ハヤカワ文庫SF
〈SF330〉
世界の中心で愛を叫んだけもの
ハーラン・エリスン
浅倉久志/伊藤典夫訳
早川書房
892
[#改丁]
日本語版翻訳権独占
早川書房
(c) 1979 Hayakawa Publishing, Inc
THE BEAST
THAT SHOUTED LOVE AT
THE HEART OF THE WORLD
by
Harlan Ellison
Copyright (c) 1971 by
Harlan Elllson
Translated by
Hisashi Asakura & Norio Ito
Published 1979 in Japan by
HAYAKAWA PUBLISHING, INC.
This book is publlshed in Japan by dlrect
arrangement with ROBERT P. MILLS, LTD.
[#改ページ]
[#ここから4字下げ]
彼女がぼくの母親ではないことを
どうしても信じようとしない
ミス・ユーソナ・パーカー
ぼくが彼の母親ではないことを
どうしても信じようとしない
アーブー
愛をこめて本書を捧げる
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
まえがき――リオの波
ホテルの窓辺に立ち、コパカバーナ海岸に打ち寄せる大西洋の夜をながめる。ブラジルくんだりまで無意味な使命のために、とひとりごちながら。とつぜん気心の知れた友となった見知らぬ人の窓辺に立つぼく、そのときアトランティカ大通りの別の窓辺では、とつぜん見知らぬ人となった気心の知れた友が。
岸をめざす縞瑪瑙のさざ波が、ふいにグリーンの壜ガラスのようにもりあがり、波頭を白いレースで飾りながら、手をのばし、浜辺をかきいだき、最後に一度だけ身を震わせ、海綿のような砂のなかに消えてゆくのを見守る。ぼくは高貴な魯鈍だ。ぼくは詩をつくる。
ぼくの詩はいう――ここに立ち、人間のさまざまな行為を見わたしながら思う、いったいこんなところで何をしているのだ、自分とは無縁の世界に足を踏みいれた異邦人……そして押し寄せる波。異邦の船に詰めこまれ、尻と腹をスプーンさながらに押しつけあわせて運ばれてきた黄金海岸の黒人たちのように、はるかなラゴスから、たよるあてもなく、二千マイルの荒涼とした闇のなかを逆巻きわたってきた波。ひたすら先を急ぎつつ、これほど遠くまで、それもただこの異邦の浜辺に打ちあげられるだけのために、今のぼくのように。
だれが、何者が、好き好んでこんなところまで旅をするだろう……ひとりぼっちになるだけのために?
石の両腕をひろげ、無言の祝祷[#「祷」は{示+壽}]をとなえながら、キリストは山上からリオデジャネイロを見おろしている。イタリア人によって作られ、この山に運びあげられたキリスト像は、〈砂糖パンの山〉の方角をじっと見はるかしている。像の内部には、光源が隠されている。年に一度――日づけはいわずもがな――遠いヴァチカンでローマ教皇がスイッチを押し、|救世主キリスト《クリスト・レデントール》に明かりがともされる。
これは、富者たちのキリストだ。レブロン海岸沿いのバウハウス・アパートメントに住み、ジョッキー・クラブの青い絨緞の上で賭けに興じ、フォンデュ・オリアンタルに舌つづみを打ち、誇り高い純白のヨット――あまりにも誇り高く、あまりにも白いため、直視しようとするものは反射する日ざしで盲いてしまう――に乗ってリオの港にすべりこむ、そんな人びとのキリスト。それが、山上のキリストだ。
どんなガイドブックにもあるように、リオデジャネイロは目のさめるようなコントラストの都市である。ヨットやジョッキー・クラブやバウハウス・アパートメントから……熱帯の楽園で生きるためにあがく貧民たちの村、斜面にへばりついた掘立て小屋地区まで。ファーヴェラス――村はそう呼ばれている。巨大なキリスト像が見おろすところ、しかし富者たちの頭上はるかな高みに、黄金海岸から来た黒人たちは子孫を生みおとしたのだ。そこにはまた哀れなメスティゾたちもおり、うだるような熱気のなか、上下左右にびっしりと建ちならぶトタン屋根と腐りかけた小割板の小屋で暮らしている。それらは気ちがいじみた|模様縫い《キルティング》の都市となって都市の上に展開する。それよりさらに上には小さな丘があり、その頂きにはもうひとつのキリスト像がある。貧者たちのキリストである。
彼らは高貴な魯鈍ではない。山上の巨大な白いキリストと丘の上の小さな黒いキリストとのあいだに愚にもつかぬアナロジーを見いだす作家ではない。彼らはそれが救世主キリストであることを知っているだけだ。栄養不良の子供に食物を買ってやれるほどのクルゼイロは彼らにはないけれど、道ばたの教会の祭壇に捧げる安い獣脂ロウソクを買うくらいのセンターヴォ[#以下の括弧内割注](クルゼイロの百分の一)なら持っている。キリストは救ってくれるだろう。彼らは知っているのだ。
しかし彼らの上に手がさしのべられる日は来ない。おのれの国に住みながら、彼らは孤立無援なのだ。キリストは決して彼らを救いはしない。まして人びとが救うはずはない。アフリカから来た波のように、彼らの毎日は人生の非情な浜辺に打ちあげられることで過ぎてゆくのだ。
あなたやぼくと変わるところがどこにあろう。
ぼくは何のわだかまりもない気持でこの本にむかっている。よい仕事をしたという確信があるからだ。したがってここから先は、すべてあとからの推量である。
ぼくは相似形をひきあわせ、銃の照準を定め、クラリオンを吹き鳴らした。何のために?
ぼくの小説が過去数年間いいつづけてきたことを、ぼくのために最終的に要約するため。おそらくそうだろう。すなわち、人間はみずから闇の世界を作りだしつつあり、そのなかで発狂しかけている――圧力はあまりにも大きく、機械はあまりにもこわれやすく、異星人の出現だけでは問題は解決しない。われわれは新しい思想を開発しなければならない。われわれはこれまで考えもおよばなかったような仕方で互いを愛さなくてはならない。そして、もし暴力に名誉がともなうものなら、われわれはいさぎよくそれを認め、それを結論と見なし、結論と見なしたことに罪の意識を感じながら生きることを学ばねばならない。
いままで書いたどの本でもそうだったが、できあがったもみをはじめてながめるときには、なぜかそれが成功作、自分の最高傑作であるような気がするものだ。しばらくすると、それ以外の見解も耳にはいってくる。書いているとき考えもしなかったようなことを、ぼくがどこそこで意図しているとか。どこそこの部分が完全な失敗なのは、力量と洞察力が欠けているせいだとか。いまのところ、そういった悩みはない。もうすこしたったら、くよくよ悩んだり強がりをいったりするようになるかもしれない。だが今この瞬間、ぼくは満足している。
ここにおさめられた作品について書いておきたいことも多少ある。ただし、どの作品にも、というわけにはいかない。「小説の成立のうらに、どうしても書いておきたいほどおもしろい[#「おもしろい」に傍点]話などというのはそんなにないものだ――それが最高のできばえの作品であっても」そんなふうに、こんこんと諭されたせいもある。しかし、このなかのいくつかの作品の誕生と執筆にまつわるエピソードは、語るに値するだろう。ぼくという作家の創作プロセスを探る手がかり、というより、この方面を通りかかる人びとへの手法上の指針として。
表題作「世界の中心でエトセトラ」は、実験的作品である。これは、ぼくにとって手法と構成の両面において重要な意味を持つ新しい出発点であったが、さいわい読者の多くはぼくについてきてくれ、ぼくが主題を充分いいつくせるかどうか最後まで見届けてくれた。このときの熱烈な反響が、このすこしあとに挿入される、一般文学およびサイエンス・フィクションのなかの「アバンギャルドしに関する所見に、ぼくを導くことになる。
これは物事の順序にのっとった小説ではない。全体が円環を描くように構成され、さまざまなできごとが、車輪のリムの上にあるかのように同時におこる。といっても、それらのできごとの同時性は、時間、空間、次元、思考といった人間的限界を超越したものである。そして最後には、すべてが中心、つまり車輪のハブに集束する。
さて。この二、三年、スペキュレイティヴ・フィクションの「アバンギャルド」は、一部の批評家が傾向の異なる多くの作家をおおざっばに分類するために濫用する「|新しい波《ニュー・ウェーヴ》」なるラベルに悩まされてきた。このラベルが貼られた作家たち――それぞれまったく異質の作家たち――のリストは、いまこの瞬間にも、多くのジャーナリストの手を経ながら膨張しつつある。フィリップ・ホセ・ファーマー、トマス・ディッシュ、ケイト・ウィルヘルム、キャロル・エムシュウィラー……オールディス、ブラナー、バラード、サリス……ゼラズニイとディレイニー、ムアコックとスピンラッド、ピアズ・アンソニイ――いずれも一度はどこかで「|新しい波《ニュー・ウェーヴ》」のラベルを貼られた作家たちである。そして、いずれもそのラベルを拒否してきた。
「世界の中心で愛を叫んだけもの」のような小説を書いたがため、また『危険なヴィジョン』のようなアンソロジイを編んだがため、ぼくもこのどうしようもなく人工的な袋小路に押しこめられた作家のひとりである。
ご参考のため、また単刀直入にいわなければわからない人びとのために書きそえておくと、ぼくはスペキュレイティヴ・フィクションにおける「|新しい波《ニュー・ウェーヴ》」などというものの存在を信じない(ちょうどこの世に「サイ=ファイ(sci-fi)」 などという醜悪な略称で呼ばれるものが存在するはずがないように)。たしかにそれは、無能な批評家やのぞき屋趣味の局外者には都合のよいジャーナリスティックな表現だろう。この分野の肥沃さが、数多くの波[#「数多くの波」に傍点]――それぞれがひとりの作家から成る波――によるものであることなど、知性も洞察力も持ちあわせていない彼らに理解できるはずがないのだ。
しかし、ぼくがスペキュレイティヴ。フィクションと呼び、あなたがサイエンス・フィクションと呼び、うすばかどもがサイ=ファイと呼ぶ分野に、何かがおこりつつある[#「何かがおこりつつある」に傍点]ことは事実である。カレッジ・キャンパスや、ロック・ミュージックや、その他いたるところで、いま何かがおこりつつあるのと同じように、この世界にはわかっている[#「わかっている」に傍点]人びともおり、きわめて多くのそういう人びとが、あらゆる種類の経験や表現形式に自己をより完全にあけはなとうとしている――それこそ、ぼくがいう「いまおこりつつあること」なのだ。今日、実験的な作品をそれが実験的だからという理由でにべもなく否定してしまう人間は、|かたぶつ《スクェア》の名にも値しない。ただのかわいそうな人。音痴、色盲、トンネル・ヴィジョン、わに足と同類だ。
「センス・オブ・ワンダー」を十年一日のごとく唱えつづけている反動分子もいる。しかし彼らは、自分たちの過去をかたちづくる土台にがんじがらめにされているだけ――コンクリート漬けの人間だ。ぼくらが現代や未来の世界にかける夢を打ち砕きたいだけなのだ。新しい表現方法を開拓するといいながら、これらの新しい作家たちはサイエンス・フィクションのかけがえない体液を汚そうとしている、と彼らは主張するそして「新しい波」に対して「聖戦」を挑まなければならない、と呼びかける。
しかし彼らの大騒ぎはけっきょくコップのなかの嵐にすぎない。スペキュレイティヴ・フィクションの読者は、年を追うごとに聡明になり、文学的完成度の必要を痛感するようになっている。たしかに過去は尊重しなければならない。なぜならそこには、ぼくらがこの形式のなかに受け継いできたものの根幹があるからだ。しかし尊重することと偶像化することとはまったく別ものである。過去の亡霊を現在にのさばらせておくために未来を否定してしまう――これは被胞現象である[#以下の括弧内割注](原虫の生活環境が不良となる場合体表から被膜を分泌すること)。スペキュレイティヴ・フィクションの伝統的形式を葬り去ってしまえ、などとはだれもいっていない。スペースはまだ充分にあるからだ。そして、シマック、アシモフ、ニーヴン、クラーク、ポール、デル・レイといった名匠たちが健筆をふるっているかぎり、ぼくらは伝統的形式から新しい教訓を学びつづけることができるだろう。
ぼくらが願うのは――いや、願うときはとうに過ぎ去った、ぼくらが要求する[#「要求する」に傍点]のは――新しい声、つまりラベル好きの連中が「新しい波」なる囲いに入れて無視しようとしている作家たちにも等しい機会を与えよ、ということなのだ。
未来の無限の可能性を信じる人びとが、異なる未来[#「異なる未来」に傍点]を異なる手法で表現しようとするものに自由な発言の場を与えないはずはないと思うのだが――どうだろう?
ぼくが「世界のエトセトラ」で使わざるをえなかったのも、そういった異なる表現形式のひとつである。この作品にもっともふさわしい形式をさがしもとめた結果が、どのようなものになったかはすでに説明した。だが、それを雑誌に発表したところ、編集者の手によって説明的な文章が挿入され、表現の改|竄《ざん》が行なわれていることがわかった。本書に収録されているのはもちろんオリジナル版だが、そのままのかたちでは読者にむずかしすぎると、その編集者は判断したらしいのだ。ぼくが書きおくった手紙に、彼はこう答えてきた――この雑誌を買う読者のなかには、十四、五歳の少年もかなりのパーセンテージでまじっている、そして母親は息子が不純な小説を読まないように、息子の読む雑誌にいつも目を通しているものなのだ、それを忘れないように。
残念ながら、ぼくは十四、五歳の少年や彼らの母親[#「彼らの母親」に傍点]を対象に小説を書いているわけではない。ぼくが読者に期待するのは、いつもよりほんのすこし大きな協力と精神集中なのだ。
例の編集者については、議論してわかる相手ではないので、もう二度と彼のために書くつもりはない。彼のほうもこちらが書かないことは知っているし、作品の内容や題名の改竄に対してぼくがおこす騒ぎに比べれば、彼にとってそれくらいは損失ともいえないだろう。お互いにこうなるのがいちばんいいのかもしれない。
しかし、この本をお買いになったあなたには、ぼくが「世界の中心で愛を叫んだけもの」を、子供や母親への気懸ねや心配などまったくなく書いたことを保証する。そして、これを読むあなたの心に、何にも捉われない創作の喜びが伝わることを願う。
思ったより、まえがきが長くなってしまった。「鈍いナイフで」を生みだすにいたった、六年間にわたるパラノイアックな事件の積み重なりも書こうと思っていた。ロビン・スコット・ウィルスソンのクラリオン・カレッジ創作教室にも触れ、一日にひとつは小説を書けと学生たちを叱咤しながら、「不死鳥」と「ピトル・ポーウォブ課」を書いてそれを実践した話もするつもりだった。「ガラスの小鬼が砕けるように」をカレッジの講演で朗読したとき、聴衆が示した強い反発、またそれを書いたということで、クスリの愛好者につきまとわれる羽目になったこと――こういったできごとの背後にある理由も検討してみたかった。
そして何よりも「少年と犬」については書きたかった。とにかく、この小説はもう何というか……
だが、すでに紙数が尽きた。それに正直なところ、今さらという気もしないではない。
これだけ書けば、このまえがきの最後の文章がどのような意味を持つかはおわかりいただけるにちがいない。ここに収められているのは、たんなる小説――ヴォネガットがいうところの〈フォーマ〉、無害な非真実――エンターテインメントを目的とした物語かもしれないが、にもかかわらず、そこにはぼくがリオで感じたこと(そして、あらゆる種類の「波」)とをむすぶ絆は見つかるのだ。他者はあなたにこう教えるために存在する。すなわち、夜が近づきつつあるこのとき、われわれはすべて地球という異邦の惑星に住む異星人であるということ。キリストも、人間も、また人間によって組織された政府も、決してあなたを救ってはくれないということ。未来に関心を持つ作家たちは、過去に生きることをやめ、すべての未来がわれわれの手から盗み去られる前に、誠意と決断と勇気をもって未来のことを語らねばならないということ。山上からおりてきて、あなたの百合のように白い肌や黒い尻を救ってくれるものなど存在しないということ。神はあなたのなかにあるのだ。あなたを救うのは、あなた自身なのだ。
でなければ、だれが好き好んでこんなところまで旅をするだろう……ひとりぼっちになるだけのために?
一九六九年三月二十五日、リオデジャネイロにて [#地付き]ハーラン・エリスン
[#地付き](伊藤典夫訳)
[#改丁]
目次
まえがき
世界の中心で愛を叫んだけもの
101号線の決闘
不死鳥
眠れ、安らかに
サンタ・クロース対スパイダー
鈍いナイフで
ピトル・ポーウォブ課
名前のない土地
雪よりも白く
星ぼしへの脱出
聞いていますか?
満員御礼
殺戮すべき多くの世界
ガラスの小鬼が砕けるように
少年と犬
解説/伊藤典夫
[#改丁]
世界の中心で愛を叫んだけもの
[#改丁]
世界の中心で愛を叫んだけもの [#地付き]浅倉久志訳
The Beast that Shouted Love at the Heart of the World
[#改ページ]
ボルティモアのラクストン地区にある自宅のそばへ毎月一回薬剤撒布にやってくる防疫課の男と、のんびり世間話をしたあと、ウィリアム・スタログはその男のトラックから猛毒殺虫剤マラチオンを一罐盗んだ。そして、ある日の早朝、近所を回る牛乳配達員のあとをつけながら、七十軒の家庭の裏口に置かれた牛乳びんの一木一本に、茶匙たっぷり一杯のマラチオンを入れて歩いた。ビル・スタログの活動から六時間とたたぬうちに、二百人の老若男女が激しい苦悶におそわれて絶命した。
バッファローの叔母が淋巴腺ガンで危篤なのを知ったウィリアム・スタログは、母親をせきたてて三個のスーツケースの荷造りをすませ、彼女をフレンドシップ空港へ送り届けて、イースタン航空のジェット旅客機に乗せた。母親のスーツケースには、ウエストクロックス社の旅行用目ざまし時計から作った簡単だが能率的な時限爆弾と、四本のダイナマイトがはいっていた。ジェット旅客機は、ペンシルヴェニア州ハリスバーグの上空で爆発を起こした。ビル・スタログの母親を含めて七十三名がこの爆発で即死し、公共水泳プールに落下した火だるまの破片によって、さらに七人の弔鐘が鳴りわたった。
十一月のとある日曜、ウィリアム・スタログは三十三丁目のベーブ・ルース・プラザへ行き、ボルティモア・コールツとグリーン・ベイ・パッカーズの試合を見るため記念スタジアムを埋めた五四〇〇〇人のファンの一員となった。彼はグレイ・フラノのズボンにネービーブルーのタートルネック、そこへ厚い手編のアイリッシュ・セーターを重ねた上に、パーカを着こんでいた。第四クォーターもあますところ三分十三秒で、十七対十六と食いさがったボルティモアがグリーン・ベイの十八ヤード・ラインに達したとき、ビル・スタログは観覧席をかきわけて、中二階席の真上にある出口まで上がり、ヴァージニア州アレグザンドリアの通信販売銃砲店から四十九ドル九十五で買い入れたアメリカ陸軍払下げのM−3サブ・マシンガンを、パーカの下からとりだした。ボールがクォーターバックにスナップされ、いちばんフィールド・ゴールのキックのうまい自軍のディフェンシブ・タックルを待って地上に置かれたとき、五三九九九人のファンは喚声をあげ――彼の標的をいっそう大きくするように――立ちあがった。ビル・スタログは、彼の真下に群らがる観客の背中に向けて、掃射を開始した。群衆が彼を組み伏せるまでに、スタログは四十四人を殺していた。
彫刻室座の楕円星雲への第一次探険隊が、フラマリオン・テータと彼らの名づけたある四等星の第二惑星へ降下したとき、そこには青白色の未知の物資――石というよりも、むしろ金属に近いなにか――で作られた、高さ十二メートルの彫像が発見された。ひとりの男をかたどった彫像であった。男ははだしで、どことなくトーガを思わせる衣服をまとい、ぴったり頭にくっついた帽子をかむり、そして左の手には彫像とまったく別の物資で球と輪を組合わせた奇妙な器具を持っていた。男の顔は、ふしぎな至福の表情に輝いていた。高い頬骨、おちくぼんだ眼、異様に小さい口、鼻孔のひろがった幅広い鼻。その彫像は、忘れられたなにかの建造物の、あばたになり、ひびわれた曲線構造の真中に、にょきっとそそり立っていた。探険隊員は、それぞれの目に映じた彫像の特異な表情について、感想を交わしあった。華麗な真鍮色の月と大空を分けあった燦爛たる夕日は、想像もつかぬ時空の彼方の地球の空にその老いさらばえた姿をさらした太陽とは、似ても似つかない。その下にたたずむ彼らはだれひとりとして、ウィリアム・スタログのことを知らなかった。ましてや、その巨大な彫像の表情が、ガス室での死刑を宣告される直前、ビル・スタログが最終控訴審の判事に対して見せた表情とおなじものだとは、知るよしもなかった。スタログはそのときこう叫んだのである。「おれは世界中のみんなを愛してる。ほんとうだ、神様に誓ってもいい。おれはみんなを愛してる、おまえたちみんなを!」
交叉時点《クロスホエン》。時間と呼ばれる思考間隔の果て、空間と呼ばれる反射的イメージの果て、もう一つの当時、もう一つの現在、どこかむこう[#「むこう」に傍点]にあるここ、観念を超越したもの、最終的には〈もし〉と名づけられる単純性の変形。おびただしい歩数を側方にずれた、ずっとずっと後の時代。あらゆるものがその複雑さを増しつつ外に放射していく、究極の中心。シンメトリーとハーモニーの謎、物質化された心霊が微妙な諧調の秩序の中で歌うこの場所。すべてが始まった、始まりつつある、そして始まるであろうところ。ザ・センター。交叉時点《クロスホエン》。
あるいは――一億年の未来。そして――可測宇宙の最外縁から一億パーセクの彼方。さらに――平行存在する複数宇宙を横断した、無数のパララックスの歪み。最後に――人間の思考を超えた無限の心的跳躍の彼方。
そこ――交叉時点《クロスホエン》。
藤色レベル、その深紅の洗い水の中にうずくまり、弓なりの体をとっぷりひそめて、気違いは待った。彼は竜だった――胴体は太く丸味を帯び、粘液に濡れた先細りの尾を後肢の間にしまいこんでいた。弓なりの背から垂直に突き出した小さな厚い骨質の棘は、ピンと先のはねあがった尾の先端までつづいている。かぎ爪の生えた短い前肢は、頑丈な胸の下に折りたたんだままだ。古代のケルベロスに似た七つ頭の犬の顔を、彼は持っていた。どの頭もらんらんと目を光らせ、待ち、飢え、狂っていた。
鮮やかな黄色の光がランダムなパターンで藤色の中を動きまわり、そしてしだいに接近してくるのを、彼は認めた。走れないのはわかっている――その動きが彼を裏切り、スペクター光線がたちまち彼を探しあてるだろう。気違いは恐怖に窒息しそうになった。スペクターは、無邪気、卑下、そのほか、彼の試みた九つの感情的擬装にもだまされなかったのだ。なにか手を打たねば。臭跡をくらまさねば。だが、このレベルにいるのは彼だけだ。このレベルは、もうずいぶん前から、残存感情を浄化するために閉鎖されていた。殺戮のあと、彼があれほどまでに惑乱していなければ、あれにどまでに見当識喪失に悩まされていなければ、こんな閉鎖レベルへとじこめられるようなへまは、しでかさなかったろう。
だが、いまここにいる以上、隠れ家はなく、組織的に彼を狩り立てにくるスペクター光線を逃れるすべもない。捕まれば、彼も[#「彼も」に傍点]いっしょに浄化されてしまう。
気違いは最後のチャンスに賭けた。彼の心、七つの脳ぜんぶを、閉鎖したのだ。藤色レベルが閉鎖されたのと、そっくりおなじように。すべての思考を閉ざし、感情の火を灰に埋め、心に動力を送る神経回路を切断した。最大効率から徐々に運転速度を落としていく巨人機械さながら、彼の思考は弛み、弱まり、色あせた。やがて、それまで彼のいた場所は空白に変わった。七つの犬頭は眠りにおちた。
思考に関するかぎり、竜は存在をやめた。スペクターは、そこに探知すべきなにものをも見出せず、素通りしていった。しかし、気違いを追っている相手は正気で、彼のように狂ってはいなかった。彼らの思考は筋道立っており、そして、筋道立ったやりかたであらゆる事態を計算に入れていた。スペクターにつづいて、熱探知波が、質量計測センサーが、そして閉鎖レベルでも異分子の臭跡を狩り出すことのできる追跡装置がやうてきた。
彼らは気違いを探しあてた。冷えきった太陽のように自己閉鎖した彼を探しあて、その体をよそへ移した。彼は移動に気づかなかった。おのれの無音の頭蓋の中にひきこもっていた。
だが、完全自閉につづく果てしない見当識喪失のあと、そっと思考をひらいて様子をうかがった彼は、自分が第三赤色活動レベルの排出者病棟に静止状態で監禁されているのを知った。彼は七つの咽喉で絶叫した。
もちろんその声は、あらかじめ彼の蘇生するまえに挿入されていた声門バッフルによってふさがれた。声の喪失が、彼をいっそう怖じ気づかせた。
彼の全身は、そのまわりをぴったりと包んだ琥珀色の物資の中に埋もれていた。これがもっと早い時代、ほかの世界、ほかの時空系なら、それは拘束帯のついた病院のベッドにすぎなかったろう。だが、竜が静止状態で監禁されているのは交叉時点《クロスホエン》のとある赤色レベルだった。その病院のベッドは、反重力、無重量、完全弛緩性で、彼の強靭な外皮をつうじて鎮静剤と調節剤と栄養を送りこんでいる。そして、彼はいずれは排出される運命なのだ。
ライナがふわふわと病棟にはいってきた。センフがそのあとにつづいた。センフは排出法の発見者。そして、代訴官への昇進をもくろんでいるライナは、竜にとってだれよりも雄弁なネメシスだった。琥珀色に包まれて並んでいる患者のあいだをふたりは漂っていった。ヒキガエル、太鼓のような蓋のある水晶の立方体、外骨格、偽足を持ったアメーバ生物、そして七頭の竜。ふたりは気違いの正面、やや上方に停止した。竜はふたりを見上げた。七重のイメージが見えた。しかし、声を出すことはできなかった。
「もし、わたしに決定的な理由が必要だとしたら、ここに絶好の一例がある」ライナは気違いのほうにあごをしやくっていった。
センフは琥珀色の物資の中に分析棒をさしこみ、しばらくしてひきぬくと、患者の状態をすばやくチェックした。「もし、きみにもっと大きな警告[#「警告」に傍点]が必要だとしたら、これは絶好の一例だよ」
「科学は民衆の意志にしたがうものさ」とライナ。
「そんなことは信じたくないね」センフは間髪をいれずにいった。その声には名状しがたい調子がこもっていたが、それも彼の言葉の中にある反撥を覆い隠すところまではいかなかった。
「いや、信じて[#「信じて」に傍点]もらうことになるだろうよ、センフ。まあ見ていたまえ、代表委員会でこの議案をきっと通過させるから」
「ライナ、きみとわたしが知りあってから、どのぐらいになると思う?」
「きみの第三|流動《フラックス》からだったな。わたしの第二流動」
「そのとおり。そのあいだ、一度でもわたしがきみに嘘をついたことがあったか? 一度でも、きみの不利になるようなことを要求したことがあったか?」
「いや、ない。記憶にあるかぎりでは」
「では、なぜこんど[#「こんど」に傍点]にかぎって、わたしの言うことを聞いてくれない?」
「なぜなら、きみがまちがっていると思うからだ。わたしは狂信者じゃないよ、センフ。これを政治的な取引の材料にする気はない。ただ、これがわれわれの手に入れた最良のチャンスだと、切実に感じるんだよ」
「しかし、ほかのあらゆる生物、あらゆる場所、遠い遠い昔から、神のみぞ知るはるかなパララックスの彼方までにこれが及ぼす災厄を、考えてみろ。われわれは自分たちの塔の汚染をとり除くために、これまでに存在したほかのあらゆる巣に犠牲を強いることになるぞ」
ライナは、しかたがないというように、両手をひろげた。
「生存のためだ」
センフは疲労の色濃い表情で、ゆっくりとかぶりを振った。
「わたしだって、できることならあれ[#「あれ」に傍点]を排出してしまいたい」
「できないのか?」
センフは肩をすくめた。「どんなものでも排出はできるさ。しかし、残されたものは、持つ価値のないものだろう」
琥珀色の物資が変色をはじめた。内部から強烈な青い光がさしてきた。「患者の用意ができたようだ」とセンフはいった。「ライナ、もう一度だけいう。もし、きみが聞き届けてくれるなら、このとおり頭を下げてたのむよ。おねがいだ。どうかつぎの会期までひきのばしてくれ。代表委員会がいますぐ[#「いますぐ」に傍点]決定を下さねばならない理由は、どこにもない。もうしばらく、わたしにテストをさせてくれ。排出物がどの範囲まで吐き出されるか、どれほどの損害をもたらすか。その報告を作成するだけの暇を、わたしに与えてくれ」
ライナは聴きいれなかった。きっばりとかぶりを振った。
「排出に立ち会いたいんだが、いいかね?」
センフは長い吐息をついた。敗北をさとったのだ。「いいさ。しかたがない」
琥珀色の物質は、沈黙した重荷をかかえたままで上昇しはじめた。ふたりの男のいる高さまで到達すると、ふたりのあいだの空中をくぐりぬけた。七頭の竜を中に包んだ滑らかな容器のあとを、ふたりは追った。センフはなにか言いたそうなようすだった。しかし、もはや言うべきことはない。
琥珀色の繭に似たゆりかごはしだいに薄れて消え、そしてふたりの男も非実体化して消失した。彼らが再出現したのは、排出室の中だった。からっぽの作動ステージ。琥珀色のゆりかごが音もなくその上におちつくと、被覆物質は溶けて流れ、竜の体だけをそこに残して消え去った。
気違いは、必死に身動きし、体を起こそうと試みた。七つの頭がむなしく痙攣した。彼の中にある狂気が鎮静剤にうちかち、彼は逆上と激怒と真赤な憎悪にわれを忘れた。だが動けない。形をたもっているだけで精いっぱいだった。
センフは左の手首にはめたバンドを回した。腕輪は内部から、底深い金色に輝いた。真空を満たす空気の侵入音が部屋にとどろいた。作動ステージは銀色の光に浸された。光は空気そのものの中から、未知の源からとびだしてきたようであった。竜は銀色の光に洗われ、七つの口がいっせいにぱっくりあいて、牙の輪をむきだしにした。それから、二重になった目蓋が閉じた。
彼の頭の中の苦痛はすさまじかった。肉をもぎとられるような感覚が、百万の口の吸収に変わった。脳そのものまでが吸いこまれ、圧迫され、搾りつくされ、そして灼きこがされた。
センフとライナは、脈打つ竜の体から部屋の奥の排出物タンクへと視線を移した。ふたりが見まもるうちに、タンクは底のほうから、火花をちりばめたほとんど無色の煙の雲で徐々に満たされていった。「さあ、始まったぞ」センフがわかりきったことをいった。
ライナはタンクから視線をひきはなした。七つの犬頭を持つ竜の体は、いまやさざ波立っていた。浅い水中をすかして見るように、気違いの体は変貌をはじめていた。タンクが満たされていくにつれて、気違いはしだいに体形をたもつのに困難を感じはじめた。タンクの中で火花を散らす物質の雲が濃くなるにつれて、作動ステージの上の生きものの形は、いよいよ安定を失ってきた。
ついに抵抗は不可能となり、気違いは屈服した。タンクの満たされる速度が早まり、体形が蠕動し、変化し、収縮し、そして、七頭の竜の上に人間の姿が重なった。タンクが四分の三まで満たされたとき、竜は下に横たわる影となった。それは排出が始まる前そこにあったものの、もはや名残りにしかすぎなかった。いまや刻々と、人間の姿が濃くなりつつあった。
ついにタンクは満たされた。作動ステージの上には、ひとりの正常人が横たわり、目を閉じ、筋肉を無意識にひきつらせ、息をあえがせていた。
「排出は終わった」とセンフがいった。
「ぜんぶあのタンクにはいったんだね?」ライナが小声できいた。
「いや、全然」
「というと……」
「あれは残り滓。無害だ。超感覚者のグループからとった試薬で、中和できる。危険なエーッセンス、場を作っていた退廃性の力線――それらはもうない。すでに排出された」
ライナは、はじめて顔色を失った。「それをどこへやったんだ?」
「聞かせてくれ、きみは同胞を愛しているかね?」
「おい、たのむよ、センフ! わたしはそれがどこへ行ったのか……いつへ行ったのか、と聞いているんだ」
「わたしのほうは、きみがよその連中のことをすこしも考えないのかと、聞いているんだよ」
「その答は知っているじゃないか……わたし[#「わたし」に傍点]という男を知っているだろう! わたしは知りたいんだ、教えてくれ、せめてきみの知っていることだけでもいい。どこへ……いつへ……?」
「それなら、わたしを許してくれるだろうね、ライナ。なぜなら、わたしも同胞を愛しているからだ。どこの世界、いつの時代に住む人びとをも愛さなくてはいけない。こんな非人間的な分野にたずさわっていればこそ、よけいそれに執着しなくてはならない。だから、わたしを許してくれるね……」
「いったいなにをする気だ……」
インドネシアには、それにあたる言葉がある。ジャム・カレット――ひきのばされた時間。
ヴァチカンのへリオドルスの間、ユリウス二世のために彼が装飾したその部屋で、ラファエロは、西暦四五二年の教皇レオ一世とフン族の王アッティラの歴史的対面を題材にした壮大な壁画を描いた(それを完成したのは、彼の弟子たちである)。
この壁画には、聖都がフン族によって掠奪され焼きはらわれようとした絶望的な時機に、ローマの聖なる権威がそれを守ったという、各地のキリスト教徒の信仰が反映している。ラファエロは、聖ペテロと聖パウロが、レオ一世の調停に力をかすため、天国から降りてくるところを描いた。彼の解釈は、もとの言い伝え――抜身の剣を持ってレオ一世の背後に立った使徒ペテロだけに言及したそれ――に、もう一段意匠を凝らしたものだった。そして、この伝説そのものも、比較的歪曲を蒙らずに古代から生き残った、いくつかの事実の脚色である。当時、レオのそばには使徒の亡霊はおろか、枢機卿さえいなかった。レオは三人の代表団の一員で、ほかの二人は教会と縁のないローマ帝国の高官だった。会談は――伝説のいうように――ローマの城門のすぐ外で行なわれたのではなく、北イタリアの今日ペスキチラと呼ばれる土地からさほど遠くない場所で行なわれた。
この会談について、それ以上のことは知られていない。にもかかわらず、それまで一度として阻止されたことのないアッティラが、ローマの破壊をやめた。軍をひきかえしたのだ。
ジャム・カレット。パララクス・センター交叉時点《クロスホエン》から吐き出された力線の場。一万年が二度経過するあいだ、時空間と人びとの心を貫いて脈動してきた場。それが突如として不可解にも中断され、フン王アッティラは思わず両手で頭をかかえた。頭蓋の中で、心が縄のようによじれる。目にもやがかかり、それが晴れたとき、彼は胸の奥底からほっと吐息をもらした。アッティラは自軍に後退を命じた。大教皇レオは、神とそして今なお記憶に残る救世主キリストに感謝を捧げた。伝説はそこに聖ペテロを加えた。ラファエロはそこに聖パウロを加えた。
一万年が二度経過するあいだ――ジャム・カレット――脈打ちつづけてきた力場が、数瞬、数年、あるいは数千年であったかもしれぬつかのま、断ちきられたのだ。
伝説は真実を語っていない。より正確にいえば、すべて[#「すべて」に傍点]の真実を語っていない。アッティラがイタリアへ侵入するより四十年も前、すでにローマはゴート王アラリクスによって劫掠されていた。ジャム・カレット。アッティラの退却から三年後、ローマはふたたびヴァンダル王ゲイセリクスによって劫掠されることになった。
七頭の竜の心から排出された狂気の汚物が、あらゆる空間、あらゆる時間へ流れこむのをやめたのには、一つの理由がある……。
種族への反逆者センフは、代表委員たちの前にうかんでいた。この公聴会の代訴官をつとめているのは、センフの友人であり、いまや彼の最終流動を要求しようとしているライナだった。ライナは物柔らかに、だが雄弁に、この大科学者がなにをしたかを物語った。
「タンクは排出をつづけていました。彼はわたくしにこう言いました。「わたしを許してくれるだろうね、ライナ。なぜなら、わたしも同胞を愛しているからだ。どこの世界、いつの時代に住む人びとをも。愛さなくてはいけない。こんな非人間的な分野にたずさわっていればこそ、よけいにそれに執着しなくてはならない。だから、わたしを許してくれるね」それから、彼は自分自身をそこへ介入させたのです」
委員会の六十名のメンバー、このセンターに存在する各種族の代表――鳥人と、青い生きものと、巨頭人と、ふるえる繊毛を持ったオレンジの匂いと――彼らの全員が漂うセンフを見つめた。センフの頭も胴体も、茶色の紙袋のように皺くちゃだった。毛髪は一本もない。目は鈍く白茶けている。素裸で、きらきらと光りながら、彼はわずかに横のほうへと漂っていった。と、壁のない広間に起こった気まぐれな微風が、彼をもとの位置へ吹きもどした。センフはあのあと、自分自身を排出にかけたのだった。
「わたくしは、この男に最終流動刑の宣告をくだすことを、当委員会に要求いたします。よしんば彼の介入がほんの数瞬のものであろうと、それがいかなる損害あるいは不自然さをこの交叉時点《クロスホエン》にもたらしたかは、知る方法がないのであります。彼の目的は、排出機構を過負荷とし、それによって作動不能に持ちこむためであったと、わたくしは主張いたします。この行為、このセンターの六十種族に狂気の依然として跳梁する未来を与えようとした野獣的行為は、生命の終結によってのみ処罰しうるのであります」委員会は空白化し、冥想にふけった。時間のない時間のあと、委員会は再結合し、代訴官の告発を支持した。処罰の要請は聴き届けられた。
ひそやかな思考の岸辺で、すでにパピルスと変った男は、彼の友人であり断罪者である代訴官の腕にかかえられていた。迫りくる夜闇、粉のふりかかるような静けさの中で、ライナはセンフの体を吐息の影におろした。
「なぜきみはあのときわたしをとめた?」口をもった皺がいった。
ライナは押しよせる闇のほうへと目をそらした。
「なぜだ?」
「ここ、このセンターの中に、まだチャンスがあるからだよ」
「そして、彼らには、外にいる彼らのぜんぶには……もう永久にチャンスがないのか?」
ライナは両手を金色のもやの中に掘り沈めながらゆっくりと坐り、それを彼の手首の上でふるいにかけて、待ちうける世界の肉の中へともどした。「もし、われわれがここでそれに着手できたら、そして、もしこの境界を外へ押しひろげていくことができたら、たぶんいつかはその小さなチャンスによって、時の果てまでたどりつけるかもしれない。それまでは、たとえ一つでも、狂気のないセンターを持つにこしたことはない」
センフは急きたてられるようにしゃべった。彼の終末は、大股で刻々と近づきつつある。「きみは彼らのぜんぶに刑を宣告したようなものだ。狂気は生きた蒸気だよ。力だ。それをびんに閉じこめることはできる。ただし、いちばん強カな悪霊を、いちばん栓の抜けやすいびんに閉じこめるようなものだがね。そして、きみは彼らをつねにそれといっしょに暮らすことにさせた。愛の名においてだ」
ライナは言葉にならぬ声を出したが、すぐにそれをひっこめた。センフは、かつては手であった一つの震えで、ライナの手首にふれたの指が柔らかさと温かみの中に溶けた。「きみも気のどくな男だな、ライナ。きみの不幸は、ほんとうの人間であることだ。この世界は闘争者のために作られている。きみは闘争のしかたを学ばずじまいだった」
ライナは答えなかった。いまや永遠のものとなった排出のことだけが、彼の頭にあった。やむをえない必要から始動され、そして作動をつづけているあの排出のことだけが。
「わたしのために記念碑を建ててくれるか?」センフがたずねた。
ライナはうなずいた。「そういうしきたりだからね」
センフはかすかにほほえんだ。「では、彼らのためにそうしてやってくれ。わたしのためでなく。わたしは彼らの死の器を工夫した男だし、そんなものはほしくない。その代りに、彼らのうちの一人をえらんでくれ。それほど重要人物でなくてもいい。だが、もし彼らがそれを見つけて理解したとき、彼らにとってすべてを意味するような人間だ。わたしのためという名目で、その人間の記念碑を建ててくれ。いいね?」
ライナはうなずいた。
「いいね?」センフはきいた。目を閉じているので、相手のうなずきが見えなかったのだ。
「ああ。いいとも」とライナはいった。しかし、センフの耳には聞こえなかった。流動は始まって終わり、そしてライナはすくい上げられた静寂の中にただ一人とり残された。
彫像は、年経ながらもまだ生まれてはいない時間系にある、はるかな恒星のはるかな惑星の上に置かれた。それは、人びとの心の中に存在していた。やがてそこへやってくるだろう人びと、あるいはこぬかもしれぬ人びとの心の中に。だが、もしそれを見出せば、彼らは知るはずだ――地獄が彼らとともにあることを、そして、天国と呼ばれるものが事実存在することを、そして、その天国の中には、そこからすべての狂気
の流れ出す中心があることを。そして、ひとたびその中心へはいれば、そこに平和があることを。
かつてのシュツットガルトの一角、かつてのシャツ縫製工場であった焼けビルの残骸の中で、フリードリヒ・ドルーカーは七色の箱を見つけた。飢えと、人肉をむさぼった何週間かの記憶に虐まれながら、彼は血まみれの指の切株で、狂おしくその箱のふたをこじあけた。勢いよく箱が開いた瞬間、恐怖にうたれたフリードリヒ・ドルーカーの顔へ、つむじ風がさっと吹きつけた。つむじ風と、翼を持った、顔のない黒いものの群れが、矢のように夜の中へ飛び去っていった。そのあとから、枯れたくちなしを思わせるきつい匂いの紫色の煙がひとすじ、尾をひいて立ちのぼった。
しかし、フリードリヒ・ドルーカーには、その紫色の煙の意味をゆっくり考えるひまもなかった。翌日、第四次世界大戦の口火が切られたのだ。
[#地から2字上げ]ロサンジェルス 一九六八年
[#改丁]
101号線の決闘 [#地付き]伊藤典夫訳
A long the Scenic Route
[#改ページ]
[#ここから6字下げ]
この物語の技術的バックグラウンドを外挿するにあたって協力を惜しまなかった、アヴコ・エヴァレット研究所(マサチューセッツ州エヴァレット)のベン・ボーヴァ氏に心からの感謝を捧げる。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
七・六ミリスパンダウ二連機銃を搭載した、血のように赤いマーキュリーに追い抜かれたのは、ジョージが車線を変えているときだった。そいつは三台うしろからだしぬけにとびだし、加速した。ガスタービン・エンジンの轟音は防音装置をなんなく通りぬけ、こぶしの一撃のようにジョージの耳を打った。マーキュリーはJP4燃料と水をジェット・ノズルから扇形に噴射しながら、ジョージのシボレー・ピラーニャをほんの数インチの差でかすめて正面にすべりこんだ。
ジョージはダッシュボードのセレクター・コントロールをたたきつけ、威嚇信号をともした――まぬけ野郎、何をする気だ? そして、てめえなんか衝突して焼け死んでしまえ、くそったれ。ジェシカが恐怖のあまり低いうめき声をもらしたが、ジョージには聞こえなかった。罵詈雑言をわめきちらしていたのだ。
ジョージはペダルを踏んでオーバープランジを入れると、セレクター・ボタンを押し、回転|丸鋸《まるのこ》をせりだした。修理工たちのあいだで、ダラス剃刀と呼ばれている代物である。だが真紅のマーキュリーは一八五キロをだして、、ゆうゆうと遠ざかっていく。
「必ず追いついてやるからな、|××なめ野郎《ビーヴァー・サッカー》!」彼はどなった。
ピラーニャはとびあがり、ぐんと速度をあげた。だがマーキュリーとの距離はすでに一キロ以上もはなれていた。アドレナリンが間欠泉のようにジョージの全身に送りこまれた。ジェシカの手がのびて彼の腕をつかんだ。「ねえ、やめなさいよ、ジョージ。ちんびらにかまったってしょうがないでしょ」なだめるだけしか能のない女。「男の面子がおびやかされたんだ」彼はつぶやき、ステアリング・ホイールにのしかぶさった。
ジェシカは天を見上げると、もし神様が、フロイト学説でこりかたまったヤシミル博士の頭に、何十ヵ月もまえに稲妻をおとしてくれていたら、と悲しい気持で思った。ただでさえ気短かなジョージに、怒りの爆発を正当化するあやしげな理論をふきこんだのは、あの精神科医なのだ。
「交通管制局を呼びだせ!」ジョージがうなるようにいった。
ジェシカは、またはじまった[#「またはじまった」に傍点]というように肩をすくめ、いそいでダイアルをまわした。スクリーンに緑と黄の光が入り乱れ、この地区《セクター》の高速道路管制オペレーターの笑顔があざやかに現われた。「用件は?」
「決闘の許可をほしい。北行きの一〇一号線だ」
「ライセンス・ナンバーをどうぞ」
「XUPD八八三二一」答えながらもジョージは、追跡装置が信用できないとでもいうように、赤いマーキュリーの行方を追ってフリーウェイに目をこらしている。
「決闘を申し込まれるお相手は?」
「赤いマーキュリーGT。八八年型だ」
「ナンバーをおっしゃってください」
「ちょっと待ってくれ」ジョージがインスタント・プレイバックのボタンを押すと同時に、いましがた通ってきた十数キロが逆向きにムーヴィオーラに映しだされた。彼はフィルムを正しい時間経過にもどすと、マーキュリーが彼を追い抜いた瞬間をとらえて映像を止め、ナンバーを読んだ。「MFCS九〇九〇九」
「少々お待ちください」ジョージは運転席で歯がみした。「何をてまどってやがるんだ? こっちの頼みごとには何やかやと口実をつけ、そのくせ納税期になりゃあ……」
オペレーターが笑顔をうかべてふたたびスクリーンに現われた。「いまマスター・セクター・グリッドに照会したところ、許可はおりる模様です。ただ装備の点であちらさまがうわまわっていることだけは、法令上の義務として申し添えておきます。それでもよろしいでしょうか?」
ジョージは唇をなめた。「何がある?」
「記録によりますと、七・六ミリスパンダウ、防弾スクリーン、ほかに秘密オプションがいくつかありますが」
ジョージは黙りこくった。車のスピードがおちた。タコメーターが左右に揺れ、そして止まった。
「行かせなさいよ、ジョージ」と、ジェシカ、「とても敵いっこないわ」
ジョージの頬に怒りの血がのぼった。「ほう、そうかい?」彼はオペレーターをどなりつけた、
「あのマーキュリーの承認をとれ!」
彼女の姿がゆらめいて消えると、ジョージはピラーニャのアクセルを踏んだ。車はぐんと速度をあげた。ジェシカはあきらめたようにため息をつき、バケットシートの下の抽出しをあけた。そしてGスーツをひろげると、そのなかにもぐりこみはじめた。彼女は無言のまま首をふりつづけていた。
「ようし、やってやるぜ!」
「ねえ、ジョージ、いつになったら子供みたいな真似をやめるの?」
返事はない。だが彼の鼻孔は、押えがたい怒りのためにひろがっていた。
オペレーターの姿がゆらめきながら現われた。「承認がとれました。高速道路保険では、すでにあなたがたを互いの受取人としてファイルしてあります。標準交通法規は順守してください。それでは、ご幸運をお祈りいたします!」
女は消えた。ジョージはピラーニャを自動制御《スリープウォーカー》に切り換え、自分もスーツを着こんだ。そしてしばらく手を休めたのち、ふたたびマニュアルにもどした。
「さあて、あの三下やくざめ、目にもの見せてやるからな!」一六〇。一七五。一九〇。
マーキュリーとの距離がみるみる縮まった。シボレーの速度が一九〇に達すると、マスターコンピュータが赤いランプをともし、浮揚ドライブを指示した。ジョージがセレクターを押すとともに、丸鋸の入れこ式アームが車軸のなかに引っ込みはじめた。丸鋸はしばらく唸りをあげていたが、やがて停止し、ハブキャップの派手な装飾にしか見えなくなった。ついで車輪がシボレーの車体に呑みこまれ、エアクッションがとってかわった。いまシボレーは、フリーウェイの路面上わずか二インチのところを滑るように進んでいた。
前方では、マーキュリーもまたエアクッションに切り換えていた。一九〇。二一五。二四〇。
「ジョージ、こんなバカなことやめてったら!」ジェシカは百舌そっくりの特徴ある表情をうかべた。「あなたはホットロッド気ちがいじゃないのよ、ジョージ。あなたには家庭があるし、これはファミリー・カーよ!」
ジョージは陰険に笑った。「ああいうちんぴらどもにバカにされるのは、もうごめんだ。去年――おぼえてないか、去年のこと?――ちんぴらやくざに石壁に押しつけられたことがあったろう? あんな目には二度とあわないと、おれはあのとき誓ったんだ。でなければ、なんでおれがいろんなオプションを取り付けさせたと思う?」
ジェシカは小物入れみ蓋を両側にあけ、サービス・トレイをだした。そして火傷よけ軟膏のびんのふたをとると、顔や手に薬をすりこみはじめた。「車にあんなレーザー銃なんかつけさせなければよかったんだわ!」ジョージはまた笑った。ちんぴらめ、不良め、ホットロッド狂め!
ピラーニャがぐぐっと前に出るのが感じられた。信頼のおける巨大なスターリング・エンジンが、熱した気体を再循環させ、推進効率をどんどん高めているのだ。マーキュリーの効率のわるいケロシン・システムとちがって、原子力発電機は噴射ガスとは無縁だし、外燃機関はノイズらしいノイズも出さない。そして後部の巨大なラジエーター|尾びれ《テイルフィン》が、途方もない熱を散らし、路面上二インチのところを滑空する車体を安定させている。
赤いマーキュリーに追いつける自信が、ジョージのなかに生まれた。追いついたら、そのときこそあのなまいきな小僧に思い知らせてやる――法と秩序をあざわらい、フリーウェイで善良な市民をいたぶった罰がどんなものか!
「拳銃をとってくれ」
ジェシカはうんざりしたように首をふり、ジョージのバケットツートの下に手をのばした。そして抽出しをあけ、逆吊りとびだしホルスターにおさまった無骨な・四五オートマチックを手わたした。ジョージは|自動の《スリーパー》ボタンを押し、釣革に腕を通すと、ホルスターの油をひいたレザーの感触を試した。やがて彼は満足げにピラーニャをマニュアルにもどした。
「ああ、いやだいやだ」と、ジェシカがいった、「ジョン・ディリンジャーの復活だわ」
「やめんか!」妻の口から出るばかげた言葉にとうとう我慢できなくなって、ジョージはどなった。「手伝う気がなければ、そのろくでもない口をふさいでろ。おまえをおろして、あとから迎えに行ってやることができるなら、そのほうがはるかにいい。だが、これは決闘なんだ! ――おまえにはわかってるのか、それが! これは決闘なんだぞ!」わかりました[#「わかりました」に傍点]、ジョージ。彼女はそうつぶやき、沈黙した。
トランシーヴァーに発信音《クイープ》がはいった。ジョージはスイッチを入れた。画像は出なかった。音声だけだった。マーキュリーのドライバーにちがいない。指向性のタイト・ビームを使い、相手のアンテナを直接ねらうことによって、互いに接触をとることができるのだ。ホットロッダーが相手をおどすときによく使うトリックだった。
「なあ、おっさんよう、あんた本気でおれを殺《ば》らすつもりかい? やってみなよ、おっさん。わるいようにはしねえからさ、ほんと。こっちから行ってやろうか。二、三発くらわして逃がしてやらあ。いい勉強になるぜ」ドライバーの声は乱暴で、なさけ容赦なかった。挑戦されることに慣れた男の、憎々しげな声だった。
「聞け、鼻たれ小僧」自分が感じている以上に高圧的な調子を出そうと、ジョージは一語一語かみしめるようにいった、「いい勉強になるのは、おまえのほうだ!」
マーキュリーのドライバーはけたたましく笑った。
「おっさん、よくもおれをナメてくれたねえ、ほんと!」
「おっさんはやめるんだ、きたならしい変質者め!」
「ウウ――ウィ――ッ、こんどこそアタマに来ちゃったぜ。よっしゃ、おっさん、突っこんでこいよ、いちころにしてやらあ。がんばってな、可愛いおっさんよう!」
交信終了のクイープがひびき、ジョージは指の関節が白くなるほどホイールを握りしめた。マーキュリーが不意に逃走をはじめた。それまで彼らのあいだの距離はちぢまる一方だった。だが、いまやマーキュリーは、十三メートル車線の両側に燃料と水を噴射しながら、バネにはじかれたようにとびだし、遠のきつつあった。「アフターバーナーを入れたな」ジョージはうなり声でいった。ジェット・ノズルの推力を高めようと、マーキュリーのドライバーは噴射ガスに加える水の量を増やしたのだ。マーキュリーのばかでかいエンジンの轟音ががんがんひびくなかで、ジョージは後部プロペラを作動させ、速度をあげた。二八〇。三〇〇。三ニ〇。
ピラーニャはじりじりとマーキュリーに近づいた。あとすこし、もうすこし。ジェシカが自分の抽出しをあけ、耐衝スーツをひらげた。Gスーツの上にそれを着るあいだ、彼女は日曜日のドライブをカミカゼ顔負けの戦いにしてしまった夫をなじった。
ジョージは彼女に黙るようにいい、自動《スリーパー》に切り換えると自分も耐衝スーツにもぐりこみ、火傷よけ軟膏をすりこみ、へルメットを頭にかぶった。
マニュアルにもどすと、彼はマーキュリーのうしろ五十メートルまでふたたびじりじりと近づいた。着色風防ガラスを通して、ガスタービンがくっきりと見えた。「ジェス、ゴグルをつけるんだ――あの小僧に思い知らせてやる」
彼はレーザー格納室をあけるボタンを押した。針のように細いガラス・チューブが、ボンネットの凹所から頭をのぞかせた。彼はダッシュボードを見やり、電力の流出量を調べた。レーザーを作動させるMHD発電機は、充電を続けている。ジョージは、チック・ウィリアムズ・シボレー販売店にオプショソのことをたずねに行ったとき、そこのセールスマンが誇らしげにまくしたてたレーザー銃の能書きのことを思いだした。
(ダイナマイト商品でっせ、ジャクスンさん。こんなすごいやつはちょっとない。MHD〔電磁流体力学《マグネト・ハイドロ・ダイナミック》〕 発電機をフルにはたらかせるんですからねえ。防御武器としちゃあ最新のものです。ご存じでしょうが、CO2レーザー[#「O2」の「2」は下付き添字]で充分な威力を出すには、一マイルくらいのガラス・チューブを用意しなきゃならない。これじゃ、どういっても実用的じゃないでしょう。で、シボレー・ボンベイ工場のプロジェクト・エンジニアが総がかりで開発したのが、「収束」方式。鏡の反射を利用してガラスをひとつにまとめちまうんです――ひきのばせば三〇メートル、エンド・ゾーンまで含めたフットボール・フィールドの長さになる。使いかたは三通りあるんですよ。一九〇以下ならどんなスピードでも、むこうさんのタイヤに穴をあけられます。むこうさんがGTに乗ってるなら、狙いをケロシン燃料タンクに向ければいい。ふっとんでっちゃいますぜ。スターリングを積んでるようなら、ラジエーターをオーバーヒートさせりゃいい。ラジエーターがエンジン以上に熱くなったら、もうあきまへんからね。ダイナマイトでしょうが。それから――これはちゃんと管制局から認可が出てるんですがね――頚静脈を直撃することだってできます。ドライバーに直接ビームを向けるんですよ。きれいな穴があきますぜ。ダイナマイトでしょうが!)
「よし、買おう」ジョージはつぶやいた。
「なんですって?」ジェシカがたずねた。
「なんでもない」
「ジョージ、ホットロッド狂みたいなことはやめて、あなたには家庭があるのよ!」
「うるさい!」
つぎの瞬間、ジョージはそういったのを後悔していた。妻は彼のためを思っていったのだ。こんなことになったのは、ただ――とにかく、男というものは、ときには面子のために命をかけなければならないということもあるのだ。彼は横目で妻をながめた。陶器の小円盤が重なりあい、さながらアルマジロを思わせる耐衝スーツ――それにくるまって助手席にすわる彼女の姿は、輸送機のパイロットのように見えた。顔は防護へルメットに隠れて見えない。ひとこと詫びたいと思ったが、すでに対決の瞬間が来ていた。彼はレーザーの銃口をマーキュリーに固定すると、発射ボタンを押した。目もくらむ光束が、ピラーニャのボンネットからほとばしりでた。マーキュリーがエアクッションで走っているのを考慮し、狙ったのは燃料タンクだった。
だが、マーキュリーはとつぜん彼の前から姿を消していた。彼が発射した瞬間、ドライバーが左の十三 メートル車線に飛びうつり、急激に速度をおとしたのだ。マーキュリーは彼らのわきをすりぬけて、みるみる小さくなった。
「うしろにまわりやがった!」ジョージはどなった。
つぎの瞬間、スパンダウの銃弾がシボレーの横腹をねらって飛んできた。彼はコンソールをたたきつけると、防弾スクリーンをあげた。だが遅かった。ベリリウムの表面に点々と弾痕が現われ、その下から、車体に軽量の機動性を与えている硼素繊維のフィラメントがのぞいた。「ちんぴらめ!」生きた心地もなく、ジョージはかすれ声でいった。うしろからのしかかられたら運のつきだ。
彼はホイールを左に切ると、フラップをおろし、二つの車線にまたがるように大きな弧を描きながらピラーニャを蛇行させた。しかしマーキュリーをふりきることはできなかった。スパンダウの鈍い発射音が聞こえてくる。スクリーンはもちこたえるだろう。だが、むこうはほかにどんなものを備えているのか? 管制オペレーターが話していた「秘密オプション」とは何なのか?
「よけいなことをするから、こんなふうになるのよ!」
「ジェス、黙れ! 黙らんか!」
トランシーヴァーから発信音《クイープ》がひびいた。なおも蛇行を続けながら、彼はスイッチを入れた。こんどの送信は、マイクロウェーブ・ビデオで行なわれた。顔をゆらゆらと現われた。おさな顔ののこる若者だった。まだ十代だろう。
「ガキめ! きたならしいガキめ!」ジョージは金切り声をあげながら、背後にまわりこみ、加速しようとした。それは失敗に終わった。赤いマーキュリーは|尾びれ《テイルフィン》がのうしろにぴったりとくっつき、撃ちつづけている。そのうちの一発がラジエーター|尾びれ《テイルフィン》にでもあたりきはね飛んで、エンジンにでもとびこんだら……原子炉の鉛の遮蔽材を貫通したら……。アルマジロのなかで身をちじめ、ジェシカは泣いていた。
彼女がいちはやくGスーツを着たのを、ジョージは内心うれしく思った。これからちょっとした不法行為をしなければならないのだ。
「なあ、おっさんよう。となりのわれめちゃん、見せてくんないかよう? クリーム色でぼちゃぼちゃしてんなら、つぎのストップでおろしてやらんこともねえぜ。あとでおれが拾いに行ってやらあ。おっさんの保険金もはいるしよう、おれといっしょに乗りゃあ、一生ウハウハさせてやるぜ」
「シラミたかりのガキめ! 死ぬのは、きさまが先だ!」
「トサカに来ることよくもいってくれるじゃねえか、とっつあん。がんばってっていいたいとこだけど、もう終わりだよ。このすてきな坊やちゃんに、さいならしときな。死ぬのはあんたなんだからな、とっつあんよう!」
ジョージは言葉にならぬ声でわめいていた。若者は気ちがいじみた笑い声をあげた。何かクスリをやっているらしい。フェロコークだろう、たぶん。それとも、D4か。メリイルーか? 彼の若々しいブルーの眼は、蛇のように邪悪に輝いていた。
「お相手するドライバーの名前を教えてあげたいと思ってさ、とっつあん。ビリーって呼んでくれよな」
そして若者の姿は消えた。マーキュリーがするすると追いついてきた。そのときジョージは気がついた――すくなくともあのようすでは、車にレーザーをとりつけさせる金銭的余裕はとてもないにちがいない。この発見はもうけものだった。だがスパンダウは防弾スクリーンを執拗に削りつづけている。スクリーンはこの種の長時間の責め苦にはそう強くないのだ。くそっ、デトロイトの鉄屑め!
不法行為をおこす以外に方法はない。
こんなことができるのも、Gスーツがあればこそだった。交通法規を無視し、車線にまたがってUターンを強行するのだ。これが、Gスーツなし、時速四〇〇キロ――彼はスピードメーターとタコメーターで数字を確認した――のUターンなら血液は体の片側に押しつけられてしまう。Gスーツは体の片側をしめつけて、血液が一個所にとどまろうとするのを防ぐのだ。なんとか生きのびられるだろう。もし……
彼は思いきりホイールをまわすと、アクセルを踏みこんだ。マーキュリーは旋回して、ジョージの動きをとらえた。逃がれるチャンスはなかった。不法なターンを強行したものの、両者の位置は同じなのだ。だがマーキュリーとの間隔は数十メートルにひらいた。そのときトランシーヴァーが鳴った。スイッチを入れる間もなく、頭上を飛ぶ警察のへリから威厳のある声がタイト・ビームで送られてきた――
「XUPD八八三二一。警告を与える! 同様な行為をもう一度くりかえした場合、きみは決闘法規違反で逮捕される! フリーウェイ上の標準的エチケットを守り、車線にそって運転するように!」
そして送信終了のクイープがひびいた。ジョージは、宇宙の暗黒が軟泥のように自分の周囲におりるのを感じた。法が彼を殺そうとしている。
脱出しよう。シートが彼とジェシカを救ってくれるだろう。それを話そうとして妻のほうを向いたが、彼女は気絶していた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう[#「どうしてこんなことになってしまったのだろう」に傍点]? 彼は心にいった。慈悲ぶかい神さま[#「慈悲ぶかい神さま」に傍点]、誓います[#「誓います」に傍点]、もしここから生きて出られましたら[#「もしここから生きて出られましたら」に傍点]、決して決して決してこんなバカなことはいたしません[#「決して決して決してこんなバカなことはいたしません」に傍点]。後生ですから[#「後生ですから」に傍点]、神様[#「神様」に傍点]。
そのときマーキュリーがふたたび追いついてきた。そして、となりに[#「となりに」に傍点]ならんだ!
マーキュリーの助手席の窓がおりた。ジョージは若者に一瞬視線を走らせた。ビリーの唇は、風圧と加速のためめくれあがっていた。その手には・四五が握られている。ジョージはとっさにバンバーのボタンを押した。
超伝導磁気バンパーがはたらきだし、ビリーを磁場に引きこんだ。両者はすさまじい勢いで衝突し、ビリーの手から・四五をはじきとばした。衝突の瞬間、ジョージはすきを見て速度をおとした。一瞬のちには、彼はふたたびマーキュリーのうしろを走っていた。
いまや彼はむきだしの獣性に支配されていた。あるのは殺意だけ。相手をたたきのめすのではない、傷つけるのではない、制止するのではない――殺すのだ[#「殺すのだ」に傍点]。神に懇願したことなどすっかり忘れていた。
彼はレーザーをまわし、風防バブルを狙った。照準器がバブルのうしろをとらえ、ビリーの後頭部で停止したとき、ジョージは発射した。まばゆい光束が、バブルにぶつかった瞬間、黒点が現われた。それはレーザーがはたらいているあいだ数秒、そこに残っていた。光束がとぎれると黒点も消えた。恐怖と絶望にうちひしがれ、ジョージはののしり、叫び、泣いた。
周波数感応レーザー遮蔽バブルーレーザー光線が接触した瞬間、バブルを形成する化学物質が――一定の周波数に感応して――一時的に不透明になるのだ。とうに気づいていなければならないことだった。ビリーのような決闘狂が武器に精通しているのは当然のことであり、フリーウェイでおこるあらゆる事態にそなえているものなのだ。これが秘密オプションのひとつなのか。ジョージは、防護へルメットの空洞のなかでむせび泣いている自分に気づいた。
マーキュリーがふたたび横にとび、ジョージが予測もしなかった不可解なジグザグ運動をはじめた。そして、ふいに速度をおとした。ジョージはあやうくまっ赤な車体のジェット・ノズルに追突するところだった。
急カーブを切ったので、またもやビリーがうしろにまわり、彼を追撃するかたちになった。ジョージはプロペラを全速回転させ、逃げきろうとした。四二〇 。四四〇 。四六〇 。
そのときシューシューという音が聞こえ、彼はふりかえった。車体後部がめくれはじめていた。なんてことだ、彼は恐怖におそわれた、レーザーが買えないので[#「レーザーが買えないので」に傍点]、やつはかわりに誘導ビームをとりつけたのだ[#「かわりに誘導ビームをとりつけたのだ」に傍点]。
ビームは、シボレーのベリリウムの車体表面に強い乱気流をつくりだしていた。外殻が破れれば――
もう助からない。ジェシカも。
それも、あのちんぴら――シラミたかりのガキひとりのために!
マーキュリーは自信たっぷりに距離をつめてくる。
ジョージは必死に考えをめぐらした。そこには、恐慌におちいった脈絡のない思考があるだけだった。スピードメーターとタコメーターはともに同じ数字を示していた。時速四八〇キロ。
エアクッションにうかんで。
パニックのなかでアイデアがひらめいた。
それが唯一の可能性だった。彼は防護へルメットをはぎとると、おぼつかない手でジェシカのそれもはずした。そして二つのへルメットを膝の上にかかえ、自由のきく手で運転席の窓をおろした。加速された猛烈な風が唇をめくれあがらせ、頬をふかぶかとえぐり、ジェシカの顔だちをデスマスクそっくりに変えた。
防護へルメットのストラップをにぎりしめながら、風圧にさからって、ようやくそれらを窓のへりまで運ぶと、手をはなした。そして窓をしめ、急ブレーキをかけた。
大きな二個の防護へルメットはすこしのあいだ宙を舞い、路面にぶつかってマーキュリーの正面にころがった。それらが車台の下に消えたとたん、マーキュリーは路面に接触した。ジョージはわきにのき、急いでスピードをおとした。
マーキュリーはぶつかったショックではねあがり、ふたたびぶつかり、はねあがり、ぶつかり、はねあがり、ぶつかった。車のなかでもんどりうっているビリーの姿が、ジョージのピラーニャから見えた。
マーキュリーは車輪をひっこめたまま、フリーウェイの上を四百メートルほどすべり、中央分離帯の隔壁に衝突して空中に高くおどりあがると、きりもみ状態で降下した。それはバブルを下にして路面に激突した。閃光と黒煙をともなった爆発がおこり、シボレーの車体が爆風でゆれた。
フリーウェイ上二インチの中空にうかび、時速四八〇キロで疾走する車のバブルが破裂すれば、なかの人間はひとたまりもない。彼は決闘に勝ったのだ。ビリーは死んだのだ。ジョージはつぎの待避所で車を停め、シートのなかでくつろいだ。ジェシカがやっと息をふきかえした。彼は話す気力もなく、ホイールにかぶさって震えていた。
彼女は夫を見やり、その肩に手をのばした。Gスーツと耐衝スーツを通して伝わった、あるかなきかの圧力に、ジョージはとびあがった。彼女は話しかけようとしたが、そこでトランシーヴアーのクイープに気づき、スイッチを入れた。
「こちらは管制局です」オペレーターはほほえんでいた。
ジョージは目を上げようともしなかった。
「おめでとうございます。違反に該当する行為がひとつだけあったようですが、それを別にすれば、あなたの決闘は法律上もうしぶんのないものであることが認められました。なお、あなたが挑戦されたお相手は、中部および東部地区フリーウェイ・サーキットでナンバー・ワンにランクされていた方です。ボニー様が退場されましたので、あなたのお名前をこちらの決闘記録に記載させていただきます。それから保険会社より、二十四時間以内に小切手を郵送するとの通知もまいっております。
本当におめでとうございます」
トランシーヴァーが沈黙すると、ジョージは色彩あふれる駐車場を視界にとらえようとした。これほどおそろしい思いをしたことはない。もう二度とあんなふうには車を使うまい。あれはどこかにいる別のジョージがやったことだ、自分ではない。
「わたしには家庭がある」彼はジェシカの言葉をくりかえした。「それに、これはファミリー・カーなんだ……もう……」
ジェシカはいたわりのこもった微笑をうかべていた。二人は手をとりあった。彼は泣いていた。
いいのよ[#「いいのよ」に傍点]、ジョージ[#「ジョージ」に傍点]、しかたなかったんですもの[#「しかたなかったんですもの」に傍点]。もういいの[#「もういいの」に傍点]。彼女はそういっていた。
トランシーヴァーが鳴った。
ジェシカがスイッチを入れると、オペレーターが彼女にほほえみかけた。「おめでとうございます。勝利の知らせを聞いて、あなたへの決闘の申込みが殺到しております。管制局ではすでに十五人を受けつけました。最初の挑戦者は、ダラス市のロニー・リー・ハウプトマン様。もう出発されたとのことなので、今夕六時十五分ごろにはそちらに到着なさると思います。ハウプトマン様が敗退された場合には、カリフォルニア州チャッツワースのフレッド・ブル様……フィラデルフィア市のレオ・ファウラー様……エミール・ザレンコ様……」
ジョージはリストを聞いていなかった。彼はこわばった指で、体を幾重にもしめつけるGスーツと耐衝スーツから抜けだそうとあがいていた。だが、それが無駄な努力であることは知っていた。彼は戦わねばならないのだ。
このフリーウェイの世界では、人間の歩く余地はないのだから。
[#地から2字上げ]ペンシルヴェニア州クラリオン州立クラリオン・カレッジ 一九六八年
[#地から2字上げ]ロサンジェルス 一九六九年
[#改丁]
不死鳥 [#地付き]浅倉久志訳
Phoenix
[#改ページ]
風に波立つ赤い砂の中に浅い墓を掘って、おれはタブを埋めた。ヒステリックな夜行獣が死骸を掘りかえしてずたずたに食いちぎるのを防ぐだけの深さはない。しかし、それでいくらか気分が楽にはなった。最初のうちは、マーガとその亭主のブタ野郎の顔も見たくなかった。だが、いよいよ出かけるとなると、荷物を作りなおさなくちゃならない――いままでタブが背負っていた分を、おれたち三人のリュックに詰めこめるだけ詰めこむのだ。おふたりさんの憎悪をむきだしにした目つきには、ほとほと手を焼いた。しかし、この悪魔の土地、くそいまいましい血の砂漠をてくてく十五、六キロも歩くうちに、むこうもだいぶおとなしくなってきた。団結が必要だということが、身にしみてきたのだろう。生きてここを出るためには、そうするしかない。
頭上の太陽は、火のついた杭の先をつっこまれた大目玉だった――そこからだらだら流れる血が、まわりのくそったれな砂漠を赤一色に染めている。理屈に合わない話だが、おれは熱いコーヒーが飲みたかった。
水。水もほしい。それとレモネード。グラスのてっぺんまで氷のつまったやつ。アイスクリーム。それともアイスキャンデー。おれはかぶりを振った――ひとりごとはよせ。
赤い砂。おれたちがのろのろ横切っているこの砂漠は書割りだ、現実であるもんか。砂ってものは黄土色だ、茶色だ、灰色だ。赤くはない。太陽の目を突き刺して、地上に血を流させないかぎりは。ああ、大学へ帰れたらなあ。研究室を出た廊下のすぐ先に、ウォーター・クーラーがあった。あのウォーター・クーラーが懐しい。いまでもはっきり思いだせる。アルミニウムのひやっこさ。ペダルを踏むととびだす水のアーチ。ちきしょう、頭にうかぶのは、あのどっしりと美しいウォーター・クーラーのことだけだ。
いったい、おれはこんなところでなにしてる?
伝説を探してる。
その伝説は、もうすでに、おれの有り金残らずを、万一に備えておいた最後の一セントまでを、おれからもぎとってしまった。しかも、これは万一の場合どころか――まるきりかけ値なしの気ちがいざただ。おれの親友、おれのパートナーのいのちを奪った気ちがいざただ――タブは死んだ……熱射病で――あえぎ、のどをかきむしり、白目をむき、舌をだし、顔が青黒くかわり、こめかみの血管がピクピク――考えまいとしても、その顔が前にちらつく。断末魔の彼の顔が、果てしない地平線上の黒い竜巻のように、揺れながら宙にうかんでいる。あの顔――おれがその上に赤い砂をかけ、この砂漠のうすぎたない獣のために残すことにした、その一瞬前の顔が。
「まだ休憩しないのか?」
おれはマーガの亭主をふりかえった。この男にも名前はあるのだが、おれはいつも度忘れしてしまう。いや、思いだしたくないのだ[#「思いだしたくないのだ」に傍点]。まぬけな、いくじなし野郎。その長いまっすぐな髪の毛は、やつの頭皮からあらゆる水分を吸い上げ、それをぬらぬらした雫に変えて、うなじへポトポト垂らしている。禿げ上がった生えぎわからまっすぐ後ろへなでつけられた髪は、耳のまわりへべっとり絡みついている。やつの名はカートかクラーク、なんでもそんな名だった。別に知りたくもない。どこかの涼しい真白なべッドの上、エアコンの軽い唸りの中で、やつがマーガの上に乗っかり、情熱で体をハンダづけしている図なんて、なおさら想像したくもない。このくそ野郎なんか知ったこっちゃないのだが、やつはとにかくそこにおり、おれの五、六歩あとをふうふう言いながらついてくるのだ。リュックの重みに、体をくの字にして。
「もうすぐ休憩する」おれはそういうと、歩きつづけた。
このくそったれ! タブの代りに、おまえが死ねばよかったんだ!
ありうべくもない露頭を砂漠の中に突き出した岩の蔭、どことも知れぬ凍てつくような虚無の一角に、おれたちはケミカル・ストーブを組み立て、マーガが夕食を作った。だしがらみたいな、パック入りの肉。こんな探険旅行には不向きの、俗っぽい選択――これもブタ亭主のまぬけさの一例だ。おれはクチャクチャやった噛みかすを、やつの耳の穴へつっこんでやりたかった。あとは、プディングらしきもの。これで最後の水。ブタ野郎が、三人の小便を蒸溜して飲もうといいだすのを、おれは待ちかまえた。だが、これはとんだ待ちぼうけだった。やつはその豆知識すら知らないのだ。まあ、やつにとっては運がよかったわけだが。
「あしたはどうするつもりかね?」鼻声でいう。
答えてやるものか。
「食べなさいよ、グラント」マーガが顔も上げずにいった。彼女は、三人ともそれを望まない我慢の極限にまで、おれが押しやられていることを知っている。なぜ彼女は、おれたちふたりが前からの知りあいだったことを、やつに話さないんだ? どうしてこの沈黙の背骨をへし折るために、なにかをしゃべらないんだ。この狂ったジェスチュア・ゲームは、いつまでつづくんだ?
「いや、わたしは知りたい[#「知りたい」に傍点]!」と、ブタが叫んだ。すねた子供のような声だった。「わたしたちがこんなことになったのも、もとはといえばきみ[#「きみ」に傍点]のせいだぞ! さあ、はやくここから出してくれ!」
おれは知らん顔をつづけた。プディングは、バターボールとモルタルを練った味がした。やつはプディングの空きカンをおれに投げつけた。
「返事をしろ!」
おれはやつにとびかかった。ストーブをとびこえて、やつを組み伏せ、両膝をやつののどに押しつけた。「いいか、坊や」それはおれの声のような気がしなかった。「ぎゃあつくわめくな。もう、きさまにはうんざりした。一日目からうんざりしてたんだ。もし、おれたちが尻まで金につかってここから帰れたら、きさまはそれが自分の手柄だとみんなに言いふらす気だ。もし、おれたちが文なしになるか、それともここで死んだら、きさまはそれをおれのせいにする気だ。さあ、これでどういう選択のみちがあるかわかったなら、二度とつべこべほざくな。そこに寝るか、それともプディングを食うか、それとも死んじまえ[#「死んじまえ」に傍点]、このゴキブリ野郎。だが、おれに命令[#「命令」に傍点]だけはするな。こんどしやがったら、のど笛を押しつぶしてくれるぞ」
やつがおれのいったことを一言でも理解したかどうかはあやしい。こっちは憎しみと怒りに気が狂いそうで、口から泡を吹き、うわごとのようにしゃべっていたからだ。おまけに、やつは気絶しかけていた。
マーガがおれを彼からひき離した。
おれは自分の場所にもどり、星を見上げた。たった一つの星も出ていない。今夜はそういう夜ではなかった。
何時間かのち、マーガがこっそりおれのそばにやってきた。おれは眠っていなかった。骨にしみる寒さ、寝袋の温熱毛布の下にもぐりこみたい欲求をこらえていた。寒いままでいたかったのだ。おれの中の憎悪を凍らし、自己嫌悪を冷やし、殺したいほどの憤怒の温度を下げたかったのだ。マーガはしばらくそこにすわり、おれを眺め、おれが目をあけているかどうかを闇の中で見きわめようとした。おれはばっちり目をあけた。「なんの用だ?」
「あなたと話がしたかったのよ、レッド」
「なんの話を?」
「あしたのこと」
「話すことはなにもない。うまくいきゃいいし、だめならだめなんだ」
「彼、おびえてるのよ。そのへんをすこし斟酌――」
「ことわる。やつに斟酌してやる気なんて、ここから先もない。考えてみると、これまでにいやほどそうしてきたんだ。きみの亭主にもない高尚さを、おれに要求されても困る。もともと育ちはよくないんでね」
マーガはくちびるをかんだ。彼女も苦しいだろう。それはわかる。おれだって、そうできるものなら、手をのばして彼女の髪にさわりたい気持なのだ。そうすれば、いくらか慰めになるかもしれない。おれはそうしなかった。
「彼は運のわるい人なのよ、レッド。これまで取引で何度も失敗しているの。だから、こんどのことは、彼にも大きなチャンスだったんだわ。乾坤一擲のチャンス。それをわかってやってちょうだい……」
おれは起きなおった。「奥さん、おれはガレー船の櫓をこぐ奴隷みたいなもんだった。それは知ってるだろう、ええ? きみはおれの両耳をつかんでいた。おれをきれいに丸めこんでいた。だがおれは、きみにふさわしい聖職者階級のお偉方じゃなかった。だろう? おれは紫の法衣を着ていなかった。おれはただの労働者、一介のプロフェッサーだった……なにも利害関係がないときには、恰好のベッドのお相手さ。しかし、そこへ総金歯のブタが現われたとなると!」
「レッド、やめてよ!」
「やめてよ、か。いいとも。仰せにしたがうぜ」おれはごろりと岩のほうへ寝返りをうち、マーガに背を向けた。マーガは長いことそこを動かなかった。眠ってしまったのだろうか? おれは彼女に寄りそいたかった。だが、いましがた、おれは彼女の面前へバタンとドアを閉めきってしまったのだ。
やがて、マーガが、こんどは前よりもやさしい声でたずねた。
「レッド、うまくいきそうかしら?」
おれは寝返りをうち、マーガを見上げた。暗くてよく顔が見えない。影にむかって丁寧な物言いをすることは、たやすかった。「わからない。きみの亭主があんなふうにタブとおれの食料を削らなければ――おれが要求したのは全体の三分の一だけだったのを、おぼえてるだろう?……それも食料だけだ。もし、やつがあれを削らなかったら、タブも死なずにすんだろうし、おれたちにもいまよりもっとチャンスがあっただろう。磁気グリッドの読みかたにいちばん詳しいのは、タブだった。おれにもできないことはないが、なにしろタブはあれの発明者だ――タブなら、五百メートルとは狂わない、細かい計算ができた。もし運がよければ、もし、これからおれのしでかすコース決定のまちがいがたいして苦にならないほど、おれたちがその現場のそばにいるとしたら、まだそれにでくわす見こみはある。それとも、つぎの地震がおこるかもしれない。それとも、オアシスにいきあたるかもしれない。だが、おれはそのうちのどれにも賭ける気はないね。それを決めるのは、すべて神々だ。なんなら、半ダースほどきみの好きな神さまを選び、そのストーブを祭壇に見立てて、いまから信心をはじめるか。朝までには、この危機を乗りきるだけのご利益がさずかるかもしれんぜ」
そこまで聞いて、マーガはおれのそばを離れた。おれは別になにを考えるということもなく、じっと寝そべっていた。マーガがやつのそばに身を横たえると、やつは鼻を鳴らし、眠ったまま彼女によりすがった。子供のようにだ。おれは泣きたくなった。だが、今夜はそういう夜でもなかった。
失われた大陸にまつわる伝説のいろいろを、おれは小さい頃から聞かされて育った。黄金の都のこと、そこに住んでいたふしぎな人びとのこと、そして、大陸が沈んで海にのみこまれたとき永久に失われた、驚くべき科学のこと。おれはすっかり夢中になった。子供は、ふしぎなものや、未知なものや、魔法の世界に夢中になる。そして、一生それを失わない。考古学の道に進んでからも、それはつねに胸のときめく手がかりであり、参考資料でありつづけた。そして、ついにおれは、そのおぼろげでふしぎな過去に海であった場所が、いまは砂漠になっている、という仮説を立てた。不毛の砂は、遠い昔に沈下した大洋の底なのだ。
タブは、おれの夢がつかんだ現実への最初の手がかりだった。タブは最初から一匹狼だった――大学でさえもだ。正教授の地位にあっても、一種の夢想家扱いをされていた。専門分野では一流だが、時間の歪みの場とか、過去は決して死んでいないとか、そんなたぐいの狂的な空想や仮説にとりつかれている、というわけだ。おれたちは、それ以前から友だちだった。別にふしぎはない。彼にはだれかが必要だったし、おれにもだれかが必要だったのだ。男どうしがおたがいに愛を感じることはありうる。性的な意味でなく、だ。ひょっとしたら、それ以上のなにかがあったのかもしれない。タブはおれの親友だった。それ以上の深い意味までさぐったことはない。
やがて、タブは自分の考案した機械をおれに見せた。時間地震計なるしろもの。タブの仮説は、これまでの正統的な学術書にはおよそ暗示されたこともない、数学と難解な論理にもとづく、奔放なアイデアだった。彼の説によると、時間には重さがある。何世紀もの重みが、生きものと、生命のない岩石とを等しく押しつけている。したがって、時間が蒸発すると――それを彼は時間漏失[#「時間漏失」に傍点]と呼んだが――大陸のような巨大なものでも徐々に上昇してくる。埃をかぶった、衒学的なおれの同僚諸氏にはとても説明しきれなかったが、この仮説は、地表のたえざる再形成を、ある気ちがいじみたやりかたで解明していた。そこで、おれは提案した。ひょっとしたら、おれたちふたりで、あの伝説の源を見学できるんじゃないか、ひょっとしたら……。
タブは大笑いし、子供のように手を打ってはしゃいだ。さっそくおれたちは計画の準備にとりかかった。やがて、すべての断片が一つにまとまりはじめた。おれがかねてから候補地の一つに選んでいたある砂漠地帯に、地震が頻発しだしたのだ。
ようやく、おれたちは確信をもった。それは起こりつつある。
失われた大陸が、上昇をはじめたのだ。
資金の必要なのは、最初からわかっていたことだった。ところが、資金の工面がつかないだけでなく、計画そのものが二人の狂人の思いついた気ちがいざたと見なされて、おれたちの学界での地位まで危ういありさまになった。そこへ、あの亭主が名乗り出てきたのだ。やつは、手にするものすべてを成功の黄金に変えられるような口ぶりだった。おれたちは契約を結んだ。こっちは、科学と、技術と、探険隊を提供する。むこうは資金面の援助をする。こうして、おれたちが発掘の現場へと出発するだんになって、やつはマーガを同伴してきておれを驚かせた。タブのためにも、そこでひきかえすことはできなかった。いまタブは死に、おれはこの世でだれよりも憎いふたりの人間といっしょに、生死の境をさまよっている。
あくる日の火に包まれた旅も、前日と似たようなものだった。これ以上ひどくはなりっこない。
その昼さがりに、獣の群れがおそってきた。
おれたちは、磁気グリッドで見ていちばん震動の強い地域にはいったところだった。へたをすると五百キロぐらいずれている可能性はあるが、ダイアルの示度は大きい。タブの機械――タブが一生を費して作りだした、小さなすばらしい装置――に、おれが全神経を集中しているとき、マーガがおれの名を呼び、地平線にポツポツと現われた黒点を指した。足をとめたおれたちは、しだいに大きくなる黒点を見つめた。まもなくわかったのは、それが……なにか[#「なにか」に傍点]の群れであることだった。
やがて、高まる不安の中で、その一つ一つの形が見わけられるまでになった。おれは同時に恐怖と興奮とにかられた。それがなにものの群れであるにしろ、おれの知るかぎり、かつてこの地表、すくなくとも文明期の地表に存在しなかった生き物であることはたしかだ。獣の群れは、信じられぬほどの速さでこっちへ駆けよってくる。やがて、その体つきがはっきり見わけられるようになったとき、マーガが気も狂わんばかりの恐怖の悲鳴を上げた。むりもない。おれでさえ、うなじの毛が逆立つ思いなのだ。マーガの亭主が逃げだそうとしたが、こんな平地の真中に逃げ場があるはずはない。やがて、むこうはおれたちにおそいかかり、肉を食いちぎりはじめた。おれは折りたたみ式のシャベルを長さいっぱいまで伸ばし、そいつを武器にした。力まかせにふりおろした一撃が、凶悪な一ぴきの首すじにあたり、異様にみにくい頭が半分ちぎれた。獣のよだれと、血しぶきと、毛皮の断片が、体じゆうにべっとりはねかえってきた。おれは恐怖で目がくらみ、獣の犬に似た吠え声で耳がつんぼになったが、それでもやつらに体をズタズタにされたマーガの悲鳴は聞きとれた。
どこをどうやってのけたか、とにかくおれはやつらを撃退した。むかつくような臭いの死体が、ごみ屑のように砂漠に散らばり、犬に似た獣の何びきかが、断ち割られた胸をまだピクピクふるわせている。まだ息のあるやつらを、おれは端から順々に片づけていった。
マーガが見つかったのは、そのあとだった。彼女はまだ死にきってはいなかった。そして、最後の苦しい息の下で、彼の面倒を見てやってくれと、おれにたのんだ。あの亭主の面倒をだ。そして、おれの手から永久に去っていった。
おれたち――彼女の亭主とおれ――は、ふたたび歩きだした。おれたちは歩きだし、そしてその瞬間から、すじ道立った考えはもうなにひとつうかばなくなった。だが、おれたちは歩きつづけた。それを見つけたのは、翌日だった。
それは真紅の砂の上にそそり立っていた。これがもし六ヵ月前なら、かりにおれたちがその真上を通ったとしても、自分たちのブーツの下で、伝説の中の失われた大陸が刻々と光にむかって上昇していることを、まったく気づかずにいただろう。これがもし六ヵ月後なら、その街路や深い地下室までが、渦巻く砂から完全に解放されていたかもしれない。水の中を気泡が上昇するように、それははるかな地底から上昇してきたのだ。
朽ち果て、崩れおちたその廃墟は、おれたちより前にここに住んでいた別の人類、驚異の種族が、塵と忘却の中にその時代をおわるまでにあやなした、すべての運命のドラマの巨大な、声なき証言だった。あの犬に似た獣たちに、かつてなにが起こったのかを、おれは知った。いまおれの立っているここにかつて存在した魔法の大陸、驚異の都市のいのちを奪ったものは、天災ではなかった。そこには、まぎれもない戦争の爪痕があった。おれのもってきた放射能探知器が、狂ったようにさえずっている。彼らの愚かしさに、おれは苦笑すらする気になれなかった。あまりにも無分別に捨て去られた壮大な都市の眺めに、のどがふさがった。そう、時間はまさに循環するのだ。人類は過ちをくりかえすのだ。
マーガの亭主が、粗野な顔に畏怖と驚きをうかべて、まじまじと目を見はった。「水だ!」熱にうかされたような声で、「水だ!」
そして、都市のほうへと走りだした。
おれはやつに呼びかけた。何度も。小声で。行かせてやれ。あの夢の城の中にやつが休息を求めたいのなら、自由に行かせてやれ。おれはやつを見送り、ゆっくりとそのあとを追った。
やつを殺したのは放射能かもしれず、それとも地下の溜りから洩れる有毒ガスだったかもしれない――この魔法の都の街路に、そのどちらもがまだ息づいているのは確かだった。探知器を使っていちばん放射能の強い地域を避けながら、回り道で都市の内部へたどりついたあと、おれはやつを見つけた。いまにも破裂しそうにふくれあがり黒ずんだその顔も、やつの断末魔の苦悶を見届けたいというおれの渇を癒すほどには凄惨でなかった。
おれは疑問の余地ない証拠品を、いくつか見つけた。道具、装飾品、機械――どこの大学の博識な老大家も夢にも知らない、遠い太古の遣物を。そして、おれはいまきた道をひきかえしはじめた。必ず生きて帰ってみせる。生きて帰れるにきまっている。いまや、ひとりぼっち。だが、おれには自分を動かしつづけるものがある。タブのためにも、マーガのためにも……そして、あの亭主のためにも、おれはなんとかアトランティスへ生きて帰らねばならない。そして、みんなに知らせるのだ。時がまさしく循環することを。ニューヨーク市が、地の底からその頭をもたげたことを。
[#地から2字上げ]ペンシルヴェニア州、クラリオン州立クラリオン・カレッジ 一九六八年
[#改丁]
眠れ、安らかに [#地付き]浅倉久志訳
Asleep: With Still Hands
[#改ページ]
サーガッソー海の底深く――〈睡眠者《ザ・スリーパー》〉
おたがいの明日を待ちうける――リーフとロレイン。
地には平和。ありあまるほどの平和。
そして、これから六百年を殺そうとする男、アボット。
リーフ側の一隊は、不透明化し殺戮の決意をかためて、六百年前に〈睡眠者〉の埋めこまれた海図上の座標点へと急行中だった。攻撃艇(スミソニアン博物館の陳列室から復活したもの)の内部で、とつぜん計器盤からひびいた探知警報のブザーに、アボットはふりかえった。一瞬、磨きぬかれた隔壁の上を、彼の顔の鏡像が横切る。チョコレート色の皮膚、きらきらした目、ソバカス、独特なかっこうの鼻――急な動きでぼやけてはいたが、まぎれもない自分の顔だ。
「測定!」彼は中尉に命令した。
中尉は計器盤の上の三つの大きなボタンを押した。走査スクリーンがその明度を上げていく。時代遅れだが強力な滑水艇のイメージが、サーガッソー海の闇と浮遊塵のもやの中から、じょじょに迫りより、凝結を見せはじめた。
「示度は?」アボットがうながす。
「敵の針路はわが船首をかすめる見込み」
「その予定時刻は」
「おそらく――一分半後に」
アボットは海図棚を拳固でなぐりつけた。旧ペンサコラ潜水艦修理ドックをひそかに出発して以来、彼が怒りにかられたのはこれがはじめてだった。この使命が失敗に終わるのではないかという可能性、〈睡眠者〉のところへの一番乗りができず、それを停めるのに遅れをとり、ロレイン側との戦いに先手をとりそこなうのではないかという可能性に思いあたり、かっと頭に血がのぼったのだ。
アボットは艇内の六人をふりかえった。「中尉は走査をつづけろ。あとのものは、おれとつながれ」
リーフ側の隊長は、ゼラチン・タンクの中に沈みこみ、目を閉じた。あとの五人の部下もそれにならい、それぞれの座席を調節して、タンクの黄緑色の物質の中に全身をじわじわと没していった。
たちまち、アボットは自分の心に五人が接触するのを感じた。彼は自分の心の焦点のうしろに彼らを並ばせ、いつでもその力を放出できるように準備してから、滑水艇とロレイン側の一隊にむかって、ひそやかな探索を進めていった。探索の目標が一つの圧迫点にまで縮まったとき、彼は目標を離れ、心の焦点へととって返した。それから、こんどは五人の力とともに突進し、目に見えぬ電光のようにすばやく圧迫点を一撃した。
圧迫点は、ロレイン側の一兵士の心の中にあった。念力のビームがそこに命中したとたん、兵士の頭蓋は黒焦げになり、両眼は燃えつきた。ロレイン側の隊長はあわてて自分の思念障壁をおろし、それを広げて部下を包みこんだ。それが間一髪で彼らを救った。
燃えつきた死骸はまだ直立したまま、そのうつろな黒い眼窩から、パチパチとはじける閃光を滑水艇の内部へ送りこんでいた。五乗の強さに高められたアボットの念力線が、死人の顔から跳躍し、あたりを焼き焦がすのだ。死体はそれが内包する力でぎくしゃくと動き、その意志のない両腕を翼のように羽ばたかせ、両脚をくにゃくにゃとねじり、首をふらつかせ、その両眼からほとばしる恐るべきエネルギーの泡で、あたりを焼きはらい、黒焦げにした。
隊長のはりめぐらした思念障壁に護られて、ロレイン側の兵士たちは、彼らの仲間の変わりはてた姿に恐怖の目を見張った。ロレイン側の隊長は目をそむけ、ごくんとつばをのみこんだ。それから、かすれた声で部下に命じた。「わたしとつながれ。これを止めるんだ」
滑水艇の生き残りは八人だった。彼らは心を結び合わせ、力線をショートさせた。たちまち、うつろな死体は床に倒れた。腐肉の臭いが艇内にたちこめる。ひとりの兵士が嘔吐しそうになった。「気をしっかりもて!」隊長が叱咤し、兵士の心はふたたびその全力を共同のプールへ注ぎこみはじめた。
隊長は力線を逆にたどって、その発生源をさぐろうとしたが、すでにアボットはそれを迷路に変えてしまっていた。洋上のどこかで、手がかりは蒸発した。
ロレイン側では、いまや針路の修正という厄介な仕事をかかえていた。死人が制御盤をすっかり焼きこがしてしまったのだ。滑水艇は操縦の自由を失い、サーガッソー海の底にむかってがむしゃらな突進をはじめた。
彼らが最良の効率をとりもどそうとやっきになっているあいだに、アボットは彼のチームをうながして、遠い昔〈睡眠者〉が送りこまれた座標点へと近づいていた。
アボットは思念連結を解き、なめらかな、柔かい口調で、部下たちにそれぞれの持場へ帰れと命じた。タンクから椅子がうきあがり、彼らはめいめいの部署にもどった。アボットの目から見ても、彼らの動作は熱がなく、のろのろしている。
アボットは観察をつづけた。
「よし、いってみろ。なんだ?」
彼らはふりかえって、アボットを見つめた。だれも口を切らない。「心を開け。おれを入れろ」彼らは視線をそらしたが、やがてひとりまたひとりと、彼の探索に心を開いた。アボットは中にはいり、一瞬ためらいがちに接触してから、すぐに退いた。彼は部下たちの心になにがあるかを知った。
「わかってる。だが、やらなくちゃならんのだ」
反応がない。
「そんなことでぐずぐずするな。緊張をたもて」アボットはもう一度部下たちの心の中にもどり、彼らの恐怖の横たわる場所を和らげ静めた。それは、彼らの精神力がロレイン側の兵士になしたことに対する恐怖だった。なだめられて彼らの効率は高まり、さっそく制御盤にとりついた。攻撃艇は、〈睡眠者〉の所在を求めて、霧の屍衣に包まれたサーガッソー海の底深く潜りはじめた。
アボットはチームから離れて、自分だけの考えにふけった。彼がリーフに見出されたのは、ブロック研究所で集団心理療法のクラスを受けもっていたときだった。治療を受けに集まる男女は、人生に飽き、倦怠に蝕まれ、そして、彼らが例外なくすでに発見した解答――自殺――とは異なるなにかを求めていた。
リーフは会いにくると、まずアボットの心を不透明化して、〈睡眠者〉に監察されないようにしてしまった。それから、リーフは彼に戦争の話をした。戦争の価値について。人間をもう一度人間[#「人間」に傍点]にする上での、戦争の必要性について。アボットはそれに聴きいり、リーフの思想に共鳴した。長い泰平の世が生みだした病患と、つね日ごろ接触していたからだった。しかし、それと同時に、もし彼がリーフに賛成せず、もしリーフの攻撃隊を指揮することを拒めば、相手は彼をその場で殺すだろう、という疑惑もあったのだ。
ところで……ここはどこだ?おれはなにをしているのだ?
まだおれはあの思想を信じているのか? いま、こうして現に接触を果たし、現にひとりの人間の脳を焼きつくし、現にその男を死の道具として使ったあとでも、なお? おれはまだリーフとロレインを、人類の救世主と思っているのか?……それとも、あのふたりは、〈睡眠者〉がまさしくそれを防ぐべく作られた相手なのか?
わからない。いまとなっては。しかし、それを知りたい。ぜひとも知らなくてはならない。
〈もぐら〉をその腹部にかかえた攻撃艇は、藻でふさがったサーガッソーの巨大な深淵めざして進みつづける。
海の下では〈睡眠者〉が待っている。最後の時が迫りつつあるのも知らずに。人間たちが彼の働きを止めにくることも、ふたたび戦争が地上をのし歩くだろうことも知らずに。
そして、彼らの運命の手先であるアボットには、ぜひとも知りたいことがあった。
ロレインとリーフの現われる前、この世界はもっとちがったものだった。いや、いまはまだそれほどちがっていないが、もし攻撃隊が〈睡眠者〉のところへ到達すれば……。
彼らの現われる前、この世界はもっとちがったものだった。
思考を不透明化する秘密を知っているものは、ただふたりしかいなかった。そのひとりはピエター・カルダー、不可思議な偶然でその技術を発見した男である。頭のほとんど禿げあがった老人で、子供のときからの爪をかむ癖が極度に洗練されて、いまではそれがもっとも生皮に近い爪の隅だけにとどめられていた。もうひとりは、カルダーの助手で、ずんぐりむっくりした熊のぬいぐるみのような男。だれかに質問されると、謹聴していますよと証明するつもりか、質問のあいだじゅう神経質にうなずきつづける癖があった。
彼は一度も自分を幸福な人間だと思ったことがない。
もっとも、その点ではカルダーもおなじだった。
しかし、このぬいぐるみの熊は、天才カルダーに協力することに、一種の満足を見出していた。ぬいぐるみの熊はその名をアルバート・オーファといい、屈折数学を不透明化の技術にとりいれることに貢献した。彼らの方法がたまたまふたりの適任者の目にとまるには、十七年の月日を要した。その頃、すでにカルダーとオーファは別のところで働き、別の仕事にとりくんでいた。
だれも彼らの発見に関心を示さなかった。それが、しばらくのちには当の発見者にとってすらも、どうでもいいものになってしまったからだ。
なぜなら、この当時には、世界に六百年もの平和がつづいていたからだ。
そして、六百年ものあいだ、進歩はなにひとつとしてなかった。
やがて、偶然に、ひとりの人物が、この技術に、いや、より正確にいえば、この技術の記録にでくわした。彼が自分の交信網を閉ざす前に、もうひとりの人物がその事実を知った。
六百年のあと、十七年のあとに現われた、この最初の適任者は、ロレインという男だった。肩幅あくまで広く、その愛撫は熊のよう、そして食欲もすさまじかった。彼は人生を謳歌し、人生を満喫していた。
もうひとりの適任者は、リーフという名の、痩せた思慮深い男だった。彼は詩を書き、やさしい、夢見るような声でそれを吟じた。彼はもうかなりの年齢だったが、人間は死を避けるべきでなく、優雅に老いるべきだという(おそらくは正しい)考えをもっていたので、若返り療法を頑として拒否していた。
このふたりの適任者が思考不透明化の技術に注目したのは、ふたりとも(六百年間にはじめてではないが)地球にもう一度戦争をよみがえらせることに、燃えるような熱情をもっていたからだった。他の国家や集団に属するものへの手あたりしだいの殺戮と強奪による、大破壊の口火を切ることに。あらゆる人間を怖れと不信の私的な地獄へ突きおとす、全地球的な交戦状態を再開することに。
それは、この六百年のあいだ不可能だったのだ。〈睡眠者〉がサーガッソー海底の洞窟に手をやすめ、目を閉じてすわり、世界の思考を監察し、平和をたもっていたあいだは。
ロレインとリーフは、おたがいに敵となることを選んだ。
なぜなら、戦うものが、対立者が、敵味方がなくて、どうして戦争ができるだろうか?
そして、彼らはカルダーとオーファを探しだした。
人間の独創性を刺激し、その能力に挑む戦争がなくて、どうして人間はその究極の進歩への道に立ちもどれよう? もし〈睡眠者〉の監察を打ち切らせることができなければ、人間はふたたびほかの人間の頭をぶちわることがなく、そして明日の思考をもつことも、星の夢にふけることもできぬのではあるまいか?
敵味方にわかれ、この技術の創始者たちを探しだそうとしたこのふたりは、まさに適任者だった。なぜなら、彼らはこれからやるべきことを聖なる苦行と信じこんでいたため、〈睡眠者〉の探知波がその思考のありかをつきとめるまでに、カルダーとオーファのことを心からはらいのけてしまっていたのだ。彼らは幸運だったのかもしれない。だが、同時に彼らはそう運命づけられていたのかもしわない。なせなら彼らは自分の心を清めてしまったからだ。〈睡眠者〉の探知波が接触したとき、彼らの魂は生まれたばかりの嬰児《みどりご》のように(そして、嬰児は毎年きまった数だけ生まれてくるのだが)ピンク色で、清らかで、新鮮だった。
そのとおり。なぜなら、このふたりは、自分たちがなぜそんなことをしているかという意識を心にのぼせさえせずに、それぞれカルダーとオーファの捜索にたずさわることができたからだ。
そして、ロレインがウィーンでカルダーを見つけたとき、彼は即座にその技術を利用して、彼自身の心を不透明化することができた。そうすることで、彼は〈睡眠者〉の報復力の彼方に立ったわけだ。ちょうどその何日か前、リーフがグリーンランドでオーファを見つけて、彼からその秘密を手に入れたように。
そのあと、ふたりがそれぞれの情報提供者を、手早く、もっとも苦痛の少ない方法で片づけたことは、いうまでもない。
そのあと、ふたりはそれぞれが慎重に選んだ一隊の兵士の思考を、不透明化することにとりかかった。これら二組の隊員は、やがて生まれるべき二つの軍隊、いのちがけの戦闘にたずさわり、この世界にふたたび栄光ある死の響きを送りだす両軍の中核をなすものであった。
だが、それより前に、人類の運命がみたされる前に、六百年間つづいた〈睡眠者〉の活動を止めねばならない。その沈黙の作業を沈黙させねばならない。ロレインとリーフは、それぞれに注意深く兵士を選抜し、ある種の場所で見つけた海図を使い、サーガッソー海の底に〈睡眠者〉の所在をつきとめようと、彼らの特攻隊を送りだした。〈睡眠者〉の永遠の生命を終わらせ、その詮索好きな心を閉ざすために。
そしてこの間、〈睡眠者〉はサーガッソー海の下で、目をつむり、無言のまま、手を静めて待っていた。アボットは夢を見ていた。それは、別の人生の夢だった。彼の無意識の流砂の下からすくいとられた夢、別の肉体に宿った別の生命の再現だった。彼はあらかじめ無意識的にその夢を探し求め、必要なときすぐそれを呼びだせるようにしておいたのだ。その夢を検討するために、そしてその助けをかりて、この時期、この場所で、彼がいまなしつつあることを検討するために。
それは戦争の夢だった。
かつて他人の肉体であった彼の肉体がまなび、思いおこした記憶。その肉体が彼に与えられる以前に植えつけられた、ありし日々の様相。彼は過去を、戦争につづられた過去を思いだしていた。
夢は、ピテカントロプスとその棍棒、そして最初に投げられた石からはじまった。夢は弓と矢に進み、剣と鎚矛《つちほこ》と六尺棒に進んだ。大弓と、とどろきわたる巨大な《カタパルト》の夢。吹矢筒と火縄銃、手榴弾と銃剣、戦車と三葉機、ジェット機と原爆とナパーム、追尾ミサイルと細菌兵器の夢。そこで夢はためらった。肉体が第四次大戦を思いだし、その戦後のありさまを思いだし、それでさえ人びとがそこからなにも学びとらなかったことを思いだしたからだ。彼は夢を見つづけた……。
ゴミ溜めくさいヤフーのグレン隊に待ち伏せされたのは、ヴァイン通りを過ぎ、ファウンテン街の爆孔をよけながらヒーリイを走らせていたときだった。ハリウッド・ランチマーケットの廃墟の中に、まだニュー・イングランド産のクラム・チャウダーや、アンチョビー・ペーストのカンヅメが無傷で残っているという、バルトークの流した噂を聞いてやってきたのだ。もちろん、根も葉もないデマだった。そんなものはありはしない。だが、そのかわり、ベルーガ・キャビアのビンヅメが一つ見つかった。崩れた木擢《きずり》と漆喰《しっくい》の山の下に蹴こまれていたそれは、ラベルもほとんどちぎれていた。彼は一目でその中味を見ぬき、そいつを黒焦げの古雑誌といっしょにタッカー・バッグの中へ入れた。完全に読める〈マッコール〉一冊、〈ポピュラー・サイエンス〉半冊、それに、戦争直前だれかが出した、ビートルズ特集の単発雑誌。彼自身、ビートルズを聴いたおぼえさえ曖昧だったが、雑誌のほうはまあ笑い草にはもってこいだし、ということは、すくなくともキイチゴのカンヅメ一パイント分の値打ちはあろうというものだ。これらの品物以外、店の中はからっけつだった。なにしろ、百回以上もかき回され、持ち去られているのだ。待ち伏せでやられた略奪者の死体の臭いに閉口して、彼は顔の下半分に色ハンカチを巻きつけた。
ヒーリイのエンジンは、もう一週間近くもたついている。ハリウッド・ボウルでのわたりあい以来だ。おまけに、機械屋のレオナルド・ダヴィンチがトパンガ・キャニヨンのどこかへ新鮮な肉の徴発にでかけているので、帰ってくるまで修理はおあずけだった。ランチ・マーケットをいざ出ていくだんになって、その排気音のブツブツポンポンがグレン隊を呼びよせたらしい。
相手が群れをなして路上に現われたのは、彼が手なれた運転で爆孔をよけながら、スラローム式にファウンテン街をとばしているときだった。それを目に入れたとたん、最初の本能は、アクセルを踏みこんで彼らの中央を突破しろ、と告げた。だが、それは前に一度実験ずみだった――そのときのヒーリイの損害は、修理不能に近かったのだ。南東のアナハイムくんだりまで足をのばして、やっとこの小型車に合うウインド・シールドを見つけたぐらいだ。それに、イギリス競走車のダークグリーンの塗料も、最近は底をついている。
そこで、殺そうと心をきめた。
車体にとりつけたトムスン自動小銃の防水布のカバーをひっぺがし、安全装置をはずし、街路を掃射した。ジンバル(ただでさえ古風な銃架に、ヨーク軍曹があわててくっつけたらしい、間に合わせのしろもの)が、キイキイガタガタいったが、それでもなんとかもった。最初の掃射で五、六人が倒れると、残りはちりぢりになって隠れようとした。
ひとりのでっかい、灰色の毛をしたヤフー(もうかなり前から人肉を食いつけているらしく、ちゃんと顔に出ている――食屍鬼《グール》に成りさがったやつは例外なく顔に出てくるのだ)が溝の中へとびこもうとする瞬間に、彼は引金をひいた。食屍鬼はこみいった一回半背面宙返りを演じて落下し、体を破裂させ、ピクつきながら横たわった。彼の正面を必死に逃げているふたりは、行手にクレーターが口をあけているのに気づかなかった。ふたりが墜落するそばを通りすぎた瞬間、彼は爆孔の底にまだたなびいている恐ろしい緑色のバクテリア霧を、ちらっと目にいれた。あのふたりのヤフーは、二度と穴の底からもどってこれないだろう。すでに車はグレン隊の群れの中を走りぬけ、怒ったスズメバチのような小火器の唸りも、後ろにしりぞいていった。
キャピトル・夕ワーに着くまで、彼はジャズテットの演奏の一節を口笛で吹きつづけた――ランディ・ウエストンの〈ハイ・フライ〉。そしてその週末、彼は、トマス・ジェファーソンとヘンリー・デヴィッド・ソローに手をかして、新しい〈世界平和憲章〉を起草した……。
アボットの夢はつづいた。
六百年間の歴史書からの記憶。人間と戦争の歴史。
最初の夢が平和の中に溶けこんでからずっとあと、第二の夢――そしてまた戦争、また平和、それから、人類の最後の希望が潰えたと思われた瞬間に訪れた、一つの解答。〈睡眠者〉……。
「隊長!」
リーフ側の隊長は、戦争と平和の追憶からさめ、六人の乗組員が彼を見つめているのに気づいた。
「寝言をいってたようですよ」
アボットは唾をのみこみ、うなずいた。部下たちは、おのおのの制御盤にもどった。艇の速度は前よりゆるやかになっていた。彼はゼラチン・タンクの中から立ちあがり、海図盤をチェックした。あと十分。あと十分で、与えられた座標点を通過する。
「副長は持ち場に残れ。おまえとおまえとおまえ、おれといっしょにこい」彼は制御室を出てドロップシャフトにはいり、船倉のレベルへと吸いよせられるままに体をゆだねた。うしろからは三人の仲間がゆるやかに下降してくる。
下へ降りつかないうちに、アボットは〈もぐら〉を収納したキャビンにつうじるハッチの絞りを開いた。それは、ロレイン側が採用した滑水艇ぐらいの大きさがあり、キャタピラーとドリル式の鼻づらをもっていた。それは二つのへッドライトを消したまま(アボットの心に、さっき彼らが殺した男の黒く燃えつきた眼窩が一瞬よみがえった)使われていない倉庫の薄闇の中にそそりたっていた。巨大な金属の昆虫のように、化け物なみに成長した銀色のコロラドハムシのように。
彼はキャビンの照明調節器をいじり、三人の仲間に〈もぐら〉の横腹から操舵室へ乗りこむよう命じた。
それから、彼もそのあとにつづいた。全員が気密服の中にもぐりこみ、密着椅子に体を固定しおわると、アボットは副長と心をつないだ。「計器の読みとりをたのむ」
中尉の心から返ってきた思念は、大伽藍の円蓋を弱々しく吹きぬけるそよ風のようだった。
「あと六分。放出扉はいま開きますか?」
アボットは判断をくだした。「目標の真上へくるまで閉じておいて、それから放出してくれ。作戦行動中は、おれと思念接触をたもつこと」
副長の確認をうけとると、彼は椅子にもたれなおした。六分間の無為の時間。彼は〈もぐら〉の中の三人と心をつなぎ、六分間の睡眠を指示した。たちまち彼らは何層かの緊張状態を沈下し、深い完全な眠りにはいった。アボットは、五分二十八秒後に自分を起こすよう意識をセットすると、彼らのあとにつづいた。
彼らが目ざめていなければならないのは、作戦行動のあいだだけである。この休息で、いくらか元気が回復するだろう。だが、アボットにとって、それは休息にならなかった。彼の化肉の夢が、さきほどの中断のあとをうけて、ふたたび始まったのだ……。
戦争と、つねにそのあとにつづく平和の夢。第五、第六の戦争が起こったが、どちらの側もつねに絶滅のどたん場でなんとか矛をおさめるようだった。それから、彼らは別のやりかたを試みた――一対一の決闘である。前途ある若者たちを死なすな。国家の首脳を送りだせ。もし、政権の座にあるものが体を張って殺しあいをするとりきめにすれば、戦争の誘惑もいくらか弱まるのではなかろうか−……。
アボットの肉体は思いだした――
闘技場に入場した全アメリカ大統領は、野次と口笛と険悪な歯擦音のあらしに迎えられた。大統領は、平土間の観客席から雨あられと投げつけられる飲みものの空きカンには目もくれず、スパイクのついたネットを土の上にひきずりながら歩きだした。
彼はあてどなく歩きまわりながら、試合の対手がアンツーカーの闘技場の一端にあるブルペンから現われるのを待った。彼は空を見上げた。やけに寒い、頂上会談などごめんこうむりたいような日だ。中立国の長三角旗が、どれもパタパタと(彼は首をかしげて、風向きをうかがった)闘技場の東の端からの強風にはためいている。もう一度ブルペンのほうに目をやったが、コミュニスト共和国首相、自由解放中国紅旗連邦大汗、プロレタリア人民保護国主席、ディミトリ・グレゴロヴィッチ・ポタムキンは、まだ姿を見せていない。
全アメリカの元首グレン・O・ドーズマンはひそかな笑みをうかべ、中ソ側絶対有利と賭けているボックス席の事情通連中に挑戦するように、スティール・メッシュの網をピクリとふるわせた。消費財や鉄鋼、レジャー産業や通信産業の株が、暴騰することだろう。もし彼が勝てばだ。勝ち目はある。その朝、国務長官がホワイト・ハウスの彼のところへ届けてきた報告が、にわかに信じられるものになった。それは、ウラルにあるポタムキンのトレーニング・キャンプに潜入した、CIA要員からの近況報告だった。それによると、ポタムキンは調整失敗で動きが鈍く、しかも心臓病の兆候があるという。きょうの戦いは、民主主義とアメリカン・ライフの大勝利に終わりそうだ。
グレン・ドーズマンは、天が彼にくみしているのを知った。
プロレタリア側から喚声があがった。
短剣とカーボランダムの盾を頭上にふりかざして、ポタムキンがブルペンから大またに現われた。ドーズマンはごくりと唾をのみこむ。テキサスで送った少年時代がふと思いだされた。ポタムキンは絶好のコンディションにあるようだった。黒クマのような大男で、胸も腹も毛皮のように密生した黒く剛い体毛で覆われ、まっしろな歯を残忍な微笑にむきだしている。もじゃもじゃした眉の下のおちくぼんだ目は、まるで雪男《イエティ》そっくり。
ドーズマンは、きょうのコンテストに関する彼の予想を修正した。ひょっとすると、これは|手詰り《ステールメイト》になるかもしれない。わるくすれば、外交的後退も考えられる。全アメリカはスーダンに対する権利を放棄しなければならないだろう。いや、それだけでなく、壮大な国葬が挙行される羽目になるかもしれないのだ。〈神、在職中に死去〉――両目の奥のだしぬけにぼやけた空間に、彼はそんなファクシミリの大見出しを読みとった。そこに彼は、たったいまこの瞬間とつぜん、ただひとり不安と未来(しかも、おそらくは短いだろう未来)をかかえた彼自身を見出したのだった。
中年男の体に、政治はこたえる。
彼は身をかがめ、ポタムキンは近づいてきた。
彼が網をふりまわすと、ポタムキンがだしぬけに突進し、短剣を突きだしてきた。彼はその刃を狙って網をふりおろした。スパイクが刃にぶつかり、火花が飛び……。
アボットの肉体は、意識につつき起こされた。彼は、眠りと回想、平和でなかった平和とそれにつづく戦争の連続データを乗り切って、ふたたび〈睡眠者〉と対決した。
「よし、みんな起きろ」彼は部下に命じた。
放出扉が開かれた。繋留金具が非磁性化され、〈もぐら〉は母艦の腹からまっすぐに落下した。
いまや、彼はサーガッソー海の中にあり、海藻と沈没船の残骸と冥府のような真暗闇の生みだす瘴気を抜けて、まっさかさまに沈んでいた。彼はへッドライトをつけた。照らし出されたのは虚無であった。「海底の示度を」
チームのひとりが計器を読んだ。「急速に接近中です……三〇〇……三六〇……四一〇……四八〇……五〇〇……」
と、アボットが絶叫した。中尉との思念結合がいきなり爆発し、熱と苦痛と突然の静寂のコロナが炸裂したのだ。「母艇がロレインのやつらに破壊された」と、彼は部下に告げた。ロレイン側の隊長に破壊力を集中された瞬間の、中尉の断末魔の知覚をみんなに伝えるのは、見合わせた。
彼らはいまや孤立した。そして、頭上のどこかで、相手側は彼らを捕捉しようと下降中なのだ。
海底に達したとき、アボットは感謝を味わった。
おお神よ[#「おお神よ」に傍点]、いったいおれはなにをしているのか[#「いったいおれはなにをしているのか」に傍点]?
計器盤をうけもっているひとりが、座標点の真上であることを告げた。「ドリルを始めますか?」アボットはうなずきながら、彼が作戦の掌握を失いかけていることに気づいた。部下も、彼の心が惑乱しているのを、感じとったにちがいない。
計器盤の係が人さし指で宙に穴を描くと、ボーリング技師がその意味を了解した。技師は計器盤に指示を打ちこんだ。〈もぐら〉は基部から持ちあがり、胴体を前に傾かせ、技師がスイッチを入れるのと同時に、機首のドリルがゆっくりと回転をはじめ、前進に移った。ドリルは、ほとんど音を立てなかった。
「|砂掘り屋《サンドホッグ》」と、アボットは技師に呼びかけた。「五十度の角度で十キロ掘ってから、垂直に向きをかえろ。いいな?」
砂掘り屋が了解と答え、彼らは前進した。ドリルは沈泥《シルト》につきあたり、それを機体の両側にはねとばしながら、さらに掘り進んだ。かん高い唸りが上がりはじめた。黒い泥が扇形に吹きとばされ、〈もぐら〉はそれが掘り進めた穴へとキャタピラーで下降していった。
アボットはもはやあの思考を抑えることができなかった。部下にもうかがわれないように不透明化させてはいたが、いまとうとうそれと取り組むことにしたのだった。彼から数百キロの下、彼の世界の静かな岩石の中心のどこかに、ひとりの人間が坐して眠り、全人類の思考を静かに読みとりながら、それを果てしない戦争から遠ざけている。アボットは、いまや成功を予感した――ロレイン側がどう出ようとだ。彼は体内に確信がみなぎるのを感じた。たとえ誇大妄想であっても、それに反応せざるをえないのだ。
もし、〈睡眠者〉のところへ到達するまでに彼がロレイン側に撃破されたとしても、たいした問題ではない。どのみち、すべてのけりがつくだろう。だが、そのほかにもう一つの可能性がある。彼がそれに成功すること。彼としては、そのことを考えねばならない。
ついに、考えるときがやってきたのだ。
地底の〈睡眠者〉のことを。
〈睡眠者〉はかつて人間だった。いまでは彼の名を記憶しているものとてなく、かえりみるものもない。だが、そのかつての名はブラノスだった。ポール・ヴェヴェリー・ブラノス。彼は神学者だった。哲学者だった。理性と健全な精神の名のもとに、彼はその一生を捧げた。
のちに〈世界会議〉へと必然的発展をとげたバーゼルの〈世界平和〉大会の、彼は提唱者だった。彼は平和の喜びと論理に関する何冊もの本を著した。彼の全九巻の戦争史は、三十年間の研究と分析を費して書かれたものだった。最後の第九巻が出版されたとき、それはこの主題に関する決定版となった。その瞬間からというもの、だれもブラノスを読まずして戦争と平和を語れなくなったのである。
大多数の人間が(彼を友人と呼ぶ政府首脳たちですら)知らなかったのは、ポール・ブラノスが〈十一人の有志〉と自称するグループの一員であることだった。ブラノスとあとの十人――大実業家、世界的に有名な博愛家、人類の進歩の名のもとに王国やトラストを築き上げた人びと。彼らは、その富と権力と良識の圧力によって、数えきれぬほどの紛争を防ぎとめていた。
ブラノスのへリコプターが、新しく復活した暗殺《サグ》教団の狂信者の手でサボタージュされたとき、〈十一人の有志〉は彼を救うため電光石火の行動を起こした。肉体も脳もすでに死んでいた。医学的には議論の余地なく死亡。しかし、〈十一人の有志〉は、諦めなかった。
彼らはブラノスの遺骸をひきとり、その遺骸を一つの機械につないだ。ブラノスは生きかえった。いや、正確にはそうではない。ブラノスは夢見ることになった。彼を完全に生き返らせることはできなかったが、きわめて夢に似た性質をもつ中間段階までよみがえらせることはできたのだ。
〈十一人の有志〉は、栄光あるブラノスの遺骸をひそかに耐衝撃性の地下室へおさめ、そこでブラノスは彼の仕事をつづけた。〈十一人の有志〉は、それからの二十年間、それを偉大なるブラノスの無尽蔵に近いファイルから発見された遺稿として、順次発表していった。やがて彼らは、機械がブラノスを変貌させたことに気づいた。
彼の一部は人間であり、一部は夢想者であり、一部は機械であった。
彼は新しいなにものかに変貌したのだ。
彼らはまだ新しい名前を考えておらず、まだ彼をブラノスと呼んではいたが、機械の中で眠りつづけている死人は、すでに〈睡眠者〉となっていたのだ。
彼は彼らの思考を監視することができた。彼は彼らと交信しようとはしなかった。二方向の思考交換は求めなかった。しかし、彼は読心した。そして、自己の力をテストした。さまざまな力が芽生えてきた。
やがて、ついに彼は彼らと交信をはかった。
彼は、彼の身体をどうすべきかを、彼らに教えた。
〈十一人の有志〉は、クフ王の大ピラミッド以来のもっとも大規模な掘削工事に着手した。彼らは竪穴を掘り、大洞窟を築き上げ、夢想の椅子にすわった〈睡眠者〉をそこへおさめた。深い、深い、世界の中心に。サーガッソー海の海底の下に。だれも手の届かぬ場所に。そして〈睡眠者〉は、終わることのない監視を開始した。〈十一人の有志〉は、そこではじめて全世界に守護天使が生まれたことを告げた。いまや戦争が起こせなくなったことを告げた。なぜなら、〈睡眠者〉がそこにいて、日夜休みなくありとあらゆる人間を見張っているからだ、と告げた。だれかがほんのすこしでも、戦争のことを考えたり、戦争に必要なもののことを考えたり、あるいは戦争によってしか解決しないような愚かな状態にはいろうと考えたりしたとたんに、その人間の心はやさしくしずめられるだろうからだ。そして、戦争の芽は未然に摘みとられるだろうからだ。
世界は怒りで反応した。
戦争を起こそうとした。
だが、どうにもならなかった。
〈十一人の有志〉は、もはや志をもつ必要がなくなった。
この状態が六百年間つづいた。いくら他の〈有志〉が〈睡眠者〉に近づいてその働きを止めることが必要と考えても、である。彼らは片はしからしずめられた。そして、〈睡眠者〉が、はるか頭上の世界を歩む人びとの魂と頭蓋の中にそのターミナルをもつ夢を夢見るあいだ、人類は六百年を平和に生きてきた。
そこにカルダーとオーファが現われた。
そしてこのふたりは、ある技術を生みだした。
その技術が、リーフとロレインを登場させることになった。
リーフとロレインは兵力をくりだした。双方の攻撃隊は、〈睡眠者〉にむかって地底へと進みつつある。だが、〈睡眠者〉は彼らの接近を知らない。依然として〈睡眠者〉は、善良な人びとが善良な生活を送る善良な世界の夢を、ブラノス哲学の夢を、夢見ているのだった。
反キリスト、刺客、機械の停止技師、世紀の抹殺者、人類の救済者、現実の商人、武力の使節、夢の破壊者――隊長アボットはいま〈睡眠者〉へと近づいていた。下降していた。迷いながら。
ロレイン側が彼らを捕捉したのは、アボットが下降の進度を調べ、竪穴の角度が七十五度に近づいているのを知った直後だった。短く鋭い悲鳴(ヒヨコが首を切りおとされたような声)とともに、隊員のひとりが制御盤へ突っ伏した。だらんと開いた口から煙が吹きだした。全員のまわりに障壁を張りめぐらしたアボットは、ロレイン側の隊長の念力が、そこへ滝のように降りかかるのを感じとった。
アボットは、ここでそれをやるべきだ、とさとった。いま、けりをつけてしまわねばならない。〈睡眠者〉を掘りあてるまでひきのばしておくことはできない。いま、ここで、地球の中心へつうじる穴の中で、結着をつけてしまうのだ。彼は生き残った二人に、精神結合を命じた。たった三人で、すくなくとも五、六人(たぶんそれ以上)の敵と対抗することになるが、それしか方法はない。やれ!
アボットは力線にむかってとびだし、それにつきあたると、一瞬その力に乗ってから方向をひるがえし、ロレイン側の隊長の心にむかって力線を逆追跡した。あまりにも攻撃が強烈だったため、アボットが焦点への距離の半ばまできたとき、やっとロレイン側の隊長は彼の接近に気づくしまつだった。そして、あわてて自分の障壁を張った。
それは、アボットの予期していたところだった。
彼はかまわず突進し、障壁にぶつかったとたん、拡散した。障壁は油のような思念の皮膜で真黒になった。ロレイン側の隊長は、それを越えて思念を送りだせなくなった。自己防御の砦の中に閉じこめられたのだ。
だが、その攻撃機は依然として竪穴の中を追跡してくる。
夜を思わせる闇の中、気密服を着こんだアボットは、心をよそに残して、待ちうけた。ロレイン側の攻撃機のへッドライトがちらと見えたとき、彼は竪穴に張りわたしたあやとり[#「あやとり」に傍点]の中に内破機雷を吊した。そして、竪穴の中の二キロ下に待機した〈もぐら〉まで駆けもどった。
彼の行動は、〈もぐら〉内部の計器盤で制御されていた。そこにプログラムされた行動は、死んだ蛙の肢が電撃をケけておこす痙攣のように、予測しやすいものだった。彼の肉体は回路に接続され、そして〈もぐら〉のシンク・タンクは、彼を夢遊病者のように、死霊《ゾンビー》のように、ロボットのように動かした。ただ、彼の心だけは、まだロレイン側の隊長の思念障壁のまるい表面に、黒い油のような皮膜となってくっついているのだった。
〈もぐら〉の中で、アボットは待った。遅ればせに、ロレイン側の隊長は相手の術中にはまったのを知った――彼が全面的に念力に依存していたのにひきかえ、リーフ側の男は、彼らみんながそうしようと試みているものの基本に立ちかえったのである。戦争。一対一の白兵戦。何キロも離れた安全な思念の砦にたてこもらずに、泥にまみれて、内破弾を仕掛けたのだ。
ロレインの攻撃機が内破機雷に接触する直前に、隊長は敵手にむかって、「おまえの勝ちだ」と悲しげな思念を送った。そのあと、竪穴の上から耳をつんざくような絶対の静寂が訪れ、力線がまたたいて消えた。
アボットは勝ったのだ。彼は相手よりもずっと明確に、戦争の本質をわきまえていた。彼には、そこから栄養を吸い上げることのできる記憶の根があった。彼は夢の中に肉体を再生させ、そして、体を張って戦うやりくちを思いだしたのだ。
「はやくここを離れよう」と、彼は部下をうながした。
〈もぐら〉はふたたび土を掘りはじめ、その乗物の中でアボットは声を殺して泣いた。
絢爛たる青い石の壁を突破すると、そこは人間の手で作られたのが信じられないような部屋だった。その細工の美しさは、アボットがこれまでに見たなにものをも凌いでいた。呼吸マスクを剥ぎとったとき、まわりの壁に、彼の緊張した褐色の顔がはっきり映っているのが見えた。どうしてここに呼吸できる大気があると直感したのか、彼は自分でもふしぎでならなかった。
床は緑色の金属物質で、一見非常な深さがあるように見える――ちょうど、海水の底をのぞきこんだときのように。そして同時に、きわめて浅く見える――まるで反射面のすぐ下に光が埋められているように。いましがた彼らが岩の壁を突き破った穴のそばには、床のそれと似てはいるが、もっと濃密で強靭らしい、深緑色の物質でできた円形のプラットフォームが設けられていた。それは、底の浅く見える緑色の床から、ほんの二センチほど上にうかんでいた。プラットフォームの上には、こみいった細工の椅子があった。しかし、その椅子でなによりも目をひいたのは、重い黄金の珠の中に立てられた六本の蝋燭――芒星形の六つの先端に置かれたそれだった。
それがまず目をひいた。そしてもう一つ。
その椅子には〈睡眠者〉がすわっていた。
萎縮した肉体には大きすぎるほどの首輪につながった、金属とガラスのヘルメット(首輪もへルメットも、生身の人間ではとうてい長く支えられないほどの重さがありそうだった)に包みこまれて、〈睡眠者〉は死して坐り、夢を見ていた。監視していた。平和を守っていた。
目に見えぬ圧力と流れを測る制御卓は、音もなく、またたきもせず、その主人と同様に死んでいるかのようだった。〈睡眠者〉の両手は、椅子の肱掛けにおもおもしく置かれていた。微動だにしなかった。
その背後から、アボットと、生き残った部下のうちのひとりが近づく。彼らの気密服は、六世紀のあいだ密封されていたこの洞窟へはいって、にわかに暑くるしく感じられた。〈もぐら〉の巨大な円錐形のドリルもようやく沈黙し、待機信号のライトだけがオレンジ色に閃いている。彼らがいましがた掘りぬいた岩層は、洞窟から溢れる光で淡青色に照らし出されている。
そして、〈睡眠者〉は夢を見つづけている。
平和の守護者。
アボットの部下は、驚異の表情を顔にうかべて、ゆっくりと前進した。「これがそうなのか」息をのむようにしていった。神話が現実となったのだ。彼はプラットフォームの上に足を踏みだし、〈睡眠者〉の着ているガウンに触ろうと手をのばした。
人間の肉体でないなにものかを覆っているように思えるガウン。六百年を経たいま、そのガウンの下に隠されているものは、もはや人間ではありえない。
「そこをどけ!」
ふいにアボットの出した大声に、部下はぎくっと身をすくめた。そして、おどおどと後ずさりした。
「(もぐら〉の中へもどれ。逆進《リバース》に切りかえておくんだ。もうすぐ、いまきた道をひきかえすから」
部下は洞窟の壁の穴のほうへもどりかけて、そこで足をとめた。アボットはなにごとかとふりむいた。相手は微笑をうかべ、その顔は喜悦に似たものに紅潮していた。その目が輝いていた。
「やったんだ! とうとうやったんだ! これで新規まき直し、そうでしょう? これで新しいチャンスが生まれるんだ!」
アボットはのどがふさがるのを感じた。声が出なかった。高飛車な身ぶりで、相手を〈もぐら〉のほうへ帰らせた。
ひとりきりになると、彼は〈睡眠者〉に向きなおった。彼の頭の中には、両眼から死を噴きだす死骸があった。瓦礫の散らばった街路と、人間から野獣に成りさがったヤフーの群れがあった。だらんと開いた口から吐きだされる煙があった。戦争の代用物となった闘技場の中で、なまの恐怖にさいなまれる元首たちがあった。大気から音と生命を吸いこむ内破の瞬間があった。おお[#「おお」に傍点]、わが神よ[#「わが神よ」に傍点]、おお[#「おお」に傍点]、わが愛する優しい神よ[#「わが愛する優しい神よ」に傍点]、答えてくれ[#「答えてくれ」に傍点]。
だが、アボットはすでにリーフを神に選び、そしてリーフは戦いの神に忠誠を誓っていた。それゆえに、アボットは孤独だった。彼の思考を傍受できず、その思考をやわらげて彼を救うこともできぬ〈睡眠者〉をかたわらにして、孤独だった。いま、アボットは宿願の場所にきて、ふたたび人間として機能している。それと同時に、彼はおそろしい不安にとらえられていた。〈睡眠者〉を作動状態のまま、なにも手をくださずに地上へ帰るのは、ためらわれる。といって、〈睡眠者〉の作動を止め、人類に自己の運命をさぐらせるのも、やはりためらわれる。未来の人類に代ってその決断をくだすのは、おそろしい。
彼は前へむかって歩きだした。六百年のあいだ平和をたもった洞窟に、時間と空間の彼方からきた亡霊たち、かつて嘘をついたすべての亡霊たちが集まって、彼を見まもっているようだった。
やがて彼は、砲火によって豆の莢のように弾けることもなく自然死をとげた人たちの、無言の凝視を見た。声なき声がこう語っているようだった。われわれは天寿を全うした[#「われわれは天寿を全うした」に傍点]。なぜおまえはんな行動に出るのか[#「なぜおまえはんな行動に出るのか」に傍点]?
彼は制御卓に目をおろした。よく見ると、それは実に単純な構造だった。すべての偉大な芸術が単純であるように、単純だった。簡明率直そのものだった。
そして、彼はなさねばならぬことをした。
〈もぐら〉は、背をまるめて竪穴を上へひきかえしつつあった。彼らがまだ海底にたどりつかないうちに、リーフが思念を接触させてきた。リーフは大喜びで、アボットの成功を祝った。戦争はその日のうちに始まるだろう。そして、もちろんリーフ側が先手を打てる。ロレイン側はまだ待機中だからだ。
〈もぐら〉の中で、二人の部下はおたがいに成功を祝いあった。地上への監視が完全に停止したことを、いまリーフから聞かされたのだ。〈睡眠者〉は閉鎖されたのだ。二人の部下はそこではじめてアボットに、もし彼があの作戦の途中で気おくれしていたら、二人で彼を殺し、そしてなにも考えずに作戦を続行する手はずになっていたことを、うちあけた。リーフが、あらかじめ彼らの心にその指示を埋めこんでいたのだ。あのりっばな男は、用意周到だった。
しかし、それにつづけて、二人はアボットに保証した。アボットが果たしてそれをやりぬくかどうかに一瞬の疑いはもったけれども、いまでは彼がだれよりも強く、だれよりも良心的な人間であることがわかり、彼らは〈このたびの大挙〉 に彼の下で働けたことを誇りに思っている、と。
アボットは彼らに感謝し、そしてひとり離れてすわった。
いましがた地底で、〈睡眠者〉の部屋で、彼がなしてきたことを、もう一度考えてみるために。
あそこにいたとき、とつぜんうかんだ思考のことを、もう一度考えてみるために。
それは世界のことでもなく、戦争のことでもなく、いまから死んでいくだろう人びとのことでもなく、人類がこの世界にあるかぎり死につづけるだろう人びとのことでもなかった。彼自身のことですらなく、いわんやリーフのことでも、また、彼らがそこへ降りるまでになさざるをえなかった殺戮のことでもなかった。彼の思考は、〈睡眠者〉のことだった。
自己の肉体がガウンの下で塵に変わったあとも、監視をつづけた死人。自己の寿命の何倍かの寿命を費して、人類の平和に尽しつづけた男。
その男を、彼は抹殺してしまったのだ。
いや。完全に抹殺したわけではない。
制御装置は簡単だった。簡単だったので、その配線を組みかえ、それ自身にフィードバックするような一種のメビウス回路に変えることができた。〈睡眠者〉に始まり、〈睡眠者〉に終わる回路だ。〈睡眠者〉は、まだ平和の思考をもちつづけている。まだ、外へ外へ外へと流れ出る(だがその実、彼を離れてはいない)波の中で監視をつづけ、そして二度と戦争の想念に出会うことはあるまい。なぜなら、彼がうけとるのは、すべて彼自身の平和の想念だからだ。
〈睡眠者〉は夢を見つづけるだろう。ようやくいま、彼は幸福を味わっているかもしれない。もはや人間のそれではなくなった心のどこかで、まだ幸福を味わうことができるならば。なぜなら、いまようやく彼は、人類がついに平和に慣れたこと、その体内から戦争の血を絶やしたこと、満足し、幸福で、生産的であることを、信じただろうからだ。
地底では〈睡眠者〉が永遠の夢を見つづけ、地上では人類が何度も何度も自己を破壊しつづける――そのどちらがいいか、だれに断言できよう?
その事実を知っているのはアボットだけであり、それはこれからの余生の日々に、いっときも彼の頭を離れることがないだろう。〈睡眠者〉にとっての、過去、現在、そして未来。アボットは自分の決断をくだした――そして、彼は両道をかけたのだ。
だが、それで気が休まるわけではない。
竪穴の行く手では、恐怖がアボットを待ちうけている。
恐怖と、そして新しい世界が。
いっぽう、地底では……
ただひとり平和を願った男が、彼の救おうとした人類のうち、もっとも卑しいものに欺かれて、いまやなすすべもなく……
手を静めて、眠るのみ。
[#地から2字上げ]ロサンジェルスとサンタモニカ 一九六八年
[#改丁]
サンタ・クロース対スパイダー [#地付き]伊藤典夫訳
Santa Claus vs. S.P.I.D.E.R
[#改ページ]
赤電話は、九月[#「月」に傍点]半に鳴った。クリスは腹の下にある温かい、しなやかな身体から離れると、やにっぽい眼をこすった。電話がまた鳴った。腕時計の光るダイアルを見たが、読めなかった。「なんなの、ハニー?」横からブロンドの女がもごもごいった。電話が三たび鳴った。「なんでもないよ、ベイビー……眠ってろ」彼は女をなだめた。女は毛布のなかにもぐりこんだ。彼は受話器に手をのばし、四度目の起床命令の途中でそれをとった。
「はい?」口のなかがまずい。
電話口のむこうで声がいった、「カナーンの王がお呼びだ」
クリスは起きあがった。「ちょっと待て、電話を別の部屋にまわす」通話中のボタンを押し、受話器を置いてベッドからぬけだすと、すっぱだかのまま闇につつまれた広大なベッドルームを横切った。指先にかすかにふれる壁の感触だけをたよりに廊下をつっきり、正面のオフィスにはいる。壁には、小人たちから贈られた青銅の記念飾り板がはめこまれている。それを手前に引っぱってあけると、壁金庫のダイアルをまわし、扉をあけた。円形の枠の奥には、複雑なスクランブラー装置をとりつけた赤電話が鎮座していた。
スクランブラーにコードをパンチし、受話器をとりあげて言った、「王は悪魔を怖れ、悪魔は十字架を怖れる」コードと対応コードだ。
「クリス、S・P・I・D・E・Rだ」回線のむこう側の声がいった。「くそっ!」と、ささやき声で。「どこ?」
「合衆国だよ。アラバマ、カリフォルニア、ワシントンDC、テキサス……」
「大事《おおごと》なのか?」
「おたくを起こさなきゃいかんくらいさ」
「わかったわかった。すまん。まだ寝ぼけ半分なんだ。今は何時だ?」
「九月半」クリスは豊かな髪を手でとかした。「手近にだれかいないのか?」
「今まではペリー・バトンが担当してた」
「うん……それで……?」
「ガルヴェストンの沖あいに浮かんだ。一週間近くメキシコ湾の底に沈んでたらしい。股ぐらにプラスチック爆弾を詰めこまれて……」
「もういい、それ以上いうな。いい気持で眠ってたとこをたたきおこされただけで、こっちはもうカッカしてるんだ。書類は?」
「ヒルトップでお待ちだよ」
「よし、六時間で行く」
受話器をおき、金庫の扉をしめ、ダイアルをまわす。飾り板を壁にもどすと、青銅の表面に拳を押しあてたまま立ちつくした。小人たちの製図台のひとつに、つけっばなしのままの蛍光灯があり、そのほのかな光が、彼の緊張した横顔をとらえた。ひたいのきびしい陰気な銀は、ジャコメッティの作品を思わせる。砲金色に近いブルーの瞳は、無感情に空《くう》を見つめている。残忍さをかすかに漂わせる口は、ナイフの切り口のように細い。彼はひと息深く吸いこみ、ひきしまった身体に決意をみなぎらせて背をのばした。
そしてデスクに歩みより、抽出しをあけると、抽出しの裏の隠しボタンを三度力強く押した。下方の迷宮では、呼出しベルの音に繭からとびだしたポポが、腰布を巻き、イアリングをつけ、発進室を満水にするコードを押しているはずだ。
「地には平和を……」そうつぶやくと、クリスはウェットスーツの用意をするため寝室に引き返した。
ポポは岩屋のなか、空気タンクのわきの上げ下ろし式の棚の上に立っていた。クリスは小人を見てうなずき、背を向けた。ポポはウェットスーツを着る彼に手を貸し、クリスがマウスピースをくわえると、酸素混合物を調節した。「キーブル・キーブル?」と、ポポ。
「そうらしいな」と、クリスは答えた。一刻も早く出発したかった。
「ディルディル・ニート・ピーミー」ポポがいった。
「ありがとう。たぶん要るだろう」いったん水で満たされ、また空っぽになった発進室へ足早にむかう。ホイールをまわすと扉をあけた。北極の水が、玄武岩のフロアに二、三滴したたり落ちた。彼はふりかえった。「おもちゃ工場を止めるんじゃないぞ。それから第九レベルの例の問題、コーロといっしょに考えてみてくれ。クリスマス休暇までには戻る」岩床に片足をのせたところで、ふりかえり、つけ加えた。「なにもかもうまく行けばだがな」
「ウィーブル・ゼクスファント」と、ポポ。
「ああ、戦争おもちゃはおまえさんにもあげないよ」発進室にはいると、ホイールをまわして扉をしめ、ルーサイトの窓から合図した。ポポは発進室に水を入れた。クリスは噴射装置を作動させた。
黒い水は零度以下だった。心の安らぎとなるのは、潜水艦の誘導灯だけ。たちまち鋼鉄の魚に泳ぎつき、数分後には目的地をめざしていた。浮き氷原の縁を通りすぎると浮上し、飛行体形に切り換え、タンクからフロートを出して水面を滑走した。高空に上がり、ラムジェット速度に達したところで、彼は機の体形をふたたび変えた。
三百マイル後方、北極海の底では、ポポがコーロを繭のなかからたたきおこし、さんざん油をしぼっていた。コーロがローラー・スケート全部にヨーロッパ式のねじ山を切ってしまったため、アメリカ式のキーが使えなくなったのだ。
ヒルトップは、コロラドのとある山の内部にある。山の頂きがぽっかりと口をあけ、クリスのヴィトール(潜水艦の第三体形である)を着陸台に導いた。
部長が書類を手に待ちかまえていた。クリスは書類をぺらぺらとめくった。直観的記憶だ。「またS・P・I・D・E・Rか」低くつぶやき、つぎに質問口調で、「すると、
[#ここから2字下げ]
Society for
Pollution
Infection and
Destruction of
Eaethmen's
Resources
[#ここで字下げ終わり]
(地球資源の汚染、病染、破壊をめざす団体)という奴か?」部長はかぶりをふった。クリスは、フームと考えこんだ。「とにかく、こんどは何をやらかすつもりなんだ? 〈風の谷〉の例の脾脱疽事件のとき、徹底的にやっつけたと思ったのに」
部長はプラスチック・チェアに背をもたせかけた。部屋のぐるりにおかれた複眼球が、きらめく椅子の光輝をとらえ、四囲の壁に微妙な光のショウをくりひろげている。「そこに出ているとおりだ。奴らは以上八人の精神に取り憑いた。八人をあやつって何かおこそうとしてることは確かだが、それ以上はわかってない」
クリスはふたたびリストに目を通した。「リーガン、ジョンソン、ニクソン、ハンフリー、デイリー、ウォーレス、マドックス、それから――だれだ、この最後のは?――スパイロ・アグニュー?」
「そんなのはどうでもいい。いつもなら連中が危険な目にあわないように、怪我をしないように見張ってられるんだがな――S・P・I・D・E・Rがとりついてから、連中のやることはメチャメチャだ」
「聞いたことのない名前が多いな」
「あたりまえだ、あんなとこに引っこんで、おもちゃばかり作ってるからだ」
「今までのうちでは最高のカムフラージュだと思うがね」
「新聞を読んでないんだったらガタガタいうなってことさ。いいから覚えろ。それが近ごろの顔ぶれだ」
「そういえば、あの何とかいうあれはどうなったんだ……ウィルキー[#以下の括弧内割注](アメリカの政治家。フランクリン・ローズベルトと大統領選を争ってって敗れた。一八九二〜一九四四)だったっけ?」
「負けたよ」
「S・P・I・D・E・Rか」クリスはくりかえした。「それは、
[#ここから2字下げ]
Special
Politburo
Intent on
Destroying
Evertbody's
Race
[#ここで字下げ終わり]
(すべての人間にとっての異人種の滅亡をめざす特別政治局)の略かい?」
部長は少しうんざりした顔で、ふたたびかぶりをふった。クリスは腰をあげ、部長の手を握った。「書類を見たかぎりでは、いちばんとっかかりやすそうなのは、このシカゴのデイリーだな」
部長はうなずいた。「コンピュータ様のご託宣もそのとおりだ。出かける前に〈武器係〉のとこへ寄れ。おもしろいものを二、三、おまえさんのために作ってある」
「またあのいまいましい赤服で仕事か?」
「いちおうスペアに持って行け。赤服にはちょっと早いが」
「いま何時だ?」
「九月半」
クリスがドロップシャフトから現われるとミス|0717《セブン・セブンティーン》がぼ目を丸くした。他のエージェントたちの及びもつかぬ、弾力的な軽い足どりで彼女に近づく。
エージェントの多くは、上っつらを見るかぎりちんちくりんの事務員とほとんど変わりない。エスピオナージュはハンサムな男にぴったりの商売だと、そんな考えをいったい彼女はどこで仕入れたのだろう? きっとニューススタンドに氾濫する俗悪なスパイ小説だ。ところがミスター男性コンテストの入賞者にしろ、オーク[#以下の括弧内割注](オオウミガラスに似た絶滅鳥)そっくりの三枚目にしろ、敵を料理する戦法は同じようなもの。三叉神経をつねってのたうちまわらせるとか、すぼめた掌を相手の両耳にたたきつけて気絶させるといった手を、ここの連中がちゃんと心得ていると知ったときには、彼女は胆をつぶしたことだろう。またこれは、ロダンの彫刻みたいなのに襲われたときでも、相手が泥のかたまりみたいなのでも同様に有効な戦法なのだ。
だがクリスだけは……
彼はデスクの前に行くと、彼女がドギマギして目をふせるまで無言でじっと見つめた。そして、「やあ、チャン」
彼女は視線を合わせることができない。耐えられそうもないのだ。バハマ諸島。あの夜。すべてを見通すように、二人を照らす大きな月。ほとばしる情熱に合わせて、激しい旋律をかきならす夜の風。銀色の砂浜に狂ったように打ちよせる波。別れの言葉。再会への期待。上の階からもたらされた知らせ――チベットで行方不明。彼女に何ができよう……今の彼女に……とつぜん現われた彼を前にして……その胸にくっきりと残る太い白い傷跡、シャツの下に隠れてはいるが、彼女は知っている、ティボール・カスロフのサーベルがつくった傷跡……彼の肌で知らない部分はない。彼女は答えることができなかった。「おい、なんとかいってくれよ、バカだな!」と、クリス。
彼はわかってくれたようだった。
彼女はインターカムにいった、「クリスが来ています」インターカムに赤いライトがついた。
目をあげず、彼女はいった、「奥へどうぞ」
クリスは彼女の前を通りすぎ、石の壁をめざした。つきぬけると見えた瞬間、それは音もなく横にすべり、彼の姿は武器室のなかに消えた。壁がすべって閉じたとき、|0717《セブン・セブンティーン》ははじめて自分が力いっぱい手を握りしめていたのに気づいた。マニュキュアした爪が掌にくいこみ、血がにじんでいた。
武器係は、ツイードとパイプがトレードマークの、がっしりした長身の男だった。上衣はサヴィル・ロウの特別仕立て、たくさんのポケットに常時無数の小道具やパイプ用具がはいっている。
「クリス、元気そうだな」彼はエージェントの手をとると、あふれる感情をおさえきれないように強くふった。「フーム。ハリス・ツイードか?」
「いや、ほんとのことをいうと、奇蹟の人造繊維というやつさ」クリスは答えるとしなやかに身体をひねって、センター・ベンツ、パッチポケット、ウエストの細いエドワード王朝風の上衣を見せた。「香港《ホンコン》の知りあいに作ってもらったんだ。気にいったかい?」
「エレガントだよ」武器係はいった。「しかし、ここでお互いの仕立屋の趣味をはりあってもしょうがない」
その冗談に、二人は小さな声でひと笑いした。等分して、その間十秒足らず。「こちらへ来たまえ」武器係は壁の陳列棚へと歩きながら言った。数種類の小型装置が釘につるさがっている。
「おたくの興味をひくようなのがいろいろあると思うがね」
「こんどは赤服を着なくてすむのかと思った」クリスはにがい口調でいった。壁のそばのチークの洋服掛けに、赤い服がきちんとかかっている。武器係はふりかえり、驚いた顔をした。「え? だれがそんなこと教えた?」クリスは洋服に手をのばし、気のぬけた顔で生地をまさぐった。
「部長さ」武器係は怪誘そうに口をぼかんとあけた。上衣のポケットからパイプを出し、口にくわえる。サンシエニ・ファンテイル、受け皿はリンゴ形、早急にやに[#「やに」に傍点]掃除をしたほうがよさそうだ。
「部長もいいかげんだな。念を押しておくのに、ときどき忘れちまう」がっかりしたようだが、クリスには、オフィス間のかけひきに首をつっこむ余裕はなかった。
「見せてくれ、どんなのがあるんだ?」
武器係は釘からペンシルライト形の小型装置をとった。ポケットにはさむためのクリップが上端部についている。「これは自慢していい。悪魔的な装置だ」彼はコンスルのガスライターを出すと、はんだ付けができそうなほど炎を青く強めてパイプに火をつけた。
クリスはペンシルライト形の装置を手にとり、ひねくりまわした。「よくできてる。持ちやすいし」
武器係は、新車を買って、その値を隣人にあてさせようとしている男そっくりの顔をした。
「それで何をすると思う?」
「何をするんだ?」
「半径二マイルの地域に暗闇をつくる」
「すごい」
「いや、たいしたことないさ。ほんと。クリップを右にひねるんだ――おっとっと、今するんじゃないぞ! ヒルトップ全体がまっ暗闇だ。どたん場に来て脱出したいとき、クリップをひねると、ボワンンンン! すばらしい隠れみのができあがる」武器係は濃密なパイプの煙をはきだした。ニーマイヤーのダニッシュ・フルート・ケーク、香りがよい。
クリスの目は赤服に釘付けになっている。
「あれ[#「あれ」に傍点]はどう変わったんだ?」
武器係はパイプの柄で指し示した。それが癖なのだ。「うん、今までのものは全部ある。ロケット、ジェット背嚢、ナパーム弾、矛《ほこ》、手裏剣、高圧ホース、スパイク、・三〇マシンガン、酸、可燃性あごひげ、ふくらむと救命ボートになる偽胃袋、火炎放射器、プラスチック爆弾、ゴム製の赤いつけ鼻式手榴弾、工具ベルト、ブーメラン、大斤刃刀《ポーロー》、投げ縄、山刀《マチェーテ》、ディリンジャー、ベルト・バックル式時限爆弾、錠前あけ用具、潜水装置、両側の尻の部分にカメラとゼロックス、伸縮自在フック付き鋼鉄ミトン、ガスマスク、毒ガス、サメ除け薬、スターノ・ストーブ、非常糧食、それから世界の名著百点をおさめたマイクロフィルム・ライブラリー」
クリスはまた赤服を指さした。「重い」
「だが、それに加えて」武器係は幸福そうにいった、「こんどはこの武器室で腕によりをかけて――」
「すさまじいことをしてくれたな」
「いやあ、ありがとう、わたしも嬉しいよ、クリス」
「そうじゃない、こっちは迷惑がってるんだぜ!」
「そうか、うん。その上こんどはだ、服そのものを完全に自動化させた。上衣のこの第三ボタンを押すと、服全体がふくらんで宙にうかび、高空飛行用に密封される」
クリスはにがい顔をした。「もし倒れでもしたら、裏返しにされた亀だ」
武器係は親愛の情をこめて、クリスの左腕二頭筋の上のあたりをこづいた。「冗談がうまいね、クリス」ブーツを指さして、「ジャイロスコープがある。いつでも平衡が保てる仕組みだ。倒れっこないよ」
「なにせ冗談の名手ですからね、あたしゃ。ほかに何をくっつけたんだ?」
武器係は陳列棚に近づき、自動ピストルをとりだした。「これを試してごらん」
制御卓《コンソール》のボタンが押されると、兵器室の左側の壁が下降し、射撃練習場が現われた。シルエットの標的が、トンネルのつきあたりに並んでいる。
「おれのウェンブリーは?」クリスはきいた。
「かさばりすぎる。信頼度も高くない。最新型が、きみの手にあるそれだ。ラシター=クルップ・レイザー銃。最高だぞ!」
クリスは姿勢をただし、身体のいちばん細い面を無言のシルエットに向けた。右腕をのばし、その手首を左手でつかんで固定すると、引き金をひいた。銃口から一すじの光とシュウという音がほとばしりでた。その瞬間、トンネルの奥にあった十個のシルエットが、目もくらむ閃光とともに消失した。トンネル内部では、銃弾と石壁の破片がめったやたらにはねとんでいた。爆発音は耳を聾せんばかりだった。
「こいつあ、まったく、おどろいたな」クリスはつぶやき、ふりかえった。武器係は閃光と爆風よけのゴグルをはずしたところだった。「こういうバカなものだと、なぜ前もって教えてくれないんだ? こんなのは使えやしない――おれは用心深く、人目を忍んで行動しなくちゃいけないんだ。ジブラルタル海峡をぶっこわすなら、こいつも役にたつかもしれん。しかし一対一の格闘に使うなんて、ばかげてるさ。さあ、やるよ。取れ!」
彼は武器係に銃をつきだした。
「恩知らず!」
「おれのウェンブリーをよこせ、気違い!」
「勝手に持ってけ――壁のとこにある、ど近眼の体制の奴隷め!」
クリスはオートマチックと暗闇装置をつかんだ。「赤服はアラバマ州モントゴメリーのおれの連絡先宛てに送ってくれ」彼は急ぎ足でドアにむかった。
「ああ、送るかもしれん、送らんかもしれんぞ、うすのろめ!」
クリスは足をとめ、ふりかえった。「おい、いいか! ええい、くそっ、こんなとこで銃器の議論をしてる暇はないんだ。世界を救わなくちゃいけないんだからな」
「メロドラマ! 唐変木! 反動!」
「あほんだら! きさまの間抜けなのにはあきれはてた、大間抜け。大口たたくのはいいかげんにしろ、脳膜炎!」
壁にたどりつき、それが音もなくひらくと、おもてにとびだした。壁が完全に閉じる直前、武器係はパイプをたたきつけ、足で踏みつぶして叫んでいた、「おまえのそんなずたぼろ上衣のどこがいいもんか!」
ショア・ドライブからながめるシカゴは、巨大な燃えるごみ捨て場を思わせた。サウス・サイドでまた暴動がおこっているのだ。エヴァンストンとスコーキーの方角に、どす黒い煙の柱が二本、のたうちながらたちのぼっている。エヴァンストンではDAR[#以下の括弧内割注](独立戦争の子孫から成る婦人愛国団)が略奪と焼打ちをほしいままにし、スコーキーではDARがエヴァンストンから来たWCTU[#以下の括弧内割注](キリスト教婦人矯風会)の女たちと合流して、ペーパーバック・ポルノの出版社を破壊しているのだ。この都市は発狂しかけている。
クリスはこぎれいなレンタルのマセラーティでオハイオ・ストリートをとばすと、右に折れてモーテルの地下駐車場のランプを下り、配車係に車をまかせた。アタッシェ・ケースひとつを手に、モーテルの一階に出る非常口にむかう。しかし踊り場にはいると、くすんだ壁のほうを向き、音波信号機を作動した。壁がくるりと開いた。急いでとびこみ、壁をしめ、アタッシェ・ケースをダブルベッドの上に投げだす。閉回路テレビには、待機中のライトが輝いている。スイッチを入れ、カメラの前に立つ。シカゴ連絡員のフレイアがまたロングヘアにしたのを見て、にっこりした。
「やあ、|1019《テン・ナインティーン》」
「まあ、クリス。〈|風の都市《ウィンディ・シティ》〉[#以下の括弧内割注](シカゴの異名)にようこそ」
「こちらは大変だそうだな」
「すぐ始めるの? デイリーはおさえといたわよ」
「いつなら近づける?」
「今夜ね」
「上出来だ。ところで、いま何してるんだ?」
「たいしたことはしてないわ」
「どこにいるんだい?」
「廊下のつきあたりよ」
「来ないか」
「この昼日中《ひなか》に?」
「健全な肉体には健全な精神が宿る、さ」
「十分で行くわ」
「いいわけ用意しとけよ」
全身黒づくめ、逆吊りとびだしホルスターにおさまったウェンブリー、その握りを左腹の下かほふくらわずかにのぞかせて、クリスは歩兵の伝統的な匍匐《ほふく》前進よろしくカニのように手足をひろげ、電流の通じた鉄柵と黒いどっしりした発電所のあいだにひろがる空地を這って進んだ。
ビルのなかにデイリーがいることは、|1019《テン・ナインティーン》の追跡装置がとらえている。暴動のさなか、もう二日近くも彼はそこに潜んでいるのだ。
発電所で彼はいったい何を企んでいるのか、クリスはフレイアにたずねた。彼女は知らなかった。ビル全体が遮蔽され、どのような感応器を用いてもつきぬけることができないのだった。しかし何にせよ、相手はS・P・I・D・E・Rである――それだけは間違いない。都市が炎につつまれているにもかかわらず、彼ほどの地位にある男がこのなかにひきこもっているのだ――たしかに何かある。
クリスは発電所の土台にたどりついた。壁にそって歩き、建物のL字形延長部の黒い窓を見上げる位置まで来た。窓は彼の頭上一フィートのところにある。よじのぼる手がかりなし。ぶちわってとびこむしか方法はない。三回深呼吸すると、ウェンブリーをはじきだし、握りの部分に巻いてあるテープを引っぱった。はがれたテープを、拳銃といっしょに手に巻きつける。さらに三回深呼吸。あたりに注意をはらいながら、空地に三十フィートとびだし、ふたたび大きく息を吸って踵を返すと、発電所めざして突進した。ビルの壁にぶつかる寸前、腰を深くしずめて大地を蹴り、両腕で頭をかばいながら窓に体あたりした。
つぎの瞬間、彼の身体は弧を描いて発電所のなかに落下していた。宙返りをし、膝を丸めたまま、尻で衝撃をやわらげる。ガラスの破片が周囲にとびちった。黒服の胸には大きな裂け目ができていた。ウェンブリーを握った右手が、前方にのびた。
とつぜん発電所のなかに光が満ちあふれた。一瞬のうちにクリスは全景を記憶に焼きつけた、すべてを。
デイリーは、部屋のつきあたり、寺院の柱を思わせる高い台のてっぺんにおかれた複雑なぜんまい仕掛けのメカニズムの上にかがみこんでいた。部屋のいたるところにあるブラックライト装
置[#以下の括弧内割注](暗紫色の光をともなった紫外線を放射する装置。闇のなかでこれを用いる螢光性の物質が光を放つ。ふつうパーティなどでサイケデリックな効果を出すために利用される)は、いまだに邪悪な暗紫色の光を投げている。淡いグリーンのタイツを着た三人の男が、ブラックライト・ゴグルをはずして、こちらにやってくる。第四の男は、つけたばかりの室内照明のナイフスイッチにまだ手をおいていた。まだほかにもある。
デイリーのぜんまいメカニズムから、何本ものコードが壁のコンセントにむかってフロアをのたくりながらのびている。一方の壁は、巨大ないかつい送風システムが完全に占領している。台のうしろに並ぶ大桶には、液化した煙を思わせる黒い物質がぶくぶくと泡だっている。
「くいとめろ!」デイリーが金切声をあげた。
タイツの三人男を前にして、クリスには一瞬の余裕しかなかった。しかしその一瞬を利用して、彼はつぎに到来する事態を確認した。どのような任務においても、彼は常にそうした瞬間を持ってきた。これからおこす行動が、どんなに残酷な結果をもたらそうと、それが正しいことを自分に納得させる時間が必要だった。その瞬間を利用して、彼はデイリーに目をやった。内心の決断は、期待した以上に力強く確認された。あれは邪悪な老人だ。寛容であるべき老年期が、あの男の場合には、たとえようもなく醜怪な皺となって刻まれている。あれは悪魔の化身だ。完全にS・P・I・D・E・Rの掌中におちている。
三人のタイツの男がのしのしと進みでた。節くれだった体つきの大男たち。悪意に濁った表情。クリスは引き金をひいた。弾はひとりの腹にくいこんだ。男は衝撃で回転しながらのけぞり、隣りの相棒にぶつかった。相棒は身をかわそうとしたが、すでに死体と化した男の手足にからみつかれ、転倒した。クリスはさらに三発、もつれあう手足がかすかな痙攣を残してすっかり動かなくなるまで、弾を撃ちこんだ。第三の男はわきにまわり、組みつこうとした。クリスは一歩しりぞき、男の顔を撃った。男はぼろ人形のように崩折れ、おどけた格好でいったん膝をつくと、今しがたまで自分の頭であった肉塊のなかにのめりこんだ。
第四の男は、相棒たちにふりかかった運命などまったく知らぬように、両腕を――ゾンビーそっくりに――前につきだし、よたよたとクリスにむかってきた。エージェントは一発で男をかたづけた。
そして彼はデイリーに向いた。
老人は、銃口が針のように細い、いかにも怖ろしげな武器で狙いを定めたところだった。クリスは横ざまにとんで身をふせた。デイリーの武器から真紅のエネルギー・ビームがほとばしったとき、ジュージューと燃えたのは発電所のフロアだけだった。クリスは送風システムの下までころがった。そして立ちあがると、ウェンブリーを構えて叫んだ、「おれに撃たせるなよ、デイリー!」
デイリーの手のなかの武器が動き、クリスの上に停止した瞬間、クリスの拳銃が火を噴いた。鼻面が針のようにとがった武器は、スチール外被の銃弾をくらって砕け、デイリーは台座からのけぞって転落した。
間髪を入れず、クリスが上にのしかかった。
デイリーを立たせ、台座に押しつけると、立ち直るすきを与えず鎖骨陥没部の与圧点に二本の指で麻痺剤を注射した。老人の口が苦痛のあまりあんぐりとあいたが、声は出てこなかった。クリスは乱暴に老人を台座の上に引っぱりあげ、ぜんまいメカニズムのそばに放りだした。
それは、おそろしくこみいった代物だった。泡だつ煙の大桶と壁ぎわの送風システムのあいだには、どういうわけか、たくさんのタイマーやクロノグラフが接続されている。その装置がどんな働きをするものか、つきとめるのに全力を集中しているとき、足元でため息が聞こえた。見おろしたとたん、デイリーの右の耳から何か――正視に耐えぬほど不気味な生き物――が這いだすのが目にとまった。それは台座のフロアをするすると走ると、つぎの瞬間爆発し、まっ黒な汚物と煤の煙と化した。クリスがふたたび目をやったとき、そこには、子供がマグネシウムと硝酸カリウムの粉末に火をつけて遊んだあとのような、黒いしみが残っているだけだった。
デイリーが身じろぎした。彼はごろんとあおむけになり、胸を波うたせた。そして起きあがろうとした。クリスは膝をついて、彼にあぐらをかかせた。
「ああ、どうしたことだ」デイリーはつぶやき、目の前のもやをふりはらおうとするかのように頭をふった。その顔には、もはや邪悪さはなかった。長い病いの床からようやく起きあがった、
温厚な老紳士という感じだった。「ありがとう、どなたか知らんが。ありがとう」
クリスはデイリーを助けおこした。老人はぜんまいメカニズムによりかかった。「やつらに取り想かれていた……何年も前からだ」と、デイリーはいった。
「S・P・I・D・E・Rですか?」「そう。わたしの頭に、わたしの心にはいってきたんだ。邪悪な奴だった。善などひとかけらもなかった。ああ、おそろしいことだ。わたしが今までしてきたこと。非道な堕落した行ない! 恥かしい。なんとか償いをしなければ」
「あなたが悪いんじゃありませんよ、市長。S・P・I・D・E・Rです。罰を受けるのは奴らだ。いま、そいつがこうなったみたいに」クリスは黒いしみを指さした。
「いや、ちがう、ちがう……わたしだ! 怖ろしいことをしたのはわたしなのだから、悔いあらためる義務はわたしにある。サウス・サイドのスラム、バック・オ・ザ・ヤーズ区域を取り払う。最高の都市計画者を雇って、今までわたしが無視してきた黒人たちのために、快適な住居を建てよう。黒人たちを、わたしは自分の政治目的のために利用することしかしなかった。それから、人びとが窒息し、品位を失ってしまうような、無暴な物価値上げもしない。光と笑いに満ちた住みやすいコミュニティを作る。ポーランド移民たちも解放するぞ――悪質な不動産屋にアパート建築をまかせるような、非人間的な政治もしない――危険な建物は全部とりこわし、新しく建てなおす。これまで大きくしてきた秘密警察も廃止して、人道主義的見地に立った厳しい試験をパスしたものだけを警官に採用する。あらゆる点から総合的に考え、美しい都市に作りかえよう。そして辞職し、わたしの罪を裁いてもらう。懲役が五十年以上でなければいいが。わたしもそう若くはないから」
クリスは考え深げにチッチッと歯を吸った。「興奮なさらないでください、市長」
彼はぜんまいメカニズムを示した。「これはいったい何ですか?」
デイリーは嫌悪をあらわにして機械を見た。「これを破壊しなければ。二十四年前、S・P・I・D・E・Rが〈八項目計画《エイト・ポイント・プラン》〉のひとつとして、わたしにまかせたものだ。〈八項目計画〉の目的は……目的は……」
彼は言葉につまった。その温厚そうな顔に、困惑した表情がうかんだ。彼は下唇をかんだ。
「どうぞ、続けてください」クリスはうながした。「何をするんですか? S・P・I・D・E・Rのマスター・プランとは何ですか? その最終目標は?」
デイリーは両手をひろげた。「そ、それは……わたしにはわからん」
「では別のことをお聞きします……奴らは何者なんです? どこから来たのですか? 戦いが始まってもう何年にもなりますが、奴らの正体については、ほとんど白紙の状態です。つかまえても必ず自滅してしまう、さっきの奴みたいに!」
彼は台座の上の煤けたしみに顎をしゃくった。
「――生きたまま捕獲できたことはないのです。正直にお話しすると、奴らの手先になっていた人間で、無事奪回することができたのは、あなたが最初なんですよ」
クリスの不必要な説明に、デイリーはいちいちうなずいた。話が終わると、老人は肩をすくめた。
「覚えているのは――わたしに取り憑いていた奴が、核心に触れるようなことをほとんど漏らさなかったので、よくわからないが――とにかく覚えているのは、奴らがほかの惑星から来たということだ」
「異星人ですって!」デイリーの言葉を瞬時にのみこんだクリスは、かろうじて叫びをおさえた。「〈八項目計画〉か。リストにあった、あなたとほか七人の名前。それがマスター・プランの一翼を担ってるわけですね。そして、その最終目標は、今のところわからない」
デイリーは彼を見た。「きみはあたりまえのことを口に出していう才能があるようだな」
「物事を総合するのが好きなんですよ」
「まぜ合わせるだけだ」
「なんですか?」
「なんでもない。たいしたことじゃない。続けなさい」
クリスは当惑した顔をした。「いや、続けるのは、あなたのほうでしょう。この装置がどんな働きをしていたのか話してください」
「まだ働き続けてる。止めてないからね」
クリスの顔に警戒の色がうかんだ。「どうすれば止まるんですか?」
「そのボタンを押すんだ」
クリスはボタンを押した。たちまち大桶の泡だちが静まり、煙のような物質が底に沈み、送風機の風がやみ、ぜんまい装置の運動はしだいに緩やかになって止まり、ハト時計のハトは青く変色して死に、ホースは平らになり、部屋に静けさがおりた。「何をやっていたんです?」クリスはきいた。
「スモッグを製造して大気中にばらまく装置さ」
「冗談でしょう」
「冗談じゃないよ。きみはスモッグが工場や車やタバコから出ると本気で信じていたのかね? S・P・I・D・E・Rはスモッグの元凶が車やそういったものだと宣伝したり、にせの報告書をでっちあげたりするのに、相当な金をつかったんだよ。現にわたしが大気中にスモッグをひろげるようになってから、二十四年たつ」
「くそっ」クリスは畏怖の表情でいった。そして慎重に間をおくと、たずねた、「では宇宙からの侵略者とわかったところで教えてほしいんですが、S・P・I・D・E・Rは
[#ここから2字下げ]
Scabrous,
Predatory
Invaders
Determined to
Eliminate
Rationatity
[#ここで字下げ終わり]
(理性抹殺を目的とする凶悪残忍な侵略者)のことですか?」
デイリーはまじまじと見つめた。「わたしに聞かんでくれ――そんなことは、だれも知らん」
そして台座からとびおりると、発電所のドアにむかって駆けだした。クリスはそのうしろ姿を見送ったのち、かなてこを拾うと、スモッグ・マシーンの破壊にとりかかった。潰れ、ねじまがった残骸のなかで、汗みずくの作業が終わったとき、彼は開いた戸口に立ちつくしているデイリーに気付いた。
「何か用ですか?」と、彼はきいた。
デイリーは希望に満ちた微笑をうかべた。「いや。見物しているだけさ。こうして真人間にかえったら、わたしのでたらめで野蛮な暴力の最後の標本を見たくなった。これからのシカゴは平穏な都市になるだろう」
「がんばってくださいよ、市長さん」クリスは感情をこめていった。
〈八項目計画〉を締めくくる鍵は、アラバマにあるようだった。ウォーレスである。だがウォーレスは遊説に出かけており、計画を締めくくるためには、どうやら彼の特別な手腕(それを可能にするのは、彼の頭のなかにいるS・P・I・D・E・R工作員のさらにデリケートな手腕である)がなくてはいけないらしかった。クリスは、ウォーレスを最後にまわすことにした。時間は無駄にできないが、シカゴのほうは、フレイアがデイリーとスモッグ・マシーンの後始末をやってくれているし、正直にいって――時間などくそくらえだ! もしかすると、これがS・P・I・D・E・Rとの最後の対決になるかもしれない。クリスはヒルトップを呼びだし、自分が計画の残り七項目をとことん根絶やしにするつもりでいること、ウォーレスが射程にはいるのはクリスマス季節になることを報告した。ぎりぎりまで仕事を抱えてしまうわけだが、工場はポポが立派にとりしきってくれているはずだった。それに、やるべきことは……やってしまわねばならない。相当めんどうな仕事になるだろう。彼は北極海のわが家に思いをはせた。唸りをあげる幸せいっぱいのおもちゃ工場、そしてことに彼が、LSDをたっぷりしみこませた角砂糖をさしだすと、掌に鼻をすりよせてくるプリッツェン、ラリった母猫たちのはしゃぎよう。
やがて彼は、心のなかからそうした幸福な時間と涼しい気候をふりはらうと、S・P・I・D・E・R打倒の決意を固めた。そして残り七人を順ぐりにかたづけはじめた。
[#地から2字上げ]リーガン――カリフォルニア州カマリロ
精神科医のおせっかいが必要なものはこの州にはひとりもいないという反証の余地ない論拠から(「それはみんな各人の頭のなかの問題だ!」――一皿五百ドルの在郷軍人会連盟夕食会の席上で、リーガンがそうぶったのは、わずか六ヵ月前のことである)州立精神病院をすべて閉鎖してしまったリーガンは、カマリロの打ち捨てられた施設の一階男子用トイレットで、オールバックの髪をとかしているところをクリスにおさえられた。
鏡にうつるクリスの姿に気づき、ふりかえったリーガンは、悲鳴をあげて、有料トイレットで用を足している、グリーンのタイツを着たゾンビー部下に助けを求めた。(気の狂った近親者をまわりにおきたくない家族が施設に送付する金は、黄金州[#以下の括弧内割注](カリフォルニア州の俗称)指定の代用紙幣に引き換えられ、入院患者に毎月支給される。有料トイレットは、その代用紙幣でまかなわれていた。リーガンは、「支払わざるもの通るべからず」という州政府の制度をかたく信じているのだった)ゾンビー部下が個室から顔を出した瞬間を狙って、クリスはサヴァート・キック[#以下の括弧内割注](フランス式蹴合術。手と足を同時に使う)でドアをぶち破り、靴の縁で男の脾臓をたたきつぶした。そしてリーガンにとびかかろうとした。リーガンを殺すことはできない。なんとかして生捕りにし、彼の頭に巣くうS・P・I・D・E・R寄生体の自滅を妨げなければならないのだ。そのとき不意にリーガンが身をひいた。愕然として見守るクリスの前で、ぞっとするほどハンサムなリーガンの容姿がゆらめき、かたちを変えはじめた。数瞬ののちには、クリスの前にいるのはもはやリーガンではなかった。彼は七っ頭のヒドラに変わり、その七つの口から(a)火、(b)アンモニアの煙、(c)ほこり、(d)ガラスの破片、(e)塩素ガス、(f)マスタード・ガス、(g)口臭とロック・ミュージックの混合物を吐いていた。
そのうちの三つの頭(すなわち、c、e、f)が、へビのような首をのばして襲いかかった。クリスはトイレの壁に身体を押しつけ、上衣をさぐってボールペンをとりだした。逆時計まわりに二度ふると、ペンは両手用の剣に変わった。剣を軽々とふりながら、めまぐるしく身を躍らせ、二、三分で七つの頭を斬りおとす。最後に怪物の心臓に狙いを定めると、それを一刀のもとにつらぬいた。巨体はどうと倒れ、動かなくなった。と、怪物の姿がゆらめき、ふたたびリーガンに戻った。耳から黒い物がとびだし、破裂した。あとに残ったのは、フロアのタイルの上の焼けたしみだけだった。
しばらくのち、髪をとかし、鼻のあたまと頬骨の照明焼けをパンケーキで隠したリーガンは、S・P・I・D・E・Rの逆らいがたい邪悪な司令のもとに行なった忌わしい悪事の数々を悲しげに懺悔した。組織の頭文字が何を意味するかについては、まったく知らないと答えた。クリスはがっかりした。
リーガンはそれからカマリロ工場を案内し、〈八項目計画〉における自分の役割は、二階から三階にかけて設置された巨大な機械で大気中に狂気をばらまくことだったのだと説明した。二人は苦労して機械を破壊した。装置の大半は、硬質プラスチックでできていたからである。
リーガンは、〈八項目計画〉の第二項の崩壊を押し進めるためヒルトップに協力することを約束した。そして(ボーイスカウト式に片手をあげて)本日からできるかぎりの善政を布く、強く要望されていた財産税の改正を実行し、カリフォルニア大学ロサンジェルス校の学生に対する実力行使をやめ、ロサンジェルス・フリー・プレス、アヴァター、イースト=ヴィレッジ・アザー、バークリイ・バーブ、ホースシット、オープン・シティ、その他すべてのアングラ新聞を購読して現実の世界を知る努力をする、一週間以内に、州内の全警察署にフォーク・ダンスとソール・ミュージックと円満な紛争解決の定期講座を設ける、そう誓った。彼の顔にうかぶ微笑は、子供時代の、あるいは生来の純真さをどこかに置き忘れ、それをふたたび取り戻した男の微笑に似ていた。
[#地から2字上げ]ジョンソン――テキサス州ジョンソン・シティ
クリスが現われたとき、ジョンソンは人びとからひとり離れてすわり、両手を使ってマッシュ・ポテトを食べていた。すさまじい光景だった。その姿には疲労がにじみでていた。半分食べかけの牛の丸焼きが、炭火の上でものうげにまわっている。クリスは隣りに腰をおろし、挨拶した。クリスをパーティの客と思っているらしい。ジョンソンはげっぷをした。クリスは隙をみて彼のこめかみを指で突き、ぐったりした身体を森のなかにひっぱりこんだ。
ジョンソンが意識を回復したときには、すべてが終わっていた。S・P・I・D・E・Rの寄生体は逃げだし、破裂し、落葉の上に――季節はすでに十月中旬だった――黒いしみを残していた。ジョンソンは、戦争をできるだけ早く終結させると約束した。クリスには、それが何の戦争なのかわからなかったが、いずれにしてもけっこうな考えに思えた。
「教えてください」クリスは真剣な口調できいた。「S・P・I・D・E・Rとは、
[#ここから2字下げ]
Secret
Preyers
Involed in
Demolishing
Everything
Right-minded
[#ここで字下げ終わり]
(すべての正しい考えを粉砕するための秘密謀略部隊)のことですか、それとももっと漠然としたものなんですか?」
ジョンソンは両手をひろげた。知らないのだった。
〈八項目計画〉における自分の役割は、戦争を誘発し、赤んぼうを虐殺することだったのだ、とジョンソンは告白した。しかし、もうそんなことはしない。軍隊を呼び戻す。戦争反対者を監獄から解放する。平和のために全力をつくす。貧しい国に穀物を送る。レッスンを受けて、演説がうまくなるよう努力する。クリスは肩をすくめ、立ち去った。
10
[#地から2字上げ]ハンフリイとニクソン――ワシントンDC
大統領選より一週間後。ひとりは大統領である。だが、それは問題ではない。もうひとりは対立候補として出馬したさくらで、彼らのあいだには国をまっぷたつに分ける協定が成立していた。いまニクソンの悩みは、どうしたらひげがきれいに剃れるかであり、ハンフリイの悩みは、自分の眼を大きく見せるコンタクト・レンズにどうしたら早くなじめるかであった。
「いや、ディック、要するに問題はだね、わたしが鳥みたいに変てこな、ちっこい目をしているからじゃないのかな?」
ニクソンはオフィスの壁の鏡から目をそらして言った、「わかるよ。見てくれ、ファイブ・オクロック・シャドウだ、まだ三時半なのに。おい、だれだ、あいつは?」
安楽椅子のなかで向きを変えたハンフリイが、クリスを見た。
「さようなら、S・P・I・D・E・R」いうなり、クリスは二人に麻酔|投げ矢《ダーツ》を射ちこんだ。
しかし投げ矢が標的に当るよりも早く、耳からとびだした黒い生き物は破裂し、黒い煤と化した。「ちくしょう!」クリスはいい、ニクソンとハンフリイが意識を回復するのを待たずに部屋をあとにした。何にせよ、目覚めるのは一週間かそこら先のことになるだろう。投げ矢の麻酔効果がどれほど続くかについては、武器係はまだはっきりした結論を出していないのだった。それにクリスは、〈八項目計画〉における彼らの役割が、政治問題をもつれさせ、大気中に混乱と紛争をばらまくことだと知っていた。ジョンソンが教えてくれたのだ。これで彼らも真人間にかえるだろう。ノーノーと警告する監視鳥につきまとわれているようなもので、大統領の政治も慎重になるにちがいない。
クリスマスが近づいていた。クリスはホームシックになった。
11
S・P・I・D・E・Rはメンフィス、デトロイト、クリーブランド、グレートフォールズ、ロサンジェルスの五都市で、クリスを暗殺しようとした。そして、ことごとく失敗した。
12
[#地から2字上げ]マドックス――ジョージア州アトランタ
言葉に書きあらわすには、あまりにもむごたらしいできごとだった。これまで遭遇したS・P・I・D・E・Rの手先で、この男だけはクリスも殺さねばならなかった。小さな黄金の斧の柄で――マドックスが経営する有名なレストランの記念品で。クリスは、〈八項目計画〉におけるマドックスの役割、黒人憎悪マシーンを破壊すると、チキン・フライをむしゃむしゃ食べながらモントゴメリーへ直行した。
13
[#地から2字上げ]ウォーレス――アラバマ州モントゴメリー
赤服のサンタ・クロースは、真鍮の鈴を鳴らしながら、モントゴメリーの州庁舎前広場を歩いてゆく。でぶで陽気な、ひげ面のサンタ・クロース、そしておそらく世界でもっとも恐るべき男。
足首まで隠す雪を踏みながら、クリスはあたりを見まわした。円型の広場の周辺には、各官庁のビルが集まっている。背筋が上から下まで妙にチクチク痛むのは、全装備をしょいこんだ、このかさばる服のせいだろう――窮屈すぎて、十二月二十四日のこの白霜のなかでもじとじと汗ばんでくる始末だった。ブーツのなかは溶けた雪でぐっしょり濡れている。クリスは正確な歩調で議事堂前の石段をのぼり、油断のない視線を左右に走らせた。
休日とあって、建物はどれもシャッターをおろしている。アラバマ州の行政機関のすべてが。しかし市中に人影がないわけではない。幸福な消費者としての役割を果たそうと最後の買物に急ぐ人びと。あちこちを走る子供たち――みんなそれぞれ行先があるような顔をしているが、とびまわっているだけかもしれない。子供たちを見かけるたびに、クリスはいつもほほえんだ。彼らこそ唯一の希望なのだ。守ってやらなくてはならない――現実から切りはなすことなく守らなければならない。近ごろ若い世代にひろがりつつある冷笑的な態度が、彼には気がかりだった。しかし一方、若い活動家たちは、みずから意識してはいないかもしれないが、S・P・I・D・E・Rが意味するすべてのものに対して戦いを挑み、おとなたちよりはるかに大きな成果をあげているように見える。
ひとりの男が石段を急ぎ足でおりてきて、クリスのそばを通りすぎた。男は分厚いトップ・コートの衿にあごを埋めている。サンタ・クロースがさしだす募金箱を一瞥したが、目を細めただけでそのまま通りすぎた。クリスは石段をのぼりつづけた。
毛皮帽子のなかの追跡装置は発信音をあげ、距離測定機はウォーレスに近づくにつれ、ますます強く反応しはじめた。ビルに侵入するのはかなり面倒な仕事になりそうだった。しかし赤服にそんな装置をごてごてつめこんでいなければ、このサンタ・クロースは細いスマートな男なのである。「ホー、ホー、ホー」白い息を吐きながら、クリスはつぶやいた。
州会議事堂前の石段の最初の踊り場に着くと、クリスは侵入の下準備を始めた。右手ミトンの掌にある赤服のコントロール装置を指先でつついて、二本の高圧ホースを、議事堂の左そでにある鉄格子のはまった窓のひとつにむけた。ホースがめざす方向に固定されると、酸とナパームをホースにコードし、射出ボタンを押した。ほとばしりでる酸が鉄格子とガラスを溶かし、ついでナパームが白い世界のなかに弧を描いてコンクリートに大きな穴をうがった。すこしあとには、議事堂の正面は燃えあがっていた。
クリスはジェット背嚢を噴射し、議事堂上空に舞いあがった。二百フィートまでのぼったところでロケットのスイッチをいれ、議事堂の屋根に降下した。ロケットがとまり、屋根にゆっくりとおりたったところでクリスはジェット背嚢を切った。彼の姿に気づいたものはなかった。しばらくは火事を消すのに手いっぱいだろう。〈八項目計画〉粉砕もここまできたからには、彼らがクリスを待ちうけているのはまちがいないが、これほどすさまじい勢いで襲ってくるとは思っていまい。
ガイガーの反応は、議事堂の北そであたりがいちばん強かった。跳躍ブーツの力を借り、わずか三歩で北そでに着くと、屋根のへりにそってプラスチック爆弾をいくつかはりつけ、爆発力が真下にむかうように内破スプレイをその上から噴霧した。そしてタイマーをセットすると、追跡装置がもっとも大きなウォーレス反応を示す屋根の個所にかけもどった。ついで両手ミトンからのばしたフックで足元の部分を丸く切り、それを酸で焼きはらった。だがそのままひっかかっている。とつぜん北そでのプラスチック爆弾が爆発し、その轟音にまぎれて彼は侵入を開始した! 屋根に入れた切りこみは、ブーツのスパイクで蹴破った。丸い切り口は、屋根を支える建材にまでくいこんでいた。火炎放射機を使って、いく層にも重なった木擢と漆喰と梁をつぶすと、議事堂内部と彼を隔てているのは天井の漆喰だけとなった。彼はたっぷりした服の内ポケットから手榴弾をとりだし、ピンを抜き、穴のなかに投げいれた。短く鋭い爆発音がとどろき、漆喰のほこりがおさまったときには、アラバマ州会議事堂の内部に通じる道がひらけていた。
彼はブーツを弱バウンドにセットし、とびおりた。
そこには、すでにグリーンのタイツを着たゾンビーたちが待ちかまえていた。「ホー、ホー、ホー」高らかな笑い声とともにクリスの機関銃が火をふき、ゾンビーたちははねとび、膝をつき、のけぞった。数秒後には、歓迎隊は血だまりのなかにつかっていた。
彼らは、その部屋に通じるドアをすべて、バリケードで封鎖していた。万能鍵を使っている暇はない。ゴムの赤鼻をはずし、投げつけた。ドアはこなごなに砕け、無数の爪楊枝が降りそそいだ。宙を舞う破片と煙のなかに突進し、廊下に出ると、激しく鳴る追跡装置が示す方角にまがった。ウォーレスは移動していた。逃げる気だろうか? かもしれない。
大斤刃刀《ポーロー》を抜くと、彼はふたたび前進を始めた。十字路になった廊下の一方から、グリーンのタイツを着たゾンビーたちが襲いかかった。クリスは速度をゆるめもせず、彼らをなぎはらいながら進んだ。とつぜん一発の銃声が耳元でひびきわたり、彼は手裏剣を鞘から抜いてなかばふりかえった。狙撃者は廊下のつきあたりのドアから半身を見せて立っていた。クリスは掌の上でナイフをすべらせると先端をとり、一回のすばやい動作で投げつけた。ナイフはドアの側柱をかすめ、ゾンビーの喉元に沈んだ。男は部屋のなかに消えた。
追跡装置の示す方向には、袋小路の白い壁があるだけだった。クリスは赤服を装甲化すると、壁に体当りし、つきぬけた。行きどまりに見えた壁の裏側には石段があり、闇のなかにのびていた。石段の各所に潜むゾンビーたちには、・三〇が最適だった。クリスは撃ちながら石段をかけおりた。ゾンビーたちはのけぞり、闇のなかに落下していった。
階段をいちばん下までおりると、そこは地底の川で、フカの三角のひれが水面にいくつも動いていた。
「ホー、ホー、ホー」とつぶやきながら、クリスは地獄の闇にむかってダイブした。水がすっぽりと彼をつつみ、聞こえるのはフカのひれが水を切る音だけ。
小一時間のち、アラバマ州会議事堂と周辺の公共広場はすさまじい爆発とともに、地獄の業火に包まれた。その爆風で、セルマのかわいそうな黒んぼたちの家の窓ガラスが吹きとんでしまったほどだった。
14
彼女はクリスのはだかの背中を、マニキュアした長い爪でそっと掻いていた。彼はべッドにうつぶせになり、ときたまナイトスタンドのほうに手をのばしてはウイスキーの水割りに口をつけた。彼の背中でいまだに脈打っている鉛色の疵口が、彼女の興味をひどくそそるらしい。彼女はふっくらした唇をしめし、彼の全身をながめた。あらわな、乳首の大きな胸がもりあがった。
「最後まで抵抗しやがった。あの八人のうちで、頭のなかの黒い生き物を心底好いていたのは、あん畜生だけだ。まったく、悪のかたまりだ。S・P・I・D・E・Rが〈八項目計画〉の総元締めに、奴を選んだのも道理だな」過ぎ去ったできごとを記憶から消そうとするように、彼は枕に顔をうずめた。
「三ヵ月半も待たせといて、あなたがしてくれるのはお話だけなの?」乳房を整えながらブロンドの女はいった。
クリスは寝返りをうつと、彼女の身体をつかんだ。そのまま引き寄せ、両手をみずみずしい肌の上に走らせる。彼女は今までになく燃えているようだった。それから長い長い時間がたって、一月なかばにはいったころクリスはようやく彼女を離した。「ベイビー、あれを全部話せるものか。神経がもたないよ。ただひとつだけいえるのは、ウォーレスがすこしでも改悛の情を示せば、こっちだって助ける気になっただろうということさ」
「彼は死んだの?」
「地底洞窟が爆発したときにね。アラバマの半分が陥没しちまった。ただ不思議なのは――沈んだ土地のほとんどが白人種の地所だったことだ。黒人街はそっくり残った。新知事――シャバス・X・ターナー――は全州を被災地区に指定し、黒十字を組織して、爆発で家をなくした白人たちの保護を始めたよ。あのウォーレスの野郎、こんなことにならなければ何をしでかしたかしれない」
「おそろしいわ」
「おそろしい? あのくそったれが〈八項目計画〉で何を担当してたか知ってるかい?」
女は目を丸くして彼を見た。
「教えてやろうか。とてつもなくよくできた装置で、青少年の思考を硬化させて老いぼれにするのが、奴の役目だったんだ。コンクリートみたいに、思想をかためちまうのさ。悪魔の機械を爆発させたとたん、みんなが自由に考えはじめた。おたがいに心の触れあいを持つようになり、この世界が悲しむべき状態にあること、最前まで確信していた生活それ自体がまちがっていたことに気づいた。奴は若者たちを文字通り老化させようとしていたんだ」
「でも、あたしたちはやっぱり年とっていくんじゃないの?」
「パカをいうな。ぼくらがだんだん年とって朽ちはてていくのは、S・P・I・D・E・Rのしわざなのさ。これでみんな老いぼれずにすむようになる。肉体年齢三十六歳で成熟して、二百年か三百年生き続けるんだ。それから、ああ、そうだ、癌にもならない」
「癌も?」
クリスはうなずいた。
ブロンドの女はあおむけに横たわった。クリスは傷跡の残る大きな両手で、彼女の腹の輪郭をなぞった。「ねえ、もうひとつ質問していい?」
「なんだい?」
「S・P・I・D・E・Rの〈八項目計画〉というのは、それでけっきょくどういうことだったの? だれもが互いに憎みあうようにして、そこから何をしようとしたのかしら?」
クリスは肩をすくめた。「それなんだ。それとS・P・I・D・E・Rの名前の意味は、もう知る機会はないだろう。奴らの組織を粉砕してしまった今ではね。それだけは残念だな」
モウスグワカルサ。クリスの頭のなかに、とつぜん声がひびいた。ブロンドの女はベッドの上に身体をおこすと、枕の下から毒針ピストルを抜きだした。ワレワレノ工作員ハドコニデモイル。
彼女の思考がテレパシーで送られてきた。
「きさま!」クリスは叫んだ。
クリスマス[#「クリスマス」に傍点]ノアト、オマエガ戻ッテキタトキカラサ。アラバマ[#「アラバマ」に傍点]カラ、ズットオマエノアトヲツケテイタ――ダカラウォーレス[#「ウォーレス」に傍点]ノ寄生体ノ自爆シタアトガ見ツカラナカッタノダ――ソシテ、意識ヲ失ッタオマエガ傷ノ手当ヲ受ケテイルアイダニ、ワタシハコノカワインウナオ人形サンノ身体ニハイリコンダ。ワレワレヲ粉砕シタダト? 馬鹿メ。ワレワレハイタルトコロニイルノダ。ワレワレハ六十年前コノ惑星ニヤッテキタ――歴史ヲ調ベテミロ。正確ナ日付マデワカルハズダ。ワレワレハココニイル、ソシテ、ココニトドマル。今ノトコロハ、テロ[#「テロ」に傍点]活動ヲ続ケルダケダガ、ヤガテ――スベテヲ手中ニオサメル。〈八項目計画〉ハ、ワレワレノモットモ野心的ナ試ミダッタノダ。
「野心的だって!」クリスは鼻を鳴らした。「憎悪、狂気、癌、偏見、混乱、奴隷化、スモッグ、頽廃、老化……きさまらはいったい何だ?」
ワレワレハS・P・I・D・E・Rダ。声は続けた。ブロンドの女の毒針銃は微動もせず彼を狙っている。ワレワレノ正式ナ名称ヲオマエガツキトメレバ、ワレワレガオマエタチ哀レナ弱イ地球人ヲドウショウトシテイルカモ同時ニワカルダロウ。
見ヨ! その声は歓喜に酔っていた。
彼女の耳からはいだしたS・P・I・D・E・Rの寄生体が、クリスの喉首めがけてとびかかった。クリスは瞬間的に反応し、ベッドからとびさがった。千分の一ミリの差で、寄生体の狙いははずれた。彼は壁にぶつかると、片足で壁を蹴り、ベッドにふたたびダイブした。ブロンド女をおさえこみ、彼女の手をつかんで、針を寄生体めがけて発射した。恐るべき針はベッドシーツを突き抜けてとんだが、命中しなかった。クリスはナイトスタンドの上の暗闇装置をとり、投げつけた。
一瞬、地底のおもちゃ工場全体に闇がおりた。
ブロンド女が腕のなかでもがくのが感じられた。S・P・I・D・E・R寄生体が、身の安全を求めて逃げこんだ場所はわかっていた。彼女の体内である。殺すほかはなかった。しかし毒針銃は彼女が放り投げてしまい、はだかのまま、漆黒の闇のなか、ベッドの上で、抵抗する女をおさえこんでいるクリスにとって武器といえるものは――ただひとつ、この世に生まれたとき神が彼に与えたもうたそれだけだった。
それは特別な武器であり、彼女を殺すには一週間近くかかった。
しかし、すべてが終わったとき、闇もまた晴れていた。彼はべッドに横たわり、考えた。十ポンドも痩せ、小猫のように弱まり、消耗しきっていたが、考えることだけはやめなかった。
そしてS・P・I・D・E・Rの意味をとうとう理解した。
寄生体は小さく黒く毛むくじゃらで、たくさんの足ですばやく動く生き物だった。〈八項目計画〉の目的は、人びとを不快にすることなのである。わかりきった話ではないか。その存在は、人間をいらだたせる。そしていらだった人間は、殺しあいを始める。人間同士が殺しあいをすれば、世界はS・P・I・D・E・Rにとって住みやすい場所になる。
彼がしなければならないのは、そこから省略符《ピリオド》を消すことだけなのだ。
15
翌朝、時間/運動調査報告が届いた。昨年の集配率は、記録破りのずさんさだということだった。クリスとポポは報告書をめくり、にんまり笑った。まあ、つぎのクリスマスにはがんばるさ。今回がずさんだったのも無理はない……にせのサンタ・クロースにどれだけ仕事ができよう? ポポとコーロが肩車し、自分たちの身体の三倍もある赤服を着て動きまわるのでは、サンタ・クロースの能率もタカが知れている。だがクリスが世界を救うのに忙殺されていたあの時点では、ほかに取るべき方法はなかったのだ。
全世界から苦情の電話がかかっていた。
こともあろうにヒルトップからも。
「ポポ」電話をむりやり黙らせると、クリスはいった。「おれはもう出ないぞ。かかってきたら、フランスのアンチーブに行ったといってくれ。三ヵ月ばかり眠るから。四月には起きるつもりだ」
オフィスから出ようとしたとき、コーロが大慌てで駆けこんできた。「ギーブル・ギップ・フリーシー・ジムジム」と、コーロ。クリスは椅子にぐったりと沈みこんだ。
そして両手に顔を埋めた。なにもかもだいなしだった。
(伊達男〉が〈雌ギツネ〉を孕ませてしまった、というのだ。
「くそ、これで長生きできるか」クリスはつぶやき、泣きだした。
[#ここから6字下げ]
編集部註――慧眼の読者にはあらためて指摘するまでもないことですが、エリスン氏のこの作品には小さな破綻がひとつあります。恐るべき〈八項目計画〉には、共和党副大統領候補であるスパイロ・アグニュー氏の名前が見当たりません。どうやら作者は、この人物のことを忘れてしまったようなのです、もっとも忘れたのは、作者ひとりではなさそうですが。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]ロサンジェルス 一九六八年
[#改丁]
鈍いナイフで [#地付き]伊藤典夫訳
Try a Dull Knife
[#改ページ]
〈穴ぐら〉は、パチャンガの夜のまっさかりだった。プエルトリコ人のバンド三つが同時演奏をくりひろげ、そのどれにも大きなママがいて、だぶついた肉をゆすりながら、バヤ! と声をはりあげている。音は、銀ラメと金管楽器の爆発となって眼をもおそった。音は、スモッグの雲のように重くたれこめ、種子も茎も混入していない、最一局級の大麻からつくったマリファナ一千本をくゆらせたように、鼻をつく異臭をはなっていた。そして人びとが口をひらくたびに、金の架工義歯《ブリッジ》やひわいな言葉の閃光が闇をつらぬく。エディ・バーマはよろめきながら中にはいると、壁にもたれかかり、喉元に真綿のようにつまった吐き気をはじめて意識した。
ふかぶかと裂けた傷口から溢れでる血が、右のわき腹をゆっくりと流れくだってゆく。血はすでにかたまりはじめており、シャツは肌にべっとりとはりついていたが、彼はかまわずまさぐった。出血はおさまりかけているらしい。だが彼は窮地におちいっている――それは疑いもない事実だった。エディ・バーマのように傷つくことができるものはだれひとりいないし、また彼でなければ、このような窮地におちいることもない。
そしておもてのどこか、夜の闇のなかでは、追手がじりじりと彼に迫っている。なんとか抜けだして――どこへ行くのだ? だれか。彼を救うことのできるだれかのところへ。なぜなら、何も知らずに十五年を過ごした今となって、ようやくエディ・バーマは気づいたからだ。自分がどのようなもののなかを生きてきたか、どんなことが自分になされてきたか――なされつつあるか[#「なされつつあるか」に傍点]――彼らが何をしようとしているか、を。
〈穴ぐら〉に通じる短い石段をつまずきながら下ると、彼はたちまち煙とにおいと錯綜する影のなかにのみこまれた。異邦の煙、プエルトリコ人の体臭、遠い土地からわたってきた水々しい影。彼は共感した、ほとんど体力をつかいはたしながらも、共感した。
それがエディ・バーマの問題だった。彼は超共感能力者《エンパス》なのである。常人をはるかに越える感情移入力。心のうちの奥ふかく、おおかたの人間が想像もしないようなレベルで、彼は世界に共感するのだ。彼をかりたてているのは、他人と関わりあいたいという欲求だった。山の手のナイトクラブのよそよそしさとうわべの華やかさにかわって、強烈な快楽を売りものにするこの場末のキャバレー、彼を知るものもなく、したがって傷つけるものもないこの都会の吹きだまり――こんな場所でさえ、息づく世界の脈動が自分のうちでしだいに高まってゆくのを感じることができるのだった。そのとき血がふたたび傷口からあふれでてきた。
彼は客を押しわけながら今来た道をもどり、電話ボックスを、トイレットを、身を隠すことのできる空いたブースを、なさけ容赦なく彼を押しつつもうとしている魂の闇夜から、自分を救いだしてくれるかもしれない見知らぬ人びとをさがし求めた。
彼はウェイターにぶつかった。パンチョ・ビラ風の口ひげ、よごれた白いエプロン、生ビールをのせたトレイ。「おい、ガビネットは?」彼は不明瞭な口調でたずねた。血糊のなかで言葉ももつれがちだった。
プエルトリコ人のウェイターは怪訝な顔で見つめた。「ペルドン?」
「トイレット、便所、手洗いだよ。死にそうなんだ、小便をだすとこはどこなんだ?」
「おううう!」
ウェイターは理解したようだった、「エクスクサード……アタビーオ!」男は指さした。エディ・バーマは男の腕を軽くたたくと、のめるようにその方向に進んだ。男ひとりと女ふたりがからみあっている暗いブースに、あやうくころがりこむところだった。彼は便所を見つけ、ドアを押しあけた。なかは狭かった。くもった鏡の前に、キューバ製スーパーマン映画の主役をとりそこなったような男が立っており、てらてら光る長い髪にくしを入れて、凝りに凝ったポンパドール[#以下の括弧内割注](オールバックの髪型の一種)をととのえている。男はエディ・バーマをちらりと見たが、ふたたび髪型の手入れにもどった。バーマは男のうしろをすりぬけると、いちばん手前の小部屋にすべりこんだ。
なかにはいると、彼はドアのかんぬきをしめ、ふたのない便器にぐったりとすわった。そしてシャツのすそをズボンのなかからだし、ボタンをはずした。繊維は肌にこびりついていた。そっとひっばると、泥を踏みつけたような音をたててそれははがれた。ナイフの傷は、右の乳首からウエストのなかほどにむかって走っていた。傷口は深かった。なんとかしなければ。
立ちあがり、シャツをドアのフックにかけると、くすんだプラスチックのローラーからトイレット・ペイパーをひとつかみひっぱりだした。そして紙を丸め、便器のなかの水にひたして傷口をぬぐった。ちくしょう、こんなに深いのか。
めまいにおそわれ、ふたたび腰をおろした。奇妙な思いがわきあがり、彼はその流れに身をまかせた――
〈今朝、玄関のドアを出ると、茂みに黄色いバラが咲きほこっていた。これには驚かされた。去年の秋、刈りこんでおかなかったので、虫がつき、ふしこぶになった小枝――それらはまだ、主人の怠慢を責めるように、枯れたまま残っている――が邪魔をして、今年はもう咲かないだろうと思っていたのだ。だが新聞をとりに出てゆくと、バラは咲いているではないか。カナリア・イエローとはいえないにしても、明るい黄色の花弁をひらききって……。しっとりと、かすかに息づいている。思わずほほえみながら、玄関のステップをおりて新聞をとった。駐車場はユーカリ樹の落葉で埋まっているが、それはいつものことだ。だがなぜか、とくに今朝は、丘のあいだの閑静なわが家をかこむ小さな広場が、生き生きとはなやいで見える。理由らしい理由もないのに、気がつくとまたほほえみがうかんでいた。今日はよい日になるだろう。いま関わりあっているすべての問題、かかえこんでいるすべての要指導ケース、アリスと、バートと、それから坂下に住むリンダ、救いを求めて訪ねてくるすべての感情的不具者たち、これらのすべてがおさまるところにおさまり、みんなが笑顔で一日を終えることができるだろう、そんな気がしてならなかった。かりに今日でなくても、月曜には、おそくとも金曜までには)
(新聞をとりあげ、輪ゴムをはずす。そして、階段のわきにある大きな金属の屑入れに輪ゴムを投げこむと、オレンジの花のかおりと冷たく澄んだ朝の大気を胸いっぱい吸いこんで、ふたたびステップをのぼった。のぼりながら新聞をひろげた。そのとたん、ハイウェイにふってわいた衝突事故のように、朝の静けさが消滅した。片足をあげかけたまま、階段の途中で凍りつく。昨夜、充分な睡眠をとらなかったかのように、急に眼がしょぼつきだした。だが、たっぷり眠ったのはたしかなのだ)
〈見出しにはこうあった――エドワード・バーマ殺害される
(だがエディ・バーマは、このわたしだ)
黄色いバラとハイウェイのねじれた金属の記憶が遠のき、彼は便所の小部屋のなかにもどった。気がつくと両手をだらんとおとし、木のついたてに頭を押しつけてすわっていた。血はズボンにまで流れこんでいる。頭がズキズキと痛み、わき腹の傷は、おぞ気をもよおすほどの規則正しさで全身に激痛をおくりつづけていた。いつまでもここにすわっているわけにはいかない。こんなところにぐずぐずしていれば、死んでしまうか、見つけられるのがオチだ。
彼らはきっと見つけるだろう。それはまちがいない。
電話だ。電話をかけて……
だれにかければよいのか、彼は知らなかった。だが、だれかいるにちがいない。事情を理解し、ただちにかけつけて彼を救ってくれる人間が。彼に残されたあとわずかの力を奪う意志のない人間、ほかのものたちとは異なる人間が。
彼らにはナイフは必要なかったのだ。
なんとふしぎなことではないか。あいつ、ラゲッディ・アン[#以下の括弧内割注](アメリカの漫画に登場する人物。ぼろ服を着、まるい眼をした女の子)そっくりの靴ボタンみたいな眼をしたあの小柄なブロンド娘が、それにまったく気づいていなかったとは。いや、気づいていたのかもしれない。その場の興奮した雰囲気にのまれて、ほかの連中のようにのんびりと吸いとっていることができなかったのだろう。彼女は切りつけてきた。そして彼らすべてがそれまでしていたことを、不器用ではあるが具体的な方法でやってしまったのだ。
彼女のナイフはとぎすまされていた。ほかの連中の凶器は、もっと不確かで、とらえがたいものだった。「鈍いナイフでやってみろ」そういってやりたいくらいだった。だが彼女はあまりにも思いつめ、あせっていた。いったとしても聞こえはしなかったろう。
彼は苦労して立ちあがると、シャツを着た。ひとつひとつの動作が激痛をよみがえらせた。流れでた血で、シャツはチーク材の色にそまっていた。立っていることすらもうできそうもなかった。
一歩一歩ひきずるようにして便所をはなれると、彼は〈穴ぐら〉のなかにさまよいでた。グローブをはめた手で窓ガラスをたたいているように、ママシタ・リサのサウンドが耳を打った。壁によりかかった彼に見えるのは、闇のなかにうごめくもののかたちだけだった。彼らはどのあたりにいるのだろう? いや、まだだいじょうぶだ――いきなりここをのぞきはすまい。彼はここでは知られていない。そして、力が弱まっている今、死んでゆく彼の内部でそれがますます弱まってゆく今、おさえがたい欲求にかられて、彼のところへ近づいてくるものはもはやいないはずだった。壁にもたれて立つ、影のうすいこの男のなかに、吸いとるに足るものがあろうとは、よもやだれも考えはしないだろう。
キッチンの入口に有料電話器があるのを見つけ、彼はもがきながらそこへむかった。憑かれたような眼をした、長い黒髪の娘が、歩いている彼を見つめ、何かいいたいそぶりを見せた。赤んぼうをみごもったのに父親がわからない、とか、肺気腫にかかって苦しんでいるが医者へ行く金がない、とか、サンフアンに残してきた母親が心配でならない、とか、おおかたそんなことを訴えたいのだろう。だが彼は全身の力をふるいおこすと、娘が口をひらく前に、急いでそこを通りすぎた。もうこれ以上、他人の苦痛をうけとめることも、他人の悩みを吸収することも、他人の餌食になることもできなかった。いのちを保つ力さえ今やほとんど失っていたのだ。
(わたしの指先は、わたしが今まで触れた人間たちの疵あとでおおわれている)歩きながら、彼は思った、(肌はそのときの感触を忘れていない。それらの感触が幾重にも積みかさなり、ときには両手にぶあついウールの手袋をはめているように思えることもある。それが、わたしを人類から引き離し、絶縁させていくようだ。人類をわたしから[#「人類をわたしから」に傍点]引き離すのではない。彼らはなんのためらいも困難もなく、わたしと接触することができる――引き離されるのは、わたしなのだ。積みかさなった感触の層が石鹸で流れおちてしまうのではないかと、長いあいだ手を洗わずにいたこともよくあったけれど)
(わたしが知っていた人びとの顔や、声や、体臭の記憶は、しだいに失われてゆく。だが、わたしの手はいまだにそれらを残しているのだ。幾重にも積みかさなった感触の層として。これは正常な状態なのだろうか? わからない。時間ができたら、この問題をゆっくり考えてみよう)
(もし時間があるのなら)
彼 はようやく電話器にたどりつき、長い時間をかけてポケットからコインをつまみだした。それは二十五セント貨だった。ほしいのは十セント貨なのだ。もう一度ポケットをさがす気はなかった――二度と手をあげることはできないかもしれない。彼は二十五セント貨をスリットにおとし、信頼できそうな男、自分を救ってくれるであろう男の番号をまわした。今ではその男をはっきりと思いだすことができた。頼みの綱は、その男だけだった。
その人物を見たのは、たしかジョージア州、とある信仰復興集会の会場だった。野天にテントをはって催される宗教的お祭り騒ぎで、会場は金切り声とハレルヤにあふれていた。そのハレルヤが、!ハ!レ!ル!ヤ!と聞こえたのをおぼえている。つめかけた貧しい黒人や白人たちは、壇上の神の座をくいいるように見つめていた。男は白いワイシャツ一枚で聴衆にむかって話していた。その男の語る神の言葉が、ふたたび彼の耳に聞こえてきた――
「主の救いを待つのではなく、すすんで主の御前《みまえ》に心をひらくのです――今こそ隠された罪から解放されるときなのです! あなたのうちの真実をとりだし、両手に持ち、わたしにわたしてください――あなたの魂を汚し、毒し、歪めているもののすべてを! 神の子羊の血で、主イエス・キリストの血で、御言葉の真実の血で、わたしがそれらを洗い流しましょう! ほかに方法はありません――あなた自身を清めないかぎり、あなた自身を癒さないかぎり、大いなる日は決して到来しないのです! あなたの魂の、光もささぬ暗い淵のなかでわきたっている苦しみ、それを受けとめる力がわたしにはあるのです! 聞いてください――わたしはあなたの口であり、舌であり、喉であり、あなたの言葉を天にまします神に伝える角笛なのです! 悪も善も悩みも悲しみも、わたしはそのすべてを自分のものにすることができます、そのすべてを受けとめることができます、そのすべてをあなたの心と魂と体から取り除くことができるのです! あなたの苦しみを、ここにいる、このわたしに分け与えてにしいのです! イエス・キリストが御承知であったように、神が御承知であるように、わたしが知っているように、今こそあなたも知らなければなりません! モルタルと煉瓦とセメントで作られた壁が、あなたの心を閉ざしているのです! わたしにその壁を切り崩させてください、その奥にあるすべてをわたしに聞かせてください、あなたの心にわたしを引き入れ、あなたの苦しみをわたしに取り除かせてください! わたしには力があります、あなたの水飲み場になりましょう――どうかやってきて、わたしの力を飲んでください!」
人びとは彼にむかって殺到した。死んだけものにとりつく蟻のように、人びとは彼のまわりに群がった。そのあたりで記憶はうすれはじめた。天幕のなかで催された信仰復興集会のイメージは消え、餌物にくらいつく野獣たち、倒れた動物の上に舞いおりる禿鷹の群れ、なすすべもなくもがく生きものを鋭い歯で引き裂くたくさんの小魚、数知れぬ手と、肉にくいこむ歯のイメージにとってかわった。
電話は話し中だった。
また話し中。
もう一時間近くもその番号をまわしているのに、いつも話し中なのだった。ダンスに興じていた客が汗びっしょりの顔で何人か電話をかけに来たが、そのたびにエディ・バーマはうなり声で彼らを遠ざけた。どうしてもこの番号に電話をしなければならないのだ、生きるか死ぬかの問題なのだ、と。客たちは彼をののしりながら、パートナーのところへもどっていった。だが電話はいつまでも話し中だった。やがて有料電話器の番号に目をとめた彼は自分がその番号をまわしていたことを知った。それならいつも、いつ電話しても[#「いつ電話しても」に傍点]、話し中なのもあたりまえだ。彼のうちに怒りにみちた憎悪がわきあがった。線のむこう側にいる男――決して答えようとしない男――への憎しみ。それはダイアルをまわしている男への憎しみでもあった。自分に電話をかけていたと気づいた瞬間、彼は、信仰復興集会に来ていた男がだれであったかも思いだした。聴衆のなかからとびだし、演壇にかけあがり、自分のエッセンスを飲んで苦痛を忘れてほしいと、苦しみ悩む人びとにむかって訴えたのは、ほかならぬ彼なのだ。彼は思いだした。だが、それとともに生まれた恐怖は、われながら信じられぬほど巨大なものだった。彼は追手の眼を逃がれて、便所へ引き返した。
エディ・バーマ――この冥府のような宇宙において、その実在性があまりにもきわだちすぎていたため、今どことも知れぬ闇のなかの狭い不潔な部屋に身をひそめなければならない男。エディ・バーマは個性を持った男だった。彼には実体があった。彼は肉体として存在していた。この動く影の世界、冷たい死んだ月の地肌を思わせるゾンビーの息づかいと凝視の世界において、エディ・バーマは現実の人間だった。彼は生まれながらに、時代に適応する能力と電気的な体質――ときにはカリスマと呼ばれ、ときには暖かみと呼ばれるもの――をそなえていた。そして彼は深く共感するのだった。彼は行動し、触れ――そして触れられるのだった。
それは当初から破滅を運命づけられた人生だった。なぜなら彼は、たんに外向的で社交的なだけでなく、真の意味で賢明であり、才気にあふれ、ユーモアに富み、さらに人の言葉に耳を傾ける余裕さえ持っていたからだ。自己宣伝癖と功名心の域を脱して、おのれの実在性が保証され、自己のままでいられる段階に達することができたのも、すべてそれらのおかげだった。彼が部屋にはいってくると、人びとはすぐに気づいた。彼は顔を持っていた――イメージとか、人前に出るときにつける仮面ではなく、まぎれもない現実の顔を持っていたのだ。彼はエディ・バーマ、この世にひとりのエディ・バーマであり、ほかの何者でもなかった。道を歩くたびに、一度でも会ったことのある人びとは、通りすぎる彼をエディ・バーマと認めるのだった。人びとの記憶に忘れがたい印象を刻みつける、そうした人間のひとり。自分の人生を持たない人びとが話題にするような人間。それがエディ・バーマだった。会話のなかで、たとえばこんなふうに、「知ってるかい? エディがいってたぜ……」あるいは、「おい、エディが何をしたと思う?」もちろん、だれのことが話されているかはそれだけでわかり、何の混乱もおこらない。
といっても、エディ・バーマは人生以上に偉大な人物であったわけではない。個性も、人格も、現実性も、独立した実在すらも持ちあわせていない人間ばかりが住む世界においては、人生それ自体があまりにも大きなものであったからだ。
だが彼はその代償を破滅のかたちで支払わねばならなかった。何も持たぬものたちは彼のまわりに群がり、地獄から送られてきた生き物のように、がむしゃらに彼を養分にした。彼らは飲めるだけ飲んだ。彼らは精神エネルギーを吸う悪鬼だった。だがそれ以上に、エディ・バーマには与えるものがあった。それは汲めども尽きぬ泉のように思われたが、やがてその泉も枯れるときが来た。ついに……。彼が苦しみを肩代わりした多くの人びと、彼が生きがいを吹きこもうとした多くの敗残者たち、飢えをしのぎ渇きをいやそうと、灰のようにかたちのない世界から彼を求めて押しよせてくる。貪欲なからっぽの生きものたち――彼らみなが、自分の分け前を主張するようになったのだ。
そして今エディ・バーマは、内なる泉をほとんど飲みほされながらも、残された現実の最後の数瞬にしがみついて生きているのだった。まもなく彼らはやってくるだろう、彼の取組んでいた要指導ケース、彼の問題児たちが――彼の息の根をとめるために。
この世界はなんと飢えていることか[#「この世界はなんと飢えていることか」に傍点]、エディ・バーマは今さらながらにそれを思い知った。
「おい! いいかげんに出ねえかよ!」
野太い声と小部屋のドアを激しくたたく音が同時にひびいた。追手のひとりだろう、そう思いながらエディは震える足で立ちあがり、かんぬきをはずした。だが、そこにいたのは、安ワインと安ビールを排泄しに来た〈穴ぐら〉の客だった。エディはよろめきながら小部屋を出たが、そこで男の腕のなかに倒れそうになった。血と青い顔とにごった眼を見たとたん、そのたくましいプエルトリコ人の態度がやわらいだ。
「おい、だいじょうぶかい、あんた?」
エディは微笑すると、かすかに礼をいい、便所を出た。キャバレーのなかは相変わらず金切り声にみち、乱痴気騒ぎが続いていた。とつぜんエディの頭にひとつの考えがうかんだ。善良な人びとが人生と生活に立ちむかう力を回復しようとしているこのすばらしい場所、ここを彼らに[#「彼らに」に傍点]教えてはならない。彼らにとって、ここは願ってもない絶好の猟場だ。彼、エディ・バーマを飲みほしたように、彼らは〈穴ぐら〉を飲みほしてしまうだろう。
彼は裏からの出口を見つけると、月のない夜の街へと歩みでた。地下五マイルにある洞窟のように、空間が異様にねじまがった四次元世界のように、何もかもが異質に見えた。この露地、この都市、この夜が、トランシルヴァニア、月の裏側、荒れくるう海の底、どこにあってもいいような気がした。彼は考えにふけりながら露地をとぼとぼと歩きだした――
(彼らには自分自身の人生というものはない。ああ、この毒された世界が今なんとはっきりと見えることだろう。彼らにあるのは、他人の人生のおぼろなイメージだけ――しかもそれは、現実の他人[#「現実の他人」に傍点]の人生に倣ったものですらない――映画スターとか、小説の主人公とか、文化が生んだ平均的人物の人生なのだ。だから彼らはわたしから借りるのだ、返す意志など最初から塵ほどもないくせに。借りる、それも、わたしのいのちという最高の利率つきで。ねぶりながら、すこしずつかけらを削りとっていく。わたしはアリスが見つけたキノコなのだ、無我意識《イド》に血の赤い文字でわたしを食べてくださいと大書した。彼らは、わたしを、わたしの魂を吸いとろうとする悪鬼だ。超自然的な泉をどこかに見つけて、自分の人格をもう一度潤さなければ、とときどき思うこともある。だが、わたしは疲れた。疲れきってしまった)
(この街を歩きまわっている人間のなかには、エディ・バーマから吸いとったエネルギー、エディ・バーマの生命力を動力源にしているものがいる。わたしとそっくりの微笑をうかべ、貧乏な親類にわたした古着のように、かつてはわたしのものだった思想を持ち、わたしのしぐさと表情と気のきいた言葉をあやつって、調子よく世間をわたっているのだ。わたしはたくさんの断片が欠けたはめ絵パズルだ。意味もないかけらの寄せ集まり。不良品。たいせつな断片をごっそり盗まれた今のわたしには、満足な絵ひとつ作れはしないのだ)
彼らはエディ・バーマのパーティにそろってやってきた。知った顔はみんな出席していた。彼が友人と呼んでいるもの、知りあいといった程度のもの、そして彼を魔法使い、導師、精神科医、歎きの壁、聴罪師、あるいは私的な不幸、悩み、挫折感をしまう倉庫として利用しているもの。男性恐怖症であったアリスは、エディ・バーマを知り、はじめて男性のすべてがけものではないという信念を持った。スーパーマーケットの袋詰め係をしているバートは、エディに出会うまでは、どもりを苦にして自分の世界に閉じこもっていた。坂下に住むリンダは、自分の宇宙論を心ゆくままに話すことのできる知的な友人を、エディのなかに見いだした。シドは五十三歳になる人生の敗残者だった。ナンシーは夫に裏切られた妻だった。弁護士を志すジョンは、自分のわに足を気にしすぎ、勉強も手につかないでいた。そのほか大勢。さらにまた彼らがつれてきたらしい新しい顔も見えた。見たこともない顔がたくさんまじっているのはいつものことだったが、そのなかでひとりの小柄なかわいいブロンド娘が妙に目立った。ラゲッディ・アンそっくりの靴ボタンみたいな眼が、飢えたように彼を見つめていた。
それをいうなら、その夜は最初からどこかがおかしかった。パーティの人数が多すぎたせいもある。とてもひとりでは応対しきれない――なのに、やってきた客全員が彼の話を聞こうとするのである。エディは、一九六〇年、トニーといっしょにコーベットでニューオーリンズへドライブしたときの話を始めた。車のトップがぴったりと固定されていず、しかもイリノイ州では吹雪に見舞われ、二人は肋膜炎にかかってしまった。
ものほしにかかる洗濯物のように、煉瓦壁にからみつくツタのように、彼らはエディの物語にすがりついて離れなかった。牛の骨の髄をかきだす飢えた生きものさながら、言葉のひとつひとつ、表情のひとつひとつにとびついてくるのだ。笑いながら見つめる彼らの眼は、きらきらと輝いていた。
すこし前からエディ・バーマは、自分のうちの力が潮のようにひいてゆくのに気づいていた。話しているあいだにも、疲労は大きくなっていった。こんなふうなことは以前にも経験した。パーティで、集会で、人びとの注目を一身に集めたのち、気力を使いはたしたような状態で家に帰りついたことがある。理由は見当もつかなかった。
だが今夜は、力がもどってこなかった。くらいつくような凝視は果てしなく続いた――彼はとうとう我慢できなくなり、客にむかって訴えた。ねむくてしかたがない、今日はこのくらいで帰ってほしい、と。だが彼らは、もうひとつだけ小話を、もうひとつだけジョークを、その完全な地方なまりと精妙な手まねを添えて話してくれ、とせがむのだった。エディ・バーマは静かなすすり泣きをはじめた。眼は赤くはれ、体は骨も筋肉も抜き取られ、今にも床に崩れてしまいそうな、やわらかい、ぶよぶよした肉だけになってしまったように感じられた。
彼は立ちあがり、寝室へ行こうとした。だが彼らはいっそうしつこくなり、悪意さえあらわにして強要し、命令した。ブロンド娘が近づいてきて切りつけたのは、そのときだった。残りのものも、その一歩うしろまでせまっていた。友人や知人たちが彼をひとりじめにしようと激しく争いはじめ、その混乱が彼にさいわいした。気がつくと、彼は家のそとにいた。脱出したのだ――どこをどう通ったのかは記憶にない。わき腹の傷の痛みが彼のうちでのたうっていた。谷間の木木のなかにかけこむと森をぬけ、瀬をわたり、ハイウェイにとびだしてタクシーをひろった。そして市中へ……
(見てくれ、このわたしを! わたしを見てくれ、お願いだ! ただ来て奪っていく、それだけはごめんだ。わたしの実在性を体にあび、気分がさっばりしたところで行ってしまう、そんなことばかりされてたまるものか。きみたちの垢をわたしにもこすりつけてくれ。ここでは、まるでわたしは透明人間だ、雨樋だ、溶けたキャンデーがしたたりおちる食器棚だ。ああ、これはただの舞台劇で、わたしはその不本意なスターなのか? どうすれば舞台からおりられるのだろう? 幕がおりるのはいつなんだ? わたしをこの舞台から吊りあげてくれる男はいないのか?)
(わたしは病んだ精神を癒す信仰治療師のようなものだ。毎日すこしずつ時間をさいて彼らに会う。アリスや、バートや、坂下の家に住むリンダに。そして彼らは必要なものをわたしからとっていく。ただ彼らはそれに代わるものを決しておいていかない。これは交換ではない、窃盗だ。しかもこの関係の最大の弱みは、わたしがそれを欲していたことなのだ――わたしはいつも彼らのいいなりになっていた。それにしても、いったいどのような病的な欲求にうながされて、彼らはわたしの心にはいってきたのだろう? パック・ラット[#以下の括弧内割注](北米産の大ねずみの一種。物を運んで巣のなかにためる習性がある)でさえ無価値なものを盗みだすときには、無価値なものをあとに残してゆく。不服はいわない、何でも取ろう。彼らのどんな些細な小話でも、どんなに使い古された考えでも、どんなに魅力のない概念でも、どんなに不愉快な個人の秘密でも――何であってもかまわない――だが彼らがすることといえば、ただすわってわたしを見つめ、ぽかんと口をあけ、わたしの言葉から色や香りが完全に消えてしまうまで聞きつくすことだけなのだ。まるで彼らが体をくねらせながら、わたしのなかにはいりこんでくるような気がする。これ以上はもう耐えられない。もう絶対に)
露地の出口はふさがれていた。
そこには、いくつもの影が動いていた。
袋詰め係のバート。ナンシーとアリスとリンダ。人生の敗残者シド。体を左右にゆすりながら歩くジョン。そして医師、ジュークボックス修理人、ピザ・レストランのコック、中古車セールスマン、スワッピングが趣味のナウなカップル、ディスコテークのダンサー――全員が。
彼らは近づいてきた。
そのときはじめてエディ・バーマは彼らの歯に気づいた。
最後の瞬間は、彼の世界を食いつくす腐朽のように、ひっそりと無限のかなたにまでひろがっていた。自己憐憫にひたる時間はなかった。毎年、毎月、毎日、一分刻み、一秒刻みに、彼らの餌食になっていく――だが、それだけではなかったのだ。その時間を超越した一瞬、エディ・バーマは、彼らをそうさせたのが彼自身であるという悲しい事実を悟っていた。エディ・バーマは彼らより優れていたわけでも劣っていたわけでもない――ただちがう役を演じていただけなのだ。彼らは食い手であり、彼は食物だったのだ。高貴さの比較は、ここにはあてはまらない。彼には、人びとの尊敬と崇拝が必要だった[#「必要だった」に傍点]。猿山の大将として、大衆の愛と注視が必要だった[#「必要だった」に傍点]。ただそれがエディ・バーマにとって、一種の死の始まりであったというだけなのだ。それは、自意識を知らぬ自己の死であり、無垢の殺害であった。そのときから彼は、自分が意識の下の細胞レベルで言ったりやったりすることをすべて意識するようになった。彼は意識したのだ。意識、意識、意識したのだ!
そして意識は彼らを招きよせ、彼らに養分を与えるようになった。それは、自意識へ、他愛のない見せかけや、自己宣伝へと通じる道であった。実体や現実性を喪失してゆく過程であった。そして、もしこの世に彼の使徒たちの必要としないものがあるとすれば、それは、うわべだけの、気どった、空虚[#「空虚」に傍点]な人間――それ以外のなにものでもありえない。
彼らは最後の一滴まで飲みほすだろう。
瞬間は、時を超越したクライマックスに達した。彼らはエディ・バーマをひきずりだし、彼にくらいついた。
やがてすべてが終わり、彼の体は露地に投げだされた。
吸血鬼たちはひからびた死体をあとに、生きいきと脈打つ動脈を求めてどこかに消えていった。
[#地から2字上げ]ロサンジェルス 一九六三年、一九六五年、一九六八年
[#改丁]
ピトル・ポーウォブ課 [#地付き]伊藤典夫訳
The Pitll Pawob Division
[#改ページ]
モーグはいらだたしさのあまり放射した。仕事はたまる一方なのに、課の人数は足りない。そしてつぎの脱皮期を待たずに、またぞろあれ[#「あれ」に傍点]が送られてくるのは――生きとし生けるものすべてに分けへだてなく蒸気があるのと同じように――わかりきったことなのだ。
彼は放射し、回転し、スロムした。だが転送機の孔は容赦なく輝き――そんな予感がしたとほとんど同時だった――あれ[#「あれ」に傍点]のひとりがまばたきながら立っていた。それは付属肢をふり、無意味な声[#「声」に傍点]――この語は、先に到着したあれ[#「あれ」に傍点]のひとりから学んだものだ――をとめどもなく発していた。ああ、おう、前に聞いたことのある声もまじっている。モーグは、顔面の開口部のかたちと蒸気の振動からそれに気づき、ダ=リンカーでその声を味わってみた――うん、たしかに同じ音だ。
「助けてくれ!」
モーグは知らぬふりをした。すでに彼の右下の象限は蒸気化しはじめており、今すぐこれをかたづけようとしても、自分をいっそう消散させるだけの結果にしかならない。彼は気嚢のなかへ泳いで行き、いっぱい蒸気を吸いこんだ。やがて右下の象限は脈動しはじめたが、この大食ぶりにはわれながらやましさを禁じえなかった。
それにしても、とモーグはジェルした、われわれは蒸気[#「蒸気」に傍点]という言葉をなんと多くのものに対して用いていることか。蒸気は生命力の意味でもあれば、生命力の喪失のことでもあり、軸柱のある新生児や、ブレーキンジのことでもある。そして――例の厄介ものの――トムのことをいう場合もある。
だがこれは、モーグが今まで何回となくくりかえしてきたジェル、これ以上は控えねばならないジェルだった。リラベート員はたちまち気づき、モーグの犯した違反を記録にとどめた。このためモーグのいらだちはいっそう増すことになった。
「不浄だぞ」モーグはリラベート員をののしると、この言葉まで記録されてしまわないように、三種の歪曲面と一種のピンキングを通じて印象を送った。
ややあってモーグはそれ[#「それ」に傍点]といっしょに大きな青い卵のなかに落ち着いたが――違反を記録されたうえに、わずらわしい手間をかけて印象を送らねばならなかったことが重なって――彼のいらだちは爆発寸前までふくれあがっていた。例のそれ[#「それ」に傍点]は、それ[#「それ」に傍点]自身を付属肢でつつむようにしてちぢこまり、ぶざまにけいれんしていた。モーグは吸ったものをもどしそうになった。おお、五族よ、まったくなんという醜いやつらだろう!
モーグは気をひきしめると、プフレングし、固体になった。それはかん高い音を発して卵の壁ぎわまでとびさがり、その最上端のあたりにある二つの球をむきだした。課の最高責任者として、モーグはこの種の反応をも理解しなければならない立場にあった。もちろん、モーグはこの方面の最高の研究書――ジットマウスの『固体ならびにガス状生命形態における不安定性』 、トゥ=シュレンプの『プフレング法心得』、それから何という名前だったか、八八四生まれのあの酸素生物の書いた『異星の生命に接して』 等々――を読み漁っており、こういった仕事にはかなりの自信を持っていた。
彼はそれ[#「それ」に傍点]に似せたかたちをとった。
それ[#「それ」に傍点]はわめきつづけている――かたちがあまり似ていなかったらしい。
モーグは、それ[#「それ」に傍点]が発する声を使ってそれに話しかけようとした。ういの思うげ、きれえなぼう赤んならもちと厚くしれて。通じない。わめきかたはさらにひどくなった。発声口からは淡紅色の突起がのびて、狂ったように振動している。機能に異常をきたしたようだ、とモーグはジェルした。
(これは記録されなかった。反復が不可避の仕事には――職務の範囲内ということで――ジェルが黙認されるのだ)
モーグは毛と車輪を取り除いた。今度のかたちはどうやら気にいったようだ。モーグはその[#「その」に傍点]記憶層を走査して、正確な音声パターンを見つけた。
「まあ、いいから落ち着けよ。べつにとって食おうというんじゃない」
それ[#「それ」に傍点]はようやく静かになった。けいれんがおさまり、泣き声がやみ、突起の振動もずっとすくなくなった。その[#「その」に傍点]顔にさまざまな色がうかんでは消えた。刺激に反応して、モーグもみずから光りを発した。すると、それは吐きはじめた。
赤や緑や金色は気にならないらしいが、クロムやピドニーはそれ[#「それ」に傍点]を不快にするらしい。モーグは明滅をやめた。
「ここはどこだ?」それ[#「それ」に傍点]はかすかな声できいた。その上部の発声口が震えている。
「卵のなかさ」と、モーグはいった。
二つの球から塩水が流れだした。
モーグは――六種の確認法を用いて――それ[#「それ」に傍点]が自分のおかれた環境に満足していないという確信を得た。モーグはそれ[#「それ」に傍点]をもうすこし落ち着かせようと、卵と彼自身とそれ[#「それ」に傍点]をプフレングした。あたりは見上げるような緑のジャングルとなった。植物の茎が、黄色い太陽の輝く空にむかってどこまでものびている。気球を思わせる物体が彼らをめざしておりてきた。モーグははだかで這いつくばっていた。それ[#「それ」に傍点]もまた変形していた。
と、それが叫び、ばたばたとかけまわりはじめた。この光景には、さしものモーグも綾目線をうかべ、意気阻喪してしまった。「おい、よせったら」モーグはたまりかねていった、「ばかな真似をするな!」
彼は再プフレングして風景を消すと――こんな場合、あれ[#「あれ」に傍点]がよくやるように――どうにでもなりやがれ、と自分にいった。そして卵をプフレングした。
今回もまた、いつもと同じような結果に終わりそうだった。課のどこを見まわしても、こんな例ばかりがごたごたと氾濫している。
「わかった、わかった」と、モーグはいった。それら[#「それら」に傍点]を扱った長い経験から、それら[#「それら」に傍点]がせっかちな赤んぼうにすぎないことはよくわかっている。ほしがるものを与えれば、それで静かになるのだ――そして仲間のところへもどったときには、これをしたの、あれをしたの、これこれこういう経験しただのと、得意がって吹きまくるのだ。
モーグはさまざまなものをそれら[#「それら」に傍点]に与えてきた。
鼻。女。神。思想。生殖器官。りんご。車輪。オリー(もっとも、これの使いかたはまだ見当がつかないようだが)。犬。数字。夢。脂肪。安全ピン。今度やってきたそれにも、ほしがっているものがあった。彼はそれを与え、ほっとした気持でそれを元の世界に送りかえした。
そしてモーグは、プフレングし、ふくらむと、スリリップし、発散し、カーブし、転移し、デ=リッグし、オークロアリーンし、アダンブレートし、噴出し、蒸気をいっぱい吸いこみ、冷却された自分の代謝系のなかに――あたかも腸が蠕動するように――すべりこみ、眠りにおちた。
上司からの呼びだしで、彼が多形態願望に満ちた眠りからさめたのは、それから一ナノセコンドもたたないときだった。上司のシドは、五やその他のおそれおおい超存在の怒りをほのめかしながら、れいのあれ[#「あれ」に傍点]に何をしたのだ、と音もなく責めたてた。
アレ[#「アレ」に傍点]ガホシガッテイタモノヲ与エタダケデス、モーグは青くなり、インした。
今度ノソレハ何ダッタノダ、とシド。
宇宙デス。
シドは、人間なら肩をすくめるのにあたる動作をすると、こういいのこしてプフレングした――ソノウチイツカ、アレ[#「アレ」に傍点]モ少シハマシナモノヲホシガルヨウニナルダロウ。
モーグは眠ろうとしたが、眠りはなかなか訪れなかった。シドの言葉が気にかかってならないのである。やがて彼は自分にいった。あれに宇宙を与えたのはまちがいではなかったのだ――たいして価値のあるものでもない。しかし、もしあれが利口になったとしたら?
[#地から2字上げ]ペンシルヴェニア州クラリオン州立クラリオン・カレッジ 一九六八年
[#改丁]
名前のない土地 [#地付き]浅倉久志訳
The Place with NO Name
[#改ページ]
伝説は、こんなふうにして生まれる。
ノーマンは、ポマード光りした縮れっ毛過多症とは、およそ縁遠いたちだった。彼がヒモになりそこねた理由は、そこにあるのかもしれない。もっとも、ノーマンにいわせれば――「おれは黒のエナメル革なんぞ、足にはくのも頭にはくのもまっびら」なのだが。そこで、彼は安易な逃げ道をえらんだ。ノーマン・モガートはポン引きになったのだ。
いや、そういってしまっては、身もふたもない。(ゴミ屋が衛生処理技術者であり、トラック運転手が輸送機関運行課長であり、雑役夫が家屋保全監督者である昨今、名が体を表わすことは稀である。心してあれ、ブラックパンサー)ノーマン・モガートは、異性交遊秘密連絡員だった。
ぶっ。早くいえばポン引きなのだ。
ここ最近、マーリーンと呼ばれる人気商品(性行動への無邪気な熱狂と、ジューシー・フルーツ・ガムへの飽くなき欲望を合わせもった、プエルト・リコ系の十七歳のボイン)を扱って、ノーマンはすこぶる優雅な暮しをたのしんでいた。早くいえば、左うちわだ。彼のアルパカのコートには、ビロードの襟がついていた。彼のポルシェは、オーバーホールされたばかりだった。彼のダイナーズ・クラブのつけ[#「つけ」に傍点]は、すべて清算ずみだった。そして、彼の一日三十二ドルの習慣も、つつがなく保たれていた。
ノーマン・モガートは、人工刺激剤信奉者でもあった。
ぶっ。早くいえば麻薬患者《ジャンキー》なのだ。
コカイン常用者が、ヘロイン、マリファナ、ハシッシ、アンフェタミン、メセドリン、バルビタール、LSDなどの常用者に比べて官能的である、という説はあたらない。ただ、コカインというやつはしばらくすると進行麻痺のような効き方をしてくるため、異性から言いよられた場合に、コカイン吸飲者はどうしてもいやと言えないだけの話である。
したがって、ピチピチしたマーリーンが彼女の事業主としっぽり濡れたい衝動に駆られたとき、コカインで意志の弱っていたノーマンがそれに抵抗できるわけはなかった。ノーマンのこの無気力さ(いや、むしろ道徳的融通性)は、彼におそるべきトラブルをもたらし、日々のパンにも事欠かせるしまつとなった。というのも、マーリーンが濡れ場にえらんだのが、あいにく、かの有名なブルックリンはプロスペクト公原の茂みの蔭で、たまたま彼女を逮捕する義務感に燃えたニューヨークの最優秀者《ファイネスト》(そして、いうまでもなく最下劣者《チキン・エスト》)の一員が、そこに居合わせたからだ。わるいことにこの警官、その朝、警察救急車の中で(枕と目ざまし時計持参で)居眠っているのを見つかり、隊長にこってり油をしぼられたばかりだったのだ。おかげでノーマンは、パンツをおろしたところを御用になっただけでなく、収入源も断たれる羽目になった。
三週間と六百七十二ドルののち、ノーマンは文なしのヤク切れになった。なじみの密売人《バイニン》たちは彼の窮状を嗅ぎつけ、供給路は魔法のごとく干上がった。ノーマンは八方ふさがりとなった。
人間の状態が下り坂をとめどなく滑りおちていくとき、その途中に人間が人間であることをやめる一点がある。かりに彼がまだまっすぐ立って歩いていようと、それは骨格のなせるわざであって、倫理のそれではない。ノーマンはその点に到達し……そして悲鳴を上げながらそれを通過した。ちょうど、ドップラー効果で、ある一点を通りすぎた列車の汽笛が急に薄れるように。ノーマンは気が狂いかけていた。飢えはもはや局部的なものではなかった。禁断症状それ自身が、一つのいのちを持ちはじめた。それは汚泥のように彼にへばりつき、彼の口を錆でみたした。チャップリンの〈街の灯〉をやっている映画館に、彼はつかのまの平和を求めて逃げこんだが、暗闇の中でだれかが吸っているらしいマリファナの甘ったるい刺激臭に、胸がむかついてきた。吐きたいのをこらえて、三十ドルのGBOをくわえ、火をつけた。イリーズが稼業から足を洗って、顧客の一人(オハイオ州スチューベンソヴィルのカン詰め会社の重役)と結婚するまえ、去年の彼の誕生日にくれたパイプだ。香り高いタバコの煙で軽陶酔剤の臭いはいくらか消され、ノーマンはもうそれに妨げられることなく、おそろしい暗闇へのいばらの道をたどりつづけることができた。
とにかく、別の稼ぎ手を見つけることが、最大の急務である。なぜなら、うるわしのマーリーンは、これが再犯ということで、六番街とグリニッチ街の角にある女子拘置所へ百二十日の重刑で送りこまれたからだ。別の商売女を見つけるか、さもなくばどこかのドラッグストアをおそって、麻薬金庫からコカインを盗み出すか。しかし――ノーマンは性格的に暴漢不適格者だった。
ぶっ。早くいえばどうしようもない腰抜けなのだ。
第一の解決法でも、彼はツイていなかった。現役の中に、彼が扱うにふさわしい女が見あたらないのである。ノーマンはノーマンなりに、一流好みの商人なのだ。安物や月並な商品は願いさげにしたい――それは必然的に評判の下落につながる。ノーマンのような業種においては、どちらの解決法も破産と書かれた象形文字なのだ。
あわれノーマン・モガート。自己の限界と欲望の二本柱のあいだに宙吊りにされ、絶望の風のまにまにそよぐばかり。
ノーマンがそんなことをやる気になったのは、ひとえにこの切羽詰まった状態のおかげだった。その女が自分の車のドアをロックしようと背中を向けたとき、ノーマンは行動に出た。そこは、ハドソン通りでたった一つあいたスペースだった。もし、中国人のクリーニング店の薄暗い戸口へ隠れていれば、クリストファー通りかブリーカー通りのアパートへ夜更けに帰ってきただれかが、いずれそこへ車を入れるはずだと、ノーマンは見こしていたのだ。事実、彼がその戸口に身をひそめてから五分とたたないうちに、その女がそこへ車の頭を入れ、バックしてから、イグニションを切った。
女が車から出てドアをロックしようとしたとき、ノーマンはうしろから近づいた。そして、トップコートのポケットにしのばせてあった短い鉄パイプを、女の後頭部に押しつけた。
「こいつはハジキだぜ、ねえさん」
女は、ノーマンの注文どおりに行動してくれなかった。右足の爪先で半回転すると同時に、腕を振りおろして、彼のハジキ≠フ筒先を横にそらしたのだ。二秒とたたぬうち、ノーマン・モガートは、ウエストサイドのヘブライ青年会で護身術を習得した相手との格闘にまきこまれていた。ノーマンはたちまち大きなヒップに乗せられ、車のほうへと投げとばされた。女は彼を蹴とばした。きわめて熟練したキックだった。心臓の真下をやられたノーマンは、体の中から黒いガラスの破片がとびだして脳髄につきささったような気分を味わった。そのあとは、おぼろげな記憶しかない。彼は女の片足をつかんで、思いきりひっぱった。女はヒップの上までスカートをひるがえし、スカートの上までコートをひるがえして、どすんと倒れた。彼は鉄パイプで女の顔を七、八回なぐりつけた。
黒いガラスが脳と体の中で溶け去ったとき、彼はハドソン通りのきたない煉瓦の上にいた。死んだ肉塊の上になかば馬乗りになっていた。
それから数分後、まだ自分のしでかしたことが信じられずにそこにすわっている彼を、パトカーの探照灯が串刺しにした。
ノーマン・モガートはあわてて車の蔭にかくれた。血でネトネトした鉄パイプを投げ捨て、上体を低くかがめたまま、必死で駆けだした。安アパートの戸口から出てきた男にどすんとぶつかった。彼は相手を押しのけ、ハドソン通りを北へ走った。走りつづける彼の背後から、パトカーがサイレンを響かせ、赤い閃光灯をまたたかせ、サーチライトの槍を投げつけてきた。ジェーン通りへ折れて、なおも走りつづけるうちに、開いた戸口が見つかった。彼はそこへとびこみ、階段を駆けのぼった。階段、そしてまた階段。最後に梯子によじ登り、落とし戸をくぐりぬけて、グリニッチ・ヴィレッジの安アパートの屋上に出た。あとは屋根づたいに逃げればいい。走りだしたとき、干してあった洗濯物にひっかかって、思わずギャッと大声をあげた。
やがて彼は別の非常口を見つけ、大きく反響する鉄の階段を駆けおりてから、非常梯子にとりついた。ギイギイと軌む梯子を伝いおり、別の路地へとびおりる。それから別の通りを駆けぬけ、七番街へ出ると、車の流れをかわしながら道を横ぎった。それからまた別の通りにはいり、パトカーが彼を見失ったことを祈りながら、トップコートのポケットに手をつっこみ、顔を伏せて歩きだした。
歩道に光が小さな池を作りだしたのを見て、彼は目を上げた。
その光は、一軒の店の飾り窓にある、自動点灯式のイルミネーションから出ていた。それが照らしている看板には、こう書かれている――
脱出は店内へ《エスケープ・インサイド》
ノーマン・モガートがためらったのは、一瞬だった。彼はドアをあけ、店内にはいった。店の中はがらんどう。そのがらんどうの店のきっかり中央に、とがった耳と、褐色の革のような皮膚をした、しなびた小男が立っている。そう、ご存じの店の一つなのだ。
「これはお早い」と、小男がいった。
ノーマン・モガートは、とつぜん恐怖にかられた、小男の声には、まぎれもない狂気のひびきがある。ノーマンは吐気を感じながら、まじまじと相手を見つめた。ノーマンは後ろに手をやり、ドアの取手をさぐった。だが、そこにあるべきはずの取手が、いっこう手に触れない。ドアがなくなったのだ。
「あなたは九十秒ほど早くきすぎた」小男がつぶやく。「待たねばなるまい。でないと、なにもかも位相をずれてしまう」
ノーマン・モガートは後ずさりした。あるべきはずのドアを通りぬけ、あるべきはずの壁を通りぬけ、あるべきはずの表の歩道と車道を横ぎった。なにもない。彼はまだ店の中で、彼の動きにつれて店はどこまでも広がっていくらしいのだ。
「おれをここから出してくれよ、気ちがい爺い」ノーマンはふるえながらいった。
「おお、そろそろ時間じゃ」小柄な老人は、ノーマンのほうへせかせかと歩みよった。ノーマンは身をひるがえして逃げた。のっぺらぼうで人影のない生存の平原を、やみくもに走りつづけた。まわりの地形には、なんのでこぼこも、なんの特徴もない。まるで地獄の辺土の巨大なテレビ局のセットを走りまわっているような気分で、彼はうつろな平原を逃げまどった。
ついに体力を使いはたしてばったり店の床の上に倒れると、小柄な老人が駆けよってきた。
「うん、よろしい。時間ぴったり」
老人はノーマン・モガートの前にあぐらをかいた。安坐の姿勢でのんびりとすわった老人の尻と床のあいだに、三十センチほどの空間があることを、ノーマンは驚きとともにさとった。この小男は空中にすわっているのだ。
ノーマンは堅く目をつむった。小柄な老人は、ノーマンがたったいま店にはいってきたかのように、九十秒前からそこにいたのを忘れたかのようにいった。
「モーガンさん、よくこられた。脱出したいというわけですな。ふむ、それがこの店の売り物や。|内部への脱出《エスケープ・インサイド》が」
ノーマンは目をあけた。
「あんたはだれだ?」
「しがないこの店の主人ですわい」
「よしてくれ。あんたはだれなんだ?」
「ふむ、ぜひにとおっしゃるなら……」
小男はきらきらと輝き、その形を変えた。ノーマンは絶叫した。その形はふたたびきらきらと輝いて、もとの小柄な老人になった。
「この姿でがまんしていただけるかな?」
ノーマンは急いで首をうなずかせた。
「ほう。では、そういうことに。さて、モガートさん、あなたは逃げたいのか、それとも逃げたくないのか? もし、わしの申し出を断われば、警察が数分のうちにあなたを捕えることは、火を見るよりも明らかじゃよ」
ノーマンは一瞬ためらっただけで、こっくりとうなずいた。
「それは結構。では、これで取りきめができたわけじゃ。心からあなたに感謝しますぞ」
ノーマンが、老人の声の異様な調子をいぶかしんだときには、もう遅かった。
彼は溶けはじめた。
うつむいたノーマンは、自分の両足が薄れかかっているのを知った。徐々に、苦痛もなく。
「おい待て。ちょっと待ってくれ――とめろ!」ノーマンは訴えた。「おまえは悪魔か? 地獄の使いか? おれは地獄へ落とされるのか? おーい、待ってくれよ。どうせ地獄へ落とされるんなら、その前に例の契約をしとくんだったぜ……代りになにをくれる……? おい、とめてくれよ、消えていくじゃないか……おまえは小鬼か妖精か?……それとも……?なあ、おまえはなにものなんだ?」
もう店の中に残っているのは、ノーマンの両眼と両耳と下唇と一房の頭髪だけだった。これらもしだいに溶けかかったとき、小柄な老人は答えた。
「シモンとでも呼んでいただこう」
そのあと、チェシャー猫のようにすっかり消え去る前の一瞬、ノーマン・モガートは老人がこうつけたしたように思った。「それともペテロ――たいして変わりはない」
意識の回復しかかる最初の苦痛にみちた一瞬、ノーマン・モガートは自分が真上を向いているのに気づいた。草かなにかのふわふわした寝床の上に、仰向きになっているのだ。ハスクヴァルナの三〇‐〇六ライフルを控え銃の形で胸の前へ斜めに構えたまま、仰向けに横たわっている自分。その最初の瞬間がとろけたタフィーのように、一分から五分、五分から十分とひき伸ばされるにつれて、かずかずの奇妙な想念も消え去っていく――別世界のこと、体内に燃えさかる苦痛、いまの苦痛とはまったく別な種類の苦痛、女、走る、小男、薄れ、薄れ、薄れていったもののイメージ……それがなんに代わったのか? 彼の知覚はおずおずと這いもどり、その一つ一つが、いまや薄れ消え去った古い記億を埋める新しい[#「新しい」に傍点]記憶を運びこみ、とつぜん掃き清められた心の空間にその荷物を置いた。彼の心の中におちついたそれらは、まるで昔からそこにあったもののように、しっくりとなじんだ。
絡みあった半ダースほどののうせんかずら[#「のうせんかずら」に傍点]の枝をすかして、彼は真上を見上げた。そこに横たわり、知覚がそれぞれの場所へおさまるあいだに、彼は消え去った肉体のことを考え、そして花花の美しさをめでた。
あれはどこか寒いところの夜ではなかったか? ここは真昼で温かだ。とても温かだ。ここには雨が降っていたのだろうか?そうらしい。
ここは雨の降ったあと[#「あと」に傍点]だ。それも大雨だったらしい、と彼は推測した。彼の背中の下の地面は、身動きするたびにジュクジュクといやな音がする。着ている服は中までぐしょ濡れ。髪の毛はべ
ったりひたいに貼りついている。狩猟用ライフルの銃床にも銃身にも、防錆油《コスモリン》に衝突してその皮膜にくるみこまれた細かい雨の粒が並んでいる。
やがて彼は、まだナップザックを背負ったままなのに気づき、歩いていてそのまま仰向けに昏倒したのにちがいない、と考えた。いまやそのナップザックは、むりやり背中を反らした苦しい姿勢を彼にとらせている、痛い塊だった。横に体をずらせると、嘘のように痛みがらくになった。
だが、彼は依然として上を仰ぎつづけた。水分をいっぱいにむさぼった大きく厚ぼったい葉を眺め、この臨時の水飲み場へ渇きを癒しにきたふしぎな鳥たちを眺めた。その中の一羽は……。
こんなことがありうるのか――ほんとうだ、やはりほんとうだったのだ。彼は原住民の物語をほとんど信用していなかった。ジャングルの鳥の中には、雨で絵具が流れるほど鮮やかな色の羽根をもったものがある――そんな話を聞かされて、彼は鼻先でせせら笑ったものだ。ここの原住民ときたら、しょっちゅう自分たちの空想を、真実よりもむしろ作り話を信じこんでいる、子供のような連中なのだから。(そして、あの話[#「あの話」に傍点]ももし空想だとしたら、彼はまるきりむだ足を踏まされたことになる!) だが、その鳥が現に彼の頭上にいるではないか。そして、ここでは(この〈不思議の国〉ならぬ不思議の国では)それは真実なのだ。とすれば、いったいどちらが子供じみていたのか?
険しい目と大きなくちばしをもつ生き物を彼は見上げ、その色彩が、赤と黄と緑が、マドラス織の染料のように滲み出し、流れ、おたがいに混じりあうのを眺めた。そして、彼は驚異にうたれた。
彼のかたわら、雨の残した水たまりの中で、のうせんかずら[#「のうせんかずら」に傍点]の花が、澄んだ水の流れを吸い込む腐りかけた肉のようにかたまりあっていた。コカイン[#「コカイン」に傍点]? なんのことだ[#「なんのことだ」に傍点]? 彼でない[#「彼でない」に傍点]、ほかのだれかの話だろう[#「ほかのだれかの話だろう」に傍点]。
ようやく休息がたりた気分だった。狂った目をした鳥は、石板色の空へ喚きながら飛び立っていく。彼はぎごちなく起きなおり、こちらの気根、あちらの幹で、こわばった体を支え、ナップザックの紐を肩甲骨の真中に移しかえながら、立ちあがった。どこまで立ちあがってもきりがないように思えた。かかし[#「かかし」に傍点]のように痩せぎすで、のっぽな体。ふらふらしながらようやく起立した彼は、世界を見まわした。それから目をおとして、鮮やかな花びらの浮いた水鏡の中でジグソウ・パズルのようにひび割れた、自分の影を眺めた。彼はその姿に見おぼえがなかった。体つきが全然ちがう。彼はもう一つの[#「もう一つの」に傍点]肉体のことを思いだした。どこか寒いところにいて、恐怖と苦痛をかかえている肉体のことを。そういえば、この体には見おぼえがある。
自分がどれほどのあいだそこに横たわっていたのか、見当もつかなかった。熱がしだいに高くなってから、いったんおさまり、ふたたび火山のように噴きあがっては、予測のつかないリズムで上下したことしかおぼえがない……だが、ただれと化膿は、きょうになってだいぶおさまったようだ。薬草の助けをかりなくても、歩けそうな気がする。
どのみち、その薬草の一つ(どれかはわからない)が、いっそう症状を悪化させているのではないか、という疑いを抱きはじめていたところなのだ。
ふむ、それ[#「それ」に傍点]はこっちの肉体の考えだな。もう一つの肉体でなくて。だが、このライフルはちっとも軽くならん――みじめな思考。
コカイン?
彼の前にあるジャングルは、未知の顔を見せていた。多くの目をもつそれは、一見無関心だが、彼がこの林間地、あの雨の池から最初の一歩を踏みだすのを、待ちかまえているのだ。それは、永遠の緑にとって虫けら同然な、このノーマン・モガートの侵入を感じとるだろう。(おれの名はハリー・ティモンズ・ジュニアだぞ。おれの名は)ノーマン・モガートはため息をついた。そして、もし彼が(愚行と無益な行ないの区別がつかずに、いつも強情を通す〈白人〉のように)あくまで強情を通せば、ジャングルは爪と蔓枝と沼の瘴気で彼に立ちむかってくるにちがいない。
彼は、自分の内部と外部の両方にある奇妙さに恐れおののいた。神でさえ、ここでは恐れを感じるはずだ! だが、灰緑色の腐肉のようなこのジャングルのかなた、ピアンもインディオもあえて近づかぬどこか、彼らのすべてが恐れているところ、〈名前のない土地〉、思考と記憶の外にある場所で、自分の探し求めているものが見つかるだろうことを、彼は知っていた。彼はそこで、伝説にある火をもたらした神を見出すだろう。いまなおプロメテウスとして知られる神を、岩の上に鎖で縛りつけられ、その肝を鳥についばまれる神を。そして、それは――その願望は、彼を駆りたてて恐怖に立ちむかわせるに充分なものだった。このジャングルの単純な恐怖より千倍も強力なものに対しても。また、彼の内部のある奇妙さに対しても。
コンパスで南南西の進路をたもちつづけながら、彼は出発した。山刀〈マチエーテ〉と厚い踵のブーツが、背の高い痩せぎすな体のために道を切りひらいた。緑の密林のざわめく深みの中で、その探し求めるものを見出すにしては、彼はひよわすぎ、おびえすぎているように思えた。鉄ぶちメガネの奥の小さな青い瞳は、あまりにも淡く、弱々しく、そして乱視ぎみであり、かりに対象が目の前に現われたとしても、その雄大さを見分けることさえおぼつかなさそうだった。だが、彼はここまでたどりつき、そしてまだ進みつづけているのだ。露を含んだこの葉むらの背後に、生きている伝説が見つかるはずだ、彼としては、それを信じ、そして信じつづけるしかない。
多雨林の中を縫ってきたここまでの旅も、なまやさしいものではなかった。彼の乗った飛行機がメサの湖へ墜落して、ほかの全員が即死したこと。二つに裂けた機体が、生きもののようなあえぎをもらして侵食された湖底へ沈んだあとの、熱病にうかされたような漂流。暑さと痛みからくる譫妄状態と、熱病の吐き気の中で、湖の縁にうかんでいる小帆船《ビラーグア》を見つけたことを、彼は思いだした。なかば溺れかかりながら、彼は火に黒く焦げた細いすきまに身をくぐらせ、そして無思考の闇の中へと沈みこんだ。帆船の傷ついた舵側にうちよせる波は、彼の弱まった意識を和らげた。彼が探し求め、そして見出した陶酔の無感覚は、セルペンテスのペヨーテでもたらされるものに似ていた。彼らはそれを飲むことによって、風と夜の中に神の秘密の色彩を見、それがジャングルの夜の黒白画の中に溶けこむのを見ることができるのだ。
しかし、それだけのことを(譫妄状態を通りぬけてさえ)思いだすことができるのに、なぜ彼の思考は分裂をつづけるのか? 彼は別人だという、寒い夜の街路にいるこの小男だという、異質な記憶に妨げられるのか?
彼は歩きつづけた。
そういえば、インディオたちは彼のことをなんといっていたっけ? ハリー・ティモーノーマン・モガートのことを? 彼はインディオたちから、一ダースものアクセントでその話を聞かされたものだ。〈名前のない土地〉へ行きたがる彼は気ちがいだ、と。そして、あの迷信的で賢い連中は……あのこと[#「あのこと」に傍点]をなんといってたっけ? あの伝説のことを。
最初それを聞いたのは、チョロ族のあいだでだった。そのときの彼には、そんな荒唐無稽な話を追跡する気力さえなかった。だが、ノーマン・モガート以外のだれが、蛇のトーテムの中に、リグ・ヴェーダの、オサイ・ナイ・コマタの中に流れる伝説との類似点を見出すことができたろう? ほかのだれが? それだけではない、世界の半球を隔てたむこうのあの戦争叙事詩、〈平治物語〉の中の二十におよぶ参照個所も――それらのすべてが順々にはめこまれて、最終的なパターンがうかびあがったのだ。
いま、熱にうかされ、この台地ではありふれた二倍体のカビ三種類に皮膚をまだらに冒されて歩きつづける彼は、あと何日かで自分の両眼がラマの乳のように濁り、両耳が密林の媚びるような葉ずれの音を聴きとれなくなるだろうことを知っていた。だが、それまでに、彼はここまで訪ねてきたものを見られるかもしれない。もし、それが存在するならば。チョロ族は不安げに、ゼノ族はからかうように、そしてウイリチャチャ族は半信半疑で、彼に保証した――彼が〈あのお方〉をそこに見出すだろうことを。もし彼がヨアトルの色彩が染料のように流れる土地へ行き、もし彼が七の七倍のメートルを進めば、そこに(生きた岩の裂け目に捕えられて)熱と苦痛の黒い涙を目に溢れさせている〈あのお方〉を見出すだろう、と。
もちろん、〈あのお方〉をおそうのはハゲタカではない。どんなハゲタカもその内臓をついばんだりはしない。原住民たちはそう彼に語った。あれは西欧での改作。火をもたらした者の伝説の歪められた版だ。〈あのお方〉ウイポクラピオルのもたらしたのは、火ではなく、嘘なのだ。真実の熱い烙印でなく、それよりもっと偉大な虚偽の啓示なのだ。そしてそのために、〈あのお方〉の脾臓は、狂った目のヨアトルによって脈打つ臓腑からひき裂かれ、ヨアトルの羽毛の彩りは、褐色をした不死の肉体の上に虹の血のごとく降りそそぐことになったのだ。
いま、彼は虹の血を流すその鳥を見出した。とすれば、あとの話も真実にちがいない。おのれの狂気の中に沈みこんで(おれはどこまでこの火の夢にのめりこんだのだろう[#「おれはどこまでこの火の夢にのめりこんだのだろう」に傍点]――頭にうかぶイメージが六つに一つの割りでしか現実世界のものでないのを知って、彼はそういぶかしんだ。ほかのすべては、熱と苦痛の産物なのだ。おれが送ってきたかに思える[#「おれが送ってきたかに思える」に傍点]、だがまったくおぼえのない[#「だがまったくおぼえのない」に傍点]、この別の人生にしてもしかり[#「この別の人生にしてもしかり」に傍点])彼はかすかにその音を聴きとった……緑の彼方からひびいてくる狂った物音……。
目をぎらつかせながら、あやとり[#「あやとり」に傍点]のように絡みあった蔓枝を切りひらくと、だしぬけに崖の上に出た。彼は音のやってくる方角を見おろして、その正体を見きわめようとした。鈍く低く遠い、生きている死の狂ったひびき。そこに見えたのは、砕け波のような、幅広い茶褐色の刈り跡だった。荒廃の一本道と、飢えに荒れ狂い、わき返る集団。マラブンタだ! 動く地獄、飽くことを知らぬ口、行く手のあらゆるものを一掃したのち、つぎの時期を待っために密林の中へ不可解にもひきかえしていく、あの兵隊蟻の大軍だ。
はるか眼下を進んでいくそれを見おろしながら、彼は冷たい正気がもどるのを感じた。あれほどの全面的破壊を目のあたりにして、狂気の熱を冷まされない人間はいない。あれほどの瞬時にして大量の死は、たとえ妄想への出口があっても逃げられはしない。長い長い時間、彼は峡谷を見おろし、くねくねと動きつづける十億本の脚をもったムカデが世界をむさぼり食うのを見まもった。それから、彼がいかに小さな存在であるか、このジャングルがもしその気になれば、どんなにたやすく彼を殺すことができるか、という実感に身ぶるいしながら、きびすを返し、もう一度ジャングルの中に安全を求めようとした。マラブンタは、彼とおなじ方向を目ざしているが、まだ距離ははるかに遠く、当面の脅威ではない。ただそれは(あのなんともいえない物音は依然として彼の耳に届いてくる)、彼がたったひとりであること、彼がちっぽけな人間であること、そしてこの土地には、はるかに偉大な神々が目ざめていること、を思いださせるよすがにすぎない。
もし彼が青と黄の幻覚にとらえられなかったら、(名前のない土地〉への入口は見つからずじまいだったろう。
熱病は悪化していた。いまや両腕と両足を蓬のように覆ったカビは、彼が求めるものを見出す前に肉体の主権をかちとろうと、レースを挑んでいるかのようだ。なによりも彼の体を萎えさせるのは、そのカビに両眼を覆い隠されはしないかという恐怖だった。
やがて、彼は幻覚におちいりはじめた。あらゆる木の葉、あらゆる埃の粒、そして太陽とあらゆる岩の露頭から、放射される光の円。無数の円が青と黄に脈動し、中空の泡玉で彼の世界をみたした中を、彼は半意識でのろのろと進んでいった。やがて彼は輪になった低い丘陵にたどりついた。メサの頂きにあるはずの、そのジャングルの中でだ。彼は丘陵の麓を迂回しながら、青と黄の中で、むこうへ通じる道を探した。
その洞穴は密生した葉むらに隠されており、もしそれが光の円を放射していなかったら[#「いなかったら」に傍点]彼は絶対にそれに気づかなかったろう。事実、彼の視野の中ではっきりした唯一の部分がそれだったのだ。それは譫妄状態の中にぽっかりあいた通路だった。彼は山刀《マチェーテ》で蔓枝を切りはらい、道の入口をふさいでいるいくつかのごつごつした落石をとりのぞいた。中は真暗だ。
ノーマン・モガートは一歩中に踏みだし、そしてもう一歩踏みだした。じっとして待つ。静寂がきこえる。息を吸いこむ。もう一歩。それから歩きだす。不安。希望。なにも見えない。山刀《マチェーテ》をベルトにさす。ライフルを肩にかける。両手をのばす。洞穴の壁を手さぐる。狭くなり、広くなる。前進する。深く深く山中へ。さらに奥へ。はるか前方に光が見える。そっちへむかって急ぐ。光の円が去ってしまったのに驚く。洞穴の出口にきた。外に出た。そして彼は〈あのお方〉を見た。
いまモガートが立っているのは、外輪山の内側をほとんど完全にとりまく岩棚の上だった。見おろすと、はるか下のほうに、いまはどうやら休火山であるらしいもの、かつての高山の咽喉であったものが見えた。その火山のむこう側、彼からちょうど真むかいの岩棚の上に、プロメテウスが鎖で縛られていた。
ノーマン・モガートは、岩棚にそって大回りにそっちへむかった。岩の頂きで体を弓なりにそらしたその不可思議な姿と、自分の足もとへ、交互に目をやりながら進んだ。
その姿に近づくにつれて、もしそれが人間だとしても、この地球にかつて存在したはずのない人間だということがわかってきた。プロメテウスの体は、くるみのように濃い褐色だった。いま閉ざされているその両眼は、縦の裂け目だった。顔の下半分を完全に横にひき裂いた、傷口を思わせる唇のまわりには、肉質の小さな巻きひげが生えていた。モガートは、ふとナマズのひげを思いだした。鞭毛は、ランダムなパターンでかすかに揺れ動いていた。
プロメテウスは、岩の上に背中を反らして仰向きになり、両腕を大の字にひろげていた。手の指のあいだには水かきがあり、指の関節にも巻きひげがある。青い金属でできた大きな釘が、その両手首を貫いて岩に打ちこまれている。おなじ金属でできた鎖が、腰に食いこむにど堅く巻きつけられ、やはり岩に釘づけにしてある。あざらしのそれに似た両足にも、釘が打ちこまれている。
近づいていく途中で空から絶叫がきこえ、彼は目を上げた。さっきのヨアトルがまっすぐに舞いおり、一途な目的に狂った目つきでプロメテウスの胸の上にとまるのが見えた。
モガートはだしぬけにさとった。その――人?――が、その巨大な胸にありあまるほどの肋骨を備えていることを。
鳥はその頚を弓形に曲げ、そのくちばしをクルミ色の肉の中に突き刺した。引きぬかれたくちばしは真赤に血塗られていた。いまやモガートは、鎖で縛られた生きものの体を一面に覆った瘢痕組織を見わけることができた。
モガートは叫んだ。ありったけの大声で叫んだ。鳥はふしぎそうに彼を眺め、それから大空へ舞いあがった。モガートの声が聞こえたのか、プロメテウスは頭をおこし、岩棚の上を見まわした。
そして、モガートが彼のほうへ急ぎ足にくるのを見た。
そして、泣きはじめた。
モガートは急いで彼のそばに駆けよった。話しかけようとしたが、なんといっていいかわからなかった。
と、鎖に縛られた生きものがしゃべった。モガートの知らない言葉だった。
「わからない……なんといったんです?……」
相手はつかのま目をつむり、なにかの連祷[#「祷」は{示+壽}]を唱えるようにひとりごとをつぶやいてから、こういった。「きみの言葉。これでいいかね?」
「ああ。それならわかります、……あなたは……?」
相手の顔が微笑に崩れた。安堵と受難の苦しそうな微笑だった。「では、裁決者がやっときみをよこしたのか。わたしの刑期は終わった。きみに心から感謝するよ」
ノーマン・モガートには、その言葉の意味がわからなかった。
「ちょっと待った」相手はいって、なにかを念じるように目を閉じた。「さあ。わたしにさわってくれ」
ノーマンはためらった。褐色の男の両眼にこもった無言の訴えにうながされて、彼は手をのばし、鎖に縛られた男の肉体に触れた。
一瞬、見当識の喪失があった。ふたたび心が焦点を結んだとき、彼は自分が岩棚の上に一人とり残され、いままで褐色の男のいた場所に鎖で縛りつけられているのを知った。彼はひとりぼっちだった。まったくのひとりぼっちだった。プロメテウスの代りに鎖に縛られ、彼自身が火をもたらした者になったのだ。
その夜、ヨアトルに再三再四ついばまれたあと、彼は最初の夢を見た。火の中に生きる夢を。こんな夢を――
彼らは恋人どうしだった。そして、彼らの愛の中から、この原始世界に住む生きものへの同情が生まれた。彼らはそこへ知識の火をもたらした。〈裁決者〉のあらゆる法に逆らって、別の世界の正常な進歩に干渉した。そして、彼らは刑を宣告された。片方は、だれも訪れる者のない山頂の岩に鎖で縛りつけられる刑。もう片方は公衆の前での死刑。
彼らは不死であるため、永久に生き、永久に苦しまねばならなかった。彼らはふしぎな光を放射し、ヨアトルはそれにひきよせられて彼らをついばみ、その結果、顔料のようにその羽毛の色をにじませることになった。
しかし、いま、彼らの刑期は終わった。
そこで〈裁決者〉はふたりの人間をえらんだ。そのひとりは、いまこの瞬間に、彼らのひとりと交代を終えようとしている。そして、ノーマン・モガートは、あとのひとり、人びとからプロメテウスと呼ばれるようになったほうの後釜にすわったのだ。もうひとりのほう……彼も、プロメテウスとおなじように異星人だった。彼は、この世界の野蛮人たちに、知恵の第二の段階をもたらした。彼らふたりは同時にやってきたのだが、野蛮人たちにはふたりのあいだは何百万年も隔たっているように思えた。なぜなら、これらの異星人にとって、時はなんの意味ももたないからだ。
いま、恋人たちは解放された。贖罪を終えた彼らは、もとにもどって新しいスタートを切るだ
ノーマン・モガートは目を閉じて岩の上に横たわり、おたがいを愛しあったふたりの男のことを、そして彼のことを、そしてこの世界のすべての生きもののことを考えた。彼は、別の[#「別の」に傍点]〈名前のない土地〉へもどっていく彼らのことを考えた。
彼は自分自身のことを考え、苦痛にさいなまれながらも、まったくの惨めな気持にはなれなかった。この苦行がどれだけつづくかは見当がつかないが、永遠の一区切りをすごすのにまんざら不満足な生きかたでもない。
そして彼は、〈裁決者〉が別のひとりと交代させるためにえらんだ男のことを考えた。ふたたび四月がめぐってきたとき、その男はいばらの冠を与えられるだろう。
なぜなら、伝説はそんなふうにして、野蛮人たちの心の中に生まれるからだ。たとえ、それが〈名前のない土地〉であっても。
[#地から2字上げ]カリフォルニア州キュパティーノ 一九六四年
[#地から2字上げ]ロサンジェルス 一九六八年
[#改丁]
雪よりも白く [#地付き]伊藤典夫訳
White on White
[#改ページ]
男は、巨大な円形のベッドのなかでめざめた。サテンのシーツの感触が素肌にこころよかった。男の顔が向いている方角には、ひらかれたガラス・ドアがならんでいたので、その朝、彼の眼に最初にうつったのは、別荘のバルコニーのむこうにひろがる海、小波をちりばめた青い神秘的なエーゲの海だった。男が寝がえりをうつと、そこには伯爵夫人が横たわり、豪奢な生活に明け暮れた長い長い年月をへだてて彼を見つめていた。彼女の眼にもまた、エーゲ海を思わせる青さと神秘があった。
「あなたのなかに何が見えると思う?」彼女はそっとたずねた。
その問いかけには、自己嫌悪と、快楽主義の果てに見いだしたおのれの姿への冷たい自己評価が、かすかにこめられていた。ポールはベッドから体をおこし、金色の髪を片手でとかした。そして、あの何もかも心得たような無愛想な視線――東南アジアの追放されたある首相の前夫人には、これがみごとな効果を発揮したものだ――を彼女に投げ、無言の回答を与えた。
「あなたは真底から女たらしなのね、ポール」
その声には軽蔑の調子はなかった。
ポールは彼女のそばに体を寄せると、激しい愛でその日の義務を果たした。だがその行為のあいだ、彼の心は白日夢のなかをさまよっていた。それは、これまで何回となく見続けてきた夢だった。ただひとりの女、逃がれる必要のない生涯の伴侶。だがその一方で、柄にもない職業にうちこんできた長い長い年月が、自分の人生を――伯爵夫人のそれと同じように――絶妙な網目でがんじがらめにしていることにも、彼は気づいているのだった。
やがて彼は、ベッドの上の自分の場所にもどった。海をながめ、意識のひだのなかを這いまわる、ジゴロという言葉に気をとられているとき、彼女がいった。「あたし、ギリシャにはあきたわ。どこかほかへ行きたい」
ポールはベッドからおりると、はやい足どりでバルコニーに出た。今度はどこだろう? パリか、コートダジュールか、マラケッシュか、それともヴァーモント州ストウに、スキーにでも行くのか? どうでもいいことだ。どこ[#「どこ」に傍点]であろうと、だれとで[#「だれとで」に傍点]あろうと、いつまでで[#「いつまでで」に傍点]あろうと!
相手の女が――だれであれ、そのとき彼をやしなっていた女が――彼に飽き、「男めかけ」とののしって放りだすまで。どこかにいるはずだ、とポールは思った、彼にとってただひとりの女、特別の女が。日に焼けた、かたい、ひきしまったこの筋肉の奥にある彼の魂を見いだしてくれる女が。どれほどしぼみ、ひからびていようと、魂はそこにある。いつかどこかでその女と出会い、いっしょに暮らすのだ。永遠に。
その日、彼らは別荘のあるアテネを発った。
伯爵夫人は冒険を求めていた。サセックスで猟犬とともに狩りをするのではなく、スイス・アルプスでトボガンに乗るのでもなく、ケニヤでガゼルを追うのでもない。彼女は今度の目的地をネパールに決めた。エベレストだ。
頂上ではない。しろうとがグラップネルとピストンを使って気軽な登山を楽しむ南壁――その辺なら息を切らして帰り、クラブの肘掛け椅子に落ち着いて、豪勇譚をひとくさり吹くこともできるが、そこでさえない。麓――危険には遠く、しかも野性味あふれるところ。伯爵夫人とその愛人が、冷たい風に身をさらしながら雪のなかの遠出を楽しみ、しかも人間社会から忘れられたような気分を味わわないですむところだ。
彼らのシェルパはしわだらけの老人だったが、その愚直なまでの正直さと、いかなる状況においても失われぬ沈着さは高く買われていた。彼らは老人を雇いいれ、山を登りはじめた。
だが都会的な冒険のまねごとにも、計算ちがいはおこりうる。五つ目の高原を越えたあたりで、とつぜん嵐がおそった。それは彼らを。パーカのなかにちぢこまらせ、雪めがねに重い雪の弾幕をあびせかけた。伯爵夫人と、彼女の長身でたくましいポールは、生きた心地もなかった。
彼は暖かい気候を夢見ながら、この気ちがいじみた雪の疎外地を脱出したときには、彼女と手を切ろうと心に決めた。それとも彼女のほうから手を切ろうといいだすか。
彼らは、斜面をかなり登ったところに見つけた、中くらいの岩の露頭のかげにテントをはり、風にはためくカンバスの音を聞きながら、かたまりあって錫のカップでコーヒーを飲んだ。
「ばかなことをしたもんだ」と、彼はいった。
「ばかなことが好きなんだものしょうがないわ」彼女はとげとげしくいいかえした。「ばかなことなら、なんだってやってみせるわよ」
それがきっかけとなり、いさかいはどこまでも発展していった。もしこのままいっしょにテントにいれば――翌朝シェルパが自分のテントからこちらへ来たときには――彼女を殺しているだろう。
彼はきっちりと身仕度をととのえると岩棚にとびだし、斜面にそって数ヤード進んだ。数ヤード――それで充分だった。たちまち彼は方向を見失っていた。二つのテントは、荒れ狂う吹雪のなかにかき消されていた。
恐怖がうちにこみあげてきた。そしてはじめて彼は、自分がどんな場所におり、何をしているのか自覚した。両手を前につきだして歩き、岩壁を見つけてもどろうとした。だが岩壁もまた消えていた。雪めがねは、ふいてもふいてもふさがってしまう。彼は膝をついた。泣くことができたとしたら、泣いていただろう。
彼は四つんばいで進んだ。
長い時間がたったように思われた。
と、横なぐりに吹きつける風のむこうに――吹雪の勢いがわずかにおさまった一瞬――雪の切れ目が見えた。それは洞窟だった。彼は体をひきずりながら、そのなかにもぐりこんだ。深さはそれほどでもない。だが、なかは暗く、雪は吹きこんでいなかった。彼はすこしのあいだ壁によりかかり、呼吸をととのえた。それから雪めがねをひたいにあげると、パーカのフードをぬいだ。
なかを見まわす。
そとでは吹雪が、てんかん性の発作をおこしたようにのたうち、身の毛のよだつ絶叫をあげているというのに、洞窟の内部は奇妙に静まりかえっていた。そのいちばん隅で、何かが動いた。ポールは何回か眼をしばたたいた――まつげが凍りついているので、まぶたが重い。それが何なのかは見当もつかなかった。
すると、それがおきあがった。
悲鳴をあげる力もなかった。凍りついた世界のまっただなかで、彼の声も喉の奥につかえたまま凍りついた。巨大な白い生きものは、のそのそとこちらに歩いてきた。今ではその外形もおぼろげにわかる。八フィートほどもあるだろうか、どっしりとした胴、木の幹を思わせる太い足。シープスキンの絨緞のようにふっくらと厚く、絹のように白い毛で全身がおおわれている。顔にあたる部分には、二つの黒い炎のインゴットがあり、カリカチュアされた人間の表情をのぞかせている。人間よりもオランウータンのそれに近い鼻。小鬼のそれを思わせる大きく裂けた口。生きものは前に立ちはだかった。ポールは麻痺したようにすわっていた。
やがてそれはかがみこみ、彼を抱きあげると胸元にひきよせた。そのとたん、生きものの吐くむっとする口臭が、彼の鼻孔をおそった。彼は、そのような臭いの元となる食物については、つとめて考えまいとした。
すると、それはうなりはじめた。その腹のどこかからひびいてくる、深い声、音楽的な声、暖かい声。
眼を見ひらき、せまりくる狂気にたえかねてふたたび眼を閉じたとき、ポールはついに自分が、ただひとりの女性、忠実な女性、永遠の伴侶となる女性にめぐりあったことを知った。
生きものの腕に抱かれながら、彼は頭のなかに鳴りひびく伯爵夫人の、男めかけ[#「男めかけ」に傍点]というあざけり声を聞いていた。イェティは、吹雪にさらされぬよう彼を胸元ふかくかかえこむと、巨体をゆすりながら洞窟を出、山の上へ、失われた永遠の夜のなかへ消えていった。
論理に仮借はない。人類学者たちは予想すべきだった、いや、確信すべきだったのだ――もし雪男と呼ばれるものが存在するならば……
彼の直感は正しかった。永遠の愛は存在した[#「存在した」に傍点]のである。
[#地から2字上げ]ロサンジェルスからニューヨークにむかうアメリカンエアライン機内にて 一九六八年
[#改丁]
星ぼしへの脱出 [#地付き]浅倉久志訳
Run for the Stars
[#改ページ]
彼がつかまったのは、肥った店主の黒焦げの死体を見つめているときだった。爆破された店の表戸に背中を向けてしゃがんでいた上に、相手の足音も聞こえなかった。市街を焼きはらうキバ星人の宇宙船の怒号が、死にゆく人びとの悲鳴と、けたたましく混じりあっていたのだ。
彼のうしろに忍びよっていたのは、煤で汚れた顔に目だけをぎらつかせた、三人の男だった。彼らはいきなりとびかかると、両手を背中にねじあげた。思わず彼はぎゃっと悲鳴を上げた。その両手から札と小銭がこぼれおち、瓦礫だらけの床に散らばった。
ベンノ・タラントは首をねじまげ、自分をつかまえている男の顔を見上げた。「放してくれよう! このおやじは死んでたんだ! おれは食い物を買う金が欲しかっただけよ! 嘘じゃねえったら、放してくれよう!」ねじられた腕のあまりの痛さに、涙が両目に溢れてきた。
彼をつかまえた男のひとり――年齢不詳、舌のもつれたしゃべり方をする、小肥りでがっちりした体つきの男――がやりかえした。「おい、火事場泥棒。知らなきゃ教えてやるがな、おまえの盗みにはいったここは食料品屋だぜ。店の中は食い物だらけだ。なぜ、そっちを持っていかなかった?」
そういうと、つかんでいる片腕をもう半分ねじあげた。
タラントは唇をかんだ。こいつらと議論したってむだだ。麻薬を買うための金だとは白状できない。たちまち殺されて一巻の終わりだ。いまは戦時中なのだ。この町は――いや、惑星ぜんたいが――キバ星人に包囲されている。略奪者はどのみち死刑。たぶん、そのほうがましかもしれない。死ねば、ユメノコナへのどうしようもない渇きもおさまって、自由になれるだろう。
だが、死を考えるだけで――いつものように――さむけが両足まで伝い下り、筋肉が麻痺した。彼は腕をつかまれたまま、ぐったりとなった。
豚に似た顔の男が、うんざりしたようにつぶやいた。「よりによって、なんでこんな野郎に目をつけたんです? こんどの仕事には、ほかにもっとましなやつがいるだろうに。まあ、見てやってくださいよ、このなさけないつらを――まるっきり、ゼリーでできてるみたいだ!」
金髪の男が首を横に振った。どうやら、それがこのグループの頭株らしかった。全身泥と煤に汚れた中で、秀でた額の一部だけが奇跡的に清潔さをたもっている。男は手で顔をさすり、その唯一の地肌も塗りつぶしてしまった。「いや、この男にかぎるんだよ、シェップ」
男はタラントに向きなおって腰をかがめ、震えている略奪者をしげしげと眺めた。それから、タラントの右目に手をやり、二本の指でまぶたを押しひろげた。「麻薬中毒。あつらえむきだな」背を伸ばしながら、つけたした。「われわれはまる一日じゅう、きみのような男をさがしていたんだ」
「おれはあんたなんか知らんぜ。なんの用なんだ? たのむから、ほっといてくれよ!」
彼の声はしだいに高く、ヒステリックになった。髪の生えぎわに川ができたように、冷汗がだらだらと顔を流れた。
背の高い金髪の男は、肩ごしにうしろをふりかえりながら、早口にいった。「よし、早くここから運びだしてしまおう。そして、バダー先生にあずけるんだ」震えている彼を立たせるよう部下たちに身ぶりすると、男は彼がひきずりあげられるのを見ながらつけたした。「むこうで、手術にまる五時間はかかるだろうからな」シェップと呼ばれた舌もつれの男が、くちばしをはさんだ。
「上にいるあの金色野郎たちが、それまで待ってくれりゃいいが」
豚に似た男が、うなずいて同感を示した。と、まるで彼らの気持に一区切りをつけるように、かん高い女の悲鳴が〈ディールドの星〉の急速な夕暮れの中にひびきわたった。彼らは足をとめた。その腕につかまれたタラントは、いまにも気がくるいそうだった。女の悲鳴、この連中、ヤクの切れた苦しみ――全世界が足もとから崩れおちていくようだ。
ふたたび彼はへなへなとすわりこもうとしたが、豚男が襟がみをつかんで、そうさせてくれなかった。彼らは細かいコンクリートの埃を上げながら、店の外へとむかった。めちゃくちゃに壊れた表戸のそばで立ちどまり、濃い夕闇の中をうかがう。外では、キバ星人の攻撃で起こるたえまない爆風と悲鳴に、どこかの燃料貯蔵庫の爆発が重なっていた。
一瞬、静寂がおりた。ほっとため息をつくいとまもなく、ミサイルが頭上で鋭く風を切り、通りのむかい側にあるアパートの正面を真二つにした。鉄骨とコンクリートが四方八方にとび散り、焼けただれた舗道に落ちて砕け、彼らの上に雨あられと破片を浴びせた。
つかのま、彼らはひきつった顔でそれを見つめていた。それから、人間のお荷物をかかえ上げると、ひっそりすばやく夕闇の中にまぎれた。
彼らの背後で、肥った店主は廃墟になった店の中に横たわっていた。死人は、いまや安全で無関心だった。
ベンノ・タラントは、手術中に正気づいた。のどが焼けつくように渇き、疲労で頭がくらくらしていた。まず目にはいったのは、切開された自分の腹部だった。露出した内臓がぎょろりと彼を見上げている。鋭いとげのような白ひげをまばらに頬に生やした半白の小男が、こぶのついた四角い金属の塊を、彼の胃の中へ注意ぶかくおさめているところだ。ふたたび彼は気を失った。
二度目に目がさめると、そこは寒い部屋だった。股ぐらまで裸にされ、頭を足よりもやや高くして、彼は手術台へ仰向けに寝かされていた。肋骨の真下から太腿の内側まで走る、赤くくぼんだ傷痕が、彼を見上げている。その傷痕の中央で、ピンの頭のように縫合糸の先端が光るのが見えた。とつぜん、記憶がよみがえった。
彼は悲鳴をあげようとしたが、それは口に押しこまれたタオルでふさがれてしまった。
破壊された店の中で会った背の高い金髪の男が、タラントの視野の中に近づいてきた。男はすでに顔の汚れを洗いおとし、こげ茶色の軍服に着替えていた。軍服の襟には、中佐の階級を表わす三つの飾りボタンがあった。
「わたしの名はパークハースト。大統領とその幕僚が死亡した現在、抵抗運動組織《レジスタンス》の最高責任者だ。きみには、やってもらわねばならん仕事がある。だが、残された時間はいくらもない……だから、もし生きていたかったら、おとなしくすることだ」
彼らはベンノ・タラントの口からタオルをひっぱりだした。しばらくのあいだ、彼の舌は厚いトゲだらけの木の葉のようだった。切り裂かれた血みどろの内臓のイメージが、またもや頭の中にもどってきた。「あれはなんだったんだ[#「あれはなんだったんだ」に傍点]? おれの体になにをしたんだ?」彼は泣いていた。涙が目のすみに溢れ、頬をジグザグに伝いおりて唇のすみに溜り、そしてまたあごを伝いおりた。「まあ、おちつけ」タラントの左手で声がした。彼は苦しそうに頭をめぐらし、剛い頬ひげを生やしたごま塩頭の男を目に入れた。この男が医者だ。最初に正気づいたとき、タラントの胃の中に四角い金属の塊を入れていた医者だ。これがバダー先生だな、とタラントは思った。
頭の禿げかかった医師は、言葉をつづけた。「なぜこんな女の腐ったようなやつを選んだんだね、パークハースト? 軍にだって、喜んで志願するものが一ダースはいただろう。りっばな人間を死なせることにはなるが、すくなくとも安心して任務をまかせられたのに」
言いおわったとたんに、医師は息をつまらせた。痰のまじったにぶい咳をしながら、手術台の縁につかまって体を支えた。「タバコののみすぎだ……」あえぐようにそういうのがやっとだった。
パークハーストはかぶりを振り、タラントを指さした。
「最高の仕事をやれるのは、あの品物をこわがる男だ。なりふり構わず逃げる人間だ。逃げまわることで時が稼げる。われわれがぶじに地球か、どこかの前哨へたどりつけるたのみは、それしかない。
きみは、この男が逃げまわらないとでもいうのか?」
バダー医師は、あごのざらざらした茂みをなでた。静かな室内に、やすりをかけるような音が
「ふむ、きみのいうとおりかもしれん。きみのいうことは、つねに[#「つねに」に傍点]正しいからね。ただ――」
パークハーストは、親しみのこもった声でせっかちに相手を黙らせた。「もうよせ、ドック。あとどのぐらいで、その男は動きまわれるようになる?」
バダー医師はもう一度大きな咳をしてからいった。「いま、表皮再生機をかけている――傷口はうまくふさがってきたよ。いまからもう一度かけてみるがね、あー、その前にパークハースト、れいのさ、タバコののみすぎで、ちょっと神経がたかぶっているんだ……だから、その、ひょっとしてきみがほんのすこしでもいい、あー、なにか気をおちつかせるようなものを持ってないかと思って」老人の目に期待の光が現われ、タラントはたちまちその正体に気づいた。この老人も、彼のようなラリ公だ。でなければアル中だろう。
パークハーストは、それまでタラントを見つめていた視線を横にそらしていった。「なあ、ドック。いまはだれにとっても辛い時期だ。わたしの妻は、三日前のキバ星人の襲撃で、街路の上で焼き殺された。子供たちは学校で焼き殺された。きみのつらさはわかるよ、ドック。しかしだ、もしきみが何度いってもうるさくウイスキーをせがむようなら、神にかけて、わたしはきみを殺すぞ、ドック。この手できみを殺す」
パークハーストの口調は静かで、ゆっくりしていたが、その声にこもった必死の思いは明らかだった。それは、おそろしい苦悩に苛まれ、おそろしい重荷を両肩に負わされた男の声だった。
「さあ。あとどのくらいでこの男を外へ連れ出せるね、ドック?」
バダー医師は、絶望的な視線を室内にさまよわせ、舌でくちびるをなめまわしだ。それから、不安そうに早口で答えた。
「もう一度……もう一度表皮再生機にかける必要がある。あと四時間ぐらいで、癒着してくれるだろう。内臓には重みはかからない。本人はなにも感じないはずだ」
ベンノは耳をそばだてて聴きいった。恐怖でのどがつまり、二の腕と頬がピクピクけいれんするのがわかった。バダー医師は、細長い胴に触手のついた機械を手術台のそばまで押し出し、止金をはずして伸縮性のアームをもちあげた。その端には、小さな穴のあいた長方形のニッケル鋼の箱がついていた。バダーがスイッチをいれると、その穴から一条の光線がさして、傷痕を照らした。
ベンノが見まもるうちにも、傷痕の赤さは薄れ、肉が盛りあがってくるようだった。胃の中へ詰めこまれたものの感覚はなかったが、それがそこにあるのはわかっていた。
とつぜん、激しい腹痛がおそった。
思わず彼は悲鳴をあげた。
パークハーストの顔が蒼白になった。「いったいどうしたんだ?」
バダー医師は表皮再生機のアームをわきに押しやり、タラントをのぞきこんだ。タラントはおそろしい痛みに顔をしかめ、苦しげに呼吸していた。「どうした?」
「痛い……痛い−……ここ……」タラントは胃を指さした。「このへんが痛いんだよ、ものすごく……なんとかしてくれ!」
肥った小柄な医師は、ため息をついて、うしろにさがった。そして、機械のアームを荒っぽく元の位置にもどした。「心配はいらん。自己誘発性の胃痛だ。有害な後遺症などあるはずがないものな」
医師はそこでパークハーストのほうを意地わるく見やしながら、こうつけくわえた。「しかし、わたしはあまり優秀な医者じゃない。ほかに代りがいないから使われているが、とても抵抗運動組織《レジスタンス》が望むような、しっかりした、しらふの医者じゃない。だから、断言はできんがね」
パークハーストが不機嫌に手を振った。「いいかげんにしないか、ドック」
バダー医師はタラントの胸の上まで掛け布を引き上げ、患者はその痛さに泣き声を上げた。バダーは彼をどなりつけた。
「いいかげんに泣きやんだらどうだ、このうじ虫。この機械は掛け布の上からおまえを治療してくれる。おまえはなにも心配することはない――いまのところはな。あっちには」と壁のほうに手を振って、「おまえと比べものにならん痛みをがまんしている女子供がいるんだぞ」
医師はドアのほうにむかった。パークハーストが、ひたいに深いしわを刻んで、そのあとにつづいた。
ドアのノブに片手をかけて、パークハーストは立ちどまった。「あとで、食事を届けてやる。逃げようなんて気は起こすな。逃げ道はこのドアだけだが、外には衛兵がいる。だが、それだけじゃない。勝手に起きたりすると傷口が開いて、助けがくる前に出血で死ぬかもしれんぞ」
パークハーストは明りのスイッチを切り、廊下に出て、ドアを閉めた。タラントはドアの外から、苔の毛布を通すように小さく洩れてくる話し声を聞き、衛兵がそこにいるのを知った。
タラントの思案は、暗闇の中でもやまなかった。ユメノコナのことを思いだすと、またもや体内に苦痛が走った。過去のことを思いだすと、吐き気がした。手術中に目ざめたときのことを思いだすと、悲鳴を上げたくなった。それからの六時間は、頭の中ぜんたいが、ぎらぎらする地獄だった。
舌もつれのシェップがやってきた。シェップも小ざっばりした服に着かえてはいたが、鼻のまわりや、爪の先や、目の下のたるんだしわに、まだ汚れが残っていた。彼には、タラントがこれまでに会った連中との共通点が一つあった――骨のずいまで疲れきっていることだ。
シェップは表皮再生機のアームをたたみ、機械を壁ぎわへ押しこんだ。タラントは、相手をじっと見まもっていた。シェップが掛け布をめくって、もう細く白い線にかわった傷痕を調べはじめたとき、タラントは両肱をついて頭を起こすと、たずねた。「外はどんなようすだね?」
シェップは、灰色の目を上に向けただけで、返事しなかった。
彼は部屋を出ていき、しばらくたってから衣類をかかえてもどってきた。それを手術台の上、タラントのそばへ投げだすと、タラントに手をかして起きなおらせた。「服を着ろ」と、ぶっきらぼうにいう。
上体を起こしたタラントは、一瞬、腹からこみあげる麻薬への飢えで、吐きもどしそうになった。震える手を茶色の髪の毛の中につっこんだ。「な、なあ、耳をかせよ」彼は抵抗運動員にむかって、なれなれしい口調で話しかけた。「あ、あんた、どこかヤクを手に入れるコネを知らねえかい。ぜったい損はさせねえからょ!」
シェップは向きなおると、タラントの顔を張りとばした。頬にひりひりする赤いあざが残った。
「いや、おまえ[#「おまえ」に傍点]こそ耳をかせ。知らなきゃ教えてやるがな、いまキバ星人の宇宙艦隊はまっすぐにこの〈ディールドの星〉へ向かっている。これまでおれたちを爆撃したのは敵の先発偵察隊で、それだけでもこの星は全滅に近いほど痛めつけられたんだ。
外では二百万人が死んだんだぜ、だんな。それがどういうことか、わかるか? この星のほとんど全人口だぞ。それなのに、おまえはそこにすわって、ヤクがほしいとぬかしやがるんだ――もし、おれが好きなことのできる立場なら、たったいま、ここでおまえを蹴ころしたいところだ。わかったら、さっさと服を着ろ。これから一言でもおれに話しかけやがったら、ただじゃすまさん!」
そういうとシェップはむこうを向き、タラントはその背中を見つめた。彼にはもう戦意はなかった。ただ横になって泣きたかった。いったい、おれはどうなるんだ? ヤクが手にはいるなら、どんなことだって……もうだめだ……とてもたまらない……「早く着ろったら[#「早く着ろったら」に傍点]!」シェップが叫んだ。首すじの血管がふくらみ、彼を殺しかねない形相になっていた。
タラントはあわててジャンパーを着こみ、フードをつけ、ブーツをはき、べルトを締めた。
「こい」シェップは彼をこづいて、手術台から立ち上がらせた。
立ちあがったとたん、タラントはあやうく倒れそうになった。目まいと吐き気の波におそわれながら、恐怖の中でシェップにとりすがった。
シェップは彼の手を振りはらって命令した。「歩くんだ、このいくじなし! 歩け!」
ほかにどこへも行き場がないと知って、彼はシェップのうしろから歩きだした。相手はふりむきもしなかった。彼がついてくるものと確信しているようだった。
この惑星に投下されている衝撃爆弾の反響が、壁ごしに聞こえる。その戦争のことを、彼はほんのおぼろげに知っていた。
キバ=地球戦争は、長く苦しい戦いだった。戦争はすでに十六年っづいているが、キバ側の艦隊が地球領内に侵入してきたのは、これがはじめてだ。それは思いがけない急襲で、〈ディールドの星〉はその最初の目標だった。タラントはその破壊を自分の目で見ていた。そして、いまもし〈ディールドの星〉を守る人間が生き残っているとすれば、それはこの抵抗運動組織《レジスタンス》の連中だ、と知ってもいた。
だが、その連中が、彼の体になにをしたのだ?
シェップは右に曲り、廊下を進んでから、錠のおりたドアをあけた。そしてわきにより、先にタラントを中へ入れた。そこは一種の通信室らしかった。
ダイアルやスイッチの並んだ機械と、チューブやスピーカーが、四方の壁を占領していた。パークハーストもそこにいて、むぞうさな手つきでハンドマイクを握り、技術者のひとりと話していた。
タラントがはいってくるのを見て、金髪の男はふりかえり、彼にうなずいてみせた。「この一件がどういうことかを、知りたいだろうと思ってな。すくなくとも、われわれにはそれをきみに教えておく義理があると思う」
つかのまパークハーストは唇をひきしめてから、謝るような口調でいった。「なあ、きみ、われわれは別にきみを憎んでいるわけじゃないんだ」タラントは、この連中がまだ彼の名を知ろうとすら、していないことに気づいた。
「われわれには一つの任務がある。その任務には、あるタイプの人間が必要だ。きみはその条件にぴったりの男なんだ。もしかりにきみがいなかったとしても、やはりきみに似た男が選ばれていたろう」だからあきらめろ、というように、パークハーストは肩をすくめた。
タラントは身ぶるいが始まっているのに気づいた。がたがた震えながら、いまここにほんの一服でも、ほんの一吸いでもいい、ヤクがあったら、と考えた。彼のたった一つの望みは、ほうっておかれること、外へ逃がしてもらうことだ。キバ星人がこの世界を焼きつくしにかかっているとしても、別にかまわない。死ぬほど欲しいヤクの隠し場所が、どこかに見つかるはずだ。
そこまで考えたとき、胃の中の金属の箱を思いだし、たちまち現実にひきもどされた。タラントはがたがたと体を震わせた。
「いったい……いったいおれになにをする気なんだ?」
軽く、おずおずと、みぞおちに手を触れながら、「おれの体の中になにをいれたんだ?」
壁面のたくさんのスピーカーの中の一つから、キーンとかん高い金属音が聞こえ、口をへの字にした技術者が、パークハーストにむかってあわただしく手まねした。パークハーストがそっちをふりかえると、技術者ははじめてくれと合図した。パークハーストは手まねでタラントを黙らせ、シェップを招きよせて彼を見張らせた。
それから、パークハーストはハンドマイクにむかってしゃべった。まるで非常に遠くのだれかに話しかけているように、そして一語一語をはっきりと理解させようというように、くどいほどの明瞭さと大声で。
「こちらは〈ディールドの星〉の抵抗運動組織《レジスタンス》司令部だ。キバ星軍の宇宙艦隊に告げる。
聞こえるか?
われわれはあらゆる集束ビームを使って、この通告を放送中だ。したがって、諸君がこれを受信しているものと確信する。われわれはいまから十分間待つ。そのあいだに翻訳器を準備し、上司たちに知らせて、この放送を聞かせるようにしろ。
これはキバ星人にとって、生死にかかわる重大な問題だ。諸君がいまわたしのいった言葉を翻訳しおわったら、ただちに必要な手配をして、上司に連絡することをすすめる」
パークハーストは、技術者にスイッチを切れと合図した。
それから、もう一度タラントをふりかえった。「いまのはキバ星の大艦隊の前衛だ。艦隊の主力は、この戦争はじまって以来の大規模なものだ。やつらが地球の防衛線を強引に突破し、地球そのものも一気に叩きつぶそうとしているのは疑いがない。
だが、このキバ星人の大攻勢を、地球に伝える手段がないんだ。やつらに最高点の通信塔を破壊されたため、超空間通信がきかなくなってしまった。母星に警告したいと思っても方法がない。もし、外郭の植民地がぜんぶやられたら、地球は無防備になってしまう――この艦隊の規模からいっても、そうなることはまずまちがいない。
だから、なんとしても地球に警告しなければならん。そのたった一つの方法は、時を稼ぐことだ。運がよければ、〈ディールドの星〉に残った何千人かのいのちも、助かるかもしれん。そこで、きみのような人間が必要になる。そう、きみだ」
彼は口をつぐんだ。室内の物音は、無表情な機械が立てる金属音と曝き、それにべンノ・タラントのすすり泣くような息づかいだけだった。
ついに壁の大時計が十分間を刻みおえ、さっきの技術者がパークハーストにもう一度合図を送った。
金髪の男はハンドマイクを構えなおすと、静かに、真剣に、しゃべりはじめた。もう彼の相手が下っぱではなく、この惑星の上空で彼らの死命を握っている連中だということを、わきまえているように。
「われわれはこの惑星の上に一個の爆弾を置いた。太陽爆弾をだ。その意味は諸君にもわかるだろう。この惑星の大気が、成層圏の最上層まで、あらゆる生物の死にたえる高温に包まれる。あらゆる金属は白熱し、地表は永久になにものも育たないまでに焼きつくされる。この惑星と、われわれ全員と、諸君[#「諸君」に傍点]の全員が死ぬのだ。
諸君の宇宙船の大半はすでに着陸している。まだ空中に残っているものも、かりにいますぐ離脱したとしても、その爆発の被害を逃れることはできない。そして、われわれのレーダーの追跡をうけているそれらが、もし離脱をはかれば、われわれはなんのためらいもなく、即座に爆弾を起爆させる。だが、諸君が待つならば、もう一つの可能性が残されている」
パークハーストは、レーダー・スクリーンをにらみつけている技術者のほうを、ちらとふりかえった。技術者はかぶりを振り、そしてタラントは、彼らが相手の出方をうかがっていることに気づいた。もし、レーダー面の光点のどれかが惑星から遠ざかれば、それはキバ星人がこの通告をこけおどかしと見なした証拠なのだ。
しかし、どうやらキバ星人もその危険は冒したくないようだった。どの光点も、膠づけされたように、各スクリーンの中央にとどまっていた。
そして、タラントの目はだしぬけに大きく見開かれた。パークハーストのいったことが、やっとのみこめてきたのだ。いまはじめて、彼は金髪の男のいった言葉の意味を知った[#「知った」に傍点]! どこにそ の爆弾が隠されたかを知った[#「知った」に傍点]。彼は悲鳴を上げようとしたが、まだその声がもれないうちに、通信機をとおしてキバ星人に伝わらないうちに、シェップの手が彼の口をふさいでいた。
タラントは、自分が発狂しかけているのを知った。
彼は才覚をたよりにこれまでの人生を生きてきた。いつも、だれかの譲ってくれた一センチにつけこんで、こすっからく一キロメートルをものにしてきた。しかし、こんどばかりは、その一センチがどこにもない。これまでほかの大ぜいの人間をだましたようなやりくちで、この連中の弱味や同情につけこめないことを、茫然と彼はさとった。この連中は冷酷で無慈悲だ――しかも、彼の腹の中には太陽爆弾が埋めこまれているのだ!
厚いもやを通して、パークハーストの言葉のつづきが聞こえてきた。「くり返す、発進を試みるな。たとえ一隻でも噴射をはじめたらさいご、われわれは爆弾を起爆させる。諸君には、全滅を避けられる代案を一つだけ与えよう。これがその代案だ」
パークハーストは唇をなめまわし、慎重にあとをつづけた。
「われわれを行かせろ。この惑星に残った地球人たちが宇宙船で発進するのを黙って見逃せば、われわれも爆弾を起爆させないと約束する。大気圏を離脱したのち、われわれはその爆弾をオートマチックに切りかえ、あとは諸君の発見にまかせる。もし、われわれがすでにこの爆弾を設置したことを疑うなら、諸君の手にあるお好みの計数管を使い、ニュートリノの放出を探知すればいい。
そうすれば、これがこけおどかしでない[#「これがこけおどかしでない」に傍点]ことがすぐにわかるはずだ。
しかし、これだけはいっておこう。この爆弾の作動を止める方法は一つだけある。それは、諸君が爆破時刻以前に爆弾を発見できた場合だ。ただし、それはわれわれの去ったあと、ということになる。これは、諸君としては避けられない[#「避けられない」に傍点]賭けだ。もう一つの道……そこには賭けの余地もない。死があるだけだ。
もし諸君がこの要求を拒否すれば、われわれは爆弾を起爆させる。もし諸君がこの要求を受諾すれば、われわれはただちにこの惑星を去る。爆弾はオートマチックに切りかえられ、指定時刻に爆発することになる。それはきわめて確実な時限装置に同調しており、ニュートリノ制動機《ダンパー》などの遠隔的方法では、絶対に止めることができない。
いまから一時間だけ、諸君の回答を待つ。一時間を経ても回答がなければ、われわれが死ぬことを承知で、爆弾を起爆させる。
応答には、現在諸君が受信中のこの波長を使え」
彼は技術者に手まねし、スイッチを切らせた。一つの制御卓からライトが消え、通信は停止した。
パークハーストはタラントに向きなおった。その目はひどく悲しそうで、ひどく疲れていた。
なにかをいおうとしているらしい。それが残酷で恐ろしい言葉であるだろうことは、明らかだった。
どうかいわないでくれ[#「どうかいわないでくれ」に傍点]――ベンノ・タラントは、心の中の狂った片隅でそうくり返しつづけた。だが、その願いもむなしく、金髪の男は静かに口をひらいた。
「もちろん、いまの通告の終わりの部分は、ひょっとすると[#「ひょっとすると」に傍点]こけおどかしかもしれん。あの爆弾を止める方法は、ないかもしれん。かりにやつらがそれを見つけてもだ」
「あとどのくらいだ?」タラントに注いだ目を離さずに、シェップが部屋の奥へどなった。しばらく前に、パークハーストはタラントの惨めな状態に哀れを催し、バダー博士に命じて、ユメノコナの少量を与えたのだ。抗議を無視されたので、それ以来シェップはむくれかえっていた。
「もうすぐだよ」技術者が交信マスクの中から答えた。その言葉を合図のように、スピーカーが雑音をひびかせ、翻訳機のざらついた作動音が室内の静けさを破った。
つぎに聞こえたのは、冷たい金属的な声だった。キバ星語を英語に移しかえた産物だ。「提案を受諾する。われわれの測定器具は、爆弾の存在を認めた。したがって、諸君の積込みと出発に七時間の猶予を与えよう」それがメッセージだった。
しかし、タラントの心臓は、体の底へどすんとおちこんだ。異星人の測定器具がニュートリノ放出量の増加を認めたということは、とりもなおさず、彼の最後の望みが消えたことだった。抵抗運動組織が爆弾をもっているというのは、嘘ではなかったのだ。そして、彼はその爆弾のある場所を知っている!
彼は歩く爆弾だ。歩く死だ!
「よし、みんな、出発だ」パークハーストはいって、廊下のほうへ歩きだした。
「おれはどうなるんだ?」タラントはうわずった声で叫びながら、パークハーストの袖をつかんだ。「やつらがおれたちを逃がしてくれるというんだから、おれはもう用なしだ、そうだろう? だったら、あれを……あの箱をおれの体から抜きとってくれよ!」
パークハーストは疲れたまなざしで彼を見た。その目には、一抹の悲しみも漂っていた。「この男の面倒を見てやってくれ、シェップ。あと七時間で、この男が必要になる」そう言い捨てて、出ていった。
ほかのみんなが去り、タラントはシェップといっしょにとり残された。彼はシェップに向きなおって、どなった。「どうなってるんだ? 教えてくれ! どうなってるんだ?」
そこまできて、シェップははじめて説明した。
「おまえは、この〈ディールドの星〉の最後の人間になるのさ。キバ星のやつらは、追跡機械を使って、ニュートリノ放出の中心にじわじわ的をしぼってくるだろう。もし爆弾が一ヵ所にじっとしていれば、すぐに見つかってしまう。だが、動く人間というやつは、一ヵ所にじっとしちゃいない。しかも、やつらは爆弾が人間の体の中にあるとは、疑ってもみないだろう。
やつらは、おれたち全員が退去したと思いこむ。だが、おまえだけは、まだ爆弾といっしょにここへ残ってるってわけだ。おまえはおれたちの生命保険なんだ。
パークハーストがこの惑星にいるあいだは、爆弾のコントロールを握っているから、キバ星人が妙な動きをしないかぎり、爆発はしない。だが、パークハーストが出発するのと同時に、爆弾はオートマチックに切りかえられる。こんどは、決められた時間に爆発するようになるんだ。
わかったか? もし敵の宇宙船がおれたちを妨害しようとしたら、爆弾は爆発する。もし、やつらが妨害しなくても[#「しなくても」に傍点]、その時間までに爆弾を見つけなければ、やはり爆発するってわけさ」
ユメノコナで元気の出かかったベンノ・タラントは、相手のあまりにも冷静な口調と、自分がただの道具扱いされたことに、激しい怒りを感じた。
「おれのほうからやつらのところへ出向いていって、おまえらがこいつを中へ入れたときのように、手術で抜きとらせたらどうなるよ?」つかのまの勇気に支えられて、タラントはそうやりかえした。
「おまえがそんなことをやるはずはないね」シェップがしたり顔でいった。
「どうして?」
「やつらが、おれたちみたいに手間暇かけた、親切な扱いをしてくれると思うか。キバ星人の爆弾探知隊につかまってみろ、いきなり地べたへ仰向けに押さえつけられて、腹を裂かれるのがオチだ」
タラントの顔をよぎる恐怖をじっと見つめながら、相手はつづけた。
「いいか、おまえがせっせと逃げまわってくれるほど、やつらはおまえを見つけるのに手を焼く。やつらがおまえを見つけるのに長くかかればかかるほど、おれたちが地球へ警告にもどれるチャンスが濃くなる。だからおれたちは、逃げまわるしか能のない臆病者に目をつけた――なぜなら、逃げまわるのがおまえの本性だからだ。
いいか、逃げまわるんだぞ、だんな。そのために、パークハーストはおまえを選んだんだからな。逃げまわれよ、弱虫、ぜったいに止まるな!」
タラントは背をしゃんと伸ばして叫んだ。「おれの名はタラントだ。ベンノ・タラントだ。わかったか? おれには名前があるんだ! おれはタラントだ。べンノ、べンノ、べンノ・タラントだ!」
シェップは厭味な笑いをうかべ、制御卓のベンチに腰をおろした。「おまえの名前がなんだろうと[#「なんだろうと」に傍点]、おれの知ったこっちゃないぜ、だんな。いったい、おれたちがなんでおまえの名前をきなかったと思う?
名なしのごんべえなら、それだけあっさりと忘れられるからよ。パークハーストやほかの連中はこんどのことに気が重いんだ――おまえに対して同情をもったり、良心のとがめを感じたりしてるんだ。
しかし、おれはちがう。おまえそっくりのラリ公に、むかし女房を殺されたんだ……」彼は言葉を切り、天井を見上げた。地上では、キバ星人の宇宙船がじっと待機しているはずだった。
「だから、おれとしては、これで帳消しだと思ってる。おまえみたいなラリ公が一ぴき死んだって、おれは屁とも思わん。痛くも痒くもない」
すきをうかがっていたタラントは、ドアのほうへ逃げだそうとしたが、一瞬早くシェップがライフルを持ちあげ、その台尻でベンノ・タラントの腰をなぐりつけた。苦痛に身もだえしながら、タラントは床に倒れた。
シェップはベンチに戻り、静かにいった。「さあ、おとなしく七時間ほど待っとしようや。おまえの値打ちが出てくるのはそれからだ。たいそうな値打ちだぜ。なにしろ、キバ星人の全艦隊の運命が、おまえの腹の中におさまっているんだ」
発進場はようやく静まった。生き残った数千人のディールド住民を宇宙船に運びこむ作業は、すでに七時間近くつづけられ、そして宇宙船は一隻また一隻と、大きな蒸気の雲を残して飛び立っていったのだ。いま、最後の一隻の準備もほとんど終わり、ベンノ・タラントは、パークハーストがひとりの少女を抱き上げるのを見まもった。黄色の髪をお下げに編んだ幼い女の子は、プラスチックの人形をしっかりかかえていた。パークハーストはその少女を必要よりも一瞬だけ長く抱きしめ、その顔をまじまじと見つめた。金髪の男の顔に殺されたわが子への哀惜がよぎるのを、タラントは見てとった。しかし、彼はパークハーストになんの同情も感じなかった。
この連中は、彼をここへ置きざりにして、もっともおぞましい方法で死なせようとしているのだ。
パークハーストは、少女を宇宙船のハッチの中まで持ちあげ、中のだれかの手が少女をうけとった。パークハーストも、ハッチによじ登ろうとしかけた。
だが、片手を手すりにかけたところで、彼は動きを止めた。そして、置きざりにしないでくれと訴える捨て犬のように、両手をわなわなと震わせて立っているタラントのほうをふりかえった。
「なあ、きみ、わかってくれ。われわれが地球の前進基地までたどりついて、この危機を母星に警告するためには、きみだけがたよりなんだ。こんな……こんなことを言ったところで、きみのわれわれに対する恨みが薄れると思っていない。しかし、わたしがこんどのことを考えるたびに、身を焼かれるような思いをしていることを、知っているかね? そんな顔つきをしないで、なんとかいったらどうだ!」
タラントは黙りこくったまま、正面を見つめていた。恐怖が体の中を伝いおり、酸のように両脚を蝕んだ。
パークハーストが、ふたたびハッチにむかって体を振りあげようとしたとき、タラントは最後の声をふりしぼった。この最後の何時間か、彼は哀訴に哀訴を重ねたのだが、いまになっても、それ以外の方法は思いうかばなかった。
「せめてこれだけは教えてくれ、この爆弾を止める方法はあるのか? あるんだろう? 止める方法はあると、やつら[#「やつら」に傍点]にもいったじゃないか!」彼の子供っぽいまでに熱心な表情を見て、パークハーストは嫌悪に顔をしかめた。「きみという人間には、勇気のひとかけらもないのか」
「答えろ! 教えてくれ!」タラントは叫んだ。
「教えることはできない。かりにそんな方法があったとして、それを知ったら、きみはいますぐにでもキバ星人のところへ駆けこむだろう。やつらがそれに触ったらさいご爆発する、ときみが思いこんでいれば、できるだけ長く待つ気になるはずだ」
彼は宇宙船の中に体をもぐりこませた。ハッチの蓋が閉まりはじめた。だが、パークハーストはつかのまそれを止め、さっきよりは優しい口調でいった。「さようなら、ベンノ・タラント。たっしゃで、といいたいところだが」
ハッチは閉まった。それがロックされる音と、原子炉の始動する唸りを、タラントは聞いた。彼は噴射の危険区域から盲めっぽうに駆け出し、その外に設けられた掩蔽壕にとびこんだ。この壕の下が、さっきまで抵抗組織の司令部だったのだ。
彼は防護板のはまった窓ぎわに立ち、排気の尾の細い線が、夜空に消えていくのを見送った。
彼はひとりぼっちだった。
〈ディールドの星〉の最後の人間だった。
いまやキバ星人にとりかこまれた惑星の上に、全面破壊爆弾を腹の中におさめて、ただひとり立っているのだった。
彼らが去り、排気の尾の最後のしずくが夜の星空に消えていったあと、タラントは掩蔽壕の戸口に立って、無人の発進場をぼんやりと眺めていた。あの連中は、彼を置きざりにしていったのだ。あれほどの哀願も、人情への訴えかけも、肉体的な抵抗も、すべてむなしかったのだ。からになった発進場とおなじように、彼の心の中もからっぽだった。
ひえびえとした風が発進場にさざ波を立て、彼にうちよせ、彼を包みこんだ。ふたたび麻薬への飢えがわきあがってきた。
だがこんどは、なにはともあれ、ユメノコナの中に身を溺らすことはできる。そうだ! 麻薬の眠りの中にひたりこみ、せめて爆弾が破裂するまでのあいだだけでも、天国の夢を見よう。彼は床の揚げ蓋を見つけ、それを持ちあげて、抵抗組織の司令部へと降りていった。貯蔵食料をひっくりかえし、ロッカーをぶちこわし、戸棚をこじあけたあげく、半時間後にやっと、バダー医師の医療品のストックの中に、ユメノコナが見っかった。むかし、二十三歳の彼を見つけ、ほんの味見の一服で彼を奴隷にした、あのユメノコナ。それは遠い昔のできごとだ。いまの彼の唯一の安息がその麻薬だということを、タラントは知っていた。
さっそくこの一包みを吸入した彼は、自分がしだいに強く、健康で、勇気にあふれてくるのを感じた。キバ星人? いいとも、くるならきてみろ! どんな大艦隊か知らんが、ひとりで相手になってやる。
ジャンパーのポケットに白い包みをいっぱい押しこみ、意気揚々と階段を上がって、床の揚げ蓋をばたんと閉めた。
その瞬間、タラントははじめてキバ星人の姿を目に入れた。
何百人もの彼らが、群れをなして発進場を横切ってくるのだ。異星人は中肉中背だった。みんな一メートル五十から八十あたりの背丈。顔も人間そっくり――ただ、金色の皮膚をしているだけだ。そして六本の指は、その端で絹糸のような触毛に分かれている。
彼らの地球人への類似が、タラントをおびえさせた。もし彼らがもっとグロテスクな姿なら、話は別だったかもしれない。怪物として彼らを蔑み、憎むことができたかもしれない。だが、そこに現われたキバ星人は、どちらかといえば、人間よりも美しかった。
彼らの姿を見るのははじめてだったが、市街の谷間にこだまする悲鳴を、タラントは何度も聞いたことがあった。背中の肉を剥ぎとられた少女の絶叫を聞いて、彼なりに同情を感じたこともあった。その少女が出血で早く死ぬことを、彼は願ったのだ。
だが、現実に見る彼らは、人間そっくりだった。ただ金色なだけだ。とつぜん、タラントは自分が袋の鼠になったのに気づいた。彼のとじこもっているこの掩蔽壕には、なんの保護もなく、武器もなく、逃げ道もない。敵は彼を見つけ、そして爆弾を腹の中にしまっているとは夢にも思わず、彼を殺すだろう。彼が爆弾をかかえているかどうかを、聞いたりするはずがない――まともに考えるには、あまりにもばかばかしいアイデアだからだ。
パークハーストの狙いもそれだった。考えられないほどの、ばかばかしいアイデア。
むこうは太陽爆弾を探している。そして、その爆弾は――探すほうの論理からすれば――どこか人目につかない隠し場所にある、と考えるのが常識だ。海の底、一千トンもの土の下、あるいは地下のそのまた地下室。だが、人間の体の中にあるとは思わない。
彼は血走った目で壕の中を見まわした。出口はたった一つ。そして、外はキバ星人でいっぱいだ――しかも、一杯食わされた相手は、目につく最初の地球人を血祭りにあげようと、怒り狂っている。
彼は観測窓から、しだいに大きさを増してくる彼らの姿を眺めた。むこうは全員、断熱服を着こみ、筒先の三本に分かれた熱線銃をもっていた。あの武装は、殺すための武装だ、捕虜にするつもりのそれではない。こっちは袋のねずみだ!
タラントは、絶望的な怒りがふたたびこみあげるのを感じた。それは、彼の体内に太陽爆弾があることを、最初に知らされたときとおなじだった。こんなふうにだし[#「だし」に傍点]に使われた――人間爆弾に仕立てられた――だけでなく、おまけに逃げまわらねばならないとは! キバ星人が無慈悲なのは、よくわかっていた。彼らはすでに、宇宙船に備わったニュートリノ探知機で捜索をはじめているだろう。惑星の上空でしだいに旋回の輪を縮めながら、爆弾に近づいてくるだろう。だが、もし外にいる歩兵たちにつかまったら、それだけ[#「それだけ」に傍点]の猶予もない。むこうは彼を焼きはらい、黒焦げになった死骸を見て大笑いするにちがいない。逃げなくては。
シェップのいったとおりだ。逃げまわるしか道はない。
もし、かなりのあいだ生きのびることができたら、爆弾を止める方法を思いつくかもしれない。
それとも、キバ星人のおえらがたに泣きつく手もある。それが唯一のチャンスだ。たとえ彼らに見つからずにうまく逃げまわったとしても、爆弾はいつか爆発する。だが、むこうの専門家なら、爆発させずに、彼の体から爆弾をとり除けるかもしれないのだ。
パークハーストや、あのくそいまいましい生き残りたちの裏をかいてやろう。へたなやつにはつかまらない。敵の上層部に、それも相手を見て、つかまる。そして、キバ星人にうまくとりいり、彼らに協力して地球人を追いつめ、みな殺しにする。
だってそうじゃないか、地球にどんな恩義がある?
ない。なにもない。やつらは彼を殺そうとした。そのつぐないをさせてやるのだ。死んでたまるか! このいとしいユメノコナを抱いて生きるんだ、どこまでも!
キバ星人の歩兵がひとり、体を屈めてジグザダに走りよってきた。またたくまに、そいつは掩蔽壕のドアへとりついた。そして、つぎの瞬間には中へとびこみ、三叉に分かれた熱線銃を唸らせて、壕の中に火炎と死をまきちらしはじめた。
タラントがいたのは、そのドアのちょうど背後の窓ぎわだった。彼はそのドアをばたんと閉めた。外にいるほかの連中に、中のようすを見せないためだ。いま、彼は新しい力に目ざめていた。これまで、自分の中にあるとは気づかなかった力に。彼はキバ星人のうしろからとびかかり、その両足をタックルした。兵士は倒れ、手から離れた熱線銃が床にころがった。ベンノ・タラントは立ちあがると、その顔を思いきり踏みにじった。
一回、二回、三回、四回――頭をぐしゃぐしゃにつぶされて、相手は息たえた。
タラントは、つぎになにをすべきかをさとった。
彼は兵士の足をつかんで、床の揚げ蓋の縁までひきずっていき、蓋を持ちあげて、そこから中へ押しこんだ。死体はごろごろと階段をころがり、どすんと地下室に落下した。
タラントは熱線銃を拾い上げ、ほかの兵士がやってこないうちに、自分も床の穴へもぐった。
床の揚げ蓋をばたんと閉める。よほど細かく調べなければ、むこうはその揚げ蓋に気づかないだろう。そして、そこまで調べるはずはない。むこうは、ぜんぶ地球人がこの惑星を立ちのいた、と思いこんでいるのだから。
彼は揚げ蓋の下にうずくまり、熱線銃を両手に構えた。もし、蓋を持ちあげるやつがいたら、その顔を黒焦げにしてやるつもりだった。
頭上で何人かの交わす叫び声が聞こえ、掩蔽壕のドアが壁にぶつかるほど激しく押し開かれた。またもや熱線銃から放射される炎の轟音、そして歯擦音の多いキバ星語の話し声。上の床をどたどたと歩きまわる長靴の音。一度、その足が揚げ蓋の真上を踏んだ。蓋のすきまから細かい土ぼこりが雨のように降ってきて、彼はいよいよ見つかったかと思った。
だが、外からの叫び声が、中の兵士たちの不承不承な返事をひきだし、彼らは掩蔽壕をあとにして、どやどやと外に出ていった。
タラントは蓋をそっと上に持ちあげて、ようすをうかがった。安全だと見きわめがつくと、蓋をさらに大きく持ち上げて、窓ごしに外をのぞいた。キバ星人たちは、発進場を去っていくところだった。
彼はもう一度首をすっこめ、彼らがいなくなるのを待った。もうじき日が暮れる。そうすれば、ここを逃げだせるだろう。
待っているあいだに、彼はヤクの一包みを吸いこんだ。
彼はふたたび神となった。
そのあと、彼はだれにも見つからずに〈青い沼〉までたどりついた。考えつける中の最良の逃走パターンをとって、彼は移動をつづけてきた。ニュートリノ探知機で上空から哨戒しているキバ星人の宇宙船に的をしぼらせないよう、外へ外へと円を描きつづけたのだ。しかし、そのうち彼らも目標が一ヵ所に静止していないことを知るだろう。そして、地球人の計略に気づくだろう。
彼は動きつづけた。
雲ひとつない夜だった。さわやかで甘い匂いのする夜だった。だが、それも陸地の上だけ。沼へ一歩はいったとたん、太古からの溜まりに溜まった腐臭が、彼の鼻孔にわっと突き上げてきた。
タラントの胃はむかつき、ひょっとすると嘔吐で爆弾がドカンといくのではないかという思いが、頭をかすめた。それから、彼は笑いだした。そんなぐらいのことで、爆弾の引き金が引かれるはずはないのだ。
渦を巻いた青黒い泥め中に足を踏みいれると、たちまち長靴を底へ吸いこもうとする力が感じられた、彼は熱線銃を頭上にかかげて、のろのろと前進した。足をかわるがわる上へ引きぬくごとに、ズボッとくぐもった音がした。
沼地は生きもので溢れており、害のあるものもないものも、競争で声を張りあげていた。そのざわめきは、彼が闇の奥へとはいりこむにつれて、しだいに膨れあがってきた。まるで、なにか想像を絶した昆虫の電信が、沼の住民にむかってよそものの接近を警告しているように。前方やや左寄りで、一ぴきの獣の底深い唸り声が聞こえた。声からおしても、よほど大きなやつだ。
ふたたび恐怖が腹の中で鳴りひびきはじめ、彼は自分がひとりごとを呟いているのに気づいた。
「なぜおれを?」にぶい単調な声で何度も何度もそれをくり返していると、なんとなくそれにつられて、足が前に運ばれていった。動くたびに、青黒い泥のかすかな燐光が渦巻き、彼の脛や長靴にへばりついた。
熱線銃を前方の乾いた土の上へ先にほうり投げて、泥の中に倒れている腐木をまたぎ越えにかかったとき、さっきの獣がもつれあった蔓草の茂みからとびだし、彼にむかって威嚇の捻りを上げた。
タラントは凍りついた。片足は宙にういたまま、もう片足は腐木のうろにもぐりこみ、全体重は両手にかかっている。目をまじまじとひらいた彼は、濃灰色の獣の全身を一時に見てとった。
獣の体は三角形に近かった。なめらかな首が、三角形の頂点を作る滑稽なまでに小さな頭につづいている。背中は長い斜面で、先細りに地面に近づいている。その下に、本箱のはかま板のような、八本の肢がある。四角い鼻づらと牙をむいた口の上で、小さく赤い二つの目が、〈青い沼〉のもやをすかしてらんらんと輝いた。
タラントは逃げるに逃げられず、その獣を見つめかえした。全身を浸した冷たい完全な恐怖が、この宇宙唯一の実体に思えるその倒木へ彼を釘づけにしていた。
獣はまたもやトランペットのような唸りをひびかせ、のそのそと前進した。
その灰色の毛皮を切り裂いた噴炎は、どこからきたものとも知れなかった。獣は四本の後肢だけで立ちあがり、虚空をかきむしった。ふたたびかん高い発射音がして、火炎は獣の首に食いこんだ。
いっとき、獣は火と煙に包まれてから、外へむかって破裂した。血しぶきが木の葉や蔓草の上に飛び、生温かくべとべとしたものでタラントを覆った。肉片が雨のように降ってきて、その一つがぬらぬらと彼の頬を伝いおりた。
胃袋がきりきりと痛んできたが、いまの破裂で彼はわれに返った。沼地にいるのは、彼だけではないのだ。
彼が〈ディールドの星〉の最後の人間である以上、答はひとつしかない。
キバ星人だ[#「キバ星人だ」に傍点]!
やがて、彼らの話し声が、沼地のざわめきに重なって聞こえてきた。彼らは叢林の生い茂った堤から、開けた岸辺へ現われ出ようとしていた。そこには、とびちった獣の死骸がまだぴくぴくと震えている。
タラントは、自分の体の中にも奇妙な震えがあるのを感じとった。岸辺に横たわっている獣に対して、とつぜん、説明のつかぬ一体感をもったのだ。その獣は、彼よりもはるかに男らしかった。むごたらしい最期をとげはしたが、背中を見せて逃げはしなかった。その動物が心をもたないことを、彼は知っていたが、それにもかかわらずその獣の死には何物かが――彼をいままでとは人のかわったような、成熟した気持にさせる何物かが――あった。それがなんであったかは、彼にもわからない。しかし、獣が死んだときを境に、彼は絶対にキバ星人に降服するものかという気になったのだ。まだひどく怖気づいてはいる――長年の習慣がそう一度に変わるはずはない――しかし、以前との確実な違いが一つある。かりに死ななければならないときがきても、彼は両足をふんばって死ぬように心がけるだろう。
キバ星人が現われた。左のほうから出てきた彼らは、手をのばせば届きそうな近くにいた。岸辺を横切りながら、むこうはまだ彼に気づいていない。しかし、爆弾の探知装置らしいものを手にもっている以上、彼を探しあてるのは時間の問題だ。なにか手を打たねばならない――それも早いところ。
五人のキバ星人は、死んだ獣に近づいた――どうやら獲物の検分にすっかり夢中になっていて、探知機はお留守になったかっこうだ。タラントは熱線銃に手をのばした。
濡れた樹皮の上で足がすべり、彼の手は銃身をはねとばした。銃はがらがらと転がり、水しぶきをあげて沼の中におちた。
キバ星人のひとりがさっとふりむき、タラントを見つけて仲間になにごとかを叫ぶと、自分の武器を構えた。青い熱線が矢のように走り、タラントはあわてて身を伏せた。熱線は彼の背中をかすめて、ジャンパーを大きくひき裂き、肉を焦がした。
彼は苦痛の叫びを上げ、泥水の中へ頭からもぐった。背中で燃える地獄の炎を消すのといっしょに、泥の中へ消えた武器を見つけようという魂胆だった。
彼は泥が頭を包みこむのを感じた。思ったより深い。泥でのどが詰まり、彼は手足をばたばたさせた。
彼は沼底のありかを探し、足をもがかせたあげくそれを見つけると、水の中を歩きだした。やがて沼底がしだいに浅くなったのを感じて、水面からちょっと頭をもちあげてみた。キバ星人はまだ彼の前にいるが、その視線はわずかに横へそれていた。まだ彼がさっきの場所にいるか、それとも溺れたものと思っているらしい。
彼は、その五人をみな殺しにしなければならない、とさとった。それも、彼らが上司へ報告しないうちでなければ、ゲームはおしまいだ。この惑星にまだ地球人が残っていることをキバ星人の将校たちが知れば、すぐに爆弾の隠し場所を感づくだろう。そうなったら、彼が生きのびられるチャンスはない。
キバ星人のひとり――金色の髪を極端な角刈りにしたのっぽ――が、熱線銃をかまえたまま、彼のほうにゆっくりと向きなおりかけた。それを見たとたん、タラントの血管にアドレナリンが駆けめぐり、生まれてはじめて――ユメノコナの効きめが薄れかかっているのは知っていたが、それもたいして気にかけずに――彼は攻撃に出た。
両足を高くもちあげながら、彼は沼の縁にそって駆けだし、青いねばねばした泥を四方八方にまきちらした。この突然の動きに、キバ星人は気をのまれ、構えた熱線銃を働かすのも忘れていた。
そのときには、もうタラントは突進の余勢をかってキバ星人を突きとばし、組みしいていた。思いきり足を踏みおろした彼は、相手の首の骨が彼の長靴の下でポキンと折れたのを感じた。
つぎの瞬間、彼は熱線銃を拾い上げ、発射ボタンをいじくっていた。生のエネルギーが青く大きな弧を描き、捜索隊の残った四人に命中した。
彼らの絶叫は短く、その死体は五メートルのむこうまでとび散った。タラントは、ついいましがたまで生きていたピクピク震える肉塊を見おろし、ふらふらと木の幹によりかかった。つかのま、麻薬のことを思ったが、もうその必要もない気分だった。どういうわけか、体内に火が点じられたのだ。殺しの本能が、臆病者の中に芽生えたのだ。タラントは、新しい武器を両手にもって、ふたたび前進をはじめた。
もういまごろ、地球人たちの乗った宇宙船は、はるか彼方を飛んでいるだろう。いっぽう、キバ星人のほうは、もし追跡に出れば爆弾の引き金がひかれるのではないかという恐れを、いまだに持っているのだ。彼らが〈ディールドの星〉からまだ飛び立っていないことを、タラントはただ一つの手がかりによって知っていた[#「知っていた」に傍点]。
彼の体内の爆弾がまだ爆発していないことからだ。
だが、時はしだいに流れ去りつつある。
その夜、タラントは三十人を殺した。
二つ目の五人分隊をやっつけたのは、〈青い沼〉を出た直後だった。大きく上に突き出た岩の蔭で待ち伏せしたのだ。
単独行動の斥候は、タラントが手にしたナイフと棍棒で、つぎつぎに死んでいった。それは、エックスヴィルの郊外に広がる、刈り入れされずじまいの小麦畑の中でだった。むこうは高く伸びた、きらきら光る小麦の穂の上に、頭と肩だけを出して、ゆっくりと歩いてくる。小麦の中に身をひそませたタラントは、ときどき熱線銃の鼻づらが穂の上からちらちらとのぞくのを見張っていた。そばを通りかかる異星人をつぎつぎに引き倒すのは、たいしてむずかしくはなかった。
ベンノ・タラントが熱線銃の台尻を力まかせに振りおろすと、最初の相手の頭蓋はプラスチックの箱のように砕けた。もとこそ泥[#「こそ泥」に傍点]は、荒々しいスリルが血の中をかけめぐるのを感じた。こうしたゲリラ戦の中には、彼がこれまで知らなかった快楽があった。
彼はその死骸から、柄にタイルをはめこんだ長い草刈鎌形のナイフを奪った。そのすばらしい切れ味で、さらに四人を血祭りにした。
キバ星人の血は黄色だった。別に意外ではない。
夜明けが地平線にじりじりと這いあがってくる頃には、タラントもさとっていた――もう、キバ星人も彼の存在に気づいたにちがいない。すでに三十人が、彼の熱線銃とナイフにかかって殺されたのだ。その中の何人かの死体は発見されているだろうし、すくなくとも行方不明の報告はされているだろう。
そして、キバ星人の司令部は、この惑星にいるのが彼らだけではないのに気づいたはずだ。
もう彼らも、その爆弾が移動する運搬具の中にあることを、気づいていい頃だった。その運搬具がなんであるかは、三十人の兵士が殺されたことを考え合わせれば、すぐに答が出る――この惑星の上を動きまわっている人間だ、と。
上空では、ロボット哨戒機が旋回し、唸りを上げていた。タラントは一瞬いぶかしんだーなぜ、艦隊が飛び立てないのに、それら[#「それら」に傍点]が飛び立てたのか? 彼はその質問に論理的理由で答えた。これらの哨戒機は――たんなるロボットだからだ。艦隊のほうは、ワープ機構をもった超空間航行船だ。そのワープのパターンが、爆弾の引き金をひく仕掛けなのだろう。
とすれば、キバ星人にとって彼を探しあてるのは簡単だが、地球人たちの宇宙船を追跡破壊することはできない、という理屈になる。
タラントはこぶしを握りしめ、泥だらけの顔を新しい憎悪に歪めて、彼をここへ置きざりにし、見殺しにした連中を呪った。パークハースト、シェップ、バダー医師、そしてそのほかのやつらぜんぶ。
おれはやつらの裏をかいてやったぞ。おれはまだ生きているんだ!
だが[#「だが」に傍点]、それはやつらの思惑どおりじゃないのか[#「それはやつらの思惑どおりじゃないのか」に傍点]? やつらの狙いはぴったり的中したんじゃないのか? おれが生きのびようと逃げまわれば、それだけやつらは地球へ警告に逃げ帰りやすくなるのでは?
彼はそこで誓った。たんなる不満や怒りよりもずっと奥深い無言の確信で、生きのびる以上のことをしてみせると誓った。この窮地を逆手にとってやる。どんな方法でかは、まだわからない――だが、やってみせる。
朝の光がさしそめるのを待って、彼は立ちあがり、破壊されたビルのプラスチールの壁ごしに、むこうを見わたした。
〈ディールドの星〉の主都の街なみが、目の前にあった。その中央に、どのビルよりも高くそびおえ立っているのが、キバ星人宇宙艦隊の旗艦だった。
闇にまぎれ、新しく身についた沼地の獣の敏捷さで、彼は外へむかうキバ星人の捜索隊を巧みにやりすごし、そして非常線の背後へ忍びこんだのだ。その有利さを、これからどう使いこなすか。
彼は腰をおろして、しばらく思案した。
略奪をたくらんだキバ星人の兵士がその部屋へはいってくるまでに、彼は結論に達していた。あの旗艦まで近づいて、中へはいるのだ。そして、キバ星人の外科医を見つける。それは死を意味するかもしれない。しかし、かもしれない≠セ。ほかの方法では、死は確定している。立ちあがって出かけようとしたとき、なかば崩れた階段を昇ってきた、二重あごでたくましい体つきのキバ星人が、部屋の入口でぎくりと立ちどまった。パテのように白くなったその顔に、驚愕がありありとうかんでいた。地球人が――この占領地域に!
相手は熱線銃をひきぬき、タラントのみぞおちに狙いをつけて、至近距離から発射した。
タラントが横へとびのくところを、青い熱線がとらえた。それは彼の肉を焼き焦がし、体中をひき裂かれるようなすさまじい苦痛がおそった。彼がなかば身をかわしたために、熱線は右腕の上のほうにあたったのだ。つかのま、全身がおこりのように震え、それから……。
タラントは苦痛のもやの中で動きつづけた。キバ星人にもう一度撃とうとする暇を与えず、相手の熱線銃を左手でわしづかみにした。彼は自分の小柄な体にふしぎな力が宿るのを感じ、それが憎悪の力であることをおぼろげに認識した。これまでの彼の臆病さにとって代った、ほかのあらゆる人間、ほかのあらゆる生き物への憎しみだった。
彼が銃身をぐいとたぐりよせると、相手はバランスを失って、たたらを踏んだ。
キバ星人が思わず武器をとりおとして、前のめりになるところを、タラントは片足を上げ、背中をけとばした。
金色の異星人は両手をひろげてよろよろと前にとびだし、床に散らばった石ころにつまずいて、壁のぎざぎざした裂け目の中へ頭からつんのめっていった。
穴に近づいたタラントは、悲鳴を残して落ちていく相手を見送った。
耳をつんざくような、長く尾をひいたその悲鳴は、断末魔の叫び以上のものだった。それは危険信号だった。この界隈は巨大な反響板であり、絶叫をともなった墜落の刻一刻が市街の壁と石材によって反復された。
いまにキバ星人が駆けつけてくるだろう。あの兵士は、自分で考えていたよりはるかに能率的に、仲間を目標へと導いたのだ。
そこでタラントはあることに気づいた。
自分が片腕であることに。
もう痛みはなかった。熱線銃が傷口を麻痺させたからだ。化膿も起こらないだろうし、苦痛もない。だが、右肩から先はきれいに切断されてしまった。
片腕でなにができる? どうやって生きのびられる?
と、キバ星人のわめきあう声が、ビルの下のほうから聞こえてきた。彼は棒になった足で動きはじめた。もう精も根もつきはてた気持だったが、それでも動きつづけた。
彼の両足は彼を部屋の外に運び、裏階段を降りはじめた。果てしない、果てしない下り。階の番号がしだいに減り、10が5に、そして3に溶けこむのを見て、彼は自分が三十階を降りために気づいた――完全なショック状態だった。
一階にたどりついたときには、ビルの正面は、仲間の死体を見つめ、指さしあうキバ星人で埋まっていた。タラントは目をそらした。もう死には慣れたつもりだったが、このキバ星人だけはとりわけ無惨な死にざまだったのだ。
彼は熱線銃を――残った片腕の――小脇にかかえ、壁ぎわにうずくまった。ここから旗艦までは、破壊された市街の瓦礫の中を越えていく五キロの苦しい旅だ。しかもその上に、キバ星人の全上陸軍と、ロボット偵察隊が、いまではすでに爆弾がひとりの人間によって運ばれていること、そしてその人間が負傷していることを、知っているにちがいない。その瞬間、ビルの上空を旋回している偵察船の拡声装置がしゃべりだした。その声はがんがんとひびきわたり、街路に音の洪水をもたらした。
「地球人! オマエガココニイルノハワカッテイル! 生キテイルウチニ降服シロ! カリニオマエガ爆弾ヲ制御シテイテモ、ワレワレハ必ズオマエヲ探シダシテ殺ス……オマエヲ探シダシテ殺ス……オマエヲ探シダシテ殺ス……」
ロボット偵察船は市街の上空を横切りながら、おなじメッセージを何回も放送した。しまいには、その一言一言がタラントの脳に焼きついてくるようだった。おまえを探しだして殺す[#「おまえを探しだして殺す」に傍点]、おまえを探しだして殺す[#「おまえを探しだして殺す」に傍点]……。
時間はしだいにおしつまっていく。タラントはそれを腹の中に感じた。
決められた爆破時刻がいつかは、もう知りようがない。しかし、全身がじわじわと鳥肌立つようなその感覚を、彼は危険信号と解釈した。爆弾はもういつ爆発するかもしれず、そうなったときは終わりだ。
彼は熱線銃を手に移して、でかけようとした。それを待っていたかのように前方のドアがあき、まばゆいばかりの白砂色の軍服を着こんだキバ星人の将校が、中にはいってきた。
相手は銃をもっていなかったが、すぐさまドレス・ナイフをひきぬいた。あの切迫した感情、内部の未知の泉からの力が、タラントの中でたぎりたった。将校があまりにも間近にいすぎるので、銃身の長い熱線銃は使えなかったが、前夜からの鎌形のナイフはまだ身につけていた。彼は灰と熔滓《スラッグ》の山の上へそっと熱線銃を置き、相手の突きだしたナイフを耳のそばでかわして、その手が振りもどされないうちにとびかかった。
片手の指をひろげてタラントはキバ星人にとぴかかると、細い指を相手の両目につっこんだ。眼球をつぶされて将校はかん高い悲鳴を上げ、タラントの指はさらに脳の中へとはいりこんだ。それから、キバ星人がもう叫び声も出せず、両手をあがかせて、頬までえぐり出された眼球をむなしくさぐっているまに、タラントはべルトから鎌形のナイフを抜きはなち、左腕を一振りして相手の首に切りつけた。
将校は金色の血だまりの中に倒れた。タラントは自分の熱線銃を拾いあげると、ビルの廊下をつっ走り、地下室へのドアを見つけ、それを背後でばたんと閉めて、ビルの地下の暗闇へもぐりこんだ。
頭上では、将校の死体を見つけた兵士たちのわめき声が聞こえていた。自分がどちらの方角にむかっているかをたえず心覚えにしながら、彼は地下室の床を手さぐりで進み、そして下水道につうじるマンホールを見つけた。昨夜、彼はその汚ない、じめじめしたトンネルをくぐりぬけて、ここへつかのまの休息と新鮮な空気を求めにきたのだ。いままた、彼は下水道へもどろうとしていた。そのトンネルは、考えつける唯一の生存のチャンスへと彼を運んでくれるはずだった。
とつぜん気強くなった指で彼はマンホールの縁をさぐり、重い蓋の下に指をこじいれた。
闇の中で歯を食いしばる。なんとしても、片手でこいつを持ちあげねばならない――生きのびるには、それしかないのだ。
さらに一秒。平衡点に達した蓋は、ため息を立てて持ちあがった。タラントは熱線銃をベルトにさしこみ、そのすきまから身をくぐらせた。下水道の黒く渦巻く水の二、三メートル上で、穴の縁に体をへばりつかせ、蓋をぐいとひきおろした。吐息して蓋が閉まるあいだに、タラントは下へとびおりた。ナイフがベルトからすりぬけ、水の中へ落ちて、たちまち見失われてしまった。落下する途中で彼はトンネルの壁にぶつかり、どすんと片足で着地した。左のわき腹に鋭い痛みが走った。
下水道のぬるぬるした壁を片手でつかんで姿勢をとりなおし、下水道の流れにひきこまれまいと股を開いて踏んばった。
壁にそって進むうちに、正しい方向へむかう枝道のトンネルが見つかった。ちょうど角を曲がったとき、トンネルのずっと背後でマンホールの蓋が開くのが見えた。探照灯が水面に光の円盤を投げかけた。むこうは彼の逃走ルートを発見したのだ。
「ススッシススッ ススッ ススッ クリッスス イッス!」キバ星語の歯擦音が、うつろなトンネルを伝って下に降りてくる。彼のあとを追って、下水道へはいってきたらしい。
急がなくてはだめだ。網はせばまってきた。しかし、たとえむこうにライトがあり、彼にはなくても、まだ逃げのびる可能性は残されている。むこうはすべて[#「すべて」に傍点]のトンネルを探さねばならないが、彼はそうしなくてすむからだ。まっすぐに一つの方向へむかって進めば、それでいいのだ。
キバ星軍の巨大な旗艦のある方向へ。
かつてのデパートだった焼けビルの裏口に近いマンホールを出ると、あとは目と鼻の距離だった。その距離を走り切って、彼は巨大な宇宙船の尾びれの蔭に身をひそめた。
舷門の斜路の下には、ひとりの衛兵が宇宙船のまばゆい外殻にもたれかかっていた。タラントはそっちへ一歩踏みだしかけてから、相手の不意をおそうのはとても無理なのに気づいた。
だが、れいのふしぎな衝動が身内にわきあがり、前日には考えもおよばなかったような方策を、彼にさずけた。熱線銃では音が大きすぎる。鎌形のナイフはなくしてしまった。長靴を頭へ投げつけるには、距離が遠すぎる。
そこで彼はすたすたと衛兵のほうへ歩きだした。当然のような顔つきで、のんびりと咳ばらいしながら近づいた。衛兵は咳ばらいを聞いて顔を上げ、歩みよってくるタラントを見てあんぐり口をあけた。タラントは手をあげてあいさつし、口笛を吹きはじめた。
衛兵はものの一秒ほどポカンとそれを見つめた。それだけで充分だった。
衛兵に警報をどなる隙を与えず、タラントはその首に手をまきつけた。足払いをかけてそのまま押し倒す。熱線銃の台尻が異星人の平べったい顔をうち砕き、道は開かれた。
タラントは背をかがめて斜路を登った。昼近い日ざしがその背中にさしこんでいた。彼は荷厄介な熱線銃を小脇にかかえこみ、その引き金に指をかけていた。
船内は冷たく、じめじめして、薄暗かった。キバは、ここよりも冷たく、じめじめして、薄暗い世界なのだ。
彼は貨物用の昇降管らしいものを見つけ、その中にはいった。吸引力は働いていない。うつろなチューブの内壁にあるボタンを押した。とたんに吸引力が作動して、彼を上のほうへと引きあげはじめた。
新しい階層が現われるたびに、彼は踵を内壁へこすりつけて上昇を鈍らし、船内にあってほしい唯一の逃走要素を血まなこで探した。
人影は見あたらない。どうやら、船の留守番は最小限に切りつめられているらしい。動ける連中は、ぜんぶ爆弾の捜索に狩り出されているのだろう。その母船の中に、爆弾がこうして歩いているわけだ。
チューブの中を上昇しながら、タラントは油汗をにじませはじめた。もしこの目論見がはずれていたら、いよいよ最後だ。そう思いかけたとき、求めるものが目にはいった。
ひとりのキバ星人が廊下を歩いてくる。貨物昇降管の中からのぞいているタラントの視野に、その姿がとびこんだ。相手は長い白衣を着ていた。そして、断言はできないにせよ、その首からぶらさがった器具は、電気聴診器に相当するものらしかった。
このキバ星人は医者だ。
タラントはチューブの外へ体を押しだし、両足をひろげてプラスチールの床にとびおりた。熱線銃は小脇にかかえ、その引き金に指をあてていた。
キバ星人の医師はびっくりして立ちどまり、どこから現われたとも知れぬこの男を見つめた。
その視線はタラントの頭から爪先までをさまよい、右腕の付け根におちついた。
タラントが近づくと、医師は用心深く後ずさった。「英語は?」と、タラントは荒っぽくたずねた。「英語がしゃべれるか?」
医師が黙って彼を見つめているだけなので、タラントは引き金にかけた指にもうすこし力をこめた――指の関節が白くなるまで。
キバ星人の医師は、こくんとうなずいた。タラントは、命令口調でつづけた。「どこかに手術室があるだろう。そこへ連れていけ、はやく!」
医師はそれでもまだ無言で彼を見つめていた。どうやら、この地球人がなにかの目的のために自分を必要としており、そして――どんな[#「どんな」に傍点]条件のもとでも――撃ったりはしないだろうことに、気がついたようだった。異星人の肥った顔にその認識を見出して、タラントはやけくそな衝動にかりたてられた。
彼は異星人を壁ぎわまで追いつめると、熱線銃の台尻を握った。そして、力まかせにそれを振った。
銃口がキバ星人の肩にぶちあたり、相手は低いうめきを上げた。タラントはつぎに相手のみぞおちをなぐった。三度目は顔を狙った。頬からこめかみまで皮膚が裂けた。
異星人は壁にもたれかかり、そのままずるずると床に崩れそうになった。タラントは相手の二重関節になった膝の真下をけとばし、もう一度立たせた。
「殺すとはいわねえよ、ドック――だが、妙な真似はするな。おれは気が立ってるんだ。さあ、おれの前を歩きな。いっしょに手術室へいくとしようぜ」
金色の肌をした異星人がつかのまにためらうのを見て、タラントはすばやく膝けりをかませた。医師はかん高く鋭い悲鳴を上げた。その声が船内に伝わるのを嫌ったタラントは、もう一度相手をけとばしてから、熱線銃を背中に突きつけた。
「いいか、よく聞けよ、だんな。おまえはおれの前を歩いて、まっすぐその手術室へ行くんだ。そこで、おれの体にちょっとした手術をさせてやる――ちょっとでも、いいか、ちょっとでも妙な真似をしやがったら、おれはその黄色の頭をふっとばすぞ。さあ行け!」
彼はキバ星人の背中を熱線銃でこづき、相手はよろよろと廊下を歩きだした。
タラントは局所麻酔もさせなかった。手術台の上に頭を起こして横たわり、兵器庫で見つけた拳銃で医師に狙いをつけていた。キバ星人はその拳銃の回転胴と、その中の小さなカプセルを見つめ、それが変換機構から生のエネルギーになってほとばしるところを想像して、電気メスを慎重に扱った。
切開がはじまると、タラントの顔には汗の粒が一面に吹きだしてきた。傷痕の肉がふたたび剥がされ、濡れて脈打つ内臓が現われたとき、彼は最初の手術を思いだした。
いまの彼は、バダー医師に爆弾を腹に埋めこまれたときの彼とは別人だった。いまの彼は、一つの道の終わりに近づき、新しい道に出発しようとしているのだ。
二十分間で手術は終わった。
タラントの想像はあたっていた。爆弾は、注意深い手術の条件下では、爆発しないようにできているのだ。シェップは、時がくれば爆弾がひとりでに爆発する、と強調した。だが、キバ星人がそれをとり除く場合の話になると、体をずたずたに切り刻まれるぞと、タラントを脅かすだけだった。たぶんそれは、タラントになにかのチャンスを残しておいてやりたいという、パークハーストの無意識的な行為だったのだろう。それとも、ただの見過ごしだったのか。いずれにしても、除去手術は完全に成功した。
医師がキバ星版の表皮再生機を傷口にあてるのを、タラントはじっと見まもった。肉が盛りあがっていくあいだに、彼は爆弾のメカニズムを調べた。体を動かせるまでに傷口が癒着したとき、彼は平静な声でいった。
「その爆弾を、おれの右腕の残りにくっつけろ」
医師は、黒い目をさらにまんまるくした。激しく目をパチパチさせる相手にむかって、タラントはいまいったことをくり返した。医師はあとずさりした。タラントの目的を見ぬいたのだ。それとも、見ぬいた気になっている[#「気になっている」に傍点]のだ。タラントにとっては、どちらでもおなじことだった。十分間もピストルでぶんなぐったが、相手はそれ以上妥協しようとしなかった。その全面破壊爆弾をタラントの右腕のつけ根へ移植することを、医師は頑として拒んだ。
すくなくとも、意志のあるかぎりは。
ぼんやりと頭の中にうかんできた思いつきが、やがて明瞭で実際的な計画に固まった。タラントはジャンパーのポケットをさぐり、ユメノコナの一包みをとりだした。それから背を屈めて、気絶寸前のキバ星人にむりやりにそれを吸わせた。一包みぜんぶ、破壊的な量を、異星人の鼻孔に吸いこませた。そのあと、彼がはじめてユメノコナを試してみたときを思いだしながら、腰をおろして待った。
洪水のように記憶がもどり、最初の無分別な吸飲で確実な中毒患者になったことを、彼は思いだした。この医師も、目がさめたら中毒患者になっているだろう。タラントのジャンパーのポケットにある新しい一包みを手に入れるためなら、どんなことでもするはずだ。
タラントの望みは一つだけだった。太陽爆弾を、彼がいつでも爆破できるように、腕の根もとへ移植することなのだ。
苦痛はなかった。タラントの腕を切り裂き、原子に変えたエネルギーは、神経の末端を麻痺させてしまったのだ。爆弾は、彼の右腕のつけ根の中に、その一端を浅くもぐらせた箱となった。それには、簡単な起爆装置がついていて、いくつかの状況のもとで爆発するようになっていた――
タラントが意識的に爆弾の制動をはずしたとき。
だれかが、彼の意志に反して爆弾をとり除こうとしたとき。
彼が死んで心臓が停止したとき。
キバ星人の医師は、りっばに仕事を果たした。そして、いまはうずくまり、麻薬の禁断症状に震えながら、かぼそい声でタラントに新しい一包みをせがんでいるところだった。
「いいとも、くれてやるぜ」タラントは、二本の指にはさんだ透明なプラスチックの包みをちらつかせた。相手には、その薬の包みといっしょに拳銃も見えているはずだった。「だが、その前におれを上へ案内して、司令官に会わせろ」
キバ星人はほとんど無意識に、地球人を艦橋へと導いた。われに返ったときには、ふたりはもうそこにおり、司令官があっけにとられて彼らを見つめ、説明を要求しているのだった。
と、医師が見まもる前で、タラントはピストルを構え、そして撃った。顔の半分がふっとび、司令官はくるっと半回転して、血しぶきが舷窓にふりかかった。死体はどすんと床に倒れ、下降チューブの縁へと転がった。タラントは医師の前に歩み出ると、眉一つ動かさずに死体を足で押しやった。死体は、ほんの一瞬、穴の中にうかんでから、井戸へ石をほうりこんだように落下していった。
あと、やるべきことは一つだけだ。
ベンノ・タラントは、いまの自分を評価してみた。彼の中にある悪――それがそこにあること、すべての表面的な厭らしさよりもずっと底深いところでじくじく化膿していることは、だれよりも彼自身が認める――は、なにひとつ変わったわけではない。それは善に変わりはしなかった。これだけの苦難を通じて、彼の考えを円満にする、といういこともなかった。それは、彼をよりたくましくしただけなのだ。悪そのものが成熟したのだ。
こそこそと物乞いし、小ずるく人の上前をはねていたあの長い年月は、彼の悪の力の少年期だった。いま、それはおとなになった。いま、彼は方向をもち、目的をもった。もはや彼は臆病者ではない。なぜなら、彼はこの世界が投げてよこしたありとあらゆる死に直面し、それにうち勝ったからだ。彼は別人になった。その人生に残された唯一の転回をなしえた人間に。
ベンノ・タラントは、医師を前に押し立てて、制御盤のほうへと歩いた。
彼はそこで立ちどまり、震えている麻薬中毒者を自分のほうに向かせた。その金色の顔、金色の傷口を眺めるうちに、彼は完全な満足感とともに、一つのことをさとった。彼を探しだし、彼の腹を裂こうとした連中を、自分がすこしも憎んでいないことをだ。ほしいものをとろうと全力をつくした彼らを、むしろ彼は尊敬している。
そう、彼らを憎んではいない。
「よう、おまえさんの名はなんというんだい?」彼は陽気にそうたずねた。
先に触毛のついた医師の手が、ぶるぶる震えながら上にさしだされ、薬の包みを求めた。タラントはその手を荒っぽく払いのけた。彼は異星人たちを憎んではいない。だが、同情する気持はない。
「名前は!」
医師の舌がもつれながら呟いた。
「ノルグヘセ」
「よし、ノルグヘセ先生よ、おまえとおれとは、これから大の親友になるんだぜ、わかるな? おまえとおれとは、これからいっしょに大仕事をやらかすんだ、そうだろう?」
身ぶるいとさむけに冒された小柄な医師の体の中に、タラントはこれから先の奴隷を見出していた。彼は異星人の肩をぼんとたたいた。
「このがらくたの中のどれが通話装置なんだ、ドック?」
異星人はそれを指さし、それから彼の命令にしたがってスイッチを入れた。それは、地上の兵士たちと〈ディールドの星〉の全域に着陸した宇宙船と、そしてこの司令船の基幹要員に、タラントの声をつなぐものだった。
彼は棒形のマイクをとりあげると、しばらくそれを見つめた。全艦隊の爆破、あるいは母星への退去命令、その他いろいろの方法を、彼は検討したことがある。だが、それは前日のことだった。きょうの彼は、新しいベンノ・タラントなのだ。
彼は鋭く手短にしゃべった。
「キバ星の友だちよ、こちらは〈ディールドの星〉の最後の人間だ。諸君の上官たちがやっと気づいたとおり、爆弾をかかえて歩いているその本人だ。
よく聞け!
おれはかかその爆弾をかかえている。だが、いまのおれはそれを思いのままにできる。おれはいつでもそいつを起爆させて、諸君を死の道連れにすることができる――たとえ宇宙空間へ逃げだしてもだ。この爆弾には、それだけのすごい威力がある。もし疑うなら、旗艦のノルグヘセ先生と話をさせてやってもいい。おれのいったことを、ちゃんと裏書きしてくれるはずだ。
しかし、なにも怖がることはない。なぜなら、おれは諸君にすばらしい話をもちかけるつもりだからだ。それは、母星のために征服の任務にかり出されたキバ星人の軍人としては、とても手にはいらないような、すばらしいチャンスだ。どうだ、自分の権利で征服者になるつもりはないか? おれは諸君にそのチャンスを与えてやる。母星へ英雄として帰るんじゃなく、金と世界をわがものにした戦士として、好きなところへ行けるチャンスをだ。
この艦隊をだれが指揮しようと、諸君になんの関係がある? 諸君が宇宙を征服できるなら、そんなことはどっちだっていいはずだ!」
相手がこの考え方に同意することを確信しながら、彼は間をおいた。相手は同意せざるをえないのだ。惑星への忠誠には限度がある。彼のやりよう一つで、母星への帰還を夢見るこの兵士たちを、史上最大の征服軍に仕立てなおせるはずだ。
「おれたちの第一目標は……」もはや逃れるすべのない運命を自分が切り開きつつあるのを知って、彼はしばらく間をおいてからつづけた。「……地球だ!」
彼はマイクを医師に渡し、いまいったことの確認を求めるように、ひとつこづいた。しばらく耳をすまし、彼の求めたとおりのことを、医師の歯擦音の多い英語がしゃべっているのをたしかめた。
それから、彼は舷窓に近づき、外をのぞいた。エックスヴィルの市街と、そのむこうの小麦畑、そしてさらにその彼方の沼地と山々にも、ふたたびたそがれが下りようとしていた。
いまの彼は、もうだれを憎んでもいなかった。彼はそんな感情を超えていた。彼はベンノ・タラントだった。
舷窓に背を向けた彼は、これから彼の運命を形造ることになる、宇宙船の中を見まわした。もう彼は〈ディールドの星〉からも、麻薬からも解放されたのだ。いまの彼には、どちらも必要がない。いまの彼は、自分自身の神なのだった。
[#地から2字上げ]ニューヨーク 一九五七年
[#改丁]
聞いていますか? [#地付き]浅倉久志訳
Are You Listening?
[#改ページ]
この話をどんなふうに始めたものかと、わたしはいろいろ迷いました。最初はこんな出だしにするつもりでした――
「わたしが存在を失いはじめたのは、ある火曜日の朝です」
しかし、よく考えてみると、
「これはわたしの身に起った怪談です」のほうが、いいんじゃないかという気がしてきました。
しかし、よくよく考えてみると(いや、とにかく考える時間だけはいやほどあるんです)、二つともかなりメロドラマがかった感じがします。やっぱり、最初からわたしの話を真剣にというか、信用して聞いてもらうためには、その事件の始まりからいままでのことをありのままに話すしかなさそうです。その上で一つお願いをして、そう、あとはあなたの意志にまかせることにしましょう。
聞いていますか?
たぶん、すべての始まりはわたしの遺伝子です。でなければ、染色体。どんな気まぐれな組合せで、こんなキャスパー・ミルクトースト[#以下の括弧内割注](T・H・ウエブスターのマンガの主人公。非常に内気で臆病なタイプ)そっくりの男が出来あがったにしろ――とにかくそのせいなのはまちがいありません。いまから一年前、三月のある火曜日の朝に目がさめたとき、わたしはそれまでの何百日かの朝となんの違いも感じませんでした。四十七歳。そろそろ髪の毛が薄くなりぎみ。目はいいほう――本を読むときにメガネを掛けるだけです。家内のアルマとは別々の部屋に寝て、長い股引をはいています――カゼをひきやすいたちなので。
わたしに関することで、なにか平凡でないことがあるとしたら、それはウインソーキという名前だけでしょう
アルバート・ウインソーキ。
あの歌、ご存じですね? 「ウインソーキがんばれよ。がんばりゃ勝てるぞウインソーキ……」小さい頃、わたしはよくその歌でからかわれたものですが、おとなしいものだから怒りもしませんでした。その歌を嫌うどころか、自分のための歌みたいな気がしてきましてね。無意識に口笛を吹いていてふっと気がつくと、たいていその曲になっているんです。
まあ、それはとにかく――
その朝、目をさましたわたしは急いで着かえにかかりました。寒くて、とてもシャワーは浴びれないので、顔と手をちょいと濡らしただけで服を着たんです。階段を降りていく途中で、家内の飼っているペルシャ猫のザスーが、わたしの股のあいだをくぐっていきました。ザスーはわりに愛想のいい猫で、近ごろはだんだんわたしを甘く見るようにはなってきたけれど、知らん顔をするようなことはまずありません。だが、その朝ときたら、ひょいとすれちがっただけで、ゴロともニャアともいわないんです。まあ、いつにないことですが、といってびっくりするほどのことでもありません。しかし、来たるべきものの前兆ではあったのです。
居間にはいると、この二十七年アルマがずっとそうしてきたとおりに、ソファーの肱掛の上に朝刊が置いてあります。歩きながらそれをとって、食堂にはいりました。
テーブルにはもうオレンジ・ジュースが出ており、台所のほうからアルマの声がきこえる。いつもの独り言です。どうも家内のこの癖だけはいただけません。心底は気だてのいい、かわいい女ですが、機嫌がわるいと独り言をいうんです。といっても、罰あたりな言葉とかそんなんじゃないんですが、聞こえるか聞こえないかぐらいの声でブツブツやられると、ひどく気になります。家内もわたしがそれを気にしているのは知っているはずです。いや、それとも知らないかな。アルマにしてみれば、わたしのような男でもある程度の好き嫌いを持っているってことに、たぶん気がついていないんでしょう。
とにかく、家内はいつまでたっても台所でブツブツ言ってるので、わたしは声をかけるだけにしました。「降りてきたからね、アルマ。お早よう」そして新聞とジュースにとりかかりました。
新聞は例によって例のごとき記事ばかり。オレンジ・ジュースも、オレンジ・ジュース以外の味がするわけがありません。しかし、いくらたっても、アルマの独り言はやまないんです。それどころか、だんだん声が大きくなり、いらいらと不機嫌になってくる。「あの人[#「あの人」に傍点]ったら、いったいどこ[#「どこ」に傍点]へ行ったのかしら? あたしが朝の支度を嫌いなのを知ってて[#「知ってて」に傍点]、こうなんだから! ごらん……玉子が固くなっちゃったわ。ほんとうにもうなにをしてるのかしら?」
「アルマ、たのむから[#「たのむから」に傍点]やめてくれ。わたしはここにいるじゃないか。降りてきたのがわからないのか?」なんべんどなってみても、独り言はやみません。
そのうちに、家内はわたしの横をどんどん通りすぎて、居間のほうへ行ったあげく、階段の下から――きっと手すりに片手を掛けて、片足を一段目にのっけているのでしょう――だれもいない二階へどなるんです。「アルバートったら! 降りてきてちょうだい! どうしたのよ? また腎臓のかげんでもわるいの? そっちへ行きましょうか?」
いくらなんでも、こりゃひどすぎる。わたしはナプキンを置いて、椅子から立ちあがりました。それからアルマのところへいって、うしろからできるだけ穏やかに話しかけました。
「アルマ。いったいどうしたというんだね? わたしはここにいるんだよ」
反応なしです。
家内はしばらくわめきつづけてから、どたどたと二階へ上がっていきました。わたしは階段にへたへたとすわりこみました。てっきりアルマの気がふれたか、それとも耳がツンボになったか、どうかしたにちがいないと思ったからです。二十七年の幸せな結婚生活のすえに、家内はたいへんな病気にとりつかれたらしい。
どうしていいか、わかりません。途方にくれてしまいました。へヤショー先生に診てもらうのが、いちばんいいかもしれない。そう思って、わたしは電話のダイヤルを回しました。呼出しのブザーの三回目に、先方が出ました。「もしもし?」
いつ、どんな時間でも、へヤショー先生を呼ぶときは、腫れ物にさわるように気をつかいます――噛みつきそうな声を出されるからです――しかし、きょうの先生の寝ぼけ声にはそれ以上にひやひやさせられました。
「こんな時間に起こしてすみません、先生」わたしはあわてて言いました。「アルバート・ウイソソーキですが」先生はきこえないのか、「もしもし? もしもし?」
わたしはくりかえしました。「もしもし、先生ですね? こちらはアル――」
「もしもし、どなた? もしもし?」
これはどういうことだろう? きっと接続がわるいんだ。そう思って、わたしはできるだけ大声を出しました。「先生、わたしは――」
「なんだ! バカにしおって!」先方はそうどなると、ガチャンと電話を切りました。
受話器を握ったまま、わたしは棒立ちでした。きっと、バカみたいにポカンと口をあけていたはずです。きょうは、みんながツンボになってしまったんだろうか? もう一度ダイヤルを回そうとしたとき、アルマが大声で独り言をいいながら、二階から降りてきました。
「まったく、どこへ行っちゃったのかしら? 朝も食べずに出ていくなんて、ちょっと変だし。まあいいじゃない、きょうの仕事がそれだけ助かるってもんだわ」
そして、まっすぐわたしの背中まで見通す[#「見通す」に傍点]ようにして、そばすれすれに通りすぎ、台所へ行ってしまいました。わたしは受話器をがちゃんと置いて、家内のあとを追いかけました。いくらなんでも、これはひどい! ここ二、三年、アルマは前ほどわたしの世話を焼かなくなり、ときにはわたしを無視することもあります。話しかけても返事しないこともあるし、さわっても反応を見せないときもあります。だんだん、そういうことが多くなってはきているが、それにしてもこれはあんまりだ!
わたしは台所へ行って、家内の背中に近づきました。しかし、むこうはふりかえりもせず、スチール・ウールでフライパンの玉子のかすをかきとっている。わたしは家内の名を呼びました。それでもふりむきません。鼻歌をやめさえもしません。
わたしはその手からフライパンをもぎとって、思いきりストーブの上に叩きつけてやりました(わたしにしては珍しく荒っぽいやりくちですが、なにしろ、ことがことなので)。しかし、アルマはその音にびくともしませんでした。冷蔵庫のほうへ行って角氷のトレイをとりだすんです。そして、冷蔵庫の霜取りをはじめるんです。
最後の藁がぼっきり折れた感じでした。わたしはフライパンを床へ投げ捨て、台所から出ていきました。悪態をつきたいほど、頭にきていました。いったい、こりゃなんのまねだ。いいとも、わたしの朝食を作りたくないなら、作るな。こっちは、また一つふえた小さな無関心をがまんするだけのことだ。わかったよ。だったらアルマ、おまえもはっきりそう言えばいいじゃないか。このくだらない芝居はあんまりだぞ!
わたしは帽子をかむり、コートを着て、家を出ました――思いきり乱暴に玄関のドアを閉めて。
懐中時計を見ると、いつも乗るバスの時間をとっくに過ぎています。わたしはタクシーに乗ろうと腹をきめました。それでなくても乏しい小遣いにこの余分な負担は痛い。しかし、ほかに方法はありません。わたしはバス停の先まで出て、ちょうどやってきたタクシーを呼びとめようとしました。が、素通りもいいところです。スピードをゆるめようともせずに、行ってしまいました。空車なのは確かです。なのに、どうして運転手は止めなかったんだろう? 車庫へ帰る時間でもきていたんだろうか? いったんはそう思ったわたしも、それから連続八台びゅんびゅん素通りされてみると、さすがにどうも変だぞと思いはじめました。
しかし、いったいなにが変なのか、そこまではわかドりません。ちょうどそこへバスがやってくるのが見えたものだから、タクシーをあきらめてそれに乗ることにしました。バス停には、おかしな形の帽子をかむったタイトスカートの若い娘が待っていたので、ばつの悪さをまぎらそうと、こう言いました。「どうも近ごろのタクシーの運ちゃんの気が知れませんな。なにを考えているんですかね?」彼女は知らん顔でした。つまり、この女たらしというようにツンとそっぽを向くのでもなく、ちらと目をくれて返事しないのでもない。つまり、わたしがいるのに気がつかないようすなんです。
それ以上のことを考えるまもなく、バスが止まり、娘は先に乗りこみました。わたしがステップに足をかけて、上へのぼろうとしかけたとき、運転手がプシュッとドアを閉めたので、コートの裾をはさまれてしまいました。
「おい、はさんだぞ!」とどなりましたが、むこうは知らん顔です。それだけじゃない、さっきの娘が腰を振りふり座席のほうへ歩いていくのをバックミラーで眺めながら、口笛を吹いたりしているんです。バスの中は混んでいたし、おとなげないまねもしたくなかったので、手をのばして運転手のズボンをひっぱってみました。それでもむこうは気がつかない。
ことの真相がわかりかけてきたのは、そのときです。
わたしはドアにはさまれたコートの裾をひきました。あんまり腹が立ったので、運転手に料金を請求させてやろうと思いました。いつ、むこうが、「もしもし、あんた、料金をはらってください」と言うかと期待しながら、奥へはいりました。もしそう言ったら、「料金は払うが、きみのことも会社に報告するぞ!」とやりかえしてやるつもりだったんです。
しかし、そのささやかな満足も手にはいらなかった。相手はこっちをふりむきもせずに、運転をつづけたからです。もし、むこうがなめた口をきいたとしても、これほど腹は立たなかったでしょう。くそ、どうなってけつかるんだ? 失礼、しかし、ほんとうにそう思いました。汚ない言葉づかいですみませんが、とにかく事件をありのままにお話ししているんです。
聞いていますか?
降りるときには、チロル帽をかむった卒中の気のありそうな男と、何人かの女子高校生のあいだへ割りこみ、こっちの存在を認めさせようと必死になって、肱でこづいたり押しのけたりしましたが、だれも気にもしません。いま考えると恥ずかしくてしようがないのですが、わたしは女子高校生のひとりの、アー、おしりを、ポンと、その、叩いてみたりまでしました。しかし、相手は、なんとかという男の子がイカシてるとか、そんなことをワイワイしゃべりつづけています。
こんなしゃくにさわることが、世の中にあるでしょうか。
勤め先のビルの昇降係は、エレベーターの中で居眠りしていました。といっても、眠りこけているわけじゃない。このウルフガング(ドイツ人でもないくせにそういう名前でしてね。頭にくるじゃありませんか?)は、いつも寝ぼけた顔つきなんです。わたしは彼をこづいたり、そばでどたどた足を踏み鳴らしたり、最後の手段に耳をひっぱったりしてみました。しかし、むこうは小さな折りたたみ椅子に腰かけたまま、壁にもたれて眠っている。とうとう業を煮やして、わたしは彼をロビーのタイルの上へ足でけとばし、自分でエレべーターを動かしにかかりました。ここまできては、いくらわたしでも、自分が――どういう病気のせいか知らないが――文字どおりの透明人間になったことは気がつきます。しかし、いくら姿は見えないにしても、わたしに背中をどやされたり、タイルの上へけとばされたり、エレベーターを盗まれたりしたら、相手も気がつきそうなものだ。ところが、そうじゃないんです。
こうなると、わたしもすっかり頭がおかしくなってしまって――ふしぎなことに、恐怖はすこしも感じませんでしたが――自分に備わったこの無限の能力を考えて、半ば戦闘的で、半ばいたずらっぽい気分が湧いてきました。映画スターと巨万の富の空想が、目の前を踊りまわります。
だが、その夢の消えるのも早かった。
だって、そうじゃありませんか。だれかとそれをわかちあえなければ、女も金もなんになるでしょう。女も抱けないのか。というわけで、史上最大の銀行強盗になってやろうという計画もしぼみ、わたしはこの苦境から脱出――脱出というのが正しい言葉なら――するのを諦めました。
二十六階でエレベーターを降り、オフィスのドアまで歩いていく。ドアの文字は、この二十七年間見慣れたとおりです。
[#ここから3字下げ]
レイムズ・アンド・クロース
ダイヤモンド鑑定
宝石専門家
[#ここで字下げ終わり]
ドアを押しあけたわたしは、一瞬どきんとしました。ひょっとしたら、いままでのことは手のこんだ冗談だったんだろうか。なぜなら、フリッツ・クロース――赤ら顔の大男で唇のすみに小さなホクロのあるクロース――が、わたしをどなりつけたからです。
「ウインソーキ! このまぬけめ! いったい何度いわせるんだ。袋へ石をもどしたときは、ちゃんと口ひもをひっぱっておけと言ったろう――十万ドルもの石を床にばらまいて掃除婦にくれてやる気か。ウインソーキ! この大たわけ!」
だが、よく見ると、彼はわたしをどなりつけているんじゃない。ただどなっているだけでした。べつに驚くことでもありません。クロースもジョージ・レイムズも、ほんとうにわたしと話したことなんてない……どなるなんてこともめったにない。ふたりとも、わたしが自分の仕事をコツコツ実直に――しかも二十七年間も――やってきたことを知っていて、それを当然だと思いこんでいるんです。どなるのは、単なるオフィスの習慣にすぎない。
クロースはだれかをどなりつけたかったんでしょう。彼がどなりつけているのは空気であって、わたしではありません。だいいち、どうやってわたしをどなりつけられるでしょう? そこにいもしないのに。
彼はとうとう膝をついて、自分が床の上にこぼした小さなダイヤの原石を拾い集めにかかりました。拾いおわると、チョッキがよごれるのもかまわず床に腹這いになって、わたしの仕事台の下をのぞきこみました。
得心がいったのか、彼は立ちあがって服の嬢をはらい……そして、さっさとむこうへ行ってしまいました。彼にとっては、わたしがいてもいなくてもおなじことらしい。それとも、彼の世界にはわたしなんぞのはいる余地はないのだろうか? それは謎でしたが、まあどちらでもいい……どのみち、わたしはそこにいないのです。その世界から消えた男なんです。
わたしはきびすを返して、廊下をあともどりました。
エレべーターはもういない。
ロビーへ降りるまでには、いやほど待たされました。
ボタンを押しても、とまってくれる箱はない。
おなじ階のだれかが、下りのエレべーターを使うまで、待たなくてはならないのです。
事のほんとうの恐ろしさがわかったのは、このときでした。
なんというふしぎ……
わたしはこれまで地味な一生を送ってきた。地味な結婚をし、地味に暮らしてきた。そして、せめて死ぬときぐらいは派手に、という楽しみも持てずに終わってしまった。それさえも奪われてしまった。わたしはローソクの炎のように、音もなく消えてしまったのです。どうして、なぜ、いつ――そんなことはどうでもいい。これだけは自分のものだ、税金のように避けられないものだと思っていた、ただ一つの音、それさえもわたしは奪われた。わたしは影だ……現実の世界にいる亡霊だ。それまで、自分のなかに貯えられているとも知らなかった不平不満が、生まれてはじめて、どっとこみ上げてきました。わたしはショックと恐怖のどん底にいた。だが、泣かなかった。いや、泣くに泣けなかったんです。
わたしは見も知らない男をなぐった。思いきりなぐった。エレベーターの中で。顔の真中へ一発ぶちかましてやりました。相手の鼻がゆがむのがわかり、血が顔の上にどすぐろく流れ、指の関節に痛みが走りました。もう一度なぐるこぶしが血の中をぬるっとすべりました。わたしはアルバート・ウインソーキだ。やつらはわたしの死までとりあげた。このわたしをいままで以上に物静かにさせるために。わたしはだれにも迷惑をかけたことのない、おとなしい人間だった。そして、とうとうだれかがわたしのことを悲しみ、わたしをひとりの人間として認め、考えてくれるときがきたとき……わたしはそれさえも奪われたんだ!
もう一度なぐると、その男の鼻がぐしゃっとつぶれました。
それでも、相手は気がつかない。
血まみれでエレベーターを出ていきながら眉ひとつしかめない。そのあとでわたしは泣きました。
長い時間泣きました。エレベーターは、わたしを乗せたままで上り下りしましたが、だれにもわたしの泣き声は聞こえないようです。
それからわたしは街へ出て、暗くなるまで外を歩きまわりました。
二週間が短い人もいます。もし、あなたが恋におちていれば。もし、あなたが金持で、冒険を求めているなら。もし、なんの苦労もなく、楽しいことばかりならば。もし、あなたが健康で、すばらしい生き生きした世界があなたを招いていれば。それなら、二週間は短い。
二週間。
それからの二週間は、わたしの一生でいちばん長い二週間でした。というのも、それが地獄だったからです。孤独。群集の中の、完全な、気の狂うほどの孤独。ネオンの街でわたしは通りの真中に立ち、ぞろぞろと歩いている人波にむかってわめきました。もうすこしで車にひかれそうにもなりました。
二週間の放浪。眠りたいときに――公園のベンチや、ウォルドルフ・アストリアの新婚特別室や、自分のうちのベッドで――眠り、そして食べたいときに――食べたいものを――食べる。それは正確には盗みともいえない。もし食べなければ、わたしは餓死したでしょうから。しかし、すべてはむなしかった。わたしは何度か家に帰りました。だがアルマはわたしがいなくても、けっこうよろしくやっているようなんです。そう、よろしく[#「よろしく」に傍点]やっているんです。アルマがそんなことのできる女だとは、思ってもみませんでした。とくに、ここ二、三年、ぶくぶく肉がつきはじめてからは……だが、げんに、ちゃんと相手がいる。
ジョージ・レイムズ。わたしの上役です。いや、ちがう……もと上役です。
というわけで、わたしは家にも妻にも未練がなくなってしまいました。
アルマには家があり、ザスーがいる。おまけにジョージ・レイムズまでいるらしい。
あのでぶ女め!
二週間の終わり、わたしは廃人でした。ひげは伸びほうだいだし、着たきり雀。しかし、そんなことをだれが気にするだろう? だれにわたしの姿が見える?……かりに見えたところで、だれがそれを気にする?
最初の頃の戦闘的な気分は、あらゆる人間に対するもっと具体的な敵愾心にかわってきました。わたしにそういう衝動の起きたときにそこへ居合わせたのが災難で、なにも知らない通行人がポカリとやられる。わたしは女をけとばし、子供の頬っぺたをはりとばしました……相手が泣こうとわめこうと知ったことか。やつらの苦しみなど、わたしの苦しみに比べたら問題じゃない――だいいち、相手はだれも泣いたりしていない。すべては、わたしが心で想像しているだけのことです。だれかひとりでもいい、悲鳴か泣き声をあげてくれたら、とわたしはどんなに思ったことでしょうか。そんな苦しみでも見せてくれれば、わたしが彼らの世界にいる、すくなくともわたしが存在しているという、証明になるのですから。
しかし、そんな声は上がらない。
二週間? 地獄です! 失楽園です!
ザスーがわたしを無視した日から二週間とすこしが経って、わたしは中央公園わきのサソ・モリッツ・ホテルのロビーを塒にすることにきめました。通りすがりに失敬してきただれかの帽子を顔にのせて、そこのソファーに寝ころんでいるとき、あの強烈な動物的衝動がまたもやこみあげてきました。ソファーから両足をおろし、帽子をあみだになおす。タバコ売場のカウンターに、トレンチ・コートを着た男がもたれて、新聞を読みながら含み笑いをしています。キザな野郎め、とわたしは思いました。いったい、やつ[#「やつ」に傍点]はなにを笑ってやがるんだ?
すごく腹が立って、わたしは立ちあがるなりとびかかっていきました。そばまで近づいたとき、むこうはひょいと身をかわした。こっちは、相手がもちろん新聞を読みつづけるものと思って、なぐりかかったんです。彼の動きは、すっかりわたしの不意をつきました。わたしはタバコのケースにどすんと衝突し、みぞおちを打って息がつまりました。
「いけませんな、きみ」トレンチ・コートの男は、細長い指をわたしの目の前でふりかざして、訓戒をたれました。「そういうことは、マナーにはずれるよ。きみの姿が見えない相手を、いきなりなぐるというのは」
彼はわたしの襟がみとズボンのしりをつかんで、ロビーのむこうへほうりだしました。わたしはエハガキの回転式陳列棚に顔をたたかれ、うつぶせに床へ倒れる。そのまま、よく磨かれた床の上を滑走して、回転ドアでやっと止まりました。
しかし、痛みも感じなかった。床の上で上体を起こすと、まじまじと相手を見つめたものです。むこうは両手を腰にあてて、ゲラゲラ笑っている。こっちはポカンと口をあけたまま、声も出ません。
「あごがはずれたのかね、きみ?」彼がからかいます。
わたしはあっけにとられて、口をパクパク動かすだけです。
「あ、あんたは、おれが見える[#「見える」に傍点]のか!」わたしは喜びの声をあげました。「見えるんだね!」
彼はわびしげに小さく鼻を鳴らし、そっぽを向きました。
「もちろん見えるさ」そのまま行きかけようとしましたが、ひょいと足をとめると、肩ごしに、「わたしがあの連中[#「あの連中」に傍点]のひとりだとでも思ったのかね、ええ?」そう言いながら、ロビーの中をせわしく動きまわっている人びとのほうへ、親指を曲げてみせました。
そのときまで、わたしはそんなことを考えもしていなかったんです。こんな境遇は、自分ひとりだけだと思いこんでいたんです。
だが、ここにもうひとり、わたしの同類がいる!
彼がほかの連中に見えないわたしを見ることができて、しかも彼らの世界に住んでいるという可能性は、ぜんぜん頭にうかびもしなかった。彼がわたしをロビーのはしまで投げとばした瞬間から、彼がわたしとおなじ境遇なのは明らかでした。だが、この男はそのことをもっと気楽に受けとめているらしい。まるで、そのすべてが愉快なパーティーかなにかで、自分がそのホストをつとめてでもいるように。
男はむこうへ歩き出しました。
彼がエレベーターのボタンを押すのを見たわたしは、なんのためにそんなことをするのだろうといぶかしみながら、のろのろと立ちあがりました。もしエレベーターが手動で動いているなら、彼のために止まってくれはしない。それは経験からわかっています。
「あの、ちょっと! ちょっと待ってくれ……」
エレベーターは止まりました。運転しているのは、よれよれのズボンをはいた老人です。
「六階にいたんでさ、ミスター・ジム。呼び出しが聞こえたんで、さっそく降りてきましたぜ」
老人は、ジムという名前らしいトレンチ・コートの男に、笑いかけました。ジムは老人の肩を軽くたたいて、「ありがとう、デニー。わたしの部屋まで上がりたいんだがね」
わたしがふたりを追いかけようとすると、ジムはデニーをつつき、さも不快そうな表情をうかべて、わたしのにうへあごをしゃくってみせました。「行こう、デニー」
エレベーターのドアが閉まりかける。わたしは走りました。
「おい、待ってくれ! わたしはウインソーキというんだ。アルバート・ウインソーキ。ほら、歌にあるだろう、ウイン――」
ドアは鼻先すれすれで閉まりました。
こっちは必死です。わたしの姿が見えるたったひとりの男が(いや、ふたりの男だ、と心の中で訂正しました)どこかへ行ってしまう……これを逃がしたら、もう二度と見つからないかもしれない。
そればかりに夢中で、彼らを追跡するいちばん簡単な方法を、もうすこしで見逃すところでした。やっと気がついて上に目をやり、表示計の針がどんどん回って、十階でおちつくのを見届けました。それから、わたしを見ることのできない連中の乗ったエレべーターが降りてくるのを待って、その昇降係をほうりだし……そして自分で上へと運転しました。
十階の廊下を一回りするあいだに、部屋はつきとめることができました。あの男が老人に話しかけている声が、ドアのむこうから洩れてくるのです。
「あれは新入りだよ、デニー。がさつな男だ。不愉快きわまる下等人種だよ」
そして、デニーの返事。「ねえ、ミスター・ジム。あんたの話を聞いているだけで、あたしはうれしくてしようがねえんでさ、教育のある人の言葉づかいはちがうね。あんたに会うまで、あたしはすごく淋しかったんですぜ、知ってますかい?」
「ああ、知ってるとも、デニー」それは、わたしがそれまでに聞いたなによりも、恩着せがましい口調でした。
相手がドアを開けるはずのないことはわかっているので、わたしはその階の受持ちのメードを探しにいきました。メードはエプロンの中に各部屋の鍵を入れていて、わたしがそのキー・リングを抜きとっても、全然気がつきません。さっきの部屋へとってかえそうとして、わたしはふと思いなおしました。
しばらく考えたすえ、エレベーターのところへ駆けもどる。下の階へ降り、伝票の支払で現金がしまいこまれる帳場の中へ、カウンターをよじのぼってはいりました。お目当てのものは、小引出しの中に見つかりました。それをコートのポケットに押しこみ、もう一度十階へ上がる。
ドアの前でわたしはためらいました。そう、まだふたりの話し声がしています。スケルトン・キイを使って、錠をあけました。
ドアを押しあけたわたしを見て、ジムと呼ばれた男はべッドからはね起き、こっちをにらみつけました。「なにしにきた? 出ていけ。出ていかんとつまみだすぞ!」
こっちへつかつかと寄ってくる。
わたしは小引出しから手に入れてきたものをポケットからとりだし、彼につきつけました。
「まあ、おちつけ、ミスター・ジム。そうすりゃ、面倒が起こらずにすむ」
彼はひどく芝居がかった仕草で両手を上にあげ、それから膝の内側がベッドの縁にくっつくまで後ずさりすると、ペたんと腰をおろしました。
「もう手をおろしていい。へたな西部劇そっくりだぜ」わたしがいうと、彼の両手はきまりわるそうに下へさがりました。
デニーがわたしを見て、「こいつ、なにをしようってんです、ミスター・ジム?」
「さあてね、デニー。わたしにもわからん」ジムは考えながらゆっくりと言いました。その目は、わたしの構えた銃身の短いリボルヴァーに注がれています。おびえた目つきです。
わたしは自分が震えているのに気づきました。しっかりと拳銃を構えているつもりなのに、つむじ風の中にでもいるように、手の中でぐらぐら揺れる。「おい、おれは神経がピリピリしているからな」半分は、まだ彼が気づいていなかったらそれを知らせるために、半分は、自分がこの場の主人公だという自信を持っために、わたしはそう言いました。「これ以上怒らせるんじゃないぞ」
彼は両手を行儀よく膝にのせて、身動きもしません。
「これで二週間、おれは気ちがいになりそうだった。家内にはおれが見えないし、声もきこえず、さわることもできない。道を歩いているほかの連中もだ。この二週間、ずっとそうだった。まるで死んだみたいな気持だった――そして、きょう、あんたらふたりが見つかった。おれの同類はあんたらだけだ。だから、これがどういうことだか教えてくれ。いったい、なにがおれに起こったんだ?」
デニーは、ミスター・ジムとわたしを見くらべました。
「ねえ、ミスター・ジム。こいつはキじるしですかい? あたしが一発くらわせてやりましょうか、ミスター・ジム?」
この老人に、そんなことができるわけはない。ジムもさすがにそれは見てとったようです。
「よせ、デニー。そこにじっと坐っていろ。この男は情報をほしがっているんだよ。話してやったほうがよさそうだ」彼はわたしに向きなおりました。顔がまるでスポンジのようにふにゃふにやに見えました。
「わたしの名はトムスン。あー、きみの名はなんといったっけね?」
「まだ言ってないよ。ウインソーキだ。アルバート・ウインソーキ。ほら、歌にある」
「ああ、なるほど。では、ミスター・ウインソーキ」すくなくとも情報に関してはわたしよりうわてだとわかって、彼のおちつきと、せせら笑うような態度が、またもどってきました。「きみの最近の不可視性の理由だがね――実のところ、きみは非実体的じゃないんだよ。その拳銃で射たれたらわたしは死ぬだろう……トラックにひかれても、やはりわたしたちは死ぬだろう。この現象は非常に複雑だ。きみに科学的な説明をすることはできそうもないし、そんなものが存在するかどうかも疑わしい。どう言えばいいかな……」
彼は膝を組み、わたしは拳銃を構えなおしました。「ミスター・ウインソーキ、この世界には、われわれみんなをおたがいのカーボン・コピーにしようとする、見えない力が働いているんだよ。われわれをおたがいどうしの鋳型にはめようとする力がね。たとえば、きみは道を歩いていても、だれの顔も見てはいない。ほんとうにはだ。きみは映画館の中で顔のない存在として坐ったり、わびしい居間でテレビを見ながら姿を隠していたりする。きみが請求書やタクシーの料金を払ったり、人びとと話したりするときも、むこうは自分たちのやっている仕事を見ているだけで、きみを見てはいない。
人によっては、これがもっと極端になる。長いあいだ、だれにも目立たないような生活――いうならば壁の花だね――を送っていて、そこへ、われわれを一つの鋳型にはめようとする力がうまく働くと、その人間はすうっとまわりの人びとの目から消えてしまうのさ。わかるかね?」
わたしはまじまじと彼を見つめました。
彼のいうことは、もちろんよくわかります。われわれが自分らのために作り上げた、この巨大な世界の中で、そのことに気づかない人間がいるでしょうか? そうだったのか。わたしはみんなとおなじ鋳型にされたが、ただ、あまりにも消極的な性格だったので、ほかのみんなにとっては、いないとおなじことになってしまったのだ。カメラのフィルターをたとえにとりましょうか。レンズに赤いフィルターをつければ、赤い色をしたすべてのものは、そこにあってもないのとおなじことになってしまう。わたしの場合もおなじです。人びとの中にあるカメラが、わたしへのフィルターをかけてしまったんです。そして、ミスター・ジムにも、デニーにも、それから……。
「ほかにも、われわれの仲間はいるのか?」
ミスター・ジムは両手を広げました。「もちろんいる。何十人もいるよ、ウインソーキ。いまにそれが何百人、何千人とふえてくるだろう。いまのような世の中の傾向――スーパーでの買物や、ドライブ・インでの食事、それにテレビのサブリミナル広告……あんな傾向がつづけば、遠からず仲間はどんどんふえてくるだろうな。
しかし、このわたしは別だ」
わたしは彼を見つめ、それからデニーを見やりました。デニーはポカンとした顔つきです。そこで、わたしはもう一度トムスンに向きなおってたずねました。「そりゃどういう意味だ?」
「ミスター・ウインソーキ」彼は根気のよい、だが、えらぶった口調で説明しました。「わたしは大学教授だった。といっても、それほどパッとした存在じゃないがね。学生たちには、むしろ退屈な教師だったろう。しかし、これでも専門についてはくわしい。フェニキア美術だよ。ところが、学生は教室に出入りするだけで、ほんとうにわたしを見ちゃいないんだな。教授会にもわたしを譴責する理由はなにもない。といったことがつづくうちに、わたしはだんだん影が薄くなっていった。そして、ある日、きみとおなじように、完全に消えてしまったのさ。おそらくきみはいまでもそうしてるんだと思うが、わたしもあっちこっちを放浪したよ。だが、まもなく、これがどんなにすてきな生活であるかに気づいた。責任もない。税金もない。生存競争もない。気のむくままに暮らし、好きなものが手にはいる。おまけにデニーもいる――彼はだれにも関心をはらってもらえない雑役夫だった――いまの彼は、わたしの友人兼下男だ。わたしはこの生活が気にいってるんだよ。ミスター・ウインソーキ。だから、あまりきみとは知りあいになりたくなかった。この現状《ステイタス・クオ》を覆えされたくないんでね」
わたしは、気ちがいの話に耳をかしていることに気がつきました。
ミスター・ジム・トムスンは無能な教師で、わたしとおなじ運命をたどった。しかし――いま気づいたのですが――わたしが臆病なミルクトースト・タイプから、拳銃を手に入れる才覚とそれを使うだけの冒険心を持った人間に生まれかわったのに、彼のほうは偏執狂になってしまった。
これが彼の王国なのです。しかし、ほかにもわたしの仲間はいる。
もうこの男と話してもむだだと、わたしはさとりました。あの力、わたしたちをさらいとって、ほかの世界から見えないように粉ごなに挽きつぶしたあの力は、彼に対して完全すぎるほどの仕事をやってのけたのです、彼はなくなってしまった。そして、だれにも見えず、きこえず、知られない存在になることに満足してしまった。
デニーもそうです。ふたりは満足しています。いや、それ以上だ……有頂天になっているんです。そして、それから一年のあいだに、わたしはこのふたりのような連中をたくさん見つけました。みんなおなじでした。しかし、わたしはちがう。わたしはここから抜け出したい。あなたがたに、もう一度わたしを見てもらいたい。
だから、自分の知っているたった一つの方法を、必死でやってみているんです。
こういうと、なにをばかげたことを、と思われるかもしれませんが、あなたがたが白昼夢にふけったり、それともなんていうか、生活のピントがぼけたような気持でいるとき、ふっと視野のすみにわたしが見えることがないとはいえない。わたしはそれに賭けているんです。だから、いつも口笛を吹いたり、ハミングをしているんです。それを聞いたおぼえはありませんか? ほら、「ウインソーキがんばれよ」という、あの曲ですよ。
目のすみにちらっとわたしの姿を見かけて、気のせいかな、と思ったことはありませんか? そばにラジオもテレビもないのに、どこかであの曲をやっているのを聞いたおぼえはありませんか?
おねがいです! このとおりです! わたしの声に耳をすましてください。ここですよ、あなたの耳もとでハミングしているんです。あなたがそれを聞きつけて、わたしを救い出してくれるのをあてにしながら。
「ウインソーキがんばれよ」あの曲です。聞こえますか?
聞いていますか?
[#地から2字上げ]ニューヨーク 一九五八年
[#改丁]
満員御礼 [#地付き]浅倉久志訳
S.R.O.
[#改ページ]
それ[#「それ」に傍点]が黒い虚無の中から出現したのは、バート・チェスターがブロードウェイを歩いているときだった。
バートはさっきから、おきまりの口説をイロイーズにこころみていた。「いや、ほんとだよ、イロイーズ。神に誓ったっていい。つまりだな。うちへ寄ってくれたらちょこっと一杯――嘘いつわりなし、ほんの一杯だけやって、それからショウ見物にいこうじゃないか」
今夜のショウ見物が実現しそうもないのを、バートは痛いほど意識していた。その理由はおもに、今夜の彼が文なしだということにある。だが、イロイーズはそんなことを知らない。イロイーズはとても気立てのいい娘なので、バートとしても、贅沢なまねで彼女を堕落させるようなことはしたくない。
何杯ぐらい飲ませれば、ショウよりももっと地についたことにイロイーズの関心をふりむけられるだろう? バートが内心そんな計算にとりかかったときだった、ブーンという唸りがはじまったのは。
一千台の発電機が最大効率で運転しているかのようなその音は、タイムズ・スクェアをとりまく石の壁を這いのぼり、ふたたび三たびと跳ね返って、ブロードウェイの賑わいの中に殷々とこだました。道行く人びとはふりかえって、上を見上げた。
バート・チェスターもやはりふりかえって上を見上げ、そして、光り輝きながら出現したそれを最初に目撃したひとりとなった。空気はピンクに色づき、遠くの稲妻のように揺らいだ。つぎに、空気は水のように流れだした。目の錯覚なのか、現実なのか。とにかく、空気が水のように流れだしたのだ。
バート・チェスターの目から好色なきらめきが消え、そのままついに彼はイロイーズとの「ちょっと一杯」にあずかれなくなった。バートは、きたるべきものの中に彼の活躍の場があることを予感し、予知し、認識して、イロイーズのすばらしい魅力に背を向けたのだ。ほかの人びともそれに似たことを感じたのだろうか、たちまち歩道を進む人波のスピードが鈍り、みんなが宵闇の空をふり仰いだ。
変化は急速だった。空気がまたすこし震えたかと思うと、もやの中から幽霊のようにおぼろげなものが出現した。形は細長い円柱状、そこにいくつかの突起があり、きらきら輝いている。円柱が実体化したのは、タイムズ・スクェアの真上だった。
バートは歩道の縁へすばやく三歩近づき、まばゆいネオンの中で、その奇怪な建造物をとくと見きわめようとした。人びとは彼のまわりで押しあい、そして彼がある化学反応の触媒であるかのように、一つの人垣がそこに生まれた。
その物体[#「物体」に傍点](早とちりのレッテルを貼ったりしないだけの年期を、バート・チェスターはショウ・ビジネスで積んでいた)は、なにかを待つように宙にうかんでいる。ビルの谷間に高くそそり立ったそれは、まわりでいちばん背の高いビルよりも、三メートルは上に頭を出している。その建造物の高さは(その正体がなんであるにせよ)三百メートルを越えているらしい。それは、ブロードウェイと七番街を分ける中央分離帯の真上で宙にうかんでいた。そして、滑らかな管に似たその胴体には、数えきれぬ光がチカチカ瞬いていた。
バートが見まもるうちに、一見つぎ目のないその物体の外皮が円形に開き、中から平べったい板が出てきた。その板にはたくさんの小穴があいている。と思うまに千本もの細い金属線がその穴から生えてきた。金属線は、風にブルンブルンと揺れた。
ここ二、三年の新聞記事と、生まれつきのおっちょこちょいな気質が結びつき、チェスターはなんとなく自分の推測の正しさを直感しながら、こう思った。こりゃすげえ、やつらは空気を調べてるんだ! ここに住めるかどうかをチェックしてるんだ! 心の中でそうひとりごちたとき、より大きな認識が訪れた。あれは宇宙船だ! あれは……あの物体は、よその星からやってきたんだ! 待てよ、よその星?
彼の全財産をつぎこんだエメリー・ブラザーズ・サーカスがコケたのは、もう何ヵ月も前のことだ。最後の家賃をはらったのも何ヵ月も前のことだし、二十四時間のあいだに三回まともな食事をしたのも、やはりそれぐらい昔の思い出だ。いまの彼は、血まなこで儲け口を探しているところだった。どんな儲け口でもいい!
やがて、生来の企業家の血が体内にうずきはじめるのを感じながら、彼はほくほくして考えた。ありがてえ、こいつはすごい見世物になるぞ!
敷地の使用権。〈宇宙みやげ〉と銘うった風船。ポプコーン、ピーナッツ、綿菓子、双眼鏡、ペナント! たべもの! ホットドッグ、リンゴの砂糖煮! これはいけるぞ! 絶好のショバじゃないか!
もし、まっさきに唾をつけられたらだが、と彼は心の中で武者震いしながらつけたした。
無線機を前に、さかんに身ぶりしている警官も、ほとんど彼の目にははいらなかった。金属線の揺れ動くパターンを見上げている群集の叫びやざわめきも、ほとんど彼の耳にははいらなかった。彼はまたもや両肱で人ごみをかきわけはじめた。
しだいに高まる群集のざわめきの中で、イロイーズが苦しそうに彼の名を呼んでいるのが、かすかにきこえた。「すまんなべビイ」と彼は肩ごしにわめき返しながら、そばにいる肥った女の横隔膜を肱でこづいた。「こっちはずっと空き腹をかかえてたもんで、こんなすごいチャンスを見逃すわけにはいかないんだ。
すいません、通してやってよ、すいません、ちょいと……通してちょう。あ、どうも」ドラッグストアの入口にたどりついた彼は、蝶ネクタイの歪みをなおしながら、ひとりごとを呟いた。
「いや、まいったまいったまいった! まあ、これを見ろよ、バート・チェスターの兄貴! これで百万がとこ、ガッポリいただけるぜ! そうだとも!」
彼は電話ボックスにはいり、ポケットの小銭をかきあつめた。まもなく、デラウェア州ウィルミントンのミセス・チャールズ・チェスターに、長距離電話が(料金先払いで)つながった。呼出しの信号音。そして母親の「はい、もしもし?」という声。彼は、「おれだよ、かあさん!」といいかけたが、交換手が中にわってはいった。
「料金をそちらに請求してよろしいですか、ミセス・チェスター?」
母親が、はい、というのを待ちかねて、バートはしゃべりだした。
「もしもし、元気かい、かあさん?」
「まあ、バート、よく電話をかけてくれたねえ。ほんとに何年ぶりだろう。たまにくれてもエハガキだけなんだもの!」
「ああ、わるいと思ってんだよ、かあさん」と、彼は母親をさえぎった。「だけど、なにしろ忙しいんだ、このニューヨークは。ねえ、かあさん、おれちょっと金がいるんだよ」
「でも……いくらぐらいなんだい、バート? いま手もとにあるのは!」
「二百ばかりほしいんだ、かあさん。大仕事なんだ。神に誓ったっていいぜ、なにしろ、こんちきしょう、どでかいのなんのって!」
「バート、なんという言葉づかいよ! それも、おかあさんに!」
「ごめん、ごめん、あやまるよ。だけど、小指がやけどするぐらいの熱い話なんだ。いや、ほんとだぜ、こん……」危うく口をつぐんで、「こんりんざい、まちがいなし! おれがどのぐらいその金がほしいか、かあさんならわかるだろう? ほんの二、三月でいい、そしたら耳をそろえて返す。たのむよ、かあさん! おれが嘘をいったことがあるかい?」
それからの二分間は、ミセス・チャールズ・チェスターにとってゆるやかな消耗期であり、ついに彼女は息子に、銀行預金からなけなしの二百ドルを引き出す約束をした。バートはありったけのお世辞を並べて、母親に感謝した。交換手が厭味たっぷりに通話をさえぎり、母親に料金計算がすむまで電話を切らずにいてほしいというのも、気にならなかった。接続が切れるのを待って、彼は別の番号を呼びだした。
「もしもし、アービー? おれ、バート。なあ、どうだ、一口乗らないか? これこそ絶対最高の――まあそういわずに、後生だから聞いてくれよ――とにかく、史上空前、地上最大の!」
五分間と五百ドルののち――
「サンディ、きみか? だれです、だって? バートですよ! バート・チェス――おい待って! 切るなよ! きみが百万ドル儲けるチャンスなんだぜ! そうだよ、一ドルの百万倍! さて、それにはどうすればいいかというとだな、まずちょいとばかり投資を……」
十五分、六本の電話と四千五百二十ドルののち、バート・チェスターはドラッグストアからとびだした。触手の生えた板が船体の中にすべりこみ、外皮がもう一度閉じるのを見るのに、ちょうど間にあった。
イロイーズは、もちろん、もうそこにはいない。バートは、それにさえ気づかなかった。
もうこの頃には、付近の街路は溢れかえる群集でいっぱいで、(もっとも、だれもその物体の下へは近づこうとはしなかったが)車の流れは完全にストップしていた。ドライバーたちは、車のフードの上にのぼって見物中だった。
どこをどうすりぬけたか、それでも消防車がすでに駆けつけていた。ゴム合羽を着た消防夫たちが、唇をかみ、お手あげだというようにかぶりを振りながら、突っ立っていた。あそこまでどうしても近づくんだ。ほかの興行師に一番乗りされてたまるか――立ちならんだ露店のイメージが、バート・チェスターの頭の中で踊りくるった。
人だかりをかきわけていくと、警察が遮断線を張りかけているのが目にはいった。メガネをかけた横幅の広い警官と、痩せて悲しそうな顔の警官が手をつなごうとしているところへ、チェスターはのこのこ近づいていった。
「おいおい、そこからはいっちゃ困るな。いま、みんなを追い出してるとこなんだ」肥った警官が肩ごしにいった。
「ねえ、おまわりさん、あそこに用があるんだ、通してくださいよ」警官が否定的に頭を振るのを見て、チェスターはかっとなり、まくしたてた。「ちょっと、おれはバート・チェスターだぜ! ほら、一九五四年のスター・パレード、エメリー・ブラザーズ・サーカス――あれをプロデユースした男さ。たのむ、どうしても[#「どうしても」に傍点]あそこへ行かなきゃならないんだ!」いくら声をからしても、むこうはとりあわなかった。
「通してくれ、たのむよ――おーい! 警部さんー・おーい、こっちこっち」彼が必死に手を振るのに気づいて、パトロール車の溜りのほうへ歩きかけていた、茶色の外套の小男が足をとめた。
街路の上にのびたマイクロフォンのコードを踏まないように気をつけながら、小男は群集のほうに近づいてきた。
チェスターは警官たちにいった。「ほらね、おれはケッセルマン警部の友だちなんだ。ねえ警部さん」と彼は訴えた。「中へはいらせてくださいよ。だいじな用なんですよ。ひょっとしたら、昇進につながるかもね」
ケッセルマンは、だめだ、というように首を振りかけたが、そこで急に目をそばめてチェスターを眺め、(ひところ、彼からよくボクシングの招待券をもらったのを思いだしたのだろう)し
ぶしぶ首をうなずかせた。「よし、じゃ、こいよ」明らかに不快そうな声で、「だが、おれから離れるな」
チェスターは警官たちの通せんぼの下をかいくぐり、小男のしりにくっついて、物体のおとす影の外側にそって歩きだした。
「景気はどうだ、チェスター?」歩きながら警部は声をかけた。
バートは頭がすっと軽くなり、肩からはずれてふわふわ浮きあがっていくような気分だった。
さて、その景気が問題なのだ。「さっばりでさあ」と彼はいった。
「いちど晩めしを食いにこいよ、暇があったら」警部の口調には、バートにその招待を断わらせるような、なにものかがあった。
「ええ、どうも」バートはそう答え、街路に投げかけられた巨大な機械の影の外側を、慎重に歩いた。
「あれは宇宙船ですか?」ひどく子供っぽい口調で、チェスターはたずねた。ケッセルマンは、けげんな顔つきでふりかえった。
「いったい、どこからそんなことを思いついたんだ?」
チェスターは肩をすくめた。「さあ、コミックスを読みつけてるせいですかね」唇をゆがめて笑った。
「キの字だな、おまえは」ケッセルマンはかぶりを振りながら、背を向けた。
二時間後、しんがりの消防夫たちが、小首をかしげながらハシゴ車から下りてきた。「だめだね、アセチレン・トーチぐらいじゃ、あの金属は煙も立ちませんぜ」彼らは立ち去った。ケッセルマンはそれでもまだチェスターを不機嫌そうに見やって、「キの字だよ、おまえは」とくりかえした。
さらに一時間後、機関銃弾でもその物体がへこみさえしないことを知って、警部の信念はいくらかぐらついてきた。しかし、科学者を呼んでは、というチェスターの提案を、頑として受けつけなかった。「ばかいうな、チェスター。これはおれの仕事だ。おまえの仕事じゃない。よけいな口出しはよせ。さもないと遮断線のむこうへたたき出すぞ!」警部は、手をつないだ警官たちと押しあいを演じている群集のほうへ、威嚇をこめて身ぶりした。チェスターは口をつぐんだ。いずれ、相手が彼の提案に従うだろうことは、目に見えていたからだ。
いずれ≠ヘ、それから一時間と五十分後に到来し、ケッセルマンはあきらめたように両手を上げていった。「しょうがない。いまいましいが、おまえのいう専門家を呼んでこい。だが、早くしろよ。こいつがいつ下へ腰をすえにかかるか、しれたもんじゃない」
にやついているバート・チェスターを見て、警部は皮肉な口ぶりでつけたした。「それともだ、もしあの中に怪物がいたらだぞ、やつらがいつわれわれを食べにくるか、しれたもんじゃないからな」
それは宇宙船だった。いや、とにかく、どこかの別世界からやってきたのは、確かだった。顔面蒼白の科学者たちは、おたがいに顔を見合わせ、したりげにうなずきあっていた。中で勇気のあるひとりが、消防車のハシゴをよじ登り、なにか不可解な方法で船体を調べにかかった。
ほどなく、彼らは意見の一致を見たらしい。
禿げ頭に三すじの毛をおったてた科学者が、みんなを代表してしゃべりだした。「われわれの見解では、この輸送装置は――記者のみなさん、きこえますか?――この輸送装置はどこか別の場所からこの地球にやってきたものであります。さて――」ほかの仲間が同意のうなずきを返す中で、科学者は言葉をついだ。「これがはたして宇宙船であるか、あるいは、その出現の様相から見て可能性のより濃厚な、一種の次元横断装置であるかにつきましては、まだ断言できません。
しかし」と、両手でなにかを洗うようなしぐさをしながら、科学者は結論した。「これが地球外生物の手になるものであることは、明らかであります」それを聞いたとたん、記者たちは喚声を上げ、いっせいに電話にむかって駆けだしていった。
チェスターはケッセルマンの袖をひいた。
「ときに警部さん、あのしろもののことで話《ナシ》をとおすにゃ、どこへ行けばいいんでしょうねえ? ほら、所管当局ってあれですよ。つまり、興行許可とかそのての申請は、どこへ持ちこんだらいいんです?」ケッセルマンは、狂人を見るような目で、まじまじと彼を見つめた。チェスターはもう一度質問をくりかえそうとしたが、群集から起こった叫びで、その声はかき消されてしまった。彼は急いで上を見上げた。
宇宙船の外皮がふたたび開くところだった。
群集が大通りのほうへ後退した。どの顔にもいちように恐怖がうかんでいたが、そこにはまた溢れかえるような好奇心も混じっていた。ニューヨークっ子たちは、ふたたび物見高さと未知の恐怖との板ばさみになったのだ。
チェスターとずんぐりした警部は、上空をふり仰ぎながら、思わず何歩か、おびえたように後ずさった。どうか怪物じゃありませんように、とチェスターは祈りたい気持だった。そんなものが出てきたら、あのすてきなおまんまの種が、軍のやつらにふっとばされちまう!
宇宙船は動かなかった。最初の位置から微動だにしていなかった。だが、船体から外へ一つのデッキが伸びはじめた。透きとおった、目に見えないほどの薄いデッキだ。船体から芽生えた、うね[#「うね」に傍点]のある巨大な二つの突起に支えられて、そのデッキはタイムズ・スクェアの二百メートル上空にすべり出てきた。
「あれを銃で狙え!」ケッセルマンが部下たちにどなった。「あのビルの上からだ!」そして、宙にうかぶ宇宙船をはさんだ、二つの摩天楼を指さした。
チェスターが魅入られたように宇宙船を見上げているまに、デッキの伸びがとまった。と、ある響きが空から伝わってきた。それは聞こえはするが音ではない感じで、彼の心の中に鳴りわたった。彼は小首をかしげ、耳をすました。警官たちも、徐々にもどってきた野次馬も、みんなそれと似た仕草をしていた。「なんだ、こりゃ?」と彼はつぶやいた。
音はしだいにふくれあがり、足の土踏まずから、髪の毛のはしばしにまで這いあがってきた。
彼は圧倒された。一瞬、目がかすんだと思うと、それがまぶしい光とちらちらする影に変わった。視野はすぐにまた晴れたが、それがほんの前おきなのを、彼は知っていた。そして、その音が宇宙船から出ていることも、(やはり理屈でなく)知っていた。もう一度デッキを見上げると、ちょうど何本かの線が形づくられるところだった。
そのありさまをだれかに伝えることは、彼にはとてもできそうもなかった。はっきりわかっているのは、それが美しいということだけだった。その線は宙にうかび、彼の見たこともないような色をしていた。地上のネオンの赤と青にはさまれて、光のすじは生きもののように動き、平行したり、交叉したりした。それは異様な眺めだったが、彼はすっかり心を奪われた。ゆらめき変化するそのパターンから、一刻も目をそらせなかった。
やがて、色がにじみはじめた。絵具が流れるように、線が溶けあい、デッキの真上でさまざまに形をかえた。色が混じりあい、とけあった。まもなく、七色の背景が、宇宙船の外皮を覆い隠してしまった。
「あれは……あれはなんだ?」ケッセルマンがそうつぶやくのがきこえた。
彼が答えかねているうちに、彼ら[#「彼ら」に傍点]が現われた。その生き物たちは、デッキに現われると、しばらく無言でたたずんだ。その体つきは千差万別だったが、一皮むけばみんなおなじではないかという気が、なんとなくチェスターにはした。たぶん、それは一種の衣裳なのだろう。彼らがデッキにたたずんだ一瞬間のあいだに、チェスターはそれぞれの名前を知った。左手にいるむらさきの毛皮に包まれたひとり――あれはヴェッシリオだ。目のあるべき場所に茎のようなものが生えているやつ――あれはダヴァリエだ。ほかの連中にもみんな名前があり、ふしぎなことに、チェスターはそのひとりひとりをよく知っていた。異様な外見にもかかわらず、すこしも嫌悪感はわかなかった。ヴェッシリオが勇敢で、決して義務からしりごみしない性質なのを、彼はなんとなく知っていた。ダヴァリエが気弱で、ひとりになるとよく泣く癖があるのも、なんとなく知っていた。彼はそれだけでなく、それ以上のことも知っていた。彼らひとりひとりのことを、くわしく知っているのだった。
とはいっても、彼らはある意味で怪物だった。背丈が十メートル以下のものはひとりもない。そして、腕も(腕のある場合はだが)よく発達し、その体格とつりあった大きさをしていた。おなじことが、脚や頭や胴についてもいえた。しかし、脚や頭や胴をもっているものは少なかった。
ひとりはカタツムリのような形をしていた。もうひとりは、きらめく光の球のようだった。別のひとりは、チェスターが見まもるうちにその形と線を変え、そしてほんのつかのま、なんとも形容できない中間段階におちついた。
それから、彼らは動きはじめた。
彼らは位置につき、体を揺らした。おたがいの体へ複雑に絡みあった。チェスターはすっかりそれに惹きいれられた。こいつはすごい! 彼らの動き、彼らのしぐさ、そしておたがいのポーズの組合わせは、すばらしかった。そればかりか、そこには物語があった。すばらしく面白い物語が。
線が移りかわり、色が混じりあい、変化した。宇宙人たちは、描写的な動作のいりくんだパノラマを演じつづけた。
チェスターは一刻も目を離せなかった。あまりにも異様で、桁はずれで、だが、あまりにも魅力的なそれは、目を釘づけにしていなければ、彼らの動作が伝えてくれる知識が永久に失われそうな危惧をもたらしたのだ。
あの音のないひびきがふたたび鳴りわたると、すべての色が薄れた。宇宙人たちは消え、デッキは船内へひっこんだ。宇宙船はまたもや静かでのっぺらぼうなものに返った。チェスターは息もできないほどだった。それは文字どおり――息づまる迫力だったのだ!
彼はタイムズ・ビルの大時計に目をやった。知らないまに、三時間が過ぎ去っている。
群集の低いざわめき、完全には理解できない演技に対するとまどった拍手、彼の腕をつかんだケッセルマンの指の圧力――それらがすべて消えていった。彼は警部の低い呟きを耳もとに聞いた。「いやあ、すごい! あんなものははじめてだ!」だが、それもいまの彼には遠いものだった。
チェスターは、さっき彼らのひとりひとりを知ったように、この宇宙船がなんであるか、この宇宙人たちがなにものであるか、彼らが地球へなにをしにきたかを知った。静かに、そして敬意すらこもった声で、彼は自分がこういうのを聞いた。「あれは芝居だ。あの連中は役者なんだ!」
彼らはすばらしく、ニューヨークは世界よりも一足先にそれを知った。ホテルや商店街は、ここ何年にない大ぜいの旅行客で氾濫した。市街には、世界各地から訪問者がひしめいた。彼らは〈ザ・パーフォーマンス〉の奇跡を見にやってきたのだった。〈ザ・パーフォーマンス〉はつねにおなじだった。宇宙人たちは午後八時きっかりに、デッキ(それが事実彼らの舞台だ)に現われる。そして、十一時に演技を終える。
三時間のあいだ、彼らは華麗な動きとポーズをつづけ、熱心な観客を畏敬と愛の興奮の坩堝に追いこむ。これまでのどんな劇団もなしえなかった極限にまで。タイムズ・スクェア近辺の各劇場は、夜の部の興行を取り消さざるをえなくなった。多くのショウが打切りになった。そうでないものは昼興行《マチネー》に切りかえ、運を天にまかせた。
〈ザ・パーフォーマンス〉は演じつづけられた。
一言のセリフもなく、理解できる仕草もないのに、観客のひとりひとりがそれに没入し、共感し、そしてそれぞれにすこしずつ違った意味を見いだせるのは、どこか不気味でもあった。
いつのショウでも、俳優がおなじことをくり返しているのに、観客が決してそれに飽きず、またしてもそれを見にやってくるのも、不気味だった。不気味ではあったが、それは美しかった。ニューヨークは〈ザ・パーフォーマンス〉に首ったけだった。
三週間後、宇宙船の警戒にあたっていた軍隊は、ミネソタ州の刑務所暴動の鎮圧にふりむけられた。毎夜〈ザ・パーフォーマンス〉を定期的に上演するのが、宇宙船の唯一の活動だったからだ。五週間のあいだに、バート・チェスターはぎりぎりの低予算で必要な手配をなしおえ、このショウがエメリー・ブラザーズのときのように尻すぼみにならないことを、ひたすらに祈った。
依然として食うや食わずの日がつづいており、彼の話を聴いてくれそうな人間に出あうたびに、こう訴えるのだった。「いやはや、この商売もツケたもんさ……しかし、こんどのが一発あたりさえすりゃ……」
七週目にはいって、バート・チェスターは最初の百万ドルを稼ぎはじめた。
むろん、金をはらって〈ザ・パーフォーマンス〉を見る人間はひとりもない。街路からちゃんと見物できるものに金をはらうバカがどこにいる? しかし、それだけではすまないのが、人間性≠フ底知れぬ複雑さというやつだった。道路に立ちんぼうで見物するより、摩天楼の外側に吊るされたバルコニー式の金塗り指定席(もちろん、ロイド組合の保険つき!)にすわりたいという人間は、まだいるものだ。
ポプコーンとチョコレートをかぶせたアーモンドが観劇のたのしみを倍加してくれる、と考える人間はまだいるものだ。くわしいプログラムのないようなショウは低俗だ、と考える人間はまだいるものだ。
これらの便宜をはかったのが、新調のチャコール・グレーの背広の下で、すでにいささかふくらみかけた胃袋をもてあましている、、バート・チェスターだった。
プログラムの最上段には、筆記体《スクリプト》で『バート・チェスター提供』 そして、その下には簡潔に〈ザ・パーフォーマンス〉のタイトル。市中では、バート・チェスターこそソル・ヒュロック[#以下の括弧内割注](アメリカの有名な興行主。カルーソーやシャリアピンをヨーロッパから招いた)の再来だという、もっばらの噂だった。
〈ザ・パーフォーマンス〉の最初の八ヵ月で、彼はビルの外壁の賃借や建設費用につぎこんだ借金のもとをとりかえした。そこから先は、ほとんど純益だった。彼は球場やプロレスのリングの場内売子たちに、食べものやみやげものの露店を貸し与え、売上の五十パーセントのカスリをとった。
〈ザ・パーフォーマンス〉は、連日連夜、空前の大入りをつづけた。ヴァラェティ誌ー「宇宙人ブロードウェイを征服!」
二ューヨーク・タイムズも、絶讃を与えるにやぶさかではなかった――「……開演一周年を迎えたタイムズ・スクェアの〈ザ・パーフォーマンス〉は、初演の夜とかわりなく新鮮で魅惑的である。すでに付近を侵しはじめた興行師たちのあくどい商魂も、ショウ自体の卓越性をみじんも損うことは……」
バート・チェスターは、入金伝票の山を数えながら、にんまりした。生まれてはじめて、彼は肥りかけていた。
二千二百八十九回目の公演は、一回目、あるいは百回目、千回目のそれとおなじように、輝かしく、充実したものだった。バート・チェスターは特等席の背にもたれかかった――かたわらにいる、目のさめるような美人のことも、おぼろげに意識しているだけだった。明日になれば、彼女はまた役さがしで、オフ・ブロードウェイのプロダクションを走り回らねばならない。だが、明日になっても〈ザ・パーフォーマンス〉はまだそこにあり、彼のポケットへ金をそそぎこんでくれるのだ。
彼の心の大部分は、俳優たちの精妙な動きに対する畏怖と驚異にみたされていた。彼の心の小部分は、いつもそうであるように、考えていた。
みごとだ! すばらしい! 〈ニューヨーカー〉の評どおり、真のスペクタクル――彼の周囲には、巨大な獣の汗の粒のように、〈チェスター・バルコニー〉がビルの外面にくっついていた。四十五丁目から四十六丁目までは、値段の安い一般席。そこからタイムズ・スクェアにかけて、桟敷の値段は尻上りになっていく。
六年以上――なんというロング・ラン――〈南太平洋〉だってメじゃない。くそ、これで立ち見の連中からも入場料がとれりゃ、いうことなしなのに。
通りから見物している人数を考えて、彼は心の中で渋面をつくった。タダ見なんて! いまでも、見物人は初日とおなじほど大ぜいだった。人びとは、この芝居にすこしも飽きないらしいのだ。何度見ても、彼らはそのたびにひきこまれ、夢中になり、時のたつのを忘れる。〈ザ・パーフォーマンス〉は、つねに観客を満足させ、観客を魅了した。
連中はとてつもない名優だ、と彼は思った。ただ……。
その考えは、まだ半煮えだった。もやもやしていた。だが、奇妙なほど、奇妙なほど、気にかかった――彼としては、なにも不安がる理由はないのだ。
まあ、いいや。
彼は芝居に心を集中することにした。さして努力は要らなかった。俳優たちが、じかに彼の心に語りかけてくるからだ。彼らの魅惑は、ただの鑑賞よりも、もっと深く澄んだ井戸に向けられているのだった。
芝居の調子が急に変化したときも、彼はまだそれに気づかなかった。劇中に、俳優たちが奇妙にエキゾティックなメヌエットを踊るところがある。つぎの瞬間、彼らはいっせいに舞台の前へと近づいてきた。
「台本とちがうぞ!」ムードをうち破られて、チェスターは信じられぬように叫んだ。隣にすわった美しい娘が、彼の袖をつかんだ。
「どうしたのよ、バート?」
彼は不機嫌に彼女の手をふりはらった。「おれはこのショウを何百回も見てる。いつもは、連中があの小さなせむしの鳥人のまわりに集まって、その体をなでるんだよ。連中、なにをじろじろ見てるんだろう?」
彼のいうとおりだった。俳優たちはじっと観客を見おろしており、観客のほうはなにかようすがへんなのに気づいて、神経質な拍手をおくりはじめた。宇宙人たちは、茎や、繊毛や、眼で、それを見おろしていた。まるで到着以来はじめて群集の存在に気づいたように、街路や桟敷の人びとを眺めているのだった。どうもようすがおかしい。それを最初に勘づいたのはチェスターだった――たぶん、彼がこのショウの最初からそれに関わりあっていたからかもしれない。ようやく、群集もそれを感じはじめたようだった。彼らは不安げにぞろぞろと後退していった。
チェスターは、自分の声がうわずっているのに気づいた。
「どうも……どうもようすがへンだぞ――やつら、なにをしてやがるんだ?」
舞台が宇宙船の外側を伝ってゆっくりと下降してきた。やがて、俳優たちの中のひとりが宇宙船のかたわらの空間に降りたち、そして実体化しはじめた。
彼の予感したむごたらしい大量殺戮がひとしきりしておさまり、ようやくわれに返ったチェスターは、タイムズ・スクェアを闊歩していく身長十メートルの小さな[#「小さな」に傍点]せむしの鳥人を、魅入られたように見つめている自分に気づいた。そして、彼はさとった。
これまでのそれはすばらしいショウだった。俳優たちは、観客の熱狂的な反応と興奮に励まされた。そして、六年間あまり、彼らは喝采だけを糧に生きてきた。疑いもなく、彼らは芸術家だった。
いまのいままで、彼らは芸術のために飢え[#「飢え」に傍点]を耐え忍んでいたのだ。
[#地から2字上げ]二ユーヨーク 一九五六年
[#改丁]
殺戮すべき多くの世界 [#地付き]伊藤典夫訳
Worlds to Kill
[#改ページ]
石の波状短剣《クリース》のきっさきを下に向け、宝石のちりばめられた柄《つか》を両手に握りしめて、〈神の唯一真正なる神殿〉株式会社の高貴な司祭、ミスター・プッシュ尊師はそれをゆっくりと天にむかってあげた。刀身は、彼の彩色された全裸の体と完全な平行を保っている。はりだした両肘が菱形の二頂点となり、茶色のしみのこびりついた刃がちょうど頭上までのぼったとき、司祭は聖なる連祷[#「祷」は{示+壽}]を唱えはじめた。その声は彼の首からさがるラウドスピーカー・マイクを通じて、巨大なスタジアム全体に送りだされた。
だがそれでも、大競技場の幾層にも分かれた観覧席の最上階、その不具者がすわる二・五〇の席[#以下の括弧内割注](数字は、この惑星の通貨単位)からでは、司祭の言葉を聞きとるのは困難だった。席列のはしで、菓子売りがどなっている、「クーラ! フライナッツ! 冷たいクーラ! ほかほかのフライナッツ!」コマーシャルの前には、気高い司祭の神聖な吟唱も無力だった。
ひきしまった浅黒い肌をしたその男は、両足のない体を車椅子にのせていた。男は双眼鏡をふたたび持ちあげると、グラウンドのかなた、生けにえの祭壇に焦点をあわせ、司祭の正確な唇の動きから言葉を読みとろうとした。
連祷[#「祷」は{示+壽}]が終わり、観衆は敬虔な熱狂のうちに応答文を叫んだ。車椅子にのった足のない男は群衆の表情をすばやく双眼鏡で追うと、またたかぬ視界を司祭の上にもどした。司祭はわずかに背中をそりかえらせた。その胸にあばらの輪郭がくっきりと現われた瞬間、司祭の手に握られた短剣がはだかの娘の胸に描かれた赤い輪の中心めがけてまっすぐ落下した。
宝石のちりばめられた柄を残して短剣がふかぶかと沈むと、群衆は歓声をあげ、総立ちになった。手向けの薔薇が宙に舞い狂った。
不具者は車椅子の上で双眼鏡をホルスターにおさめ、ポプコーンを食べおえた。群集ののびきった体が彼の視界をさえぎっていた。歓声は高まり、やがて人間の喉から出ているとは思えないほどかん高くなった。
騒ぎが静まると、足のない男はいちばん近くにいた二人の狂信者に、車椅子を席からはずしてもらえないかと頼んだ。通路におろされると苦労して出口までのぼり、ランプにはいった。背後では、またひとりの処女が生けにえにされようとしていた。
スタジアムを出た不具者は、布にくるんだ木切れを両手にくくりつけ、それで車椅子をスムーズに動かしながら、郊外・スタジアム区域を走りぬける貨物エクスプレスウェイにむかった。
貨物発送所のそばまで来ると、最高速レーンにのった商品のクレートの風を切る音が聞こえるようになった。クレートはすべて盗難や分解防止のため力場で固定されていた。年齢不詳のチェック係は一心不乱にチョコレート・リングを噛[#「噛」は{口+齒}]んでおり、力強く車輪をこぎながら短い金属のランプをのぼってくる不具者をながめようともしなかった。だが車椅子がチェック係の気泡の前にとまると――力場の表面に亀裂が楔形にひらき、そこからエクスプレスウェイを吹く湿っぽい風がかろうじてはいる仕掛けになっている――係員ははじめてシートから視線をおろし、眼を細めた。「すまないが、ちょっとした頼みごとを聞いてくれるかね?」不具者はていねいな口調でいった。
係員は、チョコレート・リングが歯のあいだに残したナッツのかけらをせせった。「なに?」
短い、ぶっきらぼうな音節。「そのう、旅客走路で行く金がないんでね、百四十七丁目オーヴァルまで貨物線に乗せていってもらえないかと思って」チェック係は首をふった。「だめだ」
「べつに固定してくれなくてもいいんだ。この椅子には真空ベースがついてるから、自分でできる。迷惑はかけないよ」
チェック係はそっぽをむいた。
「恩にきるんだがなあ」不具者はくいさがった。
係員はふりむくと、ふたたび眼を細め、口元をこわばらせた。「規則違反だぜ、おっさん、わかってるだろう。いいかげんにして消えな」
不具者の日焼けした顔が一瞬かたくなった。あごの筋肉がかすかに動き、怒りは彼の頬から鼻に伝わり、動物のそれのようにひくひくと震えた。「相棒によくそんな口がきけるもんだな。どうしてこんな片端になっちまったと思う、ばかやろう――おたくと同じように走路ではたらいてたんだぜ。それで足をなくしちゃったおれが、同業者にこうやって頭をさげてるんじゃないか。そのお返しがなんだ? 消えな、それだけか。ちくしょうめ、オーヴァルまで乗せてってもらいたいだけだ、それがそんなに大事《おおごと》かよ?」
係員の顔に驚きがあらわれ、すぐにそれがすまなそうな表情に変わった。
「いやあ、わるかったよ、相棒」不具者は答えない。彼は木切れをふたたび両手にはめると、車椅子の向きを変えようとした。係員はあわててシートからおりた。シートはひっそりと息を吸い、原型にもどった。係員は力場からとびだし、車椅子の前に立った。「頼むよ、おい、ほんとうにわるかった。あやまるよ、相棒。規則規則でがんじがらめなんだぜ、察してくれや。待ってろ、すぐ乗せてやるからな」
不具者はようやく納得したように、そっけなくうなずいた。
係員は発送ロックをあけ、先にたって不具者をそこへ導いた。エレベーターは架構のすぐ下におり、最高速とそれより速度のおそい各レーンの上を横ぎった。中速系統を通りすぎ、低速系統にはいったあたりで係員は膝をつくと、車椅子を最低速レーンにのせるため身構えた。
「すまんな」不具者は微笑した。
係員は片手で、いいからいいから、というような仕草をし、車椅子を走路に押しだした。動きだした不具者のうしろで係員は立ちあがり、声をかけた。「おうい、わるかったな、相棒!」
走路を三マイルほど下ったころ、不具者の手がチェック係の想像もしなかったような器用さで動き、車椅子はみるまにいくつかのレーンをわたった。男は四分の一マイルばかり中速レーンにとどまっていたが、やがてまた移動をはじめた。司祭配下の警察の盗聴装置が機械のうなりで役に立たない最高速レーンにはいると、男は右二頭筋の部分にある肉のひだをめくり、その下に隠された通信機にむかって報告をはじめた――
「オーケイ。最終データだ。直接、マシーンにくわせろ。予備調査の判定はまちがっていなかったようだ。テクノロジイの面では第七段階に達しているが、社会的にはせいぜい第四というところだろう。強力な神話と宗教的拘束がある。急襲がいちばん有効かもしれない。いや、そこは百パーセント有効としてくれ。宗教的な弱点をつくんだ――太陽神の落下とか、キリストの再臨あたりが手ごろだろう。それで一時的パ二ックがおこるから、潜入は最小限の損害でくいとめられるはずだ。正確を期するため、これからコード化したデータを入れる。だがたったひとつ、連中の蛮行だけはコード化できなかった。ひと皮むけば、けだものの群れと同じだ。それがこちらの最大の武器になる可能性もある――だからありったけのデータをいちおうコード化して、あとは分析機に外挿させろ。アーナクの軍はすぐ出動できる。それからフォルガーには、軽機甲と中機甲がクルーザーに必要だといってくれ。重機甲まではいらないと思う。ただし特殊工作用に、ノードに作ってもらいたいもののリストがここにある。よし、それだけだ。マシーンのリセットができたら信号をくれ」
貨物エクスプレスウェイがさらに三マイル進むあいだ、彼は黙って信号がはいるのを待ちうけた。
信号が耳ざわりな混信ノイズのかたちで送られてくると、彼は二頭筋にむかって淡々とした声で話しはじめた――
「侵攻開始は本部時間で五ダッシュ二五ダッシュ〇九ダッシュ一三〇〇時」
送信が終わったときには、百四十七丁目オーヴァルをはるかに通りすぎていた。彼の言葉は、思考のように一直線に(といっても思考は決して直線的ではないが)大気圏をつきぬけ、宇宙空間のかなたに飛び去った。送波は暗黒のなかにきらめく中継ステーションで受信され、螺旋やジグザグ模様を描きながら、さらにつぎのステーションへと送りだされた。
やがてそれは、遠くへだたったひとつの星系に到着し、伝達は完了した。
貨物線では、足のない不具者が車椅子から立ちあがり、足をのばしていた。彼はすばやく服を着換えた。低速レーンに移りはじめたときには、どこから見ても地方から出てきた野暮な風がとりにしか見えなかった。
彼の姿はあとかたもなく郊外の娯楽センターに消えた。この惑星が滅びるまで、彼の時間であと十二日を残すばかりであった。
住民はその惑星をリーフ[#以下の括弧内割注](礁脈あるいは砂州の意)と呼んでいた。それはスラングで、語源は人類の第一次地球脱出――宇宙放浪にあきた移住者が、青白色の恒星の周囲をめぐるそのまばゆい惑星に漂着したときにさかのぼる。リーフ、彼らはその上に彼らの世界を建設した。リーフ、今まさに侵略されようとしている世界。
最初に一隻のマンタが投下された。それは風に乗り、疎外ダストを大気中に撒布した。人間と人間を引きはなす塵――夫にとって妻が、母親にとって子供が耐えがたい存在になる塵、リーフの社会は、それぞれまったくつながりのない怯えた単一の魂に分裂した。ついでたくさんの火球が落下し、人びとは恐怖と迷妄に震えた。
そしてフォルガーの艦隊がやってきた。中量級の機甲部隊は、唯一の宇宙センターをはじめ、軍事施設、軍需補給基地、船積港を奪取した。通信線を切断したり、TVやラジオを妨害する任務は、軽機甲部隊が惑星上空をとびまわって行ない、またジャレッドと呼ばれる先発員――足のない不具者――が予測した組織的抵抗の根拠地をまんべんなく捜索し、破壊した。ついで着陸用プラットフォームがつぎつぎと大気中にすべりこんだ。その上ではアーナク麾下の特別攻撃隊が、蜘蛛の糸をくりだしながら降下命令にそなえていた。か細い蜘蛛の糸を巨大な海獣の触|鬚《しゅ》のように地上にたらしながら、大きな黒い円盤型プラットフォームは風に乗って朝空を飛んだ。
特別攻撃隊は命令を待ちうけた。そのころ、あらかじめ指定された七十個所の地点には、サイキプローブが投下されていた。それらは最大加速で地表に激突し、防護殻を吹きとばして地殻にくいこんだ。そして強力な思考パターンのネットワークをつくりあげると、送信を開始し、正確な脳波を攪乱した。
絶望、恥辱、小胆、憂欝、恐怖、妄想、嫌悪、惰気、飢餓感、子宮回帰願望、そしてそれが永久に満たされることのない願望であるという認識――サイキプローブがおくりだす思考波はさまざまな強度で被侵略者たちの心を洗い、同じ行程を何回もくりかえした。
そして特別攻撃隊が降下した。
侵攻開始は、五/二五/〇九/一三〇〇時。
ジャレッドは、五/二七/〇九/〇六四四時、旗艦テンペスト上で〈惑星占領〉の信号をうけとった。リーフと呼ばれる惑星の征服にとりかかり、それを押し進め、なしとげるまでに、四十一時間四十四分かかったことになる。それは、ジャレッドが顧客の依頼によって征服した百七十四番目の惑星であった。
テンペストの艦橋、その円形の隔壁には、二百枚の高精度二方向スクリーンがちりばめられ、占領作戦のあらゆる局面を観察できる仕組みになっていた。
ジャレッドはスクリーンに見入っていたが、やがてイカのような頭部を持つヒューマノイド生物のほうをむき、低い声でいった、「さあ、払ってくれ」
ラム――リーフ星系の暗い惑星に棲息する三千万イカ型ヒューマノイド種族のまぎれもない支配者、これまでさまざまな種類の闇のなかでその生をおくってきた生きものは、ひきしまった浅黒い肌の男を見すえると、その巨大なひとつ目をすばやくしばたたかせた。
ラムの胸から背にかけて掛け布のようにたれさがった触手が、くるくるとせわしなく動いた。「みごとな手なみだな、ジャレッド」交信触手がからみあい、言葉をつくった。
「払ってくれ」ジャレッドはくりかえした。
ラムの触手がからんだ。「まだ仕事はかたづいていない」
「(占領〉のシグナルを聞いたはずだ。残り半分をもらいたい。この場でだ、ラム」
イカ生物のうしろ側の触手が組みあわされ、昇降シャフトの近くにいたもうひとりのイカ生物に合図をおくった。ラムの副官は触手をゆらめかせて敬礼すると、シャフトをおりていった。
「ケースを運ばせるようにした」
「すまんな、ラム」ジャレッドはスクリーンに視線をもどした。
ラムは長いあいだ男を見つめていたが、やがてそのかたわらにやってきた。ジャレッドはさほど長身ではなかった。彼とならぶと、イカ型生物のほうがちょうど頭ひとつ高かった。ラムの発声器官はほとんど振動膜だけに限られているので、人語を発音するのは容易ではなかった。だがコスモポリタンを自認するラムは、嬉々としてそれを試みた。人間の言葉の不気味なパロディが艦橋にひびいた、「オオオゥムアアイイイ、ゥアアア、ゥムォオオオトオオ、ゥアアア、チッシシュウウウジイインンンン、ンナアアソダロオオオオ?」
ジャレッドはスクリーン一一三をくいいるように見つめていた。そこでは特別攻撃隊員が男と女をひきはなし、力場スクリーンで隔てられた区画に収容している。「そう。おれは地球人だ。もとはね」
だが彼の口調は、会話を活気づけるものではなかった。ラムが地球人であったなら、その調子の意味に気づいただろう。けれどもラムは地球人ではなかった、「チッシシュウウゥゥゥ、ゥアアア、ドオオンンンナアアア、トコオロオオオ、ダアアアア?」
ジャレッドはゆっくりとふりかえった。
そしてラムの触手が反射的にからみはじめるまでじっと見つめた。ジャレッドが答えないので、数瞬ののちラムはその場をはなれ、彼の背後で触手をからめた、「なまいきなポリプめ! 雇われ兵め!」
ラムの副官があがってきた。そのうしろには二人のイカ生物が、金属のケースをかかえて従っている。彼らはラムの足元にケースをおいた。巨大な眼をこらしながら見上げているラムのところへ、ジャレッドが近づいた。「あけろ」と、ひきしまった肌のスペイサーはいった。ラムは副官にむかって触手をふった。
副官はケースのそばに待機するイカ生物に命令を発信し、同時にそのひとりに解読機をわたした。装置は力場ビーズ錠に作用し、ケースは息づきながら気学的にひらいた。
ジャレッドは容器のなかをのぞいた。ひとつ、そしてもうひとつ。
「ありがとう、ラム」
「メタルの一年分の生産量だ」おだやかな温かい海流にそよぐ海草のような動きとともに、ラムは低くゆっくりといった。「これだけのメタルがあれば、ひとつの惑星の光熱量は千年間安泰だ。百万隻のクルーザーを時空の果てまで飛ばせる。世界を丸ごと買える」
「それでリーフが買えたというわけさ」と、ジャレッドはいった。
「これで半分……そしてもう半分……わしの世界の二年分の生産量だ。これ以上高価な輸出品は望めない。いったいこれで何をしようというのだ?」
ジャレッドは冷ややかにラムを見つめた。沈黙が大きさを増した。ラムは背をむけた。
ジャレッドは解読機をとると、新しい暗号をセットした。そしてメタルをあらためてながめることもせず、ケースの蓋を気学的な心棒の上におろした。「わしが謝礼をごまかしたとは思わないのかね?」ラムが辛辣なユーモアをこめて交信触手をうごめかせた。
ジャレッドはあたたかみのすこしもない微笑を返した。
「あんたはそんなことはしないさ、ラム。もう一度おれを雇いたいんだからな。シグマ2[#「2」はローマ数字]征服のために」
ラムの副官が激しく体を震わせた。怒りの表現だった。ラムは触手をふって副官を静めた。
そしてジャレッドにむかって一歩踏みだした。
「そう。そのとおりだ」
ジャレッドは背をむけ、スクリーン五〇を指さした。「見ろ、ラム。リーフの破滅が近づいている」
スクリーンにうつるリーフの空は、昼の訪れとともに黄色に変わっていた。赤い太陽は、はるかかなたのぼやけたしみだった。その真紅に染った空の一郭から、ラムの選んだ総督が舞いおりてきた。人間を思わせるその胴体は、イカ型の頭部にあるやわらかいひだえりのなかにたくしこまれている。たったひとつの巨大な眼球をみどり色に輝かせて降下する総督の頭上では、くさび状攻撃隊形をかたちづくるジャレッドの侵略軍に守られて、イカ生物のクルーザーがゆうゆうと飛んでいた。
総督は、ジャレッドの傭兵から惑星の支配権をひきつぐためにおりてくるのだ。彼のイカそっくりの体表は、歓喜のあまり赤黒くほてっていた。
ラムの触手がジャレッドの肩におかれた。莫大な富とひきかえに数々の世界を征服してきた男は、かすかに首をまわした。ラムは熱のこもった調子でいった。
「これで二つの世界が手にはいった。つぎはシグマ[#「2」はローマ数字]だ。そのあとは、ゴーラ、カーシス、ヴェイル、そしてカルパーニカ。この星系はわしの種族が支配する。われわれは交易のもっとも盛んな空域の中心にいる。すべての半分がおまえの報酬だ。ジャレッド?」
スペイサーは、チュニックを思わせる服を着ていた。服に袖はなかった。彼はふしくれだった片方の上腕を、いかつい指でもんだ。ラムの問いかけにも沈黙したままだった。その表情には、石のように冷たい何かがあった。
「おまえの仕事は知っている」ラムは執拗にいった。「わしの手もとにある報告は完璧だ。だから、おまえのところに来たのだ。おまえが同一星系の仕事を何回かひきうけたこともわかっている。銀河系でのわしの地位を強化するために、ほかの五つも頼みたいのだ。リーフが奪いかえされたら!」
ジャレッドは抑揚のない声でいった。彼の回答はそっけなく、しかも決定的だった。「ことわる」
「しかし、なぜ?」
そのときには、ジャレッドはラムのそばを離れていた。
ラムはすこしのあいだ彼のうしろ姿をながめていたが、つぎの瞬間、音もなく追いすがるといきなり触手をジャレッドの胸と腰にのばした。そしてふりかえらせ、空気のもれるような声でいった、「 オオオゥムアアイイイイ、ゥアアア、ゥアアアシシイイッ、ニイイイ、ムカアアアアッテェエエ!」
ジャレッドの動きはほとんど目にもとまらぬほどすばやかった。腰にまわった太いロープのような触手を片手でつかむと、もう一方の手で胸にからみついた触手をおさえ、膝をかがめて呪縛から逃がれた。そして両足をしっかり踏みしめ、奇妙な格好で体をすくめると、イカ生物の巨体をたかだかと宙にさしあげてふりまわし、艦橋から放りだした。予想外の、まったくみごととしかいいようのない早業であり、ラムは隔壁にたたきつけられた。しかし四肢や触手がもがき、からみあっていたのは、投げられた瞬間だけだった。宙をとぶあいだに、ラムの体は本能的にイカ型頭部のひだえりのなかにたくしこまれ、触手が最初に壁にふれて激突の衝撃をやわらげた。ついでヒューマノイドの体がイカ型頭部からすべりだし、ラムは何ごともなかったかのように両足を甲板におろした。
ジャレッドはイカ生物に指をつきつけた。「おまえに委託された仕事はひとつ――たったひとつ、だけだ、ラム。おれはその仕事をし、おまえは礼金を払った。契約は履行されたんだ。手にはいった領域だけを支配するがいい」
地球人の言葉に、ラムは怒りを見せなかった。彼は急ぎ足で昇降シャフトにむかうと、そのなかに消えた。あとに残されたイカ生物たちは、地球人の命令を待ちうけるように立ちつくしている。ジャレッドは何もいわない。
やがて副官が合図し、彼らはラムを追って船体下層部におりていった。
ラムとその一行を乗せた宇宙船が、テンペストを離れたのはそれからまもなくだった。ジャレッドはスクリーン七一〜五を通して遠ざかる船影を冷たく無表情にながめた。しかしそれからかなりのち、アーナクの特別攻撃隊が撤退し、かわりにおりたったラム配下の占領部隊が、力場スクリーンで遮蔽された区画で大虐殺を開始すると、ジャレッドの顔はうちからこみあげるさまざまな感情に激しく歪んだ。
数時間のうちに、リーフの人口の四分の三が滅びた。生き残った数百万は、すでに作業地域に移送されはじめていた。
ジャレッドは軌道算出コンピュータに帰路のデータを入れ、その場をはなれた。
つけっばなしのスクリーンには、空間と虚空間、星々と車輪花火を思わせる数々の銀河系が映しだされていた。
彼は暗闇の孤独のなかに身を沈めた。
メタルのケースは艦橋に放置されたままだった。
あらたに征服された世界と帰還基地とを結ぶ線上でテンペストがその船体をのびひろげてゆくあいだ、ジャレッドは艦橋に出ることもなくたったひとりすわっていた。
船体下層部では乗組員たちの会話もとぎれがちだった。すべて忠実な部下ではあったが、彼らの雇い主が与える任務のなかには、ときとして彼らのもっとも基本的な動機と照らしあわせても首肯できないものがあるのだった。
そこには、夜――
つねに夜があるだけ。
そして夜のなかには、静寂のほかほとんど何もないのだった。
顔というにはあまりにも醜い、あばただらけのジャレッドの月が、しだいに大きさを増してくる。彼を迎えいれる家は、その月だけ。しかし彼にとって、それはやはり家というより帰還基地だった。ジャレッドは、二百のスクリーンにうつる、月の二百の様相をうつろにながめた。彼は耐えきれず眼をとじた。
どことも知れぬ虚無の暗い果て、ジャレッドの月を周囲の宇宙から閉ざす不可視の隠蔽バリアーに近づくと、彼は突入の信号をコードした。
荒廃した月の表層がするするとすべって口をあけ、宇宙船は内部にはいった。月はテンペストの上方で地殻を閉じた。ほかの艦はすべて到着していた。ジャレッドは艦を出ると、係留ドックの片側にならぶ昇降シャフトにとびこみ、都市レベルに吸いあげられた。
ジャレッドの月は、人工の空洞になっている。中心にはマシーンが据えつけられ、ジャレッドのシティはそのマシーンをとりまくようにして建設されていた。それは難攻不落の砦であった。
彼はまっすぐ市中にある別邸に帰りつくと、乱暴に服をぬぎすて、バスにつかり、マッサージ機で体をもみほぐした。そして二十六時間眠った。
めざめたとき、都市には人工の夜がおりていたが、彼は朝食の献立をパンチした。低い落ち着いたマシーンのうなりが、床や天井や周囲の壁から伝わってくる。マシーンは考えているのだ。
彼は椅子のへりに腰かけ、朝食をとった。
それから自分のベッドであったエア・ジェットを切り、もう一度バスで体を流すと階下におりて、部下がメモリーコーダーに入れた情報をチェックした。項目は六つ、到着順に記録されていた。
[#ここから2字下げ]
1 銀河友邦体の代表団が、正式起訴状を手わたすため二ヵ月前に来訪。
2 キムより依頼人。用件――同じ太陽系内の海洋世界ワー=ホワイティングの征服。
3 七惑星連合会より依頼人。用件――かつての十惑星同盟のうち、連合に加わろうとしない残り三惑星の征服。
4 旧依頼人タイマールのラギシュが、その後の反乱によりこうむった打撃を理由に、報酬の一部返却を要求。報酬の内容――奇蹟の薬品Y=カッパ。
5 バニヤン4[#「4」はローマ数字]より依頼人。用件――近隣の星系にある女権世界ケインの征服。
6 征服された惑星イーエラックスより代表使節。用件――同惑星の支配権奪還。
[#ここで字下げ終わり]
彼は、四、六、三、二、一、五の順にプログラムした。メモリーコーダは、いずれの代表団も徹底的な調査にパスしたことを告げた。いま彼らは快適な宿舎を与えられ、ジャレッドがリーフの仕事からもどるのを待ちうけている。
彼は別邸の居間に落ち着いた。周囲には、ずっとむかし地球からとりよせた重量感のあるオークの家具がならんでいる。彼はひっそりとすわり、タバコをくゆらしながら、リーフのことを思った。
殺戮は酸鼻をきわめた。その規模は、当初考えていたより大きかった――だがマシーンが予言した以上のものではなかった。ラムの性格と侵略の理論的根拠をマシーンに入れたのちには、予言の誤差は少数点以下までさがった。マシーンは常に正しいのである。
ジャレッドは、この侵略征服計画に着手したころのことを思いだしていた。最初の仕事、太古の――そして現在はほとんど忘れられている――ゲリラ戦法を利用した小規模なものだったが、それはマシーンの建造に充分な資金をつくりだした。彼が必要とした科学スタッフもそれで雇いいれることができた。マシーンのこの最初のプロトタイプは、第二の仕事の計画立案をもうしぶんない精度でやってのけ、この成功から最初の基地と軍隊が生まれた。組織は着実に膨張し、それとともに名声は多くの星群にひろがっていった。ジャレッドが、この暗黒星をめぐるただひとつの惑星の月の掘削作業にかかったのは、十年前のことである。そして今、外敵の侵入を許さない、密閉された衛星の内部に隠れる彼のもとに、どのような経路をたどってか、毎年数百件にのぼる依頼が殺到しているのだった。彼が会見に応じるのはその一部――大半はそこではねられる。それを通過したもののうち、要請がマシーンにプログラムされるのは一握りにすぎない。その一握りのなかから、わずかそのひとりかふたりが正式な依頼人として認められるのだ。
だがいったん契約が成立するや、ジャレッドの作戦に失敗はなかった。ジャレッドの世界殺戮の才能、彼の軍隊とマシーンの助けを得て、支配者をかえた世界は百七十四に達していた。
いまではシティはずっと大きくなっている。マシーンは自己改造し、いっそうかさ[#「かさ」に傍点]を増している。装備は最先端を行くものであり、彼の侵略テクニックは比類ない。属われ世界殺戮者ジャレッド。はじめのうち征服の代価は、莫大な額の銀河公金で支払われていた。だが年がたつにつれ、彼は金《かね》のかたちでの報酬を受けつけないようになった。
その代価が、途方もない量の抗死剤であることもあれば、鉱石を豊富に産する小惑星の所有権であることもあり、またべつのときには、あるものを政府の要職につかせたりすることもある。でたらめな代価の内容、でたらめな依頼人の選抜――そこには一定の形式や方向性はいっさい見られない。ただジャレッドの名前だけが、ほとんど伝説の衣に包まれて、怖れと憎しみを人から人へと伝えてゆくばかりだった。
ジャレッドは、応接室のほうから近づいてくる足音に気づいた。目をあげると、オークの梁をわたした居間へ通じる短い階段の最上段に、ドナ・ギルが現われたところだった。
「おかえり」と、異星人はいった。
彼は階段をおりてきた。毛皮につつまれた球形の頭が、駝鳥のそれを思わせる三本の長い脚の上でひょこひょこと踊った。二つの澄んだ大きな眼が、心配げにジャレッドを見つめた。異星人の顔は、器官それぞれの位置だけから見た場合ヒューマノイドといっていいが、より正確には、知性を持った鳥の化けものに近かった。
「顔色がわるいな」
ジャレッドは大きな肘掛け椅子に沈みこみ、メモリーコーダーを押しのけた。コーダーは、鏡板をはった壁のくぼみにむかって動いていった。近づいたとたん壁がひらき、装置がなかにはいると鏡板がしまった。部屋はふたたび十八世紀風の居間にもどった。「ちょっと疲れただけさ」
「どうだったんだ?」
「上々だろうね」
「マシーンにまちがいはなかったわけか?」
「ラムは少数点以下のところまできれいに運んでくれたよ」
ギルは脚をおりまげ、毛の密生した。まん丸い頭部をジャレッドの眼の高さにおろした。「こちらの思惑どおりだな」
「おれは楽しんで見ていたわけじゃないよ」
「もちろん。そんなつもりでいったんじゃない」
つかのま二人は黙ってすわっていた。やがてジャレッドは深く息を吸いこむと、話題を変えた、「この銀河友邦体の代表団というやつだが、どんなのがいる?」
「地球のベッカー、アルファC9のスティーグリッツ、それから若いので、なんてったかな、モーシー、モリシー……」
「モシニだろう、フランス系の。カニ星雲から来たやつじゃないのか?」
「そう、それだ」
「ほかには?」
「いつものメンバーさ。おそれおののく惑星友邦体の代表者たちだ」
「あまり気にしていないようだな」
「もうマシーンに食わせたからね」
「それから?」
ギルは頭をゆすり、「大したものはない」といった。
「そういえば、ようやくバニヤン4[#「4」はローマ数字]からやってきたな」
「三年かけてそそのかしてきたかいがあった。クーパーをあの地位につけたときから、こうなることはきまってたんだ。あれは、みごとな作戦だったよ」
「そうむかしのことを思いださせないでくれ。そのためにしたことを考えると……」
「だが、おかげでここまでこぎつけたんだ。しかたがないさ。あれ[#「あれ」に傍点]をよこすと思うかい?」
「やつらにケインは必要だ。なにがなんでも手にいれたい。くいついてくると思うね。マシーンはなんといってる?」
「まだそこまで外挿していない」
ジャレッドは立ちあがった。「さて、道化芝居を始めるか」
人間と異星人は、居間の鏡板の一個所をあけ、その裏にある秘密の通路を通ってモノレール停留所に出た。一本の軌条が、月の内部にうがったトンネルの薄闇のなかに消えていた。せまい車室にはいり、ジャレッドが光るプレートの上に手を走らせたとたん、モノレール車は動きだした。
旅はわずか七十秒で終わり、車輌は、昇降シャフトがかすかな摩擦音をあげる低い洞窟でとまった。
ジャレッドとギルはシャフトをくだり、接見室へ通じる真空ロックの前におりたった。ロックを通りぬけると、ジャレッドが回転パネルをまわした。そして二人は接見室にはいった。
接見室をかたちづくる信じられぬダイヤモンドの銀白の光のなかに立つと同時に、彼ら自身の百兆の反射像がジャレッドとギルをのみこんだ。
世界の殺戮を業とするこの男にとって、来訪者あるいは潜在的依頼人は、すべて征服された世界から送られてきた暗殺者の可能性を持っている。したがってジャレッドは、復警から身を守るあらゆる手段をこうじていた。
彼がアイソピア征服に成功したとき、依頼人はその報酬として直径八分の一マイルに達するダイヤモンドを支払った。それは、この目的のためにジャレッド配下の地質学者たちが、アイソピアの〈ガラスの山〉で直接選定したものだった。百兆の身がわりのなかから、ひとりの実物を殺せるものがどこにいよう?
ジャレッドとギルは、インタビュー制御卓《コンソール》にむかってすわった。ギルが最初の依頼人に、降下の合図をおくった。
先刻二人が使ったのと同じようなパネルを通って、タイマールのラギシュとその一党がダイヤモンドのつきあたりに現われた。そこまでは相当の距離がある。だが彼らのイメージは、たちまち部屋の内部にみちわたり、入り乱れた。ダイヤモンドのなかで、彼らはジャレッドと向きあった。
ジャレッドは三分を費して、支払われた報酬の一部返却が不可能な理由を、明解にラギシュに説明した。そして、いったん手わたした世界がどれほど扱いかねるものであろうと、その責任までは持てないことをくどいほど強調した。ラギシュとその一党は去った。
イーエラックス亡命政府の依頼をはねつけるのには、一分を要しただけだった。
七惑星連合の依頼をはねっけるのにも一分。ただしこちらは、地球時間の四年後にまた来るように、と一すじの希望の光を添えて。
キムの代表団を皆殺しにするのにも一分。厳重な警戒の網をくぐって侵入したインチキ依頼人だった。暗殺計画は巧妙なものだったが、三人の異星人はにしき織りの派手な服から、追撃ミサイルを発射する間もなく蒸発した。
そして、仕立てのよい服を着た、銀河友邦体の一行が入場した。
スポークスマンのべッカーは、まっ白いひげを生やした大柄の男だった。この男には、うむをいわせず相手の心に、優しさを分別と正直さとサンタ・クロースのイメージを植えつける才能がある。
ジャレッドは彼を知っていたので信用しなかった。
彼らはダイヤモンドの遠いつきあたりにいたが、壁のピックアップが彼らの声をはっきりとジャレッドに伝えた。「こんばんは」と、ベッカーが口をきった。
「起訴状をお持ちになったそうですな、ベッカーさん」ジャレッドの口調はおだやかだったが、外交儀礼の無視はベッカーを驚かせたようだった。
「だから、うう、ここに来たんだがね」
「よし。では、問題にはいろう」
ベッカーは、カニ星雲のモシエらしい若い男に声をかけ、いくつかの書類を運ばせた。そして、きらめく接見室の遠いつきあたりから書類をジャレッドにさしだした。だが、こっけいなジェスチャーであることに気づいたのだろう、彼は手をおろした。「くわしい内容はここに個条書きしてある」
「読んでください、ベッカーさん。わたしの時間はすくないのだ」
「きみは侵略政策を中止しなければならない。銀河友邦体に属するわれわれは、平和と協調の精神のもとに団結した――われわれの目的は、宇宙の文明圏を統一へと導くことだ。人間が地球からとびたって以来、戦争や征服がいくたびくりかえされたかわからない……」
「歴史ぐらいは、わたしだって知っていますよ、ベッカーさん。おそらくあなた以上に。そのうちのかなりの部分を作ったのは、わたしなのだから」
「傲慢は死を招くことになるぞ!」
「偽善はあなたの死を招く!」
ベッカーはつかのま口ごもった。
「無作法は承知の上でいわせてもらいましょうか、ベッカーさん。過去二年のあいだに、わたしは銀河友邦体のさまざまな惑星から九回にわたって要請をうけている。
今あなたが述べられた平和祈願の言葉は、あっばれなものだと思う。個人的あるいは商業的な意味では首肯できないが、理性的にはわたしも充分共感する。あなたの願いがかなったとしたら、わたしは失業してしまうわけだ。これはわたしには、あまり気持のいいものではない。しかし立派な考えであることは認めよう。
ただし残念ながら、ベッカーさん、あなたはかたり[#「かたり」に傍点]だ。銀河友邦体そのものがそうであるように。名前など何の価値もない。銀河友邦体。連合惑星。統一惑星群。これまでわたしは、そういったものが現われては消えてゆくのを見てきた。圧力がかかれば、条約に加盟しているどの惑星も、仲間を裏切って、わたしを雇おうとするだろう。星間航路を支配できるチャンスがあると考えれば、なんだってやる。地球にしても例外ではない。われわれはみな、地球に対して深い本能的な愛情を持っているということになっている。だが、あの泥のかたまりがほかの惑星以上に公正だとか貴重だとか思ったら大まちがいだ、ベッカー。事実、アルファC9に関して、わたしはすでに数回、地球からの打診をうけている。スティーグリッツさん、そのなかにいますか?」
やせた長身のケンタウリ人が進みでた。鮮かな赤い肌が、怒りで脈打っている。「ここだ!」
「その件についてベッカーさんにたずねてみたらどうかね。いちばん新しい打診は、スパーク大統領自身から来たものだったよ。プロキシマC1のスイス中立国家復合体から送られてきた」
ベッカーとケンタウリ人のあいだに、たちまち熱っぽい論争がおこった。ジャレッドは彼らにダイヤモンドからの退場を命じると、それにかぶせるように、ジャレッドの月の攻撃を企てるものは、これまで彼によって征服された惑星と同様の運命に見舞われるであろうと警告した。
代表団の姿が消えると、地球人は椅子に沈みこんだ。
ギルがじっと見つめていた。「すこし休んだらどうだ?」ジャレッドは首をふった。「ご馳走をいただこう」
バニヤン4[#「4」はローマ数字]の代表団が昇降シャフトからおりたち、申請を行なった。ジャレッドは聞き、代表団の話が終わると、制御卓《コンソール》を通じて付加的事実をマシーンにプログラムした。回答がもどってきた。予想どおり、イエスだった。
「引きうけよう」
「その価格は?」依頼人はきいた。
「もちろん、考えられる最高のものをいただく」と、ジャレッドは答えた。
ケインは、アマゾン世界ではない。女性人口が男性のそれを圧倒していたわけでもない。だが、統治能力において女性が男性より優れていることは、数世紀まえから既成の事実となっていた。ケインの住民はそれにしたがい、惑星の行成権をほとんど女性の手にゆだねたのである。〈至高官〉の地位に立つ女は、民衆の投票とコンピュータの資格審査によって選ばれる。大統領、女王、上院のスポークスマン、それらの性格をあわせもつ現統治者は、至高官イリーナ――しかし彼女が女であることに変わりはなかった。
ケインに到着してから彼の時間で三ヵ月後、彼女はジャレッドを発見した。
彼は、ケインの首都エルサレムの中心部にある猫公園で、彼らのしかけた罠にはまった。
男女混成の諜報部隊はまず公園を包囲すると、それからしだいに中心へとせばめていった。ジャレッドは、ナイトクラブのコメディアンに変装していた。禿頭のまわりにふさふさした白髪の輪が生えている太った老人。ところが人工皮膚の空気がぬけたため、変装はかんたんにはがれてしまった。最初の諜報隊員が現場にかけつけたときには、彼は油を塗ったまっ黒な密着スーツ一枚の姿になっていた。彼らはジャレッドを生捕りにする命令をうけていた。彼が木の上にとびのると、ケインの猫たちがけたたましい鳴き声をあげて、いっせいに茂みからとびだしてきた。彼は追手の眼を逃がれ、暗闇のなかを木から木へとびうつった。
彼らはサーチライトと火炎放射機を持ちこみ、ジャレッドがめざしている方向にある林を焼きはらった。そして羽毛の葉をつけた木々のなかに追いつめた。サーチライトの光がとらえたとき、彼の姿は消えた。
彼らの頭上高く、夜空を背景に、明るいブルーの光点が現われ、一瞬またたいて消えた。
ジャレッドは、エルサレムを二分して流れるガンジス川の左岸にふたたび現われた。いま彼は、酸素マスクを頭につけ、腰のベルトには武器をつるしていた。
そして手首に巻いた装置の目盛りを読むと、川にとびこんだ。汚染された闇のなかを、彼は泳いだ。特別製の照明ゴグルも、視界をひろげる役にはたたなかった。
川底近くに達したとき、諜報隊員のひとりがスクリーンのブリッピングで彼の所在をっきとめ、接近してきた。ジャレッドは三叉槍をのばして男を迎えうった。男は槍を胸にうけ、ぶざまにのたうちながら闇にのみこまれた。
内部に通じる防水ロックはなんなく見つかり、ジャレッドは簡単にその一個所を爆破した。流れこんだ水の排出が終わると、武器をぬき、侵入口をふさいだ。室内に静けさがおりた。ジャレッドは手首の装置をながめ、右手にあるかたい金属の壁をさぐりながら歩いていった。とつぜん壁がするすると動き、天井から床までダイヤルと回路表示器で埋まった司令室が目の前にひらけた。女は彼に背をむけていた。
「おれのマシーンのようにはいかないさ」
女はぎょっとしたようにふりむいた。輪に通した薄い金属片の束が、その手から落ちた。
「フェイザーが落ちたよ」
女は、書類で見た写真より美しかった。電送写真ではとらえられない美しさがあった。だが愛らしさのほうは、美しさほどではなかった。少女のころは愛らしかったにちがいない。だが成長とともに、愛らしさは、たくわえられる分別と形成される人格の前に敗退していったのだ。だが失われたのは、愛らしさだけにすぎない。いま彼女は一段と美しかった。
「だれ、あなたは? どうやって……?」
「おれがケインに潜入したことを知らせた装置が、同時にきみの司令室の所在をこちらに教えてくれたわけさ」一瞬の間をおいたのち、彼はつけ加えた、「スパイ行為は両刃の剣だと、おれは思っている。ふつう、それは同時に両方の側を傷つけるものなんだ。今きみにとっていちばん重要な言葉は、危険だよ」
彼女は壁のボタンに走った。ジャレッドは一瞬早く彼女の腕をとらえた。彼女はつかまれた腕に力をこめて、ジャレッドをふりまわした。彼はてこの原理を逆手に使って、かろうじて体勢をととのえたが、慣性を利用して彼女がぶつかってきたため、壁にはねとばされた。
彼女はふたたびボタンに手をのばした。
ジャレッドは銃を発射した。ビームは彼女をかすめ、ボタンとその回路を含む壁の半分を吹きとばした。
衝撃で彼女の体ははじけとび、キャビネットのへりに首をぶつけた。彼女は白眼をむいて崩折れた。ジャレッドは立ちあがり、女に近づいた。
失神しているだけだ。
彼は女の顔に酸素マスクをかぶせると、肩にかつぎあげ、司令室を出た。
水面へ出るまでに彼女の呼吸がとまったにしても、確認するすべはなかった。瞬送装置でテンペストの観測センターに実体化し、医師に診察させたのち、はじめて彼女がまだ生きていることを知った。
彼女が鎮静剤の作用から脱して目ざめたのは、ケインを発って三日後のことだった。
あたりを見まわし、すぐさま自分の居場所をさとった彼女は、宇宙船から脱出しようとした。
ジャレッドはふたたぴ彼女を眠らせた。ケインの至高官イリーナを、虚空間の無色の真空のなかで死なせてはならない。
ギルが待っていた。彼は心配そうだった。人間が心配しているときうかべる表情とは、似ても似っかない。だがギルはメクスラ人であり、ジャレッドは彼の感情の動きを知っていた。彼はたしかに心配そうだった。
「もし彼女が協力しなかったら?」
「協力するなんて最初から思ってないさ」
ギルは長い脚を折りまげてすわり、また脚をのばした。
「じゃ、いったいどうやって――」
「いや、頭脳走査はいかん。薬もだめだ。なんとか彼女をその気にさせるんだ」
「どうやって!」
「前にこんなことをいったな。建設的な意見が自分のほうになかったら、相手の思いどおりにさせると」
「ジャレッド、しかし、もし……もし万一……」それ以上、言葉がつづかない。あまりにも危険すぎ、あまりにもおそろしすぎる考えだった。
ジャレッドは異星人の体にそっと手をやった。「ギル、とにかくここまでこぎつけたんだ。もしわれわれがまちがっていたとして、もしきみのいうもし万一≠ェ……つまり、途中で失敗したとしても、そんなことはどうでもいいじゃないか。今われわれにたてまつられている名前が、永久に残るというだけだ。もしわれわれがうまくことを運べば、すべてはうまく行く」
ギルはあきらめたようにうなずいた。「マシーンに会いに行くのか?」
ジャレッドはうなずいた。「プログラミングはすんだのかい?」
ギルは彼とならんで昇降シャフトまで歩いた。「ああ、きれいさっばりとな」
ジャレッドはふたたび彼の体に手をやり、毛皮をやさしくなでた。「落ち着けよ、今からじゃ引き返せないんだ」
彼は昇降シャフトで月の中心におり、人びととマシーンを隔てる力場ロックの前に立った。そしてこの宇宙にあるたったひとつの鍵――彼の脳波パターンに同調させた装置で、ロックをあけた。
巨大な扉がひらき、ジャレッドはなかにはいった。協議のためマシーンに召喚されたのは、何年ぶりかのことだった。彼はマシーンの前に立った。その上部は、洞窟の闇にのみこまれて眼には見えない。世界の殺戮で富をたくわえてきた男――そして彼に忠実につかえてきた金属の脳。「やあ、ジャレッド」と、マシーンはいった。
「ひさしぶりだな」ジャレッドはいい、マシーンにそなえつけられたフォームフィット・チェアにむかった。椅子にかけたとたん、奇妙なことに彼は全身の緊張がみるみるほぐれるのを感じた。長年のあいだ忘れていた感覚だった。マシーンとの会話は、ギルとのそれとすこしも変わるところはない。なぜならマシーンは、その異星人の声紋を自分の発声装置にとりいれたからだ。ギルの暖かみのある、おだやかな声が、ジャレッドの周囲にひびいた。だがそれは、洞窟内部にそびえる、注油された冷たいマシーンの発する声だった。
「至高官は連れてきたのか?」
「ああ、連れてきたとも。しかし、あれが侵略に必要だというのはたしかだろうな?」
「ぼくがまちがったことがあるかね?」
ジャレッドはかすかに笑った。「そんなことがあったとしても、こちらには調べようがない」
マシーンは考えにふけるようにツーツーと言葉にならない音を発した。「マシーンに力を与えすぎたと考えているのか?」
「主人をからかうのはマシーンらしくないな」
「すまん。ただたずねただけだ」
「いや、力を与えすぎたとは思っていない――ただ回路のどこかがショートして、修理するとき偶然に接続をまちがえたらと思うとこわくなるんだ。こちらが、ロボットみたいにはい、ご主人様≠ニいわなきゃいけない羽目になるかもしれない」
「人間を支配するつもりはないよ。ぼくは満足している」
ジャレッドは、それが嘘をついていることを知っていた。マシーンは嘘をつかない、思い迷うことはない。だが、うわべだけの真実を自分にプログラムすることはあるかもしれない。
「ケインの侵攻作戦が心配なんだな」マシーンは、ジャレッドの心にわだかまる問題を見抜いた。
「今度はろくに説明もしてくれないんだからな」
「理由はあるんだ。きみはたったひとつの目的のためにぼくを作った。その目的をぼくは達成しなければならない。だから、それに必要なことは何でもする。今までは計画の第一段階にいた。だが、いよいよ第二段階にはいる。もっとも困難な部分だ。ただ、こちらにはひとつだけ弱みがある。
「それは……?」
マシーンは間をおいた。「きみさ」
ジャレッドは大きく眼を見開いた。多くの疑問がみるまに氷解した。無秩序な思考の嵐が心のなかで荒れ狂い、彼はフォームフィットに沈みこんだ。
とうとう彼はいった。「それで至一局官イリーナが必要になったわけか」
マシーンはすぐさま答えた、「そのとおり。われわれには、きみ[#「きみ」に傍点]には、彼女が必要なのだ。機械と接触しているうちに、人間自身が機械のようになってしまうことがよくあるだろう、ジャレッド。人間はその責任を機械にかぶせる――人間性を奪われたといってね。きみといっしょにこの計画をすすめるようになって、十五年になる。ぼくが完成される前の七年間は、きみひとりでやっていた。二十二年間だ、ジャレッド、どんな人間にとってもかなり長い期間だ。きみ自身にとっては、人生の大半かもしれない。これを始めたおかげで、きみはたしかに寿命を縮めている。しかも、ぼくとそっくりになってきた。そう、われわれにはイリーナが必要なんだ」
彼らは何時間も話しつづけた。
そしてジャレッドはシティにもどった。シティでは、ギルが待ちうけていた。ジャレッドは疲労困憊していた。異星人と眼が会うと、彼はつかのまほほえみ、ささやくようにいった、「家に連れていってくれ、ギル。眠りたい」
メクスラ人は崩折れた彼を抱きあげ、別邸へ運んだ。そして服をぬがすと、ぬくもった大気のジェット噴流の上に彼の体をのせた。
やがて異星人は自分の家にかえった。
だが彼に眠りは訪れなかった。
ギルには理解できなかった。マシーンは、ジャレッドがみずからケインの偵察におもむき、みずから至高官イリーナを生捕りにすることを命じた。だが、信じられぬほど単純なこの侵略計画のなかに、彼女が必要になりそうな場面はどこにもないのだ。
この任務に着手したとき、マシーンはただこういっただけだった。至高官イリーナを生捕りにせよ[#「至高官イリーナを生捕りにせよ」に傍点]。ジャレッドはいのちを賭けて、それをなしとげた。そのあとジャレッドは下におり、マシーンと話しあったが、もどったあとも話の内容をうちあけようとはしなかった。
だが翌日手わたされた作戦計画には、至高官イリーナの役割も書きそえられていた。マシーンは、彼女をテンペストに搭乗させ、侵略のすべての段階を見せるようにと指示していたのである。
疑問が渦まき、ギルは落ち着かなかった。どこかおかしい。どこかがおそろしく狂っているような気がするのだ。
そして今、掃蕩戦の最終段階に見いりながら、狂人のようにくすくす笑いを続けているバニヤン4[#「4」はローマ数字]の依頼人のかたわらで、ギルはイリーナを縛りつけている力場帯をたしかめ、この任務をひきうけたことを後悔していた。
作戦が行なわれているあいだ、彼女は黙りこくっていた。仕事は一日でかたづく程度のものだった。ケインはこうした攻撃にはきわめてもろいのだ。彼女が見守るうちにも、ケインの死はますますたしかなものになっていった。
ジャレッドは二百枚のスクリーンの前に立ち、殺戮を指揮しているだけで、彼女にはまったく注意をはらわなかった。エルサレムの空が赤く輝いたときも、都市が消滅したときも、イリーナは口をつぐんでいた。シュトゥーカがプランダー製煉所を爆撃したときも、軍事基地のある山が溶けたガラスのクレーターに変わったときも、口をつぐんだままだった。〈惑星占領〉の信号がはいったときも、彼女は黙って眼をとじ、力場帯のなかに体を沈めた。
「よし、十七号。かたづいたよ」ジャレッドの声に、バニヤン4[#「4」はローマ数字]の依頼人はふりむいた。節こぶになった関節、ペーパーナイフさながらにとがった鼻、細いグリーンの眼、地球の伝説からぬけだしたような痩せた長身の生きもの。
「うん、結構、結構」異星人はそういい、嬉しそうに関節をこりこりと鳴らした。作戦のあいだ、彼はヒステリックに笑いつづけていた。ジャレッドは彼を軽蔑していた。
「ただ、ひとつやり残したことがある」いいながら、十七号はレーザー・ディスクに手をのばした。そして力場に縛られたイリーナのほうを向いた。「さようなら、わたしのイリーナ」
彼は腕をぴんとのばすと、三つの関節をするどく折りまげてディスクをまわした。イリーナは冷ややかに見返した。その眼に恐怖の色はなかった。
「いかん!」
十七号の関節の鳴る音に負けぬ、鋭い叫び声がとんだ。十七号は長い首を段階的にねじまげて、ジャレッドを見つめた。レーザー・ディスクを持った、針金のように細い腕はまださがっていない。
「いかん≠ニいってるんだ」
十七号は、狂人のそれを思わせる金切り声で笑った。「これは至高官イリーナだよ、殺し屋くん。反撃を指導するものがいるとしたら、この女しかありえない。彼女は殺さねばならんのだ。 いま!」彼はふたたびイリーナにむきなおった。
「まだ報酬をもらっていないな、十七号」
「そのうち払おう」
「いまだ」
「やり残した仕事をかたづけてからにしてくれ」
「死んでもかまわなければな、十七号」ジャレッドは背後からいった。バニヤン4[#「4」はローマ数字]の依頼人はふたたび段階的にふりむき、ジャレッドの手にある武器に気づいた。
「何の真似だ?」
「いま払ってもらいたい。この場で」
十七号は、ギルとジャレッドの動きをその眼で同時にとらえようとした。ギルは艦橋をゆっくりとまわってくる。自分のいのちが狙われていることまでは十七号にもわかるのだが、その理由が見当つかない。
「何で支払えばいいのだ? それを聞かせてくれ」ジャレッドは女のほうを見て、あごをしゃくった。
「いかん!」異星人は、ほんのすこし前、地球人の口から出た言葉を、それに匹敵する激しさでくりかえした。
ジャレッドは距離をつめ、十七号のうしろにある貴重な計器が破壊されない位置に立って武器をかまえた。「イリーナをゆずってくれ。それが征服の代価だ。彼女を殺せば、軍隊をひきあげさせる。三ヵ月後には、われわれはバニヤン4[#「4」はローマ数字]にいるだろう。いま見たものが、そこでくりかえされることになる」
十七号はディスクをおろした。
「彼女はきみのものだ」
ジャレッドの返事は快活だった。「ありがとう、十七号。さあ、惑星をとるがいい」
バニヤン4[#「4」はローマ数字]の依頼人はほうにうの体でブリッジから逃げだした。数分後スクリーンは、テンペストから逃げだしてゆく宇宙船をうつしだしていた。
「軍にオーケイの合図を送ってくれ。もう交替させてさしつかえない」
ギルは立ちあがると、探知機有効範囲のすぐそとに待機するバニヤン4[#「4」はローマ数字]の艦隊に、ケインの支配権を譲りわたすため艦橋を出ていった。
イリーナは、大気圏に突入してゆく艦隊をしばらくながめていたが、やがて眼をそむけた。
ふたたび顔をあげたとき、そこには彼女を見つめるジャレッドの眼があった。「わたしを殺させればよかったのよ」低い平静な声で彼女はいった。「わたしが生きているかぎり、あなたに安全はないわ」ジャレッドは武器をおいた。
「基地におれの友人が待っている。彼と話してくれ」そしてジャレッドは背をむけた。
彼らはジャレッドの月に帰還した。力場帯が解かれた瞬間、イリーナは彼を殺そうとした。その試みは成功しなかった。さほどもみあうこともなく、ギルが彼女の顔に催眠剤をスプレイしたからである。
めざめると、彼女は洞窟のなかにおり、フォームフィット・チェアにすわり、マシーンとむきあっていた。
マシーンはジャレッドが、彼の依頼人たちのだれよりも高い代価をその征服のために支払っていることを、彼女にむかって証明してみせた。マシーンは、環境と忠誠と年齢が閉ざしている彼女の心の通路をあけはなった。
そして彼女は知った――ジャレッドが何者であり、何をしているかを。
「空しい高貴な考えだった」と、マシーンはいった。「はじめから破滅を運命づけられていたようなものだった――わたしが創られるまでは。やがて万にひとつの希望が芽ばえた。それから二十二年。今では、それはひとつの可能性だ。宇宙の文明圏に秩序をもたらす。敬愛と道義で結ばれた世界を作りあげる。今ではひとつの可能性だ。われわれはつぎっぎと世界を征服しては、ジャレッドの依頼人にその支配権を譲りわたしてきた――だが恒久的な支配権ではない。時が来たら、征服のさいとられた手段への反発と、われわれがマスター・プランに組みいれた圧力がはたらきあって、すべての部分が定められた位置におさまる。侵略者たちは倒れ、すべての世界が相互的信頼のもとに結びあわされるのだ。巨大な銀河マシーンの歯車になるのだ。今あるような、けちな友邦体や連盟とはまったくちがう。個々の人間に、個々の世界に奉仕する、巨大なヒューマニスティックな機構だ」
イリーナはそのすべてを聞いた。はじめて真実の前にひらかれた心は、機械の語る真実をすべて吸収した。
「この仕事はたったひとりでしなければならない、方法はそれだけしかない――ジャレッドの孤独はそれを知っていたことから始まった。もし失敗したり、途中で死んだりすれば、彼の名は宇宙が生みだした最大の狂人として、百万の世界の歴史に刻みこまれるだろう。そこで、この仕事がなしとげられるまで、彼の正気と誠実さと寿命を保つことが、わたしのもうひとつの義務となった。征服のさいうけとる報酬は、どれもマスター・プランを満足させるために不可欠のものなのだ。あなた自身を含めて、いや、あなたこそもっと重要な因子なのだ」
イリーナは立ちあがった。
マシーンは最後にこうつけ加えた、「もしここにとどまるとしたら、ただ彼の妻になるだけではない。彼の知っていることをすべて学び、もし彼が死ねば、その代わりをつとめることにもなるのだ。そして時間があれば、彼の仕事をひきつぐ子供たちも生んでほしい。このことは、だれにも話してはならない。ギルにはもう知らせてあるが、これだけは彼にもどうすることもできないのだ」
イリーナは部屋を出ると、昇降シャフトをのぼった。そこにはメクスラ人が待っていた。「とどまってくれるかね?」と、彼はきいた。
「はい」と彼女は答え、そして何かいいたげにためらった。「やめましょう」やがて彼女はいった。「またべつのとき――いわねばならないことをいえるようになったら」
ギルは、ジャレッドの寝室に彼女を案内し、ひとり部屋を出た。彼女は、死と徒労の悪夢にうなされ、寝返りをうつジャレッドを見つめた。彼を愛しているのではない、おそらく一生愛することはないだろう。彼が好ましく思えるわけでもない、二百枚のスクリーンで彼女にあの光景を見せた男なのだ。だが心は決まっていた。彼女はギルにたずねる勇気のなかった問いを、いま無言のうちに問いかけていた
いままですべての神々が失敗してきたことが[#「いままですべての神々が失敗してきたことが」に傍点]、この神にはできるというのだろうか[#「この神にはできるというのだろうか」に傍点]?
だが宇宙の果てしない空虚は、それに答えようとはしなかった。ただ沈黙し、待ちかまえているだけ。統一 された宇宙の歯車となるべく待機する百万の世界。あるいは、自分の利益のために惑星を殺戮した男の名を、永遠に呪いつづけることになるかもしれぬ百万の世界。
[#地から2字上げ]ニューヨーク 一九六八年
[#改丁]
ガラスの小鬼が砕けるように [#地付き]伊藤典夫訳
Shatterd Like a Glass Goblin
[#改ページ]
八ヵ月後、ルーディはようやく彼女を見つけだしたーロサンジェルスのウェスタン・アヴェニューからすこしはずれた、ばかでかい不格好な屋敷のなかで、彼女はみんなといっしょに住んでいた。ジョーナばかりか、連中みんなといっしょに。
ロサンジェルスは十一月で、そろそろ日も暮れようとするころだったが、秋とはいえ太陽に近いことが売り物のようなそのあたりにしては、空気は妙に肌寒かった。彼は屋敷の正面の歩道で足をとめた。ゴシック風の不気味な屋敷である。芝生は半分刈りとりが終わっているだけで、刈り残された区画のまんなかに錆びた芝刈り機が放置されている――そのずんぐりした建物の両側にベランダ付きアパートがそびえているところからすると、半分刈りとられた芝生はアパートの口うるさい住人たちをなだめるジェスチャーなのかもしれない。
しかし、なんとふしぎなことだろう――高さでまさっているのはアパートのほうだし、古びた屋敷はあいだにはさまれ、ちぢこまって見えていいはずである。ところが威圧感を与えるのは、両側のアパートではなく屋敷のほうなのだ。なんとも奇妙なことだった。
二階の窓はボール紙で閉ざされていた。
玄関へ通じる道には乳母車がひっくりかえっていた。
玄関のドアには派手な彫刻がほどこされていた。
闇が重く息づいているようだった。ルーディは肩にかけたダッフル・バッグをすこしずらした。なぜかその家がおそろしかった。立ちつくすうちに息がしだいに荒くなり、説明のつかない恐怖が両肩のあつい筋肉をこわばらせてゆくのがわかった。逃げ道を求めて夕闇のせまる空に目を走らせたが、前進する以外に方法はなかった。クリスティナがなかにいるのだ。
出てきたのは、見知らぬ若い女だった。
女は黙りこくったまま彼を見つめた。長いブロンドの髪が、彼女の顔をなかば隠している。クレイロールとほこりのベールの奥から、二つの眼がのぞいていた。
もう一度クリスの名を告げると、女は唇の両はじを湿し、頬をピクリとけいれんさせた。ルーディはダッフル・バッグを放りだし、「クリスを呼んでくれ」と懇願するようにいった。
ブロンドの女は背をむけ、不気味な古い屋敷の薄暗い廊下の奥に消えた。そのとたん――防壁が取りのぞかれたようにーあけっばなしの戸口に立つルーディの鼻先にーこぶしで一撃するように――強い芳香がむっと押しよせた。マリファナのにおいだった。
反射的に吸いこんだ瞬間、ぐらっとめまいがおそった。一歩しりぞき、ベランダ付きアパートの屋上からわずかにさしこむ日だまりのなかにはいると、ジンジンという音を残してめまいは去った。彼はダッフル・バッグをひきずりながら家の内部に踏みこんだ。
ドアをしめた記憶はない。だがすこしたってふりかえったときには、ドアはしまっていた。クリスは三階に見つかった。暗い物置きの壁によりかかり、色あせたピンクのぬいぐるみウサギを左手でなでながら、右手を口元にあげ、小指をかぎ型に曲げ、親指リング・ローチ・ホルダー[#以下の括弧内割注](ローチ・ホルダーとは、手にもてないほど小さくなったマリファナをとめるホルダー。親指にはめる指輪に取り付けられている)を半ば隠すように、ジョイント[#以下の括弧内割注](自家製のマリファナ)が提供する残りすくない快楽を味わっていた。物置きには、あらゆる臭気がこもっていた――汗と垢がシチューのように溶けあったソックス、雨に濡れて白かびの生えたアルパカのジャケット、押しかためられた土ぼこりの香りがふくいくとたちのぼるモップ、それ以上に強烈に鼻をつくのは、もう今までどれくらい吸っていたのか、マリファナの煙――それらは彼女にまといつき、言葉に尽せぬほど愛らしく彼女を飾っていた。
「クリス?」
彼女はのろのろと顔をあげ、ルーディを見た。長いあいだかかって相手を見定めると、泣きはじめた。「出てって」
静まりかえった屋敷の透徹した静けさのなか、彼の頭上や背後にひろがる闇のなかで、なめし革の翼の激しくはばたくような音が聞こえ、一瞬のうちにやんだ。
ルーディは彼女のそばに膝をついた。心臓が二倍の大きさにふくらんだように胸苦しかった。
なんとか彼女と意志疎通したかった、彼女と話したかった。「クリス……お願いだから……」彼女は顔をそむけた。ウサギをなでていた手で無器用に彼をたたこうとしたが、狙いはそれた。
つかのまルーディは、だれかが重い金貨を数えているような声を聞いたように思った。彼の右側、三階の廊下をずっと行ったあたりで、たしかにそんな声が聞こえたのだ。しかし上体をねじり、物置きのドアのかげからのりだして耳をすましたときには、もう何も聞こえなかった。
クリスは物置きの奥にじりじりとあとずさりを始めていた。彼女はほほえもうとしていた。
ルーディはむきなおり、四つんばいになって彼女との距離をつめた。
「ウサちゃん」彼女はものうげにいった。「あんた、ウサちゃんを踏んづけてるわ」彼は見おろした――ピンクのウサギのふかふかした頭が右膝の重みでひしゃげていた。彼は膝の下からウサギをひっぱりだすと、物置きの隅に放った。彼女は嫌悪をあらわにしてルーディを見つめた。「あんたって変わらないわね、ルーディ。出てって」
「おれ、除隊したんだ、クリス」彼はそっといった。「病気除隊になったんだ。帰ってきてくれないか、クリス、頼むよ」
彼女は耳を貸そうともせず、物置きの奥にさらにあとずさりし、眼を閉じた。彼は、すでにいってしまった言葉を思いだそうとするかのように何回か口をもぐもぐさせたが、声は出てこなかった。そしてタバコに火をつけると物置きのひらいた戸口にすわりこみ、彼女の気が変わるときを待った。ルーディ[#「ルーディ」に傍点]、わたしジョーナといっしょに[#「わたしジョーナといっしょに」に傍点]〈丘の家[#「丘の家」に傍点]〉で暮らします[#「で暮らします」に傍点]。徴兵された彼にそんな手紙がとどいて以来、もう八ヵ月も待っているのだ。もうすこし待つくらい、何の造作もない。
二階へおりる階段の踊り場の底なしの暗闇に、何か小さなものが潜んでいる気配がした。それは、ガラスのハープシコードをトリルするような声で笑っていた。ルーディはそれが自分[#「自分」に傍点]にむけられたあざ笑いだということに気づいたが、暗闇のなかには何の動きも見出すことはできなかった。
クリスが眼をあけ、さも汚らわしそうに彼を見つめた。
「なぜ来たの?」
「きみと結婚するためさ」
「早く出てってよ」
「愛してるんだ、クリス。お願いだ」
彼女はルーディを蹴った。痛くはなかったが、痛めつけるつもりで蹴ったことは明らかだった。彼はゆっくりと物置きから出た。
ジョーナは階下のリビングルームにいた。玄関で顔をあわせたブロンドの女が、彼のズボンを脱がそうとしていた。いやなのだろう、彼はしきりに首をふりながら、力のはいらない手で彼女をはねのけようとしていた。煉瓦と板で作った本棚の下部にレコード・プレイヤーがあり、サイモンとガーファンクルの〈ザ・ビッグ・ブライト・グリーン・プレジャー・マシーン〉が聞こえてくる。
「溶ける」と、ジョーナがつぶやいた。「溶ける」といって、彼はマントルの上の大きなすすけた鏡を指さした。暖炉には、蝋紙製のミルクのカートンや、キャンディ・バーの包み紙、アングラ新聞、猫の布団などが、そのままのかたちで詰めこまれていた。鏡は冷たくくもっていた。
「溶けちまう[#「溶けちまう」に傍点]!」ジョーナはいきなり叫び、両手で眼をおおった。「くそったれ!」ブロンドの女はとうとうあきらめて、彼をつきはなした。そしてルーディのところへやってきた。
「どうしたんだ?」と、ルーディはきいた。
「またフリーク・アウト[#以下の括弧内割注](ヒッピー用語で現実から遊離すること)してんのよ。まったくつきあっちゃいられないわ」
「うん。だけど何が[#「何が」に傍点]おこってるんだ?」
彼女は肩をすくめた。「自分の顔が溶けだしてるように見えるのよ――すくなくともそういってるわ」
「マリファナやってるのか?」
ブロンドの女の顔に、とつぜん不信の表情が現われた。「マリ……。ねえ、あんただれ?」
「クリスの友だちだよ」ブロンドの女はさらにすこしのあいだ彼を吟味していた。だがやがて肩をおとし、体をリラックスさせた。彼をうけいれたらしい。「よかった。ふらっとはいってくるものだから。おまわりじゃないかと思ったの」
彼女のうしろの壁には、ミドル・アース[#以下の括弧内割注](J・R・R・トールキン作『指輪物語』三部作の舞台。わが国では「中つ国」と訳されている)のポスターがあり、毎朝日光がさしこむ部分だけ長い帯状に色あせていた。彼は不安げにあたりを見まわした。どうしてよいものやらわからなかった。
「あんた、ファックしたい?」ブロンドの女がきいた。「ジョーナはトリップすると、何もわかんなくなっちゃうのよ。だからこっちは朝からずっとコカコーラ飲んでるだけ。欲求不満になっちゃうわ」
ターンテーブルにまた一枚レコードが落ち、スティーヴィー・ワンダーがハモニカを思いきり吹いて〈アイ・ウォズ・ボーン・トゥ・ラヴ・ハー〉を唄いだした。
「クリスと婚約してたんだ」ルーディは悲しい気持でいった。「軍隊の基礎訓練が終わったら、おれたち結婚する予定だったんだ。だけどクリスはここで暮らすといってきた。おれだってむりやり気を変えさせたくないしさ。八ヵ月たって、ようやく除隊できたよ」
「で、あんたやるの[#「やるの」に傍点]? やらないの[#「やらないの」に傍点]?」
ダイニングルーム・テーブルの下に、彼女はサテンの枕をおいた。それには、ニューヨーク州ナイアガラ瀑布訪問記念[#「ニューヨーク州ナイアガラ瀑布訪問記念」に傍点]、と文字があった。
ルーディがリビングルームにもどると、ジョーナはソファに腰をおろし、へッセの『ガラス玉演戯』を読んでいた。
「ジョーナ?」とルーディはいった。ジョーナは眼をあげた。ルーディだと気がつくのにすこし時間がかかった。彼はソファのわきをたたき、すわるよううながした。ルーディはそうした。
「よう、ルーディ、どこへ行ってたんだ?」
「軍隊さ」
「ワーオ」
「そうさ、ひどいもんだったよ」
「もう出てきたのか?つまり、除隊したのか?」
ルーディはうなずいた。「病気でね」
「うん、そいつあいいぜ」
二人はしばらく無言ですわっていた。ジョーナはうなずきはじめ、自分にいいきかせるようにいった、「おまえはあんまりくたびれてないからいいやな」
ルーディはいった、「ジョーナ、おい、クリスとはどうなってるんだ? 知ってるだろう、八ヵ月前おれたちは結婚の約束をしてたんだ」
「クリスならどっかにいるはずだぜ」
ブロンドの女がテーブルの下で眠っているダイニングルームのむこう、キッチンのなかから、何かが肉を引き裂いている音が聞こえた。それは長いあいだ続いていたが、ルーディは屋敷の正面の窓、大きな張出し窓から、おもての通りをながめていた。玄関に通じる道が歩道とぶつかるあたりに、ダーク・グレイの服を着た男が立っている。男は二人の警官と話しながら、この大きな古い屋敷を指さしていた。
「ジョーナ、おれはクリスを連れだしたいんだ」
ジョーナの顔に怒りがあらわれた。
「おい、なんだよ、そのいいがかりは? べつにおれはあいつをここに閉じこめてるわけじゃないぜ。好きでおれたちとグルーヴ[#以下の括弧内割注](スラングで、幸福感にひたるの意味)してるんだ。あいつにきいてみろ。おれは知らん!」
二人の警官が玄関にやってきた。
ドアベルが鳴った。ルーディは立ちあがり、ドアにむかった。
警官は彼の軍服を見て微笑した。
「なんですか?」と、ルーディはいった。
ひとりの警官がいった、「ここに住んでるのかね?」
「ええ。ルドルフ・ベーケルといいます。何かあったんですか?」
「ちょっと中できみと話したいんだ」
「捜査令状を見せてください」
「捜査しにきたんじゃない――きみと話したいだけだ。軍隊にいるのか?」
「除隊になりました。家族に会いに来たのです」
「中にはいっていいかね?」
「いいえ」
もうひとりの警官はこまったような顔をした。「みんなが〈丘の家〉といってるのはここかね?」
「だれがですって?」ルーディはいぶかしげにたずねた。「近所の人から聞いたんだがね、ここを〈丘の家〉とかいって、ときどき乱痴気パーティがひらかれているという話なんだ」
「そんな騒ぎをあなたたちが聞いたんですか?」
警官たちは顔を見あわせた。ルーディはつけ加えた、「ここはいつも静かですよ。母が胃癌で死にかけているものですから」
ルーディは屋敷に住みつき、彼らもそれを認めた。ときどき訪れる人びとと応対するのに彼がいたほうが都合がよいからだった。食料を買いに出たり、毎週失業給付をもらいに行ったりするルーディ以外に、〈丘の家〉から出るものはなかった。そして屋敷はいつも静まりかえっていた。ときたま女中部屋に通じる奥の廊下からうなり声が聞こえたり、地下室の煉瓦の上を濡れたものが歩くピチャピチャという音がする以外には。
それは、北を|LSD《アシッド》とメスカリンで、南をマリファナとペオーテで、東をメセドリンとトゥイナルで、西をバルビトゥール剤とアンフェタミンで隔てられた、独立した宇宙であった。〈丘の家〉には十一人が住んでいた。十一人と、そしてルーディが。
廊下を歩いていて、クリスと出会うこともあった。だが彼女は話しかけようとしなかった――一度だけこうきいた以外は、「あなた、恋愛以外に熱くなることないの?」彼はどう答えてよいかわからなかった。だから、ただ「帰ろう」といった。彼女はルーディをスクエアとののしり、見晴らし窓のある屋根裏部屋へのぼっていった。
ルーディは、屋根裏部屋でかん高い鳴き声がするのを聞いたことがあった。それは彼の耳には、ずたずたに引き裂かれるネズミの苦痛の叫びのように聞こえた。この家には猫がいるらしい。
クリスがなぜここから出たがらないのか、それが理解できない点をのぞけば、ルーディは自分がなぜここにいるのかわからなかった。頭はいつもジンジン鳴っていた。きっかけさえうまくつかんで説得すれば、クリスがついてくるような気がすることもあった。彼は光を嫌うようになった。光のなかに出ると眼が痛んだ。
仲間がたがいに話しあうことはほとんどなかった。恍惚感をできるだけ長びかせるためにグループは常に力をあわせた。その意味では、彼らの仲はうまくいっていた。
そしてルーディは、外界と彼らを結ぶ唯一のきずなとなった。両親、友人、銀行――だれかれかまわず手紙を書いたおかげで、金が送られてくるようになった。大した額ではない。だが食料をたくわえ、家賃を払うにはそれで充分だった。そのかわり彼はクリスの心づかいを要求した。
彼らは、ルーディの面倒をみるようにクリスに命じた。二人は、ルーディのダッフル・バッグと新聞がある二階の小部屋で寝た。買いだしに出かけるとき以外、彼は一日じゅう部屋にこもり、郊外でおこった列車事故や強盗殺人の記事を拾い読みした。そしてクリスがそばに来ると、愛というにはあまりにも不確かな行為にふけった。
ある夜、ルーディは彼女にすすめられるままに「アシッドで熱くなってあれ[#「あれ」に傍点]をする」ことにした。彼は、メセドリンをまぜたアシッド千五百マイクログラムを大きなカプセル二つに分けてのみこんだ。するとクリスの体がアメのようにのび、六マイルもの長さに達した。彼は電流の通じた良質の銅線となり、クリスの肉体をさしつらぬいた。彼女はルーディから流れこむ電流にのたうち、いっそうやわらかくなった。彼はやわらかみのなかに沈みながら、周囲で霧に変わってゆく彼女の涙のしずくの精妙な木目模様を注意深く観察した。いつのまにか彼は、自分の体から蜘蛛の糸のようにくりだされる青い微風にのって、果てしなく回転しながらただよいおりていた。水晶柱がたちならぶ底なしの湿った空洞にこだまする彼女の息づかいは、空洞の壁そのものが発する音だった。ルーディの温かい金属の指先が壁にふれると、彼女は深く息を吸いこんだ。じゃこうの香りを放つやわらかなベールのなかをゆるやかに回転しながらおりてゆく彼の周囲で、激しい上昇気流がおこった。
下方のどこかで、心臓の鼓動を思わせる音が執拗に高まりはじめていた。下るにつれ、今にも砕けそうなかん高い震動音がおこり、彼の不安をさそった。パニックがおそった。それは彼をしっかりととらえ、打ちすえた。喉がしめつけられ、声が出ない。ベールにつかみかかったが、それは彼の手のなかで裂けた。ついで落下がはじまった。いやます速さで落下しながら、彼は恐怖にすくんでいた。恐怖!
周囲では、すみれ色の爆発が数限りなくおこっていた。そして彼をさがし求める何ものかの絶叫。それは、名も知らぬけものの喉の内部に低く反響していた。つぎの瞬間、ルーディは彼女の叫びを聞いた。彼の下でむせび泣くクリスの声を聞いた。体がつぶれてしまうような不快な感覚……。
そして静けさが訪れた。
それもつかのまだった。
すぐに惰気以外のなにも要求しない静かな音楽が始まった。熱気のこもる小部屋のなかで、二人は重なりあったまま数時間眠った。
それ以後、ルーディはほとんど光のなかに出なくなった。買物には夜、サングラスをかけて出かけた。ごみを捨てるのも、玄関を掃除するのも夜だった。芝刈りも、機械ではアパートの住人に迷惑なのでハサミでやった――いずれにしても苦情はまったく出なかった。〈丘の家〉から物音が聞こえることはにとんどなかったからだ。
そのころになってルーディは、〈丘の家〉に住む若者たちのうち何人かの姿が見えないことに気づいた。かわりに床下や天井や周囲から聞こえる物音はしだいに頻繁になっていった。
今では服は、ルーディの体には大きすぎた。だから下着しかつけなかった。両手両足がひどく痛んだ。指を鳴らすので関節の部分がふくれあがり、まっ赤にはれていた。
頭はいつもジンジンと鳴っていた。四六時中うっすらと部屋にこもるマリファナの煙は、板壁や垂木にまでしみこんでいた。彼は古新聞を読んで時間をつぶした。どの記事も、むかし何回も読んで暗記しているものばかりだった。自動車整備工をしていたころの記憶がよみがえることもあったが、それも遠いむかしのように思えた。〈丘の家〉の電気がとめられたときも、暗闇になれたルーディにはすこしも気にならなかった。だが彼は十一人にそれを知らせに行った。
どこにも見あたらなかった。
ひとり残らず姿を消していた。どこかにいるはずのクリスさえも。
地下室からピチャピチャという音が聞こえるのに気づいて、彼は闇のなかにおりていった。地下室には水がいっぱいたまっていた。十一人のうち、ひとりがそこに見つかった。テディという若者だった。彼は水苔におおわれた壁に両足をはりつけ、壁にふれあうように体をだらんとたらし、ひくひく脈うちながら、真新しいあざ[#「あざ」に傍点]を思わせるむらさき色のほのかな光をはなっていた。そのぬるぬるした片手が水中におち、ありもしない潮の流れにたゆたった。そのとき何かがそれに近づいた。目にもとまらぬ速さで腕が動き、もがく生き物をぬるぬるする手でつかみあげた。そして壁にそってじりじりと動くと、体表の一部にある濡れた黒い部分にむかった。彼の全身には静脈がうきでていた。黒い部分がぽっかりとひらき、赤黒い内面がのぞいた。生き物は恐怖の叫びをあげながら、そのなかに押しこまれた。吸う音とのみこむ音が続いて聞こえた。
ルーディは上にもどった。一階には、エイドリアンと呼ばれる、例のブロンドの女が見つかった。彼女は、ダイニングルーム・テーブルの上にテーブル掛けのように薄く白くひろがっていた。長いあいだ顔を見なかった三人の仲間が、彼女の体に歯をたてていた。かつて乳房や臀部であったものは膿汁でふくれあがり、彼らはそこに鋭い中空の歯をつきたてて黄色い液体をすすっているのだった。まっ白な彼らの顔には、煤でよごしたような二つの眼があった。
二階へあがったルーディは、飛翔してきた生き物にあやうくつきとばされそうになった。ヴィクターと呼ばれていた男で、その両腕は太い骨のあるなめし革の翼に変わっていた。それは猫をあごにくわえていた。
重い金貨を数えているような音をだす生き物も、同じ階に見っかった。それは金貨を数えているのではなかった。だが、それ以上見定めることはできなかった。吐き気がこみあげてきたからだ。
クリスは屋根裏部屋の片隅にいた。彼女はハープシコードに似た笑い声をあげる生き物の頭を割り、どろりとした脳髄をすすっていた。
「クリス、ここを出よう」と、ルーディはいった。彼女は手をのばすと、垢だらけの長いとがった指先で彼の体をはじいた。水晶のような澄んだ音色がした。
屋根裏の垂木の上では、ノートルダム寺院の怪物を思わせる生き物に変わったジョーナが、うずくまっていた。彼のあごには緑色の汁がかわいてこびりつき、かぎ爪には何か繊維質のものがひっかかっていた。
「クリス、お願いだ」彼はせきたてた。
頭がジンジン鳴っている。
耳がむずがゆい。
クリスは沈黙した小さな生き物の頭から最後の甘い汁を吸いおわると、ぐったりした死体を毛深い両手でものうげに引き裂いた。そしてしゃがみこみ、長い毛深い鼻づらを彼にむけた。ルーディはその場を逃がれた。
屋根裏部屋の床を指関節でかるく蹴りながら、彼は安全地帯を求めてころがるように走った。背後ではクリスがうなり声をあげている。二階から、さらに一階へとかけおりると、モリス式安楽いすを踏み台にしてマントルによじのぼろうとした――蝿の舞う窓からさしこむ月あかりのなかで、鏡にうつる自分の姿を見たいと思ったのだ。窓べりにはネオミという女がおり、長い舌で蝿をべろべろ食べていた。
彼は自分を見たい一心で、必死によじのぼった。そしてようやく鏡の前に立った。そこには彼がいた。全身がすきとおり、内部はからっぽだった。両耳はとがり、先端に毛がはえていた。
眼はメガネザルのように丸く大きく、鏡から反射する月光が眼に痛かった。
そのとき彼は足元のうしろ側にうなり声を聞いた。
ガラスの小鬼はふりかえった。オオカミ人間がうしろ足で立ち、前肢で彼をはじいた。澄んだ音色があたりにひびきわたった。
オオカミ人間はさほど関心もなさそうに彼に問いかけた、「あんた恋愛以外に何もグルーヴするものないの?」
「やめてくれ!」ガラスの小鬼が懇願したそのとき、とんできた巨大な毛深い前肢が彼を百万のきらめく虹色の細片に打ち砕き、細片は彼の意識を保ったままジンジンと鳴りながら、〈丘の家〉と呼ばれる閉ざされた小宇宙のなか、無音の板壁からにじみでる闇のなかに拡散していった……
[#地から2字上げ]ペンシルヴェニア州ミルフォード 一九六七年
[#改丁]
少年と犬 [#地付き]伊藤典夫訳
A Boy and His Dog
[#改ページ]
おれは犬のブラッドといっしょにぶらついていた。今週はブラッドのほうが、からむ番だった。おれを、アルバート、アルバートとよびやがる。自分じゃケッサクだと思ってるらしい。ペイスン・ターヒューンか、ハハッ[#以下の括弧内割注](アルバート・ペイスン・ターヒューンは、二十世紀はじめのアメリカの大衆作家。動物小説、特に犬を扱った小説で有名)。ブラッドには、もう食いものを見つけてやっていた。ジャコウネズミ二ひき、みどり色と黄土色のでかいのと、それからだれかのマニキュアしたプードルだ。プードルのほうは、どっか下の町で鎖につながれたのが、まよいだしてきたらしい。たっぷり食ったはずなのに、ブラッドはきげんがわるかった。
「やい、ワン公おれのスケも見つけろよ」と、おれはいったが、ブラッドはのどのおくでククッと笑っただけだった。そして「おまえ、さかりがつくとおもしろいね」といった。
なにがおもしろいもんか、ケツの穴けっとばしてやるか、この宿なしワン公め。
「見つけろったらよ! 本気なんだぜ、おれは」
「恥を知れよ、アルバート。いろいろ教えてやって、まだこのザマか」
だけど、おれが我慢のぎりぎりまできてることはわかったのだ。ブラッドはふてくされながら、それでも心を集中しはじめた。くずれた歩道のふち石の上にすわると、まばたきして目をとじ、体をぴんとかたくした。すこししてこんどは前のほうからゆっくりとかがみはじめ、前足をすりだし、のばした足の上に毛むくじゃらの頭をのせて、ペたんとすわりこんだ。体がゆるんだかわりに、こんどはぶるぶるとふるえだした。ノミにくわれたあとをかこうとするとき、体をふるわせるけれど、それにそっくりだ。そんなふうなのが、十五分近くつづいた。そのうちとうとう体をごろんとまわすと、前足をカマキリみたいにおりまげ、うしろ足をばかっとひろげ、夜空に白い腹をむけてねころんだ。「もうしわけないが、どこにもいないね」と、ブラッドはいった。
頭にきたついでに、けっとばしてもよかったけれど、一生懸命やってたのはたしかなのだ。といったって、それでおさまるわけじゃない。こっちは、ほんと抱きたくてうずうずしてるのだ。どうすりゃいい? 「わかったよ、もういい、わすれちまえ」おれはあきらめた。
ブラッドはうしろ足をけって横になり、ぴょんとおきあがった。
「何をしたいんだい?」ときく。
「ほかに何ができるってんだよ?」皮肉たっぷりにいってやる。ブラッドはおれの足元に、いちおうしおらしそうにすわりなおした。
おれは半分とけてなくなった街路灯の柱によっかかって、女のことを考えた。カッカして、どうしようもないったらもう。「ショウならいつでもあるさ」と、おれはいった。ブラッドはだまって通りを見まわした。草ののびほうだいのクレーターが、あちこちに丸い影をつくっている。
ようし、行こうぜ、とおれがいうまで、ブラッドは待ってる気なのだ。おれと同じくらい映画は好きなのだから。
「ようし、行こうぜ」
ブラッドはおきあがると、あとを追ってきた。舌をだらんとたらし、うれしそうにハーハーあえいいる。かってに笑いやがれ、能なし犬。きさまなんかにポプコーンくれてやらねえからでな!
アワー・ギャング(「おれたちの組」の意。一九二〇年代のサイレト喜劇を登場するわんぱく少年団の名にちなむ)はぐれん隊にはちがいないけれど、かっばらいや押込みだけであきたらなくて、のんびりくらすことを考えはじめ、それをいちばんカッコよくやってのけた一派だった。映画ずきな連中だったので、メトロポール劇場があるシマをおさえたのだ。なわばりにケチをつけようとするやつはいない。みんな映画は見たいし、アワー・ギャングがフィルムをにぎって大事にまわしてくれてるかぎり、だれでも安心して見に行くことができたからだ。おれやブラッドみたいなソロまでも。というより連中の目あては、おれたちソロなのだ。
入口のところで、・四五とブローニング・二二ロングを預けなければならなかった。切符売場のすぐわきに小さな預り所がある。まず切符を買った。オスカー・マイヤー・フィラデルフィヤ・スクラップルの罐一こでおれ、サーディンの罐一こでブラッド。すると、ブレン機関銃をかかえた用心棒たちが、預り所のところへ行くよう合図し、おれはハジキをとりあげられた。そのとき、天井から折れたパイプがとびだして、水がもれてるのに気づいた。おれは係のやつに、ハジキをかわいた場所に移してくれとたのんだ。顔や唇そこらじゅう、でかい、かさかさしたイボイボだらけのそのチンピラは、聞こえたふうもない。「よう、おまえよう! おれのをあっち側に移せってんだよ、イボガエル……これじゃすぐ錆びちゃうじゃんか……錆びなんかつけやがってみろ、てめえの骨へし折ってやっからな!」
イボガエルはむかっとした顔で、ブレンを持った用心棒たちを見た。ここでおれが叩きだされれば、入場料はいただきになることを知ってるのだ。だけど人手がたりないのだろう、連中はコトをおこすようすはなく、いいから見のがしてやれと、あごをしゃくった。イボガエルはおとなしくブローニングを銃架のむこう側に移し、その下に・四五をかけた。ブラッドとおれはロビーにはいった。「ポプコーンほしいよ」
「うるせえな」
「いいじゃないか、アルバート。ポップコーン買ってくれよ」
「からっけつなんだ。ポプコーン食わなくたって死ぬわけじゃねえだろ」
「ちくしょう、くそったれ」おれは肩をすくめた。かってにいいやがれだ。
中にはいる。混んでいた。とられたのがハジキだけでよかった。首筋のうしろのところに、スパイキとナイフを入れたすべっこいサックがあるのを感じて、おれはほっとした。ブラッドが二つならんだシートを見つけたので、人の足をクチャクチャふみながら進んだ。だれかが悪たいをついたが、知らんふりをした。ドーベルマンがうなり声をあげた。ブラッドは毛をさかだてたが、そのまま通りすぎた。メトロポールみたいな中立地帯でも、もんちゃくはよくおこるのだ。
(サウス・サイドのおんぼろ小屋ロウズ・グラナダでおこった出入りの話を、前に聞いたことがある。チンピラと連れのワン公が、あわせて二ダースばかり死に、小屋も焼けて、値打もんのキャグニーのフィルムが二本いっしょにパーになった。このかいわいのぐれん隊がより集まって映画館を聖地にきめたのは、そのあとのことだ。今じゃそれほどでもないけれど、いつもピリピリしてて、さわぎをおこしかねないのが必ずひとりぐらいまじってる)
きょうは三本立て。そのうちいちばん古いのは『暴力の罠』で、主演デニス・オキーフ、クレア・トレヴアー、レイモンド・パーマー、マーシャ・ハント。一九四八年製作だから、今から七十六年も前だ。こんなのがよく今までもったもんだと思う。フィルムがやたらにスプロケットからはずれるので、そのたびにとめて巻きもどしてる。だけど、おもしろかった。ぐれん隊にペテンにかけられ、復讐をちかうソロの話だ。ギャング、悪党、やくざ、なぐりあい撃ちあいがたくさんあって最高、ごきげん。
二つ目のは、第三次大戦中の二〇〇七年、おれが生まれる二年前にできた『チャンコロのにおい』 というやつだった。おしまいまでほとんど血まみれゲロゲロで、人間どうしの殺しあいのシーンがよくできていた。それから、ナパーム発射装置をしょった斥候のグレーハウンドたちが、チャンコロの町を焼きはらうところも、ものすごくカッコイイ。前にも見てるというのに、ブラッドはもう夢中だった。連中を自分の祖先だと思って見てるのだ。じゃないことはわかってて、それをおれが気づいてることまで、ちゃんとわかってて見てるのだ。
「赤んぼ、焼き殺してみたいだろ、え?」おれはちっさな声でいった。あてこすりは通じたはずだけれど、ブラッドはもっそり姿勢をかえただけで、町なかをつきすすむ犬たちをうっとりと見ている。おれのほうは、あきあきしていた。
いちばんの呼び物を早くやってほしかった。
やっとこさ始まった。これはゼッピンだった。七〇年代後半に作られた『黒レザーの女悪魔』という|ポルノ映画《ビーヴァー・フリック》だ。最初っから、すごい。ブロンドが二人、黒いレザーのコルセットとブーツという格好で出てくる。ブーツは股のところまでぴっちりはいてて、ムチを持ち、マスクで顔をかくしてる。そして細っこい男をつかまえると、スケのひとりが男の顔の上にまたがって、もうひとりがいたぶりはじめる。それからあとは、もうメッタメタだ。
まわりじゃ、ソロがみんなマスをかきだしていた。おれもその気になって、ちょいちょいやりはじめたら、よっかかって見ていたブラッドがものすごくちっさな声でいった。なにか変なものをかぎつけたときには、いつもそうなのだ。「このなかに女がいるぜ」「バカいうなって」
「ほんと、においがするんだ。いるんだよ」
さりげなく見まわした。ほとんどのシートは、ソロか連れの犬でふさがっている。女なんかまぎれこんでいれば、暴動ぐらいおこってるはずだ。だれひとりつっこむこともできないうちに、ばらばらにされてるだろう。「どこだよ?」と、おれもちっさな声できいた。ソロの連中はみんな、のりにのってヒーヒーいってる。スクリーンじゃ、ブロンドが二人ともマスクをはずし、ひとりが腰につるしたでかい木のハンマーで細っこい男をいためつけていた。
「ちょっと時間くれよ」ブラッドはそういうと、本気で集中しはじめた。体が針金みたいにコチコチになった。目をつぶり、鼻づらをひくつかせてる。おれはそのままにしておいた。
ありそうなことだ。あるかもしれない。下のやつらが、ほんとバカな映画を作ってるという話は知っていた。一九三、四〇年ごろのとそっくりのくだらないの、結婚した連中までツインで寝るという清潔このうえなしのやつ。マーナ・ロイ、ジョージ・ブレント主演て感じのだ。それからまた、下のきびしいミドルクラスの家庭で育ったねえちゃんが、ときどきメッタメタな映画を見たくなってあがってくるという話も知っていた。たしかに聞いてはいたのだけれど、おれが今まではいった小屋でそんなことがあったためしは一度もなかったのだ。
それに、場所がメトロポールときては、ますますありそうもない。このメトロポールには、おっかないホモたちがぞろぞろやってくるからだ。ただし、いっておくけど、おれはそういうオカマほるのが好きな連中に、特別な偏見をもってるわけじゃない――というより、そいつらの気持はよくわかってるつもりだ。とにかく女なんか、このあたりにはほとんどいないんだから。めそめそした女役につきまとわれて、しょっちゅうやきもちをやかれるのがいやだからだ。そいつの分まで狩りをしなきゃならないし、一方そいつはシリをまくりさえすれば自分の用はすんだと思ってる。女づれで歩くのと同じくらい始末が悪い。最後にはきっとどっかのでかいぐれん隊に目をつけられて、血まみれゲロゲロのわたりあいをしなきゃいけない羽目になるだろう。おれがその気をださないのは、だからなのだ。もっとも一生そうだとはいいきれない。だけど当分はこのままでいるだろう。
というわけで、そんなおっかない連中がうようよいるメトロポールに、まさか女がまぎれこんでくるわけがないと思ったのだ。イカれた連中か、まともな連中か、どっちの手にわたろうとずたずたにされるのは目に見えている。
それに、もし女がいるとしたら、どうしてほかの犬たちがかぎつけないのだろう?
「ここから三つ前の列」と、ブラッドがいった。「いちばん通路寄りだ。ソロみたいな格好をしてる」
「なぜおまえだけで、ほかのワン公にはわからないんだよ?」
「おれがどんな犬か忘れたね、アルバート」
「忘れちゃいないさ。信じられないだけだ」
じっさい心のそこでは、おれはもう信じていたんだと思う。昔のおれみたいになんにも知らないバカに、ブラッドみたいにいろんなことを教えてくれる犬がついてたとしたら、そいつは犬のいうことをなんでも信じるようになるものだ。教師に頭があがるわけがないだろう。
特に、そいつが読み書き算数その他、むかし人間が知ってたことをみんな教えてくれて、おれの頭をよくしてくれたやつだったとしたら(もっともこの時代じゃ、たいした得にもならない。知らないよりはマシな気がするというだけだ)。
(ただ字をおぼえたのは損じゃなかった。スーパーマーケットの焼けあととか、そういうとこで罐詰を見つけたときなんか、すごく役にたつのだ――ラベルの絵がきえてたりしても、ちゃんとなかみがわかる。字を読んだおかげでサトウダイコンの罐を持ってかずにすんだことも二一度ばかりある。ばっきゃろう、あんなもの食えるもんかよな!)
ブラッドだけには女のいるのがわかって、ほかのワン公にはわからないというのを信じたのも、だからだろう。その話は百万回も聞かされてた。それはブラッドのお気にいりの話だった。ブラッドは、それを歴史といっていた。ざまあみろ、おれだってそんなバカじゃないんだぞ! 歴史がなんだかってことも、ちゃんと知ってる。今より前におこったことの話だ。
だけど、おれはブラッドがいつもひきずってるようなぼそぼその木まで読まされるんじゃなくて、ブラッドからじかに歴史を聞くほうが好きだった。で、いまいった話というのが、ブラッドの先祖の歴史だったから、何回も何回も話してくれて、おれはとうとう全部おぼえてしまった――じゃない、ここは暗記[#「暗記」に傍点](rote)というんだ。書くほうの書いた[#「書いた」に傍点](wrote )というのとはちがう。暗記とは、言葉が全部いちいち頭にはいることだ。
だから、いろんなことをわかるように教える犬がいて、教えかたが暗記になるみたいだったら、最後には聞いてるほうもそれを信じるようになる。もっともワン公を調子づかせることはないから、そこまで感づかせちゃいないけれど。
ブラッドが暗記になるまで教えてくれた歴史というのは、こうだ――
今より五十年以上も前、第三次大戦がまだ完全には始まっていないころ、ロサンジェルスのセリートスに、ビュージングという男がいた。その男は、警備、偵察、攻撃に役だつ犬を育てていた。ドーベルマン、グレートデーン、シュナウザー、アキタ。そのなかに、四歳になる雌のドイツ・シェパードがいた。名前をジンジャーといい、ロサンジェルス警察の麻薬課ではたらいていた。ジンジャーにはマリファナをかぎだす才能があり、どんなにうまく隠されていても必ず見つけてしまうのだった。警察では、ジンジャーをテストしてみることにした。ある自動車部品倉庫に、二万五千個の箱がおさめられていた。そのうちの五個に、セロファンでつつみ、そのうえに錫箔と褐色の包装紙をかぶせたマリファナを、それぞれ三つのカートンにわけて隠したのだ。七分間で、ジンジャーは五個の箱をすべて見つけだした。ちょうど同じころ、九十二マイル北のサソタ・バーバラでは、クジラ学者が、イルカから抽出し強化した髄液を、チャクマひひと犬に注射していた。改造手術や移植も行なわれた。この実験の最初の成功例は、アーブーという名の二歳になる雄のプーリだった。アーブーは、テレパシーで感覚的印象を伝えることができた。異種交配と実験のくりかえしによって、最初の斥候犬が生まれた。その直後に、第三次大戦がおこった。斥候犬のテレパシーがとどく範囲はせまかったけれども、調教がかんたんで、人間の指導員と組むと、ガソリン、軍隊、毒ガス、放射能の探知にたいへんな能力を発揮した。彼らは、新形式の戦争のなかで、特別選抜攻撃隊員として活躍した。この選択特性は、まちがいなく子孫に伝えられた。そして、ドーベルマン、グレーハウンド、アキタ、プーリ、シュナウザーのテレパシー能力は、ますます鋭敏になっていった。
このジンジャーとアーブーが、ブラッドの祖先なのだ。
ブラッドはそう教えてくれた。くりかえしくりかえし千回も、こんなふうに、これと同じ言葉で千回も、むかし自分が教えられたとおりに。おれは信じた。だけど、本気では信じていなかったのかもしれない。つい今までは。
このワン公、ほんとに特別なのかもしれない。
おれは、三つ前の列、いちばん通路寄りのシートにすわりこんでるソロを、もう一度よくながめた。どこがどうだか全然わからない。そいつ(男? 女?)は帽子を深くかぶり、純毛のジャケットを上のほうまでたくしあげてる。
「たしかか?」
「まちがいないね。女だよ」
「もしほんとなら、あいつ、男みたいにマスかいてるぜ」
ブラッドはククッと笑って、「びっくりだね」と皮肉っぽくいった。
謎のソロは『暴力の罠』をもう一回どおり見なおした。女だとすれば、筋はとおる。ぐれん隊みんなとソロのほとんどは、ポルノがおわると出ていっちまったからだ、ホモのカップルが一組いて、女役がこっち向きにひざをついて恋人のあれをナメナメしてる。女のいるのがわかったとしても、どっちも夢中で、そんなことかまっちゃいられないのだろう。小屋はそれ以上あまり混まなかった。街にもそろそろ人気がなくなってくる。そいつ(男? 女?)も安心して、もと来た道をかえれるわけだ。おれは覚悟をきめて『暴力の罠』 がおわるのを待った。
ブラッドはねむってしまった。謎のソロが立ちあがった。そいつがハジキをあずけたかどうか知らないが、とにかくそれをかえしてもらう時間だけ待って、それから腰をあげた。おれはブラッドのでかい毛むくじゃらの耳をひっぱって、「やるぜ」といった。ブラッドはあとからのそのそついてきた。
ハジキをもらうと、通りを見まわした。からっぽだ。
「ようし、ワン公。野郎はどっち行った?」
「女郎《めろう》だよ。右だ」
ブローニングをベルトからぬいて通りにでる。爆弾にやられたビルの焼けあとのなかに、動く影は見あたらなかった。シティのこのあたりは、どうしようもない荒れかただ。だけどアワー・ギャングは、メトロポールだけで充分食っていけるので、いっこうに直そうとしない。皮肉なものだ。ドラゴン団は発電所をフルに動かすあがりでようやく息をつき、テッド団は貯水池、バスティネード団は百姓みたいにマリファナ栽培に汗を流し、バルバドス・ブラックスなんか、シティ全体の放射能クレーターの掃除で、毎年二十人以上も仲間をうしなってる。なのにアワー・ギャングだけは、あの映画館をやるだけでのほほんとしているのだ。
あちこちほじくりかえしながら生きていたソロたちが、より集まってぐれん隊をつくったのがどれくらい前か、そのときアワー・ギャングのリーダーになったのがどんなやつだったか、そんなことは知らない。だけど、そいつはよほど頭のきれるエライやつだったにちがいない。どんな仕事がいちばんトクか、最初っから知っていたのだ。
「彼女、ここでまがったよ」
ブラッドは、シティのはずれ、青みがかったみどり色の放射能が今でもちろちろ燃えている山のほうに走りだした。おれはあとを追った。嘘じゃないとわかったのは、そのときだ。こちらのほうには、下の町に通じるドロップシャフトしかない。やっぱり女だ。
考えたとたん、尻のほっぺたがきゅっとしまるのを感じた、とうとう抱けるんだ。ブラッドがマーケット・バスケットの地下で、ソロの女をかぎだしてくれてからもう一ヵ月近くたつ。おそろしく不潔なスケで、毛ジラミまでうつされてしまったが、とにかく女にはちがいない。おさえこんで二、三回ぶちのめしてやると、それからはよくなった。つばをはいて、手足が自由になったら殺すとかなんとかわめいてたけれど、むこうだってけっこう好きがってたようだ。念のため、しばりあげて、そこを出た。先々週ようすを見にいったときには、もういなかった。
「静かに」ブラッドはそういうと、暗闇のなかにうすぼんやり見えるクレーターを大きく遠まわりした。クレーターのなかで何かが動いた。
無人地帯を歩いているうちに、気がついたことがある。ソロやぐれん隊のなかに、なぜ女がろくにいないのかという理由だ。大戦で女があらかた死んでしまったこともある。戦争のときは、いつでもそうだ――少なくともブラッドから聞いたところではそうらしい。それからあとは生まれてくるのは、ほとんど男だか女だかわからない化けもので、腹のなかから引っぱりだすとすぐ壁にたたきつけて殺さねばならなかった。
そして、まともなのは、みんなミドルクラス連中といっしょに下におりてしまった。残ったのは、だからマーケット・バスケットで見つけたような、はねかえりのスベタばかり。ひねくれていて、ごりごりといかつくて、ちょっとでもすきを見せればカミソリでザックリやられる。おれが大きくなってから、ますますスケが見つかりにくくなったのもムリはない。
だけど、ときどきぐれん隊仲間の共有にあきて逃げだしたのや、下をおそったぐれん隊にさらわれてきたのに、ひょっとぶつかることがある。それから――そう、今みたいに――下でくらしたスケが助平根性をおこして、ポルノを一度見てやろうとあがってくることもある。ようやく抱けるんだ。ちくしょう、待ちきれねえや!
このあたりに来ると、丸焼けになったからっぽのビルがどこまでもつづいてるだけだ。天からばかでかいスチールのプレスが、ガッチャーン! とおりてきたみたいに、全体がこなごなぺしゃんこになってる区画もあった。女はおじけづいて、そわそわしてるようだった。右や左を見まわしたり、うしろをふりかえったりしながら、ぎごちなく歩いてる。危険な場所にいることを感じているのだろう。だけど、それがどれくらい危険か、ほんとにわかったとしたら。
そのぺしゃんこになった区画のつきあたりに、偶然やられるのをまぬがれて残っているビルがあった。女はなかにとびこんだ。一分ほどして、おどる光が目にはいった。フラッシュライトか? だろう、たぶん。
ブラッドとおれは通りをよこぎって、そのビルの影にはいった。そこは、むかしのYMCAだった。
キリスト教青年会のことだ、とブラッドが教えてくれた。
だけど、そのキリスト教青年会というのはいったい何だろう? へたに読めるようになると、バカでいたときより、もっとわからないことが多くなる。
あのスケが出てくるようだとまずいな、とおれは思った。やっちまう場所としたら、中がいちばんいいからだ、焼けビルの前の石段のところでブラッドに張り番をさせておいて、うらにまわった。もちろん、ドアもガラスもみんなふきとばされてる。しのびこむのは、べつにむずかしくない。窓のへりに両手をかけると、ひょいと中にとびおりた。まっ暗だ。YMCAビルのいちばんむこう側で、スケがごそごそやってる音のほかは、なにも聞こえない。ハジキを持ってるかどうか、とにかくヤバい橋をわたることはない。ブローニングをつり革にもどすと、・四五オートマチックをぬいた。アクションをあらためはしなかった――薬室にはいつも弾をいれておくようにしていたからだ。
そろそろと部屋をよこぎる。ロッカー室みたいなものだったらしい。フロアは、ガラスと石ころばかり。ならんだロッカーのうちの一列だけは、上のペンキがすっかり焼けてはげている。遠い昔、窓からさしこんだ閃光のせいだろう。スニーカーは、部屋を通りぬける音を全然たてなかった。
ドアが蝶つがいひとつでぶらさがっている。その逆三角のすきまをまたぎこえた。でかいプールはひあがっていた。浅いほうの側のタイルが熱でべこべこにゆがんでる。くさいくさいと思ったら、死体というより、そのなれの果てみたいなのが、プールの壁ぎわに山ほどつみあげられていた。埋めるのをめんどくさがって、この中にほうりこんだのだろう。ネッカチーフを鼻のところまで引っぱりあげると、先に進んだ。
プール室を出ると、そこは通路で、天井の電球がきれいにひとつ残らず割れていた。ここでは見通しがきいた。窓や天井にできた穴から、月の光がたっぷりさしこんでいたからだ。物音はもうはっきり聞こえてくる。つきあたりのドアのむこう。壁づたいにドアに近づく。すこし押しあけたところで、くずれかけたしっくいとぬき板がじゃまをした。こじあければ、まちがいなくすごい音をたてるだろう。いいタイミングを待とう。
おれは壁にへばりついて、女をのぞき見た。そこはジムだった。そうとう広い。天井からクライミング・ロープが何本かたれさがってる。跳馬のしりのところに、大きな箱形の十二ボルト用フラッシュライトがのせてある。平行棒と、八フィートくらいの高さの鉄棒。たかい熱で焼入れされたはずのスチールも、今ではすっかり錆びついている。それから吊輪、トランポリン、大きな木の平均台。壁によったところには、肋木、ベンチ、水平はしご、傾斜はしご、そしてとび箱が二つ、おれはこの場所をおぼえておくことにした。ポンコツ車処理場にまにあわせに作った今のジムにくらべればこっちのほうがずっとマシだ。ソロでいるためには、いい体を作っておかなきやならない。
女は変装からぬけだしていた。何もかもぬいでしまって、ふるえながら立っている。そういえば、たしかに寒い、女の体には鳥肌がたっていた。背たけは、五フィート六インチか七インチ。かわいいおっばいをしてる。脚はどっちかといえば細い感じだ。髪をとかしてるところだった。背中の下のほうまで、長くのばしてる。ライトがそれほど明かるくないので、赤毛か栗色かはっきりわからないが、ブロンドじゃないようだ。その点はうれしかった。おれの好みは、赤毛なのだ。かわいいおっばいはよく見えるが、ウェーブしながら長くのびた髪にかくれて、顔はわからなかった。
ぬぎすてた服はフロアにちらばっている。着がえは跳馬にのっている。彼女は、変てこなかかとのクツをはいていた。
おれは動けなかった。動けなくなってるのに、ふいに気づいたのだ。きれいといったら、最高にきれいなんだ、ここにつっ立って見てるだけなのに、今までなかったほどビンビン感じてくる。ほそくくびれたウエスト、くりっと丸いヒップ、両手が髪をかきあげるとき、きゅんともちあがるおっばい。つっ立って、彼女のやることを見てるだけでこうなんだから、ほんとおそろしくなってくる。なんていうか、つまり、なにからなにまで女なのだ。うっとりしていた。
ほかのことはみんなわすれちまって、ただひたすら女のやることを見ていた。今までぶつかったのは、ブラッドがかぎだしてくれたどうしようもないブスばかりだったから、ぶちのめしてやっちまうだけだった。でなければ、さっきのポルノのスケみたいのだ。だけど、これはちがう。ふわっとやわらかそうで、すべすべした感じなのだ、鳥肌のところまでも。朝まで見てても、あきそうもなかった。
彼女はブラシをおいて服の山のなかからパンティーをとると、するっとはいた。それからブラをとって、つけた。あんなふうにつけるとは知らなかった。うしろ向きにウエストにまきつけ、シームのところをくっつけあわせる。それからカップを前のほうにまわすと、引っぱりあげ、まず片方、つぎにもうひとつをすくうようにして入れ、最後に肩にストラップをあげる。ドレスに手をのばしたとき、おれはぬき板としっくいをどかし、ドアをつかんだ。
彼女はドレスを頭の上にあげると、両手を生地の内側に入れた。そして頭からかぶり、ひきおろそうともがいているとき、おれはドアを力まかせに引っぱった。板やしっくいがごそっと落ち、ドアがにぶい音できしった。彼女がドレスをぬぐ前に、おれはとびかかっていた。
女は悲鳴をあげかけた。おれの手のなかでドレスがさけた。彼女には、ものの落ちる音やきしる音の意味さえわからないうちになにもかもおこっていた。
狂ったような顔つきだった。そう、狂った顔だ。大きく見ひらいた目。影になっているので何色かわからない、顔だちはととのっていた。大きめの口、かわいい鼻、おれのとよく似た目だつ頬骨、右の頬にエクボがひとつ。おれを見つめた。すくみあがってる。
そのとき――これが、ほんとおかしいんだけれど――おれは何かいってやらなくちゃいけないと感じた。何をいうって、そんなことは知らない。なんだっていいのだ、とにかく、すくみあがってる彼女を見ると、こっちがおちつかなくなってくる。だからといって、どうしようもないんだけれど。つまり、おれは犯そうとしてるんだし、その相手にむかって、こわがるなよなんていったってしょうがないわけだ。考えてみれば、ただのスケなんだ。なのに、おい、こわがるなよ、おれはただ寝たいだけなんだ、なんていいたくなってしまう。
(こんなのは、はじめてだ。今まではスケに何かいったことなんかなかった。つっこんで、それでおしまいだったのだ)
そんな感じはすぐに消えた。おれはうしろ足で彼女をひっかけて、服の上にけたおした。・四五でねらいをつけると、彼女の口がちっさなOのかたちにあいた。「ようし、ちょっとあそこ行って、レスリング・マットとってくるからな。そのほうが気持いいだろ、え? 動いたりしたら、このハジキで足をぶっとばすぜ。どうせつっこまれるんなら、足ぐらい大事にしなよ」いったことが通じたかどうか、おれは返事を待った。とうとう彼女はゆっくりとうなずいた。オートマチックをかまえたまま、ほこりをかぶったマットの山のところへ行くと、一枚ひっぱりだした。
女のそばまでひきずって行って、きれいなほうが上になるようにひっくりかえし、・四五のとっさきで、女にそれにのれと指図した。彼女はマットの上にひざを折ってすわると、両手をうしろにまわした格好で、おれを見つめた。
ジーパンのチャックをおろし、ぬぎかけたとき、彼女がへんてこな目つきでこっちを見てるのに気づいた。おれは手をとめた。「てめえ、なに見てやがんだよう?」
おれは頭にきた。なんだか知らないけど、やたらに頭にきたのだ。「あなた、名前なんていうの?」と、彼女はきいた。ソフトな、なんかふわっとした感じの声だった。のどのおくのほうにふわふわした毛が生えていて、それを通ってでてきたような声だ。
おれを見つめたまま、答えを待っている。「ヴィクさ」と、おれはいった。まだ何かいうのを待ってるような顔。
「ヴィクなんていうの?」
最初はなにをいっているのかわからなかった。すこしたってようやくわかった。「ヴィクさ。ただヴィクさ。ほかにゃないよ」
「じゃ、おかあさんとおとうさんの名前は?」
おれは笑いだして、ジーパンを下へさげた。「バカなこときくなよ」おかしくて、また笑ってしまった。彼女はかなしそうな顔をした。こっちはまた頭にきた。「そんな目つきしやがると歯ぶっとばすぞ!」
彼女はひざに両手をおいた。
ジーパンを足首のところまでおろしたが、スニーカーがじゃまになって、なかなかぬけない。片足で、バランスをとると、片方のスニーカーをぬいだ。・四五をかまえたままスニーカーをぬぐのは、ちょっとした芸当だ。だけど、ひとつはうまくいった。
もう腰から下は、かたくなったあれから何から丸出しだ。彼女はちょっと前かがみにすわってる。両足はかさねて、手をひざにおいている。「そいつ、ぬげよ」と、おれはいった。
すこしのあいだ動かなかった。よけいな手間をかける気かな、と思った。だが、すぐうしろに手をやるとブラをはずした。シームがはずれたとき、パチッと音がした。それから腰をうかすと、パンティーを足のほうにたぐった。
ふいに、その顔からおびえた感じがきえた。穴があくほど、じっとこっちを見つめてる。やっとその目がブルーだということがわかった。ところが、これが気持わるいくらい変てこなんだけれど……できないんだ。だめというんじゃなくて、なんていうか、やる気はあるんだ、見りゃわかるとおり、だけど、こんなかわいい、ふわっとしたのに見つめられてみろ――どんなソロに話したって信じやしないだろう――ふっと気がつくと、おれは話しかけていた、ウスノロみたいに片っぽだけスニーカーをぬいで、もう一方の足にジーパンをまきつけて。「名前なんていうんだ?」
「クィラ・ジューン・ホームズ」
「変てこ」
「オクラホマではふつうの名前だって、おかあさんはいってたわ」
「そこから来たのか?」
彼女はうなずいた。「第三次大戦の前にね」
「じゃ、おまえのおふくろ、もうかなりの年じゃんか」
「そうよ。でも二人とも元気よ。だと思うわ」
おれたちは全然うごかないで話していた。寒いのだろう、彼女はふるえてる。「さて」そばにすわろうとして、おれはいった。「そろそろ――」
くそっ! ブラッドのちくしょうめ! いちばんいいときにとびこんできやがる。ブラッドは板としっくいのあいだを、ほこりをまいあげて走ってくると、尻でブレーキをかけてとまった。
「今ごろなんだよ?」おれはどなった。
「だれにいってるの?」女がきいた。
「こいつだよ。ブラッドだ」
「その犬?」
ブラッドは女をちらっと見て、そっぽを向いた。そして何かいいかけたが、女が口をはさんだ。
「では、みんながいうの、ほんとうなのね……あなたたち、動物と話ができるって?……」
「おまえ、スケの話を朝まできいてる気かい? なんでとびこんできたか知らなくたっていいのか?」
「話せよ。なんで来たんだ?」
「ヤバイことになったぜ、アルバート」
「早くしろ、もったいぶるなって。どうしたんだよ?」
ブラッドは、YMCAの正面のドアのほうをふりかえった。
「ぐれん隊さ。ビルをとりまいてる。十五人か二十人、もっといるかもしれん」
「どうしてやつらにわかったんだろう?」
ブラッドはくやしそうな顔で、うつむいた。
「なんだよ?」
「ほかにもかぎつけたワン公が小屋のなかにいたんだな」
「やっぱり」
「どうする?」
「やつらを追っぱらうだけさ。何かほかにやること思いつかないか?」
「ひとつある」
おれは待った。ブラッドはにやっと笑った。
「ジーパンあげろよ」
この女、クィラ・ジューンのほうは、かなり安全になった。レスリング・マットを十二、三枚かさねてシェルターを作ったからだ。これで流れ玉にあたる心配はないし、連中がわざわざさがしまわるようなことをしなければ、まず見つかりっこない。おれはガードからつるさがったロープをのぼると、ブローニングと予備の弾を二つかみほど持って、ガードの上にすわった。こんなときには、ブレンかトンプスンみたいな機関銃を持ってればいいのにと、ほんとに思う。・四五をしらべると、弾倉がいっぱいで、薬室にも一発ちゃんとはいっているのをたしかめた。そして予備のクリップをガードの上においた。ここからだと、ジム全体が見わたせる。
ブラッドは、正面ドアのわきの暗がりにうずくまっている。もしできたら、ぐれん隊といっしょにいる犬をさきに撃ってくれ、とブラッドはいった。そのほうが行動がしやすくなるからだ。
それもむずかしいけれど、もっと大きな心配ごとはほかにもたくさんあった。
たてこもるのだったら、入口がひとつしかないとなりの部屋のほうがつごうがよさそうだった。だがチンピラたちがもうビルにはいりこんでるかもしれないので、残ったうちのいちばん有利な場所ということで、ここをえらんだのだ。静まりかえっている。クィラ・ジューンも物音ひとつたてない。彼女をなっとくさせるのに、だいじな時間をかなりつかってしまった。おれといっしょにたてこもるほうが、二十人を相手にするより、どれくらい安全かしれない。「パパやママの顔をもう一度見たいんだったら……」と、おどかしてやったのだ。それからは彼女もおとなしくなった。
静かだ。
そのとき、二つの音が同時に聞こえてきた。プールのほうから、しっくいをふむブーツの音。
低く。それから正面ドアの横のほうから、金具が木にぶつかる音。生けどりにする気らしい。ようし、やれるならやってみやがれ。
また静かになった。
ブローニングを、プールのドアにむけてかまえる。おれがはいったとき、あけたままだ。背たけが五フィート十インチとして、そこから一フット半だけ下をねらえば、そいつの胸板をぶちぬける。頭をねらってもだめだと知ったのは、かなり昔のことだ。やっぱり体のいちばん広い部分、胸と腹がいい。胴体だ。
ふいに、そとで犬がほえ、正面ドアの暗がりから黒い影がジムのなかにはいってきた。ちょうどブラッドとおれをむすぶ線の上。おれはじっとしていた。
チンピラはブラッドからはなれた。そして片腕をあげると、ジムのおくに何かをなげた――石か金具かなにかだ。撃たせておいて、こっちの場所を知るつもりだろう。おれはじっとしていた。
そいつのなげたものがフロアにぶつかると同時に、プール室から二人のチンピラが、いつでも撃ちまくれるようライフルをかまえ、背中あわせにとびだしてきた。だが連中よりも早くおれはブロー二ングの引き金をひいた。一回、ずらして、もう一回。二人とも、ほとんどいっしょにたおれた。命中、心臓へ一発だ。たおれたまま、どちらも動かない。
ドアのそばにいたのが気づいてライフルをかまえたときには、ブラッドがもう食いついていた。ほんとにそんな感じだ、暗やみのなかから、ピシューン!
まるで走り高とびみたいに、ブラッドはライフルをとびこえると、そいつののどもとに牙をつきたてた。チンピラが悲鳴をあげ、ブラッドは肉をくわえたまま、とびおりた。そいつはのどでゴボゴボ音をたてながら、片方のひざをついた。その頭をねらって弾をぶちこむと、そいつはのめるようにたおれた。
あたりはまた静かになった。
わるくないぞ。この調子でいけ。むこうは三人やられて、まだこっちの場所もつかんでない。ブラッドは入口のわきの暗がりにもどっていた。何もいわないが、おれにはブラッドの考えてることがわかった。計算してるのだ、これが17マイナス3か、20マイナス3か、22マイナス3かを。
答えはわからない。ここにまる一週間たてこもったとしても、皆殺しにしたか、それとも殺したのはその一部だけかは最後までわからないだろう。もどって仲間をかき集めるのはかんたんだし、こっちはそのうち弾も食いものもつきて、クィラ・ジューンは泣きわめく、おれも気が気じゃなくなる、そして昼間どうやってもちこたえるかも問題だ――ところが連中のほうは、こっちが腹ペこになってバカなことはじめるか、弾がつきるまで待ってるだけでいいのだ。そして適当なころあいがきたら、いっせいになだれこむ。
チンピラがひとり、正面口からものすごいスピードでとびこんできてそのままジャンプすると、両肩でフロアにぶつかるショックをやわらげ、ころがって立ちあがるなり、三発それぞれちがう方向にぶっばなした。ブローニングで追うひまもなかった。そのときには、おれのすぐ下まで来ていたので、・二二の弾をむだづかいすることはなかった。おれはそっと・四五をとると、そいつの後頭部をねらって引き金をひいた。弾はきれいにくいこみ、顔の上半分と髪の毛をひっぺがしてつきぬけた。そいつは、くたんと倒れた。
「ブラッド! ライフル!」
暗がりからとびだし、口にくわえ、つきあたりにあるレスリング・マットの山まで運んでいった。マットの下から出てきた腕が、ライフルをうけとって引っこむのが見えた。そうだ、あそこならまずだいじょうぶだろう。度胸のいいやつだ。ブラッドはチンピラの死体にかけもどると、ガンベルトをはずしはじめた。これには、ちょっと手間がかかった。入口や窓からねらい撃ちされないかとひやひやしたけれど、とうとうやりとげた。ほんと度胸のいいやつだ。ここからぬけだせたら、わすれないで、うまいものをごちそうしてやろう。天井の暗闇のなかで、おれはひとりで笑った。もしここからぬけだせたら、そのときには、ごちそうの心配なんかする必要ないんだっけ。ジムのフロアにいくつでもころがってるんだから。
ブラッドがガンベルトを暗がりにひきずりこんだそのとき、チンピラが二人、今度は連れの犬と組んではいってきた。人間のほうは窓からとびこむと、ごろごろフロアをころがりながら反対の方向へ。そして犬ども――象みたいにでかくて、にくたらしいツラをしたアキタと、ウンコ色の雌のドーベルマン――この二ひきは正面口からかけこんできて、だれもいない二個所に突進した。そのうち一ぴき、アキタのほうは・四五でしとめた。そいつはのたうちながら、ころがった。だがドーベルマンはブラッドの上にのしかかっていた。
だが撃ったため、こっちの場所をさとられてしまった。ひとりが・三〇‐〇六を腰にかまえて続けざまにぶっばなした。柔頭弾がまわりのガードではじけとんだ。おれはブローニングに手をのばし、オートマチックをほうりだした。それは、いきおいあまってガードのへりからすべりおちそうになった。あわててとろうとしたのが、おれの命をすくうことになった。それは手をすりぬけ、フロアにおちていったが、おれのほうも前にのめっていた。そのときチンピラの撃った一発が、つい今しがたまでおれの体があった場所を通りすぎたのだ。おれはガードに腹ばいになって、だらんと腕をたらした。・四五が、すさまじい音をたててフロアにころがった。おどろいたチンピラが音のした方向にめくら撃ちするのと同時に、べつの場所からウィンチェスターの銃声がひびいた。チンピラのかたわれで、今まで影のなかにかくれていたやつが、胸からどくどく流れでる血をおさえるようにしてフロアにころがった、マットのかげからクィラ・ジューンが撃ったのだ。
何がどうなってるのか考えるひまもなかった。ブラッドとドーベルマンは、組みついたままフロアをころげまわってる。そのうなり声だけでも、すさまじい。・三〇‐〇六を持ったチンピラがまた一発撃ち、それがガードのへりからつきでていたブローニングのとっさきにあった。ブローニングははねあがって落ちていった。くそ野郎は暗がりにかくれて、おれがおりるのを待っている。
ウィンチェスターがまた火をふいた。チンピラは今度はマットめがけてぶっばなした。クィラ・ジューンはおくにひっこんだ。彼女にはそれ以上の手助けをするのはムリだろう。だが、おれにはそれで充分だった。チンピラが彼女に注意をひきつけられているその瞬間、おれはクライミング・ロープをつかんでガードからとびおりた。手のひらの焼けるような痛みをこらえ、放射能鬼みたいに大声をはりあげてロープをくだる。スイングにつごうがいいよう、はじっこにとびおりるとすぐフロアをけった。前うしろとスイングしながら、そのたびに方向を変え、三角形に動いた。くそ野郎はそれを追って撃ちつづけたが、おれはうまく弾のあいだをくぐりぬけた。そして弾がつきたとわかると、思いきり反動をつけて、やつのいる暗がりの上にまいあがり、いちばんすみっこめがけて宙をとんだ。そいつは体あたりをくらって壁にふっとんだ。おれはのしかかると、両方の眼玉に親指をねじこんだ。チンピラが絶叫をほとばしらせ、犬ががなりたて、女が悲鳴をあげた。くそ野郎の頭をつかんで動かなくなるまでフロアにたたきつけたところで、からっぽの・三〇‐〇六をとり、その台尻で頭をぶっつぶした。これでもう、こいつは永久におれになんにもできないわけだ。
それから、おれは・四五を見つけて、ドーベルマンを撃ち殺した
ブラッドはおきあがり、ぶるっと体をふるわせた。ひどくかまれてる。「ありがと」ブラッドはつぶやいて暗がりにはいると、ねそべって傷口をなめはじめた。
おれはクィラ・ジューンのところに行った。彼女は泣いていた。こんなたくさん殺してしまったことを、とくに自分が殺してしまったやつのことを泣いているのだった。いいかげんにだまらせようとしたが、いうことをきかないので横っつらをひっぱたき、おれの命をすくってくれたじゃないかといってやった。それでいくらかおさまった。
ブラッドがしょげた顔でやってきた。「ここからどうやって出よう、アルバート?」
「考えるから、ちょっと待て」
考えたが、助かる見込みはなかった。どれだけやっつけようが、連中はあとからあとから押しかけてくるのだ。もう時間の問題だった。どっちにしろ、やつらの勝ちだ。
「火をつけるのはどうだろう?」ブラッドがいった。
「燃えてるすきにズラかるのか?」おれは首をふった。「まわりをぐるっとかこまれてるんだ。だめだな」
「逃げださないとしたら? いっしょに燃えちゃうとしたら?」
おれはブラッドを見た。度胸もいいが――こいつ、頭もいいぜ。
そこらにある板、マット、はしご、とび箱、ベンチ、燃えそうなものをありったけかき集め、ジムのつきあたりにある仕切り板のそばにつみあげた。クィラ・ジューンが物置から灯油の罐を見つけてきたので、そのばかでかいガラクタの山に火をつけた。そして、おれたちはブラッドが見つけてくれたかくれがにおりた。YMCAの地下のボイラー室だ。からっぽのボイラーのなかにはいると入口をしめ、息ができるように通気孔だけあけておいた。ここまで持ってきたのは、マット一枚と、運べるだけの弾、それからやつらの持っていたライフルや拳銃。
「なんか感じるか?」おれはブラッドにきいた。
「すこしね。たいしたことはわからない。今もひとりの心を読んでる。ビルはよく燃えてるよ」
「やつらがいなくなったかどうかわかるか?」
「わかるだろ。もし、いなくなるとすればね」
おれは寝ころんだ。クィラ・ジューンは今までのできごとにすっかりまいって、ガタガタふるえてる。「おちつけよ」と、おれはいった。「朝には、上のほうは完全にかたづいてる。焼けあとをひっかきまわしたって、ごろごろ死体が見つかるだけさ。女かどうか調べようたって、どうにもなりゃしない。そうなったら、もうだいじょうぶだ……その前に、ここで窒息しないかぎりな」
クィラ・ジューンはほんのすこしほほえんで、こわがってないふりをしようとした。それは、わりとうまくできた、そして目をとじるとマットに横になった。眠ろうとしているようだった。
おれのほうもくたくただったので、目をつむった。
「うまくやれそうか?」おれはブラッドにきいた。
「なんとかね。いいから、眠れよ」
おれは目をつむったままうなずいて、ごろんと横向きになった。なにも考えないうちに、眠りにひきずりこまれていた。
目がさめるとわきの下のところに、例の女、クィラ・ジューンの頭があった。おれの胴に腕をまわしたまま、眠りこけてる。すごく息苦しい。まるで溶鉱炉みたい、というより、ほんと溶鉱炉だ。手をのばしてみると、ボイラーの壁がさわれないくらい熱くなっていた。ブラッドもマットレスの上にわりこんでいる。おれたちがこんがり焼けずにすんだのは、このマットのおかげだったのだ。ブラッドは、前足の上に頭をうずめて眠ってる。クィラ・ジューンも眠ってる、すっばだかで。
彼女の乳首にさわる。あったかい。彼女はもぞもぞ動いて、体をすりよせてきた。あれがかたくなりだした。
やっとこさズボンをぬぐと、彼女の上にごろんとのった。おれが脚をこじあけようとしているのに気づいて、あわてて目をさましたが、そのときにはもうおそかった。「いや……やめて……なにするの……いや、いや……」
だけど、まだ半分眠ってるみたいで、力もよわい。だから本気で抵抗する気はないのだろう。最初のときには、もちろん彼女は泣き叫んだが、そのあとからはうまくいった。レスリング・マットは血だらけだった。ブラッドはあいかわらず眠ってる。今までのとは全然ちがっていた――ふつうブラッドが何か見つけたときには、ふんづかまえて、ぶんなぐって、ヤバくなる前にトンズラかくというふうに手順がきまってる。ところが今度のはすりよってきて、マットからおきあがり、こっちのあばら骨が折れるんじゃないかと思うくらいすごい力でしがみついてきて、それから、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり体を倒していくのだ。ちょうどポンコツ車処理場にまにあわせに作ったジムで、脚上げ運動をやってるときみたいに。そして目をつむり、リラックスした顔をする。うれしいのだ。おれにはわかった。
何回やったかわからない。すこしすると、むこうからいいだすようになったが、おれもべつにいやだとはいわなかった。それから、おれたちはならんで寝ころび、話をした。
ブラッドとどんなふうに暮らしてるのかときくので、おれは、斥候犬がどうしてテレパシー能力を持つようになったか、どうして自分たちで食料をさがすことができなくなったか――だからソロやぐれん隊がかわりにさがしてやってるのだ――それから、おれのようなソロのために女を見つけるのがうまいのはどうしてか、そういうことを全部話してやった。クィラ・ジューンは何もいわなかった。
で、おれは逆に、下のほうの暮らしはどんなふうかきいた。
「いいわよ。だけど、いつもとっても静か。みんな、おたがいに迷惑かけないように気をつけてるんですもの。小さな町なの」
「なんていうとこなんだ?」
「トピーカ。ここのすぐ近くなのよ」
「ああ、知ってるよ。ドロップシャフトが、ここから半マイルぐらいのとこにある。前に見に行ったことがあるんだ」
「下におりたことないの?」
「ないよ。だけど、あんまりおりたくもねえな」
「なぜ? いいとこなのよ。きっと好きになるわ」
「ばっきゃろう」
「下品ね」
「いってる本人が下品なんだからしょうがねえだろ」
「いつもじゃないわ」
おれはちょっと頭にきはじめてた。「おまえよう、どっかおかしいんじゃないのか? おれはおまえをつかまえて、いいなりにしちゃったんだぜ。五回も六回も強姦したんだ。そんなおれのどこがいいんだよう、え? おまえ、脳みそちゃんとあるのか、見たこともない野郎が……」
クィラ・ジューンは笑ってる。「そんなこと全然。あたしだってやってるとき楽しかったもの。もう一回どう?」
あわてふためいたのは、こっちだ。思わず、うしろにさがった。「いったいどうなってんだよ?下からあがってきたスケが、ソロになぶり殺しにされることだって、ほんとうにあるんだぜ。上に行っちゃいかん。不潔で、毛むくじゃらな、けだものみたいなソロにつかまったら最後だからな♂コじゃ、おやじさんやおふくろさんが娘にそういってるだろ? 知らねえのかよ?」
クィラ・ジューンはおれの足に手をのせると、それを上にずらしていった。指先が太股をかすめた。またかたくなってきた。「あたしの両親は、ソロのことそんなふうには話さなかったわ」そういうと、彼女はおれを引きよせて自分の上にのせ、キスした。こっちもがまんできなくて、また彼女のなかにすべりこんだ。
信じられなくなるけど、それから何時間か、ずっとそんなふうだったのだ。そのうちブラッドがこっちを向いた。「いいかげんにしてくれ、おれだってそういつまでも眠ったふりをしちゃいられないよ。おなかがペコペコだ。それに怪我してるんだ」
おれはクィラ・ジューンをほうりだして――そのときは彼女が上だったのだ――ブラッドの傷を調べた。右の耳を、あのドーベルマンにかなり大きくかみちぎられていた。鼻づらまでとどくひっかき傷があり、腹の毛にも血がべっとりこびりついている。もう、ぼろぼろだ。「ひでえや、ぼろぼろじゃねえか」
「おまえだって、まともに見られたもんじゃないぜ、アルバート!」と、いいかえす。おれはいったん手をとめた。
「ここから出る方法ないか?」
ブラッドはあたりをすかし、そして首をふった。「なんにも読めないよ。このボイラーの上にガラクタが山ほどのっかってるんだ、きっと。そとへ出て、偵察してみなくちゃ」
しばらくあれこれ考えて、最後にこう結論を出した。もしビルがすっかりくずれ、多少冷えてきてるのなら、いまぐれん隊は灰のなかをひっかきまわしてるころだ。連中がボイラーまで調べに来ないのは、おれたちがかなり深くうずまってしまったということだろう。でなければ、ビルがまだくすぶり続けているかだ。その場合には、やつらは残骸を調べるために、おもてで待っていることになる。
「こんなふうでも、なんとかできるのか?」
「どっちにしたって、何かしなきゃいけないんだろ?」ブラッドはいった。ひどく機嫌がわるい。「だけど、あんなあきるほどやっちゃったら、これ以上生きてたってしょうがないんじゃないかね?」
ヤバいことになった、とおれは思った。ブラッドはクィラ・ジューンが好きじゃないらしい。
おれはブラッドのうしろをまわって、ボイラー・ハッチをゆるめた。あかない。背中を壁におしつけ、両足をてこにして、ハッチにゆっくりと力をくわえていった。
入口をふさいでいた何かはしばらく抵抗していたが、すこしずつ動きはじめ、やがてすごい音をたてて倒れた。ドアをおしあけて、首を出す。すぐ上のフロアが、地下に落っこちていたのだ。だが支えがくずれたときには、ほとんど燃えかすとかるいガラクタだけになっていたらしい。上のほうには煙がもうもうとたちこめてた。煙を通して、日ざしが見えた。
はいだした拍子に、ハッチの外側のへりで両手をやけどしてしまった。ブラッドが続いてとびだし、残骸のなかで道をさがしはじめた。そとに立ってみると、ボイラーは上から落っこちてきた燃えかすでほとんどすっぽりおおわれていたことがわかった。ぐれん隊はざっと見わたし、おれたちがむし焼きになったと思いこんで、帰ってしまったのだろう。けれども、いちおうブラッドに偵察させることにした。ブラッドは走りだしたが、おれはそこでよびもどした。
「なんだい?」
おれはもどってきたブラッドを見おろした。「いっとくことがある。おまえ、態度がちょっとインケンだぞ」
「どうとでもいいなよ」
「ちくしょう、ワン公。おまえ、なんでそんなトンガッてんだよ?」
「彼女さ、あのなかにいるうすのろのスケだよ」
「それがどうしたんだ? 変だぜ……スケはこれがはじめてじゃねえだろ」
「そうだけど、こんなふうにいつまでもベタベタくっついてるのははじめてさ。いっておくけどね、アルバート、あのスケといっしょにいるときっとヤバいことになるぜ」
「へへッ、知ったこというじゃねえかよ!」ブラッドは答えなかった。ただおこった顔でおれをにらんだだけで、あたりのようすを調べに走っていった。おれはボイラーにもどるとハッチをしめた。彼女はもう一度やりたがった。おれは、いやだといった。ブラッドのおかげで、それどころじゃなくなったのだ。気がめいってた。ほうりだすとしたら、どっちのほうなのか、ふんぎりがつかない。
だけど、このスケかわいいったらないんだ。
プンとふくれて、両手で体をかくしてすわりこんでる。
「下の町の話、もっとしてくれよ」と、おれはいった。
はじめは強情をはって、あまり話したがらなかった。だが、すこしすると口がほどけて、べらべらしゃべりだした。勉強になることがたくさんあった。そのうち、なんか役にたつだろう。むかしアメリカとカナダだったところで、いま下にある町の数はせいぜい二百だという。町は、井戸とか鉱山とか、そういった深い穴があるところにつくられた。西部には、自然の洞窟をつかったものもある。どれもずっと深く、地下四、五マイルのところまで掘り進められた。さかさまになった、でかいケーソンのようなかたちで、そこに住みついたのはおカタいなかでも最悪の連中だった。南部バプテスト、正統派キリスト教信者、政府の犬、自然のくらしなんか全然する気のない本物のミドルクラスのおカタい連中。そういうのが、みんな寄り集まって、百五十年も昔にもどったような生活をはじめたのだ。生き残った最後の科学者たちを使って、そういう町でのくらしかたを発明させ、できあがると追いだしてしまった。連中は進歩をきらい、意見のぶつかりあいをきらい、新しい波をおこすようなことはなんでもきらった。そういうものにさんざんな目にあわされていたからだ。世界がいちばん平和だったのは第一次大戦のすぐ前のころだから、その状態をずっとたもつことができれば、しずかな暮らしができ、生きのこれると考えたのだ。くそったれ! そんなとこにいつまでもいりゃ、気が狂っちゃうぜ。
クィラ・ジューンはにっこりして、またすりよってきた。今度は、おしかえさなかった。彼女はおれの体をまさぐりはじめた、あそこっから何からそこらじゆう。それからすこしして、いった。「ヴィク?」
「ん?」
「あなたは恋愛したことある?」
「なんだって?」
「恋愛。あなたは今までにだれか女の子を愛したことがある?」
「そうだな、なかったな、そんなことは絶対!」
「愛って何か知ってる?」
「うん。知ってるだろ」
「でも、一度も人を愛したことがなければ……?」
「バカだな。つまりだぜ、おれはまだ頭に鉛玉ぶちこまれたことはないけど、そんなのいやなことぐらいわかるじゃないか」
「あなたは愛というものを知らないんだわ、きっとそう」
「だけど、それが下の町に住むという意味だったら、おれは知りたかないぜ」
それから、あんまり話はすすまなかった。クィラ・ジューンがおれをひっぱりよせ、おれたちはもう一回やった。おわったとき、ブラッドがボイラーをひっかく音が聞こえてきた。ハッチをあけると、ブラッドはすぐ目の前にいて、「だいじょうぶ」といった。
「たしかか?」
「そりゃもう、たしかさ。ジーパンはけよ」その声には、ばかにしたような調子があった。「そして、おりてこいよ。ちょっと話がある」
おれはブラッドを見た。冗談をいってる顔じゃない。ジーパンをはいてスニーカーをはくと、ボイラーからおりた。
ブラッドはとことこ先にたってかけだすと、ボイラーからずっとはなれたところ、黒くすすけた梁をとびこえ、ジムのそとに出た――ジムはすっかり焼けおちていた。食いあらされた虫歯みたいだ。
「なんだ話ってのは?」とおれはきいた。
ブラッドはコンクリートのかたまりにのぼって、おれと顔がむかいあう高さまできた。
「おれにかくさなくたっていいんだぜ、ヴィク」
本気なのだ。よびかたも、アルバートじゃなくて、まともなヴィクだ。「おれが何を?」
「ゆうべだよ。あのスケをやつらにやってしまえば、出られたんだ。それがいちばんうまい手だったんだ」
「抱きたかったんだよ」
「ああ、それはわかってる。おれはそのことをいってるんだよ。今はきょうだ、ゆうべじゃない。もう五十回はやってるだろう。なぜいつまでも、うろうろしてるんだ?」
「まだやり足りないんだな」
それがブラッドにカチンときたらしい。「そうかい、なるほど、だけどね、相棒……おれにもほしいものがあるんだ。何か食べたいし、横腹のこの痛みもなんとかしなくちゃ。それから、ここを早くズラカりたいんだ。やつらだって、そう簡単にはあきらめてないかもしれないし」
「おちつけったらよ。全部まるくおさめることはできるんだ。あいつとクミんだって具合わるいってことはないだろ」
「あいつと組んだ、だ」と、ブラッドはいいなおした。「おやおや、そこでまた新しい話がでてきたな。今度はトリオで行くということかい?」
おれのほうも、はげしくおこりだしていた。「おまえのいいかた、まるでプードルだぜ!」
「おまえのほうこそ、まるで女役だよ」
はりとばしたくなって、手をふりあげた。ブラッドは動かない。おれは手をおろした。ブラッドをなぐったことなんて今まで一度もないのだ。ここで、それをしたくはなかった。
「ごめん」ブラッドはちっさな声でいった。
「いいさ」
だが、おれたちの目はそっぽを向いていた。
「ヴィク、おまえにはおれをやしなう責任というものがあるんだよ」
「いわなくたってわかってるさ」
「うん、まあ、そうかもしれない。でも思いだしてほしいことがある。放射能鬼が通りをやってきて、おまえをとって食おうとしたときのことだ」
おれはゾクッとふるえた。あの化けものは、みどり色をしていた。正真正銘のみどりで、キノコみたいにちろちろ光っていた。考えただけで腹のあたりがおもくなってきた。
「そのとき、あいつにぶつかってったのは、おれだろ?」
おれはうなずいた。そうだよ、たしかにそうだ。
「それで焼け死ぬところだったんだ。いいかわるいかは別にして、おれは命をかけたんだ、そうじゃないか?」おれはもう一度うなずいた。だんだん腹がたってきた。こっちばっか悪いような気にさせられるのは、うれしいことじゃない。ブラッドとおれとは五分五分なんだ。ブラッドはそれもちゃんと知っていた。「だが、おれはやったんだよ、そうだろ?」あのみどりの化けものがわめき声をあげたときのことを思いだした。ちくしょう、あんなおそろしかったことはない。
「わかったわかった、そんなドクドクいうない」
「|くどくど[#「くどくど」に傍点]だ、ドクドクじゃない」
「とにかく、なんにしてもだ!」おれはどなった。「やめりゃいいんだ、やめりゃ。でないと、てめえとはこれっきりにするぜ!」
ブラッドもかんしゃくをおこした。「そうか、そのほうがおたがいにいいかもしれんな、きさまみたいな精薄とはつきあっちゃいられないや」
「なんだ、そのセーハクってのは、おい、ワン公……? 悪口なのか……? そうか、そうなんだろうな――よう、くそたれ犬よう、いつまでもそんな大きな口きいてやがると、てめえのケツぶっとばすぜ!」
おれたちはすわりこんだまま、十五分ばかり口をきかなかった。どっちへ行ったらいいか、ブラッドにも、おれにもわからなかったのだ。
ようやく、おれのほうがすこし折れてでた。やわらかく、ゆっくりと話した。おまえとはもういっしょにいられないようだけど、わるいようにはしない、昔どおり食いものもどってきてやると、そういった。だがブラッドは、それもできないとおどした。そうすれば、おれにはますます都合がいいだろう、近ごろはシティにもイカれたソロがいて、自分のようなにおいの強い犬はすぐねらわれるからと。だから、こっちもいいかえした。おどしてまで押しとおされるのはごめんだ、いつまでもでかい面してると、はりとばすぜ。ブラッドはおこって行ってしまった。おれは、「くたばりゃがれ」とどなって、ボイラーのなかにいるクィラ・ジューンのところへもどった。
だがボイラーにはいったとたん、彼女は死んだチンピラが持っていたピストルをふりおろした。おれは右目の上をしたたかやられて、ハッチからまっさかさまにおっこち、気をうしなった。
「だから、あんなスケ、だめだといっただろ」そういうブラッドのわきで、おれは薬箱から消毒液とヨーチンをだし、傷口をてあてした。おれが痛さにビクッとすくむのを見ながら、ブラッドはにやにやしている。
薬をかたづけるとボイラーにはいって、残った弾を持てるだけかき集め、ブローニングのかわりにもっと威力のある・三〇‐〇六をとった。そのとき、おれは彼女がおとしていったらしいものを見つけた。
小さな金属のプレートだった。たて三・五インチ、横一・五インチぐらい。やたらに数字が書いてあって、ところどころに穴があいている。「なんだ、これは?」と、おれはきいた。
ブラッドはそれをながめ、においをかいだ。
「なんか認識票みたいなものじゃないかね。下から出てくるとき使ったんだろう」
それで、おれの心はきまった。
ポケットにつっこむと、歩きだした。ドロップシャフトのあるほうへ。
「おまえ、どこへ行くんだよ?」ブラッドが大声をあげて追いかけてきた。「もどるんだ。あんなとこへ行ったら殺されるぞ!」
「腹ぺこで死にそうなんだ、かまうもんか!」
「アルバート、ばかやろう! もどってこい!」
おれは先をいそいだ。あのスベタをさがしだして、脳みそぶっとばさないことにはおさまりそうもなかった。わざわざ下までおりなきゃいけないとしてもだ。
一時間かかって、トピーカへ通じるドロップシャフトのところについた。ブラッドが追ってきてるような気がしたが、ずっとうしろのほうなのだろう、よくわからない。知ったことじゃない。もう頭にきていたのだ。
やっと、その前まできた。黒光りする金属でできた、見あげるような丸い柱だ。直径二十フィートぐらい。てっぺんは平らで、地面につきささっている。上に出ているのは、ただのキャップなのだ。それに近づくと、ポケットをがさごそやって、さっきのプレートをとりだした。そのとき何かが、ジーパンの右のすそをひっぱった。
「おい、聞けよ、バカ、あんなところへ行ったら帰ってこれないぞ!」
けとばして追いはらったが、すぐもどってきた。
「こっちの話を聞けったら!」
おれはふりかえって、ブラッドを見た。
ブラッドはすわった。まわりで、ほこりがまいあがった。
「アルバート!」
「おれの名はヴィクだ」
「わかったわかった、冗談はやめるよ。ヴィク」ブラッドは調子をやわらげた。「ヴィク。まあ、すわれ」いいくるめる気なのだ。おれのほうは、ほんとカッカしていたが、ブラッドはまじめな顔つきだった。肩をすくめ、そばにしゃがんだ。
「ヴィク、おまえ、あのスケのことになると全然おかしくなってしまうんだな。行けやしないことはわかってるじゃないか。みんなおカタくて、こぢんまりとまとまって、住んでるのは知ってるやつばかりという町なんだ。そのうえソロをにくんでる。ぐれん隊がしょっちゅう押しかけて女を強姦し、食料をかっさらったものだから、下でも抵抗する策をたてたんだ。殺されるぞ、おまえ!」
「そんなこと、なんで心配するんだよ? おれがいないほうがずっと楽にくらせるって、いってやがるくせに」これにはブラッドもケションとなった。
「ヴィク、いっしょになってから、もうそろそろ三年だよ。楽しいときも苦しいときもあったが、今度のは最悪だ。おれは、こわいんだよ。かえってこないんじゃないかと思ってさ。腹をへらして、おれをやしなってくれるやつをさがしに行かなきゃならない……だけど今ではソロもほとんど組にはいってるから、こっちははんぱ犬だ。もう若くもないし、この怪我ではね」
それは、おれにもわかった。ちゃんと筋がとおってる。おれだって、もしソロ暮らしができなくなって組にはいったりすれば、はんぱ犬だ‐ホモのチンピラどものいうなりになって尻をまくらなきゃならない。だけど今おれの頭にあるのは、あのスベタ、クィラ・ジューンの裏切りだけだった。それといっしょに、ふっくらしたおっばいや、だいたとき彼女があげたちっさな声のことが思いうかんだ。おれは頭をふった。下へおりるのは、おとしまえをつけるためなのだ。
「どうしようもないんだ、ブラッド。行かなきゃ、おさまらないんだ」
ブラッドは大きく息をついて、しょぼんとうつむいた。いくらいってもだめだとわかったのだろう。「ヴィク、おまえ、あのスケにどんな目にあわされたか、ちゃんとわかってないんだよ」
おれは立ちあがった。「なるべく早くかえるよ。待ってるか?」
ブラッドは長いあいだだまっていた。おれは返事を待った。とうとうブラッドはいった。「すこしぐらいはね。いるかもしれないし、いないかもしれない」
わかった。おれはブラッドに背を向けると、黒い金属の柱にそってまわりはじめた。とうとう壁のスロットをさがしあてると、プレートをさしこんだ。低いブーンという音がして、柱の一個所がみるみる丸くひろがった。はじめ見たとき、そんなところにつぎ目は見あたらなかった。ぽっかりとあいた入口に、おれは一歩ふみこんだ。ふりかえると、ブラッドがこちらを見ていた。
おたがいに見つめあった、そのあいだ中、柱はブーンと音をたてていた。
「じゃあな、ヴィク」
「気をつけろよ、ブラッド」
「早くかえってきなよ」
「まかしとき」
「ようし、行け」おれは前を向き、中にはいった。うしろでアイリス・ドアがしまった。
最初からわかっていたことなのだ。かんづいてもよかったのだ。上はどんなふうか、都市はどうなったのか、それを見たくてあがってくるスケは、むかしからときどきいた。そういうひとりが、おれの前にあらわれた。だから、あのうだるようなボイラーのなかで、おれにもたれかかりながら話したいろいろなことを、信じたのだ。女と男があれをするのを一度見たい思っていたこと。トピーカでやる映画はみんな甘ったるく分別くさいものばかりで、あきあきしていたこと。学校の女友達がポルノ映画の話をするのを聞き、そのひとりから借りてきたうすっぺらな八ページのコミックブックを見て目を丸くしてしまったこと――おれは全部信じた。ここまでくれば、あとはかんたんな理屈だ。認識プレートをなぜ残していったか、そこでうたぐってもよかったのだ。はっきりしてるじゃないか。ブラッドはそれを教えようとしたのだ。バカ? そう、バカなんだ!
アイリス・ドアがうしろでしまったとたん、ブーンという音はいっそう大きくなり、四方の壁が冷たくかがやきだした。四方じゃない、丸い部屋だから壁は二つの面しかないわけだ、内側と外側という。壁の光はだんだん強くなり、ブーンという音も大きくなった。と、おれの立っているフロアが、今しがたのアイリス・ドアみたいにひろがりだした。おれはコミックに出てくるネズミみたいにつっ立っていた。
見おろしさえしなければ、クールでいられるし、おっこちないような気がしたのだ。
そのときには、もう宙にういていた。頭の上でアイリスがしまった。シャフトのなかをどこまでも落ちていった。だんだん速くなるようだが、それほどでもない。ただひたすら落ちてゆくだけだ。なぜドロップシャフトというのか、おれははじめて思いあたった。
そんなふうなのが長いあいだつづいた。ときどき壁に変な文字が出ていた。19レヴとか、アンチポル55とか、ブリードコンとか、バンブセ6なんていうのがあって、アイリス部分の線が見分けられることもある――それでもまだ行きどまりにはならなかった。
ようやく、いちばん底までおっこちた。壁には、トピーカ・シティ、人口二二八六〇とあった。
ほとんどショックもなく足がついた。ちょっと膝をまげてバランスをとっただけだった。
もう一度プレートを使うと、アイリス・ドアが――さっきのよりはるかに大きい――するするとひらいた。そして、おれははじめて下の町を見た。
つきあたりにうすぼんやり光るブリキの境界まで、二十マイル。おれのうしろの壁は、内側にむかってどこまでもカーブしながら大きな半円をつくり、また内側にどこまでもどこまでもカーブして、出発点にもどっている。おれは今、高さ八分の一マイル、直径二十マイルのばかでかい金属の筒の底にいるのだった。そのブリキ罐のなかに、だれかが町をつくったのだ、上の世界の図書館の、水びたしになった本の写真のなかで見たような町を。おれはこれとよく似た町を本で見たことがある。これとちょうどそっくりだった。さっばりした小さな家、まがりくねった細い道、きちんと刈った芝生、商店街、そのほかトピーカという町にありそうなもの全部。
ただし、ないものがある。太陽と、鳥と、雲、雨、雪、寒さ、風、アリ、ごみ、山、海、ひろびろした小麦畑、星、月、森、かけまわる動物、それから……
それから、自由。
ここの連中は、死んだ魚みたいに罐詰にされているのだ。罐詰なのだ。
おれはのどのあたりがひきしまるのを感じた。そとへ出たかった。上の世界へ! 体がふるえはじめた。両手が冷たくなり、ひたいには汗がふきでていた。こんなとこへおりちまったなんて、気ちがいざただ。出なくちゃ。早く!
ドロップシャフトへもどろうと向きを変えた。そのとき、そいつがおれをつかまえた。
あのスベタ、クィラ・ジューンが手をまわしたんだ! もっと前に気がついてればよかったんだ!
それは、平たくて、みどり色で、箱みたいなかたちをしていた。そして腕のかわりをする、二本のくねくね動くケーブルがのび、その先っぽはミトンのかたちをしていた。
そいつは、おれをその四角い平たい屋根の上にすわらせると、ミトンでおさえこんだ。びくともしない。正面についている大きなガラスの目をけとばそうとしたが、だめだった。割れないのだ。下まで四フィートぐらいしかないので、スニーカーがほとんど地面にとどきそうだった。だが何もしないうちに、そいつはおれを乗せたまま、トピーカの町にはいっていった。
まわりは人間だらけだった。ポーチのゆりいすにすわってるの、芝生をくま手でかいてるの、ガソリン・スタンドの前でたむろしてるの、ピンボール・マシンに小銭を入れてるの、道のまん中に白ペンキでふとい線をひいてるの、街角で新聞を売ってるの、公園のボートのよこでバンドの演奏を聞いてるの、石けりやかくれんぼをやってるの、消防車をみがいてるの、ベンチで本を読んでるの、窓をふいてるの、庭木をかりこんでるの、ご婦人がたに帽子をつまんであいさつしてるの、金網かごに牛乳びんを集めて入れてるの、馬の手入れをしてるの、棒をなげて犬を追っぱらってるの、公共の水泳プールにとびこんでるの、食料品屋のおもての石板に野菜の値をチョークで書いてるの、女と手をつないで歩いてるの、その連中がみんな、この金属の化けものに乗ったおれをじろじろ見ているのだ。
ドロップシャフトにはいるちょっと前にブラッドがいってた言葉が耳に聞こえてくるようだった。(みんなおカタくて、こぢんまりとまとまってて、住んでるのは知ってるやつばかりという町なんだ。そのうえソロをにくんでる。ぐれん隊がしょっちゅう押しかけて女を強姦し、食料をかっさらったものだから、下でも対抗する策をたてたんだ。殺されるぞ、おまえ!)
ありがとな、ワン公。
元気でやれよ。バイバイ。
みどりの箱は目抜き通りをとおって、ある建物の前でまがった。ウインドーに、職業紹介所と文字がある。あいたドアを乗ったままとおりぬけると、七、八人が待ちかまえていた。かなりの年寄りもいる。女も二人まじっていた。みどりの箱はとまった。
ひとりがやってきて、おれの手からプレートをとりあげた。そしてプレートのうらおもてを見て、いちばんしわくちゃな年寄りにわたした。だぶだぶのズボンをはき、みどり色のまびさしをつけ、ストライプ・シャツのたもとをガーターでとめている。「クィラ・ジューンのものだ、ルー」と、そいつは年寄りにいった。ルーはプレートをとって、たたみ込み式デスクの左上のひきだしにしまった。
「銃はもらったほうがよかろう」と、じじいがいった。アーロンとよばれたそいつは、おれから銃をとりあげた。
「はなしてやれ、アーロン」と、ルーがいった。
アーロンがみどりの箱のうしろにまわるとカチャンと音がして、ミトンは箱のなかにひっこんだ。おれはフロアにおりた。おさえこまれていたので腕がしびれてる。腕をかわるがわるさすりながら、連中をにらんだ。
「さて、若いの……」ルーがいいかけた。
「屁でもこきゃがれ、くそじじい!」
女はまっさおになり、男は顔をひきつらせた。
「その手はだめだといっただろう」年寄りのひとりがルーにいった。
「手強いですよ、これは」若いほうのひとりがいった。
ルーは、まっすぐな背のイスからのりだして、しわくちゃの指をおれにむけた。「若いの、おとなしくしたほうがいいぞ」
「てめえらみんな、みつくちのガキでも生みやがれ!」
「これはだめだよ、ルー!」別のひとりがいった。
「ごくつぶし」と、かぎ鼻の女がいった。
ルーはおれを見つめた。口はみじかい黒い一本の線みたいだった。こいつ、頭だけはしゃっきりしているようだが、歯なんかまるっきりないにちがいない。インケンな小さい目でにらんでる――気味のわるい野郎だ。おれの肉をついばみにきた鳥みたいだ。なんかおこらすようなことをいうつもりらしい。「アーロン、パトロール車にのせてもどしたほうがいいかもしれんな」アーロンがみどりの箱に近づいた。
「わかった、ちょっと待て」おれは手をあげていった。
アーロンはとまってルーを見た。ルーはうなずいた。そしてまた体をのりだすと、鳥の爪みたいな指をつきつけた。
「おとなしくするというのだな?」
「まあね」
「きっばりといいなさい」
「わかった。キッパリとおとなしくするよ。メッタメタにおとなしくするよ」
「それから口をつつしむのだ」
おれは答えなかった。くそじじい。
「若いの、おまえはわしらにとっては、ひとつの実験なのだ。以前にも、ほかの方法でひとりつかまえに行ったことがある。おまえのような不良をいけどりにするために、善良な人びとを地上におくりだしたのだ。しかし、だれひとり帰ってはこなかった。で、これは、おびきよせるほかはないと考えたわけだ」
おれはせせら笑った。あのクィラ・ジューンかよ。ああ面倒みてやるぜ!
女のひとり、かぎ鼻よりちょっと若いのがやってきて、おれの顔をしげしげとながめた。「ルー、これはわたしたちの扱えるような相手ではないわ。けがらわしい少年殺人鬼よ。目をごらんなさい」
「ケツにライフルぶちこんでやろうか、よう、くそばばあ?」女はとびさがった。ルーがまたおこりだした。「あやまるよ」と、おれはいった。「変なよびかたしてほしくないだけだ。頭へくるじゃないかよ、え?」
ルーはイスに背をもどし、女をしかった。「メズ、さがんなさい。わしは冷静に話そうとしているのだ。おまえがでしゃばるとまとまる話もこじれてしまう」
「今いったようにだ、若いの。おまえは、わしらにとっては実験なのだ。このトピーカに住むようになって、そろそろ二十年になる。なかなか暮らしよいところだ。静かで、整っておって、人びとは互いに尊敬しあいながら住んでおる。年長者はうやまわれ、犯罪もないし、暮らすには絶好のところだ。われわれは日々成長し、繁栄しておる」
おれはつづきを待った。
「ところがだ、近ごろになってある問題がおこった。市民のなかに、赤んぼうを作れない年のものが多くなり――できても、女の赤んぼうしか生まれてこないようになった。男が必要だ。ある特別な能力を非常にたくさん持った男だ」
おれは笑いだした。こんな夢みたいな話ないじゃんか。おれに種つけさせる気なんだ。しばらく笑いがとまらなかった。
「不作法な!」女のひとりが、顔をしかめながらいった。
「若いの、これは、わしらとしても話しづらいことなのだ――あまり困らせんでくれ」ルーはおたおたしてる。
上にいたときは毎日毎日、ブラッドと血まなこになってスケをさがしてたというのに、おりてみたら、町のご婦人がたにたっぷりサービスしてくれときちゃう。フロアにすわりこんで、涙が出るまで笑いつづけた。
やっとおきあがると、おれはいった。「いいぜ。まかしときな。だけどその前におれのほうもしたいことがある」
ルーはじっと見つめた。
「まず一番目は、クィラ・ジューンをこっちにわたすことだ。目がつぶれるくらい、あいつとやってやってやりくらかしてから、あのときのしかえしに、右目の上のおんなじところをぶちのめしてやる!」
連中はかたまって話しこんでたが、そのうちやってきて、ルーがいった。「ここでは暴力は許されん。だがクィラ・ジューンを手始めとして行なうのはよかろう。あの娘はじょうぶだったな、アイラ?」
細っこい、黄色い肌をした男がうなずいた。あんまりうれしそうな顔じゃない。クィラ・ジューンのおやじだろう、きっと。
「ようし、じゃはじめるか。みんな、ならべろよ」そういって、おれはジーパンのチャックをおろした。
女どもが悲鳴をあげた。連中はおれをつかまえて下宿屋につれていくと、部屋にいれた。連中がいうには、仕事をはじめる前にトピーカをすこし知っておいたほうがいい、でないと、ええと、そのう、つまり、こまったことになるからで、市民たちにも、これはぜひとも必要だということを説得しなければならない、のだそうだ。どうやら連中は、おれがうまく仕事したら、もう二、三人、若い種牛を上からつれてくるつもりらしい。
そういうわけで、おれは、トピーカの市民が何をしてるか、どんなふうにくらしてるか、しばらくのあいだながめることになり、そのうちだんだんようすがわかってきた。それがまあ、イカしてるったらないんだな。ポーチのゆりイスにすわったり、芝生をくま手でかいたり、ガソリン・スタンドの前でたむろしたり、ピンボール・マシンに小銭を入れたり、道のまん中に白ペンキでふとい線をひいたり、街角で新聞を売ったり、公園のボートの上で、バンドの演奏を聞いたり、石けりやかくれんぼをやったり、消防車をみがいたり、ベンチで本を読んだり、窓をふいたり、庭木をかりこんだり、ご婦人がたに帽子をつまんであいさつしたり、金網かごに牛乳びんを集めて入れたり、馬の手入れをしたり、棒を投げて犬を追っぱらったり、公共の水泳プールにとびこんだり、食料品屋のおもての石板に野菜の値段をチョークで書いたり、今まで見たこともないほどのブスと手をつないで歩いたり、ほんと、おれはあきあきしてしまった。
一週間もすると、悲鳴をあげたくなってきた。
れいのブリキ罐がだんだん、おれのほうに押しよせてくるような感じがしだした。
上にある土の重さが、肌につたわってくるようだった。
食いものはみんな人工だ。人工豆、合成肉、インチキ鶏、にせトウモロコシ、いかさまパン、味もなにも砂食ってるみたいで食いものなんてもんじゃない。
上品? ばっきゃろ、あんな礼儀とかいう見せかけの嘘っぱちを見たらゲロはいちゃうぜ。こんにちは、ナントカさん、カントカさん。やあ、こんにちは。ジェニイちゃん、お元気? どうですか、景気は? 木曜の教会の集まりにはいらっしゃいます? 最後には、おれまで下宿の部屋のなかでひとりでぶつぶついいはじめた。
こんな清潔で、きちんとした、甘っちょろい生活をつづけたら、男は死んじまう。男の連中がみんな立たなくなって、タマのついてない、穴ぼこだけの赤んぼしか生まれないのも、こんなことしてりゃあたりまえだ。
最初の二、三日、みんなはおれを爆弾かなんかを見るような目で見ていた。おれが爆発したらおもしろいや。連中の家のきれいな白いピケット塀も、ウンコと血でべとべとだ。だがそのうちだんだん連中もおれになれてきた。ルーはおれを商店街につれていき、どんなソロだって一マイル先から見つけそうな、まっさらのズボンとシャツを買ってくれた。メズという、こないだおれを殺人鬼とよびやがった女まで、うるさくつきまといはじめ、最後には髪をかってやるといいだした。文明化したように見せるんだそうだ。だけど、おれにはこの女のねらいはわかってた。おふくろって感じなんか全然ないんだから。
「どうしたんだよ、われめちゃん?」おれは皮肉をいってやった。「旦那がかまってくれないのかい?」
彼女はこぶしを口にあてた。おれはげたげた笑ってやった。
「旦那のキンタマをちょんぎりに行ってきなよ、おばはんよう。おれはこのままのへアスタイルでいいんだから」まるでケツから火をふいたみたいにとびだしてった。
そんなふうに何日かすぎた。おれは町をふらっき、連中は話にきたり、食いものを持ってきたりした。だがピチピチしたスケは全然よせつけようとしなかった。町中のやつらと話がつくまでおあずけなのだ。
ブリキ罐から出るに出られず、ちょっと頭がおかしくなったときもあった。閉所恐怖症とかいうのにおそわれ、下宿屋のポーチの暗いところでがたがたふるえていた。ようやくおさまると、今度はやたらにイライラして、やつらをどなりつけ、つぎにはふさぎこみ、そのつぎはおとなしくなり、それからはただぼんやりしていた。
ここからズラかることを考えはじめたのは、それからずっとあとだ。前にブラッドにプードルを食わせてやったのを思いだしたときから、それははじまった。あれはどっか下の町から出てきたにきまってる。ただドロップシャフトからはあがれない。とすれば、出口がほかにあるわけだ。
とうとう連中は、町全体のようすをくわしく見せてくれることになった――不作法なことをせず、よけいなことをしなければという条件つきでだ。みどりのパトロール箱が、いつもどこか近くで見はってた。
ついに出口が見つかった。べつにおどろくほどのことじゃない。あるにきまってるものがあっただけだ。
そのあと、おれの銃のかくし場所がわかり、用意ができた。ほとんど。
アーロンとルーとアイラがやってきたのは、ズラかることを思いついてから一週間目のことだった。そのころには、ほんとおれもボケていた。下宿屋のうらのポーチにすわり、シャツをはだけ、コーンパイプをくわえて、日なたぼっこだ。といっても、太陽なんかあるわけじゃない。それくらいボケてたのだ。
連中はおもてからまわってきた。「おはよう、ヴィク」と、ルーがいった。この屁こきじじい、杖ついてヒョコヒョコびっこひいてる。アーロンはきげんよくにんまり笑った。牝牛もよくふとったし、そろそろこのでかい黒い種牛をのっからせよう、そういう目つきだ。アイラのほうはこっぱにして、炉にでもくべるとよく燃えそうな顔をしていた。「ああ、おはよう、ルー。おはよう、アーロン、アイラ」これにはルーもきげんよくしたようだ。
へへつ、見てやがれよ、くそったれめ!
「最初のご婦人と会う用意はいいかね?」
「ああ、もういつでも、ルー」そういって、おれは腰をあげた。
「いいタバコだろう?」アーロンがいった。
おれはコーンパイプを口からとった。「おいしいねえ」にっこり笑ってやる。最初っから火なんかつけちやいないのだ。
連中といっしょにマリゴールド通りに行き、黄色いよろい戸と白いピケット塀のあるこぢんまりした家の前に来ると、ルーがいった。「アイラの家だ。クィラ・ジューンは、アイラの娘さんだよ」
「それは、おどろいたなあ」目を丸くして、いってやった。
アイラのあごの細い筋肉がピクッとした。
おれたちは中にはいった。
クィラ・ジューンは、おふくろといっしょに長イスにすわってた。おふくろさんは、ちょうどクィラ・ジューンが年くって、しぼんだみたいな感じだった。「はじめまして、ホームズさん」おれはそういうと、ちょっとおじぎした。彼女はにこっと笑った。こわばった顔つきだが、それでも笑った。
クィラ・ジューンは両足をそろえ、両手をひざの上にかさねてすわっている。髪にリボンをむすんでいた。色はブルーだ。
目が合った。腹にドスッとショックを感じた。
「やあ、クィラ・ジューン」おれはいった。
彼女は顔をあげた。「おはよう、ヴィク」
とたんに、まわりで見てた連中がみんなぎごちなくふるまいはじめた。そのうちアイラが、べッドルームに行かせろとか、こんないまわしいことは早くおわらせろとか、すんだら教会へ行って天罰がくだらないように神さまにお祈りしようとか、そういったろくでもないことをペラペラしゃべりだした。
で、おれは手をあげ、クィラ・ジューンが目をふせたままさしだす手をとって、二人でおくのベッドルームにはいった。彼女はうつむいて立っている。
「連中には話さなかったんだな?」おれはきいた。
クィラ・ジューンはうなずいた。
そのとたん、彼女を殺す気など全然なくなった。だきしめたかった。思いきり強く。で、そうした。おれの胸にとびこんだとたん、彼女は泣きだし、ちっさなこぶしで、おれの背中をたたきつづけた。それから目をあげると、いちどにしゃべりだした。「おお、ヴィク、ごめんなさい、ごめんなさいね、あんなことするのいやだったの、でもしかたがなかったのよ、そうするようにいわれていたし、あたし、こわかったの、愛してるわ、だからあなたがつかまえられたときいたとき、うれしかったわ、でもここきたなくないでしょ、パパがいってるようなところじゃないでしょ?」
おれは彼女をだいたままキスしてやり、安心しろといってやった。それから、おれといっしょに出ないかときくと、何度もうなずいて、あなたといっしょならどこへでも行くわ、といった。だけど、ここから出るには、きみのパパを傷つけることになるかもしれないというと、おれが最初に見たときのあの大きな目で彼女はじっと見つめた。
しつけの点じゃ、クィラ・ジューン・ホームズはあのお祈りをどなりちらすパパの娘とはとても思えない。
何かずっしり重い、燭台とか、棍棒みたいなものはないかときいてみたが、彼女は、ないと答えた。おれはベッドルームをひっかきまわした。たんすのひきだしから、パパのソックスが見つかった。ベッドの頭板から大きな真鍮の玉をぬいてソックスに入れ、重さをたしかめた。
彼女は目を丸くして、おれを見つめた。「いったい何をはじめるの?」
「ここから出たいんだろう?」
うなずく。
「じゃ、ドアのかげにかくれるんだ。おっと、ちょっと待てよ。いいこと思いついたぞ。ベッドにのれ」
彼女はベッドに横になった。「ようし、スカートあげろ、それから下着おろせ、足をひろげるんだ」おびえきった目で、おれを見る。「やるんだ。出たけりゃな」
クィラ・ジューンはいわれたとおりにした。おれはその足をとって、ひざを折りまげ、股のつけ根まで見えるようにひろげさせた。そしてドアのわきに行くと、小さな声でいった。「パパをよぶんだ。パパだけ」
長いあいだためらっていたが、とうとう大声でよんだ。こんなときだから、べつに作り声をだすこともない。「パパ! パパ、来て、おねがい!」そして、かたく目をつむった。
はいってきたアイラ・ホームズが、娘のあれに目をやってぼかんと口をあけたところで、ドアをしめると、頭に力いっぱいぶちかました。頭がちょっとへこみ、血がベッドカバーにとびちった。そしてパパはたおれた。
ズシッ! という音を聞いて目をあけた彼女は、両足にとびちった血を見たとたん、かがんでフロアにゲロゲロはきだした。これじゃ、アーロンをよびよせるのには役にたちそうもない。おれはドアをあけて首を出し、「アーロン、もうしわけないけど、ちょっと来てくれないか?」といった。アーロンは、ホームズ夫人と話してるルーを見た。ベッドルームでは何がおこっているのでしょうかねえ、とでもいってるんだろう。ルーがうなずいたので、彼は部屋にはいってきた。
クィラ・ジューンのむきだしの茂み、壁や天井の血、フロアにのびたアイラ、それだけ見て、叫ぼうと口をあけたそこのところで、おれはぶちかました。息をとめるのに、あと二回ぶちかまし、横にどかすのに胸ぐらをけとばさなきゃならなかった。クィラ・ジューンはまだゲロゲロやってる。
彼女の腕をつかむとベッドからひっぱりあげた。それでおとなしくはなったけれど、ゲロでくさいったら。
「行こう!」
いやがってふりほどこうとしたけれど、おれはふみこたえ、ベッドルームのドアをあけた。ひっぱりだしたところで、杖をついて立っているルーとでくわした。杖をけとばしてやると、屁こきじじいはすっころがった。ホームズ夫人がおれたちを見た。亭主は何をしてるのか、ふしぎがってるらしい。
「おくにいます」おれはそういって、正面のドアにむかった。「天罰が頭にくだりましたよ」
鼻のまがりそうにくさいクィラ・ジューンをひっぱって、通りにでた。吐くものもないのにまだゲーゲーやりながら、泣いている。下着がどこへ行っちゃったのか心配なのだろう。
銃は、職業紹介所の鍵のかかった箱のなかにはいってる。その前に下宿屋にまわり道して、ガソリン・スタンドでかっばらってきた金てこをポーチの下から出した。そして共済組合のうらをぬけて商店街にはいると、まっすぐ紹介所をめざした。事務員がひとりとめようとしたが、そいつの頭を金てこでたたきわった。ルーの部屋にある箱の錠をこじあけ、・三〇‐〇六と、・四五と、ありったけの弾、スパイキ、ナイフ、道具入れ、全部かついだ。そのころには、クィラ・ジューンもすこしはまともになっていた。
「どこ行くの? どこ行くのよ? ああ、パパ、パパ、パパ……!」
「おい、クィラ・ジューン、うるせえな、パパパパいうなよ。いっしょに来たいっていっただろ……おれは上に行くのさ、ベイビー。いっしょに来たけりゃ、くっついてたほうがいいぞ」
いいかえす力もないほどおびえてる。
・四五をやると、手にとって穴のあくほどながめた。
紹介所からでると、れいのみどりのパトロール箱が軽戦車みたいにすっとんでくるところだった。ケーブルがつきでているけれど、先っぽはミトンじゃなくてフックになってる。
片方のひざをつくと、・三〇‐〇六のつり皮を腕にまきつけ、じっくりねらいを定めてフロントのでかい目玉にぶっばなした。一発、ズガーン!
命中したとたん、目玉は火花をちらしてはじけとんだ。みどりの箱は道路をそれて、ミル・エンド・ショップと書いてある店のウインドーにつっこむと、キーキーガシャガシャ音をたてながら、まわりじゆうに火と火花をまきちらした。カッコイイ。クィラ・ジューンの手をとろうとふりかえったが、彼女はいなかった。通りのむこうから自警団が押しよせてくるのが見える。ルーがバッタの化けものみたいに、そばで杖をついてピョンピョンとんでいる。
ちょうどそのとき銃の音がはじまった。でかい、ズーンとひびく音。クィラ・ジューンにやった・四五だ。見あげると、二階をぐるりととりまくポーチの上に彼女がいた。まるでプロみたいにオートマチックを手すりにあて、群れのまん中ねらってガンガン撃っている。四〇年代のリパブリック映画のワイルド・ビル・エリオットそっくりだ。
だけど、ばかやろうだよ! ほんと、ばかやろうだ! にげなきゃいかんときに、あんなことして時間つぶしやがって!
外からそこへのぼる階段を見つけて、いっぺんに三段ずつのぼった。クィラ・ジューンはにやにやケラケラ笑ってる。そして群れのなかから、ひとりにねらいをつけては、舌べろの先を口のはしからつきだし、目からぼろぼろ涙をこぼして、ドーン! と撃つ。すると、そいつはたおれるのだ。
もう夢中だ。
そばまで行ったとき、彼女はやせこけた自分のおふくろをねらっていた。引き金をひく寸前に、頭をうしろからぶんなぐったので、弾は横にそれた。おふくろさんはダンスするようにちょっととびあがったが、どんどんやってくる。クィラ・ジューンがいきなりふりむいた。殺しに飢えたような目が、おれを見た。「はずれちゃったじゃないか」その声には、おれさえゾクッとした。
・四五をもぎとった。ばかやろう。こんなに弾をムダづかいしやがって。クィラ・ジューンをひきずってビルのうらへまわると、さしかけ屋根の倉庫を見つけた。その上にとびおり、彼女を待った。
彼女は鳥みたいに笑いさえずりながら、とびおりた。その体をうけとめ、倉庫のドアをすこしあけて、連中がビルのなかまではいってるかのぞいた。どこにもいない。
クィラ・ジューンの腕をつかんで、トピーカの南側のへりへつっばしった。ぶらつきながらさがしたかぎりでは、それがいちばん近い出口だった。つくまでに十五分かかった。はあはああえぐだけで、子猫みたいに力がでない。
出口はそこにあった。
ふとい通気孔だ。
金てこで留めがねをこじあけ、はいりこむ。はしごが上にむかっていた。やっぱりだ。あるにきまってるんだ。修理や掃除はしなきゃいけないんだから。あたりまえじゃんか。のぼりはじめた。
ながいながい時間がかかった。
つかれてのぼる気がなくなってしまうと、クィラ・ジューンはいつもこうきくのだった。「ヴィク、あたしを愛してる?」そのたびに、愛してるよ、と答えた。ほんとのことだし、それで彼女にのぼる力がわくからだった。
10
ドロップシャフトから一マイルはなれたところへ出た。フィルター・カバーとハッチボルトを銃でふきとばして、そとにはいだした。下のやつらも、これで思い知っただろう。ジミー・キャダニーには近よらんほうがいい。どうせ勝ち目はないんだからな。
クィラ・ジューンは力をつかいはたしてた。ムリもない。だけど青天井の下で夜ねるのはヤバい。ひる日なかだって出会いたくないような化けものが、どっかにいるかもしれないからだ。もうそろそろ暗くなりだしてる。
おれたちはドロップシャフトをめざした。
ブラッドが待っていた。
ぐったりしている。だが、おれを待っていたのだ。
かがんで、頭をかかえあげた。ブラッドは目をあけて、聞こえるか聞こえないくらいの細い声でいった。「よう」
おれは笑いかけた。ちくしょう、やっぱりいいやつだぜ。
「かえってきたぞ、おい」
ブラッドはおきあがろうとした。だが、できなかった。傷口は見られたものじゃなくなっていた。「何か食ったのかよ?」おれはきいた。
「いいや。きのうトカゲつかまえたよ……それとも、おとといだったかな。腹がへったぜ、ヴィク」
そこへクィラ・ジューンがやってきた。ブラッドは彼女を見て、目をつぶった。「いそいだほうがいいわ、ヴィク。ねえ、早く。ドロップシャフトからあがってくるかもしれなくてよ」
おれはブラッドをだきあげようとした。死んでるみたいに重い。「いいか、ブラッド、聞けよ、これからシティへひとっ走りいって、食いものとってくるからな。すぐもどる。待ってろよ」
「あそこへは行くな、ヴィク。おまえがおりてった日、偵察に行ってみたんだ。あのジムでおれたちが死んだんじゃないってことを、やつらは知ってたよ。どうしてわかったのかな。ワン公どもが、においをかぎだしたのかもしれん。ずっと見はってたけど、つけてはこなかった。夜になると、このあたりはヤバいからな。ほんとヤバいからな。ほんと……ヤバいから……」
ブラッドはぶるんと体をふるわせた。
「しっかりしろよ、ブラッド」
「だけどシティじゃ、おれたちは完全にマークされてる。もうもどれやしないよ、ヴィク。どっか行かなきゃ」
それで道はなくなった。もどることはできないし、ブラッドがこんなふうじゃ、ほかへ行くこともできない。それに、おれは知っていた。たしかにソロとしてはよくやってきたほうだけれど、それもブラッドがいたからだ。まさか女役にゃなれやしない。そしてこんなところで食いものは見つかりっこない。ブラッドの傷のてあて、それから食いもの、なんとかしなけりゃ。なんか栄養があって、てっとり早いもの。
「ヴィク」クィラ・ジューンが、今にも泣きそうな、かん高い声でいった。「行きましょうよ! 犬はだいじょうぶよ。いそがなくちゃ」
おれは彼女を見あげた。日はしずみかかってる。ブラッドが腕のなかでふるえた。
彼女はプンとふくれっつらをした。「あたしを愛してるんなら、早くしてよ」
だけどブラッドをおいては行けない。それは、たしかだ。あたしを愛してるなら――ボイラーのなかで彼女はきいたっけ、愛って何か知ってる[#「愛って何か知ってる」に傍点]?
小さなたき火だった。チンピラどもがシティのはずれまででてきたとしても、見っかりっこないくらいだ。煙はでていない。ブラッドが食べおわると、おれはその体をかかえあげて一マイル先の通気孔まではこんだ。そして、その小さなねじろで、ひと晩すごした。ひと晩じゅう、おれはブラッドをだいていた。ブラッドはぐっすりと眠った。夜があけると、おれはもっとていねいに傷のてあてをしてやった。きっと立ちなおるだろう、なにせ強いやつだから。ブラッドはまた食べた。前の晩ののこりが、たっぷりあったからだ。おれは食わなかった。腹はすいてない。
その朝、おれたちは焼け野原をてくてく歩きだした。新しいシティを絶対に見つけるんだ。
ブラッドがびっこをひいているので、道はなかなかはかどらなかった。頭のなかでなりひびく声がやむまでには、ながい時間がかかった。彼女の声は、何回も何回もおなじ質問をくりかえしていた。愛って何か知ってる[#「愛って何か知ってる」に傍点]?
ああ、知ってるとも。少年は犬を愛するものさ。
[#地から2字上げ]ロサンジェルス 一九六八〜六九年
[#改丁]
小さな巨人工リスン
[#地から2字上げ]伊藤典夫
『世界の中心で愛を叫んだけもの』は、ハーラン・エリスンのわが国では初めての短篇集である。本年四十五歳、ばりばりの現役作家であるくせに、このエリスンという人物にはどこか「伝説」めいたところがある。もちろん、このあとがきはエリスンの宣伝をかねた紹介文だから、と「生きている化石」のような否定的な意味をにおわせているのではない。太平洋のかなたの外《と》つ国に住む作家なので、こちらに送られてくるイメージが多少増幅されるきらいはあるだろう。そういえば、SFを最初に読みだしたころは、ブラッドベリや、ハインライン、クラークなどだれもかもがぼくにとって「伝説」的存在だった。今ではすっかり悪ずれして、海外のSF作家を神秘化して思いえがくようなことは(残念ながら)なくなってしまったが、ハーラン・エリスンの場合はちょっとちがう。アメリカのファンのあいだですら、「伝説」的人物としてうけとられているフシがあるのだ。
とにかく逸話が多い。経歴を紹介するだけでもおもしろい読み物になる作家は、すくなくともマジメ人間ばかりのSF界では、エリスン以外まずいないのではなかろうか。かりにいろいろな職業を転々とした末、作家になったとしても、後半生はこういう日常におちついてしまう。「……SF作家の大半は、天才と狂気は紙一重という妄想を口実に、ぐうたらな生活を続けている。細君をぶんなぐり、午前六時に何度目かのコーヒーのおかわりを請求し、原稿の〆切日にまにあったためしがなく、〈取材〉と称してベストセラー小説を寝そべりながら読みふけり、そのあげくどうにも切羽つまっていやいや仕事をはじめる……」(浅倉久志訳)未訳のアンソロジイ『危険なグィジョン』Dangerous Visions(一九六七)のなかにあるエリスンの文章である、これとは対照的に勤勉な作家がいる、というかたちでこのあとロバート・シルヴァーバーグの生活ぶりが紹介されるわけだが、シルヴァーバーグにいたっては、コロンビア大学在学ちゅう小説が売れ、以来作家・アンソロジストとして活躍してきたといった程度の経歴しかわからない。
そこで……
もしあなたが、ふと立ちよった書店で、こんな宣伝文句のあるペーパーバックを見つけたとしたら、興味をそそられないだろうか。
ハーラン・エリスン!
[#ここから2字下げ]
一九三四年生まれ。結婚三回、離婚三回。子供なし。著書十三、編書一。雑誌に寄稿した小説、エッセイ、ノンフィクションは五百篇余。長篇第一作では、バックグラウンド取材のため変名で不良少年の一味に潜入。TV番組「アンクルから来た男」「宇宙大作戦」「ラット・パトロール」「ボブ・ホープ・クライスラー劇場」「バークにまかせろ」「アウター・リミッツ」「原子力潜水艦シービュー号」「バットマン」「ハニーにおまかせ」「ルート66」「アンタッチャブル」「ヒッチコック劇場」のシナリオ作家。映画「哀愁の花びら」「夢の商人」「カディム」のシナリオ執筆、ほかに共作で「オスカー」。しかし本業はあくまで小説家。時間、場所をとわず、あらゆるチャンスに賭ける。人生は借りものであると信じる。ル・マン・モデル、オースチン・ヒーリイを駆り、狩猟し、喧嘩し、女性への愛は選り好みなし。公民権運動のデモに参加し、ジョン・バーチ協会をたたき、映画批評、ジャズ批評も手がける。一九六六年は当り年で、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ハリウッド作家協会の最優秀TVドラマ賞を受賞。ひげを剃る暇もない。
[#ここで字下げ終わり]
短篇集『おれには口がない、それでもおれは叫ぶ』I Have N Mouth, and I Must Scream(一九六七)の見開きからの引用。しかし、これはほんの序の口である。生いたちから、もうすこしていねいに辿ってみよう。
ハーラン・エリスンはオハイオ州クリーブランドのユダヤ系家庭に生まれ、四歳のとき、そこから三十マイル東のペインズヴィルに移った。子供時代から物語を書くのが好きで、十かそこらでクリーブランド・ニューズ紙の子供欄に「パルメゴンの剣」“The Sword of Parmegon”と「グロコンダの行跡」“Track of the G1oconda” 、という二つの小説を連載している。前者はファンタジイ、後者は秘境探検もの、題名にあるグロコンダというのは、闇のなかで光るアナコンダなのだそうだ。SFにとりつかれたのはかなり遅く、父親が死んでふたたびクリーブラソドに引越した十六歳のころ。それからはお定まりのコースを辿るわけだが、一方手に負えない不良少年でもあったらしい。J・O・ベイリーの『時間と空間の巡礼』Pilgrims Through Space and Time(未訳・アカデミックな立場から書かれた古典的なSF入門書)を書店から万引きしようとしてつかまり、店主にこんこんと諭されて作家になる決意をかためた。
オハイオ州立大を中退して、一九五五年、ニューヨークへ。大学生ロバート・シルヴァーバーグ、作家アルジス・バドリス、レスター・デル・レイらと知りあい、デル・レイの家の居そうろうとなって小説作法を学ぶ。最初のおとな向き小説が売れたのは、その翌年。インフィニティ誌の五六年二月号に掲載された「光る虫」“Glow Worm”である。これはジェイムズ・プリッシュから「SF史はじまって以来の駄作」という批評をたまわった。この年には、SF、ミステリ、犯罪実話などの専門誌に二十篇近く作品を発表しているが、生活は苦しく、製材所工員、トラック運転手、書店員、コピーライターといくつも職を変えている。傲岸不遜なSFファンとしてニューヨーク・ファンダムに名を売り、SF大会の会場ではじめて会ったアイザック・アシモフに「なってねえなあ!」といった話は有名。
処女長篇『喧嘩《でいり》』Rumbleは、一九五八年に出版された。先に書いたように、これは非行少年ものである。この作品の取材のため、彼はチーチ・べルダンの偽名で、ブルックリンのバロン団という非行少年グループと十週間生活をともにしている。こうしてエリスンはまず非行少年ものの作家として知られるようになった。しかし一九六一年までに彼が発表した七冊の単行本のうち、SFは『九つの生命を持つ男』 The Man with Nine Lives(一九六〇)一冊しか見あたらない。(ついでに書いておくと、ぼくがエリスンの名をおぼえたのも、「有望な新人」といった評価をSF専門誌で見つけたからではない。あるSFファンがエリスンと喧嘩をしたところ、そのあとだれともわからぬチンピラに因縁をつけられ袋だたきにされた。これはエリスンの指金ではないのか、といううらみつらみの文章をあるファンジンで読んだのがきっかけである。一九五七年度ヒューゴー賞最優秀新人部門を、ロバート・シルヴァーバーグとせりあい、借しくも二位に甘んじたなどという泣かせる話があったとは、つい数年前まで知らなかった)
処女長篇が出版されたころ、彼は陸軍で兵役をつとめている。ここでも、やたらに反抗する札つき一等兵として上官から目の敵にされ、軍法会議にかけられそうになること三回。いずれも、SF作家で弁護士の親友ジョー・L・へンズリーが手をまわし、あやうく難をのがれた。自分をこづいたコックに頭蓋骨折の重傷を負わせたとか、勇ましいエピソードはたくさんあるのだが、最後のだけを紹介すると――
フォート・ノックスに転勤になり、そこで陸軍の新聞を編集する仕事をまかされた。当時彼は結婚しており、細君とともに特別の兵舎に住んでいたのだが、ある日彼女があいそをつかして出ていってしまった。ほかの兵士たちとの雑居生活は気がすすまないので、こっそりトレイラーを買い、なかにテレビやタイプライターを持ちこんでしたいほうだいの生活をしていた。六ヵ月後に、それがバレたのである。もちろん上司のオフィスに呼びだされた。まえまえから彼を僧んでいる大尉は、「こんどこそ軍法会議にかけてレヴンワースの連邦刑務所に送ってやるからな」という。「勝手にしやがれ」答えるなり、エリスンはオフィスをとびだし、娯楽室の電話ボックスのなかに隠れた。そして友人のジョー・へンズリーに電話をかけた。彼の知りあいに、民主党上院議員のスチュアート・サイミントンがいるからだ。二十分後、エリスンをさがしまわっている大尉のところに、議会から四つの通達が届いた。「エリスン兵卒に手出しをするな」「その事件の処理はペンタゴンが行なう」等々。その結果、彼の刑罰は兵舎の窓洗い三週間、上官は神経衰弱。
一九五九年、コ一度と顔を出すな」といわれて陸軍を除隊。しばらくシカゴの男性雑誌ローグの編集にたずさわったのち、ハリウッドに来た。そしてつかんだのが、ジーン・バリーのテレビ番組「バークにまかせろJ のシナリオの仕事である。テレビ界にはいってから手がけた番組は、先の引用にあるとおり。
さて、このあたりまで、作家としてのエリスンはどうであったかというと……
ふしぎなことに、五〇年代の彼には、このような経歴から連想されるしたたかなバイタリティはあまり見られない。この短篇集におさめられた最近の代表作「世界の中心で愛を叫んだけもの」や「少年と犬」と同様、好んでとりあげるテーマがさまざまなかたちでの暴力であることは一貫して変わらないのだが、作品のできばえ自体は、意あまって力足らずの感が強かった。持ちまえの器用さでなんとかまとめてはいるものの、水準を大きく抜いて読者の心に強烈な印象を刻みつけるほどではない。彼の才能が本格的に開花するのは、テレビ界でもまれ、怒りを内にこもらせるようになった六〇年代半ばからである。もっとも、いったん爆発すれば、人物はむかしどおりで、短篇集『LOVEなんてSEXの綴りがまちがっただけ』 Love Ain't Not Nothing But Sex Nisspelled(一九六八)のジャケット解説は、つぎのように始まっている――
[#ここから2字下げ]
彼は多くの人びとからさまざまなことを言われている。その大半は、上品な社会では聞かれないたぐいの言葉である。フランク・シナトラが彼について何か不謹慎なことをいい、そのあと玉突場で二人が鉢合わせした顛末は、エスクワイア誌に書きたてられた。その過激なエッセイ「新しいアメリカ女性」について、彼がエスクワイア誌とのあいだにおこした騒動は、タイム誌で報じられた。今のところ、タイム誌とは仲違いしていない。(……)彼の生き方をあらわすのに、もっとも多く用いられる言葉は、「カリスマ的」である。
[#ここで字下げ終わり]
暴力をふるうことはすくなくなったが、そのエネルギーのはけ口として小説を書きまくり、それでも足りずに短篇集やアンソロジイにはえんえんと解説をつけ、アングラ新聞やファンジンで威勢のいい喧嘩をふっかける――それが最近のエリスンである。五百ページの大アンソロジイ『危険なヴィジョン』 の四分の一は彼の解説だし、SFマガジンをお読みのかたなら、その七〇年二月号にぼくが紹介した〈新しい波〉論争はご記憶だろう。前記の『LovEなんて……』は、彼の最初のハードカバーであり、彼の名を一般読書界にひろめる突破口ともなりえた優れた短篇集だが、序文であまりにもヒステリックにどなりすぎたため、とうとう批評家から無視されてしまったという。それにこりたか、この短篇集の序文はエリスンとしては珍しくおとなしい。
信じられないかもしれないが、これでおとなしいほうなのですぞ! 第一、書きだしの部分など何をいわんとしているのか、読者にはさっばりわからないだろう。これは国際SFシンポジウムで来日したブライアン・オールディスから聞いた話なのだが、この序文が書かれた一九六九年三月、エリスンはブラジルで開かれた作家会議に出席していた。英米からの出席者は、彼のほかにバラード、ベスター、ポール、オールディス、ヴァン・ヴォクト、ブロック、クラークなど。その会場で彼は、以上のうちのだれかといさかいをおこしてしまったらしいのである。「エリスンはリオでとても不幸な目にあった」オールディスはそこまでしかいわないので、残りは想像するほかない。しかしそれはともかくとして、これが一九六六、七年に出た短篇集であったら、エリスンは実名をあげてこきおろしていたにちがいない。
まだ紹介したいエピソードはたくさんある。エスクワイア誌にのったフランク・シナトラとのいきさつ。映画「哀愁の花びら」の脚本を書きながら、けっきょくその脚本は映画には一行も使われなかった件(ついでに書いておくと、「夢の商人」と「カディム」は、ともに映画化されなかった)。またアングラ新聞ロサンジェルス・フリー・プレスに連載したテレビ時評コラム『ガラスの乳首』The Glass Teat(一九七〇)は胸のすくようなおもしろさだ。ぼくがハーラン・エリスンに「伝説」めいたところがあるといった理由は、この程度書けば充分だろう。しかも楽しいのは、テレビや映画で成功すればSFなどに執心する必要はないと思うのに、SFへの情熱も年々高まる一方だということだ。そしてアメリカ各地で開かれるSF大会には、毎年、自分より背の高いブロンドやブルネットのガールフレンドを連れて颯爽と登場(そうだ、彼の身長がアメリカ人には珍しく五フィート五インチしかないことを書くのを忘れていた!)、ヒューゴー賞をいくつもさらっていく。SF界のおもな賞だけを拾ってみてもー
ヒューゴー賞
◆一九六六年度短篇部門“Repent, Harlequin! SaId the Ticktockman”
「悔い改めよ、ハーレクィンー≠ニチクタクマンはいった」=ウォルハイム&カー編『ワールズ・ベスト一九六六/忘却の惑星』 ハヤカワ文庫SF/アシモフ編『世界SF大賞傑作選2』 講談社文庫
◆一九六八年度短篇部門“I Haye No Mouth, and I Must Scream”
「声なき絶叫」=SFマガジン六九年三月号/「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」=アシモフ編『世界SF大賞傑作選2』
◆一九六八年度ドラマ部門“The City on the Edge of Forever”
「危険な過去への旅」《*》=テレビシリーズ「宇宙大作戦《スター・トレック》」第二十八話
◆一九六九年度短篇部門“The Beast That Shouted Love at the Heart of the World”
「世界の中心で愛を叫んだけもの」=本書所載/アシモフ編『世界SF大賞傑作選4』
◆一九七四年度中篇部門“The Deathbird”
「死の鳥」=SFマガジン七五年十月号/アシモフ編『世界SF大賞傑作選7』
◆一九七五年度中篇部門“Adrift Just Off the Islets of Langerhans: Latitude 38°54´N, Longitude 77°00´13″”
「北緯38度54分、西経77度0分13秒、ランゲルハンス島沖を漂流中」=SFマガジン七六年九月号/アシモフ編『世界SF大賞傑作選8』
◆一九七六年度ドラマ部門《**》A Boy and His Dog(L・O・ジョーンズとともに)=映画・本邦未公開
◆一九七八年度短篇部門“Jeffty Is Five”=未訳
[#ここから7字下げ]
*ジェイムズ・ブリッシュ『宇宙大作戦/謎の精神寄生体』に収録された「永遠の淵に立っ都市」は、このシナリオの小説化。
**本書所載「少年と犬」の映画化
[#ここで字下げ終わり]
ネビュラ賞
◆一九六五年度短篇部門“Repent, Harlequin! SaId the Ticktockman”(邦訳は前に同じ)
◆一九六九年度|長中篇《ノヴェラ》部門“A Boy and His Dog”
「少年と犬」=本書所載
◆一九七七年度短篇部門“Jeffty Is Five”
また本書に収録された作品のなかでは、「少年と犬」が一九六九年のヒューゴー賞第二席に、「ガラスの小鬼が砕けるように」が同年度のネビュラ賞第二席にはいっている。いくらエリスンの作品の質が向上したにしろ、これはちょっと賞の与えすぎのように思うのだが(投票者たちがエリスンの派手な活躍に眩惑されてしまったということは大いに考えられる)、これはぼくのやっかみだろうか。
[#地から2字上げ](ハヤカワ・SF・シリーズ版より改稿転載)
[#改丁]
HM = Hayakawa Mystery
SF = Science Fiction
JA = Japanese Author
NV = Novel
NF = Nonfiction
FT = Fantasy
世界《せかい》の中心《ちゅうしん》で愛《あい》を叫《さけ》んだけもの
〈SF330〉
一九七九年一月三十一日 発行
一九九五年三月三十一日 三刷
定価はカバーに表示してあります
著者 ハーラン・エリスン
訳者 朝《あさ》倉《くら》久《ひさ》志《し》
伊《い》藤《とう》典《のり》夫《お》
発行者 早川 浩
発行所 株式会社 早川書房
郵便番号 一〇一
東京都千代田区神田多町二ノ二
電話 〇三‐三二五二‐三一一一(大代表)
振替 〇〇一六〇‐三‐四七七九九
乱丁・落丁本は小社制作部宛お送り下さい。
送料小社負担にてお取りかえいたします。
印刷・製本/三松堂印刷株式会社
Printed and bound in Japan
ISBN4-15-010330-5 C0197