土手を登ろうとするとふたたび痙攣がおきて、すっかり力尽きてしまい、その場に、震えながら、立ち往生するはめになった。
娘たちにもっと勇気があったならば、ジプシーたちのふるまいも違っていただろう。だがこうなると攻撃の的となることは避けられない。じきに太った女と大柄な少年にひき連れられた五、六人の子供に取り巻かれ、言葉はそれほどでなくても、図々しい顔つきで、全員が騒ぎたてた。ますます震え上がったハリエットは、お金をあげるからと言い、財布を取り出して一シリング与えた。そしてもうこれ以上は欲しがらないでくれ、どうか乱暴はしないで、と懇願した。ようやく歩けるようになって、ゆっくりとその場を離れようとした。しかしジプシーにとっては、彼女の怯えと財布がなお魅力的で、彼女を追いかけ、取り囲むと、もっとくれとわめいた。
フランクがハリエットを見たのは、こんなときだった。ハリエットは震えあがり、必死になだめたが、賊は大声をあげ、ふてぶてしかった。幸運にも、フランクはハイベリーを発つのが遅れ、この危機を救うことができたのだ。朝のすがすがしさについ誘われて、ハイベリーから一、二マイル離れた別の道まで馬を連れていかせ、自分はしばらく散歩をしていた。たまたま前の晩にミス・ベイツから借りた鋏《はさみ》を返しそびれていたので、お宅へ寄らなくてはならず、少しの間そこに留まり、そんなわけで、予定よりも遅れてしまったのだ。徒歩だったので、フランクがすぐそばにくるまでだれも彼の姿に気がつかなかった。女や子どもがハリエットに与えていた恐怖が、こんどはそのまま彼らのものとなった。フランクは彼らを縮みあがらせ、ハリエットは口もきけない有様で彼にしがみつき、やっとの思いで≪ハートフィールド≫にたどり着くと、そこで気を失ったというわけだ。≪ハートフィールド≫へ連れてきたのはフランクの考えで、ほかにどこも思い浮かばなかった。
これが彼と、意識を回復して口がきけるようになったハリエットによる話のあらましだった。ハリエットが回復するとすぐに彼は発とうとした。あれやこれやでかなりの遅れをとってしまったのでもう時間がないと言う。エマはゴダード夫人にハリエットの無事を知らせ、ナイトリー氏には近所にそのような物騒な集団がいると注意することを約束し、友人と自分のために心からの感謝の気持ちを捧げて彼を送り出した。
このちょっとした事件、つまり素敵な青年と可愛らしい乙女がこんなふうなかたちで巡り合うとは、どれほど冷静で理知的なひとの胸にも、ある種の想像をかきたてるものがある。少なくとも、エマにはそう感じられた。言語学者であれ、文法学者であれ、はたまた数学者であれ、エマの見たようなことを目撃し、ふたりが抱き合って現れた様子を目にし、その話を耳にすれば、なにかの力が、ふたりがお互いに特別の関心を持つように働いているのではないか、という印象をもたずにはいられないだろう。ましてやエマのような空想家なら、どれだけ夢中になってそのことを考えたり、これからのことを思ったりすることか。とりわけ彼女の心のなかではそのまえに、そう期待するだけの土台が出来ていたのだから。
なんて不思議な出来事かしら! この辺りの若い女性の身にそんなことが起きるなんて。そのような集団に出会い、それほど恐ろしい目にあったなんて話は、記憶にある限りは一度も聞いたことがない。それがまさしくハリエットに、しかも、ちょうどもうひとりの人間が偶然にも通りかかって彼女を救うことができるという、まさしくその時間に起きるなんて! たしかにこれはとても不思議なことだ。エマはこの頃のふたりの好ましい心境を知っていたので、余計に心を動かされた。彼のほうはエマへの恋心を断ち切ろうと願い、彼女のほうはエルトン氏への熱烈な恋から冷めようとしている。最も良い結果を生むためにあらゆることが結びついているようではないか。この事件が起きたことで、ふたりがより親しくなれることは否定できない。
フランクが発つ前、ハリエットがまだ半分意識を失っていたときに交わした短い会話の中で彼は、彼女がどんなに怯えていたか、どんなに純真で、無我夢中で彼の腕にすがりついてきたかなどを、驚きながらも楽しそうに話してくれた。やがてハリエット自身の言葉で、彼がきつい言葉でミス・ビッカートンの愚かな行動を責め、憤慨を示したことを聞いた。すべては自然の定めで、後押しや手助けがなくとも、ひとりでに進んでいくようだ。エマはそれをかき回すことも、ほのめかすこともしてはならない。お節介焼きはもうしすぎるほどしてしまったのだ。でもちょっとした計らいなら害はないだろう、それとなく計らうくらいならば。たんに願っているというくらいのことなら。それ以上のことは断じてすまい。
エマの最初の決意は、その事件を一切父親には知らせまいというものだった。心配やら恐怖やらが生ずることはまちがいない。けれどもじきに隠しておくことは不可能だとわかった。ものの二、三十分もしないうちに事件はハイベリーじゅうに知れわたった。おしゃべり好きや身分の低い若者にとっては、絶好の話題だったのだ。一帯に住む若者や召し使いたちはその恐ろしい知らせに湧き立った。昨夜の舞踏会もジプシーの前ではかすんでしまったようだ。気の毒にウッドハウス氏は震えながら椅子にかけ、エマの予想した通り、娘や孫たちが低木の茂みから向こうへは絶対に行かないと約束するまでは、気が休まらなかった。ただその日の午後は、ウッドハウス氏やミス・ウッドハウス、それにミス・スミスの無事をたずねる訪問が(近隣の者は氏が見舞いを受けるのが大好きなことをよく知っていたので)ひっきりなしで、それが心の慰めになった。彼は、みんなショックで呆然としていますと返事をするのが楽しくてならなかった。だがそれは真実ではなく、エマはぴんぴんしているし、ハリエットもいくぶん元気になっていたのだが、それについては父の好きにさせることにした。こういう男性の娘としてエマはいささか不幸な健康状態にあった。気分がすぐれない、という状態が決して理解できないのだ。そして父親が娘を病気にしたてあげない限りは、見舞ってもらうこともない。
ジプシーどもは法の手が及ぶのを待ったりせずに、一目散に逃げ出した。ハイベリーの若い女性たちも、恐ろしい目にあう心配などせずに、ふたたび出歩けるようになった。そして事件はやがてだんだんと忘れられてだれも関心を払わなくなった。ところがエマと甥っ子たちは違った。エマの想像の中にはまだ事件が生きていて、甥っ子たちは毎日のようにハリエットとジプシーの物語をしてくれとせがみ、細かい点をもとの話と変えたりすると強情にそのまちがいを訂正したりした。
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第四十章
事件からいく日も経たないある日、ハリエットが小さな包みを持ってエマのもとに現れた。腰を下ろすと少しためらってから話し始めた。
「ミス・ウッドハウス、おひまがありましたら、お話ししたいことがあります。ちょっと懺悔《ざんげ》めいたことなんですけど。そうすれば終りにできますわ」
エマはとても驚いたが、先を続けるように言った。ハリエットの言葉つきにも態度にもただならぬ真剣さが感じられる。
「これはわたしの義務ですし、願いでもあります」ハリエットは続けた。「この件についてあなたに一切隠し立てをしないというのが。ある事柄に関しては、わたしはもう幸せに生まれ変わった人間ですから、あなたにもそれを知っていただきたいのです。必要なことしか申しません。わたしはあのように心の抑えをなくしたことを深く恥じています。あなたならきっとわかってくださいますわね」
「ええ、わかっているわ」エマは言った。
「なんて長いことわたしは思い違いをしていたんでしょう」ハリエットは怒ったように言った。「まるでばかみたい。今ではあの方になんの優れた点も認められません。会おうと会うまいと関係ありません。むしろ会わないほうがいいのです。会わなくてすむならどんな廻り道でもしたいくらいです。奥様のことはちっとも羨ましいとは思いません。以前のように尊敬したり羨んだりはもうしません。たしかに魅力的なところはあるようですけど、意地悪で嫌なひとですわ。いつぞやの晩の目つきなど忘れられません! だからといって、ミス・ウッドハウス、あのひとを憎んだりする気はちっともないんです。いつまでもお幸せにと願うだけで、それでわたしの心が傷つくこともありません。真実をお話ししている証拠に、これから燃やしてしまおうと思うんです。もっと前に燃しておくべきでした。取っておいてはいけなかったんです。わかってはいたのですが(話しながら真っ赤になった)。でもここで全部焼いてしまいます。ぜひあなたのいる前でしたかったんです。そしたらわたしがどれだけ大人になったかおわかりになるでしょうから。包みの中身に心あたりはありませんか?」そう言ってはにかむような顔をした。
「全然わからないわ。彼からもらったなにか?」
「いいえ、もらったわけではありませんの。でもとても大切に思っていたものです」
ハリエットが包みを差し出すと、上に『一番大切な宝物』と書いてあるのが見えた。エマはますます好奇心をかきたてられて、ハリエットが包みを開けるのを、もどかしい思いで見守った。何枚もの銀紙のなかから小さな寄木細工の箱が出てきた。ハリエットが開けると、なかにやわらかな綿が敷きつめられていて、綿のほかには絆創膏の切れ端があるだけだった。
「さあ、思い出してくださいませ」ハリエットは言った。
「悪いけどさっぱりだわ」
「あらまあ! あなたがちょうどこのお部屋でおきた、絆創膏のことをお忘れだなんて考えもしませんでした。あの方と最後にここで会ったときでした。わたしが喉を痛めるほんの数日前のことです、ジョン・ナイトリー様ご夫妻がいらっしゃる前で、――ちょうどその晩だったと思います。あなたの新しいポケットナイフであの方が指先を切り、あなたが絆創膏をすすめられたこと、覚えていらっしゃいませんか? あなたはお持ちでないので、わたしが持っているのを差し上げるように言われました。それで取り出して少し切って差し上げたのですが、それでもだいぶ大きすぎたので、あの方がもっと小さくお切りになって、残りをしばらく手の中で弄《もてあそ》んでいらして、それから返してくださったのです。それで、ばかなわたしはそれを宝物のようにしていました。絶対に使わないようにして、大事なものとしてときどき眺めていたのです」
「まあ、ハリエットったら!」エマは顔を手で覆って叫び、椅子から飛び上がった。「自分が恥ずかしくてたまらないわ。覚えているかですって? ああ、残らず思い出したわ。でもまさかあなたがそれを記念に取っておいたなんて。今の今まで知らなかったわ。彼が指を切って、わたしは絆創膏をすすめ、持ち合わせがないと言ったのだったわね。ああ、わたしが悪いのよ、わたしが悪かったわ。絆創膏ならポケットにたくさん入ってたの。心ない企みだったわ。これから一生この恥を背負っていくのね。それで(また腰を下ろし)続けて、ほかにもあるの?」
「それじゃ、あなたもお持ちだったんですね。そんなこと思ってもみませんでした。あんまり自然におっしゃったので」
「あなたはそれで彼を想って絆創膏の切れっ端をしまっておいたのね」エマは恥辱から立ち直ると、驚くと同時に興味も感じながら言った。そして心でこうつけ加えた。
「なんていうことだろう。フランク・チャーチルが絆創膏の切れ端をいじりまわしていたら、わたしもそれを綿にくるんでしまい込むべきだったのね! でも、とてもそんなことできない」
「これは」ハリエットはまた箱のほうを見て言った。「もっと大切なもの、もっと大切なもの|だった《ヽヽヽ》という意味ですが。なぜなら、文字通りこれはあの方のものだったからです、絆創膏は違いますでしょ」
エマはそのとっておきの宝物とやらを早く見たくてたまらなかった。それはちびた鉛筆の端っこで、もう芯すらなかった。
「これは本当にあのひとの物でした」ハリエットは言った。「ある朝のことを覚えておいででしょうか。きっとお忘れでしょうね。ともかくあの朝、日にちはわかりませんけど、例の晩の前の火曜日か水曜日だったと思います。あのひとは手帳に書き込みをしようとしていました。スプルース・ビールのことです。ナイトリー様がスプルース・ビールの醸造のことをお話しになっていて、それを書き留めようとしたのです。それで鉛筆を取り出したのですが、芯がほとんどなくて、使い物にならないのであなたが別の鉛筆をお貸しになったのです。あのひとは、これはもう要らないからとその鉛筆をテーブルに捨てて置かれました。わたしはじっと見ておりまして、隙をみて思い切ってそれを手に取り、そのときから片時も放さずにいたのです」
「覚えていますとも」エマは声を張りあげた。「はっきり思い出せるわ。スプルース・ビールのことを話していたんだわね。ああ、そうよ、ナイトリーさんとわたしが好きだと言うと、エルトン氏も好きになろうと決心したようだったわ。すっかり思い出した。ちょっと待って。ナイトリーさんはちょうどここに立っていたんじゃなくって? たしかここにいたと思うんだけど」
「まあ、覚えておりません。思い出せませんわ。おかしなことに、思い出せないんですの。エルトン様はこちらに座っていらしたわ、今わたしがいますこの辺りに」
「それで先を教えて」
「まあ! それだけなんですのよ。ほかにはお見せするものも、申し上げることもありません。ただ、今すぐにでもこれを火の中に投じるところを、あなたに見ていていただきたいだけです」
「かわいそうな、ハリエット。そんなものを大事にして幸せをかみしめていたなんて」
「わたしはおばかさんでしたから! でも今では恥ずかしく思っています。そして一刻も早く燃やして忘れてしまいたいのです。思い出の品を取っておくなんて、いけないことでしたわね、あの方は結婚なさったというのに。わかっていながら、手放す決心がつかなかったんです」
「でもね、ハリエット、絆創膏まで燃やす必要があるかしら? 古びた鉛筆については何も言うことはないけれど、絆創膏はまた使えるじゃないの」
「燃やしてしまったほうがいいんです」ハリエットは答えた。「目にするだけでも不愉快ですから。すべてを片付けてしまいたいんです。さあ行くわよ、これでおしまい、さよならエルトン様」
「そして」エマは思った。「ミスター・チャーチルが登場してくるのは、いつ頃からかしら」
そのあとすぐ、それはすでに始まっていると思わせることがあって、エマにはジプシーのように占いはできないが、ジプシーの事件がハリエットの運命を作り出したと思わずにはいられなかった。例のことがあって二週間ほどしたとき、ふとしたことからその時のことを話す機会があった。エマは特にふたりのことを考えていたわけではないので、その情報はもっと価値があった。ちょっとした話のついでに、「たとえあなたがいつ結婚するにしても、わたしとしてはこれだけのアドバイスはしておくわ」と言った。それは特に深く考えてのことではなかった。だが、それからしばらく沈黙があって、ハリエットが真剣な口調で言った。「わたし、決して結婚などしませんわ」
顔を上げてハリエットをみたとき、エマには彼女の言いたいことがすぐにわかった。そしてちょっと考えこみ、気がつかないふりをすべきかどうか迷ってから、こう言った。
「結婚しないんですって! それはまた、新たな決意なのね。」
「この気持ちは生涯変わらないと思います」
またもやためらいがちな沈黙の後で、「わたしの思うには、エルトン氏に操をたててのことじゃないといいんだけれど」
「エルトン様にだなんて、とんでもない」ハリエットは怒ったように叫んだ。「全然違います」それに続いて、「エルトン様よりもずっと素晴らしい方」という言葉を聞き取ることができた。
それから長いことエマは考えこんだ。これ以上は追及すべきではないのかもしれない。ただ聞き過ごして、気づかぬふりをするべきなのではないだろうか。ただ、そうすればハリエットは、わたしが冷たいとか、怒っているとか思うかもしれない。かといって、このまま黙っていれば、彼女は、わたしが聞くつもりのないことまで話してしまうかもしれない。エマは、そういったことを率直に話し合ったり、希望や機会のことを隠し立てせずにつねに語り合うのはもう止めようと、決意した。言いたいことや質問はすべて一度だけですますのが賢明なやり方だ。率直な言葉こそ最善の策なのだ。こういう場合に備えて、どこまで立ち入るかについては、もう心は決まっている。エマ自身の知性による賢明なルールに乗っ取って、手っ取り早く処理してしまったほうが、ふたりにとっても安全なはずだ。そこで心を決めてこう言った。
「ハリエット、あなたの言う意味がわからないなんて言うつもりはないのよ。あなたの結婚しないという決意、または予想は、あなたが好きになりかけているひとが、あまりに身分の高いひとで、あなたのことなど眼中にないということからきているんじゃないかしら」
「まあ! ミス・ウッドハウス、わたしはそんなことを考えるほど図々しい人間ではありません。そこまで気が触れてはいませんわ。ただ遠くからあの方を見てご尊敬申し上げるだけでいいんです。あの方がどれほど素晴らしいかを、わたしのような者にふさわしい感謝と驚きと尊敬をこめて思うだけで、幸せなんです」
「あなたがなにを言っても驚かないわ、ハリエット。彼が捧げたあの行為があなたの心に火を灯したのね」
「捧げただなんて! とんでもない! 言葉では言い尽くせないほど感謝しております――あの時のことを思い出すだけで、あの時のわたしの気持ちを思うだけで、もう――あの方が近づいていらしたとき、あの高貴なお姿、それまであんなにも惨めな気持ちでしたのに。なんという変わり様でしょう! それもたった一瞬で! 最低の惨めさから最高の幸福へと変ったのです」
「ごく自然なことだわ。まったく自然よ。それに立派だわ。そんなに素晴らしいひとをそれほどまで尊敬をもって選ぶなんて、たしかに称えられるべきことよ。でもそれが幸せな選択かどうかはわたしにははっきりわからないわ。その気持ちに流されてしまいなさいとは言えません。その気持ちが報いられるかどうかは約束できないことよ。なにをしようというのかよく考えてね。できるだけ自分の感情を抑えるようにするのが賢いと言えるわ。感情に流されてはだめ。彼があなたを好きだと確信できるまではね。そのひとをよく観察なさい。心を動かすかどうかは、相手の行動を見て決めるの。今こんな忠告をするのは、これっきり、そのことを言うまいと思っているからよ。口出しは一切しないと決めたの。今後は、わたしはそのことについてなにも知りませんよ。名前すら出してはいけません。前はひどい失敗をしたんですもの、今度は気をつけなくちゃね。そのひとはあなたよりもまちがいなく身分が上で、きっと多くの深刻な障害があるのでしょう。でもね、ハリエット、世の中にはもっと不思議なことがたくさんあるわ。ものすごく不釣合な結婚だってあるのよ。でも気をつけて。あまり希望をもつようにはすすめられないわ。でもともかく、あなたが彼にまで目標を上げたのは、趣味の良くなった証拠でしょうから、その点は評価するわ」
ハリエットは黙ってエマの手に素直な感謝をこめて口づけをした。友にとって、今度のような恋心を抱くことは悪いことではないとエマは確信した。その気持ちが彼女の心を高め、磨きをかけることだろう。それに彼女を、危うい堕落からも救い出してくれるに違いない。
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第四十一章
こういった計画や期待や企みがいり交じるなかで、≪ハートフィールド≫に六月が訪れた。ハイベリー全体にしてみると、たいした変化はなかった。エルトン夫妻はまだサックリング夫妻の訪問のことや、四輪馬車で出かけることを話していたし、ジェーン・フェアファクスもまだ祖母の家にいた。キャンベル夫妻のアイルランドからの帰還はまたもや延びて、夏の半ばというよりは八月までの予定となり、あとたっぷり二ヵ月はこちらにとどまることになった。もっともジェーンがエルトン夫人のお節介に打ち勝って、意思に反する素敵な就職先とやらに急がされなければの話だが。
ナイトリー氏は、彼にしかわからないある理由のために、早くからフランク・チャーチルを嫌っており、その嫌悪はますますつのるばかりだった。フランクのエマへの執心ぶりにはどこか不誠実なものがありそうだと彼は疑っていた。エマが彼のお目当てであることは自明の理のように思われている。何もかもがそのことを指し示している。フランク自身の気配りといい、青年の父親のほのめかしといい、青年の継母の用心深い沈黙といい、すべて一致して同じことを意味している。言葉や行動、慎重さや思慮のない行為がすべて同じことを物語っている。だがそれほど多くのひとが彼の相手をエマだと決めている一方で、エマは彼をハリエットにと思い、ナイトリー氏は青年がジェーンを弄《もてあそ》ぼうとしていると疑いはじめていた。はっきりそうと知ってのことではないが、少なくともジェーンとフランクの間には暗黙のなにかがあるようだと、彼は思った。青年のほうに恋慕の情が見られ、一度それを見てしまうと、その意味合いを抜きにして考えることができなくなり、エマお得意の見当違いの想像をすまいと思ってもだめだった。
その疑いを最初に抱いたとき、エマはその場に居合わせなかった。彼はエルトン家でウエストン一家とジェーンとともに食事に招かれていた。そこで彼は、フランクがジェーンを一度ならず見つめるのを目にしたのだが、その視線はミス・ウッドハウスの賛美者にしてはほめられたものではなかった。次にまた会ったとき、やはりその時見たことを思い出さずにはいられなかったし、また観察しないではいられなかった。それがたとえばウィリアム・クーパー(注・英国詩人、オールニーの賛美歌の作者)がその黄昏どきの炉端で吟じたように、
わたしが見ているものは、私自身が創りあげたもの
ということでないとすれば、ふたりがひそかに好意を寄せ合い、内密に了解し合っているらしいという疑いはますます強まるばかりだった。
ある日の夕食の後、よくそうするように≪ハートフィールド≫で晩を過ごそうと彼は散歩がてらに出かけた。エマはハリエットと散歩に行くところで、彼もそれに加わった。帰り道で大人数の一行に出会った。相手方も同じように、雨になりそうだからと早めに散歩に出るのが賢明と判断したらしい。ウエストン夫妻とその息子、それに偶然鉢合わせしたミス・ベイツとその姪だった。そこで全員は一緒になり、≪ハートフィールド≫の門にさしかかると、エマは父がこの人たちの訪問を大歓迎するだろうと知っていたので、どうぞお入りになって父のお茶につきあってくださいませ、と申し出た。≪ランドルズ≫の一行はすぐさま受け、ミス・ベイツも、だれも聞いていない長い挨拶の言葉の後で、ウッドハウスのお嬢様のご親切この上ないご招待をお受けいたします、という意向であることがわかった。
一行が敷地内に入りかけたとき、ペリー医師が馬に乗って通り過ぎた。紳士たちは彼の馬について話をした。
「ところで」フランク・チャーチルがウエストン夫人に言った。「ペリー先生が、馬車を持つという話はどうなりました?」
ウエストン夫人は驚いて言った。「馬車を持とうとしていらっしゃるなんて、ちっとも知りませんでしたわ」
「あれ、ぼくは母上から聞いたんですよ。三ヵ月ほど前に、そうお手紙に書いてくださったじゃないですか」
「わたしが? 書いてないわ」
「でもたしかに書いてありました。はっきりと覚えてます。ごく近いうちにそうなるだろうとおっしゃって。ペリー夫人がだれかにその話をしてとても喜んでいるとか。ご主人が雨の中を出かけるのはひどく身体にさわるだろうと、心配した夫人が説得したと聞きましたが。思い出されましたか?」
「今の今まで、聞いたこともありませんわ」
「一度も? ご存じない? おやおや。どうしたわけだろう、じゃあ、夢でも見たのかな。てっきりそう信じ込んでいました。ミス・スミス、疲れて歩くのがつらそうですね。家はすぐそこですから、元気をお出しなさい」
「一体全体、どういうことだろうね」ウエストン氏は叫んだ。「ペリーの馬車の話は。ペリーは馬車を置くつもりだと言うんだね、フランク? そうできれば喜ばしいことだ。ペリー自身から聞いたのじゃないか?」
「いいえ、父上」息子は笑って答えた。「だれからも聞いてないらしいです。おかしいな。細かいことはすべて、≪エンスクリーム≫に来た何週間も前の母上の手紙に書いてあったとばかり思っていたけど。でも母上が聞かれたことがないんなら、夢に違いありません。ぼくはよく夢を見るほうですから。ここにいないときも、ハイベリーのみなさんとしょっちゅうお会いします。親しい友人の夢を見終わると、ペリー夫妻の夢なども見るんです」
「それにしてもおかしなことだ」父親は言った。「≪エンスクリーム≫で思い出しもしないひとの夢を、それほど具体的に見るとは。ペリーが馬車を置く、か。夫人が夫君の健康を案じて説得したと言うのだね。いかにもありそうなことだ。じきにそうなることはたしかだと思うよ。ただ時期が早いというだけでね。夢ではときどき、もっともらしいことを見るものだ。そうかと思うと、ばかげた内容ばかりだったりもする。さて、フランク、ハイベリーにいないときも、こちらのことを考えていることを夢が証明してくれたね。エマ、あなたも夢をよく見るのではないかな?」
エマは聞いていなかった。客が来たことを父親に告げようと、急いでいたので、ウエストン氏のひやかしの言葉も耳に入らなかった。
「おやまあ、実を申しますと」ミス・ベイツが声を張り上げた。この二、三分、自分の話を聞いてもらおうと、むなしく努力をしていたのだ。「今の話のことですけど、フランク・チャーチル様が夢でご覧になったというのを否定するつもりはございませんが――夢で見たというのももっともなことでございます、わたしもそれはおかしな夢を見るものですわ――もしそのことでわたしに申せることがあるとすれば、この春にそういうお話があったと申しあげなくてはなりません。ペリー夫人ご自身が母に語られたことで、コール夫妻もよくご存じです。でもこれはごく内密のことで、だれにも話さず、三日ほど話題にのぼったきりでした。ペリー夫人はご主人に馬車を持たせたいと強くお望みでした。そしてある朝、たいそうお元気に母のところへいらして、夫を説き伏せるのに成功したとおっしゃいました。ねえジェーン、うちへ戻ったときにおばあ様が話してくださったのを覚えていない? どこへ出かけた帰りだったかは忘れたけれど、≪ランドルズ≫ではなかったかしら。ええ、たぶん≪ランドルズ≫でした。ペリー夫人はいつもうちの母によくしてくださいます。母によくしてくださらない方などいませんが、夫人は自信をもっておっしゃいました。母がわたしどもに話すぶんには反対しないが、それ以外のひとには話してくれるなということでした。それでその日から今まで、お知り合いのどなたにも話しませんでしたの。それでもやはり、そのことをちらっとでも言ってしまわなかった自信はありません。それというのもときどきわたしは気がつかずにぽろっと言ってしまうくせがありますから。わたしはおしゃべりなほうでございましょう。おしゃべりですわね。それでいつも言ってはいけないことをもらしたりしてしまうんです。ジェーンと違いまして。この子のようだといいんですけど。それについては、この子は秘密をもらすようなことは絶対にないと誓えますわ。あら、ジェーンはどこ? おやまあ、後ろにいたの。ペリー夫人がいらしたことははっきりと覚えておりますよ。本当に不思議な夢ですこと」
一行は広間に入ろうとしていた。ナイトリー氏はミス・ベイツよりも先にジェーンを見た。フランク・チャーチルは動揺を押し隠しているかのような、あるいは笑い飛ばしたような表情を浮かべ、とっさにジェーンのほうを見たのだが、彼女は後ろのほうにいて、ショールを忙しげにいじっていた。ウエストン氏はさっさと中へ入り、残りのふたりの紳士は戸口に立ってジェーンを通してやった。フランク・チャーチルはどうしても彼女と目を合わせようとしているようで、熱心に彼女を見つめている。だがそれは無駄なことだった。ジェーンはどちらの顔も見ずに前を通りぬけて広間へ入っていった。
それ以上何か言ったり、質問をしたりするひまはなかった。夢のことは忘れることにして、ナイトリー氏はほかの人たちと一緒に大きな現代風の丸テーブルについた。これはエマが≪ハートフィールド≫に採り入れたものだった。この屋敷には、それまでウッドハウス氏が四十年間というもの日に二度の食事を所狭しと並べたてていた折り畳み式のテーブルをやめさせ、これを使わせることのできる権力を持つ人間はエマしかいない。お茶の時間が楽しく過ぎ、だれも急いで帰る様子はなかった。
「ミス・ウッドハウス」フランク・チャーチルは後ろのテーブルを調べてから言った。テーブルには座ったままで手が届いた。「甥ごさんたちはアルファベット遊びを持ち帰られたのですか? 文字の詰まったあの箱を。ここにあったはずですが。どこにあります? 今夜はどんより曇って、夏というよりは冬のようです。いつかの朝、文字遊びをして楽しかったじゃないですか。またあなたを困らせてあげたいな」
エマもそれはいい考えだと思った。そして箱を開けると、テーブルは散らばった文字でいっぱいになり、フランクとエマ以外はだれもおもしろがってやるふうではなかった。ふたりは手早く文字を組み合わせ、お互いが、あるいはみんなが頭を悩ませるようなものを作った。その遊びの静かさがウッドハウス氏はことさら気に入ったようだ。彼はしばしばウエストン氏が提案する活動的な遊びには辟易させられていたのだが、今は座ってふたりの「可愛そうな坊や」たちが行ってしまったことを穏やかに悲しんだり、たまに手近のはぐれた文字を取り上げ、エマはなんときれいな字を書くことかと情愛をこめて言ったりした。
フランク・チャーチルはミス・フェアファクスの前に単語を並べた。彼女はまわりのひとたちにちらりと目を走らせてから、それを読んだ。フランクはエマの隣に座り、ジェーンはふたりの向かいにいた。ナイトリー氏の位置からは三人がよく見えた。観察していないように見せかけて、その場にいて、できるだけのことを見てとろうというのが彼の狙いだった。言葉の意味を知って、彼女はかすかに微笑んで押しやった。もしすぐにほかの文字と混ぜて、読めなくしてしまうのが狙いだったら、真向かいを見ずにテーブルを見るべきだったろう。なぜなら、その文字は混ぜられていなかったからだ。すると次々にできる言葉を知りたがり、どの意味もわからないでいたハリエットが、すぐさまそれを取り上げて読みはじめ、横にいたナイトリー氏に、助けを求めた。単語は『失敗』であった。ハリエットが喜んでその言葉を口にすると、ジェーンの頬が染まり、そのためにだれも気がつかなかった意味をそこに与えることになった。ナイトリー氏はそれを夢の話と結びつけた。だがそれがなぜかはわからなかった。自分の気に入りのあの鋭い判断力が、どうしてこういうときに眠って働かないのだろう。たしかにふたりはなんらかの関係を結んでいるらしい。隠し事やごまかしの影がそこかしこにちらついている。この文字遊びは、恋愛の巧みな手段として使われている。子どもの遊びが、フランク・チャーチルの悪巧みを隠すために選ばれたとは。
ナイトリー氏はひどく憤慨して青年を観察した。そしてふたりの目を眩まされた友人のことも、警戒と不審の目で見守った。見ているとエマのために短い単語が作られて秘密めかした真面目くさった表情で差し出された。エマはすぐにそれを読み解き、たいそうおもしろがったようだが、表面的にはとがめてみせるのがふさわしいと思ったらしい。こう言ったからだ。「まあひどい! なんてことを!」フランク・チャーチルがジェーンのほうを見ながら、言うのが聞こえた。「あのひとにこれを見せましょうか?」そしてそれをエマが笑いながら一生懸命に止めようとするのが聞こえた。「だめ、だめ、絶対にいけないわ。そんなことは許さない」
しかしそれは見せられた。女性に取り入るのがうまいこの青年は、感情をもたずにひとを愛し、ひとに好意を示さなくても好意を寄せられるらしい。そしてその単語をミス・フェアファクスに手渡し、きわめて冷静沈着な慇懃さでお読みくださいと言った。ナイトリー氏はその単語がなにかを是非知りたいと願い、あらゆる機会を狙って視線を走らせ、ついにそれが『ディクスン』であると知った。ほぼ同時に、ジェーンもそれを理解した。彼女は巧妙に組み立てられた五つの文字の隠された意味を十分に理解したらしく、明らかに不快そうだった。顔を上げ、自分が見られているのを知ると今まで見たこともないほど真っ赤になりながら、ただこう言った。「固有名詞が許されるとは知りませんでした」そして苛立たしげに文字を押しやり、もうどんな言葉を見せられても読むまいとかたく決心したようだった。自分を攻撃したふたりから顔をそむけ、伯母のほうに顔を向けてしまった。
「おやまあ、本当にそうだね」伯母はジェーンがなにも言わないうちから声を出した。「わたしもちょうど同じことを言おうとしてたのよ。もうおいとまする時刻ですね。夜も近くなりましたし、母が心配して探していることでしょう。ウッドハウス様、本当にごちそうさまでした。どうぞおやすみなさいませ」
ジェーンがすばやく体を動かし、伯母の言う通り帰りたがっていることがわかった。すぐに立上がり、テーブルからも離れたい様子だったが、みんなが同時に動き始めたので、動きがとれなかった。ナイトリー氏が見ていると、フランクからまたもうひとつの単語が懸命に押しつけられたが、彼女は見もしないで突き返した。それからジェーンがショールを探していると、フランクも一緒になって探した。夕闇が迫り、部屋は込み合っていた。それでみんながどういうふうに出ていったのか、ナイトリー氏にはよくわからなかった。
みんなが帰った後も、ナイトリー氏だけは≪ハートフィールド≫に残り、いま目にしたことを真剣に考えていた。あまりに夢中で考えていたので、ロウソクが灯って相手の顔がよく見えるようになると、なんとしても、友人として、心配する友として、エマに暗示を与え、また、いくつかのことをきいてみなければと思った。このような危険な状態にエマを置いておくことなどできない、守ってやらなければ。それが彼の義務というものだ。
「ねえ、エマ」彼は言った。「最後に君とミス・フェアファクスに見せられた単語だが、なにがおもしろくて、なにが辛辣な棘だったんだい? ぼくも見たが、一方にとってはこの上なく楽しいものが、どうしてもう一方にとって不愉快なものか、非常に興味をそそられたものでね」
エマはひどくあわてた。彼に本当のことを教えるわけにはいかない。疑惑がすっかり取り去られたわけではないが、その話をひとにするのはとても恥ずかしい。
「あら」エマはそれとわかるほど当惑して、声をあげた。「なんの意味もないことですわ。わたしたちだけの冗談です」
「その冗談は」ナイトリー氏は浮かない調子で答えた。「君とチャーチル君だけに通じるものだったらしいね」
彼はエマがまた話し出すことを願ったが、そうはならなかった。エマは話をするよりも、あれこれと忙しくしていたいようだった。彼は疑問に包まれてしばらく座っていた。さまざまな悪い思いが心を交錯する。干渉になるかもしれない、無駄な干渉に。エマのさっきの動揺や、あからさまに見せつけるかのような親密さは、彼女の恋心がたしかなものであることを語っている。それでも、敢えて言うべきだろう。彼女の幸せのためには、余計な口だしという謗《そし》りを受ける危険も冒さなければならない。今度のようなことを放置して、後で悔やむよりは、どんな災難でも引き受けよう。
「ねえ、エマ」ついに彼は精一杯のやさしさをこめて言った。「今の話にある紳士とご婦人がどれぐらいのつきあいか、君は完璧に知っていると思うかい?」
「フランク・チャーチルとミス・フェアファクスのこと? あら、よく知っていますわ。なぜそんなことをお疑いになるの?」
「彼が彼女を慕っている、あるいは彼女が彼を慕っていると、感じたことはないかな?」
「いいえ、全然!」エマは激しく否定の声をあげた。「ちっとも考えたことはありませんわ、一瞬の二十分の一ほどもね。どうしてあなたはそんなふうにお考えになったのかしら?」
「近頃、あのふたりの間に恋の兆しを見たような気がしたんだ。他人に見せるものではないような、意味深な表情とか」
「まあ、本当におかしなことをおっしゃるのね。あなたでも想像をたくましくなさると知って、嬉しいですわ。でもそれはまちがいだわ。初めての試みを否定するのはおかわいそうですけれど。でも本当に違うんです。あのふたりの間に恋愛感情など、ありっこないわ。あなたの見たとおっしゃる表情も、なにか特別な状況だったからじゃない。全然別の感情からそんな顔をしたのでは。詳しくご説明することはできないけど、まったく途方もないお考えよ。ですが言葉で言える限りは、つまり常識的に言って、あのふたりほどお互いに愛情も恋心も抱いてない人たちはいないくらいよ。だって彼女に関しては絶対にそうと言う確信があるし、彼のほうにもそういう理由があるんだもの。彼のほうの無関心には折り紙を付けましてよ」
エマはナイトリー氏をたじろがせ、黙らせるだけの自信と満足とをもって言った。彼女は浮き浮きとした気分で、会話を長引かせ、彼の疑いの細かい点や、彼が認めた表情や、どこでどんなふうにそれが起きたのかを聞きたがり、それをすごくおもしろがっている様子だった。だが彼のほうは浮かれるような気分ではない。自分がなんの役にもたたないことに気づき、苛々してきてこれ以上は話をしたくなかった。ウッドハウス氏のひ弱な好みから、夜は一年中暖炉の火が燃え、その熱で苛立ちが激情にまで高まってしまわないうちにと、彼は早急にいとまを告げ、≪ドンウェル・アビー≫の冷涼と孤独の中へ戻っていった。
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第四十二章
サックリング夫妻がすぐにも訪れるという期待を長いこともたされたあげく、秋にならないと来られないとの便りがあり、ハイベリーの人々は残念な気分を味わうことになった。しばらくは彼らの知性を満足させるような物珍しい出来事はありそうもない。毎日交わす話題は、サックリング夫妻の来訪と時を同じくして語られたほかの話題に限られることとなった。たとえばチャーチル夫人についてだが、日ごとに違った病状が報告され、ウエストン夫人については、子どもが生まれるとわかってますます幸せになり、身近な人々も誕生が近づくにつれて喜びを大きくするようになった。
エルトン夫人はひどくがっかりしていた。思い切り楽しみ、見せびらかすつもりの予定が延びてしまったのだから。みんなに紹介したり、上流のひとに推薦してやったりというお節介焼きも延期である。あれもこれもと計画した遊びもただの口約束だけになってしまった。初めはそう思ってがっかりしていた。だが少し考えてみて、延期する必要はまったくないことに気がついた。義兄夫婦が来ないからといって、ボックス・ヒル行きをやめるいわれはない。秋に来たとき、また一緒に行けばいい。そこでボックス・ヒルへ行こうということに決まった。そういう行楽に出かけようというのは前々から言われていて、ほかの場所へ行く案さえ出されていた。エマはボックス・ヒルへ行ったことがない。だれもが見る価値があると言う景色を見てみたかったので、ウエストン氏と相談して、天気の良い日にそこへ行こうという話になった。誘うのはほかに二、三人だけにして、静かに控え目に上品に出かけたい。エルトン夫妻やサックリング夫妻のように大騒ぎして準備し、お定まりの飲み食いをして、ピクニックだとはしゃぎたてるのよりも、ずっと上等なものにしたい、と。
そういう話で了解ができていたはずなのに、ウエストン氏はエルトン夫人に、姉上夫妻が来られないのなら一緒に行きましょうと声をかけたので、エマは驚くと同時に、ちょっと不愉快にもなった。エルトン夫人は喜んで賛成し、エマさえ反対しなければ、ということで決定したのだという。エマが反対なのはエルトン夫人が嫌いだという理由だけであり、ウエストン氏はそれをよく知っているのだから、あらためて言い出すわけにもいかない。言えばウエストン氏を責めることになり、夫人を悲しませることになるだけだ。そこでエマは、本来ならばなにがなんでも避けたい組み合わせを承諾せざるを得なくなった。きっと、エルトン夫人のお仲間という汚名を着せられてしまう! これには大いに傷ついた。表面上は承知して我慢しても、内心では手に負えないほどひとのいいウエストン氏に厳しく罰金を課したい気分だった。
「わたしの一存でしたことに賛成してくれて嬉しいですよ」彼は満足そうに言った。「あなたならそう言ってくれると思ってました。こういう計画は人数が多いほどいいものです。何人いても多すぎることはない。多ければ多いほど楽しくなるものです。あのご婦人もそれほど悪いひとじゃない。仲間外れにしてはかわいそうだ」
エマはそのどれについても口に出して反対こそしなかったが、心の中ではそのどれについても賛成しなかった。
六月も半ばになり、絶好の気候だった。エルトン夫人は予定の日を早く決めたくてたまらず、ウエストン氏と鳩のパイや冷製の羊肉を持っていこうと相談したりしていたが、馬車用の馬が脚を怪我して、なにもかもおじゃんになってしまった。馬の脚が治るまでには数週間か、あるいは二、三日かわからなかったが、敢えて準備は行われず、悲しくも計画は滞ってしまった。エルトン夫人の心の楽しみとやらもこんな場合には役にたたないようだ。
「悔しくてたまらないわ、ナイトリー」夫人は叫んだ。「遠出にはもってこいのお天気なのに! なにもかも延期されたり、中断されたり、嫌になるわ。どうしたらいいのかしら。このまま何もしないでいるうちに、年がすぎていっちゃう。去年の今頃は、≪メイプル・グローヴ≫からキングス・ウエストンまでそりゃ楽しい遠出をしたものなのに」
「では≪ドンウェル≫へいらっしゃい」ナイトリー氏は答えた。「それならば馬がなくても来られますよ。こちらに来て、苺《いちご》を召し上がってはどうです。ちょうど熟れる頃だ」
ナイトリー氏はなんの気なしに言っただけかもしれないが、この誘いは大喜びで受けいれられ、「まあ! そういうの大好きですわ」という言葉と同じほど嬉しげな身振りをされては、実行しないわけにはいかなくなった。≪ドンウェル≫の苺畑は有名で、それは誘いの口実にぴったりだった。しかし実際のところ、口実などいらなかったのだ。夫人を招ぶなら、キャベツ畑だって喜んで来たことだろう。ただどこかへ出かけたいだけなのだから。夫人は何度も何度も、きっと行くからと約束し、疑いたくても疑えないほどしつこく繰り返した。そしてこの誘いを彼の親密さと特別な敬意の表れと考えて、たいそう喜んだ。
「わたしを信じてくださいませ」夫人は言った。「きっと伺いますわ。日を決めてくだされば、いつでも。ジェーン・フェアファクスを誘ってもいいでしょう?」
「日は決められません」彼は言った。「ほかにお誘いしようと思うひとたちの都合をきいてみるまでは」
「あら! わたしに任せてくださいな。白紙委任状をちょうだい。わたしが女主人役《レディー・パトロネス》なんですから。わたしのパーティーなのよ。お友だちを連れていくわ」
「エルトン君は連れてきてください」と彼。「そのほかのひとを招待するのに、あなたにお手間はかけませんよ」
「まあ! なんだか秘密めかしちゃって。でもお考えになって。わたしに権限を任せてくれても大丈夫なのよ。勝手気ままな若い娘ではありませんもの。結婚した女性には安心して任せていいのよ。わたしのパーティなんですから、すべてさせてちょうだいな。お客はわたしが招びましょう」
「だめです」彼は穏やかに答えた。「気に入ったひとを≪ドンウェル≫に招待できる権限を持つただひとりの既婚女性は――」
「ウエストン夫人ね」悔しそうに、エルトン夫人が遮った。
「いえ、ナイトリー夫人ですよ。そんなひとが出てくるまでは、一切をぼくが取り仕切ります」
「まあ! あなたっておもしろいひと!」夫人は叫んだが、自分より優先するひとがいないと知って満足だった。「あなたって、冗談がお上手ね。好きなだけおっしゃればいいわ。本当におもしろいひと。じゃあ、ジェーンを連れていきますわね、それと伯母さんを。あとのひとはお任せしますわ。≪ハートフィールド≫のひとたちを招ばれたってちっともかまいませんのよ。遠慮なんかしないで。あのひとたちと仲がよろしいのは存じてますもの」
「あの方たちを説得さえできれば、来ていただくことになるでしょう。ミス・ベイツは帰りにぼくが招待します」
「そんな必要はないわ。ジェーンには毎日会ってるんだから。でもそうしたいならどうぞ。出かけるのは朝がいいわ、ねえ、ナイトリー。簡素にいきましょう。大きなボンネットをかぶって、バスケットをさげて行くつもりよ。ほら、このバスケットにピンクのリボンをつけて。こんな簡素なものってないわね。ジェーンも同じようなものを持っているわ。形式ばったことや、派手なのはなし。ジプシーの集団みたいに。あなたのところの庭園を散歩して、苺を摘んで、木陰に坐るの。他に準備なさりたいことがあっても、みんな戸外でということにしましょうよ。木陰にテーブルを置いてね。なんでもできるだけ自然で簡素に。あなたもそうお考えでしょ?」
「いいえ。ぼくの考える自然で簡素というのは、食堂にテーブルを置くことです。紳士、淑女にとっての自然で簡素なことというのは、召し使いがいて家具にかこまれて、室内で食事をとってこそ、感じられるものです。庭で苺を食べるのに飽きたら、家の中で冷製の肉料理を食べましょう」
「では、どうぞお好きに。ただあまり気張らないでくださいね。ところで、わたしやうちの家政婦の意見は必要ではありませんこと? 正直におっしゃっていいのよ、ナイトリー。ホッジス夫人に何か言いつけたいことがあったら、それとききたいことがあれば――」
「まったくその必要はありません、ありがとう」
「あらそう、でもうちの家政婦は賢いから、何か困ったことがあればきいてちょうだい」
「それについては、うちの家政婦も聡明ですから自分で考えられますし、ひとの助けなどはねつけることでしょう」
「ロバがあればいいのだけど。みんなでロバで行ったら楽しそう、ジェーンとミス・ベイツとわたしがロバに乗って、わたしの|愛しの夫《カーロ・スポッソ》がお供でそばを歩いていくの。ロバを買ってちょうだいと言わなくちゃ。田舎暮らしではロバは必要といってもいいわ。心の楽しみの少ない女性なら、いつも屋内に閉じこもっているのは我慢できないでしょう。なのにちょっと長く歩くと、ねえ、夏は土ぼこり、冬は泥んこですもの」
「≪ドンウェル≫とハイベリーの間に関しては、その心配はありませんよ、≪ドンウェル≫に来る道は土ぼこりもありませんし、今頃の季節はよく乾いています。だがそうしたければ、ロバでいらしたっていいんですよ。コール夫人のを借りればいい。できる限り、あなたの趣味に合うようになさることを望みます」
「あなたならきっとそうでしょうね。本当に、わたしあなたのことをちゃんとわかっていますわ。そんなふうに言葉つきは風変わりで、つれなく愛想もないけれど、根はとってもおやさしいのはわかっているの。E氏にも言うんだけど、あなたは本当によく出来た方だわ。ナイトリー、この計画を思いついたのはわたしを気遣ってのことだというのもよくわかっているのよ。まさにわたしの喜ぶような事をよくぞ考えてくださいました」
ナイトリー氏が木陰にテーブルを置くのをやめた理由はほかにあった。エマと一緒にウッドハウス氏もパーティーに参加するよう説得しようと思っていたのだ。となれば、外に座って食事をしようものなら、ウッドハウス氏の機嫌をそこねてしまうだろう。朝の馬車乗りだとか、≪ドンウェル≫で二、三時間過ごすだけだとか、そういう見せかけの口実でウッドハウス氏を誘っておいて、ひどい目にあわせたりしてはいけない。
ウッドハウス氏は誠実な気持ちで招待された。たやすく信用したからといって、その不注意が悔やまれるような危険はどこにも潜んではいなかった。彼は承知した。かれこれ二年も≪ドンウェル≫を訪れていない。「まことに天気の良い日に、わたしとエマとハリエットとで、出かけることができたらば、どんなに楽しいことだろうね。わたしがウエストン夫人と腰かけて話している間、娘たちは庭園を散歩するといい。昼なら、まさか湿気があるはずもない。あの旧い屋敷をぜひともまた見てみたいものだし、エルトン君夫妻や近隣のひとたちにも会えるとは嬉しいことだ。よく晴れた日に、わたしとエマとハリエットとでそちらへ伺うことに何の不都合もありませんよ。ナイトリー君、よくぞ招待をしてくれました。お心遣いに感謝いたします。室内での食事を決められたのはまことに賢明でした。戸外での食事はあまり賛成できませんからね」
幸運なことにナイトリー氏の招待はだれからも喜ばれた。あまりにもみんなが快く招待を受けるもので、エルトン夫人だけでなく、だれもがそれぞれに、今回のパーティーは自分に敬意を表したものと受け取っているのかと思えるほどだった。エマとハリエットも、とても楽しみにしていると、はっきり口にした。ウエストン氏は頼まれもしないのに、できる限りフランクも来させるようにすると約束をした。別に招んでくれなくてもかまわなかったが、それがウエストン氏なりの賛成と感謝の印なのだ。そこでナイトリー氏はフランクに会うのを楽しみにしていると言わなければならなかった。ウエストン氏は今すぐにでも手紙を書いて、息子に来るように説得しようと約束した。
そうするうちにも、脚を怪我した馬はまたたく間に回復し、ボックス・ヒルへ行く計画も話題にのぼるようになった。そこでとうとう、≪ドンウェル≫に行った次の日に、ボックス・ヒルへ行こうということになった。
ほぼ夏至に近いある美しく晴れた昼、ウッドハウス氏は馬車で無事運ばれ、窓をひとつだけ開けて外にいるひとたちと楽しみを分かち合った。修道院《アビー》屋敷では一番快適な部屋が彼のために用意され、ウッドハウス氏は一日じゅう燃えている暖炉のそばに落ち着いて、ゆったりとくつろぎ、ここまで来られたことを嬉しそうに語ってきかせたり、だれかれとなくここへ来て一緒に座りましょうとか、あまり火にあたりすぎないように、などと声を掛けていた。ウエストン夫人はわざと疲れてウッドハウス氏と座っていたくなるようにずっと歩いてやってきて、そばに残り、みんなが外へ遊びに出ている間も、辛抱強く心をこめて老人の話に耳をかたむけていた。
エマは以前こちらへ来てからずいぶんと経つので、父がくつろいでいるのを見届けるといそいそと部屋を後にして周囲を散歩してまわり、自分と家族にかかわりの深い邸宅や敷地をもっとしっかり見たり、知ったりして、思い出をよみがえらせるのに夢中だった。
屋敷の現在の、あるいは将来の所有者であるひとと、自分の親しい関係を思ったときエマの心は誇りと満足感でいっぱいになった。威風堂々とした建物は大きさや様式、そのほかすべてがいかにも優雅で、低く周囲を丘に囲まれたその地の自然を生かした場所に建てられていた。広大な庭が草原へと続き、そこには小川が流れていたが、その流れは展望を無視した旧い修道院の建築様式のため見えなかった。そしてたくさんの樹々がそびえる並木道は、時々の流行や贅沢さをもってしても、取り去ることのできなかったものだった。建物は≪ハートフィールド≫よりも大きく、様式もまったく異なり、敷地を広く取って、方々に無規則に広がって建てられ、快適な部屋がたくさんあり、一棟にひとつかふたつの立派な部屋が備わっていた。屋敷はまさしく理想の姿そのままにそこにあった。エマは、このような真の家柄の良さと、染みひとつない血統と知性とを備えた人々の住まいに対して、ますます尊敬の念を深めた。ジョン・ナイトリーは少々気難しいところもある。でもイザベラとは非の打ちどころのない組み合わせだ。彼女がこの一家や、家名や、屋敷にとって恥をもたらすようなことはなにひとつなかった。
こういうことを考えるのは心がはずむことで、エマはさらに歩きまわりながらそんな思いに耽っていたが、やがてみんなと同じように苺畑に集まらなければならなかった。全員が顔をそろえていたが、フランク・チャーチルだけはまだ到着せず、みんなが彼のリッチモンドからの到着を待っていた。エルトン夫人は大きなボンネットとバスケットという楽しげな小道具をあれこれと身につけて、集団の先頭に立って招いたり話したりするのに忙しそうだった。苺、苺、そればかりが話題と関心の的だった。「英国で一番おいしい果物ね、だれもが好きだし、健康にもいいわ。立派な畑に立派な品種。自分で摘むのって楽しいわ。こうして食べるのが本当においしいのよ。断然、朝がいいわ。ちっとも疲れないもの。どの品種もおいしいわね。オーボエ種が一番かしらね。ほかに並ぶものがないくらい。ほかのものは食べられないほどよ。オーボエ種は珍しいの。チリ種も好まれるわ。ホワイト・ウッド種は香りがいいの。ロンドンでの苺の値段はね――ブリストルは苺がたくさんあるわ――≪メイプル・グローヴ≫では――苺の栽培法はね――畑を新しくするには、農夫たちそれぞれが本当に違った意見を持っていて、これといった法則はないようね。農夫は自分のやり方を絶対に譲らないのよ。おいしい果物ね。ただ高くてたくさんは食べられないけど、さくらんぼには負けるわ。スグリもすっきりしていい味よ。苺摘みの嫌な点はかがまなきゃならないことだわ。陽射しがぎらぎらして、死ぬほどくたびれたわ。もう一刻も我慢できない。木陰に行って座りたい」
半時間ほどのおしゃべりはこんな調子で、ただ一度、ウエストン夫人が外に出てきて、義理の息子が来たかどうかをたずねたときだけやんだ。ウエストン夫人は落ち着かない様子で、息子の馬のことを心配していた。
木陰のちょうどいいところに場所が見つかった。ここでもエマは、エルトン夫人がジェーン・フェアファクスにまくしたてるおしゃべりを聞かされなければならなかった。最高に望ましい就職口とやらが話題にのぼっていた。その朝、エルトン夫人はその知らせを受取り、有頂天になっていた。それはサックリング夫妻のところでも、ブラッグ夫人のところでもなかったが、幸運さと立派さではひけを取らないところだという。なんでもブラッグ夫人の親戚で、サックリング夫人とも知り合いの、≪メイプル・グローヴ≫とつきあいのある夫人らしい。陽気で魅力的で素晴らしいひとたちで、一流で、身分も家柄も地位も文句ないのだそうだ。エルトン夫人はすぐにもその申し出に答えるよう熱心にすすめていた。夫人は興奮して力にあふれ、勝ち誇ってさえいた。友だちの辞退の言葉などには耳を貸さず、ミス・フェアファクスがどんなに当分の間はなにもするつもりはありませんと断っても、最初にまくしたてた弁舌をふたたび繰り返すだけだった。
エルトン夫人はまだしつこく、明日の便で同意の返事を書いてあげるからと言い張っている。どうしてジェーンはあんなことに我慢できるのかしらと、エマはただ驚いていた。ジェーンは困った様子で、きつい言葉を返したりしていたが、ついにいつになく決然と、場所を変えようと提案した。「散歩いたしません? ナイトリー様にお庭を案内していただけないかしら。どこからどこまで、見てまわりたいわ」とうとう友人のしつこさに堪忍袋の緒を切らしたとみえる。
暑い日になった。みんなは敷地のあちこちに散らばって、二、三人にかたまって歩いていたが、いつのまにか自然と互いの後に続いて、シナノキがたっぷりした木影を落とす短いが幅の広い小道をたどっていた。この道は庭園を越えて小川のほうに同じくらいの距離だけ続いていて、楽しかった散策の終着点といった感じだ。その先は何もなく、ただ高くそびえる柱が並ぶ石の低い塀があるだけだった。それは昔、建物の入り口に着いたことを示すために建てられたらしかったが、もともとそこには建物などなかった。こういう終着点の作り方には異論もあるだろうが、散策自体はとても楽しく、辺りの景色も素晴らしく美しかった。修道院屋敷は広々とした丘のふもと近くにあり、そこから先はしだいに傾斜が急になっていて、半マイルほど離れたところには濃い森におおわれた大きな土手が広がっている。そして修道院の水車農場《アビー・ミル》が、その土手に抱かれるようにして、最適の場所に建っていた。見渡す限り牧草地が続き、そばには川が美しい曲線を描いて流れている。
素晴らしい眺めだった。眼にも心にも染み入ってくるような眺めだ。鮮やかな陽射しのもとに、英国の緑地、英国の文化、英国の落ち着きが、威圧感を感じさせることなく輝いていた。
エマとウエストン氏は、この並木道のほうへみんなもまた集まってくるのを見た。そして、ナイトリー氏とハリエットがほかのひとたちとぽつんと離れてこちらのほうに向かって、ゆっくりと歩いてくるのも見えた。ナイトリーさんとハリエットが! 不思議な組み合わせだわ。しかしエマは嬉しかった。かつて彼は、ハリエットを友とすることにいい顔をせず、無愛想に背を向けてしまった時期もあったのだ。今のふたりは、話がはずんでいる様子だ。エマもまた、修道院の水車農場《アビー・ミル》がこんなに美しく見える場所のあたりまでハリエットが来ているのを見たら、さぞかし心配したろうと思われる時期もあった。でも今ではそんな思いも消え、その農場が、豊かで美しい景色、瑞々しい牧場と大きな家畜の群れ、花ざかりの果樹園、まっすぐに立ち上ぼる煙突の煙りなどに彩られているのを、安心して眺めていられる。石壁のところで、エマはふたりと合流し、ふたりが景色を見るよりも話に夢中なことを知った。ナイトリー氏はハリエットに農業のやり方を講義していて、エマには彼の微笑みをこのように読み取った。「ぼくが関心をもっていることは農業です。ロバート・マーティンのことをおくびにも出さなければ、こういう話をしたってかまわないでしょう」と。エマは彼を疑いはしなかった。もう昔の話だ。ロバート・マーティンのほうだって、ハリエットのことなど忘れているだろう。散歩の途中、三人は何度か道を曲がった。木陰は実に涼しく、一日のうちの一番いい時刻だとエマは思った。
やがて館に場所を移した。みんな、中へ入って食事をとらなければならない。全員席について食べるのに忙しかったが、フランクはまだ姿を見せていなかった。ウエストン夫人が何度も何度も表をうかがいにいった。父親のほうは心配な様子を見せようとはせず、妻の不安を笑い飛ばしていた。でも夫人は息子があの黒い牝馬を手放してくれたらという願いを、捨て去ることができなかった。フランクはいつもにまして自信たっぷりに来ると約束していたのだ。
「伯母さんの具合がとてもいいので、必ず行けると思いますよ」と。けれどもみんなが言うように、チャーチル夫人の容態というのはいつだって急変するので、甥のどんな道理にかなった約束も反古にされてしまうことがある。そこでウエストン夫人はようやく、少なくとも息子が来られないのはチャーチル夫人の妨害にあっているせいだと思うことにして、そう口にしたりもした。エマはそのことが話題になっている間、ハリエットの様子を見ていたが、彼女は実に落ち着いていて、なんの感情も表さなかった。
冷製の料理が終り、一同はまだ見ていなかった景色を見に再び外に出た。古い修道院の養魚池と、明日にも刈られることになっているクローバーの草地に、すなわち暑いところに行った後は涼しいところへ行って楽しむという順番で回ることにした。ウッドハウス氏は川からの湿気もよもやここまで上がってはこまいという庭園の小高い辺りをちょっと散歩してきたので、もう挺子でも動こうとはしなかった。ウエストン夫人が夫と散歩をして気晴らしができるようにとの心遣いから、今度は娘が残ることになった。
ナイトリー氏はウッドハウス氏が楽しめるようにあらゆる手を尽くしていた。銅版画の画集や、メダルやカメオや珊瑚、貝殻などの詰まった引き出しや、棚の中のコレクションの品を並べて、老いたる友が退屈しないで過ごせるよう気配りがされていた。その心遣いはじゅうぶんに報いられ、ウッドハウス氏はとても喜んだ。すでにウエストン夫人が丁寧にひとつひとつ手に取って見せてくれたのだが、今度は彼がエマに見せようとした。見る物の価値がまったくわからないという点では子供と同じだったが、幸いにも彼はゆっくりとした、根気のよい、きちょうめんさを持ち合わせていた。二度目にまた全部の説明がはじまる前に、エマはホールへ逃げ出して、ほんの少しの間、自由に家の玄関や間取りを見てまわることにした。その矢先、外から人目を忍ぶようにして急いで入ってくるジェーン・フェアファクスと鉢合わせた。ミス・ウッドハウスとこんなにすぐ会うとは思っていなかったので、初めはびくっとしたようだったが、彼女が探していたのはまさしくエマだった。
「どうぞお願いです」ジェーンは言った。「だれかがわたしを探していたら、家に帰ったとおっしゃってくださいませんか。これで失礼します。伯母はどんなに遅くなっているか、どんなに長い時間留守にしてしまったか、気づいてないんです。でもきっと家で用事があるはずですから、すぐに帰ろうと思います。このことはだれにも言わないでください。みなさんをがっかりさせて悲しませるだけですから。池へいらした方もいるし、並木のほうへいらした方もいるようで、みなさんがここに戻るまで、わたしがいなくなったことは気づかないでしょう。だれかがわたしを探したら、もう帰ったとおっしゃってくださいませ」
「ええ、そうお望みなら。でもハイベリーまでひとりきりで歩いて帰るおつもり?」
「ええ、何も心配はいりません。わたしは歩くのが速いですから、二十分もあればつきます」
「でも遠すぎるわ。ひとりで歩いて帰るなんてだめよ。父の召し使いをお供につけましょう、馬車を呼ぶわ。五分で来ますからね」
「ありがとうございます、でも本当に大丈夫です。歩きたいんです。このわたしがひとり歩きを怖がってはいられませんわ、もうじき人様のお世話をする身ですもの!」
ジェーンはたいそう興奮していた。エマは心をこめて答えた。「だからといって、あなたを危険な目にみすみすあわせるわけにいかないわ。馬車を呼びます。暑さだって大敵よ。あなたはそれでなくてもお疲れのようですし」
「わたし」ジェーンは言った。「わたしは疲れています。でもおっしゃるような疲れじゃないんです。きびきびと歩けば気分も晴れますわ。ミス・ウッドハウス、ときには心が疲れることもあるのをご存じですわね。わたしの心は、もう疲れ果てています。やさしいお気遣いはとても嬉しいけれど、どうぞひとりで帰らせてください、そしてだれかにきかれたらわたしは帰ったとおっしゃってください」
エマはそれ以上何も言えなかった。すべてをわかってあげることができた。ジェーンの気持ちを理解し、すぐにも出ていくことを促して、熱い友情をこめたまなざしで送り出した。出ていくときのジェーンの瞳は感謝に輝いていた。そして別れ際にこう言った。「ああ! ミス・ウッドハウス、たまにひとりきりになるって嬉しいことですね」それはジェーンの疲れきった心からほとばしった思いであり、たとえ、だれより愛してくれるひとに対してすら、ずっと堪え忍ばなければならないことへの辛さを垣間見せたような気がした。
「あんなお家で、あの伯母さんではね!」エマはつぶやいて、広間へ戻った。「気持ちはわかるわ。あのひとたちにはうんざりだと、もっとはっきり言ってくれたら、あなたをもっと好きになれるのに」
ジェーンが帰って十五分たつかたたないうちに、そしてエマと父がヴェニスの聖マルコ広場の風景を見終わったとき、フランク・チャーチルが部屋に入ってきた。エマは彼のことはまったく念頭になく、すっかり忘れていた。けれども会えばやはり嬉しい。これでウエストン夫人も安心するだろう。黒い牝馬に非はなかった。遅れた原因はチャーチル夫人だろうと推察したのは正しかった。急に病状が悪くなって引き止められていたのだ。神経性の発作で、それが二、三時間ほど続いて、彼はついさっきまで来るのをほとんど諦めていたそうだ。馬で走ってくるのが、こんなに暑く時間がかかるものだと知っていれば、来なかっただろうに。ものすごく暑くてたまらない、こんなひどい暑さは初めてです、こんなことなら家にいればよかった、暑さほどまいるものはありません、寒いのは平気だけど、暑いのは我慢ならない、などと言ってウッドハウス氏のための暖炉に非難がましい視線を向け、できるだけ離れた場所に腰を下ろした。
「じっと座っていれば、じきに涼しくなるわよ」エマは言った。
「涼しくなったらすぐに帰ります。もう時間がない。こんな場所までぼくに来いと言うなんて。あなたたちも、もうすぐ出発なさるんでしょう。もうお開きですよね。ひとり、来る途中で会いました。こんな天気の日に気違い沙汰だ。どうかしてるよ!」
エマは話を聞きながら見ていたが、フランク・チャーチルの状態は、機嫌をそこねたという言葉がぴったりくると思った。暑いときに機嫌を悪くするひとはわりと多い。彼もそういう質《たち》なのだろう。一時的な不機嫌の発作なら、ちょっと食べたり飲んだりしているうちにおさまるのはわかっていたので、エマは彼に食事をすすめた。食堂にはなにもかも豊富に取りそろえてあるからと、エマは入り口を指し示した。
「いや、何も食べたくない。お腹は空いてないんです。余計に暑くなるだけだ」ところが二分もすると、気分がやわらいだのか、自分から食べる気になったようだ。スプルース・ビールがどうのと言いながら、歩いていった。エマはまた父の世話に心を傾けながら、心の中でこう思った。
「彼を好きになるのをやめてよかったわ。暑いからってすぐに機嫌をそこねるような男のひとは嫌ね。やさしくておっとりしたハリエットなら、それも許せるでしょうけど」
彼はずいぶん長いこと心ゆくまで食事をしたらしく、戻ってきたときはかなり機嫌を直していた。とても涼しくなって、いつもの彼らしく行儀の良いしぐさで椅子を引き寄せ、エマと父が眺めているものに興味を示し、こんなに遅れて申し訳ありませんと、礼儀正しく詫びた。まだ最高潮というわけではなかったが、気分をもちなおそうとつとめ、やがて自分から楽しげに冗談などを言ったりするようになった。エマたちはスイスの景色を眺めていた。
「伯母の病気が良くなったらすぐに、ぼくは外国へ行くつもりです」彼は言った。
「こんな風景の場所を実際に見るまでは、どうも気が晴れそうもないですから。そのうちいつかぼくの描いたスケッチをお見せしましょう、あるいは旅行記か、詩を。なにか自己を表現することをしたいのです」
「それはいいわね、でもスケッチならなにもスイスまで行かなくてもいいじゃないの。スイスへなど行けっこないわ。伯父さまと伯母さまが外国なんかへ行かせてくれるはずはないもの」
「説得してみせますよ。暖かい気候は身体にいいと伯母に言うんです。全員で外国へ行くことだって夢じゃない。これは本当ですよ。ぼくは今朝、強く思ったんです、絶対に外国へ行こうってね。旅行をすべきなんです。なにをするにも飽きてしまった。変化が欲しいんです。ぼくは真面目ですよ、ミス・ウッドハウス、あなたの鋭い目がなにを見抜こうとね。もう英国は飽き飽きだ。できることなら、明日にでも出発したいくらいですよ」
「あなたは裕福さや甘やかされることが嫌になったのよ。だったら苦しい道を選んで、英国にとどまることにしたらどう?」
「ぼくが裕福さと甘やかされることに飽きたですって? それは違う。ぼくは裕福でも、甘やかされてもいませんよ。本当にしたいことなんて、なにひとつさせてもらえないんだ。ぼくは自分が恵まれているとは思えませんね」
「さっき来たときよりは、いくらか元気になったみたいね。あちらでもう少し、食べたり飲んだりしていらしたら? もっと元気になるわ。冷製のお肉料理をもうひと切れ食べて、マディラ・ワインをもう一杯にお水を飲めば、わたしたちと同じくらいにくつろぐことができると思うわ」
「いいや、もう動きませんよ。あなたのそばにいたい。あなたはぼくの特効薬だ」
「明日、みんなでボックス・ヒルへ行くつもりですの。あなたもいらっしゃいよ。スイスとはいかないまでも、あなたみたいに変化を求める若者にはちょうどいいんじゃないかしら。今日はこちらに泊まって、明日ご一緒しない?」
「いいえ、それはできません。夕方、涼しくなったら帰ります」
「いや、来ても仕方ないでしょう。来ればまた機嫌が悪くなる」
「じゃあ、リッチモンドにいたらいいわ」
「でもそうするともっと機嫌が悪くなるでしょう。あなたたちみんなが出かけて、ぼくだけ置いてけぼりは嫌だ」
「それは自分でなんとかしなきゃならない問題ね。どっちが気分がいいか、お決めなさいよ。もうすすめないわ」
ほかのひとたちが戻ってきて、じきに全員がそろった。フランク・チャーチルを見て大喜びしたひともいれば、冷めた面持ちで迎えるひともあった。だがミス・フェアファクスが帰ったと聞かされたときは、一同そろって無念の声をもらした。だれもが帰る時刻だったので、話はそれで終った。最後に明日の計画のことを手短に決めて、みんな別れた。フランクの仲間はずれになりたくないという気持ちはしだいに強まり、最後にとうとうエマに言った。
「あなたがどうしてもとおっしゃるなら、ぼくもこちらに泊まって、明日ご一緒しましょう。きっと行きます」
エマはにっこりと笑って承知した。というわけでリッチモンドからの呼び出しさえなければ、彼は明日の晩までこちらにとどまることになった。
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第四十三章
ボックス・ヒル行きの日は素晴らしい晴天に恵まれた。馬車の手配も速やかで、人々の都合も合い、約束の時間も守られ、外面上の条件は行楽を楽しくするのに最適だった。ウエストン氏がすべて取り仕切り、≪ハートフィールド≫と牧師館との仲裁をうまくつとめ、全員が時間通りに集まった。エマはハリエットと一緒に行った。ミス・ベイツと姪はエルトン夫妻に同乗した。男性たちは馬で行くことになった。ウエストン夫人はウッドハウス氏のもとに残った。向こうに着いてただひとつ欠けていたのは楽しいという気分だった。七マイルの距離を楽しく過ごせることを期待して旅し、到着したばかりのときはだれもが感嘆したのだが、その日全体として見ると、何か足りない感じがした。なんとなく退屈で、活気にとぼしく、みんなの気持ちがばらばらで、それはどうすることもできなかった。グループがはっきりといくつかに分かれてしまっていた。エルトン夫妻はいつも一緒。ナイトリー氏はミス・ベイツとジェーンにかかりきり。エマとハリエットはフランクにくっついていた。ウエストン氏ひとりが、空しくも、みんなの気持ちをつなごうと努力していた。初めは偶然そんなふうに分かれたように思えたが、それが実際ずっと続いた。エルトン夫妻はみんなと交わることにやぶさかではない様子で、できるだけ愛想良くはしていた。だが丘の上で過ごした二時間ばかりの間は、グループ同士に分裂の原則が出来上がり、それを取り払うには、美しい景色も、冷製の軽食も、ウエストン氏の陽気さも、まるで効きめがなかった。
初めのうち、エマはとても退屈でたまらなかった。こんなにぼけっと黙りこんでいるフランクは初めてだ。聞きたいようなことは何も言わず、景色を見るでもなく、わけもなく感嘆の声をあげ、エマの言うことを聞いていながらちっとも理解していない。フランクがこんなにもぼんやりとしていれば、ハリエットも当然ぼんやりとして、エマにはまったくうんざりだった。
みんなが腰を下ろすと、いくらかましになった。フランクがおしゃべりで陽気になり、エマを相手にして話しだしたので、かなり気分が良くなった。特別の敬意はすべて彼女に対して払われた。エマを喜ばせ、エマに気に入られることだけに心をくだいているかのようだった。エマは元気づけられて気分を良くし、お世辞を言われてもそれほど気を悪くせずに、陽気にくつろぐようになり、友だちらしい励ましの言葉を多くかけ、ちやほやされることも気にかけなかった。それは最初にふたりが仲良くなった頃の積極的な感情と同じだった。今の彼女に言わせればそこにはなんの意味もないのだが、はたから見ているひとびとにしてみれば、ふたりのそういう状態は英語で言うところの「|恋の遊戯《フラテーション》」以外のなにものでもなかった。「フランク・チャーチル殿とミス・ウッドハウスは恋の遊戯でお熱いこと」というわけである。こんなふうにふたりが言われることは避けがたく、ある女性が≪メイプル・グローヴ≫へこのことを手紙で伝え、もうひとりの女性がアイルランドへ知らせるだろうことは明白だった。だがエマは心から楽しんで陽気に浮かれていたわけではなく、むしろ期待していたよりも楽しくなかったから、そうふるまっていたのだ。がっかりしていたからこそ、笑い声をあげた。
彼が気を配ってくれるのは嬉しかったし、友情や尊敬やふざけぶりについても、とても理知的だとは思ったが、ふたたび心が惹かれることはなかった。彼とは友だちとしてつきあうつもりでいた。
「あなたにはお礼の言いようもありません」フランクは言った。「今日、誘ってくださって。あなたがいなかったら、ぼくは今日のピクニックの楽しみを逃すところだった。あれからすぐに帰ろうと決めていたんですから」
「そう、あなたとってもご機嫌が悪かったわ。遅れてきておいしい苺を食べそこねたという以外に、原因はわからないけど。わたしは、あなたにはもったいないほどのいい友人よ。でもあなたは慎ましくしていたわね。来なさいと命令されたがっているみたいに」
「機嫌が悪かったなんて言わないでください。疲れていたんです。暑いのはだめなんだ」
「今日はもっと暑いわよ」
「ぼくはそう感じないな。今日はずっと気分がいい」
「あなたが気分がいいのは、従っているからよ」
「あなたの命令に? ええ、そうですとも」
「そう言うだろうと思ったけれど、わたしの言うのは自分自身の命令にってことよ。昨日はどういうわけか、自制を忘れて、その抑制から逃れていたわね。でも今日は、もとに戻ったみたい。いつもわたしがそばにいてあげるわけにはいかないから、わたしよりも自分の心の命令に気分を従わせるほうがいいと思うわ」
「結局、同じことですよ。ぼくは動機なくしては自己抑制のできない人間ですからね。あなたが命令してください、言葉でもなんでも。そしていつもそばにいてください。あなたとぼくはいつも一緒だ」
「昨日の三時に始まったのよ。それより前にはわたしの脅威なんて及んでいなかったはずよ、でなきゃあんなに機嫌が悪くなるとは思えないわ」
「昨日の三時ですか、それはあなたがそう言っているだけだ。ぼくが思うには、あなたにお会いしたのは二月だった」
「あらまあ、ご親切に頭が下がりますわ。でも(声を低めて)、わたしたち以外はだれもしゃべっていないわ、七人が黙っている前でくだらないことをしゃべるのは気づまりね」
「ぼくは恥ずかしいことは何も言ってませんよ」彼は辺りをはばからない声で勢いよく言った。「あなたに初めて会ったのは二月だ。丘じゅうのひとに聞いてもらいたい。ぼくの声が、端はミックルハムからドーキングに至るまで届けばいい。あなたと初めて会ったのは二月のことだ」そしてささやき声になって「ぼくらの連れたちはひどくぼんやりしてますね。どうしたら目を覚ましてやれるでしょう。ひとつ冗談でも言って、話してもらいましょう。みなさん方、ここにおられますミス・ウッドハウス、どこにいようと常に座の中心である方の命により申し上げます。ミス・ウッドハウスはみなさんがなにをお考えか、お知りになりたいそうです」
これには笑う者もあって、楽しげな答えも返ってきた。ミス・ベイツはとてもたくさんしゃべった。エルトン夫人はミス・ウッドハウスが座の中心と聞かされて、胸に怒りがこみあげてきた。ナイトリー氏の答えはすごくはっきりしていた。
「ミス・ウッドハウスは本当にわれわれがなにを考えているか、知りたいのかね?」
「まあ、いいえ、違います」エマは叫んで、できるだけさりげなく笑った。「そんなつもりはちっともありません。そういうことで責められるいわれなんて、これっぽっちもありませんわ。みなさんがお考えになっていることではなく、なんでもいいから聞かせてくださいな。全員とは言いません。おひとりかおふたりはいらっしゃるんじゃないかしら(ウエストン氏とハリエットのほうを見て)。聞かせていただいてもいい方が」
「そういうことは」エルトン夫人は断固とした口調で言った。「人にきいたりするものではないと思いますけど。パーティーの|付き添い役《シャペロン》として申しますが、これまでどんな集まりや、ピクニックでも、若い女性や結婚された婦人の集まりでも――」
夫人のつぶやきは主に夫に向けられていた。夫は小声で答えてやった。
「もっともだよ、お前。本当にその通りだ。まったく聞いたこともない。おかしなことを言う女性もいるものさ。そういうのは冗談として聞き流しておけばいいんだ。知ってるひとはだれでも、君に敬意を払うはずだからね」
「効きめがなかったみたいだ」フランクはエマにささやいた。「侮辱されたと思ってる。もっとうまい言葉で働きかけてみましょう。みなさん、ミス・ウッドハウスの命により申し上げます。みなさんがなにをお考えか知るという権限を同嬢はお捨てになられ、ふつうになにかおもしろいことをそれぞれおっしゃるようにとご所望です。ぼくをのぞいて七人います(ぼくはすでにおもしろいことを言って喜ばれたそうです)ので、機転のきいた散文なり詩なり、創作なり、おもしろいことならばひとつ、中くらいのものならふたつ、全然おもしろくないものなら三つ言っていただきましょう。ウッドハウス嬢はその全部を、心からお笑いになります」
「おやま、ちょうど良かった」ミス・ベイツが言った。「それなら難しくないですわ。『おもしろくないことを三つ』なら、わたしにぴったりですよ。わたしは口を開けばおもしろくないことを三つくらい、すぐにしゃべってしまいますものね(だれもが同意するものと信頼しきってひとがよさそうにみんなを見まわして)。みなさん、そうお思いでしょ」
エマはつい思ったことを口にした。
「あら、でもきっとそれは難しいですわ。ごめんなさい、数に制限があるんですの。たった三つだけなんですよ」
ミス・ベイツはエマの丁寧な言葉にだまされて、すぐにはその意味がわからなかった。だがそれがわかったときも、怒ったりせずに傷つけられた証拠にわずかに赤面しただけだった。
「まあ、ええ、そうですとも。おっしゃる意味がわかりました(ナイトリー氏に向かって)。これからは口をつぐんでおくことにしましょう。わたしの申したことがひどく不愉快だったに違いありません、でなければ昔からの友だちにあんなことをおっしゃるはずがありませんもの」
「わたしは気に入ったよ」ウエストン氏が叫んだ。「うん、実にいい考えだね。よし、ひとつ捻《ひね》り出してみよう。謎なぞだよ。謎なぞの得点はどのくらいかな?」
「低いですね、父上、とても低い」息子が答えた。「でも大目に見てあげましょう。最初に考え出すのですから」
「いいえ、いいえ」エマは言った。「低くなんて評価しません。ウエストンさんの謎なぞで、ご本人とお隣の方の責任は果たされますわ。さあ、どうぞ、聞かせてください」
「気がきいているかどうかは、わからんが」ウエストン氏は言った。「当たり前すぎるもので。完璧を表すふたつのアルファベットの文字はなんだろう?」
「ふたつの文字! 完璧を表す。さっぱりわからない」
「おや! 見当もつかんようだなエム・ア。エマ。あなたも(エマに向かって)わからないだろうね。では教えてあげよう。MとAさ。エム・ア。エマ。わかったかな」
納得と喜びの声が同時に上がった。それはたしかにひどくまずい洒落ではあったが、エマはとてもおもしろいと感じて、大笑いした。フランクとハリエットも笑った。残りの人たちにはそう感じられなかったらしい。つまらなさそうな顔をする者もいて、ナイトリー氏は無愛想に言った。
「求められている機転のきくことというのは、そういうことですか。ウエストンさんの役目は果たされたわけですが、あとのひとたちはどうも出鼻を挫かれてしまったようですね。完璧などという言葉は、最初に持ってくるべきではなかった」
「あら、わたしでしたらどうぞご勘弁を!」エルトン夫人が言った。「わたしにはできません。こういうことは好きじゃありませんの。いつだったか、わたし宛にアクロスティック(注・頭文字を組み合わせて読む遊戯詩)が送られてきたことがあったけど、ひどいものだったわ。だれが書いたのかは知ってました。嫌な感じのひよっ子でしたわ。あなた、ご存じよね(夫のほうにうなずく)。こういうことはクリスマスに暖炉のまわりに座ってするのなら楽しいけれど、夏に田舎にピクニックに来てするのは場違いだと思うわ。ミス・ウッドハウスはお許しくださるでしょうね。わたしはだれにでも頓智をふりまけるような人間ではありませんから。無理して頭のよいふりなんかしませんわ。わたしは自分でもはしゃいだりすることはありますけれど、話すべきときと口をつぐむべきときとは心得ているつもりです。どうぞ、わたしたちは飛ばしてください、チャーチル様。E氏とナイトリーとジェーンとわたしは、抜かしてください。機転のきくことなんて、言い慣れておりませんから。みんなそうです」
「そうです、そうです、ぼくも飛ばしてください」夫はわざと皮肉っぽく付け足した。「ぼくはミス・ウッドハウスやほかの女性を、喜ばせるようなことは言えません。所帯持ちの中年男は、なんの役にもたたない存在です。少し歩こうか、オーガスタ」
「ええ、喜んで。同じ場所にあんまり長いことうろうろしていて、飽き飽きしていたところよ。ジェーンもいらっしゃいな、さあ、腕を組みましょ」
だがジェーンはそれを断り、夫妻は立ち去った。「幸せな夫婦だ!」フランクはふたりが聞こえないところまで行くと、言った。「なんて似合いなんだろう。運が良かったんだな。ひとの集まるところで出会っただけで結婚したわりには。バースでたった二週間つきあっただけなのに! すごくついてたんだ。相手の本当の性質を知るなんてことは、バースだってほかの場所だって、なかなかできないことですからね。なにひとつわかりっこないんだ。相手の女性が家庭にいて、家族と一緒にいるところで、普段のように過ごしていてこそ、本当に正しくそのひとを見ることができるんだ。そうでなければ、推測と運に頼るしかない。それでたいてい、悪いくじを引くもんです。短い逢瀬で女性を選びそこね、残る生涯を後悔しながら生きている男性がどんなにたくさんいることか!」
ミス・フェアファクスはそれまで、親しい者を除いてめったに口をきかなかったが、そのときこう言った。
「そういうことは、たしかにあります」そこで咳が出て、話がとぎれた。フランクは彼女のほうを向いて、聞く姿勢になった。
「今なにかおっしゃいましたね」彼はあらたまって言った。ジェーンは声を取り戻した。
「わたしはただ、こう言おうとしたんです。そういう類いの不幸な状態は、男性にも女性にも起こりますけれど、それほどしょっちゅうではないと思います。あわただしく軽はずみな恋というのはよくあるでしょう、でも普通はそのあとで時間が解決してくれるものです。気が弱くて、優柔不断なひとだけが(そういう人間の幸福は運に左右されるのですが)、不運な出会いをして生涯辛くみじめな生き方をするのだと、わたしは思います」
彼は黙っていた。ただ彼女を見つめ、おとなしくうなずいた。その後ですぐ、元気な調子で話しだした。
「ぼくは自分にまったく自信がないので、結婚するときにはだれかにお嫁さんを選んでもらいたいなあ。選んでくれませんか? (とエマに向かって)ぼくのお嫁さんを決めてくれますか? あなたの決めてくれたひとならば文句はありませんよ。なにせぼくに家庭を作ってくれたんだから(父親のほうを見て)。だれかいいひとを見つけてください。急ぐつもりはありません。そのひとをそばにおいて、教育してあげてください」
「そしてわたしのようにしてしまうのね?」
「ぜひ、そう願いたいものです」
「わかりました。任務を承りましょう。きっと可愛いお嫁さんをもらえるわ」
「その女性ははつらつとしたひとで、はしばみ色の瞳がいいですね。それ以外は注文はつけません。ぼくは二、三年ほど外国へ行くつもりです。戻ってきたら、妻となるひとをあなたのところへ迎えにきますよ。覚えておいてくださいね」
エマがそれを忘れる心配などあるはずがなかった。まさしく好都合の役目だ。言われた特徴はハリエットに当てはまらないだろうか? はしばみ色の瞳ではないにしろ、二年もあれば彼女を彼の好みの女性に仕立て上げるにはじゅうぶんだ。フランクはハリエットのことを念頭に、ああ言ったんじゃないかしら。そうじゃないとだれが言えるだろう? 教育してあげてくれ、というのはそれを暗示しているみたいだが。
「ねえ、伯母さま」ジェーンは伯母に言った。「エルトン夫人にご一緒しませんか?」
「お前がそう言うなら、喜んで行きましょう。用意はできてますよ。さっき一緒に行こうと思っていたけれど、今からだっていいわ。すぐに追いつけるでしょう。あそこにいらっしゃるわ、おや、あれは違う。アイルランドの馬車できた一行だわ。まったくのひと違い。――あらあら、きっとあれが――」
ふたりは歩き去り、すぐにナイトリー氏があとを追った。ウエストン氏、フランク、エマ、ハリエットだけが残され、その後は、青年の話す調子はほとんど不愉快なまでに高まり、エマですら、お世辞や冗談にうんざりして、だれかと静かに散歩をするか、ひとりだけで座ってだれからもかまわれずに、静かに眼下に広がる景色を眺めていたかった。馬車の用意ができたことを知らせようと召し使いが探しにくるのを見て、エマは嬉しかった。荷物をまとめ、帰り支度をしているとき、エルトン夫人が自分の馬車を一番に出したくてやきもきしているのを見ても、本当に楽しかったかどうか疑わしい今日という日を終えて、静かに帰れるのだと思うと、かえって微笑ましいくらいだった。これほど組み合わせの悪いピクニックはもう二度とごめんだ。
馬車を待っていると、ナイトリー氏がそばに来た。彼は辺りにだれもいないことを確かめるように見廻してから、こう言った。
「エマ、もう一度、以前のようなことを言わせてもらう。許してもらうというよりは、我慢してもらうという権限を行使するわけだが、どうしても行使しないわけにはいかない。
君の悪い行いを、忠告せずにはいられないのでね。どうしてミス・ベイツにあんなひどいことを言ったんだい? あのような性質、年齢、それにああいう境遇にいるひとに向かって、どうしてあれほど傲慢な冗談を言ったりするんだ。エマ、君がそんなことをするとは、信じられない」
エマは思い出して赤面し、反省もしたが、笑ってごまかそうとした。
「だって、言わずにいられなかったんですもの。たぶんだれもが同じことを思ったわ。そんなにひどいことじゃないと思うけど。きっと、わたしの言った意味はわからなかったんじゃないかしら」
「わかっていたとも。はっきりとね。あれからそのことを話していたんだ。どんなふうにあのひとが話していたか、聞かせてやりたいくらいだ。誠実で心の広いひとだ。自分はさぞうるさくて嫌だろうに、いつも君やお父上にはやさしくしてもらい、そういう気遣いをしてくれる君は寛大だとほめていたよ」
「まあ!」エマは叫んだ。「あんなに気のいいひとは、どこにもいないとは思うわ。でも、わかってくださるでしょうけど、あのひとには善良さと滑稽さが入り交じっているのよ」
「それはたしかだ」彼は言った。「わかっている。だが、もしあのひとが裕福なら、善良な部分よりも滑稽な面が表に出てきても、平気で見ていられるだろう。大金持ちの女性なら、罪のないおかしなこともいくらでも言わせておくし、それに対して君がどうふるまおうとぼくはなにも言わない。あのひとが君と同じ境遇にいるならね。だが、考えてごらん。現実はどれほどかけ離れていることか。あのひとは経済的にも苦しい。生まれた頃の裕福な身分からも落ちてしまっている。この先、もっと年を取ればさらに生活は苦しくなるだろう。あのひとの境遇は同情すべきものだ。本当にひどいことをしたね! あのひとは子供の頃から君を知っていて、あのひとに可愛がられるのが名誉だった頃から君の成長ぶりを見守ってきた。なのに、心ない考えやそのときの思い上がりで、あのひとを笑い、卑しめるとは。しかも姪ごさんやみんなのいる前で。あのなかの多くは(何人かは確実に)、君のあのひとに対するあしらいをまねることだろう。君にとって、こんなことを言われるのは不愉快だろうし、それはぼくにとっても同じだ。それでもぼくは言わなければならないし、言いもする。ぼくができるうちに、本当のことを君に告げてやりたい。君に忠実な助言をする友として身の証しを立て、いつかは君がぼくを今よりも正しく理解してくれることを願ってね」
話している間に、馬車のそばまで来ていた。馬車は出るばかりになっていて、エマが口を開く前に、彼がエマの手を取って乗せた。顔をそむけ、黙り込んでいたエマの気持ちを、彼は誤解していた。エマはただただ自分に腹をたて、自分が恥ずかしく、深く悩んでいたのだ。しゃべることさえできなかった。馬車に乗ると、しばらく打ちひしがれて座席に沈みこんでいたが、さよならも言わず、お礼も述べずにふくれたままで別れるのは失礼だと思い、気にしていないことを知らせようと声を出し、手を振りながら外を見たが、そのときはすでに手遅れだった。彼は行ってしまい、馬車は走りだしていた。しきりに後ろを振り返ったが、無駄だった。そしてまもなく、馬車はいつにない速さで丘を半分も下り、すべては遠く後ろに去っていってしまった。エマの心は、言葉で言いつくせないほどかき乱されていた。とても抑えていられないほどだった。こんなに動揺し、屈辱的で、悲しいのは生まれて初めてのことだ。とことん打ちのめされていた。彼の叱責した真実は否定のしようもない。それが深く胸をえぐった。ミス・ベイツに対して、どうしてあんなに残酷で、意地悪なことが言えたのだろう! 大切に思うひとからあれほど叱られるようなことを、どうしてしてしまったのか。お礼の言葉も、挨拶も、親愛の言葉も言わずに来てしまって、彼はどれほど失望したことだろう。
時間さえも慰めにはならなかった。考えれば考えるほど、一層後悔がつのってくる。これほど悲しみに沈んだことはない。幸い、話をする必要はなかった。そばにいるのはハリエットだけで、彼女も元気がなく、疲れていて、黙っていたいようだった。エマの頬には、家に帰り着くまでの間ずっと、涙がとめどもなく流れて落ちたが、彼女はそれを振り払おうともしなかった。
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第四十四章
ボックス・ヒルへの遠出で味わったみじめさは、ひと晩じゅうエマの頭をはなれなかった。ほかのひとたちがどう思ったかは知らない。今ごろはそれぞれの家で、それぞれのやりかたで、一日を楽しく振り返っているかもしれなかった。でもエマには、今日という日はこれまで過ごしてきたなかでもまったく無駄な、知的満足のかけらもない集い、思い出してもぞっとするような日としか思えなかった。それに比べたら、父親とひと晩じゅうバックギャモンをするほうがはるかに幸せと言える。そこには実際、二十四時間のうちで最も楽しい時間を犠牲にして父親を楽しませているという、本当の喜びがあるのだから。そして、父親の盲愛や信頼しきった評価は大げさだとしても、自分の日頃のふるまいからいって手厳しい非難を受けるいわれはないと感じられるからだ。娘として、思いやりに欠けることがないようにと願っている。だれからもこんなふうに言われたくない。「お父さんに対して、どうしてそんな残酷な仕打ちができるのだろう? どうしても言わせてもらうよ、ぼくはできるだけ、本当のことを言い続けるよ」ミス・ベイツに対して、二度とあんなことはすまい――そう、決して! これから親切にすることで過去を帳消しにできるなら、まだ許される見込みもある。いままでずいぶん不注意だったと、良心がそう言っている。現実にというより、心のなかで不注意だった。傲慢で無礼だった。でも、これからは違う。心からの後悔の気持ちをこめて、明日の朝さっそくミス・ベイツを訪ねよう。そうすることによってきっと、きちんとして対等な、心のこもった交際をわたしのほうから始める第一歩になるだろう。
翌朝になっても気持ちは変わらなかったので、エマはじゃまの入らないうちにと、早めに家を出た。途中でナイトリー氏とばったり出会ったり、訪問している最中に彼が現れたりする可能性もないとは言えない。それがいやなのではない。後悔していると見られても、正当で偽りのない気持ちであれば恥じることはないのだから。歩きながら、彼女の目は幾度も≪ドンウェル≫へ向けられたが、ナイトリー氏の姿は見えなかった。
「みなさま、おいでになります」そう聞いてうれしかったことなど、以前にはなかったことだ。いや以前は、玄関を入っても、階段を上っても、義理を施すという以外には喜ばせる気もなく、後々の笑いの種を見つける以外には楽しもうという気さえなかった。
近づいていくと、騒がしい気配がした。ばたばた動きまわる音とともに話し声が聞こえてくる。ミス・ベイツの声も聞こえた。なにやらあわてている様子だ。女中がおびえたような、ばつの悪そうな顔をした。少々お待ちいただけますかと言い、やがてエマを中へ通したが、それでも早すぎたようだ。伯母と姪が隣の部屋へ逃げるように入っていくのが目に入った。ジェーンの姿が、ちらっとだがはっきり見え、ひどく具合が悪そうだった。そしてドアが彼女たちの背後で閉まる前に、ミス・ベイツがこう言うのが聞こえた。「いいわ、ジェーン。あなたはベッドでふせってるって申し上げることにしましょう。具合が悪いのはほんとですからね」
いつも通り丁重でつつましやかなベイツ老夫人は、何が起きているのかよくわからないといった様子だ。
「ジェーンの気分がすぐれなくて相すみません」とベイツ夫人は言った。「でもよくわかりませんわ。娘は大丈夫だと申してますの。娘がすぐに参りましょう、ウッドハウスのお嬢様。どうぞお掛けくださいまし。ヘティがいるとよかったのですが。わたしでは大した役にもたちませんで。――お掛けになりました? お嬢様。そこでよろしゅうございますか? きっと娘がすぐに参りますから」
エマも心からそう願った。ミス・ベイツが自分を避けているのではないかと、一瞬疑っていたからだ。彼女はすぐに現れたがその「嬉しゅうございますわ」のなかに、エマの良心は、以前の陽気なおしゃべりとは違うものを感じた。顔にもそぶりにもいつもの気軽さがない。ミス・フェアファクスの具合をそれとなくたずねてみよう。そうすれば以前のような感覚を取り戻す糸口になるかもしれない。その手応えはたちまちあった。
「まあ、お嬢様、なんておやさしいんでしょう! お聞きになったんですわね――それで一緒に喜んでくださるおつもりで、いらしてくださったんですね。でも喜ぶどころではございませんの、わたしとしては、とてもとても。(まばたきをして涙を一粒二粒はらい落としながら)――ジェーンと別れるのは、わたしどもにはとても辛いことです。こんなに長く手元に置いたあとですもの。あの娘は今ひどく頭痛がしておりまして、今朝からずっと手紙を書いていたもので――それがとても長い手紙で、キャンベル大佐とディクスン夫人宛なんです。
『ねえジェーン』とわたし申しましたの、『あんた、目を悪くしてしまうわよ』って。ひっきりなしに泣いてるんですのよ。でも無理もありません。無理もありませんわ。がらっと変わってしまうんですもの。いくらあの娘が驚くほどの幸運に恵まれていると言いましても――そりゃあ、あんな勤め口は、初めて社会に出る若い娘にはめったにあるものではございませんが――わたしどもが、この幸運に感謝していないなどとは思わないでくださいましね、ウッドハウスのお嬢様。(もう一度涙をぬぐって)ああ、かわいそうなジェーン! あの娘がどんな頭痛に悩まされていることか、ご覧いただけたら。人間、たいそう苦しいときには、ありがたい神様のお恵みも、なかなか感じられないものですわ。あの娘はひどく落ち込んでいます。その様子を見れば、あのような職を得てさぞや満足だろうなんて、どなたにも申せませんでしょう。顔をださなくても、許してやってくださいましね――出てこられないんです――自分の部屋にこもってますの。ベッドに寝かせてやりたいんですけれど。『ジェーンや』とわたし申しましたの。『あんたはベッドでふせってるって申し上げることにしましょう』って。ああ、でも横になってはおりませんのよ。部屋をうろうろするばかりで。ですが、手紙も書き終えたことですし、じきに気分もよくなるだろうと申しています。お嬢様にお目にかかれなくて、きっと残念がっておりますわ。でもおやさしいお嬢様は、許してやってくださいますわね。ドアのところでお待ちになりましたでしょう――申し訳ないことをいたしました――何だかばたばたしてしまいまして。つまりこうなんですの、ノックの音が聞こえませんで、お嬢様が階段までいらして初めて、お客様だと気づいたわけでして。『コール夫人だわ、きっと』とわたしは申しました。『まちがいないわ、ほかにこんなに早くいらっしゃる方はいないもの』
『いずれ耐えなきゃならないなら、別に今でもいいんだわ』とジェーンが申しました。ところが、そこへパティーが入ってきて、あなた様だと言うじゃありませんか。『まあ!』とわたしは言いました。『ウッドハウスのお嬢様ですって。あなたもお目にかかるでしょう?』――ジェーンは、『だれにもお会いしたくないの』と言って立ち上がると、部屋を出て行こうとしました。お嬢様をお待たせしたのは、こういうわけでだったのです。本当に申し訳ありません、お恥ずかしいかぎりで。で、わたしはこう言ったんです。『どうしても行くというなら、お行きなさい。あんたはベッドにふせってるって申し上げることにしましょう』って」
エマはとても興味を引かれた。エマの気持ちは、このところジェーンに対してずっとやさしいものになってきていた。それでジェーンが現在陥っている苦悩にしても、以前エマが抱いていた偏屈な猜疑心を和らげる働きをして、ただただジェーンがかわいそうに思えた。そして自分が過去において、公正でも、やさしくもなかったことを思えば、ジェーンがコール夫人をはじめ忠実な友人には会おうとする反面、自分に会うのは耐えられないと考えるのも、至極もっともだと認めざるをえなかった。エマは思った通りのことを、本心からの同情と気づかいをこめて口にした――ミス・ベイツから聞いた状況が現実に決定されつつあるのであれば、それがミス・フェアファクスにとってできる限り有益で楽しいものになりますように、と。「でも皆さんにとっては、とてもお辛いでしょうね。ミス・フェアファクスもキャンベル大佐がお戻りになってから、と考えていらしたのでしょうから」
「まあ、なんてご親切なんでしょう!」ミス・ベイツが答えた。「お嬢様はほんとにいつもご親切でいらっしゃいますわ」
この「いつも」という言葉には耐えられないものがあった。それでミス・ベイツの長々しい感謝の弁をさえぎるためにも、エマは率直にこう切り出した。
「で、うかがってもよろしいかしら? ミス・フェアファクスはどちらへいらっしゃいますの?」
「スモールリッジ夫人とおっしゃる方のところへですわ――魅力的なご婦人で――たいそう上流で、そこで三人の小さいお嬢様にお教えするんです――感じのよいお子様たちだそうです。これ以上に恵まれたお話って、ちょっと望めないくらいですのよ。もちろんサックリング夫人のご家庭とブラッジ夫人のご家庭は別にしてですが。でもどちらのおうちとも親しくしてらっしゃるそうです。それにとてもご近所ですの――≪メイプル・グローヴ≫からたった四マイルのところにお住まいだそうで。ジェーンは≪メイプル・グローヴ≫からたった四マイルのところに行くんですの」
「ミス・フェアファクスにお話をもっていらしたのは、エルトン夫人なのでしょうね」
「はい、あのご立派なエルトン夫人ですの。本当にねばり強い、友のなかの友でいらっしゃいます。あの方にかかっては、どうしても断りきれません。ジェーンに『ノー』と言わせないんですから。と言いますのも、ジェーンが初めてこのお話をうかがったとき、(あれは一昨日、わたしどもが≪ドンウェル≫に行った朝のことでしたわ)、とにかくジェーンが初めてお話をうかがった時には、あの娘はこの申し出をお断りするつもりだったんでございます。理由は先ほどお嬢様がご指摘になった通り、ええ、まさにお言葉の通りですわ、キャンベル大佐がお戻りになるまではどんなお話もお受けすまいと心に決めていたからでした。その時点では、どんなにすすめられても契約を結ぶつもりはなかったんです。で、エルトン夫人にそのように何度も繰り返し申し上げました。わたしとしましても、よもやジェーンが心変わりしようとは、思いもしませんでした!――ところがご立派なエルトン夫人は、あの方の判断がまちがったためしはございません、わたしなどよりずっと先を見越しておいででした。あのようにご親切を貫き通すのは、そうだれにでもできることではありません。ジェーンの返事にまったく耳をお貸しにならなかったのです。昨日、ジェーンが望んでいるような断り状を書く気はさらさらない、いつまでも待つときっぱり宣言されました。そうしましたら昨日の夕方になって、ジェーンが行くことですっかりまとまってしまったんです。驚きましたとも! 寝耳に水でしたから! ジェーンはエルトン夫人をわきへ招いて、スモールリッジ夫人の好条件をよくよく考えた結果、お受けすることにしましたと、こう即座に申したのでございます。わたしは話がすっかりまとまるまで、一言も知らされておりませんでした」
「ゆうべはエルトン夫人のところでお過ごしになったんですか?」
「ええ、わたしどもみんなで。夫人が招んでくださったんです。あの丘の上で、わたしどもがナイトリー様と散歩しているときに、そんなふうに決まったんです。『あなたがた全員で、今夜うちに来ていただかなきゃ』とおっしゃいましてね。『ぜひともみなさんで来ていただきますよ』って」
「ではナイトリーさんもいらっしゃったんですね」
「いいえ、いらっしゃいませんでした。あの方は最初から断っておいででした。それでもエルトン夫人があの方だけ放免というわけにはいかないとおっしゃっていたものですから、わたしはてっきりいらっしゃると思っていたのですが、結局お見えになりませんでした。でもうちの母とジェーンとわたしの三人でおじゃまして、とても楽しい晩を過ごさせていただきました。ああいう親切なお友だちと一緒ですと、ウッドハウスのお嬢様、いつもなにかしら楽しいことがあるものですわね。とはいえ昼間のパーティーのあとですから、みな少しばかり疲れているようでした。いくら楽しくても、疲れることはありますものね――ですから、あの場にいた全員がすっかりくつろいで楽しんでいたとは申せません。ですがわたしは、とても楽しいパーティーだったとこれからも思い出すでしょうし、わたしを仲間に入れてくださった親切なお友だちに、それはもう感謝しておりますの」
「ミス・フェアファクスはきっと、伯母様がお気づきにならない間も、一日じゅうどうしようか迷ってらしたんでしょうね」
「ええ、そうだと思います」
「いつであれ別れの時が来たら、ご本人にとっても、まわりの方々にとっても、さぞお辛いことでしょう。せめて今度のお仕事が、いろんな点でできる限りゆるやかなものであればと願います――つまり、そのご家庭の雰囲気や流儀のことですけれど」
「ありがとうございます、お嬢様。ええ、おっしゃる通り、あそこにはジェーンを幸せにしてくれるなにもかもがそろっております。エルトン夫人のお知り合いのなかでも、サックリング家とブラッジ家を別にしたら、お子様を育てる場所としてあれほど自由で上品なところは、ほかにありません。それにスモールリッジ夫人という方が大変に感じのいいご婦人で! 生活様式も≪メイプル・グローヴ≫とほとんど変わりませんのよ――お嬢様たちだって、サックリング家とブラッジ家のお子様をのぞけばあんなに上品で可愛らしいお子様はどこにもおりませんわ。ジェーンは心づくしとやさしさとで迎えられるでしょう! 喜び以外のなにものでもありません! 喜びそのものの生活です。それにあの娘のいただくお給料といったら! お嬢様に向かって金額を口にする勇気は、わたしにはございません。でも大きな額に慣れてらっしゃるお嬢様でさえ、ジェーンのような若い娘があんなに沢山いただけるなんて、にわかには信じられないと思いますよ」
「あら、とんでもない!」とエマは言った。「よその子どもたちがみんな、わたしの覚えている子ども時代のようだとしたら、こういう状況のお給料として今まで聞いたことのある金額の五倍だって支払われていいと思いますわ」
「なんて立派なお考えでしょう!」
「で、フェアファクスさんはいつここをお発ちになりますの?」
「もうすぐですの。ほんとに間もなくで、それが一番の難点です。二週間以内なんですの。スモールリッジ夫人は、とってもお急ぎのようでして。かわいそうに、母はどうして耐えればいいものやらわからないでおります。ですからわたし、なるたけ忘れさせようとしてこう言うんです。さあ、お母様、これ以上この問題を考えるのはやめましょうって」
「お友だちはみな、フェアファクスさんがいなくなるのを残念がりますわ。それにキャンベル大佐ご夫妻も、お戻りになる前に就職を決めたと知ったら、さぞがっかりなさるんじゃありません?」
「そうなんです。ジェーンもがっかりなさるに違いないと申しております。でも今回ばかりは、あの娘自身お断りするのが正当だとはどうしても思えなかったようですわ。そりゃあ驚きましたとも、エルトン夫人に承諾したとあの娘から最初に聞かされたとき、それとほとんど同時にエルトン夫人がいらしておめでとうとおっしゃられたときには! あれはお茶の出る前で――たしか――いえ、お茶の前のはずがありませんわ、だってわたしたち、ちょうどカードを始めようとしていたのですから――あら、でもお茶の前かしら、こう考えたのを覚えてるんですけど――ああ! 違います、今思い出しました、そうですとも、お茶の前にちょっとしたことがあったんですが、そのときではありません。エルトン様がお茶の前に呼ばれて部屋を出て行ったんです。ジョン・アブディじいさんの息子さんが話をしたいとかで。お気の毒なジョンじいさんのことは、いつも気にかけておりますの。なくなった父の下で二十七年も書記を務めてくれました。可哀そうに、今はもう寝たきりになってしまって、リウマチ性の痛風で関節をやられ、それはひどい有様なんです。今日にもお見舞いに行かなきゃなりませんわ。もし外出できるようなら、ジェーンも一緒にまいるでしょう。それでジョンじいさんの息子さんは、教区からの援助のことでエルトン様に相談に来たのでした。息子さんはクラウン亭の番頭やら馬丁やらを一手に引き受けていて、ひとりで立派にやってるんですが、それでも父親を扶養するとなると、いくらか援助がないと無理らしいんです。エルトン様がお戻りになって、馬丁のジョンが言ったことを話してくださいました。それから、フランク・チャーチル様をリッチモンドへお送りするために馬車が≪ランドルズ≫に呼ばれたこともおっしゃいました。これが、お茶の前のできごとです。ジェーンがエルトン夫人にお返事したのは、お茶のあとでした。
ミス・ベイツはエマに「その件は初耳でしたわ」と言うひまさえ与えなかった。そしてフランク・チャーチルが出発したいきさつをエマが知らないとは思いもせずに、どんどん先を続けた。が、それ自体はとりたててどうということもない内容だった。
エルトン氏がこの一件に関して馬丁から知り得たのは、馬丁自身の情報と≪ランドルズ≫の召し使いの情報とを合わせたものだった。それによると、一行がボックス・ヒルから帰ってまもなく、リッチモンドから使いの者が到着した。使いが来ることは予期されていたことだった。ミスター・チャーチルは甥あてに短い手紙を託しており、内容は夫人の容態についてだいたいのところをのべ、明日の早朝までには帰宅して欲しい旨が付け加えられていた。フランク・チャーチルはその場で、一刻の猶予もなく帰ろうとした。ところが彼の馬が風邪を引いたようなので、クラウン亭の馬車を借りるためにトムが使いに出され、馬丁のジョンは表に立って馬車が走り去るのを見送った。少年はかなりのスピードで去って行ったが、なかなか見事な手綱さばきであった、という次第である。
話そのものには驚くほどのことも、興味を引かれることもなかった。ただエマの心をとらえていたある問題と結びついたがために、注意を引かれたのだ。チャーチル夫人がこの世に占める重要性と、ジェーン・フェアファクスの地位、その落差がエマの胸をうったのである。一方はすべてであり、他方は無だった――エマは女性の運命の差というものに漠然と思いをめぐらせて座っていた。視線がどこに向いているかにも気づかず、ミス・ベイツの言葉に初めて我にかえった。
「ええ、なにをお考えなのかはわかりますとも。ピアノのことでございましょう。これはこの先どうなるのだろう、と? その通りですわ。うちのジェーンもついさっきその話をしておりました。『おまえをどこかにやらなきゃね』とあの娘は申しました。『おまえとはお別れだわ。もうここでは用がないのですもの――でも置いて行くわ』と言うのです。『キャンベル大佐がお帰りになるまで、どこかに置いてやってちょうだいね。わたし大佐にお話しするから、きっとなんとかしてくださるわ。すべての苦境から、あの方が助け出してくださるわ』――わたし確信しておりますの。とうとう今日まで、あの娘はピアノが大佐からの贈り物なのか、大佐のお嬢様からなのか、わからないでいるんですよ」
エマもピアノのことを考えずにはいられなかった。すると、以前気まぐれで公平でない憶測をしたことが思い出されて落ち着かない気分になってきたので、そろそろ長居をしたと考えてもいい頃合だろうと自分に言い聞かせた。エマはもう一度、本心で感じている見舞いの気持ちを言葉にできるだけ繰り返し、ベイツ家をあとにした。
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第四十五章
エマの胸の痛む物思いは、家へと歩く間も、だれにもじゃまされなかった。だが居間に入ったとたん、そこにいるひとを見てはっとした。ナイトリー氏とハリエットとが留守の間に訪ねて来て、父親と座っていたのである。ナイトリー氏は即座に立ち上がると、いつもより明らかに重々しい口調で言った。
「会わずに出かけるのはどうしてもいやだったのでね。が、もう時間がない。すぐ行かなければ。これからロンドンへ行って、ジョンとイザベラのところで二、三日過ごしてきますよ。届け物か伝言はないですか? もっとも『愛情』はだめですよ、運べないから」
「何もありませんわ。でも、ずいぶん急なお発ちですのね?」
「ああ――いや――前から考えてはいたんです」
このひとはわたしを許していない、とエマは悟った。いつもの彼とは別人のようだ。けれども時間が彼に、ふたりはまた友人になるべきだと告げてくれるだろう。ナイトリー氏が今にも出て行こうとしながらも、一向に動く気配もなく立っていると、エマの父親がたずねた。
「ところでエマ、あそこへは無事に行ってきたかい? わしの大事な友だちとその娘さんはどうしていた? おまえが行って、さぞ喜んだだろう。エマはベイツさん母娘を訪ねてきたところなんです、ナイトリーさん、先ほども言いましたように、この娘はあのひとたちに、それはよく尽くすんですよ!」
この不当なほめ言葉にあって、エマの頬はぱっと染まった。そして微笑んでいかにも多くを語るように首を振り、ナイトリー氏のほうを見た。そこには一瞬、彼女をほめているような表情が浮かんだように見えた。彼の目は彼女の目から真意をくみとったかに見え、彼女の心のうちにある善良なものすべてをたちどころに理解し、拍手をおくっているかに見えた。彼は満足そうにエマを見つめていた。エマもすっかり満ち足りた気分になったが、次の瞬間、彼がこれまで以上の親密さを示すちょっとした仕草をしたことで、その気分はいっそう豊かなものになった。ナイトリー氏がエマの手を取ったのだ。エマの方から最初にそれらしい動きをしたのかどうか、自分でもよくわからない。おそらく、自分が先に手をさしだしたのだったろう――とにかく彼はエマの手を取り、強く握り、たしかにその手を唇にもっていこうとした。だがその直前、ふとなにかを思いついたかのように、唐突に手を離した。なぜ彼がためらったのか、あと一歩のところでなぜ気が変わったのか、エマには理解できなかった。あそこでやめていなかったら、とエマは思った、もっと素敵なことだったのに。だが彼の意図は明確だった。彼の普段の態度が慇懃さに欠けているせいだろうと、ほかのどんなせいであろうと、これ以上彼に似つかわしいことはないように思われた。きわめて堂々として、だがまったく飾り気のない、彼の性質そのものだ。その未遂に終わった行為を、エマは心からの満足をもって思い出さずにはいられなかった。それは完全な友情を物語るものだ。その直後、ナイトリー氏はそそくさと辞して行ってしまった――あっという間にいなくなっていた。迷ったりぐずぐずしたりには耐えられないという気持ちから機敏に行動するのが彼の常だが、それにしても今の帰りかたは、普段にもまして唐突のように思われた。
ミス・ベイツを訪ねたことを後悔こそしなかったものの、あと十分早く帰ってくればよかったのにとエマは思った。ジェーン・フェアファクスの就職話についてナイトリー氏と語り合えたら、どんなにか楽しかっただろう。その一方、彼が≪ブランズウィック・スクエアー≫に行ったことは、残念だとは思わなかった。彼の訪問がどんなに喜ばれるか知っているからである。だが、訪問にはもっと時期を選んでもよかったし、ずっと前から予告しておけば、それだけ楽しみも増えただろうに。とはいえ、ふたりは友人として別れたのだ。あの表情、それに途中で終わった仕草の意味については、誤解のしようもない。あれはすべて彼の信頼をすっかり回復したと、そう知らせるための仕草だ。ナイトリー氏が居間に座っていたのは、三十分間だったと知らされ、もっと早く帰って来なかったのが、残念でたまらなかった!
ナイトリー氏がロンドンへ行ったこと、それも突然行ってしまったこと、馬に乗って出かけたこと、それらはすべて父から見れば非常に感心できないことだと知っていたので、そうした心配から父親の注意をそらすため、エマはジェーン・フェアファクスのニュースを伝えた。期待した効果はあり、実に有効な緩衝剤となった。つまり父親の心をかき乱すことなく、興味だけを引いたのである。ナイトリー氏がロンドンへ発ったのが全くの不意うちだったのにひきかえ、ジェーン・フェアファクスが家庭教師となって出ていくことは父のなかでも既定の事実だった。それで、このことは朗らかに話すことができた。
「それを聞いて本当に嬉しいよ、エマ、あのひとにいい勤め先が見つかって。エルトン夫人は実に親切な、ひとあたりのいい婦人だから、その知り合いというのもきっとそんなひとたちだろう。湿気のない場所で、彼女の健康に気を使ってくれるところだといいがねえ。それがまず問題にされるべきだよ。あの気の毒なミス・テイラーにわたしがしじゅう気を配っていたようにね。そうだろう、エマ、あのひとと今度の女主人の関係は、ミス・テイラーとわたしたちの関係になるのだから。あのひとの生活がある意味で楽になって、ひとつところに長く住み着いたあとで、よそへ嫁に行ってしまうなんてことがないといいがねえ」
翌日、ほかのすべてを背景へ押しやってしまうようなニュースがリッチモンドからもたらされた。チャーチル夫人の死去を伝える急使が≪ランドルズ≫に届いたのである! あの時、甥は彼女のために大急ぎで帰らねばならない理由は何もなかったのだが、伯母は彼が帰り着いてから三十六時間と生きていなかった。通常の容態からは予想できない、まったく性質の異なる突然の発作によって、彼女はごく短い時間格闘したあげく死に連れ去られてしまったのだ。偉大なチャーチル夫人は、もういないのだ。
ひとびとの反応はこうした場合にふさわしいものだった。だれもがある程度厳粛に受け止め、悲しみにひたった。死者を悼み、残された友人たちを気遣い、然るべきときが経過すると、彼女がどこに埋葬されるかに興味が集中した。ゴールドスミスは言っている。きれいな女性が身を落とす愚行を演じた時には、死ぬよりほかない、と。また不興を買う存在に落ちぶれた時にも、悪評を清算する手だてとして、やはり死ぬことが望ましい、と。少なくとも二十五年間嫌われてきたチャーチル夫人は、今や情深く手加減されて語られるようになった。ある一点では、彼女が正しかったことが証明された。今まではだれも重病だと信じていなかったのだから。この一件が、あらゆる気まぐれ、仮病を使ってのわがまま三昧という悪評から彼女を解き放ったのである。
「可哀そうなチャーチル夫人! どれほど苦しんだことだろう、想像を絶する苦しみだっただろう――絶え間ない苦痛が短気を引き起こしていたのだ。悲しい出来事だ。大きなショックだ。欠点はあったにせよ、奥方をなくしてチャーチル氏はどうされるおつもりだろうか? さぞ気を落としているだろう。二度と立ち直れないかもしれない」――ウエストン氏でさえ、首を振り振り重々しい口調で言った。「ああ、可哀そうな夫人、だれが想像しただろうか!」そして、喪服はできるだけ立派なものにしなければ、と思うのだった。彼の妻は、座ってドレスの幅広の縁を縫いながらため息をつき、同情と良識をもって正直に堅実に、理にかなった話し方をした。フランクの身の上にどんな影響を及ぼすだろうか、というのが夫妻がまず懸念したことだった。それについてはエマも最初から考えていた。チャーチル夫人の性格、その夫の悲嘆――その両方を畏怖と同情をこめて考えてみたうえで――やがてフランクがこの一件でどんな影響を受けるか、どれほど得をし、どれほど自由の身になるかに思い至り、心が軽くなるのだった。エマは一瞬のうちにあらゆる良い可能性を見通した。今ならハリエット・スミスに愛情をもってもじゃまするものはいないだろう。チャーチル氏は妻とは違ってだれにも恐れられてはいない。寛大な御しやすいひとで、甥が説得すればどんなことでもわかってくれるはずだ。あと望むべくは、フランクがハリエットを愛してくれていることだけだった。エマがきっかけを作ろうと骨を折ったにもかかわらず、彼の胸に愛情が芽生えたという兆しは、まったく見当たらなかったからである。
この件に関するハリエットのふるまいは、非常に自制のきいた立派なものだった。どんな明るい希望を感じていたにせよ、決してそれを表には出さなかった。彼女の性格がそのように強くなっているのを見てエマは喜び、その姿勢を危うくするような言及を控えることにした。それでふたりは、チャーチル夫人の死については互いに遠慮がちに語り合った。
フランクから短い手紙が≪ランドルズ≫に届いたが、そこには現在の状況と今後の予定の中で差し迫って重要と思われることのみが記されていた。チャーチル氏は思ったより元気であること、ヨークシャーで行われる葬儀に向かう途中で最初に立ち寄るのは、ウィンザーに住む旧友の家であること、その訪問はチャーチル氏が十年来約束していたものであること、などである。現時点ではハリエットのためにしてやれることは何もない。今できるのはせいぜい将来の幸福を祈ることぐらいだ。
それよりジェーン・フェアファクスに心をくだくほうが先決だった。ハリエットの未来が開けようとしているのに対し、ジェーンのそれは閉ざされようとしていたからである。就職の契約が迫っている彼女にハイベリーのだれかが親切にしたいと思えば、ぐずぐずしている余裕はない。それでエマにとっても、このことが最優先事項になった。過去の冷酷な仕打ちをこれ以上ないくらい後悔していたエマは、これまで何ヵ月も無視してきたそのひとに対し、今はありったけの思いやりや同情を捧げたいと思うようになっていた。エマはジェーンの役にたちたかった。友人に自分の真価を示し、自分の敬意と友情とを分かってもらいたかった。それで、≪ハートフィールド≫に来て一日を過ごすようジェーンを説得することにした。そのための手紙が送られた。だが招待は拒絶された。しかも返事は口頭で、「ミス・フェアファクスは具合が悪くてお手紙も書けません」というものだった。同じ朝、≪ハートフィールド≫を訪ねてきたペリー氏によって、以下のことが明らかになった。ジェーンはひどく気分が悪く、本人は嫌がったもののペリー医師が往診したこと、かなりの頭痛と神経性の高熱に苦しんでいること、今の状態から判断すると、指定された日にスモールリッジ夫人の屋敷に行けるかどうかさえ疑わしいというのである。ジェーンの健康は完全に狂ってしまったようにみえた。
食欲はなかったが、危険な兆候は見受けられず、家族がいつも気遣っていた肺疾患の痕跡もなかったが、ペリー氏は彼女の病状を深刻に受け止めていた。彼女は耐えられないほどの重荷を背負いこんでいるのではないか、というのが彼の考えだった。本人は認めようとしないけれど、彼女自身も内心そう感じているのではないか。ジェーンの神経は参ってしまっているようだ。彼女の今の住まいが神経衰弱には好ましくないという点を、医師も認めざるを得なかった。できればそうでないほうが望ましいのに、いつも一室に閉じこもり、ひとのいい伯母は、彼とは古くからの友人だとはいえ、この種の病人にとって最良の話相手でないことは明らかだった。伯母はじゅうぶんな世話と配慮を施していたが、その実、ちょっと行き過ぎなのだ。ミス・フェアファクスには効果よりも弊害のほうが多いのではないかとペリー医師は危惧していた。エマはひどく心配しながら、これらの話を聞いた。ますますジェーンのことで心を痛め、何とか役にたつ方法を見い出せないかとあれこれ思いをめぐらせた。彼女をたとえ、一、二時間でも伯母から離しておけたら、空気と風景を一新できたら、そして、たとえ一、二時間でも静かで理性的な会話を楽しめたら、彼女の体にいいのではないか。そこで翌朝、エマはもう一度手紙をしたため、できるかぎり心のこもった言葉を使って、いつでも指定された時間に馬車で迎えに行くからと書き送った。さらに、患者にはこうした運動が必要だとペリー氏もはっきりと同意している旨を書き添えておいた。返事はごく短い次のような文章だった。
「ミス・フェアファクスよりご挨拶とお礼を申し上げますが、どのような運動にも一切耐えられません」
エマは自分の出した手紙にはもっといい返事があって然るべきなのに、と思った。が、文面に文句を言っても始まらない。震えた不ぞろいな筆跡が、彼女の具合の悪さを物語っていた。エマは、だれにも会いたくないし、助けて欲しくもないというジェーンの気持ちを、どうしたらうまくほぐせるだろうかと考え続けた。そして、返事があのようだったにもかかわらず馬車を言いつけ、ベイツ家へ走らせた。一緒に乗るようジェーンを誘い出せるかもしれないと思ったのだ――でもうまくいかなかった。ミス・ベイツが馬車の扉まで出てきて盛んに感謝し、外気を吸うことがどんなに有益かについてはまったく同意見だと述べた。そして伝言を通じてできるだけのことが試されたが、無駄だった。ミス・ベイツは手ぶらで戻ってこなければならなかった。ジェーンはてこでも動かなかった。外へ出ないかと持ち出しただけで、いっそう具合が悪くなるようだった。エマは直接会って、自分の力で試したいと思った。だがその希望をほのめかしもしないうちに、ミス・ベイツが絶対にミス・ウッドハウスをお通ししないと姪に約束したことを白状した。「ええ、実を言いますと、可哀そうなジェーンはどなたに会うのも耐えられないんです――まったくどなたにもです。と言いましても、エルトン夫人だけはお断りできません。それにコール夫人はあのように承服させておしまいになるし、ペリー夫人もいろいろおっしゃられるし。でもあの方たちをのぞけば、ジェーンはまったくどなたにも会おうとしないんですよ」
エマはどこへでも割り込んでいくエルトン夫人やコール夫人、ペリー夫人といったひとたちと一緒にされたくはなかった。それに自分だけに優先権があると考えることもできなかった。それでしかたなく引き下がり、ミス・ベイツに姪の食欲と食事について、もう一言たずねるだけにしておいた。その方面で何か手助けができればと思ったからだ。この点をミス・ベイツは非常に心配しており、いろいろと話してくれた。ジェーンはほとんどなにも口にしようとしないのだ。ミスター・ペリーは滋養食をすすめたが、ベイツ家で入手できた滋養食は(こんなに隣人に恵まれた家族も珍しい)どれもこれも、口にあわなかった。
エマは家へ帰るとすぐに女中頭を呼んで、食料庫を調べさせた。そして質のいいくず粉に心のこもった手紙を添えて、ベイツ家に届けさせた。だが三十分もしないうちに、くず粉は突き返されてきた。そこには、大変にありがたいのだが、「ジェーンはこれをお返しすると言ってききません。どうしても受け取れないのだそうです――そして、なにも欲しくないと、繰り返すばかりなのでございます」というミス・ベイツの言葉が添えられていた。
後になってエマは、ハイベリーから少し離れた牧草地をジェーン・フェアファクスが散歩していたという噂を耳にした。目撃されたのは、どんな運動にも耐えられないという口実でエマと馬車で出かけるのを頑なに拒んだ、あの同じ日の午後のことだった。ここに至って、エマは確信した。すべてを総合してみると、――ジェーンはエマからはどんな親切も受けまいと決意しているのだ。エマは悲しかった、ひどく悲しかった。こうした神経の苛立ち、過去の行いとの矛盾、力の差によっていっそうひどくなってしまった今の状態を、心底嘆き悲しんだ。そして、自分のまっとうな考えが理解されず、友人としての価値も評価されないことがくやしかった。唯一の慰めは、自分の意図が善意であったとわかっていること、そしてジェーン・フェアファクスを助けたいという試みをナイトリー氏が最初から見ていて、また彼がエマの心の中まで見通せたとしても、今回は非難すべき点はひとつも見い出せなかっただろうと自分に言い聞かせることができることだけだった。
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第四十六章
チャーチル夫人の死から十日ほどたったある朝、エマはウエストン氏に呼ばれて階下に下りていった。「五分とおじゃまできないが、特に彼女とお話ししたい」というのである。彼は居間のドアのところでエマを待っていた。そしていつもの調子で挨拶をしたかと思うと、とたんに父親に聞こえないように声を落として言った。
「何時でもかまわないから午前のうちに≪ランドルズ≫に来られませんか? さしつかえなければ、ぜひ来て下さい。家内が会いたがっているのです。どうしても会わなきゃならんのです」
「ご病気ですか?」
「いやいや、そうじゃありません。ただ少し動揺はしています。馬車を言いつけてこちらに伺ってもよかったのですが、家内はあなたひとりだけに会いたいのです。おわかりでしょう(エマの父親のほうにうなずいてみせて)――うむ! 来られますか?」
「もちろんですわ。お望みなら今すぐにでも。こんなふうに頼みにいらしたのですもの、お断りはできません。でもいったい何事ですの? 本当にご病気じゃないんですね?」
「それは請け合います。でも、もう質問はしないで。そのうちに分かることですから。なんとも説明のしようがないのです! だが、シーッ! 今は黙って」
これらの意味を推しはかるのは、エマをもってしても不可能だった。なにか深刻な事態であることは、ウエストン氏の表情をみれば分かる。だが親友は無事なのだから、つとめて心配しないことにしよう。そして、ちょっと散歩に行ってきますと言って父親を納得させ、ウエストン氏と連れだって屋敷を出て、≪ランドルズ≫に向かって急ぎ足で歩き始めた。
「さあ、もういいわ」と門扉を出て大分来たところでエマは言った。「さあウエストンさん、なにが起こったのか、お聞かせください」
「いや、だめです」彼は容易ならぬ調子で答えた。「わたしにきかないでください。家内に一切を任せると約束したのです。家内のほうがうまくあなたに打ち明けられるでしょうから。そんなに急かさないで、エマ。すぐに分かることです」
「わたしに打ち明けるんですって」エマは大声をだした。恐怖で足がすくんでいる。「お願い! ウエストンさん、今すぐ話して。≪ブランズウィック・スクエアー≫でなにかあったんだわ。そうなんでしょう。話して、今すぐなんなのか話しなさいと、わたしは命令します」
「違いますよ、まったくの誤解です」
「ウエストンさん、わたしをからかわないで。わたしの一番大事なひとが今何人≪ブランズウィック・スクエアー≫にいるか、考えてみてください。そのうちのだれなんですか? 聖なるものの名において命令します。どうぞ隠そうとなさらないで」
「わたしの言葉にかけて、エマ――」
「あなたの言葉ですって! なぜ名誉ではないんです! どうして名誉にかけて、あそこにいるだれとも関係ないとおっしゃってくださらないの? ああ、どうしよう! あの家族のひとりと関係ないことだとしたら、いったいなにがこのわたしに打ち明けられるのかしら?」
「わたしの名誉にかけて」ウエストン氏は重々しく言った。「関係ありません。ナイトリーという名前のいかなる人間とも、これっぽっちも関係もない話です」
エマは勇気を取り戻し、再び歩き始めた。
「わたしが悪かったんです」と彼は言葉をついだ。「打ち明けるなんて言いかたをして。そんな言葉を使うべきじゃなかった。実際、これはあなたにも関係のないことなんです――ただ私個人の問題で――というか、そうあってほしいと思っているわけですがね。うむ!――つまりね、エマ、それほど心配しなきゃならない根拠はなにもないんですよ。不愉快な事態でないとは言いませんが、もっと悪くもなりうるわけで。急いで歩けば、それだけ早く≪ランドルズ≫に着きますよ」
エマは待たねばならないようだと覚悟した。だが今となってみれば待つのにさしたる努力もいらなかった。それで、もう質問するのはやめて、ただ空想を働かせるだけにした。まず思いついたのは、金銭がらみの問題が起こったのではないかということだった――この一家の周りで不名誉な性質のなにごとかが発覚したのではないだろうか。先日のリッチモンドの不幸が引き金になってなにごとか起きたのかもしれない。エマの空想は次々とふくらんだ。私生児が反ダースほどもいて、そうだわ――可哀そうにフランクが勘当されたんだわ! これなら、決して望ましくはないけれども、彼女が苦悶するほどの問題でもない。ただ、激しく好奇心をくすぐられるというだけのことだ。
「あの馬に乗った紳士はだれかしら?」歩きながらエマは言った。こう言ったのは、ウエストン氏に秘密を守りやすくしてあげようという意図からで、ほかに目的があるわけではなかった。
「さあね。オトウェイ家のだれかでしょう。フランクじゃない、あれはフランクではありません、それはたしかです。フランクはここにはいませんよ。今ごろはこことウィンザーの中間あたりまで行ってるはずだ」
「じゃあ息子さんはお宅にいらしたのですか?」
「ええ! そうですが、ご存じなかったですか? いや、なんでもない、気にしないで」
ちょっとの間彼は黙りこんだが、やがて慎重な取り澄ました口調でつけくわえた。
「ええ、フランクは今朝訪ねてきました。挨拶に立ち寄っただけでしたがね」
ふたりは足を速め、まもなく≪ランドルズ≫に到着した。――「ほら」部屋へ入るとウエストン氏は言った。「お連れしたよ。これで遠からず気分もよくなるだろう。ふたりだけにしておくよ。後回しにしても仕方がない。わたしに用があれば、そう遠くへは行っていないからね」部屋を出て行く時、彼が低い声でこうつけくわえるのをエマはたしかに耳にした。
「約束は守ったよ。このひとはなにも知らない」
ウエストン夫人はひどく気分が悪そうで、またひどく動揺した様子だったので、エマの不安は募った。それでふたりきりになるのを待ちかねたように切り出した。
「ねえ、どうしたの? とってもいやなことがなにかあったのね。それがなにか、どうかすぐに話してちょうだい。ここまでずっと、どきどきしながら歩いてきたのよ。わたしたちふたりとも、どきどきするのは苦手でしょ。だからもうこれ以上どきどきさせないで。それがなんであれ悩みの元を話してしまえば、きっと気分もよくなるわ」
「本当になにも知らないの?」ウエストン夫人は震える声できいた。「想像もできない? 可愛いエマ――これからどんな話を聞かされるのか、想像することもできない?」
「フランク・チャーチルに関係してるってところまでは想像がつくわ」
「その通りよ。あのひとに関することなの。じゃあ、さっそく話すわね」(彼女は話し始めたが、顔は上げまいと決意しているようだった)「あのひとは今朝ここへ来ました。思いもよらない用件でね。わたしたちがどんなに驚いたか、言葉ではとても表現できないわ。フランクはお父様にあることを話すためにここへ来たの――恋をしていると告白するために――」
彼女は言葉を切って息をついだ。エマの頭にまず自分のことが、次いでハリエットのことが浮かんだ。
「でも実際は恋なんてものじゃなかった」ウエストン夫人は続けた。「婚約なのよ――それも、もう決まってしまった婚約なの。あなたはなんて言うかしら、エマ――世間のひとはなんて言うかしら、フランク・チャーチルとミス・フェアファクスが婚約しているとわかったら、いいえ、もうずっと前から婚約していたとわかったら!」
エマは驚きのあまり飛び上がると、愕然としてさけんだ。
「ジェーン・フェアファクスが! なんてこと! 嘘でしょう? 本気で言ってるんじゃないわよねえ?」
「驚くのも無理ないわ」ウエストン夫人は答えたが、まだ目を上げようとはしなかった。そしてエマが落ち着きを取り戻す時間を持てればと願いながら、言葉を続けた。「驚いたのよ。ウエイマスで婚約して、だれにも秘密にされてきたの。本人たちを除けば、だれひとり知らなかったわ。キャンベル大佐一家も、ジェーンの家族も、チャーチル家も。――あまりに突拍子もなくて、事実をすっかり把握した今でも、わたし自身まだ信じられないほどよ。とても本当とは思えないわ。彼のことはわかっていたつもりでいたのに」
エマはほとんど聞いていなかった。彼女の心はふたつの考えに分断されていた。ミス・フェアファクスのことで過去にフランクと交わした会話のこと、そして可哀そうなハリエットのこと。しばらくの間、エマは嘆声をあげたり、確認を求めたり、念を押してみたりということしかできなかった。
「いいわ」とうとう彼女は、落ち着こうと努めながら言った。「この状況は少なくとも何日かは考えないと、完全に理解することなどできないわ。なんてこと! 冬じゅう彼女と婚約していたなんて――じゃあふたりとも、ハイベリーに来る前からなのね?」
「十月から婚約してたの。ひっそりと内緒で。わたし傷ついているのよ、エマ、とってもね。フランクの父親も同じように傷ついているわ。彼のふるまいのある部分を、わたしたちはどうしても許せないの」
エマはじっと考えこんでいたが、やがて口を開いた。「なにをおっしゃりたいのか、分からないふりはしないわ。だからできるだけ安心していただくために言うけれど、だいじょうぶ、あのひとがわたしをちやほやしたことは、おふたりが心配しているような効果を生んではいません」
ウエストン夫人は信じられないといった面持ちで顔を上げた。だがエマの表情はその言葉と同じくらい毅然としたものだった。
「この生意気な、わたしが現在あのひとになんの関心ももっていないという言葉を、もっと簡単に信じてもらうためなら」とエマは続けた。「こう言ってもいいわ。知り合って間もない頃には、あの人に好意をもった時期もあったわ。あのひとを愛したいと心から望み、いいえ、愛していた時期もありました。その気持ちがどうして消えてしまったのか、自分でもわからないの。でも幸運なことに、とにかく消えてしまったわ。ここしばらくは、そう、少なくともこの三か月は、あのひとのことをまったくなんとも思っていません。わたしを信じて、ミセス・ウエストン。これがまじりけなしの真実よ」
ウエストン夫人は嬉し涙を浮かべてエマにキスした。ようやく話ができるようになると、今の告白はこの世のなにより気分を晴れ晴れとしてくれたと語った。
「主人もわたしに劣らずほっとするでしょう」と彼女は言った。「今度のことではわたしたち、惨めな思いをしていたの。だって、あなた方が愛しあうようになってくれればと本気で願っていたんですもの。それに実際そうなったと思いこんでいたのよ。あなたの心中を考えてわたしたちがどんな気持ちでいたか、想像してみて」
「わたしは逃げおおせたの。そしてわたしが逃げおおせたことは、おふたりとわたし自身にとって、ありがたくも不思議な奇蹟だったわけね。でも、だからって彼を無罪放免にはできないわよ、ミセス・ウエストン。言わせてもらうけど、あのひとには非難されるべき点がたくさんあると思うの。何の権利があって、愛情と信頼で婚約を交わしていたくせに、全然婚約なんかしてないそぶりで、わたしたちのなかへやって来たのかしら? なんの権利があって、彼はたしかにそうだったけど、あるひとりの女性を執拗に献身的に喜ばせようとしたり――これもたしかだけど、特別扱いしたりしたのかしら。その時、実際にはもう別の女性のものになっていたんでしょう? 自分がどれほど悪いことをしてきたか、果たしてあのひとに説明できるかしら? 彼を愛するようにわたしを仕向けなかったと、果たして言えるかしら? ひどいわ、まったくひどすぎるわ」
「フランクの言ったことから想像するとね、エマ――」
「それに彼女は、どうしてあんなふるまいに我慢できたの! まるで平然としていたじゃない! 繰り返しほかの女性をちやほやしているのを目前にながめながら、憤慨しないなんて。相当な落ち着きぶりだったけど、わたしには理解もできないし、尊敬もできないわ」
「あのふたりの間には誤解があったのよ、エマ。彼がはっきりそう言ったわ。それ以上説明している時間はなかったのだけれど。ここにいたのはたった十五分で、しかもとても興奮していたもので、その短い時間でさえ有効には使えなかったのよ。それでも誤解があったんだってことははっきり言っていたわ。実際、今の危機的状態は、誤解によって引き起こされたものだと思うの。そしてその誤解は、フランクの不適切なふるまいが原因で生まれたのでしょうね」
「不適切ですって! とんでもない! ミセス・ウエストン。そんな非難じゃ甘すぎるわ。不適切より、はるかにはるかにひどいことよ! 彼は男を下げました。わたしの評価のなかで彼がどんなに下落したか、とても言い表せないほどよ。男性としてあるまじきことだわ! 正直で誠実な心とか、真実と正義を守り抜く姿勢とか、ごまかしや卑屈をいさぎよしとしない態度とか、男性が人生を乗り切っていく上で発揮すべきそういうものが、あのひとにはひとつもないじゃないの」
「いいえ、エマ、それではわたしは、あのひとの肩をもたなければならないわ。今度のことではまちがっていたけれど、わたしは、あのひとにはたくさんの、とてもたくさんの長所があると言えるぐらいには長く彼を見てきているし、それに――」
「まあ大変!」エマはほとんど耳を貸さずにさけんだ。「ミセス・スモールリッジのこともあったわ! ジェーンは現に、家庭教師として出て行こうとしているじゃない! そんな思いやりのないことをして、彼は一体どういうつもりなの? 彼女が仕事の契約をするのを放っておくなんて。そんな手段をとろうと思うような状態にまで彼女を放っておくなんて!」
「フランクはなにも知らなかったのよ、エマ。この点に関しては、あのひとはまったくの無実だわ。あれは彼女がひとりで決めたことで、彼にはひと言も知らされなかったのよ。少なくとも、説得できるような方法では知らされていなかったわ。昨日まで、と彼は言ったわ、ジェーンの計画のことは、なにひとつ聞いていなかったって。それが突然知らされて、どうやってかは知らないわ、たぶん手紙か使いの者によってでしょうね。彼女がなにをしようとしているか、計画のすべてが明らかになって、すぐさま前へ進む決意をしたの。伯父様にすっかり告白し、伯父様のやさしさにおすがりして、つまりは、長いこと続いたつらい秘密の状態に、ピリオドを打とうと決意したのよ」エマはようやく耳をかたむけ始めた。
「ほどなく手紙が来るでしょう」ウエストン夫人は続けた。「別れ際に、すぐに手紙を書きますって、言っていたから。それに、今は明らかにできない細かなことを書くというようなことも、約束していたように思うわ。だから、その手紙を待つことにしましょう。情状酌量できるような事実が出てくるかもしれないし、今は理解できないたくさんのことも、それによって分かって、許せるようになるかもしれないもの。あまり厳格にならないようにしましょう、あわててあのひとを糾弾しないことにしましょうよ。もうしばらく我慢しましょう。わたしはあのひとを愛さなければならないの。あるひとつの点で、とても大切な点で満足が得られた今、事態が好転することを心から願っているし、ほとんどそうなりそうな気がしてるの。あんなこそこそ秘密にする方法をとっていたのだから、ふたりともどんなにか苦しんだに違いないんですもの」
「彼の側の苦しみは」とエマはそっけなく答えた。「たいして彼に害を及ぼしたようにも見えないけど。で、ミスター・チャーチルはそれをどうお取りになったの?」
「甥にとっては一番好都合に――つまり苦もなく承諾してくださったの。この一週間の出来事があの一家にもたらした変化を考えてごらんなさいな! お気の毒なミセス・チャーチルが生きていらしたときだったら、おそらく希望も、チャンスも、可能性もなかったでしょうね。でも彼女の遺骨が一族の納骨堂に安置されるや否や、ご主人は彼女の要求とは正反対の行いをすることにしたのよ。夫人が膨大な影響力をお墓からも行使することがなくて、ありがたいわ! フランクの伯父様はほとんど説得の必要もなく、承諾を与えてくださいました」
「ああ!」とエマは思った。「彼はハリエットのためにも、まったく同じことができたのに」
「これが決まったのが夕べのこと。それでフランクは今朝、日の出とともに向こうを発ってきたの。しばらくハイベリーに立ち寄って、たぶんベイツ家にいたんでしょう――それからここへやって来ました。でも、今ではほかのだれよりも甥のことを必要としている伯父様の許へ大急ぎで帰らなければならなかったので、さっきも言ったように、ここには十五分しかいられなかったわ。とっても興奮していて。それはもう、本当に――今までに見たあのひととはまったく別人じゃないかと思うくらいに。ほかのなににもまして、ジェーンの具合がひどく悪いのを知ってショックを受けていたわ。そんなことがあろうとは、つゆほども疑っていなかったんですものね。ひどく案じている様子がはっきりと顔に出ていたわ」
「それであのふたりのことは、そんなふうに完全に秘密を守られてきたと本当に信じてらっしゃるの? キャンベル大佐夫妻も、ディクソン夫妻も、だれひとりとして婚約のことを知らなかったって?」
エマはディクスンという名前を言うとき、少し顔を赤らめずにはいられなかった。
「ええ、どなたも。あのひとは自分たち以外にはただのひとりも知らないことだと、そう断言していたわ」
「それなら」とエマは言った。「わたしたちはだんだんに、その考えにも慣らされていくんでしょうし、ともかくもふたりの幸せをお祈りするわ。でもわたしは、とても忌まわしいやりかただったとこの先も思い続けるでしょうね。あれが偽善と嘘でなかったら――スパイ行為と裏切りでなかったら、いったいなんだったというの? あけっぴろげで純朴というふれこみでわたしたちのなかへ入ってきながら、その実あんなふうに結託してわたしたち皆を試していたなんて! 今の今まで、冬と春の間じゅう、わたしたちは完全にだまされていたんだわ。わたしたち全員、真実と名誉の点で対等の立場にいるなんて幻想を抱いていたのよ。そのうちのふたりが、両方に聞かせるつもりではなく言った感想や言葉を持ち寄って、比較したり批判したりしていたかもしれないのに。あのふたりがお互いに全然好意的でない噂を耳にしたとしても、それは自分たちが悪いのよ!」
「その点では、わたしはまったく心配していないわ」ウエストン夫人が答えた。「両方に聞かせられないようなことは、どちらに対しても一度も言ったことはないのはたしかだもの」
「運がいいのね。あなたが一度だけ勘違いしたとき、それを聞いたのはわたしだけだったんですもの。あるお友だちがあのお嬢さんに恋してるって、あなたが想像したとき」
「本当にね。でもミス・フェアファクスのことはずっとよく思っていたのだから、どんな勘違いをしたときでも、彼女の悪口を言うことはできなかったでしょう。それにフランクの悪口という点では、わたしはまったくの安全圏だわ」
この時、ウエストン氏が窓から少し離れた場所に姿を現した。明らかに様子をうかがっていたようだ。彼の妻は、お入りなさいというように目で合図を送った。そして彼がまわってくる間に、つけくわえて言った。「さあ、エマ、お願いだから、主人がほっと胸をなでおろすようなことを言ったり、そういった顔をしてみせてあげてちょうだい。そして彼がこの結婚に満足できるようにしてあげてね。いいところだけを見ましょう。実際、なにを言っても彼女には好意的なものにしかならないでしょう。たしかに喜ばしい縁組ではないわ。でもミスター・チャーチルがそう感じないのなら、どうしてわたしたちにそうできるかしら? それに彼にとって、つまりフランクにとってということよ、幸せなことかもしれないわ、あのような女性を愛するようになったということは。わたしがいつもジェーンの美点として認めてきた、堅実な性格と優れた判断力をもった女性を――今度ばかりは正義の法則から大きくはずれてしまったけど、それでもわたしは、彼女の美点を認めないわけにはいかないわ。それに彼女の境遇を考えれば、今度の過ちだってずいぶん弁解の余地があるわ!」
「まったくそうね!」エマはしみじみと言った。「女性がただ自分のことしか考えなくても許されるとしたら、それはジェーン・フェアファクスのような境遇の場合なんだわ。――それについてはこんなふうに言えるでしょうね。『世界は彼らのものではない、世界の方もまた然り』」
エマはウエストン氏が部屋に入って来るのを見てにっこり笑い、晴れやかに声をあげた。
「とっても見事ないたずらでしたわね、すっかりひっかかってしまったわ! わたしの好奇心を弄《もてあそ》んで、想像力の訓練をさせるおつもりだったんでしょう。でも本当にこわかったのよ。あなたが少なくとも財産の半分をなくしたんじゃないかって、そう思いこんだくらいですもの。でも今では、お悔やみのかわりに、お祝いを言うべきだとわかりました。おめでとうございます、ウエストンさん、こころよりお祝い申し上げますわ。イングランドで最も美しくて洗練されている女性を、あなたのお嬢様にお迎えになるんですもの」
妻と一、二度視線を交わしたウエストン氏は、エマの言葉通り、すべては順調に運んだのだと納得した。その嬉しさに彼の気分はたちどころに変化した。態度にも声にもいつもの快活さが戻り、彼は心から感謝してエマの手を握った。そうして例の話題に入ったが、その口ぶりからして、あとは時間と確証さえあれば、この婚約もそう悪くはないと思うようになるだろうと感じられた。彼のふたりの話し相手は、もっぱら軽率さを弁護したり、反対意見をなだめたりするためだけに口を開いた。やがてすべてが語りつくされ、≪ハートフィールド≫へ歩いて帰るエマを送りながらもう一度ふたりで話し合った時には、彼もすっかり承諾する気になっていた。そして、今度のことはフランクにできた最上の行為だったとさえ、考え始めているほどだった。
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第四十七章
「ハリエット、可哀そうなハリエット!」口をついてでたのはその言葉だった。そこにはこの事態を真に惨めなものにしている心痛がこめられ、エマにはその痛みを追い払うことができなかった。フランク・チャーチルはエマに対して、まったくひどいことをした。多くの点で、本当にひどいことを。だが、エマがフランクに腹をたてているのは、フランクの行いのせいではなく、むしろエマ自身の行いのせいだった。このことによってハリエットが苦しみ、その苦しみはエマが引き起こしたということが、彼の罪を色濃いものにしているのだ。可哀そうなハリエット! 二度までもわたしの思い違いと、おだての犠牲になるなんて。ナイトリー氏が以前、予言者めいて言ったことがあった。「君は本当の意味での、ハリエット・スミスの友人とは言えない」わたしはハリエットの害になることばかりしてきたのではないだろうか。ただ前回のように自分だけが悪の張本人ではないこと、つまり今回は、わたしさえ言わなければ決してハリエットがもたなかったような感情を、吹き込んでしまったわけではないという点で、少し気が楽なのは事実だった。というのも、エマがこの問題をおくびにも出さないときから、ハリエットはフランク・チャーチルへの賞賛と好意を表明していたのだから。だがそれを抑えることもできたのに、逆に勇気づけてしまったことで、罪の意識を深く感じていた。そういう感情におぼれたり、思いを募らせるのを防ぐこともできたのだ。わたしの影響力をもってすれば、じゅうぶんできたはずだった。それに今となってみれば、そうすべきだったのは明らかだ。彼女は友人の幸福を、なんの根拠もないことで、危険にさらしていたのだ。常識があれば、ハリエットにこう言っていただろう、彼のことを想ってもだめよ、彼があなたを愛する確率は五百にひとつもないのだから、と。「でも、その常識に」とエマは想った。「わたしはほとんど関係なくふるまっていたんだわ」
エマは自分に対してひどく腹をたてていた。もしフランク・チャーチルに対しても腹をたてているのでなかったら、とても耐えられなかっただろう。ジェーン・フェアファクスに関しては、最近しきりに気遣ったようなことからは、もう解放されてもよさそうだ。だが、ハリエットだけは心配でたまらない。ジェーンのことで悩む必要はもうないだろう。ジェーンの苦境と病気とは、もちろん同じ原因から来たものなのだから、その両方ともこれからは癒されていくはずだ。彼女の貧しさと不遇の時代は終わった。まもなく元気になり、幸せになり、豊かになっていくだろう。今なら、自分の親切がなぜああも冷淡にあしらわれたのか、想像がつく。この発見は、たくさんの些細なことまで解き明かしてくれた。嫉妬が原因だったのはまちがいない。ジェーンの目に、エマは恋敵として映っていたのだ。だとすれば、エマが申し出た助力も好意も、はねつけられて当然だ。≪ハートフィールド≫の馬車で出かけるのは拷問だったろうし、≪ハートフィールド≫の食料庫からもらうくず粉は毒だったろう。エマはすべてを了解した。そして怒りからくる偏見や自分本位な考え方をできるだけ拭い去ると、ジェーン・フェアファクスは彼女の功罪にふさわしいだけの敬意と幸福とを得るだろうという結論に達した。それにくらべて可哀そうなハリエットのことでは、なんと重大な責任を負わねばならないことか! ハリエット以外の人間に同情している余裕はエマにはなかった。二度めの失恋は最初の時より痛手が大きいのではないだろうか。それがエマの心に重くのしかかっていた。相手の資格がずっと優れていることを想えば、そうに違いない。相手の影響が明らかにハリエットの心に表れていること――慎みと自制とが生まれていた――から判断しても、そう思える。とはいえ、なんとしてもつらい真実を告白しなければならない、それもできるだけ早いうちに。ウエストン氏は別れ際に、内密に願いたいと言っていた。「当分の間、このことは秘密にしておく必要があります。ミスター・チャーチルがそれを望んでいるのです。亡くなったばかりの奥様へ敬意を表す意味で。それぐらいは当然の礼儀として認めなければなりますまい」エマも同意した。それでも、ハリエットだけは例外にするほかないだろう。これは今のエマにとって第一の義務なのだ。
悲惨な状況でありながらつい滑稽に思えてしまうのは、ウエストン夫人が今しがたエマに対して果たしたのとまったく同じ辛い役目を、今度はエマがハリエットに対して果たさなければならないということだった。恐る恐る告げられた情報を、今度は自分が恐る恐る別のひとに告げようとしている。ハリエットの足音と声が聞こえてくると、エマの胸はいやがうえにも高鳴った。気の毒にウエストン夫人も、自分が≪ランドルズ≫に近づいたとき、同じ思いをしたのだろう。打ち明け話の成り行きも、そっくり同じになるといいのだが! だが残念ながら、そうなる見込みはないのだ。
「まあ、ミス・ウッドハウス」ハリエットは部屋に駆けこんでくるなり叫んで言った。「こんな奇妙なニュース、今までにありました?」
「なんのニュースのことを言ってるの?」とエマは答えた。ハリエットが本当にかすかにでもその事実を知っているかどうかは、顔からも声からも判断できなかった。
「ジェーン・フェアファクスのことですわ。こんなにおかしな話、聞いたことありまして? あら! わたしに話していいのかどうかは、気になさらなくていいんです。ミスター・ウエストンご自身の口からうかがったことですから。今そこでお会いしたんです。絶対に秘密だっておっしゃってました。ですからわたし、あなた以外にはだれにも話したりしませんて言ったんです。そうしたら、あなたはもうご存じだって、おっしゃって」
「ミスター・ウエストンはどんなお話をなさったの?」エマはなおも当惑しながらきいた。
「ええ! 全部すっかり話してくださいました。ジェーン・フェアファクスとフランク・チャーチル様が結婚なさるってことと、おふたりがこれまで長いこと内緒で婚約していたってこと。なんて奇妙なんでしょう!」
まったくもって奇妙だ。ハリエットの言動があまりにも奇妙なので、エマにはこれはどう解釈していいのか見当もつかなかった。ハリエットの性格はすっかり変わってしまったようだった。この件を聞いて動揺も落胆も、特別な関心さえ一切示すつもりはないらしい。エマはハリエットを見つめたが、まだ言葉が出てこなかった。
「気づいてらっしゃったの」とハリエットがたずねた。「あの方が彼女を愛してるってことに? あなたのことですもの、気づいてらしたんでしょうね。あなたは(話しながら顔を赤らめて)だれの心のなかもお見通しですもの。でもほかのひとたちは――」
「誓って言うけれど」とエマは言った。「わたしにそんな才能があるかどうか、疑い始めたわ。あなた本気で言ってるの、ハリエット、彼がほかの女性を愛してるとわたしが想像しただなんて? あなたに――それとなく、決してあからさまではなかったけれど――自分の感情に身をまかせなさいと励ましていたその時に? フランク・チャーチルがジェーン・フェアファクスにちょっとでも気があるなんて、ほんの一時間前まで、わたし露ほども疑っていなかったわ。もし知っていたら、絶対それをあなたに忠告していたはずよ」
「わたしに!」ハリエットは頬をそめ、驚いて叫んだ。「どうしてわたしに忠告なさるんですか? わたしがフランク・チャーチル様に関心があるだなんて、お考えなんじゃないでしょう」
「あなたがこの件について、そんなにしっかり話すのを聞いてうれしいわ」エマは微笑んで答えた。「でも否定する気はないでしょう、ある時――と言ってもそう昔ではないわ――あなたは彼に関心があると、そうわたしが思うだけの根拠を話してくれたことがあったじゃない?」
「あの方にですか! いいえ、決して。大好きなミス・ウッドハウス、どうしてそんなふうに誤解なさったのかしら?」彼女は傷ついたように顔をそむけた。
「ハリエット!」エマは一瞬間をおいてから叫んだ。「どういうことなの? まあ驚いた! ねえ、どういうこと? あなたを誤解していたんですって! ではわたしはどう考えればいいの?」
それっきり言葉が続かなかった。声が出てこない。エマは腰を下ろし、ハリエットが口を開くのをどきどきしながら待ち受けた。
少し離れた場所に立ってエマの方を見ないようにしていたハリエットは、すぐにはなにも言わなかった。やがて話し始めたときには、エマと同じくらい動揺が声に表れていた。
「そんなことがあろうとは夢にも思いませんでした」と彼女は始めた。「あなたがわたしを誤解なさるなんて! その方の名前は口に出さないことにしたのは知っています。でも、その方がほかの方に比べてどれほど優れているかを考えれば、別のひとのことを言ってると誤解されるなんてありえないと思ってました。それもフランク・チャーチル様だなんて!
もうひとりの方と一緒の時に彼に目を留めるひとがいるでしょうか。わたしフランク・チャーチル様を選ぶほど趣味は悪くないつもりです、だって近くにいる方とは似ても似つかないんですもの。だから、そんなふうにわたしを誤解なさっていたなんて驚きですわ!
たしかに、わたしの思いにあなたが賛成してくださり、応援してくださるおつもりなんだと信じられなかったら、わたし、あの方に思いを寄せるだなんてあまりにずうずうしすぎると、まずだいいちに考えたと思います。はじめにあなたが、もっと不思議なことも起こったし、もっと不釣り合いな結婚もあったと、そうおっしゃらなければ(でもその通りたしかにおっしゃいました)――あえて思い続けようとはしなかったでしょう――望みがあるとは思わなかったでしょう。でもあなたが、あの方と長くおつきあいのあるあなたが――」
「ハリエット!」エマはしっかり落ち着きを取り戻そうとして言った。「さあ、お互いにはっきりさせましょう、これ以上まちがいが起こらないようにね。あなたの言ってるのは――ナイトリーさんのことなの?」
「そうですわ。ほかのひとのことなど、考えたこともありません。それにあなたはご存じだとばかり思ってました。あの方のことを話し合ったときも、それはとてもはっきりしていましたもの」
「そうでもないわよ」冷静さを装いながらエマは答えた。「だって、あの時あなたが言ったことはすべて、わたしは別のひとのことだと思ったんですもの。あなたがフランク・チャーチルの名前を言ったと断言してもいいくらいよ。フランク・チャーチルがあなたをジプシーから救ってくれた話をしたのはたしかでしょう」
「まあ! ミス・ウッドハウス、それじゃあお忘れになってるわ!」
「いいえ、ハリエット、あの時わたしが言った内容までちゃんと覚えてるわ。わたしが言ったのは、あなたの恋心は不思議でもなんでもないということ、彼があなたのためにしてくれたことを思えば、恋心を抱くのも無理はないってことだわ。あなたもそれに同意して、彼の行いについて感じたことを熱っぽく話してくれたじゃない。あなたを助けに彼が近づいてくるのを見てすごく感激したって、そんなことまで言っていたじゃないの。あの時の印象は強烈に記憶に残ってるわ」
「違うんです」ハリエットが叫んだ。「おっしゃることは覚えています。でもあの時、わたしは全然別のことを考えていたんです。ジプシーのことじゃないんです。フランク・チャーチル様のことでもないんです、わたしが言いたかったのは。違うんです!(やや興奮しながら)わたしが考えていたのは、もっとずっとありがたい出来事でした――ナイトリー様が近づいてらして、踊っていただけますか、とおっしゃったとき――エルトン様がお相手をしてくださらず、部屋にはもうだれもパートナーがいなかったときのことです。あれはおやさしいふるまいでした。気高い慈悲のお心と寛大さを感じさせるふるまいでした。あの一件があってから、わたしはこの世のだれと比べても、あの方ほど優れた方はいないと思うようになったんです」
「なんてこと!」エマが叫んだ。「こんな不幸な――こんなひどいまちがいをしていたなんて! どうすればいいのかしら?」
「じゃあ、もしそうとわかっていたら、応援してはくださらなかったのね。でも少なくとも、相手が別の方だったからと言って、今までよりずっと悪いということにはなりませんわ。今でもやっぱり、望みはあります」
ハリエットはしばらく黙りこんだ。エマも口がきけなかった。
「わたしは不思議とは思いません、ミス・ウッドハウス」ハリエットは話を続けた。「相手がわたしであろうとだれであろうと、あなたがあのおふたりでは大きな差があるとお感じになったとしても。ひとりの方はもうひとりの方より五十億倍もわたしの上に位置すると思ってらっしゃるんでしょう。でもわたしは希望をもちます、ミス・ウッドハウス、だって考えてみれば――たとえ、おかしく聞こえたとしても――。あなたはおっしゃいました、もっと不思議なことも起こったし、フランク・チャーチル様とわたしとより、もっと不釣り合いな結婚もあったって。だとしたら、今度のようなことだって前にはあったのかもしれませんわ。それで、わたしが言葉に出せないほど幸運で――ナイトリー様がもし本当に――あの方が身分の差を気になさらない方だとしたら、ねえ、ミス・ウッドハウス、あなたは反対なさったり、将来のじゃまをしたりはなさいませんよね。だって、そんなことをするにはあなたは立派すぎますもの、ねえ」
ハリエットは窓辺に立っていた。驚いたエマは振り返って彼女を見、あわてて言った。
「ナイトリーさんがあなたの気持ちに応えてくれたとでも言うの?」
「はい」ハリエットは慎ましやかに、だが臆するふうもなく答えた。「応えてくださったと申し上げるほかありません」
エマはとたんに目をそらし、それからしばらくの間ぴくりとも動かず、ただじっと座って考えこんだ。ほんの数分あれば、自分の胸中を思い知るにはじゅうぶんだった。彼女のような理性は、ひとたび思い当たるふしがあればどんどん先へと進んでいく。エマはすべての真相を察し、認め、理解した。ハリエットがナイトリー氏を愛するということが、フランク・チャーチルを愛することより、どうしてこうも悪いのだろう? 愛情が報いられる希望をハリエットがもつことで、どうしてこうもいやな気持ちになるのだろう? 真相が矢のような速さで彼女の胸を貫いた。ナイトリーさんは、わたし以外のだれとも結婚してはいけないのだ!
この同じ数分間は、心のなかだけでなく、彼女のとってきた行動をもまた眼前にさらけだした。エマはそれを今までにない明晰さで見渡した。なんという過ちをハリエットに対して犯してきたのだろう! なんと分別のない、なんと思いやりに欠けた、なんと不合理で残酷な仕打ちをしてきたのだろう! なんという盲目、なんという狂気にひきずられていたのだろう! その思いはエマを激しく打ちのめした。自分の行為にありとあらゆる悪名をつけたいほどだった。だが、そういった彼女自身の過ちはあるにしても、いくぶんの自尊心――体面を保とうとする気遣いと、ハリエットに対する強い正義感(ナイトリー氏に愛されていると信じている娘に同情の必要はないが、今ここで冷淡に扱って彼女を不幸にすることは、正義感が許さない)が、エマに落ち着いて、親身にさえなって、もうしばらく我慢して座っていようと決意させた。実際ハリエットの希望についてできるだけくわしくたずねてみたほうが、エマのためにもいい。それにハリエットは、エマのほうから抱き、保ち続けてきた好意や関心を失わなければならないことも、その助言が一度として正しかったためしのない人物から侮辱されなければならないようなことも、なにひとつしてはいないのだ。それで考えごとからさめたエマは、感情を押し殺してもう一度ハリエットを振り返ると、誘いかけるような口調で会話を再開した。当初の話題、ジェーン・フェアファクスの婚約問題は、いつしか完全に忘れ去られていた。ふたりとも、ナイトリー氏と自分のことしか考えていないのだった。
ハリエットは決して悲しいとは言えない空想にふけって立っていたが、ミス・ウッドハウスのような判断力のある友人から励ますような調子で話しかけられたので、喜んで物思いを断ち切った。誘いかけられさえすれば、自分が希望をもつようになった経緯を震えながらではあるが喜びいっぱいで話したくて、うずうずしていたのである。質問したり、耳を傾けたりしながらエマが感じた体の震えは、ハリエットより巧妙に隠されていたが、決して少ないとは言えなかった。声は震えていなかったが、心の内ではこうした自己の新発見、突如やってきた不幸、急変しもつれ合う感情が生じずにはいない不安におののいていた。エマは内面の苦悩と葛藤しながら、表面は懸命に平静を装ってハリエットの打ち明け話に耳を傾けた。秩序だっていたり、筋が通っていたり、話し上手だったりすることは期待できなかった。それでもやたらと説明不足だったり反復が多かったりすることとは別に、エマの気を滅入らせるだけの内容をじゅうぶんふくんだものだった。とりわけ、ミスター・ナイトリーのハリエットに対する見方が非常に好意的になったというエマ自身の記憶が、確証となって追い打ちをかけた。
ハリエットはあの決め手となった二度のダンス以来、ナイトリー氏の態度が変わったことに気づいていた。エマも、彼があの時、ハリエットが予想以上に優れているとわかったと言ったのを覚えている。あの夜から、いや、少なくともミス・ウッドハウスに彼を想い続けるよう励まされた時から、ハリエットは彼が以前より度々話しかけてくるようになったことや、彼女への接しかたががらりと変わったことを意識するようになった。親切でやさしい態度だった! 最近では、その意識はますます強くなっている。大勢で歩いているときでも、近づいてきて彼女と並んで歩くことが多かった。そしてとても楽しそうに話しかけてくるのだ!――彼は彼女ともっとよく知り合いたいと思っているようだった。エマも事実その通りだと知っていた。彼の変化をほぼ同じくらい目にしていたからだ。ハリエットは彼から受けた称賛や崇拝の言葉を繰り返した。それはエマが彼から聞かされていたハリエットに対する意見とぴったり一致する。彼女にはわざとらしさや気取りがなく、無邪気で正直で寛大な気性の持ち主だと言ってほめていたのである。彼がハリエットにはそうした長所があると見ているのをエマは知っていた。エマに向かってそう力説したことも一度ならずあった。そのほかハリエットの記憶に残っているたくさんのこと、つまりちょっとした目つきや言葉、椅子を移動したこと、それとないお世辞やひいきなど、彼が見せた細かな気配りの多くは、まったく疑っていなかったエマには気づかないことだった。話せば三十分ほどもかかるその詳細は、実際に見た当人にとっては証拠以外の何物でもなかったが、今聞き手となっている人物にとっては見過ごされていたことだった。だが、話のなかのごく最近の二例――これらはハリエットにとって最も強力な裏付けとなる出来事だったが――については、エマ自身ある程度目撃していたことだった。
ひとつは、≪ドンウェル≫のライムの並木道を彼がほかのひとびととは離れて彼女とふたりで歩いたときのことだ。エマが来るまでのしばしの時間をふたりで歩いたのだが、その際、わざわざ骨折って(と彼女は確信していた)ハリエットをほかのひとびとから自分の方へ引き寄せたらしい。まず彼は、今までにない独特な調子で話しかけた。とても独特な調子だった!(ハリエットはその時のことを思い出すと頬を染めずにはいられなかった)彼はこうたずねたも同然に思われた。あなたには心に決めたひとがいるのだろうか――だが彼女《ミス・ウッドハウス》が現れてふたりに加わりそうなのを見てとると、彼はすぐに話題を変え、農場経営の話を始めたのだという。ふたつめはつい先日の昼に彼が≪ハートフィールド≫を訪ねてきた折り、エマが外出から帰ってくるまでの三十分ほどの間のことだ。彼は入ってくるなり五分といられないと言ったにもかかわらず、ハリエットを相手に話し込んだのだ。その時彼は、自分はこれからロンドンに行かねばならないが、家を離れるのは全くもって主義に反すると言ったらしい。それは(とエマは感じたのだが)自分に対して日ごろ言っていた以上のことだった。この一点が示すように、自分に対してよりハリエットに対する信頼のほうが勝っていることで、エマの胸は激しく痛んだ。
このふたつの出来事のうち最初の問題についてエマはしばらく考えていたが、思い切ってこう質問してみた。「彼はこういうつもりじゃなかったのかしら? こう考えることはできない? つまりあなたが思っているように、彼があなたの愛情の状態をたずねたのだとしたら、それはミスター・マーティンのことを言っていたのじゃないかしら。ミスター・マーティンのためを思ってきいたんじゃない?」だがハリエットは勢いよくその疑惑を打ち消した。
「ミスター・マーティンですって! いいえ、とんでもありません! ミスター・マーティンのことなんか、おくびにも出しませんでした。今ではわたし、ミスター・マーティンに関心をもったり、そんなふうに疑われたりしない程度には、進歩したと思います」
証拠をすべて並べ終わると、ハリエットは敬愛するミス・ウッドハウスに、望みをもつだけのじゅうぶんな根拠になっていないかどうか判断してほしいと頼んだ。
「はじめはわたし、大胆にも望みがあるなんて考えもしませんでした」と彼女は言った。「あなたのおかげなんです。あの方をよく観察して、あの方の行為をお手本になさいと、そうおっしゃってくださいました。ですからその通りにしてきました。今では、自分があの方にふさわしくなったんじゃないかと、本当にわたしをお選びくださっても、それほど不思議なことではないんじゃないかと、そんな気がするんです」
この言葉によって味わわされた苦渋、それがあまりにむごかったので、エマが答えを口に出すまでには相当の努力が必要だった。
「ハリエット、わたしに断言できるのはこれだけだわ。ミスター・ナイトリーはどのような女性に対しても、実際に感じている気持ち以上のものを故意にお見せになったりは決してしない方です」
そう聞いてすっかり満足したハリエットは、今にも友を拝まんばかりだった。エマはあやういところでその歓喜と愛情の表現から――その時の彼女にとっては耐え難い苦行だったろうから――逃れることができた。父親の足音が聞こえたからである。父は広間を横切ってくるところだった。ハリエットは彼と顔を合わせるには動揺しすぎていた。「気持ちを落ち着けることができません。ウッドハウス様が心配なさるわ。わたし帰らなきゃ」友のほうも即座にそうするように同意したので、ハリエットは別のドアから出て行った。彼女の姿が見えなくなった瞬間に、エマの感情は抑えきれずに爆発した。「おお、神様! 彼女と出会わなければよかった!」
その日の残りとそれに続く夜だけでは、彼女が思い煩《わずら》うのにまだ足りなかった。この数時間で押し寄せてきた感情の渦にのみこまれ、うろたえるばかりだ。刻一刻と新たな驚きがあるのだが、そのひとつひとつが屈辱の種でしかなかった。このすべてをどう理解したらいいのだろう! 自ら企て、自らはまったこの落とし穴をどう理解したらいいのだろう! 大失敗だった。頭も心も、なにも見えていなかったのだ! エマはじっと座りこんだり、うろうろ歩き回ったり、自分の部屋へ行ってみたり、灌木の茂みを歩いてみたりした。どこへ行っても、どんな姿勢でいても、頭から離れないのは、自分はこの上なくばかな行いをしたのだということ、くやしくて我慢できないほど周囲に欺かれていたということ、だがそれ以上にくやしいのは自分自身を欺いてきたのだということ、自分のみじめさ、そしてたぶん、今日という日はそのみじめさのほんの始まりにすぎないのだということだった。
理解すること、自分の心を隅々まで理解することが、まず当面の課題だった。父親が彼女を必要としないひまな時間のすべて、何気なく放心状態で過ごしてしまう時間のすべてが、その一点に向けられた。
ナイトリー氏がこのように、今、全身全霊で感じているように大切なひととなってから、どのくらいたつのだろう? 彼の影響力、あの強靭な影響力はいつ始まったのかしら? かつて、ごく短い期間ではあったが、フランク・チャーチルが占めていた愛情のなかのあの場所を、彼はいつから引き継いだのだろう? エマは過去を振り返ってみた。ふたりを比較してみた――後者がエマの前に現れてからずっと、ふたりはエマの価値判断の前にさらされて、いつでも好きなときに比較されてきたはずなのに。ただ――ああ! 本当の意味で比較してさえいれば、そうだったらどんなに幸運だったことか。エマが知ったのは、ナイトリー氏を抜きんでた人物だと見なさなかったことも、自分に対する心遣いをこの上なく親身だと思わなかったことも、一度としてなかったということだった。なのに思いこみをしたり、空想をしたり、反対の行動をとったりして、完全に錯覚にとらわれていて、本当の気持ちを見失っていたのだ――つまり、エマはフランク・チャーチルのことなぞ、そもそも最初から眼中になかったのだ!
これが最初の内省の末に得られた結論だった。これが最初の課題に対して到達した、自分自身についての認識だった。ここに到達するのにそう長くはかからなかった。彼女は悲しいまでに憤慨していた。今自分にとってあきらかなただひとつの感情――ナイトリー氏への愛――を除くすべての感情を恥じた。心のなかのそれ以外の部分には嫌悪をもよおすほどだった。
鼻持ちならないうぬぼれをもって、ひとびとの心の秘密を見通せると信じこんでいた。許しがたい傲慢さで、ひとびとの運命をとりまとめようともくろんでいた。自分があらゆる点でまちがっていたことが証明されたのだ。そのくせ、まったくなにもしなかったわけではない。ひとびとの害になることだけをしていた。ハリエットに対して、自分自身に対して、そしてあってはならないことなのに、ナイトリー氏に対しても被害を及ぼしていた。あらゆる縁組みのなかでも最高に不釣り合いなこのカップルが現実になったら、そのきっかけを作ったという点で自分に非難が集中するのは仕方のないことだ。というのは、彼の側の愛情は、ハリエット側の関心があって初めて生まれたとしか思えないからだ。それに万が一そうではないとしても、自分が馬鹿な真似さえしなければ、彼はハリエットと知り合ってすらいなかったはずだ。
ナイトリー氏とハリエット・スミス! この結婚ほど不思議なものがあるだろうか。フランク・チャーチルとジェーン・フェアファクスのカップルも、それに比べたら平凡で陳腐で、おもしろくも、驚きでも、不釣り合いでもなく、話題にしたり考えたりする価値すらないほどにかすんでしまう。ナイトリー氏とハリエット・スミス! 彼女のほうはなんという出世だろう! 彼のほうはなんという堕落だろう! 彼が世間の評判をどれほど落とすことになるかを考え、彼が笑いものにされ、軽蔑やからかいの対象になることを予想し、また彼の弟が感じる屈辱や侮蔑、彼自身がこうむる幾多の迷惑を想像して、エマはぞっとした。そんなことがありうるだろうか? まさか、絶対に不可能だわ。ところが実際は少しも、いや全く不可能ではないのだ。第一級の資質をもつ人物が、能力的にずっと劣った人物の虜《とりこ》になることが、今までになかっただろうか? 忙しくて相手を探し求める時間がなかった男性が、彼を求めていた娘の餌食になることが、今までになかっただろうか? この世界のなにをとっても、不釣り合いや不調和、不条理であることが――あるいは機会や状況が(第二の原因として)ひとの運命を左右することが、それほどに珍しいことだろうか?
ああ! ハリエットを社交界などに引っぱり出さなければ良かった! 彼女が本来いるはずだった所に、彼女はそこにいるべきだと彼が言っていた場所に、置いておけばよかったのだ! 弁明のしようもないばかな真似をして、あの申し分ない青年との、彼女が本来属していた生活圏で、彼女を幸せにも立派にもしてくれたはずの青年との結婚をじゃましていなければ――すべては安泰だったのだ。こんな悲惨な結末には、絶対にならなかったのだ。
どうしてハリエットは、大胆にもナイトリー氏に熱をあげたりしたのだろう! どうして彼女は、あのようなひとに選ばれたなどと、それも実際断言できるまでに思いこむことができたのだろう! だがハリエットは、以前にくらべて謙虚でも引っ込み思案でもなくなってきている。知性にせよ境遇にせよ、自分が劣っているとは少しも感じていないらしい。エルトン氏が彼女と結婚するのは身を落としてのことだとあれほど感じていたのに、今ナイトリー氏と結婚することは、それほどとも思わないらしい。ああ! でもそれもわたしのしわざではなかったのか? ハリエットに自尊心を植えつけようと骨折ったのは、わたし以外のだれだというのか? わたし以外のいったいだれが、彼女にできるだけ自分を高めるように、彼女の資格は上流との結婚にこそふさわしいのだと教えこんできただろうか? もし謙虚だったハリエットの虚栄心が強くなっていたとすれば、それもまたわたしのせいなのだ。
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第四十八章
それを失う危機にさらされた今になって初めて、エマは思い知った。自分の幸福のじつに多くの部分は、ナイトリー氏の第一番目でいること、つまり関心と愛情の対象として第一番目の地位を占めることにかかっていたのだ。その状態に満足しきって、それを当然と思い、反省もなくただ享受していた。そしてその地位がだれかに取って代わられるという恐怖を感じた今、ようやくそのことが言葉につくせないほど大事なことだったと気づいたのだ。長いこと、とても長いこと、エマは自分が第一番目だと感じていた。彼には女性の近親者がいないので、彼女と資格を競えるのはイザベラだけだった。そしてそのイザベラを彼がどの程度に愛し評価しているかは、以前から正確に把握している。だからこそ何年にもわたって、エマは自分が彼の第一番目だと考えてこられたのだ。が、彼女は彼の一番目としては、ふさわしくなかった。怠慢や強情から、彼の忠告を軽んじることはしょっちゅうで、時にはわざと逆らってみせたことすらあった。彼の価値の半分にも気づかず、まちがっているうえに傲慢なエマの自己評価を、彼が認めてくれないからと言っては喧嘩したこともあった。だがそれでも、家族としての情愛と習慣、そのうえ素晴らしい人格を備えていたことから、彼はエマを愛し、少女の頃から見守ってきてくれたのだ。他人には真似のできない方法で、彼女を向上させようと努力し、正しい行いをさせようと気遣ってきてくれた。多くの欠点があるにもかかわらず、彼から見れば自分は愛すべき存在だったはずだ。とても愛すべき存在、と言ってもいいのではないか? と、ここまではたしかだと思える希望の光もかすかにはあるのだが、彼女はその喜びをむさぼる気にはどうしてもなれなかった。これがハリエット・スミスなら、自分にはナイトリー氏にひとりだけ特別に、情熱的に愛される資格がないわけがない、と考えるかもしれない。でもエマにはとても考えられなかった。彼の自分への愛情に盲目的なものがあるなどといい気になるなど到底できない。彼がだれにたいしても公平だという証を、つい最近見せつけられたばかりなのだ。
彼はエマのミス・ベイツへのふるまいに、あれほど憤ったではなかったのか! そのことであんなにも素直に、あんなにもきつい口調で意見したではないか! きつすぎて気を悪くするほどではなかったけれど、それでも――まっすぐな正義感とか曇りのない善意とかではない、――もっとやさしい感情から発せられたとみるには、はるかに、はるかに、きつい調子だった。彼が、今言ったような盲目的な愛情をもっているという希望、また、どんな意味でも希望という名に値するものは、全くもつことができなかった。だが、まだ別の希望が(ときにかすかに、ときに大きくふくらんで)残されている。ハリエットは思い違いをしているのかもしれない、彼女への親切を過大評価しているだけかもしれない。エマは彼のために、そう願わずにはいられなかった。その結果、彼が生涯独身を通すことになり、それ以外エマの得るところがなにひとつないとしても、その点だけ確保できれば、彼が絶対にだれとも結婚しないという確信さえもてれば、それですっかり満足だと彼女は思った。自分にも父親にも、ずっと同じナイトリー氏でいてくれたら、この世のだれからみても同じナイトリー氏でいてくれたら、≪ドンウェル≫と≪ハートフィールド≫が友情と信頼とでつちかってきた大切な交際を、少しも損なわなくてすむのであれば、彼女の安らぎは完全に保証されるはずだった。それに実際問題として、エマには結婚などできっこないのだ。父親から受けている恩と、エマが父親に対して感じている愛情、それらと結婚とは相容れないものだ。なにものも自分を父親から引き離すことはできないだろう。だから、たとえナイトリー氏から申し込まれたとしても、結婚はしない。
ハリエットが思い違いをしている、というのがエマの切実な願いなのは事実だった。だからあのふたりが一緒のところをもう一度見たいと思った。そうすれば少なくともどの程度の状態なのか、突き止めることはできる。これからは、ふたりをつぶさに観察することにしよう。これまで注意して見ていたひとさえ誤解していた情けない自分だけれど、今度もまた盲目になれるとは、どうしても認めたくなかった。彼は今日にでも帰ってくるかもしれない。エマの観察眼が発揮されるのは、すぐなのだ。恐いほどその時が近いように思える。ともかく、ハリエットとは当分会わないことにしよう。この話題を蒸し返すのはどちらにとってもいいことではないし、また問題そのものにもよくないだろう。疑問のあるうちは決めてかかるまい、と決意はしているものの、ハリエットの自信に対抗するだけの証拠はない。話し合っても苛々するだけだろう。そこでエマは手紙を書き、やさしくではあるがきっぱりと、目下のところ≪ハートフィールド≫に来るのを遠慮してほしいと告げた。ある話題についてこれ以上打ち明け話をするのは避けたほうがいいと確信しているし、次に会うまでに何日か間をあけることができれば、昨日の会話など忘れたかのようにお互いふるまうことができるだろう。もちろん大勢で会うのはかまわないが、ふたりきりになるのは避けたほうがいい、と。――ハリエットはこれを受け入れ、同意し、感謝した。
このことが決まった直後にひとりの来客があった。それでこの二十四時間というもの、寝ても覚めてもエマの頭から離れなかった問題を、ほんの少しだけ忘れることができた。来客はウエストン夫人で、息子の婚約者を訪問した帰りに≪ハートフィールド≫に立ち寄って、エマへの義理から、そして自分の楽しみから、非常に興味深かった会見の様子をくわしく語ってくれた。
夫人を伴ってベイツ家を訪問したウエストン氏は、この重要な場面で果たさなければならない役割を実に立派にやりとげた。その後夫人のほうはミス・フェアファクスを戸外へ連れ出したのだが、それによって土産話をたくさん得て、実際ベイツ家の居間でぎこちない思いをしながら座っていた十五分では得られるはずもなかった満足のいく話をたくさん手にして、今ここまで戻ってきたのだ。
エマは少しばかり好奇心をそそられ、友人が話している間、心がよそをむく機会を精一杯利用した。ウエストン夫人は彼女自身かなり緊張して訪問に出かけた。そもそも現時点で訪問するのには反対で、かわりにミス・フェアファクスに手紙を出すだけにしておきたいというのが、彼女の考えだった。正式な訪問はもう少し先に、せめてミスター・チャーチルが婚約を公表してもいいと同意するまで、延期したかったのである。どう考えても、こうした訪問が噂の種にならないとは思えない。だが、夫の考えは違っていた。彼としてはミス・フェアファクスと家族に、自分がこの結婚を承諾していることを一刻も早く伝えたかった。訪問したからといって怪しまれることはないだろうし、たとえ怪しまれても別にどうということもなかろう、というのも「こうしたことはどうせ広まることなんだから」と言うのである。エマは笑って、ウエストン氏がそう言うのにはそれだけの理由があるわ、と思った。結局のところ夫妻は出かけた。ミス・フェアファクスの困惑と狼狽は、それはそれは大きかった。ほとんど口もきけないほどで、顔つきといい仕草といい、彼女がどれほど深く罪の意識に悩んできたかを物語っていた。ベイツ夫人のもの静かで満足しきった様子と、娘のミス・ベイツの手放しの喜びよう――嬉しくていつものように喋ることすらできなかったのだが――は、見ていて胸を打たれるほど微笑ましい光景だった。ふたりとも幸福のさなかにあっても決して見苦しくなく、興奮の絶頂にあっても私心はなく、ただひたすらジェーンを気遣い、自分たちにはまったく注意を払わないので、そんなふたりに対してあらゆる温かい感情が湧き上がるのを抑えることはできなかった。
ミス・フェアファクスが最近病気をしたことは、ウエストン夫人にとって彼女を戸外のドライブに誘うかっこうの口実になった。はじめはたじろぎ辞退した彼女も、さらに勧められると断りきれなかった。馬車で行く道々で、ウエストン夫人はやさしく勇気づけるようにして彼女の気おくれの大半を取り除き、やがて大切な話題を語り合えるまでに彼女を導いていった。ミス・フェアファクスは、彼女が訪問の席で一見無愛想なほどに黙っていたことを詫び、日頃ウエストン夫妻に対して抱いてきた感謝の気持ちを熱心に語ることで、会話が自然に始まっていった。だがそうした心情の吐露が一段落すると、この縁談の現状と将来について語り合うことはそれこそ山ほどあった。ウエストン夫人は、こんなにも長い間あらゆることを胸ひとつに収めてきた連れにとって、こうして語り合うことこそ最大の慰めになるに違いないと確信していたので、この件についての彼女の言葉すべてに大喜びで耳を貸した。
「秘密にしていた何ヵ月もの間、どんなにか苦しかったことでしょうね」とウエストン夫人は言った。「彼女は一生懸命に話してくれたわ。こう言ったのよ。『婚約を結んでから、楽しいと感じる瞬間が一度もなかったとは言いません。ただ心の平穏が一時間と続く幸せは、わたしにはなかったと言うことはできます』――それを言う時の唇のふるえが、エマ、真実の証明だとわたしには感じられたの」
「可哀そうに!」エマは言った。「それじゃあ、秘密の婚約を承諾したのはまちがっていたと、自分でも思っているのね?」
「まちがってるなんてものじゃないでしょう! 彼女が自分を責めようとしている以上に彼女のことを責められるひとはだれもいないでしょうね。『その報いが』とあのひとは言ったわ。『絶え間ない苦痛の日々でした。でもそれは当然のことです。不道徳な行いに対していくら罰を受けたからといって、行いそのものがなくなるわけではありません。苦痛は償いにはなりません。わたしの罪は消えないのです。わたしは自分の正義感とは反対の行動をとってきました。今すべてがよい方向へと回りだし、こうしてご親切を受けていますけれど、わたしの良心はそれはあってはならないことだと告げています。どうか、奥様』彼女はそう続けました。『わたしがまちがった教育を受けたからだとは、お思いにならないでください。わたしを育ててくださった恩人の皆さんの方針や配慮について、どのような非難もなさらないでください。過ちはわたしひとりの責任です。正直に申し上げますと、現在の状況から少しは言い訳が許されるかと思いますが、それでもわたし、キャンベル大佐にこのことをお話しするのが恐ろしいのです』」「可哀そうに!」エマはもう一度言った。「きっと、ものすごく彼のことを愛していたのね。婚約しようという気になってしまったのも、純粋に愛情からなんだわ。愛が判断力に打ち勝ってしまったんだわ」
「そうね。あのひとが彼をとても愛していることはまちがいないでしょうね」
「ひょっとすると」とエマはため息をつきながら言った。「わたしはジェーンが辛くなるようなことばかりしていたのね」
「だってあなたは、エマ、なにも知らずにいたんじゃないの。だけど、そのことが少しは彼女の心に引っかかっていたかもしれないわね。この間フランクがほのめかしていた誤解が生まれたのも、そんな時なのでしょう。不正に身を投じたことの当然の結果として、と彼女は言ったのだけど、分別をなくしていたのだそうよ。まちがいをしでかしたという意識からいつも不安にさらされ、そのせいでフランクにも耐えられないと思えるほど――事実耐えられなかったほど――気難しくて怒りっぽくなってしまったのね。『大目に見ることができませんでした』と彼女は言いました。『本当はそうすべきでしたのに。というのは、あの方の性格や気分――陽気な性格、あの活発さ、なんでも冗談にしてしまう癖、そうしたものはほかの時だったら必ず、魅力として映ったはずですもの、ちょうど初めの頃のように』その後は、あなたの話になったわ。それと、彼女が病気の間にあなたから受けたたくさんの親切について。それからあなたたちの微妙な関係を思い出してか頬を赤らめて、機会があったら、あなたが示してくれた細やかな気持ちと人力に、お礼を言って欲しいと頼まれたわ――わたしからもお礼を言うわね。どんなに言っても言い足りないぐらいだわ――ジェーンは、あなたが彼女からきちんとした感謝の言葉を受け取っていないことを気にしていたのね」
「彼女が今幸せだと知らなかったら」とエマはまじめに言った。「彼女のきまじめな良心のせいで、ささいな障害はあるにしても、幸せには違いないんでしょうね。でももしそうでなかったら、わたしはそんな感謝は受けられなかったわ。だって、ねえ! ミセス・ウエストン、わたしがミス・フェアファクスに対してした善と悪との一覧表を作ったらどうなるかしら! でも(自分を抑え、快活になろうと努めながら)そんなことはすべて忘れていただかなきゃ。興味深いお話を聞かせてくれてありがとう。彼女の美点がいっそう引き立つ話だったわ。彼女はほんとに立派だわ――幸せになるといいわね。幸運なのは彼のほうだったというのが当たってるわ、だって素晴らしいのは全部彼女のほうだもの」
ウエストン夫人としては、この結論に一言さしはさまないではいられなかった。彼女はフランクをほとんどすべての面で高く評価していて、そのうえ心から愛していたので、弁護は熱のこもったものになった。彼女はたくさんの根拠をあげ、少なくとも同じだけの愛情で語った。だが語るべきことがあまりに多かったので、エマはだんだんうわの空になっていった。いつしかエマの心は≪ブランズウィック・スクエアー≫や≪ドンウェル≫に飛んでいた。聞くふりをすることすら忘れていたので、ウエストン夫人が「待ち遠しいあの手紙がまだ来ないのよ。早く来るといいのだけれど」といって話を締めくくったとき、すぐには答えることができなかった。そして待ち遠しいのは一体なんの手紙なのかまるで思い出せないまま、あてずっぽうで答えなければならなかった。
「エマ、具合が悪いんじゃないの?」ウエストン夫人が別れ際にたずねた。
「いいえ! そんなことはないわ。わたしはいつだって元気よ。お手紙が来たら、すぐにも知らせてちょうだいね」
ウエストン夫人の話は、エマにさらなる不快な反省材料をもたらした。つまりミス・フェアファクスに対する評価と同情の念を高め、自分のこれまでの態度は不当だったという思いを強くしたのだ。彼女にもっと親しい交際を求めなかったことをひどく後悔し、その原因のいくらかはたしかに嫉妬心なのだと気づいて顔を赤らめた。ナイトリー氏が日頃言っていた願いにしたがって、当然のつとめとしてミス・フェアファクスに注目していたら、彼女のことをもっとよく知ろうとしていたら、親密になれるよう力を尽くしていたら、ハリエット・スミスにではなく彼女にこそ友情を見出そうと努めていたら、おそらく、今のしかかっているような苦痛はなかったはずなのだ。生まれと能力と教育のすべてが、一方を喜んで迎えるべき友人として際だたせており、他方を――そもそもハリエットになにがあったのだろう? たとえミス・フェアファクスと親友にはなれなかったとしても、彼女から今度のような大切な秘密を打ち明けられるまでにはなれなかったとしても――たぶんなれなかっただろうが――それでも、そうすべきであり、またそうできただろうほどに彼女のことを知っていたなら、彼女がディクスン氏に横恋慕しているなどと邪推することもなかったはずなのだ。しかもばかみたいに勝手に思いこんだだけでなく、あろうことかひとにまで話してしまった。彼女が最も恐れたのは、それがフランク・チャーチルの軽はずみか不注意によってジェーンの耳にはいり、彼女の繊細な神経にかなりの苦痛を与えてしまったのではないかということだった。ハイベリーへ来て以来のジェーンを取り巻いていた悪の元凶のなかでも、自分はその最たるものだったとエマは確信した。自分こそ最大の敵だったのだ。三人が顔を合わせるたびに、自分は何度となくジェーン・フェアファクスの心をずたずたにしてきたのだ。そしておそらくボックス・ヒルで、ジェーンはこれ以上は耐えられないという断末魔の苦しみを味わったに違いない。
この日の≪ハートフィールド≫の夜は、とても長く憂鬱だった。天候がさらに陰気さを募らせた。冷たい嵐のような雨が降り始め、七月らしいものといったら、強風にさらわれる木々や灌木の緑と、その残酷な風景をいつまでも見せている日の長さしかなかった。
この天気はウッドハウス氏の体にもこたえ、娘のひっきりなしの心づかいと今までにはその半分も払ったことのないほどの骨折りのおかげで、どうにか落ち着いていることができる程度だった。それはウエストン夫人の結婚の日の父と娘が初めてふたりきりで過ごしたわびしい晩のことをエマに思い出させた。でもあの時は、お茶のすぐあとにナイトリー氏がやってきて、憂鬱な空気を一掃してくれたのだっけ。ああ! そうした訪問を誘うほど魅力を備えていた≪ハートフィールド≫、だがそれもまもなく消えてしまうのだ。あの時、彼女が思い描いた近づく冬の虚ろな情景は、今思えばまちがいだった。友だちはだれも彼女たちを見捨てなかったし、どんな楽しみも失わずにすんだ。だが今感じている予感が、同じようにくつがえるとは思えない。彼女の前に広がる暗い見通しは、もはや追い払うすべもないほど不吉な色を濃くしている。たとえわずかでも、明るくなるとも思えない。もし彼女の交際範囲で起こるおそれのあることがひとつずつ現実になったら、≪ハートフィールド≫はその分だけ見捨てられていくのだ。やがてエマひとりが取り残されて、幸せがこわれたあとの気力ではげましていかなければならない。
≪ランドルズ≫に子どもが生まれたら、その子があそこではエマよりずっと大切な絆になるだろう。ウエストン夫人の心も時間もその子に占領されてしまうはずだ。エマは顧みられなくなり、夫人は夫のことさえ、えてして顧みなくなるかもしれない。フランク・チャーチルはもう彼らの許へは帰って来ないだろうし、ミス・フェアファクスも、当然の成り行きとして、まもなくハイベリーのひとではなくなる。ふたりは結婚して、≪エンスクーム≫かその近くに落ち着くことになるのだ。よいことはすべて取り上げられてしまう。こうした喪失のうえに、さらに≪ドンウェル≫まで失うことになったら、楽しくて道理をわきまえていた交際のうち、エマたちの手の届く範囲にいったいなにが残るだろうか? ナイトリーさんが晩のくつろぎを求めてここへやって来ることは、もう二度とないだろう! 彼の家とこことを取り替えたいとでもいうように、なにかといえば歩いて来るようなことは、もう二度となくなるのだ! どうしてそんなことが耐えられるだろうか? そして、ハリエットゆえに、彼を失うことになるとしたら、彼が今後すべての望みをハリエットのなかに見出していくのだとしたら、またハリエットこそが、彼が人生最大の祝福を求めて探していた、選ばれたひと、第一のひと、最愛のひと、親友、妻になるのだとしたら、それはすべてはエマの行動の結果なのだという思い以外――ずっとつきまとう自己嫌悪の念以外、エマの惨めさをひどくするものはありえないのではないだろうか?
ここまで考えて、エマはどきっとしたり、深いため息をついたり、しばらく部屋を歩き回ったりしないではいられなかった。なぐさめや落ち着きの源があるとすれば、それは良い行いをしようという決意であり、来るべき冬、いや、この先のすべての冬がこれまでよりどれほど活気も楽しさもないにしても、もっと道理をわきまえた人間になりたい、自分自身をよく知りたい、そして時が過ぎたあとで後悔しないですむようになりたい、という希望だけだった。
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第四十九章
あくる朝になっても天候は相変わらずだった。同じわびしさ、同じ憂鬱が≪ハートフィールド≫を支配しているようにみえた――が、午後になると晴れてきた。風は穏やかに向きを変え、雲は吹き払われ、陽がさしてきた。夏の日が戻ってきたのだ。この変化にさそわれて、エマは一刻も早く戸外へ出たくてうずうずしていた。嵐が去ったあとの穏やかで暖かで輝かしい自然、その美しい眺めと匂いと感覚ほど今のエマにとって魅力あるものはなかった。それらがじょじょに与えてくれる清閑さが欲しかった。それで夕食のすぐあとにペリーさんが訪ねてきて一時間ほど父の世話から解放されると、すぐに灌木の茂みへと急いだ。その場所で気持ちを切り替え、束の間の安堵をおぼえ、そうして二、三度行き来していると、ナイトリー氏が庭木戸を通って彼女のほうへやってくるのが見えた。エマは彼がロンドンから戻ったことを、この時初めて知った。ほんの一瞬前まで、彼は十六マイルの彼方にいるとばかり思っていたのだが。大急ぎで心の準備をするだけの時間しかなかった。気を落ち着けて冷静にならなければ。三十秒もすると、ふたりは向き合っていた。「おひさしぶり」の挨拶が静かにぎこちなく交わされた。エマは共通の知人の消息をたずねた。みな元気だった。――いつあちらをお発ちになったの?――今朝ほど。――では雨のなかを馬に乗ってらしたのね。――ええ。エマは彼が自分と歩くつもりだと気づいた。「食堂を覗いたらあそこには用がないようなので、外のほうがいいと思ってね」――エマには彼の顔つきも話しかたも、どことなく元気がないように思えた。たぶん弟に計画を話したのだが、好意的に受け取られずショックなのだろう。それが、彼女が心配したうちでもっとも可能性の高い原因だった。
ふたりは肩を並べて歩いた。彼は口を開かなかった。エマは彼がしょっちゅう自分のほうを見るのに気づいた。それも彼女のほうでさしつかえないと思っている以上に、まじまじと彼女の顔をのぞきこもうとしているように思える。エマは新たな不安をおぼえた。ハリエットへの愛情を打ち明けたいのかもしれない。水を向けられるのを待っているのかもしれない。だがこちらからそんな話題を持ち出すのはふさわしいとは思えないし、とても耐えられそうもない。彼のほうから切り出すべきなのだ。とはいえ、沈黙もまた耐えがたかった。彼といるときに黙っているなんて、あまりにも不自然だ。エマは考え――決心し――そして笑顔を作ろうとしながら言った。
「こうしてお帰りになったからには、ぜひお聞かせしたいことがあるのよ。きっとびっくりなさると思うわ」
「ぼくに?」ナイトリー氏は言って、じっと彼女の顔を見た。「どんな種類の話?」
「あら! この世で一番素晴らしい種類のお話だわ。結婚のことよ」
エマがそれ以上言う気がないのを確かめるようにしばらく間をおいてから、彼が答えた。
「ミス・フェアファクスとフランク・チャーチルのことを言っているのであれば、僕はもう聞いたよ」
「どうしてお聞きになれたの?」エマは驚いて赤みのさしてきた頬を彼のほうにむけた。そう言いながらも、ここに来る前にゴダード夫人のところに寄ってきたのかもしれないと思って、顔がほてった。
「今朝、教区の用事でウエストン氏から手紙をもらってね。その最後のところに、なにがあったか手短な説明があって」
エマはほっと安堵の息をもらし、やっと少し落ち着いてこう言うことができた。
「わたしたちに比べたら、あなたはあまり驚かなかったかもしれないわね。前から疑ってらしたのですもの。あなたが一度警告なさろうとしたこと、忘れてはいないわ。あの時ちゃんと聞いておけばよかった――でも(声をしずませ深いため息をつきながら)わたしはどうも盲目に運命づけられているみたいね」
すぐには返事がなかったが、エマは自分の言葉が特別な関心を引かなくても別段不審には思わなかった。その時、彼女は自分の手が彼の手のなかに引き寄せられ、彼の胸に押しつけられるのを感じた。感情をこめた低い声で、彼が言うのが聞こえた。
「時間が、エマ、時間がその傷を癒してくれるよ。君のすぐれた分別、お父上への配慮。君がいつまでもくよくよしていないことは、よくわかってる」エマの手をもう一度押しつけながら、彼はいっそうぽつぽつと、抑えた声で言った。「心からの友情と、憤りと――まったくとんでもない悪党だ!」そしてやや声を大きくし、しっかりした口調になってこう結んだ。「あいつはすぐに行ってしまうよ。ふたりともすぐヨークシャーへ行ってしまうだろう。あのひとも可哀そうに。彼女にはもっとましな運命がふさわしいのだが」
エマには彼の言うことがわかった。それで、こうしたやさしい思いやりを示されて感じた嬉しい胸の高鳴りがおさまると、すぐに答えた。
「おやさしいのね。でも誤解なさってるわ。だから正してさしあげる。わたしにはそのような同情は必要ないんです。起きていることに盲目だったわたしは、あのふたりに対し、いつまでも恥ずかしく思うような行いをしてしまったし、不快な推測をされてもしかたのないようなことを、愚かしくもたくさん言ったりしたりしてしまったわ。でもそのほかには、もっと早くに秘密を知っていればよかったのにと悔やまなければいけない理由は、ひとつだってないんです」
「エマ!」まじまじと彼女を見つめて、彼は叫んだ。「そうなのかい、本当に?」――だが自分を押しとどめて「いやいや、わかってる――許して欲しい。でも君がそこまで言い切ってくれて嬉しいよ。あの男は後悔の対象なんぞになりえない、そうとも! それに遠からず、このことは単なる口実から確固たる信念へと変わるよ。君の愛情がこれ以上深みにはまらなくて本当によかった! 正直に言って、君の態度からでは愛情がどの程度のものなのか、どうにもわからなかった。ただ好意をもってるのは事実らしかったが――その好意だって、あの男にはもったいないみたいなものだ。あれは男の風上にもおけんやつだ。そんな彼に、あの美しいお嬢さんが与えられていいものだろうか? ジェーン、ジェーン、あなたも哀れなひとだ」
「ナイトリーさん」とエマが言った。明るくしようと努めていたが、内心では当惑していた。「わたし、とてもおかしな立場におかれているようね。これ以上勘違いされたままにはしておけないわ。でもわたしの態度がそういう印象を与えたのだから、今話題にしている人物を愛したことは決してないと告白するのをとても恥ずかしく思うだけの理由はあります。普通女性がその正反対のことを告白するのを恥ずかしがるのと同じほどにね。でも、本当に愛したことはないの」
彼は一言も喋らずに聞いていた。なにか言ってほしいとエマは思ったが、口を開きそうもなかった。それで、彼から寛大に扱われる資格を得るためには、もっとなにか言わなければならないようだと想像した。彼の自分に対する評価をいっそう落とすことになりかねない、辛い立場だ。だが、エマは思い切って言葉を続けた。
「わたしのふるまいで弁解できることはほとんどないわ。彼にやさしくされて、その気になって、それを嬉しがっているふりをしていたんですもの。きっと、よくある話で、ありきたりの出来事で、過去に何百もの女性に起こったことが、わたしにも起こったにすぎないのよ。ただ、わたしのように知性を気取っている者には、それは許されないことだったけど。いろいろな状況が誘惑に味方したわ。ミスター・ウエストンの息子さんだし、しょっちゅうここへ来ていたし、いつもとても愛想のいいひとだと思ったし、それに、要するに(ため息をついて)どんなに巧妙に言い訳をあげつらねてみても、最後にはここに行き着くんだわ。つまりわたしの虚栄心がおだてられて、彼がちやほやするのを許していたのよ。でも最近では――実際ここしばらくは――それが何らかの意味をもつとはまるで考えなくなった気がするわ。それはただの習慣、ただのいたずらで、わたしとしては真剣に受け取る類いのものではなかったの。彼はわたしを欺いたけど、傷つけてはいないわ。だって、愛情を抱いたことが一度もなかったのですもの。今にして思えば、彼の行いもかなり理解できるわ。彼にはわたしを愛そうなんて気は毛頭なかった。わたしは、別のひととの本当の関係を隠すための、かくれみのにすぎなかったのよ。周囲の全員の目をごまかすことが、彼の目的だったわ。そして、わたしほど見事にだまされた人間もいなかったわけね。でも結局、わたしはだまされてはいなかったわ。運がよかったのね。わたしはつまり、どういうわけか彼からは安全でいられたのよ」
彼女としては、ここでなにかほんの二、三言――彼女の行いを少なくとも理解はできるとか――でいいから答えて欲しかった。が、彼は黙っていた。うかがい知るかぎりでは、じっと考えにふけっているようだった。ようやく彼は口を開いたが、その時にはかなりいつもの口調に戻っていた。
「今まで、フランク・チャーチルを高く買ったことは一度もなかったが、少しばかり過小評価しすぎていたといえるかもしれない。ぼくと彼とのつきあいは、その程度のあるかなしかのものだった。またこれまでの評価が過小ではなかったにしても、これからはよくなるかもしれない。ああいう奥さんと一緒なら、そのチャンスはじゅうぶんあるだろう。ぼくが彼に不幸を望む動機はなにもないし、彼女のためにも――なにせ彼女の幸福は彼の性格と行いの善し悪しにかかってくるんだから――、彼にはぜひよくなっていってほしいものだ」
「あのひとたちがそろって幸せになることはまちがいないわ」エマが言った。「お互い、心底愛しあっているんですもの」
「なんて幸運な男なんだ!」ナイトリー氏は勢いこんで言った。「まだあんなに若いのに――二十三歳か――男が妻を選ぼうとすれば大抵はずれくじを引かされる年だというのに。それがあの年で、あんな賞品を引き当てるとは! 人間の寿命を考えれば、彼にはこの先どれだけ至福の時間が続くことだろう! ああいう女性の愛を我がものにし――それも無私の愛だよ、ジェーン・フェアファクスの性格は無私の心を保証しているようなものだからね。彼にとってはいいことばかりじゃないか。対等な生活環境――つまり、交際相手とか、習慣や風習といった最も重要な点を考慮した場合、ただ一点をのぞいては対等なんだ――それにその一点だって、彼女の心の純粋さに疑いがもてぬ以上、彼の幸福を増すだけのことだろう。彼女に欠けている唯一の部分を補うという栄誉もまた、彼のものになるわけだから。男は妻になる女に対して、彼女が後にしてきた家以上のものを与えたいと願うものだ。それができる男は、女の好意に疑いの余地がないかぎり、このうえない果報者だとぼくは思う。フランク・チャーチルは実際、運命の寵児だよ。なにもかも彼によかれと流れていく。海岸保養地で若い娘と出会い、彼女の愛を獲得する。彼女をひどく扱っても、うんざりされることもない。彼と家族が最高の妻を娶《めと》らせようと世界じゅう探し回ったとしても、彼女ほど素晴らしい女性は見つからなかっただろう。彼の伯母が障害になる。その伯母が死ぬ。あとは話しさえすればいい。周囲の人間は彼の幸せを応援しようと躍起になる。――周囲をだましてきたにもかかわらずだ。みんな大喜びで彼を許してやる。まったく幸運な男じゃないか!」
「彼をうらやんでいるみたいな言いかただわ」
「そうさ、うらやんでるんだ、エマ。ある面で、ぼくは彼がうらやましい」
エマはもうなにも言えなかった。ハリエットの名前が今にも出てきそうな気がしたが、できることなら話題をそらしたいというのが率直な心境だった。それで思いをめぐらせた。なにかまったく別の話をしよう――≪ブランズウィック・スクエアー≫の子どもたちの話がいい。そして息を吸って話し出そうとしたとたん、ナイトリー氏が口を開いたのでびっくりした。
「どんな点でうらやんでいるのか、たずねないんだね。好奇心はもつまいと決心しているらしいね。――君は利口だ――だがぼくは利口にはなれないよ。エマ、君がたずねないことをぼくは言わずにはいられない。たとえ次の瞬間に言わなければよかったと後悔することになったとしても」
「まあ、だったら言わないで、どうか言わないで」エマは懇願した。「少し待って、考えてみて。あとにひけなくなるようなことはなさらないで」
「ありがとう」彼は言ったが、その口調はひどく傷ついたようであり、それきり一言も言わなかった。
エマは彼に苦痛を与えるのにしのびなかった。彼は打ち明けたかったのだ。たぶん、相談したかったのだ。どんなに辛くても、耳をかたむけることにしよう。彼の決意を助け、障害があれば解決策を探してあげよう。ハリエットをほめそやしてもいいし、彼が自立した男だということを思い出させて、どっちつかずの状態から解放してあげてもいい。彼のような性格にとって、今のような状態こそ耐えがたいに違いないのだから。――ふたりは家に着いていた。
「入るだろう」と彼が言った。
「いいえ」エマが答えた。彼の口調がまだ暗く沈んでいるのがわかって、いよいよ決意を強めていた。「もうひとまわりしましょう。ペリーさんはまだいらっしゃるようだから」そして、二、三歩進んでから続けて言った。「ナイトリーさん、さっきはわたし、不作法にも話をさえぎってしまったわ。気を悪くしてないといいけど。それで、友人としてのわたしになにか率直にお話しになりたいと思っていらっしゃるなら、あるいはあなたが考えていることにわたしの意見が必要でしたら――友人として、どうぞわたしに命じてください。どんなことでも聞きますし、思った通りを申し上げます」
「友人として、か!」ナイトリー氏は繰り返した。「エマ、それだよ、ぼくが恐れていたのは。いいや、話なんて別にありはしないさ――えい、そうとも、なにをためらう必要がある? もう隠せないところまで来てしまっているじゃないか。エマ、君の申し出をお受けしよう――突飛に聞こえるかもしれないが、申し出をお受けして、友人としての君に、ぼくのこの身をゆだねよう。では教えておくれ、ぼくにはまったく可能性はないのだろうか?」
彼は口をつぐむと、真剣な態度で、目でもまた質問の意味を語りかけた。彼の目の表情はエマを完全に圧倒した。
「最愛のエマ」彼が言った。「この会話の結果がどうあれ、君がぼくの最愛のひとであることは変わらない。最愛の、最も大事なエマ――すぐ教えてほしい。それが答えなら、どうか『ノー』と言ってほしい」――「黙ってるんだね」彼は熱をおびて叫んだ。「ひと言もなしか! ではもうなにもきくまい」
エマはこの時、心をかき乱されて今にもくずおれそうだった。この素晴らしく幸せな夢からさめてしまう恐怖で、思いが混乱していた。
「ぼくには演説などできないよ、エマ」――まもなく彼はまた口を開いた。それは誠実で迷いのない明らかにやさしい口調で、かなりの説得力があった。「ぼくがこれほどまでに君を愛していなかったら、もっとうまく話せるのかもしれない。だが、君はぼくという人間を知っている。――君に話すことはすべて真実なんだ。ぼくは君を非難し、説教してきた。そして君はイングランドのどんな女性より立派にそれに耐えてきた。だからこれから話す真実にも、最愛のエマ、今まで耐えたのと同じように耐えてほしい。もっとも、こんな態度では気に入ってもらえないかもしれないね。ぼくが冷淡な恋人だったのはたしかだから。でも君はぼくを理解している。そうとも、君はぼくの感情というものがわかっている――そしてできることなら、それに答えてもくれるだろう。今は、ただ聞かせてほしい、たったひと言、君の声を聞かせてほしい」
彼が話している間にも、エマの心はきわめて忙しく働き、驚くべき回転の速さで、それでいて一言も聞き漏らすことなく、すべての真実を正確にとらえ、理解した。ハリエットの希望は全くの事実無根、まちがい、錯覚、エマ自身がしたのと同じくらい完全な錯覚だったのだ。ハリエットとはなんでもなく、エマこそがすべてだったのだ。彼女がハリエットに関して言っていたことすべてが、エマ自身の気持ちを表す言葉として受け取られていた。エマの動揺、疑い、ためらい、落胆は、すべて彼にエマを思いとどまらせようとしてのことだととられていたのだ。
こうした真実を、それにともなって湧き上がってくる幸福感をかみしめながら確信しただけでなく、エマには、ハリエットの秘密をもらさなかったことを喜び、それは言う必要のないことだし、また言ってはならないことだと決意する余裕もあった。それが、今彼女が可哀そうな友人のためにしてやれる精一杯のつとめだ。というのはエマは、ふたりのうちでハリエットこそはるかにふさわしいひとだと言って、彼の愛情を自分から友人へ移すようにしむける感傷的なヒロイズムも、また彼はふたりと結婚するわけにはいかないのだから、理由も言わず今ここで未来永劫に彼を拒絶するような純粋な崇高さも、持ち合わせていないからだ。彼女はハリエットを思って激しい苦痛と後悔を感じた。が、あらゆる可能性やふさわしさに反してまで暴走しようとする寛大な思いは、たとえ一瞬たりとも彼女の頭をよぎることはなかった。
彼女は友人の道を誤らせてしまった。そのことは一生、彼女の汚点となるだろう。だが、彼女の判断力は感情に劣らずゆるぎなかった。以前にもない強さで、彼にそうした不釣り合いで品位を落とす結婚をさせてはならないのだと告げていた。彼女の前途は、あまり平坦ではないにせよはっきりと見えていた。それで彼女は、彼の懇願に答えて口を開いた。――なにを言ったのか?――もちろん、言うべきことを言ったのだ。淑女はいつもそうするものだ。彼が絶望する必要はないのだと納得するだけのことを言い、もっと彼自身のことを話してほしいとうながしたのだ。彼は先ほどまで、たしかに絶望の淵にいた。慎重に、黙っているようにと要求されて、しばしのあいだ希望はすべて打ち砕かれていたのだ。はじめは彼女のほうで、彼の言葉に耳をかたむけようとはしなかった。変化は不意打ちだった。庭をもう一回りしようと申し出て、自分で打ち切ったばかりの会話を再開するなど、少しばかり奇妙だったのではないだろうか! それはエマ自身にもつじつまが合っていないように思えたのだが、ありがたいことにナイトリー氏はその矛盾を見逃してくれ、それ以上の説明を求めようとはしなかった。
人間の打ち明け話が完全な真実を語っていることは、まずないと言っていい。なにかが少しばかり歪められたり、まちがっていたりしないことはほとんどないと言ってもいい。だが、この場合のように行動はまちがっていても、心情がまちがっていない場合には、それは大して重要ではないのかもしれない。エマが今以上のやさしい気持ちになることや、彼の気持ちを今以上に受けとめてくれることを彼女に望んでも、それは無理というものだった。
彼は実際、自分のエマに対する影響力をまったく知らずにいた。彼女について茂みに入ったときも、それを使おうとは思っていなかった。彼女がフランク・チャー`ルの婚約にどう耐えているかが心配で来たのであって、彼女がきっかけを与えてくれたら、なぐさめたり助言したりしようという以外、自分本位な目的、というかそもそも目的などあって来たわけではなかったのだ。その後のことは突発的に起きたものだった。聞いたことがたちまち感情を動かしてしまったのだ。彼女がフランク・チャーチルにはまったく関心がなかった、彼女の気持ちは彼から完全に離れていたという嬉しい言葉を聞いたとたん、いずれは彼女の愛情を獲得できるかもしれないという希望が芽生えたのだ。だがそれは今すぐという希望ではなかった。彼はただ、情熱が判断力を失わせた一瞬の勢いにまかせ、彼女の口から、彼女の愛を得ようと努力してもいいのだという一言を聞きたいと願っただけだったのだ。――その後しだいに希望が大きく開けてきて、よりいっそう素晴らしいものになった――できることなら、この先創り出すことを許してほしいと願った愛情は、もうすでに彼のものだったのだ! わずか三十分の間に、彼の心理状態はすっかり意気消沈した状態から、言葉には言い表せそうにない完璧な幸福感とも言えるものへと変化していった。
彼女の変化もまた同じだった。この三十分で、それぞれが互いに愛されているという得がたい確信に達し、それぞれから同じだけの無知や嫉妬、不信感などを取り除いた。彼は、フランク・チャーチルの到着以来、いや、むしろ到着が待たれていた頃から、長いこと彼に嫉妬してきた。彼はその頃からエマに恋し、フランク・チャーチルに嫉妬してきたわけだが、それは嫉妬という感情が別の感情の存在を知らせたことでもあった。彼が田舎を出て行ったのも、フランク・チャーチルへの嫉妬からだった。ボックス・ヒルのパーティーが出発を決意させたのである。ああいう周囲から黙認され助長された求愛ごっこなど、二度と見たくなかった。平気でいる術を学ぶつもりで出て行ったのだ。が、行った先が悪かった。弟の家には家庭の幸福があふれていた。そこでは、女性はあまりにも感じがよかった。イザベラはエマに似すぎていた。相違といえば目立って見劣りがすることだけで、それがかえってもうひとりの光り輝く存在を映し出した。だから、たとえ滞在期間がもっと長かったとしても、大したことはできなかっただろう。それでも彼は、来る日も来る日も頑張って滞在を続けた。そしてこの日の朝の郵便が、ジェーン・フェアファクスのニュースを伝えた。すると、彼としては感じずにはいられない喜び、いや、フランク・チャーチルがエマにふさわしい男だとは決して思っていなかったのだから、感じても気がとがめることのない喜びと同時に、愛ゆえの不安、彼女への激しい心配がわき上がってきて、もはやそれ以上とどまることができず、雨をついて馬を飛ばし、家へと急いだのだ。そして食事をすますとすぐに歩いてきて、世界で最も美しく最も素晴らしい、あらゆる欠点にもかかわらず欠点のないこの女性が、今回の件を知ってどう耐えているか、確かめようとしたのだった。
案の定、彼女は動揺し沈んでいた――フランク・チャーチルの悪党め。だがエマは、あの男を愛したことがないときっぱり言った。そうなると、フランク・チャーチルは救いようがないほどひどいというわけでもない。ふたりが家に戻ったとき、彼女は彼のエマになることを誓っていた。もしその時、フランク・チャーチルを思い浮かべることができたなら、ナイトリー氏は彼を、すこぶる好青年であるとさえ見なしたかもしれない。
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第五十章
エマが家へ戻ったときの感情は、出たときとどれほどかけ離れていたことだろう! あの時は、ほんの一時でいいから苦悩から解放されたい、ただそう願っていただけだった。今の彼女は全身で、このうえなく幸福な胸の高鳴りを感じている。そのうえこの胸の高鳴りがおさまった後には、素晴らしい幸福感がひしひしと押し寄せてくるのだということも、わかっていた。
みんなで座ってお茶を飲んだ。この同じ人たちとこの同じテーブルで、こうして何度集まったことだろう! 何度、芝生の先のあの同じ灌木を見、西に傾いていく太陽が生みだす美しさに目を瞠ったことだろう! でも今のような心境でそれらを見たことは一度もない。これに近い心境だったことすらない。だから、いつもの自分を取り戻し、行き届いた一家の女主人に戻るのは、いや、行き届いたただの娘に戻るのすら、今の彼女には難しいことだった。
気の毒にウッドハウス氏は、自分が心底歓迎し、馬を飛ばしてきたせいで風邪を引かなければいいがと案じている男の胸のうちで、どんな裏切りが企まれているかなど露ほども知らなかった。相手の胸の内を覗き見ることができたら、肺の心配などはまずしてやらなかったろう。だが彼は、近づきつつある不幸を予想だにせず、ふたりの顔つきや話し方になんの異変を感じることもなく、ペリー氏から仕入れたばかりのニュースをさも楽しそうに、そっくり繰り返していた。見返りにどんな話が返ってくるかなど疑いもせず、最後まで悦に入って話し続けた。
ナイトリー氏がいる間じゅう、エマの興奮は続いた。だが彼が帰って行くと、少し静まり落ち着いてきた。そしてこのような宵にはつきものの眠れない夜がふけていくにつれ、真剣に考えなくてはならない点がひとつふたつ残されているのを思い出し、自分の幸福だけに浸っていることはできないのを残念に感じた。父親のこと――そしてハリエットのこと。それぞれが要求する責任の重みを無視して、自分勝手にふるまうことなどとてもできない。ふたりの安らぎをどうしたら最大限守ってあげられるか、それが問題だ。父親に関しては、答えは決まっている。ナイトリー氏がどう言うかはまだわからないが、自分の胸にちょっと聞いてみただけでも、父親を見捨てては行かないというおごそかな決意が生まれるのだ。考えただけでも罪深く、涙がでてくる。父が生きている間は、婚約だけにとどめなければならない。でも、彼女がひそかに自負している通り、自分が去って行く危険がなくなったならば、この縁談も父の幸せを増すことになるのではないだろうか。――ハリエットにどう尽くすのが一番いいかという問題は、もっと難しかった。どうしたら余分な苦痛を避けられるだろう、どうしたらできるかぎりの償いができるだろう、どうしたらあまり悪者にならずにすむだろう? この問題に関する彼女の当惑と苦悩は際限がなかった。そして再び、ずっと頭を離れずにいた痛烈な非難と悲しい悔恨の間を、行ったり来たりしなければならなかった。ようやくついた決心は、やはり彼女とは顔を合わせるのを避け、必要なことはすべて手紙で伝えようということ、これからしばらく彼女がハイベリーを離れてくれたらどんなにか望ましいかということ、そしてその先の計画も考え、≪ブランズウィック・スクエアー≫にハリエットを招待してもらうことはできるだろうかと思いつき、そうしてもらうことに決めた。イザベラはハリエットを気に入っている。それにロンドンで数週間過ごせば、気晴しにはなるに違いない。ハリエットの性質からいって、目新らしさや物の豊かさ、街角や店やイザベラの子どもたちがなんの影響も与えないとは思えない。いずれにせよ、そうすることでエマが当然尽くすべき思いやりと親切の証明にはなるだろうし、当分の間離れていることで、みんなが再び顔を合わせなければならない厄介な日を、先に延ばすことができるはずだ。
エマは翌日早く起きて、ハリエットに手紙を書いた。この仕事で彼女はひどく重苦しい、ほとんど悲しい気分に落ち込んでいたので、ナイトリー氏が朝食をとりに≪ハートフィールド≫へ歩いて来ても、それを早すぎるとは決して思わなかった。食後、父の目を盗んで得た三十分間、ふたりでもう一度あの同じ場面を――同じ木立、同じ会話を――たどったのだが、それでようやく彼女は夕べの幸福感の延長へと立ち戻ることができた。
彼が帰ってからそう長くはたたない頃、まだ、ほかのひとのことを考えたいとは思っていないうちに、≪ランドルズ≫から彼女宛の手紙が届けられた。とても分厚い手紙だった。エマは中味を想像し、読む必要はないと感じた。今ではフランク・チャーチルを心から哀れむ心境だった。なんの釈明もいりはしない。ただ自分だけの思いに存分にふけっていたいだけだ。それに彼の書いたものを理解するなんていうことが、今の自分にできるはずがない。それでも、なんとか片付けてしまう必要はあるだろう。彼女は封を開けた。やはりそうだ。フランクからウエストン夫人あての手紙とともに、ウエストン夫人からの短い手紙が添えてあった。
「可愛いエマ、同封の手紙をあなたに回送できて非常にうれしく思います。あなたがとても公正な気持ちでこの手紙を読んでくださるのはわかっていますし、これがよい効果を生むに違いないと確信しています。わたしたちがこの差出人のことで意見を異とすることは、もう二度とないでしょう。でも、くどくどと前置きするのはやめますね。わたしたちはとても元気です。この手紙は、わたしが最近感じていた苛々を一掃してくれました。火曜日のあなたの様子が気になりましたが、あの朝の天気はかなり不快なものでした。天気の影響だなんてあなたは認めたくないでしょうけど、北東の風はだれにもこたえるとわたしは思います。火曜の午後から昨日の朝にかけての嵐が、お父さまにさわらなかったかと大変心配でしたが、昨夜ペリーさんから悪影響はなかったと聞き、安心しました。
かしこ
A・W
「ミセス・ウエストンへ」
ウィンザーにて、七月
親愛なる母上
昨日わたしが申し上げたことをご理解いただけたなら、この手紙をお待ちのことと思います。が、お待ちか否かにかかわらず、これが公平かつ寛大にお読みいただけるものと存じています。母上ほど善良な方はおられません。そしてわたしの過去の行為のある部分をお許しいただくためには、その善良さのすべてを発揮していただく必要があると思っています。ただ、わたしは、もっと憤慨していたはずの人物からも許しを得ました。書き進むにつれて、勇気が湧くのを感じます。幸福の絶頂にいる人間が謙虚になるのはむずかしいことです。わたしはすでにふたりに許しの嘆願をし、成功しました。このためあなたからも、またあなたのお友だちで立腹なさるだけの理由をおもちの方からも、必ずお許しいただけるものと甘く考えすぎるきらいがあるかもしれません。
初めて≪ランドルズ≫にうかがったときのわたしの立場を、まず正確に理解しようと努めていただく必要があります。わたしには万難を排して守りきらねばならない秘密があったと考えていただかなくてはなりません。それは事実でした。そのような秘密を要する状況に身をおく権利がわたしにあったか否かは、また別の問題です。それはここでは論じません。ただ、一階が上げ下げ窓、二階が開き窓のハイベリーの煉瓦造りの家にけちをつけたがる多くのひとびとのことを思い浮かべてくだされば、それを権利と考えたいと思ったわたしの心情も察していただけると思います。わたしには彼女におおっぴらに求愛する勇気はありませんでした。当時の≪エンスクリーム≫におけるわたしの苦境については周知のことと思いますのであえて説明はしません。
わたしは幸運なことに、ウエイマスで別れる前に彼女を説き伏せ、ついにはこの世で最もまっすぐな女性の心を曲げて、寛大にも秘密の婚約を承服してもらいました。もし拒絶されたら、わたしは発狂していたでしょう。母上はここでおっしゃるでしょう、そんなことをして、おまえに希望があったのか? 何をあてにしていたのか? と。なんでも、あらゆることを、あてにしていました。時間、チャンス、環境、じわじわ広がる効果、突発事項、忍耐と疲労、健康と病気などです。わたしの前途には無限の可能性が広がっており、その最初の恩恵を、まず彼女から、誠実さと文通の約束を得ることで確保いたしました。
もっと説明が必要でしたら、母上、わたしにはあなたの夫の息子だという栄誉と、したがって楽天的な気質を受け継いでいるという利点があるとお考えください。これは家屋敷や土地を受け継ぐより、はるかに価値のあることです。そういうわけで、わたしの初の≪ランドルズ≫訪問はこのような状況のもとで行われました。この点に関しては、わたしは自分の罪を自覚しております。というのは、その訪問はもっと早くになされてもよかったからです。当時を振り返っていただければ、わたしがうかがったのは、ミス・フェアファクスがハイベリーに行ってからだったとおわかりになると思います。母上、あなたも軽んじられた当人ですが、あなたからはすぐにお許しをいただけるでしょう。ですが父のほうは、わたしが長くお宅へ寄り付かなかったために、それだけ長い時間わたしが、あなたと知り合う幸福を失っていたのだと考えてもらって、同情にすがるほかなさそうです。あなたがたと過ごした素晴しく楽しかった二週間のわたしのふるまいは、総じて非難される筋合いのものではなかったと思います。ただし、ひとつを除いてですが。さあ、いよいよ、≪ランドルズ≫滞在中のわたしのふるまいのなかで主要な、唯一重要な部分にさしかかりました。わたし自身不安を覚えつつ、誠心誠意の説明をしたいと思います。最大の敬意と温かい友情を込めて、わたしはミス・ウッドハウスの名を挙げます。たぶん父は、深く恥じ入りながらと付け加えるべきだと言うでしょう。父が昨日もらしたふた言三言には、そうした父の意見と非難が含まれていましたが、わたし自身、その非難は正当だと認めます。わたしのミス・ウッドハウスに対する態度は、思うに、本来あるべき以上のものでした。わたしたちが出会ってすぐに生まれたある種の親密さを、わたしにとって何より大切な隠し事を守りやすくするために、許される以上に利用したのです。
ミス・ウッドハウスが見せかけの対象だったことは否定できません。しかし、あなたが信じてくださると確信して、はっきり言います。彼女がわたしになんの関心ももっていないと確信できなかったなら、どんな利己的な目的によっても、わたしにあの状態を続けさせたりはしなかったでしょう。ミス・ウッドハウスは立派な魅力的な方ですが、恋愛の対象になりそうな若い女性という印象を、わたしは一度も受けませんでした。そして彼女の方でもわたしを恋愛の対象に選ぶ気配がまったくなかったことは、わたしの願望であると同時に、確信でもあったのです。彼女はわたしの好意を気楽に、親しげに、陽気に、冗談まじりで受け取りました。
それがわたしには好都合でした。わたしたちはお互い理解しあっているようにみえました。家族の関係からいっても彼女には、そうした好意は当然払われるべきものであり、またそう感じられました。あの二週間が終わる前に、ミス・ウッドハウスが本当の意味でわたしを理解し始めていたかどうか、わたしにもわかりません。別れを告げに訪れたとき、もう少しで真相を告白しそうになったのを覚えていますが、その時に、彼女は全然疑っていないわけではないと感じました。とにかくその後、少なくともある程度まで見破っていたのはまちがいないところです。
――すべてを推察してはいなかったかもしれませんが、彼女の敏感さは一部を見抜いていたはずです。わたしはそれを疑いません。この件が現在の束縛から解放されたら、彼女にはこれがまったくの不意打ちではなかったことが、母上にもおわかりいただけるでしょう。彼女は何度もそれをほのめかしました。舞踏会の席で、彼女がこう言ったのを覚えています。あなたはエルトン夫人に感謝しなくてはならないわ、だって、彼女はミス・フェアファクスにとても親切にしているのよ、と。ですからこのことが、あなたと父が悪いと思われている、ミス・ウッドハウスに対するわたしのふるまいを、少しでも許していただく材料にしてくださればと願います。母上はわたしがエマ・ウッドハウスに罪を犯したとお考えのようですが、どちらの女性からみてもわたしは無罪です。ですからこの場でわたしを放免してくださり、然るべき時が来たら、わたしのためにエマ・ウッドハウスからも釈放通知と好意の言葉とを取りつけていただけませんか。彼女に対しては兄のような愛情を抱いておりますので、いつかわたしと同じほど深く幸福な恋愛をされることを心から望んでいます。
――あの二週間のわたしの言動のうちどんな奇異なことに関しても、これで手がかりが得られたでしょうか。わたしの心はハイベリーにあり、わたしのつとめはできるだけ頻繁にそこに行くことであり、しかもできるだけ怪しまれずにいることでした。何か妙な点を思い出したとしても、いずれも正しく解釈しなおしていただけますね。
――ずいぶん話題になっていたピアノのことでは、ぜひ言わなければならないと感じています。つまりミス・Fは、あれが注文されたことをまったく知りませんでした。選択の権利が与えられていたら、彼女は決して贈ることを許さなかったはずです。
――婚約期間全体を通じたあのひとの慎重なつつましさは、母上、正しく評価しようとしてもわたしの力では到底できないほどのものです。母上も間もなく、彼女の人柄のすべてをご自分の目でお知りになるでしょう。――どんなに美辞麗句を連ねても、彼女を言い表すことはできません。彼女が自分で自分を語るしかありません――ただし、言葉でではなく。というのは、彼女ほど意識して自分の美点を隠そうとするひともいないからです。この手紙を書き始めてから、実は思った以上に長くなっているわけですが、彼女から手紙が来ました。自分の健康について問題はないと記してありましたが、一度も愚痴を言ったことのないひとですから、あてにはできません。
彼女の顔色については母上の意見を聞きたいと思います。まもなく母上が彼女を訪問されると聞きました。彼女はそれを恐れつつ暮らしています。それとももう訪問されたでしょうか。結果をすぐに知らせてください。細かな様子を聞きたくてたまらないのです。わたしがランドルズに数分しかいられなかったことを思い出してください。どんなにうろたえ、気違いじみた状態だったか思い出してください。今でも完全に回復してはいません。幸福のせいか、みじめさのせいか、相変わらず錯乱しています。わたしがいただいた親切と好意、彼女の素晴しさと忍耐力、伯父の寛大さなどを考えると、わたしは喜びで天にも昇る心地がします。一方、わたしが彼女を不安のどん底に陥れてきたこと、自分が許される価値もないことなどを思い出すと、わたしは怒りで身が震えるのです。ああ、早く彼女に会うことができれば!
――でも今はそれを申し出るときではありません。伯父はもうじゅうぶんによくしてくれたのですから、これ以上要求すべきではありません。この長い手紙にはまだ付け加えることがあります。母上は、聞くべきことをまだすべて聞いてはいません。昨日はこれに関係した細部をなにも話すことができませんでした。ですが、このことが急に明るみに出るに至った突発性、ある意味で時期尚早だったことは、ぜひ説明しておかなければと思います。というのは、先月二十六日の出来事によって、母上もそう結論づけると思いますが、突如としてわたしにとっては最も幸せな展望が開かれました。が、本当はあんな性急な手段に訴えるつもりはありませんでした。しかし、極めて特殊な事情によって、一刻の猶予もなくなってしまったのです。なににせよそのように事を早急に運ぶことは避けたかったのですし、彼女も、わたしが感じた良心の呵責の何倍もの強さと純粋さで、同じように感じていたでしょう。でも選択の余地はありませんでした。あの女に急き立てられて結んだ仕事の契約が――さて母上、突然ですが、ここで中断しなければなりません。頭を冷やして気を落ち着ける必要があるようです。
田園を散歩してきました。今ではかなり正気に戻ったと思いますので、この手紙の残りを然るべく仕上げることができるでしょう。それは実際、わたしにとって最もくやしい思い出です。全く恥ずべき行いでした。ここではっきり認めますが、わたしのミス・Wへの態度は、ミス・Fを不快にしたという点で、非難されて当然でした。ミス・Fはそれに反対でしたが、それだけでやめるべきだったのです。真実を隠すためだというわたしの口実を、彼女は納得しませんでした。彼女は腹をたてている、わたしは理不尽にもそう思い込みました。なにかにつけ、わたしは彼女が不必要なほど堅くて用心深いと思いました。彼女は冷たいとさえ、わたしは思いました。でも彼女はいつも正しかったのです。もしわたしが彼女の判断力に従っていたら、そして彼女が適当と考えるあたりで短気を抑えることができていたら、これまでで最大の不幸を回避できたはずでした。わたしたちは喧嘩をしました。≪ドンウェル≫で過ごした日のことを覚えてらっしゃるでしょうか? その日、それまで蓄積されてきた小さな不満が一気に危機をむかえたのです。遅れて行ったわたしは、ひとりで歩いて帰る彼女に出くわしました。わたしとしては一緒に歩きたかったのですが、彼女はそれを許そうとしませんでした。あまりに頑として拒み通すので、わたしはそれはひどすぎると思いました。今であれば、それがごく当然の首尾一貫した思慮深さ以外の何物でもなかったとわかります。我々の婚約を世間の目からごまかすために、わたしが一時間ばかりも目に余るほど入念に別の女性を相手にする一方、今度は彼女が、今までの用心をすべて無に帰す恐れのある申し出に同意しなければならない理由があるでしょうか? ≪ドンウェル≫とハイベリーの間を一緒に歩いているところをだれかに見られでもしたら、必ずや真相が露見していたでしょう。けれどもわたしは理性をなくし、かっとなりました。彼女の愛情を疑いました。
翌日のボックス・ヒルでは、なおいっそう疑いました。わたしの態度に怒った彼女は――つまりあのように恥ずかしくも無礼な、彼女をまるで無視した態度、ミス・Wへのあれほど露骨な愛情表現、これらはどんなに分別のある女性でも我慢の限界を超えたものに違いなかったのですが――わたしにはっきりわかる言葉で憤慨を表しました。つまり、母上、これは彼女の側には何の罪もなく、わたしがまったく言語道断だったという喧嘩なのです。翌朝まで母上の許にとどまることができたにもかかわらず、わたしがその晩のうちにリッチモンドへ帰ってしまったのも、できるだけ彼女に腹をたててやりたいという、ただそれだけの理由でした。その時ですら、そのうち仲直りするつもりもないほどにはわたしも馬鹿ではありませんでした。けれどわたしは傷つけられた男であり、彼女の冷淡さに傷心し彼女こそ先に折れるべきだと決め込んで、去って行ったのです。
――あなたがボックス・ヒルのパーティーに参加しなかったことを、わたしはこの先ずっとうれしく思うでしょう。そこでのわたしのふるまいをご覧になっていたら、わたしをよく思ってくださることはもう二度と望めなかったはずです。彼女はそれによって、直ちに決断しました。わたしが本当にランドルズを去ったことを確認したとたん、彼女はあのおせっかいなエルトン夫人の申し出を承諾したのです。ついでながら、あの女の彼女に対する扱いのすべてに怒りと嫌悪をもよおします。わたし自身に惜しみなく差しのべられている彼女の寛容の精神に対し、意義を申し立てるべきではありませんが、さもなければ、あの女に対してもその精神の分け前が認められていることに、大声で抗議したいくらいです。だって『ジェーン』呼ばわりですよ! 母上はお気づきでしょうが、わたしは母上に向かってさえも、彼女をその名で呼ぶ特権を自分にゆるしてはいないのです。ですから、どうかお察しください。エルトン夫妻の間で、やたらと繰り返されるあの俗っぽさと優越感まるだしの尊大さで、彼女の名がやり取りされるのを聞くとき、わたしがどれほど自分を抑えねばならなかったか。
あと少しおつきあいください。もうすぐ終わりますから。彼女はわたしとは縁を切る決意で申し出を承諾したのでした。その翌日、我々はもう二度と会うべきではないと書いてよこしました。
――『この婚約は、どちらにとっても後悔と苦痛しか生み出さないように思います。わたしはこれを解消いたします』――この手紙が着いたのは、ちょうど気の毒な伯母が亡くなった朝のことでした。わたしは一時間もしないうちに返事を書きました。けれども取り乱していたこともあり、また様々な用事が一挙にわたしの上に降りかかったこともあって、わたしが書いた返事は、その日に書いたほかのたくさんの手紙と一緒に投函されるかわりに、わたしの書き物机にしまいこまれたままになったのです。なのにわたしは、わずか数行ではあるけれども、彼女を満足させるだけのことは書いたと信じ込み、なんの不安ももたずにいたのでした。
彼女からなかなか返事が来ないのでがっかりはしましたが、彼女の事情を推し量り、また自分があまりに忙しかったもので、そのうえ――こう付け加えてもいいでしょうか?――明るい見通しにあまりに浮き足立っていたもので、悪いほうには考えられなかったのです。わたしたちはウィンザーへ移りました。その二日後、彼女から小包を受け取りました。わたしの手紙がすべて返されてきたのです! 同時に届いた短い手紙には、彼女からの最後の手紙に一言の返事ももらえず、大変おどろいた旨が書かれていました。さらに、こうした点について沈黙しているということは誤解のしようもなく、だとすれば付随する身辺整理はできるだけ早く終えたほうがどちらにとっても望ましいので、こうして安全な送付手段で手紙を送り返す、そしてお願いしたいのは、もし彼女の手紙を一週間以内にハイベリーに届くように今すぐ手配ができないなら、その後はこれこれの住所宛に送って欲しい、つまり、ブリストル近郊のミスター・スモールリッジの詳しい住所が、わたしをにらみつけていたのです。わたしはその名前も場所も知っていました。そのひとたちについては全部聞き知っていました。彼女がなにをしようとしているか、わたしは即座に理解しました。
彼女にそんな決断力があるということに、わたしはまったく気がつきませんでした。そして、前の手紙ではそうした計画があることについて一言も触れていないことも、同じく彼女の繊細な気配りを物語るものでした。わたしを脅迫しているようにみえることなど、彼女は断じてしたくなかったのです。わたしのショックをご想像ください。自分の失策だと気づくまで、わたしがどれほど口汚なく郵便局の怠慢を罵倒したか、ご想像ください。どうすべきか?――答えはひとつです。伯父に話さなければなりません。伯父の承諾が得られないかぎり、彼女に再び聞き入れてもらえる希望は万にひとつもありません。わたしは話しました。状況がわたしに味方してくれました。先日の不幸が、伯父の誇りを和らげていました。思ったよりも早く伯父は折れ、承諾してくれました。最後には、気の毒に! 深いため息をついて、結婚生活に自分と同じくらいの幸せを見出して欲しいとまで言ったのです。――わたしとしては、だいぶ性質が違うのではないかと思うのですが。伯父に打ち明ける際にわたしが抱いた不安、すべてを賭したときのわたしの不安をあわれんでくださるでしょうか? いいえ、わたしをあわれむのは、わたしがハイベリーに着いてから、わたしのせいで彼女がどれほど病み衰えたかを見た後のことにしてください。すっかり青ざめ、病んだ彼女の顔を見たときのわたしをあわれんでください。わたしがハイベリーへ着いたのは、彼女たちの遅い朝食から割りだして、彼女がひとりでいる確率が高いと思える時間帯でした。期待は裏切られませんでした。旅の真の目的においても、わたしの期待は裏切られませんでした。至極もっともな、まったく正当な不満の数々を、わたしはひとつずつ解きほぐしていかねばなりませんでした。でもそれは成し遂げられました。わたしたちは和解し、以前にもまして仲睦まじく、はるかに仲睦まじく和解して、今後再びふたりのあいだに一瞬でも不安が芽生えることは、決してありえません。
さて、母上、これであなたを解放します。これ以上早くは書き終えられませんでした。あなたが示してくださったご親切にたくさんの感謝をささげ、この先彼女に対してあなたのお心が示してくださるであろうやさしさに、その十倍の感謝をささげます。わたしのことを身に余るほど幸福だとお考えでしょうか。わたしもまったく同感です。ミス・Wは、わたしを幸運の申し子と呼びました。彼女の言う通りだと思います。ある一点で、わたしの幸運は疑いの余地がありません。というのは自分のことをこう記すことができるからです。
感謝と愛情をこめて、あなたの息子
F・C・ウエストン・チャーチル
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第五十一章
手紙はエマの心を動かした。読む前にはそうすまいとの決意を抱いていたにもかかわらず、ウエストン夫人が予言したとおり、その手紙の正当性を受け入れざるを得なかった。自分の名前を見つけると、ついつい引き込まれ、自分に関係のあるくだりはどれも興味深く感じられ、ほとんどの文章に好感をもった。読み進むうち、フランクに対する以前の好意が自然と戻ってきて、自分に関係する魅力あるくだりを読み終えても、手紙が伝えたいことはじゅうぶんな説得力を持ち続けた。そのときのエマには、愛に関することならばどんな話題でも興味があったので、なおさらだった。始めから終わりまで、一気に読み通した。彼はたしかに過ちを犯したのだと思わずにはいられなかったが、以前感じていたほどひどい過ちだとは思えなくなってきた。なにより彼は苦しんでおり、後悔している。それにウエストン夫人に心から感謝し、ミス・フェアファクスをだれよりも愛している。それにエマ自身もたいへん幸せな気持ちでいるので、厳しい態度を取る必要はなかった。もしそのとき彼が部屋に入ってきたとしても、以前と同じように心を込めて握手を交わすことができたろう。
エマはこの手紙にとても感動し、ナイトリー氏がやってきたらぜひ読ませたいと思った。ウエストン夫人は特に、ナイトリー氏のようにフランクのふるまいを不快に思っているひとにこそ読んで欲しいと願っているのだとエマは確信した。
「喜んで目を通そう」とナイトリー氏は言った。「だがかなり長いようだから、持って帰って夜にでも読むよ」しか しそれは無理な話だった。ウエストン氏が晩にやって来ることになっており、手紙はそのときに返さなくてはならない。
「ぼくはきみと話をしていたいんだが」とナイトリー氏は言った。「だが、正義にかかわることのようだから、読むことにしよう」
こう言ってナイトリー氏は手紙を読み始めたが、すぐに目を上げた。「もし、こちらの紳士が義母に宛てた手紙を数ヵ月前に目にしていたら、これほど冷静ではいられなかったろうね。エマ」
彼は黙って読み進むと、微笑を浮かべてこう言った。
「ふん、なんとも仰々しい書き出しだね。これが彼の流儀なんだろうが。もちろん、あるひとの文体がそのまま他人の文体にあてはまるわけではないのだから、ここでは厳しいことは言わないようにしよう」
そのあとすぐ、「読みながら、自分の意見を口に出すほうがぼくには自然なようだ」とつけ加えた。「そうしたほうが、君のそばにいることを実感できる。たいして時間を食うわけではないし。もちろん君がいやなら――」
「ちっともかまわないわ。そうして下さい」
ナイトリー氏はいっそうきびきびした様子で読み進んだ。「ここではひとをばかにしている。『それを権利だと考えたい』、というところだ。彼には自分が悪いことを知っているし、それを正当化できるものなどなにもない。ひどいことだ。婚約などすべきではなかったのだ。『楽天的な気質』だって。これはウエストン氏に対しての侮辱だ。氏の快活な気質は、まず正しくて尊敬すべき努力というものが土台にあるからこそ、いっそう素晴らしいものなのだ。それに、ウエストン氏の現在の幸福は、努力して得るまでもなく、もともとあってしかるべきものだ。――たしかにそうだ。彼がやって来たのはミス・フェアファクスがここへ来てからだ」
「わたしも忘れていないわ」とエマが言った。「あなたは、その気さえあれば、彼はもっと早くにこちらへ顔を見せられたはずだと、言っていたわ。寛大にもあなたは忘れてらっしゃるようだけど。おっしゃった通りでした」
「エマ、ぼくの批判はあまり公平とはいえなかった。でも、君がこの事件に巻き込まれていなかったとしても、彼を信じる気にはなれなかっただろうね」
ミス・ウッドハウスに関するくだりにさしかかると、ナイトリー氏はひとつひとつ声に出して読まずにはいられなかった。エマに関するすべての箇所に目を通しながら、語られる内容に応じて笑みを浮かべたり、表情を変えたり、頭を振ったり、ふた言三言同意を述べたり、不賛成の意を示したり、また単なる愛の言葉をもらしたりした。しかし最後はよくよく考えた上でこう結論づけた。
「まったくひどい話だ。いや、もっとひどいことになっていたかもしれないが。なんとも危険なゲームをしたものだ。無罪放免にしてしまうには、あまりに多くの過ちを犯しすぎている。きみに対するふるまいにも、一言の自己批判もない。いつだって自分の願望のままに行動し、自分の便宜のほかは何も顧みようとしない。きみが彼の秘密を探っていたと想像しているようだが、あたりまえだ! 心の中が陰謀で渦巻いているもので、他人のことも疑いたくなってくるのだろう。奇っ怪で、巧妙だ。こういったものがいかに人間の理解力をゆがめてしまうことか! エマ、このことで、人間関係においては、真実や誠意がどんなに美しいものか、いままで以上にはっきりわかるとは思わないかい」
エマはそれに同意したが、ハリエットのことを思い出して顔が赤くなり、その理由を誠意を込めて説明することはできなかった。
「お続けになったほうがいいわ」とエマは言った。
ナイトリー氏は読み進んだが、しばらくするとまた顔を上げた。「ああ、ピアノ! なんとも青臭いことをしたものだ。若すぎて、ありがた迷惑になるかどうかも考えられないとは。まったく、子供じみた計画だ! だいたい男が女に、愛の証として相手がむしろ断りたいと思っているものを贈るなどというのは、理解できないね。ミス・フェアファクスができたらピアノが届くのを阻止したいと思っていたのは、彼だって知っていたのだから」
このあとナイトリー氏は休まずに読み進んでいったが、フランクが恥ずべきふるまいをしたと告白しているくだりまできて、ちょっとした感想をもらした。
「まったく君の言う通りだよ、フランク・チャーチル君」これがナイトリー氏の意見だった。「君はたいへん恥ずべきふるまいをしたんだ。これ以上の真実は書けなかったろうね」そして、その後に続く彼らふたりの意見の喰い違いと、フランクがジェーンの正義感とは正反対の行動に出ようとした点を読み終わると、ナイトリー氏はそれ以上続きを読もうともせずにこう言った。「これはまったくひどい。彼は自分の便宜のために、ミス・フェアファクスを困難で不安定な状況に置こうとしたのだ。本来ならまず第一に、彼女が苦しまないよう取り計らうべきなのに。ミス・フェアファクスはきっと、彼と文通する際に彼よりも大きな障害と戦わねばならなかっただろう。たとえそれが根拠のない警戒だったにしても、そのあたりをきちんと思いやるべきだった。それに彼女の警戒は全て根拠のあるものだった。もし彼女に欠点がひとつだけあるとしたら、それは婚約に同意したことだろう。それがなければ、彼女がこのような苦しみを受けるなど、到底我慢できない」
エマはナイトリー氏がそろそろボックス・ヒルのくだりにさしかかるのを知って、どきどきした。なんとはしたないふるまいをしてしまったことか! エマはじゅうぶんそのことを恥じており、ナイトリー氏が次に見せるであろう表情が恐かった。しかしナイトリー氏は黙って読むだけで、なんの感想も口にしなかった。ただ、一度だけちらりとエマのほうを見やったが、エマに苦痛を与えてはいけないと、すぐに視線を戻した。ボックス・ヒルでの出来事などまるでなかったかのように。
「我らが友、エルトン夫妻の麗しき繊細さについてはあまりふれていないようだね」というのがナイトリー氏の次の感想だった。「彼の感情は当然だ。――何だって! ミス・フェアファクスは、実際に彼とはきっぱりと別れようと決心したのか! きっと、婚約がお互いの後悔と惨めさの原因だと感じたのだろう――それで解消したわけだ。彼女が、彼のふるまいについてどう考えていたかよくわかるじゃないか。彼はきっと……」
「いえ、いえ、先を読んでちょうだい。彼がどんなに苦しんだか、お分かりになるわ」
「そうあって欲しいものだよ」とナイトリー氏は冷たく答え、続きを読み始めた。「『スモールリッジ』だって。これはいったいどういうことだ」
「彼女、スモールリッジ夫人の子供たちの家庭教師になる約束をしたの。ええ、エルトン夫人の親友だそうよ。≪メイプル・グローヴ≫のご近所とか。ところで、エルトン夫人は断られてどんなふうに思ったかしら」
「愛するエマ、余計な口ははさまないで――たとえエルトン夫人のことでもね。読んで欲しいと言ったのは君だよ。あともう一ページで終わりだ。すぐに終わるから。それにしてもあの男はなんという手紙を書いたんだ」
「彼に対してもう少し親切な気持ちで読んで頂きたいわ」
「ああ、ここには感情が込められている。彼女が病気なのを知って悲しんでいる。彼がミス・フェアファクスのことを愛しているのはたしかなようだ。『以前にもまして仲睦まじく、はるかに仲睦まじく和解して』だって。この和解の価値をいつまでも実感して欲しいものだね。彼はずいぶん何度もしつこく感謝し続けているが。『身にあまる幸福』だって。ここまできてようやく自分というものが分かったようだな。『ミス・Wはわたしを幸運の申し子と呼びました』本当にこれが君の言葉なのかい? それにしてもめでたしめでたしといったところだ。それでこの手紙か。幸運の申し子! それが彼につけた名前なのかい?」
「あなたはわたしほどこの手紙に満足なさらなかったようね。でもこの手紙を読んだからには、彼のことをよく思わなければなりませんし、少なくともわたしは、そう願っているわ。この手紙があなたへのなんらかの取りなしになってもらえたら、とね」
「ああ、たしかにね。彼には大きな欠点がある。思慮深さに欠けるところと思いやりのないところがね。ぼくは彼がもったいないほど幸せだと考える点では、彼の意見にまったく賛成だ。まあ、彼がミス・フェアファクスを愛しているのは疑いようもないことだし、まもなく彼が望んだ通り、いつも彼女と一緒にいられるという特権さえ手に入る。だから、彼の性格もじき改善され、いまは欠けている堅実さやデリカシーも身につくだろう。ねえエマ、もう別のことを話させて欲しいな。ぼくは、あまりにもほかのだれかさんのことが気にかかっているので、これ以上フランク・チャーチルのことなど考えられないんだ。今朝君と別れてからずっと、エマ、ぼくはある問題を真剣に考えていたんだ」
その問題とは次のようなことだった。ナイトリー氏は恋する女性に対してでさえ、率直で気取ったところのない、紳士的な言葉で話した。どうすればウッドハウス氏の幸福を台無しにすることなく、エマと結婚できるか。エマの答は最初のひと言を待つまでもなかった。「お父様が生きている間、生活を変えるなんていうことはわたしにはできません。お父様と別れることなんてできないわ」しかしこの答は一部しか賛成されなかった。エマがウッドハウス氏と別れて暮らすなどということは、ナイトリー氏も到底無理だと思っていたが、もうひとつの、生活の変化を認められないというのは賛成しなかった。ナイトリー氏はその問題を深く熱心に考えていた。最初ウッドハウス氏を、エマと一緒に≪ドンウェル≫に移るよう説得しようと考えた。その可能性があることを祈ったが、氏のことを良く知るナイトリー氏としては、それ以上自分を欺くことはできなかった。そういうことになれば、ウッドハウス氏の安寧はもちろんのこと、生命まで危険にさらすことになりかねないので、そのような無理をしてはいけないと自分に言い聞かせた。ウッドハウス氏を≪ハートフィールド≫から離すだなんて、そんなことは断じて許されない。しかしそれをあきらめてから立てた新しい計画を、エマはきっと受け入れてくれるに違いないと思った。つまり、ナイトリー氏自身が≪ハートフィールド≫に移り住むという計画である。ウッドハウス氏の幸福が、言い替えれば彼の生命が≪ハートフィールド≫こそエマの家であると要求する限り、同じように≪ハートフィールド≫が彼の家でなければならない。
みんなで≪ドンウェル≫に移ることはエマもちらりと考えてはみたが、ナイトリー氏と同じように、その計画を検討したうえで退けた。しかし、このような代案は少しも思いつかなかった。エマはこの計画に溢れるナイトリー氏の愛情にひどく心を動かされた。≪ドンウェル≫を出るとなると、ナイトリー氏は時間と習慣の自由を大きく犠牲にしなければならない。それにウッドハウス氏と常に一緒に暮らし、自分の家を持たないことによって、我慢しなければならないことがそれこそ山のように出てくるだろう。エマはその計画を検討してみると約束し、ナイトリー氏にももっと考えてみるよう忠告した。しかしナイトリー氏はこの計画をどんなに考えようとも、自分の意見は変わらないと確信していた。この問題については長いこと冷静に考えたと、保証することもできた。ひとりでとことん考えたくて、午前中はずっとウィリアム・ラーキンスから離れていたほどなのだ。「あら、考えに入れていなかった問題があるわ」とエマが叫んだ。「きっとウィリアム・ラーキンスはこの計画が気に入らないわよ。わたしの同意より、彼の同意を得なければね」
しかしエマはこの問題を検討することを約束した。もちろん、それがとてもよい計画だという見込みのもとに、約束したといってもよいのだが。
山のようにある問題点の中で、特に≪ドンウェル≫のことを考えるにあたって特筆すべきことは、エマが一度として甥のヘンリーに損害を与えるという問題に思い至らなかったことだ。推定相続人としての彼の権利が、以前はあれほど強くエマの頭にあったにもかかわらずである。もしふたりが結婚することになれば、あの可愛いヘンリーの身にどういう変化がおきるか、エマは考えなければならないはずだった。しかしエマは皮肉な笑いを口許に浮かべるだけで、内心おもしろがっていた。ナイトリー氏がジェーンにしろだれにしろ、ほかの女性と結婚することをあれほどいやがった気持ちの根底にあったものがわかったからだ。当時は、単に妹として、叔母として親切に気遣っているだけだと思っていたのだが。
結婚しても相変わらず≪ハートフィールド≫で生活できるというこの計画は、考えれば考えるほど素晴らしく思われた。ナイトリー氏の損害はそれほど大したものではないようにも思われてきて、エマにとっては好都合なことばかりで、お互いの利益を合わせれば、全ての不都合にも打ち勝てるように思えた。エマの行く手にふさがる不安と寂しさの時期に、このような伴侶に恵まれるとは! 時が流れるにつれ、憂鬱さが増すに違いない義務と悩みのときに、これほど素晴らしいパートナーを得られるとは!
かわいそうなハリエットのことさえなければ、エマは幸せすぎるほど幸せだった。しかしエマ自身の幸福がハリエットを苦しませ、これから≪ハートフィールド≫からも遠ざけられることで、友人の苦しみはますます大きなものになる。エマが自分のためにも守るべき楽しい家族からは、思いやりからいっても、ハリエットを遠ざけなくてはならない。彼女はすべての面で敗者となってしまう。エマは彼女がいないからといって、楽しみがなくなったと嘆くことはできない。このような状況の中では、ハリエットはどうしても耐えることのできないお荷物なのである。だが、ハリエットにとっては、そういうわけのわからない刑罰を受けるなんて、全く筋の通らない残酷な運命のように思われるだろう。
時が経てばもちろん、ハリエットもナイトリー氏のことは忘れるだろう。つまりだれか別のひとが現れるという意味である。しかしすぐにそういう事態になると期待するのは無理な話である。ナイトリー氏が、彼女の心の傷がたちまち消えるようなひどいふるまいをすることはあり得ない。エルトン氏とは違うのだ。ナイトリー氏はいつも親切で、情けがあって、だれにでも思いやり深い人物で、今よりも尊敬されなくなるようなことは決してないだろう。それに、いくらなんでもハリエットが一年に『三人』もの男性を好きになるなんていうことも、とうてい有り得ない望みなのだ。
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第五十二章
ハリエットが自分と同じように会うのを嫌がっていることを知り、エマはすっかり安心した。ふたりのつきあいは、手紙をやりとりするだけでも痛々しかった。実際に顔を合わせなければならないとなれば、どんなにきまりが悪いことだろう。
ハリエットは想像した通り、自分の気持ちを言葉を尽くして語っていたが、エマをとがめるような口調はみられず、また、ひどい仕打ちをされたという思いもみせなかった。それでもエマは、手紙の中に憤りに近い感情を読みとることができ、やはりふたりは離れていたほうがいいのだという思いを強くした。それはエマの思い過ごしかもしれないが、天使でもない限り、このような打撃に憤りを感じるのは当然のことだろう。
ハリエットのために、エマは難なくイザベラの招待を取り付けた。わざわざつくり話をするまでもなく、招待を要請するだけのかっこうの理由があったのだ。ハリエットは歯を悪くしていた。実際彼女は、歯医者にかかりたいと思っていたので、イザベラは喜んで役にたちたいと申し出た。どこか体に具合の悪いところがあれば、イザベラはいつだって引き受けてしまう。担当する歯医者はウィングフィールド医師ほどに気に入った医者ではなかったが、ハリエットの世話をしてやりたいと心から願っていた。イザベラとの話が決まり、エマがハリエットにそのことを伝えると、彼女のほうもすっかり乗り気だった。こうしてハリエットは、少なくとも二通間は滞在する予定で、イザベラのところへ行くことになった。ウッドハウス氏の馬車で送られることも決まり、なにもかも手はずが整って、準備が完了し、ハリエットは無事≪ブランズウィック・スクエアー≫に到着した。
これでエマはナイトリー氏の訪問を心から楽しむことができた。やっと幸せな気持ちでナイトリー氏と語らい、話に耳を傾けることができるようになった。なぜなら、エマがまちがった方向に導いたゆえに、傷ついてしまったハリエットの辛い思いが、この瞬間にもすぐ近くにあるかと思うと、エマはひどいことをしたという罪の意識や痛ましさにさいなまれずにはいられなかったのだ。
ハリエットがゴダード夫人の所にいるか、ロンドンにいるかでは、たとえ理屈にあわなくても、エマにはかなり大きな違いがあるように思われた。ロンドンには必ずハリエットの興味を引くものや心惹かれるものがあるに違いない。ハリエットはそういったものに囲まれることで、過去から目をそらし、苦しみを忘れることができるに違いないと思えた。
エマは今までハリエットが占めていた心のなかの位置を、他の心配事がとって変わることを許さなかった。エマには知らせるべきこと、それも彼女《ヽヽ》にしかできない仕事、つまり父親に婚約のことを告げる仕事が待っている。しかし今はまだその気にはなれない。ウエストン夫人が無事出産を終え、元気になるまで父に話すのはよそう。今は自分の愛するひとびとに、これ以上の動揺を与えるべきではないし、自分にたいしても、決められた時期より前から気をもむことで、害を及ぼすことは避けなければならない。少なくとも二週間は、心温まる、激しい喜びのほかに、心の平和とやすらぎを自分のものにしなくては。
エマはこれもまた同じ義務感と喜びから、この休暇のうちの半時間をジェーンを訪問することに使おうと決めた。彼女のもとへは行くべきだ。それに、是非会いたいとも思う。ふたりの境遇が似通っていることで、善意から生れた訪問の動機もいろいろと増えてきた。それは|密かな《ヽヽヽ》満足とでも言うべきものだろうか、ふたりの前途に同じ出来事が待ち受けていると思うと、ジェーンの口から聞くどんなことにも、ますます興味が湧いてくるように思えた。
エマは出かけた。一度ジェーンの家の戸口まで馬車で行ったのに会えずじまいで、ボックス・ヒルでのピクニックの後のあの朝以来、家の中にも入ってもいない。あの時、気の毒なジェーンは非常な苦しみの中にあったわけで、エマにはその苦しみがどれほどだったのかは正確には推測できなかったが、心から哀れみを感じた。自分はまだ招かれざる客ではないかという恐れから、エマはジェーンは家にいるとは確信していたが、名を告げ、廊下で待つ決心をした。パティーがエマの名前を告げるのが聞こえたが、この前ミス・ベイツが示したようなあのあからさまな騒ぎはなかった。そう、エマが聞いたのは「お入りになっていただいて」という簡単な返事だけだった。が、そのあとすぐ、ジェーン自らが階段まで出てきて手厚く迎えてくれた。それはまるで、ほかの応対ではとても満足できないとでもいうような迎えかただった。これほど元気そうで愛らしく、魅力的なジェーンを見たことがあったろうか。自信に満ち、活気にあふれ、なおかつ温かさがある。彼女の顔つきや態度にはエマが今まで彼女に望んでいたものすべてがあった。ジェーンは近づくと手をさしのべて、低いが心のこもった声で言った。
「本当にご親切に、ミス・ウッドハウス。どんなに言葉を尽くしても尽くしきれませんわ。信じてくださいね。言葉が見つからなくて」
エマが満足し、彼女に話しかけようとしたとき、居間のほうからエルトン夫人の声が聞こえてきたので話すのはやめて、自分の友情のすべて、お祝いの気持ちすべてを熱くこめて握手をした。そのほうが適当だと思ったからだ。
居間にはベイツ夫人とエルトン夫人がいた。ミス・ベイツは外出中らしく、さっきから静かだったのはそのためだったらしい。エルトン夫人は邪魔な存在だったが、エマはどんなひとがいても受け入れられる気分だった。エルトン夫人はいつになく上品にエマに挨拶したので、これなら自分たちに害を及ぼすことはないだろうと思えた。
エマはすぐにエルトン夫人の考えを見抜き、どうして自分と同じように彼女がご機嫌なのかを察した。それはジェーンの信頼をかち得ていて、ほかのだれも知らない秘密の話を自分だけは知らされていると自認しているかららしかった。エルトン夫人の顔にそう書いてある。エマはベイツ夫人に挨拶し、善良な老夫人の話に耳を傾けるふうを装いながら、エルトン夫人のすることをじっと観察していた。夫人は先ほどまでジェーンに読み聞かせていたらしい手紙を、さも秘密めかした様子で見せびらかすように折りたたみ、意味ありげにうなずきながら、そばにおいてあった紫色と金色の悪趣味なバッグの中へしまいこんだ。
「また別の機会に、ね。これからも会えないわけじゃないんですもの。それに大切なことはもうみんなお話ししましたし。わたしはね、ただ、S夫人がわたしたちのお詫びを認めて下さって、怒っていらっしゃらないことを伝えたかっただけなの。夫人の手紙がどんなに素晴らしいか、あなたもお分かりでしょう。ええ、本当にやさしい方だわ。あなたがもしあちらに行っていたら、夫人に夢中になったでしょうね。でも、これ以上ひと言もお話ししてはダメ。慎重にやりましょう。そう、お行儀良くしていなければ。しーっ。この詩の一節は覚えているでしょう? なんの詩だったかは、忘れてしまったけど。
ご婦人がかかわっているときには、
他の事柄はことごとく席を譲ると知るべし
(注 ジョン・ゲイ、一六八五〜一七三二年)
|わたしたち《ヽヽヽヽヽ》の場合、|ご婦人《ヽヽヽ》の代わりに、なにをなんと読んだらいいのかしら――しーっ! 賢いひとへの言葉ね。それにしてもわたしってなんて冴えてるのかしら、そう思わない? でも、わたしはS夫人のことであなたの気を楽にしてあげたかったの。わたしの取りなしで、夫人は許してくださったのよ」
エマが再び向きを変えて、ベイツ夫人が編み物をしているのを見ていると、エルトン夫人はささやくような声でこうつけ加えた。
「どこの|だれか《ヽヽヽ》さんについてはなにも書かなかったわ。あなたもお分かりになったでしょう。ええ、言いませんとも。わたしって大臣のように注意深いの。とてもうまくやってのけたでしょう」
まちがいない。これはことあるごとに繰り返される例の見せびらかしなのだ。彼女たちはしばらく話を合わせて天気のことや、ウエストン夫人のことを話題にしていたが、だしぬけにエマは話しかけられた。
「ミス・ウッドハウス、この生意気なお嬢さんは、すっかり回復したとお思いになりません? このひとが治ったおかげでペリーの信用も高まったことでしょうね。そう思いませんこと? (ここでジェーンに意味ありげな目配せをしながら)誓って本当に、ペリーは短期間でこのひとを素晴らしく元気にしましたわ。このひとがいちばん具合が悪かったときに、わたしのようにご覧になっていたら……」そして、ベイツ夫人が何事かエマに話しかけていたとき、エルトン夫人はさらにこうささやいた。「ペリーが受けたかもしれない|助け《ヽヽ》のことは一言だって口にしないことにしましょうね。ウィンザーからやって来た、ある若い医者のこと。そう、ペリーの手柄ってことにしてやりましょう」
「ミス・ウッドハウス、あなたにはほとんどお目にかかることができなくて残念でしたわ」そしてそのあとすぐにエルトン夫人はこう続けた。「ボックス・ヒルへのピクニック以来ですわね。本当にあれは楽しかったわ。でも何か物足りなかったのではないかと思っていますのよ。つまり、何人かの気持ちに小さな曇りがあったのではないかと。少なくともわたしにはそう見えました。違っているかもしれませんけど。それでもまた行きたいなあと思わせるくらいは楽しかったと思いますわ。ねえ、もう一度同じ顔ぶれでボックス・ヒルへピクニックに行くっていうのはいかが? お天気が続いている間に。そう、全く同じ顔ぶれで、|ひとり《ヽヽヽ》として欠けないように」
このあとすぐにミス・ベイツが部屋に入ってきた。ミス・ベイツはエマに向かって最初になにを言えばいいのかわからず、すっかり混乱していて、エマはおもしろがらずにはいられなかった。ミス・ベイツはなにを言えばいいのかわからないと同時に、なにもかも言わずにはいられないじれったさに苦しんでいるようだった。
「ウッドハウスのお嬢様、ご親切に感謝いたします。本当になんと申し上げればよいか。ええ、分かっておりますのよ。かわいいジェーンに将来の見通しが。いえ、わたし、そんなことを言うつもりではありませんの。でもこの子はもうすっかり回復しましたでしょう。ウッドハウス様はいかがでらっしゃいますか? それを聞いてうれしゅうございます。わたしの力の及ぶことではございませんもの――ご覧のような小さくとも幸せな集まり――ええ、本当に。素晴らしい若殿でいらっしゃいますわ。つまり、とても親しみやすい方で。いえ、わたしの申していますのはペリーさんのこと。ジェーンをあんなに世話して下さって」そして、ミス・ベイツはエルトン夫人がいることに対して、それは大仰に、いつも以上に感謝に満ちた喜びを見せた。そこから察するに、牧師館ではジェーンに対して少々立腹していたのだが、今はすっかり克服できたらしい、とエマは思った。そのあと、エルトン夫人はふた言三言何事かささやいたが、なにを言ったのかは推測できなかった。そして夫人は大きな声で、
「ええ、こうしてわたし来ましたでしょ。それも、よそのお宅だったらきっとお詫びをしなければならないくらい長居していますわ。実を言うと、わたし愛する主人を待っていますの。彼、ここで落ち合ってあなた方にご挨拶すると約束してくれましたから」と言った。
「まあ、エルトン様がいらして下さるんですか? なんて嬉しいことでしょう。ありがたいことですわ。なんといっても殿方は午前中の訪問をお好みになりませんものね。エルトン様の予定表は、それはびっしり詰まってらっしゃるのでしょう」
「ミス・ベイツ、誓って申し上げますけど、主人の予定は朝から晩までびっしりですの。口実をつけては、ひっきりなしにひとがやってきますのよ。行政長官や監督、教区委員なんかはいつも主人の意見を聞きたがっておりますの。主人がいなければ、なにもできないようですわ。わたし、よく申しますのよ。『E様、誓っていいけど、わたしよりもあなたのほうがよほどもてるようね。もしわたしに、この半分の面会人でもいたら、わたしのピアノやクレヨンはどうなってしまうのかしら』って。でも、今でもそれはひどいものですのよ。自分でも許せないほど、両方をないがしろにしておりますの。この二週間というもの、一小節だって弾いておりません。でも、彼はじきやって来ますわ。必ず。ええ、あなた方を訪問する目的で」そして、自分の言葉をエマからさえぎるように、手を上げた。「お祝いを言うための訪問ですのよ。ええ、まったくこればかりは欠かすわけにいきませんもの」
ミス・ベイツはたいへんうれしそうにあたりを見回した。
「ナイトリーとの用事が済んだらすぐに、こちらへ向かうと約束してくれましたわ。でも彼はナイトリーとふたりだけで、こみいった話があるようで。なにしろE様はナイトリーの片腕ですもの」
エマは断じて笑うわけにはいかなかったので、ひと言こう言った。「エルトン氏は歩いて≪ドンウェル≫に行かれたのですか? きっと途中暑かったでしょうね」
「いいえ! 違います。クラウン亭での会合ですの。定例会議ですわ。ウエストンやコールなんかも来ているそうです。でも話題としては、いつも代表となるひとのことしか出てこないもので。きっと、なにもかもE様とナイトリーが自分たちの方法で仕切ってらっしゃるのではないかと思いますわ」
「日にちをおまちがえではないかしら?」とエマはきいた。「たしか、クラウン亭での会合は明日だと聞いていますが。ナイトリーさんが昨日≪ハートフィールド≫へおいでになって、会合は土曜日だとおっしゃってました」
「まあ、そんなはずありません。会合はたしかに今日です」とエルトン夫人は厳しい口調で言った。自分にまちがいなどあるはずないといった口ぶりだ。「たしかです」と彼女は続けた。「この教区の厄介なことといったら。こんなの初めてですわ。≪メイプル・グローヴ≫ではこんな話、聞いたことがありませんもの」
「でもあなたのところの教区は小さかったのでしょう」とジェーンが言った。
「あら、そんなことはわたしにはよく分かりませんわ。そんな話題は出たことがありませんから」
「でも、それは学校の小さいことで分かりますわ。たしか、あなたのお姉様とブラッジ夫人が後援なさっていて、しかも学校はたったひとつで、生徒数は二十五名にも満たないとおっしゃっていましたわね」
「まあ、賢い方だこと。その通りよ。あなたの頭はなんてよく働くの。ジェーン、わたしとあなたを一緒にすれば、どれほど完璧な人間ができるかしら。わたしの快活さと、あなたの堅実さを合わせれば、完璧なものを生み出すでしようね。でも、|だれかさん《ヽヽヽヽヽ》が|あなた《ヽヽヽ》のことを完璧だと思っていないなどと、ほのめかすつもりはありませんわ。しーっ。なにもおっしゃらないで」
しかしその注意は不要なようだった。ジェーンはエルトン夫人ではなく、エマと話したがっていたのだから。そのことはエマにもはっきり見て取れた。礼節が許す限り、ジェーンがエマを特別に扱いたいと思っているのは明らかだったが、表情で示すほか、その気持ちを表すことはあまりできなかった。
やがてエルトン氏が姿を見せた。夫人は輝くような快活さでもって彼を迎えた。
「あなたがおいでになるまでの長い間、わたしをここに寄越しておいて、お友だちの厄介物にさせるなんて、本当に憎い方。でもあなたはわたしのお相手がどんなに礼儀正しいひとかを、ご存知でしたのね。それに、あなたが現れるまで、わたしが身動きが取れないこともご存知だったのね。この一時間、わたしはここに座ってこちらにいる若いお嬢様方に、真の夫婦の従順というものがどういうことか、見本をご覧にいれておりましたのよ。だって、どんなにすぐにそれが必要になるか、だれにもわかりませんでしょう」
エルトン氏はたいそう暑がって、疲れきった様子だったので、こういったウィットに富んだ話をしてみせても無駄だった。一応ほかの女性に対する礼儀だけは果たさなければならなかったものの、そのあとの話題は、暑さで苦しい思いをしたこと、折角歩いて行ったのに無駄足に終わったことを嘆くだけだった。
「≪ドンウェル≫まで足を運んだのだが」とエルトン氏は言った。「ナイトリーはいなかったんだ。おかしなことだ。説明がつかないじゃないか。今朝手紙を送ったとき、伝言が届いて、それには一時までには必ず家にいるとあったんだ」
「≪ドンウェル≫ですって」と夫人が叫んだ。「ねえ、E様、あなたは≪ドンウェル≫に行かれたわけではないのでしょう。クラウン亭でしょう。クラウン亭での会合からお戻りになったんでしょう」
「いや。それは明日の話だ。わたしが今日ナイトリーに会いに行ったのは、まさにその明日のことに関してだったんだ。焼けるように暑い日だ。畑のほうも行ってみたが、(ひどい目にあったという口調で)――ただ暑いばかりで。家にはいなかった。まったく不快な気分だよ。わたしにひと言の詫びもなく、伝言ひとつ残していないのだからね。家政婦は、わたしが来るなんてことは少しも知らされてなかったと言うんだ。まったくおかしな話だ。そのうえ、彼がどこに行ったのか、だれもなにも知らない。おそらく≪ハートフィールド≫だろうとか、アビー・ミルじゃないかとか、森のほうだとか。ミス・ウッドハウス、こんなことは我々の友人、ナイトリーらしからぬふるまいとは思いませんか? 説明がつきますか?」
エマはおかしかったが、それは奇妙ですわね、わたしにも説明がつきません、と言っておいた。
「わたしにもさっぱり分かりませんわ」とエルトン夫人が叫んだ。(妻として侮辱に思うのが当然とばかり)「よりによってどうしてあなたをそんな目にあわせるのか、分からないわ。あなたがだれかから忘れられるなんて、とうていありえないことですのに。愛しいE様、彼はきっとあなたに伝言を残していったに違いありません。きっとそうですわ。いくらナイトリーだってそんな風変わりなことをするはずがありませんもの。召し使いたちが忘れてしまったんですよ。絶対、そうですわ。≪ドンウェル≫の召し使いなら、いかにもありそうなことじゃないですか。まったくあの連中ときたら、ときどきわたし観察しているのですが、とても不器用で怠慢ですわ。わたしなら、あのハリーを飾り棚のそばになんか絶対に立たせません。それからあのホッジス夫人。うちのライトが言ってましたが、あの女は全く使いものにならないとか。ライトに領収書を寄越すと約束しておきながら、それっきりだそうです」
「ウィリアム・ラーキンスに会ったよ」とエルトン氏が続けた。「家の近くまで行くと、ご主人様はご不在です、と言うんだ。だがわたしは彼の言うことが信じられなかった。ウィリアムもどちらかというと機嫌が悪いようで、ご主人様は最近どうかしてしまったのか、ほとんど口もきいてくれない、とこぼしていた。ウィリアムの要望など、わたしには何の関係もないことだが、ナイトリーが今日わたしと会うことは何より大切なことだったんだ。せっかくこの暑いなかを歩いて行ったのに、無駄足に終わったなんて、迷惑きわまりない」
エマはすぐ家に帰るに越したことはないと思った。恐らく今この時、彼は≪ハートフィールド≫でエマを待ちわびているのだろう。今帰宅すれば、エルトン氏の攻撃からナイトリー氏を守ることができるかもしれない。ウィリアム・ラーキンスのほうはともかくとして。
帰り支度を始めると、ジェーンが部屋から出て、エマを階段まで送ろうとしているのに気づき、エマはうれしくなった。エマは話のできるチャンスが与えられたので、さっそくこう切りだした。
「お話するチャンスがなかったのは、むしろよかったかもしれないわ。だってもしあなたのお友だちがいなかったら、わたしきっと、あることを持ち出して、あれこれ質問したり、正しいとは言えないほどあけすけにしゃべったかもしれないもの。きっと礼儀にもとるようなことをしていたと思うわ」
「まあ」とジェーンは叫んだ。顔を赤くし、ためらう様子がうかがえた。その様子は、いつもの落ち着き払った態度より、もっとジェーンにふさわしいもののように思われた。「そんな危険などなかったでしょう。もし危険があるとしたら、それはわたしがあなたを退屈にさせてしまうことです。あなたが興味をもってくださることほど、わたしを喜ばせるものはありませんわ。本当にミス・ウッドハウス、(先ほどより落ち着いた口調で)わたしは自分が行った不品行の数々を自覚しているつもりですが、尊重すべき素晴らしいご意見をおもちのお友だちがそれほど嫌悪をお示しにならないのを知って、とても慰められます。でも、言いたいことの半分もお話しする時間がありません。ぜひともお詫びを申し上げたいし、自分自身のためにも言い訳をさせてもらえたら、と思っています。それがわたしの義務だと。でも不幸なことに、つまり、あなたの慈悲心をもってしてもあの方のことを我慢ならないと思ってらっしゃるのでしたら……」
「まあ、あなたって本当にきちょうめんすぎるわ」とエマは夢中で叫んで、ジェーンの手を取った。「わたしにあやまることなんてなにもないのよ。それに、あなたがあやまらなければ、と思っているひとたちもみんな、とても満足してらっしゃるわ。喜んでさえいてよ」
「本当にご親切に。でもわたしは自分があなたにどんな態度を取ったか、自覚しております。よそよそしくて、取り繕ってばかりいました。わたしはいつだってお芝居をしていたんです。偽りの生活でした。うんざりなさっていたのは知っています」
「お願い、もうなにも言わないで。わたしのほうこそあやまらなければならないのだから。今すぐ許しあうことにしましょう。まずは、しなければならないことをしましょう。今ならわたしたちの気持ちは時間を無駄にしたりはしないと思うわ。ウィンザーから、楽しいお便りがきているといいのだけど」
「ええ、とても」
「そして次のお便りで、あなたとお別れしなければならないことになるんでしょうね。せっかくあなたを知るようになったばかりだというのに」
「まあ、そのことについてはまだ何も考えていませんの。キャンベル大佐ご夫妻から要請があるまで、わたしはここにいます」
「それでは今、実際はなにも決まってはいないということかしら」とエマは笑いながら言った。「でも、考えなくてはならないのじゃない」
ジェーンは答えながら、微笑みを返してきた。
「おっしゃる通りですわ、もう考えてはいるんです。あなたにはお話ししますが(きっと安全だと思いますから)、実はわたしたち、チャーチル氏と一緒に≪エンスクリーム≫で暮らすことまで話は決まっています。服喪期間は少なくとも三ヵ月はあるはずですが、それが終わったら、ほかに問題はありませんから」
「ありがとう。ありがとう。わたしはそのことがいちばんお聞きしたかったの。あら、何事においてもわたしははっきりしたこと、率直なことがどんなに好きか、あなたに分かっていただければいいのよ。では、さようなら、さようなら」
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第五十三章
ウエストン夫人の安産を知らされ、友人たちは幸せな気分に包まれた。その幸せがエマにとってより大きなものになったのは、夫人が女の子の母親になったことだった。ずっと以前から子供は|ミス《ヽヽ》・ウエストンであって欲しいと思っていたからだ。将来イザベラの息子のひとりと結婚させたいという思いがあるなどとは認めたくなかったが、ともかく女の子ならば、父親にとっても母親にとっても望ましいだろうと思えた。その子はウエストン氏が年を取るにつれて、心の慰めになり――さすがのウエストン氏も十年もたてば年を取るはずだから――彼のいる炉端にはいつも、はしゃぎ声やたわいのなさでにぎやかだろうし、娘の気まぐれや空想が絶えることもないだろう。ウエストン夫人にとっても娘をもつことはこのうえなく嬉しいはずだ。あれほど、ひとを教えるのが上手な夫人がその才能を埋もれさせてしまうのはもったいない。
「夫人にはわたしを教えたという強みがあるわ」エマは言った。「ジャンリス夫人の『アデレイドとテオドール』のなかのオスタリス伯爵夫人にたいするアルマーヌ男爵夫人のようにね。わたしたちは彼女の小さなアデレイドが、わたしよりずっと素晴らしく育てられるのを見ることになるんだわ」
「ということは」ナイトリー氏は答えた。「夫人が君よりももっとお嬢さんを甘やかし、自分が甘やかしていることにちっとも気がつかないということかな。違いといえば、そこだけだ」
「かわいそうなおちびさん!」エマは声を上げた。「もし、そんなに甘やかされたら、どうなってしまうかしら」
「たいして、悪いことじゃないさ。――たくさんの子供が同じような運命にある。子供の頃は生意気でも、大きくなるにつれて自分の悪いところをなおしていくよ。ぼくとしては、甘やかされた子供にたいする厳しさは捨てざるを得ないよ。だって、ぼくの幸せはすべて、君のおかげなんだからね。厳しく批判すれば、恩をあだで返すようなものだ」
エマは笑いながら答えた。「でも、甘やかすばかりの大人のなかで、あなたがあえて厳しくしてくださったからこそ、こうなれたのよ。わたしの力だけでは、悪いところをなおせたかどうか、あやしいものだわ」
「そう、思うかい? 君ならきっとできたと思うよ。君の理解力は天からの授かりものだ――ミス・テイラーはそれを使う方法を教えただけだ。君は立派にやってきた。ぼくの口出しこそ、おせっかい以外のなにものでもなかったのさ。なんの権利があって、お説教するのかと、君から言われてもあたりまえだ。それに、あんなに不愉快な方法ではね。ぼくが君に良い影響を与えたとは思えないな。反対にぼくのほうこそ、君を愛することで、良い影響を受けてきた。君に欠点があるにもかかわらず、ぼくは夢中にならずにはいられなかった。欠点が多いと想像したからこそ、少なくとも君が十三のときから君に恋をしていたのだから」
「あなたがわたしにとって役にたってくれたのは、たしかですわ」エマは叫んだ。「あなたにはずいぶん正しい感化を受けてきました――たとえそのときは、それほど感化されているとは認めたくなかったにしても。あなたがわたしに良いことをしてくれたのは、まちがいありません。そして今度はちびのアンナ・ウエストンちゃんが甘やかされて育ったら、あなたの道徳心からしてやはり厳しくなさるのでしょうね。わたしのときと同じように。ただし、彼女が十三になったとき、彼女に恋するのは別として」
「少女の頃、君はいつも生意気そうな瞳でこう言ったものだ。『ナイトリーさん、わたしこれこれのことをしますの。お父様もいいとおっしゃるし、ミス・テイラーのお許しもいただいています』君も知ってのとおり、それはたいてい、ぼくが反対するだろうとわかってのことだった。そんな場合ぼくの干渉は、倍になって悪い感情を与えたようだ」
「まあ、わたしってなんてかわいげのある子だったのかしら! わたしの言ったことをそれほど愛情深く覚えていらっしゃるのも無理ないわ」
「『ナイトリーさん』――君はいつもぼくをそう呼んだ。そう呼ばれるのが習慣になっているのでそれほど堅苦しいとも思わないが、それでもやはりよそよそしい。ほかの呼び方をしてもらいたいが、なにがいいかはわからない」
「いつだったか十年ほど前に一度、いつもの気紛れで『ジョージ』と呼んだことがあったわ。あなたを怒らせようと思ったの。でも、あなたが怒らなかったので、それきりになってしまったわ」
「これからは、そう呼んでくれないかな?」
「とんでもない! あなたは『ナイトリーさん』としか呼べないわ。エルトン夫人のお上品な呼び方をまねて、K氏なんて呼べないし」それからすぐにこう付け加えた。「でも、もうすぐ、あなたをもういちど洗礼名で呼ぶ日が来るわ。いつとは言えないけど、どこでかはおわかりよね。NがMを永久に迎える会堂のなかで」
けれどもエマはある大事なことについて、ナイトリー氏に心を開いて話せないのが悲しかった。話すことさえできれば、彼の助言がエマを女が陥りがちな愚かしいふるまいの極致から救い出してくれることだろう。
それは、ハリエットとの身勝手な友情のことである。けれどもそれはまた、非常に微妙な話題だ。エマからはとても言いだせることではない。今はもう、ふたりの間でハリエットが話題にのぼることはめったになかった。それは単にナイトリー氏の頭のなかにハリエットがいないだけのことかもしれない。だがエマにはむしろ、彼が、彼女とハリエットとの友情が薄れたのではないかと疑って、心遣いを示しているように思われた。彼女は、どんな事情で離れ離れになったにせよ、もっと手紙のやりとりをするべきだし、いまのようにイザベラの手紙からだけでハリエットのことを知るのはいけないと身にしみて感じていた。ナイトリー氏もそう思っているのだろう。彼に隠し事をしなくてはならないのは、ハリエットを不幸せにしてしまったのと同じくらい辛い。
イザベラはハリエットのことを思っていたよりずっと詳しく知らせてくれた。訪ねてきた当時は元気がない様子で、歯医者に行かなければならないので、それもあたりまえだと感じられた。イザベラの観察力は鋭いとは言えないが、ハリエットが子供たちの相手さえできないようだったので、目に留まっても当然だ。そのハリエットの滞在が延期され、エマはひとまずほっとすることができた。二週間の予定が一ヵ月になった。ジョン・ナイトリー夫妻が八月にこちらへ来ることになっているので、ハリエットもそれまで滞在して一緒に戻ることになった。
「ジョンは、君の友だちのことには、ひと言も触れていないね」ナイトリー氏は言った。「ほら弟の手紙だ、よかったら読んでもいいよ」
それはナイトリー氏がエマとの結婚を知らせたことにたいする返事だった。エマはもどかしそうに、手紙を受け取ると読みはじめた。ジョン・ナイトリー氏がこの結婚について、どう書いてきたかを早く知りたくてたまらず、友人のことには触れていないと言われても、読みたい気持ちに変りはなかった。
「ジョンはいかにも弟らしいやりかたで、ぼくの幸せを喜んでくれている」ナイトリー氏はまた言った。
「弟は口下手な男だ。ぼくは彼が君に義兄らしい愛情を抱いているのをよく知っているが、彼はそれを美辞麗句で飾ったりはしない。だから、どんな若い女性にとっても、お世辞を言わない冷たい男だと取られてしまうだろう。それでも、君に読んでもらうのを怖れたりはしないよ」
「とても、思慮深いお手紙だわ」読み終えてエマは言った。「誠実な方だと尊敬しています。この結婚で幸福を得るのはわたしのほうだと思われるのは当然だわ。でも、わたしがもう少し成長してあなたの愛を受けるにふさわしい女になるだろうとも、期待してくれているみたい。あなたが、期待なさったのと同じようにね。彼が別のことを言ってきたら、かえって信用できなかった気がするわ」
「ああ、エマ。弟はなにもそんなつもりでは。彼はただ……」
「ジョン・ナイトリーさんとわたしでは、ほとんど同じ考えかたをしているわ」エマは、まじめな笑みを浮かべて続けた。「もっと、率直に遠慮なく言ってくだされば、あのひとが気づいているよりも、ずっと意見が一致しているはずだわ」
「ああ、エマ。大事なエマ」
「まあ!」エマは楽しげな調子で言った。「もし弟さんがわたしを正しく評価していないと思うのなら、父に秘密を打ち明けたあとで、父の意見を聞いてみることね。父はきっとあなたを正しく見るどころではないわよ。この件で幸せや利益を得るのはすべてあなたで、優れているのはすべてわたしってことになるでしょうね。父にかかるとたちまち『気の毒なエマ』になるのも困ったものだわ。虐げられたいとしい者に父が言えることといえば、それだけなんですもの」
「おや、おや。お父上がジョンの半分ほど物分かりがいいとありがたいのだが。ぼくたちが平等に、それぞれの権利に基づいてお互いを幸せにできるということもわかってくれるといいのだが。ジョンの手紙に面白いくだりがあったよ。気がついたかな? ぼくの手紙には別に驚かなかったと言うんだ。こういうことになるだろうと予期していたと」
「きっと、あなたもいつかは結婚すると思っていたという意味じゃない? まさか、その相手がわたしだとは考えていなかったと思うわ。そこまで気づくはずがないもの」
「そう、そうだね。だが、ぼくにはジョンがなぜそこまで思ったのか不思議なんだ。どうして、わかったのかな。ぼくは結婚をほのめかすような態度や言葉を示したつもりはないんだが。しかし、きっと態度に出ていたのかもしれない。この前、弟のところに滞在したときも、いつものぼくとは違っていたから。子供たちともあまり遊んでやらなかった。ある晩、あの子たちが言ったよ。『伯父様は、いつも疲れているんですね』って」
エマとナイトリー氏の話がさらに広まるときがやってきて、ほかのひとびとの反応もうかがえることになった。ウエストン夫人がウッドハウス氏のお祝いを受けられるほどに元気になると、エマはまず夫人の理知的な助けを借りて、結婚のことを父に話してから、≪ランドルズ≫で公表しようと決心した。でも、どうやって父に話したらいいのだろう! どうしても話さなくてはならない、しかもナイトリー氏がいないときに。それでも、どうしてもその勇気が出なければ、機会を延ばすことになるだろう。そしてそのときは、ナイトリー氏が来て、助けてくれることになっている。話さなければ、それも精一杯陽気に。父が自分を不幸だと思ってしまうような断固とした言葉を使わずに、言い方も深刻になってはいけない。これを不幸なことだと思わせてはいけないのだ。エマはありったけの勇気をふりしぼって初めにあたりさわりのないことをふた言三言言ってから、恐る恐る切り出した。もし認めていただけて、お許しが出るなら、とても簡単なことですの。みんなが幸せになることですもの、わたし、ナイトリーさんと結婚しようと思います。そうすればナイトリーさんはいつもこの屋敷にいることになります。娘のわたしとウエストン夫人の次にお父様がお好きなあの方が。
気の毒な老紳士! その話ははじめかなりの衝撃だったようだ。そしてなんとか娘を思い留まらせようと知恵をしぼった。――いつも、結婚などしないとあれほど言っていたではないか。このままでいたほうがよほど幸せではないのかね、かわいそうなイザベラやミス・テイラーを見てみるがいい。――だが、効き目はなかった。エマは甘えた仕草で父にまとわりつき、明るく微笑して、どうしてもそうしなければならないと口説いた。イザベラやミス・テイラーのようにはなりません。あのひとたちは≪ハートフィールド≫を出ていかなくてはならなくて、それはとても悲しいことでしたが、わたしはここで暮らすのですもの。これまで通りいつもお父様のそばにいますわ。家族が増えて、居心地がよくなる以外変ることはなにもないんです。お父様がこの考えに慣れてくだされば、ナイトリーさんがいつもそばにいてくれるのは、とても楽しいことだと思われるはずよ。お父様はナイトリーさんをとても気にいっていらっしゃるじゃない。違うなんて言わせませんよ。お仕事のことでいつも相談なさるのはナイトリーさんじゃなくて、だれかしら? お父様のお役にたち、代筆もしてくださり、喜んで手をかしてくださる方よ。いつも、そばにいてくれたらと、思われたことはない?――まったく、その通りだ。ナイトリー君はいつ来ても、来たりないほどだ。毎日でも会いたい。だが、今だって毎日会っているのだから、このままでもいいのではないのかね。
ウッドハウス氏は簡単には承知しなかった。だが、どうにか峠は越えたのだから、あとは時間をかけて根気よく繰り返すだけだ。エマの哀願と保証に加えて、ナイトリー氏がやって来て愛情たっぷりにエマをほめそやしたので、話題はいくらか喜ばしいものに見えてきた。ウッドハウス氏はすぐに、ふたりから交互に、機会あるごとにその話をされるのに慣れてきた。イザベラからの双手をあげての賛成の手紙も心強い助けになった。ウエストン夫人は最初にこの話を聞いたときから、実に好意的な援助をしてくれた。ひとつはすでに決まったこととして、ふたつ目にはとてもいいことと見なしてくれたのだ。彼女は、自分がそう見ることで、ウッドハウス氏にも大きな影響を及ぼすことを知っていた。だれもがいいことだと認めた。氏が意見をきいたひとたちは異口同音に、それが氏の幸福のためになると説いた。やがてウッドハウス氏自身も自分でも少しはその事実を認めるようになって、いつかは――たぶん一、二年後なら――結婚もそれほど悪くはないと思うようにまでなった。
ウエストン夫人はこの件に関して別に演技をしたわけでも、氏に嘘をついたわけでもない。エマからその話を聞いたときは、かなり驚いた。けれども考えれば考えるほど、良いことしか思い浮かばず、ウッドハウス氏を全力を尽して説き伏せるのに良心のとがめは少しもなかった。ナイトリー氏のことはかねてから尊敬していたし、大事なエマをまかせても大丈夫に違いない。すべての点において、ふさわしくて、望ましくて、申し分のない縁組みだ。それに最も重要な点においても、不思議なほどぴったりで、幸運なので、今になればむしろ、エマを任せられるのは彼をおいてはほかにはないとさえ思えた。この組み合わせを今まで思いつかなかったこと、とっくの昔に望まなかったことが、一生の不覚にさえ感じられた。エマに求婚するひとのなかでも、あれほど身分が高く、自分の屋敷を捨ててまで≪ハートフィールド≫に住もうというひとはいるだろうか。その上、ウッドハウス氏にその結婚を望ましく思わせるほど彼をよく知りつくし、辛抱強く相手をするひとなどいるだろうか。フランクとエマを一緒にさせたいと願っていたときも、ウッドハウス氏をどうなだめるかが、ウエストン夫妻の大きな悩みだった。≪エンスクリーム≫と≪ハートフィールド≫の不平不満をどう治めるかが、いつも大きな障害として横たわっていた。ウエストン氏はそのことにあまり触れようとはせず、彼でさえ、こう言うほかなかった。「ふたりでなんとかするさ。若い連中が解決するよ」、と。ところが今は、ずっと先まで考えてみても、無理をしてかたづけなくてはならない問題などひとつもない。万全で、公明正大で、どこにだしても引けをとりはしない。家名においても、どちらの側にも犠牲はない。まさしく最高の幸福を約束する縁談であり、これを妨げたり、延期させたりする筋の通る反論などひとつもありはしないのだ。
赤ん坊を膝に乗せながら、ウエストン夫人はこんなことをつらつら考えていたが、この夫人こそ世界で最高に幸せなひとだった。その喜びをもっと大きくするのは、赤ん坊が成長して最初の帽子のひとそろいが合わなくなるのを見ることだろう。
結婚の知らせは、どこでも同じような驚きをもって迎えられた。ウエストン氏もそれを聞いて五分ほど驚いていた。だが、気持ちの転換の速い氏は十分ほどで、すぐにその考えに馴染んでしまい、ふたりの結婚の利点を思って妻同様に喜びに浸った。驚きは、すぐに消えた。そして一時間もすると彼はすっかり、それはずっと前から予期していたことだと思い込んでいた。
「まだ、内緒にしておいたほうがいいだろうね」彼は言った。「こういう事柄は、すべてのひとに知らせるまでは、秘密にしておくものだ。いつ頃、話したらいいのだろう。ジェーンは知っているのかね」
彼は翌日ハイベリーに出かけて、ジェーンが知らないことを確かめると、それを彼女に告げた。ジェーンは娘も同様、彼の長女なのだ。娘には知らせるべきだ。だが、その場にはミス・ベイツもいて、当然その話はコール夫人に、さらにペリー夫人からすぐにエルトン夫人にまで伝わっていった。こういう事態は当の本人たちも予期していたことだった。≪ランドルズ≫に知らせてから、どれほど早くハイベリー全体に広まるか、時間を計算していたほどだ。そしてふたりは賢明にも、村じゅうの家庭の夕べの話題として、その知らせが驚きをもって供されるだろうことを察知していた。
非常に好ましい縁談だというのが大方の意見だった。幸運を勝ち取るのが花婿側か花嫁側かという点では意見の相違もあった。全員が≪ドンウェル≫に移り、≪ハートフィールド≫にはジョン・ナイトリー一家が住むのがいいというひともあった。それでもおおむねのところ強い反対はひとつとしてなかった。ただし一家族、すなわち牧師館をのぞいては。ここでは驚きが満足に変わることはなかった。エルトン氏は妻ほど関心を示さず、「これであの勝ち気なお嬢さんのプライドも満たされるだろう」と願い「思えば、隙あらばナイトリーの気をひこうとしていたようだ」と考え、≪ハートフィールド≫に同居するという点については大胆にも「ぼくじゃなくて良かった」とまで言った。だが、エルトン夫人はかんかんだった。「お気の毒なナイトリー! ほんとうにかわいそう! あのひとにとっては、惨めな縁組みだわ。わたしとても心配なの。あのひとには変ったところがあるけど、いいところもたくさんあるわ。どうして、たぶらかされたりしたのかしら。あのひとが恋をするなんて、考えられない。これっぽちもよ。かわいそうなナイトリー! これで楽しかったおつきあいも終わりね。よくここへ来て、一緒におしゃべりしたりお食事をしたりしたのに。それももう出来ないんだわ。お気の毒に。わたしのために≪ドンウェル≫へのピクニックを計画してくれることももうないのね。ああ、なんてこと。これからはナイトリー夫人がいて、なにもかも水を差すんだわ。わたしは大反対よ。あの家の召し使いを悪く言ったことはちっとも後悔していないけど。それにしても、なんて計画なんでしょう。同居だなんて。絶対うまくいくはずがないわ。≪メイプル・グローヴ≫の近所でも、近所で同居した家があったけど、三ヵ月もしないうちにばらばらになったわよ」
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第五十四章
時は過ぎた。あと幾日かすると、ロンドンから姉夫婦がやって来る。なにもかもが変っていく。ある朝エマが、その変化がどれほど自分に動揺を与え、心を乱すのものかと考え込んでいると、ナイトリー氏が現われ、物思いはしばらく吹き飛んでいった。最初の楽しいおしゃべりのあと、彼が黙り込んで、それから沈んだ調子でこう切り出した。
「君に話さなければならないことがあるんだ、エマ。あるニュースのことで」
「良いこと、それとも悪いこと?」エマはすばやく彼の顔を見上げて聞いた。
「ぼくには、どちらとも言いがたいな」
「まあ! じゃあきっと良いことね。お顔を見ればわかるもの。にっこりしないように努めているわ」
「ぼくにはわからない」彼はまじめな顔に戻って言った。
「ほんとうにわからないんだ。エマ、君がこの話を聞いて喜ぶのかどうか」
「嬉しいことに決まっているわ。どうしてそんなふうに言われるの? あなたに嬉しくて、わたしには嬉しくないなんてことがあるかしら?」
「ひとつある」彼は答えた。「あることについてだけ、ぼくたちは意見が違う」彼はひと呼吸おいて微笑むとエマをじっと見つめた。「君はすっかり忘れてしまったのかい? 一度も思い出さないかな? ハリエット・スミスのことを」
その名を聞いたとたんエマは赤面し、なぜか不安になった。
「今朝、君もハリエットから手紙をもらったかい?」
「いいえ、受け取ってないわ。なにも知らないの。どうか教えて」
「最悪の知らせを覚悟しているみたいだね。そう、非常に悪い知らせだ。ハリエット・スミスが、ロバート・マーティンと結婚するんだ」
エマは息を飲んだ。まったく思いもよらないことだった。真剣そのものの目が、こう語っていた。「そんなこと、あるはずがないわ!」だが、口は閉じられたままだった。
「これはたしかなことなんだ」ナイトリー氏は続けた。「ロバート・マーティン自身の口から聞いたんだから。彼は三十分ほど前にぼくのところにやって来た」
エマはまだ驚きからさめずに、彼を見ていた。
「嬉しくないようだね、エマ。それが心配だったんだ。ぼくらの気持ちが同じだといいのだが。いずれはそうなるだろう。時が経てば、ぼくらのうちどちらかの考えが変わるということもある。それまでは、この件に関してはあまり話し合わないほうがいいようだ」
「違うの、勘違いしているわ」エマは力をふりしぼって答えた。「その知らせが悲しかったのではなくて、ただ、びっくりしたの。だって、とても信じられないことなんですもの。まさかあなたは、ハリエットがロバート・マーティンの申し込みを承諾したというのではないでしょ? 彼がもう一度ハリエットに申し込んだというのではないのでしょ? 申し込むつもりだというだけではなくて?」
「彼はすでに申し込んだんだ」ナイトリー氏は微笑みながらもきっぱりと言った。「そして、承諾された」
「本当に?」エマは声を上げた。「まあ」そして下を向く口実に裁縫用具の入った籠をみつめながら、湧き上がる喜びと嬉しさを押し隠そうとした。とはいえ、それはすでに表情に表れているに違いない。「まあ、それで。全部教えてちょうだい。わたしにすっかりわかるように。いつ、どこで、どんなふうに? なにもかも話して。こんなに驚いたのは初めてよ。悲しいなんて思うものですか。本当よ。でも、どうしてそんなことが起こり得るのかしら?」
「ごく、単純な話さ。三日前、ロバートは仕事でロンドンに行った。ぼくは彼にジョンに届けたいと思っていた書類をことづけた。彼はそれをジョンの法律事務所で彼にわたし、そのとき、今晩アストレイのサーカスに行かないかと誘われた。ジョンは上のふたりの息子をサーカスに連れていくことになっていた。行くのはジョンと君の姉君、ヘンリーとジョン、そしてミス・スミスだ。ぼくの友だちのロバートは断りきれなかった。ジョンたちが行きがけにロバートのところに寄って誘い、みんなでとても楽しいときを過ごした。そして次の日、弟は彼を夕食に招待した。ロバートはやって来て、夕食のあと(ぼくが思うには)、ハリエットと話す機会に恵まれたんだね。そして、もちろんそのおしゃべりは無駄ではなかった。彼女は彼の申し出を受け入れることで、彼を幸せな男にした。もともと、そうなるべきだったんだ。ロバートは昨日の馬車で戻り、今朝ぼくのところへ挨拶に来た。まずぼくらの結婚についてのお祝いを述べ、つぎには自分たちの結婚のことを話したんだ。これが君の質問、いつ、どこで、どんなふうに、への答えだ。あとはハリエットに会ったとき、彼女の口から詳しく聞くといい。きっと、一分、一秒にいたるまで話してくれるよ。こういう話は、女性の口から聞かなくてはおもしろみがないからね。男は、大筋を話すだけだ。だが、ロバート・マーティンは有頂天で、――自分でもわかっていたようだが――なんだか、話があちこち飛んでいたよ。アストレイを出てから、弟が妻と息子のジョンを、ロバートがハリエット・スミスとヘンリーを連れて歩いていたのだそうだがすごいひとで、ミス・スミスが恐がったとか」
ナイトリー氏は言葉を切った。エマはすぐにはなにも言うまいと思った。いったん口を開いたら、理屈にあわない嬉しさが一気にほとばしり出てしまいそうだ。もう少し時間をおかないと、彼に気がおかしくなったかと思われてしまう。エマの沈黙が、ナイトリー氏を不安にした。しばらく彼女の様子をうかがってから、彼は言った。
「いとしいエマ、さっきは、この知らせを悲しまないと言ったけど、本当は予想した以上に辛いんじゃないのかな? たしかにロバートは身分は低いが、君の友だちが幸せになったことを認めてあげたまえ。それにロバートをよく知れば、きっと君も好きになると思うよ。見識のある、まじめな男で、必ず気に入るはずだ。君の友人を托すのに、あれ以上の人物はいない。彼の地位にしても、ぼくにできるだけのことはしてやろうと思っている。それはとりもなおさず、ぼく自身が彼を買っているからなんだ、エマ。君は、ウィリアム・ラーキンスのことでぼくを笑うかもしれないけど、ぼくはロバート・マーティンのこともとてもたよりにしているんだ」
彼はエマに、顔を上げて笑っておくれと言った。エマは有頂天にならないだけの抑制ができるようになったので、顔を上げ、にっこりして朗らかに言った。「ふたりの結婚をわたしに認めさせようと努力する必要はありませんわ。ハリエットはよくやったと思います。彼女の親戚のほうが、彼のより劣るかもしれないのですもの。人格という点では明らかにそうだわ。わたしが黙っていたのは、驚いたせいよ。だって、本当にびっくりしたんですもの。あまりにも突然で、夢にも思っていなかったことだったから。ハリエットはてっきり、以前にもまして、彼を拒むとものとばかり」
「友だちなら、一番よくわかりそうなものだが」ナイトリー氏は答えた。「彼女は気立ての良い、やさしい娘だ、好きだと告白する男をすげなく断ることなどできっこないよ」
エマは思わず笑いだした。「わたしに言わせれば、あなたのほうこそ彼女をよく知ってらっしゃるわ。でも、ナイトリーさん。ハリエットは本当に、はっきりとすぐさま彼の申し出を承諾したの? いずれは、良い返事をするとは想像できますけど、本当にもう、返事をしたのですか? ロバートの言葉を誤解したのではないのかしら? 違う話をしていたのではなくて? 家畜品評会のこととか、新しい条播機を買うこととかの話じゃなかったの? そんなことをあれこれ話しているうちに、彼の言うことを取り違えたんじゃない。彼が話していたのは、ハリエットに求婚するということではなくて、名物の雄牛の大きさのことだったとか」
いまのエマにとって、ナイトリー氏とロバート・マーティンでは、容姿においても、身のこなしにおいてもあまりに違いすぎるように思えた。だからこそハリエットの最近までの態度が強烈に思い出されて、あれほどきっぱり言っていたことが耳からはなれなかった。「いいえ、今のわたしはロバート・マーティンさんに関心をもつほど、愚かではありませんわ」――きっとこの知らせは、早合点だとあとでわかるのだろう。そうとしか考えられない。
「よく、そんなことが言えるものだ」ナイトリー氏は声高に言った。「ぼくがそれほど間抜けだと思うかい? 他人の話していることがわからないほど。君をどんな目にあわせてやったらいいのだろう」
「あら! わたしはいつも最高の目にあわせてもらいたいわ。それ以外はいや。だからわかりやすいように教えて欲しいの。あなたはマーティンさんとハリエットの関係がいまどうなっているか、本当によくご存じなのね?」
「知っているとも」彼はきっぱりとした口調で答えた。「彼女が承諾してくれたと彼が言ったことも、その言葉にあいまいなところや疑わしいところがいっさいなかったこともね。それにたしかな証拠もある。彼はぼくのところに、これからどうすべきか相談に来たんだ。ハリエットの親戚や友人についてはゴダード夫人にきくしか手だてがない。ぼくとしても、夫人のところに行くように言う以外、どうしようもなかった。だからそうするのがいいと、請け合ったよ。彼は今日のうちにもぜひうかがうと言っていた」
「それでなにもかもはっきりしたわ」エマは晴れやかな笑顔になって言った。「おふたりの幸せを心からお祈りするわ」
「君は以前、この話をしたときとずいぶん変ったね」
「そうだといいんですけど。あの頃のわたしは、とてもおばかさんだったから」
「ぼくも変ったよ。ハリエットの性質の良さについては君と同感だ。ぼくは君のためにも、ロバートのためにも(彼はずっと彼女のことを想い続けていたようだ)、ハリエットと仲良くなろうとずいぶん努力をした。いろいろ話す機会を持ってね。君も気づいていただろう。ときどき君は、ぼくがマーティンとの仲をとりなしているんじゃないかと疑っていたようだが、それは違う。ぼくの見る限り、彼女は飾り気のない、愛らしい娘で、しっかりした意見とまともな節操を備えていて、家庭の愛情と幸福を最大の幸せと考える女性だ。こういったことの多くは、君に負うところが大きいんじゃないのかな」
「わたしに!」エマは声をあげ、かぶりを振った。「ああ、気の毒なハリエット」それでも気持ちを抑えて、さらにいくつかの身にあまるほめ言葉を黙って聞いていた。
しばらくして、父親が入ってきたので、ふたりの会話は中断された。エマは少しも残念ではなかった。ひとりきりになりたかったのだ。心のなかには浮き浮きした気分と驚きが入り交じって、落ち着いてなどいられそうにない。踊ったり、歌ったり、心のなかの思いを大声で叫びたいような気持ちだった。部屋を歩き回り、独り言を言い、笑ったり考えたりしなければ、なにひとつまともにできそうにもない。
父の用事は、このところ父と娘の日課になっている≪ランドルズ≫行きで、ジェームズが馬車に馬をつけようと外へ行ったことを知らせに来たのだ。エマはそれを機会にすぐさま部屋を退出した。
エマの幸せな気持ち、感謝、たとえようもない歓喜の気持ちは想像にかたくない。ハリエットの幸福についての悲しみや雑念が取り払われて、こんなに幸せでいいのかと不安になるほどだった。これ以上、なにを望むことがあろう。なにひとつありはしない。ただ、いっそうナイトリー氏にふさわしい女性になれるよう願うだけだ。彼の意見と判断はいつだってエマよりずっと優れている。この上は、過去の愚かなふるまいから学んで、謙虚さと慎重さを身につけるだけのことだろう。
エマはとても真剣に、しごくまじめな気持ちで感謝し、決意をした。にもかかわらず、その決意の最中にも顔がほころんでくる。こんな結末にどうして笑わずにいられよう。五週間前、あれほど憂鬱な気分だった結末がこれとは。なんという心の変化! ハリエットったら!
これで彼女が帰ってくるのを喜んで迎えられる。嬉しいことばかりだ。ロバート・マーティンと近づきになるのもとても楽しみだ。
なかでもいちばん幸せに感じるのは、ナイトリー氏にもう隠し事をする必要がなくなったことだ。エマの気性には合わないあの嫌な、あいまいな言葉や謎めかした言い方をしなくてもすむのだ。これからは自分の性分にしっくりくる自信に満ち足りた表情で彼の目を見られる。
エマはこの上なく浮き浮きとした気分で、父とともに出かけた。父の話にいつも熱心に耳を傾けていたわけではなかったが、彼の言うことにはすべて賛成した。そして話していても、黙っていても、毎日のように≪ランドルズ≫に行かなければ、ウエストン夫人ががっかりするだろうという父の気楽な意見に、同意するのだった。
≪ランドルズ≫に着くと、居間には夫人ひとりがいた。しかし赤ちゃんのことをたずね、ウッドハウス氏が期待していた通りの訪問の礼を言われているうちに、窓の日除けごしに歩いてくるふたりの影が見えた。
「フランクとミス・フェアファクスですわ」ウエストン夫人が言った。「今申しあげようと思っていたのですが、今朝息子がこちらに着きまして、驚くやら嬉しいやらで、息子は明日までいるのですが、ミス・フェアファクスにも来ていただいて一緒に過ごしていただくようお願いしたのです。今、来ると思います」
ふたりは、すぐに入ってきた。エマはフランクに会ってとても嬉しかった。それでも、お互いにばつの悪い思い出もあって、ちょっとためらいもあった。気持ちよく楽しげに顔を合わせたものの、初めは意識してなかなか言葉が出てこない。みんなで腰を下ろしても、しばらくはしらけた雰囲気が漂っていて、エマは、あれほどもう一度フランクに会いたい、ジェーンと一緒のところを見たいと望んでいたのに、いざ会ってみると、それほど嬉しくもないのかと疑いを持ち始めた。そこへウエストン氏が現われ、赤ん坊も連れてこられると話はやおら活気づいた。フランクは思いきって機会をとらえてエマに近づき、言った。
「お礼を言わなくてはなりません、ミス・ウッドハウス。母に宛てた手紙に、親切なお許しの言葉をいただいて。時が経っても、あなたの気持ちが変っていないといいのですが。あのとき言われたことを、取り消したりはなさらないでしょう?」
「まあ、とんでもない」エマは嬉しそうに声を高めた。「そんなことは、あり得ませんわ。お会いできて本当に嬉しいわ。こうして握手できることも。それに直にお会いしてお祝いを言いたいと思っていたんです」
フランクは心をこめて礼を述べ、しばらくは感謝と幸福の気持ちを真剣に話した。
「彼女は元気そうになったと思いませんか?」彼はジェーンのほうを見て言った。「以前より、ずっと健康そうだ。父や義母がどんなに彼女を可愛がっているか、ごらんになったでしょう」
だが彼はたちまち以前のいたずら心を取り戻し、茶目っけのある目で、もうじきキャンベル一家が戻ってくると告げ、ディクスン大佐の名を出した。エマは真っ赤になって、ジェーンに聞こえてはいけないとさえぎった。
「それを考えると恥ずかしくてたまらないわ」
「恥ずかしいのは、ぼくのほうです。あるいは恥ずべきと言ったほうがいいでしょう。あなたは少しもおかしいとは思いませんでしたか? 最後のほうになって、という意味ですが。最初はぜんぜん疑っていませんでしたよね」
「いっさい疑ってなどいなかったわ」
「そりゃあ、不思議だな。ぼくはあるときすんでのところで――いや、そうすべきだったのです。そうしたほうが良かった。まずいことばかりしでかすぼくですが、あれはとりわけまずかった。ぼくにとっても、得になることなどなにもなかった。思い切って秘密を打ち明けて、なにもかも話してしまったほうが、たとえ約束違反でもどんなによかったことか」
「いまは、悔やむことなんてなにもないでしょ」
「ぼくは、あることを願っています」彼は続けた。「伯父を説き伏せて、≪ランドルズ≫を訪問させたいんです。伯父はジェーンに会いたがっています。キャンベル一家とは、一家がロンドンに戻ったとき、ふたりで会って、しばらく一緒に過ごしてから、彼女を連れてヨークシャーに行こうと思っています。でもいまはこんなにも遠く離れているんです。かわいそうだとは思いませんか、ミス・ウッドハウス? 今朝会うまで、ぼくらはあの仲直りの日から一度も会っていなかったんですよ。同情してくれますか?」
エマがあまりにもやさしく、それはお淋しいでしょうねと言葉をかけたので、彼はいきおい元気づいて、大声で言った。
「そうだった、ところで!」そして声を低めて、一瞬まじめな顔つきになって「ナイトリー氏は、お元気ですか」と言うと、そこで言葉を切った。エマは顔を赤らめて笑った。
「ぼくの手紙をごらんになったでしょう、あなたによく思われたいというぼくの気持ちはご存じのはずです。今度は、ぼくがお祝いを言う番です。信じてください、ぼくはその知らせを聞いて、心から関心を持ち、そして喜びました。あのひとのことを、ぼくなんかがほめたりしては、却っておこがましい」
エマは嬉しくて、もう少し彼の賛辞を聞いていたかった。しかし、次の瞬間彼の関心は自分といとしいジェーンに戻っていた。
「あんな肌の色を見たことがありますか? とてもなめらかで、きめが細かくて! それでいて白すぎるということもない。真っ白とは呼べませんね。たとえようのない色だ。それにあの濃いまつげと黒髪。この世にふたつとない顔です。なんとも言えない気品が漂って、美しさを感じさせるばかりのわずかな頬の赤み」
「わたしは、いつも彼女の顔の色は素敵だと思っていたわ」エマはわざと意地悪く言った。「いつだったか、彼女の顔色が悪いと非難したのはあなたではなかったしら。初めて彼女のことを話したとき、もう、お忘れ?」
「いやはや、参ったな。ぼくはなんて嫌なやつだったのだろう! よくもあんなまねが――」
彼がそれを思い出してあまり笑うので、エマは言わずにはいられなかった。
「そういう不安の最中にあって、あなたというひとはわたしたちをからかって楽しんでいたのね。きっと、そうだわ。それで憂さ晴らしをしていたのね」
「いや、いや、そんな、とんでもない。どうしてそんなふうに疑うんです? ぼくはこんなにかわいそうな男だっていうのに」
「悪ふざけできるうちは、本当にかわいそうとはいえませんわ。きっとみんなをだましているのが、楽しくてしかたなかったのでしょう。多分一番乗せられやすかったのはわたしだわね、だって実を言えば、もし同じ立場にあれば、わたしもおもしろがったでしょうから。わたしたちちょっと似ていると思うの」
彼は一礼した。
「もし性格ということでないなら」エマは誠実な面持ちですぐに続けた。「運命が似ているんだわ。自分よりはるかに優れた相手に恵まれるという運命が」
「本当にそのとおりです」彼は熱意をこめてうなずいた。「でも、あなたの場合は別です。あなたに勝るひとはいませんが、ぼくの場合は言い得ています。彼女はまるで天使のようです。見てください。ちょっとした仕草ひとつにしても、天使のようでしょう。あのうなじをみてください。あの瞳、ぼくの父を見るときのあの視線を見てください。あなたも喜んでくれると思いますが(頭を傾け、熱心そうな口調で)伯父は伯母の宝石をすべて彼女に譲る気なんですよ。台を新しくつけかえて。そのうち幾つかは髪飾りにするつもりです。彼女の黒髪に美しく映えるとは思いませんか?」
「きっと、きれいでしょうね」エマは答えた。その言葉がとてもやさしげだったので、彼は思わず言った。
「また、お会いできて、本当に嬉しいです。それにとても美しくなられて。今日こそなんとしてもお会いしたかったんです。もし、おいでにならなかったら≪ハートフィールド≫までうかがっていたことでしょう」
ほかのひとたちは子どものことを話していて、ウエストン夫人が、昨日赤ちゃんの具合が良くなさそうで心配したと言った。ばかげたこととは思いつつ、ひどく心配になって、もう少しでペリーさんを呼びにやるところだった、と。あとで思えば恥ずかしいことだが、そのときはウエストン氏も一緒になって心配したのだそうだ。だが十分もすると赤ん坊はけろりと元気になった。それがあらましだったが、その話はことのほかウッドハウス氏の関心を引いて、ペリーを呼ぼうとしたのはよい判断だが、なぜ実行しなかったのかが残念だと言った。「赤ん坊の具合が少しでもおかしかったなら、たとえ一瞬のことでも、すぐにペリーを呼ぶべきです。どんなに心配してもしすぎることはないし、ペリーを呼びすぎるということもありません。昨夜、ペリーを呼ばなかったのはかえすがえすも残念なことです。赤ん坊が元気そうに見えても、ずいぶん元気に見えても、ペリーに診せていたら、もっと元気になったことでしょう」
フランク・チャーチルがその名前を聞きつけた。
「ペリー先生!」彼はエマに話しかけながらも、ミス・フェアファクスの視線をとらえようとした。「友だちのペリー氏か! ペリー氏のことでみなさん、なんの話をしているのでしょう。今朝、ここに来たのでしょうか。どうやって来たのでしょう。馬車に乗ってかな?」
エマはすぐに思い当たり、彼の言わんとすることを察した。エマが一緒になって笑っているときにも、ジェーンの様子からして彼の言葉が聞こえているのはあきらかで、なんとか聞こえない振りをしようとしていた。
「ぼくはなんておかしな夢を見たんだろう!」彼は声高に言った。「笑わずには、いられません。彼女は聞こえていますよ、絶対に、ミス・ウッドハウス。彼女の頬の色や微笑み、まじめな顔をしようとしているが無駄なんだ。見てください。彼女の書いたあの手紙の文章が、ぼくにあの件を知らせたくだりが、彼女の目の前を通り過ぎていくのが見えるでしょう。あの、おかしな勘違いのことを、彼女も思い出しているはずだ。ほかのひとの話を聞いているふりをしてますが。集中なんかできっこないんだ」
ジェーンはしばらく微笑もうとつとめていた。そして微笑みを少し浮かべたまま彼のほうを振り返って、まじめな、そして低く落ち着いた声で言った。
「どうして平気でそんなことが言い出せるのか、わたしには不思議でなりません。時々思い出してしまうことはあるにしても、わざわざ呼び起こすなんて!」
彼はお返しにいくらでも言い返すことがあり、それをおもしろおかしくしゃべった。けれどもエマはひたすら議論においてはジェーンの味方だった。≪ランドルズ≫を辞したとき、思わずふたりの男性を比べて、たしかにフランク・チャーチルに会えて楽しかったし、友情もあるが、人格においてナイトリー氏がはるかに優れていることをこれほどはっきり意識したこともなかった。エマはふたりの男性を比較することでナイトリー氏の素晴らしさをいっそう実感し、幸せなうちでも最も幸せな一日を終えるのだった。
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第五十五章
たとえエマがハリエットのことでいささかの不安を感じていたとしても、例えば本当にナイトリー氏に寄せた片思いから立ち直ったのか、そして偏りのない気持ちも新たに申し出を受けたのかどうか確信がもてなかったにしても、そういうことをときどき考え心配になるのはごくわずかな期間だった。二、三日してロンドンから一行が到着し、ハリエットとふたりだけで一時間ばかり話す機会に恵まれてみると――なんと不思議なことだろう!――ナイトリー氏はいまやすっかりロバート・マーティンにとってかわられ、ハリエットの幸せはすべて彼だけにかかっていたのだ。
初めハリエットは元気がなく、少々呆然としているように見えた。けれども一度自分がいかに図々しく愚かで、思いあがっていたかを打ち明けてしまうと、不安や心の痛みは消え去り、過去の出来事を悩むこともなくなり、今とこれから先の生活を思って歓びに浸るのだった。というのも、友人に認めてもらえるかどうかという問題が、エマに双手をあげて祝福されるということで解決されたからだ。ハリエットは嬉しげにアストレイで過ごした夜や翌日のディナーでの出来事を事細かに語った。はちきれんばかりの喜びとともに話し続けた。それにしてもどうしてこんな不思議なことが起きたのだろう。今になって思えば、実際のところハリエットはロバート・マーティンのことをずっと好きだったのではないだろうか。そして彼のほうも彼女を想い続けたという事実が、彼女にとっては抗いがたい魅力だったのだ。それ以外に、想像がつかない。
ともかくこの縁談は喜ばしく、そう考えてもいい新たな理由が日ごともちあがった。ハリエットの生まれもわかった。ある商人の娘で、彼女のこれまでの不自由ない暮らしを援助できるだけの裕福さもあり、名乗りでるのを慎むほどに良識のある家でもあった。しかしこれが、以前エマが自信たっぷりに請け合った家柄のすべてだったとは! たぶん、普通の紳士としてはまあまあなのだろうが、それがナイトリー氏との結びつき、あるいはフランク・チャーチル、さらにエルトン氏ともなると、なんと釣り合いがとれないことか! 私生児だという瑕《きず》は、たとえ高貴な家柄や血筋であがなうにしても、やはり瑕には違いない。
ハリエットの父のほうに異存はなかった。青年は寛大に受け入れられた。事は首尾良く運んでいった。エマはロバート・マーティンと知り合うにつれ、彼には、大切な友だちをゆだねるのにふさわしい良識と価値観があるのを発見した。ハリエットならどんなやさしい男性とでも幸せになれるのはたしかだが、彼となら、彼と築く家庭なら、さらに平和で安定した、よりよい暮らしに恵まれるだろう。彼女を愛し、彼女より分別においてまさるひとたちに囲まれて暮らすことになるのだから。都会から離れているので安心だし、するべき仕事もじゅうぶんあるだろう。誘惑にさらされることも、惑わされるような場におかれることもない。そこそこに立派に暮らし、幸せになるだろう。あれほどの男性に、そこまで長いこと変らぬ気持ちで思われたハリエットは、世界で一番幸せな娘だ。もし、一番でないにしても、わたしの次に幸せだ。
ハリエットはマーティンとの婚約で忙しくなり、しだいに≪ハートフィールド≫への足が遠退いた。それはべつに悲しいことではなかった。エマとハリエットとの友情はいずれは冷めなければならなかった。いつかは穏やかな好意といったものに変っていく必要があった。幸運なことにそれはたしかに始まっており、それもゆっくりとした自然な形で変っていった。
九月も終わりに近づいたある日、エマはハリエットに付き添って教会に行き、彼女の手がロバート・マーティンの手に委ねられるのを心のそこから満足そうに見守った。エルトン氏がふたりの前に立ったときも、昔を思い出してその思いがそこなわれるということもなかった。たぶんそのときのエマは彼を、エルトン氏ではなく、次の秋にはエマ自身に祝福を与える牧師としてしか見ていなかったのだろう。三つのカップルのうち、最後に婚約したふたり、ロバート・マーティンとハリエットが最初に結婚した。
ジェーン・フェアファクスはすでにハイベリーを後にして、慈しんでくれたキャンベル一家と幸せな生活を取り戻している。チャーチル氏もロンドンに出てきて、ひたすら十一月を待っていた。
その間の月が、エマとナイトリー氏にとっては思い切って結婚を決めたい月でもあった。結婚式はぜひともジョンとイザベラが≪ハートフィールド≫に滞在しているうちに行い、予定している海岸での休暇のために二週間、家を留守にしたいと思っていた。ジョンとイザベラ、そして多くの友人はそれに賛成してくれた。だが、問題はウッドハウス氏である。どうやってウッドハウス氏に承知させたらいいのだろう。氏は結婚はずっと先だと思いこんでいる。
初めその話をすると氏がとても悲しそうだったので、説得の希望は絶たれたかにみえた。二度目にほのめかしたときは、痛みは少し軽くなったようだった――自分には止められない、避けられないことと思い――先の明るい、あきらめのたしかな一歩を踏み出したかのようだった。それでもやはり、嬉しくはない。それどころか、まったく逆に見えたので、娘の勇気もくだけた。父が悲しみ、捨てられたと思う姿を見るのは耐えられない。ナイトリー兄弟は結婚さえしてしまえば、じきに元気を取り戻すに違いないと言ってくれ、エマにも理屈ではそうだとわかっていたが、やはりためらいがあり、二の足を踏まざるをえなかった。
このような状況が続くなかで、彼らの味方になったのは、ウッドハウス氏が突然元気になったとか、突然思考の回路が変ったというのではなく、まったく意外な方面からの働きかけであった。ある晩、ウエストン氏の家のトリ小屋が荒らされ、七面鳥が残らず盗まれてしまった。明らかに人間の仕業だ。同じ様な被害が近所でもあった。ウッドハウス氏にとって、こそ泥は押し込み強盗も同じだ。彼はひどく不安になった。護衛してくれる娘婿がいなかったら、この先毎晩どれほどの恐怖にさらされて過ごすことになることか。頼もしく、決断力と強い意志を持ったナイトリー兄弟には全面的に頼らざるを得ない。彼らのどちらかが守ってくれる限り、≪ハートフィールド≫は安泰なのだ。けれども、ジョン・ナイトリー氏は、十一月の初めにはロンドンに帰らなければならない。
苦悩の果て父親はエマに、彼女が思っていたよりずっと快く、自分のほうから承諾を与え、式の日取りが決まった。エルトン氏が呼ばれ、ロバート・マーティン夫妻の結婚から一ヵ月後に、ナイトリー氏とミス・ウッドハウスの手を結び合わせることになった。
ふたりの結婚式は、派手な飾りやパレードをみせびらかすこともなく、多くのほかの式とほとんど変るところはなかった。夫から逐一報告を受けたエルトン夫人は、自分の結婚式よりみすぼらしく、地味な式だったのだと想像した。「白のサテンもほとんど使ってなくて、レースのベールもたいして長くなかったんですって。かわいそうに。姉のセリーナが聞いたらきっと目を丸くするわ」
だがそんな華やかさはなくても、その結婚式は、参列したごく近しいひとたちの祝福や希望、信頼、期待にじゅうぶんに応えたものだった。
ふたりの至上の幸福、それに、結びつきによって。(完)
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訳者あとがき
外国語で書かれた本を読むとき、一部のひとをのぞいては、ほとんどが翻訳したものを読むのではないでしょうか。このことで、ジェーン・オースティンほど損をしている作家はいません。翻訳がまずいとか、難しいとかいうのではなく、単純に本の題名を日本語に訳したとき、読者に与える印象が内容と大きく違ってしまうということです。
たとえば、ジェーン・オースティンの代表作ともいえる Pride and Prejudice(高慢と偏見)と、Sense and Sensibility(分別と多感)をあげてみましょう。
英語だと心地よく、軽い感じさえ出ているこの題名が、いざ日本語になると哲学書かと思われるほど固いものに変ってしまいます。しかも、古典となればこちらで勝手に題名を変えるわけにはいきません。そしてこの小難しい題名ゆえに、せっかくのオースティンの、素晴らしい作品の数々に触れようとしなかった読者がどれほどいることでしょう。
そのてんこの『エマ』には、そういった問題はありません。だれもが気軽に手にとってみたくなる題名です。そして事実、ジェーン・オースティンというのは、実に気軽に楽しんでもらえる作家なのです。そのうえ彼女ほど、読者の好き勝手な解釈を許してくれる作品を書いた作家もいません。
通俗的な恋愛小説ととってくださってもかまいません。または、十八世紀後半、あるいは十九世紀前半の風俗習慣が生き生きと、手に取るように伝わってくる作品と解釈することもできます。そのほか、解釈に関して数え上げれば切りがありません。要は、多種多様の要素を含みながら、けっして押しつけがましいところがなく、ひたすら読者を楽しませてくれる。それが彼女の作品の素晴らしさなのです。洋の東西を問わず、オースティンが実に多くのひとびとに愛され、しかも何度も何度も繰り返し読まれる理由は、このあたりにあるのではないでしょうか。
本書の訳は、こういったオースティンの魅力をできるだけ多くのひとびとに知っていただくため、可能なかぎり平易な文になるよう心がけました。とはいえ、なにせ百八十年も前に書かれた作品ですから、当時の言葉づかい、習慣などで、どうしても今ふうになりきれないところがあるのは避けられません。ただ、そこがまたこの作品を読む魅力だと思っていただけたら幸いです。
英国文学の代表的な女流作家、ジェーン・オースティン(一七七五〜一八一七)についての詳しい説明は、ここではあえてはぶくことにします。それより、難しいことはいっさい抜きにして、まずこの『エマ』を通して、彼女の作品のおもしろさを知ってください。そしてそれをきっかけにして、彼女のほかの作品にも手を伸ばしていただけるとしたら、訳者としてこれほど嬉しいことはありません。
最後にこの本の翻訳に当たって協力してくださった多くの方々に、心から感謝いたします。ことに、青山出版社編集部の七戸綾子さん、出版プロデューサーの浅見淳子さんには大変お世話になり、厚くお礼を申し上げます。(訳者)
〔訳者略歴〕
ハーディング祥子(しょうこ) 翻訳家。早稲田大学文学部、英国クライスト・チャーチ・カレッジ卒。おもな訳書に「ウーマンズ・オブ・ミステリー」(共訳)「ウーマン・アンド・ゴースト」など。