カタロニア讃歌
ジョージ・オーウェル作/高畠文夫訳
目 次
カタロニア讃歌
解説
あとがき
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愚かな者にはその愚かさに応じた答えをするな、
君が愚かな者のようにならないために。
愚かな者にはその愚かさに応じた答えをせよ、
愚かな者が自分は賢いのだとうぬぼれないために。
箴言 第二十六章五〜六
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本書中の主な政党、組織名とその略称
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POUM(Partido Obrero de Unificacion Marxista)
統一マルキスト労働党
PSUC(Partido Socialista Unificado de Cataluna)
カタロニア統一社会党
FAI(Federacion Anarquista Iberica)
イベリア・アナーキスト連盟
CNT(Confederacion National del Trabajo)
全国労働者同盟
UGT(Union General de Trabajadores)
労働組合総同盟
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第一章
義勇軍に入隊する前日、私はバルセロナのレーニン兵営で、イタリア人義勇兵がひとり、将校たちのすわったテーブルの前に立っているのを見かけた。二十五、六のたくましい顔つきの青年だった。髪の毛は赤みをおびた黄色で、がっしりした肩をもっていた。先のとがった革の帽子を、片方の眼がかくれるほどぐいと引き曲げてかぶっている。
こちらから、あごを強く引いた横顔がみえる。彼は、将校のひとりがテーブルの上に広げた地図を、途方にくれたように顔をしかめながらじっと見つめているのだった。その顔は、なぜか私をひどく感動させた。それは、友だちのためなら喜んで人殺しもするし、命も投げ出す、といったタイプの男の顔――アナーキスト(無政府主義者)によくある、あのタイプの顔だった。もっとも、ひょっとするとこの男は共産主義者《コミュニスト》だったかもしれないが。率直さと残酷さ、それに、無学な連中が自分たちよりえらいと思っている人たちにみせる、あの痛ましいほどの尊敬の念のまじった顔だった。みたところ、奴《やっこ》さん、地図がチンプンカンプンなのらしい。どうやら、地図読みなんて頭を使う大した芸当とでも思いこんでいる様子である。なぜか知らないが、私がこんなにひと目で好きになってしまった人――好きになってしまった男《ヽ》、という意味だが――に出会ったのは、ほとんどそれが初めてだった。彼らがテーブルを囲んでしゃべっているうちに、何かのはずみで私が外国人であることがわかった。すると、そのイタリア人は顔をあげて早口できいた。
「|イタリア人か《イタリアーノ》?」
私はへたなスペイン語で答えた。「|いや《ノウ》、|イギリス人《イングレス》だ。|君は《イ・トゥ》?」
「|イタリア人だ《イタリアーノ》」
われわれが部屋を出るとき、彼は部屋の向かい側からつかつかと歩いて来て、私の手をいきなりぎゅっと握りしめた。はじめて会った人にこんな愛情を感じるなんて、ふしぎだなあ! それこそ、まるで、彼の魂と私の魂が一瞬、言葉や伝統の障害を飛び越えてぶつかり合い、ぴったりとひとつにとけ合ったみたいだった。私は、彼のほうでも、同じような好意を私に感じてくれたものと思った。しかし、また、この第一印象を持ちつづけるためには、もう二度と彼に会ってはいけないこともわかっていた。そして、いうまでもないが、それっきり二度と彼に会わなかった。それが、スペインでよくあるつき合い方だった。
このイタリア人義勇兵のことを書いたのは、彼が私の記憶に今もいきいきと残っているからである。私には、あのみすぼらしい制服とたけだけしいがどことなく悲愴な彼の顔つきが、あのころの独特な雰囲気を端的に象徴しているような気がするのだ。彼は、戦争のあの時期における私の思い出のすべてと、切っても切れないように結びついている――バルセロナの赤旗、みすぼらしい兵士たちを満載してのろのろと前線へ走っていくひょろ長い列車、鉄道線路から遠く離れたところにある戦火に荒廃した灰色の町々、山の中に作られた泥だらけの氷のように冷たい塹壕《ざんごう》、と。
あれは、ペンをとっている今からかぞえて、まだ七か月とはたっていない一九三六年の十二月下旬のことだったのに、もうはるかかなたへ遠ざかった昔となってしまった。その後に起こったいろいろな事件のために、一九三五年も、そういえば一九〇五年も忘れさられてしまったが、あのころは、それよりもっと完全に忘れさられてしまっている。もともと私は、新聞記事でも書いてやろうか、というぐらいの気持ちでスペインへいったのだったが、ほとんどすぐさま義勇軍に入隊してしまった。それというのもあのころのあの雰囲気のもとでは、それ以外の行動はちょっと考えられない気がしたからである。アナーキストたちは、まだ事実上カタロニア地方を支配しており、革命は依然として活発に進行していた。革命当初からずっと現場にいれば、あるいは、十二月や一月にはもう革命の時期は終わりかけている、という気がしたのかもしれない。しかし、イギリスからまっすぐやって来たものにとっては、そのころのバルセロナの様相には、何かびっくりするような、圧倒されるようなものがあったのだ。
労働者階級が支配者となっている町にいったのは、それがはじめてだった。多少とも大きいビルは、ほとんど全部が労働者によって占拠され、赤旗か、アナーキストの赤と黒の旗がたれ下げてあり、壁という壁には、ハンマーと鎌とか、いろいろな革命政党の頭文字《イニシャル》がところきらわず書きなぐってあった。教会はほとんど軒なみに破壊され、聖像は焼かれていた。教会は、あちこちで、労働者の集団による組織的な破壊活動にさらされているところだった。すべての商店や喫茶店《カフェー》には、共有化宣言の掲示があり、靴みがきすら共有化されて、その箱は赤と黒にぬり分けられていた。食堂の給仕も商店の売り子も、お客の顔をまともに見て、対等の応対をした。卑屈な言葉づかいはもちろん、あらたまったものの言い方さえ、一時はかげをひそめていた。「セニョール」とか「ドン」はおろか、「|あなた《ウステー》」さえ使われなくなり、みんなお互いに「同志《コムラード》」とか「君《トゥ》」と呼び合い、「|こんにちわ《ブエノス・ディアス》」のかわりに、「|お元気で《サルド》!」と挨拶し合った。チップは法律で禁止された。エレベーター・ボーイにチップをやろうとして、ホテルの支配人にお説教を食わされるなんて、私にはほとんどはじめてのことだった。
自家用車は一台もなかった。すべて徴発されていたのだ。市電やタクシーは全部、そのほかの交通機関も大部分が赤と黒にぬり分けられていた。あざやかな赤と青の色に燃え立つような革命のポスターが、壁にところきらわず貼ってあり、それとくらべると、わずかに残っている広告は、まるで泥をぬりたくったように見えた。行きかう人の流れがいつも絶えない、バルセロナの大動脈ともいうべき中央大通り、ランブラス通りを下っていくと、ラウドスピーカーが、昼からずっと夜ふけまで革命歌をがなり立てていた。しかし、とりわけ奇妙だったのは、町でみかける一般民衆の様子だった。外から見るかぎり、そこは実際に富裕階級というものがなくなってしまった町だった。少数の女性と外国人のほかは、「身なりのよい」人などただのひとりもいなかった。ほとんどすべての人が、粗末な労働者階級用の洋服か、義勇軍の制服の青い上っぱりか、その制服まがいのものを身につけていた。こうしたことは、どれもこれも奇妙で、しかも感動的だった。そこには、私になっとくできず、ある意味では首をかしげたくなるようなことも少なくはなかったけれども、これが、戦ってかち取る値打ちのある状態であることだけは、すぐにみてとった。そしてまた、事実は見たとおりである、と思いこみ、これこそほんとうに労働者国家で、ブルジョワはみんな、逃亡したか、殺されたか、あるいは進んで労働者側につくかしたのだな、と私は信じていた。ところが、あにはからんや、大多数の富裕なブルジョワたちは、当時、一時的にただひたすら鳴りをひそめ、プロレタリアに身をやつしているだけだったのだが、そこが私にはわからなかったのだ。
こうしたこととは別に、戦争の好ましくない面も多少みられた。町は、荒れ果てたうすぎたない外貌を呈し、道路や建物はいたんだままに放置され、夜の通りは、空襲の恐れがあるため、うす暗かった。商店もたいていはみすぼらしく、スペースの半分は品物もなくがらんとしていた。肉が払底し、ミルクはほとんど手に入らなかった。石炭、砂糖、石油などが品うすとなり、とくにパンの不足は深刻だった。このころでさえ、パンを買う行列は蜿蜒《えんえん》百ヤードになることも珍しくなかった。それにもかかわらず、はたから見るかぎりでは、人びとは満足し、希望にみちあふれていた。失業はなく、生活費は相変わらずとても安かった。そのため、それとわかる貧乏な人はほとんど見あたらず、乞食といえばジプシーぐらいのものだった。
何よりも、まず、革命とその未来に対する信頼、思いもかけず平等と自由の時代がやって来た感激があった。人びとは、資本主義機構の中のひとつの歯車としてではなく、つとめて人間らしく生きようとしていた。理髪店には、理髪師はもはや奴隷ではない、と厳粛に宣言するアナーキストの(というのは、理髪師はたいていアナーキストだったから)ビラがあった。街頭には、いかがわしい商売の女たちに、正業につくように呼びかける色刷りのポスターが貼ってあった。英国という冷静で皮肉な文明圏からやって来たものには、理想主義にかぶれたこれらスペインの人たちが、古くさい革命のきまり文句を文字どおりに受けとめているその態度は、ちょっと涙ぐましくさえ感じられた。そのころ、街では、ごく素朴な種類の革命小唄を一部二、三サンチームで売っていた。どれもこれも、プロレタリアの同胞愛とかムッソリーニの悪らつさを歌ったものだった。無学な義勇兵たちがよくそれを買い、苦労して一字一字拾い読みして、全体の意味がわかると、適当なふしで歌いだすのを見かけたことがある。
このころ、私はずっとレーニン兵営にいた。表むきは、前線に出動するための訓練中というふれこみだった。義勇軍入隊当時の話では、あすにも前線に送られるということだったが、そのじつは、新規の「百人隊《センチュリア》」が編成されるまで待機していなければならなかった。労働者義勇軍は、戦争勃発当時、労働組合によって大急ぎで募集されたものだったため、まだ正規の軍隊的基礎をふまえた組織とはなっていなかった。指揮の単位は、約三十名から成る「分隊」と、約百名で編成される「百人隊《センチュリア》」と、「縦隊《コラム》」だった。もっとも「縦隊《コラム》」といっても、実際は、人数は問わず、ともかく大ぜいの兵隊が集まっていさえすればそれでよい、といった集団だった。レーニン兵営は、一群のりっぱな石造りの建物で、それに馬術練習場と玉石を敷きつめた広い中庭がついていた。もとは騎兵隊の兵舎だったのを、七月の戦闘中に占領したのだった。私の「百人隊《センチュリア》」は、その厩舎のひとつの、騎兵隊の馬の名前がまだ彫りつけたままになっている石のかいば桶の下で寝た。馬は全部捕えられてとっくに前線に送られたあとだったが、あたり中にまだ馬の小便や腐ったオート麦のにおいがただよっていた。
この兵営生活は一週間ほど続いた。私の記憶に残っているのは、おもに、馬のにおい、へたな震え声の召集ラッパ(ラッパ手は全部しろうとだった――ちなみに、スペイン式召集ラッパをはじめて知ったのは、ファシスト戦線のそばできいたときだった)、鋲を打った靴でざっくざっくと営庭を歩きまわる重い足音、冬の日ざしのもとでやった長い朝の行進、砂利をしいた馬術練習場で五十人ずつの組に分かれてやった荒っぽいフット・ボールの試合などである。兵営には、推定千人ぐらいの兵隊がいたが、そのほか、兵隊の細君で賄いをやっている連中は別にして、二十人ほどの女性もまじっていた。数はよほど減っていたが、まだ女の義勇兵がいたのだ。戦争の初めごろには、もちろん彼女らも男たちと肩を並べて戦った。革命のまっさい中には、それはごくあたりまえのことだったろう。しかし、もう考え方が変わりかけていた。それで、女性たちが馬術練習場で教練をやるあいだは、男の兵隊はそこへ近づいてはいけないことになっていた。なぜかというと、男の連中が女たちをばかにしてゲラゲラ笑い、それが教練の邪魔になるからだった。つい二、三か月前なら、女が銃を操作しているのを見てもこっけいだなどと思うものは、ひとりもいなかったのに。
義勇軍の兵隊たちは、占拠した建物を片っぱしからよごしてめちゃくちゃにしていったため、兵舎という兵舎は、どれもこれも不潔で、足のふみ場もないほどちらかっていた。これも、革命の副産物のひとつといったところかもしれない。隅っこには、ところきらわず、たたき壊した家具や、壊れた鞍や、騎兵用の真鍮《しんちゅう》のヘルメットや、中身のないサーベルの鞘《さや》や、腐りかけた食物などが山のように積んであった。食物の無駄、とりわけパンの無駄は、それこそびっくりするほどひどいものだった。兵営内の私の部屋だけでも、食事のたびごとに、かご一ぱいもパンが捨てられた――一般市民のあいだではパンが不足しているというのに、これは何とも面目ないことだった。われわれは、X型の脚のついた長いテーブルに向かってすわり、いつも油でぎらぎらしたブリキの皿に入れて食べ、「プロン」という恐ろしいしろもので飲んだ。「プロン」というのは、尖った口のついた一種のガラスびんで、かたむけると、ぶどう酒が細い噴水のようにシューッと出てくるので、そのふき出し口に口をつけずに離して飲み、つぎつぎにまわすことができるのだった。私は「プロン」が使われているのをみたときから敬遠し、コップを持ってきてくれるようにたのんだ。私からみると、この「プロン」なるしろものはみればみるほど溲瓶《しびん》によく似ていたが、ことに白ぶどう酒が入っているときは、それこそそっくりだった。
やがて新兵たちにも少しずつ制服が支給されるようになった。が、なにしろスペインのことなので、支給は何によらずちびちびとしか行なわれず、だれが何をもらったのかはっきりしたことはさっぱりわからなかった。そして、われわれにいちばん必要なベルトや、弾薬|盒《ごう》といった各種の装具は、われわれの乗った前線行きの列車がほんとに出発する最後のどたん場になって、やっと手もとにとどくというていたらくだった。私はいま、義勇軍の「制服」という言い方をしたが、ひょっとすると、これはまちがった印象を与えるかもしれない。正確にいえば、とても制服などといえるものではない。むしろ「雑多服《マルティフォーム》」とでも言ったほうがもっとぴったりしているのだった。各自の服装は、全員に共通のひとつの型に従ってはいたが、どれひとつを取り上げてみても、まったく同じというものはひとつもなかった。実際上は部隊の全員がコールテンの半ズボンをはいていたが、統一されているのはそこまでだった。その下はまちまちで、ゲートルを巻いているものもいれば、コールテンのきゃはんをつけているものもいる。また、革のすねあてをつけているものもいれば、長靴をはいているものもいる、といったあんばいだった。みんながファスナー付きのジャケットを着ていたが、そのジャケットも、革のもあればウールのもある。色にいたっては、それこそ色とりどり、ありとあらゆる色のものがあった。かぶっている帽子の種類も、その多様さにかけては、着ているものと同じだった。帽子の前には、ふつう、所属する党の記章をつけることになっていたが、そのほかに、ほとんど全員が、赤いハンカチか赤と黒のハンカチをくびに巻いていた。そのころの義勇軍の縦隊といえば、異様ないでたちの烏合の衆だった。しかし、被服類は、こちらの工場とかあちらの工場とかがどっと製品をはき出すのに応じて、片はしから配給していくより仕方がなかったが、そのわりに、被服そのものは、あながち粗悪品ともいえなかった。とはいうものの、シャツやソックスはお粗末な綿製品で、とても防寒に役だつようなものではなかった。組織といえるようなものが何ひとつなかった初めのころ、義勇軍の兵隊たちがどんなに不便をがまんしなければならなかったことか、思っただけでもぞっとする。つい二か月ほど前の新聞の中で、POUM(統一マルキスト労働党)の幹部のひとりが、前線視察の後、「全軍の兵隊に毛布を一枚ずつ持たせる」よう努力する、と述べているのをたまたま読んでおぼえている。塹壕で眠ったことのある人がきいたら、身震いの起こりそうな言葉だ。
私が入隊してから二日目に、ふざけ半分に「訓練」と呼んでいたものが始まった。はじめは、びっくりするようなどたばた騒ぎがあるばかりだった。新兵たち、といっても、大部分がバルセロナの裏町からかり出されて来た十六、七歳の、まだくちばしの黄色い少年たちで、革命的情熱だけはヤケに強かったが、戦争とはどういうものかなどは、まるっきり知らなかった。一列に並べることからしてなみたいていのことではなかった。軍紀などというものはてんでなく、受けた命令が気にくわなければ、列の外にとび出して将校と口ぎたなく喧嘩をおっぱじめる始末だった。私たちの訓練に当たったのは中尉で、がっしりした体格と生き生きとした顔の陽気な青年だった。彼はもと正規の陸軍将校だったが、きびきびした動作といい、こざっぱりした制服といい、今なおそのおもかげは残っていた。おもしろいことに、彼は良心的で熱烈な社会主義者だった。全階級のあいだは、社会的にみて完全に平等であるべきだ、という主張にかけて、彼は部下よりもっと徹底していた。いつだったか、何も知らない新兵が彼に向かって「上官殿《セニョール》」と呼びかけたときの、彼のつらそうな驚きの顔を、私は今もおぼえている。「何だって! 上官殿《セニョール》だと! おれを上官殿《セニョール》なんて呼ぶのはだれだ? おれたちはみんな同志じゃないか?」ただ、こう言ったからといって、はたして彼の仕事が多少でもやりやすくなったかどうか、それは疑わしい。いっぽう、新兵たちのほうも、少しでも役にたちそうな軍事訓練は、何ひとつ受けなかった。
外国人は「教練」に出なくてもよい、ということだった(スペイン人は、どうも、外国人ならだれでも自分たちよりもっと軍事に詳しいのだ、といじらしくも信じこんでいるようだ)が、私は、もちろん、ほかの連中といっしょに教練に顔を出した。私は、機関銃の操作を教わりたくて仕方がなかった。機関銃には、これまで一ぺんもさわったことがなかったからだ。ところが、がっかりしたことに、兵器の操作など何ひとつ教えてもらえないのだった。いわゆる教練というのも、もっとも旧式で、ばかげた種類の練兵場教練だった。右向け右、だとか、左向け左、だとか、回れ右、だとか、三列縦隊で姿勢を正しくしてやる行進、だとか、そのほか、私が十五歳のときに、もうとっくに教わってしまったような、何の役にもたたぬ愚にもつかないことばかりだった。ゲリラ隊が受ける訓練としては、まったく見当外れもいいところだった。訓練の期日が二、三日しかないとしたら、兵隊にもっとも必要なこと、たとえば、遮蔽物の使い方や、開闊地を横断する前進の方法や、歩哨のやり方や、胸墻《きょうしょう》の作り方――とりわけ、兵器の操作は、何としても教えてやらなければならないことは、わかりきっている。それなのに、この革命熱にとっつかれた少年たちの一団は、ほんの二、三日したら最前線にかり出されるというのに、まだ小銃の撃ち方はおろか、手榴弾のピンの抜き方ひとつ教わっていないていたらくだった。
そのときには、これは持たせる武器がないからなのだ、ということがぴんとこなかった。POUM義勇軍においては、小銃の不足はそれこそ絶望的なほど深刻だった。そのため、前線に赴く新しい部隊は、いつも、そこで交代する部隊から小銃をゆずり受けなければならない始末だった。レーニン兵営中をくまなく捜しまわっても、小銃は、歩哨の持っているもののほかは、おそらく一挺もなかったのではないか、と思う。
二、三日たっても、ふつうの規準でいえばまだまだ烏合の衆そのものとしかいえないような状態だったが、われわれは、一般に公開してみせてもさしつかえなし、ということになり、毎朝隊列をととのえて外に出て、「|スペイン広場《プラザ・デ・エスパーニャ》」の向こうの丘の上にある公園まで行進していった。そこは、騎銃兵《カラピネロ》や、新たに編成された人民軍の第一次分遣隊のほかに、各政党の義勇軍全部が使う共同の練兵場になっていた。その丘の上の公園では、珍しくもまた勇ましい情景がくりひろげられた。きちんとした花壇のあいだのありとあらゆる小道や細道を縫って、小隊や中隊が、いっしょうけんめい胸を張り、何とかして兵隊らしくみせかけようと涙ぐましい努力をしながら、しゃちこばってあちらこちらへ行進しているのだった。だれひとり武装しているものもいなければ、完全な制服のものもいなかった。もっとも、着ている連中の制服にしても、たいていはあちこちとつぎが当ててあるため、ところどころもりあがっていたのだった。日課はいつもだいたい同じだった。三時間のあいだ、われわれはそっくり返ってあちらこちらを行進する(スペイン式行進の歩調は、たいへん短くて速かった)、それから止まって隊列を解き休憩となる。すると、丘の中腹にあるささやかな食料品店へ、のどをからからにして、それっとばかり大挙して殺到する。店は、安ぶどう酒が飛ぶように売れて大繁昌、ということになっていた。
みんな私にはとても親切にしてくれた。私がイギリス人なのでちょっと珍しかったらしく、騎銃兵《カラピネロ》の将校たちも私をたいへん大事にしてくれ、ぶどう酒をおごってくれた。ところで私は、自分の隊の中尉を片隅に誘いこんでは、いつも、機関銃の操作を教えてくれ、とうるさくせがんだ。ポケットからヒューゴーの西英辞典を引っぱり出して、へたくそなスペイン語で、いつも彼に向かって切り出したものだった。
「ワタシハ、ショウジュウハソウサデキル。キカンジュウハダメ。キカンジュウヲオソワリタイ。イツキカンジュウヲオシエテモラエルカ?」
その答えはいつも、困ったような微笑と、明日《マニャーナ》機関銃を教えてやる、という約束にきまっていた。言うまでもないが、その明日《マニャーナ》はけっしてやってこなかった。数日たって、新兵たちは、歩調をとって行進することや、スマートといえるほどすばやくサッと気をつけの姿勢をとることはできるようになりはしたものの、小銃のどちらの端から弾丸が飛び出すのかわかっているとしたら、それが彼らの知識のせいぜいのところだった。ある日、われわれが休憩しているところへ、武装した騎銃兵《カラピネロ》がひとり、ぶらりとやって来て、彼の銃にさわらせてくれた。その結果、私の分隊中で、私のほかには、何と弾丸の装填の仕方を心得ているものさえひとりもおらず、まして狙いのつけ方なぞ知っているものにいたっては皆無、ということがわかったのだった。
そのころずっと私は、例によってスペイン語と取り組んでふうふういっていた。兵営には、私のほかにイギリス人はたったひとりいるだけで、将校のあいだにさえ、フランス語の片言がわかるものは、それこそただのひとりもいなかった。しかも、私の戦友たちは仲間同士しゃべるときは、たいていカタロニア語を使ったので、私にとって、事態はますます厄介だった。私の何とかやっていけるたったひとつの名案は、どこへいくにも必ず小さな辞書を持って歩き、お手あげになったら、さっそくそれをポケットから引っぱり出すことぐらいだった。でも、私は、同じ外国で暮らすのなら、ほかのどこの国より、まずスペインをえらぶ。スペインでは、友だちをつくるのが、それはそれはほんとに楽なのだ! ほんの一、二日のうちに、二十人もの兵隊たちが「エリック」と私に呼びかけてくれるようになり、仕事のこつを教えてくれ、こちらがめんくらうほど親切にしてくれた。といっても、私は、何も宣伝の本を書いているのでもなければ、POUM義勇軍を理想化しようとしているのでもない。義勇軍組織全般にわたって重大な欠陥があったし、義勇兵そのものにしてからが、種々雑多な連中の寄り合い世帯だった。というのは、このころになると、義勇軍志願者の数も減り、もっともえり抜きの連中は、すでに前線に出ているか、戦死するかしてしまっていたからだった。
われわれの中には、いつも、まったく役にたたない人間が何パーセントかはきっとまじっていた。十五歳の少年たちが、入隊するため両親に連れられて来た。その連中の目当ては、ずばり言えば、兵隊の給与である一日十ペセタの金と、兵隊にはふんだんに支給されるので、こっそり家の両親のもとへ持っていってやれるパンだったのだ。しかし、私は、私のようにスペインの労働者階級――というよりも、むしろカタロニア地方の労働者階級というべきかもしれない。というのは、少数のアラゴン地方やアンダルシア地方の人たちは別として、私のつきあったのはみなカタロニアの人たちばかりだったから――といっしょに暮らしてみて、彼らの生来の善良さ、とりわけ、彼らの率直さと気まえのよさに心を打たれないものがいたらお目にかかりたいものだ、といいたい気がする。スペイン人の、いわゆるふつうの意味での気まえのよさは、それこそ、どうかするとこちらがほとんどたじたじとなるくらいである。たばこを一本くれないか、というと、相手は、箱ごとやる、と言い張って、むりやり押しつけてくる。そして、それだけではない、もっと深い意味での気まえのよさ、というか、ほんとうの心の広さというか、そういったものをもっている。しかも、すっかり追いつめられた状況のもとでさえ、私は、何回となくそれにお目にかかったのだった。
内戦中のスペインを旅行してまわったジャーナリストや外国人たちの中には、スペイン人は内心では外国の援助を激しい猜疑の目でみていたのだ、と宣言するむきもある。それに対して、私としては、そのような例はただの一度も見たことがない、というぐらいしか言いようがない。今もおぼえているが、私が兵営を出発する二、三日前に、兵士たちの一団が前線から休暇で帰ってきた。彼らは興奮した口調で自分たちの体験をしゃべり、ウエスカ〔アラゴン地方の一部。首都は同名のウエスカ〕でとなりにいたあるフランス人部隊のことを、口をきわめて賞めそやした。フランス人はとても勇敢だ、と彼らはいう。そして、熱っぽい口調でつけ加える――「|おれたちより、よっぽど勇敢だぜ《マス・ヴァリアンテス・クエ・ノストロス》!」私は、もちろん、そんなことはない、と否定した。すると、連中はこう説明するのだった、フランス人は戦術をもっとわんさと知っているしな――手榴弾や機関銃の使い方にかけても、おれたちなんかよりよっぽど玄人《くろうと》なんだぜ。それにしても、この言葉は意味深長だ。イギリス人なら、こんなことをいうより先に自分の手を切り落としてしまっている。
義勇軍に入隊した外国人は、だれでもスペイン人が好きになったり、彼らのある性格的な特徴にいらいらして腹をたてたりしているうちに、はじめの二、三週間が過ぎてしまう。前線で、どうかすると、私自身のいらだちが激怒の域にまで達することもあった。スペイン人にはいろいろすぐれた点が多いことは認めるが、こと戦争となるとさっぱりだめだ。彼らの能率の悪さ、とりわけ、こちらがあたまにくるような時間のルーズさには、それこそ外国人という外国人がみんなあきれかえる。外国人ならいやでもおぼえさせられる羽目になるスペイン語のひとつに、|manana《マニャーナ》――「明日《あす》」(文字どおりの意味は「朝」だが)がある。何とか口実がみつかるかぎり、今日の仕事は必ず明日《マニャーナ》まで延ばされる。明日《マニャーナ》という言葉の評判の悪さは大したもので、当のスペイン人たちがそれをたねにして冗談をいうくらいだ。およそスペインでは、食事から戦闘にいたるまで、何ひとつ決まった時刻にきちんと行なわれたためしがない。概して遅れるが、ほんの時たま、ばかに早くなることもある――そんなていたらくだから、いつも必ず遅れる、と決めてかかるわけにもいかないのだ。八時に出ることになっている汽車は、ふつう九時と十時のあいだのどの時刻かに出るが、一週間に一度ぐらいは、運転手ひとりの気まぐれか何かのせいで、七時半に出ることもある。こんなことが、ちょっとじれったいのだ。理屈のうえでは、スペイン人がわれわれ北方人の時間ノイローゼにかかっていないのはあっぱれだ、と言いたい気はする。ところが、あいにくなことに、私自身がその時間ノイローゼにかかってしまっているのだ。
次から次へとうわさが流れ、明日《マニャーナ》と延期がひとしきり続いたあげく、われわれは、突然、二時間後に前線に出動せよ、との命令を受けた。だが、そのときになっても、われわれの装備の大半はまだ支給されていなかった。兵站部《へいたんぶ》の倉庫は、ごったがえすような、てんやわんやの大騒ぎだった。が、結局、大ぜいの兵隊が完全な装備なしで出発しなければならなかった。兵営は、地面から湧いて出たかと思われる女たちでたちまちいっぱいになり、男の連中が毛布をたたんだり、雑嚢《ざつのう》にものをつめたりするのを手伝っていた。面目ない話だが、私は、もうひとりのイギリス人義勇兵ウィリアムズの細君となっているスペイン娘に、新しい革の弾薬帯のつけ方を教えてもらわなければならなかった。彼女は、一生ゆりかごをゆすって暮らすのがふさわしいような、やさしい、黒い眼をした、いたってかよわい女性だったが、もちろん、七月の市街戦では勇敢に戦ったのだった。このとき、彼女は、戦争が始まってからちょうど十か月後に生まれた赤ん坊を抱いていた。ひょっとすると、バリケードのかげで生まれたのかもしれない。
汽車は八時に出る予定だったが、いらいらした将校たちが汗だくになって、われわれをどうにか営庭に整列させることができたのは、八時十分すぎごろだった。今も、たいまつに照らされたあのときの情景が、私のあたまにありありとよみがえってくる――喧騒、興奮、たいまつの光に照らされてはためく赤旗、背中に背嚢《はいのう》をせおい、巻いた毛布を弾薬帯のように肩からかけて、ぎっしり並んだ義勇兵の隊列。叫び声や、靴音や、ブリキの皿のカチャカチャ鳴る音、騒ぎを静めるための、すさまじいシーッという声、やがて訪れる水を打ったような静けさ。それから、へんぽんとひるがえっている大きな赤旗の下に立って、人民委員のだれかが、われわれに対してぶったカタロニア語の演説。最後に、われわれは、町じゅうの人びとに見てもらうために、三、四マイルもあるいちばん長い道すじを通って駅まで行進させられた。ランブラス通りでは、雇われた楽隊が革命の曲か何かを演奏しているあいだ、立ち止まらせられた。またしても、「諸君こそ、勝利の英雄たちである」というような激励演説――歓呼の声、熱狂、どこにもここにもみられる赤旗と赤と黒の旗の波、われわれを見ようと鋪道にむらがっている人なつこい群衆、窓から手を振る女たち。あのころは、すべてのものが何と自然にみえたことだろう。そして、今は、何と遠い昔の夢になってしまったことだろう!
汽車は兵士たちを満載していたため、座席はもちろん、床さえほとんどゆとりがなかった。発車まぎわのぎりぎりのときに、ウィリアムズの細君がプラットフォームを走って来て、ぶどう酒を一本と、食べると石鹸のような味がして下痢を起こす、あのまっ赤なソーセージを一本、プレゼントしてくれた。列車は、時速二十キロを多少下まわる正規の戦時速度で、カタロニアからアラゴン高原の方へのろのろとはいあがっていった。
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第二章
バルバストロの町〔スペインのウエスカ地方にある小さな町。周囲に城壁をめぐらしている〕は、前線から遠く離れているのに、荒涼として何か削り取られたような感じだった。みすぼらしい制服の義勇兵の群れが、寒さしのぎに、街の通りをあちこちと歩きまわっていた。どこかの廃墟の壁に、いついっかに闘牛場で「六頭のみごとな雄牛」が斃《たお》される、と知らせる昨年の日付のポスターが貼りつけっぱなしになっているのが眼にとまった。そのあせた色が、何とうらぶれてみえたことか! そのみごとな雄牛やハンサムな闘牛士は、今ごろどうなっているだろう? バルセロナでさえ、近ごろは闘牛がほとんど行なわれなくなったようだ。どういうわけか、腕ききの闘牛士は、揃いも揃ってみんなファシストなのだった。
私の中隊は、トラックでまずシエタモヘ、それから西方のアルクピエーレまで運ばれた。アルクピエーレは、サラゴサ〔バルセロナの西方、ウエスカの南西にある地方〕に面した前線の真後ろに当たっていた。シエタモは、その占領をめぐって三回も激戦が行なわれたあげく、十月になってやっと完全にアナーキスト軍の手に落ちたところで、町はところどころ砲火で粉砕され、ほとんどの家々には、あばたのように銃弾の跡がついている。ここは海抜千五百フィートの高地だ。おそろしく寒い。そして、濃い霧が、どこからともなく渦巻きながら湧き起こってくる。シエタモとアルクピエーレのあいだで、トラックの運転手が道をまちがえたので(こんなことは戦争にはつきものだが)、私たちは霧の中を何時間もさまよい続けた。やっとアルクピエーレへ着いたのは夜おそくだった。だれかが、泥沼の中を先に立って、わざわざ、らばの厩舎まで連れていってくれた。そこで、めいめいもみがらの中にもぐり込んで、すぐ眠りに落ちた。もみがらは、清潔なものなら寝心地の悪いものではない。干し草のようなわけにはいかないが、麦わらよりはましだ。ところが、そのもみがらは、パンくずやら、新聞の切れっぱしやら、骨やら、ねずみの死骸やら、つぶれてぎざぎざになったブリキのミルク罐やらでいっぱいだったのだが、それは、朝、明るくなってからやっとわかったのだった。
ここは、もう、最前線のすぐ近くで、あの戦争特有のにおいがただよっていた――私の経験によれば、それは、糞と腐った食物のにおいだ。アルクピエーレは、まだ砲撃を受けたことがなかったため、最前線のすぐ後ろにあるたいていの村々にくらべると、まだましなほうだった。そうはいうものの、スペインのこのあたりを旅行してみれば、たとえ平和なときでも、きっと、アラゴン地方の村々独特のごみごみした貧しさに、心を打たれると思う。どの村も砦《とりで》のような作りで、泥と石でできたみすぼらしい小さな家が、教会のまわりにごちゃごちゃと集まっている。春になっても、ほとんど花一本みあたらない。家々にはまともな庭もなく、ただ、裏に多少の空地があるばかりで、いちめんにらばの糞でおおわれた上を、やせこけた鶏が走りまわっている。霧と雨が入れかわりにやってくる、うんざりするような天気だ。土の小道はひどくかきまわされ、ところによっては深さ二フィートもある泥の海となっていて、その中を、トラックが車輪をからまわりさせながら、やっと進んでいく。百姓たちが、無細工な荷馬車を、ひとつなぎのらばに引かせていく。どうかすると六頭もいっしょにつなぐが、必ず縦つなぎにつないでいる。軍隊がたえず行き来しているため、村は、何ともいえない不潔な状態になってしまった。村には、およそ便所とか下水とかいうものがなくなってしまった、というより、むしろ初めからなかったのだが、そのため、どこへいっても、足もとに気をつけずには一歩も歩けないような有様である。教会はとっくの昔に兵隊用便所になりさがっていたが、その周囲一マイル四方の畑も全部そうだった。戦争のはじめの二か月のことを考えるたびに、いつもきまって私の頭に浮かぶのは、糞が固まりついた切株の残っている冬の畑だ。
二日たったが、小銃は、ただの一挺も支給されなかった。軍事委員会へいって、壁にずらりと並んだ孔の列を見物してしまえば――その孔は、いろいろなファシストが処刑されたとき、小銃の一斉射撃によってあいた孔だが――アルクピエーレの名所見物は、それで終わりだ。北の最前線は平静らしかった。運ばれてくる負傷兵がほとんどいなかったからだ。大騒ぎが起こるのは、おもに、ファシストの脱走兵が前線から護送されてくるときぐらいだった。戦線のこの地区でわれわれとにらみ合っている敵軍の大部分は、ファシストでも何でもなく、戦争が始まったときに、運悪くたまたま駆り出されたただの召集兵で、すきさえあれば逃げようと、そればかり考えていた。ときどき彼らは、小さなグループを作って、危険をおかしながら戦線を横切り、こちらの陣地へ脱走してくることもあった。もし自分たちの身内の者がファシスト占領地域にいなかったならば、きっともっと多くの者が脱走して来たにちがいない。
これらの脱走兵が、私の生まれてはじめてお目にかかった「ほんとの」ファシストだった。カーキー色の制服を着ているほかは、われわれと見わけがつかないのを見て、私は驚いた。たどり着いたときには、きまってがつがつしていた――彼我両軍の塹壕のあいだを、あちこちと身をかくしながら一、二日もさまよって来たのだから、それは、むしろあたりまえのことだったが、これはファシスト軍が飢餓に瀕している証拠である、というふうに、いつもこちらに有利な見方をされた。私は、そんな脱走兵のひとりが百姓家で食物をあてがわれているのを見たことがある。それは、何となくちょっと哀れな光景だった。ひどく風雨に打たれ、ぼろぼろの服を着た、ひょろ長い二十歳《はたち》ぐらいの青年が、火の上へしゃがみこむようにしながら、ブリキの皿に入れたシチューを、まるで餓鬼のような速さでかっこんでいる。そして、かっこみながらも、自分を取り巻いて見守っている義勇兵たちを、おどおどした眼つきで見まわすのだった。こいつらは残虐な「アカ」で、飯を食い終わったらすぐ銃殺するつもりなのだ、とまだ半ば思いこんでいたのだろう。彼を護衛してきた武装兵が、たえず彼の肩をたたいて、安心しろ、というように声をかけてやっていた。今もおぼえているある日など、十五人もの脱走兵が一団となって投降してきた。彼らは、白い馬にまたがった兵隊を先頭に、いそいそと村じゅうを引きまわされた。私は苦心してピンぼけの写真をとったが、あとで盗まれてしまった。
アルクピエーレに着いて三日目の朝、小銃が到着した。きめの荒い、黒ずんだ黄色い顔の軍曹がひとり、らばの厩舎で小銃を手渡した。渡されたしろものを見たとたん、私はうちのめされたようにがっかりした。それは、一八九六年の刻印のあるドイツ製のモーゼル銃だったのだ――何と、四十年以上も昔のしろものである! 銹びついていて遊底はなめらかに動かず、木被は割れている。銃口をちょっとのぞいてみただけで、腐食していて使いものにならないことがわかった。ほとんどの銃がこれと似たりよったりだったが、中には、もっとひどいものもあった。そして、操作を知っているものに、いちばんましな銃を与える、という配慮がまったくなされないのだった。製造後十年しかたっていない、今度の配給分の中ではとびきり上等の銃が、みんなでマリコン(腰抜け小僧)と呼んでいる、十五歳のうすのろの鼻たれ小僧の手に渡った。軍曹は、われわれに、五分間ばかり「取り扱い心得」を教えた。といっても、要するに、それは弾丸の装填の仕方と、遊底の分解の仕方だった。義勇兵の大半が、今まで銃など手にしたこともない連中で、おそらく、照尺や照星が何のためについているのか知っているものは、ほとんどいなかったのではないだろうか。弾薬がひとりに五十発ずつ支給された。それから隊列を組み、背嚢をせおって、われわれは三マイルほど離れた最前線に向かって出発した。
八十名の兵士と数匹の犬から成る百人隊《センチュリア》は、曲がりくねった道を、ばらばらになって登っていった。どの部隊も、マスコットとして、少なくとも一匹、犬を飼っていた。われわれといっしょに行軍している貧弱な奴は、からだに、とてつもなく大きな字でPOUMと焼印が押してあり、自分のみっともなくなったのがちゃんとわかっているみたいに、こそこそと歩いていた。部隊の先頭の赤旗と並んで、たくましいベルギー人の部隊長ジョルジュ・コップが黒い馬にまたがって進んでいく。その少し先を、山賊のような義勇軍騎兵隊の青年が、いかにも得意そうに、あちこち馬を躍らせながら進んでいた。そして、上り坂にやってくるたびに、きまって馬をギャロップで駆け登らせ、登り切ると、必ずそのてっぺんで絵のようなポーズをとってみせるのだった。スペイン騎兵隊のりっぱな馬は、革命中に数多く捕獲され、義勇軍に引き渡されたが、義勇兵たちは、ただ、やっきになって乗りつぶしただけだった。
道は、昨年の穫り入れのときから手をつけないままになっている黄色いやせた畑のあいだを、うねうねと続いていた。われわれの行く手には、アルクピエーレとサラゴサのあいだに横たわる低い鋸歯状山脈《シエラ》があった。爆弾と、機関銃と、泥の最前線に近づいているのだ。
私は内心怖かった。戦線が今は平穏であるのは知っていた。だが、実際に駆り出された戦争経験はないにしても、私は、まわりのたいていの連中とはちがって、第一次世界大戦のことはおぼえている年齢だった。私にとって、戦争とは、唸りをたてて飛んでくる砲弾、飛び散る鋼鉄の破片であり、何よりもまず、泥と、虱《しらみ》と、飢えと、寒さだった。奇妙なことだが、私は敵よりも、むしろ寒さのほうが怖かった。バルセロナにいるあいだじゅう、いつも寒さのことが頭にこびりついて離れなかった。夜、横になっても眠れないままに、塹壕の中の寒さや、無気味な夜明けの待機や、凍った銃を手にした長時間の歩哨勤務や、長靴の上まで埋まる冷たい泥のことなどを考えながら、まんじりともせずにいることさえあった。また、いっしょに行進している人たちを見ながら、一種の恐怖心めいたものを感じたのも事実だった。
われわれが、どんなにしようのない烏合の衆にみえたことか、おそらく読者には想像もつかないだろう。それこそ、羊の群れより、もっとてんでんばらばらだった。そのため、二マイルとは行かないうちに、部隊の後尾は見えなくなってしまった。おまけに、兵隊といっても、半数近くはまだ子供だった――冗談でも何でもない、せいぜい十六歳どまりの文字どおりの子供だった。にもかかわらず、この連中はいよいよ最前線へやって来たというので、みんな大喜びで、すっかり有頂天になっていた。最前線に近づくにつれて、先頭の赤旗のまわりにいる少年たちは、口ぐちに、「POUMばんざい! ファシストの|へなちょこ野郎《マリコーネス》!」などという歓声をあげ始めた――いや、敵を威嚇する雄叫びのつもりだったのだろうが、この乳臭い連中ののどから出ると、それが、まるで仔猫の鳴き声のように哀れにきこえるのだった。共和国の防衛に当たるのが、何と、使い方もろくすっぽ知らないで、使い古しの銃をかかえている、この乞食のような身なりの小僧っ子の集まりなのか、と思うと、何だか怖いような気がした。もしファシスト空軍機がここへ飛んできたら、どういうことになるだろう――はたして、パイロットはわざわざ急降下して、一連射、機銃掃射でも加えてやろう、という気になるだろうか、と首をかしげたのを、今でも思い出す。いくら空からみたって、われわれがほんとうの兵隊でも何でもないことぐらいは、はっきりわかったのではないだろうか?
道が鋸歯状山脈《シエラ》にさしかかると、われわれは本道から右の枝道に折れ、山腹に沿ってうねうねと続いている、狭い、らばの通る小道を登っていった。スペインのこの地方の丘陵は、奇妙な形をしている。馬蹄形で、頂上はやや平らだが、側面は非常にけわしく、深い峡谷となって落ちこんでいる。その急斜面の高いところには、ひねこびた灌木やヒースのほかは何も生えていなくて、白骨のような石灰岩がいたるところに突き出ている。ここの最前線は、切れ目なく続いている塹壕などといったものではない。このような山岳地方では、それはとてもできない相談だから、最前線といっても、ひとつひとつの丘のてっぺんに、防備を施した、いつも「陣地」と呼ばれている監視所があり、それが点々と並んでいるだけだった。馬蹄形の丘のてっぺんにあるわれわれの「陣地」は、遠くからでも見えた。土嚢を積んで作ったみすぼらしいバリケードに赤旗がひるがえり、待避壕のたき火の煙があがっている。もう少し近づいてみると、むかむかするような、甘ったるいいやなにおいがした。一度かいだら、何週間も鼻について離れないにおいだ。陣地のすぐ後ろの地面の割れ目に、この数か月間の、ありとあらゆる廃物が投げこまれている――それは、パンくず、糞、銹びたブリキかんの、ただれた深い層だ。
われわれに交代してもらうことになった中隊は、雑嚢を集めているところだった。彼らは、三か月間、最前線勤務についていたのだ。制服には泥が固まりつき、長靴はぼろぼろになり、たいていの顔はひげぼうぼうだった。この陣地の指揮官の大尉が、待避壕からごそごそはい出して来てわれわれにあいさつした。彼はレヴィンスキーという名前だったが、みんなのあいだではベンジャミンで通っていた。ポーランド生まれのユダヤ人だったが、フランス語が母国語みたいに達者だった。二十五歳前後の小柄な青年で、ごわごわした黒い髪と、青白いきまじめな顔の持ち主だったが、戦争のそのころは、顔はひどく汚れていた。二、三発の流れ弾丸《だま》が、頭上の高いところでパン、パンと鳴っていた。この陣地は、直径五十ヤードぐらいの半円型のとりでで、土嚢と石灰岩で築いた胸壁にかこまれている。三、四十もの待避壕が、鼠の穴のように、地面の中に作ってある。ウィリアムズと、私と、ウィリアムズのスペイン人の義弟《おとうと》は、だれもいない、いちばん住み心地のよさそうな待避壕に、すばやく飛び込んだ。前線のどこかでときどき銃声がして、岩山のあいだに奇妙なこだまを響かせた。われわれが背嚢をおろして待避壕からはい出したとたん、また銃声が響き、中隊の少年兵のひとりが、顔じゅう血だらけになって、胸壁からかけもどって来た。銃を発射したところが、どういうわけか、遊底がふっ飛んでしまったのだった。暴発した薬莢の破片で、頭の皮がリボンのように裂けていた。これが、わが中隊の負傷者第一号だった。そして、それが暴発だったというのは、いかにもわたしたちの部隊らしかった。
午後、私たちは初めて守備につき、ベンジャミンが陣地を案内してまわった。胸壁の前には、岩を切り開いて作ったせまい塹壕が系統的に掘ってあり、そこに、石灰岩を積んだ、ひどく無細工な銃眼がいくつか作ってある。その塹壕の中と、後ろの胸壁のかげに、ところどころ、十二名の歩哨が点々と配置してある。塹壕の前には、鉄条網が張りめぐらしてあり、その先は、けわしい崖が、見たところ底知れぬ峡谷へ落ちこんでいる。峡谷の向かい側は、むき出しの岩山で、灰色一色の寒々とした絶壁となっているところもある。生きものは、それこそ小鳥一羽さえ、いそうな気配はない。ファシスト軍の塹壕を見つけようとして、私はそっと銃眼からのぞいてみた。
「敵はどこにいるんですか?」
ベンジャミンは、大きく手を振った。「ずーっと向こうだ」(ベンジャミンは英語はしゃべる――もっともひどい英語だが)
「いったい、どこなんですか?」
私の塹壕戦の観念では、ファシスト軍は五十ヤードか百ヤード向こうにいるはずだった。ところが、何もみえない――よほどうまく塹壕を遮蔽しているらしい。がそのとき、ベンジャミンの指さす方を見て、私はびっくり仰天した。谷をこえた向こうの、少なくとも七百メートルは離れている丘のてっぺんに、小さな胸壁の輪郭と、赤と黄色の旗がみえるのだった――ファシスト軍の陣地である。私は、口もきけないほどがっかりした。何とまあ遠いのだろう! この距離では、こちらの銃はまったく役にたたない。しかし、ちょうどこのとき、興奮した叫び声が上がった。遠目には灰色がかってみえる二人のファシスト兵が、向かい側のむき出しの山腹をよじ登っていくのだ。ベンジャミンは、すぐそばにいた兵の銃をひったくると、狙いを定め、引き金《がね》を引いた。カチッ! 不発だ。さい先が悪いな、と思った。
新しい歩哨が塹壕に入るとすぐに、敵は、盲射ちに猛烈な一斉射撃をあびせかけてきた。蟻《あり》のようにちっぽけなファシスト兵が、胸壁の後ろでちらちら動くのがみえ、ときどき、こしゃくにも、黒い点のような頭をさらけ出したまま、しばらくじっとしていることもある。射撃をしたってまずだめだ。それなのに、私の左手にいる歩哨が、いかにもスペイン人らしく、自分の持ち場をおっぽり出すと、私のそばへにじり寄って来て、早く射て、早く射て、としきりにせきたてる。こんなひどい銃で、これだけ離れているんじゃ、よっぽどまぐれ当たりでもしないかぎり、いくら射っても、ぜったい当たりっこないんだ、とよほど説明してやろうか、と思った。が、相手はほんの子供で、石をぶっつけられるのは覚悟の上、という犬みたいに、むきになって歯をむき出しながら、手にした銃を黒い点のひとつに向けて、射て、射てと身ぶりでせきたてるのだった。しようがないので、私は、照尺を七百に合わせてぶっ放した。向こうの黒い点は消えた。至近弾だったので、彼は飛び上がったのだろう。人を狙って銃を射ったのは、これが生まれて初めてだった。
最前線を見てしまった今になって、私はつくづくいや気がさしてきた。こんな戦争なんてあるものか! ろくすっぽ敵と接触さえしないじゃないか! 私は、頭をたえず塹壕の下にひっこめておくなんて、考えもしなかった。ところが、しばらくして、小銃弾が一発、無気味な音をたてて私の耳もとをかすめ、後ろの胸壁にガチッと命中した。おっと危い! 私はひょいと頭を下げた。初めて弾丸《たま》がそばを通っても、ぜったいに頭は下げないぞと、かねがねずっと心に誓っていたのだったが、こればかりは本能的なものらしく、たいていだれでも、少なくとも一度は頭を下げる。
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第三章
塹壕戦には、大事なものが五つある。薪と、食糧と、たばこと、ろうそくと、それに敵だ。冬のサラゴサ戦線では、大事さもその順番どおりだったが、敵だけは、いなければそれに越したことはなかった。いつなんどき奇襲があるかわからない夜は別として、敵のことなど気に病むものはひとりもいなかった。敵とは、時おり、あちこちにはねているのが見える、遠くの虫けらにすぎなかった。敵味方両軍にとって何よりの関心事は、どうやって暖をとるか、ということだった。
ついでに言っておくほうがよいだろうが、スペインにいたあいだじゅう、私は、およそ戦闘らしい戦闘を見かけたことはほとんどない。一月から五月までアラゴン戦線にいたが、その方面では、一月から三月下旬にかけて、テルエル地方を除いて、ほとんど、いや、まったく、何も起こらなかった。もっとも、三月にはウエスカ付近で激戦があったが、私個人としては、取りたてていうほどの働きをしたわけではなかった。その後六月になって、凄惨なウエスカ攻防戦が展開され、わずか一日で数千人の戦死者が出たが、私はその戦いの始まる前にすでに負傷して、不具者となっていた。ふつう、戦争の恐怖と考えられているようなことは、私にはまず起こらなかった、と言ってよい。空爆の至近弾を食らったこともなければ、五十ヤード以内の至近距離に、砲弾が炸裂したこともなかったように思う。白兵戦の経験だって、たった一度あるだけだ(一度でもうたくさんだが)。もちろん、重機関銃の掃射はしょっ中受けたが、それもたいていは射程が遠かった。ウエスカにいても、相応に用心さえしていれば、まあ安全だった。
このサラゴサ付近の山中では、ただ、膠着《こうちゃく》戦につきものの退屈と、不便のまじり合った毎日が続くだけだった。生活は、市役所の吏員のように平穏無事で、また、それと同じほど型にはまったものだった。歩哨勤務、巡視《パトロール》、塹壕掘り。または、塹壕掘り、巡視《パトロール》、歩哨勤務、といったぐあいに。山々のてっぺんでは、ファシスト軍、政府軍を問わず、ぼろを着たきたならしい兵士の一団が、旗のまわりで震えながら、暖をとるのに必死だった。そして、昼となく夜となく、人っ子ひとりいない峡谷を越えて何の意味もない銃弾が飛び交《か》っていたが、よほど運でも悪くないかぎり、人に命中することはまずなかった。
寒々としたあたりの冬景色を見まわしながら、私は、それらすべての空しさに、よく驚いたものだった。このような種類の戦争は、何と煮え切らないものなのだろう! もっと前の十月ごろには、ここいらの丘をめぐって烈しい争奪戦が行なわれたが、それ以後は兵員不足と兵器の、とりわけ大砲の不足のため、大規模な作戦はできなくなり、各部隊ともそれぞれ占領した山のてっぺんに塹壕を掘って腰を据えてしまったのだった。われわれの右手の向こうには、同じPOUM軍の小さな前哨地点がある。われわれの左手の、七時の方向〔軍隊における目標位置の示し方。自分を時計とみて、進路方向を十二時とおいて、文字盤の数字で方向を示す〕にあたる突き出た岩の上には、PSUC(カタロニア統一社会党)軍の陣地があって、向こうの、もっと高い尾根の頂きに点々とある、いくつかの小さなファシスト軍陣地とにらみ合っている。いわゆる戦線は、右へいったり左へいったりのジグザグ型になっているので、もしそれぞれの陣地に旗でも立っていなかったら、どこに陣地があるのか、さっぱりわからないのだった。POUM軍とPSUC軍は赤旗で、アナーキスト軍は赤と黒の旗である。それに対して、ファシスト軍は、ふつう、王制時代の旗(赤―黄―赤)をかかげるが、時によると共和国の旗(赤―黄―紫)をかかげることもある。山の峰という峰が、全部軍隊によって占領されているため、ブリキ罐が散乱し、糞でおおわれていることを忘れさえすれば、それこそ、まさに目もさめるようなながめだった。のこぎりの歯のような山脈《やまなみ》は、われわれの右手で南東に曲がって、筋のような起伏のある広い盆地に道をゆずり、その盆地はずっとのびてウエスカまで達している。
盆地のまん中に、ちっぽけな立方体が三つ四つ、まるでさいころを投げたようにころがっている。政府軍が占領しているロブレスの町だ。朝、よくその平野が雲海の下にかくれてしまい、山だけがのっぺりと青くその上に突き出て、奇妙なほど写真のネガに似た景色になることがあった。ウエスカの向こうには、ここと同じ形の山がもっとたくさんあったが、それらには雪の縞模様がついていて、その模様が毎日変化していくのだった。はるかかなたには、万年雪をいただいたピレネー山脈の巨大な峰々が、宙に浮いているようにみえた。下の平野でも、すべてのものが死んだように空虚だった。向かい側に連なる丘は、象の皮膚のように、灰色でしわがよっていた。空には、たいていいつも鳥の姿がみえなかった。こんなに鳥の少ない地方ははじめてだ。よくみかける唯一の鳥というのは、カササギに似た鳥と、夜、だしぬけにピューッと羽ばたいて人をびっくりさせる、シャコの群れだけだったが、ごくまれには、ゆっくりと空に舞う鷲の一群をみかけることもあった。たいてい、追いすがるように小銃射撃が加えられたが、鷲は悠然と飛び続けるだけで、そんなものには目もくれなかった。
夜間とか霧の立った日とかには、わが軍とファシスト軍のあいだの谷間に、偵察隊が派遣された。この任務はみんなに敬遠された。何しろひどく寒く、すぐ道に迷うからだった。それで、まもなく私は、何回でも好きなだけ偵察に出る許可がもらえるのに気がついた。巨大なのこぎりの歯のような峡谷には、道はもちろん、踏みならした道のようなものさえ、ひとつもなかった。引き続き何回か偵察に出かけ、そのつど新しい目じるしをおぼえるようにして、道をみつけるより仕方がなかった。いちばん近いファシスト軍の陣地まで、直線距離では七百メートルだったが、ただひとつの通れる道をたどれば一マイル半もあった。流れ弾丸《だま》が、頭上の高いところを、アカアシサギの鳴き声のような音を立てて飛んでいく暗い谷間をさまよい歩くのは、まんざら捨てたものでもなかった。濃い霧の立ちこめたときの方が、夜間よりもっとよかった。霧は、たいてい一日じゅうずっと立ちこめていたが、岩山のてっぺんにまつわりつくくせがあり、谷間は晴れていたからである。どこでもファシスト軍の戦線に近づいたときは、カタツムリのようにのろのろはっていかなければならない。そのような丘の中腹の、踏むとバリバリ音を立てるかん木や、ぶつかるとカチッと鳴る石灰岩のあいだを、音を立てずに動くのは至難のわざだった。私は、思い立ってから三度目か四度目に、やっとどうにかファシスト軍の戦線までたどりつくことができた。そのときは霧がたいへん深かったので、私は鉄条網のそばへにじり寄ってきき耳を立てた。内側《なか》でファシスト兵の話し声や歌声がする。と思うと、驚いたことに、そのうちの数名が丘を下ってこちらの方へやってくる物音がした。私は、にわかにたいへん小さくなったような気のするかん木の茂みの後ろにちぢこまり、音を立てないようにしてそっと銃の撃鉄を起こそうとした。しかし、彼らはわきへそれて、私のみえるところまではやって来なかった。そのとき私のかくれた茂みの後ろには、この前の戦闘のいろいろな置き土産《みやげ》――おびただしい空薬葵《からやっきょう》、弾丸《たま》の孔のあいた革の帽子、明らかに、わが軍のどの部隊かのものと思われる赤旗など――が散乱していた。その旗は陣地へ持ち帰ったが、無神経にも引き裂かれ、あわれ雑巾《ぞうきん》となりはててしまった。
最前線へ着くとすぐに、私は「カボ」と呼ばれる伍長に任命され、十二名の歩哨の指揮をとることになった。この地位は、とくに最初のうちは、名目だけの閑職などというものではなかった。「百人隊《センチュリア》」といっても、ティーンエージャーの少年たちが大半を占めている、訓練も何も受けていない烏合の衆だった。義勇軍のあちこちで、十一、二歳のまだうら若い少年をみかけるが、この連中は、たいていファシスト占領地域からやって来た避難民で、養うのにいちばん手っとり早い方法として、義勇軍に入れられたのだ。そんな連中は、ふつう、軽い後方勤務にまわされるのだが、どうかすると、何かのはずみで前線へまぎれこんでくることがある。そうなると、みんなの脅威のたねになるのだった。いつだったか、そんな小僧のひとりが「おもしろ半分に」、待避壕のたき火の中へ手榴弾を投げこんだことがあった。ポケロ山には、十五歳以下の少年はいなかったようだが、それでも、平均年齢が二十歳をかなり下まわっていたことはたしかだった。この年ごろの少年は、ぜったいに最前線で使ってはだめだ。というのは、こんな連中は、塹壕戦にはつきものの睡眠不足ががまんできないからだ。初めのうちは、夜間、わが軍の陣地をまともに守備することさえ、ろくにできなかった。わたしの分隊のしようのない小僧たちは、足をもって待避壕から引きずり出さないかぎりは目がさめず、しかも、こちらが背を向けるか向けないうちに、部署をほったらかしてまた待避壕へすべり込むか、さもなければ、おそろしい寒さも平気で、塹壕の壁にもたれて眠りこけてしまうのだった。よくしたもので、敵の戦意もまったく低調だった。仮に、空気銃を持った二十人ぐらいのボーイ・スカウトか、似たようなものだが、羽子板を持った二十人のガール・スカウトあたりに夜襲をかけられても、わが軍の陣地はひとたまりもないのではないか、という気のする晩もあった。
このころからずっと後まで、カタロニア義勇軍は、相変わらず、内乱勃発当時と同じ基盤の上に成り立っていた。フランコの叛乱が起こった当初、いろいろな労働組合や政党によって、急遽、義勇軍が組織された。そして各義勇軍は、その本質において、中央政府だけではなく、所属の政党にも忠誠の義務をになう一種の政治組織だった。一九三七年の初め、人民軍――これは、多少ふつうに近い形で組織された「非政治的な」軍隊だった――が創設されたとき、各政党義勇軍は、理論上はいちおう、その傘下へ編入された形になっていた。しかしそうした変化は、あくまでも机の上だけの話で、実際は長いあいだ現状のままだった。その新編成の人民軍部隊が、多少ともまとまった数でアラゴン戦線へやってくるということも、六月まではなかったので、それまでは義勇軍組織もずっと変わらなかった。この義勇軍組織の肝心な点は、将校と兵のあいだが社会的に平等である、ということだった。将軍から一兵卒にいたるまで、全員が、まったく同じ給与を受け、まったく同じ食事をとり、まったく同じ服を着、まったく対等の立場でつきあった。もし師団長の肩をたたいて、おい、たばこを一本くれないか、といったところで、別にどうということもなかったし、変なまねをする、と思うものなどひとりもいなかった。少なくとも理論的には、各義勇軍とも、階級制ではなく民主制のうえに立っていた。命令に服従しなければならないことは了解されていたが、同時に、命令を出すときも、同志から同志へそれを伝えるのであって、上級のものから下級のものに下すのではない、ということも、また了解されていた。将校も下士官もいるにはいたが、ふつうの意味での軍隊的階級差はまったくなかった。敬称もなければ、記章もない、上官の前で気を付けの姿勢をとる必要もなければ、敬礼する必要もなかった。義勇軍の内部《なか》に一時的であってもよいから、階級のない社会の生きたモデル、といったものを作ってみよう、という意図が働いていたのだった。もちろん、完全な平等とはいえなかったが、それでも、私がこれまでみたこともないほど、あるいは、とても戦時中とは受けとれないほど、完全な平等に近いものだった。
しかし、打ちあけて言えば、じつは、最前線でこの有様をひと目みて、私はぞっとしたのだ。こんなていたらくの軍隊で、いったいどうやったら戦争に勝つことができるのだろう? これは、そのころだれも口にしていたことで、たしかに事実そのとおりではあったが、無責任な言いぐさだった。というのは、あの状況のもとでは、義勇軍をあれ以上よくすることは、とうていできない相談だったからである。近代的な機械化装備の軍隊というものは、地面からひとりでに湧いて出るものではない。それに、もし、訓練がゆきとどき、軍隊が思いどおりに動いてくれるようになるまで、といって政府が手をつかねて待っていたとしたら、けっしてフランコを阻止することはできなかっただろう。
後になると、義勇軍をけなして、訓練不足と兵器不足による欠陥を、その平等主義的組織のせいにするのがはやりとなった。まったくの話、新たに募集した新兵の部隊は、規律も何もない烏合の衆ではあったが、それは何も、将校たちが兵を「同志」と呼んだせいではなくて、そもそも、訓練を施してない軍隊というものは、いつも規律も何もない集団だから、そうなのだった。実地にのぞむと、民主的な「革命」式規律は、案外あてにできた。労働者の軍隊においては、規律は理論上、自発的なものだった。それは、階級に対する忠誠を基礎として成り立っていた。その点では、徴集兵より成るブルジョワの軍隊の規律が、究極的には、恐怖を基礎として成り立っているのと対照的だった(義勇軍と交替した人民軍は、二つのタイプの中間をいくものだった)。義勇軍においては、ふつうの軍隊で行なわれている弱いものいじめや、職権を笠に着るような行為は、ぜったいに許されなかった。ふつうの軍刑罰はあるにはあったが、よほど重大な罪以外には適用されなかった。たとえ兵士が命令に服従するのを拒否しても、すぐに処罰、というわけにはいかなかった。まず「同志」の名において、彼を説得するのだった。兵を扱った経験などちっともないくせに、何でも冷笑したがる連中なら、そんなことじゃ、ぜったいに「うまくいくはずがないよ」と、あっさり片づけてしまうだろう。ところが、どうして、どうして、しまいには、たしかに「うまくいく」ようになったのだった。義勇軍のうちで、もっとも質の悪い徴募兵部隊の軍紀でさえ、時がたつにつれて、目にみえてよくなっていった。一月には、十二名の未熟な新兵を、標準まで引っぱり上げておくという任務のために、私の髪に白いものがまじるようになった。五月には、しばらくのあいだだったが、イギリス人とスペイン人を合わせて、約三十名を指揮する小隊長代理をつとめた。われわれは、全員、数か月間も砲火にさらされていたが、私は、命令に従わせたり、部下に危険な任務を進んで引き受けさせたりするのに、苦労したことはちっともなかった。「革命的」軍紀は、政治意識――つまり、なぜ命令に服従しなければならないのか、という理由の認識のうえに成り立っているのだった。このことを周知徹底させるには時間がかかる。しかし、そんなことをいえば、営庭で兵士をしごいて、ロボットに仕立てあげるのにだって、やはり時間はかかるのだ。義勇軍制度をせせら笑ったジャーナリストたちは、人民軍が後方で訓練中、義勇軍が戦線を保持しなければならなかったことは、ほとんど忘れている。そして、義勇軍が、曲がりなりにも戦線に踏みとどまっていた、と述べること自体が、とりもなおさず、「革命的」軍紀は威力のあるものだった、と賞揚することにほかならないのだ。というのは、一九三七年の六月ごろまで、彼らに戦線を保持させるよりどころとなったものは、階級的忠誠心を措《お》いて、ほかには何もなかったからである。なるほど、ひとりやふたりの逃亡兵なら射殺することもできよう――現に、ときどき射殺されることもあった――しかしながら、もし一千名の兵が、いっしょに戦線を離脱してやろうという気を起こしたのだったら、それをくいとめる力は何もなかったはずだ。一般の徴集兵が同じ状況のもとに置かれたのだったら――憲兵さえいなければ――とっくに消滅してしまっていたことだろう。ところが、義勇軍は、おさめた勝利こそ少なかったが、戦線はちゃんと保持したし、個人的な逃亡兵さえほとんど出なかったのだ。POUM義勇軍に入隊していた四か月か五か月のあいだに、私が聞いた逃亡兵というのはわずか四名で、しかもそのうちの二名は、情報を探るためにまぎれこんでいたスパイらしい、という見方がきわめて有力だった。最初は、みるからに混乱していたし、全般的に訓練不足だし、なにしろ、命令に従わせるのに五分間も口論しなければならないことがしょっちゅう起こるというていたらくだったので、私もぎょっとしたし、また腹もたった。私はイギリス陸軍的な考え方を持っていたのだったが、スペイン義勇軍は、どうみても、イギリス陸軍とはまったく似ても似つかぬしろものだった。しかし、当時の情勢を考えてみれば、この義勇軍は期待にもまさるりっぱな軍隊だった。
さて、話変わって、心配のたねは薪だった――いつも薪のことが頭にこびりついていた。この時期を通じて、私の日記の中で、薪のこと、いや、むしろ薪不足のことが書いてない日は、おそらく一日もないのではなかろうか。何しろ、いるところが海抜二千フィートから三千フィートのあいだの高地であるうえに、季節がまた冬の最中だったので、その寒さたるや、まさに言語に絶するものだった。気温はとくに低いわけではなかった。氷の張らない晩さえ多く、昼間は、冬の陽が一時間も顔をみせていることもよくあった。しかし、たとえほんとうは寒くなかったのだとしても、寒く感じたのは事実である。ひゅうひゅう唸る風がかぶっている帽子を吹き飛ばし、髪の毛をくしゃくしゃにからませることがあった。そうかと思うと、霧が、まるで液体のように塹壕に流れこみ、骨にまでしみわたるような気のすることもあった。雨はよく降った。そして、ものの十五分も降ろうものなら、それこそ、まったくやりきれない状態になった。石灰岩の上をうっすらとおおっている土の膜は、たちまちつるつるした油脂《グリース》のようになった。そして、歩くところがどこも斜面なので、足元がきまらなかった。やみ夜など、私は二十ヤード歩くのに六回も足をすべらしてころんだことが、たびたびあった。これは危険だった。というのは、ころぶと銃の尾筒に泥がつまるからだ。数日間ずっと、洋服も、長靴も、毛布も、銃も、程度の差はあっても、ともかく泥まみれだった。私は持てるだけの厚地の衣料を持ってきていたが、たいていの兵は、ひどく薄着だった。約百名を擁する全守備隊に、大|外套《がいとう》といえばわずか十二着しかないため、歩哨に立つものが次々にかわり合って着なければならなかった。しかも、ほとんどの兵が、毛布をたった一枚持っているだけだった。
ある凍てついた晩、私は着ているものを全部、日記に書き出してみた。人間のからだにつけることのできる衣服の量がわかるので、ちょっとおもしろい。私の着ていたものは、厚地のシャツとパンツ、フランネルのシャツ、セーター二枚、毛のジャケツ、豚皮のジャンパー、コールテンのズボン、革ゲートル、厚いソックス、長靴、丈夫なトレンチ・コート、マフラー、裏のついた皮手袋、それに毛の帽子だった。これだけ着こんでもまだ、私はゼリーのようにぶるぶる震えていた。しかし、じつをいうと、私はひどく寒さがこたえるたちなのだ。
ほんとに大事なのは、たったひとつ、薪だった。薪について困ったのは、事実上、もやす薪が手に入らない、ということだった。ここいらのけちな山々には、いちばんましなときでさえ、ろくろく樹木らしいものはなかったのだ。そこへ、何か月ものあいだ、こごえかけた兵士たちが、薪を求めてくまなく荒しまわったため、指より太いものは全部、とっくの昔に燃やし尽くされてしまっていた。われわれは、食事と、睡眠と、歩哨と、雑役についているときのほかは、陣地の裏手の谷間で薪捜しをした。そのころの私の思い出は、どれもこれも、長靴がぼろぼろになってしまう、ごつごつした石灰岩の上をはいまわったり、ほとんど切り立ったような崖をよじ登ったり下ったりして、ちっぽけな枝でもみつかると、目を輝かせながら、それにとびついた思い出ばかりだ。三人がかりで一、二時間捜しまわると、待避壕で一時間ほどたき火するぐらいの分は、まあ何とか集められた。あまり熱心に薪捜しをやったので、われわれは、しまいに、いっぱしの植物|通《つう》になった。われわれは、山腹に生えているあらゆる植物を、その燃え方によって分類した。いろいろなヒースや草類は、火をおこすのには便利だが、ほんの二、三分で燃え尽きてしまう。野生のマンネンロウや小さなハリエニシダのかん木は、火がじゅうぶんに燃え上がったあとでならよく燃える。スグリのかん木よりもっと小ぶりの、ひねこびた樫の木、こいつは容易なことでは燃えなかった。からからに乾いた葦があって、これはたきつけにはもってこいだった。ただ、これは、陣地の左手の丘のてっぺんにしか生えていなかったので、銃火をくぐって採りにいかなければならなかった。もしファシスト軍の機関銃手に見つかると、回転弾倉一本分の弾丸全部を、まともに浴びせかけられる羽目になった。概して弾道は高く、銃弾は小鳥の歌うような音を立てて頭上を飛び過ぎた。が、どうかすると、どきっとするほど近くの石灰岩にガチッと当たって、その角を削ることもあった。そんなときには、ぱっとうつむけに伏せをするのだった。それでも葦集めは続けられた。薪とくらべたら、銃弾などものの数ではなかったのだ。
寒さを除けば、そのほかの不便はとるにたらないような気がした。もちろん、みんないつもきたなかった。水も、食糧と同じように、らばの背にのせてアルクピエーレから運ばれてきた。そして、ひとりあたりの水の割り当ては、一日に約一クォート〔約一リットル〕だった。ひどい水で、牛乳みたいに濁っていた。規則のうえでは、飲料水だけに使うことになっていたが、私は毎朝ブリキの皿に一ぱい分だけ失敬して、顔を洗うのに使っていた。顔を洗ったら、そのあくる日にはひげを剃ることにしていた。顔を洗ってひげを剃るには、何としても足りなかったからだ。
陣地は鼻もちならぬほどいやなにおいがした。小さなバリケードの囲いの外は、そこいらじゅう糞だらけだった。義勇兵の中には塹壕の中で排便するくせのある者もいたが、暗やみの中で塹壕を歩きまわらなければならないのだから、まったく迷惑千万な話だった。しかし、不潔さはちっとも苦にならなかった。だいたい人間は、不潔さを、あまりやかましくいいすぎるのだ。ハンカチなしですませることや、顔を洗ったブリキの皿に食物を入れて食べることなどには、すぐ馴れっこになる、実際びっくりするほどだ。また、着のみ着のままのごろ寝も、一、二日たつと、ちっとも苦でなくなる。いうまでもないが、夜でも服は脱ぐわけにいかないし、とくに長靴は脱ぐわけにいかない。敵襲に備えて、すぐ飛び出せるようにしていなければならないからだ。八十日のうちで、私が洋服を脱いだのは、わずか三晩だった。もっとも、時には昼間、着替えができることもあったけれども。寒くてまだ虱《しらみ》はいなかったが、どぶ鼠やはつか鼠はわんさといた。どぶ鼠とはつか鼠は同じところには住まないものだ、とよくいわれるが、食べものさえふんだんにあれば、いくらでも同じところに住む。
そのほかの点では、われわれの生活はそう捨てたものでもなかった。食物はまあまあよかったし、ぶどう酒は飲みほうだいだった。一日に一箱の割り合いだが、まだたばこの配給もあった。マッチの配給は一日おきで、ろうそくの配給さえあった。クリスマス・ケーキに立てるような細い細いろうそくで、みんなは、教会から略奪してきたのだろう、と思っていた。各待避壕に、毎日三インチのろうそくが配給されたが、これは、いつも、約二十分で燃え尽きてしまうのだった。そのころはまだろうそくが買えたので、私は自分で数ポンド持ってきていた。後になると、マッチとろうそくが払底してきたため、生活はみじめなものになった。こういうものの有難味は、なくなるまではぴんとこないものだ。たとえば、夜、非常呼集があって、待避壕の全員がわれさきにと銃を奪い合い、他人の顔を踏みつけているようなときなど、灯りをつけることができるのは、それこそ、生と死ぐらいのちがいだろう。義勇兵は、全員が火口《ほくち》用ライターと数ヤードの黄色い燈心をもっていた。これは、小銃の次にたいせつな持ち物だった。火口用ライターには、風の中でもつけられるという大きな利点はあったが、ただくすぶるだけだったので、火を燃えつかせる役にはたたなかった。マッチ飢饉が最悪の事態になると、われわれの火をおこす方法はただひとつ、薬莢から弾丸を引き抜き、コルダイト火薬に火口用ライターで火をつける方法しかなかった。
われわれが毎日送っていたのは変な生活だった――これが戦争と呼べるのなら、ずいぶん変わった戦争のやり方だった。義勇兵はみんな、ただ毎日ぶらぶらしているのがじれったくなってきて、なぜ攻勢に出るのが許されないのか教えてくれ、と口やかましく騒ぎたてた。しかし、敵が攻勢に出てこないかぎり、これから先ずっと戦闘がないのは火をみるより明らかだった。ジョルジュ・コップは、定期の巡察にやってきたときには、自分の思っていることを、あっさりとわれわれに打ちあけた。「こんなものは戦争でも何でもないよ」これが彼の口癖だった。「ときどき人が死ぬ喜歌劇《コミック・オペラ》さ」じつは、アラゴン戦線の停滞には、その当時私のちっとも知らなかった政治的原因があったのだった。しかし――予備兵員の不足はさておくとしても――純粋に軍事上の困難がいろいろあることは、だれの目にもはっきりしていた。
まず、この地方の地形が地形だった。わが軍にせよファシスト軍にせよ、最前線はすばらしい天険の地を利用しているため、たいていいっぽうの側からしか接近することができないのだった。そのような要害は、塹壕が少し掘ってあれば、よほどの大兵力をもって攻撃しないかぎり、歩兵の力ではまず攻め落とすことはできない。私たちの陣地でも、あるいは近くのどの陣地でも同じことだが、もし十二、三名の兵と二挺の機関銃があれば、一個大隊の兵力でも食い止めることができるだろう。私たちは、こんなふうに丘のてっぺんに立てこもっているのだから、大砲の絶好の目標となるところだが、あいにくその大砲がひとつもないのだった。ときどき私はあたりの状況をながめて、ほんとうに――いや、それこそ心の底から――ああ、ただの二門でいいから、砲台がほしいなあ、とどんなに願ったことか。大砲さえあれば、敵陣など、まるで金鎚《かなづち》で木の実をつぶすように、次から次へとわけなくぶっつぶすことができただろう。ところが、わが軍には、大砲のたの字もないのだった。ファシスト軍のほうは、まだときどき一、二門の大砲を何とかサラゴサから運んできて、ほんのわずかだが砲弾を打ちかけてくることもあった。もっとも、射程もきまらないくらいわずかな弾数だったので、せっかくの砲弾も、人のいない谷底へむなしく落ちただけだった。大砲なしで機関銃に立ち向かわなければならない、ということになれば、とれる戦術は三つしかない。安全な距離――まあ四百ヤードぐらい――だけ離れて塹壕にもぐりこんでいるか、遮蔽物のない空地を前進して全員が機関銃の餌食になるか、それとも、戦況全般には影響を及ぼさない程度の、小規模な夜襲を敢行するか、そのいずれかだ。事実上、停滞か自殺か、ということになるわけだ。
これに加えて、あらゆる種類の軍需物資が全般的に不足していた。当時の義勇軍の装備がいかにひどいものだったか、それを理解するのはひと苦労だ。イギリスのどんなパブリック・スクールの将校訓練部隊《O・T・C》でも、私たちの部隊とくらべたら、はるかに近代的装備の軍隊らしくみえる。私たちの兵器の質の悪さは、まったく驚くべきもので、いちいちこまかく並べたてるぐらいの価値はありそうだ。
前線のこの地区に配備された大砲の全兵力というのが、四門の迫撃砲と、砲一門当たり「十五発」の砲弾だった。もちろん、この砲弾は大事なとっておきの貴重品で、あだやおろそかに射つわけにはいかないので、その砲はアルクピエーレにしまってあった。機関銃は、ほぼ五十人に一挺ぐらいの割り合いで配備されていた。古くさいものだったが、それでも三、四百ヤードまではかなり正確に射撃できた。このほかにあるものは、といえば、小銃だけだったが、それも、ほとんどがくず鉄に等しいものだった。使用されている小銃は三種類だった。まず長いモーゼル銃があった。これらは大部分が二十年以上たった時代もので、照準器は、こわれた速度計のようにまったくあてにならなかった。たいていの銃は、手のつけようがないほど施条《ライフル》が腐食していた。それでも、十にひとつぐらいは悪くないのもまじっていた。次はモーゼル短小銃で「小型小銃《ムスケトン》」とも呼ばれたが、ほんとは騎兵銃だった。これは、軽くて持ち運びに便利なうえ、塹壕でもあまり邪魔にならず、比較的新しくてまだ使えそうだったので、ほかのものより評判がよかった。しかし、じつは、これがいちばんしようがなかった。よせ集めの部品でできているこのての銃は、遊底もほかの間に合わせ品で、四挺に三挺は、五発も撃つと必ず弾丸が滞留するのだった。そのほかに、ウィンチェスター銃も三、四挺あった。これは弾丸の出ぐあいは最高によかったが、命中精度はまったくめちゃくちゃで、しかも弾薬を連結する插弾子《そうだんし》がないため、一発ずつこめて撃つより仕方がなかった。弾薬もひどく不足しており、前線に出る兵でも、ひとりあたりわずか五十発支給されただけだった。しかも、その弾薬のほとんどがひどい不良品だった。スペイン製の弾薬筒は全部詰め替え式で、いちばんよい小銃に使っても滞留した。メキシコ製の弾薬筒は、それよりはましなので、機関銃用としてとっておかれた。いちばんよかったのはドイツ製の弾薬だったが、このほうは、もっぱら捕虜や逃亡兵から手に入れるしかなかったので、数は多くなかった。私は、いざという時のために、插弾子にはさんだドイツ製かメキシコ製の弾薬を一組、いつもポケットにしのばせていた。しかし、そのじつ、緊急なときでも、私はめったに発砲しなかった。あのおんぼろ銃の滞留するのが何ともやりきれなかったのと、ともかくまともに射てる弾薬を、一組だけは持っていたい、という気持ちがとても強かったからである。
鉄かぶともなければ銃剣もなく、回転式連発拳銃《リヴォルヴァ》も拳銃《ピストル》もほとんどなかった。手榴弾にいたっては、せいぜい五人か十人に一発ぐらいしかなかった。このころ使用されていた手榴弾は、「FAI式手榴弾」と呼ばれる恐るべきしろもので、戦争の初めごろアナーキストたちが作ったものだった。ミルズ式手榴弾〔英人サー・ウィリアム・ミルズが発明した重さ約一・五ポンドの強力な手榴弾〕と同じ原理のものだったが、梃子《レバー》抑えはピンではなくて細いひもだった。そのひもを切ってから、できるだけ大急ぎで投擲《とうてき》しなければならない。この手榴弾は「公平」である、といわれていた。というのは、投げられたほうと投げるほうの双方を殺すからだった。そのほかに、もっと原始的だがおそらくそれほど危険――もちろん、投げるほうに対して――ではない型のものも何種類かあった。投げがいのある手榴弾にお目にかかるようになったのは、やっと三月下旬になってからのことだった。
兵器類のほかにも、こまごまとした軍需品はすべて不足していた。たとえば、地図も地勢図もなかった。スペインは、これまで完全な測量が行なわれたことがなく、この地方の唯一の詳しい地図というのは、古い軍用地図だけだったが、それはほとんど全部ファシスト軍の手中にあった。測距儀も、望遠鏡も、塹壕用展望鏡もなかった。双眼鏡も、二、三の私物を除いて、ひとつもなかった。照明弾、ベリー式信号光〔特殊のピストルから打ち出す色彩閃光。その組み合わせが暗号となる。ベリーは、一八七七年にそれを発明したアメリカ海軍士官のエドワード・W・ベリーの名前からとったもの〕、針金切り、兵器用工具は皆無で、銃器清掃具すらほとんどなかった。スペイン人たちは、銃身清掃用のひも付ブラシのことなどきいたこともなかったらしく、私がそれを作ったとき、みんな驚きの目をみはった。みんな銃を掃除してほしいときには、例の軍曹のところへ持っていく。彼は長い真鍮の槊杖《さくじょう》を持っていたが、この槊杖がまた必ず曲がって施条《ライフル》をいためるのだった。銃器用オイルもなかった。オリーヴ油を手に入れることができたときは、それを塗った。そのほかのときには、私は、それぞれワセリンを塗ったり、コールド・クリームを塗ったりしたが、ベーコンのあぶらを塗ったことさえある。それにまた、カンテラも懐中電灯もなかった――おそらく、このころは、前線のわれわれの地区をくまなく捜しまわっても、懐中電灯のような気のきいたものは、ただの一本もなかったのではなかろうか。手に入れたいと思っても、はるばるバルセロナまでいかなければ買えないし、そのバルセロナでも、なかなか簡単には手に入らないのだった。
時がたち、山のあいだで、ただ時おり思い出したように銃声が響くだけ、というふうになってくると、いったい、このばかげた戦争に、ひとかけらの生、いや、むしろ、ひとかけらの死をもたらすような事態が、はたして起こるようになるのだろうか、としだいに深い疑惑の念を抱くようになった。われわれが敵として闘っている相手は、人間ではなくて肺炎だった。塹壕も五百ヤード以上離れると、まぐれ当たりは別として、だれも弾丸に当たる者はいない。もちろん負傷者は出たが、その大半は自ら招いたものだった。もし私の記憶ちがいでなければ、スペインで私の最初に見た負傷兵は、五人目まで、いずれも自分の兵器で負傷した連中だった――わざとやったのだ、とまでもいわないが、とにかく事故か不注意によるものだった。使い古しのわが軍の小銃は、それ自体が危険なしろものだった。中には、台尻が地面にコツンとぶつかるだけで暴発する、まことにもって癖の悪い銃もあった。この癖の悪さのために、自分で手を撃ち抜いた兵もいた。それに未熟な新兵たちは、暗やみの中では、しょっちゅう誤って味方同士射ち合いをやっていた。
まだ、ろくにうす暗くもなっていないある夕方のことだった。ひとりの歩哨が、二十ヤードの距離から私を狙ってぶっ放した。が、狙いは一ヤードも外れた――ほんとに、スペイン人の射撃の腕前のおかげで、いったい何度命拾いをしたことか。また別の話だが、前もって歩哨隊長にくれぐれも注意を与えたうえで、霧の中を巡視《パトロール》に出かけたことがあった。ところが、帰って来たとき、私はかん木につまずいて転んだ。びっくり仰天した歩哨は、大声でファシスト軍の来襲だ、とわめきたてた。すると、さっきの歩哨隊長が、かたじけなくも、私のいる方向に向かって、速射始め、とみんなに命令するのがきこえた。もちろん私は伏せをしたので、弾丸は上を飛んでいって何事もなかった。スペイン人、とくに若いスペイン人に、いくら銃器は危険なものだ、といって聞かせてもぜったいにわからない。この事件があった少し後の話だが、機関銃を構えている機銃手たちに、写真をとってやったことがあった。銃口がまっすぐ私のほうに向いている。
「射つなよ」私はカメラのピントを合わせながら冗談半分にいった。
「ああ、だいじょうぶ、射たないよ」
次の瞬間、すさまじい咆哮《ほうこう》が起こり、銃弾の流れが、私の顔すれすれに、それこそ顔をつん裂くように飛んでいった。コルダイト火薬の粉で、頬がヒリヒリするほど近くだ。ついうっかりと引き金を引いたのだが、機銃手たちにしてみれば、すてきないたずらのつもりだったのだ。そのくせ、この連中は、そのつい二、三日前に、らば引きの男が、自動拳銃をおもちゃにしていたある政党の派遣員にまちがって射たれ、肺に五発も弾丸を射ちこまれたのを、現にみているのだ。
そのころ義勇軍が使っていたむずかしい合言葉も、ちょっとした危険の原因になった。それは、片方の言葉を言ったら、もう片方の言葉で返事しなければならない、ややこしい合言葉だった。それらは、ふつう、「文化《クルトゥラ》」―「進歩《プログレソ》」とか、「|われら《セレモス》」―「無敵《インヴェンシブレス》」のような、威勢のいい革命調の言葉だったが、無学な歩哨に、こんな大げさな言葉をおぼえさせることはできない場合が多かった。今でもおぼえているが、ある晩、合言葉が「|カタロニア《カタルーニャ》」―「英雄《エロイカ》」だった。すると、ハイム・ドメネッチという丸顔の百姓上がりの若い衆がすっかり困りきった顔で私のところへやって来て、説明してほしいと頼んだ。
「英雄《エロイカ》――英雄《エロイカ》ていったい何のことですかね?」
それは勇者《バリアンテ》と同じ意味なのだ、と私は説明してやった。しばらくして、暗くなってから彼が塹壕をよろよろ歩いていると、歩哨が誰何《すいか》した。
「止まれ! |カタロニア(カタルーニャ!)」
「|勇者!(バリアンテ)」ハイムは、正しい合言葉のつもりでわめいた。
ダーン!
しかし、歩哨の射った弾丸は当たらなかった。この戦争では人間わざで狙いが外れそうなときには、だれがだれを射っても、きっと狙いは外れるのだった。
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第四章
私が前線に出て三週間ほどたったころ、イギリスの独立労働党から派遣された二、三十名の分遣隊がアルクピエーレに到着した。それで、この方面のイギリス人をひとつにまとめるため、ウィリアムズと私が配置転換となってその連中の仲間に入った。私たちの今度の陣地は、ずっと数マイルも西へよった、サラゴサの見えるオスクロ山にあった。その陣地は、剃刀《かみそり》のようにとがった石灰岩の丘の背にちょこんとのっていた。待避壕が、まるでショウドウツバメの巣のように、絶壁に対して水平に掘ってある。ずいぶん遠くまで掘ってあり、内部《なか》はまっ暗で、しかも天井がとても低いので、立ったままではもちろん入れないが、しゃがんでもだめだ。われわれの左手の峰には、POUM軍の陣地がもうふたつあったが、そのうちのひとつは、前線中のみんなの魅力の的だった。というのは、女性義勇兵が三人いて、賄い方を引き受けていたからだ。彼女らは必ずしも美人ではなかったが、それでも、ほかの中隊の兵士たちの立ち入り禁止区域に指定しなければならないことがわかってきた。われわれの右手を五百ヤードほどいった、アルクピエーレ街道の曲がり角に、PSUC軍の監視所がひとつあった。ここは、道路が敵と味方に分れるちょうどその分れ目に当たっていた。夜になると、アルクピエーレから曲がりくねった道をやってくるわが軍の補給トラックの灯りがみえ、同時に、サラゴサからやってくるファシスト軍補給トラックの灯りもみえた。南西十二マイルのあたりに、サラゴサの町そのものもみえる。灯りのともった船の舷窓のような細い灯りの列だ。政府軍は、一九三六年八月以降、それだけの距離をへだててサラゴサをにらみ続けてきたが、そのにらみは今もなお続いているのだ。
スペイン人ひとり(ウィリアムズの義弟にあたるラモンだが)を含めて、われわれは総員約三十名、そのほかに十名あまりのスペイン人の機銃手がいた。ひとりやふたりはきっと見かける、あの鼻もちならぬやつ――というのは、ご承知のように、戦争というものは人間のくずを引き寄せるものだから――を除けば、イギリス人たちは、肉体的にも精神的にも、珍しいほどりっぱな連中がそろっていた。部隊の中のピカ一は、おそらくボブ・スマイリーだっただろう――彼は、有名な鉱山労働者組合の指導者の孫だった――が、後にヴァレンシアで、まったくむだな、意味のない死を遂げたのだった。言語の障害があったにもかかわらず、イギリス人とスペイン人がいつも仲よくやっていけたのは、ひとえにスペイン人の性格のよさによるものだった。スペイン人は、だれでも、英語はふたつだけ知っていることがわかった。ひとつは、「|わかったよ、かわい子ちゃん《オーケー・べービー》」で、もうひとつは、バルセロナのいかがわしい商売の女たちが、イギリスの船乗りを相手に商売をするとき使う言葉で、おそらく植字工が組んでくれそうもないような言葉だった。
ここでも戦線全域にわたって何も起こらなかった。ただ流れ弾丸《だま》がパン、パン鳴るだけで、ごくまれに、ファシスト軍の臼砲による砲撃があった。それが始まると、みんな、砲弾がどの丘に落ちて炸裂するか見ようとして、山のてっぺんの塹壕へ走っていくのだった。ここでは、敵軍との距離が多少近く、たぶん三、四百ヤードぐらいだったと思う。いちばん近い敵の陣地は、この陣地の真向かいにあって、機関銃座がついていた。銃眼があいているので、絶えず弾薬をむだ使いしていたい衝動に駆られるらしかった。ファシスト軍はめんどうな小銃射撃はめったにやらなかったが、だれかが身をさらすと、正確な機関銃の連射を浴びせかけてきた。それにもかかわらず、わが軍に負傷者第一号が出たのは、十日かそれ以上もたってからのことだった。われわれと向かい合っている敵軍はスペイン人だったが、逃亡兵の話によると、ドイツ人の下士官も少しまじっている、ということだった。前には、ひところ、ムーア人もいたことがある――かわいそうに、どんなに寒さがつらかったことだろう!――というのは、彼我両軍のあいだの無人地帯のはずれにムーア人の死体がひとつころがっていて、ここいらあたりのひとつの見ものになっていたからだ。
われわれの左手を一、二マイルいくと、戦線が切れて、地形が低くなり、木が鬱蒼《うっそう》と生い茂った広大な地域があった。そこはファシスト軍のものでもわが軍のものでもなかった。われわれも彼らも、よく昼間ここへ巡視《パトロール》に出かけた。ボーイ・スカウトみたいで悪くもない行楽だった。もっとも、数百ヤードより近くにファシスト軍の巡視《パトロール》兵を見かけたことは一度もなかったが。ずっと匍匐《ほふく》していけば、ファシスト軍の戦線の一部を突破して侵入することもできたし、王制時代の旗がひるがえっている農家を望むことさえできた。そこが、この方面のファシスト軍の司令部だった。ときどきわれわれは、その司令部目がけて小銃の一斉射撃を浴びせ、敵軍の機関銃に見つからないうちに、すばやくものかげにかくれることにしていた。窓ガラスを二、三枚ぐらいは割ったかもしれないが、何しろ距離が優に八百ヤードはあるうえに、われわれの銃が銃だから、それだけ遠くては、家にさえはたして命中したかどうか、あやしいものだった。
天気はたいてい晴れで寒かった。時によっては、昼間、陽のさすこともあったが、いつも寒かった。丘の中腹のここかしこに、野生のクロッカスやアイリスが、青々としたくちばしのような芽を土の中からのぞかせていた。たしかに春が近づいているのだ。しかし、その歩みはまったく遅々としていた。
夜の寒さは、いっそうきびしさを増した。真夜中に歩哨から帰ってきたときなど、われわれは、いつも炊事場の火の燃え残りをかき集め、赤く燃えている燠《おき》の中に足を突っこんだまま立つことにしていた。これは、靴のためにはよくなかったが、足にはまことに快適だった。しかし、山々のいただきのあいだから夜が明けていくのをながめていると、こんなひどい時刻に起きているのも、まんざら捨てたものでもないな、という気になる朝もあった。景色としてみても、私は山は大きらいである。そうはいうものの、われわれの背後の山々の峰の後ろから、夜がしらじらと明け初め、まずはじめに、細い黄金《こがね》色の後光が剣のように暗やみを切り裂いたかと思うと、やがて光がしだいしだいに強まり、洋紅色の雲海が無限の彼方へとのび広がっていくその光景は、徹夜のために膝から下は寒さでしびれてしまい、まだ三時間は朝飯にありつけそうもないな、と憂鬱になってくるような場合でも、時には、たしかに一見の価値があった。私は、この戦争に従軍中、これまでの人生の残り全部の期間に見たよりも――いや、たぶん、これからの人生で見るよりも――もっと多くの夜明けを見た。
この陣地は人手不足だった。ということは、とりもなおさず、歩哨勤務の時間がより長くなり、雑役もまたいっそう多くなる、ということだった。もっとも動きの少ない型の戦争にさえついてまわるあの睡眠不足が、少しこたえるようになってきた。歩哨勤務と巡視《パトロール》のほかにも、たえず夜の非常呼集と待機があった。それに、ともかく、足が冷たさにうずくような地下のきたならしい穴ぐらの中では、まともに眠ることなど、とてもできるものではなかった。私が前線に出た初めの三、四か月のあいだに、二十四時間一睡もしなかった日が十二回以上あったとも思わないが、そのかわり、ぐっすり眠った晩が十二回とはなかったこともまた確かだった。一週間に二十、ないし三十時間というのが、ごくふつうの睡眠量だった。その影響は、思ったほどひどくはなかった。頭がぼーっとしてきて、丘の登り下りが、楽になるどころかつらくなってくる。しかし気分は爽快で、たえず腹がへっていた――いや、ほんとに、それはそれは腹がへった! 食べる物は何でもうまかった。スペインへやってくると、だれでも、しまいには見るのもいやになる、しょっちゅう出てくるあのインゲン豆でさえうまかった。われわれの水は――といっても、ずいぶんいい加減な水だったが――ラバか、いためつけられたちっぽけなロバの背にのせて、何マイルも遠方から運ばれてきた。どういうわけか、アラゴン地方の百姓たちは、ラバはいたわってやるくせに、ロバには手荒らなあしらいをするのだった。ロバが歩くのをいやがると、睾丸《きんたま》を蹴とばすぐらいのことは平気でやってのけた。ろうそくの配給はすでに止まり、マッチは底をつき始めた。スペイン人たちが、われわれに、コンデンスミルクの空きかんと、插弾子と、ぼろ切れで、オリーブ油のランプを作る方法を教えてくれた。ほんの時おりだったが、オリーブ油が手に入ったときは、このランプは四分の一燭光ぐらいの明るさで、煙をあげてゆらめきながら燃え、何とか銃を見つける手がかりにはなった。
本格的な戦闘の起こりそうな見込みは、まずなさそうだった。ポケロ山を発つとき、私は自分の弾薬を数えてみた。すると、三週間近くのあいだに、敵に向かってたった三発しか撃っていないことに気がついた。何でも人の話では、敵兵一人を殺すのに一千発の弾丸がいるようだから、この割り合いでいけば、私が最初のファシスト兵を射殺するのに二十年はかかることになる。オスクロ山では、彼我の戦線の距離がもっと近いので発砲する機会も多かったが、射った弾丸が一度も当たらなかったことだけは、まず確実とみてさしつかえないだろう。したがって、実際問題として、この時期におけるこの戦線の真の武器は、小銃ではなくてメガフォンだった。敵兵を射殺できないから、その代わりに、敵兵に向かってどなるという格好になったのだ。このメガフォン戦術はずいぶん奇妙だから、説明しておく必要がある。
戦線が互いに声のとどく距離に向かい合っているときには、塹壕から塹壕へ、しょっちゅうどなり合いをやっていた。こちらから「ファシストの|へなちょこ野郎《マリコーネス》!」とどなってやると、ファシスト軍からは「|スペインばんざい《ヴィヴァ・エスパーニャ》! |フランコばんざい《ヴィヴァ・フランコ》!」――とか、にらみ合っているのがイギリス人だと知ると、「ゴー・ホーム、このイギリス野郎! われわれは外国人に用はないぞ!」とかどなり返してくるのだった。政府軍側の各政党義勇軍では、敵軍の士気をくじくための宣伝合戦が発展して、正規の戦術となっていた。宣伝戦にむいたすべての陣地では、兵が――それも、たいていは機銃手だったが――宣伝の任務を仰せつけられて、メガフォンを支給された。彼らがファシスト兵たちに向かって叫ぶ言葉は、たいてい、君たちは国際資本主義の雇い兵にすぎないのだぞ、とか、君たちは自分自身の階級を敵にまわして闘っているのだぞ云々、とかいうふうに説明して、ぜひともわれわれの味方になりたまえ、と説得する、革命的心情のあふれたお決りの文句だった。この宣伝は、担当者交替で、何回も何回もくり返され、どうかするとほとんどひと晩じゅう続けられた。そして、それなりのききめがあったことは、まず確かだった。というのは、ぽつりぽつりと脱走してくるファシスト兵が後をたたないのは、ある程度はこの宣伝による影響なのだ、とみんなが認めていたからである。まあ、よく考えてみれば、かわいそうな敵の歩哨が――たぶん、いやいやながら徴兵にかり出された社会主義者か無政府主義者の労働組合員あたりだろうが――凍えながら任務についているわけだ。そこへ、暗やみの中から、「君自身の階級を敵として戦うのはやめたまえ!」といったスローガンが、これでもか、これでもかとばかり高らかにひびいてくれば、心を動かされずにいるほうが、むしろふしぎなくらいだ。
この呼びかけは、逃亡するかしないか、少なくともその心を決める手がかりぐらいにはなったであろう。もちろん、このような宣伝行為は、英国流の戦争の観念とは相容れない。じつをいえば、はじめてこの宣伝合戦の現場をみたとき、私はびっくりしたりあきれたりしたのだ。敵兵を射撃するどころか、その考えを変えさせようとするなんて、何という了見だろう! しかし、今となってふり返ってみれば、どの面からみても、あれは筋の通った作戦だった。ふつうの塹壕戦で大砲ぬきということになれば、敵軍に損害を与えるためには、味方がそれと同数の出血を覚悟してかからなければならないのは当然で、それを避けるのはきわめてむずかしい。もし敵兵を何人か脱走させて、それだけの人数を、もう兵として動員できないようにしてやれる、というのなら、それは、その方がはるかにましだ。実際問題として、脱走兵は死体なんかよりよっぽど役にたつ。というのは、脱走兵は情報を与えてくれるからである。
そうはいうものの、初めはわれわれみんなががっかりした。だいたいスペイン人は、この自分たち自身の戦争を、ほんとうに真剣に考えていないのではないか、という気がしたからだった。われわれの右手をおりたところにあるPSUC軍の監視所で宣伝を担当している男は、その道の達人だった。ときによると、彼は革命的スローガンをどなるのをやめて、ファシスト兵たちに、ただ、われわれが君たちよりどんなにうまいものを食っているか、を宣伝するのだった。政府軍の糧食についての彼の説明は、ややもすれば想像がまじって少しばかり誇張される癖があった。「バター付きトーストですよ!」――と、彼の声が、ひっそりした谷間にこだまして聞えてくるのだった――「いいですか、わたしたちは、今ここでバター付きトーストを前にしてすわっているところなんですよ! それこそ、ほっぺたの落ちそうなバター付きトーストをねえ!」叫んでいる彼にしたって、われわれみんなと同じで、もう何週間も、いや何か月間もバターになどお目にかかったことがないのは確かだった。しかし、しんしんと冷えわたる晩にバター付きトーストのニュースなど聞かされて、おそらく大ぜいのファシスト兵が、口からよだれをたらしたことだろう。現に、そんな宣伝はうそっぱちだとわかっている私でさえ、よだれをたらしたくらいだったから。
二月のある日、ファシスト軍の飛行機が一機、接近してくるのがみえた。例によって、機関銃が空地へ引きずり出され、銃身が空に向けられた。そして、正確に狙いをつけるために、全員が仰向けに寝た。それぞれ孤立しているわが軍の陣地は、爆撃する価値もなかったので、ほんの時おり上空を通る敵機は、機銃射撃を避けるため、たいていは迂回していくのだった。しかし、このときの敵機は、機銃のとどかないほどの高度をまっすぐに飛んできたかと思うと、その機体から、爆弾ではなくて白いぴかぴか光るものがころがり出て、空をひらひら舞いながら落ちてきた。陣地の中にも二、三枚落ちた。拾いあげてみると、マラガ〔地中海に臨む、スペイン第二の海港〕の陥落を報道したファシスト系の新聞「エラルド・デ・アラゴン」紙だった。
その夜、ファシスト軍は、結局は失敗に終わった攻撃めいたものをしかけてきた。眠さのあまり、半ば死んだようになって、私が寝床の中へぶっ倒れたちょうどそのときだった。ものすごい銃弾の流れが頭上を突っ走ったかと思うと、だれかが待避壕の入口から「敵襲!」とどなった。私は銃をひっつかむと、陣地のてっぺんの、機関銃の横にある自分の部署まで、すべりすべり上った。真っ暗な中で悪魔の叫びのような音がしていた。五台の機関銃の銃火と推定されるものがわれわれにふり注ぎ、ファシスト兵がきわめて間の抜けた投げ方で胸壁ごしに投げてくる手榴弾が、すさまじい音を立てて、続けざまに炸裂した。鼻をつままれてもわからないくらい真っ暗だった。われわれの左手の下の方の谷間に、おそらく巡視《パトロール》と思われるファシスト兵の小部隊が、攻撃の仲間入りをして射撃している、小銃の緑色をおびた銃火のきらめきがみえた。その銃弾が、われわれのまわりの暗やみをつんざいて、バリバリ、ビューッ、バリバリと音を立てながら飛んでいく。砲弾も何発か、うなりながら飛んできた。しかし、われわれの近くに落ちるものはなく、しかも(この戦争ではいつものことだが)そのほとんどが不発弾だった。後ろの丘のてっぺんから、別の機関銃が火を吐き出したとき、私は一瞬ひやりとした――じつはその機関銃は、われわれを援護するために持ち出されたものだったが、その瞬間には、まるで包囲されたような気がしたからだ。やがて、わが軍の機関銃は滞溜した。粗悪な弾薬を使うとよくこれになるのだ。しかも槊杖《さくじょう》は、真っ暗やみの中でどこかへ紛失していた。どうやら、ただ、射たれっぱなしになっているよりほかに手がないようだった。スペイン人の機銃手たちは、遮蔽物のかげに入ることをいさぎよしとせず、実際は、わざとからだをむき出しにするので、私もそれを見習わないわけにはいかなかった。この戦闘経験のすべては、とるにたらないものではあったが、とても興味あるものだった。はっきり言って、私が銃火に身をさらしたのは、これが初めてだった。そして、お恥ずかしい話だが、気がついてみると、私はひどくこわがっていた。だれだって、猛烈な銃火にさらされれば、いつでもこんな気がするのではないかしら、と思う――といっても、それは何も弾丸《たま》に当たるのがこわいのではなくて、弾丸《たま》がどこに当たるかわからないのがこわいのだ。いったいどこを弾丸《たま》にやられるのかな、と始終気にしつづけていると、全身が、まったくたまらないような過敏感に襲われるものである。
一、二時間後に銃火は衰え、やがて静まった。その間におけるわが軍の負傷は、ただの一名だった。ファシスト軍は二台の機関銃を無人地帯《ノーマンズ・ランド》までは繰り出したが、安全な距離だけ離れていて、胸壁まで突撃してくる気配はなかった。じつをいえば、彼らは攻撃をかけているのでも何でもなくて、マラガ陥落を祝うために、ただむやみに弾薬をまき散らして景気のいい音を立てていただけなのだった。この戦闘のおもな意義は、新聞の戦争記事というものは、もっと疑いの目で読むように、と私に教えてくれたことだった。それから一、二日後に、新聞とラジオが、騎兵隊と戦車隊を伴う(あの切り立った絶壁を、いったいどうやって登ったというのだ!)大規模な敵の攻撃があったが、勇敢なイギリス人部隊の奮戦によって撃退された旨の報道を行なった。
ファシスト軍が、マラガの陥落を発表したとき、われわれは、それを虚偽《デマ》だとみなしていた。ところが、そのあくる日になると、もっと信頼できるうわさがいろいろと広まり、それから一、二日後に、マラガ陥落は公式に認められたのだった。情けない陥落の全貌も、少しずつもれ伝わってきた――それによると、一発の弾丸も射たないでマラガの町を明け渡してしまい、狂暴なイタリア軍が、逃げ出した軍隊ではなく、あわれな一般民衆を襲撃し、民衆の中には、百マイルも追いまわされ、機銃掃射を受けたものもいた、という。このニュースに、前線じゅうが一種の戦慄に襲われたのだった。というのは、その真相がどうであれ、マラガの陥落は裏切り行為によるものである、と義勇軍の全員が信じていたからである。そして、このうわさが、裏切りとか仲間割れとかについて私が聞かされた、そもそものはじまりだった。それによって、私の心の中に、この時まで正しい側と悪い側とが、まったくみごとなほどはっきりと分れてみえたこの戦争についてのおぼろげな疑惑が、はじめて芽生えたのだった。
二月半ばに、われわれはオスクロ山を離れ、この地区のPOUM軍の全部隊とともに、ウエスカ包囲軍の一部として派遣された。それは、冬の平原を、トラックに揺られながら走る五十マイルの旅だった。野づらでは、短く刈り込まれたぶどうの木にまだ新芽もみえず、冬まきの大麦が、ごろごろした土くれを押しのけて、ちょうどとがった葉先をのぞかせたところだった。今度の塹壕から四キロのところに、ウエスカ市が、まるで人形の家をよせ集めて作った町のように、小さくくっきりと輝いている。今から数か月前にシエタモを占領したとき、政府軍の司令官は、うきうきした口調で「みなさん、あすはひとつ、ウエスカでコーヒーを飲みましょう」といっていたのだった。ところが、結局のところ、彼の予想はみごとに外れてしまった。数回にわたって凄惨な攻撃が行なわれたが、町はいっかな陥落せず、そのため、「あすはひとつ、ウエスカでコーヒーを飲みましょう」が、義勇軍のあいだでは、おきまりの冗談となってしまった。もし今度スペインへ行く機会があったら、今度こそきっとウエスカでコーヒーを飲んでやろう。
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第五章
ウエスカの東側では、三月の終わりごろまで、何も起こらなかった――ほとんど文字どおり何も起こらなかった。われわれは、敵軍から千二百メートルのところにいた。ファシスト軍をウエスカへ撃退したとき、この地区を保持していた共和政府軍は、あまり積極的に前進しなかったため、戦線はポケットのような形になっていた。ゆくゆくは戦線を進めなければならなくなるはずだった――敵の銃火を浴びながらの話だから、さぞやりにくい仕事になるだろう――が、今のところ、敵軍はいないようなものだったので、われわれの気にかかることは、ただ、暖をとることと、じゅうぶんな食糧を確保することだけだった。とはいうものの、じつはこの時期に少なからず私の興味をひいたものがあったので、そのうちのいくらかはあとで紹介するつもりである。しかし、ここで、政府側の政治的な内部事情を多少でも説明しておくほうが、事件の順序をより忠実にたどることになるだろう。
最初のうちは、私はこの戦争の政治的側面を無視していた。それが、このごろになって、ようやくいやおうなしにそちらのほうへ注意をひかれるようになってきた。政党政治の恐怖など興味がない、とおっしゃる向きは、どうか飛ばして読んでいっていただきたい。なお、この物語の政治的な側面は、はっきりそれを述べるために別の章を設け、そこで扱うつもりである。そうはいっても、スペイン戦争を、純粋に軍事的角度からのみ論じようとすれば、それはとうてい不可能であろう。これは、何よりもまず政治的戦争なのだ。政府側の戦線の背後で進行していた各政党間の軋轢《あつれき》を、多少でも理解しないことには、この戦争の少なくとも最初の一年間に起こったできごとはひとつもわからない。
スペインへやって来た当初から、その後しばらくのあいだ私は、政治的情勢というものにさっぱり興味がもてなかったばかりではなく、それを気にもとめないでいた。戦争が行なわれていることは知っていたが、それがどんな性格の戦争なのか、まるっきり知らなかったのだ。君はなぜ義勇軍に入隊したのか、ときかれたら、私は「ファシズムと戦うために」と答えただろうし、君は何のために戦うのか、ときかれたら、私は「人間共通の品位のために」と答えただろう。この戦争を、ヒトラーに雇われた|頑迷な職業軍人《コロネル・ブリンプス》の一団が引き起こした気ちがいじみた暴動に反対して、文明を擁護するために起こったものとみる、「ニューズ・クロニクル」紙〔「ザ・デイリー・ニューズ」紙や「ザ・デイリー・クロニクル」紙が中核となり、いくつかの新聞が合併して一九三〇年にできた自由党系の新聞。一九六〇年、「デイリー・メール」紙に併合された〕や「ニュー・ステイツマン」誌〔一九一三年創刊されたイギリスの週刊誌。一九三一年、「ザ・ネーション・アンド・アシニアムと合併してからは「ザ・ニュー・ステイツマン・アンド・ネーション」と改題した。労働党左派系〕的解釈を、私はそのまま受け容れていた。
私は、バルセロナの革命的雰囲気には深く心を引かれたけれども、それを理解しようとする努力は何もしなかった。「PSUC」「POUM」「FAI」「CNT」「UGT」「JCI」「JSU」「AIT」といった――まったくもってうんざりするような名前の連続だ――変幻きわまりない政党と労働組合の万華鏡《まんげきょう》については、私はただいらいらするばかりだった。ちょっと見たとき、スペインは流行性|頭文字《イニシャル》病にでもかかっているのかな、という気がした。自分がPOUMとかいうグループの一員になっていることは知っていたが(それというのも、たまたまイギリス独立労働党《ILP》の紹介状をもらってバルセロナへやって来たために、ほかの義勇軍ではなくてPOUM義勇軍へ入隊した、というだけなのだ)、各政党間には大きなちがいがある、ということは、私にはぴんとこなかった。ポケロ山で、連中が左手の陣地を指さして「あそこは社会主義者たち(PSUCを指すのだが)の陣地だ」と教えてくれたとき、私はめんくらって「だって、われわれはみんな社会主義者じゃないのか?」ときき返したものだった。生命《いのち》を守るために戦っている人間たちが、それぞれ別の党派を|持たなければいけない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なんてばかげている、という気がしたのだ。「なぜわれわれはこんな政治的ナンセンスをぜんぶふり捨てて、戦争をどんどん遂行することができないのだろう?」というのが、いつも私の姿勢だった。これが、おもに一般の人びとにこの戦争の本質を知らせないようにするため、英国の新聞によってわざと広められていた正しい「反ファシスト的」姿勢であったことは、いうまでもない。しかし、スペインの、とりわけカタロニア地方では、だれもそんな姿勢をいつまでも持ち続けることはできなかったし、また事実、持ち続けなかった。たとえ気が進まなくても、すべての人が早晩、自分の態度を決めたのだった。というのは、政党やその矛盾し合う「路線」についてちっとも興味がもてなくても、それが自分自身の運命にかかわることは、あまりにも明らかだったからだ。だれにしても、一義勇兵としてはフランコと戦う兵士だったが、同時に、二つの政治理論のあいだで闘われている巨大な戦いにおける歩《ふ》でもあった。ポケロ山の中腹で薪あさりをしながら、いったいこれがほんとうの戦争なのか、それとも「ニューズ・クロニクル」紙がでっちあげたものなのか、と首をかしげていたとき、また、バルセロナの暴動で共産主義者の機関銃から身をかわしたとき、あるいはまた、間一髪で警察の手を逃れ、ようやくスペインから脱出したときのことをふり返ってみると――こうしたことが、すべてあのような独特な形で私の身にふりかかってきたのは、私がPSUC軍ではなくて、POUM軍に入隊したためだったのだ。となると、二組の頭文字《イニシャルズ》の相違は何と大きいのだろうか!
政府側の戦列体制を理解するためには、この戦争がどのようにして起こったか、を思い返してみなければならない。七月十八日に戦闘が勃発したとき、ヨーロッパのファシズムに反対するすべての人びとは、おそらくわくわくするような希望を感じたことであろう。というのは、ここでついにデモクラシーがファシズムに対抗して勇敢に起ち上がったようにみえたからである。これまでの数年間、いわゆる民主主義諸国は、ことごとにファシズムに屈服していた。日本軍は、はばかるところもなく満州で勝手な行動を起こしていた。ヒトラーはすでに権力を握り、ありとあらゆる種類の政敵の大量虐殺に手をつけ始めていた。ムッソリーニは、五十三か国(たしか五十三か国だったと思うが)が「中止せよ」と敬虔な声をあげているさなかに、アビシニア人たちの頭上に爆弾の雨を降らせていた。しかし、フランコが穏健な左翼的政府を暴力によって倒そうとしたとき、スペイン人たちは、まったく期待に反して、彼に抵抗して起ち上がったのだった。これは、形勢の一転機のように思われた――いや、たぶん一転機だったのだろう。
しかしながら、一般の人びとの気づかない点もいくつかあった。まず第一に、フランコは厳密にいえば、ヒトラーやムッソリーニと比較することのできる存在ではなかった。彼の反乱は、貴族階級とカトリック教会に支持された軍部の暴動であり、それは、おもに、とくに勃発当初は、ファシズムを押しつけるというよりは、封建制を復活しようとする試みだった。このため、当然、フランコは、労働階級ばかりではなく、いろいろな階層の自由主義的|資本家階級《ブルジョワジー》――こういった連中こそ、ファシズムがもっとモダンな装いを凝らして登場すれば、まさしくすぐにとびつく人たちだが――をも敵にまわすことになった。しかしこれにもまして重要なことは、スペインの労働階級は、英国で想像されるのとはちがって、何も「デモクラシー」や現状維持《ヽヽヽヽ》の名においてフランコに抵抗したのではない、という事実である。彼らの抵抗には、はっきりした革命的暴動が伴っていた――いや、むしろ、それは革命的暴動から成り立っていた、とさえ言えるかもしれない。土地は農民に押収され、多くの工場と輸送機関のほとんどが労働組合に接収された。教会はめちゃめちゃにうち壊され、僧侶たちは追放されるか殺された。それだからこそ「デイリー・メイル」紙〔一八九六年、ノースクリフ子爵によって創刊されたイギリス保守党系の新聞〕は、カトリック教の牧師たちの喝采を浴びながら、フランコこそ、鬼畜のような「赤ども」の群れから祖国を救う愛国者である、と書きたてることができたのだ。
戦争の最初の数か月間、真剣にフランコと闘ったのは、政府ではなくて労働組合だった。反乱が起こると同時に、組織された都市労働者たちは、それに応酬してゼネストを呼びかけ、それから国立兵器庫に兵器を要求した――ひともんちゃくのあとで、彼らは兵器を手に入れた。もしあのとき、彼らが、自ら進んで多少独自の行動を起こさなかったならば、フランコは、何の抵抗も受けなかったであろう、ということはじゅうぶん考えられるところだ。もちろん、ぜったいそうであった、と断言する根拠は何もないが、少なくとも、そう考えてもいいだけの理由はある。この反乱は、ずいぶん前から予測されていたにもかかわらず、政府は、その機先を制するという努力を、ほとんど、いや何ひとつ払わなかったし、現実に暴動が起こってからも、政府の態度は軟弱で優柔不断《ゆうじゅうふだん》だった。実際、首相が一日のうちに三回も変わるほどひどいものだった〔キローガ、バリオス、ヒラールの三人。はじめの二人は、労働組合に兵器を分配することを拒否した〕。しかも、現状打開の唯一の措置である労働者の武装さえ、民衆の烈しい抗議の叫びに負けて、しぶしぶとられただけのことだった。ともあれ、兵器が分配され、東部スペインの大都市では、政府側にふみとどまった軍部の一部(親衛突撃隊《アソルト・ガーズ》)の援助もあったが、おもに労働階級の巨大な努力によって、ファシスト軍は打ち破られた。それは、おそらく、革命的な意図をもって戦っている人たち――つまり、自分たちは現状よりよいものを実現するために戦っているのだ、と信じている人たち――だけが払うことのできるようなそのような努力であった。各地区の反乱の中心部では、わずか一日のうちに、市街戦で三千人もの人が死んだ、とみられている。武器として、ただダイナマイトの棒だけを持った男女たちが、身を寄せるものひとつない広場を突進し、機関銃を持った正規兵の占拠する石造のビルを襲撃したのだった。ファシスト軍が戦略的拠点に構築していた機関銃座は、時速六十マイルでタクシーをぶっつけて粉砕してしまった。たとえ農民たちによる土地の押収とか、地方|労農会議《ソビエト》の設立等々については何もきいたことがなくても、抵抗運動の主力をなすアナーキストや社会主義者たちが、資本主義的民主主義を擁護するために、これほどまでの努力を払ったとは、ちょっと考えられない。というのは、とくにアナーキストの立場からみれば、資本主義的民主主義などというしろものは、中央集権的なインチキからくりにすぎないからだ。
さて、労働者たちは手に武器を握っていたが、このころになると、それを手放すことを拒否した(それから一年後でも、カタロニアの無政府主義的労働組合主義者《アナーコーサンディカリスト》たちは、推定で三万挺の小銃を持っていた)。ファシストに味方する大地主たちの土地は、いたるところで農民たちに押収された。産業や輸送機関の共有化と平行して、地方委員会によって立つ労働者政府の大まかないとぐちを作ろうとする試みがなされた。また、資本主義に味方する古い警察にとって代わる労働者|巡邏《パトロール》隊や、労働組合を基盤とする義勇軍などを設立しようとする試みもなされた。もちろん、その過程は一様ではなかったが、カタロニア地方では、ほかのどこよりもそれが進んでいた。地域によって、地方行政組織がほとんど手のつけられないままに残っているところもあれば、それが、各種の革命委員会と併存しているところもあった。二、三の地域では、独立の無政府主義者革命地方自治体《アナーキスト・コミューン》が樹立され、それらのうちには、ほぼ一年ほどして、政府によって強制的に抑圧されるまで存続したものもあった。カタロニアでは、初めの数か月問、実際上の権力はほとんど無政府主義的労働組合主義者《アナーコーサンディカリスト》たちが握っていた。彼らは基幹産業の大半を支配していたのだ。スペインで起こっていたのは、じつは、単なる内乱ではなくて、ひとつの革命の始まりでもあったのだった。スペイン国外の反ファシスト系新聞が、とくに積極的にぼかそうと努力したのも、まさにこの事実だった。問題は「ファシズム対デモクラシー」にまでしぼられ、革命的側面はできるだけ隠蔽された。イギリスでは、どこよりも新聞の集中化が進んでいて大衆がだまされやすいため、一般に流布しているスペイン戦争観は、わずかふたつしかなかった。そのひとつは、血のしたたる過激派《ボルシェビーキ》に対するキリスト教的愛国者の戦いと見る右翼的な解釈であり、いまひとつは、軍部の反乱を鎮圧せんとする紳士的な共和主義者たちの戦いと見る左翼的な解釈だった。問題の核心はうまくおおいかくされてしまったのだ。
これには、いくつかの理由があった。まず、ファシスト系新聞によって、残虐行為についてのぎょっとするようなデマが広められており、善意の宣伝家たちは、スペインが「赤化」したことを否定すれば、スペイン政府を援助することになるのだ、と信じて疑わなかった。しかし、おもな理由は次のようなものだった。つまり、世界各国に存在する少数の革命的グループを除いて、全世界がスペインの革命を阻止する決意を固めていた、ということだった。とりわけ、ソビエト・ロシアにしり押しされた共産党は、全力をあげて革命を圧殺しようとはかった。この段階での革命は命取りとなるから、今、スペインで成し遂げなければならないのは、労働者による支配ではなくて、ブルジョワ・デモクラシーである、というのが共産党のテーゼだったのだ。「自由主義的」な資本家たちの見解が同じ方向をたどった理由については、ほとんど指摘する必要もあるまい。多額の外国資本がスペインに投資されていた。たとえば、バルセロナ鉄道会社には、一千万ポンドに及ぶ英国資本がはいっていた。ところが、いっぽうカタロニア地方では、鉄道全部を労働組合が接収していた。もし革命が進行すれば、賠償はまったくか、あるいはほとんど得られなくなるであろう。それに反して、もし資本主義的な共和政府が勝利を収めるならば、外国資本は安泰ということになる。そして、革命はもみつぶさなければならないのだから、革命などまったく起こらなかった、とみせかけるのは、いとも簡単な話だった。というようなわけで、あらゆる出来事のほんとうの意味を、うまく隠蔽することができたのだった。労働組合から中央政府への権力の移行は、ことごとく、軍事的再編成におけるひとつの必要措置と主張することができた。このようにして生じた事態は、まことにもって奇妙なものだった。スペイン国外では、革命の起こったことを知っている者が少ないのに対して、スペイン国内では、革命の起こったことを疑うものはひとりもいなかった。共産党の支配下にあって、ある程度反革命的政策を打ち出しているPSUC系の新聞でさえ、「われわれの輝やかしい革命」といったふうな言い方をした。ところがいっぽう、外国の共産党系の新聞は、声を大にしてわめきたてた。革命のきざしなど、どこにも見あたらない、工場の接収や、労働者による委員会の設立などは起こらなかった、――あるいは逆に、起こったけれども、「何ら政治的意義をもたなかった」というふうに。(一九三六年八月六日付の)「デイリー・ワーカー」紙〔イギリス共産党の機関誌〕によれば、スペイン人は社会革命を目ざして、つまり、ブルジョワ・デモクラシー以上のものを目ざして戦っている、という者がいるとしたら、それは「まっかなうそつきの悪党」であった。ところがいっぽう、ヴァレンシア政府の一員であるファン・ロペスは、一九三七年二月に「スペイン人民は、民主主義共和国やその憲法といった一片の紙ぺらのためにではなくて……ひとつの革命のために血を流しているのである」と宣言している。ということになると、われわれが擁護して闘ったその政府の要人たちの中にも、まっかなうそつきの悪党がひとりまじっていた、ということになりそうだ。外国の反ファシスト系新聞の中には、教会が攻撃されたのは、それがファシスト軍の砦《とりで》として使用されたときだけだった、などと、卑劣にも、わざわざみえすいたうそを書いているものもあった。現実には、教会はいたるところで略奪された。というのは、いうまでもないが、スペインの教会は、資本家のあくどい仕事にひと役買っていることが、じゅうぶんに知れ渡っていたからである。スペインに滞在していた六か月のあいだに、私が見かけた荒らされていない教会というのは、わずかふたつだった。そして、一九三七年の七月ごろまで、マドリードにあるひとつかふたつのプロテスタント教会を除いて、再開して礼拝を行なうことを許された教会はひとつもなかった。
しかし、要するに、それは革命の発端であって、完全な革命ではなかった。労働者たちは、政府をくつがえして完全に政府と入れかわるだけの実力をもっているときでさえ――カタロニア地方ではたしかにそうだったし、そのほかの地方でもおそらくそうだっただろうが――彼らはそれをやらなかった。フランコが門口をおびやかしており、中産階級の各層が味方についている以上、明らかに、そんなことはできなかったのだ。そのときのスペインは、社会主義の方向に発展していくこともできれば、ふつうの資本主義的共和国のほうへもどることもできる、といった過渡期的状態にあった。農民たちは、すでに土地の大半を手に入れており、フランコが勝たないかぎりは、そのままずっと保有していきそうなあんばいだった。あらゆる大企業はすでに共有化されていたが、共有化されたままでいくか、それとも資本主義をもう一度導入するかは、最終的にどのグループが支配権を握るかによって決まるはずだった。最初は、中央政府も「ヘネラリテ・デ・カタルーニャ」(半自治的なカタロニア政府)も、はっきり、労働階級を代表している、ということができた。中央政府は左翼的社会主義者カバリェロを首班とし、それぞれ、UGT(労働組合総同盟)とCNT(アナーキストたちに支配される労働組合主義者《サンディカリスト》の組合)を代表する閣僚を含んでいた。「ヘネラリテ・デ・カタルーニャ」のほうは、実質上しばらくのあいだ、主として労働組合の代表から成る「反ファシスト防衛委員会〔反ファシズム義勇軍中央委員会。代表は、各組織の構成員の数に比例して選出された。労働組合の代表は九名、カタロニア自由主義諸政党の代表が三名、各種のマルクス主義政党(POUMや共産党、その他)の代表が二名であった〕」におきかえられた。後になって「防衛委員会」は解散し、「ヘネラリテ」は、労働組合やいろいろの左翼的政党を代表するように再編成された。しかし、その後改造の行なわれるたびに、政府は右よりになっていった。
まずPOUMが「ヘネラリテ」からしめ出された。六か月後に右翼的社会主義者のネグリンがカバリェロにとって代わると、そのすぐあとでCNTが政府から除外され、次にUGTが除外された。それから、CNTが「ヘネラリテ」からも追放された。そして、結局、戦争と革命勃発の一年後には、もっぱら右翼的社会主義と、自由主義者と、共産主義者の三者だけから成る政府が残った。
右への一大転向が始まったのは、ソビエト連邦が政府に武器の供給を開始し、権力がアナーキストから共産主義者へと移行し始めた一九三六年の十月か十一月ごろからである。ロシアとメキシコのほかには、わざわざスペイン政府に援助の手をさしのべてくれるような奇特な国はひとつもなかった。それに、メキシコは、はっきりした理由によって、武器を大量に供給することはできなかった。したがって、条件を決めることができる立場にいるのは、ロシア人だけ、ということになった。そして、その条件というのが、事実上、「革命を阻止しろ、でなければ、武器をやらないぞ」であったこと、そしてまた、革命分子に反対する最初の措置、つまり「ヘネラリテ」からのPOUMのしめ出しが、ソ連のさし金《がね》によるものであったことは、ほとんど疑問の余地はない。ロシア政府から、直接圧力がかけられたことはなかった、とされてはいるが、その点は大して重要ではない。というのは、全世界の共産党は、ロシアの政策の実行機関と見ていいし、その共産党が、まずPOUM、次にはアナーキストと社会主義者のカバリェロ派などに反対し、ひいては革命政策全般に反対した有力な張本人だったことは、否定するわけにいかないからだ。いったんソ連が介入したとなれば、共産党の勝利はまず確定的だった。まず第一に、武器を貸与してくれたことに対するロシアへの感謝の念と、とくに国際旅団到着以降、共産党こそが戦争を勝利に終わらせることができるようにみえだした事実とが、共産主義者たちの威信を、いやがうえにも高めたのだった。第二に、ロシアの武器は、共産党ならびにそれと同盟している諸政党を通じて提供され、これらの党は、その武器が、できるかぎり、政治上の敵の手に渡らないように配慮した〔このため、アナーキストが圧倒的多数を占めるアラゴン戦線にロシアの武器がきわめて少なかったのだ。一九三七年の四月までに私が見かけた唯一のロシアの武器は――ロシア製であったのかどうかはっきりしない数機の飛行機は別として――ただ一挺の短機関銃《サブ・マシンガン》だけだった〕。第三に、共産主義者たちは、非革命的な政策を宣言することによって、過激主義者たちにおびえていたすべての人びとを味方に引き入れることができた。たとえば、比較的裕福な小農たちを結集して、アナーキストの共有政策に反対させるのはたやすいことだった。共産党の党員数はものすごくふくれあがったが、その増加は、おもに中産階級――つまり、商店主、公務員、軍人、裕福な小農など――によるものだった。この戦争は、本質的には三つ巴の戦いだった。フランコとの戦いは続行しなければならなかったが、同時に政府の狙いは、労働組合の手にある権力をとりもどすことであった。それは、連続的な小さな措置――だれかが名づけたのによれば、ちくりちくり政策だが――によって、全般的にはきわめて巧妙に行なわれた。全面的で、はっきりそれとわかる反革命的な措置は、何ひとつとられなかった。そして、一九三七年五月までは、ほとんど武力を行使する必要もなかった。「これと、それと、もうひとつこれをやらないと、この戦争に負けるぞ」という、あらためて述べる必要もないほどわかりきった議論を持ち出しさえすれば、いつでも労働者たちを納得させて引きまわすことができた。いうまでもないが、その軍事上の必要による要請というのが、いつもきまって、労働者たちが一九三六年に自らかち取ったものを譲り渡すこと、を意味するようだった。しかしながら、この議論はいつでも神通力をもっていた。というのは、革命的諸政党は、何としても戦争に負けたくない、と思っていたからである。もし戦争に負ければ、デモクラシーも、革命も、社会主義も、無政府主義《アナーキズム》も、それこそ無意味な言葉になってしまうのだ。無視できないだけの大きさをもつ、たったひとつの革命政党であるアナーキストも、一歩一歩じりじり譲歩しなければならなかった。共有化の進行は食い止められ、地方委員会は廃止され、労働者巡邏隊も廃止された。そして、戦前の警察力が大幅に再強化され、重武装化されて復活し、一時労働組合の支配下にあった各種の基幹産業も政府によって接収された(五月動乱の原因となったバルセロナ電話交換局の占領は、こうした過程の中のひとこまだった)。最後に、もっとも重要なことなのだが、労働組合を基盤とした労働者義勇軍は、徐々に解体されて、新しい人民軍の中へ配置替えとなった。この人民軍は、半《セミ》ブルジョワ路線にのっとるもので、給与率もちがっているし、特権をもつ士官階級や、その他いろいろなものもひととおり備わっている「非政治的な」軍隊だった。当時の特殊な状況のもとでは、この措置は、まさに決定的な第一歩だった。ただ、カタロニア地方では、革命政党の勢力がいちばん強かったため、これの実施がほかの地方より遅かった。自分たちの獲得したものを保有するために、労働者が持つことのできるただひとつの保証の手段は、といえば、それは、明らかに、いくらかの軍隊を自分たちの支配下に置く、ということだけだった。例によって、義勇軍の解体は、軍事的能率の向上という名目で行なわれた。そして、徹底的な軍の再編成が必要であることを否定するものは、ひとりもいなかった。しかしながら、義勇軍の再編成と能率化は、それを労働組合の直接的な支配下に置いたままでも、その気がありさえすればできたはずである。じつは、この改革のおもな狙いは、アナーキストたちが、ぜったいに自分たちの軍隊を持つことができないようにする、ということにあったのだ。しかも、義勇軍は、その民主主義的精神のゆえに、革命的思想の温床となっていたのだった。これがじゅうぶんわかっていたればこそ、共産主義者たちは、あらゆる階級のものに同一の給与を支払うべし、というPOUMやアナーキストたちの根本方針を、ことあるごとに烈しく非難してやまなかったのだ。全面的な「ブルジョワ化」、つまり、革命の最初数か月のあいだにみられた平等主義的精神の計画的な撲滅化が起こりつつあった。そのなりゆきがあまりにも急激だったため、二、三か月の間をおいてふたたびスペインへやって来た人びとは、とても同じ国へまたやって来たのだという気がしない、ときっぱり言うほどだった。つまり、うわべだけは、ほんのしばらく労働者の国家とみえていたものが、あれよあれよという間に、貧富の差のある、ただのブルジョワ共和国へと変身していたのだ。一九三七年の秋にはもう、「社会主義者」のネグリンは、公開演説の中で「われわれは、私有財産を尊重する」と宣言し、内乱の勃発当時、ファシストのシンパであるという嫌疑で国外へ逃れなければならなかった国会の議員たちも、スペインへ帰国しつつあった。
このような過程も、それがことごとく、ファシズムの圧力のために、ブルジョワと労働者が何らかの形で結ばなければならなかった、一時的な同盟から生じたものであることを思い出すならば、容易にうなずけるのだ。人民戦線という名で呼ばれているこの同盟は、本質的には敵同士の同盟である。この種の同盟は、いつもきまって、いっぽうが他方をのみ込んでしまうという結末に終わってしまいがちである。スペインの場合にみられる、思いがけない唯一の特徴というのは――そして、これが、スペインの国外ではかり知れないほどの誤解を生む原因となったのだが――政府側の諸政党のうちで、共産党が極左ではなくて極右の立場にいた、ということである。しかし、このことは、じつはちっとも驚くに当たらないことなのだ。というのは、各国の、とりわけフランス共産党の戦術によれば、公式的共産主義は、少なくともここしばらく、反革命的勢力と見なさなければならない、とはっきり認められているからである。今日、ソビエト連邦の防衛が(世界情勢を考慮して、という口実のもとに)、国際共産党《コミンテルン》のすべての政策に優先している。そして、その防衛は軍事同盟方式に依存しているのだ。端的にいえば、現在、ソビエト連邦は、資本主義的帝国主義国であるフランスと同盟を結んでいる。フランスの資本主義が強くなければ、この同盟はロシアにとって何の役にもたたない。したがって、フランス共産党の政策は、いきおい反革命的とならざるを得ない、ということになるのだ。ということが、とりもなおさず、今、フランスの共産主義者たちが三色旗をかかげながら、「|フランス国歌《ラ・マルセーズ》」を歌って行進しているばかりか、こちらのほうがもっと重要なのだが、フランス領の植民地における有効な扇動工作を、全部中止しなければならなくなったことにもつながるわけである。フランス共産党の書記長トレーズが、フランスの労働者は、だまされてドイツの同志たちと戦うようなことはぜったいしないと宣言してからまだ三年とはたっていないのに、その彼が、今やフランスでいちばん熱烈な愛国者のひとりにおさまっているのだ。各国における共産党の行動を理解する手がかりは、顕在的であれ潜在的であれ、その国のソビエト連邦に対する軍事的関係である。たとえば、イギリスにおいては、その関係がまだはっきりしないので、イギリス共産党は自国の政府に対して相変わらず敵対の態度をとり、表むきは、軍備拡張に反対している。しかしながら、そのイギリス共産党にしても、フランス共産党と同じで、いったんイギリスがソビエト連邦と同盟か軍事的協定を結んだならば、何が何でも、あっぱれな愛国者、兼帝国主義者にガラリと豹変しないわけにはいくまい。現にその徴候は、もう現われている。
スペインにおける共産党の「路線」は、ロシアの盟邦フランスが革命的な隣国に強く反対し、スペイン領モロッコの解放を、しゃにむに阻止しようとしている事実によって影響されたことは疑いない。モスコーからの財政的援助を受けた赤色革命を云々した「デイリー・メイル」紙は、ふだん以上にひどい誤りをおかした。じつをいえば、スペインで革命を妨害したのは、だれよりもまず共産主義者だったのだ。後になって、右翼勢力が完全に支配権を握ったとき、共産主義者たちは、自由主義者たちよりはるかに熱心に、革命指導者の迫害に尽力したのだった。〔政府側における各政党間の内紛について、最上の報告をご希望の向きは、フランツ・ボルケナウ著『スペインの戦場』を参照されたい。これは、スペイン戦争について、これまでに出たもののうちでは、断然、抜群にすぐれた本である〕
私は、スペイン革命の最初一年間における全般的ななりゆきのあらましを述べたつもりであるが、それというのも、全般的ななりゆきをつかんでおいたほうが、その間のある時期における状況がよりいっそうわかりやすくなるからである。しかし、私は、今述べてきた事柄の中に含まれている見解を、ことごとく、二月の時点においてすでに持っていたのだ、とまで言い切る気はない。まず第一に、私の目をいちばんはっきり開かせてくれた事態はまだ起こっていなかったし、ともかく、私の同情も、いろいろな面で今とはちがったものだった。それは、ひとつには、私がこの戦争の政治的側面にうんざりし、その結果、当然のことながら、耳にたこができるほど聞かされた観点――つまり、POUM=ILP的観点――に反発を感じていたためであった。私がいっしょに暮らしたイギリス人たちは、なかに多少|共産党《C・P》の連中もまじってはいたが、大部分がILPの党員で、私よりはるかに進んだ政治教育を受けていた。
ウエスカ周辺では何も起こらなかったあの停滞期には、何週間もぶっ通しで、私は、いつ果てるともわからない政治論争のまっただ中にすわっていたものだった。宿舎に割り当てられた農家の、すきま風がはいり悪臭鼻をつく納屋の内部《なか》で、あるいは、待避壕のむっとする暗やみの中で、あるいはまた、凍《い》てつくような真夜中の胸壁の後ろで、対立する政党「路線」のことが、何回となく討議された。スペイン人たちのあいだでも同じで、われわれが見かけたたいていの新聞は、政党相互の反目を、おもな特集記事にしていた。いろいろさまざまな政党が表明している主張に、まったく耳をかさないでおこうとすれば、さしずめつんぼになるか、ばかになるかするより仕方がなかった。
政治理論という見地からみれば、問題になる政党は三つしかなかった。つまり、PSUCと、POUMと、大ざっぱにアナーキスト党と呼ばれているCNT=FAIだった。まず最初に、いちばん重要なものとしてPSUCをとりあげる。最後に勝利をおさめた政党だし、当時でも目にみえて勢力を拡張していたからだ。
PSUC「路線」といえば、それが、じつは共産党「路線」をさすことになるのだが、これは説明しておく必要がある。PSUC(|カタロニア統一社会党《パルティード・ソシアリスタ・ウニフィカード・デ・カタルーニャ》)はカタロニア社会党だ。戦争の勃発当時、カタロニア共産党を含む各種のマルクス主義政党の合同によって成立したが、現在はまったく共産主義者の支配下にあり、第三インタナショナルに加入していた。スペインのほかの地方で、社会主義者と共産主義者の正式の合同が行なわれたところはなかったが、共産主義者の観点が社会主義者右派の観点と同じである、と見ることのできる地方は、いたるところにあった。大まかな言い方をすれば、PSUCは、UGT(労働組合総同盟《ウニオン・ヘネラル・デ・トラバハドーレス》)、つまり、社会主義労働組合の政治組織だった。こうした組合の組合員数は、スペイン全国で、今やほぼ百五十万人を数えていた。その中には、各方面の筋肉労働者が含まれていたが、戦争勃発以降は、中産階級の人びとの大量加入によってふくれあがっていた。それというのも、「革命的」時代の当初は、あらゆる種類の人びとが、UGTかCNTに加入するほうが有利だと考えたからである。そのふたつの組合連合の加入員は重複していたが、ふたつのうちでは、CNTのほうが労働階級色をよりはっきり打ち出した組織だった。したがって、PSUCのほうは、一部が労働者、一部が小ブルジョワ――商店主、公務員、比較的裕福な農民など――の政党であった。
PSUC「路線」は、共産党の新聞や、共産主義系の新聞を通じて全世界に宣伝されたが、それは、ほぼ次のようなものだった。
「当面の問題は、ただ戦争に勝つこと、これだけである。戦争に勝てなければ、すべてが無意味になるのだ。したがって、今は革命の推進について論じているような時ではない。われわれは、農民に土地の共有化を押しつけて彼らを離反させるゆとりもなければ、味方となって戦っている中産階級の人びとをおびえさせて、敵にまわすゆとりもない。とりわけ、戦闘力の向上のために、革命的混乱は避けなければならない。地方委員会の代わりに、強力な中央政府をもたなければならない。また、統一された指揮のもとに動き、正規の訓練を受け、完全に軍隊化された軍をもたなければならない。労働者による支配の切れっぱしにしがみついて、ただ革命くさいお題目をくり返しているのは、無益よりもっと悪い。つまり、妨害になるだけではなくて、反革命的でさえあるのだ。というのは、それは分裂を引き起こし、ファシストにつけこむすきを与えるからである。現段階においては、われわれはプロレタリア独裁の実現のために戦っているのではない。議会的民主主義擁護のために戦っているのである。この内戦を社会革命に転化しようとするものは、何びとであれ、ファシストのためを計るものであり、意図はどうであれ、事実上は反逆者である」
POUM「路線」は、あらゆる点でこれと異なっている。ただ、戦争に勝つことを重視しているところだけは共通だが、それはいうまでもなかろう。POUM(|マルクス主義統一労働党《パルティード・オブレロ・デ・ウニフィカシオン・マルキスタ》)は、「スターリニズム」、つまり、共産党の実際的もしくは外見的な政策の転換、に対する反対の結果、この数年間に多くの国々に現われた、あの反主流派的共産党のひとつであった。その構成員は、一部がもと共産党員、一部が、もっと古い政党である「労農連盟」の党員だった。数的にいえば、群小政党のひとつ〔POUMの党員数は、一九三六年七月には一万、同じく十二月には七万、翌年六月には四万とみられている。ただし、これらはPOUM側の数字である。反対者側の評価によれば、それぞれの数の四分の一ぐらいとなる。スペインの政党の党員数について、ある程度確信をもって言えることは、ただひとつ、どの党も自分のところの党員数を過大にいうことである〕でカタロニア以外では大した勢力をもっていなかったが、もっぱら、政治的意識の高い連中が異常なくらい大きな割合を占めている、という理由で重要視されていた。カタロニア地方におけるこの政党の本拠はレリダだった。それは、労働組合の特定のブロックを代表する、というものではなかった。POUM義勇兵はほとんどがCNTのメンバーだったが、POUMの党員そのものは、概してUGTに所属していた。しかしながら、POUMが多少でも勢力があったのはCNTの中だけだった。POUM路線は、ほぼ次のようなものだった。
「ブルジョワ『民主主義《デモクラシー》』によってファシズムと戦うなどということ自体が、そもそもナンセンスである。ブルジョワ『民主主義《デモクラシー》』は資本主義の別名にすぎない。その点はファシズムも同じである。したがって、『民主主義《デモクラシー》』のためにファシズムと戦うのは。第二の形式の資本主義を擁護するために、第一の形式の資本主義と戦うに等しい。しかも、この第二の形式たるや、いつ何どきでもすぐさま第一の形式に逆もどりする危険性をはらんでいるのだ。ファシズムにとって代わるべき唯一の真の形態は、労働者による支配をおいてほかにはない。目標をこれより少しでも下げるならば、フランコの手に勝利を渡すか、少なくとも、ファシズムを裏口からこっそり引き入れることになるのだ。いっぽう、労働者は、これまで勝ちとったものはことごとく、その切れはしにいたるまで、しっかりつかんでいなければならない。もし半《セミ》ブルジョワ的な政府に一歩でも譲歩するならば、必ず欺かれるのだ。労働者義勇軍も労働者警察力も、現在の形を崩してはならない。そして、これらを『ブルジョワ化』しようとするすべての努力は、これを阻止しなければならぬ。もし労働者が武力を支配しなければ、武力が労働者を支配するであろう。戦争と革命は切り離すことはできない」
アナーキストたちの見解は、こんなに明快に説明するわけにはいかない。とにかく「アナーキスト」というあいまいな名称は、きわめて多様な意見をもった大ぜいの人びとを含めていうのに用いられている。CNT(全国労働者同盟《コンフェデラシオン・ナシオナル・デ・トラバハドーレス》)を構成している巨大な労働組合連合は、全部でほぼ二百万近い組合員を擁し、その政治機関として、FAI(|イベリア・アナーキスト《フェデラシオン・アナルキスタ・イベリカ》連盟)をもっている。これはほんとうのアナーキストの組織である。しかしながら、そのFAIの党員でさえ、きまって無政府主義的《アナーキスト》理論に染まってはいたが(たいていのスペイン人がそうだ)、必ずしも純粋な意味でのアナーキストではなかった。とくに戦争の勃発以来、彼らはいっそう、ふつうの社会主義の方へ接近した。それというのも、周囲の情勢の圧力によって、いやおうなしに中央集権的行政に参加しないわけにはいかなくなり、政府に入るとなれば、アナーキストの根本原理をことごとく破らないわけにはいかなくなったからである。そうはいっても、彼らはPOUMと同じく議会的民主主義ではなく、労働者による支配を目ざしているという点で、共産主義者とは本質的にちがっていた。POUMほど独断的ではなかったが、彼らも「戦争と革命は切り離すことはできない」とするPOUMのスローガンを受け入れていた。大ざっぱに言えば、CNT――FAIの主張は次のとおりである。(1)各種企業、たとえば運輸、織物工場などに働く労働者たちによる企業の直接管理。(2)地方委員会による政治。あらゆる形の中央集権的権威主義に対する反対。(3)ブルジョワジーとカトリック教会とに対する断乎たる反抗。最後の主張はきわめて漠然としているけれども、いちばん重要だった。アナーキストたちの根本原理はかなりあいまいではあったが、特権とか不正に対する憎しみはまったく純粋であり、その点、彼らは、大多数のいわゆる革命家たちとは正反対だった。理論的にみれば、共産主義と無政府主義《アナーキズム》は両極端である。実際面からみれば――つまり、目ざしている社会形態からみれば――異なっているのは、おもに重点のおきどころであるが、その相違はまったく相容れないものである。共産主義者はつねに中央集権主義と能率を強調する。それに対して、アナーキストの力点は自由と平等におかれている。無政府主義《アナーキズム》はスペインに深く根をおろしているので、ロシアの勢力が引っこめば、共産主義の後までも生きつづけるだろう。戦争が起こった初めの二か月間、急場を救ったのは、だれよりもまずアナーキストたちであり、それからずっと後も、アナーキスト義勇兵は、規律こそめちゃくちゃだったが、純粋なスペイン軍の中では最精鋭部隊として勇名を馳せていたのだった。一九三七年の二月ごろ以降は、アナーキストとPOUMとは、ある程度ひとまとめにして考えることができるようになった。もしアナーキストとPOUMと社会主義左派の連中に、初めから連合して現実的な政策を推し進めていくだけの分別があったら、戦争の歴史はもっとちがったものになっていただろう。しかしながら、革命諸政党が勝敗の鍵を握っていた初期のころには、これはできない相談だった。アナーキストと社会主義者のあいだには、古くからの嫉妬があったし、またマルクス主義者としてのPOUMは、無政府主義《アナーキズム》に対して懐疑的であった。いっぽう、純粋なアナーキストの立場からみれば、あまり好ましくないという点では、POUMの「トロツキズム」も共産主義者の「スターリニズム」も似たりよったりだった。それにもかかわらず、共産主義の策謀に対抗する必要上、両者は結びつくようになった。POUMが、五月にバルセロナにおける悲惨な市街戦に参加したのは、おもにCNTを援助したい、という本能からであったし、後になってPOUMの弾圧が起こったとき、ただひとり、敢然として擁護の声をあげたのはアナーキストだけだった。
そこで、大まかな勢力の配列は次のようになる。いっぽうに、労働者による支配を主張するCNT―FAIと、POUMと、社会主義者の一派があり、他方に、中央集権的政府と完全に軍隊化された武力を主張する、社会主義右派と、自由主義者と、共産主義者が控えている、というわけだ。
あのころ、私がPOUMの見解よりも共産主義者の見解をよい、と思った理由は簡単だ。共産主義者は、ひとつの明確で実際的な政策をもっており、それは、せいぜい二、三か月先しか見えない常識的な立場からみれば、明らかにすぐれた政策だった。そして、たしかに、POUMのその日暮らしの政策は、その宣伝のやり方といい、何といい、まったくもってお話にならないほどひどいものだった。いや、きっとひどいものだったにちがいない。ひどくなかったら、もっと大ぜいの大衆の支持を得ることができたはずだからだ。すべてに決着をつけたのは、共産主義者が――これは私の感じだが――戦争を着々と遂行しているのに、われわれとアナーキストたちは停滞している、ということだった。それが、当時の一般の感じだった。共産主義者たちがしだいに勢力を拡大し、党員を大幅に増やしていったのは、ひとつには、革命主義者に反対の中産階級の心をとらえたからだが、またひとつには、彼らこそ、戦争を勝利に導くことができる唯一の人びとであるようにみえたからでもあった。ロシアの武器と、おもに共産主義者の指揮する部隊による雄大なマドリード防衛戦とによって、彼らは、一躍、スペインの英雄にのしあがったのだった。だれかが言ったように、われわれの頭上を飛ぶロシア機は、すべて共産主義の宣伝となった。POUMの革命的純粋主義は、その論理については私にもわからないわけではなかったが、たしかに、何の役にもたたないような気がした。要するに、肝心なのはただひとつ、戦争に勝つことだった。
その間、各政党は、新聞、小冊子《パンフレット》、ポスター、本など――ありとあらゆる場所で、醜い内輪もめを続けていた。その当時私がいちばんよく見た新聞は、POUM系の新聞「戦闘《ラ・バターリャ》」と「前進《アデランテ》」だったが、その両者が、「反革命的な」PSUCに対して、ひっきりなしにあげ足とりをやっているのにはまったくうんざりして、やり切れない気がしたのだった。ところが、後になって、PSUCと共産党系の新聞をもっとくわしく調べてみたところ、POUMは、その相手とくらべたら、ほとんど罪がないとさえいえる、ということがわかった。ほかのことはともかくとしても、彼らに与えられる機会のほうが、ずっと少なかったのだ。共産主義者たちとちがって、彼らは、国外のどこかの新聞に足場ひとつもっているわけではなかったし、国内においても、新聞の検閲はおもに共産主義者の支配下にあったため、その立場はひどく不利だった。もしPOUMの新聞が何か中傷めいたことを書くと、それっとばかり発行停止処分にされたり、罰金を喰わせられたりした。公平を期するために言っておくが、なるほどPOUMは、はてしない革命談議をやり、うんざりするほどレーニンを引き合いに出したかもしれないが、ふつう、個人攻撃にふけるようなまねはしなかった。さらにまた、彼らは、論争の場を、おもに新聞紙上と限定していた。一般大衆向きの大きな色刷りのポスターも(文盲人口の多いスペインでは、ポスターの力はばかにできなかった)、攻敵《ライバル》を攻撃したものではなくて、単にファシスト反対を表明するか、抽象的に革命を描くかしたものだった。義勇兵の歌う歌にしてもそうだった。ところが、共産主義者の攻撃となると、まったくちがっていた。それについては、いずれ、この本のもっと後ろで少し取り上げなければならなくなるだろう。ここでは、ただ、共産主義者流の攻撃の路線について、簡単にふれるだけにしておく。
表面的にみれば、共産主義者とPOUMとの論争は、戦術をめぐる論争だった。POUMは、今すぐ革命を遂行すべきだ、と主張したが、共産主義者は、それには反対だった。そこまでは、別にどうということはない。どちらにも、それ相当の言い分があるからだ。さらに、共産主義者は、POUMの宣伝は政府側の力の分裂と弱体化をはかることになるから、戦争を危うくするものだ、と述べたてた。これにもまた、そう述べたてるだけの論拠が必ずしもないわけではなかった。もっとも、私としては、結局のところ、同意できかねるけれども。しかし、ここから、共産主義者流の戦術の特徴が現われるのだ。はじめはおずおずと、やがて、だんだん声を大にして、彼らは、POUMは判断の誤りからではなく、計画的な陰謀によって政府側勢力の分裂をはかっている、と主張しはじめた。POUMは、フランコやヒトラーに雇われ、仮面をかぶった、まぎれもないファシストの一味であり、ファシスト側を援助する手段として、偽りの革命政策を推進させているのだ、ということになった。POUMは「トロツキスト」の組織であり、「フランコの第五列」〔第五列は、スパイ行為によって、国内の事情を敵軍や敵国に通報し、または、敵軍の国内への進撃を助けるような裏切行為をする一団の人びと〕である、ということになった。その論でいけば、最前線の塹壕の中で凍えている八千から一万の兵士たちや、しばしば自分の生活をなげうち、国籍までも犠牲にしながら、ファシズムと戦うためにわざわざスペインまでやって来ている数百人の外国人をも含めた、何万という労働階級の人びとは、敵に買収されている反逆者にすぎない、ということになるのだった。しかも、この宣伝は、ポスターなどによってスペイン全土へ広められ、さらに、世界じゅうの共産主義の新聞や、共産主義系の新聞によって何回となくくり返された。もしその引用文を集めようという気になれば、私は、たちまち五、六冊の本を作る自信がある。
さらに、連中がわれわれをさす常套語がこれだった。いわく、トロツキスト、ファシスト、反逆者、殺人鬼、卑怯もの、スパイ等々。打ち明けていうが、とくに、こういうことをばらまく、ひと握りの張本人どものことを思うと、さすがにいい気持ちはしなかった。十五歳のスペインの少年が、毛布のあいだから、おびえた青白い顔をのぞかせながら、担架にのせられて前線から送られてくる。ところが、ロンドンやパリにいる口のうまい連中は、この少年が、じつは仮面をかぶったファシストなのだ、ということを証拠だてるパンフレットを書いているのだ。それを思うとまったくやりきれなかった。戦争のいちばん恐ろしい特徴のひとつはあらゆる戦争宣伝、あらゆる絶叫や、嘘や、憎悪が、いつもきまって、直接戦っていない連中から生まれる、ということだ。前線で知り合ったPSUCの義勇兵も、ときどき顔を合わせた国際旅団の共産主義者も、だれひとりとして、私をトロツキストや反逆者呼ばわりしたものはいなかった。そんなことは、後方にいるジャーナリストたちに任していたのだ。われわれに反対のパンフレットを書いたり、新聞でわれわれをけなしつけたりする連中は、ひとり残らず、ぬくぬくと本国に腰を落ち着けているか、せいぜい悪くいっても、弾丸や泥からは何百マイルも離れたヴァレンシアの新聞社にとどまっているのだった。そして、政党間の内紛から起こった中傷は別として、おきまりのあらゆる戦争記事も、テーブルをたたく大熱弁も、勇敢な行為も、敵に対する中傷も――これらすべてが、例によって、銃をとらず、たいていの場合、銃をとるくらいなら、いっそ百マイルでも逃げるほうがまし、と心得ているような連中によって書かれたものなのだ。この戦争の、いちばんやりきれない結果のひとつは、それが、左翼の新聞にしても右翼の新聞と同じで、どれもこれもいんちきでうそつきである、ということを私に教えてくれたことだった〔「マンチェスター・ガーディアン」紙だけは例外である、と申し上げたい。この本を書くために、私は、ずいぶん多くのイギリスの新聞のとじ込みに目を通さなければならなかった。わが国の大手の新聞のうちで、その公正さに対して、私がひときわ敬意を深めたのは、ただひとつ、「マンチェスター・ガーディアン」紙、だけである〕。われわれの側――つまり共和政府側――から見るかぎりでは、この戦争は、ふつうの帝国主義戦争とはちがっている、と、ほんとうにそんな気がする。しかし、戦争宣伝記事の性質からは、それは推測できないだろう。戦闘開始と同時に、左右両翼の新聞が、いっせいに、同じ悪口雑言の泥試合を始めた。「アカ、尼僧たちを礫《はりつけ》にす」という、あの『デイリー・メイル』紙のポスターを、われわれはみんなおぼえている。いっぽう『デイリー・ワーカー』紙からみれば、フランコの外人部隊は「殺人犯や、白人奴隷商人や、麻薬常習者や、それにヨーロッパじゅうの人間のくずの集まり」だった。一九三七年十月になると、『ニュー・ステーツマン』紙などは、ファシストのバリケードは生きている子供のからだで作られている(バリケードの材料として、これほど不適当なものはないのに)、といったふうな話を、ふんだんに書き立てていたし、アーサー・ブライアント氏〔イギリスの歴史家で、新聞の特別欄執筆者〕のごときは、「保守派の商人の脚を鋸《のこぎり》で切り落とす」ことなど、スペイン政府軍側では「朝めし前のこと」であった、と公言していた。こんな記事を書く連中は、いずれも戦った経験がただの一度もない連中にきまっている。そんなふうに書けば、おおかた、戦ったかわりになるとでも思いこんでいるのだろう。いつの戦争でも同じことだが、兵士たちは戦いをやり、ジャーナリストたちはわめきたてる。そしてほんとうの愛国者というやつは、ほんの短い従軍旅行は別として、最前線の塹壕などへはぜったいに寄りつかないものなのだ。どうかすると、私は、将来飛行機というものが、戦争の状況を変化させるのではないか、と思って、慰められる思いのすることがある。今度大戦争が起こったら、ひょっとすると、これまでの歴史で見たこともないような情景、つまり、熱狂的愛国屋が、どてっ腹に風穴をあけられる、といった場面にお目にかかれるかもしれない。
ジャーナリズムの面に関するかぎり、この戦争も、ほかのすべての戦争と同じように、悪口のどなり合いだった。しかし、次のような点がちがっていた。つまり、ジャーナリストは、ふつう、いちばん辛辣な毒舌はとっておいて敵に向かって投げつけるのだが、この場合だけは、時がたつにつれて、共産主義者もPOUMも、ファシストよりむしろお互い同士について、はるかにあくどいことを書き合うようになっていった、という点である。それにもかかわらず、当時の私は、それをあまり重大に考える気にはなれなかった。政党間の争いは、わずらわしくてうんざりだったが、内輪もめだろう、というぐらいの気でいたのだ。そのために情勢が変化するだろう、とも思わなかったし、政策上、どうしても妥協できない対立がある、などとはさらさら思わなかった。共産主義者や自由主義者たちが、革命を進展させることに反対なのは、私にもわかっていたが、彼らが革命を逆転させるかもしれない、ということまではわからなかったのだ。
これには、無理もない理由があった。私は、このころ、ずっと前線に出ていたが、前線では、社会的・政治的雰囲気はちっとも変わらなかった。私は、一月初めにバルセロナを離れたきり、四月下旬まで休暇をとらなかったのだった。そして、このあいだじゅう――いや、じつはもっと後までも――無政府主義者軍《アナーキスト》とPOUM軍の支配下にある細長いアラゴン地方では、少なくとも外見上は、同じ状態が続いていた。革命的雰囲気は、私が最初に見たり聞いたりしたときのままだった。将軍と一兵卒も、農民と義勇兵も、まだ対等のつきあいをしていた。だれもかれも、同じ給料をもらい、同じ洋服を着け、同じものを食べ、お互いに「おまえ」とか「同志」とか呼び合っていた。威張りくさる階級もなければ、ぺこぺこする階級もなかった。こじきも、売春婦も、弁護士も、牧師も姿を消し、おべっかも、帽子に手をふれる敬礼もなくなった。平等の空気を吸っていたので、私は、単純にも、スペインじゅうがこうなのだ、と想像していた。自分だけが、むしろ偶然によって引き離され、スペインの労働階級の中でもいちばん先鋭な革命的グループの一員となっているのだ、ということが、私にはわからなかったのだ。そんなわけだから、もっと政治にくわしい私の戦友たちが、この戦争に対しては、純粋に軍事的な態度をとるわけにはいかないのだ、したがって、革命をとるか、ファシズムをとるか、そのどちらかしかないのだ、といくら教えてくれても、私は吹き出したいような気がしただけだった。私は、せんじつめれば、「戦争に勝つまでは革命を云々するわけにはいかない」ということになる共産主義者たちの見解に、だいたいにおいて賛成で、「われわれは前進しなければならない、でなければ、われわれは後退することになる」というPOUMの見解にはついていけなかった。もっとも、後になって、POUMは正しい、少なくとも、共産主義者よりは正しい、という結論に到達したが、それとても理論的見地に立っての話ではなかった。理論的にみれば、共産主義者の主張はまことにりっぱだった。ただ困ったことに、彼らの実際の行動をみると、彼らがはたしてその主張を誠意をもって推し進めているのだろうか、と首をかしげたくなるのだった。耳にたこができるほどくり返されるスローガン「戦争第一、革命その次」も、ふつうのPSUC義勇兵は心から信じて、戦争に勝ったら革命を続けることができるのだ、とすなおに受け取っていたが、これがじつは、口先だけのごまかしだった。
共産主義者の努力目標は、スペインの革命を、もっと適当な時期まで延期することではなくて、革命がぜったいに起こらないように、あらゆる手を打つことだった。これは、だんだん時がたち、労働者階級の手からしだいしだいに権力がもぎとられ、あらゆる色合いの革命家たちがつぎつぎに投獄されていくにつれて、いっそうはっきりしてきた。すべての措置が、軍事上の必要という名目のもとに行なわれた。というのは、この口実は、いわば出来合いのものではあったが、それは、労働者を有利な立場から追い出し、戦争が終わっても、資本主義の復活を阻止することができないのだ、と観念するような立場へ、彼らを追いやってしまう神通力があったからである。私は、何も兵卒や下士官クラスの共産主義者たちを非難しているのではない。まして、マドリード周辺で壮烈な戦死を遂げた幾千もの共産主義者たちを非難しているのではもうとうない。この点はわかっていただきたい。しかし、このような人たちが、党の政策を指導していたのではなかった。上層部の連中に関するかぎり、彼らが何にも事情を知らないで行動していたとは、ちょっと考えられない。
しかし、結局のところ、たとえ革命は失敗であっても、戦争には勝利をおさめるだけの価値があった。それはそのとおりなのだが、私は、長い目で見た場合、共産主義者の政策は、究極的に、はたして勝利に寄与するのだろうか、という疑問を感ずるようになった。戦争のさまざまの時期に、それぞれちがった政策がとられるべきだったのかもしれない、と反省している人はほとんどいないようだ。初めの二か月間は、たぶんアナーキストたちが局面を救った、ということになるのだろう。ところが、彼らは、ある時点を越えると、抵抗運動を組織することができなくなった。いっぽう、共産主義者たちは、おそらく十月から十二月にかけての局面は収拾した、と言えるかもしれない。だが、戦争に完全な勝利をおさめるということになると、これはまた別問題だ。イギリスにおいては、共産主義者の戦争政策が異議なく受け入れられている。それというのも、その政策に対する批判を発表することがほとんど許されず、さらにまた、その一般的な方針――つまり、革命の混乱を排除し、生産を促進し、軍を軍隊化するという――が、現実的で、効果的なものにきこえるからなのだ。しかし、その政策に内在する弱点は、指摘するだけの価値がある。
革命的傾向はことごとく阻止し、戦争をできるだけふつうの戦争らしくみせかけるためには、現実に存在する戦略的な機会を、みすみす棒にふることが必要となってきた。アラゴン戦線において、われわれがどのような武器をもっていたか、いや、もっていなかったか、については、すでに述べた。アナーキストたちの手にあまりたくさんの武器が渡らないように、武器の配給が計画的にさしとめられたことは、ほとんど疑問の余地はない。彼らはその武器を、あとで革命的な目的に使うおそれがあるからだ。その結果、フランコを、ビルバオはもとより、うまくいけば、マドリードからも退却させたはずのアラゴン大攻撃戦は、ついに行なわれなかったのだった。しかし、これはまだ比較的小さな問題だった。もっと重要なのは、ひとたび戦争が「デモクラシーのための戦争」というふうに狭くしぼられてしまうと、外国の労働者階級に対して大規模な援助を要請することが、できなくなってしまったことだった。もし事実をまともに見るなら、世界の労働者階級の人びとが、スペイン戦争を、ひとごととしてながめていた、ということを認めないわけにはいかない。なるほど何万人という個人が戦うためにやっては来た。しかしながら、その背後には、何千万人の人びとがずっと無関心なままでいたのだ。戦争の最初の一年間に、イギリスの全大衆は、いろいろの「スペイン援助」募金に、約二十五万ポンド――彼らの一週間分の映画代の、おそらく半分以下だろう――を寄付したと推定される。民主主義諸国の労働者階級が、ほんとうにスペインの同志を援助してやろうと思えば、その方法は、現場での実力行使――つまり、ストライキとボイコットだった。しかし、そのような事態はまったく起こりそうなきざしもなかった。どこの労働党や共産党の幹部も、そんなことは考えられない、と断言した。そして、彼らもまた、「赤い」スペインは「赤く」はないのだ、と声を限りに叫んでいたのだから、その断言は、もちろん、それなりにすじが通っていたわけだ。一九一四〜一八年〔第一次世界大戦〕以来、「デモクラシーのための戦争」という言葉は、あまりきこえがよくない。これまで数年間、共産主義者たち自身が、世界各国の闘争的な労働者たちに、「デモクラシー」は、資本主義を上品に言い変えただけである、と教え続けてきた。初めに「デモクラシーはインチキだ」といっておいて、そのあとで「デモクラシーのために戦え!」というのは、うまい戦術ではない。もし彼らが、ソビエト・ロシアの巨大な威信を笠に着て、「民主主義的なスペイン」ではなくて、「革命的なスペイン」の名のもとに、全世界の労働者たちにアピールしていたとしても、それでも、やはり何の反応もなかっただろう、とは信じがたい。
しかしながら、何といってもいちばん重要なのは、非革命的な政策をかかげている以上、フランコの背後でストライキをやることが、不可能ではないにしても、むずかしい、ということだった。一九三七年の夏までに、フランコは、政府側とほぼ同数の兵力で、政府側よりもっと多くの住民を――もし植民地も計算に入れれば、はるかに多くなるが――支配するようになっていた。ご承知のように、背後に敵意をもった住民がひかえている場合に、軍隊を戦線に出しておくとなれば、通信・連絡を確保し、怠業《サボタージュ》その他を抑制するため、当然、戦線に出すと同じだけの兵力を後方におくことになる。そこから考えていけば、フランコの背後には、ほんとうの意味での大衆運動は、まず起こらなかったとみてよいだろう。フランコの支配地域の人びと、少なくとも都市労働者や貧しい農民たちが、フランコを好んだり求めたりしたとは考えられないが、共和政府が右傾していくにつれて、その優勢はしだいにあやしくなっていった。すべてを決定したのは、モロッコ問題である。なぜモロッコに反乱が起こらなかったのか? フランコは、悪名高い独裁制を樹立しようとしていたのに、ムーア人たちは、現実の問題として、人民戦線政府よりも、むしろ、フランコのほうを好んだとは! モロッコにおいて、反乱を助長するような試みが、いっさい行なわれなかったのは、明々白々たる事実である。というのは、もしそれをやれば、とりもなおさず、戦争を革命的立場で解釈することになるからだ。ムーア人に政府側の誠意を信じさせようとすれば、まずさし当たってしなければならなかったことは、モロッコの解放宣言だったであろう。それをやれば、フランス人がいかばかりお喜びになられたことか、それこそ、いやというほど想像がつくというものだ! 戦争における絶好の戦略的機会は、フランスやイギリスの資本主義のご機嫌を取り結ぼうというむなしい希望のために、みすみす見逃されてしまった。共産主義者の政策の全般的傾向は、この戦争を、政府側がひどく不利な立場に立たされることになるような、ふつうの非革命的な戦争に変えることであった。不利な立場に立たされる、というのは、そのような種類の戦争となれば、機械的な手段、すなわち、結局、無制限の武器の投入によって勝利をおさめるよりほかに手がないのに、政府側の有力な武器の供給源であるソビエト連邦は、イタリアやドイツとくらべると、地理的にみてきわめて不利だったからだ。したがって、「戦争と革命は切り離すことはできない」とするPOUMやアナーキストたちのスローガンは、じつは案外空想的ではなかった、ということになるのかもしれない。
私は、共産主義者の反革命的政策がまちがっている、と考える理由を述べてきたが、その政策が戦争に与える影響に関するかぎり、自分の判断が当たりますように、とはもうとう思わない。それどころか、どうか外れますように、と一千回も祈りたい気がするのだ。どんな手段に訴えてでもいいから、この戦争にはぜひ勝ってもらいたい、という気がするのだ。もちろん、まだこれから先、事態がどうなっていくのか予測はできない。政府がもう一度揺れて左へ傾くかもしれないし、ムーア人が自発的に反乱を起こすかもしれない。イギリスがイタリアを買収する気になるかもしれないし、戦争が徹頭徹尾軍事的な方法で勝利に終わるかもしれない――まったくどうともいえないのだ。私は、ただ、以上のような自分の意見を述べたまでである。これがどこまで正しいか、どこまでまちがっているかは、やがて時が示してくれるだろう。
しかしながら、私は、一九三七年二月という時点において、事態をこのような目で見ていたのではない。アラゴン戦線の停滞にうんざりして、おもに、自分が当然なすべき戦闘任務を果していないことばかりを気にしていたのだった。「君はデモクラシーのために何をしたか?」と、通りがかりの人に、非難するように問いかけていた、バルセロナのあの新兵募集ポスターのことを思い出し、私は、「自分は糧食の支給を受けたのであります」としか返事のしようがないな、という気がしたものだった。私は、義勇軍に入隊したとき、ファシスト兵を一人殺します、と自分に約束した――もしわれわれの各自が一人ずつ殺せば、結局ファシスト兵は、まもなく消滅するはずなのだ――それなのに、私はまだひとりも殺していなかった。いや、殺す機会がほとんどなかったのだった。そして、もちろん、私はマドリードへ行きたい、と思った。政治的意見の如何を問わず、部隊の全員がマドリードへ行きたがった。マドリードへ行けば、おそらく「国際部隊《インタナショナル・コラム》」へ転属、ということになるだろう。というのは、今ではPOUMの部隊はマドリードにほとんどいなくなってしまったし、アナーキストの部隊にしても、以前とくらべたら、よほど少なくなっていたからだ。
ここしばらくは、もちろん、この戦線にこうしているよりしかたがなかったが、今度休暇になったら、できれば私は「国際部隊《インターナショナル・コラム》」に転属したい、とみんなに言った。そうなれば、必然的に共産主義者の支配下に入ることになる。いろいろな人びとが思いとどまらせようとして、私の説得につとめたが、それでも、だれひとり邪魔だてしようとするものはいなかった。当然言っておくべきだろうが、POUMには、異端者に対する迫害はほとんどなかった。いや、POUMがおかれていた、あの特別な情況を考えてみると、むしろ、なさすぎた、というべきなのかもしれない。ファシストに味方する、というのでさえなければ、まちがった政治的意見だからといって処罰されることはけっしてなかった。私は、義勇軍にいたとき、しょっちゅう、POUM「路線」を痛烈に批判していたが、そのためにごたごたが起こったことは、ただの一度もなかった。大多数の義勇兵はPOUMの党員だったように思うが、だれからも、党員になれ、という圧力をかけられたことさえなかった。私自身も、結局入党せずじまいだった――後になって、POUMが弾圧されるようになったとき、私は、入党していればよかった、といささか残念だった。
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第六章
さて話は変わって、毎日毎日――もっとこまかくいえば、毎晩毎晩――おきまりの仕事が続いていた。歩哨勤務、巡視《パトロール》、塹壕掘り、それに、泥と、雨と、ピュウピュウうなる風と、時おりの雪だった。夜が目だって暖かくなりだしたのは、四月もよほどたってからのことだった。この高原の上では、三月の毎日はイギリスの三月と似た日が多く、晴れわたった青空に風がうるさく鳴っていた。冬まきの大麦は丈が一フィートにのび、桜の木には濃い紅色のつぼみが出かかっていた(ここでは、戦線がさびれた果樹園や野菜畑を通りぬけていた)。溝を捜すと、スミレや、ツリガネズイセンの貧弱な見本のような、ヒナユリに似た花がみつかるのだった。戦線のすぐ後ろに、緑の泡を噛んで流れるすてきな小川があった。これは、私が前線にやって来てから初めてみたすきとおった水だった。ある日、私は歯をくいしばりながら腹ばいになって、のろのろとその川の中へ入りこみ、六週間ぶりに初めて入浴した。それは、いわゆるカラスの行水というやつだった。というのは、何しろ、水がほとんど雪どけ水で、氷点とあまり変わらぬ冷たさだったからだ。
こうしているあいだにも、何ごとも起こらなかった。それこそまったく何も起こらなかった。イギリス人たちは、いつとはなしに、これは戦争なんてもんじゃない、むごたらしい無言劇《パントマイム》だよ、という癖がついてしまった。まともにファシスト軍の銃火を浴びせられることは、ほとんどなかった。ただひとつの危険は、流れ弾丸《だま》によるものだった。戦線の両側が前の方へ張り出しているため、流れ弾丸《だま》はどこからでも飛んできた。このころの負傷者というのは、ことごとく流れ弾丸《だま》にやられた連中だった。アーサー・クリントンもそいつを一発食らって左肩を砕かれ、左腕がきかなくなった。ひょっとすると、一生涯だめかもしれない。多少は砲火も浴びせられたが、それはびっくりするほど効果のないものだった。かん高い響きをたてながら飛んで来て炸裂する砲弾を、みんなは手ごろな気ばらしと心得ていた。ファシスト軍は、わが軍の胸壁に砲弾を命中させたことは一度もなかった。われわれの二、三百ヤード後ろに、大きな農舎をひかえた「荘園《ラ・グラーニャ》」と呼ばれているいなか屋敷があり、そこは、戦線のこの地域の倉庫、兼司令部、兼炊事場として使用されていた。ファシスト軍の砲手たちが狙ったのはこの建物だったが、何しろ距離が五、六キロメートルもあったのでなかなかうまくいかず、ぜいぜい窓ガラスを割るか壁をそぎ落とす程度の被害にとどまり、それ以上の損害を受けるほど近くに命中したことは、ただの一度もなかった。
危険なのは、砲撃が始まったとき、たまたま道路上を歩いていて、砲弾が、歩いている道路のどちらかの側の畑に落下した、という場合に限られていた。われわれは、砲弾の音によって、それがどのくらい近くに落ちる弾丸なのか見分けるふしぎなコツを、ほとんどすぐに身につけた。ファシスト軍がこのころ使っていた砲弾は、お話にならないようなお粗末なしろものだった。百五十ミリ砲弾だったが、当たってもさしわたし六フィート、深さ四フィートの穴があくだけで、おまけに、少なくとも四発に一発は不発弾と相場がきまっていた。何でも、ファシスト側の工場では怠業《サボタージュ》が行なわれていて、不発弾の中には火薬のかわりに「赤色戦線」と書いた紙きれが入っていた、とかいうふうな相変わらずのロマンチックなうわさが流れていたが、私はその実物を一度も見たことがない。じつをいえば、その砲弾は、どうしようもないような時代ものだったのだ。だれかが製造年月を刻みつけてある真鍮《しんちゅう》の信管のふたを拾い上げてみたら、なんと一九一七年製だったという。ファシスト軍の大砲は、わが軍の大砲と型も口径も同じだったので、よく不発弾を修理して射ち返してやったものだった。ぜったいに炸裂しないまま、毎日彼我の戦線のあいだを往復しているので、特別なあだ名のついた中古品の砲弾が一発ある、という話だった。
夜になると、きまって小規模な巡邏《パトロール》隊が、彼我両軍のあいだの無人地帯へ繰り出された。ファシスト戦線の近くのみぞの中に横になっていて、何かウエスカにおける敵軍の行動を察知する手がかりとなるような物音(召集ラッパや、自動車の警笛など)がきこえてこないか、と耳をすましているのがその任務だった。ファシスト軍はたえず移動があったが、その数は、巡邏《パトロール》隊の報告によって、ある程度までつかむことができた。いつも、教会の鐘が鳴るのをきいたら報告せよ、という特別の命令を受けていた。ファシスト軍は、いつでも、ミサを聞いてから行動を起こすようだったからだ。畑と果樹園のあいだに、泥壁をぬった荒れた小屋がいくつかあった。そのような小屋を探険する場合は、窓をしめ切ってからマッチをつけてやるほうが安全だった。どうかすると手斧とか、ファシスト軍の水筒(われわれのより上等で、みんなとてもほしがっていた)とかいった貴重な戦利品が、ひょっこり見つかることもあった。探険は昼でもよかったが、たいてい四つんばいになって捜しまわらなければならなかった。すべてが刈り入れのときのままにほったらかしになっている、人かげもない、豊かに実った畑の中をはいまわるのは、へんてこな感じだった。昨年の収穫が、まったく手のつかないままになっている。のび放題のぶどうのつるは、蛇のように地上をはいまわり、刈らないで放置されたとうもろこしの穂軸は、石のように固くなっており、ふだん草や砂糖大根は、異常発育して、でっかい木のこぶのようになっていた。百姓たちは、彼我両軍を、どんなにか恨んでいたことだろう!
ときどき兵土の一隊が、戦線間空地《ノーマンズ・ランド》へじゃがいも掘りにでかけた。われわれの右手を一マイルばかりいったところで戦線がぐっと接近していて、ファシスト軍もわれわれもよくでかける、ささやかなじゃがいも畑があった。われわれは昼間でかけたが、そこはわが軍の機関銃の威力圏内だったので、連中は夜間しかでかけなかった。ある晩、困ったことに、連中は大挙して出撃し、畑じゅうのいもをごっそりさらっていってしまった。われわれは、もっと先で別の畑をみつけたが、そこは、実際上まったく遮蔽物のないところだったので、腹ばいになってじゃがいもを掘り上げなければならなかった――これは疲れる作業だった。敵の機関銃手にみつかった場合は、機銃弾が二、三ヤード後ろの土くれを切り砕いているあいだ、ドアにはさまれてもがいているネズミよろしくの格好で、はいつくばっていなければならなかった。それでも、あのころじゃがいも掘りはそれだけの危険をおかす値打ちはあった。何しろじゃがいもがほとんどなくなりかけていたのだから。袋いっぱい掘ったら、炊事場へ持っていって、水筒一本分のコーヒーと取り換えてもらうことができた。
ところで、相変わらず何事も起こらなかった。また、起こりそうにもみえなかった。「いつになったら攻撃を始めるんだい? なぜ攻撃を始めないんだい?」というのが、夜となく昼となく、スペイン人からもイギリス人からも、同じようにきかれる質問だった。戦闘というものが何を意味するのか考えてみれば、兵隊たちが戦闘をしたがるというのは奇妙な話なのだが、それでも、彼らはたしかに戦闘をしたがった。停滞戦の場合、すべての兵隊のほしがるものが三つある。戦闘と、もっと多くのたばこと、一週間の休暇だ。われわれの装備は、これまでより多少ましになっていた。ひとり当たりの弾薬は五十発から百五十発に増えたし、銃剣や、鉄かぶとや、二、三個の手榴弾も少しずつ支給されつつあった。近いうちに戦闘がある、といううわさがたえず流れていたが、その当時から私は、これは士気を鼓舞するためにわざと流しているのだろう、と思っていた。大した軍事上の知識がなくても、ウエスカのこちら側で、ここしばらくは大規模な作戦がないことぐらいはわかった。戦略上の拠点は、ずっと向こう側のハカに通ずる街道だった。後になって、アナーキスト軍がハカ街道を攻撃したとき、「牽制攻撃」をかけて、ファシスト軍に、そちら側からの兵力の分割を強制することがわれわれの任務となった。
約六週間にわたるこの期間中、戦線のわれわれの地区では、ただひとつの戦闘が行なわれただけだった。それは、ファシスト軍が廃止された精神病院を要塞化していた「精神病院《マニコミオ》」を、味方の突撃隊が攻撃したことだった。POUM軍には、数百人の亡命したドイツ人が加わっていた。彼らは「奇襲大隊《バタロン・デ・ショケ》」と呼ばれる特別の大隊を組織していたが、そのレベルは義勇軍のほかの部隊とくらべて、断然群を抜いていた――まったくの話、突撃隊《アソルト・ガーズ》や国際部隊の一部をのぞいて、私がスペインでみたいちばん兵隊らしい兵隊だった。攻撃は例によってめちゃくちゃだった。今度の戦争において、政府側の作戦のうちで、めちゃくちゃにならなかったものが、いったいいくつあっただろうか? 「奇襲大隊」のほうは、例の「精神病院《マニコミオ》」を強襲して、たしかにこれを占領したのだったが、その「精神病院《マニコミオ》」を見おろす近くの丘を占領して、奇襲隊を支援することになっていた部隊――どの義勇軍部隊だったか忘れたが――のほうがこっぴどくやられてしまったのだ。その部隊の指揮に当たっていた隊長というのは、態度がはっきりしないのに政府がどうしても雇い入れるといってきかなかった、あの正規軍将校たちのひとりだった。怖気《おじけ》づいたためかそれとも裏切りのためだったのかそれはわからないが、敵陣から二百ヤードの地点まで来たとき、彼は手榴弾を投げて、ファシスト軍に警告を与えてしまった。彼の部下たちが彼を即座に銃殺したときいて、私のはらの虫はおさまった。はらの虫はおさまったが、奇襲が奇襲でなくなり、義勇兵たちは猛烈な機銃掃射を浴びせかけられ、その丘から撃退されてしまい、奇襲大隊も日暮れにはいったん占領した精神病院を放棄しなければならなかった。負傷兵を運ぶ野戦救急車の行列が、ひと晩じゅう、ひきもきらずシエタモへいく悪路を下っていったが、ひどく揺れたために重傷者は絶命してしまったのだった。
このころになると、われわれ全員にシラミがたかっていた。まだ寒かったが、シラミにはころ合いの暖かさだったのだ。からだにたかるいろいろな害虫については、私はいっぱしのベテランだったが、その何ともいえないたちの悪さにかけては、今までみたかぎり、シラミの右に出るものはない。ほかの害虫、たとえば蚊などは、与える苦痛こそシラミ以上だが、少なくとも|住みつく《ヽヽヽヽ》ようなことはない。人にたかるシラミは、ちょっとちっぽけなザリガニに似ていて、おもにズボンの中に住みつく。身につけているものを全部焼き払うよりほかに、駆除する方法はないのだ。ズボンの縫い目に沿って、小さな米つぶのようなぴかぴかした白い卵を産んでいくと、その卵がかえり、恐ろしい速さで繁殖していく。パンフレットに、シラミの拡大写真をのせたら効果てきめんだな、と反戦主義者なら考えそうなところだ。いや、これこそまさに、戦争の栄光というやつだ!
戦争のときには、少なくともある程度の暖かさがありさえすれば、兵士全員にシラミがたかる。ヴェルダン〔フランス北東部の要塞都市。第一次世界大戦中の一九一六年、ドイツ軍の攻勢が、激戦の後ここで食い止められた〕で、ワーテルロー〔ベルギー中部、ブラッセル南方の村落。一八一九年六月一八日、ナポレオンが、英将ウエリントンの率いる英プロシア連合軍に大敗を喫したところ〕で、フロッデン〔イングランド北東部、ノーサムバランドの丘で、一五一三年ジェームズ四世に率いられたスコットランド侵入軍が、イングランド軍に大敗したところ〕で、センラク〔イングランド、サセックス州の丘で、一〇六六年、ノルマンディー公ウィリアムが、ハロルド二世を打ち破ったヘースティングズの戦いが行われた〕で、テルモピレー〔ギリシア北東部からテッサリアに通じる海辺の狭路で、紀元前四八〇年に、ギリシアの将軍レオニダスの率いる三百人の兵がペルシアの大軍を迎え撃ち、これを全滅させた〕で戦った兵士たちは、それこそひとり残らず睾丸《きんたま》の上をシラミがはいまわっていたのだ。その卵を焼き払い、水浴する勇気があるときはできるだけひんぱんに水浴して、ある程度シラミのふえるのをおさえた。シラミ騒ぎでもなければ、とてもじゃないが、あんな氷のように冷たい川の中へなど入る気になれるものではない。
深靴、衣類、たばこ、石鹸、ろうそく、マッチ、オリーブ油など――すべてのものが欠乏してきた。われわれの制服はぼろぼろになり、深靴がなくなって縄底のサンダルをはいているだけというものも多かった。どこへいっても、はきつぶした深靴がうず高く積みあげてあった。ひところ、われわれは、おもに古靴を燃やして待避壕のたき火を二日間ももたせたこともあった。古靴は悪くない燃料だった。そのころには、私の妻がバルセロナに来ていて、紅茶や、チョコレートや、手に入るときは葉巻きまでも、よく送ってくれた。しかしバルセロナでも物資がすべて不足しはじめ、ことにたばこが品うすになっていた。ミルクもないし砂糖もめったになかったが、それでも紅茶は、願ってもないまことに結構な贈りものだった。スペインで戦っている人たち宛てに、イギリスからたえず小包みが送られていたが、ひとつとしてとどいたものはなかった。食糧品も、衣類も、たばこも――すべてのものが郵便局で拒否されるか、フランスで没収されるかした。おもしろいことに、私の妻宛に紅茶の小包みを――いや、今も忘れられないあるときなどは、罐入りビスケットでさえ――首尾よく送ってくれたただひとつの商社というのは、何と陸海軍購買組合売店だけだった。気の毒な陸海軍! けなげにも義務だけはちゃんと果たしたものの、もし小包みがバリケードの向こうのフランコ側へいくのだったら、たぶんもっとうれしかっただろうに。たばこの不足はことに深刻だった。戦争の初めごろは一日に一包みの配給があったが、そのうち一日八本に減らされ、さらに五本に減らされ、しまいには、たばこの配給ゼロというひどい日が十日も続いた。ロンドンなら毎日見かけるあの情景――たばこの吸いがらを拾う人びと――を、私はスペインで初めて見た。
三月の終わりごろ、私は手がかぶれたため、切開手術を受け、吊り包帯をしていなければならなくなった。入院の必要はあったが、そんな軽い傷では、シエタモまで後送されるほどのこともなかったので、私はモンフロリテにある、いわゆる病院にとどまっていた。病院とはいっても、そこは名ばかりの野戦包帯所だった。私は十日間そこにいたが、何日かは寝たきりだった。実習生《プラクティカンス》(病院助手)の連中が、私のカメラや、写した写真のすべてを含む身のまわりの貴重品を、何でもかんでも片っぱしから盗んだ。前線ではだれでも盗みを働いた。これは物資不足のせいでやむをえないことではあったが、病院関係の連中がいつもやり口がいちばんあくどかった。このあと、バルセロナの病院で、国際部隊《インタナショナル・コラム》に入隊するためにやってくる途中、乗っている船がイタリア潜水艦の魚雷にやられたアメリカ人が、私にこんな話をしてくれた。負傷して岸へ打ち上げられましたが、私を野戦病院へ運んでいくあいだにさえ、担架をかついでいる連中が私の腕時計を盗みましたよ、と。
吊り包帯がとれなかったあいだ、私はそこいらあたりのいなかを歩きまわって、最高に楽しい幾日かを過ごした。モンフロリテは、例によって泥と石でできた家々がごちゃごちゃ立ち並び、曲がりくねった狭い小道がうねうねと続いているが、その道はトラックにかきまわされて、まるで月の噴火口のようだった。教会はひどく打ちこわされていたが、それでも軍需倉庫に利用されていた。付近一帯で、ひとかどの大きさの農場邸宅は、「|ロレンソ農場《トルレ・ロレンソ》」と「|ファビアン農場《トルレ・ファビアン》」のふたつしかなかったし、ほんとうに大きな建物もふたつしかなかった。それは、どうもかつてここいらのいなかににらみをきかせていた地主邸宅らしかった。彼らの富裕さが、そのままはね返って、小作人たちのみじめな掘立小屋となっているのは、みてもよくわかる。戦線に近い川のすぐ後ろに、地主|館《やかた》をひかえた大きな製粉場があった。高価なでっかい製粉機が銹《さ》びついて使えなくなり、木製の粉落し樋《ひ》が薪のかわりに引きちぎられているのは、見るからに情けない情景だった。のちになって、もっと後方の部隊用の薪を手に入れるために、兵士の一団がトラックでここへ派遣され、組織的な取りこわしをやった。手榴弾を屋内へ投げ込んでは、部屋の床板をぶち破るのだった。われわれの倉庫、兼炊事場となっている「荘園《ラ・グラーニャ》」も、かつては女子修道院だったものらしかった。一エーカーかそれ以上もありそうな敷地には、広々とした中庭や離れがあり、馬が三、四十頭もはいる厩もついている。スペインのこの地方の地主館は、建築としてはまったく何の興味もひかないが、丸い拱門《アーチ》と、堂々とした天井の梁《はり》のある、水しっくいを塗った石造りの農舎は、おそらく数世紀間も変わらない設計によって建てられた風格のある建築だ。義勇兵たちが、自分らの占領したこれらの建物を使う場合の、そのひどい使い方をみると、ファシストのもとの持ち主に、心ひそかに同情したくなることもあった。
「荘園《ラ・グラーニャ》」では、使っていない部屋は全部便所にされてしまった――ぶっこわした家具と人糞の、ふた目と見られないような修羅のちまただった。壁に砲弾で穴があいたその隣りの小さな教会も、床には数インチの高さに人糞がもり上げてあった。コックたちが糧食を分配してくれる広い中庭では、さびた空き罐や、泥や、らばの糞や、腐った残飯などがごっちゃになって、むかむかするような悪臭をはなっていた。それは、古くから軍隊で歌われているあの歌のとおりだった。
ネズミだ ネズミだ
ネコほどでっかいネズミがいるよ
兵站部《へいたんぶ》の倉庫の内部《なか》に!
「荘園《ラ・グラーニャ》」にいるネズミも、ほんとにネコほどか、それに近い大きさだった。ものすごく肥えたでっかいやつで、汚物の堆積の上を走りまわっていて、射殺でもしないかぎり、逃げるそぶりさえ見せない、まったくもってずうずうしいしろものだった。
とうとうここにも春がきた。空の青さがひとしおやわらかみを増し、空気がにわかにおだやかになった。溝の中では、蛙たちがにぎやかに鳴きかわしていた。村のラバ用の水のみ池のまわりで、私は、一ペニイ銅貨ほどの大きさの、目もさめるような緑色の蛙を見かけた。それは、そばの若草がくすんでみえるぐらいあざやかな色合いだった。農家の子供たちは、バケツをさげてカタツムリ取りに出かけた。生きたまま、鉄板にのせてやくのだ。気候がよくなるとすぐに、百姓たちは野良《のら》に出て春の耕作にとりかかった。ここいらの土地が共有化されているのか、あるいは農民たちがただ、自分らのあいだで勝手に土地を分け合っているだけなのか、はっきりとつきとめることさえできなかったが、それが、スペインの農地改革にまつわるほんとうのあいまいさを、端的に物語っている。ここは、POUMとアナーキストの勢力圏なのだから、理論上では、土地は共有化されていることになるのだろう。ともかく地主というものがいなくなり、土地の耕作は続けられているので、人びとは満足そうだった。農民たちのわれわれに対する人なつこさは、私にとって、いつになってもただ驚きだった。戦争というものは、目にみえてあらゆる物資の不足を引き起こし、あらゆる人に暗いみじめな生活をもたらすものなのだから、年寄りの農民たちからみれば、こんな戦争は、無意味なものに感じられたにちがいないのだ。それに、どんなによい時代でも、農民というものは、軍隊に駐屯されるのをきらうものなのだ。それなのに、彼らはいつも人なつこかった――見ようによれば、われわれは、ずいぶん我慢のならない存在だったであろう。しかしながら、彼らと彼らのかつての地主たちとのあいだに立って守ってやっているのはたしかなのだから、そこに彼らなりの打算があったのかもしれない。
内戦というのはおかしなものだ。ウエスカは五マイルとは離れていなくて、ここいらの人びとの市場町なのだ。だれもかれもそこに親戚があり、今までずっと毎週のように家禽や野菜を売りに行っていたのだ。それが、八か月ほど前から、鉄条網と機関銃の、通るに通れない障害ができてしまった。ときどき、彼らはついうっかりしてそれを忘れてしまうことがある。あるとき、私は、スペイン人がオリーブ油を燃やすあのちっぽけなランプをさげている老婆に声をかけたことがあった。「そんなランプはどこで売ってる?」と私はきいた。「ウエスカでさ」と、彼女は考えもしないで答えた。それからふたりで笑い合ったものだった。村の娘たちは、髪の毛が真黒で腰を振りたてながら歩く。革命の副産物なのか、率直でものおじしない顔つきの、きびきびしたすばらしい女の子たちだった。
ぼろぼろの青いシャツに黒いコール天の半ズボン、それにつばの広い麦藁《むぎわら》帽子といういでたちの男たちが、規則的に耳をパタパタさせている一組のラバに鋤《すき》を引かせながら、土地を耕している。その鋤はお粗末なしろもので、われわれのいううねを立てるなどというものではなく、ただ土をかきまわすだけだ。農具はどれもこれもおそろしく時代ものばかりだったが、それもひとえに金属が高価なせいなのだろう。たとえば、こわれた鋤べらにはつぎが当てられ、さらにまたつぎが当てられるので、しまいには、どうかすると、もっぱらつぎはぎだけで、もとの形がわからないというていたらくのものもある。くま手や三つまたは木でできている。深靴をもっている者のほとんどいない彼らのあいだでは、踏みぐわなど知られていない。掘るときには、インドで使われているようなぶかっこうな鍬を使う。馬ぐわに似たものもあるにはあるが、まるで一足とびに後期石器時代に逆もどりしたのかな、と錯覚するようなしろものだ。それは、板を何枚か合わせて台所のテーブルぐらいの大きさにしたもので、その板にはたくさんのほぞ穴があけてある。そして、そのひとつひとつの穴には、数万年前の人びとがやったのとまったく同じ要領で削って形をととのえた火打石を押しこんであるのだった。彼我両軍の無人地帯にある放棄された小屋の中で、このような農具のひとつを見たとき、私は、ほとんど恐怖に近い感じに襲われたのをおぼえている。これはいったい何だろう、と長いあいだ首をひねったあげく、ようやく、ははあ、これは馬ぐわなのだな、とやっとわかったのだった。このようなものを作るために費やさなければならない労働と、鋼《はがね》のかわりに火打石を使わなければならない貧困さとを考えたとき、私はせつなくなってきた。それ以後、私は、工業中心主義に、これまでより好意をもつようになった。しかし、この村にも、最新式の農業用トラクターが二台はあった。きっとどこかの大地主の領地から取り上げてきたものなのだろう。
私は、一、二度、村から一マイルほど離れたところにある、塀をめぐらしたささやかな墓地までぶらぶら歩いたことがある。前線での死者は、ふつうシエタモへ送られた。ここに葬られているのは、村の死者だった。それは、イギリスの墓地とは奇妙なくらいちがっていた。驚いたことに、ここには死者に対する崇敬の念などまったくないのだった! あたりいちめんにかん木や雑草が生い茂り、人骨がそこいら中に散らばっている。しかし、何よりびっくりしたのは、日付を見れば、みんな革命以前のものなのに、墓石には、宗教的な刻銘がまったくといっていいほど刻んでないことだった。たった一度だけ、カトリック教徒の墓でみかけるあのおきまりの文句「だれそれの魂、やすかれと祈る」を見かけたような気がする。ほとんどの碑文がまったく世俗的なもので、故人の美徳を歌った吹き出したくなるような詩が添えてある。四つか五つにひとつぐらいは、墓石の上に小さな十字架か、さもなければ、天国のことを述べたおざなりの文句が刻んである。もっとも、これは、たいてい根気のいい無神論者が、のみで削り落としてしまっていた。
スペインのこの地方の人びとは、きっとほんとうに宗教的感情――私のいうのは、ごくふつうの意味での宗教的感情なのだが――をもっていないのだ、と思うと、私にはショックだった。変な話だが、スペインにいたあいだじゅう、私は人が十字を切るのを、ただの一度も見かけたことがなかった。しかし、革命があろうとなかろうと、そのようなしぐさは本能的なものになっているはずだ、とあるいはお考えになられるかもしれない。明らかなことだが、スペインの教会はいずれ復活するだろう(ことわざにも、夜とイエズス会修道士は必ずもどってくる、というくらいである)。だが、革命の勃発当初、スペインの教会は、かりに滅亡しかかっている英国国教会が同じような状況におかれたとしても、とうてい考えられないような程度まで崩壊し、粉砕されてしまったことは、疑問の余地はない。スペインの人びとにとって、少なくともカタロニア地方やアラゴン地方においては、教会はまったくもって集団的詐欺組織といった存在だった。そして、もしかしたら、キリスト教の信仰が、ある程度|無政府主義《アナーキズム》におきかえられたのかもしれない。というのは、無政府主義《アナーキズム》の影響は広くゆきわたっていて、明らかに宗教的色彩をおびていたからだ。
われわれが、ファシスト軍戦線の真正面二百ヤードのところを流れる小川に沿った、約一千ヤード前方の、本来あるべき位置まで戦線を推し進めたのは、私が病院から退院してきたその日のことだった。この作戦は、じつをいえば、数か月も前に行なわれていなければならないはずのものだった。それを、今になってやるのは、アナーキスト軍が、目下ハカ街道を攻撃中であるため、われわれがこの地点まで前進すれば、敵はわれわれに対抗する必要上、いやでも兵力の分散をはからなければならなくなるからだった。
われわれは、何しろ六、七十時間というものは眠らなかったので、私の記憶は減退してぼうっとしたものになっている。というよりは、むしろ断片的な情景の連続となってしまっている。ファシスト戦線の一部となっている要塞化された農家「|フランス館《カーサ・フランセスカ》」から、わずか百ヤードの無人地帯《ノーマンズ・ランド》まで出むいていって、耳をすませる敵状偵察。それは、からだがズブズブと深く沈んでいく恐ろしい沼の、葦の匂いのする水の中に、七時間はらばいになっていなければならない難行苦行だった。葦の匂い、かじかんで麻痺するような冷たさ、暗い夜空にへばりついて動かない星、耳ざわりな蛙の鳴き声。もう四月だというのに、私がスペインへやって来てから初めて、というほど寒い晩だった。私たちのつい百ヤード後ろのところで、作業班が熱心に作業をしているはずだったが、蛙の合唱《コーラス》のほかは、ただシーンと静まりかえっているだけだった。その晩、ただ一度物音がした――それは、シャベル鍬《ぐわ》でたたいて土嚢を平らにする、あのききなれた音だった。
ほんの時たまだが、スペイン人はどうかすると、水ぎわだった協同作業をやってのけることがある。これはふしぎだった。この作業も、万事が一分《いちぶ》のすきもなく計画されていた。六百人が七時間がかりで、ファシスト軍の戦線から百五十ヤードないし三百ヤード離れた地点に、千二百メートルにわたる塹壕と胸壁とを造り上げたのだったが、すべてがまったく静かに行なわれたため、ファシスト軍は、最後まで何も気づかず、その晩は、負傷者がたったひとり出ただけだった。もちろん、そのあくる日になると、負傷者の数はもっとふえた。炊事場の雑役夫にいたるまで、すべての者に仕事が割り当てられた。雑役夫たちは、作業が終わったところへ、ブランデー入りのぶどう酒のバケツをもって、だしぬけにやって来たのだった。
やがて夜が明け、ファシスト軍は、突然、われわれがそこにいるのに気がついた。「|フランス館《カーサ・フランセスカ》」の四角な白い建物から二百ヤードは離れているのに、まるで、われわれの頭上にのしかかっているような気がした。そして、土嚢を積んだ二階の窓にすえられた数台の機関銃の銃口は、下のわれわれの塹壕を、まともに狙っているようだった。ファシスト軍は、なぜ気がつかないのだろう、と首をかしげながら、われわれはみんな、それに見とれてぽかんと立っていた。そのとたん、ものすごい銃弾のつむじ風がまき起こった。みんなはぱっとしゃがみこんで、まるで気でも狂ったように、土を掘りはじめた。塹壕を深くし、そばに小さな弾丸よけを作るためだった。私はまだ腕に包帯をしていて掘ることができなかったので、その日はたいてい推理小説を読んですごした――「消えた高利貸し」という題の小説だった。どんな筋だったかはおぼえていないが、そこにすわって読んでいたときの感じだけは、たいへんはっきりとおぼえている。
尻の下の塹壕の底の、じめじめした粘土の感じ、だれかが身をかがめて、あわただしく塹壕の中を往き来するたびに、邪魔にならないようにたえず脚を動かさなければならなかったこと、頭上一、二フィートのあたりを、パン、パンと飛んでいく銃弾。トマス・パーカーは、太もものつけねのほうに一発食った。彼の言うところによれば、まことに殊勲章におあつらえむきの一発だった。戦線全域にわたって死傷者が出てはいたが、それでも夜間行動中に発見された場合とくらべたら、問題にならなかった。逃亡兵があとでわれわれに語ったところによると、ファシスト軍の歩哨が五名、職務怠慢のかどで銃殺されたという。もし彼らが先手を打って、臼砲の三、四門も繰り出せば、今からでもわが軍を大量に殺傷することができるはずだった。狭くて混雑している塹壕を通って負傷兵を運ぶのは、厄介な仕事だった。私は、半ズボンを血で黒く汚したひとりのかわいそうな負傷兵が、担架から放り出され、苦痛にあえいでいるのを見た。負傷兵は、一マイルかそれ以上もの長い道のりを運んでやらねばならなかった。というのは、たとえ道路があっても、救急車はけっして前線のすぐそばまではやって来てくれなかったからだ。あまり近くまでくると、ファシスト軍は、きまって砲撃を浴びせかけるのだった――これは無理もなかった。というのは、近代戦では、弾薬を輸送するのに堂々と救急車を使うからだ。
さて、そのあくる晩、「|ファビア農場《トルレ・ファビアン》」で攻撃のため待機していた。ところが、最後のどたん場になって、無電で攻撃中止の連絡が入った。われわれの待機していた納屋の床は、人間の骨や牛の骨がまじってうず高くつもり、その上に、もみがらがうっすらとした層をなしていた。そして、そこいらじゅうをネズミが駆けずりまわっていた。このきたならしいネズミどもは、地面の四方八方から大挙してわっと出てきた。何よりこづらにくいのは、まっくらな中で、からだの上を駆けまわるネズミだった。しかし、その駆けまわっているやつらの一匹をとっつかまえて、猛烈なパンチを一発食らわしてやったら、みごとにふっ飛んでいったのには、胸がすうっとした。
そして、その後、ファシスト軍の胸壁から五、六〇ヤードのところで攻撃命令を待っていた。兵士たちは、灌漑用水路の中にしゃがみ込み、へりから銃剣をのぞかせ、暗やみの中で白眼を光らせながら、長い線のように、ずらりと散開しているのだった。コップとベンジャミンは、われわれの後ろにしゃがんでいて、そのすぐそばには、無線電話受信機を肩に背負った兵がひとり控えている。西の地平線のあたりに、バラ色の砲撃の閃光がきらめいたかとみるまに、数秒の間《ま》をおいては大爆発が起こるのだった。やがて、無線電話がピーピーピーと鳴りだし、ささやくような声で、戦況が有利なうちに撤退せよ、と命令を伝える。われわれは撤退したが、すばやくというわけにはいかなかった。ファシスト軍の胸壁から目と鼻の、わずか四〇ヤードぐらいのところに待機していたJCI(POUMの青年同盟で、PSUCのJSUにあたる)の少年兵十二人が、かわいそうにも、まごまごしているうちに夜が明けてしまって、逃げるに逃げられなくなった。彼らは、草むらを唯一の遮蔽物とたのんで、日がな一日その場に伏せをしていなければならなかった。というのは、ちょっとでも動きさえすれば、ファシスト兵に狙い射ちされるからだった。日が暮れるまでに七名が死亡したが、残りの五名は、日が暮れてからやみにまぎれて、辛うじて脱け出すことができた。
そしてその後は、くる朝もくる朝も、アナーキスト軍がウエスカのあちら側に攻撃をかけている音がした。いつも同じ音だった。まず真夜中の何時かに、突然、数十発の手榴弾がいっせいに炸裂《さくれつ》する音がとどろきわたる――数マイル離れていても、恐ろしい、引き裂くような音だ――と思うと、やがて、たくさんの小銃や機関銃が、ひっきりなしに咆哮しだす。それは、奇妙なくらいドラムのひびきに似た、重苦しい、とどろくような音だ。その銃火は、ウエスカを取りまく戦線一帯にしだいに広がっていく。耳ざわりで無意味な銃火が頭上を飛んでいるうちは、われわれは塹壕の中へころがりこみ、寝ぼけまなこで胸壁にもたれかかっていたものだった。
日中は、ときどき思い出したように砲弾が炸裂した。今われわれの炊事場となっている「ファビアン農場」も、砲撃を受けてその一部が破壊された。完全なだけ離れて砲撃を見物している場合には、おかしなことだが、たとえその砲撃の目標が、自分の夕食だったり何人かの戦友たちであっても必ず、うまく、命中してくれたらいいな、という気になるものだ。その朝のファシスト軍の砲撃のお手並みは、あざやかなものだった。おそらくドイツ人の砲手が射っていたのだろう。彼らは「ファビアン農場」を夾叉《きょうさ》砲撃した。まず一発目が目標をオーバーし、次の一発は目標の手前に落ちた。三発目はピューッドカーン! とみごとに命中した。引き裂かれた垂木《たるき》が空に飛び散り、ウラル石の薄板がトランプをはじき飛ばしたように空に舞い上がった。次の一弾は、まるで巨人がナイフでそぎ落としたように、建物の一角をきれいにえぐり取った。それでもコックたちは、定刻きっかりに夕食を作った――たいした腕前だ。
日がたつにつれて、見えないが音だけは聞こえる大砲のひとつひとつが、はっきりとした個性をおびるようになってきた。ロシア製の七五ミリ砲の二個中隊が、われわれのすぐ後ろから砲撃していたが、それを見ていると、どういうわけか、私の頭に、太っちょの男がゴルフのボールを打っている姿がうかぶのだった。これが、私の見た――というよりは、むしろ、その音をきいた――初めてのロシアの大砲だった。それは、弾道が低く、速度がきわめて速かったため、弾薬筒の爆発と、砲弾のビューッと風を切る音と、炸裂とが、ほとんど同時にきこえるのだった。モンフロリテの背後には、すごい重砲が二門あり、それが日に二、三度、まるで鎖につながれた怪物が遠くで吼えているような、重々しく陰にこもった唸り声をあげて発射された。アラゴン山の頂上には、昨年政府軍が強襲した(史上はじめてのことだったという)中世以来の砦があり、ウエスカに至る道路のひとつを扼《やく》していたが、そこには、十九世紀の、それもよほど初めごろのものにちがいない重砲が一門あった。その大きな砲弾は、唸りながらあきれるほどゆっくり飛んでいくので、肩を並べて、遅れないで走っていけそうに思えるくらいだった。この大砲の砲弾は、まるで、口笛を吹き吹き自転車に乗って走る人とそっくりの音をたてた。塹壕用臼砲は、チビのくせに、いちばんいやな音をたてた。その砲弾は、魚雷に翼をつけたようなしろもので、酒場《バー》にある|投げ矢《ダーツ》に似た格好をしており、一クォートびんぐらいの大きさだった。炸裂すると、何か奇怪なもろい鋼《はがね》の球を、金床《かなとこ》の上でたたきつぶすような、どうにもたまらない金属的な音をたてた。ときどき友軍機が飛んで来て、空中魚雷を発射した。すると、ものすごい反響のために、二マイルも離れたところでさえ大地がビリビリ震えた。ファシスト軍の射ち上げる高射砲弾の炸裂が、へたな水彩画の中の小さな雲のように、空に点々と模様を描いたが、飛行機から千ヤード以内のところで炸裂したのは一発もなかった。飛行機が急降下して機銃掃射をやるとき、その音を地上できいていると、まるで羽ばたきのように聞こえる。
戦線のこの地区では、大したことも起こらなかった。われわれの右手を二百ヤードいった小高い丘に、ファシスト軍がいて、その狙撃兵が、われわれの戦友数名を狙い射ちした。左手二百ヤードの小川の橋のところでは、その橋を横切ってコンクリートのバリケードを構築しているわが軍の兵とファシスト軍の臼砲とのあいだに、一種の決闘が続けられていた。気味の悪い小型《チビ》砲弾がビューッと飛んできたかと思うと、アスファルトの道路に落下して、ズシン、ドカーン! ズシン、ドカーン! と二倍も恐ろしい音をたてた。百ヤードも離れていればまったく安全で、土と黒煙のまっすぐな柱が、魔法の樹のように中天に立ち上がるのを、涼しい顔で見物できた。橋のところで働いている気の毒な連中は、昼間はたいてい塹壕のわきに掘った小さな待避壕《タコつぼ》の中にちぢこまっているのだった。しかし、予想外に少ない死傷者を出しただけで、機関銃二門と小型野砲一門のための狭間《はざま》のついた厚さ二フィートのコンクリートの壁が着々とでき上がっていた。コンクリートの補強には、古い寝台《ベッド》の枠が使われた。こんなことに使えそうな格好な鉄材が、ほかに何も見つからなかったからなのだろう。
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第七章
ある日の午後、ベンジャミンが十五名の志願者を出してくれ、とわれわれに言った。前回とりやめになったファシスト軍の角面堡《かくめんぽう》への攻撃が、今夜決行されることになったのだ。私は十発もっているメキシコ製の弾薬に油を塗り、銃剣に泥を塗った(あまりピカピカしすぎると敵に見つかるからだ)。そして、大きなパンの塊りを一個、赤いソーセージを三インチ、それに、妻にバルセロナから送ってもらって長いあいだとっておいた葉巻一本とをまとめて荷物にした。手榴弾がひとりに三発ずつ支給された。スペイン政府も、やっとどうにかまともな手榴弾を作れるようになったのだった。ミルズ式手榴弾と同じ原理によるものだったが、ピンが一本ではなくて二本あった。そのピンを引き抜いてから、爆発するまでに、七秒の余裕があった。いちばんの欠点は、片方のピンが固すぎ、もう片方のピンがゆるすぎることだった。したがって、ピンを両方ともはめたままにしておけば、いざというときに固いほうが抜けない、といううき目に会う。だからといって、前もって固い方を抜いておけば、ポケットの中で暴発しないかと、たえずはらはらしていなければならないのだった。しかし、投げるには手ごろな小型の手榴弾だった。
真夜中少し前に、ベンジャミンはわれわれ十五名の志願者を引き連れて「ファビアン農場」の方へ下っていった。夕方からずっとたたきつけるようなどしゃ降りだった。灌漑用の溝が氾濫し、つまずいてのめり込むたびに腰まで水につかった。農場の中庭では、まっくら闇のしのつく雨の中で、おぼろげな人の群れが待っていた。コップが、まずスペイン語で、次に英語でわれわれに話しかけ、攻撃計画を説明した。この地区のファシスト軍の戦線はL字型になっており、われわれが攻撃する胸壁は、そのLの字の角に当たる高地の上にあった。イギリス人とスペイン人が、それぞれ半数まじっている約三十名のわれわれは、大隊長ホルヘ・ロカ(ついでながら、義勇軍の一個大隊は約四百名である)とベンジャミンの指揮のもとに、ファシスト軍の鉄条網にしのび寄り、これを切断することになった。
ホルヘがまず手榴弾を一発投げる。それを合図に、われわれ全員がいっせいに手榴弾をたたき込んで、胸壁からファシスト兵を追い払い、敵に立ち直るすきを与えないでそこを占領することになっていた。それと同時に、七十名の奇襲隊は、右手二百ヤードにあって連絡壕でつながっているファシスト軍の第二『陣地』を襲撃する予定だった。暗やみの中で互いに味方射ちしないように、白い腕章をつけるはずだったが、ちょうどそのとき伝令がやって来て、白い腕章はひとつもない、と報告した。すると、暗やみの中で、訴えるような声がした。「そんなら、ファシスト軍に白い腕章をつけさせるようにしてもらえんのかね?」
行動開始までに一、二時間のゆとりがあった。ラバ小屋の二階の納屋は、砲撃でひどく破壊され、灯りなしでは歩きまわることができないくらいだった。飛び込んできた一発の砲弾のために床の半分が吹き飛ばされ、下の敷石までとどく二十フィートもの穴があいた。だれかがつるはしを見つけてきて、裂けた板を床からこじ起こしたので、たちまちのうちに赤々としたたき火がたかれ、われわれのずぶ濡れの洋服から湯気が立ちあがり始めた。また、トランプを持ち出すものもいた。ブランデー入りの熱いコーヒーがもらえるといううわさ――戦争にはつきものの、あのえたいの知れないうわさのひとつだが――がぱっと広まった。われわれはそれっとばかり、今にも壊れそうな階段をわれ勝ちにかけ下り、コーヒーのもらえる所を捜しながら、暗い中庭をうろうろと歩きまわった。しかし、残念なるかな! コーヒーのコの字も見つからなかった。その代わりに、われわれは集合させられ、一列側面縦隊に並ばせられた。それから、ホルヘとベンジャミンは、暗やみを衝《つ》いて足早に歩き出し、われわれもそのあとに続いた。
雨は相変わらず降っており、鼻をつままれてもわからぬまっ暗やみだったが、風はおさまっていた。ぬかるみは、何ともいえないひどいものだった。サトウダイコンの畑を通り抜ける小みちは、ただ、油を塗った丸太のようにつるつるしたでこぼこがずっと続き、そこいらじゅうに大きな水たまりがあった。わが軍の胸壁の切れるところまで来ないうちに、みんなはもう何度もころんで、銃は泥まみれになった。胸壁のところに、われわれの予備隊となるささやかな一団の兵士たちと、軍医と、担架の列が待っていた。われわれは、胸壁のすきまを一列になって通り抜け、灌漑用の溝をまたひとつ歩いて渡った。パシャッ、ゴボ、ゴボ! またしても腰まで水につかり、きたないぬるぬるした泥が、深靴のくるぶしのところからじくじくと入ってくる。溝の向こう側の草わらで、ホルヘがわれわれ全員の渡り切るのを待っていた。それから、からだをほとんど二つに折り曲げ、忍び足でゆっくり前進しはじめた。ファシスト軍の胸壁は約百五十ヤード前方だ。うまく忍び寄る唯一の方法は、音をたてないことだった。
私はホルヘやベンジャミンといっしょに先頭に立った。からだを二つに曲げ、しかし顔だけはあげながら、ひと足ごとにのろくなる足どりで、まっ暗やみの中をじりじり進んでいった。雨が軽く顔を打った。ふり向いて見ると、すぐ近くにいる部下たちがみえた。背中を丸めた、大きな黒い茸《きのこ》のような格好の一団が、ゆっくりすべるようについてくる。しかし私が頭をあげるたびに、すぐわきにいるベンジャミンが鋭い調子で私の耳にささやいた。「頭をさげてろ! 頭をさげてろったら!」私は、心配するな、といってやりたかった。やみ夜だと二十歩も離れていれば人かげが見えないのを、私は経験から知っていたのだ。音を立てないことのほうが、もっともっと大切だった。いったん物音を聞きつけられたら最期、われわれは全滅だ。敵は、ただ、暗やみに機銃掃射をぶちこめば、それでたくさんなので、そいつをやられたら、こちらとしては、逃げるか虐殺のうき目を見るかしかほかに手がない。
ところが、びしょびしょの地面の上を、音をたてないで進むのは、まったくむずかしい芸当だった。どう苦心してみても、泥に足をとられ、一歩踏み出すごとにグチャ、グチャと音がするのだった。おまけに、まったくもってツイていないことには、あいにく風がすっかりないでいて、雨降りのくせに、やけに静かな晩だった。こんな晩は音がずいぶん遠くまで聞こえるものなのだ。私がブリキ罐を蹴とばし、しまった、ここいら数マイル四方のファシスト兵全部に今の音を聞きつけられたな、と思って、一瞬ぞっとしたこともあった。しかし、やれやれで、ファシスト軍陣地はひっそりと静まりかえっていて、応答の射撃も動く気配も起こらなかった。相変わらずだんだん速さを落としながら、われわれはのろのろと前進を続けた。私がどれだけ痛切に敵陣にたどり着きたいと思ったことか、その切実さの程は、とても読者にはおわかりいただけないと思う。どうか彼らに感づかれないうちに、手榴弾の投げられる距離まで肉迫できますように! このようなときには、恐怖すら感じない。感じるのは、ただ、敵と味方のあいだに横たわっている地面を早く通り抜けてしまいたい、という居ても立ってもいられないような、どうにもならない悲願めいた気持ちだけだ。前に野獣をこっそり追跡したことがあるが、あのときも、これとまったく同じ気持ちだった。射程距離内にたどり着きたい、という胸をしめつけられるようなあせりも同じだし、ぜったいにだめなのだ、というおぼろげな確信めいた気持ちも同じだ。それに、距離が何と長くのびていることか! 地理はよくわかっていた。百五十ヤードそこそこの距離なのだ。それなのに、一マイル以上もあるような気がした。こんな速さでのろのろ進んでいくと、アリと同じで、地上のいろいろな変化に気がつくものなのだ。なめらかな草の生えたすてきな一画がここにあるかと思うと、向こうにはべたべたした泥のあるいやらしい一画がある。避けて通らねばならない丈の高いガサガサ鳴る葦《あし》の茂みがあるかと思えば、音を立てないで通ることなどとてもできそうにもないので、ほとんどあきらめたくなるような石ころの山もある。
あまりいつまでものろのろ歩いているので、私は道をまちがえたのではなかろうか、と心配になってきた。が、やがて暗やみの中に、ひときわ黒ずんだ細い平行線がかすかに見えて来た。それは外側の鉄条網だった(ファシスト軍は、鉄条網を二重に張っていた)。ホルヘはひざまずくと、ポケットに手をつっこんでごそごそやっていた。たった一挺しかない針金切りを彼が携えていたのだ。パチン、パチン。はいまわっていた針金が、うまくわきへ押しのけられる。われわれは後ろの者が追いつくのを待った。彼らはひどい音をたてているようだ。もうファシスト軍の胸壁から五十ヤードぐらいだろう。からだを曲げたまま、また前進だ。ネズミの穴に近づくネコのように、できるだけ足音を忍ばせながら、抜き足さし足で一歩進む。それから立ち止まって耳をすませ、それからまた一歩。一度私は頭をあげた。ベンジャミンがものも言わず私のえりくびを引っつかみ、荒々しくぐいと引きさげた。内側の鉄条網は、胸壁から二十ヤード足らずであることを私は知っていた。三十名もの兵士が、さとられずに胸壁までたどり着けるなんて、とても考えられないことだった。われわれの息づかいだけでも、じゅうぶん感づかれそうなものだ。ところが、どういうわけか、そこまでたどり着いた。やがてファシスト軍の胸壁が見えて来た。黒いおぼろげな土塁が、われわれの頭上にぼうっと高くそびえている。ホルヘがまたひざまずいてごそごそやる。パチン、パチン。音を立てずに切るなんて、とてもできっこない。
そのようにして、内側の鉄条網も切断した。われわれは四つんばいになってすばやく通り抜けた。これでもう散開するゆとりさえあれば、万事めでたしだった。ホルヘとベンジャミンは、右手のほうへはい抜けた。しかし、あとに続く連中は散開していたので、鉄条網の狭い裂け目を通り抜けるのに、一列縦隊にならねばならなかった。そして、ちょうどこのとき、ファシスト軍の胸壁から閃光と轟音が起こった。歩哨がついに感づいたのだ。ホルヘは片ひざついて身がまえ、クリケットの投手のように腕を振った。ドカーン! 彼の投げた手榴弾は、胸壁の向こうのどこかで炸裂した。そのとたん、とうてい信じられないほどの早さで、ファシスト軍の胸壁から十挺か二十挺ぐらいの小銃がいっせいに火を吐きだした。どうやらわれわれの夜襲を待ち受けていたらしい。ぎらぎらした閃光の中に、一瞬、土嚢のひとつひとつがくっきりと見えた。ずっと後ろにいる戦友が手榴弾を投げ、そのうちの何発かが胸壁までとどかないで手前に落ちた。
銃眼という銃眼がすべて焔の流れを吐きだしているように見える。暗やみの中で射たれるのは、どんなときでもいやなものだ――銃火のどれもこれもが、まともに自分を狙っているような気がするからだ――が、どうにもたまらないのは手榴弾だ。暗がりで身近かに一発くらってみないことには、こいつがどんなに恐ろしいか、とても想像がつかない。昼問だとドカーンという炸裂音がするだけだが、暗やみだと音のほかに、目もくらむようなまっ赤な閃光も起こるからだ。最初の一斉射撃を受けたとき、私はぱっと身を伏せた。そして、このあいだじゅうずっとぬるぬるした泥の中に腹ばいになったまま、躍起になって手榴弾のピンと取り組んでいた。いまいましいピンのやつが|どうやっても《ヽヽヽヽヽヽ》抜けようとしないのだ。しまいに、私はねじる方向をまちがえているのに気がついた。私はピンを抜くと、立て膝の姿勢でその手榴弾を投げつけ、ふたたび身を伏せた。私の投げた手榴弾は、右のほうへ外れて胸壁の外で炸裂した。恐怖のために狙いが外れたのだ。すると、その瞬間、もう一発が私のまん前で炸裂した。爆発の熱気が感じられるほど間近かだった。私はぱっとはいつくばい、勢いこんで顔を泥の中につっこんだので、首を痛め、さては負傷したかな、と思った。炸裂の轟音の中から、静かな声で「やられた」と英語で言うのを、後ろで聞いた。事実、その手榴弾は、私にはどうということはなかったが、私のまわりにいた数名の人たちを傷つけたのだった。私は膝で立って、二発目を投げた。が、それがどこへ当たったのだったか忘れてしまった。
ファシスト軍の射撃は続いており、われわれの背後にいる友軍の射撃も続いていたので、私は、自分が両軍のまん中にいるのがはっきりわかった。私は発砲の爆風を感じ、すぐ後ろにいるだれかが射撃しているのに気がついた。私は立ち上がり、その男に向かってどなった。「味方を射つんじゃない、この大ばか野郎!」このとき、十ヤードか十五ヤードほど私の右手にいたベンジャミンが、腕をあげて手招きしているのを見た。私は彼のそばへかけ寄った。それは、とりもなおさず、火を吐いている銃眼の火線を突っ切ることを意味した。そして私は、走りながら左手をピシャッとほっぺたにあてがった。愚にもつかないまねだった――手で弾丸が止められるとでも思ったのか!――でも、私は顔を射たれるのがこわかったのだ。ベンジャミンは、片ひざをつき、顔に満足した悪鬼のような色をうかべながら、注意深く敵の銃火を狙って自動拳銃を撃っていた。ホルヘは、最初の一斉射撃のときに負傷して倒れ、どこかに見えなくなっていた。私はベンジャミンのそばにひざまずき、三発目の手榴弾のピンを引き抜いて投げた。やれやれ! 今度はたしかにうまくいった。私の投げた手榴弾は、胸壁の内側の角の、機関銃座のま横で炸裂した。
ファシスト軍の銃火はにわかに弱まったようだった。ベンジャミンはとび立って叫んだ「進め! 突撃!」われわれは、胸壁の立っている短い急斜面を駆け上がった。いや、「駆け上がった」と言うよりも「のそのそ歩いた」と言うほうがもっと当たっているかもしれない。じつをいえば、頭から足の先までびしょぬれで泥まみれになっているところへ、重い銃と銃剣、おまけに百五十発の弾薬とで、押しつぶされそうになっていて、とても早くなんか動けなかったのだ。私は、当然だれかファシスト兵が胸壁のてっぺんで待ち伏せしているものと思いこんでいた。もしその距離から狙撃すれば、ぜったいに外れっこなかった。それなのに、どういうわけか、銃剣で突いて来るな、という気はしたが、射撃してくるだろうとは夢にも思わなかった。私は、われわれが互いに銃剣を交じえたときの興奮が、はや身内に感じられるような気がした。彼の腕は私の腕より強いだろうか。ところが、ファシスト兵は、ただのひとりも待ち伏せなんかしていなかった。何となくほっとした気持ちで見ると、それは背の低い胸壁で、土嚢で格好の足場ができることがわかった。ふつうは乗り越えるのがむずかしいものなのだ。胸壁の内側《なか》は、何もかもこなごなになっていた。梁《はり》があたりいちめんにはねとび、割れたウラル石の大きなかけらが足の踏み場もないくらいに散乱していた。われわれの手榴弾が小屋といわず待避壕といわず、ことごとくぶっ壊してしまったのだった。
ところが、人っ子ひとり見えないのだ。地下のどこかに隠れているのだろうと思って、私は英語でどなってみた(あいにく、そのときスペイン語がひとつも思い出せなかったからだ)。「そこから出てこーい! 降参しろう!」何の返事もなかった。そのとき、うす明かりの中に陰のように見える人かげが、こわれた小屋の屋根をとび越えて、左手のほうへいちもくさんに逃げていった。私はそのあとを追いかけ、いたずらに銃剣を暗やみの中へ突込んでみたが、ちっとも手ごたえはなかった。その小屋の角を曲がったとたん、ひとりの敵兵が――そいつがさっきのやつだったかどうかわからないが――ほかのファシスト軍陣地につながっている連絡壕を、ころがるように逃げていくのを見た。その姿がはっきり見えたところをみると、私は彼のすぐそばまで迫っていたにちがいない。帽子もかぶらず、肩から毛布を一枚引っかぶっているほかは、何も着ていないようだった。射撃したら、そいつをこなごなにしてやることができたかもしれない。しかし、われわれは同志撃ちを避けるために、いったん胸壁の内部に突入したら、銃剣のほかは使ってはならない、という命令を、あらかじめ受けていたのだった。それに、ともかく私は発砲することなど思いつきもしなかったのだ。そのかわり、私の心は一足飛びに二十年の昔に立ち返り、ダーダネルス海峡の戦い〔ダーダネルス海峡はヨーロッパとアジアの境にある海峡。第一次世界大戦のときに、イギリス軍がここに上陸を企図して、失敗した事件のこと〕でトルコ兵を銃剣で突き殺したときの様子を、真に迫った身ぶりでやって見せてくれた学校時代の拳闘の教師のことを思い出した。私は銃把《じゅうは》を握ると、その敵兵の背中目がけて剣付鉄砲を突き出した。間一髪でとどかない。もう一度突いて見た。が、やっぱり手ごたえがなかった。われわれは、少しの距離をこのような格好で進んだ。彼は塹壕の中を逃げていく。私は上の地面伝いに彼を追いかけながら、肩甲骨目がけて剣付鉄砲を突き出すのだが、ぜったいにとどかないのだ――今から思うと、それこそ吹き出したくなるような思い出だ。もっとも、逃げている敵兵のほうは、吹き出したくなるなんて冗談じゃない、という気がしただろうけれど。
もちろん、彼の方が私よりここいらの地理にくわしかったので、まもなく私を振り切って逃げてしまった。もどってみると、陣地は喚声をあげる人びとでいっぱいだった。銃声は多少衰えていた。ファシスト軍は相変わらず三方からわれわれに猛烈な銃火を浴びせかけていたが、その距離は少し遠くなっていた。われわれは、当分のあいだ敵兵を撃退したのだ。私は、予言めいた口調で「この陣地は半時間は持ちこたえられる。それ以上はだめだ」と言ったのをおぼえている。なぜとくに半時間とことわったのか、自分でもわからない。右手の胸壁を見わたすと、緑色がかった無数の銃火が暗やみをつんざいてきらめくのが見える。でも、それは百ヤードか二百ヤードも離れた遠くだ。今われわれのなすべきことは、陣地を捜索し、ぶんどる値うちのあるものは片っぱしからぶんどることだった。ベンジャミンとほか数名のものたちは、もう陣地の中央にある大きな小屋や待避壕の廃墟の中をあさりまわっていた。ベンジャミンは、弾薬箱のロープの引き手を引っぱりながら、壊れた屋根のあいだをよろめきよろめき、有頂天で叫んだ。
「おーい、みんな! 弾薬だぞう! 弾薬がここに山ほどあるぞう!」
「弾薬なんかいらんぞ」と声がした。「銃がほしいんだ」
それはそのとおりだった。われわれの持っている銃の半分は、泥がつまって使いものにならなくなっていたのだ。掃除することができないわけではないが、暗やみで遊底をはずすのは危険である。はずしてどこかに置けば、なくなってしまうからだ。私は、妻がバルセロナで苦心して買ってくれた小さな懐中電燈を持っていた。これのほかに、わが軍にはおよそ灯りと名のつくものはただのひとつもなかった。まだ使える銃をもっている二、三の兵たちが、遠くの銃火に向かって散発的な射撃を始めた。続けざまに射撃しようとするものはいなかった。というのは、いちばん調子のよい銃でも、過熱するとよくつまるからだ。胸壁の中へ突入したのは、一、二名の負傷者も含めて十六名程度だった。イギリス人やスペイン人の大ぜいの負傷兵が、胸壁の外側に横たわっていた。多少応急手当の心得のある、ベルファスト〔北アイルランドの首都〕出身のアイルランド人パトリック・オーハラは、繃帯包みをもってあちこち駆けまわり、負傷兵の手当てをしていたが、もちろん、胸壁にもどってくるたびに「ポウムだ!」とどなるのに、必ず射撃を食わせられるので憤慨していた。
われわれは敵陣の捜索を始めた。戦死者が数名ころがっていたが、私はわざわざ立ち止まって調べはしなかった。私の目あては機関銃だった。胸壁の外に伏せていたあいだじゅう、私は、なぜ機関銃を射ってこないのだろう、と漠然とした疑問を抱いていた。懐中電燈をつけて、機関銃座の内部《なか》を調べた。まったくがっかりだった! 機関銃はなかった。三脚架は置いてあり、いろいろな弾薬箱や予備の部品は残っていたが、肝心の機関銃はなくなっていた。非常警報を受けるやいなや、ねじを外して持ち去ったにちがいない。もとより命令のもとの行動だったことは疑いないが、それにしても、愚かでいくじのないまねをしたものだ。もし機関銃をそのままにしておいたら、われわれ全員をみな殺しにすることができたのに。われわれはむしゃくしゃした。機関銃をぶんどってやろうと意気ごんできたからだった。
あちこちうろうろと捜しまわったが、あまり大したものは見当たらなかった。ファシスト軍の手榴弾がたくさんころがっていた――ひもを引っぱってから投げる、かなり旧式なタイプのやつだ――私は、記念に二発ほどポケットにしのぼせた。ファシスト軍の待避壕の内部《なか》がみじめなくらいがらんとしているのに、びっくりせずにはいられなかった。わが軍の待避壕だと散らばっているのが目につく、あの着替えとか、本とか、食糧とか、こまごまとした身のまわりのものが、何ひとつ見当たらないのだった。このただ働きの哀れな徴集兵たちの持ちものは、といえば、せいぜい毛布と、少しばかりのふやけたパンのかたまりぐらいのものだった。ずっと向こうのはずれに、半地下式でちっぽけな窓のついた、こぢんまりとした待避壕があった。その窓から懐中電燈を照らした瞬間、われわれはワッと歓声をあげた。長さ四フィート、直径六インチぐらいの革ケースに入った円筒形のものが壁に立てかけてあったからだ。まさしく機関銃の銃身だ。われわれはぐるりとまわって、戸口から内部《なか》へ殺到した。革ケースに入っているのは機関銃ではなかったが、兵器不足のわが軍にとっては、もっともっと貴重なものだった。それは、すばらしく大きな望遠鏡だったのだ。倍率は少なくとも六、七十倍はありそうで、折りたたみ式の三脚までついている。このような望遠鏡は、わが軍のこちらの戦線には一台もなかったが、ぜったい必需品だったのだ。われわれは意気揚々とそれをかつぎ出し、あとで持って帰るために、胸壁に立てかけた。
ちょうどこのとき、ファシスト軍の逆襲だ、とだれかが叫んだ。たしかに銃声はいちだんと大きくなっていた。しかし、右手から反撃してこないのはわかりきっていた。というのは、右手から反撃するには、彼我両軍のにらみ合っている無人地帯を横断して、自分たち自身の胸壁を攻撃することになるからである。もし彼らに多少でも分別があれば、戦線の内側から攻撃をかけてくるはずだった。私は待避壕の向こう側へぐるっとまわった。この陣地はだいたい馬蹄形になっており、そのまん中に待避壕が設けてあるので、左手にもわれわれを遮蔽してくれる胸壁があるわけだ。そちらの方角から猛烈な銃火が降り注いでいたが、これは大したことではなかった。危いのは、まったく防備のない真正面だった。銃弾の奔流が頭上すれすれを流れていく。これは、きっと、ずっと向こうのファシスト軍陣地から射っているのだ。「突撃隊《ショック・トルーパーズ》」は、結局あの陣地を占領しなかったらしい。しかし、このとき、銃声は今にも耳をつんざくばかりになっていた。それは、たくさんの小銃を射つ、切れ目のない、ドラムのような轟きで、少し離れてならよく聞いたことはあるが、そのまん中にいるのはこれが初めてだった。そして、もちろん、このころには銃火はもう戦線の数マイル四方に広がっていた。ダグラス・トムスンは、負傷して使えなくなった片腕をわきにぶらぶらさせ、胸壁にもたれながら、敵の銃火に向かって片手で射撃をしていた。自分の銃がつまってしまっただれかが、かわりに弾丸をこめてやっていた。
こちら側には、われわれ四、五人がいた。しなければならないことは、わかりきっていた。正面の胸壁のところから土嚢を引きずって来て、無防備の側にバリケードを構築しなければならないのだ。それも、早いことやらねばいけない。敵の銃火の弾道は、今はまだ高いが、いつなんどき低くなるかもしれない。あたりいちめんの銃火から判断して、われわれを攻撃している敵の兵力は、百名ないし二百名と私はみつもった。われわれは、かたまっている土嚢を引き離し、二十ヤードほど前方へ運び、どさっとおろして、おおよそ山の形に積みあげた。まったくつらい作業だった。その土嚢のひとつひとつが百ウェイト〔四〇〜五〇キロ〕もあるしろもので、もぎ離して持ち上げるには、ありったけの力をふりしぼらなければならなかった。しかも、腐っている袋がはじけると、しめった土がまるで滝のように全身にふりかかり、襟から袖の中まで流れこむのだった。私は、すべてのものに深い恐怖を感じたのをおぼえている。混沌、暗黒、恐ろしい銃声、泥の中であちこちとズルズルすべるよろめき、はじける土嚢との格闘などに――土嚢運びをしているあいだ、銃が邪魔になったが、なくなったらたいへんなので、手放すわけにもいかなかった。私は、だれかとさし合いで土嚢をもってよたよた歩いていたとき、相棒に向かってどなりさえしたのだった。「これが戦争なんだぞ! ひどいもんだなあ、ええ?」
突然、背の高い人かげがどやどやと正面の胸壁を跳びこえてやって来た。だんだん近づいて来たのを見ると、「突撃隊《ショック・トルーパーズ》」の制服を着ていたので、てっきり増援部隊だと思って、われわれは歓声をあげた。しかし、ドイツ人が三人にスペイン人が一人、たったの四人だった。われわれは、「突撃隊」に起こった事件のてんまつを、あとできいた。彼らは、地理を知らなかったため、暗やみで道をまちがえ、ファシスト軍の鉄条綱に引っかかって、多数のものがあえなく銃弾のえじきとなったのだった。この四人は、幸運にもはぐれた人たちだった。そのドイツ人たちは、英語もフランス語もスペイン語もまるっきりしゃべることができなかった。苦心さんたんしながら、ほとんど身ぶり手ぶりで、今やっている作業を説明し、バリケード作りを手伝ってもらった。
ファシスト軍は、今度は機関銃を持ち出していた。百ヤードか二百ヤード向こうに、まるで爆竹のように火を吐き出しているのが見える。その弾丸は、一本調子の冷やかな音をたてながら、われわれの頭上に降り注いだ。まもなくわれわれは、所定の場所にいるだけの土嚢を投げ出して低い胸壁を作り上げ、陣地のこちら側にいる数名が、そのかげに腹ばいになって射撃ができるようにした。私は彼らの後ろに膝をついて構えた。臼砲の砲弾がビューッと飛んできて、無人地帯《ノーマンズ・ランド》のどこかでドカーンと炸裂した。これで危険がまたひとつふえたわけだ。ただ、われわれに命中させる射程を見つけるには、何分かかかるだろう。あのいまいましい土嚢との格闘が終わった今となっては、考えようによれば、まんざら悪くもない楽しみだった、この銃・砲声、暗黒、近づいてくる閃光、その閃光目がけ射ち返す味方の応射といったものは。少しは考えごとをするゆとりさえあった。おれはこわがっているのだろうか、と自分に問いかけ、いや、こわがっているんじゃない、という結論に到達したのをおぼえている。胸壁の外にいたとき、おそらく内部《なか》よりもっと安全だと思われるのに、私は吐き気を催しかけたのだった。
突然、またしても、ファシスト軍の逆襲だ、という叫びが起こった。今度は、まちがいなく本ものだった。銃火の閃光が、ぐんと近づいているからだ。二十ヤードそこそこの閃光もある。明らかに、敵は連絡壕伝いにじりじり迫ってくるのだ。二十ヤードなら手榴弾がらくらくとどく距離だ。われわれは八、九人かたまっているのだから、うまいところへ一発ぶち込まれたら、それこそこなごなに吹き飛ばされてしまうだろう。ポップ・スマイリーは顔のかすり傷から血を流しながら、すっと膝を立てて、手榴弾を一発投げた。ドカーンとくるものと思って、われわれはちぢこまった。信管がシュッと赤い火の尾を引いて飛んでいったが、何と不発だった(この手榴弾は、少なくとも四発に一発は不発だった)。私は、もうさっきファシスト軍陣地でぶんどって来た手榴弾しか持っていなかったし、これはどうやって投げるのかわからない。だれかあまった手榴弾を持っているものはいないか、と私はほかの連中にどなった。ダグラス・モイルがポケットをさぐって、一発渡してくれた。私はそれを投げて、うつぶせに突っ伏した。一年にたった一度ぐらいしか起こらないあの幸運のめぐり合わせというやつで、私は、銃火がきらめいているほとんどそのまんまん中へ、みごとに命中させることができた。轟然たる炸裂音が起こったかと思うまもなく、身の毛もよだつような絶叫とうめき声があがった。ともかくひとりはやっつけたのだ。殺したかどうかはわからないが、重傷を負わせたのはたしからしい。やれやれ、かわいそうなやつだ! 彼の絶叫をききながら、私は何だか悲しくなった。しかし、その瞬間、私は閃光のうす明かりの中で、さっき銃が火を吐いていた場所の近くに、人かげがひとつ立っているのを見た。いや、見たような気がした。私はとっさに銃を構えてぶっ放した。またしても絶叫が起こった。しかし、それもやはり手榴弾のせいらしかった。さらに数発の手榴弾が投げられた。次にわれわれが見かけた銃火は、ずっと遠く、百ヤードかそれ以上も後退していた。してみると、われわれは、とにもかくにも、さし当たって敵兵を撃退したのだ。
いったいぜんたい、なんだって増援部隊を送りやがらないんだ、とみんなが口々に毒づいたり、しゃべったりしはじめた。短機関銃《サブ・マシンガン》一挺か、きれいに掃除した小銃をもった二十名の支援があれば、われわれは一個大隊を向こうにまわしてでも、この陣地を確保することができるのに。このとき、ベンジャミンの副指揮官で、命令を受けるために派遣されていたパディ・ドノヴァンが正面の胸壁をよじ登ってきた。
「おーい! すぐ出てこーい! 総員ただちに退却だ!」
「何だと?」
「退却だ! 出てこいったら!」
「どうしてだ?」
「命令だ。わが軍陣地まで後退せよ、駆け足」
みんなは、もう正面の胸壁によじ登って、外へ出ようとしている。何とかして重い弾薬箱を持っていこうと格闘している者も何人かいる。私は、さっき陣地の向こう側の胸壁に立てかけてきた望遠鏡のことが、あたまにピンと来た。しかし、このとき、四名の突撃隊員《ショック・トルーパーズ》が連絡壕を駆け登っていくのが見えた。前に何かわけのわからない命令でも受けていて、感ちがいしたのかもしれない。その連絡壕は、ほかのファシスト軍陣地へ通じているので、――もしそこへ着けば――それは確実な死を意味するものだった。彼らはやみに消えようとしている。私は、「退却」という意味のスペイン語を思い出そうとあたまをしぼりながら、そのあとを追いかけた。ようやく思いついて、つづけざまにどなった。「アトラース! アトラース!」どうやら意味がちゃんと通じたらしい。スペイン人の隊員がそれをききつけて、ほかの連中を連れて引き返してきた。パディは胸壁のところで待っていた。
「さあ、早くしろ」
「でも、あの望遠鏡を!」
「望遠鏡なんかどうだっていい! ベンジャミンが外で待っているんだ」
われわれは、胸壁をよじ登って外に出た。パディは鉄条網を押しあけて、私を通してくれた。ファシスト軍の胸壁のかげから出たとたんに、われわれは、四方八方から降り注いでいるように感じられるものすごい銃火にさらされた。その一部は、たしかにわが軍のものだった。というのは、戦線全域のありとあらゆる人間が射っていたからである。どちらに向きを変えても、新しい銃弾の流れがさっとわれわれをかすめて飛びすぎるのだった。われわれは、暗やみの中を、まるで羊の群れのようにあちらこちらと駆りたてられた。しかも、手榴弾一箱と数挺のファシスト軍の小銃のほかに、ぶんとった弾薬箱――千七百五十発入りで、約百ウェイトの重さがある――までも引きずっていたので、よけいに骨がおれた。胸壁から胸壁までの距離は二百ヤードとはなく、われわれのほとんどが地理を心得ていたのに、ものの数分もたつと、すっかり道に迷ってしまった。気がついてみると、みんなぬかるみの畑の中を、ずるずる足をすべらしながら歩きまわっているのだった。弾丸が両方から飛んでくる、というほかは、さっぱり何もわからなかった。たよりにしようにも月も出ていなかった。ただ、空が少し明るくなってきた。わが軍の前線は、ウエスカの東部にあった。私は、夜があけて、どちらが東でどちらが西かわかるまで、このままここにじっとしていたかった。が、ほかの連中がそれに反対した。われわれは何度も方向を変え、交替で弾薬箱を引きずりながら、すべりすべり前進を続けた。とうとう胸壁の低い平らな線が、ゆく手にぼんやり見えてきた。でも、わが軍のものか、ファシスト軍のものかわからない。というのは、自分たちが今、どちらの方角に向いて進んでいるのか、だれもさっぱりわからないからだ。ベンジャミンは腹ばいになり、何か丈の高い白っぽい雑草のあいだを通り抜けて、胸壁から二十ヤードのところまで近づいて誰何《すいか》してみた。「|POUM《ポウム》!」というどなり声が返ってきた。われわれはおどりあがった。そして、胸壁伝いに道を捜して進み、もう一度灌漑用の溝を歩いて渡った――パシャッ、ゴボゴボ!――もう大丈夫だ。
コップは二、三人のスペイン人といっしょに胸壁の中で待っていた。医者と担架は見えなかった。ホルヘと、われわれの戦友のひとりで現在行方不明になっているヒッドルストーンのほかは、負傷者は全員すでに収容されたらしかった。コップはまっ青な顔をして、あちこち歩きまわっていた。首の後ろの太りじわまで青白かった。彼は、低い胸壁の上を流れるように飛んできて、頭のすぐそばでビシッと鳴る銃弾など気にもかけないのだった。われわれのほとんどのものは、胸壁の後ろにしゃがんでかくれていた。
コップがつぶやいている。「ホルヘ! |畜生め《コーニョー》! ホルヘ!」それから英語で、「ホルヘがいなくなったら、たいへんだ、一大事だ!」ホルヘは彼の親友であり、もっとも優秀な配下の指揮官のひとりでもあった。突然彼はわれわれの方をふり向き、行方不明の者を捜索にいくためイギリス人二名、スペイン人三名、計五名の志願者が出てほしいと言った。モイルと私は、三名のスペイン人といっしょに志願者を買って出た。
胸壁の外へ出たとき、スペイン人たちが、こりゃ明るくなってきたから危険だな、と小声で言った。たしかにそのとおりだった。空がほのかに青味をおびていたからである。ファシスト軍の角面堡からは、興奮してしゃべる人声の大きなざわめきが聞こえてくる。どうやら彼らは、前よりもっと大きな兵力であそこを占領したらしい。われわれがその胸壁から六、七十ヤードのところまで近づいたとき、彼らはわれわれを見つけたか、足音をききつけたにちがいない。というのは、猛烈な銃火のあらしを浴びせかけてきたからだ。
われわれは、もちろん、ぱっとひれ伏した。敵のひとりは、胸壁越しに手榴弾を投げてきた――あわてふためいている証拠だ。われわれは動く機会《チャンス》を待ちながら、草の中に身を伏せていた。と、そのとき、ファシスト兵の声をぐっと近くで耳にした。いや、耳にしたような気がした――今から思うと、あきらかなそら耳だったにちがいないが、あのときは、ほんとうに聞こえたと思ったのだ。彼らは胸壁から出て、われわれを追跡してくるのだ。「逃げろ!」と私はモイルに向かってどなると、いっさんに走りだした。ああ、どんなに死にもの狂いで走ったことか! ゆうべの宵の口には、あたまのてっぺんから足のつま先までずぶぬれになっているところへ、ずしりと銃と弾薬の重しをつけていたら、とても走れるもんじゃない、と思っていたのだった。ところが、武装した五十名か百名の敵兵に追っかけられさえすれば、|いつなんどきでも《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》走れるものだ、ということが、今になってつくづくわかった。しかし、私も速かったが、ほかの連中ときたらもっと速かった。私が走っているとき、流星雨そっくりのものが、私を追い越してすっ飛んでいった。それは、さっき先頭に立っていた三人のスペイン人たちだった。立ち止まって私が追いつくのを待つより先に、彼らは味方の胸壁のところまで駆けもどっていた。じつをいえば、われわれはすっかり臆病風に吹かれたのだった。しかし、うす明かりの中では、五人の人かげははっきり見えても、ひとりなら見えないことがわかっていたので、私は単身引き返した。そして、ようやく外側の鉄条網にたどり着いて、できるだけ綿密にあたりを捜した。腹ばいになってやらねばならないので、これはあまり楽な仕事ではなかった。ホルヘやヒッドルストーンのいそうな気配はまったくなかったので、私ははいもどった。あとでわかったのだが、ホルヘもヒッドルストーンも、とっくに仮包帯所へ運ばれていたのだった。ホルヘは肩に軽い貫通銃創を受けていた。ヒッドルストーンの方は重傷だった――一弾が彼の左腕をまともにさかのぼり、数か所で骨折を起こしたのだった。しかも、身動きもできず地上に倒れていたとき、近くで手榴弾が炸裂して、全身に裂傷を受けたのだった。しかし、彼は治ったので、よいあんばいだった。あとで話してくれたところによると、あお向けに倒れたまま苦心|惨憺《さんたん》して少し動いた。が、やがて、負傷したひとりのスペイン人をつかまえ、二人で助け合いながら帰ってきたのだという。
空はもう明るくなりかけていた。数マイルにわたる戦線一帯に、あらしのあとまで降り続く雨のように、散発的な銃声がむなしくとどろいていた。泥の沼沢地、枝をたれているポプラの木、塹壕の底にたまった黄色っぽい水など、あらゆるものの荒涼としたたたずまい、それに、ひげぼうぼうで、泥の筋がつき、煙のために目もとまで黒くすすけた戦友たちの疲労|困憊《こんぱい》した顔までもが、今もあたまにうかぶ。待避壕へ帰ってみると、同室の三人は、もうぐっすり寝込んでいた。装具は全部つけ、泥まみれの銃をしっかり握りしめたまま、ぶっ倒れていた。待避壕の内部《なか》も、外部《そと》と同じように、なにもかもびしょぬれだった。長いあいだ捜しまわって、乾いた木の切れっぱしを集め、どうにかちっぽけなたき火を作った。それから、大事にとっておいた例の葉巻に火をつけた。驚いたことに、ひと晩じゅう持って歩いていたのに折れていなかった。
あとになって、あの晩の夜襲は、このような作戦の標準からいえば、まあ成功だった、と聞かされた。それは、ただ、アナーキスト軍がふたたび攻撃をかけている、ウエスカの向こう側から、ファシスト軍の兵力を分散させるための牽制攻撃だったのだ。ファシスト軍が反撃のために投入した兵力は、百ないし二百程度と私は判断していたが、後になって逃亡兵が話したところによれば、六百だったという。でも、これは、まあうそだ――逃亡兵というものは、わかりきったことだが、とかくこちらの喜びそうなことを言って、ご機嫌とりをするくせがあるものだからだ。例の望遠鏡は、かえすがえすも残念だった。あのすばらしい戦利品を、よくもむざむざ捨てて来たものだ、と今思ってもくやしくてたまらない。
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第八章
昼間はだんだん暑くなり、夜も何とか我慢できるほどの暖かさになった。われわれの胸壁の前の、弾丸に削られた一本の木に、さくらんぼの房が鈴なりになっていた。川での水浴ももう苦行ではなくなりむしろ楽しみになった。「ファビアン農場」のまわりの砲弾の穴には、茶碗の受け皿ほどもあるピンクの花をつけた野バラがはいまわっていた。戦線の後方では、百姓たちが耳に野バラをさしているのを見かけた。夕方になると、彼らは緑色の網をもってよくウズラ捕りにでかけるのだった。草の先っぽの上に網を広げてから、寝ころんで雌のウズラの鳴き声のまねをする。すると、その声の聞こえるところにいる雄がつられて走ってくる。うまく網の下に入ったら、石を投げておどかす。すると、びっくりして空へ飛び上がり、まんまと網にひっかかる、という寸法である。つかまるのは雄だけときまっているのだから、私は不公平だな、と思った。
この戦線のわれわれのとなりに、このときアンダルシア人の一分隊がいた。どんないきさつでこの方面へやって来たのか、私はよく知らない。世間では、マラガからあんまり急いで逃げて来たので、ヴァレンシアで止まるのを忘れてしまったのだ、などと取沙汰されていたが、もちろん、こんなうわさの出どころはカタロニア人だ。なにしろ彼らは、アンダルシア人ときけば、まるで半ば野蛮人扱いで、いつも自分たちより一段低いものに見ているからだ。
たしかにアンダルシア人はひどく無知だった。字の読めるものは、まあ、ほとんどいない、といってよかったし、スペインではだれでも知っていること――つまり、自分がどの政党に所属しているのか、ということさえ知らなかった。自分たちではアナーキストのつもりなのだが、それがどうもはっきりしない。たぶん共産主義者なのだろう。ごついからだつきの見るからにいなか者らしい連中で、まあ、羊飼いかオリーブ園の労働者といったところだろう。南国の強烈な太陽にすっかり焼かれて、顔は赤銅色だ。連中はからからに乾燥したスペインたばこの葉を巻いて、巻きたばこを作るのがすてきにうまかったので、われわれにとっては、いたってちょうほうな存在だった。たばこの配給はもうなくなっていたが、モンフロリテでは、ときどき、いちばん下級品のたばこの箱を手に入れることができた。見かけや手ざわりは、刻んだもみがらそっくりだった。味は悪くなかったが、何しろ乾きすぎているので、何とか巻きたばこの格好にはできても、中みのたばこがするりと落ちて、からの軸だけが残るのだった。ところがアンダルシア人たちはじょうずに巻きたばこを作ることができ、両端を中へくるみ込む独特のコツを知っていた。
イギリス人がふたり、日射病で倒れた。あのころの思い出の中で目だっているのは、真昼の太陽の暑さ、日焼けして痛めつけられた肩に土嚢がくいこむ半裸体での労働、文字どおりぼろぼろになってしまった衣服や靴にたかっていたシラミ、銃声は平気なくせに榴散弾が炸裂すると逃げ出そうとしててこずらせた糧食運びのラバ、それに蚊(ちょうど出はじめたところだった)、革ベルトや革の弾薬盒《だんやくごう》までもかじるのでみんながほとほと手を焼いていたネズミ、などだ。狙撃兵の銃弾で時おり負傷者が出たり、ウエスカに対して散発的な砲撃や空襲があったりするほかは、何も起こらなかった。今では木がこんもりと葉をつけていたので、戦線沿いに立っているポプラの木に、インドのトラ狩り用監視台に似た狙撃台を作った。ウエスカの向こう側では、攻撃がしだいに弱まっていた。アナーキスト軍は甚大な損害をこうむり、ハカ街道の全面遮断にまだ成功していなかった。道路の両側のすぐ近くまで肉迫して、街道を機関銃の射程内におさめ、どうにか交通を遮断することはできたが、幅一キロにも及ぶ間隙があるので、ファシスト軍が地下道を建設してしまったのだ。それは巨大な塹壕のようなもので、そこを通って一定数のトラックを往き来させることができた。逃亡兵の話によると、ウエスカには弾薬はふんだんにあるが食糧が欠乏している、ということだった。しかし、どうも陥落しそうもなかった。装備の貧弱な一万五千の兵力を投入したぐらいでは、占領などおそらく思いもよらないことだっただろう。もっと後の六月になって、政府はマドリード戦線から兵力を抜き、多数の飛行機の援助のもとに三万の兵力をウエスカ攻略に集中したが、それでも落ちなかった。
休暇になったとき、私は百十五日間前線暮らしをしたわけだったが、そのころの私には、この百十五日こそ自分の生涯のうちでいちばん無駄な時期だ、という気がしたものだった。ファシズムと戦うために義勇軍に参加したはずだったのに、まだろくすっぽ戦ったこともなく、せっかく糧食の支給を受けながら、寒さと睡眠不足に悩んだほかは、それに見合うことは何ひとつやっていない、受動的なものとしてただ存在した、というだけのことだった。それがおそらく、たいていの戦争のとき、たいていの兵士たちのたどる運命なのだろう。しかし、あの時期を、遠くからながめることのできる今となってみると、まんざら無意味だったとばかりも思わない。まったくのところ、もう少し能率よくスペイン政府に協力することができなかったかなあ、という気はしないでもないが、個人的な立場から見れば――つまり私自身の人間形成という立場から見れば――前線で過ごしたあの三、四か月は、あのとき思ったほど無意味なものでもなかったのだ。それは、私の人生の中で、それ以前の過去とも、おそらくはそれ以後の未来ともまるっきり異なった、一種の空白期間となり、ほかではとうてい学ぶことのできなかったことを私に教えてくれたのだった。
いちばん肝心なのは、私が始終隔離されていた、ということだった――というのは、前線では外界からほとんど完全に切り離されるからだ。バルセロナで現に起こっていることでさえ――おおざっぱに革命家と呼んでも当たらずといえども遠からず、といった人たちのあいだで暮らしていると――ごく漠然としかわからないのだ。これは義勇軍制度そのものの結果として起こったことだったが、アラゴン戦線では、一九三七年の六月ごろまで、この制度は根本的には変わらなかった。労働者義勇軍は労働組合を基盤とし、各組合はほぼ同じような政治的見解を持った人びとから成り立っているため、国じゅうで革命的感情のいちばん強烈な人たちを、全部一か所に集める、という効果があった。私としては、多少は偶然だったのだが、政治的意識や資本主義への不信のほうがそれに反対の立場より正常である、とされている、ある程度の大きさをもつ、西欧で唯一の社会へ入りこんだわけだ。ここアラゴン地方では、全部が全部とはいえないにしても、ほとんどが労働者階級の出身で、みんなが同じ水準の生活を営み、対等の立場で交わる何万人かの中のひとりだった。理論上は完全な平等で、実際上でも、それから遠くないものだった。ある意味では、社会主義の予行演習をやっていたのだ、というほうがあたっているかもしれない。
ということは、とりもなおさず、そこでは社会主義が支配的な精神的雰囲気となっていた、ということなのだ。文明生活のごくふつうの原動力――つまり俗物根性とか、金儲けあさりとか、上役《ボス》に対する恐れなどは、たいてい、まったく消滅してしまっていた。一般の社会的階級差別は、金銭に汚れたイギリスの雰囲気の中ではほとんど想像もつかない程度まで消えてしまっていた。そこには、農民たちとわれわれのほかはだれもいなかった。他人を自分の主人として仰がなければならない者も、ひとりもいなかった。もちろん、このような状態が長続きするはずはなかった。それは、地球上の全域にわたって展開されている巨大な競技の中の、単に一時的で局部的なひとつの局面にすぎなかったのだ。しかし、それは、経験したかぎりの人に影響を及ぼすだけのあいだは続いた。その当時はひどく呪った人でも、後になると、自分がある珍しくて貴重な体験をしたことがわかってきたのだった。無気力や冷笑よりも、希望のほうがもっとまともであり、「同志」という言葉が、たいていの国々のようにインチキの同義語ではなくて、同志愛を意味するような社会にいたのだ。平等の空気というものを呼吸したのだ。今では社会主義が平等と関係があることを否定するのが流行となっていることは、よくわかっている。世界じゅうのあらゆる国々で、大ぜいの政党御用学者や口のうまい愚劣な学者先生が、社会主義とは、まさに、独占欲をそのまま残した計画的国家資本主義にほかならないことを「立証」するのに、うき身をやつしている。しかしさいわいなことに、これとまったくちがった社会主義観もある。ふつうの人びとを社会主義に引きつけ、社会主義のためなら喜んで命を投げ出そうという気持ちにさせるもの、つまり、社会主義の「秘訣」ともいうべきものは、平等の理念である。大多数の人びとにとって、社会主義とは、まさしく階級なき社会にほかならないのだ。そして、これが、私にとって、義勇軍時代の数か月が貴重だったゆえんなのである。というのは、スペインの義勇軍こそ、それが存続しているあいだは、一種の階級なき社会という小宇宙だったからだ。金儲けにうつつをぬかす者などひとりもいないし、物資が全般的に不足しているのに特権もへつらいもないそのような社会に身をおけば、おそらく来たるべき社会主義の第一段階がどのようなものであるかについて、おおよその見当がつくはずである。そして、結局、そのような社会は私に幻滅を与えないで、私を強く引きつけたのだ。その結果、社会主義の確立を願う私の気持ちは、これまで以上に現実的なものとなった。これは、おそらく、ひとつには、自分がスペイン人たちのあいだで暮らしたという幸運も手伝っていたのだろう。というのは、彼らは生まれながらの品位といつもながらのアナーキスト的色彩を備えていて、たとえ社会主義の第一段階であろうと、機会にさえ恵まれれば、まあまあ我慢のできるものにするような民族だからである。
もちろん、その当時の私は、自分の心の中に起こりつつある変化にはほとんど気がつかなかった。あのころは、私も周囲のみんなと同じように、おもに倦怠、炎熱、寒気、汚物、シラミ、欠乏、それに時おりの危険を意識していたのだった。ところが、今はまったくちがう。あの当時にはまったく無意味で平穏無事な気がしたこの時期が、今となってみると、私にとってきわめて重要なものとなっているのだ。そして、生涯のほかの部分とはすっかり異なっているため、ふつうなら何年もたった古い思い出だけが帯びるあの魔力を、もうすでに帯びている。実際に起こっていたあいだはぞっとするほどやりきれなかったのに、今は心に糧《かて》を与えてくれる絶好の一時期となっているのだ。あの当時の雰囲気を、何とかして読者にお伝えすることができないものかなという気がする。もっとも、この本の初めのいくつかの章で、多少はお伝えできたことと思う。その雰囲気は、私のあたまの中で、冬の寒さ、義勇軍のぼろぼろの制服、スペイン人の卵形の顔、モールス信号に似た機関銃の発射音、小便や腐ったパンのにおい、きたないブリキ皿から大急ぎでがつがつかき込んだ罐くさい豆シチューの味などと、しっかり結びついているのだ。
あの時期全部が、私の記憶の中にふしぎなくらい鮮明に残っている。私は、思い出の中で、思い出す価値もないほどつまらないようなできごとを、もう一度体験しなおしてみるのだ。私は、ふたたび、ポケロ山の待避壕の中の、ベッドがわりの石灰岩の岩棚の上にいる。そして、ラモン青年が私の肩胛骨のあいだに鼻をぺしゃんこに押しつけたまま、いびきをかいている。私は、まるで冷たい蒸気のように身のまわりに渦巻いている霧を衝《つ》いて、よろめきながら不潔な塹壕の中を登っていく。山腹の岩の裂け目を半分ほど登ったところで、いっしょうけんめいにからだのつりあいをとりながら、地面に生えている野生のマンネンロウの根っこを躍起になって引っぱっている。頭上の高いところで、何の当てもない銃弾がヒューンと音をたてている。
オスクロ山西部の低地で、私はコップとボブ・エドワーズ、それに三人のスペイン人らといっしょに、小さなモミの木立ちのあいだに身を伏せている。右手の灰色の禿げ山を、ファシスト兵が数珠《じゅず》つなぎになってアリのように登っていく。正面のすぐ近くで、ファシスト軍の陣地から集合ラッパが嚠喨《りゅうりょう》とひびきわたる。コップが、おい、と私の注意をひき、中学生よろしくの身ぶりで、その音に向かって、へへん、なんだい、とばかり親指を鼻につけ、ほかの指を広げてみせる。
ここは「荘園《ラ・グラーニャ》」の汚物だらけの中庭だ。手に手にブリキの皿を持ち、シチューの大なべを取り巻いてひしめきあっている大ぜいの人びとの中に私もいる。でっぷり太ったコックが、うんざりしたように柄杓《ひしゃく》でみんなを押しのけている。近くのテーブルでは、大きな自動拳銃を革ひもでベルトに吊したひげもじゃの男が、大きなパンのかたまりを五つに切っている。私の後ろでは、ロンドン訛りの声が歌っている(ビル・チェンバーズだ。私はやっこさんと大げんかしたことがある。その後ウエスカ郊外で戦死した)。
ネズミだ、ネズミだ、
ネコほどでっかいネズミがいるよ、
…………の内部に。
砲弾がかん高い唸り声をあげて飛んでくる。十五歳の少年たちが、いっせいにパッと突っ伏す。コックは大なべの後ろにしゃがむ。その砲弾が百ヤードも離れたところに落ちてドカーンと炸裂すると、みんなが恥ずかしそうな顔で起き上がる。
私は、ポプラの黒々とした枝の下の歩哨線を、往ったり来たりしている。その外の水のあふれた灌漑溝の中を、ネズミどもがまるでカワウソのような大きな音をたてながら泳ぎまわっている。われわれの後ろから黄色い夜明けがやってくると、外套にくるまったアンダルシア人の歩哨が歌を歌い出す。無人地帯《ノーマンズ・ランド》をはさんだ百ヤードか二百ヤード向こうで、ファシスト軍の歩哨も歌を歌っているのが聞こえる。
例によって何回も何回も「明日《マニャーナ》」をくらわせられたあげく、四月二十五日、われわれと交替するほかの分隊がやって来た。われわれは銃を渡し、装具を荷造りしてモンフロリテまで行軍した。戦線になごり惜しい気はしなかった。シラミは、私のズボンの中で、いくら大量に撲滅してもとても追いつかないような早さでどんどん増えていった。そして、この一か月間に靴下は一足もなくなり、深靴の底は完全にすりへってしまったので、私はほとんどはだしで歩いていたのだった。私は、それこそ痛切に、あたたかい風呂に入りたい、清潔な衣服を身につけたい、シーツのあいだで一晩ぐっすり寝てみたい、と思った。その切実さは、まともな文明生活をしていて何かほしいなと感ずる欲望などとは、とうていくらべられないほど強烈なものだった。モンフロリテでは、納屋で二、三時間眠り、真夜中にトラックにとび乗り、バルバストロで五時の汽車に間に合った。そして――運よく、この汽車がレリダで急行列車と接続したので――二十六日の午後三時には、もうバルセロナに着いた。そして、そのあとで厄介なことが始まったのだ。
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第九章
高地ビルマのマンダレーから、シャン高原のはずれにある、その地方の主要な高原避暑地メイミョー〔マンダレー東方にある町。夏季には首府となる〕までは汽車で行ける。この汽車旅行はちょっと変わった経験だ。典型的な東洋の町の雰囲気――焼けつくような日光、ほこりまみれのやしの木、魚と香料とにんにくのにおい、熟しすぎてつぶれやすくなっている熱帯の果物、うじゃうじゃ群がっている黒い顔の人間たち――の中を出発する。そして、この雰囲気にはすっかり馴れっこになっているので、それが、いわばそのまま客車で運ばれていく。
汽車が海抜四千フィートのメイミョーで止まったときにも、心はまだマンダレーにいたときのままだ。ところが、客車から降りたとたんに、がらりとちがった世界に足を踏み入れることになる。呼吸する空気は、イギリスに帰ったのかしらと思うほど、突然冷やかなかぐわしいものに変わり、まわりをとりまくのは、青々とした草、大きなしだ、もみの木、かごに詰めたいちごを売る、うす桃色の頬の高地の女というふうになるのだ。
三か月半に及ぶ前線生活のあとでバルセロナへ帰ったとき、それが私のあたまにうかんだ。あのときと同じような、びっくりするほどの雰囲気の変わりようだった。汽車の中では、バルセロナまでずっとまだ前線の雰囲気が残っていた、不潔さ、騒々しさ、居心地の悪さ、ぼろぼろの衣服、欠乏感、同志愛、平等などが。列車がバルバストロを発《た》つとき、もうすでに義勇兵で満員だったのに、沿線の各駅で止まるたびに、しだいに数多くの農民たちがなだれ込んでくる。野菜の束を持ったのがいる。おびえたニワトリをさかさにつり下げて持っているものもいる。輪でくくったズックの袋を持っているものもいる。その袋が床じゅうのたくりまわるので、見ると、生きたままのウサギがぎゅうづめにつめ込んである――しまいには、かなり多くの羊の群れを引っぱって乗り込んでくる。羊たちは車室《コンパートメント》の中へ無理やりに押し込まれるので、どこでもすいているところへぐいぐいと割り込んでくる。義勇兵たちは汽車のガッタン・ゴットンを圧倒するような声で革命歌をどなり、線路わきにかわいい女の娘《こ》を見かけるたびに投げキスをしたり、赤と黒のハンカチを振ったりしている。ぶどう酒やきたないアラゴンの地酒アニス酒のびんが、手から手へとまわされる。スペインの山羊《やぎ》皮製の水筒だと、客車の向かい側にいる友だちの口まで、まともにシューッとぶどう酒をとばしてやれるので、だいぶ手間がはぶける。私のとなりでは、目の黒い十五歳ぐらいの少年が、なめし皮のような顔をしたふたりの老農夫を相手に、びっくりするような、まったく根も葉もないでたらめ――だと私は想うのだが――前線での手柄話を盛んにまくしたてている。ふたりのじいさんたちはポカンと口をあけて聞き入っている。やがて、その農夫たちは包みをほどいて、ちょっとねっとりした黒っぽい赤ぶどう酒をふるまってくれた。みんなとても楽しそうだった。口では言えないほど楽しそうだった。しかし、汽車がサバデルを通り過ぎてバルセロナに着いたとき、まるでパリかロンドンにでも着いたのかしらという気がするほど、われわれやわれわれの仲間にはそぐわない、敵意にみちた雰囲気の中へ入ったのだった。
この戦争中に、数か月のあいだをおいてバルセロナを二度訪れた人はだれでも、そこに起こった異常な変化のことを口にする。そして、まったくふしぎなことには、はじめは八月にいき、二回目は一月にいった場合でも、私のようにはじめは十二月に行き、二回目は四月に行った場合でも、いうことはいつも同じで、革命的な雰囲気が消えてしまった、というのだ。街頭の血がまだ乾ききらず、義勇兵たちがスマートなホテルを占領して宿舎にしていた八月にいたものにとっては、十二月のバルセロナは、たしかにブルジョア的にも見えたのだろうが、イギリスから来たばかりの私には、これ以上はとても考えられない、と思うくらい、労働者の町らしく見えたのだった。
ところが、今はもう時の流れが逆になってしまった。戦争によって多少痛めつけられ傷つけられてはいるが、見た目には、労働者階級が支配していた名ごりもないようなふつうの都市に逆もどりしてしまっていたのだ。
一般大衆の様子の変わりようは、びっくりするほどだった。義勇軍の制服と青い上っぱりはほとんど姿を消し、だれもかれも、スペインの紳士服屋が得意にしているスマートな夏の上下服《スーツ》を着ているように見えた。どこへいっても、でっぷり太った金持ちらしい男たちや、優雅な婦人たち、それに、ぴかぴかした自動車が目についた(まだ自家用はなさそうだったが、「ひとかどのもの」なら、だれでも自動車が自由に使えそうだった)。私がバルセロナを離れたころにはほとんどいなかったようなタイプの、新しい人民軍の将校が、驚くほどたくさん群がっていた。人民軍には、兵士十名に一名の割合で将校が配備されているのだった。これらの将校たちの中には、もと義勇軍に勤務していて、専門的な訓練を受けるために前線から連れもどされた連中もいくらかはいたが、大部分は、義勇軍を志望するよりは、というので陸軍士官学校へ進んだ青年たちだった。彼らとその部下の兵士との関係は、ブルジョワ的軍隊そっくりでもなかったが、給与と制服のちがいによって表わされるはっきりした社会的相違があった。兵士たちが一種の粗末な茶色の上っぱりを着ていたのに対し、将校たちは、英国陸軍将校服にそっくりだが、ウェストがもっとぐっとしまった、しゃれたカーキ色の制服を着ていた。彼らのうちで、前線に出た経験のあるものは、せいぜい二十人に一人ぐらいの程度だと思うが、みんなちゃんと自動拳銃をベルトにつるしている。前線にいるわれわれのほうは何としてもピストルを手に入れることができなかったのに。
われわれが通りを進んでいくと、人びとが、われわれのきたない身なりに目を丸くしているのに気がついた。もちろん、数か月間も前線暮らしをすれば、だれでもそうなるのだが、われわれは見るからにむさ苦しい身なりだった。私は、自分が案山子《かかし》よろしくのていたらくであることには気がついていた。私の革のジャケットは破れてぼろぼろになり、毛の帽子は形がくずれて、いつも片方の目の上にずり下がっていた。深靴は、甲皮がぶざまに広がってついているだけで、底は抜けてしまっていた。われわれ全負が、程度の差こそあれ、ほぼ同じ有様で、おまけに不潔でひげぼうぼうというていたらくだったので、人びとが目を見はったのもふしぎではなかったのだ。そうはいうものの、私はちょっとがっかりして、この三か月のあいだにきっと何か変なことが起こったのだ、とはっきり感じとった。
それから数日のあいだに、私は数えきれないほどの徴候《しるし》によって、自分の第一印象がまちがっていなかったことに気がついた。ひとつの深い変化がこの町に起こっていたのだった。ほかのすべてを解く手がかりとなる事実がふたつあった。ひとつは、人びと――というのは一般市民だが――が、戦争にほとんど興味を持たなくなってしまったこと、今ひとつは、金持ちと貧乏人たち、上層階級と下層階級といった、社会のふつうの分化がよみがえりつつある、ということだった。
戦争に対する一般民衆の無関心は、それこそびっくりするほどで、まったくもってやりきれない感じだった。マドリードから、いやヴァレンシアからやって来た人びとさえ、この無関心にはあきれていた。もっとも、それは、ひとつにはバルセロナが実際の戦場から遠く離れていることもあっただろう。それから一か月たって、私は、ハイカラな海岸町のふつうの生活がほとんど乱されないで続いているタラゴーナでも、同じことに気がついた。しかし、スペイン全土で義勇兵の志願者が一月ごろからだんだん減少していたのは、意味深長だった。カタロニア地方では、二月に、最初の人民軍大宣伝に対する熱狂的な盛り上がりがみられたが、そのために応募者数が目だって増えたわけでもなかった。戦争に入ってまだ六か月かそこいらだというのに、スペイン政府は徴兵に踏み切らねばならなかった。これは外国との戦争の場合には何も珍しいことではないが、内戦の場合には例のないことだった。こうした低調さは、そもそも戦争勃発の発端となった革命への希望が裏切られたこととも密接な関係があった。労働組合員たちが自ら義勇軍を編成し、戦争の始まった最初の数週間にファシスト軍をサラゴサまで撃退したのも、彼らに、何よりも、おれたちは労働者階級による支配のために戦っているのだ、という信念があったからこそであった。ところが、労働者階級による支配がまったく実現の見込みがなくなった、ということがしだいに明らかになってきているとなれば、内戦であろうと対外国戦争であろうと、ともかく戦争の際に兵士の地位を占めなければならない一般の人びと、とりわけ都市の無産階級《プロレタリアート》の熱が多少さめてきたとしても、それはとやかく言うわけにはいかないだろう。戦争に負ければよいと思っているものはひとりもいなかったが、大多数の人びとは、何よりも戦争が早く終わってくれたらよい、という気持ちだった。これは、どこへいっても気がつくことだった。どこでも、判で押したようなおざなりの言葉を耳にした。「この戦争は――ほんとにぞっとしますねえ? いったいいつになったら終わるのでしょう?」
政治的意識のつよい人たちは、フランコに対する戦いよりも、アナーキストと共産主義者《コミュニスト》のあいだの食うか食われるかの戦いのほうを、もっとつよく自覚していた。一般大衆にとっては、食糧不足がいちばん重大問題だった。「前線」というのは、若い人たちが出かけていってそれっきり帰ってこないか、三、四か月してポケットにしこたま大金を押し込んで帰ってくるか(というのは、義勇兵はふつう、休暇で帰るときに、これまでたまっている給料をまとめて受け取るから)どちらかの、ふしぎな遠く離れたところ、と考えられるようになっていた。負傷兵は、まだ松葉杖をついてひょこひょこ歩いているときでも、何ら特別手当はもらえないのだった。義勇軍に入ることが、もうはやらなくなった。商店というものは、いつでも大衆の好みを示すバロメーターだが、これをはっきり示していた。私が初めてバルセロナにやってきたとき、商店は貧弱でみすぼらしかったが、義勇軍の軍装品を専門に取り扱っていた。どの店のウインドーにも、歩兵の略帽、ファスナー付きのジャケット、サム・ブラウン式の士官用刀つりベルト、狩猟用ナイフ、水筒、拳銃《リヴォルヴァ》の革袋《ホルスター》などが並べてあった。今では、店は見ちがえるほどスマートになっていたが、戦争は目だたない後ろのほうへ追いやられていた。あとになって、前線へ帰る前に雑嚢を買いにいって気がついたのだが、前線ではどうしてもなくてはならないものが、なかなか手に入らなかった。
さて、いっぽうでは政党義勇軍をけなし、人民軍をもてはやすような大がかりな宣伝が行なわれていた。その状況はちょっと奇妙だった。二月以降、全武装兵力は、理論上は人民軍に編入されており、義勇軍も、書類の上では、いろいろな給与等級や公式に任命される官職等々のある人民軍の方針にのっとって編成替えされていた。各師団は、それぞれ人民軍部隊一部と義勇軍部隊一部とから成ることになっている「混成」旅団より編成されていた。ところが、現実に起こった変化は、呼び方が変わっただけのことだった。たとえばPOUM部隊は、今までは「レーニン師団」と呼ばれていたのだったが、今度から第二十九師団と呼ばれることになった。六月までは、人民軍部隊がほとんどアラゴン戦線へやってこなかったので、結果的に義勇軍は独自の構成とその特殊性とをそのまま維持することができた。しかし、壁という壁には、ところきらわず、政府側の手先が「われわれは人民軍がほしい」というガリ版刷りのビラを貼りまくっていた。そして、ラジオ放送や共産党系の新聞によって、義勇軍をばかにした宣伝が、これでもかこれでもかとばかり、ときにはひどく悪意のこもった調子で行なわれていた。やれ義勇軍は訓練がふじゅうぶんである、とか、やれ規律がまるでなっていない、とかいうふうに中傷され、いっぽうの人民軍は、いつでも「英雄的である」というふうに賞めそやされていた。このような宣伝をふんだんに聞かされると、義勇兵を志願して前線におもむくのは何か恥ずかしいことで、徴兵を待っているのが何か見上げたことであるかのような印象を受けるだろう。しかしながら、人民軍が後方で訓練に励んでいたあいだ、さし当たって戦線を維持していたのは義勇軍だったのだが、この事実は、できるだけ知らさないようにされた。
前線に帰っていく義勇軍の部隊は、もうドラムをたたき旗をひるがえしながら街頭行進をするのをやめてしまった。朝の五時に、汽車か輸送トラックでこっそりと発つようになった。人民軍の新編成部隊も、もうぼつぼつ前線に向けて出発しはじめていた。これのほうは、今までどおり威風堂々と街頭行進をしていたが、その彼らでさえ、一般大衆が戦争に対する興味を失ってきたため、あまり熱狂的な歓迎は受けなくなった。義勇軍は、書類上ではまた人民軍でもある、という事実が、新聞による宣伝の場合に巧妙に利用された。たまたま何か名誉になることが起これば、それは自動的に人民軍のものとされ、反対に、非難すべきことがあれば、それはことごとく義勇軍に向けられた。そういうわけで、ときによると、同じ部隊がある立場からは賞められ、別の立場からはくさされる、ということさえあった。
しかし、これらのことは全部ぬきにしても、社会的雰囲気の驚くべき変化があった――といっても、これは実際に体験しないと、なかなかピンと来ないかもしれない。はじめてバルセロナへいったとき、私は、ここは社会的階級差や著しい貧富の差のほとんどない町なのか、と思った。たしかにそのような町に見えたのだ。「スマートな」身なりなどは異常で、ぺこぺこしたりチップを受け取ったりするものはひとりもいなかった。給仕も花売り女も靴磨きも、客の顔をまともに見て「同志《コムラード》」と呼んだ。これが、もっぱら希望と偽装《カモフラージ》のまざり合ったものであることが、私にはつかめなかったのだ。労働者階級は、始まりはしたものの、いまだに強化されない革命の実現を確信し、いっぽう富裕階級《ブルジョワジー》は、おびえて一時的に労働者のふうを装っていたのだった。革命の最初の数か月間は、身の安全を守るためにわざと上っぱりを着て、革命的スローガンを叫ぶ人びとが、きっと何千人もいたにちがいない。今は事態がもとに帰りつつあるのだ。ハイカラなレストランやホテルは、高価な食事をむさぼり食う金持ち運中でいっぱいだった。いっぽう、労働者階級の一般大衆にとって、食糧品の値段は飛躍的にはね上がったのに、賃金のほうはそれに応じて上がりはしないのだった。あらゆる物価の値上がりは別として、あれこれの物資がまた払底しだした。これが金持ちよりむしろ貧乏人に打撃となったことはいうまでもない。レストランやホテルが必要だと思うものは、何でも苦もなく手に入るようなのに、労働者の住んでいる街では、パンやオリーブ油やそのほかの生活必需品を買うための行列が、数百ヤードも続いた。この前バルセロナに来たときには、こじきがいないのに感心したのだったが、今ではこじきがうようよいるようになった。ランブラス通りの上手《かみて》にある食料品店の外には、はだしの子供たちの群れがいつでもたむろしていて、だれかが店から出てくると、わっとそのまわりに群がって、口ぐちに食料品の切れっぱしをくれとせがむのだった。
「革命的な」言葉づかいはしだいに使われなくなっていた。今では、見知らぬ人から「君《トゥ》」とか「同志《コムラード》」とかいうふうに話しかけられることはほとんどなくなった。「旦那《セニョール》」と「|あなた《ウステ》」がふつうとなった。「敬礼《サルド》」のかわりに、「|今日は《ブエノス・ディアス》」が復活しはじめていた。給仕たちは、もとのように、胸部をのりで固めた礼装用ワイシャツを着だした。商店の店員たちも、例によってぺこぺこするようになった。妻と私は、ランブラス通りのとある紳士洋品店へ靴下を買いにいった。その店の店員は、今から二、三十年前にははやったのだろうが今日ではイギリスでさえすたれてしまったようなものごしで、頭をぺこぺこ下げ、手をもみ合わせるのだった。かげでこっそりとではあったが、チップをやる習慣もよみがえりつつあった。労働者の巡邏《パトロール》隊は命令によって解散させられ、街には戦前の警察力が復活した。その結果起こったことのひとつは、労働者巡邏隊がほとんど閉鎖させていたキャバレー・ショーや高級売春宿がいち早く再開されたことである。今やすべてのことが有産階級のためになるような方向に向けられていたが、その小さいが意味深長な一例がたばこ不足だった。一般大衆にとって、たばこの不足はまったく絶望的だったので、街にはきざんだカンゾウの根をつめたたばこが出まわっていた。私も一時のんでみたことがある(ひところはたくさんの人がのんでいた)。スペインのたばこの全部が栽培されているカナリア諸島をフランコがおさえていたので、政府側に残っているたばこのストックは、戦前からのものだけだった。これは急速に減っていくため、たばこ屋は一週間にたった一度店を開くだけだった。長い行列を作って二時間も待ったあげく、運がよければ四分の三オンスのたばこの箱が手に入るのだった。理論上では、政府は海外からたばこを輸入することを許していなかった。それを許せば、武器やその他の必需品を購入するためにとっておかなければならない正貨準備高を減らすことになったからである。ところが実際には、比較的高級な外国たばこラッキー・ストライクなどの密輸入品がたえず出まわっていて、これが暴利をむさぼる絶好の機会となっていた。一箱十ペセタ(これは義勇兵の一日分の給料に等しい)払うだけのゆとりさえあれば、ハイカラなホテルではおおっぴらに、いや街頭でだってほぼ同じほどおおっぴらに、密輸たばこが手に入るのだった。密輸は、金持ち連中には都合がよかったので黙認された。
金さえふんだんにあれば、どんなものでも、どれだけでも手に入れることができた。おそらくパンだけが例外で、これはかなり厳しく額を決めて配給された。このようなはっきりした貧富の差は、労働者階級がまだ政権を握っていた、いや、握っているように見えた数か月前には、とうてい考えられないことだった。しかし、この貧富の差が、もっぱら政権の移動によるものと見るのは、公平な見方とはいえない。それは、ひとつには、バルセロナの生活が安全になったせいでもあった。というのは、ここでは時おりの空襲のほかには、戦争を意識させるものは何もなかったからだ。マドリードからやって来たものの話では、あそこは全然ちがう、ということだった。マドリードでは、ほとんどあらゆる種類の人びとが、共通の危険のためにいやおうなしにある同志愛を持たないわけにはいかなかったのだ。子供たちがパンをおくれとせがんでいるいっぽうで、でっぷり太った男がウズラを食っているなんて情景は、まったくもってやりきれないが、銃声の聞こえるようなところでは、どうもあまり見かけないようだ。
市街戦の一、二日あとで、繁華街のどれかを歩いていたら、目玉の飛び出るような値段のついた、とび切り上等のパイ、タルトの類や、ボンボンをウィンドーにずらりと並ベているお菓子屋があったのをおぼえている。それは「ボンド街《ストリート》」〔ロンドンの高級商店街〕とか「|平和通り《リュー・ド・ラ・ペ》」〔パリの高級商店街〕で見かけるような店だった。そのとき私は、戦争によって痛めつけられ飢えた国で、なおかつ、そんなものに金が無駄使いされているのか、と漠然とした恐怖を感じたり、あきれかえったりしたのをおぼえている。といっても、私は、自分がほかの人たちよりすぐれた人格者だ、とうぬぼれる気はもうとうない。何しろ数か月間不便な生活を続けたあとだったので、上等の食事、ぶどう酒、カクテル、アメリカたばこなどがむしょうに欲しく、打ちあけて言えば、自分の持っている金でできるかぎりのぜいたくにふけったのだった。
市街戦の始まる前のあの一週間のあいだは、私は、しなければならないなと思うことをいくつかかかえていたが、いざ実行となると、それらが互いにおかしなぐあいに作用し合うのだった。まず第一に、今も述べたとおり、私はできるだけのぜいたくをするのに忙しかった。第二に、食べ過ぎと飲み過ぎのために、私はその週ずっとからだの調子がちょっとおかしかった。どうも気分があまりよくないな、と思って半日ほどベッドに入り、起き出してまた食べ過ぎ、また気分が悪くなる、といったあんばいだった。それと同時に、私は回転式連発拳銃《リヴォルヴァ》を一挺手に入れようと、ひそかにいろいろと手をまわしていた。それがほしくてほしくてたまらなかったのだ――塹壕戦では小銃なんかよりもっと役にたつからだ――が、いざ手に入れるとなるとなかなかたいへんだった。政府は警官や人民軍の将校たちには拳銃を支給したが、義勇軍への支給は拒否していた。となるとアナーキストの秘密の店から、非合法的に手に入れるより仕方がなかった。すったもんだのあげく、アナーキストの友人が、どうにかちっぽけな自動拳銃を一挺世話してくれた。五ヤード以上離れると役にたたないみじめなしろものだったが、それでもないよりはましだった。こういったことのほかに、私はPOUM義勇軍を離れ、必ず私をマドリード戦線へ派遣してくれるような、どこかほかの部隊に入る予備交渉をしていた。
私は、ずっと前から、みんなに、おれはそのうちにPOUMを離れるつもりだ、と言ってきた。純粋な自分の好みからいえば、私はアナーキスト軍に入りたかった。CNT(全国労働者同盟)の一員になれば、FAI(イベリア・アナーキスト連盟)義勇軍に入隊することができたが、FAIだとマドリードよりむしろテルエル〔同名の地方の主要都市〕へ派遣されそうだよ、と教えられた。マドリードへ行きたいということになれば、国際旅団に入らなければならなかったが、それには共産党のだれかの推薦状が必要だった。私は、スペイン派遣医療援助団に所属している共産党の友人を捜し出して、自分の希望を述べた。彼は、私の入隊にたいへん乗り気な様子で、もしできれば、独立労働党《ILP》のほかのイギリス人に、何人でもいいからいっしょに入るように勧めてみてくれないか、と私に頼んだ。もし健康状態がもっとよかったら、おそらく私は二つ返事で承諾していたと思う。もし承諾していたら、その結果がどんなにちがったふうになっていたかは、今となっては言うのはむずかしい。たぶん、バルセロナの市街戦が始まる前に、アルバセーテへ派遣されていたであろう。そうなれば、あの市街戦をすぐ近くからながめることにはならなかったわけだから、それについての公的な説明を、額面どおりに受け取っていたであろう。反対に、もしあの戦闘のあいだ私がバルセロナにとどまっていて、共産党の命令を受けながらも個人的には依然としてPOUMの同志たちに対して忠誠心を持ち続けているとしたら、そのような立場はとうてい成り立たなかったであろう。しかし、私には割り当てられた休暇がもう一週間あったので、前線に帰る前に何はともあれ、健康を回復しておきたかった。それに――いつでも人の運命を左右する決め手となるのは、このようなちょっとした事件なのだが――靴屋に注文した新しい行軍用長靴ができ上がるまで待っていなければならなかった(全スペイン陸軍は、私の足に合うだけの大きさの靴を、とうとう一足も作ってくれなかった)。私は、共産党員である例の友人に、はっきりした取り決めはもう少しあとにしたい旨伝えた。そのあいだは休息したかったのだ。私たち――つまり、妻と私だが――は、二、三日海辺へいってもいいな、とさえ思っていたのだ。何ということを思いついたのだろう! あのころの政治的雰囲気では、今どきそんなことはできっこない、と当然気づいていてもいいはずだったのに。
というのは、町の外貌の裏にも、ぜいたくとしだいに深刻なものとなっていく貧困の背後にも、花屋が露天の店を出し、多色刷りの旗や宣伝ポスターが掲げられ、群衆で混雑している、一見はなやかな大通りのかげにも、たしかに、恐ろしい政治的相剋と憎悪の念がひそんでいたからである。ありとあらゆる種類の意見をもった人びとがみんな、予言めいた口調で「近いうちにめんどうなことが起こるぞ」と言っていた。その危険というのは、まったく単純でわかりきったものだった。つまり、革命をおし進めようとする人たちと、革命を阻止し、これを妨害しようとする人たちとのあいだの――結局はアナーキストと共産主義者《コミュニスト》とのあいだの――反目だった。政治的に見れば、今やカタロニア地方にはPSUCとその一派の自由主義連合のほかに、権力は存在しなかった。しかし、これに対立するものとして勢力のはっきりしないCNT(全国労働者同盟)があった。これは、武装も対立している相手ほど完全ではなかったし、抱負もそれほどはっきりしたものではなかったが、何しろ数が多く、いろいろな基幹産業を牛耳っているため、無視できない力をもっていた。これだけの役者がそろえば、もんちゃくが起こらないほうがむしろふしぎだった。PSUCに支配されているカタロニア自治政府から見れば、自らの地位を安定したものにするため、何をおいてもまずやらなければならないのは、CNTの労働者たちの手から武器をもぎ取ることであった。前にも述べたように、政党義勇軍を解体させようとする動きは、根底においてはこの目的のための策略なのだった。同時に、戦前からの武装警察力である治安警備隊などがもとどおりに復活され、しかも著しく増強され、武装を強化されつつあった。考えられるその意図は、ただひとつである。とくに治安警備隊は、ヨーロッパ大陸|型《タイプ》のふつうの憲兵隊で、これまで一世紀近くのあいだ、有産階級の用心棒の役を果たしてきたのだ。いっぽう、個人の所有するいっさいの武器は提出せよ、という法令が発せられていた。当然のことだが、この法令は守られていなかった。アナーキストたちの手から武器を取り上げようとすれば、実力でやるよりほかに手がないことは明らかだった。この時期を通じて、カタロニア地方全域にわたって小ぜり合いが起こっているといううわさが流れていた。もっともそのうわさは、新聞の検閲のため漠然としており、しかもつじつまの合わないところもあった。各地で、武装警官隊がアナーキストの拠点に攻撃を加えた、というのだった。
フランスとの国境のプイグセルダ〔バルセロナの北方〕には、前からアナーキストが支配している税関を奪取するために、密輸監視兵《カラピネロ》の一隊がさし向けられ、有名なアナーキスト、アントニオ・マルティンが殺害された。フィゲラス〔プイグセルダの東方、バルセロナからは東北方にある都市〕でも同じような事件が起こっていたが、おそらくタラゴナでも同じだったと思う。バルセロナでは、労働者階級の住んでいる郊外地区で、あまりおおやけにならないけんか騒ぎが連続的に起こっていた。しばらく前から、CNTの組合員とUGTの組合員とが互いに殺し合いをくり返していたが、こうした殺人事件のあとには、よくおおげさで挑発的な葬儀が行なわれた。この葬儀は、政治的な憎悪をかきたてるための、まったく計画的な意図によるものだった。少し前のことだが、CNTの一員が殺害された。するとCNTは、その葬儀の行列に何十万という人数を動員したことがあった。四月末の、私がバルセロナに帰った直後に、UGTの有力な一員であるロルダンが、おそらくCNTのだれかの手にかかって殺された。政府は全商店の閉店を命じ、おもに人民軍より構成されている長大な葬儀の行列をはなばなしく繰り出したが、その行列は一定の地点を通過するのに二時間もかかったのだった。私はホテルの窓から、冷やかにその行列をながめていた。いわゆる葬儀というものも、つまるところ勢力の誇示にすぎないことは見えすいている。この種の示威行為がもう一歩高ずればすぐさま流血の惨事になりかねないのだ。その晩、妻と私は、一、二百ヤード離れた「|カタロニア広場《プラザ・カタルーニャ》」から聞こえてくる一斉射撃の銃声で目がさめた。あくる朝になって、CNTの組合員がおそらくUGTのだれかに殺《や》られたらしい、ということがわかった。これらすべての殺人事件が、挑発者の手先のしわざかもしれないことは、もちろん、じゅうぶん考えられるところだった。共産主義者とアナーキストとの反目に対する外国の資本家側の新聞の態度は、ロルダン殺害事件が広く報道されたにもかかわらず、それに対する報復殺人事件のほうは、ことさら発表が抑えられたという事実によっても、うかがい知ることができよう。
五月一日が迫ってきて、CNTとUGTの双方が参加する巨大なデモのことが話題になった。CNTの幹部連中は、たいていの一般組合員より穏健だったので、UGTとの和解をはかるため、長いあいだ努力を重ねていた。実際のところ、彼らの政策の基調は、そのふたつの組合|連合《ブロック》を合併して、ひとつの巨大な連合体を作ることであった。その具体的な計画というのは、CNTとUGTとがいっしょに行進して、その団結を誇示することだった。ところが、どたん場ぎりぎりになって、その示威《デモ》行進は取りやめになった。そんな示威行進は、やってもただ暴動の原因になるだけであることが、あまりにもはっきりしていたからである。そのようなわけで、五月一日には何も行なわれなかった。それは何とも奇妙なぐあいだった。いわゆる革命の町バルセロナは、ファシスト化されていないヨーロッパの中で、その日に何の祝典もしなかった、おそらく、ただひとつの都市だったであろう。しかし、正直なところ、私はちょっとほっとしたのだった。独立労働党《ILP》の派遣団は、POUMの隊列に加わって行進することになっていたので、だれもがひともんちゃくを覚悟していたのだ。とはいっても、私としては、無意味な市街戦にだけは何としても巻き込まれたくない、という気持ちだった。高尚なスローガンを大書した赤旗を先頭に街頭行進をしているまっさい中に、高いビルの窓から、顔も知らないだれかに短機関銃《サブ・マシンガン》で殺《や》られるなんて――これが役にたつ死に方だとは、私には思われない。
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第十章
五月三日の正午ごろだった。ホテルの休憩室を通りかかった友人が、さりげなく言った。「どうも電話交換局で何かごたごたが起こっているらしいぜ」そのときは、私は何となくききながしてしまった。
その日の午後、三時から四時のあいだに、ランブラス通りの中ほどあたりを歩いていたとき、私は後ろで数発の銃声を耳にした。ふり返って見ると、手に手に銃を握り、アナーキストの赤と黒のハンカチをくびに巻いた何人かの青年たちが、ランブラス通りから北方に通じている横町を、じりじり進んでくるところだった。彼らは、明らかに、その横町を見おろしている高い八角形の塔――教会らしかったが――に立てこもっているだれかと射ち合いをやっているのだ。私は一瞬、「始まったな!」と思った。が、たいして驚きもしなかった――それというのも、この四、五日は、みんな、「それ」がいつなんどき始まるかもしれない、という気でいたからである。
私は、すぐにホテルへ引き返して妻が無事かどうか確かめなくてはいけないな、と気がついた。ところが、横町の角のあたりにいるアナーキストの群れが、もどれ、もどれと手まねで人びとを追い返し、火線を横切っちゃいかん、とどなっているのだ。銃声がいっそう烈しくなった。塔から射ってくる銃弾が横町を越えて飛んでくるので、おびえた群衆が、銃火を避けて、ランブラス通りをいちもくさんに逃げていく。通りのあちこちで、カチン、カチンと音がする――商店主たちが、ウィンドーにスチール・シャッターをおろしているのだ。人民軍の将校がふたり、連発拳銃に手をあてながら、注意深く木から木をつたって退却していくのを見た。私の前で、群衆が避難するために、ランブラス通りの中央にある地下鉄の駅へどっとなだれこんでいく。とっさに、私はその流れについていかないことに決めた。何時間も地下にかんづめになるかもしれないからだ。ちょうどこのとき、前線でいっしょだったアメリカ人の医者がとんで来て、私の腕をぐいとつかんだ。ひどく興奮している。
「早いこと来い、ファルコン・ホテルへいかなくちゃならん(ファルコン・ホテルというのは、POUMのもっている寄宿舎のようなところで、おもに休暇中の義勇兵が使っていた)。POUMの連中が集まることになってる。ごたごたがおっぱじまったんだ。おれたちは団結しなくちゃいかん」
「でも、いったい何ごとなんだ?」と私はきいた。
彼は、ただ私の腕をつかんでぐいぐい引っぱっていく。ひどく興奮しているので、とてもつじつまの合った説明など聞けそうにもない。どうやら、彼が「|カタロニア広場《プラザ・カタルーニャ》」にいたとき、数台のトラックに分乗した武装治安警備隊が、おもにCNTの労働者の管理している電話交換局へ乗りつけ、いきなり襲撃をかけてきた、ということらしかった。やがて若干のアナーキストたちも現場にかけつけ、全面的な武力衝突になったのだった。私の推測だが、お昼ごろの「ごたごた」というのは、電話交換局を明け渡すようにとの政府の要求で、その要求はもちろん拒否されたらしい。
彼と私が大通りを歩いていくと、向こうから一台のトラックが疾走してきて、われわれのそばを通り過ぎていった。そのトラックには、銃を手にしたアナーキストたちがいっぱい乗っていた。いちばん前には、ぼろぼろの服を着た青年が、マットレスを積み上げた上に腹ばいになって、軽機関銃をかまえていた。ランブラス通りのつきあたりにあるファルコン・ホテルに着いてみると、表玄関に大ぜいの人びとが騒いでいた。それこそ上を下への大騒ぎで、どうしたらいいのか、だれにもわからないらしかった。そして、ふだんからこのビルの警備に当たっている少数の突撃隊のほかは、だれひとり武装しているものもいなかった。私は、通りをへだてたほぼ向かいにあるPOUM地方委員会へいってみた。二階へ上がって、いつも義勇兵たちが給料をもらいにいく部屋にいくと、そこにも人が大ぜい集まってわいわい騒いでいた。三十歳ぐらいで背が高く、色白でかなりハンサムな平服の男が、騒ぎを制しながら、すみっこに山のように積んであるベルトと弾薬盒を、みんなに配っていた。小銃は、まだ一挺もないようだった。さっきの医者の姿は見えなかった――きっと、もう負傷者が出て呼び出しがかかったのだろう――が、イギリス人がもうひとりやって来ていた。やがて、奥の事務室から、さっきの背の高い男とほかの数人が、ひとかかえずつ銃を運び出して来てはみんなに配り始めた。もうひとりのイギリス人と私は、外国人だというのでちょっと疑われ、はじめはだれも銃を渡してくれなかった。そのうちに、前線で知り合いだった義勇兵がやって来て、私の身もとを確認してくれたので、私たちも、やっと小銃と插弾子《クリップ》にはさんだ弾薬を若干、不承不承に渡してもらえたのだった。遠くで銃声がひびいていて、通りには人っ子ひとり見えなかった。
ランブラス通りをさかのぼっていくのは無理だ、とみんなが言った。治安警備隊が、見はらしのきく要所要所のビルを占領していて、通る者は片っぱしから狙撃するからだった。私としては、危険を冒してもホテルへもどりたかったが、地方委員会がいつ何どき襲撃されるかもしれないから、われわれは待機しているほうがいいんだ、という漠然とした気分が広がっていた。このビルのそこでもここでも、階段の上でも、外の鋪道でも、人びとの小さな群れが興奮してしゃべっていた。が、何が起こっているのか、はっきりわかっている者は、ひとりもいないようだった。私がつかめたのは、せいぜい、治安警備隊が電話交換局を襲撃し、さらに、労働者のものとなっているほかのビルを見おろせる戦略的な要衝を、いくつか占領した、というぐらいのことだった。治安警備隊は、CNTと労働者階級全部を「目のかたき」にしている、というのが一般的な印象だった。この段階では、まだ政府を非難するものはひとりもいないようだったが、これは注意しておいたほうがよい。バルセロナの貧民階級の人たちは、治安警備隊といえば「|黒・褐色団《ブラック・アンド・タン》」〔一九二〇年六月、アイルランドの反乱鎮圧のため英国政府から派遣された約六千名の警備隊。カーキー服に黒いベルト、濃緑色の帽子をつけていたことからこの名が生まれた〕のようなものと見なしていて、もちろん、彼らのほうから積極的に攻撃をかけてきたのにきまっている、とすなおに考えているようだった。いったん事の次第を聞かされると、私はよほど心が軽くなった。問題はまったく明々白々だ。いっぽうにはCNTがひかえており、他方には警察がひかえている。私は、ブルジョワ共産主義者《コミュニスト》が心の中で描いているような理想化された「労働者」は、とくに好きなわけでも何でもないが、ほんとうの生身の労働者が、生まれながらの敵である警察と戦っているのを見れば、自分がどっちに味方するかは、あらためて自分の心にきくまでもない。
だいぶ時間がたったが、われわれのいるこの町はずれでは、何事も起こりそうになかった。ホテルに電話して、妻の安否を確かめることだってできたのに、私にはそれが思いつかなかった。電話交換局は、当然業務を停止しているもの、と思いこんでいたのだ――ところが、実際は、ほんの二時間ほど業務が中断しただけのことだった。このふたつのビルには三百人ほどの人がいるようだった。そのほとんどが、波止場近くの裏町から逃げて来た最下層の貧民たちで、女も大ぜいいる。中には、赤ん坊を抱いているものもいる。ぼろを着た男の子の群れもまじっている。おそらく大部分のものは、何事が起こったのか見当もつかずに、ただ危険を避けてPOUMのビルに逃げこんで来ただけだったのだろう。そのほかに、休暇中の義勇兵がたくさんいたし、外国人の顔もちらほら見えた。大まかに数えてみたところでは、われわれ全員のあいだに銃はわずか六十挺ぐらいしかなかった。二階の事務室へは、ひっきりなしに大ぜいの人びとがつめかけて銃をよこせとかけ合っていたが、もう一挺も残っていない、という返事だった。義勇軍の少年兵たちは、万事を行楽《ピクニック》か何かみたいに思っているらしく、あちこちほっつきまわっては、銃を持っている者を見ると、うまくだましてそれをまきあげたり、盗んだりするのだった。しばらくすると、そんな連中のひとりが、何かうまいことを言って私の銃をまきあげ、そそくさと姿を消してしまった。というわけで、私は、またもとのとおり、私物のちっぽけな自動拳銃《ピストル》のほかは丸腰になってしまった。そして、そのピストルの弾薬も、插弾子《クリップ》にはさんだのがたったひとつあるきりだった。
日が暮れて、私はおなかがすいてきたが、見たところ「ファルコン」には食べるものは何もないようだった。友人と私は、ここからあまり遠くない彼のホテルへいって、何か夕食にありつこうと、こっそり外に出た。通りはまっ暗でシーンと静まりかえり、人の気配もなかった。どの店もウィンドーのスチール・シャッターをおろしていたが、バリケードはまだできていなかった。目ざすホテルは、鍵をかけかんぬきまでさしてあったので、中へ入れてもらうのにひと騒ぎだった。もとのビルにもどってから、電話交換局がまともに営業していることがわかったので、妻に電話しようと思って、二階の事務所へ電話を借りにいった。奇妙なことに、このビルには電話帳がなかったので、コンティネンタル・ホテルの番号がわからなかった。部屋から部屋へと一時間近くも捜しまわったあげく、やっとその番号の出ている旅行案内を見つけた。妻と直接連絡はとれなかったが、バルセロナ駐在の独立労働党《ILP》代表のジョン・マックネアをどうにかつかまえることができた。彼は、全員無事で射たれたものはいない、と教えてくれ、逆に、地方委員会の君たちのほうは大丈夫か、ときき返した。それに対して、私は、たばこが少しあれば、いうことなしなんだが、と答えた。もちろん冗談のつもりだった。ところが、三十分ほどすると、マックネアはラッキー・ストライクを二箱持って、わざわざやって来てくれた。鼻をつままれてもわからぬまっ暗やみの大通りで、うろうろしているアナーキストの巡邏《パトロール》隊に二度もピストルをつきつけられ、身分証明書を調べられたのに、それをものともせずにやって来てくれたのだった。このささやかな英雄的行為を、私は忘れないだろう。持ってきてくれたたばこには、みんな大喜びだった。
ほとんどの窓には武装した番兵が配置され、下の通りでは、突撃隊員《ショック・トルーパーズ》の小さな一団が、時おり通る人を呼び止めては尋問している。アナーキストのパトロール・カーが一台、武器を満載してやって来た。運転手のそばに、十八歳ぐらいの髪の黒いきれいな娘《こ》がひとり、膝の上に短機関銃をしっかりとかかえてすわっている。私は長いことそのビルの内部《なか》をぶらぶら歩きまわってみたが、何しろひどくまとまりの悪い建物で、どうにも間取りがつかめなかった。どこへいっても、珍しくもないがらくたもの、革命にはつきもののこわれた家具だとか、破れた紙切れなどが散乱している。そこいらじゅうに人びとが眠っている。廊下のこわれたソファーの上では、波止場からやって来た貧しい女がふたり、安らかないびきをかいている。このビルは、POUMが接収する前はキャバレー劇場だったのだ。いくつかの部屋には一段と高くなった舞台《ステージ》があり、おんぼろのグランド・ピアノがのっかっているところもある。
とうとう目ざすものがみつかった――武器庫だ。この事件がこれから先どうなっていくのかわからないので、私は、何としても武器がほしかったのだ。PSUCも、POUMも、CNT――FAIも、対立し合っている各政党が、みんな同じようにバルセロナに武器を隠匿している、としょっ中きかされていたので、私は、POUMの主要なふたつのビルに、さっき見たように、銃がわずか五、六十挺しかおいてないなんて、とうてい信じられなかったのだ。武器庫になっている部屋には、番人もおらず、ドアもうすっぺらなものだったので、例のイギリス人と私は、苦もなくそれをこじ開けた。内部《なか》へ入ってみると、さっき言われたとおりなのに気がついた――武器は、もうほんとうに|なかった《ヽヽヽヽ》のだ。目ぼしいものは、といえば、ひどく旧式の小口径の小銃が約二十四、五挺あまり、それに散弾銃が三、四挺だったが、そのどれにも弾薬筒はなかった。私は事務室へ上がっていって、予備の拳銃弾はないか、ときいてみた。が、ない、ということだった。しかし、手榴弾の箱が三つ四つあった。さっきのアナーキストのパトロール・カーが運んできてくれたのだ。私は、その二発をもらって片方の弾薬盒に入れた。それは、てっぺんについているマッチのようなものをすって発火させるタイプの、とても暴発しやすいお粗末なしろものだった。
床の上には、ところきらわず人がぶざまにひっくり返って眠りこけていた。どこかの部屋で赤ん坊が泣いている。ひっきりなしに泣き続けている。もう五月だというのに、夜になると冷えこんできた。キャバレー・ステージでまだ幕が引いたままになっているところがあったので、私はそれをナイフで引き裂き、それにくるまって三、四時間眠った。こいつを下にしてあまり派手に寝返りをうつと、ドカンと空中に吹き飛ばされるかもしれないな、とあのいやな手榴弾のことが気になったらしく、よく眠れなかったのをおぼえている。午前三時ごろに、指揮官らしい例の背の高いハンサムな男が私を起こし、銃を渡して、窓のどれかの番兵に立ってくれ、と言いつけた。彼は、私に、今度の電話交換局襲撃事件の責任者である警視総監サラスが逮捕された、と話してくれた(あとでわかったのだが、ほんとうは免職になっただけのことだったのだ。しかしながら、そのニュースによって、治安警備隊が命令なしに行動したのだ、という一般的な印象はいよいよ強まった)。
夜が明けると同時に、階下の人びとは、地方委員会の前にひとつと、ファルコン・ホテルの前にもうひとつ、あわせてふたつのバリケードを作り始めた。バルセロナの通りは、真四角の石で鋪装してあるので、防壁作りはわけない仕事だった。その石の下にしいてあるのは一種の砂利だったが、これがまた土嚢につめるのにはもってこいだった。バリケード構築作業は、めったに見られないすばらしい情景だった。ほんとうに何とかして写真に撮っておきたい、と思ったくらいである。スペイン人というのは、どんなに骨の折れる仕事でも、いったん思いたって始めた場合には、まったく熱狂的なエネルギーを見せるが、今もまさにそのとおりで、男も女も、ほんとうに小さな子供たちまでもが何列にもずらりと並んで、敷石をこじ起こし、そこいらで見つけた手押し車にほうり込んで押していく。重い土嚢をかついで左右によろよろしながら運んでいく者もいる。地方委員会の玄関では、ひざボタンがちょうどくるぶしまでもくるような義勇兵のズボンをはいたユダヤ系ドイツ人の女の子が、にこにこしながら見物している。二時間ほどたつと、バリケードは頭ほどの高さになり、銃眼には小銃射手が配置された。いっぽうのバリケードの後ろでは、火をたいて、卵の目玉焼を作っている。
私の銃はまた取り上げられてしまい、役にたちそうな仕事は何もなさそうだった。もうひとりのイギリス人と私は、コンティネンタル・ホテルへ帰ることに決めた。遠くでは盛んに銃声がしていたが、ランブラス通りには射ち合っている気配もなさそうだった。途中で、われわれは食糧品マーケットをちょっとのぞいてみた。開いている屋台店はごくわずかだったので、ランブラス通りの南側にある労働者住宅地区からやって来た大ぜいの人びとがつめかけ、ごった返していた。われわれが入ったとたん、外でものすごい銃声がとどろき、屋根のガラスが何枚か粉みじんに吹っ飛んだので、群衆はわっと裏口へ殺到した。それでもまだ開いている店が二、三軒あったので、われわれは、どうにかおのおのコーヒーを一ぱいずつ飲み、山羊のミルクで作ったくさび形のチーズを一個買って、それを手榴弾の横へ押し込んだ。二、三日後になって、このチーズのおかげでとても助かった。
昨日アナーキストたちが発砲しはじめるのを見たあの街角には、もうバリケードができていた。バリケードの後ろにいる男が(私は通りの反対側を歩いていたので)、注意しろよとどなった。教会の塔に立てこもっている治安警備隊が、通りかかる者にはだれかれの見さかいなしに銃弾を浴びせかけるのだった。私は立ち止まってひと息ついてから、向かい側まで広場を一気に走り渡った。はたして、ぞっとするほどすぐそばを、銃弾が一発、バーンと飛んでいった。相変わらず道路の反対側を通りながら、POUM執行委員会のビルに近づくと、玄関に立っている何人かの突撃隊員《ショック・トルーパーズ》が、またしても口ぐちに、用心しろよとどなった――しかし、そのときは何を用心しろと言っているのかわからなかった。私とそのビルのあいだには、街路樹や新聞の売店があるので(スペインのこういった大通りは、まん中に広い歩道が通っている)、彼らの指さしているものが見えなかったのだった。私はコンティネンタル・ホテルへいって、万事異常がないことを確かめてから顔を洗い、命令を受けるために、またPOUM執行委員会ビル(通りを百ヤードほどいったところだ)へ引き返した。このころになると、いろいろな方角から聞こえてくる小銃や機関銃の咆哮は、まるで戦場のようなやかましさだった。うまいぐあいにコップを見かけたので、何をしたらいいのか、と彼にきいていると、階下でものすごい轟音がつづけざまに起こった。あまり大きな音だったので、さては野砲の砲撃を喰っているのだな、と思った。ところが、実際はなんとただの手榴弾で、石造りのビルのあいだで炸裂すると、いつもの二倍ぐらいの音になるのだった。
コップはちらと窓からのぞくと、杖を背中の後ろでピンと立てながら「調べてみよう」と言った。そして、いつもの落着きはらった態度で階段を降りていくので、私もあとに続いた。玄関のすぐ内側で、突撃隊員《ショック・トルーパーズ》の一団が、まるでボウリングでもしているように、舗道の上に手榴弾をころがしていた。手榴弾は二十ヤードほどころがって、恐ろしい耳もつんざくような音をたてて炸裂し、それが銃声とまざり合うのだった。大通りのまん中の、新聞の売店の後ろから、頭がひとつ――私がよく知っているアメリカ人の義勇兵の頭だ――それこそ、まるで見本市のココやしのように、ひょっこりのぞいていた。あとになって、やっと私は事件の真相がつかめた。POUMビルのとなりは、カフェー・モカという料理店《カフェー》で、階上がホテルになっている。昨日、二、三十名の武装した治安警備隊がそのカフェーに入っていた。ところが、射ち合いが始まったとき、彼らはいきなりその建物を占領し、バリケードを築いて内部《なか》にとじこもったのだ。ことによると、あとになってPOUM執行委員会ビルを襲撃する場合の足場として、そのカフェーを占領せよ、という命令を受けていたのかもしれない。今朝早く彼らは脱出をはかり、射ち合いが行なわれ、突撃隊員《ショック・トルーパーズ》がひとり重傷を負い、治安警備隊のほうはひとり死んだ。治安警備隊の連中はカフェーへ逃げもどったが、さっきのアメリカ人が大通りをやって来たとき、武器も持っていない彼に向かって発砲してきたのだ。アメリカ人は新聞売店の後ろへ逃げこんで難を避け、突撃隊員たちは、治安警備隊の連中を屋内へ押しもどすために、手榴弾を投げつげている、というわけなのだった。
コップは状況をちらと見て、みんなを押しのけるようにして前へ出ていった。そして、今しも歯で手榴弾のピンを引き抜こうとしている赤毛のドイツ人の突撃隊員を、ぐいと引きもどした。そして、みんなに、玄関から下がっていろ、とどなり、われわれはお互いに殺し合いは避けなくちゃならん、と数か国語で説明した。それから、つかつかと鋪道へ出ていって、治安警備隊の見ている前で、よく見ておけよとばかり、わざと自分のピストルをはずし、それを地上においた。スペイン人の義勇軍将校ふたりもそれにならった。それから、その三人は、治安警備隊負たちがひしめき合っている玄関先のほうへゆっくりと歩いていった。たとえ、二十ポンドやるから、といわれても、私にはぜったいできっこない芸当だ。三人は丸腰で、弾丸をこめた銃を握ったままあっけにとられている彼らのほうへ歩み寄った。恐怖でまっ青になったワイシャツ姿の治安警備隊員がひとり、コップと話し合いをするために外へ出て来た。彼は興奮した態度で、鋪道の上にころがっている二個の不発の手榴弾を、しきりに指さしている。コップはもどってきて、あれは処理したほうがよさそうだな、とわれわれに言った。そこにころがっていると、一般の通行人にも危険だった。突撃隊員のひとりが、その片方を銃で狙撃して炸裂させた。次にもう片方も狙ったが、これは外れた。私はその銃を借り、膝射ちでそれを狙ってぶっ放した。残念至極だが、これも外れた。その一発が、バルセロナの動乱中に私が射った唯一の弾丸だった。鋪道には、カフェー・モカの看板の割れたガラスがいちめんに散らばり、外に止めてあった二台の自動車――一台はコップの公用車だったが――は、銃弾で蜂の巣のように穴があけられ、風防ガラスは、炸裂した手榴弾によってこなごなに割られていた。
コップは、もう一度私を二階へ連れていって、状況を説明してくれた。われわれとしては、もし攻撃をしかけられれば、POUMビルは守り抜かなければならない。しかし、POUMの指導者たちは、われわれがもっぱら防御を旨とし、できうるかぎり発砲を避けるように、という指示を伝えてきているのだ。ちょうど真向かいに、ポリオラマという映画館があったが、上の階は博物館になっていて、屋上は、そこいらの屋根の平均的な高さよりぐっと高くなっており、そこに、双生児《ふたご》型の円屋根《ドーム》のついた小さな天文台があった。その円屋根からは、大通りを見おろすことができるので、二、三名が銃を持ってそこに立てこもれば、POUMビルに対するどのような攻撃も食いとめることができた。その映画館の管理人は、CNTの組合員だったので、われわれを自由に出入りさせてくれた。カフェー・モカに立てこもっている治安警備隊とのいざこざは、まったくなかった。戦闘をしかけてくる気は少しもなく、殺したり殺されたりしないですめば、それでじゅうぶん満足なのだった。われわれが狙撃されるか、こちらのビルが襲撃されるかしないかぎり、こちらから発砲してはならない、という命令を受けているのだ、とコップは何度も何度もくり返した。別に、彼が口に出して言ったわけではなかったが、POUMの幹部たちは、この事件にまきこまれるのを腹だたしく思いながらも、CNTに味方してやらないわけにはいかない、という気持ちでいるものと私は推測した。
例の天文台には、もう警備員が配置されていた。それから三日三晩、私は、食事にホテルまでひと走り出かけた短い時間を除いて、ずっと「ポリオラマ」の屋上につめていた。危険なことは何もなかったし、つらいといっても、せいぜいおなかがすくことと退屈なことぐらいだったけれども、私の生涯のうちで、もっともやりきれない時期のひとつだった。
私は、これらすべてのばかばかしさにただあきれかえりながら、屋上にすわっていたものだった。天文台の小さな窓からは、数マイル四方を見渡すことができた――丈の高いビルや、ガラスの円屋根《ドーム》や、きらきらした緑色と銅《あかがね》色のタイルで葺《ふ》いた奇妙なうず巻き屋根のあるながめがどこまでも続き、はるか東のはてに、うす青色の海が輝いている――それは、私がスペインへやって来てから初めて見た海だった。そして、百万の人口を擁するこの大都市全部が、一種の暴力の惰性ともいうべきもの、進展のない騒音の悪夢の中にとじこめられているのだった。日の当たる大通りには、まったく人けもなかった。バリケードや土嚢を積んだ窓から銃弾が降りそそぐほかは、何も起こらなかった。大通りを走っている自動車は一台もなかった。ランブラス通りのあちこちに、市街戦が始まったとき運転手がとび降りて逃げたときのままの市電が、立往生している。こうしているあいだも、恐ろしい音が、無数の石造りのビルにこだましながら、ひっきりなしに、熱帯の暴風雨《スコール》のようにきこえてくる。パン、パン、ダダダダ、ドドーン――どうかすると、弱まって二、三発の銃声になる。そうかと思うと、烈しくなって耳をつんざくような一斉射撃になることもある。ともかく昼間の明るさが続くあいだはけっしてやまず、あくる日、夜が明けると、またきちっと始まるのだった。
いったい何事が起こっているのか、だれとだれが戦っているのか、そして、どちらが勝っているのか、はじめは見きわめるのがたいへんだった。バルセロナの人たちは、市街戦にはすっかり馴れっこになっているし、市内の地理にもくわしいので、どの政党がどの大通りとどのビルを占領するかが、直観のようなものでわかるのだった。その点、外国人はまったくお手あげで、どうにもならなかった。天文台からながめていて、私は、この都市の目抜きの大通りのひとつであるランブラス通りが、境界線となっていることがわかった。ランブラス通りの右手にある労働者住宅地区は、全部、アナーキストががっちりとおさえていた。左手は曲がりくねった横町で、乱戦が続いていたが、そのあたりは、だいたいPSUCと治安警備隊の勢力下にあった。われわれの占領しているランブラス通りの北のはずれの、|カタロニア広場《プラザ・デ・カタルーニャ》のあたりは、情勢がまったく混沌としているので、それぞれのビルに政党旗でもひるがえっていないことには、どれがどうなのかさっぱりわからなかった。ここいらで断然目だっているのは、カタロニア広場を見おろしているPSUCの司令部、コロン・ホテルで、正面いっぱいにぶざまなくらいばかでっかく書いてある HOTEL COLON の終わりから二ばん目のOの字に近い窓に、広場を、まったくシラミつぶしに掃射できる機関銃が一挺すえつけてある。われわれの右手の、ランブラス通りを百ヤードほど下ったところでは、PSUCの青年同盟JSU(イギリスの青年共産党同盟に当たる)が大きなデパートを占拠していて、その土嚢を積んだ横手の窓がこの天文台と向かい合っている。彼らは、自分たちの赤旗を引きおろして、カタロニア自治州の旗をかかげている。すべてのいざこざの発生地である電話交換局には、カタロニア自治州の旗とアナーキストの旗とが並んでひるがえっている。そこでは、すでにある種の一時的な妥協が成立していて、交換業務はとどこおりなく行なわれており、そのビルからの発砲はない。
われわれの拠点のあたりは、奇妙なくらい平穏だった。カフェー・モカに立てこもっている治安警備隊は、スチール・シャッターをおろし、カフェーの家具を積みあげてバリケードを築いていた。あとになって、彼らも六人ほどわれわれの真向かいの屋上へやって来て、マットレスでもうひとつバリケードを作り、その上にカタロニア自治州の旗を立てた。しかし、彼らに射ち合いをおっ始める気がないのは、わかりきっていた。コップは、彼らと、もし彼らのほうからわれわれに向かって発砲しなければ、われわれも彼らに向かっては発砲しない、というはっきりした協定を結んできたからだ。このころになると、彼は治安警備隊の連中とすっかり仲よしになり、何回もカフェー・モカへお客によばれていった。彼らは、もちろん、そのカフェーにあった酒類を全部ぶんどっていたので、コップに、ビールを十五本お土産にくれたのだった。そのお礼に、コップは、彼らがその前の日に、どうかしてなくしてしまった銃のうめあわせとして、われわれの銃を一挺ほんとに彼らにくれてやった。それなのに、屋上にこうしてすわっているのは変な感じだった。
どうかすると、すべてのことがただわずらわしくなり、耳ざわりな騒音も気にかけないで、運よく二、三日前に買い込んでおいたペンギン双書の続き物を、何時間も読みふけったものだった。そうかと思うと、五十ヤード離れたところから私を見つめている武装した連中が気になって仕方がないこともあった。またあの塹壕生活にもどったような感じだった。私は、これまでのくせで、つい口をすべらし、治安警備隊のことをうっかり「ファシスト」と呼んだことも何回かあった。円屋根《ドーム》には、ふつう六人ぐらいがつめていた。観測塔のおのおのにひとりずつ配置し、残りは下の鉛屋根の上にすわっていた。そこは、石の手すりのほかには、身をかくすものが何にもなかった。治安警備隊が、いつなんどき、電話で発砲せよという命令を受けるかもしれないことは、じゅうぶんわかっていた。事前にこちらへ警告を与えるという約束になってはいたが、彼らが約束を守ってくれるという保証は何もなかった。しかし、ごたごたの起こりかけたのは、ほんの一度だけだった。向かいにいる治安警備隊のだれかが、片ひざついて、バリケードの後ろから発砲しはじめたのだ。それは、ちょうど私が天文台で監視に当たっていたときのことだった。私は、その男に銃を向けながらどなった。
「おーい! おれたちを射つなよ!」
「何だって?」
「おれたちを射ってはいかんぞ、そっちが射つんなら、こっちも射つぞ!」
「ちがう、ちがう! 君たちを射っているんじゃない。ほら下のあそこを見ろよ!」
彼は、銃で、こちらのビルの下を通って続いている横町をさし示した。たしかに彼の言うとおり、青い上っぱりを着た青年がひとり、銃を手にしたまま、すばやく角を曲がって逃げていくところだった。その男が、屋上の治安警備隊に向かって一発ぶっ放したらしい。
「あいつを射ったんだ。あいつのほうが先に射ってきたんだよ」(それはうそではないのだろう)「何も君たちを射つ気はないよ。おれたちだって、君らと同じただの労働者なんだから」
彼は反ファシスト式の敬礼をしたので、私も答礼した。私はどなってやった。
「ビールはもう残っていないかい?」
「ない、もう全部なくなっちまった」
その同じ日のことだった。私が窓から身を乗り出していたとき、大通りのもっと先にあるJSUビルから、これという理由もないのに、だれかがいきなり銃をかまえ、私を狙撃した。たぶん私が、射ち気をそそる的に見えたのだろう。私は射ち返しはしなかった。距離はわずか百ヤードぐらいしかなかったが、狙いはまったく外れて、弾丸は天文台の屋根にさえ当たらなかった。例によって、スペイン人の射撃のお手並みのおかげで助かったのだった。このビルからは、数回にわたって狙撃を受けた。
やりきれない発砲騒ぎはなおも続いた。が、私が自分で見たかぎり、そしてまた、人から聞いたところでも、戦闘は双方とも守勢に立ったものだった。ただ、自分のビルの内部《なか》か、バリケードの後ろにかくれたまま、相手をポン、ポン射つだけなのだ。われわれのいるところから半マイルほどいったところに、CNTとUGTのおもな事務所がいくつか、ほぼまともに向かい合っている通りがあった。その方角から聞こえてくる銃声のはげしさは、まったくものすごかった。射ち合いの終わったあくる日、私は現場の通りを通ってみたが、商店のウインドーのガラスは、まるで篩《ふるい》のようだった(バルセロナの商店は、たいていウィンドーのガラスに紙切れを十文字に貼りつけてあるので、銃弾が当たっても、こなごなになって飛び散ることはないのだ)。小銃や機関銃の射撃の轟音に、くぎりをつけるように、時おり手榴弾の炸裂音が入りまじった。そして、たしか全部で十二回だったと思うが、長い間をおいてものすごい大爆発があった。しかし、そのときは何の爆発なのか、私にはわからなかった。空から投下された爆弾のような音だったが、空襲とは考えられなかった。なにせ飛行機の飛の字もなかったからだ。あとで聞いた話では――じゅうぶん信用のおける話だと思うが――扇動分子が、全般的に音を大きくし、一般民衆の恐慌をつのらせるために、大量の爆薬を炸裂させたのだ、ということだった。しかしながら砲撃はなかった。はたして砲撃かどうかをつきとめるために、私は耳をすましていた。というのは、もし砲撃が始まったとなると、それは、事態が容易ならぬふうになりつつある、ということだからだ(市街戦では、大砲は決定的な要素なのだ)。後になると、街頭で数個中隊の砲兵による砲撃が行なわれた、という途方もない記事が新聞に出たが、どのビルに砲弾が命中したかについては、だれも指摘することはできなかった。ともかく砲声というものは、聞きなれていれば、けっしてまちがえることのないものなのだ。
ほとんど最初から食糧が不足していた。POUM執行委員会ビルにいる十五人か二十人の義勇兵たちの食糧は、ファルコン・ホテルから闇にまぎれて(というのは、治安警備隊がしょっちゅうランブラス通りを狙撃していたから)やっと運ぶ始末だったが、とてもみんなにゆきわたるほどの量ではなかったので、できるだけ多くのものが、コンティネンタル・ホテルへ食事に出かけるようにしていた。「コンティネンタル」は、多くのホテルとはちがって、CNTやUGTではなく、ヘネラリテによって「共有化」されているため、中立地域と見なされていた。市街戦が始まると同時に、このホテルには、まことに奇妙な人びとが大ぜい集まってきて超満員となった。外国のジャーナリスト、各方面の政治犯容疑者、スペイン政府に雇われているアメリカ人のパイロット、|G・P・U《ゲー・ペー・ウー》の手先といわれ、チャーリー・チャンという渾名《あだな》で、腰のバンドに回転式連発拳銃《リヴォルヴァ》と格好のいい小さな手榴弾をくっつけている、でっぷり太った人相の悪いロシア人を含めた共産党のいろいろな手先たち、ファシストの共鳴者のように見える裕福な幾組かのスペイン人家族、国際部隊から来た二、三人の負傷兵、オレンジの積荷をフランスまで運ぶ途中、市街戦のために足どめを食い、何台かのフランスの大型輸送トラックから降りてきている運転手の一団、そのほかに、大ぜいの人民軍の将校たちがいた。人民軍は、軍全体としては、市街戦のあいだじゅうずっと中立を守っていた。もっとも、兵士の中には兵営を抜け出して、個人として参加したものも多少はいたけれども。そして、事実、火曜日の朝、私はそのような連中をふたりほどPOUMのバリケードで見かけた。
食糧不足がまだ深刻化せず、新聞が憎悪をあおりたてなかった最初のうちは、この事件全体を、ひとつのいたずらと見ようとする傾向がないわけでもなかった。こんなふうなことは、バルセロナでは毎年起こっていますよ、と人びとは言うのだった。イタリア人のジャーナリストでわれわれの親友だったジョージ・ティオリが、ズボンを血まみれにしてやって来た。取材にいって鋪道で倒れているけが人に包帯をしてやっていたら、そこへ、だれかがおもしろ半分に手榴弾を投げてきた。が、いいあんばいに、ひどいけがはせずにすんだ、というのだった。バルセロナの敷石には番号を打っておいたほうがいいよ、そうすりゃ、バリケードを築いたりくずしたりするのに、ずいぶん手間がはぶけるからね、と言った彼の言葉を思い出す。また、夜の見張りのあとで、私がへとへとに疲れ、腹ぺこになり、うす汚れて帰ってきたとき、ホテルの私の部屋に、国際部隊の連中がふたりすわっていたのも思い出す。彼らの態度はまったく中立的だった。もし彼らが熱心な党員だったら、おそらく、私に転向しろ、としつこくすすめるか、私をしばりつけて、私のポケットにいくつも入っている手榴弾を奪い取るかしていただろう。ところが、彼らは、私がせっかくの休暇に屋根の上の当直をしなければならないのに、ただ同情してくれただけだった。「これはアナーキストと警察とのただのけんかさ――何でもないことなんだ」というのが、一般の態度だった。戦闘の規模は小さくはないし、負傷者の数もばかにはならないが、この事件を計画的な反乱と見る公式見解よりは、むしろ、こちらのほうが真相に近いような気がする。
情勢に変化が起こったように感じられたのは、水曜日(五月五日)ごろだった。シャッターをおろした通りは、死んだように無気味に見えた。何かの用事で外出しなければならなかった、ごくわずかな人たちだけが、白いハンカチを振りながら、あちこちをおずおずと歩いており、銃弾の飛んでこない、安全なランブラス通りのまん中の一角では、何人かの人びとが、人けのない通りに向かって、新聞の呼び売りをやっていた。火曜日には、アナーキスト系の新聞「|労働者の団結《ソリダリダード・オブレラ》」紙は、電話交換局に対する襲撃を、「けしからん挑発行為」(か、何かそんな意味の言葉だった)ときめつけていたが、水曜日になると、論調を変え、各自が自分の職場へ復帰するよう懇願しはじめた。アナーキストの幹部たちも、同じような趣旨のメッセージを放送していた。POUM系の新聞「戦闘《ラ・バターリャ》」紙の事務所は無防備だったため、電話交換局が襲撃されたのとほぼ同じころ、やはり治安警備隊によって襲撃され、占拠されてしまったが、新聞はほかの場所で印刷され、わずかな部数が配布されていた。それは、みんなに、バリケードにふみとどまるよう強く訴えかけていた。人びとは、どちらの言うことを聞いたらよいのか思い迷い、これはいったい、どんな結末になるのだろうか、と不安そうに首をかしげるのだった。
私は、今までにバリケードを離れたものが、はたしてだれかいたのかな、と疑わしく思う。だが、ほんとうの解決に到達しそうにもない無意味な戦闘に、だれもかれもうんざりしていたのだ。というのは、これがまともな規模の内戦に発展し、その結果フランコとの戦争に負けるような羽目になりはしないだろうか、とみんなが気をもんでいたからである。私は、こうした心配が各方面で口にされるのを聞いた。そのころ人びとが言っていたことから推測するかぎりでは、CNTの一般組合員の望んでいること、いや、初めから望んでいたことは、といえば、たったふたつ、つまり、電話交換局をCNTに返してもらうことと、きらわれている治安警備隊の武装解除をすることだった。もしヘネラリテが、これらふたつを実施すると約束し、さらにまた、食糧の、暴利をむさぼる販売を禁止すると約束していたならば、疑いもなく、バリケードは二時間でとり払われていたことであろう。しかし、ヘネラリテが折れて出る気のないことは、わかりきっていた。険悪なうわさが流れていた。ヴァレンシア自治州政府は、バルセロナを占領するため、六千の兵を派遣しつつあり、それを迎え撃つために、五千のアナーキストならびにPOUM軍が、すでにアラゴン戦線を出発している、というのだった。このうわさの前半だけは事実だった。天文台の塔で監視していたとき、丈の低い灰色の軍艦が港に入ってくるのを見た。船乗りあがりのダグラス・モイルは、あれはイギリス駆逐艦らしいと言った。はたしてそれらはイギリス駆逐艦だった。もっとも、われわれはもっとあとになるまで、それを知らなかったけれども。
その日の夕方、「|スペイン広場《プラザ・デ・エスパーニャ》」で四百名の治安警備隊がアナーキストに降服し、武器を引き渡した、という話をきいた。また、郊外地区(おもに労働者の住んでいるところだが)では、CNTが優勢であるというニュースももれ伝わってきた。まさに、われわれの側が勝利をおさめつつあるかに見えた。ところが、その同じ夕方、コップは私を呼び寄せ、深刻な顔つきで、たった今受け取ったばかりの情報によると、政府はPOUMを非合法化し、宣戦を布告しようとしているぞ、と話してくれた。このニュースは、私にとってショックだった。これこそ、この事件が、後になってどのように解釈されるようになるのかを、ちらと見せつけられた、そもそもの始まりだった。戦闘が終わったら、その罪は全部POUMになすりつけられそうだ、ということは、私もうすうす感づいた。何しろいちばん弱体の政党だから、いちばん手ごろないけにえになるのだ。そして、いっぽうでは、われわれの局地的な中立主義もこれで終わり、ということになるわけだ。もし政府が、われわれに戦いを挑んでくるというのなら、われわれとしては、自らを防衛するより仕方がない。そして、この執行委ビルにしても、となりの治安警備隊が、攻撃命令を受けることは目に見えている。われわれが勝つ方法は、ただひとつ、こちらから先制攻撃をかけることだ。コップは電話による命令を待っている。POUMが非合法化されたことがはっきりしたら、ただちにカフェー・モカを占領する準備をしなければならないのだ。
われわれが、ビルの防備を固めながら過ごした、長い悪夢のような夜のことを、私はおぼえている。正面玄関におろしてあるスチールの鎧戸《よろいど》に錠をかけ、その後ろに、修理に来た労働者たちがおいていった石の厚板でバリケードを築いた。われわれは武器の手持ちを調べた。向かいの「ポリオラマ」の屋上にある六挺の銃も入れて、小銃が二十一挺(そのうち一挺は故障している)、銃一挺当たり約五十発の弾薬、手榴弾が二、三ダース、あとは拳銃《ピストル》や回転式連発拳銃《リヴォルヴァ》が少しあるだけで、そのほかは何にもない。もしカフェー・モカ攻撃をやるのなら、ぜひやらせてほしい、と十二名ほどの連中が志願していた。ほとんどがドイツ人だった。やるとすれば、真夜中の何時かに屋上から攻撃をかけ、奇襲によって占領しなければならないのだ。人数は彼らのほうが多いけれども、士気はわれわれのほうが高いから、きっと強襲は成功するだろう。もっとも、必ず犠牲者は出るだろうが。このビルには、二、三枚の板チョコのほかに、食糧は何もなかった。そして「彼ら」は給水を遮断しようとしている、といううわさが広まっていた(彼らというのはだれのことなのか、わからなかった。給水施設を管理しているのは、政府かもしれず、あるいはCNTかもしれなかった――だれも知らないのだった)。われわれは、長い時間かかって、トイレの洗面器から手もとにあるバケツ、しまいには、いつかコップが治安警備隊からもらってきた、もうからになっている十五本のビールびんにいたるまで、ありとあらゆるうつわになみなみと水を入れた。
私は、ほぼ六十時間というものはろくろく眠っていなかったので、何ともいえないみじめな気分だったし、しかも、へとへとに疲れきっていた。もう夜はふけていた。人びとは、階下のバリケードの後ろの床のいたるところで眠っていた。二階にソファを入れたこぢんまりとした部屋があり、包帯所にあてることになっていた。もっとも、いうまでもないが、このビルにはヨードチンキも包帯も見つからなかった。万一看護婦がいるようになるかもしれないので、私の妻がホテルからこちらへやって来ていた。例の「モカ」に対する攻撃が始まれば、おそらく戦死することになりそうなので、死ぬ前にせめて半時間ぐらいは休みたいという気になって、ソファの上にひっくり返った。ベルトにさげていた拳銃が腰のくびれに喰いこんで、どうにも寝心地が悪かったのをおぼえている。その次におぼえているのは、ぱっと目がさめたら、妻がそばに立っていたことだ。もう真昼だった。何も起こっていなかった。政府は、まだPOUMに宣戦布告をしていなかった。給水もまだ止められていなかった。通りで散発的な銃声がするほかは、何もかも正常だった。妻の話では、とても私を起こす気がしなかったので、玄関の間の安楽椅子のどれかで眠った、とのことだった。
その日の午後は一種の休戦状態だった。銃声がやんで、びっくりするほどだしぬけに、大通りが人でいっぱいになった。二、三の商店がシャッターをあげ始め、マーケットは食糧を手に入れようとする人たちでごった返していた。そうはいっても、店の屋台はほとんどからっぽだった。しかし、市電がまだ動き出していないのが目だった。例の治安警備隊は、相変わらず「モカ」のバリケードのかげにひそんでいた。どちら側もその防備を固めたビルから撤退しなかった。だれもかれも、何とかして食糧を手に入れようと、あちこち駆けまわっている。そして、どこへいっても、心配そうな同じ質問を耳にした。「あれはもう終わったんでしょうかね? これからまた始まるんでしょうかね?」「あれ」――つまり、この戦闘――は、今では、だれかれの見さかいなしにふりかかり、われわれの力ではどうすることもできない、台風か地震なみの天災めいたものと考えられていた。そして、まさしくそのとおり、ほとんどすぐに――ほんとうはたしかに数時間の休戦だったのだが、感じでは数時間どころか数分間だった――六月の豪雨のように、突如としてすさまじい銃声がわき起こり、人びとはくもの子を散らすように逃げ散った。
スチール・シャッターがあわてて閉められ、大通りは、まるで魔法でもかけたみたいに人かげがなくなり、バリケードには人員が配置され、「あれ」がまた始まったのだった。
私は、締めつけられるような嫌悪と怒りを感じながら、屋根の上の自分の部署にもどった。このような事件に加わっている場合には、ささやかながら歴史を作るのに力をかしているわけだから、当然、歴史上の人物になったような気がしてもおかしくないはずなのだ。ところが、けっしてそんな気がしない。というのは、そういうときには、必ず肉体的なこまごまとしたことに気をとられて、ほかのすべてのことが忘れられてしまうからなのである。この市街戦のあいだを通じて、私は、何百マイルも離れたところにいるジャーナリストたちが、いとも流暢にやってのけていた、あの情勢の正確な「分析」など、ただの一度もやったことはなかった。私がもっぱら考えていたのは、このみじめな食うか食われるかの殺し合いが、正しいのか、まちがっているのか、ではなくて、ただ、あのやりきれない屋上に昼といわず夜といわずすわっていなければならないその不快や退屈、それに、しだいに深刻なものとなっていく空腹だった――というのは、われわれのうちのだれひとりとして、月曜日以来ろくろく食事らしい食事をとったものはいなかったからだ。この任務が終わりしだい、すぐに前線へ帰らなければならない、ということが、そのあいだじゅうずっと私の心を占めていた。それを思うと、むらむらと腹がたってきた。百十五日もの前線暮らしの後、何が何でも少しの休息と慰安だけはほしいというせっぱつまった気持ちで、バルセロナへもどって来たのだった。ところが、休息や慰安どころか、私と同じようにうんざりしている治安警備隊とにらみ合いながら、あけくれ屋上にすわっていなければならないのだ。彼らは、ときどき私に向かって手を振り、おれたちも「労働者」だぞ(という意味は、おれたちを射たないでくれ、ということらしい)ときっぱり断言はしているものの、命令さえ下れば、われわれに発砲しかけてくるにきまっている。これが歴史だとしたら、歴史というものはそれらしい感じのしないものだ。それは、むしろ、兵士の数が足りなくなり、ふつうの時間以上に歩哨勤務をやらなければならないような、前線でのつらい時期に似ている。雄々しいなんてものではなくて、うんざりし、眠さでぶっ倒れ、いったい何のためにこんなことをやっているのかなどはちっとも考えないで、ただ自分の持ち場についていなければならないのだ。
ホテルの内部《なか》では、戸外《そと》へ首を出して見る勇気のあるものもほとんどいないような、その雑多な連中のあいだに、疑惑にみちた恐ろしい雰囲気ができあがっていた。いろいろな人びとがスパイ恐怖症にとっつかれ、あちこちうろうろ歩きまわっては、やれ、だれそれは共産主義者のスパイだとか、やれ、だれそれはトロツキストのスパイだとか、やれ、だれそれはアナーキストのスパイだとか、やれ何だとかかんだとかかげ口をたたくのだった。例のでぶっちょのロシア人のスパイは、外国人の避難客と見ると、片っぱしからつかまえて、この事件は全面的にアナーキストの陰謀なのだ、とまことしやかに説明していた。
私は、多少興味をもってこの男を観察していた。というのは、うそをつくのを商売にしている人物――ジャーナリストは別として――を見たのは、それが初めてだったからだ。銃声のとどろくまっただなかの、シャッターをおろした窓の後ろで依然として行なわれている、茶番劇のようなハイカラなホテル生活には、何となく反発を感じさせるものがあった。大通りに面した食堂は、窓から銃弾が一発飛び込んで来て柱を削ったことがあってからは使われなくなり、お客たちは、とうていみんながすわれるだけのテーブルもない、奥のうす暗い部屋にひしめき合っていた。給仕の数も減っており――彼らの中にはCNTの組合員がいて、ゼネ・ストに参加していたのだ――胸を糊で固くした礼装用のワイシャツも、今のところは廃止されていたが、それでも、食事はまだ多少形式ばって出されていた。しかし、実際には、食べるものが何もなかった。その木曜日の晩の正餐《ディナー》のおもな料理というのは、各自に|一匹ずつの《ヽヽヽヽヽ》イワシだった。ホテルには、もう何日もパンのない日が続き、ぶどう酒でさえ著しく不足して来たので、しだいに古いもの、古いものと飲まされるようになったが、そのくせ、値段のほうはどんどん高くなっていくのだった。この食糧不足は、市街戦が終わったあとも数日間続いた。今もおぼえているが、たしか引き続き三日間、私も妻も、パンもなければ飲みものもない、やぎ乳で作ったちっぽけなチーズひと切れだけで朝食をすませたことがあった。ただひとつ、ふんだんにあるのはオレンジだった。例のフランス人のトラックの運転手たちが、トラックに積んでいたたくさんのオレンジをホテルに持ち込んだのだ。たくましい顔つきの連中で、けばけばしいスペイン娘を何人かと、黒いシャツを着た大男のかつぎ人足をひとり連れていた。ほかのときなら、ちょっぴり気取り屋のホテルの支配人が、これでもか、これでもかとばかり居づらくし、実際に、彼らのホテル内立ち入りをも禁止しているところだった。ところが、連中はわれわれとはちがって、自分たち用のパンの手持ちを持っており、みんながせがんでそれをゆずってもらっていたので、このときばかりは人気ものだった。
その最後の晩も、私は屋上で過ごした。そして、そのあくる日は、ほんとに射ち合いが終わったかに見えた。その日――つまり金曜日――は、たいした射ち合いがなかったように思う。ヴァレンシアからやってくるという部隊が、ほんとにやってくるのかどうか、はっきり知っているものはいないようだったが、その晩、彼らは実際に到着した。政府は、ラジオを通して、すべての人に家へ帰るよう呼びかけるいっぽう、一定の時間後に、武器を携帯している者は、見つけしだい逮捕する、という宣言もして、なだめ半分おどかし半分の放送を流していた。政府の放送をあまり気にとめているものはいなかったが、いたるところで、バリケードから人が脱落していった。しかし、これは、おもに、食糧不足のせいだったのだと私は思う。あらゆる方面で「もう食糧がない。われわれは仕事にもどらなければならない」という同じ言葉を聞いた。いっぽう、治安警備隊のほうは、町に食糧があるかぎり、糧食の支給をあてにすることができるので、自分たちの持ち場にふみとどまっていることができた。放置されたバリケードはまだ立っていたが、昼すぎまでに、町の通りはほとんど正常にもどっていた。ランブラス通りには人びとがあふれ、商店もほぼ全部店を開いた。そして――何より心丈夫だったことには――まるで凍りついた固まりのように、あんなに長いこと止まっていた市電が、いきなり動き出し、走り始めたのだった。治安警備隊は、まだカフェー・モカを占領し続けており、バリケードもまだ取りこわしてはいなかったが、彼らの中には、鋪道へ椅子を持ち出して、銃を膝に横たえながらすわっているものもいた。私が通りすがりに、そのだれかにウインクしたら、相手は、まんざらでもない顔でにやりと笑い返した。もちろん、やっこさんは私をおぼえていたのだ。電話交換局の上にあがっていたアナーキストの旗が引きおろされ、カタロニアの旗だけがひるがえっている。それは、労働者の決定的な敗北を意味するものであった。政府がもう少し自信を持つようになったら、報復が始まるだろう、というぐらいのことは私にもわかっていた――そうはいっても、何ぶん政治的には無知だったため、それほど実感的にわかっていたわけではなかった。しかし、そのころの私は、事件のそういった面に興味がもてなかったのだ。私が感じたのは、せいぜい、耳ざわりな銃声がしなくなって、食糧を買うことができるようになった、やれやれ、これで前線に帰る前に、多少の休息と心の安らぎを味わうことができるな、という深い安心感ぐらいのものだった。
ヴァレンシアからやって来た部隊が、初めて街頭に姿を見せたのは、たしかその晩おそくだった。彼らは、治安警備隊や密輸監視兵《カラピネロ》と似た(つまり、警察活動を第一の任務とするような)もうひとつの組織である親衛突撃隊《アソルト・ガーズ》、ならびに共和政府の精鋭部隊だった。それは、まったく突然に地面の中から湧いて出たみたいだった。どこへいっても、彼らが十人ずつのグループになって、町の通りを警邏《パトロール》しているのを見かけた――灰色か青色の制服を着た背の高い連中で、長い小銃を負い革で肩にかけ、どのグループも短機関銃《サブ・マシン・ガン》を一挺ずつ装備していた。
ところで、ややこしい仕事がひとつ残っていた。われわれが、例の天文台で警備に使っていた銃が六挺、まだそこに置いたままだったので、何とかしてPOUMビルまで持ってこなければならなくなったのだ。要するに、その銃を、通りの向こうからこちらまで運ぶというだけの問題だった。その銃というのは、そのビルの配備兵器の一部なのだ。だが、それらを通りへ持ち出すということになれば、政府の命令に違反することになり、もし銃を持っている現場を抑えられれば、逮捕されるのは確実だった――いや、もっと悪いことに、銃が没収されるのだ。ビルには、わずか二十一挺しか銃がないのに、そのうちの六挺を取られるのは痛い。どうやって運んできたらいちばんいいかについて、さんざん話し合ったあげく、赤毛のスペイン少年ひとりと私とで、こっそりその持ち出しにとりかかった。親衛突撃隊《アソルト・ガーズ》のパトロールの目をくらますのは、わけもないことだったが、ただ問題は「モカ」に立てこもっている治安警備隊のほうだった。彼らは、われわれが天文台に銃をおいていたのを知っているので、もし銃を運んでいる現場を見たら、騒ぎたてるかもしれないからだ。私とその少年は、それぞれ洋服を一部脱ぎ、左肩から銃をさげ、床尾《しょうび》をわきの下へ入れ、銃身をズボンの脚のほうへ入れた。あいにくその銃は長いモーゼルだった。いくら私のようなのっぽでも、長いモーゼル銃を入れてズボンをはけば、どうしたって愉快なんてものじゃない。左脚を完全にピーンとつっ張ったままで天文台のらせん階段を降りていくのは、まったくもって難事業だった。いったん大通りへ出てみると、極端にのろく、つまり、膝を曲げなくてもよいほどのろく歩くよりほかにしようがないことに気がついた。映画館の外へ出て、私がカメのようにのろのろ歩いていくと、人びとが集まって、たいへんおもしろそうにながめている。あの人はどうしたんだろう、と思っただろうな、と今もたびたび考える。負傷兵なのだな、と思ってくれただろうか。しかし、それはともかく、銃は全部うまく運び出すことができた。
あくる日になると、親衛突撃隊《アソルト・ガーズ》はそこいらじゅうにうようよしていて、征服者のように大通りを歩きまわっていた。政府が、もう反抗しないとわかりきっている民衆をおどしつけるために、ただ武力を誇示しているだけであることは明らかだった。もしほんとうに反乱の起こるおそれがあったのなら、親衛突撃隊《アソルト・ガーズ》を小さな集団にわけて通りへばらまくようなことはせず、そのまま兵営に集結させておいたであろう。彼らは、私がスペインで見かけたうちでは、とびきり抜群のすばらしい部隊だった。そして、ある意味では「敵」なのだが、私は彼らの外観にほれこまずにはいられなかった。しかし、私は、彼らがあちこちぶらついているのを見て、一種驚きの念に打たれた。アラゴン戦線で、ぼろ服をまとい、兵器さえろくすっぽ与えられていない義勇兵ばかりを見なれてきた私は、共和政府がこんな軍隊を持っているなんて、ちっとも知らなかったのだ。私をひどくびっくりさせたのは、何もそれがより抜きの体格の持ち主ばかりだったということだけではない。彼らの携えている武器も、驚きの原因だったのだ。彼らは全員が、「ロシア・ライフル」と呼ばれている型の新品パリパリの小銃(ソ連によってスペインへ送られたものだったが、アメリカ製だったと思う)を持っていた。私は、その一挺を手にとって調べてみた。完全な小銃というにはほど遠いしろものではあったが、私たちが前線で使っていたおそろしく古ぼけた旧式鉄砲とくらべたら、はるかにましだった。親衛突撃隊《アソルト・ガーズ》には、十人に一挺の割り合いで短機関銃《サブ・マシン・ガン》が装備され、自動拳銃は全員に支給されていた。ところが、前線のわれわれのほうは、ほぼ五十人に一挺の割り合いで短機関銃《サブ・マシン・ガン》が装備されているだけで、ピストルや回転式連発拳銃《リヴォルヴァ》にいたっては、非合法的な手段で手に入れるより仕方がないのだった。これは、私が今まで気がつかなかっただけのことで、どこへいっても事情は当然同じだったのだろう。治安警備隊や密輸監視兵《カラピネロ》は、前線向けの部隊でも何でもないのに、われわれよりすぐれた装備をもち、はるかに上等の制服を着ていたのだ。これは、どんな戦争でも同じなのではないか、と思う――後方にいるきちんとした身なりの警察と、前線にいるぼろ服をまとった兵士たちとのあいだにみられる、いつも同じあの対照《コントラスト》なのだ。親衛突撃隊《アソルト・ガーズ》は、だいたいにおいて、来てから一、二日たつと民衆としっくりいくようになった。やって来た当日は、親衛突撃隊《アソルト・ガーズ》の中に挑発的な行動をとり始める――おそらく指令によるものだったのだろうが――ものがいたために、多少のいざこざがあった。徒党を組んで市電に乗りこみ、乗客の身体検査をやり、ポケットにCNT組合員証を持っていると、それを引き裂いて踏みにじるようなことをやってのけた。これがもとで、武装したアナーキストたちとのあいだに乱闘が起こり、ひとりかふたりの死者まで出たのだった。しかし、親衛突撃隊《アソルト・ガーズ》は、すぐに高圧的な態度を和らげたので、両者の関係はしだいに友好的なものとなっていった。来て一、二日後に、もう、彼らのほとんどが女の娘《こ》を手に入れていたのが人目をひいた。
バルセロナの市街戦は、ヴァレンシア政府に対して、長いあいだ狙っていた、カタロニアをもつと完全に支配するための口実を与える結果となった。労働者義勇軍は解体され、人民軍の中へ再編入されることになった。バルセロナじゅうに、スペイン共和国の旗がひるがえっていた――ファシスト軍の塹壕以外の場所で、その旗を見かけたのは、たしか初めてだった。労働者住宅地域では、バリケードがぽつぽつ取りこわされていた。というのは、バリケードは、築くよりそれを解体して石にもどす方がもっと骨が折れるからだった。PSUCビルの外にあるバリケードは、とりこわされないでそのまま残っていた。事実、六月になってもまだたくさんのバリケードが残っていた。治安警備隊は、相変わらず戦略上の要点を占領していた。CNTの拠点からは、莫大な数の武器が押収されていた。もっとも、押収をまぬがれたものもたしかに少なくはなかったけれども。「戦闘《ラ・バターリャ》」紙はまだ刊行されてはいたが、第一面がほとんど空白になってしまうくらい検閲を受けた。PSUC系の新聞は、何ら検閲を受けずに、POUMの弾圧を要求する扇動的な記事を掲げていた。POUMは仮面をかぶったファシストの組織だ、ときめつけられ、POUMを、ハンマーと鎌のついた仮面をぬいで、鉤十字《スワスティカ》のマークのついた、ぞっとするような気ちがいじみた顔を見せている男になぞらえた漫画が、PSUCの手先によって、町じゅうにばらまかれた。明らかに、バルセロナ市街戦に対する公式見解は、もう定着していた。それは、これ以後、もっぱらPOUMによって計画された「第五列」ファシストの反乱と見なされることになるのだった。
疑惑と敵意にみちたホテルの雰囲気は、市街戦の終わった今となって、いっそう悪化していた。乱れ飛ぶ非難や告発を前にして、中立的な態度をとり続けることは不可能だった。郵便業務が再開され、外国の共産党系の新聞が到着しはじめたが、市街戦に対するそれらの見解は、たんに著しく党派色の強いものであるばかりではなく、言うまでもないことながら、事実についても著しく正確さを欠くものであった。現場にいて、実際に起こったことを見た共産主義者たちの中には、事件に対して与えられている解釈にめんくらっている者もいたと思う。しかし、むろん、彼らとしても、自分たちの党の立場を擁護しないわけにはいかなかった。共産主義者である例の友人が、また私のところへやって来て、国際旅団に移る気はないか、ときいた。
私は少なからず驚いた。「君たちの方の新聞は、おれのことをファシストだ、といっているんだぜ」と私は言った。「行ったら、きっとPOUMあがりの政治的注意人物にされちまうよ」
「いや、大丈夫だよ。要するに、君はただ命令で動いただけなんだから」
私は、こんな事件のあとだから、ともかく共産主義者の支配する部隊へ移るわけにはいかない、と彼に返事しなければならなかった。転属すれば、おそかれ早かれ、スペインの労働者階級を迫害するのに利用されるかもしれないからだ。もちろん、そのような事態がいつ起こるかはわからないが、もし起こったとして、銃をとらなければならない、ということになれば、私は、労働者階級に味方して銃をとる。彼らに銃を向ける気はもうとうない。その点は、彼もよくわかってくれた。しかし、そのころから、全般的な雰囲気が変わってしまった。これまでのように、政治的に反対の立場にいると思われる人と、「意見の相違を認め合った」うえで、一ぱい飲むなどという芸当はできなくなった。ホテルの休憩室《ラウンジ》では、みにくい口論が何回も起こった。いっぽう、刑務所は、もう満員で、あふれんばかりだった。市街戦の終わったあと、アナーキスト側は、もちろん、捕虜を釈放したが、治安警備隊のほうは、釈放しなかった。その捕虜のほとんどが投獄され、たいていは、数か月間裁判もなしに拘留されっ放しだった。例によって、警察の不手ぎわのために、まったく無実な人びとまで逮捕されていた。ダグラス・トムスンが四月の初めに負傷したことは、前に述べた。その後、彼の消息がわからなくなってしまったが、これは、負傷者の場合にはよくあることだった。というのは、負傷者は、ひとつの病院から次の病院へと、転々とたらいまわしにされることが多いからだ。じつは、彼はタラゴナの病院に入院していて、あの市街戦が始まったころ、バルセロナへ送り返されたのだった。火曜日の朝、通りで彼に遇った。まわりじゅうで起こっている銃声に、すっかりうろたえていた。彼も、みんなと同じ質問をした。
「いったいぜんたい、これは何ごとなんだ?」
私は、できるだけわかりやすく説明してやった。トムスンはすぐに言った。
「おれ、これにはまじらないよ。まだ腕が痛むから。ホテルに帰ってとじこもってることにする」
彼は自分のホテルにもどったが、運の悪いことに(市街戦では、市内の地理を心得ておくことがどんなにたいせつであるか!)、そのホテルは治安警備隊の支配下にある地区にあった。そのため、治安警備隊による手入れがあり、トムスンは逮捕され、投獄され、横になる隙間もないほどぎっしりつまった監房に、八日間も拘留されたのだった。同じようなケースは、ほかにもたくさんあった。いかがわしい政治的経歴をもっている多数の外国人が、警察の追跡を受け、たえず告発を恐れながら逃げまわっていた。イタリア人とドイツ人の場合は、パスポートがなく、たいていは本国の秘密警察によって捜査中の人たちだったので、いちばん悲惨だった。そのような連中は、もし逮捕されると、フランス送りになる公算が大で、そこから、すぐにイタリアかドイツへ送還されることになるわけだ。そこにどのような恐怖が彼らを待ちうけているかは、まったく見当もつかなかった。外国婦人の中には、取り急ぎスペイン人と「結婚する」ことによって、はっきりした身分になったものも、ひとり、ふたりはあった。身分証明書を全然もっていないひとりのドイツ娘は、数日間ある男の情婦であると見せかけて、警察の目をくらましていた。彼女がその男の寝室から出てきたとき、たまたま彼女とぶつかったことがある。そのとき、そのかわいそうな娘の顔にうかんだ羞恥と苦痛の色が、今も忘れられない。もちろん、彼女は情婦でも何でもなかったのだが、私がそう思っているとでも思ったのだろう。だれもかれも、きのうまで友人だっただれかによって、秘密警察に密告されるかもしれぬというやりきれない気持ちに襲われていた。市街戦、騒音、食糧不足と睡眠不足、屋根の上にすわりながら、次の瞬間には自分が射たれるか、それとも、ほかのだれかを射たなければならないのかなどと考えている、緊張と退屈のいりまじった気持ち――あの長い悪夢が、私の神経をすっかりいらだたせてしまった。それは、ドアがバタンと鳴るたびに、さっと自分のピストルをひっつかむまでに高じていた。
土曜日の朝のことだった。外でまた騒々しい銃声が起こり、みんなが叫んだ、「また始まったぞ!」と。大通りへ飛び出してみると、何と親衛突撃隊《アソルト・ガーズ》が狂犬を射っているだけのことだった。そのころ、いや、その後数か月間も同じだが、バルセロナにいた人なら、恐怖と、疑惑と、憎悪と、新聞の検閲と、ぎゅう詰めの刑務所と、食糧を買う長い行列と、うろつきまわっている武装兵の集団などによってかもし出された、あの恐ろしい雰囲気は、だれもけっして忘れないだろう。
私は、あのバルセロナの市街戦のまっただなかにいて、どんな気がしたかを、多少でもわかっていただこうと、努力したつもりである。が、あのときの異常な雰囲気をうまく伝えることができたとは、自分でも思わない。ふり返ってみて、今も私の心にこびりついていることのひとつは、そのころ、偶然にいろいろな人びとと接触したことである。つまり、すべてのことを、たんに無意味なばか騒ぎとしか見ないような、直接戦闘に関係のない人たちを、突然、ちらと見かけたことだった。通りをひとつかふたつへだてたところで、ドン、ドン、パチ、パチと盛んに銃声がしているのに、ハイカラな洋装の婦人が、腕に買物かごをさげ、白いプードル犬を連れて、ランブラス通りをゆうゆうと歩いていくのを見かけたのは、今も忘れない。その婦人は、ひょっとするとつんぼだったのかもしれない。また、まったく人けのない|カタロニア広場《プラザ・デ・カタルーニャ》を、両手に白いハンカチを振りかざしながら走りぬけた男のこともおぼえている。さらにまた、何とかしてカタロニア広場を横切ろうと、一時間ぐらいも努力しながら、結局うまく横切れなかった、全員黒ずくめの大ぜいの人びとの群れのことも、私の記憶に残っている。彼らが、角の横町から姿をあらわすたびに、ホテル・コロンに立てこもっているPSUCの機銃手が銃撃を始めて、彼らを追い返すのだった――なぜそんなことをしたのか、私にはいまだにその理由がわからない。というのは、その黒ずくめの一団は、明らかに、武器も何も持っていなかったからだ。あとから考えてみると、あれは葬式の一団だったのかもしれない。また、例のポリオラマの上の博物館の管理人で、すべてこの事件を、ひとつの社交の機会と見なしていたらしい小柄な男のこともおぼえている。彼は、イギリス人がやって来てくれたことを、とても喜んでいた――イギリス人は、たいへん|感じ《シンパティーコ》がいい、と彼は言うのだった。紛争が終わったら、またみんなでやって来てくれ、と言う。私は、ほんとうに会いにいった。そしてまた、玄関先に避難していた、もうひとりの小男のこともおぼえている。彼は、猛烈な射ち合いが行なわれているカタロニア広場の方へ、さも愉快そうにぐいと頭を向けながら言うのだった(まるで、すてきな朝だね、とでもいうように)。「それじゃ、七月十九日がまたもどって来たんだねえ!」
それから、また、私の長靴を作ってくれた靴屋の店員たちのことも忘れない。その店へは、市街戦の前と、それが終わってからと、五月五日のつかの間の休戦のあいだに、ほんの数分間だったが行った。高級な店で、店員たちはUGTだった。いや、ひょっとすると、PSUCだったかもしれない――ともかく、政治上は私と反対の立場で、しかも、私がPOUMに勤務していることも知っていた。それにもかかわらず、彼らの態度はまったくたんたんとしたものだった。「まったく困ったもんですねえ、こんなふうなことは、ええ? それに、ひどく商売の邪魔になるんです。こいつが終わらないなんて、何て残念なことでしょうねえ! こんなことは前線だけでもうたくさんなのに!」といったあんばいだった。大ぜいの人びとが、いや、おそらくバルセロナの市民たちの大多数が、この事件のすべてに、ひとかけらの興味さえもたないで、あるいは、せいぜい空襲に感じる程度の興味しかもたないで、ながめていたにちがいない。
この章では、私は自分の個人的な経験だけを述べてきた。次の章では、もっと大きな問題――つまり、実際に何が起こったのか、そして、その結果はどうなったのか、事件の正しい側はどちらで、正しくない側はどちらか、責任を負うべきものがいるとしたら、だれなのかなど――を、自分なりにできるだけうまく論じなければならない。バルセロナの市街戦は、すでに、ずいぶん政治的に利用されているので、つとめてかたよらない見方ができるようにすることがたいせつである。この事件については、すでに、集めれば何冊もの本ができるくらいおびただしいものが書かれているが、その十のうち九までが事実に反している、と言っても過言ではあるまい。その当時おおやけにされた新聞記事のほとんどすべてが、遠くにいるジャーナリストによってでっちあげられたものであり、事実という点において不正確なだけではなく、わざとまぎらわしくされてもいる。例によって、問題の片側だけしか一般大衆の目にふれないようにしてあるのだ。あのころバルセロナにいたすべての人と同じく、私も自分の身近かで起こったことだけしか見なかったが、それでも、一般に流布しているうその多くは、じゅうぶん反駁できるだけのものを見たり聞いたりしている。もし政治的論争や、あたまがこんがらがりそうな名前(中国の戦争に出てくる将軍たちの名前とちょっと似ている)のついた政党や、その下部組織の群れなど興味がない、とおっしゃるのなら、例によって、どうか読みとばしていっていただきたい。政党間の論争の、微妙なところにまで立ち入らねばならない、というのはやりきれない。まるで、汚水だめへ飛び込むようなものだからだ。とはいっても、できうるかぎり、真実を明らかにしようという努力は必要である。遠くの町で起こったこのあさましいけんか騒ぎも、じつは、ちょっと見ただけではわからないくらい重要な事件なのだ。
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第十一章
バルセロナの市街戦について、完全に正確でかたよらない記事を手に入れることは、ぜったいに不可能であろう。というのは、必要な記録が存在しないからだ。未来の歴史家たちにとっても、おびただしい非難と政党の宣伝のほかに、手がかりになるものは何もないであろう。私自身にしても、自分の目で見たことと、信頼できると思うほかの目撃者たちから聞いたことのほかには、これという資料は持っていない。それでも、目にあまるうそのいくらかは反駁することができるし、この事件に、何か展望めいたものを与えるための便宜をはかることぐらいはできる。
まず第一に、実際に何が起こったのか?
しばらく前から、カタロニア全域にわたって、緊張状態が続いていた。共産主義者《コミュニスト》とアナーキストとのあいだの軋轢《あつれき》については、この本のもっと初めの章で、多少説明してきた。一九三七年の五月までに、事態は、すでに、何らかの種類の暴力沙汰が起こらずにはすむまいと思われる程度にまで高じていた。衝突の直接の原因は、個人の私有しているすべての武器を引き渡すように、との政府命令で、これは、労働組合員ぬきの、「非政治的な」重武装の警察力を確立しようとする決意にそった措置であった。これの狙いは、だれの目にも明らかだった。そして、また、次にくるものは、CNTによって管理されている基幹産業のいくつかを接収する措置であることも、明らかだった。そのうえ、貧富の差がしだいに大きくなり、革命は妨害されたのだという漠然とした感情が一般に広がっていたため、労働者階級のあいだには、かなりな程度の憤懣がたまっていた。五月一日に何の騒動も起こらなかったとき、多くの人びとは驚きながらも喜んだのだった。
五月三日に、政府は、内戦の勃発以来おもにCNTの労働者によって運営されてきた電話交換局を、接収しようと決意した。運営がまずく、公用電話は盗聴されている、というのがその口実だった。警視総監サラスは(それが越権行為であったのか、なかったのかはわからないが)、電話交換局ビルを占領するために、三台のトラックに分乗した武装治安警備隊を派遣したのだった。いっぽう、外の大通りは、私服の武装警官隊によって遮断された。ほぼ同じころ、治安警備隊のほかの部隊は、戦略的拠点にあるそのほかのビルをいくつか占領した。その真意はどうであったにせよ、これは、治安警備隊とPSUC(共産党・社会党連合)のCNTに対する全面攻撃の合図である、と一般に広く信じられていた。労働者の接収しているビルが襲撃されている、といううわさが町じゅうに広まり、武装したアナーキストたちが街頭に現われ、職場は放棄され、たちまち戦闘が勃発したのだった。その晩からあくる朝にかけて、町のいたるところにバリケードが築かれた。そして、五月六日の朝まで、戦闘は切れ間もなく続いた。しかしながら、その戦闘は、双方とも、おもに防衛的なものであった。ビルは包囲されはしたが、私の知るかぎりでは、襲撃されたものはひとつもなく、大砲も使用されなかった。大ざっぱに言えば、CNT=FAI=POUM勢力は、労働者階級の住んでいる郊外地区を支配し、武装警官隊とPSUCとは、町の中心部と官庁街をおさえていた。五月六日は休戦状態だったが、まもなくまた戦闘が始まった。それは、治安警備隊が早まって、CNT労働者の武装解除をやろうとしたためらしかった。しかしながら、あくる朝になると、人びとは自分から進んでバリケードを離れ始めた。五月五日の晩までは、だいたいCNTのほうが優勢で、多数の治安警備隊が降服していた。ところが、みんなが認めるような統率力をもっているものがなく、また、はっきりとした計画もなかったので――まったくの話、判断できるかぎりでは、治安警備隊を阻止しようという漠然とした決意を除けば、およそ計画らしい計画は皆無だった。CNTの公式の幹部たちは、UGTの幹部連中と協力して、すべての人に職場にもどるよう真剣に呼びかけていた。何よりも食糧が不足しかかっていたのだ。そのような状況のもとでは、だれも、戦いを続けていくための物資の支給に十二分な確信はもてなかった。五月七日の昼すぎごろまでに、事態はほとんど正常に復していた。その夜、海路ヴァレンシアから派遣された六千名の親衛突撃隊《アソルト・ガーズ》が到着して、町を鎮圧した。政府は、正規軍の所有するものを除くいっさいの武器を引き渡すように、という命令を発し、それから数日のうちに、おびただしい武器が没収された。市街戦での死傷者は、公式発表によると、死者四百人、負傷者約千人であった。死者四百人は誇張ではないかという気もするが、実際の数をつかむ方法がないので、正確なものとしておくより仕方がない。
第二に、この市街戦の影響について、である。その影響はこうこうであった、と確信をもつて言うことができないのは明らかである。あの突発的な市街戦が、市民戦争のなりゆきに、直接的な影響を及ぼしたという証拠は、何ひとつない。そうはいっても、もしあと数日も続いていたら、きっと直接的な影響がでていたことはたしかである。この市街戦は、カタロニア地方をヴァレンシアの直接的な支配下におき、義勇軍の解体を促進し、POUMを弾圧するためなどの口実にされ、さらにまた、カバリェロ政権を打ち倒すのに、それなりの力を貸したのだった。しかしながら、こういったことは、いずれにしても早晩起こっていたにちがいない、と考えてよい。ほんとうの問題は、今度の場合、街頭に進出したCNTの労働者たちが、戦う気勢を示すことによって得をしたか、損をしたかである。これは、私の純然たる当て推量だが、損より得の方が大きかったのではないかと思う。バルセロナ電話局の接収は、長い経過の中のたんなるひとつのできごとでしかない。昨年以来、直接的な権力は、組合連合の手から、少しずつ巧妙に奪い取られていたのだ。そして、一般的な動向は、労働者階級による支配を離れて、中央集権的支配の方向に向かい、国家資本主義か、おそらく個人資本主義復活のほうへと進んでいた。この時点において抵抗運動が起こったという事実は、たぶんその進行にブレーキをかけることになったであろう。市民戦争の起こった一年後には、カタロニアの労働者たちは、その権力のほとんどを失ってしまっていたが、彼らの立場は、まだかなり有利だった。もし彼らが、どのような挑発を受けてもおとなしくしているのだ、という姿勢を、はじめからはっきりと見せていたとしたら、彼らの立場は、もっと不利なものになっていたにちがいない。まったく戦わないよりは、戦って敗れるほうがまだましだ、という場合だってあるのだ。
第三に、あの市街戦の背後に、もしひそんでいたとしたら、どのような狙いがひそんでいたのだろうか? あの市街戦は、一種のクーデターか、もしくは革命的な試みのようなものだったのだろうか? はっきりと政府の転覆を目ざしたものだったのだろうか? いったい事前の打ち合わせがあったのだろうか?
事前の打ち合わせがあったといっても、すべての人が起こるかもしれないな、という予感を抱いていた、というだけのことである、と私は見る。きわめてはっきりした計画を暗示するものは、双方にまったくなかった。アナーキスト側の行動が、ほとんど自然発生的なものであったことはたしかである。というのは、それは、おもに末端にいる連中の起こした事件だったからだ。そのような連中が街頭にとび出し、その政治上の指導者たちがしぶしぶそのあとについていったか、あるいは全然ついていかなかったかだったのだ。たしかに革命的な口調でしゃべっていたのは、わずかに、FAIの中の小さな過激派集団である「ドゥルティの友」とPOUMだけだった。しかし、くどいようだが、彼らもあとにくっついていったのであって、先頭に立ったのではなかった。「ドゥルティの友」にしても、ある種の革命的なビラを配りはしたものの、それが人の目にふれたのは五月五日すぎだったから、それが市街戦の発端となったとは言えない。市街戦のほうは、それより二日も前にひとりでに始まっていたからだ。CNTの公式の指導者たちは、この事件全部と何の関係もない、と初めから宣言していた。これには多くの理由があったのだ。まず、CNTが依然として政府やヘネラリテに代表を送っているいきがかり上、CNTの指導者層は、必然的に、末端の組合員より保守的にならないわけにはいかなかったのだ。二番目に、CNTの指導者たちのおもな狙いは、UGTと同盟を結ぶことだった。だから、そのような市街戦が、少なくとも一時的には、CNTとUGTとのあいだの分裂を、いっそう大きくすることになるのは必定だった。三番目に――これは当然一般には知られていなかったが――無政府主義者《アナーキスト》の幹部たちは、事態がある点を越えて進展し、労働者たちが、五月五目の時点では不可能ではなかったかもしれない町の占領へと進むならば、外国の干渉を招くことになるだろう、とそれを心配したのだった。イギリスの巡洋艦が一隻と駆逐艦が二隻、バルセロナ港に迫っていたし、そのほかの軍艦も、あまり遠くないところまでやって来ていたのは疑いの余地もなかった。イギリスの各新聞は、これらの軍艦は、「イギリスの権益を保護するために」バルセロナに向かって進行中である、と発表していたが、そのじつ、何らそのような行動はとらなかった。つまり、だれかを上陸させたり、避難民を乗せたりはしなかったのだった。イギリス政府が、スペイン政府をフランコから救うためには指一本あげようともしなかったくせに、スペインの労働者階級から救うためなら、いち早く介入してくるだろう、ということ、これは、絶対的にそうだと断定する根拠は何もないが、少なくともその性格上、ありそうなことではあった。
POUMの幹部たちは、その事件に関係がないという態度はとらなかった。事実、彼らは、バリケードにふみとどまるように、と末端の連中を激励し、「ドゥルティの友」が発行した過激な宣伝ビラに、(五月六日付けの「戦闘《ラ・バターリャ》」紙上で)賛意を表明しさえした(この宣伝ビラのことは、どうもわからないことが多い。というのは、今となっては、だれもそのものを出して見せることができそうもないからだ)。外国の新聞の中には、そのビラは「扇動的なポスター」で、町じゅうに「貼りめぐらして」あった、と書いているものもある。が、そんなポスターはひとつもなかったことはたしかだ。いろいろな報道を比較検討してみて、私は、問題のビラは、(1)革命評議会《フンタ》の設立、(2)電話交換局襲撃の責任者たちの銃殺、(3)治安警備隊の武装解除、を要求していたのではないか、と思う。また、「戦闘《ラ・バターリャ》」紙が、そのビラにどの程度賛意を表明していたかについても、多少はっきりしないところがある。私自身は、そのビラもその日付けの「戦闘《ラ・バターリャ》」紙も見かけたことはない。私が市街戦の期間中に見かけた唯一のビラは、五月四日に、トロツキスト(過激派的《ボルシェヴィーキ》レーニン主義者)の小さなグループが発行したものだけだった。このビラは、ただ、「全員、バリケードへ――軍需産業を除くすべての産業のゼネ・ストを」と書いてあるだけだった(言いかえれば、そのビラは、すでに起こりつつあることを要求しているだけだった)。しかし、現実には、POUMの指導者たちの態度は煮え切らないものだった。彼らは、フランコとの戦いに勝利を収めるまでは、暴動を起こすのにけっして賛成ではなかった。ところが、いっぽうでは、労働者たちはもうすでに街頭へ進出していたので、POUMの指導者たちは、労働者が街頭に出ている以上、彼らと行動を共にするのは革命政党としての義務である、といういささか衒学的《ペダンティック》なマルクス主義路線をとったのだった。したがって、口では「七月十九日の精神をもう一度呼び起こせ」等、といった革命的なスローガンを叫んではいたけれども、労働者の行動を防衛的な程度におさえておくのに最善の努力を払っていた。たとえば、彼らは、どこそこのビルを攻撃せよ、などという命令を下したことは一度もない。彼らは、ただ、部下に対して、守勢的な立場を守り、前の章でも述べたように、避けうるかぎりは発砲もさし控えるように、と命令していたのだった。「戦闘《ラ・バターリャ》」紙もまた、いかなる部隊も前線を離れないように、という通達を発していた〔「インプレコール」紙の最近号は正反対の報道をしている――つまり、「戦闘《ラ・バターリャ》」紙は、POUM部隊に戦線を離脱するように命令したというのだ! 命令したかしなかったかは、「インプレコール」紙の指摘している日付の「戦闘《ラ・バターリャ》」紙を調べてみればすぐわかることだ〕。どう判断して見ても、POUMの責任は、すべての人びとに、バリケードにふみとどまるように訴えたことと、おそらく若干名の人びとを説得して、本来より多少長くふみとどまらせたことぐらいにしかならない。あの当時POUMの幹部たちと個人的な接触のあった連中(私自身はちがう)が、私に話してくれたところでは、幹部たちは、ほんとうはあの事件全部に狼狽したのだが、ついていかないわけにもいくまい、という心情だったのだ、ということである。もちろん、後になると、それは例によって政治的に利用された。POUMの幹部のひとりゴルキンは、後になって、「輝かしかった五月のあのころ」というふうな言い方さえした。宣伝という見地から見れば、これは正しい線だったかもしれない。POUMは、弾圧される前の短い一時期ではあったが、たしかに、党員数が多少増えたのだった。「ドゥルティの友」のビラに賛意を表したのは、戦術としては、おそらく誤りだったであろう。というのは、これはきわめて小さな組織であったし、ふだんはPOUMに敵対する立場をとっていたからだ。双方についていわれている全般的な興奮状態やその他の事柄を考慮してみるならば、問題の宣伝ビラは、たかだか、「バリケードにふみとどまれ」というぐらいの趣旨のものだった。ところが、アナーキストの機関紙「|労働者の団結《ソリダリダード・オブレラ》」はそれを否定していたのに、POUMの幹部たちは、それを承認するような態度をみせたために、後になって共産党の新聞が、たやすく、あの市街戦はもっぱらPOUMが仕組んだ一種の暴動である、と述べたてる口実を与えてしまった。しかし、共産党の新聞は、口実があろうとなかろうと、いずれはそのような言いがかりをつけていたことは、確かだったとみてよい。あの市街戦の前後に、もっととるに足らない証拠をもとにして、いろいろな言いがかりをでっちあげられたこととくらべてみれば、これぐらいのことはものの数ではない。CNTの幹部たちは、もっと慎重な態度をとったが、それだからといって、たいした得をしたわけでもない。その忠誠は賞讃されはしたものの、機会が到来するやいなや、政府とヘネラリテの双方からしめ出されてしまったからだ。
あの当時人びとが口にしていたことから判断するかぎり、ほんとうの革命的な意図などどこにもなかった。バリケードの後ろにいた人びとというのは、UGTの労働者もちらほらまじっていたかもしれないが、ふつうのCNTの労働者で、彼らがやろうとしていたのは、政府を転覆させることではなくて、ことの善し悪しはともかく、彼らが警察の襲撃と見なしたものを阻止することであったのだ。彼らの行動はもともと防衛的なものだった。だから、私は、ほとんどすべての外国の新聞のように、これを「反乱」というふうに述べてよいものかどうか疑問だと思う。「反乱」というものは、つねに積極的な行動と明確な計画を持っているからだ。もっと正確にいえば、それは暴動だったのだ――双方が火器を手にしており、積極的にそれを使用したために、きわめて残酷な形をとった暴動だったのである。
しかし、相手方の意図はどうだったのか? アナーキストのクーデターではなかったというのなら、ひょっとして、共産主義者のクーデター――CNTの勢力を一挙に粉砕しようとする謀略行為ではなかったのだろうか?
いくつかの事柄を見ると、そうだったのではなかろうか、とついかんぐりたくなるけれども、そうではなかったものと私は信じている。きわめてよく似た事件(バルセロナからの命令によって行動した武装警官隊による電話交換局の接収)が、二日後にタラゴナでも起こっているのは、意味深長である。そして、バルセロナでも、あの電話交換局襲撃は、それ単独の行動ではなかったのだ。町のいたるところで、治安警備隊とPSUCの党員たちが、実際に市街戦が始まる前ではなかったけれども、ともかく驚くほどの敏速さで、戦略的要点にあるビルを占領したのだった。しかし、忘れてならないのは、こういうことが、イギリスではなくて、スペインで起こった、ということなのだ。バルセロナは、長い市街戦の歴史をもった町である。そのようなところでは、事件の起こり方が早い。党派はできてしまっている、みんながそこいらの地理をわきまえている、だから、射ち合いが始まると、人びとは防火訓練さながらに、自分の持ち場につく、というわけだ。おそらく電話交換局の占領を企図した連中も――まさかあれほどの規模になると予想はしなかったにもせよ――ひと騒動は覚悟し、それに対応する用意はしていたはずだ。しかし、だからといって、彼らがCNTに対する全面的攻撃を計画していた、ということにはならない。二つの理由から、私には、双方とも大規模な戦闘の準備をしていたとは信じられない。
(一)どちらも、事前にバルセロナへ部隊を入れてはいなかった。戦闘は、もっぱら、前からバルセロナにいた連中、おもに市民と警官との問で起こっただけだった。
(二)食糧は、ほとんどすぐに不足しだした。スペインに勤務したことのある経験者ならだれでも知っていることだが、スペイン人が、ほんとうに、じつにうまくやってのける作戦のひとつは、部隊への食糧支給作戦である。もし双方が、一、二週間にもわたる市街戦やゼネ・ストを考えていたのだったら、前もって食糧の貯えも用意してない、などということは、ちょっと想像できない。
最後に、この事件の正邪について、である。
外国の反ファシスト新聞では、ずいぶんひどく騒がれた。しかし、例によって、主張のいっぽうだけが、何とか報道されただけだった。その結果、バルセロナの市街戦は、「スペイン政府を背後から刺そうとする」ような反逆的なアナーキストとトロツキストによる暴動である、云々といわれるようになった。問題は、まったくそんなに単純なものではないのだ。何としても倒さなければならない敵と戦っているさなかに、味方同士で内輪げんかなどおっぱじめないほうがいいにきまっている。だが、けんかは相手がいなけりゃできるものではない、ということ、また、民衆は、挑発行為と思われるような行為にでも見舞われないかぎり、バリケードを構築しはじめたりなどはしないものだ、ということ、これは覚えておく価値がある。
紛争は、アナーキストたちに武器の引き渡しを要求する政府の命令がもとで、自然に起こった。イギリスの新聞では、これが英語に翻訳されて、次のような形となった。いわく、アラゴン戦線では、武器が緊急に必要だったが、売国奴的なアナーキストたちがそれを隠匿《いんとく》していたために、戦線に送ることができなかった、と。あの事件をこんなふうに述べては、当時のスペインの実情を無視することになる。アナーキストもPSUCも、どちらも武器を隠匿していたことは万人周知の事実であって、バルセロナで市街戦が勃発すると、これがますますはっきりしてきた。双方が、大量に武器を繰り出したからだ。アナーキストたちは、たとえ自分らが武器を引き渡しても、カタロニアにおける政治的な主要勢力であるPSUCのほうは、依然として武器を保有し続けることにじゅうぶん気づいていた。そして、事実、市街戦が終わってから、そのとおりになったのだった。ところで、前線で歓迎されそうな大量の武器が、現に、街頭で見かけられた。しかし、それらは、後方の「非政治的な」警察力のために残しておかれたのだった。そして、その背後には、共産主義者とアナーキストとのあいだの相容れない対立があり、その対立は、早晩、何らかの衝突を引き起こさずにはおさまらないものであった。市民戦争の勃発以来、スペイン共産党の数はものすごくふくれあがり、政府権力の大半を掌握した。さらに、幾千もの外国人の共産党員がスペインに流れこんでいた。そして、彼らの多くは、フランコとの戦いに勝ったらすぐに、アナーキストたちの「抹殺」に取りかかるつもりだ、と公言していた。そのような状況のもとで、アナーキストたちが、一九三六年の夏に手に入れた武器をおいそれと引き渡すだろうなんて、むしろ期待する方が無理だった。
電話交換局の接収は、前から仕掛けてあった爆弾に、ただ火をつけるためのマッチにすぎなかったのだ。責任ある立場の人たちは、これが、よもや紛争の原因になることはあるまい、とたかをくくっていたことは、たしかに考えられるところかもしれない。カタロニア大統領コンパニースは、その数日前、アナーキストたちはどんなことでもがまんするだろう、と笑いながら言明した、といわれている。しかし、たしかに、それは賢明な行為ではなかった。これまで数か月間、スペイン各地では、共産主義者《コミュニスト》とアナーキストのあいだに、長期にわたる武力衝突が続いていた。カタロニア、とりわけバルセロナは、すでに街頭での小ぜり合いや、暗殺などが起こっているほどの緊張状態だったのだ。労働者たちが七月の戦闘の際に占領し、深い愛着をもっているビルに、武装兵が攻撃を加えているというニュースが、突然、町じゅうにぱっと広がった。治安警備隊なるものが、労働者階級の人たちに好まれざる存在だったことも、忘れてはならない。過去数世代にわたって、「警察《ラ・ガルディア》」は、要するに地主とボスの子分であったし、治安警備隊にしても、その反ファシスト的態度はきわめて疑わしいと見られたため、二重に嫌われていた〔市民戦争が勃発したとき、治安警備隊は、各地で勢力の強い方に味方した。戦争の後期になると、たとえばサンタンデルなどでは、その地区の治安警備隊が一団となってファシスト側に寝返ったことが何回もあった〕
紛争の起こった最初数時間のうちに、人びとを街頭へと駆りたてた感情は、市民戦争の初めのころ、反乱を起こした将軍たちを阻止しようとして奮起したときの感情と、ほぼ同じだったであろう。もちろん、CNTの労働者が、電話交換局をおとなしく明け渡すべきではなかったのか、ということは主張できると思う。この問題に対する考え方は、中央集権的政府か、それとも労働者階級による管理か、という問題に対する態度によってきまるであろう。もっとわかりやすい言い方をすれば、こうなる。「そうです、CNTのほうにも、大いに言い分はあるでしょうね。しかし、ですね、ああのこうのと言ったって、まだ戦争が続いているのでしょう。それなのに、何も後方で内輪げんかをおっぱじめる、という手はないですよ」と。この点については、いやまったくおっしゃるとおりです、と申しあげるより仕方がない。内輪もめを引き起こせば、そりゃあフランコを援助することになるだろう。だが、実際問題として、あの市街戦を促進したのは何だったのか? 政府に電話交換局を接収する権利があったか、なかったか、それはともかくとして、問題は、状況が状況だから、そいつをやれば、必ずや紛争が起こるにきまっていた、ということなのだ。それは挑発行為だった。「お前らの支配はもう終わった、あとはおれたちが引き継ぐぞ」という――おそらくは、いうつもりの――ジェスチュアだった。これで、抵抗がないだろう、などと考えたのだったら、常識はずれというほかはない。かたよった見方の持ち主ででもないかぎり、片方だけが全面的に悪いわけではない――いや、この種の事件の場合は、全面的に悪いことはあり得ない――ということは、きっとわかるはずだ。一方的な解釈が受けいれられている理由は、ただ、スペインの革命諸政党が、外国の新聞に足場をもっていなかった、ということにつきる。ことにイギリスの新聞では、戦争のどのような時期をみても、スペインのアナーキストたちの肩をもっているような記事は、いくら捜してみても、なかなか見つからない。彼らのことは、わざと悪く書いてあり、しかも、私自身の経験から知ったのだが、彼らを弁護するような記事は、活字にしてもらうことさえほとんど不可能に近いのだ。
私は、バルセロナの市街戦について、客観的に書くように努力してきたつもりである。そうは言っても、このような問題に対しては、完全に客観的な態度でのぞむことができないのもはっきりしている。実際上、どちらかに味方しないわけにはいかないし、私がどちらに味方しているかは、きわめてはっきりしているはずだ。また、ここだけではなくこの物語のほかのところでも、きっと事実面の誤りをおかしているにちがいない。スペイン戦争について、正確に書くのはとてもむずかしいのだ。というのは、宣伝色のない文書などひとつもないからである。私は、読者各位に、私の偏見に引きずられないよう、また、私の誤りをくり返すことのないよう、ご注意申しあげたい。それでも、私としては、できるだけ事実に忠実な態度をとるのに、最善をつくしてきたつもりである。しかしながら、私のした説明と、外国の、とりわけ共産党系の新聞にのっている記事とは、まるっきりちがっていることにお気づきになると思う。共産党の解釈はよく吟味してみなくてはならない。というのは、それは全世界に流され、それ以後たびたび補足されていて、たぶんいちばん広く受け入れられている解釈だからである。
共産党系の新聞ならびに共産党びいきの新聞では、バルセロナの市街戦の全責任はPOUMにおっかぶせてある。その事件は、自然発生的な暴動ではなくて、もっぱらPOUMが立案し、少数のあやまった「不穏分子」の協力のもとにやった、政府に対する故意の計画的反乱である、というふうに述べられていた。さらにすすんで、それは、たしかに、後方で内乱を起こし、政府を麻痺させようとする意図をもって、ファシストの指令のもとに行なわれたファシストの陰謀である、ということになった。POUMは、「フランコの第五列」――つまり、ファシストと同盟して活動する「トロツキスト」の組織というわけなのだ。「デイリー・ワーカー」紙(五月十一日付)によれば――
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悪名かくれもなき『第四インタナショナル大会』の「準備」をするという名目で、バルセロナへなだれこんだドイツやイタリアの間諜《スパイ》たちは、大きな任務をもっていた。それは次のようである。
彼らは――その地方のトロツキストと協力して――混乱と流血の事態を引き起こす準備をすることになっていた。そのような事態が起これば、ドイツ人やイタリア人が、『バルセロナに広まっている混乱のために、カタロニア海岸を海軍の力では制圧できないから』、したがって、『バルセロナに軍隊を上陸させるよりほかに方法がない』、と宣言することができるようになるはずだった。
言いかえれば、ドイツ政府ならびにイタリア政府が、『秩序を維持するため』の行動である、と称して、カタロニア海岸に、まったく公然と陸軍部隊や海兵隊を上陸させることができるような状況が準備されつつあったのだ……
これらすべてのための手先は、POUMと呼ばれているトロツキストの組織に化けて、ドイツ人やイタリア人に協力する準備をしていた。
POUMは、札つきの犯罪分子や、だまされてアナーキストの組織に引きずりこまれた連中と協力し、ビルバオ戦線における攻勢と一致するようにきちっところあいを見はからって、背後からの攻撃を企図し、組織し、かつ遂行した――等々。
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この記事のもっと後のほうでは、バルセロナの市街戦は「POUMの攻撃」ということになり、同じ号の別の記事の中では、「カタロニアの流血事件の責任を負わなければならないのは、POUMであることにはまったく疑問の余地はない」と述べられている。「インプレコール」紙(五月二十九日付)は、バルセロナでバリケードを築いたのは、「POUM党員の中で、とくにその目的のために組織された連中だけ」だったと報じている。
引用しようと思えば、まだほかにもたくさんあるが、これだけでもよくわかる。全面的にPOUMの責任で、POUMがファシストの命令を受けて行動した、というのだ。私は、少しあとで、共産党の新聞に現われた記事から、もっと抜粋してみるつもりである。そうすれば、その記事がまったく矛盾にみちていて、何の価値もないことがおわかりになると思う。しかし、それをする前に、五月の市街戦をPOUMのたくらんだファシストの反乱なりとするこの解釈が、なぜほとんど信じられないのか、先験的な理由をいくつかあげておくのは意味がある。
(一)POUMは、あれだけの規模の暴動を引き起こすだけの人数も勢力ももっていなかった。まして、ゼネ・ストを呼びかけるような勢力はもっていなかった。POUMは、労働組合にあまり確固とした足場をもっていない政治組織で、(たとえば)イギリス共産党が、グラスゴー全市にゼネ・ストを起こすことができないのと同じく、バルセロナ全市にストライキを起こすことなど、とうていできそうもなかった。前にも述べたように、POUMの指導者たちの態度は、市街戦を多少長びかせるのには役にたったかもしれないが、たとえ彼らがその気になったとしても、市街戦をおっぱじめるなんて芸当は、とてもできなかっただろう。
(二)いわゆるファシストの陰謀は、根拠薄弱な主張の上に成り立っており、あらゆる証拠は、ちがった方向を示している。この陰謀は、ドイツ、イタリア両国政府が、カタロニアに軍隊を上陸させるためのものであった、と教えられた。しかし、沿岸に、ドイツやイタリアの兵員輸送船は、ただの一隻も近づいたためしがなかった。「第四インタナショナル大会」だの「ドイツやイタリアの間諜《スパイ》」だのにいたっては、これはまったくのでっちあげだ。私の知っているかぎり、第四インタナショナルの大会など、話題になったことさえなかった。POUMとその姉妹党(イギリスの独立労働党《ILP》、ドイツの社会主義労働党《S・A・P》など)との大会の漠然とした計画ならあった。これは、仮に七月中の何日かと決められていたが――何しろ二か月も先のことなので――、代表者はまだひとりもやって来ていなかった。「ドイツやイタリアの間諜《スパイ》」は、「デイリー・ワーカー」紙の紙面以外には存在しないのである。あのころ国境を越えた人ならおわかりだと思うが、スペインへ「殺到する」のも、同じことだが、スペインから大挙してぬけ出すのも、それほど簡単ではなかったのだ。
(三)POUMの重要な拠点であったレリダでも前線でも、何事も起こらなかった。仮に、POUMの指導者たちが、ファシスト軍を援助したいと思ったのなら、彼らは、義勇軍部隊に、戦線から離脱してファシスト軍を通過させるように、と命令していたはずである。ところが、そのようなことは起こりもしなかったし、ほのめかされもしなかった。あるいはまた、いろいろな口実のもとに、たとえば一千か二千の兵士を、こっそりバルセロナへ連れもどしておこうと思えば、いともたやすいことだったのだろうが、先を見越して、余分な兵力を前線から引き抜くというふうなことも、まったく行なわれなかった。そしてまた、前線においても、間接的な妨害行為《サボタージュ》をやろうとする企てさえなかった。食糧、弾薬などの輸送は、平常どおり続けられた、これは、私があとで調べて確認した。とりわけ、取り沙汰されていたような計画的な反乱ともなれば、数か月間の準備と、義勇軍内部における破壊的宣伝活動などが必要だったはずだ。ところが、そのようなきざしもうわさもまったくなかった。前線の義勇軍が、いわゆる「反乱」に何の関係もなかった、という事実は決定的といってよい。もしPOUMがほんとうにクーデターを計画しているのだったら、自分たちの持っている唯一の目ぼしい戦力である一万ほどの武装兵を、使わないなんてことは考えられない。
このことからしても、ファシストの命令を受けたPOUMの「反乱」であるとする共産主義者の主張は、まったく事実無根であることがよくわかるであろう。
共産党の新聞の抜粋を、もう二、三つけ加えておきたい。事件の発端となったできごと、つまり電話交換局への襲撃に対する共産主義者たちの説明は参考になるのだ。一致しているのは、ただ、悪いのは相手方だ、ときめつけている点だけで、あとは言うことがみな食いちがっている。イギリス共産党の新聞では、まずアナーキストが悪者にされていて、POUMが悪者にされるようになるのは、後になってからのことだが、この点は注目に価する。これには、かなりはっきりした理由があるのだ。イギリスでは、「トロツキズム」といっても、だれもかれもがピンとくるわけではないが、「アナーキスト」と聞けば、およそ英語を話すものなら、みんな身ぶるいする。ひとたび「アナーキスト」がかかわり合っている、ということが知れれば、色眼鏡で見るのに絶好の雰囲気がかもし出される。それさえかもし出されてしまえば、罪は、何の抵抗もなく「トロツキスト」たちにおっかぶせることができる、というわけだ。「デイリー・ワーカー」紙(五月六日付)は、次のように始めている――
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アナーキストの小さな一団が、月曜日と火曜日に、電報電話局ビルを占領し、それを保持しようと企図し、通りに向かって発砲した。
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役割を逆にして始めるなんて、めちゃくちゃだ。治安警備隊のほうが、CNTの占領しているビルに攻撃をかけてきたのじゃないか。この筆法だと、CNTは自分自身のビルを攻撃した――つまり、自分で自分を攻撃したことになってしまう。そのくせ、他方では、五月十一日付けの「デイリー・ワーカー」紙はこう述べている――
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左翼カタロニア党の公安大臣アイガーデと統一社会党の公安委員長ロドリーケ・サラスは、電話局ビルの従業員(そのほとんどがCNTの組合員であるが)の武装を解除するため、政府の武装警官隊を派遣した。
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これでは、同紙の最初の説明とあまりつじつまが合っているとも思われない。それにもかかわらず、「デイリー・ワーカー」紙は、別に、初めの記事は誤りでありました、ということわりを掲げているわけでもない。五月十一日付の「デイリー・ワーカー」紙は、CNTが、自分たちに関係のないものとした「ドゥルティの友」のビラが、市街戦の行なわれていた五月四日と五日にまかれた、と述べている。(五月二十二日付の)「インプレコール」紙は、そのビラが市街戦の始まる前の五月三日に出た、と述べ、「これらの事実《いろいろなビラがまかれたこと》を考え合わせると」と次のようにつけ加えている――
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警視総監自身によって指揮された警官隊が、五月三日午後、中央電話交換局を占領した。警官隊は、公務執行中に発砲された。これは、扇動者たちが全市に発砲騒ぎを引き起こす合図であった。
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そしてさらに、五月二十九日付の「インプレコール」紙は、こう述べている――
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午後三時、公安大臣、同志サラスは電話交換局におもむいた。同局は、昨夜五十名のPOUM党員といろいろな不穏分子によって占領されていたものである。
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これはちょっと変だ。五十名からのPOUM党員によって電話交換局が占領される、ということになれば、いわゆる派手な場面ということになるわけだから、そのときの現場の目撃者がだれかいそうなものである。それなのに、どうも三週間も四週間もたってから、やっとわかったことになるらしい。「インプレコール」紙の別の号では、五十名のPOUM党員というのが、五十名のPOUM義勇兵となっている。こんなわずかな短文の中に、これほどたくさんの矛盾をつめ込んだ例というのも、あまり見つかるまい。ある時はCNTが電話交換局を襲撃したことになり、つぎにはCNTがそこで襲撃されたことになる。また、ビラが電話交換局占領の前にまかれて、それが占領の原因になっているかと思えば、今度はあべこべに、その後に現われ、占領の結果だ、ということになる。電話交換局にいた人間も、CNT党員になったり、POUM党員になったりする――といったぐあいである。そして、もっと後の(六月三日付の)「デイリー・ワーカー」紙の中で、J・R・キャンベル氏〔南アフリカ生まれのイギリス詩人。一九五三年カトリックに改宗、スペイン内乱のときはフランコ側に味方した〕のごときは、なんと、バリケードがすでに構築されたので、政府は、ただ、電話交換局を占領したまでのことである、と報じているのだ! 紙面の都合で、私はひとつの事件の記事しか取り上げなかったが、共産党系の新聞記事は、いたるところに同じような矛盾が見られる。おまけに、明らかにまったくのでっちあげと思われる記事もいろいろある。たとえば、次に掲げるのは、パリのスペイン大使館による発表として(五月七日付の)「デイリー・ワーカー」紙に引用された記事である。
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反乱の目だった特徴は、バルセロナの多くの家々のバルコニーに、旧王制時代の旗が掲げられたことである。それは、疑いもなく、反乱に加わった人たちが勝利を収めたものと信じられたからである。
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「デイリー・ワーカー」紙は、どうやらこの発表をそのままうのみにして転載したものらしいが、この発表を行なったスペイン大使館の連中は、まったく計画的に虚偽の発表をしたにちがいない。スペイン人なら、だれだって内部事情がわかっているから、こんなばかなことは言えないはずだ。こともあろうに、バルセロナに王制時代の旗が掲げられたのだなんて! それは、聞いただけで、争っている各党派が一瞬にして団結できそうなひと言だった。現地の共産党員でさえ、にやりとせずにはいられなかった。「反乱」中にPOUMが使用したことになっている武器に関する、いろいろな共産党系の新聞の報道についても、同じことが言える。信じるのは、事実をまったく知らない人ぐらいのものだろう。五月十七日付の「デイリー・ワーカー」紙の中で、フランク・ピトケアン氏はこう述べている――
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暴動においては、実際、あらゆる種類の武器が使用された。彼らが、これまでの数か月間に盗んで隠匿しておいた武器もあれば、反乱の勃発当初に、兵営から盗み出した戦車のようなものまであった。多数の機関銃と数千挺の小銃が、今なお彼らの手中にあることは明らかである。
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「インプレコール」紙(五月二十九日付)も述べている――
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五月三日に、POUMは数十挺の機関銃と数千挺の小銃を自由に使用していた……『スペイン広場』では、トロツキストたちは数門の『七十五ミリ』砲を使用した。これらの砲は、アラゴン戦線に送られるはずだったのに、トロツキストの義勇兵たちが、こっそり自分たちの建物に隠しておいたものだった。
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ピトケアン氏は、POUMが数十挺の機関銃と数千挺の小銃を持っていることが、いつ、どのようにして明らかになったかは述べていない。私は、前に、POUMのおもな三つのビルにある武器の概数を調べておいた――小銃約八十挺、手榴弾少々、機関銃はゼロ、つまり、それは当時あらゆる政党が、自分たちの建物に配置していた武装守備兵に、どうにかゆきわたる程度の数だった。後になって、POUMが弾圧され、その建物が全部接収されたときに、これら数千挺の武器がまったく明るみに出なかったのは、何ともおかしな気がする。とりわけ、戦車や野砲などは、煙突に隠しおおせるようなしろものではないだけに、なおさら変だ。しかし、上に引用したふたつの記事は、地域的状況に対してまったく無知であることを暴露している。ピトケアン氏によると、POUMは「兵営から」戦車を盗んだという。しかし、どの兵営から盗んだかは言っていない。バルセロナにいたPOUMの義勇兵(政党義勇軍への直接志願がなくなったので、その数はかなり少なくなっていたが)は、レーニン兵営に、相当数の人民軍部隊と同居していたのだ。ということになると、ピトケアン氏は、われわれに向かって、POUMは人民軍の黙認のもとに戦車を盗み出したのだ、ということを信じろ、とおっしゃっているわけだ。「建物」に七十五ミリ野砲が隠匿された云々の一件にしたって同じことである。これらの「建物」というのがどこにあったのかは何も言っていない。「スペイン広場」を砲撃したとかのあの数門の大砲のことも、多くの新聞報道に現われはしたが、私は、そのようなものは存在しなかった、と確信をもって言えると思う。先にも述べたとおり、私は、「スペイン広場」から一マイルかそこいらしか離れていないところにいたけれども、市街戦中に、ただの一度も砲声を耳にしたことはなかった。それから二、三日たって、私は「スペイン広場」を調べてみたが、砲弾の跡のあるような建物は、ひとつも見当たらなかった。しかも、市街戦中ずっとその近くにいて目撃していた人たちも、大砲など一門も見かけなかった、と断言している(ついでながら、大砲を盗んだ云々のうわさの発生源は、ロシア総領事のアントノフ・オフセンコだったらしい。ともかく、彼がその話を有名なイギリスのジャーナリストに伝えたところ、そのジャーナリストがそれを真に受けて、そのまま週刊紙に発表したのだった。その後アントノフ・オフセンコは「追放」されてしまった。だからといって、彼の話がどれだけまゆつばものになるのか私にはわからないが)。もちろん、戦車だとか野砲だとかなどのうわさは、そういったものでも持ち出さないことには、バルセロナの市街戦の規模の大きさと、POUMの数の少なさとがうまくつりあわないので、ただそれだけの理由ででっちあげた、というのが真相なのである。市街戦は、全面的にPOUMの責任だと主張する必要があった。と同時に、POUMは、支持者のいない、「インプレコール」紙によれば、「党員数わずか数千」のとるに足らない政党だと主張する必要もあった。この両方の記事を、いかにももっともらしく見せかけようとすれば、その方法はただひとつ、POUMは、近代的な陸軍機械化部隊のもつあらゆる装備をもっていた、ということにするよりほかにはなかったのだ。共産党の新聞を読めば、いやでも、意識して一般大衆に事実を知らすまいとつとめ、ひたすら偏見を作りあげようとしていることがわかる。したがって、たとえば「反乱」は人民軍によって鎮圧されたという式の、五月十一日付「デイリー・ワーカー」紙の中のピトケアン氏の記事のようなものが出てくるのだ。このような記事の狙いは、カタロニア全域が一致団結して「トロツキスト」に抵抗した、という印象を局外者に与えることなのだ。しかし、人民軍は、市街戦を通じて終始中立を保持した。これは、バルセロナのだれもが知っていることで、ピトケアン氏にしても知らなかったとはちょっと考えられない。さらにまた、暴動の規模を誇張するため、スペイン共産党書記長ディアスは、死者九百、負傷者二千五百という数字をあげており、その数字は、共産党系の新聞には広く引用されている。カタロニア政府の宣伝相は、ことさら過小評価しているとも思えないのだが、死者四百、負傷者一千という数字を発表している。共産党はつけ値を二倍にし、景気づけにもう数百うわのせしたのだ。
外国の資本家新聞は、だいたい、市街戦の責任をアナーキストに負わせているが、共産党路線に追従しているものも少しはある。その中のひとつが、イギリスの「ニューズ・クロニクル紙」で、その通信員ジョン・ラングドン・デイヴィス氏は、当時バルセロナにいた。彼の記事を少しここに引用してみる――
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トロツキストの反乱
……これはアナーキストの反乱ではなかった。「トロツキスト」的POUMが、その支配する組織である「ドゥルティの友」や「自由主義青年団」を使って企てたが、失敗に終わったささやかな反乱である。その悲劇は、月曜日の午後、政府が電話局の従業員(ほとんどがCNT組合員であるが)を武装解除するために、そこへ武装警官隊を派遣したときに始まった。業務が、すてておくわけにはいかないほど不規則であることは、かねがね世間の反感を買っていたのだった。CNT組合員たちが、一階また一階というふうにして、しまいには、ビルのてっぺんまで退却していきながら抵抗しているあいだに、外の「カタロニア広場」に、たくさんの群衆が集まった。……この事件はあまり目だたなかったが、政府はアナーキストを敵にした、といううわさが広まった。通りは、武装した人びとでいっぱいになった。……日が暮れるまでに、労働者の中心的な施設や政府の建物には、すべてバリケードが構築された。十時に、最初の一斉射撃が行なわれ、最初の救急車がサイレンを鳴らしながら大通りを走り始めた。夜明けまでには、バルセロナ全域が銃火にさらされていた……昼の時刻が過ぎてゆき、死者が百名を越えるようになって、やっと、人びとは、何が起こっているのか推測できるようになった。無政府主義《アナーキスト》的CNTと社会主義《ソーシャリスト》的UGTとは、専門的に、「街頭に出て」いたわけではなかった。バリケードの後ろに止まっているあいだは、ただ、油断せずに待機しているだけだった。それは、さえぎるもののない通りを、武装したものが通れば、だれでも狙い射ちする権利をちゃんと勘定に入れた態度だった。……(その)全般的な射ち合いは、狙撃兵――これは、ただひとりでものかげに隠れている兵士のことで、たいていはファシストだった。屋根のてっぺんから、とくにこれと狙って射つわけではないが、とにかく発砲して騒ぎ全体を大きくするのに全力をあげていた――によって、たしかにいっそうひどくなった。……しかしながら、水曜日の夕方までには、反乱の後ろで糸を引いているものはだれなのか、が明らかになり始めていた。壁という壁には、即時的な革命の遂行と、共和政府ならびに社会主義の指導者たちの銃殺を要求する、扇動的なポスターが貼られた。それには「ドゥルティの友」という署名があった。木曜日の朝、アナーキストの日刊新聞は、そのポスターのことはいっさい知らないし、また、共鳴もしない、と報道した。しかし、POUMの機関紙「戦闘《ラ・バターリャ》」は、最高の讃辞とともにその文書を転載した。スペイン第一の大都市バルセロナは、この破壊的組織を利用する扇動分子たちのために、流血の巷と化したのである。
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これは、私が前に引用した共産党の説明と完全に一致しているわけではないが、このままでも自己矛盾を含んでいることがわかるであろう。初めに、この事件を「トロツキストの反乱」だ、と述べておきながら、そのすぐあとで、この事件は、電話交換局ビルへの襲撃と、政府がアナーキストを「敵にした」と一般に信じられていることから起こったのだ、と述べている。市中にバリケードが作られ、CNTもUGTもバリケードに立てこもった。それから二日後に扇動的なポスター(実際はビラ)が現われ、暗に、これが全事件のきっかけとなったのだ、と述べられているのだ――つまり、原因より先に結果があったとおっしゃるのだ。しかし、ここにひとつ、きわめて重大な誤解がある。ラングドン・デイヴィス氏は、「ドゥルティの友」や「自由主義青年団」を、POUMの「支配する組織」だとおっしゃるのだが、「ドゥルティの友」にしても「自由主義青年団」にしても、アナーキストの組織であって、POUMとは何の関係もないのだ。「自由主義青年団」はアナーキストの青年団で、PSUCのJSUなどに相当する。「ドゥルティの友」はFAIの中のささやかな一組織で、概してPOUMとははげしく敵対していた。私の気づいたかぎりでは、両方のメンバーを兼ねているものはひとりもいなかった。その論法でいけば、社会主義連盟は、イギリス自由党の「支配する組織」である、というのとほぼ同じことになる。ラングドン・デイヴィス氏は、この事を知らなかったのだろうか? 知らなかったのなら、こういうきわめて複雑な問題について書く場合には、もう少し慎重な態度でのぞむべきであった。
私は、別にラングドン・デイヴィス氏は誠意がない、と非難しているわけではないけれども、明らかに、彼は市街戦が終わると同時に、つまり、その気になりさえすれば、いくらでも真剣な調査を始めることができるときに、バルセロナを離れたらしい。そのため、彼の報道のあちこちに、「トロツキストの反乱」であるとする公式見解を、じゅうぶん確かめもしないで、そのままうのみにした形跡がありありと見えているのだ。このことは、私がさっき引用した抜粋でも明らかである。「日が暮れるまでに」バリケードが構築され、そして「十時には」最初の一斉射撃が行なわれたということになる。これは自分の目で確かめた者の書く記事ではない。これだと、ははあ、敵を射ち始めるには、その敵がバリケードを築くまで待っているものなのだな、と誤解されそうである。この記事からは、バリケードが構築されてから最初の一斉射撃が始まるまでに、どうやら多少時間的なゆとりがあったらしい、という印象を受ける。ところが――あたりまえのことなのだが――それは逆だったのだ。私もほかの多くの人びとも見たのだが、最初の一斉射撃は午後の早いうちに行なわれた。また、屋根のてっぺんから射撃してくる「たいていはファシスト」だったという、単身の兵士たちのことがある。ラングドン・デイヴィス氏は、この連中がファシストであることを、どうやってつきとめたのか説明してくれていない。まさか、わざわざ屋根の上まで登っていってきいてみたわけでもあるまい。彼は、ただ、他人《ひと》に言われたことをくり返しているだけなのだが、それが公式見解と一致しているので、別におかしいとも思わないのだ。ところが、不用意にも、冒頭で宣伝相のことを述べたために、大部分の報道の、推測されるその出どころがわかってしまったのだった。スペインにいる外国のジャーナリストたちは、なさけないくらい宣伝大臣に振りまわされて、ひどい目に会っている。もっとも、宣伝省という名前を聞いただけで、じゅうぶん用心しなけりゃいけないことがわかるじゃないか、とお考えになるかもしれないが。もちろん、いくら宣伝大臣だって、(例えば)一九一六年のダブリンの反乱〔一九一六年の復活祭の日にアイルランドのダブリンで起こった民族主義者の暴動〕について、客観的な説明をしようとした故カーソン卿〔アイルランド生まれの法律家、政治家。アイルランド自治法に対する反対運動の指導者〕ぐらいの程度には、バルセロナ事件について、客観的な説明をしようとする気はあったはずだ。
私は、バルセロナ市街戦についての共産主義者の説明は、全然信用できない、と考える理由を述べてきた。さらに、私は、POUMがフランコとヒトラーに雇われたファシストの秘密組織である、という一般の非難についても、少し言っておかねばならない。
この非難は、とくに一九三七年の初め以来、共産党系の新聞紙上で何回となくくり返されてきた。それは、「トロツキズム」に対する、公認共産党の世界的規模における攻撃の一部であった。そして、POUMは、スペインにおける「トロツキズム」の代表であると考えられたのだ。「赤色戦線《フレンテ・ローホ》」(ヴァレンシア共産党機関紙)によれば、「トロツキズムは政治理論ではない。それは、公認の資本主義的組織であり、人民に対する犯罪や妨害行為《サボタージュ》に従事するファシストのテロ団体」なのだった。POUMは、ファシストと同盟している「トロツキスト」の組織であり、「フランコの第五列」の一部であった。そもそもの初めから目についたのは、この非難を立証する証拠が何ひとつ提出されないで、ただ事実だけが、いかにももっともらしく主張されたことだった。そして、その非難も最大級の人身攻撃で、しかも、それが戦争にどのような影響を及ぼすかなどは、まったく無視して行なわれたのだ。多くの共産党記者は、POUMを誹謗する仕事とくらべたら、軍事的機密をもらすことなど、問題ではない、と考えていたようである。たとえば、「デイリー・ワーカー」紙の二月のある号で、ある記者(ウィニフレッド・ベイツ)は、POUM軍は戦線のその地区において、見せかけている兵力の半分しか持っていない、と述べることを許されている。これは事実ではなかったが、この記者は事実だと信じたのであろう。したがって、彼女と「デイリー・ワーカー」紙は、新聞の欄を通じて渡すことのできる、もっとも重要な情報を、それこそ喜んで敵の手に渡したことになるわけだ。「ニュー・リパブリック」誌〔アメリカの週刊評論雑誌で、自由主義の立場を守りつづけていることで知られている〕上で、ラルフ・ベイツ氏〔イギリスの小説家。スペイン内乱の際、政府側の国際義勇軍の結成にあずかった〕は、POUM軍部隊が現に重大な損害をこうむり、私の親しい友人の多くが戦死したり傷ついたりしていたまさにそのときに、彼らは「両軍中間地帯《ノーマンズ・ランド》でファシスト軍とフットボールをやっている」と書いたのだった。また、POUMを、鎌とハンマーのついた仮面がすべり落ちて、鉤十字のついた顔をのぞかせている人になぞらえた意地の悪い漫画が、初めはマドリードで、後になるとバルセロナで広くばらまかれた。もし政府が、実質上、共産党に支配されているのでなかったら、戦時中にこんなものをばらまくことを許すはずがないだろう。これは、たんに、POUM義勇軍の士気だけではなく、たまたまそのそばにいるほかの義勇軍の士気をも計画的に沮喪させようとするたくらみだった。というのは、前線で、となりの部隊は裏切り者なのだぞ、などと言われたら、だれだってがっくりくるからだ。ところが、背後から、これでもかこれでもかと浴びせかけられた悪口が、はたしてPOUM義勇軍の士気を沮喪させたかどうかは疑問である。しかし、それが士気沮喪を狙ったものであることは確かだった。したがって、そのような挙に出た連中は、政治的憎悪にうつつを抜かして、反ファシスト的団結を忘れてしまったものと見なされてもいたし方あるまい。
POUMに対する非難は、しまいにはこんなことになってしまった。つまり、そのほとんど全部が労働階級である数万の人びとの一団、そのほかに、大半がファシスト諸国からの亡命者である多数の外人援助者や支持者、それに幾千もの義勇兵などが、ファシストに雇われた巨大なスパイ組織にすぎないのだ、と。これは常識に反する。POUMの過去の歴史を見れば、そんなことはでたらめだということがすぐわかる。POUMの指導者たちは、いずれも、革命家としての経歴をもったものばかりだ。中には、一九三四年の反乱〔マドリードでファシスト色の濃厚な内閣が成立したのに反対して、カタロニア自治州庁の首相コンパニスが、カタロニアをマドリード政府の支配から分離させ、「スペイン連邦共和国カタロニア国家」として独立させようとして起こした独立運動。政府軍によって鎮圧され、失敗に終わった〕に参加したものもおり、ほとんどのものが、レルー政権か王制時代に、社会主義活動をして投獄された経験をもっている。一九三六年、当時の指導者ホアキン・マウリンは、議会に対し、フランコの反乱が今にも起ころうとしている、と警告した議員のひとりだった。戦争が起こってからしばらくして、彼は、フランコの背後で地下抵抗組織を作ろうとしているあいだに、ファシストに捕えられた。フランコの反乱が勃発したとき、POUMは、それを阻止しようとして目ざましい働きをした。そして、とくにマドリードの市街戦では、多くの党員が戦死した。POUMは、カタロニアでもマドリードでも、義勇軍部隊を編成した最初の団体のひとつだった。これらは、ことごとくファシストに雇われた政党の活動である、と説明することは、どう考えても無理のような気がする。ファシストに雇われた政党なら、あっさりと向こう側についていたはずだ。
それにまた、戦争が始まってからも、ファシストに味方するような活動をした形跡はまったくない。POUMが、より革命色の濃厚な政策を強要して政府の勢力を分裂させ、結果的にファシストを助ける形となった、というのなら――私としては、結論的に同意はできかねるが――まだ、それは議論として成り立つかもしれぬ。改良主義|型《タイプ》の政府なら、POUMのような政党を厄介もの扱いしても、まあ仕方あるまい。しかし、それと直接的な裏切り行為とはまったく別間題だ。もしPOUMが、ほんとうにファシストの組織であるのなら、なぜPOUM義勇兵が、終始政府に対して忠誠を保持しつづけたのか、その理由をどうやって説明するのか。現に、八千人から一万人もの人びとが、一九三六年から三七年にかけて、冬の我慢できないような状況のもとで、戦線の重要な部分をずっと守り続けてきたのだ。彼らの多くは、引き続き四か月から五か月ものあいだ、塹壕暮らしをしているのだ。なぜ彼らが、さっさと戦線を離脱して、敵の方へ寝返らなかったのか、そのわけがどうにもわからない。寝返ろうと思えば、いつだって寝返ることはできたのだし、寝返りをやれば、戦局に、決定的な影響を及ぼす場合だってあったはずなのだ。それなのに、彼らは戦い続けた。そして、POUM義勇軍――まだ人民軍に編入されていなかったのだが――が、ウエスカ東方のあの凄惨な攻撃に参加し、一日か二日のうちに数千名の戦死者を出したのは、POUMが政党として弾圧された直後で、その事件が、まだみんなの記憶になまなましいころのことだった。少なくとも、敵に内通するものが出たり、ぽつりぽつりとたえず逃亡兵が出たりしても仕方のないところだった。ところが、前にも指摘したとおり、逃亡兵は、おどろくほど少なかった。さらに、親ファシスト的宣伝や「敗北主義」等々が横行しても、これまた仕方のないところだった。それなのに、そのようなきざしもまったくなかった。POUMの中にも、間諜《スパイ》や扇動分子がいたことはたしかだが、それは、何もPOUMにかぎったことではなく、左翼的政党全般について言えることで、それが、ほかの政党にくらべて、POUMにとくに多かったという証拠は何もない。
共産党系の新聞にみられる攻撃のうちには、ファシストに雇われているのはPOUMの幹部だけで、一般党員は関係がない、というふうに、多少遠慮気味に述べているものもたしかにある。しかし、これは、一般党員と幹部との離反をはかる、たんなるひとつの政策にすぎない。その非難の本質は、一般党員も義勇兵も、その他の人たちも、全員がその陰謀にかかわり合っている、ということなのだ。というのは、もしニンやゴルキンやそのほかの連中が、ほんとにファシストに雇われていたのなら、ロンドンやパリやニューヨークにいるジャーナリストたちより、むしろ、たえず彼らと接触している配下の一般党員たちのほうが、もっとその事を知っていそうなものだからである。そして、ともかくPOUMが弾圧されたとき、共産主義者にあやつられた秘密警察は、POUM関係者は全員有罪という想定のもとに行動し、負傷者、病院の看護婦、POUM党員の細君たち、それに、時によっては子供たちまでも含めて、およそPOUMにかかわりのあるものは、手あたりしだいにことごとく逮捕したのだった。
そして、ついに、六月十五日から十六日にかけて、POUMは弾圧され、非合法組織であると宣言された。これは、五月に政権についたネグリン政府のとった最初の措置のひとつだった。POUMの執行委員たちが投獄されたとき、共産党系の新聞は、ファシストの大規模な陰謀の発覚と称するものを掲載した。しばらくのあいだ、世界じゅうの共産党系の新聞は、この種の報道でもちきりだった。六月二十一日付の「デイリー・ワーカー」紙は、スペインのいろいろな共産党新聞を要約して、次のように述べている――
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スペインのトロツキスト、フランコと陰謀をたくらむ
バルセロナや他の各地における多数の有力なトロツキストの逮捕に引き続き……週末には、戦時下に今までその例を見ない戦慄すべきスパイ活動の詳細と、その醜悪さにかけてまさに前代未聞のトロツキストによる裏切り行為の真相が、明るみに出るにいたった。……警察の入手した文書は、少なくとも二百名を上まわる逮捕者の全面的な自白とともに、次のような事実を立証している……云々
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これらの真相が「立証した」ことというのは、POUMの幹部たちが、軍事機密を無電でフランコ将軍に送っており、ベルリンと連絡をとりながら、マドリードにあるファシストの秘密組織と協力して活動中である、ということだった。さらに、見えないインクで書かれた秘密通信だの、(ニンを意味する)Nの字の署名入りの秘密文書だの、そういった種類のいろいろなものについての、人騒がせな詳細も発表された。
しかしながら、結局のところはこうなのだ。事件後六か月たって、私がこれを書いている今となっても、POUMの幹部たちのほとんどが、依然として獄中にいるが、一度も裁判にかけられたことがなく、フランコと無電で連絡をとった云々という罪も、結局、まだ確証があげられないままである、ということなのだ。もし彼らがほんとうにスパイ行為を行なったのなら、これまでのファシストのスパイと同様に、一週間で裁判され、銃殺されていいはずなのだ。ところが、共産党系の新聞に見られる、根も葉もない記事のほかには、一片の証拠すら持ち出されていないのだ。二百人の「全面的な」自白にしてからが、もしあったのなら、それだけでも証拠はじゅうぶんだったはずなのに、それ以後ついぞ聞いたことがない。それは、じつをいえば、だれかが頭をしぼってでっちあげた二百名分の労作だったのだ。
そればかりではない。スペイン政府閣僚のほとんどが、POUMに対する告発はまったく信憑性《しんぴょうせい》がない、と言明しているのだ。最近、内閣は、五対二で反ファシスト政治犯の釈放を可決した。ちなみに、その二名の反対者というのは、いずれも共産党出身の閣僚だった。八月に、イギリス国会議員ジェイムズ・マックストンを団長とする国際代表団が、POUMの罪とアンドレス・ニンの失踪について調査をするためにスペインにおもむいた。国防相プリエト、法務相イルホ、内相スガサゴイシア、検事総長オルテガ・イ・ガセット、プラト・ガルシアやそのほかのすべての人たちが、POUMの幹部たちがスパイ行為を犯したとはまったく信じられない、と言明したのだった。イルホはつけ加えた、自分は、この事件に関する書類全般を調査したが、いわゆる証拠なるものも、どれひとつとして検証にたえるものはなく、ニンが署名したと称される文書は、「無価値」――すなわち偽造である、と。プリエトは、五月のバルセロナにおける市街戦がPOUMの幹部たちの責任であることは認めたが、彼らがファシストのスパイであることは否定した。「きわめて重大なのは」と、彼はつけ加えた。「POUMの幹部たちの逮捕が、政府決定によるものではなく、警察の独断的行為によるものである、という事実である。この逮捕事件の責任者は、警察首脳部ではなくて、その側近筋である。例によって、そのようなところへは共産主義者が浸透しているのだ」彼は、警察による不法逮捕のほかの例をいくつかあげた。イルホも同じように言明した、警察は「半独立的」になっていて、事実上、外国の共産党分子の支配下にあったのだ、と。プリエトは、代表団に向かって、かなりはっきりと、ロシアが武器を供給してくれている以上、政府としては、共産党のきげんをそこねるわけにはいかない、というふうなことをほのめかした。十二月に、おなじくイギリス国会議員ジョン・マックガヴァンを団長とする、別の代表団がスペインにおもむいた際にも、一行は前回と同じような回答を得たのだった。そして、内相スガサゴイシアは、プリエトの暗示を、もっとはっきりした言葉でくり返した。「われわれはロシアの援助を受けている。だから、好ましくない行為もある程度は認めざるを得ない」と。マックガヴァンとその一行は、刑務総監と法務大臣の署名入りの命令書を持っていたにもかかわらず、バルセロナの共産党の管理下にある「秘密刑務所」のどこにも入る許可が得られなかったのだったが、これなどは、警察の独走を示す一例として興味深い〔二つの代表団の報告書については、「民衆《ル・ポピュレール》」紙(九月七日付)、「矢《ラ・フレーシュ》」紙(九月十八日付)、および、インディペンデント・ニューズ社(パリ、サン・ドニ通り二一九)刊行によるマックストン代表団報告書、マックガヴァンの小冊子《パンフレット》「スペインの恐怖」参照〕
これだけでも、事態はすでにじゅうぶんはっきりしたと思う。POUMに対するスパイ行為の告発は、もっぱら共産党の新聞の記事と、共産党にあやつられる秘密警察の活動を基礎としているのだ。POUMの幹部たちと、幾百幾千の一般党員たちは、今なお獄中にいる。そして、過去六か月間、共産党系の新聞は「裏切り者どもを処刑しろ」と、やかましくわめき続けている。しかし、ネグリンやそのほかの人たちは、悠然と構えて、「トロツキスト」の大量殺戮の実施を拒否している。彼らに加えられてきた圧力のことを考えてみれば、彼らのそのような態度それ自体、まことにあっぱれというほかはあるまい。さて、私がこれまで引用してきたことをよく考え合わせてみれば、マックストン、マックガヴァン、プリエト、イルホ、スガサゴイシア、そのほかの人たちも、ひとり残らずみんなファシストから金をもらっている、とでも信じないかぎり、POUMがほんとうにファシストのスパイ組織である、とはどうしても信じられなくなってくる。
最後に、POUMは「トロツキスト」である、という非難について。この語は、今ではますますむぞうさに浴びせられるようになっていて、きわめて誤解しやすいように、そして、しばしばわざと誤解を起こすようなふうに用いられている。ここでちょっと立ち止まり、その意味をはっきりさせておくのも、まんざら無益でもあるまい。トロツキストという語は、三つの異なったものを指すのに用いられる。
(一)トロツキー〔一八七九〜一九四〇。ロシア革命の指導者。著述家。メキシコに亡命中暗殺された〕のように、「単一国家における社会主義」に反対して「世界革命」を唱導する人。あるいは、もっと広く、革命的過激論者のこと。
(二)トロツキーを首班とする現実の組織の一員のこと。
(三)革命家を装おう変装したファシストのこと。とくにソビエト連邦内部では、妨害行為《サボタージュ》によって活躍するが、一般には左翼勢力の分裂をはかったり、徐々にその弱体化をはかったりすることによって活躍する。
(一)の意味でなら、POUMはトロツキストと言えないこともない。しかし、それなら、イギリスの独立労働党《ILP》、ドイツの社会主義労働党《S・A・P》、フランスの左派社会党や、そういった人たちはみなトロツキストということになるわけだ。しかし、POUMは、トロツキーとも、トロツキスト(過激派《ボルシェヴィーキ》レーニン主義者)組織とも、まったく無関係である。内戦が起こったとき、スペインへやってきた外国のトロツキストたち(数にして十五人から二十人程度だったが)は、はじめ自分たちの見解にいちばん近い政党として、POUMのために働いた。しかし、党員にはならなかった。後になると、トロツキーが、部下たちに、POUMの政策を攻撃するように命じたため、彼らはPOUMの役職から追放された。もっとも、何人かは義勇軍の中に残った。マウリンがファシストに逮捕されてからPOUMの指導者となったニンは、一時トロツキーの秘書をしていたこともあるが、数年前に彼のもとを去り、さまざまな共産党反主流派と古くからの政党「労農|連合《ブロック》」とを合併して、POUMを結成したのだった。ニンが前にトロツキーとつながりがあったという事実が、POUMは、じつはトロツキストである、ということを示す証拠として、共産党系の新聞によって利用されたのだ。同じ論法でいけば、イギリス共産党だって、じつはひとつのファシストの組織である、というふうに証明することができそうである。なぜなら、ジョン・ストレイチー氏〔英国の社会主義者。労働党員であるが、当時は脱党して共産主義に接近していた〕は、一時オズワルド・モズレー卿〔イギリスの政治家。一九三一年、イギリス・ファシスト連盟を結成、その首領となる。第二次世界大戦中、公然とナチスやファシストの政策を支持したため、一時投獄された〕と関係があったからだ。
(二)は、トロツキストという語を厳密に定義した場合の唯一の意味だが、この意味でなら、POUMはぜったいにトロツキストではない。このちがいをはっきりさせておくことがたいせつである。というのは、大多数の共産主義者は、(二)の意味でのトロツキストは、必ず(三)の意味でのトロツキストでもある――つまり、トロツキストの組織は、当然、すべてたんなるファシストのスパイ機関である、と思っているからだ。「トロツキズム」という語が一般の注意を引くようになったのは、ようやくロシアの妨害行為《サボタージュ》裁判のときだった。そして、だれかをトロツキストと呼ぶことは、事実上、人殺し、扇動分子などと呼ぶのとひとしいのである。しかしながら、同時に、左翼的見地から、共産党の政策を批判すれば、だれでも、とかくトロツキスト呼ばわりされやすい。それでは、革命的過激主義を標榜するものは、すべてファシストに雇われている、というふうに主張されているのだろうか?
実際には、その場合その場合の都合しだいで、主張されている場合もあれば、主張されない場合もある。マックストンが、先に述べた代表団といっしょにスペインにおもむいたとき、「真実《ヴェルダド》」紙や「赤色戦線《フレンテ・ローホ》」紙や、その他のスペイン共産党系新聞は、ただちに彼を、やれ「トロツキー・ファシスト」だの、やれゲシュタポのスパイだのといって非難した。しかし、イギリス共産党はじゅうぶん注意して、この非難をくり返すようなへまはやらなかった。イギリスの共産党系の新聞によると、マックストンは、ただの「反動主義的な労働階級の敵」ということになって、うまいぐあいにぼかしてある。なぜかといえば、もちろん、これまで数回に及ぶ手痛い教訓によって、イギリス共産党系の新聞は、誹謗法に抵触することの健全なこわさを痛感したからなのだ。その非難が、証拠を出せといわれそうな国ではひっこめられたという事実は、その非難そのものが、でっちあげであるということを自らはっきりと認めたようなものである。
POUMに対して加えられた非難について、私が必要以上にながながと論じてきたように感じられるかもしれない。内戦の大きな悲惨とくらべてみれば、このような各政党間の内輪もめなどは、必然的に不正や誤った非難を伴うにしても、とるに足らぬもの、という気がするかもしれない。ところが、じつはそうではないのだ。この種の中傷や新聞による論戦と、そういったものによって示される気質とは、反ファシスト運動に、きわめて致命的な打撃をも与えかねない、と私は信じている。
この問題を一瞥されれば、だれでも、でっちあげた非難によって政敵を葬り去る共産党の戦術は、何も今に始まったものではないことがおわかりになると思う。今日のきまり文句は「トロツキー・ファシスト」であるが、昨日までは「社会主義ファシスト」だった。たとえば、レオン・ブルム〔フランスの政治家・ジャーナリスト、社会党党首。首相をやったこともある〕やイギリス労働党の有力なメンバーを含む第二インタナショナルの指導者たちが、ソビエト連邦に対する軍事的侵略をくわだてていることを、ロシアの国家裁判が「証明して」から、まだほんの六、七年しかたっていない。それなのに、今日のフランス共産党は、喜んでブルムを指導者に迎えているし、イギリス共産党にしても、労働党の内部に入りこもうと、なりふりかまわぬ努力をしている。党派的な見地から見てさえ、こんなことをしていてはたして割に合うのかな、と首をかしげたくなる。それでいて、他方では、「トロツキー・ファシスト」式の非難が原因で起こる憎悪と軋轢《あつれき》については、一抹の疑問すら抱いていない。どこでも、一般共産党員たちはだまされて、ばかげた魔女狩りに似た「トロツキスト狩り」に駆り出され、POUMのようなタイプの政党は、たんなる反共産党的政党という、おそろしく不毛な立場へ追い落とされている。世界の労働者階級の運動には、すでに、危険な分裂のきざしがある。終生、社会主義に身を捧げてきた人たちに対して、これから先、すこしでも中傷が行なわれたり、POUMに対する非難のようなでっちあげがまかり通るようなぐあいだと、その分裂はとりかえしのつかないものになるかもしれない。ただひとつの希望は、政治的な論争を、徹底的な討論をたたかわすことのできる水準だけにとどめておくことである。共産主義者と、それよりもっと左を固守しているか、もしくは固守しようと主張する人たちとのあいだには、ほんとうの相違がある。共産主義者たちは、資本家階級の一分派と同盟すること(人民戦線)によって、ファシズムを打ち破ることができる、と主張する。それに反対する人たちは、その戦術はファシズムに新しい飼育場を与えるだけだ、と主張する。この問題を解決しなければならない。解決を誤ると、われわれは、数世紀にわたり、半奴隷的状態に甘んじていなければならなくなるかもしれない。しかしながら、「トロツキー・ファシストだ!」という金切り声のほかには、議論がさっぱり持ち出されないようでは、討論は始まりさえしないのだ。たとえば、バルセロナ市街戦の正邪について、私が共産党員と論争することもできないだろう。というのは、共産党員なら――つまり、「忠誠な」共産党員という意味だが――、私が、あの事件について真実の説明をしていることを認めるわけにはいかないからだ。もし彼が、党「路線」を忠実に守るなら、私がうそをついている、と宣言するか、そこまでの勇気はなくても、私が救いようのないほど考えちがいをしているので、事件の現場から一千マイルも離れたところで「デイリー・ワーカー」紙の大見出しをちらと見ていた人のほうが、バルセロナで起こっていたことを、私以上に知っている、と宣言するか、しなければならない羽目になるだろう。そのような状況のもとでは、議論など起こりっこない。必要最少限の同意にさえ到達できないからだ。マックストンのような人たちをファシストの雇い人だと非難して、それがいったい何の役にたつというのか? 真剣な討論をできなくするだけのことではないか。たとえてみれば、将棋《チェス》の勝ち抜き試合の最中に、片方が、相手に向かって、いきなり、こいつは放火犯人だ、重婚犯人だとかわめき出したようなものだ。肝心の問題点は論じられないままなのである。中傷では、問題は何も解決しないのだ。
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第十二章
私たちが前線にもどったのは、たしかバルセロナの市街戦が終わった三日後だった。あの戦いのあとでは――とりわけあの新聞でのののしり合いのあとでは――この戦争を、これまでとまったく同じような素朴で理想主義的な態度で考えることはむずかしかった。だれでも、スペインに二、三週間以上いてみれば、きっとある程度の幻滅を感ずると思う。私は、バルセロナへ着いたその日に会った新聞記者のことを思い出した。彼はいうのだった、「この戦争だってほかの戦争と同じで、ばか騒ぎなんだよ」と。この言葉は、私にとって大きなショックだった。あのころ(十二月)がその言葉どおりだったとは思わないし、五月の今となっても、その言葉は当たっていない。だが、だんだん彼の言ったとおりになって来ている。じつは、どのような戦争でも、一か月、二か月と続いていくにつれて、一種の漸進的な堕落症にかかる、ということなのだ。なぜかといえば、個人の自由とか忠実な報道とかいうふうなものは、軍事的能率とまったく両立しないからである。
これから何が起こりそうかについて、もうある種の推測を始めることができるようになっていた。すぐわかることは、カバリェロ政権が倒れ、その代わりに、共産党色のいちだんと濃厚な、もっと右寄りの政権が現われるであろう(現に、一、二週間後にそうなった)、そして、その政権は、断乎として一挙に労働組合の勢力を打ち破ることにとりかかるであろう、ということだった。そして、それから先は、フランコが負けたとしても――スペインの再建にともなういくつかの大きな問題はこの際考えないとして――前途はけっしてバラ色ではなかった。これは「民主主義を守るための戦争」である、という新聞の論説などは、ごまかしもいいところだった。スペインのように分裂し、疲弊しきった国で、たとえ戦争が終わってからにせよ、民主主義の希望がある、などとは、イギリスやフランスにいて考えているわれわれならいざ知らず、正気の人ならだれも考えなかった。スペインは独裁制の方向に進まないわけにはいかないだろう。そして、明らかに、労働階級による独裁のチャンスはすでに失われてしまっていた。ということは、とりもなおさず、全般的な動きがある種のファシズムの方向に向かっている、ということだった。もっとも、ファシズムといっても、それは疑いもなくドイツやイタリアのファシズムほど品の悪くない――何しろスペインのことだから――もっと人間らしい、その代わりもっと能率の悪いファシズムだろう。そのほかに進むべき道は、となると、それよりもっと悪いフランコによる独裁制か、それとも(あくまでも可能性としての話だが)戦争が終わったとき、スペインが現実の境界線による二分割、ないしはふたつの経済圏への二分化のままでいるか、このふたつにひとつしかなかった。
どちらの道をえらんだとしても、前途は暗かった。しかし、だからといって、フランコやヒトラーのもっと露骨な高度のファシズムに抵抗している政府に味方して戦っても無駄である、という結論にはならなかった。戦後の政府がどのような欠陥をもつにもせよ、フランコの政治体制のほうが、たしかに、もっとひどいものだろう。労働者たち――都会の無産階級――にとっては、どちらの陣営が勝とうが、結局のところ、あまり大したちがいはないかもしれない。だが、もともと農業国であるスペインでは、政府側が勝てば農民たちが得をすることは、ほとんど確実といってよい。彼らが接収している土地の少なくとも一部は、その手に残るだろうし、またその場合には、フランコの勢力圏だった地区でも、土地の分配が行なわれるはずである。それに、スペインのいくらかの地域に存在していた実質上の農奴制も、まず復活しないだろう。戦争終結のさい政権を握る政府は、ともかく反教権的、反封建的なものになるはずである。その政府は、少なくとも当分、教会を抑制し、国の近代化をはかるであろう――たとえば、道路を建設し、教育や公衆衛生を促進するであろう。現に、戦争中ですら、ある程度のことは行なわれてきたのだ。それに反し、フランコは、たんなるイタリアやドイツの傀儡《かいらい》でないかぎり、封建的大地主と結託しようとし、古くさい教権的軍国主義的反動勢力の代表となるわけである。人民戦線なんてものはペテンだろうが、フランコのほうは時代錯誤《アナクロ》だ。フランコが勝ってくれればよいという気になれるのは、百万長者かロマンチックな連中ぐらいのものだ。
さらに、ファシズムの国際的威信の高まりという問題もある。この一、二年、まるで悪夢のように私につきまとって離れない問題なのだ。一九三〇年以来、ファシストたちはことごとく勝利を収めてきた。ここいらで、もうそろそろ一発食ってもいい時期である。だれが食わせたってかまわない。もしわれわれが、フランコとその手下の傭い兵どもを、海の中へたたきこむことができるなら、たとえスペインそのものが息のつまるような独裁制の国となり、いちばんすぐれた人たちが監獄へぶち込まれるような羽目になったとしても、世界情勢は著しく好転するであろう。そのためだけでも、この戦争は勝ち抜くだけの価値があるのだ。
あのころの私は、事態をこんなふうに見ていたのだった。私は、ネグリン政府を、それが政権の座についたあのころより、今はもっと高く評価している、と言ってよい。ネグリン政府は、すばらしい勇気をもってこのむずかしい戦争を続けており、期待にまさる政治的寛容をみせている。しかし、それでも、私はやはり――スペインが分裂して思いがけない結果にでもならないかぎり――戦後にできる政府の傾向は、きっとファシズム寄りだろう、という気がしてならない。私はもう一度この意見をこのまま保留しておいて、多くの予言者と同じく、はたしてそれが当たるかどうか時が決めてくれるのを待とうと思う。
われわれは、前線へ着くとすぐ、ボブ・スマイリーがイギリスへ帰国する途中、国境で逮捕され、ヴァレンシアへ護送されて投獄されたということを聞いた。スマイリーは、昨年の十月からスペインに来ていた。POUMの事務所で数か月働いた後、独立労働党《ILP》のほかの連中がやって来たとき、宣伝旅行に加わるために帰国するまで三か月ほど前線に出ている、という条件付きで、義勇軍に入隊したのだった。なぜ彼が逮捕されたのか、かなりのあいだその理由がわからなかった。何しろ独房入りで面会を禁止されていたため、弁護士でさえ彼に会えなかったのだ。スペインには――少なくとも事実上――人身保護令状は存在しないので、裁判どころか、起訴もなしに、何か月も投獄されっぱなし、という場合があるのだ。とどのつまり、スマイリーが「武器携帯」罪で逮捕されたことを、釈放されて来た者を通じてやっと知った。たまたまわかったのだが、その「武器」というのは、砲弾の破片やそのほかの記念品とともに、講演の際に聴衆に見せるために持ち帰ろうとしていた、戦争の初めごろに使用された原始的な型の二発の手榴弾だったのだ。装薬や信管は抜いてあるので――要するに、ただの鋼鉄の円筒で、何の害もないしろものだった。明らかに、それはたんなる口実で、彼がPOUMに関係していることが知れわたっていたために逮捕されたのだ。
バルセロナの市街戦が終わったばかりの時で、当局は、公式見解を否定することのできる立場にいる者は、ひとりもスペインの国境を越えさせまいとして、それこそ神経をとがらせていたのだ。そのため、国境では、どうかすると、程度の差こそあれ、つまらないことを口実にしてよく逮捕されることがあった。スマイリーの場合にしてもおそらく、初めは、ほんの二、三日拘留しておけばいい、というぐらいのつもりだったのだろう。ところが、困ったことに、スペインでは、いったん投獄されたらさいご、裁判があろうがなかろうがずっと入っていなければならないのだ。われわれは相変わらずウエスカにいたが、その位置は少し右手へ移動して、二、三週間前に一時的に占領したことのある、ファシスト軍の角面堡の真向かいだった。今では、私の身分は「テニエンテ」――イギリスの陸軍少尉に相当する――で、イギリス人とスペイン人を合わせて約三十名ぐらいの兵隊の指揮をとっていた。正規軍将校に任命するため私の名前はすでに申告ずみだった。が、その任命を受けていいものかどうか迷っていた。以前には、義勇軍の将校たちは、正規軍将校に任命されるのを拒否していた。任官すると特別手当が支給され、それが義勇軍の平等主義に反するからだった。だが、今では、いやでも任官を認めないわけにはいかなくなっていた。ベンジャミンは、もう大尉に任命されており、コップは近いうちに少佐になるはずだった。もちろん、政府は、義勇軍将校なしでやっていくことはできなかったが、彼らを少佐以上の位まで昇進させることは認めようとしなかった。おそらく少佐以上の位は、正規軍将校と士官学校出の新規将校用としてとっておいたのだろう。その結果、私のいる第二十九師団では、もっともほかの多くの師団でも事情は同じだっただろうが、一時的に、師団長も旅団長も大隊長もみんな少佐という奇妙な事態が起こった。
前線では大した事件も起こらなかった。ハカ街道付近の戦闘もしだいにとだえていき、六月中旬まで再開されなかった。われわれの陣地の何よりの悩みは、敵の狙撃兵だった。ファシスト軍の塹壕は百五十ヤード以上も離れていたが、彼らのほうの土地が高いうえに、われわれのほうの戦線は直角に突き出ていたので、左右両側に敵がいる格好となっていた。その突き出た角の先端が危険箇所で、いつも狙撃兵による死傷者が出た。ときどきファシスト兵は、われわれに向かって、小銃|擲弾《てきだん》かそれに似た火器をぶっ放した。それはすさまじい音をたてて炸裂した――勇気も何もくじけてしまいそうだった。というのは、飛んでくる音が聞こえてから逃げても間に合わなかったからだ――しかし、ほんとうはそれほど危険ではなかった。地面にできる穴も、せいぜい洗濯たらい程度の大きさだったからだ。夜は心地よいほどの暖かさだったが、昼は燃えるように暑く、そろそろ蚊がうるさくなりかけていた。われわれは、バルセロナから持ってきた清潔な衣服を身につけていたのに、たちまちシラミたかりとなった。陣地の外の無人地帯にあるさびれた果樹園では、サクランボの花が木に白く咲いていた。二日間どしゃ降りが続いて、待避壕は水びたしとなり、胸壁には一フィートも水がたまった。その後、何日も、柄のない、ブリキのスプーンのように曲がる使いにくいスペイン鍬《くわ》で、ねばねばした粘土を掘り出さねばならなかった。
中隊に迫撃砲を一門配備するという約束だったので、私は首を長くして待っていた。夜は、今までどおり巡視《パトロール》を続けた――しかし、ファシスト軍の塹壕の兵の配置状況がよくなり、警戒も厳重になっていたので、これまでよりは危険だった。彼らは鉄条網のすぐ外側にあきかんをばらまいておき、カチンとでも音がすると、それっとばかり機関銃の火ぶたを切るのだった。昼間は、われわれも無人地帯《ノーマンズ・ランド》から狙撃した。百ヤードほどはっていくと、丈高い雑草のかげになった溝があり、そこからはファシスト軍の胸壁のすき間をながめることができた。われわれは、その溝の中に狙撃台を作った。じっくり待っていると、たいていカーキ色の服を着た人かげが、急ぎ足でそのすき間を横切っていく。私は何発か射ってみた。うまく当たったかどうかわからない――まず当たらなかっただろう。何しろ私の射撃の腕前ときたら、まったくもってお恥ずかしいものだったからだ。しかし、これはちょっとばかりおもしろかった。ファシスト兵のほうは、どこから射たれているのか見当もつかないのだ。そして、遅かれ早かれ、そのうちにきっとひとりぐらいは仕とめるぞと思っていた。それにしても、人を呪わば穴ふたつとはよく言ったものだ――私のほうがあべこべにファシストの狙撃兵にやられてしまった。
前線にもどって十日ほどたったときのことだった。弾丸《たま》に当たるという経験は、何から何までたいへん興味があるので、こと細かに述べておく価値があると思う。ところは、例の胸壁の先端で、ときは、朝の五時ごろだった。この時刻がいつも危なかった。というのは、われわれの後ろから夜が明けてくる格好になるので、胸壁から頭を出すと、空にくっきりと輪郭が浮かび出るからである。番兵交替をしようとして、私が歩哨に話しかけたときだった。しゃべっているまっさいちゅうに、突然、私は何かを感じた――何を感じたのか説明するのはとてもむずかしい。ただ、感じたことだけはじつにはっきり覚えている。
おおざっぱな言い方をすれば、それは爆発の「中心」にいるような感じだった。私は、ドカンという大きな音と目もくらむような閃光に包まれたような気がして、ものすごい衝撃を受けた――苦痛ではない。電極から受けるような激烈な衝撃だ。それと同時に、完全な脱力感、打ちのめされてへなへなとなっていくような感じに襲われた。目の前の土嚢が、無限のかなたへ遠ざかっていく。雷に打たれたときも、きっとこんなような感じなのだろう。私は、すぐに、射たれたな、とさとった。しかし、その音と閃光らしいもののために、私は、てっきり、近くの小銃が暴発してその弾丸が当たったのだ、と思った。すべてが、時間にして一秒たらずのあいだのできごとだった。つぎの瞬間、両膝がくだけて私は倒れた。そして、そのひょうしに、頭をドンとはげしく地面に打ちつけた。が、別にけがはしなかったのでほっとした。しびれて目のくらむような感じで、ずいぶんひどくやられたな、という気はしたが、ふつうの意味での苦痛はまったく感じなかった。
私が話かけていたそのアメリカ人の歩哨が、びっくりしてこちらへ身をかがめた。「あっ、やられたのかっ?」みんながまわりに集まってきた。いつものてんやわんやが始まった――「起こしてやれ! どこを射たれたんだ? シャツを開いてみろ! 云々」、ざっとこんな調子だった。さっきのアメリカ人が、シャツを切り開くんだからナイフを出せといった。ポケットに一挺入っていることを知っていたので、それを出そうとしたが、気がついてみると、右腕が麻痺している。別にどこも痛くないので、私は漠然とした満足感さえ覚えた。これできっと妻は喜ぶだろうと思った。彼女はいつも、私が負傷してくれればいいのに、と願っていたのだ。負傷してしまえば、激戦が起こっても戦死しなくてもすむからだった。そのころになってやっと、いったいどこを、どのくらいやられたのかな、という疑問があたまにうかんだ。感じでは、まったく何もわからなかったが、弾丸がどこかからだの前の方に当たったらしいということは気がついた。しゃべろうとすると、ほんのかぼそいキイキイ声のほかは、まともな声が出ないのだった。もう一度ためしてみて、やっとどこをやられたのか聞くことができた。咽喉だ、とみんなが言った。担架手のハリー・ウエッブが、応急手当用に支給されている包帯とアルコールの小びんをもって来た。みんなにかかえ起こされたとき、私の口から血がどくどくと流れでた。後ろにいるスペイン兵が、咽喉をまともに射ち抜かれているな、と言っているのが聞こえた。ふつうなら飛びあがるほどしみるはずのアルコールが、気持ちのいい冷たさで患部にひろがっていく。
担架を取りにいっているあいだ、私はもう一度横にされた。咽喉にあざやかに一発食っているとわかったとたん、私は、もうだめだな、と観念した。人間でも動物でも、咽喉のまんまん中を射ち抜かれて、しかもまだ生きているなんて話は聞いたことがなかったからだ。血が口のはしからポタポタとしたたり落ちていた。「動脈をやられたんだな」と思った。頸動脈が切れてから、どれくらい生きていられるものだろう、おそらく何分とはもつまい。あらゆるものがぼうっとしてきた。自分が死ぬと思いこんでいたのは、二分間くらいだったにちがいない。そして、それもまたおもしろかった――いや、そのような場合に、どんなことを考えるものなのか、それがわかっておもしろい、という意味なのだ。最初に頭にうかんだのは、まったく月並みだが、妻のことだった。次にうかんだのは、何だかんだ言っても、とても満足して暮らしているこの世界を去らねばならないことに対する、はげしい怒りだった。これははっきりと感じるだけの暇があった。このばかげた災難に腹がたった。まったく無意味な災難だ! ちょっと気をゆるめたばかりに、戦闘中ならまだしも、こんなきたない塹壕のすみっこで死ななければいけないなんて! 私を射った男のことも考えた――どんなやつなんだろう。スペイン人かな、それとも外人かな、やっこさん、おれを仕とめたことがわかったかな、などと。射った男に対しては、何の恨みも感じなかった。私は考えにふけっていた、やっこさんはファシストなんだから、もしこっちに機会があれば、こっちがやっこさんを殺していただろう、でも、もし彼が捕虜にでもなって、今私の目の前へ連れて来られたら、君はずいぶん射撃がうまいな、と私はただ彼の腕前を賞めてやるだけだな、と。もっとも、もしほんとうに死にかけているのだったら、まるっきりちがったことを考えるのかもれない。
担架にのせられたとたんに、麻痺していた右腕の感覚がもどって来て、ひどく痛み出した。そのときは、倒れたひょうしに折ったのだろうと思った。しかし、その痛みで私は元気が出た。というのは、死ぬときになって感覚がいちだんと鋭敏になるなんてことはない、と知っていたからだ。私は多少正常な気持ちになってきて、担架をかついで汗をかきながら、足をすべらしすべらしおりていく気の毒な四人の戦友にすまない気がした。野戦病院までは一マイル半もあり、でこぼこの、すべりやすい道を行くまったくやりきれない旅だった。一、二日前に、負傷兵を担架で助けおろすのを手伝ったことがあるので、これがどんなに骨の折れる作業かは知っていた。われわれの塹壕のところどころに生えているウラジロハコヤナギの葉が、私の顔を軽くなでた。ウラジロハコヤナギの生えている世界に生きているって何とすばらしいんだろう、と私は思った。しかし、そのあいだも、腕の痛みはどうにもたまらないので、思わずののしりの言葉が口をついたが、思いなおし、つとめてののしるのをがまんした。強く呼吸するたびに、口からぼこぼこと血が吹き出したからだ。
医者は傷口の包帯を巻きなおし、モルヒネの注射を打ってから、私をシエタモへ転送した。シエタモの病院は、にわかづくりの木造の小屋で、負傷兵はふつう二、三時間だけ収容され、そのあとは、バルバストロかレリダへ送られることになっている。モルヒネのおかげで私の意識はもうろうとしていたが、痛みはやはりひどかった。ほとんど身動きもできないので、たえず血をゴクゴクと呑みこんでいた。私がこのような状態なのに、未熟な看護婦は、病院の規定食――スープ・卵・油っこいシチューなど、それもしたたかな量――を、むりやりに私の咽喉へ流しこもうとし、食べたくないと言ったらびっくりしたような顔をしたのも、いかにもスペインの病院らしかった。私はたばこがほしいと言ったが、あいにくちょうどたばこ飢饉のときだったため、一本もなかった。やがて、一、二時間戦線を離れる許可をもらったふたりの戦友が、私のベッドのそばへやって来た。
「やあ、生きているんだね、ええ? よかったなあ。君の腕時計と拳銃と懐中電燈をおれたちにくれないか。それに、もしあったらナイフもね」
彼らは、私の携帯用の持ちものを全部まきあげると、そそくさと立ち去った。負傷者が出るといつもこうなのだった――持ちものが片っぱしからぶんどられてしまうのだ。というのは、まったく当然のことなのだが、腕時計や、拳銃やそういったものは前線では貴重品だったし、前線より後送される負傷者の雑嚢の中にこのようなものが入れてあっても、その途中のどこかできっと盗まれてしまうからだった。
夕方までに、病人や負傷者がぽつぽつと集まって来て、二、三台の患者輸送車がいっぱいになるぐらいの人数になった。そして、われわれはバルバストロへ送られた。何という旅行だっただろう! この戦争では、手足を負傷したものは助かるが、腹を負傷したものは必ず死ぬ、といわれていた。が、その理由が今となってわかった。戦争の勃発以来、重量トラックによってめちゃくちゃに壊され、一度も修理されたことのない砂利道を、何マイルもガタガタ揺られていくのでは、内出血の恐れのあるものはとてもたまらないのだ。ガタン、ドシン、ドタリ! おかげで、私がまだ幼い子供だったころ「ホワイト・シティー〔ロンドンのハマースミスにある各種の共進会、運動競技会などの催される場所〕博覧会」にあった「|ガタゴト宙返り《ウィッグル・ウォッグル》」という恐ろしいものを思い出した。われわれを担架にしばりつけるのを忘れたのだ。私の左腕は何とかものにつかまるだけの力があったが、かわいそうなのがひとりいて、床の上へほうり出され、それこそ言語に絶する苦悶にさいなまれていた。もうひとりは歩ける患者で、これは救急車のすみっこにすわっていたが、そこいらじゅうに反吐《へど》を吐いていた。バルバストロの病院は、ずいぶん混んでいた。病床《ベッド》がほとんどくっつきそうなほどぎっしりつまっていた。あくる朝、大ぜいのわれわれは病院列車に乗せられ、レリダへ送られた。
私は、レリダに五、六日いた。大きな病院で、負傷兵も一般民間の患者もみないっしょにされていて、少し混雑気味だった。私の病室には、びっくりするようなひどい傷を負った患者が何人かいた。となりのベッドにいるのは髪の黒い青年だったが、どんな病気なのか、エメラルドのような緑色の小便の出る薬をのまされていた。彼の洩《し》びんは、病室じゅうの見ものだった。英語を話すオランダ人の共産党員が、イギリス人が入院していることを聞きつけて、仲よくしようというわけで、イギリスの新聞をもってやって来た。彼は十月の戦闘で重傷を負ったが、やっとのことでレリダの病院へ落ち着くことができて、看護婦のひとりと結婚していた。傷のために、片方の脚が萎縮して私の腕ぐらいの太さになっている。休暇中の義勇兵がふたり、負傷した戦友の見舞いにやって来て、私を見つけた。私が前線にもどったその週に会った連中だった。ふたりともまだうら若い青年だった。どう言ったらいいのだろうか、といっしょうけんめいに頭をしぼりながら、もじもじと私のベッドわきに立っていたが、やがて、負傷を気の毒に思っている気持ちを何とか形で示そうとして、いきなり、ポケットからありったけのたばこをつかみ出して私に押しつけると、そのまま逃げていってしまった。まったく返すひまもないほどあっという間のできごとだった。何とスペイン人らしいのだろう! あとでわかったのだが、煙草は町のどこへいっても買えず、彼らがくれたのは、何と自分たちの一週間分の配給量だったのだ。
二、三日すると、私は起き上がって、腕に吊り包帯をして歩きまわれるようになった。どういうわけか、吊り下げていると痛みがひどいのだった。また、倒れたひょうしに受けた傷のために、しばらくはからだの深いところにかなりの痛みを感じた。声はほとんど出なくなってしまっていたが、弾丸《たま》傷そのものの痛みを感じたことは一度もなかった。これは、いつもこういうものらしい。銃弾のものすごい衝撃が、感覚を局部的に麻痺させるのだ。砲弾や手榴弾のかけらはぎざぎざになっていて、ふつう当たり方があまり鋭くないので、たぶんものすごい激痛を与えるのだろう。病院の構内には気持ちのいい庭があって、そこの池に、金魚や何か黒っぽい灰色の小さな魚――コイらしかった――が泳いでいた。私は、よくそれをじっと見つめながら、何時間もすわっていたものだった。レリダでのやり方を見ていると、アラゴン戦線における病院組織がどうなっているのか想像がついた。――もっとも、ほかの戦線でも同じだったのかどうか、それはわからない。病院がたいへんすぐれている点もいくつかあった。医師たちは有能で、医薬も設備も不足はなさそうだった。しかし、助かるはずの何百何千という人を、みすみす死なせる原因となっている欠陥が、たしかにふたつあった。
そのひとつは、前線近くにある病院が、どこもみな大なり小なり傷病兵臨時収容所にあてられている、ということだった。そのため、動かせないほどの重傷患者でないかぎり、そこで治療は受けられなかった。たてまえとしては、傷病兵の大部分は、バルセロナかタラゴナへ直送されることになっていたが、何しろ輸送機関が不足しているため、到着するのに一週間も十日もかかることがよくあった。そして、シエタモ、バルバストロ、モンソン、レリダ、そのほかの場所でぐずぐずと待たされ、そのあいだは、時おり包帯をきれいなものと取り替えてもらう以外には何の治療も受けず、どうかすると、それさえしてもらえないことがあるのだった。砲弾によって重傷を負ったり、骨が砕かれたりした連中は、包帯と焼石で作ったギブスのようなものを巻かれ、そのギブスの外側に、傷の症状が鉛筆で書いてあった。そして、十日ほどして患者がバルセロナかタラゴナへ着くまで、そのギブスはつけっ放しだった。途中で傷を診てもらうことは、まずできなかった。医者の数が少なくて、とてもそこまで手がまわらないのだ。医者はただ「よしよし、バルセロナへいけば、ちゃんとした治療がしてもらえるぞ」と言いながら、ベッドのそばを急ぎ足に通っていくだけだった。「明日《マニャーナ》」病院列車が出るはずだ、といううわさがしょっちゅう流れていた。
もうひとつの欠陥は、有能な看護婦がいないことだった。どうもスペインには、訓練を受けた看護婦の補充が全然ないようだった。それというのも、たぶん、戦前はおもに修道尼たちがこの仕事を引き受けていたからなのだろう。私は、別にスペインの看護婦に、不平がましいことを言っているのではない。彼女らは、いつもきわめて親切に私を看護してくれた。しかしなながら、彼女らが無知だったこともまたたしかである。さすがに体温の計り方を知らないものはひとりもいなかったし、包帯の巻き方を心得ているものも多少はいたが、彼女らにできることは、といえば、せいぜいそれぐらいのものだった。その結果、ひどい話だが、自分で身の始末もできないような重症の患者が、しばしばほったらかしにされることがあった。患者が一週間もぶっ通しに便秘していても看護婦たちは平気だったし、衰弱がひどくて自分では洗面できない患者の顔を洗ってやるというふうなことも、めったになかった。私は、腕を片方砕かれた気の毒なひとりの患者が、自分は、もうこれで三週間も顔を洗ってもらってない、と私に述懐したのをおぼえている。ベッドでさえ、何日もなおしてもらえないままだった。
食事はどこの病院でもとてもよかった――まったくの話、よすぎた。病人に、こってりした食事をたらふく詰めこませることが、スペインでは、ほかのどこよりも昔からのしきたりになっているらしかった。レリダでの食事はものすごかった。朝食は朝の六時ごろに出たが、スープ、オムレツ、シチュー、パン、白葡萄酒、それにコーヒーという組み合わせで、昼食となると、もっと豪華版だった――しかも、これが、一般市民のほとんどが食うや食わずの生活をしているときの話なのだ。スペイン人には、軽い食事なんてものはわからないらしい。病人にも、健康な人とまったく同じ食事が出るのだ――いつも同じこのこってりとした、油っこい、しかも、何から何までオリーブ油にひたした料理が。
ある朝、私の病室の患者は、本日バルセロナへ護送する、との発表があった。私は、今日帰るという電報を、どうにか妻宛に打つことができた。やがて、われわれはバスに詰めこまれて、駅まで運ばれた。ぎりぎりの発車まぎわになって、つき添っていく病院付の看護兵が、結局、バルセロナではなくてタラゴナへ行くことになったのだ、とうっかり口をすべらした。おおかた機関手の気でも変わったのだろう。「ほんとにスペインらしいな!」と思った。だが、私がもう一通電報を打ち終わるまでこころよく汽車を止めていてくれたのも、いかにもスペインらしかった。そして、その打った電報が結局着かなかったときたのには、さらにいっそうスペインらしい、というほかはなかった。
われわれは、木の座席のふつうの三等車にのせられた。多くは重傷患者で、その朝初めてやっとベッドを離れた連中だった。やがて熱気やら揺れやらのため、半数が衰弱状態に陥り、床の上に反吐《へど》を吐くものも数名出る始末だった。例の病院付看護兵は、水のいっぱい入った大きなヤギ皮の水筒を持って、いたるところに死んだようにぶざまにのびている患者たちのあいだを縫って歩き、だれかれとなく患者の口にシューッと水を注いでやるのだった。それがまた何ともひどい水だった。いまだにその味をおぼえているくらいである。日が傾きかけたころ、われわれはタラゴナの町の中へ入った。鉄道線路が海のすぐそばを走っている。われわれの列車が駅に着くのといれちがいに、国際旅団の兵士を満載した軍用列車が出ていくところで、一団の人びとが跨線橋《ブリッジ》の上から彼らに手を振っていた。長い長い列車で、はちきれそうに兵士をいっぱいのせている。無蓋貨車には野砲がくくりつけてあり、そのまわりにもたくさんの兵士がむらがっている。その列車が黄色い夕陽を浴びて走っていく情景を、私は奇妙なくらいはっきりとおぼえている。窓という窓に鈴なりになった陽焼けしたにこにこ顔、傾いた長い砲身、はためく真紅のスカーフ――これらすべてが、トルコ玉色の海を背景に、われわれの目の前をゆっくりと通り過ぎていくのだった。
「エストランヘロス――外国人だ」とだれかが言った。「イタリア人だ」
どうもイタリア人らしかった。ほかの外国人だったら、あんな、まるで絵に描いたような群れはとても作れないだろうし、群衆の歓呼に、あんなに上品なしぐさで答礼することも、とうていできないだろう――半数ほどの連中が、びんをさかさにして、葡萄酒をラッパ呑みにしているのに、ちっとも下品な感じがしないのだ。あとで聞いたのだが、この兵士たちは、三月にグァデラハラで大勝利を収めた部隊の一部だった。休暇が終わって、アラゴン戦線へ送られるところだったのだ。あのつい二、三週間後に、大半がウエスカで戦死したのではないかと思う。
こちらの汽車でも、立てる力のあるものは、すれちがう窓まで寄っていって、通り過ぎていくイタリア人たちに声援を送った。窓から松葉杖を振るもの、包帯した腕で革命軍の敬礼をするもの、それは、まるで、戦争というものを象徴する一幅の絵のようだった。新しい元気な兵士たちは、列車に満載されて、誇らしげに前線へ送られていく、不具になった兵士たちはゆっくりと前線から帰ってくる。そして、そのあいだもずっと、無蓋貨車の上の大砲は、例によって人の胸をおどらせ、何といっても戦争はすばらしいなあ、という、あの悪性でなかなか捨てきれない感情を、生き生きとかきたてるのだ。
タラゴナの病院はとても大きな病院で、各戦線から送られてきた負傷兵でいっぱいだった。何とまあさまざまな傷があるのだろう! ある種の傷の治療をするのに、たぶん最新の医学に合致しているのだろうと思われる治療方法が行なわれていたが、それは、恐ろしくてとても見てはいられなかった。その方法というのは、患部に包帯などしないでまったくむき出しにしておき、針金のわくに目の粗《あら》い薄地の綿布のネットを張ったものをかけてハエを防ぐ、というやり方だった。そのネットの下に、治りかけの傷口が赤いゼリーのようにグチャグチャになっているのが見えているのだ。顔と咽喉をやられた患者がひとりいて、バタ・モスリンの球形のヘルメットのようなものを頭からすっぽりかぶっていた。そして、口をふさぎ、唇のあいだにとりつけた小さな管で呼吸していた。かわいそうに、彼はうろうろ歩きまわり、そのモスリンのかごのあいだから外を見ながら、口をきくこともできないので、ひどくさびしそうだった。
私は、タラゴナには三、四日いた。体力がしだいに快復してきたので、ある日、ゆっくりと歩きながら努力して海辺までいってみた。海辺の生活が、ほとんどふだんのように行なわれているのを見て変な気がした。遊歩道《プロムナード》に沿ってハイカラな喫茶店《カフェー》が立ち並び、その地方の金持ちらしい、でっぷり太った男が、一千マイルとは離れていないところで戦争が行なわれていることなど、どこ吹く風といった様子で、海水浴をしたりデッキチェアで日光浴をしたりしていた。それでも、偶然のことだったが、私は人が溺れるのを見た。あんな浅い、なまぬるい海では溺れっこないと思っていたのに。
前線を離れてから八日か九日たって、やっと私は傷の診察を受けた。新たに着いた患者が診察を受ける手術室では、大きな鋏《はさみ》をもった医師たちが、肋骨や鎖骨などの砕けた患者に、前線後方の仮包帯所でかぶせた石こうの胸当てを切り砕いていた。そのでっかく不細工な胸当てのくび穴から、一週間ものび放題になった無精ひげの汚れた顔が、心配そうにニューッと突き出ているのだった。医者は三十歳ぐらいのきびきびしたハンサムな男で、私を椅子にすわらせると、目の粗いガーゼの切れっぱしで私の舌をぐいとつかみ、ぎりぎりいっぱいまで引っぱり出してから、歯医者用の鏡を咽喉の奥まで突っ込んで、「エー!」と言え、と言った。舌からは血が出て、目からは涙が出るまでこれをやってから、声帯が片方麻痺している、と言った。
「いつになったら、また声が出ますか?」と私はきいた。
「声だって? いや、もうぜったい出ないね」と彼は楽しそうに答えた。
しかし、あとになってわかったのだが、彼の御託宣はまちがっていた。二か月ぐらいのあいだは、せいぜいささやき程度の声しか出なかったが、その後はもう片方の声帯が「埋め合わせ」をしてくれて、むしろだしぬけに声がまともに出るようになった。腕の痛みのほうは、弾丸が首の後ろにある神経束を貫通したために起こったのだった。神経痛のようなズキズキする痛みで、約一か月ぶっ通しに続き、とくに夜がひどかったので、ろくろく眠れなかった。右手の指も半ば麻痺していた。五か月たった今でも、人さし指がまだしびれている――首の傷が変なぐあいにひびいているのだ。
私の咽喉の傷はちょっと珍しかったので、医者たちが入れかわり立ちかわり診察し、感嘆のあまり舌打ちしながら「|まったく運がいいなあ《ケ・セルテ》! |ツイてるなあ《ケ・セルテ》!」と驚きの声をあげていた。その中のひとりが、いかにももったいぶって、弾丸は「ほんの一ミリだけ」動脈を外れているよ、と言った。それがどうやってわかったのか、私にはわからない。そのころ会った人はみんな――医者も、看護婦も、|見習い医《インターン》も、仲間の患者たちも――口をそろえて、首を射ち抜かれながら生きているなんて、最高に幸運な人だ、と言ってくれた。私は、だって射たれないほうがもっと幸運じゃないかな、という気がしてならなかった。
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第十三章
バルセロナでは、私が過ごしたあの最後の何週間かのあいだじゅう、巷間《こうかん》には、とりわけ険悪な空気が広がっていた――それは、疑惑と、恐怖と、不安と、陰にこもった憎悪だった。五月の市街戦は、ぬぐい去ることのできない余波を後に残していたのだ。カバリェロ政府が倒れると同時に、共産党が決定的に権力を握り、国内治安維持の責任は共産党の大臣たちの手に渡っていた。彼らが、ほんのわずかなきっかけでもとらえて、政敵を粉砕する挙に出ることは、だれも信じて疑わなかった。今のところは、まだ何事も起こらなかった。私自身にしても、これから先、事態がどのように推移していくのか、まったく想像もつかなかった。そうは言っても、漠然とした危機感、つまり、近い将来に何かよくないことが起こりそうだという意識は、いつも感じられた。実際には何も陰謀などたくらんでいなくても、雰囲気におされて、まるで自分が陰謀家にでもなったような気がするのだった。喫茶店《カフェー》の片すみでヒソヒソ声で交される話に引きつけられたり、となりのテーブルにすわっているのは警察のスパイではなかろうかと疑ってみたりするあけくれ、という気がした。
新聞の検閲のせいで、ありとあらゆる不穏なうわさが乱れ飛んでいた。そのひとつは、ネグリン―プリエト政府が、妥協による戦争の終結を計画している、といううわさだった。当時、私はそう信じたかった。というのは、ファシスト軍がビルバオに向かって殺到しているのに、政府は、みたところ、局面を救済するための手は何ひとつ打とうとはしなかったからだ。町じゅういたるところにバスクの旗が掲げられ、喫茶店《カフェー》では女の子たちが、ガラガラ音をたてながら献金箱を持ち歩いており、例によって「英雄的な守備隊」についての放送は流されていたが、実際の援助は、バスク人に何ひとつ与えられていなかった。これでは、政府は何か陰険なことをたくらんでいるのではなかろうか、とついかんぐりたくもなるのだった。その後の事件を見て、私のかんぐりがとんだまちがいだったことははっきりしたが、もしあのとき、もう少し力を入れていたら、おそらくビルバオは救うことができたにちがいない。アラゴン戦線でこちらが攻勢に出れば、たとえそれがうまくいかなくても、フランコに圧力をかけて、彼の兵力の一部を牽制する結果になったはずだ。ところが、どういうわけか、政府は、あとの祭りになってしまうまでは――実際、ビルバオが陥落してしまうまでは、まったく攻勢に出なかったのだ。
CNTは「警戒せよ!」と呼びかけるビラを無数にばらまき、「ある政党」(共産党を指している)がクーデターを計画しているぞ、とほのめかした。また、カタロニアが侵略を受けそうだという恐怖も広まっていた。それより以前、われわれが前線に帰ったとき、私は、前線から何十マイルも後方に、強力な防御陣地が構築されているのを見た。また、バルセロナのいたるところに、新しい防空壕が掘られていた。空襲騒ぎや、艦砲射撃騒ぎがたびたび起こった。たいていは誤報だったが、サイレンが鳴るたびに市《まち》じゅうの灯りが何時間も消えっ放しになり、おくびょうな人たちは地下室へもぐりこんだ。警察のスパイはうようよしていた。刑務所は、五月の市街戦のときから入れられたままの囚人でまだ満員だった。そして、そのほかの人たちも――もちろん、いつもアナーキストやPOUMの党員たちだったが――ひとり、ふたりと刑務所の中へ消えていった。
気づくかぎりでは、裁判にかけられたものはおろか、告発されたものもひとりもいなかった――「トロツキズム」というような何かはっきりした罪で告発されたものさえひとりもいなかった。ただ理由もなく刑務所へほうり込まれ、そのまま閉じこめられ、しかも、たいてい面会禁止だった。ボッブ・スマイリーは、まだヴァレンシアの監獄にいた。現地の独立労働党《ILP》の代表も、担当の弁護士も面会を許可してもらえない、ということぐらいしかわれわれにはわからなかった。国際旅団やそのほかの義勇軍出身の外国人で、投獄される者の数がしだいに増えていった。彼らはふつう脱走兵として逮捕された。義勇兵は、いったい志願兵なのか正規兵なのかだれにもはっきりわからないというのも、いかにも当時の一般的な状況をよく物語っている。二、三か月前までは、義勇軍に志願する者は、君は志願兵である、したがって、休暇のとれる時期が来たら、希望によりいつ何どきでも除隊許可証を得ることができるのだ、と申し渡されたものだった。ところが、今はどうやら政府の考えが変わったらしく、義勇兵も正規兵なので、もし帰国しようとすれば、脱走兵と見なされることになった。しかし、この点も必ずしもはっきりとはしていないようだった。前線のあちこちで、当局者は相変わらず除隊許可を発行していたからだ。また、国境でも、それが認可されるときもあればされないときもあり、認可されない場合は、すぐさま監獄にぶち込まれた。後になると、投獄される外国人「脱走兵」の数は数百人にふくれあがったが、彼らの本国で非難の声が起こったので、その大部分はそれぞれの国へ送還された。
武装した親衛突撃隊の小部隊が、通りをくまなく巡回していた。治安警備隊は、依然として、戦略上の要衝《ようしょう》にある喫茶店《カフェー》やその他のビルを占拠しており、PSUCビルのほとんどはまだ土嚢を積み、バリケードを築いていた。市内の各所に、治安警備隊か国境警備隊を配置した検問所がつくられ、通行人を呼び止めては、身分証明書を調べていた。みんなが、私に、POUM義勇兵証明書はみせるな、入国査証《パス・ポート》と病院の診察券だけをみせろ、と注意してくれた。POUM義勇兵の前歴があると知られることさえ、何となく危険だったのだ。負傷したPOUM義勇兵や休暇になったPOUM義勇兵は、つまらないいやがらせをされた――たとえば、彼らが月給を受け取りにくくするように手が打たれた。「戦闘《ラ・バターリャ》」紙はまだ刊行されてはいたが、実質的には廃刊したのと同じぐらいの検閲を受け、「団結《ソリダリダード》」紙やその他のアナーキスト系の新聞も厳しい検閲を受けた。検閲に引っかかったところは、空白にしておかないで、ほかの記事で埋めること、という新しい規程ができた。その結果、いつ何がカットされたのか見わけがつかない、という場合が多くなった。
食糧不足は、内戦の期間を通じて変動はあったが、そのときはひどい時期のひとつだった。パンが不足し、安いものには米が混ぜられた。兵営で兵士に配給されるパンは、パテのようなひどいしろものだった。ミルクと砂糖もひどく払底し、煙草は高価な密輸もののほかは、ほとんど見当たらなかった。スペイン人たちが、いろいろと何にでも使うオリーブ油も、深刻な品不足だった。騎馬の治安警備隊が、オリーブ油を買う女たちの長い列の規制に当たっていたが、彼らは、ときどきふざけて、その行列の中へ馬を後ろ向きに乗り入れようとした。そのころのささやかな悩みは、小銭の不足だった。銀貨が回収されたのに、まだ新しい貨幣が発行されていなかったため、十サンティームの硬貨と二ペセタ半の紙幣とのあいだには何もなかった。そして、十ペセタ以下の紙幣はすべてひどく不足していた。最下層の人びとにとって、これは食糧不足に拍車をかけるようなものだった。有り金がわずか十ペセタ紙幣一枚しかない女の人の場合には、食糧品店の前で何時間も立ちんぼをしたあげく、いよいよ自分の番になっても、店にはお釣りがなく、自分の方もその十ペセタ全部を使い切ってしまうほどのゆとりがないため、みすみす何も買うことができない、ということもあった。
あのころの悪夢のような雰囲気――しょっちゅうネコの目のように変わるうわさや、新聞の検閲や、いつもうろついている武装兵などによってかもし出される独特の不安――を伝えるのは容易なことではない。それは、今のイギリスには、そのような雰囲気には欠くことのできないものが存在していないからである。イギリスでは、政治的不寛容は、まだあたりまえのこととされてはいない。ちょっとした政治的ないやがらせぐらいはないこともない。仮りに私が鉱夫だったら、自分が共産党員だということを親方《ボス》に知られたくない、と思うだろう。だが、ヨーロッパの政策を、まるで蓄音機のようにくり返す、始末の悪い、いわゆる「忠誠なる党員」はまだほとんどいないし、自分と意見の合わない者は、片っぱしから「粛正」したり「追放」したりといった考え方も、まだあたりまえのことという感じにはなっていない。バルセロナでは、それが、まったくあたりまえすぎるほどあたりまえの感じになっているのだ。「スターリン主義者」が権力を握った以上、「トロツキスト」がみんな危うくなるのは当然のことなのがだ。みんなが恐れていたことは――それは、市街戦また起こりはしないか、という懸念だったが――結局のところ起こらなかったが、もしそれが起これば、またこの前のようにPOUMとアナーキストのせいにされるのにきまっていた。今か今かと最初の銃声に、耳をすませている時もあった。まるで巨大な悪霊が市中におおいかぶさっているようだった。だれもかれもそれに気づき、そのことを口にした。そして、奇妙なことに、みんながほとんど同じ言葉でそれを表現したのだった。「ここの雰囲気はどうです――まったくぞっとしますね。まるで精神病院にいるみたいじゃありませんか」いや、でも、|みんな《ヽヽヽ》といったら語弊があるのかもしれない。ホテルからホテルへ、スペインをさっと駆け足旅行をしてまわったイギリス人観光客の中には、全般的な雰囲気が何となくおかしいのに気づかなかった人もいるようだから。たまたま私の目にとまったのだが、アソル公爵夫人は次のように書いている(一九三七年十月十七日付『サンデー・イクスプレス』紙)
[#ここから1字下げ]
私はヴァレンシア、マドリード、バルセロナへいって参りました……この三つとも、町の秩序は正しく正常で、暴力沙汰などちっとも見かけませんでした。私が泊ったどのホテルも、バターやコーヒーこそ不足しておりましたけれど、『正常』で『上品』なばかりではなくて、とても快適でした。
[#ここで字下げ終わり]
自分の泊ったハイカラなホテルの外で何が起こっていようと、まともに信じようともしないのが、イギリス人の旅行者のくせなのだ。いっそのこと、アソル公爵夫人に少しバターを都合してやればよかったのに。
私は、マウリン療養所にいたが、これはPOUMがやっている療養所のひとつだ。それは、郊外のティビダボ山の近くにあった。この山はバルセロナの後ろに険しくそびえている変てこな格好の山で、伝説によると、悪魔《セイタン》が、そこからイエスに地上の国々を見せた丘だということになっている(名前もその伝説からきている)。療養所の建物は、もとはだれか裕福なブルジョワのものだったのを、革命のときに接収したのだった。そこに収容されているのは、ほとんどが前線から後送された傷病兵か、生涯取りかえしのつかない負傷――手足の切断とかいったふうな――を負った人たちだった。イギリス人も、私のほかに数人いた。脚を片方負傷したウィリアムズ、結核の疑いで塹壕から送り返された十八歳の少年スタフォード・コットマン、それに、スペインの病院では飛行機というあだ名のついていた、あのでっかくて奇妙な針金の仕掛けに、砕けた左腕をまだつるしたままのアーサー・クリントンだった。
妻がまだコンティネンタル・ホテルに滞在していたので、私は、昼間はたいていバルセロナへやって来た。午前中は、腕の電気療法を受けるために総合病院へ通った。それは奇妙な治療だった――ビリビリとくる電気のショックを連続的に受けるので、あちこちの筋肉組織がピクピクと痙攣した――が、ききめは多少あるようだった。指の動きはもとどおりになり、痛みもちっとは薄らいだ。私も妻も、いちばん良いのは、できるだけ早くイギリスへ帰ることだ、というふうに決めていた。からだの衰弱はひどかったし、声のほうも、もう永久に出ないようだった。医者の判断でも、前線に復帰できるようになるには、いちばんうまくいっても数か月はかかるだろう、ということだった。遅かれ早かれ、少しは金も稼ぎにかからねばならなかったので、このままスペインにとどまって、ほかの人びとに必要な食糧を食いつぶしているのも、たいして意味があることとも思われなかった。しかし、帰りたいという動機は、おもに自分本位のものだった。ただもう、これらすべてから逃げ出したくて逃げ出したくてたまらなかったのだ。政治的疑惑と憎悪の恐ろしい雰囲気から、武装兵のむらがっている大通りから、空襲、塹壕、機関銃、金切り声をあげながら走る市電、ミルクぬきの紅茶、油でぎらぎらした料理、たばこ不足などから――いや、スペインといえば思い出すほとんどすべてのものから、何としても逃げ出したい気がしたのだった。
総合病院の医師たちは、私が医学的にみて軍務不適格者だという証明をしてくれたが、除隊許可を受けるためには、前線近くの病院のどれかの医療委員会へ出頭し、それからシエタモへいって、POUM義勇軍司令部で、書類に印鑑をもらわなければならなかった。ちょうどコップが、意気揚々と前線から引き上げて来たところだった。戦闘を終えたばかりだが、ウエスカは結局占領することになるはずだ、と話していた。政府はマドリード戦線から兵力を抜き、多数の航空機とともに三万の兵力を集中しつつあるという。私が、タラゴナから列車で北上するのを見送ったいつかのイタリア人たちは、ハカ街道を攻撃したが、甚大な損害をこうむり、戦車二台を失ったのだった。しかしそれでも、ウエスカはきっと陥落する、とコップは言うのだ(残念なるかな! ついに陥落しなかった。攻撃は惨胆たる失敗で、新聞がうそ八百を並べたてただけのことだった)。さて、コップは、陸軍大臣と会うためにはるばるヴァレンシアまでおもむかなければならなかった。彼は、いま東部軍の指揮をとっているポサス将軍から一通の手紙を受け取った――それはふつうの手紙だったが、コップを「全面的に信頼できる人物」であると述べ、工兵部隊の特別の地位に推薦する趣旨のものだった(コップは民間にいたころはエンジニアだったのだ)。彼は、私がシエタモに発ったのと同じ日に――つまり、六月十五日に、ヴァレンシアに向かって発った。
バルセロナへもどるのに五日かかった。われわれの乗った輸送トラックは、真夜中にシエタモへ着いた。ところが、POUM司令部へ着くやいなや、われわれは名前もきかれずに、いきなり一列に並ばせられ、小銃と弾薬を手渡された。攻撃が始まっていて、すぐにも援軍がほしい様子だった。私はポケットに診察券をもってはいたが、さすがに、どうも、いっしょに行きたくないとは言い出しかねた。私は途方にくれ、弾薬盒を枕にして、地面にひっくり返った。負傷したために、私はそのころ一時的に意気沮喪状態で――よくあることだと思うが――またしても銃火をくぐらねばならない羽目になるのかと思うと、こわくてたまらなかった。しかし、例によって、ちょっとした「明日《マニャーナ》」があって、結局は出動させられずにすんだ。それで、そのあくる朝、診察券を提出して、除隊許可の手続きにとりかかった。そのためには、ごたごたしていてうんざりするような旅行を、つぎつぎとやらねばならなかった。例によって、病院から病院へとあちこちたらいまわしにされた――シエタモ、バルバストロ、モンソン、それから、除隊許可証に印鑑をもらうためにまたシエタモへもどり、そのあと、バルバストロ、レリダを経て汽車で南下するのだった――ウエスカへ兵力を集結させるために、あらゆる交通機関が独占されていて、すべてが混乱していた。私は、いろいろと変な場所で寝たのをおぼえている――病院のベッドで一回寝たのはいいとして、溝の中で一回、真夜中になってころげ落ちたおそろしく狭いベンチの上で一回、それに、バルバストロの市営宿泊所で一回、というぐあいである。汽車のないところでは、たまたま通りかかったトラックにでも飛び乗るよりほかには、旅行する方法もなかった。アヒルやウサギをギュウギュウつめこんだ包みを持って、もの悲しそうな顔をした農民たちの群れにまじって、道ばたで、疾走していくトラックにつぎからつぎへと手を振りながら、何時間でも、いやどうかすると、三時間でも四時間でもぶっ続けに待っていなければならなかった。やっとのことで、兵士やパンの山や弾薬箱を満載していないトラックをつかまえても、今度はひどい道路でドスンバタンとはねあげられ、すっかりグロッキーになってしまった。馬だって、あのときのトラックほどひどく私をはねあげたやつはいない。うまく乗っていくただひとつのコツは、みんながぎっしり固まって、お互いにしがみつき合っていることだった。なさけないことに、私のからだは衰弱していたため、手をかしてもらわないと、トラックによじ登ることもできなかった。
私はモンソン病院にひと晩泊り、そこから医療委員会へおもむいた。となりのベッドには、左の眼の上を負傷した親衛突撃隊員がひとりいた。親切な男で私にたばこをくれた。「これがバルセロナだったら、われわれはお互いに射ち合いをしなくちゃならないところだね」と私は言った。そして、互いに笑い合った。どこでも前線の近くへくると、一般的な気分がずいぶんちがうような気がするのは、いかにもふしぎだった。政党間のひどい憎悪が、すっかりか、すっかりといってもいいほど消滅してしまうのだ。前線にいたあいだじゅう、私は、PSUCの党員のだれかから、おまえはPOUMだからといって敵意を示されたおぼえは、ただの一度もない。そのようなことは、バルセロナか、戦場からもっと遠く離れたところでの話だった。シエタモには親衛突撃隊が大ぜいいた。ウエスカ攻撃に参加するため、バルセロナから派遣されたのだ。親衛突撃隊というのは、もともと前線向けに組織された部隊ではなかったので、隊員にはこれまで銃火の洗礼を受けたことのない者が多かった。バルセロナでこそ街の立役者だったが、ここでは「新米《キントス》」で、前線経験数か月という十五歳の少年義勇兵のいい相棒だった。
モンソン病院でも、医師は例によって舌をぐいと引っぱり出し、咽喉へ歯鏡をつっこんでから、初めに診てくれた医師たちと同じ陽気な調子で、もう声は出ないね、と宣言して、私の証明書にサインしてくれた。私が診察を待っていたあいだに、外科室の内部《なか》では、麻酔なしの何か恐ろしい手術が行なわれていた――なぜ麻酔を使わなかったのか私にはわからない。その手術はながながと続き、ひっきりなしに悲鳴があがった。あとで私が入っていったときには、椅子が投げ出されていて、床は血と小便の海だった。
あの最後の旅行は、こまごまとしたことまで、ふしぎなほどあざやかに私の心の中に残っている。それまでの数か月間とは気分が変わって、私の観察力がもっと鋭くなっていたのだ。第二十九師団の判を押した除隊許可証も、「軍務不適格」と書いてある医者の証明書も手に入れた。さあ、もういつなんどきでもイギリスへ帰ることができるぞ、と思うと、ほとんど初めて、スペイン見物ができそうな気分になったのだった。バルバストロでまる一日過ごさなければならなかった。なにしろ、汽車が一日にたった一本しかなかったからだ。バルバストロは、前にもちょっと見物したことはあるが、あのときは、ただ、戦場の一部にすぎないような気がした――唸りをあげて走るトラックとみすぼらしい部隊でいっぱいの、灰色で、泥まみれの、寒々とした町だった。
今度は、ふしぎなことに、ちがってみえた。町をぶらぶら歩いていくと、気持ちのいい曲がりくねった通りがあり、古びた石の橋があり、じくじくと葡萄酒の漏っている、人間の背丈ほどもある大きな樽を置いた店があり、車輪や短刀や木のスプーンや山羊皮の水筒などを作っている、興味をそそる半地下式の店もある。皮の水筒を作っているのを見ながら、これはずいぶんおもしろいな、と思った。今まで気がつかなかったのだが、毛の生えているほうを内側にして、毛は抜かないで作るのだ。だから、文字どおり山羊の毛のエキスを飲むことになるわけである。そんなこととも知らずに、何か月もこれで葡萄酒を飲んでいたのだ。町の裏手に、翡翠《ひすい》のような緑色の浅い川が流れている。そこから、切り立った岩の断崖がそそり立ち、その岩の中に家が作りつけになっているので、寝室の窓から唾を吐くと、百フィート下の川へまっすぐに落ちていく。崖の穴には、無数の鳩が住んでいた。レリダには、古い崩れかけた建物があり、その突き出た軒じゃばらに、何千というツバメが巣を作っていた。ちょっと離れたところからながめると、その表面にこびりついている巣の格好が、何かロココ時代のけばけばしいじゃばらとそっくりだった。
六か月近くものあいだ、このようなものがまったく目に入らなかったというのもおかしな話である。除隊許可証をポケットに入れたとたんに、私はまた人間に帰ったような気がして、ちょっぴり観光客気分にもなったのだ。私は、ほとんど初めて、自分がほんとうにスペインに来ているのだな、という気がした。一生に一度はいってみたいと憧れていたこの国に。レリダやバルバストロのひっそりとした裏通りでは、あらゆる人びとの想像の中に住んでいるスペインをちらとながめ、その遠い昔のざわめきのようなものをちらと耳にしたような思いだった。鋸《のこぎり》の刃のように尖った白い山脈《やまなみ》、山羊飼い、中世の宗教裁判の土牢、ムーア人の宮殿、黒々とうねるように続くラバの行列、灰色のオリーブの木、黒い大きなスカーフをかぶった若い女たち、マラガやアリカンテの葡萄酒、大伽藍、枢機卿、闘牛、ジプシー、小夜曲《セレナーデ》――要するに、スペイン、なのだ。すべてのヨーロッパの中で、私の想像をいちばん強くとらえてやまない国なのだ。せっかくその憧れの国へやってくることができたのに、戦争騒ぎのまっさいちゅうで、しかもほとんどが冬のあいだとあって、この北東の片すみを見ただけというのは、いかにも残念な気がした。
バルセロナに帰ったときは、もう時間が遅くてタクシーはなかった。町のはずれにあるモーリン療養所まではとてもいけなかったので、コンティネンタル・ホテルへいくことにして、途中で夕食をとった、私は、葡萄酒を入れて出してくれた、鍋のたがのはまったカシの水さしのことで、人のよい親爺さんふうな給仕と交わした言葉のやりとりを、今でもおぼえている。こいつを一組買って、イギリスへ持って帰りたいんだけどねえ、と私は言った。老給仕は同情顔に言った。「いや、ごもっともです。きれいなもんでしょう? でも、近ごろは手に入らないんですよ。作るものがもういないんです――だれも何も作りません。この戦争がねえ――ほんとに困ったもんですよ!」この戦争が困ったもんだという点で、われわれの意見は一致した。私は、観光客のような気分になって来た。老給仕がていねいな口調できいた、スペインがお気に召しましたか、またスペインへいらしていただけますか? ええ、そりゃもちろん、また来ますとも。このような性質のもの静かな言葉のやりとりは、その直後に起こった事件が事件だけに、私の記憶にこびりついて離れない。
ホテルに着いてみると、妻が休憩室《ラウンジ》にすわっていた。彼女は立ち上がると、びっくりするようなひどくよそよそしい態度で歩み寄ってきた。それから、私の首に抱きつくと、休憩室《ラウンジ》に居合わせたほかの人たちに感づかれないようにわざとやさしくにっこりしながら、私の耳に小声で鋭くささやいた。
「出ていってちょうだい!」
「何だって?」
「ここから|すぐに《ヽヽヽ》出ていってちょうだい!」
「何だって?」
「ここに立ってちゃだめなの! すぐに出ていかなくちゃいけないのよ!」
「何だって? どうして? 何いってるんだ?」
彼女は、私の腕をつかんで、ぐいぐいと階段のほうへ連れていく。階段を降りる途中で、ひとりのフランス人に会った――彼の名前は伏せておく、というのは、POUMにはまったく関係のない人だが、あの市街戦のあいだじゅうずいぶん親切にしてくれたからだ。彼は心配そうな顔で私を見た。
「いいですか! あなたはここへ来てはいけないんです。警察へ電話されないうちに、すぐここから出て、どこかへかくれなさい」
それに、見よ! 階段を降りると、POUMの党員だったホテルの幹部職員のひとり(経営者のほうはたぶん知らないと思う)が、こっそりエレベータから抜け出してきて、片ことの英語で出ていくように言うではないか、それでも、なお、私は何が起こったのか、まださっぱり見当がつかなかった。
「いったいぜんたい、こりゃどういうわけなんだ?」鋪道へ出るなり、私はきいた。
「じゃ、まだ|聞いて《ヽヽヽ》いらっしゃらないのね?」
「ああ。何のことだい? 何も聞いてないよ」
「POUMが弾圧されたの。ビルが全部接収されちゃってね。ほとんど全員が刑務所行きよ。人のうわさだけど、もう銃殺が始まっているんだって」
というわけなのだった。私たちは、どこかしゃべる場所がほしかった。ランブラス通りの大きな喫茶店《カフェー》は警官でいっぱいだったが、横町に静かな喫茶店が見つかった。妻が、私の留守中に起こったことを説明してくれた。
六月十五日、警察は、抜き打ち的に、アンドレス・ニンを事務所で逮捕し、その日の夕方、ファルコン・ホテルを急襲して、居合わせた人たち――大半が休暇中の義勇兵だったが――を全員逮捕したのだった。そこは、すぐ刑務所に転用され、たちまち、ありとあらゆる種類の逮捕者であふれるほどいっぱいになった。そのあくる日、POUMは非合法組織と宣言され、事務所も、書籍販売店も、療養所も、赤色救護センターも、そういったものがことごとく接収された。またいっぽう警察は、POUMとちょっとでもかかわり合いがあるとわかっていて、逮捕することができるかぎりのものは、片っぱしからひっとらえたのだった。一、二日のうちに、四十名の執行委員の全員か、全員近くが投獄された。ひとりふたりは逃げてかくれたものもいたかもしれないが、警察は、本人が逃亡した場合は、その妻君を人質として逮捕するという手(この戦争では、双方が盛んに使った手なのだが)を使った。
どれだけの人がつかまったのか、その人数をつきとめる方法はまったくなかった。妻が聞いたところでは、バルセロナだけでも四百人近いという。そのころでも、逮捕された人の数はもっと多かったはずだ、と私は今も思っている。それに、まったくとんでもない人たちまでもが逮捕された。警察は、負傷している義勇兵を、病院から引きずっていくというふうなことまでやったのだった。
ほんとにあきれかえる話ばかりだった。いったいどうしてそんなことをするのだろう? POUMを弾圧する気持ちはわからないでもないが、何のためにつかまえるんだ? どう考えても、理由がまったく立たないではないか。POUMの弾圧は、どうも過去へさかのぼる遡及《さっきゅう》的効力を持っているらしい。POUMは現在非合法化されているのだから、過去にその一員だったということになれば、法を犯すことになる、というのだ。例によって、逮捕された人びとは、だれひとり起訴されなかった。しかしながら、この間、ヴァレンシアの共産党系新聞は、「ファシストの陰謀」だとか、無電による敵への内通だとか、見えないインクで署名された文書だとかいった記事を書きたてていた。このような記事については前に述べた。重大なのは、その記事がヴァレンシアの新聞にしかのらなかった、ということである。バルセロナの新聞には、共産党系、アナーキスト系、共和主義者系を問わず、そのようなことも、POUM弾圧のことも、ただのひと言も書いてなかった。これは、そう断言してさしつかえないと思う。われわれが、POUMの指導者たちに対する告発の正確な内容を初めて知ったのは、スペインの新聞からではなくて、一、二日後バルセロナに着いたイギリスの新聞からだった。その反逆とスパイ行為の告発は政府の責任ではない、ということや、政府の閣僚が、後になって、その告発は政府とまったく無関係であると言い出すだろう、ということなどは、当時のわれわれにはまったく知るすべもなかった。そのころは、ただ漠然と、POUMの指導者たちが――おそらくわれわれ全部も含めて――ファシストに雇われているというかどで告発されたのだろうと思っていた。刑務所内で、もうひそかに銃殺が行なわれている、といううわさが乱れとんでいた。これはひどい誇張だったが、たしかに行なわれたことも何回かあり、ニンの場合もそうだったことはほぼまちがいない。
逮捕されてから、ニンはヴァレンシアへ護送され、さらにマドリードへ転送された。そして、早くも六月二十一日には、彼が銃殺されたといううわさがバルセロナまで伝わってきた。後になると、そのうわさはもっとはっきりした形となった。ニンは、獄中で秘密警察によって射殺され、その死体は路上に投げ捨てられたというのだ。このうわさの出所は、政府のもと閣僚だったフェデリカ・モントセニスを含めた各方面だった。その日から今日にいたるまで、ニンが生きているという話は二度ときかない。後になって、各国からの代表団に追及されたとき、スペイン政府はしどろもどろになって、ニンは行方不明で、彼の所在は不明である、と答えただけだった。新聞の中には、彼はファシスト地区へ逃亡したのだ、という説を立てるものもあったが、それの裏付けとなる証拠は何ひとつ提出されなかったし、法務大臣イルホは、後になって、「エスパーニュ」通信社は、私の公式コミュニケを曲げて報道した、と声明した。ともかく、ニンのような重要な政治犯をやすやすと逃亡させるなんて、とうてい考えられない。いつか将来、彼が生きて出てくるまでは、獄中で虐殺されたものと断定するよりいたし方あるまい。
逮捕のうわさはなおも続いて数か月に及び、しまいには政治犯の数は、ファシストを除いても、数千人にふくれあがった。その際、見逃してならないのは、警察における下層部の独走ということだった。逮捕の多くは、明らかに不法逮捕であり、警視総監の命令によって釈放されたいろいろな人たちが、刑務所の門を出たところで再逮捕され、「秘密牢獄」へ連れ去られた。その典型的な例が、クルト・ランダウ夫妻の場合である。彼らは六月十七日に逮捕されたが、ランダウはすぐに「行方不明」となった。彼の妻のほうは、五か月たっても裁判も受けず、夫の消息も知らされないまま、依然として獄中にあった。彼女はハンガー・ストライキを宣言した。その後法務大臣が、彼女の夫は死亡している、ということを証明する手紙を彼女に送った。しばらくして彼女は釈放されたが、ほとんどすぐにまた逮捕され、投獄された。目だったのは、警察が、少なくとも初めのうちは、自分たちのそうした行為が戦争にどのような影響を及ぼすかについて、まったく無関心であるようにみえたことである。彼らは、事前に許可も受けないで、重要な地位にある将校を逮捕するような暴挙すら平気でやってのけた。六月末に、第二十九師団長ホセ・ロビラが、バルセロナから派遣された警官の一隊によって、前線近くのどこかで逮捕された。彼の部下たちは、代表を送って陸軍省に抗議した。ところが、陸軍省はもとより、警視総監のオルテガすら、ロビラの逮捕については何の報告も受けていなかったことが判明したのだ。
どうでもよい小さなことかもしれないが、この事件の全部を通じて、何としても気に食わないことがある。それは、この事件の情報を、前線部隊の将兵にいっさい知らせないようにされたことである。すでにご承知のように、前線では、私にしろほかの連中にしろ、POUM弾圧のことなど聞いたこともなかった。POUM義勇軍司令部も、赤色救護センターも、みんな平常どおり運営されていた。つい最近の六月二十日になって、バルセロナからわずか百マイルしか離れていないレリダまではるばる出かけていってみても、だれひとり事件のことは聞いていなかった。バルセロナの新聞には、事件の報道はいっさいさし控えられていた。ヴァレンシアの新聞は、そのスパイ行為の記事をのせていたが、アラゴン戦線まではとどかなかった。そして、休暇でバルセロナにいたPOUM義勇兵をことごとく逮捕した理由というのは、明らかに、彼らがそのニュースをもって前線に帰っていくのを阻止することだったのだ。六月十五日に、私が列車でいっしょに北上した分遣隊が、ほぼ最後の部隊であったにちがいない。補給トラックやそういったものがたえず往来していたのに、どうしてこの事件がずっと知れないままであったのか、私にはいまだに謎だ。しかし、それがずっと知られなかったのは確かだし、その後私が大ぜいのほかの人たちから聞いたところでも、前線の連中は、数日後まで事件のことは何も知らなかったのだ。
これらすべての動機は、きわめてはっきりしている。ウエスカ攻撃が始まっており、POUM義勇軍は依然として独立した部隊となっていたので、彼らが事件を知ったら、戦うのを拒否する、と懸念してのことだったのだろう。ところが、そのじつ、事件の知らせがとどいても、この種のことは何も起こらなかった。知らされるまでのあいだにも、後方の新聞で自分たちがファシスト呼ばわりされているとも知らずに、きっとたくさんの人びとが戦死していたにちがいない。これは、あっさりと笑ってすませられることではない。悪いニュースは前線の部隊に知らせないでおくというのは、ごくありきたりのやり方であるぐらいのことは、私も心得ている。そして、おそらくふつうはとやかく言うべき筋合のものではないであろう。がしかし、人びとを戦場へ駆り出しておいて、背後で彼らの政党を弾圧し、党幹部たちを反逆罪で告発し、友人や身内を刑務所にぶち込み、それを知らせさえしないとなると、これは別問題だ。
妻は、われわれのいろいろな友人たちの身にふりかかったことを話しだした。イギリス人やそのほかの外国人の中には、国境を越えて逃げたものもいたという。ウィリアムズとスタフォード・コットマンは、マウリン療養所への手入れがあったときも逮捕をまぬがれ、今もどこかにひそんでいるのだ。ジョン・マックネアも同じだった。彼はフランスにいたのだったが、POUMが非合法組織の宣告を受けた後に、またスペインへ帰って来た――向こう見ずな行為だったが彼にしてみれば、同志が危険にさらされているのに、おれひとり、のうのうとしていられるかという気持ちだったのだ。そのほかの人たちについては、要するに、ただ、「だれそれがつかまった」「だれそれがつかまった」の羅列だった。ほとんど全員が「つかまった」ようだった。ジョルジュ・コップまでつかまったと聞いて、私はびっくり仰天した。
「何だって! コップが? だって彼はヴァレンシアにいたはずじゃないか」
コップはバルセロナにもどって来ていたらしい。彼は、陸軍大臣から、東部戦線で工兵の作戦を指揮している大佐に宛てた手紙を持っていた。彼にしてもPOUMが弾圧されたことはむろん知っていたが、警察が、緊急な軍務で前線におもむく者を、途中で逮捕するようなばかな真似までしでかすとは、夢にも思わなかったのだろう。彼はコンティネンタル・ホテルへ背嚢を取りに立ち寄った。そのとき私の妻は外出していた。ホテルの連中は、適当なうそをついて彼を引き止めておき、そのあいだに警察へ電話したのだった。コップが逮捕されたと聞いて、私は、はっきり言って腹がたった。彼は私の親友で、私は何か月間も彼の下で働いてきた。いっしょに銃火の下をくぐって来たし、彼の経歴も知っている。彼は、ただ、スペインにやって来てファシズムと戦うために、いっさいのものを――家族も、国籍も、生活も――抛《なげう》った男だった。まだベルギー陸軍の予備役の身なのに、無断でベルギーを離れて外国の軍隊に入隊したことや、それ以前にも、スペイン政府のために弾薬の不法製造を幇助したことがあるという前歴などのために、万一本国へ帰ったとしても、数年の懲役刑が待ち受けている身の上だった。彼は一九三六年十月以来前線に勤務し、ただの義勇兵から少佐にまで昇進した。その間、数えきれないほど多くの戦闘に参加し、一度は負傷したこともある。五月の紛争の際は、私がこの目で見たとおり、その地区で戦闘が起こるのを食い止め、おそらくは十人や二十人の生命を救ったといえるであろう。そして、その報酬というのが、何と、とっつかまえて刑務所へぶち込むことであったとは。憤慨するのは時間の無駄だったが、こんな愚にもつかない悪だくみは、まったくもってしゃくにさわるのだ。
さていっぽう、私の妻は「とっつかまら」なかった。彼女は、ずっとコンティネンタル・ホテルにとどまっていたが、警察は逮捕しそうなそぶりも見せなかった、明らかに彼女はおとりに使われていたのだ。しかし、二日ほど前の真夜中に、六人の私服警官がホテルのわれわれの部屋に侵入して、家宅捜索をしていった。われわれの持っていた紙きれは、ひとつ残らず押収していったが、いいあんばいに、旅券《パス・ポート》と小切手帳はまぬがれた。私の日記、書籍類のすべてと、これまで何か月かためてあった新聞の切り抜き全部(あんな切り抜きを、いったい何に使うのかな、と首をひねったものだった)と、戦争の記念品いっさい、それに、手紙が全部没収されてしまった。(ついでながら、私が読者からいただいたたくさんの手紙も持っていかれてしまった。その中には、まだお返事をさしあげてないのも若干あった。もちろん住所はひかえてない。もし私の最近の著書について、お手紙をくださったのに、まだお手もとへ返事がとどいていない方がありましたら、たまたまこの箇所をお読みの節は、右のとおりの事情なので、失礼の段は、なにとぞ御寛容いただきたいと思うのですが)あとでわかったのだが、警察は、マウリン療養所に置いてきた私のいろいろな身のまわり品も押収したという。汚れた下着の包みまで持ち去ったのだ。おそらく隠顕インクで何か伝言が書いてあるとでも思ったのだろう。
妻は、少なくともここ当分は、ホテルにとどまっているほうが安全なのははっきりしていた。もし彼女が身を隠そうとすれば、すぐに捜索の手がのびるからだ。私はどうかといえば、ただちに身を隠さなければならないだろう。そう思っただけで、私はむらむらと怒りがこみあげてきた。数えきれないほど大ぜいの人びとが逮捕されたにもかかわらず、私は、自分の身が危険にさらされていることが、どうしても信じられないのだった。すべてのことが、あまりにも無意味なような気がした。コップが刑務所へぶち込まれるような羽目になったのも、私と同じで、このばかげた襲撃をまじめに考えようとしなかったからなのだ。私は言い続けた、でも、何だっておれをつかまえたがるんだ? おれが何をしたというんだ? おれはPOUMの党員ですらないんだぜ。そりゃ、たしかにおれは、五月の市街戦のときには武器を持っていたさ、だけど、そんなことをいえば、武器を持っていたものは(あてずっぽうに言ったって)四、五万はいたんだぜ。
それに、私は、ひと晩でもいいからまともに寝てみたい、とむしょうに思った。危険を覚悟してでもホテルへ帰りたかった。ところが、妻はどうしても聞きいれなかった。そして、辛抱づよく事情を説明した。あなたが何かをなさったとか、なさらなかったとかいう問題ではないのです。犯人の検挙なんていうもんじゃなくて、ただのテロ政治なのです。そりゃ、あなたは、はっきりこれといった行為はなさっていらっしゃらないでしょう。でも、あなたには「トロツキズム」の罪があるのです。POUM義勇軍に勤務していらしたというだけで、もうじゅうぶんあなたは投獄されるいわれがあるのです。法律にひっかからないかぎりは安全だ、というふうなイギリス的な観念にしがみついていらしても、何にもなりません。法律なんて、警察が勝手にどうにでも作るのが実情なのですから。なさることはただひとつ、じっとなりをひそめ、POUMと関係していたという事実を隠すようにすることです。
私のポケットの書類をふたりで丹念に調べた。妻は、大きな字でPOUMと書いてある義勇軍の身分証明書や、POUMの旗をパックにして、義勇兵の一団がうつっている写真などを、私に引き裂かせた。今どきそんなものを持っていらっしゃると、とっつかまえられますよ、というわけだった。しかし、除隊許可証だけは持っていないわけにはいかなかった。これには第二十九師団の印が押してあり、第二十九師団というのはPOUM義勇軍だということを、たぶん警察は知っているはずなので、危険だったが、なにしろ、これがないと、今度は脱走兵として逮捕されるから仕方がなかった。
今考えなければならないのは、スペインを脱け出すことだった。遅かれ早かれたしかに投獄されるとわかっているのに、ここにとどまっているというのもばかげた話だった。ほんとうの気持ちをいえば、私も妻も、何が起こるのか自分の目で見きわめるためだけでも、ここにいたくてたまらなかったのだ。でも、私は、スペインの刑務所はさだめしシラミでもいそうな不潔きわまるところだろうということは予測できた(そのじつは、私の想像より何層倍もひどいのだった)。いったんほうり込まれたら、いつ出られるかわからなかったし、それに、腕の痛みは別としても、私は、健康をすっかりそこねていた。私たちは、あすイギリス領事館で落ち合う手はずをととのえた。コットマンとマックネアも来ることになっていた。旅券《パス・ポート》がととのうまでに、たぶん二日はかかるだろう。スペインを離れる前に、それぞれちがった三か所で――警視総監のところと、フランス領事のところと、カタロニア移民局とで――旅券《パス・ポート》に判をもらわなければならなかった。もちろん警視総監のところが危険だった。だが、おそらくイギリス領事は、私たちがPOUMと関係があることを伏せて、万事うまくやってくれるだろう。明らかに、外国人「トロツキスト」容疑者の一覧表があるにちがいないし、私たちの名前がのっていると見てまちがいなかった。しかし、運がよければ、一覧表《リスト》より先に国境に着けるだろう。どうせ、わんさとヘマをやらかすだろうし、「明日《マニャーナ》」もしこたまあるにきまっている。いいあんばいに、ここはドイツではなくてスペインだった。スペインの秘密警察は、多少ゲシュタポに似ているが、あれほど腕ききではなかった。
そういうことで、私は妻と別れた。妻はホテルにもどり、私はどこか寝ぐらを見つけようと、ぶらぶら暗やみに出た。気分が晴れず、うんざりした気持ちだったのをおぼえている。ああ、ベッドで眠りたい、とどんなに痛切に思ったことか! 足を向けるべき場所もなければ、身を隠すことのできる家もなかった。POUMは、実際、まったく地下組織をもっていなかった。たしかに党幹部たちは、弾圧が来そうだという気配は感づいていた。が、このような大がかりな魔女狩りがあろうとは夢にも思っていなかったのだ。それは、まったく寝耳に水のことだったので、POUM弾圧の行なわれたその当日まで、彼らは、実際に、POUMビルの改築を続けていたのだった(なかでも、もと銀行だった執行委員会ビルに、映画館を建築中だった)。そのようなわけで、あらゆる革命政党が当然持っているはずの秘密会合所《ランデブー》や、隠れ家はなかった。いったいどれだけの人びとが――警察に住居を襲われたために――その晩、街頭で眠ったことか。
私は、考えられそうもないところで寝ては、ひどく痛む腕をかかえて、うんざりするような旅を五日間も続けてきた身の上だった。ところが、今、このばか者どもに、あちこち追いまわされるために、またぞろ、地面の上で寝なければならない羽目になってしまったのだ。私の考えは、どうにか、そこまでたどりついた。情勢の正しい考察などとてもできなかった。私は、現に事件が起こっているときには、けっしてそれはやらないことにしている。これは、戦争とか、政治とかに巻きこまれているときの、私のいつものくせだったような気がする――つまり、何も考えず、考えるのは、ただ、肉体的な不快と、このいまいましいばかげた事態が早く終わってくれればいい、という切実な願い、これだけだ。後になってこそ、事件の意味も理解できるが、それが実際に起こっているうちは、ただ、そこから逃げ出したい、という気持ちが働くだけだ――これは、たぶん下劣な根性というのだろう。
私がずっと歩いていくと、総合病院《ゼネラル・ホスピタル》の近くのどこかへ出た。うろうろかぎまわっている警官に見つかって、身分証明書を出せ、と言われたりしないで横になれる場所がほしかった。防空壕へも入ってみたが、掘ったばかりで、ポタポタしずくがたれていた。やがて、革命のときに内部《なか》を破壊され、焼き払われた教会の廃墟へひょっこり出た。ほんの外郭ばかりで、瓦礫の山を囲んで屋根のない壁が四方に立っているだけだった。うす暗がりの中を手さぐりで捜しまわって、どうにか横になれそうな凹みを見つけた。砕けた石の塊りはあまり寝心地のいいものではなかったが、さいわいに暖い晩だったので、どうにか数時間まどろむことができた。
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第十四章
バルセロナのような町で、警察のお尋ね者になっていちばん困るのは、何でも始まるのがとても遅いことだ。野宿すると、必ず夜明けに目がさめるものだが、バルセロナでは、喫茶店《カフェー》はどこも九時すぎでないと開かない。一杯のコーヒーにありつき、ひげを剃ってもらうのに、何時間も待たねばならなかった。床屋の店に、|心付け《チップ》を禁止するというアナーキストの掲示がまだ貼ってあるのを見ると変な感じだ。「革命はわれわれの鎖を断ち切った」とそのビラに書いてある。用心しないと、鎖がすぐにまた元どおりになるぞ、と注意してやりたいような気がした。
私はぶらぶらと都心へもどった。POUMビルでは赤旗が引きおろされ、そのかわりに共和政府の旗がひるがえっていた。そして、玄関には、武装した治安警備隊の一団がたむろしている。「カタロニア広場」の一角にある赤色救護センターでは、警官がおもしろ半分に、窓ガラスをほとんどたたき割ってしまった。POUMの露天の本屋はからっぽで、ランブラス通りをずっといった先の掲示板には、POUM反対の漫画――仮面をはがすとファシストの顔が出てくるあの漫画が貼りつけてあった。
ランブラス通りの突き当たりの波止場の近くで、私は奇妙な光景に出くわした。前線から帰ったばかりで、まだボロ服を着たままの泥まみれの義勇兵たちが、へとへとに疲れきって、靴磨きのために置いてある椅子に、ずらりと並んで寝そべっているのだった。彼らがなぜこんなことをしているのか、私にはすぐわかった――事実、中には顔見知りもひとりまじっていた。きのう前線から帰ってみたら、POUMが弾圧されたことがわかったが、家が警察の手入れを受けたため、その晩は街頭で野宿しなければならなかったPOUM義勇兵たちだった。この当時バルセロナへ帰った義勇兵は、だれもかれも、隠れ家か、刑務所へ直行するより仕方がなかったのだ――三、四か月も前線暮らしをして来たのに、気持ちよく迎えられたなんてものではなかった。
われわれの立場は奇妙なものだった。夜はお尋ね者の逃亡犯だが、昼はまともな生活ができた。POUM支持者たちをかくまいそうな家は、全部監視されていた――あるいは、監視されることになりそうだった。そしてまた、ホテルや下宿屋へも寄りつけなかった。というのは、見知らぬ者がやって来た場合には、ホテルの経営者は即刻警察へ届け出るように、という命令が出ていたからだ。となると、実際問題としては、夜は戸外《そと》で寝ろ、というようなものだった。その反面、日中は、バルセロナぐらいの大都会となると、かなり安全だった。通りは、どれだけいるか数知れぬ私服のスパイのほかに、治安警備隊、親衛突撃隊、国境監視兵《カラピネロ》、それにふつうの警官でいっぱいだった。それでも、行き交う人びとをひとり残らず呼び止めることはできなかったので、まともななりさえしていれば、引っかからずにすんだ。心していなければならないのは、POUMビルのまわりをうろついたり、顔見知りの給仕のいる喫茶店《カフェー》やレストランへ立ち入るのを避けることだった。私は、その日もそのあくる日も、とある公衆浴場へでかけ、風呂に入って長いあいだひまつぶしをした。よくも、こんな人目につかない絶好のひまつぶしを思いついたものだ、とわれながら感心したのだった。ところが、あいにく、だれでも同じことを考えるものとみえて、二、三日後に――私がバルセロナを離れたあとだったが――公衆浴場のひとつに警察の手入れがあり、多数の「トロツキスト」が、まっ裸のまま逮捕されたのだった。
ランブラス通りの中ほどで、私は、マウリン療養所からやって来たひとりの負傷兵にばったり出会った。私たちは、あのころみんながよくやった、ひそかなウインクを交わし、もっと先の喫茶店《カフェー》で、こっそり落ち合うことができた。彼は、マウリンに手入れがあったとき、逮捕はまぬがれたが、ほかの連中と同じように街頭へ追い出された格好となったのだった。彼はワイシャツ一枚で――というのは、上着なしで逃げなければならなかったので――一文なしだった。彼は、治安警備隊のひとりが、マウリンの大きな色刷りの肖像を壁から引きずりおろし、蹴破ってこっぱみじんにしてしまったときのことを、くわしく話してくれた。マウリン(POUM創設者のひとりだった)は、ファシストに捕まって獄中にあったが、当時は射殺されたものと信じられていた。
十時に、イギリス領事館で妻と会った。マックネアとコットマンも、すぐあとでやって来た。そのふたりからいちばん初めに聞かされたのは、ボッブ・スマイリーの死だった。彼はヴァレンシアの刑務所で死んだのだ――それも、まったくはっきりしない原因で。彼の遺骸はすぐに埋葬され、現地の独立労働党《ILP》の代表デイヴィッド・マレーも、死体確認を要求したが、拒否されたのだった。
もちろん、私は、ははあ、スマイリーは射殺されたのだな、と第六感でピンときた。当時はみんなそう信じていたが、その後、私の推測はまちがっていたかもしれない、と思うようになった。やがて、彼の死因は盲腸炎だったと発表されたが、釈放されたほかの人から、後になって、スマイリーは獄中ではたしかに病気だったと聞いた。だから、盲腸炎という話は、たぶんほんとうなのだろう。マレーに検屍を拒否したのは、まったくの悪意によるものだったのかもしれない。しかし、断わっておかなければならないが、ボッブ・スマイリーはわずか二十二歳だったし、肉体的には、私がこれまでつき合ったうちで、もっともタフな男のひとりだった。彼は、イギリス人、スペイン人を問わず、私の知っているかぎり、三か月間も塹壕暮らしをしながら、ただの一日も病気をしたことのない唯一の人物だったように思う。あんなタフな連中は、まともな手当てさえ受けていれば、ふつう盲腸炎なんかでは死なないものだ。しかし、スペインの刑務所なるもの――ことに政治犯を収容するための仮刑務所――が、いかにひどいものであるかをごらんになれば、病人がまともな手当てを受ける機会など、まず望むべくもないことがおわかりになると思う。刑務所とは言っても、地下牢としか言いようのないものである。イギリスで似たようなものを捜すとなると、まず十八世紀あたりまでさかのぼらなければなるまい。ほとんど横になるゆとりもないような狭い部屋に囚人が押し込まれるのだ。穴ぐらや、そのほかの暗い場所へとじ込められることも多い。しかも、これが何も暫定的な措置というわけではないのだ――ほとんど陽の目を見ないで四、五か月もぶち込まれる場合だってあったのだ。そのうえ、一日にスープ二杯、パンふた切れというきたならしいふじゅうぶんな食事で命をつないでいたのだ(しかし、数か月後には、食事は多少よくなったようだ)。
私は誇張しているのでも何でもない。スペインで投獄された経験のある政治犯容疑者にお聞きになってみられたらよい。私は、それぞれ別個のたくさんの出所から、スペインの刑務所についての情報を集めたが、それが互いにじつによく一致しているので、とうてい信じないわけにはいかないのだ。それだけではなく、私自身が、ほんのちらとではあるが、自分の目でスペインの刑務所をのぞいて見たことがあるのだ。もっとあとになって投獄された別のイギリス人の友人が、自分の獄中体験のおかげで、「スマイリーの場合がよくわかるようになった」と書いている。スマイリーの死は、そう簡単には許せないことだ。ここに勇気もあれば才能にも恵まれた青年がいた。彼は、ファシズムと戦うために、グラスゴウ大学の学生という自分の前途を投げうってやって来た。彼は、前線で、私がこの目で見たとおり、申し分のない勇気と意欲をもって自分の任務をはたしたのだった。それに対するせいいっぱいの報いが、なんと牢屋へぶち込み、ほったらかしの動物のように死なせることであったとは。大規模な殺戮戦のまっさいちゅうなら、個人の死をあまりわいわい騒いでみてもはじまらないことぐらいは、私だってわかっている。人の密集している大通りに爆弾の一発も落とされれば、相当の政治的迫害よりもっと大きな苦痛をもたらすのだ。しかし、このような死を憤慨せずにいられないのは、それがまったくの犬死だからなのだ。戦場で殺されるのは――そう、それは覚悟のうえのことだ。だが、なんら身におぼえもないのに、ただ、うっとうしいわけのわからない憎しみのために牢獄へぶち込まれ、ほったらかされてひとりぼっちで死ななければならない、となると――これは、また別問題だ。このようなことが――どうやら、スマイリーのケースはまんざら例外でもなさそうなのだが――勝利を少しでも早めるのに、どう役にたつのか、私にはとんと納得がいきかねるのだ。
妻と私は、その日の午後、コップに面会にいった。独房囚《ヽヽヽ》でないものは面会が許されていた。もっとも、一、二度の面会ならいいが、それ以上になるとあぶない。出入りする人びとを警官が監視している。そして、あまり足しげくやってくると、今度はその人が「トロツキスト」の友人という烙印をおされ、たぶん自分自身が刑務所行きという羽目になる。これは、すでに、たくさんの人びとが経験ずみだ。
コップは独房囚《ヽヽヽ》ではなかったので、われわれは難なく面会許可をもらった。案内されて、われわれが鋼鉄のドアを通って入っていくのといれちがいに、私が前線で知り合いだったひとりのスペイン人義勇兵が、ふたりの治安警備隊員にかこまれながら連れ出されてきた。お互いの目がかち合うと、また例のかすかなウインクだ。刑務所の内部《なか》へ入ってはじめて見かけたのは、二、三日前に帰国の途についたはずのアメリカ人義勇兵だった。彼の書類はきちんとととのっていたが、それにもかかわらず国境で逮捕されたのだ。まだコールテンの半ズボンをはいていたので、たぶん義勇兵とまちがえられたのであろう。あかの他人同土のように、われわれは互いにすれちがった。まったくたまらない気持ちだった。彼とは数か月前からの知り合いで、ひとつの待避壕でいっしょに暮らした仲だった。そして、私が負傷したとき、後送されるのを手伝ってくれた。しかし、今はそうするより仕方がなかった。青い服を着た看守が、そこいらじゅうをうろつきまわっていたからだ。あまりたくさんの囚人と知り合いというのは、危険千万だった。
いわゆる監房というのは、じつは商店の一階だった。それぞれ約二十フィート平方ぐらいのふたつの部屋に、百人近い人びとが詰めこまれている。むっとするような汚物が散乱し、人間のからだがごちゃごちゃとひしめき合い、家具も何もない――むき出しの石の床に、ベンチがひとつと、ボロボロの毛布が二、三枚あるだけだ。窓には、波形鉄板のシャッターがおろしてあるので暗く、それこそ、ほんとうに十八世紀のニューゲート監獄暦報《カレンダー》〔昔ロンドンのニューゲート監獄に入れられた重罪囚人の経歴、罪科、自白書などを載せた記録で、十八世紀から十九世紀初めにいたる〕に述べられている情景とそっくりである。垢でよごれた壁には――「POUM万歳!」「革命万歳!」などの――革命的なスローカンのなぐり書きがある。ここは、数か月前から、政治犯の臨時収容所として使われてきたのだ。
騒がしい声で耳がつんぼになりそうである。ちょうど面会時間だったので、人の群れでごったがえし、身動きもできないくらいだった。収容されているのは、ほとんど全部最下層の労働者階級の人びとだった。今も目の前で、女たちが、刑務所に入っている連中にさし入れするためにもって来たいじらしい包みをほどいている。囚人たちの中には、マウリン療養所から拉致《らち》されてきた負傷兵も何人かまじっている。脚を切断したのがふたりいたが、そのひとりは、松葉杖もなしに拉致されたので、片足でピョンピョン跳んでいる。まだ十二歳にもなっていないような少年もまじっている。子供までも逮捕したらしい。まともなトイレの設備のないところへ、たくさんの人間を詰めこんだときにはつきものの、あの鼻のちぎれそうな悪臭があたりにただよっている。
コップは、人ごみをかきわけながら面会にやって来た。そのまるまるとした血色のいい顔はちっとも変わっておらず、こんなきたないところにいるのに、制服はこざっぱりとしていて、どう工夫したのかひげさえ剃っていた。囚人の中には、人民軍の制服を着た将校がもうひとりまじっていた。彼とコップは、押し合いながらすれちがったとき、互いに敬礼を交わした。その身ぶりがちょっと哀れを誘った。コップはまったく意気軒高だった。「やあ、おれたちはみな銃殺《ポン》だよ」と、陽気な口調で言う。「銃殺《ポン》」という言葉を聞いて、私は、心の底まで身震いが走ったような気がした。弾丸が私自身のからだに入ったのはついこのあいだのことで、そのときの気持ちが、まだ私の記憶になまなましかったのだ。自分のよく知っている人があのような目に会うのかと思うと、どうもいい気持ちがしない。そのころ私は、POUMのおもだった人びと(コップも含めて)は、当然みな銃殺に|なるもの《ヽヽヽヽ》、と思いこんでいた。ニンの死についてのうわさが、ちょうどもれ聞こえてきたときで、POUMが反逆行為とスパイ活動の罪で告発されていることを、われわれは知っていたのだ。何を見ても何を聞いても、有力な「トロツキスト」たちの大虐殺をともなう大々的なでっちあげ裁判が行なわれそうななりゆきだった。
友だちが投獄されているのを見ながら、救ってやることもできないでいる、というのは、まったく断腸の思いがする。というのは、それこそ、どうにも手の打ちようがないからだ。ベルギーの当局へ訴えても、何の役にもたたないのだ。何しろコップは、法律を犯してここへやって来た身の上なのだ。私は、しゃべるほうはほとんど妻にまかせなければならなかった。私のキイキイ声では、この騒音の中で何といっても相手に聞こえないからだ。コップは、ほかの囚人たちの中に友だちができたことや、看守の中にはいいやつもいるが、臆病な囚人とみると罵倒したりぶんなぐったりするやつがいることや、食い物がまるで「豚の残飯」そっくりであることなどを話してくれた。われわれは、前もって考えて、食糧の包みとたばこを持ってきていたのでさいわいだった。それからコップは、逮捕されたとき没収された書類の話をしだした。その中に、東部軍の工兵作戦を指揮している大佐宛ての、彼が陸軍省から受けとった手紙もまじっていたという。警官がそれも取り上げ、いくら返してくれと言ってもきかなかったが、どうも警視庁にあるらしい。あれが取りもどせると、ずいぶん助かるのだが、との話だった。
それがどんなに大事なものか、私にはすぐわかった。陸軍省とポサス将軍の推薦の意を伝えるそのような公文書の手紙があれば、コップの無実は証明されるであろう。しかし、問題は、そのような手紙があることを、どうやって証明するかだった。もし警視庁で開封されれば、きっと警察のいぬか何かが破棄するにちがいない。それを取りもどすことのできそうな人は、ただひとりしかいない。それは、その手紙の受け取り人となっている将校だ。コップは、すでにこのことを考えついていて、手紙を一通書いていた。私に、それをこっそり刑務所から持って出て、投函してほしい、というのだ。でも、直接出かけたほうがもっと早いし、確実なのは、わかりきっている。私は、妻をコップのもとに残して外へ飛びだした。そして、タクシーをつかまえた。一刻もぐずぐずしていられないのは、いやというほどわかっていた。もう五時半だった。大佐は、たぶん六時には役所を出るだろう。あすまでに、もう手紙はどうなっているかわからない――ひょっとすると破り捨てられるかもしれないし、容疑者があとからあとから検挙されてくるたびに、おそらく乱雑に積み上げられていく書類のどこかにまぎれこんでしまうかもしれない。
大佐の役所は、波止場の横をずっといった陸軍省の中にあった。石段を急ぎ足にあがっていくと、入口で番兵に立っている親衛突撃隊員が、付け剣した銃で私を制止し、「身分証明書」を見せろ、と言った。私は、除隊許可証を彼に向かってひらひらさせた。やっこさん、字が読めないらしく、ぼんやりとしかわからない「身分証明書」の神秘的な威力に恐れ入って、私を通してくれた。内部《なか》に入ると、そこは、まん中に中庭をはさんだごみごみした建物で、各階に何百という部屋がある。そして、いかにもスペインらしく、私の目ざす部局がどこにあるのか、おぼろげに知っているものさえひとりもいないのだった。私はくり返しつづけた。「何某大佐《エル・コロネル》、|工 兵 隊 長《ヘフエ・デ・インヘニエロス》、|東 部 軍《エヘルシート・デ・エステ》!」みんな、にっこりして上品に肩をすくめてみせるだけだ。心あたりのある人が、てんでにみんなちがった方向を教えてくれるのだ。こっちの階段をあがり、あっちの階段をおりる。果てしない廊下を歩いていくと、その先が何と袋小路だ。そのあいだにも時間はどんどん過ぎていく。私は、まるで悪い夢でも見ているような、とても変な気がした。いくつもの階段をかけあがってかけおりる。えたいの知れない人たちが行ったり来たりしている。開いたドアからちらりとのぞくと、取り散らした事務室のいたるところに書類が散乱し、パチパチとタイプライターをたたく音がする。そして、生か死かまだどちらともきまらないままに、時だけが刻々と流れていく。
でも、どうやら間に合った。そして、話を聞いてもらえたのは、ちょっと驚きだった。何某大佐には会えなかったが、彼の副官か秘書官らしく、スマートな制服を着た、小柄のほっそりした、やぶにらみの目の大きな男が出て来て、控えの部屋で会ってくれた。私は、せきを切ったようにしゃべりだした。私は、上官ホルヘ・コップ少佐の代理でやって来ました。少佐は緊急任務を帯びて前線へおもむく途中、誤認逮捕されたのです。何某大佐宛の手紙は機密書類なので、即刻取りもどさなければなりません。私は、これまで数か月間コップ少佐のもとで働いてきました。彼は高潔な性格の将校で、彼の逮捕は明らかに誤認によるものであって、警察がほかのだれかとまちがえたのです云々……。私は、コップの前線への赴任が、いかに緊急なのかを、何度も何度も力説した。ここが、いちばん肝心なところだ、とわかっていたからだ。しかし、どうにもならなくなると、ついフランス語が顔を出す私のひどいスペイン語では、きっとふにおちない話に聞こえたにちがいない。何よりいけなかったのは、ほとんどすぐに声が出なくなってしまい、それこそ、力いっぱいりきんでも、しわがれ声のようなものしか出てこなかったことだ。しまいには、私の声がまったく出なくなり、この小柄の副官は、いっしょうけんめい話に耳を傾けていなければならないのにいや気がさしてくるんじゃなかろうか、と私は気が気ではなかった。声をどうしたんだろう、と思われはしないか酔っぱらっているんじゃないか、とか、良心にやましいところがあるんじゃないか、とか思われはしないだろうか、と心配になった。
しかし、彼はしんぼうして聞いてくれ、何度もうなずき、私の言うことに慎重な同意を示した。なるほど、誤りがあったようですね。いや、おっしゃるとおりです。この問題は調べてみなければなりません、では明日《マニャーナ》――。私は抗弁した。明日《マニャーナ》ではだめなのです! 緊急な問題なのです。コップは、もうとっくに前線に着いていなくちゃならないはずなのです。将校は、これにも同意してくれたようだった。ところが、そのあとで、私の恐れていた質問がとび出した。
「そのコップ少佐は――どの軍に勤務していられたのですか?」
恐ろしい言葉を口にしなければならなかった。「POUM義勇軍です」
「POUMですって!」
このときの彼の声の、ぎょっとしたような驚きの調子を伝えることができたら、と思う。その当時POUMがどんなふうに見られていたかを思い出していただかなければならない。スパイ騒ぎは、そのころ最高潮だったのだ。おそらく善良な共和主義者たちは、みんな、その一、二日間は、POUMがドイツから金をもらっている巨大なスパイ組織である、と信じていたにちがいない。おりもおりこんなときに、人民軍の将校に向かって、こんなことを言わなければならないというのは、赤色文書事件の直後に「騎兵《キャバリー》クラブ」〔ナポレオン戦争の終わりごろ、ロンドンに帰還した将校たちのあいだで、共に食事をしながら懐旧談にふけるための会合場所を求める声が起こり、軍人のいろいろなクラブができた。「キャバリークラブ」はそのようなクラブのひとつで、一八九〇年にロンドンに作られた騎兵将校のクラブ〕へ乗りこんで、おれは共産党だぞ、とわめくようなものだ。彼の黒い目が、私の顔を斜めにじろりと横切ったかと思うと、彼はおもむろに口を開いた。
「それで、あなたは前線では彼といっしょだったとおっしゃるのですね? じゃ、あなた自身もPOUMに勤務していらっしゃったのですね?」
「そうです」
彼は身をひるがえすと、大佐の部屋へかけこんだ。はげしい言葉のやり取りが聞こえた。「万事休す」と私は思った。コップの手紙はとり戻せないだろう。おまけに、私は、自分がPOUMにいたことまで告白しなければならなかった。きっと警察に電話をかけ、私を逮捕させるだろう。トロツキスト、もう一ちょうあがり、というだけのことだ。しかしながら、まもなくさっきの将校は帽子をかぶって出てくると、きびしい顔付きで、私に、ついて来るように、と手まねで合図をした。警視庁まで行くつもりなのだ。長い道のりで、二十分も歩いた。その小柄な将校は、軍人らしい四角ばった足どりで私の前を歩いていく。われわれは、長いみちみち、お互いにひと言も口をきかなかった。
警視庁に着くと、見るからに人相の悪いやつら――警察の「いぬ」、密告屋、あらゆる種類のスパイども――が大ぜい、ドアの外をうろついていた。小柄な将校は入っていった。長いはげしい口論が起こった。声がひどく高くなった。肩をすくめたり、テーブルをたたいたりしているその大げさな身ぶりが目に見えるようだった。どうやら警察は、その手紙は返せない、と言っているらしい。しかし、とうとう将校は、顔をまっ赤にして、しかし大きな公用封筒を持って出て来た。コップの手紙だった。われわれは、ついにささやかな勝利を収めたのだ――もっとも、あとでわかったのだが、手紙をとり戻してみても、事態はちっとも変わらなかったのだった。その手紙は、順当にその宛て先へ配達されたが、コップの上官たちも、彼を刑務所から救い出すことはまったくできなかったのだった。
将校は、手紙が届けられるように取り計らいます、と私に約束してくれた。でも、コップはどうなるのでしょう? と私はきいた。何とか釈放してもらうわけにはいきませんか? 彼は肩をすくめた。それは、また別問題ですね。どういう理由で逮捕されたのかわかりませんから。ただ、然るべき調査はしてみましょう、とだけは言ってくれた。もうこれ以上言うこともなかった。帰らなければならない。われわれは互いに軽く会《え》しゃくした。すると、そのとき、奇妙な心を打つ事件が起こった。その小柄な将校は一瞬ためらったが、やがてつかつかと歩み寄って、私に握手したのだった。
その行動がどれほど深く私を感動させたか、その実感をとうていお伝えすることはできないと思う。きいてみればまことにたわいもないことだが、じつはそうではないのだ。当時の一般の感情がどのようなものだったか――つまり、疑惑と憎悪の恐るべき雰囲気、いたるところに広まっているうそと流言、私や私のようなものをファシストのスパイだ、とわめきたてているような掲示板のポスターなど――を、ぜひ理解していただかなければならない。また、われわれの立っていたのが、警視庁のまん前で、あのけがらわしい告げ口屋や挑発分子のうようよしているその鼻先だった、ということもわかっていただかなければならない。その中には、私が警察の「お尋ね者」であることを知っているやつがひとりぐらいはまじっていたかもしれないのだ。それは、まるで、今度の大戦中に、衆人環視の中でドイツ人と握手を交わすようなものだったのだ。彼は何となく、私がほんとにファシストのスパイではない、とわかったのだろう。それにしても、握手してくれたのは、感謝してもいいことだった。
こんなことを書けば、何だつまらないことを、とお感じになられるかもしれないけれども、それが何となくスペインらしいからなのである――つまり、最悪の事態に陥ったときでも、スペイン人がちらと見せる、あの心の寛さを象徴しているからなのだ。スペインについての私の思い出はきわめて悪いが、スペイン人については、悪い思い出はほとんどない。スペイン人に対して、私が本気で腹をたてた記憶は、わずか二回しかない。しかも、そのどちらの場合も、あとからふり返ってみると、どうも私の方が悪かったようだ。疑いもなく、彼らは、とうてい二十世紀のものとも思われないような寛容と、一種の気高さとを備えている。スペインでは、ファシズムでさえ、比較的ゆるやかながまんのできる形をとるのではないかしら、という希望を持ちたくなるのは、そのせいなのである。
スペイン人には、現代の全体主義国家が必要とする、あのやりきれない能率性と一貫性を持っているものがほとんどいない。じつは、数日前の晩、警察が私の妻の部屋を捜索したとき、この事実を証明するようなちょっとした事件があったのだった。じつを言うと、その捜索のやり方がとてもおもしろかったので、ぜひ見ておきたかったな、という気がするくらいである。だが、たぶん見なくてよかったのだろう。というのは、もし見ていたら、かんしゃくを起こさずにはいられなかっただろうからだ。
警察は、まるで|OGPU《オグプ》〔ソ連の合同国家保安部。別名ゲー・ペー・ウー〕や|GESTAPO《ゲシュタポ》〔ナチスドイツの国家秘密警察〕公認とでもいうような型の捜索をやった。真夜中にドアをドンドンとたたいた。そして、六人の男が入ってきて灯りをつけ、前もって打ち合わせてあったと思われる部屋のいろいろな場所に散った。それから、ふたつの部屋(浴室が付いていた)を、ちょっと想像もできないほど綿密に捜査した。壁をたたいてみる。マットをめくって床を調べる。カーテンにさわってみる。浴槽と暖房器《ラジエーター》の下もさぐってみる。引き出しやスーツケースは、片っぱしからからにし、衣類は、さわってみてから、灯りに近づけてすかしてみる。紙くずかごの中身を含めたいっさいの紙を押収し、おまけに、私たちの本までことごとく没収した。ヒトラーの『わが闘争』のフランス訳を見つけたとき、彼らの疑惑は、それこそ最高頂に達した。もしそれしか本がみつからなかったのだったら、われわれの運命はきわまっていたことだろう。『わが闘争』を読むようなやつは、明らかにファシストにちがいないからだ。ところが、そのつぎに、彼らは、スターリンのパンフレット「トロツキストやその他の裏切り者たちを粛正する方法」を見つけた。それでちょっと安心した。ひとつの引き出しの中に、包装したたばこの巻き紙がたくさん入っていた。彼らは、何か伝言でも書いてありはしないか、と、一枚一枚はずして調べた。要するに、二時間がかりの大仕事だった。しかし、その捜査中、彼らは、|ベッドの下だけは《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ただの一度も捜さなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そのあいだずっと、妻はベッドで横になっていたのだ。その枕の下に、トロツキストの記録が一揃いあるかもしれないことはもちろん、マットレスの下には、ひょっとすると、短機関銃《サブ・マシンガン》の半ダースも隠されていたかもしれないのだ。それなのに、探偵たちはベッドに指一本ふれようともしなかった。その下をのぞいて見ようともしなかった。これが|OGPU《オグプ》のふつうのやり方とは信じられないのだ。ここで思い出していただきたいのは、警察がほとんど全面的に共産党の支配下にあり、この連中は、たぶん党員だったのだろう、ということである。ところが、彼らは、党員であると同時にスペイン人でもあった。したがって、婦人をベッドから追い出すようなまねはちょっとできなかったのだ。このベッドの捜査だけは黙って避けて通ったので、捜査全部が無意味なものになってしまった。
その晩、マックネアと、コットマンと、私は、放置された建築用地のはずれの、丈の高い草の中で眠った。季節のわりには寒い晩で、だれもあまりよく眠れなかった。一杯のコーヒーにありつくまで、何時間もぶらついていなければならなかった、憂鬱だったあのときのことを今も忘れない。バルセロナに来てはじめて、私はちょっと大聖堂を見物にいった――モダンな大聖堂で、世界じゅうでもっとも感じの悪い建物のひとつだ。白葡萄酒のびんとそっくりの格好で、銃眼のついた尖塔が四つある。バルセロナのほかの教会とはちがって、これは革命中も破壊を免れた――人びとの話では、「芸術的価値」のためだそうだ。なるほど尖塔のあいだに赤と黒の旗をつるしてはあるが、せっかく爆破するチャンスがあったのに、こんな建物をみすみすそのままにしておくなんて、まるでアナーキストたちの趣味の低俗さを宣伝しているようなものだな、と思う。
その日の午後、妻と私は、コップに最後の面会にいった。彼にしてやれることは何もなかった。ほんとうに何もなかった。ただ、さようならを言うことと、スペイン人の友だちに金をあずけて、彼に、食物とたばこのさし入れをしてやってくれるように、頼んでおくことぐらいだった。しかし、われわれがバルセロナを発ってからしばらくして、彼は「面会禁止の独房囚」となり、食物のさし入れもできなくなってしまった。その夜、ランブラス通りを歩いていて、われわれは「カフェ・モカ」の前を通りかかった。まだ治安警備隊が大ぜいで占拠していた。ふっと思いたって、私はつかつかと内部《なか》へ入っていき、銃を肩に引っかけながらカウンターにもたれているふたりに話しかけてみた。あの五月の市街戦のとき、ここに勤務していたのは、君たちの仲間のだれだか知ってるか、と聞いてみた。彼らは知らなかった。そして、例のスペイン人一流の曖昧さで、どうやって捜したらいいかわからない、と言った。私は言った。おれの友だちのホルヘ・コップというのが、いま刑務所に入っているんだが、たぶん何か五月の市街戦に関連したことで裁判を受けることになりそうなのだ。あのときここに勤務していた人なら、彼が射ち合いをやめさせて、何人かの生命を救ったことを知っているはずだ。裁判のときには、ぜひ出ていってその証言をしてほしいのだ、と。
私が話しかけた片方の男は、頭の悪そうなぼんやりした顔の男で、通りのさわがしい音で私の声が聞こえないため、たえず首を横に振りつづけていた。しかし、もうひとりのほうはちがっていた。彼は言ってくれた。おれは仲間のだれかから、コップの行動は聞いたことがある、コップは「|いいやつ《ブエン・チコ》」だ、と。しかし、いくらそんなことをしたって、まったく何の役にもたたないことぐらいは、そのときでも、わかっていた。もしコップが裁判されるとすれば、裁判が裁判だから、きっとでっちあげの証拠にもとづいて行なわれるだろう。もし彼が銃殺されるようになれば(どうもそういうことになるのではないかと気がかりなのだが)、「ブエン・チコ」――下劣な組織の一員でありながら、気高い行為を見た場合には、それがわかるだけの人間らしさは備えていたけなげな治安警備隊員に、そのようにたたえられた男、というのが、彼の墓碑銘になるわけだ。
私たちが送っていたのは、たしかに、おかしな気ちがいじみた生活だった。夜は犯罪者、しかし、昼は裕福なイギリスの観光客――ともかく、それがわれわれの姿勢《ポーズ》だった。ひと晩野宿した後でも、ひげを剃り、ひと風呂浴び、靴を磨いてもらえば、あっぱれ見ちがえるような容姿となった。さし当たって、いちばんの安全策は、できるだけ富裕階級《ブルジョワ》らしく見せかけることだった。私たちは、顔を知られていない市中の高級住宅地をよく歩き、高級レストランに出入りし、給仕たちに対しては、いかにもイギリス人らしい態度で接した。私は、生まれて初めて、壁に落書をするくせがついた。いくつかのハイカラなレストランの廊下に、「|POUM万歳《ビスカ・ポウム》!」という文句を、思い切り大きな字で書きなぐった。そのあいだずっと、私は工夫して、正体がわからないようにしてはいたが、身の危険を、実感として感ずることはできなかった。すべてのことが、あまりにもばかばかしい気がしたのだ。法律に触れないかぎり、「彼らにしても」人を逮捕することができないのだ、というイギリス人的な信念を、私はなかなか捨てきれなかったのだ。
政治的な組織的虐殺《ポグロム》〔もとはロシアにおけるユダヤ人に対する組織的・計画的な虐殺〕の行なわれているさいちゅうに、こんな信念をもっているのは危険千万だった。マックネアの逮捕状はすでに出ていたが、残りのわれわれにしても、リストにのせられている公算が大きかった。逮捕、手入れ、捜査は、ひっきりなしに続いていた。このころになると、まだ前線にいる者は除いて、われわれの知り合いはほとんど全部投獄されていた。警察は、定期的に亡命者をのせていくフランス船の中にさえ踏み込んで、「トロツキスト」容疑者を逮捕していた。
イギリス領事は、あの週はずいぶんたいへんな毎日だったにちがいないのだが、彼の好意のおかげで、われわれはどうにか旅券《パス・ポート》をととのえることができた。あとは、早く発てば発つほどいいのだ。夜七時半にポート・ボーウ行の汽車が出るはずだった。まともにいけば八時半ごろには出るだろう。妻は、前もってタクシーを頼んでおいて、旅行鞄の荷造りをする、最後のぎりぎりになってホテル代を払って発つ、というふうにわれわれは手はずをととのえた。もし彼女があまり早く届け出ると、ホテルではきっと警察へ連絡するからだ。七時ごろに駅へいってみると、汽車はもう出たあとだった――七時十分前に出てしまったのだという。例によって機関手の気が変わったのだ。運よく、間に合うように妻に連絡することができた。あくる朝早くに出る汽車がもうひとつあった。マックネア、コットマン、それに私は、駅のそばの小さなレストランで夕食をとった。用心しながらきいてみると、レストランの主人はCNTの組合員で、親切な人物であることがわかった。彼は、われわれに、ベッドの三つある部屋を貸してくれ、警察への連絡は忘れてくれた。私が洋服を脱いで眠ることができたのは、じつに五日ぶりのことだった。
あくる朝、妻はうまくホテルを脱け出してきた。汽車は一時間あまり遅れて発車した。その一時間あまりのあいだに、私は、陸軍省宛に、コップの事件のことを述べた長い手紙を書いた――彼が誤って逮捕されたことは疑問の余地がないこと、前線では彼を緊急に必要としていること、彼の完全な潔白を証明する人が無数にいること、等々をしたためた。ノートを引きちぎった紙に、それもあぶなっかしい字で(指がまだいくぶん麻痺していたからなのだが)、さらにいっそうあぶなっかしいスペイン語で書いてあるこの手紙を、いったいだれか読んでくれるかな、と心もとない気がした。
ともかく、この手紙も、ほかのどんな手段も、まったくききめがなかった。事件後六か月たって、これを書いている今も、コップは(まだ銃殺されていないものとしての話だが)、裁判もされず、起訴もされないまま、依然として獄中にあるのだ。初めのころは、二、三回便りをもらった。釈放された人が、こっそりことづかって、フランスで投函したものだった。どの手紙にも、みんな同じこと――不潔な暗い穴ぐらにとじこめられていること、食事が悪く、しかも足りないこと、獄中の状態がひどいので病気が悪化していくこと、医者の手当が拒否されていること――が書いてあった。この事実は、すべて、イギリス、フランス双方のいくつかの筋から確認ずみである。もっと最近では、彼は、まったく連絡不能とみられる「秘密監獄」のどこかへ消えたようだ。彼と同じ目にあっている外国人はずいぶん多いし、スペイン人となると、どれだけいるのか、さっぱり見当もつかない。
結局、私たちは無事に国境を越えた。この汽車には一等車と食堂車がついている。スペインで見たのは初めてだ。最近まで、カタロニアでは、汽車に等級がひとつしかなかった。外人乗客の名前を調べるために、刑事がふたり、車内へまわって来たが、われわれが食堂車にいるのを見て、相当な身分の人たちと思ったらしく、安心したようだった。すべてが、まったくおかしなくらい変わってしまった。アナーキストたちが権力を握っていたつい六か月前までは、まともな人間に見てもらうには、労働者階級《プロレタリアート》のような身なりでなければならなかった。ペルピニャンからセルベールへ行く途中、たまたま同じ客車に乗り合わせていたフランス人の地方まわりセールスマンが、大まじめでこう言ったことがあった。「そんななりでスペインへいっちゃいけません。カラーとネクタイを外してしまいなさい。バルセロナへ着いたら、引きちぎられますよ」それは言いすぎだったが、その言葉から、当時カタロニアがどんなふうに見られていたかがわかる。そして、事実、国境でも、アナーキストの警備兵が――おそらく――身なりがあまりにも富裕階級《ブルジョワ》的すぎたためなのだろう――スマートな身なりのフランス人夫婦を追い返していた。
ところが、今はまったくあべこべになり、富裕階級《ブルジョワ》らしくみえることが何よりの救いなのだ。旅券検査所では、われわれが容疑者のカード索引にのっているかどうか調べられたが、警察の能率の悪さのおかげで、われわれの名前はもとより、マックネアの名前さえのっていなかった。われわれは、頭のてっぺんから足のつま先まで調べられたが、私は除隊許可証のほかに、うさん臭いものは何ひとつ持っていなかった。そして、私を取り調べた国境監視兵《カラピネロ》は、第二十九師団がPOUMであることを知らなかった。そういうわけで、われわれは難関を通り抜け、ちょうど六か月ぶりに、ふたたびフランスの土を踏んだのだった。私のわずかなスペイン土産《みやげ》は、山羊皮の水筒と、私がどこかのあばら屋の廃墟から拾ってきて、何となく荷物の中へつっこんでおいた――二千年前のローマ人の|赤土素焼き《テラコッタ》のランプとほとんどそっくりの格好だ――アラゴン地方の農民たちが、オリーブ油を燃やす、あのちっぽけな鉄製のランプが一個だけである。
結局、あとになって、われわれの脱出がけっして早すぎではなかったことがわかった。われわれが見たいちばん初めの新聞に、マックネアをスパイ容疑で逮捕する、という記事がのっていたからだ。うまいぐあいに、「トロツキズム」のほうは、犯人身柄引き渡しを免れている。
戦争中の国から平和な土地に足を踏み入れたとき、いちばん最初にどんなことをやったらいいのだろうか。私の場合は、たばこの売店へ駆けていって、ポケットにつめこめるだけの葉巻やたばこをつめこむことだった。それから、みんなで軽食堂《ビュッフェ》へ行って、お茶を一ぱい飲んだ。何か月ぶりかに初めて飲んだ新鮮なミルク入りのお茶だった。たばこはいつなんどきでもほしいときに買えるのだ、というふうに考えるようになるのに、数日かかった。たばこ屋のドアがいつもしまっていて、ウインドーに「代用たばこ品切れ」という、あの味もそっけもない張り紙があるもの、と思いこむくせが、なかなかぬけきれなかったのだ。
マックネアとコットマンは、まっすぐパリへ行く予定だった。妻と私は少し休養したいと思ったので、いちばん最初の停車駅、バニュールで降りた。バルセロナから来たことがわかると、あまりいい顔はされなかった。私は、何回となく同じ質問を浴びせられた。「スペインからやってこられたのですね? どちら側について戦われたのですか? 政府側ですって? へーえ!」――それから、がらりと相手の態度が冷たくなるのだった。この小さな町は、フランコびいきにこり固まっているようだった。それというのも、ときどき、スペインのファシスト側からのいろいろな亡命者がやって来たかららしかった。私の行きつけの喫茶店《カフェー》の給仕は、フランコびいきのスペイン人だったので、アペリチフを出すとき、いつもきまってふきげんな顔で、私をじろりと見るのだった。ペルピニャンはその反対だった。政府側の熱烈な支持者でこり固まっており、いろいろな党派がみんな、バルセロナとほとんど同じように、互いに策動していた。「POUM」とひとこと言っただけで、すぐさま何人かのフランス人の友だちができ、給仕がにっこりしてくれる喫茶店《カフェー》もひとつあった。
バニュールには三日間いたように思う。奇妙なくらい落ち着かなかった。爆弾や、機関銃や、食糧品を買う行列や、宣伝や、陰謀などから遠く離れたこの静かな漁港の町では、深い安らぎと、ありがたいという気持ちを感じていいはずだった。ところが、そうした気持ちはちっとも感じなかった。われわれがスペインで見てきたものが、遠く離れた今となって、遠ざかりながら小さくなっていくどころか、どっとよみがえり、これまでよりもっとなまなましくなってくるのだった。私たちは、たえずスペインのことを考え、しゃべり、そして夢にまで見た。何か月も前から、われわれは「スペインを離れたら」、どこか地中海のほとりへ行って、少し魚釣りでもしながらしばらく静かに暮らそうか、と互いに話し合ってきたのだった。ところが、現実にここへやって来てみると、退屈でがっかりするだけだった。気候はうすら寒く、風が絶えず海原を吹き渡り、水はどんよりとして三角波が立ち、港の突端のまわりには、灰の浮きかすや、コルクや、魚のはらわたなどが岩壁に当たってゆれていた。
気違い沙汰とお考えになられるかもしれないが、私たちがふたりとも望んだのは、スペインへ帰りたい、ということだった。あのままとどまっていたとしても、だれのためになるわけでもなかっただろうし、実際に、大きな害を及ぼしていたかもしれないのだが、それでも、私も妻も、むしろとどまって、いっそみんなといっしょに投獄されていたほうがよかったな、という気がしたのだった。あのスペインでの数か月が、私にとってどのような意味をもっているのかについては、あまりじゅうぶんにお伝えできなかったのではないかと思う。外面的な事件は多少記録してきたが、その事件が私に残した感情となると、これは記録できない。それは、文章では伝えることのできない光景、におい、音とまざり合っているからなのだ。塹壕のにおい、果てしないかなたへとのびていく山の夜明け、冷たい感じのする銃声、手榴弾の炸裂音と閃光、もっとさかのぼって、人びとがまだ革命に信頼をよせていた十二月における、バルセロナの朝の冷たく澄んだ光と、営庭にひびいていた靴音、食糧品を買う行列、赤と黒の旗、スペイン人義勇兵たちの顔、中でも義勇兵たちの顔とまざり合っているのだ――私が前線で知り合いになったが、今はどことも知れず散り散りになり、戦死したものもあれば、不具になったものもいる、投獄されているものもいる――大半は、まだ無事に元気でいることだろう。みんな、しあわせでいてくれよと祈りたい気持ちだ。どうか戦争に勝って、ドイツ人もロシア人もイタリア人も、外国人はみんな追っぱらえますように。この戦争では、私はほんとにつまらない役割を果たしただけだったが、それは、後にかずかずの思い出を残してくれた。そのほとんどはよくない思い出だ。だが、私は、あんな体験はしなければよかった、とは思わない。あのような悲惨な有様をちらとでも見たからといって――そして、どのような結末に終わろうと、スペイン戦争は、殺戮や肉体的苦痛は別としても、結局恐るべき災難であったということにつきるのだろうが――その結果が、必ずしも幻滅や冷笑《シニシズム》であるとはかぎらないのだ。
まことに奇妙なことだが、あのような体験のすべてが、私の人間の品位に対する信頼の念を、弱めるどころか、いっそう強めてくれたのだった。そして、私は、自分の書いてきたこの記録が、あまりはなはだしい誤解を招かなければよいがと願っている。このような問題については、だれしも百パーセントの真実は言わないし、また言えない。自分自身の目で見たこと以外は、何事によらず正確を期すのはむずかしく、意識するしないにかかわらず、だれでも党派よりの目で見て書くのだ。このことは、前のどこかでもうことわっておいたようにも思うが、もしまだなら、あらためてことわっておきたい、どうか、私の片よった立場、事実上の誤認、事件の一角だけしか見なかったために必然的に起こる歪曲《わいきょく》などに、くれぐれもご用心いただきたい、と。また、スペイン戦争のこの時期を取り扱ったほかの本をお読みになる場合にも、まったく同じ用心をしていただきたいのだ。
実際には何もできることはなかったのだが、何かをしなければいけないような気がして、われわれは予定より早めにバニュールを発った。一マイル一マイルと北上するにつれて、フランスの緑は濃さと柔かさをましていった。山や葡萄園は遠ざかり、牧草地や楡《にれ》の木が近づいてきた。スペインへおもむく途中通り過ぎたとき、パリは衰頽して陰気な感じだった。生活費が安く、ヒトラーのヒの字も聞かなかった、私の知っている八年前のパリとはまるっきりちがっていた。私のよく行った喫茶店《カフェー》のうち半分は、客がなくなったために店を閉めていたし、だれもかれもが生活費の高騰と戦争の恐怖に取りつかれていた。ところが、今、貧しいスペインから帰って来てみると、そのパリでさえ、はなやかで繁栄しているように見えた。そして、博覧会も今やたけなわだった。もっとも、私たちはどうにか見物しないですませたけれども。
そして、それからイギリス――イギリスの南部地方、それは、たぶん世界じゅうでいちばんすっきりとととのった風景であろう。とりわけ、汽船連絡列車のビロードのクッションに腰かけ、のんびりと船酔いを治しながら通っていくと、どこかで、ほんとに何かが起こっているのだとは、とても信じられない。日本の地震も、中国の飢饉も、メキシコの革命も、いったいほんとに起こっているのだろうか? なあに、心配するなよ、あすの朝になれば、戸口の上り段のところに牛乳が届いているだろうし、金曜日になれば、「ニュー・ステイツマン」誌が出るだろう。工業都市は遠く離れていて、煤煙も貧困も、地球の表面の湾曲によって隠されている。ここいらは、まだ、私が子供のころから知っているイギリスのままだ。野の花に埋まっている鉄道の切り通し、大きなぴかぴかした馬が、考えごとでもするようにゆっくりと草を食《は》んでいる深い牧草地、柳の木にふちどられた土手をゆっくりと流れていく小川、青々とした楡《にれ》の木の内ぶところ、農家の庭に咲いているヒエンソウ、それから、ロンドン郊外のだだっ広くてのどかな荒野、泥沼のような河に浮かぶはしけ、見なれた大通り、クリケットの試合と王室の結婚式を知らせるポスター、山高帽の紳士、トラファルガー広場の鳩、赤いバス、青服の警官――すべてのものが、深い深いイギリスの眠りの中にいるのだ。爆弾の炸裂にでもたたき起こされないかぎり、ぜったいに目がさめないのではないかしら、と、ときどき私は心配になってくる。
(完)
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解説
一 ジョージ・オーウェルについて
生い立ち
ジョージ・オーウェル(本名エリック・アーサー・ブレア)は、一九〇三年六月二十五日、インドのベンガル州モティハリで生まれた。父はリチャード・ウォームズリー・ブレアといい、スコットランド系イギリス人で、インド行政府のアヘン局次長をつとめていた。父方の祖父はインド陸軍に勤務し、後に英国国教会の牧師になった人である。母のアイダ・メーベル・リームーザンは父より十八歳年下で、ビルマでチーク材商をやり、後に稲作農場の経営者となった人の娘で、イギリス人とフランス人との双方の血を引いていた。エリックは父の四十五歳のときの子で、それぞれ五つちがいの姉と妹がひとりずつあった。つまり、彼は第二子ということになる。エリックが四歳のとき、一家は父だけを任地に残して帰国し、ボート・レースで有名なテムズ河畔の小都市ヘンリーにいったん居を構えたが、やがてロンドンに落着いた。一九二一年、彼が八歳のとき、父も退職して帰国した。彼の生い立ちの記ともいうべき『喜びはいかばかり』(Such, Such Were the Joys)によると、幼いころの彼は、母親にすら自分がほんとうに思っていることを打ち明けられないような、ごく内気で神経質な子供だったようである。
学校時代
八歳のとき、イングランド南東部、イーストボーンの近くにある、上流社会の子弟を収容する、全寮制の予備校セント・シプリアン校へあげられた。これは、パブリック・スクールの名門校のひとつ、ハロー校への進学準備学校だった。上流階級の出でもない彼(彼自身の位置づけによると、彼の属する階級は「上層中流階級の下の方」であった)が、このようないわばお門ちがいの貴族学校に入れられたのは、息子だけは何とかして上流社会へ頭を出させてやりたいという親の悲願と、見込みのある素質のよい子供は、たとえ中流以下の子弟でも入学させて大いに特訓をやり、有名パブリック・スクールの奨学生試験に合格させることによって、学校の名誉をあげようという予備校側の思惑とが合致した結果であった。
しかし、こうした身分不相応な学校へ、それも変則的な形で入学したことは、彼に苦悩と屈辱を与え、彼の心に根強い劣等感を植えつけた。この劣等感が、後に、彼の前半生を支配することになるイギリスの階級制度に対する反感、社会の底辺にうごめく虐げられた人びとへの同情、イギリス帝国主義の植民地支配に対する告発などへと転化していくのである。なお、先にあげた半自叙伝『喜びはいかばかり』は、六年間にわたるこのセント・シプリアン校におけるみじめな日常生活の詳細な体験記録である。その日常生活は、彼にとって決して楽しいものではなかったが、学業成績は極めて優秀であった。それは、イートン校とウェリントン校との両方の奨学生試験に合格していることからもわかる。ただイートン校の方は試験成績があまり芳しくなかったらしく、順番がまわってくれば入学させるという条件だったので、一九一七年の春学期だけはウェリントン校に在学し、それからイートンに移った。
パブリック・スクール中の名門校イートンには、一九一七年(十四歳)から一九二一年(十八歳)まで在学した。イートン校は数多いパブリック・スクールの中でも、最高の特権・富裕階級の子弟の集まる、もっとも貴族的な学校だったから、そこでの生活は、彼にとって、かつての予備校時代よりもっとみじめな屈辱と劣等感の毎日だった。後になってイートン時代を振り返って、「在学中、わたしはちっとも勉強しなかったし、身につけたことも殆どないから、イートン校がわたしの生涯にあまり大した形成力を及ぼしたとは思わない」とまで極言している。しかし、イートンで自由と独立の生活を享受し、友だちもかなり作り、自分の好きな読書にもふけっているし、何より、その後終生抱きつづけていく、民衆中心の自由主義的な社会主義思想の洗礼を受けたのが、まさしくこのイートン在学中だったことを思うと、「あまり大した形成力を及ぼしたとは思わない」という彼の回想は、額面通り受け取るわけにはいかない。ついでながら、もっとも貴族主義的なイートン校で社会主義思想の洗礼を受けた、というのは、ちょっと奇妙な気がするが、当時はロシア革命の直後で革命讃美が一世を風靡《ふうび》し、イートンの生徒たちの間にさえレーニンを現代の英雄視するものが多かったというから、もともとこの方面に敏感だった彼が、その風潮に影響されたのはふしぎではない。
ビルマの警察官となる
一九二一年に彼はイートン校を卒業した。次は、オックスフォードかケンブリッジへ進学するのが順当なエリート・コースだった。そして、これまでの彼の学業成績から考えてみれば、おそらくどちらかの大学の奨学生試験に合格するだけの実力を持っていたことであろう。ところが、彼はここで大学進学を断念してしまった。大学進学を諦めた理由については、家庭にその経済的な余裕がなかったからである、とか、信頼する教官から海外で就職したらどうか、という忠告を受けたからである、とか、彼の進学をめぐって両親の意見の対立があり、ことに父親が大学進学を許さなかったからである、とか、いろいろ取り沙汰されているが、いずれも推測の域を出ない。そして、彼は「インド官吏」になる道を選んだ。
「インド官吏」といっても、いわゆるエリート・コースは大学(オックスフォードかケンブリッジの)の学位が必要だったので、それに次ぐ地位と身分の与えられる「インド警察」に入る道を選んだのだった。そして、当時はインド帝国の一部だったビルマを勤務地に選んだ。ビルマを選んだ理由について、彼は、女性の友人で大詩人テニスンの甥の娘に当るフリニウィード・テニスン・ジェシィに宛てた手紙の中で、「私の家は、三代にわたってビルマとつながりがあるのです。私の祖母は四十年間もビルマに住んでいました」と述べている。そして、一九二二年十一月二十七日、ラングーンで勤務についた。十九歳だった。それから一九二七年までの五年間、ビルマ暮らしをした。
この五年間の経験は、彼のその後の精神的発達に大きな影響を与えた。もともと劣等感や被害者意識につきまとわれている者が支配者や権力者の地位についた場合、被支配者や被圧迫者を、異常な残酷さをもって抑圧・迫害することによって、自らの劣等感や被害者意識を発散・解消するというケースが多いが、彼の場合はその逆で、帝国主義支配の手先ともいうべき植民地警官という職についたため、人間による人間の差別・支配・弾圧・迫害のいとわしさをいよいよ痛感させられる結果となり、彼の心の中に、帝国主義的植民地支配に対する烈しい嫌悪の念と、自分が虐げてきた植民地の現住民に対する呵責の念がかもし出された。これらの気持は次第に高じ、しまいにはたえがたい罪悪感となって彼の良心をさいなむようになった。それで、一九二七年、健康上のこともあって休暇をとって帰国し、ビルマ警官をやめた。そのときの心境について、彼は、後に社会探訪ルポ『ウィガン波止場への道』の中で、次のように告白している。「一九二七年に休暇で帰国したとき、勤めをやめようという肚《はら》はもう半ば決まりかけていたが、イギリスの空気をひと息吸ったとたんに、完全に決まった。あのあくどい独裁制の先棒かつぎにもどるのは、もうまっぴらごめんだ、という気持だった。しかし、わたしの気持は、ただ勤めをやめたらそれでいい、というものではなかった。今まで五年間、弾圧機構の一部をつとめて来たわたしは、そのために良心の呵責をも感じていたのだ。忘れることのできない大ぜいの人たちの顔――被告席に立った囚人の顔、死刑囚監房で処刑を待っている死刑囚の顔、わたしが怒鳴りつけた部下たちの顔、木で鼻をくくったようにあしらって来た老いた農民たちの顔、怒りにまかせて拳固で撲りつけた召使いや苦力《クーリー》たちの顔(東洋へくると、大ぜいの人が、少なくとも時々こんな真似をする。それというのも、東洋人という連中をあしらうのは、まことに気骨が折れるからだが)――がわたしにつきまとい、どうにも我慢ができなかった。わたしは、自分が償いをしなければならない罪の重さを意識していた。そんな言い方は大げさだ、とお考えになるかもしれないが、ためしに、全然自分の意にそぐわない勤めを五年間もおやりになってみられたらよい。きっと私の気持がわかっていただけると思う」と。さらに言葉を続け、「帝国主義から脱け出すだけでは充分ではないので、ありとあらゆる形式の人間による人間の支配からも脱け出さなければならない、という気がした。わたしは自分の身を落とし、虐げられている人たちの中へじかに入りこんでそのひとりとなり、その人たちの味方となって、虐げている連中と闘いたいと思った」と言っている。
なお、一九三四年にニューヨークから出した『ビルマの日々』は、彼のビルマ警官時代の体験をもとにした小説であり、『象を射つ』や『絞首刑』もそのころの体験記である。
パリ・ロンドン(どん底生活)時代
警官をやめた彼は、「身を落とし、虐げられている人たちの中へじかに入りこんでそのひとりとなる」ためにパリへ行き、わざと貧窮した人びとにまじって浮浪者のような生活を始めた。彼がパリへ行った理由については、いろいろな説があるが、どれも後からの推測であって確かなことはわからない。ただ、彼自身は、当時の心境を「自分がとうとう底の底まで落ちぶれてしまったのだ、と自覚するとほっとする。いや、ほとんど愉快な気持にさえなってくる。だれでも、落ちぶれる、落ちぶれるとふだん口癖のように言う。ところが、今こんなぐあいに確かに落ちぶれてみると、別段どうということはないものだ。あれやこれやの心配なんかけし飛んでしまう」と述べている。しかし、オーウェルのこの「底の底まで落ちぶれてしまった」と称する生活に対しては、必ずしも異論がないわけではなく、「オーウェルは、ヘミングウェイのいわゆる、|ラテン地区《カルチエ・ラタン》〔パリのセーヌ川南岸の地域で、大学・各種専門学校・研究機関などがあり、学生や芸術家が多く集まる〕のうちで最上の地区――最上というのは、もっとも典型的という意味だが――に住んでいた。したがって、彼の取り上げている人びとというのが、ほとんど北アフリカ人とか、外国人労働者とか、移民とか、短期滞在者とかいった連中に限られていて、フランスにおけるふつうの産業|無産階級《プロレタリア》の代表といった人たちではない。この点は注意すべきだ」としている批評家もいる。ちなみに、『貧しいものの最期』は、このころの彼の生活の一端をえがいた体験記である。
パリでこうした生活を一年半ほど続けた後、彼は英国へもどった。そして、ケント州でホップ摘みに雇われたり、家庭教師をしたり、書店の店員をやったり、転々と職を変え、パリ時代とあまり変らない窮乏生活を続けた。一時さすらいの浮浪者の群れに加わって、地方を放浪してまわったこともある。しかし、こうした落着かない生活のかたわら、いろいろな新聞や雑誌、ことにイートン時代の友人、リチャード・リース卿とJ・M・マリーが主宰していた月刊誌『アデルフィ』に寄稿するようになった。一九三三年に刊行された彼の処女作『パリ・ロンドンどん底生活』は、そのころの彼の赤裸々な生活記録である。そしてこの作品の出版を機として、「ジョージ・オーウェル」というペン・ネームを使い始めた。『パリ・ロンドンどん底生活』は、売れ行きの方はあまり芳しくなかったが、批評家の間では高く評価され、好評を博した。先に述べた『ビルマの日々』を出した翌年の一九三五年には、当時勤めたことのある、ひどく給料の悪い私立学校の生活体験を述べた小説『牧師の娘』を、さらにまたその翌年には、書店の店員時代の生活をもとにした小説『葉蘭を風にそよがせよ』を、それぞれ世に送った。『パリ・ロンドンどん底生活』に続いて、『ビルマの日々』や『牧師の娘』が世に出たとき、当時小説家で批評家でもあったコンプトン・マッケンジーは、「リアリズムの作家のうちで、この五年間に、率直さと、力強さと、活力という点で、ジョージ・オーウェル氏の書いたこれらの三冊に匹敵する三冊を出したものはいない」と、彼を激賞した。しかし、批評家に賞められても、それはあまり金にならず、生活は相変らず苦しかった。一九三〇年から四〇年に至る十年間の文筆による収入を、彼は得意の計算で、平均して週三ポンド足らずと見積もっている。そして、この貧乏暮らしは、十一年後、『動物農場』がベストセラーになるまで続いた。
『ウィガン波止場への道』前後
やがて彼は次第に社会主義に傾き、社会主義作家として活発な活動を始めた。先にも述べたように、もともと彼の心の中には、ビルマ警官時代の生活の「罪ほろぼし」として、「虐げられている人たちの中へじかに入りこんでそのひとりとなり、その人たちの味方となって、虐げている連中と闘いたい」という気持が素地として横たわっていた。そこへ外部的誘因が今ひとつ加わった。その誘因とは、当時の世界情勢である。一九二九年十月二十四日のニューヨーク株式相場大暴落に端を発した大恐慌は、たちまち全世界に波及して日に日に深刻の度を加え、一九三二年には、世界の失業者総数はついに二千六百万人に達したともいわれた。当然のことながら、そのあおりを受けた英国でも、ひどい不況の嵐が吹き荒れて巷《ちまた》には失業者があふれ、一九三一年にはウェールズの炭坑で大規模なストライキが起こった。そして、資本主義体制の危機が声を大にして叫ばれ、インテリの中には社会主義に傾倒していくものも多く、またマルキシズムに引かれるものも少なくなかった。こうした情勢下にあって、オーウェルが社会主義に傾倒していったのは自然であった。
こうした時代的風潮を反映して、一九三六年五月、ヴィクター・ゴランツは「左翼図書クラブ」を創設した。このクラブは、「ファシズムに反対し、世界平和と、社会的・経済的秩序の改善という緊急な闘いを援助するために、この闘いに参加する決意をもったすべての人びとに、彼らの活動を大いに増大するような知識を提供する」というモットーのもとに作られ、月に二シリング六ペンスというごくわずかな会費で、クラブが選定した図書を毎月一冊ずつ会員に頒布することになっていた。選定委員は、創設者のゴランツのほかに、ハロルド・ラスキ〔英国の社会主義者。政治経済学者〕、ジョン・ストレイチー〔英国の政治家で経済理論家。オックスフォードに在学中より労働党に入党。アトリー内閣で航空省次官、食料相をつとめた〕といった顔ぶれで、一九三七年には会員数は三万八千人を超えていたといわれている。この「左翼図書クラブ」の創設に先立つ一九三五年の遅くに、オーウェルはゴランツから、不況下のイングランド北部の炭坑・工業地帯における失業者の実態について、ルポを書いてくれないか、という五〇〇ポンドの支度金付きの依頼を受けた。彼がこうした依頼を受けたのは、主宰者ゴランツがオーウェルの初期の作品を出版して彼と知り合いだったことにもよるが、何よりも『パリ・ロンドンどん底生活』が選定委員たちの目にとまり、ルポ作家としての彼の手腕が高く買われたためであろう。
当時の五〇〇ポンドといえば相当の金額で、結婚して一家を構えるのに充分な資金となるだけの額だった。それで、彼はすぐにこの依頼を引き受け、一九三六年一月、ロンドンを発ち、シェフィールド、マンチェスター、ウィガン等の北部工業都市を歴訪し、約二か月間、労働者の悲惨な生活の実態をつぶさに観察し、記録した。この探訪旅行の結晶が『ウィガン波止場への道』である。このルポの中で、彼はイギリスの労働組合の幹部や左翼インテリを痛烈に批判したが、その批判をめぐってゴランツらと衝突した。そして、この衝突によって、彼とゴランツの交友関係はもちろん消滅したが、その後もいろいろな問題をめぐってしこりを残すこととなった。なお、彼は北部工業都市の探訪から帰ったのち、六月に、アイリーン・オショネシーという女性と結婚した。彼女をよく知っているリースによると、亜麻色の髪をした「かわいくて聡明な女性」だったという。
スペイン内戦に参加する
さて、当時のヨーロッパの情勢を瞥見《べっけん》すれば、一九三〇年代の初頭から台頭し、国内を次第に戦争体制に改組しながら着々と実力を養っていた、ヒトラーを指導者とするナチス・ドイツと、ムッソリーニを首班とする独裁体制の確立したファシスト・イタリアはついに行動を開始し、ドイツは一九三六年三月、ロカルノ条約、ベルサイユ条約によって非武装地帯に指定されたラインラントに進駐し、イタリアはその前年の一九三五年十月には、エチオピア侵入を開始した。しかしながら、こうしたナチズム、ファシズムと自由主義諸国との対立がはっきりした形をとったのは、一九三六年七月十八日に始まったスペイン内戦であった。二年八か月以上も荒れ狂ったこの内戦によって、ヨーロッパの政治情勢は大きく動き、第二次世界大戦の勃発は、今や時間の問題であることを、人びとは認識するに至った。その意味において、この内戦は、すべてのヨーロッパの知識人たちに、明確な態度決定と行動を迫るものであった。自由主義諸国の知識人や労働者たちは、自由と文化を守り、「文明世界の良心」の担い手として、スペイン共和政府を支持するため、続々とスペインに赴いて義勇軍に加わり、ナチス・ドイツやファシスト・イタリアの強力な援助のもとに内乱を起こしたフランコ将軍を首班とするファシスト軍と戦った。イギリスだけでも四千人近い知識人や労働者が義勇軍に加わり、共産党系の「国際旅団」に加わった二千名のうち、五百名近くが戦死し、五百名が重傷を負ったと言われている。戦死した人びとの中には、幾多の前途有為な詩人や批評家がいる。このように多くの労働者や知識人が身を挺して戦ったのは、ひとつには、彼らがこの内戦を、ファシズム対スペイン人民の戦いと受けとめ、スペイン人民の勝敗は、ただちに明日の自分たちの運命にかかわってくるという危機意識を強くもっていたことの表われであり、またひとつには、共和政府側を支持する方にまわるべきはずの自由主義諸国、ことにイギリス、フランスの政府当局が、微妙な国内・国際情勢を考慮し、スペイン不干渉協定を結んで、優柔不断な消極的政策に終始したことに対する民間レベルの反発と、焦燥と、憤満の表われでもあった、といわれている。
オーウェルがスペインへ行ったのは一九三六年の暮れであったが、はじめから銃をとる決意で行ったのではなかった。出版社のセッカー社の後援のもとに、内戦の実情を報道する目的でバルセロナへ赴いたのだった。当時は、スペイン共和政府の内情も、人民戦線をめぐるいろいろな政治的党派の対立も、その背後関係も、一般にはさっぱり知られていなかった。オーウェルは、自ら現地に行って、自分の目で実態を確認し、その真実を発表しようとしたのだった。ところが、バルセロナに着き、緊迫した革命的気分の横溢した現場にとび込んだとたん、その雰囲気にすっかり感激し、何が何でも行動しなくては、というせっぱつまった気持に襲われ、進んで義勇軍に参加したのだった。ことに、オーウェルがバルセロナ入りをした当時は、七月における軍首脳部の反乱を街頭で打ち破った「自発的革命」が現実に生きており、労働者義勇軍や、労働者の工場管理や、労働者の支配がまだ続いているころだったので、それがいっそう彼の革命への情熱をかき立てる結果となった。その時の心境について、彼は「何か新聞記事でも書こうか、というつもりでスペインへやってきた私だったが、着くとほとんど同時に義勇軍に加わった。それというのも、あのころのあのような雰囲気のもとでは、ほかの行動はちょっと考えられない気がしたからだ」と告白している。
ただ、ここで見逃してはならないことがひとつある。それは、彼がたいていの外国人のように共産党配下の国際義勇軍「国際旅団」には加わらないで、|POUM《ポウム》(統一マルキスト労働党)と呼ばれる、アナーキスト系の比較的小さなグループに加わったことである。彼が、スペイン共和政府支持陣営の主流派ともいうべき共産党とは別のルートでスペイン入りをし、義勇軍についても、やはり主流派ではないPOUM義勇軍に加わったことは、極めて大きな意義をもっている。仮に彼が、共産党のルートを通じて「国際旅団」に加わっていたとして、それでもなお、共産党の陰謀や、欺瞞や、弾圧の実態を、果たしてあれほど痛烈に体験し、摘出することができたであろうか。このとき反主流派的POUM軍に所属せざるを得なかったからこそ、当時のスターリン主義的共産党の本性を目《ま》のあたり眺め、いや、膚でじかに感じとり、それに対する幻滅と批判と反発を、終生抱きつづけることができたのではなかろうか。このスターリニズムに対する批判と反発とが、後に彼の最大傑作『動物農場』と、長篇『一九八四年』とを生む大きな動機となったことを思えば、彼のPOUM義勇軍参加は、偶然であったとはいえ、その後の彼の人生を決定した一大転機といっても過言ではあるまい。
彼は、POUM義勇軍の中に、各人が一個の人間としての自己に責任をもって行動し、誰からも強制も束縛もされず、みんなが対等の立場に立って生活する、階級のない理想的な社会が実現されているのを見て、すっかり感動した。そして、これこそ「階級のない社会の生きたモデル」であると確信したのだった。そして、社会主義はすばらしいものである、と実感するに至った。現に一九三七年六月八日のシリル・コノリーに宛てた手紙の中で、「私は、これまで一度も信頼を寄せたことのない社会主義に、とうとう本当に信頼を寄せるようになりました」と書いている。
しかし、やがて反ファシズム人民戦線の内部に勢力争いが起こり、各派の対立・相剋は日を追って激化したが、とりわけ、ソビエト共産党に支持される共産主義者たちのあくどい謀略や虚偽《デマ》宣伝は、実際目にあまるものがあった。ことに、彼が休暇をとってバルセロナで暮らしていたとき、共産主義者たちが、共和政府の主導権を握ろうとして、卑劣にも、虚偽の宣伝工作から暗殺に至るまで、ありとあらゆる奸計をめぐらし、隠謀をほしいままにして暗躍するのをはっきりと見たのだった。これは明らかに裏切りであり、共和政府側の戦力を弱め、ファシスト派の勝利に大きく貢献する利敵行為だった。やがて、スターリン主義者たちによって、POUMの組織に対する弾圧が始まり、事務所は接収され、指導者たちは次々に逮捕され、あるいは投獄されたり、あるいは粛正されたりした。トロツキストの烙印《らくいん》を押されたオーウェル自身も危うく逮捕されかけたが、かろうじてフランスへ逃れたのだった。このスペイン内戦における、それこそ文字通り、生命をかけた貴重な戦争体験を、世人に知らせようという意図で一九三八年に出版したのが『カタロニア讃歌』であるが、これについては、改めて述べる。
ついでながら、オーウェルが帰国してから後のスペイン内戦の推移について一言する。POUM等のアナーキスト系の諸派が粛正され、POUMに好意的なラルゴ・カバリェロ首相が辞職し、共産党の支持を受けたファン・ネグリンが首相となり、共産党が共和政府の指導権を握ったが、政府の力は著しく弱まった。そして、政府軍は、勢いに乗るフランコ軍に対して各地で敗北を重ねた。共和政府側の重要拠点は次々にフランコ側の手に落ち、一九三七年十月、共和政府はバレンシアからバルセロナへ移転した。圧倒的に優勢なファシスト軍に対する一大反撃によって戦局の打開を計ろうとして、共和政府は、一九三八年七月、エブロ河渡河作戦を敢行したが、四か月にわたる善戦も空しく、結局は失敗に終り、十一月、政府軍はエブロ河を敗退した。やがて翌一九三九年一月、優勢なファシスト軍は、連日の空襲を加えた後、バルセロナを攻撃し、ほとんど抵抗を受けることなくこれを占領した。同年二月、アサーニャ大統領は辞任してフランスに亡命し、イギリスとフランス両国はフランコ政権を正式に承認した。ネグリン首相は、最後まで戦うことを考えていたが、共産党を好まない共和国軍将校の間で反政府クーデターが起こり、ネグリン首相はフランスへ亡命した。三月二十八日、そのクーデターの指導者、マドリード国防委員会司令官カサード大佐がフランコ側に無条件降伏し、マドリードは陥落した。二日後には、バレンシアもフランコ側の手に落ちた。そして、二年半以上も続いたスペイン内戦は、ここに終りをつげた。フランコは、内戦の終了を全ヨーロッパに向けて放送した。四月、ローマ法王は、フランコに対し「カトリックの勝利」という祝電を送り、アメリカ合衆国もまたフランコ政権を承認した。この内戦によって失われた生命は、六〇万とも八〇万とも、また一〇○万をいわれている。
さて、オーウェルは、帰国後、ロンドンの都会生活を避け、ハーフォード州のウォーリングフォードに引っこんでささやかな田舎店を開き、その片手間に野菜園の手入れをしたり、養鶏をしたり、山羊を飼ったりした。この時期に、スペインで受けた負傷やそのときの過労がもとで、もとから悪かった肺結核がいっそう悪化したため、ひと冬モロッロへ避寒に出かけたことがある。一九三九年に、小説『空気を吸いに』を世に送ったが、これは、売れ行きという点では、いくらか成功をおさめた最初の作品で、版も重ねた。これは、のん気な英国民に対して、戦争がさし迫っているぞ、と警告を与える意味があったのだった。
第二次世界大戦時代
第二次世界大戦が勃発すると、彼は陸軍に入隊しようとしたが、健康上の理由で入隊できなかったため、国防市民軍《ホーム・ガード》に志願して軍曹になった。国防市民軍というのは、現役兵となって戦場へ赴くことのできない人たちで編成された半ば素人《しろうと》的な軍隊組織で、もしドイツ軍の英本土上陸が実際に行なわれた場合には、祖国防衛の任に当ることになっていた。やがて、一九四一年の秋ごろ、英国放送協会《BBC》の勤務員となり、マレイ向け放送を担当した。この勤めは張り合いはあったが、あまりにも多忙で、創作の暇などとても得られなかったので、一九四三年十一月に、BBCをやめ、労働党支持の週刊誌『トリビューン』の文芸部長となった。彼が一九三九年以降、文筆活動の余暇を与えられたのは、それが初めてだった。それで、さっそく腰を据えて、いよいよ『動物農場』の執筆にとりかかった。そして、翌年の一九四四年二月に完成した。これは傑作ではあったが、その手きびしいソビエト批判の故に、四つもの出版社から刊行を断わられる始末だった。しかし、翌一九四五年八月、奇《く》しくも、日本が無条件降伏した日の二日後に日の目を見た。そして、イギリスでもアメリカでも大好評を博し、特にアメリカでは「ブック・オブ・ザ・マンス・クラブ」の推薦図書に指定され、多くの国々において翻訳された。
さて、話は少しもどるが、一九四五年初頭に彼は『トリビューン』をやめた。戦時ジャーナリストとしての激務のため、過労で健康を損ねる恐れがあったからだった。そして、『オブザーバー』の通信員として、第二次世界大戦の最終的作戦の行なわれていたヨーロッパへ渡り、フランス、ドイツ、オーストリアを歴訪し、六月にはナチス・ドイツの崩壊を目のあたり見た。
一方、彼の家庭生活も悲劇的な混乱に陥っていた。二月には妻のアイリーンが、ちょっとした手術の後が悪化し、養子にしたばかりのリチャードを残して彼の留守中に死亡した。彼は、友人に、妻が死んだのは、長らく配給を辞退してやって来ていたので、恐らく体力が消耗していたせいだったのだろう、といったという。
戦後
帰国後、オーウェルは、彼の名を一躍有名にした小説『一九八四年』の構想をねり始めた。しかし、戦時中からの無理がたたって、かねてから患っていた結核が重くなったので、一九四六年の春、妹を家政婦がわりに頼んで、スコットランド西海岸の沖合いにあるジュラ島の「バーンヒル」農場へ引っこみ、ひたすら執筆を続けた。ところが、この島は結核患者の保養にはふさわしくない土地だったので、『一九八四年』が半ば出来上がった一九四七年の暮れ、病状が著しく悪化したため、一時グラスゴーの近くの病院へ入院した。一九四九年には、医者の指示に従って、いったんもっと南のグロスター州のストラウド近くの療養所《サナトリウム》へ移ったが、友人たちの忠告に従って、まもなくロンドンのユニバシティ・カレッジ病院へ移った。その間、なみなみならぬ努力を払って『一九八四年』を完成した。『一九八四年』を完成した後、彼の容態は奇蹟的に快方に向かい、健康状態もかなり回復した。やがて彼は、一九四九年十月、入院中にソニア・ブラウネルと再婚した。彼女は『ホライズン』誌の編集助手として、彼のエッセイの出版に関係したこともある、数年前からの友人であった。結婚後三か月たった一九五〇年一月には、飛行機旅行ができるほど体力が回復していたので、スイスのある療養所《サナトリウム》へ静養に出かけようとした。ところが、族行の計画を立てるほんの二、三日前の一九五〇年一月二十三日(一説によれば二十一日)、ユニバシティ・カレッジ病院で大喀血の後、数分間で急死した。まだ四十七歳の若さであった。スペイン内戦のとき受けた咽喉の負傷も、その急死の原因のひとつだったといわれている。遺言により、田舎のある教会の墓地に葬られた。
オーウェルの死後、E・M・フォスター、バートランド・ラッセル等がそれぞれ追悼の辞を書いた。いろいろな点でつながりのあったアーサー・ケストラーは、彼を、「二大戦の間における社会主義的な反抗の作家たちのうちで、ただひとりの天才的作家」と呼んで賞讃した。また、V・S・プリチェットは、『ニュー・ステーツマン』誌上で、「ジョージ・オーウェルは、一九三〇年代に時代を先取りして自己主張の声をあげていた政治的信念の叫びに耳をかした、冷やかな時代の良心であった。彼はある種の聖者であり、その役柄として、政治においてはどうも敵よりむしろ味方の側を激しく非難したようである」と述べている。ちなみに、オーウェルを聖者視する考え方は、今も続いているようである。現に、彼に関する最近のBBCのテレビ実録《ドキュメンタリイ》の某プロデューサーが、「私はテレビに出てくるこの手の聖者的芸術家たちには、ほんとにうんざりしている――しかし、オーウェルは、偶然にも、そういった連中のほとんどだれよりも聖者に近いのだ」と評している。
最後にひと言、エッセイストとしてのオーウェルについて述べる。彼は「小説家というより、むしろ評論家としての素質の持ち主」であった、といわれているほどで、第一級の評論家である。作品の数からいっても、小説より評論の方が圧倒的に多い。『獅子と一角獣』『英国、君の英国』、彼の死後刊行された『象を射つ』等、優れた評論集はずいぶん多い。彼は、先にあげた『ホライズン』誌や、『オブザーバー』誌、『トリビューン』誌などに死ぬまぎわまで寄稿していた。一九二〇年から一九五〇年に至るまでの、そうした彼の評論・寄稿文・書簡等のほとんど全部を網羅したのが、一九六八年、セッカー社から刊行された『ジョージ・オーウェル評論、新聞・雑誌寄稿文、書簡集』(The Collected Essays, Journalism and Letters of GEORGE ORWELL)全四巻で、総計二千ページを超える大部なものである。数ある英文学の作家のうちでも、これほど厩大な評論集を残している作家は珍らしい。
二 『カタロニア讃歌』について
先にも述べたように、一九三六年七月十八日に始まったスペイン内戦は、ナチス・ドイツとファシスト・イタリアとに対し、来るべき第二次世界大戦に備えて、かっこうの実戦訓練の場を提供した形となった。ことに、ベルサイユ条約を犯して、ひそかに航空機・戦車等の近代兵器の装備・拡充につとめ、一方、青年層に対しては、組織的な軍事訓練を授けて、来るべき日に備え、ひたすら優秀な戦闘要員の育成につとめてきたナチス・ドイツは、この内戦を、まさに願ってもない腕試しの場と見た。そして、そのような意図のもとに、ヒトラーは多数の近代兵器、ことに戦闘機や軍用車輌、それに兵員(コンドル軍団)などをスペインに送り込み、一部の大資本家・大地主・カトリック教会の支持のもとに、人民戦線政府に反抗して蜂起したフランコ将軍等のファシスト反乱軍に、国家的な規模の軍事援助を与えたのだった。もちろん、この軍事援助の背後には、そのような単なる軍事上の便宜のほかに、鉄鉱をはじめとするスペインの鉱物資源に対するドイツ側の打算が働いていたことはいうまでもない。
ところが、これに対して、イギリス、フランス等、いわゆる自由主義諸国の態度は極めて微妙であった。当時フランスでは人民戦線が政権を握り、レオン・ブルムが首相の座についていた。このブルム首相のもとへ、内乱勃発直後の一九三六年七月二十日、スペイン首相ホセ・ヒラールから航空機を含む武器援助を求める電報が舞い込んだ。ヒラールがブルムに援助を求めたのは、当時のフランスもやはり人民戦線が政権を握っており、思想的には共通していたので、そこに友好感情を抱いたのであろう、といわれている。ブルムはその援助を承諾し、約二十機の爆撃機を含む銃砲・弾薬の輸出を約束した。ところが、その直後、ロンドンにおいてブルムとイギリス首相スタンリー・ボールドウィンとの間で行われた英仏首脳会談の席で、ボールドウィンは、英国としては、スペインの内乱のどちらの側にも加担しない、という態度を表明したのだった。ブルムは、ヒラールのスペイン人民戦線政府はイギリスやフランスにも友好的だから、といって、スペイン人民戦線政府側を援助するよう極力説得したといわれている。しかし、保守的なボールドウィンは、その説得を聞かなかったのだった。いや、説得を聞く聞かないより、そもそもイギリスは、人民戦線のフランスそのものに不満だったのだといわれている。この会談の後、帰国したブルムは、大統領アルベール・ルブラン以下、右翼政党や上院議長、あるいはさらに右翼新聞等から、スペイン政府に対する軍事援助の問題を烈しく非難された。そのため急遽態度を変え、すでに準備した武器を除き、今後はスペイン政府の要請をいっさい拒否し、内乱に対しては干渉しないという態度を、閣議で決定せざるを得なかった。そして、それ以後は、ヨーロッパの各国に対して、スペイン内戦については、どちらの陣営にも加担しないという不干渉政策を、積極的に提唱するに至ったのだった。
また、イギリスが当初から不干渉の態度を打ち出していたことは前にも述べたが、この態度決定には、保守党内閣というその性格が大きく作用していた。スペイン共和政府側は、初めから、この内戦は共和国対ファシズムの戦いである、と主張していた。これに対して、フランコの反乱軍側は、右翼新聞やカトリック教会の力をも総動員して、この内戦は「共産主義者《アカ》」の魔手からスペインを解放するための戦いである、と宣伝していた。保守的なボールドウィン内閣は、このファシスト側の宣伝にのったのである。彼らにしてみれば、いずれの側が勝つのも好ましくはなかったが、人民戦線即ち共産主義者と見るならば、人民戦線側の勝つ方がよりいっそう好ましくないのははっきりしていた。ともかく、以上のようなわけで、フランスが率先して提唱し、イギリスがそれに同調した形をとって、ドイツ、イタリア、ソ連、ポルトガル等を含む二十七か国の間で不干渉委員会が成立した。そして、スペイン内戦にはいっさいの干渉を行なわない、武器・軍需品はいっさいスペインに輸出しないという不干渉協定が締結されたのだった。ドイツ、イタリアも表向きはいちおうこの不干渉協定を承諾したが、その実、裏面では、両国のフランコ側に対する軍事援助はますます規模が大きくなり、露骨になっていった。むしろ不干渉協定そのものが、ドイツ、イタリアのフランコ側援助を隠蔽する隠れみのとして利用された感があり、ソ連のごときは、両国の背信行為を非難し、この干渉行為が即時中止されない限り、ソ連としては協定を脱退せざるを得ないという強硬な声明を発表したくらいだった。
フランコの反乱軍側が、ドイツ、イタリアから計画的で大規模な軍事援助を受け、航空機・戦車・火砲等をはじめとして豊富な武器や軍需資材を供給されているのに反して、スペイン共和政府側は、相変らず「不干渉協定」という空文を固執しているフランス、イギリスから、全然といっていいほど援助を受けることができなかったため、もともと乏しかった共和政府軍の兵器・弾薬・軍需物資はたちまち底をついてきて、政府軍は次第に窮地に追いつめられていき、フランコ軍はついにスペイン全土の三分の二を制圧するに至り、スペイン共和政府の運命は今や風前の灯となった。このような、不可解というよりむしろ冷酷ともいうべき英仏両国政府の態度に憤激したのは、両国の共産党ならびに労働者、知識人たちであった。「イギリス、フランスは、共和制スペインがファシスト独裁者どもの犠牲になるのを、みすみす見殺しにしている」というハロルド・ラスキの言葉は、優柔不断な両国政府に対する痛烈な非難の声であった。彼らは、民主主義対ファシズムの戦いというこの内戦の本質を見抜いていた。そして、身をもってスペイン共和政府を助け、民主主義を擁護するために、陸続としてスペインの地へやって来たのだった。イギリスからは、オーウェルを始めとし、W・H・オーデン、スティーヴン・スペンダー、クリストファー・イシャウッド、アーサー・ケストラー、ジョン・ラングドン=デイヴィス等、アメリカからは、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョン・ドス・パソス、シオダー・ドライサー、ウォールター・リップマン、マルカム・カウリー等、フランスからは、アンドレ・マルロー、シモーヌ・ヴェイユ、ドイツからは、フランツ・ボルケナウ、ルートヴィッヒ・レン、グスタフ・レグラーがいる。また、ソ連からは、イリヤ・エレンブルグ、ミハイル・コリツォフ等、枚挙にいとまがない。このような時期において、不干渉協定がドイツ、イタリアの背信行為によって有名無実となっていることをはっきりと批判し、今後スペイン共和政府を全面的に援助する旨の声明を発表したのは、先にも述べたように、ソ連政府だけであった。ただ、ソ連からスペインに送られた援助物資その他の具体的な内容については、正確な評価が困難なようである。一九七三年版のソ連大百科事典によると、「ソ連は……スペインへ食糧や医薬品、さらには様々な武器を送ったりして、スペイン共和国にたいし、種々の支援を行なった。スペインでは、二千人以上のソビエト義勇兵、主として戦車兵と飛行士が戦った」ということになっている。一説によれば、スペインにいたソビエト義勇兵は、全部で五五七名であり、その多くは技術的な部門に働いていた、ということになっている。また一説によれば、ソ連将校、兵士九二〇名だったともいわれている。また、ソ連は、戦争の初期に、千三百万ルーブルを共和政府に渡し、ソ連国内労働者からの募金として四千七百三十九万ルーブルを集めた、ともいわれている。このような積極的な援助政策を打ち出したソ連の意図がどうであろうと、ヨーロッパ諸国より見捨てられた感のあったスペイン共和政府側にしてみれば、この援助は、まさに干天の慈雨にも比すべきものであった。ただ、ソ連が、内戦の勃発と同時に援助を始めないで、三か月近くたってから突如として援助を始めたのは、いかなる理由によるものだったのか、という疑問は残るが、この疑問は、今日、専門家の間でも謎のようである。
スターリンが、スペイン共和国に金の保有が充分にあることを確認した上で援助に踏み切ったのだ、という見方がある。また、ナチス・ドイツやファシスト・イタリアやフランコに、「ソ連が干渉している」という口実を与えないために、ドイツとイタリアの干渉が明白になるまで援助を引き延ばしたのだ、という説もある。さらにまた、当時ソ連とフランスとの間に相互援助条約があったので、ソ連はフランスとの関係の維持を重視していたのだ、という説もある。が、いずれも推測の域を出ず、確かなことはわからない。ともかく、この援助により、スペインにおけるソ連の評価は飛躍的に高まり、共産党員の数は急速に増加し、その発言力が著しく増大する結果となった。これ以後、政府内部や各政治組織に浸透したコミュニストたちを通じて、ソ連、特にスターリン主義者たちの意志が、外部からスペイン共和政府の政策の方向を大きく左右する圧力になっていったのだった。
『カタロニア讃歌』の中には、コミュニスト、とりわけスターリン主義者たちのスペイン共和政府に対する明らかな内政干渉や、共産党分子の暗躍・謀略や、共産党系ジャーナリズムの事実を歪曲した虚偽の記事のことなどが盛んに出てくるが、彼等のそのような行動は、今まで述べて来たような政治的背景と密接なつながりがあるのである。共産党系ではない「統一マルキスト労働党」(POUM)の旗じるしのもとで戦ったオーウェルの側から見れば、この戦いは、結果的には、ナチス・ドイツとファシスト・イタリアに支持されたフランコを首班とするファシスト勢力との闘いであったと同時に、スターリン主義者たちに支持され、ある時点から、はっきりと革命の弾圧と圧殺の方向に転じたコミュニストとの闘い(特に後半は)でもある二重の闘いだったわけだから、スペイン内戦におけるコミュニストの動きを無視するわけにはいかない。
オーウェルがスペイン内戦の勃発を知ったときは、まだ『ウィガン波止場』を執筆中だった。彼は、このルポを書き上げ次第、スペインに赴いてその実情を目で見、新聞に報道したい、と思い立ったのだった。「ジョージ・オーウェルについて」の項で引用したように、『カタロニア讃歌』の中では、彼は「何か新聞記事でも書くつもりでスペインへやって来たわたしだったが」というふうに、いかにも軽い気持でスペインへ行ったような書き方をしてはいるが、その実、場合によっては、義勇軍に参加することになるかもしれないというだけの覚悟はしていたようである。オーウェルは、スペインへ行くのに、はじめヴィクター・ゴランツをスポンサーに頼むつもりだったようである。ところが、「ジョージ・オーウェルについて」のところでもちょっと触れたように、『ウィガン波止場への道』の出版をめぐって、ゴランツと大衝突をしたのがたたって、彼に断わられてしまったため、当時出版者として一本立ちしたばかりの新人フレデリック・ウォーバーグに話を持ちかけ、前渡金として一五〇ポンドを受け取った。そのほか、スペイン行きの金を作るため、彼は祖先伝来の銀のナイフやフォークを質に入れなければならなかったという。
ところが、前にも述べたように、出発直前になって、左翼団体のどれかの紹介状がないとスペインに入国できないのを知ったのだった。そこで、彼はイギリス共産党にそれを求めようと思い、ジョン・ストレイチーに連れられて共産党書記長ハリー・ポリットのもとを訪ねた。しかしポリットは、オーウェルにいろいろ質問してみて、どうも彼の思想が共産党と合わないところがあると判断したらしく、紹介状を書いてくれなかった。その上、アナーキストのテロ行為も起こっていることだし、としきりに彼のスペイン行きを止めようとした。しかし、オーウェルの決心が固いのを知ると、パリのスペイン大使館へ申し込みなさい、そうすれば通行証がもらえるから、と教えてくれた。
彼は、教えられた通りその手続きをとり、同時に独立労働党《ILP》の知人にも電話してみた。ところが、この方は好意的で、早速同党代表としてバルセロナにいたジョン・マックネア宛ての紹介状を書いてくれたのだった。このようないきさつから、もともと白紙の立場でスペイン行きを考えていたオーウェルも、必然的に独立労働党の兄弟党ともいうべき統一マルキスト労働党《POUM》に接近する結果となり、義勇軍に入隊するときも、ほかの部隊へは入隊せず、POUMの義勇兵部隊に入隊したのだった。共産党が彼を忌避した理由については、彼の思想が共産党と合わないところがあるからだろうというふうに述べたが、それは当時の彼の思想を考え合わせてみれば、容易にうなずけることである。その彼の思想の一端は、例えば『カタロニア讃歌』の中で、POUM義勇軍について述べている次のような一節からもうかがえよう。「その組織集団(POUM義勇軍)の本質的な特徴は、将校と兵士との間が社会的に平等である、ということだった。上は将軍から下は一兵卒に至るまで、すべてのものが全く同一の給与を受け、全く同じ食事をとり、全く同じ服を着け、全く対等なつき合いをした。もし師団長の肩をたたいて、おい煙草を一本くれよ、といっても、別にどうということはなかったし、変てこだと思うものなど、ひとりもいやしなかった」
彼は、このように各自が自分に責任をもって行動し、だれからも強制も束縛もされず、みんなが対等の立場に立って生活する、階級のない社会を、ひとつの理想的な社会と考え、POUM義勇軍をそのモデルに見立てたのだった。だが、ここで、われわれはひとつの疑問にぶつかる。それは、オーウェルの理想的と見るような社会が、果たして現実に存在しうるのだろうか、という疑問である。こう言えば、しかし現実に「POUM義勇軍」という形で存在しえたではないか、という彼からの反問が返ってくるかもしれないが、それは、あくまでも、人びとの心が異常に高揚し、強烈な緊張状態にある革命期に、一時的に見られる過渡期的現象にすぎないのであって、もしオーウェルがこの現象をもって理想社会の永久的なモデルと見たとすれば、彼の主張する社会主義は意外に素朴で単純で、よく言えばロマンチックな、悪く言えば、全く観念的で甘い文学青年の夢にすぎないものと考えないわけにはいかない。例えば、彼が『ウィガン波止場への道』で指摘したと言われる、労働組合における、幹部の一般組合員からの浮き上がりについても同じことが言えるようである。社会主義であれ何であれ、それがひとつの純然たる理論に止まっている間ならいざ知らず、具体化されて一個の現実的な社会組織となった場合、その構成員全員があらゆる面において、何らの拘束も受けず、完全に自由で平等であるということが、いったいあり得るだろうか。当然、その一方に指導的立場に立つ、いわゆる幹部という小集団と、他方に、これに指導され、その意志によって動かされる一般構成員という大集団とが生まれる。この二元化は、理論というものが社会的実践の場に移されるとき、必然的に起こるひとつの宿命といえるかもしれない。そして、この二元化した二つの集団が互いに遊離して、断絶が起こらないように、二つの集団の間を調整し、融和するために、いろいろな対策が考えられている。幹部を、構成員全員の意志によって決定するというのも、そのひとつである。また、幹部がその地位に定着してしまって、一般構成員より遊離してしまうことのないように、その任期を限って、人事の交流をひんぱんにはかるというのもまた、そのひとつの防止策であろう。しかし、こうした防止策にもかかわらず、現実の問題として、組織集団が次第に定着し、安定化して、マンネリ化していくにつれて、少数幹部集団の、一般構成員よりの乖離《かいり》、端的にいえば、幹部集団の浮き上がりや権力化が必ず起こってくる。これは、イギリスであろうと日本であろうと、また労働組合であろうともっと任意的な集団であろうと、いや、世界じゅうどのような組織であろうと、およそ社会的組織と名のつくものには、必ずといっていいほど見られる現象である。むしろ、それは、組織というものに内在する必然悪とすらいえるかもしれないのだ。この問題について、当時のオーウェルは果たして明確な認識をもっていたのだろうか。先に挙げた『カタロニア讃歌』の引用などから推測する限りでは、どうもあまりはっきりした認識をもっていなかったように感じられるのだが、どうだろう。後の傑作『動物農場』や、最終作『一九八四年』などでは、まるで見ちがえるように、この問題の核心を鋭くつき、実に見事な分析をみせていることを思い合わせると、少なからず興味がある。ともかく、上からの統制とか、束縛とか、組織化を、できるだけ認めまいとしたPOUM義勇軍は、どちらかといえば無政府主義《アナーキズム》に通ずるものだが、それが当時彼のいだいていた、いわゆる社会主義思想の最高の具現化ということになれば、ある種の管理社会を志向する共産主義と思想的に相容れないのは、むしろ当然であろう。
ところで、『カタロニア讃歌』の核心をなすものは何であろうか。それは、内戦中の内戦といわれる、スペイン内戦中の一九三七年五月三日に起こった、CNT系の労働者の管理しているバルセロナ電話局の強制接収をめぐるCNT=POUM労働者と治安警備隊の武力衝突と、それがエスカレートして、労働者たちによる反政府市街戦へと拡大していった事件である。事件そのもののてんまつは、オーウェルが本文中に詳しく述べているので、ここでは触れないが、この武力衝突事件の真相は、この種の事件の多くがそうであるように、今でも正確なところはわからない。フランコの手先による挑発行為という説もあれば、もっと単純な感情的なものが動機だったとする説もある。しかし、この事件の真相の究明はともかく、何よりオーウェルを憤激させたのは、事件そのものよりも、この事件を契機として起こった共産主義者たちの、政敵、とりわけPOUM等のアナーキストを粛正するために行使した、フランス革命当時の恐怖政治を思わせるような、陰険で、組織的で、大規模な残酷きわまる弾圧の手口であった。そして、彼の憤激をいやが上にも高めたのは、その粛正や弾圧が、軍事援助を交換条件として介入してきたスターリン主義者たちや、彼らに威嚇されてその意のままに動かされる人民戦線政府や、彼らの手先となって働く国際共産主義分子《コミンテルン》によって、スペイン自身の利益のためでも何でもなく、|ソ連の国家的利益のために《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ロシア本国におけるスターリン粛正の二番煎じとして行なわれた、という事実であった。
それと、今ひとつ、彼にとって何ともやりきれなかったのは、このバルセロナ電話局事件をめぐって、共産党系の新聞はもとより、いわゆるブルジョワ新聞までもが行なった、事実を故意に隠蔽し、あるいは歪曲し、事実無根の事柄を捏造するといった虚偽にみちた卑劣な報道、つまり、「ジャーナリズムの欺瞞性」だった。この「ジャーナリズムの欺瞞性」によって彼が受けた衝撃がいかに重大なものだったかは、それが、後の『動物農場』や『一九八四年』を書く動機になっていることからもうかがわれる。特に『一九八四年』において、真実の隠蔽、歪曲、改竄《かいざん》、抹殺などによる言論統制と、それによる人心操作の恐怖がテーマになっているのは興味深い。
ただ、ここで注意しておかなければならないのは、彼がなにもイデオロギーの対立ゆえに共産主義者を僧んだのではない、ということと、戦線で共に戦っている一般の共産主義者たちに対して、友情を感じこそすれ、決して敵意を抱いたわけではない、ということである。彼らの具体的な政策については、彼はむしろ尊重し、戦争を勝利に導くためには、共産主義者たちの現実的な政策しかない、として、彼らの見解を高く評価していたのだった。それは、例えば、このルポの中で「当時私が共産主義者の見解は、POUMのそれよりましだ、と考えた理由は簡単である。彼らは明確で実際的な政策を打ち出しており、それは、数か月先しか見ない常識的見地からすれば、明らかにすぐれた政策であった。……そして、大事なことはただひとつ、戦争に勝っことであった」とはっきり述べていることからもうかがわれる。さらにまた、彼はPOUMに属しているとはいえ、何から何まで全面的にPOUMに心酔し、これに盲従していたわけではなかった。POUMのみならずアナーキストの路線に対しても、彼は彼なりにいろいろの批判をもっていたのである。POUMの判断の誤りを衝いた共産主義者たちの批判でも、それが正鵠《せいこく》を得たものならば、すなおに耳をかすだけの柔軟さと謙虚さをも彼は持ち合わせていた。繰り返すようだが、その批判が次第にエスカレートして、というより、むしろ、スターリン主義者たちの陰険な謀略によって歪められて、POUMは「フランコとヒトラーに金で雇われた、変装したファシストの一味」というふうな悪質な宣伝にまで高ずると、彼としても黙っていられなくなるのだった。彼にしてみれば、現実にファシスト軍と戦って、あやうく命拾いをしたほどの重傷を負った自分や、前線で、いろいろな不自由や苦労をたえしのび、命がけでファシスト軍と戦っている幾千のほかのPOUM義勇兵たちは、いったいどうなのだ、とつい開き直りたくもなるのであろう。
そこまでくれば、それは、もうイデオロギーの対立などという段階をとび越えて、人間の本性にかかわる問題となってくる。何としても、そのようなでっち上げの悪らつなデマ宣伝だけは許せない、という彼の気持はよくわかるような気がする。共産党側のPOUMに対する誹謗・中傷はなぜか極めて執拗で、当時スペインから帰った知識人の中で、イギリスで講演するとき、共産党から、必ずPOUMの「裏切り」を話の中に入れてくれ、と注文をつけられて嫌気がさし、「転向」を決意した人もあった、というエピソードもある。
また、先にも述べたが、彼は、戦線に出て黙々としてファシスト軍と戦っている一般の共産党義勇兵たちに対しては、親しみこそ感じたが、何の憎しみも敵意も感じたわけではなかった。意見の対立をめぐって、共産党義勇兵と率直に討論し合ったり、助け合ったり、戦場でお互いに交歓したりしている記事は、『カタロニア讃歌』の中でも随所に見られ、バルセロナ事件の後でさえ、戦場に赴く共産党義勇軍の兵士たちとお互いの健闘を祈り合って別れるという場面《シーン》が見られるのである。これは、彼の僧悪や反発の対象となったのは、あくまでも、悪らつな謀略や恐喝を事とするスターリン主義者たちと、その手下となって暗躍した国際共産主義分子《コミンテルン》、及び欺瞞宣伝をおこなったりそれに協力したりする悪質なジャーナリズムであったことを如実に物語っている。この点は、誤解のないようにくれぐれも注意しなければならない。
しかしながら、このバルセロナ事件にまつわる苦い経験は、彼の心に一大衝撃を与え、ソ連という国に対する、疑惑と、根強い不信感と、絶望とをうえつけたのだった。当時のヨーロッパの進歩派インテリの間には、ソ連に対する漠然とした期待感めいたものが瀰漫《びまん》していた。この期待感は、ヨーロッパの一般の国々の政府が人民とは全く別個のもので、これと相対立するものであるが、ソ連は人民の建てた国であり、ソ連政府こそ人民を代表する政府であるとする、何とはなしの希望的観測の上に成り立っていた。はっきりと自覚するにせよしないにせよ、左翼的インテリのひとりとして、オーウェル自身も、そのような期待感については、恐らく例外ではなかったにちがいない。現に、一九三七年までは、世界の対立を右翼対左翼の対立と見なし、自らは左翼に信頼を寄せ、これを支持しているし、前にも述べた通り、内戦勃発に際してスペインに赴くときも、何のためらいもなくイギリス共産党に紹介を求めようとしているからである(イギリス共産党当局が、彼を異端視して紹介を断わったことはすでに述べた)。ところが、スペインにおけるスターリン主義者や国際共産主義分子《コミンテルン》の裏切り行為は、オーウェル自身の期待を見事に「裏切り」、皮肉にも、好ましい国と見ていたソ連が、何と、体質的には彼が敵視し憎悪してやまぬナチス・ドイツやファシスト・イタリアに近い国であることを暴露し、その実態をいやというほど見せつけてくれたのだ。
なまじ初めに期待めいたものがあったために、それが破られたときの幻滅の悲哀と憤りが、異常と思われるほどに強烈で深いものになったことは想像に難くない。そして、スペインから帰った後、彼は一時、世界の現状に対する完全な絶望に似た状態に沈んでいたが、やがて、このスペイン内戦を転機として彼の思想は大きく転換し、これ以後、彼は、世界の対立関係を、民主主義諸国対左右全体主義諸国と見るようになっていったのである。端的にいえば、ソ連を、性格的に、イギリス、フランスの系列ではなく、ナチス・ドイツやファシスト・イタリアの系列の国と見るようになったのである。ソ連をナチス・ドイツやファシスト・イタリア系列の国と見るのは、今日では全く自明の事柄で、あえて異とするに足りないが、彼の場合、今から四十年も前の一九三七年という時点に、それも単なる観念としてではなく、自らの生命の危険をおかし、貴重な体験として自分の膚でこの事実を学びとったというところに、大きな意義があるのである。
そして、この体験を契機として、彼のイギリス観も必然的にひとつの転換をする。それは祖国イギリスに対する再評価である。彼の愛国主義的転向といってもよいかもしれない。そのきざしが、『カタロニア讃歌』の終りの部分にみられる。
彼は述べている、「そして、それからイギリス――イギリスの南部地方、それは恐らく世界じゅうで、いちばんこぢんまりと整った景色であろう。そのように時を過ごしていると、とりわけ、汽船連絡列車のビロードのクッションに腰かけ、心静かに船酔いの治るのを待ちながら旅を続けていると、どこかで、ほんとに何かが起こっているとは、とうてい信じられない。日本の地震も、中国の飢饉も、メキシコの革命も、ほんとに起こっているのだろうか。なあに、心配するなよ、あすの朝になれば、戸口の上り段のところに牛乳が届いているだろうし、金曜日には『ニュー・ステイツマン』誌が出るだろう。工業都市は遠く離れていて、煤煙も貧困も地球表面の湾曲によって隠されている。ここいらは、まだ、私が子供のころから知っているイギリスのままだ。野の花で埋まっている鉄道の切り通し、大きなぴかぴかした馬が考えごとでもするように、草を食んでいる深い牧草地、柳の木にふちどられた川べりをゆっくりと流れていく小川、青々とした楡《にれ》の木の内ふところ、農家の庭に咲いているヒエンソウ、それから、ロンドン郊外のだだっ広くてのどかな荒野、泥沼のような河に浮かぶはしけ、見なれた大通り、クリケットの試合と王室の結婚式を知らせるポスター、山高帽の紳士、トラファルガー広場の鳩、赤バス、青服の警官――すべてのものが、深い深いイギリスの眠りの中にいるのだ。爆弾の炸裂にでもたたき起こされない限り、ぜったいに目がさめないのではないかしら、と時々私は心配になってくる」
擾乱《じょうらん》のスペインにおける辛い経験の後、心身共に傷ついてイギリス本国に上陸し、車窓から、のどかで平和なその田園風景を眺めたとき、彼の心の中に、改めてしみじみと祖国イギリスに対する深い愛情が芽生えかけたのだった。それは、浅薄で熱狂的な愛国心ではなく、外国で幾多の辛惨をなめ、つぶさに苦い体験をへた後、初めて体得する沈潜した祖国愛であった。そして、これ以後、この祖国愛が彼の思想的発展の底流となり、同時に、その発展に決定的なひとつの方向づけを与えたのだった。この底流は、彼にとって、ひとつの精神的な安定の基盤となった。そして、『動物農場』にせよ、『一九八四年』にせよ、彼のソビエト批判はこの基盤の上に展開されていく。この基盤は、決して表面に現われず、あくまでも作者の意識下に潜んでいて、直接には読む者の目には見えないものである。それは、『動物農場』や『一九八四年』という建築を、下からがっちりと支えている確固たる地中の土台といえるかもしれない。『動物農場』にしても『一九八四年』にしても、その痛烈な左翼批判の背後に、何か安定したゆるぎない作者の信念めいたものが感じられるのは、それらが、作者の沈潜した祖国愛という堅固な基礎工事をしっかりと踏まえているからである。そこには、いささかの迷いも、ためらいも感じられないのだ。オーウェルの、この祖国愛への転向を暗示しているという点に、われわれは『カタロニア讃歌』の今ひとつの意義を見出すのである。ただ、オーウェルの場合、批判の姿勢で貫かれている時期の『カタロニア讃歌』より、むしろ、愛国主義的転向を遂げた後の、その基盤の上に立った『動物農場』などの方が批判の文学としてよりすぐれているのは、どういうわけだろうか。一方が純然たる体験の記録であるのに対して、他方が、文学的により洗錬された寓話形式にまで高められているからであろうか。あるいは、批判すべき体制そのものの中に生きている場合より、いったんその体制を離れ、つき放した立場から眺める場合の方が、より客観的に観察でき、より的確にその本質をつかむことができる、ということであろうか。
「ジョージ・オーウェルについて」でもちょっと触れたように、『カタロニア讃歌』は刊行当時、売れ行きという点では甚だ不振、出版したフレデリック・ウォーバーグは、その自叙伝の中で、『カタロニア讃歌』は「一九三八年四月に刊行されたとき、政治という『池』に、ほとんどさざ波ひとつ立てなかった。黙殺されるか、あるいは失敗作として非難されるかのいずれかだった」と述懐している。初版千五百部のうち、売れたのはわずか九百部、彼の死後数か月たって、やっと前渡金の元がとれるという有様だったという。この売れ行き不振は、作品そのもののせいより、むしろ、当時オーウェルと、彼を取りまく左翼インテリとの間にあった感情的な軋轢《あつれき》のせいではなかったかと思われる。先にも述べた通り、『ウィガン波止場への道』の刊行をめぐって、出版者のゴランツとオーウェルとの間に、すでに意見の衝突があった。ところが、ゴランツ等が非難してやまぬこの『ウィガン』についても、みながみなゴランツ一派のような見方をしていたわけではなく、例えば、フィリップ・トインビー〔イギリスの小説家。歴史家トインビーの子。オックスフォード在学中、熱心な共産党員だったが、後に脱党、労働党反共派となった〕などは、一九五九年八月号の『エンカウンター』誌上で、「『ウィガン波止場への道』は、共産党員ならびにそのシンパからはかなり酷評を浴びせられたが、大多数の人びとからは熱狂的に迎えられたのだった」と、むしろ好意的な評価を与えているからである。スペイン戦争の報道記事の掲載をめぐっても、ゴランツと烈しい意見の衝突があり、『カタロニア讃歌』の原稿に至っては、ゴランツは読みもしないで突っ返したのだった。そして、それが『セッカー』社から刊行された後も、当時労働党左派を代表していた週刊誌『ニュー・ステイツマン』の紙上で、V・S・プリチェットによって、こっぴどくやっつけられた。プリチェットや、同誌の編集長キングズリー・マーティンから見ると、ありのままの真実を追究しようとするオーウェルの態度は、「ひねくれている」というのだった。このように、彼が当時の有力な左翼的インテリ・グループと正面衝突し、彼等の心証を悪くしてその反感を買ったことが、この作品の売れ行きを悪くする決定的な原因ではなかったのだろうか。
しかし、最近では、むしろ「問題の書」として極めて高い評価が与えられている。それは、ひとつには、最近になってスペイン内戦そのものが識者の間で新たな関心を呼び、二十世紀前半の世界史における、この内戦の現代的な意義が問い直され、それに関連して『カタロニア讃歌』のもつルポ的な意義が再認識されだした、ということでもある。つまり、スペイン内戦が、反動勢力に対する人民の戦いの先駆をなすものとして受け止められ、イデオロギーの方向こそちがうが、その図式が、例えば一九五六年十月におけるハンガリー動乱の際、侵入して来たソ連軍の戦車群に対して、身を挺してこれを阻止したブタペスト市民たちの抵抗や、近くは、アメリカの武力侵略に対して、驚嘆すべき勇気をもってこれを阻止し、粉砕したベトナム人民たちの抵抗などに、そっくりそのまま重ね合わせることができる、ということなのだ。ともかく、イギリス、アメリカにおいても、もちろん『カタロニア讃歌』は刊行を続けられており、ペンギン双書などにも、『動物農場』や『一九八四年』などと共に収録されている。邦訳も、少なくとも二種類は刊行されている。『カタロニア讃歌』がよく引き合いに出されるのは、文学作品としてよりも、スペイン内戦関係の参考文献の場合が多いが、特に、今なお謎の多い「バルセロナ電話局事件」及びその周辺の刻明な客観的記録としては、ほとんど唯一の信頼すべきものと見られているようである。とても、「黙殺されるか、失敗作として非難される」どころの話ではない。その高い評価も、ひとえに、オーウェルのあくまで真実を追究しようとする「ひねくれた」態度によるものである、ということになると、三十数年を隔てて、全く正反対の評価が与えられることになるというのも、これも歴史の皮肉と達観すべきなのだろうか。
オーウェル、ならびにスペイン内戦関係の参考書は少なくないが、特に次のものには教えられるところが多かった。書名を挙げて感謝の意を表する。
(1)オーウェル関係
John Atkins : George Orwell: A Literay and Biographical Study (Frederick Ungar Publishing Co., N.Y. 1965)
Tom Hopkinson: George Orwell (Longmans, Green & Co. Ltd. 1965)
Sonia Orwell and Ian Angus (ed. by): The Collected Essays, Journalism and Letters of George Orwell (Secker & Warburg. 1968) 4 vols.
Robert A Lee: Orwell's Fiction (University of Notre Dame Press. London. 1969)
Keith Allderitt: The Making of George Orwell (Edward Arnold. 1969)
Raymond Williams: George Orwell [Modern Masters Series] (The Viking Press, Inc. 1971)
Miriam Gross (ed. by): The World of George Orwell (Weidenfeld and Nicolson. 1971)
『オーウェル』T・ホプキンスン著、平野敬一訳(研究社刊、一九五六年)
『G・オーウェル』小野協一著(研究社刊、一九七一年)
(2)スペイン内戦関係
Gabriel Jackson: A Concise History of the Spanish Civil War (Thams & Hudson. 1974)
『スペイン戦争』斉藤孝著(中公新書、一九六六年)
『わが心のスペイン』五木寛之著(角川文庫、一九七三年)
(3)邦訳
『カタロニア讃歌』山内明、鈴木隆共訳(現代思潮社刊、一九六六年)
『カタロニア讃歌』橋口稔訳(筑摩書房刊、一九七〇年)
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あとがき
『動物農場』が角川文庫で出版されてから二年になるが、その間、わが国におけるオーウェル熱はいよいよ高まっているようだ。現代社会の管理社会化の問題や、マス・メディアの駆使による人心操作の問題などが取り上げられるときには、ほとんど必ずオーウェルが、殊に『一九八四年』や『動物農場』が、引き合いに出されているし、『動物農場』に至っては、最近の漫画ブームの波に乗って、『漫画版』すら出まわっているそうである。だが、何といっても彼がいちばん問題にされるのは、最近とみに世間の関心を引くようになったスペイン内戦関係の本の中においてである。
しかし、どうもオーウェルの最大の魅力は、今述べたようないろいろな現代的な問題や、スペイン内戦との関連よりも、むしろ、もっと個人的な側面、つまり、必ずしも首尾一貫しているとは言えない複雑な性格とか、微妙な感情の起伏とか、思い切った大胆な言動そのものの中にあるような気がしてならない。ある批評家は、オーウェルは、(一)英本国や大英帝国における社会的不公平に対して憤る善良なパブリック・スクールの生徒エリック、(二)革命主義的国際的社会主義者、(三)ヒレア・ベロックやラドヤード・キップリング張りの超愛国主義者、(四)反ソ宣伝家、といった四つの政治的性格をもっており、それが、反共主義者で右寄りの作家、例えばキングズリー・エイミス等や、明らかに左寄りの作家ノーマン・メイラー等の、思想的には全く相対立する双方から親近性を感じられるゆえんである、と評している。そして、その四つの性格を、オーウェルの生涯とそれぞれ段階的に対応するものと見、その各段階を代表する作品をあげている。
それによれば、第一段階、つまり「英本国や大英帝国における社会的不公平に対して憤る善良なパブリック・スクールの生徒エリック」の性格を代表する作品は、『ビルマの日々』『葉蘭を風にそよがせよ』『ウィガン波止場への道』である。第二段階、つまり「革命主義的国際的社会主義者」の性格を代表する作品は『カタロニア讃歌』であり、以下第三段階、第四段階と続き、第四段階を代表するのが『動物農場』や『一九八四年』ということになるわけである。
しかし、彼の作品から見てもわかるように、その「保守的」傾向や「愛国的」指向は、何も生涯のある時期から突如として湧いたものではなくて、あまり目立たないが、彼の性格中に本来的に内在していたのではないのだろうか、という気がするのである。そして、それは、時期を問わず彼のいろいろな作品のちょっとしたはしばしに、はっきり認められるのだ。例えば、『ビルマの日々』や、『象を射つ』の初めに出てくる現地人に対する感情的な嫌悪、『貧しいものの最期』に出てくる、フランス看護婦やスペイン看護婦と比較した場合のイギリス看護婦のすばらしさに対する賞讃など、いずれも、そのはっきりした例ではないだろうか。先にあげた『カタロニア讃歌』の終りに見られるイギリス礼讃も、もちろん、その好個の例である。「愛国的」指向というものが、もっともはっきりと現われるのは戦争のときだが、オーウェルの場合もご多聞にもれず、第二次世界大戦中の一九四一年八月、ある雑誌の中で「同志スターリン、健闘を祈ります」と声援を送っているところがある。当時ソビエトは英国にとっては盟邦であり、この盟邦が健闘してくれることは、ずいぶん英国のためになるわけだから、愛国的見地から盟邦の首相に声援を送るのだ、という彼の気持は、まんざらわからないでもないが、それにしても『カタロニア讃歌』における、スターリン及びその一派に対するあの痛切で真摯な怒り、また、その後の『動物農場』に見られる、ソビエト体制に対する辛辣な風刺と手きびしい批判と、まるで手を反《かえ》したような、この「同志スターリン、健闘を祈ります」とを並べてみると、これらはいったい、どうつながるのかな、とくびをかしげたくもなってくるが、「行動」に生きるのを売り物にしようとすると、言動の末端に至るまで、いちいちきっちりとつじつまを合わせるわけにはいかないので、いきおい、こういうふうになるのだ、とここは善意に考えるべきところなのかもしれない。
それはともかくとして、われわれをとらえて放さぬオーウェルの大きな魅力の一端は、その極めて左寄りの主流の中にあって、時折ちらりちらりとその片鱗を見せる、保守主義の「逆流」から生まれてくると見てまちがいあるまい。有名なオーウェル批評家のひとりレイモンド・ウィリアムズは、「オーウェルは大家とか予言者として扱うべき人物ではない。混乱し分裂した人物として取り扱い、読む場合に、注意深く吟味すべきである」と評している。至言であると思う。
最後に、この訳書の刊行に際していろいろとお世話になった、角川書店編集部の毛利定晴氏、市田富喜子氏に、厚く御礼申し上げる。
一九七五年二月 (訳者)