若草物語(上)
[#地から2字上げ]オルコット
[#地から2字上げ]吉田勝江 訳
目 次
序
第 一 章 |巡礼《ピルグリム》ごっこ
第 二 章 楽しいクリスマス
第 三 章 ローレンス少年
第 四 章 重 荷
第 五 章 お|隣《となり》同士
第 六 章 ベス「美の|宮殿《きゅうでん》」を見いだす
第 七 章 エーミーの|屈辱《くつじょく》の谷
第 八 章 ジョー、|魔王《アポリオン》に会う
第 九 章 メグ、|虚《きょ》|栄《えい》の市に行く
第 十 章 P・C・とP・O・
第十一章 こころみ
[#改ページ]
序
[#ここから3字下げ]
さらばゆけ、ちいさき|書《ふみ》よ、ゆきて|示《しめ》せ
|汝《なれ》をうけ入れ|迎《むか》うなるなべてのひとに
汝が|胸《むね》のおくどに|秘《ひ》めしことどもを。
かつ|祈《いの》れ、汝が示せしことどもの
かれらのためによきことと|浄《きよ》められ
かれらみな汝と|我《われ》とにいやまさりて
よき|巡礼《じゅんれい》となれかしと、
「|慈《あわ》|悲《れみ》」につきてかれらに告げよ、
「慈悲」こそはいと|若《わか》く巡礼に出でしものなれば。
げに、若きおとめどち、来たらん世こそ|貴《とうと》きものと
「慈悲」によりて学べかし、しかして|賢《かしこ》くあれよ、
足かろきおとめらも|聖《せい》|者《じゃ》があとをふみゆかば
神の|御《み》|前《まえ》に|至《いた》るを|得《え》ん。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ] ――ジョン・バニヤンによる――
[#改ページ]
第一章 |巡礼《ピルグリム》ごっこ
「|贈《おく》り|物《もの》しないんならクリスマスったってクリスマスらしくありゃしないよ」ジョーは|敷《しき》|物《もの》の上にねころびながらぶつくさ言った。
「|貧《びん》|乏《ぼう》っていやねえ!」メグはためいきをついて自分の古びた着物に目をとおした。
「きれいなものをいっぱいもってる|娘《こ》もいるのに、何もない|娘《こ》もいるってのは不公平だと思うわよ」小さいエーミーまでこう言ってぷんぷんした。
「でも|私《わたし》たちにはお父さまとお母さまがあるわ、それに|姉妹《きょうだい》だってあるし」自分の席で満足そうにこう言ったのはベスである。
|炉《ろ》の明りに照らされた四つの|若《わか》|々《わか》しい顔は、このたのしげな言葉をきいてちょっとあかるくなった、がジョーの悲しげな言葉でまた暗くなってしまった。――
「お父さまなんていやしないんだ、この先だって長いあいだ会えやしないんだ」|彼《かの》|女《じょ》は「|永久《えいきゅう》に」とこそは言わなかったが、みんなは遠い戦場の父親のことを考えて、心のなかでそれをつけ加えたのである。
しばらくみなは|無《む》|言《ごん》でいた。するとメグが調子をかえて言いだした、――
「このクリスマスに贈り物をやめようってお母さまがおっしゃったのは、この冬はみんなにとってとてもたいへんな冬になりそうだからなんでしょう。お母さまはね、兵隊さんが戦争で苦しい思いをしているのに、私たちばかり自分のたのしみのためにお金をつかうのはいけないと思っていらっしゃるのよ。どうせ私たちには大したことはできないわ、だけど私たちでも小さな|犠《ぎ》|牲《せい》をはらうくらいのことはできるわけね、しかもそれを心からするのでなくっちゃ。ところが私にはそれができそうもないの」と言ってメグは自分がほしく思っていたいろいろの美しいもののことをあきらめきれないように、|頭《かぶり》をふるのだった。
「といったところで私たちのわずかばかりのおこづかいなんかなんの役にもたたないと思うわ。私たち一ドルずつもってるでしょう、それをだしてみたって軍隊が大して助かるわけでもないでしょうよ。私、お母さまやあんたたちから何かもらおうなんて思ってやしないけどさ、自分のお金でぜひ『水の|精《せい》』と『ジントラム』[#訳注:共にドイツの作家フゥケーの小説]を買いたいと思うな、ずいぶん前からほしかったんだもの」とジョーは言った。彼女は本気違いだった。
「私は新しい|楽《がく》|譜《ふ》を買うつもりだったの」とベスは言ってそっとためいきをついたが、それは|炉《ろ》ぼうきと|鍋《なべ》おさえよりほかにはきこえないようなかすかなものだった。
「私はね、フェーバーの上等の色えんぴつを買おうと思うの、どうしたっているんですもの」エーミーはきっぱりと|宣《せん》|言《げん》した。
「お母さまは私たちのお金のことなんか何も言わなかったじゃないの、何もかもあきらめさせようってわけじゃないんだよ。だからみんな好きなもの買おうよ、少しくらいは楽しみがなくっちゃ。このお金もうけるんだって相当こつこつやったんだもの」とジョーは|叫《さけ》んだ、そしてまるで男の人のような|格《かっ》|好《こう》で|靴《くつ》のかかとをしらべたりした。
「私はたしかにこつこつやったわ、朝から|晩《ばん》まであの|恐《おそ》るべき子供たちの家庭教師をしてね、家にいて好きなことしたくってたまらないのに」メグはまたもや不平らしく言いはじめた。
「でも姉さんは私の半分もつらい思いをしてやしないよ、しょっちゅう用事を言いつけて、どんなことしたって気に入りっこないあのやかましやのうるさいお|婆《ばあ》さんと何時間もいっしょにいたら、あんたどんな気がするだろう、|窓《まど》から|逃《に》げだすか、横ッつらでもはりつけてやりたいくらいいやになるよ」
「|怒《おこ》ったりするのはいけないことだわ――でもあたし、お|皿《さら》|洗《あら》ったりいろんなもの|片《かた》づけたりするのは世界一いやなお仕事だと思うのよ。そんなことしてると私、きげんがわるくなるの、それに私の手だってとてもかたくなっちまって、ちっともじょうずにおけいこできなくなるんですもの」ベスはこう言ってかさかさの手をながめ、こんどはだれにでも聞こえるようなためいきをした。
「私ほどひどい目にあってるものはないと思うわ」とエーミーが|叫《さけ》んだ。「なぜってね、あなたがたは勉強ができないといじめたり、着物のことを|笑《わら》ったり、お父さまがお金持ちでないとlabel(はり札をする)したり、それから、鼻の|格《かっ》|好《こう》がわるいからって|侮辱《ぶじょく》したりするような生意気な女の子といっしょに学校へいかなくってもいいんですもの」
「悪口をいう(libel)ならいいけどさ、レッテルをはる(label)だなんていわないでよ。パパ、|瓶《びん》|詰《づ》めの瓶じゃあるまいし」とジョーは笑いながら教えてやった。
「わかってるわよ。そんなに『皮肉』にいわなくったっていいわ。でも、りっぱな言葉をつかって『|語《ご》|彙《い》』をふやすってことはいいことよ」エーミーはぷりぷりしてやり返した。
「あんたたち、もう、けんかはおやめなさいよ。ねえ、ジョー、私たち小さかったときパパがなくしておしまいになったお金があったらと思わない? ああ、何も心配ごとがなかったらどんなに幸福でしょうね」メグは家がよかったころのことをおぼえていてこう言うのだった。
「せんだって、お姉さま、私たちのほうがキングさんのところのお子さんたちより、ずっと幸福だと思うっておっしゃったわね、あのひとたちはお金持ちなのにいつでもけんかをしたり不平を言ったりするんですってね」
「そう言ったわ、ベス。そうね、私たち幸福なのかもしれないわね、そりゃ、働かなくちゃならないってことはあるけど、私たち自分でたのしむことを知ってるでしょう。ジョーがいうように、私たちはなかなか愉快な連中[#「愉快な連中」に傍点]なのだわね」
「ジョーったらそんなわるい言葉をつかうのよ」|敷《しき》|物《もの》の上にながながとねそべっている|姿《すがた》を見やりながら、エーミーはこう|批評《ひひょう》した。とたんにジョーは起き上がり、両手をエプロンのポケットにつっこんで|口《くち》|笛《ぶえ》をならしはじめた。
「やめて、ジョー、男みたいよ」
「だからやるのさ」
「私、|無《ぶ》|作《さ》|法《ほう》な、女らしくないひときらいよ」
「小さいくせに気どってつんつんしてるの大きらいさ」
「|巣《す》の中の小鳥、なかよし小鳥」と|仲裁役《ちゅうさいやく》のベスがおどけた顔して歌ったので、二人のとんがり声も|笑《わら》い声に変わり、ここのところ「|突《つ》ッつき合い」は終わりを告げた。
「ほんと、あんたたち、二人ともわるいわよ」メグは姉さんらしい|口調《くちょう》でたしなめにかかった。
「ジョーゼフィン、あんたもう大きいんだから男の子みたいないたずらやめて、もっとお|行儀《ぎょうぎ》よくしなくっちゃいけないわ。子供のときはそれでもよかったけど、もうそんなに大きくなって、|髪《かみ》もゆってるんですもの、もうお|嬢《じょう》さんなのだってこと|忘《わす》れちゃだめよ」
「ちがう! 髪丸めたのがおとななら、はたちになるまでお下げにしとくわ」と|叫《さけ》ぶなりジョーはネットを引きはずして|栗《くり》|色《いろ》の長い髪をばらりと下げた。「私、おとなになったなんて考えるだけでぞっとするわ、そしてミス・マーチなんてものになって長い着物を着て、えぞ|菊《ぎく》みたいにつんとすましてるなんてさ。とにかく女の子だっていうのがいけないのよ、私は遊びだって仕事だって|態《たい》|度《ど》だって、男の子のようにやりたいんだのに。男の子でなかったのがくやしくってたまらないわ。今はなおさらよ、パパといっしょに戦争に行きたくってしようがないのに、家にいてよぼよぼ|婆《ばあ》さんみたいに|編《あ》み|物《もの》なんぞしていなくっちゃならないんだもの」ジョーはこう言って青い兵隊|靴《くつ》|下《した》を思いきり|振《ふ》ったので、|編《あ》み|棒《ぼう》はカスタネットのような音をたて、毛糸の玉はころころと部屋の向こうまでころがっていった。
「お気の毒ね、ジョーさん、ほんとに|困《こま》ったわね。でもどうすることもできないんだから、せめて名前を男の子のように|呼《よ》ぶことと、私たちの|男兄弟《おとこきょうだい》の役をすることで|我《が》|慢《まん》してくださらなくっちゃ」と言ってベスはひざの上のばさばさの頭をなでてやったが、その手ざわりはどんなにお|皿《さら》|洗《あら》いをしようとお|掃《そう》|除《じ》をしようと、けっして|荒《あら》っぽくなどならないようなやさしいものだった。
「あんたはね、エーミー」メグはつづけた。「あんたってまったく気むずかしくって、それに気どりすぎるわよ。あんたの様子は今はおもしろいわ、でも気をつけないとだんだんに気どりやのおばかさんになりますよ。あんたのしとやかな態度だの上品な言葉づかいもね、わざとらしくないときはとてもいいのよ、でもおかしな|間《ま》|違《ちが》いなんかするのはジョーのわるい言葉とおんなじことよ」
「ジョーがおてんばでエーミーが気どりやなら、あたしはなあに?」自分もお|小《こ》|言《ごと》を|頂戴《ちょうだい》しようと思ってベスがきいた。
「あんたはいい子、それだけよ」メグがやさしく答えた。これにはだれも|異《い》|存《ぞん》がなかった。「|二十日鼠《はつかねずみ》」は家中のお気に入りだったのだ。
|若《わか》い読者は「その人たちがどんな様子をしているか」を知りたがるものだから、この間にちょっと四人姉妹のスケッチをしてお目にかけよう。|彼《かの》|女《じょ》らは夕方の|薄《うす》あかりの中に|腰《こし》かけてせっせと|編《あ》み|物《もの》をしている、外には十二月の雪が音もなく|降《ふ》りしきり、内にはたのしげな火の|燃《も》える音がパチパチときこえている。|敷《しき》|物《もの》の色こそあせ、家具こそそまつだとはいえ、そこはたのしげな古い部屋だった、|壁《かべ》には一つ二つのよい画がかけられ、|書《しょ》|棚《だな》には本がぎっしりつまっていた。|窓《まど》べには|菊《きく》とクリスマスローズ[#訳注:クリスマスのころ咲く白い花]が|咲《さ》きにおい、平和な家庭のたのしげな|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が部屋全体をつつんでいた。
四人の中の|姉娘《あねむすめ》のマーガレットは十六でたいへんきれいだった。ふっくらとして|膚《はだ》が美しく目は大きくて、|柔《やわ》らかいとび色の|髪《かみ》の毛がたっぷりあった、それに口もとが愛らしく、また手が美しかったがこれは少々彼女のご|自《じ》|慢《まん》のたねらしかった。十五|歳《さい》のジョーは|背《せ》が高く、やせて色が浅黒かった。|邪《じゃ》|魔《ま》になるほど長い手足をもてあましているようなところから、なんとなく子馬を連想させる。引きしまった口もと、|道《どう》|化《け》た鼻、|灰《はい》|色《いろ》の|鋭《するど》い目、この目は何物をも見のがすまいというようで、ときによってたけだけしくもなれば|剽軽《ひょうきん》にもなり、また考え深くもなるのだった。また長くふさふさとした髪の毛は彼女のただ一つの美点だった、だのにそれはただうるさくないためにネットの中に丸めこまれているのが|常《つね》だった。ジョーは|猫《ねこ》|背《ぜ》で、大きな手足をしており、着物の着方などもおかまいなく、子供から|大人《おとな》ににょきにょきと大きくなろうとしているのに、それがいやでならないといったような、まず|娘《むすめ》としてはぎごちない様子をしていた。エリザベス――|通称《つうしょう》ベスはばら色の|頬《ほお》をして|髪《かみ》の毛はやわらかく目のぱっちりした十三|歳《さい》の少女、はにかみやで大きな声も出さず、そのおだやかな顔つきはめったにかきみだされることがなかった。父親は彼女のことを「|静姫《しずかひめ》ちゃん」と|呼《よ》んだが、それはまったく彼女にぴったりした名前であった、というのはこの娘は自分だけの幸福な世界にとじこもっていて、自分が|信《しん》|頼《らい》し愛しているわずかの人に会うためにだけおそるおそる出てくるというふうだったからである。エーミーは、末っ子であるとはいえ、最も重要な人物である――と少なくとも自分ではそう思っていた。|正真正銘《しょうしんしょうめい》の|雪《ゆき》|姫《ひめ》で青い目をし|黄《き》|色《いろ》い|巻《まき》|毛《げ》を|肩《かた》にたらしていた。顔色は青白く、ほっそりとして、いつもお|行儀《ぎょうぎ》に気を配り一人前の|令嬢《れいじょう》のようにふるまっていた。四人姉妹の|性《せい》|格《かく》がどんなものであるかはこれからだんだんにわかってくるであろう。
六時が鳴った。|炉《ろ》ばたをきれいにしてからベスは一足のスリッパをあたためようとそこへ|並《なら》べた。この古びた|室内《へや》|靴《ぐつ》を見ると娘たちはなんとはなしになごやかな気持ちになってきた、もうじきお母さまが帰っていらっしゃる、みんなの顔はお母さまをお|迎《むか》えするので明るくなった。メグはお説教をやめてランプをともし、エーミーは言われないでも|安《あん》|楽《らく》|椅《い》|子《す》からおりた、ジョーはジョーで|疲《つか》れきっていることも|忘《わす》れて、スリッパを火のそばにかざすためにすわり直したのである。
「これすっかりだめになったわね、お母さま一つ新調なさらなくっちゃ」
「私ね、私のお金で買って上げようと思っていたのよ」とベスが言った。
「だめよ、私が買うんだわ!」エーミーが|叫《さけ》んだ。
「私が一番の姉さんよ」とメグもやりだした。ところが、ジョーが口をはさんできっぱりと言った、――
「パパがおるすなんだから私が家の男役なのよ、だからスリッパを買うのはこの私さ、パパはね、るすのあいだ私に|特《とく》|別《べつ》お母さまのめんどうを見て上げなさいっておっしゃったんだもの」
「どうしたらいいか私言ってみましょうか」ベスが言った。「みんなでお母さまに何かクリスマスに差し上げることにしたらどう、自分のものは何も買わないことにして」
「あんたらしいわね、ベス! そこで何を買う?」ジョーが|叫《さけ》んだ。
みなはちょっとの間、|真《ま》|顔《がお》になって考えた。やがてメグが自分の美しい手を見て思いついたように言った、「私、新しい|手袋《てぶくろ》を上げようと思うわ」
「|軍《ぐん》|隊《たい》|靴《ぐつ》、それがいちばんだ」とジョー。
「まわりをきれいに|縁《ふち》どったハンカチを少し」と言ったのはベスである。
「私はオーデコロンの小びんにするわ、お母さまあれお好きよ、それにそんなに高くもないから何か自分の物を買うお金ものこるわ」とエーミーはつけ加えた。
「どんなふうにして差し上げたらいいかしら」メグがきいた。
「|食卓《しょくたく》の上にのせといて、それからお母さまをおつれしてご自分で包みを開けるのをみんなで見ているのよ。みんなお|誕生日《たんじょうび》にそういうふうにしたのおぼえてるでしょう」とジョーが答えた。
「私、自分の番になると、いつもどきどきしたものだったわ、|冠《かんむり》をつけて大きないすにすわっていると、あなたがたが一列になってはいってきて、キッスしながら|贈《おく》り|物《もの》をくださるんでしょう、私、贈り物もキッスも好きだったけど、でも私が包みを一つ一つ開ける間、みんなが|腰《こし》かけたままじっと見てるのこわかったわ」とベスは言った。そう言いながら彼女は一ぺんに自分の顔とお茶のトーストとを焼くのだった。
「お母さまには私たちが自分のものを買うように思わせといて、あとでびっくりさせようよ。|明日《あした》お昼から買い物に行かなくっちゃ、ね、メグ。クリスマスの|晩《ばん》の|芝《しば》|居《い》のことでも仕事がたくさんあるんだから」ジョーは両手をうしろへ組み、|天井《てんじょう》を向いて歩き回りながら言った。
「私もうお芝居なんかするの今度でおしまいにするつもりよ。もう大きくなったんですもの、そんなことするのおかしいわ」とメグは意見を|述《の》べたが、実は「おしゃれ」の|仮《か》|装《そう》|会《かい》などのことになると、相変わらずの子供だったのである。
「だいじょうぶ、|髪《かみ》をたらして、金紙の|宝《ほう》|石《せき》をつけ、白いガウンの|裳《もすそ》を引きずって歩けるうちは、やめようたってやめられやしない、姉さんこそいちばんの立て役者なんだもの、姉さんがぬけたらおしまいよ」ジョーは言った。「今晩はひとつおけいこしておかなくっちゃ。エーミー、ここへ来て|倒《たお》れるところをやってごらん、あんたのはまるで|火《ひ》かき|棒《ぼう》かなんかみたいにこわばってるんだものね」
「だって仕方がないわよ、私、人が|卒《そっ》|倒《とう》するとこなんか見たことないんですもの、それにジョーさんみたいにばったり倒れてからだじゅう|紫色《むらさきいろ》にするのなんかいやだわ、らくに倒れていいんなら倒れてあげるわ、いけないんだったらいすの上に倒れてきちんとしているわよ。あたし、ユーゴーがピストル持ってそばへよってきたってなんともないんですもの」とエーミーはやり返した。彼女は|演《えん》|劇《げき》の才能はないのだが、小さくて、|泣《な》き|叫《さけ》びながら芝居の主人公に連れ去られるのにつごうがよくて選ばれたのだった。
「こうやるんだよ、両方の手をそういうふうに|握《にぎ》りしめて、『ロデリゴ! 助けて! 助けて!』と|気《き》|違《ちが》いのような声をだして、室の中をよろよろ|突《つ》っ切るのよ」と教えながらジョーは芝居がかりの|叫《さけ》び声をあげて向こうのほうへ行ってみせたが、それは全く真に|迫《せま》るようなものだった。エーミーはまねをした。しかし彼女は両手を|棒《ぼう》のように前へつき出し、からだのほうはバネじかけのようにひょこひょこと歩く。そのうえ彼女の『おお!』という声は|恐怖《きょうふ》や|苦《く》|悶《もん》をあらわすというよりはからだにピンでも|刺《さ》されたのかと思わせるよう。ジョーは|絶《ぜつ》|望《ぼう》してうなるし、メグは|無《ぶ》|遠《えん》|慮《りょ》に|笑《わら》いだす、ベスさえおかしな場面に熱中してパンをこがすというしまつだった。
「だめだめ! ま、その時になったらできるだけやりなさい、見物が笑ったって私のせいじゃないよ。さ、メグ」
そのあとはすらすらといった。というのはドン・ペドロは二ページにもわたる|科白《せりふ》を一語のよどみもなく言ってのけて世の中をあざけり、|魔《ま》|女《じょ》のハガーは、|鍋《なべ》いっぱいに|煮《に》えたぎるひきがえるに|恐《おそ》ろしい|呪《じゅ》|文《もん》をとなえて無気味な光景を現出させた。ロデリゴは|健《けな》|気《げ》にも|鎖《くさり》を引きちぎり、ユーゴーは|悔《かい》|恨《こん》と、|砒《ひ》|素《そ》を|仰《あお》いだ|苦《く》|悶《もん》のうちに『ハ! ハ!』という|狂乱《きょうらん》の叫びを残して死んでいったのである。
「これは今までやったうちで一番ねえ」メグは、今死んだ悪漢がやおら起き上がってひじをこすっているのに話しかけた。
「あなたはどうしてこんなりっぱなものが書けたり|演《や》れたりするんでしょう、ジョーさん。ほんとうにシェークスピアとおんなじだわ」とベスは|感《かん》|嘆《たん》した。彼女は自分の|姉妹《きょうだい》たちにはあらゆる才能が|恵《めぐ》まれていると、かたく信じているのであった。
「そうでもないわ」とジョーは|謙《けん》|遜《そん》した。「『|悲《ひ》|歌《か》|劇《げき》、魔女の|呪《のろ》い』はいくらかいいものだとは思うけどね。私はね、バンコーの出てくる|刎《はね》|蓋《ぶた》さえあったらマクベスがやってみたいのよ。私、いつも殺す場面をやってみたいと思っていたの、『わしの前に見えるは|短《たん》|剣《けん》か』」ジョーは目の玉をぎょろつかせ、|虚《こ》|空《くう》をつかみながら、いつかみた有名な悲劇|俳《はい》|優《ゆう》のまねをして口ずさんだ。
「いやいや、それはパン焼でござる。パンの代わりにママの|靴《くつ》がのってるわ。ベスちゃん、|舞《ぶ》|台《たい》に|夢中《むちゅう》だったのね」とメグが言い、おけいこはみんなの|爆笑《ばくしょう》のうちに終わりを告げた。
「まあ、みなさん、おもしろそうですね」はればれした声が戸口にきこえた。役者も見物もいっせいにふり向いて、かっぷくのいい、いかにもお母さんお母さんした|婦《ふ》|人《じん》を|迎《むか》えた。それは折あらば人の役にたちたいというようなやさしい様子のあふれているみるから気持ちのよい婦人であった。このひとはとりたてて美しいというほどではないが、しかし子供にとっては母親はみな美しいものなので、この|娘《むすめ》たちも、|灰《はい》|色《いろ》の|外《がい》|套《とう》と流行おくれのボンネットに包まれているこの婦人は、この世でいちばんりっぱな婦人なのだと思っていた。
「さあさあ、みんな、今日はどんなふうだったの? お母さまは明日送り出す荷物の用意でとてもいそがしくてね、お昼にも帰れませんでしたよ。お客さまはなかったの、ベス? メグ、|風《か》|邪《ぜ》はどう? ジョーはたいへん|疲《つか》れているようですね。ここへきてキッスしてちょうだい、赤ちゃん」
こんなふうにお母さんらしくいろいろとききながら、マーチ夫人はぬれたものをぬいであたためられたスリッパをはき、安楽いすにすわってエーミーをひざによせた、そうしていそがしい一日の中でいちばんしあわせな時間を楽しむ用意をした。娘たちはいろいろのことを楽しくいごこちよくしようとしてそれぞれに動きまわった。メグはお茶のテーブルのしたくにかかり、ジョーは|薪《まき》を持ってきたり、いすを|並《なら》べたりしながら、自分がさわる物という物をおっことしたりひっくり返したり音をたてたりした。ベスは|居《い》|間《ま》と台所の間を静かに、それでもいそがしく行ったり来たりした。エーミーはその間じゅう、両手をひざに組んだままどっかりとすわり|込《こ》んでみんなにいろんなことを言いつけていた。
みんながテーブルのまわりに集まると、マーチ夫人は|特《とく》|別《べつ》うれしそうな顔をして言った。「ごはんのあとでいいものがありますよ」
きらと明るい|微笑《びしょう》が太陽の光線のようにみんなの顔にいきわたった。ベスは思わずビスケットを取り落として手をたたくし、ジョーはナプキンをふり上げて|叫《さけ》んだ。「手紙だ! 手紙だ! お父さま、バンザーイ!」
「そう、長い、いいお手紙ですよ。お父さまはお元気です、そしてね、みんなが心配するほどのこともなくこの冬が|越《こ》せそうだとおっしゃってます。クリスマスのお祝いを言ってくだすってね、あなたがたにはくれぐれもよろしくって」そう言ってマーチ夫人は、まるで|宝物《たからもの》でもはいっているかのようにポケットをなでた。
「急げ急げ、はやくすましちゃおう。お|皿《さら》の上で指を曲げたり気どったりしてないでさ、エーミー」などと叫びながらジョーは、早くその手紙が見たくって、お茶にむせたり、バタつきのパンを|敷《しき》|物《もの》の上におっことしたりした。
ベスはもうごはんがのどを通らず、そうっと立ってうす暗い自分の場所に|腰《こし》を下ろし、みんなのすむのを待ちながら、目の前のよろこびを|抱《だ》きしめるようにしていた。
「お父さまもうお|年《とし》|寄《よ》りで軍隊のお役にはたてず、あまりおじょうぶでもないのに、|布教師《ふきょうし》になってお出かけになったのはずいぶんおえらいと思うわ」とメグは熱心に言った。
「私、|鼓《こ》|手《しゅ》か女の|酒《しゅ》|保《ほ》――とかいうものになって、でなかったら|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》にでもなって行けたらいいのにな、そうすればお父さまのそばにいられてお世話してあげられるのに」とジョーはうなり声をたてた。
「でもテントに|寝《ね》たり、いろんなまずいもの食べたり、ブリキのコップで飲んだりするの、気持ちわるいでしょうねえ」とエーミーはためいきをついた。
「いつお帰りになるんでしょう、お母さま!」とベスは少し声をふるわしてきいた。
「まだなかなかよ、ご病気ででもない|限《かぎ》りね。お父さまはできるだけ長くあちらにいらしてお|務《つと》めをりっぱになさるおつもりなの、ですからみんなも、もういいという時までは、早くお帰りになるようになんて思わないほうがいいのよ。さ、いらっしゃい、お手紙を読んであげましょうね」
みんな|炉《ろ》のそばへ|寄《よ》ってきた。大きないすにはお母さま、その足もとにベス、メグとエーミーはいすの|両腕《りょううで》に|腰《こし》かけた。ジョーはいすの|背《せ》|中《なか》にもたれたが、そこにいれば、たとえ手紙に悲しいところがあったにしても、だれにも顔を見られないですむからだ。
このようなつらい時代に書かれる手紙で、感動を|与《あた》えないものはまずないといってよい。ことに父親たちがその家庭に送る手紙はそうである。この手紙の中にも、|苦《く》|難《なん》に|耐《た》えていることや|危《き》|険《けん》にさらされることやホームシックを|克《こく》|服《ふく》したことなどは一行も記されてはいなかった、それは元気な、希望にあふれた手紙で、|天幕《テント》生活やら行進やら軍隊の|出《で》|来《き》|事《ごと》などを、目に見えるようにつづってあった。ただ終わりのほうになると、家に残した小さい|娘《むすめ》たちへの父親らしい|愛情《あいじょう》と|彼《かれ》らに会いたい気持ちとで、手紙の主の心情はあふれんばかりになっていた。
「子供らにはくれぐれもよろしくお伝えください。昼は彼らのことを思い、夜は彼らのために|祈《いの》り、しじゅう彼らの愛情を思い|浮《う》かべては|慰《なぐさ》めを見いだしていると告げてやってください。この先彼らに会うまでの一年間は長いようではありますが、その間にお|互《たが》いの|務《つと》めをよく|果《は》たしてこれら|多《た》|難《なん》の月日を空費せざるよう、彼らに|銘《めい》|記《き》させてくださるように願います。|娘《むすめ》らはこの父が言っていたことを今なおよく|記《き》|憶《おく》しておるでありましょう。あなたにとってはやさしき子供たちとなり、おのおのの本分をよくつくし、|勇《ゆう》|敢《かん》に心の中の敵とたたかい、おのれ自身に美しく打ちかってこそ、ふたたび会えたときにはこの父はわが|小婦人《リトル・ウイメン》をいやまして愛すべく、また|誇《ほこ》りと思うことができようと信じております」
ここまでくるとみなはすすり|泣《な》きを始めた。ジョーは|大《おお》|粒《つぶ》の|涙《なみだ》が鼻の先へころがり落ちるのを|恥《は》ずかしいと思わなかったし、エーミーもまた|巻《まき》|毛《げ》がくしゃくしゃになるのもかまわずお母さまの|肩《かた》に顔を|押《お》しつけて、泣きじゃくりながらこう言った。「|私《わたし》、わがままな子だわ、だけどもうほんとにいい子になるわ、そしてだんだんにお父さまががっかりなさらないような子になるの」
「みんなそうしましょうね」とメグは|叫《さけ》んだ。「私はあんまり見かけばかり気にして、働くのをいやがるのだわ、でももうできるだけそうしないようにします」
「私も|一生懸命《いっしょうけんめい》でお父さまのおっしゃる『|小婦人《リトル・ウイメン》』になれるようにしてみよう、らんぼうだの|野《や》|蛮《ばん》だのやめて、よそへばっかり出たがらないで家で仕事をしてみるわ」と言いながらもジョーは自分の|性《せい》|質《しつ》として、家にとじこもっているのは、南方へ出かけて一人二人の反逆者に立ち向かうのよりもむずかしいことだと考えていた。
ベスは何も言わないで、青い軍隊|靴《くつ》|下《した》で涙をふいた、そして手近な務めを果たすのに時間を|浪《ろう》|費《ひ》すまいと|一生懸命《いっしょうけんめい》に|編《あ》み出した。心のうちで、おめでたいご|帰《き》|還《かん》の時がくるまでに、お父さまが望んでいらっしゃるとおりのものになっていようと決心したのだった。
ジョーが決心を|述《の》べてからしばらく静かだったが、やがてマーチ夫人が持ち前の|快《かい》|活《かつ》な声でこう言った。「みんなおぼえていますか、あなたがたまだ小さかったころ、よく『|天路歴程《ピルグリムスプログレス》』をして遊んだのを? 重荷の代わりに私の|小布袋《こぬのぶくろ》をしょわせてもらって、|帽《ぼう》|子《し》と|杖《つえ》と|巻《まき》|物《もの》をもって、地下室からずっと家中を|遍《へん》|歴《れき》して歩くのほどお気に入りの遊びはなかったのよ。その地下室は『|滅《めつ》|亡《ぼう》の町』で、そこからだんだんお家の屋根の上までのぼっていって、そこで天国をつくるためにいろいろな美しい物をみつけるんでしたね」
「おもしろかったなァ、ライオンのそばを通ったり、|魔《ま》|王《おう》と戦ったり、お|化《ば》けのいる谷を通り|抜《ぬ》けたりするところが|特《とく》|別《べつ》おもしろかったわ」ジョーが言った。
「私はまた、荷物が落ちて|階《かい》|段《だん》をころがっていくところが好きだったわ」メグはこう言った。
「私の大好きだったのは、お花だの木だのいろんなきれいなものだののある屋根の上に出て、お日さまにあたりながらみんなで立って喜びの歌をうたうところよ」とベスは言って、さながらその楽しかった時がまたかえってきたかのようにほほえむのであった。
「私はそんなようなことあまりおぼえていないわ、おぼえているのはただ|窖《あなぐら》と暗い入口がこわかったことと、屋根の上で食べたお|菓《か》|子《し》だのミルクがおいしかったことくらいよ、私まだそんなことしておかしくない年ごろならまたやってみたいと思うわ」とエーミーは言った。彼女はまだ十二のくせに、子供じみたことだとかなんとか言いはじめているのである。
「これはね、エーミー、いくつになってもやっていいことなんですよ。私たちはみんなそれぞれのやり方でそういうことをしているのですからね。みんなの重荷はすぐそばにあるし、道は私たちの前にあるのです、そしてね、いいことをしたいとかしあわせになりたいとかいう気持ちは私たちの道案内で、それが私たちを|導《みちび》いてさまざまな苦しみや|間《ま》|違《ちが》いを通り|抜《ぬ》けて平和なところへつれていってくれるのです、それがほんとうの天国なのよ。それじゃね、|巡礼《じゅんれい》さんたち、こんどはお遊びじゃなくて、まじめになってもういっぺんやってみましょうか、お父さまのお帰りまでにどのあたりまでいけますかねえ」
「ほんと、お母さま、私たちのお荷物はどこにあるの?」と|想像力《そうぞうりょく》のたりないエーミーはたずねた。
「たった今めいめいのお荷物のことを言ったばかりでしょう、ベスだけは言わなかったけれど。ベスには何もないのかもしれませんね」とお母さまが言った。
「いいえ、私だってあるんです、私のはお|皿《さら》だのはたきだの、それからピアノのあるひとをうらやましがったり、人をこわがったりすることなの」
ベスのお荷物はこんなおかしなものだったのでみんなは|笑《わら》いたかったのだが、ベスがいやな気がするだろうと思って|我《が》|慢《まん》したのであった。
「じゃやりましょう」メグは考え深くそう言った。「これはただ私たちがよくなろうとすることをこんなふうに言っただけなのね、このお話は私たちを助けてくれるかもしれないわ、私たちだってずいぶんよくなろうと思うんだけど、なかなかむずかしいんですものね、じき|忘《わす》れちゃって|一生懸命《いっしょうけんめい》にならないんですもの」
「みんな今夜は『|絶《ぜつ》|望《ぼう》の|沼《ぬま》』にいたんだわね、そこへお母さまがいらしってお話の中の『救い』みたいに私たちを助け出してくだすったのよ。私たちも『クリスチャン』のもっているような道案内の|巻《まき》|物《もの》が必要なのよ、それは何にしよう?」とジョーは相談した、彼女は務めを|果《は》たすというめんどくさい仕事にもいくらか物語めいたたのしみを|添《そ》えてくれる空想で、|悦《えつ》に入っているのである。
「クリスマスの朝になったら、みんな|枕《まくら》の下を見てごらんなさい。道案内がちゃんとはいっていますよ」とマーチ夫人は答えた。
|婆《ばあ》やのハンナが|食卓《しょくたく》を|片《かた》づける間、みんなはこの|新《しん》|計《けい》|画《かく》について相談をしあった、そのあとで四つの|仕《し》|事《ごと》|籠《かご》が持ち出され、マーチ|伯《お》|母《ば》さんのシーツをこしらえるのに四人の|針《はり》はいそがしく運ばれるのであった。それはまことにやっかいなお仕事であったが、今夜は不平を言う者もなかった。彼女らはジョーの|提《てい》|案《あん》を|採《さい》|用《よう》して長い|縫《ぬい》|目《め》を四つに分け、各部分をヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカと|呼《よ》ぶことにした。そんなふうにしたので仕事はすこぶるはかどり、そこを縫いながらいろんな国のお話をしたときなどはことのほか|能《のう》|率《りつ》をあげたのであった。
九時になるとお仕事をやめて、|寝《ね》|床《どこ》にはいるまえにいつものように歌をうたった。ベスをのぞいてはだれもその古ピアノをじょうずにひく者はいなかったのだが、彼女だけは黄色くなった|鍵《けん》|盤《ばん》からやわらかな|音《ね》|色《いろ》を出すすべを知っていて、みんなのうたう|簡《かん》|単《たん》な歌にたのしい|伴《ばん》|奏《そう》をつけてくれた。メグの声はフルートのようで、彼女とお母さまとが小さな|聖歌隊《コワイヤ》のおもな歌い手だった。エーミーの声はこおろぎのようだったし、ジョーは自分のかってな気分のまにまに調子をはずし、いちばん物悲しい調子のところへくると、きまって|間《ま》|違《ちが》えたり、ふるえ声を出したりして、だいなしにしてしまった。彼女らはまだ|片《かた》|言《こと》で
〈キラキラほちよ〉
といっていたようなころからこれをつづけ、今では家のしきたりのようになっていた。お母さまが生まれつきいい声のほうだったからである。朝起きていちばん先にきこえるのは、|雲雀《ひばり》のようにうたいながらはたらきまわるお母さまの声だったし、|晩《ばん》になればやはり同じさわやかな声がいちばん最後まできこえるのであった。|娘《むすめ》たちはいくつになってもこの耳なれた子守歌が好きだったのである。
第二章 楽しいクリスマス
クリスマスの朝、まだ暗いうちからいちばん先に目を|覚《さ》ましたのはジョーだった。|暖《だん》|炉《ろ》には|靴《くつ》|下《した》が一つもつるされてなかった、すると|彼《かの》|女《じょ》は、ずっと|昔《むかし》、あんまりどっさりお|菓《か》|子《し》が|詰《つ》まっていたために小さな靴下が下に落ちてしまっていたときのような失望をちょっと感じたのだった、がすぐに彼女はお母さまの言葉を思い出したので、|枕《まくら》の下に手を入れて|真紅《まっか》な表紙の小さい本をひっぱりだした。それはこの世のいちばんりっぱな|生涯《しょうがい》のことが書いてあるあの美しい古いお話で、彼女もよく知っているものであった。ジョーは、長い旅路を|遍《へん》|歴《れき》する|巡礼《じゅんれい》にとってこれこそ真の道しるべとなるものだとさとった。そこで彼女は、「クリスマスおめでとう」と言ってメグを起こし、枕の下をごらんなさいと言った。こんどは緑色の本が|現《あらわ》れた。中には同じ画があり、お母さまの|筆《ひっ》|跡《せき》で二言、三言書かれてあった、それをみるとこのたった一つの|贈《おく》り|物《もの》がふたりの目にはたいへん|尊《とうと》いものに思われた。まもなくベスとエーミーが目を覚まし、同じようにして小さな本をさがし出した。一つは|鳩《はと》|色《いろ》でもう一つは青いのであった。みんながそこにすわってそれを見ながらいろいろ話し合っているうちに、お日さまが上がって東の空がばら色になってきた。
少しばかり|虚《きょ》|栄《えい》|心《しん》があるとはいうものの、マーガレットはやさしい、信心深い|性《せい》|質《しつ》をもっていて、それが知らず知らずのうちに妹たちにいい|影響《えいきょう》を|与《あた》えていた。とりわけジョーはこの姉が|好《す》きだった、そしてよく言うこともきいた、というのもメグの言い方がやさしかったからである。
「ね、みんな」自分のそばのみだれ|髪《がみ》の頭から、向こうの部屋の小ちゃな二つのナイトキャップのほうをみやりながら、メグはまじめになって言った。
「お母さまは、|私《わたし》たちがこのご本をよく読んで、好きになって、心にとめておくようにと思っていらっしゃるのよ、私たち、すぐに始めなくっちゃいけないわね。もとはみんなずいぶんよく読んだんだけど、お父さまがおるすになったのと、戦争のごたごたで、いろんなことしなくなっているのねえ。あんたたちはあんたたちで好きなようになさい、私はこの本をここのテーブルの上においといて、毎朝目が覚めたら少しずつ読むことにするわ、そうすれば私もいい子になってその日一日がよく|暮《く》らせるだろうと思うのよ」
そして彼女は新しい本をあけて読みだした。ジョーは姉のからだに|腕《うで》をかけ、|頬《ほお》をよせて、いつものせっかちな顔つきにはみられないような静かな|表情《ひょうじょう》をして、いっしょになって読むのであった。
「メグ姉さんおえらいわ! さあ、エーミー、私たちも姉さんたちのようにしましょうよ。むずかしいところがあったら教えてあげるわ、それでも分からないところは姉さんたちにきけばいいでしょう」美しい本と姉たちの|示《しめ》したお手本とに|感《かん》|激《げき》して、ベスはささやいた。
「私、青いのでよかったわ」とエーミーは言った。それから室の中はしいんとして、本のページだけが静かに|繰《く》られ、冬のお日さまがクリスマスの|挨《あい》|拶《さつ》をおくるかのようにしのび入って、四人のつやつやした髪の毛と本気な顔を照らしていた。
ものの三十分もたったころ、メグはジョーと二人で|贈《おく》り|物《もの》のお礼を言おうと階下へ下り、
「お母さまは?」ときいた。
「さあ、よくわかりませんですがね、なんだか|困《こま》っている人がおもらいにきましてね、お母さまはさっそく様子をみにおでかけになりましたよ。まあま、|奥《おく》さまのように食べ物から飲み物から、着る物から|焚《た》く物まで、人におやりになる方はあるものではございませんよ」とハンナは答えた。このお|婆《ばあ》さんはメグが生まれた時からずっとこの家族といっしょに|暮《く》らしてきたのであって、今では使用人というよりは|仲《なか》|間《ま》の一人のように思われているのであった。
「じゃ、じきお帰りになると思うわ。お|菓《か》|子《し》のほうたのみますよ、そして他のことも用意しておいてね」と言ってメグは自分たちからの|贈《おく》り|物《もの》をみわたした、それはちゃんとかごに|納《おさ》められてソファの下にしのばせてあり、いざというときいつでもとり出せるようになっていた。
「あら、エーミーのオーデコロンは?」小びんが見あたらなかったので、彼女はそう言いたした。
「さっきとりにきてどっかへ持って行ったわよ、リボンでもかけるつもりなんでしょう」ジョーは答え、新しい軍隊スリッパのこわばったのを直すために部屋の中を|踊《おど》りまわっていた。
「私のハンカチ、みんないいわね、そう思わない? ハンナが洗ってアイロンかけてくれたのよ。名前は私がみんな|縫《ぬ》ったの」と言ってベスは、何だかでこぼこのある文字を|得《とく》|意《い》そうにながめた。それでも彼女にとっては相当のお|骨《ほね》|折《お》りだったのであろう。
「まあこの子ったら。'M. March' としないで 'Mother' としてるよ。おかしいねえ」ジョーは一|枚《まい》とり上げて大声で言った。
「いけないかしら? 私そうしたほうがいいと思ったのよ、メグの|頭文字《かしらもじ》も 'M. M.' でしょう、それに私、お母さまにだけ使っていただきたいんですもの」とベスは困ったように言った。
「それでいいわ、ベスちゃん、かわいい思いつきよ、それになかなかうまい考えだわ、こうすればもうだれも|間《ま》|違《ちが》いっこないんですもの。お母さまきっとおよろこびになるわよ」と言ってメグはジョーには|眉《まゆ》をひそめながら、ベスにはにっこりしてみせた。
「お母さまだ、かごかくして、早く!」ドアの|閉《し》まる音がして|玄《げん》|関《かん》に足音がきこえたとき、ジョーは|叫《さけ》んだ。
あわててはいってきたのはエーミーだった。みんなが自分を待っているようなのをみると、彼女はちょっときまりがわるそうだった。
「どこへ行ってたの、うしろにかくしているのなあに?」|帽《ぼう》|子《し》や|外《がい》|套《とう》を着ているのをみて、メグは|寝《ね》ぼ|助《すけ》のエーミーがこんなに早々と外出したのに|驚《おどろ》いてきいた。
「|笑《わら》わないでよ、ジョー。その時まで私、だれにも言いたくなかったんだけど。あのね、私ただ小さいびんを大きいびんにとり|換《か》えようと思ったのよ。それでね、お金をみんな使って換えてもらってきたの。私だんぜん|利《り》|己《こ》|主《しゅ》|義《ぎ》やめるのよ」
そう言いながらエーミーは、安いのに代わったりっぱなびんを出して見せた。その自分のことを|忘《わす》れようとする子供らしい努力がいかにも本気に、またへりくだってみえたので、メグは彼女を|抱《だ》きしめ、ジョーは|例《れい》によって「けっさく!」などと叫んだ。そのまにベスは|窓《まど》のところに走っていって、自分のいちばんりっぱなばらをつんできて、その堂々たるびんを|飾《かざ》ってやった。
「けさ、いいひとになることを読んだりお話したりしていたら、私、自分の|贈《おく》り|物《もの》のことが|恥《は》ずかしくなったのよ、それで起きるとすぐ走っていってとり換えてもらったの。ああよかった、こんどは私のがいちばんりっぱだから」
表の戸がまたばたんと|閉《し》まったので、かごは大急ぎでソファの下へ|押《お》しやられ、姉妹は朝食を待ちかねていたように|食卓《しょくたく》についた。
「クリスマスおめでとうございます、お母さま! ご本をありがとうございました。みんなで少し読んだんですよ、毎日読むつもりです」と彼女らは|異《い》|口《く》|同《どう》|音《おん》に言った。
「おめでとう、みなさん! さっそく始めてくださってよかったこと、どうかながつづきするように。ところでね、すわる前にちょっとお話があるのよ。ご近所にね、病気で|寝《ね》ている|貧《びん》|乏《ぼう》なお母さんがいるんですよ、生まれたばかりの赤ちゃんもあるのよ、子供が六人、一つのベッドに|丸《まる》くなっているの、火の|気《け》がないからそうしないとこごえ死んでしまうんです。そこのお家には食べる物が何もないの、それでね、一番上の男の子が、おなかがすいて、寒くって|困《こま》ってるってお母さまのところに言いにきたんですよ。どう、みんな、あなたたちの朝ご飯をクリスマス・プレゼントに上げることにしたら?」
一時間近くも待ったあげくだったので、みんなは|特《とく》|別《べつ》おなかがすいていた。それでとっさにはだれも返事をしなかった、がすぐにジョーがせき|込《こ》むように|叫《さけ》んだ、
「よかった! 手をつけないうちに帰っていらして」
「私もいっしょに行って、そのかわいそうな子供たちにいろんなもの運んで上げていい?」とベスは|一生懸命《いっしょうけんめい》である。
「クリームとマッフィンは私が持ってく」エーミーは気前よく自分の|大《だい》|好《す》きなものをあきらめて、こうつけ加えた。
メグはもう|蕎《そ》|麦《ば》|粉《こ》のお|菓《か》|子《し》を紙に包み、パンを大きなお|皿《さら》に重ねていた。
「みんなそうしてくれるだろうと思っていましたよ」とマーチ夫人は満足そうにほほえんで言った。「みんなでいってお手伝いしてください、帰ったらパンとミルクでご飯にしましょうね、|晩《ばん》にはご|馳《ち》|走《そう》しますからね」
すぐに用意はできて、一隊は出発した。幸いにまだ早い|時《じ》|刻《こく》ではあり、|裏《うら》|通《どお》りを行ったので、すれ|違《ちが》う人も少なく、|奇妙《きみょう》な行列を|笑《わら》う人もなかった。
そこは、|貧《まず》しくて家具一つないあわれな室だった。|窓《まど》は|破《やぶ》れ、火のけはなく、ぼろぼろの|布《ふ》|団《とん》には病気の母親と、|泣《な》きさわぐ|赤《あか》ん|坊《ぼう》、そして青ざめてひもじそうなひとかたまりの子供たちが一|枚《まい》のキルトの上掛けに|寄《よ》りそって、寒さをふせいでいるのだった。
姉妹たちがはいっていったとき、子供たちの目は何と大きくみひらかれ、青いくちびるは何とうれしそうにほほえんだことだったろう!
「ああ、|神さま《マイン・ゴット》! これはこれは天のお使いでございます!」かわいそうな女のひとはうれし|涙《なみだ》を流してそう|叫《さけ》んだ。
「へんな天の使いね。|頭《ず》|巾《きん》かぶったり|手袋《てぶくろ》はめたりして」と言ってジョーはみんなを笑わせた。
しばらくすると、そこは全く天の使いたちがいて立ち働いているかのように見えてきた。ハンナは|薪《まき》を運んできて火をおこし、|古《ふる》|帽《ぼう》|子《し》だの自分の古ショールだので窓ガラスの|穴《あな》をふさいだ。マーチ夫人は病人にお茶とおかゆを飲ませ、今後の助力を|約《やく》|束《そく》して安心させながら、赤ん坊にはまるで自分の子のようにやさしく|着《き》|替《が》えなどをさせてやった。そのまに|娘《むすめ》たちは|食卓《しょくたく》の用意をし、子供たちを火のそばにすわらせて、おなかのすいた小鳥のむれに|餌《えさ》をやるようにしてご飯をたべさせるのであった。そして、おかしなかたこと英語をわかろうと苦心しながら、笑ったりおしゃべりしたりするのだった。
「|お《ダス》|い《・イ》|し《スト》|い《・グ》|な《ーテ》!」だの「|天使の子供《デル・エンジェル・キンデル》」[#訳注:英語と、ドイツ語の発音がまぜこぜになっている]だのと口々に|叫《さけ》びながら、かわいそうな子供たちは、ご|馳《ち》|走《そう》を食べたり、気持ちのよい炎で紫色の手をあたためたりした。姉妹たちは天使の子供だなって|呼《よ》ばれたことは今が初めてなので、それはたいへんうれしく思われた、ことにも生まれてこのかたサンチョー[#訳注:ドンキホーテの従者でおかしな人物]だと思われてきたジョーにとってはひとしおであった。彼女たちは少しも分け前にあずからなかったとはいえ、それはまことに楽しい朝ご飯であった。みんなは|慰《なぐさ》めの言葉をあとへ残してそこを立ち去ったが、自分たちの朝食を人に|与《あた》えて、クリスマスの朝にパンとミルクでがまんをしたこのひもじい四人の少女ほど楽しい思いをした人は、町中にもいなかったであろうと思われる。
「おのれよりも|隣《りん》|人《じん》を愛するというのは、このことなのね。私は|好《す》きよ」お母さまが二階で、|貧《まず》しいフンメル一家にあげる衣類を集めていらっしゃる間に、みんなの|贈《おく》り|物《もの》を|並《なら》べながらメグは言った。
それは|非常《ひじょう》にすばらしい光景というようなものではなかった、がその三つ四つの小さな包みの中には大きな|愛情《あいじょう》のしるしがつまっていたし、赤いばらと、白い|菊《きく》と、しだれた|蔓《つる》とをさした|背《せ》の高い花びんは中央にすえられて、|食卓《しょくたく》にいちだんと|優《ゆう》|雅《が》な|趣《おもむき》をそえていた。
「ほうら、お母さまだ! 始めなさい、ベス。|扉《とびら》を開けて、エーミー。お母さまに|万《ばん》|歳三唱《ざいさんしょう》!」などと|叫《さけ》びながらジョーがそこらをはねまわっているうちに、メグはお母さまを上席へご案内するために出て行った。
ベスが最もにぎやかな曲をかなでエーミーがさっとばかりに扉を開けると、メグは|威《い》|儀《ぎ》を正してご|先《せん》|導《どう》|役《やく》をうけたまわった。マーチ夫人は思いがけない|贈《おく》り|物《もの》と、それに|添《そ》えられた短い言葉とを一つ一つあらためて、|驚《おどろ》いたり感動したりして目をうるませながらほほえむのであった。スリッパはさっそく着用され、新しいハンカチはエーミーのオーデコロンをにおわせてポケットの中に|納《おさ》められた。ばらの花は|胸《むね》に、美しい|手袋《てぶくろ》は「きっちり合う」とほめられた。
それからさんざ|笑《わら》い声やらキッスやら説明やらがとり交わされたが、そのあっさりして、しかもむつまじいやり方は、こういう家庭的な|催《もよお》しごとをいっそう楽しいものにもし、のちのちになって思い出したときには、まことになつかしいものともなるのである。そのあと、みんなは仕事にとりかかった。
朝の|施《ほどこ》しと|儀《ぎ》|式《しき》で思わぬ時をとったので、あとの時間は夜のお|祝《いわ》いの|準備《じゅんび》に費やされてしまった。まだ|若《わか》いので|芝《しば》|居《い》などにはそういかなかったし、また家庭の催しごとにたくさんの費用をだせるようなお金持ちでもなかったから、姉妹たちはありったけの|知《ち》|恵《え》をはたらかせ、必要は発明の母とあって、いるものはなんでもつくり出した。そうして出来上がったもののなかにはなかなか器用なものがあった。ボール紙のギター、|昔風《むかしふう》なバタ|皿《ざら》でつくり銀紙の|笠《かさ》をかけた古風なランプ、|漬《つけ》|物《もの》工場からもらってきた|錫《すず》|箔《はく》できらびやかに|飾《かざ》った|古《ふる》|木《も》|綿《めん》の|豪《ごう》|華《か》な|衣装《いしょう》、それによろいは同じく調法なダイアモンド型の切れはしでピカピカしていたが、それはびん|詰《づ》めのふたをくりぬいた残りのしろものであった。家具は家具でさかさまにされるのにはなれていたし、広間はかずかずの|無《む》|邪《じゃ》|気《き》な|酒《しゅ》|宴《えん》の場面と化した。
男子は入場|禁《きん》|止《し》だった。それでこそジョーは思うぞんぶん男の役を|演《えん》じることができるというものであった。彼女はあずき色の皮の|長《なが》|靴《ぐつ》がことのほかお気に入りだったが、それはある|俳《はい》|優《ゆう》を知っているというある|婦《ふ》|人《じん》を知っている彼女の友だちからもらいうけたものであった。この長靴と、一本の|稽古刀《けいこがたな》、それにある画家が何かの画に用いたという切れ目のはいった古代の|胴《どう》|着《ぎ》が、ジョーのご|秘《ひ》|蔵《ぞう》の品々で、いついかなる場合にも必ず|現《あらわ》れた。|一《いち》|座《ざ》が小人数だったので、立て役者二人はめいめい三つ四つの役を|演《えん》じなくてはならなかった。こうして三つも四つもの|違《ちが》った|台詞《せりふ》を|暗誦《あんしょう》したうえ、さまざまの|衣装《いしょう》を着たりぬいだり、はては|舞《ぶ》|台《たい》|監《かん》|督《とく》までやってのけるという大仕事をしたことに対し、彼らはたしかに相当の|称賛《しょうさん》をうけるべきであった。それはまた彼女たちの|記憶力《きおくりょく》を|増《ま》すうえに、このうえもないいい|訓《くん》|練《れん》であり|罪《つみ》のない|娯《ご》|楽《らく》であり、時間を|有《ゆう》|益《えき》に使わせてくれることでもあったのだ。こんなことでもしなかったならば、彼らはなんということなくぶらぶらと、|退《たい》|屈《くつ》に、またはつまらないおつきあいに多くの時を|過《す》ごしてしまうのであったろう。
クリスマスの|晩《ばん》には、一ダースほどの女の子が|桟《さ》|敷《じき》代わりのベッドの上にめじろ|押《お》しに|並《なら》んで、|胸《むね》をわくわくさせながら青と黄色の|更《さら》|紗《さ》カーテンの前にすわっていた。|幕《まく》のかげではしきりと|衣《ころも》ずれの音やささやきの声がきこえたり、ランプのかすかな|油《ゆ》|煙《えん》が立ちのぼったり、はてはこんな時に|興《こう》|奮《ふん》しやすいエーミーのげらげら|笑《わら》いがきこえたりしていた。まもなくベルが鳴り、|幕《まく》がさっと開かれて|悲《ひ》|歌《か》|劇《げき》は始まった。
「|小《お》|暗《ぐら》き森」――一|枚《まい》きりの番付に書いてある――は、三つ四つの|鉢《はち》|植《う》えの木と、|床《ゆか》に|敷《し》いた緑色のラシャと遠くに見える|洞《どう》|窟《くつ》で現されていた。この洞窟は屋根が着物|掛《か》け、|壁《かべ》が|箪《たん》|笥《す》でできていた。なかには小さなかまどがあって火がめらめらと|燃《も》えていた。かまどの上には黒い|鍋《なべ》がかけられ|魔《ま》|法《ほう》使いの|老《ろう》|婆《ば》がそれをのぞき|込《こ》んでいた。舞台は暗く、かまどに燃える|炎《ほのお》はすてきな|効《こう》|果《か》をあげていた。とくに魔女がふたをとったとき、中から本物の湯気が立ちのぼったのなどはすばらしかった。いっしゅん、|舞《ぶ》|台《たい》はそのままでお客の最初の|戦《せん》|慄《りつ》がしずまるのを待っている、と、|敵役《かたきやく》のユーゴーが|腰《こし》に|剣《けん》を打ち鳴らし、|帽《ぼう》|子《し》のふちを深く下げ、黒いひげにあやしげなマント、それに例の|長《なが》|靴《ぐつ》という|扮《ふん》|装《そう》でのっしのっしと|現《あらわ》れた。心のみだれを|示《しめ》すようにあちらこちらと歩いたのち、彼は自分の|額《ひたい》を打ち、ロデリゴに対する憎しみとザラに対する|思《し》|慕《ぼ》の|情《じょう》、それに加えて前者を殺して後者を|得《え》ようといううれしい|覚《かく》|悟《ご》のほどを|狂乱《きょうらん》の調子で歌い出す。ユーゴーのあらあらしい声音は、ときに|迫《せま》りくる感情にわれを|忘《わす》れる|叫《さけ》び声とあいまって、ひどく|印象的《いんしょうてき》である。|聴衆《ちょうしゅう》は、彼が息をつぐために休んだとき、やんやの|喝《かっ》|采《さい》を送った。それに対してものなれた様子でおじぎをしてから、彼は洞窟にしのびより、おごそかな|口調《くちょう》でハガーに出てくるように命じた。
「あいや、|乙女《おとめ》よ、そなたに用じゃ!」
メグは|灰《はい》|色《いろ》の馬の毛を顔のまわりにばさとたれ、赤と黒の|衣《ころも》をまとい、手に|杖《つえ》を持ち、|神《しん》|秘《ぴ》|的《てき》な|模《も》|様《よう》などをとりつけた上着をはおってやおら|洞《どう》|窟《くつ》から出てきた。ユーゴーはザラが自分を|慕《した》うようになる薬と、ロデリゴをなき者にするような薬とを|与《あた》えよと迫る。ハガーは美しい|芝《しば》|居《い》がかりの節まわしで二つとも与えると約し、愛の|妙薬《みょうやく》をもたらす|妖《よう》|精《せい》を|呼《よ》び出しにかかる――
[#ここから2字下げ]
こなたにこよや 妖精よ
すみかをいでて われにこよ!
|薔《ば》|薇《ら》のしとねに |露《つゆ》のかて
|吸《す》いて育ちし |汝《なれ》なれば
つくるはいかに |魔《ま》がくすり
やよとくここに もちてこよ
|香《かおり》ゆたけき |妙薬《みょうやく》を
いざや きかなん |汝《なれ》がこたえ!
[#ここで字下げ終わり]
やわらかな楽の音がひびいてきた、それにつれて、洞窟のうしろから、雲のように白い小さな|姿《すがた》が|現《あらわ》れた、つばさはきらきらと|輝《かがや》き、|髪《かみ》の毛に金色、頭にはばらの花輪をつけていた。|杖《つえ》をひと|振《ふ》り振ったのち、それはうたい出す――
[#ここから2字下げ]
われはきたりぬ はるかなる
わがすまいこそ しろがねの
月の|宮《みや》|居《い》と 君よ知れ
受けよ|妙《たえ》なる |魔《ま》がくすり
|用《もち》いよそをば 心して
くすしき力 失せぬまに
[#ここで字下げ終わり]
そして小さな光ったびんを魔女の足もとへ落としてやると、|妖《よう》|精《せい》は姿を消した。ハガーがまた一つ|別《べつ》な歌をうたうと、別な|妖《よう》|怪《かい》があらわれた。こんどは美しいのではなく、どすんという物音とともにとびだしたのはみるからにみにくい黒い|小《こ》|鬼《おに》で、しわがれ声で返事をすると、黒い小びんをハガーに投げつけ、あざけり|笑《わら》いながらかき消えた。ユーゴーは|感《かん》|謝《しゃ》の言葉をうたい|述《の》べ、二つの薬を|長《なが》|靴《ぐつ》の中へしまい|込《こ》んで|退場《たいじょう》する。ハガーは|聴衆《ちょうしゅう》に向い、ユーゴーは|昔《むかし》、彼女の友だちを二、三人も殺したことがあるから、自分は彼にのろいをかけ、彼の計画の|邪《じゃ》|魔《ま》をして|復讐《ふくしゅう》するつもりだと告げる。ここで静かに|幕《まく》が下りた。
見物は|休憩《きゅうけい》にはいり、お|菓《か》|子《し》をほおばりながら、|芝《しば》|居《い》の出来を|批評《ひひょう》しあった。
幕間はたいそう長く、いつまでも金づちの音などがカンカン|響《ひび》いていたが、やがてりっぱに組み立てられた|舞《ぶ》|台《たい》のさまを目の前にすると、もうだれも待たされたことに|文《もん》|句《く》を言う者はいなかった。じつにすばらしい! |塔《とう》が|天井《てんじょう》までそびえている。塔の中ほどのところに|窓《まど》があり、ランプさえともっていた。白いカーテンのかげには美しいザラが青色と銀の|衣装《いしょう》を着てロデリゴのくるのを待っている。彼はやってきた、美々しい衣装にはね|飾《かざ》りの|帽《ぼう》|子《し》、赤いマントにくり色の下げ|髪《がみ》、手にはギターをかかえ、もちろん|長《なが》|靴《ぐつ》をはいている。塔の下にひざまずくと、彼はとけ入るような調子でセレナーデをうたい出した。ザラもこれに答え、歌のやりとりがあったのち、いっしょに|逃《に》げることを|承知《しょうち》する。これからが芝居の見せ場となる。ロデリゴは五段ほどある|縄《なわ》|梯《ばし》|子《ご》をとりだし、|片《かた》|方《ほう》のはしを投げ上げて、ザラに下りてくるようにと|招《まね》く。彼女はこわごわ|格《こう》|子《し》|窓《まど》からしのび出て、ロデリゴの|肩《かた》に手をかけ、今やふわりと飛び下りようとした|刹《せつ》|那《な》、「おお、おお、ザラよ!」彼女は衣装のすそを|忘《わす》れていた、すそは窓にひっかかった、塔はぐらつき、前にかたむくとみるまにぐしゃと|倒《たお》れて、たちまち不幸な|恋《こい》|人《びと》同士を|廃《はい》|墟《きょ》の中に|埋《う》めてしまった。
見物はいっせいに|金《かな》|切《き》り|声《ごえ》をあげる、|残《ざん》|骸《がい》の中ではあずき色の長靴がやけに|振《ふ》り回され、にゅッと出た|金髪頭《きんぱつあたま》は「だから言ったのに! だから言ったのに!」とわめいた。
|無《む》|慈《じ》|悲《ひ》な父親のドン・ペドロはあわてず|驚《おどろ》かず進み出て、「|笑《わら》わないで、なんでもないようにやるのよ!」と口早に|傍白《わきぜりふ》を言いながら、|娘《むすめ》を引っぱり出し、ロデリゴには起きろと命じ、|怒《いか》りあざけりながら彼を王国から追放すると言う。
わが身の上に|塔《とう》がぶっ|倒《たお》れたのにはさすがにびっくりしながらも、ロデリゴは老人なぞはものともせず、動く|気《け》|色《しき》も示さない。この|不《ふ》|敵《てき》な|先《せん》|例《れい》に|刺《し》|激《げき》され、ザラも父親に|反《はん》|抗《こう》したので、父親は二人を|城《しろ》の中のいちばん深い|土《つち》|牢《ろう》に入れろと命ずる。がっしりとした小さな|家《け》|来《らい》が|鎖《くさり》を持って出てきたが、このありさまに|仰天《ぎょうてん》し、|述《の》ぶべき|台詞《せりふ》も|忘《わす》れたようにふたりを連れて引っ|込《こ》んだ。
三|幕《まく》|目《め》はお城の広間である。ここにはハガーが|恋《こい》|人《びと》同士を助け出し、ユーゴーをなき者にするために登場する。彼の近づく足音をきき身をかくす、そして見ていると、ユーゴーは二つの|杯《さかずき》に|魔《ま》|薬《やく》を入れ、おじけづいている小さな家来に「これを|牢《ろう》|屋《や》のとりこのところに持っていけ、そしてすぐわしが行くと言え」と命じる。家来は何ごとかを耳打ちするためにユーゴーを|傍《そば》へつれていく、ハガーはそのまに二つの杯を毒のはいっていないのとすりかえる。「お気に入り」のフェルディナンドーがそれを運び去る。ハガーはロデリゴのために盛られた毒の杯をもとのところに置く。ながながと歌い述べてのどの|乾《かわ》いたユーゴーはそれを飲み|干《ほ》し、たちまち正気を失って、やたらに引っかいたり地だんだ|踏《ふ》んだりしたのち、ばったり倒れて息|絶《た》える、このときハガーは、|妙《みょう》に力のこもった美しいしらべで、自分のしたことをユーゴーに歌ってきかせる。
これこそ真に身の毛もよだつような場面であった。ただ長い|髪《かみ》の毛がどさりとほどけ落ちたのが、いくぶん悪漢の死の|効《こう》|果《か》をそいだと思った者もいたかもしれない。彼は幕の前に|呼《よ》び出され、ハガーを|伴《ともな》って、作法どおりに|舞《ぶ》|台《たい》に|現《あらわ》れた。ハガーの歌こそは|今《こ》|宵《よい》の|芝《しば》|居《い》全部よりもすばらしいものと思われたのであった。
四|幕《まく》|目《め》は、ザラが自分を|見《み》|捨《す》てたときかされて|絶《ぜつ》|望《ぼう》したロデリゴが、今や自殺を|企《くわだ》てようとする場面であった。まさに|刃《やいば》が彼の|心《しん》|臓《ぞう》にあてられたそのとき、|窓《まど》の下にやさしい歌声がきこえ、ザラの|貞《てい》|節《せつ》とその身にふりかかっている|危《き》|険《けん》とを告げ、彼がその気になれば彼女を救えるであろうと教える。そして|扉《とびら》を開けるべき|鍵《かぎ》まで投げ|込《こ》まれる。彼は喜び|勇《いさ》んで|鎖《くさり》をたち切り、|恋《こい》|人《びと》をさがし助けにとび出していく。
第五幕は、ザラとドン・ペドロとのはげしいいさかいに始まる。彼は彼女に|尼《あま》|寺《でら》へいくようにすすめるが彼女は承知しない。そして一言|哀《あい》|願《がん》したのちばったりと|倒《たお》れそうになったところへロデリゴがかけつけ、|求婚《きゅうこん》の手をさしのべる。ドン・ペドロはロデリゴが金持ちでないという理由でこれをしりぞける。二人は物すごいまでの|身《み》|振《ぶ》りよろしく声高にどなり合うがついに意見が|一《いっ》|致《ち》せず、ロデリゴは|疲《つか》れ|果《は》てているザラをひっさらって立ち去ろうとする。そこへ、|例《れい》のおずおずした|家《け》|来《らい》がはいってき、今まで不思議と|姿《すがた》を消していたハガーからの手紙と一つの|袋《ふくろ》とを|渡《わた》す、その手紙は一同の者に、ハガーが|莫《ばく》|大《だい》な|富《とみ》を|若《わか》い二人に|譲《ゆず》ること、ならびにドン・ペドロが二人をしあわせにしてやらなかったならば、|恐《おそ》るべき運命に|見《み》|舞《ま》われるであろうということを告げ知らせる。袋は開けられた。中からは|錫《すず》のおかねが大量に|舞《ぶ》|台《たい》の上にまきちらされ、そこら一面きらきらとまばゆいばかりになった。これを見ては「|頑《がん》|固《こ》おやじ」の心もやわらぎ、|文《もん》|句《く》なしに同意する。一同は喜びの歌をうたい、|恋《こい》|人《びと》同士がドン・ペドロの|祝福《しゅくふく》を受けるために、|優《ゆう》にやさしい物ごしでひざまずいたところに|幕《まく》が下りる。
あらしのような|喝《かっ》|采《さい》が起こった。と、それは思わぬことでさえぎられた。というのは「|桟《さ》|敷《じき》」代わりになっていたたたみ|寝《しん》|台《だい》が、なんとしたことか急にたたまれてしまって、熱中した|観衆《かんしゅう》をのみ|込《こ》んでしまったのだ。ロデリゴとドン・ペドロが|救助《きゅうじょ》にかけつけ、幸いけがもなくみなひっぱり出されたものの、多くの者はおかしさに口もきけないありさまであった。この|騒《さわ》ぎがしずまるかしずまらないところへハンナが|現《あらわ》れて、こう告げた。「おくさまからおよろこびのご|挨《あい》|拶《さつ》でございました。それからどうぞお夜食に階下へおいでくださいまし」
これは|上演者《じょうえんしゃ》たちにとってさえ、なんとも意外千万なことであった。|食卓《しょくたく》を見たときにはただただ喜びの目をみはってお|互《たが》いの顔を|見《み》|交《か》わすばかり。自分たちのために、ちょっとしたご|馳《ち》|走《そう》をしてくださるというのは、お母さまらしいことではあるが、今見るようなりっぱなものは、|昔《むかし》の|栄《えい》|華《が》の時代からこのかた、きいたこともないくらいである。まずアイスクリーム――それもピンクと白の二|皿《さら》の――お|菓《か》|子《し》にくだもの、そのうえ、気も遠くなるようなフランスボンボンまであるのだ。おまけにテーブルのまん中には温室|咲《ざ》きの|花《はな》|束《たば》が四つもおいてある!
彼女らは全くどぎもをぬかれた。彼女らの目ははじめテーブルの上に|釘《くぎ》づけにされ、それからお母さまのほうへと向けられた。お母さまはそれをひどくおもしろがっていらっしゃるようだ。
「これ、|妖《よう》|精《せい》がやったの?」まずエーミーがきく。
「サンタクロースね」とベス。
「お母さまよ」と言ってメグは|灰《はい》|色《いろ》のひげとまっ白い|眉《まゆ》をつけたままにっこり|笑《わら》った。
「マーチ|伯《お》|母《ば》さんがけっこうな気まぐれを起こしたのよ、それでお夜食をよこしたんだわ」とジョーはとっさに思いついて|叫《さけ》んだ。
「みんなあたりませんね。これはね、ローレンスのご|隠《いん》|居《きょ》さんがくだすったのよ」とマーチ夫人は答えた。
「あのローレンスの男の子のおじいさまが! なんだってそんなこと思いついたんでしょう? お知り合いでもないのに!」とメグは思わず大きな声を出した。
「ハンナがね、あちらのお女中さんの一人にあなたたちの朝ご飯のお話をしたんですよ。あのお|年《とし》|寄《よ》りは変わった方でいらっしゃるんですがね、そのお話がお気に|召《め》したんでしょうね。ずっと|昔《むかし》にね、お母さまのお父さまをごぞんじなんですって、さっきご|丁《てい》|寧《ねい》なお使いをくだすって、今日のお|祝《いわ》いのしるしにあなたたちにちょっとしたものを|贈《おく》ってお近づきにならせてくれっていっておよこしになったのよ。それをおことわりするわけにはいきませんからね、そういうわけで、あなたたち、|今《け》|朝《さ》の|簡《かん》|単《たん》なご飯の代わりに、|今《こん》|晩《ばん》ご|馳《ち》|走《そう》をいただくことになったんですよ」
「あの男の子が考えたんだわ、きっとそうだ! あのひととてもすばらしいんだもの、お友だちになりたいなあ。あっちでもそうらしいんだけど、はにかみやなのよ、それにメグってば、つんとして、すれちがっても話しかけさせてくれないんだもの」ジョーはこう言った、その間にもお|皿《さら》は回され、アイスクリームは、おお! だの、ああ! だのという満足の|叫《さけ》びとともにとけていくのであった。
「おとなりの大きなお家の人たちのこと? ちがう?」お客のなかの一人がきいた。「うちのお母さまローレンスさんを知ってらっしゃるのよ、でもね、あの方とてもいばっていて、近所の人とおつき合なんかしないんだっていってらしたわ。あの方ね、お|孫《まご》さんが家庭教師と馬に乗るか、散歩するかでないときは、いつでもお家に|閉《と》じ|込《こ》めておくんですってよ、そしてね、ものすごく勉強させるんですって。うちでパーティのときあの方お|招《よ》びしたけどこなかったわよ、でもお母さまはあの|坊《ぼっ》ちゃんいい方だっておっしゃったわ、私たちみたいな女の子には口なんかきかないんだけど」
「もうせんうちの|猫《ねこ》、|逃《に》げたときね、あのひとつれてきてくれたのよ、そしてね、|垣《かき》|根《ね》のところで話し込んだの、クリケットのことやなんか、そして|佳境《かきょう》にはいったところへメグが来るのが見えたのさ、そしたら逃げてっちゃった。私、いつかお友だちになってやるわ、あのひとだって遊ぶってことが必要よ、きまってるわ」ジョーは|断《だん》|固《こ》として言った。
「お母さまはあの|坊《ぼっ》ちゃんの|態《たい》|度《ど》が|好《す》きですよ、まだお子さんだけど|紳《しん》|士《し》ですからね、ですから|適《てき》|当《とう》な時が来さえしたら、あなたがたがお近づきになるのはかまわないと思ってます。あの坊ちゃん、さっきもご自分でお花を持ってきてくださったのよ、お二階でやっていることがわかっていたら、上がっていただけばよござんしたね。あの方あなたがたの|騒《さわ》ぎをきいて物足りなそうにして帰っていらしたのよ、おうちには何もおもしろいことがないのね」
「上げてくださらなくてもっけの幸い」とジョーは自分の|長《なが》|靴《ぐつ》に目を落としながら|笑《わら》った。「でもそのうちあの方にも見せてあげられるようなのを|演《や》りましょうよ、もしかしたら手伝ってもらえるかもしれないし、そしたらおもしろいんじゃない?」
「私|花《はな》|束《たば》なんかいただいたの初めてよ。きれいねえ!」と言って、メグは、ひどく|珍《めずら》しそうに色とりどりの自分の花をながめるのであった。
「ほんとにきれい。でもお母さまにはベスのばらのほうが、なおさらきれいに見えますよ」マーチ夫人は帯にさしてあるしおれかかった花束をかぎながら、そう言った。
ベスはそっとお母さまのそばにきて、やさしい声でささやいた。「私、お父さまの所へこのお花送ってあげたいわ、お父さま、こんなおもしろいクリスマスしていらっしゃらないんでしょうねえ」
第三章 ローレンス少年
「ジョー! ジョー! どこにいるの?」メグは広い階段の下で大きな声をだした。
「ここよ」と上のほうから、かすれた声がきこえてきた。メグが|駆《か》け上がってみると、妹は日あたりのいい|窓《まど》ぎわの古い三本|脚《あし》のソファの上に、|毛《もう》|布《ふ》にくるまってりんごをかじりかじり『レドクリフの|嗣《し》|子《し》』を読んで|泣《な》いてるところであった。ここはジョーの気に入りの|隠《かく》れ|家《が》だった。|彼《かの》|女《じょ》はここに五つ六つのりんごとおもしろい本をかかえて引っ|込《こ》み、その静かな所に、自分に少しの気がねもしないここの住人のかわいいねずみとふたりでいるのが|好《す》きだった。メグの|姿《すがた》をみると、カリカリ氏はこそこそと|穴《あな》へ|隠《かく》れてしまった。ジョーはほッぺたの|涙《なみだ》をふるい落とし、ニュースをきく身がまえをした。
「すてきよ! ほら! ガーディナーのおくさんから明日の|晩《ばん》の正式なご|招待状《しょうたいじょう》よ!」メグは、たいせつな紙きれを|振《ふ》り回しながら、少女らしい喜びをかくそうともせず、それを読みにかかった。
「『|大《おお》|晦日《みそか》の|小舞踏《しょうぶとう》|会《かい》に、マーチ|嬢《じょう》、ならびにジョーズィフィン嬢のご|来《らい》|臨《りん》を|得《え》ますならば幸いにぞんじます。ガーディナー夫人』ママは行ってもいいっておっしゃるのよ。でもなに着たらいいかしら?」
「そんなこときいたってしようがないわ、ポプリンしかないこと知ってるくせに。あれ着るしかないじゃないの」ジョーは口をもぐもぐさせながら答えた。
「|絹《きぬ》のがあったらねえ!」メグは|嘆《たん》|息《そく》した。「お母さま、十八になったら買ってくださるかもしれないっておっしゃったわ、だけど、二年なんて待つのたいへんねえ」
「あのポプリンだいじょうぶ|絹《きぬ》に見えるわよ。それに|私《わたし》たちにはあれがちょうどいいのよ。姉さんのなんてまるで新しいようだもの、だけど、ああそうだ、私のには焼けこげとさけたとこがあったんだわ、どうしようかなあ、焼けたとこなんかとてもみっともないけど、とっちまうわけにもいかないし」
「できるだけそっとすわっているといいわ、|背《せ》|中《なか》見せないようにしてね、前のほうはだいじょうぶなんでしょう。私は頭に新しいリボンつけるわね、それにお母さまの小さい|真《しん》|珠《じゅ》のピンを|拝借《はいしゃく》するわ、新調の|上《うわ》|靴《ぐつ》だってきれいだし、|手袋《てぶくろ》も間に合うわ、あんまり気に入ったんじゃないけど」
「私のはレモン水でよごれてるのよ、だからって新調するわけにもいかないしね、いいわ、なしで行くから」とジョーは言った、彼女はあまり着物のことでくよくよしたことはないのである。
「だめよ、手袋なしだなんて、私行かないわよ」メグはきっぱりと言った。「手袋っていちばんたいせつなもんよ。手袋なしじゃ|踊《おど》りだって踊れないのよ。あんたが踊らなかったら私とても|恥《は》ずかしいわ」
「じゃ、うちにいるわ、私ダンスの会なんて|好《す》きじゃないんだもの。ぐるぐる回って歩くのなんかおもしろくもなんともありゃしない、飛んだり|跳《は》ねたりするほうがよっぽど|性《しょう》に合うわ」
「お母さまに新しいのお願いすることもできないわね。高いんですもの。あんたあんまり不注意よ。このまえよごしたとき、お母さま、もうこの冬は買って上げられないっておっしゃったわ。なんとかしてはめられないの?」メグは心配してきいた。
「しっかり|握《にぎ》っていようか、そうすれば、だれにもよごれなんかわからないから。ほかには方法ないわ。あ、あるある、ふたりで一つずつ良いほうをはめるの、そして悪いほうをもつのよ、どう?」
「だってあんたの手、私のより大きいのよ、すっかりのびちゃうじゃないの」とメグは言いだした。|手袋《てぶくろ》は彼女にとってなにより気にかかるものなのだった。
「じゃ、なしで行くわ、人がなに言ったってかまうもんか」とジョーは|叫《さけ》んでまた本をとり上げた。
「借して上げるわよ、上げるわよ、そのかわりよごさないでね。そしてお|行儀《ぎょうぎ》よくしてちょうだいよ。手をうしろへ組んだり、じろじろ見たり『助けてくれ』なんて言ったりしないでね。いい?」
「ご心配ご|無《む》|用《よう》、お|皿《さら》みたいにすましててあげるから。|困《こま》ったこともしでかさないようにするわ、できたらね。さ、行ってお返事お書きなさい、私このすばらしい本読んじゃうから」
そこでメグは「ありがたく|拝《はい》|受《じゅ》」するべくそこを立ち去った。そして着ていく物をしらべ、いそいそと歌いながらたった一つの本物のレースのひだ飾りにアイロンをあてた。その間にジョーは本を読み終わり、四つのりんごをたいらげ、カリカリ君を相手に一とあそび遊んだのである。
|大《おお》|晦日《みそか》の|晩《ばん》になると、|居《い》|間《ま》はすっかりからっぽになった、というのは、ふたりの妹は着付け役を|仰《おお》せつかり、ふたりの姉は「パーティのお|仕《し》|度《たく》」という重大な仕事で|夢中《むちゅう》だったからである。お|化粧《けしょう》は|簡《かん》|単《たん》とはいえ、|梯《はし》|子《ご》|段《だん》をかけ上がったりかけ下りたり、|笑《わら》ったりしゃべったり、一度なぞは毛の焼けるにおいが家中にただよったり、たいへんな|騒《さわ》ぎであった。メグは顔のまわりに少しばかり|巻《まき》|毛《げ》をたらしたいと言い、ジョーが、紙にくるんだ毛を二本の焼け|火《ひ》|箸《ばし》でつまむ役を引き受けた、
「そんなに|煙《けむり》が出なくちゃいけないの?」ベスが|寝《しん》|台《だい》の上からきいた。
「水分が|乾《かわ》いてるところよ」ジョーは答えた。
「へんなにおい! まるで|羽《う》|毛《もう》が焼けるみたいだわ」エーミーは|得《とく》|意《い》そうに自分の美しい|巻《まき》|毛《げ》をなでながら、そう言った。
「ほうら、紙をとるわよ、|現《あらわ》れいずるのは一面の小さな巻毛とござーい」と言ってジョーは|火《ひ》|箸《ばし》を置いた。
紙はまさしくとり去られた、しかし現れたのは一面の巻毛どころか、紙といっしょに|髪《かみ》の毛がとれてきてしまったのだ。これにはさすがの|美《び》|容《よう》|師《し》もびっくりして、|犠《ぎ》|牲《せい》|者《しゃ》の前の|箪《たん》|笥《す》の上に、そっと小さな|焦《こ》げた毛の|束《たば》を|並《なら》べた。
「あら、あら、あら! なんてことしたの? だいなしだわ、私もう行けやしない、私の毛、あ! 私の毛!」とメグは|泣《な》き声をたてて、|額《ひたい》の上のでこぼこの|縮《ちぢ》れ毛をながめて|悲《ひ》|嘆《たん》にくれた。
「私はいつもこうなんだ! 私なんかに|頼《たの》まなきゃよかったのよ、私ったらなんだってだいなしにしちゃうんだもの。でもごめんなさいね、ほんとに。火箸があつすぎたのよ、それで失敗したんだわ」
「だいなしじゃないわよ、そこんとこちょっと縮らして、リボンを結んではしっこが少し額にかかるようにしてごらんなさい、ちょうどこの前はやったのみたいよ、そんなふうにしているひと、私ずいぶん見たわ」エーミーは|慰《なぐさ》め顔にこう言った。
「おしゃれしようなんて思ったから|罰《ばち》があたったのよ、髪なんかそのままにしとけばよかった」とメグはぷりぷりした。
「そうよ、とてもすべすべしてきれいだったんですもの。でもまたじき生えてくるわよ」と言ってベスは毛を|刈《か》られた|羊《ひつじ》のそばへ行ってキッスをして|慰《なぐさ》めた。
それからもかずかずの小さな|災《さい》|難《なん》があったあげく、やっとのことでメグの|仕《し》|度《たく》は出来上がり、つぎに家族|総《そう》がかりの努力でジョーの|髪《かみ》もゆい上げられ、着付もすんだ。ふたりは|簡《かん》|素《そ》なよそおいのうちにもたいへんきれいに見えた、メグは銀茶の服で髪には水色のビロードのリボンを結び、レースのひだ|飾《かざ》りと|真《しん》|珠《じゅ》のピンをつけた。ジョーの服は黒みがかったえんじで、固い男型の|麻《あさ》のカラーをつけ、一、二輪の白い|菊《きく》が|唯《ゆい》|一《いつ》の飾りであった。めいめい一つずつ良いほうの|手袋《てぶくろ》をはめ、よごれたほうを|片《かた》|方《ほう》の手に持った。みんなはそれが「ごく自然でりっぱ」に見えると言ってくれた。メグのハイヒールの|上《うわ》|靴《ぐつ》はあまりきちんと合いすぎて|痛《いた》かったが、彼女はそのことを言わなかった、またジョーの十九本のヘアピンはまっすぐ頭につき|刺《さ》さるかと思われ、|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》でたまらなかった、が、まあここが|我《が》|慢《まん》のしどころというものであろう。
「行ってらっしゃい」姉妹が身のこなしよく歩き出したとき、マーチ夫人は言った。「お夜食をいただき|過《す》ぎないようにね、十一時にはおいとまするんですよ、ハンナを|迎《むか》えに上げますからね」そして門がかちゃりと|閉《し》まると、こんどは|窓《まど》から声がかかる。
「ちょっと、ちょっと! ふたりともいいハンカチを持ちましたか?」
「ええ、ええ、とびきり上等の、メグはオーデコロンまでかけました」とジョーは答え、歩きながら|笑《わら》ってつけ加えた。「|地《じ》|震《しん》で|逃《に》げ出すときでも、お母さんはきっとああおっしゃるわね」
「あれはお母さまの|貴《き》|族《ぞく》|趣《しゅ》|味《み》の一つよ、でもそれがほんとうなのよ、りっぱな|淑女《しゅくじょ》ってのはきれいな靴と手袋とハンカチでわかるんですもの」とメグは答えたが、そういう彼女自身も、ちょっとした「貴族趣味」をもち合わせているのである。
「焼けたところ見せないようにするの|忘《わす》れちゃだめよ、ジョー。私の|帯《サッシュ》、曲がっていないこと? |髪《かみ》、おかしくない?」メグは言った。彼女は、ガーディナー夫人のお|化粧室《けしょうしつ》で入念におしゃれをし直して、いま鏡から|離《はな》れたところである。
「|忘《わす》れそうよ。もし何か変なことやったら、目くばせして知らせてよ、ね」ジョーは答え、カラーをちょっと引っぱり、頭をざっとなでつけた。
「だめよ、目くばせなんて|淑女《しゅくじょ》のすることじゃないわ。じゃ、何かいけないことがあったらちょっと|眉《まゆ》を上げるわよ、いいときにはうなずくことにするわ。さ、|姿《し》|勢《せい》をよくして、こまかく歩くのよ、だれかに|紹介《しょうかい》されても|握《あく》|手《しゅ》はしないのよ――しないもんなの」
「いろんなことよく知ってるのね。私はとてもだめだわ、あの音楽、陽気ね」
ふたりは少しばかりおどおどしながら、階下へ|降《お》りていった、めったにパーティなどへ出たことがなかったからである。それで、この小さな集まりは正式なものではなかったのだけれど、二人にとっては|大《だい》|事《じ》|件《けん》なのであった。
堂々たる|風《ふう》|采《さい》のガーディナー老夫人は、ふたりにやさしく|挨《あい》|拶《さつ》してから、六人|娘《むすめ》のいちばん上のに姉妹をあずけた。メグはサリーと知り合いだったので、すぐに打ちとけたが、ジョーのほうは女の子にも女の子のおしゃべりにも、あまり|興味《きょうみ》がなかったから、注意深く|背《せ》|中《なか》を|壁《かべ》に向けて立っていた。そしてまるで子馬が花園にふみ|込《こ》んだような|場《ば》|違《ちが》いな気持ちがしていた。室の向こうのほうには五、六人の|愉《ゆ》|快《かい》そうな男の子がスケートの話をしていた。スケートときては彼女が最も生きがいを感じる楽しみの一つだったから、ジョーはそこへ行って|仲《なか》|間《ま》にはいりたくてうずうずしてきた。彼女はメグに電信を送って|胸中《きょうちゅう》を|訴《うった》えた、ところがメグの眉はびっくりするほどつり上がったので、彼女はそこを動くどころの|騒《さわ》ぎではなかった。彼女に話しかけてくる者はだれもいない、そばにいた人たちも一人ずつ|減《へ》ってしまって、彼女はひとりとり残されてしまった。|背《せ》|中《なか》の焼けこげが見えるので、歩き回って楽しむこともできず、|踊《おど》りが始まるまでぽつんと人をながめていた。メグはすぐに相手ができて、きつい|上《うわ》|靴《ぐつ》もかるがると、いかにも楽しそうに|踊《おど》り回っていたから、そのはき手が|微笑《びしょう》のかげにどんな|痛《いた》みをこらえていたかなどと気のつく者は一人もいなかった。ジョーは、大きな赤い毛の|若《わか》|者《もの》が彼女のいるほうへ近よってくるのが見えたので、踊りを申し|込《こ》むつもりであろうとおそれをなして、カーテンのかげの引っ|込《こ》んだところへするッと身をしのばせた。だれにも|邪《じゃ》|魔《ま》をされずにのぞいて楽しもうと思ったのだ。あいにくとこの|隠《かく》れ|家《が》には、はにかみやの先客があった。カーテンをうしろにして立ってみると、彼女はあの「ローレンス少年」と鼻つき合わせていたのである。
「まあ、だれもいないんだと思いましたわ!」ジョーは口ごもり、はいってきたときのようにすばやく|逃《に》げ出そうと身がまえた。
が、少年は|笑《わら》って、多少びっくりはしながらも、気持ちよく言った――
「かまいませんよ、よかったらいらっしゃい」
「お邪魔じゃありません?」
「ちっとも。|僕《ぼく》もあまりいろんな人知らないものですから、ここにいるだけなんですよ、はじめはなんとなく変ですからね」
「私もそうなんです。どうぞあっちへいらっしゃらないで、いらっしゃりたいんでなかったら」
少年はまた|腰《こし》をおろして、自分の|靴《くつ》に目を落とした。そこでまたジョーが言った、できるだけ|丁《てい》|寧《ねい》にかつ打ちとけたふうにと気をつけて――
「私、前にお目にかかったことがあるような気がしますわ、お近くにお住まいなんじゃありません?」
「お隣ですよ」と|彼《かれ》は顔を上げて|吹《ふ》き出した、|猫《ねこ》を返しに行ったとき、あんなにクリケットのおしゃべりをしたくせに、と思ったら、今のジョーのすまし返った様子がおかしくなったのだった。
するとジョーはぐっと気が楽になった。そこで自分も|笑《わら》いながら、心から親しげに言った――
「あのりっぱなクリスマスの|贈《おく》り|物《もの》をいただいて、ほんとにうれしゅうございましたわ」
「おじいさまがお贈りしたんですよ」
「でもあなたがそうおっしゃったんでしょう、ちがいますか、ね?」
「猫はどうしてます、マーチさん」少年は彼の黒い目がいたずらッ子のように|輝《かがや》いてくるのに、まじめくさってこうきいた。
「ありがとう、ピンピンしてますわ、ローレンスさん。でも私はマーチさんではないんです、ただのジョーよ」と若い|淑女《しゅくじょ》は答えた。
「僕もローレンスさんじゃありませんよ、ただのローリーです」
「ローリー・ローレンス。へんなお名前ね!」
「僕の名前はシォドアっていうんです、でも僕はそれがいやなんですよ、友だちがドーラって|呼《よ》びますからね、ですから代わりにローリーって言わせるようにしました」
「私も自分の名前が大きらい、だって、あんまりセンチメンタルでしょう! 私、みんながジョーゼフィンなんて言わないで、ジョーって呼んでくれるといいと思いますわ、あなたはどうやってお友だちがドーラって呼ばないようになさいましたの?」
「なぐったんです」
「私、マーチ|伯《お》|母《ば》さんをなぐるわけにはいきませんわ、じゃ、|我《が》|慢《まん》するよりしかたがありませんのね」ジョーはあきらめた様子でためいきをついた。
「お|踊《おど》りにならないんですか、ジョーさん?」ローリーはこうききながら、この名前は彼女にぴったりしていると思ったようであった。
「お部屋が広くてみんなが活発なのだったら私、相当|好《す》きなんです。でもこういうところでは、きっと物を引っくり返したり、ひとの足を|踏《ふ》んだり、何かしらんすごいことやっちゃうんですもの、ですからおとなしくしていて、メグにたくさん踊ってもらうんですわ。あなたは?」
「やることもあります、でも僕は長いこと外国にいってたもんですから、こちらのやり方がよくわからないんですよ」
「外国!」ジョーは|叫《さけ》んだ。「まあ、そのお話してくださらない! 私、ひとの旅行したお話きくの大好きなんです」
ローリーは何から話してよいかわからないふうだったが、ジョーの熱心な|質《しつ》|問《もん》につられて話を始め、ヴェヴェーの学校にいたことや、そこでは少年たちが|帽《ぼう》|子《し》をかぶらぬことや、湖水にたくさんのボートを|浮《う》かべたことや、お休みには先生方といっしょにスイスを徒歩旅行したことなどを話してきかせた。
「私もそんなところに|暮《く》らしたかったわ!」とジョーは叫んだ。「パリへいらしって?」
「去年の冬はあそこで暮らしました」
「フランス語、お話しになる?」
「ヴェヴェーではそれ以外話さないことになっています」
「何かおっしゃってごらんなさい、私、読むことはできるんですけど、発音はだめなのよ」
〈 |Quel nom ★★cette jeune demoiselle en les pantoufles jolis? 《ケル ノン ア セット ジュヌ ドモアゼル アン レ パントウフル ジョリ》〉ローリーは気軽にこう言った。
「まあおじょうず! ええと――こうおっしゃったんでしょう、『あのきれいな|上《うわ》|靴《ぐつ》をはいたお|嬢《じょう》さんはどなた?』って、ちがいます?」
〈 |Oui, mademoiselle《ウィ マドモアゼル》 〉
「あれは私の姉のマーガレットです、ごぞんじですわね! 姉、きれいだとお思いになる?」
「思いますよ、ドイツの|娘《むすめ》さんを思い出します、|発《はつ》|剌《らつ》としてしかも静かな方ですね、おとなのようにお|踊《おど》りになる」
ジョーは姉に対するこの少年らしいほめ言葉をきいて、うれしさに顔がほてってきた、そしてそれをメグに伝えてやろうと|胸《むね》の中へしまい|込《こ》んだのである。ふたりはカーテン|越《ご》しにちょいちょいのぞいてみては、|批評《ひひょう》したりおしゃべりしたりしているうちに、まるで|昔《むかし》からのお友だちのような気がしてくるのであった。そしてまもなくローリーのはにかみ|癖《ぐせ》も消えてしまった、ジョーの男のような|態《たい》|度《ど》がおもしろくて、気が楽になったのである、ジョーもまたいつもの|快《かい》|活《かつ》さをとりもどした。というのは、|例《れい》の着物のことなどすっかり|忘《わす》れていたし、|眉《まゆ》をつり上げてみせる人もいなかったからである。彼女はローレンスの男の子が今までよりももっと|好《す》きになった、そこでとっくりと彼を観察し姉妹たちに話してやる材料にしようと思った、彼女たちは男の兄弟がなかったうえ、男のいとこも少なかったから、男の子というものは彼女たちにとっては全く未知の|存《そん》|在《ざい》だったのだ。
「ええと、黒い|縮《ちぢ》れ毛、|褐色《かっしょく》の|皮《ひ》|膚《ふ》、大きな黒い目、長い鼻、きれいな|歯《は》|並《なら》び、小さな手足、私のように|背《せ》が高い、男の子にしてはすごく|礼《れい》|儀《ぎ》正しい、そして全然おもしろい。年はいくつぐらいかな?」
その|質《しつ》|問《もん》はジョーの|舌《した》の先まで出かかったが、やっとのことで出さずにすんだ、そこで用いたこともない|駆《か》け|引《ひ》きを用いて、遠まわしに、たぐり出すことにした。
「もうじきカレッジにおはいりになるんでしょう? こつこつご本ばっかり――いえ、あの|一生懸命《いっしょうけんめい》勉強していらっしゃるらしいっていうつもりだったのよ」ジョーは「こつこつ」だなんて変なことを口走ったのに顔をあからめた。
ローリーはほほえんで、べつにびっくりしたふうもなく、|肩《かた》をすくめて答えた――
「まだ二、三年は行きませんよ、とにかく十七になるまでは行きません」
「まだ十五なんですか?」ジョーはきいて背の高い|若《わか》|者《もの》を見上げた、もうとうに十七になっているだろうと思っていたのに。
「来月で十六」
「私はとてもカレッジにいきたいのよ、あなたはそう見えないのね」
「大きらいです。こつこつ|詰《つ》め|込《こ》むか、ばか|騒《さわ》ぎするかしかないんですからね、それに僕はこの国の若い連中のやることも|好《す》きじゃないんです」
「何がお好きなの?」
「イタリアに住んで自分の好きなようにして|暮《く》らすこと」
ジョーは、その好きなように、というのはどんなことなのか、きいてみたくてたまらなかった、けれども、彼はその|濃《こ》い|眉《まゆ》をひそめ、なんとなく|険《けん》|悪《あく》な顔になったので、彼女は話題を変え、|足拍子《あしびょうし》をとりながら言った。
「すばらしいポルカね、どうして|踊《おど》りにいらっしゃらないの?」
「あなたもいらっしゃれば」ローリーは|妙《みょう》な、フランス風のお|辞《じ》|儀《ぎ》をちょっとして答えた。
「私はだめ。メグに踊らないって言ってあるの、そのわけは――」ここではジョーは言葉を切って、言おうかそれとも|笑《わら》ってすまそうかと|迷《まよ》っているふうだった。
「そのわけは?」ローリーは|好《こう》|奇《き》|心《しん》をそそられてきいた。
「だれにも言わない?」
「だれにも!」
「あのね、私は火の前に立つわるいくせがあるの、そして着物を焼いちゃうんです。これもそうなの、ちゃんと、つくろってはありますけどね、でもわかるでしょう、それでメグに、だれにもわからないようにおとなしく立ってなさいっていわれたのよ。笑いたかったら笑ってちょうだい。実際、おかしいんですもの」
だがローリーは笑わなかった。ただちょっと下を向いただけだった。その様子を見てジョーは|困《こま》っていると、彼はたいへんやさしくこう言った。「そんなこと気にしなくったっていい。|僕《ぼく》がいいこと教えてあげましょう。あそこに細長いホールがあるでしょう、あそこへ行って大いに踊りましょう、だれにも見られやしませんよ。さ、行きましょう」
ジョーはお礼を|述《の》べていそいそと出ていった。相手が|真《しん》|珠《じゅ》|色《いろ》の美しい|手袋《てぶくろ》をはめているのを見たときには、自分にもちゃんとした一対のがあればいいのにと思われた。
その広間にはだれもいなかったから、彼らは堂々とポルカを|踊《おど》った、ローリーは|非常《ひじょう》にじょうずな踊り手で、彼女にドイツ風のステップを教えたが、それは飛んだりはねたりするところの多いものだったから、ジョーは大いに喜んだ、音楽がやむとふたりは階段に|腰《こし》かけてひと休みした、そしてローリーが、ハイデルベルグの学生のお祭りの話をしてくれている最中に、メグが妹をさがしにやってきた。|手《て》|招《まね》きされてジョーがしぶしぶ姉のあとについてそばの室にいってみると、姉は青い顔をしてソファの上で足をかかえていた。
「足首くじいちゃったの、そのにくらしいハイヒールがひっくり返って、くるぶしをいやというほどひねったのよ。立ってもいられないほど痛いの、どうやって家へ帰ったらいいかしら」|痛《いた》みでからだを|揺《ゆ》すりながら、彼女は言った。
「あのあほらしい|靴《くつ》じゃ、きっと|怪《け》|我《が》すると思ったわ、かわいそうね。だけど私だってどうしていいかわからないわ、馬車を|頼《たの》むか、ここに|泊《とま》るかだわねえ」とジョーは答え、痛いくるぶしを静かにさすってやった。
「高いお金を出さなくっちゃ馬車なんか頼めないわね。いいえ、全然頼めやしないわ、みんな自家用で来ているでしょう、それにここから馬車屋までは相当あるのに、頼みにいく人だっていないんですもの」
「私が行く」
「だめよ、とんでもないわ、もう十時すぎでまっ暗よ。といってここにお泊りすることはできないわ、いっぱいですもの。サリーのお友だちも何人か泊るらしいの、私、ハンナがくるまで休んでいるわ、それから考えることにするの」
「ローリーに|頼《たの》んでみよう、行ってくるわ」ジョーはこの思いつきにほっとして言った。
「お願いだからよして! だれにも頼んだり話したりしちゃいや。私のゴム|靴《ぐつ》もってきて、この上靴を他のものといっしょにしまっておいてちょうだい。私はもう|踊《おど》れないから、あんたお夜食がすんだらすぐにハンナの|見《み》|張《は》りしていて、来たらすぐ知らしてちょうだい」
「みんなお夜食にいくところよ。私ここにいるわね、そのほうがいいもの」
「いいえ、いってらっしゃい、そしてね、私にコーヒー持ってきて。|疲《つか》れちゃって動けないのよ」
そこでメグはゴム靴が見えないようにうまく|隠《かく》してから、からだを横にした。ジョーは食堂をさがしてまごまごしながら、|瀬《せ》|戸《と》|物《もの》|部《べ》|屋《や》に|踏《ふ》み|込《こ》んだり、老ガーディナー氏がひとりで一|杯《ぱい》やっている部屋の戸を開けたりしたあげく、やっとそこへたどりついた。人波をくぐって|食卓《しょくたく》に近づき、コーヒーを手には入れたものの、あっというまにこぼしてしまい、着物の前のほうもうしろ同様だいなしにしてしまった。
「まあ、|困《こま》ったわ。なんてそそっかしいんだろう、私は!」ジョーは|叫《さけ》んで、メグの|手袋《てぶくろ》で着物をこすり、これもまただいなしにしてしまった。
「お手伝いしましょうか?」親しげな声がした、そこには|片《かた》|手《て》になみなみとしたお|茶《ちゃ》|碗《わん》を、片手にアイスクリームのお|皿《さら》を持ってローリーが立っていた。
「私、メグのところに何か持っていこうと思ったのよ、あのひととても疲れてるの、そしたらだれかに|押《お》されちゃって、ごらんのとおり」とジョーは答え、よごれたスカートからコーヒー色に|染《そ》まった手袋のほうへと、|憂《ゆう》|鬱《うつ》な目を走らせた。
「そりゃいけない! 僕はこれを上げるような人を|捜《さが》していたところでした。お姉さまのところに持ってってよござんすか?」
「まあ、ありがとう、ご案内しますね。私、自分で持つなんて言わないわ、持とうものなら、またなんか|仕《し》|出《で》かすんですもの」
でジョーは先に立って歩いた、ローリーは|貴婦人《レイデイ》に仕えることにはなれているように、小さなテーブルを引きよせたり、ジョーのために二回のコーヒーやアイスクリームを運んできたりした。その|態《たい》|度《ど》が実に|慇《いん》|懃《ぎん》なので、むずかしやのメグさえ「いい|坊《ぼっ》ちゃん」だと言ったほどであった。それから三人でボンボンを食べたり、お|菓《か》|子《し》のなかの|占《うらな》いを読んだりして|笑《わら》い|興《きょう》じ、そこへまた|迷《まよ》い|込《こ》んできた二、三人の|若《わか》い人たちと「バズ」[#訳注:次々に一、二、三といっていき、七の倍数および七のはいった数のところではその数の代わりに「バズ」という。七十一は「バズ・ワン」七十二は「バズ・トウー」七十七は「バズ・バズ」といい、間違ったら罰を受ける]という静かな遊びをしたりしているところへハンナが現れた。メグは足のことを忘れていきなり立ち上がったので、思わず|苦《く》|痛《つう》の|叫《さけ》びを上げてジョーにつかまらなくてはならなかった。
「しっ! だまって」と彼女はささやいておいてから、ふつうの声で「なんでもないの、ちょっと足をくじいただけ、――それだけなのよ」とつけ加え、びっこをひきひき|仕《し》|度《たく》をしに二階へ上がった。
ハンナは|叱《しか》る、メグは|泣《な》く、でジョーも|途《と》|方《ほう》にくれたが、これは自分がなんとか始末をつけなくてはならないと|覚《かく》|悟《ご》をきめた。そろりとそこを|抜《ぬ》け出して、階下へ下り、|召《め》し|使《つか》いをみつけて馬車をたのんでもらえないだろうかときいてみた。ところがそれは|臨《りん》|時《じ》|雇《やと》いの給仕だったから、そのへんのことは何も知らなかった。ジョーはだれかに救いを求めようとあたりを見回していると、ローリーがやってきて、彼女の言ったことをききつけ、お|祖《じ》|父《い》さんの馬車を|提供《ていきょう》してくれることになった。ちょうど|迎《むか》えにきたところだ、と彼は言った。
「でも早すぎるわ、あなたまだお帰りになるつもりじゃないんでしょう」ジョーはほっとしたものの、その申し出を受けるのをためらって言った。
「僕はいつも早目に帰るんです。――ほんとうなんです。どうかお|宅《たく》まで送らせてください。どうせ同じ方向でしょう。それに雨だっていいますよ」
それできまった。ジョーは彼にメグの|災《さい》|難《なん》の話をし、ありがたく受けることにした。そして他の者をつれに二階へ|駆《か》け上がった。ハンナは|猫《ねこ》のように雨がきらいだったから|文《もん》|句《く》のでようはずもなく、みんなはぜいたくな|箱《はこ》|馬《ば》|車《しゃ》の中で、ひどく楽しい、|優《ゆう》|雅《が》な気分を味わいながら、ごろごろと|揺《ゆ》られていった。ローリーが|馭《ぎょ》|者《しゃ》|台《だい》に乗ったので、メグは足を高くしておくことができ、姉妹は|遠《えん》|慮《りょ》なくパーティのことを話し合えたのである。
「ほんとにおもしろかった。あんたは?」ジョーはきいた。そしてくしゃくしゃと|髪《かみ》をかき上げ、|姿《し》|勢《せい》を楽にした。
「私もよ、足が|痛《いた》くなるまではね。サリーのお友だちのアニー・モファットが私を気に入っちゃってね、サリーがくるとき私にもいっしょにきて一週間|泊《とま》るようにっていうのよ。サリーは春にオペラがくるときいくんですって、お母さまさえ|許《ゆる》してくだすったら、ほんとにすばらしいんだけど」とメグは答えて、そのことを思ってうれしそうにした。
「あんた、私が|逃《に》げ出した赤毛の人と|踊《おど》っていたわね、いい人だった?」
「ええ、とても! あの方の毛、とび色よ、赤毛じゃないわ。そりゃ|丁《てい》|寧《ねい》な方よ、私ごいっしょにレドワを踊ったわ」
「あの人、踊り出すとき、ひきつけたバッタみたいだったわよ、ローリーと私、あんまりおかしくって|笑《わら》っちゃった、きこえた?」
「いいえ、でもずいぶん失礼ね。あんた方こそ何していたの、あんなところに|隠《かく》れたりして」
ジョーは自分の|冒《ぼう》|険《けん》|談《だん》を話してきかせた。それが終わったころ家に着いた。ふたりはさんざんお礼を|述《の》べて「おやすみなさい」をし、だれも起こさないようにそっと家へはいった。けれども戸のきしる音がきこえたとたん、二つの小さなナイトキャップがむくむくと起き上がり、ねむたそうな声で熱心に|叫《さけ》びだした――
「パーティのお話して! パーティの!」
メグのいわゆる「はしたないこと」をして、ジョーは妹たちにこっそりボンボンをもってきたのであった。ふたりはわくわくするようなその夜の|出《で》|来《き》|事《ごと》をきいてしまうと、やがてすやすやと|眠《ねむ》ってしまった。
「パーティから馬車で帰ってきて、ねまきですわったまま、|小《こ》|間《ま》|使《づか》いにいろいろしてもらえるなんて、ほんとにりっぱな|貴《き》|婦《ふ》|人《じん》になったような気がするわ」ジョーに、足にアーニカチンキをつけたり包帯を|巻《ま》いたり、|髪《かみ》をとかしたりしてもらいながら、メグはこう言った。
「そのりっぱな貴婦人だって、私たちの何分の一もおもしろくはないんだと思うわよ、私たちときたら、手を焼いたり、古い着物を着たり、|手袋《てぶくろ》が|片《かた》っ|方《ぽう》しかなかったり、きつい|上《うわ》|靴《ぐつ》をはいて足首をくじくようなばかな目にあったりはするけれどね」私もジョーの言ったことはもっともだと思うのである。
第四章 重 荷
「あああ、また荷物をしょって歩き出さなくっちゃならないなんて、つらいことだわねえ!」パーティの|翌朝《よくちょう》、メグはこう言ってためいきをついた。お休みは終わった。|彼《かの》|女《じょ》は、この楽しかった一週間のあとで、もともと|好《す》きでもない仕事にとりかかる気分になるのは|容《よう》|易《い》なことではなかったのである。
「年じゅう、クリスマスかお正月だといいわね、そうだったらさぞおもしろいでしょうね?」ジョーは|生《なま》あくびをしながら答えた。
「そしたら今の半分もおもしろくはないでしょうよ。でもねえ、ちょっとしたご|馳《ち》|走《そう》によばれたり|花《はな》|束《たば》をいただいたり、パーティに行ったり、馬車で帰ったり、本を読んだり、休息したりして、あくせく働かなくてもいいのは、ほんとにいいことらしいわね。|別《べつ》な人になったような気がするじゃないの、|私《わたし》、こんなことのできるひとがうらやましくってしかたがないのよ、私、ぜいたくが好きなんですもの」メグは二|枚《まい》のみすぼらしい上着のうち、どっちが少しはましかと見くらべながら、こう言った。
「でも、それができないんだから、ぶつくさ言うのはやめましょうよ、そしてお母さまみたいに元気よく荷物しょっててくてく歩くのよ。マーチ|伯《お》|母《ば》さんだって私にとっては、まさしく『海のじじい』[#訳注:アラビアンナイト「船乗りシンドバット」に出てくる老人で、一度人におぶさるとけっして離れずに苦しめる]だわ、でも私、ぐちを言わずに|背《せ》|中《なか》にのせていくうちには、ひとりでに離れるか、重さを感じなくなるかするだろうと思うのよ」
この考えは空想好きのジョーの気に入って彼女を元気づけたのだったが、メグは少しもはればれとしなかった。彼女の重荷は四人のだだッ子だったが、それはいつにもまして重く思われるのだった。彼女はいつものように水色のリボンを首につけたり、頭を|似《に》|合《あ》うようにゆったりしておしゃれをする気力さえなかった。
「あの意地わるのちびのほかに見てくれる人もいなけりゃ、まして私がきれいかきたないかなんて気にする人もいないのに、おしゃれをする必要なんかあるものですか」彼女は引き出しをぴしゃんと|閉《し》めながら、ぶつぶつ言った。
「私は一生あくせく働いて、おもしろいことなんかたまにしかなくって、だんだん年をとって、みっともなくなって、意地わるになるんだわ、それもただ|貧《びん》|乏《ぼう》で他のひとたちのように楽しく|暮《く》らせないからなのよ。いやになってしまうわ!」
メグはそうして、むしゃくしゃした顔つきで階下へ下り、朝ご飯のときにもいっこうきげんを直さなかった。だれもが意気あがらず、ともすれば不平が出そうになった。ベスは|頭《ず》|痛《つう》がするのでソファの上に横になり、|親《おや》|猫《ねこ》と三|匹《びき》の子猫で気分をまぎらしていた。エーミーは勉強がよくおぼえられないところへもってきて、ゴム|靴《ぐつ》が見つからないというのでじりじりしていた。ジョーは|口《くち》|笛《ぶえ》を|吹《ふ》きそうにしては一と|騒《さわ》ぎ起こしかねない様子、マーチ夫人はすぐにも出さなくてはならない手紙を書き上げようと気がせいていたし、ハンナはハンナで|遅《おそ》|寝《ね》がたたってふくれっ|面《つら》をしている。
「こんなつんつんぞろいの家なんてみたこともないわ!」ジョーはインキつぼを引っくり返し、靴ひもを二本も切らし、あげくのはてに自分の|帽《ぼう》|子《し》の上に|腰《こし》かけてしまったとき、とうとう|疳癪《かんしゃく》を起こしてどなりつけてしまった。
「そのなかであんたがいちばんよ!」とエーミーがやり返す。そして|石《せき》|盤《ばん》の上にこぼした|涙《なみだ》といっしょに、|間《ま》|違《ちが》いだらけの答えを消してしまった。
「ベス、あんたのそのいまいましい|猫《ねこ》を|窓《まど》の中へ入れないんなら、私みんな|溺《おぼ》らしてやるわよ!」メグは|腹《はら》|立《だ》たしげに|叫《さけ》んだ、そして|背《せ》|中《なか》にはい上がって、手の|届《とど》かないところに|栗《くり》のいがみたいにくっついている子猫をふり落とそうとやっきとなった。
ジョーは|笑《わら》い出しメグは|叱《しか》る、ベスは|哀《あい》|願《がん》し、エーミーは十二の九倍がいくつだかわからないといって|泣《な》き声を出すさわぎ。
「あんたたち! ちょっと静かにできないの? お母さまこのお手紙を早い便で出さなくっちゃならないのよ、それだのにあんたたちったら、うるさくてうるさくて、お母さま気が変になりそうよ!」とマーチ夫人は、手紙の中の文章を三べんも消しながら叫んだ。
ちょっとの間静かになった、と思うとハンナがどたばたとはいってきて、二|枚《まい》のあついパイを|食卓《しょくたく》に置き、またどたばたと出ていった。このパイはこの家の名物なのであって、子供たちはこれを「|手暖め《マッフ》」と|呼《よ》んでいた。他にマッフがなかったから、この熱いパイは寒い朝、冷たい手を|暖《あたた》めるにはもってこいなのであった。どんなにいそがしかろうと、|仏頂面《ぶっちょうづら》であろうと、ハンナはこれをこしらえるのを|忘《わす》れることはなかった。姉妹は|吹《ふ》きさらしの遠い道を歩いていくのに、ほかにおべんとうといってはないのだし、三時前に家に帰るということもめったになかったからである。
「猫をだっこして|頭《づ》|痛《つう》をなおしていらっしゃいね、ベッティ。いってまいります、お母さま、けさはほんとにごろつきみたいでした、でも天使のようになって帰ってきます。さあ、メグ、出かけよう!」と言ってジョーは、とっくに始めていなくちゃならない|巡礼《じゅんれい》ごっこも、これではさっぱりだめだと思いながら、どんどん歩き出した。
姉妹は曲がり角を曲がるとき、いつでもふり返ってみるのがならわしとなっていた。それはいつでもきまってお母さまが|窓《まど》のところでにこにこしながらうなずいては、ふたりに手を|振《ふ》ってくださるからであった。それがないとどうにもその日一日がうまく|過《す》ごせないような気がするのである、どんな気分のときであろうと、こうして最後にお母さまのお顔をちらと見るということは、ふたりにとってはまるで太陽に照らされたようなきき目があるのであった。
「お母さまがキッスなんか投げてくださらないで|拳《げん》|固《こ》でも|振《ふ》り回してくだすったら、ざまあみろっていうところだわね。だってさ、私たちみたいな親不孝なおてんば|娘《むすめ》はどこにもありゃしないわよ」ジョーは、|泥《どろ》|雪《ゆき》の道を|膚《はだ》をさすような風に|吹《ふ》かれて歩くことで、せめてあいすまぬ気持ちをまぎらそうとしながら大声で言った。
「そんないやな言葉つかわないでちょうだい」とメグは、世をいとう|尼《あま》さんのように顔をくるんだヴェールの|奥《おく》から答えた。
「だって私はおもしろみのあるきつい言葉が|好《す》きなのよ、意味さえあるのだったら」と答えながら、ジョーは、今にも飛んでいきそうに頭の上ではね上がる|帽《ぼう》|子《し》をおさえた。
「自分のことはなんとでもおっしゃいよ、でも私はごろつきでもなけりゃおてんばでもありませんからね、そんなふうに言っていただくのはおことわりよ」
「あんたまるで|絶《ぜつ》|望《ぼう》|家《か》ね、そしていやにつんつんしてるわよ、今日は。それというのもしょっちゅう、ぜいたくができないからなのねえ、かわいそうに! まあ、待ってらっしゃい、今に私がお金持ちになったら、馬車でもアイスクリームでもハイヒールの|上《うわ》|靴《ぐつ》でも|花《はな》|束《たば》でも、|踊《おど》りのお相手には赤っ毛の男の子でも、お望み|次《し》|第《だい》にして上げるから」
「ばかね、ジョーったら!」と言いながらもメグは、ジョーのばかげた言葉に|吹《ふ》きだして、しらずしらず気分がほぐれてくるのであった。
「ばかでよかったでしょう、私までぺしゃんこになって、あんたみたいにふさぎの虫にとっつかれていたら、さぞ|結《けっ》|構《こう》なことでしょうからね。ありがたいことに私はどんなときでも、おかしなことを考えついて元気になれるんだわ。もうぐちこぼすのおよしなさい、そして元気で帰っていらっしゃい、ね」
ジョーは一日のお|別《わか》れにのぞんで、姉の気を引きたてるように|肩《かた》をたたいてやった。そしてふたりは小さなあたたかいパイを抱きしめ、冷たい冬空にも、つらい仕事にも、または遊び|盛《ざか》りの|欲《よく》|望《ぼう》がかなえられないことにもめげずに、元気を出そうとつとめながら、べつべつの道を歩いていった。
マーチ氏が不幸な友人を救おうとして、|財《ざい》|産《さん》を失ったとき、大きいほうの|娘《むすめ》ふたりは、少なくとも自分たちのお|小《こ》|遣《づか》いになるくらいのことを、何かさせてほしいと願ったのであった。両親は、|能力《のうりょく》とか、|勤《きん》|勉《べん》さとか、|独《どく》|立《りつ》|心《しん》とかを養うことは、いつから始めても早すぎるということはないと信じていたので、これを|許《ゆる》した。姉妹は心から喜んで仕事を始めたが、そういう気持ちがあればどんな|障害《しょうがい》があろうともついには必ず成功するものである。マーガレットは小さい子供たちの|家庭教《かていきょう》|師《し》という地位を|得《え》て、わずかの|報酬《ほうしゅう》でひどく|豊《ゆた》かな気持ちになった。「ぜいたくが|好《す》き」と言っているとおり、なによりの苦労の種は|貧《びん》|乏《ぼう》であった。彼女は、きれいな家に住んで、安楽に楽しく|暮《く》らし、なんの不自由も知らなかったころのことを|覚《おぼ》えているだけに、他の娘たちよりも貧乏に|堪《た》えることがつらかったのである。他のひとをうらやんだり、不足を言ったりすることはやめようと思うのだが、|若《わか》い|娘《むすめ》として美しいものやはなやかな友だちやいろいろのお|稽《けい》|古《こ》ごとや楽しい生活などにあこがれるのは|無《む》|理《り》もないことである。キングさんのところで彼女は毎日のように、自分のほしいと思うものを見なければならなかった、というのは彼女の教え子の姉さんたちはちょうど社交界に出たばかりだったから、メグはきらびやかな|舞《ぶ》|踏《とう》|会《かい》の|衣装《いしょう》や|花《はな》|束《たば》などをちらと見たり、|芝《しば》|居《い》だとか音楽会だとかそりあそびだとか、その他にもいろいろ、おもしろそうなことが話されるのを、きいたりすることもたびたびであった。また彼女にとっては|貴重《きちょう》なお金が、つまらないものに湯水のように使われることも知った。気の毒にメグはめったに不平は言わなかったけれど、どうかすると、不公平だと思う気持ちが、たれかれに対して、うらみがましい感じをいだかせるようになるのであった、人生を幸福にしてくれるお|恵《めぐ》みを自分がいかに|豊《ゆた》かに受けているかということを、彼女はまだ知るにいたらなかったのである。
マーチ|伯《お》|母《ば》さんは足が不自由で、だれか世話をしてくれるきびきびした人が必要だった。たまたまジョーがお気に入りだったので、子供のないこのおばあさんは、不幸が起こったとき、|娘《むすめ》たちのひとりを養女にしようと申し出たことがあったが、それがことわられたので、たいへんなご|立《りっ》|腹《ぷく》だった。友人たちは、マーチ家はこのお金持ちのおばあさんの|遺言状《ゆいごんじょう》に名を記される機会を失ったと言ってくれたが、|欲《よく》のないマーチ|夫《ふ》|妻《さい》はただこう言っただけであった――
「子供はどんなたくさんのお金にも代えたくはありません。お金があってもなくても、親子そろってしあわせにしていたいのです」
伯母さんはその後しばらくマーチ家と口をきかなかった。ところがあるお友だちの家で、たまたまジョーに会ってから、彼女の|道《どう》|化《け》た顔つきやぶっきらぼうな|態《たい》|度《ど》が、この|老《ろう》|婦《ふ》|人《じん》の気に入って、お相手に|所《しょ》|望《もう》されたのであった。これは全くジョーには不向きな仕事だった。が他によい口もみつからなかったので、|彼《かの》|女《じょ》はその役を引き受けた、そして|驚《おどろ》いたことには、この|気短《きみじか》の|伯《お》|母《ば》さんとけっこううまくやっていったのである。ときおりは、あらしがまき起こり、一度などジョーはとっとと家へ帰ってきて、これ以上は|我《が》|慢《まん》がならないと言ったこともあった。しかし、マーチ伯母さんのほうできまって先にごきげんがなおり、彼女に帰ってきてくれとやいやい|迎《むか》えをよこすので、いかずにはいられなくなるのであった。というのは、彼女のほうでも心の中ではこの|疳癪《かんしゃく》もちのおばあさんがきらいではなかったらしいのである。
もっとも彼女がほんとうにひきつけられたのは、りっぱな本のぎっしりつまった大きな図書室であったのかもしれない。マーチ|伯《お》|父《じ》さんが死んでから、そこはすっかり|埃《ほこり》と|蜘《く》|蛛《も》の|巣《す》だらけになっているのであった。ジョーはいろいろの大きな|辞《じ》|書《しょ》で鉄道だの橋だのをつくらせたり、ラテン語の本の中の|珍《めずら》しい絵のお話をしてくれたり、道で会えば必ず|厚《あつ》い紙につけた|生姜《しょうが》パンを買ってくれたりした、あのやさしい|老《ろう》|紳《しん》|士《し》のことをよく|覚《おぼ》えていた。そこはうす暗い、埃っぽい部屋だった、高い|本《ほん》|棚《だな》の上からはいろいろの|胸像《きょうぞう》がじっと下を見下ろしており、かけ心地のいい|椅《い》|子《す》や|地球儀《ちきゅうぎ》などもおいてあったが、なによりもうれしいのは|見《み》|渡《わた》す|限《かぎ》りの書物の原野で、ここを思いのままにさまよっているうちに、この図書室はいつかこの世の楽園と化してしまうのであった。マーチ伯母さんが|昼《ひる》|寝《ね》をするとか、お客さまで|忙《いそが》しいとかいうときは、ジョーはさっそくこの静かな室に飛び|込《こ》んで、大きな椅子に丸くなり、詩でも小説でも歴史でも旅行記でも、または画集でも、|夢中《むちゅう》になって読みふけるさまは、まさしく本の虫といってよかった。だが、幸福というもののご多分にもれず、これも長つづきはしなかった。つまり、物語が本題にはいるとか、詩の最も美しい一節にぶつかるとか、または旅行記の主人公が、最も|危《き》|険《けん》な|冒《ぼう》|険《けん》にさしかかるとかすると、きまってかん高い声が、「ジョーズィフィーン! ジョーズィフィーン!」と|呼《よ》びたてるので、彼女は楽園をあとにして、毛糸を|巻《ま》いたり、むく犬を|洗《あら》ったり、ベルシャムの|論文集《ろんぶんしゅう》を一時間もつづけて読んであげたりしなくてはならなかったのである。
ジョーの大望は、なにかすばらしいことをなしとげるというのであった、それがなんであるかは彼女にもわからず、そのうち時が教えてくれるだろうと思っていた。今のところ、彼女の最大の苦しみは思うさま読んだり、|駆《か》けっこをしたり、馬に乗ったりすることができないということだった。短気で、|毒《どく》|舌《ぜつ》|家《か》で、落ち着きのない|気性《きしょう》ときているので、彼女はいつも失敗のしどおし、その生活は|泣《な》いたり、|笑《わら》ったり、|盛《せい》|衰《すい》|浮《ふ》|沈《ちん》の連続であった。が、マーチ|伯《お》|母《ば》さんのところで受けた|訓《くん》|練《れん》こそ、まさに彼女にとって必要なものであったのだ。そのうえ、なにかしら自分で働いていると思うと、たえず「ジョーズィフィーン!」と呼ばれたところで、彼女は幸福なのであった。
ベスはあんまり|恥《は》ずかしがりやで学校に行けなかった、行ってみるにはみたのだが、どうにも|我《が》|慢《まん》ができなくてやめてしまい、家でお父さまから勉強を教えていただいていた。お父さまがいらっしゃらなくなり、お母さまも軍人|後《こう》|援《えん》|会《かい》に|頼《たの》まれて、そこで手仕事をしたりありったけの|精力《せいりょく》をささげたりなさるようになってからも、ベスはひとりでこつこつと勉強をつづけ、精いっぱいの努力をしているのであった。彼女は家庭的な|娘《むすめ》で、外で働く母や姉たちのために家をきちんと|片《かた》づけ、気持ちよく整えてハンナの手助けをしたが、そのために|報酬《ほうしゅう》をのぞむようなことはなく、ただかわいがってもらえばいいのであった。毎日彼女は長い静かな一日を送り|迎《むか》えしたが、それはけっして|寂《さび》しくもなければ|暇《ひま》なわけでもなかった。彼女の小さな世界には空想のお友だちが住んでいたし、そのうえ彼女は生まれつき|忙《いそが》しい働き|蜂《ばち》だったのである。毎朝、|抱《だ》き上げて|着《き》|替《が》えをさせてやるお人形だけでも六人もいた。ベスはまだ子供であい変わらずそのお人形たちをかわいがっているのであった。そのなかの一つだって満足なのや美しいのはなく、みんな宿なしだったのを、ベスが引きとったのであった。つまり姉さんたちは大きくなってこういうものがいらなくなったのに、エーミーは古いものやきたないものをほしがらないので、みんな彼女のところへ回ってきたというわけである。そういうお人形たちだというのに、ベスはよけいにだいじにして、弱いお人形には病院を建ててやった。|綿《めん》のからだにピンをつきさすようなこともなければ、|叱《しか》ったりぶったりするようなこともなかった。どんなにひどくなったのでも、|粗《そ》|末《まつ》にして悲しい思いをさせるようなことはなかった。みんなに食べ物や着物を|与《あた》え、|看病《かんびょう》したり、あやしてやったり、その|愛情《あいじょう》はつきるところがなかった。|宿《やど》|無《な》しのひとりの|壊《こわ》れ人形は、もとジョーのだった。風雨|激《はげ》しい一生を送ったのち、ぼろ|袋《ぶくろ》の中に敗残の身を横たえていたところ、そのわびしい救護施設からベスに救い出されて、彼女の|庇《ひ》|護《ご》の下に引きとられたのである。頭のてっぺんが欠けていたので、ベスは小ざっぱりした小さな|帽《ぼう》|子《し》をゆわえつけてやり、また、両手両足もなかったので毛布にくるんでその|欠《けっ》|陥《かん》をかくしてやり、いちばん上等の|寝《しん》|台《だい》をこの|慢《まん》|性《せい》の|患《かん》|者《じゃ》に|提供《ていきょう》した。だれにしろ、この人形に|惜《お》しげもなく注がれたベスの心づかいを知ったならば、|笑《わら》いもするであろうが、また深く心を打たれたであろうと思われる。ベスはこの人形に|花《はな》|束《たば》を持ってってやったり、本を読んでやったり、|新《しん》|鮮《せん》な空気を|吸《す》わせるためにそっと自分の|外《がい》|套《とう》の下にかくして外に連れていったりした。また、子守歌もうたってやるし、夜|寝《ね》るまえには必ずそのきたない顔に|接《せっ》|吻《ぷん》しては、「おやすみなさい、かわいそうなお人形ちゃん」とやさしくささやいてやるのであった。
ベスにも他の姉妹と同様、|彼《かの》|女《じょ》なりの|悩《なや》みがあるのだった。彼女とて天使だというわけではなく、ただの人間の女の子であったから、ジョーに言われたように「ささやかな|涙《なみだ》」を流すこともよくあった、それは音楽のお|稽《けい》|古《こ》をさせてもらえないのと、りっぱなピアノがないということのためであった。彼女はとても音楽が|好《す》きで、|一生懸命《いっしょうけんめい》じょうずになろうとし、あのガチャガチャの古楽器でしんぼうづよくお|稽《けい》|古《こ》をしているさまは、ほんとうにだれか(といってマーチ|伯《お》|母《ば》さんというわけではないが)助力をしたらよさそうなものだ、と思わせるほどだったのである。けれどもだれも助力をしなかった、また、ベスがひとのいないとき、どうしてもうまく調子の合わない|黄《き》|色《いろ》い|鍵《けん》|盤《ばん》の上で涙をぬぐっているのを、見たひともいなかったのである。彼女はお仕事をしながら、|小《こ》|雲雀《ひばり》のように歌い、母や姉妹たちのためにいつも喜んでピアノを|弾《ひ》いた。そして毎日毎日のぞみを失わずに自分に言いきかせるのであった、「あたしいい子だったら、いつかきっと音楽が習えるんだわ」と。
世の中にはベスのようなひとがたくさんいるものである。はにかみやで静かで、必要があるまではすみっこにすわっていて、他人のためにいそいそと働いて|暮《く》らす、それでこの|炉《ろ》ばたのこおろぎが|啼《な》きやんで、やさしく明るい|存《そん》|在《ざい》が|姿《すがた》を消したとき、人々ははじめてその|犠《ぎ》|牲《せい》のかずかずに気がつくのである。
もしもだれかがエーミーに、彼女の人生の最大の悩みは何だときいたら、彼女はすぐに「私の鼻」と答えたことであったろう、エーミーがまだ赤ちゃんだったとき、ジョーがあやまって彼女を石炭入れの中へおっことしたことがあった。そのとき彼女の鼻は|永久《えいきゅう》にだめになってしまった、とエーミーは言いはった。それは「あわれなペトリーの鼻」みたいに|格《かく》|別《べつ》大きいの赤いのというのではなく、いくらか低くて、どんなにつまんでも|貴《き》|族《ぞく》|的《てき》な高さにならないというだけのことだったのである。彼女以外にはだれもなんとも思っていなかったし、鼻もだんだん高くなろうとしていたのだが、彼女はギリシア型の鼻でないのを深く悲しみ、紙いっぱいにすてきな鼻を|画《か》きちらしては、われとわが身を|慰《なぐさ》めていた。
姉たちの言う「小ラファエル」には、たしかに|画《え》の|才《さい》|能《のう》があって、草花を写したり、いろいろな|妖《よう》|精《せい》の絵を考えたり、おかしな筆つきでおとぎ話のさし画をかいたりするときほどしあわせそうなときはなかったのである。学校の先生方は、彼女が算数の計算をしないで、|石《せき》|盤《ぱん》に動物の絵ばかりかいているとこぼし、地理付図の白いところは地図を写すのに使われてしまい、いろんな本の中からは、おどけた|漫《まん》|画《が》があいにくなときにひらひらと飛び出すというしまつ、それでも彼女はできる限りは勉強にも|精《せい》を出し、お|行儀《ぎょうぎ》のほうも組のお手本となっていたおかげで、お|叱《しか》りを受けないですんでいた。すなおな|性《せい》|質《しつ》のうえに、|巧《たく》まずして人を喜ばせることのできるとくな|術《すべ》を心|得《え》ていたので、友だちの間ではたいへんな人気者であった。彼女の子供らしい気取り方は友人間の|称賛《しょうさん》の|的《まと》だったし、またいろいろのたしなみを|具《そな》えているという点でも、大いに感心されているのであった。絵がかけるほかに彼女は曲を十二も|弾《ひ》けたし、|編《あ》み|物《もの》はできるし、フランス語ときたら三分の二しか発音を|間《ま》|違《ちが》わないで読むことができるのであった。彼女はよく、「パパがお金持ちだったとき、家ではこうこうだったのよ」と|嘆《なげ》くように言うくせがあったが、それにもまことに人の心を打つようなところがあった。また彼女の使う長ったらしい言葉は、|仲《なか》|間《ま》の|娘《むすめ》たちからは「とてもお上品」だと思われていた。
エーミーは|増長《ぞうちょう》するのにもってこいの|状態《じょうたい》にあったのだ、というのは、あらゆる人が彼女を|甘《あま》やかした|結《けっ》|果《か》、彼女の小さな|虚《きょ》|栄《えい》|心《しん》とわがままな気持ちとはすくすくと成長していたからである。ところが一つその虚栄心をぺしゃんこにしてくれるものがあった。いとこのおさがりを着なければならない、というのがそれである。フローレンスのママというのは、|趣《しゅ》|味《み》のかけらももち合わせないひとであったから、エーミーは青い|帽《ぼう》|子《し》がほしいときに赤いのをかぶらされたり、少しも|似《に》|合《あ》わない上着を着たり、|寸《すん》|法《ぽう》の合わないはでなエプロンを|掛《か》けたりするという|苦《く》|痛《つう》を|忍《しの》ばねばならなかったのである。どれもこれも上等で仕立てもよく、さほどいたんでもいなかった。けれどもエーミーの|高尚《こうしょう》な趣味からみればまことに悲しいものばかり、とりわけこの冬の学校着がさえない|紫地《むらさきじ》に|黄《き》|色《いろ》の水玉をちらしたなんの|襞《ひだ》|飾《かざ》りもないのであったときなどは、どんなにつらい思いをしたことだったろう。
「よかったわ」彼女は目に|涙《なみだ》をためてメグに言うのだった、「私が悪いことをしたとき、お母さまはマリア・パークのお母さんみたいに着物に|揚《あ》げなんかなさらないから。ねえ、考えてもぞっとするでしょう、あのひとときどきそりゃわるいのよ、それでね、お|膝《ひざ》のあたりまで揚げをされちまって、学校へも来られないことがあるのよ。私そんな|恥《はじ》をさらすこと思うと、鼻の低いのだって、黄色の水玉の紫の服だって|我《が》|慢《まん》ができると思うの」
メグはエーミーの相談相手であり忠告者であった、また反対の|性《せい》|質《しつ》は|妙《みょう》に相引くというとおり、おとなしいベスの相手はジョーだった。ジョーひとりにだけ、この内気な少女は心の中を打ち明けた。そしてこの大きな|無《む》|鉄《てっ》|砲《ぽう》な姉のうえに、ベスはしらずしらずの間に、家族の中のだれよりも大きな感化を|及《およ》ぼしていたのである。ふたりの大きいほうの|娘《むすめ》たちは、お|互《たが》い同士なかなかだいじな|存《そん》|在《ざい》ではあったが、ふたりは妹を一人ずつ自分の|保《ほ》|護《ご》|下《か》において|好《す》きなように世話をやいていた。|彼《かの》|女《じょ》らはそれを「お母さまごっこ」と|呼《よ》んで、小さいながらも女らしい母親の|本《ほん》|能《のう》から、ふたりの妹を|捨《す》てられたお人形代わりにしているのであった。
「だれでもいいから、何かお話することない? 今日ほんとうにくさくさしちまって、おもしろいことでもなけりゃ、やりきれたもんじゃないわ」その|晩《ばん》、|皆《みな》が集まってお|裁《さい》|縫《ほう》を始めると、メグがこう言った。
「私ね、今日|伯《お》|母《ば》さんと、へんちくりんなことがあったのよ、それで私がそれに勝ったというわけ、今そのお話して上げるわね」とジョーがやりだした。彼女はなによりもお話が|大《だい》|好《す》きである。
「今日もね、|例《れい》によって例のようにベルシャムを読んでいたのさ、いつもやるようにだらだらと|眠《ねむ》そうな声を出してね、そうすると|伯《お》|母《ば》さんすぐいねむりを始めるから、私はポケットからおもしろい本を出して伯母さんが起きるまで|気《き》|違《ちが》いのように読めるっていうわけなの。ところが今日は自分のほうがほんとに眠くなっちゃったの、で、伯母さんがこっくりこっくりやり出す前に大きなあくびをしちゃったのよ、伯母さんたらね、なんでそんなに大きな口を開けて本を丸のみにするような|真《ま》|似《ね》をするのかってきくの。
『丸のみにできればいいと思います。早くおしまいになりますから』って、私言ったのよ、あまり生意気にならないように気をつけてね。そうしたら伯母さん、私の|罪《つみ》について長いお説教をきかせてから、ちょっと『うとうと』するからその間、おとなしくすわっていて今のことをようく考えてごらんって言うのよ。そうなったら|容《よう》|易《い》なことじゃ目をさましっこないから、あの|頭《ず》|巾《きん》が頭でっかちのダリアみたいに下を向いたとたんに、私はさっとばかりにポケットから『ウェークフィールドの|牧《ぼく》|師《し》』をとり出して、|片《かた》|目《め》で牧師さんを、片目で伯母さんをにらみながら、大速力で読みだしたの。そしてね、みんなが川の中へおっこちるところへきたら、前後を|忘《わす》れて大きな声で|笑《わら》い出したのよ。伯母さん目をさましたわ、でも|昼《ひる》|寝《ね》のあとでごきげんがいいもんだから、おまえはあの|尊《とうと》い|教訓的《きょうくんてき》なベルシャムよりもいったいどんなくだらない本が|好《す》きなのか、少し読んでおきかせ、なんて言うのよ、私ここぞと思って読んで上げたら、|伯《お》|母《ば》さんおもしろくなったのよ、だのにね、
『なんのことやらさっぱりわからない、初めのほうから読んでごらん』だってさ。
「それから|逆《ぎゃく》もどりしてプリムローズ家のところをできるだけおもしろく読んだのよ。一ぺんなんか意地わるして|際《きわ》どいところでやめて、やさしくこう言ってみたの、『お|疲《つか》れになるといけませんわね、伯母さま、もうやめましょうか』って。
「伯母さんね、手からすべり落ちてた|編《あ》み|物《もの》を拾い上げて、|眼鏡《めがね》ごしにじろりとひとをにらんでから、|例《れい》の|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》な調子でこう言うの――
『その章を終わりまで読んでおしまい、よけいなことを言ってないで』」
「伯母さんはそのお話が気に入ったって|白状《はくじょう》なすったの?」
「どういたしまして! でもね、あの古なじみのベルシャムにはとうとうお|暇《ひま》を出したのよ。今日お昼っから|手袋《てぶくろ》をとりにいってみたら、伯母さんあの本にかじりついていたわ、私がこれはおもしろいと|玄《げん》|関《かん》でおどり上がって笑ってもきこえないくらいなの。伯母さんだって、その気にさえなれば、ずいぶんおもしろい人生が送れるんだのにね! 私伯母さんがお金持ちだからってそんなにうらやましいと思わないわよ、|結局《けっきょく》お金持ちだって|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》だって、おんなじようにいろんな|悩《なや》みがあるんだわね」
とジョーはつけ加えた。
「それで思いだしたけど」とメグが言った。「|私《わたし》もお話することがあったわ、私のはジョーのみたいにおもしろいんじゃないのよ、だけど、私家へ帰ってくる間じゅう、ずっとそのことを考えていたの。今日キングさんとこじゃみんなが落ち着かない様子だったの、いちばん上のお兄さんがなにか|恐《おそ》ろしいことをしでかしたんでお父さまに追い出されたんだって、小さい子が言っていたわ。|奥《おく》さんの|泣《な》くのやご主人の|怒《ど》|鳴《な》るのがきこえるの。グレースとエレンは私とすれちがうとき、赤い目を見られないように顔をそむけるのよ。もちろん私なにもきいたりはしなかったわ、でもあの人たちほんとにお気の毒だと思ったの、そしてね、わるいことばっかりして家の|恥《はじ》をさらすような|野《や》|蛮《ばん》な兄弟がいなくてよかったと思ったわ」
「私、学校で|叱《しか》られるのは、いたずらっ子になにかされるのよりもいやだと思うわ」エーミーはさもさも自分の|経《けい》|験《けん》が|深《しん》|刻《こく》なものであったかのように、頭を|振《ふ》り振り言った。「今日ね、スーズィー・パーキンスが学校に、きれいな|紅《あか》|瑪《め》|瑙《のう》の指輪を持ってきたの、私それがほしくてたまらなかったのよ、そして私あのひとだったらいいなとつくづく思ったの、そしたらね、スーズィーがデーヴィス先生の絵をかいたのよ、大きな鼻とこぶまでくっつけて、おまけに『みなさん、先生の目はあなた方を見ていますぞ!』という言葉が風船玉みたいな丸の中にはいって、先生の口から出ているところまでつけたの、みんなそれ見て|笑《わら》っていたら、急に先生の目がほんとに私たちの方に向いたの、そしてスーズィーに|石《せき》|盤《ばん》を持っていらっしゃいとおっしゃったの。あのひと恐ろしくてからだが|麻《ま》|痺《ひ》したようだったわ、でも出て行ったの、そして、ああ! 先生どうなすったとお思いになる? あのひとの耳をひっぱったの、――耳なのよ! こわいでしょう!――それから|教壇《きょうだん》のほうへ連れてって、あの|石《せき》|盤《ばん》がみんなから見えるように持たせて、三十分も立たせておいたの」
「みんなその絵見て|笑《わら》わなかった?」そのいたずらが気に入ってジョーはきいた。
「笑うなんて! そんなひと一人もいなかった。みんなハツカネズミみたいにじっとしていたのよ。スーズィーはわあわあ|泣《な》いたわ、ほんとよ。私もうあのひとをうらやましいと思わなかったわ、だって、あんなことがあったら、|紅《あか》|瑪《め》|瑙《のう》の指輪なんか|幾《いく》つあったってちっともうれしくないはずですもの。私ならどんなことがあったって、あんな|苦《く》|悶《もん》の|屈辱《くつじょく》には|我《が》|慢《まん》できないと思うわ」と言ってエーミーは、自分はお|行儀《ぎょうぎ》がいいということと、一息に二つもむずかしい言葉をうまく使えたというのが|得《とく》|意《い》で、仕事をつづけていった。
「私、けさ気持ちのいいことを見たの、ご飯のとき話そうと思って|忘《わす》れていたんだけど」ベスは、ジョーのごちゃごちゃの|針《はり》|箱《ばこ》を整理してやりながら話しだした。「私ね、ハンナのお使いで|牡《か》|蠣《き》を買いに行ったのよ。そしたらお魚屋にローレンスさんがいらっしゃるのよ、でも私、|樽《たる》のかげにいたし、ローレンスさんはお魚屋のカッターさんとお話していらしたから、私のことお気づきにならなかったわ、そこへ|貧《びん》|乏《ぼう》な女のひとが|手《て》|桶《おけ》と|雑《ぞう》|巾《きん》を持ってきて、お魚が少しほしいから|床《ゆか》みがきをさせてほしいって|頼《たの》んだの、子供たちになにも食べさせる物がないのに、仕事にもありつけなかったのですって。カッターさんは|忙《いそが》しまぎれに、ちょっと|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》に『だめだね』って言ったの。そのひとはひもじそうにがっかりして歩きかけたのよ、そのときね、ローレンスさんがご自分のステッキの|柄《え》の曲がったところで大きなお魚をひっかけて、その女のひとに差し出して上げたのよ、そのひととても喜んで、そしてびっくりしてそのお魚を受けとったの、なんべんもなんべんもお礼を言っていたわ、ローレンスさんは『早く帰って料理をおし』っておっしゃったの、女のひとは走っていったわ、ほんとにうれしそうだったのよ!――いい方じゃない? その女のひと、大きなつるつるしたお魚をしっかりと|抱《だ》いて、ローレンスさんに、安らかに天国へいらっしゃるようにってお|祈《いの》りをした|格《かっ》|好《こう》ったらそりゃおかしかったの」
ベスのお話をきいて|笑《わら》ってしまうと、みんなはお母さまにも一つお願いした。お母さまはちょっと考えてから、まじめな|面《おも》|持《も》ちで話しだした、――
「今日|事《じ》|務《む》|所《しょ》のほうで青いフランネルの上着をたっていたときにね、お父さまのことがひどく気になってきてね、もしもお父さまに変わったことでもあったら、私たちはどんなに|寂《さび》しく心細いことだろう、なんて考えたのよ。そんなこと考えるなんてばかなことなんだけれどね、とにかくそうやってくよくよしていたのよ、そこへひとりのおじいさんが、配給を受ける|切《きっ》|符《ぷ》を持ってはいってきたの。そしてお母さまのそばへ|腰《こし》を下ろしましたがね、その様子がなんだかあわれっぽく|疲《つか》れていて心配顔だったから、話しかけてみました。
『あなたのお子さんも軍隊ですか』って、その書きつけがお母さま|宛《あて》のものでなかったから、そう言ってきいてみたんです。
『はい、はい、おくさま、四人のうちふたりは戦死いたしました。ひとりは|捕《ほ》|虜《りょ》になり、もうひとりの|奴《やつ》はワシントンの病院でたいへん悪いということで、私はこれから|見《み》|舞《ま》いにいくところでございますよ』とそのおじいさんは静かに答えました。
『じゃあ、おじいさんはお国のためにたいへんおつくしになってるんですね』と、お母さまはもう気の毒がるどころではなく、|尊《そん》|敬《けい》の気持ちに打たれてそう言いました。
『いやいや、まだ足りませんことで、おくさま。お役にたつことなら、この自分がまいりたいところなのですが、それがかないませんので、せがれどもを出しましただけで、はい、喜んで出してやりました』
おじいさんは元気にそう言いました、それはそれはまごころがあふれていて、子供たちをみんなささげたことを喜んでいるようなので、お母さまは|恥《は》ずかしくなってしまいました。私はたったひとりを出しただけでそれさえたいへんなことに思っている、このひとは四人もささげて|愚《ぐ》|痴《ち》一つこぼさない。私は家に帰れば|娘《むすめ》たちがいて|慰《なぐさ》めてくれる、このひとはたったひとり残ったむすこさんが、遠くの空で、おそらくは『さようなら』をするのを待っているのですものね。私は自分のお|恵《めぐ》みのことを思うと、ほんとうに|豊《ゆた》かなしあわせな気持ちになりましたよ。それから、おじいさんにいろいろと取り合わせたいい包みをこしらえ、お金も|添《そ》えて上げました、そしていろいろと考えさせていただいたことに対して心からお礼を言いましたよ」
「もう一つお話してください、お母さま、今のみたいに|教訓的《きょうくんてき》なのがいいね。私、あとになってからそのことを考えてみるのが|好《す》き。ほんとのお話で、しかもあまりお説教じみたのでなければよ」しばらくみんな|黙《だま》っていたのち、ジョーが言った。
マーチ夫人はにっこりした。そしてすぐにお話を始めた。彼女は長い年月この小さいきき手たちにお話をきかせてきたので、みんなが喜ぶようなお話のしかたをよく|心得《こころえ》ていたのである。
「むかしあるところに四人の|娘《むすめ》さんがありました。食べもの着物に不自由なく、いろいろな|慰《なぐさ》めも楽しみもあり、やさしいお友だちもあれば、かわいがってくださる両親もあったのですが、この娘さんたちはまだ満足しませんでした、(ここできき手は|互《たが》いにちらと顔を見合わせ、せっせと|針《はり》を運び出した)この娘たちはいい子になろうとして、たびたびりっぱな決心をするのですが、どういうものかあまりよく実行しませんでした、そしていつもいつも『これさえあったら』とか『あれさえできたら』とか言って、どんなにたくさんのものを自分たちが持っているか、どんなに楽しいことを|実《じっ》|際《さい》にしているか、ということを|忘《わす》れているのでした。そこで娘たちはあるおばあさんにききました。自分たちがしあわせになるのにはどんなお|呪《まじな》いをしたらいいだろうとね。おばあさんは言いました、『不足に思うことがあったら、あなた方の受けているお|恵《めぐ》みのことを考えてみて、そうして|感《かん》|謝《しゃ》するようになさい』(ここでジョーはすっと顔を上げ、なにか言おうとしたが、お話がまだすまないのをみてやめた)
「おりこうな娘たちでしたから、みんなはおばあさんのすすめたことをやってみようと決心しました。そうしてすぐに、自分たちがなんてしあわせなのだろうということがわかってびっくりしたのです。ひとりは、お金持ちの人たちはいくらお金があっても、|恥《は》ずかしいことや悲しいことがなくなりはしないのだということを知りました。もう一人の娘は、自分は|貧《びん》|乏《ぼう》ではあるけれども、|若《わか》くて、健康で、元気なために、ある|怒《おこ》りっぽい、からだの弱いお|年《とし》|寄《よ》りよりもずっとしあわせなのだということがわかりました、そのお年寄りはいろいろのいいものがありながら、それを楽しむことができないのです。三番目のは、ご飯の|支《し》|度《たく》を手伝うのはいやなことだけれど、食べる物がなくてもらいに歩かなくてはならないのはもっとつらいことだと知りました。それから四番目の娘は、|紅《あか》|瑪《め》|瑙《のう》の指輪もりっぱなお|行儀《ぎょうぎ》ほどの|値《ね》うちはないのだと|悟《さと》ったのです。そこで四人は、もう不平を言うのをやめて、もっているお恵みを楽しみ、それにふさわしいものになるように心がけようと言い合いました、そうでないと、そのお恵みは|増《ま》すどころか、すっかり取り上げられてしまうかもしれませんからね。で、娘さんたちはこのおばあさんのすすめに|従《したが》ったことで、あてがはずれたり、|後《こう》|悔《かい》したりするようなことはなかっただろうと思いますよ」
「あら、お母さま、ずるいわ、私たちを材料にして、お話の代わりにお説教なさるなんて!」とメグが|叫《さけ》んだ。
「そんなお説教なら私|好《す》きだわ、お父さまがよくしてくだすったわね」とベスは考え深げに言い、ジョーの|針《はり》さしに針をきちんと|並《なら》べて|刺《さ》してやった。
「私はみんなほど不平は言わないけど、でも今よりかもっと気をつけるようにするわ。スーズィーの失敗でよくわかったんですもの」エーミーはもっともらしくこう言った。
「私たちには今の|教訓《きょうくん》は必要だったのよ、|忘《わす》れないようにしましょうよ。もし忘れたらお母さま、アンクル・トムのクロー|小《お》|母《ば》さんのように『おみゃあさまがたのお|恵《めぐ》みを考えなされや、子供の|衆《しゅう》、おみゃあさまがたのお恵みを』と言ってくださいね」とジョーはつけ加えた。彼女は、この小さなお説教のなかからさえ、ちょっとしたおかしみをひっぱり出さずにはいられないのである、とはいえ彼女とてもだれにも|劣《おと》らず、このお話を身にしみてきいていたのであった。
第五章 お|隣《となり》同士
「まあ、あんたいったい何をしようっていうの、ジョー?」ある雪の日のお昼すぎ、ゴム長の|靴《くつ》に古上着と|古《ふる》|頭《ず》|巾《きん》、|片《かた》|手《て》にほうき、片手にシャベルといういでたちの妹が、|玄《げん》|関《かん》の広間をずしりずしりとやってくるのを見て、メグはきいた。
「ちょっと運動に行ってきまあす」ジョーは、いたずらっ子のように目をぱちくりさせながら答えた。
「あんた|今《け》|朝《さ》はもう二度も長い散歩したんじゃないの、たくさんよ、外なんて寒くてつまんないわよ、家の中で火のそばにあたっていらっしゃいよ、|私《わたし》みたいに」と言ってメグはぶるッと身ぶるいをした。
「いやあよ、一日じゅうじっとなんかしていられるもんですか。火のそばで|居《い》|眠《ねむ》りなんて|真《ま》っ|平《ぴら》だわ、|猫《ねこ》じゃあるまいし。私はね、|冒《ぼう》|険《けん》がしたいのよ、今|捜《さが》しに行くとこ」
メグは足をあぶりながら「アイヴァンホー」を読むために火のそばにもどり、ジョーは元気いっぱいに道をつけにかかった。雪は軽かった、|彼《かの》|女《じょ》はほうきでもって庭のまわりに道をつけ、お日さまが出たらベスが病気の人形に|新《しん》|鮮《せん》な空気を|吸《す》わせに出てこられるようにしてやった。さてその庭はマーチ家とローレンス家の|境《さかい》になっていた。両家とも町のはずれに建っていたが、そのあたりは木立や|芝《しば》|生《ふ》や大きな庭や静かな通りなどがあって、まだ|田舎《いなか》田舎したところであった。両家の地所の間には低い|生《いけ》|垣《がき》があった。その|片《かた》|側《がわ》に古い|褐色《かっしょく》の家があり、夏のあいだ|壁《かべ》にはっていた|蔦《つた》だのまわりに|咲《さ》きみだれている花などが|枯《か》れてしまった今は、なんとなく寒々としてみすぼらしくさえみえていた。他の側には堂々とした|石《いし》|造《づく》りの|館《やかた》があって、大きな馬車小屋、手入れの|届《とど》いた|邸《てい》|内《ない》や温室、どっしりしたカーテンの間からちらちら見える美しい調度など、すべて楽しそうでぜいたくな|暮《く》らしを|示《しめ》していた。それなのに、その家はどこか|寂《さび》しく、生気のない家のように見える。|芝《しば》|生《ふ》にたわむれる子供らの|影《かげ》もなければ、|窓《まど》べにほほえむ母親らしい顔もなく、|例《れい》のお|年《とし》|寄《よ》りとその|孫《まご》むすこよりほかには、めったに人が出入りすることもなかったからである。
ジョーの活発な空想によると、この|屋《や》|敷《しき》はだれも楽しむもののない|栄《えい》|華《が》や喜びにみちあふれた|魔《ま》|法《ほう》の|宮殿《きゅうでん》のようなものに思われた。|彼《かの》|女《じょ》はもう長いことそういう|隠《かく》された栄華をみてみたいと思い、かつあの「ローレンス少年」と近づきになりたいものだと願っていた。あの少年のほうでも、きっかけさえあれば知り合いになりたがっているように思われる。いつかのパーティ以来、その願いはますます強くなり、なんとかして友だちになってやろうといろんな方法を考えてみた、しかしこのごろはあまり|彼《かれ》の|姿《すがた》を見かけない、どこかへ行ってしまったのではあるまいか、と思っていた|矢《や》|先《さき》、ある日ジョーは二階の|窓《まど》のところにあの浅黒い顔を見つけたのである。その顔はいかにも|寂《さび》しそうに彼女たちの家の庭を見下ろして、ベスとエーミーが雪投げをしているのをながめていた。
「あの方お友だちをみつけていっしょに遊びたいんだわ」彼女はひとりごとを言った。「あの方のおじいさまは、あの方にどうして上げればいちばんいいのかわからなくて、ひとりぼっちにして|閉《と》じ|込《こ》めておくのよ。あの方だっていっしょに遊ぶような陽気な男の子がたくさんいなくっちゃ、でなくってもだれか|若《わか》くっていきいきとした人が必要なのよ。私、あすこの家へ行っておじいさまにそう言って上げようかな」
こう考えるとジョーはおもしろくなってきた。彼女は思い切ったことをするのが|得《とく》|意《い》で、|妙《みょう》なことをしでかしてはいつもメグの|眉《まゆ》をひそめさせていた。「あすこの家へ行く」という思いつきは、それ以来ジョーの|脳《のう》|裏《り》を去らなかったのである。で、この|雪《ゆき》|降《ふ》りの午後となったとき、ジョーは何ができるかやってみようと決心した。彼女はローレンス氏が馬車で出かけるのを見た、それから|威《い》|勢《せい》よく|垣《かき》|根《ね》のところまで道をかき進んだのである。そこで一休みしてあたりを見回した。しんとしている。階下の窓にはカーテンがたれている。|召《め》し|使《つか》いの|姿《すがた》も見えぬ、見える|人《ひと》|影《かげ》としては、二階の窓で細い手の上にもたれている|縮《ちぢ》れ毛の黒い頭だけであった。
「あすこにいる」ジョーは思った、「かわいそうに! たった一人ぽっちで、しかも病気なのよ、こんな|陰《いん》|気《き》くさい日に! なんてこったろう! 私雪だまぶつけてこっち向かしてやろう、そしてなにかやさしいことを言って上げようッと」
一かたまりのやわらかい雪がほうり投げられた。と、その顔がくるりと向いて、こっちを見た顔からはいつもの不活発な|表情《ひょうじょう》がたちまち消え|失《う》せ、大きな目は|輝《かがや》き、口もとには|微笑《びしょう》が|浮《う》かんだ。ジョーはこっくりして|笑《わら》ってみせ、ほうきを|振《ふ》り回しながら大声で|呼《よ》びかけた、――
「こんにちは! ご病気?」
ローリーは|窓《まど》を開けた、そして|烏《からす》みたいなしわがれ声で答えた、――
「もういいんですよ、ありがとう、ひどい|風《か》|邪《ぜ》を引いて、一週間も|寝《ね》ちまったんです」
「お気の毒ね。何して遊んでいらっしゃるの?」
「何もしてません。ここはつまらないんですよ、お|墓《はか》みたい」
「本は読まないの?」
「あんまりね、読ましてくれないんですもの」
「どなたか読んでくださらないの?」
「おじいさまがときどき。でも|僕《ぼく》の本はおじいさまにはおもしろくないでしょう、といって、いつもいつもブルックさんに|頼《たの》むわけにもいかないんですよ」
「じゃ、だれかあなたのところにお|見《み》|舞《ま》いにくる人はいないんですか?」
「僕のほうで会いたいような人がないんです、男の子って|騒《さわ》ぎますからね、僕は頭が|疲《つか》れやすいから」
「だれかいいお|嬢《じょう》さんで、本を読んだりしてくれるひとはいないんですか? 女の子は静かよ、それに|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》ごっこなんか|大《だい》|好《す》きなものよ」
「知ってるひとがないんです」
「私があるじゃありませんか」ジョーはやり出したが|笑《わら》ってやめた。
「そうだ! 来てくださる?」ローリーは|叫《さけ》んだ。
「私は静かでもないし、いいお|嬢《じょう》さんでもないのよ、でもお母さまがいいとおっしゃったら行ってあげるわ、今きいてくるわね。|窓《まど》を|閉《し》めておとなしくしていらっしゃい、じき来ますから待ってらしてね」
そう言ってから、ジョーは、みんなはなんと言うだろうと思いながら、ほうきをかついでとっとと家の中へはいって行った。一方ローリーは、お客を|迎《むか》えるというので少しそわそわしながら、用意を整えるのにあちこち飛び回るのであった。マーチ夫人の言うとおり彼は「少年|紳《しん》|士《し》」だったから、|訪客《ほうきゃく》に|敬《けい》|意《い》を表するため|縮《ちぢ》れ毛の頭をブラシでなでたり、新しいカラーをつけたり、|召《め》し|使《つか》いの五、六人もいるくせにいつもごちゃごちゃになっている室を|片《かた》づけにかかったりした。やがて、けたたましくベルが鳴り、はきはきした声で「ローリーさまに」と取りつぎを|頼《たの》むのがきこえた。召し使いはびっくりした顔つきで|駆《か》け上がってきて、|若《わか》いご|婦《ふ》|人《じん》ですと告げた。
「よろしい、お通ししなさい。ジョーさんだよ」とローリーは言い、ジョーを迎えようと自分用の小さい客間の戸口のほうへいった。ジョーは血色のいい顔をにこにこさせ、すっかり心安いふうに、|片《かた》|手《て》にはおおいのかかったお|皿《さら》を持ち、片手にはベスの|子《こ》|猫《ねこ》を三|匹《びき》もかかえて|現《あらわ》れた。
「ほうら来たでしょう、大荷物持って」彼女はきびきびした調子で言った。「お母さまがよろしくって、そして|私《わたし》でお役にたつことがあればうれしいっておっしゃいました。メグはお手製のブラマンジュを少しよこしたの――とてもじょうずなのよ、それからベスは自分の|猫《ねこ》がおなぐさみになるだろうって考えたのよ。私、あなたがお|笑《わら》いになるだろうと思ったんですけどね、あの子も何かしたくて|一生懸命《いっしょうけんめい》だったもんでことわれなかったのよ」
ベスのおかしな|貸《か》し物はまさにおあつらえ向きだった、というのは、その三|匹《びき》の|子《こ》|猫《ねこ》を見て笑い出したおかげで、ローリーはすっかりはにかみを|忘《わす》れてしまい、じきに親しい気持ちになってしまったからである。
「これはきれいだ、食べるのはもったいないようですね」彼は大喜びでにこにこしながら言った。ジョーがお|皿《さら》のおおいをとると、エーミーのだいじなジェラニウムの緑の葉ッぱと赤い花とでふちどられたまっ白なよせものが|現《あらわ》れたのである。
「なんでもないのよ、ただね、みんなあなたのことをお親しく思っているので、その気持ちを現したかったの。お茶の時までしまっておくようにお女中さんにおっしゃってちょうだい。あっさりしてるから|召《め》し上がれるわよ、それにやわらかいから|咽《の》|喉《ど》が|痛《いた》くてもだいじょうぶするッとはいるわ、まあなんて小ぢんまりして気持ちのいいお部屋でしょう!」
「かもしれません、|片《かた》づいてさえいれば。女中たちは|怠《なま》け者だし、僕はまたどう言ってきちんとさせていいかわからないんです。きたなくていやなんですけど」
「私二分間できちんとして上げるわ、|暖《だん》|炉《ろ》はちょっとはけばいいでしょう、ほら。それから|炉《ろ》|棚《だな》の上の物はまっすぐに|並《なら》べて、ね、本はここに、びん類はそっちに、ソファは明りを|背《せ》にして、|枕《まくら》は少しふくらませましょう。ほうら、もうきちんとなったわ」
そのとおりであった。笑ったりしゃべったりしながら、ジョーはいろんな物をさっさと置くべきところに置き|換《か》えて、部屋を見ちがえるようにしてしまったのである。ローリーは感心して口をつぐんだまま彼女をながめていた。彼女がソファのほうへ手まねきすると、彼は満足のあまりためいきまでついて|感《かん》|謝《しゃ》に|耐《た》えないように言うのだった、――
「親切ですねえ! うん、まったくこういうふうにすればよかったんだ。さ、どうぞその大きな|椅《い》|子《す》にかけてください。さて、これから僕が何かしてお客さまをおもてなししなくちゃ」
「いいえ、私のほうがあなたを|慰《なぐさ》めにきたのよ。本読んで上げましょうか」と言ってジョーはなにかおもしろそうな本はないかと、やさしいまなざしでそのへんを見回した。
「ありがとう、でも僕そこにあるのはみんな読んでしまったんです。あなたさえおいやでなかったら、お話したほうがいいんだけど」とローリーは答えた。
「おいやでなんかないわ。お話の|緒《いと》|口《ぐち》をみつけてくだされば、一日じゅうしゃべってもいいのよ。ベスはね、私はしゃべり出したらやめることを知らないっていうのよ」
「ベスって、たいてい家にいて、ときどき小さなかごを下げて出かける、あのばら色の顔した方でしょう?」
「ええ、あれがベスよ。私の|秘《ひ》|蔵《ぞう》ッ|子《こ》、ほんとにいい子なの」
「きれいな方がメグで、|巻《まき》|毛《げ》の方がエーミー、そうですね?」
「どうして知ってらっしゃるの?」
ローリーは顔を赤らめた、でも|率直《そっちょく》に答えた。「だって、そうでしょう、あなた方お|互《たが》いに名前を|呼《よ》ぶのがきこえるんですよ、それに、僕ひとりでここにいると、どうしたってお|宅《たく》のほうを見ないじゃいられないんですよ、いつもおもしろそうにしていらっしゃるんですね、のぞいてみるなんてずいぶん失礼なんだけど、でもあの花が置いてある|窓《まど》にカーテンを下ろすのを、ときどきお|忘《わす》れになるでしょう、ランプがついたときなんか、まるで絵を見てるみたいですよ、|炉《ろ》には火が燃えて、あなた方はお母さまといっしょにテーブルのまわりにいらっしゃいますね、お母さまのお顔はここから真っ正面、お花の|陰《かげ》になってそりゃやさしく見えるんです、|僕《ぼく》どうしてもながめないではいられないんです。僕にはお母さまがないもんですから」ローリーはくちびるのあたりがひきつけるのをおさえることができず、それを|隠《かく》そうとして火をつっ|突《つ》いた。
そのさびしげな、|餓《う》えたようなまなざしは、まっすぐジョーの|暖《あたた》かい|胸《むね》にしみわたった。彼女はごく|単純《たんじゅん》に育てられてきたので、その頭の中にはくだらぬいやしさなどはみじんもなく、十五になってもまるで小さい子供のように|無《む》|邪《じゃ》|気《き》であけっぱなしだった。ローリーさんは病気で、そのうえ寂しい人なのだ、自分は家庭の|愛情《あいじょう》と幸福とをなんと|豊《ゆた》かに|恵《めぐ》まれているのだろう、彼女は喜んでそれを彼にも分けて上げようと考えた。彼女の日焼けした顔は親しみにあふれ、|例《れい》のとんがり声はいつにないやさしさをこめてこう言った、――
「これからはけっしてカーテンを引かないことにするわ、そしてお|好《す》きなだけながめさして上げるわ。でも、ほんとは、のぞいたりなさるよりは家に遊びにいらしていただきたいのよ。お母さまってそりゃいい方よ、あなたにもいろんな親切なことしてくださるわ、ベスは、私から|頼《たの》めば歌もうたってくれるでしょうし、エーミーは|踊《おど》るかもしれないわ、そしたらメグと私は家のおかしな|芝《しば》|居《い》道具をお目にかけて|笑《わら》わして上げます、おもしろいと思うわ。おじいさまお|許《ゆる》しにならないかしら?」
「お|宅《たく》のお母さまが|頼《たの》んでくだされば許してくれると思います。おじいさまってなかなかやさしいひとなんです、そう見えませんけどね。僕のしたいことはたいていさせてくれるんです、ただ僕が知らない方にご|迷《めい》|惑《わく》かけるといけないと思っているんですよ」ローリーはだんだん|快《かい》|活《かつ》になって話し出した。
「私たち知らない人じゃないわ。お|隣《となり》同士よ、ご迷惑だなんて考えなくてもいいのよ。私たちはあなたとお友だちになりたいの、私ずっとその方法を考えていたのよ。家はそんなにここに古いわけじゃないけど、お宅のほかはみんなお知り合いになったわ」
「おじいさまはね、本の中に|埋《う》まって|暮《く》らしているでしょう、外の|出《で》|来《き》|事《ごと》なんて、てんでごぞんじないんですよ。僕の先生のブルックさんだってここに|泊《とま》っているわけじゃないんですからね、僕を外へ連れてってくれるような人はだれもいないんです。だから僕はただ家にいてなんとかやってるっていうわけです」
「それはいけないわ。もっと|積極的《せっきょくてき》にならなくちゃ、そしてよばれたらどこへでもいくといいのよ。そうすればお友だちもたくさんできるし、いってみたいようなところもできるのよ。|内《うち》|気《き》なことなんて気にしちゃだめ。あちこち出歩いていればすぐなおっちゃうわ」
ローリーはまた赤くなった。けれども内気だと言われたことを|怒《おこ》ったのではなかった。ジョーの気持ちには|好《こう》|意《い》があふれていて、その|無《ぶ》|遠《えん》|慮《りょ》な言葉もじつは親切な心持ちからなのだということを、くみとらずにはいられなかったのである。
「学校はおもしろい?」しばらく話がとぎれたのち、ローリーは話題を変えてきいた。その間、少年はじっと火をみつめ、ジョーはお気に召した部屋の中をながめ回していた。
「学校へはいってないのよ、私は|職《ビジ》|業《ネス》|人《マン》――じゃない、|少女《ガール》なの。|大《おお》|伯《お》|母《ば》さんのお|守《もり》|役《やく》にいってるんです。いいひとなんだけど、|怒《おこ》りっぽいおばあさんなのよ」とジョーは答えた。
ローリーはもう一つきいてみたいことがあって口を開きかけた、があぶないところで、あんまり人のことをいろいろ|尋《たず》ねるのは|無《ぶ》|作《さ》|法《ほう》なことだと気がついて、今開いた口を|閉《と》じて気まずそうな顔をした。ジョーは彼のそういうふうな育ちのよさが気に入った、で、マーチ|伯《お》|母《ば》さんのことを|笑《わら》い話の種にしてもかまわないという気になり、せっかちなお|年《とし》|寄《よ》りのことから、お気に入りの太ったむく犬のこと、スペイン語を話す|鸚《おう》|鵡《む》のこと、自分が|夢中《むちゅう》になる図書室のことなどまで、こまごまと目に見えるように話してきかせた。それをきいてローリーはひどくおもしろがった、そしてあるとき、いやに気どった|老《ろう》|紳《しん》|士《し》がマーチ伯母さんのところに|求婚《きゅうこん》にきて、|盛《さか》んに口上を|述《の》べたてている真っ最中、ポルがかつらを引っぱりとってあわてさせた話をしたときなど、ローリーは引っくり返って笑いこけ|涙《なみだ》まで出すしまつに、何事が起こったかと女中が顔を出したほどであった。
「ああ! そんな話、僕にとっちゃなによりですよ。もっと話してください」彼はそう言って、今の大笑いで真っ赤になりつやつやした顔を、やおらソファのクッションから起こした。
ジョーはこの成功で|得《とく》|意《い》になり、自分たちの|芝《しば》|居《い》のことやいろんな計画のこと、お父さまに関する希望や心配、その他、姉妹が住んでいる小さな世界の出来事のうちおもしろそうなことを、いろいろと語りつづけた。それから二人は本のことを話し合った、ローリーが自分に|劣《おと》らず本|好《ず》きで、しかもずっとたくさん読んでいるのを知って、ジョーはとてもうれしく思ったのである。
「そんなに本が好きなのなら、階下にきて家のを見てごらんなさい。おじいさまはお出かけになったからこわがることはありませんよ」とローリーは立ち上がりながら言った。
「私こわいものなんかありゃしないわ」ジョーは頭をつんともたげてそう答えた。
「そうだろうと思った!」とローリーは|叫《さけ》び、|尊《そん》|敬《けい》の念をもって彼女を見上げたが、内心、彼女だっておじいさまのごきげんがどうかしたときに会ったなら、少しはこわがったって|無《む》|理《り》もあるまい、と考えていた。
家の中の空気はどこも夏のようだった、ローリーは室から室へと案内し、ジョーが気に入ったところではどこなりと立ち止まってゆっくり見させるようにした。そうしてついに図書室までくると、彼女は|特《とく》|別《べつ》うれしいときいつもやるように手をたたきおどり上がって喜んだ。どこもかしこも本だらけ、絵画あり|彫刻《ちょうこく》あり、|昔《むかし》の|貨《か》|幣《へい》や|骨《こっ》|董《とう》などがぎっしりつまって気も遠くなるような|小陳列室《しょうちんれつしつ》、|寝《ね》|心《ごこ》|地《ち》のよさそうなさまざまな|椅《い》|子《す》、|妙《みょう》な形のテーブル、|青《せい》|銅《どう》の置物など、わけても彼女が喜んだのは、まわりに古風な|瓦《かわら》をはめ|込《こ》んだ大きな|切《きり》|暖《だん》|炉《ろ》であった。
「まあすばらしい!」とジョーはためいきをもらした。そしてビロードの椅子に深々とからだを|埋《う》め、大満足の|態《てい》であたりをながめ回した。「シォドア・ローレンス、あなたは世界じゅうでいちばん幸福な少年よ」と彼女は感にたえないもののようにつけ加えた。
「人は本のみにて生くる者にあらず」ローリーは向かい側のテーブルに|腰《こし》を下ろしながら、頭を|振《ふ》ってそう言った。
彼がまだなにか言おうとしたとき、ベルが鳴った。ジョーは飛び上がり、顔色を変えて|叫《さけ》んだ、「どうしましょう! おじいさまよ!」
「ええ、それがどうしたんです? あなたはこわいものなんかないはずだったでしょう」とローリーはからかうように答えた。
「少しはこわいらしいのね、でもこわがるわけはないわね。お母さまがいってもいいとおっしゃったんだし、私が来たためにあなたのおからだにさわったようでもないんですもの」ジョーは、なおも|扉《とびら》のほうに目を配りながらも、落ち着きを取りもどして言った。
「おかげでずっとよくなったんですよ、ありがたいと思っています。ただあんまりしゃべらせてお|疲《つか》れにならなかったかと心配なくらいです、だっておもしろくておもしろくて、やめていただけなかったんですもの」とローリーはさもさも喜んでいるらしくそう言った。
「|坊《ぼっ》ちゃま、お医者さまがおみえになりました」と女中が|手《て》|招《まね》きしながら言った。
「ちょっと待っててくださいませんか、みてもらわなくちゃいけないでしょうから」ローリーは言った。
「どうぞおかまいなく、私はここにいればとても楽しいんですから」ジョーが答えた。
ローリーは行ってしまった、そこでお客さまはかってに楽しむことになった。彼女はまずあの|老《ろう》|紳《しん》|士《し》のりっぱな|肖像画《しょうぞうが》の前に立った。そのとき、も一度ドアが開いたけれども|振《ふ》り返りもせずに、彼女ははっきりした声で言った、「私もうこの方こわくないわ、やさしい目をしていらっしゃるんだもの、お口は少しむっつりしていて、ずいぶん|頑《がん》|固《こ》そうにはみえるけど。うちのおじいさまほどりっぱなお顔だちじゃないけど。でも私、|好《す》きだわ」
「ありがとう、お|嬢《じょう》さん」とつぜん後ろのほうで|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》な声がした。みればなんと|驚《おどろ》きあわてたことには、そこにローレンス氏が立っているではないか。
あわれにもジョーは、これ以上赤くなれないほど赤くなり、今言ったことを思い出すと|胸《むね》は|早《はや》|鐘《がね》のように打ち始めた。|一瞬間《いっしゅんかん》、彼女はそこを|逃《に》げ出したいようなむちゃくちゃな気持ちにかられた、がそれは|卑怯《ひきょう》というものである。そのうえ姉妹たちにも|笑《わら》われるであろう、そう思ったので彼女は|踏《ふ》みとどまって、できるだけのことをしてこの|窮地《きゅうち》を|脱《だっ》しようと決心した。も一度よく見ると、|灰《はい》|色《いろ》の|濃《こ》い|眉《まゆ》の下にあるほんものの目は、|肖像画《しょうぞうが》の目よりもいっそうやさしかったし、その目の中にはとぼけた色さえ見えたので、ジョーの|恐怖《きょうふ》はよほどうすらいだ。その|恐《おそ》ろしい|沈《ちん》|黙《もく》のあとで、|老《ろう》|紳《しん》|士《し》は|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》な声をいよいよ無愛想にして|突《とつ》|然《ぜん》こう言った、――
「で、あんたはわしがこわくない、というのじゃね?」
「はい、そんなに」
「して、わしはあんたのおじいさんほどのりっぱな顔だちではないそうじゃね?」
「そうです」
「そしてわしは|頑《がん》|固《こ》じゃと、そうじゃね?」
「そう思う、と申しただけです」
「それでも、あんたはこのわしが|好《す》きじゃと?」
「はい、好きです」
この返事はお|年《とし》|寄《よ》りの気に入った。彼はちょっと|笑《わら》ってからジョーと|握《あく》|手《しゅ》し、彼女のあごの下に指をあてて顔をうわ向かせ、じっとそれをながめていたが、やがて手を|離《はな》し、うなずいて言った、
「あんたにはおじいさんの気風があるて、顔はあまり|似《に》ておいでではないが。おじいさんはりっぱなお方じゃったよ、そのうえのことに勇気のある、正直なお方じゃった、わしはおじいさんとお友だちだったことを|自《じ》|慢《まん》に思うとります」
「ありがとうございます」それはジョーの気持ちにぴったりするものだったので、彼女はそれをきいてからすっかり楽な気持ちになった。
「あんたはわしの|孫《まご》に何をしようとしていたのじゃね?」これが|鋭《するど》く放たれた次の問いであった。
「ただお友だちになろうとしただけです」ジョーは自分が|訪《たず》ねてきたてんまつを話した。
「あんたは、あれがもう少し元気を出す必要があるとお考えなのじゃね?」
「はい。あの方は少し|寂《さび》しそうです。|若《わか》いお友だちがあったら、いいのじゃないでしょうか。私たちは女の子ですけれど、できれば喜んでお役にたちたいと思います、クリスマスにお|届《とど》けくだすったすばらしい|贈《おく》り|物《もの》のこと、ほんとにありがたいと思っておりますので」ジョーは|一生懸命《いっしょうけんめい》になって言った。
「なんのつまらぬ! あれはあの子の|仕《し》|業《わざ》じゃて。して、その気の毒なご|婦《ふ》|人《じん》はその後どうしていますかな?」
「けっこうやっております」と言ってジョーはフンメル一家についていろいろのことを早口に話した。お母さまは、この家族のことを、自分たちよりも|裕《ゆう》|福《ふく》な人たちに説いて回って、お世話をしてもらうようにしてやったのであった。
「あんたのおじいさまにそっくりのなされかたじゃ、いつかお天気のいい日に、わしもお母さまをお|訪《たず》ねしてお会いしてみましょうわい。そうお伝えしておいてくだされよ。おお、お茶の|鈴《すず》が鳴っとる、うちではあの子のために少し早目にしてますのじゃ。さ、こちらへきてまたお友だちごっこをつづけるがいい」
「ご|迷《めい》|惑《わく》でなければ」
「迷惑ならば|誘《さそ》いはしませんぞ」と言ってローレンス氏は、|昔風《むかしふう》な|礼《れい》|儀《ぎ》で彼女に|腕《うで》をかした。
これを見たらメグはなんていうだろう? ジョーは歩きながら思った、そして家へ帰って一部始終を話してきかせるところを|想《そう》|像《ぞう》しておもしろくてたまらず、目をくりくりさせるのであった。
「こりゃ! なんということじゃ?」ローリーが階段を|駆《か》け下りてくるのへ、お|年《とし》|寄《よ》りはこう声をかけた、人もあろうにあの|恐《おそ》ろしいおじいさまと|腕《うで》を組んでジョーが歩いてこようとは、彼は|仰天《ぎょうてん》してそこに立ちどまってしまった。
「|僕《ぼく》、お帰りになったのを知らなかったんです、おじいさま」彼は言った。ジョーはちらっと|得《とく》|意《い》|気《げ》なまなざしを送る。
「そんなことはわかっとる、おまえがどたばた下りてくるざまを見ればな。さあ、お茶にきなさい、|行儀《ぎょうぎ》をよくして」ローレンス氏は|愛《あい》|撫《ぶ》代わりに少年の|髪《かみ》の毛を引っぱってから、先に立って歩いていった。ローリーはあとからいろんなおどけたまねをしてついてくるので、ジョーは|笑《わら》いをかみころすのがたいへんだった。
お年寄りはあまり口をきかずに四|杯《はい》もお代わりをしてお茶をのみながら、|若《わか》い者どもを観察していた。ふたりはさっそく十年の|知《ち》|己《き》のようにしゃべりつづけている。|孫《まご》の上にもたらされた変化を、お年寄りは見のがさなかった。今、少年の顔には血がのぼり、明るく生気がみなぎっている、|態《たい》|度《ど》も|快《かい》|活《かつ》、笑い声さえ心から楽しそうであった。
「あの|娘《むすめ》の言うとおりじゃ、孫は|寂《さび》しいのじゃ、あの小娘どもがあれに、どういうふうにしてやってくれるか、一つやらしてみようわい」と、ローレンス氏はふたりのさまを見たりきいたりしながら、こんなふうに考えていた。彼はジョーが|好《す》きになった、彼女の風変わりな、物おじしないやり方が気に入ったのである。そのうえ彼女はローリーの気持ちを、自分がその人ででもあるかのようによく|解《わか》っているらしいのである。
ローレンス家の人たちが、ジョーのよく言う「つんとしてつまらない」人たちであったならば、彼女はけっしてこううまくいきはしなかったであろう。そういう人の前では彼女は気おくれがしてぎごちなくなるのである。ところがこの人たちは少しも|固《かた》|苦《くる》しい感じを|与《あた》えず気軽であったから、彼女もたちまちそのとおりになり、相手によい印象を与えたというわけであった。お茶が終わってみな立ち上がったとき、ジョーはおいとまをしようとした、が、ローリーはまだ見せるものがあると言って、彼女のためにとくに明りをつけた温室に連れていった。両側の|壁《かべ》には色とりどりの花が|咲《さ》き、やわらかな光線がそれを照らし出している、しっとりと|香《か》ぐわしい空気、頭の上には|珍《めずら》しい|蔓《つる》|草《くさ》やさまざまの木がおおいかぶさるようにたれている。そういうながめを楽しみながらあちこちとさまよっていると、ジョーにはまるでお|伽《とぎ》の国にいるかと思われるのであった。その間に彼女の新しいお友だちは、両手にあまるほどりっぱな花を切っていたが、それを|束《たば》ねると、見る目にも幸福そうな顔をして言った。「どうぞこれをお母さまに、そして、お|届《とど》けくだすったお薬はたいへんけっこうでした、とお伝えください」
ふたりが家にはいると、大きな客間の|炉《ろ》の前にはローレンス氏が立っていたが、ジョーの目は、そこに|蓋《ふた》を開けたままおいてあるグランドピアノにすいつけられてしまった。
「あなたお|弾《ひ》きになるの?」彼女はローリーのほうを向き、顔に|尊《そん》|敬《けい》の色を|浮《う》かべてきいた。
「ときどき」彼は|遠《えん》|慮《りょ》深く答えた。
「じゃ、今|弾《ひ》いてくださらない、私、うかがいたいわ、そしてベスに話してやりたいの」
「お先にお弾きになりませんか?」
「できないの、ばかでおぼえられないのよ。でも音楽は|大《だい》|好《す》きよ」
そこでローリーは弾き出した。ジョーはヘリオトロープとティーローズ[#訳注:お茶の香のするばら]にふかぶかと鼻を|埋《う》ずめながらききいった。彼はたいへんじょうずに弾きながら、少しも気どった様子がないので、「ローレンス少年」に対する彼女の|尊《そん》|敬《けい》と関心とはいよいよ深まるばかりだった。ベスにきかせられたら、と思ったが、それは言わなかった。ただしきりとほめたものだから、ローリーはすっかりきまりわるがり、おじいさまが助け船を出してくれた、「もういい、もういい、お|嬢《じょう》さん! あまり|甘《あま》やかしてはこの子のためになりませんのじゃ。この子の音楽はへたではないのじゃが、もっとたいせつなこともじょうずにやってもらいたいのでな。もうお帰りか? いや、これはたいそうご苦労じゃった、どうかまた来てくだされ。お母さまにわしからもよろしくとな、ではさようなら、ジョー先生」
お|年《とし》|寄《よ》りはやさしく彼女に|握《あく》|手《しゅ》した、だがその顔には、なにかおもしろからぬ色がうかがわれた。|玄《げん》|関《かん》にきたとき、ジョーはローリーに、なにか自分が悪いことを言ったのだろうかときいた。彼は頭を|振《ふ》った。
「いや、僕なんだ、おじいさまは僕がピアノを弾くのがいやなんです」
「なぜかしら?」
「いつか話しましょう。じゃジョンにお送りをさせましょうね、僕行けないから」
「いらないわよ。私|貴《き》|婦《ふ》|人《じん》じゃないから、それにすぐそこですもの。じゃお大事に、よくって?」
「ええ、でもまた来てくださるでしょうね?」
「あなたもよくなったら来てくだされば」
「行きますよ」
「おやすみなさい、ローリー」
「おやすみなさい、ジョー、おやすみ」
この午後の|冒《ぼう》|険《けん》|談《だん》がこまごまと話し終えられると、家中の者は|大《たい》|挙《きょ》して|押《お》しかけて行きたいような気がしてしまった。|垣《かき》|根《ね》の向こうの大きな|館《やかた》の中に、みんなはそれぞれにひきつけられるものを発見したからである。マーチ夫人は、自分の父親のことを|忘《わす》れずにいるこのお|年《とし》|寄《よ》りとお話がしたかった、メグは温室の中を歩いてみたかった。ベスはグランドピアノを思ってためいきをついた。そうしてエーミーはりっぱな絵だの|彫刻《ちょうこく》を見たくてたまらなかったのである。
「お母さま、ローレンスさんはどうしてローリーがピアノを|弾《ひ》くのが、おいやなんでしょう?」なんでもききたがるたちのジョーはこう言ってきいた。
「よくはわからないけれどね、こうではないかと思うの、ローレンスさんのご子息、つまりローリーのお父さまがね、イタリアの音楽をなさる女の方と|結《けっ》|婚《こん》なすったのよ、それがあの気ぐらいの高いお|年《とし》|寄《よ》りのお気に入らなかったの。その|奥《おく》さまはやさしくて、おきれいで、しかもりっぱな方だったんですけどね、おじいさまはおきらいだったの。むすこさんが結婚なすってからは一度もお会いにならなかったのですよ。おふたりともローリーが小さいときにおなくなりになってね、おじいさまがお引きとりになったんですよ。イタリア生まれのあのお子さんは、あんまりおじょうぶじゃないんでしょうね、お年寄りは、またあの方に先立たれでもしてはと、それであんなに大事になさるのでしょうよ。ローリーが音楽が|好《す》きなのは生まれつきなのよ、お母さま|似《に》ですもの。おじいさまはね、あのお子さんが音楽家になりたいのじゃないかとご心配なんですよ、とにかくピアノがじょうずだということは、ご自分のきらいな|婦《ふ》|人《じん》を思い出させることでしょう、それでジョーが言うように『にらめつけ』なすったんでしょうね」
「まあ、なんてロマンティックなんでしょう!」とメグは|叫《さけ》んだ。
「ばかばかしい!」ジョーは言った。「音楽家になりたかったらならせたらいいじゃないの。行きたくもないのに|大学《カレッジ》なんかへやって苦しめたりしないでさ」
「それであんなきれいな黒い目をしているのね、そしてお|行儀《ぎょうぎ》がよくって。イタリアの人ってみんなきれいだわ」少々センチメンタルなメグが言った。
「あの人の目だのお行儀だのって、なにを知ってるの? お話したこともないくせに」と、センチメンタルでないジョーが大声をだした。
「パーティで会ったわ、それにあんたの話きいてれば、あの方がお|行儀《ぎょうぎ》のいいことだってわかるじゃないの。お母さまが|届《とど》けたけっこうなお薬だなんて、しゃれた言い方だわ」
「ブランマンジュのことね、きっと」
「ばかねえ、この子は! あんたのことよ、もちろん」
「そうだったの?」ジョーはそんなこと思ってもみなかったというように目を丸くした。
「こんなひとって見たことないわ! お|世《せ》|辞《じ》を言われてもわからないなんて」メグは言った、そんなことはなんでも|心得《こころえ》ている|若令嬢《わかれいじょう》といった顔つきである。
「お世辞だなんてくだらないわ。つまんないこと言って私の楽しい気持ちをこわさないでちょうだい。ローリーはいい少年よ、私は|好《す》きだわ、私、お世辞だのなんだのってつまんないこといってもらいたくないの。みんなであの人に親切にして上げましょうよ、あの人、お母さまがないんだもの。うちへ遊びに来てもいいでしょう、ね、お母さま?」
「ええ、よござんすとも、ジョー、あなたのお友だちは|大《だい》|歓《かん》|迎《げい》よ。メグはね、子供というものはいつまでも子供らしい方がいいのだっていうこと、おぼえていらっしゃいよ」
「私、子供じゃないわ、まだ十三にはならないけれど」エーミーが口をはさんだ。「ベスはどう思って?」
「私ね、私たちの『|天《てん》|路《ろ》|歴《れき》|程《てい》』のことを考えていたの」とベスは答えた。彼女はなにもきいていなかったのである。「私たち、いい子になろうと決心して『|泥《どろ》|沼《ぬま》』からはい上がり、『くぐり門』を通り|抜《ぬ》けてきたのだわね、そしてけわしい坂を登ってきたのね、そしてあのりっぱなものがいっぱいあるお|隣《となり》の大きなお家が、私たちの『美の|宮殿《きゅうでん》』になるかもしれない、なんて考えていたの」
「これからみんな、まずライオンのそばを通らなくちゃならないんだ」とジョーはその|前《ぜん》|途《と》が楽しみな様子でそう言ったのである。
第六章 ベス「美の|宮殿《きゅうでん》」を見いだす
大きな|館《やかた》は、まさしく「美の宮殿」となった。とはいえみんながそこへはいっていくのには相当の時がかかったし、なかでもベスがライオンのそばを通るのはなかなか|骨《ほね》が折れたのである。なんといっても一番のライオンは老ローレンス氏であった。しかし、氏が|彼《かの》|女《じょ》たちの家へ|訪《おとず》れてきて、|娘《むすめ》たちのひとりひとりにおもしろいことを言ったりやさしい言葉をかけたり、またはお母さまと|昔《むかし》の話をしたりしているうちに、もうだれも氏をこわいと思わないようになった。ただ|臆病《おくびょう》なベスだけは|例《れい》|外《がい》だった。もう一つのライオンは彼女たちが|貧《びん》|乏《ぼう》でローリーがお金持ちだということだった。そのため、いろいろな|厚《こう》|意《い》を受けてもお返しをすることができないというので、彼女たちは気がひける思いをするのであった。ところがしばらくたつうちに、ローリーのほうでは|恩《おん》|恵《けい》を受けているのは自分のほうだと思い、マーチ夫人の母親らしいもてなしや姉妹たちとの楽しいつきあい、また彼女たちの|質《しっ》|素《そ》な家で受ける|慰《い》|安《あん》などに対して、十分な|謝《しゃ》|意《い》を表すことができないで|困《こま》っているのだということがわかった。これ以来、みんなは|自《じ》|尊《そん》|心《しん》をすてて、どっちの厚意が大きいかなどと考えることをやめ、お|互《たが》いに親切をつくし合うことにした。
それからはいろんな楽しいことが次々と起こった。新しい|友情《ゆうじょう》が春の|若《わか》|草《くさ》のように|萌《も》え出したのである。みんながローリーを|好《す》きになった。ローリーはローリーでひそかに「マーチのお|嬢《じょう》さんたちはみんな、ほんとにりっぱな方たちばかりです」と先生に告げたほどだった。若い者|特《とく》|有《ゆう》の気持ちのよい熱心さで、みんなはこのひとりぽっちの少年を|仲《なか》|間《ま》に入れてたいせつにした。また少年のほうではこの|飾《かざ》り気のない気持ちをもった少女たちとの|無《む》|邪《じゃ》|気《き》なおつきあいに、なんともいえぬ楽しさがあることを知ったのである。母親も女のきょうだいもなかったので、|彼《かれ》はみんなから感化を受けるのも早かった。彼女たちの|忙《いそが》しそうな、元気のいい生活ぶりをみると、これまでの自分の|怠《たい》|惰《だ》な|暮《く》らし方が|恥《は》ずかしくなった。彼はもう本にはあきていたので、今度は人のほうがおもしろくなってしまい、おかげでブルック先生ははなはだおもしろからぬ|成績表《せいせきひょう》をつくらなくてはならなかった。というのは、ローリーはちょいちょいずる休みをして、マーチ家へ|逃《に》げてってしまったからである。
「心配は|無《む》|用《よう》じゃて。今は休みにしておいて、あとで|埋《う》め合わせをつけてやってくださらぬか」とお|年《とし》|寄《よ》りは言うのであった。「|隣《となり》の|奥《おく》さんは、あれは勉強が|過《す》ぎているので、|若《わか》い者と遊ばせたり運動させたりすることが必要じゃと申されるのじゃ。|奥《おく》さんの言われることはもっともなのじゃろう。わしはまるであれのお|祖《ば》|母《あ》さんみたいにあれを大事にしすぎたよ。ま、あれが喜んでいる間は|好《す》きなようにさせておかっしゃれ、|隣《となり》の|尼《あま》|寺《でら》へやっておくぶんには、あれが悪くなるはずはありませんのじゃ、マーチの奥さんはわしらよりもあれのことを気づかってくださるでな」
全くのところ、彼らはなんと楽しい日々を|過《す》ごしたことだろう! |芝《しば》|居《い》に活人画[#訳注:有名な絵や劇の場面をまねして楽しむあそび]、そりあそびにスケート、古風な客間での楽しい夕べ夕べ、ときにはお隣の大きな家でにぎやかな小パーティを|催《もよお》すこともあった。メグはいつでも温室の中をさまようことができ、好きなだけ|花《はな》|束《たば》をつくることもできた。ジョーははじめての図書室でがつがつと本をむさぼり読み、彼女流の|批評《ひひょう》を試みてはお|年《とし》|寄《よ》りのお|腹《なか》の皮をよじらせた。またエーミーはさまざまの絵の|模《も》|写《しゃ》をして思うさま美の世界を楽しんだ。そしてローリーはすこぶる感じのいい|態《たい》|度《ど》で|館《やかた》の主ぶりを|発《はっ》|揮《き》したのである。
けれどもベスは、あのグランドピアノにあこがれぬいていながらも、メグの言う「|恵《めぐ》みの館」へのり|込《こ》む勇気がどうしても出てこなかった。一度はジョーといっしょに行ってみたのだが、お年寄りは彼女の気の弱いことを知らないで、いかつい|眉《まゆ》の下から彼女を見すえ、大きな声で「やあ!」といったので、そのびっくりしたことと言ったら、あとでお母さまに「足ががくがくふるえたの」と言ったほどであった。彼女は家へ|逃《に》げるようにして帰ると、いくら|大《だい》|好《す》きなピアノがあったって、もうあそこへはけっして行かないと言い切ったのである。どんなになだめてもすかしても、彼女の|恐怖《きょうふ》をとり去ることはできなかった。そのうちにどうしたはずみかこのことがローレンス氏の耳にはいったので、氏はその|事《じ》|件《けん》の|償《つぐな》いに乗り出した。ちょいちょい|訪《ほう》|問《もん》しているうちにあるとき、氏は話題をそれとなく音楽のほうに向け、これまでに会ったことのある大歌手だとか、きいたことのあるりっぱなオルガンだののことを、それからそれへと話すのであった。氏の語るそういう|逸《いつ》|話《わ》はとてもおもしろかったものだから、ベスもいつもの|離《はな》れたすみっこに引っこんでいることができず、|恍《こう》|惚《こつ》としてだんだん近くへ|寄《よ》ってきた。お|年《とし》|寄《よ》りの|椅《い》|子《す》のうしろまでくると彼女は止まり、そこに立ったまま、大きな目をみひらき、やりつけないことをやったのに|興《こう》|奮《ふん》して|頬《ほお》を赤くしながらきき入るのであった。ローレンス氏は彼女のことなどは|蠅《はえ》が一|匹《ぴき》とまったほどにも気にとめないふうで、マーチ夫人とローリーの勉強だの先生方のお話などをしていた。がそのうち、ふと思いついたかのように夫人に向かって言った、――
「|孫《まご》はこのごろあまりピアノをやらないようでわしは喜んどりますよ、なにしろあまり身を入れすぎましたからな、しかしピアノというものは使わんでおくとわるくなります。お|宅《たく》の|嬢《じょう》さんのうち、どなたかちょこちょこきて|稽《けい》|古《こ》をしてくださる方はありませんかの? ほんの調子を合わせておくだけでいいのじゃが、|奥《おく》さん」
ベスは思わず一足前へ進み出た。そして手をたたきそうになったのをやっとのことでぎゅっと|握《にぎ》りしめた。これこそおさえ切れない|誘《ゆう》|惑《わく》というものである。あのりっぱな楽器で練習するなんて、考えただけで息の根が止まりそうだった。マーチ夫人がまだなんとも答えないうちにローレンス氏はひとりうなずき、にこにこしながら重ねて言った、――
「だれにも会ったりすることはいらんので、来たいときに来なさればいいのじゃ。わしはずっと離れた|書《しょ》|斎《さい》のほうに引っ|込《こ》んどる。ローリーはめったに家にはおらんのじゃし、|召《め》し|使《つか》いどもも九時すぎには客間には近よらんことになっとるでな」ここで彼は立ち上がり帰り|支《じ》|度《たく》を始めた。ベスはいよいよ口を|利《き》こうと決心した。この最後の協定をきいたからには、もはや思い残すところはなかったのである。「では今申したことを|嬢《じょう》さんがたに伝えてくだされ、なに、だれもきたくなければ、それでもいいのじゃ」
このとき一つの小さな手がお|年《とし》|寄《よ》りの手の中にすべり|込《こ》んだ。ベスは|感《かん》|激《げき》のおももちで|老《ろう》|紳《しん》|士《し》をあおぎ見、おどおどしながらも|一生懸命《いっしょうけんめい》で言った、「おじいさま、私たちまいりたいんでございます。とてもとても!」
「あんたが音楽|好《ず》きのお子さんかの?」彼はもう「やあ!」なんて言ってびっくりさせずに、やさしく彼女を見おろしながら|尋《たず》ねた。
「ベスと申します。音楽は大好きでございます。私、ほんとにどなたもおききにならないのでしたら、――あの、お|邪《じゃ》|魔《ま》でないのでしたら、うかがいたいとぞんじます」と彼女は言い直した。失礼ではなかったかと気になったのだ。そういいながらも彼女は、自分の|大《だい》|胆《たん》さにぶるぶるふるえてくるのであった。
「人ッ子ひとりいませんわい、|嬢《じょう》ちゃんや。|邸《やしき》は半日からっぽじゃ、|遠《えん》|慮《りょ》なくきて思うぞんぶん鳴らしてくれればありがたいのじゃ」
「ご親切にありがとうございます」
ベスはお|年《とし》|寄《よ》りにやさしく見おろされて|頬《ほお》をばら色にそめた、でももう彼女はちっともこわいなどとは思わず、|感《かん》|謝《しゃ》をこめてその大きな手を|握《にぎ》った、それよりほかに彼から|与《あた》えられた|尊《とうと》い|贈《おく》り|物《もの》に対して謝する言葉を知らなかったのである。お年寄りは彼女の|額《ひたい》にかかる|髪《かみ》の毛をそっとなで上げ、身をかがめてキッスしてやった、そしてだれもきいたことのないようなしみじみした調子で言った、――
「わしには|昔《むかし》あんたのような目をした|娘《むすめ》がありました、しあわせを|祈《いの》りますぞ。ではごきげんよう、|奥《おく》さん」そして|老《ろう》|紳《しん》|士《し》はそそくさと立ち去った。
ベスはお母さまとふたりで|夢中《むちゅう》になって喜び、姉さんたちは|留《る》|守《す》だったので、せめて病人の人形たちにこの光栄を分かとうと|駆《か》けだしていった。その夜彼女はなんと|快《かい》|活《かつ》に歌ったことだろう、そして夜中にはピアノのつもりでエーミーの顔の上を|弾《ひ》きまくって目をさまさせ、なんとみんなに|笑《わら》われたことだったろう。次の日、|老若《ろうにゃく》ふたりの|紳《しん》|士《し》が出かけたのを見すまして、ベスは二、三度行きつもどりつしたあげく、|首《しゅ》|尾《び》よくわきの門をはいり、ハツカネズミのようにこっそりと客間に到達した。ここに彼女のあこがれの品が|鎮《ちん》|座《ざ》ましますのだ。ピアノの上には、もちろん|偶《ぐう》|然《ぜん》なのだろうが、いくつかの美しいやさしい|譜《ふ》|本《ぼん》がおいてあった。いく度か耳をすましたりあたりを見回したりしたのち、ベスは思い切って|震《ふる》える指をその大きな楽器の上に下ろした。たちまちのうちに彼女は、心配も自分自身もなにもかも|忘《わす》れて、音楽がかもしだす|得《え》もいわれぬ喜びに|浸《ひた》り切ってしまった、それはまるで|大《だい》|好《す》きなお友だちの声のようであった。
ハンナがお昼の|迎《むか》えにくるまで、彼女は|弾《ひ》きつづけた。帰っても彼女は少しもご飯など|欲《ほ》しくはなく、ただこのうえもなくしあわせそうにすわったまま、にこにこと|皆《みな》を見ているだけだった。
それ以来、ほとんど毎日のように茶色の小さな|頭《ず》|巾《きん》が|生《いけ》|垣《がき》をくぐりぬけるようになり、広々とした客間は、見えざる音楽の|妖《よう》|精《せい》の部屋となった。ローレンス氏が、たびたび|書《しょ》|斎《さい》の|扉《とびら》を開けて、氏の|好《この》みに合った|昔風《むかしふう》の曲に耳を|傾《かたむ》けることなど、彼女は|夢《ゆめ》にも知らなかったし、ローリーが|廊《ろう》|下《か》に立ち番をして|召《め》し|使《つか》いを追っ|払《ぱら》っているのを見たこともなかったのである。|楽《がく》|譜《ふ》|架《か》にのせてある練習本や新しい歌の本なども、とくに自分のためにおいてあるのだなどとは、一度も考えたことはなかった。それだから、氏が家にきて彼女と音楽の話をするときに、いつも自分の役にたつようなことを話してくださるとは、なんと親切な方だろう、と思うばかりだったのである。こういうわけで彼女は心から楽しい日を送るようになり、だれもがそうとはかぎらないが、彼女としては、今までの願いが全部かなえられたと思うのであった。あとでもっと大きなご|褒《ほう》|美《び》が彼女に|与《あた》えられたというのも、ひとえに彼女がこの|恵《めぐ》みに対してこうまで|感《かん》|謝《しゃ》の念を|厚《あつ》くしたためであろうと思われる。いずれにせよ、ベスは二つの恵みを|授《さず》かるにふさわしい|娘《むすめ》であったのだ。
「お母さま、私、ローレンスさんに|上《うわ》|靴《ぐつ》をつくってさし上げようと思うの、だってあの方私にとてもご親切でしょう、お礼をしなくちゃいけないと思うんですけど、ほかになにもできないでしょう、いいかしら?」あの|特《とく》|筆《ひつ》すべきお|年《とし》|寄《よ》りの|訪《ほう》|問《もん》があってから、二、三週たったときベスはこう言ってきいた。
「ようござんすともね、お喜びになりますよ。お礼としてほんとにいい思いつきね。姉さんたちも手伝ってくださるだろうし、お母さまも材料を買って上げましょうね」とマーチ夫人は答えたが、ベスは自分からなにか|頼《たの》むということのめったにない子だったから、この願いをかなえてやるのが|特《とく》|別《べつ》うれしいのであった。
メグやジョーといっしょにああでもないこうでもないとさまざま|評議《ひょうぎ》をこらしたあげく、型もきまり、材料も買い|調《ととの》えられて、いよいよ上靴の製作が始まった。|濃《こ》い|紫地《むらさきじ》に、落ち着いてしかも明るい|三色《さんしょく》すみれのひとむらを|浮《う》き出させるのは、まことに|当《とう》を|得《え》て美しいということになった。ベスは朝は早くから夜おそくまで、ときどきむずかしいところで頭をもたげるきりで、せっせと仕事をつづけた。彼女は手先の速い縫い子だった、それでみんながあきあきしないうちに上靴はでき上がってしまった。それから彼女は短い|簡《かん》|単《たん》な手紙を書き、ローリーの手をかりて、ある朝、お|年《とし》|寄《よ》りが目をさまさないうちに、|書《しょ》|斎《さい》の|机《つくえ》の上にひそかにのせておいたのである。
このさわぎが一段落告げたあと、ベスはどんなことになるだろうと心待ちにしていた、なんの音さたもないままにその日は|過《す》ぎ、次の日も半日|経《た》ってしまった。彼女は変わり者のお友だちを|怒《おこ》らせたのではあるまいかと心配になりだした。二日目のお昼過ぎ、ベスはお使いのついでに病人形のジョアナに|日《にっ》|課《か》運動をさせようと表に出た。そうしてやがて家の方へ向かって通りを歩いてくると、客間の|窓《まど》から三つの、いや四つの頭が出たり引っ|込《こ》んだりしているのが見えた。彼女の|姿《すがた》を見つけるやいなや五、六本の手が|振《ふ》られ、みんなのうれしそうな声がきゃあきゃあと|叫《さけ》んだ。
「おじいさまからお手紙よ。早くきて読んでごらんなさい!」
「ベス! おじいさまがあなたにくだすっ――」とエーミーがみっともないほど力を入れて身ぶり手ぶりをまぜながら言いかけると、ジョーはみなまで言わせず、ぴしゃりと窓を|閉《し》めてしまった。
ベスはわくわくしながら足を早めた。戸口のところでみんなはベスをつかまえ、まるで|凱《がい》|旋《せん》の行進のようにして客間へ連れていき、一せいに指さしながら|異《い》|口《く》|同《どう》|音《おん》に言った、「あれごらんなさい! あれ!」ベスは見た、そしてうれしさと|驚《おどろ》きで青くなった、そこには小さな|竪《たて》|型《がた》のピアノがおいてあった。つやつやした|蓋《ふた》の上には「エリザベス・マーチ|嬢《じょう》」に|宛《あ》てた一通の手紙が、|看《かん》|板《ばん》のようにのっていた。
「私に?」とベスは息も切れぎれに言ったきり、今にもそこへ|倒《たお》れてしまいそうな気がしてジョーのからだにつかまった。それはまったく|圧《あっ》|倒《とう》されそうな|出《で》|来《き》|事《ごと》だったのである。
「そうよ、すっかりあんたのよ、ベスちゃん! すてきな方じゃないの? 世界中でいちばんいいおじいさんだと思わない? かぎは手紙の中にあるわ。開けやしないわよ、でもみんななんて書いてあるか見たくってたまんないのよ」ジョーは妹を|抱《だ》きしめ、手紙を|渡《わた》しながら大声で言った。
「読んでちょうだい、私読めないわ、なんだかへんな気持ちがして。ああ、あんまりよすぎるわ!」ベスはりっぱな|贈《おく》り|物《もの》にろうばいしてしまって、ジョーのエプロンに顔を|埋《うず》めた。
ジョーは手紙を開けたとたんに|笑《わら》いだした、彼女の目にはいった最初の言葉は次のようなものだったのである、――
『|拝《はい》|啓《けい》――
「あら、いいのね! 私にもだれかそんなふうなお手紙くださるといいわ!」とエーミーが言った、彼女はこの|昔風《むかしふう》な書き出しを、たいそう上品なものと思ったようである。
『老生はこれまで数多くの|上《うわ》|靴《ぐつ》を使用いたしまいり|候《そうら》えども、|貴嬢《きじょう》がお贈り|越《こ》しくだされし品ほど、足に合いたる品を使用いたせしことは、いまだかつて|無《これ》|之《なき》|次《し》|第《だい》に|候《そうろう》。
|三色《さんしょく》すみれは老生が最も|好《この》める花に|有《これ》|之《あり》、今後もこのぬいとりを見候ごとに、そのやさしき贈り主をおしのび申すべく|候《そうろう》、よっていささか|御《お》|礼《れい》のしるしとして、老生が失いし小さき|孫娘《まごむすめ》のかたみの品をお贈りする光栄をこの「老紳士」にお|許《ゆる》しくだされ|度《たく》、|伏《ふ》してお願い申し上げ候。
終わりに|臨《のぞ》み、心より御礼を申し|述《の》べると共に|御《おん》|身《み》のご多幸を|祈《いの》り上げ候。
[#ここから3字下げ]
|謝《しゃ》|意《い》に満ちたる友にして|賤《いや》しき|僕《しもべ》
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]ジェームズ・ローレンス
マーチ嬢 |御《み》|許《もと》へ』
「ほうら、ベス、こんな|名《めい》|誉《よ》って、たしかに|自《じ》|慢《まん》していいわよ。ローリーが言ってたけど、ローレンスさんは、なくなったお孫さんをとてもかわいがっていらしたんですって、そしてその方の物はなんでも大事にしまってあるんだってさ。まあ考えてごらん、あんたにくだすったのはその方のピアノなのよ! あんたのその大きな青い目と、音楽|好《ず》きのおかげよ」わなわなとからだをふるわせ、今までにもないほど|興《こう》|奮《ふん》していたらしいベスの気持ちをしずめようと、ジョーはこんなふうに言った。
「ちょっとごらんなさいよ、この|蝋《ろう》|燭《そく》|立《だ》ての細工のいいこと、それにこのりっぱな緑の|絹《きぬ》、まん中に金色のばらが|縫《ぬ》い|縮《ちぢ》めてあるわ、それにこのきれいな|楽《がく》|譜《ふ》|掛《か》けに|椅《い》|子《す》に、すっかりそろってんのね」とメグは楽器の|蓋《ふた》をあけ、中のりっぱなところをみんなに|示《しめ》した。
「『|賤《いや》しき|僕《しもべ》、ジェームズ・ローレンス』だって。あの方があなたにこう書いてくだすったのねえ、私みんなに教えて上げるわ、みんなすてきがるわよ」エーミーは手紙の|文《もん》|句《く》がよほど心に残ったらしい。
「やってごらんなさいまし、|嬢《じょう》さま、そのめんこいピアノの音をきかせていただきたいもので」ハンナも言った、彼女はつねに家族の者と喜び悲しみを共にしてきたのである。
そこでベスは|弾《ひ》き出した。みんなは、こんなすばらしいピアノはきいたことがない、と言った。それはたしかに新しく|調律《ちょうりつ》されたもので、少しの|狂《くる》いもないのであった。けれどもそれがいかに完全なものであったにしろ、真の|魅力《みりょく》は、ベスが美しい白と黒のキーにやさしく指をふれ、ぴかぴかのペダルをふんだときに、このピアノの上によりかかっているみんなのうれしそうな顔の中でもとりわけうれしそうな顔の中にこそ、あったのだと思われる。
「あんたお|隣《となり》へ行ってお礼を言わなくっちゃ」とジョーがからかい|気《ぎ》|味《み》に言った。この子がほんとに出かけていくなどということは、まずもって考えられないことである。
「ええ、そのつもりよ。今うかがおうかしら、また考えているうちにこわくなるといけないから」とベスは家族一同をたまげさせておいて、落ち着いて庭に下り、|垣《かき》|根《ね》をくぐって、ローレンス家の|扉《とびら》の中へ消えていった。
「へーえ、ふしぎなこともあるもんで、|婆《ばば》はもう死んでも|惜《お》しくはございませんよ。ベスさまはピアノでおかしくならっしゃったようでごぜえます。どうして正気では行きなさるものではない」彼女のあとを見送りながらハンナは|叫《さけ》び、きょうだいはこの|奇《き》|跡《せき》の前に口をきく者もなかった。
このあとでベスがしたことを見たならば、彼女たちの|驚《おどろ》きはまだまだ|増《ま》したことであったろう。読者よ、私の言うことを信ずるならば、彼女は何を考える|暇《ひま》もなく、つかつかと|書《しょ》|斎《さい》の戸口に行きドアをたたいたのである。|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》な声で、「おはいり!」と言うのがきこえると、彼女はすっと中へはいって、あっけにとられているローレンス氏の前まで進み、手を差しのべ、少し|震《ふる》える声で言った、「私、お礼にまいりましたの、だって、あの――」と言ったきりあとがつづかなくなった。おじいさまがあんまりやさしく見えたので、彼女は何を言うのだったか|忘《わす》れてしまい、ただこの方は大事なお|嬢《じょう》さんをなくされたのだ、ということだけを思い出し、両手を彼の首にまわしてキッスしたのである。
家の屋根が一ぺんに|吹《ふ》っ飛んだとしても、お|年《とし》|寄《よ》りはこれほど驚きはしなかったろうと思われる。しかし彼はうれしかった、そうだ、全くうれしかったのだ。彼はこの打ちとけた子供らしいキッスに感動し喜んだあまり、いつもの|苦《にが》|虫《むし》をかみつぶした顔もどこへやら、自分の小さな|孫娘《まごむすめ》がもどってきたような気持ちになって、ベスを|膝《ひざ》の上にのせ、そのしわだらけの|頬《ほお》を彼女のばら色の|頬《ほ》っぺたにすりつけたのであった。そのときからベスはお年寄りがこわくなくなり、そこにちょこんとすわったまま、|昔《むかし》からの|仲《なか》よしだったかのように安心しきって、いろいろとお話をするのであった。まことに愛こそはおそれをもしりぞけ、|感《かん》|謝《しゃ》の心は自負心をも|征《せい》|服《ふく》するものである。彼女が帰るときには、おじいさまはマーチ家の門まで送ってきてねんごろに|握《あく》|手《しゅ》をし、|帽《ぼう》|子《し》に手をかけ|会釈《えしゃく》をしてまたきびすを返して行った。その様子は堂々として|姿《し》|勢《せい》よく、|昔《むかし》の軍人らしくりっぱなものであった。
姉妹たちがこのなりゆきを見てしまうと、ジョーは満足のあまり|妙《みょう》な|踊《おど》りを踊り出し、エーミーはびっくりしても少しで|窓《まど》からころげ落ちそうになり、メグは両手を上げて|叫《さけ》んだのであった、「世の中が引っくり返るところだわ!」
第七章 エーミーの|屈辱《くつじょく》の谷
「あの方ほんとうのサイクロプス[#訳注:ギリシア神話の一眼の巨人。ギリシア読みではキクロプス]ね、そうじゃない?」ある朝、ローリーが馬にまたがり、|鞭《むち》を|一《ひと》|振《ふ》りあてながら、ひづめの音も高らかに通りかかったのを見て、エーミーがこう言った。
「どうしてさ、あのひとちゃんと目が二つあるわよ。しかも|特《とく》|別《べつ》りっぱなのだっていうのに」ジョーはむきになって|叫《さけ》んだ、|彼《かの》|女《じょ》は事、友だちに関しては、つまらないことにも|腹《はら》が立つのである。
「|私《わたし》、なにもあの方の目のことなんかいってやしないわ。馬に乗るのがおじょうずだってほめたのに、そんなに|怒《おこ》らなくたっていいじゃないの」
「まあいやだ! この子はセントー[#訳注:馬と人間との合体した怪物より乗馬の名人をこういう]のつもりなのよ、ローリーのことをサイクロプスだって」ジョーは|吹《ふ》き出しながら言った。
「そんなにばかにしなくてもいいわ、デーヴィス先生じゃないけれど、ちょっと |lapse of liugy《し た を す べ ら し た》 だけじゃないの」とエーミーは|自己流《じこりゅう》のラテン語でやり返してジョーの口を|封《ふう》じた、「私ただ、ローリーが馬に使うお金が、ほんのちょっぴりでも私にあったらと思ったんだわ」と彼女はひとり言らしく、その実きこえればいいと思いながらつけ加えた。
「どうして?」メグがやさしくきいた。ジョーはエーミーがまたまた|舌《した》をすべらしたのに、もいちど|吹《ふ》き出していたのである。
「とてもいるんですもの、だって私、たくさん借金があるのよ、|廃《はい》|品回収《ひんかいしゅう》のお金いただく番だって、まだ一月もあるでしょう」
「借金ですって、エーミー、どういうの?」メグもまじめな顔つきになった。
「あのね、私、少なくとも一ダースくらい、|塩《しお》|漬《づ》けのライムを借りてるの、私、お金いただくまでは返せないでしょう、お母さま、お店から借りるのいけないっておっしゃるから」
「すっかり言ってごらんなさい。このごろはライムがはやっているの? せんにはゴムの切れっぱしでボールをつくるのがはやってたけど」とメグはおかしいのを|我《が》|慢《まん》して言った、エーミーの顔はそれほど|真《しん》|剣《けん》でもあり、もったいぶってもいたのである。
「ね、こうなの、みんなだれだってライムを買うの、けちんぼだと思われるのがいやなら買わなくっちゃならないのよ。今はもうライムが大流行なの。|授業中《じゅぎょうちゅう》にも|机《つくえ》のかげでしゃぶってるし、お休み時間には|鉛《えん》|筆《ぴつ》だの、ビーズの指輪だの、紙人形だの、それからいろんな物と|換《か》えっこするのよ。だれか|好《す》きなお友だちがあると、その子にライムを上げるのよ、しゃくにさわる人だと目の前で食べてみせて一口もしゃぶらせないの、みんなかわりばんこにご|馳《ち》|走《そう》し合うのよ、私そりゃたくさんもらったんだけど、ちっともお返ししてないの、どうしてもお返ししなくちゃならないと思うわ、だってそれ信用|貸《が》しなんですもの」
「いくらあったらお返しができて、あんたの顔が立つの?」メグは|財《さい》|布《ふ》を出しながらきいた。
「二十五セントあったら十分以上よ、まだ五、六セントのこるからお姉さまにもご|馳《ち》|走《そう》できるわ、ライムお好きじゃないかしら?」
「あんまりね。私の分もあんたに上げるわ。じゃ、これお金――大事にお使いなさいよ、いくらでもあるわけじゃないんだから、ね」
「まあ、ありがと! おこづかいがあるっていいことなのね。私、|大《おお》|振《ぶ》る|舞《ま》いするわ、今週まだ一つもライム食べないんですもの。お返しが出来ないからなるべくもらわないようにしていたのよ、とてもほしかったんだけど」
次の日エーミーは少しおくれて学校へ行ったが、彼女は|机《つくえ》の引き出しの|奥《おく》の奥に、|湿《しめ》った茶色の紙包みをしまい|込《こ》む前に、それを|自《じ》|慢《まん》げに見せびらかさずにはいられなかったのは、|無《む》|理《り》もないことであった。たちまちのうちにエーミー・マーチはおいしいライムを二十四も(|途中《とちゅう》で一つたべたので)もっていて、みんなにご|馳《ち》|走《そう》するそうだといううわさが、彼女の「|仲《なか》|間《ま》」にひろがった。すると彼女に対する級友の|厚《こう》|遇《ぐう》ぶりはものすごいばかりになった。まず、ケーティ・ブラウンはその場で彼女を次のパーティに|招待《しょうたい》したし、メアリ・キングスレイはお休み時間まで|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を|貸《か》してやるといってきかなかった。それから、エーミーがライムを持ってなかったとき、|下《げ》|劣《れつ》な口をきいてひやかしたジェニー・スノーという皮肉な|令嬢《れいじょう》は、たちまち|斧《おの》を|隠《かく》して、ぞっとするほどむずかしい算数の答を教えて上げると申し出た。しかしエーミーは、「だれかさんのお鼻は低くっても、よそのひとつのライムはかぎつけられるし、いつもおすましやのくせにライムをもらうときだけはそうでもない」などと言ったスノー|嬢《じょう》の|胸《むね》を|刺《さ》すような言葉を|忘《わす》れてはいなかった。彼女はすぐさま「そんなに急にご親切にしてくださらなくともようございますよ、あなたには上げませんからね」という思いをこめてぐっとにらみ返し、「|雪娘《スノーガール》」の希望をぺしゃんこにつぶしてやったのである。
その朝、たまたまえらい人が学校を参観することになり、エーミーのじょうずに|描《えが》いた地図がおほめにあずかった。ミス・スノーにとっては、|仇敵《きゅうてき》が受けたこの|名《めい》|誉《よ》は|怨《うら》みの|炎《ほのお》を燃すもととなり、ミス・マーチのほうはわれこそは勉強家とばかり、|若《わか》い|孔雀《くじゃく》のように気取ったのだ。ところが、あわれ、おごれる平家は久しからず、|恨《うら》み重なるスノー|嬢《じょう》は、まんまと形勢を一変させて|敵《てき》を不幸におとしいれた。お客さまが|型《かた》どおりの|挨《あい》|拶《さつ》を残し、おじぎをして外に出るか出ないうちに、ジェニーは重大な|質《しつ》|問《もん》をするふりをしてデーヴィス先生のところにいき、エーミー・マーチが|机《つくえ》の中に|塩《しお》|漬《づ》けのライムをもってますと言いつけた。
さて、デーヴィス先生は、前々からライムを|禁《きん》|制《せい》|品《ひん》にすると申し|渡《わた》し、この|掟《おきて》を|破《やぶ》った最初の人間を|公衆《こうしゅう》の面前で竹の|笞《むち》で打つということも、おごそかに|断《だん》|言《げん》していたのである。この|辛《しん》|抱《ぼう》づよい先生は、長いことかかって苦心さんたんしたあげく、チューインガムを追放するのに成功したこともあるし、|没収《ぼっしゅう》した小説本や新聞でたき火をしたこともある。また|私設郵便局《しせつゆうびんきょく》をつぶし、顔をゆがめたり、あだ名をつけたり|漫《まん》|画《が》をかいたりすることを禁じ、およそひとりの男子が五十人もの手に負えない|小娘《こむすめ》どもをおとなしくさせるのに必要なことは、のこらずやってのけてきたのである。男の子だってなかなかの辛抱がいるものだ、それはたしかである! しかし、女の子ときたら、まずはかり知れないほどの|我《が》|慢《まん》がいる。根が|圧《あっ》|制《せい》|的《てき》で、教えることに対しては「ブリムバー先生」[#訳注:ディケンズの小説に出てくる小学校の校長先生、学問はあるが子弟の訓育法をわきまえぬ人]ほどの|手《しゅ》|腕《わん》も持ち合わせない|神《しん》|経《けい》|質《しつ》な男の先生方にとっては、ますますもってそうである。デーヴィス先生はギリシア語、ラテン語、代数は申すに|及《およ》ばず、およそ学と名のつくものは何学でも多大の|心得《こころえ》があったのでりっぱな先生といわれていたが、この先生は作法とか、道徳とか、|情操《じょうそう》とか、|模《も》|範《はん》とかいうようなものを|特《とく》|別《べつ》たいせつなものと考えていないように思われていた。まことにあいにくな時にエーミーは告げ口をされたものである。もちろんジェニーはそれを知ってのことであった。デーヴィス先生はその朝、|濃《こ》すぎるコーヒーを飲んだのにちがいない。おまけに東風が|吹《ふ》いていた、それはきまって先生の|神《しん》|経《けい》|痛《つう》にさわるのだ、また、生徒たちは先生が当然受けてしかるべき|尊《そん》|敬《けい》の念を表さない、と、こんなわけで、あまり上品とは言えないが、ある女生徒の|適《てき》|切《せつ》な言葉を借りると、「先生は|鬼《おに》|婆《ばば》みたいにぴりぴりしていて|熊《くま》のように気むずかしい」。「ライム」という言葉はまるで火薬に火をつけたよう、先生の|黄《き》ばんだ顔はさっと赤くなり、力まかせに|机《つくえ》をたたきつけたので、ジェニーははじきとばされたように自分の席にもどった。
「|皆《みな》さん、静かに!」
このおごそかな命令に|蜂《はち》の|巣《す》のような|騒《さわ》ぎはしずまり、青いのや黒いのや|灰《はい》|色《いろ》のや茶色なのや、五十人の目という目はおとなしく、先生の|恐《おそ》ろしい顔の上に注がれた。
「マーチさん、ここへきなさい」
声に応じてエーミーは立ち上がった。表面は平気を|装《よそお》っているが、ライムのことが気になって内心はびくびくものである。
「机の中にあるライムを持ってきなさい」彼女が席を|離《はな》れようとしたとき、不意にこういう命令がくだって彼女の足をすくませた。
「みんな持っていきなさんな」|隣《となり》の席の恐ろしく落ち着いた|令嬢《れいじょう》がささやいた。
エーミーはいそいで五つ六つふりおとし、心の中で、いやしくも人間らしい気持ちをもった人なら、このおいしい|香《かお》りをかげば|怒《いか》りもたちどころにやわらぐであろう、と思いながら、残りをデーヴィス先生の|机《つくえ》の上に|並《なら》べた。運わるくデーヴィス先生はこの大流行の|漬《つけ》|物《もの》のにおいが大きらいであった。そのむかむかした気持ちは彼の怒りをさらに|増《ま》した。
「これだけか?」
「もう少し」エーミーは口ごもった。
「みんな持ってきなさい、すぐに」
今ははやこれまでと、|仲《なか》|間《ま》のほうをちらと見ながら、エーミーは言われたとおりにした。
「もうたしかに残っていないね?」
「うそなんか申しません、先生」
「よろしい。ではこの|汚《けが》らわしい物を、二つずつ|窓《まど》のところへもっていって|捨《す》てなさい」
一せいにためいきがもれた、そのためいきは、最後の一つが捨てられてのぞみが全く消えはてたときには、|一《いち》|陣《じん》のはやてを|巻《ま》き起こしたほどだった。かくてご|馳《ち》|走《そう》は、少女たちの待ちあぐんだくちびるから|奪《うば》い去られてしまったのである。|恥《は》ずかしさと|腹《はら》だたしさで真っ赤になりながら、エーミーは死ぬような思いで十二回も行ったり来たりした。その|呪《のろ》われたライムが二つずつ――なんとまあ、丸々としておいしそうに見えたことよ――エーミーの手からしぶしぶおとされるたびに、表の通りからわき上がる|歓《かん》|声《せい》はいよいよもって少女たちをいても立ってもいられぬ思いに|駆《か》りたてた、というのは、それは彼女たちの|不《ふ》|倶《ぐ》|戴《たい》|天《てん》の|仇《かたき》であるアイルランド人の子供たちが、ご馳走を横どりして|凱《がい》|歌《か》をあげている声にほかならなかったからである。これは――これはあまりといえばあんまりだった。みんなは|頑《がん》|固無情《こむじょう》なデーヴィスにいきどおりと|哀《あい》|願《がん》の目を投げつけた。|疳《かん》のつよいライム|好《ず》きな|娘《むすめ》など、わっと|泣《な》き出したほどである。
エーミーが最後の往復をすませて席にもどると、デーヴィス先生はうす気味わるく「エッヘン!」と一つやって、それから一生|忘《わす》れられないような調子で言い|渡《わた》した。――
「みなさん、あなた方は先週、先生が言ったことをおぼえているでしょうね、先生はこんなことが起こったことをたいへん残念に思います、しかし、|規《き》|則《そく》を|破《やぶ》るわけにはいきません、それに先生はいったん自分の言ったことを取り消すなどということは|断《だん》じてしないのだ、マーチさん、手をお出し」
エーミーはびっくりした、そして思わず両手をうしろへ引っ|込《こ》め、|懇《こん》|願《がん》するようなまなざしで先生を見上げた、そのまなざしはなにか言おうにも口から出てこない言葉以上に、彼女をとりなしてくれた。彼女はどちらかといえば、「デーヴィスおやじ」(もちろんこれはあだ名だが)のお気に入りだった。だから、もしこのとき、こらえきれなくなったひとりの女生徒が、ちえっ! などといってその|憤《ふん》|激《げき》をまぎらしたりしなかったならば、先生だってその前言を取り消したかもしれない、と私は思うのである。その|舌《した》|打《う》ちはかすかなものではあったが、|気《きみ》|短《じか》な先生をいら立たせ、|犯《はん》|人《にん》の運命を決してしまった。
「手を出すのだよ、マーチさん!」これが彼女の無言の願いに対する|唯《ゆい》|一《いつ》の答であった。泣いたり|頼《たの》んだりすることは|自《じ》|尊《そん》|心《しん》が|許《ゆる》さない。エーミーは歯を食いしばり、|反《はん》|抗《こう》|的《てき》にぐっと頭をそらせて、小さな|掌《てのひら》を五、六回、ぴしぴし打たれるのを、少しもひるまずに|我《が》|慢《まん》した。それは数も多くはなく、ひどく|痛《いた》いわけでもなかったが、彼女にとっては同じことであった。生まれてはじめて人に打たれたのである。その|不《ふ》|名《めい》|誉《よ》が彼女には、先生にはり|倒《たお》されたのと同じくらい|深《しん》|刻《こく》なものに思われた。
「ではお休み時間まで|教壇《きょうだん》の上に立っていなさい」デーヴィス先生は言った、やり出したからには|徹《てっ》|底《てい》|的《てき》にやる決心をしたとみえる。
それは|残《ざん》|酷《こく》なことであった、席にもどって|仲《なか》のよい友だちの|慰《なぐさ》め顔や、少数とはいえ仲の悪い生徒たちの満足顔を見るのさえやっとの思いなのに、今受けたばかりの|恥《はじ》をさらして全級の前に立つなどということができるものであろうか。|一瞬間《いっしゅんかん》、エーミーはその場にぶっ倒れて|胸《むね》も|裂《さ》けよと|泣《な》き出したいような気がした。だが不当な|裁《さば》きを受けているということと、ジェニー・スノーとのことを考えると、その苦しみにもたえることができた。で、彼女はその不面目な場所に行き、今はいちめん顔の|海《うな》|原《ばら》のような教室の上部のストーヴの|煙《えん》|突《とつ》に目をすえて、少しも動かず青ざめて立ちつくした。少女たちは目の前にそんなあわれな|姿《すがた》を見ては、勉強もろくろく手につかないのであった。
それからの十五分間、|自《じ》|尊《そん》|心《しん》が強くて感じやすいこの少女は、|生涯忘《しょうがいわす》れ|得《え》ぬ|屈辱《くつじょく》と苦しみとに|耐《た》えたのであった。他の人たちにとっては、ばかばかしくつまらない|出《で》|来《き》|事《ごと》だったかも知れない、しかし彼女にとっては手ひどい|経《けい》|験《けん》であった。十二年間の生涯を彼女はただただ|愛情《あいじょう》によってはぐくまれ、こんどのように打たれたことなど、一ぺんもなかったのである。「家に帰ったら言わないわけにはいかないわ、みんな私にはあいそをつかすだろうな」こう考えるとそのつらさに|掌《てのひら》のひりひりするのも心のうずくのも|忘《わす》れてしまうぐらいだった。
十五分は一時間にも思われた。が、ついにおしまいがやってきた。「お休み!」彼女は今までこんなにうれしくこの言葉をきいたことがない。
「もうよろしい、マーチさん」とデーヴィス先生は言ったが、なんだか不安そうな様子であった。事実そうだったのである。
エーミーが|室《へや》を出ていくとき、彼に投げつけたうらめしそうな目つきを、先生は長く|忘《わす》れることができなかった。彼女はだれにも口をきかずとっとと|控《ひか》え|室《しつ》に行って、自分の物をかっさらい、心の中に|激《はげ》しく|誓《ちか》ったとおり「|永久《えいきゅう》」におさらばを告げた。家に帰ったときは悲しい気持ちだった。少したって姉さんたちが帰ってくると、さっそく|憤《ふん》|激《げき》のつどいが開かれた。マーチ夫人はあまり多く語らなかったが、気持ちは|乱《みだ》されたようだった、そして|苦《く》|難《なん》の|娘《むすめ》をこのうえもなくやさしくいたわった。メグははずかしめを受けた手にグリセリンと|涙《なみだ》をすり|込《こ》んでやった。ベスは自分のかわいい|子《こ》|猫《ねこ》たちでさえ、このような悲しみを|慰《なぐさ》める役にはたたないであろうと思った。ジョーは|有《う》|無《む》をいわさずデーヴィス先生を|縛《しば》っちまえといきまいた。ハンナまでがその「悪人」に対して|拳《げん》|骨《こつ》をふり回し、まるで先生が|擂木《すりこぎ》の下にでもいるかのように、夕食のじゃがいもをめったやたらにすりつぶした。
エーミーが|逃《に》げ帰ったことについては、|仲《なか》のいい友だち以外には気にもとめられなかったが、|眼《がん》|力《りき》の|鋭《するど》いお|嬢《じょう》さんたちは、デーヴィス先生が午後にはたいへんやさしくなり、またいつになく気弱くなっていることを見のがしはしなかった。ちょうど学校がひけようとしたとき、すごい|形相《ぎょうそう》をしたジョーが|現《あらわ》れ、ずかずかと先生の|机《つくえ》の前に行ってお母さまからの手紙を|手《て》|渡《わた》した。それからエーミーの持ち物をかきあつめると、こんないやな学校のちりを|払《はら》うのだと言わぬばかりに、|靴《くつ》ぬぐいの上でていねいに靴の|泥《どろ》をぬぐい落としてさっさと帰っていった。
「そうね、あなたは学校に行かなくともようござんす。その代わり、ベスといっしょに|毎《まい》|晩《ばん》少しずつ勉強してくださいよ」その晩、マーチ夫人はこう言った。「お母さまは|体《たい》|刑《けい》というものには|賛《さん》|成《せい》できません、ことに女の子の場合はね、それにデーヴィス先生のお|授業《じゅぎょう》ぶりも感心しないし、あなたのお友だちもあまりあなたのためにならないように思うのよ、だから他の学校に|移《うつ》すにしても、|一《いち》|応《おう》お父さまのご意見をうかがってからにしようと思います」
「ああよかった! みんな|退《たい》|学《がく》してあんなぼろ学校つぶれちまえばいいわ、あのおいしそうなライムのこと考えると気が|狂《くる》いそうになるわ」エーミーは|殉難者《じゅんなんしゃ》みたいな顔をしてためいきをついた。
「そんなものを失くしたことであなたがかわいそうだなんて思いはしませんよ。|規《き》|則《そく》を|破《やぶ》ったのですもの、先生のお言葉を守らなかったことに対して、|罰《ばつ》を受けるのは当然ですよ」というぴりっとしたお返事をきいて、エーミーは少しがっかりした。彼女はどこまでも|慰《なぐさ》めの言葉をかけてもらえるものと思っていたのである。
「じゃお母さまは私がみんなの前ではずかしめられたのがおうれしいの?」とエーミーは大きな声を出した。
「お母さまだったらね、子供のあやまちを直すのに、そういうやり方はしなかっただろうと思いますよ」と母は答えた、「でもね、もっとおだやかなやり方だったら、はたしてあなたのためになったかっていうと、そこはわからないと思うのよ。あなたはね、このごろどうもうぬぼれやさんになりかかってきましたよ、直すなら今のうちです。あなたにはいろいろの|才《さい》|能《のう》や長所もたくさんあるのだけれど、なにもそれを見せびらかさなくってもいいんですよ、うぬぼれというものはどんなにりっぱな才能もだいなしにしてしまうものです。ほんとの才能とか美徳とかいうものはいつかは人目につくものです、たとえつかなくったって、自分にはそういうものがある、それをりっぱに使っている、ということを考えてひとりで満足していればいいのです、なんといっても|謙《けん》|遜《そん》ということほど人をひきつけるものはありませんからね」
「そうです、そうです」すみのほうでジョーと|将棋《しょうぎ》をしていたローリーが|叫《さけ》んだ。「|僕《ぼく》の知ってるお|嬢《じょう》さんでほんとうにりっぱな音楽の才能のあるひとがいたんです。自分じゃちっとも気がつかないんですよ、ひとりでいるときなんかそりゃかわいい小曲をつくったりすることもあるのに、それも気がつかないんです。だれか教えてやったってほんとうにしなかったかもしれませんね」
「そんないい方、私お友だちになりたかったわ、いろいろ教えていただけたかもしれないんですもの、私ほんとに頭がわるいから」ローリーのそばに立ってじっと聞いていたベスが言った。
「ようくごぞんじですよ、その方はだれよりもいちばんよくあなたに教えてくれてるんだから」ローリーはその|快《かい》|活《かつ》な黒い目に、からかいの気持ちをただよわせて彼女を見やりながら答えた。ベスはそんな思いもよらないことをきかされてすっかり|仰天《ぎょうてん》し、さっと顔をあからめてソファのクッションに|隠《かく》れてしまった。
ジョーは気に入りのベスをほめてもらったお礼心にローリーに勝ちを|譲《ゆず》った、ベスはもうそんなにほめられては、いくらみんなが|頼《たの》んでもピアノを|弾《ひ》こうとはしなかった。で、ローリーが|腕《うで》をふるって弾くことにし、|特《とく》|別《べつ》陽気な気分になっていたので、|愉《ゆ》|快《かい》そうに歌までうたった。彼はマーチ家の人々にはめったにふきげんなところを見せたことがなかったのである。彼が帰ってしまうと、その|晩《ばん》ずっと思いに|沈《しず》んでいたエーミーが、とつぜん何か新しい考えがわいたらしく、こう言った、――
「ローリーはなんでもじょうずなひとなの?」
「そうよ、あの方はごりっぱな教育も受けていらっしゃるし、そのうえずいぶん才能もある方です。|甘《あま》やかされて悪くさえならなければ、りっぱな方におなりでしょうよ」と母は答えた。
「それにあの方、うぬぼれやさんじゃないんでしょう?」エーミーはきいた。
「ちっともよ。そこがあの方のいいとこ、私たちもみんな|大《だい》|好《す》きなところなのね」
「そうなのね。いろいろのことがよくできて、お品がよくて、それでいて見せびらかしたりいばったりしないのは、ほんとうにいいことなのね」とエーミーは考え深げに言った。
「そういうことはひかえ目にしていれば、自然と動作や言葉のはしに表れてくるものです。けっしてこちらから見せびらかすには及びません」とマーチ夫人は言った。
「あんたがいろんな|帽《ぼう》|子《し》だの洋服だのリボンだの、一ぺんに着たりかぶったりして、これだけありますと人に見せる必要がないのとおんなじことさ」とジョーがつけ加え、お説教は|大《おお》|笑《わら》いのうちにおしまいとなった。
第八章 ジョー、|魔王《アポリオン》に会う
「お姉さまたち、どこへいらっしゃるの?」ある土曜日の午後、エーミーは姉たちの部屋にはいってきて、ふたりが外出の|支《し》|度《たく》をしているのをみると、こう|尋《たず》ねた、そのこそこそした様子が|彼《かの》|女《じょ》の|好《こう》|奇《き》|心《しん》をそそったのである。
「どこだっていいわよ。子供はいろんなこときくもんじゃありません」ジョーがつっけんどんに答えた。
さて、だれでも子供のころ、何が|癪《しゃく》にさわるといって、そんなふうに言われるのほど癪にさわることはないものである。「いい子だから、あっちへお行き」なんて言われるのはなおさらである。エーミーはこんなふうにあしらわれてぐいとそり身になり、たとえ一時間かかろうとも、|秘《ひ》|密《みつ》をききだすまではねばってやろうと決心した。で、メグならば自分のいうことは何事でもおしまいにはきいてくれるので、そっちのほうを向いて、|甘《あま》えた調子で言った、「ねえ、教えてちょうだい! |私《わたし》もいっしょに行ってもいいんでしょう、ベスはお人形さんで|大《おお》|騒《さわ》ぎだし、私、なにもすることがなくて、とてもつまんないのよ」
「だめなのよ、ね、あなたはご|招待《しょうたい》されてないんだから」とメグがやり出すと、ジョーはじれったそうにさえぎった、――
「だめっ、メグ、だまってないとめちゃくちゃになっちまうじゃないの。あんたは行けないのよ、エーミー。だからもう赤ちゃんの|真《ま》|似《ね》やめてぴいぴい言うのよしなさい」
「ローリーといっしょにどっかへ行くんでしょう。ちゃあんと知ってるわ。|昨《さく》|夜《や》ソファのところでこそこそ話したり|笑《わら》ったりしていたでしょう、私がはいって行ったらやめたりして。ね、あの方とごいっしょなんでしょう?」
「ええ、そう。もうおとなしくしてうるさくするのおよしなさい」
エーミーは口をつぐみ、代わりに目を動かしてメグがポケットに|扇《せん》|子《す》をしのばせたのを見てしまった。
「わかった! わかった!『七つのお|城《しろ》』を見に、お|芝《しば》|居《い》へ行くんだ!」と彼女は|叫《さけ》んだ、そして|断《だん》|乎《こ》としてつけ加えた、「私だって行くわ、お母さまあれなら見てもいいっておっしゃったんですもの。私、お|札《さつ》だって持ってるわ、早く言ってくださらないなんて|卑怯《ひきょう》よ」
「ちょっと私の言うことをきいてちょうだい、そしてききわけよくするのよ」とメグはなだめにかかった。「お母さまはね、あなたは今週はまだ行かないほうがいいと思っていらっしゃるのよ、その目がなおってからでないと、この妖精劇の光線でまた悪くなるといけないからなの。来週ベスやハンナといっしょに行って、うんとよく見ていらっしゃいね」
「お姉さまたちやローリーと行くのでなくっちゃ、半分もおもしろくないわ、ねえ、行かして。私長いこと|風《か》|邪《ぜ》ひいてて、どこへも行けなかったじゃありませんか。なにかおもしろいことしたくてたまらないのよ。ねえ、メグ。私おとなしくしてるから」エーミーはこのうえなくあわれっぽい様子をしてせがんだ。
「つれて行く? たくさん着せてったら、お母さまも心配なさらないと思うけど」メグがまたやりだした。
「この子が行くんなら私やめる。そうすりゃローリーだってつまんないだろうと思うわ。それに第一失礼よ、私たちだけ|誘《さそ》ってくれたのにエーミーまで引っぱっていくなんて。よばれもしないところへ、よくものこのこ出かける気になるわね」とジョーはにくにくしげに言った。せっかく自分が楽しみをしようというのに、小うるさい子供のめんどうをみるなんて、考えてもぞっとするのであった。
彼女の言葉つきや|態《たい》|度《ど》はすっかりエーミーを|怒《おこ》らせてしまった。彼女はもう|長《なが》|靴《ぐつ》に足をつっこみながらいまいましげに言った。「私行くわ、行くわ。メグがいいって言ったんですもの。自分でお金だって|払《はら》うから、ローリーなんかのお世話にはなりませんようだ」
「あんたは私たちといっしょにはすわれないよ、私たちの席はとってあるんだからね。そうかといってひとりでおくわけにはいかないから、ローリーが席を|譲《ゆず》るにきまってる、そうしたら私たちの楽しみはめっちゃくちゃさ。さもなきゃあのひと、あんたのためにもう一|枚《まい》|切《きっ》|符《ぷ》を買うかもしれないけど、そんなのってないよ、よばれもしないのに。そこ一歩でも動いたら|承知《しょうち》しないよ! おとなしく引っ|込《こ》んでるほうがいいや」ジョーは大急ぎのあまり指を|突《つ》いたりしたのでよけいにむしゃくしゃして、こう言って|叱《しか》りつけた。
エーミーは|片《かた》|方《ほう》の足に|靴《くつ》をつっかけたまま、|床《ゆか》の上にすわり込んでわんわん|泣《な》き出した。メグがじゅんじゅんとさとしていると、階下のほうからローリーの|呼《よ》ぶ声がしたので、ふたりの少女は泣いてる妹をそのままにして急いで階段を下りた。エーミーはときおりおませな|態《たい》|度《ど》を|忘《わす》れ|果《は》ててだだッ子みたいな|真《ま》|似《ね》をするのであった。三人が家を出ようとしたときに、エーミーはてすりのところから、おどかすような調子で叫んだ、――
「あとで|後《こう》|悔《かい》するわよ、ジョー・マーチ! みていらっしゃい」
「くだらない!」とジョーはやり返し、ぴしゃっと|扉《とびら》を|閉《し》めた。
三人はとても楽しく見物した。「ダイアモンド湖の七つのお|城《しろ》」は申し分なくきらびやかですてきだったのである。しかし、|道《どう》|化《け》た|赤《あか》|鬼《おに》だのぴかぴかした|妖《よう》|精《せい》だの、りっぱな王子さまだの王女さまだのが出てきても、ジョーの楽しさのなかにはほろ|苦《にが》いものが一しずく宿っていた。妖精の女王の黄色い|巻《まき》|毛《げ》を見ればエーミーを思いだし、|幕《まく》|合《あい》には妹がいったい何をして自分を「|後《こう》|悔《かい》」させるつもりなんだろうと考えておもしろがりもした。彼女とエーミーとはこれまでにもたびたび活発な小ぜりあいをやってきた、二人とも|疳癪《かんしゃく》もちで、きっかけさえあればすぐにかっとなりやすい。エーミーはジョーをじらし、ジョーはエーミーを|怒《おこ》らせる。そしてときどき|大《だい》|爆《ばく》|発《はつ》を起こしてはふたりともあとで|恥《は》ずかしくなるのであった。年は上でもジョーは少しも|自《じ》|制《せい》|心《しん》というものを持ち合わせなかった。それだから始終自分にもんちゃくを起こさせる|疳《かん》の虫をおさえるにはなみなみならぬ苦労をするのであった。彼女は怒っても長つづきはしなかった、そしてすなおに自分のあやまちを|認《みと》めたあとは心から後悔し、よくなろうと努めるのだった。姉妹たちは、ジョーは怒ったあとでは必ず天使のようになるのだから、怒らしたほうがいいなどと言ったりしたくらいである。気の毒なことに、ジョーはよくなろうと必死になって努めるのだが、彼女の心の中の敵はじきにかっとなって彼女を打ち負かすのであった、これを|征《せい》|服《ふく》するのには長い年月のしんぼうがいった。
ふたりが家へ帰ってみると、エーミーは客間で本を読んでいた。姉たちがはいってきても彼女はまだぷんとした様子で、本から目も|離《はな》さねば、なに一つきこうともしなかった。ベスがい合わせて、いろいろと|尋《たず》ね、目のあたりに見るように、こまごまと|芝《しば》|居《い》の話をしてもらわなかったら、エーミーだって|恨《うら》みも|忘《わす》れて|好《こう》|奇《き》|心《しん》の|虜《とりこ》となっていたかもしれないのである。ジョーはよそいきの|帽《ぼう》|子《し》をしまいに二階へ上がって、まず|箪《たん》|笥《す》のほうに目をやった、というのは、この前の|喧《けん》|嘩《か》のときエーミーは、ジョーのいちばん上の引き出しを|床《ゆか》の上にひっくり返して|腹《はら》いせをしたからである。が、なにもかもきちんと元のままだった、大急ぎで|押《お》し|入《い》れや|鞄《かばん》や|箱《はこ》などをざっとのぞいてみてから、ジョーはエーミーが自分の意地悪をゆるし|忘《わす》れてくれたのだときめた。
ところがそれは|大《おお》|間《ま》|違《ちが》いだった。あくる日、ジョーは|大《おお》|騒《そう》|動《どう》のもととなるようなことを発見した。夕方近く、メグとベスとエーミーがすわっているところへ、ジョーが|血《けっ》|相《そう》変えてとび|込《こ》んできた、そして息もきれぎれに|詰《きつ》|問《もん》した、――
「だれか私の|原《げん》|稿《こう》もってった?」
メグとベスとはすぐに「いいえ」と言ってびっくりした様子、エーミーはなにも言わずに火をつッついた。ジョーはエーミーの顔が赤くなったのを見ると、すぐさま彼女に|襲《おそ》いかかった。
「エーミー、あんたね、持ってるのは!」
「いいえ、持ってなんかいないわ」
「じゃ、あるとこ知ってるね!」
「いいえ、知るもんですか」
「うそ!」と|叫《さけ》びざまジョーは彼女の|両肩《りょうかた》をつかまえて、エーミーよりもきかない子だってびっくりするようなこわい顔をした。
「うそじゃないわ。私、持ってもいないし、――今あるとこなんか知らないわよ、どこだっていいじゃないの」
「なにか知ってるのね、早く言ったほうがいいわよ、言わなけりゃ言わしてみせるから」と言ってジョーはエーミーを軽くゆすぶった。
「いくらでもがみがみ言うといいわ、あんなばかばかしいつまんないお|噺《はなし》なんか、もうどっからも出てきやしないから!」こんどはエーミーのほうが|興《こう》|奮《ふん》して叫んだ。
「どうしてさ?」
「私、|燃《も》やしちゃったんだもの」
「えっ! 私の大事な、あの|一生懸命《いっしょうけんめい》書いた、お父さまのお帰りまでに書き上げようと思ってた、あの本を? ほんと、|燃《も》やしちゃったって?」みるみる青ざめながらジョーは言った、そして目をきらきらさせ、両手をぶるぶる|震《ふる》わせながら、エーミーをぎゅっとつかんだ。
「そうよ、|燃《も》やしちゃったわ! 私言ったでしょう、|昨日《きのう》意地悪したから、仕返しするって、だから私、――」
エーミーはみなまで言うことができなかった、ジョーが|疳癪玉《かんしゃくだま》を|破《は》|裂《れつ》させ、エーミーを|押《お》さえて彼女の歯がカタカタ音を立てるほど小づき回したからである。そして悲しみと|憤《いきどお》りにまかせてこう|叫《さけ》んだ、――
「ばか、ばか! 私もう二度と書けやしないわ、一生ゆるしてやらないから」
メグはエーミーを助けにとび出し、ベスはジョーをなだめにかかった、しかしジョーはもうすっかり|逆上《ぎゃくじょう》していた、妹の横っ面をいやというほどなぐりつけると部屋をとび出し、|屋《や》|根《ね》|裏《うら》の古いソファのところへ|駆《か》け上がって、やっとのことで気持ちをとりしずめたのであった。
階下でも|嵐《あらし》はしずまっていた、マーチ夫人が帰ってきて一部始終をきき終わると、すぐにエーミーが姉に対してしたことが悪かったと思わせるようにしたからである。ジョーのお|噺《はなし》の本は彼女の心の|誇《ほこ》りでもあり、また家族の者からも|前《ぜん》|途《と》有望な文学の芽生えと思われていた。それはただ六|編《へん》の短いお|伽噺《とぎばなし》にすぎなかったが、そのうちから|印《いん》|刷《さつ》できるほどよいものをつくり出したいと、ジョーはその仕事に|精《せい》|魂《こん》を|傾《かたむ》けて、せっせと書きためてきたものであった。彼女はついこのごろそれをていねいに清書して、古い|原《げん》|稿《こう》のほうは|破《やぶ》って|捨《す》てたばかりのところだったから、エーミーの焼き打ちは数年間のいとしい|骨《ほね》|折《お》りを焼きつくしたということになる。他人の目にはそれはわずかな|損《そん》|失《しつ》と思われたかもしれない、しかしジョーにとっては|恐《おそ》ろしい|災《さい》|難《なん》だった。それはもう二度と|埋《う》め合わせのつくことではないと思われた。ベスは|子《こ》|猫《ねこ》が死んだときのように悲しんだ。メグは気に入りの妹とはいえ|弁《べん》|護《ご》することを見合わせた。マーチ夫人も|容《よう》|易《い》ならぬ顔つきをし、残念そうであった。そこでエーミーは、自分のやったことに対してゆるしをこわないうちは、もうだれも自分をかわいがってはくれないのだと思った、今では彼女もだれにも|劣《おと》らず|後《こう》|悔《かい》していたのである。
お茶の|鈴《すず》が鳴ると、ジョーはむっつりと近よりがたい顔をして|姿《すがた》を|現《あらわ》した。その顔を見てエーミーはおそるおそるこう言った、――
「ゆるしてちょうだいね、ジョー、私ほんとに悪かったわ」
「ゆるさない、けっして」というのがジョーの|苛《か》|酷《こく》な返答であった、それっきり彼女はエーミーの|存《そん》|在《ざい》を|無《む》|視《し》したのである。
だれもこの大事件についてはなにも言わなかった、――マーチ夫人さえも――というのは、今までの|経《けい》|験《けん》から、|皆《みな》は、ジョーがこのような気分でいるときには、何を言ったってむだで、それよりはなにかちょっとした|出《で》|来《き》|事《ごと》なり、または彼女自身の|寛《かん》|仁《じん》な|性《せい》|質《しつ》なりで|憤《いきどお》りがやわらぎ、|仲《なか》|直《なお》りするようになるのを待つのが、いちばん|賢《かしこ》い方法だということを知っていたからである。その夕方はさっぱり楽しくなかった。いつものようにお母さまがブリーマー[#訳注:スエーデンの女流作家]やスコット[#訳注:スコットランドの詩人、小説家]やエッジワース[#訳注:アイルランドの女流作家]を読んでくださるのをききながらお裁縫をしたのだけれど、なにか物足りなくて、なつかしい家庭の平和はかきみだされているのであった。歌をうたう時間になったとき、このことはひとしおつよく感じられた。ベスはピアノを|弾《ひ》くのがやっとだった。ジョーは石のようにだまりこくってつっ立ち、エーミーはめそめそしていたので、わずかにメグとお母さまがうたっただけだった。ふたりは|雲雀《ひばり》のように|快《かい》|活《かつ》にうたおうとつとめたけれども、|横《よこ》|笛《ぶえ》のように美しい声もいつものようには調子が合わず、四人はてんでんばらばらな気持ちであった。
ジョーがお休みなさいの|接《せっ》|吻《ぷん》をしていただくとき、マーチ夫人はやさしくささやいた、――
「ね、|怒《いか》りて日の入るまでに|至《いた》るなかれ、よ。お|互《たが》いにゆるし合って、助け合って、明日はまた新しくやり直しましょう」
ジョーは、どんなにかその母親らしい|胸《むね》に顔を|埋《うず》めてよよと|泣《な》き、悲しみも|憤《いきどお》りも|涙《なみだ》とともに流してしまいたかったことであろう、しかし、涙はめめしく弱いものであり、心の|痛《いた》|手《で》はあまりに深かったので、彼女はまだ心からゆるしきってしまうことはできない気がした。それで彼女はかたくなに目をしばたたき、頭を|振《ふ》った。そしてエーミーが聞いているのでわざとあらあらしく言った、――
「でもあんまりです。ゆるしてやる|価《か》|値《ち》なんかありません」
そう言い|捨《す》てるとさっと|寝《ね》|床《どこ》に|退《しりぞ》いた、それでその|晩《ばん》はおもしろい話も打ち明け話も、一つも交されなかったのである。
エーミーは自分から|和《わ》|睦《ぼく》を申し|込《こ》んだのがはねつけられたので大いに|感情《かんじょう》を害し、あんなにぺこぺこしなければよかったと思い、いつにないほどぷりぷりし出した。そしていよいよもって人の気にさわるような|態《たい》|度《ど》で自分の美点を|並《なら》べたてた。ジョーは次の日もまだ|雷《らい》|雲《うん》のような顔をしていて、一日じゅう何事も思うようにいかなかった。その日は朝のうちたいへん寒かった。彼女はまず大事なマッフ代わりのパイをどぶの中に落としてしまった。マーチ|伯《お》|母《ば》さんはこせこせ病を起こし、メグはふさぎの虫にとっつかれていた。家へ帰ればベスは悲しそうなさびしそうな顔をしようとし、エーミーは、いい人になるなどと言いながら、りっぱなお手本を|示《しめ》されてもさっぱり|真《ま》|似《ね》をしようとしない人がいる、というようなことばかり言うのであった。
「|癪《しゃく》にさわる人ばっかりだ、ローリーでもさそってスケートに行こう。あのひとならいつだって親切でおもしろいから、きっと私のきげんを直してくれるわ」とジョーはひとり言を言いながら、出かけてしまった。
エーミーはスケートのかちゃかちゃいう音をききつけ、窓からのぞいてこらえ切れないように|叫《さけ》んだ。
「ああら! この次には私も連れてって上げるって言ったくせに、これで氷もおしまいだからって。でもあんな意地わるに連れてってほしいなんて|頼《たの》んだってむだね」
「そんなふうに言うもんじゃないわ。あなたはほんとにいけなかったんですもの、ジョーの大事なお|噺《はなし》の本を失くしたことなんて、そう|簡《かん》|単《たん》にはゆるせないことなのよ。でももうそろそろいいかもしれないわ、適当なときを見はからってあやまってみれば、ゆるしてくれるかもしれないわよ」とメグが言った。「あの人たちのあとからついてってごらんなさい、ローリーがジョーのごきげんを直すまではなにも言ってはだめよ。静かにしているときにキッスをするかなにか、やさしくして上げてごらん、きっと気持ちよく|仲《なか》|直《なお》りしてくれると思うわ」
「やってみるわ」この|忠告《ちゅうこく》が気に入ったとみえてエーミーは言った。あわてて|支《し》|度《たく》をすると、今や|丘《おか》の向こうに見えなくなろうとするふたりのあとを追って|駆《か》け出した。川まではそう遠くはなかった、それでもエーミーが追いついたときには、ふたりはもうすべり出すばかりになっていた。ジョーは彼女のくるのを見てくるっと|背《せ》を向けた。ローリーのほうは氷の音をためしながら、用心深く岸に|沿《そ》ってすべっていたので気がつかなかった。|厳《げん》|寒《かん》がやってくる前に、一息ぽかぽかした日がつづいたからである。
「|僕《ぼく》、レースを始める前に、曲がり角まで行って|大丈夫《だいじょうぶ》かどうか見てくるよ」エーミーはローリーがこう言っているのをきいた。彼は毛皮のついた|外《がい》|套《とう》に|帽《ぼう》|子《し》でロシアの|若《わか》|者《もの》もかくやとばかり、|弾《だん》|丸《がん》のようにすべり去った。
ジョーは、エーミーが、走ってきたため息をはあはあ言わせたり、スケートをはこうとして足をどたばたさせたり冷たい指に息をかけたりしているのが聞こえはしたが、ふり向きもしないで、川の面をぎくぎくとすべりながらゆっくりとくだっていった。妹の|困《こま》っているのを知って、一まつの不安の中にもいい気味だというような満足感を味わっていたのである。彼女は一度|怒《おこ》ると、すぐにその|怒《いか》りを投げ|捨《す》てるときはいいが、そうでないときには、それがだんだんにつのってきてすっかり自分をとりこにするまで、それを|抱《だ》きしめることがあった、悪い考えとか|感情《かんじょう》とかはたいがいそうしたものである。ローリーは曲がり角を曲がるときうしろを向いて|叫《さけ》んだ。
「岸についていらっしゃい、まん中は|危《あぶ》ないから」
ジョーには聞こえたが、エーミーは足に気をとられていてこれが全然耳にはいらなかった。ジョーは|肩《かた》|越《ご》しにちらっとうしろを見たが、彼女の|胸《むね》に宿っていた|小《こ》|悪《あく》|魔《ま》がそっと耳元でささやいた、「聞こえようが、聞こえまいがかまうもんか、自分で気をつけるがいいや」
ローリーは曲がり角を曲がって見えなくなった、ジョーはちょうど曲がろうとしていた、そのときエーミーはずっとうしろにいて、川のまん中のつるつるした氷のほうへ向かって|突《とっ》|進《しん》し出したところであった。|一瞬間《いっしゅんかん》、ジョーは|妙《みょう》な気持ちをいだいてそこに立っていた、それからかまわず走り去ろうとしたが、なんだか気になってうしろを向いたとたんに、エーミーが両手を差し上げて落ちて行くのが目にはいった。|解《と》けかかった氷がめりめりと|破《やぶ》れ、水しぶきが上がっている、エーミーの|叫《さけ》び声をきくとジョーは|恐《おそ》ろしさに|心《しん》|臓《ぞう》もとまるかと思われた。ローリーを|呼《よ》ぼうにも声が出なかった。前へ進もうにも足からは力が|抜《ぬ》けていた。ちょっとの間、彼女は|棒《ぼう》|立《だ》ちに立ったまま、どす黒い水の上に|浮《う》かんだ小さな青い|頭《ず》|巾《きん》を真っ|青《さお》な顔をしてみつめるばかりだった。と、彼女のそばを|矢《や》のように走ったものがあり、ローリーの|叫《さけ》び声が聞こえた。
「かこいの木をもってきて、早く、早く!」
彼女は|無《む》|我夢中《がむちゅう》で言われたとおりにした、次の数分間はただもうローリーの言うままに、なにかにとりつかれたかのように動きまわった。ローリーは少しもあわてずその場に|腹《はら》ばいになって、自分の|腕《うで》とホッケーの|棒《ぼう》でエーミーの|身体《からだ》をささえた。ジョーが|垣《かき》|根《ね》の横木を引き|抜《ぬ》いてくると、ふたりは力を合わせてエーミーを引っぱり上げた。|怪《け》|我《が》は大したこともなかったが彼女はすっかりおびえきっていた。
「さあ、できるだけ早く家へかついでいかなくっちゃ。|僕《ぼく》たちの物をたくさんかけておやんなさい。僕はまずこの|厄《やっ》|介《かい》なスケートをとっちゃうから」と叫びながら、ローリーは自分の|外《がい》|套《とう》でエーミーをくるみ、スケートの|革《かわ》|紐《ひも》をひっぱったが、こんな|解《と》けにくいものだと思ったのは今が初めてであった。
がたがたふるえ、ぽとぽと水をたらし、わあわあ|泣《な》くエーミーをふたりは家へしょってきた。そしてひと|騒《さわ》ぎやったのち彼女は毛布にくるまれ|暖《あたた》かい火のそばでぐっすりと|寝《ね》|入《い》ってしまった。その騒ぎの間、ジョーはほとんど口をきかず、青ざめて|狂《くる》おしいまでの顔つきをし、外套や|帽《ぼう》|子《し》は半分|脱《ぬ》ぎかけたまま、着物は|裂《さ》けたまま、両方の手は氷や横木やとれにくいしめ金などで切ったり|傷《きず》ついたりしたままで飛び回って働いたのである。エーミーがすやすやと|眠《ねむ》り、家中が静かになったとき、ベッドの側にすわっていたマーチ夫人は、ジョーを|呼《よ》んで怪我をした手に包帯をしてやり出した。
「|大丈夫《だいじょうぶ》でしょうか?」ジョーは|後《こう》|悔《かい》の念にくれて|金《きん》|髪《ぱつ》の頭を見やりながら、そっと|尋《たず》ねた。すんでのことにこの頭は、あの|裏《うら》|切《ぎ》り|者《もの》の氷の下に|永久《えいきゅう》に見えなくなってしまったかもしれないのだ。
「大丈夫ですとも。|怪《け》|我《が》もしていないし、|風《か》|邪《ぜ》も引かないですみそうですよ、あなたが気がきいてよく包んでさっさと連れてきてくれたおかげよ」と母はきげんよく答えた。
「それはみんなローリーがやったんです。私はあの子をほったらかしておいただけなの。お母さま、もしもあの子が死ぬようなことがあったら、私のせいなんです」ジョーは後悔の|涙《なみだ》にくれてベッドのわきへくずおれた。そしてその日の|出《で》|来《き》|事《ごと》をすっかり話して、自分の心のかたくななのを|激《はげ》しく|罵《ば》|倒《とう》し、ひょっとしたらもっと|恐《おそ》ろしい|罰《ばつ》が自分の上にくだったかもしれないのに、それがなくてすんだのを、|泣《な》いて喜んだのであった。
「みんな私の恐ろしい|性《せい》|質《しつ》のせいなんです。私それを直そうと努めてみるんです、そして直ったと思うと、また今まで以上に悪いことをしてしまうんですもの。ああお母さま、私どうしたらいいんでしょう、ほんとにどうしたらいいんでしょう?」あわれにもジョーは|絶《ぜつ》|望《ぼう》|落《らく》|胆《たん》して泣くばかりであった。
「目をさましかつ|祈《いの》れ、ですよ、ね。あきないで気ながに直すことにして、自分の欠点は直らないんだなんてけっして思わないことね」マーチ夫人はこう言って、|娘《むすめ》の日焼けのした顔を|肩《かた》のところに引きよせて、涙にぬれた|頬《ほお》にやさしく|接《せっ》|吻《ぷん》してやったので、ジョーはますます激しく泣き出した。
「お母さまにはわからないんです、私の性質がどんなにいけないものか、お母さまにはわかってないのよ! 私、かっとなったらなにをするかわからないんです。|気《き》|違《ちが》いのようになってしまってだれでもかまわず|怪《け》|我《が》でもなんでもさせて喜ぶんです。私いつか|恐《おそ》ろしいことをしでかして、一生をめちゃめちゃにして、みんなからにくまれるようなことになるんじゃないかしら、ああお母さま! 私を助けて、どうぞ助けてちょうだい!」
「ああ助けて上げますよ、上げますよ、そんなに|泣《な》くのおよしなさい。でもね、今日という日のことは|忘《わす》れないで、二度とこんな日がこないように、心の底から決心なさいよ、ね、ジョーや、だれにだって|誘《ゆう》|惑《わく》というものはあるものなのよ、あなたのなんぞよりずっと大きなのに会う人だってあるんですよ。それに負けないようにするのに一生かかることだってあります。あなたは自分の|性《せい》|質《しつ》がこのうえもなく悪いものだと思っているようだけど、お母さまだってちょうどそんなふうだったんですよ」
「お母さまが? だって、お母さま、一度もお|怒《おこ》りになることないじゃありませんか?」ジョーはあまりびっくりしてしまって、ちょっとの間、|悔《かい》|恨《こん》の気持ちを忘れたくらいだった。
「お母さまはそれを直すのに四十年もかかりましたよ、それでもまだやっとそれをおさえられるようになっただけです。お母さまはね、ジョーや、たいてい毎日なにかしら怒らない日はないのよ、でもどうやらそれを表さないですむようになりました。こんどは心から怒るということがないようになりたいと思っています、そうなるのにはまた四十年もかかるかもしれないけれどね」
彼女がなによりもなつかしく思っている母の顔の上に|浮《う》かべられた|忍《にん》|耐《たい》と|謙《けん》|遜《そん》の色こそは、ジョーにとってはどんなりっぱなお説教よりも、手ひどいお|小《こ》|言《ごと》よりも身にしむ|教訓《きょうくん》であった。母から|与《あた》えられた|同情《どうじょう》と打ち明け話で彼女はたちまち|慰《なぐさ》められた、まだ十五|歳《さい》の少女にとって四十年も目をさましかつ|祈《いの》るのはずいぶん長い年月に思われはしたが、お母さまにも自分と同じような欠点があった、そしてそれを直そうと|一生懸命《いっしょうけんめい》になったのだということがわかると、ジョーは自分の|疳癪《かんしゃく》をこらえることが今までよりもたやすくできそうに思われ、それを改める決心をいっそう強くしたのであった。
「お母さま、あのマーチ|伯《お》|母《ば》さんがお母さまにお|小《こ》|言《ごと》をおっしゃったり、いろんな人がお母さまを|困《こま》らせたりするとき、ぎゅっと口を結んでお部屋から出ておしまいになることがあるでしょう、あのときは|怒《おこ》っていらっしゃるんですか?」ジョーは母親に対して今までよりももっと親しみ深い気持ちがしながら|尋《たず》ねた。
「そうなの、|軽《けい》|率《そつ》な言葉が口まで出かかってくるのをのみ|込《こ》むことをおぼえたのですよ。それでも思わず知らず口からとび出しそうになると、ちょっと席をはずして|意《い》|気《く》|地《じ》のない、悪い自分をしかってくるのです」と答えてマーチ夫人はためいきと|微笑《びしょう》をもらしながら、ジョーの|乱《みだ》れた|髪《かみ》をなでつけ、きっちりと結んでやった。
「お母さま、どうやってだまっていられるようにおなりになったの? 私の困るのはそこなんです――だって私、どう言おうかと考えもしないうちに、|激《はげ》しい言葉がとび出しちゃうんですもの。そして言えば言うほど私は悪い|奴《やつ》になって、おしまいには人の気持ちを悪くするのがおもしろくなって、とてもひどいことを言っちまうんです。ね、お母さまのやり方教えてちょうだい」
「それはお母さまのやさしいお母さまが助けてくだすったのよ――」
「お母さまが私たちを助けてくださるようにね、――」とジョーはさえぎって、|感《かん》|謝《しゃ》の念をこめてキスをした。
「ところがそのお母さまは、私があなたよりもうちょっと大きくなったとき、おなくなりになったの、それからというものは何年間もひとりで苦しまなくてはならなかったんです、お母さまはとても|自《じ》|尊《そん》|心《しん》が強くて、自分の欠点を|他《ひ》|人《と》に言うことができなかったからね、ジョーや、お母さまはなかなかつらかったんですよ、たびたび失敗しては何度|苦《にが》い|涙《なみだ》を流したかわかりません、いくらやってみてもさっぱりよくなるように思えませんでしたからね。そのころあなた方のお父さまにお目にかかり、お母さまはほんとにしあわせになったので、よい人になるのも楽になりました。でもまたそのうちに四人も小さな子が生まれて、おまけに|貧《びん》|乏《ぼう》だったでしょう、そうするとまたまた|昔《むかし》の苦労が始まりましたよ。だって私はもともと|辛《しん》|抱《ぼう》づよい|性《せい》|質《しつ》ではないのだから、子供たちに入り用な物を買ってやれないというのが、そりゃつらかったんですよ」
「かわいそうなお母さま! それでこんどはどなたに助けていただいたの?」
「あなたたちのお父さまですよ、ジョー。お父さまという方は|忍《にん》|耐《たい》ということをけっしてお|忘《わす》れにならない方よ、|疑《うたが》ったり|愚《ぐ》|痴《ち》をこぼしたりということの少しもない方です。いつでも希望を失わないで、お働きになり、元気で時のくるのを待っていらっしゃる、お父さまの前に出るとだれだって、ああいうふうにしなくては、という気になるんです。そのお父さまが私を|励《はげ》ましたり|慰《なぐさ》めたりしてくだすって、|娘《むすめ》たちに身につけてほしいような徳は、まず自分で行なってみなくてはならないのだ、ということを教えてくだすったんですよ、私はあなたたちのお手本なのだからね。そう思うと自分だけのために努力するのよりもずっとらくでしたよ、大きな声を出すと、あなた方のだれかがびっくりしたり、目を丸くしたりするでしょう、そうされると、お母さまはどんなことを言われるよりも|胸《むね》にこたえましたからね、それからまた子供たちからなつかれたり|尊《そん》|敬《けい》されたり|信《しん》|頼《らい》されたりすると、それはまた、お母さまにとってはなによりうれしいご|褒《ほう》|美《び》でした、みんなにまねをされてもいいような|婦《ふ》|人《じん》になろうとした|甲《か》|斐《い》があったと思ってね」
「お母さま! 私はその半分もいいひとになれたら、大満足です」ジョーは感動して|叫《さけ》んだ。
「もっともっとよくなってほしいと思いますよ、それにはお父さまのおっしゃる『心の中の|敵《てき》』にいつも目を|離《はな》さず気をつけてないといけませんね、そうでないとあなたの一生はめちゃめちゃにはならないまでも、悲しいものになってしまいます。今日のことはいい|懲《こら》しめでした、このことを|肝《きも》にめいじて、その|疳癪《かんしゃく》をしっかりと|征《せい》|服《ふく》するようにしてください。今日以上の悲しい思いや|後《こう》|悔《かい》の気持ちを二度と味わわないですむようにね」
「やってみます、お母さま。きっとやってみます、でもお母さま、きっと私を助けて、思い出させてくださらなくてはだめよ、そして私が|脱《だっ》|線《せん》しないようにしてちょうだいね。私ね、よくお父さまがくちびるに指をあててお母さまのほうをやさしく、でもまじめなお顔つきでごらんになったのを見たことがあるのよ。そうするとお母さまはお口をきゅっと結ぶか、お室の外へ出ていらっしゃるかなさいましたね。あれ、お母さまに思い出させていらしったのかしら?」ジョーは静かに|尋《たず》ねた。
「そうなの、お母さまはね、そういうふうにして助けてくださるようにお願いしてあったのですよ、お父さまはそれをお|忘《わす》れにならないで、たびたびそうやって私がひどいことを言わないですむようにしてくだすったの」
ジョーは、そう語る母の目に|涙《なみだ》がたまりくちびるがかすかにふるえるのを見た。そしてあんまり言い|過《す》ぎたのではないかと心配になり気づかわしげに小さい声で言った。「お母さまのことあんまり気をつけていたり、あんなこと言ったりしてわるかったでしょうか。失礼だったらごめんなさいね、でも私、思ってることみんなお母さまにお話するのとても楽しかったし、ここにこうしていると、とても安心でうれしかったものですから」
「ジョーや、お母さまにはなんでも言ってくれていいのですよ、子供たちがみんな私を|信《しん》|頼《らい》してなんでも話してくれて、私があなたたちをどんなにかわいく思っているかということを知っててくれるのだと思えば、私はなによりもうれしいし、それに|自《じ》|慢《まん》にも思うのですからね」
「私はまたお母さまを悲しくさせたのかと思ったんです」
「そうじゃないの、お父さまのお話をしていたらね、お母さまはお父さまがいらっしゃらなくてどんなに|寂《さび》しいか、そしてまた今までどんなにお世話になったかっていうことを考えたんですよ、そしてお父さまのためにも、小さい|娘《むすめ》たちが安全にりっぱに育つように、私はよく気をつけて働かなくてはならないのだと思ったところなのよ」
「だって、お母さまがお父さまに、戦地へいらっしゃるようにおすすめになったんでしょう、そしておたちになるときもお|泣《な》きにならなかったし、今だって|愚《ぐ》|痴《ち》もおっしゃらないし、なにも助けなんかいらないようにお見えになるわ」ジョーは不思議でならないようにこう言った。
「それはね、お母さまは自分の大事なお国のために、いちばんたいせつなものをささげたのですよ、そしてお父さまが行っておしまいになるまでは泣かなかっただけなのよ。愚痴をこぼさないったって、それは私たちはふたりともすべきことをしただけだし、あとではそれだけしあわせになれるのですもの、なんの愚痴など言うことがありましょう? それからだれの助けもいらないように見えるっていうのは、お父さまにさえまさるお方があって、|慰《なぐさ》めたり力になったりしてくださるからです。ジョーや、あなたの|生涯《しょうがい》の苦労や|誘《ゆう》|惑《わく》はやっと始まったばかりで、まだまだたくさん味わわなくてはなりますまい。でもあなたが天にいらっしゃるお父さまの|御力《おちから》やお|慈《じ》|悲《ひ》を感じられるようになりさえすれば、そんなものに負けないで生きぬいていくことができるのですよ。ちょうど家のお父さまにたよるのと同じようにね。天のお父さまを愛し信じるほどおそばへ近くなったような気がして、人の力や|知《ち》|恵《え》にたよらなくなるものです。神さまの愛とまもりは弱まることもなければ変わることもありません。またけっしてとり上げられるようなこともないばかりか、一生の間、平和と幸福と力の|源《みなもと》になるのですよ。このことをようく信じて、心配事でも希望でも悲しみでも、お母さまのところへもってくるようにして神さまのところにもっていって、きいていただきなさい」
ジョーは返事のかわりにただ母をしっかりと|抱《だ》きしめた。それからしばらく|沈《ちん》|黙《もく》がつづいたなかで、ジョーが言葉には出さずにささげた|敬《けい》|虔《けん》な|祈《いの》りは、静かに彼女の|胸《むね》をはなれて天にのぼっていった。この悲しいなかにも幸福な時を|過《す》ごしながら、ジョーは|後《こう》|悔《かい》や|絶《ぜつ》|望《ぼう》のほろ|苦《にが》さばかりでなく、|献《けん》|身《しん》と|自《じ》|制《せい》のかぐわしさをも知ったからである。しかも彼女は母の手に|導《みちび》かれて、この世の父よりも強くこの世の母よりもやさしい|愛情《あいじょう》で、どんな子供をも喜び|迎《むか》えてくださる大いなる友のおそばに近づいたのであった。
エーミーが|眠《ねむ》ったままからだを動かしといきをもらした。ジョーはさっそく改心の手はじめをやろうとでもいうように、ついぞ|浮《う》かべたこともないようなやさしい表情を浮かべて顔をもたげた。
「私、とうとう|怒《いか》りて日の入るまでにいたらせてしまったんだわ、エーミーをゆるそうとしなかったんだもの。今日はローリーがいてくれなかったら、とり返しのつかないことになったんだわ! 私どうしてあんな悪い|奴《やつ》だったのかしら?」ジョーは半ば声に出してそう言いながら、妹の上に身をかがめ、|枕《まくら》の上に|乱《みだ》れているぬれた|髪《かみ》の毛をやさしくなでた。
それが聞こえたものかエーミーはぱっちりと目をあけた。そしてジョーの胸をつきさすような|笑《え》|顔《がお》をして手をさしのべた。ふたりともなにも言わず毛布|越《ご》しに|互《たが》いにかたく抱きしめて、真心からの|接《せっ》|吻《ぷん》を交わし、こうしてすべてはゆるされ、|忘《わす》れ去られたのであった。
第九章 メグ、|虚《きょ》|栄《えい》の市に行く
「|私《わたし》ほんとうに運がよかったと思うわ、あの子供たちがまるでおあつらえ向きのときに|麻疹《はしか》にかかってくれたなんて」メグは言った。四月のある日のこと、彼女は自分の部屋で姉妹たちにかこまれて|旅行鞄《りょこうかばん》を|詰《つ》めていた。
「それにアニー・モファットが|約《やく》|束《そく》を|忘《わす》れなかったのも感心ね。まるまる二週間も遊びにいくなんて全くすてきだわ」と答えながら、ジョーは風車みたいな|格《かっ》|好《こう》で長い|腕《うで》をひろげてスカートをたたんでやっていた。
「それにこんないいお天気、ほんとによかったわね」とベスも言って、首につけるのや頭につけるのやいろいろのリボンを、|彼《かの》|女《じょ》のいちばん上等の|箱《はこ》の中へきちんとよりわけていた、このおめでたい|門《かど》|出《で》を|祝《しゅく》して彼女はそれらを姉に|貸《か》したのである。
「私もそういうおもしろい所へ出かけるんだとよかったわ、そしてこんなきれいなものいっぱい着たり|飾《かざ》ったりしてみたいわ」エーミーは口いっぱいにピンを|含《ふく》んだままこう言った。姉の|針《はり》|刺《さ》しをじょうずに|詰《つ》めなおしてやっていたのである。
「ほんとにみんな行けるんだといいわねえ、でもそうもいかないんだから、私いろんなこと忘れないようにしてきて、帰ったら話して上げるわね。あなたたちこんなに親切にしてくれて、いろんな物|貸《か》したり、|支《し》|度《たく》を手つだったりしてくれるのに、私にできるお礼といったら、きっとそれくらいのもんよ」と言ってメグは部屋の中を見回して、しごく|簡《かん》|単《たん》な旅支度をながめた。姉妹たちの目にはそれがたいそうりっぱなものに見えたのである。
「あの|宝《たから》の|箱《はこ》の中から、お母さま何を出してくだすって?」エーミーがきいた。|適《てき》|当《とう》な時がきたら、四人の|娘《むすめ》に分け|与《あた》えようと、マーチ夫人は|昔《むかし》はなやかなりしころのかたみの品を少しばかり、一つの|杉《すぎ》の箱にしまってあるのであったが、それを開けたとき、エーミーはそこにい合わせなかったのである。
「|絹《きぬ》の|靴《くつ》|下《した》を一足とね、それから|彫刻《ちょうこく》のついた|扇《せん》|子《す》ときれいな青い|飾帯《サッシュ》よ。私あのすみれ色の絹の上着がほしかったんだけど、こしらえ直す|暇《ひま》がないでしょう、だからまたいつものターラタン[#訳注:薄地のモスリンで舞踏服に用う]で|我《が》|慢《まん》しなくちゃならないわ」
「でもそれ、私の新しいモスリンのスカートの上に着ればとてもよく見えるわよ、それに|飾帯《サッシュ》があるから引き立ってきれいにみえるわ。私、あの|珊《さん》|瑚《ご》の|首飾《ネックレース》、こわさなきゃよかったな、そしたら貸して上げられたのにね」とジョーは言った。彼女は人に物をやったり貸したりするのが好きなのだが、たいていの物はこわれていていざというとき役にたたないのであった。
「あの宝の箱の中に、とてもかわいい|真《しん》|珠《じゅ》で組になった|昔風《むかしふう》のがあったのよ。でもお母さま、|若《わか》い娘はほんとうのお花をつけるのがいちばんいい|飾《かざ》りになるっておっしゃるの、ローリーがいるだけ|贈《おく》ってくれるって言ってたわ」とメグは答えた。「ええと、まず、グレーの散歩着があるわね、――ベス、ちょっとその|帽《ぼう》|子《し》の|羽《う》|毛《もう》を|巻《ま》き上げてちょうだいな――それからポプリンでしょう、日曜とか、小さなパーティに着られるわね――これ春にはちょっと重い感じね、そうじゃない? あのすみれ色の|絹《きぬ》のだったらほんとにいいのに、あああ!」
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ。大きなパーティにはあのターラタンがあるでしょう、お姉さま白いのお|召《め》しになるといつだってエンジェルみたいよ」と言いながらエーミーは、そのわずかばかりの美しい着物をあれこれと思いうかべて、うっとりするのだった。
「あれ、|襟《えり》が低くないし、|裾《すそ》もあまりひかないけれど、まあ間に合わせなくっちゃね。青いふだん着は|裏《うら》|返《がえ》しをして|飾《かざ》りも新しくつけたからとてもよくみえるわ、まるで新調したみたいよ。絹の上衣はずいぶん流行おくれだし|帽《ぼう》|子《し》もサリーのほどよくはないわね。それにね、いろんなこと言いたくはないけど、|雨《あま》|傘《がさ》にはすっかりがっかりしちゃったのよ。白い|柄《え》のついた黒いのってお母さまにお願いしておいたのに、お母さまったらお|忘《わす》れになって、へんな黄色っぽい柄のついた緑色のを買ってくださるんですもの。そりゃ丈夫なことは丈夫だし、小ざっぱりしてるから、不足を言っちゃいけないんだけど、でもね、アニーの金の頭のついた絹の傘とくらべたらきっと|恥《は》ずかしくなると思うのよ」メグはつくづくおもしろくなさそうな顔でその小さな雨傘をながめながら、といきをもらした。
「とっ|替《か》えていらっしゃいよ」ジョーがすすめた。
「それほどばかなこともしたくないわ、お母さまのお気持ちを悪くしてまでね。私にいろんな物そろえてくださるために、ずいぶん気をおつかいになったんですもの。私ばかなこと考えたもんね、もうそんな考えに負けないようにしなくっちゃ。|絹《きぬ》の|靴《くつ》|下《した》と真新しい|手袋《てぶくろ》が二つもあるのがせめてもの|慰《なぐさ》めだわ。あんたのまで|貸《か》してくれてほんとに親切ね、ジョー。私二つも新しいのがあって、その他にふだん用のお|洗《せん》|濯《たく》したのまであるなんて、なんだかとてもお金持ちのお上品な人になったみたいな気がするわ」そして、メグは|手袋《てぶくろ》の|箱《はこ》をちょっとのぞいて元気をとりもどした。
「アニー・モファットはね、ナイトキャップに青やピンクの|蝶《ちょう》リボンをつけてるわよ、私のにもなにかつけてみてくれない?」ベスがハンナの手から受けとったばかりの雪のように白いモスリン類をひと重ねもってきたのへ、メグはこう言って|頼《たの》んだ。
「だめよ、私、|絶《ぜっ》|対《たい》反対だわ。スマートな|帽《ぼう》|子《し》なんて、|飾《かざ》りのない|簡《かん》|単《たん》な|寝《ね》|巻《まき》なんかに|似《に》|合《あ》うもんじゃないわよ、|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》はしゃれたまねしないほうがいいのよ」とジョーはきっぱり言った。
「いつになったら着物に本物のレースをつけたり、帽子に蝶リボンをつけたりできるようなしあわせな身分になれるんでしょうね?」メグははがゆそうに言った。
「お姉さま、せんだってアニー・モファットさんのところへ行けさえしたら、もうとてもしあわせだっておっしゃったわね」ベスが|例《れい》の静かな調子で口をはさんだ。
「そう言ったわね! ほんと、私しあわせよ、もうやきもきするのやめましょう。だけど、人って持てば持つほど|欲《よく》が出るものね、そうじゃない? さあ、これで|仕《し》|切《き》り箱の用意はできた、あとはいってないのは|舞《ぶ》|踏《とう》|服《ふく》だけだけど、それはお母さまにお願いすることにしましょう」メグは元気づいて、こう言いながら、|詰《つ》めかけの|鞄《かばん》を見、それから、何度も|圧《お》しをしたりつくろい直しをしたりした白いターラタンのほうへ目を|移《うつ》した。それを彼女は舞踏服などとおおげさに|呼《よ》んでいたのである。
|翌《よく》|日《じつ》は上天気だった。メグはきれいにおめかしをして、もの|珍《めずら》しく楽しいことの待っている二週間の旅へと出かけて行った。マーチ夫人は、マーガレットが帰りにはいくときほどよろこんで帰らないのではないかと思って、この|訪《ほう》|問《もん》を|許《ゆる》すのは気がすすまなかった。けれどもメグは熱心に|頼《たの》むし、サリーはよくめんどうをみてくれると|約《やく》|束《そく》したし、それにひと冬つらい仕事をしたあと、少々の楽しみをするのもおもしろいだろうと思われたので、母はとうとう負けてしまい、|娘《むすめ》ははじめて上流社会の生活を|経《けい》|験《けん》するために出かけて行った。
モファットさんの家はなるほど上流家庭であった。|質《しっ》|素《そ》な生活になれたメグは初めのうち、その家のすばらしさや家族の人たちの下品なのにいささか|押《お》され気味であった。しかしその人たちは|浮《う》わついた生活はしていても、みんな親切な人ばかりで、じきにお客さまをくつろがせてくれた。どうしてかはわからないが、メグにはここの家の人たちが|特《とく》に教養があるのでもなく、|聡《そう》|明《めい》なのでもないということ、またいろいろな生活上のメッキも、しょせんはもともとの|地《じ》|金《がね》がかくせないのだということがわかったからであったかもしれない。ぜいたくな食事をしたり、りっぱな馬車でドライヴしたり、毎日大よそいきの着物を着たり、遊ぶことの他にはすることもなく日を|暮《く》らしたりするというのは、全く|快《かい》|適《てき》なことだった。それは彼女の気持ちにぴったりとかなったものだった。じきに彼女はまわりの人たちの動作や言葉つきをまねたり、気どってみたり、フランス語をはさんでみたり、|髪《かみ》を|縮《ちぢ》らしたり、着物の幅を|詰《つ》めてみたり、できる|範《はん》|囲《い》で流行の話をしたりするようになった。アニー・モファットの美しい物を見れば見るほど、彼女はうらやましくなってお金持ちになりたいとためいきも出た。家のことを考えると今ではそこは|殺《さっ》|風《ぷう》|景《けい》でわびしいところに思われるし、仕事はますますつらいものに思われた。そして新しい|手袋《てぶくろ》と|絹《きぬ》の|靴《くつ》|下《した》は持っていても、自分ほど|貧《まず》しくしいたげられた娘はないような気がするのであった。
とはいえ彼女は|嘆《なげ》いているひまなどはなかった。三人の|若《わか》い娘たちは「おもしろく日を送る」ために二十四時間でも足りないありさまだったからである。彼女たちは日がな一日買い物に出かけ、散歩をし、馬車を|駆《か》り、人を|訪《ほう》|問《もん》して|暮《く》らしていた。夜は夜とて|芝《しば》|居《い》やオペラに行かないときは家でたわむれ|興《きょう》じるのであった。アニーにはお友だちがたくさんいて、彼女はそのもてなし方をよく|心得《こころえ》ていた。姉さんたちはたいへんりっぱな|令嬢《れいじょう》で、ひとりは|婚《こん》|約《やく》していたが、そのことがメグにはたいそうおもしろいロマンティックなことに思われた。モファット氏は太っておもしろいおじいさんで、メグの父をよくしっていた。|奥《おく》さんのほうも太っておもしろいおばあさんで、|娘《むすめ》たち同様、たいそうメグがお気に入ったのである。みんながメグをかわいがった、そして彼女は「|ひなぎく《デーズィ》」などと|呼《よ》ばれて、頭がぽっとなるのにはまず申し分のない|状態《じょうたい》におかれたのである。
「小さなパーティ」の|晩《ばん》がやってきた、彼女はそのとき着るはずだったポプリンなどはとうてい物の役にはたたないことがわかった、みんなそれぞれ|薄《うす》|物《もの》を着てそれはそれは美しく見えたからである。で|例《れい》のターラタンがとり出されたが、サリーの新調のしゃきっとした|衣装《いしょう》の前ではひとしお古ぼけて、ぐにゃりとし、みすぼらしく見えるのであった。メグは他の少女たちが自分の着物を見てから|互《たが》いの顔を見合わせたのを知り、顔から火が出る思いがした、いかにおとなしいとはいっても、彼女の|自《じ》|尊《そん》|心《しん》は人一倍強かったのである。もちろんそんなことを口に出す者はなかった、だがサリーは彼女の|髪《かみ》を|結《ゆ》ってやろうと言い、アニーは|飾帯《サッシュ》を結んで上げると言った。それから婚約しているほうの姉娘のベルは彼女の|腕《うで》の白いのをほめるのであった。でもメグにはそういう親切が自分の|貧《まず》しいのを気の毒がっているからだということがわかるのでひとりでぽつんと立ちながら、気は重くめいるのを感じた。他の少女たちは|笑《わら》いさざめいたり、おしゃべりをしたり、大いに気どったりしながら、薄いはねのちょうちょうのようにとび回っているのだのに。そのつらく苦しい気持ちがいよいよ悪化しそうになったとき、小間使いが一|箱《はこ》の花を持ってはいってきた。小間使いがなにも言わないうちに、アニーがおおいをとりのけると、中から|現《あらわ》れたばらやヒースや|羊《し》|歯《だ》の美しさに、|皆《みな》は思わず|感《かん》|嘆《たん》の声をもらした。
「もちろんベル姉さまのところへきたのよ。ジョージはいつだってきっと|贈《おく》ってくれるんですもの。でもこれにはまったくうっとりとしちゃうわ」とアニーは言いながら、おおげさににおいをかいだ。
「あの、マーチさんのお|嬢《じょう》さまへと、お使いの方が申されました。ここにお手紙もございます」と小間使いは言葉をはさんで、その手紙をメグへ|手《て》|渡《わた》した。
「まあすてき! どなたから? あなたに|恋《こい》|人《びと》がおありになるなんて知らなかったわ」などと少女たちは口々に|叫《さけ》びながら、|好《こう》|奇《き》|心《しん》と事の意外に|興《こう》|奮《ふん》して、ひらひらとメグの囲りに集まった。
「手紙は母からで、お花はローリーからですわ」とメグはさり気なく言ったが、心中はローリーが自分のことを|忘《わす》れないでくれたことを、どんなにうれしく思ったかしれないのであった。
「あらほんと!」メグが手紙をポケットにしまうのを見ながら、アニーはへんな顔をして言った。メグにはその手紙が、|羨《せん》|望《ぼう》や|虚《きょ》|栄《えい》やまちがった|自《じ》|尊《そん》|心《しん》などに対するおまもりのように思えたのである。そのやさしい数行の言葉を読めば心はおのずからなごんできたし、美しいお花を見れば、めいった気持ちも引き立てられる思いがした。
それでまた幸福な気持ちになりかけて、メグは少しばかりの|羊《し》|歯《だ》とばらを自分のにとりのけて、残りを手早くお友だちの|胸《むね》や|髪《かみ》やスカートなどに|飾《かざ》るみごとな|花《はな》|束《たば》につくりかえ、みんなの方へ差し出した。そのかれんなしぐさを見て、中の姉のクレァラは彼女のことを「今まで見たこともないようなかわいいひと」だと言った。みんなもこのささやかな心づかいがすっかり気に入ったのであった。ともかくもこのやさしいふるまいはメグの|沮《そ》|喪《そう》した元気を|回《かい》|復《ふく》させてくれた。みんなが着飾った|姿《すがた》をモファット夫人に見てもらいにいってしまったあと、彼女は鏡の前に立って、目もはればれと|輝《かがや》いている幸福な顔をうつしてみた。波打つ|髪《かみ》には|羊《し》|歯《だ》をさし、着物にはばらを|飾《かざ》ったので、今ではそれほどみすぼらしくも見えないのであった。
その|晩《ばん》彼女は思うぞんぶん|踊《おど》ったので、たいへん|愉《ゆ》|快《かい》に|過《す》ごすことができた。だれも彼も親切だったし、三度ばかりはお愛想もきかされたのである。まずアニーにすすめられて歌をうたったとき、彼女のことをすばらしくよい声の持ち主だと言った人がいた。それからリンカーン|少佐《しょうさ》は「あの目のきれいな初めてのお|嬢《じょう》さんはどなた?」ときいていた。最後にモファット老は、彼女が「ぐずぐずしないでからだにばねでもはいっているようだ」などとしゃれたお|世《せ》|辞《じ》を言って、いっしょに踊ると言いはった。こんなわけでまずもって彼女は楽しいときを過ごしたのであったが、ふとある会話のきれはしが耳にはいってからは、気持ちがすっかりかき|乱《みだ》されてしまった。彼女は温室の中に|腰《こし》かけて踊りの相手がアイスクリームを持ってきてくれるのを待っていたのだった。そのとき、花の向こう側でひとりの声が問うているのがきこえた、――
「いくつくらい、その方?」
「十六か七でしょうね」ともうひとりが答えた。
「その|娘《むすめ》さん方のうち、だれかそういうことになったらすばらしいことですわね。そうじゃありません? サリーからきけば、あのひとたち今じゃたいへん|懇《こん》|意《い》にしているのですってね。それにあのお|年《とし》|寄《よ》りは娘さんたちをばかにかわいがっているんだそうですよ」
「Mのおくさんにはちゃんともくろみがあるんですよ、そうですとも、ちょっと早すぎるけれど今にうまくやりますよ。あの|娘《こ》はまだそんなこと少しも考えていないようですけれどね」と言ったのはモファット夫人だった。
「わかっているらしくてお母さんからの手紙だなんてうそを言いましたわね。お花が|届《とど》いたら顔を赤くして、かわいかったわ。かわいそうに! いい着物を着せたらさぞきれいでしょうにね。木曜日に着物を|貸《か》して上げると言ったら気を悪くしますかしら?」他の声がきいた。
「|気位《きぐらい》が高いのでね、でも|大丈夫《だいじょうぶ》かもしれませんよ、あのみすぼらしいターラタンしか持ってないのですもの。|今《こん》|晩《ばん》あたりあれがさけるかもしれないでしょう、そしたらきちんとしたのを貸してやるのにいい口実ができるというものですわ」
「なるほどね。私、あの|娘《こ》へのお愛想にローレンスをよんで上げますわ、あとがさぞおもしろいでしょうよ」
そこへメグの相手が|現《あらわ》れたが、彼女はひどく上気してなんとなく落ち着かない様子だった。メグは|自《じ》|尊《そん》|心《しん》が強かった、その自尊心は今の場合たいそう役にたった、というのはそのおかげで彼女の|屈辱《くつじょく》や|憤《いきどお》りや今きいた話に対するむかむかした気持ちなどを、外へ表わさずにすんだからである。いくら|無《む》|邪《じゃ》|気《き》で、人を|疑《うたが》うことを知らないとはいえ、彼女にあの人たちのゴシップの意味がわからないはずはなかった。彼女はそれを|忘《わす》れようとした、が忘れることはできないで、「Mの|奥《おく》さんにはちゃんともくろみがある」だとか、「お母さんからだと|嘘《うそ》を言った」とか、はては「あのみすぼらしいターラタン」だとかいう言葉が何度も|胸《むね》に|浮《う》かんできて、おしまいには|泣《な》きそうになり、家へ飛んで帰って|苦衷《くちゅう》をうったえ、どうしたらいいかをききたいと思った。そんなことはできない相談なので、彼女はつとめて元気らしくみせかけようとした。多少|興《こう》|奮《ふん》していたのも手つだってそのみせかけは成功し、だれひとりとして彼女の努力に気のつく者はいなかった。会がすっかり終わったときにはほっとした。彼女は静かに|寝《ね》|床《どこ》に横たわって、考えたり、あやしんだり、|怒《おこ》ったりしているうちに、しまいには頭が痛くなり、自然とわき出る数てきの冷たい|涙《なみだ》が熱い|頬《ほお》をぬらすのであった。悪気はないにしろおろかな言葉のかずかずをきいて、メグは新しい世界をのぞいたような気がした。それは彼女が今まで子供らしくしあわせに|暮《く》らしてきた古い世界の平和を、はなはだしくかき|乱《みだ》すものだった。ローリーとの|無《む》|邪《じゃ》|気《き》な|友情《ゆうじょう》はさっききいたばかな話でそこなわれたような気がする。母を信じ切っている心さえ、モファット夫人が母になすりつけた|世《せ》|俗《ぞく》|的《てき》なもくろみ|云《うん》|々《ぬん》で少しばかり|動《どう》|揺《よう》させられたのである。もっとも夫人は他人のことも万事自分から|推《すい》して|判《はん》|断《だん》するくせがある人である。それから、|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》の|娘《むすめ》は身分相応な|服《ふく》|装《そう》で満足しようというけなげな決心は、他の少女たちのいらざる情でにぶらされたのだった。その少女たちは、世界中に、みすぼらしい着物ほど大きな不幸はないものと思い|込《こ》んでいるのである。
かわいそうにメグはもんもんの中に一夜を|過《す》ごし、|翌朝《よくちょう》は重苦しい目をして起きなければならなかった。半ばは他人をうらみながらも、一方では、なぜ|率直《そっちょく》にほんとうのことを言って|誤《ご》|解《かい》を正さなかったのかと、われとわが心を|恥《は》じるような気持ちにもなった。その朝はだれも彼ものらくらしていたが、お昼ごろになってやっと、|編《あ》み|物《もの》でもしようかという元気を出した。メグはすぐに、みんなの|態《たい》|度《ど》に変わったところができたのに気がついた。なんだか自分のことを今までよりも大事に|扱《あつか》いだしたような気がする、自分の言うことにはやさしく耳を|傾《かたむ》け、そして明らかにそれとわかる|好《こう》|奇《き》のまなざしで自分を見るのであった。こういう変化はなぜともわからないながら、彼女を|驚《おどろ》かしもしうれしがらせもした。と、何か書いていたベルが顔を上げて、|感傷的《かんしょうてき》な調子で言った、――
「ねえ、デーズィー、こんどの木曜日にあなたのお友だちのローレンスさんをお|招《まね》きすることにしたのよ。私たちもお近づきになりたいし、それに、あなたに対する|礼《れい》|儀《ぎ》だけからいってもね」
メグはさっと顔を|染《そ》めた、けれども一つみんなをからかってやろうという|茶《ちゃ》|目《めっ》|気《け》を起こして、もっともらしい顔をして答えた、――
「またご親切に、でもあの方いらっしゃらないと思いますわ」
「なあぜ?」ミス・ベルはきいた。
「だってあの方、あんまりお年を|召《め》していらっしゃるんですもの」
「あらいやだ、どういう意味? いったいおいくつなのよ」ミス・クレァラが|叫《さけ》んだ。
「そろそろ七十ぐらい、かと思いますわ」メグは|笑《わら》い出しそうになる目の色をさとられまいと、|編《あ》み目を数えながら答えた。
「人がわるいのね! もちろん私たちのいうのは青年の方よ」とベルは笑いながら言った。
「そんなひといませんわよ、ローリーならまだほんの少年ですもの」とメグは姉妹が|妙《みょう》な目つきを交わしたのを見て、自分も笑いながら、みんなが仮定している|恋《こい》|人《びと》のことをこう説明してやった。
「あなたくらいね」ナンがきいた。
「妹のジョーのほうに近いのよ、私は八月で十七になりますもの」メグは頭を上げてそう答えた。
「お花を|贈《おく》ってくださるなんてほんとにいい方ね、そうなんでしょう?」アニーは知ったかぶりに言うのであった。
「ええ、よくくださるのよ、うちの者みんなにね。あちらにはどっさりおありになるし、私たちとてもお花が|好《す》きなもんですから。うちの母とローレンスさんとはお知り合いでしょう、ですから自然、子供たちもいっしょに遊ぶようになるんですわ」メグはもうこれ以上みんなが言わないでくれればいいと思いながら、こう言った。
「デーズィーってまだほんとに子供なのね」ミス・クレァラはうなずきながらベルに言った。
「まるで|無《む》|邪《じゃ》|気《き》で牧歌的だわ」とミス・ベルも|肩《かた》をすくませながら|応《おう》じた。
「私ちょっと|娘《むすめ》たちの買い物にまいりますけど、みなさん、ご用はありません?」モファット夫人が|絹《きぬ》とレースを|着《き》|飾《かざ》って、象のように重い足どりではいってきた。
「ありがとうございます、|小《お》|母《ば》さま」サリーが答えた、「でも私、木曜日のパーティーにはピンクの絹のがありますから、なにもいらないと思いますわ」
「私も――」とメグも言いかけ、はたとつまった、いる物はまさにたくさんあるのだが、買うことができないのを思い出したからである。
「何お|召《め》しになるの?」とサリーがきいた。
「またあの白いの、じょうずにつくろえたらね。|昨《さく》|夜《や》ひどく|破《やぶ》いちゃったんですの」メグはつとめてなんでもないように言おうとしたが、心の中はとても|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》だった。
「どうしてお家にほかのをそう言ってやらないの?」と察しのわるいサリーがきいた。
「ほかのなんてないのよ」こう答えるのはメグにとってなみなみならぬ努力がいったのだったが、サリーはいっこう気がつかず、悪気ではなくしんから|驚《おどろ》いたように|叫《さけ》んだ。
「あれだけですって! まあおかしい――」彼女が言い終わらないうちに、ベルが彼女に頭を|振《ふ》ってみせ、それからやさしく口をはさんだ、――
「ちっともおかしかないわ、この方まだ社交界に出ていらっしゃらないんですもの、どうして着物をたくさん持つ必要があるの? お家になんかおっしゃらなくったっていいのよ、デーズィー、たくさんおありになってもね。私ね、かわいい青い|絹《きぬ》ので、もう着られなくなったのがしまってあるのよ、あなたそれをお|召《め》しになってちょうだいな、私を喜ばすおつもりで。ね、おいや?」
「ご親切におっしゃってくだすって、でも、みなさんに失礼でなかったら、私古いのでかまいませんわ。私みたいな子供にはあれで十分ですもの」とメグは言った。
「そんなことおっしゃらずに、私にあなたをおめかしさせて楽しませてちょうだいよ。私そんなことするの|大《だい》|好《す》きなのよ、ほんのちょっと手を入れれば、あなたはかわいい美人におなりになってよ。すっかり出来上がるまで私、だれにも見せないことにするわ、そして急にみんなの前に|現《あらわ》れて|驚《おどろ》かしてやりましょうよ、シンデレラと教母さんが|舞《ぶ》|踏《とう》|会《かい》に行ったときみたいにね」とベルはいともじょうずに説きつけたのである。
メグもこうまで親切に言われては、ことわりとおすことができなかった。ちょっと手を入れたら「かわいい美人」になるかどうかをみてみたいという気も手つだって、とうとう|承知《しょうち》することにし、モファット一家に対してさっきまでいだいていた|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》な気持ちを、すっかり|忘《わす》れてしまったのである。
木曜日の|晩《ばん》になると、ベルは小間使いといっしょにこもりきりで、メグをりっぱな|令嬢《れいじょう》に仕立て上げてしまった。二人はメグの|髪《かみ》を|縮《ちぢ》らせたり|巻《まき》|毛《げ》をこしらえたり、首すじや|腕《うで》に|香《かお》りの高い粉をはたいたり、くちびるの色をますために|珊《さん》|瑚《ご》|色《いろ》のクリームを|塗《ぬ》ったり、おしまいにはメグがいやだと言わなかったら、オルタンスに「ほんのちょっぴり|頬《ほお》|紅《べに》」までさされるところであった。二人はメグを|締《し》めつけ締めつけ空色絹の衣装の中へ|押《お》し|込《こ》めたが、そのきついことといったら息をつくのもやっとのありさま、またその|襟《えり》あきの大きいことといったら、つつしみ深いメグが鏡を見て思わず顔をあからめたほどであった。それから一そろいの金銀細工の|装飾品《そうしょくひん》をあしらうのであった。|腕輪《ブレスレット》にネックレース、ブローチにイヤリングまで、そのイヤリングは、オルタンスが目だたぬようにピンクの|絹《きぬ》|糸《いと》で結びつけてくれた。|胸《むね》に一ふさのこうしんバラと、ひだ|飾《かざ》りとをつけたので、メグは美しい白いはだが出すぎるのが少しは気にならなくなった。そして|踵《かかと》の高い青絹の|舞《ぶ》|踏《とう》|靴《ぐつ》をはかせられたとき、メグはもうこれ以上してみたいことはないと思った。レースのハンカチ、|羽《う》|毛《もう》の|扇《おうぎ》、銀の|筒《つつ》にはいった|花《はな》|束《たば》、これで|支《し》|度《たく》は出来上がった。ミス・ベルは女の子が着せかえ人形をして遊ぶときのような満足を覚えながら、彼女を上から下まで見下ろすのであった。
「お|嬢《じょう》さまのおかわいいこと、まあ、ほんとにおきれい、そうじゃございませんか?」などとオルタンスはわざとらしく喜んで、両手をしっかと組み合わせ、英語とフランス語をごちゃまぜにおおげさな声を出した。
「さあ見せに行きましょう」とミス・ベルは先に立って、|皆《みな》の待っている|室《へや》のほうへと出ていった。
そのあとについてメグは長い|裳《もすそ》をひき、イヤリングの音を立て、|巻《まき》|毛《げ》を波打たせ、胸をわくわくさせながら、きぬずれの音もさわさわと出ていったが、そのとき彼女は、今こそ自分の「楽しみ」がほんとうに始まるのだという気がした、というのは、鏡に|映《うつ》るわが|姿《すがた》は「まさしくかわいい美人」だと告げてくれたからである。友だちはみな熱心に|賞賛《しょうさん》の言葉をくり返した。しばらくのあいだメグはお|噺《とぎばなし》の中の小がらすのように、借りものの羽毛に|有頂天《うちょうてん》になりながらみんなの中に立っていると、他の|娘《むすめ》たちはまた一群の|鵲《かささぎ》みたいに、ぺちゃぺちゃとおしゃべりに|余《よ》|念《ねん》がないのであった。
「ナン、あんたはね、私が|着《き》|替《が》えをする間に、この方にスカートのさばき方と、そのフランス靴の歩き方を教えて上げてちょうだい、でないとこの方、転んじまうかもしれないから。クレァラはその銀のちょうちょうをその白いバーブ[#訳注:襟や髪につける飾りレース]のまん中にとめて、それからお|頭《つむ》の左側の長い|巻《まき》|毛《げ》をとめて上げてね。だれもこのかわいい私の作品をこわしちゃいやあよ」などとベルは言いながら、自分の成功に大満足の|態《てい》でそそくさと室を出て行った。
「私|階《し》|下《た》へいくのこわいわ、なんだかこわばったみたいな、とてもへんな感じよ、それに半分|裸《はだか》みたいですもの」|鐘《かね》が鳴って、モファット夫人から、お|嬢《じょう》さん方にすぐ広間へ出るようにとお使いがきたとき、メグはサリーに向かってそう言った。
「まるで別の人みたい、でもとてもきれいよ。あなたと|並《なら》んだら私、かすんでしまうわ、ベルってほんとに|趣《しゅ》|味《み》が深いのね。あんたフランス人そっくりよ、ほんと。お花をもっとお下げなさいよ、そんなに大事そうにしてないで。そしてつまずかないように気をつけてね」とサリーは、メグが自分よりもきれいなことを気にかけまいと努めながら、これだけのことを言った。
その注意を心の中によくよくかみしめながら、マーガレットは|無《ぶ》|事《じ》に階段を下り、モファット家の人たちや、ちらほら早目のお客さまが集まりかけた広間の中へしずしずと歩を運んだ。メグはすぐに、りっぱな|衣装《いしょう》というものはある階級の人々の注意をひき、また|尊《そん》|敬《けい》の念さえ起こさせるような|魅力《みりょく》を持つものだということをさとった。前には見向きもしなかった五、六人の令嬢は、急にちやほやし出したし、前のパーティのときにはじろじろ見るだけだった五、六人の青年|紳《しん》|士《し》は、こんどは見るだけではなく、すすんで|紹介《しょうかい》を求め、およそつまらない、とはいえおもしろい話をいろいろと彼女にしかけるのであった。それからソファに|腰《こし》を下ろして他人の品さだめをしていた五、六人の老婦人連は、彼女に|興味《きょうみ》をもった様子で、あれはだれなのかときいていた。モファット夫人はなかのひとりに答えている、――
「デーズィー・マーチですわ――父親は陸軍の|大《たい》|佐《さ》でしてね――やはり私どもと同じ古い|家《いえ》|柄《がら》ですのよ、でも|破《は》|産《さん》しましたの、ごぞんじかもしれませんけれど。ローレンス家とはごくお近しくしているようですよ。ほんとにかわいい|娘《むすめ》ですわ、私どものネッドはあの娘に|夢中《むちゅう》なんですのよ」
「おやまあ、それはそれは!」と相手の老婦人は言って、もう一度ゆっくりメグを見るために、|眼鏡《めがね》をかけた。彼女はきこえないふうをよそおいながら、モファット夫人のでたらめに少々|驚《おどろ》いていたのである。
「へんな感じ」はなかなか消えなかった、が彼女はりっぱな|貴《き》|婦《ふ》|人《じん》というはじめての役をふられて|芝《しば》|居《い》をしているのだというふうに考え、|窮屈《きゅうくつ》な着物のおかげで|横《よこ》|腹《ばら》が痛くなったり、しょっちゅう|裳《もすそ》を|踏《ふ》みつけたり、耳輪がとれてなくなったりこわれたりしやしないかとたえずびくびくしたりしながらも、どうやらその役をうまく演じていった。彼女はゆるやかに|扇《おうぎ》をつかいながら、ひとりの若い|紳《しん》|士《し》が気のきいたことを言おうとして間のぬけたしゃれをとばすのを|笑《わら》ってきいていたが、急に笑うのをやめ、どぎまぎした様子になった、真正面にローリーがいるのをみつけたのである。彼は驚きの色をかくさず、まじまじと彼女をみつめていた。それは彼女の目には|非《ひ》|難《なん》の色とさえも思われた。おじぎをしてにっこり笑ってはくれたものの、彼の正直な目を見れば、メグはおのずと顔が赤くなり、自分の古い着物を着ていればよかった、と思われたからである。ベルがアニーを|肘《ひじ》でつき、やがてふたりが自分からローリーへと|視《し》|線《せん》を|移《うつ》すのを見ると、メグの|狼《ろう》|狽《ばい》は極まった。がローリーがいつもより以上に子供子供して内気そうに見えるのを見て、彼女はほっとしたのである。
「ばかなひとたち! 私にこんな気を起こさせるなんて! でも私かまわないわ、こんなことで私、少しだって自分を変わった人間にするつもりはないんですもの」こう考えてメグは、ローリーと|握《あく》|手《しゅ》をするために、きぬずれの音をさせながら広間を横切っていった。
「よくいらっしったのね、とてもいらっしゃらないだろうと思っていたのよ」とメグは|大人《おとな》びた|態《たい》|度《ど》で言った。
「ジョーが行ってくれって言うんですよ、あなたの様子をききたいんですって、それでやってきたんです」ローリーは、メグのお姉さんぶった|口調《くちょう》にほほえみながら、彼女から目をそらさずに言った。
「どうおっしゃるおつもり?」メグは彼が自分のことをどう思っているのか知りたくもあり、それでいて彼に対してはじめて不安な気持ちもいだきながら、きいてみた。
「僕にはあなたがわからなかった、といいますよ、だってすっかり|大人《おとな》になっちまって、ちっともあなたのようじゃないんですもの、なんだかこわいような気がするな」彼は|手袋《てぶくろ》のボタンをいじりながら言った。
「おかしな方! みんながおもしろがって着せてくれたのよ、私だっておもしろいわ、ジョーが見たら目をまるくするかしら?」メグはローリーに、自分がよく見えるか悪く見えるかを言わせてみたくなってこう言った。
「ええ、そりゃそうでしょう」ローリーは真顔で答えた。
「あなたもこんなのおきらいなのね?」メグはきいた。
「ええ、きらいです」|率直《そっちょく》な返事だった。
「どうしておきらい?」心配そうな調子になった。
彼はだまって彼女のちりちりした頭から、あらわな|肩《かた》のあたり、|狂気《きょうき》じみた|飾《かざ》りのある|衣装《いしょう》などをながめたが、その|表情《ひょうじょう》を見ると、メグは彼がなにか言ってくれた以上にきまりのわるい思いがするのだった。しかもそんな表情は日ごろつつしみ深いローリーにはどこを|捜《さが》しても見ることのできないものだったのである。
「|僕《ぼく》はばか|騒《さわ》ぎをしたり|飾《かざ》り立てたりするのがきらいなんです」
これは自分よりも年下な少年の言葉としてはあんまりである。メグはむかっとして、
「あなたのような失礼な人みたことないわ」と言いすててさっさと向こうへ行ってしまった。
メグはむしゃくしゃしながら、ひっそりした|窓《まど》のそばに立って、ほてった|頬《ほお》を冷たい風にあてていた、きっちりした衣装のおかげで、彼女の顔は気持ちわるく上気していたのである。そこに立っていると、リンカーン|少佐《しょうさ》がそばを通り|過《す》ぎたが、しばらくたつと彼が母親にこう言っているのがきこえた、――
「みんなであの|娘《むすめ》さんをおもちゃにしてるんですよ、私はお母さまにあのひとをお目にかけたかったんですが、すっかりだめにされてしまいました。|今《こん》|晩《ばん》のあのひとはただの人形です」
「あああ、いやだ!」メグはためいきをついた。「私もう少しよく考えて自分の物を着るんだったわ。そうすれば他のひとたちに愛想をつかされたり、自分でもこんなに|窮屈《きゅうくつ》な思いや|恥《は》ずかしい思いをしなくともよかったのに」
彼女は好きなワルツが始まってもふりむきもしないで、冷たい窓ガラスに|額《ひたい》をおしつけて、カーテンのかげに半ば身体をかくして立っていると、だれかそっとさわる者があった。ふりむくと、そこにはローリーが|後《こう》|悔《かい》したような顔つきで立っていて、ていねいにおじぎをし、手をのべながら言った、――
「失礼なことを言ってごめんなさい、あちらへ行って僕といっしょに|踊《おど》ってください」
「でも、お気持ちがわるくなるといけませんわ」と言ってメグは、まだ|怒《おこ》っているような顔をしようとしたが、それは全く失敗に帰した。
「そんなことありません、僕とても踊りたいんですよ。ね、いらっしゃい、もうおとなしくしますから。そりゃあなたの着物は好きじゃないけど、でもあなたはほんとに――りっぱです」と言って彼は、メグをほめるのに適当な言葉がみつからないかのように手を|振《ふ》るのだった。
メグはにっこりして気持ちをなごませた、そして|踏《ふ》み出す機会をとらえようと待っていたときに、そっとローリーにささやいた。
「私のスカートでつまずかないようになすってね、全くやっかいなのよ、ほんとにばかね、こんなもの着たりして」
「首のまわりにピンでとめておしまいなさい、そうすりゃ調法ですよ」ローリーはそう言いながら、かわいい青い|靴《くつ》を見下ろしたが、それはたしかに彼もいいと思ったらしかった。
それからふたりは速く、しかも|優《ゆう》|美《び》に踊っていった、家で練習がつんであるので|呼吸《こきゅう》はぴたりと合って、ちょっとしたいさかいのあとで、よけいに親しみを感じながら、楽しげにくるくると回っていく元気な|若《わか》いふたりの|姿《すがた》は、見る目にも気持ちのいいながめだった。
「ローリー、私お願いがあるのよ。きいてくださる?」メグは息切れがしたのでローリーが立ちどまってあおいでくれたとき、こう言った。そんなに早く苦しくなったわけは言おうとはしなかったが。
「ききますとも!」ローリーは|即《そく》|座《ざ》に答えた。
「家へ帰ったら、|今《こん》|晩《ばん》の私の|衣装《いしょう》のこと、家の者に言わないでいただきたいのよ。みんなには|面《おも》|白《しろ》半分にしたってことわからないでしょう。それでお母さま心配なさるといけないから」
「じゃどうしてそんなことしたんです」ローリーの目ははっきりとそう言ったので、メグはあわててつけ加えた、――
「私自分で言いますわ。なにもかも。そして自分がどんなにばかだったかってことを、お母さまに告白するつもりよ。でもね、自分でそれを言いたいの、ですからだまっててちょうだいね、いいこと?」
「けっして言わないとお|約《やく》|束《そく》します。でもきかれたらなんて言えばいいんですか?」
「ただ私きれいだったって、そして楽しそうだったって言って下さればいいわ」とメグは答えた。
「初めの方はよろこんでそう言いますけど、あとの方はどうかな? あまり楽しそうにも見えないけど、でも楽しいんですか?」と言ってローリーは彼女の顔を見たが、その目を見るとメグは声をひそめて言わずにはいられなかった、――
「いいえ、今のところは。私をいやな人間だなんて思わないでくださいね、私ちょっとおもしろい思いがしてみたかっただけなのよ、でもこんなのはつまらないものだっていうことがわかったわ、もうそろそろあきてきたんですもの」
「ネッド・モファットがやってきた、何しにくるんだろう?」ローリーは|濃《こ》い|眉《まゆ》をしかめてそう言った。この家の|若《わか》|主《しゅ》|人《じん》がパーティに|出現《しゅつげん》するのが、|好《この》ましからぬこととでも思っているかのようである。
「あの方、私と三度|踊《おど》りたいって申し|込《こ》んであるのよ、それでやってくるんでしょう、うるさい人!」メグはさもあきあきしたというふうに言ったが、それを見てローリーはひどくおもしろがるのであった。
彼はそれから|晩《ばん》|餐《さん》のときまでメグに口をきかなかった、ところがそのときローリーは、メグがネッドやその友人のフィッシャーといっしょにシャンパンをのんでいるのを見てだまってはいられなかった、というのは、このふたりはローリーの言葉をかりれば「ばか者の|好《こう》|一《いっ》|対《つい》」のように|振《ふる》|舞《ま》っていたし、一方彼はマーチ家の姉妹に対しては、彼女たちを|監《かん》|督《とく》して、面倒なことがあったときには彼女らのために一戦を交えるほどの、兄弟のような|権《けん》|利《り》があると思っていたからである。
「そんなものたくさん飲むと、明日の朝は頭が割れるほど|頭《ず》|痛《つう》がしますよ。おやめなさい、メグ、お母さまだってそんなことおきらいなはずでしょう」ネッドが彼女の|杯《さかずき》にもう一|杯《ぱい》つごうとしてうしろを向き、フィッシャーは|扇《おうぎ》を拾おうとかがんだときに、ローリーは彼女の|椅《い》|子《す》に身をよせてささやいた。
「私今夜はメグじゃないのよ。いろんなばかなまねをする『お人形』なの。明日になれば『ばか|騒《さわ》ぎも|飾《かざ》りたてる』のもやめて、すっかりいいひとになりますわ」と言って彼女はちょっとつくり|笑《わら》いをした。
「じゃ早く明日がくればいい」とローリーはつぶやいてそこを去った。彼女が人が変わってしまったようなのが、おもしろくない様子だった。
メグはほかの少女たちのように踊ったりふざけたり、おしゃべりしたり笑ったりした。食事のあとではドイツ|舞《ぶ》|踏《とう》に加わって、長いスカートで相手を|転《てん》|倒《とう》させそうにしたり、ローリーが|眉《まゆ》をひそめるほどはね回ったりしながらも、どうやら終わりまでこぎつけた、ローリーはそれをずっと見ていて、お説教の|文《もん》|句《く》を考えていた。が彼はせっかく考えたお説教を申しわたす|折《おり》がなかった、メグは彼を|避《さ》けるようにばかりしていて、とうとう|別《わか》れを告げるときがきてしまったからである。
「あのこと|忘《わす》れないでね!」と言って彼女はむりにほほえもうとした、もうそのときは割れるような|頭《ず》|痛《つう》がし出していたのである。
「命にかけて申しませぬ」ローリーは|芝《しば》|居《い》がかりにおおげさな返事をして家へ帰っていった。
このちょっとした|演技《バイプレー》はアニーの|好《こう》|奇《き》|心《しん》をそそった。しかしメグはもうむだ話もしたくないくらい|疲《つか》れていたのですぐに|床《とこ》にはいった。彼女はまるで|仮《か》|装《そう》|舞《ぶ》|踏《とう》|会《かい》にでも出ていたかのような感じがし、しかもそれは思ったほどおもしろくなかったような気がした。次の日は一日、|具《ぐ》|合《あい》が悪かった、そうして土曜日には家へ帰ったのである。二週間の|快《かい》|楽《らく》でくたくたになり、|豪《ごう》|奢《しゃ》な生活はもうたくさんという気がした。
「静かに|暮《く》らして、しょっ中よそいきの顔をしていなくってもいいってことは楽しいことですわね。りっぱでなんかなくったって、自分の家ってほんとうにいいものね」日曜の|晩《ばん》、母とジョーとのそばに|腰《こし》を下ろしたとき、メグはやっと安心したというような顔であたりを見回しながらそう言った。
「それをきいてお母さまも安心しましたよ、――あんなりっぱなお|宅《たく》から帰ってきたら、この家がつまらなく、みすぼらしく見えるんじゃないかと思って心配していたのですからね」と母は答えた。彼女はこの日いくたびか心配そうなまなざしで|娘《むすめ》を見たのであった、母親の目というものは、子供の顔におこった変化はどんな|些《さ》|細《さい》なものでも見のがさないものである。
メグは自分のしてきたことをおもしろおかしく語ってきかせ、どんなにすてきな時を過ごしてきたかをくり返しくり返し話すのであった。けれどもなにかしら心を重くするものがあるらしく、小さい妹たちが|寝《ね》|床《どこ》に引っ|込《こ》んだあとは、そこにすわったままもうあまり口もきかず、心配そうな顔をして、火をみつめながらじっと考え込んでいた。
九時が鳴ると、ジョーはもう|寝《ね》ようと言いだした、するとメグは急に|椅《い》|子《す》から立ち上がってベス用の低い台にかけ、|肘《ひじ》をお母さまの|膝《ひざ》にもたせると、思いきったように言った、――
「お母さま、お話したいことがありますの」
「そうだろうと思っていました。さ、どんなこと?」
「私あっちへ行ってましょうか?」ジョーは|思《し》|慮《りょ》深く言った。
「そんな必要ないわ、いつだってあなたにはなんでもお話してるじゃないの? 私あの子たちの前ではこんなこと言うの|恥《は》ずかしいけど、あなたには、モファットさんのところで私がどんな|恐《おそ》ろしいことしたか、みんなきいてもらいたいのよ」
「さあさ、なんでもうけたまわりますよ」マーチ夫人は|笑《わら》いながら、でも少しは心配そうにこう言った。
「みんなが私を|着《き》|飾《かざ》らせたことはお話しましたわね、でも、私におしろいをつけたり、ぎゅうぎゅう|締《し》めつけたり、|髪《かみ》を|縮《ちぢ》らせたりして、流行服の絵にあるみたいにしてしまったことはお話しなかったでしょう。ローリーはとてもおかしいと思ったらしいのよ、あのひとそうは言わなかったけど、ちゃんとわかったの。『お人形さん』みたいだ、と言った人もありましたわ。私ほんとにくだらないとは思ったんですけど、でもみんなで私をおだてて、美人だとかなんとか、ばからしいことをいっぱい言うのよ。それだもんでつい私、みんなのおもちゃにされてしまったの」
「それだけ?」ジョーがきいた。マーチ夫人はなにも言わずに美しい|娘《むすめ》のうつむき|加《か》|減《げん》な顔を見ながら、彼女のちょっとした|過《か》|失《しつ》をとがめる気にもなれないでいた。
「いいえ、シャンパンをのんだり、おてんばしたり、ふざけてみようとしたり、ほんとにいやな子でした」メグは|自《じ》|責《せき》の念にたえないようにして言った。
「もっと何かあったのでしょう?」マーチ夫人は娘のやわらかな|頬《ほお》をなでてやりながらそう言った。その頬はたちまちばら色に|染《そ》まり、メグは口ごもりながら言うのであった、――
「ええ、とてもばかばかしいことなんですけど、でも私お話してしまいたいわ。私たちとローリーのこと、みんなからあんなふうに言われたりするの、とてもいやなんですもの」
それから彼女は、モファットさんのところで耳にした話のかずかずを、すっかりふたりに話したのである。ジョーはお母さまがメグの話をききながら、くちびるをきゅっとかみしめたのを見た。娘の|無《む》|邪《じゃ》|気《き》な心の中にそんな考えを注ぎ|込《こ》まれたのが|腹《はら》|立《だ》たしい様子だった。
「ふん、そんなばかげた話って聞いたこともないわ!」ジョーは|憤《ふん》|慨《がい》して|叫《さけ》んだ。「あんたどうして飛び出してって、その場でみんなにそう言ってやらなかったのさ?」
「それができなかったの、どうすればいいのかわからなかったんですもの。はじめは聞くまいと思っても聞こえてくるんでしょう、そのうちとても腹が立ったり|恥《は》ずかしくなったりして、そこをどけばよかったんでしょうけど、それさえ思いつかなかったのよ」
「まあいいや、私がアニー・モファットに会うまで待ってらっしゃい。こんなあほらしい話はどういうふうに|片《かた》をつけるものか、姉さんに教えて上げるから。『もくろみ』があるだって、そしてローリーがお金持ちだから親切にして上げて、そのうち|娘《むすめ》と|結《けっ》|婚《こん》させる、だって! あのばか者どもが、|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》の子供の私たちのことをどう言ってるか、ローリーにきかせてやったら、|吹《ふ》き出すだろうなあ!」
考え直してみれば、この|事《じ》|件《けん》はおもしろい|笑《わら》い話の種だとでも思ったものか、ジョーは大きな声で笑ったのである。
「ローリーなんかに言ったら、|承知《しょうち》しないことよ! 言っちゃいけませんね、ね、お母さま?」メグは心配そうに言った。
「いけませんとも。そんなばかなお話は二度と口から出してはいけませんよ。さっさと|忘《わす》れておしまいなさい」マーチ夫人はまじめに言った。「お母さまがよくもしらない人たちの中へ、あなたを出してやったのがわるかったんです。ああいう人たちは親切にはちがいないんでしょうけど、|俗《ぞく》っぽくて、お|行儀《ぎょうぎ》もわるく、|若《わか》い人たちのことっていうと、そんな風にいやしいことしか考えないのね。ねえメグ、こんどの|訪《ほう》|問《もん》で、もしかあなたに悪い|影響《えいきょう》でもあったらと思うと、お母さまはなんとも言えないくらい残念なんですよ」
「そんなにおっしゃらないでちょうだい、あんなことで私悪い子になったりしませんから。悪いことはみんな忘れて、いいことだけおぼえているようにしますわ。私ずいぶんおもしろい思いをしたんですもの、行かして下すってほんとにありがとうございました。私もうけっして|感傷的《かんしょうてき》になったり、家のことを不足に思ったりしませんわ、お母さま。私自分がばかなことよくわかりました、もうこれからは自分で自分のことがちゃんとできるようになるまで、いつまでもお母さまのおそばにいますわ。でも人からほめられたり感心されたりするのって、ほんとにうれしいものね、私どう考えてもそんなの|好《す》きなようですわ」メグは少し|恥《は》ずかしそうに、正直なところを言った。
「それはごくあたりまえな気持ちで、別にわるいことでもありません。ただその好きがこうじて、そればかり考えるようになっては|困《こま》りますがね、そうなるといろいろばかなことや|娘《むすめ》らしくないこともするようになるのですよ。|賞《ほ》められ|甲《が》|斐《い》のある方から賞められるようになることが大事ですよ、ただきれいだというだけではなくって、女らしくつつましやかだといって、りっぱな方たちから感心されるようにならなくてはいけないのよ」
マーガレットが|腰《こし》かけたままじっと考え|込《こ》んでいるのに、ジョーは両手をうしろに組んで立ち上がり、なかばおもしろそうな、なかば|当《とう》|惑《わく》したような顔つきになった。メグが顔をあからめて、|賞賛《しょうさん》だとか|恋《こい》|人《びと》だとか、そんなようなことをさまざま話すのを見るというのは、彼女にとってはじめてのことである。ジョーは、この二週間のうちに姉がびっくりするほどおとなになってしまって、自分などついていくこともできないような遠いところへ行ってしまうのだ、という気がしてならなかった。
「お母さま、お母さまには、モファットの|小《お》|母《ば》さまがおっしゃったように『もくろみ』がおありになるの?」メグは|恥《は》ずかしそうにきいた。
「えええ、たくさんありますとも。どこのお母さまでもそういうものですよ、でも私のはモファットの|奥《おく》さんのとは少し|違《ちが》うんだろうと思いますがね。少しお話しておきましょう、ちょっとした一言で、あなたのその空想好きな頭や心を、まじめな問題のほうへ向けて上げられるような時機がきているようですから。メグや、あなたはまだ|若《わか》いのだけれどね、もうそろそろお母さまの言うことがわかってもいい年ごろなのですよ、あなたのような年ごろの娘にこういう話をするのには、母親の口ほどいいものはないのですからね。ジョーさん、あなたの番もそのうちに回ってくるだろうと思いますよ。ようくお母さまのもくろみをきいていて、いいもくろみだと思ったら、それを|実《じつ》|現《げん》させるようにお母さまを助けてください」
ジョーはそばへ行って|椅《い》|子《す》の|片《かた》|方《ほう》の|腕《うで》|木《ぎ》に|腰《こし》かけた、そして自分たちはこれからなにかたいへん重大な問題に|参《さん》|加《か》するのだという顔をした。マーチ夫人は|娘《むすめ》たちの手を一つずつ|握《にぎ》って二つの顔を見守りながら、いつものまじめな、それでいて明るい調子で語り出した、――
「私はね、自分の子供たちが美しく、なんでもよくできる|善良《ぜんりょう》な人になって、人からほめられ、かわいがられ、|尊《そん》|敬《けい》されるようになってほしいのです。そして|若《わか》い時代は楽しく|過《す》ごし、|賢《かしこ》い|結《けっ》|婚《こん》をして、神さまの|思《おぼ》し|召《め》しにかなうならばなるべく心配や苦労をさせないで、生き|甲《が》|斐《い》のある楽しい一生を送らせたいと思うのですよ。りっぱな男の人に愛され、|妻《つま》として選ばれるということは、女としていちばんしあわせなうれしいことなのです。お母さまは子供たちがどうかそういう美しい|経《けい》|験《けん》をもつことができるようにと、しんから願っています。そういうことを考えるのはごく自然なことなのですよ、メグ。そういうことをのぞんで待っているのは正しいことだし、そのときのために心がまえをしておくのは賢いことです。そうすればしあわせなときがきても、|奥《おく》さんとしての|務《つと》めには十分|準備《じゅんび》ができていようし、また喜びを受ける|値《ね》|打《う》ちもあると思うことができます。ね、メグとジョー、私はあなたたちにたくさんのぞみをかけています、でもそれははなばなしく世間に出てもらいたいというのではありませんよ、――たくさんなお金やりっぱな家があるというだけで、お金持ちと結婚してもらいたいなどというのではないのです、りっぱな家だって愛がなければ家庭というものではないのですからね。お金は必要だし大事なものです、――りっぱに使いさえすれば|尊《とうと》いものにもなります、――しかしただお金をもうけるためにあくせく働いて、それさえあればいいのだというふうに思ってもらいたくはないのです。お母さまはね、あなたたちが|自《じ》|尊《そん》|心《しん》もなく心の平和もない女王さまのような|暮《く》らしをするよりも、たとえ|貧《びん》|乏《ぼう》な人の|奥《おく》さんになっても、しあわせに愛されて、心から満足して暮らしてくれたほうがありがたいと思いますよ」
「貧乏な|娘《むすめ》なんて、自分で世間へ出しゃばりでもしなくっちゃ、お|嫁《よめ》に行く機会なんかないってベルが言ってたわ」とメグはといきまじりに言った。
「そんなら私たちいつまでも|老嬢《オールドメード》でいましょうよ」ジョーは|雄《お》|々《お》しく言った。
「そうですよ、ほんとに。ふしあわせな奥さんになったり、だんなさまを|捜《さが》してとび回るような、娘さんらしくない女の子になったりするよりは、老嬢になるほうがどんなにましだかわかりません」とマーチ夫人もきっぱりと言った。「心配したものではありませんよ、メグ。ほんとうに|愛情《あいじょう》のある人は貧乏などを|恐《おそ》れるものではありません。お母さまのお知り合いにもたいへんすぐれたりっぱな方で小さいとき貧乏だった方がいくらもありますがね、ほんとうの愛を|恵《めぐ》まれる|値《ね》|打《う》ちのある方たちでしたから、老嬢などにはなりたくてもなれなかったのですよ、こういうことは時節というものに任せておきましょう、今はできるだけこの家をしあわせなところにしておいて、自分の家を持つときがきたら、その家庭を持つのにふさわしい人になれるようにしましょう、もしまたそういうときがこなかったら、ここで満足してお暮らしなさい。ただこういうことを|忘《わす》れないでいらっしゃいよ、ふたりともね、――お母さまはいつどんなときでもあなた方の打ち明け話のきき手になって上げられるし、お父さまはあなた方のお友だちでいらっしゃる、そして私たちふたりは娘たちが|結《けっ》|婚《こん》するにしろ|独《どく》|身《しん》でいるにしろ、私たちの|誇《ほこ》りとなり|慰《なぐさ》めとなってくれるようにと信じもし、望みもしているということをね」
「そうなります、お母さま、そうなりますわ!」ふたりは心の底からそう|叫《さけ》んだ、そうして母はふたりにおやすみなさいを言ったのである。
第十章 P・C・とP・O・
春がくると、また新しい|傾《けい》|向《こう》の楽しみがはやり出した。日あしが長くなるにつれて、午後はおそくまでいろいろの仕事や遊びができるようになったのである。お庭の手入れもしなければならなかった、姉妹は小さな地所を四等分して、それぞれ|好《す》きなものを植えることにしていた。ハンナは「どれがどなたのお庭だか、|婆《ばあ》やはひと目でわかりますだ」と言いいいしたが、全くそのとおりで、ひとりひとりの|趣《しゅ》|味《み》のほどは、その|性《せい》|質《しつ》のとおりに|違《ちが》っていたのである。メグの庭には、ばらとヘリオトロープと|天《てん》|人《にん》|花《か》とオレンジの木が植えてあった。ジョーの花床にはふた春と同じ物が植えられたためしがなく、その度に新しい実験を試みることになっていた。今年はひまわりの|耕作場《こうさくじょう》となる|模《も》|様《よう》で、この元気で|威《い》|勢《せい》のいい植物の種子は「コックルトップ|小《お》|母《ば》さん」|鶏《にわとり》の家族を養う|餌《えさ》になるはずであった。ベスの|領分《りょうぶん》には、スイートピー、|木《もく》|犀《せい》|草《そう》、|飛《ひ》|燕《えん》|草《そう》、なでしこ、三色すみれ、|青萵《かわらにんじん》、といったような|昔《むかし》なじみのにおいのいい草花が植えてあり、その他小鳥の餌にははこべ[#「はこべ」に傍点]もあれば、|子《こ》|猫《ねこ》の|好《す》きな犬ははっか[#「はっか」に傍点]もあった。エーミーのにはあずまやがあった――少々小さくて、はさみ虫もいたが、でも見た目にはなかなか美しかった――そこには|忍冬《すいかずら》や朝顔がはっていて、色とりどりのらっぱ型や|鈴《すず》|型《がた》の美しい|花《はな》|環《わ》が一面にこのあずまやをおおっていたのである。|丈《たけ》の高い白|百《ゆ》|合《り》や|姿《すがた》やさしい|羊《し》|歯《だ》などのほか、ぱっとして美しい花でそこに|咲《さ》いてくれそうなものは何でも植えてあった。
庭いじり、散歩、ボートこぎ、花の採集などは晴れた日にして、雨の|降《ふ》る日には家の中の楽しみがあった。古いのや新しいのや、ともかく多少とも|奇《き》|抜《ばつ》な|趣《しゅ》|向《こう》をめぐらさないものはなかった。そういう遊びの中の一つがP・C・である。|秘《ひ》|密《みつ》|結《けっ》|社《しゃ》ばやりのときのこととて、この|仲《なか》|間《ま》も一つくらい|組《そ》|織《しき》したところで不思議はないのである。姉妹はみなディケンズの愛読者だったところから、|彼《かの》|女《じょ》らは自分たちの集まりをピクウィック・クラブと|呼《よ》ぶことにした。たまには休んだこともあったが、みんなはこの集まりを一年もつづけ、毎週土曜の|晩《ばん》には広い屋根部屋に会合を|催《もよお》した。会の次第は次のとおりである。一つのテーブルの前に|三脚《さんきゃく》の|椅《い》|子《す》が|並《なら》べられる、テーブルの上には一つのランプと四つの白い会員章がのせてあり、その会員章にはそれぞれ|異《こと》なった色で大きくP・C・と書いてある。この他に「ピクウィック|雑《ざっ》|報《ぽう》」と呼ぶ週刊新聞がのせてあって、この新聞には何かかにかみんなが|寄《き》|稿《こう》して、それを、書くことのなにより|好《す》きなジョーが|編集《へんしゅう》したものであった。七時が鳴ると四人の会員は階段を上がってクラブ室へ集まり、会員章を頭に|巻《ま》きつけ、いともおごそかに席につく。メグは年上なのでサミュエル・ピクウィックであった。文筆の才あるジョーはオーガスタス・スノドグラス、顔がまるくばら色をしているというのでベスはトレースィー・タプマンで、できそうもないことをやりたがるエーミーはナサニエル・ウィンクルであった。会長なるピクウィック氏はまず新聞をとり上げて読み出す。それには|斬《ざん》|新《しん》な物語、詩、近所の|出《で》|来《き》|事《ごと》、おもしろい広告、はては|互《たが》いのあやまちや欠点などを親切に反省させ合うほのめかしなどが、所せまく|掲《けい》|載《さい》されているのであった。あるときピクウィック氏は、レンズのはいっていない|眼鏡《めがね》をかけ、テーブルをたたき、せきばらいをしたのち、|椅《い》|子《す》にひっくり返っているスノドグラス氏をにらみつけていずまいを正させ、やおら読み出した、――
[#ここから4字下げ]
|記念祭祝歌《きねんさいしゅくか》
[#ここから3字下げ]
われらふたたび|祝《いわ》うかな
|徽章《しるし》と式もおごそかに
第五十二の記念日を
|今《こ》|宵《よい》ピクウィック会館に
みなすこやかにつどい来て
|群《む》れをはなれし者もなく
見なれし顔を打ち見つつ
親しき|握《あく》|手《しゅ》交わすなり
わがピクウィック氏|座《ざ》につきて
われらが礼を受けたまい
|眼鏡《めがね》を鼻に読み出すは
世におもしろき週報ぞ
|風《か》|邪《ぜ》に|悩《なや》めるさまなれど
語るをきくはいとたのし
|知《ち》|恵《え》の言の葉あふれきて
|嗄《しわが》れ声もなんのその
ぬっと高きはスノドグラス
象かとまがう品位あり
黒く陽気な|面《おもて》こそ
|仲《なか》|間《ま》を照らす光なれ
まなこに燃ゆる詩の|炎《ほのお》
|己《おのれ》が|運命《さだめ》と競うとや
見よ |眉《まゆ》に|秘《ひ》む大望と
鼻につけたる|墨《すみ》のあと
つづく平和のタプマン氏
|紅《あか》き|顔《かんばせ》愛らしく
|洒《しゃ》|落《れ》などきけば|笑《わら》いこけ
|椅《い》|子《す》よりまろびおつるなり
気どり屋ウィンクルここにあり
[#ここから4字下げ]
|髪《かみ》|一《ひと》|筋《すじ》もみださずに
[#ここから3字下げ]
|行儀《ぎょうぎ》作法のかがみなれ
顔を|洗《あら》うは|嫌《いと》えども
ひととせ|過《す》ぎてまたここに
|戯《たわむ》れ、|笑《えま》い、また読みて
文の細みち |踏《ふ》みゆけば
|栄《えい》|誉《よ》の庭に|至《いた》るなれ
栄えよ|永久《えいきゅう》に 週報よ
われらがクラブなゆらぎそ
来ん年々よ 恵みをば
ゆたかに注げ P・C・に
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]A・スノドグラス
[#ここから2字下げ]
ゴンドラに続くゴンドラが大理石の|階《きざはし》の下にすべり|寄《よ》せては美しいのり手を残して去ってゆく。残されし人はアデロン|伯爵《はくしゃく》家の|豪《ごう》|壮《そう》なる大広間を|埋《う》めつくす|大群集《だいぐんしゅう》のなかに|吸《す》い|込《こ》まれて、その|群《む》れをいやが上にもふくらましてゆくのであった。|騎《き》|士《し》あり|貴《き》|婦《ふ》|人《じん》あり|小鬼《しょうき》あり|小姓《こしょう》あり、|修道僧《しゅうどうそう》あり花売り|娘《むすめ》あり、みなたのしげに|踊《おど》りの|仲《なか》|間《ま》にまじって行った。あたりにはさわやかな声々やゆたかな|旋《せん》|律《りつ》があふれ、かくてさざめきと楽の音につれて仮面|舞《ぶ》|踊《とう》|会《かい》は進んでゆくのであった。
「|殿《でん》|下《か》には|今《こ》|宵《よい》ヴィオラ|姫《ひめ》をごらん遊ばされましたか?」一人のみやび男の|吟《ぎん》|遊《ゆう》詩人は、己が|腕《うで》にささえられてふわりふわりと広間をよぎる|妖《よう》|精《せい》の女王に問いかけた。
「見ました、なんと愛らしいではありませんか、大そう悲しそうにしておられましたね。お|召《め》し物もよいお|好《この》みです。一週間もするうちには姫がしんからおきらいなアントニオ|伯《はく》とご結婚になるのですよ」
「伯がおうらやましい|限《かぎ》りでございます。あれへお見えになりました。あの黒い|仮面《マスク》さえおとりになればすっかり|花聟姿《はなむこすがた》でいらせられます。あれをお|脱《ぬ》ぎになった時こそ伯があの美しい姫をばどう|思《おぼ》し|召《め》されるか拝見できようというもので。あのきつい|父《ちち》|御《ご》から姫をお|授《あず》かりになるのだとは申せ、姫のお心はあの|殿《との》|御《ご》のものではございますまい」
と詩人は答えた。
「姫は|若《わか》いイギリスの画家を愛しておいでだそうですね。その画家の方は姫をお|慕《した》い申しながら、老伯にはきつくしりぞけられておいでだとか」女王はこう言い、やがて二人は踊りに加わった。
|宴《えん》がたけなわになったとき一人の|僧《そう》|侶《りょ》が|現《あらわ》れた。そしてかの|若《わか》い二人をば|紫《むらさき》ビロードのたれ|幕《まく》の下がった|床《ゆか》の間に|招《まね》き入れ、ひざまずくようにと合図をした。はなやかな|群《む》れはたちまち水を打ったように静まり、きこゆるものは|噴《ふん》|水《すい》の音と、月光に|眠《ねむ》るオレンジの森のさやぎのみ、このときアデロンの伯は|述《の》べて言うよう、
「満堂の|紳《しん》|士《し》ならびに|淑女諸《しゅくじょしょ》|君《くん》、|娘《むすめ》の|婚《こん》|礼《れい》にお立ち会いを願うため、諸君をお集め申せし|策略《さくりゃく》の|儀《ぎ》をおゆるしくだされたい。神父|殿《どの》いざお始めくだされい」
一同の目は|花《はな》|嫁《よめ》|花《はな》|聟《むこ》へと注がれた。やがて|群集《ぐんしゅう》の中からは|驚《おどろ》きのささやきがもれはじめた。|新《しん》|郎《ろう》も|新《しん》|婦《ぷ》もともに|仮《か》|面《めん》をとろうとしなかったからである。|好《こう》|奇《き》と驚きの気持ちが|並《な》みいる人々の心を|捉《とら》えたが、|聖《せい》なる式がすむまでは、|礼《れい》|儀《ぎ》の上から口を開く者もなかった。そのうちに待ちかまえた|観衆《かんしゅう》は|老《ろう》|伯《はく》をとり囲んで口々に説明を求めた。
「できればなんなりとご説明申し上げようが、私もこれは内気なヴィオラの気まぐれだということ以外には知りませんのじゃ、私も|兜《かぶと》をぬがされました。ささ、子供たち|狂言《きょうげん》はよいかげんにして、その面をとりなさい、そして私の|祝福《しゅくふく》を受けるのじゃ」
だが、二人ともひざまずこうとはしなかった。新郎が口を開いたとき、その声をきいてあっと驚かぬ者はなかった。面をはずせばそこにあらわれたのは、|姫《ひめ》の恋人なる画家、フェルデナンド・ドヴァルーの|高《こう》|貴《き》なる顔にほかならなかった。そしてイギリス|伯爵《はくしゃく》の星の|燦《さん》|然《ぜん》たる|胸《むね》にもたれるは、喜びと美しさに|輝《かがや》くばかりのかれんなるヴィオラ姫だったのである。
「|閣《かっ》|下《か》よ、閣下は私に、アントニオ伯と同等なる|名《めい》|誉《よ》と|富《とみ》とを|得《え》た|暁《あかつき》に姫を|所《しょ》|望《もう》せよと|嘲笑《ちょうしょう》されました。私にはそれ以上のことができるのです、と申すのは、今は私の|妻《つま》となったこの美しき婦人の手の|代償《だいしょう》として、古き|家《いえ》|柄《がら》と|莫《ばく》|大《だい》な富とをお|酬《むく》いしようと申したなら、いかに閣下の野心大なりとも、よもドヴァルーならびにドヴェール伯爵をおこばみになることはできますまい」
老伯爵は化石したように立っていた、|唖《あ》|然《ぜん》とした|会衆《かいしゅう》に向かいフェルデナンドは喜ばしげな勝利の|微笑《びしょう》をたたえて告げるのであった。
「|勇《ゆう》|敢《かん》なる|諸《しょ》|賢《けん》よ、私は諸賢の求愛も私の場合同様成功に終わらんことを|祈《いの》るものであります。かつまた私が仮面の結婚によって|得《え》たごときかれんなる新婦を諸賢もまた得られんことを」
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]S・ピクウィック
[#ここから2字下げ]
―――――――
P・C・はどうして「バベルの|塔《とう》」に|似《に》ているのでしょう?
|御《ぎょ》しがたき会員ばかりいるからです。
―――――――
ある|南《かぼ》|瓜《ちゃ》の一生
|昔々《むかしむかし》、一人のお|百姓《ひゃくしょう》さんが|畠《はたけ》に小さな種をまきました。しばらくたつと芽が出て、|蔓《つる》がはい、たくさんの南瓜がなりました。十月のある日、南瓜がすっかり|熟《じゅく》したころ、お百姓さんは一つとって市場にもってゆきました。一人の|八《や》|百《お》|屋《や》さんがそれを買ってお店に出しておきました。その朝、茶色の|帽《ぼう》|子《し》をかぶって青い洋服を着、お顔が丸くて|獅《し》|子《し》|鼻《ばな》の小さな女の子が、八百屋さんに行ってその南瓜をお母さんに買いました。女の子はそれを重そうにかかえてお家へ帰りそれを切って大きなお|鍋《なべ》でにました。それから少しとってつぶして塩とバターで味をつけ、|晩《ばん》のご|馳《ち》|走《そう》にしました。残りにミルクを少しと卵を二つとお|砂《さ》|糖《とう》をスプーンに四|杯《はい》と、ニクズクとクラッカーを少し入れて、深いお|皿《さら》に入れ、|狐色《きつねいろ》においしそうになるまで焼きました。次の日、それはマーチという名のお家の人たちに食べられました。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]T・タプマン
[#ここから2字下げ]
―――――――
ピクウィックさま
先生 私はつみという題でお話いたします私のいうつみびとというのはウィンクルという名前の人のことですこの人は大声で笑ったりこのりっぱなしんぶんにげんこうを出さなかったりしてクラブにごめいわくをかけますどうかかれのわるいところをゆるしてくださいそしてフランスのおとぎばなしをお送りしてもよいことにしてくださいべんきょうがいそがしくあたまがわるいので自分で考えることができないからですこのつぎにはきかいをのがさずしかるべき作品をこしらえますもうがっこうへ行くじかんですからとりいそぎ右まで
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]|敬《けい》|具《ぐ》
[#地から2字上げ]N・ウィンクル
[#ここから2字下げ]
(右は|過《か》|去《こ》の|非《ひ》|行《こう》を男らしくりっぱに|認《みと》めたるものというべし。同氏にして|句《く》|読《とう》|法《ほう》を研究されなば右の文章はいっそう|光《こう》|彩《さい》を|添《そ》うるを|得《え》ん)
―――――――
|悲《ひ》|惨《さん》な|出《で》|来《き》|事《ごと》
去る金曜日、わが家の地階に|激《げき》|震《しん》が起こりつづいて悲鳴がきこえて家人を驚かした。何事ならんと地下室に|駆《か》けつけた一同は、われらの敬愛する会長ピクウィック氏が、|床《ゆか》の上に平たくのびているのを発見した。同氏は家事上の|目《もく》|的《てき》で|薪《まき》をとりに|赴《おもむ》き、つまずいて|足《あし》|踏《ふ》みはずしたものであった。ピクウィック氏は|転《てん》|倒《とう》の|際《さい》、頭部ならびに|両肩《りょうかた》を|水《みず》|桶《おけ》の中につっこみ、全身に|樽《たる》の石けん水を浴び、あまつさえ着衣をいたく|破《は》|損《そん》するなど目もあてられぬ|惨状《さんじょう》であった。この|危《き》|険《けん》なる|状態《じょうたい》より氏を救助するに及び、二、三のかすり|傷《きず》以外には別段の|怪《け》|我《が》もなかったことが|判《はん》|明《めい》、かつその後の|経《けい》|過《か》すこぶる|良好《りょうこう》なる事を付記して安心をこう次第である。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]記 者
[#ここから2字下げ]
同情心に富める友は左の珠玉の哀歌を寄せられた。
[#ここから4字下げ]
|哀《あい》 |歌《か》
[#ここから3字下げ]
S・B・パットポーにささぐ
ゆきてふたたびかえらざる
|汝《な》が|運命《さだめ》こそ幸なけれ
炉辺に|憩《いこ》い門の辺に
あそびし|姿《すがた》今はなし
汝がみどり児の|眠《ねむ》るなる
おくつき|栗《くり》の花|咲《さ》けど
汝がおくつきは知らざれば
いずくに|涙《なみだ》そそぐべき
主なきふしど、また手まり
|汝《なれ》を|迎《むか》うる日はあらじ
客間の|扉《とびら》また|永《と》|久《わ》に
きく日もあらじ|汝《な》が音を
|鼠《ねずみ》を追いて来し|猫《ねこ》の
|汚《よご》れし顔のうたてさよ
|捕《とら》うるすべも|汝《なれ》に|似《に》ず
あそぶ|姿《すがた》もうとましき
|汝《な》があそびたる部屋に来て
|忍《しの》びあゆめど 犬見ても
汝が追いしごと追いもせで
ふうふう声をかくるのみ
|性《さ》|質《が》おとなしく、はげめども
美しからぬ猫なれば
汝が代わりとは思いえず
汝を|愛《め》でしごと愛でぬなり
[#ここから2字下げ]
オランシー・ブラッゲジ女史の|講《こう》|演《えん》、深き学識と|鞏固《きょうこ》なる意志の持ち主たる同女史は、きたる土曜|夕《ゆう》|刻《こく》定例会議の後、ピクウィックホールにおいて「|婦《ふ》|人《じん》とその地位」なる題下に|定評《ていひょう》ある講演を行なう。
―――――――
料理週会。|若《わか》き|淑女《しゅくじょ》に料理法を講ずるためキッチンにおいて|開《かい》|催《さい》す。会長ハンナ・ブラウン女史、大方の出席を|歓《かん》|迎《げい》す。
―――――――
|塵《ちり》取り会。きたる水曜日開催。クラブ|楼上《ろうじょう》において調練の予定。各会員は制服着用、|箒《ほうき》をにないて正九時参集すべし。
―――――――
ベス・バウンザー夫人は来週、人形服小間物各種とりそろえ|陳《ちん》|列《れつ》の予定。パリ最新流行品到着。つつしんでご用命をこう。
―――――――
|斬《ざん》|新《しん》なる|演《えん》|劇《げき》、アメリカ演劇界に、かつて見られざりし|大《だい》|傑《けっ》|作《さく》、近々バーンヴィル劇場において上演さる。
血わき肉おどるこの演劇の外題は
「ギリシアの|奴《ど》|隷《れい》
一名コンスタンタインの|仇討《かたきう》ち」!
―――――――
ほのめかし
S・P氏 手を|洗《あら》う|際《さい》も少し石けんを|倹《けん》|約《やく》したならば朝ごはんにおくれないですむでしょう。
A・S君は|往《おう》|来《らい》で|口《くち》|笛《ぶえ》を|吹《ふ》かないように|頼《たの》みます。
T・Tさん エーミーのナプキンを|忘《わす》れないでください。
N・Wさん 洋服にひだが九つないからといって、だだをこねてはいけません。
[#ここから3字下げ]
|操《そう》|行《こう》週間生活報告
メ グ――優 ジョー ――不可
ベ ス――秀 エーミー――可
[#ここで字下げ終わり]
会長が新聞を読み終わると、(その新聞は、かつてほんとうに生きていた少女たちの手でつくられたほんとうの新聞の写しであるということを、読者|諸嬢《しょじょう》に|保証《ほしょう》させていただきたい)ひとしきり|拍《はく》|手《しゅ》が起こり、それが終わるとスノドグラス氏が、ある|提《てい》|案《あん》をするために立ち上がった。
「会長ならびに諸君」と彼は議会もどきの|態《たい》|度《ど》と|口調《くちょう》よろしくやりだした。「わがはいはここに、一名の新会員の入会|許《きよ》|可《か》を提案いたします。それはこの|名《めい》|誉《よ》を受けるにはきわめて|適《てき》|当《とう》なる人物でありまして、同氏はその名誉に対しては深く|感《かん》|謝《しゃ》し、わがクラブの|精《せい》|神《しん》ならびに新聞の文学的|価《か》|値《ち》を|増《ま》すところはなはだ大なるものがあると同時に、同氏の入会はクラブを陽気にかつおもしろくするうえに|限《かぎ》りなきものがあろうと|存《ぞん》ずる|次《し》|第《だい》であります。よってわがはいはシォドア・ローレンス氏をP・C・の名誉会員として|推《すい》|薦《せん》するものであります、ねえ、入れてやりましょうよ」
ジョーが急に調子を変えたのでみんな|大《おお》|笑《わら》いになった、でもいくらか心配そうな顔つきで、ジョーが席についても返事をする者はいなかった。
「投票で決します」と会長は言った。「この動議にご|賛《さん》|成《せい》の方は『賛成』と言っていただきたい」
スノドグラスが大声でこれに|応《おう》じたのにつづいて、一座が|驚《おどろ》いたことには、おずおずとした声ではあったがベスが賛成したのである。
「反対の方は、『反対』と言っていただきます」
メグとエーミーは反対であった。ウィンクル氏は立ち上がり、きわめて|優《ゆう》|雅《が》な調子で|述《の》べた、
「私たちは男の子を入れたくないとぞんじます。男の子というものはふざけたり飛び回ったりばかりいたします。これは|婦《ふ》|人《じん》のクラブでございますから、私たちはこれをおうちだけのおだやかなものにしていきたいと思うのでございます」
「あの方は|私《わたし》たちの新聞を|笑《わら》ったり、あとで私たちのことをばかにしたりしやしないかと思います」とピクウィック氏は、なにごとかを|懸《け》|念《ねん》するときのくせとして、|額《ひたい》の|巻《まき》|毛《げ》をひっぱりながら意見を|述《の》べた。
このときスノドグラス氏は、誠実あふるる|面《おも》|持《も》ちですっくとばかりに立ち上がった、「会長! ローリーはけっしてさようなことはしないということを、私は|紳《しん》|士《し》として|誓《ちか》います。|彼《かれ》は書くことが|好《す》きです。彼の文章はわれわれの|寄《き》|稿《こう》に気品を|添《そ》え、われわれがセンティメンタルになるのを|防《ふせ》いでくれるでありましょう。そうお思いにはなりませんか。われわれは彼のために大したことをして上げられないが、彼はわれわれのために実に多くのことをしてくれるのです。彼に席を|与《あた》え、彼が望むならば彼を|歓《かん》|迎《げい》するのこそ、せめてものお礼なのだと思うのであります」
ローリーから受けた|恩《おん》|恵《けい》のことをこのように言葉|巧《たく》みにほのめかしたものだから、タプマン氏は心深く決する所あるもののように|椅《い》|子《す》から立ち上がった。
「|賛《さん》|成《せい》です。たとえ気がかりな点があるにしても、私たちはそうすべきであると思います。私は同氏が入会されてもよろしいと申し上げます。もしお望みならば同氏のおじいさまもです」
ベスがこのようにきびきびと思うところをぶちまけたのには、クラブ員一同びっくりぎょうてんしてしまった。ジョーはいとも満足げに彼女と|握《あく》|手《しゅ》しに席をはなれた。「では、投票をし直します。|皆《みな》さん、新会員はわがローリーであることをお|忘《わす》れなく、『賛成!』とおっしゃってくださるように」スノドグラスは|興《こう》|奮《ふん》して|叫《さけ》んだ。
「賛成! 賛成! 賛成!」三つの声が同時に答えた。
「うまい! ありがとう! では、ウィンクル君の口まねではないが『チャンスの|前《まえ》|髪《がみ》をとらえる』に|越《こ》したことはありませんから、|早《さっ》|速《そく》新会員を登場させていただきます」他の会員があっけにとられているひまに、ジョーがさっと|押《お》し|入《い》れの戸を開けると、そこにはローリーが、しのび|笑《わら》いに顔をほてらし目をぱちくりさせながら、ぼろ|袋《ぶくろ》の上に|腰《こし》を下ろしているのであった。
「ずるいわ! |謀《む》|反《ほん》|人《にん》! よくもこんなことできたのね?」などと三人が口々に|叫《さけ》ぶうちに、ジョーは|得《とく》|々《とく》と友だちを引き出して、|椅《い》|子《す》と会員章を|与《あた》え、またたくうちに彼を着席させてしまった。
「お二人のずうずうしさにはいやはや|驚《おどろ》き入りました」ピクウィック氏はこう言いながら、|恐《おそ》ろしいしかめ|面《づら》をしてみせようと思ったのだが、その顔は思わずにこにこと|笑《わら》ってしまったのである。しかし新会員はびくともせずに立ち上がり、議長席に向かってうやうやしく礼をしたのち、実に|愛嬌《あいきょう》のある|態《たい》|度《ど》で|述《の》べた、――「会長ならびに|淑女《しゅくじょ》――失礼いたしました、|紳《しん》|士《し》|諸《しょ》|君《くん》、私はクラブの末席に加えていただきましたサム・ウェラーと申す者でございます」
「うまい、うまい」ジョーは今までよっかかっていた古あんか[#訳注:長い取っ手のついたフライパンのような形でベッドをあたためるあんかの一種]の取っ手で、そこら中をめちゃくちゃにたたきながらはやしたてた。
「私の忠実なる友人にして|義侠心《ぎきょうしん》に|富《と》む|保護者《パ ト ロ ン》は」ローリーは手を|振《ふ》りふりつづける、「ただいま私をたいそうりっぱにご|紹介《しょうかい》くださいましたが、同氏は|今《こん》|晩《ばん》の|卑《ひ》|劣《れつ》きわまる|謀略《ぼうりゃく》に対し、なんら責を負われる必要はないのであります。それを思いついたのは実は私なのでありまして、|女《じょ》|史《し》は私にさんざねだられてやむなく|承知《しょうち》されたにすぎないんであります」
「ちょっと、そんなになにもかも自分の責任にしなくったっていいでしょう、押し入れ案を出したのは私じゃありませんか」とスノドグラスが|割《わ》り|込《こ》んだ、このいたずらがおもしろくてたまらないのである。
「|女《じょ》|史《し》の言うことなどお気にとめられませんように。それをやった|卑《ひ》|劣《れつ》|漢《かん》はこの私であります」新会員はこう言うと、ピクウィック氏に向かってウエラー式の|会釈《えしゃく》を一つした。「しかし私は|名《めい》|誉《よ》にかけて、このようなまねはふたたびいたさぬつもりであります、しかし今後はひたすらこの|不朽《ふきゅう》のクラブのために|尽力《じんりょく》いたすつもりであります」
「ヒヤ、ヒヤ!」ジョーはあんかのふたをシンバルのように鳴らしながら|叫《さけ》ぶ。
「もっと、もっと!」ウィンクルとタプマンは|催《さい》|促《そく》し、会長はやさしく会釈をした。
「ここに一言申し上げたいのは、私に|与《あた》えられたる|名《めい》|誉《よ》に対する|感《かん》|謝《しゃ》の|微《び》|意《い》を表するためと、一つには、|隣《りん》|国《こく》|間《かん》の|友《ゆう》|好《こう》関係を|促《そく》|進《しん》する手段として、私が庭の下手のすみの|垣《かき》|根《ね》に、|郵便局《ゆうびんきょく》を|設《もう》けたということであります。これは形美しく広さも相当な建物でありまして、|扉《とびら》には|南京錠《なんきんじょう》をつけ各種郵便物を|扱《あつか》うに便利なようにいたしました、もと|燕《つばめ》の小屋でありましたものを、戸をふさぎ屋根を開けさせたのであります。それで、あらゆる種類の物品を入れることができ、お|互《たが》いの時間の節約をはかることができるわけです。手紙、|原《げん》|稿《こう》、|書《しょ》|籍《せき》、小包等、なんでもここで取り次がれます。両国民は一つずつ|鍵《かぎ》を持ちますから、その|重宝《ちょうほう》さは|非常《ひじょう》なものと考えます。ではここにクラブ|専《せん》|用《よう》の鍵を|贈《ぞう》|呈《てい》し、ご一同のご好意を|深《しん》|謝《しゃ》しつつ着席させていただく|次《し》|第《だい》であります」
ウェラー氏が一個の小さな鍵をテーブルの上に置き|座《ざ》に着いたときには、|嵐《あらし》のような|拍《はく》|手《しゅ》が起こった。あんかは|盛《さか》んに音を立てて空中に|振《ふ》り回された。それから一座の|秩《ちつ》|序《じょ》が回復されるにはしばらく時間がかかったのである。つづいて長いこと|討《とう》|議《ぎ》が行なわれた。|皆《みな》それぞれありったけの|知《ち》|恵《え》をしぼったものだから、|結《けっ》|果《か》は|驚《おどろ》くばかり上出来であった。というわけで、この|晩《ばん》はいつにない活発な会合となり、おそくまで開かれていたが、やがて新会員のために|万《ばん》|歳《ざい》を三|唱《しょう》したのち散会となった。
今はサム・ウェラーの入会|許《きよ》|可《か》を|後《こう》|悔《かい》する者はひとりもいなかった。世にこれほど|献《けん》|身《しん》|的《てき》で|行儀《ぎょうぎ》もよく、しかも|愉《ゆ》|快《かい》な会員というものは、どんなクラブにだってあるものではない。彼はたしかにこの会に「活気」を加え、新聞には「気品」を|添《そ》えた。彼の|演《えん》|説《ぜつ》は|聴衆《ちょうしゅう》のお|腹《なか》の皮をよじらせ、彼の|寄《き》|稿《こう》は|優秀《ゆうしゅう》で、その調子は愛国的・|古《こ》|典《てん》|的《てき》・|滑《こっ》|稽《けい》|的《てき》・|劇《げき》|的《てき》等々ではあっても、けっして|感傷的《かんしょうてき》ではなかったからである。ジョーは彼のそうした文章はベーコン、ミルトン、さらにシェークスピアにも|比《ひ》すべきものであると思い、それを|再《さい》|模《も》|倣《ほう》することによって自分の作品は|好《よ》い|影響《えいきょう》を受けた、と思ったようであった。
P・O・(|郵便局《ゆうびんきょく》)は小さいながらもすばらしい公共建物となり、|驚《おどろ》くべき|繁昌《はんじょう》ぶりを|呈《てい》した。本物の郵便局にも|劣《おと》らぬほどの多種多様な物品が取り次がれたのである。|悲《ひ》|劇《げき》ありネクタイあり、詩あり|漬《つけ》|物《もの》あり、草花の種あり長い手紙あり、|楽《がく》|譜《ふ》あり|生姜《しょうが》パンあり、そのほか消しゴムに|招待状《しょうたいじょう》に|小《こ》|言《ごと》に子犬といったぐあい。お|年《とし》|寄《よ》りまでこの遊びが気に入って、おかしな小包や不思議な手紙、おもしろい|電《でん》|報《ぽう》などを送ってご|満《まん》|悦《えつ》であった。氏の|園《えん》|丁《てい》までがハンナに思いをよせて、ジョーの|気《き》|付《づけ》にしてほんとの|恋《こい》|文《ぶみ》を送ってよこした。このことがわかったとき、みんなはどんなに|笑《わら》ったことだったろう、彼らは|将来《しょうらい》この小さな郵便局が、どれほどたくさんの恋文を取り次ぐことになろうかなどとは、|夢《ゆめ》にも考えなかったのである。
第十一章 こころみ
「とうとう六月一日よ、キングさんとこじゃあ明日、海へ行っちまうの、|私解放《わたしかいほう》されるのよ! 二か月のお休み! どうやって楽しく|暮《く》らしたらいいかしら!」ある暑い日、メグは家へ帰るなりこう|叫《さけ》んだ、ジョーはいつにもないほど|疲《つか》れた様子でソファの上に横になり、ベスがきたない|靴《くつ》をぬがせてやっていた、エーミーはみんなの気分をさっぱりさせようとレモン水をつくっていた。
「マーチ|伯《お》|母《ば》さんは今日行っちまったわ、なんてうれしいんだろう!」ジョーは言った。「いっしょに行ってくれっていわれやしないかと思ってびくびくものだったわ。もしかそういわれたら私、行かなくちゃならないような気になっただろうと思うの。だって、ねえ、プラムフィールドってまるで|墓《はか》|場《ば》みたいに|陰《いん》|気《き》くさいでしょう、できればごめんこうむりたいところだわ。今日は伯母さんの出かける|支《し》|度《たく》で|大《おお》|騒《さわ》ぎさ、私、なにか話しかけられるたんびにどきっとしたわ、だってね、|一《いっ》|刻《こく》も早く|片《かた》づけちまいたかったから、いそいそとお手つだいしたり、うんとやさしくして上げたりしたでしょう、それで伯母さん、私と|別《わか》れるのがいやになりやしないかと心配になりだしたの。伯母さんがちゃんと馬車の中に|納《おさ》まるまでがたがたふるえていたのよ、おしまいには全くひやっとさせられたわ、だってさ、馬車が動いたとたんに、伯母さんたら顔をつき出して、『ジョーゼフィーン、おまえ……?』なんていうんですもの。私それ以上聞かなかったのよ、|卑怯《ひきょう》だったけどうしろ向いて|逃《に》げてきちゃったの。ほんとに|駆《か》けだしたのよ、くるっと角を曲がったときはほっとしちゃった」
「かわいそうに! それで熊にでも追っかけられたようにしてお家へはいってきたというわけね」と言ってベスは母親のようにやさしく姉の足を|抱《だ》きしめた。
「マーチ伯母さんてまったくサンファイア(海草の一種)ね、そうじゃない?」エーミーは自分のこしらえた飲み物のお味をみながら、口をはさんだ。
「ヴァンパイア(吸血鬼)のつもりなのよ、海草のことじゃなくって。ま、どっちだっていいさ、こんな暑いときにひとの言葉づかいなんか|構《かま》っちゃいられやしない」ジョーはつぶやいた。
「お休み中にみんな何するつもり?」と、エーミーはうまく話題を変えて|尋《たず》ねた。
「うんと|寝《ね》|坊《ぼう》をして、何もしないで|暮《く》らすわ」メグが|揺《ゆ》り|椅《い》|子《す》の底から返事をした。「私冬の間中、早くからたたき起こされて、よそのひとのために働いて暮らさなくっちゃならなかったんですもの、こんどこそからだを休めて思いっきり楽しむつもりよ」
「ふーん!」ジョーは言った。「私はそんなのらくら暮らすの|性《しょう》に合わないわ。私はうんとこさ本をためといたから、|例《れい》の|林《りん》|檎《ご》の木のとまり木に|腰《こし》かけて、せっかくのお休みを利用して大いに読書するつもりよ、ローリーと|浮《う》かれ|騒《さわ》ぎをしないときはね」
「『浮かれ騒ぎ』だなんて言わないでちょうだいね!」とエーミーが|出《で》|鼻《ばな》をくじいて|頼《たの》んだのはさっきの「サンファイア」|訂《てい》|正《せい》に対する|腹《はら》いせのお返しである。
「じゃ『うたい騒ぐ』って言おうか、そのほうがなおさらぴったりするわ、あのひとよくさえずるからね」
「ねえベス、私たち当分勉強はやめて、しょっちゅう遊んだり、休んだりしましょうね、お姉さまたちのように」エーミーが申し入れた。
「ええ、いいわ、お母さまさえいいとおっしゃったら。私ね、新しい歌を少しおぼえたいのよ、それからお人形さんたちの夏のお|支《し》|度《たく》もしなくちゃならないの。みんなめちゃくちゃになっちゃって、どうしたっておべべが|要《い》るんですもの」
「ようございますか、お母さま?」メグはマーチ夫人の方を向いて尋ねた、夫人はみんなが「お母さまの|領分《りょうぶん》」と|呼《よ》んでいる|一《いち》|隅《ぐう》にすわって、お仕事をしていたのである。
「まあためしに一週間もやってごらんなさい、お気に|召《め》すかどうか。お母さまの考えでは、土曜日の|晩《ばん》あたりになったら、働かずに遊んでばかりいるのは、遊ばないで働いてばかりいるのとおんなじくらいつまらないものだっていうことがわかるだろうと思いますがね」
「いいえ、そんなことありませんわ! きっと楽しいと思います」メグはいかにも満足そうに言った。
「『わが友にしてお|仲《なか》|間《ま》なるセアリ・ギャンプ』[#訳注:ディケンズの小説「マーティン・チャズルウィット」に出てくる人物]の言うように、さあ|祝杯《しゅくはい》をあげましょう。楽しい遊びは末長く、苦しい仕事はおさらばだ!」レモン水がみんなの手に配られると、ジョーはこう|叫《さけ》びながらコップを持って立ち上がった。
みんなはそれを楽しそうに飲み、まずこころみの手始めに、その日ののこりの時間をぶらぶらと|暮《く》らすことにした。あくる朝、メグは十時まで起きてこなかった。ひとりぼっちの朝ごはんはあまりおいしいものではなかった、室の中は|寂《さび》しいうえにごたごたしていた。そのはず、ジョーは花びんに花をささなかったし、ベスは|掃《そう》|除《じ》をしなかったし、エーミーの本はちらかり放題だったからである。いつものとおりなのは「お母さまの領分」だけで、他には少しも小ざっぱりして気持ちのいいところはないのであった。メグは「休養して読書」をするために、そこへすわり|込《こ》んでみたが、実はあくびをし、自分の月給でどんな美しい夏着を買えるだろうかと、空想をしただけであった。ジョーは午前中、ローリーと川で遊び、午後は|林《りん》|檎《ご》の木の上で「広き広き世界へ」[#訳注:エリザベス・ウェザレル作一八一九―八五]を読んで|泣《な》いて暮らした。ベスは自分の家族が住んでいる大きな|押《お》し|入《い》れから、あらゆる物をひっぱり出してやり始めてはみたものの、半分もできないうちにいやになり、その家をごった返しにしたままピアノを|弾《ひ》きに行ってしまった。お|皿《さら》を|洗《あら》わなくてもいいので大喜びである。エーミーはあずまやを|片《かた》づけ、大よそいきの白い服を|着《き》|込《こ》んで|巻《まき》|毛《げ》をなでつけ、|忍冬《すいかずら》の下にすわって写生を始めた、そしてだれかが見てあの|若《わか》い絵かきさんはどなたときいてくれないかしらなどと思っていた。あいにくとだれも|現《あらわ》れず、|物《もの》|好《ず》きな|蚊《か》とんぼが一|匹《ぴき》、彼女の作品をしげしげとながめただけだったので、エーミーは散歩に出かけ、夕立に会ってびしょぬれになって帰ってきた。
お茶時にみんなは感想を|述《の》べ合い、いつになく長い一日ではあったが、楽しかった、ということに意見が|一《いっ》|致《ち》した。メグは午後、買い物に行って「美しい青いモスリン」を買ってきたが、いくつかに|裁《た》ちおとしたあとで|洗《せん》|濯《たく》のきかないことがわかり、その|災《さい》|難《なん》で少しくごきげんが悪かった。ジョーはボートこぎで鼻の皮がむけるほど日に焼け、あまり長いこと本を読んだので頭が|割《わ》れそうに|痛《いた》んできた。ベスは|押《お》し|入《い》れがごちゃごちゃなうえに、一ぺんに三つ四つの歌がおぼえられないというのでじりじりしていた。エーミーはケーティ・ブラウンのところのパーティが明日だというのに、よそいき服がよごれてしまったのですっかりしょげ返っていた。それでフローラ・マックフリムズィ(六週間もかかって衣類をかい込んだのにどれも気に入らず着る物がなくなったという諷刺詩の女主人公)のように「着る物がなくなった」のである。しかしこんなことはまあ大したことではない、みんなはこんどのこころみがうまくいっている、とお母さまにうけ合った。お母さまは|笑《わら》ってなにも言わず、ハンナの手をかりてみんなの|怠《なま》けた仕事を|片《かた》づけ、家の中を気持ちよくして家庭という機械をなめらかに運転させていた。「休養して遊び|騒《さわ》ぐ」|結《けっ》|果《か》、物事がこんな|妙《みょう》な|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》な|状態《じょうたい》になるものだとは|驚《おどろ》くべきことであった。一日は一日と長く感じられるようになり、お天気さえいつになく変わりやすかった。みんなの気持ちもそのとおりでだれも彼も落ち着かない気分に支配された、|悪《あく》|魔《ま》はこのときとばかり怠け者の手にいろんなわるさを|捜《さが》しだしてくれた。メグは|暇《ひま》を|得《え》てこのうえもなく楽しい気持ちになり|針《はり》|仕《し》|事《ごと》をもちだした。そして時間をもてあましたあげく、一つモファット風にこしらえ直してみようと思って|間《ま》|違《ちが》って|鋏《はさみ》を入れ、|衣装《いしょう》をだいなしにしてしまった。ジョーはあんまり読みすぎて目を悪くし本を見るのもいやになった。とてもいらいらした気持ちになり人のいいローリーとさえ|喧《けん》|嘩《か》をするしまつ、すっかり元気がなくなって、これならいっそマーチ|伯《お》|母《ば》さんといっしょに行ったほうがよかったなどとやけな考えまで起こすようになった。ベスはどうやらうまくいっていた、というのは今は「働くのをやめて遊び|暮《く》らす」ときだということを|忘《わす》れがちで、ちょいちょい元の|習慣《しゅうかん》に返るからであった、とはいってもあたりの空気に|押《お》されて静かな心をかき|乱《みだ》されることも一度ならずあった。そんなぐあいであるときなど大事なジョアンをかわいそうにも|邪《じゃ》|険《けん》に|揺《ゆ》すぶって「おばけ」などと|悪《あく》|態《たい》をついたりした。エーミーはいちばん調子が悪かった。|退《たい》|屈《くつ》しのぎの手段が少ないのである。姉さんたちから見放されてひとりで遊んだり身のしまつをしたりしなくてはならないとなると、多芸でもったいぶった自分というものが、なかなか|厄《やっ》|介《かい》なものだとわかったのである。お人形遊びはきらい、お|伽噺《とぎばなし》は子供くさい、といって一日いっぱい絵ばかり|描《か》いていられるものではない。お茶の会もたいしておもしろくはなかった。ピクニックだってよっぽどじょうずに|催《もよお》されでもしない|限《かぎ》り同じことである。
「りっぱなお家に住んでいて、それもいい女の子がたくさんいるとか、旅行にでも出かけるとかいうのだったら夏って楽しいときでしょうねえ、だけど、わがままなお姉さまが三人とおとなの男の子がひとりといっしょにお家にばかり|暮《く》らしていたら、いくら|忍《にん》|耐《たい》づよいボウアズ(忍耐づよい例に引かれるのはヨブなのを例によって間違えたのである)だってたまらないと思うわ」|歓《かん》|楽《らく》といら立ちと、退屈とに五、六日を|過《す》ごしたあとで、ミス・マラプロップ(始終間違った言葉を使うミセス・マラプロップにエーミーを擬したもの)はこう|愚《ぐ》|痴《ち》をこぼした。
だれひとりこころみにあきたと口に出すものはなかった、しかし金曜の|晩《ばん》あたりには、めいめいこの週が終わりに近づいたのを内心ひそかに喜んだのである。マーチ夫人は|茶《ちゃ》|目《めっ》けも多分に持ち合せている人だったので、この|教訓《きょうくん》を|徹《てっ》|底《てい》|的《てき》にみなの心にしみ|込《こ》ませたいものと思い、まことに当を|得《え》た方法でこんどのこころみを終わらせようと決心した。そこでまずハンナに一日のお|暇《ひま》をやり、|娘《むすめ》たちにはこの遊び|制《せい》|度《ど》の|効《こう》|果《か》を十分に味わわせてやることにしたのである。
土曜日の朝、みんなが起きてみると、台所には火の気がなく、食堂には朝ごはんがなく、おまけにどこをさがしてもお母さまの|姿《すがた》さえ見あたらなかった。
「たいへんだわ! いったいどうしたんだろう?」ジョーはびっくりしてあたりを見回しながら|叫《さけ》んだ。
メグが二階へ|駆《か》け上がったかと思うと、まもなくほっとしたような、|困《こま》ったような、ちょっと|恥《は》ずかしいような顔をして下りてきた。
「お母さまご病気じゃないんだけど、とてもお|疲《つか》れになったんですって、今日は一日お部屋で静養なさるそうよ、それで私たちにできるだけ自分でやってごらんておっしゃるの、お母さまにしちゃずいぶんへんね、ちっともいつものお母さまらしくないんですもの。でも今週はとても|骨《ほね》が折れたから、みんなぶつぶつ言わないで自分たちでおやりっておっしゃるのよ」
「そんなことならわけないや、望むところよ。私、なにかやりたくってむずむずしていたんだもの――なにかって、なんか変わったおもしろいことをよ」とジョーは急いでつけ加えた。
実のところ、ちょっとした仕事ができるというのでみんなは大いにほっとしたのであった。そしてみな本気でそれにとりかかったのであったが、まもなくハンナがよく言う「家の仕事というものは|冗談《じょうだん》ごとではございませんよ」というのはなるほど真理だと思いあたったのである。食料室には食べる物がたくさんあった、ベスとエーミーが|食卓《しょくたく》の|支《し》|度《たく》をする間に、メグとジョーは朝ごはんをこしらえながら、女中さんたちはどうしてこんな仕事をつらいなどと言うのかしらと不思議に思った。
「少しお母さまに持ってって上げるわね、ご自分でなさるからかまわなくてもいいっておっしゃったけど」メグが言った、彼女は|指《し》|南《なん》|役《やく》で土びんを前において一家の|主《しゅ》|婦《ふ》になったような気持ちであった。
そこでだれも食べないうちに一|枚《まい》のお|盆《ぼん》が用意され、料理方の口上を|添《そ》えて二階へと運ばれた。ぐらぐら|煮《に》たてたお茶はことのほか|苦《にが》く、オムレツは|焦《こ》げ、ビスケットは|重曹《じゅうそう》がききすぎてぶつぶつだらけだった、でもマーチ夫人はお礼を言ってそのご|馳《ち》|走《そう》を受けとり、ジョーがいなくなると|大《おお》|笑《わら》いに笑いこけたのである。
「かわいそうに、みんなさぞ|骨《ほね》が折れることだろう、でもそれほど苦しいとも思わないだろうし、第一あの子たちのためになるのだから」母はこう言って、かねて用意のもっと口当りのいい食料をとり出した。そうしてまずいほうは、|娘《むすめ》たちが気を悪くしないようにしまつしてしまった――母親らしいちょっとしたごまかしではあるが、娘たちはそれとは知らず|感《かん》|謝《しゃ》したのである。
階下では不満の声がそちこちに起こったが、料理|頭《がしら》が自分の失敗をくやしがることもたいへんなものだった。
「心配しなくてもいいわ、お昼は私がつくって上げる、女中も引き受けるわよ。あんたは奥さまになって手をよごさないで、お客さまのお相手でもして、なんでも指図さえしてくれればいいわ」とは言うもののジョーだって台所のことにかけてなにも知らないのはメグ以上である。
マーガレットはこのありがたい申し出でを大喜びで受けいれて、客間に|退《しりぞ》き、ごみをソファの下に|掃《は》き|込《こ》んだり、はたきをかける手間を|省《はぶ》くために|鎧扉《よろいど》を下ろして|薄《うす》|暗《ぐら》くしたりして、大いそぎで|体《てい》|裁《さい》を整えた。ジョーはわが|腕《うで》に自信満々、かつはさっきの|喧《けん》|嘩《か》の|仲《なか》|直《なお》りをしたいという|友情《ゆうじょう》にあふれた希望もあって、お昼にローリーを|招待《しょうたい》すべくさっそく手紙を書いて|投《とう》|函《かん》した。
「あんたお客さまするんなら、前もってある物をしらべておくほうがいいわよ」このもてなしぶりのいい、とはいえいささか|軽《けい》|率《そつ》なやり方をきかされて、メグはこう言った。
「だって、コーンビーフがあるでしょう、じゃがいもだってたくさんあるし、ハンナじゃないけど『ご|馳《ち》|走《そう》』にはアスパラガスと大えびを買いましょうよ。レタスも買ってきてサラダもつくるわ、つくり方は知らないけれど本見ればわかるでしょう、デザートにはブラマンジュといちごを出すわ、もっと上品にしたかったらコーヒーも出す」
「あんまりいろんなものつくらないほうがいいわ、ジョー、あんたにできるもので食べられるものったら、|生姜《しょうが》パンと|糖《とう》|蜜《みつ》のお|菓《か》|子《し》だけじゃありませんか。私このディナーパーティには関係しないことよ、あんた自分勝手にローリーをよんだんだから、あのひとのお|接《せっ》|待《たい》も自分でするといいわ」
「なにもしてくれなくたっていいわよ、ただあのひとに愛想よくして、それからプディング手つだってさえくれれば、もしうまくいかなかったら教えてくれるでしょう、いや?」ジョーは少し気持ちを悪くしながらこう言ってたずねた。
「ええ、でも私もよくは知らないのよ、知ってるのはパンとそれからほんのちょっとしたものだけよ。いろんな物あつらえる前にお母さまにうかがったほうがいいわよ」とメグは用心深く返事をした。
「もちろんよ、私だってばかじゃないわよ」ジョーは|腕《うで》|前《まえ》を|疑《うたが》われたのに|腹《はら》を立ててそこを出て行ってしまった。
「なんでもいるものがあったらお買いなさい、お母さまに世話を焼かせないでね。お母さまはお昼食は外へ出ますからお家のことはかまって上げられませんよ」ジョーが話しにいってみるとマーチ夫人はこう言うのであった。「お母さまだって家の仕事なんか好きでやっているわけじゃないのよ、今日は一日お休みを|貰《もら》って本を読んだり、手紙を書いたり、お友だちのところへ行ったりしてのんびり|暮《く》らすつもりよ」
いつもくるくると|忙《いそが》しい母がゆったりと|揺《ゆ》り|椅《い》|子《す》などにおさまって、朝っぱらから本を読むなんてついぞ見たこともない光景なので、ジョーは天地がひっくり返ったのではないかと思った。お日さまがかくれたって、|地《じ》|震《しん》が起きたって、火山が|爆《ばく》|発《はつ》したってこれほど|驚《おどろ》くことはないだろうと思われた。
「なんだかしらないけど、なにもかも調子っぱずれだ」ジョーは階下へ下りながらひとり言を言った。「ベスが|泣《な》いている、これはたしかにこの家になにかろくでもないことが起きてる|証拠《しょうこ》だ、もしもエーミーがだだでもこねているんなら、ぎゅうぎゅういわしてやらなくっちぁ」
そういう自分も調子っぱずれな気持ちになりながら、ジョーは急いで客間に行ってみた、そこにはベスがかごの中で死んだカナリアのピップを見てしくしく泣いていたのである。ピップはあわれにも|餌《えさ》をさがして小さな|爪《つめ》をのばして横たわっていた、彼は餌がなくて死んだのである。
「みんな私が悪いの――私|忘《わす》れていたの――餌もお水も一つもなくなっていたのよ。ピップ! ピップ! わるかったわね!」ベスはあわれな鳥を手にとって生き返らせようとしながら|泣《な》くのであった。
ジョーは鳥の半開きの目をのぞき|込《こ》み、小さな|心《しん》|臓《ぞう》にさわってみて、もはやかたく冷たくなっているのを知ると、頭を|振《ふ》り、自分のドミノの|箱《はこ》を|棺《かん》にするように|提供《ていきょう》した。
「オーブンの中へ入れたらどう、あたたまってまた生き返るかもしれないわ」エーミーは思い切らずにそう言った。
「|餓《う》え|死《じ》にしたのよ、もう死んだんですもの、焼いたりしちゃかわいそうだわ、私|経《きょう》かたびらを|縫《ぬ》ってやるの、そうしてお|墓《はか》に|埋《う》めてやるわ。もうけっして鳥なんか|飼《か》わないわ、ああ私のピップちゃん! 私みたいな悪い子は鳥なんか飼う|資《し》|格《かく》ないのよ」ベスは|床《ゆか》にすわって、両手の中に小鳥を入れてそうつぶやいた。
「お|葬《そう》|式《しき》は今日お昼からにしましょう、みんな行きましょうね。さあ、もう泣くんじゃないのよ、ベス。かわいそうだけど、でも今週はなんだってうまくいかなかったんだからね。私たちのこころみで、ピップがいちばんひどい目にあったのよ。はやく経かたびらをこしらえて、私の上げた|箱《はこ》にねかしておやりなさい。お昼のパーティがすんだら、りっぱなかわいいお葬式をしてやりましょうよ」ジョーは|万《ばん》|端《たん》ひきうけたような気持ちになってそう言った。
ベスを|慰《なぐさ》めるのは他のひとたちに任せてジョーが台所へ出ていってみると、そこはまたためいきの出るほどごたごたしたありさまになっていた。彼女は大きな|前《まえ》|掛《か》けをかけて仕事にとりかかった、まずお|皿《さら》を積んで|洗《あら》うばかりにしてみれば、火が消えている。
「うまくできてるわ!」ジョーはつぶやきながら、ストーヴの戸をがちゃんと開けて、|乱《らん》|暴《ぼう》に|燃《も》えがらをつっ|突《つ》いた。
うまく|燃《も》えついたところで彼女はお湯がわくまで市場へ行ってくることにした。外へ出てみると気が変わって元気になった。|若《わか》いえびを一つと、しなびたアスパラガスを少しと、すっぱいいちごを二|箱《はこ》買い|込《こ》んで、じょうずな買い物をしたと|得《とく》|意《い》になって、ジョーはまたてくてくと家へ帰ってきた。すっかり|片《かた》づけたころ、買い物も|届《とど》き、ストーヴは真っ赤になった。お|鍋《なべ》にハンナがパンをふくらまそうとしかけておいたのを、メグがとうにこね上げて、もう一度ふくらまそうと|炉《ろ》にかけたまますっかり|忘《わす》れていた。そして客間でサリー・ガーディナーのお相手をしていると、さっとドアが開いて、からだじゅう粉だらけでくしゃくしゃで、顔は真っ赤で|髪《かみ》ふりみだした物の|姿《すがた》が|現《あらわ》れて、つっけんどんに|詰《きつ》|問《もん》した――
「ね、ちょっと、お鍋からはみだしたらパンは十分ふくれたんでしょう?」
サリーは|笑《わら》い出した、ところがメグはうなずいただけで|眉《まゆ》をおそろしくつり上げたので、|異《い》|様《よう》な|姿《すがた》はたちまち|退《たい》|散《さん》し、すっぱいパンは|有《う》|無《む》をいわさずオーブンの中へほうり込まれた。マーチ夫人はどんな具合かとあちこちのぞいてみ、それからベスに|慰《なぐさ》めの言葉をかけたのち、外出してしまった。ベスはあわれななきがらをドミノの|箱《はこ》に安置して、せっせとそれを|巻《ま》く|布《ぬの》を|縫《ぬ》っていた。|鼠色《ねずみいろ》のボンネットが町角を曲がって見えなくなると、|娘《むすめ》たちはなんとも言えない心細い感じにおそわれた。それからしばらくたって、ミス・クロッカーが現れ、お昼をご|馳《ち》|走《そう》になりたいと言ったときには、みんなは|絶《ぜつ》|望《ぼう》の底につきおとされてしまった。さて、この|婦《ふ》|人《じん》はやせて黄色い顔をした|独《どく》|身《しん》|者《しゃ》で、鼻はとんがり鼻、目はせんさく|好《ず》きで、なんでも見のがさず、見たことはなんでもしゃべり散らすという人物であった。みんなはこの婦人がだいきらいだったけれども、年よりで|貧《まず》しく、お友だちも少ないのだから、親切にして上げるようにと教えられていた。そこでメグは彼女に|安《あん》|楽《らく》|椅《い》|子《す》をすすめ、相手をしていると、クロッカーさんはなにかと問いかけたり、いろいろなことを|批評《ひひょう》したり、知っている人たちの|噂話《うわさばなし》をしたりした。
この朝ジョーがなめた心配と|経《けい》|験《けん》と苦労とは、とても言葉で表せるものではなかった。彼女が|食膳《しょくぜん》に|上《のぼ》せたご|馳《ち》|走《そう》は|久《ひさ》しい間毎日の|笑《わら》い話になったのである。あれ以上きくのがこわかったので、ひとりでできる|限《かぎ》りの努力をしてみたが、料理をつくるということは、元気と親切心だけではできないものだということを発見した。アスパラガスを一時間も|煮《に》たために、頭のほうは|折《お》れるほど|柔《やわら》かいのに、|茎《くき》はますますかたくなり、彼女は悲しくなってしまった。パンは|黒《くろ》|焦《こ》げ、というのは、サラダのドレッシングをつくるのに|夢中《むちゅう》になり、なにもかもほったらかしておいたからで、しかもそのドレッシングはとても人の口に合うようにこしらえることはできないというあきらめをつけなくてはならなかったのだ。えびにいたってはまるきり見当もつかず、たたいたりつっ|突《つ》いたりして|殻《から》だけはむいたが、その|貧弱《ひんじゃく》な肉はこんもりしたレタスの葉の中にかくれてしまった。じゃがいももアスパラガスとの関係上、急がねばならず、とうとう|生《なま》|煮《に》えのままだった。ブラマンジュはぶつぶつだらけ、いちごも見せかけほどには|熟《じゅく》していなかった、うまく|並《なら》べてあったわけである。
「まあいいや、お肉は食べられるんだし、もしお|腹《なか》がすいてたらパンにバターでもつけて食ベてもらおう。ただまるまる午前中そんしたのがくやしいだけだ」こう思いながらジョーはいつもより三十分も|遅《おく》れて|鈴《すず》を鳴らした。彼女は顔をほてらせ、|疲《つか》れて元気なくそこに立って、りっぱなご馳走に|慣《な》れているローリーと、せんさく|好《ず》きの目で人の失敗を見つけだしては、おしゃべり好きの|舌《した》であちこちに|触《ふ》れ歩くクロッカー|嬢《じょう》との前に並べられたご馳走をながめていた。
どのお|皿《さら》もどのお皿もちょっと|箸《はし》をつけてはそのまま残されていくのをみると、かわいそうにジョーは|食卓《しょくたく》の下へでももぐり|込《こ》んでしまいたいような気がした。エーミーはくすくす|笑《わら》い、メグは|困《こま》りはてた顔をする、クロッカーさんは口をすぼめ、ローリーだけが食卓をにぎやかにしようと|一生懸命《いっしょうけんめい》しゃべったり笑ったりしてくれた。ジョーの|唯《ゆい》|一《いつ》の|頼《たの》みの|綱《つな》は|果《くだ》|物《もの》だった。お|砂《さ》|糖《とう》もたっぷりかけたうえ、それにかける|濃《こ》いクリームの入れ物を|添《そ》えてある。美しいガラスのお皿がいきわたり、みんながにこにこと小さなばら色の島がクリームの海に|浮《う》かんでいるのを見たときには、ジョーはほてった|頬《ほお》も少しはさめる思いで思わず大きなためいきをついた。クロッカーさんがいちばん先に食べたかと思うと、たちまち顔をしかめ急いで水をのんだ。ジョーはちらとローリーのほうを見た。|粒《つぶ》を選んでしまったらとても少しになったので、足りないといけないと思ってジョーは自分は食べないことにしたのだった。彼は口のまわりをかすかにゆがめはしたが|勇《ゆう》|敢《かん》に食べおわり、じっとお皿に目を落としていた。おいしい物|好《ず》きのエーミーはスプーンに|山《やま》|盛《も》りにして口に入れたとたん、むせてナプキンに顔をかくし、あわてて食卓を|離《はな》れた。
「まあ、どうしたの?」ジョーはふるえながら|叫《さけ》んだ。
「お砂糖じゃなくってお塩だったのよ、それにクリームはすっぱいの」メグが悲しそうな身ぶりで答えた。
ジョーはうーんとうなって|椅《い》|子《す》の上に|倒《たお》れてしまった、考えてみると最後にあわてて台所のテーブルの上に|並《なら》んでいた二つの|箱《はこ》の中の一つを、いちごの上にふりかけ、ミルクのほうは冷蔵庫に入れるのを|忘《わす》れていたのであった。彼女は真っ赤になって今にも|泣《な》き出しそうになったが、ふとローリーの目を見ると、それは笑うまいと|悲《ひ》|壮《そう》な努力をしているにもかかわらず笑いかけそうになっていた。するとこの|事《じ》|件《けん》が急に|滑《こっ》|稽《けい》なものに見えてきて、ジョーは|涙《なみだ》が出るほど|笑《わら》ってしまった。それで他のひとたちも、――みんなのいわゆる「クロッカーさん」までも大笑いとなり、不運なディナーパーティはバタつきパンとオリーヴの|漬《つけ》|物《もの》と笑い声とでめでたく終わりを告げた。
「もう私|片《かた》づける元気ないわ。お|葬《そう》|式《しき》をしてみんなしゃんとなりましょうよ」一同が立ち上がったとき、ジョーがこう言った。ミス・クロッカーは|別《べつ》な友だちの|食卓《しょくたく》でこの新しいニュースを話してきかせたくて、そそくさと帰り|支《じ》|度《たく》を始めた。
みんなはベスのために気持ちをしゃんと直した。ローリーが|茂《しげ》みの中の|羊《し》|歯《だ》の下にお|墓《はか》を|掘《ほ》った。ピップは心やさしいご主人の手で涙ながらに|葬《ほうむ》られ、|苔《こけ》でおおわれたのである。すみれとはこべの花輪が墓石の上にかけられ、|墓《ぼ》|碑《ひ》|銘《めい》も記されたがそれはジョーがご|馳《ち》|走《そう》の支度で|苦《く》|闘《とう》しながら考えたものであった。
六月七日世を去りし
ピップマーチここに|眠《ねむ》る
いたく|愛《め》でられ|嘆《なげ》かれし
おもかげながく|忘《わす》られじ
式が終わるとベスは悲しみとえびで|胸《むね》いっぱいになって、おへやに引っ|込《こ》んでしまった。しかしそこへ行っても休むことはできなかった。ベッドがきちんとなっていなかったからである。|枕《まくら》をたたいたり、|寝《しん》|具《ぐ》を|片《かた》づけたりしていると、だいぶ悲しい気持ちもやわらいでくるようであった。メグはジョーを手つだって、ご|馳《ち》|走《そう》のあとしまつをしたが、午後いっぱいもかかってしまった。ふたりは|疲《つか》れ|果《は》てて|晩《ばん》ごはんはお茶とトーストですますことに一決した。
ローリーはエーミーを馬車に乗せてドライヴに出かけたが、それは|慈《じ》|善事業《ぜんじぎょう》ともいうべきで、というのはすっぱいミルクのおかげで彼女のごきげんはだいぶあやしくなっていたからである。マーチ夫人が帰ったとき、上の三人の|娘《むすめ》は午後のさなかに、せっせと働いている最中であった。|戸《と》|棚《だな》をちょっとのぞいただけで、彼女にはこころみの一部が成功したということがわかった。
三人のお|主《か》|婦《み》さんたちが一休みする間もなく、数人のお客さまが|舞《ま》い|込《こ》んだので、それを|応《おう》|対《たい》するために大急ぎで着がえをしなくてはならなかった。それからお夕飯の|支《し》|度《たく》もしなくてはならず、お使いにも行かねばならぬ。一つ二つの|針《はり》|仕《し》|事《ごと》だってしなくてはならないのだけれど、いよいよというときまで、そこまでは手がのびなかった。|夕《ゆう》|闇《やみ》がせまり、|露《つゆ》が下りてあたりがひっそりとなったとき、だれからともなくみんなはポーチに集まってきた。そこには六月のばらが美しくつぼみをつけていた。みんな疲れきって、|困《こま》りぬいたようにうなったりためいきをついたりしながら、そこへ|腰《こし》をおろした。
「今日はなんて|恐《おそ》ろしい日だったんでしょう!」とまずジョーが言い出した。彼女はいつもきまって最初に口を切るのである。
「いつもよりは早くたったようだったけれど、でもとてもいやな日だったわ」とメグも言った。
「ちっともおうちらしくなかったわ」エーミーが言い足した。
「お母さまもいらっしゃらず、ピップもいないんじゃ、おうちらしいわけがないわ」ベスは目にいっぱい|涙《なみだ》をためて、頭の上のからっぽになった|鳥《とり》かごを見ながらためいきをついた。
「お母さまはここにいますよ。小鳥だってほしかったらまた明日買って上げます」
マーチ夫人はそう言いながら、そこへ出てきてみんなの|仲《なか》|間《ま》に加わった。どうやら彼女のお休みも、みんなのと同様あまり楽しくはなかったようである。
「こころみはもうたくさんですか、|皆《みな》さん、それとももう一週間やりますか?」お母さまはこう言ってたずねた。ベスはその足もとへうずくまり、他の三人も、お花が太陽の方を向くように、はればれとした顔を母のほうに向けた。
「私もうたくさん!」ジョーがきっぱりと大きな声で言った。
「私も」他の|娘《むすめ》たちも同じことを口々にくり返した。
「じゃ、みんな少しはお仕事があって、ひとのためにも少しは働いて|暮《く》らすほうがいいと思うのですね、どう?」
「ぶらぶらして遊び暮らすのはつまらないことです」ジョーは頭を|振《ふ》りながら言った。「私もうあきちゃった。今すぐなにかして働きたいと思うわ」
「何かやさしいお料理を習ったらどうですか、女はだれでも知っておかなくちゃならない大事なお|稽《けい》|古《こ》|事《ごと》ですからね」マーチ夫人はジョーのディナーパーティのことを思いだして小さく声を立てて|笑《わら》った、クロッカーさんに会ってその話をきいていたのであった。
「お母さま、私たちがどんなふうにするか見ようとお思いになって、なにもかもほっておいてお出かけになったのでしたの?」とメグが|叫《さけ》んだ。彼女は一日中そうではないかと|疑《うたが》っていたのだった。
「そうなのよ、みんなが気持ちよく暮らすためには、ひとりひとりが自分の受け持ちの仕事をきちんとやらなくてはいけないのだっていうことを、あなた方にわかっていただきたかったんです。ハンナやお母さまがあなたたちの仕事をして上げているうちはどうにかいっていましたね、もっとも大してしあわせともありがたいとも思ってはいないようだったけれど。それでお母さまはね、みんなが自分のことばかり考えていたらどんなことになるか、ひとつ|教訓《きょうくん》に|経《けい》|験《けん》させて上げようと思ったんですよ、家というものを|居《い》|心《ごこ》|地《ち》のいい、楽しいところにするためには、お|互《たが》いに助け合ったり、毎日のきまったお仕事をしたり――そうすれば|暇《ひま》を見つけたときにはその暇がよけいありがたいものに思われます――|我《が》|慢《まん》をしたりしていれば、そのほうがずっと気持ちのいいものだと思いませんか?」
「思います、お母さま、そう思います」とみんなが|叫《さけ》んだ。
「それじゃもう一度めいめいの小さなお荷物を|背《せ》|負《お》うことにしてくださいね、重く思えるときもあるでしょうけど、みんなのためになることだし、背負い|慣《な》れるとだんだん軽くもなるものですからね。働くということはからだにもいいものだし、仕事はいくらでもあるものです。働いていれば|退《たい》|屈《くつ》するということもないし、悪いこともしなくなりますから、からだばかりでなく心のためにもいいものなんですよ。それにお金だの流行だのでは|得《え》られないような、力強い、|独《どく》|立《りつ》|心《しん》というようなものもそなわってきますからね」
「私たち|蜂《はち》のように働きます。働くことを|好《す》きになります、|断《だん》|然《ぜん》なります!」とジョーが言った。「まずお休み中の宿題として、やさしいお料理を習うことにするわ、そしてこの次のディナーパーティにはりっぱにやってみせるわ」
「私はお父さまのシャツ類をこしらえますわ、お母さまにばかりさせないで。私お|裁《さい》|縫《ほう》は好きじゃないけど、きっとできると思いますわ、そのほうが自分の物をいじくりまわしているよりずっといいわ、私の物なんて今のままだってまだずいぶんきれいなんですもの」とメグも言った。
「私は毎日勉強をします。お人形さんだの音楽にばかり時間を使わないようにするの、私頭が悪いんだから、遊んでないで勉強しなくちゃいけないのよ」というのがベスの決意であった。エーミーもまたみんなのまねをして|悲《ひ》|壮《そう》な|宣《せん》|言《げん》をした。
「私はボタン|穴《あな》を習って、それから|品《ひん》|詞《し》を|一生懸命《いっしょうけんめい》おぼえるの」
「|結《けっ》|構《こう》ね、これでお母さまもこころみの|甲《か》|斐《い》があったとうれしく思いますよ。もう二度とくり返さないでしょうね。でもね、またそちらのほうへ|極端《きょくたん》に走って|奴《ど》|隷《れい》のようにあくせくしてはだめですよ。働くのでも遊ぶのでも時間をきめて、毎日毎日が|有《ゆう》|益《えき》に楽しくなるようになさい、時間の使い方をじょうずにして、その|価《か》|値《ち》がわかるようにおなんなさい。そうさえすれば、|若《わか》い時代は楽しくなるし、年とってから|後《こう》|悔《かい》することもなく、|貧《びん》|乏《ぼう》でも人生というものは美しいものになるのです」
「そのこと|忘《わす》れませんわ、お母さま!」みんなはほんとにそのとおりにしたのである。
|若草物語《わかくさものがたり》(|上《じょう》)
オルコット
|吉《よし》|田《だ》|勝《かつ》|江《え》=訳
平成12年11月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『若草物語(上)』昭和61年11月25日初版刊行
平成7年5月15日12版刊行
571行〜575行
HTMLは以下のようになってました。
-----------
ふたりが家にはいると、大きな客間の|炉《ろ》の前にはローレンス氏が立っていたが、ジョーの目は、そこに|蓋《ふた》を開けたままおいてあるグランドピアノにすいつけられてしまった。
「あなたお|弾《ひ》きになるの?」彼女はローリーのほうを向き、顔に|尊《そん》|敬《けい》の色を|浮《う》かべてきいた。
「ときどき」彼は|遠《えん》|慮《りょ》深く答えた。
「じゃ、今|弾《ひ》いてくださらない、私、うかがいたいわ、そしてベスに話してやりたいの」
「お先にお弾きになりませんか?」
「できないの、ばかでおぼえられないのよ。でも音楽は|大《だい》|好《す》きよ」
「ときどき」彼は|遠《えん》|慮《りょ》深く答えた。
「じゃ、今|弾《ひ》いてくださらない、私、うかがいたいわ、そしてベスに話してやりたいの」
「お先にお弾きになりませんか?」
「できないの、ばかでおぼえられないのよ。でも音楽は|大《だい》|好《す》きよ」
そこでローリーは弾き出した。ジョーはヘリオトロープとティーローズ(お茶の香のす
-----------
なんか文章が重複しているようなので、重複部分を削除しました。
底本をお持ちの方のきっちりした校正を待ってます。
-----------
ふたりが家にはいると、大きな客間の|炉《ろ》の前にはローレンス氏が立っていたが、ジョーの目は、そこに|蓋《ふた》を開けたままおいてあるグランドピアノにすいつけられてしまった。
「あなたお|弾《ひ》きになるの?」彼女はローリーのほうを向き、顔に|尊《そん》|敬《けい》の色を|浮《う》かべてきいた。
「ときどき」彼は|遠《えん》|慮《りょ》深く答えた。
「じゃ、今|弾《ひ》いてくださらない、私、うかがいたいわ、そしてベスに話してやりたいの」
「お先にお弾きになりませんか?」
「できないの、ばかでおぼえられないのよ。でも音楽は|大《だい》|好《す》きよ」
そこでローリーは弾き出した。
-----------
しかしまさか変換のトラブルってことはないだろうし、こういう形で売っていたということなのかなあ……