エマ(上)
ジェーン・オースティン/ハーディング祥子訳
目 次
第一部
第一章〜第十八章
第二部
第十九章〜第二十九章
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第一部
第一章
エマ・ウッドハウスは、美しくて頭が良い、金持ちの娘だった。居心地のいい家庭と性格のよさにも恵まれ、世の中の幸せを一身に集めていた。生まれて二十一年近く、悩みらしい悩みももったことがない。
父親は愛情に富み、子どもに甘かった。ふたり姉妹の下だったエマは、姉が結婚してからというものかなり若い頃から、当然の成り行きとして一家の女主人の役割を担った。母親は小さいときに亡くなり、かわいがってもらった記憶がかすかに残っているだけだ。代りに、実母に勝るとも劣らない愛情でふたりを育ててくれたのが、優秀な家庭教師だった。
ミス・テイラーはウッドハウス家に十六年も仕えていた。家庭教師というより、むしろ友人のような接し方で姉妹を愛し、なかでもエマには格別の愛情を抱いていた。ふたりの仲のよさは姉妹以上と言ってもよかった。屋敷内の、教務室とは名ばかりの室を使わなくなる以前から、穏やかな性格のミス・テイラーは、エマにたいして厳しい規則をいっさいおしつけようとはしなかった。そして教師としての権威がすっかり影をひそめてしまってからも、ふたりは仲の良い、互いに惹かれあう友として、一緒に暮らした。こうしてエマは、ミス・テイラーの意見をじゅうぶんに尊重しながらも、たいがいは思いどおりに、好きなように生きてきた。
実際に、エマの置かれた立場で悪いことといえば、彼女があまりに好きなことができすぎたことと、自分をいい人間だと思い込みすぎていたことだろう。それは、エマのすべての歓びに、うっすらと暗い影をおとす危険性を含んでもいた。しかし、その影もいまのところはほとんど表にはあらわれず、それを彼女の欠点だと思っている者もいなかった。
悲しみがおとずれた――そこはかとない悲しみだった。と言っても、決して不愉快な事件が起きたわけではない。ミス・テイラーが結婚したのだ。ミス・テイラーを失って、エマは生まれて初めて悲しみというものを知った。結婚式の夜、エマはいままでになく長いこと彼女をしのんで座っていた。式も終わり、宴《うたげ》に集まったひとびとも帰って、父親とふたりきりで、長い夜を楽しくしてくれる訪問客の予定もない。父親がいつもの食後のうたたねをしているあいだ、エマはじっと座ったまま、自分の失ったものに思いを馳せていた。
ミス・テイラーにとってこの結婚は、あらゆる幸せを約束している。相手のウエストン氏は申し分のない性格で、それなりの財産もあり、年齢的にもぴったりで、非常に感じのいいひとだ。それにエマ自身この結婚を、私心のない真の友情をもって、強力に後押ししてきたことを思うと、多少のなぐさめもないわけではない。それでもやはり、この先続くであろう暗い冬の朝のような日々を思わずにはいられなかった。これからは毎日、毎時間、彼女がいないことを思い知らされるのだ。エマはミス・テイラーのやさしさを思い浮かべた。それは十六年にわたるやさしさと、愛情の思い出だった。五歳のころから、元気なときには、いろいろと教えてもらったり、一緒に遊んでもらった。彼女は全身全霊でエマを愛し、喜ばせてくれた。そして、子供にありがちな様々な病気のときも、どれほど親身に看病してくれたことか。それだけでも大きな借りがある。しかし、それいじょうにいとおしく、心温まる思い出は、イザベラが結婚した後、ふたりだけで過ごした七年間につちかわれた、対等で遠慮のない関係だった。彼女はめったには得られない真の友であり、ともに暮らす伴侶でもあった。知的で、物知りで、有能で、おだやかで、家族全員を知りつくし、そこにおきるあらゆる事柄に興味を示し、ことにエマにたいしてはどういうわけか、喜びにしろ、思いにしろ、すべてに関心をもってくれた。彼女が相手だと、思ったままを口にすることができたし、またその愛情ときたら、エマには欠点などなにひとつないと信じ込んでいるほどのものだった。
この変化に、いったいどう耐えていったらいいのだろう? 彼女はここから半マイル先のところに落ち着くことになっている。しかしエマは、そのたったの半マイル先に住むウエストン夫人と、共に暮らしたミス・テイラーとのあいだには、計り知れないほどの違いがあることを知っていた。あらゆるものに恵まれていたにもかかわらず――それが生まれつきだろうが、育ちからだろうが――彼女はいまや精神的にひとりぼっちになってしまったのだ。心から愛してはいても父親は、友だちではない。知的な会話にしろ、冗談にしろ、とても話があいそうになかった。
ウッドハウス氏は晩婚のため、娘とは歳がひどく離れていたが、彼の体質や習慣が、その差をもっと大きなものにしていた。彼は生涯、自分の体調ばかり気に病んで、心身ともになんの活動もしなかったので、年というより、生きかたそのものがずっと老けていたのだ。気さくで、愛すべき性格のため、だれからも好かれてはいたが、彼の才能が認められることはほとんどなかった。
エマの姉は、結婚したにしては比較的近くの、十六マイルほど離れたロンドンに住んでいたが、毎日訪れるにはそれも遠すぎた。姉のイザベラがクリスマスに、夫や小さな子供たちを連れて戻ってきて、屋敷がふたたびにぎやかで気持ちのよい社交場に変るまでの十月、十一月は、なんとかこの≪ハートフィールド≫での長い夜をしのがなければならない。
≪ハートフィールド≫は、その所有する草地や林や、また名前からいって独立した土地ではあったが、実際には、ハイベリー村に属していた。面積や人口からしてハイベリーは、町と呼ばれてもおかしくはない。そしてそのハイベリーには、エマが対等につきあえるようなひとはだれもいなかった。ウッドハウス家は村の頂点にたつ家系で、みんなから敬われていた。だれにたいしても礼儀正しさを失わない父親のおかげで、エマにはたくさんの知人がいたが、たとえ半日でもミス・テイラーの代わりになれるひとなど、ひとりとしていなかった。だから、今回のことは気を滅入らせた。
エマはただため息をつきながら、ほとんど不可能なことを願っていた。父が目を覚ます前には、せめて元気になっていよう。父親は、精神的な支えを必要とするひとだ。感受性が強く、なにかといえばすぐに憂鬱になるたちで、昔からよく知っているひとたちが大好きだったから、別れをとても嫌った。実際、彼はどんな小さな変化にも耐えられなかった。とくに結婚には、それが大きな変化をもたらすものだけに、いつも反対だった。実の娘の結婚でさえ、愛情あふれた結びつきであったにもかかわらず、いまだに全面的には受け入れられず、いつも娘に同情しているくらいだった。なのにこんどは、ミス・テイラーとも別れなければならない。そして彼の身勝手なやさしさや、ひとが自分と違う考えを持つことなど考えも及ばないという習慣から、ミス・テイラーは、彼らにとってだけでなく、彼女自身のためにも、もっとも嘆かわしいことをしたと信じ込んでいた。彼女は一生、≪ハートフィールド≫で暮らしたほうが、どれだけ幸せだったかもしれないのにと。エマはできるだけ明るく微笑んだり、おしゃべりしたりして、父親をその話題から遠ざけようと努めたのだが、お茶の時間がくると、またもや、夕食の席で言ったのと同じことを言い始める。
「ミス・テイラーも、気の毒なことをした! できたら戻ってくればいいのに。ウエストン氏が彼女に目をつけたとは、いかにも残念だ!」
「いいえ、お父様、それは違うわ。ウエストンさんは、とても性格がよくて、気持ちのいい立派な方よ、良い妻を持って当然だわ。それにお父様だって、ミス・テイラーが自分の家が持てるのに、生涯ここにいて、わたしのおかしな性格を我慢するほうがいいとは思わないでしょ?」
「自分の家だって! 自分の家を持ってどこがいいのかね? この家のほうが三倍も広いというのに。それに、エマや、お前にはおかしなところなどどこにもないよ」
「これからだって、いくらでも会いに行かれるし、むこうからだって訪ねていらっしゃるわ! いつだって会えるのよ! まずはわたしたちから始めなくてはね。すぐにでもお祝いの訪問をしましょう」
「エマ、わしがどうしてあんな遠くまで行かれると思うのかね? ≪ランドルズ≫まではかなりの距離だ。あの半分だって歩けやしないよ」
「いいえ、お父様を歩かせるなんて、だれも考えていません。もちろん、馬車で行くんです」
「馬車! あんな目と鼻のさきへ行くのに、ジェームズが馬をつけたがるかな。それに訪問しているあいだ、かわいそうな馬はどこにつないでおくのかね?」
「ウエストンさんの厩舎ですわ、お父様。これはもう決まっているんです。昨日の晩ウエストンさんと話しあったじゃありませんか。それにジェームズにしたって、≪ランドルズ≫にならいつだって喜んで行きますわ。だって娘さんが、あそこの|召し使い《ハウス・メイド》として働いているんですもの。反対に、≪ランドルズ≫以外はどこへも連れていってくれないのでは、と思えるほどよ。それに、あれはお父様のお考えだったでしょ。ハンナにいい働き場所を見つけてあげたのは。お父様がハンナの名を出すまでは、だれも思いつきもしなかったんですもの。ジェームズが、とても感謝していますわ」
「ハンナのことは思いだしてよかったよ。まあ、運がよかったのだが。かわいそうなジェームズに、自分は軽んじられているなんて考えてもらいたくないからね。それにあの娘《こ》はいい奉公人になるよ。とてもお行儀がいいし、言葉もきれいだ。わたしはとても買ってるんだ。会うといつも、きちんと膝を折っておじぎをして、わしの様子をかわいくたずねてくれてね。それにここでおまえが針仕事をさせていたときでも、ドアの鍵をいつも正しい方向にまわして、音をたてて閉めたりなどいちどだってしなかった。あの娘《こ》なら、すばらしい召し使いになることまちがいなしだ。それにミス・テイラーだって、顔見知りの雇い人がいることでずいぶんほっとするだろう。ジェームズが訪ねるたびに、わたしたちの様子がわかるからね。きっと、彼がわたしたちがどんなふうに暮らしているかを話して聞かせるだろう」
エマは父の機嫌の良さを持続させるためには、いっさいの努力を惜しまず、バックギャモンの助けを借りて、自分の悲しみはともかく、父にだけはなんとかこの夜を楽しくやりすごしてもらいたいと望んでいた。バックギャモンのテーブルが用意されたが、すぐに客がきて、それを使う必要もなくなった。
ナイトリー氏は三十七、八歳で、思慮深く、昔からの親しい友人ではあったが、それだけではなく、イザベラの夫の兄という親戚関係にもあった。ハイベリーから一マイルほどのところに住み、いつでも温かく迎えられたが、今夜はとくにロンドンの彼の弟、すなわちイザベラの家からまっすぐにやって来たというので、格別に歓迎された。彼は二、三日出かけていて、今夜の遅いディナーに戻り、すぐに、≪ブランズウイック・スクエアー≫ではみんな元気に暮らしていると告げるために、≪ハートフィールド≫まで歩いて来てくれたのだ。この嬉しい出来事に、ウッドハウス氏もしばらく元気を取り戻した。ナイトリー氏はいつも朗らかで、それがかならずエマの父親にいい影響を与えた。|かわいそうなイザベラ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と、その子供たちのことをあれこれきかれ、ナイトリー氏はそのひとつひとつにこれいじょうないほど満足に答えている。一通り質問が終わると、ウッドハウス氏が嬉しそうに言った。
「ナイトリーさん、こんな時間なのにわざわざ訪ねてきてくれて、本当にありがとう。ここまで歩いてくるのは大変だったでしょう?」
「いいえ、とんでもありません。とても気持ちのよい、月の明るい晩ですから。それに温かくて、おたくの素晴らしい暖炉から少し離れなくてはならないほどです」
「それでも夜露がおりて、道がぬかっていたはずですよ。風邪を引かないといいのですが」
「ぬかっているですって! この靴をごらんください。ほこりひとつついていませんよ」
「なるほど! これは驚いた。こっちではかなり雨が降りましたからね。朝食のとき、三十分ほど土砂降りだったんです。できたら、式を延ばしてもらおうと思ったくらいです」
「それはそうと――まだ、おめでとうを言っていませんでしたね。おふたりのお気持ちを思うと、あわててお祝いを申し上げるという気にもなれませんでしてね。でも、なにもかもうまくいったのでしょう。みなさん、どうでしたか。だれがいちばん泣いていましたか?」
「ああ、ミス・テイラーも気の毒に! まったく悲しいことです」
「あなたがたおふたりになら、あえて、お気の毒にと申しあげられますが、『お気の毒なミス・テイラー』だなんてとんでもない。あなたやエマの気持ちはよくわかりますが、こと自分の家庭を持つか一生人の世話になるかという問題になりますとね! どちらにしろ、喜ばせるなら相手はふたりよりひとりのほうがいいですよ」
「とくにそのうちのひとりが、気紛れで、気難しい人間とあればなおさらですものね!」エマがふざけて言った。
「そう思っているのでしょう。お父様がいるのでおっしゃらないだけで」
「ああ、まさにそのとおりだね、エマ」ウッドハウス氏はため息をついた。「わたしはときどき本当に、気紛れで、気難しくなるからね」
「まあ、お父様ったら! まさか、わたしもナイトリーさんも、お父様のことを言っているなんて思われたんじゃないでしょうね。とんでもありません! いいえ、違うんです! わたしは自分のことを言ったんです。ナイトリーさんは、わたしのあら捜しをするのがお好きなんです。もちろん、ほんの冗談ですけれど。わたしたちは、お互いに好きなことを言いあうんです」
事実ナイトリー氏は、エマ・ウッドハウスにも欠点があることを知っている数少ないひとりで、しかもそれをはっきり口にするのは彼だけだった。エマはそのことを特に喜んでいたわけではなく、父はもっと喜ばないとわかっていた。ましてやこんなとき父親に、自分の娘が誰にでも愛されているわけではないということを知らせたくはなかった。
「エマはわたしが決してお世辞を言わないことを知っているのです」ナイトリー氏は言った。「だからといって、非難しているわけではありません。ミス・テイラーはずっとふたりの人間を喜ばせてきました。でも、こんどはひとりだけです。そのぶんだけ、成功する可能性が高いということです」
「ところで」そこは聞き流すことにして、エマは言った。「式の様子をお知りになりたいでしょうから、喜んでお話しするわ。だって、みんなとても素晴らしかったの。遅刻したひともいないし、服装も立派だったわ。涙もなく、もちろん不機嫌な顔をしているひともひとりもいなかったわ。ひとりもね! たった半マイルしか離れないのがわかっているし、毎日だって会えるんですもの」
「このエマは、どんなことにも耐えるいい娘《こ》です」父親が言った。「それでもナイトリーさん、ミス・テイラーを失ったことでは、とてもかわいそうに思います。彼女がいないことで、きっと、自分で思っているよりはずっとさびしい思いをすることでしょう」
エマは、笑うとも泣くともつかない顔をそむけた。
「あんな素晴らしい伴侶を失ったのです、それはもう、あたりまえのことです」ナイトリー氏は言った。
「思うに、わたしたちがエマが好きなのも、そういうところがあるからこそではないでしょうか。でも、エマはこの結婚がミス・テイラーにとってどれほどいいことか、知っています。生涯落ち着ける家庭を持つことで社会的にも認められ、気持ちのいい暮らしも保証されるのです。それがどれほど大切なことか、エマはわかっていますから、きっと悲しみより、喜びのほうが大きいでしょう。ミス・テイラーの友だちはひとり残らず、彼女が幸せな結婚をして喜んでいるはずです」
「もうひとつ、わたしにはまた別の喜びがあることをお忘れですわ」エマが言った。「それもとても大切なこと――あの結婚はこのわたしがお膳立てしたものよ。四年前にわたし自身が計画して、それが実現したんですから、それはそれは嬉しいわ。だってあの頃はだれもが、ウエストンさんは二度と結婚しないと言っていたのに、こうしてわたしが正しかったことが証明されたんですもの」
ナイトリー氏は、エマにむかって首を横に振った。父親がいとおしそうに言った。「ああ、エマ。お前がそんなお膳立てだの、予告だのをしないでくれるといいのだが。お前が言うとどんなことでも、本当になってしまう。お願いだから、もう二度と結婚のお膳立てなどしないでおくれ」
「わたし自身の結婚のことなら、絶対にしないと約束しますわ、お父様! でも、ほかのひとたちのためには、しなくてはね。これほど素晴らしいことってないわ! ことに、こんな成功を目のあたりにしたらなおさらでしょ! だってだれもが口を揃えて、ウエストンさんは決して結婚しないって言ってたのよ。ああ、でもそれは違うの! たしかにウエストンさんはやもめ暮らしが長く、奥様がいなくても、とても気分よく暮らしていらしたし、町でのお仕事やら、近くのお友だちとのおつきあいがとても忙しいうえ、どこへ行っても歓迎され、いつもにこやかで、その気なら、たったのひと晩だってひとりで過ごす必要などなかったほどよ。でも、違うの。ウエストンさんは決して再婚などしない。奥様が亡くなるときにそう約束したとかいう噂さえあって、ほかにも、息子さんや伯父さんが許さないとかいう話もあったわ。それやこれやで、あらゆる根も葉もないことが言われていたけど、わたしはひとつとして信じなかった。四年前にミス・テイラーとわたしがブロードウェイの小路で彼と出会ったとき、たまたま、細かい雨が降り出してきて、ウエストンさんがミッチェルさんの農場まで飛んでいって、傘を二本借りてきてくれたの。あの日、わたしは心を決めたの。あれいらいふたりを結婚させようと計らって、今日、それが見事に成功したということよ。そんなわけで、お父様、わたしに止めろというほうが無理ですわ」
「あなたの『成功』と言う意味がわかりませんね」ナイトリー氏が言った。「努力なしの成功などありはしない。あなたがこの結婚を成立させるために、四年間必死で努力したというなら、あなたの時間は正しく、しかも優雅に使われたと言える。若いのに、雇い主として立派な心掛けだ! でも、僕が思うには、あなたが言う結婚のお膳立てとは、たんに計画しただけのことに過ぎないではないのかな。ある日何気なく『もし、ミス・テイラーと、ウエストンさんが一緒になったら、素敵だろうな』と思って、それから時々思い出したように心のなかで繰り返す。それが成功と言えるだろうか? あなたはそのためになにをしたのかな? なにを誇れるだろうか? 推測したことが幸運にも現実になった。それだけのことではないのかな」
「そしてあなたは、推測が現実になる幸せと、誇らしさを味わったことがおありなのかしら? おかわいそうに。もっとずっと賢い方だと信じてましたのに。幸運な推測というのは、たんに運がいいということではありません。いつだって、ある種の才能が必要なんですわ。それにあなたが文句をつけた『成功』という言葉にしても、かならずしもわたしがそれに値しないとはいいきれませんよ。あなたは二つの例を見事に描き分けてくれましたが、三枚目の絵だってあるんじゃありませんBすなわち、『なにもかもする』と『なにもしない』の間にある絵が。もし、わたしがウエストンさんをここに度々お招きしたり、ちょとした勇気を与えたり、いろいろなことがうまくいくように気を使わなかったら、なにも起こらなかったかもしれませんよ。≪ハートフィールド≫をよくよくご存じのあなたですもの、その意味はおわかりですわね」
「ウエストン氏のように率直で、素直な男性と、ミス・テイラーのように理知的で、落ち着いた女性の場合には、本人たちにまかせておくのがいちばん心配ないのです。あなたはそれを邪魔することで、あのふたりにとってよりも、自分を傷つけたことになるのですよ」
「ひとのこととなると、エマは自分のことを考えないたちでね」話の一部しかわかっていないウッドハウス氏が言った。「それにしても、エマや。お願いだからもう決して縁結びなどしないでおくれ。馬鹿げたことだし、それによって家族の輪がばらばらになってしまう」
「あと一度だけ、お父様。かわいそうなエルトンさん! お父様だってエルトンさんがお好きでしょう。なんとかお嫁さんをさがしてあげなければ。ハイベリーには彼にふさわしいひとがだれもいないの。ここに一年もいて、家だってあんなにきれいにしたのに、まだ独身だなんて残念だわ。あの方が今日、式でふたりの手を重ね合わせたとき、ご自分が同じことをだれかにしてもらいたがっているように見えたわ! わたしエルトンさんをとてもいい方だと思っているし、なにかしてあげられるとしたらそれしかないでしょ」
「たしかにエルトン君はとても美男子で、気持ちのいい若者だし、わたしも高く尊敬している。だがもし、彼にやさしくしてあげたいのなら、エマや、いつか食事にでも呼んであげればいい。そのほうが、よほどましだ。きっと、ナイトリー氏だって快く、彼に会ってくれるだろうし」
「いつでも喜んで、そういたしましょう」ナイトリー氏は笑いながら言った。「それに、そのほうがましだというご意見にも大賛成です。彼を夕食に招待なさい、エマ。そして最高の魚と鳥肉でもてなすことです。ただし、妻は自分で選ばせること。二十六にもなる男なら、自分の面倒くらい自分で見られますよ」
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第二章
ウエストン氏はもともとハイベリー出身で、地位や財産からいって、二、三代前から上流階級に仲間入りした良家の出だった。立派な教育を受けてはいたが、若いうちにわずかながらの、働かなくても暮らせるだけの遺産を受け継いだので、兄たちが従事していたような一般的な職業につく気にもなれなかった。そこで、活動的で明るく外向的な性格を満足させるために、郡の国民軍に入り、実際望み通りの生活を手にいれた。
ウエストン大尉はだれからも好かれていた。そして軍人という立場から、ヨークシャーの名門チャーチル家のお嬢さんに紹介され、その結果、チャーチル嬢が彼に恋をしたと聞いてもだれも意外には思わなかった。ただし、彼に一度も会ったことがなく、誇りと尊大さのかたまりのようなチャーチルの兄夫婦だけは例外で、そのような身分違いの親戚を持つことに腹をたてていた。
それでも、チャーチル嬢はすでに成人していて、彼女自身の財産を堂々と請求できる立場にあったので――もっともそれは、チャーチル家の全財産からみれば、微々たるものだったが――彼女を思い止まらせることもできず、ふたりは結婚した。兄夫婦にとってこれは、生涯悔やまれる事件で、適当な理由をつけて、妹とは縁を切ってしまった。だが、結婚そのものも、あまり幸せな結びつきとはいえなかった。ただウエストン夫人は、考えかたしだいではもっと幸福になれたはずだった。なぜなら、彼女のやさしく、心温かい夫は、愛してもらったお返しに、彼女にはどんなことでもしようとしたのだから。ただ、ウエストン夫人は、たしかにある種の気概は持ち合わせていたものの、それがすべてではなかった。兄の反対にもかかわらず、自分の意志を遂行するだけの心意気は持っていたが、それでも兄の理不尽な怒りへのこれまた理屈の通らない嘆きから抜け出すことができず、以前の贅沢な生活をなつかしく思う気持ちを捨てることもできなかった。収入を上回るような暮らしをしてはいたが、≪エンスクーム≫の生活と比べればそれでも違いは大きい。夫を愛しながらも、彼女が望んだのは、ウエストン大尉の妻であると同時に、≪エンスクーム≫のチャーチル嬢でいることだったのだ。
チャーチル家からはもちろん、だれからも、うらやましい結婚をしたと思われていたにもかかわらず、実際この結婚でもっとも割りのあわない立場に追いやられたのは、ウエストン大尉だった。なぜなら、三年後に妻が亡くなったときには、以前よりずっと貧しくなっていたうえ、育てていかなければならない子供までいたからだ。ただし、子供の養育費については、すぐに心配しなくてすむようになった。病気の母親を持ったかわいそうな子ということに加えて、その男の子の存在そのものが両家の関係を仲裁する役割を果たし、母親の死後すぐに、チャーチル夫妻が幼いフランクを育てようと言ってきたのだ。夫妻には子供がなく、近い親戚にも愛情をかけるような子はいなかった。それについては、ウエストン大尉にも多少のためらいや、尻ごみもあったろうが、いろいろと考えたすえ、あきらめもついたようだった。子供は富裕なチャーチル家の庇護のもとに、手厚い保護を受けられるわけだし、彼自身もこれからは、自分の心の慰めと、状況をできる限りよくすることにだけ専念できる。
それには、生活を完全に変える必要があった。彼は軍をやめ、会社経営を始めることにしたが、ロンドンにはすでに成功をおさめている兄たちがいたので、その点では始めから有利だった。仕事は、ほどほどに時間をさけばすむような種類のものだった。ハイベリーの小さな家はまだ残してあったので、仕事以外の時間はたいていそこで過ごし、仕事と社会的な楽しみを両立させながら、気持ちのいい時間が、十八年、二十年と過ぎていった。その頃になると金銭的にもかなりゆとりができて、ミス・テイラーのように、資産を持たない女性とも結婚できるし、自分の家族を持って存分に社交を楽しみたいという望みもかなえられるほどになっていた。そのうえ、昔から欲しかった、ハイベリーに隣接する不動産を買うだけの資金もできた。
彼は、ずいぶん以前からミス・テイラーに心をとめてはいたが、そこは、若者の熱狂的な思いとは違って、≪ランドルズ≫を買うまでは結婚しないという決心を変えることもなく、土地が売りに出るのをじっと待っていた。自分の望みをはっきりと心に止めながらも、すべてが実現するまで根気よく待ったのだ。こうしていま、財産もでき、妻も娶《めと》って、あらゆる可能性を秘めた、これまで味わったこともない幸せな新生活が始まった。彼はこれまでも決して不幸せな男ではなかった。たとえ最初の結婚生活でさえ、彼の性格が彼を不幸から遠ざけていた。それでも今度の結婚で、物事の分かった、本当に気立ての良い女性を妻にすることがどれほど素晴らしいことか、それに、選ばれるより選ぶほうが、感謝するよりされるほうが、どれほど楽かということを身をもって知ったのだ。
妻の選択は彼の一存でできた。財産はすべて彼のものだ。息子のフランクは伯父の跡継として養子に入り、成人に達してはチャーチルを名乗る。これについては、もう決まったも同じようなもので、息子が彼からの金銭的な援助を必要とするとはほとんど考えられない。父親としては、その件についてはまったく心配していなかった。フランクの伯母というひとはかなり気粉れで、夫を完全に牛耳ってはいたが、それでも心から愛する――そして父親の目から見れば、じゅうぶんその愛情に値する――かわいいフランクに不利になるようなことをするとは、ウエストン氏の性格からいって思いも及ばないことだった。息子とは毎年ロンドンで会っていたが、父親にとっては鼻高々の息子だった。そして彼が実に立派な青年だという父親の話に、ハイベリーのひともまた同じ様に彼を誇りに思っていた。ある意味で彼はこの村の人間だとみなされていたので、その美徳や輝かしい将来は、村人たちにとっても関心の的だったのだ。
ミスター・フランク・チャーチルはハイベリーの自慢の種で、だれもがとても会いたがっていたが、その思いはいっこうにむくわれず、村には一度として来たことがなかった。なんどか、父親に会いに来るという話が出るには出たが、いまだに実行されたためしがない。
そしていま父親の結婚式にあたって、その結婚に敬意を払うという意味でも、当然やってくるべきだろうという考えが広がっていた。この件に関してはほとんどが同意見で、ペリー夫人がベイツ母娘《おやこ》の家でお茶を飲んだときも、反対にベイツ母娘がお返しの訪問をしたときも、同じ意見が交わされた。こんどこそフランク・チャーチルは彼らのもとにやってくる。そして彼がこの結婚にあたって、新しく母親になる女性に手紙を書いてきたと知ると、希望はますます大きなものになった。そして数日間というもの、ハイベリーで交わされたどんな訪問の場でも、このウエストン夫人宛の素晴らしい手紙のことが取り沙汰された。「フランク・チャーチル様がウエストン夫人にあてた素晴らしい手紙のこと、ご存じでしょ? 本当に、素晴らしい手紙だそうですよ。ウッドハウス様がおっしゃってました。実際にごらんになったそうで、あれほど立派な手紙は見たこともないということです」
それはまちがいなく、賞賛に値する手紙だった。言うまでもなくウエストン夫人は、すでに青年を高く評価してはいたが、その思いやりのある手紙をもらったことで、彼の性格の素晴らしさが立証されたうえ、あちこちからもらったお祝いの言葉に加えて、彼女の結婚をいっそう揺るぎないものにした。この世でわたしほど幸せな女はいない、とウエストン夫人は思った。となると、ひとに慕われることの幸運さがわからない年ではなかっただけに、残る気掛かりはひとつ。慕ってくれた友人たちと別れなければならなかったことだ。その友情は決して冷めることがなく、彼女との別れをエマはどんなに悲しんでいることだろう!
自分がいないことで、ときには淋しい思いをしているはずだ。ウエストン夫人にはわかっていた。そしてエマが、ミス・テイラーという伴侶を失ったことで、たったひとつの長く続いた喜びもまた失い、退屈な時間を嘆いているかと思うと、ひどく胸が痛んだ。だが、かわいいエマは決して弱虫ではない。今度のことだって、普通の娘以上によく耐えているし、分別もエネルギーも強い精神力も持ち合わせているから、このちょっとした苦難の時期さえ過ぎれば、元気にもなるし、幸せにもなる。それになんといっても慰めは、≪ランドルズ≫と≪ハートフィールド≫の近いことだった。女性がひとり歩きをしても問題ない道だし、ウエストン氏の性格やこれまでの状況からして、これからの社交の季節には、週の半分を彼女と過ごすことだって出来る。
いまウエストン夫人は、ほとんどの時を感謝の思いで過ごし、一瞬だけ悲しむといった心境だった。彼女が言葉では表現できないほど満足して、その明るい喜びがとても自然で、しかもはっきりしていたので、エマは、父親をよく理解しているつもりではあっても、彼がいまだに「かわいそうなミス・テイラー」と同情するのには驚かされた。ウエストン夫人がいかにも居心地よさそうな≪ランドルズ≫の家で見送ってくれるときも、夫人が夕べの訪問を終え、自分の馬車で機嫌の良い夫に連れられて帰っていくときも、ウッドハウス氏はかならずおだやかなため息をもらしながら言うのだ。
「ああ、ミス・テイラーも気の毒に! ここにいられるほうが、どれほどいいものを」
ミス・テイラーを取り返すことなど決して出来ないし、父親が気の毒がるのもやみそうにはない。それでも数週間たつと、ウッドハウス氏にも変化が見えてきた。近所のひとびとからおめでとうと言われる時期も過ぎて、悲しい出来事にお祝いを述べられることもなくなった。それに、彼の心配の種のウエディング・ケーキもそのころまでにはすっかり平らげられていた。彼の胃はこってりしたものをいっさい受けつけず、また彼は、ほかのひとも同じだと信じきっていた。彼にとってよくないものは、だれにとっても合うはずがない。そういうわけで彼は、ウエディング・ケーキは作らないようにと懸命に警告するのだが、それがまったく無駄だとわかると、こんどは、出来るだけ食べないようにと説得するのだった。彼はその件についてわざわざ、薬剤師兼医師で、ウッドハウス家を頻繁に訪ねてきては彼のいい慰め役でもあった、賢く、穏やかなペリー氏に相談した。たずねられてペリー氏も、ウエディング・ケーキはたぶん多くの、いや、ほとんどのひとにとって、食べ過ぎればいいことはないだろうと認めざるを得なかったが、実は彼自身決して嫌いなほうでははなかったようだ。自分の意見が正しいと認められたことに気を良くして、ウッドハウス氏は訪ねてくる新カップルに盛んに言い聞かせるのだが、あいかわらずケーキは作られ、そのたびにすべてのケーキがなくなるまで、気をもむのだった。
ハイベリーの村に、不思議な噂が流れた。ペリー氏の家の子供たちがみんなして、手に手にウエストン夫人のウエディング・ケーキを持っていたと言うのだ。しかしウッドハウス氏は、そんな噂など決して信じようとはしなかった。
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第三章
ウッドハウス氏は彼なりのやりかたで、社交が好きだったし、友だちが会いにくるのをとても喜んだ。≪ハートフィールド≫に長く住んでいること、人の良さ、財産、屋敷、それに娘といった、さまざまな理由が相まって、小さいながらも彼にあった社交の輪をつくり、ほとんどの場合は、気に入った客だけを呼ぶことができた。その輪の外とのつきあいはほとんどない。夜遅くなるようなパーティーや、大がかりなディナーパーティーなどを極端にいやがったことから、彼の好きなときに来てくれるひと以外とはうまく噛み合わなかったのだ。幸いなことにハイベリーは≪ランドルズ≫とは同じ教区で、ナイトリー氏の住む≪ドンウェル・アビー≫も隣の教区だったので、そんな彼を理解してくれるひとがたくさんいた。エマの勧めもあって、何人かの選ばれた最上のひとたちと、食事をともにすることはよくあった。だが、どちらかといえば食後のパーティーのほうが好みで、彼が自分はいま客を呼ぶ状態ではないと思い込まないとき以外は、エマが父親のためにカード・テーブルを用意しない週日は一日もないほどだった。
ウエストン夫妻やナイトリー氏は心からの尊敬と、長いつきあいから足を運んできた。そして若いエルトン氏は、決して好んで独身でいるわけでもなかったし、ウッドハウス家の優雅な居間や社交の場や、氏の美しい娘の笑顔などを、独りぼっちで退屈な夜のために犠牲にしようなどとは夢にも思わなかった。
このひとたちの次に、また別の組が控えていた。なかでも頻繁に招かれたのはベイツ母娘とゴダード夫人だ。この三人の女性は≪ハートフィールド≫から呼ばれれば、いつでもやってきた。そのつど馬車で送り迎えされ、しかもあまりに頻繁なので、ウッドハウス氏など、それがジェームズにも馬にも大変なことであるなどとは考えもしなくなっていた。ただし馬車を迎えにやるのが、もし年にたった一度のことだったら、反対に悲しむべき事柄とさえ思っただろう。
元ハイベリーの牧師の未亡人であるベイツ夫人は、かなりの年齢だったので、お茶の時間を楽しむことと、カード遊びのカドレル以外はなにもできなかった。独身の娘とふたりでつつましく暮らしていて、そのように不遇で、罪のない老女に与えられるあらゆる好意と尊敬を一身に集めていた。娘のほうは、若くもなく美人でもなく、金持ちでも結婚もしていない女性にしては、不思議なほど人気があった。ミス・ベイツは人々の人気を集めるにはなんとも最悪の状況にあったし、その悪条件を吹き飛ばし、たとえ彼女を嫌っていても、上辺だけは尊敬せざるを得ないような、ずば抜けた知性も持ちあわせてはいなかった。美しさにおいても、賢さにおいても、彼女は一度として自慢などしたことがなかった。格別目立つこともない娘時代を過ごし、中年になってからは、体の弱ってきた母親の面倒を見ることと、わずかな収入でなんとかやりくりすることだけに専念した。にもかかわらず彼女は幸せな女性だったし、だれからも好意をもたれていた。この奇跡の原因はひとえに彼女自身の広く温かい心と、なにごとにも満足できる性格に負っていた。すべてのひとを愛し、だれもが幸せになることを願い、ひとの長所を見つけるのが実に早かった。それに自分は最も幸せな人間で、母親をはじめ、近所のひとや友だちなど大勢の素晴らしいひとびとに囲まれて、家庭でも、足りないものなどひとつとしてないと信じていた。彼女の単純で明るい人柄と、なにごとにも満ちたりることができるはつらつとした精神は、すべてのひとの鑑であり、また彼女にとっては言い知れないほどの宝物だった。彼女は日常のささいなことひとつにも大変なおしゃべりで、あまり意味のない会話や、罪のないゴシップが大好きなウッドハウス氏にはこれまたぴったりだった。
ゴダード夫人は学校の校長だった。それも神学校だとか、どこかの組織に所属した教育機関といったようなものではない。そういった場所は、新しい原理にたった新しいシステムによって、新しい知識と優雅な道徳を融合させる教育、とかいった美辞麗句を並べ立て、あきれるほど高い授業料をしぼり取ったあげく、結局は健全な若いレディーたちを虚飾に追いやるだけの教育しかほどこさない。だが夫人の学校は、昔ながらの本当の意味の寄宿学校で、安い授業料でそれなりの教育が受けられ、娘たちはここに、家から都合よく追い払われ、天才になって帰って来る心配のない程度の教育を受けるようにと、送られてくる。ゴダード夫人の学校は、高い評価を受けていたが、実際それだけの価値はあった。ハイベリーはとても健全な場所だし、夫人の家も庭もとても広く、食事も健康的で、夏には子供を好きなだけ跳ねまわらせ、冬になれば校長自らしもやけの手当をしてあげた。そんなわけで、夫人が後ろにぞろぞろと、ふたり一組になった二十人もの生徒を従えて教会に入る姿をみても驚くにはあたらない。夫人はあまり器量はよくないが、とても母性的で、若いときはわきめもふらず働き、いまになってやっと休日のお茶の訪問ぐらいの贅沢を自分に許してもいいだろうと思っていた。それに、以前ウッドハウス氏にはかなり世話になっていたので、招待されたときは出来るだけ自分の手芸品を壁一杯にかけた居間を後にして、氏の家の炉べに集い、何枚かの六ペンスを勝ったり負けたりすることもまた許されるだろうと。
エマが頻繁に呼び集められるのもこの女性たちで、父親のためにも彼女にそれだけの力があるのが嬉しかった。それでもエマ自身にとっては、決してウエストン夫人の不在を埋め合わせるものではない。父親が気分よさそうにしているのを見るのは嬉しかったし、物事をうまく運ぶことができる自分に満足はしても、その三人の女性が延々とつまらないことを話しているのを聞いていると、このように過ぎていく夜こそ、エマが怖れていた長い夜そのものなのだと感じざるを得なかった。
ある朝、今夜もまた同じ様にして過ぎるのかと思いながら座っていると、ゴダード夫人から、ミス・スミスを同伴することをお許し願えるだろうかという、丁重な手紙が届けられた。それはエマにとって願ってもないことだった。なぜなら十七歳になるミス・スミスは、顔だけなら大分前から知っていたし、その美しさにとても興味を引かれていたからだ。懇切丁寧な招待の返事が送られ、この屋敷の美しい女主人は、もう、その日の夜がくることを怖れなくなった。
ハリエット・スミスは、だれかの私生児だった。そのだれかが数年前、彼女をゴダード夫人の学校に預け、また最近になってからは、一般の寄宿生から、校長の家に住む特別寄宿生に格上げした。彼女の生い立ちについて分かっているのは、それだけだった。これといった知り合いもなく、あるとすればハイベリーで知り合った友だちだけで、かつて学校で一緒だったある若いレディーたちの田舎の家に長いこと滞在していて、さきごろ、戻ってきたばかりだった。
彼女はとても美しい娘で、それもたまたま、エマの好みのタイプの美しさだった。背は低め、色白でふっくらしており、薔薇色の頬に青い瞳、明るい色の髪をして、目鼻立ちが整ったなんとも愛らしい顔をしている。そしてその晩の集まりが終らない前に、エマはミス・スミスの立居ふるまいや人柄をすっかり気にいってしまい、このままずっとつきあおうと、固く決心した。
ミス・スミスとの会話にはこれといったひらめきはなかったが、それでもエマは彼女が話に熱心に耳を傾けるところが好きだった。どうしようもないほど内気というわけでもなく、話したがらないというわけでもないのだが、それでも押しつけがましさなどがまったく見えず、実に適切で自然な敬意をもって、素直に、≪ハートフィールド≫に招かれたことを喜んでいる。それに、いままで見慣れてきたものとはあまりに違うウッドハウス家のあらゆるものにも、手放しで感心しているところからして、育てるに値する良識もまた具わっているようだ。そう、必要としているのは育てられること。この柔らかな青い瞳や、生まれつきの優雅さを、ハイベリーのたいしたこともない社交界や、知人のなかで、埋もれさせてはいけない。ハリエットのこれまでの知り合いは、彼女にはふさわしくない。つい最近その友人のところから戻ってきたばかりだとかいうが、そのひとたちはいいひとかもしれないが、彼女にとってはためにはならないのだ。彼らはマーティンという家族で、ナイトリー氏から大きな農場を借り、ドンウェルの教区に住み、その人柄はエマも知っていた。ナイトリー氏がとても信頼しているのだから、確かにいいひとたちではあるのだろうが、粗野で洗練されていないところが、あと少しの知識と優雅さが具われば完璧になるはずのハリエットの知り合いとしてはふさわしくない。わたしがそのことに気づかせてあげよう。彼女をもっと素晴らしい娘にするのだ。悪い友だちから彼女を引き離し、もっと良いひとたちに紹介してあげよう。彼女の意見や態度を、わたしがつくりあげるのだ。それはとても面白くて、しかも、まちがいなく親切な行為だから、わたしの社会的地位や、余暇の過ごし方や、力にはふさわしい仕事だろう。
エマが、ハリエットのもの柔らかな青い目に引きずり込まれるように話したり、聞いたりし、しかも、そのあいだにいろいろとこれからの計画を練ったりしているうちに、夜は驚くほど早く過ぎていった。そのようなパーティーはいつも夜食で締めくくられるのだが、気がつくと、本来なら彼女がおしゃべりしながらでも、適当な時間を見計らって用意させるはずのテーブルがすでに整っていて、暖炉のそばに運ばれていた。なにをやらせても見事で、手落ちがないという評判を落さないためにも、エマはすばやく動きまわって、実際に自分の趣向に心をはずませながら、食事にかかわるすべてに気を配り、時間が早いからと礼儀上なかなか手を出さない客たちに、トリ挽き肉の詰め物やら、貝皿の上の牡蠣グラタンなどを断り切れないほどの熱心さで勧めた。
そのようなとき、ウッドハウス氏の心はいつも悲しくも引き裂かれるのだった。なるほど彼は食事を供するのが好きではあった。それが、彼の若い頃の流行だったからだ。だが、夜食は体のためによくないと信じこんでいるので、供された食べ物を見ると、どことなく悲しくなってしまう。そしてもてなしの心から客たちにすべてを勧めはするものの、それを口に入れるのを見るのは嘆きでもあった。
彼が文句なく勧められるのは、彼のために特別に用意された薄い粥だけだったが、さすがにそれを勧めることもできず、ご婦人がたがおいしそうなものを気持ち良さそうに平らげているそばから、言うのだった。
「ベイツ夫人、この卵をひとつ試してみたらいかがですか。とても柔らかくゆでられた卵は決して体に悪くはありません。ゆで卵をつくらせたら、世界でもサールの右に出るものはいません。他の人間がゆでたものなら勧めたりはしないのですが。でも、ご心配なく。ごらんのように、とても小さいですから。うちの小さな卵をひとつ食べても、どうということはありませんよ。ミス・ベイツ、エマからタルトをほんの少し、切っておもらいなさい、ほんの少しだけ。うちのはリンゴのタルトです。体によくないジャムの心配ならここではご無用です。でも、カスタードは感心しません。ゴダード夫人、ワインをほんのグラスに半分ほどいかがですかな?半分だけです。水と割って飲めばいい。決して害にはなりませんよ」
エマは父親にしゃべらせておいた。だが、客にはもっと満足のいく方法で料理を配り、客たちが幸せな気持ちで去っていくのを、今夜はとくに嬉しそうに見送った。幸せな気持ちなら、ミス・スミスも同じだった。ミス・ウッドハウスといえば、ハイベリーではとてもお偉い方なので、紹介されると聞いたときは、嬉しさと同時にかなり緊張してもいた。だがこの謙虚で、感謝することを知っている娘は、天にも上る心地で帰っていった。ミス・ウッドハウスにひと晩じゅうとても親切にされただけではなく、とうとう、本当に握手までしてもらったのが、たまらなく嬉しかったのだ。
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第四章
ハリエット・スミスと、≪ハートフィールド≫とのつきあいはすぐに親しいものになった。なにごともぐずぐずせず、決断の早いエマらしく、彼女は時をおかずハリエットを招待し、力づけ、たびたびやってくるようにうながした。そして、つきあいが深まるにつれて、お互いの満足の度合も深まっていった。エマは最初の頃から、ハリエットが散歩の連れとしてどんなにふさわしいかを見抜いていた。このてんでは、ウエストン夫人を失ったことは大きかった。父親は生け垣より外には行ったことがない。彼は、生け垣で仕切られているというだけで、それ以上足を延ばして長い散歩をする気にはなれず、季節によって距離の長短の差はあっても同じようなものだった。そんなわけで、ウエストン夫人がいなくなってからというもの、エマの適度な運動をする機会はかなり限られていた。いちどなど思い切って、≪ランドルズ≫までひとりで歩いてみたが、決して気分のいいものではなかった。だから、歩きたいときいつでも呼び出せるハリエット・スミスは、またひとつ、エマと一緒に散歩をするという貴重な特典を得たことになる。そしてそんな機会が多くなればなるほど、エマは彼女が気にいり、彼女のために立てた親切な計画を実行しようと心に決めた。
たしかに才気には欠けるが、ハリエットは気立てがよく、従順で、感謝することを知った娘である。うぬぼれたところなどぜんぜんなく、欠けているものといったら、だれにしろ彼女が尊敬するひとから受けるべき指導だけだろう。初めからエマを慕い、その態度にはとてもかわいいものがある。それに良い友だちを求めようという気持ちや、優雅で、優れているものならなんでも喜べるだけの能力もあって、彼女が良い趣味をもっているのはまちがいない。物事を深く理解する力については、求めるほうが無理なのだろう。だから総体的に言えば、ハリエットこそ自分も、また≪ハートフィールド≫も必要としている若い友であるのをエマは確信した。ウエストン夫人のような友はまったく例外と言っていい。そんな友をふたりも持てるはずがないし、ひとりでじゅうぶんだとも言える。だがこれは、ウエストン夫人との関係とはまったく違った、独特のしかもひとりだちした人間の感情だ。ウエストン夫人は尊敬を払うべき対象で、その根底には感謝と彼女への高い評価があった。ハリエットの場合は、こちらが手を差し伸べてあげられる対象への愛なのだろう。なぜなら、ウエストン夫人にはなにひとつしてあげることがなかったのに、ハリエットはすべてを必要としている。
まずは、ハリエットの両親がだれなのかを突き止めてあげることから始めよう。だが、ハリエットはその件に関して、まるっきり情報を持っていなかった。エマには隠し事などいっさいしないが、これについては、たずねることすら無駄だった。そうなるとエマは、好きな想像に任せるほかなかったが、これが自分のことだったら、真実を見つけずにおくなんて思いも及ばなかっただろう。ハリエットには洞察力というものがまったくない。ゴダード夫人から、ハリエットが知ってもかまわないことだけを話されて、それだけで満足して父親を探そうともしない。
ハリエットの話題はとうぜん、ほとんどが、ゴダード夫人、先生がた、生徒、そして学校の行事などに限られている。もし、アビー・ミル農場のマーティン家のことがなかったら実際それがすべてだったろう。マーティン家は、ハリエットの心のかなりの部分を占めていた。二ヵ月間、その家族のもとで幸せなときを過ごし、いまは、当時の楽しさを思い出しては、そこで経験した多くの楽しみや素晴らしさを話している。エマは、彼女のおしゃべりをうながし、エマの知らない階級のひとびとについての話に面白がって耳を傾け、それにハリエットがいかにも若く単純な娘らしく、マーティン夫人の家には居間がふたつもあるんです、などと夢中になって話しているのを楽しんだ。「ふた部屋とも、とても素敵なんですよ。ひとつはゴダード夫人の居間くらいの広さがあります。それにマーティン夫人には、お手伝いさんがついていて、それも二十五年も住みこんでいるんですって。牛が八頭いるんですが、二頭はオールダニー種の乳牛で、ウェールズ種の子牛もいました。それがまたすごくかわいくて、わたしがすっかり気にいってしまったので、夫人が、あなたの子牛と呼びましょう、って言ってくれたんです。庭には素敵なあずまやがあって、来年はそこでみんなでお茶を飲むことになっています。それはそれはきれいなあずまやで、十二人もはいれるほどの広さなんですよ」
しばらくの間エマは、そんな話をただ喜んで聞いていただけだったが、マーティン家についてかなりわかってきたとき、ふと、別の考えが浮かんできた。最初は勘違いして、家族は母親と娘たち、それに息子と息子の妻が一緒に住んでいるのだとばかり思っていた。だがよく聞いてみると、ミスター・マーティンは独身だという。彼は、話のなかにときどき顔をあらわすのだが、なんでもしてくれる、とても親切なひと、ということだ。若いマーティン夫人、すなわちこの場合妻はいないわけで、そうなるとこのあわれで美しい娘にとって、その歓待や親切さのすべてが、危険なものになる可能性があるのではないだろうか。わたしが気をつけてあげなければ、この娘は生涯、身を落とすことにもなりかねない。
ふとわきおこった疑念のせいで、エマは多くのつっこんだ質問をしてみた。ことに、できるだけミスター・マーティンに話を向けてみると、ハリエットが彼のことを話すのを決して嫌がっていないのがわかった。彼が、彼女たちの月夜の散歩やら、楽しいゲームに加わったこととか、とても朗らかで親切なひとだということを、いかにも嬉しそうに話す。「ミスター・マーティンはあるときなど、三マイルも歩き回ってクルミを探してきてくれたんです。わたしが、大好物だと言ったものですから。それだけでなく、どんなことでも快くやってくれます。ある晩は、わたしのために、羊飼いの息子を居間まで呼びいれて歌を歌わせました。わたし、とても歌が好きなんです。あの方も、少しは歌いますわ。頭がすごくよくて、なんでも知っています。素晴らしい羊を持っていて、わたしがあそこにいるあいだに、ミスター・マーティンの羊毛にはこの国で最高の値がつけられたんですよ。それに、みんなに好かれています。お母様や妹さんたちからも、とても慕われていて。いつかマーティン夫人が、(そう言いながら、ハリエットは顔を赤らめた)、彼ほどいい息子はどこをさがしてもいない、だからいつ結婚しても、彼はまちがいなく良い夫になるだろうって、言ってました。いいえ、彼に結婚して欲しいという意味ではありませんわ。別に急ぐことはないとも言ってましたから」
「なかなかお見事ですこと、マーティン夫人!」エマは心のなかで叫んだ。「なにをなすべきかを、ちゃんとご存じというわけね」
「そしてわたしが帰ってくるときなど、夫人はゴダード夫人にと言って、立派なガチョウまでくださったんです。ゴダード夫人も、あれほど素晴らしいガチョウは見たことがなかったそうです。それを日曜日に料理して、ナッシ先生、プリンス先生、リチャードソン先生の三人を招待なさって、一緒に食べました」
「わたしが思うに、ミスター・マーティンは、お仕事以外のことはあまり知らないんじゃない。本は読まれないんでしょ?」
「もちろん読みますわ! それはその――よくわかりませんけど、でもたくさん読んでいると思います。むろん、あなたが思っているような本ではありません。『農事報告』とか、そんなもので、窓際の椅子に置いてありました。それをひとりで読むんです。でも晩にはときどき、わたしたちがカードを始める前に、『優雅な言葉集』の一節を声にだして読んでくれて――とても面白かったですわ。それから気がついたんですけど、『ウェイクフィールドの牧師』も読んでいました。でも『ロマンスの森』だの、『僧院の子供たち』などは読んでいません。わたしが言うまで、名前も聞いたこともなかったようで、すぐに手に入れて読んでみると言ってました」
次の質問は、「ミスター・マーティンて、どんなふうにみえるの?」だった。
「あら! ハンサムではないんです――ぜんぜん、ハンサムなんかじゃありません。さいしょは、どちらかというとみっともないとさえ思ったんですが、いまはそれほどとは思いません。しばらく見ているうちに、そうは感じなくなるんですね。彼にお会いになったことありません? ときどき、ハイベリーにも来ていますし、キングストンに行くのに、毎週馬で通るんです。あなたとなんどもすれ違ったと言ってましたよ」
「じゃあ、そうなのでしょう。わたしのほうだって五十回だって見ているかもしれないけど、名前と顔が結びつかないから。馬に乗っていようと、歩いていようと、若い農夫などにはぜんぜん興味がないわ。自作農《ヨーマン》なんて、わたしにはまったく関係ないと思えるひとたちだし。それよりひとつかふたつ階級の低いひとで、信頼できるとわかれば、興味の持ちようもあるわ。その家族のためになにかしてあげられるかもしれないでしょ。でも農夫となると、なにもしてあげられることもないし。そういう意味ではわたしが目をとめるところより上の線にいるんでしょうね、たとえそのほかはすべて下だとしても」
「本当に。ええ! あなたがあの方に目をとめることはないでしょうね――ただ、むこうはあなたをとてもよく知っています――もちろん、遠くから見てという意味ですけど」
「ミスター・マーティンが尊敬に値する若い青年であるのはたしかなようね。それはよくわかっていますし、だからこそお幸せにと、祈りますわ。年はおいくつぐらいかしら?」
「この六月の八日で二十四になったそうです。わたしの誕生日が六月の二十三日ですから、ちょうど十五日の違いです。すごい偶然ですわ!」
「たったの二十四歳ね。結婚して落ち着くにはまだ若すぎるわ。急がない、というお母様の意見はまちがっていないわね。いまのままでも、とてもなごやかにお暮らしのようだから、もしお母様が息子を結婚させようと努力したりすれば、きっと後悔することになるわ。まあ、六年後くらいに、彼と同じような地位で少しはお金のある娘さんを探すのが、理想的じゃないかしら」
「六年後! でも、ミス・ウッドハウス、それじゃ三十になってしまいます!」
「まあ、ふつうの男のひとが結婚できるとしたら、そのくらいじゃない。働かなくても暮らせる身分に生まれたなら別だけど。マーティンさんのようなひとは、財産は自分で作らなくてはならないと思うの――その点では、上流社会に機先を制することが出来るはずがないわ。たとえ父親の死によって遺産を受け継いでも、そしてその取り分がどれだけであろうとも、それはすべて資本としてつぎこむ必要のあるお金のはずよ。つまり、家畜をふやすとかなんとか。まあ、一生懸命に働いて、運もあればそのうちにはお金持ちにもなるでしょうけど、いまはそのことにはほとんど気がついていないんじゃない」
「たしかに、そうでしょうね。でも、みなさんとてもゆうゆうと暮らしていますわ。家のなかで働く男の使用人はいませんけど、足りないのは、それだけです。夫人が、そのうち男の子を雇うつもりだって言ってました」
「その方がいつ結婚しようとも、面倒にまきこまれないようにね、ハリエット。奥様とつきあうことによって、という意味だけど。妹さんたちはきちんとした教育も受けているので問題はないけれど、だからといって彼があなたがつきあうのにふさわしい女性と結婚するとは限らないでしょ。あなたの不幸な生まれのことを思えば、つきあう人にはくれぐれも注意しないとね。あなたが紳士の娘だということは疑いようもないのですから、できるだけの努力をして、それにふさわしくするべきだわ。でないと、足を引っ張ろうというひとは、たくさんいるのよ」
「ええ、そうでしょうね。きっとおおぜいいるのでしょうね。でも、この≪ハートフィールド≫にうかがっていて、ウッドハウス様やあなたにとても親切にしていただいているあいだは、だれがなにをしようと恐くはありませんわ」
「社会的地位がもつ影響力については、よくわかっているようね、ハリエット。でも、わたしがしてあげたいのは、≪ハートフィールド≫やわたしに頼らなくても、あなたが自分だけの力で、立派に社交界に出入りできるようになることなの。生涯素晴らしいひとたちとだけ交わって暮らすあなたを見たいの。そのためにも、おかしな知り合いは少ないほうがいいわ。だから、もしマーティンさんが結婚するとき、あなたがまだこの地方にいるようなら、妹さんたちとの交友を通じて、その奥さんと知り合いになったりしないようにね。たぶんそのあたりの農夫の娘で、ろくに教育も受けていないひとでしょうから」
「はい、わかりました。もちろんこれは、ミスター・マーティンが、教育のある、もしかしたら、家柄さえも立派な方と結婚しない、と思っているからではありません。でも、あなたの考えに反対するつもりはありません。それに、あの方の奥さんと知り合いになりたいとも思いません。ただ、マーティン姉妹、とくにエリザベスのことはずっと忘れないでしょうし、別れるのはとても残念です。おふたりともわたしと同じくらい、きちんとした教育を受けているのですもの。でも、たしかにあの方がもし、無知で、品のない女性と結婚するなら、訪問しないほうがいいのでしょう」
エマはハリエットの話しかたの変化を、注意深く観察していたが、心配しなくてはならないような恋の兆候は見られなかった。その若者はハリエットの最初の崇拝者ではあっても、それ以上のものではない。となれば、エマが彼女自身の親切なお膳立てを実行に移すのに、なんの支障もない。
まさにその翌日、ふたりはドンウェル・ロードを歩いていて、ミスター・マーティンに出会った。彼は徒歩で、敬意をこめた眼差しでエマを見、次いでいかにも嬉しそうに連れのほうに目を向けた。エマは観察の機会を与えられたことで、会ったことを悔やみもせず、ふたりが話している間少し先を歩いて、ミスター・ロバート・マーティンを鋭く観察し、それなりの知識を手に入れた。彼は、服装もかなりきちんとしていて、分別もある青年に見えたが、それ以外はこれといった長所もない。これで紳士たちと比較されたら――と、エマは思った、彼がハリエットから勝ち取ったすべての好意も、色あせたものになるはずだ。
ハリエットは、決して立居ふるまいの優雅さに鈍感ではない。そこにはきっと父親というひとの上品さが投影されているのだろうと思うと、エマには驚きでもあり、感激でもあった。だがミスター・マーティンのほうは、立居ふるまいのなんたるかさえ知らない。
ウッドハウスのお嬢様を待たせてはいけないということで、ふたりは二、三分話し、ハリエットはにこやかに笑いながら、ちょっと興奮した様子で走ってきた。それを見て、ミス・ウッドハウスは、すぐに落ち着いてくれますように、と願った。
「まさか、あのひとに会うなんて! それを思うととても不思議ですわ! ≪ランドルズ≫をまわる道を取らなかったのは、本当に偶然なんですって。わたしたちがこの道を通るなんて、思ってもみなかったそうです。ほとんど毎日、≪ランドルズ≫に向かって歩くのかと思っていたんですって。まだ、『ロマンスの森』は手に入れていないそうです。すごく忙しくて、この前キングストンに行ったときには、すっかり忘れていたけど、明日また行くって言ってました。こんなふうに会うなんて、なんて奇妙なんでしょう! ところで、ミス・ウッドハウス、あのひとは想像していた通りでした? どう思われます? とても、みっともないと思われますか?」
「ええ、まちがいなくみっともないわ。それもかなりね。でも、そんなのは紳士らしさがまったくないということに比べれば、なんということもないわ。もちろん期待するいわれもないし、たいしてしてもいなかったけど。それにしてもあれほど田舎くさくて、上品さに欠けているとはね。本当のことを言って、もうちょっと上品かと思っていたわ」
「そうですね」ハリエットは、いかにも残念そうに言った。「もちろん、本当の紳士《ジェントルマン》にくらべれば上品さには欠けますね」
「あのね、ハリエット。思うんだけど、わたしたちが知り合うようになって以来、本当の紳士を知る機会がなんどもあったので、きっとあなたも、あの方たちとマーティンさんの違いがわかるようになったんじゃない。≪ハートフィールド≫で会うひとたちは、教育や家柄からいっても、紳士の典型ともいえるひとたちだわ。あの方たちと会ったあとでもういちどマーティンさんとご一緒して、それでも彼の劣ったところが見えないとしたら、むしろ驚きだわ。それにあなた自身、なぜ以前、彼を感じのいいひとだと思ったのかと、不思議に感じないとしたらね。そう感じ始めたんじゃない? 違いにびっくりしなかった? きっと彼のぎこちなくて、落ち着きのない態度や、聞きづらい声に気づいたはずよ。ここに立って聞いていても、ほんとうにあかぬけないと思ったわ」
「もちろん、あのひとはミスター・ナイトリーとは違います。ミスター・ナイトリーのように洗練された雰囲気もないし、歩き方も違っています。わたしにも相異ははっきりわかります。でも、ミスター・ナイトリーはあれほどの地位にいる方ですから」
「そう、ミスター・ナイトリーは、特別に素晴らしいものをもっているので、あの方と比べてはかわいそうでしょうね。あの方くらい、どこをとっても一目で紳士とわかるひとは、百人にひとりといってもいいわ。でも、あなたが最近会う紳士は彼だけじゃないはずよ。ミスター・ウエストンやミスター・エルトンはどう? おふたりのうちどちらでもいいから、ミスター・マーティンと比べてみて。たとえばふるまい方とか、歩き方、話し方、口をつぐむタイミングとか。きっと、違いが分かると思うけど」
「ええ、それはもう! その違いは、かなりのものですわ。でも、ミスター・ウエストンはもう、老人といってもいいお年でしょう。きっと四十と五十の間なんでしょうね」
「だからこそ、あの方の洗練されたふるまいは尊敬に値するの。年をとればとるほどね、ハリエット、態度というものが大切になってくるの。声が大きいとか、がさつだとか、なめらかな動きが出来ないこととかが、ますます目障りで、いやらしいものになるんですもの。若いひとなら我慢できることでも、年をとるとみっともないとしかいいようがないでしょ。ミスター・マーティンみたいに若いときから田舎臭くて、上品さに欠けるひとなど、ミスター・ウエストンの年齢になったら、どうなるのかしら?」
「それはもう、だれにもわかりませんわ!」ハリエットは重々しく答えた。
「でも、推測はできるでしょ。きっととても下品で、低俗な農夫になって、服装なんてぜんぜん気にかけず、お金の計算ばかりしているわよ」
「そうでしょうか? だとしたらいやですね」
「彼がすでに仕事のことばかり考えているのは、あなたが勧めた本を探すのを忘れたことからみてもはっきりしてるわ。頭のなかが、取り引きのことでいっぱいで、ほかのことは考えられないのよ。成功するには、そうする必要があるの。読書なんかとはまったく関係のない世界だわ。彼がいつか成功してお金持ちになるのは、まちがいないわね。そして物を知らない粗野なひとになっても、|わたしたち《ヽヽヽヽヽ》には関係ないわ」
「なぜ、本のことを忘れたのかしら」ハリエットが言えたのはそれだけで、それも苦々しくしかも辛そうだったが、エマは、そのままにしておいたほうがいいと思った。だからしばらくは、ふたりとも無言だった。エマの次の言葉は、「ある意味では、たぶん、ミスター・エルトンの身だしなみは、ミスター・ナイトリーやミスター・ウエストンよりも優れているかもしれないわね。紳士らしさというてんでは、おふたりのほうが上だけど。それに紳士の典型というてんからいっても、おふたりのほうでしょうね。ミスター・ウエストンは率直で、機転がきき、それにほとんどぶしつけと言っていいくらいのものをもっているけど、それがとても温かい心から出たものなので、だれにでも好かれているわ。ただ、それをまねしようとしても無理ね。まねできないということでは、ミスター・ナイトリーの歯に衣着せぬ言い方や、断固として、ひとを制するような態度も、同じよ。あれはあのひとだからぴったりくるの。あの容姿、顔つき、それに身分がそうすることを許しているので、それを若い人がまねたら、とんでもないことになるわ。それとは反対に、もし若いひとがお手本にするなら、ミスター・エルトンがいいわ。ミスター・エルトンは性格もいいし、明るくて、義理堅くて、上品だわ。それにわたしは、最近、ますますその品の良さに磨きがかかったと思うの。それにあの特別のもの柔らかさは、わたしたちのどちらかに気があるのかどうかはわからないけど、ハリエット、とにかく以前よりはずっとやさしくなったように感じられるわ。もし、なにか思うところがあるのだとしたら、それはあなたを喜ばせようとしているからよ。このあいだ、彼があなたについて何と言ったか、話したかしら?」
それからエマは彼女がエルトン氏からひきだしたハリエットへの温かいほめ言葉を、彼の言うとおりだと言いながら、もういちど繰り返した。ハリエットは顔を赤らめ、微笑みながら、ミスター・エルトンはいつも感じのいい方だと思っています、と言った。
エルトン氏こそ、エマがハリエットの頭からあの若い農夫を追い払うために選んだ人物だった。エマにはそれが願ってもない組み合わせに思えた。それがあまりにも理想的で、自然で、予想しうることなので、そのような計画をたてても、あまりエマの徳のおかげだとは言えないのではないかと思ったほどだ。だれでもが考え、あたりまえのことと受け取るのではないかと怖れもした。でも、この考えが浮かんだのは、ハリエットが初めて≪ハートフィールド≫にきたときなのだから、計画した時期の早さにおいては、決してだれにも負けはしない。そう考えれば考えるほど、計画は一刻も早く実行に移したほうがいいように思われた。エルトン氏については問題はひとつもなかった。彼自身紳士だし、身分の低い親戚などもいない。と同時に、ハリエットの出生のあいまいさに文句をいうような親戚もいない。彼女が気持ちよく住める家もあるし、エマが思うに、収入もじゅうぶんのはずだ。たしかにハイベリーの聖職者としての収入はそれほど多いわけではないが、彼がまたべつに独立した財産を持っていることは、だれもが知っている。それにエマは、彼を、明るくて、善意に満ちた、尊敬すべき若者で、社会についての知識も決して欠けてはいないと、高く評価していた。
ハリエットとはしばしば、≪ハートフィールド≫で会っていて、彼女を美しい娘だと思っているのはまちがいない。エマは、彼のほうの気持ちに関しては、基本的なところはすでに固まっていると思った。それにハリエットのほうにしてもこのような場合、彼に好かれていると思うだけでも、じゅうぶんな重みと、効果があるはずだと信じて疑わなかった。それに彼は本当に感じの良い若者だから、気が難しい女性でもないかぎり、だれもが惹かれるはずだ。とてもハンサムだと思われていて、その容姿などは高く評価されている。もっともエマ自身は、みんなとは違って、エルトン氏は彼女のいちばん必要だと思う顔立ちの優雅さに欠けていると思っていた。だが、自分のために馬で走り回ってクルミを探しまわってくれたロバート・マーティンに感激しているくらいの少女なら、エルトン氏に賛嘆されれば、あっという間に心を奪われてしまうはずだ。
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第五章
「あなたがどう思っているかは知りませんが、ウエストン夫人」ナイトリー氏が言った。「エマとハリエット・スミスが非常に仲良くしていることについて、わたしは良くないことだと思うのです」
「良くないですって! ほんとうにそう思っていらっしゃるのですか? でも、なぜ?」
「どちらにとっても、あまり良い影響を与えるとは思えませんね」
「まあ、そんな! エマはハリエットにとてもいいことをしているはずですわ。それにハリエットだって、エマに新しい関心事を提供しているのですから、いいことをしているといえるでしょ。わたしはふたりが仲良くてしているのをとても喜んでいますわ。わたしたち、まったく感じ方が違いますのね! あのふたりがお互いにいい影響をおよぼさないだなんて! これはまちがいなく、エマについてのわたしたちの言い争いの新しい火種になりそうですわね、ナイトリーさん」
「きっとあなたはわたしが、ウエストンが留守で、あなたがひとりで奮戦しなければならないのを知った上で、喧嘩を売りにきたと思っているのでしょうね」
「ウエストンがいれば、もちろんこの件については、わたしを応援してくれますわ。じつは昨日わたしたち、エマがハイベリーにそんなふうにつきあえる娘さんを見つけられてよかったと話し合っていたばかりなんです。ナイトリーさん、このことについては、あなたの判断が正しいと認めるわけにはいきません。あまり長いことおひとりで暮らしているので、話相手がいることの大切さをお忘れになったんじゃありません。もっともどんな男性でも、女性が女性の話相手を持つことで、どれほど慰められるかなどわからないのでしょうけど。エマの場合はずっとそうして暮らしてきたのですから、なおさらですわ。ハリエット・スミスについて言いたいことはわかります。たしかに、彼女はエマが持つべき友としては、とくに素晴らしいとは言えません。でも考えようによれば、エマは彼女にいろいろ教えたいと思っているのですから、エマ自身ももっと本を読むようになるでしょう。きっと、ふたりで一緒に読みますわ。エマがそのつもりなのは、知っています」
「エマは十二のときから、もっと本を読むつもりだと言い続けてますよ。彼女が、きちんと読むべき本のリストなるものを作るのを、何度も、いろんな機会に見てきました。それが本の選択にしろ、アレンジの仕方にしろ――ときにはアルファベット順、ときには別の並べかたと、とても良くできたリストでしてね。彼女が十四のとき作ったリストなど、その年齢での彼女の判断力の良さの証としてしばらく手元に保存しておいたくらいです。だから、今だってリストなら、それはそれは立派なものを作るでしょう。でも、エマが熱心に読書に取りくむだろうと期待するのはもうやめました。彼女には、勤勉や忍耐などを要求するものは、向かないのです。それに、空想を理解力で抑えるということもね。ミス・テイラーが努力してもできなかったことを、ハリエットに出来るはずがありませんよ。あなたは、読んで欲しいと思っている本の半分も、エマには読ませられませんでした。そうではありませんか?」
「まあね」ウエストン夫人が、笑いながら答えた。「あの頃はそう思っていました。でも別れてからは、エマがわたしの望みを聞かなかったことなどなにひとつありませんわ」
「まあ、当時のことを思い出させるつもりなど、まったくないのですが」ナイトリー氏はしみじみと言いながら、ほんの一瞬昔を思い出していた。「それでもわたしは」彼はすぐに続けた。「別に魔法をかけられて感覚が麻痺したというわけでもないので、あいかわらず見たり、聞いたり、感じたりしないわけにはいきません。エマは家族のなかでも、もっとも才気があったせいで、すっかり甘やかされてしまったのです。十歳にして不幸にも、十七歳の姉にも答えられないようなことを答えるのですから。イザベラが内気で、おっとりしているのに比べて、エマは頭の巡りが素晴らしく速く、しかも自信をもっていました。それに十二のときから、あの家の女主人としてあなたをはじめ、すべてのひとを牛耳ってきたのです。彼女を服従させられたのは、きっと、亡くなった母親だけなのでしょう。エマの才能はすべて母親から受け継いだのですから、母親にだけは従ったと思います」
「もし、わたしがウッドハウス家をやめ、他に働き口を見つけなくてはならないときに、あなたに推薦状をお願いしなくてはならなかったら、きっと、ひどいことになったでしょうね。それはそれは、たくさんの悪口が書かれたでしょうから。あなたがずっと、わたしを家庭教師としては失格だと思っていらっしゃるのは知っています」
「そのとおりです」彼はにこにこして言った。「あなたには、ここのほうがずっと合っています。妻になるにはじつにふさわしいが、家庭教師としては駄目です。でもあなたは≪ハートフィールド≫にいて、良き妻になる準備をしていたのです。あなたはあなたの地位として当然エマに与えるべき教育を完全には与えられなかったかわりに、エマから教育されたのです。自分を抑えて言われた通りにするという、結婚には絶対不可欠の教育です。もしウエストンから、だれか結婚相手を紹介してくれとたのまれたら、わたしはまちがいなくミス・テイラーを推薦したでしょうね」
「ありがとうございます。ウエストンのようなひとと一緒になれば、良い妻だと言われるのは簡単ですわ」
「なぜですか。本当のことを言って、あなたはむしろあなたの長所を無駄にしているのではありませんか。だって、それだけの堪え忍ぶ力を持ちながら、我慢しなくてはならないことがないじゃありませんか。まあ、希望だけはもちましょう。ウエストンがあまりの快適さに我慢できず怒りだすとか、息子が悩みの種を持ち込むかもしれませんからね」
「そうはなりませんように――そんなことは起きそうもありませんわ。いいえ、ナイトリーさん、お願いですからその件で悪い予言はしないでください」
「本当に、そうでした。ただ、可能性として上げてみただけです。エマの予測なり、推測なりについての天才的な能力が、わたしにも具わっているふりをしたわけではないんです。心からあの若者が、徳に関してはウエストン家から、財産はチャーチル家から受け継ぐことを望んでいますよ。でも、ハリエット・スミスは――彼女についての話はまだ途中でしたね。エマにとって、あれほど悪い友だちはいません。彼女は自分がなにも知らないもので、エマを、まるでなんでもわかっている者のように奉っています。あれはどこを取っても、お世辞以外のなにものでもない。もっとしまつが悪いのは、それを下心などいっさいなしにやっているということです。ハリエットの嬉しくなってしまうほどの無知を目の前にして、エマが、自分にもまだ学ぶことがあるなどとどうして思えますか。それにハリエットのほうも、あえて言えば、得るところなどなにもないのです。≪ハートフィールド≫に出入りすることで、じっさいに彼女が所属すべきほかのすべての場所を見下すようになるだけです。洗練されたため、彼女の生まれや生い立ちの成り行き上で、これまで一緒に暮らしてきたひとたちと合わなくなってしまうのです。もし、エマの物の考え方が、精神的な強さをつちかったとか、ひとりの娘が人生の様々な機微に賢く対応できるだけのものを得たとかいうなら、わたしがまちがっていたことになるでしょう。でも実際に与えられるものといったら、わずかな品の良さだけです」
「わたしとしてはどちらにしろ、あなたよりはエマの良識を信じるか、あるいは、彼女がいま得ている楽しみを大事にしてあげるだけですわ。だって、ふたりのつきあいが良くないなんて思えないんですもの。昨日の晩だって、なんて素敵にみえたことかしら!」
「なんと! あなたは彼女の心の状態より、見かけについて言っているのですね、違いますか? それならそれでいいでしょう。エマがかわいいことについて、わたしだって異議をはさむ気はまったくありませんから」
「かわいいですって! 美しいと言って欲しいですわ。エマのどこをとっても、彼女ほど完璧に近い美しさをもっているひとはいないと思われません、お顔にしろ姿にしろ?」
「まあたしかに、ほかにはすぐには思いだせませんがね。正直に言えば、彼女の顔や姿ほど見ていて気持ちがいいものはありません。まあ、昔から知っているので、ついひいきめに見てしまうのでしょうが」
「あの目ときたら! あれこそほんとうのはしばみ色ですわ、それにあの輝き! とても端整で、肌の色もきれいで生き生きとして! 健康そのものの薔薇色の頬に、背丈といい大きさといい愛らしくて、とてもしなやかで姿勢もよくて。頬の色だけではなく、雰囲気にしろ、顔にしろ視線にしろ健康そのものですわ。よく、子供のことを『健康を絵に描いたような』とか表現しますけど、わたしはエマを見るといつも大人の健康の理想的な絵姿だと感じてしまいますわ。彼女は愛らしさ、そのものですもの、ナイトリーさん、そう思われません?」
「外見に関しては、非のうちどころがありませんね」彼は答えた。「あなたの言われるとおりだと思いますよ。彼女を見ていると気持ちがいいし、それ以上に、彼女には虚栄といったものがないように思えます。あれほどきれいなのに、それについてはまったく気づいてさえいない。彼女の虚栄は別のところにあるのです。ウエストン夫人、いくら言われても、エマとハリエットとのつきあい方を好まないというわたしの考えは変りませんからね。それにどちらにとっても、害があるという怖れもね」
「そして、わたしのほうの、害などないという確信もまた同じ様に変りませんわ。細かいところではかわいい欠点があるにしても、エマは素晴らしいひとです。娘としても、妹としても、真の友にしても、あのひとほど立派な方がどこにいます? いいえ、彼女は信頼に値するものを持っています。だれかをまちがった方向に導くなんてことは、決してありません。あとあとまで響くような失敗はしませんわ。たとえ一回のまちがいがあっても、あとの百回は正しいのですもの」
「わかりましたよ。これ以上はもうあなたを悩ませません。まあ、クリスマスになって弟のジョンやイザベラが来るまで、エマは天使だということにしておきましょう。弟はエマを愛していますが、その愛はどちらかというと理性的で、盲目的ではありませんし、イザベラは弟の意見にならなんでも従います。ただし弟が子供のことであまり大騒ぎしないときだけは別ですが。きっと、ふたりともわたしの考えを支持してくれるでしょう」
「もちろん、みなさんエマをとても愛していて、彼女に不公平なことや不親切なことなどしないのはわかっています。でもあえて言わせていただけるなら、ナイトリーさん、(わたしはたとえわずかでも、エマの母親の代わりに言う権利を持っていると思っていますので)、ハリエットとのつきあいについてあなたがたで話しあっても、いいことはひとつも出来てこないと思うのです。どうか許していただきたいのですが、たとえ、ハリエットとの関係からわずかでも不都合なことが起きたとしても、エマがそれを楽しんでいるかぎり、その関係をやめてもらいたいと期待することはできませんわ。お父様にたいして以外、エマにはだれにも弁明する必要はないのですし、そのお父様も完全に容認していらっしゃる関係なのです。忠告をするのが長い間の仕事でしたから、わたしのこのささやかな教師の名残りをごらんになっても驚かれませんわね、ナイトリーさん?」
「とんでもない!」彼は叫んだ。「とてもありがたい忠告でした。それがいつもよりいっそう良い結果を生むよう、せいぜい気をつけましょう」
「ジョン・ナイトリー夫人は、とても心配性な方ですから、きっと妹さんのことを気に病んで辛い思いをするかもしれませんよ」
「心配しないでください」彼は言った。「騒ぎを起こす気はありません。この意地悪な考えはわたしの胸にだけしまっておきましょう。ただ、エマのことは、とてもまじめに気にかけているのです。イザベラはたんに義妹というだけで、エマ以上に関心を引くことはありません。比べ物にならないといってもいいでしょう。エマにはどこか、見る人に心配や好奇心を起こさせるようなところがあります。いったい、彼女はどうなるのでしょうね!」
「わたしもそう思いますわ」ウエストン夫人はおだやかに言った。「本当に」
「彼女はいつも、決して結婚はしないといいますが、それはもちろん、なんの意味も持ちません。でも、彼女はいままで本当に心惹かれる男性に出会ったことがあるのだろうか。相手がふさわしいひとなら、夢中になるのも悪いことではないはずです。エマが恋をして、相手の反応に疑いを抱くのを、見てみたいですね。きっと、彼女のためにはいいことです。でも、このあたりには彼女を惹きつけるひとはいないし、それに彼女はめったに家から遠く離れることはありませんからね」
「本当に、いまのところは彼女の決心を変えるほどの誘惑もないようですね」ウエストン夫人は言った。「でもそれはそれで、いいのかもしれません。それに≪ハートフィールド≫で幸せなかぎり、だれかに惹かれて難しいことにならないことを望みますわ。もちろん、おかわいそうなミスター・ウッドハウスの立場に立っての話ですけど。いまのところ、エマには結婚は勧めませんわ。結婚が大事でないという意味ではまったくありませんけど」
この言葉には、ウエストン夫妻が持っているエマの結婚に関しての彼らの望みをできるだけ隠そうという意図も含まれていた。≪ランドルズ≫にはエマのこれからの運命についてひとつの願いがあったが、それを悟られるのはいいことではない。そのあとナイトリー氏が静かに話題を変え、「天気について、ウエストンはどう思っているのかな。雨がふるのだろうか?」と言ったとき、ウエストン夫人には彼がこれ以上≪ハートフィールド≫のことについて話す気も、思いをめぐらすこともないと分かった。
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第六章
エマはハリエットの想いを正しい方向に向け、立派な目的のために、彼女の若い虚栄心をくすぐることに成功したと信じて疑わなかった。なぜならハリエットがはっきりと、エルトン氏がとてもハンサムな若者であること、その立居ふるまいが好ましいことなどを、以前よりずっと意識しているのが分かったからだ。それを見てエマがすかさず、ことあるごとに、彼はあなたを賛美しているのよ、とほのめかすので、ハリエットが彼に好意を持ったのはほとんどたしかだった。エルトン氏のほうは、まだ恋とまでは言えないにしても、まっしぐらにその方向に向かっているようだった。彼のことは心配していなかった。彼がハリエットのことを話題にし、とてもやさしい言葉でほめるのを聞いていると、すぐにすべてうまくいくのではないかと思われたほどだ。≪ハートフィールド≫に紹介されていらい、ハリエットの礼儀作法が目に見えて向上したことに気づいたということも、彼のハリエットへの気持ちが強まってきたという良い証拠だ。
「あなたは、ミス・スミスが必要としていたものをすべて与えました」彼は言った。「そのおかげで彼女はとてもしとやかでゆったりとしてきましたね。あなたのもとに来たときも美しかったが、あなたが足してあげた魅力は、彼女が本来もっていたものよりずっとすぐれています」
「彼女の役にたてたと思っていただいて、うれしいですわ。でもハリエットの場合は、ただ引き出すだけでよかったんです。与えるものなどほとんどありませんでした、まあ、ちょっとしたヒントくらいかしら。もともと、性格のやさしさや、素直さなど、恵まれたものを持って生まれたひとですから。わたしなど、なにもしなかったも同じです」
「もし、レディーに反対することが許されるなら、それは違うと思います」エルトン氏は勇敢にも言った。
「たしかに彼女には、ほんの少しですけど、性格的にきっぱりとしたところを与えたとは思います。それに、いままで知らなかったいくつかの事柄について考えることもね」
「そのとおりです。わたしが驚いているのもそこです。彼女は、なんときっぱりとしてきたことか! まったくお見事です」
「でも、喜びも大きいですわ。あれほど、愛すべき性格のひとには会ったことがありませんから」
「それは、言うまでもありません」彼が熱くため息をつくように言ったが、それはいかにも恋をしている人間のものだった。それにある日、エマが突然ハリエットの肖像画を描くことを思いつき、それに彼が熱心に賛成してくれたときも嬉しかった。
「ハリエット、肖像画を描いてもらったことある?」エマは言った。「画を描いてもらうために、座ったことがあるかしら?」
ハリエットはちょうど部屋を出るところだったが、立ち止まって、いかにも無邪気に驚いたように言った。
「とんでもない! 一度もありませんわ」
彼女が出ていくとすぐに、エマは叫んだ。
「もし、出来栄えのいいものなら、とても素晴らしい記念の品になるでしょうね! そのためにはいくら払ってもいいわ。できたら、わたしが自分で描きたいくらい。ご存じかしら、わたし二、三年前は肖像画を描くことに夢中で、友人たちの画を何枚か描いて、まあうまく出来ていると思われていたんですよ。でも、いろいろうんざりさせられることがあって、やめてしまったんです。でも、もしハリエットがモデルになってくれるなら、またやってみてもいいわ。彼女の画を持てたら、幸せでしょうね!」
「是非、お願いします」エルトン氏は叫んだ。「それは本当に素晴らしいことです。是非描いてください、ミス・ウッドハウス。お友だちのために、あなたの素敵な才能を奮ってください。わたしが何も知らないとでも思っているのですか? この部屋にだって、あなたの風景画や花の画があちこちに飾られているではありませんか。それにウエストン夫人の≪ランドルズ≫の居間にも、だれにもまねができないような人物画がいくつかかけてありませんでしたか?」
そう、あなたってなかなか良い方ね!――エマは思った。でも、それが肖像画を描くこととどんな関係があるの? 画のことなど、なにもご存じないのに。わたしのことでそれほど嬉しそうな振りをすることはないのよ。それは、ハリエットのためにとっておいてちょうだい。「そうですね、あなたがそれほど勇気づけてくださるのなら、わたしとしても、できるだけのことはしてみますわ。ハリエットの体つきはとてもデリケートで、なかなか上手には描けないでしょうし、それに目の形や口元の線などに特徴があるから、そこをしっかりつかまえないとね」
「おっしゃるとおり。目の形と口元の線ですよね。でも、まちがいなく成功します。お願いします、どうぞ、描いてください。あなたの言葉をお借りするなら、素晴らしい記念の品になりますよ」
「でもね、エルトンさん。きっとハリエットは画など描いてもらいたくないと思うの。あのひとったら、自分の美しさなどほとんど気にかけてもいないんですもの。さっき、わたしがきいたときの返事を、聞かれたでしょう? あれはあきらかに『なんで、わたしの画など』という態度でしたわ」
「ええ、わたしにもそれははっきりわかりました。覚えていますよ。それでも、彼女を説得することがそれほど難しいとは思えませんが」
すぐにハリエットが戻ってきて、その話を伝え、ふたりがかわるがわる熱心に頼み込むと、彼女の承諾を得るまでには、ものの数分とかからなかった。エマはすぐにも仕事に取りかかりたかったので、ハリエットにはどのサイズが適当かを一緒に決めようと、画帖を取り出してきた。中には何枚もの肖像画の習作がはいっていたが、完成したものはただの一枚もなかった。それらの画は鉛筆、クレヨン、水彩絵の具などを使って、小画像やら上半身やら全身やらがかわるがわるに試みられていて、どれもすべて途中で終っている。エマはいつもなにもかもをやりたがって、絵でも音楽でも同じ程度の努力を払ったひとたちよりはずっとうまくできたのだが、ただ、あまりながい時間を使うということをしなかった。楽器も演奏するし、歌も歌い、あらゆるスタイルの画も描いたが、どれをとっても、こつこつと努力するという態度が欠けていたため、卓越という域にまで達したものはない。じっさい、その域までいけば、喜びも大きかっただろうし、そうすべきでもあったのだが。エマも自分の能力をそれほど買いかぶっていたわけではなかったが、他人が買いかぶってくれることは嫌いではなく、彼女のその方面の才能が現実より高い評価を受けていることにしても、困ったことだなどとは思っていなかった。
たしかにどの絵にもいいところはあった。それもたぶん、いちばん未完成なものに。そこにはなにか生き生きと輝くものがうかがえる。だが、エルトン氏とハリエットにとっては、それがもっとひどかろうと、十倍も優れたものであろうとたいした違いはなかった。ふたりともすっかり興奮していた。肖像画というのはだれもが喜ぶものだったし、ミス・ウッドハウスの作品なら最高のものに違いないのだ。
「もっと、いろいろなひとの顔を見せたかったのですけど」エマは言った。「でも、家族で練習するしかなかったもので。ほら、お父様よ。これも同じ。でも、お父様は描いてもらうというだけで、もう、すっかり神経質になってしまうので、本人が知らないうちに描くしかなかったの。どちらも、あまり似てないわね。ウエストン夫人。これも、これも、これもそうよ。ああ、ウエストン夫人! いつだって、わたしのいちばんの友だちだったわ。たのめばいつでも座ってくれて。これは姉よ。いかにも姉らしく小柄で、エレガントな姿でしょ。顔も似てないことはないわね。もっと長く座っていてくれれば、ずっと似たはずなんだけど、四人の子どもを描いてもらいたくて、じっとしていられなかったの。ほら、これがわたしが描こうとした子ども三人。こっちからヘンリーにジョンにベラ。まあ、だれがだれでもいいわ。姉があまり熱心に、子どもたちを描いてくれって言うから断れなかったの。でも、三つや四つの子を座らせておくなんてとても無理だわ。それに、全体の雰囲気とか顔色とか以外、子どもを似せるのは難しいの。まあ、この世でいちばん品のない子を描くというなら別でしょうけど。これは四番目の子のスケッチで、まだ赤ちゃんだったのよ。ソファで眠っているところをスケッチしたんだけど、これほどそっくりに描けた帽子のリボンは見たくても見られないでしょうね。都合のいいことに顔をソファにすり寄せていたの。そのあたりが似てるでしょ。このジョージ坊やの画は、わたしとても誇りにしているの。ソファの角がとてもいいわね。
「そして、終わりはこれ」エマは、紳士の全身を描いた小ぶりの画をだしてみせた。「わたしの最後で最高の出来ばえの画。義兄のジョン・ナイトリーを描いたものよ。もう少しで完成するところだったのに、かんしゃくをおこしてしまったきり、もう金輪際、肖像画は描かないって誓ったの。だって、怒らずにはいられないわ。散々苦労して、とても上手にも描けていたし、ウエストン夫人もわたしも、とても似ていると思ったのよ。ただわたしの良い意味での欠点でつい好意的になって、ハンサムに描き過ぎたのは事実だけど、愛すべきかわいそうなイザベラの評価ときたら、『まあ、似てないこともないけど、正直いってこれじゃ彼がかわいそうよ』って。お兄様に座ってもらうのは、それそれは大変だったわ。すごく恩にきせられて。だからもう、我慢できなくなったの。たとえ仕上げても、姉たちが≪ブランズウィック・スクエアー≫の家を訪れる客たちに、いちいち似てないことを謝るのかと思うとね。だから、さっきも言ったように、これ以来だれの画も描いていないの。でもハリエットのために、というかわたしのために、その誓いは破ることにするわ。それにこの場合、いまのところ、夫とか妻とかも関係ないことだし」
エルトン氏はその考えにとても感動して、嬉しそうに繰り返した。「たしかに|いまのところ《ヽヽヽヽヽヽ》は、おっしゃるとおり、夫とか妻は関係ありませんね。本当にそうです。夫も妻もいません」その言い方がおかしいほど意識的だったので、エマは、いますぐにでも、ふたりだけにしたほうがいいのではないかと思ったほどだった。でもエマは画が描きたかったので、告白はもう少し待ってもらうことにした。
肖像画のサイズや種類はすぐに決まった。それはジョン・ナイトリー氏のとき同様、全身像の水彩画になるはずで、自分でも上手に描けたと思えば、暖炉の上の名誉ある場所にかけられることに決まった。
仕事が始まった。ハリエットは微笑んだり、顔を赤くしたり、姿勢や顔つきを変えることを怖れたりと、画家の厳しい視線を前にして、若く美しいいろいろな表情を見せた。だがエルトン氏に、後ろから筆の動きのひとつひとつをそわそわしながら覗きこまれたのではなにもできたものではない。邪魔にならない場所にいるなら、好きなだけ覗いていいとは言ったものの、結局それは変更せざるを得なくなり、どこか別のところに行くよう頼むほかなかった。そのとき、ふと彼に本を読んでもらうことを思いついた。
「わたしたちのために、本を読んでくださると、本当に嬉しいのですが! そうしていただければ、わたしのほうも楽ですし、ミス・スミスも退屈せずにすみますから」
エルトン氏は、ただただ喜んだ。おかげで、ハリエットは耳をかたむけ、エマは安心して筆を運ぶことができた。それでも、彼が頻繁に覗きこむのを拒むことはできなかった。たしかに恋人というのは、なんであれ、ほんの少しでも制限されると、かなり物足りなく感じるのだろう。そういうわけで、彼はほんのちょっとでも鉛筆の動きがとまると、すぐに飛んできて、進み具合を見てはうっとりしていた。それほどまでに励ましてくれるひとに腹をたてるわけにもいかない。なぜなら、まだほとんど形も出来ていないうちから似ているとほめるほどなのだから。彼の眼識は信頼していなかったが、愛情と愛想のよさだけはまったく申し分なかった。
仕事は全体的にかなり満足のいくもので、一日めのスケッチはとても気にいり、終わりにしたくないと思えるほどだった。とてもよく似ているし、姿勢がいいのにも助けられて、ほんのちょっと体つきに手を加え、背をもう少し高くして優雅さを添えれば、最後にはとても素晴らしい絵に仕上がるに違いない。そしてこの画が目的の場所に飾られるとき、ひとりは目に焼き付くほどの美しい姿で、もうひとりは画の技量で、また両者の友情というてんにおいても、大いに面目をほどこすことになる。その他にもさまざまな要素が加えられることになるだろう。たとえばエルトン氏のハリエットへの好意がますます大きくなることとか。
ハリエットは翌日も画のために座った。当然エルトン氏は、その場にいて再び本を読むことを願い出た。
「ええ、是非お願いします。あなたに仲間に加わっていただいて、わたしたちとても喜んでいますの」
翌日も同じようなほめ言葉や、丁重なやりとりが続き、成功や満足も同じように得られて、画が描かれている間ずっとその調子で、画の進行も早く、楽しいものだった。だれもがその画を見て気にいったが、エルトン氏はあいかわらずの恍惚状態で、どんな批判にたいしても弁護にまわった。
「ミス・ウッドハウスは、お友だちには具わっていないたったひとつの美をつけ加えたようね」ウエストン夫人は、まさか相手が恋人とは気づかずに言った。「目の表情はとてもよく描けているわ。でも、眉やまつげはあんなではないわ。そこが、ミス・スミスの顔の欠点なんだけど」
「そう、思われますか?」彼は答えた。「わたしは反対です。どこをとっても、本当にそっくりだと思いますよ。これほどそっくりに描けた画は見たこともありません。陰影の効果も計算にいれて見るべきです」
「ちょっと、背を高く描きすぎたんじゃないかな、エマ」ナイトリー氏が言った。
エマにはわかっていたが、認めるのはいやだった。そしてエルトン氏は温かく言い足した。
「いいえ、違います! ちっとも高くありません。少しも、高いなんてことはないですよ。考えてもください。彼女は座っているのですよ。当然それで違ってくるわけですし、バランスということを頭にいれる必要があります。バランス、遠近法。とんでもない! これでこそミス・スミスの本当の背丈の感じが出るのです。高くなどありませんよ、本当にぴったりです!」
「とてもきれいだよ」ウッドハウス氏が言った。「ほんとうに良くできたね! お前はいつだって上手だよ、エマ。ただ、ひとつだけ、どうやら外に座っているらしいのに、ショールをかけているだけなのが気になるんだが。なんだか、風邪を引きそうに思えてね」
「でも、お父様、これは夏なんですよ。温かい夏の日のつもりですわ。この木をごらんになって」
「そうは言っても、外に座るのは決して体にはよくないよ」
「たしかに、おっしゃることはわかりますが、ミスター・ウッドハウス」エルトン氏は叫んだ。「でも思いますに、ミス・スミスを戸外に置いたのは、なんといっても素晴らしいアイデアです。それにこの木など、じつに生き生きと輝いているではありませんか! これがほかの場所だったら、もっとつまらないものになってしまいます。ミス・スミスの清純さを含めてすべてが――ああ、本当に素晴らしい! 目を離すこともできません。これほどの肖像画は見たことがありません」
次に必要なのは、画を額にいれてもらうことだったが、それには少しばかり問題があった。すぐに、しかもロンドンで、もののわかった信頼できる目をもったひとにしてもらわなければならない。しかも、いつもならイザベラが引き受けてくれるのだが、いまが十二月ということで、それもできなかった。ウッドハウス氏がこの十二月の霧の中、イザベラが外に出るということを嫌がったのだ。しかし、エルトン氏がそれを聞くやいなや、問題はすぐに解決した。彼の騎士道精神は、いつも盛んだ。「もし、その仕事をわたしにやらせていただければ、これほど嬉しいことはありません! すぐにもロンドンに馬を飛ばしましょう。もし、そうさせていただけたら、言葉では言い表せないほどの喜びです!」
「いくらなんでも、それでは! そんなことをお願いするなんて、思いも及びませんわ! こんな面倒な仕事をお願いするなんて、絶対にできません」こんな言葉と、是非ともという問答が繰り返されて、問題は望みどおり数分で片付いた。
エルトン氏が画をロンドンに持っていって、額を選んでくれ、あれこれ指示もしてくれることになった。エマは、彼にあまり手間をかけないためにも画を保護しようと、がっちり包装させようと思ったが、彼のほうはむしろ手間をかけられることを、最上の喜びと思っているようだった。
「なんと貴重なお預りものでしょう!」画を受け取りながら、彼はやさしくため息をついた。
「このひとは、恋をするには、あまりに礼儀正しすぎるんじゃないかしら」エマは思った。「まあ、それでも恋をするには、百通りもの方法があることだし。彼は立派な青年で、ハリエットにはとてもお似合いだわ。彼の言葉を借りれば、『まさに、そのとおり』ってところね。それにしてもため息をついたり、悩ましげな態度をしたり、たとえわたしが相手でも困ってしまうほど、ちやほやしてくれる人だわ。脇役としてはじゅうぶんすぎるほどのおこぼれだわね。きっと、ハリエットのことで、よほどわたしに感謝しているんだわ」
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第七章
エルトン氏がロンドンに出かけたその日、エマは、ハリエットのためにまた新しい親切をほどこすことができた。いつものようにハリエットは朝食後すぐに≪ハートフィールド≫に来ていて、しばらくいたあといったん帰って、ふたたびディナーのために戻ってきた。約束していたより早く戻ってきて、しかも動揺し、あわててもいる様子で、思ってもみないたいへんなことが起きたので、聞いてもらいたくてたまらなかったのだと言う。話はものの三十秒とかからなかった。彼女がゴダード夫人のもとに戻ると、マーティンさんが一時間ほど前に訪ねてきて、ハリエットが留守で、いつ戻るかもわからないと聞くと、妹さんのひとりからことづかった包みを置いて、帰っていったと言うのだ。ハリエットがその包みを開けてみると、そこにはエリザベスに写すようにと貸した譜面といっしょに、彼女宛の手紙が入っていた。手紙はマーティンさんからで、ハリエットにじかに、結婚を申し込むという内容だった。「思ってもいないことでした! あまり驚いてしまって、どうしていいかわかりませんでしたわ。まちがいなく結婚の申し込みで、それもとても立派なものです。少なくともわたしには、そう思えました。それに、彼は本当にわたしを愛しているかのように書いています。でも、わたしにはわかりません。だからどうすべきか教えていただきたくて、いそいで来たのです」エマは友がとても嬉しそうに、しかもかなり迷っているのをなかば恥ずかしいことだと思った。
「まちがいなく」エマは叫んだ。「その若者は、申し込んでも損はしないと思ったのね。できれば、社会的にも有利な結びつきをしたいと願っているのよ」
「手紙を読んでいただけます?」ハリエットは懇願した。「お願いします。できたら、読んでいただきたいのです」
エマは、押し付けられて悪い気はしなかった。そして手紙を読んで、驚いてしまった。思っていたより、ずっと見事な文体だ。文法的な誤りがないばかりではなく、文章としても紳士のそれと比べて遜色がない。言葉はどちらといえば簡明だが、力強くて、気取りがなく、書き手の気持ちが実によく表れている。短くても良識に富み、温かい愛情にあふれ、のびのびとして、適切で、デリケートささえあった。エマがそんなことを思っている間にも、ハリエットはそばに心配そうに立って、「それで、それで」とたずね、最後にはとうとう「良い手紙ですか? それとも短すぎますか?」ときかずにはいられなかった。
「ええ、とても良い手紙よ」エマがむしろゆっくりとした口調で言った。「すべてを考慮にいれた、あまりに立派な手紙なので、妹さんのどちらかが助けたんじゃないかと思うの。だって、わたしが先日会ったあの青年が、自分だけで書いたとしたら、これほど気持ちをうまく表現できるとは考えられないから。それにしても文体は女性のものではないわ。ええ、たしかに違う。女性にしては力がありすぎるし、簡潔で、だらだらしたところがないし。むろん彼は良識のあるひとなのでしょうし、それにたぶん才能も――考え方に力があって、はっきりしているわ――、きっとペンを手にすると書くべき言葉が自然に生まれてくるのね。そういうひとっているものよ。そう、わたしにはよくわかるわ。元気がよくて、決断力があって、あるていどまでは情緒的で、しかも荒っぽさがない。本当によく書けた手紙よ、ハリエット(手紙を返しながら)。思ったよりはずっとね」
「それで」ハリエットは相変わらず待っていた。「その――それで――それで、どうしたらいいのでしょう?」
「どうしたらいいのでしょうですって! なにを? 手紙について?」
「ええ」
「でも、なにを迷っているのかしら? もちろん、返事を出さなくてはいけないでしょ。それも、すぐに」
「はい。でもなんと言ったらいいのですか。どうぞ、教えてください、ミス・ウッドハウス」
「いいえ、とんでもない! 手紙はすべて自分で書いたほうがいいわ。あなたなら思っていることをきちんと言い表せるでしょ。もっとも肝心な、いちばん言いたいことが相手に伝わらないなんてことはないはずよ。きっぱりと、迷いも、ためらいもあってはだめ。礼儀としての感謝の気持ちや、あなたが相手に与えた痛みを推し量る言いかたなどは、自然と心に生まれてくるものよ。だれかに教えてもらわなければ、彼の落胆を思いやる気持ちを表現できないような、あなたではないと思うけど」
「それでは、お断りすべきだとおっしゃるのですね」ハリエットは、しょげかえって見えた。
「断るべきですって! まあ、ハリエットったら、それはどういう意味なの? なにか迷いでもあるってこと? わたしはてっきり――でも、ごめんなさい。わたしの勘違いだったかもしれないわね。そうね、もし返事に迷っているのというのなら、たしかに思い違いをしていたようだわ。わたしは、文体のことを相談されているのかと」
ハリエットは黙り込んでしまった。すこし、おだやかな様子でエマは続けた。
「いいお返事をするつもりなのね、きっと」
「いいえ、そうじゃないんです。そういう意味では――どうしたらいいでしょう? どうか教えてください。お願いです、ミス・ウッドハウス、わたしがすべきことを教えてください」
「助言するつもりはないわ、ハリエット。わたしには関係ないことですもの。こういうことは、あなた自身の心と相談して決めることなのよ」
「彼が、わたしをこれほど好きだなんて知らなかったんです」手紙をじっと見ながら、ハリエットは言った。エマはしばらくなにも言わなかったが、その手紙が持つ、心を惑わすような言葉の力強さが気になってきて、黙っていないほうがいいと思った。
「一般的に言うとね、ハリエット。もし女性が結婚の申し込みを受けようか、どうしようかと迷うときは、絶対に断ったほうがいいの。『はい』と言うことがためらわれるときは、すぐに『いいえ』と言うべきなのよ。どっちつかずの、いいかげんな気持ちで結婚しないほうがいいわ。これは友として、また年上の女としての義務から言っているのよ。でも、誤解しないでね。あなたの気持ちを左右しようなんて思ってもいないわ」
「いいえ、とんでもない! ご親切のあまりそう言ってくださるのは――でも、もしどうしたらいちばんいいのか教えていただければ――いいえ、そういうことではなくて――あなたが言われたとおり、こういうことにはきっぱりした決心が必要で――ためらうようなことではなくて――とても大切なことですから――『いいえ』と返事したほうが安全なのでしょうね、たぶん――『いいえ』と言ったほうがいいと、思われますか?」
「わたしは決して」エマは嬉しそうに微笑みながら言った。「どちらにしろと言うつもりはありません。あなたの幸せは、あなたが決めることですもの。もし、ほかのだれよりもマーティンさんがよくて、そしていままであれほど素晴らしいひととつきあったことがないというなら、ためらうはずなどないでしょ? あら、赤くなったわね、ハリエット。いま言ったことで、いまこの瞬間、思い出した方でもいるの? ああ、ハリエット、自分をあざむいてはだめ。感謝とあわれみに駆られて、流されてはいけないわ。このいまの瞬間、あなたの心にいるのはだれ?」
反応は、なかなか有望だった。ハリエットは質問には答えずに、混乱したようすで顔をそむけ、暖炉のそばで考え込んでいた。手にはあいかわらず手紙が握られてはいたが、いまはそれを気にするようすもなく、無意識にねじっている。エマは辛抱強く待っていたが、希望はかなりもてそうだった。とうとう、ちょっとためらいながら、ハリエットは言った。
「ミス・ウッドハウス、あなたが助言してくださらない以上、わたしはできるだけ自分で決めなければなりません。そしてわたしはいまやっと心が決まりました、じっさい決心したと言ってもいいでしょう――ミスター・マーティンのお話は、お断りします。これで正しいでしょうか?」
「ええ、まったく正しいわ、わたしの大好きなハリエット。それこそが、なすべきことよ。あなたが迷っている間は、わたしのほうからはなにも言えなかったけど、そうして決めた以上もう迷うことなくそれが正しいって言えるわ。いとしいハリエット、なんて嬉しいのでしょう。もし、マーティンさんと結婚すれば、あなたを失わなければならなかったんですもの。あなたにかすかでも迷いがある間には、決して言えなかったの。だって、それで左右されてはいけないと思って。でも、わたしは友を失うところだったわ。わたしがアビー・ミル農場のマーティン夫人を訪ねていかれるはずがないでしょ。でも、もうあなたを失う怖れはないのよ」
ハリエットは、そんなことは考えてもいなかったが、そう言われてすっかり驚いた。
「わたしを訪ねてくることができないですって!」彼女は真っ青になって叫んだ。「たしかにそうですね。でも、そんなことは考えてもみませんでした! なんて恐ろしい! すんでのところで、そうなるところでした! ミス・ウッドハウス、どんなことがあっても、あなたと親しくしていただく喜びと名誉を捨てるつもりはありません!」
「本当にハリエット、あなたと別れるのはどんなにか苦痛でしょうが、そうせざるを得なかったと思うの。だって、あなたが上流社会を捨てるからには、わたしもあなたをあきらめるほかなかったのですもの」
「まあ! そんなこと決して耐えられるはずがなかったでしょうに! ≪ハートフィールド≫に二度と来られないとわかったら、生きてはいられませんわ!」
「ほんとうにかわいいひと! そんなあなたがアビー・ミル農場に追いやられるなんて! そして一生、無知で粗野なひとたちの間に閉じ込められるなんて! いったいどうしたらあの若者が、あなたに結婚を申し込むなんてことができたのかしら。きっと、かなりのうぬぼれやさんにちがいないわ」
「だいたいにおいては、うぬぼれとは思いませんが」ハリエットはそのような断定には良心的に賛成はしなかった。「少なくとも、とてもいい方で、いつもよくしていただいて、とても嬉しくは思っていますが、それはまた別の話です。それに彼がわたしを好いてくれたからといって、わたしのほうもそうすべきだということには――。正直に言って、ここにうかがうようになってから、わたしもいろいろな方とお会いしました。その方々達のお姿やふるまいとでは、まったく比較にもならないほどです。だって、そのうちのおひとりの方などは、身だしなみも立派でいらっしゃるのですもの。だとしてもわたしは、ミスター・マーティンはとても感じのいい青年だと思っていますし、そのうえわたしをとても愛してくれて――こんな手紙までくださって――でも、あなたと離れるなんて、それこそ考えるだけでも恐ろしいことです」
「ありがとう、本当に嬉しいわ、わたしのかわいいハリエット。わたしたちは離れてはいけないのよ。女性は、申し込まれたからといって、相手が愛してくれてまあまあの手紙が書けるからといって、それだけのことで結婚などすべきじゃないわ」
「ええ、もちろんです! それに手紙だってとても短いし」
エマは友の趣味には感心しなかったが、それは無視することにして言った。「その通りね。たとえ立派な手紙を書けるとしても、毎日、毎時間、不快なふるまいでいやな思いをさせられるのなら、たいして慰めにもならないでしょうしね」
「ええ、そのとおりですわ。手紙なんてどうでもいいものですから。それよりも大切なのは、気分のいい友だちといつも楽しく過ごすっていうことです。ミスター・マーティンにはきっぱりとお断りすることにします。でも、それにはどうしたらいいのでしょう? なんと書きましょうか?」
エマが、返事を書くことなど簡単で、それもすぐに書いたほうがいいと言うと、きっと助けてもらえるのだろうという気持ちから、ハリエットはすぐに同意した。助けるなんて、とあいかわらず反対しながらも、じっさいには、すべての行がエマの助言によるものだった。返事を書くためにふたたび手紙を読み返すと、そこには決心をゆるがせるようなやさしさがあったので、エマは二、三のきっぱりした言葉で、ハリエットの気持ちを支える必要があった。それにハリエットは彼を悲しませることをとても心配し、彼の姉妹や母親にどう思われ、なにを言われるのかと思い悩み、恩知らずだと思われたくないという思いも非常に強かったので、エマは、もし、当の若者がいまここにあらわれたら、結局は結婚を承諾してしまうのではないだろうかと信じたほどだった。
それでも手紙は書かれ、封がなされ、送られた。仕事はなしとげられた。もう、ハリエットは心配ない。その晩、ハリエットはずっと沈んでいたが、エマはそんなかわいい後悔は大目に見て、ときには彼女のハリエットにたいする愛情やら、ときにはエルトン氏を持ち出しては気を紛らわせてあげた。
「もう二度と、アビー・ミル農場に招かれることはないんですね」ハリエットは悲しそうに言った。
「たとえ招かれても、あなたと別れるなんて我慢できないわ、わたしのハリエット。≪ハートフィールド≫にとって、あなたはとても大切なひとだからよ、アビー・ミル農場などにやるわけにはいかないわ」
「それに、わたしもきっと行きたいとは思わないでしょう。だって、≪ハートフィールド≫以外の場所では決して幸せになれませんから」
しばらくたってハリエットは言った。「ゴダード夫人が、なにがおきたか知ったらきっと驚かれるでしょうね。ナッシ先生が驚くのはわかっています。だって先生は、お姉様がとてもいいところへ嫁いでいると言うのですが、それでもただの布地商人の家なんですから」
「学校の先生のプライドや洗練のされかたなんて、そんなところでいいのよ、ハリエット。きっとナッシ先生は、あなたにこんな結婚の機会があったのをうらやましがるでしょうね。彼女にしてみれば、愛されたということですら、貴重に思えるはずですから。それにあなたにはもっと素晴らしいことがあるなんて、まったく知らないでしょうね。だれかさんがあなた惹かれているなんてことは、ハイベリーではまだ噂になっていないしね。いまのところ、そのだれかさんの視線や態度にそんな気持ちを読み取っているのはわたしたちだけだと思うわ」
ハリエットは頬をそめながらにっこりして、自分がそんなに好かれることなどあるものかしら、という意味のことを言った。エルトン氏の話はたしかにいい慰めになったが、しばらくするとまた彼女は、断られたミスター・マーティンを心配し始める。
「今頃はもう、手紙は届いているのでしょうね」彼女は静かに言った。「みなさんどう思われたかしら――妹さんたちは、ご存じかしら――お兄様が悲しめば、妹さんたちも悲しい思いをするのでしょうね。ミスター・マーティンがあまり気にしないといいのですけど」
「ここにいないひとたちのことを考えるなら、もっと楽しい時を過ごしているひとたちのことを考えましょうよ」エマが言った。「今頃たぶんエルトンさんは、あなたの画をお母様や、姉妹の方々に見せながら、実際はもっとずっと美しいと言ったり、五回も六回もせがまれて、あなたの名前を、あなたの素敵な名前をみなに打ち明けているわよ」
「わたしの画ですって! でも、画はボンド・ストリートに送られているはずですわ」
「そうかしら! だとしたらわたしはエルトンさんのことをちっとも知らないことになるわね。いいえ、慎み深いハリエット。明日、彼が馬に乗る直前まで画がボンド・ストリートにあるはずはないわ。今晩はずっと彼のそばに置かれて、慰めや喜びになっているはずよ。あの画によって家族が彼の気持ちを知り、あなたを家族に紹介するきっかけを作るの。そしてみんなの間に、強い好奇心や、やさしい愛着をまき散らすのよ。そういう感情ってとても自然で、好ましいものだわ。それはそれは楽しくて、生き生きとして、いろいろと勘ぐってみたりして、想像の翼を好きなように広げていることでしょうね!」
ハリエットはまた微笑んだが、その微笑みは、ますます大きくはっきりしたものになっていった。
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第八章
その夜、ハリエットは≪ハートフィールド≫に泊まった。数週間前から、彼女は半分以上のときをそこで過ごし、専用の寝室まで持つようになっていた。それにエマにしてみれば、いまのところは彼女をそばにおいておくのが、あらゆる意味で親切であり、安心でもあるように思えた。ハリエットは翌日二、三時間ゴダード夫人のもとに戻る必要があったが、その際、≪ハートフィールド≫の正式の客として数日間滞在する許可をとってくることになっていた。
ハリエットが出かけた後、ナイトリー氏が訪ねてきて、しばらくウッドハウス氏とエマとおしゃべりをしていた。だがウッドハウス氏はその前に散歩に出ると決めていて、娘にそれをすぐに実行するように言われ、またふたりに熱心に勧められてそうすることにしたものの、ナイトリー氏をそのままに残していくのは、彼特有の礼儀正しさからいって心苦しいことだった。格式ばったところがいっさいないナイトリー氏の、簡潔ではっきりした態度と、ウッドハウス氏の長々とした謝罪や迷いは、対照的で面白かった。
「そうですか。それではナイトリーさん、もしわたしの失礼をお許しをいただけるなら、エマの言葉をいれて十五分ほど散歩をしてまいります。お日様も出ていることですし、いまのうちにいつもの道を三度ほど回るのがいいと思いますので。お言葉に甘えることにしましょう、ナイトリーさん。病人としての特権を使わせていただきます」
「どうか、そんな他人行儀なことはおっしゃらずに」
「ただ、素晴らしい身代わりをおいていきますから。エマが喜んでお相手をするはずです。ということで、失礼して、散歩をしてまいります。冬は同じ場所を三度歩くことにしているのです」
「それがよろしいですよ」
「できたら、ご一緒願えればいいのですが、わたしは歩くのが遅くて、それではかえってご迷惑でしょうから。それに、あなたは遠い≪ドンウェル・アビー≫までまた歩いて帰られるわけですし」
「ありがとうございます。でも、わたしもすぐ失礼しますので。早く出かけられたほうがいいですよ。わたしがいま厚い外套をとってきて、庭へ出るドアをお開けしますから」
ウッドハウス氏はとうとう出て行った。だが、ナイトリー氏はすぐに帰るかわりにまた座り直し、もっと話をしたいようだった。彼はハリエットのことを話しだしたが、エマがいままで聞いたうちでは、ハリエットに最も好意的な話し方だった。
「ぼくは君ほど、彼女の美しさを買ってはいないが」彼は言った。「だが、彼女はかわいい娘だし、どうやらとても気立てがよさそうだ。彼女のような性格のひとは、一緒にいる人間によって大きく左右されるものだが、いいひとの手にゆだねればすばらしい女性になるだろう」
「あなたがそう思ってくれて、とても嬉しいわ。それに、いいひとの手も欠けてはいないと思いますけど」
「なるほど」彼は言った。「ほめてもらいたくてうずうずしているようだから、言おう。たしかに君のおかげで、彼女は良くなった。あの女学生みたいなくすくす笑いを止めさせたのは君だからね。その点で彼女は、おおいに君に面目をほどこさせたわけだ」
「ありがとう。だれの役にもたっていないなんて思うのは、とても残念ですもの。でも、ほめてもらってもいいときでも、みんながほめてくれるわけじゃないわ。あなただって、めったにはほめてくれませんもの」
「今日も、彼女を待っているの?」
「ええ、待ってないときなどないわ。ほんとうは、もっと早く戻るはずなんだけど」
「きっと、なにかあって遅れているのだろう。だれか、客があるとか」
「ハイベリーの噂ね! まったくうんざりするひとたちだわ!」
「ハリエットは、君ほどうんざりなどしていないかもしれないよ」
反論するには、あまりに本当のことだったので、エマはなにも言わなかった。やがて彼は微笑みながら言い足した。
「日取りだとか、場所だとかまで知っていると言うつもりはないが、きっと、君のかわいい友だちはすぐにも、彼女にとってとてもいい話を聞かされるはずだ」
「本当に! どうして? どんなこと?」
「とても大切なことなのはたしかだね」彼はまだ微笑んでいる。
「とても大切! だとしたらひとつしかないわ。彼女に恋をしているのはだれ? だれかから打ち明けられたの?」
エマは半ば、それはエルトン氏にちがいないと思いこんでいた。ナイトリー氏はだれにとっても友だちであり、助言者でもあって、エルトン氏が彼を尊敬しているのはわかっている。
「ぼくには信じるに足る理由があるのだが」彼は答えた。
「ハリエットはすぐにも結婚を申し込まれるはずだ。それもまったく申し分のない方面から――すなわちロバート・マーティンからさ。彼女がこの夏アビー・ミル農場に滞在したとき、彼のほうが夢中になったらしい。すっかり恋におちて、結婚を申し込むつもりだ」
「まあ、それはご親切なこと」エマは言った。「それで、ハリエットが承諾するのはたしかなのかしら」
「まあ、そうでもなければ、申しこんだりはしないだろう。これでいいかね? 二日前の夜、彼が相談にアビーを訪ねてきた。ぼくが、彼も彼の家族も信頼しているのを知っているし、親友のひとりだと思っているからね。彼はこれほど若く結婚するのは生意気ではないか、彼女の歳が若すぎないか、などときいてきた。早い話が、ぼくがこの結婚をどう思うかが知りたかったんだ。もしかしたら、彼女に結婚を申し込むには、自分の社会的地位が低すぎはしないかと心配してね。ことに、君とつきあいだしたものだから。ぼくは彼の話を聞いていてほんとうに嬉しかったよ。ロバート・マーティンほど良識に富んだ男はいない。彼の話はいつも要領を得ていて、率直で、そのものずばりで、判断も適切だ。彼はなにもかも話してくれた。彼の置かれた状況、これからの計画、結婚した場合にはどうするつもりか、などだ。彼は息子としても、兄としても申し分のない男だ。ぼくは、すぐに結婚するよう勧めたよ。彼の話では経済的にも問題はないし、だとしたら、これほどいいことはない。ぼくは彼の理想の女性のこともほめてやり、彼は天にものぼる心地で帰っていったよ。たとえ彼が以前にはぼくの意見を高く評価したことがなかったとしても、あのときばかりは別だったろうな。きっと、ぼくのことをこの世にふたりといない友であり、相談相手であると信じて家を出ていったことはまちがいない。それが二日前の夜のことだ。彼が彼女にこのことを伝えるのにそれほど時間を置くとも思えないし、昨日話した様子もないので、今日ゴダード夫人のもとに出向いた可能性が高い。ハリエットが遅れているのはそのせいだよ。決して、彼のことをうんざりする男などとは思っていない」
「おききしますけどね、ナイトリーさん」彼の話の間じゅう、エマはずっと微笑んでいた。「マーティンさんが、昨日話さなかったってどうして言えるのかしら?」
「たしかにそれはそうだ」彼は驚いたように答えた。「べつに絶対というわけではないけど、まあ、推測だよ。ハリエットは昨日、ずっと君と一緒だったのじゃないのかい?」
「では」エマは言った。「あなたが話してくださったお礼に、わたしのほうからもお話しするわ。マーティンさんは昨日話しました。というより手紙をしたためて、そして断られましたの」
彼がその話を信じるまでに、エマはもういちど同じことを繰り返さなければならなかった。その結果ナイトリー氏は驚きと不快さのために顔を赤くして、怒ったようにすくっと立ち上がった。
「となると、彼女はぼくが思っていたよりずっと愚か者だったわけだ。あの馬鹿な娘は、いったいなにを考えているのだろう?」
「あら!」エマは叫んだ。「男のひとって、結婚を申し込まれた女がなぜ断ったりするのか、想像もつかないのね。申し込まれれば相手がだれであろうと、必ず受けると信じているんだわ」
「馬鹿な! 男はそんなこと思っていないよ。だが、これはどういうことなんだね? ハリエット・スミスがロバート・マーティンを断っただって? もし、本当なら頭がどうかしてる。君が思い違いをしていると信じたいね」
「だって、わたし彼女の返事を見たんですもの」
「君が返事を見ただって! そして、書いたのも君なんだろう。エマ、これは君のしわざだったんだ。君が彼女を説得して断らせた」
「もし、そうだとしても――本当は、決してそんなことありませんけど――、悪いことをしたとは思いませんわ。マーティンさんは、たしかに尊敬すべきひとかもしれませんが、とてもハリエットとは釣り合いがとれません。実際彼が大胆にも申し込んだということのほうが、驚きだわ。あなたの話では、彼もそのことは考えたようですけど。そこをやり過ごしてしまったのは残念だわ」
「ハリエットには、釣り合わないだって!」ナイトリー氏は興奮して大声を出したが、すぐに気を静めて厳しく言った。「そうだ、たしかに釣り合わないだろうね。なぜなら状況、良識、どちらをとっても彼のほうが上だからね。エマ、君はあの娘にのぼせるあまり、盲目になっているよ。生まれにしろ、性格にしろ、教育にしろ、知人にしろ、ハリエット・スミスがロバート・マーティンよりいい相手を求める理由などどこにあるのかね? 彼女はどこのだれともわからない者の私生児で、財産もないようだし、当然れっきとした親類もない。わかっているのは、普通の学校の特別寄宿生ということだけじゃないか。とくべつ利口でもないし、多くの知識を持っているわけでもない。役にたつようなことはなにひとつ教えられていなくて、自分で学ぶには若すぎるし、単純すぎる。若くて経験もないし、あのおつむでは、自分で生きていかれるだけの技術を習得できるとも思えない。かわいくて、性格がいい、ただそれだけじゃないか。ぼくがこの結婚に不安を持つとしたら、彼なら彼女以上の女性でも望めるはずなのにとか、おかしな親戚でもできたら困るとか、すべて彼を思ってのことだ。それに財産からいっても、どう考えても、はるかに有利な結婚ができるはずで、頭のいい妻とか、なにかと助けになる有能な助手ということになれば、彼女ほどふさわしくない娘はいない。それでも恋する男にそんなことを言ってもはじまらないので、まあ彼女と結婚したとしても、彼女のあの素直な性格からして、彼のような良い夫のもとできちんと指導されさえすれば、素晴らしい夫婦になるかもしれないと信じこもうとしていた。この縁組みで得するのはなんといっても彼女で、その素晴らしい幸運にはだれもがあっと驚くだろうとも思っていたよ、いや、いまでも思っている。さすがの君でさえ、きっと満足するだろうと信じていたのに。友だちがハイベリーを去るようなことになっても、立派に落ち着くためだったら、君にもなんの後悔もないだろうって、すぐに思ったくらいだ。ぼくは自分にこう言ったのを覚えている。『ハリエットを偏愛するエマだが、これだけはいい話だと思うだろう』って」
「そんなことを言うほどハリエットを知らないなんて驚きですわ。なんですって! 農夫が、わたしの親しい友人にぴったりだと思うですって!――マーティンさんにどれほどの良識や利点があろうとも、しよせんは農夫ですわ――。わたしが決して知り合いとは認められないようなひとと結婚するために、ハリエットがハイベリーを去っていくのを、後悔しないはずだ、ですって! どうしたら、そんなふうに考えられるのかしら? わたしには全然考えられないわ。それにあなたの言ったことは、決して公正ではありません。それでは、ハリエットにとってずいぶん不公平よ。わたしを含めて多くのひとの考えも、あなたとは違うはずよ。たしかにマーティンさんはハリエットよりはお金はあるかもしれないけど、社会的地位からいったら彼のほうがずっと下だわ。彼女がつきあいをもっているところは、彼よりかなり上のほうよ。だから、彼女にとっては、恥ずかしいことだといえるわ」
「私生児で能無しの女性が、立派な、知性にあふれた紳士的な農夫と結婚することを恥じるだって!」
「たしかに、生まれについていえば、法律的には『|だれでもないひと《ノーボディー》』と呼ばれるかもしれないけど、常識でいえばそんなのは通用しないわ。ほかのだれかが犯した罪をハリエットが償う必要などないのよ。自分が育った社会よりももっと低くみられるなんて。ハリエットの父親が紳士で、それも金持ちの紳士であることは疑問の余地がないわ。もらっているお小遣いだってかなりのものよ。娘のためになることや気持ち良い生活のために、おしみなく使われているわ。となると、彼女が紳士の娘だということはまちがいないし、紳士の娘たちとつきあっていることもだれも否定などしないと、わたしは思いますけど。とにかく、彼女はミスター・ロバート・マーティンよりは上です」
「だれが彼女の両親であろうと」ナイトリー氏は言った。「まただれが彼女の面倒を見ていようと、彼らはハリエットを、あなたが言うところの上流階級にいれようとは思っていなかったと見るべきだろうね。どうでもいいような教育を受けたあと、ゴダード夫人の手にゆだねられっぱなしじゃあないか。ということは、ゴダード夫人の活動範囲内に入ったということで、夫人の知人とつきあうことにもなる。ハリエットの関係者はそれでじゅうぶんだと考えていたのだし、事実そうだ。それ以上のことなど望んでいなかったんだ。君が彼女を友だちにしようとするまでは、彼女は自分の環境に満足して、そこを越えようなどという野心ももっていなかった。この夏マーティンの家で、彼女は幸せいっぱいだった。優越感などというものもなかった。それをいま彼女がもっているというなら、その優越感は君が与えたものだ。君は、ハリエット・スミスの本当の友だちなどではない。ロバート・マーティンだってたぶん、彼女が申し込みを受け入れるだろうと思わなければ、ここまではしなかっただろう。ぼくは彼をよく知っている。彼は自分勝手な情熱にかられてむやみに女性を口説くには、あまりに誠実すぎる。それにぼくが知る限り、彼ほどうぬぼれを知らない男もいない。彼女のほうが、彼をその気にさせたにちがいない」
エマにとっては、そのような断言にたいしてはすぐに応えないほうが都合がよかったので、いままで言ってきたことをまた繰り返すことにした。
「あなたはマーティンさんのやさしいお友だちかもしれませんが、さっきも言ったように、ハリエットには公平ではありませんわ。良い結婚を求めるハリエットの権利だって、あなたが言うほど馬鹿にしたものではありません。たしかに利口だとは言えませんが、あなたが気づいているより良識もあって、理解力だってそんなふうにみくびってはかわいそうですわ。それにその点はひとまず置いて、あなたが言われたように彼女がただきれいで、性格がいいだけとしましょう。それでも彼女ほどの美しさと気立ての良さなら、世間一般からいっても決して取るに足りないものではありません。なぜなら彼女は本当にきれいで、百人のうち九十九人に言わせてもそれはまちがいのないところですもの。そして男性がいまよりずっと美にたいして哲学的になるときまでは――美人よりは物事をよく知っている女性に恋をするようになるときまでは、ハリエットのように美しい娘は、当然多くの男性にあがめられ、求められて、そのなかから選ぶわけですから、それだけ良い相手を選ぶ権利があっていいはずですわ。性格の良さだって同じで、それほど過小評価すべきものではありません。実際彼女の申し分なく愛らしい性格やふるまいには、謙虚な気持ちや、常にひとを喜ばせたいという気持ちが含まれているのです。わたしには男性がそのような美しさや性質を、女性にとってもっともふさわしいものだとみなさないとは、とても思えませんわ」
「言わせてもらうがね、エマ。君が持っている理性をそんなふうに使うのを聞いていると、ほとんど信じたくなってしまうよ。だが、もしそんなふうにしか使えないのなら理性などないほうがましだね」
「そうでしょうね!」エマはおどけた声をあげた。「男のひとはみんなそう思っているのよ。だからこそ、ハリエットのような女性は喜んで受け入れられるはずよ。男のひとをうっとりさせ、それでいて男のひとの判断には喜んで従う。ああ、ハリエットならどんなひとだって選べるわ。たとえあなたが結婚するにしても、彼女ならうってつけだと思うわ。おまけに彼女は十七で、人生や世間というものに足を踏み入れたばかりですもの、初めての結婚の申し込みを断ったからといって、どこが不思議なのかしら? いいえ、お願いです。もう少し彼女に周囲を見回す時間を与えてあげて下さい」
「君たちのつきあいかたには、ぼくはいつも反対だった」やがてナイトリー氏は言った。「それでも、その思いはぼくの胸にだけしまっておくつもりだった。だが、こうなってみると、ハリエットにとっては、それが非常に不幸なことだとわかった。君がハリエットに、きれいだとか、いろいろと要求する権利があるだとか焚きつけるので、そのうちハリエットの周りには、彼女が自分にふさわしいと思えるひとがだれもいなくなってしまうに違いない。虚栄というのは、頭の弱い人間ほど陥りやすく、その結果いろいろなまちがいをおこすことになる。それに若い女性にとって、分不相応な期待をもつことほどたやすいことはない。ミス・スミスはきれいかもしれないが、それほどたくさんの結婚の申し込みがくるとは考えられないね。物事をきちんと考えられる男なら君がどう言おうと、愚かな妻を望んだりはしないものだ。それに名門の男が、素性もよくわからない娘を好きになるとも思えない。慎重な男のほとんどは、彼女の出生の秘密があきらかになったさいに生じるかもしれない迷惑や、不名誉を怖れるだろう。ロバート・マーティンと結婚させてあげなさい。そうすれば彼女は安全だし、尊敬もされ、生涯幸せに暮らせるのだ。だがもし君が、家柄が良くて財産のある男にしか満足するな、と教えれば、彼女は生涯ゴダード夫人の特別寄宿生で終るか、または少なくともやけをおこして、年老いた手習い教師の息子にでも喜んで飛びつくまでは、あそこにいることになる。ハリエット・スミスのような娘は、どちらにしろ結婚するだろうからね」
「そのてんについてはこんなに意見が違うのですから、これ以上話しても無駄ですわ、ナイトリーさん。お互い腹がたつだけです。でも、彼女をロバート・マーティンと結婚させようとしてもそれは無理よ。彼女は断ったのですから――わたしが察するに、それも二度と申し込みができないほどきっぱりとね。申し込みを断ったことで起こる不都合も、それがなんであれ、引き受けるつもりにちがいありませんわ。それから断ったこと自体については、わたしの影響がまったくなかったとは言いませんけど、わたしにしろだれにしろ、その必要などほとんどなかったでしょう。彼は、あの外見がわざわいしているし、礼儀作法も知らなくて、彼女がたとえわずかでも好意をもったことがあったにしろ、もういまはそんなことはありません。思うに、彼女がもし彼以上の男性に会ったりしなければ、彼でもいいと感じたでしょうね。お友だちのお兄様だし、彼女を喜ばせようと一生懸命でしたから。なにしろ、アビー・ミル農場にいたときは、彼より優れたひとにあったことがなかったわけで――彼にとっては都合のいいことに――、不釣り合いなひとだなどとは思わなかったのでしょ。でも、いまは違います。彼女もいまは紳士とはどんなひとを指すのかがわかっています。そしてハリエットのお相手は、教育の点から見ても態度の点から見ても、紳士しかいません」
「そんな馬鹿な。それほど馬鹿げたたわごとは、聞いたこともない!」ナイトリー氏は大声をあげた。「ロバート・マーティンにはどこへ出しても恥ずかしくないだけの良識も、誠実さも、善良さも具わっている。それに彼の心根のやさしさは、ハリエットになどとうてい理解できないほどのものだ」
エマはなにも答えず、わざと明るく気楽な様子をしていたが、実際には居心地が悪くて、早く彼に帰ってもらいたくてたまらなかった。決して自分のしたことを後悔しているわけでもなく、あいかわらず女性の権利や向上などについては自分の判断のほうが正しいとは信じていたが、一般的に彼の判断を敬う癖がついていて、その彼にこのように声高に反対され、怒ったまま自分の目の前に座っていられるのがとてもいやだったのだ。そのような気まずい状態が数分続き、エマのほうから口にしたのは天気のことだけだったが、彼は返事もしなかった。彼は考えていた。やっと、その考えが言葉になってあらわれた。
「ロバート・マーティンは、たいして損はしていない。まあ考えかた次第だが、すぐにも彼がそう考えるよう願うよ。ハリエットにたいする君の見解は、君自身がいちばんよくわかっているはずだ。だが、ひとを結び付けるのが大好きだと言っている君のことだから、きっとなにかその件で考えや、計画や、もくろみがあると見るのが正しいのだろう。そして友人として陰ながら言っておくと、もし、その相手がエルトンなら無駄な努力だよ」
エマは笑って否定したが、彼は続けた。
「保証するよ、エルトンはむりだ。彼はいい男だしハイベリーの立派な牧師だが、どうみても軽率な結婚などする柄じゃない。じゅうぶんに収入があるということの価値をだれにも劣らず知っているよ。たとえ感傷的なものの言い方はしても、行動は理知的だ。君がハリエットの価値を知っていると同様に、彼も彼自身の価値をよく知っている。自分がかなりのハンサムで、どこへいってもちやほやされることをじゅうぶんに承知しているし、気のおけない男たちだけのときの話しぶりからして、決して自分を安売りするつもりなどないのはたしかだからね。実際彼が興奮して、彼の姉妹たちがつきあっているなかに、二万ポンドの財産を持っている大きな家の娘たちがいる、と言うのを聞いたことがある」
「まあ、ご親切にありがとうございます」エマはまた笑いながら言った。「もし、わたしがハリエットをエルトンさんにと思っているのなら、その話はわたしの目を開かせたことになるでしょうけど、でも、いまのところ望んでいるのは、ハリエットをわたしのものにしておくということだけ。もう、縁結びはじゅうぶん。≪ランドルズ≫でした以上のことはとても望めそうにありませんから。それで気分を良くしているうちは、やめておきますわ」
「では、さようなら」彼はそう言うと立ち上がって、やにわに出ていってしまった。彼は非常に悩んでいた。彼はあの若者の失望を思いやり、自分がなまじ勧めたことで彼を落胆に追いやったことを後悔していた。それにどうやらエマがこの件で演じたらしい役割を思うと、腹がたってならなかった。
エマもまた悩んでいた。だが彼女の場合は、ナイトリー氏ほどはっきりした理由はなかった。彼女はかならずしもいつも自分に満足しているわけでもなく、ナイトリー氏のように自分の意見は正しく、相手は違うという確信ももてなかった。ナイトリー氏は完全に自分が正しいと信じて帰っていったが、エマはそうではなかった。それでも打ちのめされたというほどでもなかったので、しばらくしてハリエットが戻ってくるとすぐに元気になった。ハリエットがあまり帰ってこないので、心配しはじめていたところだった。あの若者がゴダード夫人のもとを訪れ、ハリエットに会って、直接頼み込んだのではないかと思うと気が気ではなかった。そして結局は、何もかもが失敗に終わってしまったのではないかという怖れが不安の原因だったので、ハリエットが元気に戻ってきて、これといった遅れた言い訳もしなかったことで、エマはほっとして落ち着きを取り戻した。そしてナイトリーさんがなにを考え、なにを言おうとも、自分は女の友情や、感情を傷つけるようなことはひとつとしてしていないと確信した。
エルトン氏のことでは、ナイトリー氏はたしかにエマを驚かせた。だが、ナイトリーさんは、エルトンさんへの興味の程度からいっても、こういった事柄に関してわたしがもっている能力の点からも、(ナイトリーさんの言葉を聞けば、彼はいかにも分かっているようなふりをしているが)、わたしほどエルトンさんのことをよく観察しているわけではないのだ。だからあれは怒りにまかせて言っただけに違いない、わかっているというより、むしろ、怒りからそうであって欲しいと思って言っただけに相違ないと信じられた。たしかに彼は、エルトンさんがわたしに話すよりもずっと気がねなく話すのを聞いたかもしれないし、エルトンさんもそれほどお金に関して軽率でも無関心でもないのかもしれない。じっさい、彼はわたしたちより金銭問題には敏感かもしれない。そうだとしても、ナイトリーさんはほかのどんな興味も退けるほどの力をもつ、情熱というものを考えにいれていない。そんな情熱をエルトンさんのなかに見たこともなく、むろんその影響力についてもは考えたこともないのだ。でもわたしのほうはさんざん目にしているので、情熱というものが理性的な慎重さからくる躊躇を押しのけたとしても、少しもおかしいとは思わない。それにエルトンさんが慎重だとしても、それは当然すぎるほど当然ではないか。
ハリエットの嬉しそうな顔つきや態度がエマをほっとさせた。彼女はマーティン氏のことを思って帰ってきたのではなく、エルトン氏のことを話すために戻ってきた。彼女はナッシ先生に聞いたことを、嬉しそうに話してくれた。ペリーさんが病気の子供を診察するためにゴダード夫人のところにきてナッシ先生に会い、話したのだという。ペリーさんは昨日、クレイトン・パークから戻る途中エルトン氏に出会い、驚いたことに彼がこれからロンドンに行くところだということを知った。しかもその日はいままで彼がいちども欠席したことのない「ホイストの会」の晩だったのにもかかわらず、明日までは戻らないと言ったという。ペリーさんがそのことを指摘して、いちばん上手な彼が参加しないなんてひどいではないか、一日ロンドン行きを延ばしてはどうかと言って懸命に説得してみたが駄目だった。エルトン氏の決意は固く、どんなことがあっても延期などできない用事で行くので、と、いかにも思わせぶりに言ったという。なんでも、だれもがうらやむようなことで、非常に貴重なものをたずさえていくとか。ペリーさんにはかいもくなんのことかわからなかったが、きっとご婦人に関係があるのだろうと確信したのでそうたずねると、エルトンさんはいかにも嬉しそうに笑って、大急ぎで馬に乗って行ってしまったとのことだ。ナッシ先生は、これをすべてハリエットに話し、ほかにもエルトン氏についてたくさんのことを言った。先生はとても真剣な顔をしてハリエットを見て言った。「あの方の用事がなにかわかっているなどとは言わないけど、エルトンさんに好意を寄せられる女性はこの世でいちばん幸運だと思うべきなのはわかるわ。だって、エルトンさんほどハンサムで素敵な方にふさわしい女性などいないってことはたしかなんですもの」
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第九章
エマはナイトリー氏とは喧嘩できても、自分自身とは喧嘩できなかった。彼はとても腹をたてていたので、次に≪ハートフィールド≫を訪ねてくるまでにはいつもより長い間があった。そしてふたりが顔を合わせたときも、彼の不機嫌そうな顔をみれば、まだエマを許してないことがわかった。エマは残念だったが後悔はしていなかった。それどころか二、三日というもの、彼女の計画とその進行がますます正しい方向に向かっているようで喜んでいた。
画は優雅に額におさめられ、エルトン氏が戻るとすぐにエマに手渡され、居間の暖炉の上に掛けられた。彼は腰をあげてはその画をながめ、とうぜんながらため息交じりに賞賛するのだった。いっぽうハリエットのほうは、彼女の若さと性質が許す限り彼にたいする好意を強く、しかも強固なものにしていった。すぐにエマは、彼女がマーティン氏のことをエルトン氏と比べるときしか思い出さず、それもエルトン氏が絶対に有利なのを知ってすっかり満足した。
たくさんの有益な読書と読んだ本について話をすることで、友の知性を向上させようというエマの計画は、最初の二、三章から先には決して進まず、いつも明日することとして先に延ばされていた。勉強などよりおしゃべりのほうがずっと楽しかったし、まじめな問題に取り組んでハリエットの理解力を育むよりは、彼女の幸運に想像の翼をはばたかせるほうがよほど気分がよかった。そしていまのところハリエットの文学的な、夜の時間を楽しむためになされている知的な学びといえば、あらゆる謎なぞを集め、それを友人が作ってくれた飾り文字や武器の模様のついた光沢のある紙に書き写すことだった。
文学の盛んなこの時代には、そのような大がかりな蒐集は珍しくなかった。ゴダード夫人の学校の教頭であるナッシ先生は少なくとも三百もの謎なぞを書き写していて、ハリエットももとはといえば彼女からヒントを得たのだが、ミス・ウッドハウスの助けを借りて、もっとたくさん集めることができた。エマは彼女自身が作ったものや、記憶にあるもの、それに好みなどの点でハリエットを手伝い、ハリエットの字がとても美しかったので、形式といいアレンジといい、一級のものになりそうだった。
ウッドハウス氏も娘たちに劣らないほどの興味を示し、書き写すに値するようなものを思い出そうと懸命だった。だが、いつも「キティー、美しくも心冷たい娘」だけで終った。
彼は友人のペリーさんにも話して、いまのところなにも思い出せないと言われると、できるだけ気をつけていてくれるようにとたのんだ。彼はあちこちを診察してまわるので、その方面からなにか得られるだろうと期待したのだ。
娘の望みは決してハイベリーじゅうのいわゆるインテリと言われるひとをことごとく集めることではなかった。彼女が欲しかったのはエルトン氏の助けだけだった。彼は、彼が覚えているうまい謎なぞ、|謎解き詩《シャレード》、洒落などを教えてくれるように頼まれた。そして彼がとても真剣に思い出そうとしているのを見るのは、嬉しいことだった。それに気をつけて聞いていると、彼は女性にたいして失礼だったり、賞賛の言葉が含まれていないようなものを口にしないよう、とても気をつけていることがわかる。彼は上品な二つ三つの謎で貢献してくれたが、有名な謎解き詩、
最初は悩みを意味し、
ふたつめは感じるよう運命づけられ、
全体は最高の解毒剤で、
悩みをやわらげ、いやすもの
を思い出して、むしろ感傷的に読み上げたときは、かわいそうになってしまった。それはもう、数ページ前に書き写されていたのだ。
「わたしたちのために、ご自分で作ってはいかがですか、エルトンさん?」彼女は言った。「そのほうが新鮮ですし、あなたならとても簡単に作れるはずですわ」
「とんでもない! いままでこういったものはほとんど書いたことがありません。わたしはなんという愚か者でしょう! たとえミス・ウッドハウスからも」――彼はちょっと間をおいた――「またはミス・スミスさえ、霊感を与えられないとは」
だが彼は次の日、彼にも霊感があることを証明した。≪ハートフィールド≫にちょっと立ち寄ってこう言ったのだ――謎解き詩をテーブルの上において帰るだけのためにきました。これは友だちが、思いを寄せる女性にささげたものですが――と。だがエマは彼の態度を見てすぐ、それが彼自身のものだと確信した。
「これはミス・スミスの蒐集のためではありません」彼は言った。「友だちのものなので公にする権利はわたしにはありませんが、ただもしかしたらあなたがたがこれを見たいとおもわれるのではないかと」
彼の言葉はハリエットというより、どちらかというとエマにむかって言われたのだが、エマにはその気持ちはよくわかった。彼はあまりにハリエットを意識していて、友だちの目を見て話すほうが楽だったのだろう。彼はあっという間に、姿を消してしまった――しばらく間をおいたあと、エマは言った。
「さあ、これ」エマは笑いながら、その紙きれをハリエットに押し付けた。「あなたによ。あなたのものなのよ」
だがハリエットは震えていて触れることもできなかった。そこでエマが――なんでも最初になることを嫌がったりはしなかったので――読んでみることになった。
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ミス――へ。
最初の言葉はこの世の王や王侯たちの華麗さ!
そしてその富と安楽
二番目の言葉は、人間の別のはなやかさ
見よ、あの海の君主を!
ああ、しかしこれらふたつが結び合わされると、なんという逆転!
男の誇りも自由も、ことごとく消え去り
この世の地上の王も海の王も、奴隷としてひざまずき
王国を治めるのは女性、美しい女性、
あなたの素早い機転が、すぐにも答えの言葉を見つけ
そのやさしい瞳に、承諾の光りが輝きますように!
[#ここで字下げ終わり]
エマはじっとその謎なぞを見つめ、考えこみ、内容を理解し、確かめるためにもう一度読み返し、どの行の意味も解いてハリエットに渡すと、彼女がきょとんとして、期待しながらも意味がわからず混乱している間、にこにこしながら座って胸のなかでつぶやいていた。
「なかなかやるわね、エルトンさん。本当にお見事。これよりひどい謎なぞはいくらでも見たことがあるわ。求愛《コート・シップ》ね。とてもいいほのめかしだわ。あなたの能力を認めましょう。これがあなたの気持ちなのね。とても率直に、言い表されているわ。『お願いです、ミス・スミス、あなたに宛てて、これを出すことをお許しください。そしてわたしの謎と願いを認めてください』
そのやさしい瞳に、承諾の光りが輝きますように!
いかにもハリエットにふさわしいわ。やさしい瞳というのが、彼女にぴったり。これほどうまい形容詞はないわね。
あなたの素早い機転が、すぐにも答えの言葉を見つけ
へえ――ハリエットの素早い機転とはね! まあ、いいわ。彼女をこんなふうに言い表すなんてよほど夢中なのね。ああ! ナイトリーさん、あなたもこれを知ってくれたら。これであなたも納得するはずよ。生涯で初めて、あなたは自分のまちがいを認めることになるの。本当に良く出来た謎なぞ! とてもふさわしいものだし。いまや、この件のクライマックスも間近に迫っているわ」
もし、邪魔が入らなければ、延々とこの楽しい夢想にふけっていられたのだろうが、首をひねるハリエットが、熱心に質問してくるので途中で打ち切らなければならなかった。
「ねえ。答えはなんでしょうか、ミス・ウッドハウス? わたしには、ぜんぜんわかりませんわ。推測さえつかないんです。どんな答えが考えられるかしら? お願いです、探してください、ミス・ウッドハウス。助けてくださいな。これほど難しいのは見たこともありません。王国が答えでしょうか? エルトンさんのお友だちってだれかしら? それにこの女性、美しい女性ってだれなのかしら? いい出来だと思います? 答えは『女性』かしら?
王国を治めるのは女性、美しい女性、
それとも、ネプチューン?
見よ、あの海の君主を!
それとも、ネプチューンの持つ三叉ほこかしら? 人魚? 鮫? いえ、違うわね! 鮫は一音節ですもの。きっと、とても気がきいている謎に違いないわ。そうでもなければ、わざわざ持っていらっしゃらなかったでしょうから。ミス・ウッドハウス、答えは見つかるのでしょうか?」
「人魚に鮫! なにを馬鹿なことを! 愛するハリエット、いったいなにを考えているの? 友だちが作った、人魚だの鮫だのの謎なぞを持ってくる必要がどこにあるの? その紙をよこして聞きなさい。
ミス――へ、はね、ミス・スミスと解くの
最初の言葉はこの世の王や王侯たちの華麗さ!
そしてその富と安楽
これは宮廷《コート》
二番目の言葉は、人間の別のはなやかさ
見よ、あの海の君主を!
これは船《シップ》――簡単でしょ――さあ、これからがいいところよ
ああしかし、二つが結び合わされたときのなんという逆転!
男の誇りも自由も、ことごとく消え去り
この世の地上の王も海の王も、奴隷としてひざまずき
王国を治めるのは女性、美しい女性、
なんて上手なほめ言葉でしょう! それから下はお願いの言葉だけど、これはねハリエット、あなたにも簡単にわかると思うわ。だから、自分で大事に読むのね。この謎があなたに宛てて、あなただけのために書かれたのはまちがいないわ」
ハリエットはそんな嬉しい説明に、長くは反対していることなどできなかった。結びの二行を読み、すっかりうきうきして幸せそうだった。口をきくことさえできず、またそうしたいとも思わなかった。感じるだけでじゅうぶんだったのだ。エマが彼女のかわりに言った。
「この賛辞にはとてもはっきりした、特別の意味が含まれていて」彼女は言った。「エルトンさんの意図するところには疑いをはさむ余地もないわ。お相手はあなたよ。そしてすぐにもそのことが完全に証明されるでしょうね。きっとそうだと思っていたの。わたしの目をごまかすことなんてできないって。そしていま、そのときいらいのわたしの気持ちと同じくらい、彼の気持ちもはっきりと決まったの。そうよハリエット、わたしがずっとそうなるように望んでいたことがいま現実になったの。あなたとエルトンさんとの間の愛情が、本当にいいものなのか、あるいはとてもあたりまえのことなのかわからなかったこともあってね。実現するのかしらと思ったり、いいえ、これほどぴったりした組み合わせはないわ、という気持ちが半々で! わたしはとても嬉しいわ。心からおめでとうを言うわ、ハリエット。これは、それほどまでに愛されることを誇りに思っていいくらいの愛情だわ。それに、いいこと以外はなにも起こらない結びつきよ。だから、あなたは望んでいるものがすべて手に入るの。思いやり、経済的な独立、良い家庭、そしてお友だちにかこまれることも。≪ハートフィールド≫やわたしの近くにいて、わたしたち一生仲良くしていられるわ。この縁組みはどちらにとっても、恥ずかしいと思うことなどないんですもの」
「ああ、ミス・ウッドハウス、ミス・ウッドハウス」ハリエットが言えたのはそれだけで、あとはただやさしい抱擁だけが交わされた。だが、そのあとやっと会話らしきものができるようになったとき、エマは彼女の友だちのエルトン氏を見る目、感じ方、期待、覚えていることなどがまさに望んでいた通りであるのに気づいた。エルトン氏のすばらしさは、ぜんぶわかっているようだ。
「あなたがおっしゃることは、いつでも正しいですわ」ハリエットは叫んだ。「だからきっとまちがいないと思って、信じ、そして望みます。そうでなければ想像すら出来ませんもの。あまりにももったいなさすぎます。エルトンさんならだれとだって結婚できますわ! それはもうだれもが知っていることです。とっても素晴らしい方ですもの。このやさしい詩を見ただけでもわかります。『ミス――』。ああ、なんて賢い方かしら! でもほんとうにわたしに宛てたものかしら?」
「それについては疑いがないのですから、そんな質問はきく耳もちません。まちがいないわ、わたしを信じなさい。それはほんの序幕で章の見出しみたいなもの。本当の散文はこれからよ」
「でもこんなことって、だれが予期できたでしょうか。たしかに一ヵ月前には、わたし自身でさえ思ってもみなかったことですもの。なんて、不思議なことが起きるのでしょう!」
「あなたやエルトンさんのようなひとが出会えば、そういうことだって起きるの。たしかに本当に不思議よ。これほどあきらかで望ましいことが、――周りのひとが何くれとお膳立てしなくてはならないようなことが――いとも素早く、形をとるなんてね。きっとエルトンさんとあなたの置かれた立場が、お互いを引き寄せたのね。両者のお家のすべての事情があなたたちを結びつけたんだわ。あなたたちの結婚は≪ランドルズ≫のご夫婦にも匹敵してよ。きっとこの≪ハートフィールド≫には、愛を正しい方角に導き、流れるべき水路に送り込むなにかが漂っているのよ。
本当の愛の進路は、決してなめらかなものではない《シェークスピア》
ハートフィールド版のシェークスピアには、この行に長い註釈がつくでしょうね」
「あのエルトン様がよりによってわたしに恋をするなんて。ミカエルマスのときには、顔も知らず、話しかけることさえなかったわたしに!それにあれほどハンサムで、ナイトリー様のようにだれからも敬われていらっしゃる方だっていうのに! だれもがご一緒したがって、毎週招待の数が受けられる日を上回るとか。教会でもそれはそれはご立派で! ナッシ先生など、あの方が≪ハートフィールド≫にいらして説教に使った聖句を残らず書き写しているほどです。まあ、どうしましょう! 初めてあの方を見たときのことを思うと! なんて考えなしのことを! アボット姉妹とわたしはあの方が通るときいて、表に面した部屋に飛んでいって、そこの鎧戸の隙間から覗いたんです。そこへナッシ先生がきてわたしたちを叱って追い払ったのですが、自分は残って見ていたんです。もっともすぐにわたしたちを呼び返して、覗かせてくれました。なんて素敵な方だろうって、わたしたちみんな思いました! ミスター・コールと腕を組んでいらしたんですよ」
「あなたの親戚がだれでどんなひとであっても、良識さえあればこの結婚はきっと喜ぶと思うわ。愚かなひとたちなら、どちらにしろ話すこともないわけだし。もしみなさんの望みがあなたの幸せな結婚だというなら、ここにその幸福を保証できる立派な男性がいることになるわ。そして彼らが最初にあなたに与えた地方や社会にとどまってもらいたいというのが望みなら、それもまたかなえられるわね。そしていわゆる良い結婚をしてもらうのが願いなら、財産や、尊敬される家庭、それに出世という意味でも、おおいに満足するはずよ」
「ええ、ほんとうにそのとおりです。なんて素敵なことを言われるのでしょう。あなたのお話を聞くのは、わたし大好きです。だってなにもかもわかっていらっしゃるから。あなたもエルトンさんも同じくらい頭が良くて。この謎なぞときたら! たとえ一年かかったってわたしにはなにもわからなかったと思いますわ」
「昨日彼が、できないと言ったときの様子からして、きっとがんばってやってみるつもりなんだってわかったわ」
「正直に言って、これほどよくできた謎なぞはないと思います」
「まあ、目的を達するという意味ではそうでしょうね」
「それに、長さも普通のものより倍もあるし」
「謎で長いのは決してほめられたことではないわ。でも普通こういったことは、短くは言えないから」
ハリエットは謎解き詩に夢中でエマの話など聞いていなかった。頭のなかであるものと比べてみて、嬉しくてたまらなかったのだ。
「言ってみれば」彼女は頬を染めてすぐに言った。「普通のひとと同じような常識を持っていて、言いたいことがあればすぐに机に向かって必要最小限のことを書くのと、このように詩を書くのとではぜんぜん違うことですわ」
エマは、ミスター・マーティンの手紙がそれほど見事にけなされるのを聞いて満足だった。
「なんてすてきな言葉なのかしら!」ハリエットは続けた。「この最後の二行! でも、わたしにはこの詩をお返ししたり、意味がわかりましたなんてどうしても言えませんわ。ああ、ミス・ウッドハウス、どうしたらいいのでしょう?」
「わたしにまかせておいて。あなたはなにもしなくてもいいの。実を言うとエルトンさんは今晩ここに来るので、わたしからお返ししてとりとめのないことを言っておくわ。あなたは黙っていればいいのよ。そのもの柔らかな目がすべてを語ってくれるから。わたしを信じて」
「ああ、ミス・ウッドハウス。この美しい謎をわたしのノートに書き込めないなんて、なんて残念なんでしょう! どれも、この半分ほどしか良くできていないのに」
「最後の二行さえ抜かせば、あとは書き写していけない理由はないわ」
「そうですか! でも、この最後の二行こそ――」
「いちばん、素晴らしい? たしかにそうね。でもそれはあなたひとりの喜びのために、そっと胸にしまっておきなさい。最後がなくても謎としては悪くないわ。それでも立派な二連行詩だし、意味も変らないわ。そうすれば特別な意味は消えて、どんな蒐集本にもふさわしい出来のいい謎だけが残ることになるでしょ。彼の情熱もそうだけど、彼にしてみればこの謎も軽く見られたくはないはずよ。恋をする詩人には、どちらも大切なことなの。そうでなければ、両方ともないほうがいいと思うでしょうね。さあ、帳面をかして。わたしが書いてあげるわ。そうすればあなたが叱られることもないでしょ」
ハリエットは言われた通りにしたが、心ではどうしても詩をふたつに離すことができず、それだけに友だちが書き写しているのが、愛の告白だとは感じられなかった。これはどんな形であれ、公開するにはあまりに大事な贈り物のように思えたのだ。
「わたし、このノートを一時も離しません」彼女は言った。
「そうでしょうね」エマは答えた。「とてもあたりまえの感情だわ。その感情をできるだけ長く持ち続けてくれると嬉しいわ。あら、お父様がいらしたわ。お父様にこの謎を読んであげてもいいわね? きっと、大喜びなさるわ! こういうことが大好きだし、とくに女性に捧げられる賛辞がお好きなの。お父様はわたしたち女性にそれはそれはやさしい気持ちを持っているのよ! だから、いいわね」
ハリエットは暗い顔つきをした。
「まあハリエット、この謎のことをあまり思いつめてはだめよ。もし意識しすぎたり、頭を回しすぎたり、この手紙に必要以上の意味を与えたりすれば、あなたの気持ちをすっかり見ぬかれてしまうのよ。たとえ必要以上の意味を与えなくてもそうなるわ。こんな些細なほめ言葉に感激していては駄目。彼だってもし秘密にしておきたかったら、その手紙をわたしがいる場所で渡すはずがないわ。でも手紙はあなたにというより、わたしに押し付けられたのよ。この問題はそれほど真剣に考えないことにしましょう。謎解き詩などに顔を輝かさなくても、彼はことを進めるのにじゅうぶんな手応えを受け取っているわ」
「ええ、もちろんです! あまり馬鹿なまねはしないことにしますわ。どうぞお好きになさってください」
すぐにウッドハウス氏が入ってきて、「さて、蒐集帳のほうはどうなっているかね、なにか新しいのが見つかったかい?」と何度もきいたので、またその話が出た。
「ええ、お父様。新しいのがありますからお読みします。今朝、このテーブルの上に紙が置いてあって、もしかしたら、妖精が落したのかもしれませんね。なかにとてもかわいい謎なぞがあったもので、いま写したばかりですの」
エマは、いつも父親が望む読み方で、ゆっくりと、はっきりと、しかも二、三回繰り返して読み、行ごとに説明も加えた。彼はとても喜んでエマが予想したように、最後の女性への賛辞にとても心を動かされた。
「ああ、本当にそのとおりだ。実に上手に言い表されているね。『女性、美しい女性』。なんてかわいい謎なぞなんだろう。わたしにもどんな妖精が落としていったのかわかるよ。お前以外に、だれがそんなにかわいく書けるものかね、エマ」
エマは笑ってうなずいただけだった。彼はしばらく考えこんでから、とてもやさしいため息をつきながら付け加えた。
「そうだ、お前がだれに似たのかを言うのは、簡単なことだ! おまえの愛すべき母親はこういうことがとても上手でね! ああ、あれのことをもっと覚えているといいのだが。なにも思い出せないのだよ。お前に話したあの謎なぞでさえな。数連あるうちで、思い出せるのは最初の連だけだ。
キティー、美しくも心冷たい娘
いまだに嘆きやまぬ火をともし
求めるのは目隠ししたキューピットの助け
たとえ、彼の接近におののきながらも
かつての求愛をさまたげたのも、ほかならぬ彼なのだから
わたしが覚えているのはここだけだ。だが、初めから終わりまでとてもよくできていたよ。それにエマや。これはもう書き写したとか言っていたようだが」
「ええ、お父様。それは二頁目に書きました。『優雅な言葉集』から写したんです。ギャリックの作でしたわね」
「そう、そのとおりだ。もっと、思い出せるといいのだが
キティー、美しくも心冷たい娘
この名を聞くたびに、イザベラのことを思い出してね。あの娘《こ》は、もう少しでお祖母様の名をとって|キャサリン《キティー》と名づけられるところだったものでね。来週にはここに来てくれるといいのだが。あの娘の泊まる部屋と、子供たちの部屋はもう決めたかね、エマ?」
「もちろんですわ! お姉様はとうぜんいつものご自分のお部屋。子供たちには子供部屋と決まっているのはご存じでしょ。変える必要などありますか?」
「わたしにはわからない、エマ。それでも、あの娘がこの前ここへ来たのはずいぶん前のことだった! イースター以来で、それもほんの数日だけだ。ジョン・ナイトリー氏が法律家だというのも困ったものだ。イザベラもかわいそうに! みんなからすっかり引き離されてしまって! おまけに、今度はここでミス・テイラーにも会えないのでは、ずいぶんがっかりすることだろう!」
「少なくとも特に驚いたりはしないはずですわ、お父様」
「さあ、どうかな。わたしはミス・テイラーが結婚すると聞いたときは、大変驚いたよ」
「イザベラがここにいる間に、ウエストン夫妻をお招きしましょう」
「そうだね、エマ。もし、時間が許せば。しかしたったの一週間しかいないのだよ(ひどく悲しそうな調子で)。それじゃあ、なにもできやしない」
「もっといられないのは残念ですけど、しかたがないことですわ。ジョン・ナイトリーさんは二十八日までにはロンドンへ帰らなくてはならないのですから。それでも二、三日アビーへ行くかわりに、ずっとここにいてくれるのですから感謝しなくてはね、お父様。ナイトリーさんが、今年のクリスマスは権利を放棄すると言ってくれましたから。お姉様たちが、ここよりずっと長いこと、あちらにご無沙汰しているのはご存じでしょ」
「かわいそうなイザベラが、≪ハートフィールド≫以外のところに行かなくてならなかったら、とても辛いだろうね、エマ」
ウッドハウス氏は義兄のナイトリー氏にも、イザベラに来てもらう権利があることを決して認めようとはしなかった。というよりも、自分以外のだれの権利も認めようとはしなかったのだ。彼はしばらくじっと座っていたが、やがて言った。
「それにしてもジョン・ナイトリー氏はともかくなぜイザベラが、そうすぐに帰らなくてはならないかわからないよ。エマ、もっと長く滞在するように説得してみようと思うのだが。あれと子供たちだけ残っても、さしつかえはないはずだ」
「まあ、お父様! そんなことをしてもうまく行ったためしもなければ、これからも無理ですわ。夫だけ先に発たせて自分は残るなんてイザベラには耐えられないことですもの」
それがあまりにも当を得ていて反対すらできず、ウッドハウス氏はしかたなくただため息をつくほかなかった。娘が夫を愛していることで気を落としている父親を見て、エマはすぐに彼が喜びそうなことに話を持っていった。
「お姉さま夫婦がここにいる間は、ハリエットもできるだけ一緒にいてもらわなくてはなりませんわね。きっと、子どもたちをみて大喜びするでしょう。本当にかわいい子たちですもの、そうでしょ、お父様? ハリエットは、ヘンリーとジョンではどちらがハンサムだと思うかしら?」
「さあ、どっちだろうね。あのかわいいおちびさんたちも、ここへ来るのをとても楽しみにしているだろう。ハリエット、あの子たちは≪ハートフィールド≫が大好きなんだよ」
「もちろん、そうでしょうね。ここが大好きでないひとなど、おりませんわ」
「ヘンリーはいい子だが、ジョンは母親似でね。ヘンリーは長男だが、父親ではなく、わたしの名を継いだのだよ。それには驚いたひともいたようだ。長男には父親の名をつけるべきだってね。でも、イザベラがつけたがって、あれは本当にかわいい娘ですよ。それにヘンリーはとても利口でね。みんなそろいもそろってお利口で、かわいいよ。わたしの部屋に入ってきて、椅子のそばに立つと、『お祖父《じい》様、紐を少しいただけますか?』なんて言うんだ。あるときなどヘンリーがナイフをねだったので『これは、お祖父ちゃんだけのために作ったものだよ』って、教えたんだ。わたしに言わせれば、あれたちの父親はときどき、とても荒っぽく子供たちを扱うように思えるのだが」
「お父さまには、そう見えるのでしょうね」エマは言った。「だって、お父様はとてもやさしいから。でも、ほかの父親に比べれば、あの方にはぜんぜん荒っぽいところなどありませんわ。子供たちには活発にして、いつもそばにいて欲しいのです。悪いことをしたときなど、ときどき厳しい言葉で叱りはしますが、とても愛情の深い父親です。子供たちは、父親が大好きですわ」
「そこへまたあの子たちの伯父がやってきては、子供たちを恐ろしいほど高く天井に放り上げるんだから!」
「でもお父様、子供たちはそれが大好きなんですよ。あれほど好きなことはないといって良いくらいです。気にいりすぎて伯父様が、順番に、という規則を作らなかったら、最初の子がいつまでもほかの子と代わろうとはしないくらいです」
「どうも、わたしには納得がいかないね」
「そういうものなんじゃありません、お父様。世の中の半分のひとは、残りの半分のひとの喜びがわからないんです」
その日の午前中も遅く、エマとハリエットが手分けして、いつもの四時の晩餐の準備をしようとしているところに、例の謎解き詩の主人公が再びやってきた。ハリエットは顔をそむけたが、エマはいつもの笑顔で彼を迎えることができた。そして彼女の鋭い目は彼のなかに、もうひと押ししようとする――サイコロは投げられ、その結果がどう出たか見ようとする気持ちを読み取った。ただし、彼の訪問の正式の理由は、その夜のウッドハウス氏のパーティーに彼が出席しなくてもいいものか、それともほんのわずかでも≪ハートフィールド≫で必要とされているかどうか、きくことにあった。そして必要とされているなら、万難を拝して伺うが、そうでないなら友だちのコール氏にたびたび招待されていて、それもわかるので、できたら行くと約束したという。
エマは彼に感謝し、わたしたちのために友人を失望させるのはよくないし、父もきっとわかってくれると思う、と言った。彼が再び同じ質問を繰り返し、エマはまた断った。そして彼が軽く礼をして帰ろうと見えたとき、テーブルの上から例の紙きれを取上げ、それを返した。
「あら! これはあなたがご親切にわたしたちのところに置いていってくださったものですわ。見せていただいて、ありがとうございました。とても素晴らしいものだったので、ミス・スミスの蒐集帳に写させていただきました。お友だちが、気を悪くなさらないといいのですが。むろん、最初の八行以降は、写しませんでしたけど」
エルトン氏は、あきらかにどう答えていいかわからないようだった。彼はむしろ面食らって、というより混乱して、名誉がどうのこうのというようなことをつぶやきながら、エマとハリエットをちらりと見て、次にテーブルの上の帳面を取上げ、注意深く調べた。このなんとなく気まずい雰囲気をやわらげるために、エマはにっこりして言った。
「そのお友だちに謝っておいてくださいね。でも、そんなに素晴らしい謎解き詩をひとり、ふたりの間にだけ埋もれさせてはいけませんわ。こんなにもおやさしい言葉を生み出せる方ですもの、きっとすべての女性の心をとらえることができるに違いありません」
「ためらいなく言えることは」彼はかなりためらいながら答えた。「ためらいなく言えることは――もし、ぼくの友人がぼくと同じ様に感じているとすれば――、いまこのように、(彼はまた帳面を見て、それをテーブルの上に戻した)わずかながらの感情の露出に、これほどの名誉をいただいたことを、人生におけるもっとも誇りある瞬間と言うことができましょう」
これだけ言うと彼は急いで帰っていった。それでも、速すぎたとは言えなかった。なぜなら、彼の多くの長所にもかかわらず、その言い方があまりに芝居がかった言葉の連続だったので、エマは吹き出しそうになるのをじっと堪えていたからだ。やさしく、崇高な喜びはハリエットにまかせて、エマは大笑いするために、あわててその場から駆け去った。
[#改ページ]
第十章
十二月の半ばとはいえ、気候は若い娘たちのいつもの軽い運動を止めさせるほどには悪くなっていなかった。エマは翌日、ハイベリーから少し離れたところに住む、病人のいる貧しい家族を慈善の目的で訪ねた。
家族の住む一軒家は、牧師館小道《ヴィカレージ・レーン》の先にあって、まっすぐではないが広い道路から直角に延びている小道には、その名前からもわかるように、エルトン氏の祝福された家があった。二、三軒のみすぼらしい家のそばを通り、小道を四分の一マイルほど行くと、そこに牧師館がそびえていた。古いだけであまり良い建物とはいえず、道路ぎりぎりに建てられている。場所もあまり良いとは言えなかったが、それでもいまの住人によって、ずいぶん住みやすそうにはなっていた。というわけでふたりの友人は歩調をゆるめ、じっくりとその家を観察しながらそこを通り過ぎずにはいられなかった。エマが言った。
「ほら、あそこ。もうすぐあなたと、あなたの蒐集帳の行くところ」それにたいしてハリエットは、こう言った。
「まあ! なんて素敵なお家かしら! 本当にきれい! ああ、あれがナッシ先生がすごくほめていた黄色いカーテンなのね」
「いまのところ、わたしはこの近くにはあまり来ないけど」エマが歩きながら言った。「でも、そのときになればわたしを惹きつけるものがあるわけだから、ハイベリーのこのあたりの生け垣や、門や、池や刈り込みなども、少しづつ見慣れたものになるのでしょうね」
ハリエットは、どうやら牧師館というものに足を踏みいれたことがないらしく、中に入ってみたくてたまらないようだった。エマには、その外観からいって中も推して知るべしとは思っていたが、エルトンさんがハリエットを素早い機転の持ち主と見たように、ハリエットの思いもまたすべて愛情の証なのだろう。
「なにかいい方法でもあれば、いいんだけど」エマは言った。「でも、中に入れてもらうだけの口実は思いつかないわ。家政婦さんに、知りあいの召し使いの近況でもたずねられるといいんだけど、そんな召し使いはいないし、お父様からのことづてもないわ」
エマは懸命に考えたが、いい案は思い浮かばなかった。しばらく沈黙が流れ、ハリエットがまた言った――。
「わたしとても不思議に思うんですけど、ミス・ウッドハウス、なぜあなたは婚約も、結婚もなさろうとはしないのですか! そんなに魅力的なのに!」
エマは笑いながら答えた。
「わたしが魅力的でも、それだけで結婚するわけにはいかないわ、ハリエット。肝心なのはほかのひとを魅力的だと思うことよ。少なくとも、自分以外のひとをね。それにわたしは、いま結婚するつもりがないどころか、これからだってするつもりなどぜんぜんないわ」
「あら! そうは言われますけど、わたしには信じられませんわ」
「結婚したいと思うには、だれか、いままでにないほど素晴らしいひとに会わなくてはならないわ。もちろんこのさい、エルトンさんは(ふと、気づいて)抜かして。でも、そんなひとには会いたいと思わないの。できたら、結婚したいなんて思いたくないわ。だって、いま以上によくなるなんて思えないんですもの。もし、結婚したらきっと後悔するわ」
「まあ! 女性の口からそんなことを聞くなんてとても変な気がしますわ!」
「だってわたしには、普通、女性が結婚したいと思うような理由がなにひとつないんですもの。まあ、だれかを愛したとしたら、話は別よ! でもいままでいちどもそんなことなかったし、わたしの生き方や、性格とも合わないようね。それに愛したわけでもないのに結婚して、いまの生活を変えるとしたら、わたしはよほどの馬鹿だわ。財産もいらないし、仕事もいらない、それに地位だっていらないわ。たとえ結婚してもどれくらいのひとが、いまのわたしの≪ハートフィールド≫での女主人としての力と同じだけの力を持てるものかしら? それに父が愛してくれるように、わたしを愛してくれる男性なんて決しているはずないわ。心から愛されて、大切にされて、いつもわたしがいちばんで、いつも正しいのはわたしだって思ってくれるひとなんて」
「でも、だとしたら最後には老嬢になってしまいますわ、ミス・ベイツみたいに!」
「それはまたなんてひどい想像だこと、ハリエット。わたしがミス・ベイツみたいになるだなんて! あれほど愚かで――あれほど自己満足して――いつも笑って――話は長いし――あんなに平凡で、退屈で――それにだれにでも、周囲のどんなことでも話したがるようになるくらいなら、わたしは明日にでも結婚するわ。でも、わたしとミス・ベイツの間には似たところなどひとつもないはずよ、独身ということ以外はね」
「それでも、やはり老嬢にはなってしまいますわ! なんて恐ろしい!」
「いいのよ、ハリエット。わたしは、決して貧しい年よりなんかにはならないから。世間が独身女性を軽蔑するのは、ただ貧しいからよ! ほんのわずかな収入しかないような、結婚していない女性はたしかに馬鹿らしいし、不愉快な老嬢でしょうね! 子供たちにからかわれてもしかたないわ。でも、お金のある独身女性はいつも敬われるし、だれに劣らず良識もあって、気分もいいものよ。それに、ほかのひととは違うってことも、世間は最初思うよりはずっと、やさしく、良識を持って受け入れてくれるものよ。収入がぎりぎりだということが、ひとの心を狭くして、意地悪にするの。やっとのことで暮らしていて、小さくて下らない社会で生きているひとたちなら、下品で怒りっぽいってこともあるでしょうね。でも、これはミス・ベイツにはあてはまらないわ。ただ、わたしにとって彼女はあんまりひとが良すぎるし、考えがなさすぎるというだけ。それでも彼女は結婚もしていなくて貧しいけれど、たいがいのひとに好かれているわ。貧しさも彼女には気にならないようだし。もし、全財産がたったの一シリングだとしても、あのひとならそのうちの六ペンスはひとに恵んでしまうだろうって、信じられるわ。それにあのひとをこわがるひとなんてだれもいないし。そこが素晴らしいわ」
「ああ! でもなにをなさるの? もし、年を取ったらどうやって時間をつぶされるのかしら?」
「わたしは、自分をよく知っているの、ハリエット。とても活動的だし、なにやかやと考えるのにも忙しくて、そのうえお金にはまったくこまらないわ。それに、四十や五十になったからといって、なぜ、二十一歳のときのようにはいろいろしたくなくなる、なんて思うのかしら? そのころになってもいまと変らないだけの、女性の目や手や心を必要とする女性特有の仕事があるでしょうし、変ったとしてもほんのわずかなものよ。もし画を描く機会が少なくなれば、もっと本を読むでしょうし、音楽をあきらめれば、タペストリーでも織り始めるわ。それに、愛情を注いだり、興味を持ったりする対象というてんでも――結婚しないというのはたしかにおおきなマイナスでとても良くないから、そういう状況になるのは避けるべきなんだけど――、幸いなことにわたしは姉の子供たちを愛したり、世話をしたりすることができるので幸せだわ。たぶんわたしが年取るまでには、あらゆる種類の感情を満足させるに足りるだけの子供ができていることだろうし。きっとそれはそれはいろいろな希望や不安があるでしょうね。愛情においてはとても親にかなわないけど、気楽な生活をするものにとっては、熱くなったり、盲目になったりするよりはそのほうが都合がいいわ。甥や姪たち! わたしはできるだけ姪と一緒にいたいわ」
「ミス・ベイツの姪ごさんはご存じですか? もちろんその、数えきれないほどお会いにはなっているでしょうが、親しくしていらっしゃいますか?」
「ええ、そうよ! 彼女がハイベリーに来るたびに、いやでもつきあうほかないんですもの。ところで、姪に関してのうぬぼれは持つべきではないと教えられるのには、そのことでじゅうぶんだわね。とんでもない! 少なくともわたしはミス・ベイツの半分も、ナイトリー家の子供たちのことばかり話して、みんなをうんざりさせるべきじゃないわ。ミス・ベイツがジェーン・フェアファクスのことを話すみたいにはね! ジェーン・フェアファクスという名前を聞いただけでうんざりするわ。彼女から手紙が来るたびに、まちがいなく四十回以上は読んで聞かされるし、彼女の友だちをひとり残らずほめちぎっては、それがあちこちぐるぐる回ってまた戻ってくるありさまよ。伯母さんに胸衣の型紙を送ってきたとか、お祖母《ばあ》さんに靴下止めを編んだとかいうことになると、ひと月以上はそのこと以外の話はいっさい出ないわ。ジェーン・フェアファクスの幸せは祈るけど、でも、彼女は死ぬほど退屈よ」
いまや目的の家が近くなってきて、ふたりのとりとめのない話はやんだ。エマはとても情け深かった。そして困難に陥った貧しいひとたちは、彼女の心からの同情と、親切と、助言と忍耐から助けを受けるわけだが、いちばんあてにしているのはなんといっても彼女の財布だった。エマは彼らのやりかたを良く知っていて、その無知なことや、誘惑に陥りがちなことを許し、彼女の素晴らしい徳を理解してもらおうというロマンティックな期待ももっていなかった。なにしろ、ほとんど教育を受けていないひとたちなのだから。とにかく、困っているときはすぐにも助けようという気持ちから、彼らの中に入っていき、善意と同じくらいの知性を働かせて、援助を与えた。今回彼女が訪ねた理由は、貧困と同時に病気だった。出来るだけ長くいてあげて慰めや助言を与えたあと、エマは歩きながらもハリエットに自分の印象を話さずにはいられなかった。
「ああいう光景を見るのはいいことよ、ハリエット。だって、ほかのことすべてがとてもくだらなく思えるんですもの! いまは、今日一日中あのかわいそうなひとたちのことしか考えられないような気がするの。でもそれだって、あっというまに消えてしまわないとはだれにも言えないんだわ」
「本当にそうですね」ハリエットは言った。「かわいそうなひとたち! ほかにはなにも考えられないわ」
「本当に、あの印象はすぐには消えないわね」エマはそう言って、生け垣やぐらぐらする階段を下りて、その家の庭の狭くてすべりやすい歩道を通り、もとの小道に戻った。「消えるとは思えないんだけど」。立ち止まって、その家のひどい外観をもう一度ながめ、それよりもっとひどい内部のことを思った。
「ええ! 決して消えませんわ」連れが言った。
ふたりは歩き続けた。小道がすこし曲がっていて、そこを過ぎるとたちまちエルトン氏の姿が目に入ってきた。彼との距離がほとんどなかったので、エマはこう言うのがやっとだった。
「ねえ、ハリエット。いまの善良な気持ちがどれくらい続くか、突然ためされることになったようよ。そうね(笑いながら)、もし苦しむひとたちにたいする助けと、救いたいと思う気持ちが温かい心から出たものなら、それは本当に大切なことだからこそなされたといっていいと思うの。そしてかわいそうなひとに、できるだけのことをしたならば、それ以上の同情はたいした意味をなさないだけでなく、気を重くするだけになるわ」
紳士がふたりに合流する前に、ハリエットにはかろうじて返事をする間があった。「ええ、ええ! その通りですわ」
しかし、出会うなり最初に話題に上ったのは、あの貧しい家族の困難な状態のことだった。彼も家族を訪ねるところだったのだ。それはあとまわしにすることにはなったものの、三人は彼らのためになにをすべきか、これからどうするかなどと話し合った。エルトン氏はそれから向きを変えて、彼女たちと一緒に歩き始めた。
「こんな機会にふたりが出会うなんて」エマは思った。「慈善の行いの途中で会うなんて、きっと、ふたりの間の愛はますます膨れ上がったでしょうね。正式に結婚の申し込みをしたって、不思議ではないくらいだわ。もし、わたしさえいなければそうなっていたに違いないわ。ああ、わたしはここにいるべきではなかったのよ」
できるだけ急いでその場を離れたくて、エマはすぐに小道の脇の少し高くなっている歩道に上がって、ふたりだけを小道に残した。だが、彼女がそこを二分と歩かないうちに、エマに頼り、エマのすることならなんでもまねするという癖のあるハリエットもまた上がってくるのが見えた。このままでいけば、すぐにふたりともエマの後を追うことになる。それはまずい。エマはすぐに立ち止まって、ショートブーツの紐を結びなおす振りをして、歩道いっぱいにかがみこむと、すぐ追いつくから先に行ってくれとたのんだ。ふたりはエマの望んだ通り先に歩きだした。そして靴の紐を結ぶのにはじゅうぶんだと思われるだけの時間が経ったとき、あの貧しい家の子供が追いついてきたので、もっと時間を遅らせる理由ができて嬉しかった。子供はエマに言いつけられたとおり、器を持って≪ハートフィールド≫にスープをもらいに行くところだった。子供と連れ立って歩き、いろいろとたずねたりすることは、実に自然なことで、もしそれがある目的のためになされたのでなければ、もっと自然なことだったろう。このためふたりはエマを待つこともなく、先を歩きつづけられる。しかしエマはこころならずもふたりに追いつくことになってしまった。子供の足は速く、ふたりはゆっくり歩いていたからだ。あきらかに話に夢中になっているようなので、エマにはなおさら残念に思えた。エルトン氏がいかにも熱心に話していて、ハリエットがうれしそうに耳をかたむけている。子供を先に行かせるとエマは、どうしたらもう少し追いつくのを遅らせることができるかと考え始めたが、ふたりが振り向いたので、合流しないわけにはいかなかった。
エルトン氏はあいかわらず話に夢中で、それもかなり詳しく話しているようだった。だが、がっかりしたことに近づいて聞いてみると、それは昨日彼の友だちのコール氏の家でのパーティーのことで、ちょうどスティルトン・チーズ、北ウィルシャーのハム、バター、セロリ、赤かぶ、それにすべてのデザートの話をしているところだった。
「もちろん、もう少しすれば肝心な話に移ったはずだわ」エマは自分を慰めた。「恋人たちにとっては、どんな話だって楽しいし、どんな話題でもすぐに本心を告白するきっかけになるものよ。ああ、もうちょっとふたりだけにしておいてあげることさえできれば!」
三人は静かに歩きつづけ、やがて牧師館の柵が見えてきたとき、エマはふいにせめてハリエットを中にいれてあげようと決心した。彼女はふたたびかがみこんで、またブーツの紐の具合を直すふりをして後に残った。そして、靴の紐をちぎってわからないように溝に投げると、ふたりに待ってくれるよう声をかけ、どうやらこの靴紐の状態では、家まで歩いて帰れそうもないと言った。
「紐が半分、ちぎれてしまったんです」彼女は言った。「どうしたらいいかわからないわ。ごめんなさい、おふたりにすっかり迷惑をかけてしまって。いつもはこれほど不注意な支度はしないんですけど。エルトンさん、本当に申し訳ないのですが、お宅に寄せていただいて家政婦さんからリボンとか、紐とか、とにかく靴がはけるようにできるものをいただけると嬉しいのですけど」
エルトン氏はこの申し出に大喜びのようだった。彼は熱心に素早くふたりを家に招じいれ、なにもかも良く見せようと必死だった。彼女たちが案内された部屋は、普段彼が使っている部屋で道路に面していた。その奥には、別の部屋が続いていて仕切りのドアは少し開いており、エマはそこで家政婦から親切な助けを受けた。エマがドアを閉めるわけにはいかなかったが、彼女はてっきりエルトン氏が閉めるものだと思っていた。だがドアはあいかわらず開いたままで、閉められる様子もない。それでもエマは家政婦をたえず会話に引き込んで、彼が隣室で心のうちを打ち明けられるようにした。十分間というもの、エマの声以外はなにも聞こえなかった。もうこれ以上は引き延ばせない。そろそろ終えて、姿をあらわさなければならないだろう。
恋人たちは、窓のそばに寄り添って立っていた。もっとも理想的な姿だ。三十秒ほど、エマは計画が成功したことに有頂天だった。だが、そうはうまくいかず、彼はまだ肝心な点には触れていなかった。彼はとても親切で愛想もよく、ハリエットにふたりが通りかかったのを見て追いかけたのだなどと言い、ほかにもいろいろやさしいことを言ったが、どれもたいした話ではなかった。
「慎重ね、とても慎重だわ」エマは思った。「絶対に大丈夫という確信がもてるまで、少しずつ進むつもりなんだわ」
エマは彼女の天才的な策略をもってしても、すべてが実現したわけではないが、それでもふたりにとってこれほど素晴らしい時はなかったはずだし、きっとその先のもっと大きなゴールに近づくことになったはずだと、自分をほめずにはいられなかった。
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第十一章
あとはエルトン氏にまかせるしかない。彼の幸せを監督したり、その行動を早める力はエマにはないのだ。待ちに待っていた姉の家族が現実にもうすぐやってくるので、エマの心はいまのところそのことで占められていた。それに姉たちが滞在する十日間というものは、恋人たちにしてあげられることといったら、折りに触れて、偶然におきる出来事ぐらいだろうし、実際、それくらいしかできることはなかった。だが、もしふたりにその気があれば、ことは意外に早く進むかもしれないし、たとえなくても、なんとか進んでいくものだ。エマはもう彼らに時間を使おうとは思っていなかった。世間にはこちらが助ければ助けるだけ、自分たちではなにもしなくなるひとたちがいるものなのだ。
ジョン・ナイトリー氏とその妻は、いつもより長いことサリーにご無沙汰だったので、その訪問はいままで以上の興奮を巻き起こしていた。夫妻は結婚以来、すべての長い休暇を≪ドンウェル・アビー≫か≪ハートフィールド≫で過ごしていたのだが、この秋は子供たちのために海辺に出かけて、サリーの親戚、というよりウッドハウス氏と会わずにいる期間が、いままでより長かった。そしてウッドハウス氏は、たとえかわいそうなイザベラのためにでも、自分では決してロンドンまでは出向かなかったので、いまはこの短い訪問に先立ってそわそわしたり、いろいろと嬉しい心配をしたりしていた。
彼はイザベラにとっての旅の辛さを思ったり、途中で一行のうちの何人かを乗せてくるはずの、彼の馬や御者の疲労までいろいろ心配した。しかし、そんな心配はいっさい要らなかった。ナイトリー夫妻は十六マイルを楽しく旅して、五人の子供たちや大勢の養育係たちとともに≪ハートフィールド≫に無事到着した。そのような到着には喜びに満ちた喧騒がつきものだ。あちこちで言葉が交わされ、挨拶やら、歓迎やら、部屋の割り当てやら、普通ならウッドハウス氏がとてもたえられないほどの大騒ぎになって、じっさいそれ以上続いたら、このような機会とはいえとても我慢できなかったことだろう。それでも≪ハートフィールド≫や父親を知りつくしているジョン・ナイトリー夫人は、たちまちはしゃぎだして、自由気ままに行動したり、甘えたり、食べたり飲んだり、眠ったり遊んだりしはじめる子供を目の当たりにする母親の喜びを我慢して、子供にも養育係にも、長くはその状態を続けさせなかった。
ジョン・ナイトリー夫人は美しく、優雅な小柄の女性だった。物腰も静かでおだやかだし、信じられないほどやさしくて愛情にあふれ、ひたすら家族のことを思い、夫に献身し、良き母親で、父親や妹をこよなく愛していた。その愛し方は、もし家族という彼女にとってはより優位の絆がなかったら、ほとんど絶対的と言っても言いすぎではなかった。彼女にすれば、父親にも妹にもなにひとつ欠点などありはしなかった。彼女には人並みすぐれた理解力だとか、鋭い知性などはない。父親似で、体質もまた父譲りだった。あまり健康とはいえず、子供のことにも神経質すぎるところがあって、なにやかやと心配し、悩み、父親がペリー氏をあてにしているのと同じように、ロンドンのかかりつけのウィングフィールド医師に絶対的な信頼を置いていた。どんなひとにもわけへだてなく親切で、昔からの知人を大切にするという点でも、父親とそっくりだった。
ジョン・ナイトリー氏のほうは背が高く、いかにも紳士らしく、頭も良かった。仕事では成功の途上にあって、家庭的で、仲間うちでは尊敬もされていた。ただ無口で、ときとして不機嫌にもなることもできたので、一般には煙たがられていた。決して気が短いとか、わけもなく怒りだすような理不尽なところがあるわけではなかったが、どこをとっても欠点がないという性格でもなかった。それに実際、それほど献身的な妻をもてば、生まれつきの欠点が治るみこみもきわめて少ない。妻のあまりにやさしい性格が、いい影響を与えているとはいえないのだ。彼には妻には欠けている明晰さと、頭の回転の速さがあって、ときには彼女への恩を忘れたような行動をし、厳しいことを言ったりする。彼は義妹の大のお気に入りというわけではなかった。エマの目をごまかすことなどできはしない。当の姉は気がついていないが、エマは彼がイザベラを少々馬鹿にしているのを知っていた。彼が義妹にもう少しお世辞でも言えば、それも見逃してもらえたのかもしれないが、彼の態度は冷静で親切な義兄であると同時に、友だちというだけで、ほめることも、盲目的になることもなかった。だが、たとえいくらお世辞を言われても、エマが彼の最大の欠点と思うものに、目をつぶることにはならなかったろう。というのもときとして、ウッドハウス氏を敬うゆえに氏を我慢する、というまねができなかった。必要とされるだけの忍耐力をいつも持ち合わせているとは限らなかった。ウッドハウス氏の変った性格や、大人げのなさを、彼もまた同じ大人げなさで知的にやりこめたり、きつい言葉を発したりする。それでも姑をいたわる気持ちはあり、彼にどう接したらいいかはわかっていたので、そうしょっちゅうというわけではなかったが、父親を愛するエマには、それだけでも多すぎるほどだった。なぜなら、実際には失礼なことにはならなくても、そうなるのではないかと心を痛めることがたびたびあったからだ。だが、どんな訪問でもはじめのうちはなにかと気をつかうものだし、今回はいろいろな事情で短期間なので、きっとまじり気のない友好的な雰囲気で終るだろうと期待できた。みんながそれぞれに腰掛け、くつろいだとき、ウッドハウス氏はすぐに悲しそうに頭を振り、ため息をつきながら、娘がこの前≪ハートフィールド≫に来たときから、変化した事柄に注意をひきつけた。
「ああ! イザベラ」彼は言った。「ミス・テイラーも気の毒に。なんとも悲しいことが起きてね!」
「ええ、そうですわね!」娘は心から同情して言った。「彼女がいなくて、どんなにおさびしいでしょ! それに、エマも! ふたりにとってはなんという痛手かしら! 心から同情するわ。彼女なしで暮らすなんて、想像もできないほどだわ。とても、悲しい変化ね。でも、彼女はお元気なんでしょう」
「元気だよ、イザベラ――きっと――とても元気ですよ。あの場所がまあまあ合っているのかどうかは、わからないが」
ここでジョン・ナイトリー氏はエマにそっと、≪ランドルズ≫になにかまずいことでもあるのかとたずねた。
「とんでもない! そんなことはまったくありません。あれほど幸せそうなウエストン夫人は見たこともありませんわ。それはそれはお元気よ。お父様はただ、ご自分の後悔の気持ちを口にしているだけですわ」
「おふたりにとって、とても名誉なことです」彼はなかなか気のきいた言葉を言った。
「それでよく、お会いにはなるんでしょ?」イザベラは父にあわせて、悲しそうな声できいた。
ウッドハウス氏はちょっと躊躇した。「わたしが会いたいほど、そうよくではないがね」
「まあ、お父様ったら! おふたりが結婚してから、会わなかったのはたったの一日だけでしょ。それ以外毎日、朝か夕に、ご夫妻のどちらか、あるいは両方ともに、≪ランドルズ≫かここで会っているではありませんか。それにイザベラ、あなたも知っていると思うけど、たいてはこちらにいらしてくれるの。それはそれは気をつかって、訪ねてきてくれるわ。親切さではウエストンさんも、夫人にひけをとりませんから。お父様、そんなふうに悲しそうに言ったら、イザベラが誤解しますよ。むろん、ミス・テイラーがいなくて淋しいことはだれでも知っていますけど、夫妻はわたしたちが思っていた通り、わたしたちが淋しくないようにあらゆることをしてくれているわ。これが、本当のことよ」
「まさしく、そうあるべきです」ジョン・ナイトリー氏が言った。「あなたからの手紙を読んで、きっとそうだと思っていました。夫人があなたを愛しているのはまちがいありませんし、ウエストン氏が時間をたっぷりもった社交的なひとだということが、ことをやさしくしているのです。だからぼくがずっと言ってきただろう、イザベラ、この変化が≪ハートフィールド≫にとってそれほど大変なことだなんて、どうしても信じられないって。こうしていまエマの口からそれを聞いた以上、もう、納得しただろうね」
「ええ、たしかに」ウッドハウス氏は言った。「たしかに、そうです。もちろんわたしだってウエストン夫妻がよく会いに来てくれることは否定しません。だが、彼女はいつでも帰らなければならないのです」
「もし、帰らなければウエストンさんが大変なのよ、お父様。ウエストンさんのことを、忘れてはいけないわ、お父様」
「じっさいぼくも」ジョン・ナイトリー氏が嬉しそうに言った。「ウエストン氏にも少しは、権利があると思いますよ。ぼくと君は、エマ、かわいそうな夫の身になって応援してあげようではないですか。ぼく自身夫だし、一方あなたは妻という立場にはいないので、男性の権利には同じような意見がもてるはずです。イザベラなどは、結婚生活が長いので、きっとウエストン氏の権利を出来るだけ少なく考えたほうが都合がいいでしょうからね」
「わたしが?」言葉の端だけ聞いて、妻が叫んだ。「わたしのことを、言っているの、あなた? わたしほど結婚を賛美している人間など、どこをさがしてもいませんことよ。≪ハートフィールド≫を出るという悲しいことがなかったら、ミス・テイラーをこの世でいちばん幸せな女性と思ったはずですわ。それにあの素晴らしいウエストン氏を軽く見るなんてことがあるものですか。素晴らしいひとです。実際、あの方ほど穏やかな男性には会ったこともないわ。あなたとあなたのお父様を除けば、あんなに性格のよいひとはほかにいませんよ。去年のイースターの、あのとても風の強い日に、ヘンリーのために凧をあげてくださったことなど生涯忘れません。それに去年の九月の夜中の十二時に手紙を書いて、コバムには猩紅熱《しょうこうねつ》が出てないと教えてくださったときから、あれほど心やさしいひとはいないと確信しています。もし、あれほどのひとにふさわしい女性がいるとしたら、ミス・テイラーをおいてほかにはいませんわ」
「息子さんはどこにいるんだい?」ジョン・ナイトリー氏がきいた。「結婚式には出席したのかな――それともしなかった?」
「あの方は、まだハイベリーには顔をみせていません」エマが答えた。「結婚後、すぐにも訪ねてくるのではないかと期待されていたのですが、結局来ませんでしたし、最近ではほとんど名前すら耳にしません」
「でも、あの手紙のことを話してあげるべきだよ、エマ」父親が言った。「彼は、かわいそうなウエストン夫人にお祝いの手紙を書いてきたのだが、それは礼儀正しい、立派なものだったよ。夫人がわたしに見せてくれたのだ。彼はなかなかよくやったと思うよ。まあ、それが自分で考えたことかどうかはわからないが。彼はまだ若い青年だし、たぶん、彼の伯父が――」
「まあ、お父様ったら、彼はもう二十三なんですよ。時が経ったのを、お忘れなのね」
「二十三! 本当かい? 思ってもみなかったよ。かわいそうにあの子が母親を亡くしたときは、二歳だったよ! 時の流れはなんと早いのだろう! おまけに記憶力は悪くなるし。まあ、とにかく良く書けた、見事な手紙で、ウエストン夫人をたいへん喜ばせたよ。たしかあれはウェイマスから九月の二十八日に出したもので――『親愛なる夫人』で始まって、そのあとは忘れたが『F・C・ウエストン・チャーチル』と署名がしてあった。それだけはとてもよく覚えているよ」
「なんて礼儀正しい、いい方なんでしょう!」心のやさしいジョン・ナイトリー夫人は叫んだ。「きっと、とても気持ちのいい青年に違いありませんわ。でも、父親と一緒に住まないのは、なんて悲しいことかしら! 子供が両親のもとや、生まれた場所から離されるなんてなんだかとてもショックで! ウエストンさんが、どうして子供と別れられたのかわからないわ。自分の子供を手放すなんて! だいたい、だれにたいしてであろうと、そのひとの子供をもらいたいだなんて。そんな人間は、決してほめられたものじゃないわ」
「どうやら、チャーチル家はだれにもよくは思われていないようだ」ジョン・ナイトリー氏が冷静に言った。「だがウエストン氏が、お前がヘンリーやジョンを手放すときと同じように感じたとは思えない。氏はどちらかというと、物事を気にしない明るい性格で、情緒に流されるような男ではない。すべてをあるがままに見、そのなかにどうにかして楽しみを見つける。彼にとっての楽しみは家庭というより社交で、食べたり飲んだり、週のうち五日は近所のひととホイストするといったことなのだろう」エマはナイトリー氏の言葉の端に含まれるウエストン氏への非難が嫌で、よほど反論しようと思ったが、じっと我慢した。できるだけ平和を保たなくては。それに義兄の家庭的で、家庭に満足しているという考え方のなかには、名誉や高い評価に値するようななにかがある。彼はその考えに照らしあわせて社交界や、社交に熱心な人を批判しているのだ。だとしたら、我慢するだけのことはあるのではないか。
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第十二章
ナイトリー氏が正餐を共にすることになっていた。これはイザベラとの最初の日をだれにも邪魔されたくないと思っているウッドハウス氏には、あまり嬉しいとは言えないことだった。だが、エマの良識がそれを決めさせた。兄弟にたいしての当然の礼儀ということもあったが、最近の彼女自身の、ナイトリー氏とのぎくしゃくした関係からもこの正式の招待には嬉しいものがあった。
エマは、彼とまた友だちになりたいと願っていた。そろそろ仲直りの時が来ているとも思っていた。だが実際、仲直りなどできないのかもしれない。エマはたしかにまちがっていないのだし、彼だって決して自分がまちがっていることを認めないだろう。むろん、譲歩などするつもりはない。それでも、喧嘩をしたこと自体を忘れるときが来ているように思える。
彼が部屋に入ってきたとき、エマは子どものひとりを抱いていた。八ヵ月になるいちばん下の姪だが、≪ハートフィールド≫には初めてのお目見えで、叔母の腕のなかであやされて幸せそうだった。この光景はたしかに助けになった。初めの頃こそ彼は気難しい顔をして、言葉数も少なかったが、すぐにいつも通りになってみんなと話し始め、まったく自然な仕草でエマの腕のなかの赤ん坊を自分で抱き上げたりした。また、友だちに戻れたのだわ、エマは思った。そう確信して初めはただ嬉しくてたまらなかったが、やがて赤ちゃんをほめている彼に少し生意気に言わずにはいられなかった。
「姪や甥については、同じような感じ方をするというのはなんという慰めかしら。こと男と女になると、とても違っているというのに。でも、この子たちに関してはわたしたちいつも同じ意見でいられるわね」
「君がこの子たちに接するように、男や女についてもっと自然のまま受け入れ、その関係に空想や気まぐれを持ち込まずにいるなら、ぼくたちはいつだって似たような考え方ができるよ」
「きっと――わたしたちの意見が合わないときは、わたしのほうが悪いのでしょうね」
「そうだね」彼は笑いながら言った。「それだけの理由もある。君が生れたときぼくは十六歳だった」
「そのときは、たしかに大きな違いだったでしょうね」エマは答えた。「どんなときでも、いままではずっとあなたが正しかったのも、あたりまえですわ。でも、この二十一年という月日で、わたしたちの考え方はずっと近づいたんじゃありません?」
「そう――ずっと、|近くなった《ヽヽヽヽヽ》」
「それでも、考え方が違うとき、わたしのほうが正しいこともあるとは思いませんのね」
「ぼくには十六年間の経験という有利さがあるからね。それにぼくは美しく、若い娘でもなく、甘やかされた子供でもない。さあ、さあ、エマ、また友だちになって、もうそのことについては言わないことにしよう。おちびのエマちゃん、きみの叔母さんのエマに言ってあげなさい。いつまでも過ぎたことに文句を言ってないで、わたしの良いお手本になってね、って。以前の叔母さんはまちがっていなくても、いまはまちがっているって」
「ほんとうにそうだわ」エマは叫んだ。「まちがいないわ。エマちゃん、あなたは叔母さんなんかよりずっと素敵な女性になるのよ。ずっと賢くて、わたしの半分もうぬぼれないひとにね。ねえ、ナイトリーさん、もう一言か二言。それで終わりにしますから。善意から出ていることなのは、わたしたちどちらも同じです。それにいまのところ、まだわたしがまちがっているという証拠はなにもありません。わたしが知りたいのは、マーティンさんが、それほどひどく気を落しておられなければ、ということです」
「あれほどの、気の落し様はないよ」彼の答えは短く、しかもじゅうぶんだった。
「まあ!――本当にお気の毒に――さあ、握手をしてくださらない」
ふたりが心温まる握手しているところに、弟のジョン・ナイトリー氏が入ってきて、典型的なイギリスの挨拶がかわされた。「かわりはないかな、ジョージ」それにたいして「元気かい、ジョン」――表面はいかにも穏やかで、無関心そうなこの挨拶の下には、なにごとか起き、お互いが必要になったときには、どんなことでもしようという愛情が潜んでいた。
その夜は静かで話だけがはずんだ。イザベラと楽しいおしゃべりがしたくて、ウッドハウス氏がカード遊びを断ったからで、その内輪のパーティーでは、会話は自然にふたつに分かれていった。ひとつは父とイザベラ、もうひとつはナイトリー兄弟で、話の内容は完全に違っていて、めったに混じり合うことはなく、エマはときとしてどちらかの会話に加わるだけだった。
兄弟たちは自分たちの関心事や仕事について話していたが、ほとんどが兄のほうのことで、彼は弟よりずっと話し好きだったし、またいつも話上手でもあった。彼自身、治安判事として常に弟に法律的な質問があったし、少なくとも話して聞かせるだけの価値がある珍しい逸話も持っていた。それにドンウェルの自作農場を所有している農業家としても、話題には事欠かなかった。来年はどの畑でなにをつくるかとか、また、同じ様にそこで生れ、その地を愛している弟が興味を持つだろうと思われる地元の情報などをことごとく話して聞かせた。また弟のほうも、排水溝の計画や柵を新しくすること、大きな木を切り倒すことやら、小麦やかぶ、春のトウモロコシをどこにどう植えるかなどの話に、彼独特の冷静さを保ちながらも熱心に耳を傾け、兄がちょっとでも話し忘れたことがあれば、自分から意気込んで質問を浴びせていた。
彼らが楽しく話している間、ウッドハウス氏は幸せそうに、悲しみと心配だらけの愛情を心ゆくまでイザベラに注いでいた。
「かわいそうな、わたしのイザベラ」彼はそう言って、いとおしそうに娘の手を取っては、五人の子供になにかと忙しいイザベラの邪魔をした。「ずいぶん会えなかったね、この前会って以来、恐ろしく長い時間が経って! きっと旅のあとで、かなり疲れているだろうね! 今日は早く寝なければね。寝る前に少しお粥を食べるといい。そうだ、ふたりで一緒にお粥を食べよう。エマ、みなさんでお粥を食べたらどうだろう」
エマには想像もできないことだった。いくら勧められても、ナイトリー兄弟がそんな代物を食べないことはわかっていたので、ふたり分だけを注文した。なぜみんな毎晩お粥を食べないのだろうなどという話をしたあと、ウッドハウス氏はいかにも残念そうに続けた。
「今年の秋、ここへくる代わりにサウス・エンドで過ごしたのは、とてもまずかったね、イザベラ。海の空気は良くないよ」
「でも、ウィングフィールドさんによればとてもいいそうですわ、お父様。そうでもなければ、わたしたちだって行きませんでした。彼が子供たちに、特に喉が弱いベラには、海はとてもいいって――空気も、水遊びも」
「だがね! ベラに海がいいものかどうかはかなり疑わしいって、ペリーが言っていたよ。それにわたしも、話したかどうかはわからないが、ずっと以前から、海は良くないという確信を持っていてね。一度など、海のおかげで死にそうな目にあったことがあるほどだ」
「さあ、さあ」話の雲行きがおかしくなりそうなのを感じて、エマが叫んだ。「海のことはどうか話さないで。うらやましくなってしまうから。わたしなんて一度も海を見たことがないのよ! サウス・エンドに行くことは禁止されているの。ねえ、イザベラ、あなたはペリーさんのことをきかないけど、あちらではあなたを決して忘れていないわよ」
「ええ! いい方ね、ペリーさんて。お元気なの、お父様?」
「まあ、元気ではあるのだが、それほど元気というわけでもない。気の毒なペリーは胆汁症なんだが、健康に気をつけるひまがなくてね――自分のことをかまっているひまがないと言うんだ。悲しいことだ。だが、このあたりのあちこちで必要とされているものだからね。あれほどの医者はどこにもいないよ。それにしても、あれほど頭のいい人間もいないだろうね」
「ペリー夫人とお子さまはお元気かしら? きっと、大きくなったのでしょうね? ペリーさんのことはとても尊敬していますわ。ここには近々顔を出されるでしょう? きっと、うちの子供たちを見たら、喜んでくださるわ」
「明日にも来ると思うよ。わたしのことで、とても重要な質問があるのでね。それに、イザベラ、いつにしろ来たらベラを診てもらうといい」
「あら! お父様、あの子の喉はずっとよくなっていて、もうほとんど心配などしていませんの。きっと、海での療法が良かったか、それともウィングフィールドさんの素晴らしい塗り薬のせいですわ。八月からときどき、使っていたんです」
「海が良かったなんて、とても考えられないね、イザベラ。塗り薬が欲しかったのなら、話しておいてあげたのに――」
「ねえ、ベイツ夫人と娘さんのことを忘れているんじゃない?」エマが言った。「まだ、一度もたずねていないわよ」
「あら、そうだったわね、やさしいベイツさんたち。わたしったら、自分が恥ずかしいわ。でも、あなたが手紙でいろいろ知らせてくれるから。お元気なんでしょ。やさしいベイツのおば様――明日にでも子供を連れて、うかがってみるわ。子供たちを見ると、いつも大喜びしてくださるの。それにあの素晴らしいミス・ベイツ!――あれほど立派な方たちもいないわ! お父様、おふたりはお元気なんでしょ?」
「それは、元気だよ、まあ、だいたいのところはね。だが、かわいそうなベイツ夫人は一ヵ月ほどまえ、悪い風邪を引いてね」
「まあ、お気の毒に! でもこの秋ほど悪い風邪がはやったことはなかったわ。ウィングフィールドさんが、あれほど蔓延して重いのは初めてだとか。もちろん、インフルエンザのときは別ですけど」
「どうも、そうだったようだね。だが、お前が言うほどでもなかったのだよ。ペリーが言うには、ときとしては十一月のほうがもっと悪いことがあるそうだ。とくに、悪い病気がはやった季節とは、言えないと言っていた」
「そうね、ウィングフィールドさんも、悪い病気がはやったとは言ってなかったわ、ただ――」
「ああ! 気の毒なイザベラ、本当のことを言えばロンドンは一年中悪い病気の季節なんだよ。ロンドンで健康なひとなどいないし、なれるはずもない。お前をあんなところに住まわせなければならないなんて、恐ろしいことだ! あんなに遠くて、空気も悪いし!」
「いいえ、空気なんてぜんぜん悪くありませんわ。わたしたちの住んでいる地域は、ほかよりはずっといいんです! ロンドンはどこも同じだと思わないでくださいな、お父様。≪ブランズウィック・スクエアー≫の付近は、ほかのたいていの場所とは違うんです。うちはとても風通しがいいんですよ! ロンドンのほかの地域だったら、わたし自身が住む気になどなれませんもの。子供たちが安心して住めるところなど、ほかにはありません。でも、わたしたちの家は驚くほど風が通って! ウィングフィールドさんも、空気に関しては≪ブランズウィック・スクエアー≫は最高の場所だって言ってます」
「ああ、イザベラ、だがとても≪ハートフィールド≫のようではないだろう。まあ、出来るだけのことはしているのだろうが、≪ハートフィールド≫に一週間もいれば、生まれ変るよ。ずいぶん違って見えるだろう。いまのお前たちは、ひとりとして元気には見えないからね」
「まあ、それは残念ですわ。でも、わたしはとても元気だと保証しますわ。どこへ行こうとついてまわる、神経からくる頭痛や動悸は別ですけど。子供たちが床につく前に少し顔色が悪かったとしても、旅やここへきた興奮で、いつもよりちょっと疲れただけのことです。明日は、きっと見違えるような顔をお目にかけられますわ。ウィングフィールドさんが、これほど元気なみなさんを見送りするのは初めてだと言ってくれたくらいです。少なくとも、主人が病気だとは思わないでしょう」彼女はそう言いながら、愛情のこもった心配そうな顔を夫に向けた。
「まあまあだね。だが、正直に言わせてもらえば、ジョン・ナイトリー君も決して健康には見えないがね」
「なんですか、お義父さん? わたしになにか言われましたか?」自分の名前を耳にして、ジョン・ナイトリー氏が大声で言った。
「お父様が、あなたは具合がよくないのではと。でも、きっとお疲れになっただけですよね。でもこちらへくる前に、できたらウィングフィールドさんに診てもらっておけばよかったですわね」
「ぼくのイザベラ」彼は急いで叫んだ。「たのむから、ぼくの顔色のことで心配などしないでおくれ。医者だの、病弱だのというのは、きみと子供たちだけでたくさんだ。ぼくの顔はぼくの好きなようにさせておいて欲しいね」
「お兄様と話していらしたことが、全部わかったわけではないのですが」エマがあわてて叫んだ。「聞くところによれば、お友達のミスター・グラハムがスコットランド出身の管理者に土地の管理をさせようと思っていらっしゃるとか。でも、うまくいくでしょうか? 昔からの偏見がかなり残っているのではなくて?」
エマがこんなふうに、長々と話したことが功を奏して、しばらくして父と姉を見ると、イザベラがジェーン・フェアファクスのことをやさしくたずねているところだった。エマは必ずしも彼女が好きではなかったが、このときばかりは喜んで、彼女をほめる側にまわった。
「やさしくて、美しいジェーン・フェアファクス!」イザベラは言った。「ずいぶん長いこと会っていないわ。ときどき、ロンドンでばったり顔を合わせるとき以外はね! 彼女がこちらに訪ねてくれば、あのやさしいおばあ様や、立派な伯母様がとてもお喜びになるでしょうにね! エマから、彼女がハイベリーにはあまり来ないということを聞いて、とても残念に思ってるんです。でもキャンベル大佐も娘さんを嫁がせたあとなので、とても彼女を手放したりはなさらないでしょうね。彼女なら、エマの素晴らしい話し相手になるでしょうに」
ウッドハウス氏も、その意見には全面的に賛成だったが、付け加えた。
「でも、小さなハリエット・スミスも、同じ様にかわいい娘さんだよ。きっと、お前もハリエットが気にいるだろう。あの娘のようにいい友だちは、エマにもなかなか持てるものではないよ」
「それを聞いてとても嬉しいですわ――でも、なんでもでき、それも素晴らしく良くできるひととなると、ジェーン・フェアファクスをおいてほかにはいませんわ! そのうえエマとは年も同じですし」
この話題はとても楽しくはずみ、ほかの話も同じ様になごやかなうちに進められた。だが、終わり近くなってまたひと波乱あった。粥が運ばれてきて、話題はもっぱらそこに移った。だれにとっても粥ほど健康にいいものはない、おいしい粥もつくれない家への攻撃演説などだ。だが運の悪いことに、イザベラが近ごろ味わった失望のうち、いちばん最近の、それだけに忘れられないあることを話した。サウス・エンドに出かけたとき向こうで臨時に雇った料理人の若い娘の話だ。彼女はイザベラの言うおいしい一杯のお粥、すなわち口当たりのいい、薄い、だが決して薄すぎないお粥というものをまったく理解していなかった。たびたびそんなお粥が食べたくなって注文しても、いつもひどい代物しかでてこなかったというのだ。さあ、また話が危うくなってきた。
「ああ!」ウッドハウス氏は頭を振り、いかにも心配そうにやさしい目で娘をじっと見つめた。その叫び声はエマの耳にはこう聞こえた。「ああ! サウス・エンドになど行くからそんなことになるのだ。もう、そのことを口にすることさえ恐ろしい」エマは父親がそれを言葉に出さないで、ちょっと続いた静けさで父が気をとりなおし、お粥を食べることに集中してくれるよう望んだ。しかし、少したって、彼は言いだした。
「お前がこの秋、ここに来ないで海に行ったことをいつも残念に思っていたのだ」
「あら、なぜですの、お父様? 子供たちの健康にはとても良かったんですよ」
「それにもし、どうしても海へ行かなくてはならないとしても、サウス・エンドは駄目だ。あそこは健康に良くない。お前たちがサウス・エンドに行ったときいて、ペリーなど驚いていたよ」
「まあ、そういう考え方をするひともたくさんいるでしょうが、でもお父様、それは違います。わたしたちみんな、あそこでとても健康でしたし、泥道で困るというようなこともありませんでした。それにウィングフィールドさんも、あそこが不健康な場所だなんて言うのは誤解だと言ってました。彼は信頼のおけるひとですし、どんな空気が良いかもよくわかっています。弟さんのご家族などしじゅう行かれるんですよ」
「どこかに行くのなら、クローマにすべきだったね、イザベラ。ペリーが一度行ったことがあって、海辺ではあそこほどいい場所はないと言っていた。海が大きく広がっていて、空気もそれはそれは澄んでいるそうだ。それに聞いたところによると、あそこなら海から遠く離れたところに滞在することができたかもしれない。四分の一マイルほど離れた、とても居ごこちのいい場所だ。ペリーに相談してみるといい」
「でも、お父様、距離が違いますわ。どんなに大変な旅になることか。四十マイルの代わりにたぶん百マイルにはなりますよ」
「ああ、イザベラ! ペリーが言うように、こと健康に関しては、それ以外のことはいっさい考慮にいれるべきではないよ。それにいざ旅行となれば、四十マイルであろうと、百マイルであろうとたいした変りはないはずだ。ペリーがこれと同じことを言っていた。きっと、お前たちの旅がまちがっていたと思ったのだろう」
エマはなんとか止めようとしたが、できなかった。そしてここまでくれば、義兄が口をはさんだとしても、不思議はなかった。
「ペリー氏は」義兄は非常に不愉快そうな声で言った。「こちらがたずねもしないのに、自分の意見を述べるべきではないのです。わたしのすることと彼と、どんな関係があるのですか? わたしが家族をどの海岸に連れていこうと、いいではありませんか。ペリーさんと同様、わたしにはわたしの意見があると思いたいですね。薬にしろ何にしろ、彼の指図など必要としていません」彼は言葉を切って、すこし冷静になると冷たく皮肉をこめて言い足した。「もしペリー氏が百三十マイルの距離を、四十マイルより少ない労力と費用で、妻や子供を連れて行かれる方法を教えてくれるなら、わたしも彼と同じようにサウス・エンドよりはクローマのほうを選ぶでしょうね」
「そうだ、そうだ」兄のナイトリー氏が、待ちきれないように割って入った。「そう、そう、たしかにそのとおりだろうね。ところでジョン、ぼくが言っていたのは、あのランガムへ通じる小道を、牧草地を通り抜けないように右に移動させるつもりだということで、それで問題はないと思うんだ。ただし、ハイベリーのひとたちが不便をするようなら、もちろんやめる。あの道がいまどこを抜けているか覚えているかな。だが、きっと地図を見たほうがたしかだろう。明日の朝、できたら≪アビー≫で会って、地図を見てからお前の意見を言ってくれ」
ウッドハウス氏は、友人のペリーへのそのような攻撃に憤慨していた。実際、氏は無意識にではあるが、彼自身の意見や言葉をペリー氏のものとして話していたのだ。だがふたりの娘たちになだめられて少しずつ不愉快なことは忘れ、一方、弟のほうも兄の機転で気を取り直し、ふたたび同じ話が蒸しかえされることはなかった。
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第十三章
この≪ハートフィールド≫への短い訪問で、ジョン・ナイトリー夫人ほど幸せなひとはいなかった。毎朝、五人の子供を連れてあちこちの旧知の家を訪ねては、夕方になるとその日の行動の一部始終を父や妹に話して聞かせる。彼女とって、日々がそれほど早く過ぎないでくれたらという以外、なんの不満もなかった。これは素晴らしい訪問だった――あまりに短いために、完璧だった。
午前中に比べると、夜はあまり訪問客もなかった。だがひとつだけ、クリスマスではあったが、どうしても断れない正式なディナーの招待があった。ウエストン氏が、なにがなんでも一度は≪ランドルズ≫で食事をしていただきたいといって、断っても聞かなかった。ウッドハウス氏でさえ、二ヶ所に分かれるよりはいいのではないかといって、説得された。
みんなをいっぺんに運ぶのは難しいからと断るにも、現実に、娘とその夫の馬車が≪ハートフィールド≫にある以上、馬車には何人ずつ乗っていくのかということぐらいしかきくことがなかった。全員が乗れるのははっきりしていたし、エマがそこにハリエットを加えてくれるよう説得するのにも、たいした時間はかからなかった。
パーティーに招待されたのは、お気に入りの一団であるハリエット、エルトン氏、それにナイトリー氏だけで、人数といい、早い時間といい、すべてウッドハウス氏の習慣や好みを中心にしたものだった。
この大きな出来事の前の晩(十二月の二十四日に、ウッドハウス氏が外で食事をするなど、大きな出来事以外のなにものでもなかったので)、≪ハートフィールド≫にいたハリエットは、風邪のため気分が悪く、家に戻っていった。彼女が熱心にゴダード夫人に看病してもらうことを望まなければ、エマは彼女を家に帰したりはしなかっただろう。翌日ハリエットを見舞ったエマは、彼女がとても≪ランドルズ≫を訪問できる状態ではないことを知った。熱が高く、喉がとても痛いという。ゴダード夫人が懸命に看病しており、ペリーさんを呼ぼうかという話も出て、ハリエット自身、あれほど楽しみにしていた招待を断るようにという命令に従わざるを得ないほど具合が悪かったのだが、その悔しさは涙なしには語れなかった。
エマはできるだけ長くそばにいて、ゴダード夫人が用事でしかたなく出かけなくてはならない間、かわりに看病し、エルトンさんがこれを知ったらどんなにがっかりするかしら、と言って彼女を元気づけた。そしてハリエットなしでは彼はちっとも楽しめないだろうし、みんなもとても失望すると納得させ、なぐさめてから帰途についた。ゴダード夫人の玄関を出て数ヤードも行かないうちに、こちらに向かってくる当のエルトン氏の姿が目に入って、病人のことを話し合いながら一緒に歩いた。彼はハリエットの具合が悪いという噂を聞いて、≪ハートフィールド≫に報告するために、彼女を見舞うところだったという。そこに≪ドンウェル≫を訪ねていたジョン・ナイトリー氏がふたりの息子を連れて追いついてきた。子供たちは田舎を駆け回ったため健康そうで、生き生きとした顔をして、そこには早く家に帰ってロースト・マトンやライス・プディングを食べるのが待ちきれないと書いてあった。みんなは連れ立って歩きだした。エマは、ちょうどハリエットの病状を話してきかせているところだった。脈が弱いとか、速いとかなどだ。それにゴダード夫人によれば、どうやらハリエットは昔からよく喉を痛め、そのたびに夫人を驚かせていたそうで、かわいそうでしかたがない、とも言った。これにたいしてエルトン氏は、いかにも心配そうに叫んだ。
「喉が痛い! 伝染性でないといいのですが。悪性のものではないでしょうね。ペリーにはもう診せましたか? お友だちの心配もいいですが、あなた自身が気をつけなければ。どうか、危険はおかさないでください。なぜ、ペリーは来ないのですか?」
エマは、自分ではまったく心配していなかったので、ゴダード夫人の経験を積んだ看病に任せておけば心配はない、と言ったのだが、あいかわらず彼は心配そうで、その心配を静めるよりは煽ったほうがいいと思いすぐに言い添えた――まるで、話題をかえたかのように。
「本当に寒いですね。それに雪も降ってきそうだわ。今日のような日は、なにか用事があるとか、パーティーでもないかぎり、わたしなら外出しないでしょうし、父にもそう説得しますわ。でも父はすっかり心を決めていて、寒いとは感じていないようで、そんなことになればウエストン夫妻は本当にがっかりするでしょうから、とめようとは思いませんけど。でもエルトンさん、失礼ですけどあなたにたいしては違います。すでに少し声がかすれていらっしゃって、それに明日は、声も体も酷使なさらなければならない日ですから、今夜は家に留まって大事になさるのが、いちばん賢いと思うのですが」
エルトン氏は、なんと答えていいのか分からない様子だったし、実際、分からなかった。なぜなら、美しい女性にそこまで心配されれば、とても反対はできないし、一方、パーティーを断る気などさらさらなかったからだ。だが、自分の考えに夢中だったエマは、彼の言葉も態度も自分勝手に解釈して、彼が「とても寒いです、ええ、本当に」と認めるのを聞いて、これで彼は≪ランドルズ≫には行かず、代わりに一時間ごとにひとをやってハリエットの容態をきくことができるのだと、心を躍らせながら歩いた。
「それが、いいですわ」エマは言った。「ウエストン夫妻には、わたしたちがかわりに謝っておきます」
だが、エマの言葉が終るか終らないうちに、親切な義兄が、もし問題は天候だけというのなら、わたしの馬車で一緒に行ってはどうかと申しでると、エルトン氏はたちどころに満足そうに承諾した。これでことは決まった。エルトン氏の出席は確定し、このときほど彼がハンサムな顔を輝かせ、嬉しそうに口元を大きくほころばせながらエマを見たことはなかった。
「あら」彼女は心でつぶやいた。「ずいぶん変ね! あれほど上手に言い訳を作ってあげたのに、それでも行こうとするなんて、しかも病気のハリエットを残して! ほんとに、おかしいわ! でもきっと、それなりの理由はあるのでしょうね。若い男性、ことに独身の男性というのは、外で食べることに情熱を燃やすのかもしれないわ。正餐への招待というのは大きな楽しみだし、仕事や、誇りや、義務ともいえるものだから、なにを差し置いても行くのでしょうね。エルトンさんもきっとそうなのだわ。立派な、いいひとで、感じがよくて、ハリエットに恋をしているのはまちがいないけど、それでも、招待されれば決して断れず、外で食事をしなくてはならないんだわ。恋って不思議なものね! ハリエットのことを機知に富んだ、とさえ言うほどのひとが、たとえ彼女のためでも、食事はひとりではしないなんて」
そのあとすぐにエルトン氏は離れていった。別れぎわにハリエットの名を口にしたときの態度で、エマは、彼のハリエットへの思いを分かってあげずにはいられなかった。彼はエマに、正餐の支度をする前にゴダード夫人の家にあなたの美しいお友だちを訪ね、パーティーで再びお目にかかれる喜びをもつとき、いいニュースを届けられるようにしますと、気持ちのこもった声で言った。そしてため息をつき、ひとりにっこり笑いながら去っていく彼に、エマは好感をいだかずにはいられなかった。
しばらく沈黙が続いた後、ジョン・ナイトリー氏が口を切った。
「エルトン氏ほど、どうにかして気に入られようとする男には会ったことがないね。こと女性となると、大変な努力をするものだ。男には理性的で、よそよそしいことはあっても、喜ばせたい女性がいるときは、顔つきがぜんぜん違う」
「もちろん、エルトンさんのマナーは完璧ではありませんわ。でも、相手を喜ばせるためだったら、そういう欠点は見逃すべきだし、現に、だれでもかなり見逃していますわ。たいして力のない男性が最善を尽すほうが、力のあるひとが怠慢であるよりいいとおもいますけど。エルトンさんはとても性格も良くて、善良で、それらがいかに大切かは、だれでも認めるはずです」
「そう」ジョン・ナイトリー氏はやがて、いくぶんからかうような調子で言った。「彼はどうやら、君にかなり好意的なようだが」
「わたしに!」エマは驚いたように微笑んだ。「それはエルトンさんが、わたしに気があるという意味かしら?」
「そんな思いが頭をよぎったのは、否めないよ、エマ。もし、君がそのことを一度も考えたことがないのなら、これからは考えたほうがいい」
「エルトンさんがわたしに恋を! とんでもない!」
「恋とまではいっていない。だが、恋であろうとなかろうと、よく考えて態度を決めるんだね。彼は、君の態度によって、おおいに勇気づけられているようだ。友だちとして言うんだが、エマ。もっと自分の態度に気をつけて、なにをしているか、またなにをするつもりなのか、しっかり把握しておいたほうがいい」
「まあ、それはご親切に。でも、あなたは誤解していますわ。エルトンさんとはいいお友だちですけど、それだけのことです」エマは歩き続けながら、中途半端に事情を知っているひとたちがしばしば犯すまちがいや、自分の判断を信じすぎるひとたちが陥りやすい過ちのことを思って、楽しんでいた。それにしても義兄が、彼女を盲目で無知だと考え、忠告が必要だと考えたと思うと、気分が悪かった。彼は、それ以上はなにも言わなかった。
ますます冷えこんでくるにもかかわらず、ウッドハウス氏はすっかり出かける気になっていて、ためらいさえしなかった。そしてとうとう、時間きっかりに上の娘と馬車で出発し、寒さなどだれよりも気にもかけていそうになかった。自分が出かけるという奇跡や、≪ランドルズ≫に与える喜びを思うと胸がいっぱいで、寒さを感じるには、温かい服にくるまれすぎてもいた。だが、じっさい気温はかなり低く、二台目の馬車が出発する頃には、行く手は雪さえ散らついて、空はどんよりと曇り、これで弱い風でも吹けばすぐに辺りは白銀の世界に変りそうだった。
エマはすぐに、連れのジョン・ナイトリー氏の機嫌が悪いことに気づいた。こんな天気に、支度をして、子供と一緒に過ごす夕食後の時間も犠牲にして出かけるなど、彼にとっては良くないことだし、少なくとも気に入らない、嫌なことだった。この訪問になんの意味も見出せなかった彼は、牧師館につくまでの間、文句の言い通しだった。
「こんな日に」彼は言った。「わざわざ家の温かい火のそばを離れてまで、自分に会いに自宅まで来るように頼むなんて、彼はよほど自分を高く買っているに違いない。ぼくにはぜったいにできないことだし、まったく馬鹿げている。実際、雪さえ降っているというのに! ひとが火のそばでのんびりすることを許さないのも馬鹿げているし、それをしない人間も愚かなものだ! こんな晩に出るのは、たとえ義務や仕事でも辛いことになるはずだ。それなのに我々は、普段より薄着をして、用もないのにわざわざ自然の声に逆らって出かけようという。どこを見ても、なにをとっても、できることなら家にいたほうがいいという声に逆らって。これからの五時間というもの、たいして話もないし、昨日聞いたこと、あるいは明日でも聞けるようなことを聞くために、だれかの家で過ごすわけだ。ひどい天候をついて出かけ、たぶん、もっと悪い状況のなかを戻ってくる。五人の震える怠け者を、家よりもっと寒くてつまらない場所に運ぶために、四頭の馬車と四人の御者まで狩り出されるとは」
エマはその考えに同調する気にはなれなかった。もし、一緒に乗っているのが姉だったらきっと、「そうですわね、あなた」と言ったのだろうが、彼女は黙って返事をしないことに決めた。喧嘩をしたくないので、文句を言うわけにもいかなかったが、エマの英雄的ともいえる態度は、口をきかないことが限界だった。
馬車がついて向きが変えられ、昇降機が下ろされるとすぐに、こぎれいで真っ黒な服に身を包んだエルトン氏がにこにこしながら乗り込んできた。これで話題が変るかと思うとエマは嬉しかった。エルトン氏はしきりに礼をのべながらも、上機嫌だった。じっさい、あまりに機嫌がいいので、きっとハリエットについて、彼女がまだ知らないいい知らせを受け取ったに違いないと思った。エマはさっき着替えの最中にひとをやって様子をきかせたのだが、答えは、あまりよくない、ということだった。
「ゴダード夫人からの報告は」エマはすぐに言った。「思ったより、喜ばしいものではなくて――。『あまり良くない』という返事でした」
彼はすぐに、顔を曇らせた。それに、声もとても心配そうだ。
「ああ! それは困ったことです。悲しいですね。いま、お話ししようとしていたところなんですが、着替えに帰る前にゴダード夫人を訪ねたとき、ミス・スミスは良くなっていない、それどころか悪くなっていると聞きました。とても、ざんねんなことです。今朝、あなたの訪問という素晴らしい出来事があったので、きっと良くなっているに違いないと信じていたのですが」
エマはにっこりして答えた。「心の面では役にたてたかもしれませんが、じっさいには、喉の痛みをとってあげることすら出来ませんでしたわ。ほんとうに、悪い風邪ですこと。お聞きになったでしょうが、ペリーさんが来てました」
「ええ――そうでしょうね――知りませんでしたが」
「ペリーさんは、彼女の症状には慣れているので、きっと明日にはいい知らせが届くことでしょう。それにしてもやはり心配ですわ。今夜彼女がパーティーに出られないなんて、なんて残念なんでしょう」
「ひどい話です! まったく、そのとおりです。彼女がいなくて、ひと晩じゅう淋しいでしょう」
この言葉こそふさわしかったし、それにともなうため息もまた価値があった。だが、そんな状態が、もう少し長く続くべきだった。たった三十秒もしないうちに、彼が別のことを、それもいかにも楽しそうな声で話しだすのを聞いて、エマはがっかりしてしまった。
「これはなんと素晴らしい工夫でしょう」彼は言った。「羊の皮を馬車に使うとは。おかげで馬車がとても快適になって、寒さなどまったく感じなくなりますね。現代の考案によって、紳士用の場所は申し分ないものになりました。どんな天候にも左右されることなく、隙間風などいっさい入る余地がないのですから。実際今日はとても寒いのですが、なかにいるとそんなことはまったくわかりません。ほら、少し雪が降っていますよ」
「そうです」ジョン・ナイトリー氏が言った。「これからは、もっとたくさん降りますよ」
「いかにも、クリスマスにふさわしい」エルトン氏が答えた。「この時期には、ぴったりです。昨日降って、パーティーが中止になるということになってもおかしくなかったのに、じつに幸運でした。もし、雪が積もったりしていれば、ウッドハウス氏は決してお出かけにはならなかったでしょう。でも、いまとなれば、もう問題はありません。まったく、みなさんがわきあいあいと集まるのに、これほどふさわしい時期もないでしょうね。クリスマスというのは、だれもがひとを呼び合い、たとえ天候が悪くても気になどかけないものです。わたしはいちど雪のために、友人の家に一週間ほど足留めになったことがありました。それは、楽しかったですよ! たった一日のつもりが、きっかり一週間も戻ってこられませんでした」
そんなことが楽しいだなんて理解できないといわんばかりに、ジョン・ナイトリー氏は冷たく言った。
「≪ランドルズ≫に一週間も閉じ込められるのはごめんです」
ほかの場合なら笑ったかもしれないが、エマはエルトン氏の態度に驚くほか、なにもできずにいた。楽しいパーティを待ち望むあまり、ハリエットのことなどすっかり忘れている。
「きっと、素晴らしい火が燃えていて」彼は続けた。「すべてが、心地いいのでしょうね。魅力的な客、ウエストン夫妻――ウエストン夫人など、ほめてもほめきれませんし、ウエストン氏はだれもが感心しているのですが、洗練されていて、社交家で、まさにその通りの方です――パーティーの規模は小さいとはいえ、小さいからこそ選ばれた客だけの最高になごやかな集いになるのです。ウエストン氏の居間に十人以上入れば窮屈になりますから、わたしに言わせれば、そんなときはふたり多いより、ふたり少ないほうがずっといいものです。あなたも賛成してくださるでしょうね(やさしくエマのほうに、振り返って)。きっと、そう思います。というのもナイトリー氏はロンドンで大きなパーティーには慣れておられるでしょうから、わたしたちと同じ気持ちではないと思うのです」
「ロンドンの大きなパーティーなど、ぜんぜん知りませんよ。わたしは、だれとも食事などしませんから」
「まさか(驚きと哀れみの調子で)! 法律がそれほどの重労働を要求するものとは、思ってもみませんでした。でも、きっといつかその苦労が報われて、仕事はほとんどせず、楽しみだけが多いときが来ますよ」
「ぼくのいちばんの楽しみは」馬車が門をくぐったとき、ジョン・ナイトリー氏が言った。「≪ハートフィールド≫に、再び無事戻るということだけです」
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第十四章
ふたりの紳士は、ウエストン夫人の応接間に入っていくときには、少々顔つきを変える必要があった。エルトン氏は、表情のゆるみを少々ひきしめ、ジョン・ナイトリー氏はもうちょっと機嫌良さそうにする。すなわちエルトン氏はもう少し笑いをひっこめ、ジョン・ナイトリー氏はもう少し笑顔を作ってその場に合わせるということだ。エマは、もともとの性格通り、いつものように楽しそうにしているだけでよかった。彼女にとってウエストン夫妻といるのは、真の喜びだった。ウエストン氏は大好きだったし、この世でウエストン夫人ほど、気兼ねせず話せるひとはいない。彼女なら、日常の些細な出来事や計画、父親やエマがもつ困惑や喜びなどを真剣に聞いてくれるし、理解もしてくれて、どんな話題にも興味を示し、いつもわかってくれるという確信がもてた。また、≪ハートフィールド≫でのことで夫人が関心をもたないことなど、ひとつもなかった。そういうわけで、ふたりにとって、だれにも邪魔されることなく、細々としたことを話し合い、お互いを満足させる半時ほど楽しいものはなかった。個人の生活の日々の幸せというのは、細々としたことにあるものだ。
このような喜びは、一日中一緒だとしてもなかなか得られないものかもしれないし、じじつ、いまの状況ではとても無理だった。しかし夫人に会ったとたん、その笑顔を見、抱きあい、声を聞いただけでエマは嬉しくなって、エルトン氏の奇妙さや、そのほかどんな嫌なこともできるだけ考えないようにして、すべての楽しみを最大に楽しもうと心に決めた。
エマが到着する前に、すでにだれもがハリエットの風邪について知っていた。大分前からすっかりくつろいでいたウッドハウス氏がその成り行きをすべて話して聞かせ、彼自身の体調を一から十まで話し、次にイザベラ、そしてエマと続いて、最後にジェームズが娘に会うべきだというところまで進んで、大いに満足していたところにエマたちが到着したのだ。そしてそれまで、彼にかかりきりだったウエストン夫人は、やっと彼のそばを離れ、愛するエマを温かく出迎えた。
エルトン氏のことは忘れようとしていたエマは、だれもが椅子に落ち着いたとき、彼がすぐそばにいるのを知って悲しくなった。彼のハリエットにたいする奇妙な無関心さは、いやでも感じないわけにはいかない。彼はエマのすぐ隣に座っただけではなく、その嬉しそうな顔を彼女の前につきだしては、あらゆる機会をとらえて彼女に絶え間なく話しかけた。エマは彼を忘れるどころか、心のなかにわきおこる疑問を打ち消すことすらできなかった。「ジョンお義兄様が感じたことは、本当かしら? このひとはハリエットからわたしに愛情を移した? そんな馬鹿な!」――それでも彼がエマが寒くはないかと心配したり、父親に妙に関心をもったり、ウエストン夫人をほめあげ、あげくの果てにエマの画を、恋人にとかくありがちな、ほとんど知りもしないのにほめちぎるやりかたで話すのを聞いていると、礼儀を失わないでいるのがやっとだった。ハリエットのためにも無礼な真似はできない。いつかはまた元に戻るときもあるだろうから、その時のためにも、できる限り礼を尽す必要がある。だがそれは決して楽なこととはいえなかった。とくにだれかが彼女が聞きたいと思っていることを話しているときに、エルトン氏のくだらないおしゃべりに完全にさえぎられて聞き取れないときなどは、辛かった。ウエストン氏が息子のことを話しているのはわかった。「わたしの息子」とか「フランク」とか言う言葉が耳にはいってきて、そのあとまた二、三回、あるいはそれ以上「息子」と言うのが聞こえてきた。そのほかのちょっとした言葉から、どうやらウエストン氏は近々息子が訪ねてくると言っているらしい。しかし、エマがエルトン氏をさえぎる前に話は終ってしまい、もう一度きき返すのも、おかしなものだった。
決して結婚などしないという決心にもかかわらず、エマはフランク・チャーチルの名前を聞いたり、考えたりするたびに、興味をひかれずにはいられなかった。そしてミス・テイラーが彼の父親と結婚してからというものはしばしば、もし|万が一《ヽヽヽ》結婚するとしたら、年齢、性格、社会的地位からいって、彼こそがふさわしい相手と感じていた。家族の結びつきからいっても、彼は彼女のもののように思えたし、ふたりを知っているひとならだれもが考える縁組みでもある、と考えずにはいられなかった。ウエストン夫妻がすでにそのことを念頭においているのは、ほとんどまちがいない。むろん、彼にしろだれにしろ、彼女がなにものにも代えがたいと思っているいまの状況を変えることができるとは信じられなかったが、それでも、とても彼に会ってみたいと望んでいたし、彼の性格の良さを知りたかったし、ある程度までは好かれたいとも思っていた。それに友だちたちが、ふたりは結ばれていると想像するのかと思うと、ある種の喜びさえあった。
そのような気持ちでいるところに、エルトン氏の愛想の良さは恐ろしく間の悪いものだったが、それでもエマは、たとえ腹がたっているときでも礼儀正しくできる自分に慰めを見出していた。それに気さくなウエストン氏のことだから、同じ話、あるいは少なくともそれに関するような話題をまた出してくるだろう、と。そしてまったくその通りになった。幸せなことに食事の席で、エルトン氏から逃れることができたエマは、ウエストン氏と隣り合わせになった。彼はホスト役のさまざな気づかいから初めて少し解放され、羊の腰肉を食べ終った合間を利用してこう言った。
「もうふたりいると、完璧な人数になるのだが。そのふたりがここにいたらなあ、と思うよ――あなたのかわいいお友だちのミス・スミスとわたしの息子だ。そうなれば、完全だ。ほかのひとたちにはさっき応接間で、フランクが来ることを伝えたのだが、あなたには聞こえなかったのではないかな? 今朝手紙が届いて、二週間以内にここに来るとのことなんだ」
エマは、そんな場合にはふさわしいと思われるほどの喜びを示し、フランク・チャーチル氏とミス・スミスが加われば完全になるという氏の意見に同意した。
「息子は、ずっとここに来たがっていたのだが」ウエストン氏は続けた。「九月以来ずっとそうで、どの手紙にもそのことばかり書いてあったのだが、彼の時間は彼のものでないのも同じでね。息子のそばに、喜ばせてもらいたいと願っているひとたちがいて、いつもそのひとたちを喜ばせなければならないのだが、(ここだけの話ですよ)それもときとしてかなりの犠牲を払って初めて、喜ばせることができるひとたちでね。それでもいまは、一月の二週目にはここで会えると確信しているよ」
「さぞお喜びでしょう! ウエストン夫人もあんなに会いたがっていたのですもの、同じ様に大喜びでしょうね」
「ああ、そうなのだが、彼女はまだ、問題があると思っている。だから、わたしほどは期待はしていないよ。ぼくと違って、あちらのひとたちのことを知らないからね。じつは、(ここだけの話だよ。さっき向こうの部屋では言わなかったのだが、まあ、どの家族にも秘密があるもので)――一月、あちらの≪エンスクリーム≫には、ある友人たちが訪問することになっているんだ。フランクが来られるのも、そのひとたちの訪問が延期されることを計算に入れてのうえでね。もし、延期されないとなれば、彼は動きがとれなくなる。だが、わたしには延期されることがわかっている。≪エンスクリーム≫のあるおえらいご夫人は、その家族が大嫌いで、二、三年に一度は招待したほうがいいだろうということになっても、いざとなると決まって延期されるのだ。だから、こんども疑いの余地はほとんどない。わたしが一月の半ばにここにいるのと同じくらい、フランクに会えるのもたしかなことだ。だが、あそこにいるあなたの親友は、(テーブルの上席のほうを向いてうなずいて)、彼女自身気紛れなところがほとんどなく、≪ハートフィールド≫でもそのような経験はしてこなかったので、それが信じられないのだよ。わたしのほうは、ずいぶん長いことそんなことを見てきているからね」
「少しでも問題があるのは、残念ですわね」エマは答えた。「でも、わたしはあなたの意見を応援しますわ、ウエストンさん。もしあなたが来ると言われるなら、わたしもそう思います。だって、あなたは≪エンスクリーム≫のことをよくご存じですもの」
「そう――たしかに知っていると言えるだろうね。もっとも、あそこには足を踏みいれたこともないのだが。まったく不思議な女性だよ! でも、フランクのためにも、決して悪口など言えない。なぜなら、彼女はフランクをたいへん愛していてね。以前は彼女が、自分以外のだれかを好きになれるなんて思えなかったものだ。だが、フランクにだけはいつもやさしくて(もっとも、彼女流の方法で――わがままや気まぐれが許され、なにもかも彼女の思い通りになるならばだが)。彼女からそれだけの愛情を引き出せたなんて、息子は立派だと思いますよ。なぜなら、だれにも言ったことはないのだが、彼女は普通、ほとんどひとを石ころほども気にかけず、おまけに気の短いことといったら」
エマはその話題がすっかり気に入って、応接間に移るとすぐにウエストン夫人とそのことを話し始め、おめでとうを言い、会うのは初めてなので、きっと緊張するでしょうね、と言った。夫人は、たしかに緊張はするだろうが、もしその緊張を感じるときが、いま予定されている一月の半ばなら嬉しいのだがと、付け加えた。「だって、本当に来るかどうか、わからないのですもの。主人ほど、楽観的にはなれないわ。結局最後には、来ないなんてことになるのではと心配しているの。そのあたりのことは、主人から聞かれたでしょ?」
「ええ――来られるかどうかは、チャーチル夫人の気紛れにかかっているとか。でも、そうだとしたらこれほど確実なこともないんじゃない」
「まあ、エマったら」夫人が笑いながら言った。「確実な気紛れなんてあるものかしら?」それからそれまではいなかったイザベラのほうを向いて、「あのね、イザベラ、わたしの意見では、ミスター・フランク・チャーチルが来るということについては、あの方の父親が思っているほど確実ではないと思うの。だって、すべてが彼の伯母様の気分や喜び、言いかえればむら気にかかっているんですもの。あなたがたふたりは、わたしの実の娘のようなものだから、正直に言うわ。≪エンスクリーム≫を牛耳っているのはチャーチル夫人なんだけど、それがまた変ったひとなの。彼が今度来ることだって、夫人が手元から離すかどうかで決まってくるのよ」
「ああ、チャーチル夫人ね。彼女のことはだれでも知っているわ」イザベラが答えた。「それにあのかわいそうな青年には、心から同情せずにはいられないわ。年がら年中気難しいひとと一緒に住むなんて、空恐ろしいことですもの。幸いにしてわたしたちはそういう経験をいっさいしなかったけど、きっと、とても惨めな生活だと思うわ。彼女に子供がいなかったことは、なんという幸いかしら! もしいたら、かわいそうにどれだけ惨めな思いをしたかわからないわ!」
エマは、ウエストン夫人とふたりきりにしておいてもらいたかった。そうすれば、もっとくわしい話が聞けただろう。エマは信じていた。もしイザベラさえいなければ、夫人はチャーチル家に関するあらゆることを腹蔵なく話してくれたはずだ、と。ただし、夫人の義理の息子にたいする意見を別にすれば。そしてその意見については、エマは彼女自身の想像力で本能的にわかっていた。だが、いまのところはそれ以上のことはなにもきけない。すぐに、ウエストン氏も応接間に入ってきて話に加わった。彼はディナーが終ったあと長く席に留まっているのが苦手だった。会話もワインも彼を席に引き止めることはできず、すぐさま、一緒にいて気分のいいひとたちのもとに嬉しそうに移ってきたのだ。
それでも、彼がイザベラに話しかけている間、エマはすかさず夫人に言った。
「じゃあ、あなたは息子さんが訪ねてくるのは、たしかではないと思っているのね? 残念だわ。こちらへ来るだんになると、それがいつにしろ何かしら問題があって、しかも、滞在の期間は短ければ短いほど、いいってことになるのね」
「そうなの。だから来るのが遅れれば遅れるほど、また次の機会が遠退くんじゃないかと、心配で。たとえプレイスウエイトというその家族が、訪問を延期したとしても、ほかの理由をみつけてわたしたちを失望させるのではないかって。彼が来たくないと思っているなんて、考えるだけでもぞっとするわ。きっと、チャーチル家はどんなことをしても彼を自分たちのもとに止めておきたいんだわ。嫉妬なのよ。父親にさえ、嫉妬しているんだわ。まあ早い話、わたしには彼が必ず来るとは思えないので、主人があんなに楽天的でなければいいなって思ってるの」
「彼は、来るべきよ」エマは言った。「たった、二、三日の滞在なら来るべきよ。若い人がそれほどの力もないなんてとても考えられないわ。もし、それが若い女性で、ひどいひとたちのもとにいるというのなら、涙ながらに、会いたい人たちにも会えないということもあるでしょうけど、若い男性がそれほどの束縛のもとにいるなんて信じられない。本人にその気があっても、たったの一週間でさえ、父親のもとで過ごすことができないなんて」
「彼になにができて、なにができないかを判断するには、きっと≪エンスクリーム≫に行ってあちらの家族のやりかたを知る必要があるでしょうね」ウエストン夫人が答えた。「まあ、それはどの家族にたいしても、同じでしょうけど。それでも≪エンスクリーム≫だけは普通の法則があてはまらないのはたしかだわ。夫人はとてもわからずやだし、なんだって彼女のいいなりですもの」
「でも、甥を愛しているし、それも並々ならない愛情なわけでしょ。だとしたら、わたしがチャーチル夫人というひとのことを考えると、彼女にすべてを与えている夫にはなんの慰めも返さずに絶えず気紛れを起こし、反対に、なにひとつ負う必要のない甥のいいなりだとしてもなにも不思議はないはずだけど」
「まあエマったら、あなたのやさしい性格からして、ほかのひとの悪いところをわかったり、法則を知っているようなふりをしてはだめよ。なるがままにしておきなさい。たしかに彼にだって、あるときはかなりの影響力があるのでしょうが、それがいつなのかは分からないのでしょう」
エマはだまってきいていたが、やがて静かに言った。「もし来なかったら、とても納得できないわ」
「彼だってある部分ではかなりの影響力を持っていると思うの」夫人は続けた。「でもそのほかのことではほとんど無力で、わたしたちを訪ねてくるということは、そのどうにもできないことのなかに入っているんでしょうね」
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第十五章
ウッドハウス氏は、じきにお茶が飲みたいと言い出した。そして飲み終えるなり、いつでも帰れる支度をしてしまった。老人の相手をつとめた女性三人は、他の男性陣が現れるまで、なんとか夜が更けたことに気づかせまいと、あれこれ手を尽くした。おしゃべり好きで陽気なウエストン氏は、どんな客であれ、早々に引き上げさせはしない。それに、ようやくみんなが客間に集まってきた。先頭を切って入ってきたなかに、いやに浮き浮きした様子のエルトン氏がいた。そのときウエストン夫人とエマは、ソファに並んで腰掛けていた。彼は入ってくるなり、招待もされないのにふたりの間に座った。
もうすぐフランク・チャーチル氏に会えるのが楽しみで、エマも心を弾ませていた。だからエルトンのさっきのぶしつけなふるまいもすんなりと忘れて、以前のように好意をもとうと、彼がまずハリエットの話を始めるのを、じつになごやかなほほえみを浮かべて聞いていた。
エルトン氏は、あなたのきれいなお友だち、きれいで、愛らしく、感じのいいお友だちが心配で仕方ない、と言った。「その後なにかわかりましたか? ぼくたちが≪ランドルズ≫に着いてから何か聞きましたか?――とても気になります――たちの悪い病気でないといいがと心配でたまりません」彼はこんな調子で、しばらくは礼儀正しく話を続け、返事さえ期待せずに、ひたすら喉の痛みの恐ろしさを伝えようとするので、エマはすっかり寛大な気持ちになった。
しかし、とうとう話がおかしくなってきた。エルトン氏が喉の痛みをあれこれ気にかけるのは、ハリエットのためというよりも、わたしのためのように思える。エマはすぐに、彼はハリエットが伝染病でないことを願うよりも、わたしにうつらなければいい、と思っているようだと感じた。彼は真剣な顔つきで、当分は病人の部屋を見舞うのを控えてください、ぼくがペリーさんの意見をきくまでは、危ない真似はしないと約束してください、となんども懇願した。エマがこれを笑いとばし、話題をハリエットに戻そうとしても無駄で、むやみにエマが心配だと言い続けた。これではっきりした、もうごまかしようもない。どう見ても、ハリエットではなくエマに恋しているように思える。もし、それが本当なら、気を移すなんてことはまったくあきれはてたことで、許しがたい! エマは、怒りを抑えて話すことが出来なくなってきた。彼は、ウエストン夫人のほうを向いて、助けを求めた。「あなたからも言ってくださいませんか? ミス・スミスの病気がうつらないとわかるまでは、ゴダード夫人のところへ行かないよう、ミス・ウッドハウスを説得してください。約束してくれなければ、ぼくは安心できません。お願いですから力をかしてくれませんか?」
「他人には細かい気配りをするのに」彼は続けた。「ご自分のこととなると不注意すぎます! ぼくには、今日は家にいて風邪を治すよう言いながら、自分では潰瘍性の喉の痛みがうつる危険を避けると約束してくれません! ウエストン夫人、これではずるくありませんか? 考えてもみてください。ぼくにだって少しは文句を言う権利があるとは思われませんか? きっと、同意して助けていただけますよね」エマは、ウエストン夫人が驚いているのがわかった。それもかなり驚いている。彼の言葉づかいといい、そぶりといい、エマを心配する権利はだれより自分にある、といわんばかりだ。いっぽうエマはかんかんに腹をたて、その場にふさわしい言葉さえとっさには出てこなかった。かろうじて彼をにらみつけたが、その視線には、正気に戻ってほしいという願いがこめられていた。それからソファを離れて姉の隣に移ると、姉だけを相手に話した。
このとがめを彼がどう受け取ったかはわからない。それというのもあっという間に、次の話題が持ち上がったからだ。空模様を見に行っていたジョン・ナイトリー氏が部屋に戻り、みんなに外の様子を知らせた。地面は雪で覆われ、いまもどんどん降り続いているうえ、強い風まで吹きつけているという。そして、ウッドハウス氏には、こう言った。
「これはお義父《とう》さんの冬の社交の、威勢のいい幕開けになりそうですね。おたくの御者と馬にとっても、吹雪をついて進むというのは新鮮な経験でしょう」
あわれなウッドハウス氏は、びっくり仰天したあまり口もきけなかった。だが、ほかのみんなは何かしら口を開いた。驚いたというひとや、驚かないというひと、質問したり、慰めの言葉を述べるひともいた。ウエストン夫人とエマは、懸命にウッドハウス氏を元気づけ、義理の息子から注意をそらそうとしたが、当のジョン・ナイトリー氏のほうは、無情にも勝利の言葉を続けていた。
「この決断には、まったく頭が下がります」彼は言った。「このような天候を承知で出かけてきたのですからね。なぜなら、じきに雪になるのはおわかりだったでしょうから。雪がちらついていたのはだれもが知っていましたからね。あなたの心意気には感心いたしました。きっと、家には無事たどりつけるとは思います。あと一、二時間雪が降ったところで、道路が通れなくなることもないでしょう。それに馬車は二台あって、一台が共有地の吹き曝しで吹き飛ばされたとしても、近くにもう一台控えていますからね。まあ、真夜中までには≪ハートフィールド≫につけるでしょう」
ウエストン氏は別の意味で得意満面になって、じきに雪が降るのははじめから承知していたが、ウッドハウス氏が心配してあわてて帰ってしまうのではないかと思い、黙っていたと告白した。それに雪が積もっているとか、これから降りそうだから帰れそうもないなどというのは冗談にすぎず、残念ながら、心配なくお帰りになれそうです。わたしとしては、道路が通れなくなって、みなさんを≪ランドルズ≫にお引き止めできるのならば嬉しいことで、精一杯心を尽くして、くつろいでいただけるようにするでしょう。それにちょっとやりくりすれば全員が泊まれるはずですがと、妻の同意を求めたが、ウエストン夫人は、客用の寝室がふたつしかないのが頭に浮かんで、どうしていいかわからなかった。
「どうしたものかね、かわいいエマ? どうしようかね?」これがウッドハウス氏の最初の悲鳴で、しばらくはこれしか言えなかった。彼は娘にすがり、エマが大丈夫、うちの馬とジェームズは優秀だし、周りにはおおぜいの友人がいるからと言って聞かせると、少し元気を取り戻した。
イザベラも、父親に負けないくらいあわてふためいた。子供たちを≪ハートフィールド≫に置いたまま≪ランドルズ≫に留まることになったら、という恐ろしい思いで胸がいっぱいになっていた。道路はすでに冒険好きなひとがやっと通れるくらいで、一刻の猶予も許さないのだろうと勝手に思い込み、エマと父を≪ランドルズ≫に残して、自分と夫は雪の吹きだまりがどれほど障害になろうともそこを乗り越えて行くから、ただちに出発するという決定を出してもらいたがっていた。
「すぐに馬車の支度をさせないとたいへんよ、あなた。いますぐ出れば、なんとかなるわ。最悪の事態になったら、馬車を降りて歩きます。そんなことちっとも気にしないわ。家まで半分歩くことになったって平気よ。靴は、帰ったらすぐ取り替えられるんですもの。それくらいで風邪なんか引きませんから」
「ほう!」彼は答えた。「いとしいイザベラ、これはまた驚かせてくれるね。なにしろ、君はどんな理由でだって風邪を引くじゃないか。歩いて帰る! そう言うからには、きっとそれなりの靴でもはいているんだろうね。馬だって大変だっていうのに」
イザベラは自分の案に賛成してくれるよう、ウエストン夫人を振り返った。夫人としては、賛成するほかどうすることもできない。イザベラはそれからエマのところへも行ったが、彼女はみんなで一緒に帰れるという望みを捨てきっていなかった。姉妹が、なおもその点を話し合っていると、ナイトリー氏が入ってきた。彼は、弟が最初に雪だと知らせた直後に部屋を出ていったのだが、戻ってきてみんなに、外の様子を見てきた、と告げた。いつでも好きなときに、問題もなく家に帰れますよ、いまでもいいし、一時間後でも大丈夫。馬車道の先まで行ってきました。ハイベリー・ロードの少し先までですが、雪が半インチ以上積もっているところなどどこにもありません。地面がやっと白くなったかならないかという程度です。いまもわずかに降ってはいますが、雲は切れてきましたし、どう見てもすぐにやみそうです。御者にもききましたが、心配ないという点で、ふたりともぼくと同じ意見でした。
この知らせを聞いてイザベラは心底ほっとし、父親のためを思うと、エマにもありがたい話だった。ウッドハウス氏はたちまち雪については心配するのをやめたが、それも彼の神経質な性格が許す限りではあった。一度不安に襲われたこともあって、≪ランドルズ≫にいるかぎりはくつろげなくなっていた。帰り道の危険がないことは納得しても、どんなに言葉を尽くしても、まだ≪ランドルズ≫にいても大丈夫だとは説得できなかった。そこでほかのひとたちがあれこれ言ったり、提案している間に、ナイトリー氏とエマが短い話を交わしことは決まった。
「お父さんは落ち着かないようだ。もう帰ったらどうだろう?」
「わたしはすぐにでも。みなさんさえ、よければ」
「では、ベルを鳴らそうか?」
「ええ、お願い」
ベルが鳴り、馬車が呼ばれた。あと二、三分もすれば、とエマは思った。やっかいな連れのひとりは我が家に戻って、酔いもさめ、冷静さを取り戻し、もうひとりは、たいへな訪問を終えたことでいつもの幸せな父親に戻るだろう。
馬車の支度が整った。こんなときは決まって一番先のウッドハウス氏は、ナイトリー氏とウエストン氏に丁重に付き添われて自分の馬車に乗り込んだ。それでも、まだ実際に雪が降っているのと、外が思ったより暗いのに気づいて、ふたりがどう慰めても新たな不安が湧き上がるのを止めることはできなかった。「馬車はかなり苦労するのではないかね。かわいそうに、イザベラはおびえるだろう。それに、エマは気の毒にも後ろの馬車に乗らなくてはならない。どうしたら一番いいのか、見当もつかない。できるだけ、馬車が離れ離れにならないようにしなければ」そこでジェームズが呼ばれ、馬車をゆっくり走らせて、後続の車とあまり離れないように言われた。
父のあとに続いてイザベラが乗り込んだ。ジョン・ナイトリー氏は、後ろの馬車に乗ってきたことを忘れ、当然のように妻のあとに続いた。おかげでエマは、エルトン氏に付き添われて二番目の馬車に向かい、彼がエマのあとから乗り込むと、当たり前のことだが扉が閉められ、仲むつまじい相乗りとなってしまった。疑いを抱いた今日という日の前だったら、まったく気まずい思いもなしに、むしろ楽しかったことだろう。彼とハリエットの話もできたし、四分の三マイルの道のりも、四分の一マイルくらいにしか思えなかったはずだ。だが、いまとなってはできたらこういう状態は避けたかった。彼は見るからにウエストン氏の上等なワインを飲みすぎていて、ばかなことを話したがっているのがはっきりしている。
わたしのほうが礼儀正しくすれば、彼を牽制できるかもしれない。エマはすぐに心を決めて、実に落ち着き払った、まじめそのものの態度で、天候やその夜のことを話し出した。ところが、エマが話し出すか出さないうちに、馬車が門を出て、前の馬車に追いつくかつかないうちに、彼が話をさえぎった。エマの手をぐっと握りしめ、自分の話を聞いてくれるようたのむと、激しく愛の告白を始めたのだ。このまたとないチャンスに、ぼくの思いを打ち明けさせてください。でも、もうわかっているはずです。希望を抱き、不安におののき、あなたをどれだけ愛していることか。もし、拒まれるくらいなら、死んだほうがましです、と言った。それでも心密かに、この熱い思いやだれにも負けない恋心、並々ならぬ情熱は、きっとその価値を認めてもらえると思う。つまり、できる限り早く、承諾してもらえると信じています、と言った。やはり、そうだったのか。ハリエットの恋人のはずのエルトン氏が、ためらいも、いいわけも、たいして悪いという思いもなしに、エマを愛していると告白している。エマは途中で止めさせようとしたが、駄目で、彼はそのまま話し続け、すべて打ち明けてしまった。エマは腹をたててはいたが、一瞬思い直して、なんとか自分を抑えて話そうとした。こんな愚かな真似をするのは、半分はお酒のせいにきまっている。だから、この場だけのことだと祈ろう。そこで半分ふざけ、半分まじめに、今の彼にぴったりの態度で答えた。
「まあ、驚いたわ、エルトンさん。そんなことをこの|わたし《ヽヽヽ》に! どうかしているわ。きっと、わたしの友だちとわたしを勘違いしているのね。もし、これがスミスさんへの伝言なら、喜んで伝えますわ。でもどうか、|わたし《ヽヽヽ》に言うのはもうやめて」
「ミス・スミスですって! ミス・スミスへの伝言ですって! どうして彼女が出てくるんです!」そしていかにも自信たっぷりな口調で、わざとらしく驚きながらハリエットの話し方をまねたので、これにはエマも、すぐに言い返さずにはいられなかった。
「エルトンさん、おかしなことをしないで下さい! あなたどうかしてるのよ、そうとしか思えないわ。そうでもなければ、わたしにこんな話し方はしないし、ハリエットのことをそんなふうに言ったりもしないでしょう。もうこれ以上なにも言わないよう、気をしっかりもってください。そうすればわたしも、いまのことは忘れるよう心がけますから」
だがエルトン氏が酒を飲んだのははずみをつけるためで、頭が混乱するほど飲んではいなかった。彼は自分の言っていることを一言一句承知していたので、ミス・スミスとの仲を疑うなんてあんまりだ、と食ってかかった。そして、ミス・スミスのことは大事に思っている、なぜなら彼女はあなたの友だちだからだ、とも言った。それにしても、なぜここにミス・スミスが出てくるのかわからない。彼はそう言って、ふたたび自分の思いを語りだして、承諾してくれるよう迫った。
彼が酔っているのではないとわかればわかるほど、エマには、彼の無節操さとずうずうしさがひどいものに思われ、礼儀正しくしようという努力はどこへやら、こう答えた。
「もう、疑いの余地はないようですね。あなたの言う意味は、とてもはっきりしているのですから。エルトンさん、あきれかえってものも言えませんわ。わたしはここ一ヵ月、あなたがミス・スミスにどんな態度をとってきたかを見てきています。あなたが彼女に、あれほどやさしくしていたのを毎日のように見てきたわたしに、こんなふうに愛を打ち明けるなんて。本当にこれほどいいかげんなことってあるかしら、考えも及ばないほどだわ! 言っておきますけど、わたしがあなたのそんな愛の告白の相手になって、喜ぶと思ったら、それはとてもとても大きなまちがいです」
「ああ、なんということだ!」エルトン氏は声を上げた。「いったい、それはどういう意味ですか? ミス・スミスですって! 彼女に思いを寄せたことなぞ金輪際ありません。あなたの友だちという以外、気にもしませんでした。あなたの友だちでなかったら、彼女が死のうが生きようが関係ありません。もし、彼女がなにか勘違いしているのなら、望みと現実がわからなくなっているんです。気の毒に。本当に気の毒です。でも、それにしてもミス・スミスとは! ああ! ミス・ウッドハウス! あなたがそばにいて、どうしてミス・スミスのことなど考えられますか! いいえ、名誉に賭けて言いますが、ぼくはいいかげんな男ではありません。あなたひとりを愛してきたのです。ほかのだれかに少しでも思いを寄せたなどと言われれば、抗議します。ここ何週間もの間、ぼくが言ったこと、したことはすべて、ひたすらあなたへの憧れから出たものです。それをまさか、本気で疑うなんて、そんなはずありません。絶対に!――(こびるような口調で)――あなたがそれを見て、わかってくれていたのは知っています」
これを聞いたときのエマの感情は、とうてい言葉で言い表せるようなものではなかった。これ以上不愉快にはなれないというほど不愉快だった。あまりの驚きに、すぐには言葉も出ないほどだ。そしてその間の長い沈黙を、楽観的なエルトン氏はすっかり勘違いして、ふたたびエマの手を取ろうとしながら、嬉しそうに叫んだ。
「かわいいミス・ウッドハウス! この意味ある沈黙を、こう解釈させてください。あなたはずっと前から、ぼくの気持ちに気づいていたと告白しているんですね」
「いいえ」エマは声を上げた。「そんなこと言っていません。あなたの気持ちに前から気づいていたどころか、いまのいままでおそろしい勘違いをしていたんです。わたしに関しては、あなたがどんな思いをもたれようと、お気の毒に思うだけです。それほど、わたしの願いと遠いものはありませんから。わたしが嬉しかったのは、あなたがハリエットを愛し、追いかけた(そうとしか見えませんでした)ことで、うまくいくよう心から祈っていました。そしてあなたが≪ハートフィールド≫に来るのが、ハリエット目当てではないとわかっていたら、まちがいなく、あれほどたびたび訪問してくるのは失礼だと思ったでしょうね。あなたはわたしに、本当にミス・スミスの気を引こうとしたことはない、彼女を真剣に思ってなどいなかったと、信じろというのですか?」
「ええ、一度としてありません」今度は自分が無礼な目にあっているといわんばかりに、彼は叫んだ。「絶対にありません、本当です。ミス・スミスのことを真剣に考えたことなどありません! 彼女は、いい娘さんです。しかるべき相手と結婚できれば、ぼくも嬉しいです。幸せになってほしいと心から願っています。彼女と結婚してもかまわない、という男だっているはずです。ひとはみな、分相応というものがありますから。でも、ぼくはそれほど困ってはいませんよ。彼女に結婚の申し込みをするほど、釣り合いのとれた相手がいないわけではありませんから。ええ、≪ハートフィールド≫を訪ねたのは、あなたに会いたい一心でした。そこで、ぼくはあなたから勇気を与えられ――」
「勇気ですって! わたしが勇気を与えたですって! それはまったくの誤解だわ。わたしは、友人に恋するひととしてあなたを見ていただけよ。それ以外は、ただの知り合いにすぎないわ。本当にお気の毒だけど、このへんで誤解を解きましょう。あなたがあんな態度を取り続けたら、ミス・スミスだってわたし同様、あなたがかなり気にしている身分の違いにも気づかずに、あなたの気持ちを取り違えてしまったかもしれないわ。でも、こうなればがっかりするのはひとりだけで、それも長くは続かないでしょう。ちなみにわたしは、いまのところ結婚するつもりなどいっさいありませんから」
エルトン氏はかんかんに腹をたて、言葉もなかった。エマの態度はあまりにきっぱりしていて、どんなに訴えようととりつくしまもない。ふたりは、互いに深くプライドを傷つけられ、煮えくりかえるような怒りを抱いたまま、まだ数分は、一緒に乗っていかなければならなかった。ウッドハウス氏があまりにおびえるため、馬車が並足に速度を落としていたのだ。もし、これほど腹をたてていなかったら、きっと救いようもないほど気まずい状態になっていただろう。しかし、ふたりはあまりに腹をたてすぎていて、ばつの悪い思いなど入り込む余地もなかった。馬車が牧師館の小道を曲がったのも、止まったのも知らずに、気がつくとエルトン氏の家の玄関前で、彼はひと言もしゃべらずに馬車を降りた。エマはそれでも、おやすみなさいくらい言わなくては、と思った。返事は返ってきたものの、それはいかにも冷ややかでつんとしたものだった。そして、どうしようもないほどいらいらしたエマを乗せ、馬車は≪ハートフィールド≫に向かった。
家につくと、父親が大喜びで迎えてくれた。彼は馬車がたった一台だけで、牧師館から帰る危険を思い、震えあがっていた。あの角を曲がるなど、考えてもぞっとする。しかも御者はジェームズではなく、どこのだれともわからない者だ。これでエマさえぶじに戻れば、なにもかもうまくいきそうな雰囲気だった。なぜなら、ジョン・ナイトリー氏がさっきの機嫌の悪さを恥じて、いまはすっかり親切でこまやかな気配りを見せていたからだ。とりわけ義父がくつろげるよう、あれこれ心を砕いて、一緒に食べる気にこそならなかったものの、健康にはお粥が一番だという意見に心から賛成した。こうして≪ハートフィールド≫のひとたちすべてにとって、その一日がおだやかに終わろうとしていた。ただし、エマだけをのぞいて。エマは生まれてこのかた、これほど心をかき乱されたことがなかったので、みんなの前で打ち解けて明るくふるまうのに、たいへんな努力を要した。ようやく、めいめいが部屋に引きあげる時間が来て初めて、エマは静かに考えることができた。
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第十六章
髪を巻いてくれた召し使いに下がるように命ずると、エマは考えるために腰を下ろしたが、たまらなく惨めになってきた。なんて悲しいことになったのだろう! 望んでいたことがことごとくひっくり返ってしまうとは! 最悪の結果だ! ハリエットはどんなにショックを受けることだろう! なんといってもそれが最も辛い。どこをどう考えても、なんらかの形で心が痛むし、悔しさもある。だが、ハリエットの不幸に比べれば、そんなのはたいしたことではない。失敗の報いを受けるのがエマひとりなら、自分が実際以上にひどい勘違いをしていたことを認め、そのため見当違いの大まちがいをしてしまったということを、喜んで認めるだろう。
「もし、わたしがハリエットをけしかけて、あの人を好きにさせたのじゃなかったら、どんなことでも我慢できる。彼のあつかましさが、あの倍だったとしてもかまいはしない。それにしても、かわいそうなハリエット!」
いったい、どうしたらこれほどまでにだまされることができたのか! 彼は、ハリエットを真剣に考えたことなどないと抗議した、決してなかったと! エマは、できるかぎり、振り返って考えてみたが、ただ混乱するばかりだった。たぶん、勝手に思いついて、何もかも都合のいいように解釈したのはわたしなのだろう。でも、あの人だってどちらつかずで、あいまいな態度をとっていたにきまってる。そうでもなければ、あんな誤解をするはずがない。
あの画! 彼があの画をみたときの熱心さ! それにあの謎なぞ! ほかにも、数え切れないほどある。どれもこれもはっきりと、ハリエットを指していた。たしかに謎かけ詩には、「素早い機転」と書いてはあった。でも、「やさしい瞳」ともあったわ。じっさい、わたしたちのどちらにも合ってはいなかった。ありきたりで、真実味のないただの言葉の寄せ集め。あんなばかげたたわごとの意味など、だれが見抜けたっていうの?
それはたしかにしばしば、ことに最近では、彼が必要以上に愛想よく話しかけてくるとは、思った。しかし、それは彼のくせで、たんに判断や知識、趣味などの誤りからきているだけのこととして見過ごしてきた。というのも彼はこれまでずっと、最上の社会で暮らしてきたわけではないので、たとえ物腰は上品でも、しばしば本当の優雅さに欠けるところがあって、そのいい例がこれなのだ、くらいにしか思わなかった。今日という今日まで、一瞬たりとも、まさかそれが、ハリエットの友への感謝に満ちた尊敬以上のものだなんて思ってもみなかった。
エマがはじめてその可能性を考え、もしかしたら、と思ったのは、ジョン・ナイトリー氏に指摘されたときだった。ナイトリー兄弟に洞察力があるのは否めない。彼女は兄のナイトリー氏がいつか、エルトン氏について話し、警告し、けっして軽率な結婚などする男ではないと断言していたのを思い出した。ナイトリー氏が、エマがいまやっとたどりついた知識より、その当時すでにはるかに妥当な人物評価をしていたかと思うと、顔が赤くなってくる。どうにも悔しいのは、エルトン氏が多くの点で、彼女が心に描き信じてきた人物とは正反対だということを、本人自ら証明しつつあることだ。高慢ちきで、あつかましくて、うぬぼれで、自分の要求ばかり強くて、他人の気持ちなどおかまいなしなのだから。
一般的な成り行きとは逆に、エルトン氏はエマに愛を打ち明けようとして、かえって評価を下げてしまった。告白も結婚の申し込みも、彼にはなんの利益ももたらさなかった。彼の愛情などエマにはまったく意味がなく、彼の期待に侮辱さえ感じた。彼は条件のいい相手と結婚したがっていて、不遜にも彼女に目をつけ、恋をしたふりをしたのだ。だから、エマとしてはエルトン氏ががっかりしたといっても、気にはならなかった。その言葉にも態度にも、本当に彼女を愛している気配など感じられはしない。なるほど、ため息と美辞麗句はふんだんにあったけれど、言い回しも声の調子も、真の愛情とは程遠いものだ。わざわざ気の毒に思う必要などまったくない。彼は自分の地位を高め、お金がほしかっただけだ。三万ポンドの相続人、≪ハートフィールド≫のミス・ウッドハウスが、想像したほどやすやすとは手に入らないとなれば、すぐに二万、いや一万ポンドつきのミス・だれかさんを探すことだろう。
それにしても、――勇気づけられたですって! わたしがあのひとの思いを知っていて親切を受け入れ、つまり、結婚するつもりでいたと信じていたなんて! 親類の身分やら知性が対等だと思っていたなんて! 彼の下の階級がたくさんあることを実によく承知していて、友だちのハリエットを見下したうえ、自分の上の階級のことは見えず、わたしに言い寄っても失礼だと思わないとは! まったく、これほど呆れ返った話があるかしら!
才能だの、心の優雅さの点などで、彼のほうがどれほど劣っているかを理解するよう期待するのは、無理なのだろう。エマと彼との間の違いがわからないのは、そういう釣り合いの意識がまったくないところからきているのかもしれないのだから。それでも、エマの財産と地位が格段に上だということくらい、わきまえるべきだった。ウッドハウス家は、≪ハートフィールド≫に数代にわたり定住して、相当古くから続く一族の新しい分家だ。かたやエルトン家といえば、取るに足らない家ではないか。そのてんを忘れるべきではない。たしかに≪ハートフィールド≫の所有地は、たいしたことはない。残りのハイベリーの土地すべてを所有する、≪ドンウェル・アビー≫の敷地についた刻み目のようなものかもしれない。しかし、ほかから上がる収益などを考慮すれば、≪ドンウェル・アビー≫に勝るとも劣らない財産になる。そして、ウッドハウス家は昔から近隣の尊敬を受けてきたのに、エルトン氏はこの土地に来て、まだ二年たらず。彼はできるだけ出世しようとしていたが、牧師という職業以外になんのつながりもなく、財産といえば、その境遇と礼儀正しさくらいのものだ。にもかかわらず彼は、エマが自分に恋していると思ったのだ。きっと、それをあてこんでいたに違いない。エマは少しのあいだ、彼のうわべの上品な態度にそぐわないうぬぼれに腹をたてていたが、それでも素直になって、すぐに彼に対する自分の態度の誤りも認めずにはいられなかった。わたしは、たしかにあのひとにたいして愛想がよかったし、親切で、礼儀正しくやさしい態度で接した。その態度の裏にある動機を知らなければ、たしかにあれでは、エルトン氏のように月並みの観察力と感受性しか持たない人間には、自分が愛されているとうぬぼれるほかなかったのかもしれない。わたしはあのひとの気持ちを読めなかったのだから、あのひとが自意識過剰で周囲が見えなくなって、わたしを誤解したとしても、それを責める権利はわたしにはない。
最初の、それも致命的な誤りを犯したのは、エマのほうだ。縁結びにあれほど夢中になるなんて、ばかばかしく、まちがってもいた。あまりにもいきすぎで、でしゃばりで、まじめになるべきときにふざけ、単純であるべきときに策を弄したのだ。エマはすっかりしょげかえり、自分のしたことを恥ずかしく思った。二度とこんなまねはすまい、エマは決心した。
「それにわたしは、かわいそうなハリエットがわざわざあの人に恋するよう、しむけてしまった。わたしさえいなければ、そんな感情はもたなかったはずだわ。希望を抱いたのも、わたしが、彼が彼女を愛していると断言したからにきまっている。だって、ハリエットは、控え目で謙虚なんですもの。以前のわたしは彼もまた、彼女と同じだと思っていたんだわ。ああ! マーティンという青年のプロポーズを断るよう、説得するだけで満足しておけばよかった。あれは、百パーセントわたしが正しかったんですもの。我ながら見事だったわ。でも、あそこでやめておけばよかった。あとは、時間と機会にまかせるべきだったのよ。わたしは、ハリエットを立派なひとたちに紹介して、価値あるひとに気に入ってもらう場を与えようと思った。でも、それ以上のことはするべきじゃなかったわ。でもいまは、かわいそうな娘《こ》、しばらくは苦しむでしょうね。わたしは、半人前の友人だったわ。それにハリエットが、この件でそれほどがっかりしなかったとしても、いまのわたしには、ほかにいいひとなんて全然思いつかないし――ウィリアム・コックスは? だめ! だめよ、ウィリアム・コックスなんて我慢ならないわ。気取りやの法律家なんて」
エマはふと口をつぐみ、顔を赤らめ、またはじまった悪い癖がおかしくて笑いだし、それからもっとまじめに、前以上に意気消沈して、いままでのことや、これからのこと、そして彼女がこれからしなくてはならないことについて考え始めた。ハリエットに辛い話をしなくてはならないし、それにかわいそうなハリエットは、これからはいろいろなことに頭を悩まさなくてはならないだろう。顔を合わせればなんとなく気まずい思いをするだろうし、このつきあいを続けるべきかやめるべきか、どちらにしても悩むことになって、出来るだけ気持ちを静め、怒りを隠して、悪い噂がたたないよう気をつけなくてはならないのだから。そんなことを思って、しばらくのあいだ、エマの心は後悔の念でいっぱいだった。そして、考えてもなにひとつ解決できず、ただ、恐ろしいまちがいをしてしまったという思いだけを抱いて、ベッドにもぐりこんだ。
エマのように若く、生まれつき明るい娘は、前の晩に少々憂うつになっても、翌朝には元気を取り戻すようにできている。朝の明るさと、若さというのは嬉しいほどに似て、気力に満ち満ちたものだ。悲しみで胸が張り裂けそうで、目を閉じていなければならないというのでなければ、朝も若さも痛みをやわらげ、湧きあがる希望を与えてくれ、必ず目を開かせてくれるものだ。
翌朝目を覚ましたエマは、ベッドに入ったときよりずっと気分が楽になっていた。目の前の悩みが軽くなったように思え、そこからどうにか抜け出せそうな気もしていた。
エルトン氏が、本当に自分に恋しているはずもなく、またがっかりさせるのが辛いと思うほど彼を好きでもないのは、大きな慰めだ。それにハリエットにしても、感じやすく、物事をいつまでも忘れないというような、繊細な神経の持ち主ではない。そして、当人たち三人をのぞいては、だれもなにがあったかを知らない。とりわけ、この問題で父親を一瞬たりとも不安にさせなかったのはありがたいことだ。
こう考えると、エマは急に元気が出てきた。それに、地面に降り積もった雪を見て、ますます嬉しくなってきた。いまのところ三人が顔を合わせずに済むことなら、なんであれ大歓迎だ。
天候は、まさしくエマに味方してくれた。クリスマスだとはいえ、この雪では教会には行かれない。娘が無理にも行こうとすれば、ウッドハウス氏が嘆くだろう。だから、エマは、ひとを不愉快にしたり、疑われるようなことをしなくてもすみ、またされることもなかった。外は一面雪に覆われ、大気は不安定で、きびしい寒気と雪解けの陽気の間をいったりきたりして、散歩などできる状態ではなかった。朝はかならず雨か雪で始まり、夕方は地面が凍り始めるので、エマは喜んで家に閉じ込もった。ハリエットとのやりとりも手紙のほかはなく、クリスマスの日同様、日曜も教会に行く必要もなくて、エルトン氏が訪ねてこない言い訳も考えずに済んだ。
この天候では、ほとんどのひとが家に閉じ込もるほかなかった。それでも、エルトン氏はどこかを訪れて楽しんでいるに違いないし、そうすることを願ってもいたが、この天気に外出するほど愚かではない父親が、家で、娘たちと水入らずに過ごすことに満足している姿を見るのはとても嬉しかった。そして父が、どんな天気でも必ずやってくるナイトリー氏に声をかけるのを聞くのもいいものだった。
「ああ! ナイトリーさん、気の毒なエルトンさんのように、なぜ家におとなしくしていないのですか?」
もし、エマが自分の問題を抱えてさえいなければ、義兄の望んでいたこのように家に閉じ込もる日々は、大いに楽しいものだったろう。なぜなら、彼の気分がかなり家の雰囲気を左右するようになっていたのだが、彼は≪ランドルズ≫での不機嫌さなどすっかり忘れて、そのあと≪ハートフィールド≫に滞在している間じゅう、しごく機嫌がよかったからだ。いつも愛想がよくて、感謝を忘れず、だれのことでも好意をもって話した。しかしエマは、楽観的な物の考えや、天候によってそのときが先延ばしになっているという幸運にもかかわらず、やはり心配でたまらなかった。ハリエットにすべてを話すときのことを思うと、心がどうしようもなく重くなってくる。
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第十七章
ジョン・ナイトリー夫妻を、長々と≪ハートフィールド≫に引きとめてはおけなかった。天候はまもなく回復し、動かなくてならないひとたちは動けるようになった。例のようにウッドハウス氏は、子供たちと一緒に残るよう娘を説得したが、結局全員の出発を見送るほかはなく、いつもどおり哀れなイザベラの運命を嘆きはじめた。だが、その哀れなイザベラは、心から愛する家族と一緒に暮らし、その短所などは見ず、長所だけに目を留めていつも幸せそうに忙しくしているという、幸福な女性を絵に描いたようなひとだった。
ちょうど姉一家が発った日の晩、ウッドハウス氏にエルトン氏から手紙が届いた。長い、丁寧な格式ばったもので、最高の敬意を払って書いてあった。「明朝ハイベリーを発ち、バースに向かいます。友人のたっての招きに応じ、二、三週間ほど滞在する約束をしました。天候や所用などさまざまな事情から、ご挨拶に伺えないのが残念でなりません。ウッドハウス様のご親切なおもてなしは、この先長く感謝してやまないでしょう――また、なんなりと御用を申しつけていただければ、喜んでお役にたちたいと存じます」
これは、エマにとって嬉しい驚きだった。いまエルトン氏がいなくなるのは、願ってもないことだ。こんな手を使うなんて、彼もなかなかやるではないか。でも、あの文面はどうかと思う。お父様には礼儀を尽くし、わざとわたしの名前を出さないなんて、恨みがましさが見えすいている。文頭の挨拶も、ふたり宛ではなくて、わたしの名前などどこにも見当たらない――それに、なにもかもがあまりにいままでとは違って、感謝の言葉をやたら並べたて、場違いなほどもったいぶった別れの手紙を書くなんて、お父様が変に思うに決まっている。
ところが、そうではなかった。ウッドハウス氏は、エルトン氏の突然の旅立ちに驚き、無事に目的地に着けないかもしれないと恐れるあまり、言葉づかいが変だなどとは思いもしなかった。この手紙は、さびしく宵を過ごす者には役にたった。様々な思いをめぐらしたり、話の種にはなったからだ。ウッドハウス氏は驚きを述べ、エマはいつものようにはきはきと、にこやかに父親の不安を追い払った。
これ以上ハリエットに黙っているわけにはいかない、エマは心を決めた。もう風邪はほとんど治ったようだし、あの紳士が戻ってくる前にもうひとつの病いを治すには、できるだけ時間があったほうがいい。そこで彼女は、さっそく次の日にゴダード夫人の家に、この辛い話をしに出かけた。じっさいはこれは、胸の痛くなる仕事だった。せっせとふくらませた希望はなにもかも消え、エマ自身がエルトン氏に選ばれた女性という不愉快な役回りを演じ、ここ六週間の間、彼女が考え、観察し、信じ、予言したことが、ことごとくぶざまにも外れ、見当違いだったということを認めなければならないのだ。
ハリエットに打ち明けたとき、最初エマが感じた恥ずかしさがすべてよみがえってきた。そして彼女の涙を見て、エマは二度と自分を許すことができないと思った。
この知らせを、ハリエットは健気に耐えた。彼女のだれも責めない、どこまでも純真な気立てと謙虚さという長所が、このときほど素晴らしく思えたことはなかった。
このときエマには、素朴さと謙虚さこそがなにより大切なように思われた。ひとに好かれたり、愛されたりする性格のすべてをハリエットがもっていて、自分にはかけているような気がした。ハリエットは、自分には文句を言う資格がないと思っているのだ。エルトン様のような方に愛されるなんて、もったいないことです。わたしは、あの方にふさわしくありません。ミス・ウッドハウスのように、わたしを買いかぶって、親切にしてくださるお友だちでもなければ、そんなことが可能だとは思いもよらなかったでしょう。
ハリエットは、とめどもなく涙を流した。その悲しみは正真正銘のもので、エマにはなににもまして気高いものに見えた。そして、彼女の話を聞き、愛と思いやりをこめてなぐさめながら、しばらくは真剣に、ハリエットのほうが自分よりどれだけすぐれているかと思い、才能や知性に頼るよりは、彼女を見習ったほうがずっと幸せになれる、と考えたほどだった。
素朴で謙虚になろうにも、彼女の年では遅すぎたのだが、エマはこれからは謙虚で慎重になり、想像をたくましくするのはやめる、というさっきの決意をもう一度固めて、ハリエットのもとを去った。いまや、父親に尽くすことの次に大切なエマのつとめは、ハリエットをもっと喜ばせ、縁結びよりいいやり方で友情の証しをするよう心がけることだ。エマは、ハリエットを≪ハートフィールド≫に連れていき、変わらぬやさしさを見せ、懸命に彼女を楽しませようと努め、本やおしゃべりで、エルトンのことを考えさせまいとした。
すっかり忘れてしまうには時間がかかることはわかっていた。それにエマには、普通こういうことにはいったいどれくらいの時間が必要なのか、よく見当がつかなかったし、エルトン氏などに未練を抱いている女性に同情するには、エマ自身、あまり適当な人物とはいえないのもわかっていた。しかしハリエットは若いし、それにこの先どうにかなる望みもまったくないとなれば、彼が戻るまでにはしだいに落ち着きを取り戻し、三人がたんなる知り合いとして顔を合わせても、人前で心のうちをさらけだしたり、思いを募らせる危険もあまりないだろう。
ハリエットは、エルトン氏を完璧だと思い、容姿でも善良さでも彼にかなうひとはいないと信じていて、エマが予想していたよりずっと深く彼を愛していた。だが、自分が望まれていないとわかれば、ひとはごく自然に、しかもまちがいなくそんな感情からは遠ざかっていくものだから、いつまでも同じ強さで彼を思い続けることはないはずだ。
エマは、エルトン氏も戻ってきたときには、まちがいなくできる限り無関心を装うはずだと確信していた。そうなればハリエットだって、彼の姿を見たり、彼の思い出にふけることを楽しいとは思わなくなるだろう。
三人が同じ土地に住み着いていて、それも身動きが取れないとは、困ったものだ。だれひとりとして越すこともできないし、また、交際相手を代えるわけにもいかない。これからも顔を合わせ、なんとかやりすごしていかなければならないのだ。
ゴダード夫人の学園の雰囲気のせいで、ハリエットにはもうひとつ辛い思いが増える。エルトン牧師は、学園の教師や年長の生徒全員の憧れのまとだった。だからハリエットが、熱が冷めるほど冷静に、またはうんざりするほど率直にエルトン氏のことが語られるのを聞くことができるのは、≪ハートフィールド≫くらいしかない。彼女が傷ついたその場所でこそ、いやされる道もまた見つかることになる。そしてエマは、ハリエットの心がいやされないかぎり、自分の心もまた休まらないと思っていた。
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第十八章
フランク・チャーチル氏は、やってこなかった。約束の日が近づくと断りの手紙が届き、ウエストン夫人の恐れは的中した。彼の言い訳はこうだった。当座の訪問は許されず、「わたくしといたしましては、まことに残念でたまらないのですが、遠からず≪ランドルズ≫に伺える日を心待ちにしております」と。
ウエストン夫人は、慰めようもないほどがっかりした。実際、件《くだん》の若者に会える可能性を夫よりははるかに低く見積もっていたにもかかわらず、落胆は彼よりも大きかった。楽観的な性格の持ち主は、いつも現実に過大な期待をしすぎて、失望もまたそれに見合っているかというと、そうとは限らず、目の前の失敗をあっという間に飛び越え、すぐに次の望みを抱き始める。ウエストン氏は三十分ほど驚き、残念がったものの、そのあとすぐにフランクは二、三ヵ月後に来るほうがずっといいと考えだした。季節にしても天候にしてもよくなることだし、あわてて来るよりは、滞在もずっと長くなるだろう、と。
こう思ったとたん、彼はたちまち元気を取り戻した。しかし、心配性のウエストン夫人には、これからも言い訳と先延ばしが繰り返されるだけとしか思えず、そのときの夫の苦しみを思うと、そのぶんよけいに苦しむことになった。
このときのエマには、≪ランドルズ≫のひとたちを思いやることは別として、フランク・チャーチルが来ないことには、さほどがっかりはしなかった。いまのところ、彼と特別に知り合いになりたいとも思わない。それよりも静かに日々を過ごし、心が奪われるようなものには近づきたくなかった。それでも、いつもと変わらないところを見せなければならないので、ウエストン夫妻との友情にふさわしく、できるだけ関心を示し、ふたりの落胆に温かい思いやりを見せた。
エマはこのことを真っ先にナイトリー氏に報告した。そして、フランクをよこさないチャーチル家の仕打ちに必要なだけ(それが芝居であるだけに、おそらくは必要以上に)文句を言った。それから実際に思ったよりずっと多くのことも話した。このサリーのように狭い社会に、あんな若者を迎えられたらどんなに素晴らしいか。新しい顔を見られるのは嬉しいし、彼が来ればハイベリーあげての大騒ぎになるだろう。そしてもう一度チャーチル家を非難して話を終えてみると、ナイトリー氏がまったく違った意見を持っているのに気づいた。面白いことにエマは、彼女の思いと反対のことを述べるのに、ウエストン夫人が彼女に言った言葉をそっくり繰り返したのだ。
「たしかに、悪いのはチャーチル家なのだろう」ナイトリー氏は冷ややかに言った。「だが、あえて言わせてもらえば、彼はそのつもりなら来られたはずだ」
「あら、どうしてそんなことおっしゃるの? 本人はとても来たがっているのに、伯父様と伯母様が許してくれないのよ」
「彼がどうしても来るといえば、来られるだけの力はあるはずだ。よほどの証拠でもないかぎり、ぼくは信じないね」
「まあ、おかしなひと! フランク・チャーチルさんは、なにかあなたに、人でなしだと思われるようなことでもしたのかしら?」
「人でなしだなんて思っていないよ。ただ、彼が父子の絆をないがしろにして、自分の楽しみ以外のことには目を向けないようになったのは、そういうお手本と暮らしてきたせいじゃないかな。高慢で贅沢で、自分勝手なひとたちに育てられれば、その若者もまた同じようになるのは、ごく当然のなりゆきだからね。フランク・チャーチルが父親に会いたいと思えば、九月と一月までのあいだには都合くらいつけられたはずだ。あの年になって――いくつだったかな?――二十三、四だろう――それくらいのことができないとは思えないね。できないはずがない」
「あなたにとっては、それを言うのも、考えるのも簡単でしょうね。ずっとひとりで好きなように暮らしていらしたんですもの。でも、ナイトリーさん、だれかに頼って生きるのがどんなに大変か、あなたにはわからないんだわ。ご機嫌をとるなんてこと、ご存じないんですもの」
「二十三、四にもなって、心身ともにそれくらいの自由もないなんて、想像もつかないね。金がないわけでもなく、時間がないわけでもない。それどころか両方とも有り余っていて、それをこの国でいちばん下らないところで、好き勝手に使っていることぐらい、みんなの知るところだ。今日はここ、明日はあそこと、方々の海辺の避暑地に顔をだすという噂もよく耳にする。ちょっと前には、ウエイマスにいた。それこそ家を出られる証拠じゃないか」
「まあ、ときにはね」
「かれにとって行くだけの価値があると思うとき、お楽しみが待っているときだけね」
「ひとの置かれた立場をよく知らずに、行動を判断するなんてよくないわ。その家で暮らしてみないかぎり、そのひとの苦労はわからないでしょう。≪エンスクリーム≫の事情と、チャーチル夫人の気性を知らないうちは、夫人の甥になにができるかなんて言えないわ。かなり自由にできるときもあれば、そうはいかないときもあるわよ」
「その気になりさえすれば、いつでもできることことがひとつあるよ、エマ。それは義務を果たすということだ。だましたり、たくらんだりするのではなく、気力と意志でね。父親への心づかいは、フランク・チャーチルの義務だ。約束や手紙からすると、本人も、そうするべきなのはわかっているらしい。だから、気持ちさえあれば、実行できるはずなんだ。義務を知っている男なら即座に、単純に、しかもきっぱりとチャーチル夫人に言うだろう。『あなたがたのためならば、楽しみなどはいつでも犠牲にします。でも、わたしはいますぐ父に会いに行かなければなりません。このたびの結婚に際して、お祝いの言葉を伝えなければ、父が傷つきます。というわけで、明日出発します』と。もし彼がすぐチャーチル夫人に、男らしく断固とした口調でそう言っていれば、反対などされなかったはずだ」
「そうね」エマは笑った。「ただし、もう帰ってこなくてもいい、と言われたかもしれないわよ。だれかの世話になっている若い男性が、そんなことを言うなんて! そう考えつくのはあなたくらいのものだわ、ナイトリーさん。あなたには、あなたとまったく違った立場にいる人間がどんなことを望まれるか、想像もつかないのね。フランク・チャーチルさんが、自分を育て、援助して下さる伯父さんと伯母さんに、そんな口をきくなんて! 部屋の真ん中に立って、大声を張りあげて言えとでもいうんでしょう! そんなことがどうしたらできるの?」
「それは事情によるさ、エマ。物事をわきまえている男にとっては、難しくもなんともないことだ。彼は自分のしていることが正しいと知っているし、宣言は、むろん良識にのっとって礼儀を守ってなされるわけだから、どんな逃げ口上や言い訳より、ずっと彼のためになり、信頼もまた高まるだろう。世話になっているひとたちへの、彼の力もさらに強くなっていくだろう。愛されるだけでなく、尊敬されるようになる。父親に対して正しいことをするからには、きっと自分たちにもそうしてくれる、と信用される。本人だけでなく、伯父夫婦だって、世間のだれにも負けず、彼が父親を訪問すべきだと知っている。訪問を遅らせようといやらしい手を使っても、心の底では自分たちの気紛れに従う甥をよく思いはしない。正しい行いには、だれもが尊敬の念を払うものだ。彼がもし信念にもとづいて、いつも一貫して、きちんとしたけじめをつけさえすれば、いくら伯父夫婦の心が狭いとはいっても、言うことを聞いてくれるはずだよ」
「さあ、どうかしら。あなたは小さい心を曲げて解釈するのがお好きだけど、その小さな心が権威のある、裕福なひとたちの支配下にある場合は、すっかり痛めつけられて、広い心の持ち主に負けず劣らず扱いづらくなるものだわ。ナイトリーさん、あなたがフランク・チャーチルさんの立場なら、さっき彼に勧めた通りのことが言えるし、またできるのでしょう。しかも、かなり立派にね。チャーチル家の人たちは、返す言葉もないかもしれないわ。だってあなたには、小さいころから言いつけを守ったり、長い間従順に従うという習慣がないから、それを破る必要もないんですもの。でも、そういうものを抱えているひとが、いきなり完全に自立して、感謝と敬愛を要求する伯父さんたちを無視するのは、生やさしいことじゃないわ。彼だって、何が正しいかは、あなたと同じくらいしっかり心得ているはずよ。でも、状況が状況だから、あなたのようにはできないのよ」
「それなら、それほどしっかりは心得えてないということだ。ぼくと同じ行動ができないなら、同じ確信を持ってるとは言えない」
「まあ! それは境遇や習慣が違うからよ! もっとわかってあげて欲しいわ。やさしい若者が、子供の時から尊敬していた人たちに真向から刃向かうとき、どんな気持がするだろうって」
「もしいままで、他人の意志に逆らってでも正しいことをしたという経験がないというのなら、きみの言うやさしい若者は、じつに意気地なしだ。その年齢になるまでには、損得など考えず、義務に従うことが身についていて当然だ。子供なら恐がってもしかたないが、大の男となると許せない。物事がわかってくるに従って、伯母たちの権威に潜む下らないものを、思い切って切り捨てるべきだった。父親を軽んじさせようとする最初の試みから、抵抗するべきだった。そうしていれば、今頃はなんの問題もなかったはずだ」
「彼のことでは話が合いそうにもないわね」エマは声を上げた。「まあ、べつに驚くようなことではありませんけど。わたしはフランク・チャーチルさんが意気地なしだなんて、少しも思わないわ。そうではないと確信しているの。いくら相手が自分の息子でも、ウエストンさんが馬鹿げた嘘を見抜けないはずがないでしょう。もっとも、フランク・チャーチルさんはあなたが言う完璧な男性像とは違って、もっと素直で、ひととうまくつきあえる、おとなしい気立てのようね。たぶん、そうよ。それで、損をすることもあるかもしれないけど、得なこともたくさんあるわ」
「そうだ。動くべきときに黙って座っていたり、くだらない楽しみを追うばかりの生活をしたり、自分がその言い訳を見つける名人だと思いこめるという得がね。誓いと嘘でいっぱいの、みごとな美辞麗句を連ねた手紙を書いては、家庭の平和を乱さないと同時に、父親からも文句を言われない、世界一の方法を思いついたと信じ込めるわけだし。まったく、あの手紙には胸が悪くなる」
「そう思うのはあなただけよ。ほかの方はみな、あの手紙で納得したわ」
「さあ、ウエストン夫人はどうかな。あのひとのように敏感で良識があって、母親の立場とはいえ母の愛で目がくらんでいない女性が、あれで納得するとは思えないね。夫人のためにも、いつもの倍も≪ランドルズ≫に気をつかうのが義務で、そうしなければ、ないがしろにされているという夫人の思いは倍になるはずだ。夫人が上流出身だったら、彼は来ただろうし、それにだいいちその場合、彼が来る来ないなどたいして問題ではない。君の友人のウエストン夫人が、これに気づかないほど鈍感だと思うかい? 彼女が今言ったようなことを、いつも心のうちで感じているとは考えないのかい? いいかい、エマ。君の言う、やさしい若者は、フランスなら通じるだろうが、イギリスではだめだ。とても|愛すべき人間《エイミアブル》で、礼儀も愛想も申し分ないかもしれないが、他人の気持ちにたいして、イギリス人らしい思いやりがまったくない。本当のやさしさなど、ひとかけらもないのさ」
「彼のことを悪く思おうと決めているみたいね」
「ぼくが! まさか」ナイトリー氏は、ちょっと不機嫌になった。「悪く思いたいわけじゃない。ほかのひと同様、彼のいいところを認めたいが、容姿以外にいい評判は聞かなくてね。育ちがよく、ハンサムで、人当たりがよく、口先がうまい、という話だけだ」
「いいわ、たとえなんにもいいところがないとしても、ハイベリーでは大切にされるでしょう。育ちがよくて、愛想のいいハンサムな青年なんて、なかなかお目にかかれませんから。そのうえなお、あらゆる美徳まで求めるほど気難しくなってはいけないわ。考えてみて、ナイトリーさん。彼が来たらどんな騒ぎになるかしら? ≪ドンウェル≫とハイベリーの全教区が、たったひとつの話題で持ち切りになるのよ。関心はひとつ、好奇心の的もひとつ、フランク・チャーチルさんだけ。みんな、ほかの人のことなんか考えもしないし、話もしなくなるわね」
「やりこめられてしまったな。彼が会話するに値する男なら、よろこんでそうしよう。そのかわり、おしゃべりの気取りやにすぎないとわかったら、それだけの時間も気もつかいたくないね」
「わたしが思うには、あのひとはだれの趣味にも合わせた話ができて、みんなに好かれたいと思ってるだけじゃなく、本当にそうできるのよ。あなたとは農業の話、わたしとなら絵や音楽の話って具合に、だれとだってうまくやれるわ。どんな話題でもそれなりの知識を持っていて、その場次第で、話についていったり、自分から進めたりして、どちらにしろすばらしい話し方ができる。それがわたしの持っている印象ね」
「では、ぼくの印象も言おう」ナイトリー氏は熱を込めて言った。「彼がそんな男だとしたら、およそ我慢がならないやつだ! なんだって! 二十三歳で、一座の王様で、大物で、百戦錬磨の政治家で、ありとあらゆるひとの性格を読み、自分が優れていると見せつけるためにだれの才能であれ利用して、自分と比べてすべての人が間抜けに見えるよう、ひとをほめちぎる! かわいいエマ、実際にそんな彼に会ったら、君の良識がとても我慢しないと思うよ」
「もう彼の話はしないわ」エマは声を上げた。「あなたは、何でも悪いほうに取るんですもの。わたしたちふたりとも彼には先入観を持ってるのよ。あなたは悪い方、わたしはいい方。じっさい本人が来ないかぎり、いつまでたっても平行線だわ」
「先入観だって! ぼくは先入観など持っていないよ」
「あら、わたしはたくさん持っているけど、ちっとも恥ずかしくないわ。ウエストン夫妻が大好きだから、どうしても彼をひいき目で見てしまうの」
「とにかく、彼は、長いことあれこれ考えなくてはならないほどの人物ではないね」ナイトリー氏が、かなり腹立たしそうだったので、エマはすぐに話題を変えた。でも、なぜ怒っているかは全然わからなかった。
自分とは気性が違うからといって、それだけの理由で若者を嫌うなど、エマがつねづね思っていた心の広いナイトリー氏らしくもない。彼が自信満々だとよくとがめはするが、だからといってエマには、彼が他人の長所を認めないなどとは絶対に考えられなかった。
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第二部
第十九章
エマとハリエットは、ある朝、散歩をしていた。エマにすれば、今日のところエルトン氏の話はもうたくさんだった。ハリエットの悲しみも自分の良心も、もうこれ以上は考えたくない。そこで帰り道では、その話題には触れないよう懸命に努力した。ところが、これでもう大丈夫と思った途端に、またエルトン氏の名が飛び出してくる。冬の間貧しい人たちはさぞや大変でしょうね、などと話しているうちに、急に情けない答が返ってくる。「エルトン様は、貧しい人たちにとてもよくしてらっしゃるわ!」これはなんとかしなくては、とエマは思った。
ふたりはちょうどベイツ母娘の家に近づいていた。ベイツ家を訪ねて大勢で話せばまた違ってくるだろう。この母娘にたいしては日頃から、それくらいの心づかいをする理由は十分にあった。ベイツ母娘はお客が大好きで、エマはあえて彼女のあら探しをする数少ないひとたちから、彼女が訪問をなまけ、ふたりにささやかな楽しみを与えていないと思われているのを知っていた。
ベイツ家に礼儀を欠いていることについては、たびたびナイトリー氏からもほのめかされているし、彼女も頭ではそのとおりだと思っていた。それでも、訪問してもつまらないことには変りはない。時間の無駄だったし、退屈で、おまけに、しょっちゅうベイツ家に出入りしている、ハイベリーの二流三流の人たちと出くわす怖れがあったので、めったには近づかなかった。だが、今は通り過ぎるわけにいかない。エマはとっさに心を決め、ハリエットを誘った。それにざっと日にちを数えてみても、いまならジェーン・フェアファクスから来た手紙に悩まされることもないだろう。
その家は商人の持ち物で、ベイツ母娘は、客間のある階を占めていた。そこがすべてでもあるこのつつましい住まいで、母娘はじつに心をこめ、感謝の念さえもって客をもてなすのだった。もの静かで小ぎれいな老婦人は、一番暖かいところに座って編み物をしていたが、ミス・ウッドハウスにその席を譲ろうとさえした。そして、もっと活発でおしゃべりな彼女の娘は、あれこれ気を使って親切さを示し、訪問の礼を言い、ふたりの靴を心配し、ウッドハウス氏の健康をいろいろたずね、自分の母親について楽しそうに報告し、棚から砂糖菓子をもってきたりしたので、エマとハリエットはあっけにとられていた。「ついさっき、コールの奥様がいらしたんですよ。十分ほど、とおっしゃって。奥様もこれをひと切れ召し上がって、とてもおいしいと言って下さいました。ウッドハウスのお嬢様とミス・スミスも、どうかおひとつ召し上がれ」
コール家の名が出れば、次はエルトン氏だと決まっている。彼らは親しいし、コール氏はエルトン氏がバースに行ってからも手紙を受け取っていた。これからどうなるか、エマには察しがついた。またその手紙の内容を聞かされて、エルトン氏が向こうに行ってどれくらいになるか、あちらでのつきあいはどんなか、行く先々でいかに人気者になっているか、また、式部官のパーティーがどれほど盛大だったかなどの話をなんとかやりすごさなければならない。エマはありったけの関心とほめ言葉で、ここを見事に切り抜け、ハリエットが一言も発せずに済むよう、いつもまっ先に口を開いた。
これは、ベイツ家に入ったときから覚悟していたことだが、いったんうまく切り抜けたからには、もうやっかいな話題に悩まされたくない。そこでエマは、ハイベリーの奥方や令嬢、彼女たちのカードゲームの集まりなどの話でお茶を濁そうと考えていたのだが、まさか、そこでジェーン・フェアファクスの名前まで出るとは、思いもよらなかった。実際エルトン氏の話はさっさと切り上げられて、唐突にコール家の話に移り、それが姪からの手紙の口実になった。
「あら! そうそう――たしか、エルトン様は――舞踏会に――コールの奥様が、バースの舞踏会の話をして下さいまして、しばらく一緒に、ジェーンのことを話して下さチたんです。お見えになると、すぐあの子のことをおききになって。コール家の方々には、そりゃもう可愛がって頂いてましてね。あの子がこちらにいるときなど、奥様には、それはそれは親切にしていただいています。まあ、ジェーンにはどなたにも劣らず、それだけの価値があるにはあるのですが。とにかく、奥様はすぐにこうおっしゃいました。『最近、ジェーンから便りがありまして? まだ手紙が届く時期ではないですわね』『それが、あったんですの。今朝受け取ったばかりでございます』。これを聞いたときの奥様ときたら。あれほどびっくりしたひとは見たことがありません。『そうなの! 本当に! まあ、それはまた。なんと書いてあったか教えてくださいな』奥様はこうおっしゃいました」
エマはたちまち礼儀正しさを発揮し、にこやかにきいた――
「フェアファクスさんから、お手紙があったばかりですの? 本当に嬉しいですわ。お元気なのでしょうね?」
「ありがとうございます。ほんとうにご親切に!」エマの言葉をそのままに受け取って、ジェーンの伯母は、必死に姪の手紙を探していた。「ああ! ありました。このへんにあるはずだと思ってました。うっかり裁縫箱をのせてしまって、見えなくなっていたんです。でも、ちょっと前には持っていましたから、てっきりテーブルの上にあるものとばかり。コールの奥様に読んで差し上げて、奥様が帰られたあとは、もう一度母に読んで聞かせました。なにしろ、母にとってはそれが楽しみでして――ジェーンからの手紙です――何度聞いても飽きないんです。そんなわけで、このへんにあると思ってましたが、やっぱり裁縫箱の下でしたわ。お嬢様は、あの子の話をお聞きになりたいそうですけど、でも、まずはジェーンに代わっておわびしなくてはなりません。とっても短い手紙なんです――たったの二枚で、二枚そこそこなんです。普段なら一枚きっちり書いたあとに、紙を横にして今度は余白に縦に書きこむような子がですよ。よくもこんな手紙が読めるもんだ、って母にしょっちゅう言われます。それに手紙の封を切るたびに、『さあヘティ、あの市松模様を読みほどくのは大変だろうね』って。そうですよね、お母さん? で、わたしが言うんです。もし、ほかに読んでくれるひとがいなければ、お母さんだって何とか読むはずですよ――隅から隅まで――一語残らずわかるまで、にらみ通すでしょうね。それに母の目は、昔ほどよくはありませんが、眼鏡のおかげで、今でもびっくりするほど見えるんです。ありがたいですわ! 神様のお恵みでしょうね! 母の目は、本当にいいんです。ジェーンがこちらに来ると、よく申します。『おばあさま、このお年でこれだけ見えるのだから、昔はとても目がよかったのね。それに、こんなに細かい針仕事までなさって! わたしの目も、おばあさまみたいに長持ちするといいのだけれど』」
これだけの話を恐ろしい早口でまくしたてたので、ミス・ベイツは息が切れてしまった。そこでエマは、フェアファクスさんはきれいな字をお書きになりますね、と一言二言お世辞を言った。
「ありがとうございます」ベイツ老嬢はいたく感激した。
「お目がお高くて、ご自身でもご立派な字をお書きになるウッドハウスのお嬢様にほめて頂けるなんて、こんなに嬉しいことはごさいません。今のお話、母には聞こえないんです。ご存知の通り、ちょっと耳が遠いもので。お母さん」彼女は母親に声をかけた。「聞こえました? ウッドハウスのお嬢様が、ジェーンの字をほめて下すったのよ」
そこでエマは、このひとのいい老婦人が話を聞き取れるまで、さっきの馬鹿げたお世辞が二度も繰り返されるのを聞いていた。その間、あまり無作法にならないていどにジェーン・フェアファクスの手紙から逃れる手はないものか、考えていた。ところが、ちょっとした口実を作ってさっさと失礼しようと決めたとたん、またもやミス・ベイツが話しかけてきた。
「母は耳が遠いといっても、ごらんのようにたいしたことはなくて。何ということもないんですよ。声を上げたり、二、三回繰り返せばちゃんと通じます。まあ、わたしの声には慣れていますから。でもジェーンが話すと、いつだってもっとよく通じるので、びっくりしてしまいますわ。ジェーンはとてもはっきり話すんです! とにかく、あの子が来れば、祖母の耳は二年前からちっとも悪くなっていないと思うでしょうね。母の年齢にしては、それはもう大変なことです。そういえば、前にあの子が来てから、まるまる二年もたちました。こんなに長いこと顔を見なかったのは初めてですので、コールの奥様にもお話ししましたが、今のあの子になにをしてあげれば満足してもらえるかと」
「フェアファクスさんは、間もなくいらっしゃるんですの?」
「ええ、ええ。来週です」
「まあ! それは大変なお喜びですわね」
「ありがとうございます。ご親切に。はい、来週なんです。みなさん驚かれて、やはり親切なお言葉をかけて下さるんです。あの子にすれば、ハイベリーのお友だちに会えて嬉しいでしょうし、お友だちも同じことでしょう。ええ、金曜日か土曜日に。どちらかはわからないそうです。と申しますのも、その頃キャンベル大佐ご自身が、馬車をお使いになるとかで。ここまで送って下さるなんて、本当にいい方々! まあ、いつもそうして下さるんですけれどもね。ええ、ええ、来週の金曜日か土曜日なんですよ。そう書いてきました。こんなわけで、いつになく手紙をよこしたんです。いつになくと言いますのは、普通だったら来週の火曜日か水曜日までは、来なかったでしょうから」
「ええ、わたしもそう思いました。今日はフェアファクスさんのお話はお聞きできないとばっかり」
「まあ、なんて嬉しいことを! ええ、こんなに急に来る話でもなければ、便りはなかったでしょうね。母は、それはもう喜んでおりますの! なにしろ、なにはともあれ三カ月はあの子と一緒にいられるんですから。三カ月、たしかに手紙にそうありました、これからお読みしますわ。事情と申しますのは、キャンベルご夫妻がアイルランドへお出かけになるんです。ディクスンの奥様が、すぐ来てほしいと、ご両親を説き伏せられまして。夏になってから行かれるご予定だったのに、ディクスンの奥様がとうてい待てないとおっしゃったんです。去年の秋のご結婚までは、ご両親のもとを一週間たりとも離れたことがなかったそうですから、外国暮らしは心もとないに違いありません。外国とはいえ、お母様にしきりと催促の手紙を書かれたんです。それともお父様だったかしら。どちらかははっきりしませんが、それもジェーンの手紙でわかります。ご自分はもちろん、夫のディクスン様のお名前でまで手紙を出されて、すぐさま来てくれるよう、お頼みになったんです。そういうわけでついに、ダブリンでご両親と落ち合って、そこから田舎のお屋敷へお連れすることになったそうです。≪ベイリークレイグ≫というのは、さぞかしきれいなところでございましょうねえ。ジェーンが、そこの美しさをあれこれ耳にしておりましてね。ディクスン様からですよ。ほかの方からとは思えませんもの。まあ、求婚のさいにご自分のお屋敷のお話をなさるのは、ごく当たり前ですから。それに、ジェーンはよくおふたりの散歩にご一緒したものです。キャンベル大佐ご夫妻は、お嬢様があまりディクスン様とふたりきりで散歩なさらないよう、とても気を使ってらしたんです。無理もありません。それで、ディクスン様がキャンベルのお嬢様にお話ししたアイルランドのお屋敷のことが、自然とジェーンの耳にも入ったんです。それに、ディクスン様は、ご自分で描かれた何枚かの風景画を見せて下すったと、手紙にありました。ディクスン様はそれはそれは感じのいい、素敵な方なんでしょうね。そんなものでジェーンは、すっかりアイルランドに行きたくなってしまいまして」
この瞬間エマの頭には、ジェーン・フェアファクスに関する、直感的でどきっとするような疑惑が浮かんだ。ジェーン・フェアファクス。そして素敵なディクスン氏。彼女はアイルランドには行かないという。もっと探りをいれてみよう。
「そんなときに、こちらへ来るお許しが出たのは、幸いでしたわね。ディクスンの奥様とは格別に親しいのですから、キャンベル大佐ご夫妻のお供をなさるとばかり思ってましたでしょう」
「まったくその通りでございます。はい。日頃から、なによりもそのことを恐れておりました。あの子が、何か月も手の届かない遠いところへ行って、いざとなっても駆けつけられないなんて、とても我慢できません。ですが、すべてうまくいきました。ディクスン様ご夫妻は、どうしてもジェーンに一緒に来てほしいと思ってらっしゃいます。これはたしかです。ぜひ来てくれ、とたいへん親切で熱心な連名の招待状をいただいたと、あの子が申しておりました。今、その手紙をお読みしますわ。あの子に心を砕いて下さる点では、ディクスン様もほかの方にひけをとらないようでして。まったく素敵な方です。ウエイマスの洋上パーティーで、あの子を助けて下すったんですよ。船の帆だかなんだかが、いきなりぐるぐる回り出して、あの子がすんでのところで海に放り出されそうになったのを、落ち着き払って服をつかんで下さいましてねえ。あの方がいらっしゃらなければ、じっさいどうにもならないところでした。それを考えるたびにぞっとします! でも、その話を聞いてからというもの、ディクスン様が大好きになってしまいましてね!」
「それにしても、お友達がぜひにと招いてらして、ご自分もアイルランドが見たかったというのに、フェアファクスさんはこちらで過ごすことにお決めになったんですの?」
「はい――すべてあの子の気持ちから、あの子自身が決めたことです。キャンベル大佐も奥様も、あの子がこちらに来るのはもっともで、ご自分たちからも勧めるべきだとお考えになりました。とりわけ、故郷の空気を吸ってほしいと思ったんですね。ジェーンは最近、あまり具合がよくなくて」
「それはいけませんわ。でしたら、ご夫妻の判断はお見事だと思います。でも、ディクスンの奥様はひどくがっかりなさったでしょう。そういえばディクスンの奥様は、これといってご器量がよい方ではなく、フェアファクスさんとは全然比べものにならないとか」
「そうなんです! 何て嬉しいことを。たしかにその通りでございます。比べものにはなりません。キャンベルのお嬢様は、まったく不器量で――でも、それはそれはおしとやかで愛らしい方ですよ」
「ええ、そうでしょうね」
「ジェーンはたちの悪い風邪を引きましてね、可哀想に! 十一月の七日から(これからお読みしますね)、どうも具合が悪いようです。風邪にしては長すぎやしません? 前にはこんなことは知らせてきませんでした。わたしたちを心配させないようにでしょうね。あの子らしいことです! 思いやりが深くて! それはともかく、まだまだ風邪が抜けないものですから、きっとキャンベルご夫妻は、里帰りして懐かしい空気でも吸ってくるのがいいとお考えになったんですね。三、四カ月ハイベリーにいれば、すっかり治るだろうと。具合が悪いなら、アイルランドに行くよりここに来る方がどんなにいいかしれません。あの子の看病なら、だれをおいてもわたしたちですからね」
「そうなさるのが一番ですわ」
「そんなわけで、あの子は来週の金曜日か土曜日に来るはずですし、キャンベル大佐ご夫妻は次の月曜日にロンドンをお発ちになって、ホーリーヘッドへ向かわれます。ジェーンの手紙でおわかりになりますよ。あんまり急なことで! お察しでしょう、ウッドハウスのお嬢様。わたしがどんなにうろたえているか! あの子が病気でさえなければいいのですが。やせて、見るに忍びない姿を目にするのではないでしょうか。そのことでは、とても運の悪い目にあいました。まあ、聞いて下さい。ジェーンの手紙が来ると、いつもわたしが目を通してから、母に読んで聞かせます。なにしろ、母が心配するようなことが書いてあるといけませんでしょ。わたしが先に読むのは、ジェーンの願いでもあるんです。そこで今日も、いつものように気をつけて読み始めましたが、あの子の具合が悪い、と読んだ途端、すっかりうろたえて叫んでしまったんです。『どうしましょう! 可哀想にジェーンが病気だなんて!』。それが、こちらを気にしていた母の耳にはっきり聞こえてしまい、悲しいことに母は驚いてしまいました。ただ、読み進みますと、初め思ったほどはひどくはないとわかりました。いまでは、母にたいしたことはないと言ってますし、母もあまり心配しておりません。でも、どうしてあんなに迂闊なことを! ジェーンがすぐ治らないようなら、ペリーさんに来て頂くつもりです。お金のことなんか考えていられません。あの方は気前がよろしいし、ジェーンを可愛がって下さっていますから、たぶん治療費を請求なさらないでしょうけど、そういうわけにもまいりませんからね。奥様やお子さんたちがいらっしゃるんですもの、ただ働きはできませんでしょ。さあ、ジェーンが書いたことを少しお話ししましたから、あの子の手紙を読みましょうね。本人の言葉でお伝えするほうが、どれほどいいかしれません」
「もう、おいとましなくては」エマはハリエットに目配せし、腰を上げた。「父が待っておりますの。おうかがいしたときは、五分ほどで失礼するつもりでしたから。ちょっとお寄りしただけですの。お宅の前を通ったら、ベイツの奥様のご機嫌を伺わずには帰れませんわ。それにしてもお引き留め頂いて、本当に楽しうございました! あいにくですが、もう失礼します」
なにを言っても、エマを引きとめることはできなかった。彼女は幸せな気分でふたたび通りに出た。いやいやながら、あれこれ聞かされ、結局ジェーン・フェアファクスの手紙の中身をまるまる知らされたものの、手紙そのものからは逃げられたのだ。
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第二十章
ジェーン・フェアファクスはベイツ夫人の末娘の独りっ子で、孤児だった。
かつては、某歩兵連隊に属していたフェアファクス中尉と、ジェーン・ベイツ嬢との結婚も名声、喜び、希望、富を誇ったことがあった。だが、今ではすべてが消え、外国で戦死した中尉と、すぐに胸を病み、悲しみにくれたまま夫のあとを追った未亡人の悲しい思い出とともにこの娘だけが残された。
ジェーンはハイベリーで生まれ、三歳で母親をなくし、それからは祖母と伯母の所有物、預かりもの、心のよりどころとしてふたりの愛をほしいままにした。そして一生この地で暮らし、ごく限られた財産の範囲内での教育を受け、美しい容姿や賢さ、心温かく気のいい親戚など、もともと与えられたもの以外には、いい縁故や事態の好転に恵まれることなどまったくないままに成人するように見えた。
だがその運命が、父親の友人の温かい思いやりで一変した。友人とは、キャンベル大佐だ。大佐はフェアファクスを、優秀な士官ですばらしい若者だと高く買っていた。さらに、野営で熱病にかかった時、彼のおかげで助かったと信じていたため、借りもあった。借りを返さなければ、という思いは消えなかったが、帰国して力になれるころには、哀れなフェアファクスが死んでから数年がたっていた。大佐は帰国すると遺児を探しだし、心を尽くした。結婚していたキャンベル大佐には、ジェーンと同じ年頃の娘がひとりいて、ジェーンはキャンベル家の客として長く滞在しているうちに、だれにも愛されるようになった。そして、キャンベル大佐の娘が彼女をとても好きだったことと、大佐自身の本当に役にたちたいという気持ちがあいまって、彼は教育費を全額請け負うと申し出て、承諾され、ジェーンは九歳にならないうちに、すっかりキャンベル家の人間になって、祖母の家は時々訪ねる程度になっていた。
大佐の計画は、ジェーンを家庭教師にすることだった。父親の残したわずか数百ポンドでは、とても自立できない。だが、ほかの道を用意するには、キャンベル大佐の力では無理だ。俸給と官職手当とで、収入はかなりの額だったが、財産は人並みだったし、それも全部娘に譲らなくてはならない。だが教育を受けさせれば、将来まずまずの暮らしができるだけの手だては与えられると思ったのだ。
これが、ジェーン・フェアファクスの生い立ちだった。善意の保護者にゆだねられ、キャンベル家の人たちにずっと親切にされ、一流の教育を授けられて、正直で教養のある人々と暮らすうち、ジェーンは心身ともによい訓練を受け、磨きがかけられていった。また、キャンベル大佐の住まいがロンドンなので、芸事の才能をじゅうぶんに引き出せるだけの優秀な教師にはこと欠かなかった。彼女は性質でも能力でも、大佐の温情に見事にこたえ、十八か十九になるころには、その若さなりに、子供たちを教えるだけの資格をじゅうぶん身につけたのである。
とはいえ、キャンベル家のひとびとは彼女を愛するあまり、彼女を手放したがらなかった。キャンベル家の父親も母親も彼女に独立を促すことはなく、娘はそんなことは耐えられなかった。そういうわけでいやなことは先送りにされた。まだ若すぎるから、とたやすく片づけられ、二番目の娘として家にとどまり、優雅な社会でほどほどに楽しんだり、家庭生活と遊びの均衡を賢く保っていたが、それでも、将来のことは気にかけていた。頭のいいジェーンは、この生活ももうすぐおしまいになるはずだと、冷静に判断していたのだ。
一家の、とくにキャンベル嬢の温かい愛情は、美貌も才能もジェーンのほうがはるかに勝ることを思えば、両者にとって素晴らしいことだった。生まれつきのジェーンの美貌をキャンベル嬢が気づかないはずもなく、彼女の高い知力に両親が目をとめないわけもなかったのだから。だがふたりの関係は、キャンベル嬢の結婚まで変わることはなかった。この縁組は、たびたびひとびとの予想を裏切ってすぐれた者より月並みな者を魅力的に見せるという結婚にはありがちな偶然と幸運のたまものともいえ、キャンベル嬢は、知り合ったばかりの裕福で感じのいい青年ディクスン氏の心をとらえて、幸せに結婚した。だが、ジェーン・フェアファクスにはまだパンを得る道が見つかっていなかった。
これらはすべて、つい最近の出来事だった。不幸なほうの友人が、自活の道に入るための準備をする前に起きたことでもあった。だがジェーンは、自分が独立しようと心に決めていた年齢にはなっていた。ずっと前から、二十一歳になったら、独立しようと思っていたのだ。ひたむきな見習い修道女のように毅然とした態度で、二十一歳で完全に献身し、人生、適度な交際、同じ階級の社会、安らぎと希望など、ありとあらゆる楽しみをあきらめ、一生禁欲生活を続ける決意だったのだ。
この決意に、大佐夫妻は気持ちとしては反対しても、良識では賛成するほかなかった。自分たちが生きている限り、ジェーンはあくせく働くこともなく、いつまでもキャンベル家にいればいい。自分たちとしても、彼女をずっと手元に置ければ幸せなのだが。とはいえ、これはわがままというものだ。いずれ出ていくしかないのなら、早いほうがいいかもしれない。一日でも長く一緒にいたい、という思いに逆らっても、今味わっているような楽しみは与えないほうが親切で賢いことかもしれない、夫妻もようやくそう考え始めたようだ。それでもなおジェーンへの愛は抑えがたく、辛い別れの日を延ばすためのもっともらしい口実があれば、彼らは喜んでそれに飛びついた。ジェーンは、キャンベル嬢の結婚式のあたりから具合が悪かった。夫妻は、普段の体調に戻るまで仕事につくことを禁じた。体が弱く気分にむらがあっては、とうてい教職は務まらないし、たとえ万事絶好調だとしても、ある程度子供を楽しませるには、心身ともに健康という以上のものが要求されるのだから。
アイルランドへ同行しない件については、ジェーンは伯母に本当のことだけを報告していたが、話さなかったこともあったのかもしれない。夫妻の留守中にハイベリーを訪ね、おそらく人生最後の完全に自由な日々を、大好きな、やさしい親戚と過ごす。これは彼女自身が決めたことだった。そしてキャンベル家の人々は、彼らの動機がどんなものであれ、また決めたのがひとりかふたり、また三人であれ、すぐに承諾して、きっと二、三ヵ月故郷の空気を吸ってくれば、体のためにはなによりだろうとも言ってくれた。こういう次第でジェーンが来ることは確実だった。そこでハイベリーは今のところ、長らく待ちこがれていたまったくの新顔、フランク・チャーチル氏ではなく、ジェーン・フェアファクスで我慢するしかなかったわけだ。だが、たった二年の不在では、どれほど新鮮だと言えるだろうか。
エマは悲しかった。好きでもないひとに、三ヵ月も礼儀正しくしなくてはならないとは! いつも望む以外のことをし、するべきこともろくにできないなんて! なぜジェーン・フェアファクスを嫌うのかは、自分でもよくわからなかった。いつかナイトリー氏が言ったことがある。ジェーンが真に洗練された女性だとわかっているからで、本当は君自身がそう思ってもらいたいからだ、と。その時はむきになって反論したが、今ではエマの良心が、あれも決して否定できないのではと反省していた。「あのひととは絶対に友だちになれないわ。なぜだかわからないけれど、あんなに冷たくて打ちとけないひとなんて――わたしの気に入ろうと入るまいと、どうでもいいって顔をして――おまけに、伯母さんはのべつしゃべりっぱなし! それに、あのひとはみんなからちやほやされるわ! そして、わたしとあのひとは親しいはずだとみんなから思われている――同い年だから、お互い大好きに違いないって」これらがエマの理由だった。これだけのことだった。
それはただの毛嫌いにすぎず、勝手に思い込んだ欠点は、どれも空想の中でふくらんでいくのだから、かなりの期間をおいてジェーン・フェアファクスに会ってみると、誤解していたと思わずにいられなかった。そして今、彼女が着いて、二年ぶりに訪問してみると、まる二年間ずっと見くびっていたはずの容姿や態度に、とりわけ心を打たれた。ジェーン・フェアファクスはとても優雅で、それも目をみはるほど優雅だった。優雅さというものを、エマ自身なにより高く評価している。身長はほどよく、だれもが高いとは思っても、高すぎるとは思わないだろう。姿は際だって優美で、太ってもやせてもいない魅力的な肉づきをしていたが、少し具合が悪そうな様子で、その様子を見れば、彼女が将来太るか太らないかは自然とわかるものだ。エマもこれらすべてを感じないわけにはいかなかった。そしてジェーンの顔――彼女の目鼻だち――は、エマが覚えていたよりはるかに美しかった。見事に整っているというわけではないが、たいへん好感のもてる顔だ。黒いまつげとまゆ毛に縁取られた濃いグレイの目は、どこへ行ってもほめそやされ、以前は青白いと言われていた肌も、今はつやがあってきめ細かく、これ以上望めないほど輝いている。彼女は美の具現であり、その美しさのほとんどが優雅さであるからには、エマも自分の主義にもとづき、ほめざるをえなかった――客姿であれ人柄であれ、ハイベリーでは上品なものなどめったに見かけない。ここでは、無作法でさえなければ、優れていることになり、長所にもなった。
つまり、エマは初めての訪問で、二重の自己満足にふけってジェーン・フェアファクスを眺めていた。それは、美しいものを見る喜びと、ひとを公平に見た、という思いで、もう彼女を嫌ったりすまいと心に決めていた。その生い立ち、今の境遇、彼女の美貌を考えるとき、こんな優雅な女性にどんな運命が待っているのか、どう身を落とし、どうやって生きていくのかなどに思いを馳せると、同情と敬意の念があふれてくる。また、いままでジェーンがおかれてきた特殊な状況にたいする興味に加えて、彼女がディクスン氏を愛しているのではないかという、エマの頭にふと浮かんだ思いを重ねあわせると、いっそうその念が強まってくる。その場合、ジェーンが決心した犠牲ほど悲しく、気高いものがあるだろうか。エマは、彼女がディクスン夫人から夫の愛を奪ったとか、最初の頃頭に描いた悪い印象などを喜んで捨てるつもりだった。もし、恋だとしても、ただのひたむきな片思いだったに違いない。きっと友だちと一緒に彼と話をしているうちに、知らず知らず、悲しい毒を吸い込んだのだろう。だからこそ、人間として最高の、純粋そのものの理由でアイルランド行きをあきらめたのだ。それで、すぐにも職について、彼とまわりの人たちからきっぱり別れようと決めたんだわ。
エマは、ほとんどおだやかとも言える、思いやりのある気持ちでジェーンと別れ、歩いて帰る道々、ハイベリーには彼女に立派な暮らしをさせられる若者がいないと思って、ため息をついた。仲を取り持ってあげたいような青年はひとりとしていないのだ。
これは、うっとりするような思いだったが、たいして長続きはしなかった。エマがジェーン・フェアファクスへの永遠の友情を告白してのっぴきならない羽目になる前に――以前の偏見やまちがいを取り消したといえば、ナイトリー氏に「あのひと、たしかにきれいね。きれいどころじゃないわ!」と言うくらいですんでいるうちに、ジェーンが祖母と伯母と一緒に、一晩≪ハートフィールド≫で過ごすためにやってきたのだ。そしてそのとき、エマの過去の腹立たしい思いすべてが、ふたたび頭をもたげたのだった。伯母は相変わらず退屈で、姪の才能をほめちぎるだけでなく、今度は体まで気遣うものだから、いままで以上に退屈だった。ジェーンが朝食に食べるバタートーストがどんなにちょっぴりか、夕食に食べるマトンの一切れがどんなに小さいかなど、微に入り細に入り聞かされ、さらにベイツ母娘のために作ってくれたという帽子や裁縫袋を並べて見せられた。そして、ジェーンにはまたもや腹がたった。音楽を楽しもうと、エマはピアノを弾くよう勧められた。演奏後、当然のこととして彼女はお礼を言ったり拍手をしたりしたのだが、それは公平さを気取って、心が広いところを見せつけたにすぎず、自分はもっと上手に演奏することを巧みなやり方で示しているだけのように思えた。その上、これが最悪なのだが、ジェーンはあまりに冷静で用心深かった! 彼女の本心をうかがうすべがなにひとつない。礼儀という上着にくるまり、絶対に危険を冒すまいとしているらしい。うさんくさく、怪しいほど自分の殻にこもっている。
どんな話題でもそんな態度を崩さなかったが、ウエイマスとディクスン夫妻のこととなるとなおさらだった。ジェーンは、ディクスン氏のひととなりや、彼との交際をどれほど大事にしているか、ディクスン夫妻が似合いの夫婦か、などについて、決して本心を見せまいとしているようだった。だいたいにおいてほめ、言葉だけはなめらかでも、なにひとつ詳しいことは言わない。だが、ジェーンの用心深さは逆の働きをした。彼女はそんな用心などしないほうがよかったのだ。なぜならエマはジェーンのわざとらしい態度を見てとり、初めの推測を蒸し返したからだ。きっと、あのひとには片思い以上の秘密があるんだわ。ディクスン氏はたぶん、ふたりの友人のうちで、ひとりからもうひとりに乗りかえようとしていたのね。それとも、一万二千ポンドの相続金を目当てに、初めからキャンベル嬢と決めていたのかしら。
その打ちとけない態度は、もうひとつの話題でも同じだった。ジェーンとフランク・チャーチルは、同じころにウエイマスに滞在していた。ふたりが多少面識があったことは、みんなが知っている。だが、エマは彼の本当の姿をちっとも聞き出せなかった。
「ハンサムな方ですの?」
「みなさま、とてもすてきな方だと思ってらっしゃるようです」
「感じのいい方かしら?」
「そういう評判でしたわ」
「良識があって、知識が豊富そうでした?」
「海水浴場や、ふつうのロンドンの集まりでお会いするかぎり、そこまではわかりません。チャーチル様より長くおつきあいしている方々でさえ、自信を持って言えるのは、礼儀作法の点くらいですから。あの方の物腰には、どなたも満足されたようです」
エマは、ジェーンが許せなかった。
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第二十一章
エマはジェーンが許せなかった。腹の虫がおさまらず、むしゃくしゃしていたのだが、そばにいたナイトリー氏はそんなエマに気づかず、ふたりの女性がともにいろいろ気をくばったり、にこやかにふるまっていることしか目に入らなかった。翌日ナイトリー氏は、ウッドハウス氏との打ち合わせに、≪ハートフィールド≫を訪れ、昨夜のパーティーはなにからなにまで素晴らしかったと言った。ウッドハウス氏がその場にいたので、あからさまなほめ言葉こそ口にしなかったが、エマには真意が伝わるよう、率直にほめた。ナイトリー氏は以前から、エマがジェーンを不当に扱っているのを残念に思い、ようやくそれが改善されたのを見て、心から喜んだのだ。
「とても楽しかった」用件も済み、ウッドハウス氏の了解も得ると、ナイトリー氏は手早く書類を片づけ、早速こう切りだした。「心ゆくまで楽しませてもらったよ。君とミス・フェアファクスが、うっとりするような音楽を演奏してくれたからね。それにしても、一晩中ゆったり腰を下ろして、君たちのような若い女性からもてなしを受けることほどぜいたくなことがあるだろうか。時には音楽、時にはおしゃべりと、いろいろ心づくしをしてもらった。ミス・フェアファクスもさぞかし楽しんだことだろう、エマ。まったく、昨晩の君は完璧だった。ほら、彼女にたくさん弾かせてやったろう。うれしかったよ。なにしろ、ベイツ夫人の家にはピアノがないので、きっと満足しただろうね」
「ほめていただいてうれしいですわ」にっこり笑ってエマは言った。「でも、≪ハートフィールド≫にいらっしゃったお客様に、あまり失礼がなかったらいいのですが」
「エマ、そんなことは断じて――」ウッドハウス氏がすぐさま口を開いた。「失礼があったなんて、そんなことは断じてないよ。おまえの半分だって礼儀正しく、行き届いた人間などいないのだから。仮に失礼があったとしたら、それはおまえが少し気を使いすぎることだ。昨夜のマフィンだが、あれだって一回りもすればじゅうぶんだと思っていたよ」
「そうですとも」ナイトリー氏もほとんど同時に口を開いた。「失礼なところなどは、ひとつとしてなかった。礼儀の点でも、わかってあげるという点でもね。それほどの君だから、ぼくの言う意味も分かるね?」
しかし、エマの抜け目のない顔はこう語っていた。あなたのおっしゃることくらい、分かりすぎるくらい分かっています。しかし、実際口にしたのは、「ミス・フェアファクスは本当に打ちとけない方ね」という言葉だった。
「いつも言っているように、たしかに彼女には打ちとけないところがある――ほんの少しだがね。でも君なら、きっとすぐにあの壁を越えることができるだろうし、また、彼女にとってもそれがいい。あれは、自信のなさからくるものだから。それが思慮深さからくるのなら、尊重しなければならないが」
「あなたは、彼女を自信がないひとだと思っているようですけど、わたくしそうは思いませんわ」
ナイトリー氏はエマの近くに席を移し、「昨晩がつまらなかった、なんて言うつもりなんじゃないだろうね」と言った。
「まあそんな。だって、よくあれだけ辛抱して、いろいろなことが質問できたものだと、自分をほめたいくらいですもの。それに、得られた情報の少なさを思うと、いろいろ考えさせられて面白かったわ」
「がっかりだ」彼はそう言ったきり、何も言わなくなった。
「昨晩はみなさんに楽しんでいただけたと思っているよ」ウッドハウス氏が穏やかに言った。「わたしは愉快だった。ただ、暖炉の火がちょっと強すぎるように感じたことがあってね。が、椅子をほんの少し、まったくほんの少しだけ後ろに下げたら、気にならなくなった。ミス・ベイツはいつものようによくおしゃべりをして、上機嫌だったね。少し早口ではあるが、本当に人当たりのいいひとだ。ベイツ夫人のほうも、感じこそ違うが、いいひとでね。わたしは古くからの友人がたいへん気に入ってます。それにしても、ミス・ジェーン・フェアファクスはまったく美しい女性だ。美しいうえ、非常に礼儀正しい。彼女にもじゅうぶん楽しんでもらえたことだろう、そうだね、ナイトリーさん。なんといっても相手はエマなのだからね」
「まったくです。それはエマにとっても同じだったでしょう。ミス・フェアファクスがお相手をしてくれたわけですから」エマはナイトリー氏の残念そうな様子を見て取り、今だけでもそれを慰めたいと思って、気持ちをこめてこう言った。「彼女は本当にエレガントナ、ひとを惹きつけて離さないところがあります。わたしいつも、賞賛の眼で見ていますの。だから、心からお気の毒に思っています」
ナイトリー氏はこれ以上表しようがないというほど、満足げな顔をした。だが、彼が口を開こうとする前に、ベイツ家の人々に思いを巡らせていたウッドハウス氏が言った。「気の毒に、ベイツ家のひとたちはたいそう不自由な暮らしをしているようだ! 本当にいたわしい。だから、なにかにつけ、珍しいものがあれば少しだけでも持っていかせてはいるのだが、できることにも限りがあってね。いましがたも、子豚をしめたので、あちらへ腰肉か脚肉を届けるよう、エマが手配したはずだ。量はたいしたことはないが、たいへん上質の肉だよ。まあ、≪ハートフィールド≫の豚肉に並ぶものはないからね。たかだか豚肉には違いないが。で、エマ、あちらではうちで料理するように、脂身は一ミリも入れずに厚く切って、フライにするのをご存じかな。焼いたりするのはもってのほかで、ローストポークなんていうのは胃にもたれるからね。思うんだが、もし、調理方法を知らないのなら、脚肉を届けたほうがよくはないかね、エマ」
「後ろの四分の一をまるまるお届けしておきましたわ。お父様もそうお望みだろうと思いましたので。脚肉のほうは塩漬けになさるでしょう。腰肉はあちらのお好みで調理していただけば――」
「それはいい。わたしは思いもつかなかったが、そうするのが一番いい。ただ、脚肉に塩を使いすぎないようにすることだ。ちょうどうちのサールがするようにじゅうぶんに煮て、かぶやサトウニンジンなどを添えてほどほどに食べれば、健康にも悪くはない」
「エマ」ナイトリー氏が声を上げた。「ちょっとした知らせがあるよ。君はニュース好きだろう。こちらへ来る途中、耳にしたことだが、きっと興味があると思ってね」
「ちょっとした知らせですって! ええ、いつだって興味がありますわ。いったいどんなお話なの?――まあ、どうしてそんなに笑ってらっしゃるの。それにどこでお聞きになったの? ≪ランドルズ≫で?」
彼は、やっとのことで、
「≪ランドルズ≫ではない。近ごろあの方面には行ってないからね」と答えるのが精一杯だった。というのはちょうどそのとき、ドアがあいて、ミス・ベイツとミス・フェアファクスが入ってきたからだ。ミス・ベイツは感謝の気持ちでいっぱいで、そのうえどっさりニュースを抱えていたため、どちらを先に話したらいいものか分からないようだった。ナイトリー氏はこれで、話す機会を逸してしまったことを悟った。もうひと言だって、しゃべるチャンスは回ってこないだろう。
「まあ、ウッドハウス様、今朝のご機嫌はいかがでいらっしゃいますか。ウッドハウスのお嬢様、わたくし本当にびっくりしましたのよ。あんなに素晴らしい豚肉を。なんて気前のいい方でしょう。それはそうと、お聞きになりまして。エルトン様が結婚なさいますの」
エマはここしばらくエルトン氏のことを思い出す暇もなかったので、その知らせにびっくり仰天して、思わずはっとして顔を赤らめてしまったほどだ。
「わたしのニュースというのもそれだったんだよ。君には興味があると思ってね、エマ」ナイトリー氏はそう言うと、エマと彼の間に何かあったに違いないとでもいうように、にやりとした。
「まあ、ナイトリー様はどちらでお知りになりましたの?」ミス・ベイツが大きな声でたずねた。「本当にいったいどちらで? ナイトリー様。というのも、コール夫人にお手紙を頂いてから五分もたっていませんのよ。ええ、五分以上はたっていません、そう、多くても十分とはたっていませんわ。帽子をかぶって、外套もはおって、さあ出かけようとしたところへ――豚肉のことでパティーにもう一度念をおしておきたいことがありましたので、中に戻りましたが。そしたら、ジェーンが廊下に立っておりまして――そうだったわね、ジェーン。なにしろ豚肉を塩漬けにする器がないって、母がそれはそれは心配するものですから、わたくし、ちょっと見てくるわ、と言ったんです。そうしたら、ジェーンが『わたしが、かわりに行きましょうか。伯母様は少し風邪を引いていらっしゃるし、パティーは台所で洗い物をしていますから』と言ってくれましてね。わたしが『まあ! ジェーン』と言ったところに、ちょうど手紙が届きました。それで、わかっていますのは、お相手がミス・ホーキンズとおっしゃる方で、バースのお生まれということだけ。それにしても、ナイトリー様は、どうやってこの話をお聞きになったんです? だって、コール夫人はご主人からそのことをお聞きになって、それからすぐにわたくしのところへ手紙をお書きになったんですよ。ミス・ホーキンズという方は――」
「わたしは一時間半前に、用事があってコール氏のお宅にお邪魔していたんです。部屋に入っていくと、彼がちょうどエルトン君の手紙を読んでいるところで。すぐに見せてもらいました」
「まあ! それはそれは。これほど興味深いニュースは、どこを探したって見つからないと思っておりましたのに。それにしてもウッドハウス様、あんなにたくさんいただいて。母がよろしくと、それはもう何度も何度も申しておりました。本当によくして下さって、顔向けもできないと」
「≪ハートフィールド≫の豚肉は――」ウッドハウス氏が答えた。「ほかのどんな豚肉より優れているから、わたしにとってもエマにとっても、お届けできてこれほど嬉しいことはないよ」
「まあ、ウッドハウス様、母が申しますとおり、あなた方はわたくしどもにご親切すぎますわ。たいした財産もないのに、欲しいものがことごとく手に入るという人間がいるとしたら、それはきっとわたくしどものことですわ。『われらのさだめはよきものを継承せり』とでも申しましょうか。ところでナイトリー様、あなたはお手紙を実際にご覧になったのですね。それで――」
「手紙は短いうえ、用件だけしか書いてありませんでしたが、嬉しくてたまらないといった様子でした。まあ、当然のことですがね」ここで彼はちらりとエマのほうを見た。「『幸運なことにわたしは』とあって、それから――。あいにく正確な文章は忘れてしまいました。もっとも、覚えておくほどのものでもありませんがね。内容は、先ほどあなたがおっしゃったとおり、エルトン君がミス・ホーキンズと結婚するということでした。どうやら、話はまとまったばかりのようです」
「エルトンさんが結婚されるですって」エマは驚きから覚めると、真っ先に言った。「あの方なら、さぞかしみなさんから祝福を受けることでしょうね」
「彼は、身を固めるにはまだ若いよ」これがウッドハウス氏の意見だった。「そんなに急ぐことはないのに。今までだって何不自由なくやっていたのだから。ここにだって、いつでも喜んで迎えていたよ」
「わたしたちに、新しいご近所ができますわね、お嬢様」とミス・ベイツが言った。「母はそれはもう喜んでおりますのよ。女主人のいない牧師館なんて、気の毒でならないと申しておりましたから。本当に素晴らしいニュースですわ。そういえばジェーン、あなたはエルトン様にお会いしたことがなかったわね。なら、それほどお目にかかりたいと思う気持ちも分かりますよ」
しかし見たところジェーンには、心を奪われるほどの好奇心はないようだった。「ええ、わたくしエルトン様にはお目にかかったことがありません」ジェーンは答え、こう続けた。「エルトン様は背が高くていらっしゃるのですか?」
「それはだれに質問するかによりますわ」エマが叫んだ。「お父様なら『イエス』とおっしゃるだろうし、ナイトリーさんなら『ノー』とお答えになるでしょうね。ミス・ベイツとわたくしなら、ちょうどいいとお答えしますわ。ミス・フェアファクス、もう少しここにいらっしゃったら、エルトンさんが完璧さの基準でいらっしゃることがよくお分かりになるわ。容貌のうえでも、お人柄のうえでも」
「まさにそのとおりです、お嬢様。ジェーンにもじき分かるでしょう。あの方はまさに最上の殿方です。でもね、ジェーン。覚えておいでかもしれませんが、わたくし昨日言いましたでしょう。あの方はペリーさんとぴったり同じ背の高さだって。ミス・ホーキンズという方は、優れたご婦人にちがいありませんわ。エルトン様の特別のお計らいで、母は一番前でお説教が聞けるんですの。ちょっと耳が遠いものですから。いえ、たいしたことはないのですが、とっさの場合は不自由します。ジェーンはキャンベル大佐も耳が遠くていらっしゃると言っておりましたが……。大佐のお考えでは入浴がいい、それも熱いのがいいということです。でもジェーンは長くは効かないと申しておりますが。それにしても、キャンベル大佐という方は、わたくしどもの天使です。それから、ディクスン様もたいへん魅力ある方とお見受けしております。あちらのご家庭にふさわしい方です。それにしても、よい方々が結ばれるというのは、本当に幸せなことですわね。よい方というのは、いつもそういうめぐりあわせになるものです。こちらにはエルトン様とミス・ホーキンズ、それにコールご夫妻もいらっしゃいます。ほんとにいい方たちで。それにペリーご夫妻も。わたくし思いますに、ペリーご夫妻ほど幸せなご夫婦はいらっしゃらないのではないでしょうか。そう思われませんこと、ウッドハウス様」そう言って、ミス・ベイツはウッドハウス氏のほうに顔を向けた。「ハイベリーのように素晴らしい土地はありませんわ。わたくしいつも申しているのですが、本当にご近所に恵まれておりますもの。ウッドハウス様、うちの母の何よりの好物は豚肉ですの、それも腰肉をローストしたものが」
「ミス・ホーキンズはどんな方で、エルトンさんとはどれくらいつきあわれたのかしら」エマがたずねた。「きっと、なにも分かっていないのでしょうね。普通に考えれば、それほど長いおつきあいではなさそうですもの。エルトンさんがあちらにいらしたのは、ほんの四週間前のことですから」
それについては、だれも知らなかった。エマは少し考え込んで、また続けた。
「ミス・フェアファクス、あなたは先ほどからずっと黙っていらっしゃるのね。きっと、この知らせにとても興味をおもちになったのでしょうね? だってあなたは最近、こういった話題を身近でたくさん経験なさっているのですから。ミス・キャンベルのご結婚には、とくにいろいろとかかわったことでしょうね。そうなると、エルトンさんとミス・ホーキンズに無関心だなんて、言わせませんわ」
「実際エルトンさんにお目にかかれば、もっと興味がわくとは思いますが――」ジェーンは答えた。「お会いすればそうなるものと、信じております。それに、ミス・キャンベルが結婚なさってから、もう数カ月になりますから、印象は薄らいでいるかもしれません」
「お嬢様がおっしゃるとおり、あの方がお発ちになってちょうど四週間です」とミス・ベイツが言った。「そう、昨日で四週間――ミス・ホーキンズね。わたしはいつも、あの方のお相手はこちらのどなたかお若い女性だと、思っておりましたのよ。ええ、コール夫人も以前そんなことを耳打ちしておられました。でも、わたくしすぐこう申しましたのよ。『まさか。エルトン様はそれはたしかにご立派な方には違いありませんが。それにしても――』つまり、わたくしこういうことにかけて、それほど目が利くほうだとは思っておりませんし、そんな振りをするつもりもありません。ただ、目の前にあるものを見るだけのことです。でも、エルトン様が大望をお抱きになったとしても、だれも不思議には思いませんわ。お嬢様は、気持ちよくわたくしにおしゃべりを続けさせて下さっていますね。これが罪のないおしゃべりなのをご存知でしょうから。そう、そう、ミス・スミスはどうしていらっしゃいますか? もうすっかりお元気になられたようですが。最近お姉様からお便りはありまして? ああ、それからあちらのお子様たち。ジェーン、わたしがいつも、ディクスン様と、ジョン・ナイトリー様がよく似てらっしゃると思っているのを知っていたかしら? 容貌が、ということですけど――背がお高くて、お顔つきもああいう感じで、それにあまりお話好きではいらっしゃらなくて――」
「伯母様、違いますわ、おふたりは少しも似ていらっしゃいません」
「まあ、それはおかしいわね。でもお目にかからないで、どんな方かと見当をつけることなど、普通できませんものね。わたくしなにか考えつくと、たちまち早合点してしまうたちですの。ディクスン様は、その、厳密に言うと、ハンサムな方ではないということかしら」
「ハンサムですって、とんでもない、全く違います。見るからに無骨な方ですわ。以前にお話ししましたでしょう」
「でも、ミス・キャンベルは夫君が無骨でいらっしゃるのを、お認めにならないとか。そしてあなた自身は――」
「まあ、わたくしの判断などなんの価値もありません。だって、いったん関心をもちますと、どなたもよいお顔立ちに思えてくるのですから。ただ、さきほどあの方のことを無骨だと申しましたのは、みなさんのご意見を代弁しただけなのです」
「ねえ、ジェーン、わたくしたちもうおいとましなくては。空模様も怪しいし、おばあ様も気を揉んでいらっしゃるでしょうから。お嬢様、とてもよくしていただいて。でも本当においとましなくてはなりません。それにしてもよいお知らせでしたこと。わたくしちょっとコール夫人のところへ寄って参ります。でも三分と長居するつもりはありません。それからジェーン、あなたはまっすぐうちへお帰りなさい。雨の中を歩くなんて、とんでもないことですから。でも、ハイベリーに来たおかげで、この子の加減も良くなったようです。ありがとうございました。本当に感謝いたします。ゴダード夫人の所に寄るつもりはございませんの。といいますのも、あの方、煮た豚肉以外はお好きでないそうなので。手を加えた脚肉なら、話は別ですが。ウッドハウス様、それではごきげんよう。まあ、ナイトリー様もお帰りになりますの? それはそれは。ジェーンが疲れるようでしたら、お手を貸していただけますね。――エルトン様とミス・ホーキンズね――ええ、それでは失礼いたします」
ふたりきりになると、ウッドハウス氏は若者が結婚を急ぐこと、そのうえよそ者と一緒になることをしばらく嘆いていた。その間エマは、頭の半分で父の言うことを聞き、残りの半分でエルトン氏の結婚について、彼女なりの考えを巡らせていた。エルトン氏の結婚が決まったということは、エマにとっても歓迎すべきニュースだった。彼が長いこと苦しまなかった証明となる。ただ、ハリエットには気の毒な話だ。彼女はきっと悲しむだろう。突然ほかの人からその話を聞かされるのを避けるためにも、先にわたしから話をしなくては。いま、ハリエットのために望むことといったらそれだけだ。そろそろ彼女が訪ねてきてもおかしくはない時間だ。途中で、ミス・ベイツに会うようなことになったらどうしよう! 雨が降り出してきたので、ミス・ベイツはゴダード夫人宅で足止めをされているかもしれない。そこで、なにも知らないハリエットがこの話を聞いたら――。
雨は大降りだったが、すぐやんで、それから五分とたたないうちにハリエットがやってきたが、興奮で顔を赤くしている。なにか心騒ぐことでもあって、急いで駆けつけて来たようだ。その証拠に、彼女はエマの顔を見るなり、「ああ、ミス・ウッドハウス。なにがあったと思われます?」と叫んだ。エマは黙って話を聞いてやるのが一番と思い、好きなようにハリエットにしゃべらせておいた。話というのはこうだった。
「三十分前に、ゴダード夫人の家を出ました。いまにも雨が、それもかなり降りそうで心配だったのですが、その前に、こちらへうかがうことができるかもしれないと思って、できるだけ急ぎました。それでも、ドレスを仕立ててもらっている店まで来ると、中に入って様子をききたくて。でも、そこには三十秒もいなかったと思います。すぐに外に出ると、もう雨が降りだしていましたが、どうしようもありません。そのまま急いで走って、フォードさんの店に入って雨宿りしました」
フォード氏の店というのは、大きさからいっても、流行の点でも、ハイベリーきっての店で、主にウールやリンネルなどの布地を扱っていたが、同時に服飾小間物も売っていた。
「どうしようかと思いながら、そこで十分ほどじっとしていました。そのときです。突然あるひとが店に入ってきたのです。本当になんという偶然でしょう。でもあのひとたちはいつも、あそこで買い物をしていますから。そうです、エリザベス・マーティンと彼女のお兄様だったんです。ミス・ウッドハウス、考えてもみて下さい。わたしもう少しで倒れてしまいそうでした。本当にどうしたらいいのか分かりませんでした。エリザベスは入り口近くに座っていたわたしに、すぐ気がつきました。でも、お兄様のほうは傘をたたむのに手こずっていて、わたしには気づかなかったようです。エリザベスはたしかにわたしを見たと思うのですが、すぐに目をそらして知らん顔しました。そしてふたりとも、店の奥のほうに行ってしまったのです。わたしはそこに座ったままでした――ああ! あのときの惨めな気持ちといったら! 恐らくこの服と同じくらい真っ青な顔をしていたと思います。でも雨が降っていたので、出て行くこともできなくて。出て行けるものなら、あの店以外ならどこでもいいと思ったほどでした。それなのにミス・ウッドハウス、とうとう彼がこちらを振り返って、わたしに気づいたようなのです。買い物していた手を止めて、ふたりで何かささやき合っていました。きっとわたしのことを話していたんです。そしてわたしに話しかけるよう、エリザベスを説得していたのだと思います。(そうお思いになりません? ミス・ウッドハウス)――というのも、すぐにエリザベスがやって来て、そう、ちょうどわたくしの前まで来て、ご機嫌いかが、と声を掛けてきたのです。わたしさえよければ、握手さえしそうな様子でした。でも、なにもかもが以前とは違った感じでした。彼女は変わったように見えました。それでも、できるだけ親しくしようと心がけているようでした。わたくしたち握手をして、しばらく立ち話をしましたが、自分がどんなことをしゃべったのか、少しも覚えていません。とても震えていて。ただ覚えているのは、彼女が、会えなくなってとても残念だ、と言ってくれたことです。身にあまる言葉でした。
ああ、ミス・ウッドハウス、わたしがどんなに惨めだったか。そのときにはもう雨が上がり始めていたので、是が非でもそこを出ようと覚悟を決めました。すると――考えてもみて下さい――彼がこちらに歩いてくるではないですか。ゆっくりと、そう、自分でもどうしたらいいか分からないような感じでした。わたしのところまで来ると、挨拶をし、わたしもそれに答えました。しばらくじっと立ったままでしたが、それはそれは辛くて、なんとも言えない気持ちでした。それから勇気を振り絞って、雨も上がりましたから行かなくては、と言って店を出ました。でも三ヤードも行かないうちに、彼が走ってきて、≪ハートフィールド≫へ行くつもりなら、コールさんの馬屋を回ったほうがいいと教えてくれたんです。近道は雨でぬかるんでいるはず、だと。ただそれを言うだけのために、わざわざ走ってきてくれたんです。ああ! わたしは死にたくなってしまいました! 心からお礼を言って――それだけは言わなくては、と思いましたから――そのあと彼はエリザベスのところへ戻り、わたしは馬屋のほうを回って来ました。たぶん、来たと思います。でも、どこをどう歩いて来たのかぜんぜん覚えていません。ああ! ミス・ウッドハウス。あんな目にあわなくてすむのなら、どんなことでもします。でも、彼があんなに親切にしてくれて、なんだか嬉しい気もしています。エリザベスに対しても同じ気持ちです。お願いです! ミス・ウッドハウス、わたしになにか言って、気持ちを楽にさせて下さい」
そうしてやりたい。エマは心から思った。だが、すぐにはなにを言っていいのかもわからなかった。しばらく落ち着いて考える必要がある。エマ自身、心が騒いでいたのだ。あの若者と妹の行為は、ほんとうの誠実さから来ているようで、ふたりを気の毒に思わずにはいられなかった。ハリエットの話からすると、彼らの行為には、傷ついた愛情と細やかな思いやりとがないまぜになっているように思える。だがハリエットは前にも、彼らを善意あふれる、尊敬すべき人物と信じていた。だから、こんなことくらいで、マーティン家とはつきあわないほうがいいという事実が、変わるわけでもない。こんな問題にわずらわされるほうが愚かなことだ。もちろん彼は、ハリエットを失って残念に思っているだろうし、家族もまた同じだろう。野心も、また愛情も、消えてしまったのだから。恐らく彼らは、ハリエットとつきあうことで、出世することを夢見ていたのだろう。それに、ハリエットの観察にどれほど信用がおけるものだろう? なんでもすぐに喜んで――洞察力などほとんどない。そんな彼女が賞賛したからといって、どんな意味があるのだろう?
エマは必死で頭をひねり、結局、ハリエットの身にふりかかった出来事は、どれも取るに足らないことで、あれこれ悩む価値もないと信じさせて、彼女を元気づけることに決めた。
「今は苦しいでしょうけど」エマは言った。「あなたの態度はとても立派だったわ。でも、もうすんだことよ。それにあのことがあって以来初めて出会ったという意味では、同じことは二度と起こらないわ。起こるはずがないでしょ。だからあれこれ考えるのはよしましょう」
ハリエットは「本当にそうですわね。もう考えるのはよします」と答えたが、あいかわらずその話はやめなかった。ほかのことをしゃべる余裕がなかったのだ。そこでエマは、ハリエットの頭の中からマーティン一家のことを追い払うため、やむなく先ほどのニュースを持ち出すことにした。エマにしてみれば、できれば細心の注意を払って話してやるつもりではいたのだが。なぜなら、気の毒なハリエットを見ていると、エルトン氏への思いがこんな形で終わったのを、喜ぶべきなのか、腹をたてるべきなのか、あるいは恥ずかしく思うべきなのか、面白がるべきなのか、エマ自身でさえ分からなかったからだ。
しかし、話を進めるうちに、エルトン氏の「力」は次第によみがえってきた。初めハリエットにはピンと来ないようで、昨日、あるいは一時間ほど前に聞かされていれば、まちがいなく見せたと思われる関心を示さなかった。が、やがて彼女の頭はエルトン氏の結婚のことでいっぱいになった。エマの話がまだ終わらないうちに、彼女は夢中で話し始めた。そこには幸せなミス・ホーキンズに対する興味や驚き、そして無念さや苦痛といった複雑な感情がこめられていた。そのためマーティン家のことは、すっかり頭から消し飛んだようだった。
先ほどのような出会いがあったことを、エマはむしろ喜ぶ気持ちになった。おかげで最初に受けるはずだったショックがやわらいで、その影響が長続きする心配もなくなった。ハリエットが今の暮らしを続けてさえいれば、マーティン家の人々がわざわざ足でも運ばないかぎり、彼女に近づくことはない。今までだって、彼らはハリエットに会いにくるだけの勇気も、許しの心も持ってはいなかった。なぜなら、ハリエットが兄の申し込みを断ってからというもの、妹たちはゴダード夫人のところにも顔を出さなくなったのだ。だからなにがあろうと、あるいはどんな力が働こうと、ハリエットが彼らにまた偶然会うまでには、一年ほどの年月が過ぎていくことだろう。
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第二十二章
人は、特殊な状況にいる人間に対してことさら好意をもつものである。たとえば若者が結婚するとか死ぬとかすると、必ず好意をもって語られる。
ハイベリーでは、ミス・ホーキンズの名前が初めて話題に上ってから、一週間もたたないというのに、聞こえてくるのはほめ言葉ばかりだった。ミス・ホーキンズは美人で優雅な上、教養にあふれ、気だてもいいらしい――人々はそう噂しあった。そのため、エルトン氏がこれからの幸せな日々を自慢するため、そして妻となるひとの素晴らしさを伝えるため、ハイベリーに戻ってきても、残されていたのは彼女の洗礼名を教えたり、だれの曲を主に演奏するのかを伝えたりする以外にはなかった。
エルトン氏はたいへん幸せになって戻ってきた。ハイベリーを出たときはうちひしがれ、絶望しきっていたのだが――当てにしていた望みが、それも希望をもってもいいような出来事が立て続けに起こった後、無惨にも砕かれてしまったのだから無理もない。彼は自分にふさわしいと思っていた女性を失ったばかりか、自分よりずっと低いレベルの女性をあてがわれたことに気づき、ひどく憤慨してハイベリーを後にした。しかし戻ってきたときには別の女性との婚約が決まっていた。手に入ったものは失ったものより優れていると思うのが世の習いで、彼にとっては、今度の相手はもちろん、初めに想いを寄せた女性より優れている。彼は戻ってきて、見るからに陽気で満足していた。そのうえやる気じゅうぶんで、気ぜわしい様子もあった。ミス・ウッドハウスのことなど気にも止めず、ミス・スミスのことは完全に無視した。
オーガスタ・ホーキンズには、類まれな美貌と頭脳明晰という、ありきたりな美点に加え、独立できるだけの財産もあった。数千ポンド、すなわち通例一万ポンドと称される財産を持っていて、生活していく上で都合がいいだけでなく、威厳まで加わることになる。ここに至るまでの話は事細かに伝えられた。彼は決してあきらめずに、計画どおり一万ポンドの財産を持つ女性を得たのだ。それもあっという間に。初めて紹介されてから一時間もたたないうちに、ふたりははっきり意識できるほどお互いへの関心を持つようになった。
エルトン氏はコール夫人に、結婚に至ったきっかけと過程を語ったが、それは大変輝かしいものだった。偶然の再会から、グリーン家での夕食、その後のブラウン氏の家のパーティーにいたるまで急展開で、交わしあう微笑みや、時として見せる赤面が、ふたりにとってますます重要な意味を持つようになり、お互いを意識し、顔を合わせては胸をときめかせた。こうして、ミス・ホーキンズはいともたやすくその思いの虜《とりこ》になって、俗にいえば、喜んで彼のものになることを望んでいたので、自尊心も慎重さもどちらも満足させられる結果になった。
彼は財産と信奉者、つまり好運と愛情を得て、なるべくして幸福な男性となった。自分に関することと、興味があることだけを話し、祝福されることを期待し、すすんでひとのからかいを受け、心から満足そうな笑いを浮かべて、土地の若い女性たちと話をした。二、三週間前には、もっと丁重で控えめな態度で接していたはずなのだが。
結婚式はそう遠くない日に取り行われることになった。ふたりは自分たちの好きなようにことを進め、必要な準備だけすればよかった。そして、エルトン氏は再びバースに出かけていった。だれもが、今度戻ってくるときには、婚約者を連れてくるだろうと期待していたが、コール夫人のほのめかしたところによれば、まんざらはずれているわけでもなさそうだった。
エルトン氏が滞在していた短い間、エマはほとんど彼に会わなかったが、例のこと以来最初の対面だけは果たして、ほっとしていた。ただ、相変わらず彼の態度には、怒りと傲慢さが見え、人間的にはちっとも向上していないという印象を受けた。実際、どうして以前は感じのいいひとだと思っていたのか、不思議でならない。それに、彼を見るとひどく不快な気分になったので、耐えることによって人間的に成長するという目的以外には、二度と会いたくないとも思った。それでも彼の幸福は祝福した。ただ、彼に会うと胸が痛むので、二十マイルも離れたところで幸せになってくれるのは、なんともうれしかった。
エルトン氏はこれからもハイベリーに住み続けるわけだが、その悩みは、彼が結婚してしまえば軽減されるにちがいない。なによりむだな心配をしなくてすむし、気まずさも薄れるはずだ。つきあいかたが変るとしても、エルトン氏にはもう夫人がいるのだということを口実にすれば、だれにもとがめられることなく、ごく自然に、以前のような親密なつきあいをしなくてもすむようになる。それはまた、礼儀正しいつきあいの再開でもあるわけだ。
エマは、エルトン夫人そのものについては、たいして価値を認めてはいなかった。エルトン氏にはじゅうぶんなひとだろうし、ハイベリーにとってもそうだろう。まあ、きれいで、教養もあるとはいえ、ハリエットと比べれば、たぶん見劣りするはずだ。彼女が良い親族を持っているのではないかということに関しても、全く心配などしていなかった。エルトン氏は自分の地位を鼻にかけ、ハリエットを軽蔑したが、結局彼だってたいしたものは手に入れられなかったのだ。その点に関しては、すぐにも明らかになるだろう。ミス・ホーキンズがどういう人物か、まだはっきりとは分からないが、どういう生まれかぐらいは分かるはずだ。一万ポンドという財産は別にしても、彼女がハリエットより優れているとは思えない。家名も血統も親族も、たいしたものではないだろう。
ミス・ホーキンズは、ブリストルの家に生まれたふたりの娘のうちの、下の娘だった。父親は商人で、その商売から得る利益もごく普通のものだったらしいから、商売の品位のほども、あまりたいしたものではなかったのだろう。ミス・ホーキンズは、冬は毎年バースで過ごすのが習慣だったが、実家はブリストルにあって、それも街のど真ん中にあった。数年前に両親が亡くなり、残っているのは法律関係の仕事に携わっている叔父だけだったが、はっきり言って、法律の仕事をしているという以外、尊敬できるようなものはなにひとつなかった。彼女はこの叔父と一緒に住んでいた。あくせく働くだけの弁護士で、おそらく成功するだけの才覚がないひとなのだろうと、エマは推測した。親族関係で誇れるものがあるとしたら、それは全て姉のおかげだった。彼女はさる紳士の玉の輿に乗り、現在ブリストル近くに居を構え、馬車を二台も所有するような暮らしをしていた。これがミス・ホーキンズの背景のしめくくりであり、彼女の栄誉のすべてでもあった。
この件についてわたしがどう思っているか、ハリエットに伝えることさえできたら! 元はといえば、ハリエットの恋心はわたしがそそのかしたものだ。それなのに! 恋をあきらめさせるのはなんと難しいことだろう。ハリエットの心の隙間を埋めているひとの魅力は、話をして取り除けるようなものではない。ただし、エルトン氏のかわりにだれか別の人物、ということは可能かもしれない。彼としてもそれを望んでいるはずだし、これほどはっきりしていることもない。こうなればロバート・マーティンでもいい。それ以外、彼女を癒す方法はないのではないかと、エマは恐れた、ハリエットはいったん恋に落ちたら、いつまでもその恋を引きずるタイプだ。それに、かわいそうに! エルトン氏が再び現れたため、彼女はいっそう惨めな状態に陥っている。いつもどこかで彼の姿を垣間見なくてはならないのだ。エマが彼に会ったのは一度きりだが、ハリエットは一日に二度も三度も、「たまたま」彼と顔を合わせ、「たまたま」彼とすれ違い、「たまたま」彼の声を聞き、「たまたま」彼の肩を見かけ、「たまたま」空想の中に彼が現れては、驚いたり、思いを巡らせたりしながら、彼への想いを募らせているのだろう。そのうえエルトン氏の噂は絶え間なく耳に入ってくる。というのも、彼女は≪ハートフィールド≫にいるとき以外は、エルトン氏を完璧だと信じ込んでいるひとや、彼について議論するのがなによりも好きなひとたちの中にいるからだ。そのため、エルトン氏の身辺にすでに起きた出来事や、これからの暮らし――収入、召し使い、家具など――についてのあらゆる報告、あらゆる憶測が、ハリエットの心をかき乱すことになる。彼が賞賛されればされるほどハリエットの関心も増し、心の傷が常に新たにされる。また、ミス・ホーキンズがいかに幸福であるか、そして、エルトン氏がいかにミス・ホーキンズを想っているかという噂――たとえば彼が家のそばを歩いているときの様子やら、帽子のかぶり方などすべてが、どんなにミス・ホーキンズを愛しているかの証明になるということなどを、繰り返し聞かされることで、彼女の気持ちはいっそう苛々させられるのだ。
もしこれが罪のない娯楽で、ハリエットの心を惑わしてしまったという自責の念や苦痛がなかったなら、エマはハリエットの心の動きを面白いと思ったろう。彼女の心は、ときにはエルトン氏、ときにはマーティン家によって占められる。そしてそれぞれが、互いを抑制する役目を果たすこともあった。エルトン氏の婚約話を聞いたため、マーティン家の人々に出会って興奮していた心が静まり、数日後エリザベス・マーティンがゴダード夫人宅を訪れたことで、エルトン氏の婚約の痛みが少しは和らげられた。そのときハリエットは家にいなかったのだが、心のこもった手紙が残されていた。それはハリエットをほんの少し責めてはいたが、親切な心配りにあふれていた。そしてエルトン氏本人が現れるまでは、彼女の頭はその手紙のことでいっぱいで、お返しになにをしたらいいかずっと考え、ひとには言いたくないようなことまでしようか、とさえ思っていた。だが、そのような思いもエルトン氏の出現で、すっかりどこかへ押し流されてしまった。彼がいる間は、ハリエットの頭からマーティン家のことはすっかり消えていた。エルトン氏がバースに向かうちょうどその日の朝、エマは、彼女の苦しみを少しでも軽くするためには、エリザベス・マーティンが訪問してくれたお返しをするのがなによりの薬だと判断した。
どのような形でお返しをするのがいいのか、なにが必要で、どうするのがいちばん安全なのか、これは、考えれば考えるほど疑問がわいてくる問題だった。もしこちらに招くということになれば、招いておきながら、マーティン家の母娘たちを無視するなど、恩知らずもはなはだしい。そういうことがあってはいけないわけだが、そうでなければ、また交際が再開される危険性もある。
いろいろ悩んだあげくエマは、ハリエットにマーティン家を訪問させるのがいちばんいいと思った。ただし、彼らの分別を期待してのことだが、その訪問が単なる儀礼的なものだとわかってもらえるような方法でなければならない。まずハリエットを自分の馬車に乗せ≪アビー・ミル≫で降ろし、その間自分は少し先まで馬を走らせ、すぐまた彼女を呼びに戻る。そうすれば、彼らが狡猾にも過去に触れ、昔を懐かしんだりする時間を与えずにすむし、これからどのようなつきあいをすればいいのか、はっきり示すこともできる。
エマにはこれ以上の名案は思いつかなかった。ただ心の片隅で、この案には、どこか気のとがめる、うわべはつくろっても、恩知らずななにかがあると感じていた。それでもほかにどうすることもできない。こうでもしなければ、ハリエットがどうなるか分かったものではないのだから。
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第二十三章
ハリエットは訪問にあまり乗り気ではなかった。というのも、エマがゴダード夫人宅まで迎えにいくほんの三十分前に、不吉な星のめぐりあわせか、思いもかけない場面に遭遇したからだ。ハリエットは偶然にも「フィリップ・エルトン牧師、ホワイトハート、バース」と表書きされたトランクを、目撃してしまったのだ。トランクは、肉屋のカートに積み込まれ、駅馬車のくる道まで運ばれるところだった。ハリエットは頭の中が真っ白になって、トランクとその行き先以外、なにも考えられなくなっていた。
それでも彼女は出かけた。農場に到着すると、正面玄関まで続く砂利道のはずれで下ろされた。砂利道の脇はリンゴの並木になっている。去年の秋にはあれほど目を楽しませてくれたその風景を見て、ハリエットの心にわずかではあったが、動揺がよみがえってきた。ハリエットと別れたときエマは、彼女が不安げな好奇心であたりを見回しているのを見て、初めの計画通り、ここには十五分以上長居させないことを決心した。そして、今は結婚して≪ドンウェル≫に住んでいる、昔の召し使いのところで時間をつぶそうと馬車を進めた。
かっきり十五分たつと、エマは白い門のあるマーティン家まで再び馬を走らせた。ハリエットは、興奮した若者に付き添われるようなこともなく、エマの呼び出しに応じてすぐ出てきた。彼女はひとり砂利道を歩き、ミス・マーティンが、見るからに儀礼的な挨拶を述べて戸口で見送っていた。
ハリエットは心が乱れ、すぐにははっきりした説明ができなかった。しかし話から推測して、訪問がどんなものだったか、どんなに辛い思いをしたかはじゅうぶん理解できた。ハリエットの相手をしたのはマーティン夫人とふたりの娘たちだけだったが、最初は彼女たちもハリエットをどう扱っていいか分からなかったらしい。冷淡ではなかったにしても、態度はあいまいで、話題もごくごく平凡なものだった。だが突然、マーティン夫人が『ミス・スミスは背が伸びましたね』、と言い出してから、話がはずんで、態度も打ちとけてきた。昨年の九月、ちょうどその同じ部屋で、ハリエットはふたりの友人と一緒に身長を測ってもらったのだ。窓のそばの羽目板には、鉛筆書きの印と覚え書きが残っている。身長を測ってくれたのは、ロバートだった。四人はそれぞれに、その日のこと――時刻や、その日居合わせたメンバーのことを思い出して同じ様な気持ちにひたって、同じく残念に思い、理解し合っていたあのころに戻りたいと願って、再び元の関係に戻ろうとしていた(エマがにらんだ通り、そのとき、ハリエットはだれにもまけず心を許し、幸福だったようだ)。だが、馬車が再び現れ、すべては終わった。そもそもその訪問の仕方、短すぎる時間が決定的に思われた。たった半年前、六週間というもの感謝の気持ちで共に過ごしたマーティン家の人々に、たった十四分の時間しか与えられないとは! エマはそんな場面をすべて心に描いて、マーティン家の人々が恨むのも、ハリエットが苦しい思いをするのもあたりまえだと思った。これは決してほめられたやり方ではない。もしマーティン家をもっと高い身分に引き上げることができるものなら、エマはどんなことでもしたし、どんな苦しみにも耐えただろう。彼らは元々立派な人たちなのだから、ほんの少し身分を高くすればじゅうぶんなのだ。しかし現実は現実で、こうするほかになにが出来ただろう! 後悔などはしない。ハリエットとマーティン家は、別れさせなくてはならない。しかし、そうするのはいまのエマにとってさえ辛いことだったので、ほんのわずかでもいいから慰めが必要に思えて、≪ランドルズ≫を回って帰ることを思い立った。エルトン氏だのマーティン氏のことで、すっかり気分が悪くなっていた。是が非でも≪ランドルズ≫で元気を回復する必要がある。
それはいい思いつきだった。だが、≪ランドルズ≫に着くとすぐ、「ご主人様と奥様はご不在です」と告げられた。ふたりはだいぶ前に出て、召し使いによれば、恐らく≪ハートフィールド≫に行かれたのでは、ということだった。
「ああ、ついてないわ」≪ランドルズ≫を出ながら、エマは叫んだ。「それで今度はすれ違いになるんだわ、きっと。ああ、くやしい! 本当に、こんなにがっかりしたことってないわ」エマは馬車の背にもたれながら、ぶつぶつ不平を言ったり、そんな自分を叱ったりと、少しずつ交互にそんなことをしていた。素直な人間ならば、このような心の動きはごくまともだろう。やがて馬車が止まったので、エマは顔を上げた。止めたのはウエストン夫妻で、エマに話しかけようと馬車から降りてきた。ふたりの姿を見て、エマは嬉しくてたまらなかったが、ウエストン氏が近づいてきて、次のように告げると、嬉しさは倍増した。
「ごきげんいかがかな、エマ。ミス・スミス、あなたは? さっきまでお父様のところへお邪魔していたのですよ。お元気そうでなによりでした。実は息子のフランクが、明日やって来るのです。いや、今朝手紙が届きましてね。明日の夕食前には、まちがいなくあの子に会えるでしょう。今日はオックスフォードだそうですが、これから二週間まるまるこちらで過ごせるらしい。ええ、こうなると思ってました。これがもしクリスマスだったら、三日と滞在できなかったでしょうから。クリスマスに来られなかったのはむしろ幸いです。これからは気候も良くなって、あの子にはおあつらえむきだ。晴れて、乾燥した好天が続きますからね。ここでの生活を楽しんでくれると思いますよ。なにもかも、わたしたちの願った通りになりました」
この知らせが嬉しくないはずがなく、ウエストン氏の幸せそうな顔を見ると、こちらもつられて嬉しくなってくる。それに、控えめではあるがウエストン夫人が夫と同じくらいこの知らせを喜んでいるのを見て、フランクがやって来るのがよりたしかに思えた。ウエストン夫人が確信している以上、エマも信じることができ、夫妻が喜んでいるのを心から嬉しく思って、疲れきった心がたちまち元気を取り戻してきた。古くさい過去は来たるべき未来の中に沈んでいった。そして一瞬、エルトン氏のことなど、もう二度と話すまいと思った。
ウエストン氏は、息子の旅について≪エンスクーム≫と取り決めたあれこれを、エマに聞かせてくれた。それによると、旅の行程や手段はすっかり息子任せで、これからの二週間も息子の自由ということだった。エマは話を聞き、笑ってお祝いの言葉を述べた。
「≪ハートフィールド≫へもあの子を連れてまいりますよ」話の最後にウエストン氏はこう言った。
エマは、夫人がウエストン氏の腕に手をかけるのを見たように思った。
「もうおいとましましょう、あなた。お嬢さんがたを、お引きとめしているんですよ」夫人が言った。
「ああ、そうだね」氏はエマのほうに顔を向けながら、「でも、|あんまり《ヽヽヽヽ》すばらしい若者を期待されては困ります。|わたしの《ヽヽヽヽ》話を聞いただけなんですから。まあ、平々凡々な青年だとでも言っておきましょう」しかし、氏のきらりと光る目には、言葉とは裏腹な思いが宿っていた。
エマはそれには全く気づかないふりをして、あたりさわりのない返事をした。
「明日、わたしのことを思い出して下さいね、エマ。四時ごろです」別れ際、夫人はいくぶん不安そうに、それもエマだけに言った。
「四時! いや、三時ということだって有り得る」氏が素早く夫人の言葉を修正して、いいことづくめの出会いはこれで終った。エマはとても幸せな気持ちになり、何もかもが違って見えてきた。ジェームズと馬も、さっきの半分ものろのろしてはいない。通りの生け垣では、ニワトコが今にも芽ぶきそうだった。ハリエットのほうを振りむくと、そこにさえ、なにか春を思わせる穏やかなほほえみが浮かんでいた。
「フランク・チャーチルさんはオックスフォードをお通りだそうですけど、バースも通るのでしょうか?」とハリエットがたずねたが、それはちょっと問題だった。
地理の知識も心の平安も、いちどきに学べるものではないが、今のエマには、両方とも、いつかは自分のものになると思えた。
楽しみにしていた日の朝がやってきた。ウエストン夫人の忠実な生徒たるエマは、十時にも十一時にも、そして正午にも彼女からの言いつけを思いだしていた。「心配性のわたくしの友よ」自分の部屋から出てきたエマは、階段を下りながら心の中でこう呼びかけた。「自分のことは後回しにして、いつもみんなのことばかり気にかけている友よ。今ごろ少しそわそわしながら、彼の部屋に出たり入ったりしているのでしょうね。どこにも見落としがないかどうか、確認して回っている様子が目に浮かぶわ」広間を通り抜けると、時計が十二時を知らせた。「今十二時ね。これから四時間、あなたのことをずっと考えていますからね。明日の今ごろには、いえ、もう少し遅くなるかもしれないけど、みなさんでここを訪ねてきてくれるでしょう。きっと彼を連れてくるわ」
客間のドアを開けると、そこには父と一緒にふたりの紳士が腰を下ろしていた。ウエストン氏と息子のフランクだ。彼らはほんの二、三分前に着いたばかりだった。ウエストン氏のほうは、どうして息子が予定より早く到着したのか、説明もすんでいない状態だったし、ウッドハウス氏のほうも、馬鹿丁寧な挨拶とお祝いを長々と続けている最中だったので、部屋に入ったエマも一緒に紹介され、驚くやら喜ぶやらだった。
長いこと噂の的であり、興味の対象だったフランク・チャーチルが、エマの目の前にいる。実際こうやって対面してみると、彼に向けられた数々の賞賛も、それほど大げさには思われなかった。フランクは本当に美しい青年で、背も高く、雰囲気も礼儀正しさも全て非の打ち所がない。顔立ちには、あちこちに父親ゆずりの気質や快活さが見られ、頭の回転も速く、分別もあるようだった。これならすぐに気に入るわ、とエマは思った。態度には育ちのいい気安さが見え、気安く話しかけられる雰囲気を持っていた。そのことはフランクが、初めからエマと親しくなるつもりでやって来たことや、事実すぐに親しくなれるだろうということを物語っていた。
フランクは昨夜≪ランドルズ≫に着いた。当初の予定を変更して、朝早くから起きだし、夜遅くまで馬を飛ばした。おかげで半日も早く着いたのだ。エマはその熱意がうれしかった。
「だから昨日言いましたでしょう」ウエストン氏は大喜びだった。「きっと予定より早く来るって。昔のことを思い出しましたよ。旅に出れば先を急がずにはいられない気になって、ことは予定より早く運ぶものです。それに、そろそろ来てもいいと思うその前に、友人宅を訪れるのは、旅に要するどんな苦労よりも大きな喜びですから」
「ええ、そういう楽しみに思う存分ひたることができて、本当に嬉しいです」とフランクは言った。「でも、そうまでしたいと思う家はそんなに多くはありません。でも、わが家に戻ってくるのです、どんな事をしても早く着きたいとは思いました」
フランクが「わが家」という言葉を使ったので、ウエストン氏は満足そうに息子を見た。彼は自分を感じよく見せる術を心得ている、エマは確信した。その確信は次に起こったことで、よりいっそう強くなった。フランクは≪ランドルズ≫の様子にたいへん満足し、とても手入れの行き届いた家だとほめた。≪ランドルズ≫はかなり小さな家だったのだが、それを認めようとはせず、立地条件やハイベリーへの道、ハイベリーそのものも賞賛した。そして、≪ハートフィールド≫についてはほめちぎった。かねてからこの土地には「ふるさと」だけが持つある種の懐かしさがあり、ずっと訪れたいと思っていたとも言った。なら、なぜ、今までその快い感情にひたらなかったのかしら、エマはふと思った。しかし彼の言葉が嘘だとしても、聞いていると嬉しくなる。態度に大げさなところがないのがいい。とても楽しそうだし、実際本人がそう言っている。
ふたりの話題はだいたいのところ、つきあいが始まったばかりの人間にふさわしいものだった。フランクのほうからいくつか質問をした。「馬はお乗りになりますか? お上手ですか? 散歩はお好きですか? ご近所とのおつきあいはたくさんありますか? ハイベリーなら社交のおつきあいもじゅうぶんにあるのでは? それにしてもここにはたくさん美しい家がありますね。舞踏会は、そう、舞踏会はありますか? 音楽の集まりはどうでしょう?」
エマがその質問に答え、ふたりが打ちとけてきて、父親どうしも話がはずんでいるのを見て、フランクはその機をうまくとらえ、ウエストン夫人のことを話し始めた。それは、惜しみない賞賛と、父を幸せにしてくれたこと、自分を親切にもてなしてくれたことに対する感謝の気持ちにあふれていた。話を聞いていて、フランクが人を喜ばせる術を知っていること、そして夫人を喜ばせるのは価値あることと考えていることがわかった。エマが思っている以上に、夫人をほめるようなことはなかったが、それは彼が今までのことをほとんど知らないからだろう。フランクはどんなことがひとに喜ばれるかきちんと知っていて、そのほかのことは取上げなかった。「父があの方と結婚したのは、最も賢い選択でした。友人という友人が祝福したにちがいありません。それに、父にあのような祝福された贈り物を与えてくださった御家族こそ、父に最高の恩恵を与えたと、みなされるにちがいありません」
フランクは、夫人の美点もエマのおかげだと感謝しそうにさえなった。だが、エマあってのウエストン夫人というより、夫人こそがエマの人格を形成したのだという一般的な見方をすっかり忘れているようでもなかった。そして最後に、自分のいままで言及を避けてきたことをやっと言う決心がついたかのように、夫人の若さと容姿の美しさに驚いたと言った。
「優雅で気持ちのいい方だとは、こちらへ来る前から考えていたことでした。でも正直に言いますと、あれやこれや考えて、年齢にふさわしい、それなりの容姿をした方だとばかり思っていたのです。夫人があれほど若くて美しい方だとは思いもよりませんでした」
「わたくしから見ますと、ウエストン夫人の完璧さについては、その言葉でもじゅうぶんとは言えませんわ」とエマは言った。「たとえ夫人が十八歳だとおっしゃっても、わたくしなら喜んで聞きますわ。でもあなたがそんなことをおっしゃったと知ったら、ウエストン夫人は、嬉しい喧嘩をしかけてくるでしょうね。ですから、あなたが若くて美しい女性だと言ったことを、彼女に悟られないでください」
「わたしにもっと分別があったらいいのですが」と彼は答えた。「いや、大丈夫です。(深々とおじぎをしながら)夫人と話をするときは、どなたをほめるべきかきちんと考えてからにしますから。大げさだと思われたくはありませんので」
ふたりがお互い親しくなってから、どういうことが起こるのかと、エマはかねがね関心をもっていたが、果たしてフランクもまた同じ気持ちをもったことがあるかどうかは、分からなかった。また、フランクの自分への賛辞を、同じ気持ちでいることの暗黙の了解と考えていいのか、それともエマの気持ちを無視した印と考えるべきなのかも、分からなかった。彼を理解するには、もっとよく観察する必要があるわ。ただし今のところは、好ましい人物のように思われた。
一方、ウエストン氏がどんなことを考えているか、エマには容易に知れた。嬉しそうな顔つきで、こちらをちらちらと見ているのに気づいていたからだ。もう見まいと決心してさえ、氏がこちらの話に耳を傾けているのはたしかだった。
しかし、ウッドハウス氏はそういったことにとんと気の回らないタイプで、洞察力や人を疑うといったことにも全く欠けていた。これはエマにとって、たいへん都合が良かった。幸いなことに、ウッドハウス氏は結婚話に賛成することもなかったが、そういったことを予見する力もなかった。いつも結婚話がまとまると反対するが、早くからその結婚を予見して気を揉むということは一度もなかった。結婚すべきだということがはっきり証明される前に、結婚を思い立つという理性のなさが、ウッドハウス氏にはまるで理解できないのだ。お父様がこういうことに無頓着でよかった、エマは思った。ウッドハウス氏は不快な推量に煩わされることもなく、客人が裏切り行為を働くのでは、と目を光らせることもない。ただ、生来のやさしさと礼儀正しさから、二晩も野宿して過ごさねばならなかった旅はどんな具合だったかとたずね、風邪を引かずにすんだかどうか、心から心配して知りたがった。さらに、すっかり大丈夫だと安心できるのは、次の晩になってからですぞ、とつけ加えるのも忘れなかった。
適当な時間になると、ウエストン氏は帰り支度を始めた。「もうおいとましなくては。干し草の件でクラウンさんに用事があるものですから。妻から頼まれまして、フォードさんの所にも使いをしなくてはなりません。ただし、ほかの者を急がせる必要はありません」だがフランクは、父の暗示通りにするには育ちが良すぎたため、すぐに立ち上がって言った。
「用事でお出かけになるのでしたら、わたしのほうも訪ねたいところがありますから。どうせいつかは顔を見せなければならないので、今からちょっと行ってこようと思います。実は光栄なことに、このご近所の方とお近づきになる機会を得まして。(エマのほうに振り返りながら)ハイベリーか、そのお近くに住んでいらっしゃるご婦人で、お名前はフェアファクスさんとおっしゃいます。家のほうは簡単に見つかるでしょうが、フェアファクスさんというのは正確ではなく、確かバーンズさんとか、ベイツさんとおっしゃったと……。そういうお名前のお宅をご存知でしょうか」
「もちろん、知っているとも」とウエストン氏が叫んだ。「ベイツさんのお宅だったら、先ほど通ったよ。窓のところにいるベイツさんを見かけたほどだ。実に、おまえがフェアファクスさんと知り合いとは。そういえば、ウエイマスで彼女と知り合ったとか言っていたな。いや、すてきなお嬢さんだよ。ぜひとも訪ねなさい」
「別段今日訪ねることもないのですが、ほかの日にしても同じことですし。ただウエイマスで知り合いになったことを考えますと――」
「そうだよ、今日訪ねておきなさい、今日。先送りするのはよくないよ。善は急げ、だ。それからひとつ、忠告しておこう。ここではフェアファクスさんに失礼があるようなことは絶対あってはいけないよ。フェアファクスさんがほかのだれとも同等だったのは、キャンベルさん一家と一緒だったからだ。でも今の彼女は違う。生きるのがやっとという、気の毒なおばあさんと一緒でね。早いうちに訪ねておかないと、侮辱にもなる」
フランクは納得したようだった。
「わたくし、ミス・フェアファクスがお知り合いのことを話しているのを聞いたことがあります。あの方、とっても優雅な女性でしょ」とエマは言った。
フランクは同意はしたが、たいへん消極的な「イエス」だったので、エマは本当にそう思ってるのかしら、という気になった。しかし、ジェーン・フェアファクスを平々凡々な女性というなら、社交界でいう優雅さとは、自分たちの考える優雅さとはまったく異なったものであるにちがいない。
「あの方の物腰に感心されなかったというのでしたら、今日は必ず感心されますわ」エマは言った。「前より素晴らしくなってらっしゃいますもの。お会いになって、お話を聞かれたらいいですわ。いえ、たぶんそれは無理かもしれません。なんといっても、彼女の伯母様が始終おしゃべりされるはずですから」
「あなたは、ミス・ジェーン・フェアファクスとお知り合いなのですな」とウッドハウス氏が言った。最後に会話に加わるのはいつものことである。「いや、フェアファクスさんが感じのいい女性であることは、わたしが保証します。おばあさんと伯母さんを訪ねて、ここに滞在しているのです。おふたりともすばらしい方です。一生涯の友人ですよ。あなたに会われたら、それは喜ばれるでしょう。うちの者をお供させますから、道を教えてもらうといい」
「いえ、それには及びません。父が案内してくれますから」
「でも父上はそれほど遠くにいらっしゃるわけではありません。反対側のクラウンさん宅にお寄りになるだけですから。それにたくさん家があるので、きっとお困りになりますよ。小道沿いに行かなければ、道もぬかるんでいますし。うちの者ならどこを通ればいいか、教えてくれましょう」
しかし、フランクは真剣な面持ちで辞退した。ウエストン氏も大声で息子の意見にならった。「ご親切に、そんなことをして頂かなくても、本当に大丈夫です。この子でしたら、水たまりを見ればそれがなにか分かりますし、ベイツさんのお宅にも、クラウンさんのところから一足跳びで行けますので」
こうしてフランクひとりで行くことを許されると、父親のほうは心を込めて会釈をし、息子のほうは優雅に一礼して≪ハートフィールド≫を辞した。エマはこの交際の始まりをうれしく思った。これから≪ランドルズ≫では一日じゅう、楽しい団らんが続くのだと、心から確信することができた。
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第二十四章
翌朝再び、フランクがやってきた。ウエストン夫人と一緒だったが、彼は彼女もハイベリーも心から気に入ったようだった。ふたりが≪ランドルズ≫でうちとけておしゃべりをしているうちに、運動の時間になって、一緒に散歩をすることにし、行き先はすぐにハイベリーに決まったという。「どこへ行っても、きっと楽しい散歩になったと思います。でも、たとえひとりだったとしても、同じコースをたどったでしょう。さわやかで明るくて、美しいハイベリー、本当に魅力的な土地です」ウエストン夫人にとっては、ハイベリーといえば≪ハートフィールド≫のことで、彼も同じように思っているはずだと、エマは思った。そういうわけで、ふたりはすぐにそこに向かったのだ。
エマはふたりが来るなどとは、思ってもいなかった。というのも、つい先ほどウエストン氏が、息子への賛辞を聞きたくて姿を見せたのだが、ふたりの計画など少しも知らなかったからだ。ちょうどフランクに会いたいと思っていたので、エマは、こちらに向かって仲睦まじく歩いてくるふたりを見てびっくりするやら嬉しいやらだった。ことに、夫人と一緒にいるところを見てみたいと思っていた。フランクが夫人をどう思っているか、彼の態度を見れば分かるはずだ。フランクの態度に失礼なところでもあれば、なにをもっても、それを埋め合わせすることはできない。
だが、ふたりの様子を見て、エマはすっかり満足した。夫人に敬意を表すにしても、単に愛想がいいとか、大げさなお世辞を言っているだけではなさそうだったし、態度も、適切で好ましく、これ以上のものはないと思わせるほどだった。また、彼が夫人を友人として遇したいと思っているのも、自分を気に入って欲しいと思っているのも、よく伝わってくる。時間はたっぷりあるのだから、フランクが本当にそう思っているのかどうか、きちんと見きわめることができるだろう。
三人は一、二時間、一緒に散歩をすることにした。最初は≪ハートフィールド≫の生け垣の周りを歩き、その後はハイベリーを散策した。フランクはどんなものを見ても喜び、ウッドハウス氏が聞いても満足するほどハイベリーのことをほめた。もっと遠くまで足をのばしてみようということになって、フランクは、この土地の住人全員と知り合いになりたい、とまで言い出した。思っていたよりずっと多くのものに賛辞を送り、たくさんのことに興味を示した。
フランクの興味を引いたもののなかには、たいへん好ましく思われるものも含まれていた。彼は父親が以前に住んでいた祖父の屋敷を見たいと言い出し、幼い頃自分の養育係だった乳母がまだ生きていることを思い出して、彼女が住んでいる家を探して通りのはしからはしまで歩き回った。興味の対象のなかには、あまり感心しないものもあったが、ハイベリー全般に対しての好意ははっきりしている。それが、一緒にいたエマやウエストン夫人には好ましく思えた。
フランクのこのような感情を目の当たりにして、エマは、彼には今までこちらに来る意志がなかった、と考えるのは適当ではないと思った。彼は演技をしているわけでもないし、偽善的な告白をしているわけでもない。そう、彼のことを正しく評価していないのは、ナイトリー氏のほうだ。
三人が最初に足を止めたのは、クラウン亭だった。建物自体は取るに足らないものだが、この辺りの宿としては最高とみなされていて、駅馬車用の二頭の馬が二組用意されている。だが、この馬たちは街道を走るより、近隣の用事に使われることのほうが多かった。エマと夫人は、まさかフランクが興味を示し、そこに立ち寄ることになるとは思ってもいなかった。クラウン亭の前を歩きながら、ふたりはあきらかに建て増ししたとわかる、大きな部屋の由来を話して聞かせていた。それはもう何年も前に、舞踏会用にと作られた部屋だった。当時はこの土地の人口も多く、舞踏会も盛んで、実際そのために使われていた。しかし、輝かしい時代は過ぎ去り、もう舞踏会の目的で使われることもない。今はもっぱら、この土地の紳士や半ば紳士と見なされる人々で作った、ホイストクラブのためにだけ使用されていた。フランクはこの話にすぐに興味を示した。舞踏場として使用されていたことが心を捕らえたのだろう。通り過ぎようとはせず、開け放しになっていた大きな窓のところに立ち止まり、中をのぞいて、どのくらいの人数が収容できるのか確認し、もともとの目的が失われてしまったことを残念がった。フランクは、この部屋にはなにも悪いところはないと言って、ふたりがいくら欠点を言いたてても聞き入れようとしない。それどころか、広さも幅も、それに美しさでも、たくさんのひとを楽しませるのにじゅうぶんだと言い張り、こんな場所があるのだから、近隣の住人は冬の間、せめて二週間に一度は舞踏会を開催すべきだと言った。
「ミス・ウッドハウス、どうしてあなたはこの広間の古き良き時代をよみがえらせないのですか。ハイベリーではなんでもおできになるあなたではないですか」
「でも、ハイベリーにはお誘いできるような適当な家族がいませんし、たとえハイベリー近郊の方をお誘いしたとしても、おいでになりませんわ」だが、彼は満足しなかった。まわりにはこんなに美しい家が立ち並んでいるのだからと言って、舞踏会にじゅうぶんな人数を集めることができないというエマの意見には賛成しようとしない。エマは事情を話し、ハイベリーの家庭についても説明してみたが、フランクは色々な階級が入り交じる不都合がどういうことを引き起こすのか、認めようともしなかった。楽しんで、翌朝は、それぞれの立場に戻っていく、そのどこがいけないのですか、と言うのだ。フランクはまるで、踊りに取りつかれた若者のように熱心に説いた。その様子からして、彼にはチャーチル家より、ウエストン家の血のほうが色濃く流れているのを感じて、エマはむしろ驚いた。フランクの活力や精神、また明るい性格や社交的な気質は、父親から受け継いだもので、≪エンスクリーム≫のよそよそしさや自尊心の高さはみじんも感じられない。ただプライドに関しては、あまりじゅうぶんとは言えなかった。様々な階級が入り交じることを全く気にしないのは、優雅さが足りないとさえ言える。だが、フランクはじぶんがたいして重きをおいていない害悪にたいして、正しい判断が下せないだけなのだ。ただただ、生き生きとして、活力にあふれているのだ。
彼はやっと説得されて、クラウン亭の前を立ち去ることにした。やがてベイツさんの家の前を通りかかったので、昨日彼が言っていたことを思い出し、訪ねたかどうかきいてみた。
「ええ、訪ねました」と彼は答えた。「ちょうどその話をしようと思っていたところです。昨日の訪問はたいへんうまくいきました。三人ともに、お目にかかれましたし。でも、あなたからお話をうかがっていて大正解でした。もし、お聞きしてしなかったら、ベイツさんのおしゃべりに死ぬほどうちのめされていたはずですから。そういうわけで、昨日はすっかり長居をする羽目になってしまいました。十分もお邪魔すればたくさんで、それくらいがちょうどいいと思っていたのですが。父には先に帰るからと言っておきながら、おしゃべりが途切れなくて、逃げ出すこともできませんでした。父がベイツさん宅に探しにやってきたとき、(どこにもわたしがいなかったものですから)、かれこれ小一時間もおしゃべりを続けていたと知って驚いてしまいました。ベイツさんはいい方なのですが、わたしに逃げるすきをくれません」
「ミス・フェアファクスの様子はいかがでした?」
「ええ、それがずいぶん体の調子が優れないようで。ただし、不健康そうに見えるなどと女性に言うことが許されるとしたら、の話ですが。こういう表現は許されるものではありませんね、ねえ、ウエストン夫人。女性が不健康そうに見えるなんて、ありえないことですから。でもほんとうのところ、ミス・フェアファクスはもともと顔色が良くないので、不健康そうに見えるのです。血色が悪いんですね、お気の毒に」
エマはこの意見には同意せず、ミス・フェアファクスの顔色について真剣に弁護を始めた。「たしかに顔色がいいとは言えませんが、彼女の血色が悪いなんて、認めるわけにはいきません。肌が柔らかで、繊細で、それが彼女の顔に独特の優雅さを添えています」フランクはそれを素直に聞き入れ、ほかにも大勢のひとが同じことを言っていると認めた。しかしそれでも、健康的なバラ色の頬に勝るものはない、顔立ちがまあまあな女性の場合、健康的な顔色をしていれば、美しさが引き立つ、というのだ。そして顔立ちが整っていて、そのうえ顔色も健康的な場合は――これがどんな効果を上げるかは、わざわざ言う必要もないと。
「ええ。ここで好みをあれこれ言ってもはじまりません」とエマが言った。「でも、顔色をのぞいては、あなたは、彼女をほめてらっしゃいますね」
しかしフランクは頭を横にふり、笑ってこう言った。「わたしはミス・フェアファクスとあの顔色の悪さを、別々に考えることなどできません」
「ウエイマスでは彼女によくお会いになっていたのかしら? いつも、同じメンバーでしたの?」
ちょうどそのとき、三人はフォード氏の店の前に差しかかった。フランクはあわてたように大きな声で、「ああ、これが例の店ですね。みなさんが毎日通うという。父が教えてくれました。一週間に六日、父はハイベリーまで足をのばすそうですが、そのときは必ずフォード氏の店に寄るのだそうです。もしよろしければ、中に入ってみたいのですが。わたしがこの土地の人間、ハイベリーの真の住民であることを証明するためにも。それにはここで何か買わなくてはいけませんね。それで、わたしの市民権も得られるわけです。ええと、手袋はあるでしょうか?」
「ええ、手袋でもなんでも。それにしてもあなたの愛郷心には、敬服しますわ。これでまた、ハイベリーでの名声が高まりますわね。なんといってもウエストン氏のご子息ということで、いらっしゃる前からたいへんな評判だったのですが、ここでフォード氏に半ギニーでもお払いになってごらんなさい。あなたの株はますます上がりますわ」
三人は店に入った。きちんと小分けにされた「男性用ビーバー皮」や、「ヨーク産革製品」がカウンターに並べられる間、フランクは言った。「ミス・ウッドハウス、先ほど聞きのがしてしまったのですが、あなたのおっしゃっていた、そう、ちょうどわたしの愛郷心《アモール・パトリエイ》がどうのこうのと。そのときあなたが何かおっしゃっていたことをもう一度言って頂けませんか。たとえ一般的な名声が高まったとしても、私生活での幸せを失うわけにはいきませんからね」
「わたしはただ、あなたがミス・フェアファクスや、彼女のお仲間とウエイマスでよくお会いになったかどうか、たずねただけですわ」
「あなたのご質問はよく分かりましたが、こういった問題は公平さを欠くと言わなければなりません。どれほどのつきあいかを決定するのは、常にご婦人側の権利ですから。ミス・フェアファクスはすでに、ご自分で説明なさっているのではないですか。彼女が言いたくないことまでコメントをするのは、控えたいと思います」
「まあ。あなたの答えも彼女と同じくらい慎重ですのね。でも、どんなことが話題だとしても、彼女には、こちらが推測しなければ、はっきり分からない部分がたくさんあります。とても控えめで、自分から進んでだれかの話をするようなことはほとんどありません。ですから、あの方との交際について、あなたはお好きなようにお話しになればいいと思います」
「そうなのですか? では本当のことをお話ししますし、これほどわたしの気持ちにかなうこともありません。彼女とはウエイマスでしょっちゅう会っていました。もともとキャンベル家とは少々つきあいがあって、ウエイマスでは同じメンバーで何度も顔を合わせました。キャンベル大佐はたいへん気持ちのいい方ですし、キャンベル夫人も人当たりのいい、やさしい方です。わたしはあのご家族はどなたも、好きです」
「あなたはミス・フェアファクスの境遇をご存知なのですね。そしてどんな運命が待ち受けているかも」
「ええ。(ややためらいがちに)知っているつもりですが」
「ずいぶんとデリケートなお話のようね、エマ」ウエストン夫人がほほえみながら言った。「わたしが同席しているのをお忘れにならないでね。あなたがミス・フェアファクスの境遇についてお話しになると、彼はどう言ったらいいか、分からなくなるわよ。席をはずしましょうか」
「わたしは、ウエストン夫人のことを、たしかに忘れていましたわ」とエマが言った。「わたしのかけがえのない、最愛の友人である夫人のことを」
フランクはそのような感情を理解し、尊重もしている様子だった。
手袋を買うと、三人は店を出た。「先ほどお話しになっていた女性が演奏するのを、お聞きになったことがありますか」とフランクがたずねた。
「聞いたことがあるかですって」エマは繰り返した。「あの方がどのくらいハイベリーに住んでいらっしゃったか、お忘れのようね。ピアノを始めて以来、毎年あの方が演奏するのを聞いていますわ。とてもお上手よ」
「あなたもそう思われますか? いや、しっかりした判断の下せる方から、ご意見が聞きたいと思っていたのです。彼女はとてもピアノがうまいと、つまりなかなかのセンスをもっていると思うのですが、わたしはこういうことにうとくて。音楽は好きなのですが、だれかが演奏するのを正しく判断する力も、また権利もありません。それでも、彼女への賞賛はいつも耳にしていました。特に、彼女のピアノが抜群だということを証明する話があるのです。ある男性が、そう非常に音楽を理解している男性が、ある別な女性と恋に落ちました。婚約して、結婚も目前に控えていました。もし、妻となる女性が上手な弾き手だったら、その男性も、もうひとりの女性にピアノを弾いてくれなどとは頼まなかったでしょう。そして彼女の演奏が聞けるものなら、婚約者の演奏など聞こうともしませんでした。この男性は音楽に才能のある人ですから、これはなにかの証拠になると思うのですが――」
「ええ、なりますわ」エマは、大いに興味を示した。「その音楽を理解しているというのはディクスン氏のことでしょう? あの方たちについて三十分でも、お話を聞かせていただければ、ミス・フェアファクスから半年かかって聞き出すより、ずっとたくさんのことが分かりますわ」
「おっしゃるとおり、ディクスン氏とミス・キャンベルがそのご当人です。そしてわたしは、それがいい証拠だと思うのですが」
「たしかにそうですわ、強い証拠です。本当のことを言って、わたしがもしミス・キャンベルの立場だったら、とても我慢できないほどの証拠ですわ。男性が愛情より音楽に、そう、目よりも耳に興味をもつなんて、許せません。わたしへの思いより、音楽に対して鋭敏な感性をおもちだなんて。それについては、ミス・キャンベルはどうお考えでしたの?」
「相手は、特別な友人ですから」
「まあ、そんなこと慰めにもなりませんわ」エマは笑った。「それなら親しい友人より、見ず知らずのひとのほうがまだましです。見ず知らずのひとなら、二度と同じことは起きませんから。でも、すべてにおいて自分よりうまくこなせる親友が近くにいるなんて、それは不幸なことですわ。お気の毒なディクスン夫人。アイルランドに落ち着かれて、よかったですわね」
「ごもっともです。ミス・キャンベルには楽しい話ではないでしょうからね。でも、彼女は少しも気にとめるふうはありませんでしたよ」
「それはよかったわ。いえ、あるいはよくなかったのかも。どちらかわたしには分かりませんわ。ただ、それが彼女のやさしさであれ、愚かさであれ――友情に篤いか、あるいは鈍感かということですけど――それを感じた方がひとりだけいらっしゃるはずだと、思われますけど。ミス・フェアファクスです。あの方ならきっと、その賛辞を危険な、ふさわしくないものとお感じになったはずです」
「そこまでは、わたしも」
「まあ! ミス・フェアファクスが心のなかでどんなことを考えられたか、あなたからも、ほかの方からも聞こうとは思っていません。あの方以外、だれにも分からないことですから。ただ、ディクスン氏から請われれば、いつでも応じて演奏し続けるようでしたら、他人はいいように解釈するでしょうね」
「おふたりは、完全に理解しあっていたようです」フランクはいきなり早口でしゃべり始めたが、自分を抑えてこう続けた。「ふたりが実際はどういう間柄だったのか、陰ではどういうことになっていたのか、こればかりは分かりません。ただ、見た目は穏やかでした、と言えるだけです。しかし、ミス・フェアファクスを小さい頃からご存知のあなたなら、彼女の性格や、きわどい状況にある場合どういう行動に出るか、わたしより正しい判断が下せるのではありませんか」
「たしかにわたしは、子どもの頃から彼女を知っています。子ども時代も大人になってからも一緒でした。ですから、わたしたちが親しい間柄と思うのも当然です。こちらを訪ねてくればお互い必ず好意を抱き合うと。でもそうはなりませんでした。なぜかは分かりません。おそらく、伯母様やお祖母様、それとほかのたくさんの方から、やたらと賞賛されて、慕われる女性に、わたしの意地悪な心がうんざりしてしまったのでしょう。それから彼女の控えめなところも――万事につけ、あれほど控えめだったら、仲良くしようという気にもなりませんわ」
「それはなんともいやな性格ですね」とフランクが言った。「たしかに都合のいいときもあるでしょうが、気分のいいものではありません。控えめでいれば安全ではありますが、魅力的とは言えませんから。控えめすぎるひとは、だれからも愛されません」
「控えめすぎるところがなくなるまでは、そういうことになりますね。そうでなくなれば魅力も出てきます。でもわたしは、控えめすぎる性質を克服しようと努力するほど彼女の友人でも、仲間でもありません。いままでのミス・フェアファクスとわたしとの友情では、とてもそこまでは出来ません。彼女を悪く言うつもりなどないのです。ただあのように、言葉づかいや態度があまりにも注意深くて、どなたにもはっきりした考えを示さないところを見ると、なにか隠したいことでもあるのでは、と勘ぐりたくなってしまうということは、言えますけど」
フランクの意見はエマと同じだった。長い間一緒に歩いて、かなり似た考え方をするのが分かったので、エマはフランクととても近い間柄になったような気がした。まだ二回しか会っていないなんて、信じられない。フランクは、エマが思い描いていた男性とは違っていた。彼の意見を聞いていると、世間ずれした男性という感じもしなかったし、富に甘やかされたひとという印象も受けなかった。そう、フランクはエマが思っていたよりずっと好もしいひとだったのである。思っていたより穏やかだし、温かい心の持ち主でもある。エマは特に、彼がエルトン氏の家を見物したときの態度に感心した。教会のほかに、家のほうへも行ったのだが、その家について、エマやウエストン夫人と一緒になって欠点をあげたりはしなかった。それどころか、フランクはその家がひどいとは信じようとせず、こういう家に住んでいるからといって、気の毒だと思うのはおかしいとも言った。もし愛する女性と一緒に暮らすことになるなら、なおさらで、快適に暮らすにはじゅうぶんだし、それでもまだ足りないと思うのは大ばか者だ、とも言った。
するとウエストン夫人は笑って、ご自分でなにを言っているのか、おわかりではないのね、と言った。大きな部屋しかご存じないので、その広さのおかげでどんなに便利に気分よく暮らしているか、考えたこともなくて、狭い部屋の都合の悪さなど想像もできないのでしょう、と。だがエマは心のなかで、フランクが自分の言った言葉をしっかり理解していて、立派な動機から、早いうちに身を固めたいと思っているのは明らかだ、と思った。たしかに、家政婦の部屋がないことや、ひどい食料貯蔵室が、どれほど家庭の平和をかき乱すかには気づいていないかもしれない。だが彼は、≪エンスクリーム≫では幸せになれないことを知っていて、だれかを愛したら、早速結婚して所帯をもちたいと願い、そのためには、財産などどうなってもかまわないと思っているように思えた。
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第二十五章
エマの彼に対する素晴らしい評価も少し揺らいだ。フランクが髪を切りにわざわざロンドンまで出向いたという話を聞いたのだ。彼は朝食のとき、突然気まぐれを起こして馬車を呼ぶと、さっさと出かけてしまったらしい。夕食までには戻るということだったが、髪を切る以外、なにか大事な用事があるわけでもなさそうだった。もちろんこういう目的のために十六マイルの道を往復するからといって、悪し様に言うことはできないが、エマにはなんともきざで、ばかげた行為に思えて許すことができなかった。そうした行動は、昨日のフランクに見られた、合理的に計画を立て、買い物はほどほどに控え、自分本位でない温かい思いやりを見せるという点にも一致しなかった。虚栄心や浪費の習慣、目新しいものへの執着、良きにつけ悪しきにつけ、なにかしなくてはいられない落ち着きのなさ、また、父親や夫人の喜びに対する冷淡さ、自分の行動が他人の目にどう映るかほとんど頭にない、等の非難を受けてもしかたがないように思われた。ウエストン氏は息子の行為を、おしゃれな男ですから、の一言で片づけ、かえって面白いことのように話したが、夫人のほうは気に入らない様子だった。それは、この話題をさっさと片づけ、「若い方はちょっとした気まぐれを起こすものです」とコメントする以外、なにも言わなかったことでも明らかだ。
しかしこの小さな欠点をのぞけばこれまでの滞在中、夫人がフランクを良く思っているのはたしかだった。彼がとても気を配って楽しいおしゃべりの相手をしてくれるとか、彼のなかにどれだけいいところを見つけることができるかなど、喜んで話した。フランクはたいへん開放的な性格で、見るからに陽気で快活だった。夫人は彼の意見にまちがったところなど認めず、その多くは正しいと思っているようだった。フランクは≪エンスクリーム≫の伯父に温かい敬意を払い、しょっちゅう彼のことを話題にし、なんでも彼の好きなようにさせてくれるなら、伯父は世界一の人物だとも言った。伯母のほうはどうしても好きになれないが、親切なことは認めており、敬意を払って話そうと努めているようだった。こういった態度はほめてもいいところだ。これで、ロンドンで髪を切るなどという気まぐれさえ起こさなければ、彼はエマが頭の中で勝手に彼に与えた「名誉」にふさわしい人物といえた。その名誉とは、彼がエマの相手とみなされることである。ただしそれは条件付きで、彼が現在、エマに夢中とまではいかないにしても、それに近い状態にいて、エマ自身の無関心さによってのみかろうじて「友人」関係が保たれているのであれば(エマはいまだに、結婚はしないという決意を翻していない)の話だ。
これにまたウエストン氏が、重要な重みを加えた。彼は、フランクがエマのことをほめちぎり、美しくチャーミングな女性だと言っていたとエマに伝えた。こう彼について色々言われると、エマとしては悪く思うこともできず、ウエストン夫人が言ったように、ただ「若い方はちょっとした気まぐれを起こすものです」と言うにとどめておいた。
だが、サリーでのフランクの新しい知人の中に、彼にあまり寛大でない意見を持つ人物がひとりだけいた。ハイベリーや≪ドンウェル≫の人々は、フランクにたいへん好意的で、あれほど笑顔を絶やさず、礼儀正しい挨拶をしてくれる美しい若者なら、取るに足らない気まぐれを起こしてもいいではないかと簡単に水に流してしまったのだが、その彼の笑顔や挨拶をもってしても、非難の手をゆるめない人物がここにいた。ナイトリー氏である。≪ハートフィールド≫でこの話を聞いたナイトリー氏はしばらく黙っていたが、手にしていた新聞を読みながら、「ふん、思っていた通りの、ばかげたくだらない男だ」と独り言を言った。
これを聞いてエマは思わずむっとしたが、ナイトリー氏の様子を見ているうち、ただ自分の感情をやわらげるために言ったので、怒らせようとしたわけではない、と思い直し、そのままにしておいた。
その朝のウエストン夫妻の訪問は、たしかにがっかりするようなニュースも運んできたが、他の点から考えるとありがたいものだった。ふたりが≪ハートフィールド≫にいる間、だれかに相談したくなるような出来事が起こったからだ。それも幸運なことに、ふたりの意見こそ、エマがぜひ聞きたいと思っていたものだった。
それはこういうことだった。コール家は数年前にハイベリーに移り住んできた。友好的で、穏やかなうえ、もったいぶったところもなく、とても善良な家族だった。ただ身分が低く、商売をしていたので、あまり上品な家庭ということはできなかった。最初にこちらにやってきたときは、収入に応じてごく少数のひととつきあい、むだ遣いもせずにつつましく暮らしていたが、この一年か二年の間に幸運の女神が微笑み、ロンドンの商社が大きな利益を上げ、収入もかなり増えた。財産も増え、見識も高くなるにつれて、一家はもっと大きな家に住みたい、もっと多くのひととつきあいたいと思うようになった。屋敷を建て増し、たくさんの召し使いをおき、全てのものに金をかけた。財産や生活様式に関して言えば、≪ハートフィールド≫に次ぐ家になったのである。一家は社交好きで、新しいダイニング・ルームができるとたくさんの客を招待するようになった。すでに何度かパーティーが催されており、主に独身者が出席したらしい。だがもちろん、エマには彼らが名門の一家を招待するなどとは思っていなかった。自分やナイトリー氏、そしてウエストン夫妻を招待するなど、想像できない。それに、招待されたとしても応じる気もない。ただ、ウッドハウス氏の習慣上、エマが思っているような理由でぴしゃりとはねつけることもできないだろう。コール家はそれなりに立派な家ではあるが、自分たちより身分の高い一家を招待しようなどというのははなはだしい思い上がりである。こういうことははっきり分からせてやらなければ。ただ、それを言えるのはエマくらいなもので、ナイトリー氏は期待薄だし、ウエストン氏に至っては全く不可能に思われた。
招待状が届く何週間も前から、エマはこの図々しい申し出にどう応えてやろうかと作戦を練っていた。しかし、いざその「侮辱」が訪れると、エマは当初とはかなり違った反応を示した。≪ドンウェル≫や≪ランドルズ≫の一家はすでに招待状を受け取っていたのに、≪ハートフィールド≫には何の知らせもなかったのだ。ウエストン夫人は、「あなた方を招待するなんて、気が引けてできなかったのでしょう。外で食事なさらないのはご存知ですからね」と言ったが、満足できる説明とは程遠かった。初めはにべもなく断ってやろうと思っていたエマも、招待されたメンバーが彼女がいつも親しくしている人ばかりなのを知ると、さすがに不安になって、招待を受けないのがいいのかどうかさえ分からなくなってしまった。ハリエットも出席するらしいし、ベイツ一家も出席するという。昨日ハイベリーを散策していたときも、そのパーティーの話で持ち切りだったが、フランクもエマが出席しないのを心から残念がった。「最後はダンスで締めくくりということになるでしょうか」と、フランクはたずねたが、そういう可能性もないわけではない。そう思うとエマはますますむしゃくしゃしてきた。敬意を表すつもりで招待しないというのはなんの慰めにもならない、ただひとりぽつんと高いところに取り残された気がするだけだ。
招待状が届いたのは、ちょうどウエストン夫妻が≪ハートフィールド≫を訪ねていたときだった。エマは招待状を読むと即座に、「もちろん断らなくては」と言ってはみたものの、そのあとすぐ、どうするべきかたずねた。そして、ぜひ行くべきだと勧められ、結局万事うまく解決した。
あれこれ考えてみて、エマは、それほど彼女がパーティーに行きたくなかったわけではないことを認めた。コール夫妻は丁重に招待したい旨を述べていて、その態度には誠意が感じられ、心からウッドハウス氏を気遣っている様子が見えた。「ご栄臨を賜りますよう、もっと早くにお願いするつもりでおりましたが、ロンドンから『屏風』が到着するのを待っているうち、遅くなってしまいました。その屏風で、ウッドハウス様を隙間風からお守りできるのでは、と思いましたものですから。屏風があれば、こちらといたしましてもより一層のご来駕の栄を賜れますことと存じます」エマはこの話に心を動かされた。そうと決まればあとは父がゆったりと過ごせることを第一に考えて事を運べばいい。父の相手として、ベイツ夫人はこられないので、ゴダード夫人ではどうだろうか。こうして話がまとまると、エマは、間近に迫ったパーティーに出かけること、父を置いて夜を過ごすことをウッドハウス氏に認めさせた。ただしウッドハウス氏が、自分も出席すると言い出さないことを祈った。だいたい時間が遅すぎるし、ひとも多すぎる。ウッドハウス氏は即座に断念した。
「パーティーに招かれるのはどうも好かんのだよ。今までもそうだった。エマも同じだがね。時間が遅いのがどうにもいかん。それにしてもコール夫妻がこんな計画を立てるとは残念だ。夏の昼間にでも来ていただいて、ここでお茶を飲んだり、午後の散歩をしたりしたほうがずっとよいと思うのだが。わたしたちは、道理にかなった時間の使い方をするほうでね。そうすれば夕方の湿った空気にあたらずに家に戻れる。だれも、夏の夜露などにさらされたくはないからね。だが、あちらがどうしてもエマと食事を、と言われるし、あなた方やナイトリー君も出席してこの子の面倒を見てくれるということなので行かせることにしました。ただし、天気が良くて、湿気もなく寒くもなくて、風もないという条件でですよ」そしてウエストン夫人の方に振り返ると、やさしく非難するような顔で、「ああ、ミス・テイラー、もしあなたが結婚していなければ、わたしと一緒に家にいてもらえたのだが」
「まったくです」とウエストン氏が言った。「わたしがミス・テイラーを奪ってしまったのですから、彼女のかわりを見つけてくるのがわたしの義務です。お望みとあらば早速ゴダード夫人のところまで行って参りましょう」
しかし「即座」にこういう行動を起こすのは、ウッドハウス氏の動揺をますます増大させた。だが、エマやウエストン夫人はどうすれば氏の動揺が鎮まるかちゃんと心得ていた。まずウエストン氏を黙らせ、すべての手はずをきちんと整えなくてはならない。
ふたりのこうした処方のおかげで、ウッドハウス氏はいつも通り話ができるようになった。「ゴダード夫人に会えるのはうれしいよ。彼女には一目置いているからね。早速エマに一筆書いてもらって、お招きしよう。ジェームズが届けてくれるだろう。しかしまず最初に、コール夫妻に断りの手紙を書かねばならん」
「できるだけ丁寧にお詫びを書いておくれ。まったくの病人なので、どこにも行けないし、ご招待をお受けすることができないとね。もちろんわたしからの『挨拶』で始めておいておくれ。いや、おまえのことだ、どんなことでもきちんとやってくれるだろう。それからジェームズにも、火曜に馬車を使うことを知らせておかなくてはいけないよ。まああの男と一緒ならなんの心配もいらんがね。新しい道ができてから一度しかあそこへは行ったことがないが、ジェームズがちゃんと送っていってくれるだろう。向こうに着いたら何時に迎えに来させるか、あらかじめ言っておくのだよ。なるべく早い時間をね。おまえだってあまり遅くまでいたくはないだろう。お茶の時間がすんだら、疲れるだろうからね」
「でもお父様、疲れてもいないのに、帰ってこいというのではないでしょう?」
「もちろんだ。でもおまえはすぐ疲れてしまうよ。たくさんのひとが一度におしゃべりをするのだから。うるさいのはおまえもいやだろう」
「ですが」ウエストン氏が大きな声を出した。「ミス・ウッドハウスが帰ってしまったら、それでパーティーはお開きになってしまいます」
「そうだとしても一向にかまわんではないか」ウッドハウス氏は言った。「どのパーティーにも言えることだが、早く終われば終わるほどいい」
「でもそれではコール夫妻がどう思われるか、夫妻のお気持ちも考えなければいけませんわ。お茶がすんでミス・ウッドハウスが早々に帰ってしまったら、おふたりはきっとがっかりされるでしょう。おふたりとも善良な方です。不平は言わないでしょうが、あまり早く帰ってしまえば、礼を失することにもなります。ミス・ウッドハウスがそういうことをすれば、ほかの人がそうするよりずっと深刻に受けとめられるはずですから。ウッドハウス様だって、コール夫妻をがっかりさせたり、悲しませたりはしたくないでしょう? かれこれ十年来のおつきあいになる、善良なご夫婦なのですから」
「いや、そんなつもりはなかったのだ、ウエストン君。よく分かったよ。コール夫妻を苦しめるようなことになったら、わたしとしても非常に辛い。ふたりとも立派な方だからね。そういえばペリーが言っておったが、コール氏は決して酒に手をつけないらしい。見てもそうは思わんだろうが、彼はどうも肝臓病のようだ。かなりひどいらしいね。いや、おふたりを苦しめてはいけない。エマ、わたしたちはこの問題をきちんと頭にいれておかねばならないね。コール夫妻を傷つけるくらいなら、少しばかりいやな思いをしても長居をしたほうがいい。疲れてもあまり気にしないことだ。まあ、友達と一緒なのだからまったく心配はないがね」
「ええそうよ、お父様。わたしなにも心配していないわ。ウエストン夫人と同じくらい遅くなったとしても、なんともありません。ただ、気がかりなのはお父様です。わたしを待っていつまでも起きてるのではないかしら。ゴダード夫人とご一緒なら、きっと楽しいはずだけど。ほら、夫人はピケット・ゲームがお好きでしょう。でも夫人がお帰りになったら、ひとりで起きてわたしを待ったりしないでくださいね。いつも通りに寝て下さい。そうでないと、わたしも楽しめませんから。起きてわたしを待たないと約束してくださいな」
ウッドハウス氏は約束した。ただし、エマのほうもいくつかの約束をするという条件で。それは、冷えた体で帰ってきたら必ず暖めること、お腹がすいていたらなにか口に入れること。そして召し使いたちにエマが帰るまで起きているように命じること。サールと執事はいつも通り、家が安全かどうかを確認すること、などなどだった。
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第二十六章
フランクは戻ってきた。ただし夕食には間に合わず、父を待たせることになったが、そこまでは≪ハートフィールド≫に伝わらなかった。というのも、フランクを気に入ってもらいたい一心から、ウエストン夫人が余計なことをウッドハウス氏に伝えなかったからである。黙っていれば相手にはわからないことだ。
髪を切ったフランクは自分のことを進んで笑いの種にしたが、見たところ、恥じている様子は少しもなかった。別に顔を隠さなくてはならないようなこともないので、髪を切るのは当然だし、気分のよくなるために金を惜しむ必要もない。フランクは相変わらず堂々として、快活で、その様子を見て、エマは心中密かに考えた。
「それがあたりまえかどうかは知らないけど、ちゃんと物の分かったひとがすると、たとえ馬鹿なことでも、必ずしも愚かしいとは限らないのね。不正を働けばそれはいつでも不正だけど、馬鹿げた行為が愚かしいとは限らないわ。だれがそれをするかによって違ってくるのよ。ナイトリーさん、彼はそれほどつまらないひとでもないし、頭の弱い若者でもないわ。もしそうなら、自分のしたことを自慢するか、恥じるかしたでしょうからね。どんなにおしゃれな男かをひけらかしたり、虚栄心を守るために自分の弱さを言い繕ったりして。でも、このひとはそんなちっぽけでも、愚かでもないわ」
火曜日にまたフランクに会えるのかと思うと、エマは嬉しかった。今度は今までより長く一緒にいられるし、あらゆる態度をじっくり観察して、どういう気持ちでエマに接しているのか見きわめることができる。そして、いつごろからよそよそしい態度を取るべきかも、見当をつけられるだろう。また、ふたりが一緒のところを初めて見るひとが、どのように思うか、あれこれ空想して楽しむこともできる。
ただ、パーティーがコール氏の家で催されるのが少々引っかかった。エルトン氏に好意をもっていたときでさえ、そもそも何が気に入らないといって、彼がしょっちゅうコール氏と会食をすることほど気に入らないことはなく、それを忘れたわけではなかったが、それでもエマは楽しむつもりだった。
≪ハートフィールド≫へはゴダード夫人だけでなく、ベイツ夫人も来ることになった。これでウッドハウス氏も安心して過ごせるだろう。出かけるエマの最後のご奉公は、夕食のすんだ三人に敬意を表しておくことと、ウッドハウス氏がうっとりと娘のドレスに見ほれている間、ふたりのご婦人のためにケーキを大きく切ってやったり、グラスになみなみとワインを注いでやったりして、気分を盛り立ててやることだった。というのも、食事中に氏がふたりの体調にあれこれ注意をしたため、折角の夕食を自制せざるを得なくなったからだ。テーブルには三人のためにたっぷり夕食を用意しておいたのだが、ご婦人方が食べるのを許されたかどうか、怪しいところである。
コール氏の家まで、エマの前をもう一台の馬車が走っていたが、その馬車がナイトリー氏のものだったので、エマはすっかり嬉しくなった。ナイトリー氏は馬を持っていないし、馬車を雇って余分なお金を使うこともほとんどない。そのうえ健康にたいへん気を使い、活動的で独立心旺盛なものだから、できるだけ歩くようにしている。エマはかねがね、彼が≪ドンウェル・アビー≫の主人という身分にしては、馬車を使う回数が少ないと思っていた。そのため、ナイトリー氏の手で馬車から降ろしてもらって、心から嬉しくなってしまった。
「紳士らしく、いつもこうすればよろしいのに」とエマは言った。「お会いできて嬉しいわ」
ナイトリー氏は礼を言うと、「同じ時間に到着できてよかった。もしこれが客間だったら、折角普段より紳士らしくしているのに、君に分かってもらえたかどうか。様子や態度だけでは、ぼくがどうやってここまで来たか、分からないだろうからね」
「いいえ。分かりますわ、必ず。なぜって、身分にふさわしくない方法でここまで来たと思えば、それを意識して必ずそわそわしてしまうものですもの。そんなそぶりなどちっとも見せていないおつもりでしょうけど、強がってわざと無関心を装っているのが分かります。こういうときにお会いすると必ずそれを感じます。でも、もうそんなことはしなくていいのよ。恥ずかしがっているのを見破られはしまいかとびくびくする必要もないし、ほかのひとより良くみせようと努力することもありませんわ。でも、こうして一緒に同じ部屋へ入って行かれてわたしとても嬉しいわ」
「なんてばかなことを言うお嬢さんだ」とナイトリー氏は言ったが、怒っている様子はなかった。
エマはナイトリー氏にも満足したが、パーティーに出席しているほかのひとびとにも大いに満足した。思わず顔がほころびてしまうほど敬意をもって迎えられ、望んだ通り大切な客として扱われた。遅れてやってきたウエストン夫妻からも、これ以上ないと思われるほど愛情と賞賛に満ちた表情が向けられて、フランクはエマが特別な対象であることを示すように、上機嫌で駆け寄ってきた。彼は晩餐のテーブルでもエマの隣に座ったが、うまく立ち回ったからにちがいないと、エマは確信した。
パーティーは大人数で、エマがまったく知らない家族も含まれていた。地元では文句のつけようのない家柄で、コール夫妻は知人にその名前を発表することを誇りに思っているようだ。あとはハイベリーで弁護士をしているコックス一家の男性たちだった。あまり身分の高くない女性メンバーは、ミス・ベイツ、ジェーン、ハリエットとともに夕方から姿を見せるらしい。だが晩餐の時間になると、次第に人数も増え、みんなで共通の話題を話すことはできなくなった。政治やエルトン氏のことが話題になっている間、エマは近くにいたひととおもしろおかしい話に興じていた。だが、遠くのほうでジェーンの名前が持ち上がると、エマは思わず耳をそばだてた。コール夫人がジェーンについて、なにかおもしろそうな話をしている。しばらく耳を傾けてみたが、聞くだけの価値はありそうだ。エマの愛すべき空想力に、なにやらおもしろそうな材料が提供されたのだ。
話によれば、コール夫人はベイツ夫人宅を訪ねたとき、部屋にピアノがあるのを見てびっくり仰天したらしい。非常にエレガントな形で、グランドピアノではなかったが、大きなサイズの立て型ピアノだった。コール夫人が驚いてあれこれ質問したり、お祝いの言葉を述べたりすると、ミス・ベイツからどうしてこういうことになったのか、説明された。その前日、ブロードウッド店からいきなり届けられたもので、ミス・ベイツもジェーンも腰を抜かすほど驚いたらしい。まったく思いもかけない贈り物だった。ミス・ベイツの話によれば、最初ジェーン自身もびっくりして、こんな贈り物をしてくれたのはだれだろうと、しばらく考え込んでいたという。しかし、今ではある方から届けられたのだと確信している、と。もちろんキャンベル大佐である。
「ほかにだれも思いつきませんでしょう」とコール夫人がつけ加えた。「だいたい不思議に思うこと自体、わたしには驚きですわ。ただジェーンによれば、つい先日あちらからお手紙が届いたのだそうですが、ピアノのことなどひとことも書いてなかったそうです。でもジェーンはあちら様のやり方をよくご存知のはずでしょう。黙っているからといって、贈り物をするつもりがないという理由にはならないと思うんですの。びっくりさせてやろうとお思いになったのかもしれませんし」
ほかのひともコール夫人と同意見で、ピアノの贈り主はキャンベル大佐ということで落ち着き、そういう贈り物があったことをみんなで喜んだ。自分ばかり話したがるひとは山ほどいるので、エマは勝手に相手に話させておいて、自分は好きなように想像を働かせながら、コール夫人の話に耳を傾けていた。
「これほど素敵なお話は今まで聞いたことがありませんわ。ミス・フェアファクスはあんなにピアノがお上手なのに、楽器をお持ちでないんですもの、いつも心を痛めておりましたの。どれだけ多くの家庭が折角の立派なピアノをほったらかしにしているかと考えますと、とても恥ずかしくなってきます。この事件はわたしどもに平手打ちを食わせるようなものですわ。本当に! つい昨日も、主人と話しておりましたの。家の客間に置いてあるピアノを見るたびに本当に恥ずかしくなってしまう、と。わたしは譜面も読めませんし、うちの小さい娘たちもピアノは始めたばかりですし、たいして上手くなりそうもありませんから。ミス・フェアファクスはあれほどの音楽の才能がおありになるのに、小型ピアノはおろか、楽器はひとつもお持ちではないんですもの、本当にお気の毒で。つい昨日も主人にこのことを話したのですが、主人も同じ気持ちでした。主人はたいへん音楽好きなものですから、ピアノを買わずにはいられなかったのですが、もともとはどなたかご近所の方がお使いになって下さったら、と思って手に入れたんですの。そうでもなければ、お恥ずかしい限りですわ。そうそう、今晩はミス・ウッドハウスにお願いして、ぜひともピアノを弾いていただこうと思ってるんですのよ」
エマは適当に相づちを打っておいたが、これ以上コール夫人の話から得るところはないと判断して、フランクのほうに振り返った。
「あら、どうしてそんなににこにこしていらっしゃるの?」とエマはたずねた。
「いや、それよりあなたは?」
「わたし? ええ、キャンベル大佐がたいへん裕福で気前のよい方なのがうれしくて。それにしても素敵なプレゼントね」
「ええ、本当に」
「でも、とっくの昔にこういうことがあってもおかしくないと思うのだけど」
「ミス・フェアファクスがこれほど長く滞在するのは、初めてだからでしょう」
「では、ロンドンに置いてあるご自分のピアノを差し上げなかったのはなぜ? どうせだれもいない家に置いてあるだけで、弾くひともいないわけですし」
「でもあれはグランドピアノで、ベイツ夫人の家には大きすぎると考えたのでしょう」
「どうおっしゃってもかまわないけど、あなたの顔を見れば、わたしと同じようなことを『考えて』らっしゃるのが分かりますわ」
「どうでしょう。あなたはわたしを買いかぶってずいぶん頭の回転の速い男だと思っているようですが、わたしが笑っているのはあなたが笑っているからです。あなたがなにか疑わしいと思っているならわたしも疑ってみますが、今のところはなにが疑わしいのか、わかりません。もしキャンベル大佐が贈り主でないとしたら、いったいだれでしょう?」
「ディクスン夫人とはお思いになりません?」
「ディクスン夫人か。なるほど、それはありそうなことです。わたしは思いつかなかった。ディクスン夫人なら、ピアノがどれだけ喜ばれるか、大佐と同じくらいよくご存知でしょうね。それに、この謎めいた、ひとを驚かせるようなやりくちは年輩の男性というより、若い女性のものですよ。きっとディクスン夫人の仕業なのでしょう。ほら、さっき言ったでしょう、あなたが疑えばわたしも疑うと」
「それならもう少し範囲を広げて、ディクスン氏も疑ってみてはどうかしら」
「ディクスン氏。なるほど。ディクスンご夫妻からの贈り物にちがいない。以前にも話しましたが、彼はミス・フェアファクスのピアノの熱烈な信奉者でした」
「ええ。あなたがそうおっしゃったので、前から考えていたことがますます確信できるようになったんです。ディクスン氏とミス・フェアファクスのお気持ちに泥を塗るつもりはありませんけど、ディクスン氏は彼女の友人にプロポーズした後、不幸にも『彼女』を好きになってしまったのではないかしら? あるいは、彼女が自分に恋心を抱いていることに気づいたのかも。もちろん、いくらたくさんのことを推理してみても、どれも当たらないことはあります。でも、ミス・フェアファクスがキャンベル一家と一緒にアイルランドに行かずに、わざわざハイベリーにやって来たのには、なにか特別な理由があるはずですわ。ここだと不自由で、辛い毎日を送らなければなりませんが、アイルランドに行けば楽しい毎日が待っていたはずですから。彼女は生まれ故郷の空気を吸うためだと言ってましたが、そんなの単なる言い訳です。夏ならそれで通るでしょうけど、一月や二月の空気を吸って、体にいいことなどあるものですか。暖かい暖炉や馬車が使えるほうが、デリケートな体にはよほどふさわしいし、彼女にとってもそうですわ。もちろん、あなたにも同じように考えて欲しいと言うつもりはありません。たとえ、そうするという言葉を聞かされてもです。でも、わたしがどう考えているかは、正直にお話ししておきますわ」
「それはじゅうぶん可能性があるでしょうね。ディクスン氏が彼女の演奏を奥方の演奏より気に入っていたのは事実ですから」
「それに、ディクスン氏は彼女の命を助けたのでしょう。そのことはお聞きになってます? 確か、水上パーティーがあったとき、彼女がなにかのはずみで船から落ちそうになったとか。それをディクスン氏が助けたのでしょう」
「そう。実はぼくもそこにいたんです。仲間のひとりでしたから」
「まあ、本当に? むろん、そのときはなにも気がつかなかったのでしょうね? あなたはまったく疑っていなかったわけですから。でも、わたしがその場に居合わせたら、きっとなにか発見したでしょうね」
「そうでしょう。わたしは単純ですから、事実以外は何も分かりませんでした。ミス・フェアファクスが船から落ちそうになって、ディクスン氏が彼女をつかんだということ以外は。一瞬の出来事でね。その場にいたひとの衝撃が大きくて、ひどいショックを受け、元通りに落ち着くまで三十分はかかったと思います。あんまり衝撃が大きかったせいで、なにか特別なことがあったなんて観察する余裕もありませんでした。もちろん、あなたがあそこにいれば、なにか発見をしたかもしれませんが」
会話はそこで中断された。出される料理と料理の間隔が長すぎて、ふたりともほかの客同様気まずい思いを味わいながらも、同じように礼儀正しくして待っていなければならなかった。だが、再び料理が運ばれ、皿も四方にきちんと並べられると、客は料理に専念し、気楽な雰囲気が戻ってきた。エマは、
「ピアノが届いたことで、わたしの考えも固まりました。もう少し詳しいことが知りたいと思っていましたが、これでじゅうぶん。いずれ、あのプレゼントはディクスン夫妻からの贈り物だったと聞かせていただけるでしょう」と言った。
「でも、ディクスン夫妻がそうでないと言ったら、キャンベル夫妻からだと考えなくてはいけませんね」
「いいえ、それはありません。ミス・フェアファクスはキャンベル夫妻からの贈り物でないと知っているのです。そうでなければまっ先に思いついたはずです。動揺もなく、すぐにキャンベル夫妻からだと言ったはずです。あなたはまだ納得していないようですけど、わたしはこの事件の首謀者はディクスン氏だと確信しています」
「わたしが納得していないと思われるなんて心外です。わたしはあなたの推理に従って判断しているのですから。最初はキャンベル大佐が贈り主だという話に、あなたも納得しているとばかり思っていたので、ピアノを贈ったのも父親らしい親切心からだろうと見ていました。でも、あなたがディクスン夫人ではないかと言い出してからは、女性同士の友情の贈り物と考えるほうがあたっていると思ったのです。でも今は、あのピアノは愛の贈り物以外の何物でもないと思っています」
彼が、心からそう思っているようなので、この話をそれ以上力説する必要もなくなり、エマはほかの話題に移った。やがて残りの料理も下げられ、デザートが運ばれてくると、子どもたちが部屋に入ってきた。ひとびとは口々に話しかけたり、ほめたりしていた。気のきいたことを言うひともいれば、愚にもつかないことを話すひともいたが、あとの大部分はどちらともいえない平々凡々な話題だった。普段口にするような退屈な繰り返し、だれでも知っているようなニュース、笑えないジョークばかりで、聞くに値するようなものは何もなかった。
女性たちが客間に入ってまもなく、残りの女性たちがそれぞれに到着した。エマは特に愛らしい、自分の友人が入ってくるのを見守った。優雅さと威厳には少し欠けるところがあるとはいえ、ハリエットの若々しい愛らしさと、あどけない仕草は大いに目を楽しませてくれた。エマは、こういった集まりを楽しむことで少しでも失恋の痛みを和らげようとする、ハリエットの明るく陽気で、感傷的でない性格を心から喜んだ。あそこに座っているハリエットが、最近どれだけ涙を流したかなど、だれにも推測できないだろう。美しく着飾って人前に出ること、同じように着飾った女性たちを眺めながら黙ってにこにこと座っていること、それだけでもうじゅうぶん幸せなのだ。たしかにジェーンはハリエットより見栄えがするし、ふるまいも優雅だ。しかしその胸の内を、ハリエットとなら喜んで取り替えるかもしれない、とエマは思った。友人の夫に愛されることを知った危険な喜びに替えられるものなら、だれかを愛したという(たとえエルトン氏のような人物ですら)後悔でも、喜んで引き受けるかもしれない。
客間には大勢いたので、エマはジェーンのところへ行って話をする必要がなかった。ピアノのことは話したくなかったし、その秘密について様々な思いが心の中で渦巻いていたので、好奇心や興味を持っていることを悟られたくもなかった。だからわざとジェーンから離れた場所にいたのだが、ピアノの話はすぐに披露された。お祝いの言葉が述べられると、なにを意識してか、ジェーンの頬に赤みがさした。「わたしの素晴らしい友人のキャンベル大佐が」と贈り主の名前を出したときなどは、罪の意識からか、真っ赤になっていた。
音楽好きで心のやさしいウエストン夫人は、この話に特に関心を寄せ、いつまでもピアノのことを話し続けた。エマはおかしくてたまらなかった。顔色から推理すると、ジェーンのほうはあまり触れて欲しくない様子なのに、夫人はそれに気づかず、音色のことや、タッチの具合、ペダルのことなど、次から次に質問している。
やがて数人の男性が客間のほうに場所を移してきたが、最初に入ってきたのはフランク・チャーチルだった。とりわけ美しい姿をひとびとに印象づけながら先頭を歩いている。通りすがりにミス・ベイツとミス・フェアファクスに挨拶すると、集団の反対側に座っていたエマのほうへまっすぐ歩いてきた。そして近くに席が見つかるまでは腰を下ろそうともしない。周りの人々が自分たちをどんなふうに見ているか、エマははっきり感じとることができた。フランクのお相手はわたしなのだ。居合わせたひとはみなそう思っているに違いない。エマはフランクにハリエットを紹介した。後で、頃あいを見計らってお互いの印象をたずねてみると、フランクは「あんなに愛らしい顔立ちの女性は見たことがない。純なところが気に入りました」と言った。一方ハリエットは、「ほめすぎかもしれませんが、少しエルトン様に似ているように思いますが」と言った。エマはむっとなったがそれを抑えて、黙ってハリエットから顔を背けた。
初めてジェーンのほうに目をやったとき、エマとフランクは相手がどういうことを考えているのか手に取るようにわかって、思わず微笑みあった。が、それは口に出さないでおくのが分別というものだろう。フランクはいままで座っいたダイニング・ルームでの話をした。彼はそこでじっと腰掛けているのに我慢できず、できることなら真っ先に出て行きたいと思っていたらしい。それでも居合わせたひとがだれも紳士で、きちんとした人物だということがわかって、一緒にいた間はじゅうぶんに楽しめた。ウエストン氏、ナイトリー氏、コックス氏、コール氏の面々は後に残って教区の打ち合わせをしている、ということだった。フランクが、この土地は素晴らしい、気持ちのいい方がたくさん住んでいる、としきりにハイベリーをほめるので、エマは自分は今までこの土地を軽蔑しすぎていたかもしれないとさえ思うようになった。ヨークシャーの社交界はどんなものか、つまり≪エンスクリーム≫の近隣にはどういうひとが住み、どういうつきあいをしているのかたずねてみた。聞くところによれば、≪エンスクリーム≫の社交界はずいぶん寂しいものらしい。行き来があるのは名家の間だけで、近所にはそういった家はひとつもないということだ。また、招待を受け、日程が決まっても、チャーチル夫人の具合が悪くなったり、行く気がしなくなったりで、どっちに転ぶかは最後まで分からないという。それに、新しく越してきたひとのところには、決して足を運ばないというのがチャーチル家のしきたりだそうだ。フランクひとりが約束した場合には、出かけたり、だれかを家に泊めたりすることができるのは、大変な苦労の末か、熱心に頼んだときだけなのだそうだ。
エマは、ハイベリーなら彼を楽しませることができるかもしれない、と思った。彼が≪エンスクリーム≫では無理矢理世間とは没交渉の生活を強制されるので、満足できないにしても。≪エンスクリーム≫で彼がどれだけ重要な役割を担っているかはすぐに察せられた。話をしているうち自然と分かってきたのだが、伯父には手に負えないとき、伯母を説得するのは彼の役目らしかった(自慢はしなかったが)。エマが笑ってそのことを指摘すると、フランクは「時がたてば」(二、三のことを除いて)、どんなことでも伯母を説得できるようになるだろうと言った。が、説得できないこともいくつかあって、そのひとつが外国に行くことだった。フランクは一度外国まで足を延ばしてみたいと切望していたのだが、伯母は耳を貸そうとしない。去年一度だけ、その話を持ち出してみたが、だめだったらしい。|今は《ヽヽ》もう、行きたいとも思わなくなった、とフランクは言った。
口には出さなかったが、もうひとつ、彼の力が及ばないことがあるとしたら、それは父親に対して、もう少し柔らかい態度をとってもらえたら、ということだろう。
「とても残念なことに気づいてしまいました」少し間を置いてフランクが言った。「こちらに来て明日でもう一週間、半分が過ぎたことになります。こんなに時間のたつのが早かったことはありません。ああ、明日で一週間か。まだほとんど楽しんでいないし、ウエストン夫人やほかのひとたちとも知り合いになったばかりなのに。考えると腹がたってくる」
「それなら髪など切りに行って、まるまる一日を無駄にしてしまったことを後悔なさっているのでは?」
「いやそれはない」フランクは笑いながら言った。「それは後悔するようなことではありませんよ。だって自分がきちんとしていると思えないと、友だちと会っていても楽しくありませんから」
そのうち残りの男性陣が部屋に入ってきたので、エマはフランクから離れて二、三分コール氏のおしゃべりにつきあわなければならなかった。やがてコール氏も向こうに行ってしまったので、再びフランクのほうに目をやると、彼が部屋の反対側に座っていたジェーンを熱心に見つめている。
「どうかしたの?」
フランクは驚いて飛び上がった。「いや、注意してくれてありがとう。ひどく失礼なことをしてしまった。でも、ミス・フェアファクスが妙に変わったヘアスタイルをしているもので。あんまりおかしいのでついじろじろ見てしまいました。ああいう奇抜なヘアスタイルは初めてですよ。ほら、あのカール、きっとあれが好みなんでしょうね。あんな髪形をしている女性は見たことがないな。ちょっと行って、あれがアイルランド風のヘアスタイルなのかどうかたずねてきます。わたしにできるかですって? もちろん。わたしがきいたら彼女がどう反応するか、赤くなるかどうかご覧にいれましょう」
フランクは早速腰を上げて、ジェーンの前まで行って、彼女に話しかけた。しかし不用意にもエマのちょうどまん前に立ってしまったので、ジェーンがどういう反応したかは、まったくわからなかった。
フランクが戻ってこないうちに、ウエストン夫人が隣に腰を下ろした。
「これがお客の多いパーティーのいいところね」と夫人は言った。「だれの隣にも座ることができて、どんなことでもおしゃべりできるわ。エマ、あなたと話をするの、とても楽しみにしていたのよ。実はいろいろなことを発見して、計画を立てていたの。あなたがよくするようにね。まだほやほやなうちに話しておきたくて。ねえ、ミス・ベイツとミス・フェアファクスがどうしてここに来たか、ご存知?」
「どうしてですって? 招待を受けたからでしょう?」
「ええ、それはもちろんそうよ。でもわたしが言いたいのはどういう手段でここまで来たか、ということなの。ねえ、どう思う?」
「歩いてきたんでしょう。それ以外にどんな方法があるの?」
「そうね。でもわたし、ミス・フェアファクスがこんな夜遅くに、それも寒い中歩いて帰らなければならないかと思うと、気の毒でしかたなかったの。それで彼女のほうを見たら、今までにないほど元気そうじゃない。でも、暖炉の火で体が暖かくなったあとは、よけい風邪を引きやすくなるので、ますます心配になったわ。それで、主人が部屋に入ってくるとすぐ、馬車でお送りしたらどうかって提案してみたの。もちろん、一も二もなく賛成してくれたわ、あなたにもわかるでしょう。そのあとすぐミス・ベイツのところまで行って、わたしたちが家に帰る前に馬車でお連れします、って言ったの。ミス・ベイツが安心するだろうと思って。善良な方ですもの、とても感謝なさって――あなたもそう思うでしょう。『わたしほど幸せな人間はおりません』とおっしゃるだろうって。でもなんどか感謝の言葉を繰り返したあと、『わざわざお助け頂かなくても大丈夫なのです。じつはナイトリー様が馬車をお回しくださいまして、帰りもまた乗せていただくことになっておりますので』とおっしゃるじゃない。本当にびっくりしてしまったわ。もちろん嬉しかったけど、驚いたのも事実よ。それにしても、なんて親切で、思いやりのある心遣いなんでしょう。だれにでも思いつけることではないわ。でも、普段のあの方をよく知っているわたしとしては、馬車を用立てたのは、あのふたりのためだとしか思えないの。ナイトリーさんが自分のためにわざわざ二頭立ての馬車を使ったりするかしら? ふたりをお助けするための口実じゃないのかしら?」
「ありそうなことね。いかにも。そういった善良で有益で、なおかつ思いやりがあって、情け深いことをするのはナイトリーさんのほかに思いつかないわ。女性に対して特別親切だとはいえないけど、思いやりはあるわ。ミス・フェアファクスの体調を思って、そんなやさしさをみせたのね。それに、その親切をひけらかさないところもナイトリーさんらしいわ。今日彼が馬車で来たのは知っているわ。着いたのがちょうど一緒だったから。馬車でいらしたので思わず笑ってしまったけど、事情を説明するようなことは一言もおっしゃらなかったわ」
「そう」とウエストン夫人は笑いながら言った。「この件についてあなたは、ナイトリー氏が誠意のある公平無私な善行を施したということで、わたしより敬意を払っているようね。でも、わたしはミス・ベイツと話している最中、ふとあることに気づいて、それが頭から離れなくなってしまったの。考えれば考えるほど、ありそうなことに思えて。つまり、ナイトリーさんとミス・フェアファクスの結婚を考えたの。わたしも、あなたとずっと一緒に暮らしていて影響を受けたのかしらね。あなたならどう思う?」
「ナイトリーさんとミス・フェアファクスですって!」エマは叫んだ。「ねえウエストン夫人。どうしたらそんなことが思いつけるの? ナイトリーさんは――ナイトリーさんは結婚なんてしてはいけないのよ。あなたは可愛いヘンリーから≪ドンウェル≫の財産を取り上げてしまうつもり? だめよ、だめ。≪ドンウェル≫はヘンリーのものでなければ。ナイトリーさんが結婚するなんて、わたし絶対賛成できません。そんなことあるはずがないわ。そんなことを思いつくなんて、本当にどうかしてる」
「ねえエマ、わたしがどうしてこんなことを考えるようになったか、さっきお話ししたでしょう。わたしはなにも、ふたりが結婚するのを望んでいるわけではないわ。それに可愛いヘンリーを傷つけるつもりも。でもいろいろな状況からそう考えるようになったの。それにナイトリーさんが本気で結婚したいと思ったら、いくらヘンリーのためだからといって、やめさせることはできないわ。なにも知らない六つの坊やのために」
「いいえ、できるわ。だれかがヘンリーにとって替わるなんて許せない。ナイトリーさんが結婚するですって。そんなこと考えたこともなかったし、考えたくもないわ。それもミス・フェアファクスが相手だなんて」
「でも彼女はナイトリー氏の一番のお気に入りでしょう」
「でもそんな組み合わせ、分別がなさすぎるわ」
「別に分別があると言っているわけではないわ。可能性があると言っているだけ」
「今おっしゃったことより、もっとちゃんとした証拠を見せてくれなければ、わたしはそんな可能性なんて信じません。彼は親切でやさしさに満ちているだけよ。馬車のことはそれでじゅうぶん説明がつくわ。ベイツ家にはそれはそれは敬意を払ってらっしゃるから。ミス・フェアファクスがいなくても、あのひとたちにはいつも喜んで親切にしているわ。ねえウエストン夫人、もうそんな話に熱を上げないでちょうだい。まちがいのもとよ。ミス・フェアファクスが≪アビー≫の女主人になるだなんて、ああ、だめ。考えただけで胸がむかむかしてくるわ。ナイトリーさんのためにも、そんなばかげたことはさせません」
「無分別と言われてもかまわないわ。でも、ばかげたことではないのよ。確かに、財産もつりあわないし、年も離れているけど、それ以外おかしなところなんてなにひとつないように思うけど」
「でも、ナイトリーさんは結婚したいなんて思っていないわ。絶対に。だからそんな話、彼に吹きこまないでちょうだいね。だいたいなぜ彼が結婚しなくちゃならないの? 今もひとりで、じゅうぶんすぎるほど幸せだわ。羊もいるし、農場も図書室もあるし、教区も管理しなければならないし。それに彼はふたりの甥をとてもかわいがっているのよ。結婚する理由などどこにもないわ。時間を満たすためにも心を満たすためにも」
「エマ、彼がそう思っている間は、そうでしょうね。でも本当にミス・フェアファクスを愛しているとしたら」
「ばかばかしい。彼はミス・フェアファクスのことなど、これっぽちも想ってやしないわ。恋愛感情という意味では絶対に。それは彼女にも、ベイツ家にも親切にはしているけど」
「ええ、そうね」とウエストン夫人は笑いながら言った。「でも彼がベイツ家にできる一番の親切は、ミス・フェアファクスに素晴らしい家庭をもたせてあげることでしょう」
「彼女にはいい話でしょうけど、彼にとっては恥ずべき卑しい結婚になるわ。それにミス・ベイツが親戚になるなんて、どうやったら耐えられるというの? しょっちゅう≪アビー≫に顔を出しては、一日中姪と結婚してくれたことを感謝し続けるのよ。『本当にご親切でおやさしい方ですこと。いえ、いつだっておやさしい方でしたものね』でもその話が半分も終わらないうちに、母親の古いペチコートに話が飛ぶの。『それほど古いペチコートというわけではございませんの。しばらくは長もちすると思いますわ。わたしの持っているペチコートはどれも本当に丈夫で、感謝しておりますのよ』って」
「まあ、みっともないわ、エマ。彼女の真似をするのはおよしなさい。つい笑ってしまって良心がとがめるじゃない。誓って言いますけど、ナイトリー氏はミス・ベイツにいちいち煩わされるような方ではありません。小さなことになど動じない方ですから。彼女がしゃべり続けたとしても、なにかお話しになりたいと思えば、大きな声を出して彼女の声をさえぎるでしょうね。でも肝心なのは、これが彼にとって悪い組み合わせかどうかではなくて、彼が望んでいるかどうかということよ。わたしは望んでいると思うわ。ミス・フェアファクスをとてもほめていましたもの。あなたも聞いたでしょう? 彼女に対する興味、健康に対する気遣い、彼女の将来に、幸せな見込みがないことへの心配。こういったことを誠意を込めて話してらしたわ。それに彼女のピアノも声も、とてもほめていたのよ。いくら聞いても飽きないって。あら、あなたにお話ししようと思っていたことを言い忘れてしまうところだったわ。あのピアノがどなたから贈られてきたかっていうこと。皆さんはキャンベル大佐ということで納得したようだけど、あれはナイトリー氏からの贈り物ではないかしら? そう思えてしかたがないの。いかにも彼のやりそうなことでしょう? 愛情は抜きにしても」
「だからといって、彼が恋をしている証明にはならないわ。それに、彼があんなことをするとは思えない。ナイトリーさんはああいう謎めいたことはしないひとだわ」
「でも、彼女が楽器を持っていないのを嘆いてらしたのよ。それも、普通の場合だったらおかしいくらいに、頻繁に」
「わかったわ。でもピアノを贈るなら、ちゃんとご自分でおっしゃるはずよ」
「ためらわれたのではないかしら? エマ、わたしは彼が贈り主だとにらんでいるの。コール氏がピアノの件を披露なさったときは、わざと黙っていたのではないかしら?」
「あなたって、こうだと思ったらすぐに早合点してしまうたちなのね、ウエストン夫人。以前は、わたしがそういうことをすると、必ず叱っていたのに。でも、わたしには愛情のかけらも見えないし、ピアノは彼とはなんの関係もないと信じているわ。ナイトリーさんがミス・フェアファクスとの結婚を考えているというなら、証拠をもってきてちょうだい、そうすれば納得するから」
ふたりはしばらくその問題を同じようにやり合っていたが、ウエストン夫人は折れるのに慣れているせいか、エマのほうが優勢だった。やがて客間が少しざわざわしてきた。お茶の時間が終わって、楽器が用意された。と同時にコール氏が近づいてきて、エマにピアノを弾いて欲しいと頭を下げた。続いてフランクもエマにぜひ弾いて欲しいと熱心に頼んだ。エマはウエストン夫人との話に夢中で、彼がミス・フェアファクスのそばに腰を下ろしたこと以外、なんの注意も払っていなかった。何事も先頭を切るのがエマの流儀だったので、礼儀正しくその申し出を受けいれた。
エマは自分の力量をわきまえていたので、完璧に弾きこなせるもの以外は手を出さなかった。エマの演奏は品格においても感情表現においても、一般的な基準をじゅうぶん満たすもので、声によく合っていた。そのうちだれかがピアノに合わせて歌いだしたので、エマはびっくりした。声の主はフランクで、小さいが正確な節回しで低音部を歌っていた。歌がすむと彼は丁重に詫び、あとは型どおりの挨拶がなされた。居合わせた人々は、素晴らしい声だとか、音楽について完璧な知識をおもちだとか言ってフランクをほめたが、彼は丁重に賛辞を退け、音楽には不調法で声量もない、と言った。エマはもう一度彼と一緒に歌うと、次をジェーンに譲った。彼女の演奏はピアノにしろ歌にしろ、エマの演奏より格段に優れていた。こればかりはエマも認めずにはいられなかった。
複雑な感情が胸中に渦巻いていたので、エマは楽器の周りを取り囲む人垣から少し離れたところに腰を下ろして聞いていた。フランクも一緒に歌っている。あの様子だと、ウエイマスで一度か二度一緒に歌ったことがあるのだろう。しかし熱心に耳を傾けているひとたちの中にナイトリー氏の姿を認めると、エマは急に音楽から引き離されてしまった。ウエストン夫人が言っていた疑惑が頭をよぎって、美しい音楽さえ考えの邪魔になった。ナイトリー氏の結婚に反対する気持ちは、少しも変っていない。悪いことにしか思えないのだ。もしナイトリー氏が結婚することになれば、ジョン・ナイトリー氏はひどく落胆することだろう。もちろん姉のイザベラも。子供たちにとっても大きな損害だ。彼ら全員にとって残念な変化で、物質的な損害にもなる。ウッドハウス氏の毎日の楽しみもすっかり減ってしまうことだろう。エマ自身も、ジェーンが≪ドンウェル・アビー≫の女主人になるなんてことは到底耐えられそうにない。わたしたちが道を譲らなければならないナイトリー夫人に、あのジェーンが収まる。だめ、だめ。ナイトリーさんは結婚などしてはいけない。可愛いヘンリーこそ、≪ドンウェル≫の跡取りであるべきだ。
やがてナイトリー氏が、エマのそばに腰を下ろしたので、ふたりはしばらくジェーンの演奏について話をした。たしかにナイトリー氏の口調には熱がこもっている。ただ、ウエストン夫人があんなことさえ言わなければ、それほど強くは感じなかっただろう。そこでエマはさぐりをいれるために、ミス・ベイツとジェーンに馬車をまわしたことを持ち出してみた。しかしナイトリー氏はその話題にあまり触れられたくない様子だ。きっと自分の親切をべらべらしゃべりたくないだけなのだ。エマはそう信じた。
「ときどき思うんですけど」エマは言った。「わたしたち、そういったことにたびたび馬車を使うのはあまり感心できないんじゃないかって。いえ、わたしがそう思っているわけではないの。父がもし、そんな目的があると知ったら、ジェームズに馬車を使わせないはずよ、あなたもご存知でしょう」
「問題外だね。まったく問題外だよ」とナイトリー氏は繰り返した。「でも君のほうはしょっちゅうそうしたいと思っている」彼は、自分の確信にすっかり満足してにこにこしているので、エマはもう一歩先に進まなければならなかった。
「このキャンベル大佐の贈り物ですけど、ピアノを贈るだなんてずいぶん親切ですのね」
「そうだな」彼は答えたが、気まずそうなところは少しもなかった。「しかしなにか贈るのなら、ひとこと言ってからのほうがいい。驚かせようなんてばかげたことだ。楽しみがふえるわけでもないし、かえって迷惑なことが起きるだけだ。キャンベル大佐は、もっとちゃんとした判断を下すひとだと思っていたよ」
これを聞いてエマは、ナイトリー氏がピアノの件とはまるで関係ないことを確信した。しかし、ジェーンに愛情を感じているかどうか、特別な好意を持っているかどうかは、依然として謎のままだった。二曲目が終わろうとする頃、ジェーンの声がかすれてきた。
「もうこれでじゅうぶんです」歌が終わると、ナイトリー氏は声に出して言った。「あなたは今夜じゅうぶんに満足させてくださった。あとは、休んだほうがいいですよ」それでもあと一曲とせがむ声が続いた。「あと一曲――歌は、ミス・フェアファクスを決して疲れさせたりはしませんよ。もう一曲だけ、お願いしたいだけなんです」そしてフランク・チャーチル氏はこうも言った。「この曲なら無理なく歌えますよ。最初の部分はごくごく軽いものですから。強さが必要なのは二番目だけです」
これを聞いてナイトリー氏は腹をたてた。
「あの男」と憤慨した口調で言った。「自分の声をひけらかすことばかり考えている。こんなことは許せない」彼はそう言うと、近くを通りかかったミス・ベイツの肩をたたいて、「ミス・ベイツ、あなたは気でも違ったのですか。声がかすれるまでご自分の姪に歌わせるなんて。行ってやめさせたほうがいい。彼らは残酷なことをしているんです」
ジェーンのことをひどく心配したミス・ベイツは挨拶もそこそこに、前へ進み出てそれ以上歌うのをやめさせた。これでその晩のコンサートは終了となった。というのも、エマとジェーン以外、演奏できる若い女性がいなかったからである。しかし五分とたたないうちに、だれが言い出したのか、ダンスをしてはどうかという声が上がった。コール夫妻の熱心な勧めもあって、ダンスをするためのスペースを作るため、あたりが手早く片づけられた。「ワルツ・カントリー・ダンス」を得意とするウエストン夫人がピアノに向かい、魅力的なワルツを演奏し始めた。フランクは丁重な態度でエマのほうに近づいてくると、彼女の手を取り、列の先頭に導いた。
ほかの若者がペアになるのを待っている間、エマは自分の声や品位に対するほめ言葉を聞きながら、あちらこちらを見回し、ナイトリー氏がどうしているかを確認した。これは一種の賭けのようなものだ。ナイトリー氏は普段ダンスをしない。もしここでジェーンを誘って機敏に動いたとなれば、なにかの前兆だろう。しかし彼は、動きそうな気配は見せなかった。コール夫人と話し込んでいて、ダンスのことなど我関せずといった様子だ。そのうちジェーンは別の若者にダンスを請われたが、ナイトリー氏はまだコール夫人としゃべり続けている。
もうヘンリーのことを心配する必要はない、ヘンリーの財産は安全なままだ。そう確信して、エマは思う存分楽しむことができた。ダンスには結局五組のカップルしか集まらなかったが、こういう機会はめったにあることではなく、また突然なことだったのでとても楽しかった。エマは自分にぴったりの相手と踊っていることを自覚した。たしかに見るだけの価値があるカップルだ。
しかし残念なことに、ダンスは二曲だけで終わりになった。時間も遅くなっていたので、ミス・ベイツが母のためにしきりと帰りたがったのだ。もう一曲と働きかけてみたものの、結局はウエストン夫人に礼を言って、お開きにしなければならなかった。
「あれでよかったんですよ」フランクがそう言いながら、馬車のところまでエマを送ってきた。「本当はミス・フェアファクスにもお相手を申し込むべきだったのでしょうが、あなたとの後では、彼女の元気のない踊りは、ぼくには物足りなかったでしょうから」
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第二十七章
エマは、身分からして行くべきではなかったはずのコール家を訪ねたことを後悔していなかった。訪問したおかげで、翌日いろいろなことを楽しく思い出すことができたし、高い威厳を保つために孤立を守るということこそできなかったが、それは豪勢にもてはやされたことで帳消しになった。それにコール夫妻は、エマに訪問され、どんなに喜んだことだろう。あのひとたちは幸せになるだけの価値がある立派な夫婦だ! それに昨晩、エマが残した名声も、すぐに消えることはないだろう。
それでも、完璧な幸福感を味わうというのは、思い出の中でさえ難しい。ということで、エマの心にかかることがふたつだけあった。ひとつはジェーンが道ならぬ恋をしているのではないかということを、フランク・チャーチルにしゃべってしまったことだ。女性の女性に対する義務に背いてしまったのではないか、とエマは気がかりだった。あれは、正しい行いとは言えないはずだ。だが、あまりに疑念が強かったのでつい口から出てしまった。また、彼がエマの言うことをすべて支持したというのは、とりもなおさず彼女の意見が肯定されたということでもあり、黙っているべきだったかどうかも今ひとつはっきりしない。
もうひとつもジェーンにかかわることだったが、こればかりは疑念をはさむ余地もなかった。ピアノを演奏することと歌うことにおいて、エマははっきり負けを認めざるを得ず、心底残念に思っていた。子供の頃に練習をさぼったのが悔やまれ、とりあえずピアノに向かって一時間半ほど熱心に練習した。
ハリエットが訪ねてきて練習は中断された。もしハリエットのほめ方が上手なら、エマの気持ちもすぐに明るくなっていただろう。
「本当に、わたしもあなたやミス・フェアファクスと同じくらい上手に弾けるといいのですが」
「わたしたちを一緒にしてはいけないわ、ハリエット。彼女とわたしではランプと太陽ほどの違いがあるのよ」
「まあそんな。わたしはあなたのほうがお上手だと思います。ええ、彼女と同じくらいお上手ですわ。それにずっと聞いていたいと思うのはあなたのほうです。みなさんもあなたのピアノが本当にお上手だと感心していましたわ」
「少しでも音楽を知っているひとなら、わたしたちの演奏の違いは聞き取れたでしょうね。ハリエット、たしかにわたしの演奏はほめられるだけのものではあるけど、ミス・フェアファクスの演奏はそんなものをとっくに越えているの」
「まあ、でもわたしには同じくらいお上手に聞こえました。どこか違うところがあったとしても、だれにもわかるはずありません。コール夫人はあなたの演奏が本当に上品だとおっしゃっていました。チャーチル氏もあなたの品の良さについて話してらっしゃいました。それに、品があるほうが上手に弾くことよりずっと大切だとも」
「ああ、でもミス・フェアファクスは両方具わっているわ」
「そうお思いになりますか? たしかにピアノはお上手ですが、ミス・フェアファクスが上品だなんて思えません。だれもそのことはおっしゃっていませんでしたし。わたし、イタリアの歌曲は嫌いです。一言もわからないんですもの。それに、彼女のピアノがお上手なのは当たり前のことではないかしら。だって、教えなくてはならないんですから。そういえば、昨日コックス家の姉妹が、ミス・フェアファクスは良家に仕事が見つけられるかしら、と噂していました。コックス姉妹のこと、どう思われますか?」
「いつもと同じね。なんて下品なの」
「ほかにもおっしゃっていました」ハリエットは少し口ごもりながら言った。「といってもたいしたことではないんですけど」
エマは彼女たちがなにを言ったのか、きかずにはいられなかった。エルトン氏の話だったら困ったことだが。
「先週の土曜日、ロバート・マーティン氏が訪ねてきて夕食をご一緒したそうなんです」
「まあ」
「なんでもあちらのお父様に用事があったらしくて、ぜひ夕食をご一緒にって、お父様がお勧めになったそうです」
「まあ」
「彼女たち、彼のことをいろいろ話していました。特に、アン・コックスが。どういうつもりで言ったのかわかりませんが、今年の夏もまたあちらに行くのかどうかたずねられました」
「詮索しようというのね。いかにもアン・コックスがやりそうなことだわ」
「食事を共にした日の彼は、とても感じが良かったと言っていました。彼女のそばに座ったそうです。ミス・ナッシが、あの姉妹なら、彼と喜んで結婚するだろうとおっしゃっています」
「いかにもありそうなことね。まちがいなく、あの姉妹はハイベリー一下品だと思うわ」
ハリエットはフォード氏の店に用事があった。エマは、ここは慎重を期して彼女につきあうべきだろうと考えた。マーティン家のひとと偶然に出会う可能性もある。今の彼女の状態でそんなことになれば、たいへん危険だ。
ハリエットの買い物はいつも時間がかかる。見るものすべてに目移りし、一言何か言われる度にその気になってしまう。今日も木綿の布地を手に取っては、ああでもないこうでもないと思案しているので、その間エマは外の景色を眺めに入り口のところまで歩いていった。表はハイベリーの中でもいちばんにぎやかな通りだが、たいして見るものなどないのはわかっている。おもしろそうなものといえば、ペリーさんが早足で歩いているとか、ウィリアム・コックス氏が事務所のドアを開けようとしているところとか、馬車で運動から戻ってくるコール氏を見かけるとか、ラバに乗った郵便配達の少年が道に迷っているぐらいで――せいぜいそんなところだ。もっとも実際目に入ってきたのは、お盆を持った肉屋と、買い物籠をいっぱいにして家路へ急ぐこぎれいな老夫人、汚い骨を取り合って喧嘩している野良犬、パン屋のウィンドウのジンジャーブレッドを物欲しげに眺めている子供たちといったものだったが、それもしかたないことで、それでもエマはその光景をじゅうぶんに楽しむことができた。いきいきとした心は、どんなものを見ても楽しめるし、それなりになにかを見つけるものだ。
≪ランドルズ≫に続く道に目を向けると視界がぐっと広がって、こちらに歩いてくる男女の姿が目に入った。ウエストン夫人とフランクだ。ハイベリーに向かって歩いているということは、もちろん≪ハートフィールド≫を訪ねる途中なのだろう。しかしふたりはベイツ夫人宅で足を止めた。ベイツ夫人宅はフォード氏の店より≪ランドルズ≫にいくらか近い。いざノックしようとしたところで、ふたりはエマに気づき、すぐに道を渡ってこちらにやって来た。昨日が楽しかったおかげで、今日の再会には格別新鮮な喜びがあった。ウエストン夫人は、新しいピアノを聞きにベイツ夫人宅を訪ねるところだと教えてくれた。
「このひとが言うには、昨日、わたしがミス・ベイツと約束をしたそうなの」と夫人が言った。「明日うかがいますと。そんなこと少しも言った覚えがないし、今日という日を指定したかどうかもよく覚えていないのだけど、このひとがそう言い張るので、こうして来たところなの」
「夫人が訪問なさっている間、ぼくはできればミス・ウッドハウスと一緒に≪ハートフィールド≫で待たせていただきたいな。もしあなたがお帰りになるつもりなら」フランクが言った。
ウエストン夫人はがっかりした。
「あら、一緒にいらっしゃるとばかり思っていたわ。そうすれば、あちらも喜ばれるのに」
「えっ、ぼくが? どうせ邪魔になるだけですよ。いや、ここにいても同じかもしれませんね。ミス・ウッドハウスはきて欲しくないという顔をしています。そういえば伯母も買い物をするときは、いつもぼくを追い払うんです。ぼくがいると、死ぬほどそわそわするといって。ミス・ウッドハウスの顔つきも、同じことを言いたいようです。ぼくはどうしたらいいのでしょう」
「わたしは、自分の用事で来たわけではありません」エマは言った。「お友達を待っているだけで、すぐに済むと思いますが、そうしたら家に帰ります。でもあなたは、ウエストン夫人とご一緒して、新しいピアノをお聞きになったほうがいいわ」
「ええ、そうおっしゃるなら。でも(笑いながら)キャンベル大佐が指示を与えた方がうっかり者で、選んだピアノがいい音色を奏でなかったら、ぼくはどう言ったらいいのです? 夫人の手助けなどぼくにはできませんから、おひとりでいらっしゃるほうが気楽かもしれませんよ。いくら不愉快な真実でも、夫人の口から話していただければ快いでしょうし。その点ぼくは嘘をつくのが本当に苦手で」
「まあ、そんなこと信じられないわ」とエマが答えた。「必要があれば、ほかの人と同じように嘘をつくこともおできになるはずよ。でも、あのピアノが良くないと考える理由はどこにもないわ。昨晩のミス・フェアファクスの話からすると、そんなこと、絶対になさそうだったもの」
「ぜひ一緒にいらしてください」とウエストン夫人が懇願した。「もしおいやでないなら。そんなに長居をする必要はないのよ。そのあと≪ハートフィールド≫へうかがいましょう、おふたりには先に帰っていただいて。お願い、ぜひ一緒に来てちょうだい。きっと喜んでいただけるわ。あなたもすっかりそのつもりだと思っていましたけど」
フランクはそれ以上反対できなかった。彼は、あとで≪ハートフィールド≫へ行けば償いは得られるだろうと言って、夫人と一緒にベイツ夫人宅へ向かった。エマはふたりが家に入るのを見届けてから、カウンターにいるハリエットのところに行った。ハリエットはカウンターに並んだ布地やリボンにすっかり心を奪われていた。そこでエマは、無地の生地が欲しいなら、柄物を眺めていても無駄だし、青いリボンはとてもきれいだけど、黄色の布地には合わないと、心を込めて説得した。ようやく品物が決まり、包みの届け先も決まった。
「ゴダード夫人のところへお届けしましょうか?」とフォード夫人がたずねた。
「ええ――でもやめておこうかしら――いえ、やっぱりゴダード夫人のところに送っていただくわ。柄物のドレスだけは≪ハートフィールド≫へ。いえ、よろしければこれも≪ハートフィールド≫に送っていただけないかしら。でもゴダード夫人もご覧になりたいでしょうし。それに、模様入りのドレスならいつか家に持って帰ることもできるわ。でもリボンはすぐに要り用だから、≪ハートフィールド≫に届けてもらったほうがいいわね。リボンだけは――。あの、申し訳ありませんが、包みをふたつにしていただけるかしら?」
「ハリエット、わざわざ包みをふたつにしていただくことはないわ」
「そうですね」
「手間はかかりませんから、ご心配には及びません」親切なフォード夫人は言った。
「まあ、でも本当にひとつでいいんです。そしてすべてゴダード夫人のところに届けておいてください。ああ、どうしたらいいかしら、ミス・ウッドハウス。≪ハートフィールド≫へ届けていただいて、夜持って帰ったほうがいいのかしら? どうしたらいいと思われます?」
「そんなことでもう半秒だって頭を使わないでちょうだい。≪ハートフィールド≫へお願いしますね、フォード夫人」
「ええ、そうですね、それが一番です」ハリエットはすっかり満足したように言った。「本当に、ゴダード夫人のところには届けていただきたくなかったんですもの」
にぎやかな声が店のほうに近づいてきた。どうやらふたりの女性らしいが、しゃべっているのはひとりだけだった。ウエストン夫人とミス・ベイツだ。
「ウッドハウスのお嬢様、わたし走って参りましたの。ぜひうちへ来ていただいて、しばらくお話ししていただこうと思って。それから新しいピアノについて、なにかご意見をお聞かせいただけたらうれしいですわ。ミス・スミスもいらっしゃいませんこと? ごきげんいかが? ミス・スミス。――ええ、ありがとうございます。いえね、ウエストン夫人に一緒に来ていただけたら、おふたりを上手く説得できるかと思って」
「ベイツ夫人とミス・フェアファクスは――」
「ええ、ええ、元気にしております。母はそれはもうたいへん元気で、ジェーンも昨日は風邪を引きませんでした。ウッドハウス様はお元気ですか。――それをうかがって、わたしもうれしいです。いえね、ウエストン夫人からあなたがたがここにいらっしゃるとお聞きしたものですから、これは急いで行ってお連れしなければ、と申したんですの。ひと走りして、いらしてくださるようお願いすれば、きっと来ていただけるだろうと思いまして。お嬢様にお会いできたら、母も大喜びですわ。こんなに素晴らしい方がいらして下さるなら、あの方もお断りになるはずがありません。『ぜひそうして下さい』とチャーチル様もおっしゃってました。『ピアノに関するミス・ウッドハウスのご意見は聞くだけの価値がありますよ』とも。ですからわたしこう申したんです。チャーチル様か、ウエストン夫人のうち、どちらかおひとりでも一緒に来てくだされば、きっとうまくいくだろうって。『それなら、ぼくがこの仕事を終わるまでもう少しお待ちいただけませんか』とあの方がおっしゃったのです。信じられます? お嬢様。あの方はご親切にも母の眼鏡の鋲を修理して下さっているんですよ。ええ、今朝鋲がはずれてしまいまして。なんてご親切なんでしょう。母は今朝から眼鏡がなくて不自由しておりましたの。ついでながら、眼鏡というものはふたつ持っているべきですわね。本当に。ジェーンもそう申しておりました。初め、ジョン・サンダースのところへ持っていくつもりにしていましたが、午前中はあれやこれやと邪魔が入りまして。最初はあれで、次はこれと、いえ、いちいち言っていてもきりがありませんわね。そのうちパティーがわたしのところに来まして、煙突掃除をする必要がありそうだと言うんです。そんないやな話をしないでちょうだい、奥様の眼鏡の鋲がはずれてしまったのよ、と言っているところに、焼きリンゴが届きまして。ウォリス夫人が男の子を寄越してくれたんです。ウォリスご夫妻はいつもわたしどもに親切で、それはよくしてくださいますのよ。以前何度か、ウォリス夫人は礼儀知らずでぞんざいな人だという噂を聞いたことがありますが、わたしどもは親切にしていただいたことしかありません。それに今のわたくしどもだったら、それほどしていただく必要もないのです。と言いますのも、わたくしどもが、どれくらいのパンを食べるかご存知ですか? たった三人ですもの――ええ、ジェーンが加わりましたから――あの子は本当に何も食べませんでね。それは食欲がなくて、ご覧になったらきっとびっくりなさいますわ。あの子の食がどんなに細いか、母には、知らせる勇気もございません。いつもあれこれ別の話をしては、上手く切り抜けているんです。
でもお昼頃になりますと、あの子もさすがにお腹が空くらしいのですが、焼きリンゴが大好きで。体にもいいですものね。と言いますのも、先日ペリーさんとばったり道で会って、おききする機会があったのです。ええ、疑っていたわけではございませんのよ。ウッドハウス様から何度も、焼きリンゴが体にいいとうかがっていましたから。でも、ウッドハウス様のおっしゃる、リンゴが申し分なく体にいいというお説は、このように焼きリンゴにしたときだけのようです。でも、わたしたちはよくリンゴ入りプリンを食べるんです。パティーがそれは上手にこしらえてくれますの。――ええ、ウエストン夫人、あなたの説得がうまくいったようですわ。お嬢様方は来てくださるそうです」
エマは「ベイツ夫人を訪問するのはとてもうれしいことです」と言い、みんなで店を後にしたが、ミス・ベイツはまだしゃべり続けていた。
「フォード夫人、ご機嫌いかがですか? ごめんなさい、そこにいらしたのに気がつかなくて。ロンドンから素敵な新しいリボンを持っていらしたとか。ジェーンが昨日、それは喜んで帰ってきましたわ。ありがとうございます。手袋もたいへん素敵で。ただ、手首のところが少し大きすぎたので、ジェーンが今締めております」
「ええと、わたしはなにを話していたかしら?」通りに出ると、彼女がまた口を開いた。
ミス・ベイツのごちゃ混ぜの話を聞いていると、いったい彼女がなにに注意を向けているのかと、エマは不思議だった。
「なにを話していたのか、どうしても思い出せなくて。ああ、そうでした、母の眼鏡の話をしていたんでしたね。チャーチル様のおやさしいことと言ったら。『ああ、眼鏡の鋲ならぼくにも修理できると思いますよ。こういう仕事は特に好きなんです』とおっしゃったんです。これでどんな方かよくお分かりになると思いますわ。あの方のことは、ずいぶん噂に聞いて、立派な方だとは思っていたのですが、実際には、どんな噂や想像よりずっと優れておられます。ウエストン夫人、心からお祝い申し上げます。おやさしいご両親のお望みにもぴったりですわね。『ああ、眼鏡の鋲なら修理できます。そういう仕事は大好きなんです』とおっしゃってくださったんですよ。あの方の態度は決して忘れません。召し上がっていただこうと棚から焼きリンゴをお出ししたら、即座に『ああ、リンゴほどおいしい食べ物はありませんよ』とおっしゃいました。『これは今まで見た中でもいちばんおいしそうな手作りの焼きリンゴです』って。あの方のご様子から、お世辞でないのがよくわかりました。なにしろ素晴らしい焼きリンゴで、また、ウォリス夫人が上手に焼くんですの。ただ、ウッドハウス様は三回は焼くようにと言われましたが、二回しか焼きません。でも、お嬢様ならそんなことはおっしゃらないですわね。おやさしい方ですもの。それにしてもリンゴというのは本当に焼くのにぴったりの果物ですわね。これはまちがいございません。どれも≪ドンウェル≫で採れたものばかりです。その中のいくつかはナイトリー様がご親切にもお分け下さるのです。ええ、毎年一袋、送って下さいますの。あそこにある木から採れるものはどこのものより長もちします。確か、そういう木が二本あったと思います。母が申しますには、若い頃からあの果樹園は有名だったとか。
でも先日は本当にびっくりしてしまいました。と言いますのも、ナイトリー様が朝お訪ねになって、ええ、ちょうどジェーンがそのリンゴを食べておりましたので、リンゴのことを話しまして、どんなにあの子がリンゴが好きかお教えしました。そうしましたらナイトリー様がまだ残りがあるかどうかおききになりました。『きっと、もうなくなっているはずです』とおっしゃって、『もう一袋届けさせましょう。今年は食べきれないほどあるんです。ウィリアム・ラーキンスがいつもよりたくさん収穫してくれたもので。無駄になってしまう前に、もう少しお届けします』と言って下さったんです。どうかそんなことなさらないでくださいと申したのですが、もううちのリンゴはほとんどカラでして、まだたくさん残っているとは、どうしても言えなかったのです。ええ、残りはほんの五、六個といったところでした。でもそれは、ジェーンのために取っておかなくてはなりませんでしょう。かといって、ご親切に甘えてもっとお届け下さいと言うのはどうにも気がとがめますし。ジェーンも同じ気持ちでいると申し上げておきました。ナイトリー様がお帰りになると、あの子は喧嘩でもするように、いえ、そういう表現は適切ではありませんわね。一度だって喧嘩などしたことはありませんから。それでも、わたしが、残り少ないと申しましたことをひどく気にしまして、まだたくさん残っていると、ナイトリー様に信じさせて欲しかったと言うのです。ええ、わたしだってできるだけそう努力したつもりだと申しました。そしてその日の晩、ウィリアム・ラーキンスがリンゴの入った大きな籠をさげてやって来たのです。前にいただいたのと同じリンゴが、少なく見積もっても一ブッシェルはありました。本当にありがたくて、下へ降りていって、みなさまもすでにおわかりとは思いますが、ウィリアム・ラーキンスにいろいろ声を掛けてお礼を申しました。ウィリアム・ラーキンスとはそれはもう古くからのつきあいで。あのひとに会うのはいつも楽しみなんですよ。でも、後からパティーに聞いたところでは、ウィリアム・ラーキンスはご主人様のところにあったリンゴを残らず持ってきたそうなんです。そう全部です。ですからナイトリー様のところには、煮たり焼いたりするリンゴがひとつも残っていないんですって。
ウィリアム自身はそんなことちっとも気にしていなくて、ご主人様がたくさんのリンゴをお売りになって大満足のようでした。なんといっても、ウィリアム・ラーキンスはご主人の利益を第一に考えるひとですから。ただ聞いたところでは、ホッジス夫人がリンゴを全部持って行かれたことにたいそう腹をたてているらしく、もう来年までアップルパイを召し上がっていただけないのは我慢ならないと言ったとか。ウィリアム・ラーキンスはそういった話をパティーにだけして、気にしないように、わたしどもの耳には入れないように、と言ったそうです。ホッジス夫人の機嫌が悪いのは珍しくもないし、あれだけたくさんのリンゴが売れれば、残りをだれが食べようとかわりはしないと言うんです。パティーはウィリアムのしゃべったことを全部話してくれましたが、わたしはたいそうショックでした。どんなことがあっても、ナイトリー様のお耳には入れたくありません。あの方はほんとうに――。ジェーンにもこのことは伏せておこうと思ったのですが、不幸なことに、気がついたらいつのまにか自分でしゃべっておりました」
ミス・ベイツがしゃべり終わったところで、パティーがドアを開けてくれた。客たちはいつもの挨拶も抜きで、善意から出た彼女のとりとめもない話に追い立てられて階段を上った。
「どうかお気をつけ下さい、ウエストン夫人。角に段がございます。ミス・ウッドハウスもお気をつけになって。うちの階段は本当に暗くて狭くて、いやになりますわ。ミス・スミス、お気をつけ下さいよ。ウッドハウスのお嬢様、お足をぶつけやしないかと心配で――ミス・スミス、曲がったところに段があるんですよ」
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第二十八章
狭い居間に入ると、中はごく静かだった。ベイツ夫人は普段の仕事を取り上げられ、暖炉のそばでうたたねをしていたし、フランクは彼女のそばに腰を下ろして眼鏡の修理に夢中で、ジェーンはふたりに背を向けたままじっとピアノを見つめている。
フランクは忙しそうではあったが、エマの顔を見て嬉しそうな顔をする余裕はあったらしく、
「これは嬉しい」とやや低い声で言った。「計算していたより少なくとも十分は早く着きましたね。これでぼくも役にたつ仕事をするんだってことがお分かりでしょう。うまく直せるかどうか、意見を聞かせて下さいよ」
「何ですって!」とウエストン夫人が言った。「まだ直せないのですか? そんな様子では、腕だけが頼りの銀細工職人としてやっていくのはとうてい無理ね」
「いえ、ずっとこれにかかりきりというわけではなかったのです」フランクは答えた。「ミス・フェアファクスのお手伝いをして、ピアノを固定させていたんです。床が平らでないのでどうもぐらぐらしましてね。脚の下に紙をはさみこんだんです。それにしても、おふたりの誘いを入れてよく寄ってくれましたね。ぼくはまた、さっさと帰ってしまったのではないかと思っていたんですよ」
フランクはエマが自分の近くに腰を下ろせるよう気を配り、エマのためにいちばん良さそうな焼きリンゴを選んでくれたり、仕事を手伝ったりアドバイスしてくれるよう頼んだり忙しそうにしていたが、その間にジェーンは、やっとピアノに向かう決心がついたようだった。そんなに時間がかかるのは、神経が過敏になっているせいなのだ、とエマはにらんだ。ピアノが来てからあまり日がたっていないので、なんの感情ももたずに弾くのはまだ無理なのだろう。演奏するにも自分を励まし、気分を盛り上げなければならないのだ。エマはそうした感情を、たとえ原因が何であれ、気の毒に思わずにはいられなかった。もう二度と、フランクにジェーンの気持ちを暴露するのはよそうと決心した。
ジェーンはようやくピアノを弾き始めた。初めの小節こそ弱々しかったが、次第にじゅうぶんな音量を奏でるようになった。ウエストン夫人は彼女の演奏を聞いて昨晩もたいへん喜んでいたが、今日も満足そうだった。エマも一緒になってジェーンをほめ、どの点から見てもこのピアノは最高の品質を備えていると断言した。
「キャンベル大佐がどなたをお雇いになったか分からないが」とフランクがエマのほうに微笑みながら話しかけてきた。「ピアノ選びはまちがっていなかったようですね。ぼくはウエイマスで大佐の好みについて何度か耳にしたことがありますが、大佐やお仲間は特に、高音部の柔らかさを評価してらっしゃった。ミス・フェアファクス、大佐はよほど細かい指示をお与えになったか、ブロードウッド店に直接手紙を書かれたのでしょうね。あなたもそうお思いになりませんか?」
しかし、ジェーンはウエストン夫人から話しかけられていたため、振り向くことも耳を傾けることもできなかった。
「ちょっと言い過ぎでは」エマはささやくように言った。「わたしの話はたんなる推測にすぎないのよ。彼女を苦しめないで下さい」
フランクは笑いながら頭を振ったが、そのことに関してはほとんど疑問の余地がなく、また、気の毒に思っている様子もないようで、そのまま続けた。
「ミス・フェアファクス、アイルランドにおられるあなたのお友だちは、あなたが喜んでいる様子を想像してどんなに満足していることでしょう。しょっちゅうあなたのことを思い出しては、ピアノはいつ届くのかと思っているのでしょうね。正確な日時はいつだろうって。キャンベル大佐は今、ここまで事が運んでいると、想像しておられるでしょうか? これは大佐が直々に注文された結果なのか、それとも日時については都合のいいときでいいと大まかな指示をしたただけなのか、どちらだと思いますか?」
フランクはここで言葉を切った。ジェーンは耳を傾けざるを得ず、質問に答えるほかなかった。
「キャンベル大佐からお手紙を頂くまでは、自信をもって言えることは何もありません」彼女は平静を装った声で言った。「どんなことを言っても推測でしかありませんもの」
「推測――そのとおりです。ひとは時に正しい推測をすることもあれば、まちがったことを推測することもあります。この鋲を修理するのに、あとどのくらいかかるか、推測できるといいのですが。だがミス・ウッドハウス、仕事中におしゃべりを始めると、まったくばかげたことをしゃべってしまうものですね。真の労働者なら黙って仕事をするでしょうが、我々紳士労働者はある言葉が浮かぶと――ミス・フェアファクスが先ほど推測についてなにかおっしゃっていたが――。ああ、できました。奥様、(とベイツ夫人のほうに向いて)眼鏡の修理ができました。これで当分は大丈夫でしょう」
フランクはベイツ夫人とミス・ベイツから熱烈な感謝の言葉を捧げられたが、ミス・ベイツのおしゃべりから逃げるように、ピアノのほうへ行った。そしてピアノの前に座っていたジェーンに、なにかもう一曲弾いてほしいと頼んだ。
「もしよかったら、昨晩ぼくらが踊ったワルツの中から一曲お願いします」とフランクは言った。「もう一度思い出させて下さい。でも、あなたはぼくほど楽しんでいませんでしたね。パーティーの間中疲れた顔をして。もうあれ以上踊らずにすんだので喜んでいたんでしょう。でも、ぼくはどんなことがあっても、そう、どういうことが起こったとしても、あと三十分は踊っていたかった」
ジェーンが演奏を始めた。
「ぼくらを幸せにしてくれたあのメロディをもう一度聞けるとは、なんてうれしいことでしょう。ぼくの思い違いでなければ、これはウエイマスでも踊った曲ですね」
ジェーンはしばらくフランクのほうを見ていたが、顔を真っ赤にし、急にほかの曲を演奏し始めた。フランクはピアノのそばの椅子から譜面をいくつか抜き取ると、エマのほうを振り返って言った。
「ここにある楽譜は初めて見るものばかりです。これ、ご存知ですか? クラマーの曲です。それに、アイルランドの曲をあつめたもの。いかにも、あの地方ならこういうものが混じって当然でしょう。きっとピアノと一緒に届けられたんでしょう。キャンベル大佐は本当に細かい心配りのできる方だ。ミス・フェアファクスがここでは楽譜を持っていないことをご存知なんですね。こういう心遣いにはぼくは特に敬意を払います。心からこの贈り物をしたっていうことが分かりますからね。いい加減なところもないし、すべての点で行き届いている。真の愛情からこの贈り物をする気持ちになったんですよ」
フランクがそれ以上辛辣なことを言わなければいいのにとエマは思ったが、おもしろがらずにはいられなかった。そこでジェーンのほうに目をやると、彼女の顔にはかすかな微笑みの名残ともいうべきものが浮かんでいた。エマのほうは、良心がとがめて顔が赤くなる思いだというのに、ジェーンの顔には秘密の喜びにうち震える微笑みが残っているとは。こんなことならもっとおもしろがってもいいわけで、良心の呵責など感じる必要はないのだわ、とエマは思った。どうやら愛すべき、真面目で完璧なジェーンの胸は、道はずれた恋でいっぱいらしい。
フランクが持ってきた楽譜をふたりで一緒に眺めている間、エマは頃合を見計らってこうささやいた。
「ずいぶんと率直にお話しになっていたようだけど、あれではあなたのおっしゃること、彼女に通じてしまったはずよ」
「いや、わざと分かるように言ったんです。それに自分の言ったことを恥じる気持ちは少しもありません」
「でもわたしは少し恥ずかしかったわ。あんなこと言わなければよかった」
「ぼくとしては教えてもらってありがたく思っていますよ。どうして彼女があんな顔をしているのか、どうしてあんな奇妙な態度を取るのか、それを解く鍵を握っているんですからね。恥ずかしいなら、そう思わせておけばいいじゃないですか。本当にまちがったことをしているなら、ちゃんとわきまえるべきですよ」
「そう見えないわけでもありませんわ」
「ぼくにはそんなふうに見えませんね。ほら、『ロビン・アデア』を弾いているでしょう。あれは、彼のお気に入りの曲なんです」
そのあとすぐ、窓の前を通ったミス・ベイツが、近くを馬に乗って通り過ぎるナイトリー氏の姿に目をとめた。
「ナイトリー様ですわ。できるならお話しして、せめてお礼だけでも言わなくては。でもここの窓を開けるのはやめておきましょうね。お寒いでしょうから。母の部屋に行ってきます。ここにどなたがいらっしゃるかお分かりになれば、いらしていただけると思いますわ。みなさんにお会いになれば、それはお喜びになるでしょう。本当に光栄ですわ、うちの小さな部屋にみなさん来ていただいて」
ミス・ベイツは隣の部屋に入ってもまだしゃべり続け、窓を開けるとナイトリー氏に呼びかけた。ふたりの会話は一言ももらさず聞こえてきて、まるで同じ部屋で話しているようだった。
「ご機嫌いかがでいらっしゃいます? お体のほうは?――ええ、ありがとうございます。昨晩は馬車を本当にありがとうございました。母が待っておりまして、ちょうど間に合いました。お寄りになりませんか? ぜひいらして下さい。お友だちもいらっしゃいますのよ」
ミス・ベイツはしゃべり続けたが、ナイトリー氏は自分の話を聞かせようと決心したらしく、決然とした口調でこう言った。
「姪ごさんはいかがですか? ミス・ベイツ。みなさんのこともうかがいたいのだが、特に姪ごさんのことが気がかりです。ミス・フェアファクスはお元気ですか? 風邪など引いていなければいいのだが。今日はいかがお過ごしですか? ミス・フェアファクスがどうしてらっしゃるか、教えて下さい」
ミス・ベイツがありがたがってフェアファクスの様子をまくしたてたので、ナイトリー氏はほかの話ができなくなってしまったが、隣の部屋からふたりのやりとりを聞いていたエマたちにはおもしろかった。ウエストン夫人が意味ありげな顔でエマを見たが、エマは頑として同意せず、なお頭を振った。
「それにしてもご親切に、昨日は馬車を本当にありがとうございました」とミス・ベイツが続けたが、ナイトリー氏はそれをさえぎってこう言った。
「キングストンに向かう途中なのです。何か用事はありませんか?」
「まあ、キングストンですか? そういえば先日、コール夫人がキングストンのほうに用事があるとおっしゃっていました」
「コール夫人なら召し使いを行かせればいい。あなたには、ご用はないのですか?」
「いいえ、ありがとうございます。でも、ぜひうちに。どなたがいらっしゃるとお思いになります? ウッドハウスのお嬢様とミス・スミスですの。ご親切にも新しいピアノを聞きにわざわざ訪ねて下さったんです。さ、ナイトリー様、クラウン亭に馬をお留めになって、いらっしゃって下さい」
「そうですか」とナイトリー氏は慎重な態度で言った。「それでは五分だけお邪魔することにしましょう」
「ウエストン夫人とチャーチル様もいらっしゃいますのよ。本当になんてうれしいことでしょう。こんなにたくさんのお友だちに来ていただいて」
「いや、やはりやめておきましょう、申し訳ありませんが。どうせ二分といられないでしょうから。できるだけ早くキングストンに向かわなければなりませんので」
「まあ、お寄りになって下さい。みなさんお喜びになるはずですもの」
「いや、よしておきます。部屋はもういっぱいのはずだ。また別の日に寄らせてもらいますよ。ピアノもそのときに」
「そうですの? 残念ですわ、ナイトリー様。それにしても昨晩のパーティーの楽しかったこと。本当に素晴らしかったですわね。あんな素晴らしいダンスをご覧になったことがおありですか? 楽しかったですわね。ウッドハウスのお嬢様とチャーチル様のダンス。あのダンスに匹敵するものなど、今まで見たことありませんわ」
「ええ、本当に素晴らしかった。それ以外言いようがないですね。なんといっても、ミス・ウッドハウスとチャーチル君が我々のやりとりをすべて聞いているでしょうから。それにしても(声を大きくしながら)ミス・フェアファクスのことを持ち出さないのはどうしてですか? 彼女のダンスも素晴らしかったと思いますよ。それからウエストン夫人、『ワルツ・カントリー・ダンス』を弾かせたら、この国にあのひとの右にでる者はいない。あなたのお友だちが感謝の気持ちをおもちなら、お返しに、あなたとわたしのことも大声でほめてくれるでしょうが、あいにくわたしにはそれを聞いているだけの時間がないので」
「まあ、ナイトリー様、もうひとつだけ、大事な用事がありますのよ。本当に驚きましたの。わたしもジェーンもあのリンゴには本当に驚きましたのよ」
「いったい何事です?」
「お宅に残っていたリンゴ、全部下さったのではないですか? たくさんあるからとおっしゃっていましたが、本当はもう残っていないのでしょう。わたしたちびっくりしました。あれではホッジス夫人が怒るのも当然ですわ。ウィリアム・ラーキンスがうちでそう言っていました。あんなことして下さらなくてもよろしかったのに、本当に結構でしたのに――。あら、行ってしまわれましたわ。お礼を言われるのがおいやなのね。でも言わないわけにはいきませんわ、そんな失礼は出来ませんから。(部屋のほうに戻りながら)残念ながら、お引き留めすることはできませんでした。ナイトリー様はお寄りになれなくて。キングストンに行かれるとか。なにか用事がないかと、おたずねになって下さいまして――」
「ええ、ナイトリーさんがそう言ってらっしゃるのは聞こえました」とジェーンが言った。「なにもかも」
「まあそうだったの。そうだろうと思いましたよ。ドアも開け放し、窓も開け放しですものね。それにナイトリー様は大きなお声でお話しになりましたから。なにからなにまでお聞きになったにちがいありませんわね。『キングストンに用事はないか』ときいて下さって――。まあ、お嬢様、もうお帰りになりますの? いらしたばかりのような気がしますのに。ええ、ご親切にありがとうございます」
エマはもう家に帰る時間だと思った。じゅうぶん長居をしている。時計を見ると、すでに昼近くなっている。ウエストン夫人とフランクも腰を上げ、エマとハリエットと一緒に≪ハートフィールド≫まで歩き、それから≪ランドルズ≫に戻って行った。
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第二十九章
ダンスというものはまったくしなくてもなんとかなるものだ。長い間、どんな舞踏会にも出席しない若者もいて、だからといって心身に大きな害が出るというわけでもない。しかし、なにかのきっかけでダンスの軽やかな動きを経験し、たとえほんの少しでも至福の時を味わった者なら、もっとダンスをしたいと思うのは当然で、しないことで欲求不満にならないひとたちはよっぽど鈍感なのだろう。
ハイベリーでダンスに加わったフランクは、ぜひとももう一度ダンスをしたいと思っていた。ある日の夕方、エマがウッドハウス氏を説き伏せて一緒に≪ランドルズ≫に行ったとき、若いふたりの間で舞踏会を開く計画がもちあがり、帰る前の半時間をその話をして過ごした。最初にアイディアを出したのも、熱心に舞踏会を催すことを勧めたのもフランクだった。というのはエマには、舞踏会をするとなると、いろいろ難問が待ち受けているのがわかっていたからだ。部屋の収容力や世間体も気になる。それでもエマはもう一度、ミスター・フランク・チャーチルとミス・ウッドハウスがどんなに楽しそうにダンスをするかを、みんなに披露してやりたい気がしていた。ダンスならジェーンと比べられても見劣りすることはない。それに、虚栄心を満たしたいというよこしまな心だけでなく、ただただダンスを楽しみたいという思いもあった。そこでフランクを手伝って、まず今いる客間を歩測し、何人くらい収容できるか調べた。そのあともう少し広い部屋がないか、別の客間を調べたりもした。ただ、その前にウエストン氏から、もうひとつの客間も、広さはほとんど同じだと言われてはいたのだが。
コール家でのパーティーで始まったダンスを、この舞踏会で締めくくるのがいい。同じ顔ぶれで、音楽も同じひとに演奏してもらう。フランクがそう提案すると、みなはすぐに賛成した。ウエストン氏がうれしそうに計画に加わって、夫人も、みんなが踊りたいだけ踊れるよう演奏すると、快く引き受けてくれた。そのあとは、どういうひとたちを呼ぶか、めいめいのカップルにはどれくらいスペースが必要かなどという、楽しい話し合いが続いた。
「あなたとミス・スミスとミス・フェアファクスで三人。それからコックス家の姉妹で五人」という会話が何度も繰り返された。「ギルバート家の兄弟に、コックス氏の息子さん、父とぼく、それからナイトリー氏、そう、楽しむにはこれでじゅうぶんの人数だ。あなたとミス・スミスとミス・フェアファクスで三人、コックス家の姉妹で五人。五組のカップルなら、スペースはじゅうぶんでしょう」
しかしそのうちすぐこんな言葉が飛び出す。
「ほんとうに、スペースはじゅうぶんかしら? きっと足りないと思うわ」
さらにまた。
「結局、来ていただく価値のある舞踏会にするには五組では少ないんじゃないかしら。よく考えてみると、五組じゃあ問題にもならないわ。五組だったら『招待』するうちにも入らないくらいよ。ちょっとしたその場の思いつきというなら別だけど」
まただれかが、「ミス・ギルバートが兄を訪ねてくることになっているので、一緒に招待するべきだ」と言うと、ほかのだれかが、「ギルバート夫人は、先日でも、請われれば踊っただろう」と言い出す。コックス家の次男を呼んではどうかという声も上がり、おしまいに、ウエストン氏が出席者の中に入れなければならない従兄弟の家族と、昔からの知り合いの名前を上げ、五組と算段していたものが少なくとも十組になって、どう算段すればいいものかと、とても熱心に検討された。
ふたつの客間のドアが向かい合わせになっているのに気づいて、「両方の部屋をつなげて使うことはできないかな? 廊下を横切って踊るというのは?」という提案がなされた。いかにも素晴らしい案のように思われたが、最高というほどではなかった。エマはそれでは格好が悪いと言い、ウエストン夫人は夕食のことを考えて悩んでいた。だが、ウッドハウス氏が健康のことを思って本気で反対し、すっかり気分を害してしまったので、それ以上その案を押すことができなくなった。
「ああ、とんでもないことだ」とウッドハウス氏は言った。「まったく無分別だ。エマのためにも我慢ならん。この子は体が丈夫ではないのですから、ひどい風邪を引いてしまいますよ。それに、かわいそうにミス・スミスも。みなさんも同じです。ウエストン夫人、あなただって寝込んでしまいますよ。そんな無茶な話をこれ以上続けないでおくれ。あの若者は(と声をひそめて)あまりにも考えが足りません。いや、こんなこと、彼の父上には内緒ですよ。でも、あのひとはどうかしている。今夜もドアを何度も開けて、それも不注意にも開けっ放しにするのですから。隙間風が吹き込んでくることなど少しも考えない。仲たがいさせるつもりはないが、本当にどうかしている」
ウエストン夫人は氏の非難を聞いて悲しくなってきたが、このまま放っておいては一大事と思い、できる限りの言葉を並べてその非難を解消しようとした。ドアが閉められ、廊下を横切る計画もお蔵入りになると、今いる部屋を使用するという最初の案が再び取り上げられた。舞踏会を開きたくてたまらないフランクは、十五分前には五組でやっとだと考えていたのに、このスペースなら十組でもじゅうぶんいけると苦しい弁解を続けた。
「ぼくたち少し大げさすぎませんか?」とフランクは言った。「それほどスペースは取りませんよ。ここなら十組じゅうぶんに入れます」
これを聞いてエマは異議を唱えた。「きっと混雑するわ、情けないくらい。それにターンするスペースもないところで踊るなんて、そんなひどいことがあるかしら」
「おっしゃる通りだ」とフランクは真顔で答えた。しかし「まったくひどい話だ」と言いつつなおも部屋を測り続け、しまいにはこう言った。
「十組ならそれほど狭いとは思わないがなあ」
「いいえ、だめよ」とエマは言った。「かなり現実にそぐわないことをおっしゃるのね。お隣との間が狭いなんてたまらないわ。混雑した中で、そう、狭い部屋の中で混雑したまま踊るなんて、それほど楽しめないこともないわ」
「たしかにそうですね」フランクは答えた。「まったく同感です。なるほど、狭い部屋の中で混雑したまま踊る、か。ミス・ウッドハウス、あなたはちょっとした言葉で情景を描き出すのがお上手だ。いや、本当にお見事です。でもせっかくここまで話をつめたのですから、あきらめてしまうのは残念だな。父もがっかりするだろうし。はっきりとは分からないけど、やはり十組は入れるのでは?」
彼のほがらかさには、少々わがままなところがある、とエマは感じた。きっと、自分と踊る楽しみを失うくらいなら、むしろわたしに反対したほうがましだと思っているのだろう。エマはほめ言葉だけ受け入れて、ほかの部分は許すことにした。もちろんフランクと「結婚する」意志があるなら、彼の好みの善し悪しや気性の特徴をじっくり考え、理解するよう努めるべきだろうが、単なる友人同士でいる限りは、愛想がいいということだけでじゅうぶんだ。
翌日のお昼前、フランクが≪ハートフィールド≫へやって来た。部屋に入ってきた顔を見ると、例の計画を思案中なのがはっきりと分かるような、気持ちのいい笑顔を浮かべていた。改善策を伝えにきたのだ。
「ミス・ウッドハウス」フランクはいきなり切りだした。「父の家が狭いために嫌気がさして、ダンスをしたいという気持ちをなくされたのではないでしょうね。いいことを思いついたんです。父の提案なんですが、あなたに賛成してもらえたらすぐにも実行に移したいと思っています。今計画しているささやかな舞踏会の最初の二曲に、あなたのお手を取る名誉をいただけるでしょうか? 場所は≪ランドルズ≫ではなく、クラウン亭です」
「クラウン亭ですって!」
「ええ。もちろんあなたとウッドハウス様に異存がなければの話ですが。でも、あなたに異存があるとは思えません。あそこならみなさんにおいでいただけるだろうと、父も期待しているのですから。設備も整っているし、≪ランドルズ≫と同じように感謝を込めてみなさんをお迎えすると約束できます。じつは、これは父の考えなんです。夫人もあなた方が納得されれば異存はないと言っています。これがぼくたち三人の気持ちなんです。ああ! あなたが昨日言っていたことに、まちがいはありませんでした。≪ランドルズ≫のどの部屋を使ったとしても、十組となるととても無理だったでしょう。ひどいことを言ったものです。実はあの時、あなたの言うことはしごくもっともだと思いながらも、なんであれ、ことを決めてしまいたくて、負けを認めることができなかったのです。でもこれはいい思いつきでしょう? 賛成してもらえますよね? きっと、していただけると思っています」
「ウエストン夫妻に異存がなければ、だれも反対はしないと思うわ。素晴らしい計画ね。わたしがお答えできるのは、きっと楽しいでしょうということだけ。このほかに、思いつけませんもの。お父様、素晴らしい改善案だと思いません?」
ウッドハウス氏がじゅうぶん話を飲み込むまで、エマは繰り返し説明しなければならなかった。また、氏にとってはきわめて珍奇なアイディアだったので、了解を取り付けるにはさらに詳しい説明が必要だった。
「いや、改善案などとは言えないと思うね。まったく感心できない計画だ。前の計画よりずっと悪い。宿の部屋というのはいつもじめじめして危険だ。換気をしないから、ひとが住むのに適当とは言えない。どうしてもダンスがしたいというなら、≪ランドルズ≫でしたほうがいい。クラウン亭の部屋など、今まで足を踏み入れたこともないし、経営者の顔も見たことがない。だめだ、とんでもない計画だ。クラウン亭で開催すれば、ほかのどこよりもひどい風邪を引いてしまう」
「今申し上げようと思っていたのですが」とフランクが切りだした。「この案の大きなメリットは、風邪を引く危険がいちばん少ないところにあるのです。≪ランドルズ≫よりクラウン亭のほうがずっと安心です。ペリーさんならこの変更を残念に思われる根拠をお持ちかもしれませんが、ほかのひとにはありません」
「あのね、君」ウッドハウス氏は激しい口調で言った。「ペリーをそんなふうに思うのは大きなまちがいですぞ。ペリーはどんなひとが病気になってもたいそう心配してくれる。それにしても、お父上の家よりクラウン亭のほうが安全だなんて、わたしにはどうも解せん」
「クラウン亭のほうが広いという事情からお察しいただけると思います。窓を開ける必要がまったくありませんから。ひと晩中一度も。身体に悪いのは(よくご存知だと思いますが)、ほてった身体に冷たい風をあてようと窓を開ける、あのいやな習慣なのですから」
「窓を開ける? でもチャーチル君、≪ランドルズ≫では、窓を開けようなどという無分別なことを考える者はだれもいないよ。だいいち、窓を開けたままダンスをするなど、聞いたこともない。お父上もウエストン夫人も(実際には、気の毒なミス・テイラーと言ったのだが)きっとお許しにならんだろう」
「ですが、ときどき考えの足りない若者がカーテンの後ろに入って、だれにもわからないように、窓を開けることがあるんです。ぼく自身もそのような場面を目撃したことがあります」
「いやはやそれは本当かね? とんでもない話だ。そんなこと、考えつきもしなかった。だがわたしは世間から離れて暮らしているので、ひとから話を聞いてはしょっちゅう驚いているのだ。でもこれはゆゆしき事態ですぞ。話し合いの場を持つ必要がある。こういった問題は特にじっくり考えねばならんのでね。急いで決定することなどできません。午前中ウエストンご夫妻にこちらを訪ねていただければ、話し合ってどうすればいいか検討することができるでしょう」
「ですが、あいにくわたしのほうの時間が限られておりまして」
「あら」とエマが口をはさんだ。「いろいろ相談する時間はたっぷりあるわ。急ぐことはありません。もしクラウン亭でやることになれば、お父様、馬を使うには便利よ。厩舎がありますから」
「そうか、エマ。それはいい。ジェームズは文句を言ったりはせんだろうが、ゆっくり馬を休ませることができれば、それに越したことはないからね。部屋の換気がちゃんと行われているか、わたしが確認できればいいのだが。それにしてもストークス夫人という人は信用できる人物かね? 疑わしいものだ。顔さえ知らないのだからね」
「そういったことはすべてわたしが責任をもちます。と言いますのも、ウエストン夫人にお任せすることになりますから。夫人が一切を取り仕切って下さることになりました」
「ほらね、お父様。これで満足でしょう。わたしたちの大好きなウエストン夫人よ。あの人は注意深さそのもののような方よ。何年も前、わたしが麻疹にかかったとき、ペリーさんのおっしゃったことを覚えてる? 『ミス・テイラーがエマをしっかりくるんだと言ういじょう、もう心配することはありません』とおっしゃったんでしょ。お父様が夫人をほめるとき、いつもこの話を引き合いに出されたじゃない」
「ああ、そうだったね。ペリーはたしかにそう言った。忘れたりはせんよ。かわいそうに小さなエマはひどい麻疹にかかってね。ペリーの手厚い看護がなければどんな目にあっていたことか。一週間ものあいだ、一日に四度も往診してくれたのだからね。それに初めから、これは良性の麻疹だと言ってくれて、わたしたちはずいぶんほっとしたよ。でも麻疹というのは恐ろしい病気だ。ヘンリーたちが麻疹になったらペリーを呼ぶといいのだが」
「父と夫人は今、クラウン亭にいます」フランクが言った。「どう使えばいいか調べているんです。実はふたりを残してこちらに来たのは、ぜひあなたに来てアドバイスしてほしいと、伝言を頼まれたからなんです。一緒に来てもらえたら、きっと喜ぶでしょう。あなたがいないとなにひとつ満足にできないのですから」
そのような相談事に呼ばれるのは、エマにとってもうれしいことだった。ウッドハウス氏がエマの留守中にこの計画をじっくり考えておくと言ったので、早速ふたりはクラウン亭に向かった。亭で待っていたウエストン夫妻は、エマが賛成なのを知って喜んだ。夫妻はそれぞれ違いはあるもののどちらも忙しく、楽しそうだった。夫人のほうは少し心配していたが、ウエストン氏のほうはなにもかも完全だと考えていた。
「エマ」夫人が呼びかけた。「この壁紙、思ったほど良くないわ。ほら、あちこちひどく汚れているでしょう。それに、羽目板も想像していたより黄ばんでみすぼらしいの」
「おまえ、それは気にしすぎだよ」ウエストン氏は言った。「そんなことはたいしたことじゃないさ。蝋燭の灯の下ではよく見えないから、≪ランドルズ≫と同じくらいきれいに見えるはずだ。だいたい、クラブの集まりのときにもそんなこと、気づいたためしがない」ご婦人方はここで「男性って、そういうことには鈍いのよね」という意味の目配せをした。一方紳士たちは「女性というのは、ちっぽけで、くだらない心配をするものだ」と心のなかで思った。
しかしひとつ困ったことがあって、こればかりは男性陣も見過ごすわけにはいかなかった。晩餐をどの部屋で取ればいいのか、という問題だ。この舞踏場が作られた時代には晩餐のことなど心配する必要がなかった。それに、隣接するカード用の部屋はほんの付け足しであまり広いとは言えない。いったいどうすればいいのだろう。隣接する部屋はカード用の部屋として使いたいという声も出るかもしれない。たとえここで四人が、便宜上カード部屋は不要と決めても、ゆっくり晩餐を取るには狭すぎないだろうか。もうひとつ、適当な広さの部屋があるにはあるのだが、建物の反対側の端にあって、そこへ行くには長くて不便な廊下を渡って行かなくてはならない。ウエストン夫人は若い人が廊下の隙間風にあたるのでは、と心配し、エマや男性陣は、晩餐のときにひどく込み合うのでは、と心配した。
いっそ正式な晩餐はやめにして、サンドイッチのような軽食を隣室で供してはどうかと、夫人が提案した。しかし、この意見はみっともないという理由で即座にはねつけられた。招待しておきながらきちんとした晩餐も出さない舞踏会など、客の権利を踏みにじるものだ、と断言されたのだ。そのためウエストン夫人は二度とこのことを口にできなくなった。そして、別の方策を考えながら例の部屋を覗き込み、こう言った。
「このお部屋、それほど狭いとは思いませんわ。そう大勢の方を招待するわけではありませんもの」
すると同時に、氏が廊下を大股で歩きながら叫んだ。
「お前は、この廊下が長すぎると何度も言っていたようだが、たいしたことはないよ。階段からの隙間風もまるでない」
「どんなふうにすれば」と夫人は言った。「どうしたらお客様にいちばん喜ばれるかが、分かるといいのですけどね。目的は大勢の方に喜んでいただくことですから。もちろん、そのためには、どうすればいいのかが分かっていなくてはならないのですが」
「まったくその通りです」とフランクが大声で言った。「ご近所の方の意見を聞いてみたいものですね。夫人がそうおっしゃるのも分かります。ご近所の中で、どなたが主になるか決められればいいのだが――たとえばコール夫妻とか。あそこならそう遠くはありません。ちょっと行ってきましょうか? あるいはミス・ベイツはどうでしょう。あの方ならもっとお近くですよ。と言っても、ミス・ベイツがほかの方ほどみなさんの好みをご存知かどうか――。でも、もっと多くのひとに相談をする必要はあるでしょうね。ミス・ベイツに来ていただけるよう、今からお迎えにあがりましょうか?」
「そうですね――もしそうなさりたいのなら」ウエストン夫人は幾分ためらいがちに言った。「あの方が役にたつとお思いならね」
「ミス・ベイツからは、役にたつようなことはなにも聞けないわ」エマが言った。「それはもう大喜びで、感謝の言葉を何度も何度もおっしゃるでしょうけど、こちらが聞きたいことはひとつとして聞けないわ。きっと、あなたの質問にさえ耳を傾けようとしないかもしれないわよ。ミス・ベイツに相談してもなにもならないと思うわ」
「でもあの方はおもしろい方です。そう、非常におもしろい。ぼくはミス・ベイツのおしゃべりを聞くのが大好きですよ。でも、あちらの家族全員お連れする必要はないでしょう?」
ここでウエストン氏が話に加わり、フランクの話を聞くとすぐに同意した。
「そうだ、そうしなさい、フランク。ミス・ベイツをお連れするといい。さっさと問題を片づけてしまおう。計画を聞いたらきっと喜ぶよ。あのひとほど難題を取り除くのに適したひとはいないからね。きっといい方法を教えてくれるよ。さあ行ってミス・ベイツをお連れしなさい。わたしたちは少し、立派にやりすぎようとしているかもしれない。ミス・ベイツはどうしたら楽しくなれるかの生き字引のようなひとだからね。おふたりともお連れするんだよ。そう、おふたりともだ」
「おふたりですって! でも、ベイツ老夫人は――」
「ベイツ夫人? いや、ミス・フェアファクスだよ。姪ごさんぬきでミス・ベイツをお連れするなんて、フランク、おまえもずいぶん石頭だな」
「すみません。すぐに思いつかなかったものですから。お望みでしたらおふたりに来ていただけるよう、説得してみます」そう言ってフランクは走って行った。
彼が、小柄でこざっぱりしたミス・ベイツと、エレガントなミス・フェアファクスを連れて戻るまで、ウエストン夫人は気だてのやさしい良妻らしく、もう一度廊下を調べ、思ったより問題点が少ないことを知った。これで解決のめどがついた。残りの問題は、頭の中で考える限りすらすらと片づくはずだ。テーブルや椅子、照明に音楽、お茶や晩餐といった細々した支度はどうとでもなる。または、ウエストン夫人とストークス夫人が相談すればいつでも決まることで、たいしたことではない。客は招待すればみな必ず来るだろう。フランクは早々と≪エンスクリーム≫に手紙を出し、予定の二週間を二、三日オーバーする旨を伝えていた。おそらく反対されることはないだろう。きっと楽しい舞踏会になるにちがいない。
クラウン亭にやってきたミス・ベイツは、心から賛同の意を述べた。相談役としてはあまり用をなさない人物ではあるが、賛同者としては(このほうが役柄としてはずっと安全なのだが)大いに歓迎された。ミス・ベイツのほめ言葉というのは大まかでもあり細やかでもあり、また、心温まるものでもあり、休むところを知らなかったが、聞いていて思わず嬉しくなってしまうようなものだった。ミス・ベイツがやって来てから半時間ほど、みんなであちこちの部屋の間を行ったり来たりしながら、案を出したり、気にかけたりして、舞踏会に幸せな思いを馳せていた。エマが舞踏会の最初の二曲をその晩のヒーローと踊るという約束を与え、一同は解散した。そのときウエストン氏が、夫人にささやくのが聞こえてきた。「フランクがエマにお相手を申し込んだよ。いいことだ。そうすると思っていた」(下巻へつづく)