若草物語
オールコット/恩地三保子訳
目 次
第一章 天国遍路
第二章 メリー・クリスマス
第三章 ローレンス家の男の子
第四章 重荷
第五章 近所づきあい
第六章 ベスの「美の宮殿」発見
第七章 エイミーの「屈辱《くつじょく》の谷」
第八章 ジョオ「|底なし穴の魔王《アポリオン》」に逢う
第九章 メグ≪虚栄の市≫へ行く
第十章 P・CとP・O
第十一章 実験
第十二章 ローレンス陣地
第十三章 空に描いた城
第十四章 秘密
第十五章 電報
第十六章 手紙
第十七章 誠実なるもの
第十八章 暗い日々
第十九章 エイミーの遺言状
第二十章 内緒話
第二十一章 ローリーわるさをしジョオこれをとりなす
第二十二章 楽しきまきば
第二十三章 マーチ伯母のお手柄
解説
年譜
訳者あとがき
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行け、わが小《ち》さき書《ふみ》、行きて示せ
汝《な》が胸に収《おさ》めし秘事《ひめごと》のすべて
汝《な》を迎《むか》え称《たた》えん者みなに。
願え、汝《な》が示せしものの
善に生く術《すべ》とあがめられんを。
祈れ、また、良き遍路《へんろ》となり
われらを超えゆかんことを
また告げよ、「慈悲《じひ》」の名を
疾《と》くその遍路の道を行きし者と。
教えよ、若き乙女が胸に
神のみ国のみ栄《さか》えを。
聖なるみ跡《あと》を踏みゆけば
いと足弱き乙女子《おとめご》も
やがて至《いた》らん その果《は》てに
神のかんばせ仰《あお》ぐまで
――ジョーン・バニヤンより
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第一章 天国|遍路《へんろ》
「プレゼントぬきのクリスマスなんて、およそ考えられないな」炉端《ろばた》の敷物に寝そべったジョオは、不平たらたらの声で言った。
「貧乏《びんほう》って、ほんとにいやなものねえ」メグは、着古した服に目をやり、溜息《ためいき》をついた。
「すてきなものを、たくさん持っている女の子もいるのに、なんにもない子もあるなんて、あんまり不公平すぎるわ」まだ小さいエイミーまでが、いじめられっ子のようにクスクス鼻をならした。
「でも、あたしたちには、おとうさまとおかあさまと、それに、こんなにいいきょうだいがあってよ」いつもの場所から、ベスがおっとり口をいれた。
炉《ろ》の火を映《うつ》した四つの若々しい顔が、そのあかるいことばにぱっと一瞬《いっしゅん》輝いたのに、すぐまた暗くかげってしまった。ジョオが悲しいことを言ったからだ。
「おとうさまはいらっしゃらないわ。それも、これから先ながいこと」
ジョオは「たぶん、永久に」とは言わなかったが、みんなそれぞれ、遠い戦場の父親を思いながら、そっと胸につぶやいたのだった。
しばらく、みなだまりこくっていた。と、メグが、気分をかえるように、調子を変えて話しだした。
「みんな、わかってるわね、なぜおかあさまが、今年のクリスマスはプレゼントなしにしようとおっしゃったか。この冬は、何もかもたいへんで、みんなにとってつらい冬になりそうだからなのよ。それに、兵隊さんが戦地で苦労していらっしゃるのに、自分のたのしみにだけ、お金をつかってはいけないと思っておいでだからだわ。あたしたち、どうせ、たいしたことはできやしないけれど、ちいさな犠牲《ぎせい》をはらうくらいのことはできるし、喜んでそうするべきなのね。でも、ほんとのことを言うと、あたしにはそれができそうもないの」
メグは頭をふった。前からほしかった、きれいなものが、つぎつぎと目の前に浮かんで、まだあきらめきれないのだ。
「でも、あたしたちが使うくらいのお金なんか、たいしたことないと思うんだけどな。みんな一ドルずつもってるけど、それを献金《けんきん》したところで、軍の財政が助かるってわけじゃないもの。おかあさまやみんなからプレゼントをもらおうなんて思ってないけど、『オンディーヌとシントラム』[ドイツのフーケ(一七七七〜一八四三)の作品]だけは自分で買いたいんだ。ずっと前から、ほしくてたまらなかったんだもの」ジョオは本の虫なのだ。
「あたしは、自分のお金では楽譜《がくふ》を買うつもりだったのよ」ベスはそう言って溜息《ためいき》をついた。炉刷毛《ろばけ》と湯沸台《ゆわかしだい》にしかきこえないほどかすかではあったが。
「あたし、フェイバー印の色鉛筆買うんだわ。どうしても必要なんですもの、だって」エイミーまでが大決心をしている。
「おかあさまは、あたしたちのお金のことは、なんにもおっしゃらなかったし、まさか何もかもあきらめさせようと思っていらっしゃるわけじゃないでしょうよ。みんな、それぞれほしい物を買うことにしよう。すこしは気晴《きば》らしもしなけりゃ。われわれだってずいぶんいっしょうけんめい働いたんだもの」ジョオは、男の人のように足をかかえこんで靴の踵《かかと》のへり具合《ぐあい》を調べるふりなどして、こう叫んだ。
「そうよ、あたしは働いたわ、たしかに――。手に負えない子どもたちを、一日中教えなけりゃならないんですものね。家へすぐにもとんで帰って、あれもしたいこれもしたいと思いながらも」メグはまた不平がましい口調《くちょう》になる。
「それだって、あたしにくらべれば、まだまだ上等の部類」ジョオは言う。「考えてもみてよ、小うるさいいらいらしたばあさんとさし向かいで、何時間も家の中に閉じこめられて、ああでもないこうでもないで、コマネズミみたいに追いまわされて。いつでもやりきれなくなって、窓からとびだすか、思いっきりわめきたくなるんだから」
「こんな愚痴《ぐち》はこぼしたくないけれど、でも、台所のおかたづけや家の中の整頓《せいとん》なんて、世の中でいちばんいやな仕事だと思うんだわ。そのせいで、なんとなくいらいらしてくるし、指が荒れてこわばるもので、ピアノの練習もうまくいかないわ」ベスは荒れた手に目をおとし、こんどはみんなに聞こえるほどの吐息《といき》をついた。
「おねえさまたち、でも、あたしほどつらくはないとおもうわ」エイミーが声をあげた。「だって、いじわるっ子がいる学校へ行かないでいいんですもの。あの人たちったら、時間中には、勉強がわからないっていじわるするし、あたしの服をおかしがってはやすし、おとうさまがお金持ちでないとレッテルを貼ったり、鼻がすてきじゃないからってからかったりするのよ」
「そのレッテルを貼るって≪誹謗《ひぼう》する≫のおまちがいのようね。ピクルスの瓶じゃあるまいし、パパにレッテルなんか貼らないでよ」ジョオは笑いながら教えてやった。
「ちゃんとわかっててよ。そんなに≪ひくにる≫ものじゃないわ[皮肉る(satirical)と言うべきところを statirical と言い違えている]。上等なことばをつかって≪用語域≫を増すのは、たいへんいいことですわよ」エイミーは胸をそらしてやりかえした。
「さあさあ、ちびさんたち、突っつきっこはやめて。ねえ、ジョオ、あたしたちが子どものころ、パパがおなくしになったお金がいまあったらいいとおもわないこと? ああ! 心配ごとが何もなかったら、どんなに楽しくすばらしいでしょうね」暮らし向きのよかったころをおぼえているメグが言う。
「あら、この間、おねえさん言ったじゃないの――キング家の子どもたちよりあたしたちのほうがずっと幸せだって。あんなにお金があっても、あの人たちは喧嘩《けんか》ばかりしていて、始終《しじゅう》不平を言ってるって」
「そう、言ったわ、たしかに、ベス。まあそう言えばそうね。そりゃあ、あたしたち働かなけりゃならないけれど、それぞれ楽しいこともあるし、ジョオに言わせれば≪ちょいと愉快《ゆかい》なお仲間≫だから」
「ジョオねえさんて、いやだわ、下品なことばばっかりつかって」長々と寝そべっているジョオの姿を、エイミーは眉《まゆ》をしかめて見ながら、もっともらしく批判《ひはん》した。ジョオは、とたんにパッと立ちあがり、ポケットに両手をつっこんで、口笛《くちぶえ》を吹き始めた。
「やめてよ。まるで男の子みたい」
「それがねらいさ」
「乱暴で、レディーらしくないひと、あたし大きらいだわ」
「こっちは、こまっちゃくれの、おきどりむすめなんかごめんだ」
「ちいさな巣の中で
なかよしこよしの小鳥さん」
仲裁役《ちゅうさいやく》をいつも買ってでるベスが、おどけた顔をしてみせて歌いだすと、いがみあっていた二人もつい笑いだし、突っつきっこも今回はこれまでということになった。
「まったく、あなたたちったら、二人ともよくないのよ」メグは、例によって、ねえさんぶった説教口調になる。
「ジョセフィン、あなた、もう子どもじゃないんだから、男の子スタイルはいいげんにして、もっとおしとやかにしたらどうなの。そりゃあ、まだ小さい間は、誰も気にしなかったわよ、でも、そんなに背がのびて、髪だってあげてるんでしょ。もう一人前のレディーだってこと忘れちゃいけないわ」
「レディーなんて、ごめんだわ。髪をあげたらそうなるのなら、二十歳《はたち》になるまで三つ編みにしてぶらさげとくからいい」ジョオは、髪にかけたネットを手荒くはずすと、さっと頭をふって栗色の毛を肩にさばきちらした。
「いやでもいつかは大人《おとな》になって、ミス・マーチだなんて名乗って、裾をゾロゾロひいた服を着こんで、エゾギクみたいにすまし返ってなけりゃならないかと思うと、ほんとにぞっとしちゃう。だいたい、あたしは、男の子の遊びだの仕事だのしぐさだののほうがぴったりくるのに、女の子に生まれついたのが間違いなのよ。なぜ男に生まれてこなかったか、今までもくやしくてたまらなかったけど、今こそそれが残念|至極《しごく》ってとこよ。だって、男なら、戦地へ行って、パパといっしょに戦えるのに、こうして家の中にくすぶって、編物なんかしてなけりゃならないなんて、もうろく婆《ばあ》さんじゃあるまいし!」
ジョオは、軍隊用の紺色《こんいろ》の靴下をふりまわす。その勢いに編棒はカスタネットのように鳴り、はずみで毛糸の玉が向こうの壁までころがっていった。
「かわいそうに、ジョオねえさん。でも、こればかりはしかたがないわ。せめて名前を男の子みたいに呼んでもらって、あたしたちにおにいさんぶるくらいでがまんしてちょうだいな」
ベスは、自分の膝のそばにあったジョオのかたい髪をやさしくなでてやる。どんなに皿洗いが多かろうと、掃除に追われようと、ベスの指は、けっしてこのやさしさを失うことはないだろう。
「エイミー、あなたはね」メグのお説教はつづく。「口うるさすぎるし、しゃっちょこばりすぎてるわ。まだ年が小さいから、お上品ぶっても、ご愛嬌《あいきょう》ですむけれど、そろそろ気をつけないと、それこそ、鼻もちならないガチョウさんになりますよ。お行儀《ぎょうぎ》がよくて、ことばがいいのはまことにけっこうよ、ただし、妙にきどらない時のこと――あなたのつかう変てこな単語ったら、ジョオの俗語といい勝負だわ」
「ジョオがおてんばさんで、エイミーがガチョウさんだとすると、あたしはなにかしら」ベスは、自分も二人といっしょにお説教を聞く気なのだ。
「あなたは、いい子ちゃん、それだけ」メグはやさしく答えた。これにはあとの二人も異議なしだった。「コネズミちゃん」と綽名《あだな》されているベスは、家中のペットなのだ。
みなさん、もうきっと、登場人物がどんな様子をしているか、見たくてたまらなくおなりでしょう。ここで少々時間をさいて、四姉妹のかんたんなスケッチをお見せすることにします。外には十二月の雪が、音もなく降りしきっていますが、部屋の中には、炉《ろ》の火がパチパチ陽気にはぜ、四人は、夕ベのほのあかりの中で、しきりに編物の手を動かしています。この古びた部屋は、絨氈《じゅうたん》はだいぶ色あせ、家具などもごく質素ながら、あたたかい気分に満ちた、くつろぎの場です。壁には、それぞれ、いい画が一、二枚、造りつけの棚《たな》には本がぎっしり、クリスマスローズの紫と黄色の菊が窓べを飾り、家庭のやすらぎとでもいった雰囲気《ふんいき》が、すべてをゆったり包んでいました。
長女のマーガレットは十六歳です。色が白く、ふんわりとした肉づきの、柔らかな茶の髪もゆたかに、ぱっちりした瞳《ひとみ》、甘やかなくちもとの美しい娘で、ことに、その真白な手は、彼女自身、内心ご自慢《じまん》なのでした。
十五歳のジョオは、背がむやみに高く、やせっぽちで、肌は鳶《とび》色。なんだか、威勢のいい若駒《わかごま》を思いださせるような少女でした。それというのも、ジョオは、長すぎる手足が何をするにも邪魔《じゃま》っけでたまらぬというように、うまく持てあつかいかねて弱っているように見えるからです。一文字にひき結んだ唇《くちびる》、ちょっと反《そ》った鼻、そして、灰色の瞳は、何もかも見落とすまいというように鋭く、めまぐるしく表情が変わります。激しいかと思うと、ふっとおどけ、つぎには何か思いつめたように。長いたっぷりした髪は、たぶん唯一の取得《とりえ》なのに、これが邪魔っけとみえ、いつもネットの中にまるめこんでいます。猫背《ねこぜ》で、手足が大きく、いつも服が身につかず、それに、日増しに大人になっていく自分のからだつきが、なんとも気にくわぬという年ごろの女の子特有の、妙にぎこちない様子をしているのです。
エリザベス、もしくは、みんなの呼び名のベスは、バラ色の肌をした、絹のような髪の、瞳の美しい十三歳の少女で、はにかんだ物腰をし、物を言うのもひかえめで、めったなことでは乱されない、安らかな表情をしています。父親は、ベスを≪平安嬢≫と呼んでいましたが、その綽名《あだな》はじつにぴったりでした。彼女は、自分でつくりだした、幸《しあわ》せな世界に住み、自分が信頼でき、愛している、ごく少数の人たちに逢いにだけ、そこから出てくるような子なのです。
エイミーは、いちばん下ですが、なかなか重要な人物です――少なくとも自分の意見では。典型的な白雪姫タイプで、目はあおく、金髪が肩に波うち、血の気がうすくほっそりしていて、作法《さほう》にはずれまいとする年若なレディーよろしく、いつもひとりですましている子でした。
さて、この四人の姉妹の性格については、みなさん方ご自身、おいおい近づきになっていただくことにしましょう。
時計が六時を打った。炉《ろ》の火をかきたてて、ベスが、一|足《そく》の上履《うわばき》をそろえてあたためにかかった。この古びた上履は、姉妹の気分を一新する効果をあげたようだった。そろそろ母親が帰る時間なので、みんなの心がそわそわと浮きたってきたのだ。メグはお説教をやめ、ランプをつけ、エイミーは、今まで占領していた安楽椅子を、誰にも言われないのに立ち、ジョオも、疲れきっていたのを忘れ、床から起きあがって、上履がよくあたたまるように、火のそばに立てなおしたりした。
「ずいぶんぼろだな。ママ、新調するべきよ」
「あたし、自分の一ドルでお贈りするつもりだったのよ」とベス。
「あら、あたしが、よ」エイミーが大声をあげる。
「最年長はわたくしでございましてよ、だから」メグが言いだすと、すぐジョオが割りこみ、有無《うむ》を言わさぬ調子でまくしたてる。「パパがお留守中の今は、あたしがわが家の男性役よ。だから上履も、このあたしが買うわ。パパは、留守中ママのことはくれぐれも頼んだよ、っておっしゃったもの」
「ねえ、こうしましょうよ」とベス。「クリスマスには、みんなそれぞれ何かママにさしあげて、自分のためには何も買わないの」
「それでこそベスよ、すてき! で、何がいいかな?」ジョオが叫んだ。
四人が、真剣な顔つきで考えこむ。と、メグが、自分のきれいな手からヒントを得でもしたように発表した。「あたしは、すてきな手袋にするわ」
「軍隊用上履、これこそ最適よ」ジョオが叫ぶ。
「ハンカチにするわ、縁《ふち》かざりのついた」とベス。
「あたしは小瓶《こびん》のオーデコロンだわ。ママがお好きなものだし、お値段もたかくないから、あたしの鉛筆が買えるくらいのお金はあまるし」エイミーも参加した。
「どういうふうにしてあげたらいいかしら」メグはきいた。
「まず、プレゼントを全部テーブルに並べといて、ママをお連れして、ひとつずつ開けていただくのよ。ほら、みんな、お誕生日《たんじょうび》にそうしてたじゃないの」ジョオが答える。
「あたし、自分の番の時に、冠《かんむり》をかぶって大きな椅子《いす》にすわらされると、もうどきどきしてたわ。一列になってみんなが歩いてきて、一人一人プレゼントをくださって、喜びのキスをしてくれて。プレゼントもキスもうれしかったけど、プレゼントをあけるのをみんなにじっとみつめられると、息がつまりそうな思いをしたものだったわ」ベスは、お茶の用意のトーストを支度《したく》していたが、パンばかりか、自分の頬《ほお》まであぶってでもいるようだった。
「ママには、あたしたちが自分のものだけ買うように思わせといて、びっくりさせてあげよう。あしたの午後、買物に行かなきゃね、メグ。クリスマスの夜の劇の支度が、何やかやたくさんあるからね」ジョオは、手をうしろに組み、つんと顎《あご》をそらし、部屋の中を行ったり来たりしながら、もったいぶって言う。
「もう、こんなお芝居もこれが最後にしたいわ。そんな年令《とし》でもないし」こうもっともらしく言うメグも、時代衣裳芝居[時代衣装をつけてする芝居]となると、まるで子どものように夢中なのだ。
「あんなこと言ったって、やめられっこないくせに。髪を肩にたらして、真白な長着《ガウン》の裾《すそ》をひき、金紙《きんがみ》の首飾りなどをつけられる間はね。メグは、わが家《や》の花形女優だもの。メグが出なけりゃあ、すべておじゃんよ」ジョオはおだてた。「今夜、ちゃんと稽古《けいこ》をしとかなけりゃ。エイミー、ここへきて、例のシーンをやってごらん。あんたったら、火|掻《か》き棒みたいにつっぱってるんだから、あれじゃしょうがないな」
「そんなこといったって、しかたがないわ。人が卒倒《そっとう》するところなんか、あたし、見たこともないんだし、第一、おねえさんみたいにドタンと倒れたりしたら、からだ中あざだらけになるわよ。そんなのいやだわ。もしゆっくり倒れてもいいんなら、倒れてみせてもいいわ。それがだめなら、椅子にふらっと倒れこんどくわよ、おしとやかに。ヒューゴーにピストルつきつけられたって、あたし平気なんですもの」エイミーはやりかえす。彼女は演劇才能などというものはぜんぜんないのだが、この芝居の悪漢に、悲鳴をあげながらかつがれていくのに都合のいい大きさなので選ばれたまでのことだった。
「こうしてみなさい。まず、こういうふうに手を組んで、いまにも倒れそうによろめきながら部屋を横ぎるのよ、そして叫ぶんだな、≪ロデリゴ! たすけてェ! たすけてェ!≫」ジョオは、おおげさな悲鳴をあげながら、そのとおり実演してみせる。その声たるや、ぞっとするほど真にせまっていた。ところが、エイミーは、そのとおり真似《まね》したつもりなのが、腕は棒のようにつきだし、機械人形のようにガタピシ横ざまに動くのだった。その上、肝心《かんじん》の悲鳴たるや、針をさしでもしたようで、とても恐怖《きょうふ》と絶望にかられているとは思えなかった。ジョオは、やりきれないようにうめくし、メグは遠慮のない笑い声をあげ、ベスはおかしがって見物している間に、ついトーストをこがしてしまった。
「しょうがないな! まあ、その時になったらできるだけのことをすりゃあいいさ。もしお客が笑っても、あたしのせいじゃないってことだけおぼえてて。さ、つづけない、メグ」
それからあとは、すべてうまくいった。というのも、ジョオ扮《モん》するところのドン・ペドロが、二ページにわたる世をあざけるスピーチを、立板《たていた》に水とのべ、魔女のハガーは、ひき蛙《がえる》がぐつぐつ煮える鍋《なべ》[魔女が呪いをかける時に使う小道具]をのぞきこみながら、いまわしい呪文をとなえ、無気味な調子をもりあげた。ロデリゴは、雄々《おお》しく、いましめられていた鎖《くさり》をひきちぎり、ヒューゴーは、悔恨《かいこん》と苦悩と砒素《ひそ》の毒の真只中《まっただなか》で、「ハ、ハ、ハ!」と狂い笑いをのこして死んでいった。
「今までこんなによくできたことなかったわ」今死んだ悪漢がおきあがって肘《ひじ》をなでているのに、メグが賛辞をのべた。
「こんなにすばらしいものを書くだけでも大変なのに、それを自分で演じるなんて、ジョオ、あなたってシェイクスピアの再来よ」ベスは声をあげる。自分のきょうだいは、それぞれの道の天才だと信じこんでいるのだ。
「でもないわよ」さすがのジョオも謙遜《けんそん》になる。「そりゃあ、あたしの悲歌劇『魔女の呪い』は、そうわるくない作品にはちがいないけど。でも、『マクベス』[シェイクスピア作の四大悲劇の一つ]を一度やってみたいな、バンクォーの出に使う撥戸《はねど》[上部だけが蝶番《ちょうつがい》で固定された隠し戸]さえあればね。あの殺しの場、前からやってみたくてたまらないの。≪わが目《ま》のあたり見るは、短剣なりや……≫」ジョオは、前に見たことのある有名な悲劇役者もどきに、ぐっと目をむき、宙をつかんでみせた。
「おっと、それは焼串《やきぐし》なるぞよ。あらら、パンのかわりに、おかあさまの上履《うわばき》がひっかかってるわ。ベスったら、お芝居に中毒《あた》ったとみえるわね」メグが叫ぶと、みんなはドッと笑いだし、芝居の稽古《けいこ》はそれで終わりになった。
「まあ、みんな楽しそうだこと」戸口で朗《ほが》らかな声がした。役者も見物人もいっせいにふり向いた。おかあさまのお帰りだった。四人の母親は、背のたかい、見るからに母性的な女性で、何かお役に立てますかといった様子をした、見るからに感じのいいひとだった。身につけている物は上等な品ではなかったが、いかにも上品で、そのグレイのコートと流行おくれのボンネット[ふちなしで、ひものついた婦人帽]を着けた婦人は、この世でいちばんすてきな母親だと、娘たちは思っているのだった。
「ねえ、みんな、どうでした、きょうは? こちらは、とても忙しくてね、あした出さなければならない箱の荷造りがあったので、お昼食《ひる》に間に合うように帰れなくて。どなたかいらして、ベス? メグ、風邪《かぜ》はどう? ジョオ、ひどく疲れているようだけど。エイミー、ママにキスしてちょうだい」
母親らしく、こまごまと四人にたずねかけながら、彼女は、濡《ぬ》れたものをぬぎ、あたためられた上履《うわばき》をはき、安楽|椅子《いす》にすわると、エイミーを膝にひきよせ、忙しい一日の終わりの、いちばん幸福な一刻をたのしむ用意をした。娘たちも、母親が少しでもくつろぎやすいようにと、それぞれとびまわっていた。メグは、お茶のテーブルを整えるし、ジョオは薪《まき》を運んだり、椅子を並べたりした――生まれつきぶきっちょのせいで、手にさわるものすべて、落としたり、ひっくりかえしたり、ガチャガチャ音をたてたりしながらも。ベスは、静かに、手馴《てな》れたしぐさで、居間と台所の間を小走りに行きつもどりつしていた。エイミーはといえば、すわりこんだまま、手などを膝に組んで、みんなに命令をくだすだけだった。
四人がテーブルにつくのを待って、ミセス・マーチは、とびきり幸《しあわ》せそうな顔で言いだした。「お夕食のあとに、すてきなお楽しみがあってよ」
太陽の光の条《すじ》が流れるように、あかるい微笑がパッとみんなの顔を輝かせた。ビスケットを手にしていたのを忘れてベスは手をたたくし、ジョオはナプキンをほうりあげて叫ぶ。「お手紙だ! お手紙だ! おとうさまバンザアイ!」
「そうよ、長いいいお便りですよ。おとうさまはお元気で、わたしたちが心配するほどのこともなく、無事に寒い季節を越せそうだって。クリスマスを迎える祈りとお祝いのおことばと、あなたたちだけに特別のメッセージがあるわ」ミセス・マーチは、宝物が入ってでもいるように、ポケットをそっとたたいた。
「早く、さっさとすませなさい! エイミー、そんなきどった手つきなんかしてないで、早くたべちゃいなさいったら」ジョオは、紅茶にはむせるし、はずみで、バターのついたほうを下に、パンを絨氈《じゅうたん》に落としたりした。
ベスは、食べるのをやめて、静かに席をたち、片隅のいつもの自分の場所へ行くと、そのほの暗さの中で、期待に胸をおどらせながらも、じっとみんなの用意ができるのを待っていた。
「おとうさまは、ほんとにお偉《えら》いわ――もう年令的には出征することはできないし、一兵卒として志願なさるのには体力がないというので、牧師として従軍なさったんですもの」メグはあらためて胸がせまるように言った。
「ああ、鼓手《こしゅ》でも、ヴィヴァなんとかフランス語でいう女従軍商人、そんなのでもいいから、戦地へいきたい。看護婦《かんごふ》でもいいんだわ。とにかくパパのそばにいてお手伝いさえできりゃ」ジョオはくやしくてたまらないのだ。
「テントで寝たり、おいしくないものばかり食べたり、ブリキのコップで何か飲んだりなんて、さぞ気持ちがわるいでしょうね」エイミーもためいきをついた。
「いつお帰りになるの、ママ?」ベスの声は心なしかふるえていた。
「まだなかなかよ、ベス、ご病気にでもおなりになれば別だけど。おとうさまは、おからだのつづくかぎり、忠実におつとめを果たすつもりでいらっしゃるのだから、たとえ一刻でも、予定を早めて帰っていらっしゃることを願ったりしないことにしましょうね。さあ、みんな、お手紙を読みますよ」
四人は、安楽椅子の母親を囲んで、暖炉《だんろ》の前に集まった。ベスは彼女の膝《ひざ》もとに、メグとエイミーは左右の腕木に、ジョオは、万一、手紙の内容に胸がこみあげるようなことがあっても、誰にも涙をみられないですむようにと、椅子の背を前に立った。
こういう非常の時に、胸にせまらない手紙などというものは、ほとんど存在しないはずだった。ことに、戦地の父から家族にあてたものは。この手紙には、耐《た》えしのんでいる困苦だの、日夜さらされている危険、やっと押さえた家を恋う想いなどは何ひとつ書かれていなかった。それどころか、喜びにみち、希望にあふれ、野営のあけくれだの、進軍だのの描写や、戦地でのできごとだのを書いてあった。ただ、最後のところで、筆者も、さすがに父性愛と家に残した娘たち恋しさに胸がいっぱいになったとみえた。
――みんなにくれぐれもよろしく、そしてわたしからのキスをしておくれ。わたしが、昼にみんなを思い、夜にみんなのために祈っていることを告げておくれ。そして、いつもみんなの愛情を感じつつ、心の安らぎを得ていることを。あと一年もみんなに逢《あ》えないのは、なんとも待ちどおしい思いだが、こうして待つ間に、お互いにいっしょうけんめいその務めをはたすことによって、つらい月日をむだにすごさぬようにと、子どもたちに伝えてほしい。別れる時に言ってきかせたことは、よくおぼえているとは思う。みんな、いい娘であり、各自のつとめを忠実にやり、自分の胸に巣食うわるい虫と勇敢に闘い、けなげに己《おの》れに勝ち、やがてわたしが帰国する時には、四人とも、前にも増して愛すべき、りっぱな、≪小婦人《リトル・ウイメン》≫になっているように――
このくだりにくると、四人ともすすりあげ始めた。ジョオは、大粒の涙が鼻柱を転げおちるのを隠そうともしなかったし、エイミーも、大事なカールが乱れるのもかまわず、おかあさまの肩に顔をうずめて、しゃくりあげながら、とぎれとぎれに言うのだった。
「あたし、わるい子だわ。とってもわがままで。でも、いっしょうけんめいいい子になるわ。パパががっかりなさるようなことにならないように」
「みんな努力します」メグが声をあげた。「あたしはおしゃれにばかり気をつかって、働くのが嫌いでしたけど、これから心をあらためるわ」
「あたしも、おとうさまのお望みの≪小婦人《リトル・ウイメン》≫になるように努力しようっと。おてんばしたり、あらっぽいふるまいをしないで。そして、戦地へ行きたいなんて考えずに、ここで自分の務めをはたします」そう言いながらもジョオは、家でおとなしくしているよりは、南部で敵の一人や二人相手にするほうが楽なのではないかとひそかに思うのだった。
ベスは何も言わず、手にしていた編みかけの青い軍隊靴下で涙を拭くと、いちばん手近の自分に与えられた任務を、一刻も早く果たそうとばかり、夢中で編棒を動かし始めた。そして、そのやすらかな小さい胸に、やがて一年の月日がたち、父の帰る幸せの日がめぐってきた時、父が望むとおりの娘になっていようと、かたく決心するのだった。
ミセス・マーチが、ジョオのことばのあとにふと続いた沈黙を、ほがらかな声でやぶった。
「ねえ、みんながまだ小さかったころ、よく遊んだ『天路歴程』[イギリスの宗教家バニヤン(一六二八〜八八)の作。クリスチャンが福音《ふくいん》主義の助けにより艱難《かんなん》ののち神の国に達する寓話]ごっこをおぼえてて? お話の中の重荷の代用にわたしの布袋をしょわせて、帽子や杖《つえ》や、筒《つつ》に巻いた地図を持たせてあげると、もう大喜びだったわ。そして、≪破滅の町≫にみたてた地下の物置から始めて、だんだん上へのぼって、最後に屋上に出て、集められるだけのすてきな物で飾った神の国に出ましたっけね」
「ものすごくおもしろかった――ことに、ライオンのそばを通ったり、魔王とたたかったり、おばけのいる谷をぬけたりするところ」とジョオ。
「あたしは、肩の荷がおちて、階段をころがり落ちるとこが好きだったわ」とメグ。
「あたしの好きなところは、平らな屋上に出ると、花やあずまやや、そのほかきれいなものが飾ってあり、そこで、みんなして歌をうたったところだったわ――お日さまを浴びながら」ベスは、その楽しいひとときが、今ここにかえりでもしたようにほほえんでいる。
「あたしは、あまりよくおぼえてないの。地下室とあの暗い入口がこわかったことくらい。屋上で、ケーキだのミルクだのいただくのは、いつもうれしかったのと。あたし、もっと小さかったら、ぜひ、またあれをしてあそびたいと思うわ」エイミーは、もう十二歳にもなったのだから、子どもらしいこととは縁がないとでもいった口ぶりだ。
「ねえエイミー、わたしたちは、いくつになってもこのあそびをしていいのよ。なぜって、毎日の暮らしの中でも何かの形で同じようなことをしているんですからね。わたしたちはみんな、それぞれの荷を肩にして、それぞれの前にある道を進むのよ。そして、善《よ》いこととか、幸福とかを望む気持ちに導びかれてたくさんの困難を越え、あやまちに踏みいらずに、やがてまったくの平安の地へと辿《たど》りつくのよ。それこそほんとうの天国なんですよ。ねえ、小さなお遍路《へんろ》さんたち、もう一度やってみませんか――遊びではなく、本気で。そして、おとうさまのお帰りまでに、どこまで行かれるか歩きつづけてみるのよ」
「ほんと、おかあさま? どこにお荷物があって」エイミーは、まことに杓子定規《しゃくしじょうぎ》なレディーである。
「ベスのほかは、みんなそれぞれの荷物のことを話してくれましたね。もっとも、ベスは何もなさそうだけど」
「ちがうわ、おかあさま、あたしにもあってよ。お皿洗いだの、お掃除だのをいやがったり、いいピアノを持っているひとをうらやんだり、よその人を怖《こわ》がったり」
ベスの重荷なるものが、あまりおかしなものばかりなので、みんな思わず吹きだすところだったが、傷つきやすいベスの気持ちをそこねないように、それぞれちゃんと心得て笑わなかった。
「やりましょうよ」メグは考え考え言った。「つまり、このあそびは、あたしたちがいい人間であるようにと努力することを言いかえたようなものですものね。それに、お話そのものも心のよりどころになるでしょうし。だって、あたしたち、いい人であろうと願ってはいてもじっさいにそうあろうとするのはなみたいていの努力じゃできないし、第一、つい忘れて、最善をつくさないんですものね」
「今夜は、あたしたち、失望の沼地にいたんだわ。そこへおかあさまがいらして、あたしたちを引きずりあげてくださったのよ――お話では≪救い≫がしたように。あたしたちも、お話の中のキリスト教徒のように、天国への地図を持たなければ。どうしたらいいかしらそれは?」ジョオは、義務を果たすという、まことに退屈なお役目仕事に、少しでもロマンティックな気分をそえる思いつきに、浮き浮きして言った。
「枕の下をみてごらんなさい、クリスマスの朝に。みんな、それぞれの案内書をみつけるでしょうよ」ミセス・マーチは答えた。
ハンナがテーブルを片づける間、みんなは、この新しいプランについて相談をした。それがすむと、たちまち四つの小さな裁縫籠《さいほうかご》が持ちだされ、姉妹は、マーチ伯母《おば》さんのシーツづくりに、忙しく針を動かし始めた。それは、およそ退屈な針仕事だった。だが、今夜は誰一人文句を言わない。ジョオの案に従って、シーツの長い縁《ふち》ぐけを四つに分け、それぞれの部分をヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカと名づけて分担したせいか、仕事はばかにはかどった。ことに、それぞれの国についての話をしたりしたせいもあって。
九時にお裁縫は終わりにして、いつものように、寝る前の歌をうたった。ベスは、その古ピアノから、いちおう音らしきものを出せるただ一人の弾《ひ》き手だった。黄色くなった鍵盤《けんばん》に、軽く指を運び、みんなの歌うかんたんな曲にふさわしい、じつにかろやかな伴奏をするのだった。メグはフルートの音色に似た声をしていて、母親と二人がこの小聖歌隊をリードしていた。エイミーはコオロギのようにかぼそい声だったし、ジョオは勝手きままに調子をあげさげしては、肝心《かんじん》な聞かせどころというと、かならずしゃがれ声を張りあげたり、ふるわせたりして台なしにしてしまうのだった。この就寝前の合唱は、まだまわらぬ舌で
キラキラ ホチヨ
ミチョラノホチヨ
と、やっと歌えるようになった時から始められ、今では、家のしきたりになっていた。それというのも、ミセス・マーチが歌が上手だったせいなのだろう。この家の朝の最初の音は、ヒバリのように歌いながら用をたす、おかあさまの歌声なのだ。そして、また、夜の最後の音も、同じ、あかるい歌声だった。娘たちが、いくつになっても、子どもの時から聞きなれた子守唄《こもりうた》を、聞きたがるからなのだ。
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第二章 メリー・クリスマス
クリスマスの朝、まだ日も出ないうちに、ジョオは目をさました。いちばん早起きをしたわけだ。暖炉《だんろ》にいつもかかっている靴下がないので、一瞬《いっしゅん》、がっかりした。まだ幼なかったころ、プレゼントが入りすぎていたため、その重みで小さい靴下が落ちてしまっていた時のように。だが、じきに、おかあさまの約束を思いだし、枕の下をさぐり、真紅《しんく》の表紙の小さな本をひっぱりだした。ジョオは、それがどういうものか、よく知っていた。この世でもっとも偉大な生涯についての、美しい昔の物語なのだ。ジョオは、それこそ、長旅に出るお遍路さんにとって、何よりの案内書になると思った。
ジョオは、「メリー・クリスマス」と声をかけてメグを起こし、枕の下をみるようにと教える。メグのは緑の表紙だったが、中には同じ絵と、母親の書いた一、二行のことばとがあった。この一人一人にあてたことばが、娘たちにとって、このたった一つのプレゼントを特別貴重なものに思わせるのだ。やがて、ベスもエイミーも起きだし、枕の下から、それぞれの小型な本を見つけた――鳩《はと》羽色のとブルーのと。四人がそれぞれの本を膝にしてページを繰《く》り、あれこれ話し合っているうちに、東の空がバラ色になり、一日が明けようとしてきた。
多少虚栄心が強いとはいえ、マーガレットは、やさしい、敬虔《けいけん》な心情の持ち主だったので、それが知らず知らず妹たちにも影響していた。ことに、姉に細《こま》やかな愛情をもっているジョオは、人一倍そうで、よく言うことをきいた。マーガレットは、助言ひとつにしても、心をこめて、ひかえめに言うからなのだ。
「ねえ、みんな」すぐ隣のもじゃもじゃ頭ごしに、向こうの部屋のナイトキャップをかぶった頭へと目をやりながら、メグは真面目《まじめ》に言った。「おかあさまは、あたしたちに、この本を読み、愛し、そしていつも心にとめておくように望んでいらっしゃるのよ。前には、みんな忠実にそれをしていたわ。でも、おとうさまが行っておしまいになったし、戦争のために起こった生活の変化に引きずりまわされて、大切なことをたくさんないがしろにしてきたわ。あなたたちはどうしようと勝手よ、だけど、あたしは、この本を、こうしてテーブルの上に置いといて、毎朝、目をさましたらすぐ、少しでも読むことにするの。きっとためになるし、一日中、それが心のよりどころになると思うから」
そして、彼女は、その新しい本を開き、読みはじめた。ジョオも姉の肩に手をかけ、頬《ほお》をよせて、同じように読みはじめる。いつもせかせかしているような顔に、めずらしく静かな表情をたたえて。
「メグねえさまって、えらいわ! エイミー、さあ、あたしたちもおねえさんたちのようにしてみましょう。むずかしい単語は教えてあげるわね。もし、あたしにもわからなかったら、おねえさんたちが教えてくださるわ」ベスが声をひそめて言った。おかあさまのプレゼントの美しい本と、姉たちの模範《もはん》に、大いに感激して。
「あたしのがブルーでうれしいわ」エイミーが言う。それきり部屋は静まりかえり、時おりページを繰《く》る音だけが、かすかにするだけだった。やがて、冬の日射しが、クリスマスの祝いのことばをのせて、こっそりと部屋を訪れ、つややかな髪と、真剣《しんけん》な顔とをなで始めた。
三十分後、贈物の礼をのべるために、ジョオと二人で階段をかけおりると、メグは聞いた。
「おかあさまはどこ?」
「さて、どこだか。なんやら見たことのねえ貧しい人が、おもらいにきまして、ママさまは、すぐいっしょにおでかけでしたよ。何がいるだか見てくるからってね。うちの奥さまみたいに、食べもの飲みもの、着るもの焚《た》きもの、何から何まで気前よくおやんなさるような人は、どこにもおいでになりませんですよ」ハンナは答えるのだった。メグが生まれた時からずっとこの家に奉公しているハンナは、召使というより、すでに家族の一員と思われている。
「きっとすぐお戻りになるわ。だからケーキを焼き始めて、ちゃんとお支度しておいてね」籠《かご》に入れて、ソファーの下に隠しておいたおかあさまへのプレゼントを、もう一度たしかめながら、メグはハンナに命じる。その籠を、いつでもさっと取りだせるように準備しておくつもりなのだ。
「あら、エイミーのプレゼントは? オーデコロンの瓶《びん》は?」問題の品が欠けているのに気づいて、メグは言った。
「ちょっと前に自分で出して持ってたのよ。なんだか、リボンをかけるんだとかって」ジョオは、新しい軍隊用の、ごつい上履《うわばき》を、はきよくするために、自分ではいて部屋中踊りまわっている。
「あたしのあげるハンケチ、なんてすてきでしょ! ハンナが洗ってアイロンをかけてくれたのよ。イニシャルは、全部、あたし自分で刺繍《ししゅう》したの」ベスは、大骨折りの末、やっと仕上げた、大きさが多少ふぞろいなローマ字を、得意そうに眺めている。
「あらあら大変! ベスったら、M. MARCH じゃなくて |MOTHER《おかあさま》 なんて縫ってる。わあ、おかしい!」ジョオは、中の一枚をつまみあげてさわぐ。
「いけない? そのほうがいいと思って、わざとしたんだけど。だって、メグのイニシャルも、おかあさまと同じM・Mでしょ。あたし、ママにだけ使ってほしかったんですもの」ベスは困ったように言った。
「いいのよ、いいのよ。とてもいい思いつきだわ――それに、こうしておけば、誰もまちがいっこないし。いちばんいい考えよ。おかあさま、きっと大喜びなさってよ」メグは、ジョオにはしかめ面《つら》を、ベスにはやさしく笑いかけながら言った。
「あ、おかあさまだ。早く、籠を隠して!」ドアが鳴り、玄関のホールに足音がしたのを聞きつけ、ジョオは叫んだ。
せかせかと入ってきたのはエイミーだった。姉たちにそろって出迎えられ、すっかり照れている。
「どこへ行ったの? うしろに隠しているのは何なの?」ものぐさなエイミーが帽子と外套《がいとう》に身がためして、こんな朝早く外に出ていったことに驚いて、メグは聞いた。
「笑わないでよ、ジョオ! その時まで、ないしょにしとくつもりだったんだけど。あたし、ただ、あのオーデコロンを大瓶《おおびん》と交換して来ただけなの。自分のお金を全部つかって。利己主義は、もう絶対やめようと決心したから、実行しただけなの」
言いなから、エイミーは、前の小瓶とは段ちがいの、りっぱな瓶を出してみせたが、自分の欲望を忘れようと子どもなりに努力したことを誇ろうともしない、いかにもいっしょうけんめいなその様子に打たれて、メグはとんでいってぐっと抱きしめてやり、ジョオは例によって、「でかした!」と叫び、ベスはベスで、窓際に走っていき、丹誠《たんせい》したバラの鉢からいちばんきれいなのを摘《つ》んできて、そのみごとな瓶を飾ってやった。
「あのね、あたし、自分のプレゼントが恥ずかしくなったの――朝、あのご本を読んでいい人になろうってお話したもので。だから、着がえをすませるとすぐ、あのお店までとんでって取り換えてきたの。ほんとによかったと思うわ、だって、こんどは、あたしのがいちばんすてきになったんですもの」
玄関の扉がまた鳴った。籠はソファーの下につっこまれ、姉妹はさっとテーブルの傍《そば》にかけより、いかにも朝ご飯が待ちどおしい様子をした。「クリスマスおめでとう、ママ。すばらしいクリスマスでありますように。ご本をありがとう。もう、少し読みましたし、これからも毎日読むつもりです」四人は声をそろえて言った。前もって練習しておいたのだ。
「クリスマス、おめでとう、みんな。すぐに始めてよかったこと。これからずっと続くようにね。ときに、テーブルにつく前に、ちょっと聞いてほしいことがあるのよ。このすぐ近くに、生まれたばかりの赤ちゃんをかかえた気の毒なひとがいるの。六人の子どもが、一つのベッドにからだをよせあって、寒さをしのいでいてね。火の気《け》がないもので。食べものも何ひとつないんですよ。いちばん上の子どもが、家中が飢《う》えと寒さに責められていることを言いに来たんですよ。ねえ、みんな、あなたたちの朝ご飯を、クリスマスプレゼントとして贈ってくれない?」
一時間近くもいつもより遅いので、姉妹はものすごくお腹がすいていたので、ごくわずかではあったが、誰も返事をしなかった。だが、それはほんのちょっとの間のことで、ジョオが夢中で叫んだ。「よかった、ご飯を始めないうちに帰ってきてくださって!」
「そのかわいそうな子どもたちの所へ、あたしも行かせてくださる? 運ぶお手伝いをしたいわ」ベスも熱心に言った。
「あたしは、マッフィン[丸い形の焼きパンの一種]と生クリームを持っていくことにするわ」エイミーは、いちばん好きなものをあきらめ、けなげに言いそえた。
メグは、もう、ソバ粉菓子を包み大皿にパンを盛り終えていた。
「思ったとおり、みんな喜んでしてくれましたね」ミセス・マーチは、満足そうにほほえむ。「さ、いっしょに行って手伝ってちょうだい。帰ってきたら、パンとミルクで朝ご飯をすませましょう。その埋《う》め合わせは、ディナーの時にすることにしてね」
すぐ支度が整い、行列は出発した。しあわせにも、まだ朝早かったのと、裏通りを行ったせいで、ほとんど人にも違わなかったし、奇妙な行列を笑われずにすんだ。
それは、見るもあわれな、ひどい部屋だった。家具ひとつなく、窓は破れ、火の気もなく、毛布もシーツもぼろぼろで、母親は病気で動くこともできず、赤ん坊はかぼそい声で泣きたて、顔色のわるいひもじそうな子どもたちは、たった一枚の薄い掛けぶとんの下に身をよせあって、少しでもあたたまろうとしていた。
姉妹が入っていくと、子どもたちは信じられない喜びに、目をいっぱいに見張り、むらさきいろの唇が、うれしさにほころんだ。
「|おお《アッハ》、|神さま《マイン・ゴッド》! 天使がわたしらのもとにおいでになった!」気の毒なその母親は、ドイツ語まじりで喜びの声をあげた。
「頭巾《フード》に手袋《ミトン》支度の天使なんて、おかしいじゃないの」ジョオはこう言ってみんなを笑わせ、その場の空気を明るくした。
だが、すぐに、その部屋は、ほんとうに親切な精霊たちが現われ、一仕事したように見えてきた。
薪《まき》を運んできたハンナが、暖炉に火をおこし、破れた窓ガラスを、古帽子と自分の古外套《ふるがいとう》とで塞《ふさ》いだ。ミセス・マーチは、その母親に紅茶と粥《かゆ》を与え、まるで自分の子のように、やさしく、その赤ん坊をさっぱりした衣類に着替えさせながら、これからも力になることを約束した。一方、娘たちは、食卓を整え、子どもたちを火のそばにすわらせて、飢えきった小鳥をやしないでもするように、つぎつぎと食べものを運んでやった。笑ったり、話しかけたり、子どもたちのあやしい英語をなんとか聞いてやろうとつとめながら。
「おえしいよ!」「こどもてんじさま!」ドイツ語と英語とごちゃまぜの、おかしなことばをつかいながら、子どもたちは、食べる合い間に喜々として声をあげ、心地よい炎《ほのお》に、かじかんだ手をあたためたりしていた。
姉妹たちは、子ども天使などと人によばれたのは初めてだったので、すっかりいい気分になった。ことに、赤ん坊の時から、サンチョ[「ドン・キホーテ」に登場する従者]と綽名《あだな》をつけられていたジョオは、人一倍|上機嫌《じょうきげん》だったのだ。自分たちは何も口にはしなかったが、それは、まことに楽しい朝食だった。慰めのことばを残して、その家を出た時、クリスマスの朝だというのに、お祝いの朝食を全部他人にあげてしまい、パンとミルクですまさなければならないこの四人姉妹は、町いちばん陽気で朗らかな一行になっていた。
「これがすなわち、自分自身を忘れ、隣人を愛すっていうことなのね。すばらしいことだわ、ほんとうに」テーブルに、例のプレゼントを並べながら、メグはしみじみ言った。おかあさまは、二階で、例の気の毒なフンメル一家にあげる古着を集めていた。
そこに並べられたいくつかの包みは、パッと華やかなものではなかったが、愛情がいっぱいこもっていた。丈の高い花瓶にさした深紅のバラと白い菊、そして長く垂れた蔦《つた》が贈物の真中に飾られて、テーブルに、まことに優雅なムードを添えていた。
「あ、いらしたわ! ベス、早く始めて! エイミー、ドアを開けるのよ! ママばんざい三唱!」ジョオはいそがしくとびまわりながら大声でさわぐ。メグは、おかあさまを戸口に迎えて、定められた席へと案内するために位置についた。
ベスは、知っている中で、いちばん陽気なマーチを弾《ひ》き、エイミーがさっとドアをあけ、メグはうやうやしくエスコートの役をつとめた。ミセス・マーチは、不意をつかれると同時に、強く心をうたれた表情になり、プレゼントを一つ一つ手にとって、それぞれの祝いのことばを読みながら、ほほえみをいっぱい、その目にたたえた。上履はすぐにはかれ、新しいハンカチは、エイミーの贈ったコロンをたっぷりふってポケットにしまわれ、バラの花は衿もとにとめられ、すてきな手袋は、「ぴったりよ」ということだった。
しばらくは、手作りのプレゼントを話題に、きどりのない、うちとけた雰囲気《ふんいき》の中で、笑ったり、キスをしたり、説明をしたりということがつづいた。こういうことこそ、こうした家庭的な祝いごとをことさら楽しいものにし、後々まで、美しい思い出として残すことになるのだ。そして、やがて、みんな仕事にとりかかった。
朝の慈善《じぜん》と、贈物の儀式とに、思いがけず時間をとられたので、日暮れまでの間は、すべて夜の催しものの準備についやされた。
家庭劇のために惜しまず費用をかけられるようなお金持ちではなかったので、姉妹は大いに知恵をしぼった。そして、必要は発明の母とかいうように、要《い》るものはなんでも作りだした。中には、じつに気のきいた作品がある――張りボテのギター、昔ふうなバタ皿に銀紙を張った古風なランプ、漬物《つけもの》工場でもらってきたブリキ屑《くず》をちりばめた古木綿《ふるもめん》製の豪華なローブ[裾をひいた正装用の服]、そしてこの同じダイヤ型のブリキのきれっぱしをびっしりつけた鎧《よろい》など。種《たね》をあかすと、このじつに便利なブリキの飾りものは、ピクルスの缶の蓋《ふた》を打ちぬいたあとに残る屑板《くずいた》なのだった。家具はさか立ちさせられたり横倒しになったりで、広間は、無邪気などんちゃん騒ぎの場と化した。
男性は入場禁止だった。で、ジョオは、心ゆくまで男役の数々を演じられたし、友達からもらった、裏皮の長靴《ブーツ》をつけるのがまた得意なのだった。この長靴と、フェンシングの練習用の剣と、なんとかいう画家がその絵に使ったという切れめをいれた胴着がジョオの宝物で、何かというとそれをつけて現われた。なんといっても座員が足りない一座なので、二人の立《たて》役者は、それぞれ五役も六役も演じなければならなかった。幾役もの台詞《せりふ》を暗記して、つぎからつぎへと早替わりのための衣裳《いしょう》の脱ぎ着、そのうえ大道具方までやってのけるというこの大した仕事は、まさに賞賛に価《あたい》するものだった。そしてまた、これは彼女たちの記憶力の訓練にもなり、罪のない娯楽であり、あるいは、一人ぼんやり空費したり、つまらぬおつきあいでむだについやしたかもしれぬ時間を有効に過ごすことでもあった。
いよいよクリスマス・イブになると、一ダースもの女の子が、特等席と称するベッドの上に目白押しになって、期待に胸をとどろかせながら、ブルーと黄の更紗《さらさ》カーテンを前にすわっていた。幕の向こうでは、衣裳のガサゴソ鳴る音、そしてひそひそ話す声がしていた。ランプの煙が少しばかりあがったり、こうした時にいつも興奮してはしゃぐエイミーのクスクス笑う声がする。やがて鈴が鳴り、カーテンがさっと開き、例の悲歌劇が始まった。
たった一部だけの手書きプログラムによると第一場は、≪陰気な森≫とあり、鉢植えの木が二、三本、床にはグリーンのラシャの布、奥に洞穴《ほらあな》が見えるという装置だった。この洞穴は、洋服掛けの天井にタンスの壁というつくりで、あかあかと燃える小さなかまどがその中に見え、黒い鍋《なべ》がかかり、年老いた魔女がその上にかがみこんでいた。舞台は暗く、かまどの焔《ほのお》のあかりがなかなか効果をあげ、魔女が鍋の蓋《ふた》をとると、本物の湯気がポーッとあがり、真に迫る趣《おもむき》があった。幕あきのどよめきを静めるために、わずかな間があった。じきに、悪役であるヒューゴーが現われる。腰につけた剣を鳴らし、帽子をまぶかに、黒いひげを生やし、妖《あや》しいマントをつけ、例の長靴《ブーツ》でのしのしと登場した。心の葛藤《かっとう》にもまれるように、行きつもどりつしたあげく、額《ひたい》を打ち、激しい調子で独白を始める――ロデリゴヘの憎《にく》しみとザラヘの思慕《しぼ》、そして、彼を殺し、彼女を奪おうという、都合《つごう》のいい決意を歌いあげた。ヒューゴーの、時にわれを忘れて叫び声となるあらあらしい声音《こわね》は、じつに印象的で、彼が息をいれる間も待たず、お客は拍手を送った。彼は、拍手|喝采《かっさい》には馴《な》れっこだというように、堂にいった様子で一礼すると、洞穴《ほらあな》にしのびより、ハガーに命令をくだす。
「これ老婆! 所用じゃ、これへ出よ!」
洞穴から出てきたのはメグ扮《ふん》するところの魔女で、灰色の馬毛を頭からバサリと垂らし、赤と黒の長い衣裳に身をつつみ、手には杖を持ち、肩にかけたマントには、何やら神秘的な文字めいたものが描いてあった。ヒューゴーは、ザラに慕われるようになる薬と、ロデリゴを亡きものにする毒薬とを作れと、ハガーに命じる。ハガーは、みごとな劇的なメロディーで、その二つを約束し、愛の妙薬を持ってくる妖精《ようせい》を呼びだす歌をうたう。
来たれよ、汝《なれ》、妖精よ
風にのり わがすみかへ!
バラより生まれ、露を吸い
育ちし汝《なれ》よ これへ来て
愛の妙薬ととのえよ。
疾《と》くわがもとへ
とびきたり
作りあたえよ妙薬を
甘くかぐわしくあらたかな
愛の妙薬ととのえよ。
応《こた》えよ汝《なれ》、わが歌に、いざ!
静かに一節の音楽が聞こえ、洞穴《ほらあな》の奥から、雲のような白い衣につつまれた小さな姿が現われた。輝く翼をもち、金色の髪にはバラの花飾りがのっていた。魔法の杖を振り、それは歌いだす。
はるかなるしろがねの月の
夢の住いよりわれは来ぬ。
この魔法の呪文《じゅもん》を受け
心して用いよそれを
術の力の消えぬ間に!
そして、魔女の足もとに、金色の小瓶《こびん》を落として、妖精は消えた。
ハガーのつぎの歌は、また別の精を呼びだした。こんどのはいっこうに愛らしくない代物だった。銅羅《どら》の音と共に現われたのは、醜怪《しゅうかい》な真黒い小鬼で、しゃがれ声で魔女に応答すると、ヒューゴーに、手にした黒い瓶《びん》を投げてやり、あざけり笑いを残して姿を消した。
ヒューゴーは感謝の歌を最後に、二つの瓶を長靴につっこんで、退場していった。そこで、ハガーは見物に向かって、ヒューゴーは、以前、自分の友人を何人も殺したことがあるので、その復讐《ふくしゅう》に、彼に呪いをかけ、その計画を妨害するつもりだと告げる。ここで幕がおり、見物はひと休みし、芝居のでき栄えを語り合いながらキャンディーを食べるのだった。
ひとしきり金槌《かなづち》の音がつづき、やっとつぎの幕があがった。だが、幕があいてみると、あまりにみごとな大道具のでき上がりに、お客は待たされた不平などすっかり忘れてしまった。まったくすばらしいものだった。天井にまで届く塔が立っている――その中ほどに窓がしきられ、灯がともっていて、白いカーテンがかかっている。と、そのカーテンのかげに、美しいブルーと銀の服をつけてザラが現われ、ロデリゴを待つ思い入れでたたずんだ。ロデリゴが登場した。羽根を飾った帽子、真紅《しんく》のマント、肩には栗色の捲毛《まきげ》がゆれ、という華やかな扮装《ふんそう》で、ギターをかかえ、もちろん、例の長靴をはいて、塔の下にひざまずくと、心をとろかすようなメロディーのセレナーデを歌う。ザラもこれに応《こた》え、歌で台詞《せりふ》のやりとりがあって、ザラは彼といっしょに逃げることに同意した。
いよいよこの芝居のいちばんの見せ場とはなった。ロデリゴが、たずさえてきた縄梯子《なわばしご》をとりだし、その五段にこしらえた縄の端をさっと窓に投げかけ、ザラに降りてくるようにと誘う。ザラは、おそるおそる格子窓《こうしまど》を抜けだし、ロデリゴの肩に手をかけ、まことに優雅にとびおりようとしたとたん、≪なんたるザラの不運!≫つい忘れた長くひいた裾《すそ》が、例の窓にひっかかり、塔はグラグラっとしたとみる間に、前にのめり、ガラガラと崩れかかり、不幸な恋人たちをその廃墟《はいきょ》の下敷きにしてしまったのだ。
お客はいっせいに金切声《かなきりごえ》をあげるし、塔の残骸《ざんがい》からは長靴がヌーッとつきでてバタバタ動き、≪だから言わないことじゃないわ! あたしの言ったとおりでしょ≫とわめきながら、金髪頭がせりあがった。と、冷酷《れいこく》な父親ドン・ペドロ役は、よほどの腹のすわった人とみえ、この急場にもあわてず、さっととびこんでくるや、己《おの》が娘をひきずりだし、口早やに耳打ちした。
「笑わないで! なんでもなかったふりして芝居をつづけるのよッ!」――そして、ロデリゴに、立て、と命じ、怒りと嘲《あざけ》りのことばを浴びせ、自分の領地から追放すると宣言した。
頭の上に塔が落ちかかってきたのにはさすがに仰天《ぎょうてん》したものの、ロデリゴは老領主に挑戦し、一歩も動かないと宣言した。その雄々《おお》しい恋人の姿に、ザラの血は燃え、彼女もまた父親に反抗したので、父親は、二人を、城のいちばん下の地下|牢《ろう》に入れろと命じた。がっしりした小柄な家臣が、鎖《くさり》を手に現われ、二人をひったてて行ったがまるでふるえあがりでもしたようすで、どうやら自分の台詞《せりふ》を度忘れしたらしかった。
第三幕は城の広間だった。ここで、ハガーが恋人たちを助けて、ヒューゴーをなきものにするために登場した。彼女はヒューゴーの来るのを聞き、物陰にひそむ。ヒューゴーは二つの杯《さかずき》に例の薬をそれぞれ満たし、おどおどしている小さな家来に、「地下牢の捕《とらわ》れびとにこれを持ちゆき、すぐあとから行くと伝えよ」と命じた。家来がヒューゴーを招いて、何かをささやく。その隙《すき》に、ハガーは二つの杯をただの酒の入ったのとすりかえる。フェルディナンド、すなわち腹心のちびが、それとも知らずそれを運び去る。ハガーはロデリゴ用の毒杯を、もとの場所におく。ヒューゴーは、長々と歌いつづけてのどがかわき、その杯をぐっとあけ、たちまち意識を失い、空をつかみ、よろめき歩いたあげく、ばったり倒れて死ぬ。ハガーは、自分のはかりごとの成功を、迫力のある劇的なメロディーで、美しく歌い告げる。
この場面は、じつにスリルに富んだ、わくわくさせるような力をもっていた。もっとも、ばったり倒れたために、はずみで長い髪がばさっとほどけて散り、悪者の死にぎわの効果をいくぶん弱めたと思った客もあったようすではあるが。彼はアンコールを受け、型通り幕の前に現われた。もちろん、すばらしい歌を歌ったハガーを伴って。彼女の歌は、この芝居ではずばぬけたできばえだと見物は思ったのだった。
第四幕は、ロデリゴが絶望のあまり、まさに自《みずか》らの刃《やいば》に伏そうというところから始まった。ザラが自分を見棄てたと聞かされたからだった。今にも短刀を胸に突きたてようとした時、窓の下に美しい歌声が聞こえる。ザラの心は変わらぬが、いまや身に危機迫り、もしも、彼さえその気になれば、彼女を救うことができよう、と。扉を開く鍵《かぎ》が投げこまれる。ロデリゴは、喜びに溢れ、勢いこんで縛られていた鎖をひきちぎり、恋人を探し助けださんと勇み出て行く。
第五幕は、ザラとドン・ペドロとの大喧嘩《おおげんか》で始まる。父親は娘を尼寺《あまでら》に送ろうとし、娘はそれに従おうとしない。いたいたしく父に嘆き訴え、それも聞いてもらえず、まさに失神しようとしたところへ、ロデリゴがとびこみ、彼女に求婚する。ドン・ペドロは、彼が金持ちでないからと、これを拒絶する。両者は、手を振り足を振り、声のかぎりとわたり合うが、なんとしても折り合わず、ロデリゴが、弱りはてたザラを、無理にも奪い去ろうとするところへ、おどおどした家臣が、ハガーからの一通の手紙と袋をもって現われた。当のハガーは不思議なことに姿を消したわけだが。手紙は、ハガーが、若い二人に、はかりしれぬ富を贈与し、万一、ドン・ペドロが二人の幸福をはばむなら、怖《おそ》るべき凶運をもたらそうと、その場の者に伝えるものだった。袋が開かれると、ブリキのおかねがザラザラと舞台にこぼれ落ち、その輝きであたりが、ハッと明るむほどだった。これで、さすがの頑固《がんこ》おやじも、すっかり気が折れ、一言もなく二人の結婚に同意し、一同そろって喜びの合唱、そして恋人たちは、ドン・ペドロの前にひざまずき、まことに優雅なものごしで、父の祝福を受けるのをきっかけに、幕がおりた。
見物席からは嵐のような拍手が起こり、ワーワーというさわぎだったが、突如として大異変が起こった。例の特等席たる折|畳《たた》みベッドが、なんのはずみでかパタリとたたみこまれ、熱狂した見物が消えてしまったのだ。ロデリゴとドン・ペドロは、救助にかけつけ、幸い怪我人《けがにん》もなく引っぱりだされたものの、笑いころげて声も出ない人がほとんどだった。この騒ぎがやっとおさまろうとしたころ、ハンナが現われて告げた。
「おくさまが、みなさまがたに夜食をさしあげたく、階下《した》へおいでくださいましということで」これは、役者衆にとってさえ、まったく思いがけない贈物だったのだ。ことに、その食卓を前にしては、あまりのすばらしさに目をみはって顔を見合わすばかりだった。ちょっとしたご馳走《ちそう》を、内緒で用意してくださるというのなら、いかにもママらしいことで、べつに意外ではなかった。だが、物に不自由のなかった時代以来、こんな豪勢《ごうせい》なものはあり得ないことだったのだ。まずアイスクリーム――それも白とピンクの二種類も。それにケーキにくだものに、魂も奪われそうなフランス製のボンボン。その上、温室咲きの花束が四つ、テーブルの真中に。
まさにアッと息をのむ驚きだった。姉妹は、まずテーブルを見つめ、つぎに母親に目を移した。彼女自身も、この場の光景が、うれしくてたまらないという顔をしていた。
「妖精《フェアリィ》なの?」エイミーが聞いた。
「サンタ・クロースだわ」とベス。
「おかあさまよ」メグは、そういうと、灰色の顎髭《あごひげ》を生やし、白い眉毛《まゆげ》をつけてはいたが、とびきりやさしくほほえんだ。
「マーチ伯母《おば》さんが、突然気が変にでもなって、お夜食をよこしたのよ」ふとインスピレーションがわいたとみえ、ジョオは叫んだ。
「全部ちがったわ。ローレンスのご老人が届けてくださったんですよ」ミセス・マーチは答えた。
「あのローレンスさんの男の子のおじいさまですって! なんでまた、こんなこと思いついたりなさったのかしら? あたしたち、お知り合いでもないのに!」メグは驚いて言った。
「ハンナが、あちらの女中さんの誰かに、あなたたちの朝ご飯のことを話したらしいの。ローレンスのお年寄りは、だいぶ変わった方らしいけれど、この話をひどくお気に召したとみえるのよ。ずっと昔のことだけれど、あの方は、わたしのおとうさまを知っていらしてね。で、きょう昼すぎに、丁重《ていちょう》なお手紙をくださって、クリスマスを祝って心ばかりの贈物を子どもさんたちに届け、近づきのしるしとしたいがどうでしょう、とたずねていらしてね。わたしとしても、せっかくのご好意を、お断りするわけにもいかなかったんですよ。というわけで、パンとミルクだけの朝食の埋め合わせが、このご馳走《ちそう》になったっていうこと」
「あの男の子がすすめたんだ、きっとそうよ。あの子、すてきよ。友達になれるといいんだけど。あの子だって、あたしたちと交際したいみたい。でも、内気らしいし、メグったら、むやみとやかましくて、道で逢っても話させてくれないんだから」ジョオは言った。その間に、アイスクリームの皿が回され、「ああ、おいしい!」とか、「ウーン、すてき」とか、満足した声を伴奏に、あっという間になくなってしまった。
「今のお話、お隣の大きなお邸《やしき》に住んでいる人たちのことでしょ」少女の一人が聞いた。「うちのおかあさまは、ローレンスのおじいさんを知ってるわ。でも、あの方は、とても気位《きぐらい》が高くて、近所隣となんかつきあわないんだそうよ。だから自分の孫だって、始終《しじゅう》閉じこめとくのよ。外へ出る時は、いつも家庭教師がつきそって、馬に乗ったり、散歩したりでしょ。すごく勉強させてるんだそうだし。いつか、家のパーティに招待したけれど、あの人、来なかったわ。おかあさまは、とてもいい息子さんだって言うのよ。女の子とは口もきかないんだそうだけど」
「前に、うちの猫が逃げだした時、あの人がつかまえて連れてきてくれて、垣根ごしに話した時は、でも、じつに調子よかったっけ――クリケット[野球に似た球技で、イギリスの国技と言われる]のことだとか、そんなふうの話だったけど――でも、メグが来るのを見ると、さっさと行っちまったんだわ。でも、いつかきっと友達になるつもり。だって、あの人、もっと楽しむことが必要だもの。絶対にそうよ」ジョオは断然主張した。
「そうね、あのお子さんはお行儀《ぎょうぎ》もりっぱだし、まるで小紳士っていう感じでしたね。まあ、適当な折りがあったら、お近づきになることに賛成ですよ。この花は、あの坊ちゃんが、ご自分で、持ってきてくださったんですよ。あがっていただこうかとも思ったけれど、二階のお芝居が、いったいどんなことになってるか、ちょっと心配だったのでね。あのにぎやかな騒ぎを聞いて、さびしそうにお帰りになったわ。クリスマスなのに、おうちでは何も楽しいことがないらしいのね」
「助かった、あげたりしないで、おかあさま」ジョオは、長靴をながめて笑いだす。「でも、今に、あの人が見てもいいような芝居をするわ。あの人も手伝ってくれるかも知れないし。ね、そしたらすてきじゃない」
「こんなりっぱな花束、初めていただいたわ!なんてきれいでしょう!」メグは、ていねいに一輪ずつの花を眺めた。
「たしかに美しいことね。でも、わたしにとっては、ベスのバラのほうがもっと大事ですよ」ミセス・マーチは、ベルトにつけた、しおれかかった花をとり、その香りを楽しんだ。
ベスはその肩に頬《ほお》をよせ、そっとささやいた。「おとうさまに、あたしのいただいたこの花束をお送りできたらいいのに。こんなに楽しいクリスマスを、すごしておいでじゃないんでしょうものね」
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第三章 ローレンス家の男の子
「ジョオ! ジョオ! どこなの」メグは、屋根裏部屋へつづく階段の下で、大声で呼んだ。
「ここよ!」上から、かすれ声の返事があった。メグがかけのぼってみると、ジョオは日がいっぱいにさしこむ窓ぎわで、ガタガタの三本脚のソファーに、手編みの大型のストールにくるまって、リンゴ片手に、『レドクリフ家の世嗣《よつぎ》』を読んで涙をこぼしているところだった。
この場所は、ジョオの気にいりの隠れ家なのだ。半ダースほどのリンゴとおもしろい本をかかえてここに引っこみ、誰にも乱されない静寂《せいじゃく》と、このあたりに住む仲よしネズミとのつきあいをジョオは楽しむのだった。このネズ公は、ジョオにはなんの気がねもしないで、自由気ままに走りまわっている。メグが現われると、だが、このセカセカ氏は、さっとばかり、自分の穴に消え失せた。ジョオは、頬の涙をはらい、何ごとか、という顔つきで、姉をうながす。
「すばらしいのよ! ほら、見て! ミセス・ガーディナーから、あしたの晩の正式な招待状よ!」メグは、その貴重な紙片をふりまわしてニュースを告げるといかにも少女らしく、うれしさいっぱいの声をはって、その書面を読みあげた。
「≪ニューイヤーズ・イヴの小パーティに、ミス・マーチ並びにミス・ジョセフィンをお招きいたしたく、ここにご案内申上げます。ミセス・ガーディナー≫どう? ママは、ぜひうかがわせていただくようにってよ。ところで、問題は、何を着てったらいいかしらってことよ」
「そんなこと、考えるまでもないじゃない。ポプリンのしかないんだもの、あれを着るにきまってるでしょ」ジョオは、口いっぱいリンゴを頬ばったまま答えた。
「絹の服があるといいんだけど!」メグは溜息《ためいき》をついた。「十八になったら着てもいいって、おかあさまはおっしゃったわ。でも、二年って、気が遠くなるほど長いわ、いざ待つとなると」
「あのポプリン、絶対絹に見えるわよ。メグのなんか、新しいみたいだもの。あらら、でも、あたしのには焼けこげと鍵《かぎ》ざきがあったっけ、忘れてた。どうしようか。弱ったな! 焼けこげはすごく目立つし、どうしてもなおらないんだから」
「しかたがないから、じっとすわって動かないことね。背中を見せないように。前のほうは大丈夫だから。あたし、新しいリボンを買うんだわ。ママが真珠のブローチを貸してくださるっていうし、新しい踊り靴はすてきだし、手袋もまあ間に合うわ。ほんとうはもっといいのが欲しいんだけれど」
「あたしのはレモネードの≪しみ≫でひどくなってるけど、新しいのを買うわけにはいかないから、手袋なしで行くほかないな」ジョオは、着るものなどにあまり心を煩《わずら》わさないたちなのだ。
「あら、手袋はぜったい要るわ。手袋なしで行くのなら、あたしはいっしょに行かないわよ」メグは断固として言った。「何よりもいちばん大事なのよ、手袋って。ジョオがはめてなかったら、あたしまで大恥をかくのよ」
「じゃあ、あたしは行かないことにする」
「おかあさまに新しいのをおねだりするわけにもいかないわね。とても高いんですもの。それに、あなたは、とびきり不注意だし。今のを汚した時に、おかあさまは、この冬には新調はしてあげられないって、言っていらしたわ。なんとかしてはめるようにできないの?」
「くしゃっとして握ってればどう? しみも何も見えないでしょ、そうしとけば。それよりほか、てがないわよ。あッ、いい考えがある――二人で、片方ずつはめて、だめなのを持つことにするの、どう、これで?」
「ジョオの手は大きいんだから、あたしの手袋はすっかりのびちまうわ」メグは手袋がすごく大事なのだ。
「じゃ、手袋なしで行くわ。他人がどう言おうと、平気だ、あたしは」ジョオはじれったくなって大声をあげると、さっさと本を手にした。
「じゃいいわよ、貸してあげるわよ! でも、お願いだから汚さないでね、そして、お行儀よくしててよ。手を後に組んだり、じっとにらんだり、こいつはスゴイ! なんて言わないこと。わかった?」
「ご心配無用! とびきりのおすましをして、失敗をしでかさないようにするわ、余儀ない場合はともかく。さ、早く行ってお礼状を書いてよ。もうすぐ、このすばらしい本を読みあげられるんだから」ということで、メグは、≪ありがたくご招待をお受けいたす≫ためにその場を去り、服を点検して、唯一の本物のレースフリル[レースにきれいなしわをよせてふわっとさせた飾り]をとじつけながら、晴れ晴れと歌いつづけ、一方、ジョオは、リンゴを四つ食べおえ、本を読みあげ、セカセカ氏相手に、ひとあそびしたというわけだった。
|大晦日の夜《ニューイヤーズ・イヴ》になると、階下の居間は空《から》っぽになった。年下の二人は、小間使《こまづかい》の役を演じ、年上の二人は、パーティ支度という大事な仕事に熱中していたからだった。お化粧《けしょう》というほどのお化粧ではないにしても、階段を何度ものぼりおりしては、笑ったりしゃべったりの騒ぎで、その真最中《まっさいちゅう》に、毛の焦げるいやな臭いが、家中にひろがったりした。メグが、額から頬へかけて、二つ三つカールをさげたいと言いだし、ジョオは、紙で巻いた髪を、二本の焼火箸《やきひばし》でひねることを引きうけた。
「そんなに煙が出るものなのかしら?」ベッドに腰かけて眺めているベスがきいた。
「しめりっ気がこれで乾くのよ」ジョオは平然としている。
「変なにおい! 鳥の羽がこげてるみたい」自分の美しい天然の捲毛《まきげ》を、得意そうになでながらエイミーも言った。
「さ、これでいい。今、この紙をとると、小さなカールが雲のように軽やかに現われるから」ジョオは火箸《ひばし》を置いて言った。たしかに紙ははずれたが、雲のように軽やかなカールは現われなかった――毛が紙といっしょにとれてきてしまった! ぎょっとなった美容師さんは、犠牲者の前の化粧《けしょう》ダンスに、小さな焦げたロールをそっと並べた。
「まあ、なんてことをしてくれたの! ひどいわ、ひどいわ! もうダメだわ! 行かれやしないわ! 髪が、こんなになって……」額《ひたい》ぎわのでこぼこに焼け切れたチリチリの毛を、絶望的に眺めて、メグは泣き声を出した。
「ああ、またしくじっちまった。だいたいあたしになんか頼まなけりゃよかったのに。いつだって、何をしても、あたしは失敗ばっかり。ごめんなさいね。火箸が焼けすぎたのよ、だからこんなことになったんだ」ジョオは、気の毒に、うめくようにつぶやき、後悔の涙をためた目で、黒焦げの小型ホットケーキめいた残骸《ざんがい》を眺める。
「大丈夫よ、ただチリチリになっただけですもの。リボンをおでこにかかるように結べば、ぜんぜんわからないわ。それに、かえって最新流行みたいに見えてよ。ずいぶん何人も、そういうふうにリボンを捲《ま》いてるのを見たわ」エイミーが慰めるように提案した。
「よけいなおしゃれをしようとしたから、罰《ばち》があたったんだわ。自然のままの髪にしておけばよかったのに」メグは、いかにも癪《しゃく》だというように向かっぱらをたてている。
「ほんとにね。しなやかないい毛だったのに。でも、すぐ伸びるわ」ベスはやさしくそばによりそってキスをし、毛を刈りとられた仔ヒツジを慰めた。
そのあとも、やはり何かと手違いはあったものの、いずれも大したことでなく、やっとメグの支度は出来あがり、つぎには家中総がかりで、ジョオの髪を結《ゆ》いあげ、着つけも終わった。簡素な服ではあったが、二人ともよく似合ってなかなかりっぱだった。メグは、銀のような光沢のある淡茶で、ブルーのベルベットのサッシュ[ばば広いリボンのようなベルト。多くは結んで、あまったのを垂らす]を結び、衿にはレースのフリルに真珠のブローチをとめている。ジョオのは、栗色の服に、男物のように固い白麻の衿がつき、白い菊を一|輪《りん》、唯一のアクセサリーとしてつけていた。二人とも、片方だけに上等の薄地手袋をはめ、例の汚れたのを持った。すべて、さりげなく、だがすっきりとという効果をねらい、みごとに成功していた。
メグのハイヒールの踊り靴は、ひどくきっちりで、足が痛くてたまらなかったが、彼女は弱音《よわね》を吐《は》かず、ジョオの髪をまとめてあるたくさんのヘヤピンは、頭につきささっているのではないかと思うほど痛くて、あまりいい気分ではなかった。だが、エレガントたらんためには、死もまた辞せず! なのだ。
「じゃ、せいぜい楽しんでいらっしゃい」姉妹がしとやかに歩きだすのを見送り、ミセス・マーチは声をかけた。「お夜食をいただきすぎないようにね。十一時にはお帰りなさいよ。ハンナを迎えにやりますからね」門が二人の背後《うしろ》でガチャッと閉まったと思うと、こんどは窓から声がかかる。
「ちょっと、ちょっと! 二人とも、いいハンカチを忘れてはいないでしょうね?」
「もちろん、とびきりのを持ってるわ。メグはオーデコロンまでふってあります」ジョオは大きな声で返事をして歩きだすと、笑いながらつけ足した。「ママは、あたしたちみんなが、大地震で逃げだす時でも、きっとあれよ」
「ママの貴族趣味の一つよ。でも、ほんとだわ。だって、ほんとうのレディーの条件は、きれいな靴と手袋と、それにハンカチなんですもの」そういうメグだって、相当あれやこれやと、自分流の貴族趣味の持ち主なのだ。
「いいこと、焼けこげを人目につかないようにすること忘れないでよ、ジョオ。あたしのサッシュ、ちゃんとしてて? 髪の具合《ぐあい》、ひどくおかしかないこと?」ガーディナー家の化粧室で、念いりに鏡をのぞいたあげく、メグは念をおした。
「きっと忘れるな、あたし。もし、何かへまをやったら、ウィンクして知らせてよ」衿《えり》をちょっとひっぱり、さっと髪にブラシをあてたきりで、ジョオは答える。
「だめよ、ウィンクなんか、レディーのすることじゃなくてよ。いけない時には、こうやって眉をあげてみせるし、大丈夫というしるしには軽くうなずくわ。さあ、背筋をぐっとのばして、小きざみに歩くのよ。誰かに紹介されても握手はだめよ。お作法《さほう》はずれよ」
「そのお作法とやらを、いったいどうしておぼえたの? あたしなんか、永遠におぼえられないな。わあ、あの音楽うきうきするな」
二人は、めったにパーティに出たことがないので、いくらかびくびくしながらも、堂々と広間へと向かった。今夜は、ごく略式の会ではあったが、二人にとっては晴れの場だったのだ。
ミセス・ガーディナーは、貫禄《かんろく》たっぷりの老夫人だが、やさしく二人を迎え、六人の娘の一番上の姉さんに二人を託した。メグはサリーとはもともと知り合いでもあり、すぐに打ちとけてしまったが、ジョオはそうはいかなかった。だいたい、女の子にも、女の子同志のうわさ話にも、いっこうに興味がないほうだったので、ポツンと離れて、焼こげを人目にさらすまいと、壁を背にしてつったち、花園に迷いこんだ仔馬《こうま》同様、なんとも居心地のわるい思いをしていた。
反対側では元気な少年が五、六人、スケートの話に花を咲かせていた。スケートはジョオの生き甲斐《がい》の一つでもあったので、そっちの仲間に入りたくてたまらなくなった。だが、例の合図をメグに送ったところ、びっくりするほど眉があがったので、さすがのジョオも動けずじまいだった。
誰も話しに来てはくれず、近くにかたまっていた少女の群れも一人減り二人減りで、ついにジョオだけがとり残されてしまった。適当に歩きまわって楽しもうにも、例の焼けこげのせいでそれもできずダンスが始まるまで、一人ぽつねんと、お客の動きを見ているよりほかなかった。
メグは、たちまち申し込みを受けた。例のきつい靴はいかにも軽やかに動きまわるので、その穿《は》き手がにっこり笑いながらも、足の痛みをぐっとこらえているなどとは、誰にもさとれなかった。ジョオは、赤毛の大柄な青年が、自分のほうへやってくるのに目をとめ、ダンスを申し込まれでもしたら一大事とばかり、カーテンで隠された壁の凹《くぼ》みにとびこみ、その隙間からそっとのぞいて、誰にも邪魔《じゃま》されずに楽しもうとした。
ところが、すでに先客があった。もう一人のはにかみやが、同じ退避所を選んでいたので、ジョオが、さっと中へすべりこみ、カーテンを背にしたとたん、ローレンス家の息子と鼻つき合わせる羽目となったというわけなのだ。
「あらッ! 誰もいないと思ったもんで」ジョオはへどもどして、とびこんだのと同じ早さで、出ていこうとした。
だが、ちょっとびっくりした様子はしたものの、少年は笑い、そして愛想よく言った。
「ぼくはかまいませんよ。よかったらどうぞ」
「お邪魔じゃない?」
「ぜんぜん。ぼくは、知っている人もそうないし、どうも初めのうちは手持ち無沙汰《ぶさた》なんで、ちょっとここへ入っただけなんです」
「わたしもそうよ。いっしょにいてください。もしかまわなければ」
少年はまた腰をかけ、自分の靴に目を落とす。ジョオは、自分の方から話の糸口をつけようとして、ことばに気をつけながらも、ごく楽な調子で始めた。
「前にお目にかかったことがあるようですね。ご近所でしたでしょ?」
「お隣ですよ」少年は目をあげると、プッと吹きだした。猫を連れていって、垣根ごしにクリケットのことをさんざんしゃべった時のことを思いだすと、ばかにきどった今のジョオの様子が、なんとも滑稽《こっけい》だったのだ。
これでジョオもすっかり気が楽になった。いっしょになって笑いだすと、たちまちジョオらしい開けっぱなしの調子になった。
「あなたからのクリスマスプレゼントのおかげで、とっても楽しかったわ」
「おじいさんがあげたんですよ」
「でも、それはあなたの提案だったんでしょ?」
「ミス・マーチ、お宅の猫は元気ですか」まじめくさった顔をつくって少年はきいたが、その黒い瞳はいたずらそうに輝いている。
「おかげさまで元気でおりますわ、ミスター・ローレンス。でも、ミス・マーチじゃないわ、わたしは。ただのジョオよ」
「ぼくもミスター・ローレンスじゃありません。ただのローリーです」
「ローリー・ローレンス――なんて奇妙な名前!」
「ほんとうはテオドールなんだけど、いやなんだ。仲間が、ふざけてドラなんて女の子みたいに呼んだから、ローリーって呼ばせることにしたんだ」
「あたしもいやなんだわ、自分の名前が。おセンチな名なんだもの! みんなにジョオって呼ばせたいんだわ、ショセフィンじゃなくて。男の子たちがドラって呼ぶのを、どうやってやめさせられたの」
「ひっぱたいて」
「そうなの。でも、まさか、マーチ伯母さまをひっぱたくわけにはいかないわね。しかたがない、がまんするわ」ジョオは溜息《ためいき》まじりにあきらめた。
「あなたはパーティがお好き?」ちょっと間を置いて彼女はたずねた。
「時々はね。長く外国に行ってたもので、あまりこういう場所に出てないから、どうやっていいのか、よくわからないもんで」
「外国ですって!」ジョオは思わず声をあげた。「おねがい、話してくださらない! 旅のお話きくの、大好きなのよ」
ローリーは、どこから始めていいかわからないようだったが、ジョオのやつぎばやの質問に受け答えをしているうちに、すらすらと話が進んだ。ヴェヴェ[スイス、ローザンヌ近郊の町]の学校の生活、その学校では、学生は帽子をかぶらず、湖水に専用のボートがずらりと並び、休日には、先生に連れられて、スイスを徒歩旅行したことなどを話す。
「なんてすてきでしょう!」ジョオは感激の声をあげる。「パリにいらした?」
「去年の冬はパリで送ったけど」
「フランス語、話せて?」
「ヴェヴェの学校では、フランス語しかつかわないんだ」
「何か言ってみて! あたし、読むことはできるけど、発音できないの」
「ケル ノン ア セテ ジュンヌ マドモアゼル オン レ パントゥフ レジョリ?」ローリーは気持ちよく、すなおに応じた。
「なんてすてきでしょ! ええと、こうね――≪あの美しい踊り靴のお嬢さんは誰ですか≫でしょ?」
「ウィ マドモアゼル」
「姉のマーガレットよ、知ってるでしょ。きれいだと思って?」
「ええ。ドイツの女の子みたいで。いきいきとしてて、しとやかで」
ジョオは、この少年らしい姉への賛辞を聞き、うれしさに頬を輝かし、家へ帰ったら忘れずに報告しようと、しっかり胸にしまいこんだ。
二人は、カーテンの隙間《すきま》から覗《のぞ》いては、批評をしたりおしゃべりをしたりしているうちに、まるで仲よしの友達のように打ちとけてしまった。ローリーも、もう内気の少年ではなくなっていた――というのも、ジョオの男の子めいた様子がローリーにはおもしろくてたまらず、いつかすっかり気楽な気分になれたのだ。ジョオもまた、いつもどおりの快活さをとりもどしていた。服のことなど忘れていられたし、眉をあげて牽制《けんせい》されることもなかったからだった。
ジョオはこの隣家の少年が、前よりずっと気にいってきていた。で、家へ帰ってからみんなによく説明できるように、何度もよく観察しておぼえておいた。兄弟がなく、男のいとこも少ないので、男の子というものはこの姉妹にとっては、まったく未知の存在だったのだ。
――捲毛《まきげ》の黒い髪、とびいろの肌、大きな黒い目、いい格好《かっこう》の鼻、そろった歯並び、手足は小さく、背はあたしより高く、男の子にしては礼儀をわきまえ、とってもおもしろい人。年令《とし》はいくつかしら?――
舌の先までこの質問が出かかったが、ぐっとのみこんで、ジョオらしからぬ手段を弄《ろう》して、遠まわしに聞きだそうとした。
「もうすぐ大学でしょ? ガリ勉――じゃなかった、ずいぶん熱心にお勉強らしいから」ジョオは、つい口がすべって、ガリ勉などと言ってしまったので、さすがに赤くなった。ローリーは笑いはしたが、べつにあきれた顔もせず、肩をすくめて答える。
「まだ一、二年先のことだな。十七になるまでは、どうせ行かれないもの」
「でも、十五にはなってるんでしょ、いくらなんでも」ジョオは、内心十七くらいだろうと思っていたので、あらためてこの背の高い少年を眺めた。
「来月で十六です」
「大学に行かれたらどんなにいいかしら! あなたったら、あんまり乗り気じゃないみたい」
「大嫌いだ。ガツガツやるかふざけ歩くかのどっちかだもの。それに、この国の学生生活が、ぼくは嫌いなんだ」
「じゃ、何が好き」
「イタリアに住んで、ぼくのしたいことを心のままにすること」
ジョオは、彼の言う≪したいこと≫が何か、聞いてみたくてたまらなかったが、そのぎゅっと寄せた黒い眉を目にすると、それ以上立ち入ってはいけないと感じて、話題を変えた。さり気《げ》なく、足で拍子《ひょうし》をとりながらジョオは言う。「お隣の部屋にあるピアノ、すばらしいわ。あなたも行って弾いてみたらいかが?」
「もしあなたもおいでになるなら」少年は、騎士《ナイト》のようにきどって頭をさげ、うやうやしく言った。
「それがだめなの、メグに約束したもので。じつは、――」ジョオは言いかけたものの、打ちあけたものか、笑ってごまかしたものか迷う顔つきになった。
「じつは、なんです?」ローリーは好奇心をそそられる。
「誰にも言わない?」
「絶対に!」
「あのね、あたし、暖炉を背にして立つ癖があるのよ、そして、服を焦がすの。この服もそうなの。ずいぶん上手《じょうず》に、ごまかしてはあるけれど、でもやはりわかるわ。で、メグが、じっと動かずにいなさいって言ったの、人に見られないようにって。どうぞ笑ってちょうだい、かまわなくてよ。滑稽《こっけい》でしょ、こんなの」
ところが、ローリーは笑わなかった。ただ、じっと下を向いていた。ジョオは、その彼の表情を判じかねていると、ローリーはじつに優しく言ったのだ。「そんなこと、気にしないで。さあ、いっしょにここを出ましょう」
ジョオは礼を言い、喜んで彼について出ていった。そして、自分のパートナーのはめている真珠色の手袋に目がとまると、自分も、ちゃんとしたのが二つあればなあ、と、片方だけの手袋がうらめしかった。
音楽が終わると、二人は腰をおろした。そして、ローリーのしてくれる、ハイデルベルク[ドイツ最古の大学の所在地。古城などのある美しい古い町]の学生祭の話が佳境《かきょう》に入ったところに、メグが探しにやってきてしまった。彼女に手招きされて、ジョオがしぶしぶ控室に入ると、メグは、ソファーで足をかかえ、青い顔をしていた。
「足首をくじいたみたいなの。あのにくたらしいハイヒールがわるいんだわ――くるっとかえって、ひどくねじったのよ。ものすごく痛くて、立ってもいられないくらい。どうして家へ帰ったらいいのやら」痛みがひどいとみえ、からだを前後にゆすりながらメグはあわれな声を出した。
「そんなバカげた靴、きっと足を痛くすると思ったんだ。こまったわね。でも、馬車を頼むか、ここに泊るかよりほか、どうしようもないんじゃない」そっと姉の足首をなでながら、ジョオは言った。
「馬車なんて呼べないわ。すごく高いんですもの。第一、呼べやしないんじゃないの。たいていの方が自家用ですもの、流しのが来るわけもないし、馬車屋は遠くだし。呼びにやる人もいないわ」
「あたしが行く」
「だめよ! もう九時すぎだし、エジプトみたいに暗いわ。ここに泊まるわけにもいかないのよ。サリーのお友達が五、六人泊まるから、お部屋は満員だし。しかたがないわ、ハンナが来るまで休んでいて、なんとかして帰るわ」
「ローリーに頼んでみる。きっと呼びに行ってくれるわよ」いい知恵が湧いたので、ジョオはほっとした顔をした。
「とんでもない! 誰にも言ったり頼んだりしてはだめよ。ね、あたしのゴム靴とって、そして、この踊り靴をほかのものといっしょにしといてね。お夜食がすんだら、ハンナに気をつけてて、来たらじき知らせてね」
「みんな、今お夜食に行くとこ。あたし、ここにいっしょにいるわ。そのほうがいいんだ」
「だめよ、ね、ちょっと行って、コーヒー持ってきてよ。あたし、疲れて口もきけないくらいなの」
というわけで、メグは、ゴム靴が目につかないように隠して、ソファーの背にもたれて休み、ジョオはうろうろと食堂を探しまわり、陶器をしまってある小部屋にとびこんだり、ミスター・ガーディナーが、一人でグラスを傾けている部屋のドアを開けたりしたあげく、やっと見つけられたのだった。人をかきわけ、テーブルにとびつき、問題のコーヒーを獲得《かくとく》はしたものの、たちまちそれをこぼして、ドレスの前身に、うしろ同様のひどい汚点《しみ》をつくってしまった。
「ああたいへん! なんてぶぎっちょだろう、あたしって!」ジョオは叫びながら、汚れついでとばかり、メグから借りた片方の手袋でゴシゴシしみをふく。
「どうかしましたか?」親しげな声がした。ふり向くと、片手にコーヒー茶わん、片手にアイスクリームのお皿を手にしてローリーが立っていた。
「メグがひどく疲れてるので、何か持っていってあげようと思って。そしたら、誰かにぶつかられ、ほらこの始末」ジョオは、しみだらけのスカートからコーヒー色に染まった手袋へと目をやり、弱りきった顔で答えた。
「気の毒に! 今、これを誰かにあげようと思ってたとこなんだ。おねえさまに持ってってあげていいですか」
「まあ、ありがとう! メグのいる所へご案内するわ。自分で持って行きますって言いたいとこだけど、だめなの。きっとまたヘマをしでかすから」
ジョオは先に立って歩きだした。ローリーは、淑女《レディー》のあつかいには馴れているという様子で、小テーブルをメグの前に運び、ジョオのためにもコーヒーとアイスクリームを取ってきてくれた。その骨身《ほねみ》惜しまぬローリーの態度は、男の子には点のからいメグにさえも、「いい方ね」と言わせるほどりっぱだった。三人は、ボンボンをつまんだり、ボンボンに入っている辻占《つじうら》を読んだりして楽しく時を過ごし、そこへふらっと入ってきた若い仲間二、三人とバズ[子どものあそびの一種。一から順に数を言い、七とその倍数にあたった人はバズと言い、言いそこなった人は罰を受ける]を始めて熱中している最中に、迎えのハンナが現われた。
メグは、足の痛いのを忘れ、いきなり立ちあがったので、悲鳴をあげてジョオにしがみついた。
「シッ! 何も言わないで」ジョオにはそう小声でいって、メグはあらためて「なんでもないんですの。ちょっとひねっただけよ」と言い添えると、びっこをひきひき二階へ支度をしに上がっていった。
支度部屋では、ハンナは小言を言うし、メグは泣きだすし、さすがのジョオも途方にくれ、ここはなんとか自分が処理しなくてはと決心した。こっそり部屋をぬけだすと、階段をかけおり、召使をみつけて、馬車を呼んでもらえないか頼んでみた。が、それが臨時雇いの給仕だったので、この土地には不案内ということなのだ。誰か助けてはくれないかと、くるくるあたりを見回していると、ジョオの話声を耳にしたローリーがやってきて、ちょうど、祖父が迎えによこしてくれた馬車があるから、それを使ったら、と言うのだ。
「まだこんなに早いのに。まだお帰りじゃないんでしょ、あなたは?」ジョオはほっとしたものの、彼の申し出を受けていいものかどうかためらう。
「ぼくは、いつも早く引きあげるんです――ほんとですよ! ぜひお宅まで送らせてください。どうせ通り道なんだし、雨だそうですよ、外は」
これですべてがうまくいった。で、ジョオは、メグが運わるく足を痛めていることを話し、彼の親切を感謝して受け、メグとハンナを連れに二階へとんで帰った。ハンナは猫同様、雨が大嫌いなたちなので、もちろん異議のあるはずはなく、三人は、豪華な箱馬車に揺られて晴れがましい気分を味わい、急に一段と上品になったような思いをしながら家へと向かった。ローリーが駆者《ぎょしゃ》席に乗ってくれたので、メグは遠慮なく痛む足を高くしたまま、二人で、パーティの話を、誰に気がねすることなく続けられた。
「あたしはとっても楽しかった。メグは?」髪をくしゃくしゃっと掻きあげ、ほっとくつろいだ気分になり、ジョオはメグにきく。
「あたしも、足を痛くするまではね。サリーの友達のアニー・モファットが、どうしてかすっかりあたしに夢中になって、こんど、サリーが行く時に、いっしょに来て一週間泊ってくれって言ったのよ、春に行くんだそうよ、オペラがくる時。ねえ、すてきじゃない、おかあさまのお許しが出ればってことだけど」メグはそのことを考えて急に元気が出たようだ。
「お姉さん、赤毛の男の人といっしょだったわね。あの人がこっちへ来そうだったので、あたしは逃げだしたんだけど。どう、いい人だった?」
「とっても! あの人の毛、赤じゃないわ、鳶《とび》色よ。そしてとても礼儀正しいのよ」
「発作《ほっさ》をおこしたバッタみたいだったわ、あの人。ローリーと二人で、つい笑っちゃった。聞こえた?」
「いいえ。でも、ずいぶん失礼なことね。あなたたち何をしてたの、それより。あんな所に隠れたりして」
ジョオは、自分の冒険《ぼうけん》の数々を話し、やっとそれが終わった時には、もう家についていた。何度も何度もお礼を言ってから、おやすみなさいの挨拶《あいさつ》をして、二人は、誰も起こすまいと、足音をしのばせて入っていった。だが、部屋のドアがキーっと鳴ると同時に小さなナイトキャップが二つ、むっくりと枕からあがると、ねむたそうなくせに、待ちかまえていたように二通りの声があがった。
「パーティのお話、聞かせてよ! 何もかも、みんなよ!」
メグに言わせればお作法はずれのことなのだが、ジョオは、妹たちのためにボンボンをこっそりしのばせてきていた。その夜でのいちばんすてきだったできごとを聞いてしまうと、二人ともすぐに静かになった。
「パーティからは馬車に揺られて帰り、こうしてガウンにくつろいでベッドにすわり、小間使《こまづかい》につきそわれるなんて、あたし、まるで本物の貴婦人になったみたいだわ」メグは、ジョオに湿布をしてもらい、髪をとかしてもらいながら、感激の声をあげた。
「でも、本物の貴婦人だって、あたしたちほどは楽しかないんじゃないかな――髪はこげ、服はお古、手袋は片方ずつ、うっかりはこうものなら、足首をくじくほどきつい靴、こんな悪いことぞろいでもね」たしかにジョオの言うとおりだった。
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第四章 重荷
「ああァ、重荷をしょって、とぼとぼと長い道のりを歩きだすっていうこと、つらいわね!」パーティのよく朝、メグはこう溜息をついた。休暇は終わり、お祝い気分に満ちた一週間のあと、もともと好きではない仕事にとりかかる気になるのは、容易なことではないのだ。
「始終《しじゅう》、クリスマスかお正月だといいなあ! さぞ楽しいだろうに」ジョオも思わず出たあくびをかみ殺していう。
「そうだとしたら、もっとも今ほど楽しくないかもしれないけど。でも、軽いお夜食だとか、花束だとか、パーティに行って、馬車で帰ったり、読書だの休息だので日を送り、働かないでいいって、すてきだと思うわ。まるで別世界の人間になったみたい。いつもこうしていられる人たち、あたし、うらやましいわ。贅沢《ぜいたく》って、いいわねえ」メグは、二枚の古ぼけた服のどっちが、少しはましか決めかねている。
「そうね、でも、それは願ってもむだなんだから、愚痴《ぐち》はやめて、重荷をひっちょっててくてく歩くのよ、ママみたいにね。マーチ伯母は、あたしにとってはまさしく海じいさん[アラビアンナイト「船乗りシンドバッド」の登場人物。人におぶさると絶対におりずに苦しめる老人]だと思うんだ。でも、不平を言わずにおぶって歩いてさえいれば、いつかはひとりでに離れてくか、すごく軽くなって、おぶってることを忘れちまうか、ってことになると思うわ」
この思いつきは、ジョオには大いに気にいり、すっかり上機嫌《じょうきげん》になった。だがメグの顔はいっこうに晴れないのだ。四人ものわがままな子どもたちのおもりをすることが、きょうは前以上の重荷としか思えないのだ。いつものように、ブルーのリボン飾りを首に結んだり、気にいったように髪をゆったり、せめて精いっぱいのおしゃれをしてみようという心の張りさえないのだ。
「すてきに見えたって、どうってこともないわ、あの手に負えないやんちゃっ子たちにしか見てもらえないんじゃあ。誰も、あたしがきれいかどうか、気にもしてやしないんですもの」メグはひきだしをガタピシ閉めながらぶつぶつ言っている。「あたしなんか、始終こうしてこつこつ働いて、ほんの時たまおなさけ程度の楽しい思いをして、どんどん年をとり、みっともなくなって、愚痴《ぐち》っぽいオールド・ミスになるんだわ。それもこれも、貧乏で、ほかの女の子たちみたいに楽しい生活ができないからだわ。ひどいわ、ほんとに!」
メグは、そのままのふくれ面《つら》で階下へおり、朝食の席でもいっこうに機嫌をなおさなかった。メグだけでなく、みんなの調子がおかしかった。きっかけがあれば、何か文句を言うのだ。ベスは、頭が痛いと称してソファーに横になり、親猫と三匹の子猫を相手に気をまぎらし、エイミーは、宿題がまだできていないのと、ゴム靴がみつからないのとでいらいらしている。ジョオは今にも、口笛を吹きそうで出かける前に一騒動おこしかねない顔つきなのだ。ミセス・マーチは、すぐ出さなければならない手紙を書きあげようと、夢中でペンを走らせているし、ハンナは、性《しょう》に合わない夜ふかしのせいで、今朝は仏頂顔《ぶっちょうづら》だ。
「こんな怒りんぼぞろいの家なんて、みたこともない!」ジョオが叫んだ。インク壺《つぼ》をひっくり返し、靴ひもを二本も切ったあげく、自分の帽子の上にどさっとすわってつぶしてしまい、ついに癇癪玉《かんしゃくだま》が破裂したというわけだった。
「中でも、ジョオねえさんが一番だわ!」エイミーがやり返す。せっかくやった計算が全部ちがっていたので、こぼした涙でその石盤を消しながら。
「ベス、あんたのいやらしい猫たちを地下室に入れとかないと、みんな溺死《できし》させちゃうから」背中にはいあがった子猫を振り落とそうとするのだが、手のとどかない辺に、栗のイガのようにはりついてびくともしないのに、メグはむかっ腹をたてている。
ジョオは笑い、メグは叱り、ベスは不平声で訴え、エイミーはめそめそ泣きだす――九掛ける十二の九九を習わなかったというので。
「みんな、ちょっとのあいだ静かにしてちょうだい! この手紙は、何がなんでも朝の便《びん》で出さなけりゃならないんですよ。それだのに、つぎからつぎへとあなたたちがうるさいことを言うから、気が変になりそうですよ」ミセス・マーチは、これでもう三べんめの、書き損じを消しながら、とがった声を出した。
一瞬シーンとしたが、ハンナがそれを破った。ぬうっと入ってきて、ほかほかの丸パイをテーブルにおき、またぬうっと出ていった。この丸パイは、この家の名物だった。娘たちは、それをマフと呼んでいる。本物の|手覆い《マフ》を持たない姉妹にとって、この熱いパイは、寒い朝にはこの上ない慰めなのだ。ハンナは、どんなに忙しい朝も、機嫌のわるい時も、これを忘れずにつくってくれた。寒い道を遠くまで歩いて行かなければならない嬢《じょう》さまたち、お昼にも別に食事が出るわけでなく、二時前には帰れないから、ということで。
「猫をだっこして、頭痛をなおすのよ、ベス。行ってきます、ママ。今朝は、みんなほんとうに悪い奴でしたけど、帰ってくる時はいつもどおり天使になってますからね。さ、メグ、行こう!」ジョオは、さっさと歩きだした。お遍路《へんろ》さんたちは、どうも出だしがよくないな、これでは先が思いやられるという気がしながら。
この家の娘たちは、通りの角を曲がる時、きっとうしろを振り返る。母親が窓|際《ぎわ》に立っていて、ほほえみ、うなずき、手を振ってくれるからなのだ。それがないと、その日一日を無事にすごせないような気がしている。どんな気持ちの朝も、最後にちらっと目におさめる母親のいつくしみぶかい顔が、一日中、太陽の光のように、彼女たちを照らしてくれるのだった。
「ママが、ああしてキスを投げるかわりに、ゲンコツを振りあげたって当然だな。あたしたちみたいに不平たらたらの自堕落《じだらく》むすめなんて、ありゃしないもの」ジョオは、雪の積もった道と刺《さ》すような風に、罪をつぐなっているような満足感をおぼえながら言った。
「下品なことばを使うのはよしてよ」メグは、世を厭《いと》う尼さんのように、幾重《いくえ》にもまきつけたベールの奥からたしなめた。
「あたし、強烈なことばが好きなんだ――ぐんと胸にこたえるような」ジョオは危く遠くへ吹きとばされそうになった帽子を、ピョイととびあがって巧みにひっつかんだ。
「あんたが自分のことをどう命名しようと勝手よ。でも、あたしは悪い奴だの自堕落むすめなんかじゃないから、そう呼ばれるのはごめんだわ」
「メグは、けさは、失意の人ってわけだし、たしかにご機嫌ななめよ。その理由っていえば、年中|贅沢三昧《ぜいたくざんまい》に日を送れないっていうことだったっけ。ねえ、まあ待っててよ、今に、あたしがうんとお金をもうけて、馬車だのアイスクリームだのハイヒールだの花束だの、欲しいものはなんでも手に入るようにしてあげる。おしゃべりのお相手の赤毛の男の子もよ」
「バカねえ、ジョオったら!」と言いながら、メグは思わず笑いだし、大分気分も明るくなれた。
「バカでよかったでしょ。だって、もし、あたしまでいっしょにふさぎ虫にとりつかれ、シーンとしちゃってたら、どうしようもないじゃないの。幸《さいわ》いにも、どんな時にもあたしは逃げ口がある。何かおかしなことをみつけて、気分を変えられるんだから。もう泣きごとはやめにして、陽気に帰宅ということにしましょうね」
ジョオは元気づけに姉の肩をたたき、それぞれの方角へ、それぞれの小さなほかほかパイを抱きかかえ、うっとうしい冬の天気も、つらい仕事も、せっかくの若い時代に楽しさを求めながらも満たされぬ不平も、みな忘れて、元気に明るくその日を送ろうと別れていった。
父親のミスター・マーチが、不運に見まわれた親友を助けるために、自分の財産を投げだした時、年上の二人は、せめて自分達の生活費の足しになるように、何かさせてくれと頼んだのだ。生活力とか勤勉さとか独立の精神とかいうものは、なるべく早く養ったほうがいいと信じていた両親は、娘たちの申し出を受けいれ、二人は、どのような障害を越えても、いつかは初志を貫くという健気《けなげ》な決心のもとに、喜んで仕事についたのだった。
マーガレットは、幼い子ども相手の家庭教師の職を得て、わずかばかりでも自分の手で得た月給で、急にお金持ちになったような気がしたものだった。彼女自身言ったように、前には≪贅沢好き≫だった。そして、最大の悩みは貧乏だったのだ。姉妹の中でも、彼女は、ことに、貧乏であることに堪えられないのだ。長女のせいで、まだ家がりっぱで、何一つ不自由のない、楽しくいい暮らしをしていた頃をよくおぼえているので、なお今の生活がつらくてたまらないのだ。人をうらやむまい、不満はもつまいとつとめてはいても、若い娘が、きれいな物や陽気な仲間や稽古《けいこ》ごとに憧れるのは、これまた無理のない話なのだ。それに、彼女は、仕事先のキング家で、毎日、目に毒なものばかり見せられている。つまり、子どもたちの姉たちが、ついこの間社交界に出たばかりなので、メグは、折にふれて、華やかなパーティ・ドレスや花束を目にしたり、芝居や音楽会の噂や、橇《そり》のパーティなどの楽しい集《つど》いの相談などが否応なく耳に入り、自分ならどんなに、有益に色々なことに使えるだろう多額のお金が、つまらぬことにパッパと浪費されているのを見せつけられるのだった。
メグは、めったに愚痴《ぐち》は言わないのだが、何かの折に、世の中があまりにも片手落ちだと思うと、世間に八つ当たりしたい気分についなりがちなのだ。それというのも、彼女はまだ、どれほど、豊かな神の祝福を受けているかを知らず、その祝福こそ幸多い人生を約束するものだということに気づいていないからだった。
ジョオは、前から、マーチ伯母のお気にいりだった。この伯母は足がわるく、その足がわりにきびきびと動ける付き添いが必要なのだ。自分に子どもがないので、マーチ家が財産を失った時、娘を誰か養女にしたいと申し出たのだが、それをことわられて、すっかり腹をたてていたのだった。夫妻の友人連は、この金持ちの老婦人の遺言状にとりあげられるチャンスは、これですっかりなくなったなどと、マーチ夫妻に言ったものだ。だが、俗世のことに関心の薄い二人は、ただ、こう答えたきりだった。
「どれほどの財産を積まれても、娘と引き替えにはできません。お金があろうとなかろうと、わたしたちはそろって暮らし、お互いに幸せを分けあいますよ」
で、この老婦人は、当分は一家と絶縁状態だったが、友人の家でジョオと出合い、彼女のユーモアに富んだ表情と、男の子のようなきどりのない態度に、妙に心をひかれたと見え、お相手役に頼みたいと言ってきたのだ。ジョオの方では、こんな仕事はいっこうにうれしくなかったのだが、ほかにこれといった口もなかったので、結局引き受けたのだった。そして、誰もがおどろいたことに、この気の短い伯母さんと、けっこううまくいっているのだ。もっとも、この老人は時折大荒れに荒れることがあり、一度など、ジョオは、もうこれ以上がまんができないと宣言して、とっとと家へ帰ってきてしまったこともあった。だが、マーチ伯母はさっさと機嫌《きげん》をなおし、ぜひ帰ってきてくれと迎えをよこし、遮二無二《しゃにむに》せきたてるので、もともとこのおこりんぼの老人が嫌いではないジョオは、つい折れてしまうのだった。
じつを言うと、ジョオのほんとうの目的は、マーチ伯父《おじ》が亡くなって以来、ほこりとクモの巣に埋まったままになっていた、すばらしい本がたくさんある広い図書室らしかった。ジョオは大きな辞書で鉄道だの橋だのをつくらせてくれたり、ラテン語の本に入っている奇妙なさし絵についてお話をしてくれたり、町で逢うと、いつもカードいりのしょうがパンを買ってくれたりした、やさしいマーチ伯父をよくおぼえていた。そのほのぐらいほこりのにおいのする部屋――丈高い本棚の上からは石膏《せっこう》の胸像が見おろし、すわりごこちのいい椅子、地球儀などがあちこちにある。そして、何よりすばらしいのは、気ままにさまよい歩ける書物の広野《こうや》。この図書室が、ジョオにとっては、祝福の園であるのも当然だった。マーチ伯母が昼寝をしていたり、お客があったりすると、ジョオは急いでこの静かな部屋へやってきて、安楽椅子にまるくなると、詩、小説、歴史、旅行記、画集と手当たりしだいむさぼり読み、本の虫の真面目《しんめんもく》を発揮した。
だが、幸福というものがすべてそうであるように、これも長くは続かなかった。物語のいちばんおもしろいところ、詩のもっとも美しいくだり、旅行家がもっとも危険な冒険にかかるという、まさにこれからといった時になると、かならず、「ジョズィフィーン! ジョズィフィーン」と伯母のきんきん声がひびき、ジョオは楽園を出て、毛糸を巻いたり、フードを洗ったり、『ベルシャム随想集』[トマス・ベルシャム(一七五〇〜一八二九)ユニタリアン派の聖職者]などという退屈な本を一時間もいっしょに読まされたりということになるのだった。
ジョオの大望は、なにかすばらしいことをすることだった。それがなんだかは、まだ自分でもはっきりしてはいないのだが、そのうちになんとなく方向が見えてくるだろうと思っていた。そして、今のところは、心ゆくまで読書したりかけまわったり馬に乗ったりということができないという目の前の現実に、大いに煩悶《はんもん》中なのだ。短気で、ずけずけ物を言い、せかせかした気性のせいで、ジョオは失敗ばかりして、その生活も、いい時はばかにいいかわりに、わるいとなるとどん底まで落ちるということのくり返しで、他人から見れば滑稽《こっけい》でもあり、悲壮でもあるといったところだった。だが、マーチ伯母のもとでの修業《しゅぎょう》は、ジョオにはまことに薬になるものだったし、自分の生活を多少なりとも自力でたてていると思えることで、のべつまくなしの「ジョズィフィーン!」にもかかわらず、ジョオはうれしいのだった。
ベスは、その内気さのせいで、ふつうに学校へ行けないでいた。試してはみたのだが、なんとしてもつらそうなので、両親もあきらめ、父親の指導で、家で勉強をしていたのだった。そして、父が戦場へ行ってしまい、母も手仕事の才能と精力のありったけを軍人援護会に捧げ、始終家を留守にするようになってからは、ほとんど自分ひとりで勉強をつづけていた。彼女は、だいたいが良妻タイプのかわいい少女で、ハンナを助けて家を整え、外で働いて帰る家族のために、居心地のよい寛《くつろ》ぎの場所をつくろうと心がけているのだ。そして、何ひとつ報酬をあてにはせず、ただ、みんなから愛されていればそれで満足していた。ひっそりと長い一日を送りながらも、さびしがりもせず、ぼんやり時を過ごしてもいなかった。その小さな世界は、空想の友達でいっぱいだったし、もともとが働くことが好きな性質なのだ。
毎朝、おこしてやり着替えをさせなければならない人形が六つもある。つまり、ベスはまだまだ子どもで、そのペットたちを相も変わらずかわいがっているのだ。どれ一つとってみても、完全なものはなく、うすよごれていた。ベスが拾ってやるまで、みんな厄介《やっかい》者だったのだ。姉たちが、もう人形あそびの時期を脱した時、エイミーは、古いものや汚ないものは寄せつけない子なので、お古《ふる》の人形が全部ベスに引きつがれたということなのだった。
ベスは、エイミーとちがい、古くきたなくなっているからなお、その人形たちをかわいがり、病気の人形のための病院をつくったりした。綿をつめた胴体にピンをつきたてたり、どなりつけたりということは一度もしたことがないし、見るも無惨《むざん》なボロ人形でも忘れてほっておかれることがないので悲しい思いをしたことがない。どれもこれも、ちゃんと食事をさせ、服をきせ、看病したりかわいがったり、そのこまやかな愛はつきることがなかった。
その中でも、ことに見る影もないあわれな人形は、以前ジョオのものだった。あらしのような一生を送ったはてに、難波船《なんぱせん》のようなそのからだを、ボロ屑《くず》袋に横たえていたのを、ベスに助けだされ、何の希望もない貧民窟《ひんみんくつ》住まいから、あたたかい避難所へと移されたのだ。頭のてっぺんがなくなっていたので、ベスは、小ざっぱりした小さな帽子をしばりつけてやり、両手両足もなかったので、毛布でしっかりくるんで、最上のベッドにこの不治の病人を横たえてやったのだった。この人形に注いでいるベスの愛情の深さを知ったら、たとえ笑ったとしても、誰しも心を打たれるはずだった。彼女は、小さな花束を持っていってやったり、本を読んでやったり、はては、よい空気を吸わせるために、外套の中に抱いて、表へ連れていってやったりするのだ。夜には子守うたで寝かしつけてやり、その汚れた顔にキスをして「かわいい坊や、いい子でねんねなさいね」と言ってからでないと、決して寝に行かなかった。
ベスもまた、姉たち同様、彼女なりの悩みがあった。そして、天使ならぬ、ごくふつうの女の子だったので、ジョオの言う、めそめそ泣きをしばしばするのだ。理由は、ピアノを習わせてもらえないことと、よいピアノがないことだ。彼女は、音楽が好きで好きでたまらず、曲を夢中でおぼえ、古ぼけて満足に音も出ないピアノでじつに辛抱づよく練習をつづけるので、誰か――べつにマーチ伯母がとは言わないまでも――当然援助の手をさしのべるべきだと思うほどだった。だが、そういう人は現われないし、彼女がたった一人でいる時、ぜんぜん音がはずれっぱなしの、古びて黄色くなった鍵盤《けんばん》の上にこぼした涙を拭いているのも、誰も見たことはなかった。ベスは、仕事をしながら、かわいいヒバリのように歌い、ママや姉妹たちのためには、どんなに疲れていても、喜んでピアノを弾き、来る日も来る日も、≪もしあたしがいい子だったら、いつかは音楽もあたしのものになるのよ≫と自分に言いきかせて望みを持つのだった。
世の中には、ベスがたくさんいる――はにかみやで、物静かで、用のない時は隅にひっそりすわり、ほかの人のために喜んでつくす――だが、炉ばたのコオロギのささやかな歌がフッと絶え、太陽の光のようなやさしい存在が、静かな陰だけを残して消えてしまうまでは誰もその犠牲《ぎせい》の数々には思いいたらないものなのだ。
もし誰かが、エイミーに、いちばんの悩みは何だと聞いたならば、彼女は即座に、あたしの鼻よと答えるにちがいない。まだ赤ちゃんだったころ、ジョオが石炭いれの中へ、うっかりして落としたことがあったのだが、エイミーは、その時以来、自分の鼻がこんな格好《かっこう》になって直らないのだと言い張っている。べつに、あわれなペトリアの鼻のように、大きくも赤くもない。ただ、どちらかと言えば横にひろく、どんなに熱心につまみあげることを続けてみても、いっこうに貴族的にツンと高くはならない。誰も変だと思わないし、鼻は鼻で、着々と育っているというのに、エイミーは、それがギリシア型でないのがなんとも残念で、紙いっぱいに理想の鼻をかきちらして、せめてものうさ晴らしをしていた。
小ラファエル[ラファエルはイタリアルネサンス時代の画家。宗教画に傑出していた]と姉たちが綽名《あだな》をつけただけあり、エイミーはたしかに絵の才能があり、花の写生をしたり、妖精を想像にまかせて描いたり、物語に風変わりなさし絵を描いたりしている時は、この上なく幸せなのだ。学校の先生は、算数の時間に、計算はそっちのけで、石盤いっぱい動物を描いているとお小言《こごと》をいう。世界地図の裏ページは、地図の模写で埋められるし、本という本のぺージからは、先生や友達をとてつもなく滑稽《こっけい》な漫画に仕立てたのが、具合のわるい時に限ってヒラヒラ舞いおちるというしだいだった。だが、勉強は能力相応の成績だったし、行儀作法では組の模範だったので、大してお吃りを受けることもなかった。気立てがよく、そのままで人に好かれるという得な術を備えているので、クラスでは人気者だった。ちょっときどった様子もしとやかなふるまいも、みんなの尊敬の的だったし、得意なものも絵のほかにいくつかあった。十二もの曲が弾け、編物もうまく、フランス語なども三分の二しか発音しそこなわないのだ。何かというと、「パパがまだお金持ちだったとき、うちではいつもこうだったああだった」などと、いかにも悲しげに言うので、みんなは大いに心を打たれ、例のもったいぶった単語を使うのまでが「とってもお上品だわ」ということになるのだった。
エイミーは、どうしてもわがままになりがちだった。家では、誰もがこの末っ子を甘やかすので、その小さな見栄《みえ》っぱりと利己主義とは育つ一方だった。だが、一つだけその見栄に水をかけるものがあった。服はいつも従妹《いとこ》のお古を着なければならないというのがそれだ。だいたい、その従姉フローレンスのママが、およそ趣味がわるいので、エイミーは、気にいりの色ブルーのボンネットではなく赤をかぶらねばならず、およそ似合わない服や、大げさな、それも寸法の合わないエプロンを身につけさせられるというわけなのだが、どれもこれも、品は上等で、仕立てもよく、ほとんどいたんでもいないのだ。だが、エイミーの審美眼《しんびがん》にかなうものは一つもないということなので、ことにこの冬は、通学着用にくすんだ紫《むらさき》に黄の水玉というのがまわってきて、彼女は大いに悩まされたのだった。
「たった一つ、それでも慰めがあるわ」エイミーは涙をためて、メグに訴えた。「うちのママは、マリア・パークのおかあさんみたいに、何かわるいことをするたびに、服に≪あげ≫をしたりはなさらないもの。ねえ、ほんとにひどいのよ、だって、あの人とてもわるいらしくて、膝っこが出るほどあげをされて、学校へ来られないこともあるのよ。そんな堕落的なことを考えると、お鼻がぺちゃんこだって、黄色の流星花火がついた紫の服だって、がまんできるわ」
メグは、エイミーがもっとも信頼しているし、よくその言うことをきく相手だった。そして、正反対の性格がお互いを求めるとみえ、ジョオはベスに特にやさしかった。ジョオにだけ、この内気な少女は思っていることを話し、この勇ましい姉に、家族の誰よりも強い感化を知らず知らず及ぼしているのだった。上の二人は、お互いに重きをおいていたが、それぞれ妹の一人を自分の保護下において、それぞれのやり方で面倒をみていた。おかあさんゴッコと二人はそれを称し、≪小婦人《リトル・ウイメン》≫の母親本能のままに、二人の妹を、棄ててしまった人形がわりにしていた。
「誰か、何か話すことないの? きょうは一日中、いやな日だったのよ。何かおもしろいことがあったら、どんなにいいかしら」その夜、みんなが寄り集まって縫いものを始めるとメグが言った。「伯母さんとこで、妙ちきりんなことがあったのよ。それがじつに傑作なんだから話してあげる」話好きなジョオが始めた。「きょうもまた、例の『ベルシャム』を読まされてたの。例のとおりわざと一本調子でのろのろとね。だって、そういう読み方をしていると、伯母さんたらすぐコックリコックリやりだすから、待ってましたとばかり、こっちの読みたい本をとりあげて、伯母さんが目をさますまで無我夢中《むがむちゅう》で読むという算段なの。ところが、きょうは、自分が先に眠くなっちまって、伯母さんがコックリやりだす前に、とんでもない大あくびが出ちまったのよ。伯母さんたら、そんな大口あいて、本を丸呑《まるの》みにでもする気か、だってさ。≪そうできたらいいと思います。それで片づきますもの≫って答えたのよ、そりゃあ気をつけてね、気をわるくしないように。ところが、彼女ったら、あたしの罪とやらについて、長ったらしいお説教をして、ちゃんとすわってよく反省しなさい、その間、ちょっとばかりうとうとするからね、なんて言ったのよ。そのうとうとがいつも長いんだから。で、伯母さんの頭巾《フード》が、頭でっかちのダリアみたいに、かくんとさがったのを見とどけたとたん、あたしは、ポケットから『ウエイクフィールドの牧師』をさっととりだし、片目で伯母さんを看視しながら、残る片目で読みだしたっていうわけ。ところが、全部の人が、川へころがり落ちるくだりへ来た時、ついうっかりして、大声で笑いだしたの。伯母さんは目をさましたわよ。もちろん。でも、いつもうたた寝のあとはご機嫌がよくなるもので、≪あの尊い教訓的な『ベルシャム』よりも好きな本というのは、いったいどんなくだらぬものか、伯母さんに読んでおきかせ≫なんて言ったわ。これ幸いと、いっしょうけんめい読んだら、どう、これがお気にいったらしいのよ。だって、≪何がなんだかさっぱりわからないね。もう一度、こんどは初めから読んでごらん≫だって。おおせのとおり、初めの方にもどって、プリムローズ一家を、うんとおもしろく読んだのよ。一度なんか、わざと意地わるして、わくわくするような所で急に読むのをやめて≪お疲れになるといけませんから、もうよしましょうね≫なんて猫なで声出したりしてね。伯母さんは、膝の上に落とした編物をあわてて拾いあげて、鼻|眼鏡《めがね》ごしにじろっとにらんで、例のつっけんどんな言いかたで、こう言ったわ。≪その章を全部読んでおしまい。失礼なことを言ってないで≫って」
「伯母さま、その本が気にいったことを認めたの?」
「じょうだんじゃないわ! でも、とにかく、ふるなじみのベルシャムにはしばしの休暇を与えたもの。それに、帰りに手袋を忘れて、あわててかけもどったら、なんと、伯母さん、その本を読んでるじゃないの。あたしが玄関でジーグ[テンポの早いダンス]を踊って笑っても、てんで聞こえないくらい夢中でね。まさに好機到来ってとこね。伯母さんだって、その気にさえなれば、じつに楽しく毎日を送れるのに! あたしは、ちっともうらやましくないな、伯母さんなんか。たとえお金があったって、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるもの、貧乏人と同じくらい。と、あたしは思うんだ」
「そう言えば」メグが言いだした。「あたしにも話すことがあったわ。ジョオのお話みたいにおもしろくはないのよ。でも、帰るみちみち、ずっとそのことを考えてたくらい。キングさんのお宅では、どうしてかみんないらいらしていたわ、きょう。子どもたちの一人が言うのに、いちばん上のおにいさんが何かとても悪いことをしたので、パパが遠くへやってしまったそうなの。あたしも、ミセス・キングが泣いている声と、ミスター・キングが大声で何か言っているのを耳にしたし、グレイスとエレンは、すれちがうとそっぽを向いたりして。目がまっかになっているのを見られたくなかったんでしょ。もちろん、あたし、何もきいたりはしなかったわ。でも、みんなに同情したわ、心から。そして、わるいことをして家族に恥をかかすような、素行《そこう》のわるい兄弟がなくてよかったと思ったのよ」
「でも、学校で恥をかくのは、わるい男の子がどんなことをしでかすのより、ずっとずっといやだと思うわ」エイミーは、自分の人生体験こそ、大いに深刻な意味をもつというように、もったいぶって首をふった。「きょうね、スージー・パーキンスったら、学校に、とってもきれいな紅めのうの指輪をしてきたの。あたし、それが欲しくてたまらなくて、スージーと入れ替わったらどんなにいいだろうな、なんて思ってたのよ。ところが、スージーったら、デイヴィス先生の似顔を描いて、ものすごく大きな鼻と背中のこぶをつけて、≪みなさん、わたしの目はいつもあんたたちを見てますぞ!≫って口から風船玉を出した中へ書きこんで。あたしたちがそれを見て笑ってたら、急に先生の目が、ほんとうにあたしたちを見てたのに気がついたの。先生は、スージーに、石盤を持って来なさいっておっしゃったわ。スージーは、こわくてからだがマシしたみたいになってたけど、でも、出てったのよ。ねえ、いったい、先生、何をしたと思って? スージーの耳をひっつかんだのよ――耳をよ! ね、ひどいでしょ! そしてそのまんま教壇へ引っぱってって、みんなのほうへ向けて石盤を持たせて、三十分も立たせたの」
「みんな、その絵を見て笑わなかった?」そのいたずらが大いに気にいったジョオが聞く。
「笑うですって! とんでもないわ! ハツカネズミみたいにシーンとしてすわってたわ。スージーは泣いてたわ、石盤のかげで、たしかにそうよ。あたし、もうスージーをうらやんだりしなかったわ。だって、あんなめにあったら、紅めのうの指輪が百万もあったって、ちっともうれしくないだろうと思ったの。あたしは、何がどうあっても、絶対にわがままできっこないわ。あんな苦悶的屈辱は」エイミーは、二つものむずかしい単語をスウッと言えたことと、誇りを重んじる自覚を持っていることを得意に思い、縫い物の手を動かし始めた。
「あたしは、今朝、とてもいい光景を目にしたのよ。お食事の時話そうと思って、つい忘れたんだわ」ベスは、ジョオの乱雑にしてある針箱を整理しながら話しだした。「ハンナに頼まれて牡蠣《かき》を買いに行った時、ミスター・ローレンスが魚屋さんにいらしたの。でも、あたしは樽のかげにかくれてたし、あちらはあちらで魚屋のカッター小父《おじ》さんとお話中だったから、目にはつかなかったわ。そこへ、貧乏な小母さんが、バケツと雑布《ぞうきん》を持って入ってきて、魚屋の小父さんに、お店の掃除をさせてはもらえないだろうかって聞いたのよ――お魚を少しでいいからわけていただけないか、子どもたちに食べさせる物が何もないのに、きょう約束の仕事がだめになったものでって。魚屋さんは商売が忙しいもので、≪だめだよ≫ってつっけんどんに言ったわ。で、女の人は、ひもじそうな悲しい顔をして、すごすご行きかけたの。すると、その時、ミスター・ローレンスが持っていたステッキの柄《え》で大きなお魚をひっかけて持ちあげて、その女の人に、とりなさいというように出したの。その人、びっくりしたりうれしがったり、どぎまぎしてたけど、しっかりお魚を受けとめて、なんべんもなんべんもお礼を言ったわ。ミスター・ローレンスは、≪早く帰って料理だ料理だ≫ってせかしたもので、女の人は大喜びで走っていったわ。すてきなお話じゃないこと? 大きなツルツルするお魚を抱きしめて、≪ミスター・ローレンスの天国でのベッドにおめぐみ多く≫なんてお祈りしてた女の人の格好《かっこう》ったら、とてもおかしかったけど」
ベスの話をきいて一笑いしたあと、こんどはおかあさまにも一つお話をということになった。ちょっと考えていたおかあさまは、まじめな顔つきでお話を始めた。
「きょう、作業場で、兵隊さんの紺ラシャの上着を裁断している時、おとうさまのことがしきりに思われてね。もし万一のことがあったら、わたしたちはどんなにかさびしく、頼りない身の上になるだろうかという気がしていました。そんなことを考えるなんてバカなことなんだけど、ついくよくよと考えつづけていると、一人のお年寄りが、衣類を配給してもらう指令書をもって入っておいでになったのよ。わたしのすぐ近くに腰かけて待っていたので、つい話しかけてしまったんです――貧しそうで、疲れて心配ごとでいっぱいといった顔が気になったので。≪息子さんが軍隊においでになったのですか?≫わたしはきいてみました。その人がもってきた指令書を見るのはわたしの係ではなかったのでわからなかったからよ。
≪はい、おくさま。四人とも兵隊になりましたが、二人は戦死いたしましてね。一人は捕虜《ほりょ》になり、残った一人にこれから逢いに行きますところでして。ワシントンの病院におりますんですが、大変悪いそうでしてね≫お年寄りは、ごく静かに答えてくれました。≪まあ、お国のためにそんなにおつくしになったんですか?≫わたしの胸は、憐れみではなく、尊敬でいっぱいになりました。≪いや、まだまだたりませんよ、おくさま。わたしがお役に立つなら、自分で行きたいところですが、もう老令《とし》ですので、伜《せがれ》どもを出しましたんで、志願兵でございます、はい≫
そのお年寄りが、心からうれしそうに、真心あふれる顔でそう言って、自分の持つすべてを捧げたことを喜んでいるのを目の前にして、わたしは自分を恥じました。わたしはただ一人戦地へ送っただけでさえ、たいへんなことだと思っていたのに、その人は、四人も国家に捧げ、愚痴《ぐち》ひとつ言わないんですからね。わたしは、家には四人の娘がいて、慰めを与えてくれます。あのお年寄りの最後にのこされた息子さんは、遠く離れた所であの人を待っているのです――それも、ただ≪さよなら≫を言うためにだけ、たぶん。わたしは、その人とくらべて、恵まれた環境にある自分が、すばらしく豊かで幸福だっていう気がしました。それで、その人が教えてくれた教訓に、心から感謝することばをのべて、心ばかりのおみやげの品と、お金を少しさしあげたんですよ」
「もう一つお話して、おかあさま――今のみたいに教訓的なのを。あとで、考えるのが好きなの、こういったお話について。つまり、作り話じゃなくて、やたらとお説教じみていないお話ね」ジョオが、少しの間をおいてから言った。
ミセス・マーチはほほえんで、すぐに話し始めた。長いこと、この四人きりの聴衆にお話をしつけていたので、どうしたら喜ぶか、ちゃんと承知していたからだった。
「昔、ある所に、四人の娘がいました。食べるものにも着るものにも不自由なく、なぐさみも楽しいことも十分にあり、心から愛してくれるやさしい友達と両親に恵まれていながら、まだ不平がちの日を送っていました」(ここで、きき手たちはちらちらっとお互いの顔を見やり、針を運ぶ手をいそがしく動かしだしました)「この四人の娘は、よい人になろうといつも思っていて、なんどかりっぱな決心をしたものでした。けれど、その決心もなかなか実行されず、なにかというと、≪ああ、あれさえあったらな≫とか、≪あれができさえしたら≫とか言っていました。自分たちがすでにどんなにたくさんのものを持ち、どれほどたくさんの楽しいことをじっさいにやっているかをすっかり忘れて。
そこで、四人は、一人のおばあさんに、幸せになるためには、どんな呪文《じゅもん》を唱えたらいいだろうとたずねました。おばあさんは、≪なにか不満がおきたら、自分たちの受けているおめぐみを思いだし、感謝することです≫と言いました」(ここで、ジョオがさっと顔をあげ、何か言おうとしたらしかったが、まだお話がつづくのに気づいてすぐまた下を向いた)
「四人は、賢い娘だったので、おばあさんの助言に従うことにしました。ところが、すぐにその効果があらわれ、自分たちがどんなに豊かかということに気がついてびっくりしたのでした。一人は、お金の力がどんなに弱く、お金持ちの家を恥と悲しみからまもることができないのを知りました。もう一人は、自分は貧しくとも、若さと健康と明るい気性に恵まれているので、豊かな生活を楽しむこともできない、怒りっぽい、病身な老婦人より、ずっとずっと幸福なのだということを知りました。三番目の娘は、食事の支度を手伝ったりするのはいやなことなのだけれど、支度しようにもその材料もなく、物乞《ものご》いをして歩くのはもっともっとつらいということを。そして、四番目の娘は、紅めのうの指輪でさえ、よいお行儀ほど価値あるものではないということを。
そこで、四人は、不平を言うのをやめ、すでに持っている恵みを喜びとし、その恵みが増すどころか全部とりあげられてしまわぬように、それを受けるにふさわしい娘であるように努力しようと言いあいました。そして、それからは、四人は、おばあさんの助言に従ったことを後悔することもなく、それで損をしたと思うこともなかったと、おかあさまも思います」
「まあ、ママったら、あたしたちのしたお話を種《たね》にして、お話じゃなくてお説教をなさるなんて、ずるいわ!」メグが声をあげた。
「こういうお説教なら好きよ、あたし。おとうさまがいつもなさったのと、同じようですもの」ベスは、ジョオの針さしに、針をまっすぐにさしなおしながら、しみじみと言った。
「あたしは、おねえさまたちみたいに不平は言わないけど、これからは、今よりもっと注意するわ。スージーの大失敗がいい警告になったから」エイミーもえらそうに言う。
「今の教訓、たしかにあたしたちに必要なものだったし、これからも絶対に忘れません。もしも忘れたりしたら、ママ、ただこうおっしゃって、『アンクル・トム』でクローイ小母さんが言ったように、≪おめぐみさ、考えなせえまし、嬢《じょう》ちゃんたち! 神さまのおめぐみさ!≫って」ジョオは、姉妹の誰にも劣らず、今のお話をしっかり胸におさめたのだが、もちまえの茶目っ気がこの小さなお説教からでも、ちょっぴり滑稽《こっけい》なことを深さずにはいられないのだ。
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第五章 近所づきあい
「いったい、何が始まるの、ジョオ?」
ある雪の日の午後、ジョオが、ゴム長に古《ふる》外套《がいとう》に頭巾《フード》といういでたちで、玄関のホールをどたどた横ぎるのを目にして、メグはたずねた。手にはシャベルと箒《ほうき》をそれぞれ持っているのだ。
「運動に行くのよ」茶目っ気たっぷりの目つきをしてみせてジョオは答えた。
「今朝、もう二度も遠路《とおみち》をしたじゃないの。それで充分でしょうに――外は寒くて日も出てないわ。家の中であったかくしてたらどうなの、あたしといっしょに、暖炉《だんろ》にあたって」メグは、ブルッと身ぶるいしてみせた。
「ご忠告無用! 一日中じっとなんかしてられやしない。お猫ちゃんじゃあるまいし、火のそばでうとうとなんて、柄《がら》に合わないや。われ、冒険を愛す、さればこれより冒険旅行に!」
メグは暖炉で足をあたためながら、『アイヴァンホー』[サー・ウォルター・スコット(一七七一〜一八三二)の小説。スコットはイギリス近代歴史小説の祖と言われる]を読むために居間へもどって行った。そして、ジョオは、元気いっぱい、雪かき作業を始めた。雪は軽かったので、箒で庭の周囲にぐるっと道をつけるのはわけもないことだった。日が出たら、ベスが楽に歩けるようにという心づもりなのだ。病身の人形たちには新鮮な空気が必要なのだから。
さて、その庭というのが、ローレンス家とマーチ家とのちょうど間になっていて両家をしきっていた。このあたりは、この市の郊外で、まだ田園の面影《おもかげ》を残し、林や芝地、広い庭園や閑散《かんさん》とした街路などがあった。両家の境には、低い生け垣がある。その片側には古びた茶色の木造の家があったり、夏の間は壁をおおっていた蔦《つた》も、ぐるりを飾っていた花も、すべて枯れはてた今は、ただ殺風景なばかりで、みすぼらしくさえ見えた。他の側には、豪壮《ごうそう》な石造りの館《やかた》がそびえている。大きな馬車小舎から手入れのゆきとどいた庭園、それにつづいて温室、そして、どっしり垂れたカーテンの間からは、美しい室内の様子が、ちらっと見え、いかにも住み心地のよさそうな、贅沢《ぜいたく》そのものともいえそうな大邸宅と見てとれる。だが、その家は、妙にしずまりかえり、まるで活気というものがなかった。というのも、芝生《しばふ》には元気に遊ぶ子どもの姿がないし、窓からほほえみかけているやさしい母親の顔も見られず、老主人とその孫息子以外、人の出入りもめったにないという家だったからなのだ。
豊かな想像力に恵まれているジョオには、この大邸宅が、ありとあらゆる豪華《ごうか》なものと尽きることのない喜びに満ちていながら、誰もそれを楽しむことのできない、お伽話《とぎばなし》の『眠れる城』そのままのような気がするのだ。彼女は、ずっと以前から、この神秘の栄華を見たくてたまらなくなっていたし、同時に、例のローレンス家の男の子と仲よしになりたくもあったのだった。彼のほうでもやはり近づきになりたいらしいのに、いいチャンスに恵まれないといったところなのだろう。例のパーティ以来、ジョオは前にもまして熱心になり、仲よしになれるきっかけを作ろうと、あれこれ方法を考えてみたりしていた。ところが、最近、彼の姿がぜんぜん見えず、もしかしたらどこか遠くへ行ってしまったのかと思い始めていたところ、ある日、二階の窓にあの浅黒い顔をみつけたのだ。ベスとエイミーが雪投げをしているこちらの庭を、さびしそうな表情を浮かべて見おろしているのを。
「あの男の子は、友達と、楽しいこととに飢《う》えてるんだナ」ジョオはひとりごとを言った。「あの子のおじいちゃまは、子どものあつかい方がわからないもので、ああして一人ぽっちで閉じこめとくんだもの。あの子は、やんちゃな遊び仲間の男の子たちが必要なのよ。男の子でなくても、若くて元気いっぱいなのが。そうだ、あたし、押しかけてって、あのおじいさんにそう言ってあげようかな」
このアイディアは、すっかりジョオの気にいった。無鉄砲なことをやってのけるのが大好きなジョオはけたはずれの行動で、始終《しじゅう》メグに恥をかかしているのだ。で、この押しかけて行くプランも、決してその場かぎりのものではなかった。そこで、その雪降りの午後、ジョオは、とにかくやって見ようと決心した。ミスター・ローレンスが馬車で出かけるのを見とどけ、生け垣のところまで一気に雪をかいて進み、そこで手をとめて向こうを偵察《ていさつ》した。まるで森閑《しんかん》としている――階下の窓は全部カーテンがひかれているし、召使《めしつかい》の姿もぜんぜん見あたらない。ただ、二階の窓に見える、細い手にもたれているウエーヴのある黒い髪の頭が、唯一の人間の姿なのだった。
「あそこだわ」ジョオは思う。「かわいそうに! 一人ぽっちで、病気で――このいやな天気に。なんてこと! そうだ、雪だまを投げて、窓から顔を出してもらって、何か親切に言ってあげよう」
ひとつかみの柔らかい雪が窓をめがけてとび、その頭はじき向きをかえ、もの憂げな顔がこちらを見た。と、瞬間にその表情が変わり、大きな目に光がやどり、唇に微笑が浮かんだ。ジョオはうなずき、声をあげて笑い、箒をふりまわして叫んだ。
「こんにちは! ご病気なんですか?」
ローリーは窓をあけ、カラスそっくりのしゃがれ声で言った。
「だいぶよくなったんです。ありがとう。わるい風邪《かぜ》で、一週間も外へ出なかったんです」
「お気のどくに。一人で何をしていらっしゃるの?」
「なんにも。ここはお墓みたいに退屈なんです」
「本をお読みにならないの?」
「あんまり。読ませてくれないんです」
「誰かに読んでもらえない?」
「おじいさまが、時々はね。でも、ぼくの本は、おじいさまにおもしろくはないし、といって、ブルックさんにそう始終頼みたくないから」
「じゃ、誰かに遊びに来てもらえばいいわ」
「遊びに来てほしい人なんかいないんです――ぼくの友達はみんなあらっぽくて、病気のあとだと神経にさわるんです」
「本を読んだり楽しく話をしたりする女の子はいないの? 女の子って静かだし、看護婦《かんごふ》さんきどりが好きよ」
「でも、誰も知らないんだ」
「あたしたちを知ってるじゃないの……」ジョオは言いかけ、笑いだし、だまった。
「たしかにね! きみ、来てくれませんか」ローリーは叫んだ。
「あたしは、静かでもやさしくもないわ。でも、おかあさまさえいいっておっしゃれば、うかがうわよ。ききに行ってくるわ。その窓、閉めて、待ってて、すぐだから」
そう言うと、ジョオは、箒をひっかつぎ、みんながどんな顔をするかなと思いながら、とっとと家へ入っていった。ローリーは、友達が来るというので、わくわくしながら、準備をするためにとびまわっていた。ミセス・マーチが命名したように、彼は≪小紳士《リトル・ジェントルマン》≫だったので、来客に失礼にならないように、波うつ毛にブラシをあて、カラーを替え、半ダースも召使がいるのに、いつも乱雑な部屋を片づけ始めた。すぐに、玄関の鈴が大きく鳴り、歯切れのいい口調で、「ミスター・ローリーに」と取次ぎを頼む声が聞こえ、召使が、驚いた顔つきのままかけのぼって来て、若いレディーのご訪問です、と告げた。
「わかってるよ、ご案内してくれ、ミス・ジョオだから」ローリーは言い、ジョオを迎えに、自分用の小客間のドアヘと歩いて行く。ジョオは、頬をピンクに上気させ、目には親切な気持ちをたたえ、はじめての家を訪ねたのにごく自然な様子をしていた。片手には布をかけたお皿を持ち、片手にはベスの子猫を三匹かかえている。
「ほら、このとおり、運搬係もかねて」ジョオはてきぱき話す。「おかあさまが、くれぐれもよろしくって。そして、あたしが何かお役にたつといいと思いますって。メグは、ほら、お手製のブラマンジュ[白ゼリー]を、あたしにことづけたわ――なかなか上手にできてるのよ。そして、ベスは、自分の子猫があなたの気分をまぎらすからって言うの。きっと、あなたがバカになさるだろうと思ったんだけど、ベスがどうしても何かお見舞をしたがったもので、だめよって言えなかったのよ」
ところが、このベスの貸与品《たいよひん》は、大成功だった。というのも、三匹の子猫で大笑いしたおかげで、ローリーはいつものようにはにかんでいる暇がなく、たちまち打ちとけてしまったからだ。
「あんまりきれいで、食べるのがもったいないみたいだ」ジョオがお皿にかけた布をとり、問題のブラマンジュを見せると、ローリーはうれしくてたまらないようにほほえんだ。白いブラマンジュは、縁の葉と、エイミーのかわいがっているゼラニュームの花でぐるりを飾ってあった。
「それほどたいしたものじゃないわ、ただ、みんながあなたに何かしてあげたくて、こんなことをしただけよ。女中さんを呼んで、お茶の時間まで片づけとくようにおっしゃいよ。牛乳とカスタードだけが材料だから、大丈夫よ、あがっても。それに、すべすべしててやわらかいから、痛い咽喉《のど》にもさわらないし。このお部屋、なんて落ちつけるんでしょう」
「もっと手をかければ、たしかにいい部屋なんだろうな。でも、女中たちがなまけてて、どう言ったらもっと気をつけて片づけてくれるか、ぼくにはどうもわからない。気にはなってるんだけど」
「あたし、二分で見ちがえるようにしてあげる。だって、ほら、暖炉をこういうふうにさっと掃いて、マントルピースの上の物を、こう、真直ぐに並べなおして、本はここに、瓶《びん》はこっちのほうに、それから、あなたのソファーはあかりを背から当てるように向きかえて、クッションは、こうしてパンパンとたたいてふくらませて、と。ほうら、これでいいでしょ」
たしかにそうだった。笑ったり話したりしながら、ジョオは手早く物を整然と置きなおし、部屋の雰囲気《ふんいき》を一新してしまったのだ。ローリーは、感服して口もきかずに見物していたが、ジョオがソファーに手招くと、満足した溜息《ためいき》をついてすわり、感謝をこめて言うのだった。
「きみ、なんて親切なんだろう! そうだ、こうすればよかったんだ。さあ、どうぞ、その大きい椅子に。さて、どうしておもてなししようかな」
「あら、あたしのほうこそお見舞にきたんですもの。本を読んであげましょうか」ジョオは、手近に見えるいかにもおもしろそうな本を、わくわくしながら物色する。
「どうもご親切に。でも、ここのはもう全部読んじまったし、もしかまわなければ、お話したいんだけど」
「もちろん、よろこんで。きっかけさえつけてくださったら、一日中でもしゃべってよ。ベスったら、あたしのこと、しゃべりだしたら止まりどころがわからない、なんて言ってるわ」
「ベスって、バラ色の頬をした人かな、始終お家にいて、時々小さな籠《かご》をさげて外出する?」
「そう、それがベスよ。あたしの子分よ。とってもいい子なの」
「きれいなのがメグで、捲毛《まきげ》の人がエイミー、でしょう?」
「どうしてわかったの?」
ローリーはさっとあかくなったが、正直に答えた。「それはねえ、きみたちが名を呼びあってるのをよく聞くし、それに、この部屋に一人でいる時、ついお宅のほうを見てしまうんだ。じつに楽しそうなのでね。失礼なことでほんとうにわるいと思うけど、あの花の置いてある窓のカーテンを、時々引き忘れるでしょ。夕方ランプがつくと、暖炉の火が赤く燃えてまるで絵みたいなんだ。きみたちはおかあさまを真中にテーブルを囲んで。ここからは、おかあさまのお顔が真正面で、あの花越しにとてもやさしく見えるもので、いつも見とれているんだ。ぼくは母がないもんで、つい」ローリーは、唇の端がふるえるのを押さえられず、それを隠そうとかがんで薪《まき》をかきたてた。
彼の瞳に浮かんだ、孤独な、飢《う》えたような色は、ジョオの思いやりに富んだ胸を突き刺した。彼女はじつに素朴に堅実に育てられたので、物事をそのまま率直に受けいれたし、十五にもなっていても、子どものように無邪気で、あけっぱなしだった。ローリーは病気で一人ぽっちなのに、自分は家庭の愛と幸福にじつに豊かに恵まれているのをあらためて感じて、喜んで彼にそれを分けてあげようと思うのだった。ジョオの表情は見ちがえるほど優しくなり、いつものきつい声もびっくりするほどやわらかになっていた。
「これからは、あのカーテンは引かないことにするわね。どうぞいくらでも眺めてちょうだい。でも、それより家へ遊びにいらっしゃいよ、のぞいたりしてないで。うちのおかあさまはとてもすてきだから、あなたのためにプラスになるわ。それにベスは、あたしが頼めば、歌ってくれるし、エイミーはダンスをしてみせるし、メグとあたしは、家庭芝居のおかしな小道具なんか使ってみせて、あなたを笑わせてあげる。ね、どんなに楽しいでしょ。おじいさまの許可が出るかしら、でも?」
「大丈夫だと思うな、お宅のおかあさまからおっしゃってくだされば。おじいさまは、ああ見えても、気はやさしいんだ。ぼくがしたいことはなんでもさせてくださる――たいていのことはね。ただ、ぼくが、他人の迷惑になりはしないかと、それを心配しているんだな」ローリーは、見る見る元気づいてきた。
「あたしたちは他人じゃないわ、お隣同志よ。迷惑だなんて、とんでもない。あたしたち、あなたと仲よしになりたかったのよ。あたしは、ずっと前から何かいいチャンスはないものかと思ってたくらい。あたしたち、ここへ越してきてからまだそう長くないけれど、ご近所全部とおつきあいしててよ、お宅以外は」
「つまり、おじいさまは、本の中で暮らしてて、外の世界には無関心なんだ。ミスター・ブルックは――ぼくの家庭教師なんだけど――ここに住んでいないから、いっしょに出歩く人が誰もいないんだ、ぼくは。で、つい家にひっこんで、なんとなく過ごしていることになって」
「そりゃあいけないわ。もっと努力しなけりゃ。そして、招《よ》ばれたらどこへでも行くのよ。そうすればお友達だってたくさんできるし、おもしろい所へも行けるわ。内気だなんてこと、気にしないでいいわ。そのうちに、けろっと忘れるわよ」
ローリーは、また赤くなったが、内気ときめつけられて気をわるくしたからではなかった。ジョオの善意でいっぱいといった顔をみれば、そのざっくばらんないい方も、本心からの親切あってこそと思わずにはいられなかったからだ。
「きみ、学校好き?」ローリーは、じっと暖炉の火をみつめ、ジョオはご機嫌であたりを眺めまわし、一瞬話がとぎれたあと、話題を変えて彼がたずねた。
「行ってないの、学校には。あたしは職業人よ――じゃない職業少女かな。大伯母《おおおば》さんのおつき役で、毎日通ってるの。おこりんぼのおばあさんよ、彼女」ジョオは答える。
ローリーは、もう一つ質問をしようと口をあけたが、他人の私事《しじ》に立ちいった質問をするのは礼儀にはずれるのを思いだし、はっと口をつぐみ、間《ま》のわるそうな顔をした。ジョオは、彼の育ちのよさが好きだったし、マーチ伯母さんを種にひと笑いするのはいっこうにかまわなかったので、気短な老人のこと、彼女が飼っている肥ったプードルのこと、スペイン語をしゃべるオウムのこと、大気にいりの図書室のことなどを、目に見えるように描いてみせた。ローリーは、じつに楽しそうに話を聞いていた。そしてジョオが、ある時、ひどくとり澄ました老紳士が、マーチ伯母に結婚申し込みに現われたところが、もったいぶった口上の真最中、プードルのポリイが紳士の鬘《かつら》をくわえて逃げ、せっかくの求婚者を大あわてさせた話をしたところ、ローリーはとうとうソファーにころがり、涙をポロポロこぼして笑いこけ、女中が何事かとのぞきにくる始末だった。
「ああ! こんなに愉快なことってない。もっと続けて、おねがい」ローリーは、楽しさに頬を輝かせ、すっかり上気した顔をソファーのクッションからもたげて頼んだ。
ジョオは自分の試みの成功にすっかり気をよくして、さっそく話を続け、家庭演劇のこと、これからの計画、そして父親についての願いや心配、そのほか、四人の姉妹の生活している小さな世界の出来事のうちから、いちばんおもしろいことなどつぎつぎと話した。つぎに、二人の話は本のことに移った。そして、うれしいことに、ローリーも自分に劣らず本好きで、しかも自分よりずっとたくさん読んでいることをジョオは知ったのだった。
「きみ、そんなに本が好きなんなら、階下《した》へ行ってみない? 家の図書室を見に。おじいさまは外出中だから、ちっともこわがらないでいいんだ」ローリーは立ちあがった。
「あたしは、なんにもこわかないわ」ジョオはツンと顎《あご》をもちあげ、やりかえした。
「たしかにそうらしいな」ローリーは、敬意をこめてジョオを見つめこう言いはしたものの、内心、もし、おじいさまの機嫌《きげん》が斜めの時に逢ったら、ジョオだって多少はこわがっても当然だろうなと思っていた。
家の中は、どこもかしこもまるで夏のように暖かだったので、ローリーは部屋から部屋へと案内してまわり、ジョオが気にいればどこででも止まって自由に見物させた。そして、最後に、問題の図書室へ来ると、ジョオは、特別うれしい時にいつもやるように、手をたたいてとびあがった。壁にはずらっと本が並び、絵だの彫像だのがその間を飾り、貨幣や骨董品《こっとうひん》がいっぱい並んでいるいつまで見てもあきない陳列ケースに、深々とした椅子だの奇妙な形のテーブル、古い銅器、そして、中でもすばらしいのが、珍しい古瓦《ふるがわら》で縁どった大型な切り炉[壁の中に切った暖炉]だった。
「なんて豪奢《ごうしゃ》なんでしょ!」ビロード張りの椅子に深く沈みこみながら、ジョオは吐息《といき》をもらし、満ちたりた様子であたりを見まわす。
「テオドア・ローレンス、あなたは世界でいちばん幸福な少年だわ」感に堪えぬようにジョオは言うのだった。
「人間は本だけでは生きられない」向かい合ったテーブルの端に腰をおろし、ローリーは首を振って言った。
彼はその先をつづけようとしたが、玄関の鈴が鳴り、ジョオはとびあがりぎょっとした声をあげた。「さあたいへんだ! あなたのおじいちゃまのお帰りよ!」
「だったらどうだっていうの? こわいものなんか何もないんでしょ」ローリーはいたずらっ子のような顔をした。
「どうも少しこわいらしいわ、でもこわがる理由はないわね。ママがうかがってもいいっておっしゃったんだし、あなたの病気があたしのために悪くなったとは思えないもの」ジョオは、ドアから目を離さず、それでもやっと落ちついてきた。
「それどころか、ずっとよくなったんで、きみのおかげだと感謝してるくらいなのに。ただ、きみこそ、ぼくのためにたくさんお話をしてくれて疲れたんじゃないかと、そっちのほうが心配なくらい。すばらしく楽しかったもので、ついやめられなくなって」ローリーは心からそう言った。
「お医者さまがおみえでございますよ、坊ちゃま」女中が手招きながら言った。
「ほんのちょっとですみますけど、待っててくれますか? 診察してもらわなけりゃならないもので」
「どうぞ、どうぞ。あたし、このお部屋にいれば、コオロギみたいに幸福ですもの」
ローリーは出て行き、お客は勝手気ままに自分でおもてなしということになった。
ジョオが、例の老紳士の堂々たる肖像画の前に立っている時、またドアが開いた。振り返りもしないで、彼女はきっぱり言ってのける。
「もうちっともこわかないわ、このおじいさまだって、口もとはきびしくて、すごく意地っぱりらしいけど、とてもやさしい目をしていらっしゃるもの。あたしのおじいさまほど好男子じゃないけど、好きだわ、あたし」
「そりゃあどうも、お嬢さん」背中で老人らしい喉《のど》にからんだ声が言った。そして、なんと、立っていたのはミスター・ローレンス!
気の毒に、ジョオはそれ以上は無理というほど真赤になり、今口にしたことを思いだしてみた。胸は早鐘《はやがね》が打つようだった。一瞬、この場を逃げだしたい衝動《しょうどう》にかられるものの、それは卑怯者《ひきょうもの》のすることだし、姉妹たちの物笑いの種になると思う。で、ここに踏みとどまり、死地脱出を試みることに決めた。おちついてもう一度目をあげると、その人の灰色のふさふさした眉の下の瞳は絵に描かれているようにお優しかった。その上、どうやら、からかうようなお茶目な色さえ見られるのだ。ジョオはもうそれほどこわくはなくなっていた。初めの息づまるような沈黙が終わると、前よりもっと太くしゃがれたように思える声で、老紳士はいきなり言った。
「ふん、あんたはこのわしがこわくはないんじゃね?」
「はい、あまり」
「そして、あんたのおじいさんみたいな好男子ではないと思うんだね」
「いえ、そういうわけでは」
「そして、わたしは意地っぱりなんだね?」
「ただ、わたくしがそう思っただけです」
「それでも、あんたは、わたくしが好きなんだね?」
「はい」
この答は老紳士のお気に召したとみえ、声をたてて笑うと、手を出してジョオと握手をかわし、顎《あご》に指をかけて彼女の顔を上に向け、しげしげと眺めたあげくつと放し、深くうなずきながら言った。
「あんたは、おじいさんの精神だけは受けついでおるな、顔立ちはともかくとしても。あのお方は、たしかに、風采のりっぱな人だったよ。だが、それだけでなく、勇気のある正しいおひとだった。あのお方と友人であったことを、わたしは誇《ほこ》りに思っているよ」
「ありがとうございます」ジョオは、これですっかり気が楽になった。老人のことばが大いに気にいったからだ。
「で、わたしの孫をどうしようというのだね?」これがつぎの質問だった。歯に衣《きぬ》きせぬ言いかただ。
「ただ、お隣づきあいをしようとしただけです」そして、ジョオは、どういうわけで訪問をすることになったかを話した。
「あの子をもっと元気にしてやる必要があると思うんだね?」
「はい。なんだかさびしそうで。若い男の子の仲間があるといいんだと思います、たぶん。わたくしの所は、みんな女の子ですけれど、もし何かお役に立てればと思って。あなたからいただいたすてきなクリスマス・プレゼントのこと、みんな忘れません、うれしくて」ジョオはいっしょうけんめいだった。
「なに、なに。あれはあの子の発案でな。で、例の貧乏な女の人はどうしているね?」
「もう大丈夫です」ここぞとばかり、ジョオは、例のフンメル一家のその後の次第を、早口でまくしたてた。おかあさまが、自分たちより裕福な友人に話して、その気の毒な一家に援助の手をさしのべるよう奔走《ほんそう》したことを。
「おかあさんも父上にそっくりだ、人のために尽くされるのも。そのうち、天気がいい日にでもお訪ねしよう、お母上を。そうお伝えしてくださいよ。ああ、お茶の鈴が鳴っているね。あの子のために時間を早くしておるのでな。さ、いっしょにどうぞ。隣づきあいを続けてくだされ」
「ほんとうによろしいんですか、ごいっしょして」
「よくなければ誘いはせんよ」ミスター・ローレンスは、昔ふうな作法どおり、ジョオに腕を貸して案内した。
――メグがなんて言うだろう――ジョオは老人の腕に手をかけて優雅《ゆうが》に歩きながら思う。一部始終を家へ帰って話してきかせている所を想像して、楽しさに瞳が踊っている。
「はて、またこれはどうしたことかね」老人は立ちどまった。ローリーが階段をかけおりてきたのだ。彼は彼で、気むずかしやの祖父とジョオが腕を組んでいるなどという、およそ信じられない光景を前に、仰天《ぎょうてん》して棒立ちになったのだ。
「お帰りになったの知りませんでした」ローリーは言い、ジョオは得意そうにちらっと目くばせをしてみせる。
「そうらしいな。鉄砲玉のように階段をおりてくるとこからみて。さ、お茶にしようよ。いいか紳士にふさわしく振舞うんだぞ」老人は、いとしそうに少年の髪をひっぱってから、さっさと歩きだす。ジョオは、あとからついてくるローリーが、祖父を真似ておどけた格好《かっこう》をしてみせるので、何度も吹きだしそうになった。
老人は、四杯もの紅茶を飲みながら、ほとんど口をきかず、若い二人を観察していた。二人はたちまち前からの友達のようにしゃべりだした。自分の孫に起こった変化は、老人にも明瞭にわかった。今、少年の顔は明るく、いきいきとして頬には赤みがさしている。様子もはつらつとしてきたし、笑い声は真から楽しそうにひびく。
――この娘の言うとおりじゃ。この子はさびしいのだ。この小さな娘たちにどういう力があるか、ひとつやらしてみようか――ミスター・ローレンスは、二人を眺め、その声を聞きながらこう考えた。それに、彼はジョオがすっかり好きになったのだ。ちょっと変わっているこの娘のぶっきらぼうなところが気にいったし、その上、彼女は、ローリーのことを、まるで自分も男の子ででもあるようによく理解できるようだったから。
もしも、ローレンス家の二人が、ジョオが言うところの、おたかくとまったおバカさんだったとしたら、彼女はとてもこうはいかなかったろう。そういう連中の前では、きまって内気になり、しゃちほこばってしまうのだから。だが、この二人がなんのきどりもなく気楽だったので、ジョオは生地《きじ》のままでいられ、よい印象を与えたのだった。
お茶が終わり、テーブルを立つと、ジョオはお暇《いとま》をすると言ったのだが、ローリーは、まだ見せたいものがあると言って、特にジョオのために灯をともした温室へと案内した。そこはジョオにはお伽《とぎ》の国のように思えた――花咲く両側の壁の眺め、柔らかな光線、しっとりしめった甘い空気、頭の上に垂れかかっている、すてきなツタや木の枝――その通路を行きつもどりつし、夢の世界にいるような気分でいるジョオ。新しくできた友達は、手に持ちきれないほどよりすぐった美しい花を切りとっていた。彼は、それを束《たば》ねると、ジョオの心がはればれするような幸福な微笑を浮かべて、「これをどうぞおかあさまに。お届けくださったお薬は、まことにけっこうでしたって伝えてください」と言った。
二人が家に入ると、ミスター・ローレンスは広い居間の暖炉の前に立っていた。だが、ジョオの目は、蓋《ふた》があけたままのグランドピアノに吸いつけられてしまった。
「あなたが弾くの?」ジョオは、尊敬のまなざしでローリーを振りかえってみた。
「時々ね」ローリーは謙遜《けんそん》して答える。
「おねがい、弾いてちょうだい。ベスに話してやりたいの」
「きみからどうぞ」
「ぜんぜんだめ。てんでおぼえられないのよ、でも音楽は大好き」
で、ローリーが弾き、ジョオは、ヘリオトロープとティーローズの花束にふかぶかと鼻をうずめて、一心に聴いた。ローリーはすばらしく上手なのに、およそきどりらしいもののない弾きかたをしたので、ジョオの彼に対する敬意と関心は一段と高められた。ベスにぜひ聞かせたいと思ったが、口には出さず、ただ、その分まで彼をほめたたえたので、ローリーはすっかりてれてしまい、ついにおじいさんが助け舟を出す始末だった。
「もういい、もういい、お嬢さんや。あまりほめそやされると、この子のためにならんからね。たしかにこの子のピアノは下手ではない。だが、音楽より大事なことにもっと身をいれてもらいたいものでな。もうお帰りかね? いや、いろいろとありがとうよ。ぜひまた訪ねてくださいよ。お母上によろしゅうな。おやすみ、ジョオ医師《せんせい》」老人はやさしく彼女と握手をしたが、その表情は、何か気にいらぬことでもあったように見えた。玄関まで来て、ジョオは自分の言ったことが何か気にさわったのかと、ローリーにたずねてみた。彼は首をふる。
「いや、ぼくなのさ。おじいさまは、ぼくがピアノを弾くのをいやがるんだ」
「あら、なぜ?」
「いつか話すよ。ジョンがお送りします、ぼく、まだ外へ出られないから」
「一人で平気よ。あたしまだレディーじゃないし、家はすぐそこですもの。じゃ、お大事にね」
「ありがとう。また来てくれるね?」
「病気がよくなったら、必ず家へも来るって約束すれば」
「約束するとも」
「おやすみなさい、ローリー」
「おやすみなさい、ジョオ、おやすみ」
この午後の冒険の数々を聞き終えると、家中がそろって押しかけて行きたい気分にさせられた。というのも、生け垣越しの隣の邸には、家族のみんながそれぞれ心魅かれるものがあるのがわかったからだ。ミセス・マーチは、父の思い出を、その人のことをよく記憶している老人と話したかった。メグは温室の中を歩いてみたかったし、ベスはグランドピアノの話に溜息をつき、エイミーはすばらしい絵だの彫刻だのを見たがった。
「おかあさま、ミスター・ローレンスは、なぜローリーがピアノを弾くのがいやなのかしら?」ききたがりんぼのジョオは言うのだった。
「そうね、よくはわからないけれど、ミスター・ローレンスの息子さん、つまりローリーのお父さまが、イタリア人の女の方と結婚なさったせいじゃないかしら。その方は音楽家だったのよ。あの誇りたかいご老人には、それがお気にいらなかったんだわ。気だてのいい、美しい、とてもよくできた方《かた》だったのに、あのおじいさまはお嫌いだったのね。結婚なさってから、一度もお会いにならなかったの。お二人とも、ローリーがまだ小さい時に亡くなられたので、おじいさまがお引きとりになったのよ。イタリアで生まれたあのお子さんは、どうもあまり丈夫じゃないらしいので、おじいさまはもしものことがあってはと思っておいでなんでしょ。だからあんなに大事になさるのね、たぶん。ローリーは、生まれつき音楽的才能に恵まれてるんですよ、おかあさまによく似ていますもの。それで、お年寄りは、あのお子さんが音楽家になりたがりはしないかと、内心ご心配なんですよ。とにかく、ピアノを鮮やかに弾くのを見ていらっしゃると、嫌っていた女の方を思いだして、おいやなんでしょうよ。だから、ジョオが言うように、しかめっつらをなさったんでしょ」
「まあなんてロマンティックなんでしょ!」メグが嘆声をもらす。
「バカげてるわ、てんで!」ジョオはいきまく。「音楽家にしてあげればいいじゃないの、ローリーが望むんなら。好きでもない大学になんかやって、彼の生き甲斐《がい》をなくしたりして」
「だからローリーはつぶらな黒い瞳をしてて、身ごなしがきれいなんだわ、きっと。イタリア人て、みんなすてきだわ」おセンチなメグが言った。
「瞳だの身ごなしだのって、どうして知ってるの? おねえさん、ろくに話したこともないくせに」およそセンチでないジョオは大声をあげる。
「パーティで逢ったわ。それに、あんたの話からでも、ローリーが行儀作法をわきまえていることがわかってよ。おかあさまがお届けしたお薬なんて、じつに気のきいた言いまわしよ」
「ブラマンジュのことよね、きっと」
「バカね、ジョオってば! ローリーはあなたのことを言ったのよ、きまってるじゃないの」
「ほんと?」ジョオは意外なことを聞くように目をまんまるくした。
「こんなひとってあるかしら! ほめことばを聞いても気がつかないなんて」こういうことはすべて心得ている若きレディーといった様子で、メグはたしなめた。
「そんなのくだらないわよ。ろくでもないこと言って、せっかくの楽しみをこわさないで。ローリーはいい子だわ。あたし、大好きよ。だけど、ほめことばだのなんだの、うじうじしたこととは関係なしよ。あたしたちみんなでよくしてあげましょう。あの人にはおかあさまがないんだもの。家へ遊びに来てもらってもいいし、ね、ママ、いいでしょ?」
「いいですよ、ジョオ、あなたのお友達は大歓迎よ。メグ、子どもは、できるだけ長く子どもでいられたほうが幸福だってこと、忘れないで」
「あたし、自分のこと子どもとは言わないけど、まだ十代にもなってないわね」エイミーはとんちんかんな口をはさむ。「ベスはどう思う?」
「あたし、あたしたちの天路歴程のことを考えていたのよ」ベスの耳にはみんなの話は何一つ入っていなかったのだ。「みんないい人になろうと決心して、沼地からはいだし、いじわる門を通りぬけたの、そして、夢中で急な坂をよじのぼってきたのよ。もしかすると、すてきな物でいっぱいのお隣のお邸は、あたしたちの美の宮殿になるかもしれないわね」
「とすると、まずライオン退治をしなけりゃね」ジョオはこの予想が、大いに気にいったような顔をして言った。
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第六章 ベスの「美の宮殿」発見
隣の大邸宅は、まさしく「美の宮殿」そのものだった。もっとも、家族全員がそこへ到達するのには、かなりの時間がかかりはしたが。ことにベスは、ライオンの傍を通りぬけるのが大仕事だった。ローレンス老こそ、そのライオンの親玉だったのだ。だが、この老紳士が、マーチ家を訪問して、姉妹たちにそれぞれおもしろいことだのやさしいことばだのを言ったり、おかあさまと昔話をしたりしてからというもの、誰もそれほどこわがらなくなっていた。ただ、内気なベスだけが例外なのだ。
もう一匹のライオンは、マーチ家があまり裕福でないのに、ローリーがお金持ちだという事実だった。というのは、お返しができない恩恵を受けることで、姉妹たちは気おくれがするのだ。だが、やがて、ローリーのほうこそ、マーチ一家を恵みをほどこしてくれる人たちだと思っていて、ミセス・マーチの母性的なもてなしや、快活な一家との触れ合い、質朴な家庭から吸収できるやすらぎなどに対して、どうして表現したらいいかわからないほど感謝でいっぱいなのだということがわかってきた。で、すぐに、マーチ姉妹は≪ひけめ≫などというつまらぬ自尊心を捨て、できるかぎりの親切をつくし合うようになり、お互いの厚意のどちらが重いかなどと秤《はかり》にかけるようなことをしなくなった。
ありとあらゆる楽しいことが相ついでおこってきた。新しく生まれた友情は、春の草のように勢いよく育っていく。誰もがローリーを好きになり、ローリーはローリーで、「マーチ姉妹って、じつにすてきなんです」などと、家庭教師にこっそり話したりしていた。少女たちは、少女期特有の愛らしい熱意をかたむけて、孤独な少年を完全に自分たち仲間の一員にしてしまい、少年はまた、素直な少女たちとの無邪気《むじゃき》なつきあいを、なんともすばらしいものだと思い始めていたのだ。母親も姉妹も知らなかったので、ローリーは、この少女たちから影響されるのも早かった。彼女たちの多忙な、元気にみちみちた日常は、彼の送っていた怠惰《たいだ》な生活を反省させ、大いに恥じいらせたりもした。本を読むことにはもう飽きていたので、こんどは、現実の人間にすっかり心を奪われてしまい、ブルック先生の成績表はあまり香《かん》ばしくない結果になった。それというのも、ローリーは、なんかと口実をつくっては、マーチ家へ逃げだしてしまうからなのだ。
「よし、よし、当分休暇ということにでもして、あとでとり返すことにしよう」老人は言うのだった。「隣の奥さんの意見では、あの子は勉強しすぎだそうで、もっと同年輩の友達とつきあうことだの、楽しくあそぶことや運動が必要なそうな。どうやら当たっとるらしいな、それは。わたしは、あの子のおばあさんででもあるように、大事にしすぎたようだよ。まあ、好きなようにさせとくんだね、楽しそうだからな。あのかわいい尼寺《あまでら》でなら、間違いない。それに、ミセス・マーチは、われわれよりはるかにあの子のためになることだし」
ほんとうに、なんという楽しい毎日を送ったことだろう? 劇だとか活人画《かつじんが》[扮装した人が背景の中にじっとしていて、人物画のように見せる])だとか、橇《そり》あそびだのスケート、古びた客間ですごしたくつろいだ夕ベ、そして、時には大邸宅のほうで陽気な小パーティ。メグは、温室の中を自由に歩きまわり、好きなだけ花束を作った。ジョオは、新鮮な図書室でむさぼるように本をあさり、遠慮のない批評をしては、老紳士を抱腹絶倒《ほうふくぜっとう》させた。エイミーは、絵の模写にいそしみ、芸術の美しさを満喫した。そして、ローリーは、まことに快いやりかたで、館の主の役を演じた。
けれども、ベスは、例のグランドピアノに心を魅かれながらも、メグが名づけた祝福の館へ出かけて行く勇気が出ないのだった。たった一度、ジョオに引っぱられていったことがあった。だが、ベスの並外《なみはず》れた内気を知らない老人は、もじゃもじゃ眉の下からじろっと見据えて、「よう!」といきなり大声をだしたので、ベスはちぢみあがり、あとでおかあさまに白状するには「足が床にガチガチ音をたてた」という次第だった。
彼女は家へとんで帰ってしまい、それからというもの、たとえどんなにすてきなピアノがあろうとも、二度とあの家へは行かないと宣言したのだ。どんなにだましてもすかしても、ベスの恐怖は消えなかったが、どういう経路かは知らず、この一件が老紳士の耳に入ったので、彼は事態を収拾することにとりかかった。
マーチ家にちょっと立ち寄ったある日のこと、ミスター・ローレンスは、さりげなく話を音楽のことに向け、舞台で見た名歌手のこと、すばらしいオルガン演奏のことなどを話しながら、おもしろい逸話をあれこれ持ちだしたりしているうちに、さすがのベスも部屋の隅っこにひっこんでいられなくなり、魔法にかかったように一歩一歩老人の傍へ近づいていった。老人のすわっている椅子の背まで行って立ちどまったベスは、大きな瞳をみはり、この珍しい話に上気して頬を真赤にしている。ミスター・ローレンスは、ベスの存在を一匹の蝿《はえ》ほどにも感じていないふりをして、ローリーの稽古《レッスン》だの先生だのの話をしていたが、急に思いついたようにミセス・マーチに向かって言った。
「あの子は、近ごろ、ピアノをてんで弾きませんよ。それはいいのです、前には夢中になりすぎておりましたからな。ただ、あまり弾きませんと、ピアノのためにはよくありませんでな。お嬢さん方のどなたでも、時々あれを弾いてくださらんかな。調子を狂わさん程度でけっこうですから」
ベスは一歩前へ出て、あやうくたたきかけた手をぐっと握り合わせた。これはなんとも抵抗しがたい誘惑《ゆうわく》なのだ。あのすばらしいピアノで練習をすることを考えただけでも、今にも息がつまりそうだった。ミセス・マーチが返事をするのを待たず、ミスター・ローレンスは、なにやらひとりうなずき、微笑を浮かべて先を言った。
「いつでも気のむいた時においでになってけっこうです。取次ぎの必要もないですから、勝手に中へお入りください。わたしはずっと離れた所の書斎にひっこんどります。ローリーはよく外出しておりますし、朝の九時以後は、召使共も客間に近づくこともありませんしな」
ここまで言うと、老人は、帰りでもするように、立ちあがった。ベスはついに口をきくことに決心した。この最後のはからいは、願ってもない申し出だったのだから。
「お嬢さんがたに、今のことをよくお伝えくださるよう。もしおいやならば、なに、それならそれでいいのですから」ここで、小さな手が老人の手にすべりこみ、ベスは感謝に溢《あふ》れる面持《おもも》ちで、彼を見つめ、ベス特有のいっしょうけんめいな、けれど控えめな様子で言った。
「あのう、わたくしたち、ぜひ弾かせていただきたいんです、とっても、とっても!」
「あなたが音楽好きなお嬢ちゃんですか?」老人は、例の「よう!」などという乱暴なことばをつかわず、じつにやさしくベスを見おろした。
「わたくし、ベスです。音楽は大好き。あたし、うかがいます、ほんとうに誰も聴いていないのなら――そして、お邪魔にならないのなら」ベスはあわててつけたした。失礼だったのではないかと心配して、言ってしまってから自分の大胆さにおどろきふるえている。
「もちろん、邪魔になどなりませんよ、嬢ちゃん。わたしの家は、半日は空家みたいなものだ。遠慮なく来て、好きなだけたたいてくれれば、わたしこそありがたいのだからね」
「なんてご親切な!」
ベスは、老人の親しげな表情を目にして、バラの花のように頬を染めた。けれど、もう脅《おび》えたりはせず、彼の大きな手をぎゅっと握りしめた。与えられた貴重な贈物に感謝することばが出てこなかったからだ。老紳士は、ベスの前髪をやさしくなで、かがみこんで頬にキスをし、今まで誰も聞いたことがない声で言うのだった。
「わたしにも、昔、娘が一人ありました――あなたのような瞳をした。神の祝福を祈りますよ、嬢ちゃん! では、ごきげんよう、奥さん」
言い終わると、老人は立ち去った。ひどく急いで。
ベスはおかあさまとその夢のような幸福を喜びあい、まだ姉妹たちが帰っていなかったので、自分の家族である病気の人形たちに、この輝かしい吉報を伝えようと二階へかけのぼった。その晩、ベスは喜びではちきれそうに歌いまくり、夜中には、寝ぼけて、エイミーの顔の上でピアノを弾いて妹を起こしてしまい、みんなで大笑いしたのだった。
翌日、年とったのも若いのも両方の紳士が外出したのを見とどけ、ベスは二、三度出たり入ったりした末に、うまく横の出入口からすべりこみ、ハツカネズミのようにこっそりと、彼女の憧《あこが》れの的《まと》のある客間へとたどりついた。いくつかのきれいな表紙のやさしい譜面が、ピアノの上にさりげなく置いてあった。たぶん偶然なのだろうが。ベスは、何度もふるえる指をキイにのせてはひっこめ、きき耳をたてたりあたりを見回したりしたあげく、ついにその大きな楽器に指をおろした。そして、たちまち恐怖を忘れ、われを忘れ、音楽が与えてくれる至上の歓喜に何もかも忘れて、ひたりきってしまったのだった。ベスにとっては、音楽こそ愛する友の声そのものなのだから。
ハンナが食事の迎えにくるまで、ベスはピアノの前を離れなかった。食卓についてからも、まるで食欲がないように、黙ってすわって、祝福にみちみちた表情で、家族のみんなにほほえみかけるのだった。
その日以来、小さな茶のフードは、ほとんど毎日のように生け垣を通って隣家へ入って行き、例の広々とした客間には、人の目には見えぬ、楽の調べの妖精《ようせい》が出没するようになったのだ。ミスター・ローレンスが、彼の好きな古風な曲を聞こうと、書斎のドアをよく開け放していたことをベスは全然知らなかった。そしてまた、ローリーが廊下《ろうか》に陣どって、召使たちを寄せつけぬよう、番兵役をしているのも一度も見なかった。また、譜面台にのっている練習曲の本や新しい歌などが、特に彼女のために置かれたなどとは、夢にも考えてみなかった。そして、ローリーが、家に来ている時、それとなく音楽についての話をしてくれる時にも、自分の勉強のためになることを話してくれて、なんて親切なのだろうとしか思わなかった。
というわけで、ベスは心から楽しい毎日を送り、前からの望みがこれで全部かなえられたと思っていた――ふつうの人間だとこうはいかないのだが。おそらく、ベスが与えられた祝福に対し、こんなに感謝していたせいだろう、また一段と上の贈りものが彼女を待っていた。いずれにしても、ベスはこの二つを受けるに価する娘なのだ。
「おかあさま、あたし、ミスター・ローレンスに、上履《うわばき》をつくってさしあげるつもりよ。こんなに親切にしていただいたんですもの、何かお礼をしたいと思うけれど、ほかにいい知恵が浮かばないですもの。どうかしら」例の特筆すべき老紳士の訪問から半月あまりたったころ、ベスはこう言いだした。
「それはいいわ。きっとお喜びになりますよ。いいお礼になります。お姉さんたちも手伝うでしょうし、材料はわたしが買ってあげますね」ベスはめったにおねだりをしない子なので、その願いをきいてやることが、ミセス・マーチには特別うれしいのだった。
メグとジョオといっしょに、何度も真剣に議論をしたあげく、型もきまり、材料も買い、上履製作が始まった。濃い紫の地に、品のいいしかもかわいらしいパンジーの一叢《ひとむら》を表わすのが、いちばんふさわしいしきれいでいいということに決まった。ベスは朝早くから晩遅くまで、むつかしい所へくると姉たちに助け舟を出してはもらったが、せっせと針を運びつづけていた。もともと針仕事は手早く器用なたちのベスは、みんなが倦《あ》きたりしないうちに、上履を仕上げてしまった。そして、短い簡単な手紙を書き、ローリーの助力を得て、ある朝、老紳士がまだ起きないうちに、書斎の机にこっそり置いてもらった。
このわくわくするような大仕事をすませてしまうと、ベスはどういうことになるかじっと待っていた。その日一日待ちくらし、翌日もまた半ば過ぎてしまった。ベスは変わりもののお友達の気をわるくしたのではないかと、少々心配になりはじめていた。だが、その日の午後、ベスはおつかいに出かけ、ついでに病気の人形ジョアナに日課の運動をさせ、帰りに家の近くまで来た時、客間の窓から、三つ、いえ、四つもの頭が出たりひっこんだりしているのに気づいた。彼女の姿を目にすると、待ちかまえていたように何本もの手が振られ、喜びではちきれそうな声が叫んだ。
「ミスター・ローレンスからお手紙よ! 早く、早く、読んでみてよ!」
「ねえ、ベス、あの方があなたに――」エイミーがむやみに力《りき》みかえって手振りで何か教えようとしかけるのを、ジョオがぴしゃりと窓をおろして封じこめてしまった。
ベスは期待に胸をわくわくさせて急いだ。玄関で、姉妹はベスにとびつくと、凱旋《がいせん》の行進よろしく客間へとひっぱって行き、いっせいに指さし、口々に、「ほら、あれを見て、ほら、見てごらんなさい!」と言うのだった。ベスはそれをはっきり自分の目で見とどけ、喜びと驚きとであおくなった。そこには小型の竪《たて》ピアノがでんと据えられ、ピカピカの蓋《ふた》の上には、≪エリザベス・マーチ嬢≫と記された手紙が看板のようにのっていた。
「あたしに?」ベスはあえぎ、ジョオの腕にもたれかかった。その場に倒れてしまいそうな気分、だったのだ。まったく、夢としか思えぬことが起こったのだ。
「そうよ、みんなあなたのよ、ベス! なんていい方なんでしょ、ミスター・ローレンスって! 世界中でいちばんすてきなおじいさまじゃないこと? 鍵は、ほら、この手紙の中よ。まだ開けなかったけど、なんて書いてあるか、みんな見たくて見たくて死にそうよ」ジョオは叫び、ベスをぎゅっと抱きしめ、手紙を渡した。
「読んで、おねえさん! あたし、だめだわ!気が遠くなりそうなの! あんまりすてきすぎて!」言うなりベスはジョオのエプロンに顔を埋めた。この贈物にすっかり動顛《どうてん》してしまったのだ。ジョオが手紙を開き、いきなり笑いだした。最初のことばがこう書かれていたからだった。
ミス・マーチヘ
≪ディアー・マダム≫――
「なんてすてきなんでしょ! あたしにも誰かこんなお手紙くださるといいのに」エイミーはこの昔ふうな呼びかけをたいそうエレガントだと思った。
[#ここから1字下げ]
わたくしは、多年、数多くの上履《うわばき》を使用いたしましたが、あなたさまがお贈りくだされたお品ほどすばらしいのは初めてです。三色|菫《すみれ》は、わたくしのもっとも好む花で、常にやさしき贈り主を想いださせることと思います。よって、ほんのお礼心として、亡き娘の形見の品をおじいさんから贈ることをおゆるしくださるよう。
心からの礼をこめ、この上も幸多きことを祈りつつ
あなたの僕《しもべ》
ジェームズ・ローレンス
[#ここで字下げ終わり]
「どう、ベス、光栄の至《いた》りじゃない。ローリーに聞いたけど、ミスター・ローレンスは、亡くなったそのお子さんをとてもかわいがっていらして、今でもそのお嬢さんの持物なんかをみんな大切にしまっておありだそうよ。その方のピアノをあなたにくださるなんて、大したことじゃないの! その大きな青い瞳と、音楽が好きなおかげよ」ジョオは、ますますのぼせてぶるぶるふるえだしているベスを、なんとか落ち着かせようとつとめる。
「ほら、この蝋燭《ろうそく》を立てる台座のなんてうまくできてること。それにこのすてきな緑の絹地、真中にバラの花が縫いとりになってるわ。そして、きれいな譜面立てにスツール、何もかもそろっててよ」メグはピアノをあけ、中の美しい付属品を並べたてる。
「≪あなたの僕《しもべ》、ジェームス・ローレンス≫――おねえさんにあの方がお書きになったのね。すてきだわ。みんなに話そう。きっとすばらしいって言うわ、みんな」エイミーは、手紙の文面がよほど印象的だったとみえる。
「ちょいと弾いてごらんなさいまし、嬢ちゃま。そのかあいいピアノの音がどんなもんか、聞かしてくだせえまし」家族の喜びも悲しみも必ずともにするハンナが言った。
ベスは弾いてみた。みんなはこんなすてきな音のピアノは初めてだと言った。たしかにあらためて調律しなおしてあり、完全無欠な音程だった。けれど、その完璧《かんぺき》さもさりながら、そのピアノのいちばんのすばらしさは、ベスが白と黒の鍵盤にやさしく指をのせピカピカのペダルを踏んだ時、これにもたれているみんなのこの上なくうれしそうな表情の中にあったと思うのだ。
「行ってお礼をいわなけりゃ、ベス」ジョオはからかい半分に言った。この内気な妹がよもや出かけて行くとは思わなかったので。
「ええ、行くつもりよ。今すぐのほうがよさそう、考えていてこわくなる暇がないうちに」ベスは、そこに集まった家族みんなが唖然《あぜん》としている中を、しっかりした足どりで庭へおり、生け垣を抜け、ローレンス邸のドアヘと入っていった。
「なんとまあ、めずらしいことがあるもんだ。このピアノのやつめ、お嬢ちゃまのおつむをどうかしちゃったってことかね! 正気じゃとてもああいかないによ」ベスを見送りハンナは叫び、姉妹はこの奇蹟《きせき》としか思えぬ出来ごとに口もきけないで立っていた。
だが、その後のベスの行動を目にしたら、みんなの驚きぶりはそんなことではすまなかったろう。とても信じられないかもしれないが、ベスは何も考えず、真直ぐ書斎のドアの前まで行くとノックをした。つっけんどんに「おはいり」という声を聞いても、彼女はちゃんと入って行き、びっくりしているミスター・ローレンスの前へつかつかと進むと、手をのべ、ごくわずかふるえの残る声で、「お礼を申し上げにきましたの、あの――」と言い始めた。だが、老人がなんともいえぬやさしい顔をしたのを目にして、それきり先がつづかず、何を言うのかも忘れ、ただ、このおじいさまは大事なお嬢ちゃんを亡くされたのだということだけが胸にいっぱいになり、すっと手を老人の首にまわしてキスをしてあげたのだった。
たとえその家の屋根がいきなり吹きとんでも、老人はこんなに驚きはしなかったろう。だが、彼は大喜びだった。この上もなくうれしかったのだ。この親しみをこめた無邪気《むじゃき》なキスに深く心を動かされ、満悦した老人は、いつものしゃちほこばったところを一挙になくしてしまった。自分のかわいい孫娘がかえってでもきたような気がして、膝にベスを抱きあげ、皺《しわ》だらけの頬を、そのバラ色の頬によせた。その瞬間に、ベスの老人に対する恐怖心はかき消えてしまい、膝にすわったまま、まるでずっと前からの知り合いのように、心から打ちとけて色々な話をしたのだった。なぜなら、愛は怖《おそ》れを除き、感謝は誇りに打ち勝つからだ。
ベスが帰る時、老人はマーチ家の門まで送り、作法正しく握手をし、帽子に手をかけて軽く会釈《えしゃく》し、颯爽《さっそう》と歩きだした。真直ぐ背筋をのばし、じつに堂々とこの老紳士は帰って行くのだった。
姉妹は、この光景を目にすると、まずジョオが勢いよく踊りだした。大いに満足したことをあらわして。エイミーは、驚きのあまり窓から落ちかかり、メグは両手をさしあげ、「これじゃ、この世の終わりがくるかということも信じざるを得ないわ!」と叫んだ。
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第七章 エイミーの「屈辱《くつじょく》の谷」
「ローリーって、まるでキュクロープス[ギリシア神話に出てくる一つ目の巨人]ね」ある日、少年が馬に乗り、蹄《ひずめ》の音もあざやかに通りかかり、鞭《むち》を振りまわして挨拶《あいさつ》にかえて行くのを見てエイミーは言った。
「何言ってるのよ、目はちゃんと二つあるじゃないの? それもとびきり上等なのが」ジョオは、自分の友達に少しでもけちをつけられると、むきになってやり返すのだ。
「目のことなんか言ってやしないわよ。ただローリーの騎士ぶりをほめただけなのに。なぜそんなにかんかんになるの?」
「あらら! このアヒルちゃんたら、ケンタウロス[ギリシア神話に出てくる半人半獣の怪物]のこと言ってるんだ。ローリーのことキュクロープスだってさ」ジョオはゲラゲラ笑いだした。
「ま、失礼ね。デイヴィス先生のおっしゃる≪ラプス・オブ・リンギイ≫ってものよ」エイミーは得意のラテン語まじりで、ジョオをやり返そうとしたが、それも言いそこないというラテン語とはちがうのだ。「あたし、ただ、ローリーがあの馬につかうお金のほんの一部でいいからあったらな、と思っただけ」エイミーは独語《ひとりごと》めかして、そのじつ、姉たちに聞こえればいいと思いながら言った。
「どうして?」メグはやさしくたずねる。ジョオは、エイミーの二度目の失敗で、また大笑いの最中だったから。
「どうしても必要なの。ものすごく借金があるのに、お金をいただくあてがないんですもの――今月は、屑屋《くずや》さんのお金をもらえる番じゃないし」
「借金ですって、エイミー? いったいなんのこと?」メグは真面目になった。
「あのね、酢漬けライムの借りが、少なくても一ダースくらいあるの。お返しができないのよ、それに。お金をいただくまではどうしてもだめだわ、ママはお店につけといてもいけないっておっしゃるし」
「もっとくわしく話してみて。今のはやりは、じゃ、ライムなのね? 前には、ボールにするゴムのきれっぱしだったじゃないの」メグは、おかしいのをやっとこらえている。エイミーが、真剣《しんけん》そのものの、この世の一大事といった顔をしているので。
「あのね、女の子は、みんな買ってるわ。けちんぼと思われたくなかったら、どうしても買わなけりゃだめなのよ。ライムがなくちゃ、どうにもならないのよ。だって、みんな机の中に隠してしゃぶってるし、お休み時間には、ビーズ指輪だの着せ替え人形だの鉛筆だのなんだのと取りかえっこもするし。誰かが誰かを好きだとするでしょ、そしたら、その人にライムをあげるの。何か癪《しやく》にさわることがある人の前では、目の前で食べてみせびらかしても、ちょっぴりなめさせてもあげないのよ。かわりばんこにおごりっこするんだわ、みんな。あたし、とってもたくさんもらったのに、お返しがしてないんですもの。どうしても返さなけりゃ、だって、体面にかかわる借りなんですもの」
「いくら要《い》るの、借りを返して、体面を保つのには」メグは財布を出した。
「二十五セントでおつりがくるわ。あまりの二、三セントでおねえさんにもおごってあげられるけど。ライム、好きじゃなくて?」
「たいしてね。あたしの分はあげるわよ。じゃ、これお金よ。なるべく引きのばしてつかいなさいね、そう大金じゃないから」
「ほんとにありがと! おこづかいがあるのって、いいなあ! あたし、はでにごちそうしようっと。今週はまだ一つも食べてないんですもの。お返しができないでしょ、だからついもらいにくくって。でも、ほしくてたまらなかったの」
翌日、エイミーは学校にいつもより遅くついたのだが、机の下の棚のいちばん奥に、じとじとする茶色の紙袋をつっこむ前に、つい得意でみせびらかしたい誘惑にかられた。そのあと五分もするかしないかで、エイミー・マーチが、二十四個ものおいしいライムを(途中で一つ食べてしまったので)持っていて、みんなにご馳走するらしいという噂《うわさ》が、彼女のグループにさっと伝わり、たちまち注目の的《まと》となってしまった。ケティ・ブラウンは、その場で、つぎのパーティに招待したし、メアリィ・キングスレイは、つぎの休み時間まで腕時計を貸してあげると言ってきかず、エイミーがライムなしですごしていた時、さんざん意地わるを言ったジェニイ・スノーという皮肉やのおませ娘までが、たちまち手の平を返したように、気も遠くなるほど桁《けた》の多い足し算の答を教えてくれると申し出た。だが、エイミーは、彼女の言った「誰かの鼻はぺしゃんこでも、けっこうひとのライムの匂いはかぎつけ、気位がたかいくせに、せっかくひとがねだってもらってきたのをまきあげる」という、この上もなく憎《にく》らしい悪口を忘れてはいなかった。で、すぐに、「急にそんなにご親切にしていただかなくてけっこう。あなたにはあげませんから」というそっけない≪電報≫を回して、ジェニイ・スノーの希望をぺちゃんこにしてやった。
その朝、たまたま町のさる有力者が学校参観に現われ、エイミーの描いた美しく仕あがった地図がおほめのことばを受けた。ところが、かたきであるエイミーがこの栄誉にあずかったことに、ミス・スノーは憎しみの炎をかきたてられ、また当のミス・マーチは、さも勉強家の若い孔雀《くじゃく》のごとく、大いにおきどりをしてみせた。ところが、なんたることか! 高慢《こうまん》の鼻は折られやすいとか、復讐《ふくしゅう》心に燃えたミス・スノーは、おそるべき形勢一転に成功したのだった。
参観の客が、型どおりの挨拶《あいさつ》をのべて出て行くのを待ってでもいたように、ジェニイ・スノーは、さも大切な質問があるような振りをして教壇に近づき、エイミー・マーチが机の中に酢づけのライムを入れていると、デイヴィス先生に言いつけたのだ。
ところで、このデイヴィス先生は、ライムは禁止すると宣言し、これを守らぬ者は、見つけ次第、みんなの前で笞《むち》で打つ罰を加えると言っていたのだ。このねばり強い先生は、以前にも、長期戦の結果、ついに当時の流行だったチューイン・ガム追放に成功し、また、取りあげた小説や新聞で焚《た》き火をしたこともあり、生徒同志の郵便ごっこも禁止し、しかめ面をしてみせたり、綽名《あだな》をつけたり漫画を描いたりも禁じるという、およそ一人の男が、五十人ものきかんぼ盛りの女の子たちに秩序を守らすのに必要なことはすべて、やってきた人なのだ。男の子の集団も、世話のやけるもので、辛抱強くなくてはあつかえないことはたしかだ。だが、女の子ときたら! とてもとても、そんなものではない。ことに、もともと高びしゃな性質で、そのくせ教師としての才能は、ブリムバー先生[ディケンズの小説中の人物で、教育法のまことに下手な、小学校校長]ほども持ち合わせぬ、気の小さい男性にとっては。
デイヴィス先生は、ギリシア語、ラテン語、代数、その他、学《がく》と名のつくものにはすべて造詣《ぞうけい》が深く、それが理由でりっぱな先生という肩書をもっていただけのことで、礼儀作法、品行、情操、模範的行動などという点ではとくに優れた人柄とは言えなかった。
運わるくエイミーが告発されたこの朝は選《よ》りも選《よ》ってわるい時で、ジェニイはちゃんとそれを承知の上でやったのだ。デイヴィス先生は、その朝、どうやらコーヒーを濃くいれすぎたらしく、おまけに、神経痛にわるい東風が吹いていた。そして、生徒は、当然尽くすべき礼を先生に対して表わさなかった。というわけで、ある生徒の、あまり香《かん》ばしくはないがまことにピッタリの表現をかりると、≪魔女のようにイライラしてて、熊みたいに気短か≫だったというわけだ。≪ライム≫という一言が、火薬につけた火のように働いた。先生の黄色い顔がさっと赤らみ、力いっぱい机をなぐりつけ、ジェニイは鉄砲玉のように席にとんでもどった。
「みなさん! 気をつけッ!」
この厳しい号令に、ざわめきがピタッとおさまり、青、黒、茶、灰色の五十対の瞳は、従順に、すさまじい先生の形相《ぎょうそう》に集まった。
「ミス・マーチ、ここへ来なさい」
エイミーはそれに応《こた》えて、うわべは平気な様子をして立ちはしたが、内心、ライムの件のやましさでいっぱいだった。
「机にかくしているライムを持ってきなさい!」席を離れようとした時、およそ予期していなかった命令がとんできた。
「全部持ってくんじゃないわよ」隣の席の、これはまたまことに沈着きわまる令嬢が忠告する。
エイミーは、急いで五、六個袋から机の中へふって出し、残りを先生の机の上に並べた。このおいしそうな香《かおり》をかげば、人間らしい気持ちを持った人なら誰でも、少しは怒りもやわらぐだろうと思った。が、あいにく、先生は、このおはやりの漬物の匂いが特に苦手ときていたので、胸がむかついてなおさら怒りたけったのだ。
「これで全部かね?」
「ま、まだ少しあります」エイミーはどもる。
「残りを持ってきなさい、早く!」
グループの連中を、絶望的な目つきでちらっと見渡し、エイミーは命令に従った。
「たしかにこれで全部だね」
「わたくし、嘘《うそ》を言ったことはありません、先生」
「よろしい。では、このいやらしい物を、両手に二つずつ持っていって窓から捨てるんです」
みながいっせいに溜息《ためいき》をつき、それが一つになってちょっとした突風もどきに聞こえた。最後の望みが消え、楽しみにしていたご馳走《ちそう》が唇から逃げていってしまうのだ。恥辱《ちじょく》と怒りで真赤になったエイミーは、やっとの思いで六往復もした。そして、その呪われた一組ずつが――なんとまた、よく実っておいしそうだったことか!――彼女の残り惜しげな手から離れて落ちて行くたびに、下の通りから歓声があがり、少女たちのくやしさをさらにかきたてた。というのも、それこそ彼女たちの仇敵《きゅうてき》であるアイルランド人の子どもたちが、ご馳走をせしめて大はしゃぎしている声にちがいないからだった。いくらなんでも、いくらなんでもひどい! 生徒たちは、冷酷無残《れいこくむざん》なデイヴィス奴《め》とばかり、憤《いきどお》りをこめ、訴えかけるような目つきで先生をみつめ、中でも、熱烈なライム好きな少女などは、オイオイと泣きだしたりした。
エイミーが、最後の往復をすませると、デイヴィス先生は、不吉な咳払《せきばら》いをすると、じつにもったいぶった態度でこう言った。
「みなさん、一週間前にわたしが言ったことをおぼえているでしょう。それにもかかわらず、こうしたことが起こったのは、まことに残念です。だが、規則は絶対に曲げられません。それに、自分で言ったことを取り消すこともできません。ミス・マーチ、ここへ手を出して」
エイミーは、思わず手をうしろへかくし、じっと先生をみつめた。その訴えるような切ない瞳は、口ではとても言えないことを伝えている。彼女は、どちらかといえば、デイヴィスじじい――もちろん、生徒たちの呼び名だが――のお気にいりの一人だった。だから、もしこの時、生徒の一人が、あまりのことに腹をたて、口惜しまぎれに舌打ちをしたりしなかったら、あるいはエイミーを許したかもしれないのだ。だが、ごく小さかったにしろ、それは先生の耳に入り、癇癪《かんしゃく》の虫をつつき、ついに犯人の運も定《さだ》まったということになったのだ。
「手を出すんです、ミス・マーチ!」これが、彼女の声なき嘆願《たんがん》に対する答でしかなかった。泣いたり頼んだりということは、体面にかけてもできないエイミーは、ぐっと歯を食いしばって、昂然《こうぜん》と頭をあげ、小さな手の平に打ちおろされた笞《むち》の痛みを、顔の筋一つ動かさず、じっと堪えぬいた。その回数は五、六度にしかすぎず、打ちかたがひどかったわけでもないのだが、エイミーにとっては、それは関係がないことで、生まれて初めて、人に打たれたという事実だけが問題なのだ。そして、この恥辱《ちじょく》にまみれたことで、その場になぐり倒されたほど深い打撃を受けたのだった。
「休み時間まで、そうして教壇に立っていなさい」デイヴィス先生は、どうせ乗りかかった舟とでもいう気か、とことんまでやる気になったとみえた。
それは、まことに怖《おそ》るべき罰《ばつ》だった。これで許されて席へもどり、仲間の同情をたたえた顔や、ごく少数ながらも敵側の連中の、いいきみだ、といった顔を目にするのさえやっとというところだのに、たった今受けた恥をさらして、全クラスを前にして立たされるなどとは。一瞬、エイミーは、その場に倒れて、思いきり泣きたい思いにかられた。だが、ひどすぎるお仕置きに対する憎しみと、ジェニイ・スノーのことを考えることで、やっとこの場の苦しみに堪えぬいた。そして、その屈辱《くつじょく》の座につき、今はただ顔の海としか見えぬ上にあるストーヴの煙突に目をすえ、血の気のひいた顔で、身動き一つしないで立ち通した。クラスの女の子たちは、その悲愴《ひそう》な姿を目の前にしては、およそ勉強どころでないつらい思いにさいなまれたのだ。
それから十五分間、この勝気な、感受性に富んだ少女は、一生忘れられぬほどの恥と苦しみとを味わったのだ。ほかの少女たちにとっては、あるいは、単にバカバカしい、とるに足りない出来ごとですんだかもしれないのだが、エイミーには堪えがたい経験だった。というのも、十二年の歳月、彼女は、みんなの愛のみを集めて育ち、こうした打撃は、唯の一度も受けたことがない少女なのだ。打たれた手の平がひりひり痛むのも、心の傷の苦しさも、≪家へ帰って話さないではいられないけど……みんな、きっとあたしにがっかりするでしょうね≫と思うと、ふっと忘れるほどつらいのだ。
十五分が一時間ほどにも思われた。が、やっとそれも終わり、「お休み時間です!」という先生のことばが、これほどうれしかったことがないようにエイミーの耳に響いた。
「行ってよろしい、ミス・マーチ」デイヴィス先生は言ったが、内心気でもとがめているのか、気がかりな顔つきをしていた。
エイミーが教室を出る時じっと見つめた恨みをこめた目つきを、先生は当分忘れられなかった。彼女は、誰とも口をきかず、すっと控室へ入り、自分の持物をまとめると、とっととそこを出て行った。心の中で、「二度と帰るものか」と煮えくりかえる胸に強く決心した。
家に着いた時、エイミーは悲しさでいっぱいだった。やがて姉たちが帰ってくると、ただちに憤慨《ふんがい》大会が開かれた。ミセス・マーチは、ことば少なではあったが、心を乱された表情で、傷ついた末娘をこの上もなくやさしく慰めていた。メグは、痛めつけられた妹の手をグリセリンと涙で湿布《しっぷ》してやるし、ベスは、自分の大事な子猫でも、このように悲嘆にくれた妹を慰めることはできないだろうと気をもみ、ジョオは、デイヴィス先生など、即刻|逮捕《たいほ》されるべきだといきまき、ハンナは、「あの悪者めが」とげんこつを振りまわし、まるで当の先生が擂《す》り鉢《ばち》の中にでもいるように、夕食の支度のジャガ芋を力まかせにたたきつぶすのだった。
エイミーが逃げ帰ったことは、グループ以外は誰も気づかなかったが、観察力の鋭いご令嬢は、デイヴィス先生が、午後の授業からは妙にやさしくなり、同時になんとなくびくびくしているのをちゃんと目にとめていた。最後の授業が終わる直前だった。ジョオが現われ、ものすごい見幕《けんまく》でつかつかと教壇に歩みより、おかあさまからの手紙を先生に手渡した。そして、残っていたエイミーの持物を集め、この場所の汚れは塵《ちり》ひとつなりとも持ち帰るまいとでもいうように、ドアマットでごしごしブーツの泥をこすり落とすと、とっとと出て行った。
「そう、学校は当分やめておきましょう。でも、ベスといっしょに、毎日家で少しずつ勉強をなさいね」ミセス・マーチはその晩言うのだった。「わたしは、もともと体罰というものには賛成できないんです――ことに女の子の場合は。デイヴィス先生の教授法も好きではないし、あなたのお仲間のお友達というのも、どうもあまりためにならないようで。で、いずれ転校ということになりますけど、それには一応おとうさまのご意見をうかがわないとね」
「ああよかった! みんなが学校をやめて、デイヴィス先生のボロ学校なんてめちゃめちゃになればいいのに。あのすてきなライムのこと考えると、ほんとに癪《しゃく》だわ!」エイミーは殉教者《じゅんきょうしゃ》きどりだ。
「ライムなどどうでもいいんですよ。とりあげられたって同情しませんよ。規則を破ったんですから。先生の言いつけを守らなかったことに対して罰を受けるは当然ですよ」おかあさまの答は厳しく筋が通っていて、何もかも同情してもらえると甘えていたエイミーはがっかりだった。
「じゃ、クラスのみんなの前で、恥をかかされたのがよかったっておっしゃるの?」エイミーは叫ぶ。
「あやまちを正すのに、おかあさまならああいうやり方はとらないだろうと思います。でも、もっとおだやかなやり方のほうがよかったかどうかとなると、ちょっと確信は持てないの。エイミー、あなたは少しうぬぼれやになりすぎててよ、そろそろ直さないと手遅れになりそうね。あなたは才能も豊かだし、長所もあるけれど、なにもそれを全部陳列してみせることはないんですよ。うぬぼれというものは、もっとも秀れた天才をもだめにしてしまうものですからね。本物の才能とか美点とかは、長く見のがされていても、大して害はないんですよ。だって、たとえ人に認められなくても、自分がそうしたものを持っていて、正しく使っているという意識が、その人に満足感を与えるでしょうし、すべての能力の真の魅力は、謙遜《けんそん》さの中にあるんですからね」
「そうですとも!」隅で、ジョオとチェスをしていたローリーが声をあげた。「ぼく、前に、すばらしい音楽の才能のあるひとを知ってました。ところが、その人は、それを少しも知らず、一人きりでいる時などに、作ってみる小曲が、どんなにすてきだか、自分じゃわかってないし、たとえ人がそう言っても信じなかったでしょうよ」
「そんなりっぱな方とお友達になれたらどんなにいいかしら! きっと何かと力になってくださると思うわ。あたしはほんとにだめなんですもの」彼のそばに立ち、熱心にその話を聞いていたベスが言った。
「きみは誰よりもよく知ってますよ、その人を。誰にもできないほどよく、あなたに教えてくれてる」ローリーは、黒く輝く瞳に、お茶目な色をキラッとさせてベスを見つめたので、ベスはパッと赤くなって、ソファーのクッションで顔をかくした。思いがけない批評を耳にして、すっかりあわててしまったのだ。
ジョオは、自分の子分であるベスをほめてもらったお礼に、ローリーを勝たせてやった。ベスは、この最上級の賛辞を受けて、ひどくあがってしまい、どう頼んでもピアノを弾いてはくれなかった。で、ローリーが最善をつくし、その日は特に上機嫌だったせいもあって、楽しげに歌まで歌うのだった。マーチ家では、だいたい、彼は機嫌のわるい顔など見せたことはないのだ。
彼が帰ると、その晩ずっと、考えこんでいたエイミーが、何か新しいことを思いついたとみえ、突然言いだした。
「ね、ローリーは、教養が深いひと?」
「ええ。りっぱな教育を受けておいでだし、才能も豊かだわ。むやみに大事にされてだめにさえならなければ、きっとりっぱな人におなりでしょうよ」おかあさまは答えた。
「それに、うぬぼれやさんでもないわね?」エイミーはたずねる。
「ちっとも。だからこそあんなにチャーミングで、家でもみんなが好きなんですよ」
「わかったわ。教養があって、品がいいって、すてきだわ。それを見せびらかしたり、お高くとまったりしないと」エイミーは悟ったように言った。
「もし、謙遜《けんそん》でさえあれば、そうしたことは、人の態度や会話を通じて、誰にも感じとれるものなんですよ。わざわざ見せつける必要はないの」ミセス・マーチは言う。
「あるだけの帽子や洋服やリボンを、全部からだにくっつけて、ほらこんなに持ってるわよ、なんて見せびらかすのが、いかにおかしいかってのとおんなじ」ジョオがつけ加え、お説教は笑いの中に終わった。
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第八章 ジョオ「|底なし穴の魔王《アポリオン》」に逢う
「おねえさんたち、お出かけ? どこへ?」ある土曜の午後、エイミーは二人の部屋へ入って、姉たちが出かける支度をしているのを目にしてきいた。何か隠しごとをしているようなのをかぎつけ、好奇心にかられたのだ。
「どこでもいいの。子どもはよけいな口出しはしないこと」ジョオはけんもほろろに答えた。
ところで、誰でもおぼえがあると思うが、子どもの時、こういう応酬《おうしゅう》をされるほど癪《しゃく》なことはないのだ。「あっちへ行っといで、いい子だから」などと命令されるに至っては、全く以ての外《ほか》なのだ。エイミーは、だから、この失礼なあしらいに対し、何をとばかりそりくりかえり、たとえ一時間かかろうと、必ずこの内緒ごとの正体をつきとめてやろうと決心したのだ。で、自分がねだりさえすれば、すぐに折れてくれるメグに向かい、搦《から》め手から聞きだしにかかった。「教えてよ! あたしも連れてってくださったっていいのに。ベスはピアノで夢中なんですもの。あたし、なんにもすることがなくて、とってもさびしいんだもの」
「そうはいかないのよ。だって、あなたは招待されてないんだもの」メグが言いかけると、ジョオがじれったそうに口をはさんだ。「ちょっと、メグったら、黙って。ナないと何もかもおじゃんよ。あなたはだめなの、エイミー。赤ん坊じゃないんでしょ、ピイピイ泣きなさんなったら」
「ローリーとどっかへ行くのね。ちゃんとわかってるから。きのうの晩、ソファーでひそひそ話して笑ってたでしょ。あたしが入ってったらぴたっと黙ったけど。いっしょに行くんでしょ」
「そうよ。さあ、わかったらおとなしくして、世話をやかせないの」
エイミーは唇《くちびる》は閉じたものの、眼は忙しく動かし、メグが扇子《せんす》をポケットにしのばせたのを見つけてしまった。
「わかったわ! わかったわ! ≪七つの城≫を見に行くんでしょ」エイミーは大声をあげ、ききわけなく言いつのった。「いいわ、あたしだって行くから。おかあさまが見てもいいっておっしゃったもの。あたし、お小遣いだってあるわよ。いじわるね、もっと早く教えてくれないなんて」
「ね、いい子だから、まああたしの話を聞いてよ」メグはなだめすかす。「おかあさまは、あなたは今週行かないほうがいいと思っておいでなのよ。あのお伽《とぎ》劇の強い照明で、せっかくなおりかけたあなたの目がまた悪くなるといけないから。来週になったら、ベスやハンナと行かれるんだから、その時大いに楽しめばいいでしょ」
「おねえさんたちやローリーと行くほうがずっとずっとおもしろいわ。おねがい、行かせて。こんどの風邪ひきで、長いこと外へ出られないで、あきあきするほど退屈なんだわ。連れてって、メグねえさま、絶対おとなしくしてるから」エイミーは、じつに憐れっぽい様子をつくり、哀願した。
「連れてくことにする? あたたかく着せて行けば、おかあさまだって心配なさらないんじゃないかしら」メグは言いだした。
「この子が行くんなら、あたしはやめよ。もしあたしが行かないと、ローリーは喜ばないわ。それに、あたしたち二人を誘ってくれたのに、エイミーまで勝手に仲間いりさせたりするの、だいたい礼儀に外《はず》れるじゃないの。エイミーだって、邪魔なのを知ってて出しゃばるほど厚かましかないはずね」ジョオはプンプンしている。せっかくの楽しみを、うるさい子どもの世話やきでぶちこわされるのが、なんともいやなのだ。
そのジョオの調子と態度が、すっかりエイミーを怒らせてしまい、彼女は勝手にブーツをはき始め、じつに憎たらしい言いかたで反撃した。「いいわよ、行くもの。メグは行ってもいいって言ったわ。切符代は自分で払えば、ローリーとはなんの関係もありゃしないわ」
「あんたは並んだ席はとれないのよ。あたしたちのは予約席なんだから。でも、あんたが一人離れてすわってれば、ローリーはきっと自分の席を譲《ゆず》るわよ。それじゃ、あたしたち、ぜんぜんつまらない。さもなければ、ローリーは、あんたの切符をとってくれるわ。でも、招待されてもいないのに、図々しく出かけてって迷惑をかけるのなんか、あるまじきことよ! いい、一歩もそこを動かないことよ! この部屋から出ないようにね」ジョオは腹だちまぎれに指に針を刺し、なおさら癇癪《かんしゃく》をおこし、エイミーをこっぴどく叱った。
片方の足にブーツをはき、床にすわったまま、エイミーは泣きだし、メグがなだめにかかったところへ、下からローリーの呼ぶ声がした。二人は、オイオイ泣いている妹を置いて、階段をかけおりていった。エイミーは、時々、いつものおませぶりを忘れ、まるでだだっ子のようになることがあった。彼女は、一行が出かけようとした時、二階の手摺《てす》りからのりだし、おどかすように言った。
「今に後悔するわよ、ジョオ・マーチ。かならずさせてみせるから」
「うるさいわよッ!」ジョオはやり返すと、玄関のドアをあらっぽく閉めた。
三人は、すてきな時を過ごした。≪ダイヤモンド湖の七つの城≫は、じつに新鮮で、夢のようにすばらしかった。だが、道化《どうけ》た赤い小鬼だの、キラキラ光る妖精だの、うっとりするほどすてきな王子やお姫さまを見ながらも、ジョオの楽しさには一滴のほろ苦さがあった。妖精の女王の黄色い捲毛《まきげ》にエイミーを思いだしたし、幕間《まくあい》には、妹はいったい何で後悔させるつもりなのかと思いめぐらしたりしていた。
もともと、ジョオとエイミーとは、今までにも何回となくはでな小合戦をやってきていたのだ。二人とも気が短く、きっかけがあれば見さかいなく怒る傾向があった。エイミーはジョオをからかうし、ジョオはエイミーをじらし、ちょいちょい大爆発を起こしては、二人ともそれを後悔することを繰り返していた。年上なのに、ジョオは自制心にまったく欠けていて、つぎからつぎへともめごとを引き起こし、そのもとになる癇癪《かんしゃく》玉を破裂させまいとするのに、大いに苦労していた。だが、だいたい、怒っても長くは続かず、すぐに自分のあやまちを認めて謝まってしまうと、心から悔いて、前よりずっとよくなろうと努めた。で、姉妹は、ジョオはうんと怒らしたほうがいい、だって、あとで必ず天使のようにやさしくなるから、などと言うくらいだった。かわいそうに、ジョオは、いい人になろうといっしょけんめい努力しているのに、胸に巣食う仇敵《きゅうてき》が、事あればとりのぼせ、彼女を負かしてしまうので、この敵を平定《へいてい》するのには、じつに長い間、努力しなければならないということだった。
家へ帰ると、エイミーは居間で本を読んでいた。姉たちが入ってきた時、まだいじめられてすねた態度をしたまま、本から目もあげず、質問一つしようとしなかった。その場にベスが居合わせなかったら、おそらく好奇心にまけて、恨みのほうは忘れたのだろうが、おかげで、ベスの質問に答える姉たちに、そのお芝居の話を目に見えるように描写してもらえたのだ。
大よそゆきの帽子をしまいに二階へ上がったジョオは、まず化粧ダンスに目をやった。というのは、この前の喧嘩《けんか》のあと、エイミーは、ジョオのいちばん上のひきだしを床にひっくり返して、うっぷん晴しをしたからだった。ところが、すべてそのままで、急いで、押入れ、鞄《かばん》、箱などをあたってみた末、ジョオは、エイミーはすべてをゆるして、水に流してくれたのだと思いこんだ。
ところが、ジョオはまちがっていたのだ。翌日、あることを発見し、大|嵐《あらし》をひきおこした。メグとベスとエイミーが、その日の夕方、いっしょにいる所へ、ジョオがただごとならぬ顔つきでとびこんで行くと、息をきらせ、興奮した声で詰問した。
「誰か、あたしの本もってった?」
メグとベスは、同時に、「いいえ」と答え、びっくりするだけだった。エイミーは、火をつつき、何も言わない。ジョオは、妹が顔を赤くしたのにいち早く目をとめ、たちまちとびかかった。
「エイミー、とったねッ」
「とらないわよ」
「じゃ、どこにあるか知ってるね」
「知らないわ」
「嘘だッ!」ジョオは叫びざま、妹の肩をひっつかみ、エイミーよりずっと気の強い子でもふるえあがるほどの剣幕《けんまく》でにらみつけた。
「嘘じゃない。あたし、とらないし、どこにあるか知らないわよ、そんなもの」
「何か知ってる、たしかに。早く白状したほうがいいよ。言わないんなら、どうしても言わしてやるから」ジョオは妹の肩をこずく。
「いくらでもおこればいいわ。どうせ、二度とあのけちな本にはお目にかかれないから」こんどはエイミーがのぼせあがる番だった。
「なぜさ?」
「燃《も》したんだもん、あたし」
「えッ! あたしの大事な本を、おとうさまのお帰りまでには書きあげようと思って、あんなにいっしょうけんめい書いてたのを? ほんとに燃しちまったの?」ジョオの顔からさっと血がひき、目は怒りに燃え、エイミーをぎゅっとつかんだ指がぶるぶるふるえる。
「そう、燃したわ! きのう、あんな意地わるしたから。かならず思い知らせてあげるって言ったでしょ。だから――」
エイミーにみなまで言わせず、ジョオは怒りにわれを忘れて、エイミーの歯がカチカチ音をたてるほど激しくこずきまわしながら、悲しさと口惜しさにふるえて叫んだ。
「いじわるッ、バカッ! もう二度と書けないのよ、あれは。死ぬまで忘れないからね、この恨みは!」
メグはエイミーを助けにとびだし、ベスはジョオを静まらせようとつとめたが、ジョオは手のつけようもないほどわれを忘れてしまっていた。そして、妹の横っ面にとどめの一発を残して部屋をとびだすと、屋根裏へとかけのぼり、例の長椅子《ながいす》で気がすむまで泣いたりおこったりしたのだった。
階下でも嵐はおさまった。ミセス・マーチが帰宅して、喧嘩のいきさつを聞き、エイミーに、自分が悪かったことを悟らせるようによく話してきかせたのだ。ジョオの書いていたものは、彼女にとっては心フ誇りであり、同時に、家族のものにも、将来ある文才の萌芽《ほうが》と思われていたのだ。それは、ほんの五、六編の短いお伽話《ときばなし》にしかすぎなかったが、ジョオは辛抱づよく何度も書き直したりして、精いっぱい打ちこんで努力をつづけ、いつか活字になることを願っていたものだった。彼女は、ごく最近、全部を清書して、前の原稿を捨ててしまったばかりなので、エイミーの焚火《たきび》は、数年がかりの努力の結晶を灰にしてしまったというわけなのだった。ほかの人には、大した損失と見えないにしても、ジョオにとっては怖るべき災厄《さいやく》に会ったも同然で、もう二度ととり返しがつかないと思いこむのも、また無理もないのだ。ベスは、子猫が死んだ時同様に嘆き、メグもペットであるエイミーを弁護しようとはしなかった。ミセス・マーチは悲しそうに眉をよせ、むつかしい顔をしていたし、エイミーは、自分がしでかしたわるいことをあやまらないかぎり、もう誰からも愛してもらえないだろうという気がしていた。第一、すでに、心から後悔していたのだ。
お茶の鈴が鳴った時、ジョオは姿を現わしたが、きびしい、とりつく島もない顔つきをしているので、エイミーはありたけの勇気をかきあつめて、やっとかぼそい声で言ったのだった。
「どうぞゆるしてください、ジョオねえさん。ほんとに、ほんとにごめんなさい」
「絶対にゆるさない」ジョオのきびしい答が返ってきた。そして、それきり、彼女はエイミーの存在を無視した。
この大問題については誰も何も言わなかった――ミセス・マーチでさえも――。ジョオがこういう状態になった時は、とやかく言うだけむだだということを、家族は経験によって知っていた。そして、いちばん賢明なやり方は、何かちょっとしたはずみか、ジョオ自身の元来の気のよさかが、このひびをなおしてくれるのを待つことだということも。その晩はいっこうに楽しくなかった。いつものように縫いものをし、そばではおかあさまがブリマーやスコットやエッジワースなどの小説から朗読してくださるのに、何かが欠けていて、楽しい家庭の平安は乱されたままだった。歌の時間が来た時、いちばん強くこれが感じとれた。ベスはただピアノを弾くだけ、ジョオは石のように黙ってつっ立ち、エイミーはしょんぼりしているばかりで、メグとおかあさまだけが歌っていた。
二人ともヒバリのように朗らかに歌おうと努めはするのだが、フルートのような声は、いつもほどぴったり調子が合わず、誰も彼もがちぐはぐな気分だった。
ジョオにおやすみのキスをしてやる時、ミセス・マーチはやさしくささやいた。「ねえ、≪日の入りまで怒りを持ちつづけるな≫という聖書のことば、知ってますね。お互いをゆるしあい、助けあい、明日また新たに始めましょう」
ジョオは、やさしい母の胸に顔を埋め、悲しみも怒りも流すほど泣きたい気がしたのだが、涙は女々《めめ》しいものだと思ったし、第一、まだ受けた傷の痛みがひどく、ほんとうにゆるせる気持ちになれなかったので、パチパチ目をしばたき涙をはじきとばすと、首を振って、わざとエイミーに聞かせるように、あらっぽく言った。
「でも、あれはひどすぎます。とてもゆるしてなんかやれないんです」と言いすてて、とっととベッドに入り、その晩は、楽しい話も内緒の噂話もぬきだった。
エイミーは、自分の和平工作の序曲がはねつけられたことですっかり気を悪くしてしまい、あんなに下手《したで》に出たことを後悔し、前より以上傷つけられたような気持ちになり始めていた。そして、いつも以上気にさわるやり方で、いい子ぶりを発揮しだした。ジョオは、相も変わらず雷雲そこのけの顔をしていて、一日中何もかもうまくいかなかった。朝はとびきり冷えこんだのに、大切なマフ代りのパイを溝《みぞ》に落としてしまい、マーチ伯母はヒステリー発作をおこすし、メグは憂鬱《ゆううつ》病にとりつかれたようで、家ではベスがどうせめそめそ悲しい顔をしているだろうし、エイミーは、世の中にはせっかく目の前にいいお手本があっても、口ではいい人になるなど偉そうに言っていながらいっこう努力をしない人がいるなどという類《たぐい》のことを言いつづけている。
「誰も彼も気にくわない。そうだ、ローリーを誘ってスケートに行こう。あの人は、いつもやさしくて、陽気だから、きっと気分転換ができる」ジョオは独語《ひとりごと》を言い、さっと出かけて行った。エイミーは、ジョオが手にしたスケート靴の金具の音を聞きつけ、首を出し、口惜しそうに叫んだ。
「ほらね! こんど行く時には連れてってくれるって約束したのに。もう氷がわるくなるからスケートもこれが終わりだからって。でも、あんな怒りんぼに連れてってと頼んだって、どうせむだね」
「そんなこと、言うもんじゃないわよ。あなたは、ほんとうにいけないことをしたんだから。あの大事な原稿をなくしたことをゆるすのは、ジョオにはなかなかできないのは当然よ。でも、もう少しは気が静まったようだし、いいきっかけさえつかめば、もしかすると、ゆるしてくれるかもしれないわ」メグは言った。「二人のあとをついて行きなさい。ジョオがローリーと話してるうちに機嫌《きげん》がよくなるまで待ってて、ひと休みという時をねらって、黙ってただキスをするとか、なんかそういったことをしてごらんなさい。きっと喜んで仲直りしてくれると思うわ」
「やってみるわ」
エイミーは、この姉の助言が自分でも納得がいったので、あわてて支度をすると、もうその時は丘の向こうに見えなくなりかけていた二人のあとを追いかけた。
川まで大した道のりではなかったが、エイミーが追いつくまでには、二人とも身支度がすんでしまっていた。ジョオは妹が来るのを目にしたが、くるっと背を向けてしまった。ローリーは見ていなかった。彼は注意深く音を聞きながら、川岸沿いに試し滑りをしていたのだ。その日、また急に寒さがぶり返したものの、二、三日、ばかにぽかぽかした陽気がつづいたからだった。
「いちばん初めの曲がりめまで行って、大丈夫かどうか見てくるね。それから競走しよう」エイミーにも、ローリーの声が聞こえた。毛皮の縁どりをした上着と帽子で、まるでロシアの若者のような格好をして勢いよく滑って行く。
ジョオは、エイミーが、走ってきたせいでハーハー息をきらし、足をバタバタさせたり、かじかんだ手に息をふきかけたりしながらスケート靴を穿《は》こうとしているのを背中に聞いてはいたが、かたくなに振り向こうともしなかった。そして、妹が苦労しているのを、多少は気がとがめながらもいい気味だと思い、ジグザグに川下へと滑りだした。邪《よこしま》な考えとか感情は、すぐに心から追いだしてしまわないと、段々ふくれあがってくるものなのだが、まさにその通り、ジョオの妹に対する怒りも、胸にわだかまっている間に募《つの》る一方で、今では彼女自身そのとりこになってしまっていた。
ローリーは、曲がりめまで行くと、振り向いて叫んだ。「岸になるべくついていらっしゃい。真中はあぶないから」
ジョオは聞いたが、エイミーは、やっとスケートをつけ終わって立ちあがろうと骨折っていた最中だったので、この注意が耳に入らなかった。ジョオは、肩越しにちらっと妹を見やったが、その時、胸に宿っている小悪魔が、こうささやいた。「エイミーが聞こうと聞くまいと、かまうものか。自分のことは自分でさせとけ」
ローリーはすでに曲がりめの向こうに姿を消し、ジョオがその曲がりめにさしかかった時、エイミーは、ずっとおくれて、氷がもっと平らで滑りよさそうな川の真中へと向かっていった。
ふっとジョオは立ちどまった。胸さわぎがしたのだ。けれど、じき、そのまま行ってしまおうと決心した。だが、何かがそのジョオを引きとめ、背後に向きかえらせた。その瞬間だった。薄くなった氷がバシッと割れる音と同時に水しぶきがあがり、両手をさしあげたエイミーの小さなからだがみるみる沈んでいった。その悲鳴は、ジョオを恐怖で凍りつかせた。ローリーを呼ぼうとしたのに、声も出ないのだ。かけだそうにも足が言うことをきかない。一瞬、ジョオは金縛《かなしば》りにあったように、恐怖にひきつった顔で、黒い水に浮かんだブルーの帽子に目を据えていた。
何かが、矢のように横を通りすぎ、ローリーの声が叫んだ。
「杭《くい》を抜いてきて、はやく! はやく!」
どうしてやったか、ジョオはまるで憶《おぼ》えがなかった。ただ、それからの何分かは、まるで何かに操《あやつ》られでもしたように、ローリーの命令のままに無我夢中で動いた。ローリーは、じつにおちついていて、氷に腹ばいになって、自分の腕とホッケーのスティックでエイミーを支えてジョオが川岸の杭を抜いてくるまでがんばり、二人で力を合わせてエイミーをひっぱりあげた。彼女は怪我《けが》はほとんどなかったのだが、ショックですっかりまいっていた。
「さあ、つぎは、できるだけ早く家へ連れて帰らなけりゃ。ぼくたちの外套《がいとう》やなんか全部かけてあげて。ぼくは、この厄介なスケートを脱がすから」自分の上着まで脱いでエイミーをくるんでやり、ローリーはスケート靴のひもをほどきにかかったが、こんなにややこしいものだと初めて知ったような気がした。
がたがたふるえ、しずくをポトポトたらし、泣きつづけるエイミーをやっと家まで連れて帰った。ひとしきり大騒ぎがあって、エイミーは毛布にくるまれ、どんどん燃える火の前で、すやすやと眠りはじめた。
騒ぎの間、ジョオはほとんど物も言わず、外套も何も脱ぎかけのまま、服は裂け、両方の手は氷やスケートの締め金や杭などで傷だらけ、顔は青ざめ、狂ったような様子で、とびまわって用をたしていた。
エイミーが静かに眠ってしまい、家の中も静まると、ベッドのそばについていたミセス・マーチがジョオをよび、怪我をした手に包帯《ほうたい》をまき始めた。
「エイミー、大丈夫かしら、ほんとに?」枕にのっている金髪の頭を見やり、ジョオは声をひそめてきく。この金髪が、油断のならない氷にのまれ、永遠に失われてしまったかもしれぬと思うと、悔いに胸を塞がれるのだった。
「大丈夫ですよ。怪我はしていないし、多分風邪もひかないでしょう。よく気がついて、暖かくくるんですぐに連れてきてくれたからね」おかあさまは明るく答えてくれた。
「全部ローリーがしてくれたんです。あたしは、エイミーを落っことした犯人なの。おかあさま、もしもエイミーが死にでもしたら、みんなあたしがわるいんです」ジョオはベッドの脇に泣きくずれ、後悔の涙を流して自分のかたくなな気持ちをきびしく批判しながら、この事件の一部始終を母に話し、あるいは受けるかもしれなかった重い罰から救われたことに深く感謝して、すすりあげるのだった。
「あたしの怖ろしい気性《きしょう》のせいだわ! なんとか直そうとするのに。少しよくなったかと思うと、また悪い癖《くせ》が出て、前よりひどいことになって。ああ、おかあさま、いったいどうしたらいいの? どうしたら?」かわいそうに、ジョオは絶望のあまり泣くのだった。
「充分に注意し、そして祈るのよ。何回でもこりずに努力すること。そして、自分の欠点を直すことは不可能だなどと、絶対に思わないこと」ミセス・マーチはこう言って、もしゃもしゃの頭を抱きよせ、涙にぬれた頬にやさしくキスをしてやったので、ジョオはなお泣きだした。
「おかあさまにはわからないわ、想像だって無理よ、あたしがどんなにわるいか? すごくかっとした時、あたし、何をするかわからないみたいになるんですもの。まるで気でもちがったようになって、相手かまわず傷つけて、それでいい気持ちになって。なんだか、今に、怖ろしいことをしでかして、一生を台なしにしそうな気がしてならないんです。そして、みんなに憎まれるように。おかあさま、ねえ、おねがい、助けてちょうだい、どうぞ、ねえ!」
「ええ、ええ、助けてあげますとも。もうそんなに泣かないで。ただ、今日のことを忘れずに、もう二度とこんな日にめぐり合わないように、固く思い決めなさいね。ジョオ、ねえ、わたしたちは、みんな試練を受けるんです。あなたより、もっともっと大きな試練を受ける人だってあるんです。それに打ち勝つには一生かかるのだって、稀《まれ》ではないんです。あなたは、自分は世界一の癇癪持ちだと思っていますね。でも、わたしもあなたそっくりだったのよ」
「おかあさまがあたしと? だって、一度だって怒ったりなさらないのに!」びっくりしたあまりジョオは、一瞬、激しい悔いさえ忘れたくらいだった。
「四十年もの間、このわるい性質をなくそうとつとめつづけたのに、やっとそれを抑えることができるようになっただけですよ。わたしは、今まで、ほとんど何かしら怒ってたのよ、ジョオ。ただ、それを表に出さないことを身につけただけ。そして、いつかは、怒りというものを感じないようになれることを願ってるんです――あとまだ四十年もかかるかもしれないけれども」
ジョオにとって、自分が心から愛している母親の顔に浮かんだ辛抱づよさとつつましやかな表情こそ、賢者の説法より、そしてきびしい笞《むち》よりよい教訓となったのだった。与えられた同情と信頼とは、すぐにジョオの気持ちをやわらげ、母もまた自分と同じ短所を持ち、それを直そうと努力したのを知ったことで、悪い性質を持っていることが前ほどつらくはなくなり、それを直そうという決意を強めたのだ。十五歳の少女にとっては、自分が過《あやま》ちをおかさぬように見張りつづけ、祈りつづけるのには、四十年というのは大変な長さだという気がしはしたが。
「おかあさま、時々、ぎゅっと口を結んで、部屋から出ていっておしまいになるけど、あれ、怒っていらっしゃる時なの? マーチ伯母さまがお小言《こごと》を言ったり、みんなが困らせたりした時?」ジョオは、今までより何倍もの親近感をおぼえて、おかあさまにたずねる。
「そうなの。思わず口に出てしまいそうになることばを押さえることをおぼえたのよ。そして、自分の意志ではとても押さえきれないほど気持ちがたかぶってくると、黙ってしばらくその場を離れ、不甲斐《ふがい》ない、邪悪な自分を責めて、反省してくるんですよ」ミセス・マーチは溜息をもらし、ほほえみかけながら、ジョオの乱れた髪をやさしくなでて束ねてやった。
「おかあさまは、どうやって修養なさったの、口をつぐんでいることを? これさえわかれば、ずっと楽なんだわ――だって、自分でも知らない間に、意地のわるいことばが口からとびだしてしまうんですもの。そして、言えば言うほどひどくなって、おしまいには、人の気持ちを傷つけるのがいい気持ちになってきて、とても悪いことを口ばしったりするの。ねえ、ママ、どういうふうになさったか、教えてちょうだい」
「わたしのいいおかあさまがいつも助けてくださったの――」
「おかあさまがあたしたちになさるようにでしょ」ジョオは感謝のキスで母のことばを遮《さえぎ》った。
「でも、わたしは、あなたより少し大きくなった時、そのおかあさまをなくしたの。で、そのあとずっと、一人きりで奮闘したんですよ。とても勝気だったもので、ほかの人に自分の短所を白状することができなかったものでね。そりゃあ苦労したのよ、ジョオ、自分のしでかした失敗に、何度つらい涙を流したことか。どんなに努力しても、いっこうに自分の性質があらたまりそうもなかったのでね。ちょうどそのころ、あなたたちのおとうさまが現われて、とても幸福だったので、いい人間になることまでが楽になってきたんです。けれど、やがて、四人の娘が始終そばにいて、暮らしも楽ではなくなると、また例のわるい癖が始まったんです。だいたい、わたしは、根が辛抱づよいたちじゃないので、自分の子どもたちが何かと足りないがちでいるっていうことが、とてもつらかったんです」
「大変だったのね、おかあさま! その時は、何を頼りになさったの?」
「あなたたちのおとうさまよ、ジョオ。おとうさまは、どんな時でも忍耐を忘れず、疑ったり不平を言ったりということを絶対になさらない方――いつも希望をもち、働き、楽しそうに待っていらっしゃる。おとうさまの前では、だから、誰でもそれに見習わずにいられなくなるんです。おとうさまは、わたしに力を貸し、慰めを与えてくださったし、小さい娘たちに持ってほしいと思う美徳は、お手本である自分が、まず先にたって実行することを教えてくださったんですよ。これが自分だけのためではなく、あなたたちのためになるのだと思うと、努力するのも楽でした。きつい物言いをした時、あなたたちがどきっとしたりびっくりしたりする、その表情が、どんなお説教にもまして、わたしをたしなめてくれました。そして、子どもたちから愛され尊敬され信頼されているということ、それが、みんなの模範になる女性になろうとする努力に対して、何よりも心あたたまる報酬《ほうしゅう》でした」
「おかあさま、あたし、おかあさまの半分くらいもいい人間になれたら、それで満足するんだわ」ジョオは深く心を打たれて言うのだった。
「わたしなどよりもっといい人になれたらと思いますよ。でも、おとうさまのおっしゃる胸中の敵をいつも見張っていなければいけないわね。でないと、あなたの一生を台なしにしないまでも、何か暗いかげを落とすかもしれないから。幸い、一つの警告を受けたことだし、これを心に銘《めい》じて、これからは精魂こめてあなたの短気を押さえる努力をすることね。今日以上の悲しみや悔いを味あわないですむように」
「やってみます、おかあさま。必ず。でも、おかあさまも手伝ってくださいね。折にふれて注意して、野放図《のほうず》にならないように手綱《たづな》をひっぱっててくださいね。あたし、おとうさまが、時々指を唇にあてて、おかあさまをとてもやさしいけれど真剣な表情でごらんになったのを見たわ。そうすると、いつも、おかあさまはぎゅっと口を結んでおしまいになるか、黙って部屋を出ていらしたけど。あれ、おとうさまが注意をなさってたのかしら」ジョオはつぶやくようにきいた。
「そうよ。そういうふうにして助けてくださるようにお願いしたの。おとうさまはずっとそれを守ってくださって、あの目だたない合図と、やさしいお顔で、何度も何度もわたしがひどいことを口にするのを防いでくださったんです」
ジョオは、母が涙ぐみ唇の端をかすかにふるわせているのを目にした。そして、よけいなことを言ってしまったのではないかと心配になり、声を低めて気づかわしそうに言った。
「おかあさまたちのことを観察して、それを口にしたりしていけなかったかしら? 子どものくせに生意気《なまいき》だったかもしれませんけど、でも、おかあさまについてどう思っているかみんなお話するのがとてもうれしくて、それになんだか、こうしているととても幸福で、安全だって気がするの」
「ジョオ、あなたは、なんでもおかあさまに言っていいのよ。だって、子どもたちがみんなわたしに何もかも話してくれ信頼してくれ、どんなにわたしがみんなを愛しているか知っていてくれるのだということを感じることが、わたしの最大の幸福でも誇りでもあるんですものね」
「あたし、おかあさまを悲しませてしまったかと思ったの」
「いいえ、そんなことはないのよ。ただ、おとうさまのことを話してたら、おとうさまのお留守のさびしさ、お力の大きさをあらためて想い、おとうさまの大事な娘たちが無事にりっぱに育ってゆくように、始終心をくばり、努めなければとしみじみ思っただけなのよ」
「でも、おかあさま、おかあさまは、ご自分から従軍をおすすめになり、お発《た》ちの時も泣いたりなさらなかったし、今だって愚痴《ぐち》をおっしゃることもないし、まるで、助けなどいらないように見えてよ」
「わたしは、愛する祖国にいちばんお役にたつものを捧げ、おとうさまが行っておしまいになるまで、涙を押さえていたんです。わたしたちは当然の義務を果たし、最後にはそのおかげで前以上に幸せになれるというのに、なんで愚痴などこぼせて? もしも、わたしが助けを必要としないように見えるとしたら、それはおとうさまにも優《まさ》る、慰めと力とを与えてくださるよき友を持っているからです。ねえ、ジョオ、あなたの一生の悩みも試練も、やっと始まったばかりで、まだまだ増える一方でしょう。けれど、あなたの天なる父のお力といつくしみを感じとることを知りさえしたら――そう、地上の父に対すると同じように――あなたは、すべてのものに打ち勝ち、生きぬくことができるんですよ。愛しそして信じることが深ければ深いほど、天上の父のおそば近くあることを感じ、人間の力や知恵などに頼ることが少なくなるものです。その方の愛とまもりは倦《う》むことも変わることもなく、決して奪われもしません。そして、生涯の平安と幸福と力の源《みなもと》となるでしょう。これを心から信じ、あなたの小さな心配ごと、望み、そして悲しみも罪も、おかあさまのところに持ってくるのと同じように、神の前に、気楽に、何もかもさらけだすようになさいね」
ジョオの答は、ぎゅっとおかあさまを抱きしめることだった。そしてそれに続いた沈黙の中で、ジョオが生まれて初めてともいえるほど真心をこめた祈りがその胸から天へとのぼっていった。この悲しいながらも幸せだった時間に、彼女は悔恨《かいこん》と絶望の苦《にが》さと同時に、自制と克己《こっき》の美味をも知ったのだ。そして、母の手に導かれ、この世のどの父よりも強く、どの母よりもやさしい愛で、すべての子どもに手をさしのべてくださる友のそばへ引きよせられたのだ。
エイミーがかすかに身動きをして、眠ったまま吐息《といき》をもらした。ジョオは、すぐにでも自分の短所を改めることを始めたいように、初めてといっていい表情を浮かべた顔をあげた。
「あたし、≪日の入りまで怒りを持ちつづけ≫てしまったんだわ。この子をゆるそうとしないで。そして、今日、もしローリーが急場を救ってくれなかったら、何もかも遅すぎたということになっていたかもしれないんだわ。なんてひどい人間だったんでしょ、あたしは」妹の上にかがみ、枕に乱れたまだしめっている髪をなでながら、ジョオはつぶやくように言った。
まるでそれが聞こえでもしたように、エイミーはパッチリ目をあけ、手をさしのべた。その顔にはジョオの胸にとびこんでくるようなほほえみを浮かべて。二人とも何も言いはしなかった。だが、二人は、毛布ごしに固く抱きあい、何もかもが、心をこめたキスの中に、ゆるされ、そして忘れられてしまった。
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第九章 メグ≪虚栄の市≫へ行く
「あの子たちが、ちょうどいい時に麻疹《はしか》にかかってくれたなんて、とても運がよかったと言えるわね」四月のある日、メグは、妹たちに囲まれて、彼女たちが命名した外国旅行用トランクをつめている最中だった。
「それに、アニー・モファットが約束を忘れなかったのもね。二週間つづきの楽しみなんて、すてきそのものじゃないの」ジョオは、風車よろしくその長い腕をふりまわしてスカートをたたんで姉に手伝っている。
「それに、お天気もいいし。よかったわね」ベスは、姉の首飾り用のや髪につけるリボンをきちんと選りわけて、この晴れの機《おり》のために姉に貸してあげる、いちばん大事にしている箱に収めている。
「あたしもどこか楽しいことがあって出かけるとこで、こういうきれいなものをみんなつけてみられるんだといいのに」エイミーは虫ピンをくわえて、姉のピンクッションの整理をしているところだった。
「みんないっしょに行かれるとよかったのにね。でも、そうはいかないから、帰ってきてよく話せるように、おみやげ話をどっさり仕込んでくるわね。こんなに親切に、大切な物を貸してくれたり、支度を手伝ってくれたりしてくれるのに、あたしにできるお礼は、せいぜいそんなことですもの」メグは部屋を見まわし、ごく質素な旅支度をながめる。この姉妹にとっては、ほとんど満点と思える支度ではあったが。
「おかあさまは何を貸してくださって? 例の宝物の箱から」ミセス・マーチが、適当な時が来たら娘たちに贈ろうととってある、昔の栄華の遺品のいくつかを納めた杉の小|抽斗《ひきだし》を開けた時、あいにくその場に居合わせなかったエイミーがたずねた。
「絹の靴下が一|足《そく》、美しい彫りの入った扇子《せんす》、そしてすてきなブルーのサッシュよ。あたし、スミレ色の絹の上着がほしかったけど、作りなおす暇がないでしょ。だから、いつもの薄地モスリンで間にあわせなけりゃならないわ」
「でも、あれなら新しいあたしのモスリンのスカートにぴったりよ、それにあのサッシュをすればぐんと引きたつし。珊瑚《さんご》の腕輪《ブレスレット》、こわさなければよかったな。お姉さんにあげられたのに」ジョオは、物をあげたり貸したりするのが大好きなのだが、彼女の持ち物ときたら、ほとんど使用に堪えぬほどいたんでいるのだ。
「宝物箱に、とてもかわいい旧式な真珠のアクセサリーセットがあったわ。でも、おかあさまは、若い娘には、生花《せいか》がいちばんきれいなアクセサリーになるっておっしゃったし、ローリーがいるだけ届けてくれる約束だから。さあて、点検してみるわね。新調の散歩服一式でしょ――あ、ベス、ちょっとその帽子の羽飾りをまきあげて――それから、日曜日の教会行きやちょっとしたパーティ用のポプリンでしょ――これ、春にはちょっとボテボテしすぎるわね? スミレ色の絹だったらどんなにいいかしら。あアあ!」
「平気よ。大きなパーティには、あのモスリンがあるでしょ、それに、お姉さんは白を着ると、いつも天使みたいに見えてよ」エイミーは、その美しい衣裳《いしょう》の小店《こだな》を前に、はしゃぎたっている。
「あれは衿《えり》のあきが深くないし、裾《すそ》も十分にひかないけど、でも、あれでがまんしとかなけりゃ。あたしのブルーの普段着は、裏返して縁《ふち》飾りを新しくしたら、まるで見ちがえるようによくなって、新調みたいにパリッとしたわ。絹の上着は流行はずれだし、帽子もサリーのようじゃないわ。あまり不平は言いたくないけど、雨傘《あまがさ》はがっかりよ。おかあさまに、白い柄《え》のついた黒をお願いしといたのに、忘れておしまいになって、黄色っぽい柄のグリーンのなんか買っていらしたのよ。丈夫だし使いよさそうだから不平は言えないけど、アニーの金の握りのついたのと並ぶと、きっと恥ずかしいわ」メグは、問題の小さな雨傘を眺めて吐息《といき》をもらす。
「とりかえたら」ジョオがすすめる。
「そんなバカなこと。それに、おかあさまの気持ちを傷つけたくないし。色々とそろえてくださるのに、ずいぶん苦労なさったんですもの。だいたい、もとはと言えば、あたしのろくでもない性質がわるいのよ。もういいかげんにしなけりゃ。とにかく、絹の靴下と、新しい手袋が二組もあるのは大きな救いだわ。ジョオ、あなたっていい子ね、あなたの大事なのを貸してくれて。二組も新しいのを持ってるということで、とても豊かな、なんとなく優雅な気がしてくるわ。古いのはよく洗って普段用に用意してあるし」メグは、手袋の箱をちらっとのぞいて気をとりなおす。
「アニー・モファットは、ナイトキャップにブルーやピンクのボーをつけてるわ。あたしのにもつけてくれない?」ハンナから受けとってきたばかりの白いモスリン類を持ってきたベスヘメグは頼んだ。
「だめよ。あたしならつけない。だって、気どったナイトキャップは、飾りのない質素なナイトガウンには似合わないでしょ。貧乏人はじみにしてるほうがいいと思うな」とジョオ。
「本物のレースを服につけ、ナイトキャップにボーをつけたりできる幸せなんて、あたしには縁《えん》がないんだわ、きっと」
「この間、おねえさん、アニー・モファットの所へ行けさえしたら、とても幸せだっておっしゃったわね」ベスがいつもの静かな調子で口をはさんだ。
「たしかにそうね! そうよ、あたしは幸せよ、ほんとに、だからもうつべこべ言わないわ。でも、人間て、持てば持つほどなお欲しくなるとみえるわね。さて、化粧道具もそろったし、何もかも入ったわ。あとはパーティ・ドレスだけ。それはおかあさまに入れていただくことになってるし」
メグは、半分つめ終わったトランクから、何度もプレスしたりつくろったりした白いモスリンの服に目を移し、また元気づいた。その服こそ、メグがご大層にパーティ・ドレスと名づけているものなのだった。
翌日は晴天で、メグは、何もかも初めてずくめの楽しい二週間をすごしに、型どおりのいでたちで出発した。ミセス・マーチは、この訪問をゆるすのにはあまり気がすすまなかったのだ。娘がこの旅から帰った時、前以上に不満をもつようになりはしないかという懸念《けねん》があったからなのだった。だが、メグがあまりいっしょうけんめいねだった上、サリーがちゃんと面倒を見ると約束したことでもあり、それに冬中辛抱して働いたあと、ささやかな楽しみを味わうのがさぞうれしいだろうと思ったりして、母親はとうとう根負《こんま》けしてしまい、メグは初めて上流社会の暮らしを味わいに出かけていったというわけだった。
モファット家というのは、たしかに上流で、単純なメグは、初めは、その邸宅の豪華さや住人の贅沢《ぜいたく》ぶりに、すっかり圧倒されていた。だが、彼等は、浮わついた生活を送ってはいても、人間的には親切であり、すぐにお客を気楽にさせてくれた。おそらく、理由は判らぬままに、メグは、この一家が特に教養ある知的な人々ではなく、また、身につけた鍍金《めっき》のたぐいも、もともとのごくあたり前の地金を隠しおおせないのだということを感じとったからかもしれない。
贅沢な食事をし、りっぱな馬車で遠乗りをし、毎日いちばん上等の服を着て、遊ぶこと以外は何もない日を送るのは、たしかにいい気分だった。そういう生活はメグの憧《あこが》れにはぴったりだったのだ。で、じきに、彼女は周囲の連中のしぐさや話を真似はじめた――ちょっときどってみたり、上品なしなをつくったり、フランス語まじりにしゃべったり、髪をちぢらせたり、服の巾をつめてみたり、無理をしてファッションの話をしてみたりというように。アニー・モファットの持ち物は、見れば見るほどすてきで、羨《うら》やましさはつのる一方だし、お金持ちになりたさに溜息ばかりがもれてくるのだった。自分の家などは、今こうしていると、まるで殺風景でわびしいとしか思えず、仕事は考えただけでもぞっとするほど大変につらいものに思え、新しい手袋と絹靴下のありがたみもどこへやら、自分はじつにみじめな傷心の乙女だという気分になってしまった。
けれど、そう長く悲しんでいる暇があるわけではなかった。三人の若い娘たちは、たのしくすごすことにせっせとせいを出していたのだから。買物、散歩、馬車の遠乗り、訪問と、一日中とびまわり、夜は夜で、芝居だの歌劇だの、家でのパーティだので一刻の暇もないほどだった。というのも、アニーは友達が多く、もてなしかたも堂に入っていた。アニーの姉たちはもうりっぱな若いレディーぞろいで、一人はすでに婚約中で、メグは、また、それを興味深く観察し、とてもロマンティックだと思ったのだ。
ミスター・モファットは、太った陽気な老紳士で、メグの父を知っていた。ミセス・モファットも同様に太った老貴婦人だったが、娘同様、メグがすっかりお気に召した様子だった。誰も彼もがメグをちやほやした。そして、みんなにデイジー[ひな菊]などと呼ばれ、すっかりご機嫌になっていたのだった。
モファット一家のいう小パーティの夕方になると、メグは、ポプリンの服など恥ずかしくて着られないのに気づいた。みんなが薄物のドレスをつけ、一分《いちぶ》の隙もない支度をしはじめたのだ。で、とっときのモスリンのドレスを出してはみたが、サリーのおろしたてのパリッとしたのと並ぶと、いかにもしおたれて貧相にみえる。メグは、みんながそれをちらっとみてから顔を見合わせたのを目にして、頬にカッと血がのぼった。メグは気立てのやさしい娘ではあったが、同時に勝気でもあったからだった。誰も何ひとつ言いはしなかったが、サリーは髪をゆってあげると言いだすし、アニーはサッシュを結んでくれ、アニーの婚約中の姉ベルは、メグの腕の白さをほめたりした。だが、そのとってつけたようなやさしさに、メグは自分の貧しさに対するあわれみだけを感じて、みんなが笑ったりしゃべったり、薄翅《うすば》をひるがえす蝶《ちょう》のようにとびまわっている間、一人離れて、沈んだ胸を抱いて立っていた。そのつらさ、情けなさがどう耐えようもなくなったころ、女中が花の箱を持ってきた。女中が口上を言う間もなく、アニーはさっさと蓋《ふた》をとり、みんなは箱に入っていたバラとヒースとシダを囲んで嘆声をあげた。
「ベルのところへよ、もちろん。ジョージはいつもお花を贈るけど、これはまた特にすてき、ボーッとしそうだわ」アニーは花の香《かおり》をぐーっと吸う様子をしてみせる。
「それはミス・マーチヘとのことでした、お嬢さま。ここにお手紙が」女中が口を挟《はさ》み、メグに封筒を渡した。
「なんてすてき! どこからなの? 恋人がおありだなんて、ちっとも知らなかったわ」三人は、好奇心と驚きでいっぱいになり、メグのまわりをひらひらと動きまわった。
「お手紙はおかあさまから、お花はローリーからだわ」メグは簡単に答えたが、心ではローリーが約束を忘れずにいてくれたことに感謝を捧げていた。
「まあ、そうなの!」アニーはおかしな顔をした。メグは、母の手紙を、羨望《せんぼう》、虚栄、誤った自尊心から自分をまもってくれる護符《ごふ》のように、そっとポケットにすべりこませた。ほんの五、六語のやさしいことばは彼女の気分を一新して、その花の美しさは、大いに気を引きたてる役をしてくれた。
またどうやら前同様楽しい気分になったメグは、自分用のバラとシダを少しとりわけておき、あとの花で、衿もとや髪やスカートにつけるかわいい花束《ブーケ》をつくり、みんなにあげてまわり、その様子がなんとも愛らしかったので、アニーのいちばん上の姉クララなどは、「あなたみたいにかわいらしい人は見たことないわ」と言ったりした。そして、誰もが、このささやかな思いやりにすっかり心を打たれた様子だった。
ともかく、自分から思いついてした親切な行ないのせいで、メグの憂鬱《ゆううつ》はふきとんでしまったとみえ、ほかのみんなが、ミセス・モファットに支度を見せに行ってしまったあと、鏡の前に立ち、カールした髪にシダをあしらい、ドレスにバラをとめつけてみると、問題の服ももうそれほどみすぼらしくはなく、鏡に映った瞳はうれしそうに輝いていたのだった。
その晩、彼女はとても楽しくすごした。誰もが親切で、三度もほめられた。アニーにすすめられて歌うと、誰かが、めったにないいい声をしていると言った。リンカーン少佐は、「きれいな目をした、はつらつとした若いお嬢さんは誰?」とたずね、ミスター・モファットは、その晩ずっと、メグだけに特別やさしく振舞ってくれていた。というわけで、メグはまことに楽しく過ごしていたのだが、偶然耳にした会話のせいで、すっかり気分を乱されてしまった。ちょうどメグが温室の入口近くに腰をおろし、誰かがアイスクリームを持ってきてくれるのを待っている時、背にした花の壁の向こうで、こうたずねる声が耳に入った。
「あの娘、いくつなのかしら?」
「十六か七でしょ」別の声が答えた。
「娘さんの誰かがそうなったら、まったく大したものだわ。テリーの話だと、あの人たち、とても親しくしていて、あちらのご老人は、娘さんたちをひどくお気に入りだそうよ」
「ミセス・Mは、早くからもくろんでいたんでしょうよ。きっと上手に事を運ぶわ、まだ少々早いけれど。あの娘は、まだまるでその気がないようね」声の主はミセス・モファットだった。
「でも、何か知ってるように、あの手紙のこと、ママからだなんてごまかしたり、花がとどいた時、頬を染めたりして。かわいそうに、あの娘、衣裳さえちゃんとすればさぞ引きたつでしょうに。木曜のパーティにドレスを貸してあげると言ったら、あの娘おこるかしら」別の声がたずねる。
「とにかく勝気《かちき》だから。でも、案外すなおに受けるかもしれないわね――とにかく、あのくたくたのモスリンのドレスしかないんですもの。今夜、何かで破くかもしれないし、そうしたら、ちゃんとしたのを貸す口実もできるというものだわ」
「ま、なんとかやってみましょう。あの娘に敬意を表して、ローレンス少年を招待することにしましょう。あとで話の種《たね》にもなることだし」
ここヘメグの友達が現われたのだが、彼女はカッとのぼせ、とりみだした様子をしていた。だが、メグは、今も言われたとおり、勝気な娘だった。そして、この場合、その勝気が大いに役にたった。そのおかげで、今耳にしたことに対しての怒りも口惜しさも嫌悪《けんお》もぐっと抑えて、顔に出さないですんだのだ。無邪気で疑うことを知らぬメグでも、さすがに今の噂話《うわさばなし》の意味はわかった。忘れようと努力はしても、なかなかそうはいかず、耳の中では、「ミセス・Mは、早くからもくろんでいた」、「ママからだなんてごまかして」、「くたくたのモスリンのドレス」などということばがくり返しくり返し鳴りつづけ、もうがまんも何もつきはて、ワッと泣きだし、うちのひとたちに話を聞いてもらい、どうしたらいいかたずねに家へとんで帰りたくさえなってしまったのだ。
だが、それはできはしないことだったので、メグはつとめて陽気に、はしゃぎまわり、必死だったせいもあってまんまと人の目をだましおおせ、彼女がそんな努力をしていたとは誰も気づかなかった。何もかも終わってしまい、ほっとして一人静かにベツドに入って、メグは頭が痛くなるほど考えたり怒ったりあやしんだりしたあげく、ひとりでに溢《あふ》れた涙の一すじ二すじに上気した頬がやっと心地よく冷やされたのだった。あの心ない、だが別に悪気《わるぎ》はなかったことばの数々は、メグに新しい世界を開き、今までのメグの世界の平和を破ってしまったのだ――子どものように幸せに住んでいた世界の。ローリーとの無邪気な友情は、ふと耳にした愚かしいことばで傷つけられた。人を自分の尺度でしか計れないミセス・モファットが、俗っぽいもくろみを母がしていると言ったせいで、今まであれほど固かった母への信任までが多少ゆるぎもした。そして、みすぼらしい衣裳は天《あめ》の下最大の災厄の一つと思っている娘たちのよけいなあわれみが、貧しい父の娘は、質素な服で満足すべきだというもっともな決意を弱めてしまった。
かわいそうに、メグは寝ぐるしい夜を送り、目をはらし、みじめな気持ちで床を離れた。友達に対してむかっ腹をたてながらも、一方では、何もかもあけっぱなしに話して、その場で事を解決しようとしなかった自分を恥ずかしく思ってもいた。その朝は、誰もがぼんやりしていて、昼近くになってやっと編物などとりあげる元気が出る始末だった。すぐに、メグは、みんなの態度がどこかちがうのに気がついた。前よりも丁重《ていちょう》にあつかってくれるようだし、何か言えばやさしく応じてくれ、隠しきれぬ好奇心を浮かべた目で見るのである。こうしたことはメグを驚かしも、またいい気分にもしたのだったが、やがて、それが何からきていたのかがわかった。何か書きものをしていたミス・ベルが、ふと顔をあげて、甘ったるい調子で言った。
「デイジーちゃん、あなたのお友達のミスター・ローレンスに、木曜日のご招待状をお送りしたわ。わたくしたちもお近づきになりたいし、第一、あなたへの礼儀からもそうすべきですものね」
メグはさっと頬を染めたが、ここでみんなをからかってやろうとちょっと意地のわるい悪戯《いたずら》を試みて、もったいぶって答えた。
「それはご親切に、でも、あの方、たぶんいらっしゃらないと思いますわ」
「まあ、なぜなの」とミス・ベル。
「もう、おとしですものね」
「まあ、どういうこと、それいったいいくつだっていうの!」ミス・クレアラが叫ぶ。
「もう七十近いと思いますわ」メグは、目が笑いだすのを隠そうと、編物の目を数えるふりをしている。
「まあずるい人! わたくしたちが言ってるのは若いほうだって、ちゃんと知ってるくせに」ミス・ベルは笑いだした。
「若いほうって、そんな人いませんわ。ローリーは、まだほんの子どもですもの」
みんなが勝手に決めた恋人のことをこう言うと、姉妹が妙な顔をして目くばせしあっているのを目にしてメグも笑いだした。
「あなたと同い年くらいでしょ」ナンが言った。
「妹のジョオと同じくらいよ。わたくし、八月には十七になるんですもの」メグは胸を張ってやり返した。
「でも、あなたにお花を贈ってくださるなんて、ご親切じゃなくて」アニーは、さも何もかも知っているというように言った。
「ええ、始終、みんなにくださるわ。あの方のおうちは花でいっぱいだし、わたくしたちみんな、大好きなもので。うちの母とミスター・ローレンスはお友達なんですの、ですから、子ども同志仲よくなるのも当然なんですわ」メグはこれでみんなが黙ってくれればいいと思った。
「デイジーは、どうやらまだ芽を出してないみたいね」ミス・クレアラはべルに目くばせをした。
「なんとまあ牧歌的な! 無邪気なおはなしだこと」ミス・ベルは肩をすくめて応じた。
「娘たちのこまごましたものを買いに出ますが、何かご用はないこと、お嬢さん方」レースと絹に埋まったミセス・モファットが、象よろしくのっしのっしと入ってきた。
「おそれいります、おばさま。木曜日には、新しいピンクの絹のドレスがありますから、何も欲しくございませんわ」テリーが答えた。
「わたくしも、べつに――」言いかけたものの、メグはぐっとつまった。ほしいものがいっぱいあるのだが、手にいれられないのに気づいたからなのだ。
「何を着るの?」サリーがたずねる。
「またあの白いのよ、目だたたいようになおせたら。きのうの夜、ひどく破いてしまったの」メグはさらっと言ってのけようとしたのだが、どうしてもぎこちなくなってしまった。
「お宅からとりよせれば、別のを?」他人の気持ちに鈍感なサリーが言った。
「でも、ほかにはないの」メグはこう答えるのにさえいっしょうけんめいだったのに、サリーはいっこうにそのつらさも察しないで、さも驚いたようにはでな声をあげた。
「あれだけですって? まあおかしい――」が、みなまで言わさず、べルは目まぜでサリーをたしなめ、やさしく口をはさんだ。
「少しもおかしいことはないわ。こちら、まだ正式に社交界にデビューしていらっしゃらないのに、何枚もドレスがいるわけはないでしょ。お宅にたとえ一ダースあったって、とりにおやりにならないでいいことよ、デイジー。わたくし、小さくなって着られないすてきなブルーの絹のがあるわ――しまいっぱなしなの。ねえ、ぜひそれを着てみてくださらない、おねがい。いいでしょ?」
「どうもご親切に、でも、もしお宅でお差し支えなかったら、わたくし、あの古いのでかまいませんの。わたくしくらいの年なら、あれで上等だと思いますから」とメグ。
「おねがい、あなたにうんとおめかしさせて。着つけは、わたくしが全部するわ。趣味なのよ。ほんのちょっちょっと手をかければ、あなたはすてきな美少女におなりだわ。お支度がすむまで、誰にも見せないことにして、さっと登場することにしましょう――シンデレラと護り神さまみたいに」ベルは彼女特有のやわらかい調子で説得した。
メグも、そう親切に言われるとすげなくことわることもできなかった。それに、ちょっと手をかけたらすてきな美少女になるものかどうか確めたい気もあり、ついにその申し出を受けるはめになり、モファット一族に対してさっきまで持っていたこだわりをけろっと忘れてしまったのだった。
木曜の夜には、ベルは小間使と二人つききりで部屋にとじこもり、メグをかわいいレディーにしたてあげたのだった。髪をちぢらせたり、たてロールをつくったり、衿もとや腕に香水いりのパウダーをはたき、唇にはサンゴ色の紅をうすく塗ったり、メグが拒ばまなかったら、フランス生まれの小間使いオータンスは、ほんの心もちと頬紅《ほおべに》までつけるところだった。つぎは着付けで、二人がかりでコルセットのひもを締めあげ、淡《あわ》いブルーの絹のドレスに無理やりメグのからだを押しこんだので、息もつけないほどの苦しさだった。そして、衿のカットがぐっと低く、つつましやかなメグは、鏡にうつったのを目にして真赤になってしまった。つぎに銀のアクセサリーのセットがつけられた。腕輪《ブレスレット》、ネックレス、ブローチ、それにイヤリングまで――それはオータンスが目立たぬように肌色の絹糸で結びつけてくれた。胸にはティー・ローズのつぼみのコーサージ、レースのフリルを衿まわりにぐるっと飾ったので、メグは美しい真白い肩や胸が出すぎるのが少しは目だたなくなったと気が楽になった。
最後に共布の絹のハイヒールを穿《は》かせてもらった時、メグはもうこれで本望だと思った。レースのハンカチ、羽の扇、根に銀紙をあしらった花束《ブーケ》、これで支度は完全に整った。ミス・ベルは、女の子が着せかえ人形に新しい服を着せた時同様の満ちたりた思いで、メグの上から下まで眺めるのだった。
「マドモアゼルは|シャルマン《すてき》ですわ、|トゥレ《とても》・|ジョリー《おきれい》じゃございませんこと」オータンスは、いかにもうっとりした様子をつくって、手をぐっと組み、大仰《おおぎょう》にお世辞を言った。
「さ、みんなに見せに行きましょう」ミス・ベルは先にたって、他の連中が待っている部屋へと歩きだした。
メグは、ドレスのうしろの裾を長く床にひいてそのあとにつづいた。イヤリングはかわいくチリチリ音をたて、捲毛はふさふさ揺れ、胸はどきどき鳴り、メグは自分の楽しいことが今こそ始まるのだという気分がしてきた。あの部屋の鏡が、彼女は正真正銘《しょうしんしょうめい》すてきな美少女であることを証明してくれたからだった。友達は口々にほめことばをくり返し、メグを称《たた》えるのに夢中だった。しばらくは、イソップ物語に出てくるカラスよろしく、借りものの羽毛を得意でみせびらかし、それを囲んで、ほかの娘たちは、一群のカササギそこのけにペチャクチャしゃべりまくっていた。
「わたくしが着替えをする間に、この方に教えてあげてちょうだい、ナン、スカートのあつかいかただの、そのフランス式ヒールのさばきだのを。なれないでころんだりなさるといけないから。クレアラ、その銀細工の蝶で、左側にさがっている長い捲毛をうまくとめてあげて。いいこと、このわたくしの作品を二人とも丁重《ていちょう》にあつかってちょうだい」べルは自分の手際のよさにすっかり気をよくした顔で、いそいそと出ていった。
「階下《した》へ行くのこわいわ。ぎこちなくて、変てこで、それに裸《はだか》みたいなんですもの」知らせの鐘がなり、ミセス・モファットが使いをよこし、お嬢さんたちにすぐ広間へ出てくるようにと告げると、メグはサリーに訴えた。
「ぜんぜん別の人みたいよ、あなた、でもとてもすてき。あなたと並んだら、あたしなんか影がうすいわ。ベルってほんとにセンスがいいのね。だって、あなたまるでフランス娘みたいですもの。お花はなにげなくさげて持つのよ、そんなに抱きしめないで。裾に気をつけてね、つまずかないように」サリーは、メグが自分よりずっときれいなのを気にしまいと、無理して言うのだった。
このサリーの警告をしっかり胸にたたんで、メグは何事もなく階段をおり、モファット一家と、早目についた客達の集まっている広間へ優雅に足を踏み入れた。たちまち彼女はあることに気づいた――上等な衣裳というものは、特定な階級の人々の中では注目をひき、またそれが尊敬の対象ともなる魅力を持っているということを。今まで目もくれなかった五、六人の令嬢が、手の平を返したようにちやほやし始め、この前のパーティではただじろじろ見ていただけの青年紳士たちは、もちろん熱心に眺めたがそれだけではすまず、紹介されたがり、ばかばかしい、が調子のいい社交儀礼用のことばをあれこれと口にするのだった。そしてまた、ソファーに陣どって、ほかの連中の品定めをしていた数人の年輩のご婦人方も、メグに興味をそそられたとみえ、いったいどこの娘かとたずねていた。ミセス・モファットが中の一人にこう答えているのが聞こえてきた――「デイジー・マーチですの――父親は陸軍大佐でして――ええ、わたくしども同様土地の名家の出ですわ。財産はなくしてしまいましたのよ、でも、よくございますでしょ、そういう話。ローレンス家とはお親しいようですわ。かわいらしいお嬢さんでございましょ。宅のネッドなど、もう夢中ですのよ」
「おや、そうでしたの!」相手の老婦人は、あらためてメグを観察しようと、柄《え》つき眼鏡をとりあげた。メグは、聞こえないふりをしていたが、ミセス・モファットの出まかせにはあきれかえっていた。
変てこな気分はいっこうになおらなかったが、メグは、初めて貴婦人役をふられて舞台に出たつもりになることによって、なんとかその場をしのいでいた。ドレスに締めつけられて脇腹は痛み、何度もあやうく自分の裾を踏みそうになり、イヤリングを落としたりこわしたりしないかと始終びくびくしながら。羽扇をひらめかせ、才気をみせようとして間のぬけた酒落《しゃれ》をとばす青年紳士相手に笑い興じていたメグは、突然笑いやみ、ばつのわるそうな顔をした。広間の真向かいにローリーがいるのに気づいたのだ。
彼は、驚きをまともに浮かべた顔で、じっと見つめていた――ただ驚いただけでなく、明らかに非難を交えているように思えた。おじぎをし、笑ってはくれたものの、その純真な瞳に浮かんだ何かが、メグの顔を赤らめさせ、あの古い服を着ていればよかったと思わせたのだ。だが、ちょうどその時、ベルがアニーに肘《ひじ》で合図をして、二人そろって自分とローリーを見くらべているのを見て、メグはなおのことのぼせあがってしまった。ただ、幸せなことに、ローリーは、いつも以上に子どもっぽく、ごく内気に見えたので、なんとなくほっとした。
「いやな人たちだわ、こんな考えを吹きこんだりして! いいわ、気にしないで、前と同じにしているから」こう思うとメグはさやさやと絹のドレスの裾をひき、部屋を横切って、ローリーに手を差しだした。
「ようこそ。いらっしゃらないかと思っていましたの」メグは、せいいっぱい大人っぽく言ってみた。
「ジョオに頼まれたもので。どんなふうにしていらっしゃるか見てきてほしいそうです。で、ぼく来てみたんです」ローリーは、メグの大人びた物の言いかたに微笑しながらも、じっと彼女の目をみつめたまま言った。
「で、どう報告なさるの?」メグは、ローリーが自分をどう評価するか知りたくてたまらぬ一方、彼と知り合ってから初めてのことだったが、なんとなくきまりがわるいような気分になっていた。
「そう、初めは全然わからなかったって言います。急に大人のようになって、まるで別の人みたいで、なんだかこわいみたい」ローリーは、手袋のボタンをいじりながら言った。
「まあおかしい! みなさんが、おもしろ半分に着せてくださったのよ。それに、わたしだって気にいっててよ。ジョオが見たら、目を疑うでしょうね」
「そうでしょうね」ローリーはむつかしい顔をしている。
「あなたはわたしがこんな格好《かっこう》をしているのがお気にいらないのね」
「いやですね」そっけない返事だった。
「なぜかしら」気がかりな声になる。
彼は、ちぢらしたメグの髪、むきだしの肩、めちゃめちゃに飾りだくさんなドレスをじっと見つめたが、その顔つきは彼の返事以上にメグをうしろめたい気分にさせたし、その返事は、また、日ごろの礼儀正しいローリーらしからぬものだった。
「ぼく、ごてごて飾りたてたのは好かないんです」年下の少年からこんな批評をされるのはがまんがならなかったので、メグはカッとして、
「あなたみたいに失礼な人、初めてだわ」こう言いすててさっさと立ち去った。
プンプンしながらメグは人のいない窓際に立ち、上気した顔を冷やしていた。きつくしめつけているドレスのせいで、気分がわるくなるほど顔に血がのぼっているのだ。と、リンカーン少佐がすぐ横を通りすぎ、すぐに、連れだっていたその母親にこう耳うちするのが聞こえてきた。
「みんなで、あの娘さんを笑い物にしているんですよ。おかあさまにあの人を見ていただきたかったんですがね、あれじゃあ台なしです。みんなでよってたかってだめにしてしまってる。まるで人形だ、今夜は」
「まあ、どうしましょう」メグは吐息《といき》をもらした。「なんて無分別だったんでしょ、あたしは。自分の服を着ればよかったわ。そうしたら、愛想《あいそ》をつかされたり、こんないやな気分になったり、自分を恥じたりしないでよかったのに」
大好きな歌が始まったのに、メグはカーテンに隠れるようにして、冷い窓ガラスに額をあてたまま動こうともしなかった。誰かが肩に軽くふれた。ふり向くと、ローリーが詫《わ》びるような顔つきで立っていて、一段と丁重におじぎをし、手をさしのべて言った。
「失礼をおゆるしください。あちらへ行ってごいっしょにアイスクリームをいただきませんか」
「でもおいやでしょ、わたくしなんかといっしょでは」メグはまだ怒っている顔をしたつもりだったが、まんまと失敗してしまった。
「とんでもないですよ。行きましょう、ぼくもう失礼なこと言ったりしませんから。そのドレスは好きじゃあないけれど、でもあなたは――じつにすばらしい」もっとよいほめことばが出てこないので、ローリーは大きく手を動かしてみせた。
メグの頬は思わずほころび、気持ちもなごんできた。そしてアイスクリームを待っている間、ローリーに耳うちをした。
「ね、この長い裾にからまれないように気をつけてね。こんな厄介ものってないわ。ばかだったのよ、こんなもの着たりして」
「そのひきずってる裾を胸もとにピンでとめつけたらどうかな。そうできたら調法だけど」ローリーはメグのはいている空色の絹の靴に目をやり、これだけは気にいったらしい。
「ローリー、お願いがあるの、きいてくださる?」
「もちろん!」威勢よく返事があった。
「今夜の衣裳のこと、家のみんなに言わないでおいてくださらない。冗談半分だったことがわからないでしょうし、ただおかあさまに心配をかけるだけだから」
「じゃ、どうしてこんなことを?」ローリーの目があきらかにこういっているのに気づいて、メグはあわてて言いそえた。
「わたし、自分で言うつもりなの、事のおこりから何から。そして、どんなにばかだったか、おかあさまに告白するわ。でも、これは自分で言いたいのよ、できれば。だから、黙っててくださるわね?」
「絶対に言いません、約束します。でも、もし聞かれたらなんて言いましょう?」
「そうね、まあそれほどみっともなくはなかったし、とても楽しそうだったって伝えてちょうだい」
「初めのほうはともかくとして、もう一つはどうかな? あんまり楽しそうには見えないけれど、ちがいますか?」ローリーがこう言いながらじっと見つめたその顔つきに、メグはつい正直に小声で本音を吐いた。
「そのとおりよ、今のところは。わたしのこといやらしい人間だと思わないでね。ただ少しだけ楽しみたかったの。でも、こんなことおもしろいものじゃないことがわかったわ。もうたくさん」
「ネッド・モファッドが来ますよ。何の用だろう」ローリーは濃い眉をしかめる。この家の若主人を、このパーティにとって好ましい存在ではないと思ってでもいるようだ。
「まあ面倒くさいこと」メグは、年上の娘たちを真似てさもあきあきした様子をしてみせたが、ローリーは板につかないその言いかたがおかしくてたまらなかった。
そのあと、夜食の時までローリーは口をきかなかったが、メグがネッドと友人のフィッシャー相手にシャンパンを飲んでいるのを目にしてつい黙ってはいられなくなった。この二人をローリーは一対のバカよろしく振るまっていると思っていたし、マーチ家の姉妹については、何か事あれば喜んで戦う心意気を持ち、兄弟のように庇護《ひご》と監督の責任を感じていたのだ。
「そんなもの飲まないほうがいいですよ。飲みすぎると、あしたの朝は頭がわれるほどつらいから。ぼくなら飲みませんね、メグ。おかあさまだって、おいやだと思うな」ネッドがメグのグラスを新たに満たそうとして背を向け、フィッシャーが扇を拾おうとしてかがんでいる隙に、ローリーは椅子にかけているメグに耳うちした。
「わたし、今夜はメグじゃないの。いろんなバカげた真似をするお人形ちゃんなのよ。あしたになったら、このごてごて飾りたてたのも何もすっかりやめて、また前のようにいい子ちゃんになるわよ」こう言ってメグはわざとらしい笑い声をたてた。
「今があしただといい、じゃ」ローリーはつぶやき、さっさと立ち去った。シャンパンに酔ったのかまるで人が変わったようになったメグに腹をたてて。
メグは、ほかの娘たちに負けじと、踊ったり、青年たちに愛嬌《あいきょう》をふりまいたり、おしゃべりしたり笑ったりした。夜食のあとでは流行のドイツダンスに加わり、例の長い裾《すそ》で相手の青年をあやうくころばしそうになったりして、ローリーに身がちぢむような思いをさせるほどさわぎまわっていた。その一部始終を眺めていたローリーも、せっかくうまいお説教を考えていたのに、さよならの挨拶をするまでメグが寄りつかなかったので、ついにそれを言う機会がなかった。
「忘れないでね、あのこと!」メグはむりにでも笑ってみせようとしたのだが、ローリーの警告どおり、すでに割れるような頭痛がしだしていてそれどころではなかった。
「命にかけましても」ローリーは芝居がかりな返事を残して帰っていった。
このちょっとした舞台|袖《そで》でのやりとりにアニーは大いに好奇心をもやしていたが、メグはくたくたに疲れていたのでおしゃべりどころではなく、さっさとベッドに入ってしまった。まるで、今夜、仮装舞踏会に出てでもいたような気がしていたし、期待していたほど楽しくもなかったのだ。翌日は、一日中気分がわるく、土曜には家へ帰った。二週間ぶっとおしの遊楽に疲れきり、贅沢の膝にすわるのにももう、げっそりという気分になっていた。
「ひっそりと生活して、始終他人を意識してお作法だなんだとわずらわされないでいいのはなんていい気分でしょ。自分の家ってほんとにいいものだわ、りっぱじゃなくたって」日曜の夜、母とジョオとのそばに腰をおろしたメグは、ほっとした表情を浮かべてあたりをしみじみ見まわすのだった。
「そう聞いて安心しましたよ、じつは、あんな経験をしてきたあとでは、家が退屈なみじめな所に思えるんじゃないかと、心配していたのよ」こう言ったミセス・マーチは、その日一日、何度も、気がかりな様子でメグに目をやっていたのだ。母親の目というものは、子どもの顔に浮かぶどんな小さな変化も、けっして見逃しはしないのだ。
メグは、自分の珍しい経験をあれこれ陽気に話し、じつにすばらしい毎日を過ごしたと何度もくり返して言っていた。だが、何かしら胸につかえるものがあるとみえ、下の妹二人が寝にいったあと、じっと暖炉の火をみつめて思いに沈んだまま、ろくに口もきかず、何か悩んででもいるような顔つきをしていた。
九時が鳴り、ジョオがもう寝ましょうと誘うと、メグはそれをきっかけにでもしたように椅子から急に立ちあがり、ベスのスツールにすわり、母の膝に肘をのせると、勇気をふるって言った。
「ママ、あたし、告白がしたいの」
「そう思ってましたよ。なんなの、メグ?」
「あたし、あっちへ行きましょうか?」ジョオは思いやりぶかく申し出た。
「いいの、ここにいて。いつだって、あなたには何もかも話してるじゃないの。ただ、小さな人たちの前では、ちょっと恥ずかしくて。あなたにはモファット家でどんな破廉恥《はれんち》なことをしてきたか、みんな聞いてほしいわ」
「さ、どうぞ」ミセス・マーチはメグの気をひきたてるように微笑を浮かべてはいたが、内心少し心配そうだった。
「みなさんで、あたしを飾りたてたことはお話しましたね、でも、白粉《おしろい》をつけたり、コルセットでぎゅうぎゅう締めあげたり、髪をちぢらせたりして、まるでファッションブックそのままに仕立てあげたことは言わなかったわ。ローリーは、そんなあたしの格好《かっこう》をすごくいやだと思ったようだったの――口には出さなかったけど、ちゃんとわかったわ。「まるで人形だ」と言った人もあったの。あたしだって、ばかげたことだとは知ってたんですけど、ついみんなのおだてに乗ってしまって――美人だとかなんだとか、つまらないことを言われて、みすみすみんなのいいおもちゃになったんです」
「それだけ?」ミセス・マーチが、美しい娘の目を伏せた顔を見まもりながら、こうした取るにたらぬ愚行を咎《とが》める気にもなれずにいると、ジョオが横からたずねた。
「まだあるわ。シャンパンを飲んだり、はねまわったり、男の人に愛嬌をふりまいたり、とにかく鼻もちならなかったの」メグは自責にたえぬように身をちぢめている。
「まだ何かありましたね」ミセス・マーチは、娘のすべすべした頬をやさしくなでてやりながら言う。と、その頬がさっとバラ色にそまり、メグはつかえつかえ答えたのだった。
「ええ、とってもバカバカしいことなんです――でも聞いていただきたいの。あたしたちとローリーのこと、あんな言いかたされて、とってもいやだったんですもの」
そしてメグは、モファット邸で耳にしたゴシップのあれこれを二人に全部伝えたのだ。メグの話を聞きながら、おかあさまの口もとがきびしく一文字にひきしめられたのをジョオは目にとめた。メグの無邪気なあたまが、こうした愚かしい考えで汚されたことに、ひどく不愉快になった様子で。
「あきれた。でたらめもいいとこだわ、癪《しゃく》にさわる!」ジョオはカンカンだった。「その場にとび出してって、言ってやればよかったのに」
「できなかったのよ、それが、すっかりあがってしまってて。最初は偶然に耳に入ってきたんだけど、くやしくて腹がたって……そこを立ってしまえばよかったんでしょうけど、それさえ思いつけなかったんだわ」
「ようし、こんどアニー・モファットに逢ったら、ただじゃおかないから。こんなひどいこと、どう解決したらいいか教えてあげるわ、メグ。もくろみがあるだの、ローリーがお金持ちの子だからやさしくして、そのうち娘のどれかと結婚させる気だのって! ローリーが大笑いするわよ、あたしたち貧乏な娘を種に、大バカ連中がとてつもないゴシップをでっちあげてるって知ったら」
ジョオは、このこと全体がまるで笑い話だとでも思い返したとみえ、大声で笑いだした。
「ローリーに話したりしたら承知しないわ! ねえ、おかあさま、いけませんよね」メグは気が気ではない。
「そうですとも。二度とそんなバカなゴシップは口に出すんじゃありません、そして、これきり忘れておしまいなさい」ミセス・マーチはきびしく言った。「わたしがよく知らない方の中へ、あなたを出したのが失敗でした――たしかに悪気ではなかったんでしょうし、親切にはちがいないけれど、若い人たちをいつもそういう目でしか見られない、俗な、教養の低い人たちなのだから。もしもこんどのことで、あなたが何か傷ついたとしたら、それは全部わたしの責任です。おかあさまの思慮《しりょ》がたりなかったんですよ」
「そんなこと。あたし、こんどのことでまいったりしません、ぜったいに。よくないことはみんな忘れて、いいことだけおぼえておくことにします。だって、とっても楽しかったことに間違いないんですし、行かせてくださったことには感謝してます。もうめそめそしたり、不平を言ったりしません、おかあさま。自分がまだおバカな小娘でしかないってこともはっきりわかりました。これからは、自分で自分に責任を持てるようになるまでは、いつまでもおかあさまの所にいます。でも、人にほめられたり、ちやほやされたりするのって、いい気分ですね。どうやら、あたしってそういうのが好きみたい」メグは、自分の告白に多少てれくさそうな顔だ。
「それはごく自然な気持ちですよ、それにわるいことでもありません。ただ、それが度を越して、愚《おろ》かしいことだの娘らしくないことなどをしでかすような欲望にならないようにね。人からほめられても、それが受けるに価するものかどうか、正しく評価して見きわめることをおぼえるのですよ。そして、ただ美しいだけでなく、謙遜《けんそん》であることで、優れた方々の心を動かし、ほめていただけることをね、メグ」
マーガレットは、しばらくじっと考えていた。一方ジョオは、手をうしろに組んで、興味ぶかげな、同時にまたこまったような顔をしてつっ立っていた。メグが顔を赤くして、賞賛だとか恋人だとかといったふうなことを話すのを見るのは、これが初めてだったのだ。ジョオは、姉が、この二週間の間に、急に大人になってしまい、自分などがついて行けない世界ヘスーッと行ってしまったような気がしてきていた。
「おかあさま、ミセス・モファットがおっしゃったように、あたしたちのことでもくろみを立てていらして?」メグははにかみながらきいた。
「ええ、ええ、ありますとも。どこのおかあさまもそうだと思いますよ。ただ、わたしのは、ミセス・モファットとは少しばかりちがうようね。どうやらそろそろその時機がきたようですから、ぼつぼつ話しておきましょうか――ほんの一言二言《ひとことふたこと》で、あなたのこのロマンティックなかわいい頭と心を、大事な問題へと向けてあげられそうだから。メグ、あなたはまだ若いけれど、もうわたしの言うことが理解できる年ごろですし、あなたのような娘に、こうした問題を話すのは、母親の口からがいちばんなのですからね。ジョオ、あなたの番も、もうすぐなのですから、いっしょにわたしのもくろみをよく聞いて、もしそれに賛成だったら、なんとか実現できるようにわたしを助けてくださいね」
ジョオは歩みより、椅子の腕木に腰をのせた。これから何か尊厳なる問題に関与するのだと言わんばかりの顔つきで。ミセス・マーチは姉妹の手をそれぞれ握り、二つの顔をじっとみつめ、いつもの真剣な、けれどはればれした調子で始めた――
「わたしは、自分の娘たちが、美しく、教養のある、善良な人になるようにと望んでいます。そして、人からほめられ、愛され、尊敬されるように。幸福な青春期を過ごし、賢明な結婚をし、神さまのみ心にさえかなうなら、心配も苦労もなるべくしないですみ、有益な、そして楽しい一生を送ってほしいと思っています。よき人に愛され、妻として選ばれることこそ、女のいちばんのしあわせであり生き甲斐《がい》なのです。そして、この美しい経験を、娘たちにも与えられますようにと、わたしは心から望んでいます。こういうことを考えるのはごく自然なのですよ、メグ。それを待ち望むのも正しいことですし、そのための準備をしておくのも賢明なことです。そうしておけば、その幸せな時が来たら、妻としてのつとめに対する準備もできているし、喜びを受けるに価するという心がまえもできるわけですからね。ねえ、わたしはあなたたち二人に大きな望みをかけているんですよ。でも、大急ぎで世間に押しだそうなどとは思ってはいません――ただお金がある、家がある、というだけで金持ちの息子さんと結婚してほしいなどと思いませんし、りっぱな家だって愛情がなければ、それは家庭とは言えませんもの。そりゃあお金はなくては困るし、貴いものにはちがいありません――上手につかわれればうるわしいものでさえあります――ただ、わたしは、あなたたちに、お金が人生の意義の第一であり唯一の目的であり、ただそのために一生を費やすということはしてほしくないのです。わたしは、あなたたちに、自尊心も心の安らぎもない女王の座につくよりは、たとえ貧しくとも、人の妻として幸福な、愛情にみたされた、心から満ちたりた生活を送ることを選んでほしいと思いますよ」
「貧乏な家の娘は、自分から積極的に売りこまなけりゃ、チャンスには恵まれっこないってベルが言ってました」メグは溜息《ためいき》をつく。
「じゃいいわよ、二人でオールド・ミスになりましょうよ」ジョオは頼もしく言う。
「えらいわ、ジョオ! 不幸な結婚をしたり、旦那《だんな》さま探しに憂き身をやつすような娘らしくない行ないをするより、オールド・ミスになるほうがましですとも」ミセス・マーチも断固として言うのだった。「気にしないでいいのよ、メグ。真の愛は、貧しいことなどにくじけたりしませんよ、わたしの知り合いの中でも、りっぱないい方々の何人もが娘時代は貧しく育っていらっしゃるのに、愛されるにふさわしいいい方だったので、とてもオールド・ミスにはなれなかったんですよ。こういうことはすべてあせらずに、すべて時節にまかせるのがいちばんよ。そして、この家を居心地のいい場所にしておくように努めていれば、もし自分も家庭を恵まれたら、それぞれ自分の家をりっぱにまもっていかれるようになれるでしょうし、もしまた恵まれなくても、ここで満足して暮らせばいいでしょ。ただこれだけはおぼえててくださいよ、二人とも。母親はいつもあなたたちの打ちあけ話の聞き手になれるし、父親はお友達でいてくださるっていうこと。そして両親とも、娘たちが結婚していても独身でも、二人の誇りとも慰めともなってくれると信じ望んでいることを」
「そうなります、ママ必ず!」二人は心をこめてそう誓い、おかあさまにおやすみを言った。
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第十章 P・CとP・O
やがて春ともなると、冬とはちがう新しい娯楽がいろいろと始まり、姉妹はそれに熱中した。日がのびるにつれ、午後も長く、仕事もあそびも変化に富んだものが種々できるようになった。庭の手入れもされ、姉妹は各自に等分にわけられた花壇《かだん》を、それぞれ好きなように作っていた。ハンナは、「どれがどの嬢さまのか、支那で見たってわかりますだよ[当時のアメリカでは支那は非常に珍しい土地と思われていたので、この意は「どこででも」というのを強めたもの]」と言っていたが、確かにそのとおりで、姉妹の好みはその性質同様、それぞれはっきり特徴があった。
メグの花壇は、バラ、ヘリオトロープ、てんにん花、といった香りのよい美しい花とオレンジの若木が一本植えてある。ジョオの花壇はまた、二年と同じものが植わっていた試しがなく、毎春ごとに何か新しい実験がこころみられていた。今年は、向日葵《ひまわり》の栽培場となるらしく、この陽気で積極的な植物の種子は、≪コックルトップ小母さん≫を頭《かしら》とする鶏《にわとり》一家の食糧源となるはずだった。ベスは、古風な香りのよい草花を好み、スイートピー、木犀《もくせい》草、飛燕《ひえん》草、なでしこ、パンジー、かわらにんじんなど、それと小鳥の餌《えさ》用のはこべや、小猫の好物の犬はっかなどが植えてあった。エイミーは、自分の領分にあずまやを作っていた。すいかずらや朝顔のつるがからみ、時期には色とりどりのラッパや鈴の形をした花が、優雅な花環《はなわ》となってこれをおおうのだ――たしかにそれはごく小さなもので、中に入るとつるや葉で耳がこそばゆいくらいではあったが。鉄砲ユリだの、繊細《せんさい》なシダのほか、この花壇でも咲くはでで美しい花ならなんでも植えてあった。
天気のいい日は、庭仕事、散歩、川でのボートあそび、花あつめに過ごし、雨の日にはまた家の中でのたのしみがある――前からあるのや新しいのや、だが、多かれ少なかれみなマーチ姉妹の独創によるものだった。その中の一つが≪P・C≫だった。なにしろ、秘密結社ばやりの当世なので、姉妹の間にもやはり一つくらいはあっても不思議はない。そろってディケンズの愛読者なので、彼女たちはこの結社を「ピックウィック・クラブ[サミュエル・ピックウィックのことで、イギリスの作家ディケンズの「ピックウィック新聞」の主人公。善良で、正直、純朴な人物]」と命名した。
時々は休会のこともあったが、姉妹はこのクラブを一年もつづけていて、毎土曜の夜、広い屋根裏部屋に集まっていた。テーブルが一つ、それを前に椅子が三脚並べられ、テーブルには、ランプと、それぞれちがった色で大きくP・Cとかいた白い会員章が四つ、そして、「ピックウィック週報」と名づけられた週刊新聞とがおいてあるのだ。これには、会員がそれぞれ何か寄稿しており、文才豊かなジョオが編集の任にあたっていた。
七時に、会員はクラブ室へと階段をのぼり、頭に会員章をまき、厳粛《げんしゅく》に着席する。メグは最年長なのでサミュエル・ピックウィックなのだ。ジョオは、文学的素養を買われて、オーガスタス・スノドグラス、ベスは丸顔でバラ色の頬をしているからトレイシイ・タプマン、そして、出来もしないことをやりたがるエイミーはネザニエル・ウインクルだった。例会の席上、会長ピックウィックは、まず新聞を読みあげることになっている――創作、詩、その地域のニュース、ユーモアたっぷりの広告、それから各自のあやまち、欠点などを親切に指摘して、それぞれ反省をうながしあう暗示のことばなどが盛りだくさんに掲載《けいさい》されていた。
その日、ミスター・ピックウィックは、レンズなしの眼鏡をかけ、テーブルをたたき、エヘンと咳ばらいをして、椅子をぐっとそらしてよりかかっているミスター・スノドグラスが居ずまいを正すまでにらみつけていてからおもむろに読み始めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ピックウィック週報 一八〇〇年五月二〇日
●詩欄●
創社記念祝歌
今宵《こよい》、われらまた集う
五十二回の祝日に
徽章を帯し祝儀も正しく
このピックウィック会館に
みな全《まった》き健康を保ち
一人として欠ける者なし
互いに親しき顔を見合わせ
その手をやさしくとり合うなり、
定めの席はわれらがピックウィック
敬意をこめしわれらの礼を
受けて読みだす
鼻には眼鏡
盛りだくさんの週報を
風邪《かぜ》にや悩むさまなれど
叡智《えいち》あふるるそのことば
われらたのしく耳傾け
しゃがれる声も気にならず
六尺豊かにスノドグラス
象にもまけぬ優雅さに
ぬっとそびえて仲間衆に
光を投げるほがらかに
黒きかんばせおもしろき
その目に燃ゆるは詩魂のほむら
運命《さだめ》にまけぬ雄々《おお》しさは
眉《まゆ》にひそめし大望と
鼻のあたまの墨跡《ぼくせき》か
つづくはやさしきタプマンの
頬バラ色にまるまると
洒落《しゃれ》に笑えば絶息し
椅子よりころげる始末なり
ちびっこおきどりウインクル
髪一本の乱れなく
まずは作法の鏡《かがみ》なり
朝、顔洗うは厭《いと》えども
ひととせすごし今日の日に
ここに集いてわれらまた
酒落《しゃれ》と笑いを楽しみつ
ともにたどらん文学の道
栄光の光めざして読みすすみ
永久に栄えよわれらが社《やしろ》
このクラブの灯は消えず
くる年ごとにゆたかなる
恵み多かれと祈るなり
意義ある楽しき≪P・C≫に
A・スノドクラス
●仮面の結婚●
――あるヴェニスの物語
大理石の階段に、相ついでゴンドラがすべるようにつき、あでやかな乗り手をおいて去るごとに、アデロン伯爵《はくしゃく》邸の豪壮なる大広間は、そのきらびやかな人の群れが一段とまたふくれあがるのだった。騎士、貴婦人、小妖精、小姓《こしょう》、修道僧、花売り娘、それぞれ趣向をこらした姿で、入りまじって踊っている。あまい声やゆたかなメロディーがあたりを満たし、さざめきと音楽にいろどられて仮面舞踊会は今やたけなわだった。
「姫君さま、今宵《こよい》のヴァイオラ姫をごらんあそばしましたか」伊達《だて》な吟遊《ぎんゆう》詩人が、従者たる彼の腕にもたれてすべるように広間をよぎる妖精の女王にたずねた。
「ええ。なんておきれいな、けれど深い愁《うれ》いに沈んでおいでです。おめしものもまたよくお似合いですのに。一週間あとには、あれほど嫌っておいでのアントニオ伯爵と結婚なさるとか」
「伯が羨《うらや》ましいことでございます。おや、あれへお見えで。あの黒い仮面をのぞいては、すっかり花聟《はなむこ》のお支度でいらっしゃる。あの仮面が外された時こそ、たとえ厳格な父上が許されたとしても、心までは自由にならぬあの美しい乙女を伯がどう思われるか、それが見ものでございます」吟遊詩人は答えた。
「姫はいまだに例の英国の画家を思っておられるとか、もっぱらの噂《うわさ》ですね。姫を慕っておいでなのに、老伯に追われたとやらいうことですが」妖精の女王はこう言い、そのまま踊りの輪に入っていった。
この舞踏会の最高潮は、一人の僧の出現によって幕が切られた。彼は、話題の二人を紫ビロードの垂れ幕をめぐらした奥まった席へとみちびき、ひざまずくように合図を送った。笑いさざめいていた人の群れはただちに静まり、聞こえるのは噴水の音と月を浴びて眠るオレンジの木立ちの葉ずれのみ。その静けさを破ったのはアデロン伯の声だった。
「みなさま方、本日はよくこそお運びを。じつを申せば、かく娘の婚礼にお立ち合い願いたく、内密に事を計りし無礼の仕儀《しぎ》、なにとぞおゆるしのほど。神父殿、いざお始めくだされ」
一同は、その目をまさに結婚しようという二人に注いだ。が、直ちに、低くはあったが驚きの声が人々の間にひろがっていった。花嫁も花聟も、なんと仮面をつけたままなのだ。驚きと好奇心とにとらえながらも、儀式がすむまでは、みな遠慮して口には出さなかった。しかし、式の終わるのと同時に、人々は老伯をとり囲み、事の説明を求めた。
「いや、それがわかれば説明もいたそうが、じつはこれは内気なヴァイオラの気まぐれで、やむなく許すはめになりましただけのこと。さ、わが子らよ、狂言ももうたくさんじゃ。仮面をとり、わしの祝福を受けるのじゃよ」
だが、二人ともひざまずこうとはしない。そして、花聟が口を開くが早いか、一同はあまりのことに仰天《ぎょうてん》した。仮面をはずしたのは誰あろう、フェルディナンド・ドヴァルー。すなわち姫の恋人なる英国人画家の高雅《こうが》な顔があらわれ、英国の伯爵のしるしの星が輝くその胸に、喜びにその美貌《びぼう》がまばゆいまでのヴァイオラ姫が寄りそうのだった。
「閣下、貴公は私に、アントニオ伯に劣らぬ地位と財とを得てのちに、初めて姫に求婚の資格があるのだと嘲笑《ちょうしょう》された。私は、じつはそれに勝るものを所有しています。今、わが妻となったこの美わしき婦人の手を得るに、由緒《ゆいしょ》ふかき家柄と尽きぬ財とをささげるドヴァール及びドヴェール公たる拙者を、いかに野心にたけた貴公とて、拒みはされますまい」
老伯爵は、石のように立ちつくし、フェルディナンドは、茫然《ぼうぜん》としている会衆に、晴れやかな勝利の微笑をうかべて告げた。
「義に強き友よ、諸君の求愛も、またわれの如く勝利に終わらんことを。かつまた、この仮面結婚にて得たる如き美しい花嫁を得られんことを」
S・ピックウィック
P・Cクラブはなぜハベルの塔に似ているか?
わがままな会員でいっぱいだから。
●南瓜《かぼちゃ》一代記●
昔、一人のお百姓が、畠に小さな種をまきました。やがてそれは芽を出し、蔓《つる》をのばし、たくさんの南瓜をならせました。十月のある日、南瓜がよく熟れたので、お百姓は一つもいで、市場へもって行きました。一人の八百屋《やおや》がそれを買い、自分の店に並べました。その同じ日の朝、茶の帽子に青い服を着て、まあるい顔で鼻が上をむいた女の子がその店へ行き、南瓜をおかあさまのために買いました。女の子は、やっとのことで家まで抱えて帰り、切って大きな鍋《なべ》で煮ました。それをとりわけて、つぶして、塩とバターで味をつけ、晩のおかずにしました。のこりには、ミルクと、卵を二つと、お砂糖をスプーンに四杯、香料のナツメグと、クラッカーを少しまぜ、深いお皿にいれて、おいしそうにこげめがつくまで焼きました。次の日、それはマーチという名前の家の人に食べられました。
T・タプマン
***
ピックウィック殿
小生は罪につき書かせていただきたい罪人とはウインクルと名づけられた人のことである彼は大声をあげて笑いまたこのりっぱな新聞にもげんこうを出さずクラブにめいわくのみかけておりますがそのわるい点をゆるしてくださいそしてできたらフランスのどうわを出してもいいことにしていただけたらと思いますべんきょうがたいへんだし頭があまりよくないので自分で考えられないのですこれからはきかいをのがさぬよう≪|法にかなった《コミルフォ》≫作品をつくりますからもう学校へ行くじかんですいそがなけりゃ
N・ウインクル
(右はすぎたる行ないの過《あやま》ちを、男らしく堂々と認めたものである。われらが若き友人は、句読点を学ばれるならば、さらによからんと推察する)
●不測の事故●
先週金曜、われわれは当家の地下室に起こった激しい震動とそれにつづく悲鳴に、いたく驚かされた。われ先にと地下へかけおりると、なんと、われらの敬愛する会長が床にのびているのだった。家事に使用の目的で地下室へ薪《まき》をとりに行く途上、つまずき転げおちたものとみられた。現場は目を覆《おお》わんばかりの惨状《さんじょう》を呈していた。ミスター・ピックウィックは、堕落《ついらく》の際、頭部及び肩を水桶《みずおけ》につっこみ、男らしい総身《そうみ》には、樽《たる》の石鹸《せっけん》水を浴び、衣服をいちじるしく損傷しておられたのである。ただちにこの危険なる状況より救い出されたが、幸いにも、数か所の打身《うちみ》以外は怪我《けが》らしい怪我もなく、現左すでに、平常どおりご活躍のことを報告できるのを幸いに思う。
(主筆記)
●死亡通告●
まことに心痛むことながら、われらが旧知の友ミセス・スノーボール・パット・ポーの突然かつ不可思議なる失踪《しっそう》を、ここに報告する。この美しく愛すべき猫は、心あたたかき賛美者たる多くの友に常にとり囲まれていたのである。その美貌《びぼう》は人の目をあつめ、すぐれたる品位と美徳とは知る人の心を魅了しつくしていた。そして今、その失踪は当地方のすべての人を悲嘆《ひたん》にくれさせている。
最後に目撃されたのは、門の前にすわり、肉屋の配達車を眺めていた時と推測される。おそらくは、彼女の美しさにまよった悪漢が、卑劣にも誘拐《ゆうかい》したのではないかと思われる。すでに数週間を経《へ》ている今日まで、発見の手がかりは何一つつかめない。われわれももはや望みを捨てざるを得ず、彼女のベッドたりし籠《かご》に喪《の》の黒リボンを結び、食器の皿を片づけ、永遠にわれらのもとへは帰らぬ彼女のために哀悼《あいとう》の涙を捧げる次第である。
右の通告文に対し、情あつき友は、左の珠玉の一編をよせられた。
哀悼歌
(S・B・パット・ポーに捧ぐ)
われらが愛せしちいさきものよ
われらの悲しみの声を聞きたまえ
その幸うすきさだめを嘆《たん》じ
汝《な》が姿|永遠《とわ》になき炉辺《ろばた》にありて
汝がなじみし門に
すでに遊びたわむれる姿もなし
汝《な》が幼子の眠れる墓は
かの栗《くり》の大樹のもと
されど、汝はいずこの墓にありや
われらその墓に涙そそげず
在所《ありか》のいずれか知らざれば
汝《なれ》の主《あるじ》なき寝所
遊ぶ主なき手まりも
その主を見る日とてなし
やさしくたたきし客間の扉も
いまは空しくしずまりて
愛らしきのど声も聞けず
鼠《ねずみ》を追いて現われたる
他所《よそ》ものの猫あれど
汚れし顔のみにくさよ
鼠とらえる術《すべ》すらも
汝《なれ》にかなわぬその上に
あそぶ姿もうとましく
汝《な》がみやびには及ばざり
汝《なれ》スノーボールの遊び場の
床をひそかに踏み来れど
雄々《おお》しく犬を追いやりし
汝《な》の伊達《だて》姿とはことちがい
あわれに唾《つば》していきむのみ
便利調法、性|穏和《おんわ》、
それがとりえのこの猫も
汝が美しき姿とは
雪と墨とのちがいにて
われらの愛を得るは難《かた》く
賛美の声も聞くあたわず
かつての汝のありしごと
A・S
●広告欄●
講演会――ミス・オランシー・ブラゲージは「婦人とその地位」と題して、来たる土曜の夜、定会の後ピックウィック・クラブ会場において講演を行なう。女史は学識深き熱烈なる講演者であり、このテーマは女史の得意とするものである。
料理実習――毎週開かれる料理法の実習は、例のごとく、若き淑女《しゅくじょ》のために、ハンナ・ブラウンの指導のもとに行なわれる。こぞって出席のほど。
掃除会――来週水曜、掃除会開催。クラブ・ハウス屋上において実地指導。各員制服着用の上、箒《ほうき》を肩に、正九時参集のこと。
帽子ショー――ミセス・ベス・バウンサーは、来週、人形用帽子その他小物類のショーを発表。パリ最新モードも到着につき、つつしんでご用命を待つ。
演劇――書きおろし劇バーンヴィル劇場にて近く上演。アメリカ演劇史上|嘗《かつ》て見られざる傑作。瞠目《どうもく》すべきこの劇の題名は
「古代ギリシアの奴隷《どれい》、復讐《ふくしゅう》の鬼コンスタンティン」なり。
●ご意見板●
S・Pへ――手を洗う石鹸《せっけん》を倹約《けんやく》することがわかれば、朝食に遅れずにすむものを。
A・Sへ――往来で口笛を吹くことを慎しまれるよう。T・Tへ――エイミーのナプキンを出し忘れないで。
N・Wへ――ドレスのひだが九つないとてふくれたもうな。
週間採点表
メグ――良
ジョオ――不可
ベス――優
エイミー――可
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
会長の新聞朗読が終わると、(この新聞は、かつて、実在の少女たちによって書かれた実在した新聞の一部であることを読者のみなさんにお伝えしておく)いっせいに拍手が起こり、ついで、ミスター・スノドグラスが一つの提案をするために立ちあがった。
「会長並びに会員諸氏」議会での発言のような口調と身ぶりで彼は始めた。「わたくしは、ここに、一名の新会員の入会許可を提案いたします――この紳士は、この栄誉を受けるにもっともふさわしく、深い感謝を持ってわれわれの好意を受けると思われ、同時にまた、当クラブの精神|発揚《はつよう》に寄与し、当新聞の文学的価値を高めることは確実であり、また同氏の入会は、クラブをさらに明朗に、この上なき楽しいものにすることと確信します。わたくしは、ミスター・テオドール・ローレンスを、P・Cクラブの名誉会員として推薦《すいせん》します。ねえ、入会させてよ」
ジョオの口調が急に変わったのでみんな笑いだしてしまった。だが、三人ともなんとなく困ったような顔つきで、スノドグラスが着席しても誰も何も言わない。
「多数決で決めます」会長は言う。「この提案に賛成の方は、賛成とおっしゃっていただきたい」
スノドグラスが大声で応じたのにつづき、みんながびっくりしたことに、ベスの蚊《か》のなくような声がした。
「反対の方はノーとおっしゃっていただきたい」
メグとエイミーが反対派だった。ミスター・ウインクルは立ちあがって立て板に水と述べたてた。
「男の子の入会はいやです。ふざけまわったり冗談《じょうだん》を言ったりばかりしますから。これはレディーのクラブですし、家《うち》きりにしておきたいのです。それに男の子が一人入るのは法にかなわないと思いますから」
「あの人、あたしたちの新聞を嘲笑《ちょうしょう》して、あとでからかう種《たね》にしやしないかしら」ミスター・ピックウィックは、物事を決めかねる時にいつもする癖《くせ》で、額《ひたい》の小さなカールをひっぱっている。
スノドグラスはさっと立ちあがった、真剣《しんけん》な表情で。「会長、ローリーはそのようなことは絶対しないと、紳士の名誉にかけて誓います。彼は文章を書くのが好きです。その文が、われわれの新聞に新風を吹きこみ、新聞の記事がおセンチに流れることを防いでくれるでしょう。そうお思いになりませんか? だいたい、彼は、わたしたちのために何かとつくしてくれます。わたしたちのほうでは何もしてあげられないのに。せめて、彼にこのクラブに席をつくり、彼が入ってくれるなら歓迎するのが当然ではないでしょうか」
この忘れてはならぬ恩恵の一件を持ちだした巧みな誘導に、タプマンは心中大いに期するところありげに、決然と椅子から立った。
「そうですとも、入れてあげるべきです。たとえ、少しばかり心配でも。わたしは、彼も、またご希望があればおじいさまも、入会していただきたいと思います」
ベスが熱意をこめて意見をのべたてたのは、クラブ員を電撃的に圧倒し、ジョオは、わが意を得たりとばかり、彼女と握手をかわしに歩みよった。
「では、採決のやり直しです。みなさん、それがほかならぬわれらのローリーであることをお忘れなく賛成と言って下さい」スノドグラスは興奮して叫んだ。
「賛成! 賛成! 賛成!」三つの声が同時にあがった。
「ようし! ありがとう! さて、ウインクルの気にいり文句ではありませんが≪機会の前髪をとらえる≫ことにして、ここに新会員に登場していただきましょう」三人が何事かといぶかるのを尻目《しりめ》に、ジョオは、物入れの戸をさっと開いた。驚いたことに、ぼろいれの袋に腰をおろし、笑いをかみころし、頬を赤くしたローリーが現われた。
「あきれた悪者だわ! 裏切者! ジョオ、よくまあこんなこと!」三人が口々に叫ぶうちに、スノドグラスは、その友人を、しずしずと引きいだし、椅子と会員章を与え、さっさと入会式をすませてしまった。
「あなたがた二人の悪だくみにはあきれました! よくまあすっとぼけておいでだったこと」ミスター・ピックウィックは、すごいしかめ面《つら》をしてみせようとしたものの、意に反してまことに愛想のいい笑顔になってしまった。しかし新会員はあくまで法式どおりに振舞い、席を立つと、会長席に対して丁重に一礼し、まことにりっぱな態度で言うのだった。
「会長並びに淑女――あ、これは失礼を――紳士諸氏、わたくしは、クラブの忠実なる下僕《しもべ》サム・ウエラーと申す者です。なにとぞおみしりおきくださいますよう」
「いいぞ! いいぞ!」ジョオは、よりかかっていた古物《こぶつ》の床あぶり[床において足を温めた道具]の柄《え》でドンドン床をならした。
「わたくしの忠誠なる友そして高潔なる保護者より」と、ローリーは手でジョオを示し、「まことに身にあまる紹介をいただきましたが、氏は、今宵《こよい》の卑怯《ひきょう》なる謀略《ぼうりゃく》には、なんら責めを負われる筋合いはないのであります。わたくしがこのプランを思いつき、さんざん口説《くど》いたあげく承知していただいただけなのです」
「これはまた、そうすべてを一身に引き受けずともよろしいでしょう。食器戸棚案を出したのは、このわたしですからね」スノドグラスが口をはさんだ。二人で仕組んだこのいたずらが大いにお気に召した顔つきだった。
「この方のおっしゃることなどに耳をお貸しになりませんよう。策略を弄《ろう》したのはわたくしです」新会員は、ミスター・ピックウィックに向かいウエラー流の会釈《えしゃく》をする。「しかし、名誉にかけ、今後かようなことはいたしません。これから後は、この不滅のクラブの発展に献身することを誓います」
「ヒヤ! ヒヤ!」床あぶりの蓋《ふた》をシンバルのように打ち鳴らしてジョオは叫んだ。
「どうぞ先をつづけて!」ウインクルとタプマンはうながし、会長はにこやかに一礼した。ウエラーはことばをついだ。
「一言申しあげておきたいことがあります。わたくしに与えられたる栄誉に対し心ばかりの感謝のしるしとして、またひとつには、隣国間の友好関係促進の目的を持ち、庭の低地部の隅にあたる垣根に、郵便局を設けましたことを報告いたします。形態も美しく内部も広い建物で、扉には南京錠《なんきんじょう》もつけ、郵便物《メイル》の、そしてまた女性方《フィーメイル》の――この表現をおゆるしいただければ――ご便宜《べんぎ》をはかるようにしてあります。元来は、ツバメの家であったものです。しかし、これの戸口を塞《ふさ》ぎ、屋根をあけられるように改造しました。したがって、あらゆる物を入れることができ、貴重な時間の節約がはかれます。手紙、原稿、書物、小包《こづつみ》類すべてこれに入ります。各国家は、それぞれ一つずつ鍵を保有しますから、まことに便利になることと思います。ここにその鍵を贈らせていただき、諸氏のご厚誼《こうぎ》に深く感謝の意を表明いたします。着席いたします」
ミスター・ウエラーが、問題の小さな鍵をテーブルにおくと、いっせいに拍手が起こった。床あぶりはガチャガチャ鳴りながら振りまわされ、再びその場に秩序がもどるにはだいぶ暇がかかった。つぎに長いこと討論が交された。
各自がじつに熱心にこれに加わり、みごとな成果をあげた。したがって、その晩は常になく活気にみちた会合となり、時間もずっと遅くまでかかった。最後に、新会員のための万才を三唱して、クラブは散会となった。
今となっては、サム・ウエラーの入会許可をしたことを後悔する者は一人もなかった。彼ほど献身的で礼儀正しく、しかも愉快な会員は、どこのクラブにもいないはずだった。彼はたしかにクラブの精神発揚に寄与し、新聞には新風を吹きこんだ。
彼の演説は、聴き手を抱腹絶倒《ほうふくぜっとう》させ、その寄稿はずばぬけていた。愛国調、古典調、ユーモア調、演劇調と調子は変わっても、けっして感傷調ではなかったのだ。ジョオは、その作品は、ベーコン、ミルトン、シェイクスピアにも匹敵すると思い、それを手本に自分の作品を改変して好結果をあげたと信じている。
郵便局《P・O》は、小さいながらも特筆すべき公共施設として、大いに繁昌《はんじょう》した。本物の郵便局そこのけに、種々雑多な物品がそこを通ったのである。悲劇本、首まき、詩書、酢漬物《ピクルス》、花の種子、長文の手紙、楽譜、しょうがビスケット、消しゴム、招待状、叱言《こごと》文、子犬までが。老紳士もおもしろがってこれに加わり、冗談プレゼントの包みやら、不思議な伝言、奇妙な電報などを送って楽しんでいた。
そして、彼の園丁《えんてい》までが、ハンナの魅力にひかされて、ジョオ気付《きづけ》で恋文を送ってよこした。これがわかった時には、みんなが大いに笑ったものだったが、後にその郵便局が、どれほど多くの恋文をとりつぐ役をすることになろうとは、夢にも考えはしなかった。
[#改ページ]
第十一章 実験
「六月一日よ! キング家の連中は、いよいよ明日は海へ行っちまうから、あたしは自由の身になるのよ。三カ月の休暇なんだわ――なんてうれしいんでしょ!」ある暑い日、メグは家へ帰ったとたんにこう叫んだ。見れば、ジョオは、常になく疲れた様子でぐったりソファーに横になり、ベスがその埃《ほこり》まみれの靴をぬがしてやっているところだった。エイミーは、みんなのおやつにレモネードをつくっていた。
「マーチ伯母も今日出かけたり。おお、これを喜ばずして何をか喜ばん!」ジョオは言うのだ。「じつは、いっしょに行ってくれって言いだしゃしないかと、大いに心配しちまったのよ。言われりゃ、行ってあげなけりゃならないような気分になったと思う。だけど、あのプラムフィールドときたら、まさに墓場のごとく≪おにぎやか≫ときてるでしょ。できたら失礼したいものね。おばあちゃんを送り出すんでひとさわぎだった。話しかけられるたんびに、ビクッとしたっけ。とにかく、さっさときりあげたい一心で、とびきりよく気がついてやさしくしてたから、ひょっとするとおばあちゃん、あたしと別れるのがつらくなりゃしないかと心配になってね。馬車にやっと落ちつくまでどぎどきだった。ところが、最後の最後でヒヤッとさせられたわよ。馬車が動きだしたら、伯母さんたら顔をつきだして言うじゃないの、≪ジョゼフィーン、おまえ……≫って。その先は聞かなかったわよ。三十六計逃げるにしかずとばかり、かけだしたもの。夢中でかけにかけて、角《かど》を曲がってやっと息をついたわ」
「かわいそうに、ジョオったら、クマにでも追いかけられてるような勢いで、家にとびこんできたのよ」ベスは、母親のように、やさしくジョオの足を抱いてやる。
「マーチ伯母さまって、サンファイアーね、まるで」エイミーは、かきまぜたレモネードをいっぱしの顔つきで味見をしながら、意見をのべる。
「この子ったら、ヴァンパイヤー、つまり吸血鬼だって言ってるつもりね――海草のほうじゃなくて。どっちだっていい。こう暑くちゃひとの単語の詮議《せんぎ》なんかしてられないわ」ジョオはもごもご口の中で言った。
「おねえさんたち、おやすみの間中、何をなさるの?」エイミーは巧みに話題をそらした。
「したいだけお寝坊して、何もしないで暮らすわ」メグはロッキングチェアにうずまったまま答えた。「冬中、朝早くから起こされて、他人の家で働かなけりゃならなかったんですもの。これからは休養をとって、思うぞんぶん楽しむんだわ」
「ちがうわ、あたしは」とジョオ。
「のらりくらりと暮らすのは、性分《しょうぶん》にあわないんだもの。読みたい本を山のように積んであるから、あのリンゴの木のあたし用の枝で、この輝かしい時を読書にはげみ、大いに教養をたかめるんだ。ローリーとヒ――」
「ヒバリ[「さわぎまわる」の意]はやめてよ、はしたない」サンファイアーを直されたしかえしに、エイミーがやっつけた。
「じゃナイチンゲールにしようか。ローリーはテノールだから、このほうが似合ってるものね」
「ねえ、ベスねえさん、あたしたちも勉強を当分やめにしない。そして、おねえさんたちみたいに遊んだり休んだりしましょうよ」
「いいわよ、おかあさまがいいっておっしゃりさえしたら。あたし、新しい歌も習いたいし、子どもたちの夏服の手入れもしなけりゃ。そりゃみんなひどいことになってて、どうしたって着るものがいるのよ」
「おかあさま、いい?」メグは、姉妹が≪ママのコーナー≫と呼んでいる場所で縫物をしているミセス・マーチにたずねた。
「そうね。その実験を一週間やってみてごらんなさい。そしてほんとうにそんなにいいものかどうか考えてみたら? 土曜の晩までには、遊びばかりの仕事なしというのは、仕事ばかりの遊びなしと同程度につらいものだということがわかると思いますよ」おかあさまは言った。
「あら、そんなことありっこないわ。とってもすてきにきまってるわ」メグは自信満々だ。
「では乾杯《かんぱい》といきましょう、わが≪友にして仲間たるセアリ・ギャムプ≫[ディケンズの小説「マーチン・チャズルウイット」の人物]のことばをかりて。楽しみは永久に、あくせく働《ばたら》きはやめだ!」くばられたレモネードのコップを手に、ジョオは立ちあがって叫んだ。
みんなはしゃぎきって乾杯をすると、まずその日は寝るまでのらくら何もしないでいることで、この実験の手初めとした。
翌朝、メグは十時まで起きださなかった。一人きりの朝食は、なんとも味がなかったし、部屋はガランとしてちらかっていた。それも当然、ジョオは花瓶《かびん》に花をささず、ベスは掃除をなまけ、エイミーはあちこちに本を出しっぱなしにしている。何ひとつこざっぱりと片づいていない。ただ一か所、いつものようにきちんとしているのはママのコーナーだったので、メグはそこにすわって休養と読書にとりかかったものの、なんのことはない、あくびの連続で、あとは自分の給料でどんなすてきな夏のドレスが買えるだろうと空想することで終わった。
ジョオは、午前中は、ローリーと川で遊び、午後は、リンゴの木にのぼって、『広い広い世界[エリザベス・ウェザーレル(一八一九〜八五)の書いた孤児物語]』を読んで涙にくれていた。ベスは、まず、自分の≪家族≫の入っている大きな戸棚から何もかもひっぱりだすことを始めた。半分もいかないうちにあきてしまい、せっかくの財産をごったがえしにほっぽりだしたまま、ピアノを弾きに出かけてしまった。お皿を洗わずにすむのですっかりご機嫌《きげん》になりながら。エイミーは、例のあずまやを整え、いちばん上等の白服を着こみ、カールをなでつけ、スイカヅラの下にすわって写生など始めたのだった。誰かが見かけて、あの年若な絵描きさんはどなた? などと言ってくれないかしらと思いながら。だが、おせっかいな蚊トンボが一匹現われて、彼女の作品を興味ぶかげに眺めまわしただけだったので、彼女は散歩に出かけ、あいにくのにわか雨にあって、びしょぬれで帰ってきた。
お茶の時に、姉妹はそれぞれの経験をくらべあい、まことに楽しくはあったが、なんと一日が長かったことということで意見が一致した。
午後、買物に出かけたメグは、≪すてきなブルーのモスリン≫を買ってきたが、縁布を切り落としてみて初めて、それが洗濯がきかないことを縁の表示の文字で知り、この手ちがいで常になく怒りっぽくなっていた。ジョオは、ボートあそびて日やけした鼻の皮がむけ、ぶっつづけに本を読んだせいで頭がガンガン痛みだしていた。ベスは、自分の戸棚が手もつけられぬほど雑然としているし、一度に三つも四つもの歌をおぼえるのがむつかしくてやきもきしていた。そして、エイミーはといえば、大事なよそゆきを台なしにしてしまったことをつくづく後悔していた。ケイティー・ブラウンの家でのパーティがあしただというのに、今となっては、フローラ・マックフリムズィー[六週間がかりで服を買いためたのに何もかも気にいらず着るものがなくなったという風刺的な詩の主人公]みたいに、なんにも着るものがないのだ。
しかし、どれもこれも、とるにたりぬことばかり。というわけで、姉妹は、実験はなかなかうまくいっていますと、おかあさまに報告したのだった。おかあさまは微笑を浮かべたきり何も言わず、ハンナに手伝わせて、姉妹のほっぽりだした仕事を片づけ、家の中を居心地よくし、家という機械がなめらかに運転するように心をくばっていた。
≪休養してあそび放題あそぶ≫という道程から、じつに奇妙な不愉快な状態がひきおこされるということは、まことに驚くべきものだった。毎日が日を経るごとに長く感じられ、お天気までが常になく不安定で、みんなの機嫌《きげん》も変わりやすくなり、誰もがおちつかない気分に悩まされていた。悪魔《サタン》は、得たりとばかり、わるさの種をさがしてきては怠けているみんなの手にゆだねるのだった。
メグは、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の気分で、モファット・スタイルのドレスを仕立ててみようと裁縫道具をひろげたものの、いつまでたっても時間がたたないまま、つい気がちって鋏《はさみ》をいれそこない、あちこち切りこまざいたあげく、ついに服一枚分の布を使いものにならなくしてしまった。ジョオは、ついに目のほうが受けつけなくなるまで本を読み、当分は本など見るのもいやという気分になっていた。むやみに気みじかになり、気のいいローリーでさえ、彼女のわからずやぶりに腹をたてて喧嘩《けんか》をする始末で、こんなことならいっそマーチ伯母といっしょに行けばよかったのにと、情けないおもいでいた。ベスは、けっこううまくいっていた。というのも、今は遊びばかりの仕事なしの期間だということをつい忘れて、ときどきもと通りの生活にもどっていたからだ。だが、家の空気にただよっている何かが、やはり彼女に影響して、もちまえの平らな気分をゆさぶり、そのせいで、一度など、大事な大事な人形のジョアナをこずきまわし、「おばけよ、あんた」などと言ったりした。エイミーは、なんといってもいちばん閉口《へいこう》していた。することがすぐに何もなくなってしまったのだ。姉たちにほっておかれ、自分ひとりで遊んだりやりくりしたりしなければならないとなると、教養ふかいおえらいおちびさんである自分をもてあましてしまうのだった。お人形ごっこは嫌いだし、お伽話《とぎばなし》など幼稚でだめだし、といって朝から晩まで絵を描いてばかりはすごせない。ティー・パーティもピクニックも、よほど上手に運ばれたのでなければそう楽しくもなかった。「りっぱなお家があって、気のあった女の子でも大勢いるとか、旅行に出かけるとかいうのなら、夏も楽しいでしょうけど、利己主義なおねえさん三人と、もう大人の男の子一人といっしょに、家にばっかりいるんじゃあ、ボウアズ[忍耐づよい例にひかれる旧約聖書のヨブととりちがえた]だってそうそうがまんはできないと思うわ」ミス・マラプロップ[始終まちがったことを言うある芝居の人物。エイミーを指す]は、楽しみばかりの数日をすごしたあげく、じれきって、退屈しきってこうこぼすのだった。
誰も、この実験にあきあきしたとは、口に出さなかったが、金曜の夜になると、みんながやっと一週間もあと一日で終わると思い、内心ほっとしていた。ユーモアのセンスに富んだミセス・マーチは、この教訓を娘たちに強く印象づけようと、じつにうまいやりかたでこの実験の終わりを飾ろうとした。そのためにまずハンナに一日休みを与え、娘たちにこの公休制度のいかなるものかをもっとも効果的にわからせようとしたのだ。
土曜の朝、姉妹が起きていくと、台所には火の気もなく、食堂に朝ご飯の支度もしてない上、おかあさまの姿さえ見えないのだ。
「たいへん、たいへん! どうしたっていうんだろ」ジョオは、仰天してあたりをキョロキョロ見まわしている。
メグはすぐ二階にかけのぼっていったが、すぐに、ほっとしたような、けれど驚いたようなそして恥ずかしいような顔をしてもどってきた。
「おかあさまはご病気じゃないわ。ただ、少しお疲れなんですって、だからきょうは一日お部屋で静かにしていらっしゃるんですって。家のことは、みんなでなんとかやってごらんなさいってよ。こんなことなさるのおかあさまらしくないし、なんとなく板につかないのよ、変だわ。でも、この一週間、おかあさまはとても大変だったから、文句を言わないで自分のことは自分でするようにってよ」
「そんなことへっちゃらよ。いい考えだわ。何かしたくてうずうずしてたんだもの――ほら、つまり、何か新しい楽しみをってことだけどさ」ジョオはあわててつけたした。
まったくのところ、ちょっとした仕事を与えられたことで、四人ともほっと息をついた。進んでそれにとりかかったのだが、たちまち、ハンナの口ぐせの「家事ってもんはなまやさしい代物《しろもの》じゃねえですよ」ということばの真理を身にしみて知ったのだった。
食料品戸棚には、たっぷり材料があったので、ベスとエイミーが食卓を整える一方、メグとジョオは朝食ごしらえにかかり、女中たちは、なぜ仕事がつらいなどと言うのかしらと、のんきにかまえていた。
「おかあさまに少し持ってってあげましょう。おかあさまのことはかまわないでいい、自分でするからっておっしゃってたけど」メグは、総大将ぶりを発揮して、ティー・ポットを前に、いっぱしの主婦きどりだった。
そこで、誰も試食もしないで、一式とりそろえたお盆が、コックからの口上つきで、二階へ運ばれた。ところが、グラグラ煮たててしまった紅茶はものすごくにがく、オムレツは焦げ、ビスケットはよくとけなかったふくらし粉でぶつぶつしていた。それでもミセス・マーチはその食膳《しょくぜん》を感謝して受けとり、ジョオが行ってしまってから、あらためて笑いころげた。
「かわいそうに、みんな。苦労するでしょうね。でも、そうつらいとは思わないだろうし、ためになることだから」
彼女は、あらかじめ準備してあった口にあう食料をとり出し、そのひどい朝食のほうは、娘たちの気持ちを傷つけないように、そっとすててしまった――その母親らしい小さな嘘《うそ》に、娘たちは感謝したのだった。
下では文句が相ついだが、コック長が自分の失敗を責めることたるや大変なものだった。
「しんぱいするこたあいらねえです。お昼はわしがこさえてあげるし、女中もやりますだよ。おまえさまはおくさまだで、手をあらさなんで、お客さまの相手ばしたり、あれこれ指図ばしとくんなせえまし」とは言うものの、ジョオときたら、メグ以上台所仕事にうといのだった。
このありがたき申し出は、喜んで受けられた。マーガレットは居間にしりぞき、ごみをソファーの下に掃きこみ、埃《ほこり》が目だたぬようにブラインドをしめたりして、手早く一応の体裁《ていさい》をととのえた。
一方、自分の腕に自信満々なジョオは、ついでに仲直りをしようという気持ちから、昼食にローリーを招待する気になって、さっさと手紙を例の≪郵便局≫へ投函したのだ。
「人を招待する前に、どんな材料があるかあたっとくものよ」メグは、この善意にあふれた、しかしなんとも軽はずみなやり方を聞くとこうたしなめた。
「あら、平気だわよ。コンビーフがあるし、ジャガ芋もたくさんあるもの。そして、ハンナじゃないけど≪いろどり≫にはグリーン・アスパラガスとエビを買ってくる。レタスも買ってサラダにすると。作りかたわかんないけど、どうせ料理の本に出てるものね。デザートにはブラマンジュとイチゴにして、ちょっときどれば最後にコーヒーってとこね」
「そんなにたくさんつくらないほうが無事よ、ジョオ。あなたができるものったらしょうがパンと蜂蜜《はちみつ》あめだけじゃないの、なんとか食べられるのは。いいこと、あたしはこのディナー・パーティにはかかわりあわないわよ。ローリーを招待したのはあなたなんだから、責任もっておもてなしすればいいわ」
「何も手伝ってもらわなくていいわよ。ただローリーをちゃんともてなしてさえくれれば。それと、プディングのこしらえ方だけ教えて。うまくいきそうもない時にはいい知恵を貸してくれるでしょ、ね?」
「ええ、でも、あたしだって大して知らないのよ。パンの作りかたとかほんのちょっとしたことくらいで。材料を買う前に、一応おかあさまのお許しを得たほうがよかない?」メグは慎重《しんちょう》だった。
「わかってるわよ、あたしだってバカじゃないもの」ジョオは料理の腕を疑われたことに憤然《ふんぜん》として出ていった。
「なんでもほしい物を買ってきていいけど、わたしの邪魔をしないでね。お昼食におよばれしているので出かけますから。家のことなどかまっていられないのよ。わたしだって家の仕事など楽しいと思ったことありませんよ。だから、きょうは一日お休みにして、本を読んだり、手紙を書いたり、お友達を訪ねたり、楽しく送るつもり」
忙しくたち働いている母が、午前中からのんびりと揺り椅子におさまって、読書をしている図などは、ジョオもついぞお目にかかったことのない光景だったので、何か天変地異が起こりでもしたような感じがした。日食も、地震も、火山の噴火も、この光景ほど奇妙には見えないだろうほどだった。
「何もかも変調子だな」階段をおりながらジョオはつぶやく。「あら、ベスが泣いてる。何かわるいことが起こった証拠だ、わが家で。もしもエイミーがわるさをしたんなら、ただじゃおかないからね」
このとおり自分自身変調子になっているジョオは、居間へかけこんでみて、ベスがカナリヤの籠を前にしてすすりあげているのを目にした。カナリヤのピップは、かぼそい肢《あし》をいたましくのばしたきり、籠の底に死んでいた。まるで、餌《えさ》をもらえずに死んだのだと訴えてでもいるように。
「みんなあたしのせいよ――あたしピップを忘れてたんだわ――餌一粒、お水一滴なかったんだもの。ああ、ピップ! なぜこんなかわいそうなことをしたのかしら」あわれな小鳥を手にとり、なんとか生きかえらせたそうにベスは泣きつづける。
ジョオは、半開きになったカナリヤの目を調べ、小さな心臓に手をあててみて、そのからだがもうコチコチに冷たくなっているのを知って、自分のドミノ[二十八枚の札で点合わせをするゲーム]の箱をお棺にするようにと提供した。
「天火《オーブン》の中にいれてみたら! あったまったら生きかえるかもしれないから」エイミーがまだ望みをすてずに言った。
「ピップは餓死《うえじに》したのよ。もう死んでるんですもの、焼いたりしちゃだめよ、あたし、経《きょう》かたびら[死者に着せる白い着物]をつくってやるの、そしてお庭に埋めてあげるんだわ。もう二度と小鳥は飼わないわ。絶対に。誓ってよ、あたしのピップ! あたしなんかそんな資格がないんですもの」床にすわったベスは、両手で大事なペットをそっと持ってつぶやいた。
「午後にお葬式をすることにして、みんなで参列しましょう。さ、もう泣かないの、ベス。かわいそうなことしたけど、今週は何もかもうまく行かないのよ、そして、ピップは、この実験週間の最大の犠牲《ぎせい》者だったのよ。さ、早く経かたびらを作ってやって、お棺に入れてやりなさい。ディナー・パーティがすんだら、いいお葬式をしてあげましょう」ジョオは、つい、さも何もかもうまくいったような親分気分になり始めていた。
ベスを慰めるのはみんなにまかせて、ジョオは台所へ入っていった。ところが、じつに手もつけられないような乱雑さなのだ。大きなエプロンをかけ、ともかく働き始め、まずお皿を重ねて洗うばかりにしてみると、火が消えていた。「おやおや、縁起《えんぎ》のいいこと!」ジョオはぶつくさ言いながら、ストーブ[料理用の炉で、天火《てんぴ》(オーヴン)が下につくりつけになっている]の戸を力まかせにあけ、燃えがらを乱暴につつきまわした。
やっとまた火が燃えだしたので、お湯がわくまでにマーケットに行ってくることにしようと思った。表へ出て歩いてみるとまた気分が一新した。まだ若すぎるエビ、古いアスパラガス、まだすっぱいイチゴ二箱を買いこんだくせに、じつに安くいいものを手にいれたとばかり、得意で帰ってきた。
お皿を洗い終わったころ、買物が配達され、ストーブはまっかになっていた。ハンナが、パン種《だね》をしこんでおいてくれたのを、メグは早くにこね直して、もう一度ふくらすためにストーブのそばにおいたまま忘れてしまっていた。当のメグは、居間でサリー・ガーディナーの相手をしていたが、いきなりドアが開き、粉まみれ、煤《すす》まみれの真赤にのぼせた怪物がおそろしい姿であらわれ、つっけんどんに詰問《きつもん》した。
「ちょっと、天板《てんばん》の上を流れだしてたら、パン種はよくふくらんでるってことだわね?」
サリーは笑いだしたが、メグはうなずくと同時に、目をまんまるくしてみせたので、怪物はたちまち姿を消し、できすぎてすっぱくなっているパン種をさっさとストーブに入れてしまった。
ミセス・マーチは、形勢いかにと、あちこちのぞいてみて、ベスを慰めてから、出かけてしまった。ベスは、例のドミノの箱に小さきもののなきがらを収めたそばで、経かたびらを作っていた。グレイのボンネットが角を曲がって見えなくなってしまうと、娘たちはなんとも心もとない気分に襲われたのだ。そして、そのすぐあと、ミス・クロッカーがやってきて、昼食に来たいと言った時、みんなは絶望感にとらわれてしまった。じつは、この人は、やせっぽちの、白茶けた顔をしたオールド・ミスで、鼻が人一倍きくし、目は始終あらさがしをし、何ひとつ見のがさず、見たものはすべてゴシップの種にするという人だった。みんなその人を嫌っていたが、老人だし、貧乏だし、友達もないのだから、親切にしてあげなければいけないと姉妹は母親から言われていたのだった。で、メグは安楽椅子をすすめ、お相手をし、ミス・クロッカーは何やかやと難癖《なんくせ》をつけ、知っている人達の噂《うわさ》話をあれこれとしゃべりまくっていた。
この日の午前中、ジョオが経験した心労と骨折りは、じつに、筆舌にはつくしがたいものだった。とにかく、彼女がととのえた食事というものは、笑い話として当分の間役にたったのだ。メグに何かききたくても、前のように追いはらわれるのではないかと思って、何もかも一人で勝手にやってみたが、料理とは、善意とやる気だけでは解決しないものだということを知ったのだった。
グリーン・アスパラガスは一時間もゆでたせいで、首はもげてとれてしまったというのに、茎はこちこちにたる始末で、泣きたいおもいをした。サラダ・ドレッシングづくりでのぼせあがり、ほかのことは何もかもほっぽっておいたので、パンはまっくろこげにしたあげく、結局ドレッシングの方も食用には適さないとあきらめる始末だった。イセエビはといえば、これがまたどうあつかっていいか見当もつかぬ赤いかたまりで、たたいたりつついたりしたあげく、やっと殻《から》はとれたものの、そのちょっぴりの身はもりだくさんなレタスに埋まってしまい、どこにあるかもわからなかった。ジャガ芋は、つぎにアスパラガスをゆでる都合上、急いできりあげたのでてんで生《なま》だった。ブラマンジュはつぶつぶだらけだし、イチゴは見かけほど熟してはいず、上《うわ》っ面《つら》だけたくみに擬装してあったというわけだった。
「まあいいや、とにかくお肉はあるんだし、おなかがいっぱいにならなかったらパンにバターでもつけて食べれば。でも、結局、午前中まるまるつぶしたのに、何の役にもたたなかったってのはくやしいわね」ジョオはこう思い、いつもより三十分もおくれて食事の鐘をならし、のぼせあがり、疲れきって、上等なお料理を食べつけているローリーと、好奇心むきだしの目で人のあらを探し出しては、あちこちしゃべってあるく舌の持主のミス・クロッカーとの前に並べたご馳走《ちそう》を、しょんぼりと眺めた。
どの料理もどの料理も、ちょっと口をつけたきりで残されたままになるのを見て、かわいそうに、ジョオはかなうことならテーブルの下にもぐりたい気持ちだった。エイミーはクスクス笑うし、メグは弱りきったような顔をしている。ミス・クロッカーは口をへの字にむすんでいる。ローリーだけは、なんとかしてその場を陽気にしようと、懸命におしゃべりをしたり笑ったりしてくれていた。ジョオの唯一のよりどころはくだものだった。おさとうをたっぷりかけ、濃いクリームのピッチャー[牛乳やクリームを入れる容器]も添えてある。きれいなガラスのフルーツ皿がくばられ、みんながクリームの海に浮かんだかわいいバラ色の小島をうれしそうに眺めるのを目にして、ジョオのほてった頬もいくらかさめてきた気がして、思わず溜息がもれた。
ミス・クロッカーがいちばん先に手をつけたと思うと、あっと顔をしかめ、あわてて水をのんだ。いい粒《つぶ》をえりわけてみたらひどく少なくなったので、足りないといけないと思い、自分は遠慮していたジョオは、ちらっとローリーに目をやったが、彼は、目を伏せたまま、男らしく着々と食べていた。お上品なたべものの好きなエイミーは、スプーンに山盛りにして口にいれたとたん、むせかえり、ナプキンで口もとを覆《おお》って、あわてて席を立ってしまった。
「いったいどうしたっていうの?」ジョオはふるえて叫んだ。
「おさとうのかわりに塩なの、それにクリームはすっぱくなってるわ」メグは答え、なさけなさそうな身ぶりをしてみせた。
ジョオはウーンとうなって椅子にたおれこんだ。そう言えば、最後に、大急ぎで、台所の棚に並んでいた二つの壺《つぼ》の一つから、白い粉をイチゴにどっさりふりかけたし、クリームのほうは冷蔵庫にいれるのを忘れていたのだ。真赤になり、今にもワッと泣きだすところだったが、その時ローリーと目があった。じつに男らしく努力してはいるものの、その目つきはおかしいのをこらえているこっけいのに間違いはなかった。とたんに、この大失態が、半面、茶番そこのけに滑稽なのに気がつき、ジョオはとつぜん笑いだし、あげくのはてに涙をボロボロこぼすほどだった。みんなも同様に笑いころげ、みんなが言う≪|うるさがた女史《クローカー》≫までもが笑いだした。そして、不運なディナー・パーティは、バターつきパンとオリーブ漬けと笑いとで、楽しく終わったのだった。
「今すぐ、お片づけする元気ないわ、あたし、だからお葬式をして頭を冷やしましょう」みんなが食卓をたつと、ジョオはこう提案した。そして、ミス・クロッカーはそそくさと支度をして、一刻も早くこのホヤホヤのニュースを、別の知り合いの昼食の席で話そうと出ていった。
一同は、ベスのために、文字どおり頭を冷やし、厳粛《げんしゅく》な気分になった。ローリーが植込みのシダの下にお墓を掘り、列席のみなの涙のうちに、やさしい心根の女主人により小さなピップは丁重に葬られ、苔《こけ》で覆われ、墓石にはスミレとハコベの花輪がかけられた。墓には、ジョオが昼食の支度に悪戦苦闘中に考えた碑文《ひぶん》が記されている。
ピップ・マーチここに眠る
六月七日この世を去りし
いつくしまれしその姿
われらのなげきかく深く
いつの日|汝《なれ》を忘れんか
お葬式が終わると、ベスは悲嘆にくれて――それとどうやらエビにあたったせいもあり――自分の部屋へひっこんでしまった。だが、ベッドが整えてなかったので、横になることもできず、枕をたたいてふくらませたり、あちこち片づけたりしているうちに、悲しみもいつかまぎれてしまっていた。メグはジョオを手伝ってあと片づけをしたが、午後いっぱいかかってしまい、くたくたになった二人は、夕食は紅茶とトーストでごまかすことに決めてしまった。
ローリーはエイミーをドライブに連れていったのだが、すっぱくなったクリームのせいでよほど気分がわるかったとみえ、彼女はひどくご機嫌《きげん》斜めで、せっかくのドライブも慈善行為になったのだった。ミセス・マーチが帰宅した時には、上の三人の娘たちは、午後も遅いというのに夢中で働いている最中で、戸棚をちょっとのぞいてみただけで、この実験の一部は成功したのが彼女にはわかった。
三人の主婦が休む間もないうちに、お客が数人やってきたので、その接待の準備をするのがまた大騒動だった。夕食の支度もしなければならず注文をしに出かけ、ぎりぎりまでほっておいた縫物もいくらかあった。日が暮れかかり、露がおりてあたりが静まると、姉妹は一人また一人六月咲きのバラが美しく開き始めたポーチヘと集まってきて、疲れたせいか何か悩みごとでもあるのか、溜息をついたりうめいたりしては、そこへ腰かけた。
「なんていやな日だったこと!」いつもまっさきに口をきくジョオが、まず言いだした。
「きのうまでよりずっと早く一日がたったような気がするけど、じつに不愉快だったこと」とメグ。
「おうちって感じじゃなかった」エイミーも言いそえた。
「ママとかわいいピップなしでは、おうちの感じがするわけないわ」ベスは、すぐ頭の上にかかっている空の鳥籠を涙をいっぱいためた瞳でみつめて吐息《といき》をもらす。
「おかあさまはここにいますよ。小鳥はあしたにでも買ってあげます、欲しければ」
こう言いながら、ミセス・マーチはポーチヘ出てきて、娘たちの間にすわった。彼女のお休みも娘たちのと同様、あまり楽しくはなかったとみえる。
「どう、実験は? もう満足したの、それとももう一週間やりますか?」ベスがさっそくその膝によりかかり、ほかの三人も花が太陽のほうを向くように、ハッと顔を輝かしたのを見て、おかあさまはたずねた。
「あたしはもういいわ」ジョオははっきり宣言した。
「あたしも、あたしも、あたしも」あとの三人もすぐに応じた。
「じゃ、少しは受け持ちの仕事があって、ひとのために少しは役立つように毎日を暮らすほうがいいのね」
「のらくらして浮かれさわぐのって、全然いいことないわ」ジョオは頭をふって、意見をのべる「もうあきあきよ。これからすぐにでも、何か仕事をしたいくらい」
「簡単なお料理を習ったらどう、では。お料理もできないようでは女性の資格がないくらいで、必ず身につけなければいけないことの一つですからね」ミセス・マーチは、ジョオのディナー・パーティーの一件を思いだして、笑いをかみころした。道でミス・クロッカーから一部始終を聞いていたのだ。
「おかあさまったら、あたしたちだけでは何一つできないってことを思い知らせようと思って、わざと何もかもほっといてお出かけになったのね?」メグは一日中、あるいはこんなことかなと見当をつけていたのだ。
「そうよ、じつは。みんなが居心地よく毎日を過ごせるのは、ひとりひとりが自分の受け持ちの仕事を忠実にやっているからこそなのだということをわかってほしかったのよ。ハンナとわたしが、あなたたちの分担までしてあげている間は、なんとかなっていたけれど、それでも、大して楽しそうでもなく感謝の様子も見えなかったわね。で、みんなが自分のことしか考えなくなったら、いったいどんなことになるか見せてあげようと思ったんです。ちょっとした教訓としてね。お互いに助け合い、毎日割りあてられた仕事をきちんとして、つらい時にもがまんをしてやりとおしていれば、家庭は家族みんなにとって楽しい快い場所になると思わない? そして、そうしていればこそ、気楽に楽しめる時が与えられれば充分にそれを楽しむこともできるのだと?」
「そうだわ、おかあさま、たしかに」姉妹はそろって言った。
「では、もう一度、それぞれの小さい荷物を背負いなおしましょうね。時には重いこともあるでしょうけど、それもみんなのためになるのだし、背負いなれてくれば、だんだん軽くもなるんですよ。働くことは健全なことだし、その気になれば仕事はいくらでもありますよ。働いていれば退屈することもないしわるさもする暇がないし、からだと心と両方のためになり、お金だの流行の衣裳などからは得られない、自分の中の力に対しての自信とか独立心などを与えてくれるんですからね」
「あたしたち蜜蜂《みつばち》みたいに働くわ。そして働くことを大好きになるわ! 必ずそうなるわ!」とジョオ。「あたしは、休暇中の仕事として、初歩的なお料理を習う。そして次のディナー・パーティは必ずうまくやってみせるわよ」
「あたしは、おとうさまのシャツをひとそろい作ります。おかあさまにばかりさせないで。お裁縫は好きじゃないけれど、できると思うし、なんとしてもやります。そのほうが、自分の衣類をあちこち模様がえしているよりずっといいでしょう。あたしのは、今のままでまだまだ上等なんですものね」とメグ。
「あたしは毎日勉強します。ピアノとお人形ばかりに時間をかけないようにして。あたしはおばかさんだから、もっともっと勉強しなけりゃいけないんだわ、あそんでばかりいないで」これがベスの決心だった。
エイミーも姉たちの例にならって、悲壮にも宣言するのだった。「あたし、穴かがりを習います。それから間違ったことを言わないようにことばをよく勉強します」
「みんなえらいこと! この実験の効果はこれで充分ですね。二度と同じことをくり返さないでいいでしょうよ。ただ、また極端《きょくたん》になりすぎて、奴隷《どれい》のように年がら年中働くのもいけませんよ。働くのも遊ぶのも、一応の時間割に従ってなさいね。毎日が有益であり同時に楽しくあるように。時間を上手に使うことをおぼえ、その価値がわかるようになるのが大切です。それでこそ、青春は喜びにあふれ、老年になっても悔い少なく、たとえ貧しくとも、生涯はりっぱな収獲となり美しい実を結ぶでしょうからね」
「今のお話忘れません、おかあさま!」そして、そのことばどおり、娘たちはこの母のことばをまもったのだった。
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第十二章 ローレンス陣地《キャンプ》
家にいることが多いベスは、規則的に勤務できるので、私設郵便局の女局長に指名されていた。彼女は、毎日その小さな扉《とびら》をあけて、郵便物をくばって歩く仕事が、とても気に入っているのだった。七月のある日、両手にいっぱいの郵便物をかかえて入ってきたベスは、手紙や小包を一ペニー・ポスト[一ペニーと交換に郵便物をくばってあるいたイギリスの昔の制度]のように、みんなにくばって歩いた。
「はい、おかあさまの花束よ。ローリーは絶対に忘れないのね」おかあさまのコーナーにある花瓶に、ベスはこう言いながら、新しい香り高い花をいけた。やさしい少年はいつもこの花瓶の花を絶やさないように心をつかっていた。
「ミス・メグ・マーチ、手紙が一通と手袋が片一方」ベスは配達をつづけ、おかあさまのそばにすわってシャツに袖《そで》口をつけている姉にその品を渡す。
「あら、片方だけ。両方とも忘れてきたのに」メグはグレイの木綿《もめん》の手袋に目をやった。「お庭に落としてきたんじゃなくて?」
「いいえ、絶対に。だって郵便局には片方しかなかったのよ」
「はんぱの手袋なんて、いやだわ! ま、いいわ、そのうち見つかるでしょうから。あたしの手紙はドイツ語の歌の訳《やく》だけよ。ミスター・ブルックが訳したらしいわ、だってローリーの字じゃないもの」
ミセス・マーチは、ちらっとメグに目をやった。ギンガムのモーニング・ドレス[アフタヌーン・ドレス、イーブニング・ドレスと同様に午前中の服といった意味、ただし、アフタヌーン・ドレスが外出着、イーブニング・ドレスが正装用といった意味があるように家庭着といった意味がある]で、額に小さなカールをちらしているその姿は、なかなか美しかったし、小さな裁縫台にカフスにする白い布をいっぱいおいて、しきりに針を動かしているのもまことに女らしい。母の心に往き来するおもいには全然気づく様子もなく、歌をくちずさんだりしながらも、とぶように早く針をもつ指を動かしている。ベルトにつけたパンジーのように罪のない、新鮮な、若い娘らしい空想がその胸のうちに忙しく浮かんでは消えているのだろう。ミセス・マーチは思わずほほえみ、これでいいのだと思った。
「ジョオ博士には、お手紙が二通と、この妙ちきりんな古帽子。郵便局からはみだしてたわ、おおきいんですもの、こんなに」書斎へ入っていきながらベスは笑って言った。ジョオは机に向かって創作中だ。
「ローリーったら、けしからんわね! 大きい帽子がはやればいいって言ったのよ、あたし、陽が強い日は必ずひどく焼けるから。彼ったら流行なんか気にしないで、大きい帽子をかぶりゃいいのにって言うのよ。で、あたしだってあればかぶるわよ、って言ったもんで、どう、その返事よ、これ。あたしを試す気だな。いいわ、おもしろいからかぶってやる。流行なんかぜんぜん気にしないとこ見せてあげる」そして、つばのうんと広い古物の帽子をプラトン[古代ギリシアの哲学者]の胸像にポンとかぶせて、ジョオは手紙を読みだした。
おかあさまからの一通は、ジョオの頬を輝かせ、その瞳は涙でいっぱいになった。それはこういう文面だったから。
[#ここから1字下げ]
――どうしてもあなたに言いたいことがあってこの手紙を書くことにしました。最近、あなたが自分の癇癪《かんしゃく》を抑えようとしていっしょうけんめい努力しているのを、わたしはずっと見ていてほんとうにうれしく思っています。あなたはそのために逢う試練のことも、失敗も成功も、何ひとつ言おうとはしませんね。そして、たぶん、あなたが毎日助けを求めている方以外は、誰もあなたの努力に気づいているとは思っていないのでしょう。あなたの聖書の手づれした表紙を信用していいなら、それがわかるのです。でも、おかあさまもやはり、今までのあなたの努力の跡をちゃんと見ていますよ。あなたの決意がどんなに固いものか心から信じています。もうその成果が実りかけていますもの。これからもおつづけなさいね。忍耐づよく、勇気をもって。そして、あなたの母は、いつでも、深い愛情をもってあなたを理解し、もっとも親身になってあげられるのだということを信じていてください。 母より
[#ここで字下げ終わり]
「なんてありがたいこと! 百万ドルもらうより、大勢の人からほめられるより、うれしいわ。おかあさま、あたし、いっしょうけんめいやります! ずっとつづけます。いやになったりなんかしません。だって、おかあさまが助けてくださるんですものね」
机につっぷしたジョオは、書きかけのロマンスをしあわせの涙の二、三滴でぬらしてしまった。いいことをしようという彼女の努力に気づき、ほめてくれる人は誰もいないと思っていたので、この予期していなかった励ましは、倍も貴重に力強く思えたのだ。ことに、それは彼女がもっとも高く評価している母のことばだったから。胸に巣食う魔神《アポリオン》に立ちむかい、これをとりひしぐ力がわいてくるのを感じ、ジョオはその手紙を上着の胸の内側にピンでとめつけ、魔神の待ち伏せに違ったりしたら、これを楯《たて》とも護符《ごふ》ともしようと思ったのだ。そして、つぎの手紙を、吉凶いずれであっても平気になれて、開きにかかった。大きな躍《おど》るような字で、ローリーは書いていた。
[#ここから1字下げ]
――ジョオさん、
ごきげんはいかに――
あした、イギリスの女の子と男の子が訪ねてきます。で、思いきり楽しくすごそうというわけ。天気なら、ロングメドウにテントを張って、全員ボートに乗り組んで行って、お昼をたべてクロケットをしようと思う――焚火《たきび》をして、ジプシー・スタイル[流浪の民であるジプシーのように、戸外で料理をしたり食べたりすることを指す]でご馳走をつくり、うんと羽目をはずして遊ぼうと思う。みんないい連中で、こんなことが好きなんだ。ミスター・ブルックも同道して男連中の監督をするし、女の子はケート・ヴォーンがリーダー役です。ぜひおそろいできてください。ベスも必ずくどきおとして。誰もいやなことはしないからって。食料はご心配なく――ぼくが適当にやっとく。どうぞ何も気をつかわず、ただ来てくれればいいんです。ぜひぜひ、おねがい
乱筆失礼、ものすごく急いでるので
ローリー
[#ここで字下げ終わり]
「ウワッ、すごい!」ジョオはとびあがると、ニュースを知らせにメグのところへとんでいった。
「もちろん行かしてくださるでしょ、おかあさま? ローリーだってとても助かるんだわ! あたしはボートが漕《こ》げるし、メグはお昼の食事係になるし、ちびちゃんたちも何かと役に立つわ」
「ヴォーン家の人達って、あまりきどった大人じゃないといいけれど、ジョオ、何か聞いてる?」とメグ。
「全部で四人だってことくらいよ。ケートはおねえさんより上よ。フレッドとフランクは双子であたしと同い年かな。グレースがいちばん下で九つか十。ローリーは、あちらで知り合ったのよ。男の子とは仲よしらしい、でも、ケートのほうは、彼女のことを話すときの口つきからみて、どうもあまり気にいらないみたい」
「よかったわ、フランス製のプリントの服が洗ってあって。ピクニックなんかにはピッタリだし、それによく似合うでしょ」メグは悦《えつ》にいっている。「ジョオ、何か着るものあって、みっともなくないようなの」
「赤とグレイのボートあそび用の服があるわよ。どうせボートを漕いだりはねまわったりだから、あれで上等。洗いたてでピンと糊《のり》のきいたのなんか着たくないわ、気になるもの。ベス、行くでしょ?」
「男の子に話しかけたりさせなければ」
「させないわよ、ぜったい」
「あたし、ローリーは喜ばせたいのよ。それにミスター・ブルックは平気よ、とてもやさしいんですもの。でも、あそんだり、歌ったり、お話ししたりはいや。あたし、いっしょうけんめい働くわ、そして、みんなの邪魔はしないわよ。それに、ジョオねえさん、あたしのこと見まもっててくださるわね、だから行くわ」
「なんていい子でしょ! ベスも、はにかみやからぬけ出ようと努力してるのね。大好きだわ、だから。短所と格闘するのって大変なことよ、よく知ってるけど、あたしも。ちょっとした励ましのことばで、また一段と勇気が出るような気がする。おかあさま、ありがと」ジョオは、ミセス・マーチの肉の薄い頬に、感謝のキスをした。母親にとっては、それは若かりし日のバラ色のふくよかさを返してもらうよりうれしいことなのだった。
「あたしには、チョコレート・ドロップと、前から模写したいと思っていた絵よ」エイミーは、自分に来た郵便物をみせる。
「あたしのところには、ミスター・ローレンスからのお手紙――今日の夕方、灯《あか》りがつかないうちに、ピアノを弾きにきてくださいって。あたし行ってあげるつもり」ベスと老人との友情は、こまやかになる一方だった。
「さ、みんなでとびまわって、二日分の仕事をしとくのよ。あした思う存分あそべるように」ジョオは、すぐにもペンを箒《ほうき》にもちかえるつもりになっていた。
あくる朝早く、上天気を告げに娘たちの部屋をのぞいた太陽は、まことに滑稽《こっけい》な光景を見ることになった。四人が、きょうの≪行楽≫に必要な、またはふさわしいと思った準備を、それぞれのやり方でしていたからだ。メグの額には、髪をセットするカール・ペーパーがいつもより一段多く並び、ジョオは日焼けした顔にコールドクリームをベタベタに塗《ぬ》っている。ベスは、しばらくのお別れに備えて、ジョアナを抱いて寝ていた。そして、エイミーはといえば、どうも気にいらない低い鼻を、なんとかもちあげようと、洗濯ばさみでつまんでいる。ことに、それは、画家が紙に挟《はさ》むのに使う種類のものだったので、今のように使うのにはもってこいで、効果もさぞやと思われた。この滑稽な光景は、太陽にもよほどおもしろかったとみえ、急にパーッと照りつけ、その光にジョオは目をさました。と、同時に、エイミーのお飾りを見て大声で笑いだし、その声で三人の姉妹も起きてしまった。
日の光と笑い声で一日が始まるのは、この日の行楽にとってはじつに縁起《えんぎ》がよかった。すぐに両方の家は賑《にぎ》やかに活気だった。いちばん先に支度ができてしまったベスは、隣家で起こっていることをつぎつぎと報告し、窓から電報を送っては、身じまいに夢中の姉たちを勢《きお》いたたしていた。
「テントを持った人が出かけてったわ! ミセス・パーカーが籐《とう》の蓋《ふた》つき籠《かご》だの大きな籠だのにお昼のご馳走をいれてるとこよ! あ、ミスター・ローレンスが、空を見たり、風見鶏《かざみどり》を眺めていらしてよ。おじいさまもいっしょにいらしたらいいのに! ローリーはまるで船員みたい――すてきよ! あら、たいへん! あんなにたくさん乗って。馬車よ――背の高い女のかた、小さな女の子、いやな男の子が二人。あら、一人はびっこだわ、かわいそうに、松葉杖《まつばづえ》ついて! ローリーはそんなこと言わなかったけど。早く、早く、みんな! おそくなるわよ。あらッ、あれネッド・モファットだわ、確かにそうよ。見てごらんなさい、メグ、いつかお買物している時、おねえさんにおじぎした人でしょ」
「ほんとだわ。どうして来たのかしら、あの人。高原《やま》に行ってるんだと思ったのに。あら、サリーもいる。よかったわ、間に合うように帰ってきてて。これでいいかしら、ジョオ?」メグは、もう、わくわくして叫んだ。
「まさにデイジー嬢ってとこ。ドレスをあげて、帽子は真直ぐに。そんなふうに曲げてかぶるとおセンチよ。それにすぐとんでっちまうわ。さ、いよいよ出発!」
「あらら、ジョオったら、まさかそのすさまじい帽子かぶる気じゃないわね? いくらなんでも変てこすぎるわよ。わざと人目をひくような格好をするもんじゃなくてよ」ローリーが冗談にとどけてきた例の旧式な広つば帽子を、ジョオが赤いリボンで結びつけているのを目にして、メグは、たしなめた。
「ところがかぶるのよ。だってこういう時にうってつけなんだもの――涼しくて軽くて大きくて。自分が具合《ぐあい》がよけりゃ、人にどう思われようとへっちゃらよ」
言うが早いかジョオはとっとと歩きだし、あとの三人も否応《いやおう》なくあとについていった。夏のドレスで、華やかな帽子の下に喜びでいっぱいの顔をそろえ、四人とも一段と美しくかわいらしく見える輝くような姉妹のそれは小隊だった。
ローリーが駆けてきて四人を迎え、丁重に友達に引き合わせた。芝生が接待の間となってにぎやかな光景がしばらくはつづいた。メグは、ミス・ケイトがもう二十歳《はたち》になっているのに、飾りの少ないすっきりした装いをしているのがうれしく、アメリカの娘もこれは大いに真似ていいと思う。それに、ネッドが、わざわざ彼女に逢いたくて出てきたと言うのを聞き、やはりわるい気分はしなかった。ジョオは、ローリーがケイトのことを話した時に、妙な口つきをした理由がわかった。この年若なレディーは≪そこをおどき、あたくしにおさわりでないよ≫といった様子をしていて、マーチ姉妹をはじめほかのアメリカの娘たちのように、こだわりのない自然な態度とは、きわだって対象的だった。ベスは、新しく知り合った男の子二人をよく観察したあげく、足のわるいほうの子はぜんぜんこわくはなく、おとなしく、からだもよわそうなことがわかり、だとしたら親切にしてあげましょうと思った。エイミーは、グレースが礼儀正しい、けれど快活な女の子だということを知って、二、三分、二人とも黙って相手を眺めていたあげく、たちまちいいお友達になってしまった。
テントとお昼のご馳走とクロケットの道具は前もって運んであった。で、一行はまもなくボートに乗りこみ、やがて二|艘《そう》のボートは、岸で帽子を振るミスター・ローレンスをあとに、同時に出航した。一艘の漕ぎ手はローリーとジョオ、もう一艘がミスター・ブルックとネッドだった。双子の一人の腕白《わんぱく》なフレッド・ヴォーンは小舟にのって、まるで追いまわされた水スマシのように、二つのボートのまわりを小うるさく櫂《か》きまわっては、今にもひっくり返しそうになるのだった。
ジョオの風変わりな帽子は何につけても有益だったので、感謝の一言を受ける価値があった。まず最初に、初対面の冷たい空気が、その帽子のもたらした笑いでなごみ、みんなを打ちとけさせた。ボートではジョオがオールをあやつるたびにバタバタあおっては、涼しい風を送ってくれた。夕立にでもなれば、みんなこの下で雨宿りをすればいい、などとジョオは言ったりするのだった。ケイトは、ジョオの振舞いを見て、大分おどろいたような顔つきだった。ことに、オールを流した時、ジョオが「こいつはしまった」と叫んだり、ローリーが席につこうとして彼女の足にけつまずき、「や、きみ、失敬、痛くなかった?」と言ったのを耳にした時などは。だが、柄《え》つき眼鏡をとりあげて、この奇妙な女の子を何度もしげしげと眺めたあげく、≪変わった子だけど、でも頭はよさそうね≫という結論に達したミス・ケイトは遠くからジョオに微笑を送るのだった。
別のボートのメグは、二人の漕手《そうしゅ》と向かい合うというすばらしい席についていた。漕手のほうもまたすてきな眺めを楽しみながら、めったに見られぬ巧みなオールさばきで、かるがると水をかき、なめらかにボートを動かしていた。ミスター・ブルックは、おちついた、口数の少ない青年で、茶色の美しい目をした、感じのいい声の人だった。メグは、彼の物静かな振舞いがすきだったし、有益な知識を持った生き字引だと思っていた。あまり話をしたことはなかったが、よく自分を見つめているのを知っていたので、きらってはいないらしいとはわかっていた。ネッドのほうは、大学に入ったばかりで、新入生はみなそうする義務があるとでもいうように、何につけてもきどったかっこうをして大いに大学生|風《かぜ》をふかしていた。あまり賢《かしこ》いたちではないが、じつに気のいい人間で、ピクニックなどにいっしょに行くにはもってこいだった。サリー・ガーディナーは、白ピケの服を汚すまいと絶えず気をつかいながらも、忙しく漕ぎまわっているフレッドとしきりにおしゃべりをつづけている。ベスは、だが、そのフレッドの無法ぶりに、今もちぢむ思いのしどおしだったのだが。
ロングメドウはそう遠くはなかった。一行がつくまでには、すでにテントも張られていたし、クロケット用の三柱門《ウイケット》も立ててあった。ちょうど中心に大きく枝を張ったカシの木が三本ある快適な緑の原で、クロケット競技用のよく刈りこまれた芝生《しばふ》がある。
「キャンプ・ローレンスに歓迎!」一行が上陸すると、若い主人役《ホスト》ははしゃいで叫んだ。
「司令官はブルック。ぼくは兵站《へいたん》部[軍需品の補給や連絡などにあたる機関で、戦場では軍の後方に位置する]総監。あとの男性は幕僚《ばくりょう》。ご婦人方は慰問客。テントはご婦人方のご便宜《べんぎ》のために設けました。あっちのカシの木があなたがたの客間、こちらが食堂、つぎのがこの陣所《キャンプ》の台所です。ところで、あまり暑くならないうちに、クロケットのゲームすることにして、すんでから食事の支度にかかりましょう」
フランク、ベス、エイミー、グレースの四人は、あとの八人がゲームをするのを、すわって見物することになった。ミスター・ブルックは、メグ、ケイト、フレッドと組み、ローリーは、サリー、ジョオ、ネッドと組んだ。イギリス勢《ぜい》はなかなかいいプレヤーだったが、アメリカ勢はなお上手で、一七七六年独立戦争精神に憑《つ》かれでもしたように、競技場の芝生の一インチもおろそかにせず、しのぎをけずりあった。
ジョオとフランクは中でもいちばん激しくやりあい、何度がもめたあげく、一度は大喧嘩《おおげんか》の一歩手前までいったのだった。ジョオは最後の小門《ウイケット》を通りはしたが、球を打ちそこない、その失敗で大いに腹を立てていた。すぐうしろにフレッドが来ていて、彼の番のほうが先にきてしまい、彼は打った。その球はウィケットに当たり、一インチはみだして止まった。誰も近くにいなかった。フレッドは確かめにかけて行き、こっそり爪先《つまさき》で一インチ中へ入れてごまかした。
「入ったぞ! さ、ミス・ジョオ、きみをおさえて、お先に失礼といきますよ」フレッドは、また打つ気で打球棒をふりあげた。
「押したわね、あなた。ちゃんと見たわよ。こんどはあたしの番だわ」ジョオの語気は鋭かった。
「ぜったい動かしゃしないさ! ちょっところがったかも知れないぜ、だが、それは規則違反じゃないんだ。さ、どいてくださいよ、そこを、みんごとあててみせるから」
「アメリカでは嘘《うそ》はつかないことになってるのよ。でも、あんたがたはご自由に」ジョオはカンカンになった。
「ヤンキーこそ、こすいんで有名さ。それくらい誰でも知ってら。ほら、あんたのはこうしてやる」フレッドはジョオの球を遠くへ打ちとばしながら、しっぺ返しをした。
ジョオは、口まで出かかった荒っぽいことばをぐっとのみこみ、額《ひたい》ぎわまでカッと赤くなって、力いっぱいウィケットを打ちおろし、一方、フレッドは、うまく杭《くい》にあてて、大喜びの歓声をあげ、あがったと宣言した。ジョオは球をとりに出て行き、長いこと草むらの中をさがしまわっていたが、かえってきた時には、平静な顔にもどっていて、そのまま辛抱づよく自分の番を待っていた。彼女が失った場所をとりもどすのには、あと数回打たなければならなかった。そして、やっととりもどした時には、敵側は、ケイトの球が残っているだけでそれも杭のじき傍で、もう勝ったも同然というところだった。
「どうだい、運はわれらに味方したね! ケイト、これで終わりだ。ミス・ジョオはぼくに一点借りがあるから、これで勝負はついたよ」最後のところを見ようとみんな集まってくると、フレッドはのぼせあがって叫んだ。
「ヤンキーは、敵に寛大《かんだい》にするという作戦を使うのよ」ジョオの言いかたには、フレッドの顔を赤らめさせる含みがあった。彼女は、ケイトの球にあてずに、見事な打球をみせ、まんまと逆転勝をやってのけると悠然《ゆうぜん》と言いたした。「ことに、どうせ勝てるとわかってる時にはね」ローリーは帽子を空へ投げあげた。だが、すぐに、お客の敗北を喜んだりするのは礼を失すると気づき、あやうく歓声をのみこみ、ジョオに耳うちした。
「えらかった、ジョオ。彼は、たしかにずるをしたんだ、見たよ。今ここでそれを言うわけにはいかないけど、彼だってもう絶対にやらないと思う。賭《か》けてもいいぜ」
メグは、落ちかけたジョオの髪をとめるようなふりをして妹を少し離れた所へ引っぱって行き心からほめてやった。
「さぞ口惜しかったでしょ、よくこらえられたわね。えらかったわ、ジョオ。うれしいわ、とても」
「そんなにほめないで、メグ、だって、今すぐにでも、あの子の横っつらなぐりとばしてやりたいんだから。あのイラクサの茂みの中で、ぐっとこらえて、澗癪玉《かんしゃくだま》をしずめなかったら、必ず爆発してたもの。まだブツブツ煮えたぎってるわ、あの子、どっか見えないとこへ行っちまえばいいのに」ジョオは、ぐっと唇をかみ、大きな帽子のかげからフレッドを睨《にら》みつけている。
「昼食の時間です」ミスター・ブルックが時計を見て言う。「兵站《へいたん》部総監、火をたきつけ、水を汲んでくるように。ミス・マーチ、ミス・サリー、そしてわたしとで、テーブルを支度します。誰かコーヒーをおいしくいれられますか」
「ジョオができるわ」メグはジョオを推薦《すいせん》できて大喜びだ。ジョオは、このところ大いに身をいれている料理の勉強の実《じつ》を示すのはこの時とばかり、コーヒー・ポットを前に、でんと構えた。一方では、年下の連中が集めてきた枯枝で、男の連中は火を燃しつけ、近くの泉から水も汲んできた。ミス・ケイトはスケッチをし、フランクはベスと話をしている。ベスは、イグサ[畳の表にするのに似た繊維の強い草]を編んでお皿がわりに使うマットを作っている最中だ。
司令官と二人の助手は、すぐにテーブルクロスをひろげ、みるからにおいしそうな食べもの飲みものを、緑の葉で飾りつけながら、ずらりと並べたてた。ジョオがコーヒーがはいったと告げると、一行は待ちかねたようにテーブルにとびつき、せっせと口を動かしだした。若い時は、胃をわるくするなどということはめったにないし、運動のあとは、また一段と食欲がでるものだ。じつに楽しい食事だった――何もかもがいつもとまるでちがって見え、何もかもがおかしく、どっとあがる笑い声は、近くで草を食べている威厳のある馬を仰天《ぎょうてん》させた。テーブルが平らでないのがまたじつに楽しく、コーヒー・カップやお皿が絶えず不測の事故をひきおこす。ドングリがミルクの中へとびこむかと思えば、招待もされないのに、小さな黒アリがお菓子を頂戴《ちょうだい》にきたり、モクモクした毛虫が、いったい何事かと、木の枝からスーツとさがって偵察《ていさつ》にきた。囲いの柵《さく》の上には、子やぎが三匹白い頭を並べてのぞいているし、川の向こう岸では、うるさがたの犬が、夢中で吠《ほ》えたてていた。
「お塩もありますよ、お好みなら」イチゴの皿をジョオに手渡しながら、ローリーはからかった。
「どうもご親切に、でもクモのほうが気に入ってますの」ジョオも、負けじと応戦し、クリームの中にあえない最期《さいご》をとげた二匹の無鉄砲《むてっぽう》ものをつまみあげる。「いじわるねあなたったら、こんな時にあのとんでもないディナー・パーティのことなんか思いださせて。あなたのおもてなしは一点非のうちどころもないっていうのに」ジョオは言い言い、お皿が足りなくなったのでローリーと一つのお皿から食べながら大笑いした。
「あの日は、まったく楽しかったんで、まだ記憶|新《あら》たでね。この食事はぼくがほめられる筋合いはないんだ、何もしないんだもの。きみとメグとミスター・ブルックとが何もかも上手にやってくれたんで、それに対してこっちこそどんなにお礼を言っても足りないくらいなんだ。さて、もうこれ以上食べられないとなったら、何をしたらいいだろう?」昼食がすむと、ローリーは自分の手持ちの切札《トランプ》は使い終わったという気分で、ジョオの意見をきいた。
「少し涼しくなるまで、ゲームをしましょう。あたしは≪作家あそび≫を持ってきたけど、ミス・ケイトはきっと何か新しいおもしろいのを知っていらっしゃるわ。行って聞いてごらんなさいよ。お客さまですもの、もっと傍についててご接待なさいよ」
「きみもお客さまでしょ? ぼくの考えじゃ、彼女はブルックと話が合うだろうと思ったのに。彼、メグとばっかり話してるもので、ケイトったら、あの変てこな柄つきの眼鏡ごしに、二人をじろじろ観察してるんだ。じゃ行くけど、礼儀作法のお説教はもうこれきりにしといていただきましょうか、ご自分もあまりお得意じゃないはずでしょ、ジョオ」
ミス・ケイトは、新しいゲームを五、六知っていた。食べるほうは、女の子はたとえ食べられてもさすがに遠慮するし、男の子はもうひと口も入らない状態だったので、全員例のカシの木の下の客間に移り≪物語ゲーム≫をすることになった。
「誰か一人、まず物語を始め、どんな辻棲《つじつま》の合わない話でもかまわないし、話したいだけ話していいんですけど、ちょうどお話の山にきたところで、必ずやめてつぎの人に渡し、その人がまた同じようにしてつづけていくの。うまくいくととてもおもしろくて、悲劇喜劇ごたまぜのおかしなことになって大笑いするわ。はい、始めて、ミスター・ブルック」このケイトの命令的な口調《くちょう》に、メグはびっくりさせられた。彼女自身は、この家庭教師の青年にも、ほかの紳士同様|丁重《ていちょう》に応対してきていたのだから。
二人の若いレディーの足もとの芝に横になったまま、ミスター・ブルックは従順に物語を始めた――美しい茶の瞳を陽にキラキラ映える川の流れにじっと据《す》えたまま。
「昔々、一人の騎士が、運だめしに長い旅に出ました。彼は剣と楯《たて》だけしか持っていなかったのです。長い年月、そう、二十八年もの間、騎士は旅をつづけ、辛苦《しんく》を重ねましたが、ついにある時、やさしい老年の王さまの宮殿へと辿《たど》りつきました。王さまは、たいそうすぐれた、しかしまだ誰も乗りこなせない仔馬《こうま》を持っていて、この馬を馴《な》らし調教することができる者には、褒美《ほうび》を与えようというおふれを出していました。騎士はこれを試みることにして、ゆっくりとしかし着々と成果をあげていきました。というのも、この仔馬はなかなかの器量者《きりょうもの》で、神経質で気性《きしょう》が激しくはあったものの、じきに新しい主人になつくようになりました。騎士は、毎日、この王様のペットの仔馬の調教に精を出し、町をぐるっとひとまわりするのでした。そうして乗っている間中、彼は、夢で何度となく逢いながらまだ現実には見られないある美しい顔が、どこかにないものかと探していました。ある日、ある静かな通りをパカパカ通りかかると、その美しい顔を、ある荒れはてたお城の窓に見つけたのです。喜びに溢《あふ》れ、騎士は、この城の住人の名をたずねました。近所の人の話では、そこには数人の捕われの身の姫君が、魔法でそこにとじこめられ、自由の身になれるためのお金を貯めようとして、終日《しゅうじつ》糸を紡《つむ》いでいるのだということでした。騎士は、その娘たちを助けてあげたい気持ちでいっぱいでしたが、なんといっても貧しい彼にできることは、毎日そこを通り、美しい顔を眺めることだけでした。そして外の日の光のもとに、その顔を見ることを願うばかりだったのです。ついに、彼は決心したのです――城にしのびこみ、どうしたら助けてあげられるかきいてみようと。騎士は出かけて行き、扉《とびら》を叩きました。城の大扉が勢いよく開き、見ると――」
「一人のこよなく美しき貴婦人の姿が目に映り、その佳人の≪ああ、とうとう!≫と叫ぶよろこびの声が――」あとを受けたケイトは、フランスの小説の愛読者で、その文体の賛美者なのだ。「≪おお、あれこそかの君!≫ギュスタヴ伯は叫び、あまりのうれしさに魂《たましい》さえとぶ思いに、姫の足もとにひたと伏しました。≪お立ちあそばして≫姫は、大理石ともまごう美しいお手をさしのべられました。≪立てませぬ、いかにして姫をお救いできましょうか、その方法をお話しくださるまでは≫ひざまずいたまま、騎士は断固として言いました。≪おお、わが悲しきさだめは、この城の暴君が亡き者にされるまでは、わが身をここに閉じこめておりまする≫≪して、その悪者はいずこ?≫≪紫の広間に。行き給え、勇ましきお方。わが身を絶望の底から救い給え≫≪おことばのままに、娘よ、勝ちて帰らずば、死をのみ与え給え≫勇ましいことばを残し、騎士はまっしぐらに紫の広間を目指し、やがてその扉を押し、中へ入ろうとすると、とんできたのは――」
「大ギリシア辞典。黒い長衣《ガウン》をまとった老人が彼をめがけて投げつけたのだった」とネッドがつづける。「まともにそれをくらったサー・なんとかは、一瞬目がくらんだものの、たちまち立ち直り、暴虐《ぼうぎゃく》なるその男を窓から投げおとし、額《ひたい》にこぶを作りはしたものの、意気ようようと、姫君のところへ帰ろうとした。と、扉が閉まっているではないか。彼はカーテンを裂き、網《なわ》バシゴを作り、ちょうど中途まで降りた時、運わるく縄がきれ、六十フィート下の濠《ほり》へと頭から落ちてしまった。アヒルのように泳げたので、城のまわりをバチャバチャやっているうちに、二人の屈強な番兵にまもられた小さな扉へと辿《たど》りついたので、騎士は二つの頭をゴツンゴツンとぶつけ、クルミの殻《から》のようにカチンと割ってしまいました。ついでに、その怪力をほんのちょっと使って、その扉を破り、一フィートも埃《ほこり》のつもった石段をのぼって行くと、握りこぶしほどもあるヒキガエルだの、ミス・マーチ、あなたなど気も遠くなるようなクモなどがぞろぞろいました。それをのぼりきったところ、騎士はまた、息もとまり血も凍る光景にぶつかったのです――」
「背のすっと高い、白ずくめの、頭からべールをかぶり、枯木のような手にランプをつかんだ何物かがそこにいたのです」メグがあとを受けた。「それは、墓の中のように暗く冷たい廊下《ろうか》を、騎士を手招きながら、音もなく先に立ってすべるように歩いていくのでした。両側には、甲冑《かっちゅう》をつけた像がうすやみの中に立ち並び、死の静けさがあたりをつつみ、ランプは青く燃える中を、幽霊《ゆうれい》のような姿は、ぬかりなくあとを振りむいては、白いベールごしに、おそろしい目をギロリと光らせるのです。まもなく垂幕《たれまく》のかかった扉の前へ出ると、その奥からは美しい音楽が聞こえてきました。騎士は、思わずそこへとびこもうとしましたが、それより早く、その怪物は彼の衿《えり》くびをとらえてぐっと引きもどし、おそろしい顔つきでその鼻の先にふりまわしたのこそ――」
「嗅《か》ぎタバコ箱」ジョオが墓場の底からのような声を出したのでみんなはドッと笑った。「≪礼を申すぞ≫騎士は丁重に言い、ひとつまみとって嗅ぐと、たてつづけに七度もすごいくしゃみをしたので、あわれ彼の首はすっとんでしまった。≪ハ、ハ、ハ!≫幽霊は笑った。そして、鍵穴《かぎあな》に目をあて、娘たちが命を買うためにせっせと紡《つむ》いでいるのを見とどけると、邪悪の化身《けしん》は、|生け贄《いけにえ》をつまみあげ、大きな錫《すず》の箱に入れました。その中には、すでに、首なしの騎士のむくろが十一もサーディンよろしくびっしりつめこまれているのでした。と、急にいっせいに立ちあがり――」
「角笛《つのぶえ》ダンスを踊りだした」ジョオが息をつこうとする間をねらって、フレッドが割りこんでしまった。「そして、そうして跳っている間に、おんぼろ城は、帆をいっぱいに張った軍艦と化した。≪三角《ジブ》帆あげえ! 中檣帆《トプスル》揚索しぼれ、下手舵《しもてかじ》いっぱい、砲員配置につけェ!≫船長はどなった。ポルトガルの海賊船が、マストに墨のように黒い旗をはためかし、不気昧な姿を現わしたのだ。≪のりこめェ、とことんまでやっつけろ!≫船長の号令一下、激しい戦いが始まった。もちろんイギリス勢の勝ちだった。いつだってそうなのだ」
「そうとは限らないわよ」ジョオが野次《やじ》をいれた。
「海賊の頭領《かしら》をとりこにしてから、そのスクーナー船にこっちの艦《ふね》を横づけにしてみると、甲板《かんぱん》には死体が山をなし、排水口からは血の川が流れ出ていた。≪三日月《みかづき》刀の折れるまで、死すともひくな≫という命令のもとに戦ったのだから。≪水夫長、帆布綱の耳でやるんだ。こいつがきりきり白状しないとあらばな!≫イギリス人の船長は言った。ポルトガル人は煉瓦《れんが》のように押しだまり、はしゃぎきった水夫がわいわいはやす中で、目かくしされたまま、狭い板づたいに舷側を渡りだした。だが、このこすからい奴は、海へとびこんだと思うと、軍艦の底へもぐり、船底に孔《あな》をあけ、艦は帆を張ったまま、見る間に沈んでいった。海の底の底に――」
「こまったわ! どうすればいい?」サリーは叫んだ。
フレッドときたら、自分の愛読書の中の航海用語だの話の断片だのをただごちゃまぜにして自分の持ち場をすませたのだ。
「そうね、そうして、海の底に行きつきますと、美しい人魚が迎えに出てくれましたが、首なし騎士の箱づめを見つけてたいそう悲しみ、その涙で騎士を塩づけにしてしまおうとしました――人魚もやはり女の常で、その箱の秘密を知りたいという好奇心にかられたのです。やがて、潜水夫が一人やってきました。人魚は、≪もしこれを上へ持っていけるなら、この箱をあげます。真珠がいっぱい入っていますよ≫と言いました。人魚は騎士たちをよみがえらせてあげたいとは思うものの、自分ではその重い荷を上げることはできなかったのです。そこで、潜水夫はそれを陸へあげ、開けてみて、真珠など一粒もないのにがっかりしてしまいました。彼はそれを広い人気《ひとけ》のない原に置いていってしまいました。それを見つけたのは――」
「ガチョウの番をしている少女でした。その女の子は、この原っぱに百羽ものよく肥えたガチョウを飼っています」サリーの独創力がつきると、あとをエイミーがひきとった。
「女の子はその騎士たちをたいへん気の毒に思い、一人のおばあさんに、どうしたら助けてあげられるかたずねてみました。≪おまえのガチョウが教えてくれるよ。なんでも知っているんだからね≫おばあさんはいいました。そこで、女の子は、頭がなくなっているけれど、代わりに何をつけたらいいだろうと、ガチョウにたずねました。すると、ガチョウは百羽ぜんぶいちどきに口を開いて叫んだのです」
「キャベツ!」ローリーが見事にあとをひきついだ。「≪そうだったっけ!≫女の子は、自分の畑から、出来のいいのを十二個とってきました。それを首にすげてやると、たちまち騎士は生きかえり、お礼を言うと、大喜びでそれぞれの道へと向かいました。世の中には同じような頭がたくさんあるので、騎士たち自身ももととちがうことに気づかず、世間の人も少しも変だと思いませんでした。ところで、わたしが興味を抱いている例の騎士は、あの美しい顔を探しに帰っていきましたが、娘たちはすでに身代金《みのしろきん》に十分足りるだけ糸を紡《つむ》きあげ、自由の身となって結婚するために城を去り、ただ一人残っているきりだということを知りました。彼は居ても立ってもいられない気持ちになりました。そして、あれからずっと辛苦を共にしてきた例の仔馬《こうま》にうちまたがると、残っている姫が誰かを見に、城めがけて馬をとばしました。垣ごしに覗《のぞ》いてみると、かの愛《いと》しの君が庭で花をつんでいるではありませんか。≪バラを一輪いただけませんか?≫彼は言いました。≪どうぞお入りになっておとりください。わたくしのほうからそちらへまいるわけにはいきませんの。作法にはずれますわ≫蜜《みつ》のように甘い声で姫は言いました。騎士は生け垣をのりこえようとしました。ところが、どうやらそれはのぼればのぼっただけ高くなるようなのです。で、つぎにはそれをくぐり抜けようとしました。すると、みるみる厚くなっていくではありませんか。彼は絶望的になりました。けれど、一枝、一枝辛抱づよく折っていって、やっと小さな穴をつくり、そこから中をのぞいて、訴えかけました。≪どうぞ中へ入れてください、おねがいです!≫けれども、美しい姫君は、何も聞こえないのか、黙ってバラをつむばかりです。騎士は、なんとかして自力で中へ入っていくよりしかたがないようでした。さて、中へ入れたかどうかは、フランクが話してくれます」
「だめですよ。ぼくは入ってないんです。いつだって入らないんです」フランクは、この奇想天外なカップルを、愛の苦境からすくいださねばならない羽目《はめ》になり、あわてて叫んだ。ベスはジョオの背中に張りついているし、グレイスはぐっすり眠っていた。
「では、その気の毒な騎士は、生け垣に首をつっこんだままということですか?」ミスター・ブルックはまだじっと川をみつめたままだ。ボタンホールに挿した野バラをいじりながら。
「きっと姫は騎士に花束をあげて、しばらくして門を開いたんでしょ」ローリーは言い、自分の先生にドングリをぶつけ、ひとり微笑を浮かべている。
「なんてまたバカバカしいお話ができたものだわ! でも練習をつめばもっとおもしろいのができるかもしれないわ。≪真実≫って知ってて?」今の話でみんなが大笑いしたあと、サリーがたずねた。
「ええ、知ってるつもりよ」メグが生真面目《きまじめ》に言った。
「あら、ゲームのことよ、あたしが言ったのは」
「どんなの、それ?」と、フレッド。
「あのね、みんな手を出して適当に重ねるの。それからある数をきめて、順ぐりに手をひっこめていって、その数にあたった人は、みんなから何をきかれても真実を答えることになってるの。おもしろいわよ」
「やってみましょう」ジョオは、新しい実験は何によらず好きなのだ。
年上のミス・ケイト、ミスター・ブルック、ネッドはさすがに仲間に入らなかったが、フレッド、サリー、ジョオ、ローリーは手を重ね、ひっこめていった。数に当たったのは。ローリーだった
「あなたの英雄は誰ですか?」ジョオがきく。
「おじいさまとナポレオン」
「ここにいる中で誰がいちばん美人だと思って?」とサリー。
「マーガレット」
「いちばん好きな人は」フレッドの質問だ。
「ジョオさ、もちろん」
「なんてくだらない質問!」ローリーの平然とした言いかたにみんなが笑いだすと、ジョオはフンといわんばかりに肩をゆすった。
「さ、つぎだ。≪真実≫ってけっこうおもしろいゲームだぜ」フレッドが言う。
「特にあなたにはね」ジョオはしっぺ返しをした。さすがにごく低い声で。
つぎにあたったのはジョオだった。
「あなたのもっともわるいところは」フレッドは、自分の欠点をジョオも持っているかどうか試してやろうという気で言った。
「短気よ」
「いちばんほしい物は何?」ローリーがきく。
「靴|紐《ひも》よ、ブーツの」ローリーがなぜそれをきいたかいち早く察して、ジョオは彼に肩すかしをくわせた。
「ほんとうの答じゃない、それは。もっと心から欲しいと思っているものでなくちゃいけない」
「優《すぐ》れた才能よ。ね、才能をあたしに与えたいと思うでしょ、ローリー?」ジョオは、彼のがっかりした顔を目にしてほくそ笑む。
「男性の徳としていちばん尊敬するのは?」サリーがきいた。
「勇気と正直」
「あ、つぎはぼくだ」フレッドは自分の残った手を見て言った。
「やっつけちまおう」ローリーはジョオに耳うちし、ジョオはうなずいてみせるとすぐさまきいた。
「クロケットの時、ごまかしたでしょ?」
「うん、ま、ほんの少しね」
「よろしい! きみのさっきの話、『海のライオン』からとったんだね」とローリー。
「ま、そうだね」
「あなたは、イギリス国民は、あらゆる点で最高だと思っておいででしょ」サリーがきく。
「思えなかったら、恥じるね、ぼくは」
「根っからのジョン・ブル[イギリス人のこと]だ、彼は。さ、ミス・サリー、残ったのはあなただけだから、いきますよ。ご機嫌をそこねるのを承知でうかがいますが、あなたは自分が男性に愛嬌《あいきょう》をふりまきすぎるとは思いませんか」ローリーは言い、ジョオは平和宣言のサインにフレッドにうなずいてみせた。
「まあ失礼な! もちろんちがうわ、そんなのとは」サリーは、そのことはとは反対にしなをつくってみせた。
「何がいちばんきらい?」
「クモとライス・プディング」
「いちばん好きなものは?」とジョオ。
「ダンスとフランス製の手袋よ」
「ねえ、あたしは、≪真実≫っていうゲームはじつにくだらないと思うわ。ここらで気分を一新するために、もっとまともな≪作家≫ゲームでもしましょうよ」ジョオは言いだした。
ネッド、フランク、それに年下の女の子たちも加わってあそびだし、一方年上の三人は離れてすわり、話をしていた。ミス・ケイトはまたスケッチブックをとりだし、メグは横からのぞきこみ、ミスター・ブルックは草に寝そべっている。手にした本はいっこうに読もうとはしなかったが。
「なんてお上手なんでしょう! 絵が描けたらどんなにいいでしょう」メグの声には羨《うら》やましさと尊敬とがこめられていた。
「お習いになればいいのに。あなたなら才能もおありだし、ぴったりだわ」ミス・ケイトはやさしく言う。
「暇がありませんもの」
「きっと、おかあさまがほかのお稽古《けいこ》ごとをお選びになるのね。うちもそうなの。でも、二、三度個人教授を受けて、才能があることを証明しましたのよ、わたくし。それでやっとおゆるしが出て、今では絵をつづけることを喜んでくれてますわ。あなたも家庭教師に頼んでそうなさったら?」
「ないんです、家庭教師など」
「忘れてましたわ。アメリカでは、お嬢さん方はほとんど学校へいらっしゃるんですってね。学校もとてもごりっぱですってね、父が申してましたわ。あなたは私立においででしょ?」
「学校へは行っていませんわ、ぜんぜん。わたくし自身家庭教師ですもの」
「あら、そうでしたの?」ミス・ケイトはそういったものの、「おやおや、あきれたわね!」と言うのも同然で、その口調は明らかに軽蔑《けいべつ》的だったし、その表情にはメグの顔をあからめさせ、そんなに何もかも言うのではなかったと思わせるような何かがあった。
ミスター・ブルックは目をあげ、口早に言った。「アメリカの若いご婦人方は、その先祖同様、独力独歩ということを尊ぶんです。人に頼らずに自分の生活をたてることが感心なこととして尊敬されるんです」
「そうですとも。若い女性がそうすることは、りっぱだしとてもいいことですわ。イギリスでも、そういうふうにしていらっしゃる、感心な有能な若い方が大勢いらしてよ。ちゃんとした家の娘さんばかりですから育ちもよく教養もおありですから、みなさん貴族の家庭に雇われていらしてよ」そのミス・ケイトの高びしゃな言いかたにメグはプライドを傷つけられ、自分の仕事が前以上にいやに思えてきただけでなく、何か卑《いや》しいもののようにさえ思えてくるのだった。
「例のドイツ語の歌、あれでよかったですか、ミス・マーチ?」ミスター・ブルックが、ぎこちない沈黙を破るようにたずねた。
「ええ、もちろんですわ。とても美しく訳してありましたわ。どなたがしてくださったにしても、とてもありがたく思ってますの」メグのうつむいた顔がさっと輝いた。
「ドイツ語、お読みにならないの?」ミス・ケイトは驚いたような顔をした。
「ええ、あまり。父に習っていましたけど、今ずっと留守ですし、独学では進みも遅くて。発音を直してくれる人がないものですから」
「ここで少しやってごらんなさい。ここにシラーの『マリイ・スチュアルト』がありますし、教えるのが大好きな教師もお誂《あつら》えむきにいることだから」ミスター・ブルックは手にした本をメグの膝におき、誘うようにほほえんだ。
「こんなむつかしいの、勇気が出ませんわ」メグは、感謝はしたものの、教養ある若い女性の前なのでしりごみした。
「じゃ、ほんの少し読みますわ、あなたの気が楽になるように」ミス・ケイトは、その中でもいちばん美しいくだりを、完全無欠に、だが、およそ無味乾燥な調子で読みあげた。
ミスター・ブルックは、ケイトが本をメグに返しても、批評らしいことは何も言わなかった。メグは他意なく言った。
「これ、詩だとばかり思ってましたけど」
「詩の部分もあります。ここを読んでみてごらんなさい」
ミスター・ブルックは、マリイの詠嘆のページを開き、その口もとにかわった微笑を浮かべた。
メグは、新しい先生が鉛筆がわりに使う長い草の葉の指すあとを、従順に辿《たど》りながらゆっくりおそるおそる読んでいった。彼女の音楽的な声のやわらかい抑揚《よくよう》は、そのむつかしいことばを無意識のうちに詩にしていくのだった。緑の導き手はページをくだって行き、メグはいつかその悲しい場面の美しさに聴き手の存在を忘れ、幸《こう》うすい女王のことばに悲劇のいろを含ませ、まるで一人きりででもあるようにのびのびと読みすすんだ。その時、彼女が彼の茶色の瞳に気づいたなら、たぶん途中でやめただろうが、一度も目をあげなかったおかげで、この授業は無事に終了したというものだった。
「上出来です!」メグが休むと、ミスター・ブルックは言った。たくさんのまちがいなど無視し、ほんとうに、教えるのが大好きだという顔をして。
ミス・ケイトは柄《え》つき眼鏡ごしに、目の前の情景を観察すると、スケッチブックを閉じ、わざとらしいお世辞《せじ》を言った。
「いいアクセントをしていらしてよ、きっとすぐに読み上手におなりでしょう。お習いになるといいわ。ドイツ語は、教師の方にはとても役に立ちますもの。わたくし、グレイスをみてやらなくては、あばれまわっているようですから」そして、ゆっくりとその場を歩き去りながら、ミス・ケイトは肩をすくめ、ひとりごとを言った。「あたし、家庭教師のおつきにきたんじゃないわ、そりゃあ、若くて美人にはちがいないけど。ヤンキーって、まったく変な連中! 朱に交わればっていうけれど、ローリー、大丈夫かしら」
「わたくし、イギリス人は、女性の家庭教師などは鼻であしらって、アメリカでのように見ないってこと忘れてましたわ」メグはケイトの後姿を見やりながら、晴れない顔つきをしている。
「いや、男性も同じで、やりにくいですよ、あちらは。悲しいことながら身をもって知ってますがね。われわれのような働く者にとっては、アメリカは最高の場所ですよ、ミス・マーガレット」
ミスター・ブルックがいかにも満足そうなうれしげな顔をしているので、メグは、わが身の不運をかこったことが恥ずかしくなった。
「じゃ、そこの住人でよかったわ。わたくし、自分の仕事があまり好きじゃありません。でも、結局は、何かの形で相当な満足感を得られるんですから、不平は言わないことにしますわ。ただ、あなたのように、教えることが好きになれたらと思います」
「ローリーが生徒なら、あなただってきっと好きにおなりでしょうよ。来年でもうお別れかと思うと残念ですね」ミスター・ブルックは、せっせと芝土に穴をこしらえている。
「大学へ行くんでしょう?」メグの唇はこの質問をたずねていたが、その瞳は、「で、あなたはどうなさるの?」と言っている。
「そうです。もうとっくに行っててもいいくらいなんです。準備はできてますからね。そしてローリーが行ってしまったら、わたしは兵隊になります。義務がありますから」
「それはいいこと!」メグは思わず声を高める。「若い方はみんな出征なさりたいのね。あとに残る母親や姉妹にとってはつらいことですけれど」悲しみをこめてメグは言いそえた。
「わたしには母も姉妹もありません。友人もほとんどいませんし。死のうと生きようと誰も気にもしませんから」ミスター・ブルックは苦《にが》っぽく言いながらしおれたバラを無意識に今掘った穴へ埋め、小さな墓のように土を盛った。
「ローリーだってローリーのおじいさまだって心配なさるでしょうし、もしもお怪我でもなさったら、うちでもみんなどんなに嘆くかわかりませんわ」メグは心をこめて言う。
「ありがとう。うれしいおことばです」ミスター・ブルックは、また朗らかな表情をとりもどし、そう言いかけたが、折あしく、ネッドが例の老馬にまたがり、若いご婦人方に腕前を見せようというわけで、のっそりと現われたので、その日はそれきり静かな時が与えられなかった。
「馬に乗るの、とっても好きでしょ?」グレイスはエイミーにたずねる。ネッドの先導で、みんなで原を一周するレースのあと、二人が並んで立って休んでいる時だった。
「大好きなの。メグねえさまは、パパがまだお金持ちだったころは、よくお乗りになったんですってよ、でも今は家に馬をかってないの。エレン・ツリーのほかには」エイミーは笑いだして言いたす。
「話してちょうだいな、そのエレン・ツリーのこと。ロバなの、それ?」グレイスは俄然《がぜん》興味をもった。
「あのね、ジョオねえさまったら、馬きちがいなの、あたしだってそうだけれど。でも、家には古い女乗りの鞍《くら》があるだけで、馬がいないのよ。ところが、うちの庭にはリンゴの木があって、うまい具合に低い枝が出てるの、で、ジョオねえさまがそこに鞍をのせて、先のほうの曲がった所へ手綱《たづな》をかけて、いつでも乗りたい時は、エレン・ツリーにまたがってハイハイドウドウよ」
「まあおもしろい!」グレイスも笑いだす。「あたしはうちに仔馬を一頭もってるわ。たいてい毎日、フレッドにいさまとケイトねえさまと公園に乗っていくのよ。たのしいわ、とても、だってお友達も行くし、ロウ[ロンドンのハイドパークの乗馬道]はりっぱな方でいっぱいなのよ」
「まあ、なんてすてきなんでしょう! あたしもいまに外国に行ってみたいわ。でも、なるべくならロウよりローマに行きたいわ」エイミーはロウが何か皆目《かいもく》判りもしないくせに、絶対にその意味をきくような子ではなかった。
フランクは、二人の少女のすぐうしろにすわりその話を聞いていたが、いらいらしたように松葉杖を横へ投げだした。活発な若者たちが、愉快な運動ゲームをつぎつぎとしているのをじっと見ていたあげくだった。すぐそばで、≪作家≫あそびのカードを集めていたベスが目をあげ、持ちまえのはにかんだ、だがやさしい様子で声をかけた。
「お疲れになったのね。何かお役にたてて?」
「ぼくと話してくださいませんか。ひとりきりでこうしているのは、じつに退屈なんです」
内気なベスにとって、これはラテン語の演説をしてくれと彼に言われるより、はるかに難題だった。けれども、逃げこむ場所もなかったし、ジョオの背中に隠れようにも姿が見えず、それに、この気のどくな少年は、いかにも人恋しげにみつめているので、ベスは勇気をだしてやってみようと決心した。
「どんなことをお話しになりたくて?」カードをかき集め、まとめて紐《ひも》をかけようとしたとたんにまた半分くらいパラパラ落としながらも、ベスは会話の糸口をつけた。
「そうだな、クリケットとかボート漕《こ》ぎとか狩りなんかの話」フランクは、まだ自分の体力に適したあそびを知らないのだ。
「あら、どうしたらいいかしら。あたしだって、何も知らないのに」ベスは思い、どぎまぎしたせいで、この少年の足の悪いことをつい忘れ、フランクに話をさせようと思って言ってしまった。「あたし、狩りなんか見たこともないんです。でも、あなたは何もかも知っていらっしゃるんでしょ」
「一度だけ狩りをしたことがあります。でも、もう二度とできないんです。横木《バー》が五段もある憎たらしい門《ゲイト》をとびこえる時に怪我《けが》をしたもので。馬も猟犬もぼくには縁《えん》がないんです。もう」フランクは言い、溜息をついた。ベスは、うっかりしてヘマをしでかした自分につくづく愛想がつきたのだ。
「イギリスのシカは、アメリカのみにくい野牛より、ずっときれいですわ」ベスは、この急場からぬけだそうと、遠く平原へと目をやり話題を変えた。ジョオが大喜びで読んだ男の子向きの本を一冊、ともかく読んでよかったと思う。
野牛をもちだしたのは大成功で、フランクは気持ちも静まり興味をもったようだった。相手を楽しませようという熱意にわれを忘れ、いつもこわがっている男の子の一人と平気で話をしているという奇想天外な光景に、必ず護《まも》ってくれと頼まれていた姉たちが驚いたり喜んだりしているのに、ベスはまるで気がつかなかった。
「まあ、なんていい子だこと! フランクに同情して、だからやさしくしてるのね」ジョオはクロケットのグランドから、目を細くして妹を見ている。
「だからいつも言うでしょ、ベスは小さな聖者だって」メグは、当然のことじゃないか、というようにつけ加える。
「フランクがあんなに笑ってるの、もう長いこと聞いたことないわ」グレイスはエイミーに言った。二人はすわりこんでお人形のことをあれこれ話し合い、ドングリの皿でティー・セットを製作中だった。
「ベスねえさまはね、その気がある時はとても|気むずかしい《ファスティディアス》の」エイミーは、ベスの成功を喜んで言ったつもりだが、ファスティディアスは≪|人を魅きつける《ファシネイティング》≫の間違いだった。だが、グレイスはどうせどちらも知りはしなかったし、ファスティディアスもけっこうすてきに聞こえたので、大いに感銘を受けたのだった。
即席サーカス、キツネとガチョウごっこ、和気あいあいのクロケットのゲームなどで午後も終わった。日暮れ時になると、テントはたたまれ、荷物は籠につめられ、クロケットの小門《ウイケット》はひき抜かれ、ボートは人間と荷物で満員になり、一行は声をはりあげて歌いながら川をくだっていった。ネッドは妙にセンチメンタルになり、悲しい|繰り返し《リフレイン》をもつセレナーデをうたいだした――
われはひとり
ただひとり、ああ!
そして、さらに
きみわかき心もち
われまたわかき心もて
なぜに離れてかく思う
というくだりにくると、いかにも思いいれたっぷりな表情でメグを見るので、メグは声をあげて笑いだし、彼の思わせぶりな歌も台なしだった。
「よくまあそんなにひどい仕打ちができますね」ほかの連中の元気のいいコーラスにかくれて彼はそっとささやいた。「一日中あのコチコチのイギリス娘にくっついてて、今は今で、ぼくの鼻柱をゴツンだからな」
「そんな気はなかったんですけど。あんまりおかしな顔をなさったので、つい笑ったんですわ」メグは、彼の恨みの最初の部分だけをうまくやりすごした。じつのところ、メグは一日中彼を避けていたのだった。モファット邸のパーティとそのあとの噂話を思いだしていたからだった。
ネッドは気分をそこね、慰めてもらおうとサリーのほうに向いて、すねたように言った。「あの人はおよそ愛嬌《あいきょう》がないんだね」
「そりゃあそうよ。でも|いい《ディヤー》ひとよ」サリーは、それに同意しながらも自分の友達の肩をもつのだった。
「いずれにしても、手負いの|シカ《ディヤー》じゃないね」ネッドは上手に洒落《しゃ》れたつもりだが、ごく若い青年の常で、あまり気がきいた洒落ではなかった。
その日の朝、最初に集まった芝生で、行楽を共にしたこの一行はそれぞれおわかれのことばを交わした。ヴォーン一家はカナダヘ発《た》つことになっているのだ。庭から自分の家へと帰って行く四姉妹を見送りながら、ミス・ケイトは今までのもったいぶりを忘れたように言うのだった。
「奥ゆかしいところはないにしても、アメリカの娘さんもおつきあいしてみればみんないい人だわ」
「そうですとも」ミスター・ブルックは言った。
[#改ページ]
第十三章 空に描いた城
ローリーは、ハンモックにゆったりとからだをあずけ、ゆらゆらとゆすぶりながらぼんやりしていた。まだ暑さの残る九月の午後だった。隣家のご連中はどうしているだろうと思うのだが、わざわざ行ってみるのも面倒くさいというところだ。それというのも、ローリーは、目下ご機嫌ななめなのだ。朝からろくなことがないし、何もかもうまくいかなかった。もう一度初めからやり直したいくらいなのだ。
だいたい、この暑さが彼を無気力にしたとみえ、勉強はずるけ、ミスター・ブルックを、もうこれ以上我慢できないというところまでこまらせ、午後の半分もピアノ練習についやして祖父の機嫌をわるくし、自分の犬が一匹狂犬になりそうだなどと意地わるを言って女中たちがヒステリーを起こすほどこわがらせ、最後には、馬の面倒をよくみなかったなどと、根も葉もないいいがかりを種に、馬丁とやりあったあげく、ハンモックにふんぞり返って、ありとあらゆる物の愚劣《ぐれつ》きわまることにむかっ腹を立てていたのだが、このすばらしい初秋の日の穏やかな空気に、いつの間にかわれにもなくすっかりなごやかな気分にさせられてしまっていたのだ。すぐ上に枝を張っているトチノキの葉蔭の縁にじっと目を据えたまま、ローリーはつぎからつぎへと夢想にふけっていた。そして、ちょうど今、世界一周の船旅で、大洋をゆく船で右へ左へと揺られているところだったのだが、ふと起こった人声に、一瞬にして地上につれもどされるということになった。ハンモックの網目からのぞくと、マーチ姉妹が、何やら探検にでも出かけるようにものものしく、家から出てくるのが目に入った。
「これはまたどういうことだ?」眠い目を無理にあけて、ローリーはもっとよく事態をみきわめようとした。この隣人たちのいでたちがどうも常ならぬものに思えたのだ。四人がそれぞれ、大型のつばがひらひらする帽子をかぶり、茶の麻袋を肩にかけ、手には長い杖《つえ》をもっている。メグはクッション、ジョオは本、ベスは籠、エイミーは|紙挾み《ポートフォリオ》をかかえている。一行はしずかに庭を抜け、裏手の黒い木戸から外へ出ると、この家と川との間にある丘をのぼりだした。
「つめたいぞ!」ローリーは思うのだ。「ピクニックに行くっていうのに、ぼくを誘いもしないなんて。ボートには乗れないよ、でも、鍵がないからな。忘れたのかもしれない。持ってってやるとするか、そしてどういうことだか見てこよう」
半ダースも帽子があるのに、ただ一つを探すのに大分手間どった。つぎは鍵さがしだったが、あげくのはてにそれはポケットの中にちゃんと納まっていたという始末で、いよいよローリーが垣根をとび越えて追いかけにかかった時には、姉妹の姿はとうに見えなくなっていた。ボート小屋まで最短コースで駆けつけたローリーは、一行が現われるのを先まわりして待ったつもりなのが、誰の姿も見えない。で、彼は丘にのぼり、あたりを偵察した。一か所だけ松がこんもり丘を覆っている場所があり、その緑の地帯の真中あたりから、松のひそやかな吐息ともうっとりねむたげな虫の声ともちがう、ずっと澄んだ明るい音が聞こえてくる。
「ちょっとした風景画だ!」繁みをかきわけてのぞきながらローリーは思うのだ。すっかり眠気もさめ、もういつもの機嫌のいい顔になっていた。
ほんとうにそれはかわいい小さな絵だった。姉妹は涼しい木蔭に思い思いにすわり、木洩《こも》れ日がチラチラ美しいもようを描き、かぐわしい風が娘たちのやわらかい髪毛をゆさぶり、ほてった頬を冷やし、そして、林の小さな住人たちは、この一行とは長いつきあいだから遠慮はいらぬとでもいうように、いそいそとそれぞれの生活に没頭していた。メグはクッションにすわり、その白い手をたおやかに動かして縫物をしている。あたりの緑の中で、そのピンクの服をつけた姿はバラの花のように新鮮で美しかった。ベスは、すぐ傍のツガの木の下にびっしり重なりあっている松ボックリの中から形のいいのをよりわけている。これでかわいい細工物をつくるのだ。ジョオは朗読をしながら、手は忙しく編物をしているし、エイミーは、シダのひとむらを写生していた。
この光景をじっと見つめていた少年の顔をさっと影がよぎった。招かれざる客の自分は、黙って立ち去るべきなのだろうかと思ったのだ。だが、自分の家はあまりにさびしく、この林の静かなつどいこそ、やすらぎを求める魂にとっては、もっとも魅かれる要素をもっているのでつい立ち去りかねていた。そのまま身動きひとつせずローリーがそこに立ちつくしている傍の松の幹を一匹のリスが、収穫《とりいれ》時の忙しさにまぎれてかけおりてきて、彼の姿に急に気がつきあわててとびさり、けしからぬと言わんばかりにするどい声をあげたので、ベスが何事かと顔をあげ、カバの木の背後《うしろ》の悲しげな顔をみつけ、励ますようにほほえみかけて手招いた。
「そこへ行ってもいいんですか? お邪魔じゃないかな!」ローリーはゆっくり近づきながらたずねた。
メグはこまったわねといったふうに眉をあげてみせたが、ジョオは、そんなことないわよ、と言わんばかりにメグにしかめつらをしてみせ、すぐに応じた。「どうぞ、どうぞ。お誘いすればよかったんでしょうけど、でも、こんな女の子のあそびなんかいやだろうと思って」
「きみたちのあそびなら、ぼくはなんでも好きなの知ってるでしょ。でも、メグがぼくを仲間にいれるのがおいやなら、帰りますけどね」
「あたしだって反対じゃないわ、あなたが何かすることがあるのなら。ここではただぶらぶらしていてはいけない規則なのよ」メグはまじめにけれど愛想よく言った。
「感謝します。ほんのちょっとここにいさせてくださったら、なんでもします。サハラ砂漠みたいに退屈なんだから、家ときたら。何をしたらいいかな、裁縫? 読書? 松ボックリ? 絵を描く? それとも全部一度にやりますかな? どうぞどしどし難題を。なんでも引き受けます」ローリーは、見る人の目にじつにこころよいすなおな表情を浮かべ、腰をおろした。
「この踵《かかと》のとこをまとめちまうから、この本を読んでしまってよ」ジョオが手にした本を渡した。
「ハイ、かしこまりました」この従順な答を皮切りに、ローリーは≪働き蜂のつどい≫入会の許可を得たことに対しての感謝の念を表わそうと、最上をつくすのだった。
その物語は長いものではなく、すぐに読みあげてしまったが、そのご褒美《ほうび》として、ローリーは二、三の質問を思いきってしてみた。
「あの、おそれいりますが、このまことに教育的かつ、まことに魅力にみちた会は、新たに設けられたものかどうかうかがわしていただけますか」
「話してあげる?」メグは妹たちにきく。
「きっと笑うわ」エイミーは用心ぶかい。
「笑ったっていいわよ」とジョオ。
「きっと気にいると思うけど」ベスも口をそえた。
「もちろん気にいりますとも。誓う、決して笑わないって。早く話してくれよ、ジョオ、そんなにびくびくしないで」
「誰がびくびくするもんですか、あなたになど! あのね、あたしたち、『天路歴程』ごっこを昔よくしたのよ。それを、この冬から夏までずっと、あそびじゃなくて真剣《しんけん》に続けてきているの」
「うん、知ってる」ローリーはえらそうにうなずいてみせた。
「誰にきいたの?」ジョオは詰問した。
「妖精さ」
「うそ、あたしよ。いつか、みんな留守だった晩、ローリーがさびしそうだったので、楽しくしてあげようと思って話したのよ。とても喜んでたのよ、ローリー、だから叱らないで」ベスはびくびくしている。
「ベスったら、絶対に秘密がまもれないんだから。ま、いいさ、これで手間がはぶけるものね」
「で、どうしたの、先を話して」ジョオがちょっとつむじを曲げて、編む手を忙しく動かすばかりなのを目にして、ローリーはうながした。
「なんだ、この新しいプランについては何も話さなかったの? あのね、あたしたち、夏休みをむだにしないように、何か一つの仕事をつくって、意志強固にそれをやろうっていうことにして、そのとおり守ってきたの。お休みはもうすぐ終わりだけど、予定したことはちゃんと仕上がったし、あたしたち、のらくらしていなかったことをとても喜んでるの」
「そうさ、そうでなけりゃいけないな」ローリーは、自分の怠惰《たいだ》な暮らしかたを反省した。
「おかあさまは、あたしたちができるだけ戸外にいるのがいいと思っておいでなの。だから、ここまで仕事も持ってきて、楽しくすごすのよ。これはおもしろ半分なんだけど、この袋にいろんなものを入れて、古い帽子をかぶって、丘をのぼるのには杖をついて、ずっと前にやってたように、お遍路さんごっこをするの。この丘を喜びの山って呼んでるのよ、だって、ここは見晴らしがよくて、いつか住むことを望んでいる国も見えるって趣向なんだわ」
ジョオが指さしてみせるのを、ローリーはからだを起こしてよく観察した。その林の切れめから、キラキラときらめいている青い川の流れ越しに、川向こうの牧場、さらにその先には大都市の郊外地の果てに、空へとのぼっていく緑の丘陵がつづいているのが見えている。太陽は低く、空は秋の日没の華麗な輝きに照り映えている。丘陵には、金色とスミレ色の雲がかかり、白銀の峰々は、炎のように赤い光の海にくっきりと聳《そび》え、「天の都」の空へとのびている尖塔《せんとう》そのままに光り輝いているのだった。
「美しいなあ!」ローリーはひっそりつぶやく。美しいものはなんでも、すぐに、敏感に感じとることができるのだ。
「よくこうなのよ。あたしたち、こうしてみてるのが大好き、だって、いつもちがってて、いつでもとてもすてきなんですもの」エイミーは、これが描けたらどんなにいいだろうと思っているのだ。
「ジョオは、いつも、いつか住むことができるといいと思っている国のことを話すわ――豚だとか鶏だとか乾草つくりだとかいったほんとうの田舎のことなの、でも。たしかに楽しいだろうとは思うけど、でも、あたしは、あそこに見えるすてきな国がほんとうにあって、いつかはそこへ行けるんだったらどんなにいいだろうと思うの」ベスはしみじみと言う。
「あそこよりもっとすてきなお国があるわ。あたしたちがそれに価いするひとになれたら、みんな必ず行けるのよ、いずれは」メグが美しい声で答えた。
「いつまで待ったらいいのかしら、長いわ、待つのは、それにそんなりっぱなひとになるのはとてもむつかしいし。あたし、あのツバメみたいにすぐにも飛んでいきたい、そして、あのすばらしいご門に入りたい」
「あなたは入れるわよ、ベス、遅かれ早かれ。心配無用よ」とジョオ。「あたしよ、問題なのは――努力して、働いて、よじのぼって、また待って、そのあげく、とうとう入れなかったなんてことになりかねないものね」
「ぼくがおつれになりますよ、それで少しは気が楽になるなら。ぼくは、きみたちのいう天の都が見える所へ行きつくまでにだって、さぞ長い旅をしなけりゃならないだろうからな。着くのが遅れたら、何かいい言いわけをしといてくれるね、ベス」
ローリーの顔に浮かんだ何かが、彼の小さな友達をまごつかせた。だが、彼女は、そのおだやかな目を絶え間なく変わってゆく雲に向けたまま、あかるい声で言った。「もしもほんとうに行きたければ、そして一生努力をつづけてさえいたら、誰でもきっと入れると思うの。だって、あの扉には錠などはないんでしょうし、門には番兵だっていやしないでしょうし。あたし、いつも想像するけれど、きっと本の中の絵そのままに、後光《ごこう》に輝く方々が、川から這いあがってくるあわれなクリスチャンに手をさしのべて迎えていらっしゃるところだと思うの」
「あたしたちが空に描いているお城が全部本物になって、そこに住めるようになったらさぞおもしろいだろうな」少し間をおいてからジョオが言った。
「ぼくはものすごくたくさん考えたから、どれにしたらいいか決めるのが大変だ」ローリーは腹這いになって、さっきの裏切り者のリスに松ボックリをぶつけながら言うのだ。
「いちばんお気にいりのを選ばなけりゃ。どういうの?」とメグ。
「ぼくのを教えたら、きみも教えてくれる?」
「ええ、もしみんなも言うのなら」
「話すわよ。さ、ローリー、どうぞ」
「心ゆくまで世界中を見て歩いたら、ドイツに落ちつくんだ。そして、やりたいだけ音楽をやる。ぼく自身も有名な音楽家になって、ぼくの音楽を聴きに世界中の人が押しかけてくる。そして、ぼくは、お金だの仕事だのなんてものに絶対にかかりあわずに、人生を楽しみ、自分の好きなことのために生きるんだ。これがいちばん気にいりのお城。きみのは、メグ?」
メグは、自分の城のことを話すのがどうやらむつかしいとみえ、居もしないブヨでも追うように、手にしたシダの葉ですぐ目の前を払いなどしながら、ゆっくり話を始めた。「あたしは、きれいな家がほしいわ、贅沢な品がたくさんある――上等な食べもの、美しい衣類、りっぱな家具、感じのいい人たち、そしてお金も山のように。あたしはそこの女主人で、したいようにして暮らすの。奉公人も大勢つかって。自分では何ひとつ手をくださないでいいようにね。どんなにすばらしいでしょ! あたしもただなまけてはいないで、善い行ないをして、みんながあたしを大好きになるようにするんだわ」
「あなたの空中の城にはご主人はないの」ローリーが茶目っけをだしてきいた。
「あたし感じのいい人たちって言っただけよ」メグは、誰にも顔をみられないように、かがみこんでていねいに靴の紐を結びなおした。
「どうして、すばらしい賢明ないい旦那さまと天使のような子どもたちも、って言わないの?それ抜きじゃ、せっかくのお城も完全じゃないことちゃんと知ってるくせに」まだ胸のときめくような空想も知らず、本で読む以外はロマンスなどというものを鼻であしらうジョオは、容赦《ようしゃ》なく言ってのけた。
「ジョオのには、馬にインク壺に小説なんかしかないんでしょ」メグはプンとして答えた。
「そうよ、いいでしょ? あたしは、アラビヤ馬でいっぱいの厩《うまや》と、本がびっしりつまった部屋がいくつかあればいいんだ。そして、あたし、魔法のインク壺をつかって小説を書くのよ。ローリーの音楽と同じくらい有名になるようにね。あたしは、でも、そのお城に入る前に、何かすてきな事をやりたいんだ――何か英雄的な、すばらしいこと、あたしが死んだあともみんなが忘れないでいてくれるようなこと。それが何かはまだわからないの、でも、始終気をつけてるわよ、いつか必ずもうみんなをびっくりさせてあげる。たぶん本を書くと思うな、そしてお金を儲けて有名になるの。これがあたしにいちばん向いていることだな。だからあたしのいちばんお気にいりの夢だわ」
「あたしのは、おとうさまとおかあさまといっしょに静かに家で暮らして、家族の世話のお手伝いをすることだわ」ベスは満足しきっているように言った。
「ほかに何も望みはないの?」ローリーがきいた。
「あの小さなピアノがきてから、ほしいものは何もないの。ただみんな丈夫で、いつまでもいっしょにいられたらと思うの。それだけ」
「あたしはとってもたくさんあるの、でも、いちばんの望みは、絵描きさんになること、そしてローマに行くのよ。そこですばらしい絵を描いて、世界中でいちばん上手な絵描きさんになることだわ」これがエイミーのこれでもごく遠慮した希望だった。
「みんなそろって大金持ちだな。ベスは別だけど、あとは誰も彼もお金持ちになり有名になり、いろんな点で大いにはでにやろうっていうんだものな。さて、その望みを実現できる人があるかどうかな、この中に」ローリーは瞑想《めいそう》的な仔牛のように、草を噛《か》み噛み言った。
「あたしは、空中の城への鍵だけは手にいれたんだ。でも、果たして扉《とびら》が開くかどうかはこれからのお楽しみってとこ」ジョオはもったいぶって言った。仔細《しさい》ありげな顔つきだ。
「ぼくも鍵は持ってるんだ。でも、試してみることはゆるされないんだ。大学なんて、ブタにでも食われろってんだ!」ローリーはいらいらしたように吐息をもらし、こうつぶやいた。
「あたしのはこれ」エイミーは鉛筆をふりまわす。
「あたしには鍵がないわ」メグはしょんぼりしている。
「いいえ、ありますよ」ローリーがすぐに応じる。
「どこに?」
「あなたのそのお顔」
「冗談はよして。こんなもの、なんの役にも立ちゃしないわ」
「ま、待っててごらんなさい、それがあなたにとって大切なものを持ってくるかこないか」ローリーは、自分が知っている気になっているすてきな小さな秘密を思い浮かべて、笑いながら答えた。
メグはシダの葉に隠れて頬を染めはしたが、何もたずねはしないで、川向こうへと目をやった――その目には、いつかミスター・ブルックが騎士の話をしていた時に浮かべていたのと同じような、何かを待ち、何かに憧《あこが》れるようないろが浮かんでいた。
「もしあたしたちが今から十年たっても生きていたら、みんな集まって、この中で何人が望みをかなえられたか、それとも今とくらべてどのくらいそれに近づけたか見ましょうよ」ジョオは、いつものことだが、プラン作りが大好きだ。
「あらたいへん! あたしはいったいいくつになるの――二十七よ!」やっと十七になったばかりなのに、もういっぱしの大人のつもりのメグは叫ぶ。
「あなたとあたしは二十六よ、テディー、ベスは二十四、エイミーは二十二ね。まあ、もうご年輩の集《つど》いってとこじゃないの!」とジョオ。
「そのころまでには、何か誇るに足りることをしていたいもんだけど、ぼくはこんなぐうたらだからな、のらくらすごしちまうんじゃないかと心配だよ、ジョオ」
「あなたにはきっかけってものが必要なんだって、おかあさまがおっしゃったわ。それさえあれば、きっとすばらしく勉強家になる人だって」
「ほんと? ありがとう! やるよ、ぼく、チャンスさえあれば!」急にいきいきとして、ローリーは起き直った。「ぼくは、おじいさまのお気にいることで満足すべきなんだ、そして、そう努力はしてるさ。でも、それは、ぼくの才能を押しつぶすことなんだよ、ね、だからとてもつらくなってくる。おじいさまは、ぼくにインド貿易の仕事をさせたいんだ、おじいさまが前にしてたように。でも、それくらいなら銃殺されたほうが増しなんだ、ぼくは。インド茶だ絹だ香辛料だのって、おじいさまの古船が運んでくるろくでもないものなんか大嫌いだ。だからぼくの代になったら商売があがったりになったっていっこうに平気さ。大学へ行くだけでおじいさまは満足してくれていいはずだ。だって四年も譲歩《じょうほ》するんだから、おじいさまだってそれに免じて商売はかんべんしてくれてもいいのに。ところが、おじいさまは頑固だから、こうと決めたら最後、おじいさまのやってきたとおりぼくもしなければならないってことなんだ。でなけりゃ、家をとびだして、したいようにするか。おとうさまみたいに。誰かあの老人といっしょに暮らしてくれる人がありさえしたら、ぼくはあしたにでもそうするんだけど」
ローリーは興奮してしゃべりまくり、ほんのちょっとした弾《はず》みでもつけば、今日にしたおどし文句をすぐにでも実行しかねない様子だった。彼は目ざましく成長してきているので、いつもはのんびりしているようにみえても、服従への青年期特有の憎悪《ぞうお》、自分自身の力で世の中を渡っていきたい、青年らしいやむにやまれぬあこがれをすでに持ち始めているのだった。
「あたしの助言はこうよ、あなたのうちの船のどれかに乗って家出して、自力でやりたいことをやるまで帰ってこなければいいのよ」こうした大胆な計画を考えてその想像力がパッと燃えあがり、また彼女の言うところのテディのなやみを耳にして同情心をかきたてられてジョオは言った。
「そんなのだめだわ、ジョオ。そういう言いかたはいけないし、ローリーもこんなわるい助言に耳を貸さないでね。あなたは、やはり、おじいさまが望んでいらっしゃるようにしたほうがいいのよ」メグはまるで母親のように親身な言いかたをする。「大学へ入っていっしょうけんめいやるのよ。あなたがおじいさまを喜ばせるように努めているのがおわかりになれば、きっと無理もおっしゃらなくなるし、あなたの意見もきいてくださるわ。あなたもわかっていらっしゃるように、おじいさまのそばにいて、おじいさまを愛してあげる方は、あなた以外に誰もないんですものね。もし、あなたがおゆるしなしに家を出て、あの方を一人置いていったりしたら、あとで必ず、自分をゆるせない時がくるわ。さ、ふさぎ虫やいらいら虫は追いだして、自分のつとめをお果たしなさい。そうすれば、きっとその報いがあるわ、あのミスター・ブルックのように、人に敬まわれ慕われるという」
「何を知っておいでなの、先生のこと」ローリーは、常になく自分の悩みをぶちまけてしまったあと、メグの親切な忠告には感謝したものの、お説教は有難くなかったので、これで話題を自分からそらすことができるとほっとしてたずねた。
「おじいさまがあの方のことについて家で話してくださったことだけよ――あの方のおかあさまながお亡くなりになるまでそれはよくお尽しになったこと、そのおかあさまを残していくのにしのびなくて、とてもいい方の家庭教師になって外国へ行くチャンスものがしておしまいになったこと。そして、おかあさまを看護したおばあさんに、今でもつづけてお金を送っていらっしゃる。それも、誰にも言わず、ただ、いつもあの方の能力のかぎり充分に、やさしく、変わらぬ善行をつづけておいでだっていうこと」
「そうなのか、すごいいい人なんだな!」メグが自分の話に感激して上気した頬をしてふっと黙ると、ローリーはほんとうにうれしそうに言った。「おじいさまらしいな、先生にわからせないようにいろんなことを探りだして、よその人にいいことをみんな話したりするのは――誰もが好きになるものね。先生は、きみたちのおかあさまがなぜあんなにやさしくしてくださるのか、不思議がってたんだ。ぼくといっしょに招んでくださったり、心から親切にもてなしてくださるのを。ただ、お宅のおかあさまは一点非のうちどころのないりっぱな方だと思って、毎日そればかり言ってて、きみたちのこともそれぞれ絶賛するんだ。ま、今に見てて。もしもぼくの望みが達せられたら、ミスター・ブルックにはうんと恩返しするつもりだから」
「今すぐ少しでも始めたら、あんまり手を焼かせないで」メグは手厳しく言った。
「手を焼かしてるなんて、なぜおわかりなんです?」
「前をお通りになる時、あの方の表情でわかるのよ。あなたが優秀だった時は、満ちたりたお顔で足もとも軽いの。でも、あなたが手を焼かした時は、思いつめたように、足の運びだってのろくて、もう一度もどって、もっと上手にやり直したいと思っておいでみたいなんだわ」
「へえェ、なんてことだ! ぼくの勉強の出来の良し悪しが、ミスター・ブルックの顔に書いてあるとおっしゃる! お宅の窓の下を通る時、先生が頭をさげてにっこりしてくのは知ってたけど、まさか電信の仕掛けがあるとは知らなかった」
「そんな意味じゃないわ。おこらないでよ。おねがいだから、あたしがこんなこと言ったなんて、あの方に言わないでね。ただ、あなたの勉強の進みかたを気にかけていることを知ってほしかっただけよ。それに、この話はここだけのことにしてほしいわ、そのつもりで言ったんですもの」自分の不注意な話から、とんでもないことになりはしないかと急に心配になりメグは叫んだ。
「くだらないおしゃべりなんかする人間じゃありませんよ、ぼくは」ローリーは、ジョオが言うところのおたかくとまった態度になった。時によって、こんな様子をすることがあるのだ。「ただ、先生が晴雨計なら、こっちも気をつけて上天気の報告がでるようにしなけりゃならないというまでのことでね」
「そんなに気をわるくしないでちょうだい。あたしはお説教したりくだらないおしゃべりをしたりするつもりはなかったのよ。ただ、ジョオが無責任にあなたの気持ちをあおって、そのことでいつか後悔なさるようなことになりはしないかと、心配だったの。あなたは、いつでも、あたしたちにそりゃあやさしくしてくださるから、あたしたちも兄弟みたいな気がしているもので、思ったままのことを言うんだわ、つい。ごめんなさいね。わるぎがあったんじゃないのよ」そして、メグは、おずおずと、けれど愛情をこめて、仲直りの握手をするために手をさしだした。
つまらぬことでカッとなったのを恥ずかしくなって、ローリーはそのやさしい小さな手をぎゅっと握り、素直に言った。「ぼくがわるかったんです。何だかむしゃくしゃしてて、朝から何もかもうまくいかなかったもので。ぼくの欠点はびしびしおっしゃってください、弟と同じように。ほんとうはそれがうれしいんです、だからぼくがふくれたって気にしないで。どうもありがとう」
気をわるくしていないことを証明しようと、ローリーはいっしょうけんめい愛想よくしてみせた――メグのためには糸を捲いてやり、ジョオには詩を暗誦して機嫌をとりむすび、ベスのためには松ボックリをゆすり落としてやり、シダのスケッチをしているエイミーに何かと助言をしたりして、この働き蜂のつどいの一員としての資格を備えていることを証明するのに忙しかった。
ちょうど、川から散策の途上ここにさしかかったとみえた一匹のカメから、この愛嬌《あいきょう》もののカメ族の習性について活発な議論がかわされている最中、遠くかすかに鈴の音がした。ハンナが、もうあとは紅茶をいれるだけに支度ができたという合図なのだ――すぐ帰らないと夕食に遅れますよ、と言う。
「また仲間にいれてもらえますか」ローリーはきいた。
「ええ、いい子でよくお勉強すれば――小学校ではそう言われたでしょ」メグはニコニコしながら言った。
「やってみます」
「じゃ来てもよろしい。こんどは、あたしが編物おしえてあげる――スコットランドの男の人のやり方で。目下、靴下の注文が殺到中よ」ジョオは、手にした靴下を、裏木戸で別れる時に紺色の毛織の旗のようにふりまわした。
その晩、夕暮れ時のあかりの中で、ベスがミスター・ローレンスのためにピアノを弾いている時、ローリーは、カーテンのかげに立ち、そのデイヴィッドの小曲に耳を傾けていた。この作曲家の素朴な調べは、いつも彼の憂鬱《ゆううつ》な気分をやわらげてくれるのだ。そして、白髪の老人が額に手をあて、深く愛していた亡き幼子《おさなご》のありし日の思い出にひたっている姿をじっと見まもっていたローリーは、その日の午後の会話を思いだし、喜んで自分の望みを犠牲にすることを心に誓ったのだ。「ぼくのお城は見送りだ。この大事なおじいさまがぼくを必要とする間は、ここにいっしょにいてあげよう。だって、おじいさまにはぼくしか残されていないんだものな」
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第十四章 秘密
十月ともなるとすっかり秋めいて、日は短くなり肌《はだ》寒くもなってきたので、ジョオは、このところ、屋根裏部屋で忙しい時間を送っていた。二、三時間は高窓から射しこむ日もあたたかく、古いソファーに腰かけ、机がわりのトランクの上に原稿紙をひろげ、ジョオは夢中でペンを走らせている。仲よしネズミのセカセカ氏は、自慢の髭をヒコつかせている子分の若者を供に、頭の上の梁《はり》を悠々と歩きまわっていた。仕事に没頭しきっていたジョオは、息もつかずに書きつづけて、最後のページを書きあげ達筆をふるって署名を終えると、ポンとペンをほうりだして叫んだ。
「終わったッと、やれるだけのことはやったわ! これがだめなら、もっとうまく書けるようになるまで待つしかないんだ」
ソファーに寝ころんで、ていねいに自分の原稿を読み返しながら、あちこちダッシュをいれたり、感嘆符をたくさん書きこむ。それはまるで小さな風船玉がとんでいるようだった。それから、それを気のきいた赤いリボンで結び、手にした原稿を、しばらく真剣な、悲しいような顔つきでじっと眺めていた。この様子だけでも、ジョオがこの作品に精魂かたむけたことがよくわかろうというものだった。
ここにあるジョオの書類机は、壁に掛けてある古いブリキの料理台だった。中には、原稿や二、三冊の本がセカセカ氏の攻撃に備えてしまってあるのだ。ご多分にもれず、主人似の文学好きな同氏は、そこらに置いてある本という本は、そのぺージをかじりとって広範囲にわたる図書館をつくるのが好きなのだ。このブリキの容器から、ジョオはもう一部の原稿をとりだした。そして両方ともポケットに入れると、足音をしのばせて下に降りていった。友達のほうは、ペンをなめたりインクを味わったりしていただいておくことにして。
音をたてないように気をつけながら、帽子をかぶり上着を着ると、裏口の窓から低いポーチの屋根へ出て、草の茂った土手にとびおり、遠まわりして通りへ出た。そこでほっと一息つくと、通りかかった乗合馬車をとめて乗りこみ、楽しくてたまらないような、そして何やら秘密ありげな顔をして町へと揺られていった。
つぎにとった彼女の行動を、もしも誰かが見ていたら、じつに妙だと思ったにちがいない。馬車を降りるとすぐ、彼女はすごい勢いで歩きだし、とある繁華街のある番地の前に止まった。そのあたりで、かなり骨折って目的の場所を探しあてると、つかつかと中へ入って行き、汚い階段を見あげ、一瞬身動きもせずつっ立っていたと思うと、いきなり表へとびだし、来た時同様鉄砲玉のように歩み去った。まったく同じことを何回かくりかえしたのだが、その一部始終をひどくおもしろがって眺めている人物があった。通りの向こう側の建物の窓の一つにたむろしていた瞳の黒い青年紳士だった。三度目にもどってくると、ジョオは意を決したように肩をゆすり、目の上まで帽子をぐっとひきさげ、まるで歯という歯を全部抜いてもらいにでもいくような顔つきで、階段をのぼっていった。
その入口にかかっている各種各様の看板の中に歯医者のが一つあった。例の青年紳士は、作りものの顎《あご》がゆっくり開いたり閉ったりして美しい歯並びをみせ、人目をひくようにできている看板をじっと見ていたが、すぐにコートを着て、帽子を手にして、とっとと通りを横切って向かいの建物の入口に立ち、ほほえみ、ぶるっと肩をふるわせ、独語《ひとりごと》を言った。「一人で来るとは、いかにも彼女らしいな。でも、痛いおもいをしたあとくらい、誰かに家まで連れてってほしいだろう」
十分もすると、ジョオは階下へかけおりてきた。顔を真赤にして、拷問《ごうもん》か何かにかけられでもした人間のような表情をしている。青年紳士に気づくといっこうにうれしくない顔になり、軽く会釈しただけでさっさと行ってしまう。けれど、紳士のほうではあとを追いかけ、同情をこめてきいた。
「つらかった?」
「いいえ、大して」
「ずいぶん早くすんだね」
「そう、幸せにも!」
「なぜ一人で行ったんだい」
「誰にも知られたくなかったの」
「きみみたいな変わり者、見たことないや。何本抜いてもらったの」
ジョオは、キョトンとした顔をしてローリーをみつめた。が、たちまち笑いだす。思い当たることがあったので急におかしくてたまらなくなったのだ。
「あのね、二つとってほしいと思ったんだけど、一週間待たなけりゃならないのよ」
「何がおかしいんだい。さては、何かたくらんでるな、ジョオ」ローリーは煙にまかれて言う。
「ご同様でしょ。あなたさまは何をしておいででした、あの撞球場《ビリヤード》で?」
「おことばを返しますようですが、あれは、ビリヤードではございませんで、体育館なのでして。わたくし、フェンシングのレッスンを受けておりましたので」
「あらそうなの、よかった」
「なぜ」
「教えてもらえるもの。そしたら、今に『ハムレット』をやる時、あなたはレアティーズになって、二人で、例の果たし合いの場を、剣さばきも鮮やかにやれるじゃないの」
ローリーは大声をあげて笑いだした。そのきどらない若々しい笑い声は、通りかかった人達を思わずほほえませる。
「教えてあげるとも。ハムレットをやってもやらなくても。とにかくすごくおもしろいし、からだも気分もピンとなるもの。だけど、さっきのよかったはそれだけの理由じゃなさそうだな、ばかに力が入ってたもの。ちがう!」
「そう、じつはね、あなたがあのビリヤードに居たんじゃなくてほっとしたの。あんな所へは絶対に足踏みしてほしくないのよ。行くことある?」
「時々ね」
「行かないでほしいわ」
「気にするほどのことはないんだぜ、ジョオ。うちにビリヤードがあるんだけど、いい相手がなくちゃぜんぜんおもしろくないんだ。でも好きだから、時々出かけてきて、ネッド・モファットやなんかとゲームをするんだ」
「あらら、こまったわ、だって、あなたも、もっともっと好きになって、時間とお金を浪費して、ああいうろくでもないご連中みたいになるわ。あなたは品行方正で、友達にするに足りる人であってほしいわ、いつまでも」ジョオは非難がましく言った。
「じゃ、時々罪のない娯楽を楽しめば、それでもう品行がわるくなるとでもいうのかい?」ローリーはむっとした顔をする。
「そりゃあ、そのやり方と場所によるわよ。あたしはネッドとあの人の仲間がきらいなの、だからあなたもあの連中とあそばないでほしいんだわ。おかあさまは、うちにネッドを招ばせてくださらないのよ、向こうでは来たがってるけど。だから、もしも、今にあなたがネッドみたいになったら、あたしたち、今みたいに楽しく遊ぶことをゆるしてくださらなくなると思うの」
「そうかなあ」ローリーは心配な声をだした。
「そうよ。おかあさまは当世流行の若い男性ってのが大嫌いよ。だからそんな連中とつきあわせるくらいなら、あたしたちみんなを帽子箱にでもつめこむわ、きっと」
「まだ箱のご用意は無用だな。ぼくは当世風《おはやり》の仲間じゃないし、なりたくもない。だけど、時には無邪気なバカさわぎもいいと思うんだ、きみは?」
「思うわよ、そんなこと、ちっともかまやしないわ。だから大いにおさわぎなさいよ。ただ度を越さないでよ、でないと、あたしたちのすてきなおつきあいもおしまいってことになりかねないから」
「よしわかった、きわめつきの大聖人になるよ」
「聖人なんてごめんだわ、ただ、素直な、正直な、素行《そこう》のいい男の子でいてちょうだい。そしたらいつまでもあたしたちの仲間にしといてあげる。もしもあなたがあのキング家の息子みたいなことをしたら、あたし、いったいどうしたらいいかしら。あの人は、お金がいっぱいありながら、そのつかいかたがわからないで、のんだくれて、博奕《ばくち》をやって、家出して、おとうさんの名を騙《かた》ったとかいう話よ、身ぶるいがする」
「ぼくも同じことをやりかねないっていうんだね、きみ? おそれいりました」
「ちがうわ、そんな――冗談じゃない、ちがうったら! ただ、お金ってものは人を悪の道に誘うって、よくみんなが言うでしょ、だから、時々、あなたがお金持ちじゃなければよかったと思うの。そしたらこんな心配しないでいいもの」
「ぼくのこと、心配してるの、ジョオ?」
「少しね、あなたが不機嫌《ふきげん》だったり不満そうだったりしてると。時々そうでしょ。だって、あなたってすごく意志が強いから、まちがった道に踏みこんだら最後、あなたを止めるのは並大抵《なみたいてい》のことじゃないと思うの」
ローリーはしばらく黙りこんで歩いていた。ジョオはその横顔をうかがってみて、よけいなことを言うのではなかったと後悔しはじめていた。ローリーの唇は、ジョオの忠告をすなおに受けてでもいるようにほほえみを浮かべてはいたが、その瞳には怒ったようないろが見えるのだ。
「家につくまでずっとお説教をつづけるつもり?」やがて彼はきいた。
「とんでもない。でもなぜ」
「なぜならね、もしそのつもりなら乗合《バス》に乗ろうと思ったのさ。でも、その気がないんなら、喜んでいっしょに歩いて帰るし、とてもおもしろいことを話してあげようと思うんだ」
「もうお説教はおしまいよ。そのお話、とっても聞きたいわ」
「わかった、じゃ。さ、行こう。これは秘密なんだ、だから、もしぼくが話してあげたら、きみもきみの秘密を話してくれなけりゃだめだよ」
「だって、秘密なんてないもの」言いかけたものの、ジョオはハッと口をつぐんだ。自分にもあったのを忘れていたのだ。
「ほうらね――きみは隠しごとなんかできない人なんだ。さっさと白状しちまえよ、でないとぼくも話さないぞ」ローリーは大声をあげる。
「あなたの秘密ってすてき?」
「もちろん、すてきにきまってるさ! きみの知ってるひとたちのことで、とってもおもしろいんだ! ぜひ聞かせたいんだ。ずっと前から話したくて話したくてうずうずしてたんだ。さ、きみから先に」
「うちで誰にも言わないわね、きっと?」
「誓うよ」
「二人きりの時にもからかったりしない?」
「からかったことなんかないよ」
「あるわよ。あなたって聞きたいことはなんでも聞きだす才能があるのよ。どんな術を使うのかしらないけど、生まれつきの聞き出し魔だわ」
「これはおそれいりました。さ、早く始めた始めた」
「あのね、新聞社に物語を二つあずけてきたのよ、来週採用するかしないか返事をくれるって」ジョオは、腹心の友の耳にささやいた。
「ミス・マーチ、バンザアイ、著名なるアメリカ女流作家!」ローリーは帽子を空に投げ、また受けとめ、アイルランド人の子ども五、六人、二羽のアヒル、四匹の猫、五羽のめんどりの喝采《かっさい》をはくした。二人は、すでに町を出はずれていたのだ。
「シーッ! どうせだめだろうと思うわ。でも、一度試してみなけりゃ気がすまなかっただけ。だから、誰にも言わなかったのよ、失望するのはあたし一人でたくさんだもの」
「成功するとも。だって、ジョオ、きみの書くものは、ちょっとしたシェイクスピアだからな、最近やたらに出版されるくだらないものなんかにくらべれば。活字になったのを見るの、すごく楽しみだ。わが仲間から女流作家が出たなんて、こっちも鼻が高いや」
ジョオの瞳はキラキラ輝いた。人に自分の実力を信じてもらえるということは常にこころよいものだし、新聞のおべんちゃら批評が半ダース集まっても、ただ一人の友達の賞賛にはかえがたいのだ。
「時に、あなたのほうの秘密はどうしたの。フェア・プレイでいきましょ、テディー、でないと二度と信用しないから」今の採用を保証するようなことばで、好結果を待ち望む気持ちがハッとあげた炎をかき消そうと、ジョオはローリーをうながした。
「これを話したことで、具合のわるい羽目に追いこまれるかもしれない。でも、別に口どめされたわけでもないんだから、言っちまうね。でないとどうも落ちつかないんだ。どんなちっぽけなニュースでもきみに黙っていられないんでね。ぼく、メグの手袋の片方がどこにあるか知ってるんだ」
「なんだ、たったそれだけ?」ジョオはがっかりした顔をした。が、ローリーは、さも重大な秘密だといわんばかりに、思わせぶりな顔でうなずき、目で笑っている。
「今のとこ、それで充分なんだ――それがどこだか教えれば。きみもわかるだろうけどさ」
「じゃ言ってごらんなさいよ」
ローリーはかがみこんで、ジョオの耳に三つの単語をささやく。同時に滑稽な変化がおこった。彼女は棒立ちになり、驚いたとも怒ったともつかない顔つきで、まじまじとローリーをみつめていたが、やがてすたすたと歩きだし、きつい口調で言った。
「どうしてわかったのよ」
「見たのさ」
「どこに」
「ポケット」
「あれからずっと?」
「そう。ね、ロマンティックだろ?」
「とんでもない、ぞっとするわよ」
「気にいらないの、きみ?」
「気にいりっこないじゃない。ぜんぜん変よ。ゆるせないわ、そんなこと。ほんとにあきれた! メグが聞いたらどんな気がするかしら」
「誰にも言っちゃあいけないんだぜ。忘れないで」
「そんな約束しなかったわよ」
「だってそれは了解ずみだったはずだぜ、だから信用して話したのに」
「ま、いいわ、どっちみち、すぐは言わないから。だけど、むかむかするわ、あたし、聞かなけりゃよかった」
「きみは喜ぶだろうと思ったのに」
「誰かがメグを連れてっちまうことになりかねないっていうのに? お門《かど》ちがいでした」
「誰かがきみを連れ出しに来る時がきたら、このことにだって理解がもてるようになるだろうな」
「そんな人、もしいたらお目にかかりたいもんだわ」ジョオはすごい見幕《けんまく》で叫んだ。
「ぼくもご同様!」ローリーは想像してみてクックッ笑う。
「秘密って、あたしの性《しょう》に合わないみたい。あなたからこのこと聞いてから、胸の中がでんぐりがえったような気分よ」ジョオは恨みがましく言った。
「この坂を下までかけっこしようよ、きっと気分がさっぱりするから」ローリーは提案した。
あたりに人影はなかった。目の前には滑《なめ》らかな道路が誘うようにくだっていた。なんとも抵抗できない誘惑にかられ、ジョオは走りだした。たちまち、帽子も櫛《くし》もすっとばし、ヘヤピンをばらまきながらかけて行く。ローリーは先にゴールに入ったが、自分の療法が成功だったのに大いに満足した。彼のアトランタ[ギリシア神話に登場する足の速い美女。自分との競走に勝った者の妻になると宣言した]は、髪をなびかせ、真赤な頬で目を輝かせて、ハアハアいってかけてきたが、その顔にはさっきの仏頂面《ぶっちょうづら》の影もみられなかった。
「あたし、馬に生まれればよかった。そしたら、このすばらしい外気の中を、何マイルもかけつづけられるのに、息も切らさずに。ああ、すてきだったわ。でも、ほら見て、このひどいかっこうったら。おねがい、天使さん、いい子だから、あたしの落としたもの拾ってきて」ジョオは、真紅《しんく》の葉で土手を埋めつくしているモミジの木の下に、どさっと腰をおろした。
ローリーは、問題の落とし物を拾いに、ゆっくり坂をのぼって行き、ジョオは、髪を三つ編みにまとめながら、きちんと身づくろいするまで誰も通らないといいなと思っていた。ところが、通りかかった人があったのだ。それも、よりもよってメグが。祝日用の晴れ着で、いつもにも増して淑女《しゅくじょ》らしく見えるのも道理で、儀礼的な訪問をしてきた帰りなのだった。
「こんなところで、いったいなにをしてるの?」くしゃくしゃ頭の妹を目にして、メグはおしとやかに驚いてみせた。
「葉っぱを拾ってるのよ」たった今すくいあげた一握りの紅葉を見せながら、ジョオはびくびくして答えた。
「そして、ヘヤピンと」ジョオの膝に半ダースばかり投げてやりながらローリーがつづけた。「この道にはピンが生えるんですよ、メグ。櫛《くし》も茶の麦わら帽も」
「かけっこしたのね、ジョオ。あきれた人! いつになったらそんなおてんばをやめるのかしら、あなたって」
メグはそう叱言《こごと》をいいながらも、妹の袖口をなおしてやったり、風に乱れるおくれ毛をなでつけてやったりする。
「年をとってからだがきかなくなって、杖《つえ》を使うようになるまではやめないわよ。そんなにせっかちに大人ぶらせるのはやめて、メグ。おねえさんが突然変わっちまっただけでもたくさんだのに。なるべく長く少女でいさせてよ、あたしは」
そう言いながらも、ジョオは、唇のふるえてくるのを隠そうとして、うつむいて紅葉をあつめるふりをした。というのも、最近、ジョオは、姉が急に年ごろの娘らしくなっていくような気がしていたところへ、ローリーから聞いた秘密が、いつかは来るにきまっている別離の時がすぐそこに近づいているような怖れを感じさせたのだ。
ローリーは、目ざとくジョオの顔がくもったのに気づくと、メグの注意をそらそうとして、急いでたずねた。
「そんなにおめかしして、どちらをご訪問でした」
「ガーディナー家よ。サリーが、ベル・モファットの結婚式のことを、何から何まで話してくれたわ。すばらしかったんですってよ。それに、この冬はパリで過ごすのでもう出発なさったそうよ。どんなに楽しいでしょうね、そんな生活!」
「羨やましい、メグ?」とローリー。
「そりゃあね」
「よかった」帽子のリボンをギュッと結びながらジョオがつぶやく。
「なぜよ」メグは驚いた顔をする。
「だって、そんなに贅沢《ぜいたく》が好きなら、貧乏な人のとこへなんか片づきっこないもの」ローリーが、よけいなことを言わないようにと、しきりに目まぜをしてみせるのに、眉をしかめてみせながらジョオは言った。
「あたしは誰のところへも片づいたたりはいたしません」メグはつんとすまして歩いていき、二人はそのあとから、笑ったり、内緒話をしたり、石をけってみたりしながらついていき、メグは≪まるで子どもみたいなことばかりして≫などと思ったらしいのだが、もし晴れ着を着ていなかったら、きっと自分もやりたくてたまらなかったにちがいないのだ。
それから一、二週間というもの、ジョオの挙動がなんとも奇妙だったので、姉妹は面くらってばかりいた。郵便屋が玄関の鈴を鳴らすと鉄砲玉のようにとんで出る。ミスター・ブルックには、顔を合わせるたびに失礼な態度をする。かと思うと、この世の終わりとでも言うような顔をしてじっとメグをみつめていて、いきなりとびあがってしがみついたと思うと、何やら意味ありげにキスをしたりするのだ。ローリーと二人で暗号を交しっこしたり、≪|翼を拡げたワシ《スプレッド・イーグルズ》≫紙の話を夢中でするので、みんなは二人が少々おかしくなったらしいと言い出す始末だった。
ジョオが窓から抜けだした日から二度目の土曜日に、窓の所で縫物をしていたメグは、ローリーがジョオを庭中追いまわし、とうとうエイミーのあずまやに追いつめたのを目にしてあきれかえってしまった。そこで何をしているのか、彼女の所からは見えなかったが、キャーッと言う笑い声が聞こえたかと思うと、ボソボソ話声がそれにつづき、新聞をガサガサ繰っている音が大仰に聞こえてきた。
「あの娘《こ》にはほんとにこまったもんだわ。いつになっても、あれじゃあ、若いレディーらしく振るまえないにきまってるわ」その追いかけっこを非難がましい目つきで眺めながらメグは言った。
「ならないほうがいいわ、でも。あのままのほうがおもしろくていいおねえさんですもの」ベスは、ジョオが自分以外の誰かに秘密を打ちあけているらしいことに少し気をわるくしていても、決してそんな気配はみせないのだ。
「ほんとにこまったものね、でも、どんなにしたって法にかなったようにすることはできないわ、あたしたちの力じゃ」エイミーも口を出した。例によって言いまちがいをしながらも、目下、まことにエレガントでレディーらしい気分にひたっているところなのだ。新しいフリルを製作中だし、髪のカールはとてもよく似合うようにリボンで結んであるという、大いに気にいったことが二つもあるせいで。
二、三分もすると、ジョオが勢いよくとびこんできた。ソファーに長くなると、新聞を読むふりをする。
「何かおもしろいことがあって?」メグがわざと下手《したで》に出た。
「べつに。ただ物語が一つあるけど。大したもんじゃない、とあたしは思うな」新聞名が見えないように注意して持ちながら、ジョオは答えた。
「声を出して読んでちょうだい。あたしたちも楽しめるし、おねえさんもおいたができなくていいもの」エイミーはとびきりおませな口調で言った。
「なんて題なの」ベスはなぜジョオが新聞で顔をかくしているのかふしぎがりながらきいた。
「『画家の恋あらそい』」
「おもしろそうだわ。読んで」とメグ。
エヘンと大きく咳《せき》ばらいをして、ぐっと息を吸いこむと、ジョオは一瀉千里《いっしゃせんり》と読みだした。姉妹は興にいりながら耳をすませていた。物語はロマンティックで、登場人物のほとんどが最後には死んでしまうという、悲劇がかったところもあったのだ。
「そのすばらしい絵のことの所が好きだわ」ジョオが息をついていると、エイミーはこう言ってほめた。
「あたしは恋模様のほうがいいと思ったわ。ヴァイオラとアンジェロって、うちの芝居によく出てくる名前ね、二つとも。あら、妙だこと」メグはそっと涙を指先で拭いた。その恋模様はまことに悲劇的だったもので。
「誰が書いたの」チラッとジョオの顔を目にして、ベスはきいた。
朗読者は、やおら起きなおり、新聞をほうりだし、のぼせあがった顔を見せた。そして、大真面目と興奮とが奇妙にいりまじった様子で、声たからかに答えたのだ。
「あなたたちのきょうだい」
「ジョオ、あなたなの?」メグは手にした縫物をおっことす。
「とてもよく書けてたわ」エイミーは落ちつきはらって批評する。
「知ってたわ! 知ってたわ! ああ、ジョオねえさん、うれしいわ、あたし!」ベスはぎゅっと姉をだきしめ、このすばらしい成功を大喜びするのだった。
まったく、みんなの喜びかたは一通りではなかった! メグなどは、≪ミス・ジョセフィーン・マーチ≫の字が紙上にちゃんと印刷されているのをわが目で確かめるまでは、どうしても信じなかったほどだ。エイミーは、また、物語の中の芸術に関連のある部分についてあれこれ批評をし、続編にといいアイディアを提供したりしたが、主人公も女主人公も死んでしまったので、これは残念ながら使えなかった。ベスはものすごくはしゃいでしまい、ピョンピョンとびまわったり踊りまわったりしたし、ハンナは、「こりゃまた、たまげたこんだ!」と≪ジョオ嬢さまのしでかしたこと≫を仰天《ぎょうてん》して聞いた。ミセス・マーチも、このことを知ってどんなに誇らしく思ったことか。ジョオはジョオで、笑いながらも目にはじっと涙を浮かべて、いっそもううぬぼれ孔雀《くじゃく》になりすまして、これで最期《さいご》ってことにしようかなどと言った。そして、その新聞が皆の手から手へと回されているとき、≪スプレッド・イーグル≫紙は、マーチ邸の上に、得意げにその翼をはばたいたという次第だった。
「何もかも話して」「いつ来たの」「稿料はいくらなの」「おとうさま、なんておっしゃるかしら」「ローリーは笑わないかな」家中のものがジョオを囲んで口々にわいわいとさわぎたてた。無邪気で愛情に漏れたこの一家は、どんな小さな喜びごとでも、みんなで大さわぎしてそれを分けあうのが習いだったから。
「ちょっと静かにしてよ、みんな。何もかも話すから」言いながらも、ジョオは、今、自分が『画家の恋あらそい』を書いたことで得意|絶頂《ぜっちょう》になっているように、バーニイ女史[フランシス・バーニイ(一七五二〜一八四〇)イギリスの女流作家]もあの『エヴェリナ』で大得意だったのかなと思った。自分の作品を新聞社に置いてきたくだりを話し終えると、ジョオは先を話す。「そして、あたしが返事をききにいくと、社の人は二つともよかったって言ってくれたの、でも、最初のうちは、原稿料は出せない、ただ新聞に出すだけで、読者に読んでもらうんだって。いい修業になるって言ったわ、その人。そして、段々上手になってくれば、どこでも稿料を出すからって。で、あたし、二つとも置いてきたの、そしたら、これを送ってきたのよ、きょう。ところがローリーにみつかって、見せろってきかないもので、負けて見せてあげたわ。ほめてくれたわよ、そして、もっと書けって、そうしたらこのつぎには稿料を出すように話してくれるんですって。なんてうれしいんだろ、だって、そのうちには、あたし自分の生活費はかせげるようになるし、みんなの役にもたてるようになるかもしれないもの」
さすがのジョオもここで息がきれてしまった。そして、その新聞を顔にあてて、思わず流れでる涙でその小さな物語に露をおいたのだった。自立して、愛する人たちの賞賛を集めることこそ、ジョオが心の底から願っていることにほかならず、この日こそ、その幸福な将来への最初の一歩であるように思えたからだった。
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第十五章 電報
「十一月っていちばんいやだわ、一年中で」ある曇り日の午後、メグは窓から霜《しも》にうたれた庭を眺めて言った。
「よりにもよって、あたしはこの月の生まれときてるんだ」ジョオは鼻にインクをつけているのも知らず、ものおもわしげな様子で言うのだった。
「何かとてもいいことが今起こったら、きっと愉《たの》しい月だと思うようになるのに」ベスは何事もいいほうへと考えるたちなのだ。十一月さえも。
「そりゃそうね、でも、うちではそんな楽しいこと、ありっこないわ」ばかに機嫌《きげん》のわるいメグは言うのだ。「くる日もくる日もがつがつ働いて、何ひとつ変化はなし、たのしみだってありゃしないし。牢屋《ろうや》で臼を踏んでるのも同じよ」
「やれやれ、なんて憂鬱《ゆううつ》なんだろ!」ジョオは叫んだ。「かわいそうに、わかるわ、メグ。だって、ほかの年ごろの女の子たちは始終楽しいことばかりだっていうのに、おねえさんは一年中、明けてもくれても働いてばかり。ああァ、あたしが書く物語のヒロインたちにしてやるように、メグのためにも何もかも至れりつくせりにしてあげられたらなあ! メグはとっても美人だし気立てもいいから、あとはお金持ちの親類の人が、思いがけない遺産を残させるようにするんだわ。そうすれば、女遺産相続人として社交界にデビューして、今まで見くだした連中を鼻であしらって、さっさと外国へ行っちまって、レイディー・なんとやらになって、優雅に豪華に、目もまばゆいようになって帰ってくるのよ」
「このごろじゃあ、そんなふうにして財産を残すことはできない仕組みなのよ。男は働かなけりゃならないし、女は結婚するのよ。お金がほしかったら。じつに不公平な、いやな世の中だわ」メグは吐きすてるように言った。
「ジョオねえさんとあたしでおねえさんたちのために財産をつくるわ。十年待ってて。必ずやるから」エイミーが口を出した。部屋の隅で、ハンナのいう泥まんじゅう、つまり粘土細工《ねんどざいく》の鳥だのくだものだの人の顔だのを製作中だった。
「待てないわ、そんなに。それに、インクや泥はあんまり信用してないのよ、あたし。でもその気持ちだけはありがたくいただくわね」
メグは溜息をつき、また霜枯《しもが》れの庭へ目を向けてしまった。ジョオはウーンとうなり、テーブルに肘をついて、しょんぼりしてしまったが、エイミーはじつに熱心で、粘土をバタバタたたく手をとめようとはしなかった。そして、別の窓際《まどぎわ》にすわっていたベスはニッコリして言うのだった。
「今すぐいいことが二つあるわよ――ママがこっちへ歩いていらっしゃるし、ローリーが何かいい知らせでもあるみたいに、お庭をとんでくるわ」
二人はほとんど同時に家へ入ってきた。ミセス・マーチは例によってこう質問する。「おとうさまからお手紙なかった?」そしてローリーはいつもの気をそそるような口調《くちょう》で、「誰かドライブに行かない? ずっと数学ととっくんでたもんで、頭がボーッとしてきちまった。ひとっ走りして血のめぐりをよくしてこようと思うんだ。天気はわるいけど、カラッとしてるし、先生を家まで送っていくから、表はつまらなくても、馬車の中は結構にぎやかだぜ。行かない、ジョオ、メグもベスも、どう?」
「もちろん行くわ」とジョオ。
「ありがとう、でも、今手がはなせないのよ」メグはあわてて裁縫用のバスケットをひっぱりだした。若い男性と始終ドライブすることは、妹たちはともかく、自分は避けたほうがいいという点で母親の意見に同意したあとだったので。
「あたしたち三人はすぐお支度できてよ」手を洗いにかけだしながら、エイミーは言った。
「何かご用はありませんか、おばさま」ローリーは、いつものように愛情あふれる表情とやさしい口調で、ミセス・マーチを椅子の背からのぞきこみながらたずねた。
「べつに何も、ありがと。ただ、ご厄介でなかったら、局へよってみてくださらない。今日はお手紙のくる日だのに、郵便屋さんが来なかったようなの。おとうさまは、お日さまみたいに几帳面《きちょうめん》だから、きっと途中で遅れているのね」
ことばの途中、せっかちに玄関の鈴がなり、すぐにハンナが一通の手紙を手に入ってきた。
「あのおっそろしいデンポーってやつでございますだ、おくさま」今にもそれが爆発してあたりをぶちこわしでもするように、指先でつまんでハンナはそれを渡した。
≪電報≫ということばを耳にしたとたん、ミセス・マーチはそれをひったくるようにして、たった二行の文句に目を走らすと、その白い紙きれが心臓に弾丸《たま》を打ちこみでもしたように、スーッと血の気のひいた顔になり、椅子にくたくたっとくずおれてしまった。
ローリーは水をとりに階下へかけおりて行き、メグとハンナが両脇からしっかり彼女を支えジョオは、ふるえる声で、その電文を読みあげた。
ミセス・マーチ
ゴシュジンジュウタイ。スグコラレタシ
S・ヘイル
ワシントン・ブランク病院
息もつけずに聞いているみんなの耳には部屋がシーンと静まりかえり、表の光が急にかげって色を失い、何もかもが一瞬にして変わってしまったように思えた。娘たちは母のまわりに身を寄せ、自分たちの生活の幸せも心の支えも一挙《いっきょ》に奪いさられてしまうような思いにかられた。ミセス・マーチはすぐにわれにかえった。電文をもう一度読むと、娘たちに手をさしのべ、みんなの耳に一生残るような口調で言ったのだった。
「おかあさまはすぐ出発します。でも、もう遅いかもしれません。ああ、あなたたち、わたしに勇気を与えてちょうだい!」
しばらくは、ただすすり泣きの声だけが聞こえるばかりだった。きれぎれの慰めのことば、助力を誓うやさしい声、希望的な見通しのささやきなどがその間を縫っておこりはしたが、すぐ涙に消えてしまうのだった。最初に立ち直ったのはハンナだった。そして、身についた知恵で、みんなに模範を示したのだ。彼女にとっては、働くことが、心の苦痛をいやす万能薬だったのだから。
「神さまが大事なお方をまもってくだせえますだ。いつまでこうして泣いちゃいられませねえだ、おくさまの支度さ早くしねば」エプロンで顔をくるっとふくと、ハンナは真心をこめてこう言って、がっしりした手で女主人の手をやさしく握って力づけると、三人分の仕事を一手にやってのける勢いで出ていった。
「ハンナの言うとおりだわ。今は泣いてる場合じゃないのよ。落ちついて、みんな、わたしに静かに考える時間をちょうだい」
かわいそうに、姉妹は落ちつこうとつとめ、彼女たちの母親は、きちんと姿勢を正し、蒼白《そうはく》ではあったがしっかりした顔つきで、娘たちのことを考え、計画をたてるために、悲しみを一時押しやるのだった。
「ローリーはどこ?」考えをまとめ、まず最初にすべきことを決めるとすぐ、彼女はたずねた。
「ここです、おばさま。どうぞ、何かさせてください、ぼくにも!」ローリーは叫びながら隣の部屋からとびだしてきた。マーチ家の人たちが、この突然の悲しみに身をよせあっている場に同座していることは、たとえどんなに親しい間柄でも遠慮すべきだと思ってそこにひっこんでいたのだ。
「すぐにまいりますって電報を打ってきてください。つぎの汽車はあしたの朝早く出ます。それに乗ります」
「ほかに何か。馬の支度はできてます。どこへでも行けますし、なんでもしますよ」ローリーはこの世の果てにでも喜んでとんで行きそうな顔だ。
「マーチ伯母の家に手紙をとどけてください。ジョオ、ペンと紙をとって」
清書したばかりのぺージの中から裏が余白のをひきさいてきて、ジョオは母の前に小テーブルをひきよせた。この悲しい長旅のためにはお金を借りなければならないのを、ジョオはちゃんと察していた。そして、父のために役立つように、せめて僅かでも足しになるのなら、自分もどんなことをしてでもお金をつくってあげたい気分になっていた。
「さ、行ってちょうだい。でも、スピードをめちゃめちゃにだしたりして、怪我《けが》なんかしないでくださいね。そんなに急ぐ必要はないんですから」
ミセス・マーチの注意はどうやら黙殺されたようだった。五分後には、ローリーは駿足《しゅんそく》の愛馬をかって、まるで命を賭けてでもいるように、稲妻《いなずま》のように窓をかすめて走り去った。
「ジョオ、わたしたちの仕事場に急いで行って、ミセス・キングにわたしが行かれないことをお伝えしてきて。帰りに、これだけ買物をしてきてちょうだい。ここに書いておきますからね、みんな必要な物よ、看病をする用意をしていかなければならないと思うから。病院の売店のものはあまりよくないことがあるの。ベス、行って、ミスター・ローレンスに、甘いブドー酒を二本ほどおねだりしてきてね。おとうさまのためだから、見栄《みえ》や外聞《がいぶん》は言っていられないわ。おとうさまには何でもいちばんいいものを上げなけりゃ。エイミー、ハンナに黒いトランクをおろしとくように言って。メグ、支度を手伝ってちょうだい――なんだかくらくらするようで」
手紙を書き、考え、指図をしたり、何もかもいっぺんにやってのけなけれはならないのだから、お気の毒に、くらくらするのも当然だった。で、メグは、しばらく部屋で休んでいただいて、自分たちに働かせてくださいと頼んだ。みんなは、突風に吹きまくられた葉っぱのように、四方八方へ散っていった。そして、この平和な楽しい家庭は、あの紙きれがいまわしいまじないででもあったように、見るまに打ちこわされてしまったのだ。
ミスター・ローレンスは、ベスといっしょにいそいでかけつけてきてくれた。病人のために思いつくかぎりの見舞品を持ち、母親の留守中、娘たちを護ってあげようと親身も及ばぬ約束をしてくれ、ミセス・マーチはどんなに心慰められたかわからなかった。老人はいたれりつくせりに心を使って、何ひとつ惜しみなく提供しようとしてくれ、自分の部屋着を初めとして、ついには自分自身もエスコートとして提供しようと言いだす始末だった。だが、これだけは受けるわけにはいかなかった。この老人に長旅をさせることなど、ミセス・マーチが承知する道理がないのだ。だが、老人がそれを口にした時、さすがに、安堵《あんど》のいろが彼女の顔に浮かんだ。思い悩みながらの一人旅はつらいものにちがいないのだ。いち早くその表情に目をとめた老人は、眉をよせ、しきりに手をもみあわせていたが、すぐ戻ると言ったかと思うと、いきなり帰っていってしまった。それきりみな老人のことを忘れていたのだが、メグが片手にオーバーシューズを、片手に紅茶を一杯もって玄関のホールを通りかかった時、ばったりミスター・ブルックに出くわしたのだった。
「うかがいましたが、さぞご心配でしょう、ミス・マーチ」彼のやさしく落ちついた声は、頭も心も乱れきっているメグをほっとさせるこころよさを持っていた。「おかあさまの護衛役をさせていただこうと思ってきたんです。ミスター・ローレンスにワシントンでの用事を言いつかりましたので、あちらでも何かとお役にたてれば、この上の幸いはありません」
オーバーシューズが床に音をたてて落ち、あやうく紅茶もそのあとに続くところだった――メグが感謝に頬を輝かし、思わず手をさしだしたのだ。ミスター・ブルックは、また、このメグの喜びかたを目にしては、これからほんの少しばかりの時間を慰問をするくらいではとても足りず、もっともっと大きなことをして奉仕したいと思うのだった。
「みなさんなんてご親切なんでしょう! きっと、母もおことばに甘えると思います。どなたか頼りにできる方とごいっしょなら、わたくしたちもどんなに安心がわかりませんわ。ほんとにほんとにありがとうございます」
メグは夢中でお礼をいい、自分のことはすっかり忘れていたのだが、彼の茶の瞳にたたえられている何かに気づくと、急にお茶がさめてしまうのを思いだし、母を呼びにいってきますからと言い、彼を客間へ案内した。
ローリーがマーチ伯母の手紙をもって帰ってくるころには、すべての準備が整っていた。封書には、頼んだだけの額のお金にそえて、前に何度も彼女の言ったことばが五、六行書いてあった――マーチが出征するなど、じつに非常識なかぎりだと、前にも言ったとおりで、どうせろくなことにならないのは初めからわかっていた、だから、これからは自分の言うことを必ずきくように、と。ミセス・マーチは、手紙は暖炉で燃してしまい、お金は財布に入れてしまうと、また支度をつづけた。唇を一文字にひきむすんで。ジョオがこの場にいたら、それが何を意味するかすぐ判ったにちがいなかった。
短い午後はもう暮れかけていた。ほかの用は全部すんでしまい、メグとおかあさまは、どうしてもしておかなければならない縫物にかかりきり、ベスとエイミーがお茶の支度をし、ハンナはアイロン仕事を彼女の言うドタバタと片づけてしまったのに、ジョオがまだ帰ってこないのだ。みんな、さすがに心配をしだし、ローリーが探しに出かけた。いったいなんにそんなに手間どっているのか、誰も考えつかないのだ。だが、ローリーと行きちがいに、ジョオは帰ってきた――なんとも妙な顔つきをして。おもしろがっているような、びくびくしているような、満足しているような、後悔しているような、じつに複雑なその表情でまずみんなを煙にまいたが、「これ、おとうさまのお見舞いとお家へおつれする費用のたしに、あたしから」とちょっとのどをつまらせて言いながら、母の前に紙幣《おさつ》をまるめておいたのには、なお度肝《どぎも》をぬかれてしまった。
「まあ、ジョオ、どこで手にいれてきたの。二十五ドルも。まさかとんでもないことをしたんではないでしょうね」
「いいえ、これ、ほんとにあたしのお金よ。物乞いしたんでも、借りたんでも、盗んだんでもないんです。稼いだのよ、あたし。おかあさまだってお叱言《こごと》はおっしゃらないと思うわ、だって自分の持物を売ったんですもの」そう言いながら、ジョオはかぶっていた帽子をさっととった。とたんにみんなあッと声をあげる。たっぷりあったジョオの髪が短く切られていたのだ。
「その髪、どうしたの、あのすばらしい髪を!」「ジョオったら、どうしてこんなことを。ご自慢の毛だったのに!」「おまえ、こんなことをする必要はなかったのよ」「今までのジョオとまるでちがってしまったわ、でも、大好きよ、これも」
みんなが口々に叫び、ベスがそのざんぎりあたまをやさしく抱きしめると、ジョオはさりげない様子をして――誰もだまされはしなかったが――とびいろの短い毛をくしゃくしゃかきまわし、それが気にいってでもいるような顔をして言った。「これがお国の一大事ってわけじゃないんだから、泣かないでよ、ベス。あたし、このごろあのかつらみたいな髪を自慢しすぎてたから、うぬぼれをたたきつぶすのにちょうどいいのよ。あんなモップみたいなもん、とっちまったほうがよっぽど頭脳明せきになるし、第一、頭が急に軽くなってすがすがしい気分よ。床屋さんが、すぐに短い捲毛がのびてきて、とてもボーイッシュでよく似合うだろうって。手入れも簡単でね。あたしは大いに満足よ。だから、おかあさま、どうぞこのお金をおさめて。そして、お夕食にしましょう」
「初めから話してごらんなさい、ジョオ。おかあさまは、あまり満足じゃないけれど、あなたを責めることはできません。あなたが、心から喜んで、あなたの言ううぬぼれを犠牲にして愛に代えたことがよくわかりますから。でも、ジョオ、そんな必要はなかったのよ、今に後悔するのじゃないか、気がかりですよ」ミセス・マーチは言う。
「しません、ぜったいに」ジョオは断固として答えた。自分のとっぴょうしもない行動が、頭からきめつけられないですんだのにほっとして。
「どうしてこんなことをしたの」エイミーは、自分の美しい毛を切るくらいなら、首をちょんぎられたほうが増したと思ったにちがいない。
「そうね、とにかく、あたし、おとうさまのために何かしたくてたまらなかったのよ」食卓にみんなそろうと、ジョオは話しだした。健康な年若な人たちは、心配事の最中でも、食欲を失ったりはしない。「あたし、おかあさまと同じで、人からお金を借りるのはいやなの。第一、マーチ伯母って、必ず文句をつけるにきまってるし。たったの九ペンス借りようと思ったって、なんとかかんとかもったいつけるんだから。メグは、三月分の月給を全部お家賃の足しにあげたのに、あたしは自分の服を買ったでしょ。だから良心がとがめてたの。何がなんでもお金をつくらなけりゃ――たとえこの鼻をちょんぎって売りとばしても、って」
「そんな、良心がとがめるなんて思わないでいいんですよ。あなたは、冬の服が何もないんだし、自分がいっしょうけんめい働いたお金で、ごく質素なのを買ったきりなんですものね」ミセス・マーチは、ジョオの胸がぽっかり明るむような目をして言うのだった。
「最初は、髪の毛を売るなんてこと考えてもいなかったの、でも、歩く道々、どうしたらいいか、どうしたらお金ができるか、そればかり考えてて、おしまいには、その辺の大きなお店にとびこんで、ちょっと失敬してきちまおうかなんて気さえしてきて。ところが、一軒の床屋のショーウインドーに、値札のついたかもじを見たのよ。黒いかもじで、あたしの毛みたいにふさふさしてなくて、四十ドルだったわ。そこで、はッと気がついたのよ、あたしにもお金になるものがあったって。で、考えてもみないで、さっさと中へ入ってって、毛を買ってくれるか、あたしのはいくらで売れるかってきいたわ」
「よくまあそんな勇気があったのね」ベスは、信じられないことを聞くような声をした。
「その床屋さんて、そうね、小男で、自分の頭を油でテカテカにするのが生き甲斐《がい》みたいな人だったわ。最初、さすがにびっくりしたとみえ、あたしの顔をじーっと見つめたきりだったわ。女の子が店にとびこんできて、髪を買ってくれなんていうのは馴れてないんでしょ、きっと。そして、あたしの毛は気にいらない、色が流行《はやり》のとちがう、それに、だいたい、そういい値には買わないって言ったわ。売るまでにする手間がたかいからとかなんとかって。もう遅かったし、すぐに取引きをしてしまわないと、結局だめになるだろうって気がしてきたし、いつもそうだけど、あたしって、思いたったことは、どうしてもやらないと気がすまないでしょ。で、頼んだわ、夢中で、そして、なぜお金がいるかも説明したの。よけいなことだったかもしれないけど、でも、とにかくそれで床屋の気がかわったんだわ。だって、話しているうちに、あたしすっかりのぼせあがって、辻棲《つじつま》も何もかまわず、しゃにむにしゃべりまくったもので、床屋のおかみさんが聞きつけて、とても親切に言ってくれたの。≪買っておあげよ、トーマス、この娘さんの身にもなって。あたしだって、うちのジミイのためなら、この人と同じことをするよ、こんないい毛を持ってたらってことだけどさ≫って」
「ジミイって?」エイミーは、話に出てくることは何もかも説明してもらわないと気がすまないのだ。
「息子さんだって、出征している。こういうことって、見ず知らずの人にも急に親しみを感じさせるものね。主人が毛を切っている間ずっと、おかみさんはしゃべりどおしにしゃべっててくれたわ。あたしの気がまぎれるように」
「いちばん最初|鋏《はきみ》をいれる時、ぞおっとしなかったの?」メグはぶるぶるっとしてきく。
「主人が道具をそろえている間、鏡に映った髪をもう一度よく眺めたわ。でもそれだけ。こんなつまらないことでは、決してくよくよしないの、あたし。でも、正直言って、おなじみ深い自分の毛がテーブルにのせられてるのを見て、頭にさわってみて、短い毛がジャリジャリする手ざわりを味わった時は、さすがに妙だったわよ。なんだか手か足をバッサリ切られたみたいだった。おかみさんは、そうやって眺めてたあたしに気がつくと、長い房を一つとって、記念にってくれたわ。これ、おかあさまにさしあげます、嘗《かつ》ての栄光を偲《しの》ぶよすがとして! だって、ざんぎり頭って、とっても気持ちがいいから、もう二度とあんなたてがみは作らないつもりなの、あたし」
ミセス・マーチは、その波うつとび色の髪をたたんで、机の抽斗《ひきだし》にしまった――短い灰色の髪と並べて。彼女は、ただ、「ありがとうよ」と言っただけだったが、娘たちは、母の顔に浮かんだ表情に気づくと、あわてて話題を変え、ミスター・ブルックってほんとうにやさしいとか、あしたはきっと上天気だろうとか、おとうさまがお帰りになったら、みんなで看病ができてどんなにうれしいだろうとか、できるかぎり陽気に話しつづけるのだった。
十時に、ミセス・マーチは、最後に仕上げた仕事を置き、「さあ、みんないらっしゃい」と言った。誰もいっこうに寝に行く気にはなれないのに。ベスはピアノに向かい、おとうさまのお気にいりの賛美歌をひき始めた。みんな元気をだして歌いだしたが、だんだんに声が出なくなってしまい、ベスだけが一人残って、心をこめて歌いつづけた。彼女にとっては、音楽こそ、どんな場合にも、いたわり深い慰め手だったのだ。
「さ、みんな、お床について、お話はやめですよ。あしたは朝が早いし、できるだけたくさん眠らないといけないのよ。おやすみなさい、みんな」その賛美歌が終わると、ミセス・マーチは言った。誰ももっと歌おうとは言わなかったのだ。姉妹はそっと母におやすみのキスをして、隣の部屋に大事な病人が休んででもいるように、足音をしのばせて寝にいった。ベスとエイミーは、まだ小さいので、こんな大変な時でも、すぐ寝ついてしまったが、メグは、今までの短い生涯でも初めての深刻なおもいで胸がいっぱいで、どうしても眠れないでいた。ジョオはコソッとも動かないので、メグは妹が眠ったとばかり思っていたところ、急にしのび泣きが聞こえてびっくりさせられた。手をのばして妹の涙にぬれた頬にさわって、メグは驚いた声をあげる。
「ジョオったら、どうしたのよ、おとうさまのこと考えて泣いてるの?」
「ううん、いまのはちがう」
「じや何よ」
「あ、あたしの髪の毛!」わっと泣きだし、ジョオはむやみに枕に顔をこすりつけ、なんとかしてこらえようとする。
メグには、これがちっともおかしいとは思えなかった。彼女は、できるだけやさしくこの悲嘆《ひたん》にくれたヒロインをいたわり、抱きしめてキスしてやった。
「あたし後悔してるんじゃないわ」しゃくりあげながらもジョオは抗議《こうぎ》する。「もしできることなら、またあした同じことをやってみせる。こんなだらしなく泣いたりするのは、あたしの中の見栄《みえ》っぱりの利己主義な一部分のせいよ。誰にも言わないで、もうこれでいいの。おねえさん、ねてるとばかり思ったから、わが唯一の美を悼《いた》んで、こっそり嘆こうと思っただけなのよ。なぜおきてたの?」
「眠れなかったのよ。とても心配で」
「何かいいこと考えなさいよ。そしたらころっとねちゃうから」
「やってみたけど、前よりなお目がさえちゃったわ」
「どんなこと考えた?」
「すてきな顔よ――ことにその瞳」闇の中でこっそりほほえみ、メグは答えた。
「どんな色の目が好き」
「茶よ――あの、それも始終じゃないけど、青もきれいだわ」ジョオが笑いだした。メグは、もうおしゃべりはだめ、ときつく命令して、またあわてて、ジョオの髪を上手にカールしてあげるからとやさしく約束すると、彼女の空のお域に住む夢をみるために眠りにおちた。
時計が十二時を打ち、家中がシーンとしずまりかえると、一人の影が、ベッドからベッドヘ音もなくまわり歩き、掛けぶとんを直してやったり、枕をよくしてやったりしながら、一人一人の寝顔をやさしくじっと見まもり、声にはださぬ祝福のことばをのせた唇をつけ、母親だけがするあらゆる想いをこめた祈りのことばを与えるのだった。彼女は、やがて、ものさびしい夜の闇を見ようとカーテンをあげた。と、とつぜん雲の合間から思いもかけぬ月があらわれ、輝かしいいつくしみ深い顔のように彼女に向かい、声もなくささやきかけるように思えた。「心やすらかにあれ、愛するものよ! 雲のうしろには、常に光があるのだよ」と。
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第十六章 手紙
冷えびえとした灰色の夜明けに、姉妹はランプをつけ、今までにない真剣《しんけん》さでそれぞれの一章を読んだ。本物の苦難の影がさしかかってきている今こそ、この小さな聖書は助力と慰めとに満ち、姉妹たちの支えとなるのだ。着替えをしながら、姉妹は、明るく、希望にみちて「行っていらっしゃい」を言って、おかあさまを送りだし、たださえつらい旅を、自分たちの涙や不平などで暗くしないようにと相談した。階下へおりて行くと、何もかもがじつに妙だった――外はまだ薄ぐらくシンとしているのに、中はあかあかと灯がついてざわめいている。こんな早い時間の朝食も変だったし、ハンナの見なれた顔までが、ナイトキャップをつけたまま台所をとびまわっているのでまるで奇妙だった。大きなトランクは、すっかり荷造りされて玄関に立ててあり、おかあさまの外套《がいとう》や帽子はソファーに出してあり、当のおかあさまは食卓について、少しでも口にいれようと努めていらっしゃるのだが、その不眠と心配とでやつれた血の気のない顔を目にしたとたん、娘たちはたった今したばかりの決心が守れるかどうか、おぼつかなくなってきた。メグは、われにもなく、あとからあとから涙が目ににじんでくるし、ジョオは、一度ならず、台所のふきんに顔をかくさなければならない始末だった。下の二人は、悲しみというものが初めての経験でもあるように、深刻な、こまりはてたような表情を浮かべていた。
みんなことば少なだったが、やがて出発の時が迫り、みんなで馬車を待ちながらひとかたまりになっている娘たち――一人は母のショールをたたみ、もう一人は帽子の紐をなで、三番目はオーバーシューズを靴にかぶせ、残りの一人は旅行用のバッグの口をしめたりしている姉妹にミセス・マーチは言うのだった。
「じゃ、みんな、あなたたちの世話はハンナにまかせましたし、ミスター・ローレンスは保護者になってくださいました。ハンナは忠節そのものといった人だし、お隣のご老人は、きっとご自分の子ども同様、よく気をくばってくださるでしょう。ですから、何も心にかかることはないのですけれど、この大事の時を、しっかりとすごしてほしいと、ただそれだけを頼みますよ。わたしが出発してしまっても、悲しんだり気をもんだりしてはいけませんよ。それから、だらけた暮らしかたをしたり、忘れようとしたりしても、それで気はまぎれません、今までどおり、それぞれのつとめをつづけなさいね。自分に与えられた仕事にはげむことこそ、こういう場合いちばんの慰めなのです。希望をもち、つとめて忙しくしていらっしゃい。そして、たとえ何が起こっても、あなたたちは決して父を失うことはないのだと、あなたたちは天の父の子なのだということを忘れないように」
「はい、おかあさま」
「メグ、いいこと、しっかりして、妹たちをよくみてやってね。家のことはハンナに相談して、もしわからないことがあったら、ミスター・ローレンスにおたずねするように。ジョオ、あなたは辛抱を忘れずに、失望したり、軽はずみなことをしないでね。始終手紙を書いてくださいよ。そして、わたしの勇気ある娘として、わたしたちみんなを元気づけ力をかしてくれることができるようになってくださいよ。ベス、あなたは、つらい時には、ピアノや歌で凌《しの》いでね、そしてうちの中のこまごました用事をちゃんとしてちょうだい。エイミー、あなたもできるだけのことをしてお手伝いして、よく言うことをきいて、元気にたのしくしていてくださいよ」
「わかりました、おかあさま、よくお言いつけをまもります!」
すぐ近く馬車の音がガラガラと聞こえると、みんなハッとして聞き耳をたてた。いよいよつらい時が来たのだ。だが姉妹は健気《けなげ》に堪えた。誰も泣きだしたり、逃げだしたり、悲しいことを口にだしたりはしなかった。だが、父によろしく、お大事に、などと言いながらも、もうそれも間に合わない言伝てになるのではないかと思うと、さすがに胸がふさがるのだった。四人は母にひっそりとキスをして、そっとそのからだを抱きしめ、馬車が動きだすのへ賑《にぎ》やかに手をふってみせた。
ローリーとミスター・ローレンスも見送りに来てくれ、ミスター・ブルックは、見るからに頼り甲斐ありそうで、何もかもわきまえていて親切なので、姉妹はたちまちミスター・グレートハート[「天路歴程」の登場人物。主人公の妻の道中につきそった勇者]と命名した。
「行ってきます、みんな。神よ、わたくしどもにみめぐみと力とを与えたまえ」ミセス・マーチは、一人ずつ愛し子にキスをしながらこう小さく唱え、急いで馬車に乗りこんだ。
馬車が出て行くと、ちょうど日がのぼり、後をふりかえるミセス・マーチは、門に立つみんなの顔を、吉《よ》い兆《しるし》のように、朝日がパッと照らしているのを目に収めることができた。送る方でもこれがすぐわかり、にこにこして手を振った。町角を曲がる最後の時に、彼女の目に残ったのは、四つの日を浴びた顔と、その後にボディー・ガードのように立つ老ミスター・ローレンス、そして忠節者のハンナ、それに献身的なローリーの姿だった。
「どうしてみなさんこんなにご親切なんでしょう」
向きなおって顔を合わせた同行の青年の表情に、今のことばの新たな証明となるような、心からの思いやりの浮かんでいるのを目にして、ミセス・マーチは言った。
「誰でもそうしないではいられないと思いますが」ミスター・ブルックは、こう応じながらほんとうに明るい笑顔をみせたので、ミセス・マーチもつい誘われてほほえんでしまった。これで、この長旅は、日の光と微笑と明るいことばと、三つも幸先《さいさき》のいいことがその初めにあったということになった。
「なんだか大地震のあとみたい」ジョオが言う。隣人二人は、姉妹水いらずで休んで気分を一新するようにと、朝食をしに家へ帰ったあとだった。
「うちが半分なくなったみたいよ」メグが心細そうにつけたした。ベスも何か言いたそうに口を開きかけたが、おかあさまのテーブルの上にのっている上手につくろった靴下の山を、黙って指さしてみせるのがやっとだった。あの目のまわるように忙しい夜の最後の時まで、自分たちのことをおもい、自分たちのためにこうした仕事をしてくださったのだ。それはごく小さなことではあったが、かえってズーンと胸にひびいた。そして、健気な決心もどこへやら、みんなそろって誓いを破り、声をあげて泣きだしてしまった。
ハンナは、賢明にも、泣きたいだけ泣かせておき、やがて夕立の晴れそうな気配《けはい》がみえると、コーヒーポットを得物《えもの》に、彼女たちを救いだしに現われた。
「さてさてお嬢ちゃんがた、おかあさまのおことばを思いだしてくだせえまし。もう泣くのはやめになさるだ。さ、みなさんでコーヒーをあがって、元気をお出しなすって。それからちゃんとお仕事をなさるだね、みなさん、お役目を果たさねばいけねえだものね」
コーヒーはこの家ではとくべつの時しかいれないことになっていた。ハンナがこの朝それをいれたのは、まことに当を得ていた。ハンナの説得上手もさりながら、コーヒーポットの口から流れる心をそそる香りにはみんなとても抵抗できなかったのだ。そろってテーブルにつくと、ハンカチをナプキンにかえ、姉妹は十分もするとすっかり元気になっていた。
「≪希望を持ち、つとめて忙しくする≫、これがわたしたちのモットーでしょ、だから、誰がいちばんよくこれを実行できるかやってみない。あたしは、いつも通り、マーチ伯母のとこへ行ってくる。あァあ、またお説教はごめんだな!」コーヒーを飲むうちに、だんだんいつもの元気をとりもどし、ジョオは言うのだ。
「あたしも例によってキング邸に出勤よ。でも、きょうは家にいて何か用事をしてたいんだけれど」メグは、泣きはらした目が気になるのだ。
「だいじょうぶよ。あたしとベスで、家のことはちゃんとやるわ」エイミーは例によっておしゃまな口をきいた。
「ハンナが何をしたらいいか教えてくれると思うわ。おねえさんたちが帰るころには、何もかもちゃんとしておくわ」ベスはさっそく洗いおけとたわしをとりだした。
「心配事って、とてもおもしろいわ」エイミーは、角砂糖をかじりながら、分別顔をして言った。
みんな思わず笑いだしたが、それでふっと気が楽になったようだった。ただ、メグは、砂糖壺になぐさめを見いだす若い淑女に向かって、いけませんよ、と首を振ってみせはしたが。
ハンナが作ってきたいつものパイを目にすると、ジョオはまたシュンとしてしまった。そして、二人は毎日のつとめに出かけて行きながら、いつも母親の顔が見えた窓を悲しくふり返ってみた。もちろん、いつもの顔が見えるわけはなかった。ところが、ベスがこのしきたりをちゃんとおぼえていて、バラ色の顔をした首振りシナ人形のように、二人のほうにしきりにうなずいてみせているのだ。
「あれでこそベスだわ!」ジョオは、うれしくてたまらぬように、夢中で帽子をふった。「じゃ行ってらっしゃい、メグ。きょうはキング家のわんぱくさんも、あんまり世話をやかさないといいけど。おとうさまのこと、あんまり心配しないようにね」別れる時、ジョオはこう言いたした。
「マーチ伯母のほうもおとなしいといいわね。その髪、ほんとによく似合ってよ。とてもボーイッシュで、すてき」メグは、ひょろっとした妹の肩の上に、滑稽なほどちっぽけにみえるざんぎりのちぢれあたまを目にして、笑いたいのをやっとこらえて言った。
「それがせめてもの慰めよ」ローリーふうに帽子にちょっと手をかけた挨拶をすると、冬に毛を刈られた羊のような気分で、ジョオはさっさと歩いていった。
父の容態を知らせる便りがとどき始めると、娘たちはほっと息をついた。病状はまだまだ楽観できなかったものの、最高の看護婦である妻がいたれりつくせりの看病をすること、それだけでもめきめき元気がついたのだ。ミスター・ブルックは、毎日報告を送ってきてくれ、メグは、今のところは自分が家長だからという理由で、それを読む役を一人占めした。そして、その週の終わりごろには、その報告書の内容もめっきり明るくなってきたのだった。最初は、みんな競って便りを書き、ふくれあがった封筒を、四人のうちの誰かが大事にポストに入れにいった――ワシントンと通信しているということで、なんとなく晴れがましいような気分になって。こうした便りの中には、このひとびとの性格がそれぞれよく出ているのがあるので、かりに郵便袋をひとつ失敬したことにして、いっしょに読んでみることにしよう。
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なつかしいおかあさま
こんどのお手紙、どんなにうれしくみんなで拝見したか、とても口では言えません。みんな、うれしさのあまり泣いたり笑ったりする始末でした。ミスター・ブルックはなんてご親切なんでしょう。そして、ミスター・ローレンスのご用が長びいて、いつまでもそちらにいらしていただけて、ほんとに好都合でしたね。だって、おかあさまにもおとうさまにも、あのかたは何かと役にたってくだされるんですものね。
うちでは、妹たちがとてもとてもいい子にしています。ジョオは針仕事も手伝いますし、力仕事はなんでも引き受けるって言い張ります。彼女の≪善行発作《ぜんこうほっさ》≫がそう長つづきしないことをもし知らなければ、過労にならないかと心配するほどなんです。ベスは、時計のように規則ただしく、自分の仕事をやっていますし、おかあさまのおっしゃったことを決して忘れません。おとうさまのことを案じつづけ、ピアノを弾いている時以外は、しずみがちです。エイミーは、わたくしの言うことをよくきいてくれますし、あの子のことはわたくしも特に気をつけてやっています。自分で髪をゆえるようになりましたし、ボタン穴かがりと靴下つぎを、今教えています。エイミーはいっしょうけんめいやっていますから、お帰りになったら、その進歩ぶりをきっと喜んでくださると思います。
ミスター・ローレンスは、やさしい年寄りのめんどり――これはジョオの命名ですけど――のように、わたくしたちの番をしていてくださいます。そして、ローリーはとても親切で、よく遊びにきてくれます。ローリーとジョオが、わたくしたちを陽気にしてくれる役です――おかあさまが遠くにいらっしゃるので、やはり時々とても悲しくなり、孤児のような気分がしてくるものですから。
ハンナは一点非のうちどころがなく、まるで聖者です。ぜんぜんお叱言《こごと》を言いませんし、わたくしのことをミス・マーガレットとよび(これは当然ですけれども)敬《うや》まってくれます。
このとおり、みんな元気で忙しくしています。でも、一日も早くお帰りになるよう、朝晩祈っています。おとうさまにくれぐれもよろしく、こちらはご心配なく。
メグより
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この手紙は、香水をしませたレターぺーパーに美しい字で書いてあった。そして、大判の薄い外国製の紙に、インクのしみだの、おおげさにひねりまわした花文字だので賑やかなつぎの手紙と好一対《こういっつい》だった。
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だいじなだいじなママ
おとうさまにバンザイ三唱。快方にお向かいのことを、すぐに電報で知らせてくださるとは、ブルックあっぱれ、と言いたいところ。あれが来た時、あたし、屋根裏へかけのぼって、神さまにお礼を言おうと思ったんです。でも、あたし、オイオイ泣いて、「ああうれしい! ああうれしい!」って言うのがせいいっぱいでした。ちゃんとしたお祈りでなくても、これで神さまゆるしてくださったんじゃないかしら。だって、心の中はいろいろな想いでいっぱいだったんですもの。
毎日、おかしなことがたくさんあります。今ではかえって楽しいくらい。だって、みんな、いい子でいるのに夢中なので、まるで、山バトの巣にいるみたいなんです。メグが、おかあさまぶりを発揮して、食卓のおかあさまの場所についてる図なんて、おかあさまにお見せしたいみたい。すごくおかしいんです。なんだか一日ごとに美人になってくみたいで、時々ほれぼれするくらいなんです。チビさんたちは、文字通りエンジェルです。そしてあたしは――あたしは、やっぱりジョオで、変わりばえがしません。
あ、そうだ、ローリーと大喧嘩《おおげんか》になりそうだったこと、報告しなければ。ごくつまらないことなんですけど、あたしが言いたい放題のことを言ったら、ローリーがつむじを曲げたんです。あたしはまちがってなかったんですが、言いかたがわるかったもので、あのひと、あたしがあやまるまでもう絶対に来ないって帰っていったんです。あたしも、あやまるもんかって言って、カンカンになりました。その日一日そのままですごしました。なんとも不愉快で、おかあさまに逢いたくてたまりませんでした。ローリーもあたしも、そろって勝気なので、謝《あやま》るってことがなかなかできないんですね。でも、きっとローリーのほうから折れてくれると思いました。だって、正しいのはあたしだったんですもの。彼はあやまりに来ませんでした。そして、夜になって、あたしは、エイミーが川に落ちた時、おかあさまがおっしゃったことを思いだしたんです。で、あたしの小さな聖書を出して読んでみましたら、気持ちがなおってきて、≪怒ったままで日を沈ませまい≫と決心して、ローリーにあやまりにとんでいこうとしました。ところが、ちょうど木戸のところで、バッタリ逢ってしまったのです。ローリーもあやまりに来るところでした。二人とも笑いだし、あやまりっこをして、もやもやしてた気分もすっきりして、また気が楽になりました。
きのうハンナのお洗濯の手伝いをしながら、彼女の言うところの≪ポーメ≫をつくりました。おとうさまは、あたしの下手な詩《ポエム》がお好きですから、お笑い草までに同封します。どうぞ、あたしのかわりに、おとうさまをとびきりぎゅっと抱きしめてあげてくださいね。そして、あたしがするかわりに、おかあさま自分に一ダースキスをなさって。
すっとんきょうジョオより
『石けんの泡に歌える』
洗濯おけの女王われ
白き泡ぶくぶくと
陽気に歌うわがうたを
かいがいしく洗いゆすぎしぼり
たかだかと吊《つる》す干綱《ほしつな》に
広く、冴えたる外の気に
ひるがえるなりわがころも
さんさんと降る日のもとに
われは望む、われらが心と魂より
週の汚れ洗いさりたしと
水と空気のあやしき力
われらをもまた清めなば
この世の垢《あか》を流し去る
大洗濯日とはなろうもの
益ある生の道辺には
三色スミレの香るなり
心せわしく送る身に縁なきは
悲嘆、悩み、また愁《うれ》い
箒《ほうき》を手にしいさましく
心配ごとも掃きとばせ
われは感謝す 来る日ごと
働く仕事われにあり
健康、力、望みをも
ともに得るこそうれしきか
かく言うを知る喜びよ
≪頭よ、おまえは考えよ
心よ、おまえは感じとれ
だが、手よ、おまえはやすみなく
働くためにあるのだ≫と
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おかあさま
みんながたくさんお手紙をかきましたから、あたしはただおとうさまおかあさまを思うこころを、おとうさまにお見せしようと思って、家の中に置いておいたパンジーを根ごと押し花にしたのをお送りするだけにします。毎朝聖書を読んで、一日中いい子でいるようにつとめ、おとうさまのお好きな賛美歌をうたいながら眠ります。でも、今は≪あめなるみくに≫は歌えません。泣きたくなるんですもの。みんなとてもやさしくしてくれますし、おかあさまがいらっしゃらない今は、できるだけたのしく暮らすのにせいいっぱいです。エイミーが残りのページぜんぶに書きたいんですって。だからもうやめますね。おっしゃったことはちゃんとしていますし、時計を巻くこととお部屋の空気のいれかえは、毎日わすれずにしています。
おとうさまが≪ベスのほっぺた≫っておっしゃるところに、どうぞキスしてあげてください。どうぞ、どうぞ、早くおかえりになってください。
小さなベスより
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マ・シェール・ママン
わたくしたちみんな元気でわたくしはちゃんと勉強していますしみんなに≪ばんこう≫したりしません――メグねえさまが、≪ばんこう≫でなくて≪はんこう≫だっておっしゃるから二つ書いておきますどちらでもいいのをとってください。メグねえさまはほんとにやさしくてお夕食にはいつもジャムをたくさんくださいますがジョオねえさんはジャムはわたくしのきもちをあまくするからいいといいます。ローリーはわたくしをちっとも大人あつかいしてくれませんもうじき十三になるのに。そしてわたくしのことをヒヨッコなんて呼んだりわたくしがハティー・キングみたいに「メルシー」とか「ボン・ジュール」とかいいますとフランスごをペラペラっといってわたくしをからかうんです。わたくしのブルーのドレスの袖がすっかり切れてしまったので、メグねえさまがあたらしくしてくれましたけど、前の袖つけがへんてこで、ドレスよりブルーの色がずっとこいのです。わたくしはいやでしたけれどだまっていましたつらくてもよくがまんしますでもハンナがエプロンにもっと糊《のり》をつけてくれソバケーキを毎日つくってくれたらいいと思います。だめでしょうか? この≪じ≫問符、とてもじょうずに書けたでしょ? メグねえさまは、わたくしの≪くどく点≫とつづりはめちゃめちゃでみっともないなんていいますからとてもくやしいのですがとにかくものすごくたくさんすることがあるのでしょうがないんです。アデュー、パパに山のようによろしく――
おん身の愛じょうふかきむすめ
エイミー・カーティス・マーチ
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おなつかしきおくさま
いっぴつさしあげますだ。うんと≪れっぱ≫にやっとりますけん、ごあんしんくだせえ。じょっちゃんがた、みんなおりこうにて、げんきにとんでありっておいでます。ミス・メグは、いいおくさんになんなさるです。だいてえ、こいったことおすきのたちで、ぶったまげるほどなんでもすぐおぼえなさるでごぜえます。ジョオさまは、おさきっぱしりで、なんでもいちばんにとっつきなさるけど、なんてってもしあんがたんねえで、どんな≪けっちゃく≫になっか、まるで≪けんと≫もつきませんで。月曜に、たれえいっぺえ洗濯しなさったども、しぼらねえまんまのりつけしなさったり、ピンクのキャラコのドレスば、青くしちまいなすったにゃ、涙のでるほど笑っちまいましたで。ベスじょっちゃまは、いちばんのおりこうにて、手じゅんよく、なんでもちゃんちゃんとやんなさるで、大だすかりをいたしますだ。なんでもおぼえたがんなさって、マーケットさ出かけて、まだおちっちゃいに上手に買いものまでなさいますで。ほんのちょっとおてつだいばすれば、家計ぼもきちんとつけなさいますで。これまでんとこは、すべてきりつめてやっとりますで、おいいつけとおり、コーヒーは週に一回だけ、じょっちゃまがたにあげることにしとります。そのほか、≪えいよ≫のあるしっそなものばかりさしあげとりますだ。エイミーちゃまもききわけさよく、ええ服はきたがったり、あめえもんばっかたべたがったりはしなさんねえでこぜえます。ローリーぼっちゃまは、いつもどおりの元気にて、家の中さひっくりかえるさわぎもしじゅでございます。けんど、そんでじょうちゃまがたもようきになんなさるで、したいようにさせといてあげますだ。おとしよりのだんなさまは、山のように物をくださるで、こまっちまうほどですけんども、しんせつあってのことなれば、わたしめの口だすせきじゃねえと思いますだ。パンがふくらみましたで、きょうはこれにてやめます。だんなさまにどうぞよろしく、もう≪へええん≫とやらもみおさめになすっておくんなさいまし――
かしこ
ハンナ・マレット
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二号病棟付き婦長殿
ラパハノック河畔まったく平静、部隊全員コンディション上乗なり。兵站《へいたん》部運営優秀にして、テディ大佐|麾下《きか》の警備隊は寸刻も位置を離れず、司令官ローレンス大将は連日閲兵を行ない、兵站部長マレットは宿舎の整頓につとめ、ライオン少佐[犬のことをさす]は夜間|歩哨《ほしょう》に当たる。二十四門の礼砲は、ワシントンよりの勝報に際して轟《とどろ》き、司令部にて第一礼装の観兵式取り行なわれたり。司令長官はここに貴下のご健闘を祈り、不肖《ふしょう》小官もこれに準ずるものなり。
テディ大佐
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親愛なる夫人
令嬢方みなまことにお元気。ベスと孫より、御地のご様子はすべて承《うけたまわ》りおり侯。ハンナは召使の範ともすべき仁にて、美しきメグ嬢をドラゴンそこのけの勢いにて護りおり候。上天気つづきにて同慶《どうけい》の至り。ブルックに何事なりとお申し付けくだされたく、万一、お手元不如意の節は、ご遠慮なく、拙者名義の預金を、ブルックに命じ、おひきだしくだされたし。夫君は何一つご不自由あるまじく。ご快方に向かわれし由、大慶至極《たいけいしごく》。
敬具
ジェームズ・ローレンス拝
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第十七章 誠実なるもの
一週間というもの、この古い家を満たしたいい行ないたるや、近所近辺に配給してまわるほどの量に達した。それはまったく驚くほど目ざましいものだったのだ。誰も彼も人間とは思えぬ崇高な心がけで、自分を虚《むな》しくすることが大流行だった。が、父が快方に向かったので、最初の懸念《けねん》が消えてしまうと、娘たちの賞賛に価する努力にもついゆるみが出てきて、いつの間にやらもとの生活に逆もどりということになりかけていた。べつにモットーを忘れてしまったわけではなかったのだが、希望をもち忙しくすごすということを安易に考えがちになっていた。そして、あれほどすさまじい努力をしたのだから、努力も一日くらいは休養日があってもいいはずだという気がして、ついずるずると、その休暇をのばしたという次第だった。ジョオは、ざんぎり頭をよくくるんでおかなかったせいで、わるい風邪をひきこみ、よくなるまで家にいるように言われていた。マーチ伯母は、風邪ひきに本を読んでもらうなどまっぴらだと言うのだ。ジョオは、これ幸いとばかり、屋根裏から地下室までせっせと探しまわったあげく、ソファーに腰をすえて、風邪薬と何冊かの本で風邪をなおそうということにした。エイミーは、芸術と家事とは両立しないことを知り、また泥まんじゅうづくりに没頭しはじめた。メグは、毎日教えに行き、家では縫物をしたり、したつもりになったりしていたものの、長い長い手紙をおかあさまに書いたり、ワシントン報告を何度も何度も読むことに大方の時間を費していた。ベスだけが、ごくたまに怠けたり悲しんだりはしたものの、忠実に自分のつとめにいそしんでいた。
毎日、こまごました家の仕事はきちんとやり、姉や妹が忘れてしなかった分まで始終ひきうけてしていた。家は、振り子がどこか訪問に出かけてしまった時計のように思えた。おかあさまが恋しくなったり、おとうさまのことが心配になったりすると、ベスは、ある納戸《なんど》に入り、ある古いガウンに顔を埋めて、ほんの少しだけ泣いたり、一人で小さな祈りを捧げたりしていた。ベスがめそめそ発作をおこしたあと、何でそんなに急に元気になるのか、誰もわからなかったが、みんな、ベスがじつにやさしく、力になるのを感じ、ちょっとしたことにも彼女の慰めのことばや助言を求めに行く癖がついてきた。
こんどの経験が、性格テストになろうとは、誰も気がついていなかった。そして、最初の興奮期がすぎると、じつにりっぱにやってのけたから、ほめてもらってもいいと言う気になり始めていた。たしかによくやりはした。だが、彼女たちのまちがいは、せっかく始めた善行をやめてしまったことにあり、やがて、非常な心配と後悔を通じて、このことについての教訓を得ることになったのだ。
「メグねえさん、フンメル一家の様子を見にいってくださらない。おかあさまが、あの人たちを忘れないようにっておっしゃったでしょ」ミセス・マーチが出発してから十日たったある日、ベスはこう言いだした。
「でも、きょうはとても疲れてるから」いい気持ちそうにロッキング・チェヤーをゆすりながら縫物をしていたメグはこうことわった。
「ジョオねえさんは?」とベス。
「風邪にわるいわ、この荒れもようじゃ」
「もうなおったんじゃなかったの」
「ローリーと出かけるくらいならいいんだけど、まだフンメル一家訪問は無理ね」ジョオは、笑いながら言ったものの、この手前勝手な言い分にはさすがにてれくさそうだった。
「なぜ自分で行かないのよ」メグがきいた。
「あたしは毎日行ってたわ、でも、赤ちゃんが病気なのよ。どうしたらいいかわからないんですもの、あたし。ミセス・フンメルは働きに出てくでしょ、だからロットヘンが世話をしているわ。でも、だんだん悪くなるみたいだから、おねえさんかハンナが行ってあげなきゃいけないと思うわ」ベスが熱心に言うので、メグはあした必ず行くと約束した。
「ハンナに何か食べるものをもらって、それを持ってってやればいいわ、ベス。外の空気を吸うといい気分になるわよ」ジョオは弁解がましくつけくわえる。「行きたいんだけど、これ書きあげたいからね」
「あたし、頭が痛いし、くたびれてるの、だから、どちらかに行ってもらえるかと思って」とベス。
「エイミーがもうすぐ帰ってくるわ。あの子に頼めば代わりに行ってくれるわよ」メグが知恵をかした。
「じゃ、あたし少し休んで、待っててみるわ」
そういうわけで、ベスはソファーに横になり、姉たちはそれぞれの仕事にもどり、フンメル一家のことなど忘れてしまった。一時間がすぎた。エイミーは帰ってこない。メグは、縫っていた服を着てみに、自分の部屋に行き、ジョオは物語を書くのに夢中だったし、ハンナは台所のかまどの前でこっくりこっくりやっていた。そして、ベスは、しずかに帽子をかぶり、かわいそうな子どもたちのために、籠の中にあれこれつめると、重い頭で、忍耐ぶかい瞳に悲しみのいろを浮かべて、冷たい外気の中へ出ていったのだった。
ベスが帰ったのは、もうずいぶん遅くなってからで、そっと階段をのぼり、おかあさまの部屋にとじこもってしまうのを、誰も気がつかなかった。三十分後に、ジョオが、おかあさまの納戸に探しものに行って、薬戸棚の前にすわっているベスを見つけた。沈みきった顔で、目を真赤にして、手にはカンファーの瓶《びん》を持っていた。
「こいつはびっくり! どうしたのよいったい」ジョオが叫び声をあげると、ベスは、傍へこないように、とでも言うように手で制して、低くたずねた。
「おねえさん、猩紅熱[しょうこうねつ。法定伝染病のひとつ。子ども多く、発疹ができる]はもうかかったわね?」
「ずっと前にね、メグがかかった時。なぜ?」
「じゃいいわ。ねえ、ジョオねえさん、赤ちゃん、死んだのよ!」
「どこの赤ちゃんよ」
「フンメルさんとこのよ。おかあさんが帰る前に、あたしの膝で死んじゃったの」ベスは泣きじゃくる。
「まあ、なんてこと、さぞこわかったでしょ! あたしが行くべきだったわ」おかあさまの大きな椅子にすわり、後悔のいろを浮かべ、ジョオは妹を抱きしめた。
「こわくなんかなかったわ。ただとってもつらかったの! 一目見て、すぐとても悪いってわかったのよ、でも、ロットヘンが、おかあさんがお医者さまをよびにいったって言うので、あたしが赤ちゃんを抱いてあげて、ロットヘンを休ませたの。よくねんねしてるみたいだったのに、急に小さな泣き声をたてて、ブルブルってふるえると、ぐったりしてしまったの。あたしがあんよをあっためて、ロットヘンがミルクを飲ませようとしたけど、ぜんぜん動かないの。それで死んだんだってわかったのよ」
「泣くんじゃないのよ、ベス! それからどうしたの」
「おばさんがお医者さまを連れてもどってくるまで、そっとだいていたわ。お医者さまは、赤ちゃんはもう死んでるって言って、ハインリッヒとミンナを診《み》たの、二人とものどを痛がってたもので。≪猩紅熱だね、おかみさん、もっと早く診せなけりゃだめじゃないか≫って、怒ったように言ったわ。フンメルおばさんは言ったのよ、貧乏なので、自分でなおそうとしたけど、もう手おくれになってしまったから、せめてほかの子どもを助けてくださらないか、お払いはできないのでお情けにすがるしかないのだけれどって。お医者さまはやっと笑顔になって、少しやさしくなったわ。でも、ほんとにかわいそうで、あたしもみんなといっしょになって泣いてたの。そうしたら、急にお医者さまがあたしを振りかえって、早く家へ帰って、すぐにベラドンナをのみなさい、でないとあたしもかかるって言ったの」
「うそよ、かかりゃしないわよ!」ジョオは、ぎょっとして、大事な妹を抱きよせた。「ああベス、もしあなたが病気になったりしたら、あたし、自分をゆるせないわ! ああ、どうしたらいいだろう」
「そんなに心配しないで、そう重くはないとおもうわ、おかあさまのご本でみたら、初めは頭が痛くて、のどが痛くなって、今のあたしみたいにいやな気持ちがするんですって。だから、ちゃんとベラドンナをのんだの。もう大分よくなったみたいよ」ベスは、熱い額《ひたい》につめたい手をあてて、わざと元気そうにしてみせる。
「おかあさまがいらしてくださりさえしたら!」その本を手に、ジョオは叫ぶのだった。急にワシントンがこの世の果てほどにも遠くなったような気がして。開けてあったそのページを急いで読み、ベスをじっとみつめ、額に手をやり、のどをのぞいてみてから、深刻な顔になって言った。
「あの赤ちゃんのとこへ一週間も前から通ってたのね。それに、あとの子どもたちにももううつってる。だから、ベス、あなたもどうしてもなると思う。あたし、ハンナをよんでくる。病気のことなら何でも知ってるから」
「エイミーは来させないで。まだかかってないし、あたしからうつしたくないから。おねえさんたちはまたなることはないんでしょうね?」ベスは心配そうにきいた。
「ないと思うけど。あたしにはうつったっていい。当然の罰だもの。あなたを行かして、あんなろくでもない物なんか書いてたりする利己主義なやつなんかには!」ジョオはつぶやきながら、ハンナに相談をしに出ていった。
忠節もののハンナはパッと目をさまし、たちまちてきぱきと事を運びだした。ジョオには、心配しないでいい、誰でも猩紅熱にはかかるのだ、手当てさえよければ、死んだりする病気じゃないと言ってきかせた。ジョオは、ほかならぬハンナのことばなので、すっかり信用して、ずっと気が楽になりながらそろってメグを呼びにいった。
「さて、これからどうするか、申しあげますだ」ハンナはベスを診《み》ていろいろきいてから二人に言いわたす。「バングズ先生にきていただいて、診察をおねがいいたしますべ、じょっちゃま、わたしらの思ったとおりかどうか。それから、エイミーさまはマーチの大奥さまのお宅さ、おあずけいたしますべ。用心にこしたこたねえ、なにせまだお小さいことだで。じょうさまがたの中、一人はおうちにいて、一日二日、ベスじょうちゃまのお相手をしていただくことにしますだ」
「あたしがいるわ、もちろん、いちばん上だから」心配そうな顔で、自責にかられているようにメグは言いかけた。
「あたしがついてるわ、だって、ベスを病気にしたのはあたしのせいなんだもの。おかあさまに、用はなんでもしますなんて約束しときながら、ベスにさせてたりしたんだから」ジョオはきめこんでいる。
「どちらにいていただきますかい、ベスじょっちゃま? お一人おいでになりゃいいからね」とハンナ。
「じゃ、ジョオねえさん」姉の胸に頭をよせかけて、安心しきったようにベスは言い、これでこのことは決まった。
「あたし、エイミーに話してくるわ」少し気をわるくはしたものの、ジョオとちがって、看病が苦手なメグは、結局はほっとしたのだ。エイミーは即座にだだをこねだし、マーチ伯母のとこへ預けられるくらいなら、猩紅熱になったほうがましだと言い張ってあとへは引かなかった。メグは、よくわかるように言ってきかせたり、なだめたり頼んだり、きつく命令したりしてみたがいっこう効果がなかった。エイミーは、絶対行かないとがんばるのだ。メグは困りはててエイミーをそこへおき、ハンナに相談にいった。
メグがもどってこないうちに、ローリーがふらっと客間へ入ってきて、ソファーのクッションに顔をあててすすり泣いているエイミーをみつけた。彼女は、ローリーが慰めてくれるものと、ことの次第を話して訴えた。だが、ローリーは、ポケットに手をつっこんで、低く口笛を吹きながら、ぎゅっと眉をよせ、何やら真剣に考えこんで、部屋の中を歩きまわるばかりだった。やがて、彼はエイミーと並んですわり、例の説得上手な調子できりだした。
「ね、きみはもう子どもじゃないんでしょ、よく考えて、みんなの言うとおりになさい。あ、あ、泣かないの、ぼくがすばらしい計画を思いついたから。きみは、マーチ伯母さまのとこへ行く、そうすると、ぼくが毎日誘いにいって、ドライヴや散歩に連れてってあげる。そしてうんと楽しくすごす。どう、この案は? ここでごろごろしてるより、よっぽどよかないかな?」
「あたし、まるで邪魔ものあつかいに、あずけられちまうのなんかいや」エイミーは不機嫌な声で言いだした。
「おやおや、きみが病気にかからないためなんだぜ。きみだって、猩紅熱にかかりたかないだろ?」
「もちろんだわ。でも、きっとかかるわよ、だって、始終ベスといっしょにいたもの」
「だからこそ、すぐ行かなけりゃいけないのさ。そうすればかからないですむかもしれないんだ。空気が変わって、よく気をつけてれば、きっと大丈夫だと思うよ。それに、たとえかかっても、ずっと軽くすむだろうし。わるいこと言わない、できるだけ早くここを出るんだな。猩紅熱ってやつは、バカにできないですぜ、お嬢さん」
「でも、伯母さまのうちなんてつまらないし、すごく怒りんぼなんだもの」エイミーはさすがにこわくなったような顔つきをした。
「つまらなかないさ、だって、ぼくが毎日行って、ベスの容態を話してあげるし、遊びに連れだしてあげるもの。あのおばあさまはぼくがお気にいりだし、ぼくもとびきりやさしくしてあげるから、ぼくらが何をしたって、ガミガミ言ったりなさらないよ」
「あのパックがひく馬車で迎えにきてくれる?」
「紳士の名誉にかけて誓うよ」
「そして、毎日きっときてくれる?」
「もちろんさ」
「ベスがよくなったら、すぐ連れにきてくれる?」
「すぐだとも」
「そして、お芝居にもつれてってくれる?」
「おゆるしさえあれば、何べんだって」
「そう――じゃあ――行くわ」エイミーはやっと陥落《かんらく》した。
「いい子だなあ! メグを呼んで、敗けたって言いなさい」ローリーは、エイミーの頭をなでてやったが、敗けたはともかく、これは大いにエイミーのプライドを傷つけたのだった。
メグとジョオは、この奇蹟のあとを見ようと二階からかけおりてきた。エイミーは、急に一段とえらくなり、じつに犠牲的な行為でもするような気分になりながら、もしお医者さまが、ベスが病気になるとおっしゃったのなら、伯母さまの所へ行くと約束した。
「どんな様子なの、ベスは」ローリーは、小さいベスを特別大切に思っているので、顔には出すまいとしていても、ひどく心配しているのだ。
「おかあさまのベッドに寝てるわ。少し気分がよくなったらしいの。赤ちゃんが死んだのでショックを受けたのよ。きっと、ただの風邪だと思うわ。ハンナもそう言ってはいるけれど、とても心配そうな顔をしてるの。だからなんか落ちつかなくて」メグは答えた。
「どうしてこう悪いことばかり起こるんだろう」ジョオは、くやしそうに髪の毛をかきまわす。「やっと一つ山を越したと思ったらまたつぎでしょ。おかあさまがいらっしゃらないから、何に縋《すが》ったらいいのか、まるで頼りないんだもの」
「そのヤマアラシ・スタイルはやめたほうがいいな、似合わないもの。まずその髪の毛をなでつけて、ジョオ、おかあさまに電報を打つなら、局へ行けとか、そのほかなんでも、ぼくに言いつけたらどう」ローリーはたずねた。自分の友達が、せっかくの美しいものを失ったことが、いまだに残念でならないのだ。
「そこなのよ、問題は」とメグ。「ベスがほんとにわるいのなら、おかあさまに知らせなけりゃいけないと思うの。でも、ハンナは、おかあさまはおとうさまを置いてくるわけにいかないから、知らせてもお二人を心配させるだけだから、いけないって言い張るのよ。ベスはきっとすぐよくなるし、ハンナは看病のしかたもわかってることだし、おかあさまはハンナの言うことをたててやるようにっておっしゃってたから、いちおうその意見に従うべきなんでしょうけど、なんとなく、それでいいのかしらって気がしてならないの」
「ウーン、そうだな、どっちとも言えないね。お医者さまに診ていただいてから、うちのおじいさまにきいてみたらどうだろう」
「そうするわ。ジョオ、早くバングズ先生をお迎えにいってきて」メグは命令した。「先生がいらしてくださらなけりゃ、何もきめられないわ」
「ジョオ、じっとしてなさい。この家の使い走りはぼくの役だよ」ローリーは言うが早く帽子を手にした。
「忙しいんじゃない、だって――」メグが言いかける。
「いいえ、きょうの分の勉強はもうやっちまいましたよ」
「お休みでも勉強するの?」ジョオはきいた。
「隣人の示してくださるお手本に従ってますのでね」そう答えると、ローリーは勢いよく部屋を出ていった。
「あの子、じつに有望だわ」彼が垣根を一息にとびこすのを、わが意を得たりと笑顔で見送りながら、ジョオは偉そうに言う。
「とてもよくやるわね――子どもにしては」メグは、話題の主《ぬし》には興味がないので、まるで気のりのしない返事をした。
バングズ先生がみえ、ベスは猩紅熱の徴候《ちょうこう》があるが、おそらく軽くすむだろうと言った。ただし、フンメル一家の話を聞くと、ただならぬ顔をした。エイミーは、すぐに隔離《かくり》を命じられ、感染の危険を予防する薬その他を与えられて、ローリーとジョオに付き添われて大さわぎで出ていった。マーチ伯母は、例によって、彼女一流のもてなしぶりを発揮した。
「こんどはいったいなんの用だね」眼鏡ごしにジロリと一行をながめて老人は言い、その椅子の背にとまったオウムがとたんにわめきたてた。
「出ておゆき。男の子はお入りでないよ」
ローリーは窓際に遠慮し、ジョオが事の次第を告げた。
「言わないことじゃない。貧乏人のところなぞに出かけて、いらぬおせっかいするからだよ。エイミーは泊めてあげるよ。そのかわり、よく用をたすんだよ――病気でないのならね。どうやらすぐにもなりそうだね、あの顔色じゃあ。泣くんじゃないよ、おまえ、シクシク泣かれるのは大嫌いだよ、わたしは」
エイミーは、たしかに、一触即発だった。だが、ローリーが、ぬけめなくオウムの尻尾《しっぽ》をひっぱったので、仰天したポリイはギャッとひと声ないてから、「なんてこった!」とわめいた。その言いかたがあまりおかしかったので、エイミーはべそをかく代わりに笑いだしてしまった。
「おかあさんから何か言ってきたかい」老人はおよそ愛想のないききかたをした。
「おとうさまがとてもよくおなりになったそうです」ジョオは、エイミーにつられて笑うまいとつとめながら答えた。
「そうかい。まあそれも長くはつづくまいよ。マーチはからきし意気地がない男だからね」これが、この老人にしてみれば、うれしいという表現なのだ。
「ハ、ハ、ハ! 冗談じゃないよ、嗅《か》ぎタバコでもおつまみな、サヨナラ、サヨナラ!」とまり木の上でヒョコヒョコとびはねながらポリイは金切り声をあげ、老人のレースつきのキャップに爪をたてた。ローリーが後からひっぱったのだ。
「おだまり、無作法なおいぼれめ! さ、ジョオ、早くお帰りよ。こんなに遅くまでうろつきまわるんじゃないよ、このおっちょこちょいの――」
「おだまり、無作法なおいぼれめ!」ポリイがまたわめき、弾《はず》みをつけて椅子からすべりおりると、この最後のやりとりをお腹をかかえて笑っているおっちょこ息子をつついてやろうと走ってきた。
「とっても我慢なんかできやしないわ、きっと。でもやってみなけりゃ」老人の所へ一人置いていかれて、エイミーは思うのだ。
「さっさとお行き、唐変木《とうへんぼく》!」ポリイが金切り声をあげた。この失礼千万なことばを聞いては、ついにエイミーもシクシク泣きを押えきれなくなった。
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第十八章 暗い日々
ベスは本物の猩紅熱になり、それもハンナとお医者さまは別として、みんなが思っていたよりずっと重かった。メグもジョオも、病気のことは何もわからないし、ミスター・ローレンスは、老令でもあり、病人を見舞うのは禁じられていたので、ハンナがすべて自分流のやりかたで看病をし、バングズ先生は忙しい暇を縫ってはあらゆる手をつくしてはくださったが、おおかたはこの手馴れた看護婦にまかせていた。
メグは、キング家の子どもに伝染させてはいけないからということで、家にずっといた。ワシントンヘの手紙にベスの病気のことを何も書けないので、なんとなく気がとがめ、気になってならなかった。母に嘘をつくのはよくないとは思うものの、ハンナの意見をたてるようにと母から言われていて、そのハンナは、「おくさまにお知らせ申して、こんなつまらねえこんで心配おさせするんなど、とんでもねえだ」と言い張っているのだ。
ジョオは、昼夜ベスにつきそっていたが、それも大してつらい役目ではなかった。ベスはじつに我慢づよく、じっと苦痛に堪え、意識さえはっきりしていれば、つとめておとなしくしていたからだ。けれど、やがて、高熱にうかされて、しゃがれてきれぎれになる声でうわごとを言い始めるようになり、まるであの小さなピアノを弾いてでもいるように、掛けぶとんの上で指を動かしたり、節《ふし》を歌えるわけのないほど腫れふさがった咽喉《のど》で、しきりに歌うようなしぐさをするのだった。時には、まわりにいる家のものの顔さえ見分けられないとみえ、名前をとりちがえて呼んだり、なぜ来てくれないの、と見えない母の姿を求めたりするようになった。
ジョオは、どうなることかと、居てもたってもいられない気持ちになり、メグもほんとうのことを書かせてくれと頼み、さすがにハンナまでも、「まだそれほど危いってことでないだけんど、考えてみますだ」と言った。あいにく、そこへとどいたワシントンからの便りに、またもや心配が重なることになったのだ。それは、ミスター・マーチがまたぶり返し、当分帰宅は無理だろう、といった文面の手紙だった。
来る日も来る日もまっくらで、家の中には悲しみとさびしさだけがあるばかりだった。仕事をしていながらも、何かいいことのあるのを待ちながらも、姉妹の心は重かった。そして、前にはあれほど幸せだったこの家に、死が不吉な影を落としはじめた。縫物の上に何度も涙を落としながら、お金で買える贅沢よりはるかに尊い数多くのものに、どれほど恵まれていたか、メグが一人しみじみ感じたのもこのころだった――愛、護り、平和、健康といったこの世の祝福の価値を。そして、ジョオもまた、この時になって、ベスがどんなにすぐれた、やさしい性質だったかを思い知ったのだ――暗くした病室に、苦しんでいる妹を昼も夜も見つづけ、そのいたましい声を耳にして日を送っていて。みんなの心のずっと奥の大切な場所をみたしているベスをあらためて感じ、ほかの人のために生きようとするベスの、自分のことは何も考えない行為の尊さを、そして、こうした素朴な徳を実行することによって、家の生活を楽しいものにしてくれていたのを、あらためて認識したのだ。こうした美徳は、おそらくその気さえあれば誰でも身につけることができ、才能、富、美などより、はるかに愛され尊ばれるべきものなのだろうが。
そして、エイミーは、その島流しの生活で、家に帰りたくて矢も楯《たて》もたまらず、そしてどれほどベスのために何かしてあげたいと思ったことだろう。今は、家の仕事はどんなことでも、つらいとかいやだとかいうことはないように思え、自分が怠けた仕事まで、ベスがいつも気持ちよくやっていてくれたのを思いだし、後悔と悲しさでいっぱいになるのだった。
ローリーは、また、落ちつかない幽霊のように、始終出たり入ったりしてうろつきまわり、ミスター・ローレンスは、夕暮れ時を楽しいものにしてくれた隣家の切ない友を思いだすにしのびず、グランドピアノに鍵をかけてしまった。誰もがベスのことを案じていた。牛乳屋もパン屋も食料品屋も肉屋も、みんな容態をききたがった。フンメルのおかみさんは、自分の不注意をわびに来て、ミンナの経かたびらを貰って帰った。近所の人たちは、何かと見舞いの品をとどけてくれ、一日も早くよくなるようにと言うのだった。そして、ベスをよく知っている者でさえ、内気なベスがそれほどたくさんの知り合いを持っていようとは考えてもいなかったので、たびたびびっくりするばかりだった。
ところで、ベスは、あの縫いぐるみ人形のジョアナをそばにねかせていた。熱にうかされている時でさえ、彼女はこのあわれな孤児を忘れてはいなかったのだ。猫にも逢いたくてたまらないのに、病気がうつるからと言って連れてこさせなかった。そして、意識がはっきりしている時は、ジョオのことばかり心配していた。エイミーにもやさしい伝言をことづてるし、おかあさまにすぐ手紙を書くからと伝えてと頼んだりもした。そして、何度となく鉛筆と紙を取ってもらい、おとうさまが気をわるくなさらないようにと、せめてひとことでも何か書こうとするのだった。
けれど、やがて、こうした正気にもどる時間もほとんどなくなってしまい、何時間もの間、苦しそうに転々として、とりとめもないことを口走ったり、ただ深い昏睡《こんすい》をつづけるばかりになってしまった。バングズ先生は日に二回往診にみえ、ハンナは徹夜で看病し、メグはいつでも電報を打てるように、頼信紙《らいしんし》を机の中に用意し、ジョオはベスのそばを一刻も離れなかった。
十二月一日は、彼女たちにとって、まったく冬そのものの日だった。冷たい風が吹きまくり、雪がしきりに降り、この年も余命いくばくもないように思えた。バングズ先生は、その朝の往診時、ベスをいつもより長く診ていたが、その熱にほてる手を両手でじっと握っていて、またそっと置くと、低い声でハンナに言った。
「ミセス・マーチがご主人の傍を離れることがもしもできるようなら、すぐお呼びしたほうがいいですよ」
ハンナは黙ってうなずいた。唇がわなわなふるえている。メグは、このことばを耳にしたとたん、手足が萎《な》えてでもしまったように、くたくたっと椅子にくずれこんでしまう。ジョオは、真青な顔になって一瞬立ちすくんでいたが、やにわに居間にかけこむと、頼信紙をひっつかみ、外套や帽子をつけるのももどかしげに、吹雪《ふぶき》の中にとびだしていった。彼女はすぐに帰ってきて、音をたてないように外套をぬいでいるところへ、ローリーが一通の手紙を手にやってきて、ミスター・マーチが快方に向かっていると告げた。ジョオはうれしくその便りを読みはしたが、暗く沈んだ心はいっこうに晴れず、見るからにつらそうな顔をしているのに気づいて、ローリーはあわててきいた。
「どうしたの、ベスがわるいの?」
「今、おかあさまに電報を打ってきたわ」ジョオは、ゴムのブーツをひっぱりながら、思いつめた表情をしている。
「えらいジョオ! きみ、独断でそれをやったの?」ローリーは、ジョオを玄関の椅子にすわらせ、ぶるぶる手がふるえているので脱ぎづらくて困っていたブーツをぬがしてやった。
「ちがうわ、先生がそうしなさいっておっしゃったの」
「まさか、そんなにわるいんじゃ、ジョオ?」ローリーは、ぎくっとした顔になり、思わず声を高めた。
「そうなの。もうあたしたちの顔もわからないし、緑のハトのむれのことも言わないわ――ほら、壁紙のブドーの葉の模様のことをそう言ってたでしょ。なんだかあたしのベスみたいじゃなくなってる。だのに、誰にすがることもできないのよ、こんなにつらいのに。おとうさまもおかあさまもお留守で、神さまでさえ、あんまり遠くにいらして、あたしには見えないような気がして」
ジョオは、とめどなく流れおちる涙に頬をぬらし、闇をさぐるように頼りなげに手をさしのべた。ローリーは、その手をしっかり握り、こみあげてくる涙をぐっと押さえて、のどをつまらせながらも一心にささやいた。「ぼくがいるよ。ぼくにすがりなさい、ジョオ!」
ジョオは声も出なかったが、彼のことばどおりその手にすがった。真心のこもった血のかよった手にあたたかく握りしめてもらって、ジョオのつらさは柔らぎ、この苦悩の時に彼女を支えてくださる唯一のもの、聖なる御手近くへと導かれていくような気がしたのだ。ローリーは、何かやさしい慰めのことばをと思ったものの、ふさわしいことばは何一つ浮かんでこないので、ただ黙って彼女のそばに立ち、その母がいつもしていたように、うつむいた頭をそっとなでてやるばかりだった。
だが、何よりもこれがいちばんよかったのだ。どんなにことばをつくして慰めても、これほどの慰めは与えられなかっただろう。ジョオはローリーの胸に溢れる思いやりを感じとり、沈黙のうちに、愛情が悲嘆に与えてくれるいたわりのやさしさを知ったのだ。
「ありがとう、テディ、とっても気持ちが楽になったわ。もうそんなに心細くはないし、どういうことになっても耐えられそうよ」
「最善の場合だけを望むことだな。それがきみを力づけると思うよ。おかあさまもすぐに帰っていらっしゃることだし、そうしたら何もかもよくなる」
「おとうさまがよくなっていらして、ほんとによかった。今なら、おかあさまもおとうさまを置いていらしても、そんなにつらくないでしょ。あァあ! ありとあらゆる難儀がいちどきにワッと押しよせてきたみたい。中でも、あたしがいちばんの重荷をしょってるような気がする」ジョオは深い息をつき、涙にぬれたハンカチを膝にひろげた。
「メグは力にならないの?」ローリーは憤然とした顔をした。
「そりゃあなるわ。メグもいっしょうけんめいよ。でも、あたしほどベス思いじゃないし。それほど悲しまないと思う、あたしみたいには。ベスはあたしの良心なのよ。どんなことがあっても、ベスを失うことはできない。ぜったいに、ぜったいに!」
ジョオはぬれたハンカチにガバと顔を伏せ、堰《せき》をきったように泣きくずれた。今の今まで、健気《けなげ》にもこらえつづけ、ただの一滴も涙をこぼさなかったのに。ローリーも、そのいたましい嘆きを前にしては、溢れてくる涙をあわててこすりはしたが、のどもとがこみあげてくるのを押さえ、唇のふるえがとまるまでは、物も言えなくなってしまった。それは男の子にあるまじき女々《めめ》しいことだったかもしれないが、どうしようもなかったのだし、ローリーがこうあったことを、わたくしはうれしく思うのだ。
やがてジョオの泣きじゃくりも静まると、ローリーはつとめて明るく言うのだった。「ベスはきっと助かるとも。あんなにいい子だし、みんながこんなに愛してるんだもの、神さまもまだお傍にお召しにはなるまいよ」
「人に好かれ、善良な人って、みんな早く死ぬわ」ジョオは低くつぶやいた。だが、ローリーのことばに励まされて元気がでてきたので、心の不安と疑惑とは消えなかったが、もう泣くのはやめたのだ。
「かわいそうに、疲れはてたんだね。そんなに心細がるなんて、きみらしくない。ちょっと待って。あッという間に元気にしてあげる」
ローリーは、階段を一段おきにのぼって行き、ジョオは、疲れた頭を、ベスの小さな茶色の帽子に伏せた――それは、病気になった日にそのテーブルにベスがのせたまま、誰も片づけなかったのだ。その帽子は、何か神秘的な力でも持っていたとみえ、やさしい持ち主の素直な心がジョオのからだに入っていったようだった。そして、ローリーがグラスについだブドー酒を持ってかけおりてくると、彼女はニッコリしてそれをとり、しっかりした声で言ったのだ。
「ベスの健康を祈って! あなたは名医だわ、テディ、そして、この上なくやさしい友達よ。このお礼、いったいいつできるかしら?」彼の思いやり深いことばに、ジョオの悩み疲れたこころはすっかり癒《い》やされたのだ。
「そのうち請求書を送りますからね。それに、今夜、ブドー酒一本飲んだ以上にきみの心をしんから暖ためるいいものをあげるよ」ローリーは、何やらすてきな喜びごとを隠している顔で、にこにこしてジョオをみつめる。
「何よ」好奇心にかられ、一瞬悲しささえ忘れ、ジョオは叫んだ。
「きみのおかあさまに、きのう電報を打ったら、ブルック先生からすぐお発ちになったって返事が来たんだ。だから、今夜にはお着きになる。そうしたら何もかもよくなるよ。よかったでしょ、電報打っといて?」
ローリーは、一気にしゃべり終わると、上気して興奮に目を輝かした。姉妹をがっかりさせたり、ベスに障《さわ》ったりしてはいけないと思ってこの企《たくら》みを内緒にしていたからだ。ジョオはさっと血の気を失うと、椅子からとびたち、ローリーが話し終わったとたん、いきなりぎゅっと抱きついて彼を仰天させたかと思うと、あまりのうれしさに叫びたてた。「ああ、ローリー!おかあさま! なんてうれしいんでしょ!」こんどは泣きだしはしなかったが、ヒステリックに笑いだし、ぶるぶるふるえ、ローリーにしがみついた――この突然のニュースに動転してしまいでもしたように。
ローリーは、もちろん度肝《どきも》をぬかれはしたが、じつに落ちついていた。ジョオの背をやさしくなでてやり、気がしずまってきたのをみとどけると、てれくさそうに一、二度キスをした。ジョオははっとなって、とたんにすっかり正気に返ってしまった。手摺《てす》りにつかまってからだを支えると、そっとローリーを押しやり、きれぎれに言った。
「やめて。そんなつもりじゃなかったの。とんでもないことしちゃって。でも、あなたがあんまりいい人なんで、ついとびついたりしちゃったんだわ。ハンナが頑張ってたのに、かまわず電報打ってくださって。すっかり話してよ、でももうお酒は飲ませないでよ。またバカなことしでかすといけないから」
「ぼくは平気だぜ」ローリーは笑い、ネクタイを直した。「つまりね、ぼく、気が気じゃなくなってきたんだ。おじいさまもね。ぼくたちには、ハンナがあんまり権力をふりまわしすぎてると思えたし、こうなっては、やはりおかあさまに知らすべきだって気がしてきたんだ。もしもベスが――つまり、もしものことがあったら、おかあさまは、きっとぼくらをゆるせないだろうと思う。だから、おじいさまの口から、なんとかしなけりゃいけないって一言わせるようにしむけたのさ。で、きのう、郵便局へ飛んでったんだ。先生がむずかしい顔をなさったから、ぼくが電報を打とうかって言った時、ハンナがぼくの頭をぶちのめしかねない勢いで怒ったね。あれできっかけがついたんだ――だって、他人に指図だてされるのは、ぼくには絶対に我慢ならないことなんでね。おかあさまは必ず帰っていらっしゃるぜ。終列車は夜中の二時だ。ぼく、お迎えに行くよ。だから、きみは、その時までぐっとうれしさをこらえて、ベスを静かにさせて、あのすばらしい方がお着きになるのを待てばいいんだ」
「ローリー、あなたってなんていい人なの! どうやってお礼をしたらいいの?」
「もう一度とびついてくれない。すっかり気にいったよ」ローリーはいたずらっ子のような目をした――ここ二週間というもの、ぜんぜんみせなかった表情だ。
「もうたくさん。こんどは代理人にしとくわ。おじいさまがいらしたらね。からかうのはやめて、お家へ帰って休んでて。だって、今夜は半徹夜でしょ。感謝するわ、テディ、祝福を祈ります!」
ジョオは玄関の隅へとあとずさりしていたのだが、言いおわったとたんにさっさと台所に姿を消してしまった。調理台に横ずわりになると、寄ってきた猫たちに、「うれしいの、とってもうれしいのよ!」と告げ、一方、ローリーは、万事うまくいったとすっきりした気分で帰っていった。
「あんなでしゃばりっ子、見たことねえでがすよ。だけんど、まあかんべんしてやりますだ。どうぞおくさまが早くおかえんなさるよう、お祈りしますだよ」ジョオが吉報をもっていくと、ハンナは、さすがにほっとした顔をして、こう言った。
メグはしみじみと喜びを表現すると、例の手紙を長いこと眺めていた。その一方、ジョオは病室を整頓し、ハンナは、「ひょっくりお連れでも見えるといけねえだから、パイの二つもこねとくべ」と台所へ入ってしまった。
新鮮な空気がさっと家の中をわたっていったように思え、日光よりもいい何かが静かな部屋を明るました。何もかもが、状況の好転を感じとっているように見えた。ベスの小鳥はまたさえずり始め、窓際にほってあったエイミーの鉢に、一輪のバラの蕾《つぼみ》がなかば開きかけていたのが見つかった。炉の火までがいつになく陽気にはぜているのだ。姉妹は、顔を合わすたびに、その蒼白な顔に微笑を浮かべて、ぎゅっと抱きあい、はげますようにささやきかわした。「おかあさまが帰っていらっしゃる! おかあさまのお帰りよ!」
みんなが喜びでいっぱいだった。だが、ベスはちがった。あのまま昏睡状態をつづけ、希望も喜びも疑いも怒りも感じられず、そこに横たわっていた。それは見るも痛ましいものだった――あのバラ色だった頬もすっかり色を失い、げっそりそげて、いつもせっせと動いていた手は力なくやせ細り、いつも微笑を忘れなかった唇は物言わず、あの美しかった手入れのいい髪はバサバサにもつれて枕にみだれていた。終日、彼女はそうして横たわったまま、ほんの時たま首をうごかし、ひび割れて自由に動かぬ唇で、「おみず!」とつぶやくだけだった。終日、ジョオとメグはベスの傍を離れず、じっとその顔をみつめ、待ちつづけ、神と母とを信じ、祈りつづけていた。そして、終日、雪は降りつづけ、烈風が吹きすさみ、時の流れはじれったいほど遅かった。
だが、やっと夜がきた。そして、時計が打つたびに、ベッドの両側につききりの姉妹は、輝きを増した目を見合わせた。一時間ごとに、救いの手は近づいているのだ。お医者さまは、最後の往診の時、おそらく十二時ごろに、いいにしろ悪いにしろ何か変化がくるだろうから、そのころにまた来てみると言って帰っていった。
ハンナは、さすがに疲れはてて、ベッドの裾においたソファーに横になり、ぐっすり眠っていた。ミスター・ローレンスは、居間を行きつもどりつしながら、ミセス・マーチが入ってくる時の心配にやつれた顔を見るくらいなら、砲兵中隊を相手にするほうが増しだと思っていた。ローリーは、敷物にねころんで、休むようなふりをしてはいたが、物思いに沈んでじっと炎をみつめていた。その黒い瞳はいつもよりなお美しく、やさしく澄んでいた。
姉妹はその晩のことを一生忘れなかった。こうした時に誰でもが感じる、恐ろしいほどの無力感にひしひしとせめられながら、看《み》とりをつづけている二人は、睡気など全然感じなかった。
「もし神さまがベスをお助けくださったら、あたしは二度と愚痴は言わない」メグは真剣な声をした。
「もし神さまがベスを助けてくださったら、一生涯神さまを愛しお仕えするわ」姉に劣らぬ熱意をこめてジョオは答えた。
「こころなんてなければよかったわ、こんなに胸がいたむのなら」しばらくして、メグが吐息をもらした。
「人生にこんなつらいことが始終あるのなら、とても長くは生きていられないわ」ジョオは力もつきはてたように言い添えた。
ちょうど時計が十二時を打った。二人ともわれを忘れてじっとベスを見つめた。妹のやつれはてた顔にチラッと変化が走ったような気がしたのだ。家の中は死のように静まりかえり、風の遠吠えだけが深いしじまを破るのだった。くたくたのハンナは眠りこけていたし、この小さなベッドの上に落ちかかったように思えた蒼《あお》白い影を目にしたのはこの姉妹だけだったのだ。一時間が過ぎた。だが、ローリーがそっと駅へ出て行ったほかは何の変化もなかった。また一時間――まだそのままだった。吹雪で汽車が遅れたのかそれとも事故か、いえ、あるいは最悪の場合はワシントンでも悲しいことが起こったのでは――こうした懸念とおそれとがかわいそうな姉妹の胸につぎつぎと襲いかかってくるのだった。
二時を少し過ぎたころだった。窓に向かって立って、雪の経かたびらにくるまれたあたりの光景のあまりの物さびしさに胸をふさがれていたジョオは、ベッドの脇に幽《かす》かな物音を聞き、あわてて振りむくと、メグがおかあさまの安楽椅子の前に両手を顔にあててひざまずいていた。ジョオのからだにひどい怖れが氷のように突き刺さった。「ベスが死んだんだわ。メグはあたしに言えないんだ」
そう思うが早いか、ジョオはひととびにベッドの脇にもどった。逆上した目には、何か大きな変化が起こったように見えた。高熱のためのほてりも苦痛のいろも消えていた。そして、いとしい小さな顔がまるで血の気をなくし安らかに見えたので、ジョオは泣くことも悲しむこともしたくないほどだった。姉妹の中でいちばん愛しているこのいとしい妹の上に深くかがみこみ、ありたけの想いをこめて、そのしめった額にそっと唇をつけ、やさしくささやいた。「さよなら、ベス、さよなら!」
その気配《けはい》に目がさめたのか、ぐっすり眠っていたハンナがハッととびおき、あわてて、ベッドに近より、じっとベスを見つめ、その手に触れ、唇に耳をよせてきき耳をたてていたと思うと、やにわにエプロンを頭からひっかぶって椅子にかけると、大きくからだをゆすってオイオイ泣きだしながら、きれぎれに言うのだった。「山は越しましただ。やすらかに眠っておいでだ。汗も出たことだし、呼吸もずっと楽におなりで。ああ、神さま、ありがとうございますだ! なんとうれしいこんだ!」
姉妹がこの夢のようなことばをまだ信じかねているところへ、ちょうどバングズ先生がみえ、それを保証してくれた。この時ばかりは、この風采のあがらぬお医者さまの顔から後光がさしているように思えるのだった。笑顔になって、やさしく二人を見つめて彼は言った。「ハンナの言うとおりだよ、妹さんはこれで持ちなおすだろう。家の中を静かにして、よく眠らせるのだね。目がさめたら――」
目がさめたらどうするのか、二人とも聞いてはいなかった。二人はそっと暗い廊下に出ると、階段に腰かけてしっかりと抱きあい、物も言えないうれしさをかみしめていた。また病室にもどり、忠義もののハンナのキスと抱擁《ほうよう》を受け、あらためてよく見ると、ベスは前にいつもしていたように、片手を頬にあてて、たった今眠りついたように規則正しく静かに息をしているのだった。あのぞっとするような蒼《あお》い影は、その顔から跡かたもなく消えていた。
「今ここへおかあさまがお帰りになればいいのに」長い冬の夜がしらじらと明けかかるのを見てジョオは言った。
「ほら、見て」メグは、開きかかった白バラを手に、入ってきた。「これ、とても間に合わないだろうと思ったのよ、ベスの手に持たせるのに。もしもあした――もしあたしたちの所から行ってしまったとしたら。ところが、どう、夜の明けないうちに咲いたわ。だから、ここに挿しておこうと思うの。この子が目をあいた時、まず最初におかあさまのお顔とこの小さなバラが目に入るように」
二人が長い悲しみにみちた寝ずの番を終え、夜明けの空に目をやった時、メグとジョオの重い瞼《まぶた》に映ったほどすばらしい日の出は見たこともなく、これほど美しく世界が思えたこともなかった。
「お伽《とぎ》の国みたいだわ」眩《まば》ゆいように輝く景色を眺めながら、カーテンのかげに立っているメグは言った。
「ほら、聞いて!」ジョオはいきなり立ちあがる。
そうだ。玄関の鈴がなっている。ハンナが大声で何か言った。それにつづいて、うれしさを押さえきれないローリーが声をひそめて呼んでいる。「きみたち、おかあさまがおつきになったぜ! おかあさまだぜ!」
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第十九章 エイミーの遺言状
家でこうしたことがあった間、エイミーはマーチ伯母の家で苦難の毎日を送っていた。彼女は島流しのつらさをしみじみ味わい、生まれて初めて、家でどれほど愛され甘やかされていたかを認識したのだった。マーチ伯母は、人を甘やかした経験のない上に、それを根っから認めないのだ。だが、彼女とて、エイミーにやさしくしてやる気はあったのだ。この行儀のいい小さな女の子は大いに気に入ったし、もともと甥《おい》の子どもたちに対しては、それを口外するのはよくないとは思っていても、老いの心の隅に泣きどころとでもいった優しい気持ちをもっていたのだ。そして、たしかに、エイミーを喜ばしてやろうと最善をつくしたのだが、これはまた、なんという過失《あやまち》ばかりやってのけたのだろう。
世の老人の中には、顔には皺《しわ》がより、髪は白くなっていても、気持ちだけは若々しく、子どもたちのかわいい心配ごとや楽しみに共感をもち、その気持ちを楽にさせ、愉快なあそびに教訓を秘め、じつに美しいやりかたで愛情を分かちあい、仲よしでいられる人たちもあるのだ。ところが、マーチ伯母は、そういった才能に恵まれず、規則と命令ずくめにしてエイミーを悩まし、かたくるしい行儀作法だのおもしろくもない長話で苦しめたのだった。
この少女が姉よりもおとなしく愛想もいいのがわかると、老人は、家庭での自由奔放な暮らしかたの悪い影響を、できるかぎり矯正《きょうせい》してやるのが自分のつとめだと感じたのだ。そこで、彼女は、エイミーを始終手もとに置いて、六十年も前に自分が躾《しつ》けられたように教えこもうとしたのだ――その躾けたるや、エイミーの心を混乱させ、すごく意地わるのクモの巣にひっかかったハエのような気分に陥らせた。
朝の日課は紅茶茶わんを洗うことから始まった。つぎに旧式な銀のスプーン、横にふくれた型の銀のティー・ポット、そしてコップのたぐいをピカピカになるまで磨きあげるのだ。つきが部屋のハタキかけで、これがまた大仕事だった。ほんのちょっとでも埃《ほこり》が残っていれば、マーチ伯母は容赦《ようしゃ》しないのに、家具はどれもこれもやたらに彫り細工で飾られ、脚はカーヴして先がそりかえっている型なので、とても完全に埃がとれる代物《しろもの》ではなかったのだ。
それからまた、ポリイに餌《えさ》をやったり、部屋犬に櫛《くし》をあててやったりするほか、物をとりにいったり、言いつけを伝えにいったりで十遍も階段をおりたりあがったりだった。老人はほとんど足がきかないので、その大きな椅子からめったに動こうとしなかったのだ。
こうした骨の折れる仕事がすむと、エイミーは勉強をしなければならず、これはまた、毎日持てるかぎりの美徳を試験されているようなものだった。これがすむとやっと運動したり遊んだりする時間が一時間だけ与えられた。その時のうれしさといったらなかった。ローリーは約束どおり毎日訪ねてきて、マーチ伯母をうまいことくどきおとして、エイミーを表に連れだすおゆるしを得て、散歩をしたり馬車に乗ったり、大いに楽しむのだった。お昼食のあとでは、こんどは本を読んであげる日課が待っていた。老人は最初の一ページでもううたたねを始め、そのまま一時間は眠っているのだが、その間ずっと、エイミーはじっとすわっていなければならなかった。つぎにはアプリケ細工とかタオルの縁かがりなどが持ちだされる。エイミーはうわべはおとなしく、内心は反抗心でいっぱいになりながら、夕方まで手を動かしつづける。このあと夕食までは自由行動がゆるされるのだった。
いちばんいけないのが夜の時間だった。老人は、自分の若かりし日のことを、延々と話しつづけるのだが、これがまたどうしようもなくつまらない話ばかりなので、エイミーは一刻も早く寝室にひっこんで、自分のつらい運命を思いきり泣きたい思いにかられどおしたのだが、いつも、ほんの一滴二滴涙をしぼりだすか出さないうちに眠ってしまうのだった。
ローリーと、女中のエスターが居てくれなかったら、エイミーはとてもこの暗黒時代を生きぬくことはできなかったろうという気がしていた。オウムだけでも、彼女を逆上させるのに充分だった。すぐにエイミーが自分を尊敬していないのを感づくと、できるかきりのわるさをしてエイミーに復讐《ふくしゅう》したのだ。近よれば必ず毛をひっぱるし、掃除してやったばかりの鳥籠で、ミルクにひたしたパンの餌《えさ》入れをひっくりかえして困らせ、老主人がうたたねを始めた時をねらって、犬のモップをつついて吠えさせるといった具合で、客があればエイミーに悪口雑言《あっこうぞうごん》をあびせるし、とにかく何かにつけて、まことに無礼千万な老いぼれ鳥らしく振舞った。そして、ここの犬がまた我慢がならない奴だった。デブで癇癪《かんしゃく》もちで、毛の手入れをしてやっている間中、歯をむいたり吠えたてたりするし、何か食べたくなると、あおむけに寝て足をバタつかせ、とても見てはいられないバカな顔をしておねだりをする。それが一日に十回ではきかないのだ。料理人は怒りんぼで、年寄りの駆者《ぎょしゃ》はつんぼと言うわけで、この年若な淑女に関心をもってくれるのはエスターただ一人だった。
エスターはフランス人で、彼女の言うマダムとは何年もいっしょにいて、彼女なしでは日常の生活にさしつかえるこの老婦人を、言わば意のままにあつかっているのだった。本名はエステルなのだが、マーチ伯母が勝手に名を変えてしまい、カトリックであるエステルは、宗教だけは変えない条件のもとに譲歩したのだった。彼女はマドモアゼルが気にいって、マダムのレースの手いれをしている時など、エイミーがそこにすわっていると、まだフランスに居たころの自分の生活を、おもしろおかしく話してきかせてくれるのだった。そして、また、この大きな家の中をあちこち歩きまわり、大きな衣裳戸棚や古物《こぶつ》のタンスなどにしまってある、珍しいもの、美しいものなどを自由に見させてくれた。マーチ伯母は、まるでカササギのように、なんでも溜《た》めこんであるのだ。
エイミーがいちばん興味をひかれるのは、インド製のキャビネットで、見なれぬ抽斗《ひきだし》や、小さなおとし箱や、隠し蓋《ぶた》などがいっぱいあって、中にはありとあらゆる装身具などが入っていた。高価なもの、骨董《こっとう》的な価値しかないものいろいろだったが、どれもこれも相当な時代物だった。こうしたものを一つ一つ手にとってみたり、またきちんとしまったりするのがエイミーにはものすごく楽しみだったが、とりわけても気にいったのが、ベルベットのつめものの上に、四十年前に佳人《かじん》を飾ったアクセサリーの数々がひっそり並んでいる宝石入れだった。マーチ伯母が、社交界にデビュー時につけたガーネット製の|一揃い《セット》、結婚式の日に父に贈られた真珠、恋人からのダイヤ、喪装用の黒玉《ジェット》の指輪とブローチ、亡くなった友達の肖像がいくつかと髪の毛でつくったヤナギが内側にはめこんである奇妙なロケットなどがあった。マーチ伯母のただ一人の娘が小さい時にはめた子ども用の腕輪。何人もの子どもがそれであそんだ赤い印形《いんぎょう》のついたマーチ伯父の大きな時計。そして、別に一つだけ箱にいれたマーチ伯母のウエディング・リングが、もうその肥った指にははまらなくなっているので、まるでいちばん貴重な宝石のように丁重におさめられていた。
「伯母さまが形見にくださるとしたら、どれがいいですか」エスターがきいた。いつもそばについていて、この貴重品をしまったあと鍵をかけるのだ。
「あたし、ダイヤがいちばん好きだったけれど、ダイヤでできたネックレースはないでしょ。でも、あたし、ネックレースが大好き、よく似合うから。そうね、いただけるとしたら、これにしようかな」エイミーは、金と黒檀《こくたん》の玉をつらね、それに同じものでできた十字架のさがっているものを、目を輝かせて見つめた。
「わたくしも、じつは、それがいただけたらと思っておりますよ。ただし、ネックレース用にではなく。とんでもない、これは、わたくしにとっては|お珠数《ロザリー》です。そして、カトリック信者にふさわしく使わせていただきたいと思います」この美しい物をもったいなげに見つめながら、エスターは言うのだ。
「じゃ、あなたの鏡にかけてある、あのいい匂いのする木でできたおじゅずみたいにして使うつもり?」
「そうでございますとも、お祈りをするためにです。こんな美しいロザリーは虚栄のための飾りとして首にかけるよりお祈りにつかえば、聖者様方もさぞお喜びになりますでしょう。もしも、マドモアゼルが、わたくしが今のマダムにお仕えする前に居りましたお宅のおくさまのように、毎日、瞑想《めいそう》と祈祷《きとう》のためのお籠《こも》りをなさいましたら、どんなによろしいでしょう。そのおくさまは、小さな礼拝堂をお持ちでした、どんなにお悩みがあってもそこで慰められておいででございました」
「あたしもその真似《まね》をしていいかしら」エイミーは、心細さでいっぱいなので、何かすがるものが欲しかったのだ。それに、寝起きがベスといっしょでないので、毎朝あの聖書を読むこともつい忘れがちになっていた。「それはすばらしいことですから、ぜひなさるといいですわ。もしよろしければ、あの小さな化粧室をいい具合に整えてさしあげますよ。マダムには何もおっしゃらないでおおきなさいませ。マダムが眠っておいでの時など、そこへいらして、しばらく一人で静かに、よいことを考えたり、おねえさまをおたすけくださるよう、神さまにお祈りなさいませ」
エスターは、信心のあつい人だったので、そのすすめかたも真心がこもっていた。そして、また、あたたかい心の持ち主だったので、大きな心配ごとの中にいる姉妹にひとかたならぬ同情をよせていた。エイミーは、この思いつきが気にいり、自分の部屋の隣の窓つきの納戸《なんど》を祈祷《きとう》所に直すことを頼み、それでいい結果がでるようにと楽しみにした。
「マーチ伯母さまが亡くなったら、このきれいな物はみんなどうなるのかしら」エイミーは、例のよく光るロザリーをていねいにもとにおさめ、宝石箱をひとつひとつ閉めながら言った。
「あなたや、あなたのおねえさまがたがおもらいになるのですよ。わたくし、知っておりますよ。マダムはわたくしには何事もお話しになりますので。お遺言状の立会人にもなりましたが、たしかにそう書いてございました」エスターは笑顔でささやいた。
「なんてすてきなんでしょ! でも、今くださったらもっといいのに。≪えんいん≫とかいうのは、あまりうれしくないわ」エイミーは、最後にもう一度ダイヤを眺めながら、意見をのべた。
「お嬢さまがたは、まだこういった物をおつけになるには早うございますよ。最初にご婚約がととのったお方は真珠をおもらいになるのですわ――マダムがそうおっしゃいましてね。それから、これはわたくしの想像ですが、マドモアゼルがお家へお帰りの時には、この小さなトルコ玉の指輪をおもらいになりますよ。マダムは、マドモアゼルがなかなかお行儀がよく、態度もごりっぱだとおほめですからね」
「ほんとにそう思って? あのかわいい指輪をいただけるのなら、小ヤギちゃんみたいにおとなにするわよ! あれキティ・ブライアントのなんかよりずっとすてきですもの。やっぱりマーチ伯母さま、だあいすき!」そして、エイミーは、そのトルコ玉の指輪をはめてみて、絶対それを獲得しようと大決心をしたのだった。
その日からというもの、彼女は服従の手本とも言えるようになり、老人は、自分の躾けの効果のすばらしさを知り、大いに満足を味わったのだ。エスターは、例の押入れの改装にかかり、小テーブルと足台を運びこみ、閉めきりの部屋から一枚の絵をはずしてきてテーブルの上にかけた。彼女は、その絵はそれほど貴重なものでもないし、この小さな祈祷室にはちょうどいいと思って、どうせマダムは気がつかないし、気がついたところで文句も出まいと思って、勝手に持ちだしたのだ。ところが、それは、世界でも幾つといわれる名画を有名な画家が写した模写だったので、エイミーの美を求める目は、飽きずその聖母のやさしい顔を見あげ、そうしているうちに、心の中にあたたかい思いがいっぱいになるのだった。テーブルの上には自分の小さな聖書と賛美歌をのせ、ローリーのもってきてくれる花からことにいいのを選んでいつも花瓶をみたし、毎日そこへ来てすわり、よいことを考えたり、≪おねえさまをお助けくださるよう≫神さまに祈った。エスターが黒い玉をつらねたロザリーをくれたが、エイミーは、新教のお祈りにそれを使っていいのかどうかよくわからなかったので、ただそこへ掛けてだけおいたのだった。
エイミーは、このすべてを至極大|真面目《まじめ》で行なったのだ。護られた家庭という巣の外へ一人おきざりにされて、彼女はしっかりすがりつけるやさしい手を求めていたので、本能的に強くやさしい友のほうへ向かった――そのお方の父のような愛情は、彼の稚子《おさなご》たちをいつもしっかりと抱きつつんでくださるのだ。自分を理解し指導してくれる母の助けを恋しく思いはしたが、どこを見るべきかを教えられていたので、努力して道を求め、自信をもってその道へと歩み入ったのだった。
とは言っても、エイミーはまだごく年若な遍路だったので、肩の荷がひどく重いように思えていた。つとめてつらいことを忘れ、元気にして、正しいことをすることで補足しようと努めていた。誰もそれを認めずほめてもくれなかったが。うんといい人になろうとする最初の試みとして、彼女は、マーチ伯母がしたように、遺言状をつくろうと決心した。万一自分が病気にかかって死んでも、自分の持ち物が正しく惜しみなく分配されるようにと。マーチ伯母の宝石と同じくらい貴重に思える小さな宝物を、思いあきらめることを考えただけで、エイミーは胸がギュッとしめつけられるような気がしたのだが。
ある日の自由時間に、この重要書類を、できるかぎりの努力を注いで書きあげてみた。法律用語はエスターから手伝ってもらったのだが、この気のいいフランス人が署名をしてくれると、エイミーはほっとして、第二の証人になってもらうつもりのローリーに見せようと、大切にしまっておいた。その日は雨だったので、遊び相手にポリイを連れて、二階の広い部屋の一つに行ってあそぶことにした。この部屋には、例の旧式な衣裳がいっぱい入った衣裳戸棚があったのだが、エスターは、それを出してあそぶことを許可してくれていた。そして、この色あせた|どんす《ブロケイド》の服に身をつつみ、壁に張りめぐらした鏡の前を行きつもどりつして、仰《ぎょう》々しいおじぎをしてみたり、そのサヤサヤと音をたてる長い裾をひきずって歩きまわったりするのが何よりの楽しみだったのだ。
この日は、このあそびにすっかり熱中していたので、ローリーが玄関の鈴を鳴らしたのにも気づかなかった。そして、青いブロケイドの服と黄色のキルティングをほどこしたペティコートに、じつにちぐはぐなピンクの大げさなターバンをのせ、頭をつんとそらせ、しなたっぷりに羽扇をはためかしながら、大真面目で練り歩いているのを、ローリーが覗《のぞ》き見しているのにも、まるで気がつかなかった。足にはブカブカのハイヒールをはいているので、否応《いやおう》なしにおっかなびっくり歩かなければならず、あとでローリーがジョオに言ったとおり、なんとも滑稽な観物《みもの》だった。はでな衣裳をきて、しゃなりしゃなりと歩いて行くすぐ後を、オウムのポリイが、しきりにその真似をして、そっくりかえってしずしずと歩いて行き、時々止まってわめきたてていた。「どう、すてきじゃないか? 出てお行き、唐変木め! おだまりッ! キスしておくれ! ハッ、ハッ、ハッ!」姫君のお気をわるくしてはならないと、やっとのことで吹きだすのをこらえ、ローリーは壁を軽くノックし、丁重に迎い入れられた。
「今これを片づけてしまうから、そこに掛けて待っててね。重大な問題で相談があるの」りっぱないでたちをよく見てもらい、ポリイを隅のほうに追いやってからエイミーは言った。「あの鳥にはほんとにこまるわ」頭のピンクのお山をはずしながら彼女はつづけ、ローリーは椅子に逆にまたがって聞く。「きのう、伯母さまがいねむりをしていらした時、あたしがハツカネズミみたいにおとなしくしているのに、ポリイったら籠の中でギャアつくさわぎだし、羽をバタバタさせるのよ。だから、行って出してやると、中に大きなクモが一匹いたわ。棒でつついて出したら、本棚の下に入っていっちゃったのよ。ポリイがすぐに追いかけて、かがみこんで本棚の下をのぞいて、目をパチパチやりながら、あの変てこな言いかたで、『さあ、出ておいて、散歩にお出かけ、おまえ』だなんて言うの。あんまりおかしくて、ついグラゲラ笑いだしちゃったの。ポリイはまた例によってバカだのなんのってわめきたてるし、とうとう伯母さま目がさめて、両方ともうんと叱られたのよ」
「クモはポリイ老のお招きを受けたの?」ローリーはあくびまじりにきいた。
「ええ。ポリイのびっくりしたのなんのって夢中で逃げて、伯母さまの椅子によじのぼると、≪つかまえろ! はやく! つかまえろ!≫だなんて言ったわ。あたしがクモを追いかけてたら」
「嘘だ! 気をおつけ!」オウムはこうわめくとローリーの爪先をつついた。
「ぼくのものなら、おまえなんか首をひねっちまうぞ! 厄介《やっかい》じじいめ!」ローリーがげんこつを振りまわしてみせると、鳥はひょいと首をかしげ、「ハレルヤ! 汝《なんじ》に祝福を!」と大真面目でしゃがれ声をはりあげた。
「これですんだわ」エイミーは衣裳戸棚を閉め、やおらポケットから一枚の紙を出した。「あなたにこれを読んでいただきたいの。そして、法律的に正しいかどうか教えてね。こういうことはちゃんとしておくべきだと思ったのよ。だってどんなことが起こるかわからないでしょ、だから、お墓に入ってからみんなに悪く思われたくないと思って」
ローリーは笑いを噛《か》み殺し、しんみりしている話し手から顔をそらし、怪しい綴《つづ》りばかりだというのに、賞賛に価いする真剣な顔つきをつくって、この書類を読みだした。
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遺言状
私、エイミー・カーティス・マーチは、正常なる精神において、この世の所有物すべてを左記の者に譲渡す。すなわち、
一 父上には私のいちばん上手な絵、スケッチ、地図、その他|額縁《がくぶち》を含めて絵画作品全部を。また、貯金の百ドルをご自由につかっていただくようさしあげます。
二 母上には、ポケットつきのブルーのエプロン以外の衣類全部――また私の肖像とメダルを愛をこめて。
三 愛するマーガレット姉には、トルコ玉の指輪を《もしいただいたら》。また、ハトのついたグリーンの箱と、衿におつけになるように私の本物のレース。それと、姉上のおちびちゃんの思い出として私のスケッチした姉上の像を。
四 ジョオ姉には、ブローチを――封鑞《ふうろう》[樹脂の混合物で、書状、びんづめなどの封じ目を固める]で直してある方を。そして青銅のインク壺――蓋《ふた》は姉上がなくしたのです。そして、いちばん大事な石膏《せっこう》のウサギを、姉上の大切な原稿を焼いたおわびに。
五 ベスにはもし私より長生きしたら私の人形全部と小ダンス、扇子《せんす》、麻のカラーを。そして、病気がなおって足が細くなっててもしはけたら、私の新しい上靴も。私は、ここに、ジョアナちゃんをバカにしたことを謹《つつし》んでおわびします。
六 わが友にして隣人なるテオドール・ローレンスには、一閑《いっかん》張りの画板[紙を重ねてはり固め、漆をぬったもの]と、粘土細工の馬を――あなたは首なしだと悪口を言いましたが。また、困苦の折に受けた多大の親切のお礼として、私の絵画作品の中お好きなのを。ノートルダムがいちばんいいと思います。
七 敬愛する恩人ミスター・ローレンスには、蓋に鏡のついた紫の箱を。ペンいれにしていただくといいと思いますし、家族のみな、ことにベスに対してのお心づかいに感謝をささげし亡き少女の思い出としていただきたく。
八 仲よしのキティ・ブライアントには、青い絹のエプロンと金のビーズの指輪をキスを添えて贈る。
九 ハンナには、いつもほしがっていた帽子箱とアプリケ細工を全部、≪こいつで思いだしてくんなせえまし≫と願いつつ。
以上、私の大切な所有物全部を差しあげたのですから、皆さまこれに満足し、死者を恨まぬよう願います。私は皆さんの罪をゆるし、最後の審判のラッパが鳴りひびく時、また逢うことを信じつつ。
アーメン
一八六一年十一月二十日、われ、これに署名し、封印をなす。
エイミー・カーティス・マーチ
証人
エステル・ヴァルノー
テオドール・ローレンス
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最後の名はかりに鉛筆で書いてあったのを、エイミーは、インクでなければ正式でないから書き直して、法式どおり封をしてほしいとローリーに頼んだ。
「なんでこんなこと思いついたの? 誰かが、ベスが持ち物をあげてしまったなんて話した?」
エイミーが、赤いテープと封鑞と、細いローソクとインク壺を彼の前に並べると、ローリーは真面目な顔できいた。
エイミーは一部始終を説明する。それから気がかりそうにきいた。「ベスはどんななの?」
「言うんじゃなかったね。でも、言い出したからには話してしまおう。ある日、とても悪くなったので、ピアノはメグに、猫はきみに、あのかわいそうなジョアナはジョオにあげたいって言ったんだ――ジョオなら自分の代わりにかわいがってくれるだろうからって。ベスは、あげる物が少ししかないからって、ぼくたち残りの者には髪の毛の束を、おじいさまには愛をくれたんだ。遺言状のことなど、ベスはぜんぜん考えもしなかったんだ」
ローリーは話しながら署名をしたり封をしたりしていたが、顔を伏せたままにしていたかと思うと、ポトッと大粒の涙を紙の上に落とした。エイミーは困りはてたような顔をしていたが、やがてただこう言った。「遺言状に、手紙にするみたいに≪追伸≫みたいなものつけられる?」
「できるよ。遺言補足書っていうんだ」
「じゃ、あたしのにもいれて――あの、あたしの捲毛を全部切って、お友達みんなにあげてほしいって。忘れてたのよ。おかしな顔になるでしょうけど、でもそうしたいの」
ローリーは、エイミーの最後で最大の犠牲《ぎせい》を笑顔できくと、それをつけ足してやった。それから一時間ばかり相手をしてやり、彼はエイミーの色々な試みに大いに興味をひかれた。彼が帰る時間が来ると、エイミーは引きとめて、唇をふるわせ、耳に口をよせてきいた。「ベスの病気、そんなに重いの」
「まあね。でも、必ずよくなると思って希望をすてないようにしなけりゃ。だから泣くんじゃないよ、ね」ローリーは、兄のようにエイミーの肩を抱いてやり、それで彼女の気持ちはずっと安まったのだった。
ローリーが行ってしまうと、エイミーは例の小さな部屋に行き、夕闇の中ですわり、ベスのために祈りを捧げた。あのやさしい小さな姉を失うようなことがあれば、トルコ玉の指輪など百万もらったとて心が晴れはしないのだと思い、とめどなく涙をこぼし、しめつけられるような胸の痛みを感じながら。
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第二十章 内緒話
この母と娘たちとの再会を語るのにふさわしいことばを、私は持たないようだ。その場に居合わせてこそ、こうした人生のひとときは美しいのだが、それを描写するのはまことにむつかしい。で、すべて読者であるみなさんの豊かな想像におまかせすることにして、ただここに、この家に真の幸福が満ちあふれ、やがてメグのやさしい希望がかなえられたことをお伝えしておこう。翌朝、ベスがこころよい熟睡《じゅくすい》からさめた時、最初にその目をとらえたのがあの小さなバラとおかあさまの顔だったのだ。
弱りはてていたので、物をけげんに思う力さえなくなっていたベスは、いとしげに自分を抱いてくれる腕に頬をすりよせ、待ちこがれていた時がやっと来て、満ちたりた思いでいっぱいになるのだった。それから、また眠りにおち、姉たちは母親の世話係になった。眠っている間もしっかり握ってはなさないやせほそった手を、母にはふりほどくこどなどできなかったから。
ハンナは、のぼせあがるほどのうれしさを旅帰りの女主人のためにすばらしい朝食を≪おごっちまったで≫という方法で表現した――彼女にはそれしか思いつけなかったのだ。メグとジョオは、忠実な若いコウノトリよろしく、おかあさまに食べさせてあげながら、おとうさまの容態や、ミスター・ブルックが向こうへ残り、看病をつづけてくれると約束したこと、吹雪のために帰りの汽車が遅れたこと、疲れと寒さと心痛で力もつきはてて駅についた時、ローリーの明るい顔を目にして、ことばにはつくせぬほど心が安らいだと、つぎつぎと、ひそめた声で母親が話すのに耳を傾けた。
その日は、じつにおかしな、そのくせうれしい日だった。表はキラキラと照り輝き、ものすべてこの初雪をお出迎えに出て陽気にざわめいているのに、家の中はシンと静まりかえっていた。徹夜の看病に疲れはて、みんな眠っているので、安息日の静けさが家の中に君臨し、ハンナがコックリコックリやりながら玄関で番兵の任についていた。
肩の重荷をはずしてもらったうれしさを味わいながら、メグとジョオは疲れきった目をとじ、嵐にもみくだかれた船が、やっと静かな港に入り無事に錨《いかり》をおろしたように、ベッドに横になっていた。ミセス・マーチは、ベスの傍を離れようとはしなかったが、愛用の大きな椅子にからだをやすめ、うつらうつらしたかと思うとすぐ目をあけて、守銭奴《しゅせんど》が首尾よくとり返した財宝を前にしてでもいるように、わが子をじっと見つめたり、さわってみたり、ベッドの上にかがみこんでみたりするのだった。
一方、ローリーは、エイミーを慰めに馬をとばし、じつにたくみに事の次第を話したので、さすがのマーチ伯母も、エイミーより先にシクシク泣きを始め、例の口癖《くちぐせ》の「だから言わないことじゃない」を初めて口にしなかった。エイミーは、反対にこの時にあたって、じつにりっぱな態度を示した。どうやら、あの小さな礼拝堂での修養が実を結びはじめたとみえる。涙をさっと拭いてしまうと、おかあさまに逢いたくていてもたってもいられないのにぐっと我慢して、エイミーはまるでりっぱな小淑女のように振舞ったとローリーが言ったのに老人も心から同意した時でさえ、例のトルコ玉の指輪のことなど思いだしもしなかったのだ。ポリイまでが感銘を受けたとみえ、「いい子だね!」と言ったり、祝福を祈ったり、「出ておいで、おまえ、散歩に行っといで」などととびきりの愛嬌《あいきょう》声でやさしいことを言った。
ポリイの言うとおり、彼女はこのまばゆいほど明るい冬景色を楽しみに出かけて行きたかったのだが、男らしく隠そうとしてはいても睡《ねむ》さには勝てず、こっくりこっくりやりだしているローリーに気づくと、ソファーに横になるようにすすめ、その間に母に手紙を書くことにした。大分長いことかかってしまい、居間に戻ってみると、ローリーは頭の下に手を組んで、ぐっとからだをのばしたままぐっすりねこんでいた。そしてマーチ伯母はといえば、カーテンを全部ひいて、何もしないでただすわっているのだ。珍しくも親切の発作をおこしたとみえる。
しばらくして、二人は、そのままにしておくと、ローリーは夜までおきないのではないかと思い始めた。多分そんなことになっただろう。エイミーが母の姿を目にして、うれしい叫びをあげなかったらば。その日、この町にもその近辺にも、幸福な少女は大勢いたろうが、私個人の考えでは、エイミーこそいちばん幸福だったのではないかと思う。母の膝に抱かれ、今までの難儀をめんめんと訴え、「えらかったわね」というようにほほえんで、やさしく抱きしめてもらうことで、母からのいたわりとご褒美《ほうび》をいただいたのだから。エイミーは例の小部屋に母を案内して、二人きりになったのだ。母は、この部屋がどういう目的で使われているかを聞いても反対などはしなかった。
「反対どころか、とても気にいりましたよ、エイミー」足台から手づれのした聖書、そして常緑木《エバグリーン》の環《わ》で飾った美しい絵へと目を移しながら、母は言った。「つらいことや悲しいことがある時、気持ちをしずめられる場所を持つのは、とてもいいことですよ。人生には苦しい時が何度もあります。でも、どうして助力を求めればいいか知ってさえいれば、いつでもそれに堪えていかれるものなんですよ。エイミーもそれがわかってきたようですね」
「ええ、おかあさま、おうちへ帰っても、大きなお納戸《なんど》の隅に、聖書やなんかとあの絵の模写を置くつもりなの――いまいっしょうけんめい描いてるのよ。女の人の顔はうまくいかないの――きれいすぎて、あたしには真似ができないんですもの――でも、赤ちゃんのほうは少しはましなの。大好きよ、この赤ちゃん。あたし、イエスさまも赤ちゃんだったことがあると思いたいわ、だって、そうすると急に親しみがわくんですもの」
エイミーが、母の膝にだかれた幼子《おさなご》キリストを指さしてみせた時、ミセス・マーチはその手にある物を見つけて思わずほほえんだ。何も口には出さなかったのに、エイミーは母の表情を読みとって、少し間をおいてから、真剣に言った。
「このことお話しようと思ったのに、つい忘れてたわ。この指輪、きょう、伯母さまがくださったの。お部屋によんで、キスをして、これをはめてくださったのよ。そして、あたしはとてもいい子だから、いつも傍にいてほしいって。まだ大きすぎるから、この変てこなものでトルコ玉を指にとめてくださったわ。これ、いつもはめてていい、おかあさま?」
「とてもきれいな指輪だわ、でも、こんなりっぱなものをつけるのはもう少し大きくなってからのほうがいいんじゃないかしら、エイミー」子どもらしくぷっくりした小さな手を見ながらミセス・マーチは言った。その人さし指に、空色の玉をつらねた指輪が、ごく小さな金色の手を組んだ形につくった、変わった留め具で支えてあった。
「あたし、見栄《みえ》坊になったりはしないわ。これが好きなのは、ただきれいだからだけじゃないと思うの。物語の中の女の子が腕輪をつけていたように、あることを思いだすためにはめていたいの」
「マーチ伯母さまを?」ミセス・マーチは笑いながらきいた。
「ちがうわ、利己主義にならないようによ」エイミーの顔つきがあまり真剣で生真面目《きまじめ》だったので、母は笑顔をひっこめ、この小さなプランをつつしんで聞いてやった。
「あたし、このごろ、自分のいけない性質という重荷についていろいろ考えごとをしたの。そして、利己主義だっていうのがいちばんいけないことがわかったから、もしできたら、それを直したいと思って、いっしょうけんめい努力することにしたの。ベスは利己主義じゃないでしょ、だから、みんながベスが大好きで、病気が重くなった時あんなに心配するんだわ。あたしが病気になっても、きっとその半分もみんな心配してくれないと思うし、それであたりまえだわ。だけど、あたしだって、大勢の人に愛され惜しまれたいんですもの、だから、できるだけのことをして、ベスみたいになろうと思うの。でも、あたしって、いつでも三日坊主だから、その決心を思いださしてくれるものが始終そこらにあれば、きっとうまくいきそうな気がするの。これならいい?」
「いいわよ。でも、大きなお納戸の隅っこのほうが、もっと信頼できそうね。指輪ははめてていいのよ、そして、いっしょうけんめいやってごらんなさい。きっと成功しますよ。だっていい人になろうと思ったことで、戦いの半分は勝てたんですもの。さあ、もうベスの所にもどってやらなければ。元気をだしてね、もうすぐお迎えにきてあげますからね」
その晩、メグが、おかあさまの無事到着を知らせるために、おとうさまに手紙を書いている間に、ジョオはこっそり二階のベスの部屋に入ってゆき、いつもの場所におかあさまを見つけると、いかにも困ったように、決心がつきかねるような顔をして、髪の毛をひねりまわしながらしばらくつっ立っていた。
「どうしたの、ジョオ」ミセス・マーチは手をのばし、なんでも話してしまいたくなるような表情をした。
「ちょっとお話があるの、おかあさま」
「メグのこと?」
「どうしてそんなにすぐわかって! そうなのよ。ほんのちょっとしたことなんだけど、なんだか気になってたまらないもので」
「ベスはよくねてるわ。小さな声でお話しなさい。何もかも。あのモファットの息子さんが来たんじゃないでしょうね?」ミセス・マーチはちょっときつく言った。
「ちがうわ。もし来たら鼻先でピシャッと戸をしめてやる」母の足もとの床にすわりこみながらジョオは言う。「去年の夏、メグはローレンス家に手袋を忘れてきたの。それが片一方だけしかもどらなかったのよ。あたしたちすっかり忘れてたら、ある時、テディがミスター・ブルックが持ってるって言うのよ。チョッキのポケットにいつも入れてたのをある時落として、テディがからかったら、ミスター・ブルックは白状したんですって――メグが好きだけれど、まだ若すぎるし自分も貧乏だから、とても口には出せないって。ねえ、おかあさま、ずいぶんひどい話じゃない?」
「メグのほうでも愛情をもってると思う?」気がかりそうにミセス・マーチはきいた。
「あらいやだ! 愛だの恋だのなんてバカらしいことなんて、あたしなんにも知らないわ」興味と軽蔑《けいべつ》とが妙にいりまじった気分でジョオは言う。「小説では、そういう状態になった娘は、びくっとしたり、赤くなったり、卒倒したり、やせたり、辻棲《つじつま》のあわないことをしたりすることになってるわ。でも、メグにはそんな徴候がぜんぜんないのよ。ごくまともな人のように、飲んだり食べたり眠ったりしてるし、あの人のことを話しても目をそらしもしないわ。ただ、テディが恋人の話をして冗談を言うと、少しあかくなるけど。いけないって言っても、テディったらちっとも言うとおりにしないのよ、癪《しゃく》だけど」
「じゃ、メグはジョーンにぜんぜん関心がないと思うのね」
「誰にですって?」ジョオはぎくっとした。
「ミスター・ブルックよ。もうジョーンと呼んでるの。病院でなんとなくそう言いつけてしまって。向こうでもそのほうがいいんですって」
「ああ、どうしよう! おかあさまはきっとあの人の肩を持つと思ってたんだ。おとうさまのためにつくしてくれたんだから、おかあさまは断われなくて、もしメグにその気があれば、結婚させるのね。あの男、卑怯《ひきょう》よ、やり方が! パパにつくしたりおかあさまの力になったりしたのも、みんな、おかあさまにとりいって自分を気にいってもらうためだったんじゃないの」ジョオは、こんどはくやしまぎれに、グイグイと髪の毛をねじりまわす。
「ジョオ、そんなにおこるんじゃないのよ。今よく説明してあげますから。ジョーンは、ミスター・ローレンスの依頼で、わたしに付き添っていってくれて、お気のどくなおとうさまに、親身も及ばぬほどつくしてくださったので、わたしたちも当然好きになったんですよ。メグのことでは、とても卒直な男らしい態度で何もかも話してくれたのよ。メグを愛しているけれど、求婚する前に、いちおうの生活ができるだけの資金を作るつもりだって。ただ、メグを愛し、メグのために働き、もし出来ることならメグにも愛してもらえるようにすることをわたしたちにゆるしてほしいって頼んだんです。ジョーンは、りっぱな青年ですし、あの人の言うことを聞いてあげないではいられなかったんです。ただ、メグがこんなに早く婚約するのには賛成できないけれど」
「もちろんですとも。考えられないわ、そんなの! どうも悪いことが起こりそうな予感がしてたんだわ。ちゃんと匂ったもの。でも、これほどひどいと思わなかった。あァあ、あたしが自分でメグと結婚しちゃって、安全にこのうちに置いとけたらどんなにいいだろう」
この変てこな組み合わせには、ミセス・マーチも笑顔になったが、すぐに真面目な顔で言い渡した。「ジョオ、これは内緒ですから、まだメグには何も言わないでおきなさい。ジョーンが帰ってきて、二人がいっしょにいるのを見れば、メグがどう思っているかはっきりすると思うからね」
「よくメグが口にしてるあの男のすてきな目に、彼の気持ちを読みとったら、もうそれでおしまいよ。あのとおり気がやさしいんだから、誰かに想いをこめた目でじっと見られたら最後、たちまち日なたのバターみたいに溶けちまうわ。第一、あの人からくるみじかい報告を、おかあさまの手紙より長いことかかって読んでるわ。あたしがそのことを言うとつねるし、茶色の目が好きだし、ジョーンをいやな名だとも思わないんだから、たちまち恋におちるにきまってる。それで、あたしたちの平和な楽しい気楽な時は一巻の終わりってことになるんだ。目に見えるようだわ。二人は夢見心地で家の中を歩きまわり、あたしたちはお邪魔をしないようにあわててよけなけりゃならないのよ、きっと。メグは始終うっとりしてて、あたしなんか目にも入らなくなるんだわ。ブルックは、なんだかだってひと財産つくって、メグをさらってって、この家に穴をあけるでしょうよ。あたしは、そうなったら失意のどん底におちて、何もかも堪えられないほどつらくなるにちがいないんだわ。あァあ! あたしたち、みんな男の子に生まれてたらよかったのに。そうしたらこんな面倒なことにならなかったろうに」
ジョオは、膝にあごをのせ、おもしろくなさそうな様子で、なんとも腹に据えかねるジョーンに向かってげんこつを振りあげた。ミセス・マーチが溜息をついた。ジョオはほっとしたようにその顔を仰ぐ。
「おかあさまもいやなのね? よかった。あの男は仕事にかこつけて追い払って、メグには何も言わないどきましょうよ。そうすれば、今までどおり、みんな幸せにしていられるわ」
「溜息をついたりして、わるかったわ、ジョオ。あなたたちみんな、いつかは自分たちの家庭をつくるようになるのが自然だし正しいのよ。でも、あたしは、できるだけ長くみんなを手元におきたいの。だから、こんどのことがあまり早すぎて、少し残念なんですよ。メグはまだ十七だし、ジョーンが新しい家庭を持つようになれるのは何年も経ってからでしょうしね。おとうさまとわたしは、メグが二十歳《はたち》になるまでは、はっきりしたお約束もさせないし、もちろん結婚もさせないことに決めたんですよ。もし、メグとジョーンがほんとうに愛し合っていたら、待つことができるはずだし、そうすることによって愛を試すこともできるわ。あの子は誠実だし、ジョーンの心を傷つけるようなことはしないと思って、安心してるんですよ。美しい、やさしいメグ! あの子のために何もかも幸せにいくといいけれど」
「おかあさまは、メグがお金持ちと結婚したほうがいいとお思いにならない?」母のことば尻《じり》が思いなしかふるえたような気がして、ジョオはたずねた。
「お金はいいものだし役にたつものでもあるわ、ジョオ。だから、わたしは、娘たちがひどくお金にこまったり、お金にまどわされたりしないといいと思いますよ。ジョーンにも、だから、いいお仕事について、ちゃんとした生活をたて、借金などせずにメグがまともに暮らしていけるだけの収入を得られるようになってほしいと思います。わたしは、うちの娘たちのために、莫大な財産だとかはでな地位だとか名声だとかを望んだりするような大望はもっていません。でも、もしも地位や財産が、愛情や人柄のよさを伴っているのなら、もちろん大歓迎ですし、あなたたちの幸運を喜びますよ。でも、わたしは経験から知っているけれど、じみちに働いてどうやら暮らしているような、ごくじみな小さな家でこそ、かえってほんとうの幸せが得られ、足らぬがちですごしていれば、わずかな喜びや楽しみもいっそう身にしみてうれしいものですよ。わたしは、メグがごく質素に自分の生活を始めることに満足しています。もしもわたしの判断がまちがっていなければ、あの子は、りっぱな男性の心を得ることでほんとうに豊かになれるでしょうよ。それこそ千万の富にも勝るのですからね」
「わかりました、おかあさま、あたしもそう思います。でも、メグのことではがっかりだわ。だって、いずれはテディと結婚させようと思ってたんですもの。そうすれば、好きなように一生|贅沢《ぜいたく》ができたのに。すてきでしょ?」ジョオは少し明るくなった顔で言う。
「でも、メグのほうが年上よ」ミセス・マーチが言いかけると、ジョオは口をいれる。「だってほんの少しよ。ローリーは背も高いし年よりふけてみえるわ。それに、その気になれば、とても大人っぽくできるのよ。あの人、お金はあるし、気が大きくていい人で、あたしたちみんなを大好きだし。とにかく、あたしは、このもくろみがだめになったのは、まことに残念だわ」
「でも、ローリーはとてもメグのお相手には考えられませんよ。まだまだ子どもっぽいし、今のとこでは、相手が誰にしても、頼れるほどしっかりしていませんよ。ジョオ、そんなふうにもくろみを立てたりしないのよ。時とそれぞれの人の気持ちに、相手を探すことはおまかせなさい。こうしたことには、やたらなおせっかいは禁物です。そして、あなたの言い草の大甘ロマンスなんかをみんなの頭に吹きこんで、せっかくの友情をこわさないようにしなければ」
「はい、わかりました。でも、ここをちょっとひっぱったり、あっちにチョキンと鋏《はさみ》をいれたりすれば真直ぐになるのに、それをしなかったせいでひんまがったり交差しちゃったりするのは見ていられないんだわ。頭に平鏝《ひらごて》でものせときたいみたい――あたしたちみんなもう育たないように。でもつぼみはバラになるし、小猫は猫になるんだな――悲しいわ!」
「平鏝と猫がどうしたって言うの?」ききながら、書きあげた手紙を手にメグが入ってきた。
「例のあたしの愚にもつかないおしゃべりよ。もう寝るわ、いきましょ、メグ」ジョオは、生命《いのち》のあるパズルのように、折りかがめていた手足をのばした。
「けっこうね、それにとても上手に書けてますよ。このあとに、わたしからジョーンによろしくって書きたしてちょうだい」手紙に目をとおしたミセス・マーチはそう言って返した。
「おかあさま、ジョーンてお呼びになるの?」メグは、何も知らずに、微笑を浮かべ、無邪気に母の目をみつめる。
「ええ。あの人はわたしたちには息子みたいに仕えてくださったし、わたしたちもとても好きになったもので」そのメグのまなざしの性質を、注意ぶかくおしはかりながらミセス・マーチは答えた。
「まあよかった。あの方、身寄りがなくて、そりゃあさびしいのよ。おやすみなさい、おかあさま。お家にいてくださると、なんとも言えないほど気持ちが楽なんです」これがメグの静かな答だった。
母がメグに与えたキスは、ほんとうにやさしかった。そして、その姿が見えなくなるとミセス・マーチは、満足と後悔とがいりまじった表情で言うのだった。「あの子はまだジョーンを愛してはいないわ。でも、きっとすぐに愛することを識《し》るでしょうよ」
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第二十一章 ローリーわるさをしジョオこれをとりなす
翌日、ジョオの顔はまったくみものだった。例の秘密が胸に重くひっかかっていて、どうしても仔細《しさい》ありげな、もったいぶった顔つきになってしまうのだ。メグはいち早く気づいていたが、わざわざたずねてみようとはしなかった。長年の経験で、ジョオを操る最上の手段は、何事も逆をいけばいいことがわかっていたので、何もきこうとしなければ、きっとジョオのほうから話してくれるだろうと確信していたのだ。だから、いっこうにジョオが話しだす気配もなく、なんとなく見くだすような態度をしているので、すっかり勝手がちがってしまった。そのジョオの態度は、なんとも癇《かん》にくる、我慢のならないものだったので、メグはメグで、わざととり澄ましてみせ、母のそばにつききりにしていた。
というわけで、ジョオはその日は、気儘《きまま》にすごすことになったのだ。それに、ベスの看病を、もうすっかり肩代わりしていたミセス・マーチは、ジョオが長いこと家に籠《こも》りきりだったのだから少し休養したり運動したりするようにと、ジョオに命令したのだった。だが、エイミーは家にいないし、遊び相手といってはローリーしかいなかった。ところが、ローリーは確かにおもしろい友達ではあったものの、ジョオは、今、彼と顔を合わせるのが少し怖かったのだ。理由は、ローリーが手のつけられないききたがりやで、おまけにおだて上手なので、大切な秘密をまんまと嗅《か》ぎだされてしまいはしないかと、ジョオは心配だったのだ。
その心配は当たってしまった。このわるさ好きの若者は、何か秘密があるのを嗅ぎつけるが早いか、なんとしてもそれを聞きだそうとかかり、ジョオをとことんまで困らせたのだ。彼は、うまいことおだててみたり、買収しようとかかったり、からかったり、おどしたり、叱りつけたりした。かと思うと、もう聞きたくもないというふりをして、不意をついて真相を握ろうともした。知っているさ、などと言うかと思うと、そんなことはどうでもいいと言った。そして、ついに、ねばりにねばったあげく、それがメグとミスター・ブルックに関することだということを探りだして満足したのだ。そして、自分の家庭教師がこの内緒ごとを打ちあけてくれなかったのにつむじを曲げ、自分が無視されたことに対して相応の報復をしてやろうとしきりに頭をひねりはじめたのだった。
一方、メグは、この問題を忘れてでもいるように、父の帰宅を前にその準備に没頭していた。ところが、突然、ある変化が彼女に起きたとみえ、一日二日、まるでメグらしくなくなってしまったのだ。話しかけられるとびくッとし、顔を見つめられると赤くなり、ばかに黙りこんで、おどおどしたような、悩ましいような顔をしてじっと針を運んでいるのだ。母がたずねると、どこもわるくはないと言い、ジョオには、一人にしておいてくれと頼むばかりで何も話そうとしないのだ。
「メグは感じてますよ、あれを――あの、恋だっていうことなんです――それも、どんどん進んでるみたい。たいていの徴候がもう出てますよ――びくびくしてたり、プンプンしたり、物も食べないし、夜もねないし、部屋の隅で何やら考えてるし。いつかあの男が訳してくれた歌をうたってるのも聞いたし、一度なんか、おかあさまみたいに、ジョーンだなんて言って、ケシの花みたいに真赤になったりして。ああ、どうしたら直るのかしら」どんな手段でも、たとえ少々荒っぽくても、ジョオはすぐにもとりかねない勢いだ。
「何もしないで、ただ待つんですよ。そっとしておいて、やさしく辛抱づよく待つんです。おとうさまがお帰りになれば、何もかも解決しますからね」ミセス・マーチは答える。
翌日、ジョオは例の小さな郵便局の中味をくばりながら言った。「はい、メグに手紙よ。あら、厳重に封がしてある。へんね! テディはあたしにくれるのに封なんかしたことないのに」
ミセス・マーチとジョオは、それぞれ自分のことに没頭していると、メグが小さな声をあげたのでふと顔をあげた。と、例の手紙をじっと見据えたまま、メグは脅えたような顔をしているのだ。
「どうしたんです、メグ?」ミセス・マーチは叫び、かけより、ジョオは姉をおどかした手紙をとろうとした。
「何もかも嘘だったんだわ――あの方じゃなかったのよ――ジョオったら、よくもこんなこと!」メグは顔をかくして、胸がはりさけそうに泣きだした。
「あたしが! あたし、なんにもしやしないわ! いったいなんの話?」ジョオは面くらった。
メグは、いつもはおだやかな目に怒りを燃やし、ポケットからくしゃくしゃにした手紙をひきだすと、ジョオにたたきつけ、なじるのだ。「あんたが書いたのね。そしてあの性《しょう》わるの子が手伝ったんだわ。よくも、こんな失礼な、いじわるな冷酷なことができたわね、あたしたちに?」
ジョオは、その妙な筆跡で書かれた手紙を、母とひっばりあうようにして読んでいるので、メグのことばもほとんど耳には入らない。
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愛するマーガレット
私は、これ以上この胸のおもいを押さえることはできません。そちらへ帰るまでに、自分の運命を知らないではいられないのです。まだご両親に打ちあける勇気はないのですが、二人がこんなに愛しあっていることがおわかりになれば、きっとお許しくださると思います。ミスター・ローレンスが適当な職をお世話くださるでしょうから、いずれ近く、恋人よ、私を幸福にしてくださることと信じます。まだお家の方には何もおっしゃらず、ローリーを通じ、ただひとこと、希望を持てるようなおことばをいただかせてください
すべてをささげる
ジョーンより
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「まあ、あの悪漢め! あたしがおかあさまとのお約束を破るまいとしたもので、こんなやり方で仕返しをしたんだ。うんと叱りつけてやって、ここへ引っ張ってきてあやまらせなけりゃ」すぐさま罪人に処刑をしなければと、ジョオはいきりたった。だが、ミセス・マーチはそれを引きもどし、めったにしない厳格な顔で言った。
「お待ち、ジョオ。まず、自分の証《あか》しを立てなさい。今までも何度も悪ふざけをしてますからね、あなたは。これにも一役買っているんじゃありませんか?」
「おかあさま、誓ってもいいわ、絶対にあたしは無関係よ。こんな手紙、見たこともないし、何も知りません、ほんとうに!」ジョオの言いかたがあまり真剣《しんけん》だったので、二人はそれを信じた。「もしも、あたしが一役買ってたら、こんなへたなやり方はしないし、第一、もっと、もっともらしい手紙を書くわ。メグもおかあさまも、ミスター・ブルックがこんなバカバカしい手紙を書きっこないってすぐ気がつくくらい、あたしにはわかってるもの」問題の手紙を投げ、ジョオは軽蔑《けいべつ》しきって言った。
「でも、字は似てるわ」別に持っていた手紙と照らし合わせてみていたメグは、言うのだ。思いなしかかぼそい声がふるえる。
「メグ、まさかお返事をあげたんじゃないでしょうね?」ミセス・マーチはあわてて叫んだ。
「あげたのよ、それが!」メグは恥辱《ちじょく》にたえかねて、また顔を覆《おお》ってしまった。
「さあ大変だ! おねがい、あの悪い子を引っぱってきていいでしょ。何もかも話させて、うんとお叱言《こごと》を言ってやらなけりゃ。あの子をとっつかまえなきゃ、とても気持ちがおさまらない」と、ジョオはまたもやかけだそうとした。
「しずかに! これはわたしにまかせなさい。思っていたより事態はずっとわるいようだから。マーガレット、初めから全部話してごらんなさい」ミセス・マーチは、メグの前にすわって命令する。片方の手では、ジョオがとびださないように、しっかり押さえて。
「最初の手紙はローリーから受けとったんです。あの子、ぜんぜん白ばっくれて渡してくれたんです」メグは目を伏せたまま話しだした。「初めはどうしたらいいかわからなくて、おかあさまにお話しようと思ったんです。でも、おかあさまがミスター・ブルックをお好きだってことを思いだしたので、一日二日、自分だけの小さな秘密にして黙っていてもいいだろうと思ってしまって。誰も知らないのだと思うのがうれしかったなんて、あたし、ほんとにバカでした。そして、どうお返事を書こうかって考えていると、小説に出てくる娘のような気がしてました。ごめんなさい、おかあさま、今、自分のバカな行ないの報《むく》いを受けたんです。もう二度と、あの方のお顔を見られないわ、あたし」
「で、なんて書いたの?」ミセス・マーチは聞く。
「ただ、まだそういったことを考えるのには早すぎると思います。両親に秘密を持つのはいやですから、そちらでおとうさまにお話しください。今までのご親切は感謝していますし、今までどおりお友達でいたいとは思いますが、それ以上のおつきあいは、これから先もずっとお考えにならないよう、ってこれだけよ」ミセス・マーチは、さすがにわが娘だとでもいうように、にっこりほほえみ、ジョオは手をたたいて笑い声をあげる。
「メグったら、カロライン・パーシイそこのけじゃない、思慮分別のお手本の。で、それからどうしたの。向こうからのお返事は?」
「ぜんぜん調子がちがうお手紙がきたわ。ラブ・レターのようなものを書いたおぼえはありません。きっとお茶目な妹さんのジョオが、お手紙を書いたのでしょうが、まことにこまりますって。とてもやさしいりっぱなお手紙だったわ。でも、あたしは穴があったら入りたいくらいだった」
メグは、絶望そのものといった様子で、母の胸にもたれ、ジョオは、ローリーをののしりながら、憤然《ふんぜん》と歩きまわる。突然、彼女は立ちどまり、二つの手紙を手にとると、しばらくじっとくらべていたがやがてこう断言した。
「あたしは、ミスター・ブルックは、これ二つともぜんぜん知らないと思う。テディが書いたのよ、両方とも。そして、メグの手紙も自分が押さえてて、あたしをからかおうって算段なんだわ――あたしが秘密を教えてやらなかったもので」
「秘密なんか持つものじゃないわ、ジョオ。おかあさまに話しておしまいなさいよ。そして、厄介《やっかい》なことにならないようにするのよ。あたしもそうすればよかったんだわ」メグは警告する。
「ところがそうはいかないの! この秘密は、おかあさまから聞いたんだもの」
「もういいですよ、ジョオ。メグはわたしが慰めてあげるから、行ってローリーを呼んでいらっしゃい。このことは洗いざらい調べて、もう二度とこういうことがないようにしたいですからね」
得たりとばかりジョオはとんで行き、ミセス・マーチは、ミスター・ブルックのほんとうの気持ちを、しずかにメグに話してやった。「ところで、メグ、あなたの気持ちはどうなの? あの方がちゃんと家庭を持てるようになるまで待っていられるほど愛していて? それとも、当分は、自由な立場でいたい?」
「あたし、あんまりびっくりさせられたり悩まされたりしたから、恋人だのなんだのってこと、当分考えたくもないんです――たぶん二度とふたたび」メグは淡々と答えた。「もしも、ジョーンが、ほんとにこのくだらないさわぎをごぞんじないのなら、何もおっしゃらないどいて。ジョオとローリーには口留めをして。あたし、これからは、だまされたり、悩んだり、バカにされたりなんか、絶対にしない――ほんとにひどいわ!」
いつもやさしいたちのメグが、こんなに腹を立て、この度のすぎた悪ふざけにプライドをひどく傷つけられたのを目にして、ミセス・マーチは、このことは絶対に口外しないし、今後こういったことをけっして起こらぬようにすることを約束して、娘の気持ちをやわらげた。玄関にローリーの足音がすると、メグはあわてて書斎にとびこんでしまい、ミセス・マーチが一人で罪人と対面することになった。ジョオは、ローリーが来ないといけないと思い、母が逢いたい理由を伏せておいたのだが、彼は、ミセス・マーチの顔を見たとたんにそれを察し、うしろめたそうにうつむいて、手にした帽子をひねくりまわした。その様子を見れば、彼の罪状は一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった。
ジョオは役目がすんだので退場させられたが、罪人の逃亡を防ぐために、歩哨《ほしょう》を買ってでてホールを行きつもどりつしていた。居間の話し声は高くなり低くなり三十分ほどもつづいた。だが、その面接中に何があったか、娘たちは全然わからなかった。
二人が呼ばれて中へ入ると、ローリーはじつに神妙な態度で、自責にかられた表情をして母の傍に立っていた。ジョオは、その顔をみただけで、もう彼をゆるしたのだが、そんなそぶりをみせるのはよくないと控えていた。メグは、彼の心からの謝罪を受け、この悪ふざけについては、ミスター・ブルックが何も知らないと言う証言をきき、大いにほっとしたのだった。
「ぼく、死ぬまで、絶対に口外しません――荒れ馬にひきまわされたって、口を割りません。どうぞゆるしてください、メグ。ぼくが心からおわびしていることを知っていただけるなら、どんなことでもします」しんから恥じいっているようにローリーは言いそえた。
「ゆるしてあげようと思うわ。でも、あなたにも似合わない、紳士らしくないことをしたものね。こんな卑劣な意地の悪いことをするとは思わなかったわ。ローリー」乙女らしい心の動揺を隠すために、深刻な顔で相手の罪を責める様子をして、メグは答えた。
「ほんとうにひどいことをしてしまって、一月《ひとつき》口をきいていただけなくても仕方がないくらいです。でも、話をしてくださいますね、あなたは?」ローリーは平身低頭といった様子で手を組みあわせる。その抵抗しがたい、ついほだされてしまうような口調は、なんとも破廉恥《はれんち》な行ないをしてはいても、これ以上しかめ面をしてはいられない気持ちに追いこむのだった。
メグは彼をゆるしてやり、彼がその罪をつぐなうためには、どんな罰をもいとわないし、傷ついた乙女の前に蛆虫《うじむし》のようにへりくだることを誓った時には、こわい顔をしていようと思ったミセス・マーチでさえ、ついそのきびしい表情をやわらげてしまったのだ。
その間、ジョオは、ここで心を動かされて譲歩などしてなるものかと、そしらぬ顔でつっ立っていたが、それも、じつは、断じてゆるすものかといった表情を無理につくって、つんとするくらいが関《せき》の山だった。ローリーは、一、二度、ちらっとジョオを見たが、いっこうに軟化する気配がないので、癪にさわったとみえ、わざと背を向けてミセス・マーチとメグとに謝罪を終えると、ジョオには低く一礼したきりで、ひとことも言わずにさっさと出ていってしまった。
ローリーの姿が見えなくなるとすぐ、ジョオはもっと早くゆるしてあげればよかったと悔いた。そして、メグと母とが二階にいってしまうと、なんとなく手持ちぶさたになって、ローリーに逢いたくなったのだ。さすがにしばらくためらってはいたものの、どうしても我慢ができなくなり、ちょうど返す本があったのを口実に、隣の大きな邸へと出かけていった。
「ミスター・ローレンスはご在宅?」ちょうど二階からおりてきた女中にジョオはきく。
「はい、お嬢さま。でも、今はどなたにもお会いになりますまいと思いますが」
「なぜ? どこかおわるいの?」
「いいえ、とんでもない。ただ、ミスター・ローリーとお揉《も》めになりまして。坊ちゃまが何かひどく不機嫌でおいでで、それをまた大旦那さまがお咎《とが》めになりましたわ。わたくしなど、とてもおそばへまいれませんので」
「ローリーはどこ?」
「お部屋に鍵をかけておいでで、ノックをいたしましても、ご返事がございません。お食事はどうなさいますのでしょう、もうお支度ができておりますのに、お二人とも召しあがらないのですから」
「行って見てくるわ、どうしたのか。あたしは両方ともこわくないから」
ジョオはさっさと二階へのぼって行き、ローリーの小書斎の戸をはでにノックした。
「やめろったら、でないと思い知らせるぞ!」若主人は癇をたててどなりつけた。
ジョオはすかさずまたたたく。戸が勢いよく開き、ローリーがあっとなっている隙に、ジョオは中へとびこんでしまった。彼が、女中のことばどおり、たしかにかんかんになっているのを素早く見てとると、彼のあつかい方をよく心得ているジョオは、じつに神妙な顔つきをして、芝居もどきにさっと膝をつき、おしとやかに言ったのだ。
「あんなにおこったりして、ほんとうに悪かったわ。おわびに来たのよ。あなたがゆるしてくれるまでは帰らないわ」
「いいんだよ。立って立って。バカな真似はやめるんだ、ジョオ」これが、ジョオの大げさな嘆願に対しての無頓着きわまる返事だった。
「ありがとう。じゃ立つわ。いったいどうしたのか聞かせてくれない? なんかいやなことでもあったみたいな顔だけど」
「衿《えり》がみとってこずきまわされたんだ。これは絶対にがまんならないんだ!」ローリーは腹にすえかねるようにうなった。
「誰がこずいたの」
「おじいさまさ。あれがほかの人問だったら、ぼくは――」傷つけられた若者は、ことばのかわりに右腕をグッとつきだしてみせた。
「なんだそんなこと。あたしだってよくやるけど、あなた平気じゃないの」ジョオはなだめにかかる。
「フン! きみは女の子だぜ。それにあんなのは遊びのうちさ。だけど、男にはゆるさないぞ、絶対に」
「そうね、そんな雷《かみなり》みたいな顔をしてたら、誰もそんな気は起こさないでしょうよ。でも、なぜそんなめに会ったの」
「きみのおかあさまになぜ呼ばれたか言わなかったから、ただそれだけの理由だ。ぼくは言わないと約束したんだ。だからどんなことがあったって言えっこないだろ」
「何かほかのやりかたで間に合わせられなかったの、おじいさまの気がすむように?」
「だめなんだ。どうしてもほんとうのことを聞かなけりゃ承知しないんだ。何もかも、ありのままでなけりゃ。ぼくの悪事だけは白状したってよかったんだ。でもそうすればどうしたってメグの名を出すことになるし。それが不可能だから何も言わずに通して、いくらどなられても黙って我慢してたら、おじいさまはいきなりぼくの衿がみに手をかけてこずいたんだ。だから怒って部屋をとびだしてきちまったのさ。かっとなって何をしでかすかわからなかったから」
「そりゃあ、おじいさまもよくなかったわ、でも、きっと後悔しておいでよ、あたしにはわかるんだ。だから降りてって仲直りなさいよ。あたしも口添えするから」
「絶対いやだ! ほんの少し悪ふざけがすぎたからって、誰も彼もからお説教をきかされたり――こずきまわされたりされてたまるもんか。たしかにメグには悪かったと思うよ、だから男らしく謝罪したんだ。でも、もういやだ。こんどはぼくは悪かないんだからな」
「でも、おじいさまにはそんなことわからないわ」
「もっとぼくを信用すべきだよ。いつまでも赤ん坊あつかいをされるのはごめんだ。ほっといてくれよ、ジョオ。おじいさまだって、ぼくがもう一人前だってことを認識すべきなんだ。そうそういつまでも、人の言うままにはなっていられないってことを」
「なんておこりんぼなんだろう、あなたって!」ジョオは溜息をついた。「このいざこざをどうやって解決する気なの」
「おじいさまのほうで折れてくるべきさ。そして、なぜごたごたしたかその理由は言えないって言ったら、黙ってぼくを信じてくれればいいんだ」
「冗談じゃない! そうはいかないわよ!」
「向こうがあやまるまで、絶対に降りていかないよ、ぼくは」
「いい、テディ、そう無茶を言うもんじゃないわ。今回はぐっと我慢しなさいよ。あたしもできるだけ事情を説明してみるから。まさかこの部屋から出ないってわけにはいかないでしょ。だから、そう大見得《おおみえ》きったってしょうがないじゃないの」
「どうせここに長くはいないさ。そっと脱出して旅に出ちまうよ。おじいさまだって、そうなりゃどうせさびしくって、弱気になって、すぐ折れるにきまってる」
「そりゃあそうでしょうね。でも、家を出たりして心配させるのはよくないわ」
「お説教はもうたくさんだ! ぼく、ワシントンに行って、ブルック先生を訪ねてくるよ。あそこはすごく賑《にぎ》やかだから、こんなもめごとのあと、気分転換にもってこいだ」
「きっとすばらしく楽しいでしょうね! あたしも脱出したいくらいだわ」ジョオはよき指導者たる役どころをつい忘れて、その首都の活気にみちた軍隊の生活を瞼《まぶた》に浮かべる。
「じゃ、いっしょに行こう! いいじゃないか。きみはおとうさまに逢いにいってびっくりさせてあげ、ぼくは先生をおどかしてやるんだ。じつにすばらしいじゃないか。ぜひ行こう、ジョオ。心配しないでいいって置手紙して、とっとと出てっちまうのさ。お金はぼくが充分もってる。きみだって楽しめるよ、それに、おとうさまを訪ねてくんだから、何も悪かないさ」
ちょっとの間、ジョオはこのもくろみに同意しそうな顔になった。なんとも無謀なプランではあったが、ジョオの気分にじつにぴったりきたのだ。このところ、ずっと看病に明けくれほとんど外へも出られなかったので、ここらで何か変化がほしくてたまらなかったところだったので、父親を想うこころと、駐屯地だの病院だの、自由と快楽などの新鮮な魅力とがまざりあって彼女の心をとらえたのだった。窓の外へ向けた瞳は一瞬あこがれに輝いたが、やがてそれは向かい側の古い家におちた。そして、ジョオは、悲しく決心して、ゆっくり頭を横にふった。
「あたしが男の子なら、二人でいっしょに逃げだして、うんと楽しい思いができたかもしれないわ。でも、あいにく、みじめにも女の子に生まれついてるから、たしなみよくしていなけりゃならないのよ。だから家をぬけ出たりするのはできない相談なの。テディ、あたしを迷わさないで、そんな計画、ぜんぜん論外だわ」
「そこがいいとこじゃないか」ローリーはまだ説得しようとかかる。どうやら強情《ごうじょう》っぱりの発作がおきでもしたようだし、なんとかして自由になってやろうと、ただそれで頭がいっぱいになっているようだ。
「黙ってッ!」ジョオは耳に蓋《ふた》をして叫ぶ。「≪おしとやかに、いいおことばをつかって≫ってのがあたしのさだめなのよ、残念ながら。だいたいここへ来たのは教訓を垂れようってためだったんだから、考えただけで胸がわくわくするようなこと聞かせないで」
「そりゃあメグはこんな話には乗ってこないのはわかってたけど、きみはもっと根性があると思ってたな」ローリーはまだあきらめずに、しきりにジョオの気をそそる。
「わるい人、黙ってってば! そこへすわって、自分の罪を反省したらいかが。あたしにまで罪を重ねさせるようなこと、考えないで。ねえ、もし、おじいさまにさっきのことを謝罪させてあげたら、家出をあきらめる?」ジョオは真剣にきいた。
「まあね。でもそんなことできっこないぜ」ローリーは、内心、仲直りをしたいのだが、その前に、傷つけられたプライドが癒《い》やされなくてはという気がしているのだ。
「若いほうはうまく片づけられたんだから、お年寄りだってやれるわよ」ジョオは部屋から出て行きながらつぶやいた。ローリーは鉄道地図を机にひろげ、肘をついた手にあごをのせて眺めていた。
「おはいり!」ジョオがノックをすると、ミスター・ローレンスの太い声がいつも以上におそろしく返ってきた。
「わたくしです、ご本をお返しにあがりました」ジョオはものやわらかに言いながら中へ入った。
「何かまだ読むかね」老人はむつかしい顔つきをしているしすごく腹をたてているようだったが、つとめてそれを隠そうとしている。
「はい、おねがいいたします。サミュエル[サミュエル・ジョンソン(一七〇九〜八四)イギリスの文学者。「英語辞典」で有名]ってとてもおもしろい人物だと思いました。大好きですから、第二巻も拝借したいと思います」この目ざましい作品は、ミスター・ローレンスがすすめたものだったので、このボスウェル[ジェイムズ・ボズウェル(一七四〇〜九五)スコットランド出身、サミュエル・ジョンソンと親交あり、その「ジョンソン伝」は世界最高の伝記文学と言われている]の『ジョンソン伝』の二巻目を借りてあげることによって、老人のご機嫌をとり結ぼうというわけだった。
ぎゅっと寄せていたもじゃもじゃ眉根《まゆね》もジョンソン関係の書物がおさめてある棚《たな》へと移動|梯子《はしご》を押していってくれる時、ほんの少しではあったがひらいたようにみえた。ジョオはすっすと梯子をのぼり、てっぺんにすわりこむと、本を探すふりをしながら、この訪問の危険な目的を、どうきりだしたらいいか考えていた。ミスター・ローレンスは、ジョオが胸に一物《いちもつ》もっているのを、いち早くけどったらしい。部屋の中をせかせかと行きつもどりつしていたと思うと、いきなりこちらをくるっと向いて、だしぬけに話しかけたので、ジョオは手にした『ラセラス』[ジョンソンの著書。アビシニの架空の王子を主人公にした諷刺文学]をまっさかさまにとり落としてしまった。
「あの子は何をしでかしました? かばいだてはいけませんぞ。帰ってきた時の様子で、何かわるさを働いたのはわかっとる。それが頑として何も言わんのだ。なんとかして白状させてやろうと衿がみをひったてると、やつは二階へ逃げだして、部屋に鍵をかけてしまいよった」
「たしかによくないことをしたんです、でも、うちではゆるしてあげました。そして、みんなで、誰にも口外しないって約束したんです」ジョオは否応《いやおう》なしに話し始めた。
「そいつはいかんぞ。あなたがたのようなやさしい娘ごとの約束をたてにとろうなど、もってのほかじゃ。よからぬことを働いたなら、男らしく白状し、謝罪し、罰を受けるべきだ。さ、話しておしまい、ジョオ! 隠しごとはよくないぞ」
ミスター・ローレンスはすさまじい顔つきをして、語気も鋭くつめよった。ジョオは、できることならその場を逃げだしたかったのだが、自分は梯子のてっぺんに乗っていて、老人は、道に立ちふさがるライオンよろしく、梯子の足もとにでんと立っているのでは、なんとか踏みとどまり、この場を切りぬけるほかなかった。
「それが、どうしてもお話できないんです。おかあさまの命令なんです。ローリーは白状して、ゆるしを乞い、そして充分罰を受けました。わたくしたち、ローリーを庇《かば》うために沈黙をまもってるのではありません。別の人のためなんです。それに、おじいさままでがかかりあいにおなりになると、事がまたこじれてしまうんです。おねがいです、このまま見すごしてください。だいたい、もとはと言えば、わたくしもわるかったんですし、もう何もかも片づいたんですから。もうこのことは忘れて、『ランプラー』[一七五〇〜五二間に発行されたジョンソンの評論をのせた週二回の定期刊行物]かなにかもっとおもしろいことでも話しましょう」
「『ランプラー』などどうでもいい! 下へおりて、あのそこつ者めが、恩知らずな無礼なことをしたのではないと誓ってくれんかな。あんなに親切にしていただいたあげく、もしもそんなことをしでかしたのなら、この手でぶちのめしてやらねばならん」
ことばだけはすさまじかったが、ジョオは平気だった。この癇癪《かんしゃく》もちの老人は、たとえ口でどんな強がりを言おうと、孫息子には指一本あげられないことを、ジョオはちゃんと知っていたのだった。おとなしく梯子をおりると、メグの名を出さぬよう、が、事実は事実として、例のわるさをできるだけさらっと話した。
「ははァ、なるほど――ま、あの子が口を割らなかったのは、強情からではなく、約束したからだったとならば、まあゆるしてやるとしましょうかい。思いこんだらきかないやつで、まったく手を焼いとる」ミスター・ローレンスは、髪をくしゃくしゃかきまわし、つむじ風にでも出あったようなかっこうになり、安堵《あんど》のいろを浮かべ、眉根《まゆね》のしわも消えた。
「わたくしもそうなんです。でも、王様や兵隊や馬が総がかりになったってテコでも動かない時でも、ひとこと親切なことばをかけられるところっとまいるんです」ジョオは、やっと苦境を脱したかと思うとまたつぎ、と難儀つづきの親友のために、その親切をしてみようとつとめる。
「じゃ、わしはあの子に親切が足りんとでもいうのかね!」きびしい返事がかえってきた。
「あら、そんなことありません。時には親切すぎるくらいです。でも、ローリーがお気にさわるようなことをした時、ほんの少しせっかちでいらっしゃるみたい。ちがうでしょうか?」
ジョオは、ついでのことにとことんまで言おうと決心していたし、つとめて平然とかまえていたが、この大胆な発言のあとでは、さすがにドキドキしていた。ところがジョオが驚き、ほっとしたことには、老人はテーブルの上に、掛けていた眼鏡をガチャッと置くと、率直に叫んだのだ。
「たしかにそのとおりだ! わしはあの子を愛しとる。だが、あれはわざとわしの癇にさわるようなことをする、それも我慢できぬほどだ。このままでいったら、いったいどうなることやら」
「そうですね、きっと家出しますね」言ってしまってじき、ジョオは後悔した。彼女は、ただ、ローリーをあまり束縛するとろくな結果にならないと警告し、この若者に対してもっと手加減をするようにすすめようと思っただけなのだ。だが、ミスター・ローレンスの赤ら顔が急に色を失い、力なく腰をおろすと、テーブルの前に掛かっていたりっぱな風貌の男性の肖像画を、憂いの目で見やった。その男性こそローリーの父親で、その青年時代に、文字どおり家を出てしまい、かたくななこの老人の意志にそむいた結婚をしたのだった。ジョオには、今、この老人が過去を思いだし後悔しているらしいのがわかり、よけいなことを言うのではなかったと思うのだった。
「でも、ローリーだって、よほど悩みでもしないかぎりそんなことしませんわ。ただ、勉強がいやになったりした時に、おどかしに言うだけなんですもの。わたくしだってよく家出したくなるんです。ことにこの髪を切ってからは。ですから、もしわたくしたちが姿を消しでもしたら、少年二人失踪って尋ね人欄に広告をだして、インド行きの船をお探しになればいいわ」
言いながらジョオは笑いだし、ミスター・ローレンスは、すべてを冗談だと解釈したとみえ、安心した顔になった。
「このおてんばさん、よくもそんなことが言えたものじゃ。年寄りに少しは敬意を表《ひょう》さんのかね、それではお宅のりっぱな躾《しつけ》が泣きますぞ。男の子も女の子も、なんと厄介な代物《しろもの》だて。といって、居なけりゃ人生これまたつまらんものでな」老人は、上機嫌でジョオのほっぺたをつまみあげた。
「あの子を二階からひっぱってきてくれんかね、食事だからと。もういいからと言ってな。ついでに、このわしに対してまで、芝居がかりの悲壮面《ひそうづら》はやめにしろと伝えてくだされ。我慢ならぬのじゃ、あれは」
「でも、ローリーは来ないと思いますけど。どうしても言えないといった時、お信じにならなかったから気をわるくしてるんです。衿くびをつかまえてこずかれたことで、ひどく感情を傷つけられたんじゃないかしら」
ジョオは悲壮な顔つきをしてみせたつもりだったが、どうやら失敗だったらしい。ミスター・ローレンスは大声で笑いだしてしまい、ジョオは自分の作戦がまんまと効を奏したのを知った。
「いや、あれはわるかった。こっちがこずかれないですんだことをあの子に感謝すべきなんだろうね、たぶん。で、あれは、わしにどうしろと言うのだろう?」老人は、さすがに自分の年甲斐《としがい》もない、行ないを恥じているようだった。
「そうですね、わたくしなら謝罪文を書きますわ。じゃないと、下へはおりないって、ローリー言ってましたし、ワシントンだなんだって口走って、まるで変なんです。正式な謝罪文を手にすれば、きっと自分がどうかしてたってことに気がついて、すぐに落ちついて機嫌《きげん》もよくなると思います。試してごらんになったら。ローリーは冗談がすきでしょ、だから、お話合いよりこのほうが効きますよ。わたくしが届け役になって、よく話してみます、とるべき道を」
ミスター・ローレンスは、ジョオの顔をじろっと見ると、眼鏡をかけながらゆっくり言う。「大した策師じゃよ、あんたは。だが、あんたとベスになら、いいようにあやつられてもいい。さあ、紙を少しおよこし。この馬鹿なさわぎも、これでけりをつけることにしよう」
その手紙は、一人の紳士が同等の相手にひどい侮辱《ぶじょく》をあたえた時に用いられるような、正式なことばで書かれた。ジョオはミスター・ローレンスの頭のてっぺんの禿《はげ》にキスをすると、階段をかけのぼり、ドアの下からその謝罪文をすべりこませた。そして、鍵穴から、下手に出なさいとか、礼をつくしなさいとか、およそローリーにとってやりづらい手を二、三すすめた。ドアには鍵がかかっていたので、ジョオは手紙にすべてをまかせて、だまって下へおりて行きかけたのだが、当の紳士は手摺りにまたがってすべりおり、下で彼女を待っていて、なんとも感謝にたえぬといった表情で言った。「いい人だなア、きみは、ジョオ! うんとどやされた?」笑いながら言いたす。
「いいえ。だいたいにおいて、おしずかだったわ」
「あァあ、さすがにこたえたよ。きみにまで見放されたんだからな。もうどうにでもなれって気がしたんだ」ローリーは弁解がましく言いだした。
「そんな言いかたやめて。新しいページをあけて、やり直すのよ、テディぼうや」
「ぼくはいつだってページを開けては汚すばっかりなんだ――前に習字帳でやってたみたいに。だから書き始めばかり溜まって、どのページもいつになったら終わるのか」彼は暗澹《あんたん》として言う。
「お食事をしていらっしゃい。おなかがいっぱいになれば気持ちも変わるわ。男性諸君は、おなかがすくと、必ずご機嫌ななめになるもんだから」こう言うと、ジョオは玄関から颯爽《さっそう》と出ていった。
「それは、われわれ男性に≪レッテルをはる≫ものだぜ」エイミーのおかしなまちがいを借りて、ローリーは答え、祖父にいさぎよく謝まろうと食堂へ入っていった。だが、意外にも、祖父のご機嫌はとびきり上等で、その日は終日、じつに丁重な態度で接し、彼はすっかりまごつかせられたのだった。
みんな、この問題はすっかりけりがつき、小さな暗雲は吹きとばされたと思っていた。だが、やはりこのわるふざけの痕《あと》はのこったのだ。みんなが忘れたあとも、メグだけは忘れなかったのだ。彼女は、ある人物のことを絶対に口にしなくなったが、反対にその人のことを思いつづけ、前以上に夢を夢みるようになった。そして、ある時、ジョオは、切手をさがして姉の抽斗《ひきだし》をかきまわしていて、≪ミセス・ジョーン・ブルック≫と書かれた紙を見つけたのだった。これにはジョオも悲嘆のうめきをあげ、その紙きれを炉の中へほうりこみ、ローリーのわるさが、彼女にとっての凶日《きょうじつ》を招きよせたのを感じたのだ。
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第二十二章 楽しきまきば
嵐のあとの晴天のように、平安な日々がつづいた。二人の病人はめきめき回復し、ミスター・マーチは新年早々にも帰れそうだと言いだしていた。また、一方、ベスはすぐに一日中書斎のソファーに横になっていられるようになり、最初はお気にいりの猫たちと遊び、やがてはすっかり遅れていたお人形たちの衣裳ごしらえなどして一人で楽しめるようになった。前には休みなく動いていた手足がすっかり萎《な》えてかたくなってしまっていたので、ジョオはそのしっかりした腕にかかえて家の近所を抱き歩いて、新鮮な空気にあててやった。メグは、かわいい妹のために、ご自慢の白い手をおしげもなくよごしたり、やけどをしたりしながら、療養期の病人にあう食事づくりに熱心だった。一方、例の指輪の忠実なる奴隷《どれい》となったエイミーは、ありったけの宝物を姉たちに押しつけるようにしてくばりまわり、帰宅祝いとしたのだった。
クリスマスが近くなると、例によって秘密ごっこが家中で始まり、ジョオは、常にも増して楽しい今年のクリスマスを祝して、およそ実現不可能だったり、とっぴょうしもなかったりする祭典次第を発案して、始終みんなのおなかの皮をよじらせた。ローリーもジョオと似たりよったりで、勝手にやらせてもらえるならば、かがり火を焚き、花火をあげ、凱旋門《がいせんもん》も立てようといった現実離れのしかただった。何度も激論をたたかわしたり、鼻っぱしをくじかれたりした末に、この抱負に燃えた一対《いっつい》もどうやらすっかり気がぬけてしまったように、しょんぼりした顔で歩きまわっていたが、二人きりになると、はじけるように笑いころげているところから推して、どうやらこれは怪しいものだった。
このごろには珍しいうららかな日が四、五日つづき、すばらしいクリスマスの日の登場を飾った。ハンナは、その日がすばらしい上天気になるだろうと骨で感じていたそうで、その予言はぴったり的中した。誰も彼も、何もかもすべて上乗の首尾となるように定められてでもいたような日に、それはなったのだった。
まず、ミスター・マーチからの便りには、もうすぐみんなに逢えるとあったし、ベスは、その朝、今までになく気分がよかった。母からのプレゼントの、やわらかい真紅《しんく》のメリノ[フラノに似て、幾らか薄手のやわらかい毛織地]のガウンを着せてもらい、ジョオとローリーの捧げ物を見物しに、みんなにかつがれて窓のところへ連れていかれた。あきらめざる人々は、その名に恥じぬよう、最善の努力のあげく、大傑作をものしたのだ。働きもののこびとのように、二人は夜じゅうかかって、じつにたのしい贈物を、手品のようにでっちあげていたのだ。なんと、庭の真中に、かっぷくのいい白雪姫が立ち、ヒイラギの冠《かんむり》をいただき、片手にくだものと花をいれた籠、片手に新しい楽譜を大きくまるめたのを持ち、寒そうな肩に虹のように色彩《いろどり》も鮮やかなアフガン[大型の膝がけにも肩かけにもなる布。四角のことが多いが三角に折って使う]をかけ、その唇からは、ピンクの紙の吹き流しに書かれたクリスマス・キャロルがでていた。
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ユングフラウの山よりベスヘ
神の祝福を、愛するベス女王に!
なれを悩ますもののなく、
健康、平和、幸福を
クリスマスの日に受けよかし
このくだものはその口に、
花の香も召せ、働きバチの君
この楽譜また汝《なんじ》がピアノに
アフガンはその爪さきに
ほら、これはまたジョアナの肖像
ラファエル二世の作なるぞ
真の姿をうつさんと、
日夜描きしこの傑作
紅きリボンも受けよかし
マダム・ゴロ女のしっぽ飾り
アイスクリームはメグの作
桶《おけ》にそびえるモン・ブラン
われを作りしひとの愛
この雪の胸にこそ秘めて
われアルプスの娘とともに
受けよローリーとジョオの愛
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これを見てベスは笑いころげ、ローリーは何度もかけまわってはプレゼントをとってきて渡し、ジョオは、それを贈呈するたびに珍妙なスピーチをするなど、大変なにぎやかさだった。
「あたし、もう胸がいっぱいで、もしここへおとうさまが帰っていらしたりしたら、きっとうれしさに心臓がはちきれてしまうわ」ベスは満ちたりた思いで吐息をもらして、こう言うのだった。あまり興奮して疲れてはいけないので、少し休ませるためにジョオはベスを抱いて書斎に連れて行き、≪ユングフラウ≫が贈ったおいしいブドーを食べさせているところだった。
「あたしもよ」ジョオはポケットをたたいて言った。前からほしかった『オンディーヌとシントラム』がそこに入っているのだ。
「あたしだって」エイミーもこれにつづいた。母がきれいな額縁にいれて贈った「マドンナと幼子《おさなご》キリスト」の版画を眺めている。
「もちろんあたしもよ」初めての絹服の銀のような光沢のあるひだをなでながらメグも言うのだ。これは、ミスター・ローレンスが、どうしても受けてくれるようにと、贈ったものだった。
「わたしだってご同様ですよ」ミセス・マーチも心からの感謝をこめて言うのだ。夫の手紙からベスの笑顔へと目を移しながら。手には、灰色と金色、栗色と暗い茶の髪毛でつくられたブローチをまさぐりながら。たった今、娘たちがそれを胸にとめてくれたのだ。
時折、このせちがらい世の中でも、ちょうど楽しい読物そのままなことが起こるものだが、これはじつに心あたたまるものだ。みんながもう幸福で胸がいっぱいで、ひとしずくでももう入る余地がないといった三十分後に、そのひとしずくがきたのだ。ローリーが居間のドアをあけ、そっと中をのぞきこんだ。だが、彼はでんぐり返しを打ってとびこみ、インディアンの喊《とき》の声でもあげたも同じだったのだ。ぐっと押さえてはいても、その顔は興奮に燃え、うれしさを隠して妙にうわずり、息ぎれでもしたようなかすれ声でこう言っただけだったのに、みんなはとびあがった。「マーチ家のみなさんにもう一つクリスマス・プレゼント」
言い終わるか終わらぬうちに、誰かにひっぱられてローリーがひっこんだと思うと、代わりに、目の下までマフラーでくるみ、もう一人の背の高い人に支えられた長身の男の人が現われた。何か言いたげにしたが声もでないようにして。
もちろん、みんな総立ちになった。しばらくはみんな気でもおかしくなったようだった。思ってもいなかったことが起こったので、誰も何も言えなくなってしまったのだ。ミスター・マーチの姿はしがみついた四対の腕の下にかくれてしまった。ジョオはあやうく卒倒しそうになるという失態を演じ、陶器用小|納戸《なんど》でローリーに介抱される始末だった。ミスター・ブルックは思わずメグにキスをしてしまい、ついまちがえて、などしどろもどろに弁明につとめた。そして、エイミーは、日ごろの落ち着きはどこへやら、足台にけつまずいて四つん這いになったが、そのまま立ちもしないで、父親の長靴にしがみつき、ワーッとばかり泣きだし、なんとも感動的な様子だった。最初に落ち着きをとりもどしたのはミセス・マーチで、手をあげてみんなを制した。「シッ! ベスがいてよ!」
だが、もう遅かった。書斎のドアがサッとあくと、敷居の上に小さな真紅のガウンが現われた。歓喜がその萎《な》えた四肢に力を注ぎこんだのだ。そして、ベスは、まっしぐらに父の腕にとびこんでいった。それからどうしたか、などということはどうでもいい。誰も彼も、幸福で満ちていた心が最後のひとしずくでついに溢れてしまい、今までの苦労のすべてを流しさり、現在の楽しさだけが残ったのだ。
あまりロマンティックではなかったが、このすぐあと、みんなが大笑いするようなことがあり、これでやっとみんな正気にもどれた。ドアのうしろで、肥った七面鳥をかかえたまま、ハンナがシクシク泣いていたのだ。あわてて台所からとびだしたので、置いてくるのを忘れたというわけで。この大笑いが納まったところで、ミセス・マーチは、親身も及ばぬ看護の礼をミスター・ブルックにのべ、彼はまた、ミスター・マーチが長旅のあと充分休養しなければならないのを急に思いだし、ローリーをうながしてあわただしく帰っていった。二人の病人は、休息するように命令され、大きなアーム・チェアーに二人いっしょにかけて、夢中で話しつづけることでその命令に従った。
ミスター・マーチは、みんなをびっくりさせたかったこと、天気がよくなったので医者もこの分なら大丈夫だろうと許可してくれたこと、ミスター・ブルックがじつに献身的につくしてくれたこと、そして、何につけても彼が頼りになるりっぱな青年だということを話すのだった。ミスター・マーチが、そこでちょっとことばをきり、あわてて薪《まき》をかきまわしているメグのほうをちらりと見て、どうかね、というように片方の眉をあげて妻の顔を見た理由は、読者のご想像にまかせよう。また、なぜ、ミセス・マーチがしずかにうなずいてみせてから、とってつけたように、何か召しあがりませんか、とたずねたりしたかも。ジョオはその様子を見て、ちゃんと察しをつけた。そして、ふくれつらをして牛肉のスープをとりに大股《おおまた》に出て行き、ドアを手荒くしめながらつぶやくのだった。「茶色の目をしたりっぱな青年なんて、だいッきらい!」
その日、マーチ家の食卓を飾ったクリスマス・ディナーほどすばらしいものはなかった。例の肥った七面鳥はまったく観物《みもの》だった。ハンナは、いっぱいつめものをし、こんがり焼いて、美しく飾りたてて食卓に供した。プラム・プディングも同様で、口の中で溶けるようだったし、ジェリーもまたとびきりで、エイミーは蜂蜜いれに落ちたハエよろしく、夢中で口へ運んだ。何もかも上出来だった。だが、ハンナに言わせると、それも天のおたすけで、「だって、おくさま、ああびっくらさせられちゃあ、プディングをローストしたり、七面鳥の腹に乾しブドーさ、つめたりしなんですんだは、みんな神さまのおめぐみで。よくまあ布ぐるみ焼いたりしなんだみてえなもんで」
ミスター・ローレンスとローリーも食事に招かれ、ミスター・ブルックも同席していたが、ジョオはいまいましげに彼を睨《にら》みつけ、ローリーは大いにその光景を楽しんだ。テーブルの上座には、二つの安楽椅子が並んで据えられ、ベスと父親とが、鳥料理とくだもの少しだけの食事をつつましく楽しんでいた。お互いの健康を祝してグラスをあげ、お話をしたり、歌ったり、老人連の言う≪追憶にふける≫など、じつにすばらしい時を過ごした。橇《そり》あそびが前もって計画されていたが、娘たちは父の傍を離れようとはしなかった。で、客は早目にひきあげ、夕闇がせまってくると、家族は暖炉を囲んですわった。
「ちょうど一年前、あたしたち、つまらないクリスマスをしなけりゃならないって、不平たらたらだったのおぼえてて」つぎからつぎへと話がつづいたあと、いっとき静かになったのを破ってジョオは言った。
「すんでみれば、まあ楽しい年だったとも言えるわね」メグは、炎を見つめながらほほえみ、ミスター・ブルックに対する態度がわれながらりっぱだったと自賛する。
「あたしはかなりつらい年だったと思うわ」指輪にうつる灯を見つめ、エイミーは何やら考えこんだ目つきをしている。
「あたしは過ぎてしまってよかったと思うわ、だっておとうさまをとりもどせたんですもの」父親の膝に乗っていたベスはささやく。
「かなりひどい道だったようだね、小さなお遍路さん。ことにあとのほうは。だが、みんな勇気をもって歩きぬいた。もう肩の荷もすぐにころっと落ちるだろうよ」ミスター・マーチは、自分を囲む四つの若々しい顔を、父親らしい満足感で見まわす。
「どうして知っていらっしゃるの? おかあさまがお話しになった?」とジョオ。
「ほんのちょっとだけだよ。ムギワラが風の向きを告げるって言うだろう。それに、きょう、わたしはいくつも発見したことがある」
「あら、何かしら、教えて!」父の隣にいたメグが叫ぶ。
「これがその一つ」自分のすわっている椅子の腕木にのっていた手をとり、父親はその甲の火傷《やけど》のあと、人指しゆびのあれた先、手の平のまめを二つ三つ示した。「わたしは、この手が真白ですべすべしていて、おまえが何をおいてもその手を大事にかばっていた時のことをおぼえているよ。たしかにとてもきれいな手だった。だが、わたしには今のほうがもっときれいに思えるのだ――このはっきりした痕《あと》に、小さな歴史が読みとれるからだよ。この火傷は、虚栄をすてた貢《みつぎ》物だ。このかたくなった手の平の獲《か》ち得たものはまめだけではない。そして、この針の先でついたあとだらけの指で縫われたものは、その一針ごとにこめられた善意によって、さぞ長もちするだろう。メグ、おとうさまは、家庭を楽しくすることができる家政の才能を、白い手や当世流の稽古ごとよりずっと高く評価するよ。このりっぱな働きものの小さな手を握れることを、わたしはとても誇らしく思っている。そして、あまりすぐこの手を与えることを望まれぬといいともね」
もしメグが長い時間働きぬいたことに対しての褒美《ほうび》を望んでいたとしたら、父の手にあたたかくその手をとられ、えらかったとほほえみかけてもらえたことで充分だったろう。
「ジョオねえさんはどうなの? 何かすてきなことおっしゃって。ずいぶんいっしょうけんめい、努力したし、あたしにはとてもとてもよくしてくれたのよ」ベスは父の耳にささやいた。
彼は笑い、向かい側にすわっている背の高い娘を眺める。その浅黒い顔は、常になくおだやかな表情をたたえていた。
「ちぢれ毛の刈り上げ頭になったのに、一年前に別れた≪息子のジョオ≫には逢えないようだね。ここにいるのは、衿も真直ぐにつけ、ブーツもきちんと編みあげた若い淑女《しゅくじょ》で、口笛も吹かなけりゃ、前にしたように敷物にどっかと寝そべりもしないな。今のとこでは、顔が少し細くなって顔色もあまりよくないようだが、これも看病づかれと心配をしたせいだろう。前よりやさしくなって、なかなかいい顔だよ。声もしずかになったし、はねまわっていたのが今は静かに歩くし、ある小さい人をまるで母のようにやさしく面倒をみてるところなど、ほんとうにうれしく思うよ。わたしは、あのおてんば娘もなつかしいね。だが、しっかりものの、頼りになる、やさしい心を持つ女性を代わりに得たのだから、大いに満足しなければね。あの刈りこみで黒ヒツジさんがおとなしくなったのかどうかは知らないが、ワシントン中さがしたって、わたしの大事な娘が送ってくれた二十五ドルで買うにふさわしいほど美しいものはなかったよ」
ジョオのきりっとした目がちょっとの間ぼうっとうるみ、やせた顔は炉の火のあかるみの中でぽっと赤く見えた。そして、この身にあまる父の賛辞も、ごく少しだけは受ける資格があるなどジョオは思うのだった。
「つぎはベスよ」エイミーは、早く自分の番になってほしいのだが、ちゃんと順番を待つことはできるのだ。
「ベスはこれっぽっちになってしまったから、あまり何か言うと、するりとすべってどこかへなくなってしまわないかと心配でね。でも、前ほど、はにかみやではなくなったね」ミスター・マーチは明るい声で言いだした。だが、あやうくこの大事な娘を失ってしまうところだったのを思いだし、やさしくそのからだを抱きよせ、頬ずりしながらそっと言うのだった。「よかったね、ベス、こうして無事に逢えて。いつまでもこのままにしていようね。神よ、お恵みをこの子に」
短い黙祷《もくとう》ののち、彼は、足もとの台にすわっているエイミーを見おろし、つやのいい髪をなでながら言った。
「おとうさまはちゃんと気がついていたよ。エイミーがお食事の時、遠慮して鶏の脚のほうをとったのも、午後ずっとおかあさまのために何度もおつかいに行ってあげたことも、晩にはメグに場所をゆずってあげたことも、辛抱づよく機嫌よくみんなに仕えていたことも。それに、前みたいにすねることもないし、鏡を見もしないし、指にはめているそのきれいな指輪のことを口にも出さないことにも。そこでわたしは、エイミーは自分のことはあとまわしにして、ほかの人のことを考えてあげることをおぼえたのだと解釈したんだがね。そして、お得意の粘土細工をねりあげる時のように、細心の注意をはらいながら、自分の性格をねりあげることを決心して実行しているのだと思うのだが。これはたいへんうれしいことだ。そりゃあ、わたしだってエイミーの作ったすばらしい塑像《そぞう》は大いに自慢に思うよ。けれど、自分のためにもひとのためにも人生を美しいものにする才能を持つかわいい娘のほうが、どれほど誇らしいかわからないくらいだ」
「何を考えてるの、ベス?」エイミーが父に感謝し、指輪のいきさつを話してしまうと、ジョオはたずねた。
「きょうね、『天路歴程』を読んでいたら、いろいろの難儀のあとに、クリスチャンと≪|希望のひと《ホープフル》≫が、旅の終わりの前に、ここちよい緑のまきばに来たところがあったの。そこは一年中ユリが咲きみだれてて、二人は、そこで楽しくひと休みしたのよ――ちょうど今あたしたちがしているように」ベスはそう答えると、おとうさまの腕からずっと抜けだし、ピアノのほうにそろそろと歩いて行きながらまた言いついだ。「もうお歌の時間よ。だからいつもの場所に行きたいの。お遍路さんたちが聞いた牧童たちの歌をうたってみるわ。おとうさまがその詩がお好きだったから、作曲してみたの」
そこで、大事な小さいピアノの前にすわり、ベスはそっと鍵盤《けんばん》に指をおろし、二度と聞くことができないかも知れないとみんなが思ったあの美しい澄んだ声で、自分が作曲した古風な賛歌をうたいだした。それこそベスにはぴったりの歌だったのだ――
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低地にあれば落ちることなく
心低ければ高ぶらず
謙遜《けんそん》なる者のためにこそ
神の導き常にあり
わが持てるものすべて
多少を問わずわれをみたす
されど主よわれなお望む
さらに尊きものを得んと
遍路の旅にゆく人に
財多ければ荷とならん
貧しかれとやこの世では
かの世の祝福多ければ
世々につたわる教訓《おしえ》なり
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第二十三章 マーチ伯母のお手柄
女王蜂の周囲にむらがる蜂のように、翌日もまた、母も娘たちもミスター・マーチにつきっきりで、この新来の病人を眺めたり、世話をしたり、話を聞いたりするので、ほかのことは何も手がつかないありさまだった。当のご病人も、この親切の洪水には、さすがにうれしい悲鳴があがりそうだった。ベスのソファーの傍の大きな椅子に、クッションをあてがってもらった楽な姿勢で彼はすわり、ほかの三人はそのまわりに寄りそい、時々ハンナが大事なお旦那さまをのぞきに顔を出しというわけで、この一家の幸福にはもう欠けるものがないとしか思えなかった。
だが、何かが必要だったのだ。そして誰も口には出さなかったが、年長者たちはそれを感じていた。夫妻はメグのほうに目が行くと、気がかりそうな表情で顔を見合わせる。ジョオは、急に深刻病の発作でもおこしたような顔で、玄関におき忘れてあったミスター・ブルックの傘にげんこつを振りあげるのだ。メグはなんとなくうわの空で、口もあまりきかず、はずかしげで、玄関の鈴がなるととびあがり、ジョーンの名が出るとさっと頬を染めた。エイミーは言うのだ。「みんなが何かを待ってるみたい。なんだかそわそわして。変ね、だっておとうさまは無事にお帰りになってるのに」そしてベスは、なぜ隣家の連中がいつものように現われないのかと、無邪気にふしぎがっていた。
午後になって、ローリーが前を通りかかったが、窓にメグの姿を見つけると、突然、大純愛ドラマの発作にでもとりつかれたとみえ、雪の中にさっと片膝をつき、胸を打ち、髪をかきむしり、組んだ手を突きだし、何やらお祈りでもするような様子をしてみせた。そして、メグが、バカなことはやめてあっちへ行って、と言うと、涙でぐっしょり濡《ぬ》れたハンカチをしぼる所作《しょさ》をしてから、絶望かどん底にある思いいれよろしく、よろよろともつれる足で角を曲がっていった。
「バカみたいね、いったいなんのつもりなのかしら」メグは笑いなから、とぼけた顔をしてみせる。
「あなたのジョーンがいまにああなるってとこを見せたつもりよ。胸がジーンと痛むでしょ?」ジョオは軽蔑《けいべつ》の声をあげた。
「あたしのジョーンなんて言いかたやめてよ。下品だし、第一ほんとうじゃないわ」だが、メグは、その名の響きが耳にこころよいらしくうっとり語尾をのばしている。「あたしを困らせないでよ、ジョオ。前にも言ったでしょ、あの方をそれほど好いてはいないって。だからとやかく言われる筋合いはないわ。ただみんな親しくして、今までどおりお友達でいればいいんだわ」
「それは無理というものね。だって、何も知らない前ならともかく、ローリーのわるさが、あたしに言わせてもらえば、おねえさんをダメにしたんだわ。ちゃんとわかるんだ。おかあさまだってわかっていらしてよ。もう前のおねえさんとは全然ちがっちゃって、どんどんあたしから離れていくような気がする。べつに困らせてるつもりはないんだけど、そして男らしく我慢するわよ、でも、ぜひ早く片がついてほしいの。どっちつかずで待ってるのいやなんだ。だからその気があるんなら、さっさと事を運んで、早くちゃんとしてよ」ジョオはすねたように言った。
「あたしのほうから何も言ったりしたりはできないわ、あちらが先に言わないかぎり。だけど、おとうさまがあたしはまだ若すぎるっておっしゃったそうだから、あの方は言わないにきまってるし」メグは、縫物の上に顔をうつむけて言いだした。微妙な片笑みを浮かべているのは、父の若すぎるという意見にはあまり賛成ではないということらしかった。
「だって、もし彼が言いだしたら、どう返事したらいいかわからなくて、泣くか赤くなるかするくらいで、はっきりノーって言うかわりに、あの人の意のままになっちまうんだから」
「あたし、それほどバカでも腰ぬけでもないわ。どう言うかはちゃんとわかってるわよ。不意をつかれてまごつかないように、ちゃんとことばまで考えてあるわ。どういうことがあるかわからないから、心構えをしとかなければと思ったのよ」
メグが無意識に装ったもったいぶった様子を見て、ジョオは思わずほほえんだ。その様子は、彼女の頬を染めている美しいいろ同様、メグにはとてもよく似合っているのだ。
「その考えてある文句っていうの、聞かしていただけますか?」ジョオは多少敬意を示してきいた。
「ええ、いいわ。あなたももう十六よ、あたしの打ちあけ話の相手になっていい年ごろだわ。それに、あたしの経験は、どうせそのうち、あなた自身のこういった問題に出合った時に、たぶん役に立つでしょうからね」
「そんな気、全然ないな。ほかの人が恋愛してるのを傍で観察してるのはおもしろいけど、自分がやる段になったら、さぞ滑稽《こっけい》だろうと思うわ」ジョオは考えてみただけでぞっとするような顔をした。
「そんなことないと思うわ。もしあなたが誰かを大好きになり、その人もあなたを好きだったら」メグはまるで独語《ひとりごと》を言っているような調子になり、前の小径《こみち》に目をやった。夏の夕暮れなどには、恋人たちがよく歩いているのを彼女は目にしていたのだ。
「あの人にどういう答をするか聞かせてくれるんじゃなかった?」ジョオは、姉のもの思いをわざと手荒に中断するように言う。
「ああ、あたし、ただ、おだやかに、でもきっぱりとこう言うつもりなの、≪ありがとうございます、ミスター・ブルック、そんなにおっしゃっていただいて。でも、わたくし、今すぐはっきりしたお約束をするにはまだ若すぎるという父の意見が正しいと思います。ですから、もう何もおっしゃらずに、今までどおりお友達でいましょう≫って」
「まあまあ、なんて固苦しくて冷静きわまりないこと。でも、そのとおりになんか行きっこないと思うし、たとえ言えても、彼が黙ってひっこむとは思えないな。もし、あの人が小説に出てくる恋をいれられなかった男みたいに振るまえば、おねえさんは、あの人の心に傷手を負わせるのがつらさに、きっと負けちゃうにきまってる」
「そんなことないわよ。あたし、決心は変えられませんて言って、しゃんぎりと部屋を出て行くわ」
メグは言いながら立ちあがり、そのしゃんぎりした退場を練習しようとしたとたん、玄関に足音がした。メグはもとの席へとびもどり、縫物をとりあげ、今、まつりかけている折り返しをありもしない約束の時間に仕上げることに、彼女の命がかかってでもいるように夢中で針を動かしはじめた。
ジョオは、このだしぬけの変化を目にして、こみあげてくる笑いを噛みころし、ドアにノックの音を聞くと、およそ無愛想きわまる、苦虫をかみつぶしたような顔でドアをあけた。
「こんにちは。傘を忘れたものですから――いえ、その、つまりおとうさまのお加減はいかがかと思って」ミスター・ブルックは、たった今何を話していたか一目瞭然の二人の顔を見くらべた拍子に、ちょっとどぎまぎした。
「大丈夫です。傘立てに入ってます。とってきてあげますよ。あなたがいらしたってそれに知らせてきます」ジョオも、不意をつかれて、父と傘とをごちゃまぜに返事をして、すっと出ていってしまった。例の返事を、落ちついてしゃんぎりと言えるチャンスを、姉に与えるために。ところが、妹がいなくなるや否や、メグはドアのほうへすさりより始めながら、蚊のなくような声で言った。
「母がお目にかかりたいと思います。どうぞおかけになって。すぐよんできます」
「ここにいてください。ぼくがこわいんですか、マーガレット」ミスター・ブルックがあまりつらそうな顔をしたので、メグは、何か大変失礼なことでもしたのかと思った。それに、マーガレットと呼ばれたのはこれが初めてなのに、彼にそう呼ばれるのがとても自然で、その声の響きが甘く胸にしみるのに気づいてびっくりして、小さなカールをたらした額際《ひたいぎわ》まで真赤になってしまった。だが、友達らしくごく気楽に見せかけようと、親しみをこめた身ぶりでさっと手をさしだし、感謝して言った。
「おとうさまにこんなに親切にしてくださったのに、こわがるわけなんかないじゃありませんか。どうお礼を言ったらいいかと思ってるんですわ」
「今それをお教えしましょうか?」ミスター・ブルックはメグの小さな手を両手でしっかり握って、その茶の瞳にあふれるような愛をこめてじっと見つめたので、メグは胸がドキドキしてきて、その場から逃げだしたいような、それでいてそこにいて彼の言うことをききたいような気持ちにかられた。
「いいえ、おやめになって、あの、それは――うかがわないほうが」取られた手をひっこめようとしながら、たった今こわくないと言っていながら脅《おび》えたような顔になってメグは言った。
「そんなに心配しないでください。ただ、ぼくのことを少しは想っていてくださるかどうか知りたいだけなんです、メグ。ぼくはずっと想いつづけているんです。あなたを」
今こそ、例の冷静かつりっぱな口上をのべる時なのだ。ところがメグはだめだった。せっかく準備したことばを一語のこらず忘れてしまい、ただうつむいてかすかに答えたのだ。「あのう、わかりませんわ」あまり小さな声なので、ジョーンはこのとりとめのない答を聞くためには、からだをかがめてメグの口に耳をよせる始末だった。
だが彼はそれだけの甲斐《かい》があったと思ったらしく、わが意を得たりという笑顔になり、ふっくらとした手を感謝をこめてぎゅっと握ると、じつにたくみな調子で説くのだった。「考えてみてくださいませんか、どう思っておいでなのか? どうしても知りたいのです。仕事をする気にもなれないものですから――いつかはこの気持ちがむくわれる日があるのかどうかわかるまでは」
「まだ若すぎますから」メグは口ごもる。なぜこんなに胸がときめくのかと思いながらも、やはりそれを楽しみながら。
「待ちます。その間に、あなたも、ぼくを好きになることを、おぼえてくださるのではないかと思いますよ。この勉強はとても難かしいでしょうか?」
「それは、その気になりさえすればべつに、でも――」
「メグ、どうぞそうしてください。ぼくは教えることが好きなんです。それに、ドイツ語よりはやさしいですからね」ジョーンはメグにみなまで言わさず、もう片方の手も握ってしまったので、顔をのぞきこまれてもメグには隠すこともできなくなってしまった。
彼の言いかたは、こういう場にふさわしく訴えかけるようなものだった。だが、メグが思いきってちらっと彼の顔をぬすみ見たところ、その瞳はやさしいと同時に喜びにみち、頬には自分の成功を疑わぬ人の満足の微笑が浮かんでいた。
メグはこれでムッとなったのだ。アニー・モファットから教わったおろかしい恋の手管《てくだ》がふっと浮かんできた。そして、ごく善良な若い女性の胸にさえ眠る、男性を意のままにひきまわしてみたい欲望が突如めざめ、彼女にのりうつった。メグは、急にのぼせたような妙な気分になり、どうしていいかわからなかったので、握られていた手をずっと引くと、つっけんどんに言ってみた。「そんな気は全然ありません。もうお帰りください、わたくし、一人になりたいんです」
気の毒に、ミスター・ブルックは、自分のいとしい空中の城がガラガラ耳もとに崩れおちたような顔をした。メグがこんな様子になったのは見たことがなかったので、ひどくびっくりしたのだ。
「本気ですか、今のは?」さっさと歩きだすメグに追いすがるようにして、彼は言う。
「本気ですわ。こんなことで煩《わず》らわされるのいやなんです。おとうさまだって、そんな必要はないっておっしゃるし。まだ早すぎますから、考えたくありません」
「そのうちにお気持ちが変わることを望むこともいけませんか? ゆっくり時間をかけて考えてくださるまで、何も言わないで待ちます。ぼくは真剣なんです。駈《か》け引きはやめてください、メグ。今のはあなたらしくなかった」
「らしかろうとなかろうと、もうわたくしのことなど考えないでいただきたいわ。そのほうがいいんです」恋人をじらし、自分の力を試すことで、たちのわるい満足感を味わいながらメグは言う。
彼は沈痛な顔で黙りこんでしまった。だがそのほうが、メグのお気にいりの恋愛小説の主人公にずっと似てきた。ただ、彼等とちがい、ジョーンは額を打ちもしなければ、部屋をいらいらと歩きまわりもしなかった。彼は、ただやさしく悲しげにじっとメグを見つめているだけだったが、その姿があまりにもいたましかったので、メグはわれにもなく軟化しそうになった。折も折、マーチ伯母がよたよたと入ってこなかったら、このあとどうなったかは筆者にも予測がつかない。
マーチ伯母は、甥《おい》に逢いたい気持ちを、なんとも押さえることができなくなったのだ。ちょうど、外の空気を吸いに出ていた時、ローリーに出合い、甥が帰っているのを知ると、真直ぐ馬車で乗りつけてきたのだ。家の者はみんな奥で忙しくしているようだったので、この老人は、みんなを驚かしてやろうと、黙ってこっそり入ってきたのだった。たしかに二人だけは驚かした。それも並大抵の驚きようでなく、メグはまるで幽霊にでも出くわしたようにぎょっとなり、ミスター・ブルックは書斎に姿を消した。
「おやおや、いったいどういうことかね、これは」マーチ伯母は、蒼白《そうはく》な顔をひきつらした青年から頬を真赤に染めた娘へと目をやって、手にした杖をコツコツ鳴らして叫んだ。
「おとうさまのお友達ですわ。ほんとうにびっくりしましたわ、まさかおいでになると思わなかったので」メグは、さあお説教が始まるぞ、と思いながら、しどろもどろになった。
「そうらしいね」マーチ伯母はそうやり返すとどっかとすわりこむ。「だが、そのおとうさまのお友達とやらは、いったいどんなことを言って、おまえをそんなボタンのように真赤にしたんだね。どうやらよからぬことが始まっとるね。ひとつわたしにも聞かせてもらおうかい」杖がまたゴツンと鳴った。
「ただお話してただけですわ。ミスター・ブルックは、忘れた傘をとりにいらしたんです」メグは、当のミスター・ブルックと傘とが無事に家を出てくれるといいと思いながら言いだした。
「ブルックとな? ああ、あの子の家庭教師だね。ハハア! わかったよ。何もかも知っている。こいつとジョオが、おまえのおとうさんの言伝てを読んでくれている時、うっかり余分なとこを読みかけてね。それでついでに全部話させたんだよ。まさか承知などすまいね、おまえ?」さもけしからぬとでもいうように老人はわめきたてた。
「シーッ。聞こえますわ。おかあさまを呼んでまいりましょうか」メグは閉口して言う。
「あとでよろしい。おまえに言っとく事があるんだよ。今すぐそれをすませてしまわないと気がすまないからね。いいかね。おまえ、このブルックとやらいう男と結婚する気かい? もしそうなら、わたしはただの一ペニーだっておまえにはあげないよ。よく考えてみて、バカなことをおしでないよ」老人は居丈高《いたけだか》に念を押す。
ところで、このマーチ伯母という老人は、もっともおとなしい人達にさえ反抗の精神をかきたてる技術において、じつに完璧《かんぺき》とも言える人で、自分もまたそれを楽しむ癖があった。一方、人間というものはたとえどんなにできた人物でも、片意地なところがあるものなのだ――ことに若くて恋をしている時などには。もしもマーチ伯母が、メグにブルック青年の求愛を受けるように頼んだとすると、たぶん、メグのほうが、そんなことおよそ考えられもしないと言いきっただろう。だが、彼女は、頭ごなしに愛してはいけないと命令されたので、たちまち決心をかため、意地でも好きになろうときめた。だいたい、大分気持ちが動きかけていたところへこの意地が手伝って、決断は早かった。それに、伯母が現われる前に大分のぼせあがっていたので、メグはいつになく勇敢にこの老人に挑戦した。
「わたくし自分の選んだ人と結婚いたします、マーチ伯母さま。あなたのお金など、お好きなようになさればよろしいわ」一歩も引くものかと、メグは頭をぐっとそらせて言った。
「ヘェー、これはおどろいた! わたしの忠告に対して、そんな返答をしていいと思っておいでかね? いまに後悔するだろうよ、丸太小屋で暮らしてみて、愛の恋のどころじゃないことがわかったらね」
「でも、りっぱな家で暮らして同じ思いをするよりは増しですわ」メグはやり返した。
マーチ伯母は、眼鏡をとり出し、しげしげとメグの顔をみる――このおとなしい娘がこんな態度をするのは初めてだったのだから。メグはもう夢中だった。急に勇気が出たような、自分に自信がついたような気がしていた。ジョーンを弁護し、彼を愛する権利を主張することができるのがとてもうれしかった――もしそういう事態になれば。
マーチ伯母は、話の持っていきかたがまずかったのに気づき、ちょっと間をおいてから、あらためて始めてみた。できるだけおだやかな調子で老人はきりだすのだ。「ねえ、メグや、よく分別して、わたしの忠告をお受け。これもおまえのためを思うからで、出だしで間違いをしたため、おまえが一生を棒にふるようなことになってはと心配しているのだよ。おまえはいいところへ嫁入りして、家のためになるようにしなければいけないよ。金持ちの息子と結婚するのがおまえの義務だ。これをしっかり胸にたたみこんでおくのだよ」
「おとうさまもおかあさまも、そうは思っていらっしゃいません。お二人ともジョーンが好きです。あの方はお金などありませんけど」
「おまえの両親はね、メグや、ひどい世間知らずだよ、赤ん坊みたいにね」
「だからすばらしいんです」メグは昂然《こうぜん》と叫んだ。
マーチ伯母は耳も貸さず、自分の説教をつづける。「そのルックとやらは貧乏人で、とくに金持ちの縁者もないのだね」
「ありませんわ、でも力になってくれるお友達がたくさんあります」
「友情など暮らしの足《た》しになるものかね。ことがお金の問題となると、とたんに知らん顔だよ、やってみればわかるさ。仕事はもってるのかね?」
「まだです。でも、ミスター・ローレンスが、お世話してくださるはずです」
「それもいつまでつづくやら。ジェイムズ・ローレンスっていう人は、気まぐれなじいさんでね、とても頼りにはならないよ。とすると、おまえは、お金も地位も仕事もない男と結婚して、今以上にきりきり働かされるというわけかい?わたしの言うことをきいていい縁を結べば一生気楽にすごせようというのに。おまえはもっとわかりのいい子だと思っていたよ、メグ」
「一生の半《なか》ばまで待ったって、こんないいご縁はないと思います。ジョーンはりっぱな方で頭もいいんです。才能にはすごく恵まれてますし。とても勤勉ですから、何をやってもうまく行きますわ。勇気があって実行力があるんですもの。誰もがあの人を好きになって尊敬してます。わたくし、お金もなくて若くて何の取得《とりえ》もないのに、あの方がわたくしを愛してくださることを、とても誇りに思ってますわ」一気にこう言ってのけたメグの顔は、いつにも増して美しかった。
「向こうはおまえに金持ちの親類があるのを知っているんだよ。どうやら、狙《ねら》いはそこらしいね」
「マーチ伯母さま、よくもそんなことを! ジョーンはそんな賤《いや》しいことを考えたりするものですか。そんなことおっしゃるのなら、もう何もうかがいません」メグはカッとして叫んだ。この老人のあまりにもひどい邪推に何もかも忘れてしまったのだ。「あたしのジョーンは、あたし同様、お金めあての結婚なんか絶対にするものですか。あたしたち、喜んで働きますし待ちもしますわ。貧乏なんか、ちっともこわかありません。今までずっと幸せでしたし、あの人といっしょなら、これからだってずっと幸せにきまってます。だって、あの人はあたしを愛してくださるし、あたしも――」ここでメグはぐっとつまってしまった。突然、まだそうはっきり気持ちがきまったわけではなかったのを思いだしたのだ。それに、そのあたしのジョーンに帰ってくれと言い渡したばかりだということ、彼が自分の矛盾《むじゅん》したことばを立ち聞きしているかもしれないということを。
マーチ伯母はすさまじく怒った。ずっと前からこの美しい娘にはすばらしい良縁をと、心に決めていたのだから。今、この若い幸福そうな顔を前にして、この孤独な老人は、悲しいような腹の立つような気分にさせられたのだった。
「そうかい、では、このことから、わたしはすっぱりと手をひくよ。おまえも意地っぱりだね。このばかな真似のせいで、おまえの思っているよりずっとたくさんのものをなくしたんだよ。いえ、もう帰るよ。おまえにこんなにがっかりさせられては、おとうさんの顔を見る元気もありゃしない。結婚してもお祝いなどあてにおしでないよ。おまえのミスター・ブックとやらの友達が、さぞよく面倒をみてくれるだろうからね。おまえとはもうこれっきりだよ、わたしは」
そして、メグの鼻先にピシャッとドアを閉め、マーチ伯母はすさまじい勢いで馬車を駆っていった。どうやら、行きがけの駄賃《だちん》に、メグのありたけの勇気も持っていってしまったらしい。なぜなら、一人きりになると、メグは、泣いていいのか笑っていいのか決めかねて、呆然《ぼうぜん》としてつっ立っていたのだ。まだどちらとも決めかねているうちに、気がついてみるとミスター・ブルックの腕の中にいた。彼は一気にまくしたてる。「聞こえてしまったんだ、メグ。ぼくの弁護をしてくれてありがとう、マーチ伯母さんにも礼を言うよ、きみがぼくを少しは愛してくれていることを証明してくれたんだから」
「伯母さまがあなたのことを悪く言うまで、どのくらいだかわからなかったわ」メグは言いかける。
「じゃ、帰らないでもいいんだね、メグ、こうした幸せにひたっていても?」
例の鼻っぱしをたたくような口上をのべ、しゃんぎりとした退場を実行するのに絶好のチャンスがまた来た。だが、メグはそんなことはけろりと忘れ、ジョオに言わせれば、とり返しのつかない愚行をやってのけたのだった。彼女はかすかに、「ええ、ジョーン」とささやくと、彼のチョッキの胸に顔を埋めてしまったのだ。
マーチ伯母が引きあげてから十五分後に、ジョオはそっと階下へおりてきて、居間のドアの前でちょっと立ちどまり、何も音がしないのを確かめると、満足そうにうなずいて笑顔になり、胸につぶやいたのだ――あたしたちが計画したとおり、追い払ったのね。これであの問題は片づいたと。話を聞いてみよう、さぞおかしいでしょうよ。大いに笑えるな――
だが、かわいそうに、ジョオは完全に裏切られたのだ。目の前の光景にあっとなったまま、目も口も同じくらいに大きくあけて、ジョオは閾《しきい》に釘《くぎ》づけになってしまった。尻尾《しっぽ》をまいて帰った仇敵《きゅうてき》に凱歌《がいか》をあげ、図々しい恋人を撃退した強気《つよき》の姉を賞賛しようと思った矢先に、前述の仇敵が平然とソファーにすわり、強気の姉がその膝にすんなりとすわり、あまつさえ、目もあてられぬ屈服の表情を浮かべているのを目にしたのでは、そのショックたるや並大抵《なみたいてい》ではなかっただろう。
ジョオは、冷水のシャワーを急に頭から浴びでもしたように、ヒャーッというような声を出した――こんなに意外な逆転劇を前にしては、まったく息の根もとまる思いがしたのだから。この妙な音に、恋人たちは振り向き、ジョオを見た。メグは、さっととび立ち、はずかしそうに、けれど誇らしげな顔をした。だが、あの男といつもジョオが言っていた人物は、平然と笑い、この仰天している新来者にキスをしながら、澄まして言ってのけるではないか。「ぼくたちを祝福してください、ぼくらのジョオ!」
これはまさにとどめの一撃だった――いくらなんでもひどすぎる――ジョオは、何やらめちゃくちゃに手をふりまわして不満の意を表明すると、ひとことも言わずに姿を消した。二階へ駆けのぼり、すさまじい勢いで部屋へとびこむと、悲嘆の声をあげて二人の病人を驚かした。
「早く、誰か階下へ行って。ジョーン・ブルックがひどいことをしてて、メグがそれを喜んでるわよ」
マーチ夫妻はあわてて部屋を出た。一方、ジョオは、ベッドに身を投げて、このおそろしいニュースをベスとエイミーに告げながら、気でも狂ったように泣いたりわめいたりした。ところが、この妹たちは、それをまことに結構な興味のある出来ごとだと考え、ジョオはこの二人からは全然慰めを得られなかった。で、しかたなく屋根裏部屋の避難所にのぼり、この悩みごとをネズミたちに打ちあけたのだった。
その日の午後、居間でどんな話合いがあったか、娘たちは誰も知らなかった。だが、その会談はなかなか活発で、ミスター・ブルックは、日ごろのおとなしさに似ず、さわやかな弁舌をふるい心意気を見せて、メグを貰い受けたいと訴え、将来の計画を説き、ついに自分の思うとおりに事を運ぶように夫妻を説き伏せたのだ。
彼がメグのために獲ち得ようと思っているパラダイスの説明が終わらないうちに夕食の鈴がなった。そして、メグを誇らしげに介添えして入ってきたジョーンの姿を目にし、二人が心から幸福そうなのを知ると、さすがのジョオもやきもちだのくやしさだのをけろりと忘れてしまった。エイミーは、ジョーンのいたれりつくせりの心遣いとメグのりっぱな態度に大いに感銘《かんめい》をうけ、ベスは遠くでニコニコと祝福を送っていた。そしてまた、マーチ夫妻は、ほのぼのとした満足感にみちて、若い二人を見守っていた。マーチ伯母が赤ん坊同然の世間知らずと二人を呼んだのは、まさに適評だったのがこれで明らかだった。誰もあまり食べなかったが、みんなじつに幸福そうで、この一家の最初のロマンスが始まった今、この古い食堂までが急に明るく輝きだしたように思えた。
「おねえさん、もう、いいことなんて起こりっこない、なんて言えないわね」エイミーは言った。これからするスケッチに、恋人たちをどういう構図で描こうかと苦心しながら。「そうね、もちろん言えないわね。あんなことを言ってから、なんて色々なことがあったんでしょ! 一年も前みたいな気がするわ」メグはこよなく楽しい夢のさなかにあり、その日その日の生活などから遥かに高いところをさまよっているのだ。
「こんどは、悲しいことのつづきのあとを追いかけて、つぎつぎとうれしいことが起こりますね。これからはいいことばかりありそうね」ミセス・マーチは言う。「どの家庭にも、時々、つぎからつぎへと事が起こる年が巡ってくるものですよ。今年は、どうやら、そういう年だったようですけど、終わりはすべてよくなりましたね」
「来年もまたいい終わりを迎えられますように」ジョオはつぶやく。自分の目の前で、メグがよその人間にうっとり心を奪われているのを見ているのは、彼女にはつらいことだった。ジョオは限られた人だけを心から愛するたちだったので、どういう場合でも、その愛を失ったり減らされたりするのを怖れていたのだ。
「再来年《さらいねん》は、もっともっといい終わりがくるように。いえ、来させてみせます。命あって、すべてが計画どおり運んだら」ミスター・ブルックは、彼にとってはすべてが可能になったように、メグにほほえみかけながら言った。
「ずいぶん待ちどおしくない?」エイミーは、一日も早く結婚式に出てみたいのだ。
「習うことが山のようにあるわ、それまでに。あたしには早すぎるくらいよ」メグは、今までに見せたことのない、やさしい厳粛《げんしゅく》さをその顔に浮かべて答えた。
「あなたはただ待っていてくださればいいんだ。ぼくに何もかもまかせておいてください」ジョーンは、まずその手始めにメグの落としたナプキンを拾いあげて言った。その時の表情を目にして、ジョオは、やれやれ、と思ったものの、玄関の扉の開く音を聞きつけ、ほっとした顔になって胸につぶやいた。「ローリーだわ。さて、これでどうやらまともな話ができるというものね」
だが、ジョオはまちがっていた。ローリーは、≪ミセス・ジョーン・ブルック≫と記した花嫁用の花束に似せた大きな花をかかえ、ひどく陽気な顔で、颯爽《さっそう》と現われたのだ。明らかに、すべてが自分の優れたはからいによってこういう結果を結んだのだという妄想《もうそう》のもとに、温室で花束づくりをしてきたとみえる。
「先生は、必ず、思いどおりにやりとげるだろうと思ってたんだ。いつもそうだから。だって、一旦何かやろうと思ったら最後、空が落ちて来ようとどうしようと、必ずやってのけるんだからな」ローリーは祝福のことばを添えて贈物を贈呈してしまうとこう言った。
「推薦《すいせん》の辞を、ありがたくいただきます。それを将来のための縁起としてお受けいたし、この場で即刻結婚式にご招待いたします」ミスター・ブルックはおどけて答えた。目下、彼は全人類と和合した気分でいるのだ。いたずらな弟子《でし》とさえも。
「地の果てにいたって来ますよ。その時のジョオの顔を見るだけでも、長旅をする甲斐がありそうだから。なんだか浮かない顔をしておいでですね、あなたさまには。どうしたというの?」居間の隅までジョオについて行きローリーはたずねた。ほかの連中は、ミスター・ローレンスを迎えに立っていったのだ。
「この結婚には不賛成なのよ。でも、我慢することに決心したから、何も言わないわよ」ジョオは真面目な顔で言う。「メグをあきらめるのがどんなにつらいか、あなたなんかわかりっこないわ」言いながら声が少しふるえてきた。
「あきらめるなんて、おかしいぜ。半分こにしたと思えばいいじゃないか」ローリーは慰める。
「でも、二度ともとのようにはならないわよ。あたしはいちばんの親友をなくしちまったんだもの」ジョオは吐息《といき》をもらす。
「ぼくがいるよ、それでも。大して力にはならないことはわかってるけど。でも、ぼくはいつでもついててあげるぜ、ジョオ。一生だっていい、誓うよ」ローリーは至極本気なのだ。
「そりゃあわかってるわ。いつだって感謝しててよ。あなたのおかげで、とても楽しいんだわ、テディ」ジョオは感謝をこめてローリーと握手をする。
「よし、じゃ、もうしょんぼりするのはやめだ。そうさ。これでいいんだよ、ね。メグは幸福だし、ブルック先生はとびまわってすぐに身のふり方をきめるだろうし。おじいさまだって力になるだろうし。メグが自分の小さな家におさまったとこ、想像しただけで楽しいぜ。メグがいなくなったら、二人でうんと楽しいことをしようよ。だって、ぼくはそのころには大学を出るから、いっしよに外国へ行くとか、楽しい小旅行をするとか。これで少しは気が晴れたかな?」
「そりゃあうれしいわよ。でも、三年間に何が起こるかわからないもの」ジョオは考えこむ。
「そりゃあそうさ。先のことが見えて、ぼくらがそのころどうなってるか知りたいと思わないかい? ぼくは思うな」
「あたしはいやだわ、何か悲しいことでもあるといやだもの。だって、ほら、見てごらんなさい。誰も彼も、今、こんなに幸せそうよ。これ以上幸せになれっこないと思うわ」そして、ジョオは、ゆっくりと部屋の中を見まわした。そして、その瞳は、将来の幸を映しでもしたように、みるみる輝きを増すのだった。
父と母とは寄りそってすわり、二十余年前に始まったロマンスの最初の章を、ふたたび静かに生きはじめていた。エイミーは、みんなから離れて二人だけの美しい世界にいる恋人を描こうと苦心していた。だが、その世界から射す光は、この豆画家がとても写し得ない美しさを二人の顔に添えていた。ベスはソファーに横たわり、ミスター・ローレンスと楽しげに話していた。この老いた友は、彼の小さな友人の手をしっかり握りしめている――その手に導かれて、彼女のたどった平安の道を歩くことができると信じてでもいるように。
ジョオは、お気にいりの低い椅子にくつろぎ、彼女にいちばんふさわしい、しずかな思索的な表情をたたえている。そして、ローリーは、その椅子の背によりかかり、捲毛の頭のあたりに自分のあごを出して、二人が映っている長い鏡の中で、ふかい親しみをこめた微笑を浮かべて、ジョオにうなずいてみせた。
***
この位置のまま、幕は、メグ、ジョオ、ベス、エイミーの四姉妹の上におりる。ふたたびこの幕があがるか否かは、ひとえに、この「若草物語」と名づけられた家庭劇第一幕の反響いかんによる。
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解説
一 『若草物語』の誕生
一八六七年の九月、当時三十五歳だったルイザ・オールコットは、子供時代からずっとつけていた日記にこう記している。
「ミスター・ナイルズ(注―彼女の出版社)が、少女向きの小説を書くようにと言った。やってみようと返事する。……直ちに着手した。あまり気が乗らぬ」
なぜオールコットがあまり気が進まなかったかを知るために、その頃の著者の生活の断片を拾ってみよう。アメリカ南北戦争に特志看護婦として半年余参加していたオールコットは、すでにその経験をもとに二冊の著書をもち、その他にも、小説を一つ、お伽話《とぎばなし》の作品集を二冊書いていた。そして各種の雑誌にも戦地物語を寄稿したり、少女雑誌に小物語を書いたりしていた。この日記はオールコットの父が、彼女の代理で出版社の主人に会いに行き、お伽話の出版を頼んだところ、思いがけず少女小説の依頼を受けて帰ってきた日に書かれたものなのだ。
オールコットは、まず手初めに、自分の少女期を思いだして、その中からある出来ごとをとりあげ、当時執筆していた雑誌に出してみた。そしてこれが読者に喜ばれたのを知って初めて書きだしたのがこの『若草物語』なのだ。オールコットがこの手馴れぬ少女小説を書くのに非常に慎重《しんちょう》だった理由は後に説明していくが、ともかく、著者自身、そして出版社もまた、大して期待をかけていなかったこの本が、出版後すぐにアメリカの少女達の間でベストセラーになり、そのうえ百年に近い年月が流れた今日まで驚異的な生命を保ちつづけ、日本の若い読者にまでこうして迎えられている、その生命の秘密を、この物語の作者と作品とのつながりから、私たちはさぐっていくことにしよう。
二 オールコット一家
ルイザ・メイ・オールコットは、一八三二年十一月十九日、アメリカ、ペンシルベニア州ジャーマンタウンに、オールコット家の次女として生まれた。このオールコット家がすなわち『若草物語』のマーチ家であり、男の子のような次女ジョオが、少女時代のルイザなのだ。ただ、母親であるオールコット夫人初め三人の姉妹は、多少のちがいはあっても、ほとんど現実の人物のままであるのだが、父親であるエイモス・B・オールコットは、この『若草物語』の父親のように戦地へは行かなかった。『若草物語』を書くに当って、ルイザが一番苦心したのは、この父親を、どういう形で出版社の望んでいるような少女小説に登場させるかということだったのだが、それを理解するためには、エイモス・オールコットという人物と彼を中心とした一家の生活状況を知る必要があるようだ。
三 理想主義者オールコット
エイモス・オールコットは学問もあり教養も高い人格者だった。だが、早くから、ほとんど非常識なほどの理想主義思想を信じまたそれを実行し、そのために妻子の生活を余儀なく犠牲にすることが多かった。
ルイザがまだ幼ない頃、彼は小さな学校を開いていたが、黒人の子供にも平等の権利を与えるべきだという人道主義的信念を貫いたため、たちまち生徒がへってしまい、すぐに経営難におちいり、学校は閉鎖する羽目になった。これは、現在でもなお黒人問題で何かとごたごたが起きるアメリカの、百年も昔を考えれば、まことに当然な結果なのだが、当時、黒人解放のために戦っていた北軍側に属していた人たちの中には、現在以上に理想に燃え、道義観の強かった者があっても不思議ではないのだ。
やがて一家は、コンコードに移った。このコンコードで、しかし、エイモス・オールコットの極端な理想主義はついに四人の女の子の母となっていた妻からも反対されるようになってしまったのだ。彼は同志と共に、ここに新しいエデンの園を創るための実験を始めたのだが、その思想の根本となるものは、すべての個人的な欲求を捨て、神と隣人に対する義務を第一義に考えこれに従うというものだった。「合同家族」と名づけられた数家族が生活を共にして、個人的の判断や好みを一切押え、共通の道義と規則によって毎日を送ったのだが、こういった極端に非現実的な思想の傾向として、終わりにはほとんど狂信的ともいえる生活態度を強制するようになった。この「合同家族」は肉食を禁じるばかりでなく、あらゆ乳製品、タマゴの類までも禁じた。さすがにオールコット家では、牛乳、バター、チーズだけは幼ない子供たちのためにゆるされてはいたが、イーストの入らぬコチコチのパン、つめたい水、あとはジャガ芋と畑のリンゴだけの食卓につく四人の姉妹を前に、母親のオールコット夫人は、夫の思想について行くことのむつかしさをしみじみ味わったのにちがいなかった。だが、母親の子供に対する愛情もまた利己的であるという理由で、≪他人の子供に対する以上の愛を自分の子供に示してはならぬ≫という規約がつくられると、それまで極度に貧しくきびしい生活を、ただ溢《あふ》れるような子供たちへの愛情ひとつで補ってきた夫人は、ついに夫と対立しなければならなかったのだ。そして、これを最後にこの理想社会思想のグループは解散してしまった。ルイザがこの時のことを、彼女の日記にこう書いている。「何もかも前よりずっとずっと楽しくなった。もうわたしは死にたいなどとは思わない」そしてまた、父親の行きすぎた理想主義のために絶えず貧乏におびやかされていたとみえ、こんなことも書いているのだ。「うちがお金持だったらいいのに……今みたいに貧乏では、うちのみんなの衣類だの食べものだのの面倒をみてくれる人などありっこないのに」
このルイザの言葉でもわかるように、父のオールコットは、家族を愛してはいたが、妻子のために生活費を稼ごうとはしなかったとみえ、その人柄のよさで次から次へとお金を貸してくれる人があったために、終わりには借金の額が莫大なものになった。そして、ルイザが結局はそれを全部返済することになったのだ。
四 『若草物語』における父オールコット
この人道主義の非実際的な父を、ルイザがほかの家族のようには自分の小説の中に登場させられなかったのは、大体以上のような理由からだった。だが、おそらくパッとひらめいたインスピレーションによって、ルイザは、ミスター・マーチを戦線に送ることですべてを解決できたのだ。遠くにある人として、また戦地で病を得た人として美しく描かれた父は、同時にこの小説の劇的効果をあげるのに役立っている。しかし、この父があって初めてルイザのような性格が形づくられたと考えられる点も多いのだ。
五 コンコードの生活のルイザヘの影響
父オールコットが、理想の生活を志して住んでいたコンコードは、当時、南部から自由を求めて逃れてくる黒人奴隷が、北部へ脱出する途中の重要な足がかりとなった土地だった。ほとんどどの家にも秘密の部屋があり、逃亡中の奴隷をかくまう準備がしてあった。それは、ストウ夫人(Harriet Stowe 一八一一〜九六)の『アンクル・トムズ・ケビン』(Uncle Tome's Cabin)に表現された恐怖、勇気、危険、困難といった激しい人間の生きかたが、現実に見聞きされた土地であり、感受性の強い幼少期をここですごしたルイザの心には、この頃の記憶が炎の条《すじ》となって残っていたにちがいなく、その感情を人一倍激しいものにし、その性格に生一本なものを加えたと思われるのだ。
六 母と姉妹たち
『若草物語』が書かれた時、すでにベスは世を去っていたが、母と姉妹はこの小説が生まれるためのよき助言者であり、ルイザはそのはげましに力を得てこれを書いたのだ。ミセス・マーチは、ほとんどルイザの母そのままなのだが、彼女自身は、「本当のおかあさまの半分も良く書けていない」と言っていたという。姉妹のほうもまた、ほとんどそのままで、メグはアンナであり、エイミーはメイと呼ばれていた。だが、ベスはやはりベスで、小説と全く同じように猩紅熱にかかったあと遂に完全に健康体にもどらぬまま、その短い一生を終わった。その最期をルイザは日記にこう書いている。
「先週、ベスはそれまで続けていた裁縫をやめてしまった。針が重くてと言って。火曜日に、父の腕に抱かれたベスは、わたしたち全部を自分のそばに呼んだ。そして満足そうに微笑をうかべて言ったのだった。みんないるのね! と」
ジョオは、当然ルイザ自身であり、それもほとんど正確といえる肖像画同様なのだ。「わたしは男の子の性質を持って生まれてきて、長いスカートをはいてはいたが、男の子の気性でわたしの戦いを戦ってきた」と彼女自身が言っているとおり、日本で言うなら竹を割ったようなと形容される性格の持ち主だったとみえる。
七 その他のモデルたち
ローリーは、現実には存在せず、ルイザの幼馴染《おさななじみ》の少年と彼女が後年ヨーロッパで逢ったポーランド人の青年を適当に配合した人物なのだ。まじめで頼もしいのがアメリカ少年の方であり、陽気で茶目なのがポーランドの青年と思ってよさそうだ。ローレンス老人は、母方の祖父ジョセフ・メイ大佐である。そして、オールコット家は女中を雇うほど経済的な余裕がなかったので、ハンナは現実には存在しなかった。だが、ハンナのモデルとなる黒人の女中は、当然ルイザの周囲にあったにちがいない。
八 物語の出来ごとと実際にあった事実
『若草物語』第二章に書かれた、クリスマスの朝、貧乏な一家に自分たちの食事を全部持っていってあげるといった経験は、このオーコット家の現実の生活でも珍しいことではなかった。ルイザの日記でも、「偉い方がお客に見えたお隣の家に、わたしたちのための食事を全部まわしてあげた」と記されている。また、ある雪の土曜日、オーコット家の薪が底をついている所へ、貧しい子供が、一家が寒さに悩まされ、赤ん坊がいるので、と薪をもらいに来たことも書いている。「おかあさまは、家にも赤ちゃんがいたし、日曜もその薪ですごさなければならなかったので、ちょっとためらっていた。けれど、おとうさまは、≪半分わけておやり、そして神の摂理《せつり》を待とう。寒さもやわらぐだろうし、薪にも恵まれるだろう≫とおっしゃった。おかあさまは、いつもの快活な声で、≪そうですね、わたしたちよりこの子の一家のほうが、ずっとこの薪を必要としていますものね。うちのがなくなったら、ベッドに入ってお話を聞かしてやることにしましょう≫……」そして、確かに神の摂理がおこなわれ、その晩、吹雪で立往生した木こりが、オールコット家に、積んでいた薪を全部おいていったと記している。
こういった精神は、そのまま『若草物語』に流れているのだが、また、バニヤンの『天路歴程』あそびも現実の四姉妹の生活に実際におこなわれ、例のお芝居さわぎも、コンコードの家の納屋でルイザの脚本によって始終上演されたものだった。また、「ピックウィック・クラブ」も彼女たちのものであり、四姉妹が仕事をしている時によく父親が読んで聞かせたディケンズの物語を、姉妹がどんなに楽しんでいたかがわかる。ことにやんちゃだったルイザは、ディケンズの警句だの軽妙な言葉に傾到し、手紙や日記に、ふんだんに使っている。
九 製作の過程
ルイザはやっと物を書き始めた頃から、仕事部屋を持つことにあこがれていたが、『若草物語』を書くことが決まると、すぐにボストンに部屋を借り、意気ようようとコンコードから引越していった。彼女の言うところによれば、新しい国に野営でもするようにと。
こうして書き始められた物語は、最初の難関であった父親の扱いかたが決まると、あとはごく楽に書き進められていった。十二章まで書きあげると、ルイザはこれを出版社に送ったが、「面白味のない退屈な話」だが、まあ約束通り出版しようといったまことに気のない返事が来た。だが、ルイザは、実生活に結びついた簡素な小説が少女たちに必要だ、ということを知っていたので、出版社側の考え方に迎合せずに、そのままの調子で最後まで書きあげた。完成したのは依頼を受けた翌年一八六八年だった。
十 出版後の反響とその後の生活
前にもちょっと触れたが、著者も出版社も大して期待をかけていなかったこの『若草物語』の出版後の反響をルイザ自身の言葉を通して聞くことにしよう。
「良心的な出版社と幸運な著者。印税制にしてもらったおかげで著者は莫大なお金を得、退屈な本は≪みにくいアヒルの子≫の最初の金の卵になったのだ」そしてまた、その売行きのいいことに喜んで出版元が続編を依頼したのに対し、「わたしは一日一章書くことができる。一か月以内には絶対に仕上げるつもりだ。この小さな成功がわたしを喜びで満たしてくれ、わたしのマーチ一家が実に落ちついた良い人たちなのをあらためて知った」と感想を書いている。この続編が出ると、最初の本の売上げはまた画期的にあがりたちまち十万部を突破したのだ。そして、好人物ではあったが生活能力に欠けていた父オールコットに対しての世間の見方まですっかり変えてしまうほどの財産を作ることができた。末っ子のエイミーとして物語に登場したメイを、希望通りヨーロッパに留学もさせルイザ自身もヨーロッパの旅を楽しんだ。彼女は生涯結婚せず、ボストンで生活を父と共にし、一八八八年三月、父の死を追うように五十七歳で世を去った。
十一 ルイザ・オールコットの助言
晩年、小説の書き方などについて助言を求められると、彼女はこう答えたという「人それぞれの個性に向いた仕事をすること。そして、絶えず書きつづけ、批評してもらうことで訓練を積むこと、文法、句読点に気をくばり、短い言葉を使い、言おうとすることをできるだけ簡潔に表現すること。若い人は形容詞が多すぎるし、上手に書こうとそればかりに気をつかう。だが、最も強い、最も簡単な言葉が一番いいので、できることなら外来語はつかわないこと。最高の本を読むことにより、自分の文体を磨《みが》くこと。優秀な講演を聞いたり、賢者の話に耳を傾け、その話から何かを吸収すること」そして、最後にこうつけ加えている。「天才とは絶えざる努力なのだ」と。これはおそらくエマソンの言葉をひいたものと思われるが、ともかく、この助言の中に、作家としてのルイザ・オールコットの信条のすべてが含まれているのではないだろうか。
十二 リトル・ウイメン叢書
『若草物語』の系統の作品三点を含む≪Little Women 2≫ ≪Little Men≫ ≪Jo's Boys≫ ≪An Old Fashioned Girl≫ ≪Eight Cousins≫ ≪Rose in Bloom≫ ≪Under the Lilac≫≪Jack and Jill≫の、リトル・ウイメン叢書として一般に広く知られている八編がルイザ・オールコットの数多い作品の中でも最も有名なものと思われる。
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年譜
一八三二 一一月二九日、アメリカ、ペンシルベニア市に近いジャーマンタウンで、父ブロンソンと母アビゲールの次女として生まれる。前年には長女アンナ――小説ではメグ――が生まれていた。
一八三三(一歳)オールコット家、フィラデルフィア市に移転。
一八三四(二歳)オールコット家、ボストンに近いコンコードに移転。父は私塾を開き「テンプルスクール」と名づけ、理想主義教育を試みる。コンコードには、思想家・哲学者として有名なエマソン、ソロー、ホーソーンが住んでいたが、彼もまた三人と同じグループに属し、社会改革の理想に燃えていた。
一八三五(三歳)三女エリザベス――小説ではベス――生まれる。
一八三九(七歳)父の塾はあまりに理想に走りすぎたため経営困難におちいり閉校。
一八四〇(八歳)四女メイ――小説ではエイミー――生まれる。
一八四三(一二歳)父前年に英国へわたり、帰国後フルートランドと名づける理想的共同体を設立したが、やはり現実とあまりにかけはなれていたため失敗し、オールコット家は経済的に恵まれぬ何年かを送ることになる。
一八四五(一三歳)姉アンナとルイザは、これまで父に教育を受けていたがこの年初めて学校へ通う。ルイザ戯曲を書き始める。
一八四八(一六歳)家計の助けに、ルイザは家の納屋で塾を開く。エマソンの小供がその生徒の主なものだった。エマソンの娘エレンのためにお伽話《とぎばなし》を書く。のちに『フラワー・フェイブルズ』として出版された。オールコット家、ボストンに移る。
一八五一(一九歳)ルイザは家計を助けるために、家庭教師、裁縫、女中等あらゆることをして働き、その間も創作の勉強をつづけていた。
一八五五(二三歳)『フラワーズ・フェイブルズ』出版。オールコット家、ニューハンプシャー州のウォルポールに移転。のちにルイザのみボストンに住む。
一八五六(二四歳)六月、エリザベスとメイ猩紅熱にかかる。ルイザ、夏をウォルポールの家族のもとですごす。十月、ボストンに帰る。
一八五七(二五歳)一家はふたたびコンコードに移転。果樹園つきの家を買う。
一八五八(二六歳)三月、三女エリザベス死亡。十月ルイザ、ボストンに戻る。
一八六〇(二八歳)五月、アンナ結婚。ルイザ小説≪Moods≫を書き始める。
一八六一(二九歳)≪Moods≫と共に、新たに≪Success≫を書きつづける。南北戦争始まる。
一八六二(三〇歳)十一月、北軍の従軍看護婦を志願、十二月にジョージタウン病院に派遣される。
一八六三(三一歳)一月、チブスにかかり送還された。従軍当時の経験を書いた『病院スケッチ』が出版され好評を得る。
一八六四(三二歳)≪Moods≫出版される。
一八六五(三三歳)七月、ヨーロッパ旅行に出発。
一八六五(三四歳)ニース、パリ、ロンドンを訪ね、七月にコンコードに帰る。
一八六八(三六歳)前年、トマス・ナイルズ――出版社主人――から少女小説の執筆をすすめられていたが、この年の六月に十二章を書き終え、七月に完成、十二月に出版されたのがこの『若草物語』である。
一八六九(三七歳)『若草物語』の続編、≪Good Wives≫完結、五月に出版される。
一八七〇(三八歳)『昔気質《むかしかたぎ》の少女』≪An Old Fashioned Girl≫に着手、三月に出版される。四月、再度のヨーロッパ旅行に向かう。
一八七一(三九歳)イタリアにあそび、滞在中に、≪Little Men≫を書き、六月帰国と同時に出版される。
一八七二(四〇歳)≪Shawl Stiaps≫出版される。
一八七三(四一歳)≪Success≫完成。題名を≪Work≫と改めて出版される。
一八七四(四二歳)十二月、≪Eight Cousins≫完成。
一八七五(四三歳)≪Eight Cousins≫出版される。
一八七六(四四歳)≪Rose In Bloom≫十一月に出版される。
一八七七(四五歳)≪A Modern Mephistopheles≫四月に出版される。十一月、≪Under the Lilac≫の執筆始める。コンコードにて母死去。
一八七八(四六歳)妹メイ、ロンドンにて結婚。
一八七九(四七歳)≪Jack and Jill≫の執筆を始める。十一月、妹メイ女の子を出産。十二月、妹メイ死亡。
一八八○(四八歳)≪Jack and Jill≫出版される。九月、妹の遺子ルル、ロンドンよりルイザのもとにひきとられ、その後はこの姪の世話に追われる。
一八八二(五〇歳)四月、エマソン死す。≪Jo's Boys≫に着手。父、卒中で倒れる。
一八八六(五四歳)≪Jo's Boys≫出版される。
一八八八(五六歳)≪A Garland For Girls≫出版される。
三月四日、父ブロンソン死す。
三月六日、ルイザ死す。
ルイザ・オールコットの墓は、コンコードのスリーピイ・ハロウ墓地の≪著作者の丘≫にエマソン、ソロー、ホーソーンなどと共にある。
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訳者あとがき
≪Little Women≫が「若草物語」と訳されるようになったのはいつのことかと、この物語の訳を始めてからずっと持ちつづけていた疑問が、最近やっと解けました。この物語は、今までに何回か映画化されたのですが、その最初に日本に輸入された作品――わたくしの記憶ちがいでなければエリザベス・テイラーがエイミーを演じたのだと思いますが――その題名として選ばれたのがこれなのだそうです。それまで「小さな人々」とか「少年少女たち」(大久保康雄、中村佐喜子訳)などと訳されていたのが、これを最後に全部「若草物語」と統一されてしまったのをみても、これがなかなかの名訳らしいことがわかります。
「リトル・ウイメン」とは、みなさまもおわかりのように、「ちいさい婦人たち」という意味で、まだ「婦人」とか「女性」とか呼ばれるには若すぎる姉妹たちが、稚なさや若さに甘えず、凛々《りり》しく非常の時に当り、しっかりした足どりで人生を歩いていく姿をこの題ひとつに表現しようとしています。けれども、日本語に移したとき、どうしてもこれだけの含みがでないのと、ことに映画の題名としてはあまりにもじみすぎたので、「若草物語」というかわいらしい訳が生まれたのでしょう。
さて、この「若草物語」は、この題になってからも松本恵子、吉田勝江両先生の名訳があり、数かぎりない読者に親しまれつづけています。したがって、これを新たに訳すことは、わたくしなどには荷の勝ちすぎる仕事で、予想以上のむずかしさに四苦八苦する始末でした。ただ、この文庫の主旨にそって、今の若い方々が楽しんですらすら読めるものにすることに全力をつくすと同時に、原作のもつきびきびした文体、レモンのように爽《さわ》やかな味を少しでも残すことにつとめるのが精一杯でした。もしもみなさんが、ジョオすなわち作者のスカッとした気性に魅力を感じ、この四人の姉妹といつの間にか友達になってくださっていたら、それで訳者としての意図は十分達せられたことになります。
これを訳しながら、いろいろのことを考えさせられました。中でも現在何かと問題になっている家庭の躾《しつけ》、ことに少女期から若い女性へと育っていく過程での大事なポイントなどを。そして、百年前のアメリカの家庭での人生教訓が、まことに健康であり正しいものであったことも。この物語での長女のメグの結婚問題について、母親が言っている言葉など、そのまま日本の今の母親の信条となるものではないかと思えます。この「若草物語」は、誰にでもやさしく読める家庭小説ではありますけれど、ただ物語としての面白さ以外にも、ここに流れている、当時のアメリカの自由独立の気風、清教徒《せいきょうと》的なきびしい精神を通して、百年前のアメリカの心に触れ、独立戦争、南北戦争の歴史をもう一度頭の中ででも復習していただけたらと思います。
なお、この訳には Thomas Nelson and sons 社版を原書として使いました。他のものとくらべて内容的に一番無理がないと思いましたので。そして、さし絵もまた同書のをそのまま入れてあります。これにより、訳では説明しにくい当時の服のスタイルや風俗をよくわかっていただけたのではないでしょうか。
最後に、長いこと遠ざかっていた若い読者との触れ合いの機会をつくってくださった旺文社に感謝いたします。
一九六六年六月 訳者
〔訳者紹介〕恩地三保子(おんち・みおこ)。大正6年生まれ、東京女子大学英文科卒。主訳書、クリスティ『満潮に乗って』、スターリング『一日の悪』、ブランド『ハイヒールの死』『ゆがんだ光輪』、ラブレース『ベッシイは高校三年生』、フォックス『島っ子ボニイ』など。