若草物語(下)
[#地から2字上げ]オルコット
[#地から2字上げ]吉田勝江 訳
目次
第十二章 ローレンス・キャンプ
第十三章 空中|楼《ろう》|閣《かく》
第十四章 |秘《ひ》 |密《みつ》
第十五章 |電《でん》 |報《ぽう》
第十六章 手 紙
第十七章 小さきまごころ
第十八章 暗い日
第十九章 エーミーの|遺《ゆい》|言《ごん》|書《しょ》
第二十章 打ち明け話
第二十一章 ローリーの|悪《いた》|戯《ずら》とジョーの|仲裁《ちゅうさい》
第二十二章 楽しき|野《の》|辺《べ》
第二十三章 マーチ|伯《お》|母《ば》さん問題を|解《かい》|決《けつ》す
解説
ルイザ・メイ・オルコット―人と作品
『若草物語』について
[#改ページ]
第十二章 ローレンス・キャンプ
ベスは|郵便局《ゆうびんきょく》の女局長さんだった、たいてい家にいるので、きまった時間に|出勤《しゅっきん》することができたし、それに|彼《かの》|女《じょ》は毎日局の小さな|扉《とびら》を開けて、郵便物を配ってあるくという仕事が|大《だい》|好《す》きだったのだ。七月のある日、彼女は両手をいっぱいにしてはいってき、手紙や小包を|一片郵便[#訳注:普通郵便を一ペニーで配達して歩くのが大戦前までの英国の郵便制度]《ペニー・ポスト》のようにして家中に配達して歩いた。
「はい、お母さまに花束! ローリーは|忘《わす》れたことないのね」そう言いながら彼女は、新しい一束のお花を花びんに入れた。それは「お母さまの|領分《りょうぶん》」においてあって、この|愛情《あいじょう》深い少年の心づくしでお花が|絶《た》えたことがなかったのである。
「ミス・メグ・マーチにはお手紙が一つと|手袋《てぶくろ》が|片《かた》|方《ほう》」とベスはつづけて言いながら、姉にその品々を|渡《わた》した。メグは母のそばにすわって、シャツの|袖《そで》|口《ぐち》を|縫《ぬ》っていた。
「あら、|私《わたし》二つとも忘れてきたのに、一つしかないわ」メグはグレーの|木《も》|綿《めん》の手袋を見ながらそう言った。「お庭に|片《かた》っ|方《ぽう》落としてきたんじゃない?」
「いいえ落とさなかったわ、郵便局に一つしかなかったのよ」
「いやあね、はんぱ手袋なんて、まあ、いいわ、そのうちにも一つのほうも見つかるでしょう。お手紙は|頼《たの》んでおいたドイツ語の歌の|訳《やく》だけだわ。ブルックさんが書いたのね、ローリーの字じゃありませんもの」
マーチ夫人はちらとメグのほうを見た、ギンガムのふだん着を着て、|巻《まき》|毛《げ》を少し|額《ひたい》にたらし、きれいなまっ白い布などのおいてある仕事台の前で|針《はり》を動かしている|姿《すがた》は、いかにも女らしく見えた。母が心の中でどんなことを考えているかなどということには少しも気づかず、|縫《ぬ》ったり歌ったりしている。手早く針を動かしながら、心の中ではしきりと少女らしい空想にふけっている、それは彼女のベルトについている三色すみれのように|無《む》|邪《じゃ》|気《き》で|新《しん》|鮮《せん》なものだった。マーチ夫人は満足気にほほえんだ。
「ジョー先生にはお手紙が二つとご本と、おかしな|古《ふる》|帽《ぼう》|子《し》よ、この帽子は郵便局いっぱいになって外へはみ出していたわ」ベスは|笑《わら》いながらこう言って、|書《しょ》|斎《さい》で書き物をしているジョーのところへ行った。
「ローリーのいたずらっ子! 私が|暑《あつ》くて日に焼けるから、大きな帽子が流行すればいいって言ったからなのよ。あのひと『どうして流行なんか気にするんだろう? 大きな帽子かぶっていい気持ちになったほうがいいのに』って言うのよ、それで私、あればかぶるっていったもんだから、試そうと思ってこれを送ってよこしたのよ。おもしろいからかぶってやるわ、そして流行なんか気にしていないってことを見せてやろう」ジョーは古風な|縁《ふち》の広い帽子をプラトーの|胸像《きょうぞう》にかぶせておいて、手紙を読みにかかった。
一つはお母さまからので、読んでいくうちに彼女の|頬《ほお》はかがやき、目は|涙《なみだ》でいっぱいになった、それにはこんなふうに書いてあった、――
「愛するものよ――
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私はあなたが自分の|激《はげ》しい|気性《きしょう》を|押《お》さえようとして|一生懸命《いっしょうけんめい》になっているのをみて、どんなに|嬉《うれ》しく思っているかということをお知らせしたくてこの手紙を書くのです。あなたはそういう試練をしていることも言わないし、失敗しても成功しても何も言いませんね。たぶんだれもそのことに気がついていないと思っているのでしょう。あなたが毎日お助けをお願いしている神さまよりほかにはね。そのことはあなたの手ずれのした|聖《せい》|書《しょ》の表紙を見ればわかります。でもお母さまもちゃんと見ていたのですよ。そしてあなたの決心が|真《しん》|剣《けん》なものだということを心から信じています、どうやら実を結びかけているのですもの。愛する|娘《むすめ》よ、つづけておやり、しんぼうづよく勇気を出して。そしてあなたのことをやさしく|同情《どうじょう》して上げられるのはこの母がいちばんなのだということを信じていてください。母より」
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「これでこそ私はよくなれる! お金を百万ドルもらったって、みんなからほめそやされたってこれほどうれしいことないわ。お母さま、私やります! つづけてやってみます。お母さまが助けてくださるのですもの、いやになったりなんかしません」
彼女は両手に頭をのせて、書きかけの小さなお|噺《はなし》の上に|数《すう》|滴《てき》のうれし涙をたらした。自分のよくなろうとする努力をだれも気がついたり|認《みと》めたりしてくれる人はないと思っていた|矢《や》|先《さき》だったから、母からこのようにうけ合ってもらえたことは、思いがけぬことだけに、二重に|尊《とうと》く思われ、|励《はげ》まされたわけであった。母の言葉こそ彼女は何にもまして|価《か》|値《ち》あるものと思っていたのである。心の|悪《あく》|魔《ま》に立ち向かい、これを|征《せい》|服《ふく》する力が|常《つね》にもまして強くわくのを感じながら、その手紙を|上《うわ》|衣《ぎ》の内側にピンで|留《と》めた。悪魔の不意打ちにあったときの|楯《たて》とも思い出ともしようと思ったのである。さてそれからもう一つの手紙を――|吉凶《きっきょう》いずれのニュースであろうともびくともしない|覚《かく》|悟《ご》をきめてあけにかかった。大きな、元気のいい字でローリーは次のように書いていた、――
「親愛なるジョー
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ごきげんはいかが!
明日イギリスの女の子や男の子が三、四人、|僕《ぼく》のところへやってきます、で大いにおもしろく遊ぼうと思うんです。お天気がよかったら、ロングメドウにテントを|張《は》って、全員そろってボートを|漕《こ》いで行き、お昼を食べたりクローケーをしたりしようと思います。|焚《たき》|火《び》をしてジプシーのようにご|馳《ち》|走《そう》をつくり、さんざ|愉《ゆ》|快《かい》に遊ぶつもり。みんないい人たちでこんなことの|好《す》きな連中です。ブルックさんもいっしょに行って男の子たちを|監《かん》|督《とく》するし、女の子はケート・ヴォーンさんが|取《と》り|締《し》まります。みんなで来て下さい。ベスも|是《ぜ》|非《ひ》つれてくること。あの子を|困《こま》らせたりなんかだれもしませんから。食料の心配ご|無《む》|用《よう》、――その他、万事僕がいいようにします――ただ来てくださりさえすればいいのです。いい子だからいうことをきくように!
右取り急ぎ、
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]ローリー」
「うわあ、すてき!」ジョーは|叫《さけ》んで、このニュースを知らせようとメグのところへ飛んで行った。「もちろん行ってもいいでしょう、お母さま? ローリーずいぶん助かるのよ、私はボートがこげるし、メグはお昼ごはんのお手つだいができるでしょう、あの子たちだって何か役にたつわ」
「ヴォーンさんの人たち、あんまりちゃんとしたおとなでないといいんだけど。ジョー、あんたあの人たちのこと何か知ってて?」
「四人いるってことしか知らないわ、ケートってあなたより大きいのよ。フレッドとフランクは|双《そう》|生《せい》|児《じ》で私くらい。グレースって小さい女の子は九つか十でしょう。ローリーは外国であの人たちと知り合いになったのよ。男の子のほうは|好《す》きなのよ、だけど、ケートのことを話すときのすました口つきでみると、あんまり感心してないんだと思うわ」
「私、フランス|更《さら》|紗《さ》のきものがきれいになっていてよかった、こんなとき着るのにちょうどいいし、それによく|似《に》|合《あ》うんですもの」メグはうれしそうに言った。「あんた何かおかしくないのある、ジョー?」
「赤とグレーのボート着があるわ、私にはあれでちょうどいいのよ。ボートこいだり、歩き回ったりするんだから、心配しながら|糊《のり》のきいたの着たくはないわ。ベスちゃん、行くでしょう?」
「男の子と口きかせたりなんかしなければ」
「|大丈夫《だいじょうぶ》、きかせない!」
「私、ローリーを喜ばせたいのよ、それにブルックさんもやさしいから、ちっともこわくないわ、だけども、遊んだり歌をうたったりお話したりするのはいやなの。私|一生懸命《いっしょうけんめい》お手つだいするわ、だれのお|邪《じゃ》|魔《ま》もしないで。ジョーさん私のめんどうみてくださるでしょう、そしたら行くわ」
「それでこそいい子だ、あんた、はにかみ|癖《ぐせ》をなくなそうと思ってるのね。だから私あんたが|好《す》きよ、欠点を直すのは|容《よう》|易《い》なことじゃないわ、ほんとよ。でも明るい言葉をかけられると|励《はげ》みが出るような気がするものね。お母さま、ありがとう」ジョーは母の肉のおちた|頬《ほお》へ|感《かん》|謝《しゃ》をこめてキッスをした。それはマーチ夫人にとっては|若《わか》いころのばら色をしたふくよかな頬に返してもらったよりも|尊《とうと》いものに思われた。
「私にはチョコレートドロップと、前から写したいと思っていた絵がきたわ」エーミーはそう言って自分にきた|郵《ゆう》|便《びん》|物《ぶつ》を見せた。
「私のところにはローレンスのおじいさまからお手紙、|今《こん》|晩《ばん》、|灯《あかり》がつかないうちにピアノを|弾《ひ》きにきてほしいって、私行って上げるわ」ベスは言った。おじいさまと彼女との|友情《ゆうじょう》は|日《ひ》|増《ま》しに深くなっているのであった。
「さあ、どんどん働いて今日は二日分のお仕事するのよ。じゃないと明日ゆっくり遊べないから」ジョーはペンを|箒《ほうき》に持ちかえる|覚《かく》|悟《ご》をきめてこう言った。
次の朝早々と、お日さまがいいお天気を知らせようと、こどもたちの室をのぞいてみると、そこには全くおかしな光景が|展《てん》|開《かい》されていた。それぞれが、今日の遊びに必要だと思われることや、しておいたほうがいいと思われることを用心深くやっておいたのである。メグは、|額《ひたい》の上にいつもより一つだけ多く|巻《まき》|毛《げ》をたらしていたし、ジョーは日焼けのした顔にコールドクリームをてかてかに|塗《ぬ》っていた。ベスはしばしお|別《わか》れの|埋《う》め合わせにジョアナを|抱《だ》っこして|寝《ね》ていた。なかでも|奇《き》|抜《ばつ》なのはエーミーで、日ごろ|腹《はら》の立つ鼻を高くしようと|干《ほ》し|物《もの》ばさみではさんでいるのだった。その干し物ばさみは画家が画板に紙をとめるのに使うようなものだったので、今の|目《もく》|的《てき》には全くもってこいで|効《き》き目もあろうというものであった。このおかしな光景はお日さまにもよほどおもしろかったものとみえ、いきなりカンカンと照りつけてジョーの目をさまさせてしまった。彼女はエーミーの鼻の|飾《かざ》りを見てげらげら|笑《わら》ったものだから、ついに他の三人も目をさました。
お日さまと笑い声とは遊びに出かける|仲《なか》|間《ま》にとってはなによりも|幸《さい》|先《さき》のよいことであった。まもなく両家に陽気なざわめきが始まった。まっさきに|支《し》|度《たく》のできてしまったベスは、お|隣《となり》の様子をたえず|報《ほう》|告《こく》し、|窓《まど》からたびたび電報を送ってはお|化粧《けしょう》ちゅうの姉たちの気をいよいよ引き立てた。
「テントをもった人が行くわ! バーカーさんが編みかごと大きなバスケットだのにおべんとうを|詰《つ》めてるわよ。あ、ローレンスのおじいさまが空を見上げたり|風《かざ》|見《み》を見たりしていらっしゃる、ごいっしょにいらっしゃるんだといいのに! ローリーはまるで水兵さんみたい――りっぱね! あら、あら! いっぱい人がのった馬車が来たわ、――せいの高い女の|方《かた》、小さなお|嬢《じょう》さん、二人のこわい男の子。ひとりは足が不自由だわ、かわいそうね、|松《まつ》|葉《ば》|杖《づえ》をもってるわ! ローリーはそんなこと言わなかったわ。みんな早くなさいよ! おそくなりますよ。あら、ネッド・モファットさんも来たわ、ほんとよ、見てごらんなさい、メグ! あの方、この間私たち買い物していたときあなたにおじぎした方でしょう?」
「そうよ、へんね、あのひと来るなんて! まだ山のほうに行ってるんだと思ってたのに。サリーもいるわ、間に合うように帰ってきてよかったこと。これでいい、ジョー?」メグはそわそわして|叫《さけ》んだ。
「どこから見てもデーズィーの君よ。もう少しきものを上げて、|帽《ぼう》|子《し》をまっすぐにかぶったほうがいいわ、そんなに曲げると気どりすぎよ、それに|吹《ふ》けば飛ぶわよ。さ、出かけよう!」
「あらっ、ジョー! まさかそのすごい帽子かぶるつもりじゃないでしょうね? あんまりだわ! わざとへんな|格《かっ》|好《こう》なんかしたら|承知《しょうち》しないわよ」ローリーがふざけて送ってくれた|広《ひろ》|縁《ふち》の|旧式《きゅうしき》な夏帽子を、ジョーが赤いリボンでゆわえつけているのをみて、メグはこう言ってたしなめた。
「それがかぶるつもりなの! 全くすてきだわ、日よけにはなるし、軽いし、大きいし。第一おもしろいわ、それに自分さえ気持ちがよかったら、へんな|格《かっ》|好《こう》だってかまやしないわ」そう言うなりジョーはとっとと歩きだしたので他の三人もあとにしたがった。|夏着姿《なつぎすがた》も軽く、はでな|帽《ぼう》|子《し》の下から世にも幸福そうな顔をのぞかせて、それぞれに美しく、まことに明るく晴れやかな姉妹の一隊だった。
ローリーは走りよって彼女たちを|迎《むか》え、いんぎんな|態《たい》|度《ど》で四人を友だちに|紹介《しょうかい》した。|芝《しば》|生《ふ》が|応《おう》|接《せつ》|所《じょ》になってそれからしばらくの間、にぎやかな場面が|展《てん》|開《かい》された。メグはミス・ケートが二十|歳《さい》になっても|簡《かん》|素《そ》ななりをしているのがうれしく、アメリカの|娘《むすめ》たちもまねていいことだと思った。それからネッドが|特《とく》に自分に会うために来たのだ、と言ったこともやはりうれしかった。ジョーはローリーがケートのことを話したとき、「口をゆがめた」わけがわかった、この|令嬢《れいじょう》のつんととりすました様子は、他の娘たちのうちとけた、つき合いやすい態度にくらべて、|際《きわ》だって目に立つものだった。ベスはまたはじめての男の子たちを観察した|結《けっ》|果《か》、あの足の悪い子は「|恐《おそ》ろしく」ないどころか、おとなしく、弱々しい子だとわかったので、それではあの子に親切にして上げましょうと心にきめた。エーミーはグレースがお|行儀《ぎょうぎ》のよい、おもしろい子だと思った。しばらくふたりともだまって顔を見ていたかと思うと、急に大の|仲《なか》|好《よ》しになってしまった。
テントとおべんとうとクローケーの道具などは先に出してあった、一隊はすぐに舟に乗り|込《こ》んだ、やがて二|艘《そう》のボートは、岸で|帽《ぼう》|子《し》を|振《ふ》っているローレンス氏をあとにして、仲よく陸を|離《はな》れた。一艘はローリーとジョーがこぎ、もう一艘はブルックさんとネッドがこいだ。|乱《らん》|暴《ぼう》|者《もの》の方の|双《ふた》|児《ご》のフレッド・ヴォーンは小舟に乗って、あわてふためいた水虫みたいに、ばちゃばちゃやってはやっきになって二つのボートを引っくりかえそうとしていた。ジョーのおかしな帽子は|感《かん》|謝《しゃ》の決議を受ける|価《か》|値《ち》が十分だった、それはいろいろな役にたったのである。まずみんなを|笑《わら》わせて打ちとけた気分にし、ジョーがこぐたびに前後にぱたぱた動いては|涼《すず》しい風を起こさせた。それに夕立でもきたら、すばらしい|雨《あま》|傘《がさ》にもなるなどと、彼女は言った。ケートはジョーのやり口をみて|驚《おどろ》いたふうだった、彼女が|櫂《かい》を流したとき「ウワーッたいへん!」などと|叫《さけ》んだり、ローリーが席を変わろうとしてジョーの足につまずいて、「君、|痛《いた》くなかった?」などと言ったりしたときには、|特《とく》|別《べつ》びっくりしたのだった。でも|眼鏡《めがね》をかけてこの変わった女の子を何回もよくよく観察したあげく、ミス・ケートはジョーのことを「変わってはいるが、りこうそうだ」ということに決め、遠くのほうから彼女にほほえみかけるのであった。
|別《べつ》のボートに乗っていたメグは、二人の|漕《こぎ》|手《て》と向かい合わせに楽しい位置を|占《し》めていた。二人とも彼女を美しいと思い、|常《つね》にない「|巧妙《こうみょう》な|手《て》|際《ぎわ》」でオールをさばいた。ブルックさんはまじめで、|無《む》|口《くち》な青年で美しい茶色の目をし、声のきれいな人だった。メグは彼の静かな|物《もの》|腰《ごし》が好きで、|彼《かれ》のことをなんでも知っている生き|字《じ》|引《びき》だと思っていた。彼は彼女とあまり口をきいたことはない、でも彼女のほうをよく見るものだから、メグは自分をきらいなわけではないのだと思っていた。ネッドは大学生だったので、当然いろいろと気どった様子をしていたが、新入生というものはみなそうすべきものと|心得《こころえ》ているようである。彼はあまりりこうではないのだが、|好《こう》|人《じん》|物《ぶつ》で|快《かい》|活《かつ》で、まずピクニックなどをするには申し分のない人物であった。サリー・ガーディナーは白いピケのきものをよごすまいと|一生懸命《いっしょうけんめい》になりながら、落ち着きのないフレッドとおしゃべりをし、フレッドはフレッドでたえずいたずらをしてはベスをびくびくさせていた。
ロングメドウはそう遠いところではなかった。みんなが着いたときにはちゃんとテントが|張《は》られ、クローケー用の|小門《ウィケット》も立ててあった。そこはせいせいするような緑の原っぱで、まん中には|枝《えだ》をはった|樫《かし》の木が三本、クローケーにはもってこいの|滑《なめ》らかな|芝《しば》|生《ふ》もあった。
「ローレンス・キャンプにご|歓《かん》|迎《げい》!」と|若《わか》き主人役のローリーが言うと一同はどっと|歓《かん》|声《せい》をあげて上陸した。「司令長官はブルック先生です。|僕《ぼく》は|兵《へい》|站《たん》|総《そう》|監《かん》であとは|参《さん》|謀《ぼう》です。女の方はお客さま。テントは|特《とく》|別《べつ》にみなさんのために|設《もう》けました。あの樫の木が客間、これが食堂、三番目のがキャンプの台所です。さあ、暑くならないうちにひとゲームしましょう、それからご|馳《ち》|走《そう》の|支《し》|度《たく》です」
フランク、ベス、エーミー、それにグレースの四人はそこにすわって、あとの八人がゲームをするのを見物することにした。ブルックさんはメグとケートとフレッドをとり、ローリーはサリーとジョーとネッドをとった。イギリス組もじょうずだったが、アメリカ組はさらにうまく、あたかも一七七六年(独立戦争)の|精《せい》|神《しん》に|導《みちび》かれでもしたかのように、一歩も引かじと争った。ジョーとフレッドは数回小ぜり合いをやって、一度などは|危《あや》うく|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》になるところだった。ジョーは最後の|小門《ウィケット》を|通《つう》|過《か》するにはしたが、玉を|杭《くい》に打ちそこねてしまい、その失敗で少なからずむしゃくしゃしていた。彼女のうしろにはフレッドが|迫《せま》っていた、彼の番は彼女よりも先に来た、彼は打った、玉はウィケットにあたり、一インチばかり手前に止まった、そばにはだれもいなかった。彼はしらべに走りより、知らん顔して|爪《つま》|先《さき》で一インチほど向こうへけってやった。
「はいった! さあ、ジョーさん、あんたを負かして|僕《ぼく》が一番になるんだ」と|叫《さけ》んで|若《わか》い|紳《しん》|士《し》はもう一打ちと|打球棒《だきゅうぼう》を|振《ふ》り上げた。
「あんた|押《お》したわ、見てたわよ、こんど私よ」ジョーははっきりと言った。
「動かしたりなんかするもんか! ちょっと転がったかもしれないさ、でもそれはかまわないんだ。さ、そこどいて、あの杭にあてさせてくれたまえ」
「アメリカ人は|嘘《うそ》なんかつかないわ、でもあんたつきたかったらおつきなさい」ジョーはむっとして言った。
「ヤンキーがいちばんずるいってことはみんな知ってるんだ、ほら打つよ」と|応《おう》じながらフレッドは彼女の玉を遠くへ打ち飛ばした。
ジョーは何かあらあらしいことを言おうとして口をあけたが、|額《ひたい》まで|真《ま》っ|赤《か》にしながら、やっとのことで自分をおさえつけ、力まかせにウィケットを打ち下ろし、しばらくそこへつっ立っていた。フレッドはうまく|杭《くい》に打ちあてて、|大《だい》|得《とく》|意《い》で上がりになったと|宣《せん》|言《げん》した。ジョーは自分の玉をとりにいき、|草《くさ》|叢《むら》の中を長いことかかって|捜《さが》していたが、やがてもどってきたときにはすっかり落ち着いて平静な顔つきになっていた。そして|辛《しん》|抱《ぼう》づよく自分の番を待った。彼女がさっきのところまで|挽《ばん》|回《かい》するにはまだ五、六度打たなければならなかった。やっとそこまでくると、|敵《てき》|側《がわ》はあと一息で勝つところにきていた、ケートの玉だけ終わりから二番目で杭のそばに転がっていたのである。
「あああ! もうだめだ! おやめなさい、ケート。ジョーさんは|僕《ぼく》に一つ借りがあるんだから姉さんはもうおしまいですよ!」勝負を見ようとみんながそばに|寄《よ》ってきたとき、フレッドは|興《こう》|奮《ふん》して|叫《さけ》んだ。
「ヤンキーはね、|敵《てき》に対して|寛《かん》|大《だい》だというくせがあるのよ」ジョーはフレッドの顔をあからめさすような調子で言ってやった。「|特《とく》に敵を負かすような場合にね」と、彼女はつけ加え、わざとケートの玉にはふれずにりっぱに打って勝ってしまった。
ローリーは思わず|帽《ぼう》|子《し》をほうり上げたが、お客の敗北を喜んだりしてはいけないと気がつき、|歓《かん》|声《せい》をあげかけたのをやめて、そっとジョーの耳元にささやいた――、
「えらいよ、ジョー! あいつはたしかにずるをやったんだ、僕見たんだもの、あいつに言ってやるわけにもいかないけど、でももう二度とはやるまいよ、僕がうけ合う」
メグは妹のとけかかった|髪《かみ》を止めてやるのにことよせて彼女をわきへつれていき、感心したように言うのだった、――
「ほんとに|癪《しゃく》だったわねえ、でもよく|我《が》|慢《まん》したわ、私とてもうれしいわ、ジョー」
「ほめちゃだめよ、メグ。私今だってあの子の|横面《よこっつら》はりとばしたいくらいなんだから。あのときいらくさ[#「いらくさ」に傍点]の中にしばらくいられたから、むかむかしたのが少しなおってひどいことも言わないですんだんだけど、そうでなかったらきっと|疳癪玉《かんしゃくだま》が|破《は》|裂《れつ》しちゃったと思うわ。今だってさめちゃったわけじゃないのよ、あの子、私から見えないところにいてくれるといいんだけど」ジョーはそう答えて、きゅっとくちびるをかみしめ、大きな|帽《ぼう》|子《し》の下からフレッドをにらみつけた。
「おべんとうの時間ですよ」とブルックさんが時計を見て言った。「|兵《へい》|站《たん》|総《そう》|監《かん》、火をおこして水をくんできてくれたまえ。その間にマーチさんとサリーさんと私とで|食卓《しょくたく》の用意をしておきます、どなたかコーヒーをじょうずにいれられますか?」
「ジョーがじょうずですわ」と言って、メグはうれしそうに妹を|推《すい》|薦《せん》した。そこでジョーは最近のお料理の|稽《けい》|古《こ》の|腕《うで》を|示《しめ》すはこのときと、コーヒーわかしの方へ進み出て用意を始めた。その間に小さい子たちがあつめた|枯《か》れ|枝《えだ》で男の子は火をおこし、近くの|泉《いずみ》から水をくんできた。ミス・ケートはスケッチをし、フランクはベスとお話をしていた、ベスはお|皿《さら》の代わりにしようと、|藺《い》|草《ぐさ》を|編《あ》んで小さなマットをつくっていた。
司令長官と部下たちとは、まもなくテーブルクロースをひろげてその上に、みるから|食欲《しょくよく》をそそるような食べ物や飲み物を、緑の葉ッぱで美しく|飾《かざ》って|並《なら》べたてた。コーヒーができたとジョーが告げると、みんな席についてせっせとおべんとうを食べ始めた、|若《わか》い者はめったに|胃病《いびょう》などにはかからないものだし、運動のあとではすこやかな食欲が|増《ま》すものである。それはほんとうに楽しいお昼ごはんだった。何もかも|珍《めずら》しくおもしろく、たびたび起こる|高《たか》|笑《わら》いは近くで草を食べている|年《とし》|寄《よ》り馬を|驚《おどろ》かすくらいだった。食卓がでこぼこしていてお|茶《ちゃ》|碗《わん》やお|皿《さら》が転げたりするのもおもしろかった、ミルクの中にどんぐりが落ちたり、小さなくろありが|招《まね》かれもしないのにご|馳《ち》|走《そう》になりにきたり、むくむくとした毛虫が下の様子を見に木からぶら下がってきたりした。|垣《かき》|根《ね》の向こうには頭の毛の白っぽい子供が三人、のぞき|込《こ》んでいるかと思えば、川の向こうではあまり感じのよくない犬がこちらを見て、必死となって|吠《ほ》えていた。
「塩もありますよ、よかったら」いちごの皿をジョーに|渡《わた》しながらローリーが言った。
「ありがと、でもくものほうがいいわ」彼女は答え、クリームの中でおぼれている二|匹《ひき》のうかつな小さいやつをつまみ上げた。
「こんな|結《けっ》|構《こう》なご|馳《ち》|走《そう》をしておきながら、なんだってあの|恐《おそ》るべきお昼食のことなんか思い出させるの?」とジョーは重ねて言い、二人は|大《おお》|笑《わら》いしながら、食器が足りなかったので一つのお皿からいちごを食べた。
「あんなおもしろかったことはめったにないんで、そう|簡《かん》|単《たん》には|忘《わす》れられませんよ。今日のなんか|僕《ぼく》の|手《て》|柄《がら》じゃありませんよ、ね。僕は何もしないんだもの。君とメグとブルックさんとでうまく運んでくれたんだ、どんなにありがたいと思ってるかわかりませんよ。さてお|腹《なか》がいっぱいになったら、何をしましょうか」お昼食がすんで自分の大役を|果《は》たせたと思いながら、ローリーがきいた。
「|涼《すず》しくなるまで何かゲームをして遊びましょうよ、私、『作家カルタ』を持ってきたんだけど。ケートさんがなにか変わった、おもしろいのを知ってると思うわ。行ってきいてごらんなさいよ。あの方お客さまでしょう、もっとあの方のそばについていて上げなくっちゃだめよ」
「君もお客さまじゃないの? 僕、あのひとブルックさんと遊ぶといいと思ったんだけど、ブルックさんのほうじゃメグとばっかり話し|込《こ》んでいるんだ。だからケートはあの|滑《こっ》|稽《けい》な|眼鏡《めがね》をかけてじろじろふたりを見てるんですよ。じゃ行ってきますからね、君から作法の|講《こう》|義《ぎ》をきくには|及《およ》びませんよ、そんな柄じゃないや。ジョー」
ミス・ケートはなるほど変わった遊びを五つ六つ知っていた。女の子たちはもうこれ以上食べようとしないし、男の子たちは食べられないので、みんな|例《れい》の客間に|移《うつ》って、「|つくり噺《リグマロール》」をして遊ぶことにした。
「だれかがお|噺《はなし》を始めるのよ、どんなおかしなものでもいいの、|好《す》きなだけ話していいんですけど、おもしろいところへきたらぷつっと切るの、そしたら他の人がそれをつづけて同じようにやるの。うまくやるととてもおもしろいのよ、悲しいのやおかしいのやごちゃまぜになって、|吹《ふ》き出すようなのができるわ。じゃ、ブルックさん、お始めになって」と、ケートが命令するような調子で言ったので、メグはすっかりびっくりしてしまった。彼女はブルック先生に対して、どこの|紳《しん》|士《し》にも|劣《おと》らず|敬《けい》|意《い》を|払《はら》ってきたのだった。
|若《わか》いふたりの|婦《ふ》|人《じん》の足下に、草をしいて横たわりながら、ブルックさんはすなおにお|噺《はなし》を始めた。美しい茶色の目は、きらきらと日に光る川の面にじっと注がれている。
「|昔々《むかしむかし》、あるひとりの|騎《き》|士《し》が幸運をさがしに世の中へ出ていきました。この騎士は|剣《けん》と|楯《たて》よりほかに何も持っていませんでした。彼は長いこと、そうです、二十八年ばかりも旅をつづけ、つらい経験をしましたが、とうとう、あるやさしい、年よりの王さまのいる|宮殿《きゅうでん》にたどりつきました。王さまは、たいへんりっぱな、だがまだ|馴《な》らされてない子馬を一頭もっていて、これを|飼《か》い馴らし、|訓《くん》|練《れん》した者には|褒《ほう》|美《び》をとらそうというのでした。騎士はやってみることにし、ゆっくりと着実に仕事を進めていきました。子馬はなかなか|勇《ゆう》|敢《かん》だったのです。気まぐれで|荒《あら》っぽかったけれども、じきに新しいご主人になつくようになりました。騎士は毎日、この王さまのお気に入りの子馬を訓練するために、町のほうまで乗り回すのでした、そうして乗り回しながら、彼は何べんも|夢《ゆめ》には見ながら決して出会ったことのないひとつの美しい顔が、どこかにいないものかと|捜《さが》しておりました。ある日のこと、静かな通りを|威《い》|勢《せい》よくパカパカとやってくると、あの荒れはてたお城の|窓《まど》に|例《れい》の美しい顔をみつけたのです。彼はこおどりし、この古城の中に住んでいるのはだれなのかとききました。そうして、その中には五、六人のお|姫《ひめ》さまが|魔《ま》|法《ほう》をかけられとりこになっていて、自由をあがなうお金をためるため、日がな一日糸を|紡《つむ》いでいるのだということを知りました。|騎《き》|士《し》はお姫さまたちを助けてやりたくてたまりませんけれども|貧《びん》|乏《ぼう》です、彼にできることといったらただ毎日そこを通りがかって美しい顔をながめることだけでした。そうしてはどうかその顔を外のお日さまの光で見たいものだと思いました。ついに彼はお城にしのび|込《こ》み、どうしたら助けてやれるか、きいてみようと決心をしました。彼は行って|扉《とびら》をたたきました、大きな扉がさっと開かれると、中には――」
「|魂《たましい》を|奪《うば》われるような美人がいて、『とうとう! とうとう!』と喜びの|叫《さけ》び声をあげました」とケートがつづけた。彼女はフランスの小説を読み、そのスタイルに|心《しん》|酔《すい》していたのである。「『あのひとだ!』とギュスタヴ|伯《はく》は叫びました。そして感きわまってお姫さまの足もとにひれ|伏《ふ》しました。『お立ちください』と姫は言って、大理石のような美しい手をさしのべました。『どうしたらあなたをお救いできるか、それをうけたまわるまでは私は|断《だん》じて立ちません』騎士はなおもひざまずいたまま断言しました。『ああ! 私の|暴《ぼう》|君《くん》が|滅《ほろ》ぼされるまでは、ここにいなければならないのが、私の悲しい運命でございます』『して、その悪者はいずこに?』『|紫《むらさき》の広間に、勇ましいお方よ、そこへ行って私を|絶《ぜつ》|望《ぼう》の|沼《ぬま》から救い出してくださいまし』『かしこまりました。では、勝利を|得《え》ずばしかばねとなるとも帰らぬ|覚《かく》|悟《ご》』と、|壮《そう》|烈《れつ》な言葉を残して騎士は急ぎその場を立ち去り、紫の広間の扉を|押《お》し開けて、中にはいろうとしたその時、――」
「はっしとばかり大きなギリシア語の|辞《じ》|典《てん》を投げつけられた、それを投げたのは黒い上着をまとったひとりの老人だったのです」とネッドが受けた。「たちまちわれに返ったサー・|某《なにがし》は暴君をば|窓《まど》から外へ投げ落とし、大勝利のうちに、とはいうものの、|額《ひたい》にこぶをこしらえて、お|姫《ひめ》さまのところへもどろうとしましたが、なんということでしょう、|扉《とびら》はかたく|閉《と》ざされ|錠《じょう》まで下りているのです。やむなくカーテンを引き|裂《さ》き、|縄《なわ》|梯《ばし》|子《ご》をつくって、それをつたってまん中へんまで下りたとたん、縄梯子は切れて、あわれ|騎《き》|士《し》は六十フィートも下にある|堀《ほり》の中へ、もんどり打って落ちてしまいました。しかしこの騎士は|家鴨《あひる》のように泳ぐことができましたから、城のまわりをぱちゃぱちゃやっているうちに、ふたりの|肥満漢《ふとっちょ》が番をしている小さな扉のあるところへ出ました、騎士がふたりの頭をぶつけ合わせると、それはまるで二|粒《つぶ》の|胡桃《くるみ》のように音を立てて|割《わ》れてしまいました、それからまたなみはずれた力をちょっぴり用いて、その扉を打ちくだき、一|条《じょう》の石の階段をのぼっていきましたが、その階段には|塵《ちり》が一フィートもたまり、|握《にぎ》りこぶしほどもあるひきがえるだの、マーチさん、あなたならキャッとおっしゃるようなくもなどがたくさんいたのですよ。この階段をのぼりつめたとき、彼は息の根も止まり、血も|凍《こお》るかと思われるような光景に|出《で》|会《くわ》しました。――」
「それは白いきものを着て、顔にヴェールをたらし、|痩《や》せた手にランプを持った、せいの高いものの|姿《すがた》でした」とメグがあとをつづけた。「そのものは彼を|手《て》|招《まね》きながら、先に立って音もなくすべるように|廊《ろう》|下《か》を進んで行くのです。そこはまるでお|墓《はか》のように暗くてつめたいところです。|両側《りょうがわ》には|甲冑姿《かっちゅうすがた》の|肖像《しょうぞう》が、物の|影《かげ》のように立ち|並《なら》び、あたりには死のような静けさがただよっています。ランプが青い|炎《ほのお》を上げる中に、|幽《ゆう》|霊《れい》はときどき|騎《き》|士《し》をふり返り、白いヴェールの中からおそろしい目を光らせます。ふたりはやがてとばりをたれた|扉《とびら》のところへたどりつきました。その向こうにはたえなる|楽《がく》の|音《ね》がきこえています。彼は思わず中へはいろうと前のほうへ飛びかかりました。けれども|幽《ゆう》|霊《れい》は彼をぐいと引きもどし、おそろしいけんまくで騎士の鼻の先へ|振《ふ》ったのは――」
「|嗅《か》ぎ|煙草《たばこ》の|箱《はこ》」とジョーが|陰《いん》|鬱《うつ》そのもののような声で言ったので、|聴衆《ちょうしゅう》はどっと|笑《わら》いくずれた。「『|御《お》|礼《れい》を申す』と騎士は|慇《いん》|懃《ぎん》に言い、ひとつまみとると、七回もつづけてつよいくしゃみをしたものだから、彼の首はころりと落ちてしまいました。『ハ! ハ!』と、|幽《ゆう》|霊《れい》は|笑《わら》いました、そしてお|姫《ひめ》さまたちが、命を|購《あがな》うためにせっせと糸を|紡《つむ》いでいるのを、|鍵《かぎ》|穴《あな》からのぞいて見てしまうと、おばけはいけにえのむくろをつまみ上げ、大きな|錫《すず》の|箱《はこ》の中へ|押《お》し|込《こ》めましたが、その箱の中には首のとれた騎士がすでに十一人も、|鰯《いわし》のようにびっしりと|詰《つ》め込まれているのでした。彼らは一せいにたち上がり――」
「|角《つの》|笛《ぶえ》|踊《おど》りを踊り出した」ジョーが一息つぐために言葉を切ったら、それっとばかりにフレッドが|割《わ》り込んだ。「みんなが踊っているうちに、役にもたたないぼろ城は、|帆《ほ》をいっぱいに上げた|軍《ぐん》|艦《かん》と化してしまいました。『|三《ジ》角|帆《ブ》上げえ! |上檣帆の揚索《ト ブ ス ル》をしぼれ、下手|舵《かじ》|一《いっ》|杯《ぱい》、|砲《ほう》|員《いん》|配《はい》|置《ち》につけ』とキャプテンはどなった。ポルトガルの|海《かい》|賊《ぞく》|船《せん》が、|前檣《ぜんしょう》に|墨《すみ》のように黒い旗をはためかせながら、|姿《すがた》を|現《あらわ》したのです。『者ども、乗り|込《こ》め、|片《かた》づけろ』キャプテンの言葉にすさまじい大海戦が始まった。もちろんイギリスが勝ったんだ、そうにきまってるんだもの。そして海賊の|頭《かしら》を|生《いけ》|捕《ど》りにしておいてから、そのスクーナー船にぴたりとこちらの船を近よせてみると、|甲《かん》|板《ばん》は|屍《し》|体《たい》の山を築き、風下の|排《はい》|水《すい》|口《ぐち》は|血《ち》|潮《しお》の川をなしていたんだ。『|短《たん》|剣《けん》をとって死ぬまで|闘《たたか》え』と命令がくだっていたからだ。
『水夫長、こいつがとっとと|白状《はくじょう》しないようなら、|帆《ほ》|布《ぬの》の|綱《つな》|耳《みみ》で|目《め》|隠《かく》しをして、|例《れい》のやつを|喰《く》らわせろ』イギリスのキャプテンが言った。ポルトガル人は石のように|押《お》しだまり、陽気な水夫たちにやんやとはやされながら、|板《いた》|渡《わた》り(舷側に横たえた狭い板を目隠しのまま渡らせて海に落す刑罰)をやったんだ。ところがずるい|奴《やつ》で、海に|潜《くぐ》ったかと思うと、軍艦の下へ出て、船底に穴をあけたから、艦は帆を上げたまま|沈《しず》んでいった。『海、海、海の底へ』そこには――」
「あら、|困《こま》るわ! なんてつづけたらいいかしら?」フレッドが日ごろ愛読する本の中から、めちゃくちゃな航海用語やら物語やらをごちゃまぜにして、長話を終えたとき、サリーは思わずこう|叫《さけ》んだのだった。「さて、みんなが海の底へ|沈《しず》んでいきますと、美しいひとりの人魚が出てきて|歓《かん》|迎《げい》してくれました。でも人魚は、|首《くび》|無《な》し|騎《き》|士《し》のはいった|箱《はこ》を見てたいそう悲しみ、親切にも海の中へ|塩《しお》|漬《づ》けにして、彼らの|秘《ひ》|密《みつ》を知ろうといたしました。なにしろ人魚は女なのでなんでも知りたがるのです。そこへひとりの|潜《せん》|水《すい》|夫《ふ》が下りてきましたので、人魚は『上へ持って行けるなら、この|真《しん》|珠《じゅ》のいっぱいはいった箱を上げましょう』と言いました。彼女は気の毒な人たちを生き返らせたいと思いながらも、この重い荷物を自分では持ち上げることができなかったのです。潜水夫はそれを陸へ持って上がってあけてみましたが、真珠など一つもはいってないのにたいへんがっかりいたしました。彼はそれを広い|寂《さび》しい野原に|捨《す》てました。それを見つけたのはひとりの――」
「小さな|鵞鳥飼《がちょうか》いの女の子でした。女の子はその野原に百|羽《ぱ》もの太った鵞鳥を飼っていたのです」サリーの|工《く》|夫《ふう》が尽きたとき、エーミーが言った。「女の子はたいへん気の毒に思い、ひとりのお|婆《ばあ》さんに、どうしたらこの人たちを助けてやれるだろうかと|尋《たず》ねました。『おまえさんの鵞鳥におきき、あれたちはなんでも知ってるのだからね』とお婆さんは申しました。
そこで女の子は、元の首が無くなっているのだが、新しい首には何を使ったらいいのだろうとききました、すると鵞鳥どもは百の口をいっしょに開いて|叫《さけ》びました、――」
「キャベツがいい!」|間《かん》|髪《はつ》を入れずにローリーが引き|継《つ》いだ。「『あっそうだ』と女の子は言って、走っていって自分の畑からみごとなところを十二とってきました。彼女がそれをすげてやると、|騎《き》|士《し》たちはたちまち生き返って彼女にお礼を申しました。そして、元の首と|違《ちが》うことなどは少しも気がつかずに、喜び勇んでそれぞれの道を進んでいきました。世の中には彼らと同じような首もたくさんあるのですから、だれもなんとも思いやしません。さて、問題の騎士はあの美しい顔を求めてもどっていきました、そしてお|姫《ひめ》さまたちはもはや自由の身となるだけの糸を|紡《つむ》ぎ上げて、|結《けっ》|婚《こん》するために世の中に出ていき、残されてるのはただひとりだけだということを知りました。彼の心は|騒《さわ》ぎ立ちました。で、|例《れい》の子馬に|跨《またが》るが早いか、その残されたのはどの|姫《ひめ》かと、お城を目ざして飛んでいきました。この子馬はあれからずっと、暑い日も寒い日も、主人のそばにつき|添《そ》っていたのですね。|垣《かき》|根《ね》|越《ご》しにのぞいてみると、なつかしいあの姫君が庭で花をつんでいるのです。『ばらを|一《ひと》|枝《えだ》、いただけませんか』と彼は言いました。『ここへおはいりになってご自分でおとりください。私のほうからおそばへ行くわけにはまいりません、作法にかないませんもの』と、彼女は言いました。みつのように|甘《あま》い声でした。|騎《き》|士《し》は垣根によじのぼろうとしました。ところがそれはだんだん高くなるようなのです、こんどは|押《お》し分けようとしてみました、するとみるみる厚くなります、彼は|落《らく》|胆《たん》しました。そこで一枝ずつ|辛《しん》|抱《ぼう》づよく|手《た》|折《お》って行ってとうとう小さな|穴《あな》をこしらえ、そこから中をのぞいてはあわれな声で言いました。『どうか入れてください! どうか入れて!』と。けれどもうるわしの姫は何もわからないように静かにばらをつんでいます。騎士はいつまでもそうやって道を切り開いて行かなくてはなりませんでした。さて彼は中へはいれたでしょうか、いかに? フランクにおききください」
「できません。僕はやってないんですもの。一ぺんもやったことないんです」フランクは、このばかばかしいふたりを救い出さねばならぬという、|感《かん》|傷的苦《しょうてきく》|境《きょう》に立たされ、|狼《ろう》|狽《ばい》してこう言った。ベスはジョーのうしろに|隠《かく》れ、グレースはぐっすり|眠《ねむ》っていた。
「ではかわいそうな|騎《き》|士《し》はいつまでも|垣《かき》|根《ね》にへばりついているわけですか、どうなんです?」ブルック先生はボタン|穴《あな》にさした野ばらをいじりながら、その目はまだ川をみつめたまま、きいた。
「たぶんお|姫《ひめ》さまは騎士に|花《はな》|束《たば》をやって、しばらくしてから門を開けたのでしょうよ」とローリーは|笑《わら》いながら言って、先生にどんぐりをぶっつけた。
「ばかばかしいお|噺《はなし》になったものね! 練習したらおもしろいものができるかもしれないわ。『正直』ってごぞんじ?」自分たちのつくりばなしに|大《おお》|笑《わら》いしたあとで、サリーがこう言ってきいた。
「たぶんね」メグはまじめになって答えた。
「私のいうの、ゲームのことよ?」
「どんなの?」と言ったのはフレッドだ。
「あのね、まずみんなの手を重ねるの、それからある数を言って、順々に手を引っ|込《こ》めるのよ、その数のところで引っ込めた人は、他の人たちから何をきかれても正直に答えなくっちゃいけないの。とてもおもしろいわよ」
「やってみましょうよ」とジョーが言った。彼女は、新しい事ならなんでもやってみたいのである。
ミス・ケートとブルックさんとメグとネッドははいらなかった。フレッドとサリーとジョーとローリーが手を重ねては引いていった。ローリーが答えることになった。
「あなたの好きな|英《えい》|雄《ゆう》は?」ジョーの|質《しつ》|問《もん》である。
「おじいさまとナポレオン」
「どの|方《かた》がいちばんきれいだとお思いになる?」とサリーがきいた。
「マーガレット」
「いちばん|好《す》きなひとは?」とフレッド。
「もちろんジョーです」
「ばかなこときくわねえ!」ローリーのきくまでもないといった調子に|皆《みな》が|笑《わら》うと、ジョーは|軽《けい》|蔑《べつ》したように言って|肩《かた》をすくめた。
「もういっぺんやろう。正直ってわるくないゲームだよ」とフレッドが言った。
「あんたには|特《とく》|別《べつ》いいゲームよ」ジョーが小さな声でやり返した。
次は彼女の番だった。
「あなたの最大の欠点は?」フレッドがきいた。自分の欠点が彼女にもあるかどうかきいてやろうと思ったのだ。
「かんしゃく」
「いちばんほしいものは?」とローリーが言った。
「|靴《くつ》の|紐《ひも》」ジョーは彼の真意を察し、ぴしゃっとやっつけるように答えた。
「正直な答にあらず、ほんとうにほしいものを言わなくっちゃいけないよ」
「天才よ。あなた私に天才をくれたいと思わない、ローリー?」ローリーの失望したような顔を見て彼女は何くわぬ顔をして|笑《わら》った。
「男の人の徳でいちばん|尊《そん》|敬《けい》するものは?」とサリーがきいた。
「勇気と正直」
「こんどは僕だ」フレッドは最後に自分の手が残るとそう言った。
「あのことをきいてやろう」ローリーがジョーにささやくと、ジョーはうなずいてさっそくきいた、――
「クローケーのときごまかさなかった?」
「ええと、うん、ちょっとね」
「よし! 君のおはなし、『海のライオン』からとらなかった?」ローリーも言った。
「いくらか」
「あなたはイギリス国民はあらゆる点で完全だとお思いにならない?」サリーがきいた。
「思わなかったらどうかしている」
「|生《きっ》|粋《すい》のジョン・ブルだ。さあ、サリーさん、もう手を引かなくともあなたの番です。まずあなたの|感情《かんじょう》を害するかもしれませんが、あなたはご自分が少しおてんばだと思いませんか?」とローリーが|尋《たず》ねた。ジョーは|仲《なか》|直《なお》りのしるしにフレッドに対してうなずいてみせた。
「失礼ね! もちろん私そんなんじゃないわ」とサリーは、口とは反対の|態《たい》|度《ど》で|叫《さけ》んだ。
「いちばんきらいなものは?」
「くもとライス・プディングよ」
「じゃ|好《す》きなものは?」とジョーが言った。
「ダンスとフランスの|手袋《てぶくろ》」
「そりゃそうと、ねえ、正直ってずいぶんくだらない遊びだと思うわ。作家カルタで気のきいたゲームでもして、気分を直しましょうよ」とジョーが|提《てい》|案《あん》した。
ネッドとフランクと小さい女の子たちがこれに加わって遊んでいるうちに、三人のおとなは|離《はな》れたところにすわってお話を始めていた。ミス・ケートはまたスケッチを始め、メグがそれをながめていると、ブルックさんは本を持ったまま、それを読むでもなく、草の上に身を横たえていた。
「まあおじょうず! 私も絵が|描《か》けるといいわ」メグはその声に感心と残念の気持ちをまぜてそう言った。
「どうしてお習いにならないの? あなたなら、|趣《しゅ》|味《み》も天分もおありになると思うんですけど」とミス・ケートはやさしく愛想よく言った。
「|暇《ひま》がありませんの」
「お母さまが他の芸事をおさせになりたいんでしょう、わかるわ。うちの母もそうなの。でも私、こっそりお|稽《けい》|古《こ》して、天分のあることを母にわかってもらいましたのよ。それからは母も私がつづけて絵をやることに|賛《さん》|成《せい》してくれましたの。あなたも|家《せ》|庭《ん》|教《せ》|師《い》にでもお願いしてそうなすったらいかが?」
「私、|家《せ》|庭《ん》|教《せ》|師《い》なんかありませんわ」
「そうそう、アメリカじゃお|嬢《じょう》さん方は私たちと|違《ちが》って|皆《みな》さん学校へいらっしゃるんでしたのね。学校もごりっぱなんですってね、父が申してますわ。あなた私立の学校へいらしてるんでしょう?」
「私、学校へなんかいっていませんの。自分で家庭教師なんですわ」
「まあ、そうですの!」とミス・ケートは言った、しかしそれは、「おやおや、たまらないわね!」と言ったも同然であった、彼女の|口調《くちょう》にはそんな意味がこめられていたし、その|表情《ひょうじょう》を見ればメグは顔のあからむ思いがして、あんなに正直に言わなければよかったと|後《こう》|悔《かい》されるのであった。
ブルックさんは顔を上げて、すぐにこう言った、――
「アメリカの|若《わか》い|婦《ふ》|人《じん》はご|先《せん》|祖《ぞ》と同じように|独《どく》|立《りつ》するということが|好《す》きなんですよ。そしてひとりで自分のことをやっていくということが、感心されもし|尊《そん》|敬《けい》もされるんです」
「そりゃそうですわ! 若い方がそんなふうになさるってのは全くいいことだし、当然のことですわ。イギリスにも身分のよい、りっぱな方でひとり立ちしているお|嬢《じょう》さんはたくさんありましてよ、そういう方たちはちゃんとした家の|娘《むすめ》さんで育ちもいいし、教養もありますから、|貴《き》|族《ぞく》に|雇《やと》われてますのよ」と、ミス・ケートが|横《おう》|柄《へい》な|口調《くちょう》で言ったので、メグは|自《じ》|尊《そん》|心《しん》を|傷《きず》つけられ、自分の仕事がますますいやなものに思われたばかりでなく、なんだか|恥《は》ずかしいものにさえ思えてくるのだった。
「あのドイツ語の歌はお気に|召《め》しましたか、マーチさん?」気まずい|沈《ちん》|黙《もく》を|破《やぶ》ってブルックさんがきいた。
「ええ! とてもきれいでしたわ。どなたが|訳《やく》してくだすったのかぞんじませんけど、ほんとにありがとうございました」と言うと、メグのうつむきかげんの顔ははればれとしてきた。
「ドイツ語、お読みになりませんの?」とミス・ケートはさもびっくりしたように言った。
「あんまりよくは。教えてくれていた父がいないものですから。ひとりではなかなか早く進みませんのよ、発音を直してくれる人がないんですもの」
「今少しやってごらんなさい。ちょうどここにシラーの『メアリ・スチュアート』がありますよ、それに教え|好《ず》きな|教師《きょうし》もいますからね」ブルックさんは|促《うなが》すようにほほえみながら、彼女の|膝《ひざ》の上に本をおいた。
「こんなむずかしそうなの、なんだかこわいわ」メグはありがたくは思いながらも、そばに教養深い|令嬢《れいじょう》がいるので気おくれがして、そう言った。
「私、少し読んで元気をつけて上げますわ」と言ってミス・ケートはいちばん美しい一節を完全に|無表情《むひょうじょう》な読み方で読んでみせた。
彼女が本をメグに返しても、ブルックさんはなんとも|批評《ひひょう》をしなかった。メグは|無《む》|邪《じゃ》|気《き》に言った、――
「私、詩だと思っていましたわ」
「詩もあります、ここのところを読んでごらんなさい」
痛ましい生涯を終えたメアリ・スチュアートの哀歌のページのところを開いたとき、ブルックさんの口もとに|奇妙《きみょう》な|微笑《びしょう》が|浮《う》かんだ。
メグは、すなおに彼女の新しい先生が指し|示《しめ》す長い草の葉のあとをたどりながら、ゆっくりと、ためらいがちに読んで行った。読んでいくうちに、彼女のさわやかな声の|柔《やわ》らかな|抑《よく》|揚《よう》は、しらずしらずのうちに、むずかしい言葉を詩のように|響《ひび》かせるのであった。草の葉はだんだんページを下へとくだってゆく。そのうちにメグは悲しみの場面の美しさにきき手のいるのも|忘《わす》れて、|薄《はく》|命《めい》な女王の言葉に|悲《ひ》|劇《げき》|的《てき》な味わいさえもたせながら、ひとりでいるかのように読み進んだ。もし彼女がそのとき自分に注がれている茶色の目を見たら、|途中《とちゅう》でやめてしまったかもしれない、が一ぺんも顔を上げなかったおかげで、この|授業《じゅぎょう》がこわされずにすんだのは幸いだった。
「たいへんよくできました!」メグが一休みしたとき、ブルックさんは言った。たくさんの|間《ま》|違《ちが》いなどのことは全然言いもしないで、しんから「教えたくてたまらない」ような顔付きであった。
ミス・ケートは|眼鏡《めがね》をかけ、目の前の活人画をながめわたしたのち、写生帳を|閉《と》じ、ばかていねいに言った、「アクセントがおよろしいわ、じきおじょうずにおなりになってよ。勉強なさるようにおすすめしますわ、先生をなさるのには、ドイツ語は大事なたしなみですから。私グレースをみてこなくっちゃ、あばれてるようですから」と言うと、ミス・ケートはそこを|離《はな》れてぶらぶら向こうのほうへ歩いて行きながら、|肩《かた》をすくめて、ひとり言を言った、「私、あんな|家庭教師《かていきょうし》なんかお|守《も》りにきたんじゃありゃしないわ、いくら|若《わか》くてきれいなのかもしれないけど。あのひとたち、ほんとにへんなヤンキーばっかしね! あんな人たちといっしょではローリーがわるくなりゃしないかと思って心配でしようがないわ」
「私、イギリスの人って、女の家庭教師なんかばかにして、私たちが見るような目では見ないんだってこと、|忘《わす》れていましたわ」メグは去っていく人の|後姿《うしろすがた》を、|不興気《ふきょうげ》に見送りながらそう言った。
「あちらでは男の家庭教師でも、ご同様ですよ、残念ながら、私には|経《けい》|験《けん》があるのですが。働く者にとってはアメリカほどいいところはありませんね、マーガレットさん」ブルックさんがいかにも満足そうに、明るい様子に見えたので、メグは自分の身分をかこったのが|恥《は》ずかしくなった。
「じゃあ、その国に住んでいられてうれしいと思いますわ、私、自分の仕事が|好《す》きじゃありませんけど、やっぱりその中からずいぶん満足を|得《え》ているのですもの、不平を言うのはよしましょう。ただ私もあなたのように、教えることが|好《す》きになれるといいと思いますのよ」
「あなただってローリーが生徒だったら、好きにおなりになりますよ。来年はもう教えることができないんだと思うと、残念でなりません」ブルックさんはしきりと|芝《しば》|土《つち》に|穴《あな》を明けながら、そう言った。
「カレッジへいらっしゃるんでしょう?」メグは口ではそうきいたのだが、目は「そうするとあなたはどうおなりになるの?」という|質《しつ》|問《もん》を追加したのである。
「そうなんです。もうほとんど|準備《じゅんび》はできてますから、行ってもいい時分なんですよ。あの子が行ってしまったら、私はすぐ兵隊になります」
「まあうれしい!」とメグは|叫《さけ》んだ。「|若《わか》い方はみなさんいらっしゃりたいんですわね、お家に残るお母さまや|姉妹《きょうだい》にはつらいことですけれど」とメグは悲しげにつけ加えた。
「私にはどちらもありません。それに、私が死のうと生きようと、心配してくれるような友だちだって、ごく少ししかないんですからね」ブルックさんはちょっと切なそうに、そう言いながら、しおれたばらを|無《む》|意《い》|識《しき》にさっき|掘《ほ》った穴に入れ、小さなお|墓《はか》のようにその上に土をかけた。
「ローリーとおじいさまが、とてもご心配になりますわ、それに私たちだって、あなたがおけがでもなすったら、どんなに悲しくなるでしょう」とメグはしんみりと言った。
「ありがとう、そううかがってうれしいと思います」ブルックさんはまた明るい顔にもどって言いかけた、が、まだすっかり言いきらないところへネッドがさっきの|年《とし》|寄《よ》り|馬《うま》にまたがって、|令嬢《れいじょう》の前に、|己《おの》が|馬術《ばじゅつ》の|手《て》|並《なみ》を見せようものと、どたりどたりとやってきた。それでその日はそれっきり静かな時間はなかったのである。
「お馬に乗るのおきらい?」と、グレースがエーミーにきいた。ネッドが先に立って、みんなで野原を一回り、|駆《か》けっこをしたあと、ふたりは立ったまま一休みをしていた。
「|大《だい》|好《す》きよ。パパがお金持ちだったとき、メグ姉さまはよく乗ってらしたのよ、でも今は家には馬がいないの――エレン|木《トリー》のほかには」とエーミーは|笑《わら》って言い足した。
「エレン|木《トリー》ってなあに? ろばのこと?」グレースはききたくってたまらないようにこう言って|尋《たず》ねた。
「あのね、ジョー姉さま、お馬が大好きなのよ、私だってそうなの、ところが家にはお馬がなくて古い|婦《ふ》|人《じん》|鞍《くら》があるだけなの。家のお庭には|林《りん》|檎《ご》の木があって、ちょうどいい具合に低い|枝《えだ》が出ているの、私がそれにその鞍をのせて、枝の曲がったところへ|手《た》|綱《づな》をかけたのよ、それで私たちいつでも乗りたいときにエレン木に乗ってぱかぱかと|駆《か》け出すってわけなの」
「まあおかしい!」とグレースも笑った。「うちには子馬が一頭いるのよ、私たいてい毎日、フレッド兄さまとケート姉さまといっしょに公園へ行くのよ。とてもおもしろいわ、だってお友だちも行くでしょう、それにロー(ロンドンのハイドパークにある乗馬道)は男の方や女の方でいっぱいなの」
「まあ、すばらしそうね! 私はいつか外国に行ってみたいのよ。私だったらローよりもローマに行きたいわ」とエーミーが言った。彼女はローのなにものたるかもごぞんじなく、そのくせきくのはなんとしてもいやなのだった。
フランクは、小さいふたりのすぐうしろにすわって今の話をきいていたが、元気な|若《わか》|者《もの》たちが、次から次といろんなおかしな|体《たい》|操《そう》をしているのを見ると、じれったそうに|松《まつ》|葉《ば》|杖《づえ》をわきへ|押《お》しのけた。
ベスはちらばった作家カードを集めていたが、ふと顔を上げると、いつもの内気な、でもやさしい調子で話しかけた、「お|疲《つか》れになったんでしょう、私でよかったらなにかして上げましょうか?」
「お話してください、ね、どうぞ。ひとりぽっちですわっていると、|退《たい》|屈《くつ》しちゃうんです」フランクは答えた。彼は家でたいせつにされているにちがいない。
ラテン語で|演《えん》|説《ぜつ》をしてくれと|頼《たの》まれたって、はにかみやのベスにはこれほどの|難《なん》|題《だい》とは思われなかっただろう。でもあたりには|逃《に》げ出すところもなかったし、|背《せ》|中《なか》に|隠《かく》してくれるジョーもいなかった、そのうえこの気の毒な少年はいかにも|寂《さび》しそうに、自分をみているので、ベスはけなげにもやってみようと決心した。
「どんなお話がお|好《す》きなんでしょう?」彼女はカードを|縛《しば》ろうとして手にもって半分ばかりも落としながら、こう言ってきいた。
「そうね、クリッケットとか、ボートとか、|狩《か》りなんかのお話がききたいな」とフランクは言った。彼はまだ自分の力にふさわしい遊びを知らないのであった。
「|困《こま》ったわ! どうしましょう! そんなこと私、一つも知らないんですもの」とベスは思った。そして|狼《ろう》|狽《ばい》のあまり、フランクに話をさせようと思ってこう言ったのである、「私、|狩《か》りなんて見たことありませんのよ、でもあなたはよくごぞんじなんでしょう?」
「|僕《ぼく》一度だけ行ったことがあるんです。でももう狩りなんて二度とできないんだ、横木が五段もあるいまいましい門をとびそこなって|怪《け》|我《が》をしたんだもの。だからもう馬も|猟犬《りょうけん》も僕にとっては用がないんだ」とフランクは言って、ためいきをしたので、ベスは自分のうかつな失敗にわれながらあいそがつきた。
「おくにの|鹿《しか》は、アメリカのみっともない野牛なんかよりも、ずっときれいですわね」ベスは平原に助けを求めて話題を変えた、そして、ジョーがおもしろがっていた男の子の本を一|冊《さつ》、自分も読んでおいてよかったと思った。
野牛の話はまさしく相手を喜ばせ、満足させたようだった。ベスはひとを楽しませたさのあまりわれを|忘《わす》れて、あんなにこわがって|保《ほ》|護《ご》を|頼《たの》んでいた男の子のひとりとどんどんお話をしているという|珍《ちん》|風《ふう》|景《けい》に、姉たちが|驚《おどろ》いたり、喜んだりしているのにも、少しも気がつかないのであった。
「まああの子ったら! フランクに|同情《どうじょう》してるんだわ、それで親切にしているのよ」ジョーはクローケーのグラウンドから妹のほうをながめ、うれしそうににこにこした。
「私いつも言ってるでしょう、あの子は小さな|聖《せい》|者《じゃ》だって」と、メグはもはやそれに|間《ま》|違《ちが》いはないというようにつけ加えた。
「フランクがあんなに|笑《わら》うの、もうずいぶんきいたことないわ」グレースはエーミーにそう言った、ふたりはそこにすわり|込《こ》んで、お人形さんのお話をしながら、どんぐりのお|椀《わん》でお茶道具をつくっていた。
「ベス姉さまってほんとに fastidious(気むずかしい)な子なのよ、気が向くと」と、エーミーはベスの成功を喜んでそう言った。"fascinating"(|愛嬌《あいきょう》のある)のつもりだった。しかしグレースはどっちの意味もよく知らなかったし、"fastidious" もなかなか耳ざわりがよかったので、よい感じを受けたのであった。
|即《そく》|席《せき》のサーカスだの、|狐《きつね》と|鵞鳥《がちょう》だの、こんどは|穏《おだ》やかにいったクローケーの一ゲームだのをしているうちに、この日の午後は|暮《く》れていった。お日さまが|沈《しず》むころ、テントははずされ、かごに荷物が|詰《つ》められ、|小門《ウィケット》が|抜《ぬ》かれた、それらをボートに積み込んで、みんな声のかぎりにうたいながら、川をくだっていった。ネッドはすっかり|感傷的《かんしょうてき》になってしまい、こんなもの悲しいセレナーデを口ずさんだ――
「ひとり、ひとり、ああ! 悲しくも
ただひとり!」
そしてまた、
われらみなげに|若《わか》く、
あつきこころ血と|燃《も》ゆるを
などてみなかくはつめたく
はなれたつや?
という文句のところへくると、いかにも思い深げな様子でメグを見たので、メグは思わずぷっと|吹《ふ》き出して、せっかくの歌をだいなしにしてしまった。
「あなたはどうしてそんなに僕に対してつれなくなさるんです?」と、ネッドはにぎやかなコーラスを幸い、そっとささやいた。「あなたは一日中、あのつんとしたイギリスの女にくっついていらしたが、今はまた今で僕を|冷《れい》|遇《ぐう》なさるんですね」
「そういうつもりじゃなかったんですけど、だってあなたあんまり|滑《こっ》|稽《けい》なご様子なさるんですもの、|笑《わら》わずにはいられませんでしたのよ」とメグは、彼の|非《ひ》|難《なん》の初めのほうはしらん顔して答えた。事実、彼女はモファット家のパーティのことや、そのあとの会話のことなど思いだして、彼を|避《さ》けていたのだった。
ネッドは気をわるくして、|慰《なぐさ》めを求めるようにサリーの方を向き、ちょっとすねたように言った、「あのひとは味もそっけもないひとだねえ、そうじゃない?」
「そんなものないわ、でもかわいいひと(dear)よ」サリーは彼女の欠点を|認《みと》めながらも、友だちをかばってそう答えた。
「どっちにしても手負いの|鹿《しか》(deer)じゃあないや」とネッドは機知に|富《と》んだところをみせようとしたが、世間の|若《わか》い男なみにあまり気のきいたものでもなかった。
この一小隊は朝集まった|芝《しば》|生《ふ》の上で、心からのおやすみなさいやさよならを交わし、思い思いに|別《わか》れを告げた、ヴォーン一家はカナダへ旅立つのである。四人の姉妹が庭を通って帰っていくのを見送りながら、ミス・ケートはさっきの|横《おう》|柄《へい》な調子は|忘《わす》れたように言うのであった、――
「むきだしなところはあるけれど、アメリカの|娘《むすめ》さんて、よくつき合えばいい方たちね」
「そのとおりですよ」とブルックさんは言った。
第十三章 空中|楼《ろう》|閣《かく》
あるまだ暑い九月のお昼|過《す》ぎ、ローリーはハンモックに深々とからだを|埋《うず》めて、ゆらりゆらりと|揺《ゆ》れながら、|隣《となり》の連中は何をしているだろう、といって出かけていってみるのもおっくうだ、などと考えていた。今日はすこぶるごきげんがわるい、というのは一日じゅう何をしてもうまくいかず、思わしくないことだらけで、できることならもう一度出直したいくらいに思っているのである。暑くて何をするのもいやだった、まずブルックさんが|堪忍袋《かんにんぶくろ》の|緒《お》を切らすほど勉強をずるけた、お昼|過《す》ぎの半分はピアノを|弾《ひ》きまくっておじいさまのごきげんを|損《そん》じた。ふざけ半分に、犬が一|匹《ぴき》|気《き》|違《ちが》いになりかけているというようなことを言って、メイドたちをあぶなく気を失うほどびっくりさせたかと思うと、自分の馬を|粗《そ》|末《まつ》にするなどとありもしないことを言って、|馬《ば》|丁《てい》と|口《こう》|論《ろん》したあげく、ハンモックにねそべり返って、世の中全体のばかさ|加《か》|減《げん》に|腹《はら》を立てているうちに、美しく晴れた日の静けさがいつのまにか彼の気持ちまでなごやかにしてくれたのであった。真上におおいかぶさった|七葉樹《と ち の き》の小暗い緑を見つめながら、彼はさまざまな空想にふけっていた、そうして今や世界一周の船に乗り、大洋の波間を|揺《ゆ》られているのだ、と思ったとたん、人の話し声がして、あっというまに彼は岸辺に連れもどされてしまった。ハンモックの|網《あみ》|目《め》からのぞいてみると、マーチ家の姉妹が、どこかへ|遠《えん》|征《せい》にでも出かけるような|格《かっ》|好《こう》で、ぞろぞろと出てくるのが見えた。
「いったいあの連中は今ごろから何をするつもりかしらん?」とローリーは思いながら、ねぼけまなこを大きく開けて様子を見ようとした。今日の|隣《りん》|人《じん》たちは何かしらいつもと|違《ちが》った様子をしている。めいめいに大きな、びらびらした|帽《ぼう》|子《し》をかぶり、茶色い|麻《あさ》の|袋《ふくろ》を|肩《かた》にかけ長い|杖《つえ》まで持っている。その他にメグはクッション、ジョーは本、ベスは|柄杓《ひしゃく》、エーミーは紙ばさみをかかえていた。四人ともそうっと庭を通りぬけ、小さな黒い木戸から外へ出ると、家と川との間にある|丘《おか》をのぼりはじめた。
「ふん、|冷《れい》|淡《たん》だぞ!」ローリーはひとり言を言った。「ひとにも言わないでピクニックに行くなんて。ボートには乗れないぞ、|鍵《かぎ》をもってないんだもの、きっと|忘《わす》れたんだ、もってってやって何が始まるか見てやろう」
|帽《ぼう》|子《し》は半ダースもあるくせに、一つ|捜《さが》すのにだいぶひまがかかった、それから鍵を捜しにかかり、あっちこっちと捜したあげくそれはポケットから出てきた。だから彼が|垣《かき》|根《ね》をとび|越《こ》えてあとを追ったときには、姉妹の|姿《すがた》はとっくに見えなくなっていた。近道を先回りしてボート小屋に着き、みんなの|現《あらわ》れるのを待っていたが、だれもこない。そこで高みから見下ろすことにしようと、丘を上って行った。丘の一方は|松林《まつばやし》だった、この緑の林の中から、やわらかなといきにも|似《に》た松風や、|睡《ねむ》|気《け》をさそうようなこおろぎの声などよりずっと晴れやかな声音がきこえてきた。
「なんてすてきな眺めだろう!」とローリーは、|茂《しげ》みをすかしてながめながら、心に思った、そしてもう睡気などすっかりふっ飛んで、ごきげんのいい顔になっていた。
それはなるほど美しい小さな絵であった。姉妹たちは|木《こ》|陰《かげ》の|一《いち》|隅《ぐう》によりそってすわり、その上にお日さまの光と木の|影《かげ》がちらちらとさしている、――|芳《かんば》しいそよ風がみんなの|髪《かみ》の毛を|吹《ふ》き、ほてった|頬《ほお》をさましている。――森の小さな住人たち――小鳥もりすも、これは知らない|仲《なか》ではない、|昔《むかし》なじみの友だちだというように、めいめいの仕事に|精《せい》をだしていた。メグはクッションの上にすわり、白い手でしおらしく|針《はり》を運んでいた。緑の中にピンクのきものを着てすわった姿は、まるで一輪のばらのように|鮮《あざ》やかで愛らしかった。ベスはそばにあるどくにんじん[#「どくにんじん」に傍点](アメリカツガ)の下にいっぱい重なり合っている|松《まつ》|毬《かさ》をよりわけていた。それでいろいろきれいなものをこしらえるのである。エーミーはひとむらの|羊《し》|歯《だ》を写生し、ジョーは大きな声で本を読みながら|編《あ》み|物《もの》をしていた。こういう光景をながめているうちに、ローリーの顔にはちらと暗い|影《かげ》がさした、自分は|招《まね》かれざる客なのだから帰らなくてはならないのだと思ったからである、しかしまた、家を思えばあまりにも|寂《さび》しく、森の中のこの静かな集まりは彼のいらだった心には、このうえもなく|魅力《みりょく》がある。彼は立ち去りかねていた、そのままそこに静かに立っていると、一|匹《ぴき》のりすが|餌《えさ》をあさりにすぐそばの|松《まつ》の木をかけ下りてきて、ふと彼の|姿《すがた》をみると、|鋭《するど》い|啼《なき》|声《ごえ》を上げてまた|駆《か》け上った、その声にベスが顔を上げて、|樺《かば》の木の|陰《かげ》のさびしそうな顔をみつけると、にっこりと安心させるようにほほえんで|手《て》|招《まね》きをしてくれた。
「行ってもいいの? それともお|邪《じゃ》|魔《ま》?」ローリーはそろそろと近づきながら|尋《たず》ねた。
メグは|眉《まゆ》をつり上げた、するとジョーがじろりと姉をにらみつけ、すぐさま言った、「もちろんいいのよ。はじめからあなたに言えばよかったんだけど、あなたこんな女の子のすることなんか、いやだろうと思っただけなのよ」
「|僕《ぼく》、なんだってあんたたちのすること|好《す》きなのに。でもメグが入れたくないんだったら帰りますよ」
「私だって|別《べつ》に反対するわけじゃないわ、あなたも何かなさるなら。ここではぶらぶらしていてはいけないってのが|規《き》|則《そく》なのよ」とメグはまじめに、でもやさしく答えた。
「ありがとう、ちょっとここにいさしてさえもらえたら、僕なんだってやりますよ、家ときたら、サハラの|砂《さ》|漠《ばく》みたいに|退《たい》|屈《くつ》なんだもの、僕お|裁《さい》|縫《ほう》しましょうか、それとも本? |松《まつ》|毬《かさ》をよる? 絵を|描《か》く? それともみんな一ぺんにやりますか? 何でもやっかいなことがあったら、もってらっしゃい。引き受けます」と言ってローリーは見るからに気持ちのいい|従順《じゅうじゅん》な様子でそこへ|腰《こし》を下ろした。
「このお|噺《はなし》読んでしまって、私、ここの|踵《かかと》のとこをきめてしまうから」と言ってジョーが本を|手《て》|渡《わた》した。
「かしこまりました」とおとなしく答えて、彼は読み出した。そして「働き|蜂《ばち》の会」に入れてもらった|名《めい》|誉《よ》に対するお礼心を表そうと、|一生懸命《いっしょうけんめい》じょうずに読んだ。
お噺は長いものではなかった。読み終わったとき、彼はその労に対する|報賞《ほうしょう》として、二つ三つ|質《しつ》|問《もん》をもち出してみた。
「あのう、ちょっとお|尋《たず》ねいたしますが、この|有《ゆう》|益《えき》なおもしろい会はこのごろ始まったものですか?」
「教えて上げる?」メグは姉妹をかえりみた。
「|笑《わら》われるわよ」とエーミーが注意した。
「いいじゃないの」とジョーが言った。
「私、ローリーさんあのこと|好《す》きだと思うわ」とベスがつけ加えた。
「もちろん好きだよ! |断《だん》じて笑わない。早くお言いよ、ジョー、こわがらないでさ」
「あなたをこわがるだって! いいこと、あのね、私たちずっと『|天路歴程《ピルグリムズブログレス》』をしているのよ、冬も夏も熱心にやってきたの」
「うん、知ってる」ローリーは|心得顔《こころえがお》にうなずいた。
「だれにきいたの?」と、ジョーはこわい顔してきいた。
「|妖《よう》|精《せい》」
「ちがうわ、私が言ったのよ。いつかの|晩《ばん》、みんないないとき、ローリーを|慰《なぐさ》めようと思って話したの、なんだか|寂《さび》しそうだったから。ローリーさんとてもおもしろがったのよ、だからおこっちゃいやよ、ジョー」とベスは静かに言った。
「おしゃべりね。まあいいわ、今となれば手数が|省《はぶ》ける」
「それでどうしたの、さ、話して」とローリーは言った。ジョーは少々ごきげんを|損《そん》じてせっせと仕事をやりだした。
「あら、ベスはこんどの計画のこと言わなかったの? じゃあね、私たちお休みをむだにしないで、みんな何か仕事をこしらえて、それを喜んですることにしてきたのよ。お休みももうじきおしまいでしょう、予定の仕事が出来上がって、どうやらのらくらしないで|暮《く》らせたと思って喜んでいるところなの」
「ふん、そうだろうなあ」ローリーは、自分ののらくら|過《す》ごした休みのことを思って、残念だった。
「お母さまはね、できるだけ私たちが戸外にいるのがお|好《す》きなの、それで私たち仕事をここにもち出してそれは楽しくやったのよ。なるべくおもしろくしようと思って、仕事をこの|袋《ふくろ》に入れてね、古くさい|帽《ぼう》|子《し》をかぶって、|丘《おか》を上るには|杖《つえ》をついて、ピルグリムごっこをしたというわけよ、|昔《むかし》やったようにね。この丘は『楽しき山』っていうの、ここからはずっと遠くまで見はらしがきくし、それに私たちがいつか住んでみたいと思っているような|田舎《いなか》も見えるでしょう」
ジョーが指さすほうを見ようと、ローリーも立ち上がった。森の開いたところからは、大きな青々とした川の流れがのぞまれ、|片《かた》|側《がわ》には牧場があって、大きな|市《し》|街《がい》の|郊《こう》|外《がい》から、空高く連なり立つ緑の|丘陵《きゅうりょう》のすそまでひろがっていた。お日さまは低く|傾《かたむ》き、空は秋の夕陽の|輝《かがや》きに赤々と|燃《も》えていた。丘の|頂《いただ》きには|金《こん》|色《じき》と|紫《むらさき》の雲がたなびき、白銀色の|峰《みね》|々《みね》はその赤い輝きのなかにくっきりとそびえ、なにか「天国の町」の空中の|塔《とう》のようにもてり輝いているのであった。
「きれいだなあ!」ローリーは静かに言った。彼はどんなものでも美しいものは、|敏《びん》|感《かん》に見たり感じたりできるのであった。
「しょっちゅうこうなのよ。私たちもあれをながめるのが楽しみなの、だっていつだって同じことはないんですもの、それでいていつだってすばらしいのよ」とエーミーは、この|景《け》|色《しき》を|描《えが》くことができたらと思いながら答えた。
「ジョーはね、私たちが住んでみたいと思う|田舎《いなか》のことをよく話すのよ、|豚《ぶた》がいたり、ひよこがいたり、|乾《ほし》|草《くさ》をつくったりするほんとの田舎のことなのよ。それもおもしろいでしょうね。だけども私は、あの高いところに見える美しい国がほんとにあって、いつか私たちもそこへ行けるんだといいと思うわ」ベスは思いにふけりながら言った。
「あれよりかももっと美しい国があるのよ、私たちがそこに住むのにふさわしいようないいひとになれたら、そのうちには行けるようになるのよ」と、いつものやさしい調子でメグが言った。
「でもそれまで待つのはたいへんねえ、それに、そんなふうになるのもなかなかむずかしいわ。私、あのつばめのようにすぐにでも飛んで行きたいわ、そしてあのりっぱなご門の中にはいってみたいわ」
「あんたははいれてよ、ベス、おそかれ早かれね。心配しなくともいいわ」とジョーが言った。
「私は|闘《たたか》ったり働いたり、よじ登ったりさんざ待ったりしたあげく、けっきょくははいれないかもしれないような人間なんだわ」
「僕でよかったらお|供《とも》をしますよ。だけど、僕が、君のいう『天国の町』の見えるところへ行くまでには、ずいぶん旅をしなくっちゃならないんだろうな、もし僕がおくれて着いても、やさしい言葉をかけてくれるでしょうね、どう、ベス?」
ローリーの顔に|浮《う》かんだある|表情《ひょうじょう》に、彼の小さな友だちはとまどったが、ベスはその静かな目で、|刻《こく》|々《こく》に|移《うつ》っていく雲をながめながら、明るく言った。「だれだって、ほんとうに行きたいと思って、毎日|一生懸命《いっしょうけんめい》努力して|暮《く》らしたら、きっとはいれると思うわ。だって天国の戸には|鍵《かぎ》なんかないでしょうし、ご門にも番人なんかいないんでしょう。私ね、そこはきっと絵にあるようなところだろうと思うのよ。あわれな『クリスチャン』が川からはい上がってくると、ふたりの|輝《かがや》いた方たちが両手をさしのべているあの絵よ」
「ねえ、私たちの考えている空中|楼《ろう》|閣《かく》がみなほんとうになって、その中に住めるようになったら、おもしろいでしょうね」ちょっと話がとぎれたあとで、ジョーが言った。
「僕はあんまりたくさん考えてるから、どれに住んだらいいか、選び出すのがたいへんだろうと思う」ローリーは|腹《はら》ばいになって、さっき自分のいることを|皆《みな》に知らせたりすに|松《まつ》|毬《かさ》をぶつけながら、こう言った。
「いちばん|好《す》きなのを選ぶのよ、それ、どんなの?」メグがきいた。
「僕が話したら、君のも話す?」
「ええ、みんなも話すなら」
「話すわよ、さあ、ローリーからよ!」
「僕はまず見たいだけ世界中を見て歩いてから、ドイツで暮らすことだな。そして好きなだけ音楽をやりたいと思う。僕は有名な音楽家になる、世界中の人が僕の音楽をききに|押《お》しよせてくるんだ、僕はお金だとか仕事だとか、そんなものにわずらわされないで、ただ楽しい生活をし、自分の好きなもののために一生をささげる。これが僕の空中|楼《ろう》|閣《かく》さ。君のはどんなの、メグ?」
マーガレットは、自分の考えていることをどう話したらいいかというように、いもしない|蚊《か》を追って、一本の|羊《し》|歯《だ》を顔の前に動かしながら、ゆっくりと話し出した。「私はね、美しい家がほしいの、そこには|贅《ぜい》|沢《たく》なものがいっぱいつまっているの、おいしい食べものだのきれいな着物だの、りっぱなお道具だの、気持ちのいい人たちだの、それからお金もどっさりあるのよ。私はその家の|奥《おく》さんで、|召《め》し|使《つか》いをたくさんおいて、|好《す》きなようにやっていくのよ、自分ではちっとも働かなくていいようにね。どんなに楽しいでしょうね! 私のらくら遊んでなんかいないのよ。いいひとになって、みんなが私を大好きになるようにするつもりよ」
「あなたの空中楼閣にはご主人はいらっしゃらないんですか?」何くわぬ顔してローリーがきいた。
「私、『楽しい人たち』って言ったじゃありませんか」と言いながら、メグは用心深く|靴《くつ》のひもを結んだので、だれにも彼女の顔は見えなかった。
「どうして姉さんは、その家にりっぱで|賢《かしこ》くて、|善良《ぜんりょう》なだんなさまと、天使のような子供たちがいるって言わないの? それがそろわなくっちゃ姉さんのお城は出来上がりっこないんだっていうこと、わかっているくせに」とジョーは|単刀直《たんとうちょく》|入《にゅう》に言った。彼女はまだおとめらしい空想などはいだいたこともなく、小説以外のロマンスなどはむしろ|軽《けい》|蔑《べつ》しているのである。
「どうせあんたのお城には馬とインキ|壺《つぼ》と、小説しかないんでしょう」メグもむっとして答えた。
「いいじゃないの、それだって! 私はアラビア馬のたくさんいる|厩《うまや》と、本がぎっしりつまったお部屋があればいいと思うわ。私は魔法のインキ壺を使ってお|噺《はなし》を書くのよ、そうすると私の本はローリーの音楽と同じくらい有名になるんだわ。だけど私はそのお城にはいり|込《こ》む前に、なにかすばらしいことがやりたいのよ、――なにかこう|英《えい》|雄《ゆう》|的《てき》なこととか、世間を|驚《おどろ》かすようなこと――死んだあとまで人から|忘《わす》れられないようなことをね。それが何かってことはわからないけど、でも私機会を待っているの、いつかはあんたたちをびっくりさせるつもりよ。やっぱり私、本を書くだろうと思うの、お金持ちになって有名になるわ。そういうのが私の|性《しょう》に合ってるの、これが私の|大《だい》|好《す》きな|夢《ゆめ》よ」
「私の夢は、お父さまとお母さまといっしょにお家にいて、お家のひとのお世話をして上げることだわ」ベスはほかに望みはないようにこう言った。
「ほかに何もいらないの?」ローリーがきいた。
「あの小さなピアノをいただいてから、私はもうほしいものないのよ。私ただ、みんながいつまでも|丈夫《じょうぶ》でいて、いつまでもいっしょにいられればいいと思うの、それだけよ」
「私には望みがたくさんあるわ、でもいちばんしたいことは、画家になってローマに行くことよ、そしてりっぱな絵をかいて、世界でいちばんえらい画家になることだわ」というのがエーミーのつつましやかな望みだった。
「みんなそれぞれ野心家なんだね、そうじゃない? ベスのほかはみんなお金持ちになって有名になって、あらゆる点で|豪《ごう》|奢《しゃ》にやりたいっていうんだから。この中で望みを|実《じつ》|現《げん》できるひといるかしら?」ローリーは思いにふける|犢《こうし》のように草をかみながら言った。
「私はともかく空中|楼《ろう》|閣《かく》の|鍵《かぎ》を手に入れたわ。でも、その|扉《とびら》が開けられるかどうかは、これからのことよ」と、ジョーは意味ありげに言った。
「僕も僕の鍵は持ってる、だけど使うわけにはいかないんだ。|大学《カレッジ》だなんて!」ローリーは無念そうにといきをもらしてつぶやいた。
「私の|鍵《かぎ》はこれよ!」とエーミーは|鉛《えん》|筆《ぴつ》を|振《ふ》ってみせた。
「私は鍵なんか持ってないわ」そうメグが|寂《さび》しそうに言うと、
「お持ちですよ」とローリーが|即《そく》|座《ざ》に言った。
「どこに?」
「あなたのお顔に」
「ばかおっしゃい、そんなもの役にたつものですか」
「まあ今にみてらっしゃい、それがあなたにとって大切なものをもってくるかこないか」とローリーは自分だけが知っているつもりの、小さな楽しい|秘《ひ》|密《みつ》のことを思って、|笑《わら》いながら答えた。
メグはもっていた|羊《し》|歯《だ》の葉の|陰《かげ》にぱっと顔をあからめたが、なにも問い返さずに川の向こうのほうを見やった、その顔には、ブルックさんが|騎《き》|士《し》のお|噺《はなし》をしたときのような、何かを待ちのぞむような|表情《ひょうじょう》が|浮《う》かんでいたのである。
「ねえ、私たちがこの先、十年生きていたら、また会いましょうよ、そしてだれとだれとが望みを達したか、達しないまでも今よりもどのくらい近づいているか、みてみましょうよ」と、計画|好《ず》きのジョーが言った。
「あら! 私いくつになるかしら――二十七よ!」と、メグは|叫《さけ》んだ。彼女はやっと十七|歳《さい》になったばかりなのに、もうおとなになったつもりなのである。
「あんたと私は二十六ね、テディ(シォドア・ローレンスの略称)、ベスが二十四でエーミーが二十二、ずいぶんお|年《とし》|寄《よ》りになるわね!」とジョーが言った。
「それまでにはなにか|自《じ》|慢《まん》できるようなことをしていたいもんだな、でも僕はこんな|怠《なま》けものだから、また『のらくら』しちまうんじゃないかと思うよ、ジョー」
「あなたってひとはなにか動機があるといいんだって、お母さまが言ってたわ、それさえあれば、きっとりっぱな仕事ができるひとなんですって」
「そうおっしゃってた? きっとやるよ、機会さえあれば!」ローリーはむくむくと力がわくかのようにからだを起こした。「僕はおじいさまを喜ばすことだけで満足してなくっちゃならないんだ、またそうしようと努めてもみるんだ、でもそれは僕の|性《しょう》に合わないだろう、ね、それで|骨《ほね》が折れるのさ。おじいさまは、僕をご自分のようなインド|貿易商《ぼうえきしょう》にしたいんだ、ところが僕はそんなものになるくらいなら、|弾《たま》に|撃《う》たれて死んだほうがいい。お茶だの|絹《きぬ》だの|香料《こうりょう》だのって、おじいさまの船がもってくるようなつまらないもの、僕はみんなだいきらいだ、僕が船の持ち主になるようになったら、あんな船いつ|沈《しず》んでしまったって、少しもかまやしない。大学へ行って上げるのだけで満足してくださればいいんだよ、僕だって四年間も|我《が》|慢《まん》するんだから、おじいさまのほうでも僕を仕事から|解《かい》|放《ほう》してくだすってもいいと思うんだ。でももうおじいさまはちゃんとそうきめていらっしゃるんだから、僕はおじいさまのなすったとおりにしなくっちゃならないんだ。僕がお父さまみたいに家をとび出して|好《す》きなようにやるんなら|別《べつ》だけど。だれかこの家におじいさまといっしょにいてくれる人さえあったら、僕は明日にでもそうするよ」
ローリーは|興《こう》|奮《ふん》してこう語った、そしてちょっとしたきっかけでもあったら、すぐにでも今のおどしを実行しそうな様子をみせた、彼は今まさに成長ざかりで、ふだんはのらくらしているように見えても、|屈従《くつじゅう》というものに対する青年らしいにくしみ、――言いかえれば、自分の力で世の中をわたってみたいという、やむにやまれぬあこがれをもっていたのである。
「あんた自分の船で世の中に乗り出して行って、|好《す》きなようにやってみるまで帰ってこなけりゃいいじゃないの」
ジョーは言った。そうした|大《だい》|胆《たん》|悲《ひ》|壮《そう》な行動を思うと、彼女の空想は火のように|燃《も》え上がるのだったし、また「テディの不当な苦しみ」をきくと、彼への同情はますますかき立てられるのであった。
「それはいけないわ、ジョーさん、そんなふうに言うもんじゃないわ、ローリーはこのひとのいけない忠告なんかきいちゃだめよ。あなたはおじいさまのおっしゃるとおりになさらなくっちゃ」と、メグはいかにも母親じみた|口調《くちょう》で言った。「大学にはいったら|一生懸命《いっしょうけんめい》勉強なさいね、あなたがおじいさまのお気に入るように努めていらっしゃることがわかれば、おじいさまだって決してむずかしいことやひどいことをおっしゃるはずはないんですからね。あなたのおっしゃるとおり、他にはだれもおじいさまのおそばにいて愛して上げる方はないのですもの、あなたがもしも勝手におじいさまをおいて出ていくようなことをしたら、きっと|後《こう》|悔《かい》しますよ。そんなに|憂《ゆう》|鬱《うつ》になったりやきもきしたりしないで、ご自分の|務《つと》めを|果《は》たすようになさいな、そうすれば人から|尊《そん》|敬《けい》されたり愛されたりして、きっといい|報《むく》いがあってよ、ブルック先生のように」
「先生のこと、君何か知ってるっていうの?」ローリーは|珍《めずら》しく|激《はげ》しいことを言ったあとで親切な忠告には|感《かん》|謝《しゃ》したものの、お説教には不服だったので、自分のことから話題をそらすのがうれしくて、こうきいたのである。
「おじいさまがうちのお母さまに話していらしたことだけしか知らないわ、あの方のお母さまがおなくなりになるまで、とてもよくお世話をなすったことだとか、りっぱなお|宅《たく》の|家庭教師《かていきょうし》になって外国へいらっしゃれたのを、お母さまのためにお|断《ことわ》りになったとか、お母さまの|看病《かんびょう》をしてくれたおばあさんに、今でもちゃんと仕送りをして上げてらっしゃるとかいうようなことよ。それもだれにもおっしゃらないできちんきちんと気前よく、できるだけ言うとおりにして親切にして上げていらっしゃるんですってね」
「そうなんだ、いい先生だなあ!」メグが話しながら、だんだん上気して|真《しん》|剣《けん》な顔つきになり、ちょっと息をついたとき、ローリーはしみじみとこう言った。「おじいさまらしいや、先生のことをこっそり|探《さぐ》りだして、いいところをみんなよその人に話すなんて、そうすればみんな先生を|好《す》きになるものね。そういえばブルックさんは、どうして君のところのお母さまがあんなに親切にしてくだすったり、僕といっしょによんでくだすってあんなにやさしく|歓《かん》|待《たい》したりなさるのかわからないって言ってたよ。そしてお母さまのことをほんとうにりっぱな方だって、毎日毎日そのことばかり言って、君たちみんなのこともそりゃほめてたぜ。僕が望みをはたしたら、先生のためにどんなことをして上げるか、見ていてくれたまえ」
「今からしてお上げなさいよ、先生にご苦労をかけないで」と、メグははっきりと言った。
「それをどうしてごぞんじですか?」
「先生がお通りになるとき、お顔を見ればわかるわ。あなたがいい生徒だったときは、満足そうなお顔をして、とっとと歩いていらっしゃるけど、あなたが先生をてこずらせたときは、まじめなお顔して、ゆっくり歩いていらっしゃるのよ、もう一ぺん帰ってやり直したいっていうように」
「へえ、これはおもしろい! じゃ君は僕の|成《せい》|績《せき》の|善《よ》し|悪《あ》しを、先生の顔できめているわけなんですね? 先生が君の家の|窓《まど》のそばを通るとき、にっこりしておじぎをするのは知ってたけど、電信を送ってるんだとは知らなかった」
「そんなもの送ってなんかいないわ。|怒《おこ》っちゃいやよ、それからあの方に、私が何か言ったなんて言わないでね、私ただあなたの勉強ぶりを心配してるってことを知らせて上げたかったのよ、それに今お話したことはここだけのお話なんですもの、そうでしょう?」メグは自分のかるはずみなおしゃべりから、どんなことが起こるかと心配になりだして、こう|叫《さけ》んだ。
「僕はおしゃべりなんかしません」ローリーはジョーのいわゆる「|傲《ごう》|然《ぜん》たる」|態《たい》|度《ど》で答えた。彼は時々そのような様子をすることがある。「ただね、ブルックが晴雨計の役をしようっていうんなら、僕も大いに気をつけていいお天気を|報《ほう》|告《こく》してもらわなくちゃならない、と思うだけさ」
「そんなに怒らないでちょうだい。私なにもお説教したり、おしゃべりしたり、くだらないこと言ったりするつもりじゃなかったのよ、ただジョーがあなたの気持ちをたきつけたようにみえたもんだから、あなたいつか|後《こう》|悔《かい》なさるんじゃないかと思ったからなの、あなたは私たちにとても親切にしてくださるでしょう、まるで自分の兄弟のような気がして、思ったことをそのまま口に出してしまうの、ごめんなさい、わるい気じゃなかったのよ!」メグはやさしく、少しおずおずと手をのべた。
ちょっととはいえ|腹《はら》など立てたことが|恥《は》ずかしくなり、ローリーはそのやさしい小さな手を|握《にぎ》りしめて、|率直《そっちょく》に言った、「僕こそごめんなさい。僕はおこりっぽいんだ、今日は一日中きげんがわるかったんです。どうぞ僕のわるいところを言ってください、そして女のきょうだいの代わりになってください。僕がおこったように見えても気にしないでね、そんなときでも僕は|感《かん》|謝《しゃ》してるんだから」
気をわるくしたのではないということを示そうとして、ローリーは|一生懸命《いっしょうけんめい》気持ちよく|振《ふる》|舞《ま》った。メグのためには糸をまき、ジョーには詩を|暗誦《あんしょう》して喜ばせ、ベスには|松《まつ》|毬《かさ》を落としてやり、エーミーには|羊《し》|歯《だ》の写生を手つだってやったりした。そうやって自分が「働き|蜂《ばち》の会」にふさわしい人間だということを表明したのである。|海《うみ》|亀《がめ》の人なつこい習性について|盛《さか》んに|論《ろん》じていたとき(この|愛嬌者《あいきょうもの》が一|匹《ぴき》ちょうど川からのこのこはい上がってきたので)、ハンナがお茶を「いれた」という合図のベルが遠くきこえてきたので、みんなは夕ごはんに帰る|時《じ》|刻《こく》だと気がついた。
「またきてもいい?」とローリーがきいた。
「ええ、おとなしくして、よく勉強なさるなら、よ。教科書に子供は勉強するようにってあるでしょう?」と、メグが|笑《わら》いながら言った。
「やりますよ」
「そんならきてもいいわ、私|靴《くつ》|下《した》の|編《あ》み方教えて上げるわね。スコットランド人みたいに。今はちょうど靴下の注文があるのよ」と、ジョーは|別《わか》れぎわに言い足して、自分の靴下を大きな青い毛糸の旗のように|振《ふ》ってみせた。
その夜、ベスが夕あかりの中でローレンス氏のためにピアノを|弾《ひ》いて上げているのを、ローリーはカーテンの|陰《かげ》に立ってきいていた、この小さなディヴィドはいつもやさしい音楽で、自分のふきげんな心をしずめてくれる。またおじいさまはと見れば、銀白の頭を手でささえながら、今はないいとしい|孫娘《まごむすめ》の|追《つい》|憶《おく》にふけっていらっしゃるのだ。彼はこの日の午後に交わした会話を思い出しながら、今は喜んで|犠《ぎ》|牲《せい》を|払《はら》う決心をし、ひとり心に言いきかせたのである、――
「僕は自分の空中|楼《ろう》|閣《かく》をあきらめて、おじいさまがいらっしゃるあいだおそばにいることにしよう、おじいさまには僕よりほかにはだれもいないのだもの」
第十四章 |秘《ひ》|密《みつ》
ジョーはこのごろ屋根部屋で|忙《いそが》しい日を送っていた。十月にはいると急に寒くなり、日も短くなったからである。お日さまは二、三時間だけ|高《たか》|窓《まど》のところに|暖《あたた》かい日ざしを投げて、ジョーが|古《ふる》|椅《い》|子《す》に|腰《こし》をかけ、前にすえたトランクの上に紙をひろげて忙しそうに書き物をしている|姿《すがた》を照らし出していた。お気に入りねずみのカリカリ君は|総《そう》|領息子《りょうむすこ》を|従《したが》えてゆうゆうとご主人の頭の上の|梁《はり》を散歩していた。息子は|自《じ》|慢《まん》のひげをたくわえ、なかなかりっぱな|若《わか》|者《もの》である。ジョーは|夢中《むちゅう》でペンを飛ばしどんどん書いていくうちに、とうとう最後の一ページが出来上がった。そこでりっぱに|署《しょ》|名《めい》をし、ペンを投げ出して、|叫《さけ》んだ、――
「さあできた、私はベストをつくした! これでだめだったら、またこんどいいのができるまで待つほかはないんだ」
ジョーはソファの上にひっくり返り、念入りに|原《げん》|稿《こう》に目を通し、あちこちにダッシュを入れたり、|感《かん》|歎《たん》記号をふんだんに書き入れたりした。それはまるで小さな風船のようにみえた。それからきれいな赤いリボンでしばって、しばらくまじめな、|手《て》|放《ばな》したくないような顔つきでじっとそれをながめたのである、その様子をみれば、この作品は|彼《かの》|女《じょ》がいかに真剣に書いたものであるかが察せられるのである、この|屋《や》|根《ね》|裏《うら》にあるジョーの|机《つくえ》というのは、台所用の古いブリキ|箱《ばこ》を|壁《かべ》によせて|置《お》いたもので、この中へジョーは紙やら五、六|冊《さつ》の本やらを、|例《れい》の「カリカリ君」のいたずらを防ぐためにしまっておくのだった。このいたずら者はご主人と同様文学|好《ず》きと見えて、自分の目につくところにおいてある本は、|片《かた》っぱしからページをかみ|破《やぶ》っては、|巡回文《じゅんかいぶん》|庫《こ》をつくるのが|好《す》きだった。さて、このブリキの入れ物の中から、ジョーはもう一つの|原《げん》|稿《こう》をとり出した。二つの原稿をポケットに納めると、彼女はペンやインキを友だちねずみのかじりなめるにまかせて、階段をそっとしのび足で下りた。
なるべく音を立てないようにして|帽《ぼう》|子《し》をかぶり、ジャケットを|羽《は》|織《お》ると、|裏《うら》|手《て》の出入り|窓《まど》へ行き、そこから低いポーチの屋根へ出て、草のおおいかぶさった土手の上へとび下りた。それから遠回りをして道路へ出たのである。そこまでくるとジョーはやっと安心した|面《おも》|持《も》ちで、通りがかった乗り合い馬車を|呼《よ》び止めた。そうして何だかひどくうれしそうな意味ありげな話をして、ごとごとと町の方へ|揺《ゆ》られて行った。
だれかこのときのジョーの様子を見ていた人があったなら、彼女の行動は|断《だん》|然《ぜん》おかしなものに思われたにちがいない、まず馬車から下りると、彼女は大またにすたすたと歩いて、ある|繁《はん》|華《か》な通りの、ある番地のところに足をとめた、やっと|目《もく》|的《てき》の場所を|捜《さが》しあてると、彼女は入り口をはいり、きたない階段を見上げた、ちょっとの間、じっとそこにつっ立っていたかと思うと、やにわに表にとび出して、来たときと同じようにすたすたと歩み去ってしまった。この動作を二、三度もくり返したのを見て、おもしろがったのは、向こう側の建物の窓のところをぶらぶらしていた、一人の黒目の|若《わか》い|紳《しん》|士《し》だった。三度目にもどってくると、ジョーはぶるっと身体をふるわせ、|帽《ぼう》|子《し》を|目《ま》|深《ぶか》にかぶり直し、思い切った様子で階段を上がって行った、そのさまはまるでこれから口の中の歯という歯を残らず|抜《ぬ》いてもらいにでも行く人のようであった。
その建物には、いろいろな|看《かん》|板《ばん》にまじって歯科医の看板が一つ|玄《げん》|関《かん》を|飾《かざ》っていた。一組の|人《じん》|造《ぞう》のあごがゆっくり開いたり|閉《し》まったりしながら、美しい入れ歯を見せるような|仕《し》|掛《か》けになっているのをながめたのち、|例《れい》の若い紳士は|外《がい》|套《とう》を着、帽子を持って階下へ下り、向こう側の建物の入り口に立ってほほえみながら、身ぶるいしてひとりごとを言った、――
「ひとりでくるなんてあのひとらしいな、だけど、ひどく|痛《いた》むようだったら、だれか家までいっしょに行ってやらなくちゃ」
十分ばかりたったころ、ジョーは|真《ま》っ|赤《か》な顔をして階段をかけ下りてきた。なにかひどい|責《せめ》|苦《く》にでも会った人のように見えた。若い紳士を見ると、なぜか気にさわったふうで|会釈《えしゃく》をしただけで通り|過《す》ぎた、しかし|彼《かれ》はあとを追って、|同情《どうじょう》に|耐《た》えぬさまで|尋《たず》ねた。――
「ずいぶん苦しかった?」
「そうでもなかったわ」
「早くすんだね」
「そう、助かっちゃった!」
「どうしてひとりでなんか行ったんだい?」
「だれにも知られたくなかったから」
「へんなひとだねえ。何本|抜《ぬ》いてもらったの?」
ジョーは話がわからないというように、友だちの顔を見た。それから何かおかしなことに思いあたったらしく大声で|笑《わら》い出した。
「抜いてもらいたいのは二つなの、でもあと一週間待たなくちゃならないのよ」
「何がおかしいのさ? なにかよからぬことを|企《たく》らんでいるんだね」ローリーはきつねにつままれたような顔をして言った。
「お|互《たが》いさまでしょう、あなたこそあすこのビリヤードで何をしていらっしゃいました?」
「失礼ながら、あそこはビリヤードなんかじゃございません。体育場でございます、|私《わたし》はフェンシングを習っておりました」
「ああよかった!」
「どういうわけ?」
「私教えてもらえるかしら。そして、ほらハムレットを|演《や》るとき、あんたがレアティーズになって、二人で|果《はた》し合いの場をうまくやれるじゃないの」
ローリーはこれをきいて、少年らしく大きな声で笑ったものだから、そばを通った人も二、三人思わずほほえんだのであった。
「教えては上げるよ、ハムレットをやってもやらなくてもね。とてもおもしろいんだ、君の|姿《し》|勢《せい》だってよくなるよ。でも今君が『ああよかった』って、あんなにきっぱりと言ったわけは、それだけじゃないね、どうなの?」
「そうよ、私はあんたがビリヤードにいたんでないっていうのがうれしかったの、だって私、あんな所に行ってもらいたくないんですもの。あんた行くことあるの?」
「たまにね」
「行かないほうがいいわ」
「|別《べつ》にわるいことはないんだよ、ジョー。家にだってビリヤードはあるけどね、じょうずな相手がいなくっちゃおもしろくないものなんだ。|僕《ぼく》|好《す》きだろう、だからときどき行って、ネッド・モファットやなんかと遊ぶことにしてるんだよ」
「まあいやだ、そんなことしてたら、あんただんだんああいうこと好きになって、時間とお金をむだにつかって、おしまいにはああいういやな連中と同じようになっちまうわよ。あんたはいつまでもお上品にしていて、友だちを安心させてくれる人だと思っていたわ」と言って、ジョーは頭を|振《ふ》った。
「じゃ、人間は品位を|貶《おと》さずには、たまにでも、害のない楽しみをすることはできないっていうのかい?」ローリーは少しおこったようにして、きいた。
「それはときと場合によるわ。私はネッドの|仲《なか》|間《ま》がいやなのよ。あの人たちには近よらないようにしていただきたいわ、うちのお母さまはあのひとをうちにこさせたがらないのよ、あっちじゃきたくってしようがないんだけど。だからね、あんたがああいう人たちみたいになったら、お母さまは今みたいに私たちをいっしょに遊ばせてくださらなくなると思うわ」
「そうだろうか?」と、ローリーは心配そうにきいた。
「そうよ。お母さまは|当《とう》|世《せい》|風《ふう》な|若《わか》い男のひととてもおいやなの、そんな連中とおつき合いさせるくらいなら、私たちをみんな|帽《ぼう》|子《し》|箱《ばこ》の中へしまっておくと思うわ」
「よしっ、まだ帽子箱をお出しになる必要はない。僕は当世風な若い男でもないし、なろうとも思わないからね。だけど、ときには|無《む》|邪《じゃ》|気《き》に|大《おお》|騒《さわ》ぎもしたいと思うんだけどな。そう思わない?」
「思うわよ、そんなことだれも何とも思いやしないわ。騒ぎなさいよ、いくらでも。でも|野《や》|蛮《ばん》になるのだけはおよしなさい、いい? でなかったら私たちの楽しい生活はもうおしまいよ」
「|大《だい》|聖《せい》|人《じん》になってお目にかける」
「聖人なんてごめんこうむるわ。ふつうの、正直な、品のいい青年におなりなさい、それならいつまでも遊んで上げる。あんたがもしキングさんとこの|息《むす》|子《こ》みたいなことをしたら、どうしよう、あのひとお金がたくさんあっても使いみちを知らないのよ、|酔《よ》っぱらって、|賭《かけ》をして、家出して、おまけにお父さんの名前をかたったとかっていうんでしょう、こわいことばっかりよ」
「僕もそんなことをしそうだというんだね? どうもありがとう」
「|違《ちが》うわ、そんなつもりじゃ、――あら、ちがうのよ!――ただ私、お金って、とても人を|誘《ゆう》|惑《わく》するものだってきいていたから。私ときどきあなたが|貧《びん》|乏《ぼう》だとよかったと思うのよ、そうすれば心配しないですむんですもの」
「僕のこと心配してくれてるっていうの、ジョー?」
「ちょっとね、あなたがむっつりして不満そうな顔しているときなんか。ときどきそんな顔するのよ、あなたってとても|強情《ごうじょう》だから、もしも悪いほうへ向かったら、だれもとめられなくなるんじゃないかと思うからなの」
ローリーはしばらく口をきかずに歩いていた、ジョーはあんなこと言わなければよかったと思いながら、彼を見ていた、くちびるのあたりはほほえんでいるけれども、その目はどうやら今の忠告に対して|怒《おこ》っているように見える。
「家へ着くまでお説教きかせるつもり?」やがて|彼《かれ》はきいた。
「もちろんそうじゃないわ、なぜ?」
「もしそうなら馬車に乗ろうと思ってさ。そうじゃないんなら、いっしょに歩いて、とてもおもしろいこと話して上げるよ」
「もうお説教はやめるわ、そのニュース早くききたいわね」
「よし、じゃ、歩こう。これ|秘《ひ》|密《みつ》なんだよ、僕が話したら君のもきかしてくれなくっちゃ」
「私なんにも」と言いかけてジョーは、自分にも|秘《ひ》|密《みつ》があったのを思いだし、ふと言葉を切った。
「ほらあるくせに。君は何も人に|隠《かく》しておけない人なんだよ、さっさと|白状《はくじょう》したまえ。言わなきゃ僕も教えて上げないから」とローリーは|叫《さけ》んだ。
「あんたの秘密って、すばらしいの?」
「ああ、すばらしいどころか! みんな君の知ってる人のことなんだ、とてもおもしろいんだぜ! 君はきいておく必要があるんだ。僕もうずっと前からだれかに話したくってうずうずしてたんだ。さ、君から」
「家へ帰ってもだれにも言わないでね、いい?」
「ああだれにも」
「だれもいないとき私をひやかさない?」
「ひやかしたことなんかないじゃないか」
「いいえ、ありますとも。あなたはなんでもひとに話させちまうのね。どういうわけだか知らないけど、あなたって生まれつき口がお上手なんだもの」
「ありがとう、さ、早く、早く」
「あのね、私、お|噺《はなし》を二つ、新聞社の人に置いてきたのよ。来週返事をするっていうの」ジョーはそっと打ち明け話を|信《しん》|頼《らい》する友の耳にささやいた。
「|著《ちょ》|名《めい》なるアメリカの女流作家、マーチ|嬢《じょう》、|万《ばん》|歳《ざい》!」とローリーは|叫《さけ》ぶなり、空に投げ上げた|帽《ぼう》|子《し》を手に受けとめて、二|羽《わ》の|家鴨《あひる》と四|匹《ひき》の|猫《ねこ》と五羽のめん|鶏《どり》と六人のアイルランド人の子供をやんやと言わせた。ふたりはもう町はずれにきていた。
「しっ! だめでしょう、きっと。でも私やってみなくちゃ気がすまなかったの、まだなんにも言ってないのよ、ほかのひとまでがっかりさせるといやだから」
「だめなことあるもんか! だってね、ジョー、毎日本になって出てるのだって、半分はくだらないものなんだから。それに比べたら、君のなんてシェークスピアの作品とおんなじだよ。活字で読んだらさぞおもしろいだろうねえ? それにわれらの女流作家なんて考えると、とても|誇《ほこ》りに思えるじゃないか?」
ジョーの目はきらきらと|輝《かがや》いた。人から信じてもらえるということはどんな場合でもうれしいことだし、それに、友だちの|称賛《しょうさん》は一ダースほどの新聞の|提灯《ちょうちん》もちよりも|快《こころよ》くひびくものだからである。
「それであなたの|秘《ひ》|密《みつ》は? 公平にしなくちゃだめよ、テディ、でなかったら私もう二度とあなたを信用しないから」今の|激《げき》|励《れい》の一言であかあかと|燃《も》え上がった希望の|炎《ほのお》を|押《お》ししずめようと努めながら、ジョーは言った。
「言ってしまったら|困《こま》ったことになるかもしれないんだけど。でも言わないって|約《やく》|束《そく》したわけでもないから言うよ。僕は自分が|珍《めずら》しいニュースを知ってると、どんな小さいことだって君に言わないうちは落ち着けないんだもの。僕ね、メグの|手袋《てぶくろ》のあるとこ知ってるんだよ」
「それだけ?」と言ってジョーは失望したような顔をした。ローリーはだれも知らないことを自分だけが知っているのだといわぬばかりの顔をして、ひとりうなずいたり、目をぱちくりさせたりしていた。
「今のところはそれだけでたくさんなんだ、どこにあるか僕からきけば、なるほどと思うよ」
「じゃ教えて」
ローリーは身をかがめてジョーの耳元に三つの言葉をささやいた。するとおかしな変化が起こった。彼女はちょっと足をとめて、びっくりしたような、|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》なような顔をして彼をにらんだかと思うと、また歩き出し、きめつけるように言った、――
「どうして知ってるの?」
「見たんだ」
「どこで?」
「ポケット」
「このごろずっと?」
「そうさ、ロマンティックだろう?」
「ちっとも。いやらしいわ」
「そんなこときらいなの?」
「もちろんよ、くだらない、そんなことって|認《みと》められないわ。ああいやだ! メグはなんて言うかしら?」
「だれにも言っちゃいけないよ、きっとだよ」
「そんな|約《やく》|束《そく》しなかったわ」
「わかってるはずじゃないか、君を信用したのに」
「いいわ、とにかく今のところはだまってるわ。だけど、私|胸《むね》がわるくなっちゃった、きかなきゃよかったわ」
「喜ぶかと思ったのに」
「よその人がきてメグをさらっていくなんてことをですか? おあいにくさま」
「どっかの人がきて、君をさらって行くときがきたら、そんなにおこらないだろうと思うな」
「そんな人があったらお目にかかりたいわ」ジョーはあらあらしく|叫《さけ》んだ。
「僕もね!」と言って、ローリーはその考えがおかしくてくすっと|笑《わら》った。
「|秘《ひ》|密《みつ》なんて、私の|性《しょう》に合わないような気がするわ。あの話きいてからむしゃくしゃしてしようがないのよ」ジョーは|迷《めい》|惑《わく》そうに言った。
「この坂を|駆《か》けっこして下りよう、そうしたらなおるよ」ローリーが|提《てい》|案《あん》した。
|見《み》|渡《わた》す|限《かぎ》り|人《ひと》|影《かげ》はなかった、なめらかな坂道が|誘《いざな》い顔にだらだらと下へつづいている。この|誘《ゆう》|惑《わく》には打ち勝てないと観念して、ジョーは|帽《ぼう》|子《し》も|櫛《くし》もうしろへとばし、ヘアピンをまき散らしながら、一散に前へ|駆《か》け出した。ローリーは真っ先にゴールにはいり、自分の|処《しょ》|置《ち》が成功したことを喜んだ、というのは彼のアタランタ(ギリシア・ローマ神話の中の美しい娘。多くの求婚者に自分と競走して勝った者の妻になろうと言った)は|髪《かみ》ふり|乱《みだ》してあえぎあえぎ走ってきたが、その目はいきいきと輝き、頬は赤く、その顔にはどこをさがしても不満のかげなどなかったからである。
「私、馬だとよかったわ。そしたらこのすばらしい空気の中を何マイルだって、息なんか切らさずに走れるんだのに。ああいい気持ちだった、だけどみてごらんなさい、私の|格《かっ》|好《こう》。はやく行って私の落としたもの拾ってきて、ね、いい子だから」と言いながらジョーは道ばたの|楓《かえで》の木の下へぐったりと身を投げ出した、その美しい|紅《あか》い葉は一|枚《まい》の|絨毯《じゅうたん》のように土手を|埋《う》めつくしていた。
ローリーは|悠《ゆう》|然《ぜん》と落とした品物を拾いに出かけ、ジョーは|髪《かみ》の毛を|束《たば》ね上げながら、きちんと身じまいを直すまでだれも通らないでくれればいいと念じていた。にもかかわらず通りがかった者がある、しかもそれは人もあろうにメグだった。彼女は|訪《ほう》|問《もん》の帰りがけとて、|盛《せい》|装《そう》を|凝《こ》らし、とくべつ|貴《き》|婦《ふ》|人《じん》らしい様子をしていた。
「こんなところで何をしているの?」彼女は、とり|乱《みだ》した様子の妹をながめながら、|驚《おどろ》きの中にもさすがにたしなみをみせて静かに|尋《たず》ねた。
「もみじを拾ってるの」ジョーは|折《おり》よくかきあつめたばかりの、|一《ひと》|握《にぎ》りのうす|紅《くれない》の葉をより分けながら、おとなしやかに答えた。
「それからヘアピンも」五、六本のピンをジョーの|膝《ひざ》の上に投げてやりながら、ローリーがあとをつけた。「メグさん、ここの道にはピンが生えてるんですよ、|櫛《くし》も、それから茶色の|麦《むぎ》|藁《わら》|帽《ぼう》|子《し》もですよ」
「|駆《か》けてたんでしょう、ジョー。どうしてあんたはそんなことができるんでしょうね? いつになったらそんなおてんばやめるつもり?」メグはこういましめるように言いながら、妹のカフスをはめてやったり、風になぶられた髪の毛をなでつけてやったりした。
「こちこちのおばあちゃんになって、|松《まつ》|葉《ば》|杖《づえ》でも使うようになるまでやめないつもりよ。まだそんな年でもないのにおとなにしようなんて思わないでちょうだい、メグ。あんたが急に変わったのだけでも、私は相当つらいのよ。私だけでもいつまでも子供にしておいていただきたいわ」
そう言いながらジョーは顔をうつむけてもみじの葉を選び、くちびるのふるえるのを|隠《かく》そうとした、彼女はこのごろメグが急におとなびていくように思われていたところへ、ローリーの|秘《ひ》|密《みつ》をきかされて、いつかはくるにちがいない姉とのお|別《わか》れが、今は身近に|迫《せま》っているように思われてせつなかったのである。ローリーは彼女の顔の|浮《う》かぬ気持ちをくんで、メグがそれに気づかぬようにと、急いで問いかけた、――
「そんなにおめかしして、どこへ行ってきたんです!」
「ガーディナーさんのお宅、サリーがベル・モファットのご|婚《こん》|礼《れい》のことをいろいろ話してくれたわ。それはすばらしかったんですって、この冬はパリで|過《す》ごすことにして、もうたってらしたそうよ、楽しいでしょうねえ!」
「うらやましいの、メグ?」ローリーが言った。
「そうらしいわ」
「よかった!」ジョーは|帽《ぼう》|子《し》をぐいと引っぱって結びながらつぶやいた。
「どうして?」メグは|驚《おどろ》いた顔をしてきいた。
「だって、姉さんがお金持ちのひとをうらやましがるようなら、|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》の所へなんかお|嫁《よめ》にいかないだろうと思うからよ」とジョーは言った。そしてローリーが言葉に気をつけるようにと、|無《む》|言《ごん》のままで|警《けい》|告《こく》を発しているのへ、しかめっ面をしてみせた。
「私どこへもお嫁になんかいかないわ」と言ってメグはつんと|肩《かた》をそびやかして歩き出した、ふたりはあとから|笑《わら》ったりしゃっべったり小石をけとばしたりしながら、ついてきたが、メグはそれを「まるで子供のようだ」と思いながらも、自分も|盛《せい》|装《そう》しているのでなかったら、いっしょになってそんなふうにして歩きたかったのである。
それからの一、二週間というもの、ジョーのすることなすことはふつうでなく、姉妹たちをほとほと|途《と》|方《ほう》に|暮《く》れさせた。|郵《ゆう》|便《びん》|屋《や》のベルが鳴ると|玄《げん》|関《かん》へ飛び出していき、ブルックさんに会えば必ず失礼な|態《たい》|度《ど》に出る、すわったままじっと悲しそうな顔をしてメグを見ているかと思うと、急にとび上がってゆすぶり、キッスをしたりする、そのさまはまことに|奇妙《きみょう》なものであった。また、ローリーとジョーとはよく暗号で合図をし合っては|「張翼鷲《スプレッド・イーグル》」(Spread Eagles 新聞名)の話をしている、みんなはとうとうふたりとも少しおかしくなったのだときめてしまった。ジョーが|窓《まど》からぬけ出してから二度目の土曜日、メグは自分の部屋の窓のそばでお|裁《さい》|縫《ほう》をしていたが、ふとある光景を見て思わず|眉《まゆ》をひそめた、それはローリーがジョーを庭じゅう追っかけ回し、とうとうエーミーのあずまやで彼女を|捕《つか》まえた、という光景である。そこで何事が起こっているのか、彼女には見えなかったが、きゃっきゃっと|笑《わら》う声がしたかと思うと、つづいてぼそぼそと話し合う声と、ばさばさと新聞紙をひろげる音などがきこえてきた。
「あのひといったいどうしたらいいの? いつまでたったってお|嬢《じょう》さんらしくなれないのね」とメグはなんとしても|賛《さん》|成《せい》できぬという面持ちで、庭の追っかけっこをながめながらためいきをついた。
「そのほうがいいと思うわ、ジョーさんはあのままでとてもおもしろくっていいひとなんですもの」とベスは言った。彼女はジョーが自分以外のひととなにか|秘《ひ》|密《みつ》があるらしいことに、ちょっとは気を悪くしながらも、そんなそぶりを見せなかった。
「ほんとにいやねえ、でもどんなことしたってジョーさんはちゃんとしたお嬢さん(|Comme la fo《コム ラ フォ》 正しくは |Comme il faut《コム イル フォ》 にはなれないのよ」とエーミーも|尻《しり》|馬《うま》にのった。彼女はさっきからそこにすわって、自分の着物に新しい|飾襞《フリル》をこしらえていた、そしてよく|似《に》|合《あ》うような|格《かっ》|好《こう》に|巻《まき》|毛《げ》を結んでいたが、それとこの|飾襞《フリル》とは二つともたいそうお気に|召《め》して、ひどく上品な、|貴《き》|婦《ふ》|人《じん》らしい気分になっていたところだった。
しばらくすると、ジョーがいせいよく飛び|込《こ》んできて、どっかりとソファに|腰《こし》を下ろし、新聞を読むふりをした。
「何かおもしろいことでも出ていますか?」とメグがばかていねいにきいた。
「まあ小説だけね、それもたいしたもんじゃなさそうだけど」とジョーは新聞の名前が見えないように注意深くおさえながら、答えた。
「声出して読んでちょうだいな、そうすれば私たちもおもしろいし、あなたもおいたしなくってすむから」とエーミーがませた|口調《くちょう》で言った。
「題はなんていうの?」ベスはジョーがどうして新聞のかげに顔を|隠《かく》すのだろうと思いながらきいた。
「『画家の|競《せ》り合い』」
「おもしろそうだこと、読んでちょうだい」とメグが言った。
「えへん!」と大きくせきばらいをし、それから一つ|深呼吸《しんこきゅう》をすると、ジョーはひどく早口に読み出した。姉妹は熱心にきき入った、お|噺《はなし》はなかなかロマンティックなうえに、おしまいには登場人物が大半死んでしまうという、あわれなところもあるものだったからである。
「私あのりっぱな絵のところがおもしろかったわ」ジョーが一休みすると、エーミーはこう満足そうに|批評《ひひょう》をくだした。
「私はあの|恋《こい》|人《びと》のところが好きよ。ヴィオラとアンジェロって二つとも私たちのよく使う名前ね、おかしいわね」とメグは目をふきながら言った。「恋人のところ」はたいそう|悲《ひ》|劇《げき》|的《てき》だったのである。
「作者はだれ?」ベスはちらとジョーの顔が見えたとき、こうきいた。
読み手は急にからだを起こし、新聞を投げ出して上気した顔を|現《あらわ》した。そして|厳粛《げんしゅく》な中にも|興《こう》|奮《ふん》したような、|妙《みょう》な|表情《ひょうじょう》を|浮《う》かべて|声《こわ》|高《だか》に答えた、「あんたたちの|姉妹《きょうだい》!」
「あんた?」とメグは|叫《さけ》び、手に持っていた仕事をとり落とした。
「とてもよくできてるわ」とエーミーは|批評的《ひひょうてき》に言った。
「私知ってたわ! 知ってたわ! まあ、ジョーさん、私うれしいわ!」とベスは言って姉を|抱《だ》きしめ、このすばらしい成功をこおどりして喜んだ。
ほんとうに、彼らはみなどんなに喜んだことだったろう! メグは「ジョズィフィーン・マーチ|嬢《じょう》」という字が新聞に|正《まさ》しく印刷されているのを見るまでは、信じられなかったし、エーミーはお|噺《はなし》の中の絵に関する部分を親切にもいろいろと批評してくれて、|続《ぞく》|編《へん》に対するヒントも|与《あた》えてくれたが、これは主人公も女主人公も死んでしまったので、せっかくながら、実行するわけにはいかなかった。ベスはすっかり興奮してしまって、喜びのあまりとびはねたり歌ったりするし、ハンナも部屋にはいってきて「ジョー|嬢《じょう》さまのなさり口」をきいて|肝《きも》をつぶし「これはまあ、なんちゅうことで!」と大声で|叫《さけ》ぶばかりであった。マーチ夫人もあとでこれをきいて、どんなに|肩《かた》|身《み》広く思ったかしれなかったし、ジョーは目に|涙《なみだ》を浮かべて|笑《わら》いながら、いっそもう|孔雀《くじゃく》(孔雀はうぬぼれ、虚栄の象徴)になりすまし、いっぺんに|威《い》|張《ば》ってしまおうかしらなどと言った。その新聞が、|皆《みな》の手から手へと回されたとき、この「|自慢話《スプレッド・イーグル》」はマーチ家の上に|誇《ほこ》らかにその|翼《つばさ》を|羽《は》ばたいたといってもいいのであった。
「すっかり話して」「それいつきたの?」「いくらいただけるんでしょう?」「お父さま、なんとおっしゃるかしら?」「ローリー、|笑《わら》わないでしょうね!」などと口々に言いながら、家中の者がジョーのまわりに集まった。このお|人《ひと》|好《よ》しの、|愛情《あいじょう》深い一族は、一家の喜びごとであればどんなささいなことでも、|大《おお》|騒《さわ》ぎをしてお|祝《いわ》いするのが|常《つね》だったのである。
「わあわあ言うのはよしてちょうだいよ、みんな。今すっかり話して上げるから」とジョーは言った、そして心の中で、バーニー|女《じょ》|史《し》(フランシス・バーニー 一七五二―一八四〇 イギリスの女流作家 「エヴリーナ」は二十七歳の時の作品)といえどもその「エヴリーナ」に対して、自分が今、「画家の|競《せ》り合い」に対していだいているようなうれしさを感じたかどうかはわからない、と思っていた。自分のお|噺《はなし》をどんなふうにして|置《お》いてきたかを話してきかせてから、ジョーはつけ加えた、――返事をききに行ったときにね、新聞社の人は私のお噺は二つともよかったって言ってくれたの、でもね、初めての人には|原稿料《げんこうりょう》は|払《はら》わないで、ただ新聞に|載《の》せて|紹介《しょうかい》してくれるだけなんですって。いいおけいこになるって言ってたわ。そのうちだんだんじょうずになれば、どこでも|原稿料《げんこうりょう》を出すようになるからって。それで私二つともその人にあずけてきたのよ。そしたら今日これを送ってきたの、それを持っているところをローリーにつかまっちゃって、見せろっていってきかないの、それで見せたのよ。あのひともいいって言ってくれたわ、そしてもっと書くようにっていうのよ、そしたらこの次には原稿料を出させて上げるって、ああ! 私うれしいわ、だんだんひとり立ちになってみんなのこともいろいろして上げられるようになるかもしれないんですもの」
ジョーは一息にここまで言った。それからその新聞で顔をおおって、ひとりでにあふれおちた|数《すう》|滴《てき》の|涙《なみだ》で自分のお|噺《はなし》をしっとりとぬらしたのである。ひとり立ちになって、愛するひとたちからの|称賛《しょうさん》を|得《え》る、ということは彼女が何にもまして念願とするところだったし、今日の|出《で》|来《き》|事《ごと》はそのしあわせな|目《もく》|的《てき》に向かう第一歩であるように思われたのだった。
第十五章 |電《でん》|報《ぽう》
「十一月って、一年中でいちばんいやな月ねえ」あるどんよりとした午後、マーガレットは|窓《まど》べに立って、|霜《しも》|枯《が》れのした庭をながめながら、こう言った。
「だから|私《わたし》は十一月に生まれたんだわ」ジョーは鼻の先にインキのついているのも知らずに、しみじみと|述懐《じゅっかい》した。
「今なにかとても楽しいことが起こったら、十一月だっていい月だと思うわね」ベスは言った、彼女は何事によらず、十一月という月についてさえも、明るい見方をするのである。
「そうかもしれないわね、だけどこの家じゃあ、なにも楽しいことなんか起こりっこないわよ」少しくごきげんななめなメグは言った。「私たちったら毎日毎日、あくせく働くばっかりで、なんの変化も、おもしろいこともありゃしないじゃないの、これじゃ|懲役《ちょうえき》に行っているのと同じことだわ」
「あああ、|憂《ゆう》|鬱《うつ》ねえ!」とジョーは|叫《さけ》んだ。「むりもないわ、かわいそうに。だって他のお友だちはおもしろおかしく|暮《く》らしているのに、姉さんは年がら年じゅう、こつこつ働いてるんだもの。ああ、私、私のお|噺《はなし》の中の女主人公のように、あんたのこともうまくやって上げられたらね! 姉さんはもう十分美しくって|善良《ぜんりょう》なひとなんだから、ひょっくり|財《ざい》|産《さん》を残してくれるようなお金持ちの親類でもあるといいんだけどな。そしたら姉さんは、|遺《い》|産《さん》相続人として堂堂と社交界に出ていって、前にあんたをばかにした人なんか見返してやって、それから外国にも行って|輝《かがや》くばかりりっぱな、上品な|某《なにがし》の|奥《おく》|方《がた》となって帰っていらっしゃいよ」
「今どきそんなふうに財産を残してもらう人なんてあるもんですか、お金持ちになりたかったら男は働かなくちゃならないし、女は|結《けっ》|婚《こん》するしかないのよ。世の中なんて不公平なもんよ」とメグは毒々しげに言った。
「ジョーさんと私であなたたちにお金つくって上げるわ、十年だけ待ってちょうだい、きっとつくって見せるわ」とエーミーはすみの方にすわって、ハンナのいわゆる「|泥饅頭《どろまんじゅう》」なる小鳥や|果《くだ》|物《もの》や人の顔などの|粘《ねん》|土《ど》の|模《も》|型《けい》をこしらえながら、こう言った。
「待ち切れないわ。それに、お|志《こころざし》はありがたいけど、あんたたちのインキや泥にもあんまり|頼《たよ》れないような気がするのよ」
メグはそう言って、ふたたび|霜《しも》|枯《が》れの庭に目をやりながら、ためいきをついた。ジョーはううんとうなりながら意気あがらざる様子でテーブルの上に|両肘《りょうひじ》をついたが、エーミーはせっせと泥饅頭をなでていた。|窓《まど》のところにすわっていたベスだけはにこにこしながら、こう言った、――
「もうじき楽しいことが二つ起きるわよ、お母さまが町の方から帰っていらっしゃるし、それからローリーが何かいいことがありそうな顔をして、お庭を|駆《か》けてくるわ」
なるほどふたりとも家へはいってきた、マーチ夫人はいつものとおり、「お父さまからお便りありましたか?」と問い、ローリーは|例《れい》の|誘《さそ》いのじょうずな調子で「だれかドライヴに行かないかな? |僕《ぼく》あんまり|夢中《むちゅう》で数学やってたもんで、頭がぼんやりしてきちゃった、一つ景気よく一回りして気を変えようと思うんだけど。お天気はわるいけど、空気はいいようだし、それにブルックさんを送っていくから、外はつまらなくても、中はおもしろいよ。おいでよ、ジョー、あんたも行くだろう、いやかい?」
「もちろん行くわ」
「ありがとう、でも私は|忙《いそが》しいの」と言ってメグは、急いで仕事かごをもち出した。|彼《かの》|女《じょ》は、少なくとも自分だけは、あまりたびたび|若《わか》い男の人とドライヴなんかしないほうがいいというお母さまの意見に|賛《さん》|成《せい》だったのだ。
「じゃ三人ですぐ|支《し》|度《たく》しますからね」と|叫《さけ》んでエーミーは手を|洗《あら》いに走っていった。
「なにかご用はありませんか、お母さま?」ローリーはマーチ夫人の|椅《い》|子《す》に|寄《よ》りそっていつものようにやさしい調子で|尋《たず》ねた。
「べつに。じゃあね、|郵《ゆう》|便《びん》|屋《や》へ|寄《よ》ってみていただきましょうか、今日は手紙がくる日なんですけど、まだ郵便屋さんがみえないようですから。お父さまはお日さまみたいにきちんとした方なんですけど、なにか|途中《とちゅう》で|故障《こしょう》があっておそくなっているのかもしれませんねえ」
夫人の言葉をさえぎってけたたましくベルが鳴ったかと思うと、ハンナが一通の手紙を持ってはいってきた。
「あのおっそろしい|電《でん》|報《ぽう》とかいうものがまいりましたよ、おくさま」彼女はそう言いながら、今にもそれが|爆《ばく》|発《はつ》して、そこらを|破《は》|壊《かい》しでもするかのように、びくびくもので差し出した。
「電報」という言葉に、マーチ夫人はそれを引ったくるように受けとって、中に記された二行の文字を読みとると、あたかもその小さな|紙《し》|片《へん》が彼女の|胸《むね》に|弾《だん》|丸《がん》でも打ち|込《こ》んだかのように|蒼《そう》|白《はく》になり、元の|椅《い》|子《す》にくずおれるようにすわった。ローリーは水をとりに|駆《か》け下り、メグとハンナが夫人を|抱《だ》きかかえるひまに、ジョーはそれを|狼《ろう》|狽《ばい》した声で読み上げた、――
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ミセス・マーチ、
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フクンヤマイオモシ」スグコラレヨ
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[#地から2字上げ]S・ヘール
みんなは息を殺してそれをきき、部屋の中はひっそりと静まり返った、外はいつのまにかとっぷりと日が|暮《く》れている、子供たちは|突《とつ》|然《ぜん》変わった世界へつきおとされたような気がしながら、母のまわりに集まったが、そのときには自分たちの生活の幸福もささえもみなすっかりもぎとられてしまったような気持ちがしたのである。マーチ夫人はやがてわれに返って、もう一度|電《でん》|報《ぼう》を読み直したのち、|娘《むすめ》たちへ|腕《うで》をのばしながら、みんなが一生|忘《わす》れることのできないような声で言った、――
「お母さまはすぐ行きますからね、でももう間に合わないかもしれない、ああ、あなたたち、お母さまをしっかりと助けてちょうだいね?」
しばらくのあいだ、室の中にきこえるものは|皆《みな》のすすり|泣《な》きの音だけだった、それにまじってとぎれとぎれに|慰《なぐさ》めの言葉や、やさしい助力の申し出や希望をささやく声などもきかれはしたが、それとてもともすれば涙とともに消え勝ちなのであった。最初に気をとり直したのはハンナで、自分では少しも気づかずに|賢《けん》|明《めい》にも一同の手本になった、というのは、彼女にとっては手を動かすことこそ、たいていの苦しみをいやす|万《ばん》|能《のう》|薬《やく》だったからである。
「神さまどうぞ|旦《だん》|那《な》さまをお守り下さいまし! |婆《ばば》はこうして|泣《な》いてはおられません、|一《いっ》|刻《こく》も早くお|支《し》|度《たく》をいたしませんことには、|奥《おく》さま」と彼女は|真心《まごころ》こめてそういうと、|涙《なみだ》にぬれた顔をエプロンでふきふき、|荒《あら》くれた手で奥さんに心からなる|握《あく》|手《しゅ》をし、三人分の仕事をひとりで引き受けたような顔をして|出発《しゅっぱつ》の支度にと引き下がった。
「ばあやの言うとおりです、ぐずぐずしてはいられません。さ、みんな静かにして、お母さまに少し考えさせて下さい」
かわいそうな|娘《むすめ》たち、彼女たちは母があおざめた中にもきっとした|面《おも》|持《も》ちですわり直し、悲しみを|押《お》しのけて、自分たちのことをあれこれ考えててくださる|姿《すがた》を見て、ほんとうに静かにしなくてはならないと思った。
「ローリーはどこ?」やがてマーチ夫人はきいた、やっと考えがまとまり、まず第一番にしなくてはならないことが決まったのである。
「ここにいます、どうぞ|僕《ぼく》にも何かご用を言いつけてください」と|叫《さけ》びながらローリーは|隣《となり》の室からとび出してきた。この家の人たちが初めて悲しみに|沈《しず》んでいるさまは、たとえ自分ほどの親しい者でも見ていてはならないほど|神《しん》|聖《せい》なものだという気がして、今までそこに|退《しりぞ》いていたのであった。
「すぐ行くという|電《でん》|報《ぽう》を打ってきてください。この次の|汽《き》|車《しゃ》は明日の朝早く出るのですね、それで行くことにしますから」
「ほかには? 馬の用意はできています、私どこへでも行けます、――なんでもいたします」|彼《かれ》は地の|果《は》てまでも飛んで行きそうな勢いで、こう言った。
「マーチ|伯《お》|母《ば》さんのところへ手紙をおいてきてください。ジョー、そのペンと紙をとって」
ジョーは清書したばかりの紙から白いところを引きさいて、母の前にテーブルを引き|寄《よ》せた。これから長い悲しい旅行をするためには、どうしてもお金を借りなくてはならないのだということを十分|承知《しょうち》していたし、また自分でもなにかしら、父のために役だてるお金に少しなりと足し前をして上げることができそうな気もしたのであった。
「じゃ、お願いします。でもやたらに走って|怪《け》|我《が》なんかしないでくださいよ、そんなに急ぐ必要はないんですからね」
マーチ夫人のせっかくの注意もなんのその、五分後にはローリーは自分の|駿馬《しゅんめ》に打ちまたがり、必死の勢いで|窓《まど》のそばを|駆《か》け去ったのである。
「ジョーは|事《じ》|務《む》|所《しょ》に一走りして、キングさんの|奥《おく》さんに、私が行けないということをお伝えしてください。|途中《とちゅう》でちょっと買い物をしてね、今書きますから。|看病《かんびょう》の用意をして行かなくっちゃならないから、こんな物はみないるだろうと思うのよ。病院の品物はいいとは|限《かぎ》らないのでね。ベスはローレンスさんのところへ行って、古い|葡《ぶ》|萄《どう》|酒《しゅ》を二本ばかりいただいてきてください。お父さまのためですから、お願いしても|恥《は》ずかしくはないと思うのよ、お父さまにはなんでも上等のものを差し上げなくっちゃなりません。エーミー、ハンナにそう言って黒い|鞄《かばん》をおろさせてください。メグは私といっしょに来て、さがし物を手つだってちょうだい、お母さまは何だか目が回りそうよ」
一どきに書いたり考えたり指図したりしては、気の毒に夫人だって全く目が回るにちがいない。そこでメグはしばらくじっとしてお部屋にすわっていていただくように|頼《たの》み、代わりにみんなが働くことにした。そうして一同は、はやてに散る木の葉のようにちりぢりに四方へ飛び去ったのである。さっきまでの静かな楽しい一家族は、あの|紙《し》|片《へん》が|悪《あく》|魔《ま》の|呪《のろ》いででもあったかのように、|突《とつ》|如《じょ》として打ちこわされてしまった。
ローレンスさんはベスといっしょにあたふたとやってきた。病人のためにこの親切な老人が思いつくほどの|慰《い》|問《もん》の品々をかかえ、夫人の|留《る》|守《す》のあいだ、|娘《むすめ》たちはしっかと引き受けたと|好《こう》|意《い》にあふれた|約《やく》|束《そく》をして、母親を安心させた。ローレンス氏が|提供《ていきょう》してくれぬなどというものはなく、まず病人のために自分の部屋着を|貸《か》すというのから始まって、おしまいには氏自身、夫人を送って行くとまで言い出した、しかしこの最後の申し出だけは受けいれるわけにはいかなかった。このお|年《とし》|寄《よ》りに長旅をさせることをマーチ夫人は決して承知しなかった、とはいうものの、それをきいたときには思わずほっとした色が|浮《う》かんだのも争われなかった、旅行に心配は|禁《きん》|物《もつ》である。氏はその色を見てとった、そして|濃《こ》い|眉《まゆ》を深くよせて、しきりと手をもんでいたかと思うと、またすぐくるからと言ってあわただしく室から出て行った。そのあとだれも氏のことを思いだすひまもなく|過《す》ごすうち、メグが|片《かた》|手《て》に一足のゴム|靴《ぐつ》を、片手にティー・カップを持って|玄《げん》|関《かん》を通り|抜《ぬ》けようとしたとき、そこでばったりとブルックさんに出会った。
「このたびはほんとうにお気の毒でございます、マーチさん」と彼は言った、そのやさしく、静かな声はメグの|乱《みだ》れた|胸《むね》にはなはだ|快《こころよ》く|響《ひび》いたのであった。「私はお母上をお送りさせていただこうと思ってまいったんです。ローレンスさんから、ワシントンに行く用をお|頼《たの》まれしましたので、あそこまでお母上のお役にたてばうれしいとぞんじます」
メグは思わずゴム|靴《ぐつ》をとり落とし、|危《あや》うくお茶まで落としそうになりながら、|感《かん》|謝《しゃ》にあふれた顔をして手を差しだしたので、ブルックさんは、もっともっと大きな|犠《ぎ》|牲《せい》を|払《はら》わせられたって|悔《く》いるところはないと思ったにちがいない、これから少しばかりの時間と楽しみをむだにするくらいはほんとうになんでもないというものだ。
「みなさんなんてご親切なんでしょう! お母さまきっとお受けになると思いますわ、それにお母さまについてってくださる方があるとわかれば、私たちだってどんなに安心だかわかりませんもの、ほんとにほんとにありがとうございます!」
メグはわれを|忘《わす》れて熱心にお礼を|述《の》べていたが、ふと、自分を見下ろしている茶色の目をみると、お茶のさめることに気がつき、お母さまを|呼《よ》んできますと言いながら、客間に案内した。
マーチ|伯《お》|母《ば》さんから、希望の|額《がく》を|同《どう》|封《ふう》した手紙をもらって、ローリーがもどってきたころには、|出発《しゅっぱつ》の|準備《じゅんび》はすっかりととのっていた。なおその手紙には、前にもたびたび言われたことが五、六行くり返してあり、マーチが軍隊に行くなんてばかげたことだ、――ろくなことにはならないとあれほど言っておいたはずだ、この次からは自分の言うことをよくきくようにと書いてあった。マーチ夫人は手紙を火にくべ、お金は|財《さい》|布《ふ》におさめてから、くちびるをきっとかみしめて、|支《し》|度《たく》をつづけていった、ジョーがい合わせたらその気持ちはよくわかっただろうと思われる。
短い午後の日はいつか|暮《く》れていった。他の用事はすっかりすんで、メグと母とは何か必要な|針《はり》|仕《し》|事《ごと》に|忙《いそが》しく、ベスとエーミーがお茶の支度をし、ハンナも口ぐせの「それ大急ぎ大急ぎ」と言いながら、アイロンがけを終わった、がジョーは帰ってこなかった。みんなは心配になりだした。ローリーが|捜《さが》しに出ていった。ジョーのことだからどんな思いつきをやりだすかわかったものではない、しかし彼は行き合わなかった。そこへジョーがはいってきたが、その顔にはまことに|奇妙《きみょう》な|表情《ひょうじょう》が|浮《う》かんでいた。|茶《ちゃ》|目《めっ》|気《け》と心配、満足と|後《こう》|悔《かい》、そんなものが入り交じっていたのである、みんなはほとほと|判《はん》|断《だん》に苦しんだが、ジョーがちょっと声をつまらせて「これ私からお父さまへのお|見《み》|舞《ま》いと、家へおつれする足しにしていただきたいの!」と言いながら、母の前に|札《さつ》|束《たば》をおいたときには、まさに二度びっくりしたのであった。
「まあおまえ、どこから出したの? 二十五ドルも! まさか|無《む》|茶《ちゃ》なことをしたんじゃないでしょうね!」
「いいえ、これは正当な私のお金です、もらったのでも借りたのでも|盗《ぬす》んだのでもありません。私がもうけたんです、お|叱《しか》りにならないと思うけど、私ただ自分のものを売ったんです」
と言いながら、ジョーは|帽《ぼう》|子《し》をとった。みんなは一どきに|驚《おどろ》きの|叫《さけ》び声を上げた、それもそのはず、ジョーの|豊《ゆた》かな|髪《かみ》の毛はすっぱりと短く切られていたのである。
「あんたの髪! あの美しい髪!」
「まあ、ジョーさん、どうしてそんなことしたの? 姉さんの美しいものを」
「ジョーや、それほどのことをする必要はなかったのよ」
「いつものジョーらしくなくなっちゃった、でも僕こんどのジョーのほうがずっといいや」
みんなが口々にこんなふうに叫び、ショートカットの頭をやさしく|抱《だ》いたとき、ジョーは平気を|装《よそお》って、――だれもだまされはしなかったが、――|栗《くり》|色《いろ》の短い毛をくしゃくしゃとかき上げながら、さもそのほうが気に入ってるという様子で言った、
「なにもこれが国の運命を左右するわけじゃあるまいし、|泣《な》くのはおよしなさいよ、ベス。私の|虚《きょ》|栄《えい》|心《しん》のためにはちょうどいいのよ。私このごろあの髪を少し|自《じ》|慢《まん》しすぎていたんだもの。それにあのもじゃもじゃがなくなったら|頭脳《あたま》のためにもいいと思うの、とても軽くってひんやりして気持ちがいいのよ。もうじき短いカールにすると男の子みたいでよく|似《に》|合《あ》うし、手入れも|簡《かん》|単《たん》でいいって|床《とこ》|屋《や》さんが言ってたわ。私これで満足してるんです。ですからどうぞこのお金おとりになってちょうだい、そしてもうご飯にしましょうよ」
「すっかり話してごらんなさい、ジョー。お母さまのほうはまだ満足とばかりはいえないのですがねえ、といって|叱《しか》るわけではないのよ。あなたが、あなたのいう虚栄心を喜んで|犠《ぎ》|牲《せい》にしてお父さまのお役にたてたかったのだということがよくわかりますからね。でもね、ほんとにそんな必要はなかったんですよ、それにだんだん|後《こう》|悔《かい》するんじゃないかと思ってね」とマーチ夫人は言った。
「いいえ、|大丈夫《だいじょうぶ》です」ジョーは|雄《お》|々《お》しく答えた。自分の|乱《らん》|暴《ぼう》な行いが|一《いち》|概《がい》に|非《ひ》|難《なん》ばかりもされなかったのでやれやれと思ったのであった。
「どうしてそんな気になったの?」エーミーはきいた、彼女は自分の美しい|髪《かみ》を切るくらいなら、まだしも首を切るほうがましだと思ったのであろう。
「ね、私、お父さまのためにただもう何かしたくってたまらなかったの」ジョーはそう答えた。
そのときみんなは夕ごはんのテーブルに集まっていた、健康な|若《わか》い人というものは、苦しいことのさ中にも|食欲《しょくよく》はあるものである。「私だってお母さまと同じくらいお金借りるのがいやなのよ、マーチ|伯《お》|母《ば》さんきっとぶつくさ言うと思ったの、たった九ペンス借りようと思ったってそうですもの。メグは三月分のお給料をすっかりお|家《や》|賃《ちん》に入れたのに、私は自分の着る物を買っただけでしょう。なんだかわるいような気がして、顔から鼻をとって売ってでもお金をつくらなくちゃならないと思ったの」
「そんなに思わなくたってよかったのにね、あんただって冬の物がなかったから、苦労して働いたお金でいちばん|簡《かん》|単《たん》なのを買っただけじゃありませんか」とマーチ夫人はやさしいまなざしで言ったので、ジョーの心はほのぼのと|暖《あたた》められる思いがした。
「初めから|髪《かみ》を売ろうなんて考えたんじゃないのよ、でも歩きながらずっと、何かしなくっちゃと考えてはいました、いっそ大きな店にでももぐり|込《こ》んで、いる物を|拝借《はいしゃく》しようかなどとまで思ったの。そうしたらある|床《とこ》|屋《や》さんの|窓《まど》に|正札《しょうふだ》のついたかもじが|並《なら》べてあったんです、黒い毛のかもじで、私の毛より長いけどそんなに厚くないのが四十ドルでした。とたんに私自分にもお金になるものがあるということに気がついたの、それでもう前後の考えもなく中にはいって、髪の毛を買ってくれるかどうか、私の毛ならどのくらいになるかってきいてみたんです」
「よくできたわね」とベスは|恐《おそ》ろしそうに言った。
「店の人っていうのはね、髪に油を|塗《ぬ》るために生きてるみたいな、|背《せ》の低い男だったの。初めはびっくりして、女の子に店へ飛び|込《こ》まれて、自分の髪を買ってくれなんて言われたのは初めてだというような顔をして私を見ていたわ、そして私の毛は|流行《はやり》の色じゃないからあまりほしくないって、初めはどうしてもたくさん出すと言わないの、いろいろ手間をかけるから高くなるのだとかなんとか言ってね、そのうちだんだんおそくなるし、すぐ売ってしまわなかったら全然ものにならないんじゃないかと心配になってきたの、私って思い立ったら|途中《とちゅう》でやめられないたちでしょう、店の人にぜひとってくれって|頼《たの》んだんです、どうしてそんなに急ぐかってわけも話したの、ばかだったかもしれないけど、それでそのひとの気が変わったのよ、私も気が立っていたから|例《れい》によってめちゃくちゃにしゃべったとみえるのね、おかみさんがききつけて、親切に言ってくれたのよ、――
『買ってお上げな、トーマス。このお|嬢《じょう》さんのご満足がいくようにさ。私だっていい|値《ね》に売れるような|髪《かみ》の毛があったら、うちのジミーのためにゃ、そのくらいのことはいつだってするよ』」
「ジミーってだれ?」エーミーがきいた、彼女は話の|途中《とちゅう》でもききたがるたちなのだ。
「|息《むす》|子《こ》なんですって、戦場に行ってるのよ。こういうことがあると、知らない同士でもほんとに楽しい気持ちになるものね、そうじゃない? 私が毛を切ってもらっている間じゅう、おかみさんはずっといろんな話をして私の気をまぎらしてくれたのよ」
「初めじょきっと切られたときあんたこわくなかった?」メグは身ぶるいしながらきいた。
「|床《とこ》|屋《や》が道具をそろえている間に、私、おなごりに自分の髪を見たの、それが見おさめよ。私こんなくだらないことでめそめそしたことないでしょう、だけど、ほんとのこというと、テーブルの上に私の大事な髪がのせられたのを見たり、頭に手をやって短いじゃきじゃきした切り口に|触《さわ》ったりしたときには、へんな気持ちがしたわ。手か足でも一本切られたような気がしたのよ。私がそれをながめているのをみて、おかみさんが長い毛を|一《ひと》|房《ふさ》とって、記念にとっておきなさいってくれたの。お母さまに上げます。私の|昔《むかし》の|誇《ほこ》りをしのんでいただくために。ショートカットって気持ちがいいものね。私もう二度と|伸《の》ばさないつもりよ」
マーチ夫人はその波打った|栗《くり》|色《いろ》の髪の毛を折りたたみ、短い|灰《はい》|色《いろ》のといっしょにして|机《つくえ》の中へしまった。彼女はただ「ありがとうよ」と言っただけだった、が|娘《むすめ》たちはその母の顔をみると話題を変えて、ブルックさんが親切だとか、明日のお天気が良さそうだとか、お父さまがお家へ帰って静養なさるようになったらどんなにうれしいだろうとかいうようなことを、できるだけ楽しそうに話し出した。
|誰《だれ》も|寝《ね》たくはなかったが、十時が鳴るとマーチ夫人は最後に仕上げた仕事をとり|片《かた》づけて、「さ、みんな」と言った。ベスがピアノのところへ行ってお父さまの|好《す》きな|賛《さん》|美《び》|歌《か》を|弾《ひ》き、みんな元気を出して歌い始めたが、だんだんに一人ずつ歌えなくなってしまって、ベスひとりだけ心をこめて歌ったのであった、音楽はどのようなときでも彼女にとってはやさしい|慰《なぐさ》めだったのである。
「さあ、おやすみなさい。お話をしてはいけませんよ、明日の朝は早いのですからね、できるだけよく|眠《ねむ》っておかなくちゃいけませんよ。それじゃおやすみ」賛美歌が終わったとき、マーチ夫人はこう言った。だれももっと歌うとは言わなかったのである。
みんなは静かに母にキッスをし、まるで病気の父が次の室に休んででもいるかのようにそうっと|寝《ね》|床《どこ》にはいった。ベスとエーミーとは心配事があるとはいってもすぐにぐっすり寝入ってしまった。しかしメグは彼女の短い人生で初めて味わった重大な|事《じ》|件《けん》を考えて、なかなか眠れずに横になっていた。ジョーも身動きもしないで横たわっているので、姉は眠ったものと思っていたら、むせぶようなすすり泣きがきこえたので、妹のぬれた|頬《ほお》に手をあてながら、|驚《おどろ》いて|叫《さけ》んだ、――
「ジョー、どうしたの? お父さまのことを考えて|泣《な》いているの?」
「ううん今は|違《ちが》う」
「じゃどうしたの?」
「私の――私の|髪《かみ》!」そしてジョーはわっと泣き出し、|一生懸命《いっしょうけんめい》|枕《まくら》に顔を|押《お》しつけて、こみ上げる気持ちを押ししずめようとした。
それをきいてもメグは少しもおかしいとは思わなかった。彼女はできるだけやさしくこの悲しみに|悩《なや》める|女《ヒ》|主《ロ》|人《イ》|公《ン》にキッスし、そのからだをなでてやったのである。
「私、悲しくなんかないのよ」とジョーは泣きじゃくりながら言い|張《は》った。「明日だってできたらやってみせるわ、こんなにばかみたいに泣くのは私のうぬぼれとわがままのせいなの。だれにも言わないでね、もうさっぱりしたんだから。姉さんこそ|眠《ねむ》ってると思ったのに。だから私こっそり私の|唯《ゆい》|一《いつ》の美しいものを悲しんでやっていたの。姉さんはどうして起きてたの?」
「とても心配で眠れないの」メグは言った。
「なんか楽しいことを考えたら、すぐ眠れるわよ」
「考えてみたわ、そしたらなおさら眠れなくなったの」
「なに考えたの?」
「りっぱな顔、|特《とく》に目よ」メグは|暗《くら》|闇《やみ》の中でひとりほほえみながら答えた。
「どんな色の目がいちばん|好《す》き?」
「茶色――って言っても、それはときによるわ、青いのがきれいね」
ジョーは声をたてて|笑《わら》った、メグはもうおしゃべりをしないようにきつく言い|渡《わた》してから、こんどはやさしく|髪《かみ》をカールして上げると|約《やく》|束《そく》した。そうして|夢《ゆめ》の中で空中|楼《ろう》|閣《かく》に住むために、やがて深い|眠《ねむ》りに落ちていった。
柱時計が真夜中を告げ、室の中がひっそりと静まったころ、ひとりの|人《ひと》|影《かげ》がベッドからベッドへとすべるように静かに回って歩き、そこここでおふとんをかけ直したり、|枕《まくら》をきちんとはめてやったりした。そして立ち止まっては何も知らずに眠っている一人一人の顔を長いこといとしげに見つめ、|無《む》|言《ごん》の|祝福《しゅくふく》をこめた|唇《くちびる》でキッスをしては、母親のみが口にする熱い|祈《いの》りをささげるのであった。彼女がつとカーテンを上げて|寂《さび》しい夜空をながめようとすると、ふいに雲のかげから月がさし、明るい|慈《じ》|悲《ひ》深い顔のように彼女を照らしながら、|静寂《せいじゃく》の中にこうささやくように思われた、「安心おし、やさしい母よ! 雲のかげには必ず光があるのだから」と。
第十六章 手 紙
寒い|灰《はい》|色《いろ》の夜明け方、姉妹たちはランプをともし、今までにないほど熱心にめいめいの本を読んだ。今こそほんとうの苦しみの|影《かげ》がやってきて、|彼《かの》|女《じょ》たちが今までいかに|豊《ゆた》かな日の光の中に毎日を送ってきたかということを知らせてくれたからである。その小さな|書《ふみ》はどこを開いても力と|慰《なぐさ》めにみちみちていた。|着《き》|替《が》えをするときにはみんなで申し合わせて、元気に希望をもって母を見送り、気がかりな旅だちを自分たちの|涙《なみだ》や|愚《ぐ》|痴《ち》で|陰《いん》|気《き》なものにしたりしないようにしようということにきめた。階下へ|降《お》りていくといろいろなことがいつもとちがっている、外は暗く静まり返っているのに家の中はあかあかとしてざわついている。そんな早い時間に朝ごはんを食べるなどということも|珍《めずら》しい。ナイトキャップをのせたまま台所を飛び回っているハンナの|見《み》|慣《な》れた顔さえも、何だかいつもと変わっているように思われる。大きな|鞄《かばん》も運び出されるばかりになって|玄《げん》|関《かん》に立てかけてあるし、お母さまの|外《がい》|套《とう》と|帽《ぼう》|子《し》はソファの上に、お母さま自身は|食卓《しょくたく》についてご飯を食べようとつとめてはいるものの、|昨《さく》|夜《や》|眠《ねむ》れなかったのと心配とのために顔色はあおざめ、すっかり|疲《つか》れはててみえる、その顔を見ては|娘《むすめ》たちもさっきの決心を守り通すことがむずかしそうに思われてくるのであった。メグはともすれば涙があふれてくるのをどうすることもできなかったし、ジョーは一度ならず台所の|布《ふ》|巾《きん》かけの|陰《かげ》にかくれなくてはならなかった。二人の妹たちの|幼《おさな》い顔にも、|真《しん》|剣《けん》な心配の色があふれており、それは悲しみというものをはじめて味わったというような|表情《ひょうじょう》であった。
だれもあまり口をきかなかった、が、時間が|迫《せま》ってきて、みんなで馬車の来るのを待っているあいだ、ショールを|畳《たた》む者、|帽《ぼう》|子《し》のひもを|伸《の》ばす者、オーヴァーシューズをかける者、|旅行袋《りょこうぶくろ》の口を|締《し》める者など、母を囲んで|忙《いそが》しくしているとき、マーチ夫人はみんなに言った、――
「ではみなさん、あなた方のお世話はハンナに|頼《たの》んだし、ローレンスさんにもめんどうをみていただくようにお願いしておきました。ハンナはほんとうに信頼できるひとだし、おとなりのおじいさまはあなたたちをご自分の子供のように心配してくださると思います。ですからなにも心配はないようなものだけれどもね、ただ、あなたたちがこんどの心配事をまちがいなく切り|抜《ぬ》けてくれればいいと思って、それだけが気がかりなのですよ。お母さまがたったあとでやたらに悲しんだりくよくよしたりしないでくださいよ。それからまた気をまぎらそうと思って仕事を|怠《なま》けたり、|忘《わす》れようと思ったりしてはいけません。いつものとおり働くのですよ、仕事というものは神さまからくださる|慰《なぐさ》めなのですからね。希望を失わずにいつも忙しくしていらっしゃい、そしてどんなことが起こっても、天のお父さまはいつもあなたたちのそばにいてくださるのだということを忘れないように」
「はい」
「メグや、よく気をつけて妹たちを見てやってちょうだい、ハンナともよく相談してね。なんでも|困《こま》ることがあったらローレンスさんのところへいらっしゃい。ジョーは|我《が》|慢《まん》づよくしてね、すぐ失望したり、|乱《らん》|暴《ぼう》なことをしたりしないように、手紙をたびたびくださいよ、しっかりしたひとになって|私《わたし》たちみんなを助けたり元気をつけたりしてください。ベスも|寂《さび》しいときはピアノを|弾《ひ》いて元気をお出しなさいよ、そしてお家のこまごましたご用をよくやってちょうだいね。それからエーミーはできるだけお手つだいをしてね、姉さんたちのいうことをきくのですよ、そしてお家で楽しくして|丈夫《じょうぶ》でいるのですよ」
「そうします、お母さま! そうします」
そのときがらがらと馬車の近づく音がしたので、|皆《みな》ははっとわれに返って耳をそばだてた。それはほんとうに切ない|瞬間《しゅんかん》だった、でも|娘《むすめ》たちはけなげにそれに|耐《た》えて、だれも|泣《な》いたり逃げ出したり悲しみを|漏《も》らしたりする者はなかった。お父さまへよろしくと言ったときには、それを言うそばから、もうそれも間に合わないかもしれないなどと考えて、みんなの心は重くふさがるのであった。彼女たちは母へキッスしてやさしくそばへまつわりながら、いよいよ馬車が動き出すときにはつとめて明るい顔をして手を|振《ふ》ろうと思っていた。
ローリーとおじいさまも見送りにきてくれた。ブルックさんはみるからにたのもしげで、よく気がつき親切にしてくれるので、子供たちは|即《そく》|座《ざ》にこの人を、「ミスター・グレートハート」(天路歴程の主人公クリスチャンの妻が夫のあとを追うて旅だつとき、その道案内となって供をした大勇ある人物)と名づけてしまった。
「じゃさようなら、みなさん、神さまのお恵みがみんなをお守りくださいますように」とマーチ夫人は小さい声で言いながら、ひとりひとりのかわいい顔にキッスをし、急いで馬車に乗り|込《こ》んだ。
ごろごろと馬車が|離《はな》れて行くころには、お日さまも高くのぼってきた。彼女はあとを見返って、門のところに一かたまりになっている者たちの上に、その日が明るく照っているのを見ると、何かしらさいさきがよいように思われたのである。みんなのほうにもそれがわかったのでにっこりして手を|振《ふ》った。|町《まち》|角《かど》を曲がるとき最後に夫人の目にはいったものは、四つの元気な顔と、そのうしろに|護《ご》|衛《えい》|兵《へい》のように立っている老ローレンス氏と、|忠義者《ちゅうぎもの》のハンナと、忠実な友のローリーの|姿《すがた》であった。
「みなさんなんてご親切なのでしょうね」と夫人は同行の青年をかえりみて言いながら、その顔にもまた|慇《いん》|懃《ぎん》な|同情《どうじょう》があふれているのを見て、今の思いを新たにしたのである。
「みなさんそうなさらずにはいられないんだと思います」とブルック青年は相手をも|誘《さそ》い込むように気持ちよく|笑《わら》いながら答えたので、夫人も思わずほほえまずにはいられなかった。こうしてさいさきのよい日の光と、|微笑《びしょう》と、明るい言葉とのなかに長い旅は始まったのである。
「まるで|地《じ》|震《しん》でもあったような気がするわ」お|隣《となり》の人たちは朝食に家へ帰り、彼女たちだけで一と休みし|疲《つか》れをいやしているときにジョーは言った。
「家が半分からっぽになったような気がするわね」とメグも心細そうにつけ加えた。
ベスもなにか言おうとして口を開きかけたが、なにも言えずにだまってお母さまの|机《つくえ》の上にある、きれいに|繕《つくろ》いのできた|靴《くつ》|下《した》の山を指さした。そしてみんなにあんな急な場合にもお母さまは自分たちのことを思ってそのような仕事をしてくだすったことを知らせたのである。それは|些《さ》|細《さい》なことだった、が、みんなの心に深くしみ|渡《わた》って、けなげな決心の|甲《か》|斐《い》もなくみんなそこへくずおれてよよと|泣《な》いたのであった。
|利《り》|口《こう》なハンナはみんなを気がすむまで|泣《な》かせておいてから、夕立のはれ上がるころを見はからって、コーヒー|沸《わ》かしを手にみんなを|救援《きゅうえん》にやってきた。
「さあさあ、|嬢《じょう》さまがた、お母さまのおっしゃったのはここでごぜえますよ、くよくよなすってはいけませんね。みんなここへいらしって、コーヒーでも一|杯《ぱい》|召《め》し上がれ、それからお仕事に|精《せい》出して、みんなに|褒《ほ》められるようにいたしましょう」
コーヒーはまさに時を|得《え》たご|馳《ち》|走《そう》だった、ハンナがこの朝それを|沸《わ》かしたというのは、じつに気がきいたやり方といわねばならぬ。彼女がひとりうなずいては言葉じょうずに説ききかせるのをだれも|拒《こば》むわけにはいかず、コーヒー|沸《わ》かしの口からおいしそうな|香《かお》りがただよい出てきては、なおさらのことだった。みんなは|食卓《しょくたく》に集まって、ハンカチをナプキンにとりかえ十分後にはすっかり元気をとりもどしていた。
「『希望をもって|忙《いそが》しく』というのがうちのモットーでしょう、だれがいちばん長くそれを|覚《おぼ》えているかやってみない? 私、いつものとおりマーチ|伯《お》|母《ば》さんのところへ行くわ。ああ、だけどまたお説教きかされなきゃいいけどな!」ジョーはコーヒーをすすりながらみるみる元気を回復して、言った。
「私もキングさんのところへ行くわ、ほんとは家にいて、家の仕事をしたいんだけど」メグはこんなに目をまっ|赤《か》に|泣《な》きはらさなければよかったと思いながら言った。
「それはご心配ご|無《む》|用《よう》よ、ベスと私とでお家のことはちゃんとりっぱにやっておくわ」エーミーがえらそうに口をはさんだ。
「やり方はハンナに教えてもらうわ、そしてお姉さまがたがお帰りになるまでに、みんなきちんとしておくわ」と言ったかと思うと、ベスはもう時を|移《うつ》さずモップと、それから|皿《さら》|洗《あら》いの|桶《おけ》を持ち出した。
「私、心配っておもしろいもんだと思うわ」とエーミーは|砂《さ》|糖《とう》をかじりながら、思案顔して言った。
みんなは思わず|吹《ふ》き出した、そしてそれで気持ちが軽くなったような気がした。もっともメグは砂糖|壺《つぼ》の中に|慰《なぐさ》めを見いだせるような|若《わか》い|婦《ふ》|人《じん》に対しては首を|振《ふ》ってたしなめたのではあったが。
いつものパイの顔を見るとジョーの心はまた|沈《しず》んでしまった。二人はやがて毎日のつとめに出て行きながら、いつもお母さまのお顔の見える|窓《まど》を|寂《さび》しそうに|振《ふ》り返った。今日はそれが見えない、ところがベスが家のしきたりを覚えていて、ちゃんとそこにい、ばら色の顔をした首振り人形みたいに、二人のほうへこっくりこっくりしてみせた。
「全くベスらしいわ!」とジョーは言って、うれしそうな顔をしながら、|帽《ぼう》|子《し》を振った。「さよなら、メグ、今日はキングさんの子供たち、あんまりあばれないといいわね。お父さまのことはくよくよしないほうがいいわよ」|別《わか》れしなにジョーはこう言った。
「マーチ|伯《お》|母《ば》さんもぶつくさお|小《こ》|言《ごと》をおっしゃらないように|祈《いの》るわ。あんたの|髪《かみ》、よく|似《に》|合《あ》うわよ、少年らしくて、とてもいいわ」メグはそう答えた。そしてのっぽな妹の|肩《かた》の上に、|滑《こっ》|稽《けい》に見えるほど小さくちょこなんとのっかっている|縮《ちぢ》れ毛の頭を見て、|笑《わら》いたいのをこらえたのである。
「それがせめてもの|慰《なぐさ》めよ」ローリー式に帽子にちょっと手をふれて、冬の日に毛を|刈《か》りとられた|羊《ひつじ》のような気がしながら、ジョーはすたすたと歩み去った。
お母さまからのたよりは子供たちにとって、なによりの慰めであった、|重態《じゅうたい》ではあったが、またとなくすぐれたやさしい|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》がつき|添《そ》うようになってから、病人ははやめきめきと|快《かい》|方《ほう》に向かったのである。ブルックさんは毎日|容《よう》|体《だい》|書《しょ》を送ってよこした、メグは一家の長としてそれらの手紙を読み上げることを|主張《しゅちょう》したが、その週が|過《す》ぎるころには手紙もだんだん明るいものになってきた。最初のうちはだれも彼も熱心に返事を書き、まるまるとふくらんだ|封《ふう》|筒《とう》を姉妹のうちのだれかが|郵《ゆう》|便《びん》|箱《ばこ》の中に注意深く|押《お》し|込《こ》んでくるのであった。彼女たちは自分たちのワシントン通信をよほど重要な仕事だと思っているようであった。この|仲《なか》|間《ま》のそれぞれの|性《せい》|格《かく》をよくあらわしたのがあるから、郵便屋さんの|袋《ふくろ》を一つ|失《しっ》|敬《けい》したことにしてここで読んで見ることにしよう、――
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おなつかしい母上さま、――
このあいだのお手紙を|拝《はい》|見《けん》して私たちがどんなに喜びましたことか、とても申し上げられないほどでございます。あんまりよいお便りでしたので、私たちは拝見しながら|笑《わら》ったり|泣《な》いたりしないではいられないくらいでございました。ブルックさんはなんてご親切な方なのでしょう、そしてまたローレンスさんのご用のために、あの方がいつまでもおそばにいてくださるというのも、なんてしあわせなことでしたでしょう、あの方はお母さまにもお父さまにもずいぶんお役にたっててくださるのですものね。妹たちもみなそれはそれはよくやっております。ジョーは|針《はり》仕事も手つだってくれますし、その他の|荒《あら》|仕《し》|事《ごと》は何でも自分ですると言ってききません。あの子の「良心的な発作」は長続きしたためしがないということを知らなかったら、全く|過《か》|労《ろう》になりはしないかと心配するところでございます。ベスは時計のようにきちんと自分の仕事をしてお母さまのおいいつけをけっして|忘《わす》れません。あの小さなピアノを|弾《ひ》いているときのほかはいつもお父さまをお案じ申して|沈《しず》んだ顔をしております。エーミーは私のいうことをよくきいてくれますし、私もあの子のことはよく気をつけてやっております。|髪《かみ》もひとりでゆいます。今はボタン|穴《あな》のかがり方と|靴《くつ》|下《した》のつぎ方を教えてやっております。ほんとうに|一生懸命《いっしょうけんめい》にいたしておりますから、お帰りになりましたらきっとあの子のよくなっていることをお喜び|頂《いただ》けると|存《ぞん》じます。ローレンスさまは、ジョーの言葉をかりますと、|年《とし》|寄《よ》りの母親|鶏《どり》のように私たちのめんどうをみてくださいます。ローリーもとても親切で|仲《なか》よくしてくれます。お母さまとこんなに遠く|離《はな》れていますので、私たちはときどきとても|寂《さび》しくなって、|孤《こ》|児《じ》になったような気が|致《いた》しますのを、ローリーとジョーとでいつも|笑《わら》わせてくれるのでございます。ハンナはほんとうに|聖《せい》|者《じゃ》のようです、私たちを|叱《しか》るようなことは少しもなく、私のことをいつも「マーガレットさま」と|呼《よ》んで、――これはあたりまえではございますが――ていねいに|扱《あつか》ってくれます。みんな|丈夫《じょうぶ》で|忙《いそが》しく|暮《く》らしております。でも私たちはねてもさめても、お母さまのお帰りを待ちわびているのでございます。お父さまにくれぐれもよろしくおつたえ下さいませ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]いつもお母さまのものなる メグより
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―――――
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|匂《にお》い入りの紙に美しく書かれた右の手紙は、|薄《うす》い外国用の|大《おお》|判《ばん》の紙にぞんざいに走り書きされた次の手紙と、|好《こう》|一《いっ》|対《つい》の対照をなしていた、なおこのあとの手紙はインキを落としたあとやら、多種多様の花文字やら、|尻尾《しっぽ》を丸くした文字などでかざられていた、――
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私の大事なお母さま、――
なつかしいお父さま|万《ばん》|歳《ざい》! お父さまが|快《よ》くおなりになったらさっそく|電《でん》|報《ぽう》で知らせてくださるなんて、ブルックさんはなんてご親切なんでしょう、お手紙がきたとき、私は屋根部屋に|駆《か》け上がってこんなによくしてくださることを神さまにお礼を申し上げようと思いました、ところが私ったらただ|泣《な》いてしまって、「うれしい! うれしい!」って言っただけだったんです。それだってほんとのお|祈《いの》りと同じようにきいていただけるんでしょう? だって私、あんまりいろんなことで|胸《むね》がいっぱいだったんですもの。私たちとてもおもしろく|暮《く》らしています。今では私もこの生活が楽しいようになりました。みんなそれはそれはいい子でいてくれますから、まるで|山《やま》|鳩《ばと》の|巣《す》に|暮《く》らしているようなものです。メグがお母さまぶって|食卓《しょくたく》の|上《かみ》|座《ざ》にすわっているのをごらんになったら、きっとお|笑《わら》いになりますよ。姉さんは|日《ひ》|増《ま》しにきれいになっていきます、私までどうかするとうっとりしてしまうくらいです。妹たちも文字どおりのエンジェルです、それから、私は――やっぱり私はただのジョーで他のものにはなれっこありません。そうそう、ローリーと|喧《けん》|嘩《か》しそうになったことをお知らせしなくては。そのもとは、つまらないちょっとしたことでしたけど、私が思うとおりのことを言ったら、ローリーが|怒《おこ》っちゃったんです。私はまちがってはいなかったんですけれど、言い方が悪かったんです。あのひとは、私があやまるまではもう来ないと言って、とっとと帰って行きました。私もあやまりなんかするもんかと言って、ぷんぷん怒ってやりました。これが一日中つづいたあとで、私は悪かったと思い、お母さまがいらっしゃればいいなと思いました。ローリーも私も|自《じ》|尊《そん》|心《しん》が強いものですから、なかなかあやまったりすることができないのです。でも私は、私のほうが正しかったのですから、ローリーのほうからあやまる気持ちになるだろうと思っていました。ところがあのひとは来ませんでした。夜になってから、私は、エーミーが川に落ちたとき、お母さまがおっしゃったことを思い出しました。それで|聖《せい》|書《しょ》を読んでみましたら、だんだん気持ちがおさまってきました、そして怒りを日の入るまでに至らせてはならないと決心して、ローリーにおわびを言いに走っていきました。すると門のところで、あっちからもおわびにきたのとばったり出会ったのです。ふたりとも|笑《わら》ってしまって、お|互《たが》いにあやまり合い、すっかり気持ちがよくなって、また|愉《ゆ》|快《かい》になりました。
昨日はハンナのお|洗《せん》|濯《たく》を手つだいながら、ハンナのいわゆる「|詩《す》」をつくりました。お父さまは私のつまらない小品がお|好《す》きですから、お笑い草に|同《どう》|封《ふう》いたします。お父さまへ|特《とく》|別《べつ》親愛な|抱《ほう》|擁《よう》とキッスを一ダース私に代わってしてさし上げてください。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]あわてん|坊《ぼう》のジョーより
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シャボン|泡《あわ》から生まれた歌
|洗《せん》|濯《たく》|桶《おけ》の女王われ、歌うも楽しおもしろく
真白き|泡《あわ》を立てながら、|腕《うで》たくましく|布《ぬの》|洗《あら》い
すすいでしぼって|縄《なわ》に|干《ほ》す、風さわやかに家の外
きものは|揺《ゆ》れるひらひらと、光明るき空の下
一週間のよごれをば、わが心より洗い去り
水と大気の|魔術《まじゅつ》もて、われらが身をも|浄《きよ》めなば
げにすばらしき|洗《せん》|濯《たく》|日《び》、この世にありといいつべし
|甲《か》|斐《い》ある|人生《いのち》の道の|辺《べ》に、三色すみれ|香《かお》るなり
心|忙《せわ》しく|暮《く》らすとき、悲しみ|悩《なや》みはたうれい
思う|暇《いとま》もあらじかし、心配苦労すみやかに
|箒揮《ほうきふる》いてはき|捨《す》てん
日毎いそしむよきつとめ、われにあるこそうれしけれ
健康、力、希望など、われに|与《あた》うもそのつとめ
かくてぞ|我《われ》は言うを|得《え》つ、「頭よ思え、|心情《しんじょう》よ
深く感ぜよ、されど手は、つねに働けゆるみなく!」
―――――
おなつかしいお母さま、――
私には、私からのよろしくと、それからお父さまにお目にかけようと思って、お家の中で大事に育てた三色すみれの|押《お》し花をお送りする|余《よ》|地《ち》しかないようでございます。私は毎朝|聖《せい》|書《しょ》を読んで一日じゅういい子でいようと努めております、そして夜にはお父さまのお|好《す》きな歌をうたってやすみます。今は「あめなるみくに」を歌うことはできません。あれを歌うと|泣《な》けてくるのですもの。みなさんご親切にしてくださいますから、お母さまがいらっしゃらないにしてはしあわせに|暮《く》らしております。あとののこりにはエーミーが書くそうですから、私はこれで失礼いたします。入れ物類にも|忘《わす》れずにふたをいたしましたし、時計もまきましたし、お|室《へや》の|換《かん》|気《き》も毎日いたしております。
お父さまの「ベスの|頬《ほお》」とおっしゃるところにキッスをお願いいたします。どうぞできるだけ早くお帰りくださいますように、
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]小さなベスより
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マ・シェール・ママ、――
私共は一同げんきでおります私はよく勉強をしてお姉さまたちにもCorroberate (Corroborate |確《かく》|実《じつ》にする)したことはございません――メグはcontradick(contradict |逆《さか》らう)の|間《ま》|違《ちが》いだと言いますから二つとも書いておきますから正しいほうをお選びください。メグは私をやさしくなぐさめて|毎《まい》|晩《ばん》お茶のときに私にジェリーをたべさせますジョーは私がおとなしくなるからジェリーは私のためになると言います。ローリーは私にたいしてさっぱりていねいにいたしません私はもうじき十三になるのに、私のことを「ひよっこ」と|呼《よ》んだり私がハッティ・キングのようにメルスィ(ありがとう)とかボン・ジュール(今日は)とか言いますとぺらぺらとフランス語を言って私をいやがらせます。青い服の|袖《そで》がきれましたからメグが新しいのをつけてくれましたけれども|胴《どう》の前のほうがいけなくなってますしそでは胴よりも青いのです。私はいやでしたけれども不平を言いませんでしたつらいことも|我《が》|慢《まん》していますでもハンナが私のエプロンにもっとのりをつけてそばまんじゅうを毎日つくってくれるといいと思います。いけないでしょうか? このぎ|問《もん》|符《ふ》じょうずにつかいましたでしょう。メグは私のくとうてんや字がでたらめで|恥《は》ずかしいといいます私はくやしゅうございますけれどもとてもたくさんすることがあるのでしかたがないのです。アディユ、パパにたくさんたくさんよろしくおつたえください。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]|愛情《あいじょう》深き|娘《むすめ》 エーミー・カーティス・マーチ
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おなつかしき|奥《おく》さま――
一筆申しあげ|升《ます》。なにごともごくつごよくいっており|升《ます》。おじょうさまがたはなかなかおりこうにてせっせといそがしくはたらいておられ|候《そうろう》。メグさまはりっぱなおくさまぶりをはっきなされ、家のしごとがおすきにてなにごともおのみこみのはやいにはばばもおどろき入りもうしそろ。ジョーさまは人の先にたってしごとをなさるのは一ばんなれども、もののはじめにとくとお考えなさることなく、どんなことをしでかしなさるやらかいもくけんとうがつきません。月よう日には、たらい一ぱいのおせんたくをなされましたが、しぼらないでのりをつけたり、ピンクのキャラコのきものを青くそめたりなされたのには、ばばも死ぬほど|笑《わら》いこけました。ベスさまは何にしても一ばんおとなしくて、しごとの手まわしもよく、たのみになるお子さまにて、ばばは大だすかりで|厶《ござ》い|升《ます》。何でもおぼえようとなさり、お小さいのに市ばにもよく行って下さりますし、ちょうめんも私がおおしえして上手につけなさり|升《ます》。これまでのところ、うちではよろずせつやくいたしておりまして、コーヒーも|仰《おお》せのとおり一しゅかんに一どさし上げるだけにし、そのほかたべものもごくしっそながら、からだによいものをさし上げるようにいたしおり|候《そうろう》。エーミーさまはやんちゃを申されたり、大よそゆきを着たり、あまいものを|召《め》し上がったりしてくらしておられ|升《ます》。ローリーさまは相かわらずのいたずらこぞうにて家中ごったがえしになることもたびたびながら、おじょうさまがたに元きをつけて下さりますゆえ、ばばはだまっておすきなようにおさせ申しており|升《ます》。ごいんきょさまはいろいろのものを山のようにおとどけ下され、すこしへいこうなほどで|厶《ござ》りますが、それもせっかくのおぼしめし、また私などのつべこべ申すべきところでも|厶《ござ》りますまい。ぱんがふくらみましたのでこれにてしつれいいたします。だんなさまへおよろしく、一日もはやく|肺《はい》|円《えん》(炎)がおなおりなされますようにおいのりもうし上げ候。かしこ
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]ハンナ・マレット
[#ここから2字下げ]
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二|号病棟《ごうびょうとう》、|婦長殿《ふちょうどの》、――
ラパハノック|河《か》|畔異常《はんいじょう》ナシ、全軍|健《けん》|在《ざい》、|兵《へい》|站《たん》部管理|良好《りょうこう》、テディ|大《たい》|佐《さ》|麾《き》|下《か》ノ国内|警《けい》|備《び》|隊《たい》ハ|常《つね》ニ任ニ服シ、司令長官ローレンス|将軍《しょうぐん》日々|閲《えつ》|兵《ぺい》ヲ行イ、|兵《へい》|站《たん》部長マレット|宿舎《しゅくしゃ》ヲ|整《せい》|頓《とん》シ、ライオン少佐夜間|歩哨《ほしょう》ノ任ニ当タル。ワシントンヨリノ|吉《きっ》|報《ぽう》ニ|接《せつ》スルヤ、二十四門ノ|礼《れい》|砲《ほう》ヲ放チ、|本《ほん》|営《えい》ニオイテ|正《せい》|装《そう》着用ノ観兵式ヲ|挙《きょ》|行《こう》セリ。終ワリニ|臨《のぞ》ミ司令長官ヨリノ|最《さい》|善《ぜん》ノ|祈《いの》リヲ送ルニ当タリ、小官モ|謹《つつし》ミテコレニ共感ノ意ヲ表スルモノナリ。テディ大佐
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親愛なる夫人、――
|令嬢方《れいじょうがた》いずれも|御《ご》|無《ぶ》|事《じ》、ベス嬢と老生の|孫《まご》とより日々ご様子はうけたまわっております。ハンナはまことに使用人の|鑑《かがみ》と申すべく、かわゆきメグ嬢をお|護《まも》りいたしおるさまは、かの宝守りの|竜《りゅう》もかくやと|存《ぞん》ぜられるほどです。上天気つづきにてご|同《どう》|慶《けい》|至《し》|極《ごく》。ブルックは|何《なに》|卒《とぞ》ご|遠《えん》|慮《りょ》なくお使いくだされ|度《た》く、なお、|諸《しょ》|費《ひ》ご予算|超過《ちょうか》などの場合には、ぜひ当方までお|申《もう》し|越《こ》し|有《これ》|之《あり》|度《たく》、夫君にご不自由をおかけなさるようのことはくれぐれもご|無《む》|用《よう》に願い上げます。
ご|快《かい》|方《ほう》の|趣《おもむき》、|大《たい》|慶《けい》に存じます。 敬 具
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[#地から2字上げ]ジェームズ・ローレンス拝
第十七章 小さきまごころ
それからの一週間というもの、この古い家にあふれた徳行のかずかずは、|隣《となり》近所へおすそわけしてもいいくらいたくさんあった。全く目をみはるばかりだったのである。ひとりのこらず天国にいるような気持ちになっているらしく、自己|抑《よく》|制《せい》ということが大流行だった。ところがお父さまが|快《よ》いときいて安心すると、いつのまにか少女たちの|殊勝《しゅしょう》な努力にゆるみが出て、もとのもくあみになりかかっていたのである。自分たちのモットーを|忘《わす》れたわけではなかったが、希望をもって|忙《いそが》しく働くということについても、だんだん気楽に考えるようになり、こんな|猛《もう》|烈《れつ》な努力をしたあとなのだもの、「努力氏」にだって一日くらいのお休みをやらなくちゃと思って、実は一日どころかだいぶお休みをやることになってしまったのである。
ジョーは、短くした頭をよくくるまなかったおかげでひどい|風《か》|邪《ぜ》を引いてしまい、少しよくなるまで家にいるようにと言い|渡《わた》された、マーチ|伯《お》|母《ば》さんは鼻風邪を引いた人などに本を読んでもらいたくはなかったのだ。これ幸いとジョーは、|屋《や》|根《ね》|裏《うら》から地下室までくまなく|捜《さが》し回ってみつけだした|砒《ひ》|素《そ》|剤《ざい》と何冊かの本で、自分の風邪をいやすことにしようと、ソファの上にどっかりと|腰《こし》をすえた。エーミーは家事と|芸術《げいじゅつ》とは両立しがたいものだとさとって、|泥饅頭《どろまんじゅう》にもどっていった。メグは毎日キング家へ出かけ、家では|針《はり》仕事をしたり、したと思ったり、たいていはお母さまへ長い手紙を書いたり、ワシントンからの|至急便《しきゅうびん》をくり返しくり返し読んだりして日を|暮《く》らしていた。ベスだけがほんのちょっぴりなまけたり、しょんぼりしたりするために気のゆるむことはあっても、とにかく毎日自分のつとめを|果《は》たしていた。日々のこまごました用事をまめにやったほかに、姉たちや妹の分までも大部分引き受けた、というのはあとの三人はとかく自分の仕事を|忘《わす》れがちで、家の中が|振《ふ》り|子《こ》のない時計みたいになってきたからである。母が|恋《こい》しくなったり、父の|病状《びょうじょう》が心配になったりして気がふさいでくると、母の|押《お》し|入《い》れにはいって、なつかしい古いきものの|襞《ひだ》に顔を|埋《うず》めてちょっと|泣《な》いたり、ひとりで静かにお|祈《いの》りをささげたりした。|彼《かの》|女《じょ》は気がめいっていてもじき|快《かい》|活《かつ》になるのはどうしたわけかということは、だれもしらなかったが、ベスは何てやさしく役にたつ子だろうということはみんなも感じていて、ちょっとしたことでも彼女に|慰《なぐさ》めてもらったり相談したりするような|習慣《しゅうかん》になっていたのである。
このたびの|経《けい》|験《けん》は、|皆《みな》の人物考査になったのだとはだれも気がつかなかった。始めの|興奮状《こうふんじょう》|態《たい》がさめると、皆はわれながらよくやったような気がし、|賞《ほ》めてもらう|値《ね》|打《う》ちがあるなどと考えるようになった。とそれはたしかそうである。しかし|間《ま》|違《ちが》いのもとは彼女らがその|善《ぜん》|行《こう》を|途中《とちゅう》でやめてしまったというところにあった。そのことをさとるまでに彼女たちは多大の|心《しん》|痛《つう》と|後《こう》|悔《かい》とを経験しなければならなかったのである。
「メグ姉さま、フンメルさんのところへ行って様子をみてきてくださらない? お母さま、あのひとたちのことを|忘《わす》れないようにっておっしゃったわね」マーチ夫人がたってから十日ばかり|過《す》ぎたころ、ベスがこう言った。
「さあ今日はあんまり|疲《つか》れちゃって行けそうもないわ」メグは心地よさそうに|揺《ゆ》り|椅《い》|子《す》を揺すって|針《はり》仕事をしながら答えた。
「ジョーさんはだめ?」ベスがきいた。
「|風《か》|邪《ぜ》引いてるのにこの|荒《あ》れじゃあね」
「もういいのかと思ったわ」
「ローリーと出かけるくらいには|快《よ》くなったけど、まだフンメルさんとこへ行けるほどにはなってないのよ」とジョーは|笑《わら》いながら答えはしたものの、その答の|辻《つじ》|褄《つま》の合わないのにいささかきまりが悪そうだった。
「どうして自分で行かないのよ?」メグがきいた。
「毎日行ってたのよ、でも赤ちゃんが病気なの、私どうしたらいいかわからないでしょう。|小《お》|母《ば》さんは働きに出るから、ロットヘンがお|守《もり》してるんですけどね、だんだん悪くなるようなのよ、メグさんかハンナが行ったほうがいいと思うわ」
ベスが熱心にたのむので、メグもでは明日行こうと|約《やく》|束《そく》した。
「ハンナに何かおいしいものでもこしらえてもらって、あんたそれ持ってちょっと行ってきなさいよ、ベス、少し風にあたるとからだにいいわよ」とジョーは言ったが、いいわけがましくこうつけ加えた。「私行ってもいいんだけど、このお|噺《はなし》終えちまいたいのよ」
「私|頭《ず》|痛《つう》がするの、それに|疲《つか》れてるの、だから、どなたか行ってくださるかと思ったのよ」とベスは言った。
「エーミーがもうじき帰るでしょう、そしたら代わりに行ってくれるわよ」とメグが|提《てい》|案《あん》した。
「そうね、じゃ私少し休むわ、そして待ってましょう」
そこでベスはソファに横になり、あとのふたりはまた仕事を始めた、そしてそれっきりフンメルさん一家はすっかり|忘《わす》れられてしまったのである。一時間|経《た》った、エーミーはまだ帰らない。メグはできあがった服を着てみるために自分の部屋にはいってしまった。ジョーはお|噺《はなし》に|夢中《むちゅう》になっていたし、ハンナは台所のかまどの前でぐうぐう|眠《ねむ》っていた、そのときベスはそっと|頭《ず》|巾《きん》をかぶり、かわいそうな子供たちにやる残り物をバスケットに|詰《つ》めて、重い頭をし、しんぼうづよい目には悲しみの色をたたえて、冷たい空気の中へ出て行った。ベスが帰ってきたのはもうずいぶんおそかった、彼女がそうっと二階に上がり、母の部屋にはいってしまったのに気がついたものはひとりもいなかった。三十分ばかり|経《た》って、ジョーがなにか|捜《さが》しものをしに「お母さまの|押《お》し|入《い》れ」に行ってみると、ベスが|容《よう》|易《い》ならぬ顔をし、赤い目をして、|片《かた》|手《て》にカンフルの|瓶《びん》を持ったまま、|薬《やく》|品《ひん》|箱《ばこ》の上に|腰《こし》かけていた。
「わッたいへん! どうしたの?」ジョーは|叫《さけ》んだが、ベスは近よるなというように手をのばして、急いできいた、――
「ジョーさん|猩紅熱《しょうこうねつ》にかかったことあったわね、|違《ちが》うかしら?」
「だいぶ前にね、メグがやったときよ、どうして?」
「じゃ言うけど、――ああ、ジョーさん、赤ちゃんは死んだのよ!」
「どの赤ちゃん?」
「フンメルさんとこの。|小《お》|母《ば》さんが帰らないうちに、私の|膝《ひざ》の上で死んじゃったの!」
「まあかわいそうに、こわかったでしょう! 私が行くべきだったわ」ジョーは|後《こう》|悔《かい》の色を顔に|浮《う》かべて、お母さまの大きな|椅《い》|子《す》にすわって妹を膝に|抱《だ》いた。
「こわくなんかなかったのよ、ジョー、とても悲しかったの! 前よりも悪くなっているのが私にはすぐわかったの、でもロットヘンが小母さんはお医者さまを|迎《むか》えに行ったっていうんでしょう、それで私が赤ちゃんをだっこしてロットヘンを|寝《ね》かしたの。赤ちゃんは|眠《ねむ》ったようだったけど、急にちょっと|泣《な》いたかと思うとぶるぶるふるえて、それから静かになってしまったの。私があんよを|暖《あたた》めてやって、ロットヘンが|牛乳《ぎゅうにゅう》を少し飲ませたのよ、でもちっとも動かないの、それで死んだってことがわかったの」
「|泣《な》くんじゃないの、ベス! それからどうしたの?」
「私ただそっとだっこしてすわってたわ、そしたら小母さんがお医者さまをつれて帰ってきたの。お医者さまも赤ちゃんは死んでいるっておっしゃったわ。そしてハインリッヒとミンナのほうをごらんになって、――ふたりとも|咽《の》|喉《ど》が|痛《いた》かったのよ、――『|猩紅熱《しょうこうねつ》だよ、おかみさん、もっと早く|呼《よ》びに来るんだったな』って、|怒《おこ》ったようにおっしゃるの。|小《お》|母《ば》さんは、|貧《びん》|乏《ぼう》だから自分で赤ちゃんをなおそうと思ったんですって言ったのよ、でももうなんにもならないでしょう、それで小母さんはどうか上のふたりを助けてくださいって、そしてお金は|払《はら》えないから|恵《めぐ》んでいただきたいって、お願いしたの。そしたら先生もにっこりして、前よかやさしくなったのよ。でも私、とても悲しくて、みんなといっしょになって泣いてたの、そしたら先生はふいに私のほうをごらんになって、早くお家へ帰ってすぐにベラドンナを飲みなさいって、でないと猩紅熱にかかるっておっしゃったの」
「いいえ、あんたはかからない!」とジョーはおびえたような顔をし、きゅっと妹をだきしめて、|叫《さけ》んだ。「ああ、ベス、あんたが病気になるようなことがあったら、私どんなことしたって自分がゆるせないわ! ああどうしたらいいだろう?」
「そんなにびっくりしないで。私そんなにひどくはならないと思うわ。私お母さまのご本で見たのよ、そしたらね、はじめは|頭《ず》|痛《つう》がして、|咽《の》|喉《ど》がいたくなって、それから私が今なってるみたいなへんな気持ちになるんですって、それでベラドンナを少し飲んだのよ、そしたらだいぶらくになったわ」ベスはそう言って、冷たい手を熱い|額《ひたい》にあてながら、つとめてよさそうにみせようとした。
「お母さまさえいらしったらね!」とジョーは本をつかんだままそう叫んだ、そしてワシントンがとてつもなく遠いところにあるような気がしたのである。彼女は本を開いてみた、それからベスのほうを向き、|額《ひたい》にさわり、|咽《の》|喉《ど》をのぞき|込《こ》んでから|慎重《しんちょう》な顔をして言った。
「あんたは毎日あの赤ちゃんのところへ一週間以上も行ってたし、それに他の子供もなりかかっていたとすると、もしかしたらあんたもうつってるのかもしれないわ、ベス、ハンナを|呼《よ》んでくる、病気のことならなんでもしってるから」
「エーミーを来させないでね、あのひとまだかかったことないから、うつるとかわいそうでしょう。あなたやメグはもううつるようなことないのかしら?」とベスは心配そうにきいた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》だと思うわ、かかったって私のことなんか心配しなくたっていいのよ、あんたに行かせて自分は家でくだらないもの書いてたなんて、|利《り》|己《こ》|主《しゅ》|義《ぎ》なやつ、かかったってあたりまえだわ!」とジョーはつぶやきながら、ハンナに相談しに室を出て行った。
|忠義者《ちゅうぎもの》のばあやはたちまち目をさまし、|早《さっ》|速《そく》先にたって指図を始めた。そしてなにも心配する必要はないこと、|猩紅熱《しょうこうねつ》にかかったひとはいくらもいること、手当てさえよければ死ぬひとはないことなどを言ってきかせてジョーを安心させた。ジョーはそれをみなほんとと思い|胸《むね》なでおろしながら、ふたりはメグを呼びに二階に行った。
「じゃこれから|手《て》|筈《はず》を申しあげますがね」とハンナは、ベスの様子をみ、いろいろと問いただしたあとで言った。「まずバングス先生に来ていただいてちょっとみていただきましょうね、|嬢《じょう》さま、そして私どもの手当てがよかったかどうかうかがってみましょう。それからエーミーさまはうつらないようにしばらくマーチ|伯《お》|母《ば》さまのところに行っていただくとして、あなた方のうちおひとりは家にいて一日二日ベスさまのお相手をしていただきましょう」
「もちろん私が家にいるわ、いちばん上ですもの」メグは心配顔で|自《じ》|責《せき》の念にかられながらまず言った。
「私よ、あの子が病気になったのは私のせいですもの。お母さまにはおつかいは私がするって言っときながら、しなかったんだもの」ジョーはきっぱりと言った。
「どっちのお姉さまがよろしゅうございます、ベスさま? おひとりいらしてくださりゃ十分なのですがね」とハンナが言った。
「じゃジョーさんいてちょうだい」ベスは安心したような顔をして姉に頭をもたせかけた、それですっかり話はきまった。
「私エーミーのところに行って話してくるわ」とメグは言った、ちょっと気をわるくはしながらも、ジョーとちがって|看病《かんびょう》などいうことは|好《す》きではないので、まずほっとしたのであった。
エーミーは|真《ま》っ|向《こう》から反対で、マーチ伯母さんのところへ行くぐらいなら、|猩紅熱《しょうこうねつ》にかかったほうがいいなどとだだをこねた。メグがなだめたりすかしたり命じたりしても、なんの|甲《か》|斐《い》もなかった。エーミーはどんなことがあっても行かないと言い|張《は》った、メグはあきらめてエーミーをほったらかして、ハンナのところへ相談に行った。彼女がもどってこないうちに、ローリーがきて客間へはいってみると、エーミーがソファのクッションに頭を|埋《うず》めてすすり|泣《な》きしている。彼女は|慰《なぐさ》めてもらうつもりで|一《いち》|部始終《ぶしじゅう》を彼に話した、けれどもローリーはただ両手をポケットにつっ|込《こ》み、静かに|口《くち》|笛《ぶえ》を|吹《ふ》きながら、|眉《まゆ》|根《ね》を|寄《よ》せて考えこんだまま、室の中をぐるぐる歩き回るだけであった。まもなく彼女のそばへ|腰《こし》をおろすと、彼はおはこの説きつけじょうずな調子できりだした、――
「ね、おりこうにしてみんなの言うことをきくんだよ。こら、|泣《な》くんじゃない、まあおきき、すばらしい計画を話してあげるから。あんたはマーチ|伯《お》|母《ば》さんのところへ行くんだ、そしたら|僕《ぼく》は毎日あんたを|迎《むか》えに行って、ドライヴだの散歩だのに連れ出してあげる、おもしろいぞ、ここでぼんやりしてるよりよっぽどいいじゃないか?」
「私、|邪《じゃ》|魔《ま》ものかなにかみたいに追い出されるのいやよ」エーミーはぷんぷんして言い始めた。
「これはおどろいた! あんたにうつらせないためなんだぜ。病気になりたかないだろう、それともなりたいの?」
「いいえ、なりたくなんかないわよ、でもきっとなるわ、ずっとこのごろベスといっしょにいたんですもの」
「だからなおさらすぐにも行かなくっちゃいけないんだよ、そうすればうつらずにすむかもしれないんだからね。転地したり用心したりすれば、きっと|大丈夫《だいじょうぶ》だよ。もしかかったにしても、かるくってすむだろう。できるだけ早く行ったほうがいいな、|猩紅熱《しょうこうねつ》って|笑《わら》いごとじゃないんだよ」
「でもマーチ|伯《お》|母《ば》さんのお家って|退《たい》|屈《くつ》だし、伯母さんは意地悪よ」エーミーも少しこわくなったらしく、そんなことを言った。
「|僕《ぼく》が毎日ベスの様子を言いに行って、散歩に連れてってあげるんだから、退屈なんかしないよ。伯母さんは僕が好きだし、僕だって伯母さんにはできるだけうまくやるから、僕たちが何をしたって、お|小《こ》|言《ごと》なんかおっしゃらないよ」
「あのバックの馬車で連れてってくださる?」
「きっとそうしてあげる」
「そして毎日きっと?」
「ああ、きっと」
「ベスがよくなったら、すぐお家へつれて帰る?」
「その|瞬間《しゅんかん》に帰してあげる」
「お|芝《しば》|居《い》にもつれてってくださる、ほんとに?」
「行けさえしたら十ぺんでも」
「うん――じゃあ――行ってもいい」とエーミーはしぶしぶ言った。
「えらい! じゃメグを|呼《よ》んで、|降《こう》|参《さん》したって言ってあげなさい」と言ってローリーは満足そうに|背《せ》|中《なか》を軽くたたいてやったが、エーミーにとってはそんな子供|扱《あつか》いは「降参した」と言われたのよりも|迷《めい》|惑《わく》なことだった。
メグとジョーとは|奇《き》|跡《せき》が行われたのを見ようと、急いで二階からおりてきた。エーミーはたいそうえらくなったような、また自分を|犠《ぎ》|牲《せい》にしたような気持ちになりながら、お医者さまがベスが悪くなるようだとおっしゃったら、行きますと|約《やく》|束《そく》した。
「ベスはどう?」ローリーはきいた。彼女はローリーの|特《とく》|別《べつ》のお気にいりだったので、彼は表にあらわしているよりもはるかに心配していたのである。
「お母さまのベッドに|寝《ね》かしてあるわ、少しよいようよ。赤ちゃんが死んだのでがっかりしたんでしょうけど、私きっとただの|風《か》|邪《ぜ》だと思うの、ハンナもそうだとは言うんですけど、心配そうな顔するんでしょう、それで私も気がもめるのよ」とメグは答えた。
「世の中ってものはなんてつらいんだろう!」と言ってジョーはじれったそうにくしゃくしゃと|髪《かみ》をかき上げた。「|一《いち》|難《なん》去ってまた一難か、お母さまが行っておしまいになったら、なにもたよりにするものがないみたいなんだもの、全く|途《と》|方《ほう》にくれちゃうわ」
「だからといって|山嵐《やまあらし》みたいな髪にしなくったっていいだろう、|似《に》|合《あ》わないよ。まず頭をちゃんとして、ジョー、|僕《ぼく》に命じたまえ、君のお母さまに|電《でん》|報《ぽう》を打つとかなんとか」とローリーは言った。彼は友だちが|唯《ゆい》|一《いつ》の美しいものを失ったことをいまだにあきらめかねているのであった。
「それで|困《こま》っているのよ」とメグが言った。「ベスがほんとうに悪いのなら、お母さまにお知らせしたほうがいいと思うんですけど、ハンナは知らしちゃいけないって言うのよ。どうせお母さまはお父さまのそばを|離《はな》れるわけにはいかないんだから、おふたりに心配をかけるだけだと言うんです。ベスの病気もそう長くはかからないでしょうし、ハンナはどうすればいちばんいいかよくわかっているでしょう、それにお母さまもハンナのいうことをきくようにっておっしゃったんだから、そうしなくっちゃいけないんでしょう、だけど私はそれでは|困《こま》るような気もするのよ」
「ふむ! そうね、僕にもわからないな、うちのおじいさまにきいてみたらどうだろう、お医者さまがいらしってからね」
「そうしましょうね、ジョーさん、すぐにバングス先生をお連れしてきてちょうだい」とメグは命じた、「先生がいらっしゃらなくちゃ、なにも決めるわけにはいかないわね」
「ジョーは家にいたまえ、ここの家のお使い番は僕だ」と言うなりローリーは|帽《ぼう》|子《し》をとり上げた。
「|忙《いそが》しいんじゃない?」メグが言った。
「いや、今日の勉強はもうすんだんだ」
「お休みでも勉強するの?」ジョーがきいた。
「おとなりが|示《しめ》してくれるお手本にしたがってるのさ」ローリーは答え、元気に部屋をとび出した。
「全くたのもしいわ」とジョーは、|垣《かき》|根《ね》をとび|越《こ》えていく|姿《すがた》を見送りながら、満足そうな|微笑《びしょう》を|浮《う》かべて言った。
「子供にしてはよくやるわね」メグはそんなことには|興味《きょうみ》がなかったので、そっけない返事をした。
まもなくバングス先生が来て、ベスは|猩紅熱《しょうこうねつ》の|徴候《ちょうこう》があると言った、フンメルさんの話をきくと|慎重《しんちょう》な顔はしたが、それでもベスのは軽くてすむだろうと言ってくれた。エーミーはさっそく|隔《かく》|離《り》するように命ぜられ、なにか|予《よ》|防《ぼう》|薬《やく》を与えられて、ジョーとローリーとにつき|添《そ》われながら、ものものしい勢いで出かけて行った。
マーチ|伯《お》|母《ば》さんはいつもながらのお愛想で一行を|迎《むか》えた。
「こんどはなんのご用ですかね?」|眼鏡《めがね》越しにじろりとながめながら、彼女はきいた、すると伯母さんの|椅《い》|子《す》のうしろに|飼《か》っていた|鸚《おう》|鵡《む》が|叫《さけ》びだした、――
「出ておいき、男の子のくるところじゃないよ」
そこでローリーは|窓《まど》のところへのき、ジョーが|事情《じじょう》をつたえた。
「思ったとおりだね、|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》にいらざるおせっかいをした|報《むく》いですよ。エーミーはここに|泊《とま》っていてもよござんす、病気にかかってないんならお手つだいをしてもらいますよ。いずれかかるんだろうがね、――この顔つきでは。|泣《な》いては|困《こま》るね、エーミー。伯母さんは鼻をすすられたりするのはだいきらいなんだから」
エーミーがあわや|泣《な》きだそうとしたそのときに、ローリーがこっそりおうむの|尻尾《しっぽ》を引っぱった、ポリーはびっくりしてぎゃ[#「ぎゃ」に傍点]と鳴いてから、「しまった!」と|叫《さけ》んだので、そのおかしさにエーミーは泣くのをやめて|笑《わら》いだした。
「お母さんから言ってきましたかね?」|老《ろう》|婦《ふ》|人《じん》はつっけんどんにきいた。
「お父さまはだいぶおよろしいそうです」ジョーはつとめてまじめな顔をして答えた。
「おや、そうかい? まあ、長つづきはしますまいよ、マーチはなんによらず|根《こん》|気《き》のないひとだからね」というのがすこぶるありがたい返答だった。
「は、は! 死ぬなんておっしゃるな、|嗅《か》ぎ|煙草《たばこ》でも一服どうです、さよなら、さようなら!」ポリーは|止《とま》り木の上ではね上がり、おばあさんの|帽《ぼう》|子《し》を引っかきながら、ぎゃあぎゃあと|啼《な》き声立てた、ローリーが|背《せ》|中《なか》を引っぱったのである。
「やかましい、ほんとに失礼なおいぼれ鳥だ! ジョーや、おまえさんはさっさと帰ったほうがいいよ、おそくまでほっつき歩くのはよくありませんよ、あんなおしゃべりの男の子――」
「やかましい、失礼なおいぼれ鳥!」とポリーが叫びながら、すっと|椅《い》|子《す》から飛びおりて老婦人の今の言葉にげらげら笑っている「おしゃべりな男の子」をつつこうと走ってきた。
「とても|我《が》|慢《まん》ができそうもないわ、でも我慢してみるわ」|伯《お》|母《ば》さんのそばへひとりぼっちでおいていかれたとき、エーミーはこう思った。
「行っちまえ、おばけ!」とポリーがわめいた、その|無《ぶ》|礼《れい》|千《せん》|万《ばん》な言葉をきいて、エーミーはとうとうしくしくと|泣《な》きだしたのである。
第十八章 暗い日
ベスはほんとに|猩紅熱《しょうこうねつ》だった、それもハンナとお医者さま以外の者が思っていたよりも、はるかに重かったのである。少女たちは病気のことはなに一つしらなかったし、ローレンスさんはベスを|見《み》|舞《ま》うことを|禁《きん》じられた、そこでハンナが思うとおりに|采《さい》|配《はい》を|振《ふ》るい、|多《た》|忙《ぼう》なバングス先生もよくしてはくだすったが、たいていのことはこの|優秀《ゆうしゅう》な|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》にまかせたのであった。メグはキングさんの子供にうつしてはいけないと思ってでかけずに、家の仕事をしていた。そしてお母さまへ手紙を書くときに、ベスの病気のことをなにも書かないのがひどく気にもなり、少しは気もとがめた。|彼《かの》|女《じょ》は、お母さまをだますのはよくないと思った、でも、ハンナの言うことをきくようにと言われてもいたし、それにハンナは「|奥《おく》さまに知らせて、こんな小さなことで心配をおかけする」ことをなんとしても聞きいれなかったのである。ジョーは昼も夜もベスにつきっきりだった、それは|骨《ほね》の折れる仕事ではなかった、というのはベスはたいへん|辛《しん》|抱《ぼう》づよく、|我《が》|慢《まん》のできる|限《かぎ》りじっと苦しみに|耐《た》えていたからである。しかしそのうちに、熱が高くなって、しゃがれた、とぎれとぎれの声でものを言ったり、だい|好《す》きな小さなピアノを|弾《ひ》いているつもりで|掛《かけ》|蒲《ぶ》|団《とん》の上に指を走らせたり、歌などはうたえるはずのないはれあがった|咽《の》|喉《ど》で歌をうたおうとしたりするようなときがきた。そのころになると、そばにいる親しい人たちの顔さえも見分けがつかなくなって、名前を|間《ま》|違《ちが》えて|呼《よ》びかけたり、あわれっぽく母を呼んだりするようになった。ジョーはだんだん心配になってきた、メグはほんとうのことを書かせてほしいと|頼《たの》んだ、ハンナまでが「まだそれほどのことはないと思いますが、考えてみましょう」と言うようになった。おまけに、ワシントンからの便りは、みんなの心配を|増《ま》す種となった、マーチ氏の病気がぶり返して、当分帰る見こみはないと言ってきたのである。
今は、毎日がなんと暗く、家はなんと悲しく|寂《さび》しいところに思われたことだったろう。かつては幸福だった一家の上に死の|影《かげ》がたれこめているこのごろ、仕事にいそしみながらいい時のくるのを待っている姉妹たちの心はどんなに重かったことか! マーガレットが、お金で買える|贅《ぜい》|沢《たく》なものよりもはるかに|尊《とうと》いもの、すなわち、|愛情《あいじょう》、|保《ほ》|護《ご》、平和、健康というような人生の真の|祝福《しゅくふく》を、今までどんなに|豊《ゆた》かに|恵《めぐ》まれていたかということを、ひとりすわって仕事の上に|涙《なみだ》を落としながら感じたのは、このときだった。そしてまたジョーが、うす暗くした部屋に|寝《ね》|起《お》きして、病に苦しむ妹を目の前にし、あわれな声を耳にしながら、ベスの気だての美しいことややさしいことを知ったり、妹がみんなの心の中深く愛されていることを感じたりしたのもこのときであった、またベスがいつも他人のために生き、なんでもない美徳を行いながら家庭を幸福にしてくれる、その|犠《ぎ》|牲《せい》|的《てき》な|値《ね》|打《う》ちをもジョーはこのときつくづくと|認《みと》めたのであった、そのような美徳こそはだれでももとうと思えばもてるもので、それは|才《さい》|能《のう》とか|富《とみ》とか美とかいうものにもまして人々から愛せられ、|尊《とうと》ばれなくてはならぬものである。島流しにあったエーミーは、家にいてベスのためにいろいろのことをしてあげたいと心から願うようになった。そして今となってはどんな仕事だってつらいのいやだのということはないように思われ、それとともに今まで自分のなまけた仕事をベスはいくらでも|快《こころよ》くやっていてくれたのだということを思いだしては、|後《こう》|悔《かい》の|涙《なみだ》にくれていた。ローリーは|一《いっ》|刻《こく》もじっとしていられなくて、|幽《ゆう》|霊《れい》のように家に出たりはいったりするし、ローレンス氏はいつも自分のために夕方を楽しいものにしてくれた|隣《となり》の|娘《むすめ》を思い出すにしのびなくて、グランドピアノに|鍵《かぎ》をかけてしまった。だれも|彼《かれ》もベスの見えないのをさびしがった。|牛乳屋《ぎゅうにゅうや》もパン屋も|八《や》|百《お》|屋《や》も肉屋もベスの|容《よう》|体《だい》はどうかと|尋《たず》ねた。気の毒なフンメルのおかみさんも、ミンナの|経《きょう》かたびらをもらいにきて、自分の考えのいたらなさをわびていった。近所の人たちもいろいろと|見《み》|舞《ま》いの品を|届《とど》けてきては早くなおるようにと言ってくれた、ベスをよく知っている者たちでさえ、いまさらのようにあのはにかみやのベスがこんなに多くの友だちをもっていたことを|驚《おどろ》くのであった。
さてベスは、|例《れい》のぼろ人形のジョアナをそばに|寝《ね》かして、静かにベッドに横たわっていた。|彼《かの》|女《じょ》は高熱にうつらうつらとしているあいださえ、かたときもこのよるべのない|孤《こ》|児《じ》を|忘《わす》れることがなかったのである。|猫《ねこ》にも会いたかったのだが、うつるのを|恐《おそ》れて連れてこさせなかった。そして気分の落ち着いたときにはジョーのことばかり心配していた。エーミーにもやさしいことづてを|頼《たの》んでやるし、お母さまにはもうじきお手紙を書きますと言ってあげてほしいとみんなに頼み、また|実《じっ》|際《さい》たびたび紙と|鉛《えん》|筆《ぴつ》をほしがって、お父さまのことを|忘《わす》れているのではないということを|一《ひと》|言《こと》書こうとするのであった。しかしこのようなわずかな正気のときさえもだんだん少なくなって、|辻《つじ》|褄《つま》の合わぬことを口走ったり、こんこんとした|眠《ねむ》りに|陥《おちい》ったりするようになった。そしてそんな眠りのあとでは少しも気分はさばさばしないのである。バングス先生は日に二回|来《らい》|診《しん》し、ハンナは夜通し起きていた、メグはいつでも打てるように|頼《らい》|信《しん》|紙《し》を用意して|机《つくえ》の中にしまっておいた、ジョーはベスのそばをかたときも|離《はな》れなかった。
十二月一日は、彼女らにとっていかにも冬らしい日だった、風は|激《はげ》しく|吹《ふ》きしきり、雪さえ落ちて、その年も|暮《く》れ近いのを思わせた。バングス先生はその朝ベスを|見《み》|舞《ま》って、長いことみていたが、ベスの熱い手を自分の両手にはさんでしばらく|握《にぎ》っていたかと思うと、また静かに下へおいて、低い声でハンナに言った、――
「もしも|奥《おく》さんがご主人をおいていらっしゃれるようなら、ちょいとお|呼《よ》びしたほうがいいでしょうな」
ハンナはだまってうなずいた、くちびるがわなわなとふるえてものが言えなかったのである。メグはそれをきいて、手足から力が|抜《ぬ》けてしまったように、へたへたと|椅《い》|子《す》にくずおれた。ジョーはちょっとの間、青ざめて立っていたが、やにわに客間へ走り|込《こ》み、|頼《らい》|信《しん》|紙《し》をひっつかむと|身《み》|支《じ》|度《たく》もそこそこに|吹雪《ふぶき》の中へとびだした。まもなく|戻《もど》ってきて、音のしないように|外《がい》|套《とう》をぬいでいると、ローリーが一通の手紙を持ってきた、そしてマーチ氏がまたもち直してきたと告げた。ジョーはその手紙をうれしく読みはしたが、それでも心の重みが去ったとも思われずあわれな顔をしていたら、ローリーが急いできいた、
「どうしたの? ベスが悪いの?」
「お母さまに|電《でん》|報《ぽう》|打《う》ったの」ジョーはゴム|靴《ぐつ》を引っぱりながら、|悲《ひ》|愴《そう》な|表情《ひょうじょう》をして言った。
「よかったね、ジョー? 君、自分で|責《せき》|任《にん》もってやったの?」ローリーはたずねながら、ジョーを|玄《げん》|関《かん》の|椅《い》|子《す》にかけさせ、手がふるえてるのをみてその|強情《ごうじょう》な|長《なが》|靴《ぐつ》をぬがしてやった、
「|違《ちが》うの、先生がおっしゃったの」
「ああ、ジョー、まさかそれほど悪いんじゃないだろうね?」ローリーはぎょっとした|面《おも》|持《も》ちで|叫《さけ》んだ。
「いいえ、それが悪いの。もう私たちのこともわからないし、みどり色の|鳩《はと》ぽっぽだなんていってた|壁《かべ》|紙《がみ》の|葡《ぶ》|萄《どう》の葉のことも言わなくなったのよ。もういつものベスのようじゃないわ。この苦しみに|耐《た》えるような力を|貸《か》してくれる人はどこにもないのね、お母さまもお父さまもいらっしゃらないし、神さまだって遠い遠いところにいらっしゃるみたいで、私にはお|姿《すがた》も見えないわ!」
かわいそうにジョーは|頬《ほお》に|涙《なみだ》をほとばしらせながら、|暗《くら》|闇《やみ》で|捜《さが》し物をするときのような、たよりない|格《かっ》|好《こう》で手をのばした。ローリーはその手をとって、|咽《の》|喉《ど》をつまらせながら、やっとの思いで言った、――
「|僕《ぼく》がいる、僕につかまりたまえ、ジョー」
ジョーはなにも言えずに、言われたとおりに「つかまった」。|友情《ゆうじょう》にあふれた人の|暖《あたた》かい手はしっかりと彼女の手を|握《にぎ》って、|傷《きず》ついた心をも|慰《なぐさ》めながら、苦しいときの|唯《ゆい》|一《いつ》のささえなる神の|御《お》|手《て》近くつれてってくれるかのようであった。ローリーはなにかやさしい慰めの言葉を|述《の》べたかったのであるが、|適《てき》|当《とう》な言葉が|浮《う》かばなかったので、だまってそこに立ったまま、彼女の母がよくしてやっていたように、うつむいている頭を静かになでてやった。これが彼のせいいっぱいのなぐさめだったが、|雄《ゆう》|弁《べん》な言葉などよりはるかによく彼女の気持ちをやわらげてくれた。ジョーにはこの|無《む》|言《ごん》の慰めがよくわかり、彼女もまた無言のまま、友の感情が自分の悲しみに|与《あた》えてくれるこの|快《こころよ》い慰めを感じとったのである。やがて彼女は気持ちをさっぱりさせてくれた|涙《なみだ》をぬぐい、|感《かん》|謝《しゃ》にあふれた顔を上げた。
「ありがとう、テディ、だいぶ落ち着いたわ、もうあんなにひとりぽっちだという気はしなくなったわ、どんなときがきてもしっかりしていられそうよ」
「いちばんいい場合を考えるようにした方がいいよ、そのほうがずっと君のためになるからね、ジョー。もうじきお母さまが帰っていらっしゃれば、いろんなことがすっかりうまくいくよ」
「お父さまが|快《よ》いってのがほんとにうれしいわ、もうお母さまだって、おそばを|離《はな》れてらしてもご心配じゃないでしょう。ああ! いろんな苦しみがみんないっぺんに|押《お》しよせてきたような気がするわ、そのなかでいちばん重いのを|背《せ》|負《お》っているのが私よ」ジョーはぬれたハンカチを|乾《かわ》かそうと|膝《ひざ》の上にひろげながら、ためいきをはいた。
「メグはちゃんと|看病《かんびょう》しないの?」ローリーは|憤《ふん》|慨《がい》したようにきいた。
「いいえ、やってくれるわ、でもあのひと、ベスをかわいがるったって私ほどじゃないでしょう、もしものことがあったって私ほどは悲しまないと思うの。ベスは私の良心よ、どんなことがあったってあきらめられない、とても、とても!」
ジョーはぬれたハンカチに顔を|押《お》し|伏《ふ》せて身も世もないように|泣《な》いた、彼女は|健《けな》|気《げ》にも今日までこらえにこらえて一てきの|涙《なみだ》も流さずにきたのであった。ローリーも思わず目をこすった、が|咽《の》|喉《ど》にはこみ上げるものがありくちびるはふるえて、それがしずまるまではなにを言うこともできなかった。それは男らしくないことだったかもしれない、しかし彼としてはそうしかできなかったのだし、私はそれをうれしく思うものである。やがてジョーのすすり泣きがしずまったとき、彼は明るい調子で言った、「あの子は死にゃしないよ、あんないい子なんだし、僕たちだってこんなにかわいがっているんだもの、神さまだってまだあの子をつれてっておしまいになるようなことはないと思うよ」
「心のりっぱな、やさしい人は死んじまうものよ」とジョーは|呻《うめ》くように言った、しかし泣くのはもうやめていた、今言ったような|疑《うたが》いや|恐怖《きょうふ》もありながら、友の言葉は彼女を元気づけたのであった。
「かわいそうに! |疲《つか》れてるんだね。そんなに|寂《さび》しがるなんて君らしくないよ。ちょっと待っててね、今じき元気にしてあげるから」
ローリーは二段ずつ一またぎに階段を|駆《か》け上がって行った。ジョーはベスの小さな茶色の|頭《ず》|巾《きん》の上に、疲れた頭をのせてうつ|伏《ぶ》した、その頭巾は、ベスがそこへのせてあったのを、だれもとりかたづけようともしないでそのままになっていたものであった。その頭巾には何かふしぎな力でもはいっていたものか、やさしい持ち主の|忍従的《にんじゅうてき》な|魂《たましい》がジョーの心の中にしのびいってくるように思われた。ローリーが|葡《ぶ》|萄《どう》|酒《しゅ》を注いだコップをもって駆けおりてくると、ジョーはにっこりしてそれを受けとり、元気に言った、「じゃいただくわね。私の大すきなベスの健康を|祈《いの》って! テディ、あなた全く名医ね、その上|慰《なぐさ》めじょうずな友だちよ、どうしてお礼をしたらいいの?」からだは葡萄酒で元気づき、心はやさしい言葉で慰められて、ジョーはこう言い|添《そ》えたのである。
「そのうち|勘定書《かんじょうがき》をさし上げます。だけど|今《こん》|晩《ばん》はね、そんなお酒なんかより、もっともっと君が喜ぶものをあげようと思うんだ」とローリーは言った、彼女を見てにこにこしているその顔には、なにかうれしいことを|隠《かく》しているような様子がうかがわれた。
「なんなの?」ジョーはそれをききたさに、ちょっとの間、悲しみも|忘《わす》れて|叫《さけ》んだ。
「僕ね、|昨日《きのう》のうちに君のお母さまに|電《でん》|報《ぽう》を打ったんだよ。そしたらブルックさんから、お母さまがすぐたつって返事がきたんだ、今晩あたりお着きになるよ。そしたらなにもかもうまくいくだろう。僕がしたこと喜んでくれる?」
ローリーは大急ぎでこれだけ話すと、さっと血の気がのぼって|興《こう》|奮《ふん》の|面《おも》|持《も》ちとなった、彼は姉妹や病人のベスを、がっかりさせるようなことがあってはならないと思って、今までこの|企《たく》らみをひた|隠《かく》しにしてきたのである。
ジョーはまっ青になり|椅《い》|子《す》からとび起きた、そしてローリーが、言葉を切ったとたんに、彼の首に|腕《うで》を回して、相手をどきんとさせながら、うれしくってたまらないように|叫《さけ》びだした、「ああ、ローリー! お母さま! うれしいっ!」彼女はもう|泣《な》きはせずに、ヒステリックに|笑《わら》いだして、からだをふるわしたり、友だちにかじりついたりした。あまりに思いがけないことをきかされて、少し|混《こん》|乱《らん》したのではないかと思われるほどだった。
ローリーも|驚《おどろ》いたことは驚いたが、|至《し》|極沈着《ごくちんちゃく》にふるまった、気持ちを|柔《やわ》らげるように|背《せ》|中《なか》をぱたぱたとたたいてやってから、だんだんジョーが気持ちをとり直してきたのをみて、きまり悪そうなキッスを一つ二つしたのである。それでジョーはすっかりわれに返ってしまった。
手すりにつかまりながら、彼女はやさしくローリーを|押《お》しのけ、息もきれぎれに言った。「あら、だめよ! 私あんなにするつもりじゃなかったのよ、わるい子だったわ、だけどあんたハンナにかまわず電報を打ちに行ってくれたりして、あんまり親切だから、私思わず飛びついたりしたんだわ。さ、すっかり話してちょうだい、もうお酒なんか飲ませちゃいやよ、私があんなことしたのもお酒のせいよ」
「僕はかまわないよ」とローリーは|笑《わら》いながら、ネクタイを直した。「だってね、僕もおじいさまも少しじれったくなっちゃったんだ、そして僕たち、ハンナはあまり|独《どく》|裁《さい》|的《てき》だ、お母さまにはどうしたって知らせなくちゃいけないって考えたんだよ。もしもベスが――いや、もしなにか変わったことが起きたら、お母さまは僕たちをゆるしてはくださらないだろう、そうだろう。なにかするなら今のうちだって、おじいさまもおっしゃるようになったんだよ、それで僕|昨日《きのう》、|郵便局《ゆうびんきょく》に|駆《か》けつけたのさ、だってお医者さまがむずかしい顔なすったとき、僕が|電《でん》|報《ぼう》のこと言ったら、ハンナのやつ、僕を|叱《しか》りとばしたろう。僕はあんなふうに人からどやされるのは|我《が》|慢《まん》できないんだ、おかげで決心がついて、やっちまったってわけさ。お母さまきっと帰っていらっしゃるよ、終列車は夜中の二時だ。僕がお|迎《むか》えに行くよ、あんたはいよいよお着きになるまでその喜びを|瓶《びん》|詰《づ》めにでもして、ベスをそっとしといてくれさえすればいいんだよ」
「ローリー、あなたはほんとうに天の使よ! どうしてお礼申し上げたらいいの?」
「もう一ぺんとびつきたまえ、|歓《かん》|迎《げい》するよ」ローリーはいたずらっ子らしい顔をして言ったが、そんな顔はこの二週間以来、みたことのないものであった。
「おあいにくさま。おじいさまがいらしったら、代わりにとびついてさしあげるわ。からかってないで、お家へ帰ってお休みなさい、また夜中から起きなくっちゃならないんだから。ありがとう、テディ、ありがとう!」
ジョーはすみのほうに引っ|込《こ》んでいたのを、しゃべるだけしゃべると|一《いち》|目《もく》|散《さん》に台所に|駆《か》け込んで、調理台に|腰《こし》かけ、そこに集まっていた|猫《ねこ》どもに、「うれしいんだよ、とってもうれしいんだよ!」と言ってきかせた、ローリーは全くいいことをしたものだと思いながら、自分の家へ帰って行った。
「なんておせっかいな|小《こ》|僧《ぞう》さんだろう。でもまあかんべんしてあげましょう、そしてこうなったら|一《いっ》|刻《こく》も早く|奥《おく》さまがお帰りになるようにお待ちするとしましょう」ジョーが|吉《きっ》|報《ぽう》をつたえると、ハンナはほっとした顔つきでこう言った。
メグも喜んだがジョーのように|大《おお》|騒《さわ》ぎはしないで、じっと手紙に読みふけった。その間ジョーは病室を|整《せい》|頓《とん》し、ハンナは「ひょっくりお連れでもあったときの用意に、大急ぎでパイを二つこしらえた」。家の中をさっと|新《しん》|鮮《せん》な風が|吹《ふ》き|抜《ぬ》けたかのような気がし、太陽の光よりも|輝《かがや》かしいものが、この静かな室を明るく照らしたように思われた。なにもかもが希望にみちた変化を生じたようにみえてきた。ベスの小鳥はふたたび|囀《さえず》りだすし、|窓《まど》べにあったエーミーの|鉢《はち》にはばらの花が半分ふくらみかけていた、|炉《ろ》の火さえいつになく楽しげに|燃《も》えているように思われた。|娘《むすめ》たちは青ざめた顔を見合わすたびににっこりとほほえみくずれ、|互《たが》いに|相《あい》|抱《いだ》いては、|励《はげ》まし合うように「お母さまが帰っていらっしゃるのねえ!」とささやくのであった。ベス以外の者はだれも彼も喜びにあふれている中に、ベスは|依《い》|然《ぜん》としてこんこんとねむり、希望も喜びも|懸《け》|念《ねん》も|危《き》|険《けん》もともにしらずに横たわっていた。それはほんとうにいたいたしい光景だった、――かつてはばら色だった顔はみるかげもなく変わりはててうつろな|形相《ぎょうそう》を|呈《てい》している、――かつては|忙《いそが》しく働いた手は弱々しくやせ細っている、――かつては|絶《た》えず|微《ほほ》|笑《えみ》を|浮《う》かべていたくちびるは今は全く閉じられたままだった、――そしてかつては美しく、ブラッシングされていた|髪《かみ》は|枕《まくら》の上にばさばさと|乱《みだ》れもつれていたのである。一日じゅう彼女はそういう|姿《すがた》で横たわっていた、ときどき目をさましてはわずかに「お水!」と言ったが、そのくちびるも|乾《かわ》ききって、言葉もききとれないくらいである。一日じゅう、ジョーとメグとは彼女のそばをうろうろしながら、|寝《ね》|顔《がお》を見守り、じっと待ち望み、神と母との|加《か》|護《ご》を信じていたのである。雪は終日|降《ふ》りつづき、風は|激《はげ》しく|吹《ふ》き|荒《あ》れる中に時間ばかりはのろのろと|過《す》ぎて行った。とうとう夜がきた。柱時計が鳴るたびに、ベッドの両側に起きつづけている姉妹は目を|輝《かがや》かして顔を見合わせた。一時間一時間と救いの手が近づいてくる。お医者さまはさっき|来《らい》|診《しん》のときに、夜の十二時ごろになると、|善《ぜん》|悪《あく》いずれかの変化が起きるかと思うから、そのころにまた来ますと言って帰っていった。
ハンナはくたくたに|疲《つか》れて、ベッドの足元のソファの上に横になりぐうぐう|眠《ねむ》っていた、ローレンスさんは、マーチ夫人が|帰《き》|宅《たく》したときの心配顔を見るくらいなら、いっそ|敵《てき》の|砲《ほう》|兵《へい》中隊に出くわしたほうがましだなどと思いながら、客間の中をうろうろと歩き回っていた、ローリーはというと、休養するふりをして|敷《しき》|物《もの》の上に横になりながら、心配そうな顔をしてじっと火を見つめていたが、その顔つきは彼の黒い目をひとしおやわらかく、|澄《す》みきったものに見せていた。
それは姉妹にとって一生|忘《わす》れることのできない一夜だった。このような時にだれもが感ずるような、あの|恐《おそ》ろしい|無力感《むりょくかん》をひしひしと味わいながら、病人を見守りつづけていると、|睡《ねむ》|気《け》などはどこからも|襲《おそ》ってこなかったのである。
「もしも神さまがベスを助けてくだすったら、私もう二度と不平なんか言わないわ」メグは小さな声でしみじみと言った。
「神さまがベスを助けてくだすったら、私は一生神さまを愛して、おつかえしてあげるわ」とジョーも負けずに|熱情《ねつじょう》をこめて言った。
「私、心なんてものなければよかったと思うわ、苦しくってたまらないんですもの」メグはしばらくたってから、そう言ってためいきをついた。
「人生ってものがいつもこんなにつらいものなら、私たちなんかとても生き|抜《ぬ》いてはいけないような気がするわ」妹はがっかりしたように言いたした。
このとき、十二時が鳴った。姉妹はわれを忘れてベスを見守った、彼女のやつれた顔にちらと変化が生じたように思えたのである。家の中は死のようにひっそりしている、深いしじまを|破《やぶ》るものは悲しげに|泣《な》く風の音だけであった。ハンナはよくよく|疲《つか》れたとみえ、まだぐっすりと|眠《ねむ》っている。それでこの小さなベッドの上にしのびよったように見えた、|蒼《あお》|白《じろ》い|影《かげ》を見たものはふたりの姉妹だけだったのである。一時間たった。ローリーがそっとたって駅へ行ったほかにはなんの変化も起こらなかった。また一時間たった、――まだだれも|現《あらわ》れない。|吹雪《ふぶき》で|遅《おく》れているのではあるまいか、|途中《とちゅう》で|事《じ》|故《こ》があったのではないか、あるいはもっと悪いことに、ワシントンで悲しいことが起こったのではないか、などと気がかりなことが次から次へとあわれな姉妹の心につきまとって|離《はな》れなかった。
二時|過《す》ぎたころだった、ジョーは|窓《まど》ぎわに立って、雪の|経《きょう》かたびらに包まれたこの世界はなんとわびしいところだろうなどと考えていると、ふとベッドのほうで物の動く|気《け》|配《はい》がした、急いでふり返ってみると、メグがお母さまの安楽|椅《い》|子《す》の前に顔をうつぶせてひざまずいていた。
「ベスが死んだんだ。姉さんは私に言うのがこわいんだわ」と思ったら、ジョーは|恐《おそ》ろしさに|背《せ》すじが寒くなった。
彼女は大急ぎで元の場所へもどって行った、|興《こう》|奮《ふん》しきっている目には、たいへんな変化が起こっているようにみえたのである。熱のための赤らみも|苦《く》|痛《つう》の色もなくなって、あのかわいい顔が今は完全なやすらぎにはいっているように、ただ白く平和に見えたので、ジョーはもう|泣《な》いたり|嘆《なげ》いたりする気も起こらないほどだった。彼女は、姉妹中でいちばんかわいいこの妹の上に低く身をかがめ、心をこめたくちびるで、ベスの|湿《しめ》った|額《ひたい》にキッスしながら、ゆっくりとささやくように言った、
「さようなら、ベス、さようなら!」
物の気配に目をさましたのか、ハンナは|眠《ねむ》っていたのを飛び起きて、ベッドのそばに走り|寄《よ》り、ベスの様子を見て、それから|脈《みゃく》をとり、くちびるに耳をよせて|呼吸《こきゅう》をきいた。それからエプロンを頭の上にはねのけると、ぺたりと|腰《こし》をおろしてからだを前後に|揺《ゆ》すぶりながら、声ひそませて|叫《さけ》んだ、
「熱が下がりましたよ、気持ちよく|眠《ねむ》っていらっしゃる、|汗《あせ》もでてるし、|呼《い》|吸《き》もらくにおなりです、ありがたや、ありがたや、やれやれよかった!」
このうれしい事実を姉妹が|半《はん》|信《しん》|半《はん》|疑《ぎ》でいるところへお医者さまがきて、それはいよいよほんとうだとうけ合った。この先生はあまり|風《ふう》|采《さい》の上がらない人だったが、今、にっこりしながら、お父さまかなんぞのようにみんなのほうを見て、次のように言ったときには、全くその顔が神さまのように見えたのだった、「そうですね、みなさん、お妹さんはもう|大丈夫《だいじょうぶ》でしょう、あとはお家を静かにして、よく眠らせてあげてください、お目がさめたら、さし上げていただきたいものは――」
なにをさし上げるのかだれもきいてはいなかった。ふたりはまっ暗な|玄《げん》|関《かん》|口《ぐち》にしのび出ると、階段に|腰《こし》をかけ、喜びのあまり口もきけずにかたくかたく|抱《だ》き合ったのである。|忠義者《ちゅうぎもの》のハンナの|挨《あい》|拶《さつ》をも受けなくてはと、ふたたび室内へもどってみると、ベスはいつもするように、|頬《ほお》の下に手をおいて|寝《ね》ていたが、もうあの気持ちわるいほどの青さもなく、息づかいも軽やかに、今しもすやすやと眠りついたところらしかった。
「お母さま、ここへ帰ってらっしゃればいいのに!」長かった冬の夜がいつしか明けかかったとき、ジョーが言った。
「ちょっとごらんなさい」と言いながら、メグは半分開きかけた白ばらを一輪もってはいってきた。「私ね、もしもベスが、――いえ、あの遠いところへ行くにしても、明日持たせてやるのには間に合うまいと思っていたのよ。ところが夜のうちに|咲《さ》いちゃったじゃないの、だから私その|花《か》|瓶《びん》にさしてここへおいとこうと思うのよ、ベスが目をさましたら、この小ちゃなばらとお母さまのお顔が、いちばん先に目にはいるように」
メグとジョーが長い|寝《ね》ずの番を終えて、|翌朝《よくちょう》早く|窓《まど》の外を見たとき、重くはれた目に|映《うつ》った日の出ほど美しいものはこれまでに見たことがなく、この世がこれほどすばらしいものに見えたのも初めてのように思われた。
「お|噺《はなし》の国のようね」メグはひとりほほえみながら言った。彼女はカーテンの|陰《かげ》に立ってまばゆい|景《け》|色《しき》をながめていた。
「あら、あの音!」ジョーは|叫《さけ》ぶなり立ち上がった。
ほんとに、階下のドアのベルが鳴っている、ハンナが大声で叫んでいる、つづいてローリーが喜びにあふれた声を低くしてささやいた、――
「おいみんな、お母さまだよ! お母さまだよ!」
第十九章 エーミーの|遺《ゆい》|言《ごん》|書《しょ》
家でこのようなことが起こっているあいだに、エーミーはマーチ|伯《お》|母《ば》さんのところでつらい毎日を送っていた。今はつくづくと追放の身を|嘆《なげ》き、家にいたときいかに愛され|甘《あま》やかされていたかを今さらのように思いしったのであった。マーチ伯母さんという人は、人を甘やかしたことなどはなく、第一そんなことには|賛《さん》|成《せい》ができない人だった。それでも親切にしてやりたいという気はあったのである。エーミーはお|行儀《ぎょうぎ》がいいので大変|御《お》|気《き》にも入ったし、もともと|甥《おい》の子供たちに対しては、表にこそ|現《あらわ》さなかったが、年老いた心のかたすみにやさしい気持ちを持ち合わせてもいたのであった。事実伯母さんはエーミーをしあわせにしてやろうと思ってできるだけのことをした、ところが、ああ、伯母さんはなんとした|間《ま》|違《ちが》いをしたのだろう! 年とった人の中には、|皺《しわ》がよったり|髪《かみ》が|灰《はい》|色《いろ》になったりしても、|若《わか》い気持ちを失わず、子供たちの小さな心配事や喜びに共感することができ、|彼《かれ》らの気持ちをくつろがせ、楽しい遊びの中に|賢《かしこ》い|教訓《きょうくん》をひそませて、気楽な調子で|仲《なか》よくやってゆける人もいるのである。ところがマーチ伯母さんにはそういう|才《さい》|能《のう》がなかった。伯母さんは、たえず|規《き》|則《そく》だの命令だのをもち出し、やたらにきちんとし、長たらしいお説教をきかせてはエーミーを死ぬほど|悩《なや》ました。この子は姉よりもすなおで気立てがやさしいとわかってから、|老《ろう》|婦《ふ》|人《じん》はエーミーが家でしたい放題、わがままいっぱいに育った|結《けっ》|果《か》、少し悪い子になっているのを、根こそぎ直してやるのこそ、わがつとめだと思い|込《こ》んでしまった。そこでエーミーを|手《て》|許《もと》におき、ご自分が今を去る六十年も|昔《むかし》に受けた|躾《しつけ》をそっくりそのまま|施《ほどこ》すことにしたのである。これにはエーミーも|面《めん》|喰《くら》い、くもの|巣《す》の中に|捉《とら》えられたはえにでもなったような気がするのであった。
朝にはまずお|茶《ちゃ》|碗《わん》を|洗《あら》わなくてはならなかった、それから古風なスプーン、銀製の丸くふくらんだ茶器、ガラス製の器具といったようなものをぴかぴかに光るまで|磨《みが》かなくてはならなかった。それからお部屋の|掃《そう》|除《じ》だが、これがまたなんとつらい仕事だったろう! 一点のしみだって|伯《お》|母《ば》さんの目をのがれることはないのに、家具という家具はどれもこれも|猫《ねこ》あしになっているうえに、たくさん|彫刻《ちょうこく》が施してあるので、ちょっとやそっとで|埃《ほこり》がとれるものではなかった。その次がポリーの|餌《えさ》の世話に|狆《ちん》の毛に|櫛《くし》をかける仕事、この他、日に十度以上も階段を上ったり下りたりして物をさがし、または|召《め》し|使《つか》いに用をつたえなくてはならなかった、伯母さんは足が悪いので、めったに大きな|椅《い》|子《す》から動くことがなかったのだ。こういうやっかいな仕事がすむと、エーミーは勉強もしなければならなかったが、それがまた|彼《かの》|女《じょ》の持ち合わせている美徳を一つのこらず毎日試してくれるようなものだった。そのあとでやっとのことで運動したり遊んだりする時間を一時間ほど|与《あた》えられたが、彼女にはそれがまあどんなにうれしかったことだろう! ローリーは毎日やってきてはマーチ伯母さんをうまいこと|口《く》|説《ど》いて、エーミーを連れだすお|許《ゆる》しを|得《え》、散歩をしたり馬車に乗ったりして楽しい一ときを|過《す》ごすのであった。お昼ごはんのあとでは大きな声で本を読んであげなければならなかった。|伯《お》|母《ば》さんは初めの一ページではや|寝《ね》|息《いき》をたてそれから一時間ばかり|眠《ねむ》るのがおきまりだったが、そうやって眠っている間じゅう、エーミーはおとなしくすわっていなければならなかった。それからつぎはぎ細工とかタオルの|縁《ふち》|縫《ぬ》いなどが|現《あらわ》れる、エーミーは一見|従順《じゅうじゅん》に、心の中で|反《はん》|抗《こう》|心《しん》を|燃《も》えたたせながら、夕方まで|針《はり》を動かした。これがすむとお夕飯までは自分の|好《す》きなことをしてもいいのだった。お夕飯のあとがいちばんいけなかった。マーチ伯母さんは自分が|若《わか》い時の話を長々と話しだすのである、それがなんともかとも言いようのないほど|退《たい》|屈《くつ》なものなので、エーミーはさっさと|寝《ね》|床《どこ》に|逃《に》げ|込《こ》むことにし、そこで自分のつらい運命を思いっきり|泣《な》き悲しもうと思うのだったが、事実はほんの一|粒《つぶ》か二粒の|涙《なみだ》をすすり上げるか上げないうちに、すやすやと寝入ってしまうのがつねだった。
ローリーとメイドのエスターがいてくれるのでなかったら、彼女にはとてもこの|恐《おそ》るべき毎日を|暮《く》らしていくことはできないと思われた。|鸚《おう》|鵡《む》だけでも彼女をのぼせさせるには十分だった、というのはこの鳥は自分がエーミーの気に入らないとさとるやいなや、せいいっぱいのいたずらをしてかたきうちをしたからである。そばへくれば必ず|髪《かみ》の毛をひっぱる、鳥かごを|掃《そう》|除《じ》してやればパンとミルクを引っくり返して|困《こま》らせる、ご主人が|昼《ひる》|寝《ね》をすればモップをつついて|吠《ほ》えさせる、お客さまの前ではエーミーのことをばかだの、あほうだのと悪口をいう、というふうでありとあらゆる失礼なふるまいをするのであった。その犬もまた彼女には|我《が》|慢《まん》がならなかった、むくむく太った意地の悪いやつで、からだを|洗《あら》ってやろうとすればうなったり|吠《ほ》えたり、何か食べたいときにはばかみたいな顔をして足を|宙《ちゅう》に上げ、あおむけに引っくり返る、それを日に十ぺん以上もやるのである。料理番は|怒《おこ》りっぽく、|馭《ぎょ》|者《しゃ》のじいさんはひどい無口というわけで、お|嬢《じょう》さんのことを気にかけてくれるのはわずかにエスターただひとりであった。
エスターはフランス人で、「マダム」と|呼《よ》んでいるここの女主人と長年いっしょに|暮《く》らしてきて、自分なしではやっていけないこの|老《ろう》|婦《ふ》|人《じん》に対し、どちらかといえば勝手きままな|振《ふ》る|舞《ま》いのできる女であった。ほんとの名前はエステルというのだったが、マーチ|伯《お》|母《ば》さんが、変えるようにと命じたので|改宗《かいしゅう》しなくともよいという|条件《じょうけん》で、それに|従《したが》ったのだった。彼女はマドモワゼルが気に入って、マダムのレースにこてをあてている時など、エーミーがそばにすわっているとフランスにいたときの|珍《めずら》しい話などをしてきかせて、彼女を楽しませてくれた。彼女はまたエーミーに広い家の中を自由に歩き回らせて、大きな|衣《い》|装箪笥《しょうだんす》や|昔風《むかしふう》な|箱《はこ》の中にしまい|込《こ》まれている珍しい、きれいな物をいろいろと見させてくれもした。マーチ伯母さんは|鵲《かささぎ》のようにため込んでいたのである。エーミーのいちばんのお気に入りはインドでできた|陳《ちん》|列《れつ》|棚《だな》で、これには|奇妙《きみょう》な引き出しや、小さな仕切り|桝《ます》や、一見それとわからぬ入れ場所などがいっぱいついていて、それらの中には|得《え》がたいもの、ただ珍しいだけのものなど、あらゆる|装《そう》|身《しん》|具《ぐ》がしまわれていたが、どれも多少の古色を帯びないものはなかった。これらの品を手にとってみたり、きちんと|並《なら》べたりすることはエーミーに多大の満足を|与《あた》えたが、なかでも彼女の気に入ったのは|宝《ほう》|石《せき》の|箱《はこ》だった。その中には四十年前によきひとの身を|飾《かざ》った美しい品々が、ビロードのクッションの上に静かに横たわっていた。|伯《お》|母《ば》さんがはじめて社交界に出たときにつけた|柘榴《ざくろ》|石《いし》のセットもあった、|結《けっ》|婚《こん》の日に父なる人から与えられた|真《しん》|珠《じゅ》もあった、|恋《こい》|人《びと》から|贈《おく》られたダイアモンドもあれば、|服《ふく》|喪《も》|用《よう》の黒玉の指輪やピンもあった。|片《かた》|側《がわ》になき友の|肖像《しょうぞう》をはめ、内側には|髪《かみ》の毛でつくったしだれ|柳《やなぎ》をはめ|込《こ》んだ風変わりなロケットもあった、伯母さんのただひとりの小さな|娘《むすめ》がはめた赤ちゃん用の|腕《うで》|輪《わ》もあったし、大勢の小さな子供がおもちゃにした、赤い印形のついたマーチ|伯《お》|父《じ》さんの大きな時計もあった。最後に、伯母さんの結婚指輪が|特《とく》|別《べつ》一つだけはいっている箱があったが、それは伯母さんの太った指にははまらなくなったので、いちばん大事な宝石としてていねいにしまわれていたものであった。
「どれでもいただけることになったら、お|嬢《じょう》さまはどれがいちばんお|好《す》きですか?」あるときエスターは言った。彼女はいつも側についていて、|貴重品《きちょうひん》に|錠《じょう》をおろす役目だった。
「|私《わたし》ダイアモンドがいいわ、でもダイアモンドのネックレースは一つもないのね、私、ネックレースが好きなのよ、よく|似《に》|合《あ》うから。私、もしいただけるんだったらこれにするわ」とエーミーは答えて、金と|象《ぞう》|牙《げ》の|数珠《じゅず》|玉《だま》を通し、同じものの|十字架《じゅうじか》が下がっている飾りひもをうっとりながめた。
「私もそれがほしくてしようがないんでございますよ、でもネックレースにいたすつもりではないので、いいえ、めっそうもない! 私は|数《ロザ》|珠《リオ》にいたしたいのです。数珠にして、りっぱなカトリックの信者らしく使いたいのでございます」とエスターは言って、さもほしくてたまらないように、そのりっぱな品のほうを見るのであった。
「あなたの鏡にかけてある、あのいい|香《かお》りのする木の数珠のようにして、使うつもりなの?」
「さようでございますよ、お|祈《いの》りをいたしますときにね、このようなおりっぱなものをただのつまらない|宝《ほう》|石《せき》として使うよりは、|数《ロザ》|珠《リオ》にして使いましたら、|聖《せい》|徒《と》さま方もお喜びになると思うのですよ」
「あなたはお祈りをするのがとても楽しそうね、エスター。いつも静かな、安心したような顔をしておりてくるんですもの、私もそんなふうになりたいわ」
「マドモワゼルが|旧教徒《カソリックきょうと》でいらしったら、ほんとうの|慰《なぐさ》めが|授《さず》かるんでございますがね、でもそういうわけにはまいらないのですから、毎日おひとりで|離《はな》れたところへいらしって、考えたりお祈りをしたりなすってはいかがでしょう、私がこちらの|奥《おく》さまのところへまいる前にご|奉《ほう》|公《こう》していた、やさしい奥さまはそうなすっていらっしゃいましたよ。小さな|礼拝堂《チャペル》がおありになりましてね、そこでいろいろな心配事を慰めていただいておいででした」
「私もそんなふうにしてもいいのかしら?」とエーミーはきいた。彼女は|寂《さび》しさのあまりなにかしらん助けがほしいと思い、またいつもそばにいて思い出させてくれたベスがいないので、このごろはあの小さな本を読むことさえ|忘《わす》れがちになっていることに気がついたのである。
「|結《けっ》|構《こう》でございますとも。おのぞみなら、|私《わたし》が小さなお|化粧《けしょう》部屋を|片《かた》づけてちょうどよくしてさしあげますよ、おくさまにはなにもおっしゃらずに、おひるねの時なぞにそこへいらしって、おひとりで静かにすわってよいことを考えたり、お姉さまをお守りくださるように神さまにお願いしたりなさいまし」
エスターはほんとうに信心深い女で、心からしみじみとそうすすめてくれるのであった、またやさしい心の持ち主で、心配に明け|暮《く》れしているエーミーの姉たちにも深く|同情《どうじょう》をよせていた。エーミーはチャペルの話が気に入って、それが自分をよくしてくれればいいと思いながら自分の部屋の|隣《となり》の小さな明るい小部屋を改造してもらうことにした。
「マーチ|伯《お》|母《ば》さまがおなくなりになったら、このりっぱな美しいものはみんなどうなるんでしょうねえ」エーミーはぴかぴかした|数珠《じゅず》をゆっくり元へもどし、|宝《ほう》|石《せき》の|箱《はこ》を一つ一つしめながら言った。
「お|嬢《じょう》さまやごきょうだい|衆《しゅう》におあげになるんでございます、はい。|奥《おく》さまがちゃんとお打ち明けになりましたもの。私はご|遺《ゆい》|言《ごん》|書《しょ》にも立ち会いましたし、|間《ま》|違《ちが》いはございませんです」エスターはにこにこしてささやいた。
「まあすてき! でも私、伯母さまが今くださるといいと思うわ。|延《えん》――|期《き》――とかっていうの、おもしろくないわね」エーミーはおなごりにまた|一《ひと》|目《め》ダイアモンドのほうをみながら言った。
「お|若《わか》いお|嬢《じょう》さま方がこんなものをおつけになるのは、まだまだ|早《はよ》うございます。いちばん先にご|婚《こん》|約《やく》遊ばした方が|真《しん》|珠《じゅ》をおもらいになるのでございますよ、|奥《おく》さまがそうおっしゃいました。それからあなたさまがお家へお帰りになるときには、きっとこの小さなトルコ玉の指輪をおいただきになりますよ、|伯《お》|母《ば》さまはあなたさまはお|行儀《ぎょうぎ》がよろしいし、なさることがおやさしいといって、ほめていらっしゃいましたからね」
「あらほんと? まあ、じゃ私もっともっとおとなしくするわ、このかわいい指輪がいただけるんだったら! あれなら、キティ・ブライアントの指輪よりずっと美しいんですもの。私やっぱりマーチ伯母さま|好《す》きよ」と言ってエーミーはうれしそうな顔をして、その青玉の指輪をはめてみながら、必ずこれを手に入れようとの決心を固めたのであった。
この日以来、エーミーは|従順《じゅうじゅん》というもののお手本のようになった、|老《ろう》|婦《ふ》|人《じん》は自分の|躾《しつけ》が|効《こう》を|奏《そう》したのだと思いはなはだ満足だったのである。エスターは|例《れい》の小部屋をチャペルらしくするために小さなテーブルをすえ、その前に足台を|置《お》き、テーブルの上方には、今使っていない室からはずしてきた一|枚《まい》の絵を|掲《かか》げた。エスターはその絵を大した|値《ね》|打《う》ちはないが、この場合ふさわしいものだと思って借りてきたのであった、そして奥さまは|大丈夫《だいじょうぶ》気がつくまいし、また気がついたところでなんとも言うはずはないとよく|心得《こころえ》ていたのである。ところがそれは世界の名画の中の一つでたいそう値打ちのあるものの|模《も》|写《しゃ》だったので、エーミーの美を|慕《した》う目は、その|聖《せい》|母《ぼ》さまのやさしいお顔を|仰《あお》ぐのにあきることはなく、またそれをながめていれば彼女の心はいつもやさしい思いにみたされてくるのであった。彼女はテーブルの上には小さな聖書と|賛《さん》|美《び》|歌《か》をのせ、|花《か》|瓶《びん》にはローリーの持ってきてくれる美しい花をさして、毎日「ひとりそこへすわって、よいことを考え、お姉さまをお守りくださるようにと神さまにお|祈《いの》りをした」のである。エスターは彼女に銀の|十字架《じゅうじか》のついた黒玉の|数珠《じゅず》をくれたが、エーミーは、新教徒のお祈りにそんなものをはめていいものかどうかわからなかったので、使わずにかけておいた。
この小さな|娘《むすめ》は、これらのことをごくまじめな気持ちで行った。家庭という安全な場所から、ひとり外へほうり出されてみると、なにかすがりつくやさしい手がほしくなり、彼女の心は|本《ほん》|能《のう》|的《てき》に強くやさしい「友」のほうへと向いていったのである、そのお父さまのような愛は世の|幼子《おさなご》たちを身近くしっかりと|押《お》し包んでくださるものだという。自分を|理《り》|解《かい》し、|導《みちび》いてくれる母の愛が|得《え》られないことは|寂《さび》しかったが、かねがね、心の向けどころを教えられていたので、彼女は|一生懸命《いっしょうけんめい》その道を|捜《さが》し、安心してそこを歩いて行くことにした。とはいってもエーミーはまだ幼い|巡礼者《じゅんれいしゃ》だったから、今の場合、その荷物はことのほか重く感じられるのであった。彼女は自分を|忘《わす》れ、いつも明るい気持ちでいるように努めた、たとえ人から|認《みと》められずほめられずとも、正しいことを行って満足しようと思った。ごくごく|善《よ》い人になろうとする努力の手始めに、彼女は|伯《お》|母《ば》さんのように、|遺言状《ゆいごんじょう》というものを作ろうと決心した。もしも自分が病気になるとか死ぬとかいうような場合、自分の持ち物いっさいを公平に、気前よく分けてもらうためにである。エーミーにとっては、伯母さんの|宝《ほう》|石《せき》|類《るい》と同じくらい|貴重《きちょう》なものに思われる小さな|宝物《たからもの》を人にやってしまうなんて、考えただけでも|胸《むね》が|痛《いた》むのであった。
彼女はあるとき、自由な遊び時間に、その重要な書類をできるだけじょうずに書きあげてみた、二、三の|法《ほう》|律《りつ》用語はエスターから教わった。人のよいフランス女が|証人《しょうにん》としての|署《しょ》|名《めい》を終えるとエーミーはほっと安心し、第二の|保証人《ほしょうにん》になってもらうつもりのローリーに見せるために、大事にしまっておいた。その日は雨が|降《ふ》っていたので、彼女はポリーを連れて二階に行き、大きな部屋の中でひとりで遊ぶことにした。そこには古めかしい|衣装《いしょう》のいっぱいつまった|箪《たん》|笥《す》がおいてあったが、エスターはそれらを自由にだして遊ばせてくれたのである。彼女は色あせた|金《きん》|襴《らん》の衣装を|着《き》|飾《かざ》って、長い鏡の前を行ったり来たりしながら、ものものしくおじぎをしてみたり、われとわが耳に|快《こころよ》い|衣《きぬ》ずれの音をきかせる長い|裳《もすそ》を引いて歩いたりするのがなによりの楽しみだった。今しも彼女はこの遊びに|夢中《むちゅう》で、ローリーがベルを鳴らしたのもきこえなければ、こっそりのぞき見をしているのにも気がつかなかった。彼女はまじめくさった顔をして、しゃなしゃなと|扇《おうぎ》を使いながら、ピンクのターバンをかぶった頭をぐっとそらせ、前や後へと歩を運んでいた。そのターバンは、青い金襴の衣装をまとい、綿のはいった|黄《き》|色《いろ》いペティコートをつけた|姿《すがた》にはいささか|妙《みょう》なとり合わせであった。足にはかかとの高い|靴《くつ》をはいているのでよほど気をつけて歩かなくてはつまずいてしまう。あとでローリーがジョーに話したとおり、彼女が|豪《ごう》|華《か》な衣装を着て、ちょこちょこと小またに歩く|格《かっ》|好《こう》は実に|滑《こっ》|稽《けい》であった、そのすぐうしろからポリーのやつが、できるだけご主人のまねをしてはすに歩いたり、そり身になったり、ときどき立ち止まっては「どうだ、りっぱだろう? 出て行け、お化け! やかましい! キッスしておくれ。ハ! ハ!」などとわめいたり|笑《わら》ったりしていた。
女王さまのごきげんを|損《そん》じては一大事なので、ローリーは|吹《ふ》き出したいのをやっとのことで|我《が》|慢《まん》して、戸をたたき|慇《いん》|懃《ぎん》に|招《しょう》じ入れられた。
「そこにかけて、こんなもの|片《かた》づけてしまうまで休んでてちょうだい。私とっても大事なことでご相談したいことがあるのよ」すっかりりっぱなところを見せてから、ポリーをすみっこに|押《お》し|込《こ》めて、彼女は言った。「あの鳥には苦労してるのよ」と言葉をつづけながら、エーミーは山のようにそそり立っているターバンをはずした。ローリーは|椅《い》|子《す》に馬乗りに|跨《またが》っている。「|昨日《きのう》もね、|伯《お》|母《ば》さんがお|昼《ひる》|寝《ね》してらっしゃるから、私はつか|鼠《ねずみ》みたいにおとなしくしていようと思ったら、ポリーがかごの中でぎゃあぎゃあないたり、ばたばた|羽《は》ばたいたりするんでしょう、仕方がないからそばへ行って出してやったの、そしたらかごの中にくもが一匹はいっていたのよ、それをつっ|突《つ》き出したら、するすると|本《ほん》|箱《ばこ》の下へはいってしまったの、ポリーってばそれを追っかけてって、しゃがむようにして本箱の下をのぞいてあのおかしな様子で、|片《かた》|目《め》で目くばせしながら、『出ておいで、散歩に行こうよ、ね』なんて言うの、私、吹き出さずにはいられなかったわ、そしたらポリーは|怒《おこ》ってあくたいをつくし、おかげで伯母さんが目をさましてふたりとも|大《おお》|叱《しか》られだったのよ」
「くもはポリーのご|招待《しょうたい》に|応《おう》じましたか?」とローリーはあくびをしながらきいた。
「ええ、そうなの、そしたらポリー、びっくりして|逃《に》げ出して、|伯《お》|母《ば》さんの|椅《い》|子《す》の上にはい上がって、私が追っかけてるそばから『つかまえろ! つかまえろ! つかまえろ!』って、|騒《さわ》ぐのよ」
「うそつき! やーい!」とわめいたかと思うと、おうむはローリーの|爪《つま》|先《さき》をつっついた。
「きさまが|僕《ぼく》のものだったら、首をひねってやるんだぞ! このおいぼれ鳥!」ローリーは鳥の前に|拳《げん》|骨《こつ》を|振《ふ》り回しながら|叫《さけ》んだ。鳥は頭をわきへよけて、「アーレルヤ! これはたまらん!」とまじめくさって叫びたてた。
「さ、|片《かた》づいた」とエーミーは|箪《たん》|笥《す》をしめながら言って、ポケットから一|枚《まい》の紙をとり出した。「これ読んでちょうだい。そして|法《ほう》|律《りつ》にかなっているかどうか教えてちょうだいな。私ね、そういうものを作っておくべきだと感じたのよ。人の|命《いのち》ってわからないものでしょう、それに私、死んでからみんなに悪く思われたくないんですもの」
ローリーは|笑《わら》いをこらえてくちびるをかみ、思いに|沈《しず》んでいる話し手から少し|離《はな》れ、|間《ま》|違《ちが》いだらけの字を読むにしては、全く感心なほどまじめな顔をして、次の書類を読み出した、――
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私の|遺《ゆい》|言《ごん》|書《しょ》。
私、|即《すなわ》ちエーミー・カーティス・マーチは、全く正気の心を|以《もつ》て、|我《わ》が地上の所有物|凡《すべ》てを左記の者に|譲渡《じょうと》す。即ち――
父上には、|我《わ》が最上の画とスケッチと地図とその他作品全部を|額《がく》|縁《ぶち》に入れて、さし上げます。|尚《なお》、私の百ドルのお金もご自由にお使いください。
母上には、ポケットのついた青いエプロンをのぞいて、私の着物全部、――私の|肖像《しょうぞう》と私のメダルも、|愛情《あいじょう》と共に。
愛する姉上マーガレットには、私のトルコ玉の指輪、(もしもいただけたら)と、|鳩《はと》のついた緑色の|箱《はこ》と、姉上のえり|飾《かざ》りとしてわが本物のレース、|並《なら》びに姉上の「小さき妹」の|形《かた》|見《み》としてわがスケッチを|贈《おく》る。
ジョー姉には|我《わ》が|胸《むね》ピン、――|封《ふう》|蝋《ろう》で|修繕《しゅうぜん》してあるほうの。――と|青《せい》|銅《どう》のインキ|壺《つぼ》と――|蓋《ふた》はジョーが失くしました――それに一番大切な|石《せつ》|膏《こう》のうさぎを、これは私がお姉さまの|原《げん》|稿《こう》を焼いたおわびです。
ベスには、(私の死後も生きていたら)私のお人形と小さな|箪《たん》|笥《す》と、私の|扇《おうぎ》と、リネンの|襟《えり》をあげます。そして|全《ぜん》|快《かい》したときやせていてはけたら私の新しいスリッパも上げます。それからぼろ人形のジョアナを|馬《ば》|鹿《か》にしたことを|此《こ》|処《こ》でおわびいたします。
我が友にして|隣《りん》|人《じん》なるシォドア・ローレンス様には、|一《いつ》|閑《かん》|張《ば》りの|紙《かみ》|挟《ばさ》みと、首がないと言われたけれども、私の|粘《ねん》|土《ど》|細《ざい》|工《く》の馬を上げます。また、|苦《く》|難《なん》の折にお世話になったお礼として私の作品のうちお好きなのを。ノートル・ダムが一番いいと思います。
|尊《そん》|敬《けい》する|大《だい》|恩《おん》|人《じん》ローレンス様には、|蓋《ふた》に鏡のついた|紫《むらさき》の|箱《はこ》をさし上げます。ペンを入れていただき、また、|彼《かの》|女《じょ》の家族、|特《とく》にベスのお受けしたご恩に対し|感《かん》|謝《しゃ》を|捧《ささ》げる|亡《な》き|乙女《お と め》を思い出して|頂《いただ》きたいのです。
|仲《なか》|好《よ》しのキティ・ブライアントには青い|絹《きぬ》のエプロンと金色のビーズの指輪をキッスと共に|贈《おく》る。
ハンナには、いつも|欲《ほ》しがっていた紙の|帽《ぼう》|子《し》|箱《ばこ》とつぎはぎ細工を全部。それを見たら私を思いだすように。
以上で私の大切な持ち物全部を|処《しょ》|分《ぶん》したのですから、|皆《みな》さん満足して|亡《な》き者を悪く思わないでください。私はみんなをゆるします。最後の|審《しん》|判《ぱん》のラッパが鳴りひびくとき|再《ふたた》び|相《あい》|見《み》ることを信じます。アーメン
一八六一年十一月二十日、われここにこの|遺《ゆい》|言《ごん》|書《しょ》に|署《しょ》|名《めい》し、|封《ふう》|印《いん》をほどこすものなり。
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[#地から2字上げ]エーミー・カーティス・マーチ
[#地から2字上げ]|保証人《ほしょうにん》 エステル・ヴァルノア
[#地から2字上げ]シォドア・ローレンス
あとの名前は|鉛《えん》|筆《ぴつ》で書いてあった、エーミーはローリーにインキで書き直してもらって、ちゃんと封印をしてもらいたいのだと言った。
「何からこんなこと考えついたの? だれか、ベスが|皆《みな》に自分の物をわけたことでも話したの?」エーミーは彼の前に、赤いテープのきれはしと、|封《ふう》|蝋《ろう》と、細い|蝋《ろう》|燭《そく》と、インキ|壺《つぼ》とを|並《なら》べたときに、ローリーは彼女にきいた。
彼女はわけを話してから、心配そうに|尋《たず》ねた、「ベスはどうなの?」
「言わなきゃよかったかな、でも言いかけたんだから言っちまおう。とても悪かったときがあったんだよ、そのときにね、ベスがジョーに言ったんだ、ピアノはメグに、小鳥はあんたに、ジョアナはジョーにあげるって。ジョーならば自分に代わってかわいがってくれるだろうからってね。あのひとはあげる物が少ししかないって悲しがったのさ、それから僕たち残りの者に|髪《かみ》の毛をくれて、おじいさまには深い|愛情《あいじょう》をのこしたんだよ。あのひとは|遺《ゆい》|言《ごん》|書《しょ》のことなんか思いつかなかったね」
ローリーはこんなふうに話しながら、|署《しょ》|名《めい》をして|封《ふう》|印《いん》を終わった、そしてなかなか顔を上げないでいるうちに、ぽとりと一しずく大きな|涙《なみだ》が紙の上に落ちた。エーミーは|困《こま》ったような顔をしたが、ただこう言っただけだった、「あの遺言書に、|追《つい》|伸《しん》のようなものつけることもあるでしょう?」
「ああ、『追加』っていうんだ」
「それじゃ私のにも入れて。――それはね、私の|巻《まき》|毛《げ》をみんな切って、お友だちに上げてほしいのよ。私|忘《わす》れていたの、みっともなくなるけど、そうしたいのよ」
ローリーはエーミーが最後の、そして最大の|犠《ぎ》|牲《せい》を|払《はら》おうと決心したのをほほえましく思いながら、それをつけ加えてやった。それから一時間ばかり遊んでやりながら、エーミーのいろいろな苦労にひどく|興味《きょうみ》を感じたのである。彼が帰ろうとすると、エーミーは彼を引きとめて、くちびるをふるわせながら、小さい声できいた、「ベスはほんとうに|危《あぶ》ないんでしょうか?」
「そうかもしれないんだ、でもね、希望をもってなくちゃいけない、だから|泣《な》いたりしちゃいけないよ」と言ってローリーはほんとの兄かなんかのように|彼《かの》|女《じょ》の|肩《かた》に手をかけたが、エーミーはそれでたいへん|慰《なぐさ》められたような気がしたのである。
彼が行ってしまうと、エーミーは小さなチャペルに行って、|夕《ゆう》|闇《やみ》の中にすわって、さめざめと泣き、悲しみに|胸《むね》を|痛《いた》ませながら、ベスのためにお|祈《いの》りをささげた。そしてあのやさしい小さな姉を失うことになったら、トルコ玉の指輪を百万もらったとて、なんの慰めにもならないのだと心の底から思ったのである。
第二十章 打ち明け話
|私《わたし》は、母と|娘《むすめ》たちとの再会の場面を|述《の》べるのに|適《てき》|当《とう》な言葉を持ち合わせないような気がする。そのようなときというものはじかに|経《けい》|験《けん》するには美しいものであるが、人に語ってきかせるのはむずかしいのである。それゆえそれは読者の|想《そう》|像《ぞう》にお|任《まか》せして、私はただ家中に|清純《せいじゅん》な喜びがみなぎったこと、メグのやさしい願いがかなえられて、ベスが|快《かい》|方《ほう》に向かって目をさましたとき、最初に目に入ったものは、あの小さなばらの花と、お母さまのお顔であったということをおつたえするに|留《とど》めておく。なにが目にはいったとて、ふしぎに思うこともできないほど弱り|果《は》てているので、ベスはただにっこりして、自分のそばにあるやさしい|腕《うで》にぴったりと顔をよせ、待ちに待った望みが、これでとうとう満たされたと思ったようであった。そしてまたうとうとと|眠《ねむ》ってしまった。娘たちはなにかと母の世話をした、というのは母は眠っているひまも自分にすがりついている|痩《や》せ細った手を|離《はな》そうとしなかったからである。ハンナはわくわくする気持ちをどうして表していいかわからず、旅から帰った人にすばらしい朝飯を「|山《やま》|盛《も》り」にしてすすめた。メグとジョーとは親孝行なこうのとり(こうのとりは餌をさがしてきて親を養うとつたえられる)のように、せっせと母にお給仕しながら、母が父の|容《よう》|体《だい》だとか、ブルックさんが残って看病してくれると|約《やく》したことだとか、帰りの|汽《き》|車《しゃ》が|吹雪《ふぶき》のために|遅《おく》れたことだとか、また|疲《ひ》|労《ろう》と心配と寒さでくたくたになって着いたとき、ローリーの明るい顔に|迎《むか》えられてどんなにうれしかったか、というようなことをひそひそと語るのに耳を|傾《かたむ》けた。
その日は何と|妙《みょう》な、しかもまた楽しい日だったのだろう! 外はまばゆいばかりに明るく、世間の人はみなこの初雪をよろこび|迎《むか》えて表へでているようであったのに引きかえ、家の中はひっそりと落ち着いていた。だれも彼も|看病疲《かんびょうづか》れで眠ってしまい、家中に安息日の静けさがただよっている中に、ハンナだけが舟をこぎながら、戸口で番兵をしていた。メグとジョーも重荷をおろしたような幸福な気持ちに|浸《ひた》りながら、疲れた|眼《まなこ》を|閉《と》じて、横になったが、それはあたかも、|嵐《あらし》に|襲《おそ》われた船が|無《ぶ》|事《じ》に静かな港に|錨《いかり》を下ろして休んでいるようであった。マーチ夫人はベスのそばから|離《はな》れようとせず、大きい|椅《い》|子《す》に休んだまま、ときおり、目をさましては、|守《しゅ》|銭《せん》|奴《ど》が|首《しゅ》|尾《び》よく取り返した|財《ざい》|宝《ほう》でもながめるように、あかずわが子の|姿《すがた》をながめたり、さすったり、|抱《だ》きすくめたりするのであった。
こうしている間にローリーはエーミーの|慰《い》|問《もん》に早馬を飛ばし、|弁《べん》|舌《ぜつ》さわやかに一部始終を物語ったものだから、さすがのマーチ|伯《お》|母《ば》さんさえ「鼻をすすり」、「だから言わないこっちゃない」などとはおくびにもださなかった。エーミーはこういう場合に|臨《のぞ》んでも実にしっかりした|態《たい》|度《ど》を|示《しめ》したのは、かの|小礼拝堂《しょうれいはいどう》におけるよき思いが|如《にょ》|実《じつ》に実を結びかけてきたのであろうと思われる。彼女はすばやく|涙《なみだ》をふいて、|矢《や》も|楯《たて》もたまらず母に会いたい心をもおさえ、ローリーが自分の|行状《ぎょうじょう》を「|小婦人《リトル・ウォマン》の手本」とほめ、伯母さんがしんからそれに|賛《さん》|成《せい》したときですら、トルコ玉の指輪のことなんか思ってもみなかったのである。これにはポリーさえ心を打たれたとみえ、彼女のことを「いい子」と|呼《よ》んだり、「いらっしゃい、散歩しましょうよ」などと愛想よく言ったりした。全くのところ彼女も外にでてこのきらきらした明るい冬の日を楽しみたくはあったのだが、ローリーが|健《けな》|気《げ》にも|隠《かく》そうとするそばから、今にも|眠《ねむ》りこけそうになるのをみて、彼女はソファで一休みするようにすすめ、自分はその間に母へ短い手紙をしたためることにした。長いことかかってそれを書き終え、客間にもどってみると、ローリーは頭の下に|両腕《りょううで》をあてがい、ぐうぐう|眠《ねむ》っているのであった。|伯《お》|母《ば》さんはとみれば、|彼《かれ》のためにカーテンを深くおろしてやって、いつにないやさしい気持ちで、何もしないでそばにすわっていた。
それからしばらくの間、伯母さんとエーミーとは、ローリーは夜になるまで起きないのではあるまいかと思い始めていた、このときエーミーが母の|姿《すがた》をみつけて、喜びの|叫《さけ》びをあげ、彼の目をさまさせたのでなかったら、おそらく彼は|晩《ばん》まで眠りつづけたことだったろう。この日、その町の中にも外にも|幸《こう》|福《ふく》な少女はたくさんいたではあろうが、私はひそかにエーミーがその中でいちばん幸福な少女だったろうと思うのである。彼女が母の|膝《ひざ》に|抱《いだ》かれて、いろいろとつらかったことを話してきかせると、母はいちいちうなずきながらほほえんだり、|愛《あい》|撫《ぶ》したりして|慰《なぐさ》めとご|褒《ほう》|美《び》とを|与《あた》えるのであった、母と|娘《むすめ》とはふたりきりで|例《れい》の|礼《れい》|拝《はい》|堂《どう》にいたのである、娘からその|目《もく》|的《てき》をきかされると母は少しも反対などは|称《とな》えなかった。
「いけないどころか、これはたいへんいいことですよ、エーミー」と母は言って、ほこりをかぶった|数珠《じゅず》から手ずれのした|聖《せい》|書《しょ》、それから|常緑樹《じょうりょくじゅ》の輪で|飾《かざ》られた美しい絵へと目を|移《うつ》した。「なにか|困《こま》ったこととか悲しいことのあるときに、ひとりで行って気持ちを静かにするようなお部屋を持とうというのは、たいへんいい思いつきです。この世にはそれはつらい時がたくさんあるものなのよ、でもね、正しいやりかたで助けを求めていさえすれば、なんだって|我《が》|慢《まん》ができるものです、エーミーにもそのことがわかってきたらしいのね?」
「そうなの、お母さま。お家へ帰ったら私あの大きな|押《お》し|入《い》れのすみのほうを|片《かた》づけて、私のご本だの、この絵の|模《も》|写《しゃ》だのを|置《お》こうと思うの、今写してるんですけど、|聖《せい》|母《ぼ》さまのお顔はよく|描《か》けないのよ、あんまり美しいので私には描けそうもないわ、でも赤ちゃんのほうはじょうずにできたの、私この赤ちゃん|大《だい》|好《す》き。イエスさまも赤ちゃんだったんだと思うと、おそばに近くなったような気がして、力がわいてくるんです」
エーミーが、|聖《せい》|母《ぼ》の|膝《ひざ》に|抱《だ》かれてほほえんでいる|幼児《おさなご》キリストを指さしたとき、マーチ夫人は高く上げたエーミーの手になに物かを|認《みと》めて、にっこりした。夫人はなにも言わなかったが、エーミーはその様子をみて、しばらくためらったのち、まじめな|面《おも》|持《も》ちで言った、――
「私これのことお話しようと思いながら、|忘《わす》れていたわ。この指輪はね、今日|伯《お》|母《ば》さまがくだすったんです。伯母さまは私をそばに|呼《よ》んでキッスしてから、これを私の指にはめてくだすったの、そして私は伯母さまの|誇《ほこ》りになるような子だから、いつまでもそばにいてほしいっておっしゃったの。私にはまだ大きすぎるものだからこのおかしい|留《と》め|金《がね》までくだすったのよ。私これをはめていたいんですけど、いいでしょうか、お母さま?」
「まあきれいだことね、でもね、エーミー、あなたはこんな|飾《かざ》りをつけるにはまだ|若《わか》すぎると思うのよ」と丸々とした小さな手を見ながらマーチ夫人は言った。その人さし指には、空色の玉をちりばめた指輪が、小さな|黄《おう》|金《ごん》の手を組み合わせた風変わりな留め金でささえられているのであった。
「私ね、|虚《きょ》|栄《えい》|心《しん》なんか起こさないつもりよ」とエーミーは言った。「私がこれが|好《す》きなわけは、これが美しいからだけではないつもりなの、私はお|噺《はなし》の中の女の子が|腕《うで》|輪《わ》をはめていたように、あることを思い出すために、これをはめていたいと思うんです」
「マーチ|伯《お》|母《ば》さんのことですか?」母は|笑《わら》いながらきいた。
「そうじゃないの、自分がわがままになってはいけないってことを思い出すためなの」エーミーはつくづくとまじめにそう思っているらしい様子なので、母も笑うのをやめて、その小さな思いつきを|拝聴《はいちょう》することにした。
「私ね、このごろ自分の『悪いことのお荷物』について、よくよく考えてみました。そしたらその中でいちばん大きなのが|利《り》|己《こ》|主《しゅ》|義《ぎ》だとわかりましたから、直せるものならそれを直してみたいと思っているところなの。ベスは利己主義じゃないでしょう、だから、みんなベスをかわいがるし、死なしてはたいへんと思ってみんなあんなに心配するのでしょう。私が病気になったってだれもあの半分も心配してくださらないと思うし、またそれがあたりまえですもの、でも私も大勢の人にかわいがられたいし、死んだら悲しんでもらいたいと思うのよ。それで私も|一生懸命《いっしょうけんめい》になってできたらベスのようになりたいと思っています、私こんな決心をしてもすぐ|忘《わす》れちまうでしょう、それで思いださせてくれるようなものを何かからだにつけておいたら、少しはいいんじゃないかと思うんですけど。そうしてみてもいいでしょうか?」
「ああいいでしょうよ、もっともお母さまはあの大きな|押《お》し|入《い》れのすみっこのほうがいいように思うのですがね。ま、その指輪をはめて一生懸命やってごらんなさい、成功するかもしれませんよ、|善《よ》くなろうと|真《しん》|剣《けん》に願うってことは、半分はもう善くなったのと同じですからね、さ、お母さまはベスのところへ帰らなくちゃ。元気でいるんですよ、エーミーや、もうじきお家へ連れてってあげますからね」
その夜のこと、メグが母の無事到着を知らせて父に手紙を書いているとき、ジョーがそうっと二階のベスの部屋に上がってきた。そして母がいつもの場所にいるのを見ると、ちょっと|困《こま》ったような|格《かっ》|好《こう》をし、どうしたらいいかと|迷《まよ》うような顔をして、|髪《かみ》の毛に指をつっ|込《こ》みながらしばらくそこに立っていた。
「どうしたの、ジョーや?」マーチ夫人はなんでも打ちあけずにはいられなくなるようなにこにこ顔で、手をさしのべた。
「ちょっとお話したいことがあるの、お母さま」
「メグのことで?」
「まあ、よくおわかりになるわ! そうなの、あのひとのことなの、つまらないことなんですけど、私気になって仕方がないのよ」
「ベスが|眠《ねむ》ってるから小さい声でね、さ、なんでも言ってごらんなさい。モファットさんが来たわけじゃあるまいね?」マーチ夫人はやや|鋭《するど》く|尋《たず》ねた。
「いいえ、あんな人がこようものなら、私鼻っ先で戸を|閉《し》めてやりますよ」ジョーはこう言いながら、母親の足もと近く|床《ゆか》の上にすわった。
「去年の夏ね、メグがローレンスさんのところへ|手袋《てぶくろ》を|忘《わす》れてきたんですよ、|片《かた》|方《ほう》だけもどってきたんですけど、そのうちみんなそんなことすっかり忘れていました、そしたらテディがね、ブルックさんがそれを持ってるって言うんですよ、あの方いつもそれをチョッキのポケットにしまってらしたんですって、そしてね、あるときそれをおっことしたんでテディがからかったら、あの方メグが|好《す》きだって|白状《はくじょう》したんですって、でもね、メグはまだ|若《わか》いしご自分は|貧《びん》|乏《ぼう》だから、言い出せないでいるんだって言ったそうですよ。ね、これは|恐《おそ》るべき|事《じ》|態《たい》じゃないでしょうか?」
「おまえ、メグもあの方のことをなんとか思っていますかね?」マーチ夫人は気になるような顔をしてきいた。
「まあいやだ! 私、|恋《こい》だのなんだのって、そんなくだらないこと何も知りませんわ!」ジョーは|興味《きょうみ》と|軽《けい》|蔑《べつ》がごちゃまぜになったような、おかしな|表情《ひょうじょう》をして|叫《さけ》んだ。「小説だと、|若《わか》い|娘《むすめ》は飛び上がったり、顔を赤くしたり、|卒《そっ》|倒《とう》したり、|痩《や》せたり、ばかみたいな行動をしたりして、それとわかるんでしょう。メグはそんなこと一つだってないんですよ、よく食べたり飲んだり|眠《ねむ》ったりしますよ、メグはちゃんとした人ですからね、それに私があの男の話をしても、まともに私の顔を見ています。ただローリーが恋人の話なんかしてからかうと、ちょっと顔を赤くしますけどね。私やめてくれっていうんですけど、ローリーは全然ひとのいうことをきかないんです」
「それじゃおまえはメグがジョンのことを、少しもなんとも思っていないとお思いなのね?」
「だれのことをですって?」ジョーは目を丸くして|叫《さけ》んだ。
「ブルックさんですよ。このごろはジョンてお|呼《よ》びしてるのよ。病院でそういうくせがついたものだからね、あの方もそれでいいっておっしゃるんだよ」
「まあひどい! お母さまはどうせあのひとの味方だと思っていたわ、あのひとはお父さまによく|尽《つ》くして上げたんですものね、お母さまはあのひとを|追《お》っ|払《ぱら》うどころか、メグがその気になったら|結《けっ》|婚《こん》させるおつもりなんでしょう。|卑《ひ》|劣《れつ》だわ! 自分をよく思わせるために、お父さまにとり入ったりお母さまにぺこぺこしたりするなんて」ジョーは|腹《はら》|立《だ》たしげにまた|髪《かみ》をかきむしった。
「ジョーや、そんなに|怒《おこ》るもんじゃありませんよ、|事情《じじょう》をよく話してあげますからね。ジョンはローレンスさんのお言いつけで私といっしょに行ってくだすったのです、そしてお気の毒なお父さまのお世話をそれはそれはよくしてくだすったものですから、私たちはあの方を|好《す》きになるなといわれてもならずにはいられないくらいだったんですよ。メグのことについてもあの方の|態《たい》|度《ど》はほんとに|率直《そっちょく》でりっぱなものでした。あの方はメグを愛していると言いました、だけど、あの子に申し|込《こ》む前に、楽しい家をつくれるだけのものを|準備《じゅんび》したいというのです。あの方はただ私たちに、メグを愛することと、あの子のために働くことを|許《ゆる》してほしいと言いましたよ。そしてもし自分にその力があるならば、メグがあの方を愛するようにしむけることも許してもらいたいと言いました。あの方はほんとにりっぱな青年です、お父さまもお母さまもあの方の言うことをよくきいて上げないではいられなかったのよ、もっとも今の|若《わか》さでメグに|婚《こん》|約《やく》させることには|賛《さん》|成《せい》できませんがね」
「もちろんですとも、そんなことばかばかしいわ! 私なにかろくでもないことが起こりかけてるとは思っていたわ、そんな感じはしてたけど、まさかこんなひどいんだとは思わなかった。私、自分でメグと|結《けっ》|婚《こん》してやりたいわ、そうすればいつまでも|無《ぶ》|事《じ》に家へおいとけるんですもの」
この風変わりな|調停案《ちょうていあん》には夫人も思わず顔をほころばしたが、またまじめな顔に返って言った、「ジョーや、お母さまはあなたを信用して、なんでも話しますがね、まだメグにはなにも言ってはなりませんよ。ジョンが帰ってきたとき、ふたりの様子を見れば、あの子があの方をどう思っているか、よくわかるだろうと思いますからね」
「そりゃメグはいつも自分で話しているあのひとのりっぱな目を見れば、あのひとの気持ちなんかすぐわかるでしょうよ、そしたら万事おしまいです。メグの心なんてそりゃ|柔《やわら》かいんですもの、だれかにセンティメンタルな目で見られたら、それこそお日さまにあたったバターみたいにとろとろに|溶《と》けちゃいますよ。メグはね、あのひとのよこした短い|容《よう》|体《だい》|書《しょ》をお母さまのお手紙よりもたびたび読んだんですよ、私がそれを言うとつねるんです、そしてね、茶色の目が|好《す》きなんです、そしてジョンて名前をいやな名前だとも思ってないんですよ、そうやってだんだん|恋《こい》に|陥《おちい》るんだ、そうしたらもう家には平和もおもしろいことも楽しいときも何もかもなくなってしまうんだ。私にはちゃんとわかってるわ! あのひとたちは愛し合って家の中を歩き回り、私たちは|邪《じゃ》|魔《ま》にならないようによけて歩かなくっちゃならなくなる、メグはあのひとに|夢中《むちゅう》になって私なんか何もおもしろいことがなくなる、ブルックはとにかく|財《ざい》|産《さん》をこしらえてメグを連れてっちまう、すると家は|大《おお》|穴《あな》があいたようになるんだ。私はすっかりがっかりしてしまって何もかもたまらなくいやになるんだ。ああ、つまらない! どうして私たちみんな男の子に生まれなかったんだろう? そうすればこんなめんどうはないんだのに」
ジョーは|浮《う》かぬ顔して|膝《ひざ》の上にあごをのせ、このけしからぬジョンに向かって|握《にぎ》りこぶしをふり回した。マーチ夫人はためいきをついた、するとジョーはほっとしたように顔を上げた。
「お母さまもやっぱりおいやなんですね? ああよかった、あんな人|追《お》っ|払《ぱら》っちまいましょうね、そしてメグには何も言わないで、今までどおりにみんなで楽しく|暮《く》らしていきましょうよ」
「ためいきついたりしてわるかったわね、ジョー。あなたたちが今にみんな自分の家というものを持つようになるのはあたりまえなことだし、また正しいことなんですよ、でもお母さまだってできる|限《かぎ》りはあなたたちをそばへおいておきたいんですよ。こんどのことは少し早く起こりすぎて残念な気がします。メグはまだたった十七ですものね、それにジョンがあの|娘《こ》のために家をつくれるようになるのはまだ何年も先のことでしょう、お父さまもお母さまもメグがはたちになるまでは、どんなお|約《やく》|束《そく》もさせないし、|結《けっ》|婚《こん》もさせないことにしようときめたのですよ。もしあのふたりがお|互《たが》いに愛し合っているのなら、そのくらいは待てるはずだし、そうして待っている間にその|愛情《あいじょう》が本物かどうか試すこともできます。あの子はまじめなたちだから、ブルックさんをそまつに|扱《あつか》うような心配はありません。ほんとにかわいい、やさしい子ですよ! どうか何事もあの子がしあわせになるようにはこんでくれるといいと思いますよ」
「お母さまは、メグがお金持ちの人と結婚するほうがいいとお考えにならないの?」母が最後の言葉を少し口ごもったような気がしたので、ジョーはこうきいた。
「お金は|結《けっ》|構《こう》なものだし、役にもたつものです、ジョーや、お母さまはあなたたちにひどい苦労もさせたくないし、かといってお金に目がくらむようなことがあっても|困《こま》ると思います。私はね、ジョンがなにかちゃんとした仕事についてしっかりした|基《き》|礎《そ》をつくり、借金などしないでメグと楽しく|暮《く》らせるだけの|収入《しゅうにゅう》があるようになってくれるといいと思ってますよ、私はすばらしい|財《ざい》|産《さん》だの、はなやかな地位だの、|偉《い》|大《だい》な名声だのと、そんなものをあなたたちに持たしてやりたいなどとは思いません、そりゃ地位だのお金だのが、愛情や美徳といっしょに来てくれるものならお母さまだって喜んで|歓《かん》|迎《げい》もするだろうし、あなたたちの|好《こう》|運《うん》を|祝《いわ》いもしましょうがね、まあ私の|経《けい》|験《けん》では、毎日のご飯がいただける|程《てい》|度《ど》の、|質《しっ》|素《そ》な小さな家の中にはかえって|純粋《じゅんすい》な幸福があるものだし、少しは不足勝ちな暮らしをしていると、わずかばかりの楽しみもよけいうれしく感ずるようになると思うのですよ。私はメグが質素な|踏《ふ》み出しをしようとしているのをうれしいと思います、お母さまの目に|狂《くる》いがなければ、あの子は今にあのりっぱな青年の|愛情《あいじょう》をしっかり自分のものにしますよ、そのほうが|財《ざい》|産《さん》なんかよりずっといいじゃありませんか」
「よくわかりましたわ、お母さま、私もそうだと思います。でも私、メグのことではすっかりがっかりさせられたわ、だって私、あのひとをそのうちにテディと|結《けっ》|婚《こん》させようと思っていたんですもの、そうすれば一生ぜいたくができるでしょう、すてきじゃありませんか?」ジョーは目をきらきらさせて母を見上げながらきいた。
「だってローリーはメグよりも年下じゃありませんか」とマーチ夫人が言いかけると、ジョーは|畳《たた》みかけて言った、――「そんなことかまわないわ、あのひとは年より|老《ふ》けてるし|背《せ》も高いんですもの、それに|態《たい》|度《ど》だってしようと思えばすっかり|大人《おとな》のようにできますもの。そしたらあのひとお金持ちだし気前はいいし、|善良《ぜんりょう》だし、そのうえ私たちをみんな|好《す》きなんだし、……ああ、せっかくの計画がだいなしになっちゃって、私ほんとにくやしいわ」
「ローリーはなんといったってまだ子供でメグの相手には考えられませんよ、それに今のところでは、相手がだれにしろ、人からたよられるほどしっかりしてはいませんからね。ジョーや、やたらに計画などをたてるものではありませんよ、そんなことは時のたつのと、めいめいの気持ちとに|任《まか》せておきなさい、こういうことに手を出すのは|危《あぶ》ないものです、あなたの言い草じゃないけれども『ロマンティックなたわごと』なんか考えないほうがいいのよ、|友情《ゆうじょう》をこわすもとですからね」
「じゃよしましょう、でも私は、そちこち引っぱったりきったりして手を入れればまっすぐになるものを、ほっとくばっかりにもつれたりこんぐらかったりするのを見るのはたまらないような気がするわ、頭の上に平ごてでものせといたらみんな|大人《おとな》にならないもんならいいんだけどな。でもつぼみはばらになっちまうし、|子《こ》|猫《ねこ》は猫になっちまうし、――|困《こま》っちゃったな!」
「平ごてだの猫だのって何のこと?」とききながら、書きあげた手紙を持って、メグがそうっと部屋にはいってきた。
「うん、いつもの私のばか話よ。私もう|寝《ね》るわ、いらっしゃいよ、ペギイ(メグの|愛称《あいしょう》)」ジョーはこう言いながら、生きているパズルがひとりでにするするとほどけるように、|縮《ちぢ》こまっていたからだを|伸《の》ばした。
「|結《けっ》|構《こう》です、きれいに書けましたね。このあとへお母さまからジョンによろしくと書いておいてください」マーチ夫人はその手紙に一通り目を通し、彼女に返しながら、そう言った。
「お母さま『ジョン』てお|呼《よ》びになるの?」メグは|無《む》|邪《じゃ》|気《き》な目つきで母の顔を見入りながら、にっこりして|尋《たず》ねた。
「そうなの、あの方まるで私たちの子供のようによくしてくだすったのよ、お父さまもお母さまもあの方が|大《だい》|好《す》きになりました」マーチ夫人はきっと|娘《むすめ》を見返しながら答えた。
「あらよかったわ、あの方お|寂《さび》しいのよ。おやすみなさい、お母さま。お母さまが家にいてくださるとほんとに安心ですわ」とメグは静かに答えた。
母がこの夜この娘に|与《あた》えたキッスは|特《とく》|別《べつ》やさしいものだった。娘がでていく|姿《すがた》を見送りながら、マーチ夫人は満足気なうちにも少し残念な気持ちも交えて、言うのであった、「あの子はまだジョンを愛してはいない、でもそのうちに愛するようになる」
第二十一章 ローリーの|悪《いた》|戯《ずら》とジョーの|仲裁《ちゅうさい》
ジョーは次の日一日むずかしい顔をしていた。|例《れい》の|秘《ひ》|密《みつ》が重く心にのしかかって、ともすれば|妙《みょう》な、もったいぶった顔つきにならずにはいられなかったのである。メグはそれに気がついたけれども、しいて自分から|尋《たず》ねてみるような手間はかけなかった。ジョーを|操縦《そうじゅう》するのには|逆《ぎゃく》に出るのがいちばんだということをよく|心得《こころえ》たからである。それで|彼《かの》|女《じょ》はこっちからきくまでもなくなんでも話してもらえるものと信じていた。だから、その|沈《ちん》|黙《もく》がいつまでもつづき、あまつさえジョーが|横《おう》|柄《へい》な|態《たい》|度《ど》をしているのには彼女も少し意外な気持ちがした。その態度にメグはむっとしたので、お返しにこちらもつんとすましてそしらぬ顔をし、もっぱら母のそばにばかりいるようにした。おかげでジョーはひとりぼっちになってしまった。マーチ夫人はジョーに代わって|看《かん》|護《ご》|役《やく》を引き受け、ジョーには長いことどこへも出なかったのだから、少し休養したり運動したりしてお遊びなさいと言ってくれた。エーミーも家にいないとなると、たよりとするのはローリーだけである。|彼《かれ》と遊ぶのは大いにおもしろくはあるのだが、彼女は目下のところ彼に会うのを|恐《おそ》れていた、というのは彼ときたらどうにも手のつけようがないほど根ほり葉ほり聞きたがるたちだから、彼女の|秘《ひ》|密《みつ》をもなんとしてでもきき出さずにはいまいと思われたからである。
はたせるかな、そのとおりであった。この|悪《いた》|戯《ずら》|好《ず》きの少年は、秘密めいたものをかぎつけるが早いか、それを|探《さぐ》り出そうとかかって、ジョーをひどい目にあわせたのである。うまいこと話をもちかけたり、買収の贈り物をしたり、|嘲笑《ちょうしょう》するかと思えば|脅迫《きょうはく》し、はては子供を|叱《しか》るように大きな声まで出した。|無《む》|関《かん》|心《しん》をよそおってふいに本音をはかせようともした。ちゃんと知ってると言うかと思えばそんなこと聞きたくもないやと言った。そうした忍耐が|効《こう》を|奏《そう》して、ついにそれはメグとブルック先生に関係したことだと知って満足した。そして、先生が自分に打ち明けて相談してくれなかったのにお|冠《かんむり》を曲げ、ないがしろにされた|仕《し》|返《かえ》しをするのになにかいい|工《く》|夫《ふう》はないかと|知《ち》|恵《え》を|絞《しぼ》った。
メグはそうしているうちにさっきのことなど|忘《わす》れてしまったらしく、父親の|帰《き》|宅《たく》の用意に|余《よ》|念《ねん》がなかった。ところが|突《とつ》|然《ぜん》、彼女に変化がやってきて、一日、二日というものは全く|別《べつ》|人《じん》のようになってしまった。話しかけられると飛び上がり、人に顔を見られれば赤くなる。そうしてひどくおとなしくすわったまま、おどおどしたような、思いあまったような顔をして|針《はり》仕事をしているのであった。お母さまにきかれればどこもわるくないといい、ジョーの問いに対してはなにも言わずただそっとしておいてほしいと言った。
「メグはあれを、――そのつまり|恋《こい》を――感じているのですよ、それもどんどん進行しているんです。|兆候《ちょうこう》が全部そろってますもの、おどおどしてるかと思えば、きげんが悪かったり、ごはんは食べないし、夜は|寝《ね》ないし、そうかと思うとすみっこでぼんやりしたりしているんですよ。このあいだなんか『|小川《ブルック》は流る、さらさらと』なんて歌っていました。そしてお母さまのまねして『ジョン』だなんて言って、けしの花みたいに|真《ま》っ|赤《か》になっていたわ。どうしたらいいんでしょう?」ジョーはこの病気がなおせるものなら、どんな|手《て》|荒《あら》な手段をも|辞《じ》さないような勢いでそう言った。
「どうもしなくっていいのよ、だまって待っていらっしゃい。メグはそうっとしておいて、やさしくしんぼうづよくしておあげなさい。お父さまさえお帰りになれば、すっかり|解《かい》|決《けつ》しますからね」と母は答えた。
「お手紙よ、メグ、ちゃんと|封《ふう》がしてあるわ。へんねえ! テディが私にくれるのなんか封したことないのに」そのあくる日、ジョーは|例《れい》の小さな|郵便局《ゆうびんきょく》の郵便物を配りながら、こう言った。
それからマーチ夫人とジョーが、それぞれ自分の仕事に気をとられていると、メグが|叫《さけ》び声をあげたので、顔を上げると、彼女はまっ|蒼《さお》な顔をして一|枚《まい》の|紙《し》|片《へん》にじっと見入っていた。
「メグ、どうかしたの?」母は|叫《さけ》んでそばへかけよった。そのまにジョーはこの|禍《わざわい》のもととなった手紙をとって見ようとした。
「|間《ま》|違《ちが》いだったのよ、――あの方がくだすったんじゃなかったんだわ――ああ、ジョー、よくもあんなことしてくれたのね!」メグは両手で顔をおおって、|胸《むね》もさけよと|泣《な》いた。
「|私《わたし》? 私なにもしやしないわよ! なんのこと言ってるんでしょう?」ジョーは|当《とう》|惑《わく》|顔《がお》して叫んだ。
おとなしいメグの目は|怒《いか》りに|燃《も》えた、彼女はポケットからしわくちゃになった|紙《し》|片《へん》をひっぱり出して、ジョーの前にたたきつけながら、くやしそうに言った、――
「それあんたが書いたんでしょう、あのばかな子が手つだって。あんたたちはなんだって私たちに対して、そんな失礼な、|卑《ひ》|劣《れつ》な、|残《ざん》|酷《こく》なことができるの?」
ジョーはろくにきいていなかった、彼女と母とは|妙《みょう》な筆跡で書かれた|件《くだん》の手紙を読んでいたのである。
「親愛なるマーガレットさま、
私はもうこれ以上自分の気持ちを|抑《おさ》えることはできません、そちらへ帰るまでにぜひ自分の運命を知りたいとぞんじます。私はまだご両親に申し上げる勇気はございませんけれども、私どもがお|互《たが》い|慕《した》い合っていることをご|承知《しょうち》になれば、おふたりともお|許《ゆる》しくださることとぞんじます。ローレンス氏は|然《しか》るべき地位を|与《あた》えて、ご|援《えん》|助《じょ》くださるだろうと思いますので、その|暁《あかつき》には、やさしの|乙女《お と め》よ、|貴女《あなた》は必ず私を幸福にしてくださることと思います。当分ご家族には何もおっしゃらずに、ローリーを通じて希望ある一言をおもらしくださるよう願いあげます。
真心をささげるジョン」
「まあ、悪いやつ! 私がお母さまのお言いつけを守っているもんだから、その|仕《し》|返《かえ》しにこんなことをしたのよ。私思いっきりどやしつけてやるわ、そしてここへ連れてきてあやまらせてやる」|即《そっ》|刻《こく》お|仕《し》|置《お》きを加えかねない勢いでジョーは|叫《さけ》んだ。しかし母は|娘《むすめ》を引きとめ、めったに見せたことのない顔をして言った、――
「およしなさい、ジョー、まずあなたから身のあかしをたてなくてはいけませんよ、あなただって|悪《いた》|戯《ずら》は相当なほうだから、これにも関係があるんじゃないかと思うんだがねえ」
「|絶《ぜっ》|対《たい》に、私は関係がありません、お母さま! 私そんな手紙あとにも先にも見たことないんです、それについてはなにも知りません、ほんとです!」とジョーは必死になって言ったのでふたりはそれを信じることにした。「私が関係したんなら、もっとうまくやるわ、そして少し気のきいた手紙を書くわ。第一、こんなくだらない手紙、ブルックさんが書くはずがないって|見《み》|破《やぶ》られることくらい、私なら初めからわかってるわ」彼女はこうつけ加えながら、さもさも|軽《けい》|蔑《べつ》したようにその手紙をほうり投げた。
「でもこれ、あの方の筆跡に|似《に》ているわ」メグはそれを拾って手に持っている方のと見比べながら、口ごもるように言った。
「まさか、メグ、お返事をあげたんじゃないでしょうね?」マーチ夫人はすばやくきいた。
「それが上げましたの!」メグは|穴《あな》へでもはいりたそうにもう一度両手で顔をかくした。
「ほうら、|困《こま》ったことになった! お願いだからあのいたずらっ子をつかまえてきていいでしょう、そしてすっかり|白状《はくじょう》させてうんと|叱《しか》っていただかなくっちゃ。私あいつをぎゅうぎゅういわせるまでは、とても気持ちがおさまらないわ」と言ってジョーはまたもや戸口のほうへ|駆《か》け出しそうにした。
「これ! まあ私におまかせなさい、これはどうやらお母さまが考えていたよりむずかしくなってきたようです。マーガレットや、すっかり話してごらん」マーチ夫人はこう命じるように言いながら、メグのそばへすわった、しかもジョーが飛びださないようにその手をしっかりつかんでいたのである。
「最初の手紙はローリーから受けとりました。あのひとなにも知らないような顔をしていたんです」とメグはうつむいたまま言い始めた。「私、始めは困ってしまってお母さまに申しあげようと思ったんです、でもそれからお母さまがブルックさんをとてもお|好《す》きだってこと思いだしたもんですから、二、三日くらい私の小さな|秘《ひ》|密《みつ》をしまっておいてもお叱りにはならないような気がしましたの、そしてだれも知らないんだと思うのがうれしかったんです、ばかですわね。そしてなんてお返事しようかなんて考えていると、私、小説の中で同じようなことを考えている主人公になったみたいな気がしましたわ、ゆるしてくださいね、お母さま、私いま、自分のばかの|報《むく》いを受けてるんですわ。私もう二度とあの方にお目にかかれませんわ」
「それでどう言ってお返事をしたの?」マーチ夫人はきいた。
「私ただ、まだ|若《わか》いのでそのようなことはなにもわかりません、て、そしてお母さまに|秘《ひ》|密《みつ》にしておくことはいやですから、お父さまにお話しくださいって。あの方にご親切にしていただいたことを|感《かん》|謝《しゃ》して、お友だちになりたいと思います、でもこれから先もそれ以上のものとは考えないでくださいって、それだけよ」
マーチ夫人は満足そうにほほえみ、ジョーは手を打って|笑《わら》いながら|叫《さけ》んだ、――
「まさに|思《し》|慮《りょ》深さの手本、カロライン・パースィそっくりだわ! それで、どうしたの、メグ? あのひとからなんて言ってきて?」
「まるっきり感じの|違《ちが》ったお手紙なのよ、ラヴ・レターなんかさしあげた覚えはないって、そして、人のわるいお妹ごのジョーさんが、勝手に自分たちの名前をお使いになったのではないかと残念に思いますっていうの。とてもご親切な、ていねいなお手紙だったわ、でも私ほんとに|恥《は》ずかしかったわ!」
メグは|青《あお》|菜《な》に塩といった|格《かっ》|好《こう》で母にもたれかかり、ジョーはローリーを|罵《ば》|倒《とう》しながら室の中を歩き回った。彼女はふと立ちどまって二つの手紙を拾うと、それを|並《なら》べてよくよく見比べていたが、やがてはっきりと言った、
「私、ブルックさんはこの手紙、どっちも見ちゃいないと思うわよ。両方ともテディが書いたのよ、そしてあんたの返事をしまっといて私にみせびらかして|威《い》|張《ば》ろうと思ったんだわ、それっていうのも私がなかなか|秘《ひ》|密《みつ》を教えてやらないからなのよ」
「秘密なんかもってちゃいけないわ、ジョー、めんどうが起きないうちにお母さまにお話したほうがいいわ、私もそうするとよかったんだけど」とメグは忠告した。
「うわあ、それお母さまからうかがったんだわ」
「もうよござんす、ジョー。メグにはお母さまがよくお話しますから、あなたはお|隣《となり》へ行ってローリーを連れていらっしゃい、お母さまも一つ|徹《てっ》|底《てい》|的《てき》にしらべあげて、こんないたずらは二度とさせないようにしますからね」
ジョーは|鉄《てっ》|砲《ぽう》|玉《だま》のように飛び出して行った。マーチ夫人はメグに向かってやさしくブルックさんのほんとうの心持ちを話してきかせた。「それでね、メグや、あなたはどうなの? あの方があなたのために家をつくってくださるようになるまで待っていられますか、それができるほどあの方を愛しているかということです。それとも当分はそんなお|約《やく》|束《そく》はしたくないと思いますか?」
「私もうさんざおどかされたり|悩《なや》まされたりしましたから、もう当分――一生でも、|恋《こい》|人《びと》だの何だのって考えたくありませんわ」とメグはぶっきら|棒《ぼう》に答えた。「ジョンがこのばかげた話、ごぞんじないのでしたら、なにもおっしゃらないでくださいましね、そしてジョーとローリーにもかたく|口《くち》|留《ど》めしておいてください。私もうだまされたり、|悩《なや》まされたり、ばかにされたりするのごめんですわ、|恥《は》ずかしいったら!」
このたちの悪いいたずらで、日ごろおとなしいメグがこんなに|怒《おこ》ったり、|自《じ》|尊《そん》|心《しん》を|傷《きず》つけられたりしているのをみて、マーチ夫人は、けっしてだれにも言わないこと、今後はかたく|謹《きん》|慎《しん》を申しつけることなどを|約《やく》|束《そく》して|娘《むすめ》をなだめた。|玄《げん》|関《かん》にローリーの足音がきこえると、メグはさっと|書《しょ》|斎《さい》に引っ|込《こ》み、夫人ひとりが|被《ひ》|告《こく》と|面《めん》|接《せつ》することになった。ジョーはローリーがこないといけないと思って、何の用かということは話してないのであった。けれどもローリーはマーチ夫人の顔をみた|瞬間《しゅんかん》、はっときたらしく、うしろめたい様子で|帽《ぼう》|子《し》をひねくりながら立っていた。これで彼が|犯《はん》|人《にん》たることはたちどころに|立証《りっしょう》されたのである。ジョーは|退《たい》|席《せき》を命ぜられたが、|捕《ほ》|虜《りょ》が|逃《とう》|亡《ぼう》でもしてはと、番兵のように|廊《ろう》|下《か》を|往《ゆ》きつもどりつしていた。客間の話し声は高くなり低くなり半時間ばかりもつづいていたが、その会見の|模《も》|様《よう》がいかなるものであったか、姉妹は知るよしもなかった。
ふたりが|呼《よ》ばれて室にはいってみると、ローリーはしんそこから|後《こう》|悔《かい》したような顔をして母のそばに立っていたので、ジョーは|即《そく》|座《ざ》に彼をゆるしてやったが、まだそんな顔をみせるのは|賢《けん》|明《めい》ではないと思った。メグはローリーが平身低頭してあやまるのをその場で許し、このたびの悪ふざけをブルックさんは少しもしらないのだということを|確《たし》かめて、大いに安心した。
「|僕《ぼく》死んだって先生には言いません、――あばれ馬をけしかけられたって言いません、だからどうぞゆるしてくださいね、メグ。僕がしんから悪かったと思っている|証拠《しょうこ》にどんなことでもしてお目にかけます」彼はひどく|恥《は》じ入っている様子でつけ加えた。
「ゆるしてあげたいと思っているわ、でもほんとに男らしくないやりかただったわね、私あなたがあんな|卑怯《ひきょう》な、悪いことなさる方だとは思わなかったわ、ローリー」メグはまじめくさってお説教しながら、|乙女《お と め》らしい|困《こん》|惑《わく》を|隠《かく》そうとして、そう答えた。
「まったく|言《ごん》|語《ご》|道《どう》|断《だん》です、一月くらい口をきいていただけなくっとも仕方がありません。でもゆるしてくださるかしら、どうでしょう?」ローリーは両手を組み合わせて|哀《あい》|願《がん》するような|格《かっ》|好《こう》をし、いかにも|謙《けん》|遜《そん》に、|後《こう》|悔《かい》したらしく目をくりくりさせながら、だれにもいやとは言わせぬような話しぶりでこう言ったので、あんな|怪《け》しからぬ|行《こう》|為《い》をしたにもかかわらず、|怒《おこ》ってばかりはいられなくなるのであった。メグはとうとう彼をゆるした。そして彼が自分の|罪《つみ》を|償《つぐな》うためにはどんな|難《なん》|行苦行《ぎょうくぎょう》もいとわないし、|傷《きず》つけられた乙女の前には虫けらのように自分を|卑《いや》しめるであろうなどと言ったときには、|苦《にが》り切っていてやろうと思ったマーチ夫人さえ、その重々しい顔をほころばせたほどだった。
一方ジョーはローリーに対してどこまでも|無情《むじょう》な気持ちでいてやろうと、|離《はな》れたところに立っていたのだが、わずかにその顔をつんとさせて、あくまでもゆるすのは|不《ふ》|賛《さん》|成《せい》だというような表情でいるのがやっとだった。ローリーは一、二度彼女のほうをみたが、彼女がなんら|和《わ》|解《かい》の様子も|示《しめ》さないので、|癪《しゃく》にさわったらしく、くるりと|背《せ》を向けたまま、母とメグとの話がすんでも、彼女にはていねいに一礼したのみで一言も交わさず、とっとと室を出て行ってしまった。
彼の|姿《すがた》が見えなくなるやいなや、ジョーはも少し|寛《かん》|大《だい》にしてやればよかったとくやまれた。そして姉と母が二階に上がってしまうと、急に|寂《さび》しくなってしまって、しきりとテディに会いたくなった。しばらくはその気持ちとたたかってはみたものの、どうしても会わずにはいられなくなり、返さねばならぬ本を|小《こ》|脇《わき》にかかえて、|隣《となり》の大きな家へ出かけて行った。
「ローレンスさまはいらっしゃいます?」ちょうど二階から下りてきたメイドにジョーはきいた。
「はい、おいででございます。でも今日はお会いにはなりますまいとぞんじます」
「どうして? おわるいんですか?」
「いいえ、いいえ、そうではないんでございますよ、実はローリーさまとひともんちゃくございましてね。ローリーさまが何か|疳癪《かんしゃく》をお起こしになりましたのを、ご|隠《いん》|居《きょ》さまがまたお|腹《はら》|立《だ》ちなんでございますよ。それで私はこわくっておそばへもよれないんでございます」
「ローリーはどこにいますの?」
「お部屋にかぎをおかけになって、いくらおたたきしてもお返事もなさいません。お食事もどうなさいますのやら、すっかりお|支《し》|度《たく》もできておりますのに、どなたも|召《め》し上がる方がございませんのですわ」
「私行って様子を見てくるわ。私おふたりともこわくなんかないわ」
ジョーは二階に上がって、|猛《もう》|烈《れつ》な勢いで|扉《とびら》をたたいた。
「よさないか、よさなきゃ扉を開けてよさしてやる!」|若《わか》|旦《だん》|那《な》さまはこう|威《い》|嚇《かく》|的《てき》な|口調《くちょう》で|怒《ど》|鳴《な》ってよこした。ジョーは|間《かん》|髪《はつ》を入れずにまたどんどんやった。扉がさっと開けられ、ローリーがあっけにとられているひまにジョーはすばやくおどり|込《こ》んだ、そしてローリーがほんとうに|怒《おこ》っているのをみてとると、日ごろ|扱《あつか》い方を|心得《こころえ》ているので彼女はすっかり|後《こう》|悔《かい》しているふうを|粧《よそ》おい、しなしなとひざまずいて、しおらしく言った、「あんなに意地悪してごめんなさいね、私あやまりにきたのよ、|赦《ゆる》してもらわないうちは帰れないわ」
「もういいんだよ、立ちたまえ、ばかなまねしないで」ジョーの|嘆《たん》|願《がん》に対してローリーはこう言って|紳《しん》|士《し》|的《てき》なところをみせた。
「ありがとう、じゃ立つわ。でもいったいどうしたっていうの? とてもむしゃくしゃしているようじゃないの」
「さんざやっつけられたのさ、僕はくやしくってたまらないんだ!」ローリーは|忿《ふん》|懣《まん》やるかたないような声をだした。
「だれに?」ジョーはきっとなってきいた。
「おじいさまさ。あれが他のやつであろうものなら僕は、――」|自《じ》|尊《そん》|心《しん》を|傷《きず》つけられたこの少年は、あとは言わずに|右《みぎ》|腕《うで》に力をこめて相手をやっつける身がまえをしてみせた。
「そんなことなんでもないわ、私だってしょっ中あんたをやっつけるけど、あんたなんとも思わないじゃないの」とジョーは彼をなだめるように言った。
「ぷっ! 君は女の子だよ、それにあんなのは|冗談《じょうだん》だもの。男にやっつけられてだまってなんかいられるもんか」
「今のあんたのおっかない顔をみたら、だれだってやっつけたりなんかできないと思うけれどね。なんだってまたそんなにやられたの?」
「君のお母さまがだれにも言うなといったことを言わなかったからさ。僕は言わないって|約《やく》|束《そく》した以上どんなことがあったって言わないつもりだったんだ」
「そんなに|怒《おこ》らせないだって、おじいさまの気のすむようなうまい話し方はなかったのかしら?」
「だめなんだ、おじいさまはほんとのことを、あらいざらい言えって言ってね、それ以外はきかないのさ。僕もね、メグの名をださずに僕のやったことだけ言えるものなら言いたかったんだよ、そんなわけにはいかないだろう、だから僕だまって|叱《しか》られるのを|我《が》|慢《まん》していたんだ、そしたらおじいさまったら僕の|襟《えり》|首《くび》をつかむんだもの、僕もかっとして、自分ながらなにをしでかすかわからなかったから、飛び出してきちまったのさ」
「そりゃまずいわね、でもおじいさまだって|後《こう》|悔《かい》していらっしゃるわよ、きっと。だから階下へ行って|仲《なか》|直《なお》りなさいよ。私もついてってあげるから」
「だれが行くかって! ちょっとしたいたずらでお説教されたり|拳《げん》|固《こ》をくわされたりしてたまるもんか。メグには悪いと思ったから男らしくあやまったんだ。だけどそれ以上悪いこともしないのに二度もあやまったりなんかするの、僕は|断《だん》じていやだ」
「だっておじいさまはごぞんじないんですもの」
「僕を信じてくれればいいんだ、ひとを赤ん|坊《ぼう》かなにかみたいに|扱《あつか》わないでさ。あやまる必要はないよ、ジョー。僕だって自分で自分のしまつはできる、いちいち他人の|厄《やつ》|介《かい》にならなくったっていいんだってことを、おじいさまもしっておくほうがいいんだ」
「しようがない|怒《おこ》りん坊ね!」ジョーはためいきをついた。「じゃどうやってけりをつけるつもりなの?」
「うむ、おじいさまのほうからあやまればいいんだ、そして僕がわけを話せないといったら、だまって僕を信用してくれりゃいいんだよ」
「とんでもないわ! そんなことなさるもんですか」
「とにかくあっちからくるまでは僕はおりないよ」
「ねえ、テディ、いうことをきくもんよ。もうそんなこと水に流しておしまいなさい。私、できるだけうまくお話してみるわ。あんただっていつまでもここにいるわけにもいかないのに、そんな|芝《しば》|居《い》じみたことしたってしようがないじゃないの」
「どっちみちこんなところに|長《なが》|居《い》はごめんだよ。僕はね、家をぬけだして旅行でもしてやろうと思っている、僕がいなくなって|寂《さび》しくなれば、おじいさまだってじきにごきげんを直すと思うんだ」
「そうかもしれないけど、でもそんなことしてご心配をかけるのはよくないわ」
「お説教はごめんだ。僕ワシントンに行ってブルックさんに会うんだ、あすこはにぎやかだぜ、こんないやな思いをしたんだもの、思いっきり遊んでやらなくちゃ」
「あら、すてきでしょうね! 私もいっしょに飛び出せたらいいな!」ジョーは首都における軍隊生活をまざまざと思い|浮《う》かべ、|指《し》|導《どう》|者《しゃ》の立場も|忘《わす》れて、こう言った。
「じゃ、行こう? かまうもんか。君はお父さまをびっくりさせるし、僕はブルックさんを|驚《おどろ》かしてやる。こりゃおもしろくなるぞ、ぜひ行こうよ、ジョー! |無《ぶ》|事《じ》でいるから心配するなって手紙を置いて、すぐ出かけよう、お金は僕がたくさん持ってる、君はお父さまのところへ行くのだもの、いいことでこそあれ悪いことなんかあるもんか」
ちょっとの間、ジョーは|賛《さん》|成《せい》しそうな様子だった、まことに|乱《らん》|暴《ぼう》な計画ではあったけれども、彼女にとってこんな気に入った話はまたとあるものではない。心配と一種の|監《かん》|禁《きん》状態にあきあきし、なにか変わったことはないかと思っていた|矢《や》|先《さき》、父に会えるという思いは、キャンプや病院、自由と|享楽《きょうらく》などの|新《しん》|奇《き》な|魅力《みりょく》といっしょになって彼女を|誘《ゆう》|惑《わく》のとりこにした。いっとき彼女の目はきらきらと|燃《も》えてうっとりと|窓《まど》の外を|眺《なが》めるのであったが、その目がかなたの古びた家の上にとまると、彼女は悲しくも思い止どまる決心をして頭を|振《ふ》った。
「私が男だったらいっしょに|逃《に》げだしておもしろい思いをしてみたいと思うわ、でも私はあわれな女の子よ、おとなしくしていなくっちゃならないの。誘惑しないでね、テディ、そんなこと|気《き》|違《ちが》いじみてるわ」
「そこがおもしろいんじゃないか!」ローリーはまたも言いはじめた、こうなったら後へは引かぬ|気性《きしょう》を|発《はっ》|揮《き》し、何かの形で|束《そく》|縛《ばく》を|破《やぶ》ってやろうと、やっきとなっていたのである。
「もうやめて!」ジョーは耳にふたをして|叫《さけ》んだ。「お|行儀《ぎょうぎ》よくおとなしくしていなくちゃならないのが私の運命よ、だからきっぱりとあきらめたほうがいいのよ。私あんたに意見するためにここへきたので、なにも心がおどるような話をききにきたんじゃありゃしないわ」
「メグならこんな話ははじめっから相手にしないと知ってたけど、君はもっと勇気があるかと思ってたんだがなあ」とローリーはそろそろと気を引くように言いだした。
「悪いひと、おだまりなさいったら。そこへすわって自分の|犯《おか》した|罪《つみ》でも考えていらっしゃい、このうえ私にまで罪を犯させることなんか考えないで。ね、私がおじいさまにあなたをやっつけたことをあやまらしてあげたら、家をとび出すことやめる?」ジョーはまじめになってきいた。
「ああ、でも君にそんなことできるもんか」ローリーは答えた。彼だって|仲《なか》|直《なお》りしたいのはやまやまだったのだけれど、まず先に自分の顔がたつようにしてもらいたいと思っていたところである。
「|孫《まご》のほうをうまくやったんだもの、おじいさんだってやれないわけはないと思うわ」とジョーは口の中でつぶやいた。そして、鉄道地図の上におっかぶさるようにして、ほおづえをついているローリーを|尻《しり》|目《め》に、さっさと部屋をでて行った。
「おはいり!」ジョーが|扉《とびら》をたたくと、中からきこえたのはローレンス氏のいつもの声に輪をかけたような|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》な声であった。
「私です、おじいさま、ご本をお返しに上がりました」とジョーは物やわらかな調子で言いながら、中へはいった。
「何かもっと読むかね?」|老《ろう》|紳《しん》|士《し》は、こわい上にも|怒《おこ》った顔をして、しかもそれを|隠《かく》そうと努めながらたずねた。
「はい、|拝借《はいしゃく》したいと思います、サム老人はたいへんおもしろうございましたから、二|巻《かん》を読んでみたいと思います」とジョーは答えた。このおもしろい書物は前にもローレンス氏がすすめてくれたものなので、その「ボズウェルのジョンスン伝」の第二巻を借りてごきげんをとり結ぼうとしたのである。
ジョンスンに関する書物が|並《なら》べてある|書《しょ》|棚《だな》のほうへ|踏《ふ》み台を|押《お》してくれながら、老紳士の太い|眉《まゆ》|根《ね》はいくらか開いたようにみえた。ジョーはとんとんとそれに登っててっぺんに|腰《こし》をおろし、本を|捜《さが》すふりをしながら、実はこの|危《き》|険《けん》きわまる|訪《ほう》|問《もん》の|目《もく》|的《てき》をいかにしてうまく切りだすべきかと考えていた。ローレンス氏は彼女の心の中に何かもやもやしたものがあるのをみてとり、足早に五、六度室を|往《ゆ》きつもどりつしたかと思うと、くるっと彼女のほうを向いて、急に話しかけたものだから、ジョーの手にあった「ラセラス」(ジョンスンの著わした物語)は|真《まっ》さかさまに|床《ゆか》の上に落ちてしまった。
「いったいあの子はなにをしていましたのじゃ? あれをかばうことはやめてくだされ、なにかわるさをしたことはわかっとる、家へ帰ってきたときの様子でな。あれはわしに一言も物を言わん、|白状《はくじょう》させようと思って|抑《おさ》えつけてやると、やにわに飛びだして、二階に上がって、室にかぎを下ろしてしまったんじゃ」
「たしかに悪いことはしたんです、でも私たちゆるして上げました、そしてだれにもなにも言わないことにしようって|約《やく》|束《そく》したんです」とジョーはしぶしぶ言った。
「それはいかん、あんたたちのようなやさしい|娘《むすめ》さんとの約束をたてに自分をかばうなどとはもってのほかじゃ。なににしろあやまちを|犯《おか》したのなら、さっさと白状して、わびを言うて、|罰《ばつ》を受けにゃならんのじゃ。さ、早う言うてくだされ、ジョーさんや。わしは物事をかくしておかれるのは|好《す》かんのじゃ」
ローレンス氏はそれはそれはこわい顔をし、きつい声をだしたので、できることならその場から|逃《に》げだしたかったのだが、なにしろ自分は|踏《ふ》み台のてっぺんにとまっているのだし、足下にはローレンス氏が行く手をはばむライオンのようにたちはだかっているのだから、彼女はあくまでふみとどまって|勇《ゆう》|敢《かん》にたち向かうほかはないのであった。
「おじいさま、ほんとうに申し上げられないのですわ。言ってはいけないと母にとめられているんですから。ローリーはちゃんと|白状《はくじょう》して、あやまって、十分に|罰《ばつ》も受けました。あの人をかばうために言わないんじゃないんです、|別《べつ》の人なんです。おじいさまが中におはいりになるとかえってめんどうなことになりますわ。ですからもうどうぞなにもおっしゃらないでください、私にも悪いところがあったんです、でももうすっかりかたづいたんですから、もう|忘《わす》れることにしましょうよ、そして『ラムブラー』(一七五〇―一七五二ジョンスンが週二回刊行した雑誌)かなんかおもしろいお話をいたしましょう」
「『ラムブラー』なぞはどうでもよい! 早くおりてきて、うちの|無《む》|鉄《てっ》|砲《ぽう》|者《もの》がなにも|恩《おん》しらずなことや|出《で》|過《す》ぎたことをしたのではないと、わしにうけ合ってくだされ。あなた方のご親切も忘れて、そんなことでもしでかしていようものなら、わしはこの手であれをたたきのめしてやりますじゃ」
おどし|文《もん》|句《く》はすごかったがジョーはさっぱり|驚《おどろ》かなかった。この|癇《かん》|癖《ぺき》の老人は、口では強いことを言っても、|孫《まご》|息《むす》|子《こ》に対しては指一本も上げたことがないということをよく知っていたからである。彼女はおとなしく台からおりて、いたずらの話をできるだけ|簡《かん》|単《たん》に、メグの名もださないようにして、といって事実をまげるようなこともなく、|老《ろう》|紳《しん》|士《し》に話しきかせた。
「ふん! はあ! なるほど、|小《こ》|僧《ぞう》がだまっとるのは約束したからで、|強情《ごうじょう》からではないというのなら、ゆるしてやりましょうわい。どうも意地っぱりなやつで|骨《ほね》が折れますて」ローレンス氏はやたらに|髪《かみ》をかき上げて、|疾《しっ》|風《ぷう》にでもあった人のような|形相《ぎょうそう》を|呈《てい》しながらも、ほっとしたように|眉《まゆ》を開いた。
「私もそうなんです、たとえ王さまの兵隊や馬が|総《そう》がかりでも、いやなことはいやと言いますけれど、たった一言やさしい言葉でもかけられようものなら、すぐまいってしまうんです」ジョーは次から次と|苦境《くきょう》にたたせられる友だちのために、一はだぬいでみようと思ってこう言った。
「わしがあれにやさしくないとでもお思いなのかね、え?」きつい調子であった。
「いいえ、そんなこと思ってやしません、どうかするとおやさしすぎるくらいですわ、でもローリーがお気にさわるようなことをしたときなんかは、少しお気短なようにも思うんですけど。そうお思いになりませんか?」
ジョーはこうなってはなにもかも言ってしまう決心だった、それゆえこんな|大《だい》|胆《たん》なことを言ったあとで少しふるえはしたけれども、つとめて平静な顔を|粧《よそ》おうていた、ところがほっとしたことには、そのうえ意外なことには、|老《ろう》|紳《しん》|士《し》は|眼鏡《めがね》をがちゃりと音をたててテーブルの上に投げだすと、|率直《そっちょく》にこう言ったのである。――
「あんたの言うとおり、わしは気短ですわい! わしはあの子をかわいがっとる、じゃのにあれはわしをじらすようなことばかりやりおる、このままでいったら末はいったいどうなるのじゃ」
「お教えしましょうか――あのひと家を飛びだしますよ」言ったそばからジョーは|後《こう》|悔《かい》した。彼女はただローリーはあまり|束《そく》|縛《ばく》されると|我《が》|慢《まん》ができない人間だということを注意して、も少し|寛《かん》|大《だい》にしてやってほしいと言ったつもりなのであった。
ローレンス氏のあから顔からさっと血の色が引いた、それから|腰《こし》をおろして、テーブルの上に|掲《あが》っているりっぱな人の|肖像《しょうぞう》を、心配そうな顔をしてながめたのである。それは|若《わか》いころ家を飛びだしてこの|権《けん》|柄《ぺい》ずくな老人の意に|逆《さから》って|結《けっ》|婚《こん》をしたローリーの父親なのであった。ジョーは氏がその|昔《むかし》を思いだして後悔しているのだとわかったので、あんなことを言わなければよかったと思った。
「でもよっぽどいやなことでもない|限《かぎ》り|大丈夫《だいじょうぶ》ですわ、ただ勉強がいやになったりすると、そんなこと言っておどかすことがあるだけなんですから。私だってよくそんなこと思いますもの、|特《とく》に|髪《かみ》を切ってからなんですけどね。ですからもし私たちが見えなくなったら、少年ふたり|行《ゆく》|方《え》不明って広告をおだしになって、インド行きの船でもお|捜《さが》しになるとようございますよ」
彼女が|笑《わら》いながら言ったものだから、ローレンス氏もほっとし、さてはみな|冗談《じょうだん》だったのかと思ったふうであった。
「このおてんば|娘《むすめ》が、よくもそんなことをぬけぬけと言いおる。この老人に対する|尊《そん》|敬《けい》だの、あんたのお家のりっぱな|躾《しつけ》だのをどこへ|忘《わす》れなさった? さてさて子供というものはしようのないものじゃて! かというてそれがのうてはどうにもならんしなあ」と言って、彼はきげんを直してジョーの|頬《ほっ》ぺたをつまみ上げた。「二階に行って|奴《やっこ》さんを食事につれてきてくださらんか、もういいというてな、そして|祖《じ》|父《じ》を相手に|悲《ひ》|劇《げき》の主人公|面《づら》はやめてもらいたいと言うてやってくだされ、わしはもうご|免《めん》じゃ」
「ローリーはおりてきませんよ、おじいさま、あのひとがどうしても言えないと言ったとき信用なさらなかったっていうんで、とても|怒《おこ》っているんです、おじいさまがあのひとを|捉《つか》まえてぎゅうぎゅういわせたのが気にさわったんじゃないでしょうか」
ジョーは|悲《ひ》|壮《そう》な顔つきをしたつもりだったが、ローレンス氏が笑いだしたところをみるとそれはどうやら失敗だったらしい、とにかく彼女はこのたたかいに勝ったことを知った。
「あれはわしが悪かった、この分ではあべこべにわしがやられなんだのをありがたく思わねばなるまいかの。それで|奴《やっこ》さんはわしにどうしろというのじゃ?」と言って|老《ろう》|紳《しん》|士《し》は自分の短気を少しばかり|恥《は》じている様子だった。
「私でしたら、お|詫状《わびじょう》を書きますわ、おじいさま。ローリーはおじいさまにあやまっていただかないうちは、おりてこないって言っています、そしてワシントンへ行くとかなんとかってへんなことばかり言うんですよ。正式な|詫証文《わびしょうもん》をいただいたら、あのひとも自分のばかさ|加《か》|減《げん》に気がついて、ごきげんを直すと思いますわ。やってごらんなさいまし、あのひと|茶《ちゃ》|目《めっ》|気《け》がありますから、口でおっしゃるより|効《き》き目がありますよ。私持ってってあげます、そして|孫《まご》たる道をさとしてきますわ」
ローレンス氏はきっと彼女を見すえたが、やがて|眼鏡《めがね》をとり上げ、ゆっくりと言った、「あんたはなかなか|油《ゆ》|断《だん》のならぬ子じゃて! ま、あんたとベスにはいいようにされていましょうわい。なんぞ紙はないかの、こんなばかばかしいことはさっさとおしまいにしたいものじゃ」
その|詫証文《わびしょうもん》には、一個の|紳《しん》|士《し》が|然《しか》るべき相手に対し、相当の|侮辱《ぶじょく》を|与《あた》えた場合に書かれるような|辞《じ》|句《く》が連ねてあった。ジョーはローレンス氏のはげ頭にキッスを一つすると、二階に|駆《か》け上がって、その証文をローリーの部屋の|扉《とびら》の下へすべり|込《こ》ませ、おとなしくしろとか|行儀《ぎょうぎ》よくしろとかその他いくつか実行できそうもないようなよいことをかぎのあなから忠告してやった。また扉にかぎがおろされてあるのを知って、ジョーは|紙《し》|片《へん》の|効《き》き目はたしかめずに、そうっと立ち去ろうとした、すると|若《わか》|旦《だん》|那《な》さまは手すりをするするとすべりおりて、階段の下で彼女を待ち受け、とびきりまじめな顔をして言った、「君はいい人だなあ、ジョー! うんとしぼられたかい?」彼は|笑《わら》いながらつけ加えた。
「いいえ、おじいさま相当おわかりになるほうよ、あれなら」
「ああ、僕は全く八方ふさがりだからな! 君まであのときは僕を|見《み》|捨《す》てたんだもの、もうどうにでもなれっていう気がしたよ」と彼は言いわけがましく言いだした。
「もうそんなふうに言うのはおよしなさい、新しいページを開けてやり直すのよ、ね、テディ」
「僕は新しいページを開けてはよごしてばっかりいるよ、まるで僕の帳面とおなじさ。書き直しばっかりで書き上げたことはないんだ」と彼は悲しそうに言った。
「さ、あっちへ行ってご飯をお上がんなさい、そうすれば気持ちがよくなるわよ、男のひとってお|腹《なか》がすくとぐずぐず言いだすもんよ」そう言い|捨《す》ててジョーは|表玄関《おもてげんかん》からさっさとでて行った。
「それは男性たるわれらを|誹《ひ》|謗《ぼう》するものだ」とローリーはエーミーの|口調《くちょう》をまねて答えながら、|甘《あま》んじておじいさまのお目玉をちょうだいしようと|奥《おく》へはいって行った。ところが当のおじいさまはすこぶるごきげんがよく、その日いちにち彼に対して|丁重《ていちょう》な態度で接し、ローリーはただただ|恐縮《きょうしゅく》するばかりであった。
みんなこれで|事《じ》|件《けん》は一段落し、小さな暗雲は|吹《ふ》き|払《はら》われた、と思っていた、ところがこのいたずらは|痕《あと》を残した、というのはみんなは|忘《わす》れてしまってもメグは忘れなかったからである。彼女はけっしてある人のことを口にださなかった、がそのひとのことをたびたび思い、前にもまして|夢《ゆめ》に見るようになった、あるときジョーが切手を|捜《さが》そうと姉の|机《つくえ》をかき回していると、「ミセス・ジョン・ブルック」と落書きした|紙《し》|片《へん》がでてきた。ジョーは悲しそうな声をだしてうなり、それを火にくべた、そしてローリーのいたずらのおかげで、自分にとっては不幸な日が早くくる|結《けっ》|果《か》となったのをしみじみと感じたのであった。
第二十二章 楽しき|野《の》|辺《べ》
|嵐《あらし》のあとの晴天のように、それからあとにはのどかな|幾週間《いくしゅうかん》かがやってきた。ふたりの病人は日ましによくなり、マーチ氏は新年になったら早々に家へ帰れるのではないかという話もでるようになった。ベスは一日じゅう|書《しょ》|斎《さい》のソファに横たわって、初めのうちはお気に入りの|猫《ねこ》を相手に、そのうちには今までほったらかしにしておいたお人形の着物を|縫《ぬ》ったりして、ひとりで楽しめるくらいになってきた。かつては休む間もなく働いていた手足は今はこわばって弱弱しくなっていたので、ジョーは毎日|彼《かの》|女《じょ》を自分のたくましい|腕《うで》に|抱《だ》きかかえて、家のまわりを散歩させてやった。メグは「いとしい妹」においしいご|馳《ち》|走《そう》をこしらえてやるため、白い手をよろこんで黒くしたり、やけどをしたりした。また、|例《れい》の指輪の忠実なしもべとなったエーミーは、できるだけたくさんの|宝物《たからもの》を姉さんたちにむりやり受けとってもらって、|帰《き》|宅《たく》のお|祝《いわ》いとしたのである。
クリスマスが近づくにつれて、例年のとおり|神《しん》|秘《ぴ》|的《てき》な空気が家の内外にただよい始めた。ジョーはいつにもまして楽しかるべき今年のクリスマスを祝うために、とうてい実行のできそうもない案をたてたり、|途《と》|方《ほう》もなくばかげた|催《もよお》しをしようと言ったりして家中の者に|笑《わら》われた。ローリーもこれに|劣《おと》らず|奇《き》|想《そう》|天《てん》|外《がい》、思いのままになるならば、|篝火《かがりび》を|焚《た》き、花火を打ち上げ、|凱《がい》|旋《せん》|門《もん》を立てんばかりの勢いであった。いくどか|衝突《しょうとつ》したり出鼻をくじかれたりしたあげく、この野心満々たる一対はすっかり熱をさまさせられたものとみえ、がっかりした顔つきで歩き回っていたが、ふたりがいっしょになると|突拍子《とっぴょうし》もない笑い声をたてたりするところをみると、その様子もあてになるものではなかった。
|珍《めずら》しく|穏《おだ》やかな天気が五、六日もつづいて、この場にふさわしい先ぶれとなったかと思ううち、すばらしいクリスマスの日がやってきた。ハンナは「その日はめっぽうもなく|結《けっ》|構《こう》な日になることが、|骨《ほね》の|髄《ずい》からわかっていた」そうであるが、その|予《よ》|言《げん》は見事|適中《てきちゅう》した、というのは、この日はだれも彼も、なにもかにも、すばらしい成功をおさめることにきまっていたかのように思われたからである。まずマーチ氏からは、まもなく|皆《みな》に会えるであろうという便りがあった。またベスはこの朝とくべつ気分がよくって、母から|贈《おく》られた、|柔《やわ》らかい|紅色《くれないいろ》メリノの部屋着にくるまって、ジョーとローリーの贈り物を見物しに、わっしょわっしょと|窓《まど》のそばへ|担《かつ》がれて行った。とうてい野心を|抑《おさ》えきれないこのふたりは、さすがにその名に|背《そむ》かぬだけのことをした、お|伽噺《とぎばなし》の|小鬼《エルフ》のように彼らは夜通しかかって仕事をし、みるからにおどけた贈り物を、|魔《ま》|法《ほう》のように|現出《げんしゅつ》させていたのである。庭のかなたに堂々たる|雪《ゆき》|姫《ひめ》が立っていた、頭には|柊《ひいらぎ》の|冠《かんむり》をいただき、|片《かた》|手《て》に|果《くだ》|物《もの》と花を|盛《も》ったかごを持ち、片手には大きな新しい|楽《がく》|譜《ふ》|本《ぼん》を|巻《ま》いたものを持っていた、寒々とした|肩《かた》には|虹《にじ》かとまごう毛糸の毛布、くちびるからは、ピンクの|吹《ふ》き流しにしたためられたクリスマスの|祝歌《しゅくか》が流れでていた、――
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ユングフラウよりベスへ
神よほぎませベス姫を
君に|恐《おそ》るるものあらじ
健康、平和、また|幸《さち》を
受けよやこれのクリスマス
ここにささぐる|果《くだ》|物《もの》と
花を|召《め》しませ|蜂《はち》の君
ピアノに|架《か》くる|譜《ふ》の本と
足には|温《ぬく》き |掛《か》けぶとん
ラファエル二世がささぐなる
ジョアナが|姿《すがた》みそなわせ
美しくまたさながらに
心血こめて |描《えが》けるを
|母《はは》|猫《ねこ》君が|尾《お》を|飾《かざ》る
赤きリボンも受けたまえ
|桶《おけ》に盛れるはモン・ブラン
ペグ(メグの愛称)がつくれる|氷菓子《こおりがし》
雪姫われをつくりたる
ひとのまごころわが|胸《むね》に
受けませそをばアルプスの
|乙女《お と め》もろとも ふたりより
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これを見てベスはどんなに|笑《わら》ったことだったろう! またローリーはそれらの|贈《おく》り|物《もの》を運び入れるのにどんなにやっきとなって|駆《か》け回ったことだったろう! そしてジョーはそれを|贈《ぞう》|呈《てい》するときになんと|滑《こっ》|稽《けい》な|演《えん》|説《ぜつ》をしたことだったろう!
「|私《わたし》ほんとにしあわせだわ、これでお父さまさえいらしたら、もう何もいらないと思うわ」あまり|興《こう》|奮《ふん》してはいけないので、ジョーが|書《しょ》|斎《さい》へかかえていって休ませ、ユングフラウから贈られたおいしい|葡《ぶ》|萄《どう》を食べさせて元気をつけてやったとき、ベスは満足しきってためいきをつきながらこう言った。
「私もよ」とジョーはポケットをたたいてみせながら言った、そこには長いことほしくてたまらなかった「アンダイン」(|水の精《ウィンディーネ》)と「ジントラム」がひそませてあったのである。
「私も」とエーミーが声を合わせて、母が美しい|額《がく》|縁《ぶち》に入れて|贈《おく》ってくれた「|聖《せい》|母《ぼ》とキリスト」の|版《はん》|画《が》をあかずながめた。
「私だってもちろんよ」とメグは、生まれて初めて身につけた|絹《きぬ》のきものの銀色に光る|襞《ひだ》をなでながら|叫《さけ》んだが、それはローレンス氏からぜひにと言って彼女に贈られたものである。
「お母さまだって、おんなじことよ」マーチ夫人も|感《かん》|謝《しゃ》にみちたまなざしで夫の手紙とベスのにこにこ顔をみくらべ、それから、|灰《はい》|色《いろ》と|黄金《こがね》|色《いろ》、|栗《くり》|色《いろ》と|暗褐色《あんかっしょく》の|髪《かみ》の毛で|編《あ》まれたブローチをやさしくなでた、それは今しがた|娘《むすめ》たちが|襟《えり》に|飾《かざ》ってくれたものであった。
このあくせくとした世の中にも、どうかすると楽しいお|噺《はなし》の本の中にあるようなことが起こって、人の心に大きな|慰《なぐさ》めを|与《あた》えることがあるものだ。それから半時間ばかりというもの、だれも彼もがこのうえもなく|幸《こう》|福《ふく》で、あとはもうただ一つのことが満たされさえすれば、と言っていたその一つのことがやってきたのである。客間の|扉《とびら》が開いたかと思うとローリーが静かに中をのぞき|込《こ》んだ、ほんとうは彼はでんぐり返しをやって、インディアンの|喊声《ときのこえ》でも上げたかったくらいのところである、その顔には包みきれぬ|興《こう》|奮《ふん》の色があふれ、その声にも喜びを|隠《かく》しきれないものがあった。彼が|妙《みょう》にうわずった声で「マーチ家へもう一つクリスマスプレゼントです」と言っただけで|皆《みな》はわっと飛び上がってしまった。
そう言うやいなやローリーはどうしたわけかさっとそこを立ちのいた、代わりに|丈《たけ》の高い人が目もとまで|襟《えり》|巻《まき》にくるまれて、今ひとりの|背《せ》の高い人の|腕《うで》にささえられながらそこへ|現《あらわ》れた。ささえているひとは何事か言おうとしたが言葉がでない様子である。|一《いち》|座《ざ》ににわかなどよめきが起こったのはいうまでもない。しばらくのあいだ、だれも|彼《かれ》も正気を失ったようであった、あまりといえば思いがけないことなのだもの、だれひとり口をきくものもなかった。マーチ氏の|姿《すがた》はたちまちのうちにかわいいものの八本の腕に|抱《だ》かれて見えなくなってしまった。ジョーは面目なくも半分|気《き》|絶《ぜつ》しかかって、陶器室でローリーの|介《かい》|抱《ほう》を受けなくてはならなかった。ブルックさんはメグにキッスした、――もっとも彼のしどろもどろな言いわけによればそれは全くの|間《ま》|違《ちが》いだったということであるが。日ごろたしなみ深いエーミーが足台につまずいて転んでしまい、そのまま起きようともせずに父の|長《なが》|靴《ぐつ》にしがみついて|泣《な》いていたのも、いじらしい光景であった、マーチ夫人はまっ先にわれに返り、手を上げてみんなに注意した、「静かに! ベスがいるのですよ!」
しかし時すでにおそく、|書《しょ》|斎《さい》の|扉《とびら》が|押《お》し開けられると、|敷《しき》|居《い》の上に|紅色《くれないいろ》のねまき|姿《すがた》が立っているではないか、喜びのあまり彼女のいたいたしい手足に力がみなぎったのであろう、ベスは走りよって父親の腕の中にとび|込《こ》んだのである。そのあとにどんなことが起こったかと心配するのはやめよう、|皆《みな》の心には喜びがあふれ、|過《す》ぎし日の悲しさ|辛《つら》さは残らず|押《お》し流されて、|現《げん》|在《ざい》の楽しさだけが残ったのである。
それをロマンティックなどというのは当たらない、このあとで|皆《みな》がお|腹《なか》をかかえて|笑《わら》いだすようなことがもち上がり、おかげで一同はふたたび正気にたち返ることができた。ドアの|陰《かげ》にハンナがこえた|七面鳥《しちめんちょう》を前において、しくしく|泣《な》いている|姿《すがた》が発見されたのだ。彼女は手に持っていた鳥をおろすのも|忘《わす》れて、台所からとび出してきたという次第である。笑いがしずまったところでマーチ夫人はブルックさんに向かい、夫に手あつい|看《かん》|護《ご》をしてくれたことに対しお礼を|述《の》べ始めた。それをきくとブルックさんは急にマーチ氏を休ませなくてはいけないことを思いだし、ローリーの手をとるとそそくさと立ち去ってしまった。そのあと病人はみんなから休息するように言われ、そのとおりにした。ふたりは一つの大きな|長《なが》|椅《い》|子《す》に|仲《なか》よく|腰《こし》をおろして、一心にお話をつづけるのであった。
マーチ氏は不意に帰ってみんなを|驚《おどろ》かしたかったのだということや、そのうちいいお天気になったので受け持ちのお医者さまが今のうちなら帰ってもいいと|許《ゆる》してくだすったことなどを話してきかせた。またブルックさんがどんなに一心になって看病してくれたかということや、彼がいかに|尊《そん》|敬《けい》すべきりっぱな青年であるかということなども話すのであった。それを言ったときマーチ氏はふと話をやめ、|手《て》|荒《あら》く火をつつきだしたメグのほうをちらと見てから、|妻《つま》のほうを見て物問いたげに|眉《まゆ》を動かした、すると妻は、やさしくうなずき、とってつけたようになにか|召《め》し上がりませんかなどときいた、それはどういうわけであったか、みなさんのご想像にお|任《まか》せしよう。ジョーはふたりの様子をみて、その意味がわかった、そしてこわい顔して戸をばたんと|閉《し》めながら、「茶色の目をしたりっぱな青年なんてだいっきらい!」とつぶやいて、|葡《ぶ》|萄《どう》|酒《しゅ》とスープをとりに|大《おお》|股《また》で出て行った。
その|晩《ばん》ほどりっぱなクリスマスのご|馳《ち》|走《そう》を食べたことは、彼らにはかつてないことであった。太った七面鳥に|詰《つ》め|物《もの》をして、|狐色《きつねいろ》に焼きあげ、きれいな|飾《かざ》りを|添《そ》えてハンナが|食卓《しょくたく》へだしてよこしたときは、全くすばらしいながめであった。プラム入りのプディングもそのとおり、口に入れればとろりと|溶《と》けた。ジェリーも同様、エーミーは|蜜《みつ》の|壺《つぼ》にたかったはえみたいに|夢中《むちゅう》になって食べた。なにもかも大成功であった、それはハンナに言わせると、ひとえにお|恵《めぐ》みによるものだそうで、「なぜと申して|奥《おく》さま、ばばはあんなにあわてておりましたのに、プディングを焼きもせず、七面鳥に|干《ほ》し|葡《ぶ》|萄《どう》を入れたりもしませんでしたのは全く|奇《き》|跡《せき》と申すもんでごぜえますよ、よくも|袋《ふくろ》に入れて|煮《に》なかったものでごぜえます」
ローレンス氏と|孫《まご》|息《むす》|子《こ》も|招《まね》かれてこの|晩《ばん》|餐《さん》をともにした。ブルックさんも同席したが、ジョーがこわい顔してにらみつけるのがローリーにはおもしろくて仕方がなかった。テーブルの|上《かみ》|手《て》に安楽|椅《い》|子《す》がふたつ|並《なら》べられそこへベスとお父さまがかけて、|雛《ひな》|鶏《どり》と|果《くだ》|物《もの》を少し食べていた。一同は健康を|祝《しゅく》して、|乾《かん》|杯《ぱい》し、つきぬ物語をし、歌を歌い、また年とった人がよくいう「|昔話《むかしばなし》に花を|咲《さ》かせて」思う|存《ぞん》|分《ぶん》楽しいひとときを|過《す》ごしたのである。|橇《そり》にのろうという話もでたが、|娘《むすめ》たちは父のそばを|離《はな》れたがらなかった。お客さまたちは早目にいとまを告げた、|夕《ゆう》|闇《やみ》がしのびよるころ、このしあわせな一家族は|暖《だん》|炉《ろ》を囲んで集まってきた。
「ね、一年前には私たち、|憂《ゆう》|鬱《うつ》なクリスマスになりそうだっていうので、ぶうぶう言っていたわね、おぼえてる?」さまざまなことをさんざんおしゃべりしたあとで、しばらく静かになっていたが、ふとジョーがこうきいた。
「|過《す》ぎてみると、まあ楽しい一年だったと思うわ!」メグは火のほうをみたままそういってほほえんだ、そしてブルックさんに対してりっぱな|態《たい》|度《ど》でおもてなしができたことを思って、ほっとするのであった。
「私はずいぶんつらい年だったような気がするわ」エーミーはきらきら光る指輪をじっとながめながら、こう感想を|述《の》べた。
「もうそれも過ぎたのだからうれしいわ、お父さまがお帰りになったんですもの」父に|抱《だ》かれながらベスはささやいた。
「そうだね、おまえさんたちには少しつらい旅路だったようだね、ことにあとの半分がね。それでもよく歩いてきました、この分ではおまえたちの荷物はじき見事に落ちてくれるだろうと思いますよ」とマーチ氏は父親らしい満足を|覚《おぼ》えながら、そばに集まった四つの|若《わか》|々《わか》しい顔をながめた。
「どうしてごぞんじなんですか、お母さまからおききになったんですか?」とジョーがきいた。
「いや大してききはしなかったがね、飛ぶ|藁《わら》で風の方向はわかるものだ。それにお父さまは今日五つ六つ発見したこともあるのですよ」
「あらなんでしょう、おっしゃってちょうだい!」メグがきいた、彼女は父のとなりにすわっていたのである。
「これが一つ!」と言って父は|椅《い》|子《す》の|腕《うで》|木《ぎ》においてあった手をとり、|荒《あ》れた人さし指や、手の|甲《こう》のやけど、手のひらにできた二つ三つの固い豆などを指さした。「お父さまはこの手が白くてすべすべしていたときのことをよく覚えている、おまえのなによりの苦労はそれをきたなくしたくないということだったよ、そのころはこの手はほんとにきれいだったね、しかし私は今のほうがもっときれいだと思うのだ。このうわべにみえる|瑕《き》|瑾《ず》の中に、おまえが今までやってきた小さなことがみえるのだ、やけどは|虚《きょ》|栄《えい》|心《しん》を|犠《ぎ》|牲《せい》にしてできたものらしい、このかたくなった手のひらには、そのまめよりもりっぱなものが|与《あた》えられているのです。それからそのささくれた指で|縫《ぬ》ったきものはいつまでももちがいいだろうと思いますよ、一|針《はり》一針にまごころがこもっているからね。メグや、お父さまは白い手や上流風なおけいこ事よりも、家庭を楽しいものにしてくれるような女らしいたしなみのほうがずっと大事だと思うのだよ。こんなによく働く手と|握《あく》|手《しゅ》ができてほんとにうれしいと思うね、あんまり早くこの手をよその人に|所《しょ》|望《もう》されたくないような気がするよ」
メグが長い間、じっと|辛《しん》|抱《ぼう》して働いてきたご|褒《ほう》|美《び》を望んでいたとしたならば、それは今父が固く固くその手を握ってくれたことと、その辛抱を|認《みと》めてにっこり|笑《わら》ってくれたその笑い顔との中に十分に|得《え》られたのだということができよう。
「ジョーさんのことは? 何かおっしゃってほめてあげてくださいな、ジョーさんは|一生懸命《いっしょうけんめい》働いたんですよ、そして私にとても親切にしてくだすったんです」とベスは父の耳元にささやいた。
父は|笑《わら》って、浅黒い顔にいつになくおだやかな|表情《ひょうじょう》を|浮《う》かべて向こう側にすわっている|背《せ》の高い|娘《むすめ》をみやった。
「|髪《かみ》は短くなったようだが、一年前に|別《わか》れた『息子のジョー』の|面《おも》|影《かげ》はなくなったね」とマーチ氏は言った。「カラーはきちんとはめているし、くつのひもは結んであるし、前のように|口《くち》|笛《ぶえ》は|吹《ふ》かないし、|俗《スラ》|語《ング》も使わないし、|敷《しき》|物《もの》の上にねそべったりもしない、りっぱな|若《わか》い|婦《ふ》|人《じん》になっています。顔は少しやせたようだし、色もよくないようだが、それは|看病疲《かんびょうづか》れと心配のせいだろうね、でもずいぶんおとなしそうになったし声も低くなったので、お父さまはとてもうれしいね、とびはねるのもやめたようで、大そう静かになったね、そして小さな妹の世話をお母さんに代わってやってくれたそうでなによりも喜ばしく思う。あのわんぱく娘はいなくなったようで|寂《さび》しいが、その代わりにしっかりした、たのもしい、やさしい婦人がいてくれるのだから安心だ。毛を|刈《か》ったので家の|黒羊《くろひつじ》がおとなしくなったのかどうかはしらないが、とにかくおまえさんが送ってくれた二十五ドルで買いたいようなよい物は、ワシントン中さがしてもみあたらなかったよ」
ジョーは|鋭《するど》い目をしばしうるませ、やせた顔を|炉《ろ》の明りにぽっと赤く|染《そ》めた。お父さまのおほめの言葉をきいて、少しではあるがそれに|価《あたい》するところもあったのだと思ったのであろう。
「こんどはベス」とエーミーは自分の番が待ち切れず、それでも|我《が》|慢《まん》してそう言った。
「ベスはこんなに小ちゃくなっちまったから、あまりいろいろなことを言ってはするっと|抜《ぬ》けて、こんどはすっかりなくなってしまうんじゃないかと思って心配ですよ、もっとももとほどはにかみやではなくなったようだけれども」と父は明るく言いはしたが、すんでのことにこの|娘《むすめ》を|失《な》くしてしまうところであったのを思いだしてしっかりと|抱《だ》きしめ、|頬《ほお》をすりよせながら、やさしく言うのであった。「元気になってよかったね、ベス、いつまでもこのままでいておくれよ」
しばらくだまっていたのちに、マーチ氏は足もとの小さな|腰《こし》|掛《か》けにすわっているエーミーを見下ろし、美しい|金《きん》|髪《ぱつ》をなでてやりながら言った、「お父さまはね、エーミーが|晩《ばん》ごはんのとき、|鶏《にわとり》の足の肉をとったことも、昼からずっとお母さまのお使いをしていたことも、晩にメグに席を|譲《ゆず》ったことも、しんぼうづよくにこにこして|皆《みな》にお給仕していたことも、ちゃんと見ていました。それからあんまりだだもこねなくなったし、鏡の前でおしゃれもしなくなったし、その指にはめている美しい指輪のことも言わないね、そこでお父さまはこう思うのだよ、エーミーは自分のことより|他《ひ》|人《と》のことを考えるようになったのだなと、それからあの|粘《ねん》|土《ど》|細《ざい》|工《く》のお人形をつくるときのように念入りに自分の|人《じん》|格《かく》をつくりあげようとしているのだな、とね。お父さまはそれがほんとにうれしいのだ。それはおまえが美しい|彫刻《ちょうこく》をこしらえることも|自《じ》|慢《まん》には思っているけれども、自分のためにも|他《ひ》|人《と》のためにも、毎日の生活を楽しく美しくすることのできる、かわいい|娘《むすめ》をもっていることのほうが、どんなに自慢の種になるかわからないのだからね」
「ベス、なに考えているの?」エーミーが父にお礼を|述《の》べて、指輪の話をひとくさり話し終えたとき、ジョーがこういってきいた。
「私ね、今日『|天《てん》|路《ろ》|歴《れき》|程《てい》』を読んでいたのよ、いろいろ苦しい目にあったあとで『クリスチャン』と『ホーフプル』が美しい緑の|野《の》|辺《べ》にでてくるところね、そこには一年じゅう|百《ゆ》|合《り》の花が|咲《さ》いているのよ、そしてふたりはちょうど今の私たちみたいに、旅路の終わりまで行く前に、そこで一休みしているの」とベスは答えたかと思うと、するりと父の|腕《うで》から|抜《ぬ》けて、そろそろとピアノのほうへ歩いて行った。
「もうお歌の時間ね、私いつものとおり|弾《ひ》いてみたいと思うわ、そして|巡礼《じゅんれい》たちがきいた|羊飼《ひつじか》いの子供の歌をうたってみたいの、曲は私がお父さまのためにつくりました。あの歌がお|好《す》きですから」
そう言ってなつかしい小さなピアノの前に|腰《こし》を下ろすと、ベスは静かに|鍵《キー》に指をふれ、みんなが|再《ふたた》び聞くことはないだろうと思っていたかわいい声に、自分で|伴《ばん》|奏《そう》をつけながら、古めかしいさんびかを歌いだした、それはほんとうに彼女にふさわしいものだった、――
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低きに住むもの落つる|憂《うれ》いなく
へりくだるものは|驕《おご》りを知らず
心まずしき者はつねに
みちのしるべを神と|仰《あお》ぐ
とぼしくあるとも|多《さわ》にあるとも
持てるがまにまに安けくあれど
われなお願う 知足のこころ
主はかかる身をば救いたまえば
あまつみくにへゆく旅人に
|財宝《たから》の多きは重荷とならむ
この世|貧《まず》しくかの世に|富《と》むは
世々に変らぬよき|掟《おきて》なり
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第二十三章 マーチ|伯《お》|母《ば》さん問題を|解《かい》|決《けつ》す
|蜜《みつ》|蜂《ばち》が女王蜂のまわりにぶんぶん|群《むら》がるように、次の日も母と|娘《むすめ》たちはマーチ氏のそばをうろうろして|暮《く》らした。他の仕事はほったらかして、ひたすらこの新しい病人の世話をやき、その人の話に耳をかたむけた。当の病人はといえば、このよってたかっての親切ぶりに|窒《ちっ》|息《そく》しそうな思いさえするのであった。マーチ氏がベスのソファと|並《なら》べておかれた大きな|椅《い》|子《す》に深ぶかと身をもたせ、他の三人の娘がそばに|寄《よ》り|添《そ》っているところへ、ハンナがちょいちょい「おなつかしい|旦《だん》|那《な》さまをのぞき」にやってくる光景を見れば、彼らの|幸《こう》|福《ふく》にはこれ以上欠けたものもないように思われた。ところが欠けたものがあった。だれも口には出さなかったけれども大きい娘たちにはそれがわかっていたのである。マーチ夫妻はふとメグの|姿《すがた》に目がゆくと、お|互《たが》いに気づかわしげな|視《し》|線《せん》を交わしあった。ジョーはどうかすると急に|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔をして、|玄《げん》|関《かん》に|置《お》き|忘《わす》れてあるブルックさんの|傘《かさ》に|拳《げん》|固《こ》を|振《ふ》りまわしたりすることがあった。メグはぼんやりして、内気で|無《む》|口《くち》になった、玄関のベルが鳴ると飛び上がり、ジョンの名前が告げられると顔を赤くした。エーミーは「みんななんだかそわそわして落ち着かないようにみえる、お父さまが|御《ご》|無《ぶ》|事《じ》にお帰りになったっていうのにへんねえ」と言い、ベスはお|隣《となり》の人たちがどうしていつものように気軽にやってこないのかと、|無《む》|邪《じゃ》|気《き》にいぶかった。
その日の午後、ローリーが通りがかって、|窓《まど》のそばにメグがいるのをみつけると、にわかに|芝《しば》|居《い》がかったことがやってみたくなり、雪の上に|片《かた》|膝《ひざ》ついて|胸《むね》をたたき、毛をかきむしり、何事かを|祈《き》|願《がん》するように、悲しげに両手を組み合わせた。メグがつまらないことをしてないであっちへいらっしゃいというと、ハンカチに|空涙《そらなみだ》をしぼって、|絶《ぜつ》|望《ぼう》の思い入れでよろよろと角を曲がって行った。
「あのおばかさんなんのまねしてるんでしょう?」とメグはとぼけて|笑《わら》いながら言った。
「あんたのジョンがいまにするようになることをしてみせたのよ、かわいそうでしょう、どう?」とジョーはせせら|笑《わら》った。
「『私のジョン』だなんて言わないでちょうだい、失礼だし第一|嘘《うそ》になるじゃないの」とメグはその名前がいかにもよく|響《ひび》くかのようにゆっくりと言った。「私をいじめないでよ、ね、ジョー。私あの方のこととくべつ|好《す》きなわけじゃないって前にも言ったじゃありませんか、だからなにもかれこれ言われるようなことはないんだし、もとどおりみんなで|仲《なか》よくしていけばいいんじゃないの」
「そうはいかないわ、そういう話もちゃんとでたんだし、私からみればローリーのいたずらであんたはすっかりだめになったのよ。私にはちゃんとわかってるわ、お母さまだってそうよ。あんたはちっとももとのあんたのようじゃないわ、まるで遠く遠く私からはなれてしまったわ。私ちっともいじめるつもりなんかないのよ、|雄《お》|々《お》しく|我《が》|慢《まん》もするわよ、ただ早くどっちかに決めてほしいの、私は待つことがきらいでしょう、だからその気があるなら、急いでさっさとそう決めてしまってちょうだい」とジョーはだだっ子のように言った。
「だってあの方から言ってくださるまでは私からなにも言うこともすることもできないわ、それにおっしゃるわけもないのよ、お父さまから、私はまだ|若《わか》すぎるってお話してあるんですもの」メグはぼつぼつ話しだした。そして仕事の上に身をかがめながら、ちらと口元に|微笑《びしょう》を|浮《う》かべたところをみると、その点では彼女は必ずしも父と意見が同じではなかったのかもしれない。
「もしかあのひとが何か言いだしたって、姉さんはなんと言っていいかわからないでしょう、ただ|泣《な》き出すか顔を赤くするくらいが|関《せき》の|山《やま》で、きっぱり『ノウ』とも言えないであのひとの思うとおりにされちまうんだわ」
「あんたが考えてるほど私だってばかでもないし、気が弱くもないわ。どう言えばいいかくらい知ってますよ、ちゃんと考えてありますからね、不意打ち|食《く》らわされたって|大丈夫《だいじょうぶ》よ。いつどんなことが起こるかわからないから、ちゃんと用意してあるんですもの」
ジョーはメグが知らず知らずもったいぶった|態《たい》|度《ど》になるのをみて、ほほえまずにはいられなかったが、その態度はメグの|頬《ほお》にさす美しい色が|濃《こ》くなったり|淡《あわ》くなったりするのと相まってなかなか彼女に|似《に》つかわしいものだった。
「その言おうと思っていることを、今話してくださるわけにはいかなくって?」とジョーは少し|丁重《ていちょう》にきいてみた。
「かまわないわ、あんただってもう十六ですもの、私の話相手になってもいい年ごろよ、そのうち私の|経《けい》|験《けん》があんたのお役にたつときもくると思うわ、あんた自身がこんな場合にたつときにね」
「そんな場合はないと思うわ、|他《ひ》|人《と》の|恋《れん》|愛《あい》|事《じ》|件《けん》はおもしろいけど、自分でやったらばからしいだろうと思うもの」ジョーは思ってもぞっとするというようにこう言った。
「そうでもないと思うわ、あんたがもしほんとにだれかを|好《す》きになって、その方もあんたを好きになったら」メグは半ば自分にきかせるようにそう言いながら、|窓《まど》の外の小道に目をやった。夏の夕方など、|恋《こい》|人《びと》同士が語らいながら、そこを散歩しているのを彼女はよく見たことがある。
「私、あんたがあの男に言ってやる|文《もん》|句《く》をきかしてもらえるんだと思ったのに」とジョーは言って、姉のつつましやかな空想を|容《よう》|赦《しゃ》なくおしまいにしてしまった。
「ああ、それ、私ただこう言うつもりよ、ちゃんと落ち着いてきっぱりとね、『ありがとうございます、ブルックさん、そうおっしゃっていただいてほんとにご親切です、でも私は全く父と同意見でございますの、まだ|若《わか》|過《す》ぎますから今のところはお|約《やく》|束《そく》なんかできません、ですからどうぞもうなにもおっしゃらないで、今までどおりお友だちでいてくださいまし』って」
「ふん、それはなかなか|頑強《がんきょう》で冷静だわ。でもとてもそうは言えないと思うけどな、言えたにしたってあのひとは、はい、そうですかなんて引きさがりはしないわ。小説にでてくるはねつけられた|恋《こい》|人《びと》みたいにねばられたら、あんたはあのひとの心を|傷《きず》つけるのがいやで、たちまち|降《こう》|参《さん》しちまうと思うな」
「いいえ、そんなことあるもんですか、私は言ってやるわ、私の気持ちはきまっていますって、そして堂々とお室からでて行くわ」
メグは立ち上がり、堂々たる|退出《たいしゅつ》ぶりを|実《じつ》|演《えん》しようと歩きかけた、そのとき|玄《げん》|関《かん》に人の足音がきこえた、するとメグはあわてて元の席へすわって、仕事をとりあげ、あたかも|彼《かの》|女《じょ》の生命はその|縫《ぬ》い|物《もの》を一定の時間内に縫い上げることにかかっているとでもいうふうに、一心に|針《はり》を運びだした。その|急激《きゅうげき》な変化を見てジョーは|笑《わら》いをかみつぶし、だれか静かにたたく音に、にこりともせず|扉《とびら》を開けた。
「こんにちは。|傘《かさ》をいただきに上がりました、――そのう、お父さまのごきげんも|伺《うかが》いたいと思いまして」ブルックさんはわけあり気なふたりの顔をかわるがわる見ながら、少しあわててこう言った。
「傘はだいぶよろしゅうございます、父は傘立てにはいってます、もってまいりましょう、そしてあなたがいらしたことを父と傘に知らせてまいります」ジョーは父と傘とをごちゃまぜにして返事をしてから、姉にさっきの|挨《あい》|拶《さつ》を|述《の》べさせ、落ち着いた|態《たい》|度《ど》をとらせる機会を|与《あた》えるために、そっと室からでて行った。ところが彼女がいなくなるやいなや、メグはそろそろと戸口の方へすさりながら、口の中でこう言った、――
「母がお目にかかりたいだろうとぞんじます、どうぞおかけになって、すぐ|呼《よ》んでまいりますから」
「どうぞいらっしゃらないで、|僕《ぼく》がこわいのですか、マーガレット?」ブルックさんはひどく|怒《おこ》っているように見えたので、メグはなにか自分が失礼なことをしたのにちがいないと思ったほどであった。彼女は|額《ひたい》のかわいい|巻《まき》|毛《げ》のあたりまで|真《ま》っ|赤《か》になった、マーガレットと彼に呼ばれたのは初めてなのに、そう呼ばれるのがなんと自然に|快《こころよ》く|響《ひび》いたことだったろう。彼女は打ちとけて、心安い様子を見せたいと思って、親しげに手をさしのべ、|感《かん》|謝《しゃ》の念をこめて言った、――
「あんなに父におやさしくしてくださいましたのに、どうしてあなたがこわいなどと、――私はただどうしてお礼を申し上げたらいいのかと思っておりますわ」
「教えてさし上げましょうか?」ブルックさんはその小さな手をしっかりと自分の大きな両手にとって、|例《れい》の茶色の目に深い|愛情《あいじょう》をこめて見下ろしたので、メグの|心《しん》|臓《ぞう》は|早《はや》|鐘《がね》のようにうち始め、|一《いっ》|刻《こく》も早くその場を|逃《に》げ出したいような、またそのままとどまって彼の言葉をききたいような、二つの思いに|駆《か》られたのであった。
「ああ、いいえ、どうぞおっしゃらないで、――私、うかがわないほうが」と、彼女は手を引っ|込《こ》めようとしながら、こわくないと言ったのにおびえたような顔をして言った。
「ごめいわくはかけません、あなたが私のことを少しはなんとか思ってくださるかどうかうかがいたいだけなのです、メグ。私はほんとうにあなたを愛しております」ブルックさんはやさしく言った。
あの冷静な、りっぱな|口上《こうじょう》を|述《の》べるのはまさにこのときであった、ところがメグはそれを述べるどころか、とっときの言葉をすっかり|忘《わす》れてしまい、うなだれて、|蚊《か》のなくような声で「私ぞんじませんわ」と言ったので、ブルックさんはそのばかげて小さな答をききとるために身をかがめなくてはならないしまつであった。
ブルックさんは身をかがめることくらいなんでもないと思ったようであった、というのは|彼《かれ》は満足げにほほえんで、ふっくらした手をうれしそうに|握《にぎ》りしめ、説き|伏《ふ》せずにはおかないような調子で言ったからである、――
「おわかりになるように考えていただけませんか? 私はそれがうかがいたくってたまらないのです。自分の気持ちがしまいには|報《むく》いられるものかどうか、それをたしかめないうちは仕事も手につかないのですから」
「私まだ|若《わか》|過《す》ぎますもの」とメグは口の中で答えた、そう言いながら、自分はどうしてこんなに|浮《う》き浮きするのだろうと思い、またそれが楽しいような気もするのであった。
「|僕《ぼく》は待ちますよ、そのうちにはあなたも僕を|好《す》きになることをお|覚《おぼ》えになるでしょう、むずかしいレッスンだとお思いになりますか、メグ?」
「|覚《おぼ》えようと思えばむずかしくはないのかもしれませんけど、でも――」
「どうか覚えようとなすってください、メグ。僕は教えることが|好《す》きでしょう、これはドイツ語よりもやさしいんですよ」ジョンはメグの言葉をさえぎってこう言いながら、のこる一つの手も|押《お》さえてしまったので、メグはいくらのぞきこまれても顔をかくすすべがなくなってしまった。
彼の言葉はたしかに|哀《あい》|願《がん》|的《てき》であった、けれどもメグがそっと彼の顔をぬすみ見ると、その目にはやさしいうちにも楽しそうな色が見え、自分の成功を信じて|疑《うたが》わない人のような安心した|微笑《びしょう》さえうかんでいた。それを見るとメグは少し|腹《はら》がたった。するとアニー・モファットの教えてくれた|愚《おろ》かなかけひきのことが心に浮かんできた、それと、どんなりっぱな|小婦人《しょうふじん》の|胸《むね》にも|眠《ねむ》っている、自分の力を試してみたいという気が急にむくむくと目をさまし、彼女をとりこにしてしまった。メグは|興《こう》|奮《ふん》して、|妙《みょう》な気持ちに|襲《おそ》われた、それでどうしてよいかわからなくなり、気まぐれな|衝動《しょうどう》に|駆《か》られて、手を引っ|込《こ》めるなり、|怒《おこ》ったように言った、――
「覚えたくなんかありませんわ、どうぞお帰りになってください、私なんかほっておいて!」
あわれやブルックさんは、自分の|描《えが》いた美しい空中|楼《ろう》|閣《かく》ががらがらと音をたてて耳もとへ|崩《くず》れおちたような顔をした、メグがこんなにきげんの悪いのを見たのは今が初めてで、少々あっけにとられたのである。
「本気でそうおっしゃるんですか?」室をでていく彼女のあとを追いながら、彼は心配そうにたずねた。
「そうですわ、私こんなことで|煩《わずら》わしい思いをしたくありませんの、父もそんな必要はないと申します、まだ|早《はや》|過《す》ぎますもの、私そんなことを考えたくございません」
「だんだんにお気持ちを変えていただけないでしょうか? 僕はいつまでもお待ちします、そしてあなたがゆっくり考えてくださるまでなにも申しますまい。僕をからかわないでください、僕はあなたがそんな方だとは思いませんでした」
「私のことなんかもうお考えにならないで、そうしていただいたほうがうれしいんですの」メグは|恋《こい》|人《びと》をじらし、自分の力を試すのに人のわるい満足を|覚《おぼ》えながら言った。
今ははや彼の顔は|憂《ゆう》|慮《りょ》に青ざめ、メグが|賛《さん》|嘆《たん》する小説の主人公にそっくりとなった。しかし彼は彼らのように|額《ひたい》を打ったり、部屋の中を歩き回ったりはしなかった、彼はただ|棒《ぼう》|立《だ》ちに立ったまま、|悩《なや》ましげに、またやさしげに彼女を見おろしているので、彼女はわれにもあらず心がなごんでくるのをおぼえた。この|興味《きょうみ》ある|瞬間《しゅんかん》に、マーチ|伯《お》|母《ば》さんが足をひきずって、よたよたとはいってこなかったならば、いったいあのあとはどんなことになったやら、私にはちょっとわからない。
この|老《ろう》|婦《ふ》|人《じん》は|甥《おい》に会いたいという気持ちを|抑《おさ》えることができなかった。散歩の|途中《とちゅう》でローリーに会い、マーチ氏の帰宅を知ると、すぐさま馬車を走らせて会いにきたのであった、そのとき家族の者はみな|奥《おく》の方でとりまぎれていたのを幸い、彼女はみんなを|驚《おどろ》かそうと案内もこわずにはいってきたのである。そしてまさしくふたりの人間を驚かした、メグは|幽《ゆう》|霊《れい》にでも出会ったように|肝《きも》をつぶし、ブルックさんは|書《しょ》|斎《さい》へ|逃《に》げ|込《こ》んでしまった。
「おやおや! このざまはいったい何ですか?」|伯《お》|母《ば》さんは青くなった|若《わか》い男から|赤《あか》くなった若い|婦《ふ》|人《じん》へ目をうつしながら、こつんと|杖《つえ》を鳴らして|叫《さけ》んだ。
「お父さまのお友だちですわ、びっくりしましたわ、急に伯母さまがいらしたもんですから」とメグは口ごもった、今という今はお説教をきかされるにちがいない。
「そうだろうともさ」と伯母さんはやおら|腰《こし》をおろしながら、答えた。「だがお父さんのお友だちがなんだっておまえさんをそんなに|芍薬《しゃくやく》みたいな色にさせたのだね? きっとろくでもないことがあるにちがいない、ひとつきかしてもらいましょう!」そこでまたこつんと|床《ゆか》が鳴った。
「ただお話をしていたのですわ、ブルックさんは|傘《かさ》をとりにいらしたんです」メグはどうぞブルックさんと傘とが|無《ぶ》|事《じ》に帰ってくれますようにと|祈《いの》りながら言いだした。
「なにブルックだと? あの|小《こ》|僧《ぞう》の|家庭教師《かていきょうし》ですかい? ははあ、それでよめましたよ! みんな知っているともね。ジョーがおまえのお父さんの|言《こと》づてを読んでくれたとき、うっかり口をすべらしたのさ、そのとき私はすっかり言わせたのだよ、それで、おまえ、よもや|承知《しょうち》したのじゃあるまいね、え?」伯母さんはけがらわしいと言わぬばかりの顔をしてわめきたてた。
「しっ! きこえますわ! お母さまをお|呼《よ》びしましょうか?」メグは|困《こま》りはててそう言った。
「おまち。おまえさんに言っておくことがある、そしてここですっかり私の気持ちをきめてしまいます。で、おまえさんはそのクックとやらと|結《けっ》|婚《こん》する気なのかえ? もしそうならば、私は|鐚《びた》一文もおまえには上げないよ、それをようくおぼえておいて、よく考えてごらん」|伯《お》|母《ば》さんは|胸《むね》の|奥《おく》までとおるような調子でこう言った。
さて、このマーチ伯母さんというひとは、このうえもなくおとなしい人の心にさえ、|反《はん》|抗《こう》|心《しん》を起こさせるような|術《じゅつ》に|熟達《じゅくたつ》した人で、おまけにそれを楽しんでいるというような人であった。ところが人間はまたどんなりっぱな人だって多かれ少なかれ|片《かた》|意《い》|地《じ》というものを持ち合わせている、|若《わか》くって|恋《こい》などにおちいっている場合は|特《とく》にその|傾《けい》|向《こう》がある。もしもメグがマーチ伯母さんからブルックさんと結婚してくれと|頼《たの》まれたのだったら、おそらく彼女はそんなことはできないときっぱり|断《ことわ》ったであろうと思われる。ところが彼女は|権《けん》|柄《ぺい》ずくで彼を|好《す》いてはならぬと|厳《げん》|命《めい》されたのだから、たちまちのうちに彼女は彼を好きになってやろうと決心した。そうなると、片意地の場合と同様、|決《けつ》|断《だん》は|簡《かん》|単《たん》である。その上さっきからの|興《こう》|奮《ふん》も手つだって、メグはいつにもなくてきぱきと|老《ろう》|婦《ふ》|人《じん》に反抗した。
「伯母さま、私は私の好きな人と結婚いたします、伯母さまは伯母さまのお好きな方にお金をお上げになったらいいでしょう」彼女は決心の|程《ほど》を|示《しめ》すように、ひとりうなずきながら言った。
「いやはやあきれましたよ! それが私の忠告に対する返答ですかい? いまに|後《こう》|悔《かい》することだろうよ、|好《す》きなひとと|貧《びん》|乏《ぼう》|暮《ぐ》らしをして失敗してみればおわかりだろうが」
「それだからって、りっぱな暮らしをしていて失敗した人よりわるいということはありませんわ」とメグは答えた。
マーチ|伯《お》|母《ば》さんは|眼鏡《めがね》をかけて、つくづくとこの|娘《むすめ》をながめた、――この娘がこんな心持ちを見せたのは初めてのことである。メグは自分の気持ちがはっきりとわからないながら、なんとなくしっかりしたような、ひとりだちになったような感じがした、というのは自分でそうしようと思えばジョンを|弁《べん》|護《ご》したり、彼を愛する|権《けん》|利《り》を|主張《しゅちょう》したりできるのがうれしかったのである。一方マーチ伯母さんはどうも最初のでだしを|間《ま》|違《ちが》えたと思った、そこで改めて、こんどはできるだけやさしく言ってみた、――「ねえ、メグや、ようく考えて伯母さんのいうことをおきき。伯母さんはためを思って言うのだよ。ふみだしを間違えたばっかりに、おまえの一生がだいなしになってはかわいそうだと思ってね。おまえはりっぱなところへお|嫁《よめ》に行って、家のものを助けなくてはいけないのですよ、お金持ちと結婚するのがおまえさんの|義《ぎ》|務《む》です、ここのところをよっく考えなくちゃいけないね」
「でも父も母もそんなこと考えてはおりませんわ、おふたりともジョンが好きなんです、あの方は貧乏なんですけど」
「おまえのお父さんとお母さんの世間知らずときたら、まるで赤ん|坊《ぼう》がふたり|寄《よ》ったようなものさ」
「私はそれがうれしいのですわ」とメグは|毅《き》|然《ぜん》として|叫《さけ》んだ。
マーチ|伯《お》|母《ば》さんはきこえたのかきこえないのか、おかまいなしにお説教をつづけた。
「そのルックとやらは|貧《びん》|乏《ぼう》なのだね、お金持ちの親類でも持ってないのかえ、どうなんですね?」
「そんなものありませんわ、でもいいお友だちがたくさんあります」
「友だちをあてにして|暮《く》らせるものかね、まあやってごらん、どんなに|薄情《はくじょう》なものだか、おいおいとおわかりだろうよ。そしてその男には|職業《しょくぎょう》というものがあるのかい、どうなんだね?」
「まだありませんわ、でもローレンスさんが心配してくださるはずですわ」
「それなら長つづきはすまいて。あのジェームズ・ローレンスというのは物好きなじいさんだからね、あんまりあてにはなりませんよ。つまりおまえさんは金もなければ地位もなし、職業もないような男と|結《けっ》|婚《こん》して、今どころではないあくせくした暮らしをしようというのだね、私のいうことさえきいて、も少しりこうにふるまっておけば、一生らくができようというのに! やれやれおまえがこんなにわからずやだとは思いませんでしたよ、メグ」
「私、一生の半分待っていたって、こんなりっぱな結婚はできないと思いますわ。ジョンはいいひとですし、りこうな方ですわ、なんでもできるし、働くのが|好《す》きですもの、今にきっと成功しますわ、とても元気があるし、しっかりもしています。だれだってあの方が好きになって|尊《そん》|敬《けい》するんです。私あの方が私を好きになってくだすったことを|誇《ほこ》りに思っております。私はこんなに|貧《びん》|乏《ぼう》ですし年もいっていないし、りこうでもないんですのに」|一生懸命《いっしょうけんめい》になってこう言ったときのメグの顔は|常《つね》にもまして美しく見えた。
「その男はおまえさんに金持ちの親類があるのを知ってるんだよ、そこがつけ目なのさ」
「|伯《お》|母《ば》さま、どうしてそんなことがおっしゃれるんですの? ジョンはそんないやしいことを考えるようなひとじゃありません。そんなことをおっしゃるのなら、もうこれ以上うかがいたくありませんわ」メグは、|老《ろう》|婦《ふ》|人《じん》のあまりといえばあまりな|邪《じゃ》|推《すい》に前後を|忘《わす》れ、|憤《ふん》|然《ぜん》としてこう|叫《さけ》んだ。「私のジョンはお金をめあてに|結《けっ》|婚《こん》するようなひとじゃありません、私と同じことですわ。私たちは働くことなんかなんとも思っていませんし、時期がくるまで待つつもりですわ。|貧《びん》|乏《ぼう》なんか少しもこわくありません、今までだってそれでしあわせだったんですもの、これから先だって私はしあわせだと思います、あの方が愛してくださるし、私も――」
と言いかけてメグは言葉を切った、自分はまだ心を決めたのではなかったということを急に思い出したからである。おまけに今しがた「私のジョン」に対して帰ってくれと言ったばかりではないか、あのひとは自分の|矛盾《むじゅん》した言葉をきいているかもしれない。
マーチ|伯《お》|母《ば》さんはかんかんに|怒《おこ》った、彼女はこの美しい|姪《めい》にりっぱな結婚をさせてやろうと心ひそかに計画していたのである。今この|乙女《お と め》の幸福そうな顔をみると、|孤《こ》|独《どく》な|老《ろう》|婦《ふ》|人《じん》はなにか悲しいような、ひねくれたような気持ちにおそわれるのであった。
「よろしい、私はもう手を引かしてもらいましょう! いやはや|強情《ごうじょう》な子だ、こんなばかなまねをして、おまえは自分が|大《おお》|損《ぞん》をしたのだということを知らないでいるのさ。いやいや|長《なが》|居《い》は|無《む》|用《よう》、おまえさんにあてがはずれたからもうお父さんに会う元気もなくなったよ。|結《けっ》|婚《こん》するからって私から何かもらえるなどと思ってはもらいますまいよ、おまえのブックさんとやらのお友だちがめんどうをみてくださるだろうからね。ではもうこれでお目にかかりますまい」
マーチ|伯《お》|母《ば》さんはメグの鼻っ先にぴしゃりとドアを|閉《し》め、大変な腹立ちで馬車を|駆《か》り立てていった。伯母さんは帰るときメグの勇気をすっかりひっさらっていったかと思われた、というのはメグはひとりとり残されてみると、しばし|呆《ぼう》|然《ぜん》と立ったまま、|笑《わら》っていいやら|泣《な》いていいやらさっぱりわからなかったからである。そしてどちらともきめかねるうちに、彼女はブルックさんの|腕《うで》に|抱《だ》かれているのであった、ブルックさんは一息に次のように言った、――
「聞かないわけにはいかなかったんですよ、メグ。僕はお礼を申し上げます、あなたは僕を|弁《べん》|護《ご》してくだすったし、伯母さんは、あなたが少しは僕のことを|好《す》きなのだということを|証明《しょうめい》してくださいましたからね」
「私は伯母さんがあなたの悪口を言うまでは、自分の気持ちがわからなかったのですわ」とメグも言い出した。
「それで僕は帰らなくともよろしいのでしょうね、ここにいて幸福な気持ちになっていても――いいのでしょうね?」
ここにふたたび相手をぺしゃんこにするような|台詞《せりふ》を|述《の》べて、堂々たる|退出《たいしゅつ》を試みるいい機会があった、だのにメグはそれをどっちも|忘《わす》れていた、そしてジョーの目に|永久《えいきゅう》に面目を失ってしまった、というのは彼女はただおずおずと「ええ」と小さな声で言って、ブルックさんのチョッキに顔を|埋《うず》めてしまったからである。
マーチ|伯《お》|母《ば》さんが帰ってから十五分ばかりたったころ、ジョーはそっと二階から下りてきて、客間の|扉《とびら》の前に立ちどまった、そして中が静かなのがわかると、きわめて満足げにうなずいてにっこりし、ひとりごとを言った、「計画どおり|追《お》っ|払《ぱら》ったんだな、まずまずこれで|片《かた》づいた。ではひとつ中にはいっておかしな様子をきいてやろう、そして大いに|笑《わら》うとしよう」
しかし、かわいそうにもジョーは大いに笑うどころではなかった。|眼《がん》|前《ぜん》の光景に、目も口も大きく開けたまま彼女は|敷《しき》|居《い》の上に|釘《くぎ》づけにされてしまった。|敵《てき》の敗北に|凱《がい》|歌《か》をあげ、ふらちな|恋《こい》|人《びと》を|撃《げき》|退《たい》したしっかり者の姉を|賞賛《しょうさん》しようとしてはいっていった身に、これはたしかに一大ショックだったにちがいない。|件《くだん》の敵が落ち着きはらってソファにすわり、その|膝《ひざ》の上にしっかり者の姉が、見下げはてた|服従《ふくじゅう》の面持ちで|鎮《ちん》|座《ざ》ましましていようとは! ジョーは|背《せ》|中《なか》から水を浴せられたように思わずあっと|叫《さけ》んだ。この思いもかけぬ形勢の|逆転《ぎゃくてん》はまさしく彼女の息の根をとめたかと思われた。|妙《みょう》な物音に|恋《こい》|人《びと》同士は|振《ふ》り返ってジョーの|姿《すがた》を見つけた。メグは|誇《ほこ》らしいと同時に|恥《は》ずかしそうな顔をしてとび上がった、しかしジョーのいわゆる「あの男」はからからと|笑《わら》い、あっけにとられている新来者にキッスをしたうえ、落ち着きはらって言うのであった、「妹のジョーさん、われわれを|祝福《しゅくふく》してください」
これこそまさに|踏《ふ》んだりけったりというものである! あまりといえばあんまりだ! ジョーはめちゃくちゃに手を|振《ふ》り回しながら、物をも言わずにそこをとび出した。階段を|駆《か》け上がり、室へとび|込《こ》むなり、彼女は金切り声を上げて病人を|驚《おどろ》かした、「ちょっと、だれか早く|階《し》|下《た》へ行って! ジョン・ブルックのやつが|恐《おそ》ろしいことをやって、メグがそれを喜んでるんですよう!」
マーチ|夫《ふ》|妻《さい》は大急ぎで室を出て行った。ジョーはベッドに引っくり返って、|泣《な》いたりわめいたりしながら、ベスとエーミーにこの恐るべきニュースを話してきかせた。でも妹たちはそれがこのうえもなく、うれしいおもしろい|事《じ》|件《けん》だと思ったらしいので、ジョーはふたりからは少しも|慰《なぐさ》めを|得《え》ることができなかった。彼女は仕方なく|屋《や》|根《ね》|裏《うら》のかくれ家に行って、|鼠《ねずみ》どもにその|胸中《きょうちゅう》を|訴《うった》えたのである。
その日の午後、客間でどんなことがあったのかだれも知るものはなかった。でもいろいろの話がとり交わされたことは事実である、日ごろおとなしいブルックさんが、熱心にメグをもらい受けたいと申し|述《の》べ、いろいろと|将来《しょうらい》の計画を語り、とうとうふたりを説きふせて自分の思いどおりに運んでしまったその|雄《ゆう》|弁《べん》さと、力づよさに夫妻も全く驚いたくらいであった。
彼がメグのためにこしらえようと思っている|楽園《パラダイス》のことを、まだすっかり話しきらないうちに夕食のベルが鳴った。彼は|意《い》|気《き》|揚《よう》|々《よう》と彼女をその席へつれてきたが、そのふたりの幸福そうな顔を見てはジョーの|嫉《しっ》|妬《と》も|憂《ゆう》|鬱《うつ》もどこかへ|影《かげ》をひそめてしまったくらいである。エーミーはジョンが姉をいたわる様子と、メグの|態《たい》|度《ど》のりっぱなのに感心し、ベスはただ遠くからにこにこしてふたりをながめていた。マーチ|夫《ふ》|妻《さい》がしみじみ満足そうな顔をして|若《わか》いふたりをあかずながめているさまを見れば、まことにマーチ|伯《お》|母《ば》さんが、「赤ん|坊《ぼう》のような世間知らず」と|呼《よ》んだのもむべなるかなと思われる。だれもあまりたくさんは食べなかった、が、だれも彼もが幸福そうに見えたし、この家の最初のロマンスが始まるこのとき、この古い室さえもまばゆいばかり明るく|輝《かがや》くように思われるのであった。
「お姉さま、『楽しいことなんか起こりっこない』なんて、もうおっしゃれないわね」と、エーミーが言った、そしてこれから|描《えが》くつもりの|恋《こい》|人《びと》たちをどんな|具《ぐ》|合《あい》にとり入れようかと苦心していた。
「ほんとね、私があんなこと言ってからずいぶんいろんなことがあったわねえ! もう一年も前のことのような気がするわ」とメグは答えた。彼女はいま、パンだのバターだのというような|俗《ぞく》な世界をはるかに|超越《ちょうえつ》して、幸多き|夢《ゆめ》を追っていたのである。
「こんどは苦労のあとへうれしいことがあとからあとからと追っかけてくるようね、今がちょうどその変わり目なんじゃないのかしら」とマーチ夫人は言った。「どこの家にもいろいろなことの起きる年ってものがあるものです。家では今年がそれだったわけね、でもまあどうやらめでたく|暮《く》れていきそうだわ」
「来年の暮れはもっといいことがありますように」とジョーがつぶやいた。彼女は自分の面前でメグがよそのひとに|夢中《むちゅう》になっているさまを見るのがたまらなかったのである、彼女はわずかの人を深く愛するたちなので、どんな|事情《じじょう》にもせよ、その愛情を失ったり|減《へ》らされたりするのがいやなのであった。
「|再《さ》|来《らい》|年《ねん》の暮れにはもっといいことがあるといい、いやあるはずです、僕がそれまで生きていて計画どおりに運べるとしたらですが」ブルックさんは今はどんなことでもできますといわぬばかりにこう言ってメグにほほえみかけた。
「待ちどおしいでしょう?」エーミーは早くご|婚《こん》|礼《れい》の日がくればいいと思いながらきいた。
「私そのときまでに習っておかなくちゃならないことがたくさんあるでしょう、だから短いくらいよ」メグは答えたが、その顔にはかつて見られなかったようなやさしい落ち着きが見えていた。
「あなたはただ待っててくださればいいんですよ、|準備《じゅんび》はみんな僕がしますから」と言ったかと思うと、ジョンははや仕事の第一歩としてメグのナプキンを拾ってやった。その顔を見るとジョーは頭を|振《ふ》ったが、すぐ|玄《げん》|関《かん》の戸が開く音をききつけ、ほっとした|面《おも》|持《も》ちでひとりごとをいった。
「あ、ローリーが来た。やっとあたりまえな話ができる」
しかしジョーの考えはあやまっていた、ローリーは大きな|婚《こん》|礼《れい》用の|花《はな》|束《たば》をかかえて、「ジョン・ブルック夫人」へささげるべく、元気いっぱいで飛び|込《こ》んできたのであった、しかも|心得違《こころえちが》いもはなはだしいことには、万事は自分のすばらしいはからいの下に実を結んだのだと思っているらしかった。
「先生が思うとおりにやるだろうってことはちゃんと知ってましたよ、いつだってそうなんですもの、先生はなにかやり|遂《と》げようと思ったら、たとえ天地がひっくり返ったってやり遂げますからね」ローリーはお|祝《いわ》いの言葉とともにその|贈《おく》り|物《もの》を|呈《てい》しながら、こう言った。
「おほめにあずかって|痛《いた》みいります、そのお言葉は|縁《えん》|起《ぎ》がいい、僕たちの|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》には今からご|招待《しょうたい》申し上げておきますよ」今やブルックさんは全人類と、いな彼のわんぱくな生徒とさえすこぶる和平的な気持ちになっていたのである。
「地の|果《は》てからでも|駆《か》けつけますよ、そのときのジョーの顔を見るだけでも、遠いところからやってくる|値《ね》|打《う》ちがありますもの。君うれしくないのかい、どうしたの?」ローリーは客間のすみのほうへ行くジョーのあとを追いながら、きいた、みんなはローレンス氏を|迎《むか》えるためにそこへ|座《ざ》を|移《うつ》したのである。
「私この結婚には|不《ふ》|賛《さん》|成《せい》なの、でも|我《が》|慢《まん》することに決心したから、反対がましいことは言わないつもりよ」ジョーはしかつめらしい顔をして言った。「メグを他人に上げてしまうのが私にとってどんなにつらいことなのか、あんたなんかにはわからないのよ」とジョーは少しふるえる声でなおも言った。
「上げてしまうわけじゃないよ、半分だけじゃないか」ローリーは|慰《なぐさ》め顔に言った。
「でももとと同じってわけにはいかないわ。私は一番の友だちをなくしてしまったわ」とジョーはためいきをついた。
「それにしたって僕がいるじゃないか。僕ではどうせたいした役には立たないだろうけど、でも僕は一生君のそばにいてあげるつもりだ、|誓《ちか》ってそうする!」ローリーはほんとうに言ったとおりにするつもりだった。
「それは知ってるわ、ほんとにありがたいと思っているわ。あなたのおかげでいつも私どんなに慰められるかわからないわ、テディ」とジョーは答え、|感《かん》|謝《しゃ》をこめて手を|握《にぎ》った。
「じゃ、もう悲観するのはやめたまえ、いい子だから。なにもかもうまくいったんじゃないか、ね。メグはしあわせなんだし、ブルックさんだって|駆《か》けずり回ってすぐ家庭をつくるようになるよ。おじいさまだってめんどうを見てあげるだろうしさ、あのメグが自分の小さな家に|納《おさ》まってるのを見るのはなんと|愉《ゆ》|快《かい》だろうじゃないか。あのひとがお|嫁《よめ》に行っちまったらふたりですばらしいことをしよう、僕はじきカレッジを出るだろう、そしたらふたりで外国へ行くとか何とか楽しい旅行をするんだよ。それでも慰めにはならないかい?」
「それはおもしろいだろうと思うけど、でも三年もたつうちにはどんなことが起こるか、だれにもわからないんだわね」とジョーは考え|込《こ》みながら言った。
「そりゃそうだ! ね、君、|将来《しょうらい》のことが見通せて、その時僕たちみんながどんなふうになっているかっていうことがわかったらいいと思わないかい? 僕それができたらいいと思うな」とローリーが答えた。
「私そうは思わないわ、悲しいことまで見えるかもしれないんですもの。今のところはみんながとても|幸《こう》|福《ふく》でしょう、それ以上のことがありそうには思えないわ」と言ってジョーは静かに室の中を見回した。そのうち彼女の目はだんだんと|輝《かがや》いてくるように思われた、今彼女の目に見える|限《かぎ》り未来は楽しいものだったからである。
父と母とは二十年の|昔《むかし》に|彼《かれ》|等《ら》が|経《けい》|験《けん》したロマンスを、ふたたび静かに味わいながら|仲《なか》よくそこにすわっていた。エーミーはみんなから|離《はな》れてふたりだけの美しい世界にすわっている|恋《こい》|人《びと》の|姿《すがた》を写生していたが、そこからさしてくる後光は、この小さな画家の|腕《うで》では写すことのできないような美しさをふたりの顔に|添《そ》えていた。ベスはソファに横になって、年老いた友のローレンス氏と楽しくお話をしていた、ローレンス氏は彼女の小さな手を|握《にぎ》りながら、その手に|導《みちび》かれて自分も彼女の歩んできた平和な道を歩んでゆくのだという気持ちにひたっていたのである。ジョーは気に入りの低い|椅《い》|子《す》にゆったりと身をもたせ、まじめな落ち着いた|表情《ひょうじょう》をしていたが、それは彼女に一番|似《に》つかわしいものであった。ローリーは彼女の椅子の背によりかかり、その|巻《まき》|毛《げ》の上にあごをもたせかけて自分たちを映し出している長い鏡の中で、にっこりとほほえんだ。
こうして|皆《みな》が集まったところで、|幕《まく》はメグとジョーとベスとエーミーとの上におりる。この幕が再び引き上げられるかいなかは、ひとえにこの「リトル・ウィメン」と|呼《よ》ばれる|家庭劇《ホーム・ドラマ》第一幕の|評判《ひょうばん》いかんによるものである。
解 説
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ルイザ・メイ・オルコット――人と作品
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|幼《よう》|年《ねん》時代 ルイザ・メイ・オルコットは、一八三二年十一月二十九日、ペンシルベニアの|田舎《いなか》|町《まち》、ジャーマンタウンに生まれた。ここは|彼《かの》|女《じょ》の父が|新《にい》|妻《づま》を連れて、学校の先生をして二年間を|過《す》ごした土地である。
父エーモス・ブロンスン・オルコットは、エマスンやソローとともに、|超絶主義《トランセンデンタリズム》を|奉《ほう》じた|哲《てつ》|学《がく》|者《しゃ》としてアメリカの思想史に名をとどめている。「高く思い低く|処《しょ》す」というのがこの人の|信条《しんじょう》かつ身上で、そのためにオルコット一家は、長いこと極度の|窮乏《きゅうぼう》生活に|耐《た》えなくてはならなかった。しかし、|学《がく》|識《しき》は|豊《ゆた》かで|心情《しんじょう》は|優《やさ》しく|穏《おだ》やか、そのほかに|独《どく》|特《とく》な|魅力《みりょく》を|備《そな》えた人間として、|彼《かれ》は終生多くのすぐれた友人にめぐまれた。
母アビゲール・メイ・オルコットはブロンスンの|真《しん》|価《か》をはやくから|理《り》|解《かい》し、近親の多少の|危《き》|惧《ぐ》と|懸《け》|念《ねん》を|押《お》しきって彼の妻になった。心情の優しさにおいては夫と共通だが、|夢《む》|想《そう》|家《か》|型《がた》の夫とは対照的な|実践躬行型《じっせんきゅうこうがた》の|婦《ふ》|人《じん》だった。ルイザはこの父と母から、|高《こう》|邁《まい》な|精《せい》|神《しん》と|不《ふ》|屈《くつ》の実行力とを|与《あた》えられたように思われる。
ブロンスンの少年教育の理想に共鳴して、夫妻をボストンからジャーマンタウンに|招《まね》き、住宅つきの|塾《じゅく》を開かせたのは、ルービン・ヘインズという人であった。この人の広い農場で、ルイザは一つ|違《ちが》いの姉アンナといっしょに、アヒルやコブタと遊び、美しい花園でよちよち歩きの練習をした。後年一家の支柱として|頑《がん》|健《けん》な身体をそこなうほどの労苦を――彼女自身は労苦とは感じなかったにせよ――背負う運命にあったルイザにとって、赤ん|坊《ぼう》時代の二年間は、かけがえのない幸福な一時期であったかにみえる。
物心両面の強力な|援《えん》|護《ご》|者《しゃ》であったルービン・ヘインズ氏の|急逝《きゅうせい》にあって、一家はまたボストンへ|舞《ま》いもどった。|生涯《しょうがい》のはじめの二十八年間に二十九回の|引《ひ》っ|越《こ》しをしたといわれるルイザの第一回の引っ越しだった。デラウェア|河《がわ》を下る大きな|蒸気船《じょうきせん》のなかで彼女は|行《ゆく》|方《え》不明になった。くまない|捜《そう》|査《さ》の末、赤い火花のちる機関室に発見されたルイザはごきげんだった。
ボストンでも彼女はまたまいごになっている。さっそく新しい町の|探《たん》|険《けん》に出かけたルイザは、日が|暮《く》れると見知らぬ家の|玄《げん》|関《かん》|先《さき》で、大きな犬の|肩《かた》に頭を乗せすやすやと|眠《ねむ》っていた。このエピソードは彼女のお気に入りだったとみえ、『幼年時代の思い出』のなかに自ら記している。
ボストンでブロンスンが開いたテンプルスクールは、しばらくは成功し、じっさい有名にもなったが、|大衆《たいしゅう》の|抗《こう》|議《ぎ》にも|屈《くつ》せず黒人の女の子を入れたことが原因となって、五年後に|閉《へい》|鎖《さ》された。南北戦争の|発《ほっ》|端《たん》となった|奴《ど》|隷《れい》|制《せい》|度《ど》|廃《はい》|止《し》の|是《ぜ》|非《ひ》|論《ろん》が|沸《ふっ》|騰《とう》していた時代だった。このときルイザは七|歳《さい》になっていた。四歳のときには妹のエリザベスが生まれている。ルイザはそのとき自分の赤ん|坊《ぼう》時代が終わったことを自覚し、早くも|独《どく》|立《りつ》|不《ふ》|羈《き》の|精《せい》|神《しん》に目ざめだしたといわれる。
少女時代 オルコット家の歴史に、アメリカ思想界の大立物ラーフ・ウォルドー・エマスンが登場したのはこのころである。彼もまたブロンスンを正しく|評価《ひょうか》した少数のひとりだった。彼はブロンスンと思想を一つにしたばかりではなく、ブロンスンの|人《ひと》|柄《がら》に|魅《み》せられて、テンプルスクール閉鎖後、一家を自分の住んでいるコンコードに|誘《さそ》った。そして父にとっては学問上の話し相手、母にとっては内政上の|顧《こ》|問《もん》となったエマスンは、少女ルイザにとっても|貴重《きちょう》な|指《し》|導《どう》|者《しゃ》、助言者となって、彼女のひととなりと文学修業の上に少なからぬ|影響《えいきょう》を|与《あた》えることになる。四女メイはこの土地で生まれた。
学校に失敗した父は、その後イギリスに|渡《わた》ったり、また帰国して同志とともに|理想郷《りそうきょう》を|企《くわだ》てたりするが、どれも失敗して生活は一向に安定しなかった。オルコット一家は|引《ひ》っ|越《こ》しにつぐ引っ越しで、|床《ゆか》には|敷《しき》|物《もの》もなく、病人がいてもたくまきもないというような日が続く。|物質的窮乏《ぶっしつてききゅうぼう》は不幸というものではないと教えられ、そう信じていたルイザにも、その窮乏をひとりで支えている母の苦労は見かねるものがあったのであろう。十三|歳《さい》のとき、彼女は「わが人生の計画」というものを作り、自分の愛するものひとりひとりに必要なものを、自分の力で必ず|与《あた》えようと心に|誓《ちか》った。「父には生活の安定を、母には日当たりのいい|居《い》|間《ま》を、姉には幸福を、病身の妹には|看《かん》|護《ご》を、末妹には教育を」というのがそれだった。はじめて|劇《げき》を書いたのもこの年である。
空想的な|年《ねん》|齢《れい》に達したルイザが、|非《ひ》|現《げん》|実《じつ》|的《てき》なドラマを書きまくり、姉――この姉には|女《じょ》|優《ゆう》の|素《そ》|質《しつ》があったといわれる――や妹を登場人物にして、自らも大いに|演《えん》じたことは、『若草物語』のはじめのほうに|詳述《しょうじゅつ》されている。劇の中に|現《あらわ》れる「ロデリゴの|長《なが》|靴《ぐつ》」は、物置から見つけた古皮をルイザ自身が|裁《さい》|断《だん》し|縫《ほう》|製《せい》したものだという。|舞《ぶ》|台《たい》に対する|情熱《じょうねつ》は|並《な》み|並《な》みならぬものがあり、少女時代には「女優たらんか作家たらんか」と大いに|迷《まよ》ったが、ついに女優は|断《だん》|念《ねん》して、ルイザは書くことに|専《せん》|念《ねん》した。ゲーテを|崇《すう》|拝《はい》した少女の物語を読んでそのまねをしようと決心し、エマスン氏を実験の対象に選んだのもこの年ごろのことである。彼女はエマスン氏の戸口に|花《はな》|束《たば》をおき、配達されざる手紙もいくつか書いてみた。後年その話をエマスン氏にして、ふたりは|笑《わら》った。
十六歳、ルイザは|納《な》|屋《や》で学校を開いた。後に出版された "Flower Fables"(花物語)はこの年エマスンの|娘《むすめ》エレンのために書かれたもの。このころから一家の幸福のためにというルイザの野心はいよいよ|真《しん》|剣《けん》|味《み》をまし、一八五〇年には、単身ボストンに働きに出かけた。そこで仕立て物、書きもの、|教師《きょうし》などを続けるうち、書いたものはわずかの|稿料《こうりょう》ながら売れるようになった。父がそのなかの一編を持って、当時有名な|雑《ざっ》|誌《し》の編集者のところへ行った。編集者は言った。「お|嬢《じょう》さんには先生を続けるように言ってあげなさい。作家になどなれる人ではない」、これを聞いて、ルイザは|宣《せん》|言《げん》した。「あたしは作家になる」
作家時代・|晩《ばん》|年《ねん》 ボストンで来る日も来る日も仕立て物、先生、書きものなどを続けているうちに、彼女の最愛の妹エリザベスが世を去った。末妹のメイとは対照的におとなしく、人目につかず|無《む》|欲《よく》なベスの|生涯《しょうがい》とその死を、ルイザは後年『若草物語』のなかに|克《こく》|明《めい》に|描《えが》いて、何千万の読者の心をしぼった。
同じ年に姉アンナが|婚《こん》|約《やく》した。それを|祝福《しゅくふく》する代わりに、ルイザは|激《げき》|怒《ど》し、|慨《がい》|嘆《たん》した。|生涯《しょうがい》自分自身の|結《けっ》|婚《こん》問題にも関心を示さなかったルイザには、姉の婚約は愛する姉妹をまたひとり|奪《うば》われたとしか|映《うつ》らなかったのだ。しかし二年後、姉の|新《しん》|居《きょ》を訪れたころには、その|激《げき》|怒《ど》も少しはおさまり、日記にこう記した。「とてもきれいで幸福そうな姉。しかし、あたしは自由なひとり者になって、|独《どく》|立《りつ》|独《どつ》|歩《ぽ》で行くことにしよう」と。彼女はその通りにした。南北戦争が始まると、ルイザは|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》を志願して、ジョージタウンの小さい病院で六週間|献《けん》|身《しん》|的《てき》な|奉《ほう》|仕《し》をした。そこで|感《かん》|染《せん》した熱病のために、それが直ってからも、元のような|頑《がん》|健《けん》なからだにはもどらなかった。『病院スケッチ』はこの病院から送ったおりおりの家信で、はじめは新聞に|掲《けい》|載《さい》されたものだが、ルイザの文章に感動した二つの|出版社《しゅっぱんしゃ》が本にしたいと申し出た。ルイザが文筆家として|認《みと》められだしたのはこのころからである。『病院スケッチ』が大いに世の関心を高めたので、出版社の要望で、|翌《よく》|年《ねん》 "Moods" が出版されたが、売れ行きは一時的なものにとどまった。
一八六五年には|欧州《おうしゅう》旅行に出かけ、帰国後一八六八年、いよいよ "Little Women"『若草物語』が出版になって、ルイザに|富《とみ》と名声をもたらした。彼女は、「借金は残らず|返《へん》|済《さい》、安心して死ねる気持ち」と日記に書くが、健康はしだいに|衰《おとろ》えを見せはじめた。それにむち打つようにして、彼女は|飽《あ》くことを知らない読者のために、"Little Women Married"(若草物語第二部)"An Old-Fashioned Girl"(|昔気質《むかしかたぎ》の一少女)"Little Men"(第三若草物語)などを|矢《や》つぎばやに、ほとんど一年一作の割合で|執《しっ》|筆《ぴつ》、出版した。しかし "Jo's Boys"(第四若草物語)の場合だけは、それを完成するまでに足かけ四年もの長い月日がたっている。心身の|疲《ひ》|労《ろう》のはなはだしさがわかるものである。その|末《まつ》|尾《び》にルイザはこう記した。「マーチ家の上に|幕《まく》は|永《えい》|遠《えん》に|降《お》ろされた」。そうして二年後の一八八八年三月六日、彼女自身もこの世の幕を閉じた。
ルイザ・メイ・オルコットの作品の|特長《とくちょう》を一つだけあげるとすれば、それは|全《ぜん》|篇《ぺん》に満ちあふれている明るいユーモアである。彼女の伝記を読めば、その|生涯《しょうがい》はひととおりではない|苦《く》|闘《とう》の連続であることがわかるが、その作品にはどれひとつとして暗いかげは見られない。先にいったベスの|臨終《りんじゅう》の場面でさえも、人の心をえぐる感動はあっても、じめじめした|感傷《かんしょう》はない。少年もののトムソーヤーに比べられるこの作品の明るいユーモアは、じつは作者自身の|性《せい》|格《かく》の|特《とく》|質《しつ》でもあったのだ。
ルイザ・メイ・オルコットの作品のうちで、次の八|篇《へん》は "The Little Women Series"(リトルウィメン|叢《そう》|書《しょ》)として、|現《げん》|在《ざい》もなお多くの読者に親しまれている。
1 Little Women : or Meg, Jo, Beth, and Amy.
(若草物語, 吉田勝江訳,角川文庫続若草物語,吉田勝江訳,角川文庫)
2 Little Men : Life at Plumfield with Jo's Boys.
(第三若草物語,吉田勝江訳)
3 Jo's Boys, and How They Turned Out.
(第四若草物語,吉田勝江訳)
4 An Old-Fashioned Girl.
(昔気質の一少女,吉田勝江訳)
5 Eight Cousins : or The Aunt-Hill.
(八人のいとこ,村岡花子訳)
6 Rose In Bloom.
(花ざかりのローズ,村岡花子訳)
7 Under The Lilacs.
(ライラックの花の下,松原至大訳)
8 Jack And Jill : A Village Story.
なお、ルイザの人と作品についてもっと詳しく知りたいと思われる向きには、次の書があることを付記しておく。
Invincible Louisa. By Cornelia Meigs.
(不屈のルイザ,吉田勝江訳)
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『若草物語』について
若草物語 一八六八年といえば、今からちょうど百年まえの|昔《むかし》になる。この年に|出版《しゅっぱん》された『若草物語』"Little Women" 第一部は、ルイザ・メイ・オルコットの全作品を通じてもっとも有名で、一世紀を|経《へ》た今日なお世界じゅうで広く愛読されている本である。ひとくちに一世紀とはいうものの、そんなに長い間こんなに人気の|衰《おとろ》えない子供の本というものは|珍《めずら》しい。それは|扱《あつか》われているテーマが「|平《へい》|凡《ぼん》な一家庭の|日《にち》|常茶飯《じょうさはん》|事《じ》」で、そういうものは時代とともに古びるというものではないからだ、と言ってしまえばそれまでだが、それにしてもそっくりそのまま|舞《ぶ》|台《たい》を|現《げん》|代《だい》に|置《お》き|換《か》えても、少しの古さも不自然さも感じられない不思議な本である。ルイザは、これを出版業者トーマス・ナイルズ氏の|依《い》|頼《らい》で書いた。
それまで|寓《ぐう》|話《わ》のようなものしか読んだことのない子供たちの前に、いきなり自分たちと同じような血の通った少女たちが|現《あらわ》れて、自分たちと同じようなことを言ったりしたりする。しかもそれは「|性格描《せいかくびょう》|写《しゃ》の|確《たし》かさにおいて、近代の作家もこの古き作家に学ぶがよい」と今では言われているルイザの筆になったものだ、子供たちがとびつき|狂喜《きょうき》したのは当然だった。『若草物語』が、「アメリカの児童文学にはじめてリアリズムを|導入《どうにゅう》した本」と言われるゆえんである。物語はほとんどオルコット家の実録といってもよいもので、おもな登場人物の原型は次の通りである。
マーチ氏――エーモス・ブロンスン・オルコット(一七九九―一八八八)
マーチ夫人――アビゲール・メイ・オルコット(一八〇〇―一八七七)
メグ――アンナ・ブロンスン・オルコット(一八三一―一八九三)
ジョー――ルイザ・メイ・オルコット(一八三二―一八八八)
ベス――エリザベス・スュウエル・オルコット(一八三五―一八五八)
エーミー――アバ・メイ・オルコット(一八四〇―一八七九)
ローレンス氏――ルイザ母方の祖父、ジョーゼフ・メイ大佐
ローリー――アメリカ少年ではなく、ルイザが後年スイス、ヴェヴェーのホテルであったポーランド青年。
マーチおばさん――作者はモデルはないと言っているが、大おばハンコック夫人だと言われる。
マーチ(三月)という名は、母方の姓メイ(五月)からの連想。
題名の "Little Women" はルイザの父が|幼《おさな》い|娘《むすめ》たちを|呼《よ》ぶのに|好《この》んで用いたもの。(小さいながらもりっぱな|婦《ふ》|人《じん》たち)という意味であろうか。この本が|出版《しゅっぱん》されるとき、ルイザはちゅうちょなくこの題名を選んだという。
また若草物語|全《ぜん》|篇《ぺん》を通じて、実際にあったことがらだと作者自身が|述《の》べているのは次の通り。
第一篇の|芝《しば》|居《い》の部分。
ベスの死。
ジョーの文学的ならびにエーミーの美術的|才《さい》|能《のう》。
メグの幸福な家庭。
ジョン・ブルックの|人《ひと》|柄《がら》とその死。
デミの|性《せい》|格《かく》。
ルイザはこれら親しいものたちの|姿《すがた》を、さながら生き写しの|肖像画《しょうぞうが》のように|描《えが》いてみせた。なかでも母に関する部分は、すべてが真実だと作者は言っている。しかし何千万の読者にとって、真の|迫力《はくりょく》はジョーに集中する。この本に|限《かぎ》らず、わんぱくでちゃめ気のある少年や少女を描く段になると、作者のペンはおのずから紙面に|躍《やく》|動《どう》して|独壇上《どくだんじょう》の観を|呈《てい》する。
物語の|舞《ぶ》|台《たい》を作者は|現《げん》|在《ざい》コンコードで「オルコット記念館」として世界じゅうの愛読者と観光客の足を止めている「オーチャード・ハウス」に|設《せっ》|定《てい》した。しかし、実際に四人姉妹が少女時代を――ルイザ十三|歳《さい》から十六歳まで――|過《す》ごしたのは、同じコンコードながら「ヒルサイド」と|呼《よ》ばれるほうの家である。「オーチャード・ハウス」は一八五八年、ルイザが二十六歳のとき|移《うつ》り住んでから、オルコット家最後の安住の家となった。したがって「オーチャード・ハウス」は、『若草物語』|執《しっ》|筆《ぴつ》の家というのが正しいようである。
"Little Women" が世に出ると、ルイザは一夜にして有名作家となった。サイン|魔《ま》はあとを|絶《た》たず、カメラマンは家の回りを|徘《はい》|徊《かい》する。そのありさまをルイザは『第四若草物語』三章「ジョー最後の|受《じゅ》|難《なん》」におもしろおかしく描いている。彼女の名声の|一《いっ》|端《たん》は、当時の大女優エレン・テリーが、ある|宴《えん》|席《せき》でしるした|署《サイ》|名《ンブ》|帖《ツク》にうかがわれる――「私の野望は達せられた。私は "Little Women" の作者と同席し、この目で[#「この目で」に傍点]彼女を見た」
家族のひとりひとりに安楽を|与《あた》えたいというルイザの少女時代の念願は、思い残すところなくかなえられた。|物《ぶっ》|質《しつ》|的《てき》には|徹《てっ》|底《てい》|的《てき》に|無《む》|欲《よく》だった彼女は、自分自身は|生涯机《しょうがいつくえ》ひとつ持たず、小さな|書《か》き|物《もの》|箱《ばこ》をひざに乗せて|執《しっ》|筆《ぴつ》していたといわれるが、|精《せい》|神《しん》|的《てき》にはあの赤ん|坊《ぼう》時代を|別《べつ》にして、これほど幸福な時はなかったであろうと思われる。しかしまた別な意味での|苦《く》|闘《とう》が、この時から始まったともいえるのだ。
トーマス・ナイルズ氏は、単なる営利出版業者ではなく、多くのすぐれた文人を世に出したりっぱな人物で、ルイザにとっても終生貴重な友人となった人であったが、日ましに高まる "Little Women" の人気を|押《お》さえかねて、|渋《しぶ》るルイザを|督《とく》|励《れい》して、続けざまに|続《ぞく》|篇《へん》の執筆を|依《い》|頼《らい》した。
続若草物語 "Little Women Married or Good Wives"『続若草物語』は第一部が十月出版された直後の十一月一日から書き始められた。そして|翌《よく》|年《ねん》の|元《がん》|旦《たん》には|原《げん》|稿《こう》が送られ同年五月出版された。
メグとジョン・ブルックの結婚に始まるこの第二篇では、ジョーもエーミーも|結《けっ》|婚《こん》する(ベスは|早《そう》|逝《せい》)。がやはり姉アンナとジョン・プラットの新家庭をもとにしたメグの結婚が一番おもしろく読むことができる。五章の「家事の体験」のくだりなど、|現《げん》|代《だい》の|新《にい》|妻《づま》にも一読をすすめたいような|箇《か》|所《しょ》がふんだんに出てくる。読めば必ず同感し共鳴し思いあたるふしが多いことだろう。十章、十一章ともに自伝的要素に|富《と》んでいるが、実際には|険《けわ》しい道であったにちがいない体験を、おもしろおかしく|描《えが》いてみせるのがこの作者の|特《とく》|技《ぎ》であることは前にも|述《の》べた。第一部に比べて、おもしろさの点でさして|遜色《そんしょく》のない本ということができる。
第三若草物語 一八七一年、ルイザはローマで|義《ぎ》|兄《けい》ジョン・プラット|急逝《きゅうせい》の|報《ほう》を受けた。姉とふたりの|遺《い》|児《じ》のために、ルイザは|再《ふたた》びとらないつもりだったペンをとって "Little Men" の|執《しっ》|筆《ぴつ》にかかった。ローマの宿から次々と|郵《ゆう》|送《そう》された|原《げん》|稿《こう》は、同年六月、ルイザの帰国の日に出版され、発売と同時に空前の売れ行きを示した。『第三若草物語』である。
ここには|仲《なか》のよいふたごのデミとデーズイ、わんぱく|小《こ》|僧《ぞう》のトミー・バングズ、ジョーの|幼《よう》|年《ねん》時代をおもわせるノーティナン、くいしんぼうのスタッフィなど、十四人の少年少女が登場する。|独《どく》|裁《さい》|的《てき》ではあったが気前のよいマーチおばさんから残されたプラムフィールドで、ジョー|夫《ふ》|妻《さい》は少年の|塾《じゅく》を開く。このプラムフィールドは広い|裏《うら》|庭《にわ》や|納《な》|屋《や》などのぐあいからみて、|前述《ぜんじゅつ》の「ヒルサイド」と|呼《よ》ばれる家がモデルであることはまぎれもない事実とされている。
|超現実的《ちょうげんじつてき》だった|哲《てつ》|学《がく》|者《しゃ》の父が、ジャーマンタウンとボストンで開いて成功しなかった少年塾の理想を、文学者の|娘《むすめ》ルイザが紙面で完成させたと見ることができよう。教育に関心の深いある外国の一学者が、この本はオルコットの作品のなかで一番おもしろいと言ったのを聞いたことがある。その|当《とう》|否《ひ》は|別《べつ》として、青少年問題の論議かまびすしい現代、教育者ならずとも一読してよい本である。
第四若草物語 "Jo's Boys" は『第三若草物語』の|続《ぞく》|篇《へん》で、作者は先の十四人の少年少女が成人してどんな人生を送るようになったかを|描《えが》こうとした。新聞記者あり音楽家あり青年実業家あり|多《た》|士《し》|済《さい》|々《さい》、しかし、トミー・バングズとノーティナンを|除《のぞ》いたほかの登場人物は|架《か》|空《くう》|的《てき》で|生《せい》|彩《さい》に|乏《とぼ》しく、|筋《すじ》の運びにも不自然さが感じられて、第一部の若草物語のおもしろさには遠く|及《およ》ばないものがある。これを|執《しっ》|筆《ぴつ》するころのルイザは、長年の|多《た》|忙《ぼう》な作家生活に加えて、あいつぐ母と末妹の死、その|遺《い》|児《じ》ルルを引き取っての養育、老父の身辺の世話などで、|疲《ひ》|労《ろう》|困《こん》|憊《ぱい》の極にあったのだ。作者自身、この本は自分で望んだようなよいできばえではなかったと|恐縮《きょうしゅく》している。このことをあらかじめ|承知《しょうち》の上で読むならば、この本には先に|述《の》べた三章以外にも作者後半生の自伝的要素が多くもりこまれているので、そういう点で|興味《きょうみ》ある本とされている。
五十七年の短命は|惜《お》しまれるとはいえ、幼年時代からの初志を|貫《かん》|徹《てつ》して長年の|夢《ゆめ》を|実《じつ》|現《げん》させてくれたその作品が二代三代と読みつがれ、おそらくこの後も四代五代と読みつがれるであろうことを思えば、ルイザ・メイ・オルコットはもって|冥《めい》すべき作家であったといえよう。
一九六八年三月
[#地から2字上げ]訳 者
|若草物語《わかくさものがたり》(|下《げ》)
オルコット
|吉《よし》|田《だ》|勝《かつ》|江《え》=訳
平成12年11月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『若草物語(下)』昭和61年11月25日初版刊行
平成7年6月15日11版刊行