転身物語(上)
オウィディウス/田中秀央・前田敬作訳
目 次
巻一
一 序詞
二 世界の創造
三 四つの時代、巨人族
四 狼に変身したリュカオン
五 人類滅亡の大洪水
六 あたらしい人間の祖デウカリオンとピュラ
七 大蛇ピュトン
八 月桂樹になったダプネ
九 牝牛になったイオ/百眼のアルグス/葦になった妖精シュリンクス
十 太陽神の息子パエトン
巻一の註
巻二
一 太陽神の車を馭するパエトン
二 ヘリアデスの転身
三 白鳥になったキュクヌス
四 ユピテルに犯されたカリスト
五 星になったアルカス
六 烏《からす》はなぜ色が黒くなったか
七 馬になったオキュロエ
八 「おしゃべり石」のバットゥス老人
九 メルクリウスとヘルセ
十 「嫉妬」にとりつかれたアグラウロス
十一 牡牛に化けたユピテルとエウロパ
巻二の註
巻三
一 カドムスの亡命とテバエ建設
二 アクタエオン/水浴をのぞかれたディアナ
三 ユピテルとセメレ
四 両性の快楽を知ったティレシアス
五 美少年ナルキッススとエコ
六 神々を信じないペンテウス
七 海豚《いるか》になったテュレニアの水夫たち/狂乱のバッカエ
巻三の註
巻四
一 ミニュアスの娘たち
二 ピュラムスとティスベ/桑の実
三 ウェヌスとマルスとの密通
四 レウコトエとクリュティエ
五 サルマキスとヘルマプロディトゥス
六 狂気に陥ったアタマスとイノ/ティシポネ
七 老カドムスとハルモニア
八 英雄ペルセウスと巨人アトラス
九 アンドロメダ/海の怪物
十 メドゥサ
巻四の註
巻五
一 ピネウスの乱
二 プロエトゥス
三 ポリュデクテス
四 ムサたちをとらえようとしたピュレネウス
五 ムサたちとピエリデスとの歌合戦
六 プルトの恋/ケレスとプロセルピナ
七 泉になったアレトゥサ/トリプトレムスとリュンクス
巻五の註
巻六
一 ミネルウァとアラクネの技《わざ》くらべ
二 ニオベとその子供たち
三 蛙になったリュキアの農夫たち
四 生皮をはがれたマルシュアス
五 ペロプスの左肩
六 プロクネとピロメラ
七 北風神ボレアス
巻六の註
巻七
一 イアソンとメデア
二 アエソンの若返り
三 ペリアス
四 メデアの逃亡
五 アテナエの英雄テセウス
六 アエアクスと蟻の民たち
七 ケパルスとプロクリス
巻七の註
巻八
一 ニススと祖国を裏切ったスキュラ
二 迷路/アリアドネの冠
三 空中を飛行するダエダルスとイカルス
四 鷓鴣《しゃこ》になったペルディクス
五 カリュドンの野猪
六 メレアグロスの死
七 ほろほろ鳥になったメレアグロスの姉妹たち
八 アケロウスとテセウス/島になったペリメレ
九 ピレモンとバウキス
十 飢餓《ファメス》にとりつかれたエリュシクトン
巻八の註
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巻一
一 序詞
胸の願いにうながされて、ここに万物のさまざな転身の物語を語ってみようとおもいます。神々よ、これらの転身をつくりだされたのはおんみたちなのですから、どうかこのくわだてに恵みを垂れ、宇宙の開闢《かいびゃく》からいまの世にいたるまで、とぎれることなく語りつづけることができますよう、おんみたちのちからをお貸しください!〔一〜四〕
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二 世界の創造
まだ海も陸もなく、すべてをおおう空もなかったころ、自然のすがたは、宇宙の全体にわたって見わたすかぎり、ただ茫漠たる広がりであった。それは、混沌《カオス》とよばれ、形状も秩序もないひとつの塊りであった。生気のない堆積といおうか、まだ事物としてのまとまりをもたない諸要素が、へだてもなく雑然とひしめきあっているだけであった。そこにはまだ、あふれる光をこの世にそそぐティタン(1)もいなかったし、新月の弦をしだいに大きくしていくポエベ(2)もいなかった。大地もまだ、それをつつむ大気のなかに浮びながら、みずからの重さをささえてはいなかったし、アムピトリテ(3)も、陸地のながい岸辺にそってその腕をさしひろげてはいなかった。そこには、大地も海も空気も存在していたけれど、陸は歩くことができないし、海も泳ぐわけにはいかず、大気には光がなかった。それらのどれひとつとして、まだみずからのすがたやかたちをもっていず、たがいに反目し、さまたげあっていた。おなじひとつの集まりのなかにあっても、寒さは暑さと、湿気は乾燥と、重さは軽さとたえず拮抗していた。〔五〜二〇〕
このようないがみあいに終止符をうったのは、これらよりはるかに秀でた自然(4)であった。この神なる自然は、天から地を、地から水をわかち、重くるしい大気から澄みわたった大空をきりはなした。こうして、これらのものの縺《もつ》れをほぐし、くらい混乱から解きはなつと、それぞれに異なった居所をあたえ、平和と友愛のきずなをもってすべてのものをむすびあわせた。重さというもののない蒼穹《そうきゅう》の火ともえる力は、天のいちばん高いところに翔《か》けのぼって、そこに居をさだめた(5)。軽さの点でこれに最も近いのは、空気で、したがってそのすぐ下に位置した。これらふたつのものよりも濃密な大地は、かたい物質を引きよせ、みずからの重さのために下降していった。四方にひろがった水は、いちばん外側の位置をしめ、すでにかたまった大地をとりかこんだ。〔二一〜三一〕
このような造物主がいかなる神であったにせよ、かれは、混沌とした物質の塊りを整理し、区分し、それぞれの場所に配置しおわると、まず大地を、どちらか見ても不同なところがないように、ひとつの巨大な球のかたちにつくりあげた。それから、海を四方にひろげ、はげしい風によって波浪をおこし、陸地の周辺にのびた海岸線をくまなくとりまくようにした。さらに、泉や、大きな湖や池をこしらえ、流れおちる河の両側には、まがりくねった岸をつくった。河たちは、さまざまな方向にながれ、途中で大地のなかに吸いこまれてしまうものもあれば、はるかに流れくだり、渺々《びょうびょう》たる大海原のふところにいだかれ、みどりなす河辺のかわりに、断崖の岩を洗うものもあった。神はまた、平地をひろがらせ、谷をくぼませ、森には樹々の葉をしげらせ、峨々《がが》たる山をそびえさせた。さらに、空を区切って、右側にふたつの圏を、左側にもふたつの圏を設け、その真中には、これらよりも暑い五番目の圏をつくった。そして、空にいだかれた地塊をも、注意ぶかくおなじだけの数に仕切った。それで、大地には、五つの地帯ができた。中央にひろがった地帯は、はげしい暑さのために住むことができないし、両端のふたつの地帯は、ふかい雪におおわれている。しかし、神は、それらのあいだに残りのふたつの地帯をおき、暑さと寒さをまぜあわせて、ほどよい気候をあたえた。〔三二〜五一〕
これらの地帯の上には、空気がひろがっている。空気は、ちょうど水の重さが土よりも軽いのとおなじだけ天の火(6)よりも重い。ここはまた、霧や雲、人間のこころをおののかせる雷、そして稲妻と寒さをうみだす風たち、これらのもののために神がさだめた棲家《すみか》でもある。しかし、風たちにたいして、天地の造物主は、大気のなかをおもいのままに吹きわたることをおゆるしにならなかった。かれらは、それぞれ異なった地域にたてこもって、自分流儀の吹き方をしているけれども、いったんかれらが世界を破壊する気になりでもしたら、だれもそれを阻止することはできない。それほど風の兄弟たちは仲がわるいのである。エウルス(7)は、東の方、つまりナバタエア人(8)の国やペルシア、朝の光をうける山々(9)の方にしりぞき、ゼピュルス(10)は、ウェスペル(11)や夕陽にあたためられる浜辺のあたりに住んでいる。おそろしいボレアス(12)は、スキュティア(13)と北斗(14)を占拠し、その反対の地方は、大雨をもたらすアウステル(15)が晴れ間のない雨雲によって濡らしている。これらのものの上に、神はさらにきよらかで透明なアエテル(16)を住まわせたが、それは、まったく重さがなく、いっさいの地上的な汚れを知らなかった。〔五二〜六八〕
こうして、すべてのものがそれぞれの定住地にわけへだてられると、ながいあいだ混沌たる塊りのなかにうずもれていた星たちが、燦然《さんぜん》と空いちめんにかがやきはじめた。さて、これらのどの領域にもそれぞれ固有の住民が住みつくように、まず天上界には、星たちと神々が座をしめた。水は、美しい鱗をひらめかす魚たちのねぐらとなり、大地には、獣たちが住みつき、ながれ動く大気は、鳥たちをうけいれた。〔六九〜七五〕
しかし、これらよりもけだかく、ふかい知力をやどし、他のすべての生物たちを支配することのできる存在が、まだ欠けていた。そこで、人類が、人間が、うまれてきたのである。この人間は、よりよき世界の始源者である神、あの万物の造物主が神の種子からつくったのかもしれないし、あるいは、けだかい天空からわかれてきたばかりの土がまだ天上の種子の名ごりをとどめていたころ、イアペトゥス(17)の息子がそれに河の水をまぜて、万物をつかさどる神々のすがたに似せてこしらえたのかもしれない。
ほかの動物たちが頭をたれて、いつも眼を地上にそそいでいるのに反して、人間は上にむけられた高貴な顔をもち、その瞳《ひとみ》は星辰のかなたにむけることをゆるされた。こうして、まだかたちもない土くれであった大地は、転身によって、それまで知られていなかった人間という裝《よそ》おいを身につけることになったのである。〔七六〜八八〕
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三 四つの時代、巨人族《ギガンテス》
まず最初にできたのは、黄金の時代であった。そこには、司直もなく、法律もなかったが、おのずから誠実と徳義がおこなわれていた。人びとは、刑罰も知らず、怖ろしい目にあわされることもなかった。なにしろ、青銅板(18)に罰則を掲示しておどかすわけでもなければ、請願者の群れが裁判官の顔を見てこわがらなくてはならないようなこともなく、裁判官がいなくても、だれでも安心していることができるのであった。たとえば、松の木にしても、無残にも伐りたおされて、故郷の山中から海原につれだされ、船となって見もしらぬ土地を訪れねばならないようなことはなかった。人間も、自分の住んでいる土地の浜辺しか知らなかった。町々も、まだ深い濠(19)などをめぐらしてはいなかったし、真鍮《しんちゅう》でつくったまっすぐなラッパもまがった角笛《つのぶえ》もなく、甲冑も剣もなかった。軍隊がなくても、各民族は、なんの心配もなく、しずかな平和をたのしんでいた。大地そのものも、農耕を強《し》いられることがなく、鍬《くわ》にあらされ、鋤《すき》に掘りかえされなくても、おのずから必要なすべてのものを供給した。人間たちは、ひとりでに大地から生えでる食物に満足して、楊拇《やまもももどき》の実や、山中のいちごや山ぐみや、かたい潅木になるきいちごや、枝をひろげたユピテルの木(20)から落ちた実などを拾いあつめた。気候は、永遠の春で、おだやかの西風が、種子をまかずに咲きでたいろいろな花たちを、あたたかい微風で愛撫するのだった。大地は、鋤を入れなくてもやがてまた穀物を生じ、畑は、たがやさなくてもたわわな穂先で白くなった。あちこちに乳の河や神酒《ネクタル》(21)の河がながれ、みどりなす姥芽樫《うばめがし》は、黄いろい蜜をたらしていた。〔八九〜一一二〕
しかし、サトゥルヌス(22)が暗黒のタルタルス(23)になげこまれ、世界がユピテル(24)の支配下になるいたって、銀の時代がやってきた。これは、黄金の時代にくらべると価値がおとるが、赤くひかる青銅の時代よりはすぐれていた。ユピテルは、かつての常春《とこはる》の期間をちぢめ、一年を冬と夏と天候の変りやすい秋とみじかい春の四つの季節にわけた。このときはじめて、空気はかわいた暑熱に焼かれてあつくなり、また寒風のために氷ができて、氷柱《つらら》がたれさがった。それで、人びとは、はじめて家のなかに住むようになった。しかし、家といっても、洞窟や、こんもりとした叢林や、小枝を樹の皮であんだものであった。穀物の種子がながい畝《うね》のなかに播《ま》かれ、牛たちが軛《くびき》につながれて呻き声をあげたのも、このときがはじめてであった。〔一一三〜一二四〕
そのつぎに来たのは、三番目にあたる青銅の時代であった。これは、前の時代よりさらに性情が粗暴で、すぐに武器を手にしたがったけれども、まだ凶悪というほどのことはなかった。最後の時代は、かたい鉄の時代である。この粗悪な金属の時代になると、たちまちあらゆる悪業がおしよせてきた。純潔、正直、誠実さは逃げてしまって、かわりに欺瞞、不実、裏切り、暴力、あくどい貪欲があらわれた。舟人たちは、まだよく風のことも知らないのに、帆を風にまかせ、舟は舟で、ながいこと山頂に立っていた木材のくせに、見もしらない波間をいい気になって跳《は》ねまわった。いままで日光や空気とおなじくすべての人びとの共有物であった地面にも、ぬけめのない測量者がながい境界線をひいた。人びとは、ゆたかな大地から穀物や食料を貢《みつ》がせるだけで満足しないで、大地の内臓にまで侵入し、大地がステュクス(25)のあたりに秘めていた財宝、人間を悪へさそうあの誘惑的な宝ものを掘りだした。有害な鉄と、鉄よりもさらに危険な黄金が、はやくも白日の下に引きずりだされた。
すると、このふたつのものをもって(26)たたかう戦争がはじまり、血にまみれた手になりひびく武器をふりまわした。人びとは、掠奪したもので生活するようになった。客は主人に、舅《しゅうと》は婿《むこ》に、もはや気がゆるせない。兄弟どうしでさえも、愛しあうことができない。良人《おっと》は妻の、妻は良人の死を待ちのぞみ、邪悪な継母は、死をもたらすとりかぶとの毒汁を調合し、息子は、父の余命をかぞえる。敬虔のこころは、地に墜ち、神々のなかで最後までふみとどまっていた乙女アストラエア(27)も、ついに血にひたされた地上を見すてるにいたった。〔一二五〜一五〇〕
しかし、はるかなる天上もけっして地上よりやすらかな住家でなかった。というのは、巨人《ギガス》たち(28)が天上に君臨しようとして、山また山をつみかさねて、天までとどかせようとしたのである。そこで、全能の父(29)は、稲妻の矢をもってオリュムプスの山(30)をうちくだき、ペリオンの山(31)を、それをささえていたオッサの山(32)からつきおとした。こうして怖ろしい巨人たちの屍体がみずから作りあげた巨大な山塊の下敷きになったとき、母なる大地は、その子らのおびただしい血にひたされた。大地は、おのれの種族の最後の芽まで絶えてしまわないように、このあたたかい血に生命を吹きこみ、人間のすがたに転身させたといわれる。しかし、この種族も、神々をないがしろにし、残虐な殺戮をこのみ、凶暴をきわめた。かれらが血から作られたといわれるのも、もっともなことだといわねばならない。〔一五一〜一六二〕
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四 狼に変身したリュカオン
サトゥルヌスの子ユピテルは、天上の玉座からこの有様を見て、嘆息をもらした。そして、つい最近のことなのでまだよく知られていない出来ごとなのだが、リュカオン(33)の食卓におけるあのおそるべき饗宴のことをおもいだし、いかにもユピテルらしい大きな怒りをおぼえ、神々の会議を召集した。呼ばれた神々は、ただちに参集した。〔一六三〜一六七〕
天には、晴れた日にはだれの眼にも見える一本の道がある。それは、「乳の道(34)」とよばれ、白くかがやいているので、すぐにそれとわかる。神々が大いなる雷神(35)の住む宮殿へ行くときは、この道を通っていくのである。道の両側には、上位の神々の邸宅がならび、門口が大きくあけられ、客の出入りがたえない。下級の神々は、もっと離れたところにちらばって住んでいる。したがって、この道に面したところには、やんごとない、勢力のある神々が館をかまえていた。これこそ、こんな言い方が不敬でないとしたら、あえて天上のパラティウム(36)と呼びたい場所である。〔一六八〜一七六〕
こうして、神々が大理石の大広間に着席すると、一段と高い席につき、象牙の王笏《おうしゃく》に身をもたせかけたユピテルは、すさまじい頭髪を三四度ふりうごかした。すると、大地も海も星たちも、それにつれて震撼した。やがて、大神は、怒りにみちた口をひらいて、つぎのように語りはじめた。〔一七七〜一八一〕
「かつて蛇の足をもった巨人族《ギガンテス》のひとりひとりが百の腕をもって天上界を占拠しようとたくらんだときも、わしは世界の主権についていまほど心配をしなかった。なるほど敵は手ごわかったけれども、あの戦いは、たんにひとつの集団、ひとつの種族から発したものにすぎなかった。しかるに、このたびは、ネレウス(37)が咆哮しながらとりかこんでいる地球上のあらゆる場所から人類を根こそぎにしなくてはならぬ。わしは、地下のステュクス(38)の森をながれる四つの河にかけて誓うが、すでにあらゆる手段をつくした。けれども、身体に不治の部分があれば、健康な部分まで病毒におかされないように、剣をもってこれを剔出《てきしゅつ》しなくてはならないものだ。わしには、半神たち(39)や田野の神々、すなわち妖精《ニユムペ》たち(40)やファウヌス(41)たちやサテュルス(42)たち、さらに山々に住むシルウァヌス(43)たちがいる。われわれは、かれらが天上に住む名誉に値いすると考えない以上は、かれらにあたえた地上をせめて安全な住居《すまい》にしてやろうではないか。おお、神々よ、諸君は、かれらが安全であると信ずるか――わしにむかってさえ、雷神であるこのわし、諸君を意のままに支配しているこのわしにむかってさえ、凶暴の聞《きこ》え高いあのリュカオンは残忍なたくらみをしかけたというのに!」〔一八二〜一九八〕
なみいる神々は、さけび声をあげて、極悪人の処罰をはげしくもとめた。それは、あたかも不逞《ふてい》の徒らがカエサルを殺害することによってローマ国民そのものをも地上より消しさろうとたくらんだとき(44)、全人類がこの突然のクーデターにおどろき、地球全体が戦慄におちいったのと似ていた。しかも、アウグストゥス帝(45)よ、その後おんみの臣下たちはおんみにたいしてまことに美わしい敬愛の念をいだいたが、神々のユピテルにたいする愛も、それに劣らなかった。さて、ユピテルが声と手ぶりで神々の喧噪を制すると、一同はしずかに沈黙した。支配者の威厳におさえられてさわぎが鎮まると、ユピテルはふたたび語りはじめた。〔一九九〜二〇八〕
「いや、心配するにはおよばぬ。あの男は、すでに罰を受けたのだ。しかし、かれがどんな罪をおかし、どのような罰を受けたかを、これから諸君に話してきかせよう。いまの時世についての悪い噂は、かねてからわしの耳に入っておった。わしは、それが根も葉もないことであることをのぞみながら、オリュムプスの山頂から地上に降りたち、神ながら人間のすがたに身をやつしてあちこちを遍歴しはじめた。ところが、わしがいたるところで出くわした悪徳のかずかずは、ほとんど枚挙にいとまがないほどだった。わるい噂でさえ、事実にはほど遠かった。わしは、野獣のひそんでいるおそろしいマエナラ(46)の山中や、キュレネ山(47)や、すずしいリュカエウス(48)の松林を踏みこえていった。やがて、暮れなずむ黄昏《たそがれ》がようやく夜を招きよせるころ、アルカディアの暴君(49)の住む土地に入り、その無愛想な家の敷居をまたいだ。わしは、神が来たことをわからせる徴《しるし》をあたえた。すると、人民たちは、わしにむかって祈りはじめた。リュカオンは、初めはこの敬虔な礼拝をあざわらっていたが、やがて、『わしは、こいつが神であるか、それとも、ただの人間にすぎないか、正体をはっきり洗いだしてやるぞ。正体がわかれば、だれも疑いようがあるまい』とさけんだ。そういって、夜、わしがぐっすり眠っているところをおそって、殺そうとたくらんだ。正体を見きわめるといったのは、じつはわしを殺すことだったのだ。しかし、かれは、それだけでは満足せず、モロッススの民(50)がかれに送った人質のひとりの喉を短刀でかき切り、まだぴくぴくうごいている手足の一部を熱湯に入れて煮て、残りを火にかけて焼いた。こうしてできあがった料理をかれが食卓に出すやいなや、わしは、復讐の雷《いかずち》でもってかれの家をその主人とけしからんその家神《ペナテス》(51)たちとの上にひっくりかえしてやった。かれ自身は、命からがら逃げだした。
やがて、とある荒野まで来ると、妙な声をだして咆えはじめた。ものを言おうとしても、言えない。というのは、かれのもっていた狂暴な獣性が口に集まり、けだものの口になってしまったのだ。そして、習性となった残忍な殺戮欲は、家畜の群れにむけられ、性懲りもなく血に舌鼓をうった。かれの衣服は、もじゃもじゃの毛にかわり、腕は前肢になった。つまり、狼になってしまったのだ。それでも、もとのすがたの名ごりはとどめていた。おなじ灰色の毛、おなじ凶悪な顔つき、おなじように燃える眼。あいかわらず狂暴な獣性の権化だといってよい。こわされた家は、一軒だけであった。しかし、こわされるべき家は、ほかにもたくさんある。それどころか、地球上には、津々浦々にいたるまで無法なエリニュス(52)が支配しておる。みんなが結託して悪事をたくらんでいるとしかおもえぬ。すべての者にすみやかに天罰をくださねばならぬ。これが、わしの裁定だ」〔二〇九〜二四三〕
神々のなかには、みずから発言して、ユピテルの意見を支持し、さらにその怒りをつのらせた者もあれば、また、拍手喝采によってその義務をはたした者もあった。しかし、人類の滅亡ということは、すべての神々にとって痛恨事であった。それで神々は、人類をうしなったあと地上はどのような様子になりましょうか、だれが祭壇に燻香をあげてくれるのでしょうか、いったいユピテル大神はあの大地を野獣どもの跳梁におまかせになるつもりですか、などと質問した。これらの質問にたいして、神々の王は、あとのことは自分がひきうけるから、けっして心配しないようにと言いふくめ、これまでのとはまったく異なった、ふしぎな起源をもった人類をつくりだそうと約束した。〔二四四〜二五二〕
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五 人類滅亡の大洪水
ユピテルは、さっそく地球上のすべての土地に稲妻をまきちらそうとしたが、もしかしたらこのような多くの火のために神々の住む蒼穹《そうきゅう》まで燃えだし、天界の長い軸が火事をおこしはしまいかと気になりだした。また、海も陸地も天宮も炎々たる焔《ほのお》の餌食となり、精妙につくられた世界の構造が火のために破壊される日が来るであろうと、運命の書に記されていることをも思いだした。そこで、かれは、キュクロプスたち(53)がつくった稲妻の矢(54)をおいた。そして、まったく別な罰をくだすことにきめ、空のあらゆるところから大雨をふらせ、人類を大水によってほろぼしさろうと決心した。〔二五三〜二六一〕
かれは、ただちに北風《アクウイロ》(55)をはじめ、おもい雲の層を吹きはらう風という風を、アエオルス(56)の洞穴にとじこめ、南風《ノトウス》(57)だけをとき放った。おそろしい顔を漆黒の闇にかくした南風は、濡《ぬ》れた翼をもって飛びだした。そのひげは、雨をふくんで重く、白髪からは、水がながれおちる。額《ひたい》の上には、雨雲がただよい、翼も衣服も、びしょぬれである。かれが低くたれこめた雲を大きな手でおさえつけると、ものすごい音がして、天から豪雨がどしゃぶりに降る。ユノ女神(58)の使い女《め》、あの七彩の着物をきたイリス(59)が、この水をまた吸いあげては、雲にあらたな養分をはこんでいく。穀物は、地面にたおされ、農夫たちの祈願もむなしく、一年間の丹精は、徒労に帰してしまった。〔二六二〜二七三〕
しかし、ユピテルの怒りは、天上の諸力を動員するだけでは満足しなかった。かれの青白い弟(60)は、援助の波でもって兄神をたすけることになった。ネプトゥヌスは、河川の神々をよび集めた。河神たちがその主人の家に参集すると、かれはこういった。「いまは、まわりくどい訓戒などは無用だ。必要なのは、諸君の総力を発揮してもらうことだ。諸君の門戸を大きくひらき、すべての堰《せき》を切っておとし、諸君の流れをぞんぶんに奔走させるのだ!」
かれがこう命令すると、河神たちはただちにめいめいの家にとってかえし、水源の門をひらき、奔流となって大海めがけて突進した。海神みずからも、三又《みつまた》の鉾《ほこ》(61)で、大地を打った。大地は、ふるえおののき、その震動によって水の道をあけた。あふれでた河たちの水は、広野をなめ、樹々も穀物も、家畜も人間も家も、さらに神殿もその聖物も、ことごとく流しさった。たとえ倒壊をまぬがれ、この大水害に耐えぬくことのできる家があったとしても、ますます脹《ふく》れあがる大浪は、その棟木《むなぎ》を水中にしずめ、高い塔でさえも、あとかたもなく波間に没しさった。〔二七四〜二九〇〕
すでに、海も陸地も、見わけがつかなくなった。見わたすかぎり、大海であった。しかも、岸のない大海であった。丘の頂上に逃げのびる者もあれば、まがった小舟にのって、つい最近まで自分が耕していた畑の方に櫂《かい》をすすめていく者もある。また、田畑や水に没した小屋の上を舟でわたっていく者もあれば、楡《にれ》の木のてっぺんで魚を釣っている者もある。また、どうかすると、投げた錨がみどりの牧場に穴をあけたり、まがった竜骨がぶどう畑の上を撫でていくこともある。そして、このあいだまで伊達《だて》男の山羊が草を食《は》んでいたところには、醜怪な海豹《あざらし》がたむろしていた。ネレウスの娘たち(62)は、水底にしずんだ森や町や家々をものめずらしそうに見物し、海豚《いるか》たちは、森をねぐらにして、高い枝のあいだを泳ぎまわったり、樫の幹にぶつかって、樹をゆりうごかしたりした。狼が羊の群にまじって泳いでいるかとおもえば、黄褐色のライオンや虎が波間にただよっている。猪のするどい牙も、鹿のすばやい脚も、水のなかではなんの役にもたたない。あてどなく飛びまわる鳥たちは、やすむべき陸地をながいことさがしまわったあげく、翼もつかれて海に落ちていく。拘束をとかれた、はてしない大海は、丘という丘を水びたしにし、かつて見たこともない巨大な波濤は、高山の嶺までおしよせた。生物の大部分は、波にのまれ、かろうじて助かった者も、食物がないためにながい飢餓の犠牲となって死んでいった。〔二九一〜三一二〕
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六 あたらしい人間の祖デウカリオンとピュラ
ポキス地方(63)は、オエタ(64)の裾野とアオニア(65)の野とをわかっていて、陸地であった時は豊饒な土地であったが、いまは海の一部と化し、突然おしよせてきた水のあそび場になっていた。そこに、ふたつの峯をもったけわしい山があって、星々のかなたにまでそびえている。山の名は、パルナッスス(66)といい、その頂上は、雲の上に突きでていた。さて、ほかのものはみな海に呑まれてしまって、人間たちのなかでただひとり生きのこったデウカリオン(67)が妻(68)とともに見すぼらしい小舟でこの山に漂着したとき、ふたりは、まずコリュクス(69)の妖精たちやその他の山の神々、また、そのころ神託をさずけていた占いの女神テミス(70)に、敬虔な祈りをささげた。かれほど善良で正義の念にあつい男はなく、かれの妻ほど神をうやまう女はなかった。
ユピテルは、地球全体が大洪水におおわれ、あれほど多くいた男たちのなかでただひとりの男と、あれほど多くいた女たちのなかでただひとりの女とが生きのこり、しかも、ふたりとも邪心がなく、ふかく神を敬愛しているのを見てとると、ただちに雲間をわかち、北風の息吹によって雨雲を追いはらい、天には地を、地には青空をあらわした。海の狂乱もやわらいだ。海神は、三又《みつまた》の鉾をおさめ、波浪をしずめ、海面に姿をあらわすと、肩にいっぱい貝殻をつけた、水いろの肌をしたトリトン(71)をよびよせて、その法螺貝を喨々《りょうりょう》とふきならし、海の波や河川に合図をあたえて引きさがらせるようにと命じた。トリトンは、いちばん内側の渦巻からしだいに外側にむかって大きくなっていく、そのまがりくねったラッパを手にとった。このラッパは、大海原の真中で鳴らしても、ポエブス(72)ののぼる東の岸辺にも、ポエブスの沈む西の岸辺にもひびきわたるのだ。このときも、トリトンが濡れたひげから水のしたたる口もとにラッパをあて、命じられたとおり「状況終り!」の号音を吹きならすと、そのひびきは、陸と海のすべての水たちの耳にとどいた。これを聞いたすべての水たちは、たちまちおとなしくなった。水は引き、やがて丘があらわれてくるようであった。すでに海にはふたたび浜辺ができ、河床は、満々たる水を放流し、大地が姿をあらわし、水が引くにつれて陸地が広くなっていく。やっとのことで森は水から解放された梢を見せはじめたが、その枝や葉にはまだ泥がこびりついていた。〔三一三〜三四七〕
世界は、ふたたびもとの状態にかえった。しかし、デウカリオンは、その空漠たる有様を見、荒廃した大地がふかい沈黙のなかにしずんでいるのをながめると、妻のピュラにむかって、つぎのように語った。「おお、わたしの妹よ、妻よ、生きのこったただひとりの女性よ、おまえとは、父方の同族(73)という縁《えにし》により、さらに結婚によってむすびあわされたが、いままた危難をともにすることによっていっそう固くむすばれるにいたった。のぼる太陽と沈む太陽に照らされる地上のすべてにわたって、いまやわたしたちふたりだけがその住人なのだ。ほかの人たちは、ことごとく海に呑まれてしまった。いまでもまだ、わたしたちの生命が安全だというたしかな保証はない。雲を見ると、いまだに胸が恐怖におののく。気の毒な妻よ、もしわたしがいなくて、おまえひとりが死をまぬがれたとしたら、おまえはどんな気持がしていることだろう。ひとりでは、どうしてこのおそろしさに耐えていけるだろうか。だれがおまえの悲しみをなぐさめてくれるだろうか。というのは、もし海がおまえをも呑みこんだら、おお、妻よ、わたしならきっとおまえのあとを追って、おなじ海の藻屑《もくず》となってしまうだろう。ああ、わたしも父の持っていた技術によって(74)新しい人間をつくりだし、土でこしらえたものにたましいを吹きこむことができたらよいのだが! しかし、人類は、いまやわたしたちふたりだけになってしまった(それが、神々のご意思だったのだ)。そして、ふたりだけが、人間の残された唯一のひな型なのだ」〔三四八〜三六六〕
かれがこう話しおわると、ふたりはさめざめと泣いた。それから、こうなった上は天の力にすがり、神託によって救いをもとめようと決心した。そこで、さっそくケピスス(75)の流れのほとりへいった。河の水は、まだ澄んではいなかったが、すでにもとの河床を流れていた。ふたりは、汲みとった水を着物と頭にふりかけてから、聖なる女神の神殿の方に歩んでいった。神殿の屋根は、きたない苔《こけ》のためによごれ、祭壇には、火が消えたままだった。神殿の階段《きざはし》のそばまで近づくと、ふたりは地にひれ伏し、ふるえながら冷たい石に接吻し、やがてこういった。
「おお、正当な祈りによって神々のみこころをうごかし、そのお怒りをやわらげることができますものなら、テミス女神さま、どうしたら滅亡した人類をもとどおりにすることができるかをお示しください。そして、いと慈悲ぶかい女神さま、水に没した世界に救いをお垂れください!」すると、あわれを感じた女神は、つぎのような神託をくだした。「この社《やしろ》より出ていけ。そして、なんじらの頭をおおい、衣服の帯をとき、なんじらの大いなる母の骨を背後に投げよ!」〔三六七〜三八三〕
ながいあいだ、ふたりは、おどろきのあまり呆然としていたが、やがてピュラが最初に沈黙をやぶって、女神の命令にしたがうことをこばんだ。そして、ふるえる声で、女神さま、どうかおゆるしください、わたしは自分の母の骨を投げたりして、母の霊をけがすことはとてもできません、と切願した。そうしながらも、ふたりは、ふかい神秘につつまれた謎めいた神託の文句をなんどもこころのなかでくりかえし、その意味を考えた。やがて、プロメテウスの息子は、エピメテウスの娘(76)をやさしくなぐさめて、こういった。「わたしの考えがまちがっていなければ、神託というものは、神聖なものであって、けっしてわたしたちに罪をすすめるものではない。わたしが思うのに、大いなる母とは、大地のことで、女神が骨とおっしゃったのは、大地の胎内にある石のことなのだ。つまり、石をわたしたちの背後に投げよということなのだよ」〔三八四〜三九四〕
ティタンの娘(77)は、良人《おっと》のこうした解釈をみとめはしたが、それで望みがかなえられるとはおもえなかった。それほど、ふたりには神託が信じられないのであった。しかし、いちどためしてみたところで、なんの害があろうか。そこでかれらは、神殿を出て、布で頭をおおい、着物の帯をとき、命じられたとおり石をうしろに投げた。すると、それらの石は――もし昔の伝承がそれを証言しなかったら、だれにも信じられないことだが――石に固有の強情な固さをうしなって、徐々にやわらかになり、やわらかいままなにかの形をとりはじめた。やがてしだいに大きくなり、柔和さをくわえると、まだ明確ではないが、ちょうど粗《あら》けずりの大理石からうみだされる未完成の彫像にも似た人間のすがたが、なんとか見てとれるようになった。そして、水気をふくんだ、土でできた部分は、肉となり、かたくて、こちこちの部分は、骨にかわり、石目《いしめ》は、そのまま血管となった。こうして、神のご意思によってたちまちにして、男の手によって投げられた石は、男の人間のすがたになり、女の手が投げた石からは、女人の姿がうまれてきた。このようにしてつくられたからこそ、われわれは、まことに頑丈な、労苦をいとわぬ種族であって、自分たちがどんな根源からうまれてきたかを、いまも証明しているのである。〔三九五〜四一五〕
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七 大蛇ピュトン
それ以外の生物たちは、さまざまなかたちに大地よりおのずからうみだされたのである。すなわち、大洪水のあと、まだ残っていた水気は、太陽の熱にあたためられ、しめった沼地の泥土は、熱気にふくらみ、万物の豊饒な種子は、母の胎内におけるように、たくましい生命力にあふれた土にはぐくまれて、しだいに形姿《かたち》あるものに成長していった。こうして、七つの河口をもつナイルが氾濫した田畑から水をひき、もとの河床にその流れをおさめ、そのあとに顔を出した泥土が太陽に熱せられると、そこを掘りかえした農夫たちは、無数の動物たちを見いだした。それらのなかには、まさにうまれでようとするものもあれば、まだ発育しきっておらず、四肢のととのっていないものもあり、しばしばおなじ体躯《からだ》のなかにおいてさえ、すでに生きている部分もあれば、まだ土くれのままである部分もあった。というのは、水分と熱とがほどよくまじりあったときに、それらは新しい生命をうみだすからである。万物は、水と熱のふたつの原素からうみだされたのである。火は水の敵ではあるが、湿気をおびた煖《あたた》かさこそ、万物をうみだし、この仲のわるいものの和合こそ、新しい生命の誕生をうながすのである。
だから、最近の大洪水のために泥をかぶった大地は、太陽の光りと天空から降りてくる熱気によってあたためられると、無数の生物たちをうみだした。なかには、もとの姿でうまれてくるものもあれば、まったく新しい種類の怪物もあらわれてきた。巨大なピュトン(78)よ、大地は、このときそうのぞんだわけではないのに、おまえをもうんでしまったのだ。そして、おお、前代未聞の蛇よ、おまえは、あたらしい人間たちにとって恐怖の的となった。それほど山の広大な場所をおまえはひとり占めにしていたのだ。この怪物を退治したのは、弓矢の神アポロ(79)であった。これまでは足|疾《はや》き斑《まだら》鹿やのろ鹿にたいしてしか武器をふるったことのなかったアポロは、ピュトンに幾千本の矢をあびせ、箙《えびら》がほとんど空《から》になってしまうほどであった。怪蛇のくろい傷口からは、毒をふくんだ血がふきだした(80)。アポロは、この手柄ばなしが時とともに忘れられてしまわないように、あの有名なゲームのおこなわれる神聖な競技会を創始した。これが、殺された大蛇にちなんで名づけられたピュティア競技(81)である。〔四一六〜四四七〕
この競技会で、拳闘や競走や戦車競技で勝利をえたすべての若者は、賞品として槲《かしわ》の葉冠をさずけられた。このころは、まだ月桂冠がなかった。アポロも、ながい髪(82)のふりかかる額に、このころはまだいろんな樹の葉をまきつけていたのである。
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八 月桂樹になったダプネ
ポエブスの最初の恋人は、ペネウス(83)の娘ダプネであった。かれの胸にこの恋の火を点じたのは、けっして気まぐれな偶然ではなく、クピド(84)のはげしい怒りであった。つい最近大蛇を退治して得意になっていたこのデロスの神(85)は、クピドが弓をまげて弦《つる》を張ろうとしているのを見て、こういった。「おい、いたずら小僧め、勇敢な男のもつそんな武器で一体なにをしようというのだ。そういう飛道具は、おれの肩にこそ似つかわしい。このおれはな、野獣や敵に狂いのない傷をおわせることができるし、ついこのあいだも、広い土地にとぐろを巻いていた、毒にふくらんだ腹をしたピュトンを無数の矢で射殺したばかりだ。きさまなんぞは、炬火《たいまつ》でつまらぬ恋の火でもつけて満足しておればよいのだ。おれのような手柄をたてようなどとは、身のほど知らずの思いあがりというものだ」〔四五二〜四六二〕
ウェヌスの息子(86)は、こう答えた。「ポエブスよ、あなたの弓は、すべてのものを貫くことができるかもしれませんが、ぼくの矢は、そのあなたに命中するでしょう。すべての被造物が神であるあなたより劣るのとちょうどおなじだけ、あなたの手柄は、ぼくの手柄におよばないでしょう」〔四六三〜四六五〕
こう答えるなり、クピドは、翼をひるがえして飛びたち、すばやくパルナッススの鬱蒼《うっそう》たる山頂に翔《か》けあがった。そして、矢のいっぱいつまった箙《えびら》から、別々の効能をもった二本の矢をとりだした。一本は、恋を追いはらい、もう一本は、恋をうみだす矢であった。恋をつくりだす矢の方は、黄金でできていて、するどい鏃《やじり》がかがやいていた。恋を消しさる矢は、にぶくて、先端に鉛がついていた。かれは、まず第二の矢でペネウスの娘ダプネを射、つぎに第一の、恋をうみだす矢でアポロの骨をその髄まで射ぬいた。すると一方は、たちまち恋情をおぼえたが、他方は、恋人という言葉をすらきらった。ダプネは、森の暗がりや自分がたおした獲物の野獣にのみ喜びをおぼえ、処女神ポエベ(87)と狩の腕前をきそいあおうとした。かの女は、手入れもしない髪を細紐一本でたばねているだけだった。多くの男たちが言い寄ったが、それらの求愛者たちをはねつけ、男ぎらいになり、結婚もせず、道なき森のしげみをほっつきまわった。そして、ヒュメン(88)とかアモル(89)とか結婚とかいうことにはいっさい無頓着であった。
しばしば父親は、「娘よ、わしのために婿《むこ》をとっておくれ」といい、また「娘や、わしに孫の顔を見させておくれ」ともいったが、ダプネは結婚というものをまるで罪悪のようにきらっていたので、はじらいに顔をまっ赤にそめながら、やさしい愛撫の腕を父の首にまきつけて、「いとしいお父さま、どうかわたしにいつまでも乙女のよろこびをおゆるしくださいませ。これは、かつてユピテル神も、その娘ディアナさまにおゆるしになったことですもの」と答えるのだった。父は、やむなくそれをみとめたが、ダプネよ、おまえの優雅さは、おまえの願いをかネえさせず、おまえの美わしい容姿は、おまえの望みをさまたげたのだ。ポエブスは、ダプネを見そめるやいなや、恋を感じ、かの女との結婚を願った。そして、この願いはかならず成就するものと、ひそかに信じていた。自分で自分の神託にあざむかれたのである。穂をつみとったあとの軽い藁《わら》を焼くときのように、また、なにげなく旅人が近づけすぎたり、朝になって投げすてたりした炬火《たいまつ》によって生垣がもえだすように、ポエブスは恋の焔《ほのお》のとりこになった。かれのこころは、燃えたち、実をむすばぬ恋を空《から》望みによってやしなった。かれは、ダプネの手入れをしない髪が頚《くび》に波うっているのを見ては、「もし櫛けずったら、どんなにか美しく見えることだろう」といった。また、かの女のひとみが星のようにかがやいているのを見、見るだけではとても満足できないその美しい唇を見た。さらに、かの女の指を、手を、腕を、なかば以上あらわな肩をあかず眺めた。そして、見えない部分はもっと美しいだろう、と想像した。けれども、かの女は、かるやかな風よりもなお早く逃げさり、かれがつぎのような言葉で呼びとめようとしても、立ちどまらなかった。〔四六六〜五〇三〕
「おお、森の精、ペネウスの娘よ、どうか待っておくれ。おまえを殺そうとして追っかけているのではないのだ。おお、乙女よ、とまっておくれ。小さな羊が狼から、小鹿が獅子から、鳩がふるえる翼で鷲から逃げていくときも、そのように逃げていくが、かれらはみな敵から逃げていくのだ。しかし、わたしはちがう。わたしがこんなに追いかけるのは、恋のためなのだ。ああ、わたしはなんという不幸な男だろう! つまずいて倒れたり、怪我をするにはもったいない足を茨《いばら》に引っかかれたりしなければよいが! おまえの走っている地面は、ごつごつしている。お願いだから、もう少しゆっくり走っておくれ。逃げる速度をもっとゆるめておくれ。わたしも、追いかける脚をゆるめよう。おまえに惚れこんだのがだれであるか、よく考えておくれ。わたしは、山の住人ではない。ここで牛や羊の群れの番をしている野暮な羊飼いでもない。おまえは知らない、おろかな乙女よ、自分がだれから逃げているのかを知らないからこそ、おまえはそんなに逃げるのだ。わたしは、デルピの地、クラロス(90)、テネドス(91)、さらにはパタラ(92)の都をおさめるものだ。わたしの父は、ユピテルだ。わたしによって過去・現在・未来が啓示され、わたしによって歌は弦に和するのだ(93)。わたしの矢は、確実に的を射る。しかし、それよりもさらに的確に命中する矢がひとつだけある。わたしのしずかな胸は、その矢に傷つけられたのだ。医術も、わたしの発明で、地上のどこにおいても、わたしは救い主とよばれている。いろいろな薬草の効力も、わたしの掌中にある。けれども、悲しいことに、恋という病気は、どんな薬草によっても治《なお》らないし、すべてのものに役だつわたしの仁術《じんじゅつ》も、わたし自身にはなんの役にもたたないのだ」〔五〇四〜五二四〕
かれがまだもっと語りつづけようとすると、ペネウスの娘は、おびえたように走りさり、かれを話の途中で置きざりにしてしまった。それでも、その姿は、あいかわらず魅惑的であった。風は、かの女の手足をあらわにし、吹きつけるいぶきは、その衣服を胸の上にはためかし、かるやかな微風は、ながい髪をうしろになびかせた。こうして逃げていくことによって、かの女の美しさはさらに高まった。しかし、若い神は、求愛の言葉をそれ以上投げかけることに堪えられず、恋情にかりたてられるがままに、乙女のあとを駿足をとばして追いはじめた。ガリア犬(94)が野原で兎を見つけると、犬は獲物に追いつこうとして、兎は自分の命を救おうとして、ともにいちもくさんに駆けだす。犬は、もうすこしで追いつけそうな気がし、いまにもつかみかかろうとおもい、鼻づらをのばして相手の後肢に近づける。兎の方でも、はや捕えられたのではないかとびくびくしながらも、なんとか咬みつかれるのをさけ、すぐ身近にせまっている口からたくみにのがれる。それとおなじように、神は希望にかられて、乙女は恐怖におびえて、ともに疾駆する。しかし、恋の翼にはこばれる追手の方が脚が早く、相手にやすむひまもあたえず、すぐ背後に追いすがり、その息は乙女の頚になびく髪にふりかかる。乙女は、もう力の限界にきて、まっ蒼になり、ながいあいだひたすら走りつづけた緊張のために精根もつきはて、ペネウスの流れをみとめるなり、こうさけんだ。「お父さま、あなたの流れに神通力があるものなら、どうかお助けください! みんなのこころをまどわしすぎるこの美しい姿を変えて、わたしをほろぼしてください」〔五二五〜五四七〕
ダプネがこの切なる祈りを言いおわるやいなや、はげしい硬直が手足をおそった。と、見る見るうちに、やわらかい胸は、うすい樹皮につつまれ、髪の毛は、木の葉にかわり、腕は、小枝となり、ついいままであれほど早く走っていた足は、強靭な根となって地面に固着し、顔は、梢におおわれた。ただその輝くばかりの美しさだけは、名ごりをとどめていた(95)。しかし、ポエブスは、このような姿にかわりはてたダプネをも愛し、その幹に右手をあててみると、いまできたばかりの樹皮の下で心臓がまだ鼓動しているのが感じられた。かれは、まるでその枝が人間の肢体でもあるかのように、腕にだきしめ、木に接吻をした。しかし、相手は、木となったいまでさえ、その接吻を避けようとした。〔五四八〜五五六〕
そこで、神はこういった。「おまえを妻にすることはできなかったが、せめてわたしの木になっておくれ。おお、月桂樹よ、いつまでもわたしの髪、わたしの琴、わたしの箙《えびら》がおまえをつけているようにしよう。よろこばしげな声が勝利の歌をうたい、カピトリウムの丘(96)が凱旋行列を眼にするたびに、おまえはローマの将軍たちの額をかざるのだ。また、おまえは、アウグストゥス帝(97)の宮殿のまえに忠実な守護者として立ち、その中央にかけられた槲《かしわ》の冠をまもるのだ。そして、いちども刈ったことのないわたしの髪がいつまでも若々しさをたもっているように、おまえもいつも梢に葉の粧《よそ》おいをおとさないであろう」〔五五七〜五六五〕
アポロがこう言いおわると、月桂樹は、できたばかりの枝でうなずき、かすかに頭をうごかしたように見えた。〔五六六〜五六七〕
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九 牝牛になったイオ/百眼のアルグス/葦になった妖精シュリンクス
ハエモニア(98)の地に、けわしい森山に周囲をかこまれたひとつの木立があり、テムペ(99)とよばれている。ピンドゥス(100)の山麓に源を発するペネウス(101)の流れが、泡だつ水をここに流している。たぎり落ちる巨大な滝からは、水煙が濛々とたちこめ、樹々の梢に飛沫をふりかけ、轟々たるどよめきは、四周の地を遠くまで圧している。これこそは、偉大な河神(102)の宮殿であり、家であり、住居であった。河神は、岩間につくられた洞窟に座し、流水や、水に棲む妖精たちにににらみをきかしていた。ここへまず集まってきたのは、この土地のすべての河川の神々であったが、かれらは、ダプネの父に祝詞をのべてよいのやら、慰めの言葉をかけてよいのやら、わからないのであった。それらの神々とは、白楊樹のしげったスペルキオス(103)、さわがしいエニペウス(104)、年老いたアピダヌス(105)、おとなしいアムプリュスス(106)とアエアス(107)、さらに、はげしい流れにはこばれて、ながい曲折に疲れはてた波を海にみちびくその他の河川の神々などであった。〔五六八〜五八二〕
ただ、イナクス(108)の姿だけが見えない。この気の毒な河神は、その洞窟の奥にひっこんで、涙で河の水嵩《みずかさ》を増し、娘のイオ(109)をすでに亡きものとおもいこんで悲嘆にくれているのであった。イオはまだ生きているのか、それとも、すでに亡霊の国にいってしまったのか、そのどちらともわからないけれど、どこをさがしても見つからないので、すでにこの世にはいないものとおもい、最悪の事態を覚悟しているのだった。
ところが、真相はこうなのだ。ある日、ユピテルは、イオが父の流れから帰ってくるのを見て、「おお、ユピテルにふさわしい乙女よ、その臥床《ふしど》によって男を幸福にする娘よ、あのふかい森の木陰に来るがよい」といって、森の木陰をさしながら、「まだ暑くて、太陽が天上の軌道の半ばにあるあいだに、あそこへ来るがよい。野獣どもの棲家にひとり入っていくのがこわいかもしれぬが、神が守っていてくれるのだから、安心して森の奥まですすんでいってよいのだ。この神は、身分のひくい神ではない。わしが、たくましい手に天の王笏《おうしゃく》をもち、いなびかる雷を投げちらす神が、守っていてやるのだ。お待ち、逃げるのじゃない!」――というのは、イオはすでに逃げだしていたのだ。そして、すでにレルナ(110)の草地をすぎ、樹々の多いリュルケア(111)の野を越えていったところで、神は行く手の広い土地を黒雲でおおい、かの女の逃げ足をとめ、その純潔をうばってしまった。〔五八三〜六〇〇〕
一方、女神ユノ(112)がふとアルゴリスのまん中あたりを見おろすと、にわかに起った雲があかるい真昼だというのに地上に夜をつくりだしているのにおどろいた。しかも、よく見ると、その雲は、河から起ったものでもなければ、じめじめした大地から湧いたのでもなさそうであった。すでにいくどか現場をおさえて良人《おっと》の不実をよく知っているユノは、あたりを見まわして、良人のすがたをさがした。天上のどこにもユピテルがいないのをたしかめると、「わたしの考えちがいでなければ、わたしはまたもや裏切られたのだわ」とさけぶなり、天上の高みから地上に舞いおり、黒雲を追いはらった。
ユピテルは、妻が来ることをあらかじめ気づいていて、イオを真白な一匹の牝牛《めうし》に変えてしまった。牝牛になっても、イオはあいかわらず美しかった。サトゥルヌスの娘(113)は、こころにもなく牝牛の美しい容姿をほめ、この牝牛はだれのもので、どこから、どこの家畜の群れから連れてきたのかと、なにくわぬ顔でたずねた。ユピテルは、これ以上所有者のことまで訊《き》かれだしてはことが面倒になるので、土からうまれたのだと嘘をついた。ユノは、それをわたしにプレゼントしてほしいとねだった。こうなると、いったい、どうすればよいのだろう。いかになんでも、愛人をここで見殺しにするのは冷酷だし、かといって、牛を渡さなければ、疑われる。ばつの悪さから、牛をやってしまおうかとも思うが、愛がそれをゆるさない。むろん、ばつの悪さよりも愛の方がつよい。しかし、たかがこれっぽちの贈物を妹であり妻であるユノにこばんだとしたら、ただの牝牛でないことがばれてしまうであろう。そういうわけで、ユノはついにその恋仇を手に入れることになったが、かの女の心配はなかなか消えなかった。かの女は、ユピテルをおそれ、その不実を心配した。そこで、イオの番をアレストルの息子アルグス(114)にたのむことにした。〔六〇一〜六二四〕
アルグスは、まわりに百の眼のついた頭をもっていた。それらの眼は、同時にふたつずつ交替で眠り、それ以外の眼は、すべて不寝番につき、見張りをつづけていた。だから、かれが立っていようが、横になろうが、いつもイオが見えた。たとえ背中をむけているときでも、イオが眼のまえに見えた。かれは、昼間はイオに草をたべることをゆるしたが、太陽が地の底ふかくに沈むと、かの女をとじこめて、首に無法な網をつけた。かわいそうなイオは、木の葉やにがい草をたべ、ベッドではなく、いつも草があるとはかぎらぬ地面に寝、にごった河の泥水を飲んだ。アルグスに情けを乞うために腕をあげようとしても、さしのべるべき腕がなかった。わが身の不幸を訴えようとしても、口から出るのは、うめき声ばかりであった。かの女は、その妙な音にひどくおどろき、自分の声におそれを感じた。〔六二五〜六三八〕
かの女は、よく遊びにいったことのあるイナクスの河辺へもいってみた。そして、水にうつった見おぼえのない角《つの》を見るやいなや、びっくり仰天して、腰を抜かしてしまった。かの女がだれであるかを、ナイスたち(115)も知らなかったし、父のイナクスでさえもわからなかった。しかし、かの女は、父をしたい、姉妹たちにつきまとい、かれらに撫でられたり、嘆賞されたりするがままになっていた。年老いたイナクスは、みずから摘んだ草をさしだした。口さえきけたら、救いをもとめ、名をなのり、不幸な身の上をはなしてきかせたであろう。しかし、言葉のかわりに、足で土の上に書きしるした文字が、かの女の転身のかなしい秘密をあかすことができた。〔六三九〜六五〇〕
「ああ、わしはなんという不幸な男であろうか!」と、父親のイナクスはさけんで、ただうめいている白い牝牛の角や首にすがりついた。「ああ、なんという不幸なことだ。わしがあらゆる国々をさがしまわった娘が、おまえなのか。おまえが見つからなかったときの方が、こうして見つかったいまより、まだしもわしの悲しみはすくなかった。おまえは、だまっている。わしの言葉に答えることもできず、こころの底からため息をもらしている。おまえにできることといえば、わしの嘆きにたいしてただ呻いてみせることだけだ。ああ、わしはこんなこととはつゆ知らずに、おまえのために結婚の床から嫁入りの炬火《たいまつ》までととのえ、まず婿を、それから孫の顔を見たいと待ちのぞんでいたのだ。いまとなっては、家畜の群れのなかの良人、家畜の息子しかおまえにはあたえられない。しかも、わしは、死によってこの大きな悲しみを断ちきることもできぬ。うらめしいことに、わしは神なのだ。わしには死の門がとざされているために、この悲しみは永遠につづくのだ」〔六五一〜六六三〕
かれがこう嘆いているあいだに、星のようにたくさんの眼をもったアルグスがかれらをおしのけ、父から引きはなされた娘を遠くはなれた牧場へつれていってしまった。かれ自身は、すこしはなれた山の頂上に腰をおろして、そこから四方八方に眼をくばっていた。〔六六四〜六六七〕
神々の王は、これ以上ポロネウスの妹(116)の苦しみを見ていることに耐えられなくなった。そこで、かがやくプレイアス(117)がうんだわが子をよんで、アルグスを退治するようにと命じた。メルクリウスは、ただちに足に翼をつけ、力づよい手に眠りの杖をもち、頭に帽子をかぶった。こうして旅支度ができると、ユピテルの息子は、いそいで天の王宮を出て、地上に降りていった。地上に着くと、帽子をぬぎ、足の翼をはずした。杖だけはそのまま手にして、牧人のすがたに身をやつし、辺鄙《へんぴ》な野をとおって、途中であつめた羊の群れを追い、葦笛をつくって吹きならした(118)。
ユノにいいつけられた番人アルグスは、このめずらしい笛の音がひどく気に入って、「おまえが何者であるにせよ、ここへ来て、おれといっしょに岩の上に腰をおろすがよい。どこへいっても、家畜たちにとってはここほど草のたっぷりあるところはない。それに、おまえにも見えるように、羊飼いにとってはありがたい木陰もあるからな」といった。アトラス(119)の孫は、いわれるままに腰をおろし、よもやま話をして、すぎゆく時間の流れをみたし、葦笛の旋律でこの番人の眼をなんとか眠りこませようとした。けれども、怪物は、ここちよい睡気を一生けんめいに追いはらおうとした。そして、いくつかの眼は眠りにおかされながらも、ほかの眼はまだめざめていた。それどころか、この葦笛がどうしてつくられたかを話してくれ、と怪物はせがんだ。というのは、葦笛はつい最近に発明されたばかりであったからである。〔六六八〜六八八〕
そこで、メルクリウスは、つぎのように語った。「アルカディアの冷たい山々に住むノナクリス(120)のハマドリュアス(121)たちのなかに、ひときわ衆目を引くひとりのナイス(122)がおりました。妖精たちは、この乙女のことをシュリンクスとよんでおりました。かの女は、自分のあとをつけまわすサテュルスたち(123)や、小暗い森や豊饒な田野に棲む神々を、一度ならずこばんだことがありました。かの女は、仕事の上からだけでなく、処女性という点からも、オルテュギア(124)の女神を崇拝していたのでした。ディアナにならってかの女も帯をしめていましたから、かの女のもつ弓が角製でなく、ディアナの弓も黄金の弓でなかったとしたら、人びとは、かの女をてっきりラトナ(125)の娘とおもいこんだことでしょう。それでも、かの女は、よく間違われました。ある日、かの女がリュカエウス(126)の山から帰ってくる途中、頭に松の葉冠をいただいたパン(127)がそれを見つけて、こう話しかけました……」
メルクリウスは、まだこの先を話すつもりであった。すなわち、シュリンクスは、パンの口説きに耳もかさず、道ない野原を突っ走り、砂の多いラドン(128)のしずかな流れのほとりまで逃げてきたが、水のために逃げ道をさえぎられたので、水のなかにいる姉妹たち(129)にむかって、どうか自分の姿を変えてくれるようにとたのんだ。それで、パンがシュリンクスをとらえたとおもったとき、それはもはや乙女のからだではなく、ただ数本の沼地にはえる葦を抱きしめていただけであった。おもわずかれの口から嘆息がもれたとき、葦の茎のなかで振動した空気が嘆きの声に似たかすかな音を発した。牧神は、この不思議な現象と妙なる音色に恍惚となって、「おまえとのこのつながりをいつまでも持ちつづけるようにしよう!」とさけんで、さまざまな長さの葦をあつめ、それをたがいに蝋でかためあわせて、せめてそれに乙女の名前をとどめたのであった(130)。
メルクリウスがこのような物語を語りつづけようとしたとき、アルグスの瞼《まぶた》がふさがり、すべての眼が眠りにおちいっているのに気がついた。そこで、すぐさま話を打ち切って、なおいっそうたしかに眠らせるために、魔法の杖で重くたれた瞼の上をなでた。そして、間一髪を入れず、こくりこくりと居眠っている怪物の首のつけ根に、鎌のようにまがった剣を打ちおろし、血にそまった首を岩から下へ突きおとし、きりたった岸壁を血でべっとりとぬらした。アルグスよ、いまやおまえは、うちのめされて動かない。おまえの多くの眼をかがやかせていた光は消え、おまえの百の眼は、おなじひとつの闇にのまれてしまった。ところが、ユノは、このアルグスの眼を拾いあつめて、かの女の愛する鳥(131)の羽根につけ、その尾を星のようにきらめく宝石でかざったのである。〔六八九〜七二三〕
ユノは、たちまち怒りにもえたち、報復の時期を一刻も猶予することなく、恋仇の眼とたましいにおそろしいエリニュス(132)の姿を示現《じげん》し、その胸のなか深くに狂乱の針を刺しこみ、地球上のあらゆる土地に駆りたて、追いまわした。おお、ナイル河よ、おまえは、かの女の大きな苦悩の最後の地となった。かの女は、ナイルのほとりまで来ると、その岸辺にひざまずき、首をうしろに反《そ》らして、顔を高く天にむかってあげ(顔こそ、かの女が上にあげることのできた唯一のものであった)、ためいきと涙とあわれな鳴き声とによってユピテルにわが身の不幸を訴え、この苦しみを終らせてくださいと哀願した。ユピテルは、妻の首をだきよせ、こんな罰はもうやめてほしいとたのみ、「これからは、もう心配をかけない。イオがおまえを苦しめるようなことは、もうけっしてないから」といった。そして、スチュクス(133)の沼を誓いの証人にした。
そこで、女神のこころもやわらぎ、イオは、たちまちもとの姿にかえった。全身から毛がおち、角は消え、眼窩《がんか》は小さくなり、口はしまり、肩と手があらわれ、蹄《ひづめ》はなくなり、五つの爪になった。そして、牝牛の名ごりとしては、かがやくばかりに白い姿だけがのこった。二本の脚にかしずかれた乙女は、りっぱに立ちあがったが、牛のような鳴き声が出てきはしまいかと口をきくのがこわくて、おずおずとためしてみたのち、やっと長いあいだ中断していた言葉を話すようになった。かの女は、いまは神とあがめられ(134)、白衣をまとった多くの神官たちにとりまかれている。〔七二四〜七四七〕
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十 太陽神の息子パエトン
やがて、イオは、エパプス(135)という男の子をうんだが、これは偉大なユピテルの落胤であると信じられ、方々の町でその母神といっしょに祭られている。ところで、太陽神ポエブス(136)の子パエトン(137)は、このエパプスと気質も年齢もよく似ていた。あるとき、パエトンが大言壮語して、エパプスに優位をみとめず、ポエブスを父としていることを自慢したので、イナクスの孫(138)は我慢がならず、「ばかな奴だな。きみは、お母さんの言ったことをみんな本当のことだと信じ、父でもないひとを父だときめこんで威張りくさっているだけのことさ」〔七四八〜七五四〕
パエトンは、まっ赤になったが、恥ずかしさのためにかろうじて怒りをおさえ、この侮辱を母のクリュメネ(139)に告げにいった。「お母さん、あなたがお聞きになったら、いっそうはげしくお悲しみになるとおもいますが、こんなに気が強くて負けずぎらいのぼくがだまっていたのですよ。ほかの奴がぼくにこんな侮辱をくわえても、ひとことも言いかえすことができないなんて、ほんとうに恥ずかしいことです。けれども、ぼくがほんとうに神々の血筋をひいているのなら、どうかぼくにその由緒ある生まれの証拠をあたえてください。そして、ぼくが天上界に権利をもっていることを証明してください」〔七五五〜七六一〕
こういうとともに、かれは母の肩に腕をまわし、自分の首にかけて、また、父王メロプス(140)の首、自分の姉妹たちの婚礼の炬火《たいまつ》にかけて、太陽神が自分のほんとうの父である証拠をしめしてほしい、とたのんだ。クリュメネは、息子の切なる願いにこころをうごかされたのか、それとも、自分にくわえられた侮辱にたいする怒りにかられたのかはわからないが、両腕を天にさしのべ、太陽の光をじっと見あげながら、「わたしたちの声を聞き、わたしたちを見ていてくださるこのまばゆくかがやく太陽の光にかけて、わが子よ、わたしはおまえに誓います――おまえの見ているあの太陽、この世界を統《す》べたまうあの太陽の神からおまえは生を享《う》けたのです。もしわたしが嘘をいっているのなら、太陽がわたしに見られることをこばみ、今日がわたしの眼にとって最後の日になってもかまいません。おまえは、すでにお父さまのお家《うち》がわかるはずです。お父さまが毎朝そこを出て空高くお昇りになるお家は、わたしたちのこの国にすぐつづいているのです。おまえがその気なら、出かけていって、自分でお父さまにたずねてごらん」〔七六二〜七七五〕
パエトンは、母の言葉にすっかりよろこんでとびあがり、大空の国を胸にえがきながら、故郷のアエティオピアをあとにし、太陽の熱火の下に住んでいるインド人たちの国をとおって、父のいる日出ずる国へとむかっていった。〔七七六〜七七九〕
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巻一の註
(1)ウラヌス(天)とガエア(地)とのあいだにうまれた六人の息子と六人の娘とをティタンの神族といい、さらにその子孫をも加えることがある。オリュムプスの神々(24)以前の、原始的な、自然力あるいは抽象名詞の擬人化神たちである。ここでは、そのうちのひとりである太陽神ソル(ギリシア名はヘリオス)をさす。
(2)「輝ける女」の意で、ウラヌスとガエアとの娘、ティタン神族のひとりで、月の女神。兄弟のコエウスの妻、アポロ(ポエブス)神とディアナ女神との祖母にあたる→(87)(125)
(3)ネレイデス(62)のひとりで、海の大神ネプトゥヌス〔→(24)、巻二(86)〕の妻。ここでは、たんに海・大洋の意。
(4)世界の創造者としての神なる自然が考えられている。
(5)古代人は、天候現象のおこる空気圏の上にさらに軽い、けっして汚れることのない気層があると信じた。それは、天の最上部に光りかがやく部分で、アエテル(エーテル)とよばれ、神話的には、エレブス(暗黒)とその姉妹ニュクス(夜)との子とされ、ヘメラ(昼)の姉妹にあたる。
(6)アエテル→(5)
(7)東風→巻六(127)
(8)アラビアの一種族。
(9)西北部インドの山々。
(10)西風。
(11)ギリシアのへスペルスにあたり、西空にかがやく宵の明星(金星)。ルキフェルや風たちとおなじくアストラエウスとアウロラとの子とされる。→巻二(15)(16)
(12)北風→巻六(127)
(13)黒海の東方および北方の地域(現在のウクライナ)
(14)北斗七星の意であるが、ここでは北方地方の意。
(15)南風(ギリシア名ではノトウス)
(16)→(5)
(17)ウラヌスと大地ガエアとの子、ティタン神族(1)のひとり。アトラス(119)、プロメテウス、エピメテウスらの父(139)。その息子とは、ここではプロメテウスをさす。かれは、人間に火と最初の文化をあたえた恩人とされ、そのため人間の創造者とも考えられた。
(18)古代ローマでは、青銅板に法律文を彫りつけて、公衆に掲示した。
(19)防禦用の濠。つぎのラッパも角笛も戦争のための道具。
(20)ユピテル大神にささげられた神木とは、樫のこと。南方系の樫の実は食用になった。
(21)神々の飲む酒で、不死と治療の力を有するとされた→巻二(19)
(22)本来はローマの農耕神であったが、ギリシアのクロノスと同一視された。ウラヌスとガエアとの子で、ティタン神族(1)の末弟。ウラヌスがその子たちを地獄の底タルタルス(次注)に投げこむことに腹をたてたガエアに命じられて、かれらは兄弟のティタンたちとともに父をおそい、金剛の斧で父の生殖器を切断して、世界の支配権を獲得した。のち、かれも息子のユピテルによってタルタルスに投げこまれる。
(23)アエテル(5)と大地ガエアとの息子、母と交わってチュポエウス〔巻三(42)〕やエキドナ〔巻四(98)〕の父となる。冥界(ハデス)の一番下にある部分とされ、また冥界そのものと同一視される。
(24)ギリシア名はゼウス。サトゥルヌスとその姉妹レア(またはレイア)との息子、ケレス(ギリシアではデメテル)、ユノ(ヘラ)、プルト(ハデス)、ネプトゥヌス(ポセイドン)らの兄弟。姉妹のユノを妻とし、天上の王者。ティタン神族とたたかってタルタルスに投げこみ〔巻四(57)〕、ここに古い自然力の世界支配は終りをつげ、「オリュムプスの神々」による世界秩序がはじまる。
(25)冥界を流れる河または沼の名(38)。転じて冥界そのものをもさし、ここでは、暗い地下の世界の意。
(26)鉄を武器とし、黄金を賄賂として使う。
(27)「星の乙女」の意。ユピテルとテミス(70)との娘、正義の女神。地上より天に帰り、乙女座となる。
(28)巨大な身体をもつ一族(複数形ギガンテス)。ウラヌスがサトゥルヌスに生殖器を切られたとき(22)、その血が大地ガエアに滴ってうまれたとされる。オリュムプスの神々に戦いをいどんで敗れたが、以下の叙述には、アロイダエ〔巻六(34)〕との混同がある。→巻十(40)
(29)ユピテル。
(30)テッサリアの北境にある高山(二九八五m)。その頂上に神々の住居があると考えられた。
(31)東部テッサリアの高山。
(32)テッサリアの東北部にある山。
(33)ベラスギ人(ギリシアの先住民族)の祖とされるペラスグスの子、アルカディア(ペロポネスス半島の中心部)の王。食人と神々にたいする不敬とのために狼に姿を変えられた。ペラスグスは、ユピテルとニオベ(114)との子といわれる。
(34)天の河(銀河)
(35)ユピテル。雷電を武器とした。
(36)ローマ七丘のひとつ(または、パラティヌス)。この丘上にローマ初代皇帝アウグストゥスの壮麗な宮殿があった。ここでは、宮城の意。
(37)海の老神。ポントゥス(海の擬人神)と大地ガエアとの子。ネレイデス〔海の妖精たち(62)〕の父。ここでは、たんに海洋の意。
(38)→(25)ここでは冥界の意。冥界にはアケロン、スチュクス、プレゲトン、コキュトゥスの四つの河があるとされた。天上の神々は、冥界とそこにある事物にかけて誓うのがつねである〔巻三(40)〕
(39)つぎに列挙されるような地上に住む神々をいう。かれらは、神殿をもたず、不死でない者もあり、たいていは醜い容姿をし、限られた活動範囲しか許されていない。
(40)海・河・泉・森・樹木・山などに住む精、またはそれらの擬人化(いわゆるニンフ)。若くて美しい女性とされ、女神とよばれることもあるが、不死ではなく、非常に長命であると考えられた。
(41)田野や森に住むローマの神(半神)。ギリシアの牧神パン(127)と同一視される。
(42)快楽を好み、野獣的な行動をする山野の神で、酒神バックス〔巻三(36)(67)〕の従者。山羊の脚、馬のような尻尾、巨大な男根をもった若い男と考えられた。
(43)ローマの、荒地と森の神。この名前は、「森の」の意。ギリシアのパンと同一視されることもある。
(44)紀元前四四年三月十五日、ブルトゥス、カッシウスらの一味は元老院でガイウス・ユリウス・カエサルを暗殺した。
(45)カエサルの養子・後継者としてローマ帝政初代の皇帝となったオクタウィアヌスのこと〔巻十五(149)(178)〕。この個所は、宮廷詩人オウィディウスのあからさまな追従である。
(46)アルカディアの山脈(単数形ではマエナルス)
(47)アルカディアの高山。
(48)アルカディアの山。
(49)リュカオン。
(50)モロッスス人(複数形モロッシ)は、南エピルス(エペイロス)に住む一種族。この名称は、トロイア戦争の英雄アキレスの息子ネオプトレムス〔巻十三(39)〕の子モロッススがこの地の王となったことから由来しているが〔巻十三(175)〕、それは後代のことで、この時代にはまだこの呼称はなかったはず。
(51)本来は、ローマの家の台所や食卓を支配する神々で、つねに複数で考えられ、転じて家の守護神をいう。ペナテスは、その家の人間がこのような非道な悪行をたくらんださい、それを未然にふせぐべきものとされていた。
(52)サトゥルヌスに男根を切断されたウラヌス(22)の血が大地に滴ってうまれたとされる復讐の女神で、三人姉妹(複数形エリニュエス)。翼をもち、蛇髪のおそろしい形相をし、手に炬火をもって罪人を追いかけ、狂気にいたらしめるという。ローマ神話のフリアエにあたる〔巻四(87)〕。ただし、ここではたんに「狂暴さ」の意。
(53)ウラヌスとガエアとの息子とされる一眼の巨人族。シキリア島のアエトナ(エトナ)火山に住み、ユピテルのために雷電をつくる〔巻十三(181)および七四四行以下、巻十四(50)および一六七行以下〕
(54)雷電のこと。
(55)ギリシアではボレアス→(12)
(56)ヒッポテス〔巻四(124)〕の子、風神。
(57)ローマではアウステルとよばれる→巻六(127)
(58)ユピテル大神の姉妹にしてその妻、ギリシア神話のヘラにあたる。サトゥルヌス(クロノス)とレアとの娘。
(59)タウマス〔ポントゥスと大地ガエアとの子(37)〕とオケアヌス〔巻二(11)〕の娘エレクトラとの娘。虹の女神。天上の神々、とくにユノの使神とされる。
(60)ユピテルの兄弟である海の大神ネプトゥヌスのこと→(24)一般に海の神々は、青い(水いろの)肌をしていると考えられた。
(61)ネプトゥヌスは、青銅の蹄に黄金のたてがみをした馬にひかせた戦車にのり、三叉の鉾をもって海を馳せると考えられた。
(62)海神ネレウス(37)とドリス〔巻二(6)〕とのあいだにうまれた五十人(あるいは、百人)の娘たちのことで、ネレイスたち(複数形のネレイデス)とよばれ、下級の海の女神たち。海底にある父の宮殿で黄金の椅子にすわり、歌い踊り、糸つむぎをし、普通の娘たちとおなじように暮している美女と考えられた。
(63)中部ギリシアの一地方、ボエオティアとテッサリアとの中間にある。
(64)南部テッサリアの山。
(65)ボエオティアの一地方、およびボエオティアの別称。
(66)アポロ(ポエブス)の神託所として知られたデルピ(80)がその麓にある有名な山。
(67)人類の恩人プロメテウス(17)の息子。大洪水のとき、父の忠告により、箱舟をつくり、妻ピュラとともに難をのがれ、九日九夜水上をただよい、パルナッススに漂着、新しい人間(ギリシア人)の祖となった。
(68)ピュラ。「赤髪の女」の意。エピメテウス(17)と地上最初の女といわれるパンドラとの娘。
(69)パルナッスス山にある洞窟。そこの妖精たちをコリュキデスという。
(70)ウラヌスとガエアとの娘、ティタン神族のうちでオリュムプスの神々の一員として残った唯一の神。正義(掟)の女神で、予言の術にもすぐれ、アポロより以前にデルピで神託をさずけていた。また、ユピテルの二度目の妻といわれ(ユノは三人目)、娘アストラエアをうんだ→(27)
(71)海神ネプトゥヌスの息子、その伝令。半人半魚の姿をし、海馬にまたがり、ほら貝を吹きならす。ヘレニズム時代には、アフリカ北岸のトリトン湖の神とされた〔巻二(167)〕
(72)「輝ける者」の意で、太陽神アポロの異名、ときには太陽そのものをさす。→(79)
(73)ふたりの父親プロメテウスとエピメテウスは兄弟で(17)、したがってふたりは従兄妹である。
(74)→八二行、(17)
(75)ポエオティアとポキスを流れる河。
(76)→(67)(68)
(77)ピュラのこと。その父エピメテウスは、ティタン神族のひとり→(1)(17)
(78)大洪水のあと大地(ガエア)がうんだ大蛇、デルピでアポロに殺される〔巻三(8)〕
(79)ユピテルとラトナ(125)との息子、ディアナ女神(87)の双生の兄、デロス島にうまれる。音楽・医術・弓矢・予言・家畜の神、また光明の神としてポエブス(輝ける者の意)ともよばれ、太陽と同一視されることもある(72)。美しい青年神として考えられ、あらゆる知性と文化の代表者で、神々のなかで最もギリシア的な神である。デルピに来て、ピュトンを殺し、テミス(70)にかわって神託をさずけた。
(80)デルピの神殿にオムパルス〔へその意で、ここが世界の中心と考えられた。巻十(49)〕とよばれる岩があり、アポロはその上に坐しているとされ、ピュトンはこの岩の下に葬られているという。
(81)ピュティア祭は、八年目ごとに催され、前五八六年からはオリュムピア競技(五年目ごと、ただし現代式の数え方では、四年目ごと)の翌年におこなわれるようになった。勝利者には月桂樹の冠がおくられた(槲の冠というのは、物語の筋をはこぶための創作)
(82)長い捲き毛は、青年神アポロのシンボルである。
(83)テッサリアの主河、ピンドゥス山(100)に源を発し、テムペ渓谷をへて海にそそぐ。また、その河神。オケアヌスとテテュス〔巻二(11)〕との息子。
(84)愛と美の女神ウェヌス〔巻三(17)〕の子、恋の童神。翼をもち、弓をたずさえ、ときには炬火を手にしていることもある。その気まぐれな矢に射られた者は、恋におちるという。ギリシアのエロスにあたる。アモルとも呼ばれるが、これはエロスのラテン語訳。→巻十(92)
(85)アエガエウム(エーゲ)海のデロス島でうまれたアポロ神のこと(79)。
(86)クピド→(84)
(87)ディアナ女神のこと。ユピテルとラトナとの娘で、アポロの双生の妹(79)。ギリシアのアルテミスと同一視され、狩猟をつかさどる処女神、また月の女神とも考えられ、アポロが太陽神としてポエブスと呼ばれるように、ポエベ(輝ける女)ともよばれる→(2)(72)
(88)またはヒュメナウスともいわれ、婚姻の神。
(89)→(84)
(90)小アジアのイオニアの町、アポロの神殿と神託で有名。
(91)小アジアのトロアス(トロイアのある地方)の沖にある小島。
(92)小アジアのリュキアの海港、アポロの神託所があった。
(93)アポロは、音楽と詩歌の神である。
(94)ガリアは、フランスの古名。そこの犬は、猟犬として有能であった(グレーハウンドの一種)
(95)月桂樹になったのである。ダプネは月桂樹の意。
(96)いわゆるローマ七丘の主丘。ユピテルの神殿があり、とくに大きな勝利をおさめた将軍は、凱旋行列をくんでここに詣でることをゆるされた〔巻十五(154)〕。むろん、以下の言及は、宮廷詩人の追従である。
(97)アウグストゥス帝は、パラティヌス丘に宮城を建てたが、その入口の中央に槲の冠が飾られ(ローマ市民の生命を助けた者にあたえられる)、その両側に月桂樹が植られた。
(98)テッサリアの古名。
(99)実際は谷間である→巻七(41)
(100)テッサリアの西部、エピルスとの境にある高山。
(101)→(83)
(102)河神ペネウス、ダプネの父→(83)
(103)テッサリアの河、その河神。オケアヌスとテテュス〔巻二(11)〕の息子。
(104)テッサリアの河。
(105)テッサリアの河で、エニペウス河の支流。
(106)テッサリアの小さい河。
(107)これだけはエピルスの河であるが、その水源はペネウスに近い。
(108)アルゴリス(ペロポネスス半島の東部地方)の河、その河神、オケアヌスとテテュスとの子、またアルゴス(アルゴリスの首都)の最初の王とされる。
(109)イナクス河神とメリア(オケアヌスの娘)との娘。エジプトのイシス女神と同一視されることもある→(134)
(110)アルゴスの近くにある森と沼地。のちヘルクレスのヒュドラ(水蛇)退治で有名になる→巻九(11)
(111)アルゴリスとアルカディアとの境にある町と山。
(112)→(58)
(113)ユノ→(58)
(114)全身百の眼をもつといわれる巨人。父のアレストルは、ユピテルとニオベ(ユピテルと交わった最初の人間といわれる)との子アルグスの息子で、この祖父アルグスは、アルゴス(108)にその名をあたえ、ギリシア人に最初に麦の栽培を教えた人とされる。
(115)ナイアスともいい、泉や河川に住む水の妖精(複数形ナイデス、またはナイアデス)。それぞれの泉や河にひとりのこともあれば、多数いることもある。オケアヌスの一族とも、その住む河の神の娘とも考えられる。→(40)
(116)ポロネウスは、イナクスの息子でアルゴスの王。その妹とはイオのこと。
(117)アトラス(119)の七人の娘をプレイアスたちという(複数形プレアデス。のちユピテルによって天上に召されて星となった。プレアデス星座、あるいは七曜星とよばれている)。その長姉マイアは、ユピテルとのあいだに息子メリクリウス(ギリシア名はヘルメス)をうんだ。かれは、オリュムプスの十二神のひとりに数えられ、ユピテルの末子で、すばしこい性質のため父ユピテルの従者・伝令をつとめ、富と幸福の神、商売・盗み・賭博の保護者とされる。つばの広いペタススとよばれる旅行帽をかぶり、手に伝令の杖(人を眠らす力がある)をもち、翼のあるサンダルをはいた、若々しい青年の姿をしていると想像された。
(118)メリクリウスは、堅琴や笛の発明者とされる。
(119)ティタン神族(1)のひとり。イアペトゥス(17)とクリュメネ(139)との子。ティタン神族がユピテルとの戦いに敗れたとき(24)、罰として天空をささえる仕事を課せられた(巻四の六三一行以下)。かれの妻プレイオネは、オケアニデス〔巻二(11)〕のひとりで、メルクリウスの母となったマイアをはじめ七人の娘たちプレイアデス(117)をうんだ。
(120)アルカディアの山および町。
(121)樹木の精であるニュムペ(40)を、とくにハマドリュアス(複数形ハマドリュアデス)という。かの女たちは、樹木とともにうまれ、樹木と運命をともにする。ここでは、妖精一般の意。
(122)→(115)
(123)→(42)
(124)デロス島の古名→巻六(24)。その女神とは、双生の兄アポロとともにこの島でうまれたディアナのこと→(87)(125)
(125)ティタン神族のコエウス〔巻六(24)〕とポエベ(2)との娘、ギリシア名はレト。ユピテルに愛されて妊娠したが、ユノ女神の嫉妬に追われて、当時まだ浮島だったデロス島でアポロとディアナをうんだ〔巻六(58)(59)および一八五行以下〕。その娘とは、ディアナ女神のこと。
(126)→(48)
(127)牧人と家畜の神、メルクリウスの息子。上半身は人間、下半身は山羊で、額に角をはやし、松の冠をかぶっている。しばしばローマのファウヌス(41)やシルウァヌス(43)と同一視される。
(128)アルカディアの河。
(129)ナイスたち→ナイデス(115)
(130)「パンの笛」ともよばれるいわゆるシュリンクス笛のことで、モーツアルトの歌劇『魔笛』のパパゲーノが吹く笛がそれである。パイプ・オルガンの最も原初的な始祖とも考えられる。
(131)ユノ女神の聖鳥とされる孔雀《くじゃく》
(132)復讐の三悪鬼のひとり(52)
(133)冥府の河→(25)(38)
(134)イオは、エジプトの支配者となり、エジプトの豊饒女神イシス〔巻九(130)〕と同一視されるようになった。エジプトの神官は、白い長衣をまとっていた。
(135)イオがナイル河のほとりでうんだユピテルの子。のちイオのあとをついでエジプト王となり、ナイル河神の娘メムピスを妻として、メムピス市を建てた。リビュア(リビア)という地名は、その娘リビュアから由来している→巻三(2)
(136)→(72)。ここでは、ソル〔(1)、巻四(30)〕と混同されている。
(137)太陽神ソル(ここではポエブス)とクリュメネ(139)との息子。
(138)エパプス。
(139)「名高い女」の意で、この名でよばれている女性が数名あり、しばしば混同される。最も重要なのは、大洋神オケアヌスとテテュスとの娘で、イアペトゥスの妻となり、アトラス、プロメテウス、エピメテウスらの母となった→(17)(119)。ここのクリュメネは、前者と同一とも考えられるが、太陽神の妻となり(137)、パエトンおよび幾人かの娘たち〔ヘリアデス→巻二(91)〕の母となった。ただし、オウィディウスの記述では、かの女はアエティオピア王メロプス(次注)の妃であって、太陽神に愛されてパエトンをうんだことになっている。
(140)アエティオピア(エティオピア)の王、クリュメネの良人。
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巻二
一 太陽神の車を馭するパエトン
太陽神(1)の宮殿は、壮麗な円柱にささえられて空たかくそびえ、きらめく黄金と炎のような赤銅に燦然《さんぜん》とかがやいていた。破風《はふ》壁は、まばゆいばかりに美しい象牙の浮彫りにかざられ、正面の二枚の扉は、銀光をはなっていた。しかし、材料よりも、それを仕上げた名工の腕の方がさらにすぐれていた。というのは、ムルキベル(2)は、大地を帯のようにとりまく大洋、地球、そして地球の上にひろがる天空、この三つのものを銀の扉にみごとに浮彫りにしていたからである。海には、水いろの神々が大勢いる――ほら貝を吹きならすトリトン(3)、変化《へんげ》自在なプロテウス(4)、巨大な鯨たちの背を多くの腕でたたいているアエガエオン(5)、さらにドリス(6)とその娘たち。これらの娘たちは、泳いでいるのもあれば、岩の上にすわって緑の髪を干《ほ》しているのもあり、魚にまたがったのもいる。ひとりとしておなじ顔だちの者はないが、かといって、まったくちがっているのでもなく、いかにも姉妹らしく見える。さらに、陸地には、人間たち、町、森、野獣たち、河、それに妖精や田野の神々がえがかれている。そして、これらの上には、天の威容と十二の星座(7)が配され、そのうち六宮は右の扉に、のこりの六宮は左の扉にあらわされている。〔一〜一八〕
さてクリュメネの息子は、ここに通じる山路をよじ登り、父であれかしとおもう神の宮殿に入っていくやいなや、いきなり神の面前に歩をすすめ、すこしはなれたところに立ちどまった。というのは、それ以上近づくと、とてもその強烈な光にたえられなかったからである。ポエブスは、緋《ひ》いろの長衣をまとい、かがやく緑玉石《エメラルド》の玉座にすわっていた。その左右には、日と月と年、世紀、ひとしい間隔におかれた時間たちがならんでいた。さらに、早春は、頭に花の冠をいただき、はだかの夏は、麦の穂の環飾りをつけ、秋は、ふみつぶしたぶどうの汁にまみれ(8)、つめたい冬は、真白な髪をふりみだしていた。これらの中央にすわった太陽神は、一切を見とおす眼をもって、このふしぎな光景におどろいている若者を見ると、「なんのためにここへ来たのか、その理由をいってみるがよい。わが子であることを父として否認しようもないパエトンよ、おまえはこの高閣になんの用があって来たのか」〔一九〜三四〕
パエトンは、答えた。「おお、広大無辺な世界の共有の光である父上よ、もし母のクリュメネが自分のあやまちをいい加減なつくり話でごまかしているのでなく、あなたを父上とおよびしてもよろしいのなら、父上よ、ぼくがほんとうにあなたの息子であることをみんなからみとめてもらえるように、どうかその証拠をあたえてください。そして、ぼくの胸の疑念をはらしてください!」〔三五〜三九〕
息子がこういうと、父は、頭のまわりにかがやいている光の王冠をぬいで、もっと近くへ寄るようにと命じた。そして、息子を抱擁して、
「いや、いや、おまえがわしの息子であることは、どう否定しようもない事実だ。クリュメネは、おまえのほんとうの素性をあかしたのだ。おまえの疑いをはらすために、なんでも好きなことをのぞむがよい。わしは、すぐにそれをききとどけてやろう。おお、神々が誓いをかける沼、わしの光をまだ見たことのない沼(9)が、わしのこの約束の証人だ!」〔四〇〜四六〕
パエトンは、さっそく、一日だけ父の日輪の馬車を借りうけ、翼のある脚をもったその馬たちをひとりで馭することをゆるしてほしいと申しでた。これを聞いて、父は、なんでもかなえてやると約束したことを後悔した。かれは、かがやく頭をなんどもふりながら、
「おまえのその言葉でわしの約束は無鉄砲なものになってしまった。あの誓いを破ることができればよいのだが! じつは、おお、わが子よ、おまえの望みは、わしが叶えてやるわけにはいかない唯一のことなのだ。どうかそれだけは思いとどまっておくれ。おまえが望んでいることは、じつは危険きわまりないことだ。それは、なんともむずかしい仕事で、おまえの力やおまえの若さでは、とても手に負えるものではない。おまえは、所詮、人間の運命をまぬがれないが、おまえの望みは、人間にゆるされたことではない。それどころか、神々にさえゆるされていないことを、おまえは無鉄砲にももとめている。神々は、それぞれ自分の力を得意におもっていることだろうが、このわし以外には、火の車を馭しうる神はひとりもいないのだ。たくましい右手でおそろしい雷をなげつけるオリュムプスの大神(10)ですら、わしの車をあやつることはできまい。しかも、そのユピテル以上につよい力をもった者が、われわれのなかにいるだろうか。火の車のすすんでいく道は、はじめのうちは非常に険岨で、朝のあいだでまだ元気いっぱいのわしの馬どもでさえ、そこをよじ登るのはやっとのことなのだ。それに天の中央のいちばん高いところまで来て、そこから海や陸を見おろすと、このわしでさえ、おもわずぞっとなり、不安と恐怖のために心臓がわななくほどだ。それから、最後の部分は、急な下り坂になっていて、たしかな綱さばきが要る。このときになると、わしを波の下で受けとめてくれるテテュス(11)でさえも、わしがまっさかさまに墜落しはすまいかと、いつもびくびくするのだ。それだけではない。天空は、つねに円周運動をしていて、星たちを引きよせ、それらにもめまぐるしい旋回をさせている。わしは、これらとは逆の方向にすすんでいくのだ。そして、星たちのようにこの旋回の渦にまきこまれないようにし、その急速な運動にさからって中天にのぼっていかなくてはならない。
もしわしの馬車をまかせられたら、おまえはどうするつもりかな。天体の軸のめまぐるしい運動にまきこまれないで、天界の運行にさからって車をすすめていくことができるだろうか。おまえは、たぶん、火の車の沿道には神聖な森や神々の住む町、たくさんの供物にかざられた神殿などがあるとおもっているのだろう。ところが、事実はその反対で、多くの危険とおそろしい野獣たちのなかを通っていかねばならないのだ。たとえおまえが一度も道をあやまらず、ただしく進路をたどっていったとしても、おまえを睨《にら》みつけている牡牛(12)の角や、ハエモニアのケンタウルス(13)の弓や、猛き獅子の大きな口や、おそろしい腕を内側にまげている蠍《さそり》や、外にむかって鋏をひろげている蟹《かに》などのあいだをどうしても抜けていかなくてはならない。さらにまた、胸のなかが燃えたち、口と鼻から吹きでてくる炎に力づけられる馬たちを馭するのは、おまえには容易なことではない。かれらが火のように気負いたったときには、わしの言うことさえきかず、その頸は、わしの手綱にさえさからうのだ。
おお、息子よ、わしのあたえる恩恵が禍《わざわ》いのもとにならないよう、よく思案をして、手おくれにならないうちに望みを変更するがよい。おめえは、わしの血を受けていることが信じられるようにたしかな証拠をもとめている。それなら、わしがこんなにも心配しているということが、まぎれもない証拠だ。父親らしいこの心痛こそ、おまえの父であることの証《あかし》だ。さあ、わしのこの憂い顔を見てくれるがよい。おまえにこのこころのなかを見せ、わしが父としてどんなに心配しているかをわからせてやることができればよいのだが!
どうかこのゆたかな世界のなかにあるすべてのものをよく検討して、空や海や陸がもっているおびただしい宝物のなかから、なんでも好きなものを所望するがよい。わしは、けっして拒みはしない。ただ、わしの馬車を馭することだけは、あきらめてほしい。実のところ、これは栄誉ではなく、懲罰にもひとしい苦役なのだ。パエトンよ、おまえは恵みではなく、罰がほしいというのか。わからずやの息子よ、なぜ父の首にやさしい腕をまきつけるのだ。疑うことは無用だ。おまえのどんな願いでもかなえてやろう。すでにステュクスの水にかけて誓ったことだ。ただ、もっと賢い望みをするがよい」〔四七〜一〇二〕
ポエブスの警告の言葉は、おわった。しかし、パエトンは、父のいましめにしたがわず、あくまで自分のもくろみをすてないで、炎の馬車にのりたいと熱望した。そこで父は、なにかと言を左右にして時間をのばしていたが、ついに息子をウゥルカヌス(14)の贈物である壮麗な車のところへつれていった。車軸は、金でできていた。轅《ながえ》も車輪をかこむ輪金《わがね》も、おなじく金で、輻骨《やぼね》は、銀製であった。馬をつなぐ軛《くびき》のところに順序ただしくちりばめられた貴橄欖石《きかんらんせき》やその他の宝石が、ポエブスの光輝を反射して、まばゆい光をはなっていた。〔一〇三〜一一〇〕
大きな望みに胸をふくらませたパエトンは、このみごとな細工に眼をみはり、飽かずながめていたが、やがて、見よ、あかねさす東の方では、注意ぶかく見張りをしていたアウロラ(15)が天空の深紅に映《は》える門とばら色にかがやくその表玄関をひらいた。星たちは、遠のきはじめた。ルキフェル(16)がその殿《しんがり》をつとめ、最後に天界の守りをしりぞいた。この星が大地のふところに沈み、大地がうす紅《くれない》に染めだされ、うすれゆく月の光が消えてしまうのを見てとると、アポロ(17)は、ただちに迅速なホラエ(18)たちに命じて、車に馬をつけさせた。女神たちは、いそいで命令を実行にうつし、天の厩舎《きゅうしゃ》からアムブロシア(19)の汁で腹をみたした、炎を吐く駿馬を引きだし、鈴のなりひびく勒《ろく》をつけた。そこで父は、息子の顔に神の霊薬をぬって、炎の熱に焼かれないようにしてやった。さらに、光の冠を髪にかぶらせたが、息子の悲しい運命を予感したかのように、憂いにとざされた胸から嘆息をもらして、つぎのようにいった。〔一一一〜一二五〕
「せめてこれから言ってきかせる忠告にしたがうことができるなら、わが子よ、刺棒(20)はなるべく使わないようにして、手綱をしっかりと引きしめるがよい。わしの馬どもは、ひとりでに走りだすのだ。そのはやるこころを引きとめるだけでも、たいへんな仕事だ。それに、五つの天帯(21)をまっすぐに横断していくのではないぞ。大きく弧をえがきながら斜めにすすんでいくのだ。気候のよい三つの天帯だけを通り、南極と北斗のとなりにある大熊座は迂回しなければならぬ。そこを避けていくと、わしの車のわだちがはっきりと見つかるはずだ。それから、天と地がちょうどおなじだけの熱を受けるように、進路をあまり低くとってもいけないし、かといって、天頂に近づきすぎてもいけない。あまり高くのぼりすぎると、天なる神々の城を焼くし、低すぎても、大地を焦がしてしまう。その中ほどが、いちばん安全な道だ。また、車をあまり右の方によせて、とぐろを巻いた蛇(22)に近づけてもいけないし、左によせすぎて、ずっと下にある祭壇(23)をかすめてもならない。両者の中間あたりを通るのがよい。その他のことは、運命の手にゆだねよう。わしは、運命がおまえを助け、おまえ自身よりもよくおまえのことを気にかけてくれるように願っている。
こうして話しているあいだに、露にぬれた夜は、もう西の海岸(24)にあるその道のはてまで来てしまったようだ。これ以上ぐずぐずしてはおれない。義務がわれわれを呼んでいる。夜の闇が退散し、曙光《アウロラ》がかがやきはじめた。さあ、手綱をにぎるがよい。それとも、いまからでも思いなおせるものなら、手おくれにならないうちにわしの忠告にしたがうがよい。まだおまえの足がこの地面についているうちに、聞きわけもなく願いもとめた車にのってしまわないうちに、思いとどまるがよい。大地に光をあたえる仕事はわしにまかせるがよい。そうすれば、おまえはその光を安心して見ておれるのだ」〔一二六〜一四九〕
けれども、パエトンは、車にのることをあきらめなかった。この若者は、車にとって、かるい荷物であった。車の上に立って、さしだされた手綱をにぎると、かれはそれだけですっかり嬉しくなって、こころならずもその願いをかなえてやった父に車上から礼をいった。そうしているあいだも、ポエブスの駿馬たちは、すなわちピュロイス、エオウス、アエトンおよびプレゴンの四頭は、火をふく嘶《いなな》きであたりの空気をみたし、しきりに足をあげて横木を蹴っている。さて、自分の孫の運命をゆめにも知らないテテュス(25)が横木をとりはらい、はてしなき大空をわたる道がひらけると、馬たちはいっせいに駈けだした。そして、大気のなかを走りながら、さえぎる雲を蹴ちらし、おなじく東の空から吹きそめた東風を翼をひろげて追いこしていく。〔一五〇〜一六〇〕
しかし、太陽神の馬たちにとって、きょうの荷は非常に軽く、ほとんど重みを感じないほどであった。軛《くびき》にも、いつものどっしりとした重さがなかった。弓型にそった船は、しかるべき底荷がないと安定がくずれ、浮力がつきすぎるために船足がみだれがちになる。それとおなじように、この炎の馬車も、いつもの重みがないために宙をとび、たちまち空たかく翔けのぼり、まるで馭者のいない車みたいになってしまった。四頭の馬は、それに気づくと、すぐさま狂奔しはじめて、かよいなれた道をはずれ、これまでのようにまっすぐには走らない。パエトンは、もうすっかりおそろしくなって、託された手綱をどう引いてよいのやら、道がどこに通じているのやら、まるで見当がつかない。たとえわかったとしても、勢いづいた馬たちをしずめることはとてもできなかったであろう。大熊と小熊の凍りついた星たちは、うまれて以来はじめて太陽の光にあたためられ、禁じられた海にとびこもうとあがいた。北極のすぐそばにいて、いままでは寒さのために硬直し、だれにも危害をおよぼさなかった蛇(26)も、熱をあびたばかりに、たちまちこれまでにない狂暴な怒りにとりつかれた。それのみか、牛飼い(27)よ、足がおそく、車(28)に引きとめられているおまえまでが仰天して逃げだしたというではないか。〔一六一〜一七八〕
不幸なパエトンは、青空の高みからはるか下に横たわる地上に眼をおとすと、たちまち蒼くなり、急に怖ろしくなって膝ががくがくしはじめ、まばゆいばかりの明るさのために眼がくらんでしまった。そして、父の馬になど手を出さなければよかったとおもい、自分の血筋をたずね、むりに願いをかなえてもらったことを後悔しはじめた。いまとなっては、メロプス(29)の子とよばれる方がよかった、とおもいながら、ちょうど舵手が無力にも舵をすて、神頼みにゆだねてしまった船がはげしい北風《ボレアス》に吹きながされるように、かれもただ運びさられるままになっていた。どうしたらよいのか。もうずいぶんの距離をあとにしていたが、行く手には、まだまだ遠い道のりがある。かれは、ひそかに両方の道のりをはかり、運命が到達をはばんでいる西の方をはるかにのぞんだり、出発してきた東の方をふりかえったりした。呆然自失して立ちすくみ、いかにすべきかもわからない。手綱をゆるめるわけでもなく、かといって、それを引きしめることもできず、おまけに馬たちの名前も知らないのだ。〔一七九〜一九二〕
さらに、空のあらゆる場所に出没する怪物たちや巨大な獣たちの姿が、かれを恐怖のどん底につきおとした。たとえば、蠍《さそり》は(30)、鋏をもった両腕を弓のようにまげ、尾と左右にそった足で天の二宮(31)をわがもの顔に占有している。パエトン少年は、この蠍が毒汁で黒光りしながら、まがった針をいまにもつき刺そうとしているのを見ると、ぞっとするような怖ろしさに胆《きも》をつぶして手綱をはなしてしまった。手綱がだらりと落ちて馬の背にふれるやいなや、馬たちは、たちまち軌道をそれ、天界の見知らぬ土地を勝手に突っ走り、とどめようもなく狂奔しはじめた。大空の高みに固定している星たちのかなたにまで翔けのぼり、道なきところに車を引いていった。天頂めがけて登っていったかとおもうと、こんどは大地に近いところにある斜面や絶壁を疾駆していく。月は、兄の(32)馬が自分の馬より下を走っていくのを見ておどろき、雲たちは、炎に焼かれて煙をあげている。いまや地上は、高い山々が炎につつまれ、地割れがし、亀裂を生じ、水分が涸渇してあえいでいる。みどりの牧場は、白くなり、樹々は葉もろとも燃え、穀物は乾燥して火勢に糧《かて》をあたえている。〔一九三〜二一三〕
しかし、いまのべたのは、災禍のごく一部にすぎない。大きな町々は、その城壁ごと壊滅し、広大な地域が、その住民とともに灰燼に帰した。森も山々も、火の海となり、アトス(33)、キリキアのタウルス(34)、トモルス(35)、オエタ(36)、以前には泉が多かったが、いまは干あがってしまったイダ(37)、ムサたち(38)の住むヘリコン、そのころはまだオエアグルス(39)には関係のかかったハエムス(40)など、すべての山々が燃えた。アエトナ(41)は、二重の火によって炎々と巨大な火柱をあげ、ふたつの嶺をもつパルナッスス、エリュクス(42)、キュントゥス(43)、オトリュス(44)、千古の雪の衣をついにぬがされようとしているロドペ(45)、それにミマス(46)、ディンデュマ(47)、ミュカレ(48)、神々をまつる霊場であるキタエロン(49)などの山々も燃えた。スキュティア(50)の寒さも、なんの役にもたたなかった。カウカスス(51)も燃え、ピンドゥス(52)も、オッサ(53)も、その両者よりも高いオリュムプスも、空たかくそびえるアルペス(54)の山々、雲をまとったアペニヌス(55)までが炎につつまれている。〔二一四〜二二六〕
さて、パエトンは、宇宙全体が見わたすかぎり炎上しているのを見たが、そのはげしい熱にたえられなくなった。というのは、吸いこむ空気は、ふかい大|竈《かまど》のなかから噴きでてきた蒸気のようにあつく、かれの乗っている車まで燃えだしたような感じだったからである。とびちる火花や灰にたえきれず、濛々たる火煙につつまれ、視界がまったくなくなって、どちらにむかって走っているのかも、どこにいるのかもわからなくなった。ただ翼のある馬どもの赴くままに引かれていくばかりであった。アエティオピアの住民たちの肌の色が黒くなったのもこのときからで、熱のために体内の黒い血が皮膚の表面ににじみ出てきたからだということである。リビュア(56)が熱のために水分をすっかりうしない、砂漠地帯になったのも、このときからである。また、泉や湖をうしなった妖精たちが髪をふりみだして泣き悲しんだのも、このときである。ボエオティアはディルケ(57)を、アルゴスはアミュモネ(58)を、エピュレ(59)はピレネの泉(60)をうしなった。左右を岸にかこまれた河たちも、炎をまぬがれることはできなかった。タナイス(61)は、その河心から湯気を立てていた。年老いたペネウス(62)も、ミュシアのカイクス(63)も、流れのはやいイスメヌス(64)も、ペゲア(65)をうるおすエリュマントゥスも、のちにもう一度炎の餌食になるはずのクサントゥス(66)も、黄いろいリュコルマス(67)も、曲折をたのしんでいるマエアンドルス(68)も、また、トラキアのメラスも、ラコニア(69)のエウロタスも、みな沸《わ》きたった。それのみか、バビュロニアのエウプラテスも、さらにオロンテス(70)、流れのきついテルモドン(71)、ガンゲス(72)、パシス(73)、ヒステル(74)の諸河も、湯けむりをたてていた。アルペウス(75)もたぎりたち、スペルキオス(76)の岸も燃え、タグス(77)がその流れのなかにはこいる黄金も、炎のために融け、うつくしい歌ごえをマエオニア(78)の岸にひびかせていた白鳥たちも、カユストロス(79)の流れのなかで焦げてしまった。ナイルは、おそれおののいて地のはてまで逃げのび、そこに頭をかくしたということだが、どこに隠したのかは、いまもってわからない。ナイルの七つの河口は、水が涸れて砂にうずまり、流れのない七つの河床にすぎなくなってしまった。おなじ災害は、トラキアのヘブルスとストリュモン、西方の(80)レヌス、ロダヌス、パドゥス、世界の覇者たることを約束されていたテュブリスの諸河をも干あがらせてしまった。〔二二七〜二五九〕
大地は、いたるところで破裂し、その割れ目から光がタルタルス(81)にさしこみ、冥府の王と王妃をおどろかせた。海も干あがり、いままで大海原であったところは、ひからびた熱砂の野となり、ふかい水の下にかくされていた山々が姿をあらわし、キュクラデス(82)の数がふえた。魚たちは、海の底にもぐってしまい、背のまるい海豚《いるか》は、いつものように海上に跳《は》ねあがることをやめ、海豹《あざらし》の屍体は、仰向けになって水の上をただようている。伝えるところによると、ネレウス(83)をはじめ、ドリス(84)やその娘たちでさえ、なまぬるくなった洞窟に身をかくしてしまったといわれている。ネプトゥヌス(85)は、陰鬱な顔をして三度その腕を海面に突きだそうとしたが、三度とも大気の火熱にたえられなかった。〔二六〇〜二七一〕
しかし、海にかこまれた、万物をやしなう大地は、海の水と四方から集まってきて暗い母(大地)の胎内に姿をかくした泉たちとのあいだにあって、頸のところまで乾燥しきりながらも、かろうじてその重い顔を上にあげ、手を額にかざした。そして、ものすごい轟音とともに万物をゆりうごかしながら、すこしからだを沈め、いつもより背を低くすると、聖なる声でつぎのようにいった。〔二七二〜二七八〕
「おお、神々の王者よ、これがあなたの御意《みこころ》であり、しかも、わたしがこのような仕打ちに値いするものなら、なぜあなたの雷を遊ばせておくのですか。もしわたしが火の力によって滅ぼされなければならないのなら、どうかあなたの火で焼き殺してください。そして、あなたに滅ぼされたとおもうことによって、せめて不幸が軽くなるようにしてください。わたしは、わずかこれだけのことを言うためだけでも、口をあけるのがやっとのことなのです(かの女は、濛々たる蒸気に口をふさがれてしまったのである)。
わたしのこの焼けた髪を、眼や顔をおおうこのおびただしい灰を見てください。わたしは、鋤《すき》や鍬《くわ》があたえる傷をじっと我慢し、一年じゅう苦しめられどおしで、それでも家畜にはみどりの草を、人間たちにはおいしい食物をあたえ、神であるあなたがたには燻香をささげてきましたが、これがわたしにたいする報酬なのでしょうか。これがわたしの豊饒と忠勤ぶりとにたいする褒賞なのでしょうか。しかし、かりにわたしがこのような破滅に値いするとしましても、あの水たちやあなたの弟さま(86)になんの罪がありましょうか。運命があの方にあたえた海が、どうしてこんなに水位がさがり、天空より離れなくてはならないのでしょうか。また、たとえあなたが弟さまにたいする愛にも、わたしへの思いやりにもこころをおうごかしにならないとしても、せめてあなたの空にはあわれみをかけてやってください。
空のふたつの極をごらんなさい。どちらも燃えているではありませんか。これらが火に焼きつぶされたら、あなたがたの宮殿もこわれてしまいましょう。ごらんなさい。アトラス(87)でさえ、あんなに苦しがって、灼熱した天をやっとのことで肩にささえているではありませんか。もし海が、大地が、天空が滅びてしまったら、わたしたちはまた昔の混沌《カオス》のなかにのみこまれてしまいます。どうぞ、生きのこっているものを炎からお救いください! 宇宙のためをお考えください!」〔二七九〜三〇〇〕
大地は、ここまで語ったが、これ以上火煙にたえることも、口をきくこともできなくなった。それで、顔をひっこめて、冥界に近い洞穴のなかにかくれた。〔三〇一〜三〇三〕
全能の父ユピテルは、もし自分が助けをあたえなければ、万物は残忍な運命の犠牲となって滅びてしまうであろうと考え、天の神々やパエトンに車を貸した神(88)をそのことの証人にしたのち、天界の頂上にのぼっていった。かれは、いつもここから広い地上に雲をひろげ、雷鳴をとどろかし、ひらめく稲妻を投げつけるのが慣わしであった。ところが、いまは、地上にひろげるべき雲もなければ、天空からふりそそぐべき雨も見つからなかった。かれは、雷鳴をとどろかすと、右の耳のところに稲妻をかまえて、火の車を馭するパエトンめがけてはっしと投げおろし、命もろともかれを車から放りだし、この猛烈な稲妻によって火勢をおさえつけた。馬たちは、それに怖れをなして、四方に跳びあがり、軛《くびき》をふりほどき、手綱を切って逃げだした。ここかしこに切れた手綱や、轅《ながえ》からぬけた車軸や、こわれた車輪の輻《や》が見られる。こなごなになった馬車の残骸が、あたり一面にちらばっているのである。〔三〇四〜三一八〕
パエトンは、炎々と髪の毛をやかれながら、ちょうど晴れわたった大空からときどき星が落ちる(といっても、ほんとうに落ちるのではなく、落ちるように見えるだけなのだが)ように、空に大きな弧線をえがいてまっさかさまに墜ちていった。そして、かれの故郷から遠くはなれた、地のはてにあるエリダヌス(89)の大きな流れがかれを受けとめ、火ともえるその顔を水にひたした。ヘスペリア(90)の妖精たちは、稲妻にやかれて煙をあげているかれの遺体を墓におさめ、石につぎのような銘文をきざんだ。「父の車を馭したるパエトン、ここに眠る。車はかれの手にあまりたれど、すくなくとも偉大な冒険によって倒れたる者なり」〔三一九〜三二八〕
かれの気の毒な父は、ふかい悲嘆にしずみ、その顔を布でおおった。そのために、もし伝説を信じてよいならば、その日は太陽のない一日となったということである。そのかわり、大火災が天地をあかるく照らした。してみると、この禍いにも、すくなくともひとつの取柄《とりえ》があったことになる。〔三二九〜三三二〕
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二 ヘリアデスの転身
さて、母のクリュメネは、このような不幸にさいして洩らすべきすべての嘆きの言葉を語ったのち、悲嘆と絶望にくれ、胸をかきむしりながら、地上のあらゆる場所をさすらった。そして初めのうちは息子の亡骸《なきがら》を、つぎにはせめて遺骨をさがしもとめたが、ついにその遺骨を見いだし(といっても、それは異境の岸辺に葬られていたのだが)、墓の上に身を投げ、大理石にきざまれたわが子の名を涙でぬらし、胸をはだけてそれを抱きあたためた。〔三三三〜三三九〕
ヘリアデス(91)の悲しみもそれにおとらず、甲斐なき涙の供物を兄にささげ、胸をはげしくたたきながら(92)、いまは妹たちの悲嘆を聞くすべもないパエトンの名を夜も昼も呼びつづけて、墓のほとりに泣き伏した。〔三四〇〜三四三〕
月は、すでに四度その弦をとじて満月となったが、かの女たちは、いつものように(というのは、なんどもくり返しているうちにそれが習慣になってしまったからである)、悲嘆の声をあげていた。ところが、ある日、姉妹たちのなかで最年長のパエトゥサが地面に身を伏せようとすると、悲しいことには、両足が固くなっていて、どうしても動けない。かがやかしいラムペティエが困っている姉のそばに近よろうとすると、突然根が生えて、引きとめられてしまった。三番目の娘が髪を両手でかきむしろうとすると、ひきむしられたのは木の葉であった。太股が木の幹になってしまったと訴える者もあれば、腕がながい枝になったとなげく者もある。かの女たちがこうした異変におどろいているあいだに、樹皮がまず下半身をおおい、それから順に胴、胸、肩、腕をつつんでいった。残っているのは、母を呼びつづける口だけであった。
しかし、母親とてもどうすることができようか。狂おしい悲しみにうながされるままに、ただあっちへいったり、こっちへいったりして、まだできるあいだに娘たちの口に接吻するばかりであった。だが、それだけでは気がすまない。かの女は、娘たちのからだを樹幹からもぎはなそうとしたり、なよなよとした小枝を手で折りとったりした。すると、まるで傷口のように、そこから血がしたたり落ちた。
「ああ、お母さま、よしてください。お願いですから、よして!」と、傷つけられた娘たちは叫んだ。「お母さまが木のつもりで引き裂いていらっしゃるのは、わたしたちのからだなのです。ああ、もうお別れです」――この言葉を最後として、樹皮はかの女たちの口をもつつんでしまった。すると、樹皮から涙がにじみでた。涙は、いま生《は》えたばかりの小枝からしたたり、太陽の光によって乾かされ、かたまり、琥珀《こはく》の玉となった(93)。この玉が清らかな流れにはこばれていって、ローマの婦人たちの身の飾りとなるのである。〔三四四〜三六六〕
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三 白鳥になったキュクヌス
ステネルス(94)の息子キュクヌスは、このふしぎな転身の目撃者であった。パエトンよ、キュクヌスは、むろん母方の血によっておまえと縁つづきではあったが、それ以上におまえとは親密な友情によってむすばれていたのだ。かれは、パエトンの不幸な最期を知ると、自分の王国をすてて(というのは、かれはリグリア地方の住民たちとその大きな町々を支配していた)、エリダヌスのみどりなす岸辺とその流れ、さらにパエトンの姉妹たちがあらたに仲間入りをした森に、その嘆きの声をひびきわたらせた。すると、いつのまにか、かれの男らしい声は、よわよわしくなり、髪は白い羽毛につつまれ、頭は胸部からながくのび、朱いろをおびた足の指と指のあいだには、水かき膜がはられ、からだの両脇は、羽根におおわれ、口は先のまるい嘴《くちばし》になってしまった。かれは、一羽のあたらしい鳥(95)に転身したのである。この鳥は、ユピテルが無法にも投げつけた稲妻のことをいつまでもおぼえていて、天をもユピテルをも信用せず、沼やひろびろとした湖をこのみ、火をきらうあまり、火の敵である水を棲家にえらんだのであった。〔三六七〜三八〇〕
一方、パエトンの父ポエブスは、あれ以来、日蝕のときのようにすっかり意気沮喪し、壮麗な輝きをうしなってしまった。光をきらい、自分自身と昼をにくみ、ひたすら悲傷にしずんでいたが、やがてその悲しみに怒りがくわわり、世界にたいするおのれの任務をさえこばむにいたった。「ああ、もうたくさんだ」と、かれはいった。「世の始まり以来、わしの生涯は、一日の休むときもなかった。こんなはてしのない、なんの得にもならない仕事は、もう飽き飽きした。だれでもいいから、わしにかわってこの光の車を馭してくれるがよい! だれも希望者がなく、すべての神々がお手あげだというのなら、ユピテルみずからが馭するがよい。そうすれば、すくなくとも手綱をとっているあいだは、世の父親からその子供たちをうばうあの稲妻をやすめるだろう。そして、わしの炎を吐く馬たちの力のほどがわかったなら、それをうまく馭しえなかった者にたいして死があまりにも過酷な罰であったことに気がつくだろう」〔三八一〜三九三〕
ポエブスがこう語っているあいだに、あらゆる神々が、かれのまわりに集まり、どうか世界を闇にしないようにと懇願した。ユピテル自身も、稲妻を投げたことを詫び、おなじように懇願した上、さらに王者らしくおどかしの言葉をもつけくわえた。そこで、ポエブスは、まだ興奮のさめやらない、恐怖におののいている馬たちを車につなぎ、悲しみにまかせて刺棒と鞭をめちゃめちゃにふりまわした。というのは、かれは馬たちにほんとうに腹をたてていたからで、息子を死なせたことを責め、それを馬たちの罪にしたのであった。〔三九四〜四〇〇〕
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四 ユピテルに犯されたカリスト
さて、全能のユピテルは、巨大な天国の城内をかけめぐり、猛火のためにいたんだり、こわれたりした建物はないかとしらべてまわった。すべてががっちりとし、すこしもいたんでいないのをたしかめると、こんどは大地と人間たちの仕事をしらべてみた。なかでも、かれがとくに気をくばったのは、アルカディアであった(96)。かれは、まだかすかに流れていたこの土地の泉や河を修理し、大地には草を、樹々には葉をあたえ、いたんだ森をふたたび青々としげらせた。こうして、なんどもこの土地に足をはこんでいるうちに、ある日のこと、ひとりの美しいノナクリアの乙女(97)を見そめて、かれの胸の底にたちまちはげしい愛の焔がもえあがった。羊の毛をつむいだり(98)、髪の手入れをしておしゃれをしたりすることは、この乙女の仕事ではなかった。簡単な留め金で衣服をとめ、垂れさがった髪の毛を、一本の白い紐で無造作にたばねておくだけである。こうして身拵えができると、ときには軽い投槍をもって、ときには弓矢をもってディアナ(99)のお供をするのが、かの女の仕事であった。マエナルス(100)の山をかけめぐる妖精たちのなかで、かの女ほど女神トリウィアに愛されている者はなかった。しかし、どんな寵愛も、長つづきするものではない。〔四〇一〜四一六〕
高くのぼった太陽がちょうど天の中央をすぎたころ、かの女は、太古以来まだ斧ひとつ入ったことのない森のなかへ入っていった。そして、肩から箙《えびら》をおろし、しなやかな弓から弦《つる》をはずし、草におおわれた地面に身をのべて、あざやかな彩色をほどこした箙《えびら》を枕にした。ユピテルは、かの女がぐったりと疲れはてて警戒の色もなく寝そべっているの見るやいなや、「この情事は、きっと女房にはわかるまい。また、たとえわかったとしても、そのための小言なら、よろこんで我慢しよう」と考えた。さっそく、ディアナの姿に身をやつすと、「わたしの従者たちのなかでいちばん眼をかけてやっている乙女よ、そなたはどこの丘で猟をしていたの」乙女は、すぐに芝生から身をおこして、「こんにちは、女神さま、ユピテルよりも尊い女神さま。いいえ、たとえユピテルさまがこの言葉をお聞きになってもかまいませぬ」――ユピテルは、これを聞いて笑い、自分が好かれているのをよろこび、処女神ではとてもあたえられないような猛烈な接吻をあたえた。乙女は、どこの森で猟をしていたかを話そうとしたが、相手はその言葉をさえぎり、両腕にしっかり乙女を抱きしめて、けしからぬやり方で本性をあらわした。かの女は、乙女のあらゆる力をふりしぼって抵抗した。おお、サトゥルヌスの娘(101)よ、この有様をごらんになればよかったのに! そうすれば、あなたは、この乙女にたいしてもっと寛大になられたことでしょう。乙女は、もがいた。しかし、乙女の身で、いや、神々のひとりであっても、どうしてユピテルに勝てようか。かれは、望みをとげると、揚々として天にのぼっていった。乙女は、自分のあやまちを知っている木蔭を、森をにくんだ。かの女が森を去ろうとしたとき、もう少しで矢のつまっている箙《えびら》と枝にかけておいた弓をわすれるところであった。〔四一七〜四四〇〕
そのとき、従者《とも》の妖精たちを大勢ひきつれたディアナが射とめた獲物に意気揚々として、マエナルスの高い峯をこえてこちらへやってきたが、かの女をみとめると、声をかけた。呼びとめられた乙女は、いきなり身をひるがえして逃げだした。ユピテルが女神に化《ば》けているのだと早合点したのである。が、妖精たちがいっしょについて来ているのを見ると、奸策でないことがわかって、妖精たちの列にくわわった。しかし、あやまちを顔色に出すまいとするのは、なんとむずかしいことであろうか。かの女は、ほとんど眼を地上に伏せたきりで、これまでのように女神のかたわらに肩をならべて歩くことも、列の先頭に立つこともできなかった。しかし、口はきかないが、赤らめた顔は、純潔がけがされたことを語っていた。ディアナが処女でなかったら、いろいろな様子からそのあやまちに気づいたことであろう。妖精たちは、いちはやく気がついていたということである。
さて、弦月がそれから九度目の円い姿を見せてあらわれたころ、ディアナは猟に出かけ、兄(102)の投げる暑熱のために疲れはて、すずしい森かげに立ち寄った。そこは、せせらぐ小川が湧きでて、なめらかな砂をころがしていた。女神は、この場所のすばらしさをほめ、やがて小川の水に足をひたした。そして、水の清らかさをめでてから、「ここなら、だれにも見られる心配がない。さあ、みんな着物をぬいで、水浴びをしましょう」すると、パラシアの乙女(103)は、まっ赤になった。みんなは着物をぬいだが、かの女だけは、なんとか口実をさがそうとした。それを見ると、みなが寄ってたかって着物をぬがせてしまった。着物をぬぐと、一糸まとわぬそのからだは、過失の隠しようがなくなった。あわてて腹のふくらみを両手でかくそうとした乙女にむかって、キュントゥス(104)の女神は、「ここから去れ! この神聖な泉をけがすことはならぬ!」とさけんで、従者たちの仲間から追放してしまった。〔四四一〜四六五〕
偉大な雷神の妃ユノは、すでに早くからこの情事を知っていたが、そのおそろしい復讐を適当な時期までのばしていたのだった。しかし、いまやこれ以上のばしておく理由はない。それに、これがユノの感情を害したのだが、その恋仇の女からすでにおさないアルカス(105)がうまれていた。女神は、その眼と怒りにもえたこころをこの子供にむけると、「おお、浮気な女よ、おまえは、ふしだらな行ないをしただけかとおもったら、さらに子供までみごもり、その子供をうむことによってわたしの屈辱をあかるみにだし、わが良人《おっと》ユピテルの恥まで天下にさらしてしまった。こうなった以上は、罰をうけずにすむものではない。恥知らずの女よ、おまえをいい気にうぬぼれさせ、わが良人をまどわしたおまえの美しさをほろぼしてやるぞ!」〔四六六〜四七五〕
こういうなり、女神は、乙女の前髪をひっつかみ、まっさかさまに地上に投げつけた。乙女は、哀願するように女神にむかって腕をさしのべたが、その腕は、たちまち黒いもじゃもじゃの毛がはえはじめ、両手はまがり、まがった爪がはえて足の役目をするようになった。かつてユピテルが讃美した顔は、口が大きくさけて、見るかげもない醜さになった。そして、哀願や祈りによって二度と女神にあわれみの気持をおこさせたりしないように、ものを言う能力をうばわれ、調子はずれな喉からは、あらあらしい、おそろしげな唸り声が出てくるだけであった。しかし、こうして一匹の牝熊になってしまっても、もとのままの気持はのこっていると見えて、たえずため息めいた唸り声を発することによって内心に苦痛をはっきりとあらわし、前肢になってしまった両手をなおも天と星々にむかって挙げるのだった。口にこそ出さないが、ユピテルの情《つれ》なさをなじっているのである。
ああ、さみしい森におちつくこともできないままに、かの女はいくどかつての王宮のまえや、自分のものであった田畑をさまよい歩いたことであろうか。いくど犬どもの吠える声に追われて、岩山を逃げまわったことであろうか。かつては猟の名手であった身が、いくど猟師たちをおそれて逃げのびたことであろうか。野獣を見ると、しばしば自分の姿をわすれて身をかくしたり、牝熊になったくせに、牡熊を見ると、おそれおののいたりした。また、自分の父(106)もその仲間にまじっているのに、狼たちをこわがった。〔四七六〜四九五〕
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五 星になったアルカス
さて、リュカオンの娘カリストの子アルカスは、母のことはなにも知らずに十五の歳をむかえた。ある日のこと、野獣たちの跡をつけ、かれらの好む谷間を見つけだし、そのエリュマントゥス(107)の森を丈夫な綱でとりかこんでいたとき、はからずも母と対面することになってしまった。母の方は、すぐそれと知ってか、アルカスを見るなり立ちどまったが、かれは、たちまち身をひるがえして、じっと自分の上にそそがれた眼を、母とは知らずにおそれた。そして、牝熊がさらに近づいてくると、あわや必殺の槍をその胸もとに突きさそうとした。しかし、全能の神ユピテルは、これを見て、かれの槍をとめ、かれら母子とその罪を同時に救ってやった。かれは、一陣の突風によってふたりを天空に舞いあがらせ、これを天にとどめ、相ならぶふたつの星座にした(108)。〔四九六〜五〇七〕
ユノは、恋仇が星辰《せいしん》のあいだに燦然とかがやいているのを見ると、非常に腹をたて、神々でさえ畏怖の念をいだいている白髪のテテュスと老いたるオケアヌス(109)のいる海のなかへ降りていった。ふたりが来意をたずねると、
「あなたがたは、神々の女王がなぜ天上の住居を去ってこんな海のなかまで降りてきたかを知りたいのですね。よその女が、わたしにかわって天上に座を占《し》めているのです。嘘だとおもうなら、夜が宇宙を闇につつむころ、空を見あげてごらんなさい。きっとわたしの心痛の原因がわかるはずです。天のいちばん高いところ――最後の、いちばん小さい極圏が天体の軸の尖端をとりまいているあたり――そうです、この名誉ある場所に最近光りはじめた星が見えるはずです。こらしめてやろうとおもった相手がこうして大きな顔をしているのをだまって見ているようでは、これからはだれもが平気でわたしをあなどるようになり、だれもユノの怒りをおそれなくなるでしょう! わたしとしたことが、なんという間の抜けたことをしたのでしょう! なんとあわれなわたしの力! わたしは、あの女に人間であることを禁じました。すると、相手は女神になったというわけです。これが、罪人にくだしたわたしの罰です。これが、わたしの力のすべてです。ユピテルは、以前にもアルゴリスの女、ポロネウスの妹(110)にしてやったように、あの女にもとの美貌をあたえてやり、けだものの姿をとりのぞいてやるがいい。こうなったら、このユノを追いだして、あの女を妻にめとり、わたしのかわりにあの女を閨房に引き入れ、リュカオンの婿にでもなりかねないわ。しかし、あなたがたに育てられた娘(111)がこのような侮辱に苦しんでいるのをかわいそうだとおもってくださるなら、どうかあなたがたは、あの北斗の七星をあなたがたの青々とした水から遠ざけ、姦通のおかげで天にのぼった不届きな星たちを追いはらい、浮気女があなたがたの清らかな海で水浴びをしたりすることのないようにしてください!」〔五〇八〜五三〇〕
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六 烏《からす》はなぜ色が黒くなったか
海の神たちは(112)、養女の願いにうなずいた。ユノは、色あざやかな孔雀の索《ひ》く軽やかな車にのって澄みわたった大空へのぼっていった。これらの孔雀たちは、つい最近アルグスが殺されて、その眼玉でこんなに美しく飾られた(113)のだが、それはちょうど、おしゃべりな烏《からす》よ、おまえが以前は真白であったのに突然黒い羽根に変えられてしまったのとおなじだ。この烏は、かつては雪のように白い羽根をもち、白銀《しろがね》いろにかがやいていたのである。それは、純白の鳩にもくらべられ、また、用心ぶかい声でカピトリウム(114)を救った鵞鳥や水をしたう白鳥にもおとらないほどの白さであった。ところが、その舌がわざわいの因となった。おしゃべりな舌のせいで、かつては白かったその色が真黒になってしまったのだ。〔五三一〜五四一〕
ハエモニア(115)じゅうどこをさがしても、ラリッサのコロニス(116)ほど美しい女はいなかった。デルピの神(117)よ、すくなくともかの女が純潔であったあいだは、あるいは、その過失にあなたが気づかなかったあいだは、かの女はあなたのお気に入りであった。しかし、ポエブスの鳥(118)が、かの女の不貞を見つけてしまった。そして、秘事を暴露しようとして、この冷酷な告発者は、主人のもとへ飛んでいった。すると、なんでも知りたがるおしゃべりの小鴉《こがらす》が羽根をひろげてそのあとを追い、烏《からす》から旅の理由を聞かされると、こういった。
「これは、あまり結構な旅ではありませんよ。まあ、あたしの言うことも、すこしは聞いてください。あたしがもとはどんな者であったか、そして、いまはどんな者か、そいつをよく考えてごらんなさい。そうすれば、馬鹿正直があたしの身の仇《あだ》であったことがおわかりになるはずです。それはね、こういう次第なのです。あるとき、パラスさま(119)は、母親なしでうまれてきたエリクトニウス(120)をアッティカの柳であんだ籠《かご》に入れ、それを半蛇身のケクロプス(121)の三人の娘にあずけて、籠のなかの品を見てはならないと言いふくめられました。あたしは、しげった楡《にれ》の木の上から、かるい葉かげに身をかくして、娘たちのすることをじっと見ていました。パンドロソスとヘルセのふたりは、あずけられた品物の番を忠実にしていましたが、アグラウロスだけは、他のふたりを臆病だとあざけり、みずから籠の結び目をといて、その中味を見てしまいました。そこには、小さな子供と長々とからだをのばした蛇がはいっていました。あたしは、一部始終を女神さまに報告しました。ところが、せっかく忠勤をはげんだのに、なんという報酬をいただいたことでしょう。あたしは、パラスさまの勘当を受け、側近第一号の地位をあの『夜の鳥(122)』にうばわれてしまったのです。あたしの受けた罰は、おしゃべりによって身の破滅をまねかないようにという、ほかの鳥たちにたいする見せしめというわけです。こんなことを申しあげますと、あたしが女神さまの側近になったのは、女神さまがみずからすすんであたしをお選びくださったのではなく、むりにお願いしたあげくにやっと取りたててもらったのだろうと、あなたはお考えになるかもしれません。けれども、それはちがいます。パラスさまにお訊ねしてみればわかることです。いくらお腹立ちとはいえ、まさかこのことを否定なさりはしないでしょう。だれでも知っていることですけど、ポキス(123)の国で名もきこえたあのコロネウスがあたしの父親なのです。あたしは、そういう高貴な王の血をうけた娘で、はばかりながら、ずいぶん多くのお金持の男たちにさわがれたものです。あんまり見くびらないでくださいよ。けれども、あたしの美しさが、かえって仇《あだ》となったのです。ある日のこと、いつものように渚の砂の上をゆっくりひとりで散歩をしていますと、海の神さま(124)があたしを見そめて、たちまち夢中になってしまったのです。そして、あたしを口説きおとすためにいろいろ甘い言葉をならべてさんざんねばったのですが、それでも駄目だとわかると、こんどはあたしを手ごめにしようとして追っかけてきました。あたしは逃げだしましたが、なにしろかたい土の上ではありません。走ろうにも、やわらかい砂では疲れるばかりです。とうとうあたしは、神々や人間たちに救いをもとめました。あたしの叫び声は、ひとりの人間の耳にもとどきませんでしたが、あの清らかな女神さま(125)が清らかな乙女の祈りをかわいそうにおもって、救いの手をさしのべてくださいました。あたしが両手をたかく天にのばしますと、たちまち手は真黒な、かるい翼になってしまいました。着物を肩から脱ぎすてようとしますと、着物は羽毛になってしまっていて、皮膚のなかにふかく根をはって生えているのでした。むきだしになった胸もとを手で打とうとしましたが(126)、すでに手もなければ、はだけた胸はありません。なおも走りつづけようとしますと、急に砂が足を吸いこまなくなって、あたしのからだは地面から浮きあがってしまいました。やがて、あたしは大空をはこばれて、パラスさまの汚れなきお供《とも》にしていただいたというわけなんです。しかし、大罪を犯して鳥にされてしまったあのニュクティメネ(127)があたしにかわってこの名誉ある地位を手に入れるようになっては、それも結局なんの役にたちましょう。それとも、レスボスじゅうにしれわたったあの事件を、あなたはまだご存じではなかったのですか。ニュクティメネは、おのが父親の寝床をけがしたのですよ。それで、鳥にされてしまったいまでも、罪の意識にたえかねて人目と昼の光を避けて、暗闇のなかに不名誉をかくし、すべての鳥たちに空の領域から追放されてしまったのです」〔五四二〜五九五〕
小鴉がこういうと、烏は、「おまえのおせっかいがいくらでもおまえに禍いをもたらすがいい。そんなつまらん予測なんぞ気にするおれではないんだ!」そういって、旅をやめるどころか、主人のポエブスのところに着くと、コロニスがハエモニアの若者(128)といっしょに寝ているところを見ましたと告げた。
この罪の知らせを聞くと、乙女を愛していた神は、おもわず月桂樹の冠をおとしてしまった。同時に、その顔は色をうしない、手にしていた竪琴の撥《ばち》をとりおとした(129)。はげしい怒りがむらむらと胸にもえあがると、彼は愛用の武器を手にし、弓を満月のごとく引きしぼり、これまでいくどかおのが胸にだきしめた乙女の胸を狙いたがわぬ矢で射ぬいた。乙女は、うめき声をあげたが、やがて傷口から矢を引きぬくと、真紅の血で手足を染めながら、「ポエブスさま、わたしは、あなたの手からこのような罰をうけるのもいたしかたございません。しかし、その前に母になっておくべきでございました。いま、わたしの死によって、同時にふたつの生命が失われていくのです」とさけび、血とともにその命は消えていった。そして、たましいのぬけたその亡骸《なきがら》に冷たい死の手がしのびよった。〔五九六〜六一一〕
乙女を愛していた神は、このようなむごい罰をくわえたことを後悔したが、すでに手おくれであった。神は、自分自身をにくみ、あんなおためごかしの密告など聞いてすぐにかっとなったことをわが身に責めた。さらに、乙女のあやまちを知らせ、この悲しみの因《もと》をむりに告げた鳥を憎んだ。また、おのれの弓と手、無思慮にも狙いたがわず命中した矢をにくんだ。かれは、亡骸《なきがら》を胸にかき抱いてあたため、あとの祭りながら、なんとか運命の手からとりもどそうとした。いろいろな医術もほどこしたが(130)、効き目がなかった。万策が徒労におわって、いよいよ火葬用の薪の山が用意され、その火で屍体が焼かれようとするの見ると、かれは胸の底から悲しみのうめき声をあげた(というのは、神々は涙をながさないのである)。その声は、ちょうど母牛の眼の前で右肩たかくあげられた鉄槌が無心に乳をのんでいる仔牛のこめかみめがけてはっしと振りおろされたときに、母牛が発するのに似たうめき声であった。けれども、乙女の胸にいまは甲斐なき香油をぞんぶんにふりかけ(131)、最後の別れにもう一度抱きしめ、こうしてわかい身ぞらの乙女にふさわしくない葬いの義務をはたしたとき、かれは、自分の血をうけた子が母とともにおなじ灰に帰することが我慢できなくなった。そこで、炎につつまれた母の腹から息子(132)をとりだし、半人半馬のキロン(133)の洞窟まではこんでいった。そして、自分の忠実な報告の褒美をあてにしていた烏を、白い鳥たちの仲間から追放してしまった。〔六一二〜六三二〕
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七 馬になったオキュロエ
さて、半人半馬のキロンは、神の血筋をひいた幼児を育てることをたいへんよろこび、このような任務をあたえられたことを非常な名誉であるとうれしくおもった。ところが、見よ、この半人半馬神の娘で、肩まで栗いろの髪の毛におおわれた乙女が、こちらへやってくる。かの女は、かつての妖精のカリクロ(134)が急流のほとりでうみおとした子で、オキュロエ(135)と名づけられていた。オキュロエは、父のいろいろな技術(136)を習得するだけでは満足せず、運命の秘密をも告げるようになった。かの女は、幼児(137)を見ると、急にこころに予言の霊感をおぼえ、胸にやどした神霊に天啓をえて、つぎのように語った。
「おお、全世界のために、嬰児《みどりご》よ、救い主となるべく成長せよ。たびたび人間の命がおんみのおかげで助かるであろう。うばわれたたましいをふたたび人間たちに返してやる力をおんみはもつであろう。しかし、神々の意思に反してこの力を用いるようなことがあったら、おんみは大雷神のお怒りにふれ、その火焔にさまたげられて、ふたたびおんみの術を使えなくなるであろう。そして、神の身ながら生気なき屍体《したい》となり、その屍体から、いましがたもそうであったように、もう一度神となり、かくて運命をふたたび新たにするであろう。それから、愛するわが父上よ、いまこそ不死の身であり、永遠に生きるさだめを負うておられるあなたも、手足に受けた傷口からおそろしい蛇の毒がしのびこみ、ひどい苦しみを味わうようになり(138)、そのときは死ぬことができたらとお望みになりましょう。そして、神々もついにあなたをあわれみ、不死の身を死すべきものとなし、運命をつかさどる三人の女神(139)は、あなたの命の糸を解いてしまうでありましょう」〔六三三〜六五四〕
運命の秘密は、このほかにもまだ語りのこされていたが(140)、かの女は突然ふかいためいきをもらし、あふれる涙に頬をぬらしながら、
「運命がわたしをさまたげ、これ以上語ることをゆるしてくれません。声も出せなくなっていきます。神さまのお怒りをまねいたこんな予言の術など、それほどありがたいものではなかった。未来のことなぞ知らなかった方が幸福だったわ。ああ、もう人間の姿もわたしからうばわれていくらしい。だんだん牧場の草がたべたくなってくる。ひろい野原を駈けめぐりたい気がする。ああ、わたしは、馬に似た姿に変っていく。でも、なぜすっかり馬になってしまうのかしら。お父さまは、両方の姿(141)をもっていらっしゃるのに……」〔六五五〜六六四〕
かの女はこう語ったが、その最後の部分は、なにをいっているのかわからないほど言葉が不明瞭であった。やがて、それはもう言葉ではなくなり、さりとて馬のいななきでもなく、馬の真似をしている人間の声のようでもあった。とみるまに、こんどははっきりと馬のいななく声になって、草に腕を、いや、脚をのばした。すると、指はなくなり、一枚の蹄《ひずめ》が五枚の爪をくっつけてしまった。口や首の大きさは長くなりながい衣服(142)の裾は尻尾になり、首すじにみだれていた髪は、右の方になびくたてがみとなった。こうして、かの女は、声も姿もかわってしまった。そして、このふしぎな変身は、かの女にヒッポ〔馬〕というあたらしい名前をあたえたのである。〔六六五〜六七五〕
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八 「おしゃべり石」のバットゥス老人
ピリュラの子である半神キロンは、この有様をなげき悲しんで、デルピの神よ、あなたに救いをもとめたが、どうにもならなかった。というのは、あなたとても、偉大なユピテルの指令をやぶることはできないし、たとえやぶることができたとしても、このときあなたは近くにはいなかった。当時あなたは、エリス(143)とメッセニア(144)の野にいたからである。あなたは、牧人の皮衣《かわごろも》をまとい、左手には森から切りとった杖をつき、右手には長短七本の葦でつくった笛をもっていた。そして、あなたが恋の悩みにかきくれ、葦笛の音にやるせない想いをまぎらしているあいだに、あなたの眼をぬすんで牝牛たち(145)がピュロス(146)の野に入りこんでしまったといわれる。さて、アトラスの娘マイアを母にもつかの神(147)は、これを見ると、いつものいたずらごころをおこして、牛たちを追いたてて、森のなかへかくしてしまった。
この牛泥棒を見ていたのは、この地方で知られたひとりの老人だけであった。近辺の人びとは、かれをバットゥスとよんでいた。かれは、富めるネレウス(148)の森や、草の多い牧場や、りっぱな馬の群などの番をしていた。メルクリウスは、この老人を警戒して、うまくおだててものかげにつれていくと、
「見知らぬ人よ、わたしはあんたがだれだか知らぬが、もしだれかがこの牛たちのことをたずねたら、あんたは見なかったと答えておくれ。もちろん、ただでたのむんじゃない。お礼に、よく肥えた牝牛を一匹とっておくがよい」そういって、老人に牝牛をあたえた。老人は、それを受けとると、「さあ、安心して行きなさるがよい。この石があなたの悪事をばらすことがあっても、あっしは金輪際《こんりんざい》口を割りませんから」老人はそういって、石を指さした。それで、ユピテルの息子は、森の方へ行くふりをしたが、やがてまた老人のそばへもどって来て、こんどは姿も声も別人になって、こういった。「田舎の人よ、もしや牝牛の群がこの道をとおるのをお見かけになりませんでしたか。どうか教えてくだされ。牛泥棒にやられましたのじゃ。そのかわり、お礼として牝牛に牡牛をつけて進上いたしましょう」老人は、報酬が二倍になったので、「ああ、それなら、あそこの山のかげにいけば見つかりましょう」と答えた。事実、牛の群は山かげにいたのである。メルクリウスは、吹きだしながら、「えい、この嘘つきめ。きさまは、おれをおれに売ろうというのか。なんというあさましい奴だ!」とどなりつけて、この二枚舌の老人をかたい石に変えてしまった。この石は、今日でも「おしゃべり石」と名づけられ、昔のいまわしい噂が罪のない石になすりつけられている。〔六七六〜七〇七〕
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九 メルクリウスとヘルセ
神杖をもつ神(149)は、翼をひろげてこの地から飛びさり、ムニュキア(150)の野原や、ミネルウァのお気に入りの土地(151)や、樹木の多いリュケウム(152)の森を空からながめた。たまたまこの日は、つつましやかな乙女たちが昔からのしきたりにしたがって清浄な供物を花にかざられた籠に入れ、それを頭にのせて祭りのおこなわれるパラスの城砦に(153)はこんでいく日であった。乙女たちが城砦から帰っていくところを空から見つけた神は、飛びつづけるのをしばらくやめて、円をえがきながら上空を旋回した。ちょうど鳶が犠牲《いけにえ》の肉を見つけはしたものの、供物のまわりにいる多くの祭官たちがこわいので、おなじところをぐるぐる旋回し、かといって飛びさるにもしのびず、めざす餌食を空から虎視眈々《こしたんたん》とねらっているのとおなじような恰好で、アテナエの城砦の上にきたメルクリウスは、いつまでもおなじところをぐるぐる飛びまわっていた。
ルキフェル(154)がほかの星たちよりも明るく、ルキフェルよ、おまえよりもさらに黄金のポエベ(155)の方が明るいのとおなじ程度に、ヘルセ(156)はすべての乙女たちよりもかがやかしくその歩みをはこんでいた。かの女こそ、祭りの行列の華《はな》であった。ユピテルの息子は、かの女の美しさに呆然となり、バレアレス(157)の投石器から発射された鉛弾のように、空をとびながら恋の焔にとりつかれた。バレアレスの戦士たちが射った鉛弾は、飛んでいくうちに熱せられ、雲のなかで発火するという。メルクリウスも、それとおなじであった。かれは、道を変え、空をすてて地上に降りたった。しかし、姿はかえなかった。それほど自分の美貌に自信をもっていたのである。その美貌に非の打ちどころはなかったけれど、かれはさらに身づくろいをしてめかしたてた。髪をなでつけ、衣服には優美なひだを打たせて、縁飾りや金糸のぬいとりがよく見えるようにし、また、右手にもった、眠りを招いたり妨げたりする神杖はいかにも瀟洒《しょうしゃ》で、艶やかな足には、翼をつけた鞋《くつ》が美しくひかっていた。〔七〇八〜七三六〕
宮殿の奥まったところに、象牙と鼈甲《べっこう》でかざられた三つの部屋があった。右の部屋はパンドロソスの、左の部屋はアグラウロス(158)の、そして、中央がヘルセの居室であった。メルクリウスが来たことにいちばん早く気づいたのは、左の部屋に住むアグラウロスであった。かの女は、神にその名前と来訪の理由をたずねた。すると、アトラスとプレイオネとの孫(159)は、こう答えた。「わたしこそは、父の命令を天翔《あまか》けて伝える使者。わたしの父とは、かのユピテル大神そのひとである。わたしは、来訪の理由をいつわりはせぬ。どうかそなたの妹に姉らしい親切をかけてやって、わたしの子供の伯母になることを承知してもらいたい。ヘルセこそ、わたしの来訪の目的だ。どうか、わたしの恋に好意をしめしておくれ!」〔七三七〜七四七〕
アグラウロスは、最近金髪の女神ミネルウァの秘密の預かり物をのぞいて見た(160)とおなじ眼でじっと神を見つめていたが、この奉仕の謝礼として莫大な金額を要求した。そして、押し問答をつづけているうちに、むりやり神を館から追いだしてしまった。〔七四八〜七五一〕
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十 「嫉妬」にとりつかれたアグラウロス
戦《いくさ》の女神(161)は、このアグラウロスにつき刺すようなするどい視線をそそいでいたが、やがておそろしいほど深いためいきをついたので、その胸と胸甲(162)がうちふるえた。そして、このアグラウロスがつい最近、母親なしでこの世にうまれてきたレムノスの神(163)の子を言いつけにそむいて見るや、けがらわしい手で神の秘密をあばいたことを思いだし、いままた神(164)と自分の妹(165)に恩を売りつけ、たんまり謝金を出させて一財産をつくろうとしているのを見てとった。〔七五二〜七五九〕
そこで、女神は、どす黒い血にこわばった「嫉妬」(166)の住家へ出かけた。その家は、ふかい谷の奥にあり、陽の目も知らず、風も吹かず、荒寥として、凍《い》てつくような寒さにとざされ、永遠に火の気がなく、永遠の暗闇につつまれていた。雄々しい戦《いくさ》の女神も、ここまで来ると、家のまえに立ちどまってしまった(というのは、無断で家のなかに入る権利はなかったからである)。そして、槍の先で門戸をたたいた。すると、すぐに門がひらかれた。見ると、「嫉妬」は、その悪業の糧《かて》である蝮《まむし》の肉をむしゃむしゃ食べていた。女神は、おもわず顔をそむけた。「嫉妬」は、地べたからのっそりと立ちあがり、食いかけの毒蛇の屍体をそのままにして、ゆっくりと女神の方に近づいてきた。あでやかな容姿にきらやかな武装をした女神を見ると、かの女はひくくうめいて、顔をしかめた。その顔は、まったく蒼白で、からだは、どこもかしこも肉がおち、眼はやぶにらみで、歯はやにで黒く、胸は胆汁のために緑いろになり、舌には毒がしたたっている。他人の不幸を見てほくそえむほかは、まだかつて笑ったことがない。それに、まんじりともしない猜疑になやまされて、一度も眠りのよろこびを味わったことがない。他人の幸福にいらいらして、それを見るたびに憔悴していく。他人をいじめながら、じつはそれによって自分だけを苦しめ、自分が自分の罰なのだ。
トリトンの女神(167)は、この女が大きらいであったが、てみじかにつぎのように話した。「おまえの毒でケクロプスの娘のひとりを染めておくれ。どうしてもそうする必要があるの。相手は、アグラウロスだよ」女神は、それだけ言うなり、いそいで立ち去り、槍で大地をついて空たかく舞いあがった。〔七六〇〜七八六〕
「嫉妬」は、そのやぶにらみの眼で去りゆく女神を見おくっていたが、なにやら低い声でつぶやいた。そして、女神がきっとその目的をとげるであろうとおもうと、わけもなく気持が滅入ってきた。やがて、茨《いばら》の蔓をまきつけた杖をにぎると、まっ黒な雲にのって出かけた。かの女の通りすぎるところ、どこでも野の花をつぶし、草を焼き、樹木の梢を折り、その吐息で人びとや町や家々を損傷した。まもなくトリトンの女神の町(168)が見えはじめた。それは、才智と富とにぎやかな平和にかがやいていた。
そこには、涙の種になるような不幸の影がみじんもないのを見てとると、「嫉妬」はくやしさのあまりあやうく涙をこぼすところであった。しかし、めざすケクロプスの娘の部屋にしのびこむと、かのはさっそくその役目を実行にうつし、錆《さび》だらけの手を乙女の胸にふれ、心臓にするどい棘《とげ》をいっぱい刺しこんで、おそろしい毒を吹きかけ、松脂《まつやに》のようなどす黒い毒液を骨の隅々にまで行きわたらせ、さらに肺のなかにも毒を入れた。それから、乙女の猜疑心があまり遠くまでひろがらないように、その眼のまえに妹とその幸福な結婚、また、メルクリウスの美しい幻影をうかびあがらせ、すべてをことさらに美化して見せた。
はたせるかな、これらの効果はてきめんで、アグラウロスは、人しれぬ妬《ねた》ましさに胸をかきむしられ、昼となく夜となく苦しみもだえた。そして、このじりじりとせまってくる憔悴の餌食となって、陽光にしだいにとけていく氷のように、あわれにもだんだんと弱っていった。幸福なヘルセの様子は、茨の蔓の下に入れられた火が焔もたてずに徐々にくすぼりながら蔓をもやしてしまうように、じりじりとかの女の心身をむしばんだ。妹の幸福なすがたを見ないですむように、いくどか死んでしまおうとおもい、また、罪の告白をするようにすべてを厳格な父に洗いざらい打ち明けようかともおもった。しかし、最後には、家に戸口のまえにすわりこんで、妹のところへかよってくる神を入れまいとした。神は、いろいろとなだめすかし、やさしい言葉をつくしてたのんだが、かの女は、「もういい加減にしてください。あなたを追いかえしてしまうまでは、ここを動きませんからね!」と答えた。すると、脚のはやいキュレネ(169)の神は、「よし、その言葉をわすれるな」というやいなや、浮彫りをした戸口を魔法の杖であけた。アグラウロスは、われわれがすわるときに曲げる身体の部分をうごかそうとしたが、しびれるような重圧感におそわれて、どうしても膝がうごかない。なんとか背をのばして立ちあがろうとするが、膝の関節が硬直してしまっている。ぞっとするような寒けが全身をはしり、かの女はその場にたおれた。血管には血がなくなり、青くなってしまった。不治の病いである癌が四方にひろがって、しだいに健康な部分をも侵食していくように、氷のような死の冷たさがゆっくり胸にしのびこんで、生命と息ぶきの通路をふさいでしまった。
かの女は、もう声も出そうとしなかった。また、たとえ出そうとしても、すでに声の出る路がなかった。かの女の首は石となり、やがて顔も石と化し、ついに石像となってそこにすわっているのであった。しかし、それは、白い石ではなかった。かの女の腹ぐろさが、それを黒い石にしてしまったのである。〔七八七〜八三二〕
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十一 牡牛に化けたユピテルとエウロパ
アトラスの孫(170)は、こうしてアグラロウスの言葉と神をおそれぬこころとを罰すると、パラス女神の名をうけている土地(171)を去り、千里をはばたく翼をかって天上界に帰っていった。すると、父なるユピテルが彼を傍らによび、恋心が原因であることはあかさずに、こういった。「おお、わが息子、わしの命令の忠実なる伝達者よ、すぐさまいつもの早さで地上へおりていって、おまえの母(172)を左手に仰ぎ見る土地――そこの住民たちがシドン(173)とよんでいる土地へいってもらいたい。そうしたら、遠く山の牧場で王の家畜たちが草をはんでいるのが見つかるから、それを海岸まで追いたてるのだ」〔八三三〜八四二〕
ユピテルがそういったかとおもうと、たちまちにして山を追われた家畜たちは、命令どおり海岸の方に移動しはじめた。この海岸は、この国の強大な王の娘(174)がいつもテュルス(175)の乙女たちをつれて遊ぶ場所であった。〔八四三〜八四五〕
元来、威厳と恋ごころとは、けっして調和し両立するものではない。神々の父にして支配者たる大神、右手に三つの穂先のある稲妻をもち、ひとたび頭をふれば天地をゆるがすユピテルも、王笏《おうしゃく》のいげんをかなぐりすてて、一匹の牡牛にすがたを変え、家畜たちの群にまじって、うなるような声で鳴きながら、やわらかい草の上に美しい容姿をはこんでいるのだった。まことに、その毛の色は、かたい足にまだ踏まれたこともなく、しめっぽい南風に溶《と》かされたこともない処女雪のように白かった。その頸は、筋肉隆々ともりあがり、肩肉からはのど袋が垂れさがり、角《つの》は小さいけれど、さながら名工の手に作られたようで、その光沢はきよらかな真珠よりもまさっているといっても過言ではなかった。額は、すこしもいかめしいところがなく、眼はおだやかで、顔じゅうに平和の表情がみなぎっていた。
アゲノルの娘(176)は、この牛がとても美しく、すこしも凶暴なところがないのを見て、たいそう驚嘆したが、いかに柔和な牛であっても、初めのうちは手をふれるのをこわがった。しかし、しばらくすると、牛のそばに近よって、その白い口もとに花をさしだした。恋する神は、いたくよろこんで、愛の歓喜を思いつつ乙女の手に接吻した。それ以上のことは、やっとの思いで先までのばしたのである。かれは、乙女にじゃれついたり、みどりの草の上をはねまわったり、雪のように白い体躯《からだ》を褐色の砂の上によこたえたりした。こうして、いつしか乙女の恐怖心が消えていくと、かれは、手でかるく叩いてもらうために胸をむけたり、摘《つ》みたての花環をかけてもらうために角をさしだしたりした。娘の方でも、この牡牛がだれであるかとも知らずに、とうとうその背にまたがった。すると、神は、しだいに岸辺のかわいた地面からはなれて、そのいつわりの足を波にひたした。そして、そのままずんずん先へすすんで、とうとうはるか沖までつれ去った。乙女は、すっかり仰天して、あとにしてきた海岸の方をふりかえり、左手を牛の背にあてがい、右手で角をしっかりとにぎりしめていた。かの女の衣服は、風にふくらんではためいた。〔八四六〜八七五〕
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巻二の註
(1)ソル(ヘルオス)。ただし、ここではポエブス(アポロ)と同一視されている〔巻一(136)〕
(2)ローマの火神にして金細工および鍛治の神ウゥルカヌス(ギリシアのヘパイストス)の別名で、火よけの神の意(163)
(3)→巻一(71)
(4)海の老神で、ネプトゥヌスの従者。予言の能力をもち、また、さまざまの姿に変形することができる(巻八の七三一行以下)
(5)百の手と五十の頭とをもつ海の巨神、いわゆるヘカトンケイルたち(百手巨人、ウラヌスとガエアとの子、ユピテル対ティタン神族の戦いにさいしてユピテルに味方した。巻一(24)〕のひとり。アエガエウム(エーゲ)海の神。
(6)海神オケアヌスの娘たち〔オケアニデス、(11)〕のひとり、海神ネレウス〔巻一(37)〕の妻、五十人の娘たちネレイデス〔巻一(62)〕をもつ。
(7)白羊・金牛・双子・かに・獅子・乙女・天秤・さそり・射手・山羊・水がめ・魚の十二宮。
(8)ぶどうをまず裸足でふみつぶし、それから圧搾器に入れてぶどう酒をつくった。
(9)地下界をながれる河あるいは沼であるステュックスのこと。→巻一(25)(38)
(10)ユピテル大神のこと。
(11)ティタン神族〔巻一(1)〕のひとり、ウラヌスとガエアとの娘、すべての水の支配者である海の老神オケアヌスの妻となり、世界中の河川の神々と三千人の娘たち(オケアニデス)の母となった。かの女は、太陽の沈む西のはての海(24)に住んでいるとされた。
(12)金牛座。以下は、天の獣帯(十二宮)のことをいっている。→(7)
(13)ハエモニア(テッサリアの古名)に住んでいた種族、イクシオンと雲とのあいだにうまれた半人半馬の怪物〔巻四(91)、巻十二の二一〇行以下〕。ここにいわれているケンタウルスは、そのひとりであるキロンのことであるが、かれだけは生まれが異なり、のちユピテルのはからいで天上に召されて、射手座となった。→(133)(138)
(14)→(2)
(15)曙光《あけぼの》の女神、ギリシアのエオスにあたる。ティタン神族のヒュペリオン〔巻四(36)〕とその姉妹テイアとの娘。太陽神にさきがけて天空の門戸をひらき、ばら色の指をもち、サフラン色の衣をまとった女神とされている。また、星神アストラエウス(ティタン神族のひとり)の妻として、風や星たちの母となる。
(16)「光をもたらす者」の意で、暁の明星(金星)。星神アストラエウスとアウロラとの子(前注)。
(17)ポエブスのこと→巻一(79)
(18)時間、季節の女神で、三人の姉妹、ユピテルとテミス〔巻一(70)〕との娘たち。
(19)「不死の」の意で、神々の食物。蜜よりも甘い、芳香のある汁液で、これによって不老不死の生命が得られ、したがって太陽神の馬たちも、これで養われている。オケアヌス(大地の周りをとりまいて流れる海洋)の清浄な島の泉から湧きでて、鳩または鷲によって神々のもとへ運ばれると考えられた。ネクタル(神酒)も、おなじく不死の力をもつ酒である。
(20)馬を走らせるのに、鞭のほかに、先のとがった棒をもちいた。
(21)→巻一の四五行以下。
(22)蛇座。
(23)祭壇座。地平線の近くに位置するので、「下にある」といった。
(24)西の海岸は、世界のはてで、そこに達すると、太陽とおなじく夜の神も海に没すると考えられた。
(25)パエトンの母クリュメネは、テテュス(11)の娘であり〔巻一(139)〕、したがってパエトンは、テテュスの孫にあたる。太陽は、夕方に波間に没するように朝には海からのぼるように見えるので、テテュスが馬をとめている横木をとりはらうといったのである。
(26)蛇座。
(27)牛飼い座。
(28)この車は、大熊座のこと。牛飼い座は、大熊座の近くにある。
(29)→巻一(139)(140)
(30)さそり座。
(31)天秤座も、むかしはさそり座の一部と考えられていた。
(32)月の女神ディアナは、太陽の神ポエブス・アポロの妹にあたる→巻一(87)
(33)マケドニアのカルキディケ(ハルキディキ)半島の南端岬にある高山。
(34)小アジアのキリキア地方の山。
(35)小アジアのリュディア地方の山。
(36)→巻一(64)。英雄ヘルクレスの臨終の地として有名。
(37)クレタ島の山。ユピテルの誕生地とされる。
(38)文芸・音楽・舞踏・哲学・天文をつかさどる九人の女神(いわゆるミューズ。複数形ムサエ)。ユピテルとムネモシュネ〔記憶の女神で、オケアニデスのひとり。(11)〕との娘たち〔巻六(30)〕。ボエオティアのヘリコン山に住むとされた。→巻五(45)
(39)トラキア(マケドニアと黒海とのあいだにある地方)の河神にして王、軍神マルス〔巻三(8)〕の子。ムサエ(ムサたち、前註)のひとりであるカリオペを妻として伶人オルペウス〔巻十(4)〕の父となる。
(40)トラキアにある山→巻六(18)
(41)シキリア(シチリア)島の火山(エトナ)。「二重の火」とは、火山の火と太陽の車から受けた火。
(42)シキリアの西北岸の山および町。
(43)デロス島の山。アポロ(ポエブス)とディアナは、この山でうまれたとされる。→巻一(125)
(44)南部テッサリアの山。
(45)西部トラキアの高山。→巻六(18)
(46)イオニア海岸の山。
(47)プリュギア(小アジアの西部地方)の山。
(48)イオニア(小アジア)の山。
(49)→巻三(96)
(50)→巻一(13)
(51)黒海とカスピ海(裏海)とのあいだにある高い山脈(コーカサス)。
(52)→巻一(100)
(53)→巻一(32)
(54)イタリア北境の山脈(アルプス)。
(55)イタリアを縦走するアペニン山脈のこと。
(56)アフリカの北部〔リビア、巻一(135)〕
(57)ボエオティアの都テバエにある泉。
(58)アルゴス〔巻一(108)〕近在の泉。
(59)コリントゥス〔巻五(96)〕の古名。
(60)コリントゥスにある泉。
(61)ドン河のこと。
(62)→巻一(83)
(63)小アジアのミュシア地方〔巻十一(127)〕の河。
(64)ボエオティアのテバエ市の近くを流れる河。
(65)アルカディアの西北部の町。エリュマントゥスは、その北にある高山、またこの山に源を発する河。
(66)トロイアの河。トロイア戦争のとき、火神ウゥルカヌス(163)に焼かれる。スカマンドルスともよばれる。
(67)アエトリア(中部ギリシアの一地方)の河。
(68)小アジアのプリュギアとカリアの地方をながれてアエガエウム(エーゲ)海にそそぐ河、曲折の多いことで有名。ラテン語形ではマエアンデルという。建築美術で曲折模様をあらわすメアンダー装飾という語は、この河名から由来している。
(69)スパルタ市のある地方、エウロタスはその主河。
(70)シリアの河。
(71)ポントゥス(黒海、またはその沿岸地帯)の河。
(72)インドのガンジス河のこと。
(73)コルキス(黒海の東端の地方)の河。
(74)ダニューブ(ドナウ)河のこと。
(75)ペロポネススの主河。
(76)→巻一(103)
(77)イベリア半島の河、現在のターホ河(ポルトガルではテージョ河)
(78)リュディアの古名。
(79)リュディアの、白鳥で有名な河。
(80)以下は、いまのライン河、ローヌ河、ポー河、ラヴェレ河〔巻十四(71)〕のこと。
(81)地下の世界、冥府、地獄。プルトとその妃プロセルピナが支配している→〔巻一(23)(24)、巻五(74)(89)〕
(82)本来はデロス島の近辺にある群島の名。ここでは散在する島々の意。
(83)→巻一(37)
(84)→(6)その娘たちとは、ネレイデスのこと→巻一(62)
(85)→巻一(60)
(86)ユピテルの兄弟の海神ネプトゥヌス。ユピテルが兄弟たちとともにティタンたち〔巻一(1)〕と戦い、勝利をえたのち、くじによってユピテルは天界と地上の、ネプトゥヌスは海と水の、プルトは地下の世界の支配権をえたといわれる。→巻一(24)
(87)ティタン神族のひとりで、肩で天をささえている。→巻一(119)
(88)太陽神ポエブス(アポロ)
(89)大洋神オケアヌスとテテュスの子とされ、世界の西のはてにあると考えられた伝説的大河。のち、ポー河と同一視された。
(90)「夕べの国」の意で、ここでは西方の地の意。ときによってイタリアやスペインをさすこともある。
(91)太陽神ヘリオス(この物語ではポエブス・アポロと同一視されている)とクリュメネとのあいだにできた五人の娘たち(単数形はヘリアス)、パエトンの姉妹。→巻一(139)
(92)着物を引きさき、髪をかきむしり、胸をたたくのは、悲嘆をあらわす身ぶりである。
(93)古代では、琥珀は金より高価なものとされ、ギリシア人はこれをエレクトロン(太陽石)とよび、太陽に由来すると考えた。ヘリアデスは、おそらく雲の擬人化であろう。かの女たちがいかなる木に変身したかはのべられていないが、たぶん白楊樹であろうと推測されている。
(94)北部イタリアのリグリア地方の王。アエティオピアの王家(パエトンの家)と縁つづきだというのは、物語に連関性をあたえるための作者の創作。キュクヌスは、「白鳥」の意で、この名前には同名異人が多い。
(95)あたらしい鳥といっているが、白鳥のことは、すでに二五二行目(79)に出ている。
(96)ユピテルは、ふつうクレタ島でうまれたことになっているが、アルカディア〔巻一(33)〕でうまれたという伝承もある。
(97)ノナクリアは、アルカディアのこと。この乙女の名前は出てこないが、アルカディア王リュカオン〔巻一(33)〕の娘とされるカリストである。
(98)羊の毛を刈り、つむぎ、織るのは、女たちの仕事であった。
(99)狩猟と処女性の女神〔巻一(87)〕。ときにヘカテ女神〔巻六(46)〕と混同され、トリウィアという異名をもつ(三つの道、の意)
(100)東部アルカディアの山。→巻一(46)
(101)ユピテルの妻ユノ女神。→巻一(58)
(102)太陽神ポエブス。
(103)カリストのこと。パラシアは、アルカディアの西南部にある町、ここではアルカディアと同意。
(104)ディアナの誕生地とされているデロス島にある山。その女神とは、デイアナのこと。
(105)ユピテルとカリストとの子、アルカディア人の祖とされている。死後、変身して牛飼い座の星となる(四九六行以下)
(106)カリストの父は、巻一に出てきた狼に変身したリュカオンである〔巻一の一六三行以下・二五三行以下および(33)〕。リュカオン時代の人類は、神の怒りによる大洪水のために、デウカリオンとピュラをのぞいて全滅したはずで、リュカオンに娘があったというのは、あきらかに辻褄があわない。伝承の混淆であろう。
(107)→(65)
(108)北天にかがやく大熊座と牛飼い座(小熊座ではなく)。アルカスは、牛飼い座の主星アルクトゥルス(大角星)であろう。
(109)大洋神オケアヌスとその妻テテュス(11)は、ユノ女神の養育者である。
(110)イオのこと〔巻一の五八三行以下および(109)〕。ポロネウスについては、→巻一(116)
(111)ユノ自身のこと→(109)
(112)オケアヌスとテテュス。
(113)→巻一の七二二行以下および(114)
(114)→巻一(96)。紀元前三八九年、ガリア人がこの丘の城砦を夜襲したとき、鵞鳥の声で番兵が眼をさまし、ローマを救ったという。
(115)テッサリアの古名。
(116)テッサリアの町ラリッサの王プレギュアスの娘。ポエブス(アポロ)とのあいだに英雄にして医神アエスクラピウス(ギリシア語訓みでは、アスクレピオス)をうむ。
(117)アポロ神のこと→巻一(66)(79)
(118)からす(アポロの予言を告げる鳥とされている)
(119)アテナ(ローマではミネルウァ)女神の呼称のひとつ。ユピテルとメティス〔「思慮」の意で、オケアニデスのひとり。(11)〕との娘とされ、ユピテルの額からうまれたという。アテナエ(アテネ)の町の守護神、ギリシア神話中最大の女神として知恵・学術・技芸(織物や音楽)・戦術をつかさどり、つねに武装した若い処女神と考えられた。梟《ふくろう》がその聖鳥であった。
(120)火神ウゥルカヌス〔ヘパイストス、(163)〕は、アテナに言い寄って拒絶されたが、そのとき地面にもらした精液からうまれた息子がエリクトニウスで、古い伝説上のアテナエの王とされている。
(121)アッティカの大地よりうまれた半人半蛇。アッティカ(アテナエはその首都)の創立者で、その初代王とされる。パンドロソス、ヘルセ、アグラウロスという三人の娘たちがあった。
(122)梟《ふくろう》のこと。→(119)
(123)→巻一(63)。デルピやパルナッスス山がある。コロネウスは、そこの王で、小鴉になったコロニスの父〔このコロニスは、(116)のテッサリアのコロニスとは別人で、またコロネともよばれる〕
(124)ネプトゥヌス→(86)
(125)パラス・アテナのこと。
(126)→(92)
(127)レスポス島の王エポペウスの娘。父に凌辱され、恥かしさのため森のなかにかくれていたところを、パラス・アテナによって梟に変身させられ、女神の鳥となったという(ミネルウァの梟)。レスボスは、小アジアにある大きな島。
(128)この若者は、アルカディア王アルカス(105)の子エラトスの息子イスキュスである。
(129)アポロ(ポエブス)は、音楽の神でもある。
(130)ポエブスは、医術の神でもある。
(131)火葬にするに先だって、屍体に芳香のする油をぬるのが習慣であった。「いまは甲斐なき」というのは、死人はもはやその芳香を嗅ぐことができないから。
(132)英雄アエスクラピウスのこと(116)。賢者キロンに育てられ、医術を教えられ、医学の神となった。→巻十五の六二二行以下。
(133)主としてテッサリアに住んでいた半人半馬のケンタウルス族(13)のひとりであるが、他のケンタウルスたちと異なり、かれだけはサトゥルヌス〔巻一(22)〕とピリュラ〔オケアニデスのひとり、(11)〕との息子〔巻六(42)、巻七(66)〕。賢明で、音楽・医術・狩猟・スポーツ・予言術にすぐれ、アエスクラピウス、イアソン〔巻七(6)〕、アキレス〔巻十二(23)〕など多くの英雄たちの養育者となった。ギリシア名はケイロン。
(134)ポエブス(アポロ)またはオケアヌスの娘とされる水の妖精。キロンの妻となり、イアソンとアキレスの養育者となる(前注)。
(135)「すみやかに流れる者、足はやき者」の意。キロンとカリクロとの娘、急流のかたわらでうまれたのでこの名をえた。のち馬に変身してヒッポ(hippos 馬)とよばれた。
(136)キロンは、医術の発明者とされている。
(137)アエスクラピウス。
(138)キロンは、英雄ヘラクレスの矢をあやまって足にうける。この矢には怪蛇ヒュドラの毒血をぬってあり、その傷は不治であった〔巻九(24)(44)〕。一方、キロンは、サトゥルヌスとピリュラの子として〔→(133)〕不死の身であったため、非常にくるしみ、死をのぞんだ。そこでプロメテウスがかわりに不死となり、キロンは死をあたえられた。死後キロンは天上に召されて、人馬宮(射手座)の星となる→(13)
(139)運命の三女神パルカエ(単数パルカ、ギリシアのモイラにあたる)のこと。ユピテルとテミス〔巻一(70)〕との娘たちとされ、すべての人間の運命の糸をつむいだり切ったりしていて、神々もその摂理にしたがわねばならぬとされた。→巻十五の八〇八行以下。
(140)キロンが死後天に召されて、星となることをさしている。→(138)
(141)人間と馬の両方の姿。
(142)予言の能力をもつ者は、長い衣服をまとうとされていた。
(143)ペロポネスス半島の西部海岸の町および地方。
(144)同半島の南西部の地方。
(145)アポロの神牛たち。
(146)南部エリスの町。
(147)メリクリウス(ヘルメス)神のこと。→巻一(117)
(148)海神ネプトゥヌスと妖精テュロ〔アエオルスの子でエリスのサルモネ市の建設者サルモネウスの娘、巻七(33)〕との子、ピュロス王。十二人の息子があったが、ネストルをのぞいた十一人をヘルクレスに殺された〔巻十二(41)(99)(101)、同五四二行以下〕。ネストルは、アルゴナウタエの遠征〔巻六(134)〕やカリュドンの野猪狩り〔巻八(82)〕にも参加し、さらにトロイア戦争ではその賢明さによって名をはせた。なお、海神ネレウス〔巻一(37)〕と混同しないように。
(149)メルクリウス。
(150)アテナエ市の三港のひとつ。
(151)アテナエ市のこと。→(119)
(152)アテナエの城壁のそと、北東部にある土地。のちアリストテレスはここに学校をひらいた。
(153)パラス・アテナ(ミネルウァ)女神の神殿のあるいわゆるアクロポリスのこと(アテナエの町にある)。この大祭は、五年ごとの夏おこなわれた。
(154)暁の明星。→(16)
(155)月。→巻一(2)
(156)アッティカの王ケクロプスの娘。→(121)
(157)スペインの東方海上にあるふたつの島、その地の投石器は有名であった。
(158)いずれもヘルセの姉妹。→(121)
(159)メルクリウス神のこと。→巻一(117)(119)
(160)→五五〇行以下。
(161)ミネルウァ(パラス・アテナ)は、戦争の女神である。
(162)これは、アエギス(ギリシア語ではアイギス)とよばれ、ユピテルとミネルウァがもっていた防禦用の武具で、山羊皮でつくられた胸甲、あるいは左脇にかける楯のようなものと考えられた。とくにアテナ(ミネルウァ)のアエギスには、メドゥサの首がはめこまれているので有名(巻四の八〇三行)。
(163)火と鍛冶の神ウゥルカヌス(ギリシアではヘパイストス)のこと。ユピテルとユノとの息子、美女神ウェヌス〔アプロディテ、巻三(17)〕の良人。レムノスは、アエガエウム(エーゲ)海の、トロイアの沖にある島で、モシュクルスという火山があり、元来火山神であるウゥルカヌスの主座のひとつと考えられた。母親なしでうまれたその子とは、前に出たエリクトニウスのこと〔(120)および五五〇行以下〕
(164)メルクリウス。
(165)ヘルセ。
(166)インウィディア、嫉妬の擬人化(女神)
(167)ミネルウァ女神のこと。トリトンは、アフリカ北岸のシドラ湾にのぞむ湖で〔巻一(71)〕、女神はここでうまれたとされ、しばしばトリトンの女神、またはトリトニアとかトリトニスとよばれる。
(168)アテナエ市。
(169)アルカディアの東北部にある山、メルクリウスの誕生地。
(170)メルクリウス。
(171)アテナエ市。
(172)メルクリウスの母マイアは、プレイアデスのひとりで、天上界でプレアデス星団(七曜星、すばる星)のひとつとなる。→巻一(117)
(173)ポエニケ(フェニキア)の都。
(174)ポエニケのアゲノル王〔巻三(2)〕とその妃テレパッサとの娘エウロパのこと。のちユピテルによりクレタ島の王ミノス〔巻七(114)〕の母となる。
(175)ポエニケの商港。
(176)エウロパ。→(174)
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巻三
一 カドムスの亡命とテバエ建設
さて、ユピテルは、いまやかりそめの牡牛の姿をぬぎすてて、身の上をあかし、やがてディクテ(1)の野に着いた。一方、乙女の父アゲノル(2)は、こうした経緯《いきさつ》をゆめにも知らず、息子のカドムス(3)に行方不明の妹をさがすように命じ、もし見つけだせなかったら、罰として勘当するぞとつけくわえた。かれは、娘にはやさしく、息子には冷酷な父親であった。〔一〜五〕
かくて、世界中をむなしくたずね歩いたあげく――というのは、だれが一体ユピテルの策略を見やぶることができようか――アゲノルの息子は、亡命者となって故郷を逃げだし、父の怒りをのがれることになった。そして、ポエブスに嘆願して、その神託をうかがい、いずこの地に住むべきかをたずねた。すると、神託は、こう答えた。「人里はなれた野原で、まだ軛《くびき》の苦しみもまがった鋤《すき》の味も知らぬ一匹の牝牛に出会うであろう。その牛を道案内にしてついていくがよい。そして、牛が立ちどまった草原に町をきずき、それをボエオティア(4)の町と名づけよ」
そこで、カドムスがカスタリア(5)の洞窟から外に出ると、首に労役のあとのない一匹の牝牛が追う人もなく悠然と歩いているのが見えた。かれは、さっそくそのあとについていき、ゆっくりとした足どりで牛のあとをたどりながら、行くべき道をおしえてくれたポエブスにこころのなかで感謝した。〔六〜一八〕
こうして、はやケピスス(6)の浅瀬をわたり、パノペ(7)の野をすぎていったが、ようやくにして牝牛はその歩みをとめた。そして、ながい角にかざられた美しい額を天にむけ、その鳴きごえであたりの空気をふるわし、やおらあとについてきた人間たちの方をふりかえると、地面に膝をついて、やわらかい草の上に寝そべった。カドムスは、神に感謝をささげ、この見知らぬ土地に接吻し、はじめて見る山々や野原に挨拶をした。それから、ユピテルに犠牲をそなえる準備にとりかかり、部下たちに灌奠《かんてん》の式につかう水を泉から汲んでくるようにと命じた。〔一九〜二七〕
その近くに、まだかつて斧ひとつ入ったことのない古い森がそびえていた。その真中に、しなやかな灌木にこんもりとおおわれた洞穴があった。つみかさなった石がそこに低い円天井をつくり、その下には泉が滾々《こんこん》と湧きでていた。この洞穴の奥に、金いろの前立てにかざられた、マルス(8)の大蛇が棲んでいた。両眼は、爛々として炎のごとく、全身は毒液にふくれ、口は三枚の舌をはき、歯は三列にならんでいた。さて、テュスルから亡命してきた人びと(9)が、不幸にもこの森にわけ入り、泉に投げこんだ水甕《みずがめ》が水音を立てるやいなや、青ぐろい大蛇が洞窟の奥から頭をだし、しゅっしゅというおそろしい音をたてた。人びとは、手から水甕をおとし、血の気が全身を去り、あまりの恐怖に手足がわなわなとふるえだした。
怪物は、鱗のはえたからだをとぐろに巻くなり、大きな弧をえがいてとびあがり、その半身以上を空たかくもたげて、森全体を見おろした。その全身を見ると、まるで大熊と小熊とのあいだに横たわる竜(10)のように大きかった。かれは、戦おうとする者、逃げようとする者、あまりの怖ろしさにそのどちらもできず立ちすくんでいる者の区別なく、たちまちポエニケ人たちの上におそいかかり、あるいは喰い裂き、あるいは絞めつぶし、あるいは毒を吹きかけて、ひとりのこらず殺してしまった。〔二八〜四九〕
すでに、太陽は中天にかかって、事物の影を短くしていた。アゲノルの息子は、部下たちの帰りがあまりにおそいのを不審におもって、その足あとをたどりながら捜しにでかけた。かれは、身に獅子の毛皮をまとい、武器としてはかがやく鉄の穂先をつけた槍と投槍、さらに、あらゆる武器にまさる勇気をもっていた。こうして森のなかに入っていき、部下たちの変りはてた姿と、その上にのしかかって無残な傷口を血だらけの舌でなめている勝ちほこった巨身の敵を見ると、かれはこうさけんだ。「おお、忠実な者たちよ、おまえたちの仇討ちをしてやるか、さもなくば、おまえたちのあとを追うぞ!」
こういうなり、右手で大きな岩を高々とさしあげ、怪物めがけてはっしと力まかせに投げつけた。このような打撃をうけたら、高い塔のある頑丈な城壁でさえゆらいだであろうとおもわれた。しかし、大蛇は、かすり傷でも負うどころか、甲冑のような鱗にまもられて、黒びかりのしたかたい表皮でこのしたたかな打撃をはねかえしてしまった。けれども、その鋼鉄のような皮膚をもってしても、投槍には勝てなかった。槍は、しなやかな脊椎のまっ只中に突ったち、穂先が根もとまでぐさりと臓腑をえぐった。怪物は、痛みに怒り狂い、頭を背中にむけて傷口を見ると、そこに突きささっている槍を口にくわえ、懸命になって左右にゆすぶり、やっとのことで背中から折りとった。しかし、その穂先は、しっかりと体内に突きささったままだった。
いかに怪物でも、これはどうにもならない。そのことがいつもの凶暴さにさらに輪をかけたので、かれの喉は、充血した血管でふくれあがり、白っぽい泡が毒をふくんだ口のまわりに流れだし、大地は鱗にこすられて鳴動し、地獄の河をおもわせる口から吐くまっ黒い毒気は、あたりの空気をけがした。大蛇は、巨大な曲線をえがいてとぐろを巻いたり、亭々《ていてい》とそびえる樹の幹よりもまっすぐに立ったり、雨に水嵩《みずかさ》をました激流のような勢いで突進し、邪魔なる樹々を胸前《むなさき》でおしたおしたりした。アゲノルの子は、すこし身を引いて、身にまとう獅子の皮で大蛇の攻撃をささえ、槍を突きだして相手の口をふせいだ。大蛇は、いよいよ猛りたち、かたい鉄の槍に噛みつこうとしたが歯がたたず、かえってその穂先に歯のあいだをえぐられた。すでに血は毒々しい上顎からほとばしり、青い草を染めた。しかし、それでもまだ傷は浅かったのであろう、身を引いたり、傷ついた首をまげたりして、槍先の攻撃をかわし、それ以上の深傷《ふかで》を受けないようにした。けれども、カドムスは、ついに怪物の喉もとに槍を突っこむことに成功し、すかさずそれを押しつけ、敵が後退して一本の樫の大木につきあたると、幹もろとも怪物の首を串刺しにしてしまった。さすがの大木も、怪物の重みでまがり、幹は尻尾に叩かれてうめいた。〔五〇〜九四〕
勝利をえたカドムスがみずから倒した敵の巨大なからだをじっと見つめていると、突然ひとつの声がきこえた。どこからひびいて来るのかわからないが、つぎのように聞きとれた。「アゲノルの息子よ、おまえの殺した大蛇をなぜ一心に見ているのか。おまえもまた、人びとの眼に蛇となるであろう(11)」〔九五〜九八〕
カドムスは、ながいあいだ怖ろしい思いにとらわれていたが、こころは乱れ、顔の色もうしない、つめたい恐怖に髪の毛もさかだった。が、そのとき、勇者の守護神であるパラス(12)が、はるか天上からあらわれて、大地を掘りおこし、そこに大蛇の歯を未来の人民の種子として播《ま》くようにと命じた。かれは、言いつけにしたがった。大地に鋤を入れて畝《うね》をつくると、命じられたとおり大蛇の歯を人の子の種子として播いた。
すると、ふしぎなことに、土くれがなにやら動きはじめた。そして、畝《うね》のなかからまず槍の穂先があらわれ、ついで色あざやかな羽根飾りをゆらめかした兜《かぶと》があらわれ、つづいて肩、胸、武器をもった腕が出てきた。このようにして、たちまち楯をかまえた兵士の一隊が出来あがってしまった。それは、祭の日に劇場で幕があげられるとき、幕にえがかれた人物たちの姿がだんだんにせりあがってくる有様とよく似ていた。まず顔が見え、しだいにからだの他の部分が出て来、さらに幕があがるにつれてついに全身があらわれ、舞台の上に足でもって立つ(13)。それとおなじであった。
カドムスは、この新しい敵におどろいて、武器をとろうとした。すると、大地からうまれた武者たちのひとりが、こうさけんだ。「武器をとるな。われらの骨肉の争いの仲間入りをするのではない!」そういうなり、その男は、抜身《ぬきみ》をふるって、そばにいた大地がうんだ兄弟のひとりを打ち殺した。が、かれ自身も、遠くから来た投槍にたおされた。そして、かれを死にいたらしめた者も、かれより長生きすることはできず、いま受けたばかりの生命を吐きだしてしまった。このようにして、全部の者があばれだし、忽然として出現した兄弟たちは、同志討ちによってたがいに傷つき、たおれていった。運命によってたまゆらの命をゆるされた若者たちは、血にぬれた胸を生《なま》あたたかい母なる大地に押しあてて息たえていったが、生きのこったのは、わずかに五人だけであった。そのなかに、エキオン(14)という若者がいた。かれは、トリトン(15)の女神の命令により、武器を投げすて、のこった兄弟たちに和を乞い、仲直りの証拠を見せた。そこで、シドンから来た移住者(16)は、かれらを仕事の友として、アポロの神託にしたがってここにひとつの都市を建てた。〔九九〜一三〇〕
こうして、テバエの町はきずかれた。カドムスよ、おんみは、故国を追放されたためにかえって幸運にめぐまれたようであった。マルスとウェヌス(17)が、おまえの舅姑《きゅうこ》となった。おまけに、かくも高貴な妻の血統をうけた多くの息子や娘たち(18)があり、それに、いまではもう立派な若者になっているかれらの愛の結晶である孫たちがいる。しかし、人間は、つねにその最期の日を待たねばならぬ。なにびとも、最後の息を引きとって、葬儀《とむらい》をうけるまでは、けっして幸福だといわれないのである。〔一三一〜一三七〕
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二 アクタエオン/水浴をのぞかれたディアナ
カドムスよ、こんなにも多くの幸福がつづいたなかで、おんみの最初の悲しみの原因は、孫のアクタエオン(19)とその額に生えためずらしい角とおのが主人の血を吸って満腹した犬どもであった。しかし、よく考えてみると、そうなったのは、孫が罪をおかしたわけではなく、運命のいたずらにすぎない。というのは、過失は罪ではないからである。〔一三八〜一四二〕
さて、さまざまな野獣たちの血でぬらされた山があった。すでに真昼となって、事物の影はみじかく、太陽は空の中央にかがやいていた。ヒュアンテス(20)の若者は、道なき山奥を歩きまわっている狩猟仲間にむかってつぎのように呼びかけた。「おい、みなの者、網《あみ》も武器も、すっかり野獣の血でよごれてしまったし、今日はずいぶん獲物があった。明日はまたアウロラ(21)がサフラン色の馬車にのってあらわれ、ふたたび光りをおくってくれたら、今日のつづきをはじめることにしよう。いまはポエブス(22)が東の空と西の空とのちょうど中間にいて、灼けつくような熱で野山に地割れをおこさせようとしている。さあ、今日の仕事はうち切って、網《あみ》を引きあげよう」そこで、猟人たちは、かれの命令にしたがって仕事を中止した。〔一四三〜一五四〕
この山に、松や葉のとがった糸杉に鬱蒼とおおわれたひとつの谷があった。ガルガピエ(23)の谷とよばれ、短衣(24)をまとった女神ディアナにささげられていた。この谷のいちばん奥に、森の洞穴があった。それは、なんら人口の手が加えられていず、自然がその創造力によって芸術を模してつくったものであった。というのは、軽石と凝灰岩で天然の円天井がつくられていたからである。右手には、透明な泉が滾々《こんこん》と湧きでて、そのひろびろとした池は、草の縁《へり》でかこまれていた。森の女神(25)は、狩猟に疲れると、いつもここで汚れなきからだに清冽《せいれつ》な泉の水をふりかけるのであった。
今日は、女神はこの洞窟に入ると、武器をあずかる係の妖精に投槍や箙《えびら》や弦《つる》をはずした弓をわたした。もうひとりの妖精が、女神のぬいだ衣服を受けとると、別のふたりが鞋《くつ》をぬがせた。さらに、これらの妖精たちよりも器用なテバエの乙女クロカレは、自分のみだれた髪はそのままにして、女神の頚《くび》におちかかる髪をたばねた。ネペレ、ヒュアレ、ラニス、プセカス、ピアレの五人は(26)、大きな甕《かめ》に泉の水を汲んで、女神のからだにそそぎかけた。〔一五五〜一七二〕
こうして、ティタンの娘(27)がいつものように水浴びをしているとき、カドムスの孫は、仕事の手をやすめて、見しらぬ森のなかをぶらぶら歩きまわりながら、偶然この神聖な谷間にやってきた。やってきたというより、運命がかれをここへつれて来たのである。かれが泉のしぶきにぬれた洞窟に足をふみいれるやいなや、その姿をみとめた全裸の妖精たちは、あわてて手で胸をたたき(28)、するどい叫び声を森じゅうにひびきわたらせると、いそいで女神のまわりに人垣をつくって見えないようにした。しかし、女神は妖精たちよりも背が高かったので、首から上だけは人垣から出てしまった。一糸もまとわぬ姿を見られた女神の顔は、太陽の光に照りはえた雲の色のように、あるいは、深紅の曙光の色のように赧《あか》らんだ。かの女は、従者たちの群にとりまかれていたけれど、すこしからだをうごかし、なにかをさがすように顔をまわりにふりむけた。
投槍が手もとにあればよいのにとおもったのだが、見つからないので、手近にある水を口にふくんで、若者の顔めがけて吹きつけた。そして、かれの髪を罰水でぬらしつつ、やがて来たらんとする不幸を告げる言葉をつけくわえた。「さあ、ディアナの裸を見たとふれまわるがよい――もし口がきけるものなら!」女神は、それ以上おどかしの言葉はつづけなかったが、若者のぬれた頭に長命の動物といわれる牡鹿の角を生えさせ、首を長くのばし、とがった耳をつけ、手を前肢に、腕をながい臑《すね》に変え、斑点のある毛皮で全身をおおってしまった。さらに、女神はかれの胸に臆病心を吹きこんだので、アウトノエの息子(29)は、たちまちそこを逃げだし、走りながら自分の脚の早いのにびっくりした。そして、水にうつる自分の姿と角を見るや、「ああ、ぼくはなんという不幸な男だろう!」とさけぼうとしたが、口から言葉が出てこなかった。出てきたのは、うめき声だけで、それがかれの言葉だった。
無残にも変りはてた顔に涙がこぼれおちた。ただ、精神だけはもとのままであった。いったい、どうすればよいのか。王宮のわが家へ帰ろうか。それとも、森の奥に身をかくそうか。が、恥かしさが第一の決心をやめさせ、怖ろしさが第二の決心をにぶらせた。〔一七三〜二〇五〕
かれがなおもためらっていると、かれの猟犬たちがかれを見つけた。まず、メラムプス(30)と鼻のきくイクノバテスとが、大きく吠えてそれを知らせた。イクノバテスは、グノスス(31)のうまれで、メラムプスは、スパルタ種であった。やがて、ほかの犬どもも、疾風よりも早く駈けつけてきた。パンパグス、ドルケウス、オリバスス(以上はみなアルカディア種である)、つづいてたくましいネブロポヌス、獰猛なテロン、ラエラプス、脚力をほこるプテレラス、嗅覚のすぐれたアグレ、最近猪に傷つけられた勇敢なヒュラエウス、狼の血をひくナペ、もとは羊の番をしていたポエメニス、二匹の仔をつれたハルピュイア、胴のやせたシキュオン(32)種のラドン、ドロマス、カナケ、スティクテ、ティグリス、アルケ、白毛のレウコン、黒毛のアスボルス、たくましいラコン、足のはやいアエロ、トウス、兄弟のキュプリウスとともに敏捷なリュキスケ、黒い額の中央に真白な星のあるハルパロス、メラネウス、毛むくじゃらのラクネ、ディクテ種(33)の父をもち、スパルタ種の母からうまれたラブロスとアグリオドゥス、するどい声をしたヒュラクトル、その他いちいち名前をあげない多くの犬どもが駈けつけてきた。これらの犬の群はよき獲物を見つけたとばかり、岩をこえ崖をとび、そそり立つ岩山の道なき道をよじのぼってアクタエオンを追跡していく。かれもまた、かつてはしばしば獲物を追って走りまわったそのおなじ野山を逃げまわる。しかも、かわいそうに、自分が使っていた犬どもに追われて逃げていくのだ。
「おれは、アクタエオンだぞ! おまえたちの主人がわからないのか!」と叫ぼうとしたが、言葉はもう意のままにならない。空気は、犬どもの吠え声を反響するばかりだった。そのうちにとうとう犬どもはかれに追いすがり、まずメランカエテスが背中に咬みついた。さらに、テリダマスがこれにつづき、オレシトロプスは肩におそいかかった。これら三匹は、ほかの犬どもよりあとから出発したのだが、近道をして追いこしたのである。かれらがその主人を引きとめているあいだに、ほかの連中も追いついて、かれのからだにするどい歯を突きたてた。
みるみるうちに全身を傷だらけにされてしまったアクタエオンは、悲痛なうめき声をあげた。その声は、もはや人間の声ではなかったが、鹿の出すような声でもなかった。そのいたましい鳴き声は、かれのよく知っている山の峯々にひびきわたった。かれは、膝を折って命乞いをし、嘆願者が腕をさしのべるように、もの言わぬその顔を四方にむけた。〔二〇六〜二四一〕
しかし、なにも気づかぬ狩猟仲間たちは、いきりたつ犬どもをいつものようにけしかけた。そして、かれが眼のまえにいるのも知らずに、ひたすらアクタエオンの名をよばわって、その姿をさがしもとめた。アクタエオンは、名前を聞いてふりむいたが、仲間たちは、かれがこの場にいなくて、せっかくの獲物を見ることができないのが気の毒だなどと残念がった。アクタエオンにすれば、この場にいない方がどれだけよかったかしれないが、いないどころか、自分が獲物になっているのだった。また、犬どもの餌食になるより、それを見物しているほうがどんなによかったかしれない。しかし、犬どもは、八方からかれをとりかこみ、牡鹿の姿に変えられた主人のからだに咬みつき、ついにずたずたに喰い裂いてしまった。こうしてかれが無数の咬み傷を受けて息たえるまで、箙《えびら》をもつ女神ディアナの怒りはとけなかったといわれる。〔二四二〜二五二〕
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三 ユピテルとセメレ
以上の物語については、いろいろの意見がおこなわれている。神々のなかには、女神があまりにも残酷すぎるというものもあれば、女神を賞讃し、犯すベからざる処女性にふさわしい処置だったというものもいる。どちらも、それなりの理由がある。ただ、ユピテルの妃《きさき》(34)だッは、その行為が賞讃にあたいするか、非難にあたいするかについての意見はのべないで、むしろアゲノルの一家が不幸に見舞われたことをよろこび、恋仇であるテュルスの女(35)にたいする憎しみをその一族の者全体にまでおしひろげた。
ところが、ここにまた古い悲しみの種に、さらに新しい種がくわわることになった。というのは、セメレ(36)が大神ユピテルの胤《たね》を宿したことがかの女を苦しめたからである。ユノは、良人《おっと》をとっちめるためにまさに口を開こうとしたが、思いとどまってこう考えた。
「いままでいくども口やかましいことをいってきたが、それがなんの役にたっただろうか。こんどは、もうどうしても直接あの女をねらわなくてはならない。わたしが偉大なユノとよばれる権利をもち、宝石をちりばめた王笏《おうしゃく》を手にするにふさわしい者であるならば、また、わたしが天の女王であり、ユピテルの妹であり妃であるならば、いいえ、すくなくとも妹であるからには、あの女を亡きものにしてしまわなくてはならない。わたしは、あの女があんな人目をしのぶ恋だけで満足し、ほんの束の間わたしの寝床に侮辱をあたえただけだと思いこんでいた。ところが、こともあろうに、妊娠までしてしまって、そのふくらんだ腹で公然と身持ちの悪さを見せびらかしている。そして、わたしでさえなかなかできなかったことなのに、ユピテルの子供だけをうもうとしている。それほどあの女は、自分の美しさに自信をもっているのだ。わたしは、あの女の美しさをかえって身をほろぼすもとにしてやろう! あの女が情夫のユピテル自身の手でステュクス(37)の沼に投げこまれるようにしてやろう! それでこそ、わたしはサトゥルヌスの娘というものだ」〔二五三〜二七二〕
こういうとともに、ユノは王座から立ちあがり、灰褐色の雲に身をかくして、セメレの家にのりこんだ。しかし、かの女は、雲を払いおとすまえに、老婆の姿になり、白髪をこめかみに垂らし、皮膚には皺をよせ、腰をまげておぼつかなげな歩きぶりをした。声も年寄りくさい声にしたので、セメレの乳母であるエピダウルス(38)のベロエそっくりに見えた。さて、ふたりはお喋りをはじめ、いろいろ話をしているうちに、ユピテルの名前が口に出た。ユノは、すかさずため息をついて、
「ほんとうに、その男がユピテルさまであればいいと思うんですがね。わたしは、なんだかとっても気がかりなんでございますよ。世のなかにはずいぶん神々の名をかたって、操《みさお》ただしい乙女の床にもぐりこむ男がいるものですからね。けれども、その男が自分でユピテルだというだけでは、あてになりませんよ。ほんとうにユピテルさまなら、愛の証拠を見せていただかなくてはなりません。大神があの気位のたかいユノさまの胸におだかれになるときとおなじように、あなたにも偉大で雄々しい抱擁をあたえ、そのまえにまず王者の標《しるし》(39)を、身につけてくださるようにお願いしてごらんなさいませ」〔二七三〜二八六〕
こうしてユノは、カドムスのなにも知らぬ娘を言いくるめてしまった。そこで、セメレは、それと名ざさずに、ユピテルになにか贈物をほしいとねだった。すると、神々の王は、「なんでも好きなものをえらぶがよい。おまえの求めるものは、けっして断わられることはあるまい。おまえがもっとよく納得するように、ステュクスの河の神を証人にしよう(40)。この神は、神々にさえ怖れられているのだ」
セメレは、それが自分の不幸になるとはつゆ知らずにたいへんよろこび、やがて自分の愛人の好意によって死ぬことになるのに、こういった。「あなたとユノさまがウェヌスの絆《きずな》(41)におむすばれになるときに、ユノさまがお抱きになるようなあなたをわたしにもあたえてください!」ユピテルは、なんとも困ったことを言いだした口をとじさせたいとおもったが、その言葉はいちはやく大気のなかに逃げてしまった。かれは、ため息をついた。というのは、セメレはその願いを取り消さないし、かれも自分の誓いを反故《ほご》にすることはできなかったからである。
そこで、悲しみにふさいだ気持をいだいて天界に帰っていくと、眼くばせで従順な雲たちを呼びあつめ、これに驟雨《しゅうう》と風まじりの稲妻をくわえ、さらに雷鳴とのがれることのできない雷電とをつけたした。けれども、できるかぎりその力を弱めようとして、あの百の手をもつテュポエウス(42)を打ちのめしたような雷電は、こんどは使わないことにした。あまりに破壊力が大きすぎるからである。それよりもずっと軽い雷電があった。キュクロプスたち(43)の右手が激しさも炎も熱もずっと少なくした雷電で、神々はこれを第二の矢とよんでいた。ユピテルは、これらのものをたずさえて、アゲノルの血をひく乙女(44)の家に降りていった。神ならぬセメレのからだは、この天来の猛威にたえられず、恋人の愛の贈物によって焼かれてしまった。〔二八七〜三〇九〕
しかし、月足らずの嬰児は、母の胎内から救いだされ、まだ弱々しかったので――信じられぬという人もあるかもしれないが――父ユピテルの股間《こかん》に縫いこまれ、母の胎内ですごすべき期間をそこですごした。それから、母の妹のイノ(45)が最初ひそかにゆりかごのなかでこの子を養育していたが、やがてニュサ(46)の妖精たちにこれをあずけた。妖精たちは、幼児をかの女たちの岩屋にかくまい、牛乳でそだてた。〔三一〇〜三一五〕
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四 両性の快楽を知ったティレシアス
これらのことが運命の摂理によって地上におこり、二度うまれた(47)幼児バックスがゆりかごのなかで安らかに成長をつづけているあいだに、伝えるところによると、ある日のこと、ユピテルは、神酒《ネクタル》によって沈んだこころの憂《う》さばらしをし、手のあいたユノとのんきにへらず口をかわしていたが、やがてこういった。「たしかに、おまえたち女の方が男よりあの快感が大きいようだ」〔三一六〜三二一〕
ユノは、それを否定した。そこで、ふたりは、博識なティレシアス(48)の意見をもとめることにした。この男は両性の快楽を知っていたからである。というのは、ある日、みどりの森で二匹の大蛇が交尾しているところを、棒で打ったのだ。すると、ふしぎなことに、かれはたちまち男から女に変り、七年間を女としてすごした。ちょうど八年目に、かれはまたその二匹の蛇を見た。「おまえたちの受ける打撃が打った者の性を変えるほど大きな力をもっているのなら、わたしはもう一度おまえたちを打ってやろう」そういって、二匹の蛇を打つと、かれはもとの形をとりもどし、うまれながらの男の姿にかえったのである。〔三二二〜三三一〕
そういうわけで、このおどけた争いの審判官にえらばれると、かれはユピテルの意見に賛成した(49)。ところが、ユノは、他愛もない事柄であるのを忘れて、大げさにくやしがり、審判官の眼に永遠の闇という罰をくだしてしまった。それを見て、全能の神は――いかなる神もほかの神のしたことを取り消す力はないので――うばわれた光の代償として、ティレシアスに未来を知る能力をあたえ、この名誉によって罰の苦しみをやわらげてやった。〔三三二〜三三八〕
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五 美少年ナルキッススとエコ
ティレシアスは、アオニア(50)の町々で非常に評判がたかまり、相談をもちかけてくる人びとに正しい解答をあたえていた。かれの予言が真実で確実なことを最初に証拠だてたのは、紺碧の髪をしたリリオペ(51)であった。かつてケピスス(52)の河神は、うねうねとまがりくねったその流れにリリオペをさそいこみ、波のなかにとじこめると、手ごめにしてしまった。妖精のなかでもとりわけ美人であったかの女のみごもった腹は、やがてひとりの男児をうんだ。
かれは、ナルキッススと名づけられ、すでに幼いころから多くの妖精たちに愛された。この子がはたして長寿を全《まっと》うすることができるかどうかとリリオペにたずねられて、運命をうらなう予言者は、「もしおのれの姿を知らねば、長生きするであろう」と答えた。ティレシアス老人のこの予言は、ながいあいだ根も葉もないことのようにおもわれていたが、実際に起った事件の顛末によって、また、ナルキッススの最期とその妄想の特異さによって真実であることが裏書きされたのであった。
すなわち、ナルキッススは、十六の春をむかえたが、まだ子供のようでもあり、すでにりっぱな若者のようにも見えた。多くの若者や多くの乙女たちから愛を寄せられたが、その美しい容姿のなかにはひややかな高慢がやどっていて、どんな若者や乙女にもこころをうごかされなかった。ある日のこと、かれが臆病な鹿どもをうまく網のなかに追いこんでいったとき、ひとりのおしゃべりな妖精――他人から話しかけられたとき、だまっていることもできないが、さりとて自分からさきに話しかけることもできない、あの山彦の妖精エコ(53)が、かれの姿を眼にとめた。〔三三九〜三五八〕
このころは、エコはまだ肉体をもっていて、たんなる声だけの存在ではなかったが、おしゃべりのくせに、他人の言った多くの言葉のなかで最後の言葉だけを言いかえすことができるという、今日とおなじ口の使い方しかできなかった。これは、ユノ女神がそうしたのである。ユノは、良人《おっと》のユピテルがよく山のなかで妖精たちといちゃついている現場をおさえてやろうとおもうと、きまってエコがわざと長々しい話でかの女を引きとめ、そのあいだにまんまと妖精たちに逃げられてしまうのであった。サトゥルヌスの娘(54)は、エコの策略に気づくと、「わたしをあざむいたその舌がもうあまり勝手なことをできないようにしてやる。ごくみじかい言葉にしか口を使えないようにしてやる!」といったが、それはたんなるおどしではなく、事実となってしまった。しかし、エコは、まだ話の最後のひびきをくりかえし、相手の言葉を反復することだけはできた。〔三五九〜三六九〕
さて、エコは、ナルキッススが人里はなれた森のなかを歩いているのを見ると、たちまち恋心にとらえられ、ひそかにあとをつけていった。近づけば近づくほど、胸を焦《こ》がす焔は熱くなった。ちょうど炬火《たいまつ》の先につけた硫黄(55)が、焔に近づけると燃えだすのとおなじであった。
ああ、いくどかやさしい言葉をかけてかれに近づき、甘美な願いをうちあけようとしたが、かの女の性質がそれをこばんだ。かの女は、自分から話しかけることはできない。許されているのは、相手に答えることだけだ。かの女は、ひたすら相手の言葉を待ちかまえた。このとき、少年は、親しい狩仲間からはぐれてしまったので、大きな声で、「おおい! だれかいるかい!」とさけんだ。すると、エコは、「いるよう!」と答えた。少年は、びっくりしてあたりを見まわして、「こっちへ来いよう!」と叫んだ。エコも、叫んだ相手におなじ呼び声で答えた。かれはふりかえったが、だれも見えないので、「なぜ逃げるんだ」しかし、やっぱりそれとおなじ言葉がきこえてくるばかりであった。「こっちへ来て、一緒になろうよ!」と、かれはいった。エコにとって、これほど答えるのがうれしい言葉はなかった。「一緒になろうよ!」と答えると、自分の言葉に力づけられて、木かげから姿をあらわし、いとしい若者の首に腕をまきつけようとした。ナルキッススは、おどろいて逃げだした。そして、走りながら、「手をのけてくれ。抱きついたらいやだ。死んだほうがましだよ、きみの思いどおりになるくらいなら!」とさけんだ。エコは、「思いどおりになる……」としか答えられなかった。
こうして恋をしりぞけられた妖精《ニュムペ》は、森のなかに逃げこみ、恥かしさのあまり木の葉で顔をかくし、それからはさみしい洞穴にひとりで住んでいた。けれども、恋しい思いは、その胸の底にふかく刻みこまれて、こばまれたという悲しみのためにいっそうつのるばかりであった。夜も眠れないほどの心痛は、あわれな肉体をしだいに衰弱させ、皮膚はやせおとろえ、からだの水気もすっかりなくなってしまった。いまや残るものとては、声と骨ばかりであった。そして、声だけはそのままで、骨はついに岩と化したといわれる。それからというものは、かの女は森の奥にかくれて、山の上にはけっして姿を見せなくなった。しかし、その声はだれの耳にもきこえる。声だけになって生きつづけているのである。〔三七〇〜四〇一〕
ナルキッススは、このようにエコの愛をしりぞけたが、それ以外にもおなじような目にあわされた水や山の妖精たちが多くいたし、また以前には、たくさんの若者たちもおなじような目にあった。あるとき、そうして恥をかかされた若者のひとりが、手を天にむかってあげ、こう叫んだ。「どうかかれも恋をしますように! しかし、けっしてその恋の相手をとらえることができませんように!」ラムヌス(56)の女神は、このもっともな願いを聞き入れた。〔四〇二〜四〇六〕
さて、ここにひとつの清冽な泉があった。その水は、銀いろにかがやき、まだかつて牧人も山に草を喰《は》む牝山羊も、その他のどんな家畜もここを通ったことがなく、鳥や野獣や樹から落ちた小枝でさえ、その水をみだしたことがなかった。泉のまわりには、その水で命をささえている草地と、太陽も射《さ》しこまない深い森がひろがっていた。はげしい猟と暑さにつかれはてたナルキッススは、ここの美しい景色と泉にひかれて、水のそばに身を横たえた。そして、きよらかな水で喉の渇きをうるおそうとすると、それとは別な渇きを胸におぼえた。
というのは、水をのみながら、そこにうつった自分の姿に魅惑されてしまったのである。実体のないまぼろしに惚れこみ、影にすぎないものを人体だとおもったのだ。かれは、われとわが身の美しさにはっと息をのみ、パロス島(57)の大理石にきざまれた塑像のように身じろぎもしないでわが身に見とれていた。地べたに腹ばいになったまま、ふたつの明星のような自分の瞳、バックスやアポロにもふさわしいその髪の毛(58)、若々しい頬、象牙のような首、やさしくも美しい口、雪のような白さにくれないをまぜた顔をいつまでも見つめ、自分自身を美しくしているすべてのものに驚嘆した。かれは、そうとは気づかずに、自分自身に恋をしてしまったのだ。
かれはあかず眺めたが、それは自分自身を眺めているのである。はげしく恋いこがれながら、自分がその対象になっている。自分がもやそうとしている胸の炎に、自分が焦《こ》がされている。ああ、かれはいくどむなしい接吻《くちづけ》をこのいつわりの泉にあたえたことか! いくど水にうつる自分の首を抱こうとして、むなしく腕を水につっこんだことか! かれは、自分がなにを見ているかを知らないが、その見ているものは、かれを焼きつくす。彼をあざむいているそのおなじ迷いが、かれの眼を惹《ひ》きよせるのだ。おお、あわれにも愚かな少年よ、おまえはなぜはかない幻影をむなしくもとらえようとするのか。おまえの求めるものは、どこにも存在しないのだ。泉から身をそらしてみるがよい。そうすれば、おまえの恋するものも消えてしまうのだ。おまえが見ているものは、水にうつったおまえの影にすぎない。それは、なんらみずからの姿をもたない。それは、おまえとともに来り、おまえとともに留まる。もしおまえがここを去ることができれば、それはおまえとともに消え去るであろう。〔四〇七〜四三六〕
食事の心配も、眠りの欲求も、かれをその場所から引きはなすことはできなかった。かれは、木かげになったその草の上に腹ばいになったまま、まぼろしの姿を飽くことなく見つめていた。こうして、かれはわれとわが眼のためにほろびていくのである。かれは、すこし身をおこすと、まわりの樹々にむかって腕をさしのべた。
「ああ、森たちよ、恋をしてこれほどむごい苦しみを味わった者があるだろうか。おまえたちは、多くの恋人たちの恰好のかくれ場所になって、よく知っているはずだ。おまえたちはすでに幾世紀となく生きながらえてきたが、その長い歳月のあいだに、ぼくのように悩みやつれていった人間があっただろうか。ぼくは、恋する相手を見つけ、しかもその相手を眼のまえに見ている。しかし、眼のまえにいるその好きな相手は、どうしてもとらえることができない。恋するぼくを苦しめているのは、このような奇態《きたい》な迷いなのだ。さらに悲しいことには、ぼくたちのあいだには広い海もなければ、遠い道のりもなく、山もなければ、門をかたくとざした城壁もない。ぼくたちをへだてるものとては、ただわずかの水があるばかりなのだ。相手もまた、ぼくの抱擁をもとめている。というのは、ぼくが接吻するために唇をすみきった水に近づけるたびに、かれも口を上にむけて、ぼくにふれようとする。すんでのことでかれにふれることができそうにおもえるのだが、ほんのちょっとした邪魔が入って、ふたりは妨げられてしまうのだ。きみがどんな人間であってもかまわないから、ここへ出てきておくれ。おお、たぐいない少年よ、なぜぼくを失望させるのだ。こんなに憧れているのに、どこへ姿をかくしてしまうのだ。きみを逃げさせるのは、ぼくの容貌や年齢ではないはずだ。妖精たちですら、ぼくを愛してくれたんだから。きみは、その愛らしい顔でぼくになにかしら希望をもたせてくれる。ぼくが腕をのばすと、きみものばしてくれるし、ぼくが笑えば、きみもほほえんでくれる。ぼくが涙をながすと、きみもいくどか涙をながしてくれた。ぼくがうなずくと、きみもうなずきかえす。きみの美しい唇の動きによってわかるのだが、きみはぼくの言葉に答えてくれるけれど、ただ、ぼくにはそれがちっともきこえない。――ああ、そうだ! これは、ぼく自身なのだ。やっとわかった! もうこれ以上自分の影にだまされはしないぞ! ぼくは、自分自身に恋をしていたのだ。ぼくは恋の火をもやしつけて、自分でそれに苦しんでいるのだ。だが、どうしたらよいというのだ。愛を求められるのをまっていようか。それとも、こちらから求めようか。しかし、どんな愛を求めたらよいというのか。ぼくが求めるものは、ぼく自身のなかにあるのだ。ぼく自身のゆたかな魅力が、ぼくを貧《まず》しくしたのだ。ああ、自分のからだから抜けだすことはできないものだろうか。恋する者としては奇妙な願いだが、ぼくの愛するものがぼくからはなれていてくれたらとおもう。この苦しみは、もうぼくの力を喰いつくしてしまった。ぼくは、もう長くは生きられまい。ぼくは、蕾《つぼみ》がほころびはじめたときに死んでいくのだ。死は、ちっともおそろしくない。それは、この苦しみからぼくを解放してくれるだろう。ただ、ぼくの願いは、愛する相手がもっと長く生きていてくれたらということだけだ。しかし、いまやふたりは、おなじひとつの息を仲よくいっしょに引きとらなくてはならないのだ」〔四三七〜四七三〕
こういって、かれはもう正気もうしなって、同身の恋人のところにもどり、涙で水をみだした。水のうごきは、うつった影を曖昧にした。恋人が消えたのを見ると、かれはさけんだ。「ああ、どこへ逃げていくのだ。どうかここにいておくれ。むごい若者よ、きみを愛している者を見すてないでおくれ。きみにふれることができないのなら、せめてきみを見つめることを許しておくれ。そして、ぼくの不幸な狂気に糧《かて》をあたえておくれ!」
このようにさけびながら、かれは上半身から着ているものをぬぎすて、大理石のように白い手でむきだしの胸を打った。打たれた胸は、ほんのりとばら色にそまった。それは、あたかもりんごが片側はまだ白いのにほかの側は赤く色づき、また、まだ熟していないぶどうがしばしばそのまだらな房に紫紅の色をおびるのと似ていた。この姿を波紋の消えた水面に見ると、かれはもう耐えていることができなくなった。ろうそくの黄いろい蝋がよわい焔にとけるように、あるいは、朝の霜が太陽のあたたかい光に消えさるように、かれは恋にやつれてしだいに弱っていき、ひと知れぬ胸の火にいつしか焼きほろぼされていった。
その白い肌を染めていた朱色《あけいろ》は、すでに消えてしまった。あの健康そうな若々しさも、力も、かれがついさっきまで見とれていたすべてのものも、失われてしまった。かつてエコが恋を感じた肉体は、もはや見る影もない。しかし、エコは、こうしたかれの様子を見ると、まだ怒りと恨《うら》みを感じていたものの、かれをかわいそうにおもった。そして、不幸な若者が「ああ!」ともらすたびに、かの女の声もおなじように「ああ!」とくりかえした。かれが手で胸を打ったときも、その音をこだましたのだった。あいかわらず水の面を見つめながらかれが口にした最後の言葉は、「ああ、つれない少年よ!」というのであった。あたりの景色は、おなじ言葉をひびきかえした。つづいて、「さようなら!」という叫びに、エコも「さようなら!」と答えた。〔四七四〜五〇一〕
こうして、ナルキッススは、みどりの草の上にがっくりと頭をおとした。死は、その主人の美しさをたたえつづけていた眼をとじてやった。すでに地下の世界にいってからも、かれはスチュクスの流れにうつる自分の姿を見ていた。かれの姉妹のナイスたち(59)は、かれを悼《いた》み、自分たちの髪の毛をきってかれに供《そな》えた。ドリュアス(60)たちも、かれの死を悲しんだ。エコは、かの女たちの嘆きをくりかえした。すでに人びとは、火葬の用意をし、炬火をかざし、棺がはこばれてきた。しかし、かれの屍体は、どこにもなかった。屍体のかわりに、白い花弁にかこまれた一輪のサフラン色の花(61)があるばかりであった。〔五〇二〜五一〇〕
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六 神々を信じないペンテウス
この出来事が知れわたると、かの予言者(62)の評判は、当然アカイア(63)の町々にひろまり、その名声は大きくなった。しかし、エキオン(64)の子で神々を信じないペンテウス(65)だけは、この老人を軽蔑し、かれの予言を罵倒し、その暗黒と失明(66)を嘲笑した。そこで、ティレシアスは、白髪におおわれた頭をふりうごかして、こういった。
「もしあんたがわしとおなじように盲目になって、バックスの神聖な祭を見ないですむなら、あんたはどんなに幸福なことだろう。というのは、わしはそれを予言しておくが、セメレの息子でリベル(67)という新しい神がこの地に来たまう日がそう遠くないからだ。もしあんたがこの神をまつる神殿を建てることをこころよく承知しなければ、あんたの五体は、ばらばらにひき裂かれて四方に散乱し、あんたの血は、森をけがし、あんたの母とその姉妹をけがすであろう。いや、あんたの運命は、きっとこのとおりになるにちがいない。なぜなら、あんたは、きっとその神をあがめることを肯《がえ》んじないだろうし、このわしが盲目の闇にありながらかくも明らかにすべてのことを見とおしたことを、あんたはなげくようになろうから」老人がここまで語ったとき、エキオンの子は、かれを追いはらってしまった。〔五一一〜五二六〕
けれども、かれの言葉は事実によって証明され、その予言は成就した。リベル神は、姿をあらわされた。野山は、祭りの喧噪で鳴りどよめいた。人びとは、われ先にととびだしていく。男も女も、老いも若きも、貴賎をとわず、この新しい祭典に駈けていく。〔五二七〜五三〇〕
「大蛇の子たち、マルスの裔《すえ》(68)よ」と、ペンテウスはさけんだ。「なんという狂気じみた気持にとらわれたものだ! あの真鍮を打ちあわせる|どうばち《ヽヽヽヽ》、管のまがった笛、あやしげな呪文、そんなものに、剣の林も戦いのラッパも槍をきらめかした敵の軍勢をもおそれなかった男たちを、女どもの叫び、酒のあおりたてる狂乱、淫猥な者どもの群れ(69)、やくざな太鼓のひびきに手もなく降参させてしまうほどの、そんな摩訶《まか》ふしぎな力があるだろうか。おお、長老たちよ、はるばる海を渡ってきてこの地にあたらしくテュルス(70)の町を建て、漂泊のペナテス(71)をもここに引きとめておきながら、一戦もまじえずして町をあけ渡すとは、なんとしたことだ。それに、青年たちよ、わしと大差ない血気さかんな年をしている若者たちよ、おまえたちのとるべきものは、武器であって、神酒杖《テュルスス》(72)ではない。おまえたちのかぶるべきものは、兜でこそあれ、木の葉ではない。どうか、おまえたちの血統を思いだしてくれ。単身いくたの戦士をうちたおしたあの大蛇の勇気にならってくれ。かれは、その泉と池をまもるために死んでいった。おまえたちも、おまえたちの名誉をまもるために敵に勝たねばならぬ。かれは、多くのつよい戦士たちを死に追いやった。おまえたちも、女々しい者どもを押しのけて、先祖の誉《ほま》れを護持しなければならぬ。もし運命がわがテバエの町の存続をのぞまないならば、この町の城壁は、武器や兵士たちの鉄火によってこそくずれるがよい。そうなれば、われわれは不幸でこそあれ、罪はないのだ。われわれの運命は、なげかわしいものではあっても、けっしてそれをかくしたり、涙をながして赤面したりする必要はないのだ。ところが、いまやテバエは、戦いも武器も駿馬も好まず、没薬《ミルラ》にぬれた髪や、やわらかな冠や、緋《ひ》いろの衣や、金糸の縫いとりをしたぴかぴかする着物などをよろこぶ懦弱《だじゃく》な小僧(73)のために奪われようとしている。よし、おまえたちは、退《の》いておれ。わしが自分で出かけていって、あの神とやらが父の名(74)を偽《いつわ》っていること、その祭儀とやらもまったくのでっちあげであることを白状させてやろう。ああ、なんということだ。あのアクリシウス(75)でさえ、あの男のいんちきな神性をさげすみ、あいつが近づいてきたらアルゴスの城門をしめてしまったほどの勇気があったというのに、ペンテウスともあろう者が、テバエの全市民とともにあの見も知らぬ渡り者の小僧にふるえているのか!」そういって、かれは部下たちに命令した。「さあ、行くのだ! すぐに行け。そして、あの首領《かしら》をしばりあげて、ここへ引きずって来い。ぬかってはならぬぞ!」〔五三一〜五六三〕
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七 海豚《いるか》になったテュレニアの水夫たち/狂乱のバッカエ
かれの祖父(76)やアタマス(77)や、その他多くの身内の者たちは、ペンテウスを非難し、思いとどまらせようとしたが、無駄であった。かれは、諫《いさ》められたためによけい強硬になり、その激怒は、引きとめられたことによっていっそう刺戟され、かんかんになってしまった。阻止しようとしたことが、かえって逆効果になったのである。なにも邪魔のないときは軽くおだやかな音を立ててせせらぐ谷川の水も、いったん大木の幹や流れをさまたげる岩に堰《せ》かれると、たちまちしぶきをあげてたぎりたち、障害物のためにますますあばれだすものだが、それとおなじことであった。
ところが、かれの部下たちは、やがて血まみれになって帰ってきた。バックスはどこにいるのかとかれがたずねると、バックスは見つかりませんでしたと答え、「けれども、奴の従者で、奴の祭儀とやらを司《つかさど》っておりました者をひとりしょっ引いてまいりました」そういって、かれらは、両手をうしろにしばりあがられたひとりの男を引き渡した。この男は、テュレニア(78)の生れで、バックス神の祭儀の信者であった。〔五六四〜五七六〕
ペンテウスは、怒りにもえた眼で男をにらみつけ、すぐにも処刑しようとはやるこころをやっとおさえつけて、こういった。「死ぬさだめにある者よ、他の者たちにたいする見せしめとなるために死にゆく者よ、おまえの名前と両親の名前、おまえの生国《しょうごく》をいってみろ。そして、なぜこんな新しい祭をはじめるようになったか、その理由を申し立てよ」〔五七七〜五八一〕
すると、この異国の男は、おそれる色もなく、つぎのように答えた。
「わたしの名は、アコエテス(79)と申します。生国は、マエオニア(80)で、両親は、賎《いや》しい身分の者でございます。父は、丈夫な牡牛どもに耕させるような畑も、羊や牛の群れものこしてはくれませんでした。父は貧乏で、糸と針で魚をとらえ、はねる魚を竿で釣りあげることを生業《なりわい》にしておりました。この仕事が父の全財産なのでございました。わたしにこの仕事を教えてくれるとき、父はこう申しました。『わしの仕事の後継者にして相続人よ、わしのあたえるこの財産を受けとるがよい』ですから、父が亡くなりましたとき、水という財産のほかになにひとつのこしてくれませんでした。それが、遺産と申すことのできるすべてでございました。ところが、わたしは、いつまでもおなじ岩にへばりついているのがいやになりましたので、たくみな手で舟の舵《かじ》をとることをおぼえまして、オレヌス(81)の山羊座の雨をもたらす星のことや、タユゲテ(82)、ヒュアデス(83)の諸星、大熊座、それに風の住家や舟に適した港のことなどを習いました。
ところが、ある日のこと、デロス島へまいります途中で、キオス島(84)に近づき、右手へ舵をとって岸につきますと、舟から身がるにとび降りて、しめった砂をふみしめました。そして、一夜をそこであかしたのでございますが、翌朝、曙光が東の空を赤紫いろに染めはじめましたころ、わたしは起きあがって、ほかの連中に新鮮な水を舟に積みこむようにと命じ、水のあるところへ行く道を教えてやりました。わたし自身は、小高い丘にのぼって、風の具合などを見ておりましたが、やがて仲間たちを呼びあつめて、舟に帰りました。すると、『おい、いま帰ったぞ!』というさけび声がしました。声の主《ぬし》は、仲間のなかでいちばん年長のオペルテスでした。かれは荒野で見つけた獲物だといって、乙女のようなひとりの少年を浜づたいに連れてかえってきました。ところが、その男の子は、酒の酔いと睡む気のために千鳥足よろしく、歩くのがやっとだというような有様でした。わたしは、かれの身なりやら顔つきや歩きぶりをじっと見ていましたが、どうも人間らしいところがひとつもありません。そうおもって、仲間の者たちにこう申しました。『この子のなかにどんな神さまがやどっていらっしゃるのか、わしにはまだわからんが、とにかく神さまがやどっていらっしゃることはたしかだ。おお、どなたかは存じませぬが、どうぞわたしたちとわたしたちの仕事にご利益《りやく》をおさずけください。また、ここにおります連中の非礼をおゆるしくださいませ』すると、『わしらのことなら、お祈りなどしねえでくださいよ』と、帆架《はんか》のてっぺんに登るにも、綱につかまって降りてくるにも、だれよりも早いディクテュスという男が申しました。すると、リビュス、いつも舳先《へさき》に立って行手を見まもっている金髪のメラントゥス、アルキメドンの三人がそれに賛成しました。さらに、声をはりあげて櫂《かい》の拍子をとりながら漕手をはげます役目のエポペウスも賛成し、やがてほかの連中もみなディクテュスの肩をもちました。自分たちのうばってきたものにたいする欲望(85)が、それほどみんなを盲目にしてしまったのでございます。そこで、わたしはさけびました。
『いや、この神聖な積荷(86)で舟をけがしたら承知せんぞ! このことでは、おれが最高の権利をもっているのだ』そういって、舟の入口に立ちはだかりました。すると、みなのなかでもいちばん向こう見ずのリュカバスが、おこりだしました。この男は、いまわしい人殺しの罪で流刑《るけい》に処せられ、エトルリアの町から追い出されてきたのでございます。わたしは抵抗しましたが、若さにまかせたかれの拳《こぶし》に喉もとをつかまれ、もうすこしで海に投げこまれそうになりました。しかし、気をうしないかけながらも、しっかりと綱につかまっていましたので、あやうく助かりました。神をおそれぬ連中は、リュカバスをやんやとはやしたてました。そのとき、とうとうバックスさまは――ええ、そうです、その子供はバックスさまだったのでございます――いかにもこのさわぎで睡む気が消え、酒の酔いがさめて正気にかえったといわんばかりの様子で、こうおっしゃいました。『どうしたの。なぜこんなにわめいているの。聞かせておくれ、舟乗りのおじちゃんたち、どうしてぼくをここへつれて来たの。そして、これからどこへつれていくの』すると、プロレウスという男が答えました。『いや、こわがるこたあねえ。いってえ、おめえはどこの港へ行きたいのか、言ってみな。おめえの好きなところへつれてってやるからな』バックスさまは、おっしゃいました。『ナクソス(87)の方へいっておくれよ。そこにぼくの家があるんだよ。あそこへいけば、おじちゃんたちも親切にもてなしてもらえるよ』そこで悪者たちは、海とすべての神々にかけて、その望みをかなえてやると申しました。それから、わたしに命じて、いろんな色にけばけばしく塗りたてた(88)その舟に帆をはるようにといいつけました。ナクソスは、ちょうど右の方角にあたっておりましたので、わたしがその方に帆をむけますと、いきなりオペルテスがどなりつけました。『なにをしてるんだ、この馬鹿野郎! 気でもくるったのか。左の方(89)へいくんだ』水夫たちの多くは、わたしに眼で合図をしたり、なかにはこっそり自分たちの思惑を耳うちしてくれる者もありました。それを聞いたわたしは、すっかり当惑してしまいまして、『だれなりと、勝手に舵をとるがよい!』といって、わたしの技術をつかって悪事の片棒をかつぐことをことわりました。一同は、わたしをののしり、わいわい文句を言いはじめました。やがて、アエタリオンという男が立ちあがりまして、『おれたちみんなの命は、おまえひとりにかかっているのだぞ!』といって、わたしのかわりに自分で舵をとりました。かれは、しだいにナクソスをあとにして、反対の方向に舟をすすめてまいりました。すると、神さまは、やっと奴らの悪だくみに気づいたようなふりをなさって、そりかえった艫《とも》の上から海をながめながら、涙でつまったような声でこうおっしゃいました。
『ああ、水夫のおじちゃんたち、ぼくに約束してくれたのは、こっちの岸じゃなかったよ。ぼくがたのんだのは、こんなところじゃない。こんなひどい目にあわされるなんて、なにかぼくがよくないことでもしたというの。大人のおじちゃんたちがぼくみたいな子供をだまして、それも、大勢が寄ってたかってたったひとりの子供をだまして、なにが偉いの』わたしは、もうさっきから涙をながしておりました。けれども、罰あたりな連中は、わたしの涙をあざ笑い、ぐんぐんと櫂《かい》を漕いでいきます。その神さまにかけて誓いますが――と申しますのは、わたしにとりまして、この神さまほど身近な神さまはいらっしゃらないからでございます(90)――わたしの申しあげます物語は、とてもありそうにないことのようにおもわれましょうが、真実ほんとうにあったことなのでございます。
さて、そうしているうちに、舟は突然、陸上の舟台に固定されたみたいに、うごかなくなってしまいました。一同は、びっくりして懸命に漕ぐやら、帆をはるやらしまして、櫂と帆のふたつを使ってなんとか舟を走らせようとしましたが、常春藤《きずた》の蔓が櫂に巻きついてしまいました。と見るまに、蔓はあたり一面にうねうねと伸びひろがって、その重たげな房で帆もおおってしまいました。神さまご自身はどうしていらっしゃったかと申しますと、額に房のついたぶどうの蔓をまきつけて、手にはおなじくぶどうの葉のまきついた杖をふりまわしていらっしゃいました。そのまわりには、虎や山猫、それに斑点のある怖ろしい豹などのまぼろしの姿がひかえていました(91)。水夫たちは、気が狂ったためか、それとも、こわくなったのでしょうか、いっせいに立ちあがりました。すると、まずメドンという男のからだがまっ黒になり、その背中は外側へとびだして、弓型にまがりはじめました。リュカバスはこれを見て、『きさまは、なんと妙な姿になってしまったのだ』と言いかけましたが、言いおわらないうちに、口が大きく裂け、鼻はまがって、からだじゅう一面にかたい鱗につつまれてしまいました(92)。また、リビュスは、うごかなくなった櫂をなんとかうごかそうとしておりますうちに、手がみるみる小さく縮みだして、もう手ということはできず、はっきりと鰭《ひれ》のようなものになってしまいました。さらに別の男は、ねじれた大綱の方に手をのばそうとしましたが、すでに腕がなくなっていて、手足のなくなったからだごと海のなかに落ちてしまいました。その尾の先は、半月の弦の両端のような恰好にまがっていました。まわりには、海に落ちた連中が跳ねまわっては、おびただしい水しぶきをとばし、浮きあがったかとおもうと、また水にもぐり、輪舞のように踊りくるい、ずんぐりした胴体でふざけまわり、吸いこんだ海の水を大きな鼻の孔からふうっと吹きだすのでございました。こうして、いままでおりました二十人のうち――舟にはそんなに大勢乗っていたのでございますが――残ったのは、わたしひとりになってしまいました。わたしは、ただもうおそろしくて、そこに立ちすくんだまま、こころも空《うつ》けてぶるぶるとふるえておりますと、神さまは、『なにもこわがることはない。安心してディア(93)の島へむかうがよい』と、元気づけてくださいました。こうして島に着きますと、わたしはバックスさまにおつかえする身となり、いまではそのお祭をつかさどらせていただいておるのでございます」〔五八二〜六九一〕
このとき、ペンテウスはこういった。「おまえの長たらしい話に耳をかしてやったのも、ひょっとしたら聞いているうちにおれの怒りがやわらぐこともあろうかと考えたからだ。しかし、みなの者ども、さあ早くこいつをとらえろ。さんざん拷問で苦しめた上、ステュクス(94)の闇に投げこんでしまえ!」〔六九二〜六九五〕
部下たちは、さっそくこのテュレニアのアコエテスを引きたてていき、頑丈な牢屋にとじこめた。ところが、命じられたとおり残忍な拷問の道具に使う鉄や火の準備をととのえているあいだに、牢屋の扉がひとりでにひらき、だれも解いてやらないのに、その手から鎖がほどけ落ちてしまったということである。〔六九六〜七〇〇〕
エキオンの子(95)は、それでもまだ強情をまげなかった。こうなったらもう部下に行けといいつけないで、じぶんでキタエロン(96)の山へ出かけていった。そこは、祭儀のためにえらばれた場所で、バックスの女信者たち(97)の歌や甲《かん》だかい声がなりひびいていた。血気さかんな軍馬が進軍ラッパの真鍮のひびきを聞いて勇みたつように、ペンテウスも、あたりの空気をどよめかすこの叫び声にすっかり興奮し、きこえてくる喧噪は、かれの怒りをふたたびあおりたてた。〔七〇一〜七〇七〕
この山の真中に、周辺を森でかこまれ、樹木のない、八方から見わたせる草原があった。ここでかれが祭の様子を不敬な眼でながめていると、まっ先に母(98)がかれを見つけた。母は、狂気にかられたように駈けよるなり、神酒杖《テュルスス》をふるって息子をめった打ちにした。「ふたりの妹たちも来ておくれ! 大きな猪が畑を荒しまわっているよ。退治しなきゃだめだよ!」かの女がこう叫ぶと、熱狂した全群集が、たちまちかれひとりをめがけて殺到し、寄ってたかっておののくかれを追いかけた。ペンテウスは、すっかりおじけづいて、罰あたりな言葉もいわなくなり、わが身を責め、自分の罪をみとめた。そして、満身に傷を受けながらも、
「おお、助けてください、アウトノエ(99)の叔母さん! アクタエオンの霊を思いだして、どうかわたしをあわれんでください!」しかし、叔母には、アクタエオンがだれのことかもうわからなかった。かの女は、哀願する甥の右腕を引きちぎってしまった。すると、こんどはイノ(100)が左腕を引きちぎった。あわれなペンテウスはもはや母にさしのべる腕がなくなってしまったが、それでも胴ばかりになったからだを母の方にむけて、こうさけんだ。「ああ、おっ母さん、これを見てください!」しかし、母のアガウェはそれを見ると、大きな叫び声をあげ、頭をのけぞらし、髪をふりみだして、息子の首を胴から引っこぬくなり、血みどろの手でそれをふりかざしながら、「さあ、みなさん、見てください。この勝利はわたしの手柄ですよ!」秋冷にふれてわずかに残った梢の葉がたちまち風に吹きはらわれるよりもはかなく、ペンテウスの五体は、これらの残忍な手にひき裂かれてしまったのだった。〔七〇八〜七三一〕
このいましめに教えられて、イスメヌス(101)の女たちは、このあたらしい祭をほめたたえ、この神に燻香をささげて、その神聖な祭壇をかざるようになった(102)。〔七三二〜七三三〕
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巻三の註
(1)クレタ島の山。ここではクレタ島の意。
(2)海神ネプトゥヌスとリビュアとの子、ポエニケ(フェニキア)のテュルスまたはシドンの王、エウロパ〔巻二(174)〕とカドムスとの父。リビュアはエパブス〔巻一(135)〕の娘であるから、アゲノルはイオの孫にあたる→巻一(109)(134)
(3)アゲノルとテレパッサとの息子〔巻二(174)〕、ギリシアに渡り、テバエ市を建設する。ギリシアに文字を伝えた人とされている(ギリシアのアルファベットは、フェニキア文字に由来する)
(4)ボエオティアは、「牛の国」の意で、中部ギリシアの地方をさす。この町は、のちテバエ(ギリシア語ではテバイ)と名づけられるが、エジプトや小アジアにも同名の町があるので、「ボエオティアの」といったのであろう。なお、テバエも、シリア語で「牛の町」の意だという。
(5)ポエブス(アポロ)の神託を受ける聖所は方々にあったが、なかでも最も有名なのは、デルピ〔巻一(66)(80)〕の近くのパルナッスス山中の洞窟であった。この洞窟はそこから湧きでている泉とともにカスタリアの洞窟あるいは泉とよばれた。
(6)→巻一(75)
(7)ポキス〔巻一(63)〕南部の町、パノペウスともいう→巻八(79)
(8)ローマの軍神、ギリシアのアレスにあたる。ユピテルとユノとの子、凶暴で理非をわきまえず、おなじ軍神でありながら、アテナ(ミネルウァ)女神が戦争の知性面をつかさどるのにたいして〔(12)、巻二(119)(161)〕、かれは戦いのための戦いを好む。カドムスの妻になるハルモニア(17)は、かれとウェヌスとの娘。なお、ここに出てくる大蛇は、ピュトンのこととも考えられる→巻一の四三八行以下および(78)(80)(81)
(9)カドムスの一行をいう→巻二(175)
(10)大熊座と小熊座のあいだにのびた竜座。
(11)カドムスが後年妻のハルモニアとともに蛇に変身する運命を予言したもの〔巻四の五六三行以下〕
(12)パラス・アテナ女神(ミネルウァ)は、英雄や勇者の守護神であり、かれらをみちびく知恵の女神である。
(13)古代の劇場では、幕は舞台の下においてあって、芝居がすむと上に引きあげられた。幕があがるにつれて幕にえがかれた人物の絵がしだいにあらわれてくる有様を、ここでいっている。
(14)カドムスが播いた大蛇の歯からうまれた戦士たちをスパルトイ(ギリシア語で、播かれた者、の意)という。その生残りのひとりであるエキオンは、兄弟たちとともにカドムスを助けてテバエの町を築いた。カドムスの娘アガウェ(18)を妻とし、ペンテウス(65)の父となる。
(15)→巻二(167)
(16)カドムス。
(17)「魅力」の意で、愛と美の女神、ギリシアのアプロディテにあたる。ユピテルとディオネ(ティタン神族のひとり)との娘。一説によると、サトゥルヌスに男根を切断されたウラヌス〔巻一(22)〕の精液が海にひたたり、その泡からうまれたとされる〔巻四(35)〕ユピテルは、びっこの醜男である火神ウゥルカヌス〔巻二(163)〕にこの美女神を妻としてあたえた。かの女は、マルスと密通して(巻四の一七一行以下)、娘ハルモニアをうみ、これがユピテルのはからいでカドムスの妻となった。この結婚にあたって神々は、長衣と頚飾りとをハルモニアに贈ったといわれる。これらの贈物はその後ふたりの子孫に数奇な運命をもたらすことになる→巻九(84)(85)(87)(89)、巻一(84)
(18)カドムスとハルモニアとのあいだには、アウトノエ、イノ、アガウェ、セメレの四女と息子のポリュドルスがうまれた(いずれも後出)
(19)カドムスの娘のひとりアウトノエとその良人アリスタエウス(ポエブスの息子)との子、ディアナ女神の怒りをうけて鹿に変身する。
(20)ボエオティアの古い住民の名。その若者とは、アクタエオンのこと。
(21)→巻二(15)
(22)太陽の神。
(23)つぎに出てくる泉も、ガルガピエとよばれ、ディアナ女神の聖泉であった(場所はボエオティア)
(24)袖なしの短かい肌衣は、狩猟の女神としてのディアナ〔巻一(87)〕およびその女従者たちのいわば制服である。
(25)ディアナ。
(26)クロカレとともに、いずれもディアナに仕える妖精たち。ネペレは「雲・霧」、ヒュアレは「草」、ラニスは「莢《さや》」、プセカスは「疾駆する」、ピアレは「したたる」の意。
(27)ディアナ→巻一(125)
(28)大いに驚いたとき、また悲しいときに女たちは胸をたたく→巻二(92)
(29)アクタエオン→(19)
(30)以下は、アクタエオンの猟犬の名前。
(31)クレタ島の首都。
(32)コリントゥス湾にのぞむ都市。
(33)→(1)
(34)ユノ女神。
(35)牡牛に化けたユピテルに愛されたエウロパのこと〔巻二(174)および八四三行以下〕
(36)カドムスの娘のひとり(18)、ユピテルに愛されて酒神バックス(ディオニュソス(67)をうむ。
(37)→巻一(25)
(38)アルゴリス〔巻一(108)〕の東海岸にある有名な湯治場。
(39)稲妻、雷電。
(40)→巻一(38)。なお、正しくはステュクス河神は女神で、オケアヌスとテテュスとの娘とされている〔巻二(11)〕かつてユピテルがティタン神族と戦ったとき〔巻一(24)〕、神々のなかでステュクスが最初にユピテルに味方したので、ユピテルはその功にむくいるため、神々が誓言するさいはステュクスの水にかけて誓わせるようにし、誓言のさいイリス〔巻一(59)〕に命じてその水を汲んで来させた。この誓いを破った者は一年間飲食と呼吸を、九年間神々との交わりを禁止される。
(41)愛の絆の意。
(42)テュポンともいわれ、タルタルスとガエアとの子で〔巻一(23)〕、人と獣との混合である巨大な怪物(台風の語源といわれる)。ユピテルと争い、雷電に打たれて、アエトナ(エトナ)火山の下敷きになった。後出のレルナのヒュドラ〔巻九(11)〕、ケルベルス〔巻四(86)〕、キマエラ〔巻六(79)〕らの怪物は、かれとエキドナ〔巻四(98)〕との子とされる。
(43)→巻一(53)
(44)セメレはアゲノルの孫にあたる。
(45)カドムスの娘のひとり(18)
(46)インドにあるとされた山の名。幼児バックスをそだてたこの妖精たちは、アトラスとポレイオネとの娘たちであるヒュアデス(単数ヒュアス)であるといわれる〔巻一(117)(119)〕。かの女たちは、姉妹のプレイアデスとおなじく七人で、のちユピテルに召されてヒアデス星団となった(牝牛座の頭部にある群星)
(47)母のセメレの腹からと、ユピテルの股間からと二度うまれた。
(48)テバエの盲目の予言者。古代における最も有名な予言者で、多数の予言が伝わっている。スパルトイ(14)のひとりウダイオスの後裔、父はエウエレス、母はテバエの妖精カリクロ〔巻二(134)のカリクロとは別人か〕
(49)一対九の割合で女性の快楽の方が大きいというのが、かれの答であったという。
(50)→巻一(65)
(51)ボエオティアの水の妖精たちのひとり。ケピスス河神とのあいだに美少年ナルキッススをうむ。
(52)→巻一(75)。その河神はナルキッススの父となる。
(53)ボエオティアに棲む森の妖精。ナルキッススにたいする恋のために憔悴し、ついに肉体をうしなって、声だけになる。
(54)ユノ女神。
(55)点火しやすいように、炬火にはしばしば蝋をぬったり、硫黄をつけたりした。
(56)アッティカ北部の一地方、復讐の女神ネメシスの有名な神殿があった。ネメシスは、人間の増長と非礼にたいする神々の報復を擬人化した女神で、ニュクス(夜を擬人化した女神)の娘とされる。
(57)アエガエウム(エーゲ)海の小島、大理石の産地として有名。
(58)バックスもアポロも青年神で、ふさふさとした髪をなびかせていたとされる。
(59)→巻一注(115)
(60)森や樹の妖精のこと(複数はドリュアデス)、ハマドリュアスとおなじ→巻一(121)
(61)水仙(ナルシス)
(62)ティレシアス→(48)および三二三行以下。
(63)北部ペロポネススの地方。転じてギリシアの意。
(64)スパルトイのひとり→(14)
(65)エキオンとアガウェ(18)との息子、テバエの王。カドムスは、生前よりこの孫に王位をゆずっていたとも、カドムスの息子ポリュドルス(18)を追って王位についたともいう。
(66)ティレシアスは、ユノに罰せられて盲目であった。
(67)本来はイタリアの古い農耕と豊饒の神であるが、バックス(バッコス)と同一視される。ユピテルとセメレとの息子であるこの新しい神は、ギリシアではディオニュソスとよばれ、バックスはリュディア語(小アジア)から来た名称。
(68)この表現は、テバエの人びとがマルスの大蛇の歯からうまれたスパルトイの子孫であることをいっている→(8)(14)
(69)バックス神に扈従するサテュルスたちをさす→巻一(42)
(70)→巻二(175)。テバエの建設者カドムスは、ポエニケから亡命ないし移住してきたので、このようにいったもの。ただし、カドムスの亡命に同行したポエニケ人たちはマルスの大蛇にことごとく殺されたはずで(四九行)、一般のテバエ市民はポエニケ人ではないから、この表現はすこし辻褄があわない。
(71)→巻一(51)。国外に亡命・移住する者は、その家神たち(ペナテス)像をもたずさえていくものとされ、この家神たちがポエニケからの移民者たちとともに放浪していたのを、テバエの町を建設してそこに安置したとの意。
(72)つたやぶどうの蔓をよじりあわせ、にぎりのところに松の実をつけた長い杖で、テュルススとよばれ、バックス神の信者たちの標識。
(73)バックス神。
(74)バックスの父はユピテルである。
(75)アルゴス王アバス〔巻四(110)〕の息子、黄金の雨となったユピテルに愛されるダナエの父〔巻四(111)〕、したがって英雄ペルセウスの祖父。バックス嫌いで知られ、バックスをアルゴスから閉めだした(巻四の六〇七行以下)
(76)カドムス→(65)
(77)風神アエオルス〔巻一(56)、巻四(93)〕の子、ボエオティアの王、カドムスの娘のひとりイノ〔バックス神の養育者(18)〕の良人、ペンテウスの伯父。
(78)エトルリア(イタリア半島の北部、いまのトスカナ地方)のこと〔巻一四(98)〕なお、この男については(90)を見よ。
(79)「安らぎなき者」の意、舟乗りの仕事をあらわす名。
(80)小アジアのリュディア地方→巻二(78)
(81)アエトリア(コリントゥス湾の北岸地方)の町の名。幼児ユピテルをその乳でそだてたアマルテアという山羊は、のち天に召されて山羊座となったが、このアマルテアはオレヌスにすんでいたのでこう形容したのである。
(82)アトラスの娘のひとり〔巻一(117)〕、プレアデス星座のひとつ。
(83)→(46)
(84)アエガエウム海の島。ぶどうの栽培で有名。
(85)この子供を売りとばして、儲けを山分けしようという欲望。
(86)神(じつはバックス)のこと。神を誘拐して舟につみこむことは不敬であり、それによってこの舟はけがれる。
(87)キュクラデス諸島〔巻二(82)〕のなかの最大の島、ぶどう酒の産地として有名。
(88)舟の前部には、舟の名前やそれにちなんだ絵、またはその他の絵などを描いてあるのが普通であった。
(89)小アジアのリュディアの方向を意味するらしい。
(90)この言葉からして、この語り手はじつはバックス神であることがわかる。
(91)バックス神は、獅子・虎・山猫・豹をいつも従えている。とくに獅子の背にまたがり、山猫には車を引かせる。
(92)これらの水夫たちは、みな海豚《いるか》になったのであるが、海豚に鱗があるというのはおかしい。
(93)ナクソス島の古名。
(94)→巻一(25)
(95)ペンテウス。
(96)ボエオティアの南部、アッティカとの境をなす山脈。バックスの山とされる。
(97)しばしば狂乱の振舞いによって知られるバックスの女信者たちのことを、バッカエ(ギリシア語ではバッカイ、単数形はバッケ)という。→(102)、巻六(117)
(98)アガウェ→(65)
(99)ペンテウスの母アガウェの姉妹、ディアナ女神に罰せられて鹿に転身したアクタエオンの母→(18)(19)
(100)ペンテウスの叔母のひとり→(18)および三一三行以下。
(101)→巻二(64)。ここでは、テバエの意。
(102)エウリピデスの悲劇『バッカイ(バッコスの狂信女たち)』はこのペンテウスの物語をえがいている。
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巻四
一 ミニュアスの娘たち
ミニュアス(1)の娘アルキトエは、かの神(2)の祭典をみとめないばかりが、不敵にもバックスはユピテルの子ではないと頑固に言いはり、さらにふたりの姉妹も、この不信の態度に賛成した。しかし、祭官は、すべての女たちに、その下女たちとともに仕事をやめ、胸に野獣の毛皮をまとい(3)、たばねた髪をほどいて葉冠をつけ、みどりの葉でかざった酒神杖《テュルスス》を手にして祭に参加するようにと命じ、もしこの神にさからえば、おそろしい怒りを受けるであろうと予言した。女たちは、老いも若きもこの指図に従って、織機《はた》をおき、籠《かご》をすて、仕事をやりかけのままにして神に香をささげ、バックスの名をとなえ、「ブロミウスさま」「リュアエウスさま(4)」とよび、炎よりうまれたる者、二度うまれたる者、ひとりにしてふたりの母をもつ者とたたえた。また、「ニュセウスさま(5)」「髪ながきテュオネウスさま(6)」「こころ楽しきぶどうを植えし者」「レナエウスさま(7)」「ニュクテリウスさま(8)」「父なるエレレウスさま(9)」「イアックスさま(10)」「エウハンさま」ともよび、なおその上に、おお、リベル神(11)よ、あなたがギリシアの町々でおもちになる数々の名前をこれらの女たちはつけたのでした。あなたの若さは、永遠に褪《あ》せることがありません。あなたは、とこしえに少年でありつづけ、高い天上において(12)見るからに最も美しいお方です。角《つの》をつけずにいらっしゃるときは(13)、あなたの頭は乙女のようです。東方の国々は、遠いガンゲス(14)が赤銅色のインド人たちの国をうるおしているあたりまで、あなたに信従しております。畏怖すべき神よ、あなたは、ペンテウスや双刃《もろは》の斧をふるうリュクルグス(15)を不敬の罰として屠《ほふ》り、チュレニアの水夫たちを波間に投げこまれました。また、あなたは、色あざやかな手綱にかざられた二匹の山猫の首に軛《くびき》をはめられました(16)。あなたのあとからは、あなたの女信者たちや、半人半山羊の神たち(17)や、よろめく足を杖でささえ、驢馬《ろば》のまるい背にあやうくしがみついているあの酔いしれた老人(18)などがついていきます。あなたのいらっしゃるところは、いたるところに若者たちの歓声、女たちの叫び声、手でうち鳴らす罐鼓《かんこ》、ふくらんだ|どうばち《ヽヽヽヽ》、管《くだ》のながい黄楊《つげ》の笛などが鳴りひびきます。〔一〜三〇〕
「われらに恵みと情けをかけたまえ!」テバエの女たちはそう祈って、定められたとおり祭礼をとりおこなった。ただ、ミニュアスの娘たちだけは、祭に行かずに、家にとじこもり、わざと仕事に精をだして神儀をないがしろにし、羊毛を梳《す》いたり、拇指《おやゆび》で糸を撚《よ》ったり、織機《はた》をおったりして、召使いの女たちにも仕事をさせた。やがて、娘たちのひとり(19)が、器用な指で糸をつむぎながら、つぎのようにいった。「ほかの人たちが仕事もしないで、あんな根も葉もないお祭さわぎをしているあいだに、こちらはもっとありがたいパラス女神さま(20)がついていてくださるのですから、いろんな話でもして手のはたらきを楽にしてやりましょう。かわるがわるおもしろい話をして、気ばらしに耳をたのしませましょうよ」
姉妹たちは、この言葉に賛成して、それでは手はじめにあなたからなにか話してほしい、とたのんだ。かの女は、たくさんの物語を知っていたが、そのうちのどれにしようかと思案した。バビュロニアのデルケティス(21)よ、おんみは下半身が鱗につつまれているので、姿を変えて湖のなかをおよいでいるとパラエスティナ(22)の人たちは信じている。そのおんみの話をしようか。それとも、このデルケティスの娘(23)が白い羽毛をまとって晩年を白い塔の上ですごした話をしようかしら。あるいは、ナイアデス(24)のひとりがその歌とつよい薬草の力で若い男たちを口のきけない魚に変えてしまったが、やがて自分もおなじ報いをうけた話がいいかしら。それとも、白い実をつけた木が、血を浴びてから黒い実をむすぶようになった話にしようかしら――。
そんなふうにいろいろと考えあぐんでいたが、とうとうこの最後の話をすることにきめた。というのは、これはありふれた話ではなかったからであるが、あいかわらず羊毛を糸につむぎながら、かの女はつぎのように語りはじめた。〔三一〜五四〕
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二 ピュラムスとティスベ/桑の実
「ピュラムスとティスベ――ひとりは、だれよりも美しい若者で、ひとりは、東方の国のすべての乙女たちのなかで最もすばらしい乙女でした。ふたりは、セミラミスが煉瓦の城壁をめぐらした壮麗な町(25)に隣りあって住んでいました。隣りどうしであることが、ふたりを親しくさせ、やがて恋の最初の芽がめばえはじめました。恋は、日ましに深くなっていきました。このまますすめば、ふたりはきっと結婚の炬火《たいまつ》をもやすであろうとおもわれましたが、父親たちがそれをゆるしませんでした。しかし、いかに父親でも、ふたりの胸がおなじ恋の思いにもえることまでも禁じることはできませんでした。けれども、ふたりの恋の橋渡しをしてくれるような人がひとりもありませんでしたので、たがいに身ぶりや合図で胸のなかを語りあうだけでした。そして、恋の炎は、胸のなかに秘められれば秘められるほど、いよいよはげしく燃えあがりました。
ところが、両家のあいだにある石塀には、それが造られたときからあいていた小さな割れ目がありました。幾百年もの昔から、だれひとりとしてこの割れ目に気づいたものはありませんでした。けれども、恋は、どんなものでもさがしださずにはおきません。ふたりは、ついにこの孔を見つけて、そこを声の通路《かよいじ》にしました。この孔からふたりの甘い恋のひくい囁きは、いつもなんの危険もなく通じあいました。ティスベは塀のこちら側に、ピュラムスはむこう側に立って、たがいに口からもれる吐息を聞きもらすまいと耳をそばだてながら、いくどとなくこう語りあうのでした。『おお、いじわるな石の塀よ、なぜおまえはわたしたちの恋を邪魔するの。ふたりがしっかり抱擁しあうことをゆるしてくれたとて――いいえ、それがあまりだというのなら、せめてふたりの唇がふれあえる程度に開《あ》いてくれたとて、おまえにすればなんでもないことではないか。けれども、わたしたちは、恩知らずではない。こうしてふたりが愛する者の耳にここから言葉をささやくことができるのも、みんなおまえのおかげだと感謝しているのだから』ふたりは、はなれたままこのように語りあうのでしたが、やがて夕闇がせまってくると、たがいに別れの言葉をのべ、めいめい自分の側の塀に、むこう側にはとどくことのない接吻をおしつけるのでした。〔五五〜八〇〕
やがて翌日になって、曙光が夜の星たちを追いはらい、太陽の光が霜の花でおおわれた草の葉をかわかすと、ふたりはまたいつもの場所で逢う瀬をたのしみました。まず小さな声でやるせない思いをながながとささやきかわしていましたが、やがて、夜がしずかになったら見張りの者(26)の眼をぬすんで家を抜けだそう、首尾よく抜けだしたら町からも出ていこう、そして、ひろい野原を逃げていくときにはなればなれにならないように、ニヌス(27)の墓のところで落ちあい、木の下にかくれていようと約束をとりかわしました。といいますのは、そこのすがすがしい泉のほとりに、雪のように白い実をいっぱいにつけた桑の木が立っていたからです。ふたりは、このとりきめに賛成しあいました。ああ、その日の暮れるのがどんなに待ち遠しくおもわれたことでしょう! でも、その日もやがて波間にしずんで、その水のなかから夜がたちのぼってきました。〔八一〜九二〕
さて、ティスベは、暗がりのなかでたくみに戸の蝶番《ちょうつがい》をはずし、家の者の眼をかすめて外に出ると、ヴェールに顔をつつんだまま例の墓のところまで来て、約束の木の下に腰をおろしました。恋がこの乙女をこんなにも大胆にしたのです。ところが、そこへ一匹の牝獅子が、泡ふく口を喰い殺したばかりの牛の血でぬらしながら、泉の水で渇きをいやすためにやってきたではありませんか。バビュロニアの乙女は、月あかりで遠くからそれを見つけ、ふるえる足で近くの暗い洞穴のなかに逃げこみました。が、その拍子に背中からマントをおとし、拾わないでそのままにしておきました。おそろしい牝獅子は、たくさんの水で喉をうるおし、さて森に帰ろうとしたとき、ふと乙女のおとしていったマントを見つけ、血にまみれた口でずたずたにひき裂いてしまいました。〔九三〜一〇四〕
一方、すこしおくれて家を抜けだしてきたピュラムスは、やわらかい砂地の上にまぎれもない野獣の足跡を見つけると、まっ蒼な顔になりました。ところが、さらに血にまみれたマントが見つかりましたので、こう叫びました。『ああ、こうなった以上は、この一夜のうちにふたりそろって死ぬしかあるまい。ぼくたちふたりのうちで、かの女こそ長生きするにふさわしかった! 悪いのは、ぼくだ。かわいそうなティスベ、あなたを殺したのは、ぼくだ。夜中にこんなおそろしい場所にくるようにと言いつけておきながら、ぼくの方がおくれてきたのだから。おお、この岩山に巣くう獅子どもよ、この五体をひき裂き、罪びとのはらわたをそのおそろしい口で喰いつくしてくれ! だが、ぼくは死を口にするだけの卑怯者ではないぞ!』そういって、かれはティスベのマントを拾いあげると、約束の木かげにもっていきました。そして、見おぼえのあるそのマントを涙でぬらし、いくども接吻をおしつけて、『さあ、ぼくの流す血をも吸いこんでくれるがよい!』そう叫ぶなり、腰にさげていた剣をぬいて、ぐさりと横腹につき刺しました。そして、息もたえだえに血みどろの傷口からもう一度剣を引きぬき、そのまま地上に仰向けにたおれました。と、血汐がたかだかと噴きだしました。ちょうど鉛管がいたんで孔があくと、そこから水条が音たかく噴きだし、空中に舞いあがるのとおなじでした。そばにあった木の実は、血しぶきを浴びてどす黒くなり、根は血汐にひたされて、小枝にさがった実を赤紫にそめました。〔一〇五〜一二七〕
そのあいだにティスベは、まだ怖ろしさにふるえてはいましたが、恋人に約束を違《たが》えてはいけないとおもって、洞穴からもどってきました。そして、眼もこころも一心になって、青年のすがたをさがしもとめました。自分がどんなに大きな危険をのがれたかを恋人に話してやりたい気持でいっぱいだったのです。さっきの場所も見つかり、木の枝ぶりも見おぼえがありましたが、その実の色がかの女をまよわしました。木をまちがえたのかしら、と気がかりにおもいました。なおもためらっていると、突然、血にまみれた地面の上でもがいている人間のからだが眼にとまって、おもわず一歩とびのきました。その顔は、黄楊《つげ》よりも黄いろくなり(28)、そよ風が海の面をなでるときに立つさざ波のように、全身がふるえました。しかし、すぐにそれが自分の恋人であるとわかると、はげしい音をたてて罪のないわが腕を打ち、髪をかきむしり、いとしいそのからだを抱きしめました。そして、傷口を涙でみたし、自分の涙と恋人の血をまぜあわし、つめたい顔にいくども接吻しながら、『ああ、ピュラムス、なんという不幸が、あなたをわたしから奪ってしまったのでしょう! ピュラムス、返事をして! あなたの好きなティスベがあなたをお呼びしているのです。ねえ、聞いて! そのぐったりとした頭をもう一度おこして!』ピュラムスは、ティスベという名前を聞くと、すでに死のために曇《くも》った眼をかすかにひらきましたが、ティスベの姿を見さだめると、すぐまた眼をとじてしまいました。〔一二八〜一四六〕
それから、ティスベは、自分のマントとピュラムスの中身のない象牙の剣鞘《けんさや》とに気がつくと、こういいました。『不幸なピュラムス、あなた自身の手とあなたの深い愛情が、あなたの命をほろぼしたのですね。いいえ、わたしだって、おなじことをしてのけるだけの強い手をもっています。それに、愛もありますわ。愛は、わが身に剣をつきさす力をあたえてくれるでしょう。わたしも、死出の旅路のお供をさせていただきます。人びとは、あわれなわたしをあなたの死の原因であり、死の道ずれであったとよんでくれるでしょう。あわれなわたしをあなたから引きはなすことができたのは、死だけでしたが、もうその死でさえも、わたしからあなたを奪いとることはできないでしょう! ああ、お気の毒なお父さまたち、わたしのお父さまとこの方のお父さまは、わたしたちふたりのささげますこの願いをきいてくださいませ――かわらぬ愛とわたしたちの最期とが美しくむすびつけてくれましたこのふたりを、どうぞおなじひとつの墓にうめてくださいますように。それから、木よ、いまはその枝でただひとつの不幸な遺骸しかおおっていないが、やがてふたつの遺骸をおおってくれる木よ、どうかわたしたちの死のかたみをいつまでもとどめ、ふたりの流した血の証拠《しるし》としていつまでもこの悲しみにふさわしい黒ずんだ実《み》をつけていておくれ!』〔一四七〜一六一〕
こういって、ティスベは、自分の胸の下に剣をあてがい、ピュラムスの血でまだあたたかいその刃《やいば》の上にうつ伏せになったのでした。ティスベの祈りは、神々のこころをうごかし、ふたりの父親たちのこころをもうごかしました。そして、桑の実は、熟するころになると黒ずんだ色になり、荼毘《だび》に付したふたりの遺骸は、おなじひとつの骨壷(29)におさめられたのでした」〔一六二〜一六六〕
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三 ウェヌスとマルスとの密通《みそかごと》
かの女がこう語りおえたあと、しばらく間をおいてから、こんどはレウコノエが物語をはじめたので、ふたりの姉妹は、だまって耳をかたむけた。〔一六七〜一六八〕
「天上の光で森羅万象を統《す》べたまう太陽神ソル(30)でさえ、恋には勝てなかったこともあるのです。それで、この太陽神の恋物語をしてあげましょう。ウェヌスとマルスの密通《みそかごと》(31)をいちばん先に見つけたのは、この神さまだということです。ほんとうにこの神さまときたら、どんなことでもまっ先に見つけておしまいになるのです。さて、神さまは、この密通に憤慨して、ユノ女神の息子であるウェヌスの良人(32)に不義の事実とそれがおこなわれた場所を教えてしまいました。ウゥルカヌスは、おもわずかっとなって、ちょうど器用な右手にもっていた細工仕事(33)をとりおとしてしまいましたが、すぐさま眼に見えないほど細《ほそ》い真鍮の鎖と網と罠《わな》をつくりました。そのみごとな細《ほそ》さは、どんなに細い糸にも、また天井の梁《はり》にかけられた蜘蛛の巣にもおとりませんでした。そして、どんなに軽くふれても、ほんのかすかにうごかしただけでも、すぐに反応をしめすようにして、この網を寝床のまわりにたくみに張りめぐらしておきました。やがて、ウェヌスがその情夫といっしょに寝床に入ると、たちまち良人のたくみな仕掛けと精巧な罠にとらえられ、抱きあったまま生捕りにされてしまいました。レムノスの神(34)は、さっそく象牙の扉をひらいて、神々を招じ入れました。不義のふたりは、がんじがらめにされて恥をさらしました。これを見て、こんな恥ならさらしてもいいと言いだす剽軽《ひょうきん》な神々もありまして、一同はどっと笑い興じました。それ以来、この事件は、ながいこと天国の話題になっていました。〔一六九〜一八九〕
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四 レウコトエとクリュティエ
「さて、キュテラ(35)の女神は、やがてこの密告の復讐をしました。女神は、自分の内密な情事をあばいた神を、おなじような恋で罰したのです。ああ、ヒュペリオン(36)のおん子よ、あなたのお姿、あなたの輝き、あなたのまばゆい光も、いまはなんの役にたつでしょうか。といいますのは、その火であまねく地上をこがすあなたが、いまは別の火に胸をこがされていらっしゃるからです。すべてを見るはずのあなたが、いまはただレウコトエ(37)だけしか見ないのです。全世界の上にそそぐべき眼を、この乙女にだけじっとそそいでいるのです。それのみか、いつもより早く東の空にのぼったり、いつもよりおそく西の海にしずんだりして、すっかり乙女に見とれておいでなので、冬の日でさえ長くなるほどです。ときによると、あなたの光が暗くなってしまうこともあります。あなたのこころの病気が光の上にまでひろがっているのです。暗くなったあなたは、人間たちのこころをおそれさせます。地球に近い月のすがたがあなたのまえに立ちふさがった(38)のでないのに、あなたは蒼ざめていらっしゃいます。ああ、こんな蒼ざめた色になるのも、みな恋のしわざです。あなたは、レウコトエただひとりだけに夢中になっておいでです。クリュメネ(39)も、ロドス(40)も、アエアエアの島に住むキルケ(41)の世にも美しい母も、あなたから嫌われながらもあなたの抱擁をしたい、このころひどい傷をこころに受けていたクリュティエ(42)も、もうあなたを引きとめる力をもってはいません。レウコトエが、あなたにこれらの多くの女たちをすっかり忘れさせてしまったのです。この娘は、香料を産する国に類《たぐい》まれなる美人のエウリュノメ(43)を母としてうまれました。けれども、長ずるにしたがって、その母がすべての女たちをはるかにしのいで美しかったように、娘は母よりもさらに美しくなりました。父のオルカムスは、アカエメネス(44)の町々を支配していました。かれは、昔のベルス王(45)から七代目の血統を受けついでいたのです。〔一九〇〜二一三〕
ヘスペルス(46)のかがやく空の下に、太陽神の馬たちの牧場があります。かれらは、青草のかわりに神食《アムプロシア》(47)をたべます。それが、日中の仕事に疲れたかれらのからだを元気づけ、明日の仕事のための英気を養うのです。馬たちがこの神食をたべ、夜がその任務をはたしているあいだに、太陽神は、愛する乙女の部屋へその母エウリュノメの姿になってしのびこみました。見ると、レウコトエは、十二人の召使いの女たちにまるくかこまれて、灯火の下で紡錘《つむ》をまわしながら美しい糸をつむいでおりました。そこで、神さまは、まず母がいとしい娘にするように接吻をあたえてから、こう申されました。『折入って話したいことがあるのですよ。さあ、みなの者、おまえたちは退《さが》って、母が娘と内々の話をするのを邪魔しないでおくれ』召使いたちが言われたとおり部屋から出ていって、ふたりきりになると、神さまは、『わしは、歳月のながい流れをはかる神、この世のすべてのものを見るとともに、すべてのものが見えるように光をあたえる神、いわば世界の眼である。わしの言うことを信じるがよい。わしは、そなたが好きだ』レウコトエは、びっくりしました。そして、はっとしたはずみに、指の力がぬけて、手にしていた糸まき竿と紡錘《つむ》をとりおとしました。けれども、恐怖はかの女をさらに美しくしました。神さまは、すぐさまほんとうの姿といつもの輝かしい美しさをあらわしました。乙女は、この不意の出現におどろきはしたものの、神さまのまばゆいばかりのお姿にうたれて、よろこんで愛撫に身をゆだねてしまいました。〔二一四〜二三三〕
これを知って、クリュティエは嫉妬しました。太陽神は、これまではクリュティエをかぎりなく愛しておられたからです。かの女は、恋仇にたいする怒りにもえ、この情事を方々にふれまわり、レウコトエの父親にまで尾びれをつけて告げ口しました。レウコトエがどんなに哀願し、太陽神の光の方に腕をひろげて、『神さまが無理に言い寄られたのです』と誓言しても、冷酷無残な父親は、情けも容赦もなく地面にふかい穴を掘って娘をうずめ、その上に重たい砂の山をかぶせてしまいました(48)。ヒュペリオンの子は、その光でこの砂の山をやぶり、おお、レウコトエよ、あなたの埋もれた顔が陽の目を見られるように、そこに孔をおあけになりました。けれども、美しい乙女よ、そのときにはもうあなたは土に圧しつぶされた顔をあげるこニができず、血の気のうせたからだになってしまっていたのでした。翼をつけた駿馬たちを馭する太陽神も、あのパエトンが雷火にうたれて死んで以来(49)、こんな痛ましい光景をごらんになったことはなかったといわれています。神さまは、もしできることなら、その光の力でこの冷《つめ》たくなったからだを生命のあたたかさに呼びもどそうとされました。けれでも、運命はこの努力に反対しました。そこで、神さまは、遺骸とその墓の上にかぐわしい神酒《ネクタル》(50)をそそぎかけ、しばらく嘆き悲しんでいましたが、やがてこう叫ばれました。
『いまに天の大気にふれられるようになるぞ!』すると、たちまち神酒《ネクタル》のしみこんだ乙女のからだは溶けうせて、そのかぐわしい香りで土をうるおしました。やがて、その土から、そこに根をおろした香りたかい乳香《にゅうこう》の木(51)がしだいに芽をのばし、ついに、その先が塚をやぶってあらわれたのでした。〔二三四〜二五五〕
さて、クリュティエはどうなったかと申しますと、愛ゆえに嫉妬にかられ、嫉妬のゆえに告げ口をしたのだという言いわけは立ちましたでしょうが、あの光をつくる神さまは、その後二度とかの女のもとを訪ねることなく、かの女とウェヌスの快楽(52)を味わうことをやめてしまいました。それからというものは、かの女は、狂乱の振舞いにおちいり、しだいにやつれていきました。おなじ妖精たちの仲間にもいたたまれなくなり、夜となく昼となく裸身で髪をふりみだしたまま野天の大地の上にすわりつづけていました。九日間のあいだ飲まず食わずで、わずかに清らかな露とみずからの涙で空腹をみたし、その場所から一歩も動こうとしませんでした。そして、天道をわたっていく太陽神の顔ばかりを見つめ、その方に眼をむけたきりでした。そのうちに、伝えるところでは、かの女の手足は、そのまま大地にくっついてしまいました。鉛のように蒼白なからだは、その一部が色のない草と化し、ところどころは赤味をおび、顔は菫《すみれ》によく似た花におおわれました(53)。けれども、根でしっかりと大地につなぎとめられながらも、かの女はいつも太陽のほうをむいていて、こうして姿を変えられてからもしっかりとその愛を胸に抱きつづけているのです」〔二五六〜二七〇〕
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五 サルマキスとヘルマプロディトゥス
レウコノエは、語りおわった。このふしぎな物語は、聞き手たちの耳をひきつけてしまった。そんなことはありえない、と言う者もあれば、ほんとうの神さまならどんなことでもできるはずだ、ただし、あのバックスはそうじゃないけど、と主張する者もあった。さて、レイコノエの話がすんだので、こんどはアルキトエの番になった。そこで、かの女は、織機《はた》にかけた糸のあいだにすばやく梭《ひ》をすべらせながら、つぎのような物語をはじめた。〔二七一〜二七五〕
「ある妖精のために恋仇にたいする怨みから岩に姿をかえられてしまったイダの牧童ダプニス(54)の恋物語は、だれ知らぬ者もないことですから、いまさらそれをむしかえすつもりはありませんけれど、恋の悩みは恋する者をこんなにも苦しめるものなのです。また、むかし自然の法則が異変をおこしたためにシトン(55)が男になったり女になったりで、どちらともつかなかったという話も、やめにしておきましょう。いまは鋼鉄《はがね》になってしまったけれど、もとはおさないユピテル大神の忠実な従者であったケルミス(56)、沛然《はいぜん》と降りそそぐ雨からうまれたクレスたち(57)、さらに、恋人のスミラクスとともに小さな花に変身したクロクス(58)、この人たちの話もしないでおきます。わたしは、もっと珍らしい話をして、あなたがたのこころをひきつけましょう。〔二七六〜二八四〕
いったい、サルマキス(59)はどうしてあんな悪い噂をたてられるのか、その水にふれるとどうして手足の力がぬけてしまうのか、わたしはその話をしましょう。その理由はだれも知らないのですが、この泉のふしぎな力は、世にひろく知れわたっています。〔二八五〜二八七〕
メルクリウスがキュテラの女神(60)によってもうけた男の子は、イダ(61)の山中の洞窟でナイス(62)たちの手でそだてられましたが、その顔つきを見ると、すぐに父母がだれであるかわかりました。名前は、父と母の名前をもらっていました(63)。こうして十五年の歳月がたちますと、少年は故郷の山を去りました。自分をそだててくれたイダの山をあとにし、見知らぬ土地をさまよい、名も知らぬ川をわたり、旅のよろこびに疲れも忘れました。
リュキア(64)の町々をおとずれ、さらにリュキアに隣接するカリアの人たちの町にまいりました。この地でかれはひとつの池を見ましたが、その清らかな水は底まで澄みきっていました。よく池などに生えている葦《あし》もなければ、実のならない藻草も、先のとがった藺《い》もなく、水はあくまですきとおっていました。ただ、この池のまわりには、いきいきとした芝原といつも青々とした草が帯のようにひろがっていました。そこにひとりの妖精が棲んでいましたが、かの女は猟も下手でしたし、弓を引いたり競走したりすることにも慣れていませんでした。ナイスたちのなかで、かの女だけが軽快なディアナ女神(65)の知らない妖精だったのです。人びとの話では、かの女の姉妹たちはいくどとなく、『サルマキスや、投槍や美しい色をぬった箙《えびら》をおもちよ。そんなにぶらぶらしてばかりいないで、たまにははげしい猟でもしてみたらどうなの』といったということですが、それでもやはり投槍や色美しい箙《えびら》をもちもしなければ、狩猟にも参加せず、ぶらぶら遊びくらしていました。そして、ときどき美しい姿態を泉にひたしたり、キュトルス(66)の櫛《くし》でなんども髪をくしけずったり、どんな姿が似合うかと泉の水鏡に見入ったりしていました。ときには、すきとおるような薄帛《うすぎぬ》をまとってやわらかい木の葉やふわりとした草の臥床《ふしど》に寝そべったり、花をつんだりしました。ところが、ある日、こうして花をつんでいたとき、ふと少年のすがたを見とめ、かれを自分のものにしたいという気持にとらわれました。すぐさま少年のそばに駈けよろうとしましたが、そのまえにまず身なりをととのえ、衣裳をあれこれ吟味し、だれの眼にも美しく見えるようにいろいろとおめかしをしました。〔二八八〜三一九〕
さて、それからサルマキスは、少年に声をかけました。『ああ、かわいいひと、あなたは、神さまかとおもえるほど美しいお方です。もしあなたが神さまなら、きっとクピド(67)さまかもしれません。けれども、あなたが人間なら、あなたをうんだご両親は、なんと幸福な人たちでしょう! そればかりか、あなたのご兄弟も、またご姉妹がおありならその方も、あなたに乳房をふくませた乳母も、なんと幸福な人たちでしょう! でも、そういう人たちよりもっともっと仕合せなのは、もしあなたに許嫁《いいなずけ》があればその方ですし、もしあなたがよろこんで結婚の炬火《たいまつ》をもやそうとおもう相手がおありならその方です。あなたにそういう方がすでにおありなら、せめてわたしにもその喜びのおすそわけを味わわさせてくださいな。けれども、もしまだそういう方がないのでしたら、このあたしを妻にして、花嫁の寝床にご一緒に入りましょう!』〔三二〇〜三二八〕
そういって、妖精は口をつぐみました。少年は、顔をまっ赤にしました(といいますのは、恋がなんであるかをまだ知らなかったからです)。顔の赧《あか》らみは、少年をますます美しくしました。その色は、いってみれば、陽あたりのよい枝にたれさがった林檎《りんご》の色や、赤紫にそめられた象牙(68)の色、あるいは、魔祓《まばら》いの銅鑼《どら》の音がむなしくひびくとき白味がかった表面の下に赤らみをおびた月(69)の色にも似ていました。サルマキスは、せめて姉妹のような接吻でもとしつこくせがみ、ついに少年の象牙のような首に腕をまきつけようとしましたところ、少年は、『よしておくれよ。でないと、ぼくはあんたからも、この場所からも逃げていってしまうよ』と大声を出しました。サルマキスは、あわてて身を引くと、『そんなら、知らないひとよ、そんなら、わたしの方から出ていって、ここをあなたにおゆずりしましょう』そういって、なんどもうしろをふりかえりながら、この場所から立ち去るようなふりをして歩いていきましたが、やがて籔のなかに身をかくすと、そこにしゃがんで池の方をうかがいました。すると、少年は、だれもいないこの草原に自分を見ている者はあるまいと安心して、そこいらをぶらぶら歩いていましたが、やがて音をたててたわむれている池の小波にまず足の先だけを、ついで踝《くるぶし》までつけました。すると、ここちよい水の冷たさにさそわれて、すぐさま美しいからだにつけていた軽やかな衣服をぬぎすてました。
これを見て、サルマキスは、すっかりのぼせてしまい、この裸身をだきしめたいというはげしい情欲をおぼえました。くもりなき日輪《にちりん》をもってかがやくポエブス(70)が自分にむけられた鏡からみずからの姿を反射するように、かの女の眼もきらきらとかがやきました。もうこれ以上我慢していることはできず、これ以上悦楽をのばしておくことは耐えられない思いでした。すぐにも少年をだきしめたくてむずむずし、その気持をおさえるのがやっとでした。〔三二九〜三五一〕
少年は、掌で胸をたたくと、ざぶんと水にとびこみました。抜き手を切っておよぐかれのからだが水を透かして見える有様は、まるで象牙細工か純白の百合の花を透明な玻璃《はり》ごしにながめているようでありました。『しめた! もうわたしのものだわ』妖精はこう叫ぶと、すぐさま着物を遠く投げすてて、水のまっ只中にとびこみ、もがく少年をとらえ、むりやり接吻をうばってしまいました。なおも両手をかれの下にまわし、さからう胸をいじったり、あちこちからからだをすり寄せたりしました。かれはしきりにもがいては逃げようとしましたが、ついにかの女はしっかりと抱きしめてしまいました。それは、ユピテル大神の鳥(71)が蛇をとらえ、ぶらさがった相手に頭や足にまつわりつかれ、ひろげた翼に尾をまきつけられるのもかまわずに、大空たかく飛んでいくのに似ていました。あるいは、鳶が大樹にからみつき、蛸《たこ》が海底でとらえた敵を八方にのばした足でがんじがらめにするのに似ていたともいえましょうか。
アトラスの血をうけた少年(72)は、それでも屈しないで、妖精ののぞむ快楽をこばみつづけました。けれども、かの女は、ぐいぐいとからだを押しつけ、全身をぴたりと少年にくっつけるようにして、こういいました。『さあ、いじわる坊や、もういくらもがいたって、逃げられっこないことよ。ああ、神さまたち、どうかわたしの願いを叶えてくださいませ――どのような日もかれをわたしから、わたしをかれから引きはなすことがありませんように!』神々は、この願いをお聞きとどけになりました。といいますのは、ふたりのからだは、そのまま溶けてまじりあい、ついに一体になってしまったからです。ちょうど二本の小枝を樹皮でしばっておくと、のびるにつれてひとつに接合し、一緒になって大きくなっていくのとおなじでした。こうして、しっかりと抱きあったまま一体になってしまうと、ふたりはもうふたりではなく、女とも男とも呼ぶことができない両性のものでありました。かれらは、男と女のどちらでもあり、しかもどちらでもないように見えました。〔三五二〜三七九〕
ヘルマプロディトゥスは、男として水にとびこんだはずなのに、その水のために半分しか男でなくなり、手足の力もなくなってしまったのに気づくと、腕をさしのべて、もはや男らしさのなくなった声でこう叫びました。『お父さま、お母さま、おふたりの名前を受けているあなたがたの息子の願いをお聞きとどけください。この泉にとびこむ男は、あがったときには半陰陽《はんいんよう》になり、この水にふれる者は、女のように力がなくなってしまいますように!』父も母も、両性の姿になった息子の言葉にこころをうごかされ、その願いを叶えてやり、泉にふしぎな魔力をあたえたのでした」〔三八〇〜三八八〕
これで、三人の物語はおわった。けれでも、かの女たちミニュアスの三人娘は、なおも仕事にいそしみ、神(73)をさげすみ、その祭をけがしていた。すると、突然、眼には見えないが、罐鼓《かんこ》が耳を聾せんばかりにひびき、まがった角笛の音が|どうばち《ヽヽヽヽ》のひびきにまじって聞こえてきた。そして、没薬《ミルラ》とサフランの香りがあたりにたちこめると、ふしぎや、織機《はた》はみな緑いろになり、かけてあった布は蔦《つた》のような葉をつけ、あるいはぶどうの葉となり、いままで糸であったものは蔓《つる》と化した。たて糸からは、ぶどうの葉が生え、赤紫いろの織物は、美しいぶどうの房に輝きをあたえた。すでに日は暮れ、昼とも夜ともいえない時刻、光が夕闇に移っていく時刻が近づいていた。
このとき、突如として家が震動するかと見るまに、松脂《まつやに》くさい炬火《たいまつ》がかがやいて、赤味がかった光で家を照らし、野獣たちの幻像《まぼろし》がすさまじい咆哮をあげるのが聞えた。姉妹たちは、逃げ場をもとめて煙につつまれた家のなかを右往左往し、ちりぢりになって炎と光をさけた。そうして隠れ場所をさがしているうちに、皮膜のようなものが小さくなった手足にひろがり、うすい翼が腕をつつんだ。どんなにしてもとの姿が消えてしまったのか、暗闇のなかにいるかの女たちにはわからなかった。かの女たちのからだは、いつのまにか地面から浮きあがっていたが、それは鳥のように羽毛のある翼で飛んでいるのではなく、すきとおった皮膜のような翼で空中にうかんでいるのだった。口をきこうにも、小さくなったからだに釣合ったかすかな声しか出なかったし、悲しみをあらわそうにも、ただキイキイというするどい啼き声を発するばかりであった。いまでも、かの女たちは森に住まないで、人家にねぐらを求めにくる。そして、光をきらって、夜だけ飛びまわる。それで、かの女たちの名前は、「夕ぐれ」という言葉から来ているのである(74)。〔三八九〜四一五〕
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六 狂気に陥ったアタマスとイノ/ティシポネ
そういうことがあって以来、テバエは、全市をあげてバックスの神威をたたえたが、この新しい神の叔母たちのひとりであるイノ(75)は、いたるところでバックスの絶大な力を称揚した。多くの姉妹たちのなかでかの女だけは、自分の姉妹たちの不幸(76)から受けた悲しみ以外に、なんの悲しみも受けていなかったのである。〔四一六〜四一九〕
イノは、自分の子供たちや良人アタマス(77)との結婚生活を自慢し、また、ひとりの神を養い子として育てたこと(78)を得意になって吹聴した。ユノ女神は、この有様を見ると、不機嫌になってこうつぶやいた。「あのふしだらな女(79)のうんだ子でさえ、マエオニアの水夫たちを変身させて海に投げこんだり(80)、母親にその子の内臓をひき裂かせたり(81)、ミニュアスの三人の娘たちのからだに妙な翼を生やしたり(82)する力をもっているというのに、このユノは、受けた侮辱に復讐もできず、ただ泣き寝入りするだけの能しかないのか。こんなことに甘んじていなくてはならないのだろうか。泣き寝入りがわたしの唯一の力なのか。いいえ、いいえ、あの若僧自身(83)が、わたしのなすべきことを教えてくれている。敵からでさえ学ぶことができるものだわ。憤怒にかられたらどんなことでもやってのけられるということを、あの若僧は、ペンテウスのむごい殺し方によって十分すぎるほどはっきりと見せてくれた。イノだって憤怒にかられ、姉妹たちのお手本にならって狂気におちいっていけないわけがあろうか」〔四二〇〜四三一〕
さて、ここに、毒をふくんだ水松《いちい》が小暗い蔭をつくっているひとつの坂道があって、無気味な静寂のなかをはるかに冥府に通じていた。よどんだステュクス(84)が濛気《もうき》を吐きだしている道である。新しく死んだ人たちのたましいや、墓に埋《う》められた人びとの亡霊は、この道をとおって冥界にくだっていく。この荒れすさんだ地方は、いたるところ氷のような蒼白さにおおわれていた。新しい亡霊たちは、ステュクスの町に通じる道がどこにあるか、黒いディス(85)のおそろしい宮殿がどこにあるかを知らない。この広大な町は、そこに通じる数知れぬ道と、八方にひらいたたくさんの門があって、あたかも海があらゆる土地のいくたの河川を併せ呑むように、この冥府は、あらゆる人びとのたましいを受け入れ、どんな大群集が来ても狭すぎるということはなく、人口の増加などすこしも感じない。肉も骨もない、血の気の失せた亡霊たちが、ぞろぞろ歩きまわっている。盛り場にくりだす者もあれば、この地下の王者の宮殿を訪ねる者もあり、むかしの生活を思いださせるようないろんな仕事にたずさわっている者も、また、罪のむくいを受けている者もある。〔四三二〜四四五〕
サトゥルヌスの娘ユノは、天宮を去って、この地下の国に赴こうと決心した。それほど憎しみと怒りにもえていたのである。さて、女神が冥界に足をふみ入れ、その聖なるからだの重みで門の敷居がきしむと、たちまちケルベルス(86)がその三つの頭をもたげ、一時に三つの声で吠えたてた。ユノは、「夜」からうまれた三人の姉妹たち、あのおそろしくも執念ぶかい女神たち(87)を呼んだ。かの女たちは、鋼鉄の閂《かんぬき》でとざされた牢獄の門のまえにすわって、その髪の毛の黒蛇をくしけずっていた。暗闇のなかにユノ女神のすがたをみとめると、三人は腰をあげた。この牢獄は、「劫罰《ごうばつ》の家」とよばれている。そこでは、かのティテュオス(88)が九ユゲルムもある場所に寝かされて、たえずその臓腑を喰い裂かれているし、タンタルス(89)よ、おまえは、水が眼のまえにありながらどうしても口がとどかず、頭上にたれさがった枝から果実をとろうとしても、いつも逃げられてしまう。シシュプス(90)よ、おまえは、すぐまたころがり落ちてくる岩を懸命に押しあげているし、イクシオン(91)は、車輪にしばりつけられてぐるぐるまわりながら、自分を追っかけたり逃げたりしている。また、ベルスの孫娘たち(92)は、自分の従兄弟たちの死に手をくだしたために、すぐに流れてしまう水をやすみなしに汲みつづけている。〔四四六〜四六三〕
サトゥルヌスの娘は、これらの罪人たち、とくにイクシオンを暗い眼つきで見やると、こんどはシシュプスの方に視線を転じて、こういった。「おなじ兄弟でありながら(93)、あの思いあがったアタマスの方はりっぱな宮殿に住み、妻といっしょにいつもわたしをあなどりつづけているのに、どうしてこの男だけが永劫《えいごう》の罰に苦しんでいるのであろうか」それから、復讐の女神たちに、自分の恨みとここへ来たこととの理由をのべ、さらに自分の希望を打明けた。その望みというのは、カドムスの宮殿がほろび去ること、そして、この地獄の姉妹たちがアタマスをそそのかして、なにか罪をおかさせるようにしてもらいたいというのであった。命令やら約束やら懇願やらをいっしょにして、かの女は三人をおだてあげた。ユノの話がおわると、ティシポネ(94)は、あいかわらず乱れた白髪をふりうごかし、口のところにからみついた蛇髪《じゃはつ》をはらいのけながら、「それ以上おっしゃるにはおよびますまい。ご希望のほどは大丈夫お引き受けいたしました。さあ、さあ、一刻も早くこんな荒れすさんだ国を出て、さわやかな天国の空気のなかへ帰っていかれるがよろしい!」〔四六四〜四七七〕
ユノは、よろこんで帰っていった。かの女が天国の門に入ろうとすると、タウマスの娘イリス(95)が淨《きよ》めの水を女神のからだにふりかけた。〔四七八〜四七九〕
執念ぶかいティシポネは、さっそく血にひたした炬火を手にもち、まっ赤な血のしたたる外套を着、うねうねとした蛇を帯にまいて、その住家を出た。その道づれは、「悲しみ」「恐怖」「不安」、それに、たえず落着きのない視線を走らせている「狂気」であった。やがて、かの女はアエオルスの息子(96)の家の門口に立った。すると、門柱はふるえ、ぞっとするような地獄の蒼白さに扉は色をうしない、太陽も顔をそむけたといわれる。このおそろしい有様を見て、アタマスの妻はおじけづき、アタマスも恐怖にみたされた。ふたりは、家から逃げだそうとしたが、不吉なエリニュス(97)が行くてに立ちはだかって、出口をふさぎ、毒蛇がまきついている腕をさしのべながら蛇髪をふりうごかした。すると、蛇どもは、急に活発にうごきはじめ、肩の上におちかかったり、胸にからみついたりしながら、しゅっしゅっと音をたて、毒気をはき、舌をしきりにつきだした。ティシポネは、その髪から二匹の蛇を引き抜いて、気味のわるい手でふたりめがけて投げつけた。
蛇どもは、イノとアタマスの胸のあたりをはいまわり、毒気を吐きかけた。ふたりのからだはすこしも蛇に咬まれなかったが、そのこころはおそろしい傷をうけた。エリニュスは、そのほかにもまだ奇怪な毒液をもってきていた。それは、ケルベルスの口から出た泡、エキドナ(98)の毒、落着きのない「妄想」、理性の昏濁した「狂気」「邪心」「涙」「憤怒」、はげしい「殺意」――これらのすべてのものを捏《こ》ねあわせ、それに生血《いきち》をまぜ、まだ青い毒人参でかきまわしながら青銅の大釜で煮つめたものだった。アタマスとその妻が恐怖のため立ちすくんでいると、かの女はふたりの胸にこの劇烈な毒液をそそぎかけて、たましいの底までかきみだした。それから、おなじ円をえがいて炬火《たいまつ》をぐるぐるふりまわすと、炎と炎がすばやく結びあって火の輪ができた。〔四八〇〜五〇九〕
こうしてその使命をはたしおわると、かの女は、意気揚々と偉大なディス(99)の荒涼とした国に帰り、腰にまいていた蛇の帯をといた。〔五一〇〜五一一〕
アエオルスの息子アタマスは、たちまち狂気にとりつかれ、宮殿のまん中で叫んだ。「やい、みなの者ども、この森に網をはれ! いましがた二匹の仔をつれた牝獅子を見かけたぞ!」そういうなり、狂気にかられて、まるで野獣を追いかけるように、自分の妻のあとをどんどん追いはじめた。そして、あどけない微笑をうかべてかれの方に小さな手をさしのべたわが子のレアルクスを母の胸から奪いとるなり、石投げでもするかのように二、三度ふりまわし、かたい岩めがけて投げつけて、無残にも子供の頭をくだいてしまった。すると、こんどは母親が、この悲しみのためか、それとも、体内にまわった毒のためか、はげしい狂気におちいり、おそろしい叫び声をあげながら髪をみだして走りだし、おさないメリケルテス(100)をむきだしの腕にかかえると、「おお、バックスさま!」と絶叫した。このバックスという名前を聞くと、ユノは笑いだして、「おまえの養い子は、ほんとうに結構な神さまだこと!」といった。〔五一二〜五二四〕
さて、海岸に突き出たひとつの大きな岩があった。その麓は、波にあらわれて洞窟のようにくぼみ、そのなかの水は、雨がかからないようになっていた。また、岩の頂上は、空たかくそびえ、広々とした海上に鼻をつきだしていた。イノは、この頂上までよじのぼっていくと(狂気がかの女にそれだけの力をあたえたのである)、すこしも怖れずにわが子もろとも水しぶきをあげて海中に身をおどらした。これを見た女神ウェヌスは、自分の孫娘(101)のあまりにもむごい不幸に胸を打たれて、その叔父(102)にやさしい言葉でたのんだ。「おお、海の大神さま、天上に亜《つ》ぐ支配権をわけあたえられていらっしゃるネプトゥヌスさま! わたくしのお願いしますことは、ずいぶん大きなことでございますが、どうかわたくしの血をひく者たちにお情《なさけ》をかけてやってくださいまし。ごらんのように、イオニアの海に身を投じましたあのふたりを、どうぞあなたの配下の神々のなかに加えてやってくださいませ。このわたくしも、もとはと申しますと、聖なる深海の水の泡でありましたし、わたくしのギリシア名前もそこから由来しているのですから(103)、まんざらお願いする資格がないわけでもございますまい」
ネプトゥヌスは、うなずいてその願いを聞とどけてやった。そして、イノ母子からすべての人間的な要素をぬきとって、おごそかな威厳をさずけ、姿も名前を変えた。こうして、母をレウコテア(104)といい、子をパラエモンという神にしたのであった。〔五二五〜五四二〕
一方、シドンの女たち(105)は、一生懸命になってイノのあとを追っていったが、やがて海に突出した岩のところで足跡が消えているのを見て、てっきり死んだものとおもい、カドムスの一家のために悲しんで胸を打ち、髪をかきむしり、衣服をひきさいた。そして、恋仇にたいしてあまりに非道で残酷すぎるといって、ユノ女神をののしった。ユノは、女たちの侮蔑にたえかねて、「よし、そんならおまえたち自身をわたしの残酷さの最大の見せしめにしてやる!」といった。この呪いは、たちまち事実となった。王妃イノに最も忠実であったひとりの女が、「あたしも、お后《きさき》さまのお供をして海のなかまで参ります」といって、海にとびこもうとしたが、からだが動かなくなって、そのまま岩の上にくっついてしまった。また、別の女は、いつものように胸を打とうとしたが、その腕が硬直しているのを感じた。たまたま海の水の方に手をのばしていた者は、その恰好のまま石と化し、いつまでも海の方に手をのばしていた。髪をつかんで引きむしっていた者は、突然指が髪のなかで石になってしまった。こうして、だれもが、そのときしていた身ぶりのまま岩になってしまったのである。なかには、鳥になった者もあって、いまでもその鳥たちは、おなじ海の上を翼の先でかすめている。〔五四三〜五六二〕
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七 老カドムスとハルモニア
アゲノルの息子(106)は、自分の娘とおさない孫が海の神々の仲間にくわえられたとはゆめにも知らず、悲しみとうちつづく不幸、さらに眼《ま》のあたりに見た数々の変異のためにうちのめされ、こんなに憂《う》き目を負わされるのは自分の運命のせいではなく、この土地につきまとう不吉な因縁《いんねん》のためだとおもい、ついにみずから建設したこの町を立ち去った。そして、ながい流浪のすえ、妻とともにイリュリア(107)の地にたどりついた。〔五六三〜五六八〕
いくたの不幸と寄る年波にいためつけられたふたりは、自分たちの一家をおそった不運を最初から思いおこし、ともに耐えてきたいろいろな苦労などを語りあっていたが、カドムスはこういった。「わしは、シドンからやってきたとき、槍で毒蛇を刺し殺し、その歯をふしぎな種として地中に播《ま》いたが、もしかするとあの蛇は神さまの蛇だったのであろうか(108)。そのことが神々のお怒りにふれ、こうして復讐を受けているのだとすれば、わしも神々にお願いして、みずから蛇となって長々と寝そべりたいものだ」こういって、蛇のようにからだをのばして横たわった。
すると、皮膚がかたくなって、鱗がはえ、黒ずんだからだのあちこちに青味をおびた斑点があらわれるのを感じた。かれは、胸を下にして腹ばいになった。両足は、ひとつに癒着し、だんだん先細《さきぼそ》りして尻尾になった。しかし、まだ手はのこっていた。かれは、のこっているこの手をさしのべ、まだ人間の恰好をしている顔にはらはらと涙をながしながら、「おお、不幸な妻よ、そばへ来ておくれ。わしの姿がまだいくらかのこっているうちに、わしにさわっておくれ。わしの手がまだのこっていて、からだ全体が蛇の姿になってしまわないうちに、この手をにぎりしめておくれ!」かれはさらに言葉をつづけようとしたが、突然舌がふたつに裂けて、口がきけなくなってしまった。そして、悲しみを訴えようとするたびに、しゅっしゅっという声が出るばかりであった。これが、自然がのこしてくれた唯一の言葉であった。
妻のハルモニアは、われとわが胸を手で打ちながら叫んだ。「カドムス、待ってください。まあ、おいたわしい! どうかこんなおそろしい姿をすててしまってください。おお、カドムス、これはなんとしたことです! あなたの足は、どこへいったのですか。わたしがまだこうしてお話しているのに、あなたの肩も、お手も、皮膚の色も、それからお顔も、その他のすべてのものも、みんななくなってしまいました。ああ、神々さま、なぜこのわたしもおなじ蛇に変えてくださらないのですか!」かの女がこのようになげいているあいだに、カドムスは妻の顔を舐《な》め、よく勝手を知っているかのようにその胸のあたりに身をすべりこませ、かの女をだきしめ、いままでのようにいとおしげに首にまといついた。
その場にいた人びと(カドムスの家来たちがいたのだが)は、おそれおののいたが、ハルモニアは、冠毛《とさか》のような前立てをはやしたこの大蛇の首をやさしくなでてやった。すると、突然、ふたりは二匹の蛇と化し、たがいにからみあいながら這いまわり、そのまま近くの森の奥ふかくに身をかくしてしまった。いまでもこの二匹の蛇は、人間をおそれず、危害もくわえない。人なつっこいこの大蛇たちは、自分たちが以前なんであったかをいまもおぼえているのである。〔五六九〜六〇三〕
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八 英雄ペルセウスと巨人アトラス
かわりはてた姿となったこのふたりにとって、せめてもの大きな慰めは、かれらの孫(109)であった。すでに平定されたインドもこの神をうやまい、ギリシアは方々に神殿を建ててかれを祠《まつ》っていた。ただ、おなじ血統をうけたアバス(110)の子アクリシウスだけは、バックスをアルゴスの城壁から閉めだし、かれにたいして武器をとり、かれがユピテルの子であることをあくまでみとめようとしなかった。アクリシウスはまた、黄金の雨に情《なさけ》をうけてダナエがうんだペルセウス(111)をユピテルの子とみとめることをも承知しなかった。しかし、そのうちにアクリシウスも――真理の力はかくも大きいのだ――この神にさからったことや、自分の孫をみとめなかったことを後悔するようになった。
というのは、バックスはすでに天上に座をあたえられていたし(112)、他方ペルセウスは蛇髪の怪物(113)を退治し、このおどろくべき獲物をひっさげて大空の希薄な空気のなかを翼(114)の音もたかく飛翔していたからである。このペルセウスが意気揚々とリビュア(115)の砂漠の上を飛んでいたとき、ゴルゴの頭から血が滴りおちた。すると、大地はそれを吸いこんで生気をあたえ、いろいろの種類の蛇に変えた。それで、この地方は、いまでも蛇が多くて危険なのである。〔六〇四〜六二〇〕
さて、ペルセウスは、そこから方向の一致しないさまざまな風のために広い大気圏をながされ、さながら雨雲のようにあちこちへと運ばれた。かれは、はるかな高みから遠くはなれた地上を見おろしながら、全世界を飛びめぐった。三度も凍りきった大熊(116)を見たかとおもえば、おなじく三度も蟹《かに》(117)の腕を見た。また、いくどか西に運ばれ、東にながされた。そのうちにしだいに日がかたむくと、かれは夜に身をゆだねることをおそれて、アトラスの国にあるヘスペルス(118)の地に降り立って、ルキフェル(119)がアウロラの光をよびだし、さらにアウロラが太陽の車を引きだすまで、そこでしばらく休むことにした。〔六二一〜六三〇〕
この地には、イアペトゥス(120)の息子で、だれよりも巨大な体躯をしたアトラスが住んでいた。かれは、地の果てと、太陽神のあえぐ馬たちを波間に受け入れ、疲れたその車をやすませてやる西の海とを支配していた。そこには、幾千とも知れぬ羊や牛の群が草をはみ、もはや境界を接する隣国というものがひとつもなかった。樹々は、金いろにかがやく葉がおなじく金いろの小枝や果実をおおっていた。ペルセウスは、アトラスにいった。
「おお、ご主人さま、もしあなたが毛並みのよさということを重んじられるのなら、わたしの父はユピテルです。また、立派な所業を尊《とうと》ばれるなら、わたしの手柄はお気にかないましょう。わたしをこころよくもてなして休ませてくださることをお願いします」
ところが、アトラスは、パルナッススのテミス(121)からさずけられた、「アトラスよ、なんじの樹々がその黄金をうばわれる日が来るであろう。そして、その栄誉は、ユピテルの子がにぎるであろう」という古い神託を思いだした。この神託をおそれて、かれはその果樹園に頑丈な塀をめぐらし、一匹のおそろしい大蛇(122)に番をさせ、よその国の者はいっさい園内に入れないようにしていたのである。そこで、ペルセウスにたいしてもこう答えた。
「とっとと出ていけ。さもないと、いい加減な嘘でかためたきさまの手柄だとか、ユピテルとやらも、なんの役にもたたなくなるぞ!」かれは、そういっておどかしたばかりか、手荒なことまでし、なおもためらいながらもやさしい言葉で執拗にたのみこむペルセウスを、その怪力をふるって追いはらおうとした。ペルセウスは、力ではとてもかなわないので(というのは、だれがアトラスの力に勝てるであろうか)、「そんなにつれない扱いをするなら、これをお礼に受けとるがよい」というなり、自分はうしろを向いて顔をそむけながら、左手からメドゥサのおそろしい顔を相手につきつけた。すると、巨漢アトラスは、そのまま大きな山と化してしまった。ひげや髪は森となり、肩や腕は丘陵となり、頭は山の頂きとなり、骨は岩と化した。やがて、そのからだは四方にふくれあがり、いよいよ巨大になって(神々よ、これはおんみたちが定められたことなのだ)、ついに天の全体がその星たちとともにかれの上にのせられるようになったのである(123)。〔六三一〜六六二〕
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九 アンドロメダ/海の怪物
やがてヒッポテスの子(124)は、風どもをふたたびその永遠の牢屋にとじこめ、ルキフェルは、あかるい光をはなちながら高い空にのぼり、人びとに仕事をはじめるように呼びかけていた。ペルセウスはふたたび両の足に翼をつけ、逆鉤《さかかぎ》のついた剣を腰におび、翼を一搏すると、たちまち澄みわたった大空を真一文字にとび去った。やがて眼下や周囲に多くの国々をかすめすぎると、アエティオピアの人びとやケペウス(125)の国が見えた。そこでは、非情なアムモン(126)の命令で、アンドロメダが母の傲慢な言葉のつぐないとして身におぼえのない罰をうけていた(127)。アバスの子孫(128)は、かの女がかたい岩にしばりつけられているのを見ると(もしそよ風がこの乙女の髪をなびかせなかったら、また、あつい涙がその眼にこぼれていなかったら、かれはそれを大理石の像かとおもったことであろう)、われ知らず燃える思いにこころをとらえられて驚いた。そして、あまりの美しさの呆然となり、あやうく空中で翼をうごかすのを忘れてしまうところであった。
かれは、地上に降りると、こういった。「美しい乙女よ、このような鎖は、あなたにはふさわしくない。あなたにふさわしいのは、恋に焦がれる男たちをたがいにしばる恋の鎖です。どうかわたしの問いに答えて、あなたの名前とあなたの国の名をなのり、どういうわけでこんな鉄の鎖につながれているのかを話していただきたい」
アンドロメダは、初めのうちはだまっていた。乙女の身であってみれば、見知らぬ男と口をきくのもはばかられ、もし鎖につながれていなかったら、はにかむ顔を両手でかくしたことであろう。けれども、いまのかの女には、ただ眼にいっぱい涙をうかべることしかできなかった。ペルセウスは、くりかえし訊ねた。すると、乙女は、だまっていては口にいえない罪をおかしたのだとおもわれるかもしれぬと心配になって、ついに自分の国と自分の名前を告げ、母がみずからの美貌を非常に鼻にかけたのだという話をした。ところが、その話がまだおわらないうちに、急にものすごい海鳴りがして、大波のなかから一匹の怪物があらわれ、その胸で広い海面をおおった。〔六六三〜六九〇〕
乙女は、恐怖の声をあげた。そのそばには、悲しみにやつれた父と母がいた。ふたりとも不幸な身の上であったが、ことに母親は、こうなったことの張本人であるだけに、なおさら不幸であった。しかし、かれらは娘に救いの手をさしのべることはできず、この場の有様にふさわしく涙と嘆きにかきくれ、鎖につながれた娘を抱きしめるばかりであった。このとき、異国の男(129)はこういった。
「涙ならば、あとでいくらでもゆっくり流せましょう。けれでも、娘さんを救うのは、いましかできないのです。わたしは、ペルセウスといって、ユピテルと、ユピテルが黄金の雨となって牢屋で愛撫した乙女との息子です。わたしは、あの蛇の髪をしたゴルゴを退治し、また、翼をはばたいて広い荒天を翔《か》けめぐることもしました。そのわたしが娘さんをいただきたいといったら、あなたがたはだれよりもわたしを婿《むこ》にえらんでくださるでしょうね。さいわいにして神々のお恵みが得られたら、わたしはこれまでの数々の手柄にさらに新しい功績をつけくわえようとおもいます。そうです、わたしの勇気によって娘さんの命が救われたら、娘さんはわたしがいただきます――これがわたしの希望条件です」〔六九一〜七〇三〕
両親は、この申し出でを承諾して――というのは、だれが躊躇《ちゅうちょ》などしよう――一切をたのみ、娘ばかりか、この国をもさしあげましょうと約束した。〔七〇四〜七〇五〕
そのうちに、汗まみれの若い水夫たちの腕に押されて、舳《へさき》につけた衝角《しょうかく》で水をきりながらまっしぐらに進んでくる船のように、その巨大な胸で波をおしわけながら、見よ、怪物は岩に近づいてくる。そして、もうバレアレスの投石器(130)を使えば石も空をきってとどくほどの距離にせまったとき、たちまち若者は大地を蹴って、空たかく飛びあがった。怪物は、海面にうつった若者の影を見るや、たけり狂ってその影めがけてとびかかっていった。すると、ちょうどユピテルの愛鳥(131)が木のない野原で鉛いろの背を陽にさらしている蛇を見つけると、背後からおそいかかり、そのおそろしい口に咬みつかれないように鱗のはえた頭部にするどい爪をつきたてるように、イナクスの子孫(132)は、まっしぐらに天空を舞いおりてくるなり、怪物の背におそいかかり、剣をふるって柄まで通れとばかり吼《ほ》えわめく怪物の右肩をふかくつきさした。この深手《ふかで》に怪物は、空たかく立ちあがったり、水ふかくもぐったりして、吠えたてる犬どもに追いつめられた死にものぐるいの猪のようにのたうちまわった。ペルセウスは、翼を使って敵のするどい口をかわしながら、隙《すき》のあるところは、牡蠣《かき》の殻におおわれた背中といわず、脇腹といわず、魚の尾のような恰好をした臀部といわず、いたるところに半月形の剣できりつけた。怪物は、口から深紅の血のまじった水を吐きだした。そのしぶきがかかって、ペルセウスの翼はずぶぬれになった。ぬれた翼には、もはやたよるわけにはいかなかった。そこで、波のしずかなときは海面に頭をあらわし、波がたかまると水中に没してしまう暗礁を見つけると、そこを足場にして左手で岩の端にしっかりとつかまりながら、剣をいくども怪物の腹に突きさした。〔七〇六〜七三四〕
喝采と歓声が岸にどよめき、天にまでとどいた。カッシオペアとケペウスは、たいへんよろこんで、ペルセウスを花婿としてむかえ、かれを一家の恩人であり支柱であるとほめたたえた。この大手柄の原因であるとともに褒賞でもあるアンドロメダも、いまは鎖をとかれて、みなのそばに歩みよった。ペルセウスは、勝利にかがやくその手を水で洗い、かたい小石が蛇髪の首をきずつけてはいけないので、やわらかい木の葉を地面に敷き、さらに海のなかに生えている植物のかるい茎をならべ、その上にポルキュス(133)の娘メドゥサの首をおいた。ところが、いま海からとったばかりの、まだ髄に水分をたくさんふくんでいる茎が、メドゥサの首にふれると、たちまちその妖《あや》しい魔力を受けて、枝も葉も石のようにかたくなってしまった。海の妖精たちは、このふしぎな魔力をためすために、つぎつぎに海中の植物をとってきた。そして、そのどれもが実験に成功したのを見てよろこんだ妖精たちは、これらの枝からとった種子をいくども海のなかに投げこんだ。それで、いまでも珊瑚はこのおなじ性質をもっていて、空気にふれるとかたくなり、水のなかではやわらかな枝であったものも、水からとりだすと石になってしまうのである。〔七三五〜七五二〕
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十 メドゥサ
ペルセウスは、三柱の神々のために芝生に三つの祭壇をもうけた。左の祭壇はメルクリウス神のためのもの、右手のは、戦《いくさ》の女神(134)よ、あなたのためのものであり、中央はユピテルの祭壇であった。そして、ミネルウァには牝牛を、翼をもつ神(135)には仔牛を、神々の王者よ、あなたには牡牛を犠牲《いけにえ》としてささげた。それがすむと、持参金は辞退して、すぐさまかがやかしい武勲の褒賞であるアンドロメダと結婚の式をあげた。ヒュメナエウス(136)とアモル(137)は、ふたりの先に立って炬火《たいまつ》をふりかざして歩いた。人びとは、炎の上にいっぱい香《こう》をふりまき、家々には花環をかけた。いたるところに竪琴や笛やうた声など、この日の喜びを祝うめでたい音楽がなりひびいた。宮殿の門は大きくひらかれ、黄金でかざられた広間をいっぱいに見せていた。豪華をきわめた食卓には、ケペウス王の重臣たちがつらなった。〔七五三〜七六四〕
さて、その饗宴も終りちかくなって、バックス神の芳醇な贈物(138)に人びとが上機嫌になっていたころ、リュンケウスの子孫(139)は、この国の文化や政情、住民たちの気質や習慣などについていろいろと質問をした。宴客たちのひとりは、その問いに答えてから、こういった。「ところで、剛勇無双のペルセウスどの、あなたはどのような大きな勇気をふるい、どのような策略をめぐらしてこの蛇髪の怪物の首を手に入れられたのか――ひとつその話をしてはくださるまいか」〔七六五〜七七〇〕
そこで、アゲノルの子孫(140)は、つぎのように話した。「氷につつまれたアトラスの山麓(141)に、堅固な城壁に庇護されたひとつの場所があります。その入口に、ポルキュスの娘であるふたりの姉妹(142)が住んでおりましたが、ふたりはひとつの眼しかもっていないので、交替でそれを使っておりました。それで、わたしは、そのひとりが相手に眼をわたそうとしたときに、わたしの手を差しだしてまんまと眼をぬすみとってしまいました。それから、荒涼たる森にかこまれた、人里はなれた、道もない岩地をながいあいださまよったのち、ゴルゴたちの住家(143)にたどりつきました。このあたりには、野原といわず、道といわず、メドゥサを見たためにもとの姿をうしなって石になってしまった人間や動物たちがあちこちにころがっていました。しかし、わたしは、左手にもった青銅の楯にうつるメドゥサのおそろしい顔だけを見ていました。そして、ついにメドゥサ自身もその髪の毛の蛇どももふかい眠りにおちいった隙に、その首をひと太刀《たち》で斬りおとしたのです」
こういってから、ペルセウスはつづけて、このメドゥサの血から迅速な翼をもつペガスス(144)とその兄弟(145)がうまれたことを物語り、それからの長い旅路で実際におこった多くの危険や、はるかな天空からどのような海、どのような陸地を見おろしたかということ、また、はばたく翼にのってどのような星に近づいたかということなどを話した。しかし、かれは、人びとが期待していたよりも早く話をやめてしまった。そこで、同席の貴族たちのひとりが口をひらいて、姉妹たちのなかでなぜメドゥサひとりだけが蛇のまじった髪の毛をしていたのだろうか、とたずねた。すると、ペルセウスは、こう答えた。
「あなたのお尋ねは、お話するにふさわしいことです。あなたが不審におもわれることの起りは、こうなのです。メドゥサは、もとはたぐいないほどの美貌の持主でありまして、多くの求婚者たちの垂涎《すいぜん》のまとになっていました。なかでも、その髪の毛ほど美しいところはありませんでした。これは、たしかに見たという人たちの口から直接聞いたことです。ところが、あるとき、ミネルウァの宮殿で、海の王者ネプトゥヌスがかの女を手ごめにしてしまったということです。すると、ユピテルの娘(146)は、顔をそむけて、その清浄な眼を楯でおおいましたが、このようなふしだらな行ないが罰せられずにすむわけはなく、女神はメドゥサの髪を蛇に変えてしまったのです」そういうわけで、いまでも女神は、みずから作りだした蛇を胸の正面にまといつかせて(147)、おののく敵を恐怖でふるえあがらせている。〔七七一〜八〇三〕
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巻四の註
(1)ボエオティアの古都オルコメヌスの伝説上の王、ネプトゥヌスの子(一説では孫)。ミニュアデスとよばれる三人の娘レウコノエ、アルシッペ、アルキトエがあった。なお、オルコメヌス一帯の住民のことを、この王にちなんでミニュアス人という。
(2)バックス。
(3)バッカエ〔バックスの女信者たち→巻三(97)〕は、豹その他の動物の皮を身にまとい、ふりみだした髪に蔦やぶどうの蔓葉をまきつけた。
(4)いずれもバックス神の異名。前者は「あらくれ騒ぐ者」、後者は「憂いを消す者」の意。なお、以下につづく呼称については、巻三の三〇八行以下を参照。
(5)「ニュサの山で育った者」の意→巻二(46)。
(6)「テュオネの子」テュオネは、バックスの母セメレがのち天上に召されてからの名前。→(112)
(7)「ぶどうをしぼる者」
(8)「夜にあがめられる者」(バックスの祭は、夜おこなわれる)
(9)「歓呼するもの」
(10)「さけぶ者」。エウハンもおなじ。
(11)→巻三(67)
(12)→(112)
(13)バックス神は、自然の生産力の神・豊饒の神ともされ、ときには牡牛の姿で考えられたり、牡牛の角をもつ者とも呼ばれた。
(14)ガンジス河。
(15)トラキアの王。バックス神とその乳母たちをトラキアより追いはらった。バックスは、海にのがれてテティス女神(ネレイデスのひとりで、英雄アキレスの母。〔巻一(62)、巻八(73)〕に救われたが、かれはこの不敬罪のために盲目になりやがて死んだという。
(16)→巻三(91)
(17)サテュルスたち→巻一(42)
(18)バックス神の養育者で随伴者とされるシレヌスのこと。本来はサテュルスとおなじ山野の精で、馬の耳や脚・尾などをもった、ひげをはやした醜い老人とされ、また、酔っぱらいの老人としても、音楽好きの老人としても表現され、ときには複数でも考えられた。→巻十一の九〇行以下。
(19)アルシッペ→(1)
(20)パラス・アテナ(ミネルウァ)は、糸つむぎやはた織りなどの技芸の女神でもある。
(21)シリアの豊饒の女神で、デルケトまたはアタルガティスともよばれ、人魚の姿をしていると考えられた。セミラミスの母。なお、「バビュロニアの」というのは、作者の間違い。
(22)パレスティナのこと。
(23)デルケティス女神がシリアの若者と恋におちてうんだ娘で、女神はこれを恥じて湖中に身をかくしたため、鳩にそだてられ、セミラミス(鳩からきた者の意)とよばれた。のち、バビュロニアの女王となり、壮麗な王城を建設し、またエウフラテスとティグリス両河の岸に多くの町をつくった。晩年に鳩になって天にのぼり、神になったといわれる。
(24)→巻一(115)
(25)バビュロニアの首都バビュロンのこと。セミラミス(23)がきずいたこの城壁は、エウフラテス河の両岸にまたがり、長さ六六キロメートル、高さ一〇〇メートル、その上を馬をつけた戦車が七台ならんで走ることができ、二五〇の塔があるという巨大なもので、エウプラテス河にかけられた橋の両端にはそれぞれ王城があり、両者は河の下をとおる地下道でむすばれ、西岸の王城には名だかい空中庭園があった。世界の七不思議にかぞえられるこの城壁は、煉瓦を積みあげて、アスフォルトで接合したものであった。
(26)上流階級の屋敷のまえにはかならず門番がいた。
(27)バビュロンの王、セミラミスの夫君。セミラミスが先死した良人のために建てた霊廟は、高さ一二〇〇メートルの巨大な墳丘で、ニネヴェ(ニニヴェ)の近くにあったといわれる(ここでは、バビュロンの町はずれのように読めるが)
(28)南方の人たちの褐色がかった皮膚は、蒼ざめたとき黄いろくなる。
(29)遺骸は、まず火葬し、近親者がその骨と灰をあつめて土製(あるいは、大理石や真鍮)の容器におさめ、盛大な儀式によって墓に安置するのがつねであった。
(30)ローマの太陽神で、ギリシアのヘリオス神にあたり、ヒュペリオンとテイアとの子(36)。妻ペルセイス〔オケアニデスのひとり→巻二(11)〕とのあいだにキルケ、バシパエの二女、アエエテス、ペルセスの二男(いずれも後出)を得る。
(31)→巻三(8)、(17)
(32)火神ウゥルカヌス→巻二(17)
(33)火神ウゥルカヌスは、また金細工と鍛冶の神でもある。
(34)ウゥルカヌス神→巻二(163)
(35)ペロポネスス半島の南端にある島。ウェヌス女神は、この島の近くの海上で誕生し〔巻三(17)〕、この島に上陸したといわれ、ウェヌス崇拝がさかんであった。
(36)ティタン神族〔巻一(1)〕のひとり、ウラヌスとガエアとの子。姉妹のテイアを妻として、太陽神ソル〔ギリシアのヘリオス(30)〕、月神ルナ(ギリシアのセレネ)、曙光の女神アウロラ〔巻二(15)〕の父となる。なお、ヒュペリオンは、太陽神の呼称となることもある。
(37)バビュロンの王オルカムスとエウリュノメとの娘。
(38)日蝕のこと。
(39)パエトンの母→巻一(139)
(40)海神ネプトゥヌスの娘で、ロドス島に名をあたえた妖精。太陽神に愛されて、七人の息子たち(ヘリアダエと総称する)の母となる。
(41)伝説上の島アエアエアに住む魔法の女神、ウリクセス(オデュッセウス)の冒険で有名(巻十四の二四八行以下)。その母とは、海の妖精ペルセイス(またはペルセ)のこと→(30)
(42)オケアニデス〔巻二(11)〕のひとりで、海の妖精。太陽神に愛されたが、のちヘリオトロープに変身した。
(43)オケアニデスのひとりであるエウリュノメと同一人物であろうか。だとすると、クリュティエの姉妹になり、クリュティエは、レウコトエの叔母にあたる。
(44)ペルシア王朝の伝説上の始祖。その町々とは、バビュロニアの町々のこと(バビュロニアは、ペルシアの版図であった)
(45)セム族の最高神バアルのギリシア風のよび方(ギリシア語ではベロス)。ギリシア神話では、ネプトゥヌスとニュムペのリビュア〔巻一(135)〕との子で、アゲノルの双生兄弟とされている〔巻三(2)〕。ベルスは、エジプトの王でもあり、バビュロンに植民地を建設し、バビュロン王朝の始祖とも見なされる。
(46)夕べの星(金星)のこと。→巻一(11)
(47)→巻二(19)
(48)ペルシアでは、生埋めの刑罰は普通であった。
(49)→巻二の一行以下。
(50)→巻二(19)
(51)南アジアやアフリカ産のかんらん科の大木からとれる、乳頭状の樹脂、焼くと芳香を発する。
(52)情交。
(53)この花は、ヘリオトロープである(ヘリオスの方を向く者、の意)。なお、このレウコトエおよびクリュティエの物語に出てくる太陽神は、ソル(ヘリオス)であるが、この物語がポエブス(アポロ)に帰せられることもある。
(54)シキリア(シチリア)の羊飼い、メルクリウス〔ヘルメス→巻一(117)〕と妖精との子。妖精のエケナイス(またはノミア)に愛されたが、シキリア王の娘がかれを酒に酔わせて、むりに交わったので、怒ったエケナイスはかれを盲目にした。かれは、自分の悲哀を歌い、ついに岩と化した。かれは牧(人)歌の始祖とされている。オウィディウスがなぜこのシキリアの牧童をイダ(トロイアまたはクレタ島の山)に移したかは不明。
(55)不明。ケンタウルス族〔巻二(13)〕のひとり、または、トラキアのケルソネスス半島の伝説的な王。
(56)ダクテュルスたち(複数ダクテュロイ、クレタ島のイダ山に住む山の精たちで、冶金の術にたけていた)のひとり、幼児ユピテルの子守役。ユピテルの不死性を否定したため鋼鉄に変身させられた。
(57)クレタ島の原住民(複数クレテス)。ユピテルの父サトゥルヌス〔巻一(22)〕は、わが子によって支配権をうばわれるであろうと予言され、うまれる子をつぎつぎに呑みこんでいったので、母のレアは、むつきにくるんだ石を産児といつわってサトゥルヌスにあたえ、ひそかにクレタ島でユピテルをうんだ。このときその産声がサトゥルヌスに聞こえないように、クレスたちは楯を槍でたたいて騒々しい踊りをした。幼児ユピテルの養育者と考えられる。のちプリュギアに移り、バックス神を育てたともいわれる。
(58)若者クロクスは、妖精スミラクスにたいする不幸な恋のためにサフランに変身し、スミラクスも水松《いちい》になった(そのために水松は不吉な植物とされる。四三二行)。
(59)カリア(小アジアの一地方)のハリカルナッススにある泉、またその泉の妖精。
(60)ウェヌスのこと→(35)
(61)トロイアの近くの山
(62)→巻一(115)
(63)メルクリウスとウェヌスとのギリシア名(ヘルメスとアプロディテ)から合成されたヘルマプロディトゥスという名前であった。
(64)小アジアの南西部の地方。
(65)狩猟の女神→巻一(87)
(66)黒海沿岸のキュトルス山中には黄楊《つげ》の木が多い。キュトルスの櫛とは、黄楊櫛の意。
(67)→巻一(84)
(68)このような象牙の飾りを馬の手綱につけた。
(69)古代では、月食は月が呪術にかかったのだとおもい、それを解くには銅鑼を打ちならせばよいと考えた。
(70)太陽→巻一(72)
(71)鷲。
(72)ヘルマプロディトゥスの父ヘルメス(メリクリウス)は、ティタン神族のひとりであるアトラスの娘マイアを母としている。→巻一(117)(119)
(73)バックス神。
(74)ミニュアスの娘たちは、こうもり(ラテン語でvespertilio)になったのであるが、この語はvesper(夕ぐれ)から出ている。
(75)→巻三(18)
(76)バックスの母セメレ、アクタエオンの母アウトノエ、ペンテウスの母アガウェ、この三人姉妹は、いずれもその子ゆえに不幸であったが、イノだけは幸運にめぐまれていた。
(77)→巻三(77)
(78)イノは、幼児バックスの養育者であった(巻三の三一三行)。
(79)バックス神の母セメレ。
(80)→巻三の四八二行以下。
(81)ペンテウスとその母アガウェのこと(巻三の七〇八行以下)。
(82)→三八九行以下。
(83)バックス。
(84)→巻一(25)
(85)冥府の王神プルト〔巻二(81)〕の、ローマにおける別名。→巻五(81)
(86)冥府の番犬。三つの頭をもち、尾が蛇のかたちをし、首のまわりには無数の蛇の頭が生えている青銅の声を持った怪犬。エキドナ(98)とテュポエウス〔巻三(42)〕との子とされる。
(87)復讐の三女神フリアエのこと〔ギリシア名はエリニュエス→巻一(52)〕。三人の名前は、アレクト、ティシポネ、メガエラといい、冥界に住んでいる。普通は、男根を切断されたウラヌスの血が大地に滴ってうまれたとされる。
(88)大地ガエアからうまれた巨人〔巻一(28)〕。ラトナ女神〔巻一(125)〕に暴行をくわえようとしたために、アポロとディアナ(どちらもラトナとユピテルとの子)に射殺され、冥界で二羽のはげ鷹に肝臓を食われる罰をうけた。ユゲルムは広さの単位で、約二反半。
(89)ユピテルとプルト(サトゥルヌスまたはアトラスの娘)との子で、ペロプス(巻六85)とニオベ〔巻六(48)〕の父。小アジアのリュディアあるいはプリュギアのシュルス山付近の王。神々の寵児であったが、人間に神々の秘密をもらしたり、その他の罪のために、地獄におとされ、首まで水につかり、頭上には果実のなった枝がたれさがっているのに、それを口にしようとすると、水も果実も遠のいてしまうという、飢えと渇きの罰に処せられた。
(90)アエオルス〔巻一(56)〕の子でエピュレ(コリントゥス)の王。奸智にたけ、多くの悪事をはたらいたために、冥界で急坂を岩を転がしあげる仕事を課せられ、もうすこしで頂上に達するところで岩はまた転げおちてしまい、未来永劫にこの徒労な岩運びに従事している。
(91)テッサリアのラピタエ人の王。妻の父を殺して最初の親族殺しとなったが、これをあわれんだユピテルは天上につれていって罪を浄めてやった。ところが、イクシオンは、恩を忘れて、ユノを犯そうとしたので、ユピテルは雲をユノの姿にしてイクシオンと交わらせた。それからうまれたのが、ケンタウルス族である〔巻二(13)〕。ユピテルは、さらに翼のついた火の車にかれをしばりつけて、たえず空中を引きまわした。
(92) ベルス(45)とアンキノエとの子ダナウスには、ダナイデス(単数ダナイス)と総称される五十人の娘たちがあったが、ただひとりをのぞいて(110)、婚礼の夜その花婿たち(いずれも、ダナウスの兄弟アエギュプトゥスの息子たち)を殺したため、死後冥界で孔のあいた容器で水を汲む罰を受けた。アイスキュロスは、この物語にもとづいて三部作悲劇を書き、その第一部『嘆願の女たち』が現存している。
(93)アタマスもシシュプスも、風神アエオルスの息子である。本来ふたりの父のアエオルスは、デウカリオンとピュラ〔巻一(67)〕との孫で、アエオリス族の祖とされているアエオルスであるが、同名のゆえに風神と混同された〔巻六(32)、巻十一(90)〕。かれの妻は、エナレテといい、ふたりのあいだに多くの子供たちがあった。
(94)→(87)
(95)→巻一(59)
(96)アタマス
(97)ティシポネ→(87)
(98)キリキア(小アジアの地方)に住む、上半身は乙女、下半身は蛇の怪物。タルタルスの子〔巻一(23)〕。兄弟のテュポエウスと交わって、ケルベルス(86)、レルナの怪蛇ヒュドラ〔巻九(11)〕、キマエラ〔巻六(79)〕など多くの怪物をうんだ。→巻三(42)
(99)→(85)
(100)前出のレアルクスとともに、アタマスとイノとの子。のちネプトゥヌスのはからいで、母とともに海の神になり、パラエモンとよばれる(イノは、レウコテアとよばれる。五四二行)。
(101)イノのこと。その母ハルモニアは、マルスとウエヌスとの娘。→巻三(17)(18)
(102)海神ネプトゥヌスのこと。かれは、ユピテルの兄弟であるから、ユピテルの娘であるウェヌスの叔父にあたる。
(103)ウェヌスは、海の泡からうまれたともされ、ギリシアではアプロディテとよばれる。→巻三(17)
(104)ローマのお産と発育の女神マトゥタと同一視される。パラエモンも、ローマの港または門の神ポルトゥヌスと同一視される。
(105)テバエの女たちの意。テバエは、シドンからの移住者カドムスの建てた町だから、このような表現をした→巻二(173)、巻三(2)(3)
(106)カドムス→巻三(3)
(107)現在のダルマティアおよびアルバニア地方の古名。
(108)巻三の三〇行以下に出るマルスの大蛇のこと。
(109)バックス神。
(110)アルゴスの王。アエギュプトゥスの五十人の息子たちのうちダナイデス(92)と結婚して殺されずにすんだただ一人であるリュンケウスの子。母は、ヒュペルメストラ。おなじ血統というのは、ネプトゥヌス・アゲノル〔巻三(2)〕・カドムス・セメレ・バックスとつづき、アバスの方は、ネプトゥヌス・ベルス(45)・アエギュプトゥス(92)・リュンケウス・アバス・アクリシウス〔巻三(75)〕とつながる。
(111)アクリシウスは、娘ダナエのうむ子によって殺されるであろうと予言されたので、ダナエを青銅の地下牢にとじこめた。しかし、ダナエを愛したユピテルは、黄金の雨となって屋根からしのびこみ、ダナエと交わった。ここにうまれたのが英雄ペルセウスである。
(112)バックスは、ギリシア各地をその行列によってねり歩いたのち、天上に居住をゆるされた。かれはまた、母セメレをも冥界から天上につれていったといわれ、天上でセメレはテュオネという名をえた。→(6)
(113)ゴルゴたちのひとりメドゥサのこと。髪の毛は蛇で、醜怪な顔をし、それを見た者は、恐怖のあまり石に化するという。ゴルゴたちは、ポルキュスとケト(133)との三人娘で(他のふたりの名は、ステンノ、エウリュアレ)、メドゥサだけが不死でなかった。
(114)ペルセウスも、メルクリウス〔巻一(117)〕とおなじく、足に翼をつけていた。
(115)→巻二(56)
(116)北斗の大熊座。
(117)南天の蟹座。
(118)ローマのウェスペル〔巻一(11)〕、宵の明星。その地とは、西方の意。アトラス〔巻一(119)〕は、世界の西方に住むと考えられ、ヘスペルスもその息子とされる〔普通には、ルキフェルとおなじくアトラエウスとアウロラとの子。→巻二(15)〕
(119)暁の明星〔巻二(16)〕。アウロラは曙光の女神〔巻二(15)〕
(120)→巻一(17)
(121)→巻一(70)。テミスはアポロのまえにパルナッスス山のデルピで神託をさずけていた。なお、つぎの神託は、のち英雄ヘルクレスにより実現する→巻九(43)
(122)アトラス(または、ヘスペルス)の七人の娘ヘスペリスたち(複数形ヘスペリデス)とともにこの黄金のりんごの園をまもっていた竜は、ラドンとよばれ、ポルキュスとケト(133)との、あるいはテュポエウスとエキドナ〔巻三(42)〕との子とされる。
(123)一説によると、アフリカのアトラス山脈のことであるという。
(124)風神アエオルスのこと〔巻一(56)〕。ヒッポテス(「馬を馭する者」の意)は、波浪をつかさどる海神(波頭を馬に見たてた)
(125)ベルス(45)の子、ケペネス人(エティオピア人)の王。
(126)エジプトの神。リビュア(リビア)のシウァのオアシスにあるその神殿は、古くから神託で名高かった。牡羊、または牡羊の頭をもった姿で考えられ、ギリシアではゼウス(ユピテル)と同一視されることもある(巻五の三二八行)。
(127)ケペウスの妻カッシオペアは、美貌をほこり、海神ネレウスの娘たち〔ネレイデス→巻一(62)〕よりも美しいと誇称したので、これを知ったネプトゥヌスは、海の怪物をその国におくり、いろいろの災難を起させた。アムモンの神託をうかがうと、娘アンドロメダを人身御供としてこの怪物にささげよと告げられた。
(128)ペルセウス→(110)
(129)ペルセウス。
(130)→巻二(157)
(131)鷲。
(132)ペルセウスのこと。かれの系図(110)をたどると、ベルスの母はリビュア〔(45)、巻一(135)〕であり、リビュアはイオの子エパプスの娘であり、イオはイナクス〔巻一(108)〕の娘である。
(133)海の老神。ポントゥスと大地ガエアとの子。ネレウス〔巻一(37)〕、タウマス〔巻一(59)〕、ケトらの兄弟。姉妹のケトを妻とし、ゴルゴたち、グライアエ(142)、その他多くの怪物たちをうんだとされる。その娘たちをポルキデス(ポルキュスの娘たち)と総称する。
(134)ミネルウァ(パラス・アテナ)女神。メルクリウスとミネルウァは、ペルセウスの助言者であり、またユピテルは、かれの父でもあり、いかなる祭礼にも欠かせない主神である。
(135)メリクリウス〔巻一(117)〕。ここにあげられた犠牲獣の種類によって三神の序列がわかる。
(136)→巻一(88)
(137)愛の童神クピドのこと。→巻一(84)
(138)ぶどう酒。
(139)ペルセウスのこと。→(101)
(140)ペルセウスは、アゲノルの血統ではないが、その祖ベルスはアゲノルの双生兄弟で、いわば親戚筋にあたるので、このようにいったのである→(45)(110)
(141)アトラスが山になったのは、ペルセウスがメドゥサを退治してからであって(六三一行以下)、このときはまだ山ではなかったはずだが、作者はそれを失念している。
(142)ポルキュスとケトとの娘パムプレドおよびエニュオ。ふたりで一個の眼と一本の歯しかもっていなかった。普通には、デイノをくわえて三人姉妹とされ、グライアエとよばれる(133)。ゴルゴたちの姉妹。
(143)ゴルゴたちは、はるか西方の国、ヘスペリスの園(122)、ゲリュオン〔巻九(36)〕の棲家に近いところに住んでいると考えられた。
(144)メドゥサが、海神ネプトゥヌスによってみごもった(あるいは、メドゥサの血が大地に滴ってうまれた)翼のある天馬〔巻六(37)〕。ユピテルの雷をはこぶ役をつとめ、のち天上のペガスス星座となる。この天馬は、おそらく雲から得られたイメージで、またローマ時代には不死の象徴とされた。
(145)ペガススといっしょにうまれたクリュサオル。オケアニデス〔巻二(11)〕のひとりカリロエと交わって、怪物ゲリュオン〔巻九(36)〕の父となった。
(146)ミネルウァ。
(147)これは、ペルセウスがリビュアより帰ってから、メドゥサの首をミネルウァ(アテナ)にささげたのである。女神は、それを楯《アエギス》の中央にはめこんだ。→巻二(162)
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巻五
一 ピネウスの乱
さて、ダナエの雄々しい息子ペルセウスがケペウスのなみいる臣下たちのまえでこうした物語をしていたとき、突然宮殿の広間のまえに騒々しい群集が押しよせてきた。華燭の典を祝う歌声というようなものではなく、戦いをしかけようとする荒々しいわめき声であった。祝婚の宴は、たちまち上を下への大混乱におちいり、その有様は、いままで静かであった海原がすさまじい突風にかきたてられて、突如としてはげしく波だちさわぐのに似ていたといえようか。〔一〜七〕
群集の先頭に立っていたのは、この騒動の不敵な主謀者であるピネウス(1)で、青銅の穂先をつけた秦皮《とねりこ》の投槍をふりまわしながら、こうさけんだ。「やい、よく聞けよ。おれは、おれのものときまっていた娘を横どりされた恨みをはらしにやってきたのだ。きさまは、翼のある鞋《くつ》とやらをはき、おまけに、黄金の雨に化《ば》けたユピテルまできさまの加勢をしておるそうだが、それくらいのことできさまをとりにがすおれではないぞ!」そういって、いまにも槍を投げつけようとしたとき、ケペウスは、大きな声でさえぎって、「なにをするのだ! 兄弟よ、やみくもに無道な振舞いにおよぶとは、気でも狂ったのか。あれほどの偉大な手柄にたいする、それがお返しなのか。娘の命を救ってくださった恩人にたいする、それがお礼なのか。ほんとうのことをいってきかせると、おまえからアンドロメダを奪ったのは、けっしてこのペルセウスではない。それは、あのネレウスの娘たちの嫉妬(2)であり、頭に牡羊の角をはやしたアムモンであり、また、わしの五体をたらふく食らおうとしてやってきたあの海の怪物なのだ。わしの娘は、人身御供《ひとみごくう》にあげられときに、もうおまえのものではなくなっていたのだ。もっとも、おまえの残忍なこころは、かえって不幸を願い、かの女が死に、わしが悲しむのをいい気味だと待ちかまえておったのかもしれない。かの女がおまえの眼のまえで鎖につながれたというのに、叔父であり許嫁者であるおまえは、それを助けに指一本うごかそうとしなかったばかりか、それだけではまだ不満だとばかりに、他国のお方が救いの手をさしのべてくださったことにさえ因縁をつけ、その方にさしあげるお礼の品まで横どりしようというのか。このお礼がそれほど立派だとおもったのなら、それが鎖にしばられていた岩の上から自分で取ってくればよかったのだ。この方は、それを自分で取ってこられたのだし、そのおかげでわしは老いの身で子なしになるのを救われた。これだけの功労をはたされたのだし、そのまえにお約束しておいたことのなのだから、娘は当然この方のものだ。おまえも、この褒賞をおとなしくみとめるがよい。いいかな。わしらは、なにもおまえからこの方に馬を乗りかえたというのじゃない。この方におすがりしなかったら、娘は怪物の餌食になっていたまでだ」〔八〜二九〕
ピネウスは、この言葉にたいしては一言もこたえず、兄とペルセウスとをかわるがわるにらみつけては、どちらに攻撃をくわえるべきかを決しかねた様子でしばらくためらっていたが、やがて怒りにくるった渾身の力をこめて槍をふりあげると、ペルセウスめがけてはっしとばかり投げつけた。しかし、狙いははずれて、長椅子に突きささった。これを見ると、ペルセウスは、やにわに椅子から立ちあがり、憤怒の形相《ぎょうそう》もすさまじく投げかえした槍は、もしピネウスが祭壇のかげにかくれなかったら、その胸をつらぬくところであった。皮肉にも、祭壇がこの悪人を救ったのである。しかし、槍は無効におわったのではなく、ロエトゥス(3)の額に命中した。かれは、その場にたおれた。仲間の者が槍を骨から抜いてやると、足をばたばたさせて、そばにあった食卓を血まみれにしてしまった。すると、一味の者たちは、おさえきれない怒りに燃えたち、一度にどっと槍を投げはじめ、ケペウスもその婿《むこ》もいっしょに殺してしまえと口々にさけんだ。しかし、ケペウスは、正義や信実、とりわけ客人にたいする歓待をつかさどる神々(4)によびかけて、この騒ぎは自分の本意ではありませんとさけびながら宮殿からのがれ去ってしまった。〔三〇〜四五〕
このとき、戦《いくさ》の女神パラスがかけつけてきて、その楯で弟(5)をかばい、勇気をはげました。ところで、ピネウスの一味のなかに、その名をアティスというひとりのインド人がいた。ガンゲスの流れからうまれたルムナエエという妖精が水晶のような清らかな水底でうんだ子だといわれているが、美しい容姿をし、いかにも若々しい十六歳の少年であった。金の縁どりをした短いテュルス(6)の外套をはおり、立派な衣裳のためになお一層美しく見えた。首には金の環をかざり、ミルラ(7)の香油をふりかけた髪には、まがった飾り櫛《ぐし》をさしていた。かれは、どんなに離れたところにある目標にでも投槍を命中させるのが巧みであったが、それにもまして、弓をひくのが上手であった。このときも、しなやかな弓をきりりとひきしぼっていたが、ペルセウスは、祭壇の中央にあってくすぶっていた一本の薪をとるなり、かれに打ってかかり、目鼻だちもわからぬくらいにその顔の骨を打ちくだいてしまった。かれの一番の親友であり、こころからの友情をいつもささげていたリュカバスというアッシュリアうまれの男は、アティスがその美しい顔を無残にも血まみれにしているのを見ると、おそろしい傷のために絶命しようとしている友のためにはらはらと涙をながし、やがて友がひきしぼった弓を拾いあげて、ペルセウスにむかってこういった。
「さあ、こんどはおれと尋常に勝負をしろ! この子供を殺したことを長くは得意にさせておかぬぞ。たかが子供じゃないか。そんなのを殺したって、きさまの恥にこそなれ、けっして名誉にならぬぞ!」こう言いおわらないうちに、するどい矢は弦をはなれた。が、相手に身をかわされ、矢は着物のひだにつきささっただけであった。アクリシウスの孫(8)は、かつてメドゥサの首をきってその切れ味をためした短剣をふりかざし、たちまちリュカバスの胸に突きさした。リュカバスは、死に瀕しつつ、その眼はすでに死の闇をさまよいながらも、アティスの方をふりかえり、友の方にもたれかかって、死んでもはなれないという喜びを黄泉《よみ》の国までもっていった。〔四六〜七三〕
すると、こんどは、メティオンの子シュエネ(9)のポルバスと、リビュアのアムピメドンとが、戦いにくわわろうとして猛然とおそいかかってきたが、あたり一面をなまあたたかく濡らしている血のりにすべって、ふたりとも倒れてしまった。そして起きあがろうとするところをペルセウスの剣をあび、アムピメドンは、脇腹をえぐられ、ポルバスは、喉《のど》を刺された。アクトルの子エリュトゥスは、両刃の斧を使っていたが、ペルセウスは、かれに鉤《かぎ》のついた剣をふるわないで、近くにあった、浮彫りのしてある、ずっしりと重い混酒器(10)を両手でもちあげて、はっしとばかり投げつけた。相手は、まっ赤な血を吐き、仰向けにたおれると、頭をしたたか床に打ちつけて死んでしまった。つづいて、セミラミス(11)の血筋をひいたポリュダエモン、カウカスス(12)から来たアバリス、スペルキオス(13)の河神の子リュケトゥス、髪をのび放題にしたヘリケス、そのほかプレギュアスやクリュトゥスといった面々が、ひとりのこらずペルセウスに撃ちたおされ、かれは、これらの瀕死体の山を足下にふみにじった。〔七四〜八七〕
ピネウスは、とても近くで戦う勇気がないので、遠くから投槍をなげつけた。槍は的《まと》をはずれて、なんとか戦いにまきこまれまいとしてどちらの側にも味方をせずにいたイダス(14)にあたった。すると、イダスは、おそろしい眼を残忍なピネウスにむけて、
「おお、ピネウス! 覚悟をするがよい。このおれをむりやりに戦いにひき入れたからには、きさまはおれを敵にまわしたわけだ。おれがもらった槍傷のお返しに、きさまもこの槍をうけるがいい!」そういって、からだにささった槍をひきぬいて、すぐさま投げかえそうとしたが、はや手足から血の気がうせて、その場にくずれてしまった。〔八八〜九六〕
いまや、ケペウスの臣下のなかで国王についで高い位にあるホディテスも、クリュメヌスの刃にたおれ、プロトエノルも、ヒュプセウスに討たれたが、ヒュプセウスは、リュンケウスの子孫(15)にたおされた。こうした人たちのなかに、正義を愛し神々を畏敬するエマティオンというひとりの老人がいたが、なにしろ年が年とて武器をとることもできないので、弁舌を武器として戦い、はげしい非難の言葉をあびせ、この罪ぶかい争いを呪った。かれは、ふるえる手で祭壇をしかと抱きしめていたのであるが、クロミスという男が、剣をふるってこの老人の首をはねてしまった。首はそのまま祭壇の上に落ちたが、なおも死にきれぬ舌で呪詛の言葉をはきつづけ、やがて燃えさかる炎につつまれて最後の息をひきとった。〔九七〜一〇六〕
つづいて、籠手《こて》にかけては負けることを知らず、このときも籠手で剣を制しうるものならきっと勝ったにちがいないプロテアスとアムモンのふたり兄弟が、ピネウスの手にたおれ、女神ケレス(16)の祭官で、額に白い紐をまいた(17)アムピュクスも、おなじくピネウスに血祭にあげられた。また、ラムペティデスよ、おまえは、このような荒事には不向きで、七弦の竪琴をかなでて歌を吟じる平和な仕事だけをこととし、このときも歌をうたって宴《うたげ》の席に興をそえるように命じられていたから、護身の用にもならぬ撥《ばち》をもって離れたところに立っていた。すると、ペッタルスは、これを見てあざけるように、「つづきは下界の亡者どもにうたってやるがよい」というなり、左のこめかみに短剣を突きさした。ランペティデスは、ばったりとたおれたが、しだいに力をうしなっていくその指をもう一度弦にあてると、息をひきとりながらも悲しい調べをかなでた。勇猛なリュコルマスは、この仇討ちをせずにはおかなかった。かれは、門の右の扉から丈夫なかんぬきを引きぬくと、ペッタルスの首の真中の骨を粉砕した。ペッタルスは、まるで犠牲の牡牛のように地上にくずおれた。キニュプス河(18)の岸にうまれたペラテスは、自分も左の扉のかんぬきを抜きとろうと懸命になっている最中に、マルマリカ(19)うまれのコリュトゥスという男のなげた槍に右の腕をつらぬかれ、扉に串刺しになった。こうして串刺しになっているところをアバス(20)が剣をふるって腹をえぐったので、かれは腕を門にひっかけたまま、たおれもしないで死んでしまった。ペルセウス側のひとりであるメラネウスと、ナサモニア(21)随一の金持であるドリュラスも、血祭にあげられた。ドリュラスは、土地をたくさん所有していて、だれひとりとしてかれほど広大な農地の持主はなく、かれほど香料の収穫の多い者もなかった。なげられた槍は、急所であるかれの鼠蹊《そけい》部に斜《ななめ》に命中した。この槍をなげたバクトラ(22)のハルキュオネウスは、ドリュラスが末期《まつご》の喉をごろごろとならし、白眼をむいているの見て、「きさまの広大な領地のうち、きさまが永遠の眠りにつく土くれだけはくれてやるわ」といって、血の気のうせたその屍体をうちすてていってしまった。アバスの裔《すえ》(23)は、ドリュラスの仇を討ってやろうと、まだあたたかいその傷口から槍を引きぬいて、ハルキュオネウスめがけてなげつけた。槍は、相手の鼻の真中にあたって首をつらぬき、串|団子《だんご》のようになった。かれは、さらにフォルトゥナ(24)の助けを得て、ひとりの母からうまれたクリュティウスおよびクラニスという兄弟を一挙にやっつけた。しかも、それぞれ別な殺し方をした。つまり、クリュティウスにたいしては、たくましい腕で奏皮《とねりこ》の槍をふるって両腿を突きさし、クラニスには、投槍を口にかませたのである。そのほかにも、メンデス(25)とケラドンがたおれ、パラエスティナ(26)の女を母とし、父親のわからぬアストレウス、かつては未来を予知するのが得意であったが、このときにかぎって鳥占《とりうらな》い(27)を見そこねたアエティオン、ケペウス王の侍臣トアクテス、父殺しの汚名をうけたアギュルテスなどが討死をとげた。〔一〇七〜一四八〕
ペルセウスは、いままでに見せた大奮闘よりも、さらに多くの敵を相手にしなくてはならなかった。敵は、みなかれ一人をたおそうと狙っている。かれの功績と約束とによってあたえられたものを横どりしようとして徒党をくんだ連中が、四方八方から攻撃をくわえてくる。しかも、かれの味方といえば、誠実ではあるが、あまり力にもならぬ義理の父と、花嫁とその母親とだけであった。この母娘のおろおろと泣きさけぶ声は、宮殿の表庭いっぱいにひびきわたったが、それも剣戟《けんげき》のひびきと死にゆく者のうめき声とにたちまちかき消されてしまった。こうして、ベロナ(28)は、いったん汚された家(29)をさらにおびただしい血の雨でぬらし、つぎつぎに新しい果し合いをそそのかした。そのうちに、ピネウスとその多勢の仲間たちは、ペルセウスひとりをとりかこんだ。かれらの投げる槍の雨は、冬の日の霰《あられ》よりもはげしく、ペルセウスの両脇を、眼を、耳をかすめた。そこで、かれは、一本のふとい石の柱を背にして、うしろからおそわれるのをふせぎ、敵を前面にすえて、むらがる攻撃の手に相対した。左からはカオニア(30)のモルペウス、右からはナバタエア(31)のエテモンが、おそいかかった。ちょうど飢えた虎が左右の谷に牛の群の鳴き声をききつけ、どちらを先におそうべきか迷い、できたら両方を一度にやっつけたいとおもうように、ペルセウスも、左を打つべきか、右を打つべきかと迷ったが、まずモルペウスの足を突きさして片づけた。相手は逃げだしたが、かれは追わなかった。というのは、息つくまもなく、エテモンが、かれの首すじめがけて猛然と斬りかかってきたからである。しかし、力まかせに振りおろした剣は、柱の端にあたってくだけ、はねかえったその切尖《きっさき》は、持主の喉をえぐった。しかし、傷は、まだ致命的というほどではなかった。そして、かれがよろめきながら武器をうしなった腕をむなしくのばしてくるところを、ペルセウスはキュレネの剣(32)でひと突きにつき刺した。〔一四九〜一七六〕
けれども、さすがのペルセウスも、衆寡《しゅうか》敵せず、しだいに力がおとろえていくのを感じると、ついにこういった。「よし、おまえたちがどうしても戦いをやめないのなら、おれはおれの仇敵の力をかりよう。みなのなかで、おれの味方をしてくれている者は、顔をそむけているがよい!」そういって、かれは、ゴルゴの頭をつきだした。すると、テスケルスは、「そんなインチキな妖術でおどかそうなんて、おれには通用するものか」といったが、必殺の槍をなげようと手をあげた瞬間、かれはその姿勢のまま大理石の像と化してしまった。そのすぐ近くにいたアムピュクス(33)は、勇気にみちたペルセウスの胸に剣を突きさそうとしたが、その右手は、まさに攻撃をくわえようとした恰好のままこわばり、突くにも引くにも動かなくなった。さらに、みずから七つの口をもつナイルの河からうまれたと詐称し、楯に金や銀で七つの流れを彫りこんでいるニレウスは、「やい、ペルセウス、おれさまの血統をよく考えてみろ。こういう由緒あるお方の手にかかって殺されることをありがたくおもって、せめて冥土へのみやげにするがよい!」といおうとしたが、終りまで言いおわらぬうちに言葉がとぎれた。なにか言おうとするかのように口をあけてはいるのだが、もはや言葉は出てこなかった。これを見ると、エリュクスは、戦友をあざけって、「きみたちが動けなくなるのは、きみたちが臆病だからで、あのゴルゴに神通力があるからじゃない。さあ、おれといっしょにとびかかって、魔法の武器をつかうあの若増をたたきのめしてしまえ!」とさけびながら、ペルセウスに斬ってかかろうとしたが、たちまち足が地面にこびりついて、武装した石像になってしまった。〔一七七〜一九九〕
これらの連中は、すくなくともその罰をうけてあたりまえであった。ところが、アコンテウスというペルセウス方の兵士は、かれのために戦いながらふとゴルゴを見たばかりに、すぐさまかたい石に化してしまった。アステュアゲスという男は、これを見て、てっきりまだ生きているのだとばかりおもい、長剣をふるって打ってかかった。が、剣はするどいひびきをたてた。唖然としているあいだに、かれもおなじ変身の力をうけ、大理石になったその顔には、おどろきの表情がそのままのこった。そのほか、雑兵《ぞうひょう》たちの名前は、枚挙にいとまがない。二百人は生きのこっていたのだが、二百人ともことごとくゴルゴを見て石になってしまったのであった。〔二〇〇〜二〇九〕
こうなると、ピネウスは、みずからしかけた不正な戦いを後悔しはじめた。といっても、しかし、打つべきどんな手があろうか。どちらを見ても、いろんな姿をした石像ばかりである。かれは、そのなかに自分の部下をみとめて、ひとりずつ名前をよんで、救いをもとめた。また、われとわが眼を信じかねて、近くにいる者を手でふれてもみた。しかし、それはどれも石ばかりであった。そこで、顔をそむけ、降伏したということをしめすために両腕を哀願するように上にあげて、こういった。
「ペルセウス、あなたの勝ちです。どうかあなたのもっているその怖ろしいものをおさめてください。メドゥサとやらが何者であるかは知りませんが、ともかくすべてのものを石にしてしまうその首だけはしまってください。お願いですから、その首を片づけてください。わたしにこの戦いをさせたのは、けっして怨みでも、権力欲でもありません。ただ許嫁《いいなづけ》のために武器をとったにすぎません。あなたの権利は、ご自分の手柄によって得られたもので、時があたえてくれたにすぎないわたしの権利よりも強大です。あなたに譲歩しなかったことを、わたしは後悔しています。おお、世にも雄々しい勇者よ、どうかこの命ばかりはお助けください。ほかのものはすべてあなたにさしあげます!」〔二一〇〜二二二〕
こう言いながら自分の哀願する相手の方を見ることもできずにいるピネウスにむかって、ペルセウスはこう答えた。「ピネウス、見さげはてた卑怯者よ、おれは、おれにできることで、しかも、きさまのような卑怯者には大きな慈悲であるものをきさまにあたえてやろう。なにもこわがることはない。これからはもう刀剣に刺されないようにしてやるのだ。そればかりではない。きさまのためにいつまでも朽ちることのない記念碑を建ててやろう。そして、おれの舅《しゅうと》の邸のなかにいつまでもきさまの姿が残るようにしてやる。そうすれば、おれの妻は、かつての許嫁の姿を見てこころに慰めをおぼえることができようから(34)……」こういうなり、ペルセウスは、ポルキュスの娘メドゥサの首を、ピネウスがおびえた表情で顔をそむけている方向につきだした。ピネウスは眼をもっとそらそうとしたが、はやその首は硬直し、眼をぬらしていた涙は、凝固して石となった。さらに、おびえた顔も、哀願の表情も、降伏をしめす手も、屈従の態度も、ことごとく大理石となって残った。〔二二三〜二三五〕
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二 プロエトゥス
この勝利を得たのち、アバスの子孫(35)は、妻をともなって故郷の町(36)に帰り、不当な扱いを受けていた祖父(37)を救いだし、その仇をむくいるためにプロエトゥス(38)を討った。というのは、プロエトゥスは、兄弟であるアクリシウスを武力で逐《お》いはらい、その城砦をうばいとっていたからである。しかし、その強大な武力によっても、また、不法にも横領した堅固な城砦をもってしても、蛇の髪をもつおそろしい眼には勝つことができなかった(39)。〔二三六〜二四一〕
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三 ポリュデクテス
けれども、小さなセリプス島の支配者であるポリュデクテス(40)よ、いくたの戦いによって実証されたこの若き英雄の勇気も、かれの多くの苦難も、おまえのこころをやわらげるにいたらなかった(41)。おまえは、あいかわらずに無慈悲な憎しみをいだきつづけ、おまえの理不尽な怒りは、つきることを知らなかった。それどころか、かれの名声をおとしめ、メドゥサを殺したというのは作りごとにすぎないなどと言いがかりをつけた。そこで、ペルセウスは、「それでは、いつわりのない証拠を見せてくれよう! ほかの者どもは、眼をふさぐがよい!」というなり、メドゥサの首をつきつけて、この王の顔を血の気のない石塊と化してしまった(42)。〔二四二〜二四九〕
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四 ムサたちをとらえようとしたピュレネウス
さて、女神トリトニア(43)は、ここまで、黄金の雨によりうまれた弟のペルセウスにつきそってきたが、いまや雲に姿をかくしてセリプスの島を去り、キュトヌスやギュアルス(44)の島々を右にみながら、いちばん近いとおもわれる道をとおって、テバエの町および九人の乙女たち(45)の住むヘリコンの山へといそいでいった。その山の上に到着すると、そこに降りたって、詩歌の道にすぐれた姉妹たちにむかってこういった。「わたしたちが耳にした噂によると、メドゥサからうまれたあの翼をもつ天馬(46)の蹄《ひづめ》によってあたらしい泉ができたということですね。わたしが来たのも、その泉のためです。ふしぎな泉を見たいとおもったのです。ペガススがその母の血からうまれるところは、まえに見たのですから」〔二五〇〜二五九〕
すると、ウラニア(47)がこたえた。「ああ、女神さま、どのようなご用であっても、あなたがわたくしどもの住居をお訪ねくださいましたことは、ほんとうにうれしく存じます。ところでその噂と申しますのは、ほんとうのことで、この泉は、たしかにペガススがつくったのでございます」こういって、かの女は、パラス女神を神聖な泉のところへ案内した。女神は、天馬が蹄で大地を打ってこしらえた泉をあかずながめていたが、やがてまわりにある神さびた古木のしげる森や洞窟や無数の花にかざられた芝原などを見わたして、このような美しい場所でみやびやかな務めにいそしんでいるのは幸福なことだといって、ムネモシュネの娘たち(48)を祝福した。すると、姉妹たちのひとりがこういった。〔二六〇〜二六八〕
「あなたは、勇ましいおこころのゆえにわたくしどもより立派なお仕事に従事していらっしゃいますが、もしそうでなかったとしたら、トリトニアさま、あなたもきっとわたくしどもの仲間にお入りになることでございましょう。ところで、あなたのお言葉は、ほんとうでございます。あなたはわたくしたちの仕事や住居をおほめくださいましたが、まったくそのとおりでございます。ほんとうに、この先も平安な生活をつづけることができますものならば、わたくしたちは幸福な運命にめぐまれたと申さなくてはなりますまい。けれども――ああ、この世にはおそろしい災厄をうけずにすむものはないのでございましょうか――じつは、すべてのことが、わたくしたち乙女のこころを不安におののかせているのでございます。わたくしの眼のまえには、いまでもあのおそろしいピュレネウス(49)の姿が浮かんできて、なごやかな気持をとりもどすことができません。それと申しますのも、あの兇暴な男は、トラキアの兵士どもをひきつれて、ダウリス(50)の町やポキスの野をうばい、不法にもその地を支配していたのです。わたくしたちは、そのころたまたまパルナッススの神殿(51)へまいるところでした。ピュレネウスは、わたくしたちのすがたを見ると、しらっぱくれた様子でわたくしたちの神性にうやうやしく礼をつくして、こう申しました。『ムネモシュネのお姫さまがた(かれは、わたくしたちのことを知っていたのでございます)、しばらくおやすみになってはいかがでございますか。どうかご遠慮なくわたしの家にお入りになって、このひどい天候と雨とをおさけくださいませ(じっさい、そのときはひどい雨が降っていました)。むさくるしい家ではございますが、これまでにもよく神さまがたにお立寄りいただいたものでございます』わたくしたちは、まことしやかな言葉にうごかされ、それに、悪天候で途方にくれていたものですから、つい言われるままに家の表玄関に雨宿りをきめこみました。そのうちに雨もやみ、風も南から北にかわり、青空がきれいに澄みわたって、雨雲は消えました。そこで、出かけようとしますと、ピュレネウスは、急に門をしめて、わたくしたちを凌辱しようとしました。わたくしたちは、翼をつかってあやうくその手をのがれることができました。すると、かれは、わたくしたちを追いかけてくるつもりなのか、城のいちばん高いところにかけのぼってきて、『どこへ逃げていこうと、おれだって追いかけることができるぞ!』とさけぶなり、つい前後をわすれて塔のてっぺんから跳びました。そして、たちまちまっさかさまに地上に墜落し、頭の骨をこなごなに打ちくだき、瀕死のからだを地面にたたきつけて、悪業の血でまっ赤に染めたのでした」〔二六九〜二九三〕
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五 ムサたちとピエリデスとの歌合戦
ムサはなおも話しつづけていたが、このとき空中に羽音がし、木々の梢からうやうやしい挨拶の言葉がきこえた。ミネルウァ女神は、眼をあげて、こんなにもはっきりと語る声はどこから起ったのであろうかとさがして見た。女神は、人間の口から出た言葉にちがいないとおもったのであるが、なんとそれは鳥であった。どんなことでも物真似をする九羽のかささぎ(52)で、木の枝にとまって、自分たちの運命をなげいているのであった。〔二九四〜二九九〕
女神がおどろいて見ていると、ムサはこういった。「ごらんの鳥たちが腕くらべに負けて鳥の仲間に入れられたのも、最近のことなのでございますよ。かの女たちは、ペラ(53)の野に住む裕福なピエルス(54)を父とし、母は、パエオニア(55)うまれのエウイッペでした。この母親は、九度みごもり、九度力づよいルキナ(56)の加護をいのりました。こうしてうまれたこの愚かな姉妹たちは(57)は、自分たちの数をたのんで思いあがり、ハエモニア(58)の多くの町々や、さらにアカイア(59)の多くの町々をとおってこの地にやってまいりました。そして、つぎのように言ってわたしたちに勝負をいどんだのです。『いい加減な歌で無知な人たちをまどわすのはおやめ。さあ、テスピアエ(60)の女神さんたち、もし自信があるなら、あたしたちと腕くらべをおやりよ。声といい、節《ふし》まわしといい、あんたたちに劣りはしないよ。それに、人数もあんたたちとおなじだからね。あんたたちが負けたら、メドゥサの泉(61)とヒュアンテス(62)の泉アガニッペ(63)から立退くのだよ。そのかわり、あたしたちが負けたら、雪におおわれたパエオニア(64)の山々にいたるまでエマティア(65)の野をあけ渡してあげるからね。さあ、妖精たちに立ち会ってもらいましょう!』
わたくしたちとしては、争うなどというのは、いかにもはずかしいことでしたが、かといってそのまま後にひくことは、なおさらはずかしいことにおもわれたのです。行司役にえらばれた妖精たちは、河の流れに誓いをし(66)、岩の上に陣どりました。そこで、くじも引かずに、勝負をしかけてきた姉妹たちのひとりがまず歌いだしました。かの女は、神々と巨人《ギガス》たち(67)との戦いをうたい、巨人たちにありもしない名誉をあたえ、偉大な神々の手柄をけなしました。それによりますと、大地の底からうまれたテュポエウス(68)は、天上の神々をも恐怖におののかせたので、神々はみな逃げだして、疲れきった身をエジプトまで落ちのび、七つの口にわかれたナイルのほとりにたどりついたが、大地の子テュポエウスはそこまでも追いかけてきたので、神々はさまざまな仮の姿に身をやつしてかくれた、というのです。かの女は、さらに語りつづけて、『ユピテルは、家畜の群の頭目になりました(69)。そのために、かれは、リビュアのアムモン(70)の名でよばれ、いまでも曲がった角をはやした姿にえがかれています。さらに、デロスの神(71)は烏《からす》に、セメレの子バックスは山羊に、ポエブスの妹ディアナは牝猫に、サトゥルヌスの娘ユノは雪のように白い牝牛に、ウェヌスは魚に、キュレネの神メルクリウスは紅鶴になったのでした』ここまでうたうと、かの女の口は、その歌ごえを六弦琴にあわせることをやめました。こんどは、わたくしたちアオニア(72)の乙女がうたう番になりました。けれども、女神さま、あなたは、わたくしたちの歌に耳をおかしくださる時間もご意思もおもちでございませんでしょうね」しかし、パラスは、「いいえ、遠慮なさらなくてもよろしいのよ。さあ、あなたがたの歌を順番にきかせてくださいな」といって、森のここちよい木かげに腰をおろした。〔三〇〇〜三三六〕
それで、ムサは言葉をつづけた。「わたくしたちは、カリオペ(73)ひとりにこの歌合戦をひきうけてもらうことにしました。かの女は、やおら立ちあがると、みだれた髪を蔦《つた》でむすび、拇指で鳴りひびく弦の調子をしらべてから、琴のしらべにあわせてつぎのように歌いはじめました」〔三三七〜三四〇〕
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六 プルトの恋/ケレスとプロセルピナ
だれよりも先にまがった鋤で土をたがやしたのは、ケレスさま(74)。だれよりも先に国々に麦や畑の食物をあたえたのも、ケレスさま。だれよりも先に掟をさずけたのも、ケレスさま。あらゆるものが、ケレス女神さまの贈物です。この女神さまをこそ、わたくしは歌いたたえなければなりません。ああ、女神さまにふさわしい歌がうたえますように! ほんとうに、女神さまは、歌をささげるにふさわしいお方です。〔三四一〜三四五〕
巨大なトリナクリス(75)の島は、巨人の体躯の上に積みあげられ、おこがましくも天国をうかがったこのテュポエウスをそのおそろしい重みの下に圧しつけています(76)。テュポエウスは、いくどももがいては、なんとか起きあがろうとするのですが、右手はアウソニア(77)のペロルス岬(78)の下に、左手は、パキュヌス(79)よ、おまえの下になっているし、両脚は、リリュバエオンの岬(80)におさえつけられ、さらに頭部は、アエトナの下敷きになっています。アエトナの下に仰向けに敷かれながらも、テュポエウスは、おそろしい口から砂をとばし、火を吐きだしているのです。かれは、しきりに大地の重石《おもし》を押しのけ、町々や大きな山々をはねのけようともがきます。すると、大地は震動し、物言わぬ死者たちの王(81)も、大地が裂け、大きな割れ目ができ、そこからさしこんでくる陽の光がおののく亡霊たちをおどろかせはすまいかと心配するのでした。〔三四六〜三五八〕
こうした災禍をおそれるあまり、地獄の王者は、その暗闇の世界から出て、黒い馬に引かせた馬車にのり(82)、シキリア島の土台を念入りに見てまわりました。そして、どこにもぐらついた個所がないことを十分にたしかめ、心配の念が消えると、なおもあちこち歩きまわっていましたが、たまたま山の上にすわっていてかれの姿を眼にとめたのは、エリュクスの女神(83)でした。女神は、翼をもったわが子(84)を抱きよせると、こういいました。「わたしの武器であり、腕であり、力であるわたしのクピドよ、だれをも打ち負かすことのできるおまえの矢をとって、宇宙の三つの王国のうち最後のくじをひきあてたあの神(85)の心臓に疾《はや》い矢を射こんでおくれ。おまえの矢は、天上の神々はいうにおよばず、あのユピテル大神をさえ射とめ、さらに海の神々やその支配者であるあの海の大神(86)をもうち負かすことができる。それならば、どうしてタルタルス(87)をうち負かせないことがあろう。なぜおまえはこの母とおまえの版図をさらにひろげようとしないのか。下界といえば、世界の三分の一にもあたるのだよ。それなのに、呑気《のんき》にかまえているものだから、わたしたちは天国でないがしろにされ、わたしの威光もアモルの力も、しだいに小さくなっていくではないか。その証拠に、おまえも知ってのとおり、パラスも狩の女神ディアナも、わたしの言うことをきかなかったし(88)、あのケレスの娘(89)も、わたしたちがこのままにしておけば、いつまでも処女のままでいることだろう。あの娘も、パラスやディアナとおなじような希望をいだいているのだから。さあ、おまえがこの国(90)を愛しているのなら、わたしとおまえとの共有の国の利益のために、あの女神(91)をその叔父にむすびつけておくれ!」ウェヌスは、こういいました。クピドは、箙《えびら》をあけると、母の言いつけどおりに、幾千本もの矢のなかからいちばん鋭い、いちばん狂いのない、いちばん弓によく合うのを抜きだし、膝でささえてしなやかな弓を張ると、芦の鏃《やじり》でもってみごとにディス(92)の心臓を射ぬいたのでした。〔三五九〜三八四〕
さて、ヘンナ(93)の城壁からほど遠くないところに、ペルグスという深い湖水があります。あのカユストロス(94)でさえ、そのしずかな流れのなかに、このペルグスほど多くの白鳥の歌ごえを聞いたことがないでしょう。森が四方から湖水をおおい、その葉群《はむら》でさながら薄紗《ヴェール》のように陽光をさえぎっています。樹々の枝は、涼気をつくりだし、しっとりとした地面には、むらさきの花たちが咲きみだれています。ここには、永遠の春があるのでした。さて、プロセルピナは、この森のなかで遊びたわむれ、すみれや真白にかがやく百合の花を摘んで、乙女らしく嬉々として籠《かご》につめたり、ふところに入れたりしては、友だちのだれよりもたくさん摘みとろうと夢中になっていました。それをたまたまディスがみとめ、恋ごころをおぼえ、たちまちかの女を奪いさらったのです。しかも、ディスの恋ときたら、まったく電光石火のような素早さでした。プロセルピナは、おどろきおそれて、かなしげな声で母や遊び友だちに助けをもとめ、とりわけ母の名をいくども呼びました。かの女の着物は、胸もとのさらに上からさけてしまったので、せっかく摘んだ花がみんな落ちてしまいました。しかし、そこは乙女ごころのあどけなさで、こんなときにも、花をなくしたことを悲しくおもったのでした。誘拐者は、車をはしらせ、馬の名前をいちいち呼びながら、首やたてがみを錆《さび》いろのくすんだ手綱でたたいて駆りたてました。こうして、深い湖をいくつもよぎり、さけた大地の割れ目から湧きたぎっている、硫黄の臭いのするパリキ(95)の沼をこえ、ふたつの海が打ちよせるコリントゥス(96)から出たバッキアダエ(97)の一族が大小ふたつの港にはさまれた町(98)を建設した地方をとおりすぎて、どんどん進んでまいりました。〔三八五〜四〇八〕
さて、キュアネ(99)の沼とピサのアレトゥサ(100)とのまんなかあたりに、ひとつの入江があって、ふたつの岬にかこまれて狭くなっています。ここに、キュアネというシキリアでも有名な水の精のひとりが棲んでいまして、そこの沼もその名前にちなんでキュアネとよばれていました。かの女は、水のなかから腰のあたりまで上体をだして立ちあがり、かどわかされていくプロセルピナの姿をみとめると、「おふたりとも、ここから先へは行かせませんよ。あなたは、ケレスさまの同意がなければ、その乙女の婿にはなれません。その乙女は、たのんでもらいうけるべきで、かどわかしたりしてはなりますまい。わたしのようなつまらない女のことを引合いに出して失礼かもしれませぬが、わたしだって、かつてアナピス(101)に愛を求められました。けれども、わたしがあの人の妻になったのは、あの人の願いにほだされてのことであって、けっしてこの乙女のようにおどかされたからではありません」こういうと、キュアネは、大手をひろげて立ちはだかりました。
サトゥルヌスの子(102)は、もうこれ以上怒りをおさえていることができず、おそろしい馬どもにひと鞭あてると、力づよい腕で王杖《おうじょう》をひと振りして、入江の底ふかくにそれを投げこみました。すると、大地は、この衝撃をうけて、たちまち冥界《タルタルス》に通じる道をひらき、いちもくさんに馳せ下っていく馬車を奈落の奥にのみこんでしまいました。〔四〇九〜四二四〕
キュアネは、女神が奪いさられたことをあわれみ、自分の泉の権利がふみにじられたことを悲しみ、無言のこころに癒すことのできない傷をうけ、日夜涙にかきくれて憔悴し、とうとうかつては自分がその力づよい主《ぬし》であった沼の水にとけてしまいました。みるみるうちに、かの女の手足はやわらかくなり、骨はぶよぶよになり、爪もその硬さをうしなっていきました。いちばん先に水になったのは、からだのなかでも最も細い部分、たとえば、青味をおびた髪の毛とか、指とか、股《もも》とか、足でした。こういうしなやかな細い手足が冷たい水にうつり変るのは、わけのないことだからです。つづいて肩、背、腹、胸などが、きよらかな水となって消えうせました。最後に、生きた血のかわりに、水がそのとけゆく血管のなかを流れると、ついにかの女のものとして手にとることのできるものは、もはやなにもなくなってしまいました。〔四二五〜四三七〕
一方、娘の行方を案じた母神(103)は、陸といわず海といわず、世界じゅうをむなしくさがしまわっていました。まだ露のかわかぬ髪のまま起きあがるアウロラ(104)も、またヘスペルス(105)も、この母が捜索の足をとめているのを見たことがありません。かの女は、アエトナの火で両手に松の炬火《たいまつ》を炎々とともし、それをかざしながら休むまもなく露しげき夜のなかをかきわけていきます。やがて、親切な昼が星の光をふたたびうすれさせると、太陽のしずむ西の国から日出ずる東の国まで、あいかわらず娘をたずねつづけるのでした。〔四三八〜四四五〕
かの女は、旅路の苦労につかれはててはげしい渇きをおぼえましたが、唇をうるおす泉ひとつありませんでした。ちょうどそのとき、わら屋根の小さな小屋が眼にとまりましたので、みすぼらしい戸口をたたきました。ひとりの老婆が出てきて、女神の様子を見、水を求められると、炒《い》り麦をうかしたおいしい飲みもの(106)を出してくれました。女神がこれを飲んでいますと、いかにもきかぬ気らしい顔つきをした男の子が横柄そうにそのまえに立って、食いしんぼうとののしりました。女神はむっとして、なおもへらず口をきいている子供に、炒り麦をまぜた飲みものの残りをあびせかけました。すると、子供の顔は、しみだらけになり、いままで腕としてうごかしていたものは、脚にかわり、こうして変身した肢体に尾がはえました。そして、からだ全体は、たいして悪いこともできないように小さくなり、小さな蜥蜴《とかげ》よりもさらに小さなすがたになってしまいました。これを見ると、老婆は、おどろいて涙をながし、このふしぎな動物に手をふれようとしましたが、それは、たちまち老婆の手をのがれて走り去り、どこかに姿をかくしてしまいました。この小動物は、全身にまだらな斑点があるところから、その外見にふさわしい名前(107)でよばれています。〔四四六〜四六一〕
女神がどんな土地、どんな海をさまよいめぐったかをお話するのは、あまりに冗長になりましょう。世界じゅうにもう探《たず》ねのこしたところはなくなってしまいました。かの女は、ふたたびシカニア(108)の島に帰ってきました。そして、くまなくさがし歩いたあげく、キュアネの沼のほとりにやってきました。もしキュアネが水に変身していなかったとしたら、女神にすべてのことを語ってきかせたことでしょう。しかし、いくら話そうとしても、キュアネにはもう口もなければ、舌もなく、思うことを言いあらわすすべもないのでした。けれども、かの女は、ひとつのはっきりとした手がかりをあたえました。といいますのは、この場所でたまたまプロセルピナは神聖な湖のなかに帯をおとしていったのですが、キュアネは、ケレス女神がよく見知っているこの帯を水の表面に浮びあがらせたのです。
女神はこの帯に気がつくやいなや、娘がかどわかされたことをいまはじめて知ったかのように、みだれはてた髪をかきむしり、いくどとなく胸を打ってなげきました。しかし、娘がどこへいったかは、まだ分りません。女神は、地上のあらゆる国々に非難のことばをあびせ、恩知らずで、穀物の賜物(109)をうける資格がないとののしり、とりわけ娘の失踪の痕跡が見つかったこのトリナクリアの島(110)をうらみました。それで、この島の畑を掘りかえしていたすべての鋤を怒れる手でうち砕き、農夫たちを農場の牛もろとも憤怒にまかせてうち殺し、田畑には人間から託されたものを人間に育て返すことを禁じ、種子はみんな腐らせてしまいました。そのために、世界じゅうに名高かったこの島の豊饒さも、見る影もないものになってしまいました。農作物は、芽こそ出しますが、そのまま枯れ死んでしまいます。ときにはげしい日照りのために、ときには降りつづく雨のためにそこなわれ、星(111)も風も害をあたえ、貪食な鳥たちは、畝《うね》にまかれた種子をついばみ、毒麦や薊《あざみ》、それに根絶やすことのできない雑草類が、小麦をすっかりからしてしまうのでした。〔四六二〜四八六〕
そこで、あのアルペウス(112)に愛をいどまれたアレトゥサ(113)が、エリスの波間から頭をあらわし、額に垂れた濡れ髪を耳の上にかきあげて、こう申しました。「おお、全世界にわたって行方をたずねられている乙女の母にして、五穀の母でもあられるケレス女神さま、どうぞあなたのそのはてしない苦業難行をおやめください。そして、あなたに忠実な大地に当りちらすこともおやめください。この土地には、なんの罪もありません。ただ、お嬢さまが拉致《らち》されるときに、不本意ながらちょっと口を開いただけなのです。わたくしは、なにも自分の生れ故郷のためにお願いしているのではございません。わたくしは、この地へ外来者としてやってきたにすぎません。ピサがわたくしの生国《しょうこく》で、わたくしはエリスの出なのです。このシキリアには他国《よそ》者として居候をしているのですけれど、この国は、わたくしにとって、どんな土地よりも大切です。いまではアレトゥサという名前でここに家をもち、ここを居住の地としているからです。いと恵みぶかい女神さま、どうかこの国をお救いくださいませ。なぜわたくしが生国を去り、あの広い海原をわたって、はるばるオルテュギア(114)までやって来たのかは、あなたのご心痛が消え、あなたがもっとうれしげなお顔におなりになったときに、いずれ折を見てお話いたしましょう。ともかくも、大地は、わたくしが通る路をひらいてくれたのでした。そして、その深い穴のなかをはこばれたのち、この場所まで来てふと頭をあげますと、ながいあいだ見なかった星が見えたというわけでございます。ところで、そういう風にして地下をくぐってステュクス(115)の深淵のなかを流れておりましたとき、わたくしはたしかにこの眼でプロセルピナさまを見たのでございます! お嬢さまは、たいへん悲しそうで、お顔からはまだ恐怖の色が消えておりませんでした。けれども、お嬢さまは、女王さまなのです。闇の世界の最高の位置におられるのです。冥界を支配する神のお妃《きさき》になっておられるのです」〔四八七〜五〇八〕
この話をきくと、ケレス女神はまるで石像のように身じろぎもせず、雷に打たれたようにながいあいだ立ちつくしていました。やがて、呆然自失がはげしい苦痛に変ると、いきなり車にのって、天国めざして駈けのぼっていきました。天国に着くと、額にくまなく憂いの雲をまとい、髪をふりみだし、怒りにもえながらユピテル大神の面前にすすみよりました。「ユピテル大神さま、わたくしがここにお願いに参上いたしましたのは、わたくしの血をうけているだけでなく、あなたの血をもうけている者(116)のためなのです。たとえその母はあなたの恩恵にあずかれなくとも、せめて娘にはその父であるあなたのおこころを動かしてくださいませ。そして、あなたによってわたくしの腹からうまれた子なのですから、あの子のことはくれぐれも心配してやってくださいませ。ながいこと探しまわっていた娘が、とうとう見つかったのでございます――と申しましても、娘をとり戻せないことがたしかだと見きわめがついたことを、あるいは、娘の居どころがわかったことを、見つかったといってよいならばという話でございますが。わたくしは、あの男が娘を返してくれさえしましたら、かどわかされことは水に流してやりましょう。と申しますのは、あの子がもうわたくしの娘でないとしましても、盗人があなたの娘の良人になることは穏当ではございますまいから」〔五〇九〜五二二〕
すると、ユピテルは、答えました。「おまえの娘は、おまえにとっても、わしにとっても、ひとしく愛と心配の的なのだ。けれども、ほんとうのことをいうと、わしの見るところ、こんどのことは、けっして凌辱というものではなく、愛の行為にほかならぬ。それに、女神よ、おまえさえ同意してやるならば、あの男を婿としても、けっしてわしらの恥にはならぬ。たとえあの男にほかに美点がないとしても、このユピテルの弟であるというだけでも、たいしたことではないか。しかも、ほかに美点がないどころではない。遺産相続のとき、わしよりも悪いくじを引いた(117)だけではないか。それでも、おまえがたってあのふたりをひきはなしたいというのなら、プロセルピナを天上に呼びもどしてもやろう。だが、それには条件がひとつある。それは、プロセルピナの唇があの国のどのような食物にもまだふれていなかったら、ということだ。パルカエ(118)の掟でそう決められているからだ」〔五二三〜五三二〕
ユピテルは、このように語りましたが、ケレスは、なんとしてでも娘を連れもどしたいという決心を変えませんでした。しかし、運命は、それを許しませんでした。といいますのは、若いプロセルピナは、すでにその断食《だんじき》をやぶっていたからで、ある日のこと、美しく手入れのゆきとどいた園を散歩しているうちに、枝もたわわにみのった石榴《ざくろ》の果実をひとつなにも知らずにもぎとり、黄いろい外皮から七粒の実《み》をとりだし、口に入れて噛みつぶしたのです(119)。これを見ていたのは、アウェルヌス(120)の妖精のなかでもとくに名のきこえたオルプネ(121)という妖精がかつてアケロンとちぎって暗い森かげで産みおとしたというアスカラプスよりほかには、だれもありませんでした。ところが、アスカラプスは、これを見ると、無慈悲にもそのことをばらして、とうとうかの女を地上へ帰れなくしてしまったのです。エレブス(122)の女王は、このことを怨みにおもい、この目撃者を一羽の不吉な鳥に変えてしまいました。かの女は、アスカラプスの頭にプレゲトン(123)の水をそそいで、それを嘴《くちばし》と羽毛と大きな眼(124)に変えました。すると、かれは、もとの姿をうしなって、褐色の翼が生え、頭は大きくなり、爪は長くまがり、無精な腕に生えた羽毛をやっとのことで動かすことしかできなくなりました。近づく不幸を知らせるいまわしい鳥、人間にとっては不吉な前兆であるおぞましいこのは木莵《みみずく》になったのです。〔五三三〜五五〇〕
アスカラプスが告げ口をする舌のためにこのような罰をうけましたのは、いわば自業自得だったと申せましょう。けれども、おお、アケロウス(125)の娘たちよ、あなたがたは、乙女の顔をもちながら、どうして鳥の羽毛と足をもつようになったのでしょう。おお、歌のたくみなシレネスよ、あのプロセルピナが春の花を摘みにいったとき、あなたがたもその供の仲間にくわわっていたことが、そもそもの理由だったのでしょう。まこと、あなたがたは、むなしくもプロセルピナをたずねて陸という陸をくまなくさがしまわったのち、こんどは海にもあなたがたの気遣いをおよぼさねばならぬと考えて、翼を櫂にして波の上を渡ることができたらよいのにと願いましたが、神々はこの願いをお聞き入れになって、あなたがたの手足は、たちまち樺いろの羽毛におおわれたのでした。けれども、人びとの耳を惹きつけるのが天職であるあなたがたの美しい歌ごえとすぐれた弁舌の才能にとって舌がなくては困るだろうというので、乙女の顔と人間の声は、もとどおりに残しておかれたのです。〔五五一〜五六三〕
さて、ユピテルは、みずからの弟と傷心の妹とのあいだを仲裁して、めぐる一年を二等分しました。そこで、ふたつの王国にひとしく君臨する女神プロセルピナは、一年のうち半分を母のもとで、残りを良人のもとですごすことになりました(126)。すると、かの女は急に機嫌がよくなり、顔色も明るくなりました。それまでは良人のディスでさえ陰気すぎると思ったその顔が、いまは喜びにかがやいています――ちょうど雨雲に暗くおおわれていた太陽が雲をやぶって晴れやかにあらわれてきたように。〔五六四〜五七一〕
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七 泉になったアレトゥサ/トリプトレムスとリュンクス
さて、慈悲ぶかいケレス女神さまは、娘のプロセルピナがふたたび手もとに戻ってくるようになりますと、胸をふさぐ心痛もすっかり消えたので、アレトゥサよ、なぜおまえが故郷を逃げだして、神聖な泉(127)となったのかを、あらためておまえにおたずねになりました。すると、泉の波がしずまって、妖精が泉の底から頭を出し、緑なす黒髪を手でかわかして、エリスの河の古い恋物語をはじめました。〔五七二〜五七六〕
「わたくしは、もとアカイア(128)に棲む妖精のひとりでした。わたくしほど森のなかを駈けずりまわることが好きな、また、わたくしほど狩猟網をしかけることが好きな者は、ほかにありませんでした。わたくしは別に美しいという評判をとろうともせず、また、男まさりの気丈《きじょう》な女でもありましたけれど、それでも美人だという折紙をつけられていました。といっても、人びとから自分の姿をほめそやされても、けっしてうれしいとはおもいませんでした。ほかの人たちがたいそう自慢におもう容姿の美しさということも、わたくしのような無骨者には、かえって恥かしいことにおもわれ、人びとに気に入られるということさえ、罪悪だと考えられました。忘れもしませんが、ある日のこと、わたくしは、すっかり疲れはてて、スチュムパルス(129)の森から帰ってまいりました。この日は、暑くてたまらないほどでしたが、疲れがそれを一層はげしく感じさせました。わたくしは、渦もなく音もたてずに流れている河のほとりにでました。その水は、とても透明で、底の小石もひとつずつ数えられるほどで、流れているかどうかもわからないくらいでした。灰いろの葉をした柳や、水にはぐくまれた白楊樹が、なだらかな岸の上におのずからなる木蔭をつくっていました。わたくしは、河に近づくと、まず足の先を水につけ、やがて膝まで入りましたが、それだけではもの足りず、帯をといて、軽やかな着物を柳のしだれた枝にかけると、素裸になって水にとびこみました。そして、水を切ったり掻きよせたりして、いろんなふうに泳ぎたわむれながら腕をうごかしていますと、水のなかになにやらわけのわからぬ声がきこえました。
わたくしは、びっくりして近くの岸辺にとびあがりました。『アレトゥサよ、そんなにあわててどこへいくのだ』と水のなかからさけんだのは、アルペウスでした。『そんなにいそいでどこへいくのだ』かれは、しゃがれた声でかさねてたずねました。わたくしは、裸のまま逃げだしました。着物は、向う岸においてあったのです。それを見て、アルペウスは、なおさら情欲にもえたって追いかけてきました。こちらが素裸だったものですから、よけいに手に入れやすいとおもったのです。わたくしは、夢中で走りました。かれは、野獣のように追ってきます。それは、まるで蒼鷹《あおたか》にねらわれた鳩がおののく翼をはばたいて逃げ、蒼鷹がふるえる鳩を猛然と追っていく有様にも似ておりました。オルコメヌス(130)をすぎ、プソピス(131)を通り、キュレネ(132)の麓をあとにし、マエナラ(133)の谷間をよぎり、夏なお寒いエリュマントゥス(134)の山をすぎてエリスの地に来るまでは、わたくしの脚力はおとろえず、相手に追いつかれませんでした。けれども、所詮、体力の差はどうすることもできず、わたくしの方はもう長くは走りつづけることができそうにないのに、アルペウスはまだまだ耐久力があるのでした。それでも、野をよぎり、森におおわれた山をこえ、岩や崖をとび、道なき道を通ってなおも走りつづけました。ちょうど太陽はわたくしの背後にありました。と、ひとつの長い影がわたくしの足先にのびてくるのが見えました。あるいは、恐怖のあまりに見た幻影だったのかもしれません。けれども、アルペウスの足音がわたくしをふるえあがらせ、かれの吐くはげしい息がわたくしの髪のリボンをゆりうごかしたことは、たしかでした。走りつづけてへとへとになったわたくしは、ついにこうさけびました。
『助けてください、わたくしは捕まります、ディアナさま(135)! あなたの武器の運び役だった者をお助けください! あなたがよく弓や箙《えびら》におさめた矢をおもたせになったわたくしをお救いください!』すると、ディアナ女神さまは、すぐわたくしの願いをお聞き入れになって、濃い黒雲のひとつを手につかむなり、わたくしの上に投げてくださいました。わたくしが霧につつまれて見えなくなりますと、河神は、右往左往しては、つかみどころのない霧のなかを探しあぐねました。そして、女神さまがわたくしをかくまってくださった場所のあたりを、それとは知らずに二度ばかり歩きまわっては、『おい、アレトゥサ! おい、アレトゥサ!』と二度さけびました。そのときのわたくしの小さなこころのときめきは、どんなであったでしょう! 高い柵のまわりで唸っている狼の声をきいている小羊のようではなかったでしょうか。あるいは、籔のなかにうずくまって、おそろしい追手の犬たちの鼻づらを見ながら、身うごきもできずにいる小兎にも似ていたでしょうか。けれども、アルペウスは、まだその場を去りません。わたくしの足跡が、そこから先には見あたらなかったからです。かれは、黒雲とその場所から、すこしも眼をはなしません。
そのうちに、つめたい汗のようなものが、かれの包囲をうけたわたくしの手足一面にながれだし、空いろの水滴が、全身からしたたりはじめました。やがて、わたくしが足をつけている場所に、ひとつの沼ができ、髪の毛は水滴となって、ぽたぽたとながれ落ちました。そして、いまこのことをお話申しあげておりますよりももっと短い時間のうちに、わたくしは泉と化してしまいました。ところが、河神は、この水のなかにも愛する女を見つけたのです。そして、いままで装っていた人間の姿をぬぎすてると、わたくしと一身になるために、かれ本来の水のすがたにもどりました。すると、デロスの女神(136)さまはたちまち大地をひらいてくださいましたので、わたくしはその隠れた穴にとびこむと、そのままこのオルテュギア(137)までながれて来たのです。そして、わたくしを守ってくださる女神さまとおなじ名前をもっているため(138)にわたくしにはとても大切におもわれるこの土地が、わたくしを最初に大空のもとにひきだしてくれたのです」〔五七七〜六四一〕
アレトゥサの物語は、これでおわりました。豊饒の女神(139)は、車に二匹の竜をつけ、その口に轡《くつわ》をはめて、天と地とのあいだを空高く翔け、トリトニス(140)の都に住むトリプトレムス(141)のもとに車を駆りました。そして、穀物の種子をかれにあたえ、それを一部は未墾の土地にまき、残りを長いあいだ休ませておいてふたたび耕した畑にまくようにと命じました。若者は、空たかくヨーロッパやアジアの上をとびめぐったのち、やがてスキュティア(142)の国にむかいました。ここは、リュンクス(143)という王が支配していました。トリプトレムスは、この王の宮殿に入っていきました。そして、どこから、なんの目的できたのか、また、名前と生国はなんというのかとたずねられて、こう答えました。「わたしの国は、有名なアテナエです。名前は、トリプトレムスと申します。わたしは、舟で海をわたってきたのでもなければ、徒歩で陸路をとおってきたのでもありません。大空がわたしの通路になってくれたのです。わたしは、ケレスさまの贈物をもってまいりました。それをひろい野づらにまけば、ゆたかな収穫とすてきな食糧がえられましょう」〔六四二〜六五七〕
これを聞いて、この夷狄《いてき》の王は、妬《ねた》みごころをおこしました。そして、自分もこのようなりっぱな贈物の施し主になろうとおもって、トリプトレムスを丁重にもてなしましたが、かれがぐっすりと眠りこんだのを見とどけるや、剣をふるっておそいかかりました。けれども、あわや胸をつき刺そうとした瞬間に、ケレス女神は、この暴漢を山猫に変えてしまいました。そして、モプソピア(144)の都にうまれた勇者には、ふたたびその神聖な竜車を大空に駆るようにと命じました(145)。〔六五八〜六六一〕
「さて、わたくしたちのなかで一番上の姉は、みごとな歌をこれでおわりました。審判官である妖精たちは、ヘリコンの山に住む女神たち(146)が勝利をえたとの判定を口をそろえて下しました。わたくしたちの相手(147)は、歌合戦に負けたくやしさからさんざん悪態《あくたい》をつきましたので、カリオペはこう申しました。『あなたたちは、歌くらべなどをわたしたちにいどんだだけでも罰をうける値打ちがあるのに、その過《あやま》ちにくわえてまだ悪言まではくのですね。わたしたちの忍耐心にもかぎりがあります。こうなっては、もう処罰をくわえるしかありません。わたしたちの怒りを思い知るがよい!』〔六六二〜六七八〕
けれども、エマティア(148)の娘たちは、ただ笑って、このおどし文句を軽蔑しました。そして、なおもののしりながら、大声をあげて無礼にもわたくしたちに手をくわえようとしましたが、みるみるうちにその爪から翼が生《は》え、腕は羽毛におおわれました。かの女たちは、めいめい口がかたい嘴《くちばし》にかわり、森に棲むあたらしい鳥になるのを、たがいに見たのでした。悲しみのあまり胸を打とうとしましたが、腕をうごかすと、たちまちからだが空中に浮きあがってしまいました。森のおしゃべり女である鵲《かささぎ》になってしまったのです。いまでもかの女たちは、翼のはえた姿のなかに、昔ながらのおしゃべり癖を、かしましいしわがれ声を、おぞましい話好きの悪習を、そのままのこしているのでございます」〔六六二〜六七八〕
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巻五の註
(1)アエティオピアの王、ケペウス〔巻四(125)〕の兄弟。アンドロメダは、本来かれのもとに嫁ぐことになっていた。
(2)→巻四(127)。アムモンについても同様〔また巻四(126)〕
(3)ピネウスの一味。以下同様。
(4)とくにユピテルをいう。
(5)ペルセウスのこと。戦の女神パラス・アテナ(ミネルウァ)は、ユピテルの娘であり〔巻二(119)〕、おなじくユピテルを父とするペルセウス〔巻四(111)〕の姉にあたる。アテナ女神の、ふちに百の総《ふさ》をつけた楯《アエギス》については、→巻二(162)
(6)→巻二(175)。テュルスは緋色(紫紅色)の染料、またはそれで染めた布地の産地として名だかく、テュルスの外套とは、緋色の外套の意→巻六の六一行および(66)
(7)没薬《もつやく》のこと。東アフリカやアラビアに産するかんらん科の植物からつくった樹脂で、香料・薬用にする〔巻十(87)〕。この木の神話的由来については、巻十の三一一行以下を見よ。
(8)ペルセウス。
(9)エジプトの一地方。
(10)ぶどう酒は、陶土(または金属)の大きな器に入れて、水を割った。このような器も、杯とおなじく、たいてい浮彫りがしてあった。
(11)→巻四(23)
(12)→巻二(51)
(13)→巻一(103)
(14)ケペウスの臣下。
(15)ペルセウスのこと→巻四(110)
(16)大地と豊饒の女神、ギリシアのデメテルにあたる→(74)
(17)これは、神官のしるしである。
(18)リビュアの河。
(19)エジプトの一地方。
(20)ペルセウスの部下。ペルセウスの曽祖父〔巻四(110)〕とは別人。
(21)北部アフリカの一地方。
(22)バクトリア(ペルシアの一地方)の町。
(23)ペルセウス。
(24)本来はローマの豊饒多産の女神、のちギリシアのテュケ(「幸運」の擬人化された女神、オケアヌスの娘たちのひとりとされる)と同一視された。ここでは、たんに幸運の意。
(25)エジプトの海岸地方にある都市。
(26)パレスティナ。
(27)鳥の飛び方、啼き声によって吉凶をうらなう。
(28)ローマの戦いの女神。ギリシアのエニュオ(軍神アレスの母、娘または姉妹とされる)と同一視され、また軍神マルス〔巻三(8)〕の妃または妹で、その同伴者であるネリオとも同一視される。マルスの戦車の馭者で、炬火・剣・槍で武装していると考えられた。
(29)この家は、ピネウス一味の不法侵入と理不尽な挑戦によってすでに汚されていた。
(30)エピルスの一地方。
(31)アラビアの一地方。
(32)メルクリウス〔巻四(134)〕から贈られた剣のこと。メルクリウスはキュレネ山中でうまれたので、このように表現したもの〔巻二(169)〕。これは、おそらくかつてメルクリウスがアルグスを殺すのに使った「鎌のようにまがった」剣であろう(巻一の七一七行)。ペルセウスがメドゥサの首を斬りおとした剣も(巻四の七八五行)、海の怪物につきさした「半月形の剣」も(同七二八行)、リュカアバスの胸につきさした剣も(巻五の七九行)、すべておなじこの剣である。のち英雄ヘルクレスも、メルクリウスから剣をあたえられる。
(33)すでに殺さたアムピュクス(一一〇行)とは別人(カナ書きでは同名におもわれるが、原語の綴りは異なる)
(34)これは、イロニーである。
(35)ペルセウス。
(36)アルゴス。
(37)アクリシウスのこと。なお「不当な扱いを受けていた」の部分を、「そのような恩恵を受ける値打ちのない」と読む注釈家もある。アクリシウスは、かつて娘のダナエがユピテルの愛を受けてペルセウスをうんだとき〔巻四(111)〕、これをユピテルの胤であるとは信ぜず、ふたりを箱詰めにして海にながしたから。
(38)アクリシウスの双生の兄弟で、ティリュンス(アルゴリスの町)の王。兄弟仲がわるく、アクリシウスをアルゴスより追いだし、その領地を横領していた。ただし、普通の伝説では、ふたりで王位をあらそって敗れたプロエトゥスは、妻の父イオバテス(小アジアのリュキア地方の王)の援助によって反攻の軍を起し、ティリュンスを攻略し、キュクロプスたち〔巻一(53)〕の助けを得て巨石でかこまれた城砦をきずいたという。
(39)これも、普通の伝説では、ペルセウスに打ち殺されたことになっている。なお、アクリシウスも、のち偶然ペルセウスが投げた競技用の円盤にあたって落命し、巻四(111)の予言が実現する。ペルセウスは、自分の手で死に追いやられた人の領地を相続するのを嫌って、プロエトゥスの息子メガペンテスの支配するティリュンスとアルゴスを交換したといわれる。
(40)ネプトゥヌスまたはマグネス(風神アエオルスの子)の子、セリプス島(アエガエウム海の島)の王。アクリシウスによって海に流されたダナエとペルセウス(37)がセリプス島に漂着したとき、かれの弟のディクテュスがこれを助けてふたりで面倒を見てやった。
(41)ポリュデクテスは、ダナエ母子の世話をしているうちに、ダナエに恋慕し、邪魔になるペルセウスを亡きものにしようとしてメドゥサの首をとりにやったのであるが、ペルセウスは石になるどころか、大きな手柄をたてて帰ってきたので、よけいに憎むのである。
(42)そのあとディクテュス(40)が王位についた。
(43)ミネルウァ(パラス・アテナ)のこと→巻二(167)。また、巻四(134)・巻五(5)を参照。
(44)いずれも、アエガエウム海(エーゲ海、多島海)の島。
(45)文芸、学術をつかさどる九人の女神ムサ(いわゆるミューズ)たちのこと〔複数形ムサエ→巻二(38)〕。カリオペ(叙事詩)、クリオ(歴史)、エウテルペ(器楽)、タリア(喜劇)、メルポメネ(悲劇)、テルプシコレ(舞踏)、エラト(恋愛詩)、ポリュヒュムニア(讃歌)、ウラニア(天文)がその名前と主な職分である。
(46)ペガススのこと→巻四(144)。その蹄によってできた泉は、ヒッポクレネ(馬の泉、の意)とよばれ、一説によると、後出(三三〇行以下)のピエリデスとムサたちとの歌合戦によってヘリコン山が熱中のあまりふくれあがり、天にとどこうとしたので、ネプトゥヌスの命によってペガススがこれを蹄で打ってもとの形に小さくし、その打ったところに泉ができたのだともいわれ、その水は詩的霊感をあたえるとされた。
(47)ムサエのひとり→(45)
(48)ムサたち(ムサエ)のこと→巻二(38)
(49)トラキアの王。以下の物語は、自由に飛翔する詩的空想力(ムサエ)はいかなる人間も捉えることができないという寓意で、本来の神話的伝承ではなく、後代の詩人の創作であるらしい。
(50)ポキス〔巻一(63)〕の町。
(51)アポロ神の神殿→巻一(66)
(52)かささぎの啼き声は、ギリシア語の挨拶の言葉カイレ(chaire)に似ているという。
(53)ピエリア(次注)の町。
(54)マケドン(マケドニアにその名をあたえた祖、デウカリオンの娘テュイアとユピテルとの子)の子、ピエリア(マケドニアの南東部の地方、オリュムプス山の北麓)にその名をあたえた王。ムサ崇拝をその国に入れたといわれる。
(55)北部マケドニアの一地方。
(56)お産の女神としてのユノのローマでの別称(光にもたらす者、の意)。ギリシアのイリテュイア(エイレイテュイア)と同一視される→巻九(65)
(57)この九人の娘たちをピエリデス(ピエルスの娘たち、の意。単数形ピエリス)とよぶ。
(58)→巻一(98)
(59)→巻三(63)
(60)ヘリコン山のふもとの町。その女神たちとは、ムサエのこと。
(61)前出のヒッポクレネの泉のこと。メドゥサの子であるペガススがつくったので、メドゥサの泉といった→(46)
(62)→巻三(20)。ここでは、ボエオティアのこと。
(63)ヘリコン山中にあるムサたちの聖泉、またその泉のニュムペの名。その水は、詩的霊感をあたえるという。
(64)→(55)
(65)マケドニアの古称。
(66)公正な審判をすることを誓約したのである。
(67)→巻一(28)および一五一行以下。
(68)→巻三(42)
(69)牡牛になったのである。
(70)→巻四(126)
(71)アポロ(ポエブス)のこと→巻一(79)(124)(125)
(72)→巻一(65)。ムサたちの住むヘリコン山は、ボエオティアにある。
(73)叙事詩をつかさどるムサ→(45)
(74)穀物と大地の生産物との、つまり豊饒の女神、ギリシアのデメテルと同一視される。サトゥルヌスとレアとの娘、したがってユピテル、ユノ、ネプトゥヌス、プルトらの姉妹。ユピテルの妻のひとりとして娘プロセルピナ(89)をうむ。穀物の種子は、土に播かれて一定期間地下にあってから芽ばえてくるところから、ケレス母子は地下女神の性格をもち、その神話は死者の国である冥界と関係したものが多い。
(75)シキリア(シチリア)島のこと。トリナクリアともいう(ギリシア語で「三尖り」の意、三つの岬があるのでこう呼ばれた)
(76)テュポエウスは、ユピテルの雷電に打たれて、シキリア島のアエトナ火山の下敷きにされ、それ以来この山は口から火を噴くようになったという。→巻三(42)
(77)南部イタリアの地方、転じてイタリアのこと。
(78)シキリア島の東北端の岬。イタリア半島に最も近いので「アウソニアの」と形容した。
(79)シキリア島の東南の岬。
(80)おなじく西端にある岬。
(81)冥界の王プルトのこと→巻一(24)・巻二(86)。この名前(ギリシア語ではプルトン)は、「富める者」の意で、ギリシアでは死者の神ハデスの別称(財宝は地中から出るので)、ローマではこれが本名になった。ローマでの別称ディスも「富みをあたえる者」の意。→巻四(85)
(82)プルトは、暗黒の地下界の支配者にふさわしく黒い馬車を黒い馬にひかせる。その王座も王冠も黒檀でできているとされ、かれには黒い毛の犠牲獣をささげた。
(83)ウェヌス女神のこと。エリュクス〔巻二(42)〕に有名なウェヌスの神殿があった。
(84)恋の童神クピド〔アモルともよばれる。巻一(84)〕
(85)プルト→巻二(86)
(86)ネプトゥヌス。
(87)冥界の意→巻一(23)
(88)パラス・アテナ(ミネルウア)もディアナも、恋愛を知らぬ処女神である。
(89)ユピテルとケレスとの娘でプロセルピナ(ギリシア名はペルセポネ)。プルトに見そめられて冥界の女王となる。母ケレスとともに、エレウシスをはじめギリシア各地の秘教の二大女神であった。
(90)ウェヌスとクピドが支配する恋の国。
(91)プロセルピナ。その叔父とは、プルトのこと(プルトは、プロセルピナの両親ユピテルおよびケレスの兄弟)→(74)
(92)プルト→(81)
(93)シキリア島中部の町(現在ではエンナ)
(94)→巻二(79)
(95)ユピテルとニュムペのタリア(ウゥルカヌスの娘)とのあいだにうまれた双生神。シキリア島のアエトナ火山の近くにあるパリケ(いまのパラゴーニャ)の町の守護神とされ、この地方にパリキにささげられた、硫黄泉の出るふたつの沼があった。
(96)コリントゥスの町は、ペロポネスス半島とギリシア本土の接合部をなす狭い地峡にあり、両側に海がせまっている。
(97)コリントゥスの古い王バッキスから出た一族で、コリントゥスを支配していた。
(98)シキリア島の東海岸にあるシュラクサエ(シラクサ)の町、北と南にふたつの港をもっている。コリントゥスからの移民たちがこの町を建設したのは、紀元前七三四年である。
(99)シュラクサエ付近の泉、またその泉の妖精の名。
(100)シュラクサエの町の一部をなすオルテュギア島にある泉、またその妖精の名。ピサはエリス〔巻二(143)〕の町。この泉は、ピサに源を発していると信じられた(四八七行以下のアレトゥサの物語を参照)。
(101)シュラクサエの南をながれる河、またその河神。キュアネの沼は、この河にながれこみ、さらに町の大きい方の港(南港)にそそぐ。
(102)プルト。
(103)ケレス。
(104)曙光の女神。
(105)宵の明星(金星)。
(106)水とハルタデと炒った大麦とをまぜたスープのようなもの。蜂蜜で甘味をそえたり、チーズやぶどう酒をくわえることもあった〔巻十四(62)〕。なお、ここに出てくる老婆は、娘をさがしてエレウシス(アテナエの北西海岸、ケレス・デメテル崇拝の中心地)に来たケレスを歓待したといわれるバウボのことであろう。
(107)「まだらとかげ」(stellio)である。このラテン名は、stella(星すなわち斑点)から由来している。
(108)シキリアの別名。
(109)ケレスは、穀物の女神である。→(74)
(110)→(75)
(111)星の動き、とくに天狼星は、天候に悪い作用をあたえ、農事を害すると考えられた。
(112)アルペウス河神→巻二(75)
(113)→(100)。もとエリスにいたが、アルペウスに追われてシキリアに逃げてきた。かの女の泉はエリスに源を発しているといわれるので、「エリスの波間」と形容したのである。
(114)→(100)
(115)→巻一(25)
(116)プロセルピナは、ユピテルとケレスとの娘。
(117)→巻二(86)
(118)→巻二(139)
(119)古代の多くの民族において、りんごや柘榴は、愛の交わりと妊娠の象徴と考えられた。したがって、この比喩は、プロセルピナが懐妊したことをあらわす。
(120)クマエ(イタリアのカムパニア地方の海岸部の町、ナポリの近く)の近くにある火口湖、冥府の入口と考えられた。オルペウスは、冥界から帰るときここから地上に出たし(巻十の五一行)、のちアエネアスも、ここから地下界に降りていった(巻十四の一〇五行)。また、冥界そのものをもさし、ここではその意。
(121)「闇」の意。アケロン河神〔巻一(38)〕とのあいだにアスカラプスをうむ。
(122)「暗黒」の意、太初(あるいは冥界)の暗黒の擬人化神。カオス(混沌)の子で、姉妹のニュクス〔夜、巻三(56)〕と交わってヘメラ(昼)とアエテル〔巻一(5)〕の父となったとされる。ここでは、暗黒の世界つまり冥界の意。その女王とは、プロセルピナのこと。
(123)冥界を流れる火の河。→巻一(38)
(124)このはみみずくの頭部は嘴と羽毛と眼玉しかないように見える。
(125)ピンドゥス山脈に発し、アカルナニアとアエトリアとの境界をなしつつコリントゥス湾にそそぐギリシア最大の河、またその河神。オケアヌスとテテュスとの子供たち(巻二11)のなかで最年長とされメルポメネ〔ムサたちのひとり→(45)〕と交わってシレンたち(複数形シレネス、英語のサイレンたち)の父となったとされる。シレンたちは上半身は乙女、下半身は鳥の姿をした、歌の上手な海の怪物で、ウリクセス(オデュッセウス)の冒険で有名。→巻十四(25)
(126)これは、植物の種子が一年のうちのある期間地中にかくれ、やがて生育して地上にほころび出ることを象徴している。
(127)泉はすべて神格化され、神聖なものとして崇められた。アレトゥサについては、→(100)(113)
(128)→巻三(63)
(129)アルカディアの山および湖の名前。
(130)アルカディア〔巻一(33)〕の町〔巻四(1)の同名の町とは異なる〕
(131)アルカディアの町。
(132)→巻一(47)
(133)→巻一(46)
(134)→巻二(65)。以上の地名は、長い距離を走ったことをしめすだけで、地理的な順序に列挙されてはいない。このような例は、しばしば出てくる。
(135)狩猟を好み、恋を知らぬアレトゥサは、狩猟の処女神ディアナの侍女である。
(136)兄のアポロとともにデロス島でうまれたディアナのこと。→巻一(124)(125)
(137)→(100)
(138)オルテュギアは、本来デロス島の古名で〔巻六(24)〕、この島でうまれたとされるディアナも、しばしばこの名で呼ばれた。
(139)ケレス。
(140)トリトニアに同じ。ミネルウァ(パラス・アテナ)女神のこと〔巻二(167)〕。その都とは、アテナエをさす。
(141)エレウシス(106)の王ケレウスの息子。ケレス女神に寵愛され、農耕の技術を教えられ、女神から贈られた竜車にのって世界じゅうに伝播したといわれる。死後、冥界で裁判官になった。有名なエレウシス秘教では、ケレス・プロセルピナの二神につぐ重要な地位をしめる英雄である。この名前は、「三度たがやす者」の意で、古代では荒地に穀物をつくるとき、土を鋤で三度たがやしてから種子をまいた。なおオウィディウスは、かれが尊敬するアテナエの町に名誉をあたえるためにこの農耕の発明者であるエレウシス人をアテナエ人にしてしまった。
(142)→巻一(13)
(143)lynx(大山猫)から来ている。
(144)アッティカの古名、その都とは、アテナエのこと。
(145)三四一行目からはじまったカリオペの歌物語は、ここでおわる。以下は、三四〇行目までをパラス女神に語っていたムサがふたたび話すのである。
(146)ムサたち(ムサエ)
(147)ピエリデス→(57)
(148)→(65)。その娘たちとは、ピエリデスをいう。
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巻六
一 ミネルウァとアラクネの 技《わざ》くらべ
さて、トリトニア女神(1)は、以上の物語に耳をかたむけていたが、アオニデス(2)の歌をほめたたえ、かの女たちの怒りをもっともだといった。それから、こんどはわれとわが胸にむかって、「ほめているばかりが能ではない。自分たちもほめられるようにならなくてはならない。自分たちの神性に侮辱をくわえられながら、だまって見すごすようなことがあってはならない」そういって女神が脳裡に考えたことは、世間のうわさによると、機《はた》を織る技術にかけてはかの女(3)に匹敵すると思いあがっているというマエオニア(4)の乙女アラクネに天誅《てんちゅう》をくだすことであった。
アラクネは、べつに身分や素性で名だかいわけではなかったが、その技術にかけてはよく人に知られていた。かの女の父、コロポン(5)のイドモンは、ポカイア(6)産の紫紅(7)で水をよく吸う羊毛を染めることを生業《なりわい》にしていた。母は、すでにこの世にいなかったが、おなじく下賎の出で、良人《おっと》とおなじような身分の女であった。しかし、その娘のアラクネは、素性こそいやしく、また、ヒュパエパ(8)という小さな町に住んではいたけれど、その機織《はたお》りの技術のためにリュディアの町々に名をとどろかせていた。
その驚嘆すべき腕前を見るために、よくティモルス(9)の妖精たちは、ぶどう畑を留守にし、パクトルス(10)の妖精たちは、みな河から出てきた。できあがった織物を見るのが楽しみなだけでなく、それを織っているときの様子がまたみごとであった。たとえば、まず粗糸《あらいと》をまるい糸毬《いとだま》にまいたり、その毛糸を指でなめらかにするところとか、雲のような毛たばをいくどとなく梳《す》いて長い糸にしたり、器用な拇指でまるい紡錘《つむ》をまわすところとか、針で刺繍をするところとか――たんに手つきがたくみであるばかりでなく、優雅でもあった。まったくパラス女神の弟子かとおもえるほどであったが、かの女自身はそれを否定して、パラスのような偉大な師匠の教え子と見なされることにさえ腹をたてて、「パラスさまとて、わたしと技《わざ》くらべをしてごらんになるがいい。もしわたしが負けたら、どんなことでも甘んじて受けますわ」というのであった。〔一〜二五〕
そこで、パラス女神は、老婆のすがたに身をやつし、こめかみににせものの白髪をたらし、よぼよぼの足を杖にすがって、アラクネのもとにあらわれ、こういった。「年をとるということは、あながちいやなことばかりあるものではない。年をとるにつれて、経験がゆたかになるでな。だから、わしのいうことも、いやがらずに聞くがよい。人間たちだけが相手なら、毛糸を織ることにかけてはいちばん腕が達者だという評判をいくらとったって、すこしも悪いことじゃない。だけど、女神さまにむかっては、大きな口をきくものじゃない。さあ、おまえさんの不遜な言葉を詫びて、お赦しを願うがよい。こころからお願いしたら、女神さまもきっとお赦しくださるだろう」〔二六〜三三〕
すると、アラクネは、おそろしい眼つきで老婆をにらみつけ、紡《つむ》ぎはじめた手をとめて、その手をふりあげることだけはあやうく抑えたが、怒りを顔にあらわし、パラスが相手とは知るよしもなく、こう答えた。「おまえなんかに、なにがわかるものか。老いぼれて頭がぼけているくせにさ。あんまり長生きするのも、よくないものだよ。おまえさんに嫁か娘があるなら、そういうお説教はその人たちにでも聞かせてやるがよい。わたしは、自分のことは自分で考えるからね。そんな愚にもつかないお談義がなにかの役にたつなんて考えないがいいよ。はっきりいっておくけど、おまえさんになんといわれたって、わたしの考えは変らないよ。わたしのいったことが気にくわないのなら、なぜ女神さまは自分で出かけてこないの。なぜわたしと技くらべをしようとしないの」そこで、バラスの老婆は、「いや、ここに来ているよ」というなり、老婆のすがたをかなぐりすてて、ほんとうのすがたをあらわした。かの女の神性は、妖精たちやミュグドニア(11)の女たちからはふかく畏敬されていたが、この娘ばかりはすこしもおそれなかった。それでも、やはり気色《けしき》ばんで、おもわず顔をさっと紅潮させたが、すぐまた赤らみが消えた。ちょうどほのぼのとあけそめる曙紅に色どられた空が、やがて立ちのぼる陽の光をうけて色をうしなうのに似ていた。アラクネは、なおも強情に自分のおもいたったことをまげず、女神に勝ちたいという愚かな野望にかられて破滅の淵にとびこんだのであった。ユピテルの娘(12)も、もはや後へ引くことはできず、それ以上忠告することはやめて、さっそく腕くらべに応じた。〔三四〜五二〕
そこで、ふたりは、ただちにそれぞれ別の場所にふたつの織機《はた》をしつらえ、それに細いたて糸を張り、織機は上部を横木でしめあわされ、芦の棒がたて糸をわける。よこ糸は、指でさばかれ、先のとがった梭《ひ》がこれをたて糸のあいだにさし込む。よこ糸がたて糸のあいだを通るたびに、筬《おさ》が打ちおろされ、その歯でよこ糸をしめる。ふたりとも、けんめいになって仕事をいそいだ。袖をからげて、胸のあたりで紐でしばり、疲れもわすれるほど熱心にたくみな腕をはたらかせた。その織物には、チュルス(13)の青銅の器に入れて染められた紫紅の糸のほかに、すこしずつ色合いのちがったやや薄い色のいくつかの糸がもちいられた。ちょうど太陽の光が雨滴にあたって大きな虹の橋がひろい空にかかるとき、さまざまな色にかがやきながらも、それぞれの色の限界が見るひとの眼にはっきりとはわからないのとおなじで、これらの糸も、たがいにふれあうところはおなじ色であるが、はなれたところはあきらかに異なった色をしていた。また、これらの糸のあいだにさらにやわらかい金糸が織りこまれ、布地の上には昔の物語があらわされるのであった。〔五三〜六九〕
パラスは、ケクロプス(14)の砦《とりで》にあるマルスの岩山(15)と、この土地の名にまつわる古い争いとを布地に織りだした。〔七〇〜七一〕
天の十二神は、ユピテルを中央にして、高い玉座に厳然と着席していた。それぞれの神は、その顔つきでだれであるかがわかった。ユピテルは、いかにも王者の風格をしめしている。海神ネプトゥヌスは、仁王立ちの恰好でながい三叉の鉾《ほこ》をかたい岩の上に突きたて、岩のさけ目の真中からは海水が噴きだしている。かれは、この海水を証拠にして、この都(16)をわがものにしようと主張しているのである。そこへパラスは、楯とするどい槍をもち、頭に兜をいただき、胸をアエギス(17)でおおった自分自身のすがたを描いた。かの女が槍を突きたてた大地からは、みどりの葉をした橄欖樹《かんらんじゅ》の若枝がたくさん実をつけてあらわれ、審判官である神々は驚嘆のまなこを見はっている――つまりは、女神の勝利をもってかの女の仕事は終るのである。けれども、女神は、自分と栄誉をきそう相手の女にかかる大それた行為がどのようなむくいを受けるものであるかを絵によってわからせるために、さらに織物の四隅に四つの争いの図を描きくわえた。それらは、あざやかな色彩によって際《きわ》だち、美しい小さな絵になっていた。すなわち、ひとつの隅には、そのむかし偉大な神々の名を僣称していたために、かつては人間であったが、いまは氷の山となってしまったトラキアのロドペとハエムス(18)をあらわし、二番目の隅には、ピュグマエイ族(19)の母のいたましい運命をえがいた。かの女は、ユノと争ってやぶれ、鶴にされて、自分の一族の者たちと戦う運命におとされたのである。さらに三番目の隅には、おなじく偉大なユピテルの妃とあらそって、これまたユノのために一羽の鳥にすがたを変えられたアンティゴネ(20)をあらわした。イリオン(21)の町も、かの女の父ラオメドンも、かの女が真白な翼をつけたこうのとりになり、嘴をかちかち鳴らしてそのことを誇るようになるのをどうすることもできなかった。残った一隅には、子供たちをうばわれたキニュラス(22)がえがかれた。かれは、かつてはおのが娘たちの肢体であった神殿の石段をかきいだき、涙をながしながら石の上に伏しているのだった。パラスは、さらに織物のまわりの縁に平和をあらわす橄欖の小枝を織りだした。これで、女神は手をやすめた。かの女は、自分の愛する樹をもってその仕事をおわったのであった。〔七二〜一〇二〕
一方、マエオニアの乙女の方は、牡牛の姿にだまされたエウロパ(23)を描きだしたが、その牡牛といい、海といい、ほんものとまがうばかりであった。エウロパは、後にしてきた陸地の方をふりかえり、遊び友だちをよび、はねかえる波しぶきにふれるのをおそれて、足をびくびくさせながらひっこめている有様がえがかれていた。そのほかに、アラクネは、おそいかかる鷲にとらえられるアステリア(24)や、白鳥の翼の下に身をよこたえるレダ(25)をえがき、また、ユピテルがサテュルスのすがたになってはニュクテウス(26)の美しい娘をふたりの子の母にし、ティリュンスの女(27)よ、アムピトリュオンに化けてはおまえを誘惑し、黄金の雨となってはダナエ(28)をあざむき、火となってはアソプス(29)の娘をだまし、羊飼いとなってはムネモシュネ(30)を、まだら蛇となってはデオ(31)の娘をたぶらかした有様をえがいた。さらに、ネプトゥヌスよ、おんみが獰猛な牡牛のすがたになってはアエオルス(32)の娘を手に入れ、エニペウス(33)になってはアロイダエ(34)の父となり、牡羊となってはビサルテス(35)の娘をあざむき、駿馬となっては五穀の慈母なる金髪の女神(36)のこころをとらえ、鳥となっては翼のある駿馬(37)の母であるあの蛇髪のメドゥサを愛し、海豚《いるか》となってはメラント(38)を手に入れた有様もえがかれた。アラクネはこれらのすべての光景にそれぞれの人物を配し、それらの出来事のおこった場所をも正確に描きあらわした。そこにはまた、ポエブスが農夫に身をやつしているかとおもえば、鷹の羽衣をつけたり、獅子の毛衣をまとい、羊飼いになってマカレウス(39)の娘イッセを誘惑したり、さらに、リベル(40)が偽りのぶどうの房でエリゴネ(41)をあざむき、サトゥルヌスが馬となって半人半馬のキロン(42)をうませたところなどもえがかれていた。この織物の周辺には、ほそい縁《ふち》かざりがめぐらしてあって、それにはからみあった蔦《つた》の小枝に花が配してあった。〔一〇三〜一二八〕
パラスもリウォル(43)も、この乙女の作品に一点の非の打ちようもなかった。しかし、あまりにみごとなその出来ばえが、かえって金髪の女神(44)を怒らせた。女神は、神々の不埒《ふらち》をえがいたこの美しい絵布をずたずたにひき裂き、さらに、手にしていたキュトルス(45)の山に産する黄楊《つげ》の梭《ひ》をふるって、イドモンの娘アラクネの額《ひたい》をいくども打った。〔一二九〜一三三〕
あわれな乙女は、この侮辱をたえることができず、勇敢にも綱をまきつけておのれの喉《のど》をしめた。かの女がそうして首を吊っているのを見ると、さしものパラスもかわいそうにおもい、綱をゆるめてやりながら、「不逞《ふてい》な女よ、生かしておいてあげよう。しかし、いつまでもそうしてぶらさがっているのだよ。時間がたったらまた慢心の虫をおこすようなことがないように、おなじ罰がおまえの一族にも子々孫々にもおよぶようにしてやろう」女神は、そういって立ち去るときに、ヘカテ(46)の草の汁を乙女にふりかけた。おそろしい毒にふれるやいなや、たちまち乙女の髪はぬけ、鼻も耳も消え、頭は小さくなり、からだ全体もちぢまった。手足のかわりに、ほそい指が両脇にはえ、それ以外の部分は、腹ばかりになってしまった。しかし、かの女は、その腹から糸を引っぱりだして、こうして一匹の蜘蛛《くも》になってもやはり昔ながらに機《はた》を織っているのである。〔一三四〜一四五〕
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二 ニオベとその子供たち
この話は、リュディアの国じゅうにひびきわたり、その噂は、プリュギア(47)の町々に知れわたり、世界じゅうがこの話題でもちきりであった。ところで、ニオベ(48)は、まだ結婚前のころ、つまり、まだマエオニアとシピュルス(49)に住んでいたうら若い乙女のころに、アラクネを知っていた。しかし、かの女は、この同郷の乙女が受けた罰から、神々に服従することも、思いあがった言葉をつつしむことも学びとらなかった。かの女には、いろいろ自慢になることがあったのだ。良人(50)の才能、自分たちふたりの門地、かれらの支配する強大な国の栄光、これらはすべてかの女にとってよろこびの種となった。しかし、かの女をなによりも得意にさせたのは、自分の子供たちのことであった。事実、自分でそう思いあがっていなかったならば、かの女こそ世のなかでいちばん幸福な母親だといってもよかったであろう。〔一四六〜一五六〕
さて、ここに、ティレシアス(51)の娘マントは、未来を知る力をもっていたが、あるとき崇高な霊感をうけて、大道のまんなかで予言の言葉をさけんだ。「おお、イスメヌス(52)の女たちよ、つどい集まって、ラトナ女神(53)とそのふたりの御子に燻香を敬虔な祈りとともにささげよ。して、おんみらの髪を月桂樹の冠をもって飾れ。わが口もてかく命じたまうのは、ラトナ女神ご自身であるぞ!」人びとは、この言葉にしたがった。テバエのすべての女たちは、命じられたように額を月桂樹の葉でかざり、祈りをささげて聖火のなかに香を投じた。そこへ、多くの従者をしたがえて、ニオベがとおりかかった。金糸を織りまぜたそのプリュギア風の衣裳は、見るも美しかった。ニオベは、女たちのありさまを見て、怒りにもえたちながらも、あでやかな容姿をくずさず、両肩にたれさがった髪の毛もろともに美しい頭をふりながら立ちどまった。そして、思いあがった様子であたりを傲然と見まわして、
「はっきりと眼に見える神々をさしおいて、噂にきいただけの神々(54)をあがめるとは、なんという愚かな振舞いでしょう。このわたしの神性には香もささげないで、ラトナをまつる祭壇をもうけるとは、なんということです。わたしの父タンタルスは、神々の食卓につらなることをゆるされたただひとりの人間だったし、母も、プレイアデス(55)の姉妹でした。また、蒼穹を頚《くび》にになっている偉大なアトラスは、わたしの祖父であり、かのユピテル大神も、わたしの祖父のひとり(56)で、おまけに、大神はわたしの舅《しゅうと》にもあたり、これはわたしの大きな誇りです。プリュギアの民は、わたしを畏敬していますし、カドムス(57)の都城は、わたしの支配下にあり、わたしの良人が竪琴のしらべによってきずいたその城壁とそこに住む民たちも、わたしと良人とに治められています。わたしの城邸《やかた》は、どの部屋もかぎりない財宝にみちています。その上、わたしの美しさは、女神たるにふさわしいものです。さらに、わたしには、七人の姫と七人の王子があって、やがてそれぞれ婿と嫁をむかえるでしょう。わたしがこのように誇るだけの理由があることをよく考えてみなさい。そのわたしをさしおいて、どこの何者ともしれぬコエウスとやらいう巨人の娘、かつてこの広大な大地が分娩のためのほんの小さな場所をあたえることすらこばんだラトナ(58)をあがめようというのなら、いくらでもあがめてみるがよい。おまえたちのあがめるこの女神は、天も地も水もうけ入れようとしなかった、世界じゅうから追いはらわれた女なのですよ。デロス(59)がこの宿なし女を不憫におもい、『あなたは異国者として大地の上をさすらい、わたしは波の上をさすらっている』といって、海上に浮動する休み場所をさずけたおかげで、やっとふたりの子を生みおとすことができたのです。けれども、わたしがうんだものにくらべたら、ラトナがうんだのは、わずか七分の一にすぎません。わたしの幸福は、望月《もちづき》のように欠けたところがありません。だれもそれを否定できないはずです。わたしは、この先も幸福でありつづけるでしょう。これもまた、だれも疑うことができないでしょう。たくさんの子宝が、わたしの安泰を保証してくれています。わたしには、フォルトゥナ(60)といえども傷つけることができないほどの強大な力があります。たとえフォルトゥナがわたしから多くのものをうばいとっても、まだそれよりはるかに多くのものがあとに残ります。わたしの幸福は、わたしに恐怖というものをさえわすれさせます。たとえおおぜいの子供たちのなかからひとりやふたりがうばわれても、ラトナのように子供がふたりだけになってしまうというようなことはありません。子供がふたりだけというのは、ひとりもないのとどれほどの違いがあるでしょう。さあ、去るがよい。献祭はもうそれくらいにして、いそいで立ち去るがよい。おまえたちの髪からも月桂樹をとりすてるがよい」こういわれて、女たちは、月桂樹の冠をはずし、献祭を途中でやめたが、ひそかに口のなかでお祈りをとなえながらラトナをあがめることは、やめさせるわけにはいかなかった。〔一五七〜二〇三〕
これを見て、ラトナ女神は、非常に怒り、キュントゥス(61)の山頂に立って、ふたりの子供にこう語りかけた。「おお、おまえたちの母であるこのわたしは、おまえたちをうんだことを誇りとおもい、あのユノ女神をのぞいたら、この点でどんな女神にもひけをとらないつもりです。そのわたしが、女神であるかどうかを疑われるようになり、おお、子供たちよ、おまえたちが助けにきてくれなければ、大昔からあがめられてきた祭壇から追いだされてしまいかねないありさまです。わたしが腹だたオくおもうのは、そればかりではありません。あのタンタルスの娘は、そういう不敬な振舞いのみか、さらに侮辱までくわえて、不埒にもおまえたちがあの女の子供より劣っているといい、わたしを子なしも同然だとののしったのです(あの女こそ、子なしになってしまうがいい!)。まったく父親ゆずりの(62)、神をおそれぬ舌というものです」ラトナは、この話にさらに自分の希望をつけくわえようとしたが、ポエブスは、それをさえぎって、「十分わかりました。これ以上ぐずぐずいっていると、それだけ罰をくだすのがおくれます」ポエベ(63)も、これに賛成した。そして、ふたりは、ただちに大空をまっしぐらに翔け、雲にかくれてめざすカドムスの城宮(64)におりていった。〔二〇四〜二一七〕
この都城のまわりには、ひろい野原があって、たえず多くの馬がゆきかよい、地面は、車輪の重みやかたい蹄のためにやわらかくなっていた。ここで、アムピオンの七人の息子たち(65)のうちの二、三人が、屈強な馬をあやつり、テュルスの緋布(66)をしいたその背にまたがって、黄金の飾りでずっしりとした手綱をにぎっていた。そのなかのひとりで、最初に母の胎内にやどったイスメヌスは、馬を規則ただしい円型にあるかせ、泡ふくその口をしっかりとおさえていたが、急に「やられた!」とさけんだ。一条の矢がその胸のまんなかに突きささっていたのである。かれは、死にゆく手から手綱をはなすと、馬の右肩からゆっくりと横ざまにすべりおちた。次男のシピュルスは、中空《なかぞら》に箙《えびら》の音をきくと、馬をあおっていちもくさんに逃げだした。それは、船乗りが黒い雲のかたまりを見て嵐の到来を予知し、どんなにかすかな微風ものがすまいとすべての帆をいっぱいに張って逃げるのに似ていた。しかし、のがれることのできない神の矢は、けんめいに馬を走らせるかれに追いつき、ふるえながら首の上部に命中し、鉄の矢尻は喉もとに突きでた。かれは、たちまちまえにのめると、前方につきでた馬の頭部とたてがみをこえて、さかさまに落ち、まだあたたかい血で大地をぬらした。一方、パエディムスと祖父の名前をうけついだタンタルスは、いつもの馬術の稽古をおえると、若者らしい角力《すもう》あそびをはじめた。そして、胸と胸をあわせて、がっしりと組みあったとき、張りつめた弦をはなれた矢が、組みあったままのふたりを射ぬいた。ふたりは、うなり声をあげるのも同時であれば、苦痛に四肢をまげて地面にたおれるのも同時であり、さらに、たおれたまま同時に末期の眼をうごかし、同時に最後の息をひきとった。弟のアルペノルは、これを見るなり、悲しみに胸を打ちながら走りより、組みあったふたりの冷たい手足をひきはなそうとしたが、かれもこの兄弟愛の仕事をおわらないうちにたおれてしまった。デロスの神(67)が、必殺の矢でその胸ふかく射ぬいたからである。その矢をひきぬくと、かれの肺臓の一部が矢の逆鉤《もどり》について出てきて、血が高く噴きでるとともに息もたえてしまった。しかし、長髪のダマシクトンにいたっては、一矢だけではすまなかった。かれは、まず腿《ふともも》のつけねの、ひかがみの腱がやわらかくへこんだところを射られた。が、このいまわしい矢を手でひきぬこうとしているところへ、第二の矢がとんできて、矢羽根もかくれるばかりに喉もとをつらぬいた。しかし、矢は血におしもどされ、血は高々と噴きだして、空中に血柱をあげて散った。最後にのこったイリオネウスは、哀願するために腕をむなしくもさしのべて、「おお、すべての神々さま、どうぞおたすけください!」とさけんだ(すべての神々に願ってはならないということを、かれは知らなかったのだ)。弓矢の神(68)は、これにこころをうごかされたが、すでにはなれた矢は、とめようがなかった。それでも、かれのうけた傷は、ごく軽微なものだった。というのは、矢は心臓を浅くえぐっただけであった。〔二一八〜二六六〕
この不幸の噂、人びとの嘆き、身内の者たちの涙によって、ニオベは突然の災難を知った。そして、ラトナ女神の一味のしわざであることにおどろき、この神々がこのようなけしからぬ真似をし、しかもかれらにそれだけの権利があることに腹をたてた。というのは、息子たちの父であるアムピオンまでが、剣をおのが胸に突きさして、生命もろともその悲嘆に終止符を打ったからである(69)。ああ、このニオベも、かつてラトナの祭壇から人びとを追いちらし、昂然と頭をそびやかして街中をねりあるいたニオベと、いまはまるで別人のようであった。以前のニオベは、身内のものにとって羨望のまとであったが、いまは敵でさえもあわれにおもうような姿になりはてていた。かの女は、冷たくなった息子たちと良人の亡骸《なきがら》の上に身をなげると、だれかれの見さかいもなく最後の接吻をあたえた。やがて、青くなった腕(70)を天にあげて、「残忍なラトナよ、さぞやいい気味でしょう。わたしの苦しみを見てたのしみ、わたしの涙を見て満足を味わっておいでだろう。おまえの残忍なこころをぞんぶんに満足させるがよい。七人の息子たちの死によって、わたしの生命もおわったも同然だわ。さあ、得意になるがいい。勝ちほこれる敵よ、いくらでも勝ちどきをあげるがよい。しかし、はたしておまえの勝ちかしら。これほどの不幸におちいりながらも、まだわたしには、幸福なおまえよりもたくさんの子供がのこっている。これほど多くのものをうしなってさえ、まだ勝利はわたしの手にあるのだよ」〔二六七〜二八五〕
ニオベがこうさけぶやいなや、ひきしぼった弓弦《ゆづる》の音がひびきわたった。その音は、すべての人びとをおののかせたが、ニオベだけは平気だった。不幸のために、こわいもの知らずになっていたのである。七人の兄弟たちの棺架《かんか》のまえには、その姉妹たちが、めいめい黒衣を着、髪をふりみだして立っていた。突然、そのなかのひとりが腹部をつらぬいた矢をひきぬこうとしたが、そのまま兄弟の上にたおれて息たえてしまった。もうひとりは、不幸な母をなぐさめようとしていたが、急に言葉が出なくなったかとおもうと、見えぬ傷のためにくずれるようにたおれた。かの女は、最後の息をはきだすまで口をつぐんだままだった。ある者は、逃げようとして、むなしく地上に打ちたおされ、ある者は、その姉妹の上に折りかさなって息たえた。どこかに隠れようとする者もあれば、おびえながら右往左往する者もあった。こうして六人の姉妹は、それぞれ異なった個所に傷をうけて死んでいったが、まだあとにひとりだけ残っていた。母親のニオベは、からだ全体と着物全体でこの娘をかばいながら、こうさけんだ。「おお、どうかいちばん小さいこの子だけは、おたすけください! 多くの子供たちがいましたが、せめてこの子だけ、いちばん幼いこの子だけは、おたすけいただきとうございます!」しかし、まだ祈りつづけているあいだに、祈ってやっているその子も、この世のものではなくなってしまった。ニオベは、天涯孤独の身となり、息子や娘や良人の遺骸のまんなかにすわって、悲嘆のあまりそのまま動かなくなってしまった。風が吹いても、髪の毛の一本さえなびかず、顔の色は、まったく血の気がなかった。眼も、悲傷の顔に凝固していた。その容姿のどこにも、もはや生色はなかった。舌も、かたい口蓋もろとも口のなかで石と化し、脈搏もすでになかった。首はまがらず、腕はうごかず、足も歩けなかった。内臓も、石になってしまっていた。しかし、それでも、かの女は涙をながしていた。一陣の風が渦をまいて吹きよせ、かの女をとらえたかとおもうと、その故郷へはこんでいった。そして、ある山の頂上(71)におろされると、さめざめと泣きくずれた。それで、この大理石の大岩は、今日でも涙にぬれているということである。〔二八六〜三一二〕
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三 蛙になったリュキアの農夫たち
このことがあってから、男女の別なく、すべての人びとは、このようにはっきりとしめされた女神(72)の怒りをいよいよ畏れ、なおさら熱心に祭事にはげみ、双子《ふたご》の神をうんだこの女神の絶大な力をあがめた。そして、よくあることだが、この身近な出来事が機縁になって、昔の物語を話しあったりした。そのなかのひとりが、つぎのような話をした。〔三一三〜三一七〕
「肥沃なリュキア(73)の土地にも、むかしこの女神をないがしろにしたために罰をうけた農夫たちがありました。この物語は、身分のひくい人たちの上におこったことなのでほとんど世に知られてはいませんが、まことにふしぎな出来事なのです。かくいうわたしは、その沼と、この奇蹟によって有名になったその土地とをわが眼ではっきり見てきたのです。わたしの父は、もうずいぶんの高齢で、とても自分で出かけることができないので、わたしにその土地へいって、えりぬきの牛をあつめてくるようにと命じ、出発のとき、土地の男をひとり道案内につけてくれました。さて、その男といっしょに方々の牧場を歩きまわっておりますうちに、ふとある沼のまんなかに、風にそよぐ芦にかこまれて、供犠《いけにえ》の灰で黒ずんだひとつの祭壇が眼にとまりました。すると、案内の男は、たちどまって、『大慈大悲《だいじだいひ》』とおびえたような小声でつぶやきましたので、わたしも、おなじように『大慈大悲』ととなえました。それから、この祭壇はナイアデス(74)をまつってあるのか、あるいは、ファウヌス(75)か、それとも、この土地の神さまをまつってあるのかとたずねましたところ、男はつぎのように答えたのでした。〔三一八〜三三〇〕
『いいえ、若旦那さま、この祭壇にまつってあるのは、山野の神ではございません。ここの祭神というのは、かつて大神の妃《きさき》ユノさまのためにこの世を追われ、よるべなき宿なしの身であったのを、そのころまだ所さだめぬ浮島であったデロスにかろうじて安住の地をあたえられたあの女神(76)さまなのでございます。その島で、このラトナさまは、パラスさまの神木(77)と棕櫚《しゅろ》の木にもたれかかって、こどもたちの継母(78)にあたるユノさまのご意思に反して双子をおうみになったのです。さらに、母となってからも、ユノさまをおそれて、二柱の御子を胸にかかえて島から逃げていかれたということです。こうして女神さまは、キマエラ(79)に棲むリュキアの地にさまよい着かれましたが、折しも太陽は野面《のづら》いっぱいにやけつくような暑さをみなぎらせていまして、ながい旅路の労苦に疲れはてた女神さまは、その酷暑のために喉がからからにかわいてしまいました。ふたりの御子たちも、ひもじさのあまり乳房の乳をすっかり飲みつくしてしまいました。そのとき、はるか谷間の底に、かなり水をたたえた沼が見えるではありませんか。数人の農夫たちが、密生した柳や、灯心草や、沼地にはえる菅《すげ》などを刈りあつめていました。そこで、ティタンの娘である女神(80)さまは、沼に近づいていって、渇きをいやすためにつめたい水をすくいあげようと地上にひざまずきました。すると、農夫たちは、それをとめました。女神さまは、「なぜ水をのんではいけないのですか。水をつかうことは、だれにでもゆるされたことではありませんか。自然は、太陽も空気もきよらかな水も特定の人間のためにつくったのではありません。わたしがもらいに来たのは、だれにでも共有のものです。おまけに、それをめぐんでくださいと、あなたがたにお願いしているのです。それも、手足や疲れたからだを洗おうというのではなく、ただ渇いた喉《のど》をうるおしたいだけなのです。いまこうしてものを言いながらも、わたしの口は、話すのに必要な唾液もありません。喉はからからで、声もろくろく出せないほどです。いまのわたしには、ひと掬《すく》いの水もまるで神酒《ネクタル》のようにおもえましょうし、それをあたえられたら、あたらしい生命をさずかったといって感謝するでしょう。あなたたちがその水をあたえてくださることは、生命をあたえてくださることになるのです。それに、こうしてわたしの胸から小さな腕をあなたたちの方にさしのべているこの子供たちを、どうかかわいそうだとおもってやってください」すると、偶然なのでしょうが、ふたりの幼神たちは、ほんとうに小さな手をさしのべたのでした。女神さまのこのような切ない言葉に感動しないような人間があるでしょうか。
ところが、農夫たちは、女神さまの哀願に耳をかさないばかりか、追いはらおうとしておどし文句をならべたり、ののしったりしました。それのみか、さらに手や足で沼の水をかきまわし、意地わるくわざと跳ねまわって、沼の底からやわらかい泥をかきたてるようなことまでしました。さすがの女神さまも、怒りのあまり喉のかわきをわすれておしまいになりました。コエウスの娘は、たのみがいのない相手にこれ以上懇願することをやめ、また、女神らしからぬ低姿勢の言葉をこれ以上口にするにしのびなくなって、手を空の方にあげると、こうおっしゃたのでございます。「そういう料簡《りょうけん》なら、永久にこの沼のなかに住みつづけるがよい!」
女神さまの願いは、実現いたしました。農夫たちは、水のなかで暮らすことが楽しみになり、あるいは水底に全身をしずめ、あるいは頭だけ突きだし、ときには水面をおよぎまわり、ときには池の岸辺にあがったり、つめたい水にとびこんだりしました。しかし、いまでもかれらは、口さがない舌で臆面もなくがやがやとののしりあい、水のなかにいるときでも、水中で悪態《あくたい》をつくことをやめようとはしません。かれらの声は、いまではもう調子はずれのしわがれ声になってしまっています。喉のあたりは、不恰好にふくらんでいますし、悪態ばかりついているおかげで、口がいやに大きくなってしまいました。また、背と頭がくっついて、そのあいだにあるはずの頸《くび》すじは、どこかへ消えてしまったようです。背中は、緑いろで、からだ全体のなかでいちばん大きな腹は、白です。こうして、蛙という新しい種族になって、沼のなかではねまわっているのでございます』〔三三一〜三八一〕
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四 生皮をはがれたマルシュアス
だれとも名前の知れぬ話し手がリュキアの農民たちの身の上をこのように語りおわると、こんどは別のひとりが、トリトンの女神(81)が発明した笛の技くらべでラトナの子(82)に負け、罰をうけたサテュルス(83)のことを思いだした。そのサテュルスは、「ああ、わたしの皮をはいでしまうなんて、なんということをなさるのです! ああ、よせばよかった! あの笛のむくいが、こんな大事になろうとは思いもよらなかった」とさけんだが、いくらわめいても、からだじゅうの皮をはがれて、傷だらけになってしまった。全身から血がながれだし、筋肉があらわに見え、むきだしになった血管はぴくぴくとうごき、うごめく内臓や光にさらされた胸部の筋《すじ》なども、はっきりと数えることができるほどであった。その土地の人びと、森の神たち、ファウヌスたち、きょうだいのサテュルスたち、いまもかれにかわいがられていたオリュムプス(84)、妖精《ニュムペ》たちは、みんなかれのために涙をながした。さらに、この山々に羊や牛の群を追うていた牧人たちも、かれのために泣いた。肥沃な大地は、そのためにしめり、やわらかくなり、流れおちる涙を吸いこみ、地底の脈管のなかまでしみこませた。大地は、やがてこの涙を水に変え、大気のなかへ送りかえした。こうして、ひとつの河がうまれ、けわしい岸のあいだを荒れさわぐ海にむかってながれていった。それは、マルシュアスとよばれ、プリュギア地方で最もすみきった河である。〔三八二〜四〇〇〕
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五 ペロプスの左肩
この昔話がおわると、人びとは、ふたたび現在の出来事に思いをむけ、子供たちとともに死んだアムピオンの身の上をいたんだ。人びとの憤激は、子供たちの母ニオベにむけられた。しかし、ただひとりペロプス(85)だけは、ニオベのために涙をながし、上衣をぬぎすてて、左の肩の象牙をあらわにはだけた(86)ということである。かれがうまれたときは、この左肩も、右の肩とおなじ色をし、おなじように肉でできていたのである。その後、父の手によってかれの五体はずたずたに切りきざまれてしまったのだが、神々はそれをまたもとのようにつなぎあわせてくださったのだといわれている。ところが、そのさい、からだのほかの部分はみな見つかったのに、喉から左の腕のつけ根にかけての部分だけは、どうしても見つからなかった。そこで、神々は、なくなった部分のかわりに象牙をはめこんで、それにおなじ働きをさせるようにした。おかげでペロプスは、すっかりもとどおりのからだになれたのである。〔四〇一〜四一一〕
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六 プロクネとピロメラ
さて、近隣の王たちが、ペロプス(87)のもとにあつまった。というのは、近隣の諸都市は、その王たちに、ペロプスのもとにおくやみに行くようにとたのんだからである。すなわち、アルゴス、スパルタ、ペロプスの町であるミュケナエ(88)、当時まだディアナ女神の憤怒の的になっていなかったカリュドン(89)、肥沃なオルコメヌス(90)、銅金で名だかいコリントゥス(91)、勇猛なメッセネ(92)、パトラエ(93)、国威ふるわぬクレオナエ(94)、ネレウスが支配するピュロス(95)、まだピッテウス(96)の治下になっていなかったトロエゼン、さらに、ふたつの海にはさまれたコリントゥス地峡に仕切られているその他の諸都市(97)、また、外がわにあって、この地峡から見わたすことのできるすべての都市(98)――これらが哀悼の意を表するためにペロプスのもとにあらわれたのだった。しかし、信じられないことだが、アテナエよ、おまえだけは、そこにくわわっていなかった。戦火のために義務をはたせなかったのだ。海をこえて来寇《らいこう》した蛮族の軍隊が、モプソピア(99)の城壁をおびやかしていたからである。
しかし、トラキアのテレウスは、援軍をひきいてこの外敵を敗走せしめ、その勝利によって高名を四方にとどろかせた。そこで、パンディオン(100)は、富と武力によって強大であり、また、かの偉大なグラディウゥス(101)から出ているといわれる勇猛な血筋をもつこのテレウスとつながりをつけるために、娘のプロクネをかれと結婚させた。しかし、縁結びの女神であるユノもヒュメナエウス(102)もグラティア(103)も、この結婚には立会わなかった。そのかわりに、おそろしいエウメニス(104)たちが、葬儀の火で点じた炬火《たいまつ》をかざしていた。ふたりの新婚の床をのべたのも、エウメニスたちであった。また、一羽の不吉なコノハミミズク(105)が、宮殿の屋根におり立ち、かれらの新床の部屋の棟《むね》にとまった。プロクネとテレウスが愛のちぎりをむすんだのは、このような不吉な前兆のもとにおいてであり、かれらがその子宝をもうけたのも、このような凶兆のもとにおいてであった。
もちろん、トラキアの民は、ふたりを祝福した。ふたりは、神々に感謝をささげ、またパンディオンの娘がこの高名な王の妃になった日と、その子イテュスのうまれた日とを祝日とさだめるように命じた。しかし、ああ、なにが禍福になるかは、われわれの理解の埒外にあるものらしい。ティタン(106)がめぐる歳月をたぐりよせ、はや五たびの秋もすぎたころ、プロクネは良人《おっと》に甘えるように、「ねえ、わたしをいとしいと思ってくださるなら、どうか妹に会いにやらせてください。それがだめならば、せめて妹をこちらへよびよせてください。父には、妹はすぐに帰るからとおっしゃっておいてください。妹に会わせてくださいましたら、ほんとうに恩にきますわ」そこで、テレウスはすぐさま船を海に出させ、帆をはり、櫂をあやつらせて、ケクロプス(107)の港に入り、ピラエウスの浜に着いた。〔四一二〜四四五〕
こうしてテレウスがその舅《しゅうと》に対面すると、ふたりは、たがいに手をとりあって、吉兆のもとに挨拶をかわして話をはじめた。テレウスは、自分がやってきた理由と妻の伝言をのべ、あずかった乙女はまたすぐつれて帰ると約束をした。ちょうどそのとき、当のピロメラが出てきた。その身ごしらえも美しかったが、容姿はさらに美しかった。もしナイスたちやドリュアス(108)たちにこれとおなじ装身具と衣裳をまとわせるならば、われわれが噂にきく、森の奥ふかくをそぞろ歩きするというかの女たちのすがたは、おそらくこのピロメラのようであろうとおもわれた。
テレウスは、この乙女をひと目見るなり、白くなった穂に火を点じたように、あるいは、枯葉や干し草棚につみあげられた乾草に火をつけたように、たちまち胸のなかに恋がもえあがった。むろん、ピロメラの美しさに男のこころをそそるものがあったのであるが、だいたい、かれの国の人たちは、ウェヌスの情熱(109)にもえやすい性《たち》であった。つまり、かれは、かれ自身およびかれの種族の悪徳によって欲情にもえたのである。こうして熱情にかられたテレウスは、なんとか乙女の供人《ともびと》たちの眼をかすめ、忠実な乳母(110)の裏をかき、おびただしい贈物によってかの女をくどきおとし、自分の王国をもそれにかけ、それでもだめなら、乙女を力ずくでうばいさらって、武力に訴えてでもこの掠奪物を守りぬこうという欲望をいだいた。狂恋に盲《めしい》たかれは、どんな手段でも辞さないありさまだったし、かれの胸も、もはや恋の炎をじっと秘めておくことができなかった。ついに、これ以上てまどっていることに堪えられなくなり、欲情にもえた舌で話をいくどもプロクネの言《こと》づてに引きもどし、妻の名をかりて自分の望みをとげようとした。
恋情がかれを雄弁にした。そして、そのあつかましい要請が度をこすたびに、これはプロクネの望みなのですというふうに言った。それのみか、これもプロクネにたのまれたことだといわんばかりに、涙さえ浮べてみせた。おお、神々よ、人間の胸にはなんという得体のしれぬ暗闇が巣くっていることでしょうか。テレウスは、おのれの悪だくみをとげようとする懸命な努力のために、かえって親切な男と見られ、おまけに、その悪業のために称讃をさえかちえたのである。いや、それだけではない。ピロメラまでが、かれとおなじことを望み、父の肩に腕をまきつけて、どうか姉に会いにいくことをゆるしてくださいと、自分の幸福にかけて、いや、じつはおのが幸福にそむいてまで、甘えるようにたのんだのであった。
テレウスは、そういうピロメラの様子をじっと見つめ、すでに手に入れたもののようにその視線でかの女の姿態を愛撫していた。かの女が父にあたえる接吻を見、父の首にまきつける腕を見るにつけ、すべては、かれの狂おしい欲情をいやが上にもかきたてる刺戟となり、炬火となり、糧《かて》となった。かの女が父を抱擁しているのを見ると、その父になりたいとおもった。むろん、父となったところで、かれの邪悪なこころがおさまるわけはなかったのであるが。父親は、ついにふたりの娘の懇願にまけた。ピロメラは、非常によろこんで、父に感謝をした。あわれな乙女は、やがて自分たち姉妹の不幸となるであろうことを、うまく望みがかなえられたとおもったのである。〔四四六〜四八五〕
すでにして、ポエブス(111)は、日課の大半をおわり、その駿馬たちは、天路の最後の坂を力いっぱい駈けくだっていた。王宮の晩餐の用意はととのえられ、バックスの恵み(112)が黄金の杯にあふれた。しかし、やがてそれもおわって、人びとの身体は、なごやかな眠りにつつまれた。ところで、トラキアの王(113)は、ピロメラとははなれた部屋に寝ていたけれども、かの女のことを考えると、胸のなかがもえたった。かの女の容姿や身ごなしや美しい手をおもいだし、さらにまだ見ないものまで勝手に妄想してつけくわえ、われとわが情炎に油をそそぎかけ、こうしてはげしい欲情のためにまんじりもできないのであった。さて、夜があけると、パンディオンは、別れゆく婿の手をにぎり、眼に涙をうかべながら娘をその手に託して、
「さて、婿どの、ふたりの娘がかわいくてどうしても許さぬわけにはいかぬし、娘たちもそれをのぞみ、あなたもおのぞみのことですから、テレウスどの、この娘をあなたにおあずけしますぞ。あなたのご好意とわしらを結ぶ縁《えにし》と神々の御名とにかけて、どうぞこの娘をあなたの子とおもって面倒を見てやってくだされ。そして、生い先みじかいわしの唯一の慰めであるこの娘を、一日も早く帰らせてくだされ。首を長くして待っておりますぞ。それに、ピロメラや、父を愛しているなら、できるだけ早く帰ってきておくれ。そなたの姉が遠い国に住んでおるということだけでも、わしにはずいぶんとつらいことなのじゃから」
こう言ってきかせながら、いくども娘に接吻をしたが、そうしているあいだも眼からとめどもなく涙をながすのだった。そして、ふたりに約束のしるしに右手を出させ、それをたがいに握りあわせ、遠くはなれている娘と孫とに口ずからよろしく伝えてほしいとたのんだ。最後の別れの言葉は、はげしい嗚咽のために口にするのもやっとのことであったが、不吉な予感に胸さわぎをおぼえて慄然《りつぜん》としたのであった。〔四八六〜五一〇〕
こうしてピロメラが彩色あざやかな船にのりこみ、櫂が水をわけて、沖が近づき、陸地がしだいに遠ざかると、テレウスは、「首尾は上乗! ついに望みのものを手に入れたわい」とさけんだ。かれは、喜びに小踊りし、かろうじて快楽を味わう時をのばしていたが、眼は片時も乙女からはなさなかった。それは、掠奪者の鷲が鉤爪《かぎづめ》でとらえた兎を高い梢の巣にそっとおろしたときに似ていた。もうどこにも逃げ場はないし、掠奪者の眼は瞬時も獲物からはなれない。こうして海上の旅はおわり、水夫たちは、旅につかれた船からすでに故郷の岸に上ってしまった。
そこで、テレウスは、パンディオンの娘をさそって、千古の森の奥ふかくにかくされた、高い垣をめぐらした羊小屋につれていった。乙女は、蒼ざめ身ぶるいしながら、どんなおそろしいことになるのかと心配し、涙ながらに姉のいるところをたずねたが、テレウスは、かの女を小屋に押しこめると、おそろしい意図を打明け、ひとりきりの相手をついに力ずくで征服してしまった。ピロメラは、大声をあげ、いくども父よ姉よとさけび、全能の神々にも救いをもとめたが、甲斐がなかった。灰色の狼の口からはなされてもまだ生きた心地のしない、傷つきおびえた小羊のように、あるいは、われとわが血で翼が染められたのを見ておののき、自分をつかんでいる残忍な爪におびえている小鳩のように、かの女はわなわなとふるえていた。やがて正気にかえると、みだれた髪をかきむしり、胸にふかい悲しみをいだいた者のように、歎きながら腕をうち、テレウスの方に手をのばして、
「野蛮な人よ、なんというひどいことをなさったのです! ほんとうにむごい仕打ちです。父の頼みもやさしい涙も、姉のことも、それから、わたしの純潔なからだも、夫婦の掟さえも、どれひとつとしてあなたのこころを動かさなかったのですか。あなたは、なにもかも踏みにじっておしまいになりました。わたしは、自分の姉の恋仇になり、あなたは、ふたりの女の良人になってしまいました。プロクネは、わたしを敵とおもって憎むにちがいありません。不実な方よ、あなたにこれ以上犯すべき罪がなくなるように、どうしてわたしを殺してしまわないのです。ああ、こんなけがらわしい凌辱をするまえに、わたしの命をうばってしまってくださればよかったのに! そうすれば、わたしのたましいは、汚《けが》れをうけずに死者の国へ行けたでしょうに。けれども、これを神々がご照覧になっていて、神々のお力がむなしいものでないならば、そしてまた、この身とともになにもかもがだめになってしまうのでないならば、いつの日にかわたしはかならず復讐をせずにはおかないでしょう。わたしは、わが身の恥も外聞もかまわずに、あなたの非道をあばいてやりましょう。折あらば、世の人びとのもとに告げにいきましょう。もしあなたがわたしをいつまでもこの森にとじこめておくならば、わたしの歎きを森じゅうに言いふらし、こころなき岩たちも動かして、わたしの不幸の証人にしましょう。天もわたしの声を聞いてくださるでしょう――もしそこに神さまとやらがいらっしゃるならば!」〔五一一〜五四八〕
この言葉は、残忍な暴君の憤怒をまねいたが、同時に恐怖をもよびおこした。かれは、怒りと恐怖にかっとなって、腰にさげていた剣をひき抜くと、ピロメラの髪をつかんで、両手をうしろにねじあげ、鎖でしっかりとしばってしまった。ピロメラは、首をさしだした。抜身の剣を見るなり、死の覚悟をきめたのである。しかし、かの女の舌はなおも激昂して父の名をよび、しきりに怨みをのべたてるので、テレウスは、やっとこでその舌をはさむと、するどい刃《やいば》で切りおとしてしまった。舌の根は、なおも口の奥でうごきまわり、きられた舌は、下におちて、黒い地面の上でぴくぴく動きながらつぶやきつづけていた。胴を切られた蛇の尾がぴくぴくと動くように、それはなおも痙攣していたが、やがて死に行きながらも、もとの主人のいる方をさがそうとした。このような新しい暴行をくわえてからも、とても信じられないことだが、テレウスは、切りさいなんだ乙女の身体におのが情欲をみたしたということである。〔五四九〜五六二〕
このような非道な罪をおかしながらも、テレウスは、なに食わぬ顔をしてプロクネのもとに帰っていった。プロクネは、良人の顔を見るなり、妹のことをたずねた。かれは、まことしやかに歎息をもらし、いつわりの物語をして、ピロメラは死んだのだと告げ、さめざめと涙をながして見せたので、だれも疑う者はなかった。プロクネは、巾のひろい金糸の縁かざりをつけた衣裳を肩からむしりとると、喪服をまとい、空《から》石碑を建てて(114)、妹のかりそめの霊前にいろいろな供物《くもつ》をそなえ、ほんとうは別な理由から悼《いた》まれるべき妹の冥福をいのったのであった。〔五六三〜五七〇〕
そのうちに、太陽神は、獣帯の十二宮をへめぐって、一年の行程をおえた。ピロメラは、もうどうするすべもなかった。番兵たちが逃亡をはばんでいるし、頑丈な石づくりの壁は、たかだかとそびえている。もの言わぬ口は、わが身にくわえられた非行をあばくこともできない。しかし、悲しみは、かの女の工夫の才を大きくし、不幸は、かの女に巧みな技《わざ》をおしえた。ピロメラは、この蛮族(115)のもちいる織機にたくみにたて糸をしかけ、白糸の地に緋色の文字を織りだして、この非行を書きあらわした。これができあがると、ひとりの女にそれを託し、手まねでその女主人(116)のもとにとどけてくれるようにとたのんだ。女は、そんな秘密があろうとは知るよしもなく、たのまれたとおりにそれをプロクネにとどけた。暴君の妃は、その布をひろげると、妹のつづったおそろしい言葉を読んだ。しかし、ほんとうとは信じられないかもしれないが、かの女は、ひと言《こと》も洩らさなかった。悲しみのために、口がきけなかったのである。というのは、舌が怒りを十分にあらわすべき言葉をさがしもとめても、見つからなかったからである。涙をながすいとまさえなく、善悪のけじめもわすれはてて、ひたすら復讐の計画にのみこころをくだくのだった。〔五七一〜五八六〕
そのころは、あたかもトラキアの女たちが三年ごとにめぐり来るバックスの祭典(117)をもよおす時期であった。この祭の伴侶《とも》は、夜であった。夜なかにロドペ(118)の山は、するどい銅鑼のひびきが鳴りわたった。王妃は、夜陰にまぎれて宮殿をぬけだした。この神の祭儀にかなった衣をまとい、酒神の狂乱にふさわしい武装をこらし、頭にはぶどうの蔓をかぶり、鹿の毛皮を左脇にたらし、肩にはかるい槍をかついでいた。かの女は、精悍な一隊をひきつれて、森のなかを狂ったように猛進していった。苦痛に狂いながらも、おお、バックスよ、おんみの狂乱に興奮したようなふりをしていたのである。ついに例の人里はなれた羊小屋に着くと、おそろしい喚声とともに「バックス万歳!」とさけびながら小屋の入口を打ちやぶり、妹をうばい去ると、かの女にバックスの飾りをつけ、顔を蔦の葉でかくし、おどろいている妹をつれて宮殿に帰っていった。
ピロメラは、無道な男の邸につれこまれたのだと気づくと、怖ろしさのために身ぶるいし、顔じゅうがまっ青になった。プロクネは、部屋に入るなり、不幸な妹のつけている祭の飾りをとりはらい、恥らいのために消え入りたげなその顔をあらわに出させて、腕にだきしめようとした。しかし、ピロメラは、姉の良人を寝取ったようにおもわれることが心苦しくて、どうしても眼をあげて姉をまともに見ることができなかった。面を伏せたまま、神々を証人として、力ずくでこのような破廉恥な仕打ちをうけたのだと誓おうとしたが、口のきけない身であるから、手ぶりでそれを語るよりほかなかった。その手言葉を判じたプロクネは、怒りにもえたち、自分で自分の憤怒をおさえることができなくなった。かの女は、妹の涙をしかりながら、
「いたずらに涙などながしている場合じゃありません。いまこそ、剣を――いいえ、剣にまさる手だてがあるなら、それを使うべきときです。ピロメラ、わたしは、いつでも覚悟ができていますよ。手に炬火《たいまつ》をとって王宮に火をはなち、あなたの不幸をつくりだしたあのテレウスをその炎のなかに投げこんでやるのもいいし、でなければ、剣をふるって、あの男の舌と眼とあなたの純潔をうばった一物《いちもつ》とを切りおとすのもいいし、また、たくさんの傷をあたえて、その傷口から罪をおかしたあの男のたましいを追いだしてしまうのもよい。わたしは、さてどういうことになるかは自分でもまだわからないけれど、なにかものすごいことがやってのけられそうな気がするわ」プロクネがこう語っていたとき、一粒だねのイテュスが母のもとにやってきた。この子を一瞥するなり、プロクネは、自分のなすべきことをさとった。おそろしい眼つきでわが子を見すえながら、「おお、おまえは、ほんとうに父親に生写《いきうつ》しだわ」といったが、それ以上のことは口に出さなかった。かの女は、おそろしい計画をこころにめぐらし、ひそかに無言の怒りをもえたたせた。しかし、子供が近づいてきて、母に一礼し、その首に小さな腕をまきつけ、子供らしいあどけない言葉を口にしながら、いくども母に接吻をすると、母のこころは動揺した。さしもの怒りも、腰くだけになり、立ちすくんでしまった。おもわず眼に涙があふれた。あまりにも大きな愛情のために決意がゆるむのを感じたかの女は、すぐさま視線を愛児から妹の顔の方にそらした。そして、ふたりをかわるがわる見つめながら、
「ああ、一方はこんなにやさしい言葉をかけてくれるのに、他方は舌を抜かれて、言葉もかけられない。この子は母とよんでくれるのに、どうして妹は姉とよんでくれないのであろう。ああ、自分のめあわされた相手がどんな男であるかを、よく考えてみるがよい。パンディオンの娘とあろうものが、情に流されてはならない。テレウスのような男を良人だとおもうのは、罪をおかすにもひとしいことなのだから」〔五八七〜六三五〕
こういうなり、プロクネは、ガンゲス河(119)のほとりに棲む虎がまだ乳呑児の仔鹿をくわえて暗い森のなかをひきずっていくように、イテュスをひきずっていった。そして、宏壮な宮殿内の奥まった一室まで来ると、すでに自分の運命を予感したように両手をひろげ、「お母さま! お母さま」とさけびながら首にとびついてきた息子の胸と腹のあいだに、眼もそらさずに剣をつき刺した。この一撃でも、子供には十分であっただろうに、ピロメラも剣をとって、少年の喉もとをかき切った。それから、ふたりは、まだあたたかい、生命の名残りののこっている少年の手足を切りきざみ、その一部は、青銅の鍋に入れて炊《た》き、一部は鉄串にさして火にあぶった。あたりは、血の海となった。〔六三六〜六四六〕
こうして用意された食卓へ、プロクネはなにも知らぬテレウスをよんだのである。そして、良人だけが立会うことをゆるされている祖先伝来の慣習にのっとって神々に祭儀をおこなうのだという口実をつくって、臣下たちを遠ざけた。テレウスは、祖先からうけついだ高座について、食事をとり、われとわが肉を腹につめこんだ。やがて、なにも知らないままに、「イテュスをつれて来い!」と命じた。プロクネは、残忍な喜びをかくしていることができず、自分のしかけた血なまぐさい犠牲をみずから打明けたい欲求にかられて、「およびになった子供は、あなたのなかにおりますわ」と答えた。テレウスは、あたりを見まわして、どこに子供がいるのかとたずねた。そして、なおもわが子をもとめて、その名をかさねて呼んだとき、おそろしい血にまだ濡れたままの髪をしたピロメラがおどり出てきて、血まみれになったイテュスの首をその父親の顔めがけて投げつけた。おのれの内心の歓喜を言葉にあらわすために、かの女は、このときほど口がきけたらとおもったことはなかったであろう。
テレウスは大声をあげて、食卓を突きとばすと、蛇髪をいだく姉妹たち(120)を地獄の谷から呼びたてた。できることなら、わが胸をさいて、このいまわしい食物をひき出し、腹に入れた肉をすててしまいたいとおもった。かれは、泣きだし、あわれにもわが子の墓になったとのろい、やがて抜身の剣をひっさげて、パンディオンの娘たちを追いかけた。しかし、ふたりのアテナエの女たち(121)のからだは、まるで翼にささえられて宙をとんでいくかのようにおもわれた。いや、ほんとうにそのからだは、翼がはえて宙にうかんでいたのである。そして、ひとりは、森の方へとんでいき、もうひとりは、屋根の下にもぐりこんだ。その胸は、いまでも殺戮の跡をとどめ、羽毛が血色にそまっている(122)。テレウスも、悲しみと復讐心のために一羽の鳥と化し、額には冠毛がはえ、顔面には、長い剣のかわりに、不相応に長い嘴がつきでている。これは、ヤツガシラとよばれる鳥で、その頭部は、まるで武装したような恰好である。〔六四七〜六七四〕
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七 北風神ボレアス
この悲しい出来事は、その命運の日よりも早く、長い老年が達すべき終りの日を待たないで、パンディオンをタルタルス(123)の暗闇の国へといそがせた。こうして、かれの死後、その国の王笏と支配権とは、正義にかけても武力にかけてもひとしく秀でたエレクテウス(124)の手にうつったのであった。かれには、四人の息子と四人の娘があった。そのうち、ふたりの娘(125)は、甲乙つけがたいほどの美しさであった。そのひとりであるプロクリスよ、おまえは、アエオルスの孫にあたるケパルス(126)の妻となって、かれに幸福をあたえたのだった。ボレアス(127)も、エレクテウスの娘のひとりに思いをよせていたのだが、あのテレウスとトラキア人のことがたたって(128)不利な立場にあった。だから、かれが求愛するにとどまり、腕力よりも口説《くぜつ》にたよろうとしていたあいだは、どうしてもその恋人オリテュイアを手に入れることができなかった。しかし、ついにやさしい言葉だけではどうにもならないとわかると、北風にありがちな、いつもの怒りにかられて、こういった。
「そうだ、おれの失敗も当然のことだ。おれは、腕力や暴力や憤怒や脅迫などというおれに打ってつけの武器をつかわないで、どうして口説などという不似合いな手段に出たのだろう。力こそおれに似つかわしい。おれは、力によってこそ、黒雲を追いはらい、海を荒れ狂わせ、ふしくれだった樫の樹を根こそぎにし、雪をかため、霰《あられ》で大地を打つこともできるのだ。大空こそ、おれの舞台だが、そこで兄弟たちに出会うと、おれは力をつくしてかれらと争う。すると、おれたちのあいだをへだてる大気は、相|搏《う》つおれたちの衝撃をうけて鳴りひびき、うつろな雲のなかからさえ稲妻がきらめく。また、大地のふかい裂け目に舞いおりて、その洞穴の底におれの背中をおもいきりぶっつけると、その震動で亡霊のみか、全世界がふるえおののくのだ。さらば、そのような力に訴えてこそ、おれは妻をもとめるべきであった。哀願などではない、力によってこそエレクテウスを舅にすべきであったのだ」〔六七五〜七〇一〕
ボレアスは、このような言葉や、それにおとらずおそろしい言葉を口にするやいなや、翼をはばたかせた。その羽ばたきで、地はあまねく吹きはらわれ、海原は波だちさわいだ。かれは、埃まみれのマントを山の頂きに引きずり、地面を掃きなでていったが、黒雲にかくれたその褐色の翼には、怖ろしさにおののくオリテュイアがしっかり抱きかかえられていた。かれの胸の情火は、飛ぶにつれてますますあおりたてられていった。こうして、この掠奪者は空の旅をつづけ、ついにキコネスの民たち(129)とその城壁のところまで来て、足をとめた。ここでアテナエの娘(130)は、極寒の王者の妃となり、懐妊したが、やがて双子の男児をうんだ。かれらは、父からうけついだ翼のほかは、すべてのものを母からうけていた。だが、その翼は、うまれながらはえていたものではないといわれている。かれらの褐色の髪の毛より下にひげがはえだすまでは、小さいカライスもゼテス(131)も翼がなかった。ところが、やがて鳥のようにふたりの両肩が二枚の翼におおわれ、同時に褐色のひげが頬にはえだしたのである(132)。こうして少年からりっぱな若者に成人すると、ふたりは、金いろにかがやく羊毛の皮をもとめて、ミニュアス(133)の子孫たちとともに最初の舟(134)にのって未知の海原に旅だったのであった。〔七〇二〜七二一〕
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巻六の註
(1)ミネルウァ→巻二(167)
(2)アオニア〔巻一(65)〕に住む女神たちの意、つまりムサたちのこと→巻五(72)
(3)ミネルウァ(パラス・アテナ)は、技芸(機織りや音楽)の女神でもある→巻二(119)
(4)→巻二(78)
(5)小アジアのイオニアの町。
(6)イオニアの町。
(7)ある種の貝類(ほねがい・てつぼらなど)から採取した紫紅(緋色)の染料をいう。
(8)リュディアのトモルス山のふもとにある小邑。
(9)トモルスともいう〔巻二(35)〕。リュディアの山と町の名、ぶどう山として知られていた。
(10)ティモルス山に源を発する河で、砂金を産するので知られていた。
(11)トラキアからプリュギアやリュディアに移住してきたミュグドン族から由来した名称で、ここではリュディアの意。
(12)パラス・アテナ(ミネルウァ)女神→巻二(119)
(13)→巻五(6)
(14)→巻二(121)
(15)→巻三(8)。マルスの岩山とは、アテナエにあるアレオパグスのこと(軍神アレスの丘、の意。アクロポリスの西方にある小丘)
(16)アテナエのこと。ここにいう「古い争い」とは、アテナエの町の所有権と命名権をめぐってミネルウァ(パラス・アテナ)とネプトゥヌスとのあいだに起った係争のことで、二神はそれぞれ最良の贈物によって町をわがものにしようとした。海神は、海水のふきだす泉をあたえた(そのような泉がアテナエにあったという)。ミネルウァは、かの女の聖木であるかんらん樹(オリーヴの木)を町に贈った(オリーヴ栽培は、アテナエおよびアッティカの主要産業である)。審判官の諸神は、ミネルウァに軍配をあげ、町は女神のものになり、その名にちなんでアテナエとよばれるようになったという。
(17)→巻二(162)
(18)ハエムスとロドぺは、兄妹で、北風神ボレアスの子とされる。ユピテルとユノとにならい、兄妹が夫婦になり、それぞれゼウス(ユピテル)およびヘラ(ユノ)と称したため、山に化せられた→巻二(40)(45)
(19)南アフリカ、インド、あるいはスキュティアに住むとされた伝説上の矮人族、大きな男根を所有すると考えられた。かれらの母神とされたオエノエは、ユノとディアナを尊崇しなかったので、ユノのために鶴(あるいは、こうのとり)に変えられ、たえず自分の同族であるピュグマエイにいじめられるという運命におとされた。
(20)トロイア王ラオメドン〔巻十一(41)〕の娘。ユノよりも髪の毛が美しいと誇ったために、髪の毛を蛇に変えられ、さらにこれを不憫におもった神々(または、ユノ自身)によって蛇を食うこうのとりに変えられた。
(21)トロイアの別名→巻十一(124)
(22)アッシリアの王、またキュプルス島(小アジアの海岸にある島)の王で、同島のウェヌス信仰の創始者となった人物とも考えられる。その娘たちは、ユノよりも美しいと思いあがったので、ユノ神殿の石段に変えられた。キニュラスにはいろいろな伝説が混入し、娘のミュラと不倫の交わりをして、アドニスの父となったのもかれであるとされている(巻十の二九八行以下)
(23)→巻二(174)および八三三行以下。
(24)ティタン神族にぞくするコエウス(ウラヌスとガエアとの子、姉妹のポエベを妻とした)とポエベとの娘、ラトナの姉妹〔巻一(125)〕。ペルセス(ティタン神族のクレイオスの子)の妻となりヘカテ(46)をうむ。ユピテルの誘惑をのがれるため鶉《うずら》に姿を変え、空から海に身を投じて、アステリア(星島)またはオルテュギア(鶉の島)とよばれる島となった。これが後のデロス島で、ラトナがここでアポロとディアナの二神をうんだ(59)。なお、鷲はユピテルの鳥、またユピテル自身である。
(25)アエトリアの王テスティウス〔巻八(61)〕の娘、スパルタ王テュンダレウスの妻。白鳥の姿に身を変えたユピテルと交わり、二個の卵をうみ、それから絶世の美女ヘレナ〔巻十二(5)〕、ポルクス、カストル〔巻八(58)〕、クリュタエムネストラ〔巻十三(61)〕の四子がうまれた。前二者はユピテルの、後二者はおなじ夜に交わったテュンダレウスの子であるという。また、ポルクスとカストルのふたりをユピテルの子とする説もあり、ふたりはディオスクリ(ユピテルの息子たち)ともテュンダリダエ(テュンダレウスの息子たち)ともよばれることがある。
(26)スパルトイ〔巻三(14)〕のひとりクトニウスの子、ボエオティアの王。その娘アンティオペは、サテュルス〔巻一(42)〕に身をやつしたユピテルに愛されて、アムピオン(50)とゼトゥスとの二子の母となった。→巻七(152)
(27)ティリュンス〔巻五(38)〕の王アムピトリュオンの妻アルクメナのこと。この一族は、英雄ペルセウスとアンドロメダとの血をひいている。アルクメナは、ペルセウスの息子エレクトリュオンを父とし、おなじくペルセウスの息子アルケウスの娘アナクソを母としているし、アムピトリュオンもアルケウスの息子である。アムピトリュオンが出征中ユピテルは、アムピトリュオンに化け、太陽神ソル(ヘリオス)に命じて三日間も日蝕にさせて、アルクメナと交わったという。そこからうまれたのが、英雄ヘルクレスとその一日違いの双生の弟イピクレスで、後者のみはアムピトリュオンの子であるとされている。
(28)ペルセウスの母→巻四(111)
(29)シキュオン〔巻三(32)〕をながれる同名の河の神、オケアヌスとテテュスとの子〔巻二(11)〕。ユピテルに娘アエギナを誘拐されたので、探しにでかけたところ、ユピテルの雷に打たれた(作者が「火となって」と形容したのはそのためであろう)。ユピテルは、さらにアエギナをオエノピア(またはオエノネ)島につれていき、そこでトロイア戦争の英雄アキレスおよびアヤクスの祖父にあたるアエアクス〔巻七(119)〕がうまれた。この島は、アエアクスによりアエギナと改名された→巻七の四七二行以下。→巻十三(76)
(30)→巻二(38)。ピエリア〔巻五(54)〕で九夜つづけてユピテルの愛をうけ、一年後に九人のムサたちの母となった。
(31)ケレス〔巻五(74)〕の別称。その娘とは、プロセルピナのこと〔巻五(89)〕。ただし、プロセルピナがまだら蛇となったユピテルに愛されたというのは、エレウシス秘教のなかで生じた異説で、このときうまれた子は、ザグレウスといい、これが最初のバックス神であるが、ユノが嫉妬のあまりこの子を八つ裂きにしてしまった。ミネルウァ(アテナ)がかろうじてその心臓を救いだしたので、ユピテルはそれを体内に呑みこみ、こうしてうまれたのがセメレの子である第二のバックスだという→巻三(36)および二五三行以下。
(32)デウカリオンとピュラとの孫にあたり、テッサリアのアエオリス族の祖王とされる〔同名のゆえにしばしば風神アエオルスと同一視される。→巻四(93)〕。その娘カナケは、海神ネプトゥヌスに愛されて、多くの子供をうんだ。カナケは、シシュプス〔巻四(90)〕、アタマス〔巻三(77)〕、サルモネウス〔巻二(148)〕、マグネス〔巻五(40)〕、アルキュオネ〔巻十一(80)〕らの姉妹にあたる。
(33)→巻一(104)、その河神。
(34)カナケがネプトゥヌスによってうんだ子供たちのひとりであるアロエウスの子供たちの意で、アロエウスの妻イピメディア(おなじくカナケが海神によってうんだトリオパスの娘)がネプトゥヌスに愛されてうんだオトゥスとエピアルテスの二巨人をいう。ふたりは、その雲をつくような長身をたのんで、オリュムプス山の上にオッサ〔巻一(32)〕とペリオン〔巻一(31)〕の両山をかさねて天を侵寇しようとしたので、神々に殺され、冥界で大蛇にしばられているという。普通には、海神はエニペウスの姿で愛したのではなく、イピメディアが手で海水をすくって胸もとに入れて海神と交わったとされている。
(35)トラキア(あるいはマケドニア)の王。その娘テオパネは、海神に愛され、多くの求愛者たちからのがれて、クルミッサ島で牡羊と牝羊とに姿を変えて交わり、金毛の牡羊をうむ。この牡羊は、のちプリクススとヘレを助け、アルゴナウタエの遠征によって知られる金羊毛皮伝説をつくる。→巻七(6)(9)
(36)ケレス女神。プルトに誘拐された娘プロセルピナをさがしていたとき、ネプトゥヌスに恋をしかけられた女神は、牝馬に化けて家畜の群にまぎれこんだが、海神も牡馬に変身して交合したという。ネプトゥヌスは、たんに海の大神であるだけでなく、すべての泉の神とも考えられ(16)、泉は地下より湧くところから、地下の女神としてのケレス〔巻五(74)〕に関係づけられたのであろう。女神はアリオンという神馬をうむが、これはのち英雄ヘルクレスや、テバエ戦争の総帥アドラストゥス〔巻九(84)〕の乗馬となる。なお、「金髪の」という形容は、みのった麦の穂をあらわしている。
(37)ペガススのこと〔巻四(144)〕。ネプトゥヌスが鳥となってメドゥサと交わったというのは、ペガススのもっている翼の由来を説明するための後代の創作。ネプトゥヌスは、おそらく波頭からの連想であろうか、馬にかんする神話が多く、馬術の神、競馬の守護神でもある。
(38)デウカリオン〔巻一(67)〕の娘、海豚となった海神の愛をうけ、デルプスの母となる。デルプスは、delphis(海豚)から来ているが、アポロがピュトン〔巻一(78)〕を退治したときのデルピの王で、この地にその名をあたえた。
(39)レスボス島〔巻二(127)〕の王、普通には太陽神ソル(ヘリオス)とロドスとの子とされ、ヘリアダエのひとり〔巻四(40)〕、マカルともいう。その娘イッセ(イッサ)は、アポロに愛された。
(40)バックス神→巻三(67)
(41)アテナエ人イカリウス(またはイカルス)の娘。バックス神は、ぶどう酒のつくり方をひろめるために世界を遍歴していた途次、アッティカに来て、イカリウスの家に立寄り、エリゴネを愛した。イカリウスは、バックスから教わったぶどう酒を近隣の牧人たちに飲ませたが、酔っぱらった人びとは、毒をもられたのだとおもってかれを撲殺した。エリゴネは、忠犬マエラの助けによって、父の遺体をさがしだしたが、父が埋葬されていた木の下で自分も首をつって死んだ。父と娘と忠犬は、天上に召されて星となった。イカリウスは牛飼座(または馭者座)、あるいは大角星、エリゴネは乙女座、マエラは天狼座(シリウスとは別のもの)であるという。
(42)→巻二(133)。サトゥルヌス(クロノス)は、妻レアの眼をごまかすために、馬の姿になってピリュラと交わったという→巻七(66)
(43)嫉妬の擬人化された女神。
(44)パラス・アテナ(ミネルウァ)
(45)→巻四(66)
(46)ペルセスとアステリア(24)との娘。本来、人間にあらゆる富と成功と名声をあたえる万能の守護女神であったが、のち魔法・妖術・怪異の女神となり、冥界に関係づけられ、地獄の犬の群を従え、手に炬火をもち、十字路や三叉路にあらわれ、三つの身体または三つの頭を有する怖ろしい姿で考えられた。その仕事が夜をえらぶところから、夜の女神としてしばしば月神ディアナ〔巻一(87)、巻二(99)〕やセレネ〔巻四(36)〕と同一視される。ヘカテの草の汁とは、魔法の薬草の汁の意。
(47)リュディアとともに、小アジアの一地方。
(48)タンタルス〔巻四(89)〕の娘、ペロプス(85)の姉妹。テバエの王アムピオン(50)の妻となり、七男七女をうむ。巻一(114)のニオベとは別人。
(49)リュディア(マエオニアはその古名)とプリュギアとの境にある山。タンタルスは、この付近の王であった。
(50)ユピテルとアンティオペとの息子でテバエの王であるアムピオン〔(26)・巻七(152)〕のこと。メルクリウス(ヘルメス)神より竪琴をあたえられ、その名手となり、テバエの城を築くとき、かれの竪琴の音に魅せられて石がひとりでに集まって城壁となったという。才能とはこのことをさす。
(51)→巻三(48)。その娘マントも未来を予言する能力にすぐれ、数々の予言によって知られている。のち小アジアのクラロス市を建設し、クレタ人ラキウスの妻となり、有名な予言者モプススをうんだ。
(52)→巻二(64)。その女たちとは、テバエの女たちの意。
(53)→巻一(125)。そのふたりの子とは、アポロとディアナをいう。なお、月桂樹(ダプネ)は、アポロの聖木である。
(54)神であるかどうか不明であるが、神であると噂されているにすぎない神々、ここではとくにラトナをさす。
(55)ニオベの母(タンタルスの妻)は、ディオネといい、アトラスとプレイオネとの娘、つまりプレイアデスのひとりとされる〔巻一(117)(119)〕。本来は別人であったが、同名のため混同されたのであろう。ウェヌスの母のディオネ〔巻三(17)〕も、ときにプレイアスのディオネと混同されることがある。
(56)ニオベの父タンタルスは、ユピテルの息子であり、良人アムピオンもユピテルの子であるから、ユピテルは、ニオベの祖父にして舅にあたる。
(57)テバエ市の建設者〔巻三(3)〕。プリュギアは、ニオベの故郷であり、テバエは、その嫁ぎ先である。
(58)嫉妬ぶかいユノの怒りをおそれて、地上のいかなる土地も、ユピテルの子(アポロとディアナ)をみごもったラトナをうけ入れようとしなかった。→巻一(125)
(59)→(24)。ラトナは、当時まだ浮島で、海上をただよっていたこの島(もとはラトナの姉妹)に安住の地をもとめ、そのキュントゥス山中でアポロとディアナをうんだ。
(60)運命の擬人女神。→巻五(24)
(61)→(59)。ふたりの子供とは、アポロ(ポエブス)とディアナの二神。
(62)タンタルスは、天上で神々の食卓につらなることをゆるされたが、そのとき聞いた神々の秘密を人間にもらしたとも、そのほかに偽誓の罪をおかしたともいわれる。→巻四(89)
(63)ディアナ女神のこと。→巻一(87)
(64)ニオベの住むテバエの城宮。→(57)。
(65)イスメヌス、シピュルス、パエディムス、タンタルス(祖父の名をもらった)、アルペノル(またはアゲノル)、ダマシクトン、イリオネウス(またはエウピニュトゥス)の七人。
(66)→巻五(6)。「テュルスの」は、緋色(の布)に冠せられる枕詞のごときものである。
(67)アポロ。
(68)アポロ。
(69)これはオウィディウスの創作で、普通には、息子たちとおなじく(あるいは、アポロの神殿を破壊しようとして)アポロの矢に射られて死んだとされる。
(70)悲嘆の気持をあらわすために胸や腕を打つが、そのために腕が青ばんだのである。→巻二(92)
(71)ニオベの故郷であるプリュギアのシピュルス(49)の山頂。
(72)ラトナ女神。
(73)→巻四(64)
(74)→巻一(115)
(75)→巻一(41)
(76)ラトナ女神→(58)(59)
(77)橄欖樹(オリーヴの木)のこと。→(16)
(78)ユピテルの正妻ユノは、ユピテルがラトナにうませたアポロとディアナとの継母にあたる。
(79)ホメロスの『イリアス』第六歌一八〇行以下によると、リュキア〔巻四(64)〕のクラグス山中に住む怪物。体躯の前部は獅子、中部は山羊、後部は蛇のすがたをし、口から火を吐くという。テュポエウスとエキドナとの娘とされ〔巻三(42)、巻四(98)〕、天馬ペガススにのった英雄ベレロポン〔巻十三(73)〕に退治された。
(80)ラトナは、ティタン神族のひとりであるコエウスの娘。→巻一(125)
(81)パラス・アテナ(ミネルウァ)のこと〔巻二(167)〕。女神は、笛(たぶんオーボエあるいはクラリネットに似たものと考えられる)を発明したが、吹くときに顔がゆがんでみにくくなるというので棄ててしまった。
(82)アポロ、音楽(とくに弦楽器)の神。
(83)→巻一(42)。ここに述べられているのは、マルシュアスというプリュギアのサテュルスで、やはりバックス神の従者のひとり。アテナ女神が棄てた笛をひろい、その吹き方をおぼえて名手になり、ムサエ〔巻二(38)〕を審判者にして、勝った者は相手を自由にできるという条件でアポロと技くらべをした。キタラ(アポロの楽器で、七弦または十一弦の竪琴、メルクリウスの発明といわれる)を演奏したアポロが勝ち、マルシュアスは生皮をはがれ、それを悲しむ者たちの涙から同名の河がうまれた。
(84)プリュギアきっての笛の名手、マルシュアスの弟子(あるいは、その父、または子)。
(85)タンタルス〔巻四(89)〕の息子、ニオベの兄弟。神々の寵児であったタンタルスは、増長のあまり神々をためそうとして、ペロプスを殺して、その肉料理を神々に供した。神々は、すぐにこれをさとったが、娘プロセルピナの失踪ゆえに悲歎にくれていたケレス(巻五の四三八行以下)だけは、ペロプスの肩の部分にあたる肉をたべてしまった。神々は、ペロプスをあわれみ、切りきざまれたその身体をつなぎあわせて復元し、これに生命を吹きこんだが、肩の肉だけは象牙をはめこんで代用した。→(87)
(86)悲しみの気持をあらわすために、肩をはだけて胸や腕を打ったのである。→(70)、巻二(92)
(87)蘇生後のペロプスは、ピサ〔巻五(100)〕の王オエノマウスの娘ヒッポダメ(あるいはヒッポダミア)を妻として、ペロポネススを征服した。この半島の名は、ペロプスの島の意であるという。
(88)以上いずれも、ペロポネスス半島の都市。スパルタは、ラコニアの首都。アルゴスとともにアルゴリス〔巻一(108)〕の町であるミュケナエは、ペロプスが統治していたのではないが(かれが支配したのは、主として半島の西部)、かれの子アトレウス、孫アガメムノン〔巻十二(13)〕が王となった町なので、血統をあらわすために「ペロプスの町」と形容した。→巻十五(72)
(89)アエトリア(中部ギリシアの一地方)の町。その王オエネウス〔巻八(55)〕が収穫感謝の祭にさいしてディアナに犠牲をささげるのを忘れたため、女神の怒りをまねいた。詳しくは、巻八の二七三行以下を参照。
(90)→巻五(130)
(91)→巻五(96)。銅と銀と金との合金である銅金の産地として有名であった。
(92)メッセニア〔巻二(144)〕の町。いわゆる第一次第二次メッセネ戦争(紀元前八・七世紀)において、結局は敗れたが、メッセネはスパルタを相手に不屈の戦いをした。それで「勇猛な」と形容した。
(93)アカイア〔巻三(63)〕の町。
(94)アルゴリスの町。
(95)→巻二(146)(148)
(96)ペロプスとピッポダメ(87)との子、アトレウス(88)の兄弟。予言の能力にめぐまれ、のちトロエゼン(アルゴリスの町)の王となる。アテナエの王アエゲウス〔巻七(94)〕に娘アエトラをあたえて、英雄テセウス〔巻七(95)〕の祖父となる。
(97)コリントゥス湾にのぞむ諸都市の意。
(98)アエガエウム(エーゲ)海にのぞむ諸都市。
(99)→巻五(144)。ここではアテナエの意。アテナエは、テバエ王ラブダクスと戦っていたのだが、オウィディゥスは、物語の連関上これを蛮族の侵寇とした。ラブダクスは、ポリュドルス〔巻三(18)〕とニュクテウス(26)の娘ニュクテイスとの息子。
(100)アテナエ王、エリクトニウス〔巻二(120)〕の息子、ピロメラとプロクネの、またエレクテウス(124)の父。かれの曾孫にも同名の人物があり、これはケクロプス〔巻二(121)とは別人で、エレクテウスの子〕の息子で、英雄アエゲウス〔巻七(94)〕の父であるが、両者の伝説がしばしば混同している。
(101)「進軍する者」の意で、軍神マルス〔巻三(8)〕の異名。この神は、その兇暴さのために、しばしば未開の地トラキアに関係づけられ、テレウスも彼の息子といわれる。
(102)→巻一(88)。ユノも、結婚、縁結び、また分娩の守護女神である。→巻五(56)
(103)ギリシアのカリスのローマ名(複数グラティアエ)。優美の女神、人間および世界に喜びをもたらす女神。ユピテルとエウリュノメ〔巻四(43)〕あるいはユノとの娘で、ここでは単数形になっているが、普通はタリア(花咲く幸福)、エウプロシュネ(よろこび)、アグライア(晴着)の三姉妹とされ、神々、とくにウェヌスの従者である。なお、これらの神々が立合わなかったというのは、祝福された結婚ではなかったの意。つぎの表現もおなじ。
(104)「善意の女」の意で、復讐の女神エリニュエス〔巻一(52)〕、フリアエ〔巻四(87)〕の別名(複数形エウメニデス)
(105)→巻五の五四九・五五〇行。
(106)ティタン神族に属する太陽神ソル。→巻四(30)
(107)→巻二(121)。ここでは、アテナエの町をいう。ピラエウスは、アテナエの外港の名。
(108)→巻一(115)、巻三(60)。ドリュアスはかるい衣をまとい、ナイスは全裸であると考えられた。
(109)愛欲。
(110)古代家庭において、乳母は非常に重きをなし、育て子が大きくなってからも、その身辺の世話をした。
(111)太陽神ソルと混同されている。
(112)ぶどう酒。
(113)テレウス。
(114)埋葬をうけない霊魂は冥界に行くことができないと信じられていたので、遺体が見つからないときは、空石碑が建てられた。
(115)トラキア人。
(116)プロクネ。
(117)悪名たかいバックス祭は本来トラキアに発祥して、ギリシアに移入されたもので、夜の最もながい冬の時期に、夜間森のなかで炬火をともしておこなわれ、女たちのみが参加した。バッカエ〔巻三(97)〕は、家をすて、テュルスス〔巻三(72)〕と炬火をふりまわし、髪をふりみだし、どらや笛をならして喚呼乱舞し、野獣を八つ裂きにして生肉を食らい、陶酔と狂乱の修羅場をくりひろげた。これを阻止しようとする男たちは、王でさえも(ペンテウスのように)殺された。もとは、冬になって死滅した自然の成長力を悲しむ喪の祭であった。詳しくは、巻三の七〇一行以下を見よ。
(118)→巻二(45)
(119)→巻二(72)
(120)復讐の三女神フリアエのこと。→巻一(52)
(121)プロクネとピロメナは、アテナエ王パンディオンの娘である。
(122)「はりおあまつばめ」になったと考えられる。この鳥の喉もとの毛は、赤味がかっている。プロクネは小夜啼鳥《ナイチンゲール》に、ピロメラはつばめになったという説もある。
(123)→巻一(23)
(124)パンディオンの息子(しかし、本来はエリクトニウスと同一人物であったらしく、古い伝承では大地からうまれ、アテナ女神に育てられたという)→巻二(120)、プロクネおよびピロメラの兄弟。父の死後アテナエ王となる。その子供らにかんしては、娘は六人であったという説もある。
(125)プロクリス(巻七の六九〇行以下)とオリテュイア。
(126)デウカリオンの子孫で、エオルス(32)の孫。詳しくは、巻七の六九〇行以下に出てくる。
(127)北風、またその神。アウロラと、星神アストラエウスとの子〔巻二(15)〕、西風ゼピュルス、南風アウステル(ギリシア名ではノトゥス)らの兄弟。東風エウルスだけは、テュポエウス〔巻三(42)〕の子とされる。
(128)ギリシア人たちは、ボレアスを、かれらのきらいなトラキア人と考え、北トラキアのハエムス山の洞穴に住んでいるとした。
(129)ヘブルス(現今のマリツァ)河の近くに住むトラキアの一種族。
(130)オリテュイア。
(131)ボレアスとオリテュイアとの子で、ボレアダエとよばれる。翼があって自由自在に空をとんだ。ともにアルゴナウタエの遠征に参加した。→(134)
(132)風神はみなこのような姿をしていると考えられた。父のボレアスとおなじく、ふたりとも風神の仲間なのである。
(133)→巻四(1)。かれには、ミニュアデスとよばれる三人の娘のほかにもまだ娘たちがあり、そのひとりであるクリュメネ〔巻一(139)の同名女性とは別人〕は、アルゴナウタエの指導者である英雄イアソンの祖母にあたるところから、イアソンらをミニュアスの子孫たちとよんだのである。→巻七(33)
(134)ここから物語は、やや唐突にアルゴナウタエの有名な冒険譚にうつる。英雄イアソンは、いわばすべての英雄たちに課せられる試煉として、コルキスの王アエエテスの所持している金羊毛皮(35)を取りに出かけることになり、ギリシアの各地から英雄・勇士たちをあつめて、遠征隊を組織し、アルグスなる男〔別人物であるが、巻一(114)のアルグスと混同されることもある〕に命じて、五十本の櫂をもつ大型の船を作らせる〔巻七(2)〕。この船は、世界で最初の船とされ、その建造者にちなんでアルゴ号と名づけられ、この遠征隊員をアルゴナウタエとよぶ。アルゴナウタエの人数は、五十名あるいは五十五名で、その人名はギリシア各地の王族がその系譜をこの有名な冒険譚に関係づけようとしたために、諸説まちまちである。詳しくは、巻七を見よ。
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巻七
一 イアソンとメデア
すでにしてミニュアスの子孫たち(1)は、パガサエ(2)の港でつくられた船にのって大海原をわたっていったが、やがてピネウス(3)が永遠の闇のなかであわれな余生をおくっているの見た。アクゥイロ(4)の子らは、この気の毒な老人の口もとから、あの乙女の顔をもった怪鳥たち(5)を追いはらってやった。こうして音にきこえた英雄イアソン(6)のもとに多くの艱難辛苦にたえたのち、ついに一行は、濁水みなぎるパシス(7)の急流にたどりついた。〔一〜六〕
かれらは、さっそく王(8)のもとにおもむき、プリクスス(9)の牡羊の皮を所望したが、王がミニュアスの子孫たちに課した条件は、おどろくばかり過酷な試煉であった。これを聞いていたアエエテスの娘メデア(10)の胸に、はげしい恋の炎がもえあがった。かの女は、ながいことわれとわがこころと戦ったが、ついに理性は情熱にうち勝つことができず、こういった。
「メデアよ、いくら内心の戦いをつづけたとて、所詮甲斐のないこと。だれともしれぬひとりの神(11)が、おまえの邪魔をしているのだ。世にいう恋とは、これにちがいない。すくなくとも、これに似たものにちがいない。でなければ、お父さまがお出しになった条件をどうしてわたしが過酷すぎるなどと余計なことをおもうことがあろう。ほんとうに、あの要求はひどすぎる。あの方にはお会いしてまだまもないのに、あの方が死ぬような目に会わなければよいのにと願うなんて、どうしてだろう。こんなに心配する原因は、いったい、なにかしら。不幸な女よ、もしできることなら、そのもえさかる情炎を乙女の胸から消し去るがよい。それさえできれば、この胸のさわぎもしずまるにちがいない。だけど、なにかふしぎな力が、わたしの意思を枉《ま》げてしまう。感情がこうしろというと、理性はああしろという。どちらの言い分がよいか、わたしにはよくわかっているし、それが正しいことだともおもう。しかし、結局わたしの気持を引きずっていくのは、それとはあべこべのことなのだ。王の娘よ、なぜ他国の男などに胸をこがし、異境での結婚生活をさえ考えたりするのか。おまえの愛にふさわしい男性は、この国にもいるはずだ。あの若者が死のうが生きようが、それは神々の御旨《みむね》にあること。いいえ、わたしは、どうしてもあの人に生きながらえてほしい! たとえあの人を愛していなくても、このことだけは、だれはばからずに神々にお願いすることができる。いったい、イアソンがどんな悪いことをしでかしたというのかしら。木石でないかぎり、イアソンの若さと素性と勇気にこころを惹かれない者があろうか。たとえほかに美点がなかったとしても、あの凛々《りり》しい風貌《ふうぼう》にこころを打たれない者があろうか。このわたしは、あの人にこころを動かされてしまった。だけど、わたしが助けてあげなければ、あの人は、牡牛どもに炎の息を吹きかけられてしまうわ(12)。また、われとわが手で種子を播いた大地からうまれてきた敵どもともたたかわねばならないし、野獣のように貪欲な悪竜のあわれな餌食にもなってしまうわ。それをだまって見ているようでは、虎の腹からうまれた女といわれたり、こころに鉄と石をもった女だといわれてもしかたがないわ。それにしても、なぜかれが殺されるのを見ておれないのであろう。なぜこの眼はそれを見ることを忌《い》みきらうのだろう。なぜわたしはかれにむかって猛牛どもや、土からうまれたおそろしい荒くれ男たちや、眠りを知らぬ悪竜をけしかけようとしないのかしら。いいえ、いいえ、どうか神々がわたしにそんなことをおさせになりませんように! だけど、いまは祈っている場合ではない。なにか手を打たなくてはならないのだ。しかし、どうかしら。お父さまの王座に(唾唾《つばきつば》をかけ(13)、だれとも知らぬ異国者をこの手で救ってやるのはよいとしても、その挙句のはてに、わたしに救われた男が、わたしをつれずに帆をあげて行ってしまい、ほかの女と結婚し、このメデアだけがひとり残されて、罰をうけねばならないような羽目になるのではないかしら。そんなことができるなら、そして、わたしをほかの女に乗りかえるような男なら、そんな恩知らずは死んでしまうがよい! だが、あの人の顔つきといい、けだかいこころばえといい、やさしい人となりといい、まさかそんな裏切りをはたらき、わたしの心づくしをわすれてしまうようなことがあろうとは考えられない。あの人を助けるまえに、まずあの人に誠実を誓わさせ、神々にふたりの約束の証人になっていただこう。そうだ、なにも取越し苦労をすることなんかありはしない。さあ、実行にとりかかる用意をしよう! 一刻もぐずぐずしてはおれない。イアソンは、永久におまえに感謝してくれるにちがいない。かれは、きっとおごそかな炬火《たいまつ》のもとでおまえとむすばれ、ペラスギ人(14)の町々では、人の子の母たちがおまえをその子らの命の恩人としてほめたたえてくれるであろう。だが、そのためには、わたしは風をはらんだ帆にはこばれて、妹も、弟(15)も、父も、神々も、また、うまれた故郷のこの土地をも、すてていかなくてはならないようになるのではないかしら。そうにちがいない。だけど、父はこころのつめたい人だし、わたしの国は野蛮だし、弟はまだおさない。それに、妹は、わたしのために祈ってくれるだろうし、わたしの胸のなかには、この上なく力づよい神さま(16)がいらっしゃる。してみると、わたしが見すてていこうとしているものは、大したものではないが、わたしが追っていくものは、りっぱなものばかりだわ。あのギリシアの若者を救うという名誉、わたしの国よりもりっぱな国を知ることができる喜び、この国にまで名のひびいている町々や、進歩したあの地の文化や芸術など、それに、わたしがこの世にもっているあらゆる財宝と交換しても惜しくないあのアエソンの息子――どれもえがたいものばかりだわ。あの人がわたしの良人《おっと》になってくれたら、わたしは、神々の恵みをうけた、幸福な女とよばれて、この頭が空の星々のかなたにまでとどくような気がすることであろう(17)。しかし、聞くところによると、海のまんなかではなんとかいう岩山(18)がはげしくぶつかりあい、船の大敵であるカリュブディス(19)は、大浪を呑んだり吐いたりしているし、また、獰猛な犬どもを帯のようにしたがえたスキュラ(20)は、おそろしい吠《ほ》えごえをシキリアの海にひびかせているというではないか。しかし、それがなんであろう。わたしは、かれを腕に抱きしめ、その胸にしっかりといだかれて、遠い海を渡っていこう。かれの腕にだかれていたら、なにを怖れることがあろう。それでもなお怖れることがあるとすれば、それは良人の身を按じてのことにすぎまい。――だが、メデアよ、おまえは、これをしも結婚とよび、おのが罪に美名をかぶせてごまかしているのではないか。ほんとうに、自分がどんなにひどい罪をおかそうとしているか、とくと考えてみるがよい。そして、手おくれにならない今のうちに、そんな大それた振舞いを思いきるがいい」メデアは、このようにいった。そして、かの女の眼のまえに、「徳」や「孝心」や「純潔(21)」などがあらわれて、ついに愛《クピド》は太刀打ちできなくなって、逃げていってしまった。〔七〜七三〕
そこでかの女は、鬱蒼としげった森の奥にあるペルセの孫ヘカテ(22)の古い祭壇のところへ出かけていった。かの女の決意は、すでにしっかりと固まり、情熱もすっかりおさまっていた。ところが、そのとき、眼のまえにアエソンの息子の姿があらわれ、せっかく消えていた情火がまたも燃えあがった。かの女の頬はまっ赤になり、顔じゅうがいきいきとかがやきはじめた。ちょうど灰のなかに埋もれてかくれていた小さな炭火が、風にあおられて活気づき、しだいに燃えさかって、ふたたびもとの火勢をとりもどすように、すでに消えたかに見えていたかすかな恋心は、身近に若者のすがたを見て、また燃えあがったのである。じっさい、アエソンの息子は、この日はまた日頃よりさらに美しかったのだ。メデアが恋心をあらたにしたのも、無理はなかった。かの女は、じっとかれを見た。まるでいま初めて会ったかのように、その眼を相手に釘づけにした。かれの顔は、もう死すべき人間とは見えず、メデアは片時も眼をはなすことができなかった。〔七四〜八八〕
ところが、異国の若者が口をひらいて、かの女の手をとり、力になってほしいとやさしい声でたのみ、夫婦の契《ちぎ》りを約束すると、メデアは、涙にくれながら、「自分がなにをしようとしているか、わたしはよく承知しています。理非を知らないのではありません。恋がわたしをたぶらかすのです。よろしい。わたしの助力であなたを救ってあげましょう。そのかわり、お助けしたあかつきには、かならずその約束をまもってください」といった。そこで、イアソンは、この三つの姿をもつ女神(23)の祭儀と、この森に鎮座する神と、かれの未来の舅の父にあたる、万物を照覧することのできる神(24)と、自分のめざす冒険の成就とそのための危険の大きさとにかけて、かたく約束をちかった。メデアは、それを信じた。そこで、かれは、かの女から魔法の力をもつ草をもらい、その使い方をおそわって、よろこびいさんで宿所へ帰っていった。〔八九〜九九〕
翌日、アウロラ(25)がきらめく星の光りを消しさると、人びとは、マルスの神聖な野(26)にあつまり、高い見物席に座をしめた。王自身は、緋の衣をまとい、象牙の王笏《おうしゃく》をもったすぐそれとわかる姿で、従臣たちの中央にすわった。すると、見よ、やがて青銅の脚をもった数頭の牡牛が、鋼鉄の鼻からウゥルカヌスの火炎を吐きながらあらわれ、その炎にふれたあたりの芝草をこがした。燃料をいっぱい詰めた炉が音たかく燃えるように、また、粘土の窯のなかでぼろぼろに焼けた石灰が水を注ぎかけられて煮えたぎるように、牛たちの胸や灼熱した喉は、その内部に渦まく炎のために轟々《ごうごう》と鳴りひびいている。しかし、アエソンの子は、まっしぐらに突進していった。猛牛どもは、かれが近づいてくるのを見ると、おそろしい顔と先に鉄をつけた角をかれの方にむけ、ふたつに裂けた蹄で大地をかきながら土けむりを立て、濛々たる煙をはきながらあたり一帯にものすごい咆哮をひびかせた。
ミニュアスの子孫たち(27)は、あまりの怖ろしさに背筋も凍るおもいがした。しかし、イアソンは、猛然と走りつづけ、牛どもの火の息をものともせず(魔法の薬草の力は、そんなにも強かったのである)、大胆な右手で牛どもの垂れさがった頚の襞《ひだ》をなでながら、かれらに軛《くびき》をつけると、おもたい鋤をひかせて、一度もたがやされたことのないその土地を犂《す》きはじめた。コルキスの人びとは、唖然として見とれていたが、ミニュアスの子孫たちは、歓声をあげて、この英雄の勇気をいやが上にもふるいたたせた。やがて、かれは、青銅の兜のなかから大蛇の歯(28)をとりだすと、いまたがやしたばかりの畑に播《ま》いた。大地は、はげしい毒をあらかじめ塗ってあるこの種子をやわらげて発芽させ、畝《うね》にまかれた歯は、みるみる大きくなって、あたらしい種族になった。ちょうど母の胎内で子供が人間のすがたになりはじめ、その身体の各部分がしだいに完全なものになり、やがて月が満ちると、万人共有の大気のなかへうまれでてくるのとおなじように、肥沃な大地の内部で人間の姿ができあがり、やがて母なる大地のふところからうまれでてきたが、さらにふしぎなことに、かれらは、うまれながら手に手に武器をひらめかせていた。こうして、かれらが尖った槍をハエモニアの若者(29)の頭めがけて投げつけようとしているのを見たとき、ミニュアスの子孫たちは、怖ろしさのあまりおもわず顔を伏せ、生きたここちもしなかった。おなじ恐怖は、かれに不死の力をさずけた乙女をもとらえた。若者がただひとりで大勢の敵の矢面に立っているのを見ると、かの女はまっ青になって、血の気もなく硬直したように腰をおとしてしまった。そして、自分のあたえた薬草がもしや効き目をあらわさなかったら大変とばかり、かれを救うための呪文をとなえ、魔術の秘法を一心に念じた。
しかし、若者は、むらがる敵どものまんなかに重たい大岩を投げこみ、それによって敵の鉾先をかわし、逆にそれをかれら自身の方にむけた。それで、おなじ土からうまれた兄弟たちは、たがいに傷つけあってたおれ、同志討ちの犠牲となって死んでいった。これを見て、ミニュアスの子孫たちは、歓呼して勝利者をつかまえ、熱烈に抱きしめた。おお、蛮族の乙女(30)よ、おまえもこの勝利者をどんなにか抱きしめたいとおもったことであろう。しかし、恥かしさがおまえを引きとめた。恥かしくさえなければ、おまえはきっとかれをだきしめたことであろう。それに、世間の評判が気になって、それができなかったのである。おまえに許されたことといえば、人知れぬ歓喜を胸に秘めてよろこび、おまえの魔術とそれをさずけてくださった神々に感謝をささげることだけであった。〔一〇〇〜一四八〕
しかし、仕事はまだのこっていた。それは、けっして眠ることのない竜(31)を霊草の力で眠りこませることであった。この竜は、とがった冠毛《とさか》と三枚の舌とするどく曲った歯とによって人びとに知られ、黄金の樹のおそろしい番人なのであった。イアソンは、この怪竜にレテ(32)の河の水とおなじような効き目のある草の汁をふりかけてから、やすらかな眠りをまねきよせ、逆巻く海をも岩をかむ激流をもしずめるような呪文を三度となえると、まだかつて眠りというものを知らなかったこの怪竜の眼に眠りがしのびこんだ。こうして、勇猛なアエソンの子は、ついに黄金の羊毛皮を手に入れることができた。そして、このかがやかしい獲物をみやげにして、さらにこのように大きな力を貸してくれた乙女をもつれて、新妻とともに意気揚々と故郷のイオルクスの港に錦《にしき》をかざったのであった。〔一四九〜一五八〕
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二 アエソンの若返り
ハエモニアの母親たちや年老いた父親たちは、息子たちが無事帰ってきたのを見ると、神々に感謝の供物をささげ、山とつまれた香を聖火に投じ、満願を記念して角に黄金をかぶせた犠牲獣を屠《ほふ》った。しかし、これらの感謝の祭をおこなう人びとのなかに、アエソン(33)の姿が見えなかった。寄る年波のために衰弱し、すでに死期に近づいていたのだった。そこで、かれの息子(34)は、メデアにむかって、「おお、わが命の恩人と感謝している妻よ、おまえは、わたしにすべてのものをあたえてくれたし、おまえがわたしのためにつくしてくれた数々の功績は、とうてい信じらないほど大きい。しかし、おまえの呪文でできることなら――いや、おまえの呪文でできないことなどあろうか――どうかわたしの命数《めいすう》から幾年かをとり去って、それを父の年に加えてくれまいか」こういいながら、かれは、おちる涙をおさえることができなかった。
メデアは、父をおもうこの切々たる愛情にこころをうごかされたが、それにつけても、自分が棄ててきた父アエエテスのことが、孝心をふみはずしたこころに思いだされてくるのだった。しかし、内心の動揺はすこしもあらわさないで、こう答えた。「あなたは、なんという罰あたりなことをおっしゃるのですか。このわたしに、あなたの寿命の一部をほかのだれかにふりかえるような大それたことができるなどとお考えですか。ヘカテ女神さまは、とてもそんなことをおゆるしくださらないでしょう。それに、あなたの望みは、まちがっていますわ。けれども、イアソン、わたしは、あなたの望み以上のことをしてさしあげましょう。あなたの寿命をけずってではなく、わたしの術によってお父さまのお命が長くなるように、なんとか手をつくしてみましょう。どうか、三つのお姿をなさった女神さま(35)が、わたしをお助けくださって、このむずかしい仕事にあらたかなお恵みをたれてくださいますように」〔一五九〜一七八〕
月のふたつの角《つの》が合わさって満月になるまでに、まだ三晩あった。しかし、やがて月が皎々とかがやきながら欠けたところのない顔で地上をあまねく見おろしたとき、メデアは、着物の裾をからげ、素足のまま、髪の毛を肩のうえにたらして、邸《やしき》を出た。そして、ふかい真夜中の静寂《しじま》のなかを、供《とも》もつれずにただひとりさまよい歩いた。人も鳥も野獣たちも、みな深い眠りにおちている。生垣のなかには、物音ひとつしない。木の葉も、ひっそりとしずまり返り、しめった空気は、そよともうごかない。はるかな星たちだけが、夜空にまたたいている。メデアは、星たちにむかって両手をあげると、三度ぐるりとからだをまわし、三度河の水をすくって髪にふりかけ、三度するどい叫びをあげたのち、大地にひざまずいて、こういった。
「おお、神秘に最も忠実な夜よ。おお、月とともに昼の光のあとにかがやく金色《こんじき》の星々よ。おお、いつもわたしの仕事をよくご理解になり、魔法の呪文と術とをお助けくださる三面の女神ヘカテさま。魔法を使う者らにふしぎな効き目をもつ霊草をあたえてくれる大地よ。また、大気よ、風よ、山よ、河よ、湖よ。さらに、森のあらゆる神々、夜のあらゆる神々よ。どうか力をお貸しください。おんみたちの助けがあれば、わたしの思うままに、おどろく岸のあいだをぬって河をその源流まで逆流させることもできれば、立ちさわぐ潮《うしお》をしずめ、なごやかな海をわきたたせることもできますし、雲をちらし、雲をあつめ、風をはらい、風を呼ぶこともできます。魔法の言葉や呪文によって、大蛇のおそろしい顋《あぎと》をひき裂くこともできれば、万古不動の岩や槲《かしわ》や森を大地からひき抜いて動かすこともできます。山をゆるがし、地をうならせ、墓窖《はかあな》から亡霊を呼びだすこともできます。おお、ルナ(36)よ、おんみの悩みをやわらげるためにニュメセ(37)の銅鑼《どら》が鳴りひびいているときでも、わたしはおんみを引きよせることができる。わたしの呪文は、わたしの祖父の車(38)を蒼ざめさせ、わたしの毒草は、アウロラ(39)の光を消すこともできる。おお、神々よ、あなたがたは、わたしのためにあの猛牛どもの炎の息を制し、いやがるその首にまがった鋤をつけさせてくださいました。また、大蛇の歯からうまれた者たちがはげしく同志討ちをするようにはからってくださいましたし、眠りを知らぬ見張りの怪竜を眠りこませ、その眼をあざむいて黄金の羊皮をギリシアの町々にわたしてくださいました。こんどは、老人を若がえらせ、血気さかんな年頃にもどして、ふたたび青春を味わわせてやる薬汁がほしいのです。ああ、あなたがたは、かならずやこの願いをかなえてくださるにちがいありません。でなければ、星たちがあのようにきらきらと輝くはずがありませんし(40)、翼のある竜の首に索《ひ》かれた車がいわれもなくここにやってくるはずがありませんから」
すると、はたして、天上からかの女のそばに舞いおりてきた車があった。かの女は、その車にのりこみ、轡《くつわ》をはめられた二匹の竜の首をなで、かろやかな手綱を手にとるやいなや、たちまた中空《なかぞら》に舞いあがり、はるかな高みからテッサリアのテムペ(41)の谷を見おろし、トリッケ(42)の野へと竜車を走らせた。そして、オッサ、高くそびえるペリオン、オトリュス、ピンドゥス(43)の、さらにピンドゥスよりも高いオリュムプスの山から生じるいろいろな草をしらべてみた。かの女がえらび採った草のなかには、根ごとひき抜いたものあれば、青銅の大鎌のまがった刃で刈りとったものもあった。アピダヌス(44)の河岸にも、気に入った薬草が多く見つかったし、アムプリュスス(45)の岸辺にも多くあった。おお、エニペウス(46)の河よ、おまえもその貢物をささげたが、さらに、かの女は、ペネウスの流れ、スペルキオス(47)の水、ボエベ(48)の藺草《いぐさ》のしげる岸辺にも協力をもとめた。また、エウボエア島(49)に近いアンテドン(50)で、生命を賦与するある種の草を見つけた。その草は、まだグラウクスの転身(51)を惹起していなかったので、当時は世間に知られていなかった。こうして九日九夜、メデアは翼のある竜の車にのって、あちこちの地方をさがしまわったのち、ふたたびもとのところへ帰った。竜たちは、かの女の摘みとった草の香りにほんのちょっぴりふれただけであったが、それでもその効き目で古い皮をぬぎすてた。〔一七九〜二三七〕
邸にもどると、かの女は、敷居もまたがず、戸口もくぐらず、青天井のもとに立っていた。そして、人間にふれることを避けて、芝生を盛ってふたつの祭壇をもうけた。右側はヘテカの、左側はユウェンタ(52)の祭壇であった。それらを馬鞭草《うまつづら》と粗い小枝の花環でかざると、その近くに二条の溝を掘り、犠牲《いけにえ》をささげた。黒い小羊(53)の喉を一刀のもとにつきさし、ひろい溝になまあたたかい血をながしこんだのである。それから、壺から祭壇の上に酒をそそぎ、また別の壺からあたたかい乳をそそぎかけた。そして、呪文をとなえて、地下の神々をよびだすと、冥府の王とかれが誘拐してきたその妃(54)とに、どうかあの老人の身体から生命の息吹をあまりいそいで奪いとらないようにとたのんだ。
こうして祈りとながい呟きによって冥界の神々をなだめると、アエソンの弱りはてたからだを戸外にはこんでくるようにと言いつけた。そして、呪文によってかれを死んだように深い眠りにしずめると、そのまま草の臥床《ふしど》の上に寝かせた。さらに、イアソンとその臣下たちを遠ざけ、かれらの不浄な眼でかの女の妖術をけがさないようにと申しわたした。かれらが命じられたとおりにその場から去ると、かの女は、髪の毛をバックスの巫女《みこ》のようにふりみだして、炎のもえている祭壇のまわりをぐるぐるまわり、こまかに割った炬火《たいまつ》を溝のなかの黒々とした血にひたし、ふたつの祭壇の炎でその炬火に火をつけ、こうして火で三度、水で三度、さらに硫黄で三度老人のからだを清めた。そのあいだに、火にかけた青銅の鍋のなかでは、魔法の霊薬が煮えたぎり、白い泡をたててふきこぼれていた。かの女は、ハエモニアの谷で刈りとってきた草や根や種子や花や劇烈な草汁をそのなかに煮こみ、さらに、極東の国からとりやせた小石や、オケアヌス(55)の引潮に洗われた砂をまぜ、これに満月の夜にあつめた露、鷲木兎《わしみみずく》の肉といまわしいその翼、おのれの狼のすがたを人間のすがたに変えることができるといわれる人狼《じんろう》(56)の臓腑をくわえ、その上にキニュプス(57)の流れに住む水蛇のうすい鱗皮《りんぴ》と、劫《こう》をへた牝鹿の肝臓と、九世代(58)も生きながらえた鴉《からす》の嘴と頭を入れることをわすれなかった。メデアは、これらの品々とそのほか名も知れぬいろいろなものとで、人間わざではとうてい出来ないような計画を実行する用意をととのえると、あまい実をむすぶ橄欖樹の長いあいだ乾燥させておいた枝でこれらのすべてのものをかきまわし、下のものを上のものとまぜあわせた。
すると、みるみるうちに、たぎりたつ鍋をかきまわしていたその古い枝が、まず緑いろになり、やがて葉がはえると、たちまちたわわに実をむすんだ。鍋から泡がふきこぼれたり、熱いしずくがこぼれおちたところは、どこも地面が若やいだ春のような地肌になり、花が咲き、やわらかな草が萌《も》えだした。これを見ると、メデアは、すぐさま剣をぬいて、老人の喉に孔をあけ、ふるい血を流れでるにまかせ、かわりに鍋の薬液を注ぎ入れた。アエソンがこの液を口や傷口から飲み下すと、たちまちかれの白いひげや髪の毛は黒くなり、やせた姿は消えさり、蒼ざめた顔や老醜はなくなって、あたらしい肉がその皺《しわ》をのばし、手足には力がみなぎった。アエソンは、びっくりした。そして、四十年まえの自分の姿をふたたび見いだした。〔二三八〜二九三〕
このとき、リベル(59)は、天上からこのふしぎな奇蹟を見ていて、自分の乳母たち(60)も若さをとりもどせるのだと知り、このコルキス女(61)からそののぞみの薬汁を手に入れたということである。〔二九四〜二九六〕
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三 ペリアス
さて、パシス(62)の女は、自分の妖術をさらに見せびらかすために、いつわって良人を憎んでいるようなふりをして、救いをもとめるようにペリアス(63)の家に逃げこんだ。しかし、ペリアスも寄る年波のために弱っていたので、その娘たちがかの女をもてなした。この娘たちをまことしやかな甘言で手なずけることぐらいは、手管《てくだ》にたけたコルキス女にとっては朝飯まえであった。かの女は、自分の偉大な手柄のひとつとして、アエソンの老衰をのぞき去ったことをあげ、とくにその自慢話を吹聴しているうちに、ペリアスの娘たちは、自分たちの父親もおなじような魔法によって若がえることができるという希望をもつにいたった。
そこで、かの女たちは、メデアにそのことを切願し、そのお礼に、どんな高価なものでもよいから、おのぞみのものをなんでもさしあげましょうと約束した。メデアは、しばらくだまりこんで、いかにもためらっているかのように見せかけ、真剣そうなふりをして相手をじらせておいたのち、おもむろに承諾の約束をあたえて、こういった。「あなたがたのためにしてあげるわたしの術をいっそう信用していただけるように、おたくの羊の群のなかでいちばん年をとった牡羊を、わたしの霊薬で仔羊にしてみせましょう」〔二九七〜三一一〕
人びとはさっそく、もう何歳ともわからぬくらい年をとった、肉の落ちたこめかみのところにぐるりとまがった角のある一匹の牡羊を、ひきずってきた。魔女のメデアは、ハエモニアの短剣をふるって羊のやせた喉もとをえぐると(そのさい、刃はほんのわずかばかりの血にぬらされただけであった)、羊の肢体を強烈な力をもつ薬汁といっしょに青銅の大壺のなかに入れた。すると、ふしぎや、羊のからだは、みるみるうちに小さくなり、角がとけてなくなり、それとともに老齢も消えてしまった。やがて、壺のなかから、弱々しい啼きごえがきこえた。と、その啼きごえに驚いている人びとの面前に、一匹の仔羊がとびだしてきて、剽軽《ひょうきん》そうにはねまわったり、乳をのむことのできる乳房をさがしたりした。ペリアスの娘たちは、唖然として見とれていたが、メデアの約束したことがすこしも疑う余地がないほど確かなことだとわかると、なおさら熱心にその懇願をくりかえした。〔三一二〜三二三〕
それから、ポエブスは、ヒベリア(64)の海に沈んだその馬たちから三度|軛《くびき》をはずし、あまたの星々が、四度目の夜をかがやかしい光で照らした。胸に奸計を秘めたアエエテスの娘(65)は、なんの効き目もない草をただの水につけ、それを炎々ともえさかる火の上にかけた。すでにペリアス王も従臣たちも、ぐったりとして、メデアのとなえる呪文とあやしい言葉にたぶらかされて、死のような深い眠りにとらえられていた。娘たちは、メデアに言いつけられて、かの女とともに父王の寝室にしのびこむと、臥床《ふしど》のまわりに立ちならんだ。
「さあ、なにをぐずぐずしているのです」と、メデアはいった。「わたしが若々しい血潮を注ぎこむことができるように、あなたがたの剣をぬいて、お父さまの古い血を流しだしてしまいなさい。お父さまの命もお年も、あなたがたの手中にあるのですよ。お父さまを思うこころがあなたがたのなかにあるならば、そして、あなたがたのいだいている望みをむなしくしたくなければ、お父さまにたいしてあなたがたの義務をはたしなさい。剣をとってお父さまの老衰を追いはらい、胸を切開して古い血を出してしまうのです」
この言葉にそそのかされて、娘たちは、孝心がふかければふかいだけに、ますます不孝になり、不孝の罪をおかしたくないばかりに、かえって罪をおかしてしまったのである。けれども、だれひとりとして、自分で自分が剣をふるうところを見る勇気がなく、眼をそらし、顔をそむけ、ただ夢中で右手で残酷にも父のからだに傷をあたえたのだった。すると、老人は、血まみれながら肱をついて身をおこし、なかば切りさいなまれながらも寝床の上におきあがろうとし、自分にむけられた剣の林のなかに血の気のうせた両手をさしのべた。「おお、娘たち、なにをするのじゃ。なんで剣をふるってこの父の命をとろうとするのじゃ」これを聞いて、娘たちのこころも手も、とたんに力がぬけてしまった。老人はなおもなにか言いつづけようとしたが、メデアはすばやくその喉を掻《か》き切り、言葉をとどめると、ずたずたにひきさいたそのからだを煮えたぎる熱湯のなかに投げこんだ。〔三二四〜三四九〕
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四 メデアの逃亡
メデアは、このとき翼のある竜のひく車にのって空たかく逃げ去らなかったならば、おそらく罰をのがれることはできなかったであろう。かの女は、ピリュラ(66)の棲家である鬱蒼としたペリオン山の上空をとび、オトリュス山をこえ、その昔ケラムブス(67)の運命によって世に知られるようになった土地をあとにして逃げていった。――このケラムブスというのは、重い大地が大洋の氾濫にのまれて水中に没したとき、妖精たちの助けによって羽をはばたいて空中に舞いあがり、デウカリオンの大洪水をのがれ、大地もろとも水に没するのをあやうく助かったのである。――さらにメデアは、アエオリスのピタネ(68)の町と石像と化した大蛇とを左に見て、リベルがその息子の盗んできた牡牛を牡鹿に姿をかえて隠したイダ(69)の森、また、コリュトゥス(70)の父が小さな盛り砂の下に埋められている場所、マエラ(71)の奇妙な吠え声におどろかされた野原、ヘルクレスの一行が去っていくときコスの女たちが牝牛に変身させられたエウリュピュルス(72)の都、ポエブスの愛するロドスの島(73)、眼にふれたものを一瞥で殺してしまう魔力をもっていたが、あるときユピテルの怒りをまねいて、ついに大神の弟(74)の支配する海に沈められてしまったというあのテルキネスの一族(75)が住んでいたイアリュスス(76)の町などを、あとにしていった。さらに、昔アルキダマス(77)が娘の遺体からやさしい鳩がうまれてきたのを見ておどろいたといわれる古いケア島のカルタエアの町の城壁をもすぎていった。〔三五〇〜三七〇〕
やがて、ヒュリエ(78)の湖とキュクヌスが忽然として一羽の白鳥に化したことで知られているテムペ(79)の谷が、足下に見えた。キュクヌスの話というのは、むかしこの地で、ピュリウス(80)という男が、命じられるままに野の鳥とおそろしい獅子とを飼いならして、少年キュクヌスにあたえた。ところが、少年からさらに一匹の牡牛がほしいといわれ、それをも飼いならしたが、自分のせっかくの親切がないがしろにされるのに腹をたてて、この最後の贈物である牡牛を少年にわたすことをこばんだ。すると、少年は、非常に憤慨して、「そんなら、おもい知らせてやるぞ!」というなり、高い断崖の上から谷底めがけて身をおどらせた。だれの眼にも、とても助かるまいとおもえた。ところが、少年は一羽の白鳥と化して、雪のように白い翼をひろげて悠々と空を舞っていた。少年の母ヒュリエは、かれが無事で生きていることを知らず、悲しみの涙にかきくれていたが、やがてその全身が溶けて、その名にちなんだ湖になったといわれている。なお、この付近には、オピウスの娘コムベ(81)が自分の息子たちのひどい仕打ちをのがれて、おののく翼で空中に逃げたというプレウロン(82)の町がある。〔三七一〜三八三〕
ここからさらにメデアは、ある王とその妃が鳥に化したという、ラトナの島カラウレア(83)の耕地を見おろした。右手には、メネプロン(84)が野獣のようにその母と不義の床をともにしようとしたキュレネの山が見え、はるか遠くには、アポロのために肥満した海豹《あざらし》のすがたに変えられた孫たちの運命をなげいているケピスス(85)の河があり、また、空中をとんでいるわが子の運命を悲しむエウメルス(86)の家も見えた。〔三八四〜三九〇〕
メデアは、こうして空とぶ竜にはこばれて、ピレネ(87)の泉のあるエピュレに帰りついた。この地は、古い伝説によれば、この世の初めごろに雨にやしなわれた茸《きのこ》から人間がうまれてきたところだといわれている(88)。メデアは、ここでイアソンの新しい妻をコルキスの毒で焼きころし、この地をとりかこむふたつの海の面前で王宮を焼きはらうと、その刃をわが子の血でぬらした(89)。こうして残忍な復讐をとげると、かの女はイアソンの剣をのがれた。そして、ティタン(90)から贈られた竜車にのり、パラスの城壁(91)のなかに入っていった。そこでは、正義の権化ともいうべきペネとその老いた良人ペリパス(92)が仲よく鳥となってとびまわり、ポリュペモン(93)の孫娘も、あらたに得た翼をはばたいていた。ここで、アエゲウス(94)がメデアをかくまってやったが――これは、かれの非難さるべき唯一の行ないであった――かれは、かの女を歓待するだけで飽きたらず、ついに妻としてめとったのであった。〔三九一〜四〇三〕
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五 アテナエの英雄テセウス
このとき、アエゲウスの息子テセウス(95)は、ふたつの海にはさまれたイストムス(96)の地をその武勇によって平定したのち、はるばる父をたずねてアテナエへやってきていたが、父はそれが自分の子であることを知らなかった。メデアは、かれを亡きものにしようとして、かつてスキュティア(97)の海辺からとってきた|とりかぶと《ヽヽヽヽヽ》の毒汁を調合した。この毒草は、エキドナ(98)の飼犬の牙からうまれたものだといわれている。大きな口を黒々とあけた、人目につかないひとつの洞穴(99)があって、その奥は急な坂道になっていた。ティリュンスの英雄(100)は、昼とあかるい陽光に会うとたちまち眼をそむけるケルベルスが必死の抵抗をこころみるのをものともせずに、これを鋼鉄の鎖につないで、この坂道をとおって穴から引きずりだしたのである。すると、この怪物は怒りくるって、三つの頭で同時に吠えたてて、あたりの空気をとどろかせ、みどりの野原に白い毒泡をまきちらした。毒泡は、草にこびりつき、肥沃な大地から養分を吸いとって、人を殺す力をもつようになった。この草は硬《かた》い岩の上にはびこるところから、農夫たちは「アコニトン(101)」とよんでいる。
それはとにかく、アエゲウスは、妻の姦計にだまされて、この毒を、まるで敵にのませるようにわれとわが子にすすめた。テセウスは、なにも知らずに、さしだされた杯を手にとったが、そのとき父は、ふと相手の帯びている剣の象牙の柄《つか》におのが王家の紋章をみとめると、すばやくかれの口から毒杯をはらいおとした。メデアは、呪文をとなえて黒雲をおこすと、それにかくれて死をのがれた(102)。〔四〇四〜四二四〕
父は、息子の命をとりとめたことをよろこんだが、あやうくおそろしい罪をおかすところであったことを考えて慄然とした。そこで、王は、祭壇に火を点じ、神々におびただしい供物をささげ、角に飾り布をまいた牛の頑丈な首を斧をふるって打ちおとした。エレクテウスの民たち(103)にとって、いままでにこれほどかがやかしい荘厳な日はなかったといわれる。人びとは、貴賎の別なく饗宴をひらいて祝い、酒興に乗じてつぎのような歌をうたった。「おお、猛きテセウスよ、マラトンの野は、クレタの牡牛(104)の血のために、おんみを嘆称した。クロミュオン(105)の農夫たちが猪の脅威におびえることなく田畑をたがやすことができるのも、おんみの功徳であり、勲功《いさおし》である。おんみのおかげで、エピダウルスの地は、棍棒をふりまわすウゥルカヌスの子(106)が倒されるのを見ることができたし、おなじくケピスス(107)の岸は、残忍なプロクルステス(108)が殺されるのを見、ケレスの都エレウシス(109)は、ケルキュオン(110)の最期を見ることができた。怪力を乱用し、大木の幹をもたわめることができ、松の梢を地上までまげて人間のからだをひき裂いたあのシニス(111)もまた、いまはすでに世にない。その昔レレクス(112)の民がきずいたアルカトエに通じる街道も、おんみがスキロン(113)を討ってからは、安全な道となった。この盗賊の四散した骨は、陸も海も安息の場所をあたえることをこばんだので、ここかしこを転々とした末、ついに岩と化し、スキロンの名でよばれているという。おんみの手柄とおんみの年齢をかぞえようとすれば、手柄の方が年齢を上廻ることであろう。たけき勇者よ、われらは、おんみのために声をあわせて祈りをささげ、おんみのためにバックスの酒を飲みほすであろう」〔四二五〜四五〇〕
人びとの歓声や、この勇者をたたえる者たちの祈りは、王宮をどよもし、町じゅうから憂いの色は影をひそめてしまった。〔四五一〜四五二〕
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六 アエアクスと|蟻の民たち《ミュルミドネス》
世のなかには、まじりけのない喜びというものはなく、どんな喜びのなかにも、なにか悩みがまじっているものであるが、アエゲウスもまた、わが子の命を無事とりとめてからも、平和な幸福を味わうことができなかった。ミノス(114)が準備をととのえていたからである。かれは、海陸ともに多くの軍隊を擁し、強大な武力をほこっていたが、さらに子をうしなった怒りにふるいたち、兵をひきいてわが子アンドロゲオス(115)のために正当な復讐をとげようとしていたのである。しかしそれに先だって、かれはまずこの遠征のために同盟の諸軍を糾合し、その誇りとする艦隊を出動させて、方々の海を征圧した。こうして、アナペ(116)の島とアスチュパラエアの国とを味方にひき入れたが、前者は約束により、後者は武力によって従わせたのであった。そのほか、あまり見ばえのしないミュコヌス、石灰をふくんだ野原をもつキモルス、たちじゃこう草の花咲くシュロス、キュトヌス、平坦なセリプス、大理石の多いパロスなどの島々、さらに、神をおそれぬ娘アルネ(117)(この女は、かねて貪欲なこころからほしがっていた黄金を手に入れたのち、足と羽の黒い烏《からす》になり、いまも黄金にあこがれている)が裏切ったシプノスの島を手に入れた。けれども、オリアルス、ディデュマエ、テノス、アンドロス、ギュアルス、すばらしい油のとれる橄欖樹が多くしげっているペパレトゥスの島々は、グノスス(118)の艦隊を助けることをこばんだ。そこで、ミノスは、進路を左にとり、アエアクス(119)の治めるオエノピアにむかった。この国は、むかしはオエノピアとよばれていたのであるが、アエアクスは、自分の母親の名前にちなんでアエギナと名づけたのである。島の群集たちは、この高名な英雄ミノスを見ようとして馳せあつまってきた。テラモンとその弟ペレウスと末弟ポクス(120)の三人も、かれを迎えにやってきた。さらに、アエアクス王自身も、老齢のために重たい足どりで王宮から出てきて、いかなる理由で当地に参られたのかとミノスにたずねた。
百をかぞえる諸都市を支配する王は、息子をうしなった悲しみを思いだして嘆息をもらし、こう答えた。「お願いの儀というのは、ほかでもござらぬ。息子のために起したこの軍《いくさ》に力をおかしくださらぬか。父親の義務として当然なこの仇討ちの戦いにご協力いただけまいか。草葉のかげに眠る息子のためにせめてもの慰めをあたえてやっていただきたい」すると、アソプスの孫(121)は、答えた。「せっかくのお願いなれど、それは叶いませぬ。わが町は、あなたのお頼みを容れるわけにはまいりません。わが国ほどかのケクロプス(122)の民と親密にむすばれている国は、ほかにないからです。われらをむすぶ盟約は、それほどにも固いのです」ミノスは、がっかりしたが、「そのような盟約こそ、やがて臍《ほぞ》をかむ因ともなりますぞ」といって、引き返していった。かれは、いまここで一戦をまじえて、早計に戦力を消耗するよりは、むしろこうしておどかしておいた方が良策だと考えたのである。〔四五三〜四八九〕
オエノピアの城壁からまだクレタの艦隊が見えていたとき、満帆に風をはらんでまっしぐらに一艘のアテナエの船が到来し、この盟邦の港にすべりこんだ。それには、ケパルス(123)が乗っていて、祖国から託された使命をたずさえていた。アエアクスの若い息子たちは、久しぶりにかれと再会したのであるが、かれの姿をみとめるなり、すぐに出迎えて、父の王宮に案内した。あいかわらず往年の美しさ(124)の面影をのこしているこの威風堂々たる勇者は、故郷の橄欖樹の小枝(125)を手にして入ってきた。かれは、年長者として、パラス(126)の息子である若いクリュトゥスとブテスの両人を左右にしたがえていた。〔四九〇〜五〇〇〕
かれらが王のまえに招かれて、ひと通りの対面の挨拶がおわると、ケパルスは、アテナエ人たちから託されてきた使命をのべ、祖先たちのあいだにかわされた盟約の誓いと義務を思い起しつつ援助を乞い、かのミノスが全アカイア(127)の主権をねらっているのだと、つけ加えた。このようにしてかれがその使命を雄弁にのべおわると、アエアクスは、その王杖《おうじょう》の柄《つか》に左手をおいて、
「アテナエの使者たちよ、援助を乞うなどと水くさいことをいわずに、勝手に持っていかれるがよい。この島がもっている兵力は、遠慮なくあなたがたのものだとお考えになっていただきたい。この島は、どんな物資でもゆたかにもっております。わが国の国力は、それほどすばらしいものであり、兵力にも不足ありません。わたしには、外敵をふせぐのに必要であるより以上の兵力がある。神々のお恵みにより、ありがたいことにいまは時期もよし、あなたがたの申し出をおことわりするいかなる理由もござらぬ」
「まことに、ご同慶の至りでございます」と、Pパルスは答えた。「お国の民がますます増《ふ》え栄えんことを祈りまする。わたしが先ほど御地に着きました折に、みなおなじ年頃とおもわれます多勢のりっぱな若者たちの出迎えに接しまして、こころから欣快《きんかい》に存じました。しかし、ただひとつ淋しくおもいましたのは、わたしが以前にこの町にご厄介になりましたとき知りあいになった人びとのお顔が見られないことでございます」すると、アエアクスは、ためいきをもらし、しずんだ声でいった。「わが都市も、初めは悲運つづきで、その後にやっと運が向いてきたのです。初めの部分は抜きにして、その後のことだけ申しあげればよいのですが、それもかないますまいから、順をおってお話いたしましょう。てっとり早く申しあげますと、あなたが思いだして探しておいでの者たちは、いまはすでに骨と灰になってしまっておりますのじゃ。かれらが世を去ったことは、わたしにとってどんなに大きな損失であったか知れないのです。〔五〇一〜五二一〕
恋仇(128)の名でよばれている国を憎むユノの怒りにふれて、おそろしい疫病(129)がこの国の民をおそったのです。初めのうちは、この不孝が人間の世界からおこったようにおもわれ、このような大きな厄難になるにいたったほんとうの原因がわからなかったものですから、医術をもってこれと戦いました。しかし、どんな医術も、とうてい病魔の敵ではなく、なすすべもなく敗退してしまいました。最初、天は、濃い霧で地上をおおい、雲のなかに人間を消耗させる暑さをみなぎらせました。月が四度その角《つの》をあわせてまんまるに輝き、四度かけてそのまるい姿をうしなっているあいだに、執拗な南の風が、おそろしい熱気を吹きよせました。泉や池は、たえず破壊的な瘴気《しょうき》にさらされ、幾千という蛇が荒れはてた田畑にはびこり、水の流れをその毒でけがしました。はじめは、つぎつぎに殪《たお》れていく犬や鳥や羊や牛やその他の野獣を見て、この突然おそってきた疾病の破壊的な力に気づきました。あわれな農夫は、頑健な牛たちが労働の最中にぶっ倒れ、畔《あぜ》のまん中で往生《おうじょう》をとげるのを見ておどろきました。羊は、くるしげな声をあげて啼き、毛がひとりでに抜けおちて、からだは痩せこけてしまいました。かつては馬場でかがやかしい勝利をえた、たくましい駿馬も、弱りはててその名誉もどこへやら、いまは馬小屋のなかでうめいて、なさけない横死の時を待つばかりでした。猪は、猪突《ちょとつ》猛進をわすれ、牝鹿は、疾《はや》き脚をうしない、熊は、牡牛の群をおそわなくなりました。すべてのものが、萎えしおれました。森にも、野にも、道にさえ、いまわしい屍体が累々とよこたわり、その臭気は、芬々《ふんぷん》としてあたりの空気を毒しました。ふしぎなことには、野犬も、猛禽も、灰色の狼でさえ、それらにふれようとはしませんでした。屍体は、くさり、ただれ、毒気を発して、その毒を遠くまでただよわせました。〔五二二〜五五一〕
悪疫は、ますます暴威をたくましくし、しだいに不孝な農夫たちの上にまでおよび、ついには、この大きな都の城壁のなかにもはびこるようになりました。はじめは、内臓が熱のためにおかされ、かくれた炎症の徴候として皮膚がまっ赤になり、呼吸は火を吐くようでした。舌は、ざらざらになって腫れあがり、かわいた口は、むしあつい風にあえいで、毒気をふくんだ空気を吸うばかりでした。病人は、敷ぶとんも掛けぶとんもいやがり、感覚をうしなった胸をじかに地面につけるのですが、からだは土で冷やされるどころか、かえって地面がからだの熱のためにあつくなりました。だれひとりとしてこれをくいとめることのできる者はなく、おそろしい疫病はついに医者たちをもおそい、かれらは、みずからほどこす術の犠牲になってしまいました。そして、医者たちが病人に近づき、おのれの職分を忠実にはたせばはたすほど、かれらは人一倍はやく死の餌食になるのでした。こうして、もう望みの綱もたちきれ、死だけが病気をおわらせる唯一の手段だとわかりますと、人びとはおのれの欲望にのみ身をゆだねて、どうしたら治るかなどということは考えなくなってしまいました。実際、どんな薬石も効かなかったからです。それで、恥も外聞もすてて、ただわれ先にと泉や川や大きな井戸のそばに寝ころがりましたが、飲めども飲めども、命のあるかぎり、かれらの渇きは癒えませんでした。多くの者は、すっかり弱りはてて、立ちあがる力もなく、水のなかで往生をとげるのでしたが、その水をまた飲む者もあるような始末でした。これらの不孝な人たちは、自分の家の寝床にねているのがこわくて、そこからとびだしたり、立ちあがる力もない連中は、地面をころがっていったりしました。だれもかれも、自分の家をいやがり、わが家を病窟のようにおもいました。病気のほんとうの原因がわからないものですから、それをかれらの住む家の狭苦しさのせいにしたのです。歩けるあいだは半死の恰好で路上をさまよう者もあれば、地上に伏して泣きわめき、最後の力をふりしぼってよどんだ眼であたりを見まわす者もあり、また、おもく垂れさがった天の星々にむかって両手をさしのべては、やがて死がおそいかかってくるままに、ここかしこで最後の息をひきとる者もありました。このようなありさまを見て、わたしはどんな気持になったことでしょう! 生きているのがつくづくいやになって、庶民たちと運命をともにしたいとおもうこと以外に、なにも考えませんでした。どちらを向いても、人びとが地上にころがっていて、まるで小枝をちょっと動かしただけでくさった果実が地に落ち、嵐にたたかれてどんぐりが枝からとばされたみたいでした。〔五五二〜五八六〕
そら、あなたの眼のまえに、長い石段の上にりっぱな神殿(130)が見えましょう。あれは、ユピテル大神のお社《やしろ》ですが、当時はあの祭壇に効き目なき香をささげない者はありませんでした。良人は妻のために、父は子のために祈りをささげているうちに、その願いを聞きとどけられることもなく、いくどかこの祭壇のまえで最後の息をひきとり、くゆらさずにしまった一握の香がその手ににぎられているのでした。また、牛たちも、このお社のまえにつれてこられて、神官がありがたい文句をとなえ、きよらかな酒を角《つの》にそそぎかけているあいだに(131)、いくどかまだ首も刎《は》ねていないのに倒れて死んでしまったものでした。わたしも、わたし自身とわたしの国と三人の息子たちのために、一度ユピテルさまの神前に犠牲をささげて祈ったことがありますが、そのとき犠牲の牛が苦しげなうめき声をあげたかとおもうと、こちらの一撃も待たずにばったりと倒れてしまい、つきつけた刀にはほんの数滴の血がついただけでした。内臓も、病いにおかされ、すでに真実の徴《しるし》と神々のお告げをうしなっていました(132)。おそろしい疾病は、内臓にまで侵入していたのです。わたしは、屍体が神殿の入口に、それどころか、死をいっそうむごくするためか、祭壇のまえにさえ散乱しているのを見ました。絞め縄でみずからの首をしめ、死によって死の恐怖からのがれ、せまってくる運命の瞬間をみずから呼びよせた人たちもありました。人びとは、習慣にしたがった葬儀によって遺骸を送ろうとはしませんでした。町の門が、これほどおびただしい葬列を通すことができなかったからです。屍体は、埋葬もしないで地上に遺棄され、あるいは、供養もなしに火葬用の薪の山の上にほりあげられました。やがてもう死者にたいする畏怖などということを考えなくなり、ただ焼場をもとめて争い、他人のために用意された火のなかで屍体を焼いたりするありさまでした。もはや死者のために泣く者もありませんでした。母も嫁も、老いも若きも、そのたましいは、涙の供養も受けずにさまよいました。どこへいっても、墓にすべき土地はなく、屍体を焼く薪さえなくなってしまいました。〔五八七〜六一三〕
わたしは、こうしたおそろしい病禍の嵐にうちのめされ、こうさけびました。『おお、ユピテル大神よ、もしアソプスの娘アエギナがあなたの寵をうけたという噂が真実であるならば、そしてまた、おお、偉大な父よ、あなたがわたしの父であることを恥とされないならば、どうかわたしに臣下たちをお返しください。さもなければ、どうかこのわたしをも墓のなかに埋めてください!』すると、大神は、一閃の稲妻と瑞兆の雷鳴とによって神意をあらわしてくださいました。そこで、わたしは、『おお、大神よ、御旨はわかりました。どうかこれがあなたのおこころの良きお告げでありますように! あなたのあらわしたもうた御しるしこそ、わたしの眼にはその証拠と見えました』〔六一四〜六二一〕
たまたまその近くにドドナ(133)産の、ユピテルの神木である一本の樫の大樹が、堂々たる枝ぶりを見せてそびえていました。わたしはその樹に、穀物をあつめる蟻たちがむらがっているのを見つけました。蟻たちは、小さな口に重たい穀粒をくわえて長い列をつくり、樹皮のひだのあいだの小径《こみち》をぞろぞろ歩いていました。わたしは、蟻たちのおびただしい数におどろいて、こういいました。『おお、いともすぐれた慈父よ、どうぞわたしにこれほど多くの民をおあたえください。そして、空《から》になった都をみたしてください』すると、樫の樹がゆらいで、風もないのに小枝がざわざわと音をたてました。畏れと驚きのあまり、わたしの手足は、わなわなとおののき、髪の毛は、逆だちました。やがて、しかし、わたしは、大地と樫の樹に接吻をしました。わたしのこころは、口にこそ出しませんでしたが、希望にかがやき、胸の底にじっと悲願をこらしました。夜がおとずれ、眠りが心痛につかれたわたしの五体をつつみました。と、夢のなかに、さきほどとおなじ樫の樹があらわれ、おなじようにたくさんの枝をはり、おなじように多くの蟻たちを枝にはわせ、昼間とおなじようにふるえ、穀粒をはこぶ蟻の群を地上にまきおとすようにおもえました。すると、その蟻たちは、みるみるうちに大きくなり、地面から起きあがり、まっすぐに立ち、その細いからだも、たくさんの足も、黒い色も消えてなくなり、人間の五体になりました。そこで、夢が消えました。わたしは、せっかくの夢をさまされたことをいまいましくおもい、ついに神々にも見はなされたかと悲しみました。ところが、そのとき、急に王宮のなかがさわがしくなり、聞きなれぬ人声がきこえてくるような気がしました。これも夢のせいかとおもっていますところへ、テラモンがあわただしく駈けこんできて、戸をあけるなり、こうさけびました。
『父上、ごらんなさい! 思いも信じもしなかったようなことがもちあがりました。さあ、来てごらんなさい!』いわれるままにとびだしていきますと、大勢の人びとの姿が眼にとびこんできて、しかも、それが夢のなかで見たとおもったのとおなじ人びとであることがわかりました。かれらは、わたしに近づいてきて、わたしに王としての敬意をあらわしました。わたしは、ユピテル大神に感謝の祈りをささげ、このあたらしい臣下たちに、この町と耕作者をうしなっていた畑とを分配してやりました。また、かれらを『ミュルミドネス(134)』と名づけ、かれらの由来をその名前にとどめておきました。あなたは、すでにかれらをごらんになりましたが、いまも以前とおなじ性質をもち、つましく、しごと熱心で、働いて得たものを大切にし、貯蓄心にとんだ種族です。年齢も勇気もまったくおなじこれらの若者たちは、あなたをつつがなく当地までつれてきた東風《エウルス》(実際、ケパルスをはこんできたのは、東風であった)が南風《アウステル》に変るやいなや、ただちにあなたにしたがって戦場におもむくでありましょう」〔六二二〜六六〇〕
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七 ケパルスとプロクリス
このような物語をはじめ、よもやま話にふたりはながい昼間をすごした。そして、昼の残りの時間は饗宴に、夜は眠りにささげられた。あくる朝、金色の太陽はその光を水平線上にあらわしたが、あいかわらず東風《エウルス》が吹いていて、帰ろうとする船の帆をさまたげた。そこで、パラスのふたりの息子たち(135)は、年長のケパルスの部屋に出かけた。ケパルスは、ふたりをつれてアエアクス王のもとにおもむいた。しかし、王はまだふかい眠りからめざめていなかったので、ポクス(136)が戸口に三人を出迎えた。テラモンともうひとりの弟は、戦いのために兵士たちをあつめに出かけていたのである。ポクスは、ケクロプスの子孫たち(137)を王宮内のりっぱな部屋に案内して、三人とともにくつろいだ。〔六六一〜六七一〕
ポクスは、ケパルスがなんの木かわからない柄《え》に黄金の穂先のついた投槍を手にしているのに気がついた。そこで、とりとめない話をしばらくかわしたのち、こういった。「ぼくは、森が好きで、よく狩に出かけるのですが、あなたがもっておられる槍の柄は、なんという木なのでしょうか。じつは、先ほどから、なんの木だろうかとしきりに考えていたのです。秦皮《とねりこ》だとすると、茶いろのはずですし、水木《みずき》だとすると、節《ふし》があるはずです(138)。なんの木でできているのか、ぼくには見当がつきませんが、これほどすばらしい投槍をいままで見たことがありません」
すると、アクテ(139)の兄弟のひとりが答えた。「この槍のりっぱさもさることながら、それ以上にその威力にびっくりなさるでしょう。この槍は、その的に百発百中するのです。一度投げれば、その方向がでたらめに曲るようなことはけっしてありません。しかも、だれに投げ返してもらわなくても、血まみれになったままひとりでにもとの場所にもどってくるのです」
そこで、ネレウス(140)の孫である若者は、いったいどうしてそれが手に入ったのか、どこから、だれの手からこのようなすばらしい贈物があたえられたのかと、根掘り葉掘りたずねた。そこで、ケパルスは、これらの質問に答えたが、これを手に入れるためにどのような代価をはらったかということだけは語らなかった(かれは、それを話すのが恥かしかったのだ)。やがて、しかし、妻をうしなったときの悲しみを思いおこしながら、眼に涙をうかべて語りはじめた。〔六七二〜六八九〕
「おお、女神の御子(141)よ、信じられないかもしれませんが、この槍は、わたしの涙の因です。そして、わたしが長生きすれば、これからもなおわたしに涙をながさせることでしょう。この槍こそ、わたしをもわたしの妻をも、破滅におとし入れたのです。ああ、こんな贈物なんぞもらわなければよかったのにとおもいます。あなたは、もしやオリテュイア(142)という名前をお聞きおよびかとおもいますが、プロクリスは、この奪い去られたオリテュイアの妹でした。この姉妹の容姿や性質をくらべてみれば、プロクリスの方こそ、奪い去られる値打ちがありました。父のエレクテウスがかの女をわたしにめあわせ、アモル(143)がふたりをむすびつけてくれました。人びとは、わたしを果報者だといい、事実わたしは幸福でした。しかし、神々の御旨《みむね》は、また異なっていたのでした。そうでなかったら、わたしはいまでも幸福であったでしょう。
わたしたちをむすぶ神聖な式がすんでから一カ月たったころでした。ある朝、わたしが鹿をとらえようとして網をはっていましたところ、闇を追いはらった黄金《こがね》いろのアウロラ(144)は、時をわかたず花の咲いているヒュメトゥス(145)の山頂からわたしの姿をみとめて、いやがるわたしをむりやりに拉し去ってしまいました。(おお、ほんとうのことを話しても、どうか女神のお気にさわりませんように!)――しかし、女神がばら色の顔をしてどんなに美しかろうが、昼と夜の境界を支配する力をおもちであろうが、また、ネクタル(146)をお飲みになっていようが、わたしはやっぱりプロクリスを愛していました。こころにも口にも、たえずプロクリスのことしかありませんでした。わたしは、結婚の神聖な義務、味わったばかりの愛撫のよろこび、あたらしい寝室、あとにしてきた臥床《ふしど》ではじめてむすばれた夫婦の契りのことなどをしきりに口にしました。すると、女神は、怒ってこう答えました。『この恩知らず! 泣き言は、もうよすがよい。それなら、プロクリスを返してやろう。だけど、わたしの心眼に先見の明があるなら、いまにきっとプロクリスなどいなければよかったと後悔するときがくるにちがいない!』女神は、このように怒って、わたしを妻のもとに帰らせてくれました。〔六九〇〜七一四〕
しかし、家に帰る道すがら、女神の言葉を思いだしますと、はたして妻が夫婦の本分をちゃんと守っているか心配になってきました。妻の美しさや若さからいって、不義をはたらいてもふしぎでないともおもわれましたが、その貞淑な性質を考えると、とてもそんなことはあるはずがないとおもえました。しかし、なにしろわたしが家を留守にしていたのですし、また、いま遁《のが》れてきたばかりの女神にすでに不義の例を見せつけられていたのです。それに、愛している者は、どんなことでも気になるものです。そこで、われとわが身を苦しめることになるかもしれないが、なんとか探《さぐ》りを入れ、いろんな贈物によって妻の貞淑なこころを誘惑してやろうと決心したのでした。アウロラは、このわたしの気がかりを尻押ししてくれました。といいますのは、わたしの姿を変えてくれた(すくなくとも、わたしにはそうおもえました)からです。〔七一五〜七二二〕
こうして、わたしは、ひそかにパラス女神の守護したまうアテナエの城下へ帰ってきて、わが家に足をふみ入れました。宮殿内には、なにひとつ怪しいこともなく、すべてが身持ちの正しさを語り、主人の失踪を憂いていました。いろいろな手管によって、やっとのことでエレクテウスの娘(147)に近づくことができましたが、妻の顔を見るなり、わたしはその貞淑な様子に驚嘆し、妻をためそうとして用意してきた試みをあやうく中止するところでした。事実をうち明けるのをかろうじて思いとどまり、当然すべき接吻もやっとのことでしないで我慢しました。妻は、うち沈んでいました。しかし、憂いをおびたその風情《ふぜい》は、かえってどんな女よりも美しく見えました。しかも、誘拐された良人《おっと》にたいする憧れの思いにもえていました。こうして悲しみにかざられた妻の美しさがどんなものであったか、ポクスどの、まあ考えてみてくだされ。いくどその貞淑さがわたしの誘惑をこばんだか、また、『わたしは、ただひとりの人のために操をまもっているのです。あの人がどこにいようと、わたしはあの人ひとりのために愛のよろこびをとっておくのです』と、いくどくりかえし言ったか、それをいまさら申しあげる必要もありますまい。
分別のある者なら、これだけ貞節の証拠を見せられたら、十分納得するにちがいありません。けれど、わたしはそれだけで満足せず、さらにわれとわが傷口をひろげようとしたのです。そして、ただ一夜のために大きな財産をあたえると約束し、さらに贈物の額を大きくして、ついに妻のこころをぐらつかせてしまいました。わたしは、ここぞとばかりにさけびました。『不正にこころを動かした者は、罪をおかしたも同然だ。わしこそは、仮面をかぶったおまえの良人だ。不実な女よ、いまこそ、この眼でおまえの不貞をとり押さえたぞ!』すると、妻は、ひと言も答えずに、ふかい恥らいにうちのめされ、意地のわるい良人と自分を罠にかけた家とをすてて出ていってしまいました。妻は、わたしの仕打ちをうらむあまり、すべての男性をにくみ、ディアナ(148)の仕事に身をささげて、山々をさまよいました。
こうして妻から見棄てられてみると、愛の炎がいまさらながらはげしくわたしの骨の髄までつらぬきました。わたしは、かの女に赦しを乞い、自分が悪かったと告白し、もしだれかがこんなに莫大な贈物でわたしを釣ったならば、きっとおなじような罪におちたにちがいないと白状しました。この告白を聞くと、プロクリスは、さきに名誉を傷つけられた恨みも水にながして、ふたたびわたしのもとに帰り、たがいに仲むつまじく楽しい歳月をおくったのでした。また妻は、みずからをわたしにあたえるだけでは贈物として小さすぎるとおもったのか、さらに一頭の犬を贈ってくれました。これは、かつてキュントゥスの女神(149)が『どんな犬よりも脚の早い犬です』といって妻にくだされたものです。それと同時に、妻は、ごらんのように、いまわたしが手にしている投槍をもくれました(150)。たぶんあなたは、もうひとつの贈物(151)の運命がどうであったかを知りたいとお思いでしょう。まあ、このふしぎな話を聞いてください。きっとこの出来事のふしぎさにおどろかれるにちがいありません。〔七二三〜七五八〕
あのライウス(152)の息子が、それまでいかなる人間の理知も解きえなかった謎めいた文句をみごとに解きましたので、謎めいた予言者(153)は、丘の上から身を投げて、いまでは自分の謎のこともわすれてしまって、地上にころがっています。しかし、慈悲ぶかいテミスさま(154)は、このようなことを罰せずにおきませんでした。ただちに第二の禍いが、アオニア(155)のテバエの町にくだされました。それは、一匹の怖ろしい野獣(156)で、多くの農民たちは、家畜のみでなく、わが身まで危険にさらされるので、怖れおののきました。そこで、わたしたち近隣の若者たちは、出かけていって、ひろい野原に網をはりめぐらしました。けれども、その野獣は、眼にもとまらぬ早さでかるがるとそれをとび越え、せっかく仕掛けておいた罠の高くはった網をもとび越えてしまいました。犬どもが紐から放たれました。しかし、獣は、犬どもの追跡を尻目にかけて、はやい鳥よりもさらにはやい速力で、犬どもを愚弄するようにのがれ去っていってしまいました。そこでみんなは大声で、わたしのラエラプス(これは、例の贈物としてもらった犬の名前です)を放ってくれるようにとたのみました。犬は、すでに自分で鎖をはずそうとやっきになり、頸につないだ鎖を力まかせに引っぱっていました。それで、鎖をはずしてやるがはやいか、犬はもうどこにいるのか眼にもとまらないほどでした。熱い土埃には足跡がのこっているのですが、その姿はもう視界の外にありました。投槍でも、ふりまわされた投石器から発射された弾丸(157)でも、ゴルチュン(158)の弓をはなれた軽い芦の矢でも、これほど早くはありますまい。
この平野の中央にひとつの小山があって、その頂上は、四周を見おろしていました。わたしは、その山頂にのぼって、はるかにこのめずらしい競走をながめました。ついに獣が捕えられたかと見えることもあれば、また、かみつこうとする犬の歯牙をのがれたようにおもえることもありました。そのうちに、獣もさるもの、まっすぐにどんどん遠くまで逃げるのをやめ、犬の牙をたくみにあざむいて、敵の攻撃の機を封じるために、大きな弧をえがいて、もと来た道に馳せもどってきました。けれども、犬はあくまで追いせまり、おなじ速さでぴたりとあとをつけていきます。そして、あわや捕えたかと見えても、まだつかまりません。犬の口は、むなしく空気をかむばかりでした。ついに、わたしは、この投槍で助け舟を出すことにしました。そして、槍を右手にかまえ、指をその止索《とめなわ》にかけようとして、ちょっと眼をそらせました。ところが、ふたたび眼をもとにかえしたとき、おお、なんとふしぎなことでしょう! 野原のまんなかには、ふたつの大理石の像が見えるではありませんか。ひとつは、のがれようとし、ひとつは、まさにかみつこうとする姿勢をしています。これは、きっとある神さまが、もし神さまのご意思がこの勝負にはたらいていたとすれば、どちらも敗者にしたくないと思召されてなさったことにちがいありますまい」〔七五九〜七九三〕
ここで、ケパルスは口をとじた。「ところで、この槍にはどんな罪があるとおっしゃるのですか」と、ポクスがたずねた。そこで、ケパルスは、 投槍の罪について語りはじめた。〔七九四〜七九五〕
「ポクスどの、わたしの喜びこそ、わたしの苦しみのもとだったのです。まず、わたしの喜びからお話しましょう。アエアクスのご子息、いま思いおこすだけでもたのしい、あの初めの甘美な年月――そのころは、わたしは妻ゆえに幸福であり、妻もわたしゆえに幸福でした。おたがいの思いやり、おたがいの愛情が、ふたりをしっかりとむすびあわせていました。妻は、たとえユピテルに愛せられても、わたしの愛にまさるとはおもわなかったことでしょう。また、たとえ言いよってきた相手がウェヌスであれ、わたしのこころをつなぎとめられるような女は、ひとりもいませんでした。わたしたちのこころは、おなじ愛の炎でいっぱいだったのです。
そのころ、わたしは、太陽がその最初の光を山々の峯に投げかけると、いつもよろこびに若い胸をはずませながら森へ狩に出かけることにしていました。それも、従者も馬も鼻のきく猟犬もつれず、結び目の多い網ももたずに出かけるのがつねでした。投槍一本だけで自信があったのです。右手が野獣どもを血祭にあげるのに疲れると、木かげの涼しさとひんやりとした谷間から吹きあげてくるそよ風をもとめました。真昼間の暑いさなかに、そよ風をもとめました。そよ風が立つのを待ちます。そよ風は、わたしの疲れをいやしてくれます。いまでもおぼえていますが、そういうときいつも、こんな歌をうたったものでした。『おお、アウラ(159)よ、来てわたしを幸福にしておくれ。おお、いとしい者よ、わたしの胸に来て、いつものように、わたしを焦がすこの熱をさましておくれ』それから、悪運に魅入られたとでもいうのでしょうか、たぶんやさしい言葉をこんなふうにつけ加えたのだとおもいます。『おまえこそ、わたしのこよなきよろこび。わたしを元気づけ、愛撫してくれる。わたしが森や寂しい場所を好きになったのも、おまえのためだ。わたしの口は、おまえの息をどんなにか待ちこがれていることであろう』
考えようによってはどのようにもとれるこの文句を、ふと小耳にはさんだ人があったのですね。その人は、わたしがなんども口にしたアウラという名を妖精の名と勘ちがいし、わたしがその妖精に恋いこがれているのだとおもいこんだのでしょう。自分で勝手にでっちあげたこの不義を無分別にも吹聴してまわろうとして、その人はプロクリスのところへいき、自分の聞いたことをそっと告げ口したのです。ところが、恋とか愛とかいうものは、いつでもじつにだまされやすいものです。妻は、これを聞くと、たちまち苦痛におそわれ、その場に気をうしなって倒れてしまいました。そして、ながいことたってからふたたび正気づくと、自分を不幸な女、むごい運命の手におちた者とよび、わたしの不実をうらみました。いつわりの告げ口にまんまとのせられた妻は、かわいそうにも根も葉もないことをおそれ、姿もない名前にくるしみ、まるでほんとうに恋仇がいるみたいになげき悲しんだのでした。しかし、ときにはまさかとおもってみることもあり、どうか誤報であってくれたらよいがと願い、告げ口をした男の言葉に信用をおかず、すくなくとも自分の眼でたしかめるまでは、良人の罪を責めるようなことはすまいともおもったのでした。〔七九六〜八三四〕
その翌日、アウロラの光が夜の闇を追いはらうと、わたしは家を出て、森にわけ入りました。そして、多くの獲物をしとめたのち、草原に身をのばして、うたいはじめました。『おお、アウラよ、来てわたしの疲れをいやしておくれ』と、うたっている最中に、なにかうめくような声が聞こえたような気がしました。けれども、それ以上気にとめずに、うたいつづけました。『いとしい者よ、さあ、おいで!』そのとき、またもや舞いおちる木の葉がかすかな音をたてましたので、てっきり野獣だとおもい、投槍を投げつけました。ところが、それはプロクリスだったのです。妻は、胸のまんなかを貫かれると、『ああ!』と悲鳴をあげました。その声でいとしい妻だとわかると、わたしはすぐさま声のした方へ夢中でとんでいきました。見ると、妻は、裂けた衣を血潮でそめて、息もたえだえにわたしにくれたもの(160)を傷口から引きぬこうとしているではありませんか。わたしは、わが身よりも大切な妻のからだをしずかに抱きおこすと、自分の着物の胸の部分をひきちぎって、いたましい傷口をしばり、なんとか出血をとめようとしました。そして、罪をおかしたわたしをすてて先に死ぬようなことはしてくれるな、と哀願しました。しかし、もう力もつきはて、臨終に近づいていた妻は、最後の力をふりしぼって、かろうじてこれだけの言葉を口にしました。『ああ、わたくしたちの夫婦の契《ちぎ》りにかけて、また、わたくしをお守りくださった天と地の神々さまにかけて、わたくしがあなたのために尽しましたすべてのことにかけて、また、わたくしが命をうしなう因《もと》になりましたが、いまのいままで抱きつづけております愛にかけて、どうかあのアウラとやらをわたくしの跡目にするようなことはなさらないでくださいませ』〔八三五〜八五六〕
わたしは、これを聞いてはじめて、この名前が誤解のもとであったことに気がつき、そのことを妻に知らせました。しかし、いまさら知らせたとて、なんの役にたちましょう。妻は、ぐったりと私の胸に頭をおとし、残っていたわずかの力も、流れる血潮とともに妻のからだを去っていきました。そして、その眼が見えるかぎり、わたしをじっと見つめていましたが、ついに最期の息をわたしにむかってわたしの口のなかに吐きました(161)。けれども、そのあかるい顔つきは、まるで安らかに死んでいったもののようでした」〔八五七〜八六二〕
勇士は、涙ながらにこの物語をしたが、聞き手も涙をながしていた。このとき、アエアクスは、ふたりの息子たちとともに、集めたばかりの兵士たちをひきつれてやってきた。こうして、ケパルスは、これらの兵士たちとその精鋭な武器とを受領したのであった。〔八六三〜八六五〕
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巻七の註
(1)金羊毛皮をさがしに出かけたイアソンたちの一行、アルゴナウタエのこと。→巻六(133)(134)
(2)テッサリアの港。そこでつくられた船とは、アルゴ号のこと。建造者アルグス〔巻六(134)〕は、ペリオン山〔巻一(31)〕から伐りだした木材でこれをつくり、船首だけは、アルゴナウタエの守護者であるアテナ女神があたえたドドナの樫の木(133)でつくられた。
(3)トラキアのサルミュデッススの王。二人目の妻の中傷を信じて先妻のふたりの子供を虐待し、盲目にしたため神々の怒りをまねき、みずからも盲目になり、食物を口に入れようとするたびに、ハルピュイアたち(5)にそれを奪われるという罰をうけた。
(4)ボレアス〔巻六(127)〕のローマ名。その子らとは、ボレアダエ、すなわちカライスとゼテスのこと。→巻六(131)
(5)ハルピュイアたち(複数形ハルピュイアエ)といって、乙女の顔をもち、鳥の姿をした怪物。タウマスとエレクトラとの娘たちで〔巻一(59)〕、二人あるいは三人とされた。おそらく風の精であったらしい。アルゴナウタエの一行がピネウスにコルキスへの道をたずねたとき、ピネウスはその条件に、ハルピュイアたちを追いはらってくれといったので、カライスとゼテスがハルピュイアたちを退治した。
(6)テッサリアの町イオルクスの王アエソン(33)の息子。幼時を賢者キロン〔巻二(133)〕にそだてられた。アエソンは、その異父の兄弟ペリアス(33)に王位をうばわれていたが、イアソンは成人すると、ペリアスに父の王国の返却を要求した。イアソンを怖れたペリアスは、黄金の羊皮を取ってくることをかれに命じた〔以下は巻六(134)を見よ〕
(7)→巻二(73)
(8)コルキスの王アエエテスのこと。太陽神ソル(ヘリオス)とペルセイスとの息子〔巻四(30)〕、キルケ〔巻四(41)〕、パシパエ〔巻八(21)〕らの兄弟。メデアの父。
(9)ボエオティアの王アタマス〔巻三(77)〕とその妻ネペレ〔雲の意、巻三(26)とは別人であろう〕との子で、ヘレの兄弟。アタマスの二度目の妻イノ〔巻三(18)〕の継子いじめのために、兄妹は、メルクリウス神からあたえられた金毛の牡羊〔巻六(35)〕にのり、空をとんでのがれた。途中でヘレは目まいがして、海に落ちた。ヘレスポントゥス(ヘレの海、の意)がそれであるという〔巻十一(40)〕。プリクススは、コルキスに着き、アエエテス王の娘のひとりカルキオペを妻としてあたえられ、金毛の羊をユピテルに犠牲としてささげ、その皮をアエエテスに贈った。王は、マルスの森の樫の木にこれをつるして、竜に番をさせた。
(10)アエエテス王とイデュイア〔オケアニデスのひとり、巻二(11)〕との娘。魔法に通じていた。エウリピデスに悲劇『メデイア』がある。
(11)クピドあるいはアモル。→巻一(84)
(12)アエエテス王がイアソンに課した難業は、王がウゥルカヌス神〔巻二(163)〕からもらった火をふく二頭の牡牛を軛につなくこと、その牡牛に土地を耕させて、そこにかつてテバエでカドムスが大地に播いた大蛇の歯の残り(王はそれをアテナ女神からもらっていた)を播くこと(巻三の九九行以下)、さらに、金羊毛皮の番をしている竜を退治することであった。
(13)アエエテス王の支配権は、金羊毛皮の所有にかかっている。
(14)ギリシア人のこと。→巻一(33)
(15)妹はカルキオペ(9)、弟はアプシュルトゥスといった。
(16)恋の神アモルあるいはクピド。
(17)神々のひとりになったような誇らしげな気がするであろう、の意。
(18)シュムプレガデス(打ちあう岩、の意)とよばれ、ボスポルス海峡(黒海の入口)にあるふたつの岩。船がそのあいだを通りぬけようとすると、左右からはさまれて打ちくだかれ、神々にアムブロシア〔巻二(19)〕をはこぶ鳩たちでさえ、ときには遭難することもあったという。アルゴナウタエの一行は、帰途ユノ女神の加護によりここを通過した(あるいは、うまく避けて通った)が、それ以後岩は固定して、動かなくなった。古くは、この場所ではなく、ギリシアより西方(地中海)にあるものと考えられた。
(19)スキュラ(次注)と相対したところにある大渦巻の難所、一日に三回潮を呑吐するという。神話的には、この渦巻を擬人化した女怪で、海神ネプトゥヌスと大地ガエアとの子とされる。
(20)シキリア(シチリア)島のメッシナ海峡にある岩礁、また、それを擬人化した、六つの頭をもち、犬の頭をつらねた帯をした女怪で、クラタエイスという妖精の娘とされる(詳しくは、巻十三の七三四行以下)。古来、スキュラとカリュブディスは、のがれられない危険・厄難をあらわす比喩として用いられる。なお、黒海沿岸のコルキスからギリシアへ帰るのにメッシナ海峡を通るというのは、メデアの地理的無知のように考えられるが、アルゴナウタエの一行は、ダニューヴ河から北海に出て地中海にもどった、あるいは、パシス河〔巻二(73)〕をさかのぼり、オケアヌス(大地をとりまいて流れているとされる大河または大洋)の流れにのって地中海に入ったことになっている(そのほかにも諸説がある)。
(21)いずれも擬人化。
(22)→巻六(46)。ヘカテの父ペルセスは、同名のゆえにしばしばペルセ〔ペルセイスともいう、巻四(30)〕の息子のペルセス(同注)と混同されるので、ヘカテをペルセの孫とよんだのである。このペルセスは、メデアの父アエエテスの兄弟。魔法に通じたメデアは、当然魔法の女神ヘカテとつながりをもつが、この混同のために、血筋の上からもヘカテの従姉妹にあたることになる。→(102)
(23)ヘカテのこと。つぎの「この森に鎮座する神」も、ヘカテのことであろう。
(24)太陽神ソルのこと。メデアの父アエエテスは、ソルの子である。→(8)
(25)→巻二(15)
(26)軍神マルス〔巻三(8)〕にささげられた野地の意。
(27)→(1)
(28)→(12)。以下は、カドムスのスパルトイの場合とおなじである〔巻三の九九行以下〕
(29)イアソンのこと(ハエモニアは、テッサリアの古名)
(30)メデア。
(31)黄金の羊毛皮をかけてある木を見張っている竜。
(32)「忘却」の意で、冥界の河の名。死者は、この河の水を飲んで現世のことを忘れる。
(33)テッサリアの港市イオルクスの王、クレテウスとチュロとの子、イアソンの父。その妻アルキメデは、クリュメネ(ミニュアスの娘)の娘、そのためイアソン(およびアルゴナウタエ)のことをミニュアスの子孫とよぶことがある。クレテウスは、イオルクス市の建設者で、アエオルスとエナレテとの子、したがってサルモネ市の建設者サルモネウスの異母兄弟、妻チュロの叔父にあたる。チュロは、クレテウスと結婚する以前に、エニペウス河神に化けた海神ネプトゥヌスと交わって、ネレウスおよびペリアス(63)という双生児をうんだ。アエソンからイオルクスの王権をうばったペリアスは、金羊毛皮を取りに出かけたイアソンの帰りが長びいたのをよいことにして、アエソンに虐待をくわえていた。→(6)
(34)イアソン。
(35)ヘカテ。→巻六注(46)
(36)ローマの月神、ギリシア名はセレネ〔巻四(36)〕。古代人は、月蝕のとき、これを怖れてどらや太鼓を鳴らして、魔祓いをした。
(37)南イタリアのブルッティウム地方〔巻十五(3)〕の西海岸にある町、銅坑が多かった。
(38)太陽神ソルの車。→(24)
(39)→巻二(15)
(40)焔がもえるように星があかるく輝くことは、瑞兆と考えられた。
(41)テッサリアのペネウス河〔巻一(83)〕の美しい渓谷、オリュムプスとオッサ〔巻一(30)(32)〕とのあいだにある。
(42)テッサリアの町。
(43)→巻一(31)、巻二(44)、巻一(100)
(44)→巻一(105)
(45)→巻一(106)
(46)→巻一(104)
(47)→巻一(103)
(48)テッサリアの町、またそこにある湖。
(49)ボエオティアの東岸にある大きな島(現今のエヴィア島)
(50)エウボエア島にむかいあった、ボエオティアの港町。
(51)アンテドンの漁夫グラウクス(同市の建設者アンテドンの息子)が海岸にはえている草をたべたら、たちまち不死になり、予言の能力が生じ、海にとびこんで海神になったという。漁夫たちのあいだで崇拝された。→巻十三(195)および九〇六行以下、巻十四の一行以下。
(52)ユウェンタスともいわれ、本来はローマの成年男子の守護女神であったが、ギリシアのヘベと同一視され、青春(の美)の女神とされた。ユピテルとユノとの愛娘で、ふたりの身のまわりの世話をし、饗宴のときは神々の杯にネクタル(神酒)をつぐ。のちヘルクレスが天上に召されて神となったとき、その妻になったとされている。→巻九(59)
(53)黒い犠牲獣は、冥界の神々にささげられる〔巻五(82)〕。また、冥界の神々に犠牲をささげるときは、祭壇を設けないで、地面に溝を掘り、酒や犠牲獣の血をそそぐ。
(54)プルトとプロセルピナ。
(55)→(20)
(56)人間に化けることができるといわれる伝説上の狼。
(57)→巻五(18)
(58)一世代は、三十年である。
(59)バックス神のこと。→巻三(67)
(60)幼児バックスを育てたニュサ山の妖精たち、ヒュアデスのこと〔巻三(46)〕。かの女たちは、星の仲間に加えられ、ヒアデス星団となったが、この星群は、若々しい、うるんだ光をはなっている。
(61)メデア。
(62)→巻二(73)。ここでは、コルキスの意、その女とはメデアをいう。
(63)海神ネプトゥヌスとチュロとの子、ネレウスの双生の兄弟、アエソンの異父兄弟(33)。四人の娘たちがあった。また、アカストゥス〔巻八(66)〕の父。
(64)イベリア(あるいはスペイン)のことであるが、ここでは「西方」の意。この一文は、「それから三日後に」の意。ポエブスは太陽神のこと。
(65)メデア。→(10)
(66)ケンタウルス(半人半馬族)の賢者キロン〔巻二(133)〕の母、オケアヌスの娘。馬の姿になったサトゥルヌスと交わってキロンをうんだが〔巻六(42)〕、息子の姿を恥じて菩提樹になったという(ピリュラは、菩提樹の意)。キロンとともにペリオン山に住んでいた。
(67)オトリュス山〔巻二(44)〕にいた羊飼い。デウカリオンの大洪水(巻一の二五三行以下)のとき、山中に逃げこんだが、平常かれと仲のよかった妖精たちから翼をあたえられて、ケラムビュクス(くわがた虫)に変身したという。
(68)小アジアの西北海岸のアエオリス地方の町。その付近(たぶん近くのレスボス島)に大蛇の形をした大岩があったという。
(69)→巻四(61)。「リベルがその息子」云々の物語は、作者の創作か。リベル(バックス)神の息子テュオネウスがプリュギアの牧人たちから一頭の牡牛をぬすんできたとき、バックスは追手の眼をごまかすために、テュオネウスを猟師の姿に、牡牛を牡鹿に変えた、という古注があるが、テュオネウスはバックスの異名であって〔巻四(6)〕、この古注の信頼性は疑わしい。
(70)トロイアの王子パリス〔巻一二(4)〕とその最初の妻オエノネ(イダ山中の妖精)との息子。父にまさる美貌の持主で、父の後妻ヘレナ〔トロイア戦争の因となった絶世の美女、巻六(25)〕に愛されたため、父に殺された。父パリスは、トロイア戦争で負傷し、イダ山中のオエノネのもとに帰ったが、オエノネに治療をこばまれ、トロイアへ帰る途中で死んだ。
(71)犬に変身したある婦人。それ以上のことは知られていない。
(72)アエガエウム(エーゲ)海のコス島の王、ネプトゥヌスの子。ヘルクレスがこの島に上陸しようとしたとき、海賊とまちがえてこれを拒んだので、ヘルクレスに殺された。この島の女たちは、ウェヌスより美しいとうぬぼれたために、牝牛に変えられたという。
(73)→巻四(40)
(74)海神ネプトゥヌス。
(75)ロドス島に住み、種々の術に長じていたといわれる一族、ポントゥス〔巻一(37)〕と大地ガエアとの子供たちとされ、半人半魚あるいは半人半蛇の姿で想像された。とくに冶金術にすぐれ、雨や雪を降らせる力をもち、その視線は相手を殺傷したが、その邪悪な妖術のためにユピテルの雷電に打たれて(または、アポロの矢に射られて)ほろぼされた。
(76)ロドス島の古い町。
(77)ケア(または、ケオス)島の人。その娘クテシュラに求愛したアテナエの青年ヘルモカレスに娘をあたえると約束したが、約をやぶって別の男に娘をあたえた。ヘルモカレスは、力ずくでクテシュラをうばった。かの女は、最初の子供をうんだときに、父の偽誓の罪のために死ぬ。その遺体を埋葬しようとしたとき、遺体から一羽の鳩がとびたち、遺体は消えてしまったという。
(78)アエトリアの町、またその近くの湖。もとは妖精であって(妖精としてはテュリエとよばれるのが普通であるが、おそらくヒュリエを訛ったものであろう)、アポロに愛されてキュクヌスの母となったが、息子が死んだものとおもい、悲しみのあまり湖と化した。なお、キュクヌス(白鳥の意)には同名異人が多く、このキュクヌスは、巻二(94〕のそれとは別人。
(79)→(41)
(80)美少年の猟人キュクヌスを愛したボエオティアの男。愛の条件としてキュクヌスから三つの難題を課せられた。
(81)オピウスについては、不明(オピス河、またはその河神のことか)。普通には、コムベはアソプス河神〔巻六(29)〕の娘とされる。かの女は、クレスたち〔巻四(57)〕の母といわれるが、『イリアス』ではアエトリアのクレス人(カリュドン人の敵)の母としてあらわれる。自分の息子たちに殺された鳥(たぶん鳩)になったという話は、他に典拠がない。
(82)アエトリアの町。
(83)アルゴリスの海岸近くにある島。この島は、最初ラトナ〔巻一(125)〕のものであったが、のちネプトゥヌスのものになり、かわりにラトナはデロス島をあたえられたともいう。ある王と妃との物語は、不明。
(84)アルカディアの人メネプロン(あるいは、メノプロス)は、その母ブリアスおよび娘キュレネと同衾したという。キュレネ山については、→巻二(169)
(85)→巻一(75)。その孫たちの転身は、おそらく作者の創作。
(86)テバエに住む熱心なアポロ信者。ある日アポロに犠牲の小羊をささげたとき、息子のボトレスがまだ小羊を祭壇にそなえないうちからその肉を食べてしまったので、かれは息子を打った。が、打ちどころが悪くて死にそうになったので、アポロはボトレスを虻《あぶ》に変えてやったという。
(87)→巻二(59)(60)
(88)この伝説は、他に典拠がない。
(89)この物語には、出てこないが、イアソンは、しばらくコリントゥスでメデアとともに暮らし、メルメルスおよびペレスという二子の父となったが、やがてメデアがいやになり、これを棄てて、コリントゥスの王クレオンの娘グラウケ(あるいは、クレウサともいう)と再婚しようとした。メデアは、毒をぬった衣裳と冠を贈り、花嫁がこれを身につけると火を発し、その火で恋仇とその父を殺し、宮殿を焼きはらい、さらにふたりのわが子をも殺し、イアソンに復讐した。
(90)太陽神ソル(メデアの祖父)→(24)
(91)パラス・アテナ(ミネルウァ)女神の町アテナエの城壁。
(92)アッティカ(アテナエ)の非常に古い伝説上の王で、ケクロプス〔巻二(121)〕より以前の人だといわれる。非常にきびしい正義の人で、敬神の念にあつく、とくにアポロを崇拝した。かれをけむたく思ったユピテルは、雷電で打ち殺そうとしたが、アポロのとりなしで妻ペネとともに鳥に変身させられ、その敬神のゆえに鳥類の王である鷲になった。
(93)プロクルステス(108)の別名。おなじく有名な盗賊スキロン(113)の父。スキロンは、娘アルキュオネの不身持を怒り、海に投げこんだら、アルキュオネはかわせみに変身した。ただし、スキロンをポリュペモンの子とするのは、後代の俗説らしい。
(94)アテナエの王、パンディオン二世〔巻六(100)〕の息子、テセウスの父。
(95)アエゲウスがトロエゼンのピッテウス王〔巻六(96)〕のもとに客となったとき、王の娘アエトラと床をともにしてうませた子、のちアッティカの国民的英雄となる。アエゲウスはトロエゼンを去るとき、剣と鞋を大きな岩の下にかくし、うまれた子供がこの岩をもちあげられる年頃になったら、このふたつの記念の品をもたせて自分のところへよこすようにと、アエトラに言いのこしておいた。いまテセウスは、岩をもちあげられる年齢になったので、形見の品をたずさえてアテナエに来たのである。
(96)コリントゥスの地峡地帯。テセウスは、この地を荒らしていた盗賊どもを退治した。この最初の功労をたてたのは、かれが十六歳のときであった。
(97)→巻一(13)
(98)→巻四(98)その飼犬とは、エキドナがうんだケルベルス〔巻四(86)〕のこと。
(99)ポントゥス(小アジアの黒海沿岸地方)のヘラクレア市の近くにあって、下界への入口と考えられていた洞穴。一説によると、ラコニアのタエナルスの洞窟のことだともいう。→巻十(8)
(100)ヘルクレスのこと〔巻六(27)〕。ケルベルスを地上につれだす仕事は、ヘルクレスのいわゆる十二功業の最後のものである。→巻九(37)
(101)ギリシア語のakone(かたい石、とくに砥石をいう)から来ていて、土のない石の上にはえる草の意(日本では、とりかぶととよばれ、きつねのぼたん科の一種)。
(102)メデアは、アエゲウスとのあいだにうまれた子メデゥスをつれてアジアに帰り、王位を横領していた叔父ペルセス〔巻四(30)〕を殺し、父アエエテスのために王国を回復してやった。
(103)アテナエの市民たちのこと。エレクテウスは、アテナエの古い王。→巻六(124)
(104)クレタ島から来た猛牛がマラトン(アッティカの一地方)の野を荒らしていたので、テセウスはこれを退治して、アポロ神にささげた。この牡牛は、ヘルクレスがクレタ島からつれてきて放った牛と同一視される〔十二功業のひとつ、巻九(38)〕
(105)メガラとコリントゥスとのあいだにある部落。パエアとよばれる牝猪〔テュポエウスとエキドナとの子、巻四(98)〕のために苦しめられていたので、テセウスが退治した(トロエゼンからアテナエへ出てくる途中で)。
(106)火神ウゥルカヌスの子といわれる兇悪な追剥ペリペテスのこと。父とおなじく脚がわるかったので、鉄(または青銅)の棒を持ち歩き、これで通行人を殺した。エピダウルス〔巻三(38)〕に住んでいたが、ペルセウスに殺された。
(107)→巻一(75)
(108)メガラからアテナエへの道中に住んでいた有名な野盗、ネプトゥヌスの子といわれ、ポリュペモン(93)、ダマステス、プロコプタスなどの異名をもっていた。旅人をとらえて、自分の寝台にむりやりねかせ、手足が寝台からはみだすと、それを切りおとし、寝台より身長が短かすぎると、むりに引きのばして、人びとを苦しめていた。
(109)→巻五(106)
(110)エレウシスにいた有名な怪力男。エレウシスとメガラとのあいだの道中で(この場所は、のち「ケルキュオンの土俵」とよばれた)通行人に相撲を強い、これを殺した。
(111)イストムス(96)にいた追剥。二本の松をまげ合わせ、その梢に旅人をしばりつけ、手を放して八つ裂きにした。おなじ方法でテセウスに殺された。
(112)メガラの古い王、ネプトゥヌスとリビュア〔巻一(135)〕との子、したがってアゲノル〔巻三(2)〕の兄弟、エジプトから移住してメガラの王となったという。アルカトエは、メガラ市の城壁の名、またメガラの古名〔その由来については、→巻八(8)〕
(113)メガラとコリントゥスとのあいだにいた追剥。普通には、ペロプス〔巻六(85)〕あるいはネプトゥヌスの子とされる(93)。メガラの海岸にある岩(スキロンの岩)に陣どり、旅人に自分の足を洗わせた後、これを海に蹴おとして、大亀に食わせていた。
(114)クレタ島の名君、ユピテルが白い牡牛に化けてクレタ島へ誘拐したエウロパにうませた子〔巻二(174)および八三三行以下〕、ラダマントゥス〔巻九(97)〕およびサルベドン〔巻十三(73)〕の兄弟。法を制定し、善政をほどこし、死後ラダマントゥスとともに冥界の裁判官になった。妻パシパエ〔巻四(30)〕とのあいだに多くの子供があった。
(115)ミノス王とパシパエとの息子。スポーツの名手で、アテナエでおこなわれた競技会で勝利をひとり占めにしたため、アテナエ人たちにねたまれ、殺された。
(116)以下は、いずれもクレタ島の近くにある、アエガエウム海の島々。
(117)黄金に眼がくらんで祖国をミノス王に売ったため烏になった女(烏は、よくその巣に光るものを運びこむといわれる)。しかし、この物語は他に典拠がない。シプノスは、金・銀の産出によって最も裕福な島であった。
(118)クレタ島の都、ここではミノス王をさす。
(119)ユピテルとアエギナ(アソプス河神の娘)との息子〔巻六(29)〕、アエギナ島の王。ギリシアの英雄のなかで最も敬虔な人といわれ、死後も冥界の裁判官となった。妻エンデイス〔スキロンの娘、(113)〕とのあいだにテラモン〔巻八(72)〕およびペレウス〔同(73)〕の二子を得たが、前者は大アヤクス〔巻十二(130)〕の、後者はアキレス〔巻一二(23)〕の父である。
(120)アエアクス王とプサマテ〔ネレイデスのひとり、巻一(62)〕との息子、のち異母兄弟のテラモンおよびペレウスに殺された。→巻十一(57)
(121)アエアクスのこと。→巻六(29)
(122)→巻二(121)。その民とは、アテナエ人のこと。
(123)ポキス王デイオン〔アエオルスとエナレテとの子、巻四(93)〕の息子、アテナエ王エレクテウス〔巻六(124)〕の娘プロクリスの良人(詳しくは六九〇行以下を参照)。アエアクスに援軍を乞うために、アテナエから派遣されてきたのである。
(124)ケパルスは、若いころ曙光の女神アウロラ〔巻二(15)〕に愛され、しばらく同棲していた(七〇〇行以下)
(125)これは、平和のしるしとして羊毛をまいた橄欖樹の小枝である。→巻十一(61)
(126)このパラスは、女神のパラス・アテナ(ミネルウァ)ではなく、パンディオン二世〔巻六(100)〕の末子で、アエゲウスの弟。かれには五十人の息子があり、パランディダエ(単数パランティデス)という。アエゲウスには子がないと信じられていて、かれらは王位を継承できると考えていたところへ、トロエゼンからテセウスがあらわれ、アエゲウスの実子と認知されたので、かれらは争いを起し、テセウスに殺される。
(127)ギリシアのこと。→巻三(63)
(128)アエギナは、ユピテルの愛をうけてアエアクスをうんだから〔巻六(29)〕、ユノの恋仇にあたる。その名でよばれている国とは、アエギナ(オエノピア)島のこと。
(129)ペスト。
(130)ゼウス・パンヘレニオス(すべてのギリシア人のための神、の意)とよばれる神殿で、アエギナ島の最も高い山の上にアエアクスが建てたといわれ、ながく、その遺跡が残っていた。
(131)犠牲をささげるときは、その動物にまぜもののない酒をふりかけた。
(132)犠牲獣のながす血がすくないと、不吉の兆と見なされた。また、犠牲獣の内臓の状態によって吉凶を判じた。→巻十五(108)(168)
(133)エピルスの奥地にある町。そこに有名な、ユピテルの神託をあたえるという樫の木があった。その葉のさやぎによって神意が判じられると信じられていた。樫は、ユピテルの聖木である。
(134)蟻の民、の意。ギリシア語のmyrmex(蟻)から来ている。テッサリアにもこの名でよばれる種族(ミュルミドン人)がいて、アキレスにしたがってトロイア戦争に参加したことになっているが、両者の関係は不明。
(135)前出クリュトゥスとブテス。→(126)
(136)アエアクスの三人の息子たちのひとり。→(120)
(137)→(122)
(138)槍柄には、とねりこ、ミルテ、みずきなどを使うのが普通であった。
(139)アッティカ(アテナエがその首都)のこと。その兄弟とは、クリュトゥスとブテスをさす。
(140)→巻一(37)。ポクスはネレウスの娘たち(ネレイデス)のひとりであるプサマテを母としているから(120)、ネレウスの孫にあたる。
(141)ポクスの母プサマテは、海神ネレウスの娘で海の妖精であるが、ネレイデスはしばしば海の女神ともよばれる。
(142)アテナエ王エレクテウス〔巻六(124)〕の娘で、ケパルスの妻プロクリスの姉妹。北風神ボレアスにさらわれて、ボレアダエ〔巻六(131)〕の母となる(巻六の六七五行以下)。
(143)→巻一(84)
(144)→巻二(15)
(145)アテナエの近くにある、アッティカの山。
(146)→巻二(19)
(147)プロクリス。
(148)→巻一(87)。その仕事とは、狩猟をいう。
(149)ディアナ女神。→巻二(104)
(150)(150)別の伝承によると、プロクリスは黄金の冠とひきかえにプテレオンという男と密通し、それをケパルスに見つけられたので、ミノス王のもとに逃げて、さらにミノス王と情交し、そのときの贈物としてこの犬と槍とをもらったといわれる。
(151)犬。
(152)テバエの王。父ラブダクスの死後、ライウスが幼かったので、ニュクテウス〔巻六(26)〕の兄弟リュクスが摂政となったが、アムピオンとゼトウスに殺され、王国をうばわれた。ライウスは、ペロプスのもとに亡命したが、ペロプスの息子クリュシップスに恋をして誘拐した。クリュシップスはこれを恥じて自殺したので、ペロプスは怒ってライウスを呪った。これが「テバエ王家の呪い」で、ソポクレスの『オイディプス』などによって知られるテバエ王家悲劇の発端である。すなわち、ライウスは、男の子をつくれば、その子は父親殺しになり、一家の破滅の因になるであろうというアポロの神託を無視して妻と交わり、男子が誕生する。そして、のちこの息子に殺される。この息子がオエディプスである。
(153)スピンクス(スフィンクス)のこと。テュポエウスとエキドナとの娘とされ〔巻三(42)〕、上体は乙女で、翼のある獅子の胴体をもった怪物。本来はエジプトで発祥し、魔除けとして楯や墓につけられていた。ユノ女神によってアエティオピアからテバエに送りこまれ、そこの丘に坐し、「朝は四本足、昼は二本足、夕方には三本足で歩くものは何か」という謎を人びとにかけ、答えられない者を食い殺した。オエディプスにこの謎をとかれ、身を投じて死んだ。なお、テバエの市民は、謎好きで有名であった。
(154)→巻一(70)
(155)→巻一(65)
(156)テウメッスス山中に棲む牝狐。この狐は、何者にも追いつかれないと運命によって定められていた。
(157)投石器からは、まるい石や鉛の弾丸が発射された。
(158)クレタ島の町。一般にクレタ人は、弓の名人として知られていた。
(159)風の意。以下の歌は、聞きようによっては、愛人に語りかけているようにもとれる。
(160)投槍。この槍は、ひとりでに持主のところへ帰ってくるはずであって、ここの記述と矛盾する。
(161)古代では、近親の者が死者の最期の息を口で吸いとってやるのが習慣であった。
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巻八
一 ニススと祖国を裏切ったスキュラ
ルキフェル(1)が帳《とばり》をかかげて朝の光をとおし、夜を追いはらってしまうと、東風はおさまり、雨気をふくんだ雲が空にのぼり、なごやかな南風は、帰国するケパルスとアエアクス(2)の兵士たちとのために海路をひらいた。一行は、この風に助けられて、予定よりも早くめざす港に無事到着した。一方、ミノス王(3)は、レレゲス人たち(4)の住む沿岸をあらし、いまやニスス(5)の統治するアルカトエ(6)の町にたいして一戦をこころみていた。この都の王ニススは、その額《ひたい》のまんなかあたりに威厳のある白髪にまじって一本の緋色にかがやく毛髪をもっていたが、これこそかれの強大な統治権を保証するものであった。〔一〜一〇〕
新月は、その角《つの》をすでに六度もあらためたが、勝運はまだどちらのものともわからなかった。ウィクトリア(7)は、その定まらぬ翼をひろげて、ながらく両者のあいだをとびまわっていた。〔一一〜一三〕
むかしラトナ(8)の子が、黄金の竪琴をおいたとつたえられている、妙なる音を発する城壁のところに、王の建てた塔がそびえていた。妙なる響きは、そこの石に残っているのであった。まだ平和がつづいていたころ、ニススの娘(9)は、よくこの塔にのぼって、小石をその妙音のする切り石に投げつけては鳴らしていた。戦争になってからも、しばしばこの塔の上からはげしいマルス(10)の戦いを望見するのがつねであった。そして、戦争がながびくにつれて、敵の将軍たちの名前や、その武器、乗馬、装束、さらにかれらの帯びているキュドニア(11)の箙《えびら》などをおぼえてしまった。とりわけ、敵の総大将であるエウロパの息子(12)の顔をおぼえた、いや、必要以上にくわしくおぼえてしまった。
かの女の判断によると、ミノスがその頭に羽根飾りのついた冑《かぶと》をかぶると、その甲冑姿がじつに美しかった。また、金いろにかがやく楯を手にとると、楯をとった姿がじつによく似合った。ミノス王が腕をやおらうしろに引き、よくしなう投槍をふりまわすと、乙女は、その力と技とのみごとな一致をほめたたえた。さらに、かれが矢をつがえて弓をいっぱいに引きしぼると、ポエブス(13)が弓を手にして立っている姿とすこしも異ならない、と断言した。しかし、かれが冑をぬいで、顔をまるだしにし、緋衣を着て、縫いとりのある馬具にかざられた白馬の背にまたがり、泡をふくその轡《くつわ》を御していると、ニススの娘は、あやうく我をわすれ、分別をうしないそうになった。
かの女は、ミノスがふれる槍を幸福者だといい、かれが手にする手綱を果報者だとよんだ。もしゆるされるなら、乙女の身を敵軍のまっただなかにはこんでいきたいと願った。この塔のてっぺんからグノスス(14)の兵士たちの陣中にとびおりるか、でなければ、いっそのこと敵に青銅の城門をあけてやるか、そのほかミノスの要求するものをことごとくかなえてやりたいとおもった。そして、こんなふうに腰をかけて、ディクテ(15)の王の真白い天幕をながめやりながら、ひとり言をいった。
「たくさんの涙をながさせるこの戦争をよろこんでいいのか、それとも、悲しむべきなのか、わたしにはわからない。ミノスがかれを愛するわたしの敵であることは、ほんとうに悲しいことだわ。でも、もし戦争がなかったら、わたしはかれを知ることはなかったにちがいない。しかし、あの人は、わたしを人質にして、武器をおさめることもできるはずだし、わたしを伴侶にし、平和の担保にすることもできるはずだわ。おお、世界じゅうで最も美しい人よ、あなたの母上(16)もあなたにおとらず美しいひとであったとすれば、神さまが胸をお燃やしになったのも当然のことです。ああ、もしわたしに翼があって、空をよぎり、グノススの王の陣屋に舞いおり、わたしという者がいることをわからせ、愛をうちあけることができたら、また、わたしにどれほどの婚資を要求するかを知ることができたら、ほんとうにわたしは三倍も幸福になれるのだけど。ただ、父の城を要求されることだけは、こまるわ。祖国を裏切ることによって自分の願いを叶えるくらいなら、いっそのこと望みの結婚なんかすててしまってもいい! もちろん、寛大な勝利者の温情が多くの人びとにとって敗北をかえって有利なものにすることがしばしばあるのだけど。殺されたわが子の仇を討とうというのだから(17)、あの人がおこしたこの戦争は、たしかに正当なものにちがいない。それだけの正当な理由があるのだし、また、その正当さをあくまでもまもる強大な兵力を擁しているのだから、鬼に金棒というものだわ。どう見たって、わたしたちの敗色は濃い。だけど、わたしたちの町が、どうしても敗戦の運命をまぬがれたいのであるならば、この町の城門をあの人にむかって開くのが、どうしてあの人の軍事力であって、わたしの愛の力であってはいけないのかしら。殺しあいをしたり、時間をかけたり、あの人の血をながしたりしないで勝利をおさめる方が、よほどいいのではないかしら。しかし、ミノス王よ、わたしは、味方のだれかがなにかのはずみであなたの胸を突きさしはすまいかなどと、心配しているのではありません。だって、死の槍をわざとあなたに投げつけるような残忍な人間がいるものでしょうか」
――この計画はかの女の気に入った。そして、わが身をかれにささげ、持参金としてこの国をひき渡し、それによって戦争を終結させようと決心をかためた。しかし、決心だけではなんにもならない。「哨兵が出入りを見はっているし、城門の鍵は、父がもっている。悲しいことに、わたしがこわいのは、父だけだわ。父だけが、わたしの望みの邪魔になる。ああ、いっそのこと、父なんかなければよかったのにとさえおもう。だけど、ほんとうは、だれにとっても、自分が自分の神さまなのだわ。運命は、臆病者の願いは聞きとどけてくれはしない。これがほかの娘だったら、こんなはげしい情熱にもやされれば、もうとっくに自分の恋路をさまたげるものをよろこんで犠牲にしているにちがいない。ほかの娘になぜわたし以上の勇気があるのだろうか。わたしにだって、炎や剣をふみこえていくぐらいの勇気はある。しかし、いまは、炎も剣もいらないわ。わたしに必要なのは、父のあの髪の毛だけだわ。あの緋色の髪の毛こそ、わたしには黄金よりも尊い。それは、きっとわたしを幸福にし、すべての願いをかなえてくれるにちがいない」〔一四〜八〇〕
かの女がこうひとり言をいっているあいだに、ひそかな胸の悩みをはぐくむ夜がおとずれてきた。大胆なこころは、闇のなかでしだいに大きくなっていった。ちょうど昼間の心労につかれたこころがぐっすりと眠りにおちいる寝入りばなの時刻であった。かの女は、こっそりと父の寝室にしのびこんだ。そして――おお、なんという大それたことであろう――父からその運命をにぎる髪の毛を切りとってしまった。この罪ぶかい獲物を手中におさめると、かの女は、それをもって大いそぎで邸をとびだし、城門をのりこえて、敵軍のまっただなかを通り(それほど自分が敵のためにしてやった行為に自信をもっていたのである)、ついに敵王のまえにすすみでた。そして、かの女の出現におどろいているミノス王にむかって、こういった。
「このような振舞いにいたりましたのも、恋ゆえでございます。わたしは、ニスス王の娘、スキュラと申しまして、いまこそわたしの町とわたしの家とが所有している全財産をあなたにささげます。わたしは、あなたご自身のほかにはなんの報酬ものぞみませぬ。どうか愛の証《あか》しとして、この緋色の髪の毛をお納めください。そして、わたしがいまここにさしあげますのは、たんに父の髪の毛一本だけではなく、同時に父の頭をもさしあげているのだとお考えください」そういって、右手で罪ぶかい贈物をさしだした。しかし、さすがのミノス王も、さしだされた贈物におもわず尻ごみをし、前代未聞の大罪だとおもうとすっかりこころがみだれてしまって、
「おお、われらの時代の恥さらしよ、神々がおまえをその世界から追いはらってしまわれるがよい。陸にも海にもおまえの身の置き所がなくなるがよい。すくなくともわしは、かのユピテル大神の揺籃《ようらん》の地(18)であり、わしの世界でもあるクレタ島におまえのような鬼畜のごとき女が足をふみ入れることを、とうてい許すわけにはまいらぬぞ」
こういって、ミノスは、降伏した敵どもに最も公正な立法者として種々の条件を申しわたしたのち、艦隊をつないでいる纜《ともづな》をといて、青銅を張りつけた艦船に漕ぎ手を配置するようにと命じた。〔八一〜一〇三〕
こうしてスキュラは、出航した敵の艦隊が海上を走りゆき、その総大将が自分の罪になんらむくいてくれなかったのを見てとると、切なる願いもこれまでとおもい、一転しておそろしい怒りにもえたち、両手をミノスの方につきだし、髪をふりみだして絶叫した。
「おお、祖国をも父をもすてて思いをかけた者よ、おまえは恩人を見すてて、どこへ逃げていくのだ。情《つれ》なき者よ、いずこへ遁《のが》れようとするのか。おまえの勝利は、わたしの罪とわたしの手柄であったものを! わたしの贈物も、わたしの愛も、おまえのこころを動かさなかったのか。わたしの想いのありったけをおまえひとりにかけたというのに、それをも無視したというのか。おまえにすてられたわたしは、いったい、どこへ帰っていけばよいのか。祖国へ帰れというのか。しかし、祖国は、すでに壊滅してしまった。かりにまだ残っているとしても、みずからの裏切りのために、わたしはもはや祖国の敷居をまたげない。父のもとへ帰れというのか。その父をおまえに売ったのは、このわたしではないか。祖国の民たちは、当然わたしをにくみ、隣国の民たちも、わたしのしめした悪しき先例をおそれている。世界じゅうでクレタだけはわたしに門戸を開いてくれるとおもったのに、かえって全世界から閉めだされてしまった。恩知らずの者よ、もしおまえがクレタをもこばみ、わたしをすてていくような男なら、おまえの母はあのエウロパではあるまい。あのおそろしいシュルティス(19)の浅瀬か、アルメニアの猛虎か、さもなければ、南風がまきおこすカリュブディス(20)が、おまえの母であろう。また、おまえは、ユピテルの子でもあるまい。おまえの母は、牡牛になったユピテルのかりそめの姿にたぶらかされたのではあるまい。おまえの出生についての言いつたえは、みんな嘘っぱちなのだ。おまえの父親は、牝牛にこころを動かしたりなどしない、それこそ本物の気ちがい牡牛だったにちがいあるまい。おお、わが父ニススよ、わたしを罰してください。おお、たったいまわたしが裏切った城壁よ、わたしの不幸をよろこぶがよい。そうだ、たしかに、わたしは、それだけの罰をうけてしかるべきだし、死にも値するのだ。だけど、不忠なわたしが傷つけた人びとのうちのだれかが、わたしを斬ってくれたらよい。だのに、わたしの罪のおかげで勝利をえたおまえが、どうしてわたしを罰しようとするのか。わたしが祖国と父にたいしておかした大罪こそ、おまえにとっては恩恵ではなかったのか。みだらにも木でこしらえた牝牛で猛牛をたぶらかし、胎内に畸形の子をやどした女(21)こそ、いかにもおまえに似合いの妻だわ。わたしの言葉がおまえの耳にとどいたかしら。それとも、恩知らずの者よ、おまえの船をはこんでいくおなじ風にさらわれて、甲斐なきわたしの怨み言はどこかに消えてしまっただろうか。いまにしておもうと、パシパエがおまえをきらって牡牛を愛したのも、すこしもふしぎではない。おまえは、牡牛よりもまだ残忍なのだから。ああ、不幸なわたし! あの男は、急げと四方に下知《げち》し、波は櫂《かい》に打たれて鳴りひびいている。わたしの国も、わたしも、しだいにおまえから遠のいていく。しかし、おまえの努力も、なんの役にもたつまい。わたしの手柄をわすれて逃げていっても、甲斐のないこと。おまえがいやがっても、わたしはおまえについていく。おまえの船のまがった艫《とも》にしがみついて、わたしはひろい海原をも曳かれていくのだ」
かの女は、こういうがはやいか、海中に身をおどらせて、みずからの情火に力をえて、船のあとを追いはじめた。そして、毛ぎらいされるのもかまわずにグノススの王の船にしっかりとしがみついた。〔一〇四〜一四四〕
かの女の父は、これを見ると(というのは、ニスス王は、このときすでに大空をとびまわり、褐色の翼をもつ一羽の鶚《みさご》と化していたのである)、船にすがりついているかの女をまがった嘴でもぎはなそうとしておそいかかってきた。かの女は、怖ろしさのあまりつい手を船からはなした。が、このとき一陣の軽い風が、海面に落下していくかの女のからだを支えたようにおもわれ、かの女は水にふれないですんだ。つまり、翼がそうさせたのである。翼がはえて鳥になったかの女は、キリス(22)とよばれている。この名前は、切りとられた髪の毛から来ている。〔一四五〜一五一〕
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二 迷路/アリアドネの冠
こうして、ミノスは、船から下りて、クレタの島に上陸するやいなや、ただちにユピテル神に誓約の百頭の牡牛(23)を犠牲としてささげた。王宮は、かけめぐらした分捕り品でかざられた。〔一五二〜一五四〕
しかし、かれの一家の汚名は、大きくなり、人とも牛ともつかぬ二様の姿をもった異形《いぎょう》の怪物(24)のために、その母のみにくい不義が露見した。そこで、ミノスは、この恥さらしを王宮から遠ざけて、多くのまがりくねった通路のある暗い建物のなかにとじこめてしまおうと決心した。建築術の巧みなことでひろく知られたダエダルス(25)という男が、この仕事をひきうけた。かれは、道の目じるしをでたらめにし、数多くの迂路や屈曲によって人びとの眼をくらませた。ちょうどプリュギアの野にマエアンドルス(26)のきよらかな流れがたわむれ、定まらぬ川筋のままに右に流れたかとおもうと左に流れ、あるいは渦をまいて停滞するかとおもうと、また源流にさかのぼったり、大海原にむかって行方しれぬ波をさだめなくただよわせたりするのとおなじように、ダエダルスは数しれぬ迷路を方々に入りこませた。かれ自身でさえ、出口にもどってくるのは、なみたいていのことではなかった。それほど、この建物はわかりにくかった(27)。〔一五五〜一六八〕
ミノスは、牛と若者との二様の姿にうまれついた怪物を、この建物のなかにとじこめ、すでに二度アテナエ人の血をすすらせたが(28)、九年目ごとに送ってこられる三度目の人身御供がついに怪物を退治してしまった。そして、乙女(29)の助けによって繰りのべた糸のあとをたどり、これまでだれも見つけられなかったわかりにくい出口に帰りつくやいなや、アエゲウスの息子(30)は、すぐさまこのミノス王の娘をつれて逃げだし、ディア島(31)にむかったが、無情にもその島の浜辺に乙女を置きざりにした。ひとり残された乙女は、大声をあげてなげき悲しんだが、やがてバックス神に愛されて助けだされた。バックスは、かの女の上に不滅の星のかがやきをあたえようとして、かの女の頭から冠(32)をとり、天空に投げあげた。すると、冠は、稀薄な空気のなかを翔けのぼり、とんでいるうちにそこにちりばめられた多くの宝石がきらめく星となった(33)。そして、ひざまずく星座(34)と大蛇をつかむ星座(35)とのあいだに定着し、いまも冠のかたちをしている。〔一六九〜一八二〕
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三 空中を飛行するダエダルスとイカルス
こうしているあいだにダエダルス(36)は、クレタの島にもながい流竄《るざん》の生活にも倦《う》みあき、望郷の念やみがたくおもったが、大海がかれを閉じこめていた。そこで、かれは、こういった。「ミノスがいかに陸と海とをかためても、空だけは開かれている。わしがのがれるのは、この道だ。いかにミノスがあらゆるものの支配者であっても、空だけは支配できない」〔一八三〜一八七〕
こういって、ダエダルスは、これまで知られなかった新しい技術を考案し、自然の法則をたくみに改変してしまった。すなわち、鳥の羽を、ごくみじかいのからはじめて、つぎつぎにすこしずつ長いのをそろえていって、全体がななめに坂になるように一列にならべた。ちょうど牧笛の長さの異なった管が短かいのからだんだんに長いものへとならんでいるのとおなじである。こうしてならべた羽を、中央の部分はより糸で縫いあわせ、つけ根の部分は蝋でかため、一枚の翼に仕上げると、ほんものの鳥の翼に似せて、それをかるく曲げた。息子のイカルスは、父のそばにいて、やがてわが身をほろぼすものをもてあそんでいるのだとはつゆ知らずに、嬉々としながら風にまいあがる羽毛をつかまえようとしたり、指で褐色の蝋をこねたりして、いろんないたずらによって父のすばらしい仕事の邪魔をしていた。このようにしてこの工匠《たくみ》は、最後の仕上げをおわると、からだを二枚の翼でささえて、はばたきながら空中にうかびあがった。ついで、息子にもおなじような翼をつくってやり、使い方を手ほどきしながら、
「いいか、イカルス、空の中程の道をとんでいくのだぞ。けっして牛飼いや大熊(37)やオリオン(38)の剣などに眼をむけるのでないぞ。わしのあとについてくるのだ」
こういって、息子に飛行の術を手ほどきし、その肩に新発明の翼をつけてやった。しかし、こうした作業をしたり、いろんな注意をあたえるうちにも、老人の頬は涙にぬれ、父の手はふるえた。かれは、二度とくりかえせなくなるはずの接吻を息子にあたえ、翼をはばたいて飛びたつと、おさないひなどりを高い巣から中空《なかぞら》へつれだした親鳥のように、自分が先になって飛び、あとにつづく息子に気をくばった。そして、自分のあとについてくるようにとはげまし、禍いのもとになる飛行の術をおしえ、みずからも翼をうごかしながら、息子の翼をふりかえるのだった。たまたま釣竿で魚をとっていた漁師や、杖をついていた牧人や、鋤に身をもたせかけていた農夫がこれを見て、あっけにとられ、空中を飛行することができるのだから神々にちがいないとおもった。はやユノの愛するサモス(39)が左手に見え(デロスとパロス(40)は、すでに後方にあった)、右手にはレビントゥスと蜜の豊富なカリュムネ(41)が横たわっていた。
このとき、少年は、自分の大胆な飛行がすっかり気に入りだして、先導の父のあとをついていかず、天空に近づきたい欲望にひかれてぐんぐん上昇していった。すると、はげしい熱をもった太陽に近づいたので、たちまち翼をとめていた香りのたかい蝋がやわらかくなって、やがてとけてしまった。かれは、裸になった腕をなおもばたばたさせたが、翼をもがれてしまっては、もはや空気をつかむことはできない。父の名前をよんだかれの口は、蒼々とした海にのまれてしまった。この海は、かれにちなんだ名前をあたえられた(42)。〔一八八〜二三〇〕
しかし、息子をうしなってもはや父でなくなった不幸な父親は、「イカルスよ、イカルスよ、どこにいるのだ。どこをさがせばよいのだ」とさけんだ。いつまでも「イカルスよ」とよびつづけていると、海上に翼が見つかった。かれは、おのれの技術をのろい、亡骸《なきがら》を墓におさめた。そして、その地は、葬られた者の名前にちなんでよばれるようになった(43)。〔二三一〜二三五〕
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四 鷓鴣《しゃこ》になったペルディクス
ダエダルスが不幸な息子の亡骸を葬っていたとき、一羽のお喋りな鷓鴣《しゃこ》が泥だらけの溝のなかからこれを見つけ、翼をばたつかせてはやしたて、その鳴き声によって自分のよろこびをあらわした。そのころ、鷓鴣といえば、この鳥一羽しかなく、それ以前には見られなかった。というのは、この鳥は、ごく最近この姿になったのであって、ダエダルスよ、これはおまえにとって末ながく非難をうけるもとになる出来事であったのだ。すなわち、ダエダルスの妹は、運命のさだめを知るよしもなく、十二歳の春をむかえた息子(44)の教育を兄にまかせた。この少年は、教育をうけるに適した資質をもっていたからである。少年は、魚の体内にある背骨を見て、これを手本にして、するどい鉄板にぎざぎざの歯の列をきざんで、鋸《のこぎり》を発明した。また、二本の鉄の棒の一端をむすびあわせ、それらをつねにおなじ間隔にひらいたまま、一本をひとつの場所に固定し、他の一本で円をえがくことを考えだしたのも、かれである。ダエダルスは、弟子の天分をねたましくおもい、かれをミネルウァ(45)の聖なる城砦の上から突きおとし、あやまって落ちたのだと嘘の噂をいいふらした。しかし、天才を守りたまうパラス女神は、少年を抱きとめて、かれを鳥のすがたに変え、空中にうかんだままで、その身体を羽毛でおおわれたのである。かれのするどい知力は、そのままかれの翼と脚にながれた。名前も、もとのままであった。けれども、この鳥は、けっして高くは飛ばないし、巣も梢や高い崖の上にはつくらない。地上近くをひらひらと飛びまわっては、生垣のあいだに卵をうむ。むかし高いところから落ちたことをおぼえていて、高いところをおそれているのである。〔二三六〜二五九〕
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五 カリュドンの野猪《やと》
疲れたダエダルスは、アエトナの国(46)に来てとどまった。この国の王コカルス(47)は、嘆願するかれを守るために武器をとり、かれに厚情をしめした。一方、このころ、アテナエの人びとは、テセウスのかがやかしい武勲のおかげで、いたましい貢物《みつぎもの》(48)を、ささげなくてもすむようになった。人びとは、神殿に花環をかざり、戦いの女神ミネルウァやユピテルやその他の神々に詣《もう》で、誓約をまもって犠牲の血をながし、供物をそなえ、たくさんの香をささげて感謝の意をあらわした。世界をさまよい歩くファマ(50)は、テセウスの名声をアルゴリス(51)の町々にひろめた。そこで、豊饒なアカイア(52)の地に住む人びとは、ゆゆしい危険におちいると、かれの助けをもとめた。カリュドン(53)の町もまた、メレアグロス(54)がいたけれども、ほとほと困りぬいたあげく、辞をひくくしてテセウスに援助をもとめてきた。このように救いをもとめる原因は、怒れるディアナ女神の召使いで復讐の下手人である一匹の野猪であった。〔二六〇〜二七二〕
それは、こういう話である。ある年、この国の王オエネウス(55)は、豊作を祝い、ケレスに穀物の初穂を、リュアエウス(56)にはぶどう酒を、金髪のミネルウァには橄欖の油をささげた。さらに、田野の神々をはじめ、あらゆる神々がそれぞれの切望している尊崇のしるしを受けたのに、ディアナだけはわすれられて、その祭壇には一握の香もなく、なんの供物もなかったといわれる。いかに神々でも、こういうことは頭にくるものである。「これは、だまって見のがすことはできない。冒涜《ぼうとく》をうけたといわれるのは仕方ないとしても、それに復讐をすることもできなかったなどとはいわれたくない」こうさけぶと、冒涜された女神は、オエネウスの田畑に一匹の巨大な野猪をはなった。
その大きさは、牧草の多いエピルス(57)の野にもこれより大きい牡牛はなく、シキリアの野の牛もこれよりずっと小さいとおもわれるほどであった。眼は、血ばしってらんらんと輝き、首は、かたくて盛りあがり、剛毛は、かたい槍の切先のように逆《さか》だっている。しわがれた声でうなるときは、煮えかえるような泡がたくましい肩のあたりにとびちる。その牙は、インドに棲む象の牙にも似て、口からは電光がほとばしり、吐く息は、草木の葉を焼きつくす。そして、萌えでた麦を青葉のままふみにじったり、農夫たちの嘆きを尻目にみのった麦を喰いあらしたり、あるいは、穂を出したケレスの恵みである五穀を絶滅させたりした。麦打ち場も、穀物納屋も、そこに入れられるべき収穫をむなしく待つばかりである。さらに、重たげなぶどうの房を蔓もろとも押したおし、橄欖樹の果実をいつも青々としげった枝ごとふみにじった。それだけでなく、羊の群にたいしても暴力をふるった。牧人たちも犬どもも、羊の群をまもることができなかった。猛々《たけだけ》しい牡牛たちでさえ、牛の群をまもることができなかった。〔二七三〜二九七〕
町の周辺から住民たちが逃げてきたが、城壁のなかにいないかぎり、安心はできなかった。そこで、ついにメレアグロスと若者たちのえりぬきの一隊が、功名心にもえて集まった。すなわち、ひとりは拳闘に、ひとりは騎馬術に無双の技をほこるテュンダレウスの双生の息子たち(58)、船の創始者イアソン(59)、幸福な友情にむすばれていたピリトウス(60)とテセウス、テスティウス(61)のふたりの息子、アパレウスのふたりの息子リュンケウス(62)と俊足のイダス(63)、もはや女ではなくなったカエネウス(64)、勇猛なレウキップス(65)、投げ槍の名手として知られたアカストゥス(66)、ヒッポトウス(67)、ドリュアス(68)、アミュントル(69)の息子ポエニクス、アクトル(70)の双生児、エリスから来たピュレウス(71)、さらにまた、テラモン(72)、偉大なアキレスの父(73)、ペレス(74)の息子、ボエオティアのイオラウス(75)、元気者のエウリュティオン(76)、競走にかけてはだれにも負けたことのないエキオン(77)、ナリュクスのレレクス(78)、パノペウス(79)、ヒュレウス(80)、勇猛なヒッパスス(81)、当時まだ若かったネストル(82)、それにヒッポコオン(83)が古いアミュクラエの町から派遣した息子たち、さらにくわえて、ペネロペ(84)の舅《しゅうと》、パラシアのアンカエウス(85)、アムピュクスの炯眼の息子(86)、そのころはまだ妻に裏切られていなかったオエクレスの子(87)、最後にリュカエウス(88)の森の誇りであるテゲアの女丈夫(89)――これらが馳せ参じた面々であった。この女猟人は、みがいた止め金で衣服を胸もとで合わせ、髪にはなんの飾りもつけず、ひとつにたばねてあった(90)。左肩には、象牙でつくった箙《えびら》をかけ、矢ずれの音を立てていた。また、左手には一張りの弓をかかえていた。装束《いでたち》はこのようであったが、顔だちは、少年にしては乙女のようであり、乙女にしては少年のようであるといえるような顔だちであった。カリュドンの勇者(91)は、かの女をひと目見るやいなや、神(92)の許しもえないで、かの女をわがものにしたいとおもい、ひそかに胸の炎をもやした。そして、「この女の良人《おっと》になる者は、なんと幸福であろうか!」とこころのなかでさけんだが、場合が場合であったし、恥を知る気持もてつだって、それ以上は口にだすことができなかった。強敵を相手にしての大きな仕事を眼前にひかえていたからである。〔二九八〜三二八〕
幾百年来まだ斧ひとつ入ったことのない、巨木のしげった森が、平野のはずれからはじまり、山の斜面にある原野を見おろしている。勇者たちは、ここまで来ると、それぞれ網を張ったり、犬を綱から放ったり、足跡をたどって危険な怪物を捜しだそうとしたりした。この森のなかには、ふかく切れこんだ谷があって、ふだんは雨水でできた谷川がここへながれこんでいるのだが、この窪地のいちばん低いところには、しなやかな柳、かるやかな藻草、沼地にはえる藺草《いぐさ》、糸柳、丈《たけ》たかい葦のまわりにはえる小さな菅《すげ》などがしげっていた。野猪は、ここから追いたてられて、稲妻がひき裂かれた雲間から閃きでるように、敵のまんなかめがけて猛然と突っこんだ。その進むところ、森は蹂躙《じゅうりん》され、樹々はめりめりと音をたてて倒れた。若者たちは、喊声をあげ、勇敢な右手に太身《ふとみ》の鉄のかがやく槍先をかまえた。猪は、突進し、立ちむかってくる犬どもを怒りにまかせて蹴ちらし、吠えかかってくる犬どもを左右にはねのけていった。〔三二九〜三四四〕
まず、エキオンの腕から投げられた槍は、むなしくそれて、楓《かえで》の幹をかるく傷つけただけだった。第二の槍は、あまり力を入れすぎなかったならば、たしかに狙いさだめた猪の背につきささったであろうとおもわれた。しかし、これもはずれてしまった。これを投げたのは、パガサエ(93)のイアソンであった。そこで、アムピュクスの息子(94)は大声で、「おお、ポエブスよ、わたしが昔も今もかわらずにあなたを尊敬いたしておりますことに間違いございませんでしたら、どうかこの槍が狙いたがわず相手に命中いたしますように!」とさけんだ。すると、ポエブスは、その願いをできるかぎり聞きとどけてくれたので、槍はみごとに野猪にあたったけれど、傷を負わせることはできなかった。ディアナがとんでいく槍の穂先を引きぬいてしまったので(95)、先のない木の柄だけがあたったのである。このため、獣の怒りは、いっそうはげしくなり、稲妻よりもはげしくいきりたつ。炎が両眼からほとばしり、胸からも炎が吐きだされた。ひきしぼられた弦から発射された大石が城壁や兵士たちのたてこもった塔めがけて飛んでいくように、気おいたった野猪は、猛然と若い勇者たちめがけて飛びかかっていった。と見るまに、右翼をまもっていたエウパラムスとペラゴン(96)とを倒した。仲間の者たちは、倒れた者らを抱きおこして助けた。しかし、ヒッポコオンの子エナエシムス(97)は、致命の一撃をさけることができなかった。おそれおののいて、ふりむいて逃げようとしたところを、ひかがみを断ちきられて用をなさなくなってしまったのである。〔三四五〜三六四〕
ピュロスの英雄(98)も、かのトロイアの戦争がおこらぬうちに、あやうく殺されてしまうところであった。しかし、かれは、槍を地面にたてると、それを杖にして近くにあった大樹の枝にぱっと身をおどらせた。そして、高い安全な場所から、自分がのがれてきた敵の方を見おろした。すると、怒りくるった野猪は、樫の樹の幹に牙《きば》をこすりつけてから、またつぎの犠牲をつくりだそうと、しばらくのあいだ狙いをつけていたが、たちまちいま研《と》いだばかりの武器をたよりに、そりかえった牙をエウリュトゥスの音にきこえた息子(99)の腿に突きさした。一方、このころまだ天の星となっていず、どちらも見るからに美しい偉丈夫であったあの双生児の兄弟(100)は、ともに白い駿馬にまたがり、とがった槍を空中にふりまわして、わななくほどの震動をこめて投げた。もし剛毛におおわれた野猪が槍も馬も通れないような鬱蒼たる茂みににげこまなかったならば、きっとこの槍に傷つけられたことであろう。また、テラモンは、野猪のあとを追いかけていったが、走るのに夢中になりすぎたために樹の根に足をとられて、前のめりになって倒れてしまった。ペレウスがかれを抱きおこしているあいだに、テゲアの女傑(101)は、弦にすばやい矢をつがえると、きりりと引きしぼって放った。矢は、あやまたずに獣の耳の下にあたって、上皮をかるく傷つけ、数滴の血が剛毛を赤くそめた。それでも、かの女は、自分の矢が命中したことをよろこんだが、これを見たメレアグロスの喜びは、さらに大きかった。かれは、だれよりも先に流れる血潮を見つけ、それをまっさきに仲間の者たちにしめして、「でかしたぞ! きょうの第一の手柄は、あなたのものだ!」と、アタランタにむかって叫んだ。男たちは、赤面し、たがいにはげましあい、喊声をあげて勇みたち、めったやたらに槍を投げつけた。しかし、投げ手の多いことが邪魔になって、ひとつも目標にあたらなかった。〔三六五〜三九〇〕
すると、アルカディアの勇者(102)は、両刃《もろは》の斧をもち、すすんで死地におもむくかのように猛りたちながら、「若武者たちよ、男の武器がいかに女の武器にまさっているか、よく見るがよい。おれの腕にまかせてくれ。ラトナの娘(103)がその武器でいかに野猪をまもろうと、おれの右手は、ディアナの意思をふみにじって彼奴をたおしてみせるぞ!」こう豪語すると、両刃の斧を両手でもちあげ、爪先立ちをし、足音をしのばせるためにかかとを下ろさないで前進していった。しかし、野猪は、この向う見ずな攻撃者の機先を制し、急所である腿のつけ根の上部に二本の牙をぐさりと突きさした。アンカエウスは、たちまち昏倒し、臓腑は、塊りとなって多量の血とともにはみだし、あたり一面は血にそまった。こんどはイクシオンの子ピリトウスが、たくましい手に狩り槍をふりながら、敵にむかって直進していった。これを見ると、アエゲウスの子(104)は、こう叫びかけた。「おお、わが身よりも大切な友よ、わがたましいの一部よ、それ以上近よるな。離れていても、勇敢に戦うことはできるのだ。無謀な勇気のためにたおれたアンカエウスを見るがよい」こういうと、かれは、青銅の穂先をつけた、水木《みずき》の重い槍(105)をなげつけた。槍は、まっすぐに飛んで、みごと目標に達したかに見えたが、横倒しになった樹からのびている葉のついた大枝に邪魔されてしまった。そこで、アエソンの息子(106)も、槍を投げた。槍は的をはずれて、運わるく罪のない犬にあたり、その腹部をつらぬいて、地面に串刺しにした。〔三九一〜四一三〕
しかし、オエネウスの息子(107)の腕は、またちがった運命をになっていた。かれが投げた二本の槍のうち、最初のものは地面に突きささったが、二本目はみごとに野猪の背に命中したのである。野猪は、怒りくるい、ぐるぐる円をえがいて走りまわり、あえぎながら泡と鮮血をふきだしていたが、殊勲の投げ手は、すぐさまそばに走りよって、獣をますます猛りたたせて、正面からきらめく槍をぐさりとその肩に突きさした。仲間の者たちは、どっと歓声をあげてよろこびの気持をあらわし、駈けよって勝利者の手をにぎり、地面にながながとのびている巨大な獣を、いまさらのようにおどろきの眼をもってながめた。まだそれに手をふれるのは危険だとおもわれたが、それでも一同は、その血でめいめいの武器をぬらした。メレアグロスは、兇獣の頭を片足でふみつけながら、「おお、ノナクリス(108)の乙女よ、わたしの手におちたこの獲物を受けとり、この名誉をわたしとともにしてください!」そういうなり、自分の獲物の剛毛の密生した皮と太い牙のついた頭とを乙女にあたえた。この贈物とその贈り主は、乙女をいたくよろこばせた。しかし、ほかの連中は、これをねたんで、狩り仲間のあいだに不満のつぶやきがながれた。なかでもテスティウスのふたりの息子(109)は、腕をたかくあげて、大声でさけんだ。「乙女よ、そんなものはすぐにすててしまえ。おれたちがうけるべき名誉を横取りするのでないぞ。自分が美しいとうぬぼれすぎて損をするな。おまえに惚れてそれをくれた男なんか、おまえをまもってはくれないのだから!」こういってかれらは、乙女からその受けた贈物を、勝利者からは贈物をする権利をうばってしまった。マルスの子(110)は、だまっていることはできず、憤怒のあまり歯ぎしりしながら、「やあ、他人の名誉を横取りする泥棒ども、おどかしと実行がどれだけちがうものか、思い知るがよい」というなり、うっかりしていたプレクシップスの心臓めがけてむごたらしい刃《やいば》をふかく突きさした。トクセウスは、兄弟の仇を討ちたくもあり、しかしおなじ運命には会いたくもなし、どうしてよいかわからなかったが、メレアグロスは、かれをながくはためらわせておかなかった。最初の殺戮であたためられた武器を、その兄弟の血でふたたびあたためたのであった。〔四一四〜四四四〕
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六 メレアグロスの死
さて、アルタエア(111)は、わが子が勝利をえたことを感謝して神々の宮に供物をささげていたが、ちょうどそこへ自分のふたりの兄弟の屍体がはこびこまれてきたのを見たのであった。かの女は、われとわが胸を打ち、悲しみの声を町じゅうにひびかせ、金の縫いとりをした衣裳をぬいで、黒い喪服にあらためた。しかし、やがてその殺害者の名前がわかると、あらゆる悲しみは消えさり、涙より転じてひたすら復讐を願った。〔四四五〜四五〇〕
かつてこのテスティウスの娘が息子のメレアグロスをうんで産褥にあったとき、運命をつかさどる三人の女神(112)が、一本の薪を炉にくべて、拇指で運命の糸をつむぎながら、こういった。「おお、おさな子よ、われらは、この薪とおなじ寿命をおまえにあたえよう」女神たちがこのような予言をとなえて立ちさると、母親は、すぐさま燃えている薪を火中よりとりだし、水をかけて消してしまった。それ以来ずっとながいあいだ、この薪は、かの女の部屋の奥ふかくにしまってあった。若者よ、保存された薪は、おまえの生命をずっと保ってきたのだ。いま、母親は、この薪をとりだしてきて、粗朶《そだ》や松割木を積みかさねるように命じ、それにおそろしい火をつけた。それから、四度運命の薪を火に投じようとしたが、四度決しかねて思いとどまった。かの女の胸のなかでは、母としての自分と姉妹としての自分があらそい、このふたつがまったく正反対の方向にひとつのこころを引っぱったのである。自分がおかそうとしている罪の怖ろしさに顔色をうしなったかとおもうと、こみあげてくる怒りに眼の色がまっ赤になったりした。その顔つきは、残忍なおどかしの色を見せたかとおもうと、また慈愛の色になごむようにおもえることもあった。頬には、涙がかわいてしまったかとおもうと、また滝となってながれだすのであった。ちょうど一艘の舟が風と風に逆方向の浪とにおそわれ、同時にふたつの力に引っぱられ、さだめなくそのどちらにももてあそばれるように、テスティウスの娘は、ふたつの感情のあいだをたゆたい、かわるがわるその怒りをしずめては、またしずめた怒りをめざめさせるのであった。〔四五一〜四七四〕
しかし、ついに姉妹としての愛が母としての愛を圧倒しはじめた。かの女は、おのが血につながる者たちの霊を自分がわけた血でもってなぐさめようとして、非道の行為によって道理をおこなう羽目になってしまった。おそろしい火が勢いよくもえあがると、「この火がわたしの腹をいためた者の肉と血を焼きつくしてくれるがよい!」といって、この不幸な女は、残忍な手に運命の薪をつかむと、不吉な祭壇のまえにすすみでて、こういった。
「復讐の三女神エウメニデスさま(113)! この復讐の犠牲《いけにえ》をご照覧ください。わたしは、仇をうちます。あえて罪をもおかします。死は、死をもってあがなわれ、罪悪には罪悪を、亡骸には亡骸をくわえなくてはなりませぬ。どうぞこのいまわしい家がたびかさなる不幸のためにほろびてしまいますように! わが父テスティウスがふたりの子をうしなったというのに、オエネウスだけが幸福で、手柄をたてた息子をよろこび迎えてよいものでしょうか。ふたりともおなじように涙をながす方がよくはないでしょうか。おお、兄弟たちの霊よ、あたらしき亡霊よ、どうかわたしの愛の奉仕をよみし、この高価な供物を、わたしの腹をいためたあわれなこの息子を受けとってくれるがよい。ああ、なんとつらいこと! わたしはどこへ押しやられていくのかしら。兄弟たちよ、母親としてのわたしを許してほしい。わたしの手は、これからなそうとする仕事にたいしてにぶります。あの子の所業が死に値いすることは、わたしもみとめます。ただ、わたしがおそれるのは、わたし自身があの子に死をあたえる者となることです。でも、あの子が罰せられずに生きながらえ、勝利者として自分の手柄に鼻を高くしてこのカリュドンの地を支配する、そして、あなたがたはというと、ただ一握の灰、つめたい亡霊となって地下によこたわる――いったい、それでいいものでしょうか。いいえ、わたしは、そんなことをだまって見ていることはできません。あのような非道の行いを犯した者は、死んでしまうがよいのです。そして、その父親の希望をも、支配権や祖国をも、いっしょに死出の道ずれにしてしまうがよい。とはいえ、母としての愛は、どこへいってしまったのかしら。子をおもうやさしい親ごころ、十ヵ月のあいだじっと堪えぬいたあの心労は、どこへいってしまったのだろうか。ああ、いっそのこと、おまえがまだ赤ん坊だったころ、あの火のなかで燃えつきてしまえばよかった。あのとき、薪が燃えるがままにしておけばよかった。おまえは、わたしがこの薪を消してやったおかげで生きながらえることができた。そして、いま自分の罪によって死んでいくのだ。おまえは、自分のおかした所業の報いをうけるがよい。そして、わたしが、一度は自分の胎内から分娩することによって、もう一度は水中からこの薪を救いだすことによって、二度あたえてやった生命をわたしにかえすのだ。さもなければ、わたしをも兄弟たちの墓にいっしょに埋めてくれるがよい。ああ、この薪を火にくべたい。しかし、わたしにはそれができない! どうしたらよいのだろうか。わたしの眼のまえには、兄弟たちのあの傷が、あのいまわしい殺戮の光景が、まざまざと見える。だけど、母としての愛と母という名前とが、わたしの勇気をくじいてしまう。ああ、わたしは、なんと不幸な女だろう。おお、兄弟たちよ、あなたがたが勝利を手に入れることは、わたしには不幸となります。しかし、勝たねばなりません。ただ、あなたたちの霊をよろこばせるためにささげる慰め(114)とあなたたちとのあとをわたしも追っていくことができさえすれば……」ここまで語ると、かの女は、顔をそむけたまま、ふるえる右手で、死をもたらす薪を炎のなかに投げ入れた。本意《ほい》なくも炎にとらえられ、その餌食となって燃えつきたとき、薪自身もうめき声をあげた――すくなくともかの女にはそうおもわれたのであった。〔四七五〜五一三〕
すると、メレアグロスも、わけもわからずに、しかも遠くはなれていたのに、この炎に焼きつくされたのである。かれは、自分の臓腑が不可解な火に焦がされるのを感じたが、勇気をふるいおこしてその大きな苦痛に堪えた。しかし、この卑劣な、血も見せぬ死の犠牲になったことを悲しみ、傷をうけて死んだアンカエウスの方がはるかに仕合せだといい、うめきながらも年老いた父を、兄弟を、やさしい姉妹をよび、さらに最後の声をふりしぼって妻の名(115)を、そして、おそらくは母の名をもよんだ。火と苦痛は、ともに増していき、また、ともに弱まっていった。やがて、ふたつとも同時に消えた。そして、白い灰が炭火をおおうにつれて、かれの息もしだいに虚空《こくう》にかき消えていった。〔五一四〜五二五〕
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七 ほろほろ鳥になったメレアグロスの姉妹たち
世にきこえたカリュドンの町も、いまは悲しみの底にしずんでいる。若人も老人もなげき、身分の高い人たちも低い人たちも泣いた。エウエヌス(116)の流れのほとりにあるカリュドンの母親たちは、髪をかきむしり、胸をたたいて悲しんだ。メレアグロスの父(117)は、地面に身を投げ、白髪も老いた顔も、埃にまみれ、自分の長命をのろった。母のアルタエアはというと、自分のおかした罪を悔いる自責の念にたえかねて、われとわが手で心臓に短刀を突きさして果ててしまった。しかし、かりに神がわたしに百の雄弁な舌をもった口と、すべてを見とおす才能と、ヘリコンの山全体(118)をあたえてくださったとしても、メレアグロスの不幸な姉妹たち(119)の悲しみようは、とうてい語ることはできないであろう。かの女たちは、なりふりかまわず、鉛いろになるまで胸をうち、メレアグロスの遺骸が焼かれるまでというものは、くりかえしそれをあたため(120)、接吻し、用意された棺にまで接吻した。そして、遺体が灰になってしまうと、その灰をあつめて、胸にだきしめ、墓のほとりに身を投げ伏し、墓石にきざまれた名前を愛撫しつつ、その名前にさめざめと涙をそそいだのであった。〔五二六〜五四一〕
このようにしてパルタオン(121)の一家がほろびたので、ラトナの娘(122)も、ついにこころをやわらげ、ゴルゲと高貴なアルクメナ(123)の嫁とをのぞいて、ほかの姉妹たちのからだには羽毛をはやし、腕には長い翼をはり、口はかたい嘴に変え、こうして鳥(124)になったかの女たちを大空にはなったのであった。〔五四二〜五四六〕
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八 アケロウスとテセウス/島になったペリメレ
話かわって、テセウスは、野猪退治で自分の役目をはたしおわると、トリトンの女神(125)の守りたまうエレクテウスの都城(126)をさして帰途についた。ところが、雨で水嵩のましたアケロウス(127)が、かれの道をさえぎり、旅程をおくらせた。そこで、河神アケロウスは、こういった。
「ケクロプスの音にきこえた末裔(128)よ、わしの家へ寄って、やすみなさるがよい。なにもわしのこのはげしい水勢に無理に身をさらすこともあるまい。この流れは、ときにはでかい樹の幹や河筋をはばむ岩を大音声もろとも流しさることもあるのだ。河岸にある家畜小屋が家畜もろとも押しながされたのを見たこともある。そうなったら、牛がいかに力がつよくても、馬がどんなに脚がはやくても、なんの役にもたたない。また、この激流は、雪どけの水が山々から流れこむときなどは、多くの若者たちをさえ渦巻きのなかに呑みこんだのだ。だから、わしの河水が平常の流れにかえって、減水した水が河床におちつくまで、ゆっくりやすんでいく方が安全であろうがな」〔五四七〜五五九〕
そこで、アエゲウスの息子は、「アケロウスどの、ではあなたの忠告にしたがって、休憩をさせていただくことにしましょう」と同意して、そのとおり実行した。〔五六〇〜五六一〕
かれは、孔の多い軽石とざらざらした凝灰石とでできた広間へはいっていった。床《ゆか》は、やわらかい苔《こけ》でじめじめとし、天井は、ほら貝や真珠貝で市松模様にかざられていた。日輪は、すでに一日の行程の三分の二を終えていた。テセウスは、その冒険仲間たちといっしょに長椅子にくつろいだ。一方の側には、イクシオンの息子(129)が、その反対側には、すでにこめかみに白髪のまじったトロエゼンの勇士レレクス(130)が席をしめ、さらに、このような賓客をむかえてよろこんだアケロウスが陪席をゆるしたその他の人びとがひかえていた。やがて、素足の妖精《ニュムペ》たち(131)が、かれらの食卓にいろいろな料理をはこんできた。そして、食事がすむと、こんどは宝石の杯に酒をみたした。すると、偉大な英雄(132)は、眼前によこたわる水原をながめ、指でさししめしながら、「あそこに見えるのは、なんという土地でしょうか。あの島の名前は、なんというのでしょうか。島はひとつだけでないようですが」〔五六二〜五六七〕
すると、河神は答えた。「おっしゃるとおり、あの島はひとつじゃありません。五つの土地があるんだが、遠いので区別がつきませんのじゃ。だが、あの島々がもとはナイス(133)たちだったと聞けば、ないがしろにされたあのディアナの復讐(134)も、さほどおどろきなさることはあるまい。というのは、ナイスたちは、ある日十頭の牡牛を屠《ほふ》って、田野の神々をその犠牲《いけにえ》の祭典にまねいたのだが、このわしのことはわすれて、いい気になってにぎやかな踊りなどをやりおったのじゃ。わしは、大いに憤慨し、いままでにないほど激しい水勢で流れだした。そして、こころも水嵩も無慈悲になって、森といわず、畑といわず、根こそぎにひきさらい、やっとわしのことを思いだしたナイスどもを、その土地もろとも海まで押しながしてやった。さらに、わしの波は、海の波と力をあわせて、もともとひとつにつながっていた土地をばらばらに引き裂き、ついにあんたがいま波のまにまにごらんのような、エキナデス(135)のあれだけの数の島々にしてしまったのじゃ。しかし、あんたにもよく見えるとおもうが、ずっとむこうの方に、ひとつだけぽつりとはなれた島がある。あれは、わしにはいとしい島でな。舟乗りたちは、あの島をペリメレ(136)とよんでおる。わしは、あれに惚れこんで、処女の誇りをうばってしまった。ところが、あれの父親のヒッポダマスが、このことを非常におこって、断崖の上から娘を深淵めがけて投げこんで、殺してしまおうとしたんだ。わしは、あれをすぐさま両手で受けとめて、水にうかんだそのからだを支えてやりながら、こうさけんだ。『おお、籤《くじ》によって世界の二番目の主権を、すなわち、ただよう水の主権をかち得た神(137)よ、われらが流れの末に聖なる波をささげる神よ、ネプトゥヌスよ、どうぞ御姿をあらわして、わたしの願いをおききとどけください。いまここにわたしが抱いている乙女をごらんください。この乙女を不幸にしたのは、わたしです。しかし、父親のピッポダマスが親切でこころ正しく、娘にたいしてもうすこしおもいやりがあったら、この娘をあわれにおもい、わたしをもゆるしてくれたでしょうに。おたすけください。父親のむごい仕打ちのために波間に投げこまれたこの娘に、どうぞ安住の地をおあたえくださるようにお願いいたします。さもなければ、せめてこの娘自身を安住の地にしてやってください(138)』すると、海の王者は、うなずかれたが、この承諾のしるしによって海全体が波だった。乙女は、おそれおののいたが、それでも泳ぎつづけておった。わしは、そのふるえる胸をじっと支えてやっていたが、こうしてわしが乙女を愛撫しておると、その肢体がしだいに固くなって、胸が土におおわれていくのが感じられた。このようにして、わしが祈っているあいだに、あたらしい土がかの女の四肢をつつみ、その変形したからだの上に重たい島ができたというわけじゃ」〔五七七〜六一〇〕
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九 ピレモンとバウキス
以上のように語りおわると、河神は口をつぐんだ。このふしぎな出来事は、一同のこころにふかい印象をあたえた。ところが、神々というものを頭から馬鹿にし、あらっぽい気性の人であったイクシオンの息子(139)は、河神の話を真に受けている人たちをあざわらって、「アケロウス爺さん、それはあんたのつくり話だ。神々に事物や人間のすがたを自在に変える力があるなどとあんたが信じているのなら、神々の力を買いかぶりすぎているというものだ」
人びとは、おどろいて、このような言葉をたしなめた。とりわけ、分別も年齢も熟したレレクスは、こういった。「天の力は、広大無辺だ。神々の欲したまうことは、なにごとでもただちに成就するのだ。嘘だとおもうなら、まあわしの話をきくがよい。〔六一一〜六二〇〕
プリュギアの丘の上に、菩提樹とならんで、小さな石垣にかこまれた一本の樫の樹がある。わたしは、この眼でその場所を見たことがある。ピッテウス(140)が、かつてその父が支配していたペロプスの野にわたしを派遣したことがあるからだ。そこからほど遠くないところに、ひとつの沼がある。そこは、むかしは人間が住んでいる土地であったのだが、いまは水ばかりで、潜水鳥《もぐりどり》や黒鴨が訪れる場所になっている。あるとき、ユピテルは、人間のすがたに身をやつしてここにやってきた。神杖をもったアトラスの孫(141)も、翼をはずして父に同伴していた。ふたりは、休息の場所をもとめて、多くの家の戸口に立ったが、どの家も錠をおろしていた。しかし、一軒だけふたりを迎えてくれた家があった。それは、見るからにちっぽけな、わらと萱《かや》でふいた見すぼらしい家であったが、信心ぶかい老婆のバウキスと同年の良人《おっと》ピレモンとのふたりは、このなかで若き日に夫婦の契りをむすび、さらに、この家でともに歳をとってきたのである。かれらは、貧乏であることをすこしもかくさず、満足してその苦しみに堪えてきた。この家には、主人も召使いもなく、ふたりが全家族であり、たがいに従いもし、命じてもきた。〔六二一〜六三六〕
そういうわけで、ふたりの神がこの見すぼらしい家にやってきて、頭をかがめて粗末な戸口をくぐると、老ピレモンは、席をすすめて、からだを休めるようにと言い、よく気のつくバウキスは、その上に粗布を敷いた。かの女は、炉のまだあたたかい灰をかきわけ、昨夜の残り火をかきたてると、木の葉やかわいた樹皮をそれにくべて、老いのかぼそい息であかあかと燃えあがらせた。ついで、屋根裏から割木やかわいた小枝をもってきて、それを小さく折って、小さな青銅の鍋の下にくべた。それから、良人が十分に水をやった畑からとってきた野菜の葉をむしった。良人は、二又《ふたまた》の杖で、すすけた梁《はり》につるしてある豚の背の燻肉《いぶしにく》をおろし、ながいこと保存していたこの背肉から小さな一片を切りとると、それを熱湯のなかで煮た。ふたりは、食事ができるまでのあいだ、いろんな話をして時間をわすれさせ、客人が待ちくたびれないようにと骨折った。家のなかには、ぶなの木でつくった、丈夫な柄のついた槽《おけ》が釘にかけてあったが、夫婦はこれにあたたかい湯をみたし、旅人たちが手足を洗い、あたためることができるようにした。また、部屋のまん中には、框《わく》も脚も柳でできた長椅子があって、その上にやわらかい藻草を詰めた座ぶとんがおいてあった。かれらは、その座ぶとんをふくらまし、祭の日にしか出さない掛布をそれにかけた。しかし、それとて、柳の長椅子にふさわしい、粗末な古ぼけた掛布にすぎなかった。ふたりの神は、その上に腰をかけた。老婆は、腕まくりして、ふるえる手で神々のまえに食卓をおいた。しかし、その卓子《テーブル》も、三本の脚のうち一本はみじかくなっていたので、かの女は壺のかけらをその下において、他の二本とおなじ高さにした。こうして卓子ががたつかぬようになると、みどり色の薄荷《はっか》油でその上を拭いた。それから、この食卓にかの聖なるミネルウァの愛したまう、二種のちがった色をしたオリーヴの実、糟《かす》漬けにした秋の山ぐみ、きくぢさ、からし大根、牛乳をかためたチーズ、熱い灰のなかでかるく焼いた卵などを、それぞれ土器の皿に盛ってならべた。つぎに、皿とおなじ金属でできた(142)、彫り模様のある杯と、内側に黄いろい蝋をぬったぶなの木でつくったコップとをもってきた。しばらくして、炉にかかっていたあたたかい料理が出され、さらに、あまり古いとはおもわれないぶどう酒がはこばれたが、それもやがてつぎのご馳走をならべるためにわきに片づけられた。こんどは、胡桃《くるみ》、しなびたなつめの実をそえた無花果《いちじく》、梅の実、大きな籠《かご》に入れた香りたかい林檎、木からもぎとったばかりの赤いぶどうの房がはこばれた。これらのまん中には、まっ白な蜜がおかれていた。さらに、ふたつの親切な顔と、あたたかい、もの惜しみしない善意とが、これらにくわわった。〔六三七〜六七八〕
そのうちに、ふたりは、杯がたびたび空になっては、またひとりでに満たされ、酒がおのずから湧きだしてくるのに気がついた。バウキスとおののくピレモンとは、この奇蹟を見て非常におどろき怖れ、たなごころを天にむかってあげ、祈りの文句をとなえた。そして、この貧弱な食事と準備の不足をおゆるしくださいと乞うた。かれらは、このみすぼらしい家の番人である一匹の鵞鳥を飼っていたが、この鵞鳥を畏れ多い客人のために殺そうと思った。しかし、鵞鳥は、すばやい翼をつかって、歳のせいで足のおそいふたりを疲れさせ、さんざん翻弄したあげく、神たちのそばに逃げていくようにおもわれた。すると、ふたりの神は、殺すのをおしとどめて、こういった。『われわれは、神である。おまえたちの不敬な隣人どもは、それにふさわしい罰をうけるであろう。しかし、おまえたちは、その災難をのがれさせてやろう。さあ、この家を出て、われわれと同道し、いっしょに山の頂上に来るがよい』ふたりは、ただちにこの言葉にしたがい、神たちにみちびかれるままに、杖をたよりに寄る年波のためによろけながらも、ながい坂道をよじのぼっていった。〔六七九〜六九四〕
こうして山頂まで槍のとどくくらいの距離のところまで来たとき、ふたりがふりかえってみると、ひとつの沼がなにもかも呑みつくしてしまって、かれらの家だけがわずかに残っているのが見えた。ふたりがこの奇蹟におどろき、隣人たちの運命を悲しんでいるうちに、ふたりで住むのにさえ狭かった、あの古ぼけたわが家がりっぱな神殿に化してしまった。又《また》になった木の柱は、円柱とかわり、屋根のわらは、黄金《こがね》いろにかがやきだした。屋根は黄金ででき、戸口は美しい彫刻でかざられ、土間には大理石がしきつめられているのがわかった。このとき、サトゥルヌスの子(143)は、やさしくつぎのようにいった。『こころ正しい老人よ、こころ正しい良人にふさわしい妻よ、おまえたちの望むことをなんでも言うがよい』ピレモンは、しばらくバウキスと相談していたが、やがてふたりの共同の願いをうちあけた。『あなたがたの祭官となり、あなたがたの宮守となりますこと、これがわたくしたちの願いでございます。それに、わたくしたちはこの年まで仲むつまじく暮してまいったのでございますから、どうかおなじ時刻に世をさらせてくださいませ。わたくしが妻の棺を見ましたり、また、妻の手で墓に埋められたりするようなことがけっしてございませんように』〔六九五〜七一〇〕
ふたりの願いは、かなえられた。かれらは、命のあるかぎり、神殿の宮守をつづけた。ところが、ある日、もうすっかり年をとって老衰したふたりが神殿の石段のまえに立って、この土地の運命を語りあっていると、バウキスは、ピレモンのからだが木の葉におおわれていくのを見、老いたピレモンも、バウキスが木の葉につつまれるのを見た。そのうちにもう梢が顔の高さにまでのびてきたので、ふたりは、まだ話ができるあいだに、『さようなら、わたしの伴侶よ』と、同時に言いあった。すると、ふたりの口は、同時に幹におおわれて、見えなくなってしまった。いまでも、キビュラ(144)の住民たちは、ふたりのからだから生じた、寄りそう二本の樹を見せてくれる。これは、信心ぶかい老人たちがわたしにきかせてくれた話だ(かれらは、べつにわたしをだまそうなどとする理由はなかった)。わたしも、その枝にかけられた花環を見、自分でもあたらしい花環をささげて、こういったものだ。『神々を愛する者は、神々から愛せられ、神々を尊敬する者は、人びとから尊敬される』とな」〔七一一〜七二四〕
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十 飢餓《ファメス》にとりつかれたエリュシクトン
レレクスは、話しおわった。この物語とその語り手に、人びとはこころをうごかされたが、とりわけテセウスがそうであった。かれが神々の成就された奇蹟をもっと知りたいとのぞんだので、カリュドンの河神(145)は、肱をつきながら、つぎのような言葉で話しはじめた。
「いとも勇敢な英雄よ、いちど姿を変えられると、いつまでも変った姿のままでいる者もあれば、反対に、つぎつぎにさまざまな姿に変ることのできる特典をあたえられた者もいるのじゃ。たとえば、陸地をとりまく海に住むプロテウス(146)よ、おまえがそうだ。おまえは、ときには若者となり、ときには獅子となり、ときには狂暴な野猪となり、ときにはふれるもおそろしい大蛇になり、ときには角をはやした牡牛にもなる。また、しばしば石になるかとおもえば、樹木ともなり、ときには清らかな水のすがたを真似て河になるかとおもえば、水の大敵である炎にもなるのだ。〔七二五〜七三七〕
あのアウトリュクス(147)の妻、つまり、エリュシクトン(148)の娘も、これに劣らない能力をもっておった。しかし、かの女の父親は、神々の力をないがしろにし、その祭壇になんの犠牲の火もささげないような男だった。かれはまた、ケレスの神社を斧でけがし、千古の森に冒涜の刃物を入れおったのじゃ。そこには、数百年をへた巨大な樫の樹があって、それ一本で森をなしておった。幹のまわりには、祈願成就のお礼のしるしとしてささげた飾り紐や絵馬や花環などがかけめぐらしてあった。ここは、しばしばドリュアス(149)たちが木蔭でたのしい踊りをしたり、ときには手をつなぎあって幹をとりまいて輪をつくったりするところであった。幹のまわりは、たっぷり十五|尋《ひろ》もあった。どんな森のふもとにも下草《したくさ》があるものだが、この森から見れば、ほかの森はどれも下草のようなものじゃった。だが、それでもトリオパスの子は、これに斧をくわえることを思いとどまろうとせず、召使いたちにこの神聖な樫の根もとを伐《き》れと命じた。そして、命じられた連中がためらっておるのを見ると、この極悪人は、召使いのひとりから斧をうばいとって、こう言った。『これが女神の愛木であるばかりか、たとえ女神自身であろうと、あの葉のしげった梢を大地につけてくれよう』そういうなり、かれの斧は、斜めにはっしとばかり一撃をくわえた。すると、デオ(150)の樫は、ふるえて、うめき声をあげた。と同時に、その葉も実も、色あせ、ながい大枝も、青ざめた色になりはじめた。この男の冒涜の手が幹にひとつの傷をつけるやいなや、樹皮の裂け口から血がながれだしたのだ。ちょうど犠牲にえらばれた大きな牡牛が祭壇のまえで打ちたおされるやいなや、その刎《は》ねられた首から血がどっとほとばしるのにそっくりじゃった。〔七三八〜七六四〕
なみいる人びとは、みな呆然としていたが、そのなかのひとりは、けなげにもこの兇行をはばみ、おそろしい斧を押しとどめようとした。テッサリア男(151)は、かれをにらみつけて、『これがきさまの信心の報いだ』とさけぶなり、斧を樹からその男に転じて、首を刎ねてしまった。そして、さらにまた樫にくりかえし打撃をくわえたが、幹のなかから突然こういう声がしたんだ。『わたしは、この樹に住む、ケレス女神さまに愛されている妖精です。いまに悪行の罰がくだります。息を引きとるまえに、それを予言しておきます。それが死にゆくわたしの慰めです』しかし、エリュシクトンは、その悪業をやめなかった。無数の打撃でぐらつき、さらに綱で引っぱられた樹は、ついにどうとばかり倒れて、多くの樹々をその重さのしたにおしつぶしてしまった。
この妖精の姉妹にあたるすべてのドリュアスたちは、森と自分たちとにくわえられたこの損傷におどろいて、くろい喪服をまとってケレスのもとにいき、エリュシクトンの罰をもとめた。美しい女神は、かの女たちに相槌をうった。すると、女神の頭の動きにつれて、たわわにみのった田畑がゆれうごいた。女神は、あるむごい罰を考えだした。それは、エリュシクトンがその悪行によってすでにすべての人びとの同情をうしなっているのでなかったならば、きっとみんなの同情をあつめただろうとおもえるほどむごいものだった。つまり、ファメス(152)によってエリュシクトンを苦しめてやろうと思いついたんだ。けれども、女神は自分でこのファメスのもとへ出かけることができないので(というのは、運命がケレスとファメスが会うことを禁じているからなのじゃが)、山の妖精たちのなかから田野に住むオレアス(153)をよんで、つぎのように言いつけた。〔七六五〜七八七〕
『スキュティア(154)の地のはてに、氷にとざされた場所があります。さみしい、不毛の土地で、穀物もなければ、木もありません。そこに硬《こわ》ばった「寒さ」と、「蒼白さ」と、「戦慄」と、いつもひもじがっている「飢餓《ファメス》」とが住んでいます。おまえは、このファメスに、あの神を冒涜した男の罪ぶかい体内に入ってくれるように命じておくれ。いくら沢山の食物が来ても、けっして負けないように、また、たとえわたしが相手であっても、わたしの力にも屈しないように、といっておくれ。ながい旅路だからといって尻ごみすることはない。わたしの車にのり、わたしの竜をつけ、手綱をとって中天たかく馭していくがよい』そういって、女神は、車と竜をあたえた。
そこで、オレアスは、あたえられた車にのり、空を翔《か》けて、スキュティアの地に着くと、氷にとざされたひとつの山(この山は、カウカスス(155)とよばれておった)の頂上で竜車をはずした。かの女は、岩石だらけの原っぱにたずねもとめるファメスがいるのをみとめた。ファメスは、ほんのわずかに生えている草を爪と歯でかきむしっていた。髪はもじゃもじゃで、眼は落ちくぼみ、蒼白な顔をし、唇は、不潔なごみのためにすっかり土色になり、喉は、腐敗物のためにただれ、皮膚はかさかさになってやぶれ、内部の臓腑が見えるくらいであった。肉のない骨は、まがった腰のあたりから突きだし、腹はというと、ただそれらしい場所があるだけで、胸は宙にぶらさがり、かろうじて脊椎にひっかかっているかとおもわれた。痩せこけているので、骨の関節が突出し、膝蓋骨《しつがいこつ》はふくれあがり、踵《かかと》は大きく外がわにはみ出しておった。妖精は、遠くからファメスをみとめると(かの女は、とてもじゃないが近づく勇気がなかったのじゃ)、女神から言いつけられた口上をつたえた。かの女は、相手から遠くはなれているし、いま着いたばかりなのに、しばらくすると飢えにとりつかれたような気がしてきた。そこで、轡《くつわ》を天空にむけると、竜を駆ってハエモニア(156)の地に帰ってきた。〔七八八〜八一三〕
さて、ファメスは、ふだんはいつもケレスの仕事に楯《たて》をついておるのだが、こんどばかりはその頼みをみごとに果した。風にのって命じられた冒涜者の家に着くと、すぐさまその部屋にしのびこみ、ふかい眠りにおちていたかれ(ちょうど夜中だったのでな)を両腕でだきしめた。そして、男に空腹感を吹きつけ、喉といわず、胸といわず、口のなかまでもその息をしみこませ、血管のなかにも食い気をいっぱい吹きこんだ。使命をはたしおわると、かの女はこの豊饒な土地をあとにして、欠乏の家へ、住みなれた岩穴へと帰っていった。〔八一四〜八二二〕
おだやかな眠りは、やわらかい翼でなおもエリュシクトンを愛撫しておった。しかし、すでに夢のなかにあっても、かれは食物をもとめ、むなしく口をもぐもぐさせ、疲れるほど歯と歯をかみあわせ、たぶらかされた喉をまぼろしの食事でくるしめ、食事のかわりに実体のない空気をぱくついているだけだった。やがて、眼がさめると、猛烈な食欲があれくるい、渇ききった喉と底なしの胃袋とを支配した。そこで、ただちに、海と陸と空とがうみだすあらゆる食物をもってくるようにと命じた。しかし、料理をいっぱいにならべた食卓をまえにしても、かれは空腹を訴え、料理にとりかこまれていながらさらに料理をもとめた。多くの町々や一国の民全体をやしなうに足りるほどの食物も、この男ひとりを満足させることができなかった。胃袋に多くのものを送りこめばこむほど、かれの食欲はますますつのっていくのであった。ちょうど海が全土の河を腹におさめてもなお水にあきることなく、さらに遠い国々の河をも飲みつくすように、また、あくことをしらぬ火がけっして燃料を拒絶することなく、無数の丸太をやきつくし、多くの燃料をあたえればあたえるほど、ますます多くをもとめ、多量のためによけいに貪婪《どんらん》になるのとおなじように、この神をおそれぬエリュシクトンの口も、あらゆる食物を啖《くら》いこみ、同時にもっと啖いたいともとめるのだった。どんな食物も、かれにとっては、ただいっそう食物をもとめる気持をおこさせるだけであり、かれの胃袋は、啖うことによってつねに空腹になったのだ。〔八二三〜八四二〕
こうしてかれは、飢えと腹の底しれぬ貪婪とのために、祖先からうけついだ財産を蕩尽《とうじん》していったが、それでも激烈な飢えは、すこしも衰えず、飽くことなき貪食の炎は、依然としてはげしく燃えつづけた。そして、ついに全財産をことごとく啖《くら》いつくしたとき、あとに残ったのは、この父の子とも思われぬひとりの娘だけじゃった。零落したかれは、この娘をも売りとばしてしもうた。しかし、けだかいこころをもった娘は、その主人の言いなりになることに我慢できず、近くの海に両手をさしのべて、こういった。『おお、すでにわたくしの処女の誇りをささげた方よ、どうぞわたくしを奴隷の身分からお救いください!』
娘が乙女の誇りをささげた相手というのは、海神ネプトゥヌスだったのだ。かれは、娘の願いをしりぞけなかった。そして、かの女の主人があとを追ってきて、かの女の姿を見つけたとたんに、海神はかの女の姿を変えて、男にし、漁師にふさわしい衣装をつけてやった。主人は、かの女を見ると、『小さな餌《えさ》のなかに青銅の釣針をかくしている者よ、釣竿をたくみにあやつる者よ、どうかあんたのために海がいつまでも静かでありますように。水のなかの魚もいつまでもだまされやすく、ひっかかるまでは釣針に気づきませんように。ところで、いましがた粗末な装束をし、髪をふりみだした女がこの岸に立っているのをわしは見たのだが、その女がどこへいったか、教えてくれませんか。なにしろ、足跡もここから先へはいっていないようですから』娘は、海神の保護が効果をあらわしたことに気づき、相手の男がかの女にかの女の行先をたずねているのを愉快におもって、こう答えた。『どなたかは存じませぬが、おゆるしください。さっきからこの水面からちっとも眼をはなさず、仕事に夢中になっておったものですから……。お信じいただけるように申しあげます。さっきからこの浜辺には、わたし以外にひとりの人影もなく、まして女のひとなど見かけはしませんでした。そのことが確かであるのとおなじように、海の神さまがわたしの仕事をたすけてくださいますように!』主人は、かの女の言葉を信じ、砂をふみしめながら、もと来た道をだまされたとも知らずに帰っていった。娘は、ふたたびもとの姿にかえった。〔八四三〜八七〇〕
さて、エリュシクトンは、自分の娘がいろんな姿に変ることのできるからだをもっているのを知ると、このトリオパスの孫娘(157)をいろんな男に売った。しかし、かの女は、あるいは牝馬となり、あるいは鳥となり、あるいは牛となり、鹿となって姿をくらまし、こうして詐欺によって手に入れた食物を貪婪な父にあたえた。しかし苦悩の力が食べられるものをことごとく食いつくし、そのおそろしい病気に食べられないものまであたえつくすと、ついに不幸な男は、その歯でわれとわが手足を食いちぎりはじめ、わが身をほろぼすことによっておのれを養ったのである。〔八七一〜八七八〕
だが、わしにかかわりのないこんな昔話に、どうしていつまでもかかずらわっていることがあろう。若者たちよ、じつはこのわしも、無制限とはいかないにしても、いろんな姿にかわる力をもっておるのだ。あるときは、いまごらんのとおりの姿をしておることもあるが、ときには蛇になり、ときには牛の群の先頭に立って、二本の角に力を集中させることもある(158)。二本の角《つの》――いや、ちゃんと二本そろっていたこともあったのだ。ところが、いまは、ごらんのように、片方の額《ひたい》がその武器をうしなってしまったのじゃ」そういうとともに、アケロウスは、ため息をついたのだった。〔八七九〜八八四〕
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巻八の註
(1)→巻二(16)
(2)→巻七(119)(123)
(3)→巻七(114)
(4)ギリシアのペラスギ族〔巻一(33)〕で、小アジアの各地に住み、とくにメガラに多く定住していた。その沿岸とは、メガラの沿岸をいう。
(5)メガラの王。パンディオン二世〔巻六(100)〕とピュリア〔レレクスの孫ピュラスの娘、巻七(112)〕との息子、したがってアエゲウス〔巻七(94)〕、パラス〔同(126)〕らの兄弟。スキュラの父。その緋色の毛を抜かれたら死ぬという神託があった。
(6)→巻七(112)。なお、メガラは、コリントゥス地峡地帯にあるメガリス地方の都。
(7)勝利の女神、ギリシアのニケにあたる(いずれも「勝利」の意)。神話的形姿ではなく、勝利という概念の擬人化。翼をもった乙女の姿で考えられた。
(8)→巻一(125)。その子とはアポロ神のこと。むかしアルカトウス〔ペロプスとヒッポダメとの息子、巻六(87)〕がメガラ市の城壁をきずいたとき、アポロがこれを助け、そのさい竪琴〔巻六(83)〕をある石の上に置いた。するとその石は、小石を投げつけると妙音を発するようになったという。この城壁は、アルカトウスにちなんでアルカトエとよばれた。→巻七(112)
(9)スキュラという名前であった〔むろん、巻七(20)とは無関係〕
(10)→巻三(8)。ここでは「戦い」に冠せられた枕詞のようなもの。
(11)クレタ島の北岸にある町。そこの住民は、弓の名手として知られていた。
(12)ミノス王。→巻七(114)
(13)アポロ神〔巻一(72)(79)〕は、弓矢の神でもある。
(14)→巻三(31)
(15)→巻三(1)
(16)ユピテルが牡牛になって誘拐したエウロパのこと(巻二の八四三行以下)
(17)→巻七(115)
(18)ユピテルは、クレタ島のイダ〔巻二(37)〕あるいはディクテ〔巻三(1)〕の山中でうまれたとされる。→巻四(57)
(19)アフリカ北岸にある大浅瀬で、海の難所として有名であった。
(20)→巻七(19)
(21)ミノスの妻パシパエ〔巻四(30)〕のこと。かの女は、海神ネプトゥヌスがミノスにおくった白い牡牛に道ならぬ恋ごころをおぼえ、木でこしらえた牝牛のなかに身をひそめてこれと交わり、牛の頭と人間の胴体をもった怪物ミノタウルスをうんだ(一五五行以下)。なお、この牡牛は、クレタ島が神々の贈物である証拠として牡牛を贈ってほしいとミノスが海神に乞うたもので、ミノスは、その牛を犠牲としてふたたび海神にささげると約しておきながら惜しくなって別の牛で代用した。怒った海神は、その牛を狂気にし、パシパエは狂牛と交わったのである。→巻九(38)
(22)このキリスという海鳥は不明であるが、その名前はたぶんギリシア語のkeirein(切る)から来ている。
(23)最も盛大な犠牲は、百頭の牛をささげることであった(これをヘカトムベという)。ただし、百という数は、百の眼をもつアルグス〔巻一(114)〕、ヘカトンケイルたち〔巻二(5)〕の百の手、レルナの百頭の大蛇〔巻九(11)〕、クレタ島の百の町々(巻七の四八一行、巻九の六六六行)などの場合とおなじく、文字どおりに解する必要はない。
(24)牛頭人身の怪物ミノタウルスのこと。→(21)
(25)「巧みな技術家」の意、ギリシア神話中最大の名工、建築家、神像の発明者。アテナエの王族の血をひき、エレクテウス〔巻六(124)〕の曾孫にあたる。甥のペルディクス(あるいは、タルス)を弟子にしたが、ペルディクスは鋸とろくろを発明して、かれを凌駕しそうになったので、アクロポリスから突き落して殺し、その罪に問われて(二三六行)、ミノス王のもとに亡命した。パシパエのために木製の牝牛をこしらえたのも(21)、アリアドネに糸だまの知恵をさずけたのも(29)、かれである。
(26)→巻二(68)
(27)ダエダルスの名を不朽にしたこの有名な建物は、ラビュリントゥスとよばれたが、転じて迷路・迷宮を意味するようになった。
(28)ミノス王に攻略されたアテナエは、貢物として九年目ごとに七人の少年と七人の少女をミノタウルスの餌食としてクレタ島に送らねばならなかった。その第三回目に英雄テセウス〔巻七(95)〕が自発的に志願して、怪物をみごとに退治した。
(29)ミノスとパシパエとの娘アリアドネのこと。テセウスに恋したかの女は結婚を条件として、かれを助けるために糸だまをあたえ、これをひもときながらラビュリントゥスの中に入れば、容易に帰路を見いだすことができると教えた(25)。無事に脱出したテセウスは、かの女をつれてクレタ島より逃げだしたが、ナクソス島に置き去りにした。古来「アリアドネの糸(あるいは、糸だま)」は、混乱・紛糾を解決する手びきの意に使われる。
(30)テセウス。
(31)ナクソス島〔巻三(87)〕の古名。
(32)バックスが愛の贈物としてあたえた冠。なお、バックスの妻となったアリアドネは、レムノス島の王トアス〔巻十三(103)〕やスタピュルス〔同(142)〕らの母となった。
(33)冠《かんむり》座。
(34)ヘルクレス座。
(35)蛇つかい座。
(36)→(25)。かれは、パシパエのために木の牝牛をつくったり、アリアドネの道ならぬ恋を助けて糸だまの知恵をさずけたりしたため、ミノス王の怒りをまねき、息子のイカルスとともにラビュリントゥスに幽閉された。
(37)ともに北天にある星座。
(38)ボエオティアの美男の戦士・猟人。ディアナ女神を犯そうとして、女神の送ったさそりに刺されて、南天の星となった。
(39)小アジアのイオニア地方の海岸にある島、ユノ崇拝が盛んであった。
(40)→巻六(24)、および巻三(57)
(41)いずれもカリアの海岸近くにある小島。
(42)イカルス海(イカリア海)。
(43)サモスの西方にあるイカリア島のこと(もとはドリケとよばれていた)。
(44)ペルディクス(25)のこと、またはタルスともよばれる。その母(ダエダルスの姉妹)も、ペルディクスという名であるが、この語は「しゃこ」の意。
(45)パラス・アテナ女神〔巻二(119)〕。その城壁とは、アテナエのアクロポリスをいう。
(46)火山アエトナの国とは、シキリア(シチリア)島のこと。ダエダルスは、その人工翼によって空中を飛行してこの地に着陸、そこのコカルス王の庇護をうけた。ダエダルスを追跡してきたミノス王は、この地でコカルスに殺された。
(47)シキリア島の町カミクスの王。ダエダルスの引渡しを要求したミノスを、謀略によって殺した。
(48)→(28)
(49)→巻二(119)
(50)「噂」の擬人化女神、ギリシアのペメにあたる。
(51)→巻一(108)
(52)→巻三(63)
(53)→巻六(89)
(54)カリュドンの王オエネウス(次註)とアルタエアとの息子(一説によると、軍神マルスの子ともいわれる)。アルゴナウタエ〔巻六(134)〕のひとり、カリュドンの野猪の英雄。ローマ訓み(ラテン語)ではメレアゲルとなるのが普通。
(55)カリュドンとプレウロンとの王。パルタオンとエウリュテとの息子。バックス神から最初にぶどうの木をあたえられた人だといわれる。その妻アルタエアは、テスティウス〔巻六(25)〕の娘、レダの姉妹。メレアグロスは、かの女とマルスとの子だともいわれ、英雄ヘルクレスの妻となったデイアニラは、かの女とバックス神との娘ともいわれる。
(56)バックス神の異名。→巻四(4)
(57)ギリシアの北西部地方。
(58)テュンダリダエ(あるいはディオスクリ)とよばれるポルクスとカストルのふたり〔巻六(25)〕をさす。母どうしが姉妹であるから(55)、メレアグロスとは従兄弟の間柄。
(59)アルゴナウタエの英雄。→巻七(6)
(60)テッサリアに住むラピタエ族の王。ユピテルとディア(イクシオンの妻)との子、したがってイクシオン〔巻四(91)〕の子ともよばれる。テセウスの勇名を聞き、これをためそうとして、テセウスの牛群をおそったが、たがいに相手の容姿にこころを惹かれて、親友となった。→巻十二(54)
(61)アエトリアの王、軍神マルスの息子。そのふたりの息子とは、プレクシップスとトクセウスのことで、アルタエア(55)の兄弟、したがってメレアグロスの伯父にあたる。
(62)メッセニア〔巻二(144)〕の王アパレウスの息子。するどい視力をもち、地中にあるものを透視することができたという。アルゴナウタエのひとり。
(63)アパレウスの息子、リュンケウスの兄弟。海神ネプトゥヌスの子ともいわれ、海神からあたえられた翼のある戦車を駆り、アポロと戦っても敗れなかったという。かれもアルゴナウタエの遠征に参加した。かれの娘クレオパトラ(別名アルキュオネ)は、メレアグロスの妻である。
(64)ラピタエ族の王エラトゥスの子。女性としてうまれ、カエニスとよばれたが、ネプトゥヌスにより乙女から青年に変えられ、不死身になった。→巻十二の一八九行以下。
(65)メッセニアの王。オエバルス(スパルタの古い王)と、ゴルゴポネ(ペルセウスとアンドロメダとの娘)との子。アパレウス(62)、テュンダレウス〔巻六(25)〕、イカリウス〔ペネロペの父(84)〕らの兄弟。
(66)ペリアス〔巻七(33)(63)〕の息子、父の意に反してアルゴナウタエに参加、メデアに殺された父の死後(巻七の二九七行以下)イオルクスの王となった。
(67)エレウシスの追剥ケルキュオン〔巻七(110)〕の子で、のちアルカディアの王となった人物らしい。
(68)軍神マルスの子、トラキア王テレウス〔巻六(101)、プロクネの良人〕の兄弟。→巻十二(62)および二九〇行以下。
(69)テッサリアのドロペス人の王。その息子ポエニクスは、父の愛人クリュティエの求愛を斥けたために父に中傷され、父によって盲目にされた。その後キロン〔巻二(133)〕の治療をうけて視力を恢復し、英雄アキレスの養育者となって、ドロペス人をひきいてトロイア戦争にも参加した。
(70)テッサリアの英雄、アウゲアス(次註)の異父兄弟。その双生の息子とは、エウリュトゥスとクテアトゥスのことであるが、じつはかれの妻がネプトゥヌスと交わってうんだ子だという。
(71)エリス〔巻二(143)〕の王アウゲアス(太陽神ソルの子、アエエテスやアクトルの兄弟、アルゴナウタエの英雄)の息子。
(72)アエアクスとエンデイス〔巻七(119)〕との子。ペレウスと共同で異母兄弟ポクス〔同上(120)〕を殺したためにアエギナ島を追放され、サラミス島の王キュクレウス(エンデイスの祖父)のもとにのがれ、その養子となって王位についた。二度目の妻ペリボエア〔メガラ王アルカトウスの娘、(8)〕により大アヤクス〔巻十二(130)〕の父となる。
(73)アエアクスの息子ペレウスのこと。兄弟テラモンとともにアエギナ島を追われ、エウリュティオン(76)のもとに行き、その娘と領土の一部をあたえられた。のちネレイデス〔巻一(62)〕のひとりであるテティスと結婚して(巻十一の二一七行以下)、英雄アキレスの父となる。
(74)クレテウスとテュロとの息子、アエソンの兄弟〔巻七(33)〕、テッサリアのペラエ市の建設者。その息子とは、英雄アドメトゥスのことで、アルゴナウタエの一員。かれの妻アルケスティス(ペリアスの娘)にかんしては、エウリピデスに『アルケスティス』がある。
(75)英雄ヘルクレスの異母兄弟イピクレス〔巻六(27)〕とその最初の妻アウトメドゥサ〔アルカトウスの娘、(8)〕との息子。叔父ヘルクレスの戦車の馭者としてその功業や遠征につねに同伴し、アルゴナウタエの遠征にも加わった。
(76)アクトル(70)の息子、プティア(テッサリアの町)の英雄。アエギナ島を追われたペレウス(73)は、かれのもとに身を寄せ、ポクス殺しの罪を清められ、その娘アンティゴネを妻としたが、このカリュドンの野猪狩りで誤ってエウリュティオンを殺したため、アカストゥス(66)のもとにのがれた。
(77)メルクリウス〔巻一(117)〕とアンティアニラとの息子〔巻三(14)〕とは別人、アルゴナウタエのひとり。
(78)コリントゥス湾にのぞむロクリス地方の町ナリュクスの王〔巻七(112)とは別人〕。
(79)ポクス〔巻七(120)〕とアステリア〔デイオンの娘、巻七(123)〕との息子、ポキス〔巻一(63)〕の町パノペウスにその名をあたえた。トロイア戦争で有名な木馬をつくったエペウスの父。
(80)無名の戦士、野猪に殺されたという。
(81)エウボエア島のオエカリアの王エウリュトゥス〔巻九(26)〕の息子。
(82)ピュロスの王〔巻二(146)(148)〕。「まだ若かった」とあるのは、この王は非常な長寿の賢者として知られ、トロイア戦争にもふたりの息子とともに参加している。
(83)オエバルス(65)とバテイアとの子、したがってテュンダレウスの異母兄弟。ラコニアの町アミュクラエの王、多くの息子たちのうちから三人を派遣した。
(84)イカリウス(オエバルスの子、テュンダレウスの兄弟)の娘、トロイア戦争の英雄ウリクセス(ギリシア名はオデュッセウス)の妻。その舅とはウリクセスの父ラエルテスをさす。かれは、アルケシウスの子でイタカ(アカルナニアの海岸に近い島)の王、アウトリュクス(147)の娘アンティクレアを妻として、ウリクセスの父となる。
(85)アルカディアの町パラシア〔巻二(103)〕の王リュクルグス〔アルカスの子孫、巻二(105)〕の息子、アルゴナウタエに参加し、ヘルクレスにつぐ英雄とよばれた。
(86)ラピタエ族のアムピュクスと妖精クロリスとの息子モプススのこと。千里眼がきくといわれ、アルゴナウタエの遠征にも加わった。おなじく予言の能力をもっていた巻六(51)のモプススとは別人。
(87)ヘルクレスのトロイア遠征に参加して戦死したオエクレスの息子アムピアラウスのこと。アルゴスの英雄で予言者。アドラストゥス〔巻九(84)〕のテバエ攻撃の失敗を予見し、参加することを拒んだが、アドラストゥスはアムピアラウスの妻エリピュレ(アドラストゥスの妹)にハルモニアの頸飾り〔巻三(17)〕をあたえ、良人の意見を変えさせた(アドラストゥスとかれとのあいだには、意見の対立が生じたときはエリピュレの裁定にしたがうとの約束があった)。
(88)→巻一(48)
(89)アルカディアの町テゲアの王イアシオン〔(85)のリュクルグスの子、イアススともいう〕の娘アタランタのこと。男子をほしがっていた父は、かの女を棄てたが、牝熊が乳をあたえ、猟師に育てられた。大人になってからは、処女をまもりすぐれた女猟人になった。→巻十(100)
(90)→巻二の四一二行以下。
(91)メレアグロス。
(92)愛の神アモルあるいはクピド〔巻一(84)〕をさす。この一句は、「手に入れられる見込みもないのに」の意。
(93)→巻七(2)。イアソンにひきいられたアルゴナウタエの一行の集結地。
(94)モプスス(86)。予言者であるかれは、予言の神ポエブス(アポロ)に呼びかける。
(95)カリュドンの地にこの野猪を送ったのは、ディアナである(二七三行以下)。おかしなことに、ポエブスとディアナは兄妹である。ある神がなした行為や決定を他の神が変更・否定することはできないことになっている。
(96)先にあげられた名前のなかに、このふたりの勇者は出てこないし、詳しいことは知られていない。
(97)ヒッポコオンが派遣した三人の息子たちのひとり。→(83)
(98)ネストル(82)のこと。のち老年になってからトロイア戦争に参加する。
(99)ヒッパスス。→(81)
(100)テュンダリダエまたはディオスクリ(ユピテルの息子たち、の意)とよばれるポルクスとカストルのこと〔巻六(25)、(58)〕。のちユピテルにより天に召されてふたご座となった。
(101)アタランタ。→(89)
(102)アンカエウスのこと。→(85)
(103)ディアナ女神。→巻一(87)
(104)テセウス。→(60)
(105)→巻七(138)
(106)イアソン。
(107)メレアグロス。
(108)→巻一(120)。ここではアルカディアの意で、その乙女とは、アタランタのこと。
(109)プレクシップスとトクセウス。→(61)
(110)メレアグロス(54)。かれの武勇を称揚するために、軍神マルスの子だという伝承がうまれたのであろう。
(111)テスティウス((61)の娘で、オエネウスの妻、メレアグロスの母。殺されたプレクシップスとトクセウスとの姉妹にあたる。
(112)パルカエのこと。→巻二(139)
(113)→巻六(104)
(114)メレアグロス。
(115)クレオパトラあるいはアルキュオネ(63)。かの女も、悲しみのために縊れて死んだ。
(116)カリュドンの近くをながれるアエトリアの河。
(117)オエネウス。→(55)
(118)ムサエ(ミューズたち)の住むボエオティアの山〔巻二(38)〕。その山全体とは、最高の詩的創作力の意。
(119)その人数にかんしては諸説があるが、普通はゴルゲ、デイアニラ、エウリュメデ、メラニッペの四人とされ、メレアグリデス(単数メレアグリス)と総称する。
(120)遺骸の上に身を投げた、の意。
(121)ポルタオン、またはポルテウスともいう。オエネウスの父。→(55)
(122)ディアナ女神。
(123)英雄ヘラクレスの母〔巻六(27)〕。その嫁とは、ヘルクレスの妻となったデイアニラのこと。メレアグリデス(119)のうちでかの女だけは、バックス神とアルタエアとの子で(55)、かの女とゴルゲが転身をまぬがれたのも、バックスのとりなしであるという。
(124)ほろほろ鳥になったという。メレアグリス(119)は、ほろほろ鳥の意。
(125)アテナ(ミネルウァ)女神。→巻二(167)
(126)アテナエのこと。→巻七(103)
(127)→巻五(125)
(128)テセウスのこと。ケクロプスは、アテナエの古王。→巻二(121)
(129)ピリトウス。→(60)
(130)→(78)。トロエゼンはアルゴリスの町、(78)の個所ではロクリスの町ナリュクスの王となっていて、不一致である。別の個所ではラコニアの人とも、メガラの王〔巻七(112)のレレクスとの混同か〕とも記されている。
(131)素足での給仕は、特別な尊敬のしるしである。
(132)テセウス。
(133)水の妖精。→巻一(115)
(134)カリュドンの町にたいする復讐(二七三行以下)。
(135)アケロウス河口にある小群島。
(136)ヒッポダマスの娘。
(137)海神ネプトゥヌス。→巻二(86)
(138)島にすること。
(139)ピリトウス。
(140)→巻六(96)。その父とはペロプス〔巻六(85)(87)〕のこと。ペロプスの野というのは、プリュギアをさす。ペロプスの父タンタルス〔巻四(89)〕は、プリュギアの王であり、ペロプスも父のあとを継ぎ、のちギリシアに渡ってペロポネススを征服した。
(141)メルクリウス神。→巻一(117)
(142)土器、あるいは陶器製の(ふざけた表現)。
(143)ユピテル。
(144)プリュギアの商業町、カリアとの国境にある。
(145)アケロウス。
(146)→巻二(4)
(147)メルクリウスとキオネ〔巻十一(67)〕との息子、ウリクセス(オデュッセウス)の母アンティクレア(84)の父。奸智にたけ、詐欺の名人で、変身の力をもち、盗みの術を父メルクリウスに学んだ。ヘルクレスの相撲の指南役。
(148)テッサリアの王トリオパスの息子。ケレスの神苑をあらしたため永遠の飢餓という罰をうけた。アウトリュクスの妻となったその娘は、メストラ(またはムネストラ)といい、ネプトゥヌスから変身の術をさずけられた。
(149)森や樹木の妖精。→巻三(60)
(150)ケレスの別称。
(151)エリュシクトン。
(152)「飢餓」の擬人化、ギリシアのリモスにあたる。
(153)山の妖精(ニュムペ)のこと(複数形オレアデス)。
(154)→巻一(13)
(155)→巻二(51)
(156)テッサリア。
(157)メストラ。→(148)
(158)河神たちは、ふつう牡牛の姿をしていると考えられた。海神オケアヌスやネプトゥヌスのように全身が牛のこともあれば、ひげをはやした人間の頭をつけていることもあった。