目次
嵐《あらし》が丘《おか》
解説(田中西二郎)
嵐《あらし》が丘《おか》
一八〇一年
僕《ぼく》は今しがた、こんど借りた家の家主をたずねて、帰ってきた――これからの僕がかかりあいになるたった一人の隣人を。まったくここはすてきな田舎だと思う。イングランドじゅう捜しても、これほど世間のごたごたから隔離された場所が選べようとは、思いもよらなかった。人間嫌《ぎら》いどもにとっては申し分のない天国なのだ――しかもあのヒースクリフ氏なる男と僕とは、二人してこの寂しさを分けあうのにお誂《あつら》え向きの好一対《こういっつい》ときている。いや、すごい男もいたものだ! 僕が馬で乗りつけたとき、あの男の黒っぽい両眼《りょうめ》が、いかにもうさん《・・・》臭そうに眉《まゆ》毛《げ》の下へひっこみたがっていた、その顔つきといい、つづいて僕が名を名のったときには、チョッキの裏へ差し込んだ両手の指先を外へ出しでもすることか、少しでも気を許すまいとするように、なおさら奥へ押し込んだ様子といい、僕のほうではたまらない親しみを彼に感じてしまったのだが、むろん先方はそんなこととは夢にも気がつかなかった。
「ヒースクリフさんでいらっしゃいますか?」
一つうなずいたのがその返事だった。
「こんど、お家を拝借したロックウッドでございます。わたくしがあまりしつこくあのスラシュクロス屋敷に住まわせて頂くようにお願いしましたもので、ご迷惑だったのじゃないかと思いまして、そのお詫《わ》びかたがた、ご当地へ参るとさっそくご挨拶《あいさつ》に参上しましたわけです。昨日うかがったところではなにか別にお考えもありましたような――」
「スラシュクロス屋敷はわたしの持ち家ですからな」眉をひそめて僕をさえぎり、「せんでも済む迷惑なぞ、他人にかけられてたまるもんですか――まあお入り!」
このまた「お入り」が、口を結んだままのモゾッとした言い方で、内心のところは「とっとと失《う》せおれ」と言いたい気持だということがはっきり判《わか》るうえに、彼のもたれかかっている門の扉《とびら》さえも、この言葉に応じて動こうとする様子も見せない。ところが僕は僕で、こんな調子だからこそ誘いに応じる気にもなったので――つまり自分以上にことさらに人づきあいの嫌いなことを見せつけるこの男が、すっかりおもしろくなってしまったのだ。
僕の乗ってきた馬の胸が、木戸をまともに押しつけるのを見とどけてから、やっと相手は手を懐《ふとこ》ろから出して錠をはずし、さて不機《ふき》嫌《げん》な顔で先に立って、盛土道《もりづちみち》を歩いて行ったが、中庭へはいったところで、「おいジョーゼフ」とよび、「ロックウッドさんのお馬を連れて行け。それから葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》を持ってこい」
(なるほど、すると召使は一人しかいないな)という考えが、この二つの命令を一度にしてのけたのを聞いて、おのずと僕の頭に浮かんだ。(道理で、敷石の間の草は伸びほうだい、人間の代りに家畜にばかり生垣《いけがき》の芽を摘ませてるわけだ)
ジョーゼフはもういい年をした――いや、達者そうな頑丈《がんじょう》な足腰はしているけれど、もう老人の部で、おそらくひどい年寄りに違いない。「ああどうぞや神さま!」と、さもいやな用事と言わぬばかりにぶつぶつ独言《ひとりごと》を言い、馬を僕の手から引き取りながら、渋い顔をして目を離さずに僕の顔をあまりじろじろ見るから、こちらもかわいそうになって、きっとこの爺《じい》さん、神さまのお助けを求めてるのは昼飯がよくこなれますようにとお願いしているので、何も僕が不意にやって来たために罰あたりな文句を口走ったわけでもあるまいと、善意に解釈しておいた。
「嵐が丘《ワザリング・ハイツ》」というのが、ヒースクリフ氏の屋敷の名だ。「ワザリング」とは、嵐《あらし》のときにこの丘のようなところに吹きすさぶ風の怒《いか》り騒ぐさまを形容した、巧みなこの辺の方言である。なるほどあの高みでは、さぞ清らかな、凛烈《りんれつ》な大気が、絶え間なく吹きかよっていることだろうと思わせる――崖《がけ》越《ご》しに吹きつける北風の威力は、家屋の端のところのいじけた数本の樅《もみ》の木が、ひどく斜めに延びていることからも、また立ち並ぶ痩《や》せこけた茨《いばら》の枝々が、どれもこれも、乞《こ》食《じき》のように日光の恵みを求めて、一方へばかり腕さしのべているさまからも、容易に察せられるだろう。幸いに設計者がこの家を頑丈に建てるだけの先見を持ち合わせていたとみえ、幅の狭い窓は壁から奥深く設けられているし、隅《すみ》という隅は大きな張出石で風を防いでいる。
敷居をまたぐ前に、僕は立ち止まって、建物の前面、ことに正面の扉のあたり、惜しげもなく彫り散らされた奇怪な装飾彫刻を賞美した。扉の上、くずれかかった半獅子半鷲神《グリフィン》どもと、恥知らずな姿をした男の子たちが群がっている中に、「一五〇〇年」という年代と、「ヘアトン・アーンショー」という名前とを見つけだした。二言三言、それについて感想を述べ、にがい顔のこの家のあるじから、この屋敷の手短かな来歴をでも聞き出そうかと思わぬでもなかったが、戸口に立ったときの主人の態度は、さっさと入るか、さもなくばグズグズせずに帰ってもらいたいらしいそぶりだったので、まだ奥の様子も見ぬうちに、その癇癖《かんぺき》をよけいにつのらせるのはまずいと考えなおした。
ロビーも通路も、なんのついでもなしに、いきなり一またぎで、家族居間の中に連れ込まれた。こういう部屋のことをこの土地では格別に「家《ハウス》」と称している。通例は台所と内座敷もその中に含まれるのだが、“嵐が丘”では台所だけは他の一角に立ちのかされているらしい――少なくとも家のずっと奥のほうに、人の話し声と台所道具を扱う物音とが、僕の耳には聞き分けられた。のみならずこの部屋の大煖《だん》炉《ろ》には煮炊《にた》きをしたりパンを焼いたりしている形跡はなく、壁にも、ピカピカ光る赤銅鍋《しゃくどうなべ》や錫《すず》の水漉《みずごし》器《き》なども一つも見えない。もっとも、室の一隅《いちぐう》に雄大な樫材《かしざい》の棚《たな》があって、数かぎりもない白鑞《はくろう》製の皿《さら》が幾列にも積み重ねられ、あいだに銀製の壺《つぼ》や大コップも交えて、層々と屋根まで届くおびただしいそれらの列が、すさまじく大炉の光と熱とを反射させていた。屋根には天井板がまるでなく、気をつけて眺《なが》めまわせばその枠組《わくぐみ》の隅々まで明らさまに見て取れるが、ただ一個《か》所《しょ》、わく木を取りつけて、燕麦《からすむぎ》菓子や牛肉、羊肉、ハムなどのたばねた足をつるしてあるところだけ、屋根がふさがっている。炉の上には、さまざまな憎々しげな古い小銃と、一対の大型拳銃《けんじゅう》とがおかれ、張出縁にそって、毒々しい色に塗った茶葉入れの小箱が三つ、飾りのつもりらしく並べてある。床はなめらかな白い石敷で、椅子《いす》はもたれの高い、素《そ》朴《ぼく》な造りの、緑色に塗ったので、薄暗いあたりに重そうな黒い椅子も一つ二つ、わだかまっている。食器棚の下の弓形《ゆみなり》の空間に、大柄《おおがら》な赤黒い色のポインターの雌が一匹、キーキー声で鳴く一群の子犬に取り巻かれて、ねそべっていて、ほかにも何頭かの犬が、あちこちの隅をうろうろしている。
部屋も飾りつけも、ありきたりの質朴な北国の農夫の家に見かけるものと、どれ一つとして風変りなところはない。頑《がん》固《こ》一徹《いってつ》なつらがまえ、ひざきりズボンにゲートルといういでたちに、そのたくましい腕や足を引き立たせたお百姓が、こういう居間の肘《ひじ》掛《か》け椅子に腰を下ろし、丸テーブルの上のビールの泡《あわ》を浮かべたコップを前にしている図は、晩餐《ばんさん》後《ご》のしかるべき時刻をみはからって行きさえすれば、この近傍の山中五、六マイル以内のどこででも見られる。だがヒースクリフ氏は、氏の住居や生活様式とは、はなはだ奇妙な対照をなす人物だ。この人は、風貌《ふうぼう》は皮膚の色の黒いジプシーのようで、身装《みなり》と物腰とはジェントルマンである――言いかえれば、たいていの田舎の地主様にひけをとらぬ程度の紳士である。いくらか自堕落には見えるかもしれぬが、その投げやりなところがそう大して不都合にも感ぜられないのは、その風采《ふうさい》がキリッとして端麗だからで、それにどちらかといえば取りつきにくいところもある。それを、人によっては、よっぽど品の悪い高慢なやつだと思うこともありそうだが、僕にはなんとなくこの人に共鳴を覚えるものがあって、まるで違った感じを受ける。人を寄せつけぬ彼の態度は、ことさらに感情をむきだしに見せつけるのを――人間どうしの好意を形に表わすのを――避けようとする気持から来ていることが僕には直覚的に、わかるのだ。愛するにも憎むにも、ひとしくこの人は心の内側だけにとどめて、逆に他人から愛されたり憎まれたりするのは無益無用のことだと軽蔑《けいべつ》しているのだろう。――いや、これは少し早まりすぎたかもしれぬ。これでは僕自身の性格をほしいままに彼に押しつけてしまっている。ヒースクリフ氏が、押しつけがましくちかづきになろうとする相手に会ったときに、そ知らぬ顔でそっぽを向くのは、同じような場合の僕自身の気持とは大いに違ったわけがあってのことかもしれないのだ。むしろ僕の気質のほうこそ人並みはずれていると思うべきだろう――現に僕の生みの母が、おまえはきっと幸せな家庭は持てないよと、口ぐせに言ったくらいで、しかもまったくその通りであることを、この夏、みごとに自分で証明してしまったのだから。
すがすがしい海べの一カ月を楽しんでいるうち、僕はゆくりなく身も魂も打ち込みたくなる相手にぶつかってしまった――その相手が僕に目もくれなかったうちは、彼女は僕の目には女神としか見えなかった。僕はけっして口に出しては「思いのたけを告げまいらせず」にいたが、もし目が口ほどにものを言うものなら、どんな馬鹿《ばか》でも僕がくびったけなことはわかったろう。彼女もとうとうわかってくれて、流し目を返してくれるようになった――その眼《まな》ざしのうるわしさ、まったく想像を絶していた。ところで、僕はどうしたか? 恥かしいが白状する。――氷のようにかじかんで、かたつむりのように自分の殻《から》の中へ逃げ込み、ちらりちらり見られれば見られるほど、ますます冷たいそぶりでよそよそしく尻《しり》ごみしてしまうのだ。だからとうとうかわいそうに、初心《うぶ》なお嬢さんは、自分の勘違いだったかと思うようになり、たいへんな間違いをしでかしたと思い込んだものだから、どうしていいか判らなくなって、そこそこに母親をくどいて引き上げて行ってしまった。僕はこういう奇妙な性分のおかげで、ひとからはわざとそんな冷血な仕打ちをする男のように言われるようになったが、この定評のはなはだしく不当なことは、自分にだけはよく判っているのだ。
あるじが炉石の一方の端へ歩み寄ったので、僕はその向こう側の端に席をとったが、例の親犬がいつのまにか子犬たちのそばを離れて、唇《くちびる》をそりかえらせ、白い歯によだれをためてかみつきそうに口を開いて、狼《おおかみ》のように僕の足のうしろに忍び寄っていた。しばらくは話もない所在なさに、その頸《くび》をなでてやった。すると雌犬はのどの奥から長いうなり声を出した。
「その犬にはかまいなさらんがいい」ヒースクリフ氏がそれにつれてうなるように言いながら、それでも犬がそれ以上はげしい所作をしないように、足をあげてぽんと蹴《け》りつけた。
「甘やかされることは知らんやつです――なぐさみに飼っとるのでないから」そして、横側の扉のほうへ大またに歩いて行って、また大声で「ジョーゼフ」とどなった。
ジョーゼフは穴蔵の奥でなにかぶつぶつ言ったが、すぐ上がってきそうな返事はしないので、あるじのほうから彼のところへ降りて行った。あとには僕が、例のおっかない雌犬と、雌犬と同じように僕の一挙一動を油断なく見張っている羊用の番犬二匹、これも恐ろしげな毛むくじゃらのやつらと、差向かいで残されることになった。やつらの牙《きば》にかかるのは、あまり感心しなかったから、僕はおとなしくすわっていた。だが、口に出してさえ言わなければ馬鹿にしたって判らぬだろうと思ったのが運のつきで、いい気になって目をパチクリしたり、ふざけた顔をしてみせたり、その三匹をからかっているうちに、いろいろ変る顔の格好のなかで、ひどく犬奥さまのご機《き》嫌《げん》にさわる人相があったとみえ、いきなり腹を立てて僕の膝《ひざ》にとびついてきた。僕は突きもどして、あわててテーブルの向こう側へのがれた。これがキッカケで、蜂《はち》の巣を突いたようなことになり、大小老若《ろうにゃく》さまざまの四つ足の悪鬼どもが六匹、それぞれの巣窟《そうくつ》から、まんなかの広いところへ現われ出た。おもに踵《かかと》と上着の裾《すそ》とをねらってとびついてくるようだ。一生懸命、火かき棒で大きいやつの攻撃をどうにか受けながしてはいたものの、僕はやりきれなくなって、大声で誰《だれ》か来てこの場をとりしずめてくれと、家の者の救援を求めた。
ヒースクリフ氏と下男とは、しゃくにさわるほど平気の平左で、穴蔵の階段を上がってきた。煖炉の前は、かぶりつく、ほえる、ものすごい修《しゅ》羅場《らば》と化しているのに、ふだんより一秒と急ぐ気配もない。さいわいほかに一人、台所からいち早く出て来てくれた人がある。大柄なおばさんで、上《うわ》っぱりの裾《すそ》をからげ、火のほてりで真っ赤な頬《ほお》、まくり上げた腕にフライパンを振りまわしながら飛び込んできて、われわれのまんなかへ割って入り、得物ばかりでなく舌を使ってまくしたてると、とたんに魔法のように嵐が静まり、たちまち暴風のあとの海のように胸を波うたせている彼女一人のほか、誰もいなくなったときに、やっと彼女の主人が現われた。
「いったいこりゃなんたることです!」僕の顔をにらみつけてのこの言いぐさには、さんざんな虐待《ぎゃくたい》をうけた直後だけに、さすがに僕も我慢がなりかねた。
「なんたることだろう、まったく!」と僕はつぶやいて、「悪鬼につかれた豚《ぶた》の群れだって、お宅の畜生どもほど根性が悪くはなかったでしょうな。あなたは初対面の客を虎《とら》どもといっしょに置き去りにでもする方だ!」
「何もしない人には、手出しはせんはずだ」酒びんを僕の前において、テーブルを元の位置に戻《もど》しながら、あるじは言う。「見慣れん人を警戒するのは犬の本分というものだ。葡萄酒一杯いかがです?」
「いや、けっこうです」
「噛《か》まれはせんのでしょう?」
「噛まれでもしたら、ぼくだって噛んだやつに極印を残してやりますよ」
ヒースクリフの顔の表情がゆるんで、にやりと笑った。
「まあまあ、ロックウッドさん、そう興奮せんで、さ、葡萄酒でも少しおやりなさい。この家に客人が見えるというのは、とんとまれなことだから、わしも犬どもも、正直いうてお客人のおあしらいの仕方をろくに知らんのです。ご健康を祝して、さあ、いかがですな?」
僕はお辞儀して、お返しの乾杯をした。下《げ》種《す》犬《いぬ》どもの無礼に、いつまでもふくれ面《つら》しているのは愚かな話だと気がつきはじめたからだ。それに、このうえこちらの気のきかぬところをさらけだして、相手をおもしろがらせてやるのがいまいましくもあった。あるじの機嫌がなおったのはそのせいらしいのだから。彼は――たぶんそろばんをはじいて、ためになる借家人を怒らせるのは馬鹿らしいと考えたのだろう――端々を削り落したようなぶっ《・・》きらぼう《・・・・》な言葉遣いを少しばかりやわらげて、僕が興味を持ちそうなと思う話を持ち出した――つまり、こんど僕が隠居所として借り入れた家の長所短所について、講釈しはじめたのだ。この話題にかけては、あるじは実になんでもよく知っている。それで僕は大いにおもしろくなり、いとまをつげるころには、よし一つ明日も出かけて来《こ》ようという気になった。先方が僕の再度の押しかけ訪問を望んでいないことは明らかである。かまうものか、行ってやる。あの男と比べては、僕のほうがずっと交際好きのように思えるのだからあきれたものだ。
昨日は午後から霧が立って、寒くなった。嵐《あらし》が丘《おか》までヒースと泥濘《ぬかるみ》のなかを苦労して渡って行かなくとも、書斎の火のそばで過ごしたほうが、と思わぬでもなかった。ところが正餐《ディナー》をすませて二階へ戻ろうと(注――僕は十二時と一時のあいだに正餐をしたためる。この家の家具同然に、借りると同時に雇い入れた家政婦の親切なおばさんが、五時に正餐を出してくれという僕の頼みを、どうしても聞きわけてくれない――というよりも聞きわけようとしてくれないのだ)右のものぐさな了見で階段をのぼり、書斎へ足を踏み入れてみると、女中がそだ《・・》や石炭箱の散らばった床に膝《ひざ》をつき、ものすごい煤煙《ばいえん》を立てながら石炭殻《がら》をかぶせて火を消している最中だ。これを見て、たちまち僕は逆もどりした。帽子をかぶり、四マイルの道をてくてく歩いて、ヒースクリフの家の庭木戸にたどりついたとき、ありがたいことに、ちょうど吹雪の始まりの鵞《が》毛《もう》のようなのがチラチラと落ちてくるのを、うまく避けることができた。
この吹きさらしの丘の頂は、霜で土が黒くこちこちに凍り、寒気は体じゅう震えるほどだ。木戸の鎖がはずせないから、飛び越えて、ぼうぼうと乱れ伸びているグズベリのやぶで縁どられた盛土道《もりづちみち》の石だたみを走ってゆき、扉《とびら》をたたいて案内を求めたが、誰《だれ》もあけてくれぬ。そのうち指の節は痛くなり、犬どもはやかましくほえたてた。
「ひどい人たちばかり住んでる家《うち》だ!」僕は心のなかで叫んだ。「こんな意地のわるい客あしらいでは、とうから世間があんたがたを相手にしないのも当りまえですぞ。ぼくだってまさか昼間から扉にかんぬきまでおろしておきゃしない。かまうもんか――はいってゆこう!」そう決心すると、僕は掛《か》け金《がね》をつかんでやたらに揺すぶってみた。すっぱい顔のジョーゼフが、納屋《なや》の丸窓から首を突き出した。
「何してなさるだ?」爺《じい》さんは叫んだ。「旦《だん》那《な》は羊小屋ですがな。旦那に話があるなら、納屋の向こうをまわって行かっせい」
「家の中には扉をあけてくれる人はいないのか?」カッとして、こちらもどなり返すと、
「奥さまのほかには誰もいましねえだ。おまえさまが晩までやかましい音たてて、おどかしたってあけなさる気づけえねえわ」
「どうして? おまえがぼくのことを奥さまに話してくれるわけにゆかんのかい、ジョーゼフ?」
「いやですだ! わしゃそんな掛り合いはまっぴらでがす」
爺さんの首は、そうつぶやいたと思うと、ひっこんでしまった。
雪は本降りになってきた。僕はもういっぺんと思って、掛け金をつかんだ。そこへ、上着を着ない一人の若い男が、熊《くま》手《で》を肩にかついで、裏庭に姿を現わした。この男が僕に、ついて来《こ》いと声をかけたので、男といっしょに洗濯《せんたく》場《ば》の中を通り、石炭置場、ポンプ、はと小屋などのある石だたみの一画を通り抜けて行くと、やがて昨日も通された暖かな居心地よろしい大部屋にたどりついた。石炭、泥《でい》炭《たん》、まき木をいっしょくたに、ふんだんにくべた大炉のほてりが、心楽しく室内をあたため、しかも夕《ゆう》餉《げ》のごちそうをどっさり並べた食卓の近くに、さっきまでそんな人のいることさえ思いもよらなかった“奥さま”なる婦人を見いだしたときは、僕はすっかりうれしくなった。一礼して、さてご婦人がおかけなさいと言ってくれるかと、そのまま待った。彼女は、椅子《いす》に背をもたせかけたまま僕を見て、身じろぎもせず、唖《おし》のように何も言わぬ。
「ひどいお天気でございますね!」僕は言った。「失礼ながら、ヒースクリフ夫人、お玄関の扉は、お召使たちがのんびりお客を待たせるので、よほど丈夫でないといけませんようですな。わたしもご案内を頼むのに、よほど骨を折りました」
相手はあくまで口を開かぬ。僕はその顔を見つめた――向うも負けずに僕を見つめる。とにかく、あくまで冷やかな、気にとめぬさまで、こっちの顔にじっと目をすえている――どうにもたまらなくバツがわるいし、気持がわるい。
「掛けなさい」さきの若い男がそっけなく言った。「すぐに来ます」
そこで僕は腰をかけて、せきばらいを一つして、それから例の追《おい》剥《は》ぎ婆《ばば》アのジュノーに声をかけると、それでも二度めの対面だから、僕を知ってるというおしるしだけ、ほんのお情けにしっぽの端のほうを振ってくれた。
「美しい犬でございますね!」僕はもう一度やりはじめた。「奥さま《マダム》、あの子犬たちをよそへおやりになるお気持はおありですか?」
「あたしのじゃございません」世にも愛《あい》想《そ》よき奥さまのご返事は、ヒースクリフの返事もよもやこれほどにはできまいと思うほど、取りつく島もない調子だった。
「ああなるほど、あなたのお気に入りはこちらにおりましたか?」と、僕はまだあきらめずに、なにか猫《ねこ》らしいものがいっぱいいる薄暗い隅《すみ》のふとんのほうへ向きなおって、言ってみた。
「まあおかしなお気に入りですこと!」彼女はさげすみきった調子で言った。
運のわるいことに、それは死んだ兎《うさぎ》のかたまりだったのだ。僕はもう一度、せきばらいをし、それから、夕方からひどく荒れてきたようですなどと月並みな挨拶《あいさつ》を繰り返しながら、炉のほうへ椅子を近寄せた。
「出ておいでになったのがまちがいですわ」言いながら、婦人は立って、炉《ろ》棚《だな》からペンキ塗りの茶かんを二つ、取り下ろそうと手をのばす。
いままでの彼女の位置は薄暗かったが、これでやっとその全身と顔とをはっきり見ることができた。ほっそりと弱々しげで、まだ小娘としか見えぬほど若々しい。その姿のほれぼれするたおやかさ、たぐいもなく愛らしい顔、ともに僕がこれまでついぞ見たことのない麗《うるわ》しさだ。目鼻だちが小さくて、くっきりと色白で、亜麻色、というより金色の巻髪が、ゆるやかに、典雅な襟《えり》あしのあたりに垂れている。そしてその目――もしその表情がしおらしかったら、おそらくその魅力に抗《あらが》いうる者は一人もないだろうが、ほれやすい僕のような者にとって幸いであったことに、その目のなかに現われている感情は、そこに見いだされるものとしてはまことに似つかわしくもないもので、侮辱と一種の絶望との中間をうろついている人のそれであった。かん《・・》は彼女の手の届かぬところにあったので、僕が手を出して助けようとすると、婦人はいきなり僕のほうへ向きなおり、まるで守銭奴が金勘定するのを手伝ってやろうと言われたときのような剣幕で、ピシャリと言ったものだ。
「手伝って頂かなくてよござんす。自分で取れますから」
「どうも失礼!」あわてて、僕は答えた。
「あなたはお茶にお招《よ》ばれになりましたの?」清《せい》楚《そ》な黒の上着の上にエプロンを結んで立ち、匙《さじ》にすくった茶の葉をきゅうすに入れかけて、僕に訊《き》く。
「喜んでご馳《ち》走《そう》になります」
「お招ばれになりましたの?」と繰り返し訊く。
「いいえ」なかば笑いながら僕は言った。「ですが、奥さまこそぼくを招んでくださるお役でしょう」
夫人は匙ごと茶の葉をかんに投げ返し、プンとしてまた椅子に戻った。額《ひたい》にしわを寄せ、赤い下唇《したくちびる》を突き出し、子どもが泣き出そうとするときのような顔だ。
そのあいだに、若い男は、申し分なく薄汚ない上着を引っ掛けて火の前に立ち、横目で僕のほうをにらんでいたが、その目つきの憎々しさ、まるで不倶《ふぐ》戴天《たいてん》の恨みが僕と彼とのあいだにわだかまっているかのようだった。こいつはいったい下男ではないのだろうか、何者だろう? と僕は気になりはじめた。みなりも物言いも粗末で、ヒースクリフ氏夫妻を見て感じるような立派さは少しもない。茶色の縮れた頭髪は濃く荒くて櫛《くし》の跡もなく、ひげは熊《くま》みたいにいちめんに頬《ほお》までひろがり、両の手は水呑百姓《みずのみびゃくしょう》の手のように日焼けしているのだが、それでいてこの男の態度は、ほとんど傍若無人と言えるほど無遠慮で、召使が女主人のそばに付添っているときのおずおずしたところなど、薬にしたくもない。彼の身分を知るべきよすががないから、することがおかしくても、いちいちそれを気にしないにかぎる、と僕は考えた。五分の後、ヒースクリフが入って来たので、どうにかこの気が気でない状態から救われた。
「やあ、どうです、お約束どおり伺いましたよ!」とってつけた快活な声を出して、僕は言った。「それにこの天気じゃ、あと半時間はお邪魔させて頂くほかありませんね――もしそのあいだ、あなたが置いてくださるとして」
「半時間?」着物から雪をはらい落しながら、あるじが言った。「それならちょうど大吹雪のひどいころあいを選んで、外をほっつき歩くことになりそうだ、沼地の中で道に迷うのは覚悟のうえというわけかな? この地方の荒野《ムーア》を歩き慣れた者でも、こんな晩には道がわからなくなることは珍しくない。それにいまのところ、晴れる見込みがないことは確かですな」
「お宅の若い衆を一人、案内に立てて頂けたら助かります。今晩はわたしの屋敷に泊ってもらえばいいんですが――一人貸していただけませんか?」
「いや、それはむずかしいでしょうな」
「ははあ、なるほど! けっこうです、では、自分のカンをたよりにするほかはありません」
「ふうむ!」
「お茶をいれるかい?」みすぼらしい上着の若者が、例のものすごい視線を、僕から若い婦人のほうへ移して、訊いた。
「この方にも差し上げますの?」彼女はヒースクリフに向かって訊く。
「支度しなさい!」これが返事で、それがあまり乱暴な口調だったから、僕は思わず腰を浮かした。正真正銘の性質《たち》の悪さが、むきだしに、それを言う口調に出ているのだ。ヒースクリフをすてきな男だなどと呼びたい気持は、これでまったくなくなってしまった。すっかり支度ができたところで、彼は「さあきみ、椅子を前へお出し」――こう言って僕をお茶に招《よ》んだ。例の粗野な若者も含めて、一同、食卓を囲んですわった。食事をするあいだ、上から押しつけるような沈黙が支配していた。
この重苦しさのもとが僕にあるとすれば、それを払いのけるべく努力するのも僕の役目であるはずだ。まさか毎日こんなふうに、ブスッとして苦虫かみつぶしているとは思えぬ。この人たちがどれほどの気むずかし屋ぞろいであるかは知らぬが、こうまで申し合わせて仏頂面《ぶっちょうづら》を毎日つきあわせているなどということはありえない。そこで、
「不思議なものですねえ」一杯目のお茶を飲み終えて、お代りをもらう暇に、僕はやりはじめた――「習慣てものはぼくたちの趣味や考え方をすっかり型にはめてしまうから、まったく不思議ですよ。ヒースクリフさん、あなた方のようにまるで世間を離れて暮らしていらっしゃる人々にも幸福があるなんて、たいていの者には想像もできますまい。しかしぼくは、むしろ言いたいですね――こうしてご家族の方々にとりまかれ、あなたのご家庭、あなたの心の守り本尊とも言うべきやさしい奥さんと――」
「わしのやさしい奥さんか?」ほとんど悪魔に近い嘲笑《ちょうしょう》をその顔に浮かべて、彼はさえぎった。「どこにいるんですか――わしのやさしい奥さんが?」
「ヒースクリフ夫人、あなたの奥さんのことです」
「なるほど、さよう――するときみは、わしの妻の霊が――たとい肉体はこの世を去っても、いまも守護天使の位について、嵐が丘の家運を守っておると、こう言ってくださるわけだな。そうですな?」
僕は大まちがいをしでかしていたらしいことに気がついたので、いそいで真相を見きわめようと骨を折った。ここにいる二人の男女が、夫婦にしては年齢の不《ふ》釣合《つりあい》がひどすぎることに、もっと早く気づくべきだったのだ。一方は四十歳前後――若い娘と愛情で結ばれようなどと、夢みたいなことはまず思わない、壮者の気《き》魄《はく》にみちた年配である。そんな夢は、老境の慰めに残してあるのだ。女はといえば、十七歳にも見えぬほど若い。
そのときふと気がついた――「おれの横にいるこの無骨者、水鉢《みずばち》でお茶を飲み、手も洗わずにパンを食っているこいつが、ひょっとすると彼女の夫かもしれん。ヒースクリフ二世か、もちろんのことだ。これこそ生きながら埋《うも》れ木《ぎ》の身の行く末というやつだ。世のなかにはもっとましな男もあることをつゆ知らなかったから、こんな熊男にむざむざと身をまかせてしまうことにもなった! なんと悲しいいじらしい――おれに会って、ああいう夫を持った運命を悔むようなことのないように気をつけなければならんぞ」と、そこまで考えまわすのは、うぬぼれのせいとも思われようが、けっしてそうでない。僕は自分の横にいるこの男に、胸が悪くなるほどの不快を覚えるのに対し、経験によれば、僕という男はまず婦人にはもてるほうだと言っても過言でないからだ。
「ここにいるヒースクリフ夫人はわしの義理の娘でしてな」あるじが、こう言って、以上の考察の誤りでなかったことを裏書きしてくれた。と、このことばとともにヒースクリフはある特別な顔を女のほうに振り向けた――それは憎しみの顔であった。いや、もしそうでなかったとすれば、この男はほかの人間と違って、おのが心の底で思っていることとはうらはらなことばを語る、およそひねくれた顔面筋の持主であるに違いない。
「あ、なるほど――わかりました。ではきみがあの親切な仙女《フェアリー》さんを射とめた果報者なんですね」僕は隣の若者に向かって言った。
これがまた前以上の大失策で――若者は真っ赤な顔になり、こぶしを握りしめ、どうでも襲いかからずにはおかぬすごい格好を見せた。が、やがてどうにか気をとり直したらしく、僕についての悪口雑言を口のなかでつぶやくことで憤《いきどお》りを静めた。僕はそれを気にかけぬように気をつけていた。
「あいにくだが、きみの推測ははずれましたよ」と、あるじが言う。「わしら二人とも、きみのお好きな仙女《フェアリー》とやらの主人ではないのです。これの亭主《ていしゅ》はなくなりました。さっき言うたとおり、わしの義理の娘――つまり、わしのせがれの嫁だったのです」
「それでこちらの若い方は――」
「むろん、せがれではありません」
自分をこの熊のような男の父親だと誤解するなど、もってのほかだ、と言わぬばかり、もう一度ヒースクリフは笑った。
「ぼくの名はヘアトン・アーンショーです」若者はうなるように、「この名字《みょうじ》に敬意を払ってほしいです!」
「ぼくは別に敬意を欠いた覚えはありませんが」あまりもったいぶった自己紹介の仕方に、腹の中で笑いながら、僕はこう答えた。
若者が、あまり長いあいだ目を動かさずに僕の顔をみつめているので、うっかりするとやつ《・・》の耳をなぐりつけるか、声に出して冷笑するかしてしまいそうだったから、こっちから先に目をそらせることにした。どうもこういう和気藹々《あいあい》な一家のだんらんの席には、とてもいたたまれぬ気がしてきた。陰惨な気分が、だんだん強くなって、温かな室内のいごこち良さを帳消しにするだけにとどまらず、はるかに圧倒してしまった。これでは三度目にこの家の敷居をまたぐことは、よほど慎重な考慮を要するな、と僕は考えた。
食事が終っても、誰《だれ》一人うちとけたことばを出す者もないので、僕は天気模様を見るために窓に近づいた。まことに心細いながめである。常よりも早く夜やみがたれこめて、空と丘とは、ただすさまじく吹きまくる風と、息も詰まるばかりの雪との中に、一つに巻きこまれてしまっている。
「これはとても案内人なしじゃ帰れんなあ」僕は声に出して言わずにはいられなかった。「道はもうすっかり埋まっちまったろうし、よしんば道があるにしたって、一足先も見えないだろうから」
「ヘアトン、あの十頭ばかりの羊を、納屋の入口へ追いこんでおけ。夜どおし囲いのなかへ入れたままでおけば、雪に埋まっちまうぞ。出られんように板でも前に渡しておくんだな」ヒースクリフが言う。
「さあ、ぼくはどうしたものかな」言いつづけながら、僕は腹立たしさがこみあげてきた。
僕の問いに答える者は一人もない。気がついて、あたりを見まわすと、そこにいるのは犬どもに桶《おけ》に入れたかゆを持ってきたジョーゼフと、茶のかんをもとの場所へ戻すはずみに落した一束のマッチをおもちゃにして、火の上にかがみこんでいるヒースクリフ夫人と、二人だけだった。爺《じい》さんは桶をおろすと、部屋の中をじろじろ見まわしていたが、いきなりしゃがれ声でがなりたてた――
「あんりゃ、なんちゅうこってみんなが出てっちまったにおめえさま一人そこに突っ立って悪さしてなさるだ! ほんにおめえさまアろくでなしだから、何いうて聞かせてもむだなこった――とても了見のなおる見込みあねえから、さっさとおふくろさまのあとウ追っかけて悪魔んとこさ行くがええだわ!」
はじめ僕は、この悪態が自分に向けられたものと思ったから、カッと腹を立てて、この悪党爺《じじ》いを扉《とびら》の外へけり出してくれようと思い、つかつかと歩み寄ったのだが、意外にもヒースクリフ夫人の返事が、僕を引き留めた。
「なんです、恥さらしの老いぼれの猫っかぶりのくせに!」と彼女はやり返したのだ。「悪魔の名を口に出すが最後、体ごと持って行かれてもいいのかいおまえは? 言っとくけどね、あたしをおこらせないように気をおつけよ、さもないと悪魔にお願いしておまえをさらわせちまうよ! お待ち! 聞きなさい、ジョーゼフ」棚の上から細長い黒っぽい書物をとって彼女は言いつのった。
「あたしの魔法がじょうずになったことを見せてあげようか――もう少しで免許皆伝になるところなんだからね。あの赤牛が死んだんだってただごとじゃないんだよ。おまえのリュウマチだって、神さまの思召《おぼしめ》しがときどき下るなんて思ってたらとんだまちがいだよ!」
「ああ罪だ、おっそろしい罪だ!」老人はあえいだ。「神さま。わしどもを悪からお救いくだせえまし!」
「だめだよ、この極道者! お前なんか神さまに見放された人間じゃないか――あっちへ行っとくれ、行かないとひどい目にあわせてやるよ! 鋳《い》型《がた》にはめて、蝋《ろう》と粘土の人形にしてやるから――あたしのさだめた掟《おきて》を踏み越えた者があったらどんなことになるか――いまは教えてやらないけど――いまにわかるよ。あっちへおいで、ここで見ててやるから!」
かわいらしい魔女が、その美しい目の中へ恐ろしい憎《ぞう》悪《お》をこめたふりをしてみせると、それをすっかり真にうけたジョーゼフは、お祈りをするやら「おっそろしい罪だ!」と悲鳴をあげるやらしながら、あわてて逃げ出した。彼女のこういうふるまいは、一種のやるせなさをまぎらす悪ふざけだと僕は思ったので、やっと二人きりになったとき、困っている自分の立場を考えてもらおうと、勇気を出して切り出してみた。
「ヒースクリフ夫人、ご心配をかけて申しわけありませんが、ぼくは、あなたのそのお顔で人に不親切なことはなされないはずだと思って、まあ甘えて申しあげるんです。どうかぼくの帰る道の目印を一つ二つ教えて下さいませんか。なにしろぼくは、あなたがロンドンへいらっしゃる道をご存じないのと同じくらい、自分の家へ帰る道をまるで知らないんですよ!」
「来た道をお帰りになればいいのよ」燭台《しょくだい》を手に、例の細長い本を前にひろげ、ゆったりと椅子に身を落着けながら、彼女は答える。「あっさりしすぎたご返事かもしれませんけど、それより確かなことはないと思いますわ」
「そうすると、ぼくが沼か雪で埋まった穴のなかで死んでいたという話をお聞きになっても、あなたの良心は、自分にも半分の責任があったとささやくことはないんでしょうか?」
「どうしてそんなはずがあるんですの? あたしはあなたのお供をすることはできませんわ。庭の塀《へい》の端までだって行かせてはくれませんわ」
「何をおっしゃる! この家の敷居をまたぐことだって、お気の毒で頼めやしません――こんな晩に、しかも自分のことでなんぞ」僕は叫んだ。「連れて行って下さいとお願いしてるんじゃなくて、道を教えて下さいと――せめてヒースクリフさんに、案内者をつけてくれるように頼んで下さいと言ってるんです」
「誰が案内しますの? ここにはヒースクリフとアーンショーと、ズィラと、ジョーゼフと、それからあたしと、これだけしかいませんのよ。あなたはこのうちで、誰にお頼みになりたいの?」
「農場のほうには若い者はいないんですか?」
「ええ、いま言っただけでみんなですわ」
「じゃあ、とどのつまり、ぼくは泊めてもらうしかない」
「そのことなら、ここのあるじとご相談なさるとよろしいわ。あたしには関係のないことですわ」
「きみもこれに懲《こ》りて、この辺の山の中をほっつき歩くのはやめることだ」料理場の入口から、ヒースクリフが無慈悲な大声で、「泊るといわれても、ここには客用の寝所の設けはありませんぞ――ヘアトンかジョーゼフと一つ寝床に寝てもらうほかはない――きみさえかまわんければ」
「この部屋で椅子《いす》の上に寝かしてもらいます」僕が答えると、
「そりゃいかん! よしんば金持であろうと貧乏人であろうと、あか《・・》の他人はあか《・・》の他人だ。わしの目のとどかん時分に、この家のなかでうろうろさせておくことは、わしの趣味にあわん!」なんたる無礼きわまる雑言を、このならずものは吐くことだろう。
この侮辱に、僕の堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒が切れた。嫌《けん》悪《お》の感情を声に出してたたきつけ、あるじのそばをすりぬけて、庭へ出てしまったが、あまり急いだのでアーンショーに突き当った。まっ暗闇《くらやみ》で、どこから出たらよいのかさえわからぬ。ぐるぐるその辺をまわり歩いているうち、僕ははからずも、この家の人たちお互いどうし、いかに礼儀正しくふるまっているか、その適例をもう一つ聞くことができた。はじめの様子では、若者が僕のためにひとはだぬいでくれそうな話しぶりだった。
「ぼくが、猟場《パーク》までいっしょに行ってやろうかな」と言っている。
「行きたければ勝手に行きおれ!」若者の主人――かどうか、どういう関係かわからぬが、ヒースクリフがどなりつけた。「だが馬どもの世話は誰がするのだ?」
「人間ひとりの命は、馬を一晩ぐらい放《ほ》っておくことより、大切ですわ、誰かが行ってやらなければなりませんわ」ヒースクリフ夫人が低い声でこう言ったことばには、意外な優しみがあった。
「きみなんかに命令されてゆくんじゃない!」ヘアトンがやりかえす。「あの男のことを気にかけるんなら、きみはただおとなしくしてりゃいいんだ」
「そんならあたし、あの人の幽霊が、あんたのところへ出てくるのを楽しみにしてるわ。そのときは、ヒースクリフさん、あの屋敷も借り手がつかなくなって、しまいに荒れ果てた化け物屋敷になるでしょうよ!」彼女も言葉鋭く応酬した。
「あんれ聞いただか、若奥さまァまたあんな罰あたり言って!」つぶやいたのはジョーゼフで、そのときちょうど僕は彼のほうへ進み寄ったところだった。
爺さんはすぐ近くに腰を下ろし、提灯《ちょうちん》の光で雌牛の乳をしぼっていたのだが、その提灯を、物も言わずに僕は取り上げ、あすの朝かえしてよこすぞと叫びながら、いちばん近い小門のほうへ向かって走って行った。
「旦《だん》那《な》さまァ、旦那さまァ、提灯盗んで行きますよう!」よぼよぼ爺いは叫びながら、僕のあとを追いかけてくる。「やあい。ナッシャ! 犬よ、やあい! ウルフ、やあい、あの若僧とっ捕《つら》めえろ、捕《つら》めえろやあい!」
小木戸が押し開かれ、二匹の毛むくじゃらの化け物が、やにわに僕ののどにとびついたかと思うと、僕は地面に突き倒され、提灯の火は消えた、そのときヒースクリフとヘアトンが声をあわせてげらげら笑ってるのが聞えたので、僕の憤《ふん》怒《ぬ》とくやしさとは頂点に達した。さいわい野獣どもは僕を生のまま食い殺そうなどという殺伐な気分でなく、前足をのばして欠伸《あくび》をし、しっぽを振っていてくれたからよかったが、さればといって僕を起き上がらせてはくれそうもないから、やむをえずやつらの意地悪な主人どもが救ってくれる気になるまで、じっと寝ていた。さてやっと起き上がって吹っ飛ばされた帽子をかぶりもせず、激怒に身をわななかせながら、憎さも憎い悪漢どもに向かって、いますぐおれを外へ出せ――一分でも遅れればなんじらの身の危害になるぞ云々《うんぬん》、その他、腹立ちまぎれにつ《・》じつま《・・・》のあわぬおどし文句をまくしたてたが、その深刻な憎悪の念の底知れぬ毒々しさ、我ながらリア王ばりだと感心した。
興奮のあまり、僕はひどく鼻血を出す、それをまたヒースクリフが笑うから、それでまた僕がどなり散らす。幸いにもここに一人物があって、僕よりも冷静に、僕を客としたあるじよりも親切に、ことを処理してくれたからよかったが、さもなければこの場の決着はどうついたことかわからぬ。その人物とは、ほかならぬあの頑丈《がんじょう》なおばさん、ズィラで、このときようやく、いったいこの騒動はなにごとかと、その場に姿を現わしたのだ。彼女は家の者が僕に手を出して乱暴をはたらいてると思ったらしい、が、そうかといって主人に食ってかかるわけにもゆかぬから、年の若いほうの悪漢に、その大音声《だいおんじょう》の砲先《つつさき》を向けた。
「あらまあアーンショーさまったら何をなすってるんですよ、ほんとに! ご自分たちのお屋敷の玄関先で人殺しをなさりたいんですか? こんな家にはあたしゃ勤まりませんよ――かわいそうにそのお若い方が、息が詰まりそうじゃありませんか! しっ、しっ! あんたもそんなにどならないで、まあ家の中へおはいりなさいまし、あたしが手当てしてさしあげますから――さあさあ静かになさるんですよ」
こう言いながら、彼女はいきなり、一パイントばかりの氷のような冷水を僕の首筋へぶっかけておいて、台所へ連れ込んだ。ヒースクリフ氏もあとからはいってきたが、さっきの思いがけぬ上機嫌はたちまち消えて、いつもの無愛想に帰っていた。
僕はひどく気分が悪く、頭がふらつき、気が遠くなりそうだった。だからいたしかたなくヒースクリフの屋根の下に一夜の宿をとることを承知した形になった。あるじはズィラに、ブランディを一杯飲ませてやれと命じておいて、奥の間へ入っていった。ズィラは僕の無残なありさま《・・・・》を気の毒がっていろいろに言い慰め、あるじの命じたとおりに気つけの酒を飲ませてくれたから、僕もやっと人心地ついたところで、寝床へ案内してくれた。
二階へ上がる途中、おばさんは僕《ぼく》に、燭台《しょくだい》の火を隠しておくこと、物音を立てぬこと、この二つの注意を与えた、これから僕を連れて行こうとしている部屋について、あるじは妙な考えを持っていて、けっしてそこへ誰《だれ》をも寝かせたがらないからだ、と言う。どういう理由かときくと、理由は知らない、とおばさんは答えた。来てからまだ一年か二年にしかなりませんし、なにしろここの家ときたら妙なことだらけなんですから、そこまでせん《・・》さく《・・》する暇がまだないんです、という話だ。
まるでぼおっとしてしまった僕は、それこそせんさくどころではなく、扉《とびら》に錠をおろして、ベッドはどこかと部屋のなかを見まわした。家具は、椅子が一つ、衣装箪《いしょうだん》笥《す》が一つ、大きな樫《かし》の箱の、肩のあたりに大型馬車の窓のように四角い穴をあけたのが一つ、それで全部だ。この箱のそばへ寄り、内側をのぞいてみて、僕はそれが一種風変りな旧式の寝椅子であって、家族の全部が一部屋ずつ持たなくても済むように、はなはだ便利に工夫してできた道具だ、ということに気がついた。事実、これは一つの小寝室をなしているので、そこに取りつけてある窓わくの内側への出っ張りは、テーブルの役をするようになっている。僕は横の羽目板を左右に引きあけて、灯《あかり》を持って内へはいり、羽目板を元へ戻《もど》して、やれやれこれでヒースクリフであろうが、他《ほか》の誰であろうが、いくらおれを寝ずに見張っていたって安心だぞ、という気になった。
例の出っ張り板の上に、燭台を置いたが、見るとその端のほうにかびのはえた書物が数冊、積み上げてある。またその板のペンキに掻《か》き傷をつけて、何やらいっぱいに落書きしてある。だがこの落書きは、大小さまざま、ありとあらゆる書体でただ一つの名を、繰り返し書いてあるだけだ――“キャサリン・アーンショー”それがところどころ“キャサリン・ヒースクリフ”に変り、また今度は“キャサリン・リントン”ともなっているのである。
ひどく気落ちして、ぼんやりと、窓に頭をもたせかけ、キャサリン・アーンショー――ヒースクリフ――リントン――という名のつづり字をたどりつづけているうち、いつか目を閉じていた。が、まだ五分とは眠らぬうちに、白い文字の行列が、ぎらぎらと、まるで妖怪《ようかい》のように生きて動いて、闇《やみ》の中からおどり出てきた――キャサリンの文字が空中いっぱいに群がり、その目ざわりな名を払いのけようとしてはね起きてみると、蝋燭《ろうそく》が古い書物の一つに倒れかかって、子牛革の焼けるにおいが、あたりに漂っていた。蝋燭のしんをつまみ、寒気と、いまだ去らぬ吐き気とのため、実にいやな気分なので、そのまますわり込んで、表紙の焼けた書物を膝《ひざ》の上で開いてみた。聖書である。細い書体の印刷で、たまらなくかび臭い。見返しに記してある――「キャサリン・アーンショー蔵書」そして四半世紀ばかり前の日付け。僕はそれを閉じ、他の一冊を取り上げ、また他の一冊と、つぎつぎに全部を一見した。キャサリンの蔵書は粒がそろっていて、いたみ具合から察するに、きわめてよく活用されたことがわかる――もっともその利用の目的は必ずしもまともなものではないらしく、どの本のどの一章も、編者が活字を組み込まず余白として残したところに、ペンで書き込みを――少なくとも書き込みらしいものを――していない個《か》所《しょ》はほとんどない。ある個所は独立した文章であり、他の個所は毎日の日記の形をとり、へたな子どもらしい手跡のにじり書きである。ある裏白のページ(はじめてそこを発見したときは、きっとこれは良い場所だと思ったことだろう)の上のほうにわが友ジョーゼフの巧妙な似《に》顔《がお》画《え》を見たときは、僕ははなはだ愉快だった――粗い筆つきだが、しっかりと良く描けていた。会ったこともないキャサリン嬢に対する興味が、しきりに僕の内部にわきおこってきたので、進んで彼女の色うすれた暗号のような難解なペンの跡を判読しはじめた。
「つまらない日曜日」似顔の下の一節はこう始まっている。「お父さまが帰ってきて下さったら、どんなにいいだろう。ヒンドリー兄さんなんて大きらいな人がお父さまの代りしてるんですもの――ヒースクリフへのしうちはほんとにひどいわ――Hとあたしとで謀《む》反《ほん》を起こすことにした――あたしたちは今晩その第一歩を踏み出した。
「一日じゅう、雨ばかり降っていた。教会へも行けないので、ジョーゼフはみんなを屋根裏部屋へ集めなければならなかった。ヒンドリーと義姉《ねえ》さんとが、階下《した》で煖《だん》炉《ろ》にいい気持であったまってるときに――何をしていたか知らないけど、聖書を読んでいなかったことは請け合ってもいいわ――ヒースクリフとあたしと、かわいそうな野良《のら》働きの小僧と、三人は祈《き》祷書《とうしょ》を持って屋根裏部屋へ上がれと言われた。一列に、穀物袋の上に並ばせられ、うなりながら震えていた。そしてジョーゼフもいっしょに震えてくれたら、自分も寒いからお説教は短く切りあげてくれるんだろうがなどと思っていました。でも駄目《だめ》でした! 礼拝はキッカリ三時間続いた。それだのになんてあつかましくも兄さんたら、あたしたちの降りて来るのを見て『オヤ、もう済んだのか?』ですって。日曜日の晩は、あまり騒々しくさえしなければ、遊んでもいいことになっていたのに、いまじゃチョット笑っても、すみっこのほうへ追いやられてしまうんですもの!
「『この家に主人がいることを、おまえたちは忘れてるんだ』って、あの暴君は言います。『おれの気にさからったやつは片っぱしからヤッつけてやるぞ! 絶対にまじめに、静粛にしてなきゃ承知せん。おお、小僧! おまえだな? ああ、フランセスや、おまえは、こっちへ来るついでに、そいつの髪の毛をひっぱってやんなさい。いま指を鳴らしおったのを聞いたから』フランセス義姉さんは思いきり彼の耳を引っぱっておいて、それから自分の旦《だん》那《な》さまのそばへ行って、ひざの上へ腰掛けた。そうして二人は、まるで赤ん坊どうしみたいに、長いことキスしたり、つまらないおしゃべりをしたりして――あたしたちが恥かしくなるくらいバカらしい冗談ばっかり言ってるんです。だからあたしたちはあたしたちで調理台の縁の下にはいって、せめてできるだけ気持よくしていようとします。ふたりの前掛けをつなぎあわせて、カーテンにして張ろうとしてるところへ、厩《うまや》から何かの用でジョーゼフの爺《じじ》いがはいって来ます。そしてあたしのせっかくの細工を引きちぎってあたしの横面《よこつら》をひっぱたいて、どなるんです――
「『旦那のお弔いがやっと済んだばかりで、安息日もまだ過ぎねえで、お弔い説教の声も耳に残ってるくれえだに、よくもそうやってフザけていられるもんだ! 恥かしいとは思わねえだか! ちゃんと腰かけさっせい、このいたずらっ子ども! 読む気にさえなればためになるご本がいくらでもありますだに、ちゃんと腰をばかけて、魂のことでも考えさっせい』
「こう言って、爺《じい》やはあたしたちを追いたてて、めいめいの席にかしこまらせてしまいました。あたしたちは、ずっと遠くにある炉の薄ぐらい光で、爺やの押しつけるおもしろくもない宗教書をやっと読めるような場所に、すわらせられたのです。あたしはとてもそんな辛抱はできませんでした。あたしはその小汚ない本の背中をつかんで、ためになる本なんか大きらいだわと言いながら、犬小屋へ投げ込みました。ヒースクリフも同じように自分の本をけとばして犬小屋へ入れてしまいました。さあそれからが大変です!
「『ヒンドリー旦那さまァ!」あたしたちの教戒師がどなります。「旦那さま来てくらっせい! キャシーさまァ《救いのかぶと》の表紙破いちまうし、ヒースクリフ小僧は《破《ほろ》滅《び》への大道》の初めのところへ足をば突っ込んでけとばしくさったですがぞい! おめえさま、こんなことをさせておきなさるちゅうは、まったく情けねえことでがす。ええもう、大旦那さまだったら、ちゃんとお仕置をしなさるところだが――おなくなりなすったわい!」
「炉辺の天国から急いで出てきたヒンドリーが、あたしたちを、一人は襟《えり》、一人は腕をつかんで、裏部屋へほうりこんだ。ジョーゼフがはいってきて、いまにきっと悪魔のニック爺さんがおまえさま方を連れにくるだから、うそだと思ったら待ってみなせえ、とあたしたちに保証した。せっかくご親切にそういってくれるから、あたしとヒースクリフとは、めいめい別の隅《すみ》っこに引っ込んで、ニック爺さんの出てくるのを待っていた。あたしは手を伸ばして棚《たな》の上からこの本とインキ壺《つぼ》とをおろし、居間の扉を少しあけて明かりをとり、二十分ばかりでこれを書いた。けれどもあたしの相棒は飽きてしまって、乳しぼり女の着る外套《がいとう》を借りて、それをかぶって沼地を飛びまわろうと言い出した。おもしろい考えだわ――そうすれば、もしあの気むずかしやの爺やがはいって来たとしても、自分の予言が当ったと思うかもしれないしね――雨の中だって、濡《ぬ》れて寒いのはここと同じことだわ」
キャサリンはこの計画を実行したらしい、というのは次の文章はほかのことが書いてあるからである。彼女はひどく涙っぽい調子になっている。
「ヒンドリーがこんなにあたしを泣かせるとは、夢にも思いませんでした!」という書き出しで、「頭が痛んで、枕《まくら》の上にのせていられないほどです。それでもまだ涙は止まりません。かわいそうなヒースクリフ! ヒンドリーはあの子のことを宿無しだと言って、いっしょの席にすわらせることも、いっしょに食事することさえ許さなくなりました。そしてあたしに、あいつと遊んじゃいけない、言いつけにそむいたら、あいつを家の外へたたき出しちまうぞって、おどかします。お父さまがHをあんまり甘やかしすぎたからいけないなんて(よくもお父さまの悪口なぞ言えたものだわ!)言って、おれはあいつの身分相当な扱いに戻すんだってがんばるんです――」
僕はほのぐらい書物のページで眠くなって、こくりこくりやりだした。僕の目は、ペン書きから活字のほうへうろついていった。赤い飾り文字で――『七度《ななたび》の七十倍と七十一倍目の初め。ギマデン・スウフ礼拝堂にてジェイベス・ブランダラム師の説教』とある。そしてなかば朦朧《もうろう》とした意識で、ジェイベス・ブランダラム師がこの題で何をしゃべったのだろうと、それを苦にして考えてるうちに、僕は寝床にぶったおれて眠ってしまった。ああ、悪い茶を飲んでかんしゃくを起こした罰はてきめん! さもなくてこんなひどい一夜を過ごさせられるはずがあろうか? 物ごころついて悩みというものを知ってこのかた、今夜という今夜にくらべられる夜が一夜でもあったとは思えぬ。
僕は夢を見はじめた――自分のいる場所について感覚がなくなるのとほとんどそれは同時だった。もう朝になっていると僕は思っていた。ジョーゼフに案内させて、家へ帰る途中であった。道路は雪が何ヤードもの深さに積もって、よろめきながら歩く途中、道連れの老人はひっきりなしに、僕が巡礼の杖《つえ》を持って来なかったといって責めるのだ。あの杖がなくてはとても家の中へはいることはできませんぞと講釈を並べては、握りの大きいこん棒を大いばりで振りまわして見せるのだが、僕の理解するところでは、そのこん棒にそういう名がついているのである。そんな道具がなければ自分の家へ入れてもらえないなんて、そんな馬鹿《ばか》げた話があるか、と僕はちょっとのあいだ、思った。そうするうち、ふと新しい考えが浮かんだ。おれはうちへ帰るんじゃない、高名なジェイベス・ブランダラム先生の『七度の七十倍』の聖句に関する説教を聞くために旅行しているのだ。そしてジョーゼフか、牧師か、僕か、三人のうちのだれかが『七十一倍目の初め』の罪を犯し、公衆の面前に引き出されて破門の憂《うき》目《め》にあうはずなのであった。
礼拝堂へ来た。それは現実に僕が散歩の途中、二、三度前を通ったことのあるお堂で、二つの丘のあいだの窪《くぼ》地《ち》に建っている。窪地といっても、沼に近いから少し高台になっていて、その沼から出る泥炭質《でいたんしつ》の湿気は、そこに葬《ほうむ》られた少数の遺《い》骸《がい》を完全に香だきにするといわれている。礼拝堂も、屋根だけはきょうまでのところ、どうにか完全に残っているが、なにぶんにも牧師の年俸《ねんぽう》がわずか二十ポンドで、その住居にあてられている二部屋は仕切りの壁がくずれて、遠からず一部屋になってしまうこと必定だという有様では、どんな牧師さんでもここに聖職を奉じようとはしないはずである。ことにその教会の信徒がみんなけちん坊で、牧師さまが食うに困って死んだって、自分のふところ《・・・・》から一文でも出さずに済めばそのほうがいい、と思ってる連中ばかりだといううわさだ。ところが僕のみた夢のなかでは、ジェイベス師は堂にあふれるほど熱心な会衆を集めていた。そしてまた彼の説教――いや実に! これがなんとも大変なお説教なのだ。つまり四百九十《・・・・》の項目に分かたれていて、その一項ずつが通例の会堂の説教に匹敵する長さであり、しかもその各項において、それぞれ別な罪悪について論じているのだ。いったいどこからそれだけの罪悪を捜し出してきたものやら、僕にはとても見当がつかぬ。彼は例のマタイ伝の聖句に独特の解釈をくだしているから、「同胞《きょうだい》」というものはあらゆる場合に別々の罪を犯すものときまっているらしいのだ。それらの罪がまた実に奇想天外な性質をおびていて、とても想像も及ばぬ変な悪事ばかりなのである。
ああ、僕はなんたる退屈を感じたことだろう。体を動かしてみたり、欠伸《あくび》をしたり、居眠りしたり、またハッと気がついたり! 自分をつねったり、つっ突いたり、目をこすったり、立ったり、もう一度すわったり、そっとジョーゼフを小突いて、説教がもし《・・》終ったら知らせてくれと頼んだり、およそあらゆる秘術をつくしたものだが、やはり罪深い僕はしまいまで聞かねばならぬ罰をこうむっていた。とうとう牧師は『七十一倍目の最初《・・・・・・・・》』までたどりついた。その重大な瞬間に立ち至って、突如として一つの霊感が僕の上に舞いおりた。僕はわれ知らず立ち上がり、ジェイベス・ブランダラムこそクリスチャンの風上《かざかみ》にもおけぬ罪を犯した罪人《つみびと》だと弾劾《だんがい》していた。
「先生」と僕は叫んだ。「ぼくはこの堂内にさっきからすわりつづけて、四百九十項にわたる先生のご高論を辛抱強くも、胸をさすって拝聴しました。ぼくは帽子をつかんで席を立とうとしたこと、七度の七十倍に及びました――しかるに、先生、あなたは横暴にもぼくを再びすわらせること七度の七十倍に及んだではありませんか。それを何ぞや、四百九十一回目とは、あまりといえば執念深い。同じ拷問《ごうもん》の犠牲となった満堂の諸君よ、先生をやっつけろ! 説教壇から引きずりおろして、こなごなにたたきつぶして、『彼の郷里《ふるさと》も彼を認めじ』というふうにしてしまえ!」
「なんじはその人なり!」ジェイベスは、しばしおごそかに黙していたが、やがて自分の椅子ふとんにもたれかかりながら、こう叫んだ。「七度の七十倍、なんじは顔を醜くゆがめて欠伸をした――七度の七十倍、わたしはわれとわが心に問うた――見よ。これぞ人間の弱さである、これもまた許されんことを! 七十一倍目の最初は来ました。兄弟よ、『録《しる》したる審《さば》き』をあの男に行なえ。『かかるほまれ《・・・》はそのもろもろの聖徒にあり』じゃ!」
このきびしい一言とともに、並みいる会衆は、手に手に巡礼の杖をふりかざし、どっとばかりに僕のまわりに殺到した。身を守るべき武器をもたぬ僕は、もっとも手ぢかの、もっとも猛烈に襲いかかってくるジョーゼフのこん棒を奪いとろうとして、彼と取っ組みあいを始めた。大勢のひしめきあうなかを、何本かのこん棒が飛びかう。僕をねらって打ちおろされたのが、他のやつの頭をなぐる。間もなく会堂じゅうはなぐる音、なぐり返す音の反響に鳴りどよめき、すべての者の手が隣の者をひっぱたく騒ぎとなり、ブランダラムとてもじっとしてはいられぬから、説教壇の板をがんがんたたいて興奮の有様を示す。その音がまたはなはだ小気味よく鳴り響いたので、とうとう僕は目をさまし、実になんとも言えずほっとした。ところで、あんな途方もない大騒動の夢を僕に見させたものはなんだろう? またその騒動におけるジェイベスの役割を演じたのはなんだろう? それは夜半の烈風が悲鳴をあげながら吹き過ぎて行くたびごとに、樅《もみ》の木《き》の枝が窓格《まどごう》子《し》にざわざわと当り、からからになった実で窓ガラスをたたいていた、ただそれだけのことだった! ちょっとのあいだ、僕はなんだろうと思って耳をすましてみたが、その騒がしい音の正体がわかってしまうと、寝返りうって、うとうととし、またぞろ夢を見た。前の夢以上のいやな夢というものがもしあるとすれば、まさしくそれが今度のやつだ。
今度は、樫材《かしざい》づくりの小寝室の中に寝ていることもちゃんと頭にあったし、烈風の音も雪の吹きつける音も、はっきり聞き分けていた。また樅の大枝のうるさい音も聞き、その原因も確かにそれと承知していた――けれども、あまりにうるさいから、できることならその音をやめさせたい、という考えを起こしたものである。で、起きて行って、窓の戸の掛け金をはずそうとしてみたらしい。だが掛け金はハンダづけになっている。そのことを僕は寝る前に見ておいたのに、つい忘れていたのだ。「だがこの音はぜひともやめさせなきゃならん!」こうつぶやいて、げんこでガラスをたたき破り、そのうるさい枝をつかもうと腕をのばした。ところがなんと、手に握ったものは、枝ではなくて、氷のように冷たい小さい手だった! 悪夢の激しい恐怖が僕を襲った。腕を引っ込めようとしても、小さい手はギュッと握っていて放さぬ。そして泣きむせぶような世にも悲しげな声で「入れてよう――あたしを入れてよう!」「誰《だれ》だ、きみは!」腕をふりほどこうともがきながら、僕がきくと「キャサリン・リントン」と、震えながら答える(なぜ僕はリントンのほうをおぼえていたのだろう? リントンよりもアーンショーの文字のほうを、二十倍も多く見たはずだのに)――「いま外から帰ってきたんです――荒地で道に迷っちゃったんです!」その言葉のあいだに、ぼんやりと、窓の向こうに子どもの顔が一つ、のぞきこんでいるのが見えてきた。恐怖が僕を残酷にした。お化けの手をふりもぎろうと思っても駄目《だめ》なことがわかったので、今度は逆にその手首をひっぱって割れた窓ガラスにあてがい、ぐいぐいとこすりつけた。みるみる血が流れて、夜具をベトベトに濡らしたが、女の子はまだ「入れてよう」と、せつない声で泣きながら、どこまでも執念深く僕の手を握りしめて放さぬから、こっちは恐ろしさに気が狂いそうになった。「どうすればいいんだい?」とうとう僕は言った。「入れてもらいたかったら、その前にこっちの手をお放しよ!」指がやっと緩んだので、僕はすばやく自分の手を穴の内側へ引っ込め、そこへ急いで本をピラミッド形に積み上げて、それから哀れっぽい泣きごとを聞くまいと耳をふさいだ。十五分以上も耳を閉じていただろうか、それなのに耳をあけてみたとたんに、まだ悲しそうな泣き声はうめきをつづけている! 「行ってくれ!」僕はどなった。「おまえなんか絶対に入れてやらんぞ、二十年つづけて頼んだっていやだ!」「二十年ですわ」泣き声は嘆いて、「ほんとに二十年ですわ、二十年のあいだ、寄るべもなく、さすらってきましたわ!」すると今度は外で弱々しくひっかく音が聞こえはじめ、積んである本が前に押されたように動いた。飛び起きようとしたが、手足はまるで動かぬから、僕は恐ろしさに狂わんばかりの大声をあげてわめいた。困ったことには、気がついてみると、僕はほんとうに声を出してわめいてしまったのだった。急ぎ足に誰か、この部屋の戸口へ近づいてきて、力強い手でぐっと扉《とびら》をあけた。枕元《まくらもと》の四角い窓から、明かりがさしこむ。そのときの僕は、まだ身震いしながら、すわって、額の汗をぬぐっていた。部屋へはいってきた人はためらっているらしく、一人で何かつぶやいていたが、やっと、明らかに返事があることを予期せぬ調子で「誰かおるのか?」と、なかば口の中で言った。僕は自分がここにいることを言ってしまうのが一番いいと思った。その口のききかたでヒースクリフだということはわかったし、もし黙っていたらもっと奥まで捜しに来るに違いないと思ったからだ。それで、ここにいますよ、と言うつもりで向きなおり、羽目板を引きあけた。それを見たときの彼のびっくりした様子を、僕は容易に忘れぬだろう。
ヒースクリフは入口の近くに、シャツとズボンだけで立っていた。持った蝋燭《ろうそく》から指へ蝋がたれている。顔には血の気がなく、彼のうしろの壁の色とそっくりである。樫の羽目板を開く最初の音が、すでに電撃のように彼を驚愕《きょうがく》させていた。手に持っていた蝋燭を、数フィートのかなたへ飛ばしてしまったが、あまり気が転倒していたので、それを拾い上げることさえできかねた。「泊り客がいるだけですよ、あなた」と、僕はこれ以上のおくびょうさを彼にさらけ出させ、恥じ入らせたくない思いやりで、叫んだ。「恐ろしい夢をみて、つい声を立てちまったんです。どうもお騒がせしてすみません」
「なんだ、びっくりさせるじゃないか、ロックウッド君! くそいまいましい、きみなんぞ悪――」と言いかけて、じっと蝋燭を持っていられぬものだから、それを椅子《いす》の上に立てながら、「だがまた、いったい誰がきみをこの部屋に案内したんだ?」手のひらにつめがくいこむほどこぶしを握りしめ、顎《あご》ががくがくするほど歯ぎしり噛《か》みながら、「誰です? わしはそいつをいますぐ家の外へおっぽり出してくれねば気がすまん!」
「女中のズィラです」僕は答えて、床におどり立ち、いそいで着物を着かえはじめた。「どうぞあなたのお気のすむようになすってください、ヒースクリフさん。あの女中はたしかにそれだけの仕置に十分価《あたい》します。きっとぼくを道具に使って、ここに幽霊の出る証拠をまた一つ手に入れる魂胆だったに違いないです。ねえ、まったく事実そうなんだ――幽霊やら悪鬼やら、そこらじゅううようよいますよ! あなたがここを締めっ切りにしているのもむりはないです。幽霊の巣窟《そうくつ》に寝かせてもらって、誰だってあなたにありがとうとは申しませんからな!」
「何を言っているんです、きみは?」ヒースクリフが訊《き》いた。「そして何をまたしてるんです? どうせここにいる以上、横になって夜を明かしたらいいでしょうが。しかし頼むからもうあんな声は立てんで下さいよ。寝首でもかかれようというときのほか、どんなことがあったって言いわけにはならんですぞ!」
「もしあの小鬼が窓からはいってきたら、あいつがぼくの首を締めたに違いありません」僕は言い返した。「ぼくはお宅のおせっかいなご先祖に、二度といじめられるのはかないません。ジェイベス・ブランダラム師というのは、あなたの母方のご親類か何かじゃないんですか? それからあのおてんば娘のキャサリン・リントンだかアーンショーだか、名字はどうでもかまわないが――あれはきっと悪魔の取っ換えっ子に違いありませんね――実に憎らしい小悪魔だ! この二十年間、あの娘は地上をうろつきまわったって自分で言ってたが、生前の極悪な罪の当然の報いですよ、確かですよ!」
そう言ってしまったとたんに、僕はあの本の書き込みのなかでヒースクリフという名とキャサリンという名との関係を思い出した。こうして目がさえてくるまで、それをすっかり忘れてしまっていたのだ。おのれの軽率さに、僕は赤面した。しかしそれ以上悪かったという顔はせず、言い足した――「実は、ぼく、寝しなにその――」ここまで言って、またよした――「あの古い本を読んでいたのですが」と言うつもりだったが、そうすると僕があの本の印刷された内容ばかりでなく、書き込んであることまで知ってることがばれてしまう。そこでもう一度、頭のなかで考えをまとめなおしておいて、続けた――「窓の出っ張りに落書きしてある名前を一字一字拾って読んでいたんです。単調なことだから、それで眠れるかと思いましてね、ちょうど数をかぞえるとか、また――」
「いったいきみはなんのつもりでそんな話をこのわしにするんです!」ヒースクリフは実にすごい剣幕でどなりつけてきた。「いったい――そもそもきみは、わしの家に来てなんという無遠慮な! おお、こんなことを言い出すとは気でも狂ったのか!」激しい憤《ふん》怒《ぬ》にたえかねて、額をたたいてののしった。
そう言われると、僕は腹を立てるべきか、さっきの弁解をつづけるべきか、迷わざるをえない。しかし、先方があまり興奮しているらしいので、こっちは気の毒になり、夢の話をつづけた。実のところ、これまで一度も「キャサリン・リントン」などという名を聞いたこともなかったのだが、幾度も幾度もその名を読んでいるうちに、いつか一つの印象が形づくられたものとみえる、それが夢のなかで手綱から放たれた奔放な空想のおもむくままに、一個の人間の姿となって現われたのに違いない、というふうに話したのである。ヒースクリフは、この話のあいだにだんだん寝台のかげへしゃがみ込むようにしていたが、しまいには床に腰を落して、姿はほとんど隠れてしまった。しかし、彼の息づかいが荒く不規則で、いまにも止まりそうな音をさせていることから察して、非常に激しい心の動揺をおさえようとしているのだ、ということはわかる。その苦しい戦いに気がついた様子をみせまいと思い、僕はわざと音を立てて身支度をつづけ、自分の時計をみては、夜長をかこつひとりごとを長々と言ってみたりした。「まだ三時にもならないのか! もうてっきり六時ごろだと思っていたがなあ。ここでは時の流れがよどんでるみたいだ。たしかに八時ごろに寝たに違いないのに!」
「冬はいつも九時に寝て、四時に起きることにしとる」あるじはうめき声を押えながら言う。そのとき、彼の腕の影の動き方から想像して、彼が目から涙を拭《ぬぐ》ったことを、僕は知った。「ロックウッド君」と彼は言い足した。「わしの部屋へ来られんか。こんなに早く階《し》下《た》へ降りては、じゃまになるばかりだ。それにきみがあんな子どもみたいなわめき声を出すから、わしもねむけが消し飛んでしまったよ」
「ぼくもご同様ですよ。夜が明けるまで、お庭を歩いて、それから帰りましょう。もう二度とおじゃまはしませんから、ご安心になってください。もう今夜かぎり、田舎に住もうと都会に住もうと交際の楽しみを求める病いからは、すっかり脱けだしましたね。賢い人間は、おのれ一人を友とする境涯《きょうがい》に安んじるべきですよ」
「ふん、お楽しみなことだ!」ヒースクリフはつぶやき、「蝋燭を持って、どこへでも好きなところへおいでなさい。わしもすぐ行きます。ただし庭はよしたほうがいい。犬が放してあります。それから居間のほうもジュノーが番をしとるし、それから――いや、階段や廊下のあたりでもうろついていてもらうよりないな。だがとにかく、この部屋を出てください! わしも二分ばかりしたら行くから」
そう言われて、とにかく部屋を出ることにした。が、そこの廊下をゆけばどこへ出るかさえも知らぬので、うっかりたたずんでいるあいだに、見るつもりもなく、あるじの内心の怪奇な情熱の一片を見てしまうことになった。いかにも分別臭い平常の彼とは、うって変った不思議な様子であった。寝台に上がり、窓格子をねじあけ、それをぐいぐい引っ張りながら、どうにも感情を制し切れなくなったと見え、わっと泣き出してしまったのだ。「おはいり! おはいりよ!」とむせび泣きながら、「キャシー、はいってきておくれ。おお、ほんとうに――もう一度! おお、いとしいおれの心の恋人! こんどこそおれの言うことを聞いておくれ、ああキャサリン、とうとうこんどこそ!」ところが幽霊は、幽霊の常として気まぐれだった。まるで出そうな気配すら見せないのだ。ただ雪と風とが激しく舞い込むばかり、僕のいたところまで吹き込んで、明かりを消してしまった。
かきくどくこのうわごとにつれ、わき起こる悲嘆の痛ましさに、僕は胸をうたれ、その馬鹿《ばか》らしさは少しも気にならなかった。それよりも第一そんなことを聞いてしまった自分に腹を立て、一方あの悲痛な嘆きのもとはと言えば、僕があの馬鹿げた悪夢の話など聞かせたからだ――それがなぜか《・・・》ということは、とうてい僕にはわからぬが――と後悔しながらその場を離れた――。そっと気をつけて階《し》下《た》へ降りる。裏の台所へ出ると、炉には、一個《か》所《しょ》にかき寄せた火がまだかすかに残っているので、蝋燭をともすことができた。灰のところからはい出してきて、僕に向かってなにか不平でも言うように鳴く灰色の猫《ねこ》のほかは、ひっそりと静まりかえっている。
円周の一部を切り取った形の二つのベンチが、ほぼ煖《だん》炉《ろ》の前をふさいでいた。その一つに、僕は長々と横になった。すると老雌猫《グリマルキン》がもう一つのベンチの上へあがってきた。誰もはいって来ないあいだは、猫ともども、うとうとと居眠りしていたが、やがてジョーゼフが、引き窓を抜けて天井へ消えている木のはしごを、危なかしく降りてきた。そこが彼の屋根部屋への上がり口なのだろう。爺《じい》さんは、僕がそそのかして炉格子のあいだにちらちらと踊らせていた小さな炎を、いやな目つきで見て、猫をベンチからおいだした後へ腰をおろし、三インチばかりのパイプにたばこを詰めはじめた。僕が彼の私室にはいり込んだことを、老人は口にするのも恥ずかしいほどのあつかましいふるまいだと考えているようだ。黙ってパイプをくわえて、腕を組んで、すぱすぱやっている。余計なじゃまをせず、たばこを楽しませておいてやろうと思って、僕は黙っていた。最後の煙まで吸ってしまうと、ほっと、深いため息をついて、立ち上がり、来たときと同じようにまじめくさって出て行った。
次にはいってきた人は、爺さんよりはずっと元気な足どりである。今度は「おはよう」と挨拶《あいさつ》しようと思ってすでに口を開いたが、ついに挨拶をしそこなって、また口をつぐんだ。ヘアトン・アーンショーは、雪かきをするつもりらしく、隅《すみ》のほうで鋤《すき》かシャベルかを捜していたが、手に触れるあらゆる物に、くそっとか畜生とか、得意のお祈りを口のなかで連発して、とうとう僕におはようを言うすきを与えなかったのである。鼻の穴を大きくして、ベンチのもたれのむこうからこっちをのぞいたが、猫にも僕にも、朝の挨拶をする気はなさそうだ。彼が雪かきの用意をしているところから、もう外へ出てもいいのだと合《が》点《てん》したから、僕は堅いベンチから立ち上がって、うしろについて出ようとした。と気がつくと彼は、手に持った鋤の端で奥のほうの戸口をどしんと突いて、聞きとりにくい声をのどから発してどこかへ行くならここから出ろという意味を僕に伝達した。
そこを出ると家族居間《ハウス》で、婦人たちはそこにもう起きていた。ズィラは大きなふいご《・・・》で一生懸命に煙突へ炎を吹き上げているし、ヒースクリフ夫人は炉辺にひざをついて、炎の明かりで本を読んでいる。炉のほてりをさえぎるために目のそばへ手をかざしながら、夢中で本に読み耽《ふけ》っているらしい。本から目を放すのは、火の子が飛んで困ると言って、ズィラを叱《しか》るときか、ときどき彼女の顔へあまりなれなれしく鼻毛をすりつけてくる犬を追いのけるときぐらいのものだ。ヒースクリフもやはりその部屋にいたのには驚かされた。こっちへ背をむけて火にあたりながら、ちょうどズィラとの大げんかの一幕を切り上げたところだった。かわいそうにズィラは、ときどきふいごの手を止めてはエプロンの端を引っ張り上げて目をおおい、いかにもくやしそうにうめき声を漏らしている。
「それからおまえも、役立たずの――」ちょうど僕のはいって行ったとき、むすこの嫁にむかって、家鴨《いいこ》とか羊《ばか》とかいうのと同様に、別になんの差支えもない呼び方ではあるけれども、普通は省略符号の“――”で表わす習慣になっている言葉を使って、どなりかけたところだった。「それ、またおまえは、ろくでもない手品の本なぞ読みおるんだな! 他《ほか》の者はみな働いて食っとるのに――おまえはわしの情けにすがって生きとるんだ! そんなくず本を投げ出して、なにか仕事をみつけるがいい。いつまでもわしの目ざわりになっとる償いに、少しは何かして負目を払いなさい――聞いとるのか、このすれっからしが?」
「いやだと言っても、どうせお義父《とう》さんが取り上げてしまうんですから、こんなくず本は投げ出しますわ」若奥さまはこう答えて、本を閉じ、椅子の上へ投げ出しながら、「ですけど、いくらあなたにひどいこと言われたって、自分の好きなことしかあたしはしませんわよ」と言った。
ヒースクリフは手を振り上げる、その痛さはよほど身にしみてるとみえて、しゃべるほうは危なくないところまで飛びのいた。こんな犬と猿《さる》みたいなけんかを見せてもらうのはまっぴらだから、僕は、いかにも火にあたりたいだけで他意はなく、僕の出現で中止したけんかのことなどてんで知らぬような顔をして、勢いよく進み出た。二人とも、それでもまだけんかをつづけるほど礼儀知らずではないから、ヒースクリフはまだ振りまわしたくてむずむずしてる拳骨《げんこつ》をポケットにしまい込むし、若夫人も若夫人で、くちびるを曲げながら遠くの椅子のほうへ行き、何もしないというさっきの一言を守って、僕のいるあいだじゅう、彫像のように身動きもしなかった。もっとも僕もそう長くいたわけではない。朝飯の相伴を断わって、朝の光がさしはじめたのをしおに、戸外へのがれた。いまはもう晴れ上がって風も静まり、外気は氷がそのまま気体になったような冷たさであった。
僕の家主は、庭の端の手前で僕を呼びとめ、荒野《ムーア》を横切って帰るのにいっしょに行ってやろうと言う。実際、いっしょに来てもらってよかった。見わたすかぎりの丘の背は、まるで大波のうねる一望の白い海原だったからだ。しかしそのうねりの高低は、必ずしも土地の高低を示しているわけでなく、すくなくとも多くの穴ぼこは雪で埋まって平らになってしまっている。石切り場の跡の土手なども、きのう歩いて来たときに見て、頭のなかに描いておいた地図の中から、まったく跡形もなく消えてしまった。この荒野の端から端まで、一筋に六、七ヤードの間隔をおいて、まっすぐに立てた石が、道の片側につづいているのを、きのうは見ておいた。それらは夜の目標《めじるし》になるように石灰で白く塗ってあり、きょうのような雪降りで、両側の深い沼と、ややしっかりした通り道との区別もつかぬときにも役に立つように、立ててあるのだ。それが、あちこちにぽつりぽつりと、きたない汚点のように突き出ているほかは、そういう並石の存在の痕跡《こんせき》さえいまは消え失《う》せている。だから僕は、曲がりくねった道をまちがいなくたどっているつもりでも、つれから幾度も右へ曲がれとか左へ曲がれとか、注意を与えられねばならなかった。口数もあまりきかず、スラシュクロス屋敷の猟場《パーク》の入口まで来たとき、ヒースクリフは立ち止まって、ここから先はきみもまごつかんでしょう、と言った。別れの挨拶としては、互いにただ急いで頭を下げただけで、さてそのあとは自分の判断だけをたよりに勇ましく前進して行った。門番小屋にはまだ番人が住みついていないからである。門から家までの距離は二マイルであるが、立ち木の中へ迷い込んだり、首の辺まで雪にはまり込んだりすることによって、四マイルくらいまで引き延ばすことに成功したかと思う。その難儀さは、実際に経験した人でなければわかるものではない。とにかく、どう歩いたにせよ、家にはいると、時計が十二時を打った。だから嵐が丘からの平常の道程《みちのり》一マイルにつき、ちょうど一時間ずつ費やして帰って来たことになる。
家つき娘ならぬ家つきのおばさん、その下に働く召使たちは、どやどやと飛び出してきて僕を迎えた。もう生きてはいらっしゃらないとあきらめていましたなどと口々にいう。騒々しいことおびただしい。誰《だれ》もかもが、僕は昨夜すでに死んだものと思って、これからどういうふうに死体の捜索に取りかかったものかと迷っていたのである。こうして帰ってきたのを見た以上は、もう騒ぐなと、僕はみなの者をたしなめ、さて、心臓までかじかんだようになって、ようやくの思いで二階へ上がる。乾いた衣類に着替え、体温をとりもどすために三、四十分あちこちを歩いてから、小猫のようにいくじなくなって書斎へはいったが、あまりにくたくたになっていたから、楽しく燃える煖炉の火も、僕に元気をつけさせたい親切から召使がいれて来てくれた熱いコーヒーも、心から楽しむことができなかった。
ああ、僕《ぼく》らはみな空《から》威張《いば》りする風《かざ》見《み》どりにすぎない! いっさいの世間的交際から敢然と離脱しようと決心して、交際したくても実際上できないにちかい場所にやっと住みつき、つくづくわが幸運を喜んだこの僕が――なんと心弱いいくじなしか、夕方までゆううつと孤独とを向こうにまわして戦いつづけたあげく、とうとう旗を巻いて降参してしまった。つまり、家事上の必要から聞きたいことがあるという口実のもとに、晩飯を持ってきてくれたミセス・ディーンをつかまえて、食事のあいだそこにいてくれと頼んだのだ。このおばさんの話をきいて気を引き立ててもらえればそれでいいし、反対に子守歌みたいに眠くなれるならそれもけっこう、どっちにしろ彼女がおもしろいおしゃべり好きであってくれますようにと、心から望んでいたしだいだ。
「あんたはもうずいぶん長くこの土地に住んでいるんでしたね」と、僕は切り出した。「たしか十六年とかいうことだったね?」
「十八年でございますよ、旦《だん》那《な》さま。こちらの前の女主人がお嫁入りのとき、奥さまづきとしてこちらへ参りましたんです。それから、女主人がなくなられまして、ひきつづきご主人が家政婦《ハウスキーパー》として、雇ってくださいました」
「なるほど」
そこでちょっと話が途切れる。どうもおしゃべりのほうではなさそうだ、困ったぞ、自分のことしか話したがらない人だ、こっちはそれには興味が持てそうもないし。だが、両ひざに握りこぶしをおき、その赤ら顔に瞑想《めいそう》の雲を浮かべながら、しばらく考えこんでいたおばさんは、いかにも思い屈したふうで――
「まったくねえ、あれからずいぶんと時勢も変りましたわ!」
「そうだね」と相づちうって「あんたなんぞ、さぞいろいろと世の移り変りを見てきたことだろうね?」
「はい、それといっしょに、いろいろいやなことも見て参りました」と彼女はいう。
「そうだ、話を家主の一家のことに向けてやろう!」腹のなかで僕は考えた。「絶好の話題として持ち出せるぞ! それにあのきれいな小娘みたいな未亡人、あのひとの経歴をおれは知りたい。だいたいこの地方の生まれなのか、それともあの仏頂面《ぶっちょうづら》の居付地主の一家が、親戚《しんせき》としての扱いをしないところからみて他国の生まれらしくもあるが――」そんな下心で、まずディーン夫人に聞いたことは、ヒースクリフがなぜスラシュクロス屋敷を人に貸して、わざわざあんな、場所としても数等劣るところに住んでいるのか、ということだった。「あの人にはこれだけの所有地を体面を保ってやっていくだけの金がないんだろうか?」
「いいえ、お金持ですわよ、旦那さま!」と彼女は答えた。「どれくらい持っているか誰《だれ》にもわからないんですけれど、とにかく年々にふえてゆくらしいんですの。ええ、ええ、あの人は、このお屋敷よりもっとりっぱな家にだって住めるだけのお金持ですわ、ですけれどもひどく吝《しわ》い人で――しまり屋なんですの。たといスラシュクロス屋敷へ越してくる気があったにしましても、いい借り手がついたと聞いたが最後、何百ポンドか、余分のお金を取る機会をのがすことは、とてもがまんできやしませんわ。世の中にたった一人ぼっちのくせに、あんなに我利々々になれるなんて、人間て不思議なもんですわねえ!」
「むすこさんが一人あったようだね?」
「ええございました――なくなりましたけど」
「それであの若い女の人、ヒースクリフ夫人というのは、そのむすこさんの未亡人なの?」
「はい」
「元来はどこの人だい?」
「まあ、あなた、あたくしのせんのご主人のお嬢さまでございますよ。もとの名はキャサリン・リントンと申しましてね。あたくしがお育てしましたんですよ、ほんとうにかわいそうな子! ヒースクリフさんがこっちへ越してくれば、またごいっしょに暮らせるのにと、それを楽しみにしておりましたんですよ」
「なんだって、キャサリン・リントン!」驚いて、僕は声を高くした。が、ちょっと考えてみれば、それが昨夜の薄気味わるいキャサリンとは別人であることが、すぐにわかった。「それじゃ」と僕は言葉をついで「ここの前のあるじはリントンといったんだね?」
「さよでございます」
「そうすると、あのアーンショーという人はどういう人? ヘアトン・アーンショー、ヒースクリフさんの家にいるだろう? 親戚ででもあるの?」
「いいえ、あのかたはなくなったリントン夫人の甥《おい》御《ご》さんです」
「じゃあの若い婦人の従兄《いとこ》に当るわけ?」
「はい、そしてあのキャサリンの旦那さまもやっぱりお従兄さんでござんした。ヘアトンは母かたで、このかたは父かたの従兄に当るんですの。ヒースクリフさんはリントンさんのお妹さんをおもらいになったんです」
「僕は嵐が丘の家の玄関の扉《とびら》の上に、『アーンショー』という名字が彫ってあるのを見たっけ。旧家なのかね?」
「たいへんな旧家でございますよ。そうしてあのヘアトンさんがそのたったひとりの生き残りで、それと同じにキャシーお嬢さまのほうもこちらの――つまりリントン家の最後に残ったかたなんでございます。あなた嵐が丘へおいでになりましたんですか? こんなふうにお尋ねして失礼でございますけれど、キャシーさまがどうしていらっしゃることか知りたいものですから!」
「ヒースクリフ夫人かい? ああ、元気だったよ、そしてとてもきれいな人だね。だけど、なんだかあまり幸福ではなさそうだったねえ」
「まあまあ、そうでしょうとも! そしてあそこのご主人のことはどうお思いになりまして?」
「さあ、どっちかといえばごつい《・・・》人だね、ねえディーンさん、そんな男じゃないかね?」
「ごつい《・・・》ことったらのこぎりの歯みたいで、がっちりしてることはまるで石うすですわ!なるべく相手になさらないほうがよござんすよ」
「あんな粗暴な男になるまでには、あの人もきっといろんな浮き沈みに会ったんだろうね? あの人の経歴について、あんたはいくらか知ってるの?」
「まあ郭公《クックー》のような身の上ですわ、旦那さま、何もかもわたくしは存じておりますけど――ただあの人の生まれた場所と、親たちがどこのどういう人かってことと、はじめ何をしてあの人がお金をもうけたか、その仔《し》細《さい》だけは知りませんけど。そうしてヘアトンは、まるで、いわひばり《・・・・・》のひよこが郭公に巣からほうり出されるような目に会わされたんですわ! あの不運な若者は、どうしてだまされたんだか、この教区じゅうの人がみんな知っていますのに、ご当人だけはなにもご存じないんですの」
「なるほどねえ、ディーンさん、あの人たちのことをぼくに話してくれるとありがたいんだがなあ。ぼくは寝床へはいっても眠れそうもないんでね、だから一時間ばかりそうして話していてくださいよ」
「ええ、よろしゅうございますとも、あなた! わたくしちょっと縫いものを持って参りまして、いつまでもお好きなだけここにおりますわ。でもあなたおかぜを召してるんですよ。寒《さむ》気《け》で震えていらっしゃいますもの。だから少しおかゆでも召し上がって、かぜを追い出しておしまいなさいまし」
えらいおばさんがせかせかと出て行ったあと、僕は火のそば近く身をかがめた。顔ばかりほてって、体は冷えきってる。それだけでなく、神経も頭もすっかり興奮して馬鹿《ばか》みたいになっていた。それがために気分は案外悪くなくて、きのうときょうとの出来事から、とんだことになりそうだという心配のほうが強かった。(いまもなおその心配は消えないが)まもなくおばさんは、湯気の立っている平鉢《ひらばち》と縫いもの箱とを持って戻《もど》って来た、かゆの鉢を炉ごうしの脇《わき》だなにのせて、僕が案外人なつこくなったのがいかにもうれしいらしく、椅子《いす 》に腰をおろした。
私はこちらで暮らすようになりますまで、たいていずっと嵐が丘におりましたんですよ。(と、ディーン夫人は今度はもう話を引き出すまでもなく、語りはじめた)なぜかと申しますと、私の母がヒンドリー・アーンショーさん――この人がヘアトンのお父さんに当りますが――そのヒンドリーさんの乳母で、小さい時分からいつもあの家の子どもたちと遊んでおりましたからです。そして使い走りもいたしますし、干し草つくりの手伝いもします。農場のあたりにぶらついていて、誰に何を言いつかっても喜んで働きました。ある夏のよく晴れた朝のことでしたが――たしか収穫の始まったころのことだったと覚えております――老主人のアーンショー氏が旅支度で階下《した》へ降りていらっしゃいました。その日の仕事のことをジョーゼフに言いつけてから、ヒンドリーとキャシーと私と――つまり、ちょうど子どもたちといっしょに、私もおかゆをいただいておりましたんです――三人のほうを向いて、むすこさんにこんなことを申します、「ぼうや、お父さんはきょうこれからリバプールへ行くが、おみやげはなにがいい? なんでも好きなものを言いなさい。だが小さいものにしておくれ、往復とも歩くんだからね、片道六十マイルだから、たいへんな道中だよ!」ヒンドリーはバイオリンがいいと言います。するとこんどはキャシーちゃんに訊《き》きました。まだまる六つになるかならないくらいですけれど、うちの厩《うまや》の馬ならどれにでも乗れましたから、鞭《むち》がほしいと申します。老主人は私のことも忘れません。ときにはずいぶんやかましいことも言いましたけれど、まことに心の優しい人でございましてね。私にはポケットにいっぱいりんごとなしを持って帰ってやろうと約束しまして、それから子どもたちに接吻《せっぷん》して、では行ってくるよと言って出かけました。
お留守の三日間が、私たちにはひどく長いような気がいたしました。小さいキャシーは、お父さまいつ帰るのと幾度も訊きます。アーンショー夫人は三日目の夕飯どきにはお帰りだろうと思って、何時間も夕御飯を延ばして待っています。それでもお帰りの様子が見えませんものですから、子どもたちもとうとう門のところまで駆け出して見にゆくことにも飽きてしまいます。そのうち暗くなって、奥さんは子どもたちを寝かせようとしますけれども、みんなはもっと起きていたいので、泣き顔してお母さまのお許しを願っておりました。十一時ごろになり、戸口の掛け金を静かに上げて、主人がはいってきました。笑うかと思えば苦しそうになって、倒れるように椅子に腰をおろして、死にそうに疲れてるから、そうくっつかんで離れておくれ、――イギリス全国くれると言ったって、二度とこんな長道中をするものか、と言いまして、
「そこへ持ってきて、あげくの果てがびっくりぎょうてん、わしは飛び上がってしまったよ!」と、ぐるぐる巻きにして腕にかかえていた外套《がいとう》を開きながら、「これを見なさい、おまえ! わしは生まれてからこんなに困りきったことはない。しかしおまえたちもな、これも神さまからの授かり物と思ってお受けしなくてはいかんぜ。このとおり、まるで悪魔の申し子みたいな真っ黒な顔はしているがの」
私たちはそばへ寄って取り囲みました。キャシーの肩越しにのぞいて見ますと、ぼろを着た、髪の黒い、汚ならしい子どもなんですの。もう歩けるし、口もきけますし、顔つきはキャシーよりも年上に見えました。それでいて、立たせてみますと、ただあたりをじろじろ見まわして、なんだかわけのわからない言葉をなんべんでも繰り返しております。その意味は誰にもわかりません。私はこわくなってしまいましたし、アーンショー夫人はと申しますと、すぐにもその子を外へほうり出しそうに、すっかりおこってしまいまして、そりゃたいへんな剣幕で、これから育てねばならない自分たちの子どもがあるのに、よくもこんなジプシーの子なんぞ家へ連れて来る了見になれたものですね。いったいこれをどうなさるおつもりです。あなたは気でも狂ったんですか? とご主人に詰め寄る騒ぎです。アーンショー氏のほうでは、よくわけを話すつもりなんですけれども、なにしろほんとうに疲れきって半死半生の体たらく、奥さんのどなり立てるなかで、ざっと次のようなこととは、はたで聞いていた私だけわかりました――つまり、アーンショー氏は、その子がリバプールの町で食べる物も寝る家もなく、唖《おし》同然で東西もわからず、死にかけているのを見て、拾いあげて、身もとを尋ねましたが、誰一人知ってる人がありません。金の持ち合わせも逗留《とうりゅう》する日数も限られていることですし、ぐずぐずして無駄《むだ》金《がね》を使うよりも、まっすぐ連れて帰ったほうがいいと思った。それにわしは、見つけた以上、この子を捨てる気持にはどうしてもなれなかったのさ――というわけでございまして、結局、奥さんもブツブツ言いながらも泣き寝入りになる、私はアーンショー氏から、その子にお湯を使わせて、垢《あか》のつかない物を着せ、子どもたちといっしょに寝かしてやれと言いつけられました。
ヒンドリーとキャシーとは親たちの争論がおさまるまでおとなしくそばで見物しておりました。そのあとで、ふたりとも約束のおみやげがほしいので、お父さんのポケットを捜しはじめました。ヒンドリーのほうはもう十四になった少年ですが、大外套のなかからばらばらにこわれたバイオリンの残骸《ざんがい》をひっぱり出しまして、わあわあと手ばなしで泣き出します。かと思うとキャシーのほうは、お父さんが今夜来たよその子の世話をやいていて、彼女の鞭をなくしてしまったと聞くと、腹立ちまぎれに、その白痴みたいな小さい子に向かって、歯をむき出すやら、つばをひっかけるやら、そこでお父さんにパチンと一つごほうびをいただいて、もう少しお行儀よくしろと叱《しか》られる始末です。二人は拾い子といっしょに寝ることは絶対にいやだと申しました。いいえそれどころか、自分たちの部屋へ入れることさえ承知しません。私にしましても二人よりどれほど分別があったわけでもございませんから、あすになっていなくなってくれたらいいなぐらいに思って、その子を階段の踊り場にほうっておきました。偶然か、それとも主人の声にひかれてかは存じませんが、その子がアーンショー氏の部屋の戸口まではって行きまして、部屋から出ようとした主人に発見されました。いったいどうしてそんなところへ来たか、調べられまして、私は白状するよりほかなくなってしまいました。そして私は臆病《おくびょう》と不人情との罰で、暇を出されてしまいました。
ここまでが、はじめてヒースクリフをアーンショー一家に結びつけたいきさつでございます。五、六日して私が帰って参りますと(私は追い出されたと申しましても、それっきりいつまでも戻れないとは考えませんでしたから)、この宿なし子に「ヒースクリフ」という名がついておりました。これは小さくて死んだこの家のむすこの名でしたが、それ以来これが名前にも名字にも使われるようになりました。キャシーさんとはもうずいぶん仲よしになっていましたが、ヒンドリーはこの子をきらっておりました。実を申せば私も同じでございまして、二人していじめたり、ずいぶん恥知らずなこともいたしました。そのころの私はまだ自分が悪いことに気がつくだけの頭もありませんでしたし、奥さんは私たちがひどいことをするのを見ましても、決してヒースクリフをかばって止めたり叱ったりすることがなかったからでございます。
ヒースクリフは気むずかしい、辛抱の強い子らしゅうございました。たぶん虐待《ぎゃくたい》されて情が強《こわ》くなったのでございましょうね。ヒンドリーにぶたれても、またたきもせず、涙も流さずに、堪《こら》えていますし、私がつねりましても、まるでまちがって自分で痛い目をみたので、誰のせいでもないかのように、ただちょっと息を詰めて、目を見開くだけなのです。このようにがまん強いために、アーンショー老人は、いつもこの「かわいそうな父親のない子ども」――と言うのが老人の口ぐせでしたが――を自分のむすこがいじめるのを見るたびにひどくおこるのでした。不思議にこの老人はヒースクリフが好きで、その言うことはなんでも信じますし(もっともその点ではヒースクリフはひどく口数も少なく、言うことは概して本当でした)キャシーよりもずっと余計にかわいがりました。キャシーはいたずらっ子で強情すぎるので、いわゆる「お気に入り」になれる性質《たち》ではありませんでした。
そんなふうで、はじめからこの子どもは家の中に憎まれ者になる素地を作ってゆきました。アーンショー夫人がその後二年足らずでなくなりますと、若旦《わかだん》那《な》のヒンドリーは父親を自分の味方でなく圧制者のように思うようになって、ヒースクリフを父親の愛情と自分の特権とを盗む悪者だと考えるようになり、こんなふうに自分が迫害されていると始終考えるために人が悪くなってきました。私もしばらくはヒンドリーに同情しておりました。が、子どもたちがみんなはしか《・・・》にかかって、私が介抱してやらなければならなくなり、同時に家事上の女の役も引き受けることになりましてから、私の考えは変りました。ヒースクリフは生命も危《あや》ういほど重く病みまして、一番わるかったころは私に始終そばにいてもらいたがりましたが――たぶんそれは私がたいへん親切にしてくれると思ったからのようで、私がいやいややっていることを察しるだけの知恵がまだなかったのでしょうね。けれども、私はあんなに病気の時におとなしい子はないといってもいいと思います。他《ほか》の二人とはあまり違うところから、私はいままでの偏《かたよ》った考えを捨てないわけにはゆかなくなりました。キャシーもヒンドリーもひどく私を困らせましたが、一方は子羊みたいに何も文句は言いませんのです――もっとも、世話をやかせなかったのは柔順だからではなくて頑《がん》固《こ》だからではございましたけれど。
彼はやっと助かりました。お医者さまがそれはおもに私のおかげだとみなの前で申されまして、よく介抱したと私をほめました。ほめられれば良い気持でございますから、そのほめられるもとになった者に対して優しくしてやります。こうしてヒンドリーは最後まで味方だった私をまで失うことになりました。しかしまだ私はヒースクリフにほれこむところまではゆきませんで、旦那はどうしてあんな無愛想な子を好いて大切にするのだろうと思っておりました。実際、私の覚えていますかぎりでは、ヒースクリフは老アーンショーに甘やかされながら、少しでもありがたいと思ってるそぶりを見せたことはございませんでした。別に恩人に対して不《ふ》遜《そん》だったのではなくて、ただ無《む》頓着《とんちゃく》なので、そのくせ自分が老人の心をつかんでいることは百も承知ですし、なにか自分が言えば家じゅうの者がいやいやそれに服従するということも意識しております。たとえばいまも覚えておりますが――ある時、アーンショー氏が村の定期市で二頭の子馬を買ってきて、二人の少年に一頭ずつ与えました。ヒースクリフが良いほうを取ったのですが、すぐにびっこになりました。と、それに気づきましたときヒンドリーに向かって申しました――
「おいきみはぼくと馬を取り換えるんだぜ。ぼくは自分のが気に入らないから。もしいやだっていうなら、今週きみがぼくを三度もなぐったことをきみのお父さんに言いつけて、肩まで黒いあざになっているぼくの腕を見せてやるからね」ヒンドリーは舌を出して、相手の横っ面《つら》をなぐりました。「すぐに取り換えたほうがきみのとくだぜ」出口のほうへ逃げだしながら(二人はそのとき厩《うまや》にいました)まだしつこく申します、「どうせ取り換えさせられるんだからね。それになぐったことをぼくがしゃべれば、きみは返報のほかに利息だけ余分になぐられるだろうよ」「出てゆけ、犬め!」ヒンドリーは叫んで、馬《ば》鈴薯《れいしょ》や干し草の目方を計るのに使う鉄の分銅を振り上げました。「投げてみろ」逃げずに立ったままヒースクリフは「そのときはきみが、親《おや》父《じ》が死んだらぼくをたたき出すと言っていばったことを言ってやるからね、フン、それでお父さんがきみをその場からたたき出さないか、見ものだぞ」ヒンドリーは分銅を投げましたからたまりません、ヒースクリフの胸に当って、彼は床《ゆか》に倒れましたが、すぐに息が詰まって真っ青な顔をしたまま、よろめきながらも立ち上がりました。私が留めませんでしたら、そのまままっすぐ主人のところへ行き、こんな目にあいました、ヒンドリーの仕業ですと告げて、思う存分かたきを取ったに違いございません。「じゃぼくの馬を持ってけ、ジプシーめ!」アーンショー少年は申しました、「そいつに振り飛ばされて首の骨でも折るがいいや! そいつを連れて地獄へ行っちまえ、やっかい者のこじき野郎め! おやじの物をありったけチョロまかして取ってもいいが、あとできさまの正体だけは見せるのを忘れるな、この悪魔の申し子め。さあそいつを連れてゆけ、そいつが脳《のう》味噌《みそ》が飛び出るほどきさまをけっ飛ばしたらさぞ愉快だろうな!」そのあいだにヒースクリフはさっさと子馬のそばへ行って綱をほどき、自分の仕切りのほうへ移しました。そしてちょうど子馬の後ろを通ろうとしたとき、ヒンドリーがちょうど悪態をつき終えまして、行きがけの駄《だ》賃《ちん》にヒースクリフを馬の足もとへなぐり倒しておいて、自分の希望が達せられたかどうかを見届けもせず、いっさんに逃げてしまいました。私は、倒れた子どもが平気で起きあがり、そのまま子馬の鞍《くら》を取り換えたり、先に考えていたとおりのことをやりつづける様子を見ておりまして、本当に驚きました。しかもそれからすぐには家へはいらず、さっき猛烈になぐられてめまい《・・・》がするとみえ、干し草束の上に腰をおろして、気分を落着けようとしているのでした。私がなぐられた傷を馬にけられたことにして話させてくれと、頼みますと、すぐに納得しました――ほしいものを手に入れましたので、どんな話をされようとかまわないのでした。実際、これしきのことで泣きごとを言うことはほとんどないので、私はこの子には復讐心《ふくしゅうしん》がないとほんとうに思いこんでおりましたが、実は、あとで申しあげますように、私はすっかりだまされていたのでございます。
そうこうしますうちに、アーンショー氏はめっきり弱って参りました。よく働くたっしゃな人でしたのに、急に体力が失《う》せました。そして始終炉のそばにかじりついているようになると苛《か》酷《こく》なおこりっぽい老人になりました。なんでもないことにムカッ腹を立てます。少しでも自分の権威が軽んじられたなと感じると、すぐ逆上に近い状態になります。誰《だれ》かが老人のお気に入りの者をなめてかかるとか押えつけるとかしますと、ことにそれが著しいのです。そのお気に入りに対して、一言でもまちがったことを言ったら承知しないというくらい、痛々しいほど気に病みます。つまり、おれがヒースクリフをかわいがるから、みなの者がやつを憎んで、意地のわるいことをしたがっておるのだ、という考えが、頭にしみ込んでいるらしいのです。これはかえってそのお気に入りの子どものためになりません。それはこうでございます――家の中で親切心の深い者でも、主人の機《き》嫌《げん》をそこねたくありませんから、どうしても主人のかたよったヒースクリフ贔《びい》屓《き》にへつらうようになります。このへつらいが子どもの心に慢心や良くない性質を増長させる養分になるのでございました。しかしこのような老人の苦しみも、ある程度まで避けられぬことに事実なって参りました。ヒンドリーが父親の目の前でヒースクリフを馬鹿《ばか》にしたというので、老人の激怒を買ったことが二度――いえ、ひょっとすると三度もあります。老人はステッキをつかんでむすこを打とうといたしますが、それができないので、いっそう腹を立てて体をぶるぶる震わせている、といった有様なのです。
結局、村の牧師補(そのころこの土地に牧師補がいまして、リントン家やアーンショー家の子どもたちに学問を教えたり、わずかな土地を自分で耕したりして、どうにか暮らしを立てておりました)から、ヒンドリーを大学へ上げるがよいと勧められたので、アーンショー氏も、あまり気が進まぬながらも同意しました。――「ヒンドリーのやつはありゃ駄目《だめ》だよ、どこをうろつこうとろく《・・》なことはなかろうよ」と旦那は申しておりました。
これで家の中の波風がおさまってくれれば良いと、私は心の底から望みをかけました。主人が自分の善行のためにつらい思いをしていることを考えると、気の毒でたまりませんでした。寄る年なみに加えて病気から来る不満不《ふ》如《にょ》意《い》も、みな家庭の不和が原因ではないかと私は考えておりました。老人自身も始終そう申しておりましたが、そのとおりのように思われてなりませんでした――またほんとうに、不満は衰えてゆく身内に巣食うておりましたのです。まあそれにしても、キャシー嬢さんと下男のジョーゼフと、この二人さえどうかなれば、まあまあ平和に暮らせたかもしれません。ジョーゼフにはあなたさまもたぶんあちらの家でお会いなさいましたでしょう。あの爺《じい》さんは昔から――ただいまももちろんそうだと存じますが、まず世の中にふたりとない七うるさいひとりよがりのパリサイの徒でございましてね、聖書一冊をすみからすみまでかき捜して、自分の都合のよい文句を吹聴《ふいちょう》し、他人には悪口ばかり投げつけております。妙にお説教したりありがたそうな議論をしたりするこつ《・・》を知っておりますので、それでアーンショー氏のたいした信用を博すことを思いつきまして、旦那が弱ってゆけばゆくほど、爺さんの羽ぶりはよくなる一方でした。情け容赦もなく老主人の心の悩みや、子どもたちを厳格にしつけることについて、わざと苦しみ悩むようにし向けるのです。ヒンドリーのことを堕落息子として扱うようにそそのかしたのもジョーゼフで、毎晩毎晩、日課のようにヒースクリフとキャサリンのことを悪《あ》しざまに長々と告げ口したのもジョーゼフでございました。そういうときは、いつもキャサリンのほうが悪いように申して、アーンショー老人のヒースクリフ贔屓につけこむことを忘れませんのです。
それは確かにキャシーも、私がこれまで手がけた子どもの中にも見たことのないほど癖の多い子でございました。一日に五十ぺんはおろか、それ以上も、私どもみなに手を焼かせます。朝起きて来たときから夜寝るときまで、一分間も嬢さんのいたずらがやんだと思って気を許せるときがありません。年がら年じゅう、あふれるほど元気いっぱいで、一瞬も休まずに舌を動かして、歌ったり、笑ったり、自分の思うとおりしてくれない相手にうるさくからんだりしています。実に手におえないわがままなおてんば娘とはあの子のことで――けれども、またあんなかわいらしい目をした、笑い顔の美しい、活溌《かっぱつ》な女の子も、村じゅうに一人もおりませんでした。それで、つまるところ、私はキャシーには何の悪《わる》気《げ》もなかったのだと存じますの――その証拠に、いったんムキになって相手の子どもを泣かしてしまいますと、その子のそばを離れてしまうことはまずありません、反対にその子のほうでキャシーを安心させるために泣きやまなければならなくなるのです。嬢さんはヒースクリフがとても好きでございました。何がいちばん嬢さんのつらい罰かと申せば、私どもの思いついたかぎりでは、それはヒースクリフといっしょに遊ばせないということで、そのくせ私たちのうち誰よりもヒースクリフのことでよく叱《しか》られました。遊びごとのなかでは小さい奥さまになるのが何より好きで、しきりに手まねをして、遊び相手にいろんなことを命令いたします。私にもそうでしたが、私はご命令に従って買物したり注文して歩いたりするのがきらいでしたから、いつもきらいだとはっきり言ってやりました。
ところで、アーンショー氏は子どもたちの冗談のわからない人で、子どもたちに向かっても、いつも厳格できまじめでした。キャサリンのほうでは、またなぜお父さんがたっしゃだったころよりも病気になってからのほうが、不機嫌で短気になったのか、全然わかっておりません。老人がプリプリして小言を言いますと、やんちゃな嬢さん、おもしろいからもっとおこらせてやれという気になります。みながいっしょになって嬢さんを叱るときが嬢さんのいちばん楽しい時なんでして、みんなを向こうにまわして負けん気なコマシャクれた顔でポンポン口答えをいたします。ジョーゼフが神さまを持ち出して悪口を言っても茶化してしまいますし、私をひやかしていじめますし、そして何より父親のきらうこと――嬢さんの見せかけのたかびしゃ《・・・・・》な態度(それをアーンショー旦那はほんとうだと思っていました)が旦那の親切以上にヒースクリフに効《きき》目《め》があることを見せつけるのが、おもしろくてたまらないのです。ヒースクリフは嬢さんの言うことならなんでもしますが、旦那の言うことは気が向いたときだけしかしませんのです。一日じゅうそんなふうにあらんかぎりのいたずらをしたあげくに、夜になると時としてその埋めあわせに父親にやさしくすることがございます。すると老人のいつも言うことは「いいやキャシーや、父さんはおまえが好きになれんわ、おまえは兄よりもまだ良くない子じゃぞ。行ってお祈りをして、神さまにお詫《わ》びしなさい。母さんと父さんは、おまえを育てたことを後悔せにゃならんかと、わしゃ心配しとるぞ!」はじめは、こんなことを言われると泣いたものですが、そのうち始終そんなふうにはねつけられるので鍛えられて平気になってしまい、私が、悪うございましたといってお詫びをなさいと申しても、笑っているようになりました。
けれども、とうとう、アーンショーさんのこの世の苦労も終るときが参りました。十月のある宵《よい》、炉のそばの椅子《いす》のなかで静かに息を引き取りました。強い風が家のまわりを吹きめぐって、煙突のなかでほえておりました。その音はすごい嵐《あらし》を思わせましたが、わりに寒くはなく、私どもはみなそこにおりました――私は少し煖《だん》炉《ろ》から離れたところで編みものをし、ジョーゼフはテーブルで相変らず聖書を読んでおりました。(そのころは召使たちもめいめいの用事を終えますと居間にいる習慣でございました)キャシー嬢さまは気分をわるくしまして、それで珍しくおとなしく、お父さまのひざにもたれていましたが、そのまたお嬢さまのひざを枕《まくら》に、ヒースクリフが床に寝そべっておりました。旦那さまが、うとうとと寝入る前、嬢さまのきれいな髪をなでながら、そのすなおなのがひどくうれしそうに――「なんでおまえはいつも良い嬢ちゃんでおられんのかのう、キャシーや?」とおっしゃっていたのを、私は覚えております。すると、キャシーは顔を上げて父親を見て、笑いながら、「なんでお父さんはいつも良いお父さんでいられんのでしょうねえ、お父さん?」と、答えました。けれどもやがてまた父の機嫌がわるくなったのを見てとった嬢さまは、その手に接吻《せっぷん》して眠れるように歌をうたってあげようと申しました。そしてごく低い声で歌いはじめましたが、そのうちにアーンショーさんの指がキャシーの手から落ちて、頭もがっくりとたれました。それで私が、歌をやめなさい、目がさめるといけないから、静かにしていらっしゃいと申しまして、それからたっぷり半時間も、みんなはつかねずみ《・・・・・・》のように黙りこくっておりました。無言の行はまだつづくはずでしたが、ジョーゼフが日課のきまりまで読み終えて立ち上がり、旦那を起こしてお祈りをして寝なくちゃなんねえと言い出しまして、進み寄って名を呼びながら肩に手をかけましたが動きません。そこで蝋燭《ろうそく》をとって顔を見ました。爺さんが燭台《しょくだい》を下へおきましたとき、私はすぐ、どうかしたな、と思いましたので、子どもたちの腕を両手でつかまえ、「二階へいらっしゃい、騒々しくしないで――今夜はあんたがただけでお祈りをなさい――ジョーゼフはなにか用があるようだから」と申しました。
「その前にお父さんにおやすみを言うわ」と言って、私どもが止める暇もなく旦那さまの首に両腕を回しました。かわいそうに、父親を失ったことをたちまち知りまして――金切り声で――「おお、死んじゃったわ、ヒースクリフ、お父さんは死んじゃったわよ」とたんに、二人の子どもは胸も張りさけんばかり大泣きに泣き出しました。
私もそれといっしょに、大声あげて激しく泣いておりますと、ジョーゼフが、天国で聖徒とならっしゃった人のことをなんと思って、おまえさんがたはそんなにわいわいほえるのかと叱りつけまして、私に向かい、早く外套《がいとう》を着てギマトンからお医者と牧師さんを呼んで来《こ》いと申します。そのときの私には、お医者も坊さんも、なんの用があるのか、いっこうに解《げ》せませんでしたけれども、とにかく、雨風のなかを出かけて参りまして、お医者さんだけはいっしょに連れて帰りました。牧師さんのほうはあすの朝行くからという話で、ジョーゼフがお医者に事情を話している暇に、私は子どもたちの部屋へ駆け上がって行って見ますと扉《とびら》があいていまして、もう真夜中をすぎてるのに、二人ともちっとも横にならなかった様子でした。けれどもいまはだいぶ落着いて、私が慰めてやるまでもありませんでした。私などが思いつくよりもずっとりっぱなことを、子どもたちは考え、語りあって、互いに慰めあっているではございませんか。どんな牧師さまでも、その無邪気な会話のなかに子どもたちの描き出したような、美しい天国は、とても説き示すことはできますまい。涙にむせびながらそれを聞いておりますうちに、私は、みんなして無事にそういう国へ行きたいものと、心から望まずにはおられませんでした。
ヒンドリー若旦《わかだん》那《な》が、お葬式に帰りました。そして――これには私たちも驚きましたし、近隣の人たちも寄るとさわるとうわさの種にしましたが――お嫁さんを連れて帰ったのでございます。どういう素姓の女か、生まれはどこか、若旦那は私たちに知らせませんでしたが、おそらく自慢するような金も家柄《いえがら》もない人だったろうと思われます。そうでなければヒンドリーが結婚を父親に内密にしておくはずがございません。
この女《ひと》は自分から家の中をかきまわすような性質《たち》ではありませんで、敷居をまたぐとすぐ、見るもの聞くもの、身のまわりのあらゆる状況が、ことごとく気に入ってしまった様子でした。ただ一つの例外はおとむらいの準備とお悔みに来るお客とでして、それに対してのふるまいを見ますと、この女は少し足りないのかと私など思うほどで、なにしろ自分の部屋へ逃げ込んでしまい、子どもたちに着物を着せてやらなくてはならない私を、むりにいっしょにひっぱりこみまして、ふるえながら両手を組み合わせ、「あの人たち、まだ帰らないかしら?」と幾度も繰り返してきくかと思えば、こんどは喪服を見ると自分がどんな気持になるかを、ヒステリーみたいに高ぶった調子で細かに話しはじめます。そしてビクッと椅子《いす》からおどり上がったり、とうとう泣き出してしまう始末で――いったいどうなさいましたと私が聞きますと、なんだかわからないけど、死ぬのがこわくてたまらない! と答えました。私にはどう考えても、自分と同じように元気なこの人が死にそうな気はいたしませんでした。どちらかと言えば痩《や》せぎすですが、若くて顔色も生き生きして、目などはダイヤモンドのように輝いておりました。ただ、たしかに階段を上がるときにはひどく息づかいがせわしくなること、どんな小さい音でも不意の物音には必ずびくびくっと全身をふるわせること、ときどきさも苦しそうに咳《せき》をすることなど、私も気がついてはおりました。けれどもこうした兆候がなんの前兆かということはいっこうに知りませんので、少しもお気の毒だという気持がわいて参りませんでした。どうも私ども田舎者は、よその人を好きになれない傾きがございましてね、ロックウッドさま、まあ先方さまのほうから好きになって下さるときは別ですけれど。
アーンショーの若主人は、三年間の留守の間に、ずいぶん変りました。前より痩せて、血色も悪くなり、口のきき方も服装もすっかり変りました。そして帰ったその日にジョーゼフと私を呼び、今後は奥の台所をおまえたちの居場所にして、居間をおれに使わせてくれと申し渡しました。実のところは、小さなあき部屋を絨毯《じゅうたん》と壁紙で装飾して居間にしたかったのですが、お嫁さんがあの家族居間《ハウス》の白い床や赤々と燃える大煖《だん》炉《ろ》、白鑞《はくろう》のさらや陶器だな、犬小屋、それに立居用事にゆとりのある広い場所を平常の居間にできることなどを、ひどく喜んだものですから、妻を喜ばすため別室を設ける必要はないと思って、やめてしまったのでした。
同じくお嫁さんは新しく妹が一人できたことが嬉《うれ》しいと申しまして、キャサリンとおしゃべりしたり接吻《せっぷん》したりいっしょに駆け回ったり、たくさんいろいろの物をくれたりしましたが、かわいがったのは初めのうちだけで、わずかのあいだに飽きてしまいました。そしてお嫁さんの機《き》嫌《げん》が悪くなると同時に、ヒンドリーは暴君になりました。妻がヒースクリフを嫌《きら》っていることを言葉の端にもらしただけで、ヒンドリーにとっては少年への昔の憎しみをかき起こすに十分でした。すぐに家族並みの扱いをやめて召使たちのほうへ追いやり、牧師補の授業も受けさせないことにし、そのかわり野良《のら》へ出て働かさなくてはならんとがんばりまして、農場で働く他の者に劣らぬ激しい労働をいやおうなしに押しつけてしまいました。
はじめヒースクリフはけっこうこの格下げを辛抱しておりましたが、それはキャシーが教わったことを教えてくれますし、畑で働くのも遊ぶのもいっしょにしてくれたからでございます。二人とも野蛮人のように粗野に育つことは請け合いだと思われました。若い主人は自分の見ていない場所での二人の行儀も行状もまったくかまいつけません。日曜日に教会へ行くことさえも気をつけてやりませんので、二人の子どもがかってに欠席したときにジョーゼフと牧師補とから不注意を責められ、それでやっと家長の責任を思い出してヒースクリフにはむち打ち、キャサリンには昼食なり夕飯なり食べさせない罰を加える始末でした。しかし何よりも子どもたちが楽しみにしたことの一つは、朝のうちに荒野《ムーア》へ遊びに行ってしまって、一日じゅうそこにいることでして、あとからのお仕置など鼻であしらうようになって参りました。牧師補が気のすむほどキャサリンに聖書のたくさんの章を暗記させようが、ジョーゼフが自分の腕の痛くなるほどヒースクリフを打ちのめそうが、二人はあとでまたいっしょになるが早いか――少なくとも二人してなにか仕返しのいたずらの種を思いつくが早いか、何もかもきれいに忘れてしまいます。こうして日ましに二人が向こう見ずになってゆくのを見ておりまして私は毎度ひとりで泣いたものでございます。でもこうしてたよる味方のなくなった子どもたちに私だけがまだいくらかたよられていることを考えますと、その信頼を失うのが恐ろしくて、ただの一言も小言をいう気になれません。ある日曜の夕方、二人は、ちょっと騒いだか何かのささいな理由で、居間から追い出されました。晩御飯どきに私が呼びに参りましたが、どこにもおりません。家じゅうくまなく裏庭から厩《うまや》まで捜しましたが見えませんので、しまいにヒンドリーが癇癪《かんしゃく》を起こし、扉《とびら》を締めてしまって、今夜は誰《だれ》もあいつらを入れてはならんぞと厳重に言いつけました。家じゅうみな寝てしまいましたが、私は気にかかって横にもなれませんので自分の部屋の窓をあけて、雨が降っていましたけれども頭を突き出して耳を澄ましておりました、もし二人が帰ってきたら、とめられてはいるけれど入れてやろうと、心を決めておりましたのです。少したちまして、道路のほうに近づいてくる足音が聞こえ、提灯《ちょうちん》のあかりが一つ、門を通ってぼうと見えました。二人が扉をたたいて旦那の目をさまさせては困るので、私は肩掛けを頭からかぶって走り出てゆきました。ヒースクリフがしょんぼりそこにいます。ひとりだけなのを見て、私がギョッとしました。
「キャサリンさんはどこにいるの?」と私はせきこんで訊《き》きました。「何かあったんじゃないでしょうね?」
「スラシュクロス屋敷にいるよ」とヒースクリフが答えました。「ぼくもいたかったんだけど、あの家の人たちは失礼だよ、ぼくに泊れって言わないんだ」
「まあ、叱《しか》られますよ! あんたって人は追ん出されなければ気がすまないのね。いったいなんだってスラシュクロス屋敷のほうまで行っちゃったの?」
「服がぬれてるから脱がさせておくれよ、そのあとですっかり話をするからね、ネリー」
私は旦那の目をさまさないように気をつけなさいと注意してやり、蝋燭《ろうそく》を消さずに待っていましたが、そのあいだに、ヒースクリフは服を脱ぎながら、話をつづけました――
「キャシーとぼくとは勝手に歩きまわってやろうと思って、洗濯《せんたく》場《ば》から逃げだしたんだ。屋敷のあかりが見えたから、ちょっとのぞきに行ってやろうと思った。リントンの家でもやっぱり、日曜の晩に子どもたちはすみのほうに立ちん坊で震えてて、親たちばっかり飲んだり食べたり歌ったり笑ったり、煖炉の前で目玉が焼けて飛び出すほどあったまったりしてるんだろうか、それを見たかったんだよ。おまえはあすこの子どもたちもそんなふうだと思うかい? それとも、説教集を読んだり、下男から問答をかけられて、うまく返事ができないと聖書の中の人の名前ばかり並んでるところを覚えさせられたり、してると思うかい?」
「そうじゃないでしょうねえ。あすこの子どもたちは良い子ばかりにきまってるから、あんた方が悪いことをしたために受けてるような扱いをされる必要はないものね」
「お説教みたいなことを言うない、ネリー、ばかばかしいや! ぼくたちは『丘』のてっぺんから猟場《パーク》まで走りつづけに走って行った――キャサリンは競走じゃ完全に負けさ、はだしになっちゃったからね、泥《どろ》のなかで脱げたキャシーの靴《くつ》、あしたさがしに行っておくれね。ぼくたちは生垣《いけがき》の破れたところからはいり込んで、小道を手探りで家の下まで行って、客間の窓の下の花壇に陣どった。明かりはその窓からさしていたんだ。鎧扉《よろいど》はまだしめてなくて、カーテンも半分しか引いてない。二人とも土台に足を掛けて窓の下の出っ張りにつかまれば、中が見られた。だから見ると――ああ! きれいだったぜ――真っ赤な絨毯に真っ赤な布をかぶせた椅子とテーブル、純白な天井は金色の縁がついてて、そのまんなかから銀の鎖でつるしたガラス飾りの吊燭《シャンデ》台《リア》が滝みたいに流れ落ちて、小蝋燭の柔らかな光にちらちらしている。リントンのおじさんもおばさんもいなくて、エドガーと妹と二人きりでそこをすっかり占領してるんだ。あの二人、幸せだと思うのがあたりまえじゃないかね? ぼくたちだったら天国にいるような気がするだろうよ! そこでさ、そのおまえのいう良い子たちが何してたか当ててごらん? イザベラは――たしか十一で、キャシーより一つ年下だがね――部屋のずっと奥の隅《すみ》で引っくり返ってギャアギャア泣いてる、まるで魔女に焼け火ばしを刺されたようにヒイヒイ言ってるんだ。エドガーのほうは煖炉のそばに立って声をたてずに泣いていた。そしてテーブルのまんなかに子犬が一匹すわって、前足をふるわせてほえてるんだよ。その子犬をね、二人でお互いにやっつけっこしてるのを聞いてわかったんだが、兄妹《きょうだい》で二つにちぎれるくらい引っぱり合いしたわけなのさ。馬鹿《ばか》なやつさ! そんなことがおもしろいんだってさ! どっちがふかふかした毛の塊りを抱っこするかでけんかしてさ、さんざん取りっこをしたあとで、両方とももういらないって泣き出しちゃうなんてことがさ。ぼくたちはあの甘ったれっ子たちを思うぞんぶん笑ってやったよ! キャサリンのほしがる物をぼくが横取りするところを、おまえ見たことあるかい? 部屋の端と端に分かれちゃって、キャンキャン泣いたり、シクシク鼻すすったり、床をごろごろころがったりして、そんなことを楽しい遊びだと思ってるぼくたちを見つけたことあるかい? ぼくは千べん生まれ変ったって、ここの家のぼくの境遇と、スラシュクロス屋敷のエドガー・リントンの境遇とを入れ代ろうとは思わないね――たといぼくが一番高い破風《はふ》からジョーゼフの爺《じじ》いを投げ飛ばしたり、家の正面をヒンドリーの畜生の血で塗ったりすることが勝手にできたって、それでもいやだね!」
「シッ、シッ!」私はさえぎって、「まだあんた話さないじゃないの、ヒースクリフ、どうしてキャサリンがあとに残ったのよ?」
「ぼくたちが笑ったことは話したね。リントンの子どもたちはそれを聞いて、ふたり言い合わしたように扉をめがけてスッ飛んで行った。ちょっと静かだったが、そのうちに『おお、ママ、ママ! おおパパ! おおママ、来てちょうだいよう、おお、パパ、おお!』って叫び出した。ほんとにこんなふうに、あいつらほえやがったんだよ。こっちはもっとこわがらしてやろうとすごい音を立ててやったが、そこでふたりとも窓のところから降りちゃった。だれかかんぬきをはずしに来たから、逃げたほうがよさそうだと思ったのさ。ぼくはキャシーの手をとって、せき立てながら走ってると、いきなりキャシーが倒れちゃった。『逃げてヒースクリフ、逃げて!』って小さい声で言ってる。『ブルドッグの鎖をほどいたのよ、そいで犬があたしをつかまえてるのよ!』畜生め、あの子のかかとに食いついてたんだ、ネリー、鼻をグウグウいわせる憎らしい音をぼくは聞いたよ。あの子は悲鳴をあげない――あげなかったとも! キャシーは気違い牛の角に突かれたって、声なんぞあげるのはみっともないと思うだろう。だけどぼくはどなってやった! キリスト教世界のどんな悪魔でも消えてなくなるくらい、悪態を吐き散らしてやった。石を拾ってブルドッグの口のなかへ突っ込んで、力いっぱいのどの奥まで押し込んでやった。とうとう下男の獣みたいなやつが提灯もって――『放すなよ、スカルカー、放すじゃねえぞ!』ってどなりながら近づいてきた。けれどもスカルカーの獲《え》物《もの》を一目みると調子を変えた。犬はのどを締められて、キャシーを放した。大きな紫色の舌がだらっと半フィートも口からぶら下がって、たれたくちびるからは血のまじったよだれが流れ出てる。男はキャシーを抱き上げた。青い顔してたが、こわかったからじゃなくて、痛かったからに違いない。下男は家のほうへキャシーを抱いて行った。ぼくはいろんな悪態や、かたき討ちしてやるからとか文句を並べながら、ついて行った。『どんな野獣《けだもの》だい、ロバート?』とリントンが入口から声をかけた。『スカルカーは小ちゃい女の子をつかまえました、旦那』と答えてから、ぼくをつかまえて、『小僧も一人ここにいますぜ。よっぽど太《ふて》え野郎らしいや! 盗《ぬす》ッ人《と》どもァてっきりこいつらを窓からはいらせて、みんな寝静まってから扉をあけさせる魂胆でさ、そうすりゃ、やすやすとわしら殺されちまうからね。黙れ、このうそつきのコソ泥め、やい! てめえなんぞこれで絞首台《こうしゅだい》ゆきだぞ。旦那、鉄砲をしまっちゃいけませんぜ』『おお、しまうものかい、ロバート』って馬鹿おやじが言うんだ。『悪者どもはきのうがわしの地代の納まる日だと知って、うまいところわしをはめるつもりだったのじゃ。さあはいんなさい。わしが相手をして進ぜよう。それ、ジョン、鎖をかけなさい。ジェニーはスカルカーに水をやれ。治安判事の本城へ、しかも安息日に押し掛けて来るとは、さてさて! どこまで増長しおるものか? おお、これメアリーや、まあ見てごらん! こわいことはない、ほんの小僧っ子じゃ――それでも悪党らしい人相はちゃんと表に現われておるわい、この形相にふさわしい性根を、行ないにまで見せぬうちに、今すぐ絞首刑にしたほうが、この地方のために良いのではないかのう?』リントン氏はぼくを吊燭台《シャンデリア》の下へ連れて行った。リントン夫人は鼻の頭に眼鏡をかけて、恐ろしそうに両手を上げた。臆《おく》病《びょう》な子どもらも、そっと寄って来て、イザベラが舌たらずな声で、『こわい子ねえパパ、この子を牢《ろう》屋《や》へ入れてちょうだいな。あたしのよく慣れたきじを盗んでった占い師の家の子にそっくりだわ、そうじゃなくって、エドガー?』
「みんながぼくを検査してるあいだに、キャシーも連れて来られた。いま言ったイザベラのことばの終りのほうを聞いて、笑っていた。エドガー・リントンが、じっと探るようにその顔を見ていたけど、やっと頭がしっかりしてきたと見えて、キャシーだということに気がついた。ほかの所ではほとんど会わないけど、教会じゃいつも顔を合わせるからね。『あの人はアーンショー嬢ですよ』と母親にささやいた。『あのスカルカーがかんだところ――あんなに血が出ていますよ!』
「『アーンショー嬢ですって? 馬鹿なことを!』夫人は叫んだ。『アーンショーさんの嬢さんがジプシーといっしょにこの辺をうろつくはずがありますか! でも、あら、この子は喪服を着ているわ――たしかに喪服ですよ――そして一生のかたわになるかもしれませんね!』
「『この子の兄さんのうかつさはなんちゅうけしからんことじゃ!』ぼくからキャサリンのほうへ向きなおって、リントン氏が叫んだ。『シールダズ(例の牧師補のことでございます、旦那さま)から聞いたことじゃが、ヒンドリーは、この妹さんがまったく異教徒ふうに育ってゆくのを放任しとるそうな。だが、こやつはいったい何者じゃ? 嬢さんはどこでこんな者と道連れになったか! ホホウ! そうじゃ、これはなくなったアーンショー老人が、リバプールへ旅したとき、不思議にも拾うた子じゃ――おそらく東インド人の船乗りの子か、それともアメリカ人かスペイン人の捨て子だろうが』
「『何にしたって悪い子です』とおばあさんめ、ぼくをきめつけたっけ、『まじめな家庭にはおいておける子じゃありません! あなた、この子のことばをお聞きでしたか? うちの子どもたちがあの言いぐさを聞いてしまったかと思って、あたしゾッとしましたわ』
「そこでぼくはまた悪態をついてやった――おこらないでね、ネリー――するとロバートにいいつけて、ぼくを外へ出そうとしたから、ぼくはキャシーといっしょでなけりゃいやだと言ってやったが、ロバートはぼくを庭へ引きずり出して、提灯をぼくの手に押しつけてから、きさまのことは何もかもアーンショーさんに知らせてやるから、さっさとうせろ――こう言って扉をしめてしまやがった。隅のほうのカーテンがまだ少し巻き上げてあったから、ぼくはまたしばらくのぞき見を始めた。それはね、もしもキャサリンが帰りたがってるのに、やつらが出してやらなかったら、そこの大窓ガラスをたたき割って粉みじんにしてやろうと思ったからなんだ。キャシーは長い椅子《いす》の上に静かに腰掛けてた。ここを飛び出すときに借りてった乳しぼりの女の灰色の外套《がいとう》をリントン夫人が脱がせて、しきりに首を振りながら何か言って聞かせてるところなんだ。あの子はお嬢さまだから、ぼくとは大きに待遇が違うのさ。そこへ女中がお湯を盥《たらい》に入れて持って来て、キャシーの足を洗ってやる、リントン氏は大コップに味付葡萄酒《ニーガス》を一杯こしらえてやる、イザベラはおさらの菓子をみんなキャシーの膝《ひざ》の上にぶちまける、そしてエドガーのやつは遠くからポカンとして突っ立ってそれを見てるんだ。そのあと、みんなはキャサリンの美しい髪をふいて櫛《くし》でとかしてやって、大きなスリッパをはかせて煖《だん》炉《ろ》のほうへ連れて行った。あの子はとても上機嫌《じょうきげん》で、お菓子を子犬やスカルカーに分けてやったり、それを食ってるスカルカーの鼻をつねったりしてる。リントンの子どもたちのうつろな青い目にも、なんだか生気がチカッと光ったような気がした――それはキャシーの顔から放射する魔法の光が、ほんの少しばかりやつらにも反射したんだね。それを見てぼくは帰ってきた。みんなまるで馬鹿みたいにキャサリンに見とれてるのがぼくにはわかった。実際あの子はとても比べものにならないほど、あいつらよりも――うん、世界じゅうの誰よりもすてきだからなあ、ねえそうだろう、ネリー?」
「今夜のことは、あんたが思ってるよりずっと騒ぎが大きくなりますよ」私はヒースクリフにふとんをよく着せてやって、明かりを消しながら答えました。「あんたはほんとにしようのない子ね、ヒースクリフ。ヒンドリーさんはきっと思い切ったお仕置をするだろうから、まあうそだと思うなら見ててごらんなさい!」私の予言は、私の希望以上に的中してしまいました。この不運な冒険は、アーンショーを物すごくおこらせてしまったのです。そこへもってきてリントン氏が、キャサリンのけがの申しわけのために翌朝自身でたずねてきまして、若主人にむかって、家族の者の不取締りについて長々と講釈をして帰りましたので、ヒンドリーもやっと本気で自分の周囲をふりかえって見る気になりました。ヒースクリフは別にせっかんされませんでしたが、キャサリン嬢にちょっとでも口をきいたが最後、この家から追い出すと言い渡されました。そしてアーンショー夫人は、義妹《いもうと》が帰ってきたら、よく気をつけてしつけるという責任を引き受けましたが、これには力ずくではとても駄目《だめ》ですから、力でなくて手《て》練《れん》手《て》管《くだ》でそれをしようということになりました。
キャシーはスラシュクロス屋敷に五週間、ちょうどクリスマスまで泊っておりました。そのころはもうかかとの傷はすっかり直りましたし、お行儀もずっと良くなりました。義《あに》姉《よめ》のヒンドリー夫人は、そのあいだ、たびたびこちらからたずねて行きまして、まずきれいな服を着せたり、きれいだきれいだとおだてたりすることで、義妹《いもうと》の自尊心を高め、それをいいお嬢さまにしつけなおす計画の手始めとしたわけですが、嬢さまはきれいな服もお世辞も、遠慮なく喜んで受け入れました。ですから、帰って来ましたときには、帽子もかぶらないおてんば娘が、家へ飛び込んで来るやいなや、私どものところへ駆け寄り、みんなを息もできないほど抱き締めるといった騒ぎは起こりませんで、みごとな黒い子馬から降り立ちましたのはどこのえらいお姫さまかと思うばかり、羽根のついたあざらしの毛皮帽子の下から、とび色の巻き毛がふさふさとたれ、ラシャの婦人乗馬服を着て、しずしずと家におはいりになるときには、すそを両手でつままなければならないという有様でございました。その嬢さまを馬から助けおろしてやりながら、ヒンドリーはうれしそうに申しました、「――や、これはどうも、キャシー、おまえはたいしたべっぴんさんになったねえ! ぼくはあぶなく見違えるところだった、まるでお姫さまみたいになっちゃったぜ。イザベラ・リントンとは比べものにならんねえ、どうだい、フランセス?」
「イザベラは器量ではキャシーにとてもかないませんわ」とヒンドリー夫人は答えました、「だけどキャシーもよく気をつけて、うちへ帰ってもまた前のようにおてんばになったりしないようになさいね。エレンや、キャサリン嬢さんのお召しものを脱がしておあげ――キャシー、ちょっと待って。巻き髪がこわれるといけないから――あたしが帽子を脱がしてあげるわ」
乗馬服を脱がせてやって、見るとその下のキャシーのいでたちと申しましたら、すばらしい市松の絹の上着に、白のズボンとピカピカの短靴《たんぐつ》、私はまばゆいような気さえいたしました。ですから犬たちが嬢さまを喜び迎えて、はねながら近寄ってきましたのを、うれしそうに目を輝かせながら、そのすばらしい衣装《いしょう》にじゃれつかれるのがこわくて、なでてやることもできません。私にもそおっと接吻《せっぷん》するんです、だってちょうど私は、クリスマス・ケーキをこしらえていて、粉だらけだったものですから、もし抱き締めでもしようものなら大変なことになったからですの。それからキャシーはヒースクリフがいないかと、あたりを見まわしています、アーンショー夫婦は心配そうに、二人がどんなふうにして再会するか、そのなりゆきを見守っております。うまくこの仲良しの二人のあいだを裂くことができるかどうか、この再会の模様によってある程度までわかるだろうと思ったからです。
ヒースクリフは、はじめはなかなか見つかりませんでした。キャサリンが家をあける前のあの子が、乱暴だとか、だれもかまいつける者がなかったとか申しましても、その後の有様に比べれば、いまのほうが十倍もひどいことになっておりました。なんてきたない小僧だろうねと言って週に一度、風呂《ふろ》にはいらせるだけの親切気さえ、持っているのは私のほかにはございません。またあのくらいの年ごろで、生まれつき石鹸《せっけん》を使うのが好きだなんて子どもは、めったにありませんものね。ですから三《み》月《つき》も着のみ着のままで、泥《どろ》や埃《ほこり》にまみれた服や、櫛《くし》もあてない濃い頭髪などはもとよりのこと、顔から手から薄よごれて、みじめな姿をしておりました。それとちょうど似合の一対《いっつい》みたいだった髪の毛もじゃもじゃのおてんば娘が帰ってくるかと思いのほか、花のように美しい上品な令嬢が現われましたのですから、ヒースクリフが長《なが》椅子《いす》のかげに隠れて出て来ないのもむりはありません。「ヒースクリフは家にいないの?」と、キャサリンが手袋を脱ぎながら聞きましたが、その指は、何もしないで家の中にばかりいたせいで、びっくりするほど白くなっていました。
「ヒースクリフ、出て来いよ」とヒンドリーが、不精坊《ぶしょうぼう》主《ず》の困ってるのをおもしろがり、そのうちには不潔なごろつき同然の姿で出て来なければならぬはめになるのが愉快でたまらず、呼びたてます。「出て来てほかの召使たちのように、キャサリン嬢さんにお帰んなさいの挨拶《あいさつ》をしろよ」
キャシーは、ヒースクリフの隠れているのをちらっと見つけたものですから、すぐ駆け寄って抱きつきました。そしてあっという間に相手のほおに七つ八つも接吻しましたが、ふとそれをやめて、ちょっとうしろへさがって、声高く笑い出しながら、叫びました。「まあ、ずいぶん真っ黒な、むずかしい顔をしてるのねえ、あんたは! そしてまあずいぶん――変てこで、気味がわるいわねえ! でもきっとあたしがリントンの家で、エドガーやイザベラを見慣れていたせいでそんな気がするんだわ。ねえ、ヒースクリフ、あんたあたしを忘れちゃったの?」
そういう問いが漏れたのもむりのないほど、恥かしさと誇らしさとで、男の子の顔は二重の暗さを帯び、体もこわばって身動きできなくなっておりました。
「握手しなさい、ヒースクリフ」特別のお慈悲だと言わぬばかり、ヒンドリー旦《だん》那《な》が申します。「たまにはそれくらい許してやるよ」
「ぼくはいやだ」少年は、やっと口がきけるようになって、答えました。「馬鹿《ばか》にされてたまるもんか。ぼくは我慢ができない!」
こう言って、その場から飛び出そうとしかけましたけれども、キャシー嬢さまがまた捕えて離しません。
「あたし、あんたのこと笑うつもりなんかなかったわ。ただつい笑っちゃっただけよ。ヒースクリフ、せめて握手くらいしてよ! どうしてそんなおこった顔してるの? ただあんたの様子がおかしかっただけよ。顔を洗って、頭髪《あたま》に櫛をあてれば、それでもういいんじゃないの――だけどあんた、ずいぶん汚ないわね!」
嬢さまは自分の握っているどす黒い指を、心配そうに見つめてから、こんどは自分の服を見つめていました。ヒースクリフの服にさわって、よごれがついてはいないかと心配になったんです。
「ぼくにさわることないじゃないか!」こちらはキャシーの目の動きを追って、手を振りほどきながら答えます。「これからだってかってに汚なくしとくよ。ぼくは汚ないのが好きなんだ、だから汚なくなってやるんだ」
こう言って、主人夫婦のおもしろそうな高笑いや、キャサリンが本気で気をもんでいるなかを、のめるように飛び出してしまったのです。キャサリンにしてみれば、自分の言ったことで、どうしてあれほどめちゃくちゃにおこったのか、ちっともわけがわかりませんでした。
帰って来た嬢さまのお付き女中の役をすませ、こしらえた菓子をかまに入れて、クリスマスの前夜にふさわしく、居間にも台所にも、さかんに火をたいて楽しい気分を出したあと、私はやっとおちついて腰をおろし、ひとりでクリスマス頌歌《カロル》でも歌って楽しもうと思いました。ジョーゼフに言わせると、私の好んで歌うような陽気な節のものは、普通の歌といくらも変ったところはないんだそうですけれど、私はそんな批評なんぞ気にかけません。爺《じい》やはもうその時分には自分の部屋へ引っ込んで、一人でお祈りをしていました。アーンショー夫婦は、キャサリンが世話になったお礼のしるしに、嬢さまからリントン家の子どもたちへの贈り物にさせるつもりで、買ってきたいろんな派手な小間物類を見せて、嬢さまを喜ばせようとしています。夫婦はリントン家の子どもたちを、あす嵐《あらし》が丘《おか》へ遊びにくるようにと招待して、先方も承知はしたのですけれども、それには一つの条件がございました。つまり、うちの大切な子どもたちのそばに、あの「手のつけられない悪たれ小僧」を寄せつけないように気をつけて下さいという、リントン夫人からの注文だったのです。
そんなわけで、台所には、私一人しかおりませんでした。香料のにおいが豊かににおってまいります。よく光った台所道具、ぴかぴかに磨《みが》いてひいらぎで飾ってある時計、いつ夕食が始まっても味つけ酒をすぐ注《つ》げるように、盆の上にずらりと並べてある銀の杯、それよりもことに私が汚点《しみ》一つなく念入りに磨いてよく掃き清めたきれいな床などを――そうしたものを、私はうっとりと良い気持でながめまわしました。心の中で、その一つ一つに手をたたいてほめてやりたいような気持でした。それについても、以前はこんなふうに、すっかりきれいになったところへ、いつも大旦那がはいっていらしって、私をかいしょうのある娘だとおほめになって、クリスマスの祝儀《しゅうぎ》だよと、シリング銀貨を一つ、私の手の中へすべりこませて下さった、そんなことが思い出されます。それからまた私の思いは、大旦那さまがヒースクリフをおかわいがりになったこと、おれが死んだら誰《だれ》もあいつをかまってやらんだろうと心配なすっていたことなどのほうへ移ってゆきます。自然とあのかわいそうな子どもの今の有様が考えられてきて、今まで歌を歌っていたのに、こんどは泣きたくなって参ります。かと思うとすぐにまた、ひどい目に会ってるあの子の哀れさに涙をこぼすよりも、いくらかでもその哀れさを少なくしてやるのが本当の思いやりだわ、と気がつきました。そこで立ち上がって、あの子をさがしに中庭へ出てみますと、良いあんばいに近くにおりました。厩《うまや》で新しく来た子馬のつやつやした体をふいてやって、それからいつものように他《ほか》の馬にも秣《まぐさ》をやっているところでした。
「早くやってしまいなさいよ、ヒースクリフ!」私は申しました、「お台所はとても気持がいいわよ、それにジョーゼフもいま階上《うえ》へ上がってるから、早くしなさいよ。キャシー嬢さまの出てくるまでに、あたしがあんたに良い服を着せて、意気な若い衆にしてあげるからさあ。そうすればあんたがた二人きり水入らずで煖炉を占領して、寝る時間までゆっくり話もできるじゃないの」
こう言うのに、相変らずせっせと馬の世話をつづけて、私のほうを振り向こうともしません。
「さあ――おいでなさいったら!」私はまだつづけて、「あんたがた二人のお菓子もあるのよ、二人分にはどうにか足りるわ。それに、あんたの着つけにはどうしても三十分はかかるわよ」
五分待ちましたが、返事もしませんので、来てしまいました。キャサリンは、兄さん夫婦といっしょに夕食をしました。ジョーゼフと私とはいっしょに御飯をいただきましたが、向こうはぶつぶつ小言を言うし、こっちはぷりぷりおこってますし、まことに殺風景な食事でございました。ヒースクリフの菓子やチーズはテーブルの上にのったままで、まるで妖精《ようせい》たちへのお供え物のように、夜どおしそこに残っておりました。当人は九時ごろまでもなにやかやと働きつづけて、それからむっつり黙りこくったまま自分の部屋へ引き取ってしまいました。キャシーは新しい友だちをお客に迎えるについて、指図することが山のようにありましたので、おそくまで起きていました。一度、古いほうの友だちと話をしたくて、台所へはいって来ましたけれど、相手はもうおりませんでしたので、あのひと何か変ったことでもあったかしらと聞いただけで、すぐまた行ってしまいました。翌朝、ヒースクリフは早く起きまして、仕事は休みですからふくれっ面《つら》をかかえたまま、荒野《ムーア》のほうへ出て行ったきり、家族の人たちが教会へ出かけてしまうまで姿を見せませんでした。何も食べず、じっといろいろのことを考えたのが、いくらか気持をすなおにさせたものと見えます、しばらくのあいだ、私のそばでぐずぐずしておりましたっけが、やっとのこと勇気をしぼりだして、つぎ穂もなく訴えました。
「ネリー、ぼくを見苦しくないようにしておくれ、ぼくは、これからおとなしくする」
「ほんとうにもうそろそろおとなしくならなくちゃね、ヒースクリフ」と私は申しました。「あんたは、キャサリンに悲しい思いをさせてるのよ。帰って来なければよかったと思ってるかもしれないのよ! 嬢さまがあんたよりちやほやされるからって、あんたがやきも《・・・》ち《・》やいてるみたいだわね」
キャサリンをねたむという意味は、よくわからないようでしたけれど、悲しませるという意味は、はっきりわかったようで、
「キャシー、悲しいって言ってた?」とてもまじめな顔で聞きますの。
「あんたが、けさまた出かけてしまったと言ったら、嬢さま、泣いていましたよ」
「だって、ぼくだってゆうべ泣いたよ」と少年は答えます。「そして、あの子よりぼくのほうに、泣く理由はたくさんあるんだ」
「そうね、あんたが誇りを傷つけられて、すき腹をかかえて寝てしまったんだって、むりもないわ」と私は申しました。「気ぐらいの高い人たちは、自分で悲しみを育てるんですよ。でも、もしあんたが、自分のおこりんぼを恥かしいと思うなら、よくって? キャサリンが来たとき、あやまらなくちゃいけませんよ。あの子のそばへ行って、接吻させてくれって言って、それから――なんと言えばいいか、あんたのほうがよく知ってるわね。ただ心からそうすることだわ。おまえはりっぱな着物を着たから、きょうからあかの他人だよって顔しちゃ駄目《だめ》よ。あたしはこれからご馳《ち》走《そう》の用意をしなくちゃならないんだけれど、ちょっと暇をぬすんで、エドガー・リントンがあんたのそばへ寄ったら、まるで木偶《でく》人形みたいに見えるほど、あんたをりっぱにしてあげる。またほんとにエドガーなんて、そのくらいのものよ。あんたのほうが年は下だけれど、それでも、あたしは請け合っていいわ、背はあんたのほうが高いし、肩幅なんか、向こうの倍もあるでしょう。エドガーなんぞ、あんただったらいっぺんになぐり倒してしまうわ。そんな気がしない?」
ヒースクリフの顔はちょっと明るくなりましたが、すぐにまた改めて暗い顔になり、ため息をつきました。
「だけど、ネリー、ぼくがあいつを幾度なぐり倒してみたところで、それでもってあいつの顔が醜くもならないし、ぼくが良い男になるわけもないじゃないか。やっぱりぼくは、エドガーみたいな薄色の髪や、白い顔の色になって、そうしてああいう良い服を着て、行儀よくして、さきざきあいつぐらいの金持になれたら、いいと思うなあ!」
「そいで、なんぞといえば、おかあさん! と言って泣いてみたり、百姓の子どもに拳骨《げんこつ》を振り上げて見せられるとぶるぶる震え出すし、にわか雨が降ったら一日じゅう家のなかにすわっていたいってわけ? いいえ、ヒースクリフ、あんたそれじゃ、あんまりいくじがないわよ、鏡の前へいらっしゃい、あんたが何を希望したらいいか、見せてあげるから。眉《み》間《けん》にある二本の筋が見えて、濃いまゆは弓なりに上がらないで、逆にまんなかが下がってるでしょう? それからその落ちくぼんだ一対《いっつい》の黒い鬼の目、けっして大胆に窓を開こうとはしないで、まるで悪魔の回し者みたいに、陰のほうに隠れて光ってる! よくふだん気をつけて、その陰険なしわを寄せないように、それからまぶたをすなおに持ち上げて、その鬼を、秘密のない、無邪気な天使にかえること、けっして怪しんだり疑ったりしないで、たしかに敵だということがわかってるときのほかは、誰でもみな味方だと思って人を見るようにするの。やくざ犬は、人にけられて、自分が悪いことしたお駄《だ》賃《ちん》だということは知っていても、やっぱりけった人ばかりでなく、自分の痛さのために世間全体を恨むような顔になるわね、そんな野良《のら》犬《いぬ》みたいな表情をしないこと――」
「言い変えれば、つまりエドガー・リントンみたいな、大きな青い目と、平らな顔をもつように希望しろっていうことだろう?」と少年は答えました。「それは望んでるさ――だけど望んだって、そんなふうになれっこないもの」
「ねえ、ヒースクリフ、良い心を持てば顔もかわいらしくなるんですよ、――たといあんたがほんとうの黒ん坊だったとしてもよ。また心が悪ければ、どんなにかわいい顔をしていても、ただ醜いよりもっといやな、いやな人相に変るものなのよ」私はつづけて言い聞かせます、「こうして石鹸《せっけん》でよく洗って、櫛もあて、機《き》嫌《げん》もなおしてみると、どう――自分でも美男子になったように思わない? 言ってあげる――あたしはそう思うわ。あんたは変装した王子ぐらいに見えるわ。あんたのお父さんはシナの皇帝で、お母さんはインドの女王、そして二人とも一週間の収入で、嵐が丘とスラシュクロス屋敷とをいっぺんに買えるくらいのお金持だ、なんて、そんなことがないとは誰だって言えないでしょ? そうしてあんたは、悪い船乗りにさらわれて、イギリスへ連れて来られたって話。あたしがもしあんたのような境遇だったら、自分の生まれをとてもりっぱなものにして考えるわ。そして自分はこうなんだと考えることで、けちな百姓なんかにいじめられても、びくともしないだけの勇気と威厳とが出ると思うわ」
そんなふうに私がしゃべりつづけておりますと、だんだんにヒースクリフのしかめた眉《まゆ》も和らいで、とても愉快そうな顔になりかけました折も折、たちまち道路に馬車の音が近づいて、すぐに中庭へはいってきたので、私たちの話もそれなりになってしまいました。ヒースクリフは窓へ、そして私は戸口のほうへ、駆け寄って外を見ますと、ちょうどリントン家の二人の子どもが、マントと毛皮にくるまって自家用馬車から降り、アーンショー家の人たちは馬から降りるところでございました。うちの人たちは冬になると、よく乗馬で教会へ参りましたものです。キャサリンはリントン家の二人の子どもの手を取って、居間に案内して、煖炉の前にすわらせます。と、みるみる子どもたちの白い顔に赤味がさして参りました。
私はヒースクリフに、さあ急いであんたのにこにこした顔を見せてやりなさいと勧めますと、当人も喜んでその言葉に従いました。ですが間のわるいときは仕方のないもので、台所から居間に通じる扉《とびら》をこちらからヒースクリフがあけますと、ヒンドリーも向こうからあけたものですから、二人はバッタリ顔を合わせてしまいました。主人のほうではヒースクリフが小ざっぱりした楽しそうな顔をしてるのがしゃくにさわったのでしょうか、それともおそらくリントン夫人との約束を守りたい一心からだったのでございましょう、不意に少年を突き戻《もど》して、腹立ち声でジョーゼフに言いつけました、「この小僧を居間に入れんようにしろ――宴会が済むまで屋根部屋へほうり込んでおけ。ちょっとでもそいつをその辺にまごまごさせといたら、パイのなかへ指を突っ込んだり、果物を盗んだりするぞ」
「いいえ、旦那さま」と私は答えずにいられませんでした。「この子は何もいじりませんです、この子にかぎってそんなことございません。それにこの子にも、みんなと同じようにおいしい物を食べさせてあげなくちゃいけないと思いますわ」
「おれの拳骨でもご馳走してやろうか、そいつがもし暗くならないうちに階下《した》へ降りて来たところを見つけたら承知せんから」とヒンドリーはどなりました。「出てゆけ、この宿なし! なんだ! きさま、良い男になる気か、それでも? その上品な髪の毛をつかんでやるから待ってろ――その毛をもう少し長くひっぱってやるからな!」
「いまでもけっこう長いじゃありませんか」リントン坊ちゃんが、戸口からのぞきながら口を出しました。「あれでも頭が痛くならないのかな。子馬のたてがみ《・・・・》みたいに目の上までかぶさってるじゃないの!」
別に侮辱するつもりでそんなこと言ったわけでもございますまいが、ヒースクリフの激しい性質として、その時分から恋がたきとして憎んでいた相手から、生意気な態度を示されて、辛抱するだけの心構えはできておりません、やにわに、熱いりんごソースのはいった器をつかんで(それが一番手近にあったものですから)からかった相手の顔からくび筋へかけ、もろにぶッかけました。エドガーはたちまち泣き出します。イザベラとキャサリンはあわててその場へ駆けつけます。アーンショー氏はすぐに暴行を働いた罪人をつかみ上げるようにして、部屋へ連れて行きましたが、きっと癇癪《かんしゃく》をさますための荒療治をしたものとみえまして、赤くなって、息を切らして帰って参りました。私はふきんを取って、腹立ちまぎれにエドガーの鼻や口をごしごしふきながら、よけいな口出しをするから罰が当ったんですよ、ときめつけてやりました。イザベラはもう帰ると言って泣き出しますし、キャシーはこのありさまが恥かしくて赤い顔して、ぼんやり立っております。
「あんたがヒースクリフに何か言ったからいけないのよ!」キャシーはリントン坊ちゃんをたしなめました。「もともとおこってるところだったんですもの、だからあなた方の訪問もめちゃめちゃになってしまったじゃありませんか。ヒースクリフはきっとぶたれるわ。それが何よりあたしはきらいなのよ! ご飯たべる気にもなれないわ、どうしてあんた、あの子になんか口きいたの、エドガー?」
「ぼく、なにも言やしない」少年は私の手から離れ、自分の白麻のハンカチで、まだ落ちきれないよごれを、ふき取りながら言いました。「ぼくは母さんに、あいつとは一言も口をきかないって約束してきた。だからほんとになにも言やしない」
「そんならいいわよ、泣くのはおよしなさいよ」キャサリンはすっかり軽蔑《けいべつ》して答えました。「殺されたわけでもないんだから。これからはもう意地悪しちゃ駄目よ。うちの兄さんが来るから、もう黙って、シッ! イザベラ! あんたなんか別にどうもされなかったじゃないの」
「さあ、さあ。みなさん――席に着いておくれ!」ヒンドリーはせかせかとはいってくるなり叫びました。「あの畜生のおかげで、いい気持にあったかくなったよ。エドガー君、こんどあんなことがあったら、きみの拳骨に物を言わせてやりたまえ――食事もうまくなるぜ!」
小宴会に集まった人々は、いいにおいのするご馳走を見ると、みな落着きを取り戻しました。乗りものに乗ったあとで、みなお腹《なか》が減っていましたし、誰にけががあったというわけでもございませんから、わけなく快活を取り戻したわけでした。アーンショー氏はみんなにたっぷりと肉を切って分けます。夫人のほうは元気なおしゃべりでみんなを陽気にします。私は夫人の椅子《いす》のうしろでお給仕に立っておりましたが、キャサリンが涙ぐみもしない平気な顔で、自分の前のがちょうの羽根の肉を切ってるのを見ますと、憎らしい気がして参りました。「情のない子どもだわね」と心のなかで申しました。「古い遊び友だちの苦しみを、あんなにアッサリ忘れてしまうなんて。こんな自分かってな嬢さまとは思わなかったわ」と見ていますと、一切れその肉を口へ持って行きましたけれども、すぐまた下においてしまいました。両方のほおに真っ赤に血が上がったかと思うと、その上を涙がポロポロとこぼれ落ちました。そしてフォークを手からすべらせて床に落し、いそいで拾う振りをしてテーブルクロスの下に泣き顔を隠しました。私も情のない子どもだと思ったのは、わずかの間でございました。というのはキャシーがその日一日じゅう煉獄《れんごく》にいる思いで、自分一人になりたい、ヒースクリフのところへ会いにゆきたいと、その機会が得られなくて、もじもじしていることが、私にはわかりましたからです。主人はヒースクリフを部屋へ閉じ込めてしまったのでした。そのことは、私もあの子のところへいろんなご馳走を集めてこっそり持って行ってやろうとして、はじめて知ったことでございました。
夕方、ダンスが始まりました。キャシーは、イザベラ・リントンの相手がないから、ヒースクリフを出してくださいと頼みました。けれどもその願いは聞きとどけられなくて、私がイザベラの相手になって踊らされました。夢中で踊っておりますと、すっかりゆううつは消し飛んでしまいました。そして歌い手のほかにラッパ、トロンボーン、クラリネット、バスーン、フレンチホーン、セロなど、十五人も勢ぞろいしたギマトン楽団が到着しましたので、ますます愉快になって参りました。この楽団はいい家を全部まわって、クリスマスごとに寄付をもらって歩くのです。そして私どもは、この楽団の歌を聞くのを、まったく耳果報だと思ってありがたがっておりました。いつものクリスマス頌歌《カロル》がすむと、こんどは歌謡や合唱曲を歌ってもらいました。アーンショー夫人が音楽好きだったので、注文に応じてどっさり歌ってくれました。
キャサリンも音楽好きでした。が、階段のいちばん上で聞くととても良いということを言い出しまして、暗いところを二階へ上がってゆきました。私はあとからついてゆきました。階下《した》では私たちのいないことに気づかずに居間の扉をしめてしまいました。それほど部屋じゅう、人がいっぱいだったのです。嬢さまは階段の上に足も留めないで、ヒースクリフの閉じこめられている屋根部屋まで、どんどん上がって行って、声をかけました。なかではしばらくは強情に返事をしませんでしたが、嬢さまは根気よく呼びつづけて、とうとう羽目板ごしに話をするようにさせてしまいました。私はじゃませずに二人のかわいそうな子どもたちに話をさせてやりましたが、やがて合唱も終りそうなけはいで、歌い手たちは何かご馳走になるところらしく思われましたのではしごをのぼってゆきました。ところが部屋の外にいると思いのほか、嬢さまの声は内側から聞こえてくるのです。子どものように、一方の屋根部屋の明り取り窓から屋根づたいに、も一つの部屋の明り取り窓の中へはいってしまったのでした。だましたりすかしたりして外へ呼び出すのは、並みたいていの骨折りではございませんでした。キャサリンが出てきたとき、ヒースクリフもいっしょでして、嬢さまはジョーゼフが隣家へ行ってしまったから、ヒースクリフを台所へ連れて行ってやれと私に言ってききません。あの爺《じい》さんは楽隊のことを悪魔の歌だと申して、そんな俗っぽい音はまっぴらだと言って逃げて行ったのです。私はあんた方の悪さの手助けはご免こうむりますよと二人に申しましたが、しかしこの囚人はきのうの昼御飯から、ずっとなにも食べていないことを思いますと、こんどかぎりヒンドリーをだますのを見て見ないふりしてやろうと思いました。ヒースクリフは降りてきました。私は炉のそばの椅子に掛けさせおいしい物をふんだんに出してやりました。けれども気持が悪いかして、ほとんど何も食べませんので、せっかく私がご馳走してやろうと思ったのも駄目になりました。少年は両ひじをひざの上に突いて、両手であごをかかえて、いつまでも黙然と思案にふけっておりました。何を考えてるのと、私が聞きますと、真顔で、こう答えました――
「ぼくはヒンドリーにどうやって仕返ししてやろうかと、思案してるんだ。それがいつかやれさえすれば、ぼくはいくら長く待ってもかまわない。それをぼくがやる前に、やつが死なずにいてくれればいいが!」
「なんという悪いことを、ヒースクリフ! 悪い人間を罰するのは神さまのなさることよ。わたしたちは人を許すことを心がけなければ」
「いや、神さまはぼくが感じるような満足は味わわないだろうよ。ぼくはただいちばん良い方法を知りたい! ぼくのじゃまをしないでくれ、しまいまで考えぬくんだから。それを考えてるとぼくは体の痛みを感じないんだ」
ですがまあ、ロックウッドさま、私はこんなお話があなたのお気晴らしにはならないことを、すっかり忘れておりました。こんなに長々とおしゃべりする気にどうしてなりましたものか、我ながら困ってしまいましたわ。おかゆもさめてしまいましたし、あなたはお眠くて、こくりこくりしていらっしゃる! ヒースクリフの経歴をお話しすると申しても、お聞かせする必要のあることは、ほんの六、七語で済みますのにねえ。
ここでみずから話を中絶した家政婦《ハウスキーパー》は、立ち上がって、縫い物を片づけにかかった。しかし僕は、とても煖炉のそばから離れられそうもなかったし、とてもこくりこくりなぞするどころではなかった。「まあ、すわってくださいよ。ディーンさん」僕は叫んだ。「まあ、あと半時間だけ、すわってください。あんたのゆっくりした話のしかたはちょうど良かったんだよ。ぼくの好きな話し方なんだ。だから同じ調子で終りまでやってくださいよ。あんたの話に出てくる人物は、ぼくにはみんなそれぞれにおもしろいよ」
「時計はもう十一時を打ちますよ、旦《だん》那《な》さま」
「かまわんさ――ぼくは十一時十二時に寝床へはいったことはないよ。一時や二時だって、十時まで寝てる人間にはまだ早いくらいだ」
「十時までもおやすみになっていてはいけませんわね。それじゃ午前中のいちばんいいところは、とっくに過ぎてしまいますもの。十時までに一日の仕事の半分をしてしまわないようでは、残りの半分はし残すことになりがちですわ」
「まあそうだとしても、ディーンさん、とにかくもう一度おすわりよ。ぼくは夜をあしたの午後まで延長するつもりだからね。第一この風邪はしつっこそうだと、ちゃんと見きわめをつけてるんでね」
「そんなことになってはいやでございますよ、旦那さま。とにかく、では三年ばかりここで飛ばさしていただきましょうね、その三年のうちに、アーンショー夫人が――」
「いや、いや、ぼくはそんなのはいやだよ! あんたはこういう気持になったことはないかね、たとえば、あんたがひとりでいて目の前で猫《ねこ》が子猫を絨毯《じゅうたん》の上でなめてやってるとする、あんたはそれをあまり熱心にながめてるもんだから、猫が子猫の片目をなめ忘れでもしたら、本気で腹が立ってしまうんだが!」
「まあよほどものぐさな気分もあったものですわね」
「ものぐさどころじゃなくて、いやになるほど生き生きした気分だよ。いまのぼくの気分がそれなんだ。だから話をくわしくつづけてくださいよ。ぼくは気がついたんだが、この辺の田舎の人たちは、都会の者に比べると、人間というものを大切にする。いわば、同じクモでも、普通の家の女房《かみさん》が見るクモよりも、囚人が監獄のなかのクモに興味をひかれるほうが、はるかに大きいのと似ている。つまり見ていて飽きないということだが、しかしその興味が深いということは、必ずしも見ている人間の立場だけによるものではないのだ。田舎の人のほうがはるかに誠実に、はるかに自己の内心に深く食い込んで生きてる。都会人のように上《うわ》っ面《つら》な出来事や、変化や、とるに足りない外面的なことに捕われて生きていない。一生の恋などというものも、こういう土地だったらありそうにさえ思えるね。――ぼくは実は一年とつづく恋さえありえないと信じきっていた男だったんだがね。まあ一方は腹のすいた人がたった一皿《さら》のご馳《ち》走《そう》を出された場合に似てるね、その人は自分の食欲をその一皿に集中して、十分に味わって食べるわけだ。ところが他の一方は、フランス人の料理人が腕をふるって用意した食卓へ連れてこられたようなもので、たぶんその全体から得られる楽しさは同じことになるだろうが、料理の一つ一つは彼にとってほんのわずかしか注意も引かなければ記憶にも残らんわけだ」
「まあ! この土地の者でも、わたくしどもの気心がおわかりになれば、ほかの土地の人と同じことでございますよ」ディーン夫人は僕のことばに少し面くらった様子で言った。
「いや、失礼だがね」僕は答えた。「あんたこそ第一、そういう主張と相反する著しい証拠ですよ。少しばかり、それもちっとも気にならない田舎ふうのところがあるほか、あんたにはあんたがたの階級につきものだとぼくなんぞ平常考えていたところが一つもない。ぼくの見るところでは、あんたは大多数の召使が考えることよりもはるかに物事をよく考えてきた人だ。くだらない些事《さじ》に生活を浪費する機会がなかったために、あんたは物事を深く反省する能力をいやおうなしに養わされたんだろうね」
ディーン夫人は笑った。
「それはわたくしでも、自分が堅実な、物の道理のわかる人間だぐらいには値ぶみしておりますよ。それもこんな山国に暮らして、年がら年じゅう、きまった顔の人たちとつきあい、きまったとおりの行事だけを見て来たせいだ、とばかりは思いません。わたくしは厳しいしつけを受けまして、そのおかげで賢くもなりましたし、それからまた、こう見えても、ロックウッドさま、わたくしはあなたのご想像になるよりは、よほどたくさんの書物も読みましたんですよ。この書斎のなかの書物、どれをおあけになっても、わたくしが読まなかった――何かをそこから学ばなかった書物は一冊もございません。ただギリシャ語とラテン語の本、それからフランス語の本は別ですけれど、それもどの言葉かという区別はつきますの。それだけでも貧乏人の娘にはちょっと珍しいとお思いになりますでしょう。けれども、まあさっきのお話を、ほんの世間話ふうにつづけるのでしたら、つづけてもようございますわ。三年も飛ばすのはやめまして、翌年の夏――つまり一七七八年の夏、今から二十三年ばかり前のことですが――そこまで飛ぶことで折り合わせていただきますわ」
すがすがしい六月のある朝、それが私のはじめて育てたかわいい赤ちゃん、旧家アーンショー一族の最後の子供が、産声《うぶごえ》をあげた日でございました。その日、ちょうど私どもは遠く離れた畑でせっせと干し草づくりをしておりました、いつも朝飯を持ってくる小娘が、常よりも一時間も早く、私の名を呼びたてながら、牧場を横切って小道を駆けのぼって参りました。
「あのね、とってもすてきな赤ちゃんよ!」少女は息を切らしながら、「あんなかわいい赤ちゃんて今までにないわ! でもお医者さまは、奥さんは助からないって言ってるのよ。もう幾月も前から肺が悪かったんだって、あたい、お医者さまが、ヒンドリー旦《だん》那《な》に言ってるのを聞いてたの――もう奥さんには生きるだけの力がどこにも残っていないから、冬まではもつまいって。ネリー、すぐ帰ってくれなきゃいけないわ。赤ちゃんはあんたが育てるんですもの。牛乳にお砂糖を入れて飲ませて、昼間も夜も世話してあげるのが、あんたの役だわ。あたいあんたと代りたいわ。だって奥さんが死んじゃったら、赤ちゃんはすっかりあんたのものになるんですもの!」
「でも奥さんそんなにひどく悪いの?」私は熊《くま》手《で》を投げ出して、帽子《ボンネット》のひもを結びながら訊《き》きました。
「どうもそうらしいわよ、でも気はとてもしっかりしてるの。そして、まるで赤ちゃんがおとなになるまで生きているつもりみたいなこと言ってるわ。きっとあんまりうれしくって、頭が変になってるんだわ、むりもないわ、あんなきれいな赤ちゃんですもの! もしあたいだったら、けっして死にゃしない。ケネス先生がなんと言ったって、あの赤ちゃんを見ただけで病気なんかなおっちゃうわよ。先生ったら、あたし憎らしくてしようがないわ。アーチャーさんが、その天国の子どもみたいな子を抱いて降りてきて、居間で旦那さまに見せたのよ。旦那の顔がちょうどにこにこっとしそうになったときに、ねえ、あのしゃがれ声の先生が出しゃばってきて、また縁起でもないその言いぐさったら――『アーンショー君、奥さんがいままで生きていて、この男の子をあんたに形見に残すというのも、神さまのお慈悲というものだ。奥さんが来られたときから、これは長いことはあるまいと、わしはすぐに思った。それが今の様子では、言いにくいことだが、まずこの冬は越せまいと思うよ。いいや、騒ぎなさるな、いくらくよくよしても、こればかりはしかたのないことだからの。第一、あんなひ弱な嫁さんをめとったあんたがうかつだったと、あきらめるほかはあるまいよ』だって」
「そしたら旦那さま、なんておっしゃったの?」と私が訊きますと、
「おこって悪態ついていたようだったわ――だけどあたいは、赤ちゃん見るほうで夢中だったから、旦那のことなんか気をつけていなかったの」と女の子は言って、また夢中になって赤ちゃんの話を始めました。そうなりますと私もその子と同じように夢中になりまして、早く自分もそのきれいな赤ちゃんが見たい一心で、一生懸命にうちへ帰りましたが、一方ヒンドリーのことを思うと気の毒でたまりません。もともとあの人の心の中には、ただ二つの偶像のほか、何もはいる席のない人なので――その二つの偶像というのが、奥さんと自分自身なのでございます。この二つだけにおぼれきって、とりわけ一つのほうは女神のようにあがめてさえいたのですから、それを失うとしたら、どんなことになるか、私には見当もつきません。
嵐が丘の家へ着きましたとき、ヒンドリーが表の戸口に立っていましたから、私ははいりがけに訊きました。「赤ちゃんはお元気でございますか?」
「おおネル、まるですぐにも駆けまわりそうだぞ!」とうれしそうな微笑を作って答えました。
「それで奥さまは?」思いきって訊いてしまいました。「先生の話では奥さま――」
「先生がなんだ!」たちまち赤くなって、私に先を言わせず、「フランセスの言ってることはまちがいないんだ、来週の今ごろはもうすっかり快《よ》くなってるさ。おまえ二階へいくかい? 奥さんにそう言ってくれんか、話をしないと約束してくれれば、おれは上がって行くからって。彼女《あれ》が話しやめないものだから、おれは出て来てしまったんだ。絶対に――ケネス先生も安静にしていなくてはいけないとおっしゃったと言ってくれ」
私はこのことばをアーンショー夫人に伝えました。奥さんはひどくうきうきしたご機《き》嫌《げん》で、明るい声で答えました――
「あたし一言も口なんぞきかなかったのよ、エレン、それだのに旦那さまったら、泣きながら二度もここを出て行っておしまいになるんだよ。いいわ、話をしないってお約束しますと言ってちょうだい。だけどヒンドリーのことを笑わないとは約束しないわよ!」
かわいそうな方でしたわ! なくなる一週間前でも、陽気な気持は少しも失わず、ご主人もまた強情に――いいえ、それこそムキになって、そうだともおまえの体は日ごとによくなっているよと、どこまでもそうハッキリ言っておりました。ケネス医師が、もうここまで来てはわしの薬はお役に立たん、このうえわしを招《よ》んで、お金をお使いになるにも及ばんでしょう、と注意しましたとき、ヒンドリーの答えはこうでした――
「金を使うに及ばんことはよく知っていますとも――もうなおってるんだから――これ以上先生に見ていただきたくないと、家内も言っとります! だいたい肺病になぞかかっちゃおらんのです、彼女《あれ》は。ただの熱だったんで、その熱ももうとれました。脈なんぞわたしと同じぐらいおそいし、頬《ほお》も同じ冷たさですよ」
同じことを主人は夫人にも言い、夫人もそのとおり信じていたようですが、でもある晩、旦那さまの肩に寄りかかって、あしたはもう起きられると思いますわ、と言う最中に、咳《せき》が出ました――ほんの軽い発作でございましたけれど――旦那さまはぐっと両腕のなかに抱き上げる、奥さまの両手がそのくびにすがる、顔の様子が変りまして、それきりでございました。
あの小娘が申しましたとおり、赤ちゃんのヘアトンは、なにもかも私が手がけることになりました。アーンショー氏は、赤ちゃんが丈夫で、泣き声が聞こえさえしなければ、それで安心だと思っているのです。けれどそれは赤ちゃんのことについての話で、自分はすっかり自暴自棄になって――つまり悲しみで涙にくれるというふうなのとは、性質《たち》がちがうのでございましょうね、泣きもしなければお祈りもしない、ののしって、けんかを売って――神も人間もひとしく呪《のろ》って、めちゃめちゃな放蕩《ほうとう》で身を持ちくずしてしまったのです。雇い人たちもあまり無慈悲で意地の悪いしかたなので、そういつまでも辛抱はしきれません。あとまで残りましたのはジョーゼフと私と、二人きりでございました。私は預かりものの赤ちゃんを捨てて出てゆく心にはなれませんでしたし、それに、ご承知のとおり旦那と私とは乳兄弟《ちきょうだい》の間柄《あいだがら》でもございましたから、あかの他人よりはあの人の仕打ちを許してあげられたのでしょうね。ジョーゼフは相変らず小作人や作男たちに威張り散らしておりましたが、もともとあの爺《じい》さんは罰あたりなことがたくさんあるところで小言をいうのが商売ですから、出てゆく必要はなかったのですわ。
主人のよくない行ないや悪い友だちは、キャサリンとヒースクリフとには、なんともけっこうなお手本でございました。主人のヒースクリフに対しての仕打ちと申しましたら、まったく、あれではたとい聖人でも、悪魔になるだろうと思うほどで。また実際、このころのヒースクリフには、ほんとうに何か悪魔みたいなものが取りついてるかしらと思われるふしが見えたのでございます。ヒンドリー旦那が救う由《よし》もないほど堕落して、日ごとに荒くれた不機嫌と狂暴さとを人目にもあらわにつのらせてゆくのを、うれしがって見ているのです。ほんとうに、あのころの地獄のような一家のありさま、とても私には半分もお話しできませんわ。牧師補さんもたずねて来なくなりますし、しまいにはまともな人は一人として寄りつきません――ただ一人エドガー・リントンが、キャシー嬢さまをちょいちょいたずねてみえるだけが例外でしたでしょう。十五歳になりますと、嬢さまはもうこの辺きっての女王さまで、誰《だれ》ひとり並ぶ者もないほどでしたが、それがあなた、高慢な、たいしたわがまま娘になってきたじゃございませんか! 正直のところ私はあの方がいたずら盛りを越した時分から、あまり好きになれませんで、あのお鼻の高いところをへこますようなことを言ってやっては、しょっちゅうあの方をおこらせたものですの。でもそのくせ、ちっとも私をおきらいにはならないんです。不思議なほど昔なついた者には好意を失わない方で、ヒースクリフにさえ昔とかわらぬ情愛を持ちつづけておいででした。ですからリントンの若旦那さまも、ご身分から何からたちまさっていらっしゃっても、ヒースクリフほどにはお嬢さまの心に深く食い込むことができなくて、困っておいででした。そのリントン家の若旦那さまというのが、私の前の主人でして、煖《だん》炉《ろ》の上にかかっているのが、あの方の肖像でございます。もとはあれが一方に、その反対側に奥さまの肖像がかかっておりました。けれども奥さまの絵姿のほうはおろされてしまいました。もしいまもありましたら、どんなかただったかも多少おわかりになるでしょうけれど。ご主人の肖像はよくお見えになりますか?
言いながら、ディーン夫人が燭台《しょくだい》を持ち上げたので、見ると、肖像は、柔和な顔だちの、嵐が丘の若い未亡人と驚くほどよく似てはいるが、彼女よりも憂《うれ》いの深い、人なつこいところのある顔であった。一幅の好肖像画だ。長い金髪はこめかみのあたりでほんの少し縮れている。目は大きくて、微《み》塵《じん》も浮わついていない。姿は少し優しすぎるといっていいくらいだ。こういう少年に会って、キャサリン・アーンショーが最初の仲良しのことを忘れてしまったというのは、少しも驚くに当らぬ、と僕《ぼく》は思った。むしろ驚いたのは、この少年が、こういう姿にふさわしい心を持っていたとして、どうして僕の頭のなかのキャサリン・アーンショーという少女に夢中になれたか、ということだった。
「たいへん感じのいい肖像だが」僕は家政婦に言った。「似ていますか?」
「ええ、似ておりますけれど、元気のいいときはもっと良かったと思いますわ。ふだんはああいう顔でございました――つまりどっちかというとおとなしすぎたんですわ」
リントン家で五週間、暮らしてから、キャサリンは引きつづき交際しておりましたが、向こうの家の人たちといっしょのときは、粗暴なところは見せないようにしておりましたし、始終やさしく親切に扱われていた家で不作法なことをしては恥かしいという気持もありましたから、あの子の天真爛漫《てんしんらんまん》な心のやさしさによって、知らず知らず老夫婦をだまし、イザベラからは崇拝され、兄さんのエドガーときては心の底からとりこにしてしまいました。もともと覇気《はき》の強い娘でございますから、こうしてこの一家に気に入られたのが何よりうれしくて、それがために、別にはっきりと誰かをあざむこうなどという気はなくて、自然と仮面をかぶって別の人間のようにふるまうようになってしまったのでございます。リントン家の人たちがヒースクリフのことを「卑《いや》しい悪たれ小僧」だとか「畜生より悪い」とか言っているのを聞けば、その家でヒースクリフと同じようなことをしないように気をつけます。けれどもうちへ帰れば、お上品にしていても笑われるだけですし、奔放な性情をおさえてみたところでだれも感心もしなければほめてもくれないのですから、自然そういう気づかいをしようという気持がなくなってしまいます。
エドガーぼっちゃまは、おおっぴらに嵐が丘をたずねて来るだけの勇気が、なかなか出ません。アーンショーの悪い評判に怖《おじ》気《け》をふるって、うっかり会ったら困ると思ってしりごみしていたのですが、実際は来ればいつもこちらは一生懸命でていねいにしてあげておりました。当のヒンドリー旦那さまからして、エドガーの来るわけを知っておりますから、いやな思いをさせないように気をつけて、たとい上品なもてなしはできないまでも、じゃまはしなかったのです。私は、来られることをきらっているのはキャサリンのほうだったと思っております。あの子はおじょうずのできない性質《たち》で、男をだます手《て》管《くだ》などを使ったことはございませんから、たしかにふたりの男友だちが会うことがいやでならなかったように思われます。たとえばヒースクリフがリントンのいる前でさげすむようなことを申しましても、いないときのように相づちを打つことができませんし、リントンのほうがヒースクリフに対して嫌《けん》悪《お》や反感を示すときは、自分の幼な友だちをけなされたところで、それが自分になんの関係もないことだというふうなのんきな気持で、相手の感情を取り扱うことができないことになります。そんなふうに困ったり何やかやと苦労したりしているのを、私は幾度も笑ってやったものですが、私にからかわれたくないと思っても、嬢さまには、その苦労や困惑を隠しおおせないことが多うございました。私もずいぶん意地が悪かったようにお聞きになるかもしれませんですけれども、実は嬢さまのほうが高慢すぎましたので、一度きれいな気持で謙遜《けんそん》な心に生まれ変って下さらなければ、難儀を見てもお気の毒だとは正直なところ思えなかったのでございます。また結局、嬢さまも心を打ち明けて私に話す気になりましたが、あのかたの相談相手になる者は、ほかには一人もおりませんでしたもの。
ヒンドリー旦《だん》那《な》さまが、ある日の午後、家《うち》をあけました。ヒースクリフは自分で勝手にそのあいだだけ仕事を休むことにしました。たしかそのとき十六歳になっておりましたでしょう、器量も悪くはありませんし、頭も人並みより劣ってもおりませんのに、心も外形《うわべ》も、ひとからいやがられるようにわざと骨を折ってるようなところがございました。(いまのあの人にはそんなところは少しも残っておりませんですが)何よりも、そのころはもう、小さい時分の教育のおかげで得たものをすっかり失っておりました。絶えず朝早くから夜おそくまでつらい仕事をしているため、以前は持っていた知識欲や、書物や学問への執心もなくなっております。大旦那さまに目をかけられて子ども心に注ぎこまれた優越感も薄らぎました。キャサリンに勉強の上で負けまいと思って、長いあいだ苦しみましたが、とうとう追いつけなくなったことは、口にこそ出しませんが胸のえぐられるほどくやしいことでしたろう。けれどももう追いつけないとなるとすっかりあきらめてしまいました。どうしてもいままでの自分の程度より下へ下がらねばならぬことと気がついてからは、誰が勧めても向上するようにしむけることはできませんでした。精神的な堕落と調子を合わせて、見た目まで変ってきました。歩き方もだらしなく、顔つきも下品になりました。生まれながらの遠慮がちな傾向がひどくなって、無愛想な交際ぎらいが馬鹿《ばか》かと思われるほど極端になり、少数の知人たちにほめられるよりも反感をもたれるほうに、陰惨な楽しみを感じるように見えました。
仕事を休んでいる合間合間には、やはりキャサリンと始終いっしょになっておりましたが、口に出して好きだと言わなくなり、嬢さまが女の子らしく彼を愛《あい》撫《ぶ》したりしても、おれみたいな者にそんなに、やたら愛情のしるしを見せてくれたってなんにもなりゃしないよ、と言わぬばかり、ふくれかえって逃げるようにしりごみするばかりでした。いまお話ししましたとおり、ヒースクリフはきょうは遊ぶつもりだと言おうと思って家の中へはいって参りましたが、ちょうどそのとき私はキャシーさんの着つけのお手伝いをしておりました。嬢さまは実はヒースクリフが怠ける考えを起こすことを勘定に入れていなかったものですから、家の中は全部自分が勝手に使えると思いまして、エドガーぼっちゃまに兄さまが留守になることを、どういうふうにしてか存じませんが、とにかく知らせまして、待ちもうけて支度をしていたところなのです。
「キャシー、きょうはなにか用があるの?」とヒースクリフが訊きます。「どこかへ行くのかい?」
「いいえ、雨が降ってますもの」と嬢さまは答えます。
「そんならどうしてそんな絹の服《フロック》なんか着てるの? まさかだれか来るんじゃないだろうね?」
「どうだか知らないけど」嬢さまはまごつきました。「だけれどヒースクリフ、あんたは畑へ行ってなきゃいけないんでしょ? お昼御飯がすんで一時間もたったわよ。あたし、もう行ったものとばかり思ってたわ」
「ヒンドリーのやつがいなくて、あいつの罰あたりな目からのがれられるなんて、そうザラにないことだからな」少年が申しました。「きょうはもうこれきり働かないつもりさ。きみといっしょにいようと思うんだ」
「あら、でもジョーゼフが言いつけるわよ。やっぱり行ったほうがいいわ!」
「ジョーゼフはペニストンのがけの向こう側で、石灰を車に積んでるよ、暗くなるまでかかるだろうから、わかりっこないさ」
言いながら、ヒースクリフは煖炉のほうへぶらぶらと近づいて、腰をおろしました。キャサリンは眉《まゆ》をしかめて、ちょっとのあいだ、考えておりました――どうしてもこれから来る人たちのため、じゃまを払っておかなきゃならないわ、そう思って、たっぷり一分ほど黙ってましたが、やっと「リントンの家のイザベラとエドガーがきょうのお昼過ぎに来るようなことを言ってたのよ」と申しました。「この雨だから、たいていは来ないだろうと思うのよ。でもひょっとしたら来るかもしれないし、来たとすると、また怠けたってガミガミおこられる種をまくことになるわね」
「エレンにそう言って、きみは用があるって言わせるんだ、キャシー」ヒースクリフはがんばります。「あんなくだらない馬鹿な友だちのためにぼくを追い出さないでおくれよ!ときどき、ぼくは我慢できなくて、きみに不平を言いたくなることがある――あいつらは――いや、よそう――」
「あいつらは――どうだっていうの?」困りきった表情で相手をみつめて、キャサリンは叫びましたが、「あら、ネリーったら!」八つ当りに、頭をはげしく振って私の手をふりほどきながら言い足しました。「おまえ、むやみに梳《す》くから、巻き髪が延びてしまったじゃないの! もうたくさん、ほっといてちょうだい。じゃあヒースクリフ、あんたは、いまどんな不平を言おうと思ったの?」
「なんにも言いたかないよ――あの壁の暦を見てくれさえすればいい」窓に近くわくに入れて掛けてある紙を指さして、「――十字がつけてあるのは、きみがリントンのやつらといっしょに過ごした晩で、点の打ってあるのがぼくとの晩だ。わかった? ぼくは毎日しるしをつけてるんだ」
「わかったわ――ずいぶん馬鹿げてるわ、まるであたしがそんなことを気にかけていたみたいじゃないの!」すねた調子でキャサリンは答えました。「それで、あんなことをするわけはなんなの?」
「ぼくが気にかけてるってことを見せるためさ」ヒースクリフが申します。
「だからあたしはいつでもあんたといっしょにいなければならないの?」ますますジリジリして、嬢さまは問いかけました。「それがあたしになんのとくになるの? あんたがなんの話をするの? あたしをおもしろがらせようと思って、あんたが言うことは唖《おし》みたいだし、あんたのすることは赤ん坊みたい、たいていそのどっちかだわ!」
「キャシー、いままできみは、ぼくが口数が少ないとか、ぼくと遊ぶのはいやだとか、一度も言ったことはなかったぜ!」ひどく逆上して、ヒースクリフは叫びました。
「なんにも知らない、言わない人じゃ、遊び相手にならないわ」キャシーがつぶやきました。
男の子は立ち上がりました、が、それ以上、自分の気持を言葉に表わす暇がございません。敷石の上に馬《ば》蹄《てい》の音が聞こえ、静かに戸をたたいて、思いがけなく呼び出しをうけたうれしさに顔を輝かせたリントン少年が、はいってきたからでございます。はいってくる者と、出てゆく者と、この二人の男友だちのへだたりはたしかにキャサリンの目に強く焼きついたようでした。その対照は、荒れさびれたばかりの泥炭《でいたん》地方に、美しく実り豊かな平野がとって代るのにも似ておりました。そして声や挨拶《あいさつ》の仕方も、その姿と同じように正反対でございました。エドガーさんはきれいな低い声でお話をなさる方で、発音はあなたさまに似ておりました。この土地の私どものようにガサツでなく、ずっと柔らかでした。
「ぼく、早すぎなかったかしら、どう?」私のほうをちらっと見ながら言いました。私はお皿《さら》をふいて、それから食器棚《だな》のすみのほうの引出しをお掃除しておりました。
「いいえ」キャサリンが答えまして、「ネリーや、おまえそこで何してるの?」
「ご用をしていますよ。嬢さま」と私は答えました。(ヒンドリー旦那から、リントンがこっそりたずねてきたら、いつも第三者になって立ち会ってくれと、私は仰《おお》せつかっておりましたんです)
嬢さまは私の後ろへ来て、じれて、小声で、「布《ふ》巾《きん》ごとあっちへ行ってちょうだい。お友だち同士が居間にいるとき、召使がその部屋で洗ったりふいたり、やり始めるものじゃないわよ!」
「旦那さまがお留守だからちょうどいいと思いましてね」私は大きな声で返事しました。「旦那さまのいらっしゃるところで、あたしがこんなことセカセカやりますと、とてもおきらいになるんですよ。エドガーぼっちゃまだったら、きっと許してくださるにちがいありませんわ」
「あたしのいるところで、おまえにセカセカされるのは、あたしがきらいなの」嬢さまは、お客にもの言うすきを与えぬように、たかびしゃにきめつけましたが、さっきヒースクリフとちょっと口論してから、まだ平静を取り戻《もど》しかねていましたのです。
「どうもすみませんですわね、キャサリン嬢さま」こう私は答えまして、せっせと用をつづけておりました。
キャサリンは、エドガーには見えないと思ったのでしょう、私の手から布巾をひったくって、腕のところをつねりましたが、さも憎らしそうに、いつまでもギュウギュウとねじるようにつねるんですの。前にも申しましたように、私はあの子を愛していませんで、ときどき見え坊のお面をはがしてやるのを、楽しみにしていたくらいですが、そればかりでなく、つねられた痛さもひどく痛いので、突いていたひざを急に起こして、叫び立ててやりました。「ああら、お嬢さまったら、意地の悪いいたずらなさるんですね! つねるって法はありませんよ、こんなことされちゃ、あたしだって黙っていませんよ」
「あたしなんにもしやしないわよ、うそつき!」もう一度つねりたくて指をムズムズさせながら、怒りで耳まで赤くなって、嬢さまは叫びました。激情を隠す力が少しもなく、顔じゅう燃え上がったようになるのです。
「じゃあ、これはなんです?」論より証拠と、はっきりと腕に残った紫色を突きつけながら、私もやりかえします。
片足をどんと踏み鳴らし、ちょっとためらっていましたが、わがままいっぱいの根性が、お腹《なか》の中からうずき出すのを押え切れなかったのでしょう、ピシャリと私の頬《ほお》を打ちました。その痛かったこと、両方の目に涙がいっぱいになりました。
「キャサリン、ねえ、キャサリン」リントン少年は、自分の愛人が、虚偽と暴力という二重の過失を犯したことに大変おどろき、口を出しました。
「この部屋から出なさい、エレン!」全身、ぶるぶる震わせながら、キャシーは繰り返します。
どこへでも私の跡をついてまわるヘアトン赤ちゃんは、そのときもすぐそばの床の上にすわっていましたが、私の涙を見て、自分も泣きはじめ、「キャシーおばちゃんの意地わる」を責めてすすり上げるものですから、キャシーの憤《ふん》怒《ぬ》は、かわいそうにこの坊やのほうへ向けられまして、いきなり両方の肩をつかみ、赤ん坊が真《ま》っ青《さお》な顔になるほどゆさぶったものです。思わずエドガーは嬢さんの手を押えて、赤ん坊を助けようとしました。と、たちまち一方の手が振り放されて、あっとおどろく間もなく、その手が少年の横《よこ》っ面《つら》を打っておりました。それはどうまちがっても、冗談半分とは思えぬ強さでございました。エドガーは面くらって、後へ下がります、私はヘアトンを抱き上げて台所へ引き取りましたが、二人の衝突がこれからどういう収まりになるかを見ていたかったものですから、境の扉《とびら》はあけたままにしておきました。侮辱を受けた客は、真っ青になり、くちびるを震わせながら、帽子をおいてあるほうへ行くところでした。
「それがいいわ!」私は心のなかで申しました。「いい警告《いましめ》を受けてさっさとお帰り! 嬢さまがあんたに本性をちょっぴり見せたのは、かえって親切というものだわ」
「どこへいらっしゃるの?」扉のほうへ進み寄りながらキャサリンが訊《き》きます。
エドガーはわきへ寄って、通り抜けようとします。
「帰っちゃいけません!」押しつけて強く叫びました。
「帰るさ、帰らずにいられるもんか!」声を押えて、それに答えます。
「いいえ、いけません」扉の把《とっ》手《て》をつかんでキャシーはあとへ退《ひ》きません。「まだ帰っちゃいけません、エドガー・リントン。おすわんなさい。あんな気持であなたに行ってしまわれるのいやだわ。夜どおしみじめな気持でいなければならないし、あなたのためにみじめになりたくないんです!」
「きみにぶたれても、ぼくはおめおめここにいられるものかね?」リントンは反問しました。
キャサリンは黙っています。
「ぼくは、きみと交際するのがこわくなった。恥かしくなった。それはきみがそうさせたんだ」彼は言いつのります。「もうこれきりここへは来《こ》ない!」
キャシーの目はぬれ光って、まつ毛はきらきらまたたきはじめました。
「それにきみは、わざとこしらえたうそをぼくに言ったね?」リントンに、こう言われて、
「言いません!」やっと口がきけるようになって、大声で、「わざとこしらえたことなんか何もありません。いいわ、帰りたければ帰ってもいいわ――帰って! そしたらあたし泣いちゃうから――泣きつぶれて気絶しちゃうからいい!」
椅子《いす》のそばにひざを落して、本気で泣きはじめました。エドガーは中庭までは決心をまげず、持ちこたえましたが、そこでぐずつきました。私はいちばんここで励ましてやろうと思いまして、
「嬢さまは恐ろしくわがままですからね、ぼっちゃま」と大声を掛けました。「どこのだだっ子だってかなわないくらいですよ。早くお帰りになるほうがよござんすよ、でないとまた、あたしたちを困らせたいばっかりに気絶したりしますからね」
気の弱い男の子は、窓から横目でのぞき込みました。帰ろうとすれば帰れたのです、けれどもそれは、猫《ねこ》が、半殺しにした鼠《ねずみ》や、半分食いかけた小鳥を捨てて、立ち去ろうと思えば立ち去れるはずだというのと同じことでした。ああいけない、あれじゃ助からない――私は思いました――悪運を授かっている、自分の宿命を追って飛びついてゆく人だ! たしかにそのとおりでございました。急に引き返して、いそいで居間へはいると、うしろ手に扉をしめてしまったのです。しばらくたって、私が、旦那がひどく酔っぱらって帰ってきたから、どんな騒ぎが始まるかもしれないと(酔っぱらうといつもそのとおりなのです)知らせに行きましたときは、さっきのけんかは二人の仲をいっそう良くした結果になっておりました。つまりあのけんかが初心《うぶ》な内気さの垣《かき》根《ね》を破って、若い二人に友だちづきあいという借り衣装を脱ぎすてさせ、互いの恋を打ち明ける勇気を出させてくれたのでございました。
ヒンドリー氏が帰ったと聞いて、リントンは急いで馬のところへ、キャサリンは自分の部屋へ、てんでに逃げてしまいました。私は私で、まずヘアトン坊やを隠し、それから主人の鳥打銃から弾丸《たま》を抜き取ります。気違いじみた逆上のおりには、この銃をおもちゃにする癖がありまして、ご機《き》嫌《げん》にさからった者や、さもなくて少しよけいに目についただけでも、生命にかかわることになりがちですから、もし旦那が発砲するところまでのぼせ上がりましても、被害がないようにと、弾丸《たま》を抜いておくことを私が思いついたのでした。
主人は、聞くにたえぬほど恐ろしい悪《あく》罵《ば》を吐き散らしながらはいって参り、私がお勝手の戸《と》棚《だな》のなかへ、自分の子どもを隠そうとしている現場を取って押えました。ヘアトン坊やは、父親から野獣のようにかわいがられるのにも、狂人のように腹を立てられるのにも一様に、ただこわいという印象だけを受けておりました。つまり、かわいがられるときは、死ぬほど抱きしめられたり接吻《せっぷん》されたりする危険がありますし、おこられればおこられるで、煖《だん》炉《ろ》のなかへ投げ込まれるとか、壁にたたきつけられるとかいう難儀があります。それで坊やはかわいらしく、どこであれ私が隠れさせる場所に、少しも騒がず、じっとしているのでした。
「そら、とうとう見つけたぞ!」ヒンドリーは叫んで、私のくび筋をつまんで後ろへ引っぱりました。まるで犬の扱いです。「さあ天国から地獄まで駆けて、きさまたちはこっそりその子どもを殺そうと誓いを立ておったな。なるほど、この子がいつもおれの目にとどかないわけが、これでわかった。だが、魔王《サタン》に助けてもらって、やいネリー! おれはきさまにこの出刃を飲み込ませるぞ! こら、笑うんじゃねえ、おれは今しがたケネスのやぶ医者を黒馬《ブラックホース》沼の泥《どろ》の中へ頭を下にして押し込んできたところだ、一人殺すのも二人殺すのも同じことだから――きさまたちのうちの誰《だれ》かを殺したいんだ。殺すまではどうも胸が休まらんのだ!」
「でもヒンドリー旦《だん》那《な》さま、あたしは出刃包丁は好きません」私は答えました。「燻製《くんせい》のにしんを切ったんです。それより、よろしかったら、鉄砲で射《う》ち殺していただきたいんです」
「何を、それより地獄で鬼に食われたいだろう! ああそれがいい、食われてしまえ。イギリスのどんな法律だって、あるじが家のなかの風儀を保つことをじゃますることはできん、殊《こと》におれの家はひどいんだからな! 口をあけろ」
出刃を取り上げ、尖《さき》を私の歯のあいだに押し込みましたが、私としては、主人のこういう突《とっ》飛《ぴ》なふるまいをたいしてこわいと思ったことはございません。ペッとつばを吐いて、とてもまずいと断言しました――どんなことがあっても、食べたくないものでした。
「おお!」酔漢は私を放して、申します。「なるほど、あの恐ろしい小僧は、ヘアトンじゃないんだね。失敬した、ネリー、もしヘアトンだったら、おれを迎えに飛び出してこないで、鬼を見たようにおれの顔を見てキーキー泣きおるだけだって、生きたまま皮はいでやる値うちがある。すなおでないがき《・・》だな、こっちへ来い! お人良しの、だまされてばかりいる親《おや》父《じ》をだまくらかしたりすると、目にものを見せてやるぞ。さて、どうだ、この小僧、耳を摘《つま》んだら少しは器量が良くなると思わんか? 犬っころならきつくなる、きついものが、おれは好きだ――はさみをよこせ――きつくって、すっきりしたやつ! それに耳を大切に取っておくなんてのは、地獄にしかない気どりだ。悪魔そこのけのうぬぼれだ――人間に耳がなくたって間抜けさかげんは驢馬《ろば》に負《ひ》けをとりゃせんさ。しっ、小僧、黙れ! よし、それでよし、おれの良い子だ! 黙って、目んめをふいて――そらうれしいか、父さんに接吻《キス》しろ。なに! いやだ? 接吻しろ、ヘアトン! こら畜生! 接吻せんか! なんたることだ、こんな化け物を育てるつもりじゃなかったが! おのれ、どんなことがあっても、この餓鬼の首っ骨をたたき折ってやるぞ!」
ヘアトンはかわいそうに、父親の腕のなかで泣き叫び、足でけり、力いっぱいあばれていましたが、父親が二階へ抱いて上がって、手すりの外へ差し出したときは、泣き声は倍も大きくなりました。私はそれじゃ坊やがひきつけますと叫び立てて、子どもを助けるために駆け上がって参りました。やっとそばへ参りますと、ヒンドリーは、手すりから乗り出して、下の物音に一心に聞き入っていたので、手に子どもをかかえていることも忘れたように見えました。「誰だ?」階段の下へ、誰かの近づく足音を聞いてたずねました。それがヒースクリフの足音と私にはわかりましたので、こっちへ来るなと合図するつもりで、私も手すりから身を乗り出しました。ちょうどその私の目がヘアトンを離れた一瞬、坊やは急にはねて、不用意な父親の手のなかを離れ、落ちました。
ぞっとするこわさを味わう暇もなく、私たちは子どもが無事だったことを知りました。ヒースクリフが、ちょうど危機一髪の瞬間に、下へ来たのでした。ごく自然な衝動にうながされて、落ちてくる子どもをつかまえ、地の上へ立たせてから、いったい誰がこんなぶっそうなことをしでかしたのかと、二階を見上げました。当りくじとも知らず五シリングで富くじを手離した守銭奴が、翌日になって五千ポンドの損をしたときでも、二階にいるアーンショー氏の姿を見上げてたたずんだヒースクリフほど、ポカンとしてうつろな表情は見せませんでしょう。そこには、ことば以上にありありと、おのれの復讐《ふくしゅう》の機会をおのれが妨げる道具になったという、かきむしるほどの痛ましい苦《く》悶《もん》が現われておりました。もしあたりが暗かったら、ヘアトンの頭を階段にたたきつけてでも、この失敗を取り戻そうとしたでしょう――私、そう思います。けれども、みなヘアトンが助けられたことは、見てしまいました。私は間もなく階下へ参り、大切な大切な預かり子を、しっかり自分の胸に抱きしめました。ヒンドリーは酔いもさめて、バツが悪そうに私よりゆっくり降りてきました。
「エレン、おまえが悪いんだよ」旦那は申しました。「この子をおれの目から遠ざけておけばいいんだ。おれのそばにおいたのがいけない! どこかけがしたか?」
「けがですって!」腹が立って、どなってしまいました。「殺されるか白痴《ばか》になるかってところでしたわ! ああなんてことでしょう! この子のお母さまがお墓から、あなたの仕打ちを見にいらっしゃらないのが不思議ですわ。あなたは異教徒よりまだ悪い方――ご自分の血と肉をわけた者に、あんなことをするなんて!」
ヒンドリーは子どもに手をかけようとしました。子どもは私に抱かれていると知って、すぐこわさも失《う》せて泣きじゃくりもおさまりかけていました。それが父親の指先がちょっとさわったかと思うと、また前よりも大きくヒーッと泣き出し、痙攣《ひきつけ》でも起こしそうに身をもがきました。
「坊やにかまっちゃいけません!」私はまたつづけて、「この子はあなたがきらいです――誰だってきらいですわ――ほんとうです!お幸せなご一家――けっこうなご身分におなりでしたことね!」
「ところがもっとけっこうな身分になりそうだぜ、ネリー」この、道を踏みはずした人は、ふだんの酷薄さを取り戻《もど》して笑いました。「いまのところは、おまえは子どもを連れて向こうへ行け。それからヒースクリフ、よく聞け、きさまもおれの手のとどかない、声の聞こえないとこへ行っちまえ。今夜はきさまを殺さずにおいてやるからな。だがことによると、おれはこの家に火をつけるかもしれんから、どうなるかしらんぞ――おれの気まぐれの風の向き次第だ」
こう言いながら、戸棚からブランデーの一パイントびんを取り、大コップにつぎました。
「まあ、いけませんわ!」私は哀願するように、「ヒンドリーさま、どうぞ聞きわけてくださいまし、このふしあわせな坊やをかわいそうだと思って――たといご自分はどうなってもいいおつもりでも!」
「誰がそいつの世話をしても、おれほどひどくは扱わんさ」と答えます。
「ご自分の魂がかわいそうだと思って!」手からコップをもぎとろうと骨おりながら、私は申しました。
「いやなこった! それどころか反対に、おれの魂を作った神さまへのつらあてに、地獄へ魂を送り込むのがなにより良い気持だろうと思うんだ」神を恐れぬこの男は叫びました。「さあ、おれの魂がきれいさっぱり鬼に食われるのを祝って乾杯だ!」
酒を飲んで、もどかしそうに、あっちへ行けと私どもに申します。その言葉の末に、恐ろしい呪《のろい》の言葉を並べましたが、それはここで繰り返すことも、あとまで記憶していることもできないほど、ひどいことばでございました。
「あいつは酒で自殺ができないのだからみじめな話さ」ヒースクリフが、扉《とびら》がしまってから、口のなかで呪の言葉をまねしながら申しました。「せいいっぱい飲んでるんだが、体がいいから受けつけないんだ。ケネス先生に言わせると、ギマトンのこっち側で、あの男ほど長生きするやつはなく、白髪頭《しらがあたま》でさんざん罪をつくってから死ぬにきまってる、おれの雌馬をかけてもいいってさ。もっとも、当りまえの成行きをはずれたありがたい変事でも起これば別だそうだがね」
私は台所へはいって、かわいい坊やを寝かしつけようと、腰をおろしました。ヒースクリフは納屋《なや》のほうへ出て行きました――と私は思っておりましたのですが、あとになって、そうでなく、ただ長《なが》椅子《いす》のもたれの向こう側へ行っただけであったことがわかりました。つまり炉から離れて、壁ぎわのベンチにごろりと横になり、ずっと黙っていたのでした。
私はヘアトンをひざの上で揺すりながら子守り歌を小声で歌っておりました。
ふけて寂しい闇《やみ》の夜に
泣く嬰児《みどりご》の声きけば、
草葉のかげの母たちが……
そこへキャシー嬢さまが、いままで自室でこちらの騒ぎを聞いていましたのですが、首をのぞかせて、小声で――
「ネリー、おまえひとり?」
「はい、嬢さま」と私は答えました。
嬢さまははいって、炉のほうへ寄ってきました。何か私に話すつもりだと思いましたので、顔を上げますと、ひどく困ったような心配そうな表情をしています。くちびるは何か言おうとするように半分開いて、息を一つ吸い込みましたが、それが言葉にはならず、ため息になって出てしまいました。ついさっきの嬢さまの仕打ちをまだ忘れてはいませんから、私はそのまま子守り歌を続けました。その歌をさえぎって、
「ヒースクリフはどこ?」
「厩《うまや》で働いてるでしょう」
この私の返事に、本人が、いや、ここだよ、とも言いませんでしたのは、たぶん眠り込んでいたからでしょう。そのあと、また長いこと無言がつづきましたが、そのあいだに、キャサリンの頬《ほお》から床石の上へ、一滴《しずく》か二滴《しずく》か、涙が落ちるのを見ました。あの恥かしい行ないを、すまないと思っているのかしら? (私はひとりで考えます)そうだとすると珍しいことだわ――だけれど、その話をきり出すなら、勝手にきり出すがいいんだわ、あたしはお手伝いはしてやらない――やりませんとも、何につけても、自分のことでなければ少しだって心配しない人だから。
「ねえ、おまえ!」とうとう嬢さまは言い出しました。「あたしとても悲しいの!」
「お気の毒ですね、あなたは気むずかしいんですね、お友だちはたくさんあって、苦労は少なくて、それで満足ができないんですもの!」
「ネリー、おまえあたしのために秘密を守ってくれる?」
嬢さまは私のそばにひざをついて、あの愛らしいひとみで私の顔を見上げています。その目を見ればどれほど正当な理由があっておこっていたいと思っても、その腹立ちを吹き飛ばされてしまうのです。
「守るほどの値うちがありますの?」少し機《き》嫌《げん》をなおして訊《き》き返しました。
「もちろんよ、そのためにとてもあたし悩んでるの、だからどうしても言わずにいられないの! ねえ、あたし、どうしたらいいか、知りたいのよ。きょうね、エドガー・リントンに結婚してくれって言われたの、それであたし返事をしちゃったの。それでねえ、あたしが承知をしたか、いやって言ったか、それを言う前に、どっちの返事をすればよかったのか、言ってちょうだい!」
「ほんとにまあ、キャサリン嬢さま、あたしにどうしてそんなことがわかるでしょう?」私は答えます。「そりゃね、昼間あの方の前であんたのなすったことを考えると、お断わりするほうが利口かもしれないと思いますよ。だって、あんなことのあとで結婚を申し込むなんて、あのぼっちゃん、とても見込みのない間抜けか、よっぽど向こう見ずの馬鹿《ばか》か、どっちかにきまってますものね」
「おまえがそんなふうに言うんなら、あたしもうなんにも言わない」プリプリとそう言って立ち上がりかけました。「あたし承知したのよ、ネリー。さ、早くそれがまちがってたならまちがってたと言って!」
「承知なさったんですね! そんなら良いか悪いかなんて言ってみたってしようがないじゃありませんか? 誓いの言葉を言ってしまったんですから、取消しはききませんよ」
「でも、それでよかったかどうか、言って――言ってってば!」いらいらした調子で嬢さまは叫びました。両手をふりしぼり、顔をしかめています。
「その問題に正しい答えをする前に、考えてみなければならないことが、たくさんありますからねえ」四角ばった先生口調で、私は申しました。「まず第一、何より先に、あなたはエドガーさんを愛していますか?」
「誰が愛さずにいられるでしょう! もちろん、愛しててよ」
さてそれから私は、次のようにこまごまと、嬢さまを問いつめました。やっと二十二の生《き》娘《むすめ》にいたしましては、この教条問答《カテキズム》はまあ上出来の部でございましたでしょう。
「どういうわけで、エドガーさんを愛するんですか、お嬢さま?」
「つまんないことを――愛してるのよ、それでたくさんじゃないの」
「たくさんなことはありません。わけを言わなきゃ駄目《だめ》」
「じゃ、言うわ、そのわけはね、美男だから、いっしょにいると好《い》い気持だからよ」
「落第!」私は批評しました。
「それからね、若くて朗らかだから」
「なお落第!」
「そしてあたしを愛してるから」
「いまごろそれを言ってもおそいから、やっぱり落第!」
「そして彼はいまにお金持になるでしょうし、あたしはこの界隈《かいわい》切ってのえらい奥さまになれたらうれしいし、そんな夫が持てたら、人に自慢ができるから」
「それが一番いけない答えです。ではその次に、あなたはどんなふうに、彼を愛しますか?」
「みんなと同じに愛してるわ――あら、馬鹿ねえ、ネリーったら」
「ちっとも馬鹿じゃありません――さあお答えなさい」
「あたしは彼の踏む土も、頭上の空も、彼の触れるいっさいの物、彼の語るいっさいの言葉を愛します。彼のあらゆる姿、あらゆる行動、彼の全体、彼の隅《すみ》から隅までどこもかも、みんな好きなの。さあ今度はどう?」
「では、そのわけは?」
「いやだ、おまえは茶化してるんだわ、そんな意地の悪いことってない! あたしにとっては冗談じゃないことよ!」嬢さまはおこって炉のほうへ顔を向けました。
「冗談どころではありませんよ、キャサリンさん、あたしはまじめですよ――よくって? あなたはエドガーさんが良い男で、若くて、朗らかで、お金持で、そしてあなたを愛してるから、彼を愛するのね。けれども、最後の理由は、なくっても同じことだわね。あなたを愛さなくてもあなたは彼を愛するでしょうし、前の四つの魅力を持っていなければ、第五の理由があったところで、あなたは好きにならないでしょうから」
「ええ、そりゃそうにきまってるわ、もしあの人がみにくかったり、道化者みたいだったりしたら、たぶんかわいそうだと思うだけで――いいえ、かえって嫌《きら》うだろうと思うわ」
「けれども、世の中にはほかにも美男でお金持の若い人が幾人かはいますよ、エドガーさんより美しい男だっていないとは言えないし、お金持ならきっといます。そういう男たちを愛することだってできるはずじゃなくて?」
「いるにしたって、あたしの目のとどくところにはいないわ! エドガーみたいな人に会ったことないんですもの」
「いまに会うかもしれませんよ。それにあの方だって、いつまでも良い男で若くてはいないでしょうし、いつでもお金持だとも限りませんよ」
「でも今はそうだわ、あたしはいつだって現在のことしか考えないわ。もう少し筋のとおったことを言ってもらいたいわね」
「よござんす、それでちゃんときまりました――あなたが現在のことだけしか考えないのなら、リントンさんと結婚なさい」
「何もおまえに許可してもらいたいんじゃないわ――結婚するにきまってるんだから。だけど、あたしがまちがっていないかどうかは、おまえまだ言わないわよ」
「ちっともまちがっていません――現在のことだけ考えて結婚することがまちがっていないとすればね。そこでこんどは、なんであんたが悲しいのか、それを聞こうじゃありませんか。お兄さまはきっとお喜びになりますわ。向こうのご両親も反対はなさらないでしょうと思います。あなたはごたごたした、楽しいことのない家庭から抜け出せて、裕福な、ひとの尊敬する家庭にはいれます。あなたはエドガーを愛し、エドガーもあなたを愛しています。万事すらすらとうまく行きそうに見えるじゃありませんか――どこに困ることがあるんです?」
「ここ《・・》によ! それからここ《・・》によ」キャサリンは、一方の手で自分の額を、他の手で胸をたたきながら答えました。
「魂がそのどっちに住んでるのか知らないけど――あたしの魂と心とは、どっちもあたしがまちがってるって、はっきりあたしに教えるの!」
「おかしいですわねえ! あたしには解《げ》せませんねえ」
「それが秘密なのよ。だけどおまえがからかいさえしなければ、それを説明するわ――ただハッキリとは説明できないけど、どんな気持か、思ってる感じをおまえに話すわ」
嬢さまは、もう一度私のそばにすわりました。表情はさっきよりも悲しそうに、ずっとまじめになりまして、握り合わせた手がふるえておりました。
「ネリー、おまえは妙な夢を見たことはない?」しばらく考えたあと、彼女は急に言い出しました。
「ありますわ、ときどきね」
「あたしもそうなの。いままでに見た夢でいつまでも心に残ってる夢がいくつかあるの。そういう夢は、あたしの考え方まで変えてしまうの――水に落した葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》のように、あたしの心にどこまでもどこまでもしみとおって、あたしの心の色を変えてしまったの。これから話すのも、そういう夢の一つなんだけど――ただどんな変なところがあっても笑わないようにしてちょうだいね」
「おお! よして、キャサリン嬢さま! そんな幽霊だの幻影だので呪文《じゅもん》にかけられて途方に暮れなくっても、けっこうあたしたちは陰気すぎるくらいじゃありませんか? さあ、もう元気を出していつものあなたみたいにおなりなさいよ! ヘアトン坊やをごらんなさい! いやな夢なんか一つも見ないから、眠ってて、ほら、なんてかわいらしい笑顔をするんでしょう」
「ほんとね、そしてまたこの子のお父さんはひとりぼっちで、なんてかわいい悪態をつくんでしょうね! おまえは覚えているだろうけど、兄さんにも、ちょうどこの子のように、まるまると肥《ふと》った赤ちゃんだった時があったのね。だけれどネリー、たのむから聞いてちょうだい――長い話だけど、今夜はとても朗らかになれそうもないんだから」
「聞きたくありません、聞きたくありません!」急いで私は繰り返しました。
そのころから、いまもそうなんですけれど、私は夢については迷信深うございましてね、キャサリンの様子がいつになく陰鬱《いんうつ》だったので、何かいやな前兆を考えるか、恐ろしい破局の予感を持たされるか、そんな気配を感じ取りまして、気味が悪くてなりませんでしたのです。嬢さまはちょっとおこったようでしたが、話は始めませんでした。やがて、ほかの話を始めるようなふうで、また言い出しました。
「もしあたしが天国へ行ったらねえ、ネリー、あたしとてもみじめだろうと思うわ」
「あなたが天国へゆくがらでないからでしょう。罪びとはみんな天国へ行ったらみじめですよ」
「でもそういうことじゃないのよ、天国へ行った夢をみたことがあるのよ」
「夢の話は聞きません、キャサリンさん! あたし行ってもう寝ます」こう言って、もう一度私はさえぎりました。
嬢さまは笑って、椅子から立ち上がろうと動きかけた私を引き留めました。
「なんでもないことなの、ただ天国ってところは、あたしの住むところじゃなさそうだと言いたかっただけ。だからあたしは、地上へ帰りたくて、胸の張り裂けるほど悲しんで泣いてたの。天使たちがとてもおこって、嵐が丘のてっぺんの荒地《ヒース》のまんなかへあたしを投げ落したの。で、そこで、うれし泣きに泣いてるところで目がさめたの。ね、このことも、さっきの天国の話と同じで、あたしの秘密を説明する役に立つと思うのよ。エドガー・リントンと結婚するなんてこと、あたしにとって問題じゃない、それはちょうど、あたしが天国にいる必要のない人間だということと同じだわ。そして、あっちの部屋にいるあの悪人が、ヒースクリフをあんなに卑《いや》しくさせてしまわなかったら、そんなことも全然考えずにすんでいたでしょう。いまじゃヒースクリフと結婚するのは、あたしの落ちぶれることだもの。だから、どんなにあたしがあの子を愛していても、それをあの子に知らせてはならないの。ヒースクリフがきれいだからでなく、ヒースクリフこそは、ねえネリー、あたし以上にほんとうのあたしなのだから愛しているのだってこともね。魂ってものがなんでできてるものか知らないけど、あの子とあたしは同じ魂を持ってるんだわ。リントンの魂とは、月の光と雷光《いなずま》、霜と火ほど違ってるわ」
この長い話の終らぬうちに、私はヒースクリフのいることに気がつきました。軽い身動きに気がついて、そのほうを振り向きますと、ベンチから起き上がって、音もなくこっそり忍び出て行くところでした。キャサリンが、自分と結婚するのは「あたしの落ちぶれることだ」というところまで聞いて、もうそれ以上とどまって聞こうとはしなかったのでした。キャサリンは床にすわっていましたので、長椅子の高いもたれにさえぎられて、ヒースクリフのいたことも出て行ったことも知らずにいましたが、私はギョッとしまして、思わず嬢さまにシッと申しました。
「何よ?」気づかわしそうに目を見はって、あたりを見まわしながら、訊《き》きますので、
「ジョーゼフが来ましたよ」ちょうど道路のほうに荷馬車の音が聞こえたのをしおに、答えまして、「ヒースクリフもいっしょに帰ってくるでしょうよ。いまだって戸口のところにいないとも限りません」
「あら、扉《とびら》のところからじゃ、あたしの声を立ち聞きできるはずないわ! ヘアトンをあたしに抱かせて。おまえが晩御飯の支度するあいだ、預かるわ。そして支度ができたらばあたしにもお相伴させてよ、あたしは自分の落着かない良心をだましたい、ヒースクリフがいま話したようなこと、何も気がついていないということにしたいの。まさか気がついてやしないでしょうね? 恋なんてどんなものか、あの子は知らないわね?」
「あんたが知ってるなら、あの子だって知らない道理はないと思いますねえ。そして、もしあなたがあの子の意中の人だとしたら、あんな不幸な男はほかにないでしょうね! あなたがリントンの若奥様におなりになるときは、あの子が幼な友だちも恋人も、いっさいがっさい、みんな失《な》くするときですわ! あなたはあの子と別れるとき、どんなに自分がつらいか、あの子のほうはこの世にひとりぼっちに投げ出されて、どんなつらい思いをするか、考えてみたことがありますか? なぜというとね、キャサリン嬢さま――」
「あの子がひとりぼっちで投げ出されるって! あたしたちが別れるって!」いかにも腹立たしそうに、険しい声で嬢さまは叫びました。「いったい誰《だれ》があたしとあの子とのあいだを裂くっていうの? そんな人があったらミロみたいな目に会わせてやるわ! あたしが生きてるかぎり、別れやしないわ、エレン、たとい誰のためにだって――リントン家の人たちがひとり残らず溶けて、地の底へ消えちゃったって、あたしにヒースクリフを見捨てさせることはできやしない。そうですとも、とんでもない、あたしの考えはそうじゃない――そんな意味ではないのよ! もしそんな代償を払わなければならないなら、誰がリントン夫人なんかになるものですか! これから先も、これまでずうっと長いあいだと同じように、ヒースクリフはあたしにとって大切な人。エドガーもいまの反感を捨てて、せめてあの子に寛大になってやらなきゃならないわ。またあたしの本当の気持を知ったら、きっとそうなってくれるわね。ネリー、やっとわかったわ、おまえはあたしを自分勝手な女だと思ってるでしょう? でも、おまえは気がつかないのかしら――もしヒースクリフとあたしとが結婚したら、二人とも乞《こ》食《じき》になるほかないってことに? リントン家へ嫁入ってこそ、あたしはヒースクリフも守り立ててやれるし、兄さんの束縛から脱け出させてやれるんだもの」
「あなたの旦《だん》那《な》さまのお金で? でもキャサリン嬢さま、あなたが当てにするほど、エドガーさんもお人良しじゃありますまいよ。それに、あたしが言ってはなんですけれど、リントンさんの若奥さんになる動機としては、今まで挙げたなかで、それが一番いけないと思いますわ」
「そんなことないわ、一番いい動機だわ」嬢さまは負けずに、「ほかのはみんなあたしの気まぐれを満足させるだけのことだし、エドガーのためにも、エドガーを満足させるだけ。ところがこの動機は、エドガーとあたしとのことについてのあたしの気持を、身をもって理解してくれる人のためのものなの。あたしにはうまく言えないけど、おまえにしろ誰にしろ、自分以上の『自分の生命』がある、またはあらねばならぬ、という考えはみんな持ってるでしょう。もしあたしというものが、ここにあるだけのものが全部だったなら、神があたしをお造りになったかい《・・》がどこにあるでしょう? この世でのあたしの大きな不幸は、みんなヒースクリフの不幸だったし、はじめからあたしはその両方を見て、感じてきた――生活の中であたしの養ってきた大きな思想が、ヒースクリフその人なのです。もしほかのすべてが滅びて、『彼』だけ残ったとすれば『あたし』もまだ存在しつづけることでしょう。そして他のものが皆残って彼だけがなくなったら、この宇宙は一個の大きな他国になって、自分がその一部だという気はしなくなるでしょう。リントンさんへのあたしの愛情は森の茂り葉みたいなもので、冬が来れば樹《き》の姿が変るように、時がたてば変ることをあたしはちゃんと知っている。ヒースクリフへの愛は、地底の永遠の巌《いわお》に似て、目に見えなくても、なくてはならぬ喜びの源なのです。ネリーや、あたしはヒースクリフです《・・》! あの子はいつも――あたしの心の中にいる。あたし自身があたしにとって必ずしもつねに喜びではないのと同じことで、あの子も喜びとしてでなく、あたし自身として、あたしの心に住んでいるのです。ですから、あたしたちが離れ離れになるなんてことは、もう二度と言わないでちょうだいね、そんなこと実際に起こるはずがないんだから、そして――」
嬢さまはそこで言葉を止め、私の上着の襞《ひだ》に顔を隠しましたが、それを私はじゃけんにはねのけました。あまり馬鹿げた考えに我慢ができなくなりました!
「もしあなたのわけのわからない話の中で、あたしにわかったことがあるとすれば、あなたは結婚によって負うべき義務について何もご存じないか、さもなければ、あなたという方は心のねじけた、道を知らない娘さんなのか、どっちかだと思うほかはありません。でももうこれ以上、秘密々々であたしを困らせないで下さいよ、秘密を守るというお約束はしませんからね」
「いやだわ、守ってくれるでしょう?」嬢さまは一生懸命に頼みます。
「いいえ、お約束しません」私は繰り返します。まだそれでも一心に口説こうとしていましたけれど、ちょうどジョーゼフがはいってきたので、長話はおしまいになりまして、キャサリンは隅のほうへ席を移してヘアトンのお守りをしますし、私は晩御飯をこしらえにかかりました。料理ができてから、ジョーゼフと私とは、だれがヒンドリー旦那のところへ食事を運ぶかで言い争いをはじめました。が、料理がすっかりさめてしまっても、まだその決着がつきません。それでとうとう、旦那はもし食べたかったら自分でそう言うだろうということで相談がまとまりました。これはつまり、私たちが、ヒンドリーのしばらくひとりきりでいたところへはいって行くことを、特に恐れておりましたからです。
「あの馬鹿野《ばかや》郎《ろう》、いま時分になっても野良《のら》から帰《けえ》らねえとは、どうしたもんだ? 何してやがるだ? 大たわけが!」ヒースクリフをさがしても見えないので、爺《じい》さんが申します。私が、
「呼んできましょう、きっと納屋《なや》にいるんでしょう」と答えて、行って呼んでみましたが、返事がございません。帰って参りまして、キャサリン嬢さまに、小声で、あの子は嬢さまの話をあらまし聞いてしまったに違いありません、実は私は旦那さまのあの子に対する仕打ちについて、あなたが恨みを言っていらっしゃった、ちょうどあのときここを出て行くのを見たのです、と話してしまいました。嬢さまはひどく驚いて飛び上がって、長《なが》椅子《いす》の上にヘアトンをほうり出し、自分で幼な友だちを捜しに走り出てしまいました。あまり驚いたので、なんでそんなに自分が狼狽《ろうばい》するのか、さっきの話がヒースクリフにどんな感じを与えたか、そんな分別をする余裕もなかったようです。いつまでたっても帰ってきませんのでジョーゼフが、待っていないで寝てしまおうじゃないか、と言い出しました。きっとあいつらァおれの食前のお祈りが長すぎるんで、逃げ出しただから、すむまでは帰って来ねえつもりだよ、なんて皮肉を申しまして、「まったく性質《たち》が悪いから、どんな悪いことだってやりかねねえ」ときめつけました。そして今晩は、いつもの十五分間のお祈りのほかに、あの子らのために特別のお祈りをして、なおその上に食前祈《き》祷《とう》のおしまいへ、もう一つ別のを継ぎ足そうとしているところへ、嬢さまが息せき飛び込んできまして、ヒースクリフが道を突っ走ったに違いないから、どこまででもかまわない、見つけしだいに家へ連れ帰っておくれと、早口で言いつけました。
「あたしあの子に話がある。どうしても《・・・・・》! 寝る前によ!」嬢さまは申しました。「それに門もあいてる。呼んでも聞こえないほど遠くへ行っちゃったんだわ。だってあたしがやぎ小屋のさきまで行って、声の出るだけ大きな声で呼んでも返事しないんだもの」
ジョーゼフははじめいやだと申しましたが、嬢さまは一生懸命ですから、逆らったところでうなずきはしません、で、しぶしぶ帽子を頭にのせて、ぶつくさ小言を言いながら出て行きました。そのあいだにもキャサリンは部屋の中をあちこち歩きながら、口走っています――
「ほんとにどこへ行ったのかしら――どこへも行くはずはないのにねえ! あたし何を言ったのかしらねえ、ネリー? すっかり忘れちゃったわ。お昼からのあたしの機《き》嫌《げん》が悪かったので腹を立てていたの? ねえ! 教えてよ、あの子が悲観するようなことをあたしが言ったの? ああ帰ってくれればいいんだけど――どうか帰ってくれますように!」
「何をつまらないことで大騒ぎなさるんですよ!」私はたしなめましたが、自分でも少し心配でした。「何もそんなにびくびくするほどのことじゃありませんよ。ヒースクリフが月夜の荒野《ムーア》をぶらついたり、あたしたちと口をきくのがいやで干し草置場で寝ころんでいたからって、そんなに騒ぎたてるほどの大事件じゃないじゃありませんか。きっと干し草小屋に隠れてるんです、いま捜し出してあげますから見ていらっしゃい!」
こう言ってまた捜しに参りましたが、残念ながら見つかりません。ジョーゼフの捜索の結果も同様でした。
「あの若僧は、日ましに悪くなりくさるぞ!」帰って来ての爺やのことばでした。「門いっぱいあけっぱなしで出て行っただから、嬢さまの子馬ァ麦を二畝《うね》も踏み倒して牧場のほうへふらふら行っちまうし! なんにせよあすの朝は旦那がまた大おこりだ――おこるのも無理はねえだ。あんな投げやりなやくざものをよくも辛抱しなさる――ほんに辛抱づええ方だわ! だからとてそういつまでもつづくもんでねえぞ――みんなも今に見るがいいだ! 旦那をおこらせて暴れられたら、おまえ方、どんな目に会うだか!」
「ヒースクリフは見つけたの、おまえは? 馬鹿爺や!」嬢さまがさえぎって、「あたしが言いつけたように捜しに行ったの?」
「馬なら捜してもいいだがね」という返答です。「そのほうがずっと間尺にあうだ。したが、馬だろうが人間だろうが、こんな真っ暗な、煙突の中みてえな晩に捜せるもんではねえでがすよ。それにわしが口笛吹いたぐれえで、あの野郎は出ては来《こ》ねえ――おまえさまだったら来るかもしれねえがね!」
夏にしてはひどく暗い晩でございました。雷になりそうな雲ゆきなので、私は、雨になりそうだから、降ってくればどうせ帰るから、捜しまわらずにここにすわっていたほうが良いでしょうと申しました。けれども嬢さまはなかなか落着いていませんで、内と玄関とのあいだをしきりに行きつ戻《もど》りつしまして、少しのあいだもじっとしていられないほど興奮しております。とうとう、道路に近い塀《へい》の片側にたたずんでしまって動かなくなりました。私が申すことにも、だんだん強くなる雷の音にも耳を傾けませんで、やがて大粒の雨がばらばら降り出したのもかまわず、いつまでもそこにたたずんで、それからわッと手放しで泣き出すのでした。実際、嬢さまの感情の激したときの大泣きには、ヘアトン坊やだって、どこの赤ちゃんだって、とてもかなわないくらいでございましたからね。
真夜中ごろ、私どもはまだ起きておりましたが、嵐《あらし》はすさまじい勢いで丘の上に襲って参りました。雷ばかりか風も激しくなり、家の建物の隅《すみ》に近い一本の木が、風にか雷にか打ち折られました。大きな枝が屋根に落ちてきて、東側の煙突の先をこわしましたから、台所の炉の中へ、ガラガラと石やら煤《すす》やらが落ちて参りました。私どものすわってるまんなかへ雷が落ちたかと思ったほどでございます。ジョーゼフはいきなりひざを突いて、神さまどうぞノアやロトのような族長たちのことをお思いくだせえまして、たとい罪びとどもをお懲《こ》らしになりますとも、大昔のように正しいものだけはお許し下さいとお願いしております。私もこれはみなに対してのお審《さば》きかもしれないという気持がいたしました。ヨナのように神罰を受けるのは、さしずめアーンショー旦那だ、とこう思いまして、まだ生きてるかどうか、たしかめようと居間の把《とっ》手《て》を揺すぶって見ました。旦那の返事がはっきり聞こえましたが、その調子がジョーゼフをよけいにいきり立たせまして、わしのような聖徒と旦那のような罪びととのあいだには大きな区別をおつけ下さいと、前よりもそうぞうしくどなります。けれども二十分ほどの後には大雷雨も大暴風も過ぎ去りまして、みな何事もなくて済みましたが、済まなかったのはキャシー嬢さまで、強情を張って屋根の下へ入ろうともせず、帽子もかぶらず肩掛けもせずにいましたから、全身ぬれねずみで、髪も着物も水びたしです。家へはいって、そのぬれねずみのまま長椅子に横になり、みんなに背を向けて両手で顔をおおってしまいました。
「ほんとに、嬢さま!」肩に手をおいて、私、申しました。「あなた死にたいと思ってるんじゃないでしょうね? いま何時だと思ってらっしゃるの? 十二時半ですよ。さあ、さ、寝ましょう! あんなバカな子を待ってたってしようがありません、ギマトンへでも行って、泊って来るんでしょうよ。あたしたちがこんなにおそくまで待っていないぐらい、あの子だってわかりますわ――それよか、あの子のことだから、起きてるのはヒンドリーさまだけで、旦那さまに扉をあけてもらうのはよしたほうがいいくらい、察しがつきますよ」
「いいや、いいや、野郎はギマトンにゃいねえだぞ」ジョーゼフが申しました。「おらちゃあんと知ってるだ、きっと沼地の穴ぼこの底さ落ちてるだ。いまの神さまのお出ましはただごとではねえ、嬢さまも気いつけてもれえてえだ――こんどは、おまえさまの番ですぞ、ああありがてえことだわ! 神ノ選バセタマイシ塵芥《ちりあくた》ノ中ヨリ召サレタル者ノタメニハ、凡《すべ》テノコト相働キテ益トナルだ! お経にうたってあることだわ」それからまだいくつか聖書の句を並べたてまして、何書の何章何節にあるまで教えはじめたものでございました。
わがまま娘に頼むようにして、起きて濡《ぬ》れた着物を脱ぐように勧めましたが聞きませんので、私は説法している爺さんとふるえている嬢さまとをその場に残し、ヘアトン坊やといっしょに寝てしまいました。坊やは家の者がみな寝静まったときのように、すぐに眠りました。それからもジョーゼフがまだしばらくお説教をつづけているのが聞こえましたが、やがてのろのろとはしごを上がる音が聞こえ、そのあと、私も眠りに落ちました。
ふだんよりおそく下へ降りてみますと、鎧《よろい》扉《ど》のすきまからさしこむ朝日の光で、キャサリン嬢さまのまだ炉ばたにすわっている姿が見えました。居間の戸も少し開いております。あけ放した居間の窓から光が流れ込んでおります。ヒンドリーさんも起き出して、やつれた、だるそうな様子で、台所の炉ばたに立っていました。
「キャシー、どこか悪いのか?」私のはいりましたとき、ちょうどそう聞いているところで、「おぼれた犬みたいなみじめな様子じゃないか。なんでそんなに濡れて青い顔をしているのだ、え?」
「雨に濡れたんです」いやいや嬢さまは答えました。「寒いの。それだけよ」
「まあ、嬢さまにはあきれますよ!」旦那は、もう話をしてもいいくらい酒がさめていることがわかりましたので、「昨夜《ゆうべ》の大雨にずぶ濡れになりなすったんですよ。そして夜っぴて、そうやって起きていて、てんであたしの手にはおえなくて、てこでも動かなかったんですの」
アーンショー氏は驚いて私と嬢さまを見つめました。「夜っぴてだと――。なんでまた寝なかったのだ? まさか雷がこわかったからじゃあるまい? 雷はとうにやんでしまったんだ」
二人とも、隠しておけるあいだは、ヒースクリフのいなくなったことを告げたくはありません。で、私は、いったいどういう気まぐれを起こして嬢さまが夜明かししたのか、いっこうにわかりませんと答えておきました。嬢さまは何も申しません。すがすがしい、涼しい朝でございましたから、窓格《まどごう》子《し》をひろげますと、たちまち室内には花園の香気がいっぱいになりました。けれどキャサリンさんはとげとげしく、「エレン、窓をしめて、あたしは凍え死にそうよ!」そして歯をがたがたいわせながら身を縮めて、ほとんど消えてしまった燃えくずに寄り添いました。
「病気だ」嬢さまの手首をとって、「だから寝なかったんだな。畜生! 病人騒ぎはおれはもうたくさんだぞ。なんのために雨の中へ出て行ったんだ?」
「いつものことでがすぞ、男のあとを追っかけなすっただ」私たちがためらっていましたので、ジョーゼフは例の毒舌をふるう良いおりをつかまえたのです。「旦那さま、わしがおまえ様だったら、自分の良し悪《あ》しなんどかまわねえ、野郎らの鼻っ先にピシャッと閂《かんぬき》しめてやるだ! 旦那のお留守にリントンのどろぼう猫《ねこ》がこそこそはいり込まねえ日はねえ。ここにいるネリーさんがまたよく気がきく姐《ねえ》さんでがす! 台所にすわりこんで見張りしているでがす。おまえさまがこっちの扉《とびら》からへえれば野郎はあっちの扉から出るわさ。それから今度はこっちのお嬢さまも、手《て》前《めえ》からノコノコあいびきにおいでなさるだ! 夜なかの十二時すぎてから、あの薄っぎたねえ、ぞっとするような悪党のジプシーのヒースクリフの畜生と、野原をうろつきまわりなさる、ごりっぱな行状でがす! みんなわしを盲目《めくら》だと思ってるだが、はばかりながら見込みちげえだわ! ――リントンの若僧が来るところも、帰《けえ》るところも、ちゃんと見たわ、それからうぬ《・・》も(と私にほこ先を向けまして)このろくでなしの自堕落あま! 旦那の馬のひづめの音が道路のほうから聞こえるが早《はえ》えか、ひょこすか居間ん中へはいって行きゃがっただ」
「おだまり、立ち聞き爺《じじ》い!」キャサリンは叫びました。「あたしの前で生意気な口をおききでない! ヒンドリー、きのうエドガー・リントンが偶然に来ました。お帰りなさいと言ったのはあたしでした。きのうの兄さんの様子では、会わなければよかったとお思いになることがわかっていましたから」
「嘘《うそ》だ、キャシー、明らかに嘘だね、おまえも途方もないあほうだ! だが今はリントンのことはどうでもいい。おまえは昨夜ヒースクリフといっしょにいたのじゃないか! さ、本当のことを話せ。やつをどうかされると思って心配するにゃ及ばんぜ――いまだってやつを憎むことに変りはないが、やつに恩を受けてから間もないのに、くびっ骨をたたき折るのも気がとがめるからな。そんなことのないように、おれはけさ限りやつを追い出しちまう。やつがいなくなったあと、こんどはおまえたちが気をつける番だぞ。おれの癇癪《かんしゃく》がよけいにおまえたちに当ってゆくからな」
「あたし、ゆうべ、ヒースクリフには会いません」嬢さまはさめざめとむせび泣き出しました。「あの子を追い出すんなら、あたしもいっしょに出てゆきます。でも、たぶん追い出さなくても向こうが出て行ったんでしょうから、おあいにくさまだわ」ここでもう悲しみをおさえきれなくなったとみえ、泣きくずれてしまいましたが、それから先の嬢さまの言葉は、まるでしどろもどろでした。
ヒンドリーさんはひどい悪口雑言《あっこうぞうごん》を嬢さまに滝のようにあびせかけ、いますぐこの部屋を出てゆけ、行かんのなら泣くのをやめろと申しました。私がしいてなだめすかして、言われるとおりに部屋へ連れてゆきましたが、帰ってからの嬢さまの狂態を、いつまでも忘れることができません。ほんとに気が狂ってしまうかと思いまして、ジョーゼフにお医者を呼びに行ってもらいました。やっぱりそれが精神錯乱《さくらん》の始まりでございまして、ケネス先生は診察をするなり、これはひどく悪い、熱病だと言いました。瀉血《しゃけつ》をして、食べものは乳漿《ホエイ》と重《おも》湯《ゆ》だけ、階段の上や窓から飛び降りないように気をつけなさいと私に注意を与えて、先生はすぐ帰ってしまいました。教区には患家がたくさんあって、家と家とのあいだはたいてい二マイルも三マイルも離れておりますのですから。
私にしましてからがやさしい看病人とは申せませんのに、ジョーゼフや旦《だん》那《な》はなおのことで、患者のほうもわがままで手のかかること無類でしたが、とにかくどうにか切り抜けました。リントン老夫人がときどき見舞って来られまして、あれこれとやりかたを直したり、私どもみなを叱《しか》りつけたりされました。キャサリンが回復期にはいりますと、ぜひにと申されてスラシュクロス屋敷へ連れていらっしゃいました。この処置には私どもたいそう感謝いたしました。が、お気の毒に、奥さまにはこのご親切があだとなった、と申しますのは、奥さまもご主人もその熱病をうつされて、幾日と間をおかずお二人ともおなくなりになったのでございます。
嬢さまは、前以上に生意気で激情的で、そして高慢な娘になって帰ってきました。嵐《あらし》の夜このかた、ヒースクリフのことはうわさも聞こえません。ある日のこと、私はあまり嬢さまに意地悪くされたので、運わるく口をすべらせ、ヒースクリフがいなくなったのはあなたのせいですと申してしまいました。実際またそのとおりで、嬢さまもよくご存じなのです。それ以来、何カ月ものあいだ、嬢さまは普通の雇い人としてのほか、私とけっして口をきかなくなりました。ジョーゼフもご勘気を受けておりました。爺やは思うとおりのことを口に出し、相変らず嬢さまを小娘扱いして説法をしたくてたまらないのですが、こちらはもう一人前の女で、しかも女主人だという気ぐらいでいますし、また病後なのだから大切にされるのが当然だと思っているのです。つまりお医者が前に、あまり逆らうとよくない、気ままにさせておかなければいけないと申されたところから、嬢さまの目には、誰《だれ》であっても自分に向かって言葉を返したり反対したりする不敵者は人殺しと同じに見えたわけです。アーンショー氏やその飲み仲間とは少しも近づきませんでした。ケネス医師の注意と、嬢さまが時折ひどくおこったときの発《ほっ》作《さ》が恐ろしいのとで、兄さんのヒンドリーも、何事も妹の望むとおりに許して、火のような性質に油をそそぐことを避けておりました。それもどちらかというと、甘すぎるくらい妹のわがままいっぱいのムラ気を通させていた傾きがございまして、けっして愛情からではなく、見えからそうさせていた――と申すのは、実はリントン家と親類になって家の格式を高めたいのが旦那の本心でございましたので、妹が、自分のすることにさえ口出しして来なければ、召使の私どもを奴《ど》隷《れい》のように踏みつけにいたそうとも、あの人のことですからいっこう苦にはならなかったのですわ! さてエドガー・リントンは、昔からもこれからさきも、数知れぬ男がはまり込むのと同じ恋の淵《ふち》に、首まではまり込んでおりましたから、父リントンがなくなってから三年ののち、キャサリンの手をとってギマトン礼拝堂へはいって行きましたとき、この世で一番幸福な男だと思っていたことでございます。
私としてはまことに不本意なことでございましたが、しいて懇望されましたので嵐が丘を出て、キャサリンさまとごいっしょにこちらへ参ることになりました。ヘアトンぼっちゃんは間もなく五つになるところで、私はちょうど字を教えかけておりました。泣きの涙でぼっちゃんとお別れしたのですが、その涙よりキャサリンさまの涙のほうが、ずっと力が強かったことになります。私がお供を断わりまして、いくら頼んでも承知しないことがわかりますと、ご主人とお兄さまのところへ泣きついてゆきました。リントンさんは給金はいくらでも出すと言われますし、アーンショー旦那はいますぐ荷物をまとめろ、女主人のいなくなったこの家に女中はいらん、ヘアトンのほうはやがて副牧師に仕込んでもらう、とこうなのです。そう言われれば命ぜられたとおりにするよりほか、私にはとるべき道がございませんでした。旦那には、まともな人間をひとりも残さず追い出しなさるのは、この家のつぶれるのが少し早くなるだけでしょうと言ってやりました。ヘアトンには接吻《せっぷん》してさよならを申しました。それからというもの、あの子とは他人になってしまいました。考えるとずいぶん妙な気もいたしますが、あの子はたしかに完全にエレン・ディーンのことは忘れております。私にとって全世界よりも大切なのはあの子でしたし、あの子にとっても私がそうだったということも!
家政婦《ハウスキーパー》はここまで話してきて、ふと煖《だん》炉《ろ》の上の時計を見ると、驚いたことに長針は一時半をさしていた。彼女はこれ以上一秒でも長居はできないと言ったが、実はこちらも話のつづきはまたの機会に譲ってもらうほうがよかった。さておばさんも引きさがって寝たようだし、そのあともう一、二時間、夢想に耽《ふけ》っていたわけだから、僕もここいらで元気をふるいおこし、頭や節々《ふしぶし》が痛んで、だるくてたまらぬけれど、行って寝ることにしよう。
10
若隠居生活の序幕として、まことに愉快な四週間を過ごしたものだ! 病床でもだえ苦しんだ四週間! さてまた野にさむざむと吹きすさぶ風、酷薄な北国の空、歩くこともできぬ道路、なかなか来てくれぬ田舎医者! おお! そしてこの人間の顔に飢えるということ! さらに何よりも情けないのは、春までは外出できると思うなというケネス先生の恐ろしい宣告だ。
ヒースクリフ氏がいましがた見舞いに来てくれた。七日ほど前、彼はひとつがいの雷鳥を届けてくれた――季節の最後の獲《え》物《もの》だ。悪党めが! 僕《ぼく》のこの病気は、彼に責任がないと言えるか。よほどそう言ってやろうかと思った。が、ああいかんせん! ベッドのそばに一時間以上もすわって、丸薬だ、発泡膏《はっぽうこう》だ、すいふくべだという話とはちがう話をして行ってくれた親切な男に対して、そんな苦情が言えるものではあるまい? いま大変気分がいい。まだ読書するほどの元気にはならぬが何かおもしろいことを楽しむことができそうな気分だ。ディーン夫人を呼んで、あの話のあとをやってもらうなどは悪くなかろう。彼女が話してくれたところまで主なできごとはたいてい覚えている。そうだ、思い出した、おばさんの話の主人公が家出をして、三年たってもなんの消息もない、女主人公のほうは結婚したのだっけ。ベルを鳴らそう。僕が元気に話ができるようになったのを見たら、おばさんも喜ぶだろう。――ディーン夫人は来た。
「お薬の時間までは、まだ二十分ございますよ、旦那さま」
「薬なんかまっぴら、まっぴら!」僕は答えた。「ぼくのほしいものは――」
「粉薬はおやめにならなければいけないと先生がおっしゃっていますが」
「大喜びでやめます! まあぼくのいうことをじゃましないでくださいよ。ここへ来て椅《い》子《す》に腰かけてもらう。あの苦いびんどものほうへ手を出さんこと。ポケットから編み物を出して――そうそう――さてヒースクリフ氏の来歴をこの前やめたところから現在までつづけて話してください。先生は大陸で教育を終えて紳士になって帰郷したんですか? それとも大学で特待生にでもなったか、またはアメリカへでも逃げて、自分を育ててくれた国の兵隊の血を流させてあっぱれ名誉を得ましたか? あるいはもっと手っとりばやく、イギリスの街道すじで荒っぽく財産をこしらえましたか?」
「そういったようなことを、あの人は少しずつみんなやってきたかもしれませんよ、旦那さま。けれどもわたくしにはなんとも申せません。前にも一度、あの人がどうしてお金をもうけたかは知らないと申しましたが、あの家出当時の野蛮な無知のどん底から、どんな方法であれだけの頭に仕上げましたものですか、それもわたくしにはわかりません。でもまあ、あなたのお退屈しのぎにもなるのでしたらご免をこうむって、わたくしの流儀であの話をつづけさしていただきましょうか。けさはいくらかご気分がよろしゅうございますの?」
「大変いいんだ」
「そりゃようございましたね」
私はキャサリン嬢さまにつき添ってスラシュクロス屋敷へ参りました。ところが思いのほかで拍子抜けがしましたけれども同時に安心もしましたのは、私のとても予想できなかったほど嬢さまの態度がよろしかったことでございます。ご主人のリントン氏には少し夢中になりすぎているくらいに見えましたし、義妹《こじゅうと》に対してさえたっぷり情愛がありました。お二人のほうで花嫁さんのいごこちのいいようにと気を使ったことは言うまでもございません。たとえてみれば、いばらがすいかずら《・・・・・》に枝をかがめて近寄らないのを、すいかずらがいばらに巻きついて抱きしめたわけです。お互いが調子をあわせるのでなく、片方はそりかえっていて、相手の二人がからみつく形でした。反対もされず、冷淡にもされない相手に、意地を張ったり癇癪《かんしゃく》を起こしたりできるものではございません。私の見たところでは、エドガー氏は夫人のご機《き》嫌《げん》をそこねることに根深い恐れを抱いていました。夫人にはそれを隠していましたが、たとえば、私が奥さまにきつい返事をするとか、頭ごなしな言いつけに対して、他《ほか》の召使の誰《だれ》かがいやな顔でもいたしますと、ご自分のことではけっして見せない不快そうな渋面を作るので、困っているのがわかるのです。私の不作法について厳しく叱《しか》りつけられたことはたびたびで、奥さんのおこるのを見るおれの苦しみは、短剣で突き刺されたよりも激しいのだぞと、本気で言われたことでございます。やさしい旦那さまを悲しませてはわるいと思い、私もいくらか癇癪を起こさない修業をいたしまして、そんなことで半年ばかりのあいだは、破裂しやすい火薬も砂のように静かにしておりましたが、それは爆発させる火が近寄らなかったからでした。キャサリンさまはときどき、幾日も陰気に黙りこんでしまうことがございました。エドガー旦那さまもそのあいだは同情的に、なるたけ黙っているように心づかいを怠りませんでした。以前は憂鬱《ゆううつ》に陥ったことがないのだから、これは大病のせいで体質に変化があったのだと、考えていたので、奥さまの気分に明るい日ざしが戻《もど》って参りますと、旦那さまもそれに答える明るい笑顔でそれを迎えるのでした。私はお二人が本当に深い、成長する幸福を、わがものとしていたと言えるのではないかと思っております。
その幸福には終りが来ました。ほんとに、結局のところ、人間はみな自分本位になるほかにいたしかたはございませんのですね。柔和で寛大な人は、わがままな人よりもその身勝手にいくらかもっともなところがあるというだけのことですわ。二人の幸福が終りを告げましたのも、お互いに相手のしあわせを自分のしあわせより大切には考えていないことを、急に変ったことが起こったために気づかせられたからですのよ。あれは九月の、ある穏やかなうるわしい宵のことでございました、私はもぎたてのりんごの重いかごをさげて庭から帰って参りました。もう宵闇《よいやみ》がおりて、お月さまが、中庭の高い塀《へい》から顔を出して、家のあちこちの突き出た部分のすみずみに、なにか見わけにくい影を隠しているように見せております。私は、この宵のなごやかにうるわしい空気をもう少し味わおうと、かごを台所の上がり口の踏み段において、ちょっとひと休みいたしました。目はお月さまを見上げ、背中を入口に向けてたたずんでいますと、後ろから声をかけられました。
「ネリー、おまえかい?」
沈んだ声で、調子に外人のようなところがありますけれど、私の名の呼び方にはどこか耳なれた響きがあります。けれど声の主を見るためにふりかえるのが、とても恐ろしゅうございました。戸はしまっていましたし、踏み段へ歩み寄るときには、たしかに誰も見なかったのですから。入口《ポーチ》でなにか動いたようです。近寄って、黒っぽい服を着た、顔も髪も黒っぽい、ひとりの丈の高い男をそこに見ました。男は羽目板に寄り添い、自分で扉《とびら》をあけるつもりらしく、掛《か》け金《がね》を指で持ち上げています。「誰がいまごろ来るんだろう?」私は考えました、「アーンショーさんかしら? いいえ、違う! 声がちっとも似ていない」
「さっきからここで一時間も待ったよ」私が目をみはっておりますうちに、男は言葉をついで、
「そのあいだ、ずうっと、どこもまるで死んだようにしんとしていた。勝手にはいるわけにはゆかなかった。おまえにはおれがわからんのかい? よく見ろ、おまえの知らん人間じゃない」
一条の月光が、その顔の上にさしました。頬《ほお》はどすぐろく、真っ黒な頬ひげに半ばおおわれています。額は暗く、目は深くくぼんで、異様に光っています。その目には覚えがありました。
「まあ」はたしてこの世の人と思ってよいのか、迷いながら、私は叫んで、あまりの驚きに両手をさしあげ、「まあ! 帰っていらしったの? ほんとうにあなたですか? ほんとう?」
「そうだ、ヒースクリフだよ」答えながら、私から目を移して窓を見やりましたが、そこにはたくさんのきらきらする月を映していますけれど、内部からは一つの火《ほ》影《かげ》も見えません。「みんなは在宅《うち》か? あの女《ひと》はどこだ?ネリーおまえは喜んでいないね! そんなにあわてることはないぜ。ここにいるのか? 言ってくれ! 一言《ひとこと》話をしたいのだ――おまえの女主人とさ。さ、行って、ギマトンから来たある人がお目にかかりたいと言ってくれ」
「奥さまはどうお思いになるかしら?」私は叫びました。「そしてどうなさるかしら? あまりびっくりして、どうしていいか、わからないわ――奥さまは気が変になるかもしれませんよ! そしてあなたはヒースクリフさんなの《・・》ね! だけどお変りになった! いいえ、とても合《が》点《てん》がゆきませんわ、兵隊さんにおなりでしたの?」
「おれのことばを取りついでくれ」相手はいらいらして、私をさえぎって、「取りついでくれんあいだは、おれは地獄の思いなんだ!」
男が掛け金を上げました。私は家へはいりました。けれど主人夫妻のいる居間まで参りましたとき、どう考えても足が進みません。とうとう、口実を設けて、明かりをおつけしましょうかと訊《き》くことにきめて、扉をあけました。
お二人は窓ぎわにいっしょに腰をおろしていました。窓格《まどごう》子《し》が壁に向きあうほどいっぱいに開かれて、庭の木立ちや雑草の生えるにまかせた猟場《パーク》の緑のかなたに、ギマトンの谷の景色が開けております。細長く一筋になった霧が、うねうねと谷の上のほうまではい上がっているのが見えますのは、あなたもお気づきでございましょう、礼拝堂を越してすぐのところで、沼地から流れて来るみぞが谷川と合しておりますね、あの谷川がギマトン谷にそうて、うねうねと曲って流れておりますのです。嵐が丘は、この銀色の瘴気《しょうき》の上にそびえているのですが、私どものなつかしい家は、少し向こう側に下がったところに建っておりますから、こちらからは見えません。部屋も、そこにいこうている人たちも、その人たちが眺《なが》め入っている風景も、みなたとえようもなく平和に見えました。これではとても私には役目が果たせませんので、明かりのことをうかがったあと、実際の用向きを言わずに出てゆこうとしましたのですが、やっとなんという馬鹿《ばか》な私だろうと気がつきまして引き返し、口の中で――
「奥さま、ギマトンから来た人がお目にかかりたいそうで」
「どんな用で?」
「それは聞きませんですが」
「そう、カーテンを引いてちょうだい。それからお茶を持ってきてね。あたしすぐ帰ってくるわ」
奥さまは部屋を出られました。エドガーさまはなにげなしに、誰が来たのだとお聞きになりますので、私は、「奥さまの思いもかけなかった人ですわ。――あのヒースクリフ――覚えていらっしゃいましょう、旦那さま――アーンショー家にいた――」
「えっ! あのジプシー――あの小僧来たのか? なぜおまえはキャサリンにそう言わなかったんだ?」
「シッ! そんなふうにあの人のことをおっしゃっちゃいけませんわ、旦那さま。奥さまがお聞きになったらとても悲しくおなりでしょうから。だってあの人がいなくなったときはひどく落胆なすったんですもの。帰って来たのは奥さまにはとてもうれしいことに違いありませんわ」
リントン氏は部屋の向こう側の中庭の見える窓のほうへ行きました。窓をあけて、首を出しました。二人は下にいたと見えて、すぐに旦那さまは声をかけました――「そんなところに立っていないで、おまえ! どなたか知らんが、お客ならその方にもはいってもらいなさい」間もなく掛け金の鳴る音が聞こえて、キャサリンさまが息を切らし、興奮して階段を駆け上がってきました。あまりの興奮でうれしさを顔に出すゆとりもないのか、その顔は、かえって恐ろしい不祥事にでも会ったかのように見えました。
「おお、エドガー、エドガー!」夫のくびにかじりついてあえいでいます。「おお、あなた! ヒースクリフが帰ったわ――帰って来ましたわ!」そしてぎゅっと、力いっぱい抱きしめました。
「よしよし、わかったよ」旦那さまは不快そうに、「だからってぼくの首を絞めなくてもいいだろう! あの男がそんなどえらい宝ものだとはぼくは知らなかった。何も気違いみたいにならなくてもいいじゃないか!」
「あなたがおきらいなことは知ってますわ」やっと少し有頂天の喜びを取りしずめて、「でも、あたしのため、こんどは仲よくなって下さらなくてはいけませんわ。上がってくるように言ってもよくって?」
「ここへかい? ――客間へ通すの?」
「じゃあどこがいいの?」
主人はむっとしたらしく、台所のほうが適当ではないのかと言いました。その気むずかしさを、半ばおこり、なかば嘲笑《あざわら》うような――おどけた表情で、リントン夫人は夫の顔を見ていました。しばらくして、
「いいえ、あたしは台所にすわるわけにいきません。この部屋にテーブルを二つ支度しておくれ、エレンや。一つは旦那さまとイザベラお嬢さま、ご身分のあるかたの食卓、もう一つはヒースクリフとあたし、平民の食卓よ。ね、それがいいでしょう、あなた? それともどこかほかの部屋に火をたかせなければいけません? それならお指図を願いますわ。あたしは降りて行って、お客を引き留めておきますから。なんだかあまりうれしくて、本当のような気がしないわ!」
そしてまた走り出ようとしましたが、エドガーさまがおさえました。そして私に、
「おまえが行って上がって来させろ」と言ってから、「そしてキャサリン、きみは喜ぶのはいいが、変なことはしないでくれよ! 家じゅうの者に、逃げ出した下男を兄弟あつかいして、きみが歓迎する景色を、拝見させるには及ばないんだぜ」
私が階下《した》へ行きますと、上がり口の下にヒースクリフが待っていて、明らかに呼び込まれるのを予期している様子でした。私が案内に立ちますと、何も無駄《むだ》を言わずについて参りまして、さて主人夫妻の部屋へはいりましたが、お二人とも頬をほてらせているのは、よほど激しいいさかいがあったことを物語っておりました。けれども奥さまの頬は、幼な友だちの姿が戸口に現われますと、それとはまた別の感情で熱く燃えて参りました。すぐさま戸口に走り寄り、男の両手をとってリントン氏のほうへ連れてゆき、こんどはリントン氏の気の進まぬ指をつかまえまして、ヒースクリフの手のひらのなかへ押し込みました。こうして、炉の明るみと燭台《しょくだい》の光とで照らし出された姿を見ますと、ヒースクリフの変ったのに、私はいっそう驚かずにはいられませんでした。背が高く、筋骨たくましく、まことにかっぷく《・・・・》のよい男になったものです。並んでみると主人のほうは、いかにもやさ男で、子どもっぽく見えるのです。まっすぐな姿勢は、軍隊にいたらしいと思わせました。容貌《ようぼう》も、リントン氏に比べますと、表情といい、目鼻だちのきっぱりしていることといい、はるかに老成して見えます。理知的で、以前の堕落した痕跡《こんせき》などは、少しも残っておりません。半開の野蛮人のような獰猛《どうもう》さは、沈鬱な額や、暗い情熱に燃える目のなかに、いまもうごめいておりますけれど、それは内に潜められています。身のこなしは堂々としていると申してよいほどで、優雅と評しますには少し厳《いかめ》しすぎますけれども、粗野なところはきれいにぬぐい去られておりました。旦那さまも私に劣らず――ひょっとしたら私以上にお驚きになって、先ほど小僧と呼んだこの人物になんと呼びかけたものか、しばらくはとまどいの形でございました。ヒースクリフは、そのきゃしゃな手を離して、静かにその顔を見ながら、リントン氏のほうから口を切るまで、立っておりました。
「きみ、掛けたまえ」とうとうリントンが口を切りました。「家内はむかしの思い出がなつかしく、心からのおもてなしをぼくに希望しているようです。また、もちろんぼくとしても、家内が喜ぶようなことがあればうれしく思います」
「ぼくもご同様です。しかもそのことにぼくも一役勤めさせていただけるとすれば、なおのことです。喜んで一、二時間、おじゃまさせていただきましょう」
そう答えて、キャサリンの向かいに座を占めましたが、奥さまはその顔を食い入るように見つめつづけて、少しでも視線を動かしたらヒースクリフが消えてしまうとでも思っているかのようでした。男のほうは、たまにしか相手の顔を見ないようにしていました。ときどきちらっと見るだけで満足しているのですが、しかしそれはたびかさなるごとに自信を増し、恋人の視線から飲みほす明らさまな喜びを投げ返しておりました。ふたりは互いの歓喜に酔いしれたようになり、はたに気をかねることすら忘れております。エドガー氏だけはそうでなく、腹の底からの不快で、だんだんに顔色が悪くなるほどでしたが、その不快が頂点に達したのは、最後に自分の妻が立ち上がって、絨毯《じゅうたん》の上をつかつかとヒースクリフのそばへゆき、その手をとって我を忘れたように笑ったときでございました。
「あしたになったら夢だと思うかもしれないわ!」夫人は叫びました。「もう一度あんたとこうして会って、手を触れたり話をしたりしたなんてこと、信じられないかもしれないわよ。だけどヒースクリフ、あんたはひどい人ね! こんなに歓迎される資格がないくらいだわ。三年も留守にして、便り一つよこさないで、あたしのことなんか一度も考えたことはないんですもの!」
「きみより少しはよけいに考えたさ」つぶやくように、「きみの結婚のことは、キャシー、あれから間もなく聞いたよ。下の庭で待ってる間に、ぼくはこんな計画《もくろみ》を立てていたよ――きみの顔をひと目だけ見る、びっくりして目をみはって、そしておそらくはうれしさを装った顔をだ。そのあとでヒンドリーに昔の借りを返してやって、法律に手間をかけさせないように、自分で自分を片づけよう、――きみに歓迎されて、そんな考えはなくなってしまった。だが、こんど会うときは気が変ってるなんてことのないように頼むよ! いや、きみはもうぼくを二度と追い出しはしないだろうな。ほんとにぼくにすまないと思っていたのかい? そうだろう、それが当りまえだ。きみの声を聞かなくなってから、ずいぶんつらい生活を生きぬいてきたよ。だからきみもぼくを許してくれなくちゃいけない、ただきみのために、ぼくは戦ってきたんだからね!」
「キャサリン、冷えた茶をみなで飲もうと言うんでなかったら、テーブルのほうへ来なさい」リントン氏は、平常の調子と適切な礼儀を失うまいとつとめながら、口を出しました。「ヒースクリフ君は、今夜どこへ宿をとられるにしても、これから長い夜道を歩かれるわけだ。ぼくも咽喉《のど》がかわいている」
奥さまは、紅茶沸かしの前の席につきました。ベルを鳴らしてイザベラ嬢さまを呼び入れました。そこで私は、みなの椅子《いす》を前へ押してから、部屋を出ました。食事は十分もかからずに終ってしまいました。キャサリンの茶わんには一杯も注《つ》がれません。食べることも飲むこともできなかったのです。エドガーは受け皿《ざら》にお茶をこぼしたりしながら、やはり一口も咽喉を通りませんでした。客はその夜一時間とは長居しないで帰りました。帰るとき、私はギマトンへ行くのですかと訊きますと、
「いや、嵐が丘だ」と答えました。「けさたずねたときに、アーンショーさんから招《よ》ばれたから」
アーンショーさんがヒースクリフを招んだ! そしてヒースクリフがアーンショーさんをたずねた! 私は客を帰しましてから、この二つのことを、解けないなぞのように考え込みました。あの人は少し偽善者になったのではあるまいか、何か下心があって悪いことをしようと、ここへ舞い戻《もど》って来たのではあるまいか? 考えれば考えるほど、あの男は帰らずにいてくれればよかったといういやな予感が、私の心の奥にわくのでございました。
真夜中ごろリントン夫人がそっとはいってきて、私の寝床のそばにすわり、私の髪の毛を引っぱって起こしましたので、私は寝入りばなの目をさまされました。
「あたし眠れないの、エレン」あやまるように奥さまは言うのです。「だれかにそばにいてもらって、あたしのうれしさのお相伴をしてもらいたいのよ! エドガーはご機嫌がわるいの、自分のおもしろくもなんとも思っていないことで、あたしが喜んでいるからよ。すっかり口をきかなくなって、何か言えば気の狭い、つまらない文句ばかり言ってるの。ぼくが気持が悪くて、眠たがってるのにおしゃべりをしたがるなんて、おまえは意地わるで自分勝手だって言うの。ちょっとでも気にさわると、すぐ気分が悪いの手を使うんだわ! あたしがヒースクリフのことを少しばかりほめたら、大かた頭が痛いかやきもちか、どっちかなんでしょうけど、泣き出しちゃったの。だからあたし起きて、出てきちゃったのよ」
「旦那さまに向かってヒースクリフのことをほめたててなんの役に立ちますの? 子どものときからお互いに仲が悪かったんですもの、ヒースクリフだって旦那さまのことほめられるのは同じように嫌《きら》うでしょう。それが人情ですわ。リントンさまにはあの人のことを聞かせないようになさいまし、そうでないと二人のあいだは表向きのけんかになりますよ」
「だってあれじゃ自分のひどいけちな根性をさらけ出すというものじゃなくて? あたしは人をうらやんだこと、なくってよ。イザベラの金髪の光沢《つや》のあることも、はだの白いことも、姿のやさしくて上品なことも、家じゅうの人があの子を好いてることも、ちっとも気にさわったことはありませんよ。おまえまでが、ネリー、ときどきあの子とあたしと口論すると、すぐイザベラの味方になるじゃないの。あたしはまるで愚かな母親みたいに折れて、良い子のイザベラちゃんと言って、ご機《き》嫌《げん》を取り結んでるわ。あの子のお兄さまが、あたしたちの仲の良いのを見ると喜ぶから、だからあたしもそれがうれしいの。でもあの兄妹《きょうだい》は、とてもよく似てるわ、ふたりとも甘やかされて育ったから、世の中は自分たちの勝手きままな注文どおりに出来てるものとでも思ってるんでしょう。あたしもお二人の機嫌はとるけれど、一度こっぴどく懲《こ》らしめてやるのも、やっぱり薬になると思うわ」
「奥さま、それは違いますよ。お二人のほうがあなたのご機嫌をとっていらっしゃるんですよ。もしそうしなかったらどういうことになるか、あたしはちゃんとわかっています。お二人が朝から晩まであなたのお気に入るように入るようにと骨を折っていらっしゃるかぎり、あなたもお二人のほんの一時のむら《・・》気を許してあげるのは当りまえですわ。けれども、おそかれ早かれ、両方がどうしてもあとに引けない重大なことが起こると、けんかになってしまいます、そうなったとき、弱いと思っていた相手が、なかなかどうして、あなたに負けず頑《がん》固《こ》になりますからね」
「そうなったら死ぬまでやりあうんだわね、そうじゃなくて、ネリー?」キャサリンは笑いながら答えました。「うそよ! ほんとうはね、あたしはリントンの愛を心から信じてるの、たといあたしがあの人を殺しても、あの人はその恨みを返そうとしないだろうと思ってるの」
私は、それほどの愛情の深さに対しても、もっと旦《だん》那《な》さまを大切に思わなくてはいけないでしょうと申しました。
「大切に思ってるわよ」とキャサリンさまは答えました。「でもくだらないことでめそめそ泣く癖はやめたほうがいいわ。子どもみたいじゃないの。ヒースクリフはいまでは誰《だれ》からも尊敬されてしかるべき人物になったんだから、彼と友だちになることは地方第一の紳士にとっても、名誉に適《かな》うことだ、そうあたしが言ったからって、泣き出したりしないで、逆に、あたしのためにそれくらいのことは言ってくれて、同じ気持で喜んでくれるのが当りまえなのよ。あたしぜひヒースクリフと懇意になってもらわなければ困るわ。そうすればエドガーもあの人が好きになるかもしれないんです。ヒースクリフのほうこそ、旦那さまに言い分があることを思えば、きょうの態度はりっぱだったと思うのよ」
「あのかたが嵐が丘へ行ったことは、どうお考えですの? 見たところ、どこからどこまで変りましたわね。りっぱなクリスチャンの態度ですわ――そこいらじゅうの昔の敵に、隣人として手をさし伸べるなんて!」
「そのことは説明したわ。あたしもおまえと同じに意外だったの。あの人は、おまえがまだあそこに住んでると思って、あたしの消息をおまえから訊《き》くために行ったんですって。そしたらジョーゼフがヒンドリーに告げたので、ヒンドリーが出てきて、今まで何してたとか、どうやって暮らしてたとかしきりに訊いて、しまいにぜひうちへはいってくれって言うんですって。ちょうど幾人かでカルタをしていて、ヒースクリフも仲間にはいったのよ。兄さんがあの人にいくらか負けたのね、あの人がたくさんお金を持ってることを知ったものだから、晩にもういっぺん来ないかって言うので承知して来たという話なの。ヒンドリーは自棄《やけ》になってるから、気をつけて相手を選ぼうという気はないんだわ。自分があれほど卑《いや》しい気持で苦しめた相手だから、うっかり信用しないのが当りまえだけど、そんなことを考えるのもめんどうなのね。けれどもヒースクリフは言ってたわ、むかし自分を迫害した人と撚《よ》りを戻したわけは、この屋敷へ歩いて来られるところに落着きたいことと、二人がいっしょに暮らした家への愛着と――それから、ギマトンに住むよりは、あたしのほうからも会いに来てくれるとすれば便利だからだって。嵐《あらし》が丘《おか》に寄《き》寓《ぐう》させてもらえるならお金は十分に出すつもりだと言ってたから、欲ばりな兄さんはきっと二つ返事で承知するでしょう。昔から強欲な人だったわ――ただ、右の手で握ったお金をすぐ左の手で投げ出してしまうけれど」
「若い男の下宿にはけっこうな家ですわ! その結果どんなことが持ち上がるか、奥さまは心配になりませんの?」
「ヒースクリフのためならちっとも心配しなくてよ。頭がしっかりしてるから、変なことにはならないわ。ヒンドリー兄さんのことは少し心配だわね。でもあれ以上、道徳的には悪くなりっこないし、肉体上の危険は、あたしが気をつけてあげるわ。今晩の出来ごとのおかげで、あたしは神さまとも人間とも和解したのよ! いままでは神さまの摂理というものに腹をたてて反抗心を起こしていたんだけれど。ねえ、ネリー、ずいぶんつらい、つらい苦労を耐え忍んできたわねえ、あたしは! そのつらさがわかってくれたら、いまその苦労がなくなったのを、いい気になって癇《かん》癪《しゃく》なんか起こして、あたしのうれしさをかげらすようなこと、恥かしくてできないはずだわ。あたしがあの苦しみをひとりで耐えてきたのは、あの人への思いやりよ。もしこれまで始終あたしの味わっている悩みをうわべにみせていたら、エドガーもあたしと同じように、悩みを楽にしたいと思うようになっていたでしょうにねえ。だけど、もう過ぎたことだわ、あたしはエドガーの馬鹿《ばか》な腹だちに、仕返ししようとは思わない。これからさきは何一つ苦にしないわ! 世界一の下等な人間に頬《ほお》を打たれても、もう一つの頬を向けてやるだけじゃなしに、相手をおこらせたことを詫《わ》びてやるわ。その証拠に、いますぐ帰って、エドガーと仲なおりするわね。お休み! あたしは天使よ!」
こんなふうにひとりよがりの自信をつけて、キャサリンは出て行きました。が、この決心のとおり実行した結果は大成功だったことが、翌朝ははっきりわかりました。リントン氏はご機嫌をなおした(もっともキャサリンのあふれるばかりの朗らかさにおさえられて、まだあんまり意気揚がらない様子でしたが)ばかりでなく、キャサリンが午後からイザベラを連れて嵐が丘へ行くことにさえ、反対しようとしないほどでした。そのお礼心にキャサリンのほうでは、においこぼれるような、やさしさと愛情とをふんだんに、ふりまいたものですから、四、五日のあいだは、家の中は天国のようで、旦那さまも召使どもも、常夏《とこなつ》の明るい日光の恵みにひたる思いでございました。
ヒースクリフは――もうこれからはヒースクリフさんと申さなければなりませんが――はじめはスラシュクロス屋敷への訪問を控え目にしておりまして、この家の主人公が、どの程度まで自分の押しかけてくることに辛抱するか、ちゃんと目算《もくさん》をつけているようでした。キャサリンもまたその訪問を喜ぶ様子をなるたけ見せつけないようにするのが賢明だと考えていました。そんなふうにして、だんだんにヒースクリフは、スラシュクロス屋敷の客として待ち受けられるだけの立場を、固めてゆきました。少年時代からの持ちまえの、人に気を許さない性癖が、まだたぶんに残っておりまして、それが、あらゆる感情の激発を押えることに役だちました。リントン氏の不安も小《こ》凪《なぎ》の状態となりまして、その後の成行きはと申しますと、しばらくのあいだ、その不安を別の方面へ向けることになりました。
その新しい心配のたねと申しますのは、このいやいやながら迎えられている客に対し、思いがけなくもまた不運にも、イザベラ・リントンが突然に、たまらなくひきつけられてしまったことが、色にまで現われたのがもとでございました。そのとき十八歳のかわいらしいお嬢さま、才知も敏《さと》く、感情も鋭く、おこり出すと癇癖も強そうでございますが、まだなさることはねんねです。お兄さまはやさしい慈《いつく》しみをかけておいででしたから、この夢みたいなとっぴょうしもない執心に、驚きあきれてしまわれました。家柄《いえがら》もない男と縁を結ぶ不面目は別として、またかりに自分に男の子がない場合、自分の財産がああいう男の手に渡る恐れがあることも別として、エドガーさまにはヒースクリフの性質を見抜くだけの分別がおありでした。外見は変ったとはいえ、あの男の心は変えられるものでなく、また変っておらぬことを知っておられました。ほかならぬその心が厭《いと》わしく、堪えられぬ反感を覚えさせ、妹をその手にゆだねることを考えるだけで、不吉な予感にとらえられるのでした。しかも、この恋は、妹が自分一人で思いつめ、相手は少しも心を動かされていないのだという事実を、もし知ったとしますれば、エドガーさまは、なおさらいやな気持になったでございましょう。なにしろこのことを知った瞬間には、これはヒースクリフの深いたくらみのせいだとののしったほどでしたから。
しばらく前から、私どもはみなイザベラ嬢さまが何かに焦《じ》れて、思いつめている様子に気づいておりました。ひどく気むずかしく、うるさく当り散らすようになり、絶えずキャサリン奥さまに食ってかかったりからんだりしますので、もともと少ない奥さまの忍耐の泉をからせてしまいそうで、私どもをはらはらさせるのです。ある程度までは不健康のせいにして大目に見ておりました――私どもの目から見ても日ごとにやせ細り、顔色も衰えてゆくようでございましたから。ところがある日、特別にだだをこねまして、朝御飯も食べず、いろいろ不平を並べて、召使たちがちっともあたしの言うことを聞かないとか、義《ね》姉《え》さんはあたしが馬鹿にされてるのをなんとも思っていないとか、エドガーまであたしをないがしろにするとか、さては扉《とびら》があけ放してあったから風邪を引いたの、やれ召使どもがわざとあたしをおこらせようと思って居間の炉の火を消してしまったの、まだまだたくさん、つまらない文句を申しますので、奥さまは頭ごなしに、だまって寝なさいと叱《しか》りつけ、さんざんやりこめて、お医者を呼びますよとおどかしました。ケネス先生の名が出ますと、たちまちイザベラは、体なんかどこも悪くないわ、あたしが不幸になったのは、ただキャサリンが意地わるしたからだわと申しました。
「まあ、あんた、どこを押せばあたしが意地わるしたなんて言えるの、ほんとに手のつけられない甘えっ子ね」と、このあまりに筋の通らない攻撃にどぎもを抜かれて、奥さまは叫びました、「たしかにあんた頭がどうかしてるわよ。いつあたしが意地わるして? 言ってごらんなさい」
「きのうよ」イザベラはすすり泣きしながら、「いまだってそうだわ!」
「きのうですって! どんなときに?」
「野原を歩いていたときよ。ご自分がヒースクリフさんといっしょに歩いているとき、あたしにどこでも好きなところを歩いておいでって言ったじゃないの!」
「それがあんたのいう意地わるなの?」と、キャサリンは笑ってしまいました。「あんたがそばにいてじゃまだというつもりなんぞはないのよ。そばにいようといまいと、あたしたちはなんとも思やしないわ。ただあたしは、ヒースクリフとの話はあんたの耳に入れて楽しい話じゃないと思っただけなの」
「いいえ、そうじゃありません」嬢さまは泣き声を上げて、「お義姉《ねえ》さまは、あたしがそばにいたいことを知ってたから、だからあたしを追っぱらいたかったんです!」
「この子、正気かしら?」リントン夫人は私に救いを求めるように訊きました。「イザベラ、あたしはあのときのヒースクリフとの話を、一語も抜かさず繰り返してもいいのよ。それのどこがあんたの気に入るか、言ってみるといいわ」
「お話なんかどうだっていいのよ。あたしはただあの方の――」
「ええ、あの方の?」キャサリンがあとを言い渋っているのに気づいて申しますと、
「――おそばにいたかったの、だからいつも追っぱらわれるのがいやだったのよ!」嬢さまはすっかり興奮して、「あなたはイソップにあるまぐさ槽《おけ》の中の犬だわ、キャシー、自分よりほかの者が愛されるのを望まない人なんだわ!」
「そんなら小生意気な子《こ》猿《ざる》さんねえ、あんたは!」リントン夫人はびっくりして、「だけどあたしにはそんな馬鹿げた話、信じられないわ! あんたがヒースクリフに好かれたがるなんて、ありえないことだわ――あんな男をあんたがいい人だと思うなんて! ねえイザベラ、あたしの聞き違いだったでしょ?」
「いいえ、聞き違いじゃないわ」恋にとりのぼせた娘は申します、「義姉《ねえ》さんがエドガーを愛している以上に、あたしあの方を愛してるわ、そしてあなたさえ許せば、あの方だってあたしを愛すると思うわ!」
「それなら、王国を一つくれると言われても、あたしはあなたみたいになりたくありません!」キャサリンは力をこめて断言いたしました。そして真心こめて義妹《いもうと》に言いきかせようとしているのが、私にわかりました。「ネリーや、このひとの考えが狂気のさただということを、おまえもいっしょになって言ってやってちょうだい。ヒースクリフがどういう男か、教えてやってちょうだい――行儀も教養もない野蛮人、はりえにしだ《・・・・・・》と砂岩ばかりのかわききった荒野だということを。あなたのような若い娘の心をあの男に与えさせるのは、真冬の猟場《パーク》の中へあの小さなカナリヤを捨てるようなものよ! ねえ、ねんねちゃん、そんな夢があんたの頭にはいり込んだのは、あの男の性格をなんにも知らなすぎるからよ、それだけのことなのよ。あの男の恐ろしそうなうわべの下に、善意や愛情が、心の底に深く隠れているなんて、どうか想像しないでちょうだいね! あれは山から截《き》り出したダイヤモンドでも、真珠を抱いているかき《・・》でもない、獰猛《どうもう》な、無慈悲な、狼《おおかみ》のような男です。あたしはあの男に向かって、『だれそれを敵としてやっつけることは紳士らしくないから、または残酷だから、およしなさい』とはけっして言わないで、『あの人たちがやられるのはあたしがいやだから、よしてください』と、こう言います。もしあの男があなたをやっか《・・・》いもの《・・・》だと思えば、イザベラ、あなたはあの男に、雀《すずめ》の卵みたいにつぶされてしまいます。あの男がリントン家の娘を愛するはずがないことを、あたしは知っています。けれども、あなたの財産や、いつか受けとるはずの遺産と結婚することは、平気でできる男です! 貪欲《どんよく》は、このごろのあの男の陥りやすい罪になりかかっているのです。あたしが描く彼の肖像は、まあこんなものよ、それでもあたしはあの男の味方なのよ――もしあの男が本気であんたをとりこにしようと思うんだったら、たぶん口をつぐんで、あんたがわなに落ちるのを見てるかもしれないくらい、あの男の味方なんだわ」
リントン嬢は義姉《あね》の顔を腹立たしそうに見つめていました。
「ひどいわ! ひどいわ! よく恥かしくないわね! 味方だって言いながら、二十人の敵よりまだ悪い味方じゃないの!」
「ああ! ではあんたはあたしを信じてくれないのね? あたしが悪意の、自分勝手な気持から話してると思うのね?」
「そうに違いないと思うわ。ほんとにあんたには身ぶるいするわ!」
「よござんす! そういう考えならご勝手になさい。言うだけのことは言ったわ、あんたの生意気に降参して、議論はやめます」
「そしてあたしは義姉《ねえ》さんの利己主義の犠牲になるんだわ!」リントン夫人が部屋を出ていってから、イザベラお嬢さまはむせび泣きながら、「誰もかれも、あたしのじゃまばかりするのね。あたしのたった一つの慰めは、義姉さんにぶちこわされてしまったんだわ。だけど、義姉さんの言うことも嘘《うそ》よ、そうじゃなくって? ヒースクリフは悪魔じゃなくて、りっぱな、真実の心を持った人よ、そうでなければ義姉さんのことを忘れずにいられるはずはないじゃないの?」
「お嬢さま、あんな人のことは忘れておしまいなさるがよござんすよ」と、私が申しました。「あれは悪い運を持ってくる鳥で、あなたのおつれあいになるがらではございませんよ。奥さまは少し言い過ぎなすったかもしれませんが、あたしには反対はできません。あたしばかりでなく、ほかの誰よりもあの男の心をよく知っていらっしゃるのが奥さまです。それでもあれだけおっしゃっても、まだあの男を悪く言い過ぎてはいないと思いますよ。正直な人間は自分のしたことを隠しません。あの人は何をして暮らしてきましたか? 何をしてお金持になりましたか? 嵐が丘の自分の憎む人間の家に、なぜ泊っているのでしょうか? 世間ではあの男が来てからアーンショーさんは日ましに駄目《だめ》になると言っております。毎晩二人で夜あかしで起きていて、ヒンドリーさんは地所を抵当《かた》に金を借りて、博奕《ばくち》と酒ばかりで暮らしてるそうです。一週間前に聞いたばかりですが――ジョーゼフが話してくれましたんですよ――ギマトンで会いましたら、爺《じい》さん、こう言っておりました、『ネリーや、いずれおいらの家の者は、検《けん》屍《し》官《かん》のお調べうけるようになるぜや。一人の野郎は、もう一人がまるで子牛でも殺すようにわが身に刃物突っ刺すのを止めようとして、あぶなく指を切り落されるところだったぜや。恐ろしい神さまのおさばき受けたがってのぼせあがったのは、ほかでもねえうちの旦《だん》那《な》だよ。神さまのお白《しら》洲《す》に並んだ判官さまだって、パウロさまだろうがペテロさまだろうが、ヨハネさまだろうがマタイさまだろうが、旦那はひとりも怖《こえ》えことはねえ人だ――あの恥知らずな面《つら》ァえらい聖者さまがたの前にさらしたくてならねえんだぜや! それにまた、あのヒースクリフという若旦那もよ、てえしたやつだぜや! 本物の悪魔のいたずら見ても平気の平左で、にやりにやり笑えるやつだぜや。お屋敷さ行ったときに、うちでどんなごりっぱなまねして暮らしてやがるだか、話したことはねえかね? まあざっとこんなもんだ――日の暮れに起きてさいころとブランデーで、鎧扉《よろいど》はしめきり、あしたの正午《ひる》まで蝋《ろう》燭《そく》はつけっぱなしだぜや。それからうちのあほうがどなり散らしながら部屋へ引き上げるだが、正気の者は恥かしくて耳ィふさがずにゃいられねえだ。するてえとあの悪党め、なんと、銭の勘定をして、飯くらって、ひと眠りして、そんで隣人《ひと》の家さ行って嬶《かか》と無駄話してくさるだ。どうせ野郎のこった、キャサリン奥さまにゃ話してるにちげえねえだ、奥さまのおやじさまの金が、どんなぐあいに野郎のふところに流れ込むか、そのむすこどのがまた、野郎にうまく先まわりされて、じゃまをのけておいた破滅の道を、いっさんばしりで駆けおりて行くこったわ!』それでね、お嬢さま、ジョーゼフという爺さんも悪いやつですが、嘘はつきませんよ。ヒースクリフの行状がいまの話のとおりだとすると、こんな人を夫になさろうとは、まさかお考えはなさいますまいがねえ!」
「おまえもほかのひとたちとぐる《・・》なんだわ、エレン! そんな悪口なんか本当にしないわ。なんの悪意があってこの世に幸福がないなんて、あたしに信じさせたいの、おまえは?」
イザベラがこういう妄想《もうそう》を、ひとりでほうっておかれたとして、あきらめてしまったか、それともますます思いをつのらせて行ったか、私にはわかりません。よく考えている暇がなかったからでございます。その翌日、隣の町に治安判事の集会がございまして、旦那さまはどうしても出席せねばなりませんでした。それでお留守になることをヒースクリフは知って、つねよりも早めにたずねて参りました。キャサリンとイザベラとは書斎にいて、仲はわるくてもけんかはせずにおりました。イザベラのほうは、きのうの軽はずみをしたこと、一時の激情に駆られて、秘めていた思いをさらけ出してしまったことで、あわてておりましたが、キャサリンのほうは十分に考え抜いたあげく、やはりイザベラに対して不快の念を持っておりまして、その生意気なことをあざ笑うとしても、自分にとっては笑いごとではないと思っていました。もっともヒースクリフが窓の外を通ったのを見て、笑うことは笑いました。私はそのとき炉の掃除をしていまして、奥さまのくちびるに意地のわるい微笑の浮かぶのに気がつきましたのです。イザベラは、物思いに沈んでいたか、本に気をとられていたかして、扉が開くまで気づかずにいました。もし逃げられたらその場を逃げ出したいところだったでしょうが、もう間に合いませんでした。
「おはいんなさい、ちょうどよかったわ!」女主人は、陽気に声を張り上げて、椅子《いす》を炉《ろ》辺《ばた》へ引き寄せました。「ここに気まずい仲の二人がいて、三人目の誰《だれ》かが来てうまく取り持ってもらいたくて、困っていたところなの。そしてあたしたちが取り持ちをお願いしたのが、ほかならぬあなたなのよ。ねえヒースクリフ、あたし、とうとうあたし以上にあなたをかわいがる人をお目にかけられるんで鼻が高いわ。あんたもまんざらわるい気持はしないでしょうね。いいえ、ネリーじゃありませんよ、そっちなんか見ちゃいけません! あたしの可《か》憐《れん》な義妹《いもうと》が、あなたの姿と心の美しさを、ただ心に浮かべるだけで、胸が張り裂けんばかりなの。あんたがエドガーの義弟になるかならないか、あんたの心まかせよ! 駄目よ、駄目よ、イザベラ、逃げようったって逃がさないわよ」腹を立てて立ち上がった娘を捕えて、いかにも冗談めかして言いつづけます。「あたしたち二匹の猫《ねこ》みたいに、あなたのことでけんかしたのよ、ヒースクリフ。そしてあたしは、身も心もささげて崇拝してるって正面からズバリとやられちゃったの。そればかりじゃなくて、もしあたしが身を引くだけの礼儀を心得てるなら、あたしの恋敵《こいがたき》は――この人むろんそのつもりよ――あんたの魂に恋の矢を射こんで、永久にあんたをとりこにして、あたしの姿なんぞ永遠の忘却の空に送り込んでしまうんですって!」
「キャサリン!」やっと恥かしさから立ちなおって、しっかりと自分をつかまえている義《あ》姉《ね》からのがれるまでもないという面《おも》もちで、イザベラが申しました。「冗談のなかでも真実を離れないで、あたしを悪く言わなかったことを感謝しますわ! ヒースクリフさん、どうぞあなたのお友だちにあたしから手を離すように命令して下さいませ、キャサリンはあなたとあたしが親しい間柄《あいだがら》でないことを忘れているんですの。キャサリンにはおもしろいことでも、あたしには口に言えないほど苦しいことですわ」
客はなんとも答えずに椅子に腰をおろし、令嬢がどんな情緒を自分について胸にはぐくんでいようと、まるで気にとめていない様子なので、イザベラは自分を苦しめている当人に向かって、小さな声で一生懸命、放してくれと頼むのでした。
「けっして放さないわよ! あたしはまぐさ槽《おけ》の中の犬だなんて、二度と言われたくないわ。ここにいなくっちゃいけないわ、まあちょいと! ヒースクリフ、こんなうれしい話をきいて、なぜちっとも満足の色を現わさないの? イザベラは断言するのよ――エドガーのあたしへの愛など、自分があんたにささげる愛にくらべたら、ものの数じゃないんですって。たしかそんなふうな演説をしてたわ、ねえエレン? そしてこの人はおとといの散歩からこっち、ずっとご飯をたべないの。あたしがこの人のいるのをじゃまにして、追っぱらったと言って、悲しさと憤《いきどお》りに胸がふさがっちゃったんですのよ」
「どうもイザベラさんについてのあんたの話は違うようだな」椅子を二人のほうに向けかえながら、ヒースクリフが申しました。
「とにかくお嬢さんはいまぼくのそばから出て行きたがってますよ!」
そして男は、見なれぬきらいな動物――たとえば、いやらしいとは思っても好奇心で見たくなるインドのむかで《・・・》か何かを見るように、問題の人を険しい目で見つめました。かわいそうに、イザベラはとてもたまらぬ様子で、白くなったり赤くなったりしながら、涙の粒をまつげにため、キャサリンがしっかり握っている手を、小さな指の力でゆるめようとします。一本の指を自分の腕から放させるが早いか、他の一本がぎゅっと食い込んで、どうしても一度に全部を放させることができません。それに気がついてこんどは爪《つめ》を使い始めました。やがてその鋭い爪のあとが赤い三日《みか》月形《づきがた》で、むりに引き留めている手の甲をいろどります。
「雌虎《めすとら》があらわれた!」リントン夫人は叫んで、手を放し、痛そうにそれを振りました。「行ってちょうだい、たのむから、その雌狐《めぎつね》みたいな顔を隠してちょうだい! 恋人の前で爪を出すなんて、なんて馬鹿な人でしょう。彼がなんと思うか、想像がつかないの? 見てちょうだい、ヒースクリフ! あれは旦那さまを折檻《せっかん》する道具よ――目を引っかかれない用心がいるわ」
「もし引っかきに来たら、爪なんぞもぎ取っちまうさ」扉がイザベラの出たあとでしまったとき、残忍にこう答えました。「しかしキャシー、きみはなんだってあんなにからかうんだい? まさか本当のことを言ったんじゃあるまいね?」
「本当ですとも、絶対よ。あの子はあんたのため何週間も死ぬ思いしてるの。けさもあんたに夢中になって、あたしがその熱中ぶりを少しさまそうと思って、あからさまにあんたの悪いところを話してやったもんだから、さんざんな悪態を並べたてたのよ。でもこれ以上気にかけることいらないわ、少し生意気だから、とっちめてやろうと思ったの。それだけなの。あたしあの子が好きだから、ねえあたしのヒースクリフ、あの子があんたに本当に押えられて、食いものにされたくないのよ」
「ところがおれはあいつがきらいだから、そんなことをする気づかいないさ。ただし食屍《グウ》鬼《ル》のような了見を起こせば、話は別だ。ぼくがあのムカムカする蝋人形《ろうにんぎょう》みたいな顔と二人きりで暮らしたら、怪しい噂《うわさ》を聞くかもしれん。その中でいちばん穏やかな話は、毎日一日おきぐらいに、あいつの白い顔に虹《にじ》のように青傷や生血の赤をにじませたり、あの青い目を黒いあざで縁どったりするぐらいのところだろう。あの目がまたいやらしいほどリントンの目に似てるんでねえ」
「うれしいほどだわ!」キャサリンが言いなおしました。「あれは鳩《はと》の目――天使の目よ」
「彼女《あれ》はリントンの相続人だろうね、違う?」しばらく黙っていたのち、男が聞きます。
「あたしはそう思いたくない立場よ。五人も六人も甥《おい》をこしらえて、あの子の相続権を奪ってしまいますように! いまそんなことを考えるのおやめなさい。あんたは隣人の財産をほしがりすぎるわ。ここの隣人の財産はあたしのものだということを忘れないでね」
「もしそれがぼくのものになったとしても、その点には少しも変りはなかろうさ。しかし、イザベラ・リントンは馬鹿《ばか》かは知らんが、気違いではあるまい。だから要するに、あんたの言うとおり、こんな問題はわきへどけることにしよう」
それで二人はその話はわきへどけました。そしておそらくキャサリンのほうは頭の中からもどけたようです。相手のほうはその晩、幾度もその話を思い出したにちがいありません――私はそういう気がいたしました。ひとりで微笑――というよりにやにやして、リントン夫人が部屋から出てゆく折がありさえすれば、なにか不吉な思案にふけっているのを、私は見ておりましたのです。
ヒースクリフの動きを監視しようと、私は決心いたしました。私の心はいつも変らずキャサリンのほうよりも主人のほうに傾いておりましたが、主人は親切で人を信じること深く、心の正しい人でございましたから、それも当然だと思っておりました。キャサリンのほうは――その反対《・・》だとは申せませんが、あまりに広い範囲にご自分の行動を放任されるように思われ、節操に信がおけませんし、またそのお気持にも同情が持てませんでした。私は何かことが起こって、嵐が丘からもスラシュクロス屋敷からもヒースクリフ氏が離れ去ってくれて、あの人の現われる前の状態に戻《もど》ってくれればよいがと思いました。あの人が三日にあげずたずねてくるのが、私には悪夢のつづきを見せられているようでございましたが、主人のリントンさまも同じ気持ではないかと想像しておりました。嵐が丘にあの人が住んでいることは、なんとも言いようのない圧迫を感じさせます、神さまはあの家の迷える羊を見放しなされて、悪の道に迷い入るにまかせておかれましたが、いま一匹の悪い獣が羊の檻《おり》の前に待ち伏せして、とびかかって食い殺す時を待っているのだ――私はそういう気がいたしました。
11
ときどき、一人でこうしたことどもを考えふけっておりますうち、急に恐怖にとらわれて立ち上がり、帽子《ボンネット》をかぶってあの家がどんなふうかを見に行こうとすることがございました。ヒンドリーに向かって、その行ないについての世間のうわさについて注意してやるのが、自分の義務だ、というふうに良心を説き伏せるのですが、その悪習は身にしみ込んで、改心させることは絶望だと思いますと、またあの陰気な家へはいって行く気がなくなります。また私のことばがそのまま受け入れられるような態度が、私にとれるかどうかも心もとなく思われました。
一度、ギマトンへ行く途中、道草をくって、あの古い木戸の前を通って見たことがございます。およそいまお話ししている時期にあたります。晴れた、凍《い》てついた午後のこと、地面には雪はありませんが、道はコチコチにかわいておりました。私は左手の荒地のほうへ街道が分かれているところの石標の所まで参りました。荒い砂岩の柱で、北側にはW・H(嵐が丘)、東側にG(ギマトン)、そして南西の側にはT・G(スラシュクロス屋敷)と彫りつけてございます。これはこのお屋敷へも、嵐が丘へも、またギマトンの村へも、道しるべになっております。その石標の灰色の頭を太陽が黄いろく照らして、ふと私に夏を思わせました。すると、なぜか知れませんが、急に子どものころの気持が胸の中にあふれるようにわき起こって参りました。ヒンドリーと私とが、二十年の昔には、ここを大好きな遊び場にしておりました。雨風に打たれたその石を長いこと見つめて、それから身をかがめて根もとの近くにある穴の中に、いまだにかたつむりの殻《から》や小石などがいっぱいに詰まっているのに気がつきました。私たちはそういうものを、ほかの腐りやすい物といっしょに隠すのが大好きでございました。すると、まるで現在そこに見るように鮮かに、昔の遊び友だちが枯れ草の上にすわっている姿が目に浮かびます。黒っぽい角ばった頭が前かがみになって、小さな手でスレートのかけらで土を掘っているのです。「まあかわいそうなヒンドリー」我にもなくこう叫びました。とたんに私はギョッとしました――私の目は、瞬間的な幻覚にとらわれたのでしょうか、その子どもが顔を上げて、私の顔を真っ正面からじっと見つめたのです! またたき一つする間に、その幻は消えました。が、すぐに私はぜひ嵐が丘へ行ってみたくてたまらなくなりました。迷信にそそられて、どうしても衝動に従わされてしまいました――もしかあの人が死んだとしたら――または死にそうになってるとしたら――あれが死の知らせだとしたら! 近づけば近づくほど、私はますます心配になってきます。そしてその家が見えて来たとき、私は全身震え出しました。幽霊は先まわりして、木戸のなかに立って、こっちを見ているではございませんか。もじゃもじゃ頭の茶色の目の子どもが、あかい顔を門《もん》扉《ぴ》の桟《さん》にくっつけている姿を見たとき、最初に私の感じたことはそれでした。少し考えてみましてそれ《・・》がヘアトン――あの私のヘアトンに違いないと気がつきました。別れてから十カ月で、まださほど変っていないあの子どもでした。
「まあぼっちゃん、丈夫だったのね!」たちまち愚かな恐怖などは忘れて私は声をかけました。「ヘアトンぼっちゃん、ネリーですよ、あんたを育てたネリーですよ」
坊やは私の手の届かないところへ逃げて、大きな石を拾いました。
「あたしはあんたのお父さんに会いに来たのよ、ぼうや」私はそのふるまいから察して、ネリーの記憶が子どもの心に残っているとしても、私がそのネリーだとはわからないのだろうと思いましたので言い足しました。
子どもは石を投げようと手を上げます。言葉でなだめようとしましたが、その石を止めることはできません。石は私の帽子《ボンネット》に当り、それにつづいて、この小さな子のたどたどしいくちびるから、ひとつづきの悪《あく》罵《ば》が飛び出して来ました。その意味を理解しているにせよいないにせよ、それは抑揚など堂に入ったもので、そのがんぜない顔をよじらせて、ぞっとするように憎らしい表情を見せるのです。私が腹を立てるより悲しくなりましたことはお察し下さいましょう。泣きたいような気持でポケットから蜜《み》柑《かん》を出し、子どもをなだめようと、それを差し出しました。ちょっとためらいましたが、すぐに私の手からひったくりました。私が見せびらかすだけだと思ったらしいのです。私はもう一つ出して、手の届かないように差し上げて見せました。
「誰《だれ》があんな良い言葉をあんたに教えたの、あたしのぼうや? 副牧師さん?」
「副牧師なんぞくそくらえ! おまえもくそくらえ! 蜜柑をおくれよう」
「どこで勉強してるのか教えてくれればあげるわ、あんたの先生はだれ?」
「悪魔の父ちゃんだい」という答えです。
「父ちゃんから何を教わるの?」
子どもは果物に飛びつきました。私はもっと高く上げて、「父ちゃんは何を教えるのよ?」
「何も教えないや、ただそばへ来るなって言うんだ、父ちゃんはぼくにがまんならないんだ、ぼくが悪態つくからさ」
「まあ! それで悪魔があんたにお父さんにつく悪態を教えるの?」
「うん――そうじゃねえや」
「じゃあだれ?」
「ヒースクリフだ」
ヒースクリフさんは好きかと訊《き》いてみました。
「うん!」
ヒースクリフの好きなわけを知りたいと思いましたが、次のような意味のことを知っただけでした。――「ぼくわかんない、父ちゃんがぼくに何か言うと、ヒースクリフがやり返してくれるんだ――父ちゃんがぼくをどなりつけるから、おじちゃんが父ちゃんをどなるんだ。おじちゃんはぼくに好きなことしてろって言うよ」
「それじゃ副牧師さんはあんたに読み書きを教えないの?」
「うん、ぼく言われたんだ、もし副牧師がうちの敷居をまたいだら、歯を――歯をたたき折って、のどの――のどん中へ押し込んでやるって――ヒースクリフが約束したんだ!」
私は蜜柑を手に握らせて、ネリー・ディーンという女が、庭木戸のところで話があるから待っていると、お父さんに言いなさいと教えました。子どもは敷石道を歩いて行って、家へはいりました。ところが、扉《とびら》の前へ出て来たのは、ヒンドリーではなくて、ヒースクリフでした。私はすぐに向きなおって、道しるべの石のところまで、悪鬼を呼び出したような恐ろしさを味わいながら、一生懸命で走りました。これはイザベラ嬢さんの話とはたいして関係のない話でございますが、ただそれによって私はどこまでもよく監視をして、できるだけお屋敷に対してこういう悪い影響が及ばないように、できるかぎり防ごうという決心をかためさせられたのでした。そのためにリントン夫人のご不興を買って、家内に騒動が起こってもしかたがないと思いました。
つぎにヒースクリフの来ましたとき、ちょうどお嬢さまはお庭で鳩《はと》に餌《えさ》をやっていらっしゃいました。三日ばかり、兄嫁には一言も口をききませんので、そのかわりうるさい小言もすっかりやみましたので、私たちは大助かりでございました。ヒースクリフはリントン嬢に一言でもよけいなお世辞を申したことがないのは、私が知っておりました。それが今、お嬢さまの姿を見つけますと、まず警戒するように家の前面をずうっと見渡しましたものです。ちょうど私は台所の窓ぎわに立っておりましたが、見つからないように奥へ隠れました。すると、ヒースクリフは、敷石の上をお嬢さまのほうへ近寄りまして、何か申しました。お嬢さまは気まり悪そうにして、あちらへ行きかけました、それを留めようと、手をお嬢さまの腕にかけます。お嬢さまが顔をそむけます。何かお嬢さまの答えたくない問いをかけたらしいのです。また急いで家のほうをながめやったかと思うと、誰も見ていないと思ったのでしょう、悪者は無礼にも、お嬢さまを抱擁しようといたしました。
「ユダ! 裏切り者!」私はわめきました。「おまえは偽善者でもあったんだね? 悪だくみを隠した詐欺師《さぎし》め!」
「誰のこと、それは、ネリー?」すぐそばでキャサリンさまの声がしました。外のふたりを見張るのに夢中でしたので、奥さまのはいってきたのに気がつかずにいたのでした。
「あなたのやくざなお友だちですよ!」私は興奮して答えました。「あそこにいるコソ泥《どろ》ですわ。ああ、私たちのほうをちらと見ましたよ――はいって来ますよ! あなたにはイザベラさんは嫌《きら》いだと言っておきながら、お嬢さまに恋をしかけたもっともらしい言いわけの文句が見つかったとすれば、あの男の心臓はたいしたものですわ」
リントン夫人は、イザベラが相手を振りはらって、庭へ走り込むのを見ました。それから一分後に、ヒースクリフは扉をあけました。私は自分の腹立ちを口に出さずに耐えてはいられませんでしたが、キャサリンはおこって、私に黙っているように命じまして、もしどこまでも出過ぎて失礼なことを口にするようなら、台所から私を出てゆかせるからと、おどしました。
「おまえの言うことを聞いてると、知らない人はここの奥さまかと思いますよ! 身分を考えて高あがりは慎みなさい! ヒースクリフ、なんでまたこんな人騒がせをするんです? イザベラに手出しをしてはいけないと言ったでしょう! ――ここへ来るのに飽きて、リントンにあんたの前で玄関の扉をしめさせたいとでもいうのでなかったら、あの子をかまわないで下さい」
「おれにしめ出しを食わせたいなら食わせてみろ!」色黒の悪党は答えました。そのとき私はこの男が憎らしくてたまりませんでした。「おとなしく辛抱してるほうが自分のためだろう。おれは毎日あいつを天国へやりたくて、日ましにいらいらするんだから」
「おだまんなさい!」キャサリンは内側の扉をしめて、「あたしの気にさわるようなことをしないでちょうだい。なぜあたしの要求を無視なすったの? イザベラのほうからわざとあんたを待ち受けていたんですか?」
「それがきみになんだというんだ?」すごい声です。「イザベラがしたがるなら、ぼくは接吻《せっぷん》する権利がある。きみに反対する権利はない。ぼくはきみの夫ではないから、きみはぼくのことを嫉《しっ》妬《と》することはないんだ!」
「あんたのことを嫉妬してなんぞいません。イザベラのためにあんたを警戒しているんです。もっと明るい顔をなさい。あたしをにらむんじゃありません! イザベラが好きなら結婚なさい。だけどほんとに好きなの? 本当のことをおっしゃい、ヒースクリフ。そら、返事をしない。好きじゃないことわかってるわよ!」
「そして旦《だん》那《な》さまは、妹御さまがその人と結婚するのをお許しになりますの?」と私が質問しました。
「旦那さまはお許しになるはずです」奥さまは、きっぱりお答えになりました。
「ご主人にご心配はかけん。許可がなくともけっこう、ぼくは結婚できる。そしてきみについてもだ、キャサリン、ぼくはこんな話の出たついでに言っとくがね。きみがぼくに実に恐ろしい――恐ろしい仕打ちをしたことをぼくは知ってる。そのことを知っていてもらいたいんだ――わかったね? そしてもしそこにぼくが気づいていないだろうなどといい気になってるなら、きみは馬鹿《ばか》だ。もしぼくが甘い言葉であやしておけるなどと思ってるなら、きみは白痴だ。またぼくが復讐《ふくしゅう》もせずに辛抱するなどと空想するなら、まさに反対だということを、ごく近いうちに思い知らしてあげよう! まあそれはそれとして、きみが義妹《いもうと》の秘密を聞かしてくれたことにお礼を言おう、ぼくはそれを精いっぱいに利用することを誓っとく。そしてきみはじゃまをせんでくれたまえ!」
「まあなんて思いがけない性格がこの人にあるんでしょう?」リントン夫人は驚いて叫びました。「あたしが恐ろしい仕打ちをした――あなたは復讐をする! どんな復讐をしようっていうの、恩知らずの獣《けだもの》! いつあたしが恐ろしい仕打ちをあんたにしました?」
「きみに向かって復讐しようとは思っていないさ」いくらか調子を和らげて、「そんなことは考えていない。暴君は奴《ど》隷《れい》をいじめても、奴隷は暴君に反抗はせん。奴隷は自分より下の者をまたいじめるんだ。きみが好き勝手にぼくを苛《さいな》むのはけっこうだが、だがぼくが同じようにして少しばかり楽しむのを許してほしいんだ。そしてできるだけがまんしてぼくをののしりはずかしめないでほしいんだ。ぼくの御殿を倒しておきながら、あばら家を建てて、それをぼくの家として与えて、一人で自分の慈悲心に陶酔していられては困るんだ。もしほんとうにきみがぼくをイザベラと結婚させたがってるなんてことを想像したら、ぼくはのどをかき切ってくたばるだろう!」
「まあ。ではあたしがあんたに嫉妬《やきもち》やかないことが悪いのね、そうなの? いいわ、もう奥さんおもらいなさいなんて言わないから。呪《のろ》われた魂を魔王《サタン》に献上するのと同じくらいつまらないことですもの。あなたも魔王みたいに、他人に不幸を負わせるのがお楽しみなのね。証拠があるわ。エドガーはあんたが来たとき不機《ふき》嫌《げん》になったのに、いまは静かになって、それであたしも安心して落着けるようになったところよ。そしたらあんたは、あたしたちが平和でいるとまたいらいらしてきて、またけんかのたねをまこうって気になるでしょう。もしお望みなら、ヒースクリフ、どうぞエドガーとけんかをなすって、その妹をおだましなすって――それがちょうど、あたしに復讐する最上のやり方になるでしょうからね」
話は途切れました。リントン夫人は顔をほてらせ、陰気な面《おも》もちで炉ばたに腰をおろしました。いままで夫人を支える力となって来た精霊が、いまどうにも手におえぬものとなりました。それを静めることもあやつることもできないのです。男は腕を組んで炉の前に立ち、その邪悪な考えにふけっています。その状態で、私は二人をあとに、旦那さまを捜しに参りました。ちょうど奥さまがなぜそういつまでも階下にいるのか、いぶかっていらっしゃるところでした。
「エレンか」私がはいって参りますと、「奥さんはいないか?」
「はあ、お台所にいらっしゃいます。ヒースクリフさんのふるまいに、たいそうおこっていらっしゃいます。ほんとうのところ、あたくし思いますのに、ああしてあの方のおいでになるのを、なんとかしなければならない時分じゃございますまいか。あまり穏やかにしていらっしゃると、とんだことになりますわ、現にきょうはこんなわけなんでございますよ――」と、中庭での一件をお話しして、その後の口論の模様もできるだけ事実に近く申しあげました。それが奥さまに、たいして不利になることはないと私は思いました――ただあとになって奥さまご自身、客をかばい立てなすったために不利にしておしまいになりましたけど。エドガー・リントンはしまいまで私の話を聞くのが、よほど骨が折れましたようで、最初に言い出したことは、それでは家内にも罪がないとは言えんではないかという意味にとれました。
「こんなことが許しておけるか! そういう男を友だちとして扱い、ぼくにも交際を強《し》いるなんて、恥ずべきことだ! 召使部屋から男を二人呼びなさい、エレン。そんな下等なやつとキャサリンがいつまでも議論なぞしていてはいかん――これだけ甘やかしたらたくさんだろう」
旦那さまは下へ降りて、召使たちに廊下で待つようにお命じになってから、私をつれて台所へいらっしゃいました。なかの二人はまた口争いを始めているようでした。少なくともリントン夫人のほうは元気を盛りかえして相手を叱《しか》っています。ヒースクリフは窓ぎわへゆき、頭《こうべ》を垂れ、夫人の激しい叱責《しっせき》に、やや閉口の形に見えます。男はあるじの来たのに先に気がついたので、あわてて夫人に黙るように合図しました。この合図の意味がわかると、夫人も急に話をやめました。
「いったいこれはどうしたのだ?」リントンは妻に向かって、「あのならずものにあんなことを言われて、まだここにいるなんて、いったいおまえも礼儀について、どういう観念を持ってるのかね? あいつが始終そういう話をしているから、おまえもそれをなんとも思わないんじゃないのかね? 下品さになれっこになって、ひょっとするとぼくもそれになれるだろうと思ってるんだね」
「エドガー、あなた戸口で聞いてらしったんですか?」奥さまはわざと夫の腹を立てさせるような調子で、夫の腹立ちを気にせぬし、軽蔑《けいべつ》してもいるという気持をこめて、たずねました。前のリントンのことばに目をあげていたヒースクリフは夫人の言葉を聞いて冷笑を放ちました。それはリントン氏の注意をひこうとして、わざとやったことなのです。それは成功しましたが、リントンには激越な調子で相手をもてなす考えはありませんでした。
「きみ、ぼくはいままできみを辛抱してきましたがね」と、穏やかに、「きみのみじめな堕落した品性について知らなかったわけではなくて、その責任はきみには一部分しかないと思っていた。キャサリンが、きみと交際をつづけたがるものだから、ぼくも同意した――それが馬鹿だった。きみの存在は最も徳の高い者までも悪に染まるような道徳上の毒素なのだ。それだから、またそれによるこれ以上の有害な影響を防ぐために、これから先々この家へ出入りすることをお断わりすると同時に、いますぐここを出て行ってほしいことをご注意申しあげる。あと三分間ぐずぐずしていれば、きみの意志と無関係に屈辱的に出て行かなければならないだろう」
ヒースクリフは軽侮をこめた目で相手の身のたけや肩幅をはかっておりました。
「キャシー、きみの子羊がまるで雄牛みたいに強迫してるぜ! おれの拳骨《げんこつ》で頭の骨をたたき割られる危険を冒してるわけだ。やれやれ! リントン君、きみはなぐり倒すだけの価値もなくて、なんともお気の毒だなあ!」
主人は廊下のほうをちらと見て、私に下男たちを連れてくるように合図しました。自分で相手と戦う危険をおかすつもりはリントン氏には少しもなかったのです。私はその合図に従いました、が、リントン夫人が何か感づいたとみえ、私のあとからついて来ました。そして私が男たちを呼ぼうとしましたとき、私を引き戻《もど》して扉をばたんとしめ、錠をおろしてしまいました。
「ごりっぱなやり方ね!」夫がおこりながらも驚きあきれている顔に向かって夫人は言いました。「あの人をやっつけるだけの勇気がないなら、謝罪をするか、おとなしくぶたれるか、どちらかになさるといいわ。自分にありもしないから《・・》元気を見せた罰ですわ。駄目《だめ》よ、あなたが鍵《かぎ》を取ろうとすればあたし飲んでしまいます! あたしはお二人に対してつくした親切の大したうれしい報いを受けたものね! ひとりは弱虫、ひとりは悪人、そのどっちにもこれまで好きなようにさせてあげた報酬は、ばかばかしいほど愚劣な、無知な忘恩のお手本を二つ、お礼にもらったわけだわ! エドガー、あたしはあなたとあなたの物とを守ってあげてるところだったのよ、それにあたしを悪く思うなんて、ヒースクリフがあなたを気持が悪くなるまで打ってくれるといいと思うわ!」
主人の気持を悪くさせるのには、打つ必要などございませんでした。キャサリンの握っている鍵を奪い取ろうとしますのを、取られまいとして、真っ赤に燃えている煖《だん》炉《ろ》の中へ投げ込んでしまいました。そうなってエドガー氏は、ぶるぶると震え出し、顔色は死人のように真《ま》っ青《さお》になりました。なんとしても感情のたかまりを押えることができず、苦悩と屈辱とが入りまじって完全に打ちのめされてしまいました。とうとう椅子《いす》の背にぐったりとなって、顔をおおいました。
「まあほんとに! 昔ならあなたはこれでりっぱに騎士の位がとれましたわね! あたしたちの負けだわ! あたしたちの負けだわ! 王さまが二十日《はつか》鼠《ねずみ》の領地に軍隊を差し向けたりしないのと同じに、ヒースクリフはあなたに指一本あげはしませんわ! 元気をお出しなさいよ! あなたに怪我《けが》なんかさせないわよ! あなたは子羊ってがらじゃなくて、まだ乳を飲んでる野兎《のうさぎ》の子ぐらいのところだわ!」
「こんな弱気な臆病者《おくびょうもの》を亭主《ていしゅ》にもって、きみはしあわせだな、キャシー!」ヒースクリフが言います。「きみの趣味のいいのに感心するよ。こんなお世辞屋の弱虫のほうが、ぼくより好きだってんだからな! おれは拳骨でこいつを打たずに、足でけっとばして、すこしばかり満足を味わうことにするよ。こいつ泣いてるのか、それとも恐ろしさで気絶しかけてるのかな?」
男は近づいて行って、リントンの休んでいる椅子をぐいと押しました。近寄らないほうがよかったのです。主人は急にまっすぐ立ったかと思うと、もっと華奢《きゃしゃ》な男なら倒れてしまうほど、思いきった一撃をヒースクリフののどに加えました。相手が息をつまらせているあいだに、リントン氏は後ろの扉から庭へ出て、そこから正面の玄関へ回りました。
「それごらんなさい! あんたはもうここへ来《こ》られなくしてしまったわ。さあ、逃げなさい、主人《たく》はピストルを二丁に家来を五、六人つれて帰ってくるわ。もしあたしたちの話を立ち聞きしたんなら、もちろんあんたを許さないわ。あんたも悪いところはあったのよ、ヒースクリフ! だけど逃げて――早く! あんたが逃げ場を失うのを見るより、まだしもエドガーがそうなるのを見るほうがいいわ!」
「あいつにのどをなぐられて、痛みを残したままでぼくが帰れると思うのか? 畜生、誰《だれ》が! この敷居をまたぐ前に、やつの肋骨《あばらぼね》を、腐ったはしばみのようにぐしゃりとつぶしてやるのだ! いまなぐり倒さなければ、いつかはあいつを殺してやる。だからきみがあいつの生命《いのち》を大切に思うなら、いまぼくになぐらせるのがいいよ!」
「旦那さまはおいでになりませんよ」私が横から、ちょっと嘘《うそ》をこしらえて口を入れました。「御者と園丁が二人で来ましたよ。まさかあの連中に道路へ突き出されるまで、待ってるつもりじゃないでしょうね! めいめいこん棒を持っていますわ。そして旦那さまは、お居間の窓から命令どおり実行されるか、見ていらっしゃるらしいですわ」
園丁と御者がいたのは事実ですが、実は主人もいっしょにいましたのです、一同もう庭へはいってきました。ヒースクリフはちょっと考えて、二人の下男と争うことを避けようと決心し、内側の扉《とびら》の錠を打ちこわして、みながはいって来る前に逃げてしまいました。
リントン夫人はたいへんに興奮して、私に二階へついて来るようお命じになりました。この騒動に私の買って出た役割はご存じなかったので、私も知られないよう、ずいぶん気を使いました。
「あたし気が狂いそうだわ、ネリー」長椅子に身を投げながら、「頭の中に鍛冶屋《かじや》が千人もいて、鎚《つち》でたたいてるの! イザベラにそばへ来ないように言ってちょうだい! この騒ぎはあの子のためなんだもの。あの子でも誰でも、いま、この上あたしをおこらせたら、あたし気が狂うわよ。それからネリー、今夜また旦那さまに会うようなら、言ってちょうだい、いま奥さまは重病になりそうですって。ほんとにそうなりたいと思ってるの。エドガーはあんなにひどく、あたしを驚かせ悲しませたんですもの、あたしも驚かしてやりたいわ。それにまたやって来て、悪口だの、不平だの並べられたら、あたしもきっと負けずにやりあうでしょ。いったいいつになったらケリがつくんだか、わかりゃしないわ! だからネリーや、どうかそう言ってちょうだいね。こんどのことでは、どう考えたって、あたしに悪いところのないことは、おまえも知ってるでしょう。どんな悪魔につかれて、立ち聞きなんぞエドガーはしたんでしょう? おまえが出て行ったあと、ヒースクリフの言ったことは、そりゃ言語道断だったわ。でもイザベラの話は、すぐにやめさせたと思うのよ、そのあとの話はなんでもなかったわ。こんなふうに、何もかも一度にまずいことになっちゃって、これもみんな悪魔みたいに、自分の悪口を聞きたいという変な執心にとっつかれた、世間によくある愚か者の片意地のおかげだわ! エドガーがあたしたちの会話を一つも聞かなかったからって、何一つ困ることはないはずなのよ。ほんとに、あたしがエドガーのためを思って声がかれるほどヒースクリフを叱ってやったあとへ、あの人がはいって来て、あんな無理無体ないやみを言い出したときは、二人してどんな大げんかをしようとかまやしないって気持になったわ。それに、この場の成行きがどうなっても、どうせみんなてんでんばらばらになって、いつまで会えなくなるかわからないんだ、そういう気にもなったのよ! いいわ、あたしがヒースクリフと仲よくしていられなくなろうと、エドガーが卑《いや》しい嫉妬《やきもち》やきになり下がろうと、あたしはあたしで自分をめちゃめちゃにして、みんなをめちゃめちゃにしてやるばかりだわ。あたしがどんづまりまで追いつめられたときは、それが万《ばん》事《じ》をおしまいにしてしまう手っとり早い方法だと思うの! でもそれは、いよいよ絶望ってときまでとっておくわ。そんなふうにしてリントンに不意打ちを食わせたくはないわ。きょうまでというもの、あの人はあたしをおこらせたくなくて、びくびくしていたでしょう? おまえから旦那さまに、いままでの方針をお捨てになるのは危険ですって話してちょうだい。そしてあたしの激しい気性は、もし火がついたら気違いみたいになることを忘れないようにって、注意してもらいたいの。ねえ、ネリー、おまえのその顔から、なんとかその冷淡なところをなくして、もう少しあたしのことを心配してくれるような顔になってもらえないものかしらねえ」
こういう言いつけを聞いている私の無神経な顔つきは、たしかに奥さまの気にさわったようでした、奥さまのほうはまったく真剣で話していたのですから。けれども私は、自分の狂気じみた激情の発作を利用しようと、まえもって計画できる人ならば、そういう発作の最中にも、なんとかして自分を押えることが、意志の力でできるはずだと思っておりました。また私は、奥さまの言うように旦《だん》那《な》さまを「驚かす」のはいやで、奥さまのわがままのお手伝いして、旦那さまのご苦労をふやすようなことはしたくありません。ですから私は、主人が居間のほうへ来られるのに会ったときも、何も申しませんで、逆にお二人がどんなふうにけんかの蒸し返しをするか、後ろへ戻って聞いておりました。エドガーがまず口を切りました。
「そのままでいなさい、キャサリン」というその声には、おこったところは少しも残っていなくて、たいへん悲しそうな、打ち沈んだ調子がございました。「ぼくは長居はしない。またけんかしに来たのでも仲なおりしに来たんでもないんだ。ただぼくはちょっと、今晩の出来ごとがあったあとでもおまえのつもりでは、今後もつづけて懇意に――」
「ああ、お慈悲ですから――」地だんだをふみながら奥さまはさえぎって、「お慈悲ですからいまはその話よして下さいね! あなたの冷たい血はどうしても熱くならないのね。血管に氷のような水しかないのね。ところがあたしの血は沸いてるんです、ですからそんな冷たさを見ただけで、くらくらと煮えかえるんです」
「ぼくを追い出したかったら、ぼくの問いに答えたまえ」リントン氏はあとへ引きません。「答えなければいかん。きみの激しい文句には驚かされない。きみは自分がそうしたいときには、だれにも負けず冷静になれることを知ってるからね。これからさき、きみはヒースクリフをあきらめるか、それともぼくをあきらめるか? きみがぼくと親しくしていて同時にあの男とも《・・・・・》親しくすることは不可能。だからぼくは、どうあっても、きみがどっちを選ぶかを知る必要があるんだ」
「あたしはひとりになる必要があるんです!」キャサリンはものすごい勢いで叫びました。「ひとりにしておいて下さい! あたしがもうがまんできなくなってるのがおわかりにならないの? エドガー、あなたは――あなたは出て行って下さいまし!」
そして激しくベルを鳴らして、とうとうピーンと音を立ててベルをこわしてしまいました。私はのろのろとはいって参りました。これほどわけのわからない、性悪なおこりようというものは、たとい聖人の克《こっ》己《き》心《しん》がありましても、はたして耐えられますかどうか! 長椅子の腕に頭をのせて横たわり、歯をギリギリとかみ鳴らすその力に、歯がばらばら砕け散るかと思うばかり! リントン氏は急に後悔したらしい心配そうな顔で、その様子を見つめて立っています。そして私に水を持って来いと命じました。奥さまは息がつまって、口がきけません。私はコップにいっぱいの水を持って参りましたが、奥さまは飲もうとしませんので、顔に水をふりかけました。数秒のうちに、ぐーっと体をそらせ、目をつり上げ、頬《ほお》はみるみる蒼白《そうはく》から鉛色になり、まるで死人のようになってしまいました。リントン氏はすっかりおびえてしまいました。
「なあに、こんなことなんでもありませんよ」私は小声で申しました。ご主人が負けてしまうのがいやだったからですが、私も内心は心配せずにいられませんでした。
「くちびるから血が出てる!」震えながら主人が言われます。「大丈夫!」私はそっけなく答えました。そして私はキャサリンが、主人の見える前に、狂気の発作を起こして見せる考えでいたことを話して聞かせました。うっかりしてそれを大きな声で言ってしまいましたので、それが耳にはいったとみえます、奥さまは急に身を起こして――髪は両の肩に振りみだし、目をぎらぎら光らせ、すねや腕の筋肉が人間ばなれした形にふくれあがっております。私は軽くて骨ぐらいは打ち折られるものと覚悟いたしましたが、奥さまはただほんの一瞬、あたりをにらみまわしただけで、部屋の外へ走り出てしまいました。主人はついて行けと申しますので、部屋の戸口までは参りましたが、私の目の前でばたりと扉をしめ、しめ切ってしまいましたので、それまででございました。
翌朝、朝飯に降りてくる様子も見えませんので、何かお持ちいたしましょうかと、訊《き》きに参りますと、「いいの!」と断ち切るようなご返事です。同じことを昼食のときにもお茶のときにも訊きに参り、また翌日の朝も参りましたが、同じ答えでございました。リントン氏はずっと書斎でお過ごしでしたが、奥さまのご様子については、何もおたずねになりません。イザベラさんとは一時間ばかり話しあいまして、ヒースクリフから言い寄られたとすれば、当然に恐怖をいだきそうなものと、嬢さまからそうした告白を聞き出そうとなすったようでしたが、つかまえどころのない答えばかりで、なんの結果も得られず、不満足のうちに吟味を打ち切るほかありませんでした。けれども最後につけ加えて、もしおまえがあのやくざな男に恋をしかけられて、相手を喜ばすそぶりでも見せるほど狂った頭になったのなら、兄妹《きょうだい》の縁もないものにするから、と厳重にお言い渡しになりました。
12
リントン嬢さまはいつも黙りこくって、またたいがいはいつも涙ぐみながら、猟場《パーク》やお庭を陰気に歩きまわっています。リントン氏は開いても見ない書物にうずまって――私の想像では、キャサリンが自分の仕打ちを後悔して、自分から許しを求め、和解の手をさしのべに来はせぬかと、絶えず漠然《ばくぜん》とした期待をいだいて、待ちくたびれていたのでしょう。――そのキャサリンは相変らず強情に食事を断わって、おそらくは食事の時間が来るごとに、エドガーが自分のいないため食べものものどを通らないくせに、走って来てあたしの足下にひれふしたいのを、自尊心だけが引き止めているのに違いない、などと考えているのでしょう。そして私は、まんべんなく家事にいそしみながら、お屋敷にもたった一つだけ、物のわかる魂がある、それは私の体に宿っているという信念をかたくするのでした。私は、わざわざ時間をつぶしてお嬢さまを慰めもせず、奥さまをいさめもせず、さればと申して、奥さまの声が聞けなければせめて名前だけでも私から聞きたくて、ため息ばかりもらしている旦《だん》那《な》さまのこともたいして気にとめませんでした。仲なおりしたかったらご自分たちで勝手に仲なおりをなすったらいい、私は知りませんよ――そう腹をきめておりましたのです。そしてほんとうに飽き飽きするほどおそい歩みではありましたけれど、とうとう和解のきざしが見えそめたと、心をおどらせたのですが――それもただ最初、私がそう思っただけなのでございました。
リントン夫人が、三日目にやっと扉《とびら》の締りを取り払いまして、壺《つぼ》にも水差しにも水がなくなったからくんで来ておくれ、それからおかゆも一杯ほしい、死にそうな気がするから、と申します。それを私は、エドガーさまに聞かせたくての口《く》説《ぜつ》ととりましたが、自分ではそんなことは信じませんから、誰にも言わずに、お茶と何もつけないトーストだけ持って参りました。がつがつと食べて飲んで、また枕《まくら》の上に倒れこんで、手を振りしぼりうめき声を立てて、「ああ、死にたい」と叫びます。「誰ひとり何ひとつ、あたしをかまってくれないんだもの。そんなもの口に入れなければよかった」――それからひとしきりひとりごとを私に聞かせましてから、「いいえ、やっぱりあたしは死なないわ――あの人が喜ぶから――あたしをちっとも愛していないんだから――あたしが死んだってちっとも悲しがらないから!」
「何かご用はございませんでしたの、奥さま?」物すごい表情で、変な大げさな身ぶり格好をして見せられても、相変らず平気な顔をいたしまして、私は訊きました。「あの人情なしの人は何をしてるの?」やつれた顔にかかるもつれた厚い縮れ髪を払いのけながら、「眠り病にでもかかったの? それとも死んじゃったの?」
「旦那さまのことをおっしゃるのでしたら、どちらでもございません、まあお元気のようですよ、ただいくらかご勉強の度がすぎますけれど。ほかにお話し相手がないものですから、本ばかり相手にしていらっしゃいますわ」
奥さまの本当のご容態を知っていましたら、そんなふうに申すのでございませんでしたが、半分はお芝居で病気のように見せているという考えを、まだ追い出せずにおりましたのです。
「本ばかり相手に!」それには面くらった様子で、「あたしが死にかけて、お墓の縁まで来ているのに! ああ神さま! あたしがこんなに変ったのを、あの人は知ってるのかしら?」向かい側の壁に掛かっている鏡の中の自分の姿を見つめながら、さらに言いつのるのでした。「あれがキャサリン・リントンなの! あの人は、あたしがフテくされて――冗談半分にしていると思っているのね、きっとそうだわ。真実、真剣な苦しみだってことを、おまえは旦那さまに知らせてくれることはできないの? ネリー、いまからでもまだおそすぎないなら、あの人の気持がわかったらすぐ、あたしは二つに一つ、どっちかの道を選ぶつもりよ。一つはこのまま飢え死にすること――これはエドガーに情がなければなんの罪にもならないわね――もう一つはなおって、この土地を去ることだわ。いますぐエドガーの本心を話してくれる? まじめにね。ほんとうにあたしのことを全然気にかけていないの?」
「だって、奥さま、旦那さまは、あなたが気が変におなりになったとは、夢にも思っていらっしゃいませんよ。ですからあなたがご自分から飢え死になさるおつもりか知れないなどとも、もちろん心配してはいらっしゃいませんわ」
「おまえたしかにそう思う? あたしが餓死するつもりだって、おまえから言うことできないの? 説きふせてちょうだい! おまえの思うとおりを話してちょうだい――おまえから見て、たしかにあたしはそのつもりだと、言ってちょうだい!」
「いいえ、奥さま、お忘れになってはいけません、今晩、あなたはおいしそうに物を召しあがりましたよ、だからあすになればそれがお体にきいたのがおわかりになるはずですよ」
「これであの人を殺せると、たしかにわかってさえいれば、あたしすぐにも自殺してみせるけど! あの恐ろしかった三晩というもの、あたしはまんじりとも目をつぶらない――そして、ああ、あたし苦しんだわ! うなされたのよ、ネリー! でもそのうち、うちの人たちがあたしを嫌《きら》ってるような気がしだしたの。妙だわねえ! みんながお互いに憎みあったり軽蔑《けいべつ》しあったりしても、あたしのことだけは愛さずにいられないのだと思っていたのに、わずか数時間のうちに、みんなが敵になっちゃったの。そうなの、あたしはハッキリそう思うわ、ここの家の《・・・・・》人たちみんな、そうなっちゃったのよ。みんなの冷たい目に取り囲まれて死んでゆく、ああ、さびしいことだわ。イザベラはこわがっていやな顔して、この部屋にはいろうともしない、キャサリンの死ぬのを見ているなんて、恐ろしくって――。そしてエドガーはしかつめらしい顔でそばに立って、あたしの死ぬのを見とどけてから、この家に再び平和が戻《もど》って来たことを神さまに感謝するお祈りをして、それからまた本のところへ帰って行く! 少しでも感情というものがあったら、あたしが死にかかってるのに、いったいぜんたい本なんぞになんの用があるのよ?」
私から聞かされたとおり、リントン氏が平静なあきらめに安住しているということは、夫人にはとてもがまんのならないことでございました。床の上で身もだえしながら、熱病じみた心の乱れを狂気にまでつのらせ、枕をかんで食いやぶってしまう始末で、やがて全身を火のようにほてらせながら身を起こし、窓をあけてほしいと私にいわれます。真冬のことで、おりから北東の強い風が吹いておりましたので、私はあけられませんと申しました。お顔にひらめく表情と申し、変りやすい気分と申し、私はひどくあわて出しまして、前の病気のこと、お医者が逆らってはならぬと言ったことが思い出されて参ります。いましがたまでひどく荒れていたのが、いまは片腕で身を支え、私が言いつけに従わぬことなど気にもとめず、子どものように先ほどできた枕の破れ目から鳥の羽根を引っぱり出し、敷布の上に種類分けして並べまして、余念なく遊んでおります。頭は、すでにあらぬ方向へさまよい出てしまいましたのです。
「これは七面鳥」小声でひとりごとを言っております。「これは野がも、それからこれは鳩《はと》の羽根、まあ鳩の羽根も枕の中へ入れるのね――死ねなかったのは当りまえね!これからは寝る前に気をつけて、床の上へ捨てることにしましょう。それからこれは雄の雷鳥、そしてこれは――あたしにはいくらたくさんの羽根の中でもわかるはずだけど――あ、た《・》げり《・・》の羽根、元気のいい鳥、荒地のまんなかであたしたちの頭の上をくるくる舞うの。雲が丘の頂に降りて来たから、巣へ帰りたがっていた。雨の来るのがわかるのね。この羽根は野原で拾ったものだわ、射《う》たれた鳥じゃない。冬、この鳥の巣を見たことがあったわね、小さな骸骨《がいこつ》がいっぱいあったっけ。ヒースクリフがその上にわなをかけたので、親鳥たちが帰って来られなかったからよ。あたしは、それからたげり《・・・》をけっして射たない約束させたの、ヒースクリフは射たなかった。そら、ここにもまだある! ネリー、あの子はあたしのたげり《・・・》を射った? たげり《・・・》の中に赤いものもある! 見せてちょうだい」
「そんな赤ん坊みたいなまねはおやめなさい!」私は枕を取り上げて、穴を下に、裏返して蒲《ふ》団《とん》の上におきました。キャシーは一つかみずつ中身を引っぱり出していたからです。「横になって、目をおつぶりなさい。あなたは頭が変なんですよ。まあ大変! 羽毛がまるで雪のように舞っていますよ」
私はあちこちそれを集めて歩きました。夢みるようにキャシーはしゃべりつづけます。
「ネリー、あたしはおまえを見てると、年とったおばあさんに見えて来るのよ。おまえの髪が白くって背中はまがってるの。このベッドがペニストンのがけの妖精《ようせい》のいるほら穴で、おまえはうちの若い雌牛に傷をつけようと石《いし》鏃《やじり》を拾ってるんだけど、あたしがそばにいるものだから、羊毛を集めてるように見せかけてるの。いまから五十年さきにはおまえがそうなるだろうってこと、いまのおまえがそうじゃないことは知ってるのよ。頭が変じゃないわ。おまえの思いちがいだわ、さもなければ、あたしはおまえがほんとにしわだらけの鬼婆《おにばば》で、あたしもペニストンのがけの下にいると思うはずだわ。いまが夜だということもわかってるわ。テーブルの上に蝋燭《ろうそく》が二本あって、黒い戸《と》棚《だな》が黒玉みたいに光ってることも――」
「黒い戸棚ですって? それはどこにありますの? あなた寝ごと言ってらっしゃる!」
「いつものとおり、そこの壁にあるじゃないの」と答えて、「おや、変だわねえ――あそこに顔が見えるわ!」
「このお部屋には戸棚はございません、前にあったこともございませんよ」言いながら、私はもとの椅子《いす》に戻り、病人がよく見えるようにカーテンをくくり上げました。
「おまえにはあの顔が見えないの?」一心に鏡を見入りながら問いかけます。
そしていくらなんと申しても私にはそれがご自分の顔だということをわからせることが、できませんでした。そこで私は立って、肩掛けでそれをおおいました。
「まだあの陰にいるわ!」心配して、どこまでも追求します。「また動いた。誰でしょう? おまえがいなくなってから、出て来ないかしら? おお、ネリー、この部屋には幽霊がいる! あたし一人でいるのいやだわ!」
私はその手をとって、気を落着かせようとしました。幾度かつづけざまに全身に痙攣的《けいれんてき》な戦慄《せんりつ》が走り、しかもまだ鏡のほうを見つめつづけようとするからでした。
「ここには誰もおりません!」私は強く申しました。「あれはあなたですよ、リントン夫人ですよ――ちょっと前にはちゃんとわかっていらしったのに」
「あたしだって!」ギョッとして、「時計が十二時を打っている! やっぱりほんとだわ! ああこわい!」
掛け蒲団をつかみ上げ、それで目を隠しました。ご主人を呼んで参ろうと思いまして、そっと扉のほうへ忍び寄りましたが、突き刺すような叫びに呼び戻されてしまいました――肩掛けが鏡のわくから落ちたのです。
「まあ、いったいどうなさいました? こんどはどなたですか、臆病者《おくびょうもの》は? 目をおさましなさい! あれは鏡――姿見ですよ、奥さま。いまあなたのご自分の姿があの中に見えますわね、ほら、こんどはわたしもいるでしょう、あなたのおそばに」
ふるえ、惑いながら、ぎゅっと私につかまっていましたが、恐怖の色はだんだんにその顔から消えてゆきました。蒼白《そうはく》さは失《う》せて、恥かしさの赤味がさしてきます。
「ああ! どうしたことでしょう、あたしは実家《うち》にいると思ってたの」ほっと吐息して、「嵐《あらし》が丘《おか》の自分の部屋に寝ているとばかり思っていたわ。体が弱ってるので、頭が混乱して、夢中で声だしちゃったわ。何も言わないで、ただここにいてちょうだい。あたし眠りがこわいのよ、夢でおびえるの」
「ぐっすりよくおやすみになれば気分が良くなりますわ、奥さま。そしてこんなつらい思いをなすったからは、二度とお食事を断わったりなさらないでしょうね」
「おお、実家《うち》の自分の寝床に寝てるんだったらねえ!」両手を絞りあわせながら、悲しそうに言いつづけるのでした。「そしてあの窓《まど》格《ごう》子《し》のそばの樅《もみ》の木を騒がす風の音。あの風に触れさせてちょうだい――荒野《ムーア》を渡ってまっすぐに吹いてくる風――あの風をせめて一息だけ吸わせてちょうだい!」
病人を落着かせるため、数秒のあいだ窓を薄めにあけました。冷たいすきま風が吹き込みます。またしめて、私は席へ戻りました。奥さまはやっと静かに横になり、顔は涙にぬれておりました。体が疲れはててしまって、精神はまったく縮かんでしまいました。あの火のようなキャサリンはどこへやら、泣き虫の子どもと少しも変るところはございません。
「ここへはいったきりになって、どのくらいになるの?」急に元気をとり戻しかけて、訊きますので、
「月曜日の夕方でございました、いまは木曜の夜――というよりもう金曜の朝ですわ」
「あら、同じ週のうちなの? そんな短いあいだ?」
「冷水と不機《ふき》嫌《げん》のほかに何も召しあがらないのでは長すぎるくらいですよ」
「そうね、ずいぶん退屈な長い時間だったような気がするわ」と不思議そうにつぶやきます。「もっと長かったんじゃないかしら。エドガーとヒースクリフがけんかしたあと、居間にいて、エドガーが意地わるくあたしをおこらせるもんだから、夢中でこの部屋へかけこんだのは覚えてるわ。扉にかんぬきをおろしたら、まっ暗闇《くらやみ》になって、それですっかり元気がなくなって床に倒れてしまったのよ、もし、エドガーがしつこくあたしをからかったら、あたしが発作を起こすか、猛烈におこって気違いみたいになるかにきまってるということを、どうしてもエドガーにうまく説明できないの。あたしは舌も頭もいうことをきかなくなってるのに、あの人はあたしの苦しみが察しられないらしいの。だからあたしはもうエドガーとエドガーの声とからのがれようとすることしか考えられなかった。やっと目が見え、耳が聞こえ、はっきり我に返ったときは、もう夜が明けかかっていた。そして、ネリー、そのときあたしが何を考えたと思って? またあたしが繰り返し考えつづけて、しまいに自分の気が変じゃないかとこわくなったほど、考えつめたことはなんだと思って? あたしはそこのところに寝ていて、頭はあのテーブルの足のところ、目は白みかけた窓の四角い輪郭をぼんやりと見わけながら、考えていたの――あたしは自分の実家《うち》の樫材《かしざい》の羽目板で包まれたベッドの中にいる。あたしの心は、そのとき目がさめたばかりで思い出せないけれど、何か大きな悲しみでうずいている。それがなんだったか、知りたいと思って、あたしはしきりに首をひねって、ひとりで苦労しているんだけど、まあ何よりも不思議なことは、最近七年間というもの、あたしの生活は全然空白《ブランク》になってるの! あたしにはそれがたった一つも思い出せないの。あたしは子どもだった。お父さまのおとむらいがすんだばかりで、あたしの不幸はヒンドリーがあたしとヒースクリフをいっしょにさせなくなったときから始まったの。はじめてあたしはひとりぼっちになった。そうして一晩じゅう泣き明かしたあげくの苦しいまどろみからさめかけて、羽目板を押しあけようと手を上げたら――手がテーブルにぶつかった! 手をまわして絨毯《じゅうたん》を撫《な》でたら、記憶がどっと流れ込んできたわ。そのときあたしの最近の苦しみは絶望の発作のなかにのみこまれてしまったの。なぜあんなにめちゃめちゃに悲しくなったのか、あたしには説明できないわ、きっと一時的な錯乱だったのでしょうね。その証拠には、ほとんど原因らしいものがないんですもの。けれども、かりに十二のときにあたしが嵐が丘から連れ出され、ごく小さいときから親しんで来たいろいろのものや、あたしにとってなくてはならない人――そのときはヒースクリフがそうだった――からも引き離されて、いっぺんにリントン夫人、スラシュクロス屋敷の奥さま、見も知らぬ人のお嫁さんにされてしまったとするわね、その日をかぎり、流刑《しまながし》、追放人、いままで自分の世界だった土地を追われた人間。あたしが這《は》いずりまわった底なしの淵《ふち》の深さ、おまえも少しは想像してごらんよ!首を振りたければ勝手にお振り、ネリー、おまえもあたしの不安をつのらせた一人じゃないか! おまえこそエドガーに話してくれたらいい人よ、ほんとにおまえこそ話してくれて、エドガーに、あたしを静かに休ませるように言ってくれなくてはならない人よ! ああ、体が燃えるわ! 戸外《そと》へ出たいなあ! も一度小娘になって、半分野性の、丈夫な、自由な身の上になって、人からいじめられても圧迫されても気が狂ったりしないで、平気で笑えるようになりたいなあ! なぜあたしこんなに変ったんでしょう? 二言三言いわれただけで、どうして血が荒れて狂い騒ぐようになったんでしょう! その辺の丘に生えるヒースのなかへ飛び込みさえすれば、きっと自分が取り戻せるんだわ。もう一度窓をいっぱいにあけて、あけたらそのままにして! 早く! なぜおまえは動かないの?」
「あなたが風邪引いて死んだりなさると大変だからですわ」
「あたしがまたひょっと元気になると大変だからでしょ、本当は」不機嫌に言いました。「しかし、あたしはまだ体がきくわ。自分であけるからいい」
そして私のとめる間もなくベッドからすべり降り、足もともたどたどしく部屋を横切って、窓をあけ放ったかと思いますと、霜凍る夜気が両肩をナイフのように鋭く切るのも気にかけずに半身をのり出しました。頼んだりすかしたり、しまいには力ずくでベッドへ帰らせようとしましたが、熱に浮かされた(ほんとうに奥さまは精神錯乱《さくらん》に陥っていましたのです。その後の行動や狂乱状態から、私はそれを知りました)病人の力は、私よりずっと強いことがわかりました。月はなくて、ものみなは、目の下のぼうとした闇のなかに横たわって、遠近《おちこち》のどの家からも、一点の灯火も見えません――みなとうに明かりを消して、寝静まっています。嵐が丘の明かりはここからは見えないのですが――キャサリンはその光が見えたと言い張るのです。
「ごらん! あの蝋燭がともってるのがあたしの部屋よ、その前に木が揺れてる。も一つの灯《ひ》はジョーゼフの屋根裏部屋のだわ。ジョーゼフはずいぶん夜ふかしでしょう? あたしが帰ったら門を締めようと思って待ってるのよ。まあいいわ、もう少しなら待ってくれるでしょう。道はわるいし、旅人は悲しい心でその道をたどるんですもの。それにギマトンの教会のそばを通らなきゃならないでしょう、たいへんなところだわ! あたしたちはよくいっしょに、あすこの幽霊の探検に行って、墓場のなかで度胸だめしをしたり、幽霊出て来いなんてどなったりしたっけ。だけど、ヒースクリフ、もしあたしがいどんだら、いまでも度胸くらべする気があって? あんたがやるなら、あたしもついて行くわ。あたしは一人ではあすこに埋められたくないわ。十二フィートも土を掘って、あたしを埋めて、その上に教会を倒して穴をふさいでも、それでもあんたがあたしのそばへ来るまでは安らかに寝ていないわ。けっして寝ていないわ!」
そこで少し、休んでから、あやしい微笑を浮かべながら、また言葉をつぎました。「あの人、考えてるわ――逆にあたしに来てもらいたいらしいわ――そんなら道をお捜しよ! あの墓場を通らないでさ、じれったい人ねえ! じゃ贅沢《ぜいたく》言わないで、あんたはいつもあたしについて来たんだから」
気の狂っている人に理屈を言ってもはじまらないとあきらめましたので、私はなにか体に掛けてあげるものを取りたいけれど、つかまえている手を離さずに(あいた窓べに一人で立たせるのは物騒でしたから)取る方法を、しきりに考えていました。ところへ、がちゃがちゃと扉《とびら》の把《とっ》手《て》の音が聞こえ、リントン氏がはいってきましたのには、私はひどくあわててしまいました。主人は書斎から出て来たばかりで、廊下を通りすがりに私たちの話し声を聞きつけ、こんなおそくに何事かと、好奇心か、それとも心配か、ここへ引き寄せられたのでした。
「おお旦《だん》那《な》さま!」眼前の光景と、室内の寒風に吹きさらされた空気とに、主人のくちびるまで出かかった叫び声を押えるため、私は叫びました。「おかわいそうに、奥さまはご病気でございます。そしてとても私の手におえません。まるで言うことを聞いて下さらないのです。どうぞ、こちらへいらしってベッドへ帰るようにおっしゃってあげて下さいまし。お腹立ちもありましょうがお忘れになって――ご自分の好きなようにしかなさらないんですから、ご看病するにも容易なことではありませんわ」
「キャサリンが病気?」急いでこちらへ近寄って来て、「窓をしめないか、エレン! キャサリン、どうして――」
主人は口をつぐみました。リントン夫人の憔悴《しょうすい》した姿に、言葉を奪われてしまったのです。ただ夫人から私へと、おびえた驚きの視線を動かしているだけでした。
「奥さまはこの部屋で、おひとりで悩んでいらしったのです。ほとんど何も召しあがらないで、なんとも苦痛を訴えることもなさらないで、今晩まで、誰《だれ》ひとり部屋へもお入れにならず、そのためにわたくしどもも何も知りませんでしたものですから、旦那さまにもお知らせできませんで――。でも別になんでもございません」
私は説明のしかたがまずかったと思いました。主人は眉《まゆ》をひそめて、「なんでもないって、ほんとうになんでもないのか、エレン・ディーン?」と厳しい声で、「ぼくにこれを知らせずにいたわけを、もっとはっきり言いなさい!」そして奥さまを腕にかかえて、悲痛な面《おも》もちで見入りました。
はじめキャサリンには、夫がわからないのか、それらしいひとみの動きが見えません。じっと、あらぬかたをみつめているだけで、夫の姿は目にはいらないのでした。けれども精神錯乱になりきっているのでもなかったので、戸外の闇ばかりみつめていた目をほかへ向けさせましてから、少しずつ注意が夫に集中して参り、やがて自分を抱いている人が誰かに気がつきました。
「あ、エドガー・リントン、いらしったのね、あなた、ほんとに?」かっとのぼせ上がって言いました。「ちっとも来てほしくないときにはいつもいて、いてほしいときにはけっして来ないのがあなた! さあ、いずれあたしたちは、たんと後悔することでしょう――あたしには見えてますわ――でも、いくら後悔しても、あすこのお墓へあたしがはいるのを、留めることはできませんよ――あたしの安息の場所、春が過ぎないうちに、あたしはあそこへ行くことにきまってるんです! あすこですよ、よござんすか、礼拝堂の屋根の下の、リントン家の祖先の仲間入りはしませんよ、戸外の地面のなかに、墓石をのせてはいるんですよ。あなたはご先祖のほうへいらっしゃるなり、あたしのそばへおいでになるなり、それはどっちでもお好きなようにね!」
「キャサリン、おまえは何をしたのだ?」主人はたずねはじめました。「ぼくはもうおまえには路傍の人なのか? おまえの愛する悪漢のヒース――」
「シッ! いまだけは黙って! その名を口に出すが最後、すぐに窓から飛び降りて、自分で決着をつけてしまいます! いまあなたの手に触れているあたしはさしあげてもかまいません、あたしの霊はあの丘の頂へ、あなたの手が二度とあたしに触れないうちに行ってしまいます。エドガー、あたしのそばにいてほしくないわ、いてほしかった時はすぎたの。あなたのご本へお帰り下さい。あなたが心の慰めをお持ちなのはうれしいわ、だって、あたしの内にあなたがお持ちだったものは、みんななくなってしまいましたから」
「奥さまはお気が変なのですよ、旦那さま」私は口をはさみました。「宵《よい》からずうっと、らちもないことばかりおっしゃっていましたもの。でも静かになすって、気をつけて看病してさしあげれば、よくおなりですわ。これからは、お気にさわらないように用心いたさなければなりませんのよ」
「もうこのうえおまえの忠告なんか聞きたくないよ」リントン氏が答えました。「おまえはおまえの女主人の性質をよく知ってるくせに、ぼくをそそのかして奥さんをいじめさせたんだ。しかもこの三日間どんなふうだか一言もぼくに教えない! 冷酷だよ! 何カ月病気したって、これほど変るもんじゃないぞ!」
他人の天邪鬼《あまのじゃく》なムラ気のために悪くいわれるのでは、やりきれないと思いまして、私も弁解にとりかかりました。「奥さまのご性質がわがままで横暴なことはよく存じておりますよ。ですけれどもその激しいムラ気をあなたが奨励していらっしゃることは存じませんでした! 奥さまのご機《き》嫌《げん》とるために、あたくしがヒースクリフさんのことを見て見ぬふりをしなければならないとは思いませんでした。あたくしはあなたにお告げすることで、忠実な召使としての義務を行なったんでございます、そうしたら忠実な召使としてけっこうなご褒《ほう》美《び》をいただきましたこと! はい、これを手本にこのつぎから十分気をつけることにいたします。このつぎには旦那さまご自分で様子をお探りなさいまし!」
「こんどおまえがぼくに変な作り話なんぞ告げ口に来たら、おまえにここをやめてもらうからね、エレン・ディーン」リントン氏は答えました。
「すると、旦那さま、あなたは何もお聞きにならないほうがいいらしゅうございますね? ヒースクリフがお嬢さまを口説きに来ようと、あなたのお留守をねらってはいりこんで、奥さまの耳にあなたのおためにならないことを吹きこもうと、万事あなたのお許しを得ているんですか?」
頭が乱れてはおりましたが、キャサリンはこの会話にだけは鋭く知恵を働かして聞いていました。
「ああ! ネリーは裏切りをしたのね」激情をあらわに、叫びました。「ネリーはあたしの隠れた敵なんだわ。この妖《よう》婆《ば》! やっぱりおまえはあたしたちを傷つけるために石鏃《いしやじり》を捜していたんだね! 離して下さい、あたしはネリーに後悔させてやるんです! いままでのまちがいを改めますと、大きな声でほえさせてやるんです!」
いかにも狂人らしい激怒がその目に燃え上がりました。抱きしめているリントンの腕の下から脱けだそうと死にものぐるいで暴れました。その成行きをべんべんと見ていたくはありませんし、自分の一存でお医者の助けを求める決心をいたしまして、私は部屋を出ました。
道路へ出ようと庭を通り過ぎるときに、塀《へい》に、馬をつなぐ金具が打ち込んであるところで、何か白いものが変にふらふら動いているのが見えました。明らかに風で動いているのではありません。急いではおりましたが、いったい何なのかつきとめてみたいと思って立ち止まりました。自分の空想だけで、あれはよその世界の生きものだったときめこんでは、あとあとまで化けものを見たと思っていなければなりませんので、それがいやだったのでございます。目で見るよりも手でさわって、それがイザベラ嬢さまのファニーという子犬《スプリンガー》で、しかもハンカチでつるされて、もう少しで息を引き取るばかりだということがわかりましたときは、私は実にびっくりしてめんくらってしまいました。急いでほどいてやって、庭の中へ投げ込みました。お嬢さまが寝室へはいるときに、その犬があとについて階段を上がってゆくのを見ましたのですから、なんでそれがこんなところに来て、どんないたずらな人間がこんな目にあわせたのか、まったく合《が》点《てん》がゆきませんでした。金具に縛りつけた結び目をほどいておりますときに、少し離れたところを駆けてゆく馬《ば》蹄《てい》の音を、幾度か聞いたような気がしましたが、なにぶんいろいろの考えごとで頭がいっぱいになっておりましたので、よく考えてみませんでしたが、それにしてもあんな場所に、朝の二時だというのに、奇妙な音が聞こえたものでございます。
ケネス先生は、私が村の通りへはいって参りましたとき、おりよく村の患家へ診察に行くので、ちょうどお出かけになるところでした。キャサリン・リントンの病気の話をしますと、さっそく私といっしょに来て下さいました。正直な荒けずりなかたですから、キャサリンがこの前のときよりもおれの言うことを聞かないようなら、こんどの二度目の病気では助かるまいよ、などと歯に衣《きぬ》きせずに言われるのです。
「ネリー・ディーン、おれはこの病気には特別の原因がありそうに思えてならんがね。お屋敷に何かあったんではないかな? 妙なうわさをこの辺ではしとるが、キャサリンのような丈夫な元気な若い女が、少しばかりのことでは病気にならんからな、またああいう性《た》質《ち》の人は病気をしてはいけないんだ。熱病だのなんだのという病気を切り抜けさせるのは容易でないんでなあ。どんなふうにして始まったんだね?」
「旦那さまからお話しになるでしょう。けれど先生はアーンショー家の人たちの激しい気性はよくご存じで、なかでもキャサリン様はいちばんお激しいですからね。はじまりはけんかからだというくらいは申してもよろしいでしょう。大嵐《おおあらし》みたいに感情が激しかった最中に、一種の発作におあいになったんです。少なくとも奥さまはそうおっしゃっています。その真っ最中に駆け出して、自分の部屋に閉じこもっておしまいになりました。それからあと、わざと何も召し上がりませんでね、いまは譫言《うわごと》を言うのと半分夢をみてるような状態と、入れ代り立ち代りしております。そばに誰がいるかくらいはわかりますが、頭の中には種々さまざまの奇妙な考えや幻想がいっぱい詰まっております」
「リントンさんはがっかりするだろうな?」なかば問いなかば語るような調子で言います。
「がっかりって? 万一のことがありましたら、胸をつぶしておしまいになりましょうよ! だから、あまり必要もないのに驚かさないようにお願いしますよ」
「そりゃそうだが、注意するようにとは言うてあるんだ。おれの警告をおろそかにしたんだからがまんせにゃならんさ! このごろ旦那はヒースクリフ君と仲よくしとるんではないかい?」
「ヒースクリフはお屋敷へ始終みえますけど、旦那さまが会うのを喜んでいらっしゃるのじゃなくて、奥さまが幼ななじみだから、それをたよりにしていましたんですわ。ですが、現在はわざわざたずねておいでになるに及ばないことになりました。あの方がリントン嬢に身のほど知らぬ思いを焦《こ》がして、それをそぶりにお見せなすったためですの。たぶんもう一度出入りを許されることにはなるまいと思いますわ」
「それでリントン嬢は肱鉄《ひじてつ》をくわせたのかい?」これが先生のつぎの質問でした。
「お嬢さまはわたくしには打ち明けた話をなさいませんの」この話をつづけたくないので、そう答えておきました。
「そうだろう、あれはチャッカリ娘だ」首をふりながら言いました。「なんでも自分ひとりの胸にたたんでるんだ! だが馬鹿《ばか》な娘さ。確かな筋から聞いたがね。ゆうべ(良い晩だったよ!)あの娘とヒースクリフとが、おまえんとこの裏の植込みの中を、およそ二時間以上も歩いていたとさ。そして男はもう家へ帰らんで、おれの馬に乗っていっしょに逃げてしまおうと、しつこく言ってたそうな――おれに告げてくれた人の話では、娘のほうは、このつぎ会うときにはきっとその準備をしておくからと堅い約束をして、やっと男を帰したのだそうな。つぎにいつ会うかということは聞きもらしたそうだがね、しかしおまえからリントンさんに油断せんようによく話しておくことだな!」
この話は、また私の胸を新しい心配でいっぱいにしました。ケネス先生をおきざりにして、ほとんど走りつづけで家へ帰りました。子犬はまだ庭で鳴いています。私はちょっと暇をさいて木戸をあけてやりましたが、犬は玄関のほうへは行かずに、草の上をあちこちかぎまわりまして、もし私がつかまえて家までかかえて来てやらなければ、また道路へ逃げ出すところでした。イザベラの部屋へ上がってみまして、私の心配はまちがっていないことがわかりました。部屋はからでございました。もし私が二、三時間早かったら、リントン夫人の病気が、嬢さまの無分別を取り押えたかもしれません。ですが、いまはどうしたらよかろうか? いますぐ追いかければ追いつくこともできぬとは申しません、が、私が追っかけることはできません。といって家の人々を騒がして、家じゅうをごたごたさせる気にもなれません。ましてや現在の災厄《さいやく》に心を奪われて、このうえまた次の嘆きにひたる心の余裕さえないご主人にこのことをお知らせするなどは、とてもできることではございません。私はただ口をつぐんで、事件を成行きにまかせるよりほかありませんでした。ケネス先生が来られましたので、私はまだ落着かぬ妙な顔で、取次ぎに参りました。キャサリンは横になって、苦しそうな眠りに落ちています。ご主人は狂乱の発作をどうにか取り静めたとみえます。そしていまは妻のまくらもとに立って、苦悩にみちた心の姿をありありと見せているその顔のあらゆるかげ、あらゆる変化をみまもっているのでした。
医師は自分で診察しまして、もしはたの者が始終病床のまわりを完全に静粛にしておきさえすれば、快《かい》癒《ゆ》の見込みがあるという話で、リントン氏に希望を与えてくれました。私には、死ぬというほどの危険な容態ではないが、頭の調子はこれきり元どおりにならぬおそれがあるという意味のことを話されました。
その夜、私は一睡もしませず、旦那さまも同様でございました。ほんとうに、二人ともベッドへは全然はいりませんでした。召使たちは常よりもずっと早く起き出しまして、家の中を忍び足で歩きまして、用事の都合でお互いに行きあうたびごとに、ひそひそ話をしておりました。イザベラ嬢を除いては、みな起きておりましたので、お嬢さまはなんてよくおやすみになることだと言い出す者もあります。お兄さまのリントン氏も、イザベラは起きたかと訊《き》いて、あまり出てくるのがおそいのでいらいらして、義姉《あね》の病気をちっとも心配する様子を見せないことに不快を感じておられます。私はお嬢さまを呼べとお言いつけになりはしないかと、びくびくしておりました。でもお嬢さまの失踪《しっそう》を最初に告げるつらい役だけは免《まぬか》れました。女中の一人で、無分別な娘でしたが、ギマトンに朝早く使いにやられました。これが息を切らして階段を上がってきまして、大口あいたまま部屋へ駆け込み、泣きながら、
「まあ、大変です! このつぎには何が起こるんでしょう? 旦那さま、旦那さま、うちのお嬢さまが――」
「静かにおし!」私があわててどなりました、その騒々しい取り乱しようにひどく腹が立ちました。
「もう少し低い声でお話し、メアリー――どうしたんだね?」リントン氏が言いました。「お嬢さんがどうかしたのか?」
「いらっしゃいません、いらっしゃいませんよ! あのヒースクリフめが連れて逃げてしまいました!」娘はあえぎあえぎ申しました。
「そんなことはうそだ!」リントンはかっとして立ち上がりました。「そんな馬鹿なことがあるもんか。なんでおまえはそんなことを考えるんだ? エレン・ディーン、行って捜しておいで。信じられんことだ。ありえないことだ」
言いながら、主人は例の女中を扉のところへ連れてゆき、なぜそういうことを主張するのか、そのわけを言えと、繰り返し問いただしました。
「だって、あたしは道でここへ来る牛乳屋さんに会いましたんです」どもりどもり娘は申します。「その牛乳屋が、『お屋敷じゃ大騒ぎだろうね』って訊きますから、奥さんの病気のことを言ってると思いましたんで、『そうだよ』って返事しました。すると向こうが言います、『誰か追っかけて行っただろうね?』あたし、へえっと驚いて目をむきました。あたしが何も知らないことがわかったもんですから、若い衆は、ギマトンを二マイル出はずれた鍛冶屋《かじや》の店先に、身分のありそうな男と女の二人づれが立ち寄って、馬の蹄鉄《ていてつ》を打たせた、それが夜なかすぎて間もなくだったそうで! それから鍛冶屋の娘が起きて、誰《だれ》だろうと思ってそっとのぞいたら、娘は二人とも知ってて、すぐわかったそうです。それでその娘は、男は誰だかわかった、それがヒースクリフだった、まちがいないと娘は思ったそうで。誰だってあの人を見まちがえることはないですからね。それに――鍛冶屋のおとっつぁんの手にソヴレン金貨をおいて行ったって言います。ご婦人のほうは外套《がいとう》で顔を隠していたけれども、水一口飲みたくって、飲むときに仰向いたもんだから、娘はハッキリその顔みたって言います。ヒースクリフが両方の馬の手綱をとって、二人は出かけました。それで村をあとにして、あの悪い道を大急ぎで行ったそうです。娘はおとっつぁんには何も言わなかったけれど、けさになってギマトンじゅうに触れあるいたって話です」
私は走って行って、形だけイザベラの部屋をのぞいて見ました。帰って、召使の陳述を裏書きいたしました。リントン氏はそのとき、もう病床のそばの椅子《いす》に再びすわっていました。私が再びはいりましたとき、主人は目を上げて、私の無表情の意味を読み取りますと、なんの命令もせず、ほかのことも一言も言わず、また目を落しました。「追いついて呼び戻《もど》すための方法を講じるほうがよろしいのでしょうか?」私が訊きました。「どういたしましょう」
「あれは勝手に出て行ったのだ、行きたければ行く権利もあった。あれのことでこれ以上ぼくを苦しめないでくれ。これからはもう妹というのは名前だけだ。ぼくから縁を切ったのでなく、妹のほうからぼくと縁を切ってそうなったのだ」
このことについて、リントン氏の言ったことはこれだけでした。その後ただの一度もイザベラのことを訊きもしませんし、そのほかのことでもイザベラのことを口にも出しませんでした。ただ一度、どこか知らんが、イザベラの新しい住居がわかったら、この家にあるあれの品物を送り届けてやれ、と私に命じたことがあるきりでございます。
13
二カ月の間、駆け落ちした二人の行方は知れませんでした。その二カ月のうちに、リントン夫人は脳膜炎、と申しても最も悪性なのに犯されまして、これと戦い、そしてこれをしのいだのでした。エドガーの看護ぶりは、ひとり子をみとる母親もよもやこれほどであるまいと思われるほど献身的なものでございました。昼も夜もそばを離れず、いらだつ神経と狂った頭とから、かけられる限りの迷惑苦労を、じっと辛抱していました。そして、ケネス医師からは、せっかくあなたがこうして九死に一生を得させたものの、その苦労の報いはただ、これから先たえず不安におどかされるもとをこしらえただけなのですよ――いやまったく、あんたの健康と体力とは、言わば生ける屍《しかばね》を生きながらえさせるだけのことに犠牲にされているのです――とさえも言われましたが、キャサリンの生命はこれで危機を脱したと聞かされたとき、エドガーはただ限りもないありがたさ、喜ばしさを覚えたのでした。幾時間となく妻のそばにすわりつづけ、肉体の健康が少しずつ回復して来るのを見つめながら、精神もいずれ同じく正しい平衡を取り戻すだろう、そしてもう間もなくまったく元どおりの妻になってくれるだろうという夢を描いて、あまりにも楽観的な希望に、自らを甘やかしているのでした。
はじめてキャサリンが病室を離れましたのは、翌年の三月の初めでございました。リントン氏はその朝、枕元《まくらもと》に一握りの金色のクロッカスの花を置いておきましたが、長いあいだ明かるい目の色を見せたことのなかった病人は、目ざめとともにその花を見まして、一心にそれをわが手に拾い集めながら、まことに喜ばしげにその目を輝かすのでした。
「これは嵐が丘では一番早く咲く花なのよ」キャサリンは叫びました。「これを見ると、やさしい春さきの風や、暖かい日の光や、ほとんど解けてしまった雪などを思い出すの。エドガー、いま南風は、吹いていません? それから、雪ももう、ほとんど解けてしまったのじゃありません?」
「雪はこの辺の低い所は、すっかりなくなったよ。荒地ぜんたい見渡してもふたところだけしか白いところはない。空は青いし、雲雀《ひばり》はさえずってるし、谷川も小川も水があふれそうだ。キャサリン、去年の春のいまごろは、ぼくはおまえに早くこの屋根の下へ来てほしくて待ち焦《こ》がれていたが、今はおまえがあの丘を一マイルか二マイルも登れたらと思うよ。風が実に気持よく吹き渡ってるよ、あの風に当ればおまえも快《よ》くなるだろうと思うね」
「あたし、あそこへはもう一度しか行かれないでしょう」と病人が言いました。「そして、その時は、あなたはあたしをおいて帰って、あたしは永久にあそこに残るときですわ。来年の春は、またあなたはあたしをこの屋根の下へ連れて来たいなあとお思いになって、過ぎたことを思い出して、きょうのあなたは幸せだったとお思いになるでしょう」
リントンはこの上もなくやさしく幾度も妻を愛《あい》撫《ぶ》し、この上もなく愛情こめた言葉で、元気づけようとしました。けれども、ぼんやりと枕辺《まくらべ》の花をながめながら、妻はまつげに涙をいっぱいため、それが頬《ほお》を伝って流れるにまかせております。私どもは病気がほんとうに快くなったことを知りましたので、長く一つ場所に閉じこもっていると、このように気が滅入《めい》りやすいから、居場所を変えることである程度までそれを防げるだろうと考えました。ご主人は私に、何週間も人《ひと》気《け》のなかった居間に火を入れることと、安楽椅子を日なたの窓ぎわに置くこととをお命じになりました。それからご主人に助けられて階下《した》へ降りたキャサリンは、長いあいだそこにすわって心地のよい日なたの暖かさを楽しみ、また私どもの予期しましたように、周囲の事物によって生気を取り戻しました。それらは常から見慣れたものばかりでしたが、いとわしい病室にまつわる陰気な気分が少しも感じられなかったからでした。夕方になると、ひどく疲れたようでしたが、いくら言っても病室へ帰ることをいやがりますので、ほかの寝室の用意ができるまで、居間の長椅子を寝台にしつらえることにいたしました。階段の昇り降りのための疲労を避けるため、この――いまあなたがおやすみになっていらっしゃるこの部屋を――つまり居間と同じ階下に、設けたのでございます。――そして病人は間もなくエドガーの腕をたよりに、寝室《ここ》と居間とを往復できるようになりました。ああ、あのときは私も、これほど大切に世話されたら、これなら全快なさるかもしれないと思っておりました。そしてそれを切望しましたのには、二重の理由がございました――ほかでもなく、もう一つの別の生命が、キャサリンの生命をたよりに育っておりましたからで――しばらくのあいだだけは私どもは、リントン氏の心も喜びを味わう日が来るであろう、その土地も継嗣《あとつぎ》の誕生によって他人の手に奪われることなく安泰になるだろうという希望を抱いたのでございます。
イザベラが家出してから六週間後に、兄上のもとへ短い手紙をよこして、ヒースクリフとの結婚を知らせて来たことを、ここで申しておかねばなりません。手紙は味もなく冷ややかなものに見えましたが、下のほうに鉛筆で、あいまいな詫《わ》びの言葉と、この結婚という自分の行動が兄上にはご不快かもしれないけれど、ほかにどうにもしかたがなかったので、結婚してしまった以上、取り消すこともできない、どうぞ自分のことを悪く思わず元どおりの気持になってほしいという哀願の言葉が散らし書きされておりました。リントンはこれに対して、返事は出さなかったように思います。するとそれから二週間ほどのち、私は一通の長い手紙を受け取りましたが、これは蜜月《みつげつ》を終ったばかりの花嫁の筆としては、かなり妙だという気がいたしました。その手紙はまだ保存してございますから、一つ読んでみましょう。人間に生きる価値があるものでしたら、死者の残した物もみな貴重なはずでございますわ。
なつかしいエレン(これがその書き出しです)――
あたしは昨夜、嵐が丘へ来ました、そしてはじめて、キャサリンがたいへん重い病気にかかって、いまもまだ悪いことを聞きました。たぶん義姉《ねえ》さんに手紙を書いてはいけないだろうと思いますし、兄さんもきっとひどくおこっているか、悲しんでいるか、どちらかで、この前あたしの書いた手紙への返事も書けない状態だろうと思います。でもやっぱり、あたしは誰《だれ》かに書かずにはいられないし、そうなるとおまえに書くよりほかあたしに残された相手はないことになるのです。
どうあってももう一度、兄さんに会いたい――あたしの心は家を出てから二十四時間のうちにスラシュクロス屋敷へ帰ってしまったし、いまこの瞬間もそこにあって、兄さんやキャサリン義姉さんに温かい愛情をいだいておりますと、どうぞエドガー兄さんに伝えてちょうだい! けれどもあたし自身は心とい《・・・・・・・・・・・・・》っしょに帰って行くことはできないの《・・・・・・・・・・・・・・・・・》――(このところに下線《アンダーライン》が引いてございます)兄さんも義姉さんも、あたしの帰宅を当てにしなくてもいいし、どんなふうにあたしを考えてくれてもいいわ、ただそれがあたしの意志の弱さや、愛情の不足ということのせいにだけは、しないでいただければいいのです。
これから先は、おまえにだけ書くのよ。あたし、おまえに訊《き》きたいことが二つあるの。その第一は――おまえがこの家に住んでいたころ、人間の本来的な共通の感情を、どうやってなくさないようにしていたか? ということなの。あたしはいまこのあたしの周囲にいる人たちが、一つとしてあたしと同じ感情を持ってるとは認めることができないの。
第二の質問はね、これはあたしにとって重大なことだけれど、こうなの――ヒースクリフ氏は人間なりや? もししかりとすれば狂人なりや、そしてもししからずとすれば悪魔なりや? こういう質問をする理由は書かないでおくわ、でもあたし、もしおまえにできるなら、あたしの結婚した相手が何者だかを、ぜひ教えてほしいの――おまえが会いに来てくれたときにね。そしてエレン、ぜひとも早く来てくれなくてはいけないわ。手紙でなく、来てほしいの、そしてエドガーから何かをもらってきてほしいの。
さて、こんどはあたしが新家庭に迎え入れられたときのことを聞いてちょうだい――新家庭というのはこの嵐が丘がどうやらそうなるらしく思われるからなの。こんなことを細かく書いたりするのも、外部的な楽しみがないので、自分の気晴らしにしたいからよ。そうしたいろいろの楽しみのことなど、それらがなくてさびしいと思うちょっとのあいだのほかは、少しでもあたしの心を苦しめたことはありません。もしも、それらが欠けているということが、あたしの不幸の全部で、ほかのことはただの不自然な夢にすぎなかったということだったらば、あたしはうれしさに大笑いして踊りを踊ることでしょう!
荒野《ムーア》のほうを振り返ってみると、太陽がスラシュクロス屋敷の後ろに沈むところでしたから、六時ごろだったと思います。あたしの伴《つ》れはそれから三十分ほど馬を留めて、猟場《パーク》も庭も、それからたぶん家までも、できるだけ丁寧に調べてまわりました。ですからあたしたちがこの農家の石敷きの中庭で馬からおりたときは、もう暗くなっていて、おまえの元の同僚、ジョーゼフ爺《じい》さんが、獣脂蝋燭《ろうそく》の明かりをたよりに、迎えに出て来ました。その出迎えの丁重《・・》さにはほとほと感心してしまったわ。いきなりまずあたしの顔の高さまで蝋燭を持ち上げて、意地わるそうに横目でじろっと見て、下くちびるを突き出したかと思うと、向こうをむいてしまったの。それから爺さんは二頭の馬を引いて、厩《うまや》へ連れてゆき、引き返して来るとこんどは木戸を締めに行きました。まるで昔のお城の中にでも住むような気がしたわ。
ヒースクリフはあとに残ってジョーゼフと話を始めたので、あたしは台所へはいりました――煤《すす》だらけの、不潔な、穴蔵みたいなところ。きっとおまえは知らないと思うけど、おまえがやっていたころとは、ひどい違いなのよ。煖《だん》炉《ろ》のそばに、体のがっしりした、汚ない着物を着た、山賊の子みたいな子どもが立っていましたが、目もとや口もとはキャサリン義姉《ねえ》さんに似ていました。
「これがエドガーの義理の甥《おい》なんだわ」とあたしは思案しました――「ある意味ではあたしの甥に当るわけだわ、握手しなくちゃならないわ、それから――そうね――接吻《せっぷん》もだわ。最初に良い感じをお互いに持つことがいいことなんだから」
あたしは近寄って、彼のくりくり肥えた手を取ろうとしながら言いました。
「今晩は、ご機《き》嫌《げん》いかが、ぼうやちゃん?」
子どもは、あたしにはわからない訛《なまり》で返事しました。
「おばさんと仲よくしましょうね、ヘアトン?」つぎにあたしはこう言ってみました。
何かののしりの言葉と、あたしが「おもてへ出」なければスロットラーをケシかけるぞというおどかしとが、このあたしの辛抱強い努力への報酬だったの。
「ヘイ、スロットラー、若《わけ》え衆!」小さな悪党は片すみに寝ていた混血のブルドッグを小声で呼び起こして、あたしに向かって横柄《おうへい》に訊くじゃないの。「さあ、どうだ、出ていくかい?」
命が惜しいから、言いなりになって、ほかの人たちがはいってくるまで待つつもりで、敷居の外へ出ました。ヒースクリフ氏の姿はどこにも見えません。ジョーゼフを厩まで追っかけて行って、いっしょに来てくれと頼むと、じっとあたしの顔を見ながら、口の中で何か言ってたけど、鼻をしかめて答えたわ――
「ムニャ! ムニャ! ムニャ! どこの世界にそんな愚にもつかねえ話聞くことあるだか? ムシャムシャ! モグモグ! おまえさんの言うことはかいもくわしにゃわかんねえよ」
「あたしといっしょに家の中へはいってちょうだいって言うのよ!」つんぼなんだろうと思って大声で言ったけれど、それにしてもあんまり不作法なんで、ずいぶん癪《しゃく》にさわったわ。
「わしゃ断わるだ! ほかに用があるだからな」こう答えて、仕事をつづけるの。そのあいだも、あの細長いあごを動かして、ムシャムシャやりながら、ひどく見くだした様子であたしの着物や顔をじろじろ見てるの。
あたしは中庭をまわって、木戸を抜けて、も一つの戸口の前へ出ました。誰か、もう少し親切な召使でも出て来てくれるかと思い、思いきって扉《とびら》をたたいてみました。ちょっと待たせてから、背の高い、やせさらばえた男が、扉をあけました。頸巾《ネッカチーフ》も巻かず、ほかの点でも極端にだらしのない格好をして、もじゃもじゃの髪の毛が肩までたれて、顔かたちもよく見えないけれど、やはりその目は、キャサリンが幽霊になって、その美しさをすっかり失ったらこんなだろうかと思われたわ。
「何か用かい?」不機嫌に彼は訊きます。「おまえさんは誰だ?」
「あたしの前の名はイザベラ・リントンと申しましたの。前にお目にかかったことがありますわ。こんどヒースクリフ氏と結婚いたしましたので、ここへ連れられて参りましたんです――あなたのご了解を得てのことだと思いますけれど」
「じゃあ、あの男、帰って来たのか?」隠者のような男は、飢えた狼《おおかみ》みたいににらみながら、訊くんです。
「ええ――二人で、いまさっき着きましたの。でも主人《たく》はあたしを台所の戸口に残して見えなくなりましたの。それで中へはいりましたら、あなたのぼっちゃんが番をしていて、ブルドッグを使ってあたしをおどすんですの」
「ふむ、餓鬼め、よくぞ言いつけを守りおったものだ!」と、あたしがこれからひさしを借りる家のあるじはうなって、あたしのうしろの闇《やみ》をすかして、ヒースクリフの姿は見えぬかと探っていましたが、それからようやく呪《のろい》や悪口を一人で吐き散らして、「悪鬼めがもしおれをだましたら、どうするか見ておれ」とおどし文句を並べていたわ。
あたしはこちらからはいろうとしてまずいことをしたと思って、彼が悪態を言っているうちに逃げ出そうかとよっぽど思ったけど思っただけで、ぐずぐずしてるうちに、中へはいれと言われて、はいると、彼は扉をしめて、掛《か》け金《がね》をかけてしまいました。大きな煖炉があって、その火だけがこの大きな部屋の唯一《ゆいいつ》の明かりでした。床は一様に灰色によごれてしまって、子どものころあたしがいつも感心してながめたピカピカの白鑞《はくろう》の食器も、さびとほこりとで床同様の暗い色になっていました。女中さんを呼んでいただいて、寝室へ案内してもらえるでしょうかと訊きましたが、アーンショー氏は返事もしてくれません。両手をポケットに入れて、部屋の中を行きつ戻りつ、あたしのいることなど念頭にない模様です。その夢中で考えごとに沈んでる有様といい、その全体の様子のあまりにも人間嫌《ぎら》いらしい感じといい、あたしはもう一度話しかける勇気が出なくなってしまいました。
ああエレン、あの味気ない炉《ろ》辺《ばた》に、一人ぼっちよりまださびしい思いで腰をおろして、四マイル離れた楽しいわが家を思い、そこに住む人々のほか、この地上で愛したことのないあたしが、四マイルとはいっても、渡るすべのないあたしにとって大西洋ほども遠く離れて来てしまったことを思うと、そのときのあたしの気持が、たとえようもなくわびしい心細いものだったことを、おまえはけっして意外だとは思わないでしょう! あたしはひとりでわが胸に訊いてみた――どこにあたしは慰めを求めるべきだろうか? そして――よくって、エレン、エドガーやキャサリンに話してはいやよ――ほかのどんな悲しみよりも大きな悲しみが湧《わ》き起こってきたの――ヒースクリフに対して、あたしの味方になってくれる人が一人もない、ということ! あたしが、ほとんど喜ばしい気持さえして、嵐が丘に隠れ家を求めたというのは、彼と二人きりで住むよりは、ああいうところなら安心だと思ったからだった。ところが彼のほうではこの家に住む人々をよく知っていたから、じゃまされる心配がないと思っていたのでした。
悲しい思いで、あたしはしばらくそこにいました、時計が八時を打ち、九時を打っても、まだこの部屋のあるじは深く頭《こうべ》をたれて、黙々として部屋の中を行きつ戻《もど》りつ、ときどき間をおいて、うなり声か苦しそうな叫び声を放つだけでした。あたしは家の中に女の声が聞こえないかと耳を澄まして、そのしばらくの時間を、物狂おしい悔恨や不吉な予測やでみたし、ついにはそれらの悔恨や予測を人に聞こえる声で、押えきれぬため息や泣き声といっしょにしゃべっていました。このように、あからさまに嘆き悲しんでいることを自分で知らずにいたのですが、ふと気がつくとアーンショーがあたしの面前に立ち止まって、はじめてあたしに気がついたような驚きの目を見はっているのでした。彼が注意をこっちへ向けた機会をつかんで、あたしは叫びました。
「あたしは旅行で疲れてるんです。寝床で休みたいんです! 女中さんはどこにいますの? いつまでも来てくれませんからあなたから指図して下さいません?」
「女中はおらんよ、あんたも用事は自分でするんだ!」
「では、どこで寝たらいいんでしょう?」あたしは泣きくずれてしまいました。疲労と失望ですっかり気が弱くなり、体面を考えている余裕もなくなっていました。
「ジョーゼフがヒースクリフの部屋に案内してくれるだろう」彼は言いました。「その扉をあけてごらん――ジョーゼフはそこにいる」
あたしが言葉に従おうとすると、急にアーンショーはあたしをつかまえて、とても妙な口調で言い出したの――
「お願いだから鍵《かぎ》をかけてな、錠もおろして下さいよ――忘れんで!」
「はあ! でもなぜですの、アーンショーさん?」ヒースクリフと二人で、すっかり戸締りした部屋にいるのはあまり感心しなかったの。
「これごらん!」チョッキから、変な格好のピストルを出して見せるの。銃身にばね仕掛けで両《もろ》刃《は》のナイフが取りつけてあったわ。「自棄《やけ》になった男にゃ、これは恐ろしい誘惑だよ、そうだろう? おれは毎晩これを持って二階へ上がる、あいつの扉をあけてみる、そうせずにおれんのだ。もし間違って扉があいとったら、きゃつめはお陀《だ》仏《ぶつ》だ! そんなつまらんこと、やめとこうと、いくらたくさんの理由を頭に呼び出してそう思っても、一分後には必ずそれをやっとるんだ。きゃつを殺して、われから自分の計画をつぶさせようと、どこかの悪魔めがおれをそそのかしとるんだな。あんたは恋のために、その悪魔めと、戦えるだけ戦うてごらん、時さえ来れば、天国じゅうの天使が集まって来ても、きゃつを助けることはできんからな!」
あたしはその武器を物珍しく見ていたの。そのとき一つの恐ろしい考えが頭に浮かんだの――こういう物を持ってたら、どんなに心強いだろうって! それを彼の手から取って、刃にさわってみたのよ。ヒンドリーは、ほんの数秒間あたしの顔に現われた表情に、驚いたようだったわ。恐怖じゃなくて、ほしいという表情だったの。とんでもないという顔で、彼はピストルを奪い返して、ナイフを元に返して、元の隠し場所に入れてしまったの。
「ヒースクリフのやつに、あんたが話したって、おれは平気だよ。きゃつに用心させ、あんたも気をつけて見張ってやんなさい。おれとあいつの仲はよく知ってるだろうからな。あいつの生命《いのち》の危ないことを知っても、あんたはべつに驚くまいよ」
「ヒースクリフがあなたに何をしましたの? そんなにものすごい憎しみをかけるほどのどんな悪いことを、あなたにしたんですの? この家から出て行かせたほうが利口じゃないんでしょうか?」あたしは訊きました。
「どうして!」アーンショーがどなったわ。「この家を出るなどと言うてみろ、生かしちゃおかんから。あんたが出ることをきゃつに勧めるのは、人殺しになろうとするも同じですぞ! 博奕《ばくち》の負けを取り戻す機会を失って、一文なしになれというのか? ヘアトンを乞《こ》食《じき》にせよというのか? おお、呪われろ! おれはどうあっても取り返す、そのうえにきゃつの金も巻き上げてくれる、きゃつの血をもらうのはそのつぎの番ださ、残った魂は地獄へくれてやるわ! 地獄もあれほどのお客さまを迎えたら、いまの十倍もまっ暗になるだろうて!」
エレン、おまえがあたしにこの旧主人の暮らしぶりを話してくれたことがあったわね。もういまでは狂気の一歩手前、すれすれのところだわ――少なくとも昨夜はそうだったわ。こんな人のそばにいると思うと身ぶるいが出てきて、爺やの無愛想のほうがどっちかといえばがまんができると思ったわ。ヒンドリーはやがてまた例の陰気な散歩をやりはじめたので、あたしは掛け金をあげて台所へ逃げ込みました。ジョーゼフは煖炉の上に身をかがめて、その上につるしてある大鍋《おおなべ》の中をのぞき込んでいました。近くの長《なが》椅子《いす》の上にはオートミールを入れた木《き》鉢《ばち》があります。鍋の中身が煮えはじめたので、爺やは手をつっこもうとしました。あたしはそれがあたしたちの晩御飯の支度してるんだなと思って、お腹《なか》もすいていたから、それが食べられるものでないと困ると思い、鋭い声で「あたしがおかゆをこしらえるわ!」と叫んで、どんぶりを爺やの手の届かないところへ引き寄せておいてから、帽子と乗馬服とを脱ぎにかかりました。「アーンショーさんが自分でなんでもやれと言うから、やるわ。もし餓死したら大変だから、おまえさんたちの中では奥さまみたいな顔はしていなくってよ」
「なんじゃい!」ジョーゼフは腰をおろして、畝《うね》織《お》りの長靴下《ながくつした》の上をひざからかかとまでさすりながら、つぶやきました。「またここのうちの模様が変ることになるだかな――二人の旦《だん》那《な》に使われるのに、やっと慣れたところだに、またこんどは奥さんが一人ふえて、頭を押えられざなんねえとなると、いよいよこりゃ逃げだす時だぜや。長年住みなれたこの家さ追ん出る日が来べえとは、はれ、夢にも思わなかったぜや――なんだかそれも近《ちけ》えうちのことかもしれねえわ!」
こんな泣き言にはあたしはちっとも耳をかさないで、せっせと働きつづけました。こういう用事が楽しい遊びごとだった時分のことを思い出すと、ため息が出たけれど、そんな思い出は急いで払いのけなければならぬ場合でした。過ぎ去った幸福を思い出すと、たまらなくなるので、その思い出がともすれば目先にちらつきそうになればなるほど、かゆを掻《か》きまわすへらの手が早くなり、オートミールを一握りずつ湯の中へ落すのも早くなりました。ジョーゼフはわきから、ますます腹を立てながら、そうしたあたしの料理のしかたを見ていました。
「こうれ!」と爺やがわめきました。「ヘアトンや、今夜は汝《われ》はかゆがすすれねえぜや。みんなわしの握りこぶしほどもある団子になっちまうだからな。そうれ、まただわ! おまえさんみてえなことするんだら、わしゃどんぶり鉢ごと放り込むがな! それそこで、浮きかす《・・》をしゃくいとればそれでおしめえだがな。そんなにつっついても底が抜けねえのが、まだしもありがてえくらいだわ」
椀《わん》によそってみると、どうもへたなできだったことは、あたしも認めるわ。四つのお椀にそれをよそって、酪農部屋から一ガロン入りの壺《つぼ》に入れた新しい牛乳を持って来ました。ヘアトンがその壺をひったくって、広い口から牛乳をこぼしながら飲みはじめました。あたしが小《こ》言《ごと》を言って、自分のコップに入れて飲ませてちょうだい、そんな汚なくされたものをあたしは飲むわけにいかないから、と言いました。すると皮肉屋の爺さんはこのちょっとしたことで、恐ろしく腹を立てたものなの。何度も繰り返して、「この子はどっからどこまで」おまえさんと同等で、「どっからどこまで体に悪いところはねえ」んだから、なんでおまえさんがそんなにうぬぼれたこと言いなさるか、わけがわからないと言うんです。そのあいだも、悪たれ小僧は、がぶがぶ飲みつづけて、壺の中へよだれをたらしながら、憎々しくあたしをにらみつけてたわ。
「あたしはほかの部屋で夜食をたべます。居間っていうものはこの家にはないの!」
「居間!」馬鹿《ばか》にした調子でまねをして「ふん、居間か! いんや、ここには居間はねえぜや。わしらといっしょにやりたくねえなら、旦那のところへ行きなされ、また旦那がいやなら、ここでわしらといっしょだな」
「じゃ二階へ行くわ!」とあたしは答えて、「部屋へ案内してちょうだい」
自分のお椀を盆にのせて、自分で牛乳を取りにゆきました。さんざんに不平を言いながら、爺《じい》やは立ち上がって、あたしの先に立って二階へ上がりました。屋根裏まで上がってしまって、爺さんは、いくつも部屋の前を通りがかりに、おりおり扉をあけてみます。
「この部屋だな」最後にそう言って、蝶《ちょう》つがいでとめたぐらぐらな戸を引きあけました。「ちょっとかゆゥ食うだけなら、ここでよかろ。すみに麦が積んであるだ、それそこだ、さっぱりしたもんだぜや。そのりっぱな絹の衣装よごしたくねえなら、その上にハンカチでもひろげさっせい」
部屋は、一種の物置で、麦芽と穀物のにおいがぷんぷんにおうのよ。それらの物を入れた袋がぐるりに積み重ねてあり、まんなかだけがらんとして何もない床でした。
「まあ、おまえ!」あたしは腹を立てて老人に向かい、「ここは寝られる部屋じゃないわ! あたしは寝室が見たいんです」
「寝室!」からかうように繰り返したわ。「ここにある寝室はそこにあるだけだで見なすったらいいわさ――そりゃわしのだぜや」
指さしてみせた隣の爺さんの屋根部屋は、こっちの部屋と違うところは壁ぎわに何もおいてないことと、寝台が一つあることだけで、大きな、低い、カーテンなしの寝台の一端に、藍色《あいいろ》の掛《か》け蒲《ぶ》団《とん》が見えました。
「おまえの寝室なんか用はないわよ。まさかヒースクリフさんが屋根裏を借りてるはずはないでしょうに?」
「おお! おまえさまの行きてえのはヘース《・・・》クリフ《・・・》旦那の寝室かね?」まるではじめて知ったことのように、爺さんは叫んで、「なんで初《はな》からそう言いなさらねえだ! そうすりゃあ、こんな手間かけねえで、その部屋は見ることできねえと、教えてあげただに――旦那はいつも鍵かけとくだで、ほかの者は誰《だれ》も手出ししたことァねえでがすよ」
「おまえの家は良い家だわね、ジョーゼフ」あたしはそう言ってやらずにいられなかった。「そして気持のいい人ばかりいるのね。世界じゅうの狂気のこりかたまった精分《エッセンス》が、ここの人たちと自分の運命を結びつけた日に、あたしの頭の中に取っついちゃったんだわ! でも、そんなことはいまはどうでもいいわ――ほかにも部屋があるわね。お願いだから早くしてちょうだい、あたしをどこかに落着かせてちょうだい!」
これほどあたしが頼むのに、爺やは返事もしないで、ただブスッとして木造の階段をとぼとぼと降りて、ある部屋の前で立ち止まったの。その立ち止まったことと、家具の上等なこととから察して、それが最上の部屋らしく思えたわ。絨毯《じゅうたん》が敷いてあって、りっぱではあるけれど、模様も見えないほどほこりがたまってるの。煖《だん》炉《ろ》の上の、切り紙細工の壁紙が破れて、下へぶら下がっていて、りっぱな樫材《かしざい》の寝台をおおっているゆったりした真っ赤なカーテンは、かなり高価な布地の、仕立ても現代式のものだけれど、見るからにぞんざいに扱われたあとが見えるし、寝台の下側のたれ布も環からねじとられて花綏《はなづな》のようにだらりとたれ、それをつっている鉄の棒も、一方の側で弓なりに曲っているので、たれ布が床に引きずっている所もあったわ。椅子もみんないたんでいて、たいていはひどくなっているし、壁のはめ込み板には深いくぼみがいくつもあって、ひどい有様だったわ。あたしがその部屋にはいって自分で使おうと心を決めようとしていると、バカ案内人が、「ここは旦那の部屋でがすだ」って言うじゃないの。その時分には晩御飯もさめるし、食欲もなくなったし、辛抱する力も尽きてしまっていたわ。だからいますぐ落着き場所をこしらえて、休めるようにしてちょうだいとあたしはがんばりました。
「くそいめえましい、どこにあるだか?」と、信心深い爺さんはやりはじめたもんだわ。「ああ神さまお恵みくだせえ! 神さまお許しくだせえまし! どこの地獄さおまえさま行く気でがすか? できそくねえの、うるせえ阿魔《あま》だ! まだ見せねえのはヘアトンの小部屋だけだぜや、この家にはもう寝られる巣は一つだってねえわ!」
あまり腹が立ったので、あたしはお盆を、載せていた物といっしょに下へ投げ出しちゃったの、そして階段の上段に腰かけて、顔をおおって泣き出しちゃったの。
「エヘッ、エヘッ!」するとジョーゼフが叫んだのよ。「ようやんなすった、キャシー嬢さん! ようやんなすった、キャシー嬢さん! したが、いまに旦那がこわれた壺にけつまずきなさるべい、それからわしらさんざん文句を聞いて、これからどういうことになるか、聞かされることだわ。このろくでなしの気ちげえ阿魔! つまらねえ腹ァ立てて、神さまの尊いくださりものを足もとさ放り出しくさって、その罰にクリスマスまで食わずにいるが相当だわ! したが、おまえさま、そうしていつまでもおこってるひまはねえでがすぞ、わしは請け合うだが。こんなりっぱなことして、ヘースクリフ《・・・・・・》旦那が黙ってると思うだか? おまえさまのそのふくれけえってるところへ帰ってきたら、なんとおもしれえことになるぜや。ああ早く帰ってもれえてえもんだわ」
そうして彼は蝋燭《ろうそく》を持って、下の巣へ行きつくまでののしりつづけていたわ。だからあたしはまっ暗なところに残されちゃったの。この愚かなふるまいのあと、しばらく反省して、どうしても自分の誇りを押え、腹立たしさを押し殺して、自分でその結果を始末しなければならないことを認めざるを得なくなったんです。そのうちにスロットラーが思いがけない援兵に来てくれたのですが、この犬はよく見ると、うちで飼っていたスカルカーの子どもだということがわかりました。子犬のころはスラシュクロス屋敷で育って、お父さまからヒンドリーさんにあげた犬だったのよ。やはり犬のほうでもあたしがわかったらしく、あいさつのつもりかあたしに鼻をすりつけてきて、それから急いでおかゆを食べ出したの。そのあいだにあたしは一段一段と手探りで瀬戸物の破片《かけら》を拾い集めたり、手すりにはねかかった牛乳を自分のハンカチでふいたりしました。あたしたちの仕事がちょうど終ったころ、アーンショーの廊下を踏み鳴らす音が聞こえて来ました。すると私の助手はしっぽを巻いて壁にくっついてしまうし、あたしも手近の戸口へ逃げ込みました。犬が主人をうまく避けおおせなかったことは、階段をいっさんに駆け降りる気配と、引き延ばされた哀れっぽい鳴き声とで察せられました。あたしのほうは運がよかった! 彼はそのまま通りすぎて、自室へ入り、扉《とびら》をしめてしまったんです。すぐあとからジョーゼフがヘアトンを寝かせに上がって来ました。あたしが隠れていたのはヘアトンの部屋だったので、爺さんはあたしを見ると、言いました。
「さあもうこれでおめえさま大えばりで寝る部屋ができたぜや、家族居間《ハウス》があいただから。おまえさま方だけで遠慮なく使えるだ。鬼の女房《にょうぼう》に鬼神だから、魔王《サタン》め、ちゃんとはたで見るこったろうよ!」
喜んであたしはこの暗示に従いました。煖炉のそばの椅子に身を投げ出すが早いか、すぐにうとうととして、眠ってしまいました。あまりにも早く起こされてしまったけれど、あたしはぐっすりと気持よく眠りました。起こしたのはヒースクリフで、この部屋へはいるとすぐに彼らしい《・・・・》愛情を示しながら、そこで何をしている? と訊《き》くのです。あたしはこんなにおそくまで起きていた理由を話しました――あんたがあたしたちの部屋の鍵《かぎ》をポケットに入れていたからよって。この「あたしたちの」と言ったのがひどい不快を彼に与えてしまったのです。彼は、部屋はおまえのものじゃない、これから先も同じことだ、とののしって、おれは……。けれども彼の言葉をここに写したりいつもの仕打ちを書いたりはしたくないわ。あの人はあたしに嫌《きら》われようと思って実にいろんな工夫をこらし、絶えず苦心しているのよ! 時にはあたしは恐怖も消えるほどの激しい驚異を彼に感じることもあるけれど、しかも彼によって味わわされるすごい恐ろしさは、虎《とら》や毒蛇《どくじゃ》でも及ばないと思うの――これは本当のことなのよ。彼はキャサリンの病気のことをあたしに話して、兄さんのせいだと言って攻撃していました。そして兄さんを取って押えるまでは、おまえをエドガーの身代りに苦しめてやるのだというのです。
あたしは彼を憎むわ――あたしはみじめだわ――あたしは馬鹿だったわ! 屋敷の誰にもこんなことは一言も言わないように気をつけてちょうだいね。あたしは毎日おまえを待っています――あたしを落胆させないでね!
イザベラ
14
この手紙を読み終りますと、すぐに私は主人のところへ参り、お妹さまが嵐《あらし》が丘《おか》に着かれて、私にあて、リントン夫人のご病状をお気の毒に思うことと、兄上にお会いしたい熱望と、さらに私を通じて、できるだけ早く兄上のお許しのしるしになるものを届けていただきたいという希望とが書かれてあったことを、ご報告いたしました。
「許しか!」リントン氏は言われました。「ぼくがイザベラを許すことなんぞ何もないよ。エレン。おまえはよければきょうの午後、嵐が丘へ行くがいい。そしてぼくはおこって《・・・・》はいない、ただ妹を失ったことを悲しんで《・・・・》いる、ことにぼくは妹が幸福になれるとは決して思えないので、悲しいのだ、と言っておくれ。しかしぼくが会いに行くということは問題にならない。妹とは永久に別れたのだ。そしてもしほんとうに妹がぼくを喜ばせたいと思うなら、夫となったあの悪者に勧めて、外国へ行かせるようにするがいい」
「では短いお手紙も書いておあげになりませんの、旦《だん》那《な》さま?」と私は懇願の心持をこめてたずねました。
「うん、書かない。その必要はないよ。ぼくがヒースクリフの家族の者と文通することは、やつがぼくの家族と文通するのと同じく差し控えるべきことだ。文通があってはならんのだ!」
エドガーさまの冷たさに、私はひどく落胆いたしました。お屋敷から向こうへ着くまでの途中、主人のお言葉をお伝えするときに、どんなふうにして、も少し情のこもったものにしたらよいか、イザベラさんを慰めるわずか数行の手紙すら断わられたことを、どう和らげて話したらよいか、そればかりに頭を悩ましました。イザベラは朝のうちから私を待ち焦《こ》がれて見張っていたように思われます。庭の盛土道《もりづちみち》を近づいて行きますと、窓から外を見ている顔が見えましたので、私がうなずいて見せますと、見られるのがいやだったのでしょうか、顔をひっこめてしまいました。私はノックしないで中へはいりました。前には明かるかった家が、こんなにも陰惨な味気ない姿になったことがかつてあったでしょうか? 私は言わずにはいられません、もし私がイザベラさんの立場にいましたら、少なくとも煖《だん》炉《ろ》の掃除をし、テーブルに雑巾《ぞうきん》がけぐらいはいたすだろうとぞんじます。けれどもこの若い奥さまは、もはや周囲にはびこっている投げやりな気持に同化してしまわれたのです。かわいらしかった顔も青ざめてものうげになり、髪も縮れさせず、巻髪はなよなよと、下までたれているのもあり、無造作に頭に巻きつけたのもあるというふうでございました。衣服もおそらく前の晩から着たままだったでしょう。ヒンドリーはその場におりませんで、ヒースクリフさんがテーブルに向かって腰かけ、紙入れの中の何かの書類をめくって見ておりました。けれど私の姿を見ると立ち上がりまして、ごくやさしく、どうしているかなどと訊きながら、椅子《いす》をすすめるのでした。まるでこの家できちんとしているのはこの人だけのようで、それに私はこれまでに見ないほどりっぱになっていると思いました。境遇がはなはだしくこの夫妻の位置を変えてしまいましたので、ヒースクリフは知らぬ人が見れば生まれも育ちもよい紳士だという印象を受けましょうし、その妻のほうはまったくの自堕落女に見えることでございましょう! イザベラは一心に進み寄って私に挨《あい》拶《さつ》をし、待ち望んでいた手紙を受け取ろうと片手を差し出しました。私が首を振って見せましたが、その合図をわかろうとせずに私のあとについて羽目板のほうまで来て、持って来たものをいますぐちょうだいと、小声でせがむのでした。ヒースクリフはそのイザベラのそぶりの意味を感づいて、申しました。
「何かイザベラに持って来たものがあるなら(たしかに持ってるね、ネリー)やりなさい。何も秘密にすることはない! おれたちのあいだには何も秘密はないんだ」
「あら、あたし何も持っていませんわ」いますぐほんとうのことを言うのがいちばんいいと思いましたので、私は答えました。「うちの旦那さまは、お妹さまに、いまのところお兄さまから手紙をもらうことも、たずねていらっしゃることも、当てにしてはならないと、こうお伝えするようにあたしにおっしゃいました。奥さま、旦那さまは、よろしく言ってくれ、幸福を祈っている、またあなたのあの時のことで心配させられたけれども、なんとも思っていないとおっしゃいました。ただ、いまから先、あちらのお家《うち》とこちらのお家とは交際はやめたほうがよい、つづけたところでなんにもならんと思うから、というお話でございました」
ヒースクリフ夫人は少しくちびるを震わせ、そして窓ぎわの自分の椅子へ戻《もど》りました。ヒースクリフ氏は私のそばの炉石の上に立って、キャサリンのことを問い始めました。私はその病状についてさしつかえないと思うだけのことを話しますと、向こうは反対訊問《じんもん》のように、病気の始まりについてのいろいろの事実をあらかた私から聞き出してしまいました。病気になったのはすべてキャサリンさまご自身のせいなのですと言って、私は奥さまを非難いたしましたが、実際その非難はまちがっておりませんのです。そして最後に、あなたもリントンさまの例にならって、良いにつけ悪いにつけ、今後はあちらのご家庭に干渉することはお避け下さるようにと、希望を述べておきました。
「リントン夫人はいまちょうどなおりかかっていらっしゃいます。とても以前のようにはおなりなさいますまいが、生命《いのち》だけはお取りとめになりました。そしてもしあなたが本当にあのかたのことを心におかけになるなら、二度とお会いにならないでくださいまし。いいえ、いっそこの土地からすっかり離れて下さいまし。あなたのお心残りのないように申しあげますが、キャサリン・リントンさまはいまではあなたの昔の仲よしのキャサリン・アーンショーとは、まったく別人におなりになりました。まるであなたの奥さまとあたしと違うくらいお違いになってしまったのです。ご様子もたいへんに変りましたが、ご性格はもっとお変りになりました。そして、リントン旦那さまは、やむを得ない成行きから、あの方と連れ添っていらっしゃるほかはないのでしょうけれど、これから先は、ただ以前のあの方の思い出によって、普通の人情と義務の観念とによって、愛情をつなぎとめてゆかれるにすぎないだろうと存じますの!」
「それはきわめてありうべきことだ」ヒースクリフは、しいて平静に見せようとしながら、申しました。「おまえの主人が、普通の人情と義務の観念よりほかに頼るべきものがなくなっているということはきわめてありうべきことなんだ。だがおまえはおれがキャサリンを、リントンの義務《・・》と人情《・・》とにまかして安心しているだろうと思うのかい? そしてキャサリンを思うおれの気持を、リントンのそれと比較できるのかい? おまえが帰る前に、おれはおまえがおれをキャサリンに会わせるという約束を、ぜひともおまえにしてもらわなければならん。おまえが承知しようとしまいと、おれは会う! おまえはなんと返事をするね!」
「お会いになってはいけませんと、ご返事申しますよ、ヒースクリフさん。あたしを仲に入れては、けっしてお会わせ申しません。もしもう一度、あなたとリントンさまとがお出会いになるようなことがあれば、それは奥さまを殺すことになりますわ」
「おまえが助けてくれれば、それを避けることができるだろうよ」ヒースクリフはなおつづけて、「そしてもしそういう事件の起こる危険があるとするなら――あの男がキャサリンの生存にとって、たとい一つでも苦痛をつけ加える原因になるとするなら――そうだ、おれは思い切った手段に訴えてもよいことになるぞ! キャサリンはエドガーの死によってよほど大きな苦痛をこうむるだろうか、こうむらないだろうか、おれはおまえがそれを教えてくれるだけの誠実を持ってくれたらありがたいと思うのだがな。キャサリンが苦しむだろうという恐れが、おれを引き留めているのだ。そしてこういうところで、おまえにもエドガーとおれとの気持の違いはわかるだろう――もしエドガーがおれの立場にいて、おれがあいつの立場だとする、もちろんおれは、おれの生涯《しょうがい》を苦汁《くじゅう》にするほどの憎しみであいつを憎んではいるが、けっしておれはあいつに対して手を上げはせんだろう。信じたくなければ信じなくともいいさ! キャサリンが望む限りは、あいつをキャサリンとの交際範囲から遠ざけようなどとは、おれは断じてしないよ。そのキャサリンの好意が失われたその瞬間には、おれはあいつの心臓を引き裂いて、あいつの血を飲むだろう! だが、それまでは――それをおまえが信じないなら、おまえはおれを知らんのだ――それまでは、おれはおのが心の苦しみに一寸だめしになぶり殺しに会うまでも、あいつの髪の毛一筋にだって手は触れないぞ!」
「いいえそれでも――」私はさえぎって申しました。「いまでは、キャサリンさまはほとんどあなたをお忘れになっているのですからね。それをいまさらあの方にむりやりにご自分を思い出させるのは、またあの方の平静をかき乱し、お苦しめして、新しい混乱に巻き込むことで、あの方がご全快になるあらゆる希望を、完全にめちゃめちゃにしておしまいになるのだということについては、あなたはなんとも思っていらっしゃらないのですわね」
「おまえは、キャサリンがおれをほとんど忘れてしまったなどと思ってるのかい? いいや、ネリー、忘れてなんぞいないことを、おまえは知ってるじゃないか! リントンのことを一度考えるひまに、おれのことは千度も考える人だということを、おまえはおれと同じくらいよく知ってるはずじゃないか? おれの半生のうちでいちばんみじめだった時期には、おれもそんなことを考えたことがあった。去年の夏、この近くへ帰って来る途中、そうした考えが頭を去らなかった。だがキャサリンが自分ではっきりとそう言わないかぎり、二度とおれにあの恐ろしい考えを認めさせることはできない。またもしそうなったら、リントンなぞはもうなんでもなくなってしまう、ヒンドリーだって、そのほかかつておれが夢みたいろいろの夢だって、みなおれには取るに足らぬものになってしまう。おれの将来はただ二つのことばで片づいてしまうだろう――死《・》と地獄《・・》とだ、キャサリンを失ったあとに生きてるということは地獄だ。だがおれはしばらくのあいだ、愚かにも、キャサリンはおれの愛情よりエドガー・リントンの愛情のほうを大切に思ってると想像したことがある。たといあの男があの貧弱な心と体の全力を尽くして、キャサリンを愛したところで、八十年かかってやっとおれの一日分しか愛せやしないよ。そしてキャサリンはおれと同じ深い心情を持つ女だ、あの女の愛情のすべてをエドガーのごときが独占できるものなら、大海の水もわけなく馬のかいば桶《おけ》にはいってしまうだろう! チェッ! あんなやつはキャサリンにとっては飼い犬一匹、馬一頭と、どれほどの違いもありはせん。おれのようにあの女《ひと》から愛されるところが、エドガーにはないのだ。それがないのにキャサリンがどうしてあいつを愛せるのだ?」
「キャサリンとエドガーとは、どんな夫婦にも負けないくらい好きあってるわよ」急にイザベラが元気になって叫びました。「そんなふうに兄さんたちのことを言う権利は、誰《だれ》にだってありませんわ。あたしは兄が軽蔑《けいべつ》されるのを黙って聞いてはいられません!」
「おまえの兄貴は、おまえのこともとても好きだったんじゃないのか?」吐き出すようにヒースクリフが言います。「それがまためっぽう気軽に、おまえを世の中へほうり出したものだね」
「あたしが困ってることを兄さんは知らないんです。あたしはそのことを知らせなかったんです」
「すると何か知らせたことがあるんだな。手紙を書いたな?」
「結婚したことを知らせる手紙を、書きましたわ――あなたもごらんになったじゃありませんか」
「それからは何も書かんのか?」
「ええ」
「イザベラさまはこちらへおいでになってから、ひどくおやつれになって、おいたわしいようですわねえ」私が申しました。「この方の場合は、たしかにどなたかの愛情が不足してる証拠ですわ、――どなたの愛情か、たいてい察しはつきますけど、まあ言わないでおきましょうね」
「おれの察するところでは、それはイザベラ自身の愛情が足りんのだよ」とヒースクリフが言いました。「こいつはまったくの自堕落《おひき》女《ずり》に成りさがってるよ! こんなに早く亭主《ていしゅ》を喜ばせようとするのに倦《あ》きてしまう女も、珍しいな。おまえなんか信じることもできんだろうが、結婚の翌朝から、実家へ帰りたいと言って泣いてるんだぜ。だが妙なもので、このたしなみのわるいところが、べらぼうにまたこの家に似合ってるし、おれもこいつが外をうろうろして、おれの体面を傷つけないように気をつけるつもりだよ」
「そうですねえ、あなた」私は押し返して申しました。「奥さまはこれまで、いつもおそばについてお世話を申しあげたり、ご用を足したりする者がいましたからねえ。それにひとり娘のようにして育っていらしって、家じゅうの者がなんでもおっしゃるとおりにしてさしあげておりましたんですよ。そこのところをあなたに考えていただかなくちゃねえ。奥さまがお身のまわりをきちんとなさるように、女中をつけておあげにならなければなりませんし、あなたもやさしくしておあげにならなければいけませんわ。エドガーさまのことはどうお思いになってるにしろ、奥さまが強い愛情を持てるお方だということは、あなたもお疑いにはなれないはずですわ。さもなければ上品で、安楽で、やさしい方々ばかりのおうちを捨てて、あなたとごいっしょに、こんな荒れ果てたところに満足そうに住んでいらっしゃるはずはないじゃありませんか」
「この女は馬鹿《ばか》な夢を見て、家や家族を捨てたのだ。おれをロマンスの主人公のように思い込んで、騎士ふうの献身的な愛で、なんでも言いなりしだいにさせてくれるものと思ったらしいがね。とても正気のさたとは考えられんほど、おれの性格を小説みたいに自分で勝手にでっち上げて、まるで見当違いなてまえ呑《の》み込みの印象によって行動しようとする、どこまでも頑《がん》固《こ》にそういう妄想《もうそう》にこだわろうとするのだ。だが、やっとこいつも、おれというものがわかりかけてきたようでもある。はじめのうち、おれはこれが間抜けな笑顔や気どり面《づら》をするので、むしゃくしゃさせられたものだが、あれがおれにはとんと合《が》点《てん》がゆかんね。また、おれに夢中になってる逆上ぶりや、この女自身についてのおれの考えを言って聞かせてやったのに、おれが本気でそう言ってることがどうしてもわからなかった、その頭の悪さ、呆《あき》れてものが言えん。なにしろ自分がおれに愛されていないことを見破るのに、よっぽどたいした苦心努力で、炯眼《けいがん》を働かせなければならなかったらしい。一時はおれも、いくら教えてもそれをこの女にわからせることは不可能だ、と思ったくらいだよ! いまでもまだ、十分には飲み込めておらんがね。けさになってこいつは、たいしたご明察の一端を披《ひ》瀝《れき》していわくさ、あなたはあたしがあなたを嫌《きら》いにさせることに、とうとう成功しました、だとさ! いやまったくハーキュリーズみたいな大努力だったさ! それに成功できたんなら、おれのほうからありがとうと言わなきゃならない。イザベラ、おれはおまえの言ったことを信用してもいいのか? たしかにおれが嫌いになったんだね? おれが半日おまえをうっちゃっといても、ため息ついたり甘ったれて気を引きに来るようなことはないのか? こいつはせめておまえの前だけでも、おれがやさしくして見せてくれればいいと思っていたらしいがね。ほんとのことがばれるのは、こいつの虚栄心を傷つけるのだ。だがおれは、惚《ほ》れていたのは女のほうだけだったということを、誰に知られようと、少しもかまわん。おれが少しでも心にもないやさしいそぶりを見せたと言って、攻撃するわけにはゆかんだろう。あの屋敷から外へ出て、この女が最初に見たおれのしわざは、この女の子犬をつるし上げることだった。かわいそうだから放してやってくれとこの女が言ったときに、おれの口にした最初の言葉は、ただ一人を除いては、おまえの家の生きものなんぞ片っぱしからつるし上げてやる、ということだった。きっとこいつはそのただ一人を、自分だと思っただろうがね。だがどんな残酷なことをしても、こいつはいやがらない。きっとこいつの心の底には、自分のだいじな体さえ無事なら、残虐《ざんぎゃく》にあこがれる気持がひそんでるんだろう! ところで、こんなあわれむべき、奴《ど》隷《れい》のような、卑《いや》しい根性の雌犬が、おれに愛してもらえるなどと、だいそれた夢をみるということがいかに愚劣な――馬鹿のこっちょうだとは思わないかね? おまえんとこの主人に言ってくれ、ネリー、おれは生まれてから、イザベラのような下種《げす》な人間に会ったことがないと。まったく、リントンの家の名さえ恥かしめる女だ。おれはこいつがどこまで辛抱するか、これでもまだ恥かしくもなくコソコソ這《は》い戻ってくるかと思って、ためしてみるんだが、新《あら》手《て》の実験方法を思いつけないばっかりに、ときどき手控えたこともある。だがおまえの主人に、兄として、また治安判事として、心配をかけないために、おれは絶対に法律のわくを踏みはずしてはおらんからとこれも一つ言っておいてくれ。きょうまで、おれはいささかでもこの女が別居の要求をする権利を与えるようなことは避けてきた。そればかりでなく、おれたちを別居させてくれたといって、この女はけっしてありがたいと思やせん。出てゆく気があるなら、出てゆけるのだ。この女のいることによってこうむっている迷惑のほうが、虐待して得られる満足よりもはるかに大きいのだからな!」
「ヒースクリフさん、それは気違いの言いぐさですよ。きっと奥さんもあなたが気違いだと思っていらっしゃるでしょうね、だからこそ、いままでがまんして、あなたとこうしていらしったんですわ。けれども、行ってもかまわないとおっしゃった以上、そのお許しを幸いに、お出になるに違いありませんわ。奥さま、まさかあなたは、ご自分から別れられないほど目がくらんではいらっしゃいますまい?」
「用心おしよ、エレン!」イザベラは怒りに目をキラキラ光らせながら答えました。その目の色をみれば、自分を嫌わせるようにしむけた相手の男の努力が、みごとに成功したことは、疑う余地もありません。「一言でもヒースクリフの言うことを信用しちゃ駄目《だめ》よ。嘘《うそ》つきの悪魔なんですから! 化け物なのよ、人間じゃないわ! 早く別れろ、と前にも勧められたことはあるわ、そして別れようとしてみたのよ、でも、もう二度とそれを繰り返そうとは思わないわ! ただね、エレン、いまこの人の汚《けが》らわしい話を、兄さんやキャサリンには一言半句も言わないって、約束してちょうだい、うわべはどうであろうとも、この人はエドガーをおこらせて夢中にさせたいと思ってるんです。おまえと結婚したのも、おまえの兄貴に対して強味を持ちたい下心からだったと、言ってるんです。強味なんか持てやしないわ――まっ先にあたしが死んじまうもの! ただ、あたしの望むことはね、この人があの悪魔的な用心深さを忘れて、あたしを殺すことなんです! あたしに想像できるたった一つの楽しみ、それは自分が死ぬか、この男が死ぬところを見るか、それだけなんです!」
「おい――もうそれくらいにしておけ!」ヒースクリフが言いました。「もしおまえが法廷へ呼び出されたら、いまのこの女の言葉を思い出すだろう、ネリー! それに見ろ、あの顔を――もうおれの似合いの女房《にょうぼう》だと言ってもいいくらいだ。いいや、現在のおまえはな、イザベラ、おまえには自分を自分で保護するのはむりだ。どうしてもおまえの法律上の保護者たるおれの監督のもとにおくのが、おれの義務だ――たといそれがいかにいとうべき義務であってもだ。二階へ行きなさい。おれはエレン・ディーンと、二人きりで話がある。そっちじゃない、二階だというのに! これ、二階はこっちから行くんだ、赤ん坊!」
イザベラの腕をつかまえ、部屋から突き出しました。そしてつぶやきながら帰ってきました。
「おれはあわれまん! おれはあわれまんぞ! 地虫がのたくればのたくるほど、おれはますます踏みにじって、臓《ぞう》腑《ふ》をさらけ出させてやりたくなるのだ。一種の精神的歯痛だな、だからおれは痛みが増せば増すほど、よけいに力を入れて、うずく歯をかみしめるのだ」
「あわれむという言葉の意味を、あんたおわかりになるの?」急いで帽子を取りに行きながら、私は申しました。「生まれてからあわれむ気持を、爪《つめ》の先ほどもお持ちになったことがあるの?」
「帽子を下へおきなさい!」私の帰りかけるのを知って、「まだ帰っちゃいけないよ。ネリー、さあここへ来ておくれ。キャサリンに会うという決心を実行するのに、おまえの助けをいまここで、頼んで承知してもらうか、むりに承知させるか、どちらかだ。それもひまどってはならんのだ。物騒なことを企《たく》らんでいないことは、誓うよ。事を荒だてたり、リントン君をおこらせたり侮辱したりする気もない。ただキャサリンの口から、どんなぐあいか、なぜ病気になったかを訊《き》きたい、何かおれにできることで、あの女《ひと》のためになることはないかと訊きたい、それだけなのだ。ゆうべ、おれは六時間、スラシュクロス屋敷の庭にいた、今夜もまた行くつもりだ。毎晩でも、毎日でも家の中へはいる機会が得られるまで、あの屋敷のまわりをうろつくつもりだ。もしエドガー・リントンと出くわせば、容赦なくなぐり倒して、おれが家の中にいるあいだ、おとなしくさせておく。召使どもがじゃまをすれば、ここにあるピストル二丁で、おどして追っ払う。だがそれよりは召使どもにも主人にも、ぶつからんように手配しておくほうがいいじゃないか? おまえならそれがやすやすとできるわけだ。おれが行ったときに、おまえに合図をする、するとキャサリンがひとりになったらすぐに、人に見られんようにおまえがおれをうちへ入れる。そしておれが帰るまで見張ってくれるんだ。おまえの良心はちっとも痛まない――危害の起こるのを防いでいることにはなるのだから」
雇われてる家でそんな卑劣な役を勤めるのはいやです、と私は争いました。その上、自分の満足のためにリントン夫人の安静をみだすのは、残酷で自分勝手だとやっつけてやりました。「どんな当りまえのことでも、奥さまはとてもびっくりなさるんですから。とても神経が鋭くて、不意においでになったりすれば、とんでもないことになります。たしかです。どうぞむりをおっしゃらないで、ね。どこまでもおっしゃるならしかたがありませんから、旦《だん》那《な》さまにはあなたの計画を告げますよ。そうすれば旦那さまは、そういう不法な侵入に対して家と家族とを守る手段をおとりになるでしょう!」
「そうなったら、おれはおまえをひっ捕えておく手段をとるぜ!」とヒースクリフは叫びました。「おまえはあすの朝まで、嵐が丘を出られないよ。キャサリンがおれに会ったら、とんでもないことになるなんて言うが、馬鹿げた話だよ。また不意に行くという問題だが、おれはそんなつもりはない。おまえがあらかじめキャサリンに言ってくれなければいけない――おれが来てもいいかと、訊いてほしいんだ、おまえはキャサリンがおれの名をけっして口に出さないと言う、ほかの者もキャサリンの前でおれの名を持ち出さないと言う。おれが家の中で禁じられてるのなら、だれに向かっておれの名をいうのかね? おまえたち召使はみんなリントンのまわし者だと、キャサリンは思ってるんだ。そうだとも! おまえたちの中にいるキャサリンは、地獄にいるも同然だ! キャサリンが黙っているということで、ほかのどんなことよりも、あの女《ひと》の気持が察しがつくのだ。いらいらすることが多い、心配そうな顔してる、そうおまえは言うが、それが心の平静な証拠になるのかい? キャサリンの心が落着いていないことを、おまえは話して聞かせたじゃないか。ああして恐ろしい孤独におかれて、どうして心を落着けていられるものか! おまけにあの気の抜けたかすのような男が、『義務』と『人情』とでそばにくっついてるんだ! 『あわれみ』と『お情け』とでね! あんな男のあさはかな心づかいを肥料にしてキャサリンの生気を取り戻《もど》せるなんて思うのは、樫《かし》の木を草花の鉢《はち》に植えて、大きく育つと思ってるようなものだよ! さあいますぐ話をきめよう。おまえはこの家に泊っていて、おれが力ずくでリントンや下男のじゃまを押しのけて、キャサリンのところへ乗り込んでもいいのか? それとも、いままでどおりおれの味方になって、おれの頼んだとおりにしてくれるのか、どっちかに決めなさい! もしおまえがどこまでも強情張って、意地わるを通すつもりなら、おれは一分間もぐずぐずしてる理由はないんだからな!」
まあね、ロックウッド旦那さま、私もずいぶん理屈を言ったり苦情をとなえたり、五十ぺんもきっぱり断わりを言いましたんですよ。でも結局のところ無理じいに一つの約束をさせられてしまいましたの。私はヒースクリフから奥さまへの手紙をことづかって帰る。そしてもし奥さまが承知したら、今度リントンが家を留守にする時をヒースクリフに内通することを約束する。そこでヒースクリフが来たら、自分でどうにかして勝手に家の中へ入ってもかまわない――つまり私もその場におらず、ほかの召使も同様どこかほかへやってじゃまをさせないようにする――こういう段どりなんでございます。これは正しかったでしょうか? それともまちがっておりましたでしょうか? その場をしのぐ方便として気がきいてはおりましたけれど、私はやはりまちがいだったような気がいたします。ヒースクリフの意に従うことによって、またも大きな騒ぎになるところを防いだのだと、自分では思っておりました。また、それがキャサリンの頭の病気には、よいほうへ向かう動機になるかもしれない、とも思いました。それからまた、リントン氏から告げ口をしたためにきついお叱《しか》りを受けたことも思い出しまして――これは激しいことばを使えば信頼を裏切ることにはなるけれど、もうこれが最後なのだと、幾度も心に繰り返し繰り返し言い聞かせまして、いろいろの不安を取り静めようとしたのでございます。でもそれにもかかわらず帰り道は行くときよりもみじめな思いがいたしました。そしてさまざまな不安に閉ざされた自分の気持をやっと押えつけて、とうとう密書をリントン夫人の手にお渡ししてしまいました。
おや、ケネスさんがお見えになりましたよ。私、階下《した》へ参りまして、あなたが大変およろしいことを申しますわ。私のお話は、この土地のことばで申しますと、「だれる」ほうでございましてね、またいつかほかの日の、お午前《ひるまえ》のおひまつぶしにいたしましょう。
「だれ」てる、だらだらして退屈だ! 善良なおばさんが医師を迎えに降りて行ったあと、僕は考えた。楽しみに聞くのには向かない話だ。だがかまわない! 僕はディーン夫人の苦い薬草からだって、役に立つ良薬を煎《せん》じ出してみせる。まず第一、キャサリン・ヒースクリフの美しい目のなかに宿っている魅力に捕えられぬよう気をつけることだ。もし僕があの若い婦人に心をとりこにされたとして、娘が母親の再版だということにでもなったら、容易ならざる仕儀に立ち至るだろうから。
15
また一週間が過ぎた――僕《ぼく》はその日数だけますます健康に近づいた――そして春にも! 家政婦がほかの大切な用事の合間、時間をさきうる限り幾度にも分けて話してくれたので、いまではヒースクリフの経歴をすっかり聞いてしまった。ここには少しく圧縮するだけで、引きつづきディーン夫人の言葉どおりに記録することにしよう。彼女は大体において、実に上手な話し手だから、僕が手を加えて彼女の話しぶりにいっそうの精彩を加えられるとは思えないからである。
夕方――(とディーン夫人は語りつぐ)――私が嵐《あらし》が丘《おか》を訪れました日の夕方のことでございますが、私はヒースクリフ氏がお屋敷の近辺にいることを、見たわけでございませんが見たのと同様たしかに、知っておりました。私が外へ出るのを避けておりましたのは、実はまだあの密書をポケットに入れたままでしたので、もうこれ以上おどかされたり悩まされたりするのがいやだったからです。手紙を受け取ったときにキャサリンがどんな影響を受けるか、私には見当がつきかねましたので、主人がどこかへ出かけるまでは手紙は渡すまいと決心しておりました。それがために手紙がキャサリンの手に届くまでには早くも三日たってしまいました。四日めは日曜でございましたので、家じゅうが教会へ行ってしまったあと、私は手紙を奥さまの部屋へ持って参りました。私といっしょに留守をする役の下男がひとり、残っておりまして、ふだんならばお勤めの時間中は、扉《とびら》に鍵《かぎ》をかけることになっておりました。けれどもその日はお天気がまことによろしく、暖かでございましたので、私は扉をすっかりあけ放したままにして、さて、誰《だれ》が来るかはわかっておりましたから、あの約束を果たすために、下男に向かいまして、奥さまが大変にオレンジをほしがっていらっしゃるから、村までひとっ走り行って、少し買ってくるように、お金はあすの朝払うから、と申しました。下男が出かけまして、私は二階へ上がりました。
リントン夫人は、ゆるやかな白い衣服《ドレス》に軽い肩掛けをまとって、常のようにあけ放った窓の内側に腰かけておいででした。豊かな長い髪はご病気の始まりころにいくらか切りまして、いまはその自然の縮れのままに、あっさり櫛《くし》をお当てになり、こめかみや頸《うなじ》にたらせてあります。ヒースクリフにも話しましたとおり、お顔は変っておりましたが、落着いていらっしゃる時の夫人には、その変化によってこの世ならぬ美しさが現われたように思われます。ひとみにひらめいていた光は、いまは夢みるような憂愁のこもったなごやかさに取って代られました。それはもはや、あたりの物を見ているという印象は与えませんで、いつもあちらのほうを、それも遠い遠いあちらのほうを――この世の外とでも申しましょうか――見つめているようでございました。それからまた、そのお顔の青白さ――いくらか肉づきが元へ戻りましてからはすごいような感じは消え失《う》せまして――それにいまの精神状態から来る一種特別な表情、それらの原因を思い出させることはおいたわしいことですけれども、そのお姿から誰しもの胸に迫って来る哀れ深い感じを、いっそう強めております上に――私には確かにそうでございましたが、おそらくは奥さまにお会いした人みんなにとりましても同じことだったろうと思われますのは――目に見えた回復の証拠を打ち消し、もはやこのお方の衰落の運命を宣告する極印のように思われたのでございます。
夫人の前の窓わくの上に、一冊の書物が開かれており、あるかないかのかすかな風が、時おりそのページをひらひらさせておりました。本をそこにおいたのは旦《だん》那《な》さまだったと存じます。夫人は読書にもその他のことにも気を紛らせようとはけっしてなさいませんので、旦那さまは以前に奥さまのおもしろがられたことに奥さまの注意を誘おうと、根気よく骨を折っておられましたからです。夫人はリントン氏のそういう気持を察しておられ、ご気分のよいときには静かにその努力に対して辛抱していらっしゃいまして、ただ時おり、そんな骨折りは無駄《むだ》なことですよというふうに、うんざりしたようなため息をなすって、そしてしまいには世にも悲しい微笑と接吻《せっぷん》とで旦那さまのせっかくの努力をやめさせておしまいになるのでした。ところがご機《き》嫌《げん》の悪いときには、ツンとそっぽを向いて両手で顔を隠したり、もっとひどいときは腹立たしそうに旦那さまを押しやったりなさることもございまして、やがて旦那さまもそれがなんの役にも立たぬことがわかり、奥さまのしたいままにさせておくようになりました。
ギマトン教会堂の鐘はまだ鳴っております。水かさが増して豊かに流れる谷間の小川のせせらぎが、いかにもさわやかに聞こえて参ります。それはいままだ聞こえぬ夏の森の茂みのつぶやきに代る甘美な音楽でございました。木々が葉を装いますと、このお屋敷のあたりでは、あの水音は葉のささやきに打ち消されてしまいました。嵐が丘では、大雪どけや長雨のあとの、風の穏やかな日には、一年じゅうこのせせらぎが聞こえます。そしてキャサリンが耳で聞きながら心に思っていましたのは、その嵐が丘のせせらぎの音でございました。――いえ、それはかりに思ったり聞いたりすることがあるとしてのお話ですが――けれども、いまキャサリンの面《おも》もちは、前に申しあげましたように、ぼんやりと遠くをみつめている人の表情で、耳であれ目であれ現実の事物を認識している様子は少しも見えませんでした。
「奥さま、あなたへのお手紙でございますよ」膝《ひざ》におかれた手の中へ、静かに差し入れながら、私は申しました。「いますぐお読みになってくださいまし、お返事のいるお手紙でございますから。封をお切りいたしましょうか?」
「ええ」ひとみの向きを変えずに、お答えになりました。
私は手紙を開きました――たいそう短い文言でした。「さあ、お読みになって」私がつづけて申しますと、奥さまは手を引いて、手紙を落してしまいました。私はそれをお膝の上に置きなおしまして、それを見る気におなりになるまで待っておりました。が、あまりいつまでもそうなさいませんので、とうとうまた言葉を継ぎました――
「お読みいたしましょうか、奥さま? これはヒースクリフさまからでございますよ」
びくりとお体がふるえ、思い出そうとして悩む眼《め》色《いろ》の動きと、頭の中で考えをまとめようとする努力の様子が見えます。手紙を取り上げ、それを読もうとしているように見え、署名のところまで来て、ため息を漏らしました。それでもやはりその内容がつかめていないことが、やがてわかりました。私がご返事をお聞かせ下さいと申しますと、ただその名まえのところを指さして、いとも悲しそうな、物問いたげな熱心さで、私を見つめるだけだったからでございます。
「あのね、ヒースクリフさまは、あなたに会いたがっていらっしゃるんですよ」説明者が要ることがわかりましたので、私は申しました。「もういまごろは、お庭に来ておいでで、あたくしがどんな返事を持ってくるかと、いらいらしていらっしゃるころですわ」
話しながら、私は下の日なたの草の上に寝ていた大きな犬が、ちょうどほえようとして耳を立てるのを見ておりました。耳はすぐに元へ戻り、尾を巻きましたので、誰か、犬にはなじみのある人間が近づいて来たことがわかりました。リントン夫人は前へ乗り出し、息をこらしてじっと耳をすませています。間もなく足音が玄関の広間を横切りました。扉をあけ放った家に誘惑されて、ヒースクリフははいらずにいられなかったのです。たぶん、私が約束をずるけたがっているものと思い、自分の大胆さにたよって進もうと決心したものと思われます。張りつめた一心不乱なひとみをこらして、キャサリンは部屋の入口のほうを見つめています。ヒースクリフはすぐにはこの部屋をたずねあてませんでしたので、キャサリンは私に案内するようにと手まねで命じましたが、まだ私が戸口まで行かぬうちに、男のほうでたずねあてました。大またの、一足か二足、もう恋人のそばに来て、ひしと双腕《もろうで》のなかに抱きしめていました。
五分間ほどは、そうしてものも言わず、抱擁をゆるめようともせず、おそらくはその五分間に、これまでの生涯《しょうがい》にしたよりも数多い接吻を男は与えていましたでしょう。けれど、最初に接吻したのは、私の女主人のほうでございました。それで私は明らかにさとりましたのです――ヒースクリフは圧倒的な悲痛の情のために、恋人の顔に見入るに忍びないのだということを! その顔を一目見た瞬間から、私と同じ思いが彼を打ちのめしたのでした。とうてい全快の見込みはない――運命が定まってるのだ、必ず死ぬのだ、と。
「おおキャシー! おお、おれのいのち《・・・・・・》よ! どうしてこれに耐えられるか?」これがヒースクリフのはじめて口にしたことばでして、その語調は、おのれの絶望を、すこしも隠そうとしておりませんでした。そしていま、恋人の面《おもて》を一心にみつめるその凝視のはげしさそのものが、目のうちに涙をわき出させはせぬかとさえ、私には思われました。けれどもその目は、苦悩に燃えておりました。涙にうるんでは、おりませんでした。
「なんですの?」キャサリンはこう言って、背をのけぞらせ、急に眉《まゆ》を曇らせて、男の顔を見返しました。たえず変る気まぐれのために、ご機嫌が風見のようにたよりなく、くるくるまわるのです。
「あんたとエドガーと二人して、あたしを絶望させちゃったのよ、ヒースクリフ! そしてあんた方ふたりとも、かわいそうなのは自分だという顔して、あたしのところへそのことで泣きに来るんです! あたしはあんた方をかわいそうだと思いませんよ。いやなことよ。あなた方はあたしを殺したの――そしてそのおかげで栄えてるんでしょう。二人とも強い人たちねえ! あたしが死んだあと、もう何年生きるつもり?」
ヒースクリフは恋人を抱擁しようと片膝を床《ゆか》についていました。立とうとしたのですが、キャサリンがその髪の毛を引っぱって、下にいさせました。
「二人とも死んでしまうまで、こうしてあんたをつかまえていたいわ!」女は痛ましくしゃべりつづけます。「あんたが苦しくったってかまやしないわ。あんたの苦痛なんかなんとも思わなくてよ。あんたがなんで苦しまずにいていいんです? あたしは苦しんでいるわ! あんたあたしを忘れるつもり? あたしがお墓にはいったら、あんたは幸福になる? いまから二十年たったら、『あれがキャサリン・アーンショーの墓だ。おれはずっと昔、あの女を愛していた。あの女に死なれたときは悲しんだものだ。だがもうそれは過ぎたことだ。あれからおれはほかにもたくさんの女を愛した。いまのおれは、昔あの女を愛したときよりも、ずっと子どもたちを愛している。そして死ぬときも、おれはあの女のそばへ行くことをべつにうれしいとは思わなくて、子どもたちと別れることを悲しく思うだろう!』そんなふうに言うつもり? ねえ、ヒースクリフ!」
「あまりおれをいじめないでくれ、しまいにはおれもおまえのように気が狂うぞ!」頭をねじって振り放し、歯ぎしりしながら、男は叫びました。
冷ややかにそばで見ている者の目には、二人は不思議な、恐ろしさにみちた一幅の画面を作っていました。キャサリンがその生身の肉体とともにその道徳上の性格をも捨て去らないかぎり、天国を流《る》刑《けい》の地と思うのももっともです。いまその顔には、その真っ白い頬《ほお》、血の気を失せたくちびる、火花を放つひとみ――すべて狂暴な復讐《ふくしゅう》の意志を示していました。握りしめた指の中には、さっき掴《つか》んだ男の巻毛の一部が残っています。ヒースクリフのほうはと申しますと、片手で身を起こそうとしながら、他の手でキャサリンの腕を握ったのですが、もとより病人に必要なやさしさの持ち合わせの少ない男ですから、腕を放したあとを見ますと、その色のわるい肌《はだ》の上には、四つの明瞭《めいりょう》な指の跡が、紫色に残っておりました。
「死にかけていながら、おれに向かってそんなものの言い方をするというのは、悪魔にでもつかれているのか? いま言ったおまえの言葉がおれの記憶に焼きついて、おまえに取り残されたあと、永久に、深く深くおれの心に、食い入ることを考えないか? おれがおまえを殺したなどとはうそだということは、おまえも知っていることだ。そして、キャサリン、おれというものがある限り、死んでもおまえを忘れないことも、おまえにはわかっている! おまえが安らかに眠っているときに、おれが地獄の呵責《かしゃく》に身をもがいていることだけで、いかに強欲なおまえのわがままも、満足しそうなものじゃないか?」
「あたしは安らかになんぞ眠りはしません」激しい不ぞろいな心臓の鼓動に、わが身の衰えを意識に呼びもどして、女はうめくように言いました。極度の興奮に、心臓は目に見え、耳にも聞こえるほどに動《どう》悸《き》を打っております。その発作が終るまで、キャサリンはそれきり何も言わずにいましたが、やがて、いくらかやさしくことばを継ぎました。
「あたし、あなたが自分以上の呵責を受ければいいなんて思ってはいませんわ、ヒースクリフ。ただあたしたち二人が、いつまでも別れたくないと思うだけなの、これからもあたしの言葉があなたを悲しませるとしたら、地の下であたしも同じ悲しみを悲しんでると思ってちょうだい、そしてあたしのためと思って許して下さい! ね、ここへ来て、もう一度膝を落して――あなたはこれまで一度もあたしを傷つけたことはないの。いいえ、もしあんたがあたしをおこったりすれば、そのほうがあたしのひどい言葉を覚えるより、まだつらい思い出になるわよ! もう一度、ね、ここへ来て下さらない? さあ!」
男は女の椅子《いす》の後ろへまわり、女の上へ身をかがめましたが、感動のために鉛色になったその顔を女に見せるほど深くはかがみませんでした。女は振り向いて、男の顔を見ようとしますが、男はそうさせません。ふいに後ろ向きになって、煖《だん》炉《ろ》のほうへ歩いてゆき、そこに私たちに背を向けたまま、無言で立っています。夫人のひとみは、怪しむように男の動きを追い、それにつれてあとからあとから、新しい感情が胸にわきおこるのでした。しばらく無言で、その間ずっと男の後ろ姿を見つめていてから、キャサリンは腹立たしげな失望の調子で、私に話しかけました――
「ねえ、ネリーや、あのとおり、ヒースクリフは、あたしを墓の外に引き留めておくために、ほんのわずかのあいだを無駄にするのもいやがってるのよ。これがあたしの愛されかたなのよ! いいわ、かまやしないわ、あすこにいる人は、あたし《・・・》のヒースクリフじゃないの。あたしはあたしで、自分の彼を愛してゆくわ、そしていっしょにお墓へ連れてゆくわ――その人はあたしの魂の中にいるんですから。それに――」ひとりで考えふけるような面《おも》もちで、言いつづけます。「なんといっても、何よりもあたしのいちばんいやなものは、このがたがたにこわれた牢獄《ろうごく》なの、この肉体の牢獄に閉じ込められてることに、あたしはもうあきあきしたわ。あの輝かしい世界へ、早く逃げて行きたい、そしていつまでもそこに住みたい――涙にくもったおぼろな形でそれを見るのでなく、痛む心の壁を通じてあこがれるだけでなく、ほんとうに行って、そこに住みたい。ネリーや、おまえは、あたしより丈夫でしあわせだと思ってるわね、健康で、力にみちみちた自分と引き比べて、あたしを気の毒だと思ってるわね――もうじきそれが反対になるわよ。あたしのほうが、おまえを気の毒だと思うようになるのよ。おまえたちみんなと、比べものにならないほど遠い、高いところへ、あたしは行ってしまうのですもの。きっとヒースクリフは、あたしのそばへ来たくないんでしょうね!」ひとり言はまだつづきます。「いままでいっしょに来たいんだとばかり思っていたの。ああ、あたしのヒースクリフ! もうそんなむずかしい顔をしないで。さ、こっちへ来て、ねえヒースクリフ」
女は夢中で、起き上がって椅子のひじに身をささえました。その切ない訴えに、男は、もはやすべてを忘れた捨《す》て鉢《ばち 》な様子で、女のほうへ振り向きました。大きく見開いた、うるんだひとみが、ついに女の上にあらあらしくギラリと光り、ひきつるように胸が波うちました。一瞬、二人は離れて向かいあっていました、つぎの瞬間、どのようにして近づいたのか気のつくひまもございません、キャサリンが飛びついたのを男が抱きとめカッキと抱きしめあっていました。生きてキャサリンがその抱擁から脱け出られるとは思えぬほどの激しさで――また事実、そのまま気を失ってしまったように、私の目には見えました。男は手近の椅子に倒れこみ、奥さまが気絶なすったのかどうか確かめたいと思いはせ寄った私を、狂犬のように口にあわをふきながら歯ぎしりかんで睨《にら》みすえ、指一本ふれさせじとする恐ろしい執念をあらわに、女をかき寄せ、抱きしめるのでした。私はもう、自分と同じ人間といっしょにいるような気はいたしませんで、たとい私が話しかけましても、この男にはとても理解されないという気がしまして、離れてたたずんだまま、途方にくれて、口をつぐんでおりました。
やがて、キャサリンが、ちょっと身動きをしましたので、私もいくらかほっといたしました。手を上げて、男の頬にすがり、抱き寄せる男の頬に頬をすり寄せました。そのあいだ、男は狂気のように女を愛《あい》撫《ぶ》しつづけながら、あらあらしく口走ります――
「おまえがどんなに残酷だったか――残酷でうそつきな女だったか、いまになっておまえから教えられたぞ。なぜ、おまえはおれを軽《けい》蔑《べつ》したのだ? なぜ、キャシー、なぜおまえは自分の本心を裏切った? 一言だって、おまえを慰める気にはおれはなれないぞ。こうなるのも身から出たさびだぞ。おまえは勝手に自分を殺した! そうだ、そうやって、おれに接吻しろ、そして泣け。そうやって、おれの接吻と涙とを絞り出せ。涙も接吻も、おまえを枯らす――おまえを呪《のろ》う接吻だ、涙だ。おまえはおれを愛した――それならなんの権利があっておれを捨てた? なんの権利で――言ってみろ――くだらん浮《うわ》気《き》ごころをリントンにいだいたからか? 不幸も、堕落も、死ですらも、いいや、神や悪魔が与えうるどんな打撃も、断ち切ることのできぬおれたち二人の絆《きずな》なればこそ、おまえは、おまえみずからの意志でそれを断ち切った。おれがおまえに失恋させたのでなく――おまえが自分で自分を失恋させた。そうすることによっておまえがおれにも失恋させたのだ。おれの体が丈夫なことは、それだけおれを苦しめるばかりなのだぞ。なんでおれが生きていたいか? どんな生活をおれはおまえの――ああ、神よ! 自分の魂を墓の中に埋めても、誰《だれ》が生きたいと思うのだ?」
「ほっといて、ほっといてください」キャサリンはむせび泣きます。「あたしのしたことがまちがったとしても、あたしはそのために死んでゆくんです。それで十分じゃありませんの! あんただってあたしを捨てたわ、でもあたしはあなたを責めません! あなたを赦《ゆる》します。だからあたしも赦してちょうだい!」
「赦すのはつらい、おまえのその目を見るのも、やせ衰えた手に触れるのも、つらいぞ」男は答えました。「もう一度、接吻しておくれ、そしておまえの目を見せないでおくれ! おまえのおれに対してしたことを、おれは赦すよ。おれを殺した人間を、おれは愛するよ――だがおまえを殺した人間は! どうしておれが愛せよう!」
二人は語りやめました――互いの顔に顔をうずめ、互いの涙で顔をぬらしました。いえ少なくとも私には、二人とも泣いていたように思われました。こうした一生の大事にあたっては、ヒースクリフも泣ける人だったらしゅうございますのよ。
そのうちに、私は、だんだん落着けなくなって参りました。午後の日あしもうつろい早く、使いに出した男も帰って参りましたし、谷の上まで来た西日の光で、ギマトン教会堂の入口の外に、群集がいっぱいに出てきているのが見えましたからです。
「お勤めは終りましたよ」私は声をかけました。「旦《だん》那《な》さまは、あと三十分すればお帰りになりますよ」
ヒースクリフはうめくように呪の言葉を発して、いっそう強くキャサリンを抱きしめました。キャサリンは身動きもいたしません。
まもなく、召使たちが連れだって、台所の棟《むね》のほうへ道を進んでくるのが見えました。リントン氏の姿もかれらからいくらもおくれてはおりませんで、自分で門をあけて、ゆっくりと歩みを運んできます。まるで夏のようになごやかな、風の息づく午後のひとときを楽しんでいるらしく見受けられました。
「さ、帰っておいでですよ」私は叫びました。「どうぞ、お願いいたします。早く階下《した》へ!正面の階段なら、だれにも会わずに出られます。どうぞお急ぎになって、そして旦那さまがすっかりおはいりになるまで、立ち木のなかに隠れていて下さいまし」
「おれは行かなきゃならないよ、キャシー」恋人の抱擁から離れようともがきながら、ヒースクリフは申しました、「だが、おれの生《いの》命《ち》さえあれば、おまえが眠る前に、きっともう一度、会いに来るぞ。おまえの窓から五ヤードと離れないところに、おれはいるからな!」
「行ってはいや!」かよわい力のあらんかぎり、女は男を、しっかりと抱きしめて、答えます、「――駄目《だめ》よ、行ってはいけません!」
「一時間だけね」男は一生懸命で哀願しました。
「一分でも駄目!」
「いけない――もうすぐリントンが上がってくるじゃないか」あるじの留守に押し入った男は、狼狽《ろうばい》して、人妻に訴えます。
むりに立ち上がって、それによって女のつかまえた手を離させようとしました――女は力をこめてすがりつきます、その顔には狂気の決意が表われていました。
「いやです!」鋭い声でした、「ねえ、行かないで、行かないで、もうこれきりなのよ! エドガーは何もしやしません。ヒースクリフ、あたしは死にます! あたしは死にます!」
「なんだ馬鹿《ばか》な! もう来たじゃないか」ヒースクリフは叫んで、どっかと椅子に腰を落着けてしまいました。「黙ってね、おまえ! だまって、静かに、キャサリン、おれは行かないぞ。あいつにこうして射《う》たれようと、おれは口に祝福をとなえながら死んでゆくぞ!」
そして、二人はまた、しっかりと抱き合いました。主人の階段を上がる音が聞こえます――冷汗が、私の顔から流れ落ちます。私は恐ろしさに度を失いました。
「奥さまの譫言《うわごと》のとおりになさるおつもりなの?」激しい声で私は申しました。「何を言ってるかわかりもしないんですよ。頭が狂って自分では何もできない方を、破滅させるおつもりなんですか? さあ起きてください。すぐに離れられるでしょうに。あんたのなすったことのなかで、それがいちばんひどい所業ですよ。あたしたちみんなの――主人も、女主人も、召使のあたしも――みんなこれでおしまいになってしまいますよ」
手を振りしぼって、私は叫びました。その声を聞いて、リントン氏はいそいで階段を上がって来ました。その狼狽の真っ最中に、キャサリンの腕がゆるみ、頭ががっくりとたれてしまったのを見ましたとき、私は心からうれしいと思いました。
「気絶したか、死んだかだわ」私は思いました。「死んだのならそのほうがいいわ。まわりの者みんなの重荷になり、不幸のもとになりながら生き残るよりは、死んだほうがずっといいわ」
エドガーは驚愕《きょうがく》と憤《ふん》怒《ぬ》とに青くなって、招かざる客におどりかかりました。それはどういうつもりでしたか、私にはわかりませんが、相手は、即座に、夫の両腕にぐったりと死んだような妻の体を抱き取らせて、いっさいの行動を封じてしまいました。
「見ろその姿を!」ヒースクリフは言いました。「きさまが悪鬼でなかったら、まずその人を介抱しろ――そのあとでおれと話があるならしろ!」
そのまま居間へはいって、腰をおろします。旦那さまは私をお呼びになり、さんざん骨折って、いろいろのことをやってみましたあげく、ようやく奥さまの意識を呼び戻《もど》しましたが、奥さまはすっかり混乱して、ため息をついたり、うめいたり、誰ひとり見分けがつかぬご様子でした。旦那さまはその奥さまのご様子に心を奪われて、憎い妻の恋人のことを忘れていらっしゃいましたが、私は忘れません。すきを見つけるとすぐにヒースクリフのところへ参りまして、出て行くように頼みました――奥さまはもう大丈夫、今夜のご様子は、あすの朝私から知らせるからと申しました。
「家の外へ出ないとは言わんよ」男は答えました。「だが庭にはいるからね、そしてネリー、あすの約束は忘れんでくれよ。あの落葉《から》松《まつ》の下にいるから。きっとだぞ! さもないとおれは、リントンがいようといまいと、もう一度はいって来るからな」
病室の半ば開いた戸口へ、鋭く一瞥《いちべつ》を投げて、もう大丈夫と私が申したことがほんとうらしいと安心したらしく、やっと呪われた姿をこの家から消しました。
16
その夜の十二時ごろ、あなたさまが嵐が丘でお会いになった、あのキャサリンさまがお生まれになりました。かよわい七月《ななつき》児《ご》でございました。そしてその二時間後には、あの方のお母さまはおなくなりになりました。とうとう最後まで意識を回復せず、ヒースクリフのいないのを悲しむこともなく、エドガーのそばにいることに気づくこともなしに――。妻に先だたれたエドガーさまの身も世もないお嘆きのいたましさは、とても詳しくお話しするに忍びません。その後の結果からみましても、その悲しみがどれほど深かったかがわかります。それに加えて、私の目から見ますと、男の後継ぎなしに奥さまとお別れになったことは大きな不幸でございました。かよわい母のない子を見ておりますと、私はそれが悲しくて、リントンの大旦《おおだん》那《な》さまが、ご自分の娘御に財産をお残しになって、むすこさんのお嬢さんにはお残しにならなかったことを(そういう不公平はごくありがちなことでございますが)心のうちでののしったものでございます。ほんとうに生まれたことを誰《だれ》にも喜ばれないかわいそうな赤ちゃん! 泣いて泣いて、泣き死にに死んだとしましても、生まれた当座は誰ひとりなんとも思わないありさまで。まあ後にはそれほどないがしろにはいたしませんでしたものの、はじめのころは、まったくのひとりぼっちで――死ぬときもそうではないかと思われるふしがいまもございますけれど。
翌朝――戸外《そと》はよく晴れて心地よい朝でございました――ひっそりした部屋の鎧扉《よろいど》をすかして豊かなやさしい外光が、そっと忍びこみ、寝椅子《ねいす》とその上に寝ている人の上に輝きました。エドガー・リントンは頭を枕《まくら》にのせて目をつぶっておりました。若々しい美しい容貌《ようぼう》は、そばに横たわる人と同じように、死人のようにじっとして動きません。けれどそれは悲傷のあまりの疲れきった沈黙にすぎませんでしたが、も一人のお方のそれは、まったくの平和な静まりでございました。キャサリンの額は安らかに、まぶたは閉じ、くちびるには微笑を帯びて、天国のどんな天使もかほどまで美しくはあるまいと思われます。私までも、その身を横たえている無限の安らかさのなかに身をおく思いがしましたほど、私の心は、その何ものにもわずらわされない神《こう》々《ごう》しい安らいの姿をみつめて、かつて覚えたことのない清らかさにひたっておりました。思わず私は、なくなったお方の数時間前のことばを繰り返しておりました――「あたしたちみんなとは、比べものにならないほど遠い、高いところへ! この方の霊は、まだ地上に留《とど》まっているにせよ、もう天国へのぼってしまったにせよ、いずれは神さまのおそばへお帰りになったのだわ」
これは私だけの特別な気持かもしれませんけれど、狂気のように泣き悲しんだり、悲嘆に暮れたりする人々といっしょでさえなければ、死んだ人の部屋でおみとりをしますのをたいていの場合、とても幸福に感じますの。私はこの世も地獄も、けっしてみだすことのない安静の姿を見まして、限りなく明るい来世――死者のはいって行った「久《く》遠《おん 》の世界」――が、確証されたことを感じます。そこでは、生命は無限の長さをもち、愛は無限の共鳴をえ、歓喜は無限に満ちあふれているような気がいたします。そのときも私は、リントンさまほどの愛情をもたれても、キャサリンさまの、あの恵まれた現世からの解放を悲しまれるというのは、なんたる利己心かと思ったことでございます! おそらく、キャサリンさまのような気《き》随《ずい》きままな、いらいらとした一生を過ごしたあとで、はたして究極の憩《いこ》いの港へ行けるものか、というお疑いも浮かびましょう。冷やかに考えますと、そういう疑いが起こるには違いありませんけれど、いま、ご遺《い》骸《がい》を前にしましては、そうではございませんでした。そのご遺骸の静けさそのものが、そのなかにいままで宿っていた霊魂にも、ひとしい静けさがあることを保証するかのようでございました。
旦那さま、こういう方が来世で幸福だということがお信じになれましょうか? 私はそれを知りたくてなりません。
このディーン夫人の質問に、僕は答えなかった。なにか異端的なものを僕はそこに感じた。彼女は語りつづける――
キャサリン・リントンの生涯《しょうがい》をたどってみまして、あの方の霊魂が、いまも幸福だと申すことは、できないような気がいたしますけれど、それはあのかたの創造《つくり》主《ぬし》にお任せすることにいたしまして――
ご主人は眠っていらっしゃるようでございますから、私は夜が明けますとすぐに部屋を出まして、さわやかに澄んだ朝の外気のなかへと脱け出しました。召使たちは私が長いあいだのお通夜《つや》の眠気をさましに行くと思いましたでしょうが、実は私のおもな目的は、ヒースクリフ氏に会うことでございました。夜なか、落葉《から》松《まつ》の木立ちの中にずっといたとしましても、お屋敷の中の騒ぎは少しも聞こえなかったはずで、ただギマトンへ行く使いの、馬を走らせる音を聞いただけでしたでしょう。もしもっと近くへ寄ったとすれば、灯火があちこちと動いたり、外の扉《とびら》が開いたりしまったりするので、家内に何事か異常があるなと気づいたかも知れません。私はいてくれればよいがと思いながら、それがこわくもありました。恐ろしい知らせを伝えなければならない。早くそれをすませたいと思いながら、ではどういうふうに伝えるかということになりますと、かいもくわかりませんのです。ヒースクリフはおりました――少なくとも数ヤードは猟場《パーク》の中にいて、とねりこ《・・・・》の老樹にもたれかかり、帽子はぬいで、つぼみをもった枝からしたたり落ちる露に、髪はしとどにぬれておりました。露は身のまわりにもぽたぽたとたれております。よほど長く、そうして立っていたものと見えまして、一つがいのつぐみが、三フィートとは離れないところを飛びかいながら、忙しく巣を作っておりましたが、小鳥どもはまるで一本の材木が立っているくらいにしか感じていないようでございました。私が近寄りますと、つぐみは飛び去りました。立っていた人は顔を上げて、口を開きました――
「死んだね。それを聞きたくて待っていたんじゃない。ハンカチなんかしまっちまえ――おれのまえでめそめそせんでくれ。なんだおまえたちなんぞ! おまえたちの涙なんぞ、キャサリンはほしがってやせんのだ!」
私はキャサリンさまのためばかりでなく、この男のためにも泣いていたのでございます。私どもは時として、自分たちのためにも、また他人のためにもなんの感情も持たぬような者をさえも、あわれむことがあるものですね。はじめて相手の顔を見上げましたとき、私はこの人はもう悲劇を知ってるなと思いました。そして馬鹿《ばか》な考えですけれど、この人の心も柔らぎ、お祈りをしているのだなと、ふと思いました。くちびるが動いて、ひとみは地面をみつめていたからですの。
「はい、おなくなりになりました!」すすり泣きをやめ、頬《ほお》をぬぐいながら、私は答えました。「きっと天国へおいでになりましたのでしょう。わたしどもみんな、天国《あちら》でごいっしょになれましょう、もし死ぬまでに悔い改めて、悪の道を去って善の道にはいりさえしませばねえ!」
「そんなら彼女《あのひと》も悔い改めたというのか?」あざ笑おうとするように、ヒースクリフが問いかけました。「聖女のように死んだというのか? さあ、そのときのほんとうの有様を聞かせてくれ。どんなふうに――」
なき人の名を口にしようとしながら、それが言えませんでした。口を堅く結んで、内心の苦悩と、沈黙の戦いをつづけておりましたが、そのあいだにも、まじろぎもせぬすさまじい凝視で、私の同情をはね返そうとしておりました。「どんなふうに死んだか?」ようやく言葉を継ぎましたが、その強情さにも似ず、背後の木にもたれかからずにはいられませんでした――しばし苦《く》悶《もん》をつづけた後、われにもなく、全身、指さきまで震えが止まらなかったのです。
「かわいそうな男!」私は思いました。「あんたもやっぱり人間らしい心と神経を持ってるんだわね! なぜいつもそれを隠そうとするの? そんなうわべの強がりで神さまの目をごまかすことはできないわよ! あんたは神さまに向かって、人間らしい感情をしぼり出せるものなら出してみろと、からかってるんでしょうけれど、しまいには神さまに負かされて、恥かしさに泣きわめくのが落ちですよ!」
「まるで子やぎのように穏やかにおなくなりでしたわ!」声に出して、私は答えました。「ため息を一つなすって、子どもが目をさまして、また眠りに落ちるときのように、体をお伸ばしになりました。心臓に私が手をあてていますと、五分ほどして、小さな鼓動が一つしたと思いましたら、もうそれっきりでしたの!」
「それで――とうとうおれの名を言わなかったのか?」この問いに対する答えが、とても聞くに忍びないその場の様子まで話すのを恐れているかのように、ためらいながら、こうたずねるのです。
「いいえ、最後まで正気にはお戻《もど》りになりません。あなたが出ていらしったときから、もう誰のこともおわかりになりませんでした。――いまは美しい微笑を顔に浮かべて、おやすみになっていらっしゃいます。ご臨終の思いは、楽しい幼いころへ帰っていらっしゃいました。やさしい夢をみながら、一生をお閉じになりました――同じやさしいお心で、来世にお目ざめになりますように!」
「呵責《かしゃく》に目ざめますようにだ!」恐ろしい狂熱に駆られ、地だんだを踏みながら、押えきれぬ激情の、突然の発作にうめきながら、叫びました。「なんだ、おまえは最後までうそをつくのか? おまえはいまどこにいる? あすこじゃない――天国じゃない――滅びてはいない――ではどこだ? おお、おまえはおれの苦痛なんぞ、なんとも思わないと言ったな!だがおれはたった一つの祈りしか祈らん――おれの舌がこわばるまで、それだけを繰り返すぞ――キャサリン・アーンショー、おれが生きてる限り、おまえは安らかに眠ってはならぬと! おまえはおれに殺されたと言ったが――なら幽霊になっておれのところへ来い! 殺された者は殺した者に憑《つ》くはずだろうが。幽霊がこの世をさまよい歩いた例を、おれは知ってる。いつまでもおれといっしょにいろ――どんな姿になってもいい――おれを気違いにしてくれ! ただおまえの姿の見えぬこの闇《やみ》の底にだけおれを置きざりにしないでくれ! おお、神よ! 言葉にもいえぬ苦しみだ! おれのいのち《・・・》なしにおれが生きられるか? おれの魂なしにおれが生きられるか!」
節だらけの木の幹に頭を打ちつけ、そして目を天に向け、まるで人間ではない野獣が、刀や槍《やり》で殺されるときのようにほえたけりました。樹皮に血のはねかかった跡をいくつか私は見ました。手も額も、血みどろによごれていました。おそらくそのとき私の見た光景は、夜のうちに幾度か演ぜられたものだったのでございましょう。それは私にほとんど同情の念を起こさせず――ただただ私を圧倒してしまったのですが、しかも、私はこの苦しむ人のそばから、立ち去りがたい気がいたしました。けれどもヒースクリフは我にかえって私の見ているのに気がつくや否《いな》や、向こうへゆけとどなりましたので、言うなりに帰って参りました。私の技量《うで》では、とてもなだめたり静めたりできる相手ではございませんでしたから!
リントン夫人のお葬式はおなくなりの日から最初の金曜日ときまりまして、それまでお柩《ひつぎ》にはふたをせず、花やにおいのある葉を撒《ま》いて、大きな客間に安置いたしました。リントンは昼も夜も、眠らぬお伽役《とぎやく》を勤めました。そして――これは私のほか誰も知らぬことでございましたが、ヒースクリフも少なくとも夜は、家の外で、同じく眠らずに過ごしました。私はなんの連絡もしたわけではございませんが、できれば屋内へはいろうと企てていることは気づいておりました。そして火曜日、日が暮れて間もなく、ご主人がすっかり疲れきって、二、三時間、別室へ退かれましたとき、私はその部屋へ参りまして扉をあけました――ヒースクリフの辛抱強さに動かされまして、やつれ果てたその偶像の面影《おもかげ》に、最後の別れを告げる機会を与えようとしたわけでございます。ヒースクリフは、まことに用心深く、すばやくこの機会を捕えましたが、その用心深いことと申しましたら、ほんのわずかの物音すら立てず、その来たことは少しもわからぬほどでございました。実際、死骸の顔のあたりの布が少しばかり乱れておりましたのと、床の上に銀の糸で縛った薄色の巻髪が落ちているのに気がつきましたほかには、あの人がそこにいたという痕跡《こんせき》が発見できませんでした。その巻髪は、調べてみますと、キャサリンの首にかかっていたロケットから取り出されたものとわかりました。ヒースクリフはそのロケットを開いて中身を捨て、代りに自分の黒い巻毛を入れておいたのですが、私はその二つの髪をよじって、いっしょに納めておきました。
アーンショー氏は、もちろん妹の埋葬に列席するよう招かれましたが、断わりの手紙もよこさず、出席もいたしませんでした。それでご主人のほか、会葬者は小作人や召使だけでございました。イザベラは招かれませんでした。
キャサリンの埋葬場所は、村人は驚きましたことですが、礼拝堂の中のリントン家の彫刻のある碑の下でもなく、戸外の墓地の生家の人々の墓のそばでもございませんでした。教会の墓地の一隅《いちぐう》、緑の斜面の上、境の垣《かき》が低いので、ヒースやこけもも《・・・・》が荒野《ムーア》のほうから乗り越えて茂り、泥炭質《でいたんしつ》の土がほとんど垣をおおいかくしているあたりに、墓穴が掘られました。ご主人のエドガーさまも、いま同じ場所に横たわっていらっしゃいます。二つのお墓の上には簡単な石碑が、普通の灰色の台石の上に、形ばかりにのせられております。
17
その金曜日は、一カ月ほどつづいた好天気の最後の日でございました。夕方になって、天気はくずれまして、風が南から北東に変り、はじめは雨、つづいてみぞれと雪になりました。翌朝はもう、三週間の夏のあったことが嘘《うそ》のような気がいたしました。さくら草もクロッカスも、再び冬の来たような吹きだまりの雪の下に隠れ、ひばりもさえずりやめ、木々の新芽も痛められて黒くなってしまいました。そのように味けなく薄ざむく、陰気に、その日は過ぎて行くのでございました! ご主人はお部屋におこもりきり、私はさびしい居間を育児室にしてひとりで占領しまして、ひざの上に泣き人形のような赤子をのせてすわっておりました。右に左にゆすりながら、カーテンのない窓に、まだ吹雪《ふぶ》きつのる雪の積もるのを眺《なが》めておりました――ところへ扉《とびら》があいて、息を切らせ、笑い声を立てて飛び込んで来たひとがあります。はじめは驚くよりも腹が立ちました。女中の一人だとばかり思いましたので、私は叱《しか》りつけました――
「おやめ! よくもこの部屋で騒げたものね! 旦《だん》那《な》さまがお聞きになったらなんとおっしゃるか?」
「ご免ね!」答えたのは耳に親しい声です。「でも兄さんが寝てるのは知ってるし、笑わずにいられなかったんだもの」
そう言いながら煖《だん》炉《ろ》に近づいたひとは、まだあえぎながら、片手でお腹《なか》をかかえているのです。
「嵐が丘から走りづめに走って来たのよ!」ちょっと一休みして、またしゃべりつづけます。「ときどきは飛んで来たのよ。なんべん転んだか、数えきれなかった。ああ、体じゅう痛くなっちゃったわ! そんなにびっくりしないでよ! もう少したったらわけを話すから。ただその前にちょっと行って、ギマトンまであたしの乗っていく馬車を言いつけて、それから誰《だれ》か女中に、あたしのたんすから着物を五、六枚さがさしてちょうだい」
闖入者《ちんにゅうしゃ》はヒースクリフ夫人でございました。もちろん笑ってなぞいられるような風体ではございません――髪は肩までたれて、雪や水がしたたっています、いつも着る娘むすめした着物を着ていますので、ご身分よりもお年齢《とし》に似合った身なりで――そでの短い、肩の出た上着に、帽子もかぶらず、肩掛けもしていません。上着は薄い絹物ですから、ぬれて肌《はだ》にくっついておりますうえに、足は薄いスリッパをはいているきり。まだそれに加えて、片方の耳の下に深い切り傷があって、寒さが多量の出血を押えているだけ、白い顔には掻《か》き傷やらあざやらがいっぱいあって、全身は疲労のために辛《かろ》うじて立っていられるだけ――私の最初の驚きが、よくよくこの姿を見る余裕を得たときもほとんど弱まらなかったことは、ご想像いただけると思います。
「まあイザベラさま!」私は叫びました。「そのお召し物をすっかりお脱ぎになって、かわいたものをお召しになるまでは、私はどこへも行きませんし、お話も聞いてはいられませんよ。今晩ギマトンなぞへいらしってはいけません、ですから馬車をお命じになることもありませんよ」
「いいえ、行くのよ――歩いたって馬に乗ったって行くわ。でも身なりをなおすことは別にいやだとは言わなくてよ。それに、――まあ、ひどく首から血の流れること! 火にあたってると傷がピリピリしてきたわ」
イザベラは体にさわらせる前に、私がさっきの命令を実行するようにがんばってききません。御者が支度するよう命ぜられ、女中が着がえの荷づくりに取りかかるまで、傷に包帯をしたり衣類をかえることを承知しませんでした。
「さあ、エレン」私がすっかりお世話を終って、自分は炉《ろ》辺《ばた》の安楽椅子《いす》に腰をおろし、お茶の碗《わん》を前におきましてから、イザベラは話しはじめました。「まあ、あたしの前へおかけよ、そのかわいそうなキャサリン義姉《ねえ》さんの赤ちゃんをわきへのけてさ。その子をみるのはあたしいやだから! ここへ飛び込んで来たときの馬鹿《ばか》な振舞いで、義姉さんのことを思わないなんて思ってはいやよ、あたしだって、ずいぶん泣いたわ――そうよ、ほかの誰にだって負けないほど、泣くわけがあったんですもの。あたしと義姉さんとは、仲直りしないで別れちゃったんですものね、あたしすまなくてしようがないわ。でも、それでもあたし、あの男に同情なんかしなくってよ――あのけだもの《・・・・》には! ああ、その火掻き棒をとってちょうだい」言いながら中指から黄金の指輪をはずして、床にたたきつけました。「たたきつぶしてやるわ、こんなもの!」子どものように、さも憎さげにそれをたたきながら、「こんどは燃やしちゃうわ!」と、さんざんに虐待《ぎゃくたい》されたその品物を拾って炭火のなかへ放り込みました。「そら! もしあたしを引き戻《もど》したら、新しいのを買うがいいわ。あの男あたしを捜して、エドガーをからかいにくるくらいのことはしかねなくてよ。あの男の意地わるな頭に、そんなことを考えさせたくないから、あたしはここにいたくないの! それにね、エドガーもあたしのことを思ってくれないでしょう? だから兄さんに助けて下さいって頼みに来たくはないのよ、またこれ以上、兄さんに苦労かけたくもないしね。どうにもならないわけがあって、しかたなしにここへ逃げこんだのよ、でも、兄さんがこの部屋にいないことを知らなかったら、台所へ行って、顔を洗って、あったまって、おまえに必要なものを持ってきてもらって、すぐまたあの憎らしい――悪魔の生まれかわりの手の届かないところへ出てゆくつもりだったのよ! ああ! あの男、すごくおこってたわ! もしつかまってたらどうなったか? アーンショーが力ずくではとてもかなわないから情けないわ。ヒンドリーにさえそれができれば、あの男が粉《こな》微《み》塵《じん》にやっつけられるのを見てからでなければ、逃げ出すんじゃなかったけど!」
「まあまあ、お嬢さま、そんなに早口にお話しになっても駄目《だめ》ですわ!」私はさえぎりまして、「お顔に巻いてあげたハンカチがほどけて、また傷から血が出てきますよ。お茶を召しあがって、一息ついて、そして笑うのをおやめなさいまし。ここのお家では笑い声は禁物でございますよ、あなたの立場から申しましても!」
「それは確かにそうね」とイザベラは答えました。「まあ赤ん坊の泣くこと! ちっとも休まずに泣いてばかりいるのね――一時間ばかし、あたしに聞こえないところへ連れてってくれない? それ以上はここにいられないんだから」
私はベルを鳴らして、赤ちゃんを女中にまかせました。それから、なぜこんなとんでもない格好で、嵐が丘から逃げてこなければならなかったのか、またこの家にいないつもりだとすればどこへ行くつもりなのか、を問いただしました。
「あたしはここにいるのが本当だと思ったし、またそうしたいとも思ったの――エドガーを慰めてあげるためにも赤ちゃんのお世話をするためにも。その二つのことがあるし、それにこの屋敷はあたしの本当の実家でもあるしするから。でも、あの男はあたしをここにはおきません! おまえは、あたしがまた肥えて朗らかになるのを黙って見てるあの男だと思って? ――あたしたちが落着いて暮らしているのを知って、その安楽な生活に毒をかける気にならずにいられると思って? ところでね、あの男はあたしを嫌《きら》って、あたしの声が聞こえたり姿が見えたりするところにいるだけでも、腹から不愉快になるってことを確かめたから、安心なの。あたしがあの男の部屋へはいって行くと、顔の筋肉が自然とねじれて、憎《ぞう》悪《お》の表情に変るのがよくわかるのよ。一つはあたしがあの男に憎悪を感ぜずにいられない理由が十分にあることを、よく知ってるからでもあるし、一つには、もともとあたしが嫌いだからでもあるのね。あたしが姿を隠したって、イギリスじゅう追っかけまわす気はないってこと、これは間違いなく確かだと思うわ。だからあたし、姿を隠さなくちゃならないの。あの男に殺されたいっていう以前の気持はなくなったわ。いまはむしろあの男が自殺すればいいと思ってるの! あの男がじょうずにあたしの愛情に水をかけて消してくれたから、あたしはいま楽な気持なのよ。でもあたしがあの男を愛したときのことは思い出せるし、今でも愛せるかもしれないと、ぼんやり想像することはできるけれど、もし――いいえ、馬鹿な! よしんばあの男があたしに夢中で惚《ほ》れこんでたとしても、あの悪魔みたいな性質は、どこかでしっぽを出したに違いないわ。キャサリンはよっぽど変な天邪鬼《あまのじゃく》な趣味があって、あんな男を高く買ってたのね、あの男をよく理解してたし――。怪物め! あいつがこの世界から抹殺《まっさつ》されたらいいんだけれど――そしてあたしの記憶のなかからも!」
「おやめなさい、いけません! あのひとだって人間でございますよ! もっと情けをかけておあげなさいまし、世のなかにはあのひとよりも、もっと悪いひとだっておりますよ」
「あの男は人間じゃないわ」イザベラは私に反対しました。「またあたしの情けなんぞ要求する資格はないわ。あたしはあのひとに心をささげたのよ、あのひとはそれを受け取って、ひねり殺して、そしてあたしに投げ返したのよ。人間は心でものを感じるものよ、エレン。だから、あのひとがあたしの心を殺してしまったから、あたしにはあのひとのために感じる力がなくなったのよ。だからあたしはちっともあのひとをかわいそうだと思いません。――いくらあのひとがいまから死ぬ日までうめき苦しんだって、キャサリンのために血の涙を流して泣いたって、いいえ、ほんとに、ほんとに、あたしはなんとも思いませんとも」言いながら、ここでイザベラは泣き出しました、が、すぐにまつげから涙を振り払って、また言いはじめました。「なんであたしがとうとう逃げ出したかって、おまえ訊《き》いたわね。どうしてもそうするように、あたしはさせられたの、なぜって、あたしがあの男をおこらせて、あの男の悪意より一段激しくおこらせることに成功したからよ。灼熱《しゃくねつ》したピンセットで、神経を引き抜くのは、頭をなぐりつけるよりは冷静さがいるのよ。あの男はいつも自慢にしていた悪魔のような用心深さを忘れるほど腹を立てさせられたものだから、人殺しみたいに乱暴を働きだしたの。あの男を逆上させられるってことで、あたしは愉快だったわ、その愉快という感じが、あたしの自己保存の本能を目ざめさせて、それであたしはうまく自由になれたのよ。だからもしあたしが、またあいつにつかまるようなことがあれば、どんなにひどい復讐《ふくしゅう》をされても結構よ。
「昨日アーンショーさんはお葬式に来なければならなかったわね。そのつもりで、あのひと、酔っぱらわないように自分で気をつけていたの――まあたいして酔っていなくってね、六時ごろに気違いみたいになって寝て、十二時にまだ酔ったままで目をさます、というほどではなかったのよ。だからヒンドリーは、起きたときは自殺でもしそうなほどふさぎ《・・・》こんじゃって、ダンスだろうがおとむらいだろうが、行く元気なんかなかったのよ。それで、とうとう出かけないで、煖炉のそばにすわりこんじゃって、大コップでジンかブランデーをがぶ飲みしちゃったの。
「ヒースクリフは――あの名をいうとゾッとするわ! あの男は日曜から今日まで、ずっと家をあけてたのよ。天使に食べさせてもらってたのか、それとも地の底の親類に食べさせられていたのか、どっちだか知らないけど、とにかく、この一週間このかた、あたしたちといっしょには食事もしないのよ。暁方《あけがた》になって帰ってきて、自分の部屋へ上がっちゃって、かぎをかけて――まるで誰かあいつのそばにいたがりでもするかのように! そして、まるでメソディストみたいにお祈りをつづけていたの、ただあいつのお祈りした神さまは、無感覚なちりと灰になったキャサリン義姉さんで、神さま、と言って呼びかける相手はおもしろいことにあの男の父なる悪魔とごっち《・・・》ゃ《・》になってるのよ! このありがたい長文句のお祈りが終ると――終る時分にはたいへん声がかれちゃって、のどのなかでごろごろ言ってるんだけど――すぐまた出て行っちゃって、いつもまっすぐこの屋敷へ来るの! エドガーはいったい、なぜ役人を呼んであいつを牢《ろう》屋《や》にぶちこまないのか、不思議だわ! あたしにしてみれば、キャサリンのことは悲しいには悲しかったけれど、牛馬のような圧迫からのがれたこの数日を、お祭り日みたいに喜ばずにはいられないわ。
「あたしはジョーゼフのとめどのないお講釈まで泣かずに聞けるほど元気を回復して、前よりは、臆病《おくびょう》な盗人《ぬすっと》みたいにこそこそ家のなかを歩かないようになったの。あたしがジョーゼフの言う一言一句で泣かされるとは、おまえはまさか思わないでしょうけど、あの爺《じい》やとヘアトンときたら、ほんとに憎らしいひとたちなのよ。あの『小《ちい》だんな』とその忠実なお守り役、あのいやらしい老いぼれといっしょにいるよりは、ヒンドリーのそばで、陰気な話を聞いているほうが、まだしもいいのよ。ヒースクリフが家にいると、あたしはよくあの二人のいる台所へ逃げ込むか、湿っぽいあき部屋で凍えそうになっていたものよ。今週みたいに、あの男が出かけてると、あたしは居間の炉の片隅《かたすみ》に、テーブルと椅子をおいて、アーンショー氏が何をしていようとおかまいなしでいて、アーンショー氏のほうでもあたしのすることにちっともじゃましないの。いまではヒンドリーはひとから何か言われたりしなければ、前よりはずっと穏やかになってるの。前よりかもっと不機《ふき》嫌《げん》で元気がなくなったけど、前ほどあらあらしくはなくなったの。ジョーゼフは旦那はひとが変った、神さまがその心に触れたんで、『火ヨリ脱《ノガ》レ出ズルゴトク』救われたんだって言ってるけど、あたしにはそれが良い変化だという証拠は思い当らないわ――でもそんなことはどうでもいいことだわね。
「昨晩《ゆうべ》はその炉ばたの隠れ場所で十二時近くなるまで古い本を読んで起きていたの。外はひどい吹雪だし、絶えず墓地や新しいお墓のことばかり頭に浮かぶものだから、二階へ上がるのがとてもさびしい気がするの。憂鬱《ゆううつ》な景色がすぐに目先にちらつくので、どうにも眼《め》の前のページから顔が上げられなかったわ。ヒンドリーは、向こう側にひじまくらしてすわってるんだけど、やっぱり同じことを考えていたんだと思うわ。前後を忘れるほどにならないうちにお酒を飲むのはやめて、もう二、三時間も身動きもせず、一言も口利《き》かずにいたわ。ときどき窓を震わせる風のうめき声と、炭火の割れるほのかな音と、間をおいてあたしが蝋燭《ろうそく》のしんを切るはさみのパチンという音とのほか、家のなかはひっそりとして、物音一つしないの。ヘアトンもジョーゼフも、もうぐっすり寝入っていたでしょう。とても悲しい、悲しい気持だった、本を読みながら、あたしは吐《と》息《いき》をついたわ、だってこの世のなかから喜びというものがすっかり消えちゃって、二度と帰ってこないような気がしたんですもの。
「とうとうこの悲しい沈黙を破ったのは、台所の掛《か》け金《がね》の音。ヒースクリフが、例よりも早く、いつものお通夜《つや》から帰ってきたのよ。たぶんあの不意の嵐《あらし》のせいでしょう。その入口がしまっていたので、もう一つの入口のほうへまわってくるらしい音を、あたしたちは聞きました。あたしは、くちびるに押え切れぬ感情をあらわしながら起きあがると、それまで扉のほうを見つめていたヒンドリーが、振り返ってあたしを見ました。
「『おれは五分間ばかりあいつをなかに入れんようにするが、いけないかね?』
「『かまいませんわ。一晩じゅうなかへ入れなくしてくだすったら、なおいいわ。そうして! かぎをかけて、かんぬきをおろしてちょうだい』
「アーンショーは、ヒースクリフが玄関にまわる前に戸をしめ切ってしまったの。それから帰ってきて、椅子をあたしのテーブルの向こう側へ持ってきて、前こごみになってあたしの顔をのぞきこんだの――自分の眼のなかにぎらぎら光って燃えてる憎悪と同じものを、あたしの眼のなかにもさがそうと思ったのよ。まるで暗殺者のような顔だったし、そういう気持でもあって、はっきりそれと同じものを、あたしの眼に読みとることはできなかったけれど、それでも思い切って、こう言うだけのものは読めたのね――
「『おれと、あんたとは、二人とも、いま外にいる男に返さなきゃならん大きな借りがあるね! もしおれたちが二人とも臆病者でないならば、手をつないで、借りを返しちまおうじゃないか? あんたも、あんたの兄さんのように気が弱いかね? あんたはしまいまで辛抱するつもりで、一度でも借りを返す気にはならなかったのかい?』
「『あたしももう辛抱するのはいやになりました』とあたしは答えたの、『だから、もし逆に自分のほうへはね返ってさえ来なければ、喜んで復讐してやりたいと思いますわ。でも、だまし討ちと暴力とは、両端のとがった槍《やり》ですからね、敵だけでなしに、それを使う人間も傷つけますわ』
「『だまし討ちと暴力とは、だまし討ちと暴力に対してなら正当なお返しだよ!』ヒンドリーは叫びました。『ヒースクリフの奥さん、おれはあんたに何も頼まん、ただじっとすわって、黙っていてくれ。いいかね、そうしていられるね? あの悪鬼の息の根を止めるところを見物するのは、あんたもおれに劣らず愉快にちがいないんだ。あいつはあんたが出し抜いてやらんかぎり、あんたにとっては死であり、おれにとっては破滅なんだ。おのれ地獄のような悪党め。おぼえてろ! まるでもうここのあるじにでもなったつもりで、扉《とびら》をたたいてやがるな! 物を言わぬと約束しなさい、すればあの時計が時を打つ前に――一時に三分前でした――あんたは自由な女になれるぞ!』
「ヒンドリーはいつかあたしがおまえに手紙で話した武器を、ふところから出して、蝋燭を消そうとしました。だけど、私は燭台《しょくだい》を引き取って、向こうの腕をつかみました。
「『黙ってはいられません! あなたはあのひとにさわっちゃ、いけません。扉はしめたままで静かにして下さい!』
「『いやだ! おれは決心した。断じて実行するんだ!』自棄《やけ》になった男は、こう叫んで、『あんたがそういう了見でも、おれはあんたのためにやる、そしてヘアトンのためにも正義を行なうんだ! おれをかばうためにあんたが苦労するには及ばん。キャサリンは死んだし、今すぐおれがのど笛を掻《か》き切ったところで、誰《だれ》ひとり生きてる者でおれを惜しいと思う者も恥じる者もない――そして決着をつけるには今がちょうどいいんだ!』
「それはまるで熊《くま》と争うようなものだったし、また気違いに道理を説くようなものでもあったわ。たった一つあたしに残された方法は、窓べりへ走って行って、ねらわれてる犠牲者にふりかかろうとしている運命を知らせてやることだけだったの。
「『今夜はどこかよそでおやすみになってちょうだい』あたしはむしろ勝ち誇った調子で叫びました。『アーンショーさんが、あんたを射《う》とうとしています――あんたがどこまでもはいろうとするなら!』
「『扉をあけたほうがいいんだ、おまえは――』とてもここで繰り返す気になれないお上品な言葉で、あたしに呼びかけながら、外では答えました。
「『あたしはかかりあいませんよ』もう一度、あたしは言ってやりました。『あなたさえいいんなら、ご勝手にはいってきてお射たれなさい! あたしは義務を果たしましたから』
「そう言って、窓をしめ、あたしは炉《ろ》辺《ばた》の自分の席へ帰りました。あの男にふりかかっている危険に対して、少しでも心配そうなふりをするほど、あたしには偽善の持ち合わせは多くなかったわ。アーンショーは夢中であたしをののしっていました――おまえはまだあの悪党に惚れてるんだ、そう言って、あたしの見せた卑《いや》しい根性に対して、あらんかぎりの悪口を浴びせるの。そのとき、あたしは心の底では(そして良心もけっしてあたしをとがめはしなかった)、もしヒースクリフが、このひとの不幸をおしまいにしてやれるのなら、このひとにとってなんという恵みだろう、またもしこのひとがヒースクリフを、行くところへ行かせてくれたら、こんどはあたしにとってなんという救いだろう、とそう思っていたの! こんなことを考えながら、すわってるうちに、あたしの後ろの窓の扉が、ヒースクリフの一撃で床にたたき落され、あの黒い顔が薄気味悪くのぞき込んだのよ。支柱のあいだが狭くて、肩がはいらないので、あたしは大丈夫だと思って、微笑しちゃったの。あの男の髪も着物も雪で白くなって、人食い人種みたいな鋭い歯が、寒さと怒りとでむき出されて、闇《やみ》のなかから光ってたわ。
「『イザベラ、入れろ、入れないと後悔するぞ』ジョーゼフがよく言うとおり、ここで『かみつい』たの。
「『あたしは人殺しはできません。ヒンドリーさんがナイフと弾丸《たま》ごめしたピストルを持って、待ちかまえてます』
「『台所の扉のほうから入れろ』
「『あなたより先にヒンドリーがそっちへまわるわ。それに吹雪ぐらい辛抱できないなんて、あなたの恋もあわれなものですわね! 夏の月が照ってるあいだだけはあたしたちも静かに寝ていられたけれど、冬の風がちょっと戻ってきたとたんにもうあなたは、屋根の下に逃げ込むんですものね! ヒースクリフ、あたしがあんただったら、キャサリンのお墓の上で寝そべって、忠犬みたいに死んでしまうわ。もうこの世に生きてるかいもないじゃありませんの。どう? あんたはキャサリンだけが自分の生きる喜びの全部だって、はっきりあたしにそう思わせていたのよ、あのひとが死んじゃったあとまで、あんたが生きてるなんて、あたしにはとても想像できないわ』
「『やつはそこにおるんだな?』開いた窓へ駆け寄りながら、ヒンドリーが叫んで、『腕さえ出せりゃ、射てるんだが!』
「エレン、おまえはあたしを、本当の悪人みたいに見さげるかもしれないけど、おまえは事情をすっかり知らないんだから、判断しては駄目よ。どんなことがあっても、いくらあの男の生命《いのち》でも、取ろうとする企てを手伝ったり、そそのかしたりする気はあたしにはなかったのよ。もちろんあの男の死ぬことを、願わずにはいられなかったわ。だから、ヒースクリフがアーンショーの武器におどりかかって、それをもぎとってしまったときは、さっきの自分の嘲《あざ》けりが、どんな恐ろしい結果になるかと、恐ろしさといっしょに失望も感じたんです。
「弾丸は飛び出すし、ナイフははね返って、アーンショーの手首に食い込んじゃった。ヒースクリフが力まかせにそれをひっぱったから、さっと肉を切って、その血のたれるのをそのままポケットに入れちゃったわ。そうしておいて、石を拾って二つの窓の仕切りをたたき落して、家のなかへおどり込んだの。相手のほうは、激しい痛みと、動脈だか、大きな静脈だかからどッどッと血が吹き出すのとで、気を失って倒れちゃった。あの悪党は、それを蹴《け》ったり、踏みにじったり、頭を幾度も床石にぶっつけたり、そのあいだに片方の手であたしをかかえて、ジョーゼフを呼びに行けないようにおさえつけてるの。ヒンドリーの息の根をとめるだけは差し控えるのに、超人的な自制心を働かせたようだったけど、とうとう、息が切れたので乱暴をやめて、もうぐったりした体をひきずって、椅子《いす》の上に寝かせたの。それからアーンショーの上着の袖《そで》を破いて、ひどい乱暴なやりかたでしっかり縛って、その治療のあいだも、さっき足《あし》蹴《げ》にしたときと同じように、一心不乱につばを吐いたり、悪態をついたりしてたわ。体が自由になると、すぐにあたしは爺《じい》やを呼びに行ったの。あたしの早口の話を、どうにかやっと飲み込むと、爺やはあえぎあえぎ大急ぎで、階段を二つずつ一度に踏んで降りて行ったわ。
「『はあ、いってえどうすればいいだ? はあ、いってえどうすればいいだ?』
「『こうすればいいんだ』とヒースクリフはどなりつけて、『きさまの主人は気が狂ったんだ、だからあと一月も生きてるようなら、おれは気違い病院へ連れてっちまう。そしてまたなんだってきさまは、この歯抜け犬め、このおれを締め出しおったんだ? そこにつっ立ってブツブツ、モグモグ、やらかしてる幕じゃないぞ。おれはこの野郎の看病なんぞせんからな。そこの血を洗ってしまえ、そして蝋燭の火に気をつけろ、こいつの血は半分以上ブランデーだからな!』
「『するてえと、おまえさまは、うちの旦《だん》那《な》を殺しかけてただな?』ジョーゼフが恐ろしそうに両手を上げて、上《うわ》眼《め》を使って叫んだの、『こんなひでえざまァ、わしゃ見たことがねえだ! おお神さま――』
「ヒースクリフは爺やを突き飛ばして、血の流れるまん中にひざをつかせといて、タオルを投げつけたの。けれどもそれで床をふきにはかからないで、爺やは手のひらを合わせてお祈りをはじめちゃった。その文句があんまり珍妙だから、あたし思わず笑っちゃったの。あたしはそのとき何事があっても驚かないような気分になってたのね、実際、絞首台《こうしゅだい》の下に平気で立ってる罪人みたいな、不敵な気持になってたらしいわ。
「『おお、おまえのことを忘れていた』すると暴君が言いました。『おまえがふけ。さあ下にいろ。これでもきさま、あいつといっしょにおれにそむくか、このまむしめ? それ、それがきさま相応の仕事だ!』
「あいつはあたしの歯がガチガチふるえるまであたしを揺すぶって、ジョーゼフのそばへ引き据《す》えたの。爺やはどこまでもお祈りをやりとおして、終ると立ち上がって、これからすぐにお屋敷へ出かけると宣言したわ。リントンは治安判事だで、五十人の奥さまがなくならしゃったって、この騒ぎは取り調べずにいられねえはずだって。こう言ってあんまり強情張るもんだから、ヒースクリフは、あたしの口から事件の顛末《てんまつ》を言わせるのが得策だと思ったのね、あたしがいやいやながら質問に答えて説明するあいだ、悪意に胸を波打たせながら、あたしの前に立ちはだかってるの。ヒースクリフのほうから手出ししたのでないことを、爺やにわからせるのは、ずいぶん骨の折れる仕事だったわ、それもあたしの容易にしない返事でわからせようとしたんだから、なおのことだったわ。けれども、アーンショーさんがまだ生きてることは、間もなくジョーゼフにも納得がいったらしいの。爺やがさっそく、気つけの薬を飲ませたので、その効《きき》めで、あるじは少しずつ動き出し、われに帰ったの。ヒースクリフは敵が、気を失ってるあいだにどんな目に会ったか、知らずにいることに気がついたので、おまえは酔っぱらって、夢中だったんだぞと言いくるめて、それ以上の凶悪な行ないもしたのだが、それは気に留めるに及ばんから、早く寝てしまうがいいって言うの。こういう気の利いた助言を与えておいて、部屋を出て行っちまったから、あたしもうれしかったし、ヒンドリーも炉の前にながながと寝てしまったの。あたしはそんなわけで、わりに楽にのがれられたのを不思議に思いながら、自分の部屋へ引き取ったわけなの。
「けさになって、十一時半ごろに降りてきてみると、アーンショーさんは死にそうに気分が悪くて、炉の前に腰かけてるし、一方アーンショーさんにとっついている悪霊《あくりょう》はっていうと、やっぱり幽霊みたいにやつれ切ったすごい顔して、炉石にもたれてるの。二人とも食事をする気がないらしくて、テーブルの上のものはみんな冷たくなってるから、あたしはひとりで食べはじめたの――何ひとつ食事をおいしく食べられないような気がかりもなく、かえってなんとない満足感と優越感とをさえ、黙ってる二人の男に感じながら、ときどきちらちら二人のほうを眺《なが》めやりながら、自分の良心の落着いてることに快感を感じていたわ。食べ終って、あたしにしては珍しく煖《だん》炉《ろ》のそばへ行こうと思って、アーンショーのほうの椅子の後ろをまわって、そのそばの隅《すみ》のほうにしゃがんだの。
「ヒースクリフはあたしのほうを見ていなかったから、あたしはじっとその顔を見あげて、眼も口も石になっちゃったかと思うほど安心して眺めていた。額は、前にはとても男らしいと思ったもんだけど、今じゃ実に悪魔的な気がするのよ、その額が、重苦しく暗い影で曇っていて、怪 蛇《バジリスク》みたいな眼は、眠らないためにほとんど光を失って、まつげのぬれているところを見ると、泣いてるらしいのよ。くちびるは、いつものたけだけしい嘲笑《ちょうしょう》を見せないで、なんともいえない悲しみの表情で、ぴったり閉じられてるの。これがもしほかのひとだったら、それほどの悲哀を目の前にしたら、顔をおおいたくなったでしょう。あの男だったから、あたしは喜ばしかったわ。そして、倒れた敵をはずかしめるのは卑怯《ひきょう》なように思われるかもしれないけど、槍を、一本投げつけてやれるこの機会を、逸してはいられなかった――あの男の弱ってるときだけが、悪に報いるに悪をもってする喜びを味わうことのできるただ一つの時だったんだもの」
「まあ、ひどいお嬢さま!」私はそこで口を入れました。「あなたは一度も聖書を開いたことのないかたかと思われますよ。もし神さまがあなたの敵をお苦しめになってるなら、もうあなたはそれだけで満足なさるのが当り前じゃありませんの。神の鞭《むち》に自分の鞭までも加えようとするのは、卑しくもあれば思いあがったことでもありますよ」
「ふつうの場合ならそのとおりだと認めてもいいのよ、エレン」イザベラ嬢さんは、なお言いつのるのです。「でも、自分の手を加えないで、ヒースクリフにどんな不幸が与えられても、あたしは満足できないわ! もしあたしがあいつを苦しめてやることができ、あいつがそれをあたしからだと知るんだったら、その苦しみがいくらか弱くてもかまわないの。だって、あまりにあたしのほうの借りが大きいんですもの。ただ一つの条件でだけ、あたしはあの男を赦《ゆる》せると思う。それはね、もしあたしが眼には眼、歯には歯で恨みを返せるならば、という条件なの。苦しめられたあたしの胸のうずきの一つ一つをうずかせてやって、あたしと同じところまで、あの男を引き下げてやりたいのよ。さきに迫害したのは向こうなんだから、向こうからさきに詫《わ》びを入れるのが当り前だわ。あやまってきたら、そのときは――ねえ、エレン、あたしだってそのときには心の寛《ひろ》いところをあんたに見せられるんだけど。でも、そんな胸のすくようなことはけっして起こりっこないんだわ。だからこそあたしはあの男を赦せないのよ。――ヒンドリーが水がほしいと言うので、コップを渡しながら、気分はどうですかって訊《き》いてやりました。
「『もっと悪くなりたいんだが、それほどでもないんだ』という返事なの。『だが腕は別として、大勢の鬼めとけんかしたみたいに、体じゅう上から下までピリピリしやがるんだ!』
「『そうでしょうね、無理もないわ』と、そこであたし、言ってやった。『キャサリンはあなたの体にけがのないように、あたしがかばってあげるって、いつもえばってたわよ。つまり、あるひとたちは、キャサリンをおこらせることを恐れて、あなたに害をしようとしないだろうっていう意味だったのよ。人間が実際に墓のなかから出てこないのはいいことだわね、だって、もし出てきたら、ゆうべはキャサリンの見たくない場面を見たかもしれないんですものね! あなたは胸や肩には打ち身やけがはなさらないの?』
「『どうだかわからんね。だがそりゃどういう意味かね? おれが倒れたあとで、あいつはおれをなぐったのか?』
「『踏んだり蹴ったりしたわ、床《ゆか》にあなたをたたきつけたわ』とあたしは小さい声で、『歯でもってあなたをかみ裂きそうによだれを流してたわ。だってあのひとは半分しか人間じゃないもの、いいえ半分もなくて、あとは鬼なんですもの』
「アーンショー氏は、あたしと同じように眼《め》を上げて、共通の敵の顔を見たの。その敵は、自分の悲しみに心を奪われて、あたりのことには少しも気がつかなかった。そうして立っていればいるほど、その思いふけっていることの暗さが、その顔つきに、はっきりとにじみ出てくるようだったわ。
「『おお、もし神がおれの最後の苦しみのなかで、あいつめの首を絞めるだけの力を与えて下すったら、おれは喜んで地獄へ行くんだが』じりじりしながらそううめいて、ヒンドリーは、起きあがろうとして身をもがいたけど、どうしても争うのは無理と思ったので、がっかりしてまた倒れてしまったの。
「『いいえ、でも、あなたがた兄妹《きょうだい》のうち、一人だけ殺したので十分ですわ』声を高くして、あたしが言ったの。『スラシュクロス屋敷では、もしヒースクリフさんさえいなければ、あなたの妹さんはまだ生きてるはずだってこと、みんな知っていますよ。つまりあのひとには愛されるより憎まれたほうがよかったってことなの。あたしたちがどんなに幸福だったか――ヒースクリフの来る前のキャサリンがどんなに幸福だったか――あたしはあの日のことを呪《のろ》いたくなるわ』
「そのときおそらくヒースクリフは、その言葉を言った人間の腹のなかよりも、言われたことの真実さのほうを強く感じたに相違ないわ。やっと注意をこちらへ向けたのがわかったの、だってあの眼から煖炉の灰のなかへ、はらはらと涙がしたたり落ちて、息も絶えだえな吐息に、のどをつまらせたんですもの。あたしはその顔を正面からみつめて、毒々しい嘲笑を浴びせてやった。その顔の暗く曇った地獄の窓が、そのせつな、あたしに向かってキラッとひらめいた。けれども、ふだんなら、そこから顔を出すはずの鬼の顔が、すっかり涙に曇って、おぼれてるものだから、あまり恐ろしいとも思わずに、またあざ笑ってしまったの。
「『立て、おれの眼の見えないところへ行ってしまえ』悲しみの男が言います。
「でも、そう言われたとはどうにかわかったけれど、その声は、ほとんど聞きわけられないくらいだったわ。
「『失礼ですけど、あたしだってキャサリン義姉《ねえ》さんが大好きでしたわ。それにキャサリンの兄さんは、いま看病する者がいりますわ、義姉さんのためにも、あたしがその役をしますわ。義姉さんがなくなったいまは、ヒンドリーのなかに義姉さんの面影《おもかげ》があるような気がするんです。眼なんか、ヒンドリーは、ほんとにキャサリンそっくりよ――もしあんたがえぐり抜こうと思って、黒くしたり赤くしたりさえしなければ。それに義姉さんの――』
「『立たんか、やい大馬鹿あま、おれに踏み殺されんうちに!』そう叫んで詰め寄ってきたから、あたしも後ろへさがったの。
「『だけどそれなら』すぐに逃げられるように身がまえしながら、あたしはつづけて、『もしあのかわいそうなキャサリンが、あんたを信じてヒースクリフ夫人というこっけいな、軽蔑《けいべつ》に値《あたい》する下劣な名を名のったら、じきにあたしと似たようなざまになったでしょうよ! キャサリンのことですもの、あんたの非道な振舞いを、おとなしく辛抱しているものですか。きっと嫌《けん》悪《お》と不快とが声になって出てくるにきまってるわ』
「長椅子の背中とアーンショーの体とが、あたしとヒースクリフのあいだを隔てていたから、あたしにおどりかかろうとはせずに、あの男は卓上から食事用のナイフを取ってあたしの頭に投げつけたの。それが耳の下に突き刺さって、あたしの言いかけた文句はあとが出なくなってしまったの。でも、そのナイフを抜きとって、扉《とびら》のところまで飛びのきながら、また一発言ってやったわ、それがあいつの投げた飛び道具よりは、少し深いところへ突き刺さったかと思うんだけど。最後にちらと見たときは、ヒースクリフは猛然とこっちへ飛びかかってこようとして、ヒンドリーに抱きとめられ、二人とも炉石の上へ、抱き合ったまま倒れるところだったわ。台所を走り抜けながら、ジョーゼフに、はやく主人のところへ行けと言って、ちょうど戸口で、椅子の背中から生まれたての犬の子をつるして遊んでいたヘアトンにぶつかって乗り越えて、そうして、まるで煉獄《れんごく》を脱け出た魂のように救われた気持で、けわしい道を飛んで、はねて、いっさん走りに駆け降りて、曲りくねった道を出はずれると、まっすぐに荒野《ムーア》を横切って、ころがるように土手を越えて、沼地の泥《どろ》のなかを押し渡って――実際、まっしぐらにこの屋敷の灯火《あかり》を目標にして走ってきたの。もう一度嵐が丘の屋根の下に、一晩でも泊るくらいなら、地獄のなかに永久に住めという罰を受けたほうがずうっといいと思うわ」
イザベラは語り終って、お茶を飲みました。それから立って、あたしに帽子と肩掛けを着させろと命じ、せめてもう一時間でも留《とど》まって下さいという私の哀願に耳もかさず、椅子の上へ上がってエドガーとキャサリンの肖像に接吻《せっぷん》し、私にも同じ別れのあいさつをし、女主人との再会に大喜びでほえたてるファニーを従えて、馬車に乗り込みました。こうして去ったイザベラは、それきりこの近くへは帰りませんでしたが、万事が少し落着きましてからは、兄上とのあいだには正常な手紙のやりとりをするようになりました。イザベラの新しく住んだところは南のほうで、ロンドンの近くだったと存じます。その地で、脱出してから数カ月後に、男の子が生まれました。その子はリントンと名づけられましたが、母なるひとのたよりによりますと、初めから病気がちの、むずかってばかりいる赤ん坊だったそうでございます。
ヒースクリフ氏に、私はある日、村で会いまして、イザベラのいどころをたずねられました。私は教えるのを断わりました。いや、そんなことは別にどうでもいいんだが、と相手は申しまして、ただイザベラは兄貴のところへこないように気をつけんといかん、たといおれが自分であの女を養わねばならんようになるとしても、あの女を兄貴といっしょに暮らさせるのはいやだ、と言っておりました。私は何も教えなかったのですけれども、ほかの召使の口を通して、イザベラの住居も、子どもが生まれたことも知ってしまいました。それでも別に干渉はいたしませんでしたが、その点についてはイザベラは夫に嫌《きら》われていることに感謝してよろしかったのかもしれません。私に会いますと、ヒースクリフはよくその子のことをたずねまして、名前を聞きましたときには、にやりと陰気に笑って、申しました――
「みんなおれがその子どもを嫌えばいいと思ってるんだろうな、どうだね!」
「みなさんはあなたが赤ちゃんのことは何も知らなければいいと思っていらっしゃいますよ」と私は答えました。
「だがおれはほしくなったら、いつでもその子を引き取るつもりだ。そのつもりでいたがいいな!」
幸いに、そのときがくる前に、子どもの母親はなくなりました。キャサリンがなくなって十三年ほどのち、リントンが十二歳か、それより少し大きくなったときのことでございました。
イザベラが思いがけずたずねてきた日の翌日、私はまだご主人に何も申しあげる機会がなくておりました。旦那さまは話を避けていらしって、またなんの話もしたくない気持だったのです。ようやくお話ししましたとき、お妹さまが夫のもとを離れたことを、喜んでおいでのように見えました。穏やかな性質のかたとしては耐えがたいほどの激しさで、妹の夫を憎み嫌っておられましたのですから。その反感の深さ、鋭さは、ヒースクリフに会いそうな場所ばかりか、その名の出そうな場所にさえ行こうとしないほどでございました。悲しみと、右のような事情とがいっしょになりまして、リントン氏はまったくの隠者のようになり、治安判事の職をもなげうち、教会にさえ出席しなくなり、どんな折にも村へも出ず、猟場《パーク》と邸内だけに場所をかぎって、まったく世間から離れた生活を送るようになりました。その制限を破るのは、ただひとり荒《ムー》野《ア》を散歩するときか、なき妻の墓を訪れるときだけ、それも、多くは夕方か、それとも他の散歩者のまだ出歩かぬ早朝かに限られておりました。けれども善良なエドガーにとりましては、いつまでもまったく不幸がつづくということはございません。キャサリンに幽霊になって出てくれと祈る心はありませんでした。時はあきらめをもたらし、なみなみの喜びよりも甘美な憂鬱《ゆううつ》をももたらしました。熱く、こまやかな愛情と、よりよい世界への希望に満ちたあこがれとで、妻の思い出を呼びさますのでございました。妻が天国へ行ったことを、この善良な夫はけっして疑っておりませんでした。
のみならず地上の慰めや愛情も、このひとには欠けておりませんでした。数日のあいだというもの、エドガーが死に別れた妻のひよわい忘れ形見を、まるでかまいつけなかったと前に申しましたが、その冷たさは四月の雪よりも早く解けまして、赤ん坊が片言を言ったり、よちよち歩きをするころには、父上の心のなかで独裁君主のような権威をふるうようになっておりました。幼な子の名はキャサリンと申しましたが、リントン氏はけっしてキャサリンという長い名では呼びませんでした。反対に最初のキャサリン――妻に対しては、けっしてキャシーという略称では呼ばなかったのでございますが、おそらくそれはヒースクリフがそう呼びならわしていたせいかと存じます。赤ちゃんはいつもキャシーで、それがお父さまには、お母さまと区別をつけながら、そのあいだに結びつく縁《えにし》となる名でしたので、子どもに対する愛着も、それがわが子だというよりも、はるかになきひととの結びつきからわき出たものだったのでございます。
私はいつもエドガー・リントンとヒンドリー・アーンショーとを比べてみまして、同じような境遇にありながらその行ないがどうしてこうも正反対なのか、それを十分に説明するのに苦しんだものでございます。二人とも妻から愛された夫であり、子どもから慕われた父親でもございましたのに、どうしてこの二人が、よきにつけ悪《あ》しきにつけ同じ行路をたどらなかったのか、それが私には解《げ》せませんのでした。けれど、私はこうも考えました――ヒンドリーは見かけは頭がしっかりしているようでしたが、気の毒にもリントンよりも不幸な、弱い人間だったことを暴露いたしました。船が難破しましたとき、船長がおのれの位置を捨てたために、乗組の者も船を救おうとはせず、われがちに混乱し騒ぎたて、不運な船の助かる希望は失われてしまいました。ところがリントンのほうは忠実な信義ある魂のもつ真の勇気を発揮しまして、神を信じ、神もまたこのひとをお慰めになりました。ひとりは希望を持ち、ひとりは絶望に陥りました。おのおのみずからの運をえらんだのですから、おのおの当然にその運を忍ばねばならなかったのでございましょう。けれどもまあ、こんな私の理屈などはお聞きになりたくはございませんでしょうね、ロックウッドさま、こういうことはあなたさまも私などに負けずご判断なさいましょうから。――少なくとも判断を下そうと思ってはいらっしゃるのでしょうから、そうなれば同じことですもの。アーンショーの末路は、予想されたとおりでございました。妹さんがなくなられてからいくばくもなく、六カ月とはたたぬうちで、私どもスラシュクロス屋敷におる者は、そのなくなる前の様子については簡単なことさえも一つも聞きませんで、私の知りましたことはみな、お葬式の手伝いに参りました折に聞いたことでございます。うちのご主人にそのことを知らせに見えたのはケネス先生でした。
「やあ、ネリー」ある朝、中庭へ馬を乗りつけた先生がこうお呼びになりましたが、あまりの早朝でしたから、たちまち不吉な予感にとらえられ、胸騒ぎを覚えました。「今度はおまえとおれとがお弔いに行く番になったよ。誰《だれ》が死んだと思う?」
「どなたですの?」私はうろたえながら訊きました。
「さあ、当ててごらん!」馬を降りて、手綱を扉《とびら》のところの鉤《かぎ》に投げ掛けながら、「そしてそのエプロンの端を持ち上げなさい。おまえにはきっとそれが要りそうだから」
「まさかヒースクリフさんじゃありますまいね?」私は叫びました。
「なんだ! おまえはあの男のためにも流す涙があるのかい? いいや、ヒースクリフはがんじょうな若い男だ。いまがちょうど花の盛りさ。おれはいま会ってきたばかりだ。あの男、女房《にょうぼう》と別れてから、ぐんぐん肉づきがよくなってきたぜ」
「そうすると誰でしょう、ケネス先生?」私は気が気でなくなってまた訊きました。
「ヒンドリー・アーンショーさ! おまえの幼な友だちのヒンドリーで」医師は答えました。「そうしておれの悪友さ。どうもこのところあんまりご乱行だったから、おれもしばらくつきあっておらんがね。そうれ! だから目玉の噴水にご用心と言わないこっちゃない。だがまあ気を落しなさんな。いかにもあの男らしい死に方をしたよ――お大名みたいに飲んだくれたんだ。かわいそうに! おれも悲しいよ。古い友だちがいなくなるのは悲しいもんだ。あいつも、誰も思いつかんような性《たち》の悪いいたずらをするやつで、おれにもずいぶんひどいことをしおったがね。たしかちょうど二十七ぐらいだろう、おまえと同じ歳《とし》だが、おまえとあの男と同じ年に生まれたとは、誰だって思わんだろうな」
正直に申しますと、この打撃は、私にとりましては、リントン夫人のおなくなりになったときよりも大きゅうございました。昔のことがそれからそれと思い出されて参ります。玄関に腰をおろしてしまって、まるで肉親の者に死なれたときのように泣けてきますので、ケネス先生に、旦《だん》那《な》さまへこのことを申しあげるのはほかの者に申しつけて下さいとお願いしてしまいました。「何か怪しい死に方だったのではあるまいか?」――この疑問が、押えても押えてもわいてきて、考え込まずにおられません。このことがあまりにしつこく私を悩ましまして、仕事も手につきませんので、とうとう嵐が丘まで出かけて行って、故人のための最後のお勤めのお手伝いをしよう、と決心いたしました。リントンさまはお許しになるのが大変気が進まない模様でしたが、私はヒンドリーの身辺のさびしいことを口をきわめて訴えまして、それから、先方は私の旧主人でもあり乳兄弟《ちきょうだい》でもあるので、私とすればあの方に対しては、旦那さまにと同様に、つくしてあげなければ義理がすみませんとも申しました。なおその上に、むすこさんのヘアトンは、おなくなりになった奥さまの甥《おい》御《ご》さんで、近親のないあの子に対しては、あなたさまこそ保護者として世話してあげるのが当然で、財産がどのくらい残っているかを調べ、お義兄《にい》さまの財産状態を見てあげるのが当然でもあり、またそうなさらなければなりませんともご注意申しあげました。リントンさまは、ぼくはいまそういうことのめんどうをみてやるわけにはゆかんけれど、おまえからぼくの弁護士にそのことを話しなさいと言われ、しぶしぶながら私の参ることをお許し下さいました。リントンさんの弁護士は、アーンショーさんの弁護士でもございましたので、私は村へたずねて参り、いっしょに行ってくれるように頼みました。ところが先方は首を振りまして、ヒースクリフには手出しをせんほうが無事だ。もし本当のことがわかると、ヘアトンはこじきと変りのない身の上になるだろうと、こう言うのでございます。
「あの子の父親は借金を残して死んだ。全財産は抵当にはいっている。だから後継ぎのむすことしてはただ一つ、債権者の心に少しでもあの子に対して思いやりを持たせて、寛大な気持になるようにしむけるよりほかはないね」
嵐が丘へ参りまして、私は万事がとどこおりなくきちんといっているかどうか見に来たのだと説明しました。ジョーゼフはずいぶん困った模様で、私の来たことを喜んだ顔をしておりました。ヒースクリフ氏のほうは、私に来てもらう必要があるとは気がつかなかった、だがおまえさんがその気ならここにいて葬式の指図をしてくれてもかまわない、と申しました。
「本当いうと、あの馬鹿野《ばかや》郎《ろう》の死《し》骸《がい》は、式もへったくれもいらん、四つ辻《つじ》に埋めてしまうのが当然だ。きのうの午後、おれがちょっとやつのそばを離れたら、そのあいだにあいつはこの家の外の扉を二つともしめ切って、おれをはいれんようにして、はじめから死ぬつもりで夜あかしで酒を飲んだんだ! けさ、あの男が馬みたいにいびきをかいているのが聞こえたから、おれたちは扉をこわして、はいってみた。するとあいつは長《なが》椅子《いす》にふんぞりかえってる。体の皮をひんむこうが、頭の皮をはがそうが、どうして起きるもんじゃない。おれはケネスを呼びにやった。医者は来たが、そのときはもうあの獣は腐れ肉に変ってたんだ――死んで、冷たくなって、固くなっていやがった。だからそれ以上ジタバタしたって無駄《むだ》だったことはおまえも認めるだろう!」
爺《じい》やはこの話のとおりだと申しましたが、口のなかでは次のようにも言っておりました――
「わしゃヒースクリフさんが、先生を呼ばりに行ってくれりゃよかったと思うぜや! 旦那の看病はわしのほうが、よくしてやれただからな――わしが出かけるころには、まあだ死んじゃいなかっただ、そうすりゃ、たしかに、そんなことはなかったぜや!」
お葬式は恥かしくないものにしようと、私は主張いたしました。ヒースクリフ氏は、それもおまえの勝手にしてよかろう、ただ忘れないでもらいたいことは、何をするにも費用はいっさいおれのふところから出るということだ、と申します。それはうれしくも悲しくもなさそうな、酷薄で無関心な態度でございまして、もし何かがあるとすれば、やっかいな仕事を一つ、うまくやってのけたことに、冷酷無情な満足を味わっている様子が見えたと申せましょう。実際、一度だけは、その表情に何かうれしそうな興奮に似たものを見たように思います。それは人々が棺を家から運び出していた、ちょうどその時でございました。臆面《おくめん》もなく会葬者の一人になりすまして、ヘアトンといっしょに葬列に加わる前、不幸な子どもをテーブルの上に抱き上げ、一種奇妙な満足の様子で、つぶやきました。「さあ、かわいい坊や、おまえはおれの子になったぞ! そしてこれから、一本の木が、他の木と同じ風に吹かれてねじられたら、やはり同じようにひん曲るかどうか、ためしてみることにしような!」罪のない子どもは、この言葉に満足して、ヒースクリフの頬髯《ほおひげ》をおもちゃにし、その頬をなでておりました。けれども私にはその意味がわかりましたので、鋭くそばから言ってやりました。「その子はあたしがスラシュクロス屋敷へお連れして帰りますわね。この子があなたのものだなんて、もしそんな馬鹿な話があれば、世界じゅうなんだってあなたのものでないものはありませんわ!」
「リントンがそう言うのか?」とヒースクリフが訊《き》きました。
「もちろんですわ――連れてくるように言いつけられて来たんですわ」
「なるほど」とこのならず者は申しました。「いまはそのことで議論するのはよそう。だがおれは一つこのせがれを育ててみようかという気がする。だからもしリントンがこの子を引き取るというなら、おれはそのかわりに自分の子をあとがまにもらわなきゃならんと、そうおまえの主人に言ってくれ。とにかくおれはヘアトンを指をくわえて連れて行かせんからな。だがいずれはもう一人の子どもを引き取る考えは動かんのだ! 忘れずにそう言っておけ」
このおどしには、私は手をつかねるほかはございませんでした。このいきさつを、帰りまして、私は報告いたしました。エドガー・リントンは初めからたいして関心を持ちませんでしたが、これ以上干渉したいようなことは何も言いませんでした。私はたといエドガーにその気があったとしましても、いくらかでも効果のある方法が講ぜられたろうとは思えません。
嵐が丘の客は、いまでは主人になりすましました。はっきりと握るものを握ってしまいまして、弁護士に対し――弁護士はまたそれをリントン氏に対し――アーンショーは博奕《ばくち》に凝って現金を調達するため、所有の土地を一ヤードもあまさず抵当に入れたこと、そしてその抵当の預かり主はほかならぬヒースクリフ自身であることを、はっきり証明いたしました。そんなふうにしてヘアトンは、本来ならこの界隈《かいわい》での紳士の筆頭であるべき身が、父親の恨みかさなる仇敵《かたき》の家の、完全な寄食《かかりゅ》者《うど》の地位に突き落され、自分の生まれた家の召使として、しかも給金さえもらわずに、暮らすことになりました。誰ひとり味方もなく、どういうひどい目にあわされたかもかいもくわからずにいるのですから、自分から権利の回復をはかるよすがもないのでございます。
18
あの悲惨なことばかりあったころにつづく十二年間は(とディーン夫人の話はつづく)私の一生にとりまして、いちばん幸福な時代でございました。そのあいだでの私のいちばん大きな悩みと申せば、私どもの小さいお嬢さまの軽いご病気くらいのもので、それとても、どこの子どもでも貧富にかかわらず、かからずにはすませられないご病気ばかりでございました。そのほかには、最初の六カ月がすぎますと、嬢さまはすくすくと落葉《から》松《まつ》の若木のようにご成人になり、リントン夫人のお墓の上にヒースが二度めの花をつけるころには、一人で歩いたりしゃべったりもなされるようになりました。さびしい家に明かるい光をもたらした子どものなかでも、これほどほれぼれする愛らしさのある子どもはあるまいと思われました。そのお顔はアーンショー家の美しい黒《くろ》眼《め》に、リントン家の白い肌《はだ》と小ぢんまりした目鼻だちと、黄色い巻髪とを受けついで、これこそまがいのない美人の相でいらっしゃいます。お気持は荒いというのでございませんが勝気なほうで、敏感ではつらつとして、ことに愛情にかけて行き過ぎるくらい強い心情をお持ちでした。愛情の激しく強いことでは、お母さまを思い出させますが、しかし似ているとは申せません。嬢さまは鳩《はと》のようにやさしく、穏やかなところがあり、声ももの静かで、表情には憂《うれ》いがございました。おこっても荒々しいところはなく、愛情にも激しすぎることはありませんで、深くこまやかな愛でした。とはいえ、その美点の半面にいくつかの欠点がありましたことは申しておかなければなりません。こましゃくれたところがあるのもその一つですし、気だてが素直にせよ、ひねくれているにせよ、甘やかされた子にまぬかれられないわがままな気まぐれもございました。召使が何か嬢さまのお気に逆らうと、かならず「パパに言ってやるから!」というふうで、もしお父さまに叱《しか》られるようなことがあれば――それもちょっとにらまれたくらいでも――まるで悲しさに胸が張り裂けるかと思うような騒ぎになります。もっともリントン氏は嬢さまに強い言葉一つおかけになったことはないと私は思っておりますが。嬢さまの教育はお父さまが全部ご自身でおやりになり、それを楽しみにしていらっしゃいました。幸いなことに、知識欲が強いのと物わかりも早かったのとで、嬢さまはなかなかできる生徒になりまして、覚えは早く、熱心で、お父さまも教えがいがあるので、だいぶお得意でございました。
十三におなりになるまで、嬢さまは猟場《パーク》の境より先へは一度も行ったことがございませんでした。リントン氏はごくたまには一マイルか二マイルの散歩にお連れになることがありましたが、他《ほか》の者にはけっして安心して嬢さまを託することはありませんでした。ギマトンは嬢さまの耳には少しも意味のない名前で、自宅のほかには近づいたりはいったりした建物は礼拝堂だけ、嵐《あらし》が丘《おか》とかヒースクリフ氏とかいうものも、嬢さまにとっては存在しないのと同様でございました。つまり嬢さまは、まったくの世離れした生活を送っていたわけですが、それで見たところすっかり満足しておいでのようでした。子ども部屋の窓から外を眺《なが》めているときなど、ふとこんなことをおっしゃることもありました――
「エレン、あたしいくつくらいになったら、あの山のてっぺんまで行けるようになるの? あの山の向こうに何があるか、知りたいわ――海なの?」
「いいえ、キャシーさま、あの向こうもやっぱり同じような山ばかりですよ」
「そしてあの金色の岩は、すぐ下へ行ってみたらどんなふうに見えて?」一度はこうも訊かれました。
ペニストンのがけの急な坂は、特別に嬢さまの注意を引きました。ことに夕《ゆう》陽《ひ》がそのがけと一番高い丘のてっぺんとにあたって、ほかの見えるかぎりの風景がすっかり陰になるときがそうでした。私は、その岩は裸の石の塊りで、その裂けめにも、いじけた木を養うほどの土もない、と説明いたしました。
「そしてなぜあすこはここいらが日が暮れてからもあんなに明かるいの?」
「それはあたしたちのいるところより、あすこのほうがずっと高いからでございますよ。あなたにはとても登って行けません、とても高くて険しいんですよ。冬になると、霜が、あたしたちのところへくるずっと前から、あそこには降ります。そうして夏のまっ最中になっても、あたしはあそこの北東の側の黒い穴ぼこの下で、雪を見つけたことがございましたよ」
「まあ、それじゃおまえは行ったことがあるのね?」嬢さまはうれしそうに叫びました。「それならあたしもおとなになったら行けるわね。パパもいらしたことがあるの、エレン?」
「パパはね、嬢さま」私はあわてて答えました。「あんなところ、そんなに骨折って行かなくてもいいところだっておっしゃいます。それよりあなたがパパといっしょにお歩きになる荒野《ムーア》のほうが、ずっとおもしろうございますよ。そしてスラシュクロスの猟場《パーク》くらいきれいなところは、世界じゅうにありませんわ」
「だけどあたしは猟場《パーク》は知ってるけど、あっちのほうは知らないわ」ひとりごとのように、「あのいっとう高いところからあっちこっち見たら、おもしろいと思うわ。あたしの子馬のミニーが、いつかあたしを乗せていってくれるでしょうね」
女中の一人が『妖精《ようせい》のほら穴』の話をしたので、嬢さまはこの計画を実行したいという考えですっかり夢中になってしまいました。そのことでリントン氏を悩ませましたので、しかたなく、大きくなったら行かせてあげると約束してしまいました。それからは自分の年齢を月で勘定して「もう大きくなったからペニストンのがけへ行ってもいい?」というのが嬢さまの口癖のような質問になりました。あのがけへの道は嵐が丘の近くで曲っております。エドガーは、そこを通ることに心が進みませんでしたので、お答えはいつも、「まだ早い、キャシーや、まだ早いよ」でございました。
ヒースクリフ夫人は夫と別れてから十二年ほど生きていたと前に申しました。リントン家の人々はみな脾《ひ》弱《よわ》なほうで、イザベラもエドガーも、この地方ではふつうお会いになるような赤ら顔の健康体ではありませんでした。イザベラの最後の病気がなんであったか、確かなことは存じませんが、たぶんエドガーと二人とも同じ病気――はじめは激しくはありませんが治りにくく、終りに近づくとぐんぐんと生命を消耗させてゆく、そういう一種の熱病であったように思います。イザベラからの手紙で、四カ月のあいだわずらいついたけれど、いずれは長くない生命と思われるので、できることならば兄上に一度おいで願いたいと懇願し、それにはいろいろと取りきめておきたいこともあり、お別れも告げたいし、リントンを無事に兄上のお手にゆだねたいからだ、と書いてありました。イザベラ夫人の希望は、自分が兄上のおそばで育ったように、兄上の手もとにリントンを託したいというので、父親のヒースクリフはけっしてこの子を養い教育する重荷を引き受ける考えはないと、夫人としては考えたくなったのでした。主人はふつうの用事では家を留守にすることを好まぬほうでしたが、即座にその頼みを聞き入れまして、急ぎその旨《むね》を返事してやりました。留守中はキャサリンを特に私が気をつけて預かるよう、たとい私が付き添っても猟場《パーク》の向こうへは行ってはならぬと、繰り返し命じて行かれました。付き添いなしで外へ出ることなどは、全然考えてもおられませんでしたのです。
リントン氏は三週間留守にされました。最初の一両日、嬢さまは書斎の一隅《ひとすみ》にすわって、本も読まず、遊びもせずに、悲しそうにしていました。そうしておとなしくしているあいだは、私にはなんの苦労もありませんでしたが、その後にはひどくいらいらと退屈した数日間がつづきまして、あちこち駆けまわって嬢さまをおもしろく遊ばせるには、私は忙しくもあり年齢《とし》もとりすぎておりましたので、嬢さまがご自分で楽しむような方法を、一つ考えつきました。つまり嬢さまを戸外の旅行に出してやって、ときには徒歩、ときには子馬に乗って行かせ、そして帰って来てから、事実空想とりまぜた嬢さまの冒険談を、お好きなだけしゃべらせて、辛抱づよく聞いていてあげるのです。
夏のまっ盛りでございました。嬢さまはこのひとりきりの散歩が大変にお気に召したので、朝食からお茶の時間までずっと外に出ているくふうをすることも珍しくありませんでした。そして夜になるとその空想的な話のおさらいをして過ごすのでした。私は嬢さまが制限の境を越すことは少しも心配しておりませんでした。門はたいていしまっておりましたし、よしんば開いておりましても一人でそこを乗り越える大胆さはないものと思っていましたのです。運悪く私の信頼は誤っていたことがわかりました。ある朝、八時に、キャサリンは私のところへ来まして、あたしは今日はアラビアの商人になり、隊商を連れて砂《さ》漠《ばく》を渡ろうと思うから、ネリーはあたしや獣たちにたくさんの食べものをくれなくてはいけない、とこう申します。獣たちというのは馬が一頭、らくだが三頭で、大きな猟犬と一《いっ》対《つい》のポインターがらくだの役を演じるわけでございます。私はお菓子をたくさん出して、鞍《くら》の横に着けたかごに入れてあげますと、嬢さまはまるで妖精のようにはしゃいで、縁広《つばびろ》の帽子と紗《しゃ》のベールとで七月の日射《ひざ》しを防ぎながら、かるがると子馬に飛び乗り、私が駆け足をなすってはいけません、早くお帰りになるのですよと注意しますのを馬鹿《ばか》にしたように朗らかな笑い声を立てて、ひづめの音も軽く出かけてゆきました。ちゃめな嬢さまはお茶の時刻が来ても帰りません。旅人のひとり――猟犬だけは、老犬で、楽をしていたいものですから、帰って参りましたが、キャシーも、子馬も、二匹のポインターも、どこを見ても見えません。私は使いを出して、あちらの小道、こちらの方角と捜させましたが、とうとう自分で捜しに出てゆきました。庭の境にある植え込みの垣《かき》根《ね》をつくろっている職人がいましたので、私はお嬢さまを見かけなかったかと訊《たず》ねました。
「朝は見かけたがね」と男は答えました。「わしにはしばみ《・・・・》のむちを切ってくれと言ってね、それから子馬《ギャロウェイ》に向こうの生垣のいちばん低いところを飛び越えさせて、駆け足で見えなくなってしまったよ」
この話を聞いた私が、どんな気持になりましたか、お察しがおつきのことと存じます。すぐに私は、これはペニストンのがけへ向かったのだなと思い当りました。「嬢さまはどうなるのだろう?」そう思わず口走って、その職人がつくろっている隙《すき》間《ま》をくぐり抜け、街道をまっすぐに走って参りました。まるで賭《かけ》でもしたかのように、私は何マイルとなく夢中で歩きまして、嵐が丘の遠くに見える曲りかどまで参りました。それでもキャサリンの姿は遠くにも近くにも見えません。がけはヒースクリフ氏の家の向こう一マイル半のところにあり、お屋敷からは四マイルでございますから、私は向こうへ着けば夜になりそうだと心配しはじめました。そして「もし嬢さまががけのあいだを登ろうとして足をすべらせたらどうなるだろう?」と私は考えました。「もし死んだら、それともどこかの骨を折ったりしたら?」私は本当に、不安で体がすくむようでございました。それですから、はじめ、嵐が丘の家のわきを急いで通り過ぎようとして、ポインターのなかでも獰猛《どうもう》なチャーリーが、頭をはれ上がらせ、耳から血を出して倒れているのを見つけましたときは、ほっと救われたような気がいたしました。私は木戸をあけて家の戸口へ駆け寄り、どんどんとたたいて案内を乞《こ》いました。前にはギマトンに住んでいた見知り越しの女が、返事をしました。この女はアーンショー氏がなくなったときから、ここの女中をしているのでした。
「ああ、あなたはお屋敷のお嬢さんをさがしにいらしったんでしょう? ご心配いりませんよ、嬢さんはご無事です。でも旦《だん》那《な》でなくって、まあよかった」
「ではヒースクリフさんはお留守ですの?」あまり急いで歩いたのとあわてたのとで、私はあえぎました。
「そうですよ、そうですよ。旦那もジョーゼフもいないんですよ。まだ一時間やそこらは帰ってきませんよ。まあなかへはいって、一休みなさいましよ」
私ははいりまして、私の迷える子羊が、煖《だん》炉《ろ》のそばにお母さまの子どものころに使っていた椅子《いす》に腰をおろし、自分でそれを揺すっているのを見ました。帽子は壁にかけ、すっかり落着いてしまって、笑ったりしゃべったり、極上のご機《き》嫌《げん》で、ヘアトンと――もう十八歳の大柄《おおがら》な、屈強の若者になっておりました――ふざけているのです。ヘアトンはよほど好奇心と驚きとを感じたらしく、嬢さまの顔を一生懸命みつめています。でも嬢さまが舌の休まる暇もなくしゃべりたてる流暢《りゅうちょう》な感想や質問の意味は、ほんのわずかしかわからないらしいのです。
「さあよござんすよ、お嬢さま!」私はおこった顔の下にうれしさを包み隠しながら叫びました。「もうこれきり、パパがお帰りになるまでお馬に乗せませんよ。お家《うち》の敷居を出たら、これからはもうお嬢さまを信用しませんからね、いいですか、おてんばのおてんばのお嬢さま!」
「あらあ、エレン!」おどり上がって、私のそばへ駆け寄りながら朗らかに叫びました。「今晩はとてもおもしろいお話がしてあげられるわ、そしてとうとうおまえはあたしを見つけちゃったのね。おまえは前にこの家へ来たことがあるの?」
「あの帽子をおかぶりなさい、そしてすぐに帰るんですよ。あなたにはほんとに泣かされますよ、キャシー嬢さま。ほんとに、とんでもない悪いことをしたんですよ。ふくれたって泣いたって駄目《だめ》、そんなことで、あたしがおろおろ野原を捜して歩いた苦労の埋め合わせにはなりません。お父さまがあなたをけっして外へ出してはいけないって、あれほどあたしにお頼みになったのに、こんなふうにしてこっそり遠くへ行っちまうんですもの! これであなたはほんとにずるい子狐《こぎつね》だということがわかりましたから、誰《だれ》ももうあなたを信用するひとはありませんよ」
「あたしが何をしたのよ?」すすり泣きしていた嬢さまは、ちょっと泣きやめて、「パパはなんにもあたしに頼みはしなくってよ。パパなんか叱りゃしないわ、エレン――パパはおまえみたいにおこったことないわよ!」
「さあ、さあ! リボンを結んであげますからね。さあもうお互いにすねるのはよしましょうね。まあ、おかしいこと! 十三にもなって、そんな赤ちゃんで!」
こう叫んだのがいけませんで、嬢さまは帽子を脱いでしまって、私の手の届かない煖炉のほうへ逃げて行きました。
「まあねえ、そんなにかわいいお嬢ちゃんにきつくしないでおあげなさいよ。ディーンさん」女中が申します。「嬢さんはあなたに心配をかけると思って、先を急ぎたかったらしいんですが、あたしたちがおとめ申したんですよ、ヘアトンがお送りすると言っていましてね、あたしもそうすればいいと思ってたんですよ。丘を越す道が悪いですからねえ」
ヘアトンはこの議論のあいだ、きまりが悪いので、何も言わず、両手をポケットに入れて立っていましたが、私のはいって来たことは、あまり喜んでいない様子が見えました。
「さあいつまで待てばいいんですか?」女中の口出しには相手にならずに、私はつづけて申しました。「もう十分もすると暗くなりますよ。子馬はどこにいます、キャシーさん? それからフェニックスは? 早くしないとおいてってしまいますよ。だからあんたのお好きになさい」
「子馬は中庭にいるわ」嬢さまが答えました。「フェニックスはあすこにしめ込んであるの。あの犬、かまれちゃったのよ――そしてチャーリーも。あたしすっかり話してあげようと思うんだけど、おまえがあんまりプンプンしてるから、聞かしてあげないわ」
私は帽子を拾い上げて、もう一度かぶせようと思って近寄りました。けれどもここの家のひとたちが自分の味方してるなと思った嬢さまは、部屋のなかをはねまわりはじめました。そして私が追いかけますと、まるではつ《・・》かねずみ《・・・・》のように家具を飛び越えたり、下をくぐったり、後ろへ逃げ込んだり、私も追いかけるのが馬鹿らしくなってしまいました。ヘアトンと女中とが笑いだしますと、嬢さまもいっしょになって笑って、いよいよつけあがってしまいましたので、とうとう私はすっかりくやしくなって叫んでしまいました。
「よござんす、キャシー嬢さま、もしここが誰の家かわかったら、あんたも喜んで出て行くでしょう」
「ここはあなたのお父さまのお家でしょ、違うの?」嬢さまはヘアトンに向かって訊きました。
「そうじゃねえよ」ヘアトンは下を向いて、恥かしそうに赤くなりながら答えました。じっと自分を見つめる嬢さまの視線を受けとめかねたのですが、その嬢さまの眼《め》は、ヘアトン自身の眼と瓜《うり》二つのように似ていました。
「じゃあ誰の家――あなたの主人の?」とまた訊きました。
前とは別の気持から、ヘアトンの顔はさらに赤くなり、汚ない言葉をつぶやいて、わきを向いてしまいました。
「主人て誰なの?」うるさい少女はこんどは私に訊きます。「あの子はね、『おれの家《うち》』だとか、『おれん家《ち》のやつら』だとか言ってたのよ。あたしはだからここの主人のむすこだと思ってたの。それなのにあの子は、ちっとも『嬢さん』て言わないのよ。もし召使ならそう言わなくちゃいけないでしょう、言わなくてもかまわないの?」
ヘアトンの顔は、この子どもの言いぐさに、雷雲が寄せたように真っ黒になりました。私はだまって嬢さまを揺すぶって、やっとのことで出発の支度をさせ終えました。
「さあ、あたしの馬を連れて来て」嬢さまは、まるでお屋敷の厩番《うまやばん》の小僧に言うように、それとは知らぬ自分の肉親に向かって申しました。「そしてあたしについて来なさいね。沼の魔の猟師が出て来るところも見たいし、あんたがさっき言った妖精の話も聞きたいから。でも早くしてよ! おや、どうしたの? あたしの馬を連れて来なさいったら!」
「おめえの下男になるより前に、おめえの罰あたるところ見てやらあ!」若者はうなるように言いました。
「あたしの何を見るって?」キャサリンはびっくりして訊きました。
「罰あたるんだよ――なんだコマッチャクレの小《ち》ビッチョめ!」これが返事でした。
「さあさあ、キャシー嬢さま! たいした良いお友だちのところへ来たことがわかったでしょう?」と私が仲へはいりました。「小さいお嬢さまにはきれいな言葉を使うものです! どうかもうこの子と口論を始めないでくださいね。さあ、いらっしゃい、あたしたちだけでミニーをさがしに参りましょう、そして出かけましょうね」
「だって、エレン」驚愕《きょうがく》に眼をみはりながら、嬢さまは叫びました。「どうしてあの子はあたしにあんな失礼な言い方をするんでしょう? あたしの頼んだとおりしてくれなきゃいけないんじゃないの? なんです、悪い子ね、あたしおまえの言ったことを、お父さんに言ってあげるから。――さあ行きましょう!」
ヘアトンはおどかされても、少しも動じませんので、嬢さまの目からくやし涙がこぼれました。
「おまえが子馬を連れてきなさい」今度は女中に向かって叫びました。「そして今すぐあたしの犬を放しなさい!」
「もっと静かにね、お嬢さん」言われた女中は答えました。「もっと丁寧な口を利《き》いても、ちっとも損はしませんよ。あすこにいるヘアトンさんは、ここのご主人のむすこさんではないけれども、あなたにはお従兄《いとこ》さんに当るんですよ。それからね、あたしはあなたのお召使に雇われた覚えはございませんよ」
「あの子があたしの従兄ですって! 侮《ぶ》蔑《べつ》の笑いといっしょに、キャシーは叫びました。
「そうですとも、ほんとうですわ」嬢さまを叱《しか》った女は、すぐそれに答えました。
「まあ、エレンや! こんなことを言わせておいちゃいけないわ!」すっかり面くらって、嬢さまはがんばりました。「パパがいまあたしの従弟《いとこ》を連れにロンドンへいらしってるのよねえ。あたしの従弟は紳士のむすこだわ。あたしのあの――」言いかけて、わっと泣き出してしまいました。こんな土百姓と親戚《しんせき》だと思っただけで気が転倒してしまったのでした。
「泣かないで、泣かないで!」私は小声で言いました。「従兄はたくさんいることがあるものですよ、そしていろんな従兄がありますの、ね、キャシーさん、それだからちっとも困ることなんぞないんですよ。ただ向こうが感心しない悪いひとだったら、交際しなければいいんです」
「あの子は違うわ――あの子はあたしの従兄じゃないわ、エレン」考えれば考えるほど悲しくなってきて、そしてその考えからのがれようとするように、私の腕のなかへ飛び込んで来ながら、嬢さまは言いつのりました。
私は嬢さまにも女中にも、どちらもよけいなことを言い出したものと思って、腹が立ちました。リントンが近くこちらへ来ることを嬢さまがしゃべってしまったので、それがヒースクリフ氏の耳にはいることは疑いありませんし、またお父上が帰られたときにキャサリンは、何より先に女中の言った、あの育ちの悪い肉親についての問題で説明を求めるだろうということも、まず確かだと思われるのです。ところでヘアトンは、自分を召使とまちがわれたことの不快から、気持を取り直したので、嬢さまの悲しんでいることに心を動かされた様子で、子馬を戸口のところまで連れてきまして、嬢さまをなだめるつもりで、犬小屋から一匹のガニまたの美しいテリヤの子を出してきて、別に悪気があってあんなことを言ったんじゃないから泣くんじゃないよと言って、それを嬢さまに抱かせてやりました。嬢さまもちょっと泣くのをやめ、悲しいような恐ろしいような眼でヘアトンの様子を眺《なが》めていましたが、やがてまた新しくわあっと泣き出したものでした。
私は嬢さまがこの気の毒な若者を嫌《きら》っているのをみまして、微笑を押えることができませんでした。この若者は体格のよい、筋肉も隆々とした青年で、顔だちもよく、頑丈《がんじょう》で健康そうですけれど、毎日の野良仕《のらし》事《ごと》や、荒野《ムーア》のなかをほっつき歩いて兎《うさぎ》や何かの獲《え》物《もの》を追いかけるのに、ふさわしい服装をしているのです。それでも私は、その人相をみまして、父親よりはいろいろのよい性質を持った心ばえが、わかるように思いました。よい素質が、雑草ばかりはびこったなかにうち捨てられ、それを伸ばそうとする者がないから、どこまでもはびこる雑草の力に押されて、よい素質の成長が、早くから妨げられ止められてしまったことは確かですが、それにもかかわらず、別の恵まれた条件の下におかれれば、これからでもみごとな実りを結ぶであろうと思わせる、それは豊かな土壌《どじょう》に相違ありませんでした。ヒースクリフ氏はこの子の体まで悪くは扱わなかったようですが、それはこの子の物を恐れぬ強い性質のせいで、こうした性質の者には、そんな形で圧迫を加えようという気を起こさせません。この子には虐待《ぎゃくたい》を加えたくなるような、臆病《おくびょう》な感受性が少しもない、というのがヒースクリフの判断だったのでございます。そこでヒースクリフの悪意は、この少年を一匹の野獣に仕立て上げよう、というほうへ傾いているように見受けられました。読み書きを教えられたこともなく、どんな悪い習慣でも、ヒースクリフの迷惑にならぬかぎりは、少しも叱責《しっせき》されることなく、一歩たりとも善へ向けようとか、一言でも悪を戒めようとかいうことも、全然ありませんでした。そして私の聞きましたところでは、ジョーゼフがこの子の堕落をよほど助けたものらしく、心の狭いひいき心《・・・・》から、旧家の戸主だからということで、子どものころに甘やかしたり猫《ねこ》かわいがりにかわいがったりしましたのが、いけなかったようでございます。もともとジョーゼフはキャサリン・アーンショーとヒースクリフとを子どものころから悪くいう癖がございまして、この二人が主人のヒンドリーの我慢できぬほど、爺《じい》やの言葉で申しますと「ろくでもねえこと」ばかりしているから、それがために旦那は酒で気晴らしするようになったのだ、と口癖に言っておりましたが、それと同様に、現在でも、ヘアトンの欠点のすべての責任を、その財産を横領した者の肩に負わせようとしております。若者が悪態をつきましても、またどんなよくない振舞いをしましても、老人はそれをやめさせようとはいたしません。ヘアトンがどん底まで悪くなってゆくのを見ていることに、満足しているかのようにさえ見えます。つまりジョーゼフは若者がすっかり駄目になり、その霊魂が破滅の底に投げ捨てられるのを是認していて、その上でこんどはその償いをヒースクリフがせねばならぬと考えるわけです。ヘアトンを滅ぼした罪は、ヒースクリフに負わさねばならない――こう考えることに、老人は大きな慰めを感じるのでした。ジョーゼフはこの子の心に家名の誇りと血統の誇りとを注ぎこみました。もししようと思えば、少年と嵐が丘の現在のあるじとのあいだに、憎《ぞう》悪《お》をもはぐくむことができたはずですけれども、このあるじに対するジョーゼフの恐怖は、ほとんど迷信の域に達しておりまして、ヒースクリフに対する気持のはけ口は、口のなかで当てこすりをつぶやくこと、陰でこっそりと、「いまに罰が当るから」などと宗教的おどし文句を吐くこと、この二つに限っておりました。私はそのころの嵐が丘の日常生活の様子を、よく存じているとは申しません。自分ではほとんど見ていませんのですから、ただ聞いただけのことをお話しするのでございます。村の人々はヒースクリフさんはけちん坊だ、小作人に対しては苛《か》酷《こく》な地主だと申しておりました。けれども家のなかは、女の手がかかって昔の居ごこちよい有様を取り戻《もど》し、ヒンドリー時代には毎日のようだったけんか騒ぎはこの家のなかではなくなりました。主人は陰《いん》鬱《うつ》で、善人悪人ともひとりの友人も求めませんでした――現在もそうでございますけれど。
ま、こんなことをお話ししておりましては、本筋が進みません。キャシー嬢さんは和《わ》睦《ぼく》の引出物のテリヤをしりぞけまして、自分の二匹の犬、チャーリーとフェニックスとを要求いたしました。それらはびっこひきひき、首うなだれて、出て参りました、そこで私どもはみんなそれぞれにひどくがっかりして家路につきました。その日、嬢さまがどんなふうに一日を過ごしたのか、聞き出すことができませんでした。ただ私の想像したとおり、その日の嬢さまの巡礼の目標はペニストンのがけでした。そして、別にこれという危ないこともなく嵐が丘の門へたどり着きましたとき、ちょうどヘアトンがそこへ出てきて、あとについてきた犬どもが嬢さまの行列に襲いかかりました。なかなかの激しいいくさをしましてから、やっと双方の持主が犬どもを引き分けました。このけんかが紹介のかわりをしまして、キャサリンはヘアトンに自分の名と行く先とを告げ、道を教えてくれるように頼み、結局うまく話をもちかけて連れて行ってもらうことになりました。ヘアトンは「妖精《ようせい》のほら穴」をはじめ、たくさんの不思議な場所の神秘を開いて見せてくれました。けれども私は嬢さまのご機嫌を損じていましたから、その日見たかずかずのおもしろい物のくわしいお話は聞かせていただけませんでした。それでもどうやら、案内者の若者は、嬢さまに召使あつかいされて感情を害し、ヒースクリフの家政婦が若者を従兄《いとこ》呼ばわりして嬢さまの感情を害するまでは、嬢さまのお気に入りだったらしいということだけは察しがつきました。そしてその次には若者が嬢さまに対して使った言葉が、嬢さまの胸に大きなしこり《・・・》となりました。いつも「良い子ちゃん」とか「かわいい嬢や」だとか「女王さま」とか「天使」とか、お屋敷のひと残らずから言われていたかたが、はじめて会った男の子から、あんなひどい言葉で恥ずかしめられたのですもの! とても嬢さまにはがてんが行きません。ですから私が、この難儀をお父さまに披《ひ》露《ろう》しないという約束をさせるまでには、ひとかたでない骨が折れましたものですわ。私はお父さまが嵐が丘のひとたちみんなと、とても仲がお悪いこと、もし嬢さまがあの家へ行ったと聞いたら、どんなにかいやな気持がなさるだろうということを話しましたが、それよりも力をこめて説き聞かせましたのは、もし私が旦《だん》那《な》さまのご命令をおろそかにしたことを、嬢さまがしゃべっておしまいになったら、お父さまはきっと大変にお怒りになって、私はこのお屋敷にいられなくなるでしょう、という事実についてでございました。それでキャシーは、そんなことになったら、とてもたまりませんので、私のために、きっと言わないと約束し、その約束を守ってくれました。要するにあの嬢さまは、かわいい良い子でございましたわ。
19
黒わくつきの一通の手紙が、主人のお帰りの日を知らせて参りました。イザベラさまはおなくなりになりました。そして主人から私へお手紙で、嬢さまのために喪服を仕立てること、部屋と調度とをととのえて、若い甥《おい》御《ご》さまをお待ち受けすること、この二つのお言いつけがございました。パパがお帰りになると聞いて、キャサリンは有頂天になって喜び、また「あたしの本当の」従弟《いとこ》については、数知れぬ当てずっぽうの美点長所を予想していい気持になっているのでした。お二人のお着きになる予定の宵《よい》が参りました。嬢さまは朝早くからご自分の小さな用事を言いつけるのに忙しかったのですが、新調の黒服をお召しになり――可《か》憐《れん》な嬢さまは、叔母上がなくなられましても、なんのこれという悲しみも感じてはいらっしゃいません!――お出迎えするときにお庭の向こうまでいっしょに歩いてくれなければ困ると、ひっきりなしにせがんで、私を困らせるのでした。
「リントンはあたしよりちょうど六カ月あとで生まれたのね」お庭の木立ちのかげ、こけのまじった芝生のゆるやかな起伏の上を、そぞろ歩きしながら、嬢さまはお話しになります。「遊び友だちができたらどんなにうれしいでしょうねえ! イザベラおばさまはパパにとても美しいリントンの髪の毛を送ってきたわね。あたしより色が薄くって、あたしより淡《うす》黄《き》色《いろ》がかってたわ、でも細さは同じくらいよ。あの髪をあたしは丁寧に小さなガラスの箱にしまってあるのよ。そしていつも、この髪のひとに会えたら、どんなにうれしいでしょうと思ったの。ああ! あたしうれしい――そしてパパ、大好きなパパ! さあ、エレン、走りましょう、さあ、走んなさいよ」
嬢さまは駆け出して、引き返してはまた走り、私が落着いた足どりで門へ行き着くまで、何度もそれを繰り返しました。それから、小道のそばの草の生えた土手に陣取って、じっとおとなしく待っていようとするのですが、それはできない相談で、一分間もじっとしてはいられないのでした。
「ああなんておそいんでしょう! あら、道にほこりが立ってるのが見えるわ――来たのかしら、違うわ! いつになったら着くんでしょうねえ? もう少し先まで行っちゃいけない?――あと半マイルだけ、ねえエレン、たった半マイルだけよ? “はい”って言いなさいよ、あすこの曲りかどの樺《かば》のところまで!」
私はがんこに、いけないと申します。でもとうとう、嬢さまのわくわくする期待も、おしまいになります。旅行馬車が見えてきました。お父さまのお顔が窓に見えるが早いか、キャシー嬢さんは金切り声を出して両腕を力いっぱい伸ばします。お父さまも、嬢さまに負けないほど夢中で、馬車を降ります。そしてかなり長いあいだ、二人はほかの人間のことを、まったく忘れていました。お二人が愛《あい》撫《ぶ》をかわしている暇に、私はリントンのお世話をしてあげようと思って、馬車のなかをのぞきこみました。男の子はまるで冬みたいに暖かい毛皮の縁のついた外套《がいとう》にくるまって、隅《すみ》のほうに眠っていました。青白い、上品な、柔弱そうな少年で、ご主人にあまりよく似ているので、うっかりすると若い弟かと思われそうでした。でもこの子の顔には、エドガー・リントンにはなかった病人らしい気むずかしそうなところがあります。エドガーは私ののぞきこんでいるのに気がつき、握手をしてから、あの子は旅でひどく疲れているから、扉《とびら》をしめて、あのままそっと寝かしておきなさいと注意しました。キャシーはちょっとだけでも見たいと申しましたが、父親はこっちへ来なさいと言って、いっしょに猟場《パーク》を屋敷のほうへ歩きだしました。私は一足先に、召使たちに知らせようと、道を急ぎました。
「さあ、良い子のキャシーや」リントン氏は玄関正面の階段の下に立ち止まると、娘に話しかけました。「おまえの従弟《いとこ》はおまえのように丈夫でもないし、朗らかでもないんだよ、それから、ついこのあいだ、あの子はお母さんをなくしたんだよ、それを忘れてはいけませんよ、ですからね、いますぐ二人で遊んだり駆けたりしようと思ってはいけません。それから、あまりおしゃべりをして、うるさくしてもいけません。せめて今晩だけは静かにさせてあげるんですよ、わかった?」
「ええ、わかったわ、パパ」キャサリンは答えました。「でもあたし、ぜひリントンに会いたいわ。それなのにいっぺんも外を見ないのねえ」
馬車が止まり、眠っていた子どもは起こされて、おじに抱かれて、地面に降り立ちました。
「これがおまえの従姉《いとこ》のキャシーだよ、リントン」ふたりの小さい手を握らせながら、「キャシーはきみのことをとうから好きになってる、だから今晩から、泣いてキャシーを心配させるんじゃないよ。さあ、元気をお出し、旅行は終ったんだ。もう今夜は寝るなり、好きなことをして遊ぶなり、ほかには何もしなくていいんだよ」
「じゃ、寝さして下さい」少年は、キャサリンの挨拶《あいさつ》から尻《しり》ごみしながら答え、そしてもう出かかった涙をふこうとして手を顔に上げました。
「さあ、さあ、良いお子ですね」私は家のなかへ導き入れながら、少年にささやきました。「そんなにすると、キャシーもいっしょに泣いてしまいますよ――ほら、嬢さま、とてもあなたを気の毒がっていますよ!」
はたしてリントンを気の毒がったのかどうかはわかりませんが、キャシーも従弟に負けない悲しそうな顔をこしらえて、父親のそばへ帰って行きました。さて三人は二階の書斎へ上がりますと、ここにはお茶の支度が出来ておりました。私はリントンの帽子とマントとを脱がせ、テーブルの前の椅子《いす》の一つにすわらせました。けれども席につくが早いか、少年はまた改めて泣きはじめました。どうしたの、と主人が訊《たず》ねました。
「ぼく、椅子に腰かけられないんだもの」とすすり上げながら答えます。
「そんなら安楽椅子《ソファ》へおいで、エレンがお茶を持って行ってあげるからね」おじさまは辛抱強く言いました。
こう始終いろいろと機《き》嫌《げん》の悪い子どもを連れての旅では、さぞかしお疲れになったことだろう、と私は思いました。リントンはのろのろと体を引きずるように椅子を離れ、横になりました。キャシーは足台と自分の茶碗《ちゃわん》を持って、そのそばへ行きました。はじめキャシーは黙っていましたが、そういつまでもはつづきません。このかわいい従弟を、前から考えていたとおり、自分のおもちゃにしてかわいがってやろうという気になっていました。それで、少年の巻髪をさすったり頬《ほお》に接吻《せっぷん》したり、赤ちゃんのように自分の台皿《だいざら》にお茶を入れてすすめたりしはじめました。リントンは気分がまだ十分よくならないので、こうしてもらうのがいい気持でした。涙をふいて、弱々しい微笑にいくらか顔を明かるくしました。
「おお、あれならいい」しばらく二人の様子を眺《なが》めていて、主人が私に言われました。「あの子を家においてやれるようだと、ほんとにいいんだがな、エレン。同じ年ごろの子どもといっしょにいれば、あの坊やも間もなく元気を吹きこまれるだろう、そして強くなりたいと思うようになれば、自然と強くもなるだろう」
「そうですわ、あの子を家においてやれさえすればねえ!」私はひとり心のなかで申しました。そしてその希望はほとんどないという痛ましい不安が、私を襲いました。それから次にはあの弱い子が、嵐が丘で暮らしたらいったいどうだろう? と考えました。父親とヘアトンとの間で、なんという遊び友だち、なんという教師の手にかかることだろう! リントン氏と私との疑問は、その後まもなく――しかも私の予想したより早く――解決しました。お茶がすみましてから、私は子どもたちを二階へつれて行き、リントンの眠ったのを見届けましてから――寝つくまで私にそばを離れさせませんので――階下《した》へ降りました。そして広間《ホール》のテーブルのそばに立ってエドガーの寝室の蝋燭《ろうそく》をともしておりますと、女中の一人が台所から出て参りまして、ヒースクリフさんの下男のジョーゼフが来て、ご主人に話があると言っていると申すのです。
「その前にあたしからなんの用だか訊《き》いて見ましょう」私は、もうかなりにうろたえながら、こう申しました。「他人の家をたずねるにしては、ずいぶん変な時間ですし、今夜は長いご旅行からお帰りになったばかりだからね。旦《だん》那《な》さまはお会いになるまいと思いますよ」
ジョーゼフは、私がこう言っているあいだに、台所を抜けてはいってきまして、いま広《ホー》間《ル》に姿を現わしました。日曜日の衣装を着用に及びまして、爺《じい》さんの持ち前としましても今宵はできるかぎりの殊勝そうな渋面をつくり、片手に帽子を、片手に杖《つえ》を持って、靴《くつ》ふきで靴をふきにかかりました。
「ジョーゼフさん、今晩は」私は冷たく申しました。「今晩はなんのご用でここまでいらしったの?」
「リントン旦那にお話が、あるだ」いかにも軽蔑《けいべつ》したように、わきへ寄れと手を振りながら答えます。
「リントン旦那はおやすみになるところよ、あんたがよっぽど特別な話で来たんででもなければ、いまは聞きたくないとおっしゃると思うわ。それよりここへかけて、あたしに用向きを打ち明けなさいよ」
「旦那のお部屋はどこだ?」しまった扉の並んでいるほうをすかし見ながら、爺やは迫ります。
このぶんでは、私が仲へはいるのを承知しないつもりだなと見てとりましたので、気は進みませんでしたが書斎へ参りまして、ぶしつけな訪問客のことを告げ、明日のことになすったほうがよろしいでしょうと意見を添えようといたしました。ところがリントン氏は私にそう言わせる暇がございません、ジョーゼフがすぐ私のあとから昇ってきまして、部屋のなかに押し入り、両のこぶしを杖の上に重ねてテーブルの向こう側に陣取って、まるで反対を予期しているようなかん高い声を張り上げてしゃべりだしたからでございます。
「ヒースクリフが息子のことでわしをよこしましたでがす。わしはどうでも息子を連れて帰らねばなりましねえでがす」
エドガー・リントンは、しばらく黙っていました。限りない悲しみの表情がその顔に浮かんでおりました。ご自分の立場としても、あの子どもを不《ふ》憫《びん》に思っておりましたでしょうけれど、イザベラの願いと心配、わが子の身のうえを気づかう妹の切なる希望、またその子を兄の手に託したいとの頼み――それらを思い出しますと、その子どもをわが手から放してやることに、切ない悲しみを覚えるのです、そして心のうちに、なんとかしてそれを避ける方法はないものかとさがしてみるのですが、何ひとつ手段は思い浮かびません。ただ預かりたいという希望を述べるだけでも、要求する側をいっそう手《て》強《ごわ》く高飛車にさせるだけのことでしょう。あきらめるよりほかに道はない。だが、せっかく眠った子どもを揺り起こす気にはなれぬ。
「ヒースクリフさんに言ってくれ」穏やかに答えます。「息子さんは明日、嵐が丘へお届けする。もう寝てしまったし、いまから長い道を歩くには疲れ過ぎている。それから、あの子の母親はぼくの保護のもとにあの子をおきたいと望んでいたこと、また現在は、あの子の健康はゆだんのならん状態だということ、これもついでに言ってくれんか」
「だめでがす!」ジョーゼフは言って、杖で床《ゆか》をどん《・・》と突いて、威たけ高になって、「だめでがすだ! そんなことは話にならねえでがす。ヒースクリフはおふくろのことなど、てんで考えていねえだから、またおまえさまのことも同じことでがす。ただ子どもを引き取りてえと言うんでがす。だからわしゃ連れて行かねばならねえ――これでおわかりでがしょうが!」
「今夜はいかん!」リントンは断固として答えました。「いますぐ階下《した》へ行きなさい。そしてわたしの言ったことを主人に伝えなさい。エレン、階下へ連れて行け。行きなさい」――
そして、ぷんぷんおこってる爺さんの腕をとって部屋の外へ押し出し、扉をしめてしまいました。
「ようがす!」ジョーゼフはのろのろと帰りかけながらどなりました。「明日になればヒースクリフは自分で来るだから、突き出せるものならヒースクリフを突き出して見なされい!」
20
この脅迫が実行される危険を避けるため、リントン氏は私を使いとして、朝早く少年をキャサリンの子馬に乗せてわが家へ連れてゆかせることにしました。「これから、ぼくたちは善悪ともにあの子の運命には立ち入ることができないのだから、キャサリンにはリントンがどこへ行ったか、けっして言ってはならないよ。これから先、キャシーはもうあの子とはなんの連絡もすることはできない。それにはあの子の近くにいることを知らせずにおくほうがキャシーのためだ、これを苦にして嵐《あらし》が丘《おか》へ行こうとするようなことのないように。ただお父さんが、あの子を急によそへやった、そしてあの子は出て行かなければならぬわけがあったのだ、とそれだけ言っておきなさい」
リントンは五時に起こされたとき、寝床を離れるのがよほどつらそうでございましたが、その上に、これからまた旅の支度をするのだと言われて、びっくりしておりました。それでも私は事情をやわらげまして、あなたはこれからしばらくお父さまのヒースクリフ氏のところで暮らすんです。お父さまはとてもあなたに会いたがっていて、旅行の疲れがなおるまで、その喜びを先へ延ばしていられないんです、というふうに話しておきました。
「ぼくのお父さん!」不思議そうな、まごついた様子でリントンは叫びました。「ママはぼくにお父さんがあることを、ちっとも言わなかった、お父さんてどこにいるの、ぼくはやっぱりおじさんのところにいたいなあ」
「お父さまのお家《うち》はこのお屋敷から少し離れたところですよ。すぐそこの丘向こうですの。そんなに遠くもないけれど、ここまで歩いてくるのは大変ですわ。それにお父さまのお家へ行って、お会いになれるんだから、お喜びになるのが当り前ですよ。あなたはお母さまが好きだったように、お父さまも好きになろうとしなければいけませんよ。そうすればお父さまのほうでもあなたが好きになって下さるのよ」
「でも、なぜぼくはいままでお父さまのことを聞いたことがないんだろう? なぜママとお父さまといっしょに暮らしていなかったんだろう――よその家みたいに?」
「お父さまはお仕事があって、北のほうにいなければならなかったんです。お母さまはお体が弱かったから、南に住む必要があったんです」
「それじゃなぜママは、お父さまのことをぼくに話さなかったの? おじさんのことはよく話してたから、ぼくはずっとせんから、おじさんが好きになることを覚えたんだよ。どんなふうにしてパパを愛したらいいんだろう? ぼくはちっとも知らないひとなんだもの」
「まあ、子どもはみな親を愛するものですよ。お母さまはきっと、あまりお父さまのことをあなたに話すと、あなたがお父さまといっしょに暮らしたくなるとお思いになったのよ。さあ急いでお支度しましょう。こんな美しい日に、朝早く馬に乗るのは、一時間よぶんに眠るよりもずっと気持がよござんすよ」
「あの女の子もぼくたちといっしょに行くの?」リントンは訊《き》きました。「きのう会った、あの小さい女の子も?」
「今は行きませんのよ」
「おじさんは?」
「いいえ、あたしがお供をして行くんですよ」
リントンはまた枕《まくら》に頭をくっつけて考え込んでしまいました。
「ぼくはおじさんといっしょでなければいやだ」とうとう少年は叫びました。「ぼくはあなたがぼくをどこへ連れて行くかわかんないもの」
私はお父さまに会いに行くのをいやがるのはわがままな子ですと言って説き伏せようといたしました。それでもなかなか渋っていて、着物をはかばかしく着ようとしませんので、よんどころなく私はご主人をお呼びして、寝床から出るようになだめすかしていただきました。かわいそうな少年は、すぐにまたこちらへ帰ってくるとか、おじさまもキャシーもきっとたずねてゆくとか、そのほか同じように根拠のないいくつものから《・・》約束をしてもらって、ようやくのことで出かけました。私はこれらの約束を考え出しては、途中ずうっと幾度も繰り返して参りました。ヒースの香りのする澄んだ空気、明かるい日光、そしてミニーのおとなしいだく《・・》の足並みなど、しばらくすると少年の沈んだ気分も解けて参りました。新しい家や、その住人について、だんだん興味と元気とを見せて質問しはじめました。
「嵐が丘もやっぱりスラシュクロス屋敷みたいな気持のいいところかい?」谷間のほうへ最後の一瞥《いちべつ》を投げようと、後ろを振り向きながら、リントンは訊きます。谷間から軽い霧が立ちのぼり、それが綿雲になって青空のすそにたなびいています。
「あっちは木ばっかりのなかに埋まってはいませんし、そしてそんなに大きくもありませんけれど、ぐるりの景色がすっかり見られるんですよ。そして空気もあなたのお体にはいいでしょう――平地よりも新鮮で、乾燥していますから。きっとあなたは、はじめは家が古くて暗いとお思いになるでしょうけど、あすこはとても由緒《ゆいしょ》のあるおうちでしてね。この辺ではお屋敷の次にいいうちなんです。それから荒野《ムーア》でとても愉快な遊びができますよ。ヘアトン・アーンショー――これはキャシー嬢さんのもう一人の従兄《いとこ》で、あなたにもある意味では従兄に当るかた――そのお兄さんが、いい場所をみんな見せてくれますわ。それからお天気のいい日には本を持って行って、草の青々としたくぼ地で勉強をなさるといいわ。そしてときにはおじさまも、あなたといっしょに散歩をなさるでしょうし――おじさまは始終、山のなかをお歩きになりますからね」
「それでぼくのお父さんはどんなひと? おじさんみたいに若くてきれいなひと?」
「若いのは同じくらいですよ。けれどもお父さまは髪の毛も眼《め》もお黒くて、おじさまより厳しそうに見えるかたですよ、そして背も高いし、体も大きいですよ。たぶん、初めはそんなにやさしいとか親切だとか、あなたには思えないかもしれないわね、そういうふうの性質《たち》のかたではありませんからね。でもね、よござんすか、お父さまには何も遠慮しないで、そして心からやさしくしてあげるんですよ、そうすれば自然、お父さまのほうでも、どのおじさまよりもあなたをかわいがりますよ。だってあなたはご自分のお子さんなんですものね」
「黒い髪に黒い眼か!」リントンは考えこんでいます。「ぼくには想像がつかないや。そうすると、ぼくはお父さんに似ていないね?」
「あんまりね」と答えましたが、心のうちでは、ちっとも似てない、と思いました。――青白い顔の色、かぼそいからだつき、など惜しいことに思って眺《なが》めながら、それに大きな活気のない眼――それは、この子の母親の眼でした。ただ、病的な癇癪《かんしゃく》が、瞬間的にその眼に明かりをともすのを別にすれば、イザベラにあった火花のような精気は跡形も見いだせないのが、この眼でした。
「お父さんが一度もママやぼくに会いに来ないなんて、どうもおかしいなあ!」少年はつぶやきます。「お父さんはぼくを見たことがあるのかな? 見たとすればぼくの赤ん坊のときだ。ぼくはお父さんのことを、何も覚えてない!」
「だってねえ、リントン坊っちゃん、三百マイルといえば、たいへんな道のりですよ。それに十年といえば、あなたがたに比べると、おとなにはずいぶん長さの感じが違いますからね。きっとヒースクリフさんは、毎年、夏になるたびに、行こう行こうと思いながら、都合のいいおりが見つからなかったんでしょう。でもいまはもうすんだことですからね。そのことでお父さまに訊いたりして、困らせてはいけませんよ。なんにもならないことで、お父さまにはうるさいでしょうからね」
少年は、その後の道をずうっと物思いにふけりつづけていましたが、とうとう私たちは嵐が丘の農場の庭の門前で止まりました。私はリントンの顔から、その印象を読み取ろうと思って気をつけておりました。少年は彫刻のある建物の正面や、陰鬱《いんうつ》な窓がまちや、生いはびこったすぐり《・・・》の藪《やぶ》や、よじれた樅《もみ》の木やを、まじめに心を留めて観察していましたが、やがて首を振りました。その内心の感情は、この新しい住居の外観がまったく気に入らなかったのです。けれども不満をすぐには漏らさないだけの考え深さは、この子どもは持っていました。家のなかではその埋め合わせができるかもしれないと思ったのです。馬から降りる前に、私が行って扉《とびら》をあけさせました。六時半、家族はちょうど朝飯をすませたところでございました。召使が食卓の上を、片づけたりふいたりしていました。ジョーゼフが主人の椅子《いす》のわきに立って、びっこ馬の話か何かしていました。ヘアトンは干草畑へ出てゆく支度をしていました。
「おお、ネリー!」私を見ると、ヒースクリフ氏が言いました。「おれは自分で出かけて行って、自分の物を取ってこなければならんかと思って、心配していたところだ。おまえが連れてきてくれたんだね? そうかい、どんなやつか、ひとつ見るとしようか」
立ち上がって、戸口へ歩いて来ました。ヘアトンとジョーゼフも、好奇心に口をあいたまま、あとから従ってきます。哀れなリントンは、おびえた視線を三人の顔から顔へ、走らせました。
「なあるほど」ジョーゼフは、慎重に審査をしてから、言いました。「こりゃ旦《だん》那《な》、エドガーさんがおまえさまと子どもの取っ換えっこをしなすったと見えて、この子はあっちの娘さんでがすぜや!」
ヒースクリフはわが子の顔をじっと見つめて、うろたえた子どもが、まるでおこり《・・・》のように身を震わせるまでにらんでいましたが、やがて侮《ぶ》蔑《べつ》のこもった笑い声をあげました。
「やれやれ! なんという美しい! なんというかわいらしいきれいな子どもだ! ネリー、この子はかたつむりとすっぱい牛乳で育てられたんじゃないか? ああ、馬鹿《ばか》な、おれが思ったよりもまだくだらん――しかもおれは初めから当てにしていたわけでもないからな、畜生!」
私は、どぎまぎして震えている子どもを馬から下りさせて、家のなかへ入れました。父親の今の言葉は、この子どもには何一つわからず、またそれが自分のことを言ったものかどうかさえもわかりませんでした。ほんとに、あの憎さげな顔の、あざ笑っている初対面のひとが、自分の父親だということさえ、まだのみこめてはいないのでした。ただしだいにからだのわななきを激しくしながら、私にしがみついて、椅子にかけたヒースクリフ氏に、「こっちへ来い」と言われたとき、私の肩に顔を押しつけて、さめざめと泣き出したのです。
「チョッ! チョッ!」手を伸ばして、荒っぽく子どもを膝《ひざ》のあいだに引き寄せ、顎《あご》に手をかけて顔をぐいと持ち上げながら、ヒースクリフが言いました。「何も泣くことはないぞ! おまえに傷をつける者はここにおらんからな、リントン――といったな、おまえの名は? きさまはどっからどこまできさまのおふくろの子だな! きさまのどこに、おれに似たところが残っているのだ、この泣き虫が?」
父親は子どものひさし帽を脱がせ、濃い亜麻色の巻髪を押し上げたり、そのすらりとした腕や小さな指にさわってみたりしました。その検査を受けているあいだ、リントンは泣きやめて、大きな青い眼で観察者を観察しはじめました。
「おまえはおれを知ってるか?」手足が、どれもみな平均に、弱々しくかぼそいことを確かめ終って、ヒースクリフ氏は訊きました。
「いいえ」リントンはうつろな恐怖の凝視をつづけながら言います。
「おれのことを聞いたことはあるんだろうが?」
「いいえ」とまた答えます。
「いいえ? おまえの父としてのおれに対する気持を呼びさまそうとしたことがないとは、なんという恥ずべき女だ、おまえの母親は! なら、おれが教えてやる、おまえはおれのせがれだ。おまえの母親は意地の悪い自堕落女だったから、おまえには父親があることを教えもせんで逝《い》ってしまったんだ。さあ、びくびくせんで、赤い顔もするな! まだしもそれでおまえの血が白くないことだけはわかるがな。良い男の子になれ。そうすれば、おれもおまえによくしてやる。ネリー、くたびれたろうから腰をかけなさい。くたびれていなければ帰んなさい。たぶんおまえはここで見たり聞いたりしたことを、屋敷の馬鹿に報告するんだろう。それにこの小僧も、おまえがその辺にうろうろしてると落着かなくていかん」
「それではどうぞ、坊っちゃんに親切にしておあげなさいまし、ヒースクリフさん。そうでないとあまり長くは世話してあげられませんよ。そしてこのお子は、広い世界に、あなたのたったひとりの肉親ですわ、あなたの知って――覚えていらっしゃるかぎりでのね」
「こいつには大いに親切にしてやるから、おまえは心配しなくてもいい」と言って、笑いながら、「ただほかの者は、誰《だれ》もこいつに親切にしてはならん。おれはこいつの愛情を独占することにかけては貪欲《どんよく》だぞ。それでと、おれの親切の手はじめとして、ジョーゼフ、この子どもに朝飯を持ってきてやれ。ヘアトン、こののろま《・・・》の子牛野郎、はやく仕事に出てゆけ。そうだ、ネル」二人が出て行ったあと、言葉を継いで、「おれのせがれは、おまえのいる屋敷の将来の持主だ、だからおれは、おれがこいつの後継ぎだということがきまるまでは、こいつが死なんことを希望する必要がある。そればかりじゃない。こいつはおれのものだ。だからおれは、おれの子孫が、りっぱなやつらの領地の殿様になるのを――おれの子どもがやつらを雇って、やつらの父親の土地を賃働きで耕作させるのを――見届けて、勝ち誇りたいと思ってる。おれがこの餓鬼を辛抱してやれるというのは、ただ一つそういう考えからなのだ。おれはこいつを、こいつ自身としては軽蔑する。またこいつが生き返らせる思い出のためにこいつを憎む! だが、いま言った考えがあるから大丈夫だ。おれのところにいれば、おまえの主人が子どもをよく気をつけて見てやるのと同様に、安全なものだ。二階にこいつのためにきれいな部屋をこしらえてやったし、二十マイル離れたところから、一週間に三回きて、なんでもこいつの習いたいことを教えてくれる家庭教師も契約した。ヘアトンには、なんでもこいつの言うことを聞けと命令しておいた。実のところ、おれはこいつを、周囲のやつらより一段上において、こいつに備わってる優秀なところと紳士らしいところとは、どこまでも保てるようにと、あらゆる用意を怠らなかった。だが、残念なことに、こいつはそれだけの骨折りをかける値打ちがないのだ。もしおれがこの世で何かの幸運に恵まれたいと思うとすれば、それはこいつがおれに自慢のできるりっぱなやつであってくれるということだった。そうしておれはこの生《なま》っ白《ちろ》い泣き虫小僧に、腹の底からがっかりした!」
この話のあいだに、ジョーゼフが牛乳がゆの鉢《はち》を持って戻《もど》ってきまして、リントンの前におきました。リントンはこの粗末な食べものをいやそうな顔をして掻《か》きまわしてみて、ぼくは食べられない、と言います。老下男も、この一つのことで、あるじの軽蔑に大いに共鳴したことを、私は見てとりました。もっとも、ヒースクリフは召使たちがこの子を尊敬して扱うように要求していることが、はっきりしていましたから、その気持は腹のなかだけに留めておくほかはなかったのですけれど。
「食えねえかな?」リントンの顔をのぞきこみながら、爺《じい》やは、聞かれると困るので声を小さくしました。「だがヘアトン坊やなんざ、ちいせえときゃ、こればっかり食ってただがなあ、あの子が食えておまえさまに食えねえはずは、あんめえと思うだがなあ!」
「ぼくはこんなもの食べないよ!」リントンは突き放すように答えました。「あっちへ持ってって」
ジョーゼフはプリプリしながら、食べものを取り上げ、それを私たちのほうへ持って来ました。
「このかゆにどこか悪いところでもあるでがすか?」盆をヒースクリフの鼻の下へ突きつけて、ジョーゼフが訊きました。
「何が悪いものか!」ヒースクリフが言いました。
「そんでも、旦那さまのお上品な坊っちゃまア、こんなもなア食えねえと言いなさるだ。だが考えてみりゃ無理もねえだ! あの子のおふくろさまアやっぱりあのとおりで――何しろわしどもの蒔《ま》く麦は汚なくて、奥さまの召しあがるパンにはならねえって話でがしたからな」
「母親の話はおれの前でするな!」主人はおこって言いました。「何かあいつの食えるものを持ってきてやれ、それだけのことだ。あれはふだん何を食ってるね、ネリー?」
私は、沸かした牛乳かお茶がいいでしょう、と申しました。それで家政婦がそれをこしらえるように言いつけられました。まあ――と私は考えました――父親の利己心のおかげで、この子は好きなことができそうだわね。きっと体の弱いことも考えて、どうにかこの子の辛抱できるような待遇をしなければならないことに気がつくだろう。私はヒースクリフの気持がこんな調子だということを、旦那さまにお話しして、お慰めしてあげよう。――これ以上ぐずぐずしている口実もなくなりましたので、私はリントンが人なつこい羊番の犬の近づいてくるのを、びくびくもので追い返そうとしているすきに、そっと外へ出ました。けれどもこの子どもはとてもゆだんがなくて、だましは利《き》きません。私が扉をしめたかと思うと、泣き声が聞こえ、つづいて気違いのように繰り返して叫ぶのが聞こえました――
「行っちゃいやだよう! ぼくはここにいたくないよう! ぼくはここにいたくないよう!」
つづいて掛け金が上がって、また落ちました。うちの人々はリントンを外へ出さなかったのです。私はミニーの背に乗って、駆け足で走らせました。こうして私の保護者のお役目は、ごく短い期間で終りを告げたわけでございます。
21
私どもはその日、キャシー嬢さまのお相手で泣かされました。従弟《いとこ》と遊べると思って、大喜びで張り切って起き出した嬢さまは、いなくなったと聞きますと、とても見ていられないほど泣き悲しむものですから、パパご自身でご機《き》嫌《げん》をとらなければなりませんでした。あの子はもうじき帰ってくるのだからと、よんどころなく言いきかせました。もっとも、「もし連れてこられたら」というただし書きはついておりましたので、その見込みは全然なかったのでございます。かわいそうに、この約束で、やっと嬢さまは泣きやみましたのですが、しかしやはり時の力は強いもので、その後もちょいちょい、いつリントンは帰ってくるのと、お父さまにお訊《き》きにはなりましたけれど、なかなか会えずにおりますうちに、お嬢さまの頭のなかのリントンの面影《おもかげ》はだんだんに薄れてゆきまして、次に会ったときにはわからなくなってしまったのでございます。
私は用事でギマトンへ参りましたときに、偶然に嵐が丘の家政婦と会いますと、いつも坊っちゃんはどうしていますかと訊くようにしておりました。リントンもキャサリン同様、世間から隔離されて暮らしていまして、会う折はなかったからでございます。家政婦の話によりますと、少年はやはり引きつづき健康がすぐれず、始終家の者にやっかいをかけているようでございました。ヒースクリフ旦《だん》那《な》は、なるたけ顔には出さないようにしているけれども、日がたてばたつほど、ますます嫌《きら》いになる様子で、子どもの声を聞くのさえいやらしく、長いこと同じ部屋にいることができない、と女は申します。二人のあいだでゆっくり話をすることなどはほとんどなく、リントンは客間《パーラー》と名づけられている小さな部屋で課業も受ければ宵《よい》も過ごし、そうでないときは終日寝ている、しょっちゅうせき《・・》をしたり、風邪をひいたり、頭が痛んだり、どこかしら故障があるからだ、という話でございます。
「それにまた、あんな気の弱い子どもも、見たことがありませんねえ」と女はつけ加えました。「そうしてとても自分の体のことには気をつけるんです。日が暮れてからちょっとでもおそくまで窓をあけたままにしておくと、すぐにお小《こ》言《ごと》なんです。ああ! 死んじゃう! 夜の空気は一息も吸えない! とこうなんです。それに夏のさなかでも火がなくちゃいけないんですよ。ジョーゼフの煙草《たばこ》は毒薬だっていうし、お菓子やおいしいものはいつも食べなくちゃならないし、朝から晩まで牛乳、牛乳って――ほかの者が冬の寒気にふるえてるなんてことはおかまいなしでね、毛皮のついた外套《がいとう》にくるまって炉ばたの椅子《いす》にいて、焼きパンにお湯かほかの飲みものかを、脇棚《わきだな》にのせとくんです。ヘアトンがかわいそうに思って、遊ばせてやろうとそばへ来ると――ヘアトンさんは乱暴だけど、ひとはごく好《い》いんでね――まあ必ず片っ方は悪態つく、片っ方は泣き出すでけんか別れでさね。旦那は、もしわが子でなかったら、アーンショーがあの子をなぐってミイラみたいにしちまうのを喜んで見てるかもしれませんよ。それから、あの子が自分の体ばっかりかわいがってることを、半分でも知ったら、旦那は血相かえて家の外へ突き出しちまうでしょうよ。だから旦那のほうでも、そういう気を起こすと危ないと思ってるらしいんですね、けっして客間《パーラー》へははいって行かないし、自分のいるときの居間でそんなところを見せようもんなら、すぐに二階へ追いやっちまうんです」
この話から私の察しましたことは、ヒースクリフの子どもは、少しも同情をもってくれるひとがないために、生まれつきそうでないにしても、身勝手な、ひとから嫌われる子どもになっている、ということでした。それで私も、それがために、あの子に対する同情が失《う》せて参りました。ただそれにしましてもやはり、あの子の運命には一脈の哀れを感じ、もし私どもといっしょにいられたら、と思わずにはいられませんでした。エドガーさまもあの子の様子を探るように、私によくおっしゃいました。思うに旦那さまはとてもあの子のことを気にかけていらしったので、危険を冒しても会ってみたいくらいだったでしょう、一度、リントンは村へ出てくることがあるかと、家政婦に訊いてみろとおっしゃったこともございました。家政婦はたった二度だけ、馬に乗って父親に伴われて出たことがあるけれども、二度とも、すっかりくたびれて、その夜から三、四日はまるで動けないような顔をしていた、と申しました。たしかこの家政婦は、リントンが来てから二年後に暇をとりまして、次に来たのは私の知らない女《ひと》でしたけれども、それがいままでずっとおります。
キャシーさまが十六におなりになるまで、スラシュクロス屋敷はずっと楽しい日がつづきました。嬢さまのお誕生日は、すなわち奥さまのご命日でもございますから、私ども少しでも嬉《うれ》しそうな顔を見せないようにしておりました。ご主人は必ずその日は書斎にひとりきりでお過ごしになり、日暮れからギマトン墓地へおいでになって、ときとすると真夜中までそこにおいでになることも珍しくありませんでした。それでキャサリンは相手にされませんから、ご自分で何か楽しみの種を見つけなければなりません。この年の三月二十日は春らしいうららかな日でございましたが、旦那さまが書斎にお引込みになると、嬢さまは外出の服装で私のところへ降りてこられ、荒野《ムーア》の端までいっしょに遊びに行ってくれと言われます。近いところだけなら、一時間以内に帰って来るなら出てもいいと、旦那さまのお許しが出ていたのでございます。
「だから早くしてよ、エレン! 行先はあたしが知ってるのよ、雷鳥が集まって巣をつくってるところなの、巣がもう出来てるかどうか見たいのよ」
「それじゃずいぶん遠くでございましょうね」と私は答えました。「荒野《ムーア》の端には雷鳥は巣をつくりませんよ」
「いいえ、そうじゃないの、あたしついこのあいだ、パパといっしょに行ったんだから」
私はなにげなしに帽子《ボンネット》をかぶって出かけました。嬢さまは私の前をぴょんぴょんはねて行くかと思えば、またそばへ帰ってきて、すぐにまた若いグレイ・ハウンドみたいに飛び出してゆきます。はじめ私は、あちこちに雲《ひば》雀《り》のさえずりを聞き、うるわしく暖かな日射《ひざ》しを楽しんだりしながら、また私の秘蔵《ひぞ》っ子《こ》、私の生きる喜びとも申してよいお嬢さまが、金髪の巻毛をたばねずに後ろになびかせ、生き生きとした頬《ほお》はまるで野ばらのようにやさしく清らかに、ひとみは晴れ晴れとした喜びに輝いているのを見まして、まことに好い気持でおりました。
「どうですの、あなたの雷鳥はどこにいますの、キャシーさま、もういなくちゃならないはずでしょう。猟場《パーク》の垣《かき》から、もうずいぶん来ましたよ」
「あら、もうちょっと先なのよ――ほんの少しばかりよ、エレン」どこまで行っても嬢さまはそう答えます。「あの小山をのぼって、あの土手を越えて、その向こう側まで行くまでに、きっと見せてあげるわよ」
でも上る小山も越える土手も、その辺にはたくさんありますから、とうとう私はくたびれまして、もうこのくらいにして引き返しましょうと申しました。嬢さまはずっと一人で先へ行っていましたので、私は大きな声で呼びましたが、聞こえなかったのか相手にしないつもりか、まだどんどん飛んでゆきますので、私もしかたなしについて参りました。とうとう嬢さまは、とあるくぼ地へもぐりこんでしまいまして、私がその次に嬢さまの姿を見つけましたときは、お屋敷よりも嵐が丘のほうへ二マイルも寄ったところへ来ておりました。見ると二人の人間が嬢さまをつかまえております。その一人はたしかにヒースクリフそのひとに違いないのです。
キャシーは雷鳥の巣を盗むか、そうでなくても捜している現場を捕えられたのでした。この辺の丘はヒースクリフの地面でございますから、つまりヒースクリフは密猟者を叱《しか》っていたわけなのです。
「あたし取りもしないし、見つけもしません」私がやっとそばまで行きついたときに、嬢さまは、このとおりというように手をひろげてみせながら、こう言っているところでした。「取るつもりでもなかったの。ただパパから、ここにはたくさんいるって聞いたから、卵を見たいと思ったんです」
ヒースクリフは私を見て、悪意のこもった微笑で、この相手が誰《だれ》だか知ってるぞ、だからよくは思っていないぞという腹をあらわに見せまして、「パパ」というのは誰のことかと訊《たず》ねました。
「スラシュクロス屋敷のリントン氏です。きっとあなたはあたしを知らないと思ってましたわ、それでなければ、あんな口のきき方はなさらないはずですもの」
「するとあんたのパパがえらいひとで、世間から尊敬されてると思ってるんだね」ヒースクリフは冷やかしました。
「それであなたはどういうひとなの?」ふしぎそうに相手の顔を見つめながらキャサリンが訊きます。「あのひとは前に会ったことがあるわ。あのひとはあなたのむすこさん?」
指さしたもう一人はヘアトンで、年齢《とし》は二つとっても、体が大きくなっていっそう頑丈《がんじょう》になったほか、少しも成長したところはなく、相変らずのはにかみ屋で、ぶっきらぼうでした。
「キャシーさま」私は口を出しました。「一時間のはずがもうやがて三時間にもなりますわ。ほんとにもう帰りましょう」
「いや、あれはおれのむすこじゃないが」ヒースクリフは私を押しのけながら答えました。「おれにも一人あって、これにもあんたは会ったことがある。だから、御乳母《おんば》さんは急いでるけれども、二人ともうちへ来て一休みして行きなさい。すぐこのヒースの丘のてっぺんを、ちょっと曲ったところだから、うちへ寄って行かんかね? 一休みしたほうが早く帰れるし、来れば親切に取り持ってあげるよ」
私はキャサリンに、行ってはいけません、そんなこと問題になりません、と耳打ちしました。
「なぜ?」と嬢さまはふつうの声で問い返しました。「あたし走ったからくたびれてるのよ。それに地面は露で湿ってるし、ここじゃ腰を下ろせないわ。行きましょうよ、エレン。それに、このかたのむすこさんに、あたしが会ったことがあるっておっしゃるんですもの。たぶん何かのまちがいだと思うの。だけどあたし、このかたのお家《うち》は見当がついてるわ、ペニストンのがけの帰りに行ったお百姓家よ。そうでしょう?」
「そのとおり、おい、ネリー、おまえは黙ってなさい――うちへ来てみたら嬢さんは喜ぶぞ。ヘアトン、その娘《こ》といっしょに先へ行け。おれはネリーといっしょに歩こう」
「いいえ、お嬢さまはそういうところへはけっしておいでになりません」ヒースクリフにつかまえられた腕をほどこうともがきながら私は叫びました。けれどもキャシーはいっさんに丘の鼻を曲って駆けて行きまして、もう戸口の前の石のところまで行ってしまいました。ヘアトンはいっしょに行くように言いつけられても、連れだつまねもするではなく、きまり悪そうに道ばたへ寄って、やがて姿を隠してしまいました。
「ヒースクリフさん、これは大変まちがったことですわ」私はなお言い張りました。「あなたは初めから親切でおっしゃるんじゃないんです。それに嬢さまがお宅でリントンさんに会えば、家へ帰って何もかも話してしまいます。そうすればあたしが悪いことになるんです」
「おれはあの子をリントンに会わせたいのだ。この四、五日、あいつはぐあいがいいらしくてね、あれがひとに会えるほど元気なのは珍しいことなんだ。それに、あの娘にうちへ来たことを内証《ないしょ》にさせるぐらい、わけないことだよ、何が困ることがあるんだい?」
「困るのはね、もし旦那さまにわかると、あなたの家へ嬢さまを行かせるようにしたといって、あたしが憎まれるからなんです。そうして、あなたが嬢さまを誘ったのは悪い下心があるからだと、あたしはにらむんですよ」
「おれの下心ぐらい公明正大なものはないんだぜ。そんならおまえにすっかり種を明かしてやろう。つまり二人が従姉弟《いとこ》どうしで恋に落ちて、そして結婚するんだ。おれはおまえの主人にも良いようにと思ってやってるんだぜ。だってあのおてんば娘には遺産の当てはないんだ、それがもしおれの思うとおりになれば、即座にリントンと二人、共同相続者にしてもらえるんだからな」
「でもリントンさんが早死にすれば――それにあの子はいつまで生きてるか、わかりゃしませんから、そのときはキャサリンさんが相続人ですよ」
「いいや、そうはゆかん。遺言状には必ずそうなるという条項はないのだ。リントンの財産はおれの物になるだろう、だが争いの起こらんように、おれはあの二人が夫婦になることを望むのだ、またそうさせようと腹をきめてるのだ」
「ところがあたしはもう二度とお嬢さまをあなたのお家へ寄りつかせないと腹をきめましたよ」門まで来たときに、私は答えました。キャシー嬢さまはそこに私たちを待っていました。
ヒースクリフは私にもうやめろと言って、私たちの先に立って早足で小道をのぼり、扉《とびら》をあけにゆきました。お嬢さまはヒースクリフをどう考えたらよいのか、心をきめかねるように、幾度も私のほうを見ていましたが、いよいよ内へはいると、あるじは嬢さまと眼《め》を合わせるたびに、にっこり笑って、話しかけるときも声を和らげるのでした。私はまあなんという馬鹿《ばか》だったのでしょうか、嬢さまのお母さまの思い出が、嬢さまを苦しめようとする下心を、ひょっとしたら失わせるかもしれぬなぞと想像していたのですもの。リントンは炉のところに立っておりました。まだ帽子をかぶったままで、ジョーゼフにぬれていない靴《くつ》を持ってきてくれと声をかけていましたのは、野原を歩いてきたからでした。十六にまだ何カ月か間のあるにしては、背が高くなりました。かわいらしい顔立ちに変りはありませんが、眼色と顔の色つやとは私の覚えているころよりはずっとよくなっておりました。とはいえ、それも健康によい空気と発育を助ける太陽とからの、ほんのしばらくの借り物の元気にすぎないようですが。
「さあ、あれは誰?」ヒースクリフ氏はキャシーに向かって訊きます。「わかるかい?」
「あなたのむすこさん?」はじめは子どもを、次には父親を、疑わしそうに見比べてから、嬢さまは言います。
「そのとおり、そのとおり。だがあの子を見るのはこれがはじめてかな? 考えてごらん! なあんだ! あんたは忘れっぽいんだな。リントン、おまえは自分の従姉《いとこ》を思い出さんのか? しょっちゅう会いたい会いたいと言って、おれたちを手こずらせていたくせに!」
「まあ、リントン!」その名を聞くと、うれしい驚きにぱっと顔を輝かせながら、キャシーは叫びました。「まあこれがあの小さかったリントンかしら! あたしより高いんじゃないの! あなたほんとにリントン?」
少年は進み出て、そうだと言いました。嬢さまは夢中で接吻《せっぷん》をし、そして二人は互いに顔をつくづく見あって、月日が刻みつけた互いの容貌《ようぼう》の変化に驚きあいました。キャサリンはもう背たけが伸び切って、姿は愛らしく肥えていながら、しかもすらりとして鋼鉄のように弾力があり、全体の感じは健康と精気とが内からキラキラと光をほとばしらせるようでした。リントンは顔も動作もひどく物《もの》憂《う》げで、体格はきわめて弱々しく見えましたが、その態度にはこれらの欠点を補う一種の優美なところがあって、感じは悪くありません。久しぶりで会った従弟《いとこ》といろいろ仲の良いところを見せましてから、キャシーはヒースクリフのところへ参りました。それまであるじは扉のあたりをぶらぶらしながら、家の内と外とに同時に気を配っていました――つまり外を見るふりしながら、内にばかり気をつけていたのでした。
「じゃあ、あなたはあたしの叔父さまなのね?」接吻しようとして伸び上がりながら、嬢さまは叫びました。「はじめはおこってらしたけど、それでもあたし叔父さまが好きだと思ったのよ。なぜちっともリントンといっしょに、うちへ来て下さらないの? 何年も前から、こんなに近くにいらしったのに、ちっとも会いにいらっしゃらないなんて、変だわ。どうしてですの?」
「あんたの生まれる前には、一度か二度、よけいに行き過ぎたよ」と答えましたが、「ああこれ――だめだ! そんなに接吻のおあまりが残ってるなら、みんなリントンにしてやりなさい。おれにしてくれてもむだだからな」
「いけないエレンね!」キャサリンはこんどは私にとびかかって、雨のように接吻を降らせてきました。「意地わるのエレン! ここへ来させまいとするなんて! でもこれからは毎朝ここまで散歩に来るわ、いいでしょ、叔父さま? そしてときにはパパも連れてくるの。二人で来ても喜んでお会いになる?」
「もちろんさ!」たずねて来るという「ふたり」の双方への深い反感から、苦い顔になるのを押えきれないのに、叔父さまは答えましたが、つづけて「だが待ちなさいよ」と嬢さまのほうへ向きなおり、「いま考えていたところだが、いっそ話してしまったほうがいいだろう。リントン氏はおれに対して反感を持ってる。一度ずっと前に、お互いにひどく乱暴な言葉を使って、けんかをしたことがあるのさ。だから、もしあんたがこの家へ来るということを話したら、父さんはたちまち行ってはいかんと言うだろう。だから、あんたはこれから先も、従弟に会いたいと思ったら、用心して、それを言わんことだ。来たければ来てもいいから、来るということを口に出してはいかん」
「どうしてけんかしたの?」すっかりしょげかえって、嬢さまは訊《き》きました。
「あんたの父さんはね、おれが貧乏だから、妹をくれたくなかったのだ」ヒースクリフは答えました。「だからおれが妹と夫婦になったので、悲観した。誇りを傷つけられた、どうしてもそれを赦《ゆる》せんと思っとるんだよ」
「そりゃまちがってるわ!」嬢さまは言いました。「いつかあたしがそう言ってあげるわ。でもリントンやあたしは、あなたがたのけんかとは何も関係ありませんわ。でもそれならあたしはここへ来ませんから、リントンがスラシュクロス屋敷へ来るといいわ」
「あすこ、ぼくには遠すぎるよ」従弟は口のなかで言いました。「四マイルも歩いたら、ぼく、死んじゃうよ。やっぱりキャサリンさん、ここへ来てください、ときどきね。毎朝でなくてもいいから、一週間に一度か二度はね」
父親は激しい侮《ぶ》蔑《べつ》のひとみをわが子に投げて、
「おいネリー、おれは骨折り損をしそうだよ」と私に話しかけました。「この弱虫小僧のいわゆるキャサリンさんに、こいつの正体がわかって、振られそうだて。これがヘアトンだったらなあ! ――あんな下種《げす》に成りさがっても、日に二十ぺんもヘアトンを惜しいもんだとおれは思うんだぜ! もしほかのやつだったら、おれはかわいがったろう。だがあいつならその娘に好かれる心配もなかろうから、そこにいるいくじなしが自分から羽をばたつかせる元気も出んようなら、ひとつヘアトンを蹴合《けあ》わせてやるつもりだ。まあリントンのやつは十八まではもつまいと睨《にら》んどるんだ。ああ、なんという腑抜《ふぬ》けだ。この畜生は! 靴をふくことにばかり気をとられて、娘のほうを見ようともせんじゃないか――リントン!」
「はい、お父さん」少年は答えました。
「おまえは従姉《ねえ》さんをどこか案内して見せるところでもないのか? 兎《うさぎ》かいたちの巣でも知らんのか? 靴をはきかえる前に庭へでも連れて行ってあげろ、それから厩《うまや》でおまえの馬を見せてあげろ」
「ここにすわったほうがよくはない?」リントンはもう動きたくないらしい口調でキャサリンに話しかけました。
「どっちがいいかしら」嬢さまは跳ねまわりたい気持をはっきり見せて、わきのほうへ眼をやりながら答えます。
少年はそれでも椅子《いす》にかじりついて、縮かまってよけいに火のほうへ体を寄せました。ヒースクリフは立って、台所へ行き、そこから裏庭へ出て、ヘアトンを呼んでいます。ヘアトンの返事が聞こえ、やがて二人ははいってきました。若者は体を洗っていたことが、頬のほてった色やぬれた髪でわかりました。
「ああそうだわ、叔父さまにお訊きするわ」いつかの家政婦の言葉を思い出して、キャシー嬢さまは叫びました。「このひとはあたしの従兄《いとこ》じゃないんでしょう、ね?」
「従兄だとも、あんたの母さんの甥《おい》だ。嫌《きら》いかね?」
キャサリンは変な顔をしました。
「なかなかいい若い衆だと思わんかね?」
と追いかけて言いますと、無礼な小娘は爪《つま》立《だ》ちをして、ヒースクリフに何かささやきました。叔父さんは笑いました。ヘアトンは暗い顔になります。この若者はまた、キャシーに馬鹿にされはしないかと、とても気にしていて、また確かに自分の弱味をおぼろげに知っているのだなと、私は感じました。けれども主人――でしょうか、それとも保護者でしょうか――の次の言葉は、その暗い顔を明かるくしてしまいました。
「おまえは、ここの家での嬢さんのお気に入りだぞ、ヘアトン! 嬢さんが言っとるぞ、おまえは――なんだと言ったね? とにかく、なんだかとてもお世辞を言っとる。さあ、おまえが案内して農場をまわって来い。紳士らしくするんだぞ、忘れるな! 汚ない言葉を使わんで、それからお嬢さんがおまえのほうを見ても正面からにらみつけてはいかんぜ。そういうときはすぐに横向いて顔を隠すんだぞ。口をきくときはなるべくゆっくりやって、手はポケットに突っこまんことだ。さあ行って来い、ひとつ、できるだけ上手にお嬢さんを遊ばせてあげろ」
窓の下を二人が連れだってゆくのを、ヒースクリフは見ていました。アーンショーは嬢さんから顔をすっかりそむけていますの。見慣れた風景を、まるで旅行者か絵かきかなんぞのように深刻に研究してるようでしたわ。キャサリンのほうは、いっこうヘアトンに胸のときめきを覚えないおちゃめな顔で、チラッと見ましたが、あとはもう何かおもしろいものはないかと捜すほうにばかり気をとられて、何かの歌を口ずさんで話がないのを紛らせながら、朗らかに見物に出かけてゆきました。
「おれがやつの口に猿《さる》ぐつわをはめたようなもんだ」ヒースクリフは評しました。「きっと帰ってくるまで一言半句も口から出せんだろう! ネリー、おれがあいつの年ごろだった時分を思い出してみなさい――いや、あれより二、三年若かったころさ。おれもあんな馬鹿づらの、ジョーゼフのいう『薄のろ』だったかなあ!」
「もっと悪かったでしょうね」と私は答えました。「だって、無愛嬌《ぶあいきょう》なところだけおまけがついていましたもの」
「あいつを見てると、おれはいい気持だ」考えるままに口に出して、ヒースクリフはつづけます。「あいつはおれの思ったとおりになった。もしあいつが生まれながらの馬鹿だったら、半分も楽しめなかったろうが、あいつは馬鹿でない。だからおれは、あいつがいつもどういう気持になってるか、みんなおれの胸に覚えのある気持だから、一つ残らずわかるんだ。たとえば今だって、あいつがどういうつらい思いをしているか、隅《すみ》から隅までわかるんだ。だがあれは、これから始まるあいつの苦労の序の口にすぎんがね。しかもあいつは、今の下劣と無知のどん底から、絶対に浮かび上がることはできん。おれは、あいつの飲んだくれおやじがおれを押えつけたよりも、ずっとしっかりと、ずっと低いところで、あいつを押えつけた、なぜ低いかといえば、あいつは自分の野蛮さを自慢にしていやがるからな。おれがなんでも動物的でない高尚《こうしょう》なものは愚劣で弱いものだとして、軽蔑するように教え込んだのだ。おまえはヒンドリーがもしあいつを見たら、自分のせがれに鼻を高くするだろうとは思わんかね? ――まあざっとおれが自分のせがれを自慢するぐらいにだぜ。だが二人のせがれにはこういう違いがある――一人は敷石に使われた黄金だ、もう一人は銀の代用にするためにみがきをかけられた錫《すず》だ。おれのせがれは本来は三文の値打ちもないしろものだが、それでもおれはその安物に、できる限りの箔《はく》をつけてやるわけだ。ところがヒンドリーのせがれは上等飛び切りの良い素質を持ちながら、それがみんな無駄《むだ》になっている、素質を生かさないだけでなくて、もっとひどいことになっている。おれのほうは何ひとつ悔むことはないが、ヒンドリーのやつは、おれのほか誰《だれ》も思い及ばないほどくやしいはずだ。何よりもくやしかろうと思うのは、ヘアトンがばかばかしくおれになついてることだ! これでおまえも、おれがヒンドリーを負かしたことを認めるだろう。もしもあの悪党が生き返ってきて、わが子をいじめたと言っておれを罵《ののし》ったら、そのわが子が、自分の世のなかでたった一人の好きなひとに向かって、無礼を働いたと言って、おやじをたたき返すだろう、おれは手をたたいて高見の見物だ!」
そこまで考えて、ヒースクリフは悪魔のようにクックッ笑いました。私はなんとも答えませんでしたが、相手が返事をしてもらうつもりでないことも明らかでございました。この話のあいだ、リントンは私どもの話の聞こえないところに一人ぽつねんとしておりましたが、何かソワソワしはじめました。おそらく、わずかばかり疲れるのを恐れたばかりに、キャサリンと遊ぶ楽しみを自分からのがしたので、後悔しているのでしょう。父親は、少年が窓の外をキョロキョロ見ながら、思い切り悪く帽子のほうへ手を伸ばしかけているのに眼をとめまして、
「立て、このぐうたら坊《ぼう》主《ず》!」と、わざと快活に呼びかけました。「二人のあとを追ってゆけ! 蜂《はち》の巣箱のおいてあるかどにいるぞ」
リントンは元気を出して炉のそばを離れました。窓格《まどごう》子《し》が開いていました。それで少年が外へ踏み出したときに、キャサリンが、お愛想のへたなお相手役に、あの扉の上には何が書いてあるんでしょうと聞いているのが聞こえました。ヘアトンは見上げて、いかにも無学文盲らしく頭を掻《か》いて、
「うん何か、くだらないことが書いてあるが――ぼく読めないんだ」
「読めないって? あら、あたしは読めてよ、英語ですもの。でもなぜあんなものがあるのか、それが知りたいのよ」
リントンがくすくす笑っています。はじめて見せる愉快そうな顔でした。
「ヘアトンは字が読めないんだよ。こんな大きななりをした低能があるなんて、とても本当と思えないだろう?」
「このひと、これで一人《いちにん》まえなの? それとも足りないの? どこか変なの? これであたし、二度、質問したのよ。二度とも、あんまり間の抜けた顔してたから、あたしの言うことがわからないのかと思うの。あたしもこのひとの言うこと、てんでわからないわ!」
リントンはまた笑って、あざけるようにヘアトンを横眼に見ましたが、笑われたほうはその瞬間には、確かに十分よく事情がのみこめない様子でした。
「ただ怠け者だっていうほかには、別になんでもないのさ、そうだろう、アーンショー?」リントンが言いました。「キャシーはおまえが白痴じゃないかと思ってるんだ。いつも『生《なま》学問』だなんて馬鹿にしてた罰が今あたったのだろう。キャサリン、きみはあのものすごいヨークシャーなまりに気がついただろう?」
「ふん、勉強なんか畜生、なんの役に立つかい?」ヘアトンは、毎日いっしょにいるだけに気軽に応酬して、うなり声を出しました。さらに進んで論じようとする出ばなを、二人の子どもたちが面白《おもしろ》そうに腹をかかえて笑い出しました。軽はずみな嬢さまは、この若者の奇妙な言葉がなぐさみごとになることを発見して、大喜びなのです。
「そんな畜生なんて言葉つかって、なんの役に立つかい?」リントンは、笑いながら、「パパがさっき汚ない言葉つかっちゃいけないって言ったのに、使わないと物が言えないだろう。紳士らしくちゃんとしなきゃだめだぞ、ちゃんとしろ!」
「てめえがそんな女みてえな男でなかったら、この場でなぐり倒してやるとこだぞ、この弱虫の蚊とんぼ野郎!」怒れる野人は、憤《ふん》怒《ぬ》と屈辱の入りまじった真っ赤な顔をして、その場を去りがけに言い返しました。はずかしめられていることは気づいても、その恨みをどう形に表わしたらいいのか、迷っているふうでした。
私といっしょにこの会話をそばで聞いていたヒースクリフ氏は、ヘアトンが去ってゆくのを見て微笑しましたが、すぐそのあと、まだ戸口のところで談笑しているおしゃべりな少年少女を、異様な反感の眼で見やっていました。少年はヘアトンの悪いところや足りないところを述べたてたり、そのおかしな奇行の多いことを物語ったりするあいだはとても元気いっぱいで、少女もまた二人して悪い性質をさらけ出していることは少しも反省しないで、相手の小生意気な悪意のこもった物言いを面白がっているのでした。私はリントンをかわいそうに思うよりは嫌う気持のほうが強くなってきまして、父親がその子を軽んじているのも、ある程度まで無理もないと思うようになりました。
私どもは午後までいてしまいました。いくら言っても、キャシー嬢さまがなかなか帰ろうとしませんのです。けれども幸いにリントン氏はまだ自室から出てこられませんでしたので、そんなに長く外にいたことを知られずにすみました。家へ帰るみちみち、私はいま別れてきたひとたちの性格について、嬢さまに話してあげようといたしましたけれど、嬢さまのほうでは私があの人々に偏見を抱いているものときめこんでいるのでした。
「ああそうだわ! おまえはパパに味方したいんでしょ、エレン? わかったわ、おまえは公平でないんだわ、だってそうでなかったら、いままで何年もリントンが遠くにいると言って、あたしをだますはずがないもの。あたし本当に、とても腹が立つわ、ただきょうは、あんまりうれしくっておこった顔ができないだけなの! だけどおまえ、叔父さまのことは黙ってなくちゃいけなくってよ。あた《・・》しの《・・》叔父さまなんですからね、覚えておきなさい! それからあたしは叔父さまとけんかしたことで、パパを叱《しか》ってあげるの」
こんなふうにまくし立てられまして、私もとうとう嬢さまの考えの誤っていることをわからせようとしてもだめだとあきらめてしまいました。その晩は嵐が丘の話は出ずにすみましたが、それは父さまに会わなかったからで、翌日はすっかりばれ《・・》てしまいましたから、私は情けないやらくやしいやら――とは申しても、さほどに申しわけないと思ったわけではございません、嬢さまを監督したり注意したりするお役目は、私よりもご主人がお引き受けになったほうが効果があると思っておりましたから。けれども旦《だん》那《な》さまはやはり気がひけて、なぜ嬢さまが嵐が丘のひとたちとの交際を避けなければならないのか、その理由を、納得のゆくほど明からさまにお話しにはなりません。それでキャサリンさまのほうでは、いままで気ままにさせられていただけに、なんでそれほどうるさく束縛されるのか、どこまでももっともな理由を聞かなければ承知しませんでした。
「あのねえパパ!」朝のご挨拶《あいさつ》がすみますと、嬢さまはさっそく大きな声で、「きのうね、荒野《ムーア》へ遊びに行ってね、誰に会ったか、当ててごらんなさい。あら、パパったら、びっくりしているわ! そうら、悪いことをした覚えがあるんでしょう? あたしわかっちゃった――でもまあどうしてそれがあたしにわかったか、聞いてちょうだい、いいえ、聞かなくちゃいけません。それからエレンもよ、パパとぐる《・・》になって、しかもあたしがリントンの帰ってくるのをあきらめないで、いつもさびしがってるのを、いかにも気の毒そうな顔をして見せたりして!」
そして正直にきのうの遠足とその後の出来事について話しました。旦那さまは、一度ならず私にうらめしそうな顔をお向けになりながらも、おしまいまで何も言わずにお聞きになって、さて嬢さまをお引き寄せになり、パパはなぜリントンが近所にいることをおまえに隠していたか、知っているかとお訊きになりました。「おまえの身のために悪いと思わないのに、パパがおまえの楽しみを奪うなんてことができると思うのかね?」
「それはパパがヒースクリフさんをお嫌いだからよ」
「それならおまえは、パパがおまえの気持よりも、自分の好き嫌いのほうを大切に思っているというの、キャシー? いいや、本当はね、パパがヒースクリフさんを嫌ってるからではなくて、ヒースクリフさんがパパを嫌ってるからなのだよ。そしてあのひとは、この上もない意地の悪いひとでね、少しでも気を許せば、自分の憎いと思うひとたちを苦しめて、破滅させては喜んでいる人間だからなのだよ。おまえがリントンと仲よくしていれば、どうしてもあの男と会うことになる、それがパパにはわかっていた。またあの男がパパの娘として、おまえを嫌ってることも、パパは知っていた。だからリントンに会わせないようにと気を配ったのは、けっしてほかにわけがあったのではなくて、おまえのためを思ったからなのだよ。パパはおまえがもっと大きくなったら、いつかこのことを話そうと思っていたが、それが間にあわなくてすまなかったね」
「でもヒースクリフさんはとてもよくしてくだすったのよ、パパ」キャサリンは全然納得しませんで、述べ立てました。「そしてあのかたはあたしたちが会うことに反対しませんのよ。いつでも好きなときに来ていいけれども、ただそのことをパパに言ってはいけない、それはパパがおれとけんかをして、イザベラ叔母さんと結婚したことでおれを赦《ゆる》してくれないからだって、こう言うのよ。そのとおりパパはまだ赦してあげないんだわ。だから悪いのはパパのほうなのよ。少なくとも向こうは、あたしたちを――リントンとあたしを、仲よくさせたいと思っているのに、パパはその気がないんですもの」
ご主人は、キャシーがヒースクリフの腹黒い性質について言って聞かせてもいっこう取り合いませんので、イザベラに対する仕打ちと、嵐が丘の家や土地をわがものにしたやり口とを手短かにお話しになりました。それはその話題について、とてもながながと講釈をする気になれなかったのは無理もないことで、ほんのあらましをお話しになっただけでさえ、リントン夫人のおなくなり以来、胸にたまった昔の敵への不快と嫌《けん》悪《お》とが、ま新しく込み上げる思いだったからでございます。「あの男のことさえなかったら、キャサリンはまだ生きていただろうに!」これが片時も忘れられぬ旦那さまの痛ましいわずらいの種でございましたから、そういう目で見ればヒースクリフは、愛する妻を手にかけた殺人者としか思えませんのでした。キャシー嬢さまは――たとえば言うことをきかなかったとか、ずるいことをしたとか、癇癪《かんしゃく》を起こしてあばれたとか、持ち前の短気や軽はずみのほかに深い底意もなく、しかもその日のうちに後悔してすんでしまうような、取るに足りないご自分の行ないのほかには、これまで悪事というものにぶつかったことがなかったのですから――長の年月、胸の奥で恨みを返そうと思いをこらし、入念に、また一片の良心の呵責《かしゃく》もなくそのたくらみを実行するというような、そんな精神の陰険さ、凶悪さに、驚きあきれてしまいました。はじめて知ったこの人間性の一面――それは今日まで嬢さまが見たり考えたりした世界の外にあったもので――その印象と衝撃とはまことに深刻なものであったように見受けられます。それゆえエドガーさまも、これ以上こんな話をつづけるには及ばぬと見きわめをおつけになり、ただ次のようにおっしゃっただけでした――
「キャシーや、ヒースクリフの家や家族のひとたちから、おまえを遠ざけておきたいとパパが思うわけは、これでわかったろうね。もういいから、いつものように勉強したり遊んだりしなさい。そしてあの家のひとたちのことは忘れてしまいなさい」
キャサリンはお父さまに接吻《せっぷん》して、それから例のとおり二時間ばかり、おとなしく腰を落着けて勉強しました。それからお父さまといっしょにお庭へ出まして、一日はいつものように過ぎましたが、夜になって寝室へ引き取ってから、わたしが着換えのお手伝いに参って見ますと、まあ、あなた、嬢さまは寝台のわきにひざを突いて泣いていらっしゃるのです。
「おやまあ、お馬鹿《ばか》さんですねえ! もし本当に悲しいことがあったら、こんな小さなことぐらい思うようにならないからって、恥かしくって涙なんか出せるもんじゃありませんよ。あんたはまだ悲しみらしい悲しみのほんの前ぶれにも会ったことがないんですよ、キャサリンさん。まあちょっとでも考えてごらんなさい。旦那さまもあたくしも死んでしまって、この世にたったひとりぼっちで残されたりしたら、どんな気持がするとお思いですか? そういう憂《うき》目《め》と、今日のことを比べてごらんなさい、そうして今、お父さまやネリーがいてくれてありがたいとお思いなさい、もっとほかにも仲よしがほしいなんて欲ばらないで」
「だって、エレン、あたし自分のために泣いてるんじゃないわ、リントンがかわいそうだからよ。あすまたあたしに会えると思ってるんですもの、とてもがっかりするわ。せっかくリントンがあたしのことを待ってるのに、行ってやれないんですもの!」
「つまらない、あなたがリントンを思ってあげるほど、リントンもあなたのことを思ってるとでもいうんですか? あの子にはヘアトンというお友だちがありますよ。たった二へん、それも半日しか会わなかった親戚《しんせき》がいなくなったからって泣くひとは、百人に一人もいやしません。リントンだってあらましの察しがついて、これ以上あなたのことで苦労なんかしないでしょうよ」
「でも、あの子にあたしが行けなくなったわけを手紙に書いてやってもいけない?」嬢さまは体を起こして、「そして貸してあげるって約束した本を送ってやることもいけない? あたしみたいな良い本、リントンは持っていないのよ、だからとても面白いってあたしが話したら、ぜひ貸してって言うのよ。いけないの、エレン?」
「いけません! ほんとにいけません、ほんとです!」きっぱり私は答えました。「そうすれば向こうでも手紙をよこすでしょうし、だんだんきりがなくなります。いいえ、キャサリンさん、すっかり縁を切らなくちゃいけません。パパはそのつもりでいらっしゃるから、あたしがちゃんとそうなるまで見届けます」
「だって、短い手紙の一つくらい――」哀れみを乞《こ》う顔をこしらえて、また始めますので、
「お黙りなさい」私はきめつけて、「短い手紙の話はもうしません。お床へおはいんなさい」
嬢さまはとても憎らしい顔をして私を睨《にら》みました。あまり憎らしいから、はじめはおやすみの接吻もしてやりませんでした。掛《か》け蒲《ぶ》団《とん》をかけてあげて、とても不愉快になってお部屋の扉《とびら》をしめました。が、途中まで行って、気がとがめるものですから、そっと引き返してみました。すると、どうでしょう! 嬢さまは、ちゃんとテーブルのところに立って、白い紙をおいて、鉛筆を握ってるじゃございませんか。私がはいってゆきましたら、すまなそうにその鉛筆を、私から隠しているんですわ。
「お書きになったって誰のところへも届けられませんよ。そして今すぐ蝋燭《ろうそく》を消してしまいますからね」
蝋燭消しを炎の上においたその手をピシャリとたたいて、「意地わる!」と癇《かん》のたかぶった声。そのまま私がまた出てしまいますと、まずこの上なしの大不機嫌で、扉のかんぬきをおろしてしまいました。手紙はやはり書きあげて、村から来る牛乳配達に頼み、宛《あて》名《な》の先へ届けました。けれども私が知ったのはしばらくあとのことでございます。何週間かたちまして、キャシーのご機嫌はなおりましたが、妙に一人でどこかの隅《すみ》へ逃げ込むのが好きになりまして、また本を読んでいるときに急に私がそばへ行きますと、びくっとして本の上に突っ伏してしまい、隠そうとすることがたびたびございました。ページのあいだから別の紙が一枚、顔を出しているのを、私は見つけてしまいました。そのほかにもなんのつもりか朝早く起きて、台所のあたりにまごまごしていまして、何か来るのを待ってでもいるようなそぶりでしたし、書斎の櫃《ひつ》のなかに自分の引き出しを一つこしらえまして、そこにかがみこんで何時間もごそごそやっているようになり、外へ出かけるときには引き出しの鍵《かぎ》を必ず持ち出すように、格別に気を配っているようなこともありました。
ある日、この引き出しを嬢さまが調べているときに、私はそのなかには近ごろおもちゃやらこまごました飾り物の類を入れたはずですのに、中身がいくつかの紙包みに化けているのを見てしまいました。これは変だ、何かいわくがありそうだと思いまして、一つその秘密の宝物をこっそりのぞいてみようという気になりました。で、夜になり、嬢さまも旦那さまも二階へ上がられた後、自分の鍵束を捜しますと、うまくその引き出しのに合うのが見つかりました。あけて、その中身をそっくりエプロンに包んで、自分の部屋へ持ち込んで、さてゆっくりと調べにかかりました。そんなこととはうすうす思っておりましたものの、それがリントン・ヒースクリフからの――ほとんど毎日、数から見てそれに違いありません――手紙の山、つまり嬢さまがやった手紙への返事だったことを発見いたしましたときは、やはり驚かずにはいられませんでした。初めのころのものは、恥かしそうな短いものでしたが、だんだん長くなって、綿々と書きつづった恋文になっています。年齢《とし》が年齢だけにたわいもないものですが、ところどころ修業を積んだ誰《だれ》かの知恵を借りたらしい文句があります。なかにはいくつか、熱情と無気力とがまことに奇妙に混合していると思われるものもございました。つまり書き出しには力強い感情がこもっているのですが、結びへくると、いかにも子どもっぽく、夢のようにとりとめのない恋人に宛てて書きそうな、きどった味のない文章になってしまうのですね。これらの手紙がキャシーのお気に召したかどうかはわかりませんが、私には実にくだらない紙くずとしか思えませんでした。いいかげん眼《め》を通しましてから、ハンカチに包んで別の場所へ隠し、からの引き出しに鍵をかけました。
例によって嬢さまは朝早く台所へ降りて来ました。いつもの小僧がやって来ますと、私が見張っているとも知らず、さっそく嬢さまは戸口へ出て行きます。そして乳しぼり女が男の子のかんに牛乳を入れている間に、つと小僧の上衣《うわぎ》のポケットへ何かを押し込み、入れ違いに何かを取り出しました。私は庭からまわって、文使《ふみづか》いの小僧を待ち伏せしました。小僧は託された信書を渡すまいと、勇敢に抵抗しましたので、二人してもみ合ううちに牛乳をこぼしてしまいました。でもどうにか私は手紙を奪い取りまして、さっさと家へ帰らないと大変なことになるよと子どもをおどしつけて帰しましてから、塀《へい》の下でキャシー嬢さんの愛情こまやかなお文《ふみ》を拝読いたしました。リントンのに比べると、ずっと単純でしかも流麗でございました。つまりとてもかわいらしくって、同時にとてもばかばかしかったんですわ。私は首を振って、考え込みながら家へはいりました。その日は雨で、嬢さまは猟場《パーク》へ遊びに行く気晴らしができないものですから、朝の勉強がすみますと、例の引き出しに慰安を求めに行きました。お父さまは机で読書していらっしゃいます。私は考えがありますから、カーテンの縁の糸を引き抜いてふさをこしらえる用事にかこつけまして、嬢さまのすることを、抜けめなく見張っておりました。チュンチュクさえずるひなをいっぱい残して行った巣が荒されていましたら、帰ってきた親どりは、絶望のあまり魂《たま》消《げ》るような悲鳴といっしょに、羽をばたばたさせますわね、でもあのときのお嬢さまのあげた、「おお!」というただ一声と、近ごろのうれしそうな顔色が急に変ったその変化と、この二つに表わされたほどの完璧《かんぺき》な絶望の表情は、どんな鳥でも見せなかろうと思われます。リントン氏は顔をあげました。
「どうしたの、嬢ちゃん? けがでもしたの?」
その言葉の調子と顔の表情とで、嬢さまは宝の庫《くら》を開いたのが、パパではないことを知りました。
「いいえ、パパ!」あえぎながら、「エレンや、エレン! 早く二階へ来て――あたし気持が悪い!」
お呼びに答えて、私はあとから部屋の外へ出ました。
「おお、エレン! おまえが取ったのね」お部屋で二人きりになりますと、私の前にひざをついて、嬢さまはさっそく切り出しました。「ねえ、あたしに返してちょうだい、そうすればもう、もうけっしてこれからはしないから! パパに言わないでね。まだ言わないわね、エレン? まだだって言って! あたしほんとにいたずらだったわ、でももうけっしてしないから」
私はなるたけ重々しく、まじめな態度で、お立ちなさいと申しました。
「あれで見ると、キャサリン嬢さま、あなたはよほど深入りしたようですね。あんなもの、恥かしいと思いませんか? 暇さえあればあのたくさんな反故《ほご》紙を読み返していたんでしょう、きっとそうです、まあ、刷り物にしてもよさそうな、結構なしろものですこと! そうしてあたしが旦那さまにあれをお目にかけたら、なんとお思いになるでしょうか! まだお見せしませんけれど、あなたのそんな秘密なんぞ、あたしが守ると思ったら大まちがいですよ。ほんとに恥かしい! こんな変なことを書かせるようにしたのは、あなたのほうからしむけたに違いありません、リントンさんが最初に思いつくはずはありませんからね」
「あたしじゃないわ! あたしじゃないわ」胸も張り裂けそうに身をふるわせてすすり上げながら、「あたしは一度もあの子を恋してるなんて思ったことなかったけど、あの――」
「恋ですって!」私はこの言葉をできるだけのあざけりをこめて発音しました。「恋《・》! こんな話を聞いたひとがあるでしょうか! それくらいなら一年に一度うちの麦を買いに来る粉屋を恋したっておかしくないでしょうね。珍しい恋もあったものですこと。ほんとに! あなたがこれまでリントンに二度会った時間を合わせても、あなたの一生のうちでたった四時間にもなりませんよ! それなのに、こんなお乳くさい反故紙、なんでしょう、これは。これからこれを持ってお書斎へ行って、お父さまがこういう恋をなんとおっしゃるか、二人でうかがうことにしましょう」
嬢さまは大切な手紙の束にとびつこうとしましたが、私は頭よりも高く持ち上げました。するとこんどはまたも取り乱した言葉をつくして、どうぞそれを焼いてちょうだい――パパにさえ見せなければどうしてもいいから、と哀願するのでした。そしてとうとう叱《しか》りたいのやら笑いたいのやら、自分でもわからなくなってきまして――もともと私はたかが少女らしい見栄《みえ》にすぎないと見ておりましたから――しまいには少しかわいそうになり、訊《き》いてみました――
「もしこれを焼くことにあたしが同意すれば、これからは二度と手紙のやりとりをしたり、手紙ばかりでなく(本もたくさんおやりになったのをちゃんと知っておりますよ)本でも、髪の毛でも、指輪でも、おもちゃでも、けっしてあげたりもらったりしないことを、正直に約束なさいますか?」
「おもちゃなんか送らないわよ!」恥かしさより誇りのほうが勝ったとみえ、思わずキャサリンは抗議しました。
「そのほかなんでも、どんなものでもですよ、お嬢さま。――約束なさらないなら、さああたしは行ってしまいますよ」
「約束するわ、エレン!」私の着物のすそを捕えながら、嬢さまは叫びました。「さあ、炉のなかへ入れちゃってちょうだい、入れて、入れて!」
けれどもいよいよ私が火掻《ひか》き棒で炉のなかに入れ場所を作りにかかりますと、その犠牲の苦しさは耐えられぬものとなったようでした。こんどは一通か二通だけ、手紙を残しておいてくれと、一心不乱で頼むのです。
「一つか二つ、ねえ、エレン、リントンがかわいそうだから!」
私はハンカチをほどき、手紙を落しはじめますと、炎が渦《うず》巻《ま》いて、煖《だん》炉《ろ》のなかに燃え上がりました。
「一つだけ取ってやる、ひどい根性まがりねえ!」金切り声で言いながら、炉のなかへ手をつっこみ、指に火傷《やけど》しながら半分焼けた断片をつかみ出しました。
「よござんす――そんならあたしも、少しパパにお目にかけるのを取っておきます!」と、残ったのをまた包みなおしながら、改めて戸口へ行きかけました。
黒《くろ》焦《こ》げになった断片を炎のなかへ投げ入れながら、嬢さまは犠牲を終りまでささげつくすようにと私に身ぶりで頼みました。すっかりすみまして、灰を掻きまぜ、ショベル一杯の石炭をその上にかぶせ、埋葬を終りました。嬢さまは一言も言わず、心に激しい傷の痛みを感じながら、自分の部屋へはいってしまいました。私は階下《した》へ降り、旦《だん》那《な》さまに、お嬢さまの吐きけはほとんど去りましたが、まだしばらく臥《やす》ませてあげるほうがよろしいと存じますと申しあげました。お昼ご飯はめしあがらず、お茶の時刻に青い顔で眼のふちを赤くし、とても沈みきったさまで、やっと出て来ました。翌朝、けさの手紙への返事として、「リントン嬢は今後ヒースクリフ若さまよりのお手紙をお受け取りになりませぬゆえ、若さまにも嬢さまへお手紙をお寄せくださいませんようお願い申し上げます」と書いて出しておきました。それで、それ以来、小僧はポケットに何も入れずに来るようになりました。
22
やがて夏は終り、秋の初めになりました。ミカエル祭は過ぎましたが、その年は収穫が遅れまして、私どもでもまだ刈入れのすまぬ畑がいくつか残っておりましたころのことでございます。リントン氏とお嬢さまとは、麦刈りの忙しい畑へたびたびお散歩に見えました。最後の麦束を運び入れる日には、暗くなるころまで外に出ていまして、その晩があいにくうすら寒いじめじめした陽気でしたので、ご主人は性《たち》の悪い風邪を引き込まれ、それががんこに肺にいすわってしまいましたため、とうとう冬じゅうほとんど一日も外へ出られず、閉じこもってお過ごしになりました。
かわいそうにキャシーは、あの小さなロマンスの成り行きにすっかり怖《おじ》気《け》づきまして、それをあきらめてからはとても陰気にさびしそうにしていますので、お父さまから本を読むのを減らして、もっと運動をしなさいと始終言われておりました。お父さまがいっしょに運動なされない現在、なるべくは私がその代りを勤めてさしあげるのが自分の義務だ、と思っておりましたものの、なかなか思うようにお相手ができません。なにぶん昼間はたくさんの用事がございますから、戸外へお供できるのは二、三時間が関の山で、それで嬢さまはお父さまに比べて、私のお供をもの足りなく思っている様子が、ありありと見えて参りました。
十月のある日――あるいは十一月にはいっていたかもしれません――すがすがしい雨もよいの午後、芝生や小道には湿った枯れ葉がかさこそと動き、冷たい青空はなかば雪におおわれていました――黒っぽい灰色の帯のような旗雲は、西のほうから大雨をはらんで足ばやに近づいて来ます――きっとこれは、にわか雨になりますから、今日の散歩はおやめになるようにと、私は嬢さまに申しましたが、取上げられませんので、せんかたなしに私は外套《がいとう》を着こみ、傘《かさ》を持ちまして、猟場《パーク》の入口まで、そぞろ歩きのお供をいたしました。これは嬢さまが元気のないときにおやりになる、いわば形式的のお散歩で――旦《だん》那《な》さまのおかげんが常より少し悪ければ、必ず嬢さまも元気がなくなります。旦那さまのご気分は、口に出しては何もおっしゃいませんから、お口数が少なくなったことや、お顔色がすぐれないことなどから、嬢さまと私とで判じるほかはございませんのです。今ではもうはねたり駆けたりはなさらず、今日のような肌寒《はだざむ》い風に触れると走りたくなりそうなものですが、たださびしそうに歩いていらっしゃいます。そして私が目の端でそっと盗み見ますと、幾度か手を上げて頬《ほお》をおぬぐいになっています。何か気の変ることはないかと、私はあたりを見まわしました。道の片側は高い凸凹《でこぼこ》な土手になっていまして、そこにはしばみ《・・・・》やいじけた樫《かし》の木が、根をなかば地上に現わして、いまにも倒れそうな格好をしております。樫の木には土がゆるく、ぼろぼろなため、強い風に吹かれて横倒しに近く傾いているものもあります。夏のころはキャサリンさまはこれらの木の幹にのぼり、地面から二十フィートも上の枝に腰かけて、ゆすぶって楽しんだものでして、私は、身のお軽いことやお気持の子どものようにうきうきしていることをうれしく存じながらも、やはりそんな高いところに上がっているのを見つければ叱るのが当然だ、と考えるのが毎度のことでございましたが、さりとて嬢さまのほうでは降りなければ悪いなどとは、ちっとも思っていませんから、お昼からお茶のころまで、そよ風のゆする樹上の揺りかごに寝そべって、何をするでもなく古い民謡――私が教えた子守り歌――を一人で歌ったり、同じ枝を借りる小鳥たちを眺《なが》めたり、雛鳥《ひなどり》に木の実を食べさせて飛ぶけいこをさせたり、あるいはまた眼を閉じておっとりと、言葉につくせぬ幸福な一時《ひととき》を、思いと夢との境にうつらうつらとお過ごしになるのでございました。
「ごらんなさい、嬢さま!」ねじ曲げられた木の根の下のへこみを指しながら、私は申しました。「まだここは冬になってはいませんのね。ほら、あそこに小さな花が一つ咲いていますわ。七月ごろ、芝生の石段のところに、ライラック色の霞《かすみ》がかかったように、たくさん咲いていましたわね、つりがね草の最後の一輪ですよ、あなた登って行って、摘んできてお父さまに見せておあげなさいまし」
キャシーは長いあいだ、そのたった一輪のさびしい花の、くぼ土のなかでふるえているのを見つめていましたが、やがて答えました――
「いいえ、あのままそっとしておきましょう。でもあの花、悲しそうね、そう思わない、エレン?」
「ええほんとに――しなびかかって潤《うるお》いのないところ、嬢さまに似ていますわ、あなたの頬には血の気がありませんよ、さあ手をつないで駆けましょう。嬢さま、のろくなったから、あたしだっていっしょに走れそうですよ」
「いいえ、だめ」とまた否定の返事をなすって、相変らずゆっくり歩きつづけ、ときどき立ち止まっては、ちょっとしたこけや、衰えて白っぽくなった一むらの草や、茶色になった落葉の厚く散り敷いたなかにぱっと明かるいオレンジ色がかさ《・・》をひろげている茸《きのこ》などを、しんみりと眺めながら物思いに沈んで、そして、ともすれば私から顔をそむけては、お手を顔へ持ってゆくのでした。
「キャサリンさん、なんでそんなにお泣きになるの、え、良い子のお嬢ちゃま?」近寄って、肩に手をかけて、私は訊《き》きました。「パパが風邪をおひきになったからって、お泣きになるのはいけませんね、ただの風邪だけで済んでいることを感謝なさらなければ」
もう涙を押えてはいませんでした。むせび泣きに、息が苦しく、しゃくりあげていました。
「だって、いまにただの風邪じゃなくなるでしょう。そしてパパとおまえにいなくなられて、あたしひとりになっちゃったら、どうすればいいでしょう? おまえのあの言葉が忘れられないのよ、エレン。いつも耳のなかに聞こえるの。パパとおまえが死んでしまったら、毎日の生活もすっかり変っちゃうし、世のなかはどんなにさびしくなるでしょう」
「そんなこと、わかりゃしません、あなたのほうがあたしより先に死ぬかもわかりませんよ。悪いことがありそうだと思ってくよくよするのは、いけないことでございますよ。あたしたちはみんなこれから先、何年も何年も生きるものという希望を持ちましょう。旦那さまもお若いし、あたしは丈夫ですし、年齢《とし》もまだ四十五になったばかりです。あたしの母は八十まで長生きして、死ぬまで元気なばあさんでしたよ。それにまあリントンさまが六十のお年までご丈夫だとしましても、まだこの先、あなたのいまの年齢の数よりもよけいに残ってるわけですわ、お嬢さま。そうすれば二十年も先の不幸を今から嘆くなんて、馬鹿《ばか》げたことじゃありませんの?」
「でも、イザベラ叔母さんは、パパより若かったわ」もっと慰めてもらいたそうな、弱気な希望を顔に見せて、私を見つめました。
「イザベラ叔母さまには、あなたやあたしのような看病してあげる方がありませんでした。旦那さまよりふしあわせなかたでしたわ。生きがいも、旦那さまより少なかったのです。あなたはただお父さまのご全快を一生懸命にお待ちになること、あなたの明かるいお顔をお父さまにお見せして、お気持を明かるくしてあげること、そして何事によらず、お父さまにご心配をおかけしないこと、大切なのはそれだけですよ、ようく覚えていて下さいね、キャシーさん! もしあなたがわがままで、向こう見ずで、お父さまが死ぬのを喜ぶようなひとのむすこなんぞに、愚かな夢みたいな恋心を隠し持ったり、お父さまが絶交するほうがいいとお決めになったのに、そのことであなたが悩んでいるなどということを、お父さまに知られるようなことがあったりすれば、あなたがお父さまを殺してしまうかもしれないんですよ、それだけは、ほんとうのことだから、あたしはっきり申しますよ」
「あたし、パパのご病気のほか、悩んでることなんか絶対になくてよ。パパに比べたら、なんにも心配しないといっていいくらいよ。そうしてあたし、気違いにでもならないかぎり、パパのお気に逆らうようなこと、もうけっして――けっして――そうよ、けっして何もしないし、何も言わなくってよ。あたしは自分以上にパパを愛しているのよ、エレン。なぜそれがわかるかというと、毎晩お祈りするとき、あたしがパパよりあとまで生きますようにって祈るのよ。なぜってパパにみじめな思いさせるよりか、あたしがみじめになったほうがいいからなの。それが自分よりパパのほうをよけいに愛してる証拠でしょう?」
「良いお言葉ですわ。でも行ないもそうでなければいけませんよ。それからパパがおなおりになってからも、パパのことを心配していたあいだに決心したことを、忘れずに覚えていらっしゃることですね」
話しながら、道に面して開いている一つの門《もん》扉《ぴ》にさしかかりますと、嬢さまは、お気持がまた晴れ晴れと明かるくなったものですから、塀《へい》にのぼってその上に腰をかけ、手を伸ばして、道ばたにこんもり茂っている野ばらの一番上の枝から、真っ赤な実を摘みはじめました。下枝《したえだ》の実はもうなくなっていて、キャシーの今いる位置からのほかは、小鳥たちだけしか上のほうの枝には届かないのです。さて摘もうとして手を伸ばしたとき、嬢さまの帽子が落ちました。扉《とびら》にはかぎがかかっていましたので、塀から降りて拾うと言い出しました。私が、落っこちないように気をおつけなさいと申しますと、もう嬢さまは姿を消していました。けれども帰りはそう楽ではございませんでした。塀石はつるつるで、ぴったり積み重ねてある上に、外側から登るのには、野ばらのやぶや黒苺《くろいちご》のつるでは、足がかりにもなりません。私は、馬鹿なお話ですわね、嬢さまが外で笑いながら呼んでる声を聞くまで、それに気がつかずにおりましたの。
「エレン、おまえが鍵《かぎ》を取ってきてくれるしかないわ、さもなければあたしは門番小屋のほうまで大まわりをしなければならない。こっち側から乗り越えられないの!」
「ちょっとそこで待ってて下さいよ。あたしポケットに鍵束がありますから、ひょっとしたらあけられるかもしれません。だめなら鍵を取りに行きます」
私がつぎつぎに大きな鍵をすっかりためすまで、キャサリンは扉の前であちこち踊りまわって、時間をつぶしていました。とうとう最後の鍵をあててみて、合うのがないことがわかりました。そこで幾度もそこに動かずに待っていて下さいと念を押して、大急ぎで家へ引き返そうとしておりますところへ、近づいて来る物音が私を立ち止まらせました。一頭の馬が駆け足で走って来るひづめの音です。キャシーも踊るのをやめました。
「誰《だれ》でしょう?」私は小声で言いました。
「エレン、なんとか扉をあけてちょうだいよ」嬢さまも心配そうにささやき返します。
「ほう、リントン嬢だね!」(騎《のり》手《て》の)太い低い声がしました。「思いがけなく会えて愉快だ。そう急いで内へはいらんでもよろしい、あなたの説明をぜひ訊きたいことがあるんだ」
「あなたとはお話ししません、ヒースクリフさん。あなたは悪いひとで、パパやあたしを憎んでるひとだって、パパが申しました。エレンの言うことも同じです」
「そんなことは今の話とは何も関係ない」ヒースクリフが言いました。(あのひとだったのでございますよ)「おれはせがれを憎んでおらん、と思っておる。今あんたの説明を訊きたいのは彼に関することだ。ふむ、そのとおり赤い顔するだけの覚えがあるだろう。二月か三月このかた、あんたは始終リントンに手紙をよこしていたんではないかね? 戯《たわむ》れの恋をしかけてだな? あんたは――いや二人とも、むち《・・》でたたかれるようなことをしたわけだ! ことにあんたは年上なんだから、なおさらのことだ。おまけに、あとでわかったとおり、あんたのほうがずっとずうずうしい。おれはあんたの手紙を手に入れたから、もしおれに向かって小癪《こしゃく》なことを言うなら、あんたの父親のところへ手紙を送っちまう。つまりあんたは悪戯《いたずら》に飽きて、やめてしまったんだとおれは見るが、どうだね? よし、あんたは、そういうことをして、リントンのやつを『絶望の沼』へ突き落した。あいつはまじめだった、本気で惚《ほ》れていたのだ。生命《いのち》までもとあんたに惚れ込んでいた、これは本当だよ、これほど確かなことはないくらいだ。あんたの浮《うわ》気《き》のために、心臓をこわしかけてる――比喩《ひゆ》として言ってるんじゃないよ、ほんとにこわれそうなんだよ。ヘアトンのやつは六週間ぶっつづけにいい慰みにするし、おれはおれでもっとまじめに、ピシピシおどしつけて、馬鹿げたまねをやめさせようとしたけれども、日ましに元気がなくなるばかりだ。あんたが力づけてくれんかぎり、夏までには土の下にはいっちまうだろう!」
「なんてひどい嘘《うそ》をついて子どもをどなりつけるんです、かわいそうに!」私は内側から叫びました。「早く行って下さい! よくもそんなつまらないでたらめ《・・・・》を並べて、変な計略を使えたもんですわ! キャシーさま、あたしが今、石で錠をこわしますからね、そんな卑劣なでたらめ《・・・・》を信用なすっちゃいけませんよ。ご自分の身に引き比べたってわかるでしょう。よく知りもしないひとに恋をして、そのために死ぬなんて、そんなことがあってたまるものですか」
「盗み聞きされてるとは知らなかった」嘘をかぎつけられて悪者はつぶやきましたが、すぐに大きな声で、「やあディーンさん、おまえはりっぱなひとで、おれは好きだがね、おまえの二枚舌は好かないね。おれがこの嬢さんを嫌《きら》ってるなんて言ったり、おれの家へ寄りつかせまいと思って、変な怪談をでっちあげたり、どうしてそういうあつかましい嘘がつけるかねえ? キャサリン・リントン(名前だけでおれは体がほてってくるんだが)、かわいらしい娘さん、おれはこれから今週いっぱい、家を留守にするから、おれの言ったことが嘘か本当か、行って見てくるがいい、良い子だから、そうしなさい! かりにあんたの父親とおれとが立場を入れかわって、リントンとあんたとも逆になったとする。いいかね、あんたのパパがリントンに、あんたを慰めてやってくれと頼んだときに、何ひとつ慰めてやるのはいやだと断わったと聞いて、あんたはその不人情な恋人をえらいと思うかい? だから前と同じ失敗を、もう一度あんたが繰り返すようだったら、そりゃもう正真正銘の愚か者のすることだよ。おれは誓って言うよ、リントンは死にかけている、やつを救えるものはあんたばかりだ、とね!」
錠はこわれましたから、私は外へ出ました。
「リントンが死にかけてることをおれは誓う」激しく私をにらみながら、ヒースクリフは繰り返しました。「失恋の悲しみと落胆とが、あれの死を早めている。ネリー、もしおまえがこの子を行かせたくないと思うなら、自分で行ってみればいい。だがおれは来週の今日までは帰らんから、まさかおまえの主人もこの娘が従弟《いとこ》の見舞いに行くのを止めはせんだろう!」
「おはいりなさい」と言って、私はキャシーの腕をとらえ、なかばむりやりに屋敷内へはいらせました。そうでもしなければ、嬢さまは、とても内心に偽りがあろうとは思えぬほど厳しく嶮《けわ》しい相手の顔を、いかにも困り切ったような眼で見上げて、容易に立ち去りそうにもなかったからです。
ヒースクリフは馬を引き寄せ、身をかがめながら、言うのでした――
「キャサリンさん、おれは正直いうと、リントンには腹が立ってたまらんのだ。ヘアトンやジョーゼフはなおさらのことだ。だからもう一つ白状すればリントンは、まわりじゅうから辛《つら》く当られてるんだ。やつは愛情ばかりじゃない、親切にも飢えている。だからあんたがやさしい言葉をかけてやれば、何より薬になると思うんだな。ネルおばさんの薄情な止めだてなんぞ気にせんで、親切な心になって、リントンに会うくふうをしてくれんか。昼も夜もあんたのことばかり思って、手紙もくれん、たずねてもくれんから、いくらキャサリンはおまえを嫌ってはおらんと言うて聞かせても、どうしても納得せんのだ」
私は門をしめて、ゆるんだ錠のかわりに石をころがして行って支《か》いました。雨傘《あまがさ》をさして、嬢さまもなかに入れました。雨は、風にざわめく木々の枝ごしに降りはじめて、急いで帰れと私どもをうながしておりましたのです。途中は、急ぎましたので、ヒースクリフとの出会いについて、何も話す暇はございませんでしたけれども、キャサリンの心が、今は二重の不安で暗く曇らされていることを、私は本能的に見抜いておりました。顔の表情はあまり悲しそうで、まるでひとが変ったようで、ヒースクリフの話を、一言半句の末まで真実だと思いこんでいることは明らかでございました。
ご主人は私どもが家へ着く前にはお部屋へおはいりになっていました。キャシーがそっとはいって行って、ご様子を見ますと、よくお眠《やす》みになっています。嬢さまは帰ってきて、書斎へ来てくれと私に言います。そこでいっしょにお茶をいただきまして、済みますと嬢さまは絨毯《じゅうたん》の上に横になってしまい、私にはしばらく黙っていておくれ、くたびれたからと言います。私は書物を持ち出し、読むふりをしておりました。私が本に気をとられたころだと思うやいなや、嬢さまはまた、声を忍んで泣きはじめました。それが今の嬢さまにとっては、何よりの気晴らしなのでしょう。私は我慢して、しばらくそうして嬢さまに涙を楽しませてあげまして、それからおもむろにお説教を始めました。つまりヒースクリフが今日リントンについて話したことを、嬢さまも私と同意見にきまっていると言わぬばかりに、片っ端からちゃかしたり嘲笑《ちょうしょう》したりしたわけです。けれど、ほんとに情けないことですわ! ヒースクリフの話が嬢さまの心に植えつけた感銘は、正面からそれを打ち壊そうとしましても、とても私なぞの手におえるものではございませんでした。かえって向こうの思うつぼにはまったことになるのでした。
「おまえの言うとおりかもしれないわ、エレン」嬢さまは答えました。「でもあたしは本当のことがわかるまでは落着けそうもないの。リントンには、あたしが手紙を書かないのはあたしのせいじゃないことを知らせて、あたしが心変りしていないことをわからせて、安心させなければならないわ」
こんなふうに頭から信じ切っている嬢さまを、おこってもいさめてもなんの役に立ちましょう? その晩はもの別れになりました――いわばけんか別れですわね。ところが翌日になりますと、私はちゃんとわがまま嬢さまの子馬に付き添って、嵐が丘へ行く道を歩いておりましたわ。嬢さまの嘆きが見ていられなかったのです。気落ちして血の気の失《う》せた顔や、悲しそうな眼が、見ていられなかったのです。いっそのこと、リントンに会わせたほうがきのうの話が嘘で固めてあったことを、はっきりさせるかもしれないと、そこにほのかな希望をつないで、とうとう負けてしまいましたのです。
23
夜どおし雨が降って、霧の深い朝になりました――冷たくじめじめしたお天気で――道のところどころ、にわかに出来た小川が突っ切って――山のほうから押し流されて来る雨水でした。私は足をずぶぬれにして、腹立たしい浮かぬ気持で、こうしたお天気やずぶぬれの足には、ちょうどうってつけのような気分でした。ヒースクリフが本当に留守なのかどうか、確かめようと思って、私どもは台所のほうからはいりました。それほど私はヒースクリフの言葉に信用をおかなかったのです。ごんごんと音を立てて燃えている煖《だん》炉《ろ》のそばにジョーゼフがひとり、極楽浄土にいるような顔で腰をおろしています。そばのテーブルの上には一クォートのビールをおき、焼いたオートケーキの大切りにしたのを山と積んで、例の黒い短いパイプを口にくわえているのでした。キャサリンは煖炉に走り寄って、冷えた体を温ためます。私は旦《だん》那《な》はおいでかいと訊《き》きましたが、いつまで待っても返事をしませんので、老人がとうとうつんぼになったのかと思いまして、大声で繰り返し訊きました。「うう――んにゃ!」まるで鼻からいななくような声です。「うう――んにゃ! さっさとへえって来たところから帰《けえ》んな、さっさと」
「ジョーゼフ!」ちょうど私の声と同時に、居間のほうからおこった声がしました。「何べん呼んだら聞こえるんだい? もう赤い残《お》火《き》が少ししか残ってないや。ジョーゼフ! すぐ来ておくれよ」
モクモクと、盛んに吐き出される煙草《たばこ》の煙と、炉のなかをみつめて梃《てこ》でも動かぬ目玉とは、そういう頼みに耳をかしていないことを物語っています。家政婦とヘアトンの姿は見えません。たぶん、一人は使いに、一人は野《の》良仕《らし》事《ごと》に、出て行ったのでしょう。私どもはリントンの声とわかったので、居間へはいりました。
「なんだ、おまえなんか屋根裏で餓死《うえじに》しちまえ!」はいってきた人間を不親切な召使と勘ちがいしてるのです。
気がついて、リントンは黙りました。キャサリンがとびついて行きました。
「きみだったの、ミス・リントン?」大《おお》椅子《いす》のひじから頭を持ち上げながら、「だめ――接吻《せっぷん》しないで、息が苦しくなる。ああ苦しい! パパはきみが来てくれるって言ってた」キャサリンの抱擁からやっと少し解放されて、また言葉をつづけます。嬢さまはひどくすまなそうな顔で、そばに立っていました。「すまないけど、扉《とびら》をしめてくれない? 開いたままになってるから。だってあの――けがらわしいやつらは、煖炉に石炭を持ってもこないんだ。ああ寒い!」
私は残り火を掻《か》き立てて、石炭入れにいっぱい、自分で運んで来ました。病人は灰がかかると文句を言いましたが、うるさく咳《せき》をしますし、熱があって苦しそうなので、私もわがままをとがめませんでした。
「どう、リントン」少年がしかめ顔を少しなおしたとき、キャサリンは口ごもりながら、「あたしに会えてうれしい? 何かあたしでお役に立つことありません?」
「どうしてもっと早く来てくれなかったの?手紙なんか書かないで、来てくれればいいのに。長い手紙を書くんで、ぼくはとてもくたびれちゃった。話をするほうが、どのくらい、いいかしれないよ。でも今は、話さえもできない、なんにもできなくなった。ズィラはどこへ行ったんだろう? おまえ(と私のほうを見まして)台所へ行って、見てきてくれない?」
炉の火を起こしてあげたときも、なんの礼も言われませんでしたし、この子の命令でその辺を走りまわる気にはなれませんので、私は――
「台所にはジョーゼフのほか、誰《だれ》もおりませんよ」
「ぼくは何か飲みたいんだ」横を向いて、いらいらと叫びました。「パパが留守になってから、ズィラったら、ギマトンのほうばっかり、ほっつき歩いてるんだ。実際ひどいよ!二階から呼んでも、誰もみんな知らん顔してるから、ここまで降りてこなければならなくなっちゃった」
「坊っちゃん、お父さまはよく世話をして下さいますの?」私がそばから訊きましたので、キャサリンはもっと進んでやさしい言葉をかけようとした出ばなを折られたようでした。
「世話? とにかく、パパはあのやつらに、少しはよく世話させるようにしてくれるよ。実際ろくでなしばかりだ! ねえミス・リントン、あのヘアトンの畜生、ぼくのことを笑うんだぜ! あいつ、だいっ嫌《きら》いだ! いや、あいつら全部だいっ嫌いだ。ほんとにいやなやつらだよ」
キャシーは水はないかと捜しはじめました。調理台の上に水差しを見つけて、大コップに注ぎ、持って来ました。リントンは食卓の上のびんから葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》を一さじ、そのなかへ入れさせ、少し飲むと、いくらか落着いた様子で、キャシーに礼を言いました。
「それで、あなた、あたしに会えてうれしい?」また同じことを訊いて、ほんのわずか、微笑の影がさしたのを見つけて、喜びました。
「うん、うれしい。きみみたいにきれいな声を聞くのが、なんだか珍しいような気がするね! でも、きみが、来てくれないから、ぼくおこってたよ。そしてパパは、ぼくが悪いからだって言うんだ。ぼくのことを、みじめな、だらしのない、能なしだって言って、きみはぼくを、軽蔑《けいべつ》している、もしおれがおまえだったら、今ごろは、スラシュクロス屋敷で、キャサリンの父親よりいばってるだろうなんて言うんだよ。でも、きみはぼくを軽蔑しやしないねえ、ミス――」
「あたしのことはキャサリンとかキャシーとかおっしゃいよ」嬢さまはさえぎって、「軽蔑するんですって? 嘘《うそ》よ! パパとエレンの次には、あたし世界じゅうの誰よりもあなたが好きよ。だけど、ヒースクリフさんは好きじゃないの。だからあのひとが帰ってくると、ここへは来られないわ。まだ幾日も留守になるの?」
「そう長くはないけど、猟季になってからは、よく荒野《ムーア》へ行くようになったよ。だからパパの出かけたあとで、一時間や二時間、来ていられるよ。来るって言ってよ。きみといっしょならムシャクシャ腹を立てないと思うんだ、きみはぼくをおこらせないし、いつでもぼくを助けてくれるだろうから、そうだろう?」
「そうよ」リントンの長い柔らかな髪をなでてやりながら、キャサリンは言いました。「パパさえ承知して下されば、半分はあなたのそばにいてあげられるんだけど。かわいいリントン! あんたが弟だったらいいんだけどねえ」
「そしたら、きみはお父さんと同じくらいぼくを好きになる?」少し元気になって、少年は訊きます。「でもパパはね、もしきみがぼくの奥さんだったら、お父さんより誰よりぼくをかわいがるだろうって言うよ。だからぼくはそうなってくれるほうがいいな」
「いいえ、あたしは誰だって、パパ以上に愛することはないわ」嬢さまはまじめに答えました。「それに奥さんを嫌いになるひとは世間によくあってよ。でも姉や弟を嫌いになるひとはないわね。もしあなたがあたしの弟だったら、あなたといっしょに暮らせて、パパもあたしと同じようにあなたのことをかわいがるわよ」
リントンは奥さんを嫌うひとなんぞ世間にはいないと反対しましたが、キャシーはいると主張して、自分の知っている例として、リントンの父親が母親を嫌っていたことを挙げました。この軽はずみなおしゃべりを私はやめさせようと骨を折りましたけれど、嬢さまが知っているだけのことを言ってしまうまでは止めさせることができませんでした。ヒースクリフ少年は大いに腹を立てまして、その話はでたらめだと主張しました。
「あたしはパパから聞いたのよ。うちのパパは嘘をつきませんからね」嬢さまもふくれてやり返します。
「ぼくのパパはきみのパパを軽蔑してらあ!卑屈な馬鹿《ばか》だって言ってたぜ」
「あんたのパパは悪いひとだわ。そんなひとの言うことをあたしにそのまま言うなんて、あんたもずいぶんいけない子ね。悪いひとだったから、イザベラ叔母さんはあのとおりあのひとの家を出ちゃったじゃないの」
「ママはパパの家を出ちゃったんじゃない。ぼくの言うことに反対するのはよしたまえ」
「出ちゃったわよ」嬢さまは声を張り上げます。
「よし、そんならぼくだって言ってやるぞ!きみのおかあさんはきみのお父さんを嫌ったんだぞ。どうだい」
「まあ!」キャサリンは叫んだきり、腹立ちで二の句がつげません。
「そしてぼくのパパを愛していたんだ」
「嘘つき! あんたなんか、もう嫌いだわ!」息をはずませ、興奮で真っ赤な顔になっていました。
「愛したとも! 愛しましたよォだ!」節をつけて言いながら、リントンは椅子の奥へ体を沈め、後ろに立っているけんかの相手の興奮した顔を見てやろうと、頭を仰向けました。
「およしなさい、坊っちゃん!」と私が申しました。「それもきっとお父さまから聞いたお話でしょう」
「違うよ、おまえなんか黙っといでよ。愛してたんだ、愛してたんだ、キャサリン! きみのお母さんは愛してた、ぼくのパパを愛してたんだ!」
キャシーはもう夢中でした、いきなり激しく椅子を押しましたから、少年は落ちて床に片手をつきました。たちまち、いままでの勝ち誇った元気はどこへやら、窒息するかと思うほど咳の発《ほっ》作《さ》に捕えられました。それがあまり長いので、私まで心配になりましたほどですから、キャサリンは、口にこそ言いませんが、とんだ悪いことをしたと思ってびっくりしたのでしょう、あらんかぎりの涙をしぼって泣き沈んでしまいました。発作が止まるまで、私がリントンを抱いてやりました。止まると、私を押しのけて、頭をたれて黙っていました。キャサリンも泣きやんで、リントンの向こう側の椅子にすわって、むずかしい顔して炉の火に見入っておりました。
「坊っちゃん、気分はどうですか?」十分ほど待ってから、私は聞きました。
「この苦しみを、味わわせてやりたいよ」とリントンは答えました。「なんて意地わるな、残酷な子だろう! ヘアトンだって、ぼくに手を出したことはない、一度だって、ぼくを打ったことはない。それに今日は、気分のいいほうだった、それなのに――」すすり上げて、声は細くなり聞こえなくなりました。
「あたしだってぶちゃしないわよ!」キャシーはつぶやいて、泣きだしたいのをこらえてくちびるをかんでいます。
よほど大変な苦しみに会ったひとのように、吐息ついたりうめいたり、約十五分ほどそれがつづきましたが、それは明らかにキャシーをもっと悲しませたいためで、その証拠に嬢さまのすすり泣きが忍び音になったと思うと、すぐにまたうめき声に苦しそうな抑揚を新しくつけるのです。
「リントン、苦しい思いをさせて、ご免なさいね」とうとう呵責《かしゃく》に耐えられなくなって、嬢さまは言いました。「でもあんなちょっと押したぐらいで、あたしはなんともならないから、あなたがそんなに苦しがるとは夢にも思わなかったの。そんなにひどく苦しくはないんでしょう、ね、リントン? あなたの病気を悪くしたかと思うと、あたし家へ帰れないわ。ねえ、返事してよ! 話してよ」
「よく話せないんだ」少年は口のなかでつぶやきました。「あんまり、きみが苦しい思いをさせるから、この咳で、今晩は一晩じゅう眠れずに苦しんでるだろう。もしきみも、こんなに咳をしたら、どんなに苦しいか、わかるよ。だけどぼくが誰もいないところで、苦しがってる時分には、きみはいい気持で眠ってるだろう。そういう恐ろしい夜を過ごしたら、きみなんかどんな気持がするだろうなあ」そう言って、自分がかわいそうでたまらなくなったらしく、大声をあげて泣いてしまいました。
「そうやって始終いやな夜を過ごしてるんでしたら、あなたの安静を妨げるのは嬢さまじゃないわけですわね」と私は申しました。「嬢さまがいらっしゃらなくても、同じことですもの。それはそれとして、嬢さまにはもう二度とあなたのお邪魔はさせませんわ。だからたぶんあなたも、あたしたちが帰ったら、もっと楽におなりでしょうよ」
「帰らなきゃいけないの?」キャサリンは少年に寄り添いながら、悲しそうに訊きました。「あなたはあたしが帰ったほうがいいの、リントン?」
「もうやっちゃったことはどうにもならないよ」おこった声で答えて、嬢さまから離れたそうにしながら、「ただぼくをじらして熱を出させて、もっと悪くするぐらいのもんだよ」
「そうお、じゃ帰らなくちゃいけないのね?」嬢さまは念を押しました。
「とにかく、ぼくをほっといてくれよ。きみにおしゃべりされるのが辛抱できないんだ」
嬢さまはそれでもぐずぐずして、ほんとにじれったくなるほど私の帰ろうと言うのを聞き入れませんでしたが、リントンはそのあいだ顔も上げなければ口もききませんので、とうとう扉のほうへ歩き出しまして、私もそれに従いました。とたんに悲鳴が聞こえて、また私どもは呼び戻《もど》されました。リントンは椅子から炉石の上へすべり落ちて、ただ甘やかされてだだをこねる子どもの、なるたけ心配させ困らせたいという天邪鬼《あまのじゃく》な気持で、倒れたまま身をもがいているのでした。その振舞いから私はこの子の性質が隅々《すみずみ》までわかりましたので、この子のご機《き》嫌《げん》をとってやるのは馬鹿らしいことだと、すぐに見てとりました。けれど嬢さまはそうはいきません。あわてて引き返してひざまずいて、大声をあげて、慰め、あやし、哀願する騒ぎでしたが、ようやく男の子も息が切れたので泣きやめました。嬢さまに心配させてすまなかったからではないのでございます。
「長椅子の上に寝かしてあげましょう」と私は申しました。「こっちなら好きなようにごろごろできるでしょう。いつまでもそばについてはいられませんからね。キャシー嬢さま、これであなたも、この子のためになってあげられるひとじゃないことが納得いったでしょう。そしてこの子の体の悪いのは、あなたを慕っていたせいじゃないってこともね、さあ、ほら、これでいいでしょ! 参りましょう。つまらない騒ぎを起こしても、心配してくれるひとがそばにいないと思えば、坊っちゃんも静かに寝ていられていいでしょう」
嬢さまはリントンの頭の下にクッションをかってやり、水を少し持って行ってやりました。少年は押し返して、落着かない様子で枕《まくら》を押しやりました。まるで石か木でもかわれたような顔をするのです。嬢さまはそのぐあいをなおすのにあぐねていました。
「それじゃだめなんだ」リントンは申します。「低すぎるんだよ」キャサリンはもう一つ持ってきて重ねてやりました。
「それじゃ高すぎる」小うるさい子どもはつぶやきます。
「じゃどうすればいいの?」途方にくれて、嬢さまは訊きました。
男の子は、長椅子の横に半分ひざまずいたようにしているキャシーのほうへ身をくねらせて、嬢さまの肩に頭を支えさせました。
「いいえ、それはいけません」と私が申しました。「ヒースクリフの坊っちゃん、クッションで我慢して下さいね。嬢さまはもうずいぶんあなたのために時間をつぶしてるんですから、あと五分しかここにはいられませんよ」
「いいわよ、いいわよ、いられるわよ!」キャシーが言いました。「これでおとなしくなって、辛抱するようになったわ。もしリントンがあたしの来たためによけいに悪くなったと思えば、あたしのほうがずっとこの子より今晩みじめな思いをして、もうこれっきり来なくなるってことが、この子もわかりかけてきたのよ。リントン、ほんとのことを言ってちょうだい、もしあんたを苦しめたんなら、あたしはもう来られないんですもの」
「ぼくの病気をよくするために、きみは来なくちゃいけない。ぼくを苦しめたからこそ、きみは来るのが当り前なんだ、とてもひどくぼくを苦しめたじゃないか! きみがはいってきたときには、今ほど悪くなかった――そうだろう?」
「でもあなたは泣いたりおこったりして、自分で悪くしたじゃありませんか。あたしは何もしやしないわ」キャサリンは従弟《いとこ》に言いました。「だけど、とにかくもう仲よくしましょうね。あんたはほんとにときどきあたしに会いたくなるの?」
「そうだってさっき言ったじゃないか」男の子はいらいらして答えました。「長椅子に腰かけて、きみの膝《ひざ》によりかからせておくれよ。ママはいつもこうしてくれたんだよ、午後はいつでもずっと二人いっしょにいたんだ。静かにそうして、話をしないでね、でも、歌が歌えるなら歌ってもいいよ。それから、何か長いおもしろい民謡《バラッド》でもいい――いつか教えてくれるってきみが言ったようなのをね。それとも物語でもいいや。だけどやはり民謡のほうがいいな。さあ始めてよ」
キャサリンは覚えているなかでいちばん長いのを暗誦《あんしょう》しました。これには二人ともたいへん楽しそうでした。リントンはもう一つ聞かせろと言います――それが済むともう一つ、私がいくらしつこく反対しても駄目《だめ》でした。こうしてこれをつづけているうち、十二時が打ちました。ヘアトンが昼ご飯に帰ってきた声が、裏庭に聞こえました。
「では明日ね、キャサリン、明日も来てくれるね?」ヒースクリフ少年は、嬢さまが残り惜しそうに起きあがったとき、その服をとらえて訊《き》きました。
「いいえ」と私が答えました。「明日も明後《あさっ》日《て》も駄目ですよ」けれども嬢さまはこれとは違った返事をしたに相違ありません。かがんで、少年の耳に何かささやくと、少年は晴れ晴れとした顔を見せたからです。
「明日は来てはなりませんよ、おぼえてらっしゃい、嬢さま!」家の外へ出たとき、私は言い出しました。「まさかそんなつもりでいるんじゃないでしょうね?」
嬢さまはほほ笑みました。
「まあ、あたしは用心しますよ」と私は言葉をつづけて、「あの門の錠さえ修繕してしまえば、どこからも脱け出せやしませんよ」
「塀《へい》を乗り越えちゃうわ」嬢さまは笑いながら言うのです。「エレン、うちは監獄《かんごく》じゃなくってよ、またおまえもあたしの看守じゃなくってよ。それにあたしはもう十七に近いんですもの、一人前の女よ。リントンはあたしに世話してもらえばじきに快《よ》くなるわ。だってあたしのほうが上だし、賢いんですものね、あんなに子どもっぽくないわ、そうでしょ? あの子、ほんの少しだましてやれば、あたしの言うとおりにするわ。おとなしいときにはかわいい子、あれでも。もしあたしの子だったら、とてもかわいがってやるんだけど。お互いによく知り合えば、あたしたちけんかしなくなるわね。おまえはあの子好きじゃなくって、エレン?」
「あの子が好きですって?」私は叫びました。「十代になって、あんなにひねくれた病身の子どもは珍しいですよ。まあいいあんばいに、ヒースクリフさんの言うとおり、二十《はたち》までは生きられないでしょうよ。ほんと言えば、来年の春までもどうかと思いますよ。またいつあの子がいなくなったって、あの家じゃ何も困りやしません。またあの子を父親が引き取ってくれたことは、あたしたちにとってはもっけの幸いでしたね。やさしくしてやればやるほど、世話が焼けて、わがままになる子ですもの。あんたがあんな子を旦《だん》那《な》さまになさる心配がないので、あたしは喜んでいますよ、キャサリンさん」
この私の言葉を聞いて、嬢さまは怖い顔をしました。リントンの死のことをこんなに気軽に話したので、ひどく感情を傷つけられたのです。
「あの子はあたしより若いんですもの」しばらく黙って考えこんでから、嬢さまは答えました。「一番あとまで生きるのが当り前だわ――あたしと同じくらい長生きするでしょう――しなきゃならないわ。今だって、はじめて北へ来た時分と同じくらい丈夫よ、それは確かだ、と思うわ。今の病気はただの風邪よ、パパと同じだわ。おまえはパパはなおるって言ったくせに、なぜあの子はなおらないわけがあるの?」
「まあまあ、よござんすよ、どのみち、あたしたちは苦労することはないんです。それはね、嬢さま、よく聞いて、覚えていて下さいね、あたしは必ず言ったとおりにしますからね――もしあんたが今度嵐《あらし》が丘《おか》へ行こうとなすったら、あたしといっしょでなくてもですよ、あたしは旦那さまに申しあげます。そして、旦那さまのお許しが出ない限り、リントンさんとの仲はもう元どおりにはなれませんよ」
「だってもう元どおりになっちゃったわよ」キャシーは不機嫌につぶやきました。
「じゃ、もうつづけられません」
「どうだか、いまにわかるわ」嬢さまの答えはこうでした。そして、子馬に駆け足をさせましたので、私はあとから一生懸命ついて参りました。
お昼ご飯の時間には二人とも間に合いました。主人は私どもが猟場《パーク》を散歩していたものと思って、どこへ行っていたともお訊きになりませんでした。うちへはいりますと、すぐに私はずぶぬれの靴《くつ》や靴下をはきかえましたが、嵐が丘に長くおりましたのがいけませんでした。翌朝から、私は寝ついてしまいまして、とうとう三週間、お役目を果たすことができませんでした。――それまでただの一度も、こんな災難に会ったことはございませんし、またありがたいことに、その後もございませんですが。
お嬢さまは私のめんどうをみて下さるやら、さびしさをまぎらせて下さるやら、ほんとに天使のようでございました。引きこもっておりますと、私はひどく元気がなくなってしまいましたのです。始終あくせくと働いております体には、あれはとても退屈なものでございましてね、それでも私はけっして不平など言えた義理じゃござんせん。旦那さまのお部屋を出るやいなや、キャサリンは私の寝台のそばに姿を見せます。一日じゅうこの二人の病室で過ごしまして、一分間も遊ぼうとはなさいません。食事も、勉強も、遊びごとも、いっさいうち捨てておしまいになったのです。あのくらいやさしい看護人というものは、どこにもございませんでしょう。あれほどお父さまを愛していらっしゃるのに、あれだけ私によくして下すったところをみますと、あの方はほんとに温かい心をお持ちなのに違いございません。一日じゅう二人の看護でお暮らしになったと申しましたが、ご主人は早くお休みになりますし、私にもたいがい六時から先はなんの用もございませんから、夜はお嬢さまのものでございました。おかわいそうなかた! 私は嬢さまがお茶のあと一人で何をしていらしったか、考えてあげたことがございませんでした。そして、私にお寝《やす》みを言いにおいでになるとき、お顔が生き生きとほてって、そしてしなやかな指先も赤くなっているのに気づいたことが幾度もありましたけれど、冷たい荒野《ムーア》を馬で走っていたためのあの顔色とは夢にも思わず、書斎で熱い火にあたっていらしったためとばかり思っていたのでございます。
24
三週間の後には、私は部屋を出て、家のなかを動きまわるようになりました。そしてはじめて宵《よい》に起きておりましたとき、私は眼《め》が弱くなりましたからキャサリンに本を読んで下さいと頼みました。二人は書斎におりまして、主人はやすんでおられました。嬢さまはいささか気の進まない様子で承知したような気がします。そして、私の読むような本は嬢さまに向かないのかと思いまして、何を読むかは嬢さまにお任せしますと申しました。それで嬢さまはお気に入りの本の一冊を選んで、じっくりと一時間は読んでいましたが、その後はしきりに私に訊くようになりました――
「エレン、おまえ、くたびれやしない? もう寝たほうがいいんじゃない? こんなに起きてると、また気分が悪くなってよ、エレン」
「いいえ、嬢さま、ちっともくたびれませんよ」私はいつまでもこう答えます。
この手では駄目《だめ》だと気がつきますと、こんどは方針を変えて、読むのがいやになった様子を見せました。あくびをしたり、のびをしたりして、
「エレン、あたし疲れちゃったわ」
「ではやめにして、お話をしましょう」と私は答えました。これはよけいにいけませんでした。嬢さまはじれて、溜息《ためいき》をついて、八時までは時計ばかり見ていましたが、とうとう部屋へはいってしまいました。むしゃくしゃした大儀そうな顔つきと、絶えず眼をこすっていることから察して、すっかり眠くなった様子です。翌晩はもっといらいらしまして、私といっしょに過ごすようになりました。三晩目は頭痛がすると言って、私をおきざりにしてしまいました。どうもそのそぶりがおかしいと思いましたので、長いあいだ一人で書斎に残っていましてから、いくらかご気分はよくなりましたか、暗い二階にいらっしゃるより、階下《した》でソファに横におなりになってはいかがですかと、言いに行こうと決心しました。ところが二階にも階下にも、てんでキャサリンはいませんのです。召使もお見かけしないと申します。旦《だん》那《な》さまの扉《とびら》の外で耳をすましてみましたが、しんとしております。私は嬢さまの部屋へ帰り、灯《ひ》を消して、窓ぎわに腰をおろしました。
月が明かるく照っております。一しきり降った雪が、地面をおおっています。するとこれは、気晴らしに庭を歩く気になりなすったものか、と私は考えました。たしかに猟場《パーク》の内の垣《かき》にそって、這《は》うような人影が見えます。でも、それは嬢さまではありません。明かるいところへ出てきたのを見ますと、馬丁の一人とわかりました。男は、かなりのあいだたたずんで、庭から馬車道のほうを見ておりましたが、やがて何かを見つけたらしく、すたすたと足ばやに出て行ったかと思いますと、しばらくして、嬢さまの子馬を引いて、帰ってきました。そして、そこに、嬢さまが馬から降りて、そのそばに添って歩いて来るではありませんか。男はこそこそと草を踏んで厩《うまや》へ馬を引いて行きました。キャシーは客間の開き窓からはいって、音もなく私の待っているところへ上がってきました。静かに扉をあけ、雪によごれた靴《くつ》を脱ぎ、帽子のひもを解き、私が見張っているとはつゆ知らずマントを脱ぎかけましたが、そのとき、私は急に立って、姿を現わしました。驚きが一瞬、嬢さまを化石にさせました。何かわけのわからぬ叫び声をあげ、身動きもせず立ちつくしました。
「あたしの大切なキャサリン嬢さま」先ごろの親切がまだ忘れられなくて、いきなり叱《しか》りつけることができず、私は申しました。
「こんな時間に、どこへ馬でいらっしゃいました? なぜ嘘《うそ》をついて、あたしをおだましになるのです? どこへ行きました? おっしゃい」
「猟場《パーク》の端まで」と、どもりながら、「嘘なんかつかないわ」
「ほかのところへは行きませんか?」
「行かないわ」口ごもりながらの答えです。
「まあ、キャサリン!」私は悲しくなって叫びました。「あなたは悪いことをしていると知ってらっしゃる、だから、あたしに嘘を言わずにいられないんです。それが、あたしは情けないんですよ。そんな仕組んだ嘘なんぞ聞かされるくらいなら、病気が三月もつづいたほうがいいくらいです」
嬢さまは私にとびつき、わっと泣き出しながら、私の首に両腕を投げてきました。
「そうなの、エレン、おまえにおこられるのが怖かったのよ。おこらないって約束してちょうだい。本当のことを話すから、隠すのはあたしいやなんだもの」
窓ぎわに二人で腰をおろしました。私はどんな秘密でも叱らないと約束しましたが、もちろん察しはついておりました。で、嬢さまは話しはじめました。
「あたし、嵐が丘へ行っていたの、エレン、おまえが病気になってから、一晩もかかさないの――ただ、おまえが寝てるうちに三度、おまえが起きてから三度のほかは。マイケルに本や絵をやって、毎晩ミニーに支度をさせて、あとで厩へ入れるようにさせたの。よくって、おまえはマイケルのことも叱ってはいけなくてよ。あたしは六時半までには向こうへ着いて、たいてい八時半まではいて、駆け足で帰ってきたの。自分の楽しみで行ったんじゃありません、始めから終りまで悲しい思いしたことが多かったのよ。ときどきはうれしいときもあったけど、まあ一週間に一度ぐらいだったわ。はじめ、あたしはリントンとの約束を守ることを、おまえに納得してもらうのは、とてもむずかしいと思ったのよ――だって、別れるとき、明日また来るって約束しちゃったんですもの。ところがあのあくる日は、おまえが二階にいたから、その苦労はのがれたわけよ。お昼過ぎ、マイケルが猟場《パーク》の門の錠をなおしているとき、あたしは鍵《かぎ》を手に入れて、従弟《いとこ》が病気でこっちへ来《こ》られないから、あたしのたずねるのをとても望んでるって話したの、それからパパがあたしの行くのをいやがってることも話して、子馬のことを承知させたの。マイケルは本を読むのが好きで、それから近いうちに暇をもらって結婚したがっているのよ。だから、お嬢さんが書斎の本を貸して下さるなら、お望みどおりいたしましょうって言いだしたのよ。でも、あたしが自分の本をあげることにしたら、よけいに喜んだわ。
「二度目に行ったとき、リントンは元気そうだったの。そしてズィラがね(あすこの家政婦の名前よ)、きれいな部屋と暖かい煖《だん》炉《ろ》とを用意してくれて、ジョーゼフは祈《き》祷会《とうかい》へ行っていますし、ヘアトン・アーンショーは犬を連れて――あとで聞いたんだけど、うちの森へ雉子《きじ》を盗みに来るんだって――出て行ったから、なんでもお好きなようになさいましって、言ってくれたの。そして温かい葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》と生姜《しょうが》パンを持ってきてくれて、とても親切な女《ひと》らしかったから、リントンは肱《ひじ》掛《か》け椅子《いす》にかけて、あたしは炉石のそばの小さな揺り椅子にかけて、とても愉快に笑ったり話したりして、とても話がはずんだの。いっしょにどこへ行こうとか、夏になったら何して遊ぼうとか、相談したのよ。でもおまえがまた馬《ば》鹿《か》らしいっていうから、その話はしないわ。
「だけど、一度はもう少しでけんかになるところよ。リントンは、暑い七月の一日を過ごすいちばん楽しい方法は、朝から夕方まで荒《ムー》野《ア》のまん中のヒースの土手の上に寝そべって、花のなかを蜂《はち》が夢のようにうなる音や、空の高いところで雲雀《ひばり》が歌う声を聞いて、一片の雲もない青い空に、明かるい太陽が照りつけるのを眺《なが》めてることだって言うの。それがあの子の考える天国のような幸福のいちばん完全な姿なの。あたしのはね、西風が吹いてさらさら枝を鳴らす緑の葉の茂った木の上で体を揺すって、空には輝く白い雲がどんどん流れてゆくし、雲雀だけじゃなくてつぐみ《・・・》だとかブラックバードとかべにひわ《・・・・》だとかかっこ《・・・》う《・》だとか、四方八方でたっぷり音楽を聞かせてくれて、遠くの荒野《ムーア》は涼しい黒っぽい谷のほうまでつづいて、近くでは長く伸びた草が波のようにそよ風にうねって、それから森に水の音に――すべての世界が生き生きと動いて喜びに踊り狂うばかりなの。あの子は恍惚《こうこつ》とした平和のなかでやすらってるのがいいって言うし、あたしはすべてが光り輝く歓喜のなかでキラキラしながら踊ってるのが好きだって言ったの。あんたの天国は半分死んでるみたいだってあたしが言えば、きみのは酔っぱらってるんだってあの子は言うの。あたしはあんたの天国にいたら眠っちまうって言うと、きみの天国じゃぼくは息もできないんですって――そしてとてもプリプリしだしたの。結局、いい時候になったら、両方をためしてみようってことになって、ふたりで接吻《せっぷん》しあって、また仲よしになったのよ。
「一時間ぐらい静かにすわっていてから、あの絨毯《じゅうたん》のない、石の床の滑らかな、大きな部屋を眺めていたら、もしテーブルをどけちゃったらとてもいい遊び場所になると思ったの。それでリントンに、ズィラにも仲間になってもらって、鬼ごっこをしましょうって言ったの。ズィラを鬼にして、あたしたちを追わせようと思ったのよ、ね、おまえもよくやったわね、エレン。リントンはいやがって言うの、そんなことちっともおもしろくないんだって。でも球投げならあたしとやってもいいって言うの。戸《と》棚《だな》のなかに独楽《こま》だの輪だの羽子板だの羽根だの、いろんな玩具《おもちゃ》が積んであるなかに、まりが二つ見つかったわ。一つはC、もう一つはHという印がついているの。あたしは自分の名がキャサリンだし、Hはあの子の名のヒースクリフにあたるから、Cをとったの。ところがHのまりから麩《ふすま》がこぼれ出たものだから、リントンはいやがってるの。あたしばっかり勝つもんだから、またあの子は機《き》嫌《げん》が悪くなって、咳《せき》をしながら椅子へ帰っちゃったわ。でもその晩は、わりに楽に機嫌がなおったわ。あたしが二つ三つ可愛《かわい》い歌を歌うと、あの子はとても喜んだわ――エレン、おまえの教えてくれた歌よ。それでいよいよ帰るときが来たら、リントンがどうかお願いだから明日の晩も来てって言うから、また約束しちゃったの。ミニーとあたしと、まるで空を飛ぶように帰ってきたの、そして朝まで、あたしは嵐が丘とあたしのかわいい大好きな従弟《いとこ》を夢にみていたわ。
「あくる朝は、悲しかったわ。半分はおまえが病気だったせいで、半分はお父さまに話して、遠乗りを許していただきたかったからなの。でもお茶のあとは美しい月夜でね、馬に乗って行くうちに、気持はすっかり晴れちゃったわ。今晩もまた楽しい晩が過ごせるわって、一人で思ったの。それにもっとうれしかったことは、あたしのかわいいリントンもそうなんだ、ということだったの。お庭のなかへ駆け足ではいって行って、裏へまわろうとすると、そこへあのアーンショーっていう男が来たのよ。あたしの手綱をとって、玄関からおはいりって言うの。ミニーの頭をたたいて、これはかわいいやつだな、なんて言って、何か話しかけてもらいたそうにしているのよ。あたしは馬をからかっちゃいけない、蹴《け》られるわよ、とだけ言ってやったら、あの下品な訛《なま》りで、『蹴ったところで痛くもねえや』なんて言いながら、ミニーの足を調べて笑ってるの。一つ蹴らせて見ようかと、あたし思ったわ。でも、馬のそばを離れて、戸をあけに行って、掛け金をあげながら、上の飾り文字を見上げて、きまり悪そうな得意そうなおかしい言い方で言うのよ――
「『キャサリン嬢さん! おれ、あれが読めるようになったよ』
「『えらいわね、じゃ聞かしてちょうだい――ずいぶん利口になったのね!』
「そしてあの『ヘアトン・アーンショー』という名のつづりを一字一字読んで、それから一音ずつ、のろのろと発音して聞かせたわ。
「『ではあの数字は?』あたしが元気づけるように言うと、ぴたっと黙っちゃったのよ。
「『あのほうはまだわからねえ』
「『まあ、ずいぶん覚えが悪いのねえ!』って、その失敗をおなかをかかえて笑ってやったの。
「馬鹿は、くちびるはニヤニヤとさせながら、眼は不愉快そうにして、あたしの顔をみつめていたわ、あたしの上機嫌の仲間入りをしたものかどうか、――それがただ愉快な親しみだけの笑いなのか、それともやっぱり軽蔑《けいべつ》してるのか――それがわからないような顔してるの。だからあたしは急にまじめになって、あたしが会いに来たのはあんたじゃなくてリントンなんだから、もうあっちへ行ってちょうだいって、そう言って、はっきりどっちだかわからせてやったのよ。そしたら真っ赤な顔になって――月の光で見えたからよ――掛け金から手を離して、虚栄を傷つけられたくやしさを絵に描《か》いたように、こそこそと行っちゃったの。きっと自分の名のつづりが言えるようになったから、もうリントンに負けない学者になったように思ったのね、だからあたしが同等に扱ってやらないのでとても当てがはずれたんだわね」
「ちょっと、キャサリンさん、あなた!」私はさえぎりまして、「叱るんじゃありませんよ、でもそのときのあなたの仕打ちは感心しません。もしあなたがヘアトンもヒースクリフと同じ従兄《いとこ》だということを忘れなかったら、そんな態度をとるのはよくないことがおわかりのはずです。少なくとも、リントンと同じ学者になりたいと思うのは、あの子としてほめてあげていい野心ですわ、それにきっと、何も自慢したいだけで勉強したんじゃありますまい。前にあなたから、あの子は無学を恥かしいと思わせられたことがあるのでしょう、それに違いありません。だからその恥をそそいで、あなたに喜んでもらおうと思ったんです。そういう考えでやったことが不完全だったといってあざ笑うというのは、あんまりぶしつけですわ。もしあなたがあの子みたいな境遇で育てられたら、あの子よりも粗野にならないとお思いですか? もとはあの子だって、あなたと同じ覚えの早い、頭のいい子だったんですよ。あの卑《いや》しいヒースクリフがあんなひどい虐待《ぎゃくたい》をしたばっかりに、今そんなふうにさげすまれていることを思うと、あたしはくやしくってたまりません」
「まあ、エレン、そんなことで泣かなくってもいいじゃないの、ええ?」嬢さまは私がムキになったのに驚いて叫びました。「でもまあ待ってよ、そうすればあの子がABCを習ったのは、あたしを喜ばせるためだったかどうか、あのケダモノに丁寧にしてやる値打ちがあるかどうか、もう少し聞けばわかるから。なかへはいると、リントンは長椅子に寝ていて、あたしを迎えるために半分起きなおったの。
「『今晩はぼくは具合が悪いよ、キャサリン。だからきみ一人で話をして、ぼくは聞く役にしておくれね。さあ、そばへおすわりよ。ぼくはきっときみが約束を守ってくれると思ってた、だからまた今夜も帰る前に約束させるよ』
「気分が悪いのだから、じらしてはいけないんだと思って、やさしく話をして、何も訊《き》かないようにして、少しでもいらいらさせないように気をつけていたの。その晩はあたしの一番良い本を二、三冊持って行ったから、そのなかの一つを少し読んでくれって言われて、ちょうどあたしが読みかけたところへ、アーンショーがおどり込んできたの。いろいろ考えた末に憎しみをたくわえてきたんだわね。まっすぐあたしたちのほうへ進んで来て、リントンの腕をつかんで、椅子からほうり出しちゃったの。
「『てめえの部屋へ行け!』あんまり腹立ってて、よく聞きとれないような声で言うの、顔なんかはれ上がったような、ものすごい形相だったわ。『おまえに会いに来たんなら、その子もいっしょに連れて行け、おれをこの部屋へ入れないなんてことがあるか。二人とも出て行け!』
「そう言ってあたしたちに悪態をついて、リントンに返事をする暇も与えないで、台所へ突き出しちゃったの。そしてあたしがあとからついて行くとき、まるでなぐり倒したいような顔して、手を握りしめてるの。あたしちょっと怖くなっちゃって、一冊の本を床へ落したら、それをあたしの後ろから蹴とばしてよこして、扉をしめちゃったの。煖炉のところから憎々しいしゃがれた笑い声がひびいてきたから、振り返ってみたら、あのいやらしいジョーゼフが、骨だらけの手をこすりながら、体をふるわせて立ってるのよ。
「『きっとおめえさまらをやっつけると思ったぜや! ヘアトンさまアえれえ若《わけ》え衆だで! 腹アしっかりしてるだからな! あの部屋のあるじが誰《だれ》だか、ちゃあんと知ってなさるだ、わしと同じに――そうともよ、ちゃあんと知っていなさるだぜや――エッヘッヘッ! うまくおめえさまがたをおっぽり出したもんだ! エヘッ、ヘッ、ヘッ!」
「『あたしたちどこへ行くの?』悪党爺《じじ》いのあざけるのには耳をかさないで、あたしはリントンに訊いたの。
「リントンは真《ま》っ青《さお》になってふるえてたわ。そのときはかわいく見えなかったことよ、エレン、ほんとなの! 怖かったわ。あの細い顔と大きな眼とが、気違いじみた、そのくせいくじのない憤《いきどお》りの表情をしていたからよ。そして扉の把《とっ》手《て》を握って、それを振ったけど、内側から締め切りになっていたの。
「『どうしてもぼくを入れないと、おまえを殺しちゃうぞ! どうしても入れないなら、おまえを殺しちゃうぞ!』言うんじゃなくて、悲鳴をあげてるほうに近かったわ。『悪党め! 悪党め! ――殺すぞ! ――殺してやるから!』
「ジョーゼフがまたガラガラ声で笑ったわ。
「『そうれ、おやじ殿の言いぐさだぜや! おやじ殿そっくりだぜや! 誰でも両方の筋を引くだからな。気にするでねえ、ヘアトン、若旦《わかだん》那《な》――怖《こえ》えことはねえ――おめえさまに寄りつけやしねえだからな!』
「あたしはリントンの手を取って、扉《とびら》から離れさせようとしたけれど、あんまり気持の悪い悲鳴をあげるから、それができなかったわ。とうとうどなってるうちに息が苦しくなって、ひどい咳《せき》の発作が起こったの。口から血が吹き出して、地面に倒れちゃった。あたしは恐ろしさに胸が悪くなって、裏庭へ飛び出して、声かぎりズィラを呼んだの。ズィラは納屋《なや》の後ろの小屋で乳をしぼっていたから、すぐあたしの声を聞きつけて、急いでやめて帰ってきて、いったいなんですかって訊くんだけど、あたしは苦しくって話ができないから、引っ張り込んで、リントンを捜したけど、いないのよ。アーンショーが、自分がどんな悪いことをしでかしたか、見に来て、かわいそうなあの子をかかえて、二階へ運んじゃったからなの。ズィラとあたしもあとから上がって行ったけれど、ヘアトンが階段の上であたしたちを止めて、あたしに、はいっちゃいけない、うちへ帰れって言うの。あたしは、おまえがリントンを殺しちゃったんでしょう、どうしてもはいるわって叫んだの。ジョーゼフが扉にかぎをかけちゃって、あたしに『そないなあほなこと』するんじゃない、おまえさんも『あの餓鬼みてえに生まれつきの気ちげえ』なのかって訊くのよ。あたしが泣いてると、家政婦が部屋から出てきて、もう少しすれば、坊っちゃんはよくなるけれど、そんなにキャアキャア言ってお騒ぎになるとかえってよくなりませんと言って、あたしを引っぱって、まるでかかえ込むようにして居間へ連れ込んじゃったの。
「エレン、あたしはもう、髪の毛を掻《か》きむしりたくなったわ! あんまり泣いて泣いて、眼《め》がつぶれたかと思うほどなの、それをおまえが馬鹿にひいきにするあの悪漢は前に立って見てるのよ。すきを見ては、あたしに『黙れ』って言ったり、おれが悪いんじゃないって言ったりして、しまいにあたしが、パパに言いつけて、おまえを牢《ろう》屋《や》に入れて縛り首にしてやるって言ったもんだから恐れをなしちゃって、自分も泣きじゃくり出して、自分の臆病《おくびょう》な興奮を隠すために急いで出て行っちゃったの。それでも、まだあいつを追っ払うことはできなかったのよ、とうとうしまいにみんなに言われて、あたしが帰ることになって、千ヤードばかりあの屋敷から離れた時分に、急にまたあいつが道ばたの暗いところから出て来て、ミニーを留めてあたしをつかまえたの。
「『キャサリンさん、おれとても悲しいんだよ。だけどずいぶんひどいでねえか――』
「あたしはあいつに殺されるのかと思ったから、むちでピシリと打ってやったの。手を離して、何かお得意の悪口のいちばんひどいのをどなったから、あたしは半分以上夢中で馬を駆けさせて帰ってきたの。
「その晩はおまえにお寝《やす》みも言わなかったわ。そしてあくる日は嵐が丘へは行かなかったの。とても行きたかったけど、でもとても妙に興奮しちゃって、ときどきリントンが死んだことを聞かされるのが恐ろしくなって、そうかと思うとヘアトンと会うことを考えてはぞっとして身ぶるいが出るのよ。三日目は勇気を出したわ――少なくともこれ以上不安のままで我慢していられなくて、もう一度家を脱け出したの。五時に家を出て、歩いたの。なんとかして、こっそり家のなかへ忍びこんで、リントンの部屋へ見つからないうちに上がって行こうと思ったからよ。でも、犬たちがあたしの近寄ったのを見つけちゃったわ。ズィラが出迎えてくれて、『坊っちゃんはいい具合になおってきました』って言いながら、小ざっぱりした絨毯を敷いた小部屋へ案内してくれたの。リントンがそこで小さなソファに横になって、あたしの貸した本を読んでるのを見たときは、まあなんとも言えないほどうれしかったわ。でもずうっと一時間ばかり、口も利《き》かなければ、あたしのほうを見もしないのよ、エレン。そういう不幸な気むずかし屋なのね。そしてやっと口を開いたと思ったら、あたしが一昨日《おととい》あんなにワアワア騒いだのがいけない、ヘアトンは悪くないって言うんですもの、あたしすっかり面くらっちゃったわ! 返事もできなくて、ただかっとして立って部屋の外へ出ちゃったの。そしたら後ろから、弱々しい声で『キャサリン!』て呼ぶの、あたしがそういうふうに出るとは思わなかったのね。でもあたし引き返す気にはならなかったわ。その次の日は、家にいた二回目の日で、もうこれきり見舞ってやらないと、ほとんど決心していたの。でも寝るのも起きるのも、とても情けなくて、あの子の様子がわからないのが悲しくてたまらないから、せっかくの決心も、しっかり固まらないうちに空に消えちゃったの。前には行くのがまちがってると思ったのに、今は行かずにいるのがまちがってるような気がしてくるの。マイケルがミニーに鞍《くら》をつけますかって訊きに来たから、『ええ』って言っちゃって、その背に乗って丘を越えてゆくときには、あたしは義務を果たしてるんだと考えていたの。中庭へ行くには正面の窓を通らなければならないから、来たことを隠そうと思ってもなんにもならないのよ。
「『お坊っちゃんは居間にいらっしゃいますよ』あたしが客間《パーラー》にはいろうとしたら、ズィラがそう言うの。はいってみると、アーンショーもいたけれど、すぐに部屋から出て行っちゃったの。リントンは大肱《おおひじ》掛《か》け椅子《いす》に腰かけて、うとうとしてたわ。煖《だん》炉《ろ》のそばへ歩いて行って、あたしはまじめに――半分は本気で言いはじめたの。
「『リントン、あなたはあたしを好いていないし、またあたしがあんたをいじめに来ると思って、いつもあたしがいじめるような顔をするから、もう今夜を限り会いませんよ。さよならしましょうね。そしてヒースクリフさんに、あなたはもうあたしに会いたいと思わない、もうこれっきりこのことで嘘《うそ》をこしらえるのはよして下さいって、そう言ってちょうだい』
「『まあ腰をかけて、帽子をおとりよ、キャサリン』リントンは答えるの、『きみはぼくよりもずっと幸福なんだし、もっと幸福になるのが当り前なんだ。パパはさんざんぼくの欠点を並べて、ぼくを嘲笑《ちょうしょう》して、ぼくが自分を疑うのが当り前みたいにしようとする。ぼくは自分ではパパがいつも言うほどくだらない人間ではないと思っても、やっぱりそれを疑うようになるんだ。そうしてとてもいらいらして意地わるになって、誰をみても憎らしくなるんだ! ぼくは実際ろくでなしなんだ。そしていつも不機嫌で、元気がないよ。だからもしきみがそうしたいなら、別れてもいいよ。それできみはめんどうがなくなるんだからね。ただね、キャサリン、ただこれだけはぼくのために認めてくれてもいいと思うんだ――もしぼくがきみみたいにやさしく、親切に、善良になれるものなら、ぼくもなりたいと思ってる、きみみたいに幸福に、健康になりたいと思う以上に、そう望んでるってことを、信じてくれよ。ぼくはきみに愛される資格がないのに、きみが親切にしてくれたために、きみを深く愛するようになったということを信じておくれよ。そして、ぼくは自分の性質をきみに見せずにいられなかった。またいつでも見せずにいられないけれども、ぼくはそれをくやしく思い、後悔してる――また死ぬまでくやしく思って、後悔するだろうよ!』
「あたしはリントンが本当のことを言ってると思って、赦《ゆる》してあげなければならないような気がしたの。またすぐ次の瞬間にはけんかするかもしれないけれど、それもまた赦さなければならないと思ったのよ。あたしたちは仲直りしました。でもふたりとも、泣いちゃったの、あたしのいるあいだ、ずっと泣いていたの。それは悲しいからばかりではなかったけど、あたしはほんとにリントンのねじけた性質が悲しかったわ。あの子はどうしても友だちを落着かせられないし、自分も落着けないだろうと思うわ! その晩からあとは、いつもあの小さい客間へ行くようになったの――その翌晩、あの子のお父さんが帰ってきたから。
「たぶん三度ぐらいは、初めの晩みたいに朗らかに、希望を持てたことがあったような気がするわ。ほかの晩はみんな退屈だったり、困ったりだったわ。それはあの子のわがままと意地わるのためのこともあったし、病気で苦しがるためのこともあったけれど、あたしは意地わるやわがままに対しても、病気とほとんど同じくらいに、うらめしいとは思わないで辛抱できるようになったの。ヒースクリフさんはわざとあたしたちを避けていたわ、まるで会わないと言っていいくらいだった。このあいだの日曜には、いつもより少し早く行ったら、リントンの昨夜の振舞いはなんだとか言って、とてもひどくリントンをののしってる声が聞こえたの。もし立ち聞きしてるんでなければ、どうしてあのひとが知ってるんだか、あたしにはわからないわ。そりゃもちろん、リントンはあたしをおこらせるような態度を見せたには違いないの。でも、それはあたしのほか、誰にも関係ないことだわ。だからあたしはヒースクリフさんの講釈してる最中にはいって、そう言ってやったの。そしたらあのひと、大笑いに笑い出して、おまえさんがそんなふうに考えてるんなら結構だよ、と言いながら出て行っちゃったの。それからはあたし、リントンに、意地の悪いことを言うときには、小さい声で言いなさいって言ってるの。それでね、エレン、これでみんな話しちゃったわ。あたしが嵐が丘へ行くことを邪魔しようと思ったら、二人の人間にみじめな思いをさせずにはできないことよ。ところが、もしおまえがパパにさえ黙っていてくれれば、誰ひとり静かな気持を掻き乱されないで済むわけだわ。ね、だから言わないでしょ、エレン? もし言うとしたら、それはひどい不人情というものよ」
「そのことは明日きめましょう、キャサリンさん」私は答えました。「もっとよく考えてみなければなりません。ですからあなたはお休みなさい、あたしは一人でよく考えてみますから」
私はこの問題を、旦那さまの前で声に出して考えてみました。嬢さまの部屋からまっすぐに、旦那さまのお部屋へ参りまして、一部始終をお話ししてしまったのです。もっともリントンとキャシーの会話のことと、ヘアトンの話は抜かしましたけれど。リントン氏はたいへん驚き、また嘆かれました――おそらく私に見せたくないほどの驚き、悲しみでしたでしょう。翌朝、キャサリンは私が信頼を裏切ったことを知り、また秘密の訪問もこれ限り終ったことを知りました。この禁制に泣いて身もだえして争っても、またリントンを哀れと思って下さいと父上に哀願しても、なんのかいもありませんでした。ただいくらかみずから慰めることのできましたのは、お父上がリントンに手紙を書き、好きなときにスラシュクロス屋敷へ来ることを許してやろうと約束なさったことだけでした。けれども同時にその手紙で、嵐が丘でキャサリンに会うことはもはや期待してはならぬと言ってやるということでした。おそらく、リントン氏は、もし甥《おい》御《ご》の性質と健康のすぐれぬことを知っていましたら、こうしたわずかな慰めの言葉すらも差し控えるほうが適当だったことがわかったことと存じます。
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「いままでお話ししましたのは、昨年の冬のことでございますのよ」ディーンさんは言った。「それからまだ一年とはたちませんわ。昨年の冬には、あと十二カ月後に、こういうお話で、リントン一家と縁もゆかりもない方のお気晴らしをしようなどとは、思ってもみませんでした! でも、はたしてあなたがいつまで縁もゆかりもなしでいらっしゃるか、誰《だれ》にもわかりはしませんわ。あなたはお若いんですから、とてもおひとり暮らしで、いつも満足していらっしゃるわけにはゆきません。そして、ある意味では、あたくしは、誰しもキャサリン・リントンに会ったら、あの方を恋さないではいられないのではないか、と思うことがありますの。あなたはお笑いになっていらっしゃる。でもなぜ、お嬢さまのことをお話しすると、あなたはそんなに生き生きと興味深そうな顔をなさるんでしょう? またなぜあの方の肖像を炉ばたに掛けてくれなんてお頼みになるのでしょう? それからまたなぜ――」
「ちょっと待った、おばさん」僕《ぼく》は叫んだ。「そりゃぼくがあのお嬢さんに惚《ほ》れる可能性は大いにありますがね、でも彼女のほうがぼくに惚れてくれますかね? どうも誘惑に駆られてこの静かな生活を捨てるのは少し冒険が大きすぎるんじゃないかと思うんだ。それからまた、ここはぼくの生まれ故郷じゃない。ぼくは忙しい都会の人間で、いずれはそこへ帰ってゆかなきゃならないんです。まあ話をつづけて下さい。キャサリンはお父さんの命令に服従したんですか?」
「はあ、服従しましたの」家政婦は話をつづけた。「お父さまに対する愛情が、やはり嬢さまの心にはいちばん大きな部分を占めておりましたんです。またリントン氏はおこらずにお話しなさいました。危険な恐るべき敵のただなかへ、大切な珠《たま》とも宝ともお思いになるお方を、やがて残してゆかねばならぬお身の上として、嬢さまの記憶に残るそのお言葉だけが、愛する娘の身の守りとしてお残しになれるただ一つの助けだとお考えになったのでございましょう、やさしく諄々《じゅんじゅん》と言ってお聞かせになりました。それから数日しまして、旦《だん》那《な》さまはあたくしにおっしゃいました――
「『ぼくはリントンが手紙をよこすか、たずねて来てくれるといいと思うのだがね、エレン。正直のところ、おまえはあの子どもをどう思うか、話してくれんか。成人するにつれて、良いほうへ向いて行くだろうか、つまり良い人間になる見込みがあるのだろうか?』
「『あの方はとてもお弱うございますから、旦那さま』私は答えました。『とてもご成人はむずかしかろうと存じますの。でも、これだけは申しあげられます。あの方は父親似ではございません。そしてキャサリン嬢さまがあの方と結婚なさるような不幸なことになりましても、嬢さまがあまりお人よしにわがままほうだいにつけ上がらせておしまいにさえならなければ、嬢さまのお手におえないというようなことはございますまい。旦那さま、まだまだゆっくり甥《おい》御《ご》さまとよくお会いになって、お嬢さまに向く方かどうか、ごらんになれるではございませんか。あの方が成年になられるまでには、まだ四年以上もございますもの』」
エドガーは嘆息して窓辺へ行き、ギマトン墓地のほうを眺《なが》めました。霧の深い午後でしたが、二月の太陽がどんよりと照って、墓地の二本のもみの木と、まばらな何基かの墓石が、やっと見わけられました。
「ぼくは以前はよく、来たるべきものが、早く近づいてくれるようにと祈ったものだ」なかばひとり言のように――「だが今ぼくはそれを避けたくなってきた、恐ろしくなってきた。あの谷間を花婿《はなむこ》としてくだってきたときの思い出よりも、もうじき、数カ月か、ことによったら数週のうちに、になわれてあの谷間を登ってゆき、さびしい穴のなかへ寝かされることを予期するほうが、はるかにうれしいだろうと思ったものだ! エレン、ぼくは娘のキャシーといっしょに暮らして、とても幸福だったのだよ。冬の夜も、夏の日も、あれはぼくのそばにいて、生きる希望になってくれた。だがぼくには、あの古い教会の下の、あの墓地のなかにいて、ひとりで黙想にふけるとき、それに劣らず幸福だった。長い六月の宵《よい》、あの子の母親の墓の草むした盛土の上に横たわって、自分もその土の下へはいるときの来るのを望んで――あこがれてさえいたものだ。キャシーのために、ぼくは何がしてやれるだろう? どんなふうにして、あの子と別れねばならないのだろう? ぼくはリントンがヒースクリフのせがれだということも、また、ぼくを失ったキャシーを慰めてさえくれるなら、リントンがあの子をぼくから奪うことだって、一瞬の間も気にかけたことはない。ヒースクリフが目的を達して、ぼくの最後の祝福までも奪いとって凱《がい》歌《か》をあげたって、ぼくはちっともかまわないのだ! だがリントンがなんの価値もないやつなら――ただあれの父親のか弱い道具であるにすぎんのなら――ぼくはキャシーをそういう者の手に捨て去るには忍びない! そして、娘の浮き立った気持を押しつぶすのはつらいことだが、ぼくの生きているあいだは娘を悲しませ、ぼくが死ぬときには孤独のままで別れることを、忍ばねばならんと思うのだ。かわいい嬢や!いっそぼくは、彼女《あれ》を神さまのお手にゆだねて、ぼくよりも先に地下に眠らせてやりたいほどだ」
「今のままで嬢さまを神さまのお手におゆだねなさいまし、旦那さま」私は答えました。「そしてもしあたくしどもがあなたにお別れするようなことになりましたら――どうぞ神さまがそれをお許しなさいませんように! ――神さまの御《み》旨《むね》の下《もと》で、あたくしが最後まで嬢さまのお友だちともなりご相談相手ともなりましょう。キャサリン嬢さまは良い娘さんでございます。あの方が知りながらまちがったほうへおいでになる心配はないと存じますよ。そして自分の義務《つとめ》を果たす人間はいつでも最後には報いられるものでございますわ」
春はたけなわ《・・・・》となりましたが、それまでも旦那さまははかばかしく本復とまではゆきませんでした。もっとも嬢さまといっしょにお庭の散歩だけはなさるようになりましたので、経験のないキャシーの頭では、それがもうご全快の証拠だと思っていました。またそのうちに頬《ほお》がぽっと赤くなったり、眼《め》が輝いたりすることがしばしばありましたが、それも嬢さまにご回復を確信させたようでした。嬢さまの十七歳のお誕生日には、旦那さまはお墓へはお出ましにはなりませんでした。雨が降りましたので私が申しました――
「今夜はお出かけになりませんでしょう、旦那さま?」
するとご返事は――
「そうだね、今年は少し先へ延ばそう」
旦那さまはまたリントンへ宛《あ》てて、ぜひ会いたいという手紙をお出しになりました。病身なあのむすこさえ人前に出られるのでしたら、来ることを父親が許さないはずはよもあるまいと、私は信じておりました。やはり実際には、父親の指図で返事をよこしました。それによりますと、僕がスラシュクロス屋敷をおたずねすることは父が許してくれません、けれども伯父上がご親切に僕をおぼえていて下さることはまことにうれしく存じました。いずれ散歩のついでにでもお目にかかりたいと思っています、そしてキャサリンさんと今のようにまるで別れきりでいなくてもよいように、直接伯父さまにお願いしようと思っています、というのでした。
この最後のことを述べた部分は単純で、たぶん自分の頭で書いたものだろうと思われます。してみるとヒースクリフは、キャサリンと会いたいという嘆願ならば、リントンがすらすらと書けることを知っているのでした。
「ぼくは彼女にこちらへ来て下さいとはお願いしません」と手紙には述べてありました。「けれども、父がぼくに彼女の家へ行くことを禁じ、あなたは彼女にぼくの家へ来ることを禁じているために、ぼくは全然彼女に会えないことになるのでしょうか? どうぞ、ときどき、彼女といっしょに嵐が丘の方面へ遠乗りをなすって下さい。そしてあなたの前で、少しばかりふたりで話をさせて下さい! ぼくたちはこんなふうに仲を隔てられるようなことは何もしていません。そして伯父さまはぼくをおこってもいらっしゃいません。おまえを嫌《きら》う理由は一つもないと、あなたご自身、認めていらっしゃるのです。親愛な伯父上さま! 明日、どうぞお手紙を下さい、そしてスラシュクロス屋敷以外のどこでなりと、あなたがたとごいっしょになることをお許しください。一度お目にかかれば、ぼくは父とは性格が違うことを認めていただけると、ぼくは信じます。父も、ぼくは父のむすこというより、はるかにあなたの甥らしいと申します。そして、もちろんぼくは欠点が多くて、キャサリンにふさわしくはありませんけれど、キャサリンはぼくのそれらの欠点を赦《ゆる》してくれるのですから、伯父さまもどうか彼女のためと思って、赦していただきたく思います。あなたはぼくの健康についてお訊《たず》ねくださいました――いまは大分いいほうです。けれども、あらゆる希望から切り離されて、孤独を強《し》いられて――あるいは今までも将来もけっしてぼくを好かない連中とのみ暮らすことを強いられている限り、どうして朗らかに、元気になれましょうか?」
エドガーは、少年の心を思いやらぬではなかったのですが、その要求に応じることはできませんでした。キャサリンといっしょに行くことは健康が許さなかったからです。夏になれば、たぶん、会ってやれるかもしれぬ、とエドガー氏は言いました。それまではときどきまた手紙をよこしてほしい、私のほうからも手紙でできる助言や慰謝を与えようから――きみの家庭内でのつらい立場は、私にもよくわかっているつもりだ、とも言ってやりました。リントンはその言葉に従いましたが、もしそばからの抑制がありませんでしたら、おそらくその後の手紙は不平や哀訴ばかりで満たされたことでしょう。けれどもいつも父親が厳重に監視していましたし、またもちろん、こちらのご主人からの手紙は隅々《すみずみ》まで目を通さなければ承知しませんでしたから、絶えずリントンの頭に真っ先に浮かんでくる題目であるはずの自分の肉体の特殊な苦痛や悩みには触れないで、ひたすらなつかしい友、恋人から隔離されている悲痛な負担についてかき口説いて、伯父上がぜひとも近いうちに面会を許してくださらなければ、当てにならぬ約束で故意にぼくをだましていらっしゃるのではないかと恐れるだろう、と婉曲《えんきょく》に心の底をうちあけるのでした。
キャシーはこちらでの有力なリントンの味方でございました。そしてふたり力を合わせて、とうとう、一週に一度、私の監督の下で、またお屋敷のすぐそばの荒野《ムーア》に限って、ふたりして乗馬か徒歩の散歩をすることを許すところまでリントン氏を口説き落しました。六月になりましても、まだお体は衰弱していましたのです。旦那さまは年収の一部を嬢さまの財産に繰り入れておいでではございましたが、ご先祖代々のこのお屋敷を、嬢さまのお手に留めおきたい――せめてなるべく早くそのお手に取り戻《もど》したい、とお望みになるのは無理もないことで、そこでそうするための唯《ゆい》一《いつ》の方法としては、ご自分の相続人と婚を結ぶことのほかにないことをお考えになりました。その相続人の方がご自分に劣らず衰弱を早めつつあることは少しもご存じなく、またほかにも一人として知る者はなかったと存じます。嵐が丘へは医者が行ったことはありませんし、ヒースクリフ少年に会ってきて、病状を報告する者も、私どものなかには一人もございませんでした。私といたしましても自分の予感が誤っていたのではないか、荒野《ムーア》を馬に乗ったり歩いたりするとか言って、あれほど熱心にその目的を追い求めているところを見れば、本当に健康を回復したに違いない、などと思っておりましたのです。のちになって知ったことでございますが、ヒースクリフはリントンに、キャサリンに会いたいという熱意を装わせるように強制していましたので、こんな暴虐《ぼうぎゃく》とも邪悪とも言いようのない仕打ちを、父親ともあろう者が瀕《ひん》死《し》のわが子にいたそうとは、私にはとても思い及ばないことでございました。つまりあの貪欲《どんよく》無《む》残《ざん》な計画が、わが子の死によって打ち砕かれる危険が切迫すればするほど、ヒースクリフの死物ぐるいの努力は倍加されたものと思われます。
26
夏ももう盛りを過ぎましたころ、ようやくエドガーはしぶしぶながら心折れて、若い者たちの願いを聞き届けましたので、キャサリンと私とは、リントンとの最初のあいびきに馬で出かけることになりました。息苦しいほど蒸し暑い陽気で、陽《ひ》はさしませんでしたが、雲がまだらに空をおおって、もや《・・》がかかり、かえって雨の心配はなさそうでした。あいびきの場所は四つ辻《つじ》の石標のところと決められておりました。けれども着いて見ますと、小さな牧童が使われてきておりまして、私どもに申しますには――
「リントン若旦《わかだん》那《な》は、そこの嵐《あらし》が丘《おか》のこっち側まで来ていなさるです。すまねえけんど、もうちっとばかり歩んで下せえと言ってるだが」
「それじゃリントンさんは伯父さまから第一番に注意されたことを忘れたのね」と私が申しました。「旦那さまはお屋敷の土地から離れてはならないとおっしゃったのに、ここから先へ行けばすぐに離れることになりますよ」
「いいわ。リントンのいるところまで行ったら、すぐに引き返すことにしましょう」嬢さまは答えました。「あたしたちの家のほうへ向かって遠乗りすることになるでしょう」
けれどもリントンの待っているところまで行ってみますと、そこは嵐が丘から四分の一マイルくらいしか離れていないところで、馬も連れてきておりませんのです。それで私どももしかたなく馬から降りまして、馬はその辺で草を食《は》ませておくほかはありませんでした。リントンはヒースの上に寝そべったまま私どもの近づくのを待って、やっと身を起こしたのは数ヤードのところでした。そしてその歩き方のせつなそうなこと、血色の悪いこと、私はたちまち叫んでしまいました。
「まあ、ヒースクリフの坊っちゃん、あなたはけさはとても散歩なんかできるお体じゃありませんわねえ。なんて悪いお顔色でしょう!」
キャサリンは悲しみと驚きの眼《め》で、その姿を眺《なが》めておりましたが、くちびるまでのぼった喜びの叫びは、驚愕《きょうがく》の叫びに変ってしまいました。そして長いあいだのびのびになっていた会合を祝うはずの言葉は、いつもよりも今日は悪いのかという心配そうな質問に変ってしまいました。
「いや――いいんだ――ふだんより、これでいいんだ!」あえぎながら、ふるえながら、まるで立っているための支えに要るのかのように、キャサリンの手を握りしめながら、大きな青い眼でおずおずと相手のあちこちを眺めまわしています。以前のものうげな表情は、眼のまわりの凹《くぼ》みのために、もの狂おしい憔《しょう》悴《すい》に姿を変えております。
「でもあんたは前より悪くなっていたのね」従姉《いとこ》は言い張りました。「最後にあたしが見たときよりも悪いわ。やせたことも、それから――」
「ぼく、くたびれちゃった」少年は急いでそれをさえぎって、「歩くには暑すぎるんだ。ここで休もうよ。そして、朝は、ぼくはよく気持が悪くなる――パパはぼくがどんどん大きくなるって言うけど」
しかたなしにキャシーもすわりますと、リントンはそのそばに寄りかかりました。
「ここはあなたの天国にどこか似てるわね」努力して朗らかにしようと思って、キャサリンが言いました。「ふたりがそれぞれにいちばん楽しいと思う場所とやりかたで、二日間を過ごそうって約束したのを覚えていらっしゃる? ここはたしかにあなたの場所だわ。ただ雲があるけれど。でもいまは柔らかできれいな雲ね、日が当ってるのよりいいわ。来週は、もしあなたが乗れたら、スラシュクロスの猟場《パーク》まで馬で行って、あたしの天国をためしましょうね」
リントン嬢さんのしている話を覚えていないようで、明らかにどんな会話もつづけることは非常に困難らしゅうございました。嬢さまの持ち出した話に興味を持たないこと、嬢さまを楽しませるために何をする力もないことが、あまりにも明らかでしたから、嬢さまの失望は隠しようもありませんでした。リントンの体にも態度にも、全体としてみて、何かはっきりしませんが変化が起こっているようです。前には愛《あい》撫《ぶ》によって上機嫌《じょうきげん》にしてやれた癇癖《かんぺき》は、どんよりした冷淡さに席を譲り、相手から慰めてもらいたいがためにじれたりせがんだりする子どもらしい不機嫌なむら気は減りまして、本当の病人らしい孤独にとらわれた気むずかしさが強くなり、他人の慰めをうるさがって、他人のひとのよい朗らかさを侮辱されたように思いたがるのです。キャサリンも私も、リントンがこうして会っていることに感謝する気持はなく、むしろ罰としてそれを忍んでいるようだ、ということに気がつきました。それですから嬢さまはやがて、なんの躊躇《ちゅうちょ》もなく、別れようと言いました。すると思いがけないことに、その申し出がリントンを惰眠から呼びさましたかのように、急に奇妙な興奮状態に投げこみました。何か恐ろしそうに嵐が丘のほうへ眼をやりながら、せめてもう三十分ばかりここにいてくれと哀願するのです。
「でもあなたは、ここですわってるよりも、家へ帰ったほうが気分がいいようよ。それにあたしも今日は、お話や歌やおしゃべりでは、あなたを楽しませてあげられそうもないわ。この六カ月ばかりのあいだに、あなたはあたしより賢くなったわ。もうあたしのする気晴らしなんか、あまりおもしろくないでしょ。そうでなく、あなたを楽しくしてあげられるんだったら、あたしは喜んでここにいるわよ」
「もう少しここにいて、休んでいっておくれよ。それからキャサリン、ぼくがとても《・・・》具合が悪いように思ったり言ったりしないでね。このうっとうしい天気と暑さとで、ぼくは大儀なんだ。それから、きみたちが来る前に、ぼくにしてはとてもたくさんこの辺を歩いたんでね。伯父さんには、わりに元気だって話してくれない、いい?」
「あんたがそう言ったって言うわ、リントン。悪くないとはあたしには言えないわ」明らかに嘘《うそ》なのに、がんこに主張するのを不思議に思いながら、お嬢さまは言いました。
「それからね、この次の木曜日に、もう一度ここへ来ておくれよ」嬢さまの怪《け》訝《げん》そうな凝視を避けながら、リントンは言いつづけます。「そして、伯父さんに、きみをよこしてくれてありがとうって――ぼくが心から感謝したって言ってね、キャサリン。そうして――そうして、もしきみがぼくのおやじに会ったら、そしてぼくのことをきみに訊《き》いたら、ぼくがひどく無口で、馬鹿《ばか》みたいだったと思わせるようなことを言わないでね。そんな悲しそうな、がっかりしたような顔をしないでよ――おやじがおこるから」
「おこったってちっともかまわないわよ」キャシーは自分がおこられるときを想像して叫びました。
「でもぼくはかまうよ」ふるえながら言うのです。「ぼくに向かっておこらせるようなことをしないでね、キャサリン、おやじはとてもやかましいんだから」
「お父さまはあなたにきびしいんですか、ヒースクリフの坊っちゃん?」私は訊きました。「このごろは甘やかすのに飽きて、前とちがって進んであなたを憎むようになったんですか?」
リントンは私の顔を見ましたが、答えませんでした。そして、それからもう十分間、自分のそばにキャシーを引きつけておいて、そのあいだ眠そうに頭をがっくり前にたらして、疲労か、それとも苦痛か、押し殺したうめき声を漏らすほか、何ひとつ言いませんでしたが、十分たつと、キャシーは退屈しのぎにこ《・》けもも《・・・》の実を捜しはじめ、捜した実を私にわけてくれました。リントンには一粒もやろうとしませんでしたが、これ以上相手になってやっても、ただ迷惑がり、うるさがるだけなことがわかっていましたからです。
「エレン、もう三十分たって?」とうとう嬢さまは私の耳にささやきました。「どうしてここにいなければならないのかわからないわ。リントンは眠ったし、パパはあたしたちの帰るのを待ってるでしょう」
「でも眠ってるのにおいて行ってはいけませんわねえ」と私は答えました。「目をさますまで待つことにして、辛抱しましょう。出かけるときは、あなたはとても熱心でしたけど、かわいそうなリントンに会いたい気持は、すぐに消えてしまいましたわね!」
「なぜこのひと、あたしに会いたがったんでしょう?」キャシーは答えました。「前にリントンがいちばんおこりっぽかった時分でも、今の変な気分よりは好きだわ。なんだかお義理でやらされてる仕事みたいじゃないの――今日のこの面会がよ――お父さんに叱《しか》られるのが怖くてのようだわね。でもあたしは、どういうわけでリントンにこんな難行をさせるにしても、ヒースクリフさんを喜ばせるために出てくる気にはなれないわ。そして、体がよくなったことはうれしいけれど、こんなに不愉快な気分になって、こんなにもあたしに冷淡になってしまったことは悲しいわ」
「じゃ、あなたはリントンの体がよくなったと思っていらっしゃるの?」と私が言いました。
「ええ、だって前にはいつもとても苦しがっていたじゃないの。かなりいいほうだとパパに言ってくれと言うけど、それほどいいとは思えないけれど、でも前よりはよくなってるでしょう」
「その点はあたしとは考えが違いますね、キャシーさん、あたしは前よりずっと悪くなったんじゃないかと思いますよ」
リントンが、このとき何か恐ろしさに度を失ったように、びくっとして仮睡からさめ、誰《だれ》か僕《ぼく》の名を呼ばなかったかと訊きました。
「いいえ」とキャサリンが、「夢を見たんでしょう、きっと。どうして朝から、家の外でなんか眠れるんでしょう、あたしなんかにはわからないわね」
「おやじの声が聞こえたような気がしたんだ」と、私たちの頭の上にある顔をしかめたような嵐が丘の頂きを見上げながら、あえいでいます。「きみたち、たしかに誰もしゃべらなかったと思う?」
「たしかよ」とキャシーが答えました。「ただエレンとあたしとで、あなたの健康について議論してたの、あなたは本当に、この冬に別れたときにくらべて強くなったの? もしそうだとしても、ただ一つのことだけでは強くなってないことが確かだわ――それはあなたのあたしに対する気持よ。言って――どうなの?」
リントンは答えながら、両眼から涙をあふれ出させていました、「うん、うん、強くなったよ!」そうして、まだ妄想《もうそう》の声に悩まされているらしく、視線をあちらこちらとさまよわせて、声の主を捜し出そうとしていました。キャシーは立ち上がりました。「今日のところは、もう別れなきゃならないわ。そして、今日はあなたに会って、とても失望して悲しかったことを隠さずに言うわ。もちろんそれをあなたのほかの誰にも言わないけど――別にヒースクリフさんを怖がってるからでなしにね」
「シッ!」リントンは口のなかで「頼むよ、黙って! おやじが来るよ」そしてキャサリンの腕にからみつき、懸命に引き留めようとしましたが、そう聞くとキャシーはいそいで振り払って、ミニーに向かって口笛を吹きました。子馬は犬のようにそれに応じました。
「来週の木曜日にここへ来るわ」鞍《くら》にとびつきながら、嬢さまは叫びました。「さよなら。エレン、早く来なさい!」
こうして私どもはリントンをあとに残して去りました。リントンのほうでは、私たちの出発にほとんど気づかないほど、父親の近づくことを心配して、そのことばかり考えているふうでした。
家へ着くまでに、キャサリンの不満は和らいで、憐憫《れんびん》と悔恨とのごちゃごちゃと入りまじった、戸惑いするような気持になってゆくのでしたが、それにはリントンの健康や自分への愛情が現在どんな状態にあるかについて、漠《ばく》として不安な疑いが、大きく溶けこんでおりました。私も同じ疑惑にとらわれておりましたが、キャサリンにはあまりいろんなことをお話ししないようにと注意しておきました。二度目の会見のときには、もっとよく判断できるだろうと思いましたからです。ご主人から今日の成り行きについて話せと言われまして、甥《おい》御《ご》さんからの感謝の伝言は滞りなくお伝えし、その他のことはキャサリンから穏やかにお話ししました。私からも、はっきりしたことはほとんど申しあげられませんでした、というのも実は何を隠して何を言っていいのか、かいもくわかりませんでしたからです。
27
七日は早くも過ぎましたが、あれからのエドガー・リントンの病状は、誰の眼にも、一日一日が目盛りでもしてあるように、急激な変化の跡を、あざやかに印象づけました。以前は何カ月もかかって進んできた荒廃が、いまは数時間の侵食によって、その肉体に加えられてゆくのです。せめてキャサリンにだけは、本当のことを知らせずにおきたいと、私どもは思いましたのですが、敏感な嬢さまの精神は、とてもそんなことを許しませんでした。嬢さまは、はじめは心の奥底ふかくひそかにその真相を見きわめ、恐ろしい予感として胸にたくわえているうち、しだいにそれを確信にまで強めていったのでした。木曜日がめぐって参りましたけれど、リントンとの面会のことを言い出すお考えはなかったので、嬢さまに代って私から申し上げ、外出のお許しを得ました。と申しますのは、お父上が毎日少しの時間――起きておいでになれる束《つか》の間《ま》だけでした――お出ましになる書斎と、ご寝室と、その二つが、今では嬢さまの全世界になっていましたからです。枕《まくら》ごしに父上のお顔をのぞきこむか、そばにおつきしているか、この二つのほかのあらゆる時間が嬢さまには惜しくてならないようでした。お顔の色つやも、看護の疲れと悲しみとのためにやつれて見えましたので、お父上としては、野原で従弟《いとこ》と会うのは、何よりの気持の転換になってよかろうという思《おぼ》しめしで、喜んで出しておやりになったのでした。またご自分のなきあとに、嬢さまを天涯《てんがい》孤《こ》独《どく》の身として残してゆかずとも済むかもしれぬという希望のなかにも、慰めを見いだされたわけでございましょう。
旦《だん》那《な》さまには、折に触れて幾度かお漏らしになったお言葉から私が推察いたしますのに、甥《おい》のリントン・ヒースクリフは、顔かたちも自分に似ているから、心も自分に似ているであろうという固定観念がおありだったようで、それにはリントンから来た手紙には、あの性格上の欠陥がほとんど――あるいはまるで出てきていなかったからでございます。また私も悪かったのですが、これはどうもしかたがないと赦《ゆる》してもらえると思いますの――そういう旦那さまの誤解を正そうとはいたしかねました――お教えしたところで、考える力も暇もない死にぎわのご病人に、心配だけおかけしたところでなんになるだろう――こんなふうに一人で考えておりましたの。
出発は遅れて、午後になりました。八月の午後、丘をわたる風の息吹《いぶ》きの一つ一つが輝くばかりの生命に満ちあふれて、それを吸う者はたとい瀕《ひん》死《し》の病人でも生き返らずにはいられぬような気がします。キャサリンの顔は、ちょうどあたりの景色そのままで――絶えず移り動く光と影との交錯でした。けれども、ともすれば影のほうが長く留《とど》まって、光のほうがうつろいやすいようで、しかも小さな心は、その憂《うれ》いの影の過ぎ去るのをさえ、はしたないことと気がとがめているのでした。
前にえらんだと同じ場所にいるリントンの姿が見えました。お嬢さまは馬を降りて、ほんの少しだけいて帰るつもりだから、おまえは乗ったままでこの子馬の番をしていなさいと私に言われましたが、お預かりした方の姿を、一分間でも見失いたくありませんから、私はききませんで、それで私どもは二人してヒースの斜面をのぼって参りました。ヒースクリフ少年はこの前よりも興奮した様子で、私どもを迎えましたが、やはりそれは元気あふれての興奮ではなく、喜んだからでもなく、何かを恐れているためのようでした。
「遅かったね!」言葉短かに、しかも苦しそうな言いぶりです。「きみのお父さんは悪いんじゃない? ぼくは来《こ》ないと思っていたよ」
「どうしてあんたは正直になれないの?」挨《あい》拶《さつ》を抜きにしてキャサリンは叫びました。「なぜはじめからおまえに来てもらいたくないんだって言わないの? 変だわ、リントン、二度もあたしたちをわざとここまで呼び出しといて、ただあたしたち二人を悲しませるほかに、何も理由がないみたいじゃありませんか?」
リントンは体をふるわせて、なかば嘆願するような、なかば恥じるような眼《まな》ざしで、嬢さまを見ていましたが、この謎《なぞ》みたいな態度では、キャサリンはとても辛抱しきれませんでした。
「パパはとても悪いのよ。それなのにどうしてそのそばから呼び出されるの? あたしが約束を守らないことをあなたが望むなら、なぜ守らなくてもいいと知らせて下さらないの? さあ! 説明してちょうだい。遊び気分や浮わついたことは、あたしの頭からすっかり消えちゃったのよ。もうあんたの気ざわりな思わせぶりのお付き合いなんかしていられないわ」
「思わせぶりだって! なんのことだい、それは? お願いだ。キャサリン、そんなおこった顔しないでおくれよ! 好きなだけぼくを軽蔑《けいべつ》してくれていいから。ぼくはろくでなしの臆病者《おくびょうもの》だ、いくら馬鹿にされたってしかたがないんだ、きみからおこられる資格がないほど卑《いや》しい人間なんだ。おやじをおこってくれ、ぼくには軽蔑だけして」
「くだらない!」キャサリンはかっとなって叫びました。「馬鹿、愚か者! ほらまた! まるであたしが手出しするかと思ってふるえてるじゃないの! 軽蔑のご注文には及びませんよ、リントン、誰だって、お望みどおりすぐに軽蔑するでしょうよ。行ってちょうだい! あたし帰るわ、あなたを炉石のそばから引き出して――ばかばかしい、いったいなんのお芝居をしにここまで来たんでしょう? あたしの上衣《フロック》から手を離してちょうだい! そんなに泣いたり、おびえた顔してるから、それであたしがあなたを哀れんだとしても、あなたはそんな哀れみをはね返すのが当然です。エレン、このひとにこういう行ないがどれほどみっともないことか、教えてあげなさいよ。さあ起きて、そんな乞《こ》食《じき》よりもひどい卑劣漢みたいなまねはよしてちょうだい! ねえ、よしてよ!」涙にぬれ、苦悩に耐えかねた表情で、リントンは力なく大地に倒れてしまいました。極度の恐怖で痙攣《けいれん》を起こしているかのようです。
「ああ!」泣きむせびながら、「ああ、たまらない! キャサリン、キャサリン、ぼくは裏切り者でもあるんだ、きみに話す勇気がないんだ! でもいい、行っちゃってくれ。そうすればぼくは殺されるんだ! 大好きなキャサリン、ぼくの生命《いのち》はきみの手に握られてる、そしてきみはぼくを愛してると言ったけど、ほんとに愛してるなら、何もきみの迷惑にならないことなんだ。だから行かないでくれる? 親切な美しい良い心のキャサリン!だからたぶんきみは承知するだろう――そうすればおやじはぼくをきみのそばで死なせてくれるだろう!」
お嬢さまは、この激しい苦悩の姿を見て、身をかがめてリントンを起こそうとしました。以前の寛大なやさしい気持が腹立ちに打ち勝って、もうすっかり心を動かされ、心配になっているのでした。
「何を承知するのよ? ここにいること? その変な話の意味を教えてちょうだい、そうすれば承知するわよ。あなたの言うことはまるで矛盾してるから、あたし何がなんだかわからなくなっちゃうのよ! 落着いて、正直に、心にかかってることを今すぐみんな言っておしまいなさいよ。あたしに悪いことをするつもりじゃないんでしょう、リントン? 敵があたしを傷つけようとしても、あなたが防げるときは防いでくれるんでしょう? あなたは、自分のことについては臆病者だと思うけど、自分のいちばん仲のいいひとを卑怯《ひきょう》に裏切るひとじゃないと信じてるのよ」
「だけど、おやじがぼくをおどかすんだ」少年はやせ細った両手を握りしめてあえぎあえぎ言います。「ぼくはおやじが怖いんだ――怖いんだ! とても話す勇気が出ないよ!」
「まあ、そうなの!」キャサリンは侮《ぶ》蔑《べつ》のこもった同情を声にあらわして、「じゃ秘密を守っていらっしゃい、あたしは卑怯者じゃないから。そして自分が助かればいいわ、あたしは恐れないから」
嬢さまのこの寛容な態度が、また少年の涙を誘い出しました。嬢さまがささえている手を接吻《せっぷん》しながら、激しく泣きながら、それでもまだ打ちあける勇気は出てこないのです。私はその秘密とはなんだろうと考えながら、どんなことがあっても自分のお人よしから、誰にしろ、他人の利益のため、キャサリンが迷惑するようなことを、リントンに許してはならないと、心に誓いました。と、そのとき草を掻《か》きわける音が聞こえましたので、顔をあげると、ヒースクリフ氏が丘を降りて、もう眼の前まで来ていました。リントンのむせび泣きが聞こえるくらい近くにいますのに、リントンやキャサリンには眼もくれず、ほかの誰にも見せることのない心からの親しみのある調子で、私に声をかけるのでした。その親しみに偽りがあろうとは、とても疑う気になれないほどですの、そして言いました――
「やあネリー、こんなにおれの家の近くでおまえに会えたとはめずらしいことだな。屋敷ではみんなどうしてる? 聞かせてもらおうじゃないか。ときに世間のうわさでは」と声を低くして「エドガー・リントンはもういかんと言ってるね。しかしそりゃ大げさじゃないのかね?」
「いいえ、旦那さまはもういけませんの」私は答えました。「ほんとにそのうわさのとおりですわ。あたしども一同にとっては悲しいことですが、あの方にとっては神さまのお恵みですわ!」
「あと幾日ぐらいもつと思うね、おまえは?」
「わかりません」
「実は」若い二人のほうを見やりながら、ヒースクリフは言葉をつづけました――二人はその眼の下ですくんだようになって、リントンは体を動かすことも頭を上げることもできないかのようで、それがためにキャサリンも身動きができずにいるのでした――「実は、あすこにいる小僧が、おれの計画をフイにするつもりらしいんでね、あいつの伯父貴が急いでくれて、あいつより一足先に行ってくれるとありがたいんだがね。おや! あの泣き虫小僧、さっきからあんなふうだったかね?めそめそしてたらどうするか、少しばかり教えといたつもりだがな。ふだんはリントン嬢さんと景気よくやってるのかな?」
「景気よく? とんでもない――とても苦しそうにしていますよ。あの方を見てると、とても好きなお嬢さんと丘を散歩するどころじゃなくて、お医者にかかって寝ていなきゃならないと思いますがね」
「一日二日のうちにはそうさせてやるんだ」ヒースクリフはつぶやいて、「だがその前に――起きろ、リントン! 起きろ!」大声でどなりつけました。「そんな地面にへたばってるんじゃない、立て、今すぐ!」
リントンはまたも堪えがたい恐怖の発作にとらわれ、がっくりとへたばってしまったのですが、おそらく一目父親ににらまれただけのためだったでしょう、ほかには何もこれほど恥じ恐れることはなかったのですから。幾度か、言われるとおり立とうと努力しましたが、いままでに少年のわずかな体力は使いつくしてしまったとみえ、うめき声をあげて、また仰向けに倒れてしまいました。ヒースクリフ氏は進み寄って、芝土の高くなったところによりかからせようと、少年の体を引き上げました。
「さあ」激しさを押えつけながら言いました。「そろそろ腹が立ってきたぞ。そのきさまの情けない性根の言うなりになってると――こら畜生! さっさと起きろ!」
「起きますから、お父さん」リントンはあえぎました。「何もしないでね。ぼく気絶しそうだから。お父さんのおっしゃるとおりしたんです、ほんとに。キャサリンに訊《き》いて下されば、ぼく――ぼく、元気だったって言いますよ。ああ、そばを離れないでね、キャサリン、手をとらせておくれよ」
「おれの手をとれ」父親が言いました。「しっかり立て。さあよし――こんどは腕を貸してもらえ。それでよし、キャサリンのほうを見ろ、リントン嬢さん、こんなに怖がるところを見たら、あなたもおれを本物の悪魔じゃないかと思うだろうな。まあ、そいつを連れて、うちまで行ってやってくれんか? おれがさわると、こいつ、ふるえあがるんでなあ」
「リントン、あのね」キャサリンはささやきました。「嵐が丘へは、あたし行けないわよ。パパにとめられてるの。お父さん、何もしやしないわよ、何をそんなに怖がってるの?」
「ぼくは二度とあの家へはいれない」リントンは答えた。「あんたといっしょでなければ!」
「待て!」父親は叫びました。「キャサリンの孝心を尊重することにしよう。ネリー、おまえが連れてってやってくれ、それから医者のことも、今すぐおまえの忠告に従おう」
「どうぞよろしいように」と私は答えました。「でもあたしは嬢さまのおそばにいなければなりません。あなたのお子さんのことはあたしの勤めじゃありませんわ」
「ばかに頑《がん》固《こ》だな。そりゃわかってる。だが無理におれに赤ん坊をつねらせて、泣き出させてからでなくては、おまえは情けをかけてやる気にならんというわけだ。じゃ来い、豪傑。おれといっしょでも家へ帰るか?」
ヒースクリフはもう一度むすこに近寄って、そのもろい体をわしづかみにつかもうとする様子をみせました。リントンは身をちぢめて、従姉《いとこ》にすがりつき、とても断わりきれないほど気違いじみたしつこさで、どうぞいっしょに行ってくれと哀願するのでした。いくら私が不賛成をとなえても、嬢さまをとめることはできませんでした。まったく、あれでは嬢さまがどうして断われるものですか? いったい何をそんなに恐れているのか、私どもには見当がつきませんけれども、その恐ろしい観念に羽がいじめにされている少年の姿をみますと、このうえ少しでも脅迫が加われば、その衝撃はこの子を白痴にしてしまいそうでした。私どもは敷居のところまで参りました。キャサリンは内へはいりました。私はそこに立って、嬢さまが病人を椅子《いす》にかけさせたらすぐに出てくるものと思って、待っていました。そのときヒースクリフ氏が私を前へ押しやりながら、叫びました。
「おれの家に疫病《やくびょう》はないぞ、ネリー。今日はおれは取り持ちをよくするつもりなんだ。腰をかけなさい、そしておれに扉《とびら》をしめさせなさい」
扉をしめるだけでなく、鍵《かぎ》もかけました。私はぎょっとしました。
「まあ茶でも飲んでから帰るんだ。おれは一人きりだぜ。ヘアトンは牛を連れて牧場へ行ったし、ズィラとジョーゼフは遊《ゆ》山《さん》に出かけて行った。おれも一人でいるのは慣れちゃいるが、誰かおもしろい相手がいてくれればそのほうがいい。リントン嬢さん、その子のそばへかけなさい。おれは持ち合わせの物をあんたにあげよう、この贈物は受け取ってもらうほどの値打ちのある品ではないが、ほかに差し上げるものがおれのところにはない。つまりそこにいるリントンさ。なんだ、眼を丸くして? おれを怖がるものを見ると、どうしておれはこんなに狂暴な気持になるのかな! もしおれが法律もこれほど厳しくなく、趣味もこれほどお上品でないところに生まれていたら、一夜の慰みにそこにいる二人を生きたまま解剖して楽しむのだがなあ」
そして息をつめ、テーブルをたたいて、「外《げ》道《どう》め! おれはあいつらを憎むぞ!」と口のうちで罵《ののし》りました。
「あたしはあなたを恐れません!」ヒースクリフのあとのほうの言葉は聞き取れなかったキャサリンは、そう叫んで、近くまで歩いてきました。その黒い眼には激情と決意の色がひらめいています。「その鍵を下さい、取らずにいないわ! 餓死しかけたって、ここで飲んだり食べたりしませんよ」
ヒースクリフはテーブルの上においた鍵を手に取りました。キャシーの大胆さにちょっと驚いたらしく、顔を上げました。いえ、それよりも、ひょっとするとその声やひとみに、それをこの娘に残したひとの面影《おもかげ》を思い出させられたのかもしれません。嬢さまは鍵につかみかかり、もう少しで相手の指をゆるめて、取り上げそうになりました、がその行動がヒースクリフを現在に呼び戻《もど》したのでしょう、たちまち鍵を取り返しました。
「さあ、キャサリン・リントン。そばへ寄るな。さもないとなぐり倒すぞ。そうすればディーンさんは気が狂うだろう」
この警告を耳にも入れず、嬢さまは男の握りしめた手と、その中身をふたたび捕えました。
「あたしたちは出てゆくのよ!」鉄のようなこぶしをゆるめようと、力の限りを出しながら、またそう叫びました。爪《つめ》ではどうにもならぬことがわかると、思いきり鋭く歯を立てました。ヒースクリフはちらと私を見ましたので、私は一瞬それを止めるのをためらいました。手のほうにばかり気をとられて、キャサリンはその顔には気がつきません。急に相手は手を開いて、争いのもとになっている品物を手放しました。が、嬢さまがそれをしっかり握りもせぬうちに、自由になった手が嬢さまを捕えて、ぐいとひざの上に引き寄せ、もう一本の手でこめかみのあたりにすさまじい平手打ちの雨を降らせていました。もし嬢さまが立っていたら、その一打ちだけでも床へ打ち倒されて、この男の恐ろしさを思い知るのに十分だったでしょう。
この悪魔のような暴行に、私は夢中でヒースクリフに飛びかかりました。「悪党!」私はどなりました、「この悪者め!」一突き、胸を突かれて、私はもう声が出ませんでした。私は肥《ふと》っているものですから、すぐに息が切れます。それと、あまりの激怒とに、眼《め》がくらみまして、よろよろと後ろへさがり、いまにも息が止まるか、血管が破裂するかと思いました。二分ばかりで、この騒ぎは終りました。キャサリンは手を離され、両手をこめかみにあて、耳がまだついてるのかしらと疑うような顔をしていました。おかわいそうに、葦《あし》の葉のようにふるえ、すっかり度を失って、テーブルに寄りかかっていました。
「おれは子どもの折檻《せっかん》のしかたを、心得てることがわかったろう」身をかがめて床に落ちた鍵を、もう一度手中に納めながら、悪者は憎々しく言いました。「さあ、おれの言ったとおり、リントンのそばへ行け。そしてゆっくり泣くがいい! あすからはおれがおまえの父親だ――四、五日のうちにはおまえのたったひとりの父親になる――そしてふんだんにさっきのような目にあうんだ。おまえならふんだんにやってやれるだろう、弱虫でないからな。もしおまえの眼にあんな生意気な癇《かん》癪《しゃく》が見えたら、毎日ご馳《ち》走《そう》してやるぞ!」
キャシーはリントンのところへ行くかわりに私のそばへ走り寄って、燃えるような頬《ほお》を私のひざにのせてひざまずき、大声に泣きました。リントンはさっきから長椅子の隅《すみ》に縮まりこんで、二十日《はつか》鼠《ねずみ》みたいにおとなしく、折檻が自分よりほかの者に加えられたのを喜んでいるらしい様子でした。ヒースクリフ氏は私どもがみなびっくりしてしまったのを見すまして、立ち上がり、手早くお茶を自分で入れはじめました。茶碗《ちゃわん》や受け皿《ざら》は前から用意してありました。茶を注《つ》いで、私に一杯を手渡しながら、
「これで暗い気分を洗い流してしまえよ。そうしておまえのわがまま娘とおれのわがまま息子との世話をしてやってくれ。おれがこしらえたからって、毒ははいっていないぜ。おれはおまえたちの馬を捜しに行ってくる」
ヒースクリフが出て行ったあと、真っ先に考えましたことは、どこからか外へ出ることでした。台所の扉をためしてみましたが外から締め切ってあります。窓も見ましたが小《こ》柄《がら》なキャシーにしても狭すぎます。
「リントンさん」私どもが完全に牢《ろう》屋《や》に閉じ込められていることを知って、私は叫びました。「あんたの怖いお父さんの計略を知ってるんなら、あたしたちに教えてちょうだい、さもないとあんたのお父さんがうちの嬢さまにしたように、耳の上を打ちますよ」
「そうよ、リントン、教えてくれなければいけないわ」キャサリンも言いました。「あたしが来たのはあんたのためですもの、いやだって言うなら、あんまり意地わるな恩知らずだわ」
「ぼくにもお茶をおくれ、のどがかわくんだ、そしたら話すよ。ディーンさん、あっちへ行っとくれよ、そうやって前に立ってられちゃいやだよ。おや、キャサリン、きみの涙がぼくの茶碗にはいるじゃないか。こんなの飲めないや、ほかのをおくれよ」
キャサリンはほかの茶碗を押しやって、顔をふきました。自分がもうおどかされていないとなると、すっかり落着き払っているこの小悪党が、私は憎らしくなりました。荒野《ムーア》であれほどさらけ出した苦しみ悩みは、嵐が丘へはいると同時にけろりと静まってしまったのです。それで私は、もしこの子が私たちをここまで誘い込むことに失敗したら、ものすごくおこられるという脅迫を受けていたのだなと察しがつきました。それがどうにか成功したので、さしあたり怖いことがなくなったわけなのです。
「パパはきみとぼくとを結婚させるつもりなんだ」お茶を少しすすってから、少年は語りつぎました。「きみのパパが今ぼくたちを結婚させる気がないことを、パパは知ってる、また結婚をのばしているとぼくが死んでしまうだろうと心配してるんだ。だからぼくたちは明日の朝結婚することになってる、きみは今晩ここに泊らされるはずだよ。そしてもしきみがパパの言うことをきけば、明日はぼくを連れて家へ帰れるんだよ」
「あんたを連れて帰るんですって、弱虫小僧のあんたを?」私は叫びました。「あんたが結婚? まあ、あの男は気が狂ったのね、でなけりゃ、あたしたち世間の者を馬鹿だと思ってるんだわ。そしてあんたは、その美しいお嬢さまが、丈夫で元気な娘さんが、あんたのような死にかけた山猿《やまざる》みたいなひとといっしょになると思ってるの? キャサリン・リントン嬢さまはさておいて、どこの誰《だれ》だっておまえさんなんぞを旦《だん》那《な》さまにするなんて、いい気なことを考えているの? あんな卑劣な、ピイピイ泣いてひとをだまして、ここまであたしたちを釣《つ》り寄せるなんて、きっと鞭《むち》ででもひっぱたかれたいんだわ、そして――そんな馬鹿《ばか》面《づら》をするんじゃないよ、今になって! おまえのけがらわしい裏切りと、おまえのバカうぬぼれには、力いっぱい小突きまわしてやるのがお情けのうちだよ」
口だけでなしに、私はちょっと小突いてやりましたが、すぐに咳《せき》をはじめ、例のお手のもののうめいたり泣いたりをはじめましたので、キャサリンは私を叱《しか》りました。
「ここへ泊るんですって? だめよ」ゆっくりあたりを見まわしながら、嬢さまは言いました。「エレン、あの扉を燃しちまって、ここを出て行くわよ」
そして嬢さまはこのおどしの言葉をすぐにも実行に移す気だったのですが、リントンはまた自分の身がかわいいので大騒ぎをはじめました。弱々しい二本の腕で嬢さまにかじりつき、すすり泣きながら、
「ぼくと結婚して、ぼくを救ってくれる気はないの? スラシュクロス屋敷へ連れてってくれないの? おお、大好きなキャサリン! やっぱりぼくを捨てて行ってしまってはいけないよ。お父さんの言うとおりしなければいけない――いけない!」
「あたしはあたしのお父さんの言ったとおりしなければならないわ」と嬢さまは答えました。「そしてこんなことしているあいだも恐ろしい不安で苦しんでるパパを、安心させてあげなければならないわ。一晩じゅうなんて! パパはなんと思うでしょう? 今だってもう心配してるわ。壊すか焼くかして、この家の外へ出るわ。静かにしなさい! あんたは何も危ないことないわよ、でもあたしの邪魔するなら――リントン、あたしはあんたよりもパパのほうを愛してるのよ!」
ヒースクリフ氏の怒りに死ぬより恐ろしい恐怖を感じているリントンは、またもあの卑《ひ》怯《きょう》な雄弁でまくしたてはじめました。キャサリンはほとんど半狂乱でした。どこまでも家へ帰らねばならぬとがんばって、なんとか相手の身勝手な恐怖を押えてくれと、あべこべに哀願するように言い聞かせていました。こうして夢中で議論しているうちに、私たちの牢番が帰ってきました。
「馬どもはどこかへ行っちまったよ。それから――なんだ、リントン! まためそめそやってるのか? その娘がおまえに何かしたのか? よしよし――泣くのをやめて、寝床へゆけ。あと一《ひと》月か二《ふた》月すれば、なあせがれ、今いじめられてる仕返しは思い切ってしてやれるぞ。おまえは清い恋にあこがれてるんだろうが? ほかにこの世に望みはないんだろう、だからその娘をおまえといっしょにしてやるんだ! さあ、いいから寝なさい! 今夜はズィラがおらんから、ひとりで着物を脱ぐんだぞ。だまらんか! 静かにしろ! きさまの部屋へ行ってしまえば、おれは近寄らんから、何も怖がらんでもすむ。偶然だが、きさまにしては上出来だった。あとはおれが引き受けた」
こう言いながら、むすこを出してやるために扉をあけて待っていました。むすこは、その待っているひとに、からかって扉にはさまれるのではないかと心配している狆《ちん》そっくりの格好で、出て行きます。また鍵をかけてしまいました。ヒースクリフは、嬢さまと私とが口もきけずにたたずんでいた煖《だん》炉《ろ》に近づきました。キャサリンは顔を上げると、本能的に手で頬を隠しました。この男が近寄ると、痛かった思いがよみがえったのです。その子どもらしいしぐさを、ほかの誰にしても片意地には解釈することはできないはずですが、ヒースクリフは苦い顔をしてつぶやいたのです――
「ふん! おまえはおれが怖くないはずだな? 勇気のあるのを隠すのか、馬鹿に怖がってるように見えるぞ!」
「いまは怖いわ」嬢さまは答えました。「だって、ここに長くいれば、パパがかわいそうですもの、パパにみじめな思いをさせるのを、どうしてあたしが平気でいられるでしょう、――いまパパが――いまパパが――ああヒースクリフさん、あたしを家へ帰らせて下さい! リントンと結婚することをお約束します。パパもそうさせてくれるでしょう。あたしもあの子を愛しています。あたしが自分から望んですることを、なぜそんなに無理にさせようとなさるんです?」
「そんなことを無理にさせてたまるものですか」と私は叫びました。「この国には法律もあります、いくらここが辺《へん》鄙《ぴ》な田舎だって、ありがたいことに法律はあるんです。たといあのむすこがあたしのせがれだって、あたしは訴えて出ます。坊さんの手を借りずに結婚するのは重罪犯ですからね!」
「黙れ!」悪党は申しました。「がやがや騒ぐな! きさまと話はしてないんだ。リントンさん、あんたの父親がみじめになることを思うと、おれは実に楽しい気持になれる、満足のあまり眠れんだろう。そういう話をおれに聞かせた以上は、おれは絶対にあんたをこれから二十四時間、この屋根の下から動かさんよ。リントンと結婚するというあんたの約束については、それがよく守られるようにおれがめんどうをみよう。ということは、それが履行されるまでは、あんたはこの家から出て行くことはならんということさ」
「ではエレンを帰して、あたしの無事をパパに知らせてあげて下さい!」キャサリンは無残に泣きくずれながら叫びました。「でなければいま結婚させて下さい。ああかわいそうなパパ! エレン、きっとあたしたちがどうかなっちゃったと思うでしょうねえ、どうしたらいいでしょう!」
「そんなことを思うものか! あんたが看病がいやになって、少しの間《ま》逃げ出して遊んでると思ってるさ。あんたが自分の考えで、父親の言いつけにそむいて、この家にはいったということは否定できんだろう。またあんたの年ごろで遊びたい、楽しい思いをしたいというのはごく当り前のことだし、病人の看病に飽きるのも、その病人がおやじなんかでは、これも当り前のことだ。キャサリン、おまえの父親の最も幸福だった時代は、おまえが生まれた日に終ったのだぜ。おまえがこの世に出てきたことを、おまえの父親は呪《のろ》ったと言ってもいい(少なくともおれは呪った)。だからまたおまえの父親がこの世を去るときにおまえを呪ったって差し支えはあるまいが。おれもいっしょになって呪ってやるさ。おれはおまえを愛さんぞ! また愛せようはずがあるか? 泣け泣け。まずおれの見るところでは、今日から先、おまえの気晴らしはそれ一つだ――リントンがおまえの父親の代りを勤めん限りはな。またおまえの父親は先見の明があって、リントンにそれができると思ってるらしいじゃないか。あの助言やら慰めやらの手紙は、おれにはとてもおもしろかったぜ。最後の手紙には、なんでもわたしの宝玉をあんたに渡すから大切にして、もし受け取ったらやさしくしてやってくれと書いてあったっけ。大切に、そしてやさしくか――父親の愛情だ。だがリントンというやつは、自分だけ大切に、やさしくするので精いっぱいだ。けちな暴君の役はあいつにはりっぱに勤まるよ。あいつはどこの猫《ねこ》でも、歯を抜いて爪《つめ》をはがしてやりさえすれば、いくらでもいじめるやつだ。おまえが実家《さと》へ帰ったら、やつの親切ぶりを話して、やつの伯父さんを喜ばしてやれるだろう、それだけは請け合いだて」
「その話だけは本当だわ!」と私は言いました。「むすこさんの性格を説明してあげて下さい。あんたに似てるところを見せてあげて下さい、そうすればキャシー嬢さまも、あんな毒蛇《どくじゃ》といっしょになる前に、よく考えなさるでしょう!」
「いまさらあいつのかわいらしい性質を話して聞かせる気にはならんね。なぜかといえば、この娘は、あいつとの結婚を承諾するか、それともおまえの主人が死ぬまで、おまえもろとも囚人としてここにいるか、どっちかなんだからな。おれは誰にも知られず、おまえたちをここへ引き留めておくことができる。嘘《うそ》だと思ったら、一生懸命でさっきの約束を取り消させてみろ、嘘か本当か、おまえの眼で判断させてやるから!」
「あたしは約束を取り消したりしません」キャサリンが言いました。「そのあとでスラシュクロス屋敷へ行ってさえよければ今すぐにでも結婚します。ヒースクリフさん、あなたはずいぶん残酷な方ですけど、まさか鬼じゃないでしょうから、わけもなく悪意だけで、あたしの幸福を取り返しのつかないようにぶちこわしたいとはお思いにならないでしょう。もしパパが、あたしが故意にパパを捨てて逃げたと思い込んで、そしてあたしの帰る前に死んだら、どうしてあたしが生きてゆけるでしょう? あたしはもう泣きません、こうしてあなたのおひざの前にひざまずいて、あなたがあたしの顔を見返すまで、立ちもしません、あなたの顔から眼も離しません! いいえ、横を向いてはいけません! 見て下さい! あなたのお気にさわるような顔はしていませんから。あなたを憎いとも思いません。あたしを打ったこともおこっていません。叔父さま、あなたは生まれてから、誰も愛したことがおありにならないの? ああ! 一度でいいから、あたしを見て下さい。こんなに打ちのめされているんです、あなたも気の毒だ、かわいそうだと思わずにはいられないはずです」
「そんないもり《・・・》のような指をどけて、どいてくれ、どかんと蹴《け》とばすぞ!」野獣のように嬢さまを押し返しながら、ヒースクリフは叫びました。「蛇《へび》に巻かれるよりもいやな気持だ。おれに甘ったれるなんて畜生、そんなことをなんで思いついたか? おれはきさまが大嫌《だいきら》いなんだ!」
両方の肩をすくませました。本当に、体の上をいやらしさが這《は》いまわるかのように身をふるわせて、そして椅子《いす》を後ろへ押しやりました。一方、私は立ち上がって、思いきり悪態をついてやろうと口を開きました。が、二言三言、言ったかと思うと、もう一言いえばきさまをほかの部屋へ連れて行くぞとおどかされて、黙らされてしまいました。そろそろ暗くなって――庭木戸のあたりに人声が聞こえました。あるじはすぐに急いで出て行きました。ヒースクリフはちゃんと頭を働かせていたのですが、私どもはぼんやりしておりましたのですね。二、三分、何か話しておりましたが、ひとりで帰ってきました。
「ヘアトンじゃないかと思いましたがね」私はキャサリンに申しました。「あのひとが帰ってくればいいのにね! あたしたちの味方になってくれないとはかぎりませんからね」
「スラシュクロス屋敷から、三人の召使がおまえたちを捜しに来たのさ」私の言葉を聞きつけて、ヒースクリフが言いました。「窓格《まどごう》子《し》をあけてどなればよかったのだ。だがそこにいるおてんば娘は、おまえがそうしなかったのを喜んでいるに違いないさ、ここに泊らされるのを腹のなかでは喜んでるんだ、わかってるよ」
せっかくの機会を逃がしたと知りますと、私たちはもう我慢が尽きて泣きくずれてしまいました。九時まで、ヒースクリフはそうして私たちを泣かせておきました。それから私たちを追いたてて、二階のズィラの部屋へ行かせました。私はそのとおりになさいと嬢さまに耳打ちしました。窓から逃げるか、または屋根裏へ出て、あそこの明かり取りから脱け出せるかもしれぬと思ったからでした。けれど、窓は階下《した》と同様狭《せも》うございましたし、屋根裏のはしごを使うこともできませんでした。いままでと同様、私どもは閉め込まれてしまったのでございます。二人とも横にならず、キャサリンは窓ぎわに腰かけて、夜の明けるのばかり待ちかねていました。私が幾度となくお寝《やす》みになって下さいと頼みましても、深いため息で答えるだけでございました。私も椅子にかけて、前後に揺すりながら、自分が幾度も義務を怠ったことを責めつづけておりました。そのとき私は、ご主人さまたちのあらゆる不幸が、みなそのために起こったのだと考えました。今となってみれば、本当はそうではないことを知っておりますが、その陰惨な一夜、私の頭のなかではそうとしか思えませんでした。ヒースクリフすらも、私よりは罪が軽い、とまで思いましたのです。
そのヒースクリフは七時に来まして、リントン嬢は起きているか、と訊《たず》ねました。嬢さまはすぐ扉《とびら》のところへ走り寄って、「はい起きています」と答えました。「さあ、それなら」と言って、扉を開いて、嬢さまを引き出しました。私も立ち上がってあとから出ようとしましたが、また鍵《かぎ》をかけてしまいました。出してくれと申しますと、
「辛抱しろ。もうじき朝飯は持ってきてやる」という返事でございます。
私はおこって、羽目板をたたいたり、掛《か》け金《がね》を鳴らしたりしました。キャサリンもなぜ私をしめ込んでおくのかと訊《き》きましたが、あと一時間ばかり辛抱させておかねばならんと答えて、そのままふたりは行ってしまいました。二、三時間は辛抱させられましたでしょう、足音が聞こえました。ヒースクリフのとは違います。
「食うものを持ってきたぜ」という声が聞こえました。「扉をあけな!」
勇んであけてみますと、ヘアトンがたっぷり一日分もある食べ物を持って立っていました。
「取れよ」盆を私の手につきつけて言います。
「ちょっと待って下さいな」私が言いかけますと、
「いやだい」と叫んで、引き止めようと夢中でしゃべりたてる私には耳もかさずに行ってしまいました。
その日一日、またその夜、そして次の夜もまた次の夜も、私はそこに閉じこめられておりました。五晩と四日、朝一度だけヘアトンが来るほか誰にも会わず、そうしておりました。ヘアトンは模範的な獄卒で、むっつりと、唖《おし》のようで、そして正義と同情の念に訴えようとするどんな試みにもつんぼ同然でございました。
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五日目の朝、というよりも午後でございました。いつもより軽くて早めな別の足音が近づきました――こんどは部屋へはいって参りました。ズィラでした。真っ赤な肩掛けをして、黒絹の帽子《ボンネット》をかぶり、腕に柳の枝で編んだかごをさげております。
「まあ、まあ、ディーンさん! よくまあねえ! ギマトンであなたのうわさをしていましたよ。お嬢さんもあなたも、てっきり黒馬《ブラックホース》の沼へ沈んだとばかり思っておりましたのよ、そうしたら旦《だん》那《な》さまが、あなたがたが見つかって、ここに泊ってるって話でしょう! ほんとに! 沼の島へでも這《は》い上がったんでしょうね? 沼のなかにどのくらいはいってたんですか? うちの旦那さまに助けられたんですか、ディーンさん? でもそんなにやせもしませんね――あんまり弱りもしなかったのね?」
「あんたの旦那は正真正銘の悪党だよ」私は答えました。「まあその返事は旦那にお訊《き》きなさい。そんな作り話をでっちあげたってしかたがないのに、いまにみんな嘘《うそ》の皮がはげるんだからね!」
「そりゃどういうことなの? 作り話じゃありませんよ。あんたがたが沼で見えなくなったことは、村でもみんなうわさしてるんです。そして帰ってきたとき、アーンショーさんに、あたしが声をかけたんですよ――『まあずいぶん妙なことになりなすったじゃありませんか、ヘアトンさん、あたしの留守のあいだにさ。あのかわいい娘さんと、働き者のネリー・ディーンさんがね、かわいそうなことしましたねえ』って。あの子はびっくりして眼《め》を丸くしてましたよ、それでこりゃ何も聞いていないと思ったから、うわさを聞かしてあげたんですよ。旦那がそれを聞いて、ただにっこりひとりで笑って『沼へ落ちたにしても、もう出てきたぜ、ズィラ。げんに今ネリー・ディーンは、おまえの部屋に泊ってるよ。上がって行って、引っ越してもらうように言ってもいいぜ、ここに鍵《かぎ》がある。泥水《どろみず》が頭にしみこんでるから、大あわてで家へ飛んで帰るだろう、ただおれはあの女が正気を取り戻《もど》すまで、あすこに入れておいたんだ。おまえから、もし行けるならすぐにスラシュクロス屋敷へ帰れと言ってやれ。それから、お嬢さんは旦那の葬式に間に合うように帰してやるって、おれが言ったとそう言いなさい』って、こうでしたよ」
「エドガーさまはまだおなくなりにならないのね?」私は息をのみました。「まあ、ズィラ! ズィラ!」
「いいえ、いいえ、まああなた、そこへお掛けなさい。まだあんたはよほど気分が悪いんですね。旦那はまだ死にませんよ。ケネス先生はまだもう一日はもつって言ってますよ。道で先生に会って、訊いたんですよ」
腰をかけるどころではございません、私は帽子やえり巻などをさらうようにして階下《した》へ降りました。もう誰《だれ》にも邪魔はされませんでした。居間にはいって、キャサリンに知らせてくれるひとはいないかと捜しました。そこはいっぱいに日がさし込みまして、扉《とびら》も大きく開かれておりますが、誰も手近にはおりませんでした。すぐに出かけたものか、嬢さまを捜しに戻ろうかと、ためらっておりますと、軽い咳《せき》が、煖《だん》炉《ろ》のほうへ私の注意を引きました。リントンがひとりぼっちで長《なが》椅子《いす》に横になって氷砂糖の棒をしゃぶりながら、うつろな眼で私の動作を見守っていたのでした。「キャサリン嬢さまはどこにいます?」折よく一人だから、おどしつけたらこっそり本当のことを知らせるだろうと思いまして、怖い顔をして訊きました。それでもまるで無邪気な赤ん坊のように、しゃぶりつづけています。
「いないんですか?」
「いや、二階にいるよ、出てゆくわけにはゆかないんだ。ぼくたちが行かせないから」
「行かせないですって、馬鹿《ばか》!」と私は叫びました。「今すぐあたしをその部屋へ連れて行きなさい、さもないとあんたを泣かせますよ」
「キャサリンの部屋へ行こうとすれば、パパがおまえを泣かせるだろう。パパはぼくにキャサリンにやさしくしちゃいけないと言うんだ。キャサリンはぼくの妻だから、ぼくを捨てて逃げて行くのは恥かしいことなんだ。それから、キャサリンは、ぼくを憎んでて、ぼくが死ねばいいと思ってる、そうすればぼくのお金が自分のものになるからだって、パパは言ってるよ。だけどお金はキャサリンにはやらないし、家へ帰ることも許さないんだってさ! 絶対に帰さないんだってさ! 好きなだけ泣いたり、気持悪くなったりするがいいんだ!」
そしてまた飴《あめ》をしゃぶりながら、眠るつもりなのか、眼を閉じてしまいました。
「ヒースクリフの坊っちゃん、あなたは去年の冬にキャサリンがあなたに尽くした親切をみんな忘れちゃったんですか、あの時あなたは嬢さまを愛しているとはっきりおっしゃったから、嬢さまはあなたに本を持ってきてあげたり、歌をうたってあげたり、それから雪や風のなかをあなたに会いにきてくれましたわねえ! あんたががっかりするだろうからって、一晩でも行かないと泣いていましたよ、その時分はあなたは嬢さまがあなたに百倍もよくしすぎてくれると思っていたんでしょうに、今はあんたのお父さんの嘘を信じてるんですね、お父さんがあんたがた二人とも嫌《きら》ってることを知ってるくせに。そうしてお父さんといっしょになって、嬢さまを苦しめるんですね。ずいぶんりっぱなお礼心ですわね。そうじゃないこと?」
リントンの口もとが下がって、くちびるから氷砂糖をとりました。
「嬢さまはあなたが憎いから、嵐《あらし》が丘《おか》へ来たんですか?」私はつづけて申しました。「自分で考えてごらんなさい! あんたのお金のことなら、嬢さまはあんたがお金持になることだって知りませんよ。そして、嬢さまは気分が悪いって言いながら、知らない家の二階にひとりにしておくんですね! ひとりで捨ておかれることがどんなにつらいか、よく知っているあなたが! あんたは自分のつらいことはかわいそうだと思えますね、嬢さまもあんたをかわいそうだと思ったでしょう? それだのにあんたは嬢さまのつらいのはかわいそうでないんです! あたしはこのとおり泣いてますよ、坊ちゃん――年をとった女が、しかもただの召使が――それをあなたは、あんなに嬢さまを好きなような顔をしておいて、ほとんど崇拝してもいいほどのことをしてもらいながら、自分のことで泣くときの涙を一滴も出そうとしないで、陽気にそこで寝ていらっしゃる。ああ! あんたは無情な、自分勝手な子ねえ!」
「ぼくはキャサリンのそばにいられないんだよ」リントンは腹立たしそうに答えます。「ぼくがいたくないからいないんだ。キャサリンがあんまり泣くから、我慢できないよ。ぼくがお父さんを呼ぶぞと言っても、泣きやめないんだ。一度はほんとに呼んだんだ、そしたらパパは、静かにしないと首を絞めちゃうっておどしたんだけども、パパが出て行くとすぐにまた泣き出して、一晩じゅううんうん言って悲しがってるんだ。ぼくが眠れなくなって腹立てて、わめいてもやめないんだ」
「ヒースクリフさんは留守なの?」この憎らしい子どもは、とても嬢さまの心の呵責《かしゃく》に同情する力はないのだと気がつきまして、私は訊きました。
「庭で、ケネス先生と話してるよ。先生は伯父さんが、こんどこそ本当に死にそうだって言った。ぼくはうれしいよ、あの屋敷の主人になれるんだから。キャサリンはいつもあたしの家って言ってたけれど、あれはあの子の家じゃないんだ! ぼくのものだ――キャサリンの持ってるものは何もかもぼくのものだってパパが言ったよ。上等の本もみんなぼくんだ。キャサリンは、ぼくがあの子の部屋の鍵を手に入れて、外へ出してくれれば、本でも、かわいい小鳥でも、子馬のミニーでも、みんなくれるって言ったけど、ぼくは、おまえなんかぼくにくれるものは一つも持っていない、それはみんな、みんなぼくのものだって、教えてやったんだよ。そうしたら泣き出しちゃって、首から小さな絵を出してね、これだけはあなたにあげないって言うんだ。絵は二枚で、金の箱のなかに、あの子のお母さんが片一方について、伯父さんがその横にいる、ふたりとも若いときなんだ。それは昨日のことだよ――ぼくはその絵もぼくのものだって言って、取ろうとしたんだ。あの意地わるは取らせないんだ、ぼくのことを押し飛ばしたから、ぼくは苦しくなった。大きな声で叫んだら――いつもそれをキャサリンは怖がるんだよ――パパが来る音がしたもんだから、キャサリンは蝶《ちょう》つがいをこわして箱を二つにわけて、自分のお母さんの肖像をぼくにくれたんだ。もう一つは隠そうとしたんだが、パパがどうしたわけかって訊くから、ぼくがそれを話しちゃった。パパはぼくの取ったのを取り上げて、キャサリンにおまえのをぼくにやれって言った。キャサリンがきかないもんだから、パパは――あの子をなぐり倒して、鎖からその絵をもぎとって、足で踏みつけていたよ」
「それであなたは嬢さんがなぐられてうれしかった?」おだてて話を進めさせようという下心がありましたので、私は訊きました。
「ぼくは見ないふりをしていたよ。犬でも馬でもパパがなぐるときは、ぼくは見ないふりするんだ、あんまりひどくなぐるからね。でもはじめはうれしかったよ――ぼくを折檻《せっかん》したんだから、折檻されるのは当り前なんだ。でもパパがいなくなってから、キャサリンはぼくを窓ぎわへ連れて行って、頬《ほお》の内側が歯で切れて、口のなかに血が一杯になってるのを見せたよ。それからその絵を拾いあつめて、壁のところへ顔をおっつけて腰をかけちゃって、それっきり何も言わないんだ。あんまり痛くて口がきけないのかなと思うこともあるけど、ぼくそう考えたくないんだ。でもあの子はいつまでたっても泣いている、いけない子だ。それに今はとても青いすごい顔してるから、ぼくは怖くてしょうがないんだ」
「それであなたは、使おうと思えばいつでも鍵を手に入れられるの?」
「うん、二階へ行けばね、だけどぼくは今は二階まで歩いて行けないんだ」
「それはどの部屋ですか?」と私が訊きました。
「ああ、それはおまえにはどこだか教えないよ! ぼくたちの秘密だからね。誰にも、ヘアトンやズィラにも知らせないんだ。さあ! おまえのおかげでぼくはくたびれちゃった――行ってくれ、あっちへ行ってくれ!」そして腕の上へ顔を伏せ、また眼を閉じてしまいました。
私はヒースクリフ氏に会わずに帰って、お屋敷からお嬢さまを救いに来るようにするのがいちばん上策だと思いました。帰ってみますと、私を見た召使たちの驚き、喜びは大変でございます、そしてお嬢さまが無事だと聞きますと、二、三の者は大騒ぎでエドガーさまのお部屋へ知らせに行こうとしましたが、それは私からお知らせすることにいたしました。まあ、その四、五日のあいだの旦那さまのお変りようと申しましたら、死を待つひとの悲しみとあきらめそのものの姿のように、横たわっていらっしゃいました。それに大変お若く見えました。本当のお年齢《とし》は三十九でございましたが、少なくとも十歳ぐらい若く見られたでしょう。キャサリンのことを思っていらっしゃるらしく、その名をつぶやいておいででした。私はその手にさわって、申しました。
「キャサリンさまはもうお帰りになりますよ、旦那さま! 生きて、お元気でございますよ、そしてたぶん、晩にはお帰りになります」
このことをお知らせした最初の手ごたえに、私はぞっといたしました。なかば体を起こしかけ、一心に部屋のなかを見まわしてから、またぐったりとして倒れて気絶しておしまいになったのです。やがてお気がつかれるとすぐさま、私は嵐が丘へ無理に連れ込まれ、そのまま監禁されていたことをお話しいたしました。ヒースクリフが無理強《じ》いに私を連れ込んだようにお話ししましたが、それは実際とはたいへん違っております。なるべくリントンに不利にならないよう、またヒースクリフの野獣のような行ないについても全部はお話ししませんでした――私のつもりでは、悲しみの杯がすでにあふれるほどになっておりますので、それにできるだけ痛ましい苦しさを加えずにおきたい心づかいにすぎませんのです。
リントン氏は敵の目的の一つが、不動産だけでなく動産までもおのがせがれの――というよりむしろおのれのものにしようということにあるのに気づかれました。けれど、なぜご自分の死まで待てないのか、甥《おい》御《ご》がご自分とほぼいっしょに世を去ろうとしていることを知りませんので、その謎《なぞ》は解けませんでした。けれども、キャサリンの財産を当人の自由にさせないで、一生涯《いっしょうがい》、またお子さんができたとしたらお子さんのために使えるよう、保管人の手に預けることに、遺言状を書き換えたほうがよいとお考えになりました。そうすれば、リントンが死んでもヒースクリフ氏の手に落ちないわけですから。
ご命令に従いまして、私は一人の者を弁護士を呼びにやり、四人の男には適当な武器を持たせて、幽閉されているお嬢さまの取り戻しに出してやりました。使いは両方ともたいへんおそくまで帰りませんでした。一人のほうが先に帰りまして、弁護士のグリーン氏は、行って見たらお留守で、帰るまで二時間も待ちましたそうで、そしてグリーン氏の申しますには、村にすませねばならぬ用事があるから、朝までにはスラシュクロス屋敷へおたずねしようと言ったとのことです。四人の男も嬢さまのお供をせずに帰ってきまして、キャサリンさまは病気で、たいへん様子が悪いから、部屋を出ることができぬと言われ、ヒースクリフは四人を嬢さまに会わせなかったと申します。私はそんな嘘を本気にして帰ってくる者があるものかと、男たちを叱《しか》りまして、旦那さまにはお伝えいたしませんでした。そして夜が明けしだい、大勢の男どもを連れて嵐が丘へ押しかけ、おとなしく嬢さまを引き渡せばよし、さもなければなぐり込みをかけてやろうと決心いたしました。もしあの悪魔が邪魔だてして、自分の家の玄関先で殺されようと、嬢さまを旦那さまにお会わせせずにおくものかと、幾度か心に誓いましたことでございます。
でも幸いに、そんな騒ぎにもならず、行かずにも済みました。三時ごろに水差しに水を入れに階下へ降りまして、それを持って広間を通り過ぎようといたしましたとき、玄関の扉を激しくたたく音で、私は飛び上がりました。「まあ、グリーンさんだわ」私は我に返って申しました――「なんだ、グリーンさんか」そして誰かほかの者に扉をあけさせるつもりでそのまま歩きかけましたが、たたく音はまだ繰り返されています。あまり高い音でなく、けれどもしつこくたたくのです。私は水差しを手すりの上において、自分で弁護士を迎え入れようと急いでそちらへ近づきました。仲秋の満月が、外を明かるく照らしております。弁護士ではございません、私の大切なお嬢さまが、むせび泣きながら私の首にすがりつきました――
「エレン! エレン! パパはまだ生きていらっしゃる?」
「はい、はい、嬢さま、生きていらっしゃいますとも。おお神さま、ありがとうございます、よくまあご無事で!」
すぐにも、息を切らせたままで二階のお父さまのお部屋へ駆け上がろうとなさるのを、無理に椅子にかけさせまして、水を飲ませ、青ざめたお顔を洗い、私のエプロンで摩《ま》擦《さつ》して、かすかながらも赤味を出させました。それから私が先へ行って、お着きになったことをお知らせしますから、お嬢さまはヒースクリフのむすこと仲よく暮らせそうだとおっしゃって下さいよとお願いしました。嬢さまはびっくりしていましたが、すぐに嘘を言うように私が勧めるわけがおわかりになり、つらかったことはけっして言わないと請け合って下さいました。
おふたりがお会いになる席に立ち会う勇気は、私にはございませんでした。お部屋の外に十五分ほどもお待ちしていまして、それからやっとお床《とこ》の近くまで参りました。けれども、おふたりとも、まことに落着いていらっしゃいました。キャサリンさまの絶望も、お父上のお喜びも、同様に静かなものでございました。嬢さまははた目には穏やかにお父さまを抱き支えて、旦那さまはひとみをそのお顔にひたとくぎづけ《・・・・》にして、恍惚《こうこつ》とお目をみはっておいでのようでした。
おしあわせなご臨終でございましたわ、ロックウッドさま、ほんとに、あの方はお亡《な》くなりのときはおしあわせでしたの、嬢さまの頬に接吻《せっぷん》なさりながら、つぶやいて――
「わたしはお母さんのところへ行くよ。そしておまえも、パパの大好きなキャシーや、おまえもいつか、わたしたちのところへおいでよ!」それきり、お動きもなさらなければ、何事もおっしゃいませんで、ただうっとりと、ほのぼのとしたひとみだけが嬢さまのお顔を見つめつづけていらっしゃるうちに、いつ知れずお脈が止まって、魂が飛び去ってしまいました。ご臨終のたしかな時間は誰にもわかりませんで、それほどなんのお苦しみもなかったのでございます。
キャサリンはそれまでに涙を流しつくしてしまったからか、それとも嘆きがあまり深くて、涙を流させなかったからか、いずれにせよ夜が明けるまでまつ毛もぬらさず、じっとすわっておりました。お正午《ひる》になってもまだすわっておりました、そしてまだまだいつまでも臨終の枕《まくら》もとで、思いにふけっていたい様子でしたが、私がやかましく申し、やっと連れ出して少し休ませました――連れ出してよかったのでございますよ、午餐《ディナー》の時分に弁護士が参りましたが、ちゃんと先に嵐が丘へまわって、すっかり処置方法の指図を受けてやってきましたんですもの。つまり弁護士はとうに買収されて、ヒースクリフの手先になっておりましたので、だからこそ旦那さまがお呼びになってもわざとぐずぐずしていたわけでございます。嬢さまがお帰りになってからあと、何ひとつ世俗の煩《わず》らいが旦那さまのお心にかかることもなかったのは、かえって幸いでございました。
グリーン氏は家じゅうの物という物、ひとというひとを、思いのままに処置いたしました。私を除く召使に、ひとり残らず暇をとらせました。エドガー・リントンは妻の隣でなく、会堂のなかの先祖の墓所へ埋葬するというような点まで、その代理権を行使しようとしたほどでした。けれども遺言がございますから、そんなことは許されませんし、私も遺言状に一字一句でも違《たが》うことがあれば声を荒くして争いました。お葬式は時期を早めて行なわれました。今はリントン・ヒースクリフ夫人となったキャサリンはお父上の遺骸《なきがら》がお屋敷を出るまでは、こちらにいることを許されました。
嬢さまが私に話しましたところでは、あまりの心配に耐えかねて、とうとうリントンをそそのかし、危険を冒して嬢さまを逃がすようにしむけたのだそうです。私がさしむけた男たちが、玄関で言い争っているのを、嬢さまは聞きまして、ヒースクリフの返事によってその本心をかぎつけました。嬢さまもそれで死にもの狂いの決心をかためました。私が帰りましてからほどなく、客間《パーラー》へかつぎ上げられたリントンは、父親が再び上がってくる前に鍵《かぎ》を取ってくるように、嬢さまからおどしつけられました。狡猾《こうかつ》な少年は、扉《とびら》をしめずに鍵だけをまわしてごまかしましたんです。そして寝る時刻になりますと、ヘアトンといっしょに寝させて下さいと頼みまして、今夜だけはよかろうというお許しが出ました。キャサリンは夜明け前に脱け出しました。犬がほえ出すといけないと思い、扉から出るのは遠慮して、あき部屋をまわって窓を調べました。運よくお母さまの娘時代の部屋に行きあわせ、その窓格《まどごう》子《し》をやすやすと脱け出して、近くのもみの木を伝って、地面へ降りました。共犯者のリントンは、あれほど卑怯《ひきょう》な計略をめぐらしましたのに、やはりこの逃亡の巻きぞえになって、ひどい目にあいました。
29
お葬式のすみました晩、お嬢さまと私とは書斎におりました。なくなられた方のことどもを悼《いた》ましく――わけても嬢さまは身も世もなく――あれこれと思い返したり、暗い将来へとこわごわ想像を走らせたりして時を過ごしておりました。
キャサリンにとってはこのお屋敷につづけて住む許しを得られれば、これに越したことはなく、せめてリントンの生きているあいだだけでもこの家に住みたい、リントンもこちらでいっしょに暮らすことを許され、私も家政婦としてここに残ることにする――そんなふうに私どもは話し合って、ちょうど二人とも同じ意見にまとまったところでございました。それはどちらかといえば少しうますぎる話のように思われましたが、私はやはりその望みを捨てませんで、これまでどおり家と仕事と、何よりも大好きな嬢さまとから、離れないでもすみそうだと、やっと気持が明かるくなりかけた折も折、一人の召使が――これも暇を出された仲間ですが、まだ残っておりました――あわてて飛び込んで参りまして、「あのヒースクリフの悪魔めが」中庭をやって来るところですが、鼻先で玄関の扉をしめてやりましょうか、と申します。
かりに私どもがそんな気違いじみたことを命じたにしましても、その暇はございませんでした。扉をたたくでも名を名乗るでもなく、この屋敷の主人ですからそのはずで、主人の特権に乗じて、物も言わずにずかずかとはいってきてしまいました。注進に来た召使の声に従って、すぐ書斎へ足を向けました。なかへはいり、手まねで召使を追いやりますと、扉をしめてしまいました。
十八年の昔、客として通された同じあの部屋でございました。同じ月光が窓から流れ込み、同じ秋の景色が外にひろがっております。私どもはまだ明かりをともしていませんでしたが、室内は壁の肖像画までもよく見えます。リントン夫人の麗《うる》わしいお顔、そのご主人の優雅な面影《おもかげ》が、そこにありました。ヒースクリフは煖《だん》炉《ろ》のほうへ進みました。歳月はこの人物の人柄《ひとがら》をほとんど変えておりません。まったく同じひとでございました――黒い顔はいくらか黄ばんでいっそう引き締まり、体格は二、三十ポンドも目方がふえたかと思われますが、そのほかはどこも変っておりませんのです。キャサリンはその姿を見るが早いか、思わず部屋を飛び出そうとして、立ち上がっておりました。
「待て!」その腕をとらえて、ヒースクリフは言いました。「もう逃がさんぞ! どこへゆくつもりだ? おれはおまえを連れに来たのだ。これからは従順な娘になって、リントンに不孝なまねをするようにそそのかしたりせんでもらいたいものだ。きゃつがおまえの陰謀に一役買っていることを知ったときは、どういう懲《こ》らしめをしてくれようかと、さすがのおれも閉口したぞ。まるで蜘蛛《くも》の巣のようなやつで、ちょっとさわっても消し飛ぶからな。しかし来てあいつの顔を見れば、罪相応の罰だけは受けたことがわかるだろう! おれは一昨日《おととい》の晩、きゃつを二階から引きずりおろして、椅子《いす》にちゃんとすわらせただけで、それきり指一本も触れんのだ。ヘアトンを外へ出して、親子水入らずで居間にいた。二時間して、ジョーゼフを呼んでまた二階へかつぎ上げさせた。それ以来というものは、おれの前にいるだけで、幽霊を見てるようにやつの神経にこたえるらしい。またおれが近くにいなくても、やつめおれの姿が眼《め》にちらつくらしいのだ。ヘアトンの話では、夜に長いこと目をさまして悲鳴をあげたり、おまえの名を呼んでおれの拷問《ごうもん》から守ってくれとどなったりしとるそうだ。だから、おまえは、おまえの大切なつれあいを好きだろうと嫌《きら》いだろうと、来なければならん。今ではリントンはおまえの受け持ちだ。やつのことで、いままでおれが引き受けてきた苦労は、そっくりおまえに引き渡すからな」
「キャサリンさんはここにずっといさせてあげたらどんなものでしょうねえ」私は訴えました。「そうしてリントン坊っちゃんをこちらへおよこしになればいいじゃありませんか。どうせあなたはふたりともお嫌いなんですから、おさびしいことはありますまい。あなたのふつうと違うお心にはおふたりは毎日々々迷惑をおかけするだけでしょうに」
「この屋敷はひとに貸すつもりなんだ」とヒースクリフは答えました。「またもちろん、子どもを手もとにおきたくもある。それに、そこにいる娘も、おれが食わせてやる以上は、何かおれのために働かねばならん。リントンが死んだあとまでも、ぜいたくをさせて遊ばせておくような教育はせんつもりだ。さあ、急いで支度しなさい、ぐずぐず言って、おれに世話を焼かせるんじゃない」
「どうぞご勝手に」キャサリンは言いました。「リントンは今ではこの世のなかでたった一人、あたしの愛するひとです。あなたはリントンにあたしを憎ませ、あたしにリントンを憎ませるように、ずいぶん骨をお折りになりましたけれど、どんなことしたって、あたしたちが互いに憎み合うようになんかできるもんですか。あたしの前でリントンをいじめるならいじめてごらんなさい、あたしをおどかすならおどかしてごらんなさい!」
「ふん、勇ましくけんかを買って出たものだ」とヒースクリフは答えました。「だがおれはリントンをいじめるほどおまえには好意を持っていないぞ。拷問がつづく限りは、おまえだけに引き受けてもらうからな。リントンがおまえを憎むようにするのはおれじゃない――あの小僧本人の麗わしい根性がそうさせるんだ。おまえに逃げられたのと、その後の結果とには、リントンのやつ、恨み骨髄に徹しているぜ。そのおまえの高潔な献身に対して、感謝させるなぞと思わんがいい。リントンのやつは、もし自分がおれのように強くなれたらどうするか、いろいろと不愉快な想像をして、ズィラに話しているのをおれは聞いたが、あれはそういうやつなのだ。そして体が弱いものだから、力の不足を補うような知恵は、とても鋭くはたらくだろう」
「あの子の性質の悪いことは知っています。あなたのむすこですもの。けれどあたしはそれを赦《ゆる》してやれるだけの良い性質を持ってるからうれしいのです。またあたしはあの子があたしを愛してることも知っています、ですからあたしはあの子を愛してるんです。ヒースクリフさん、あなたを愛してるひとは一人もいませんね。だから、どれほどあなたがあたしたちにみじめな思いをさせたって、そのあなたの残虐性《ざんぎゃくせい》は、あたしたち以上にみじめなあなたの心がさせるわざだと思えば、あたしたちはやはり胸が晴れるでしょう。あなたはみじめなかたですわ、違います? 悪魔みたいに孤独で悪魔みたいにねたみ深いのね。誰《だれ》ひとり、あなたを愛さない――誰ひとり、あなたが死んでも泣くひとはいない。あたしはあなたみたいになりたくないわ!」
キャサリンは、何かさびしい勝利とでもいうような気持でそう言いました。これから先、家族となるべき人々と同じ精神になって、敵の悲しみによってみずから楽しもうと、心を決めたかのように見えましたのです。
「ふん、そう言ってもう一分でもぐずぐずしていてみろ、おれみたいにならなかったことを後悔させてやるから。出ろ! 妖《よう》婦《ふ》め、早く持物の用意をしろ!」
義理の父親にこう言われて、侮《ぶ》蔑《べつ》をこめた顔で、嬢さまは出て行きました。そのあとで私はどうぞ今の私の地位を譲るから、ズィラと入れかわりに嵐が丘へ行かせて下さいと頼みましたが、なんといっても承知してくれません。ヒースクリフは私に黙れと言って、それから、はじめて部屋を見まわして、肖像画をつくづく眺《なが》め入ってから、申しました。
「あれはうちへ持ってゆこう。別に必要だというわけじゃないが」――だしぬけに煖炉のほうを向いて、そして、さあほかに言葉がございませんから、微笑というほかはありませんけれど、その微笑を浮かべながら言葉をつづけました。――「昨日おれがしたことをおまえに話そう。おれはリントンの墓を掘った寺男をつかまえて、キャサリンの棺の上の土を取り除《の》けさせて蓋《ふた》をあけたのだ。そのとき一時は、そのまま墓のなかにいようかと思ったよ。あの顔をもう一度見たとき――まだ生きてるときと同じ顔だった! ――寺男はおれがいつまでも動かんので困っていた。だが風にあたると顔が変るという寺男の話だったから、棺の一方の縁をたたいてはずせるようにしてから、土をかぶせた。リントンの側の縁ではないぜ、あの畜生! あんなやつは鉛の棺に入れてハンダづけにしてやればよかった。おれは寺男に金を握らせて、おれが死んだらエドガーの棺を横へずらして、おれをあそこへ寝かせてくれるように頼んだ。おれの棺の縁もキャサリンのと同じに、片側をはずしておくように頼んだ。おれの棺はそういうふうに作らせるつもりなのだ。だからエドガーの棺が朽ちて、おれたちのそばへあいつがくるころには、おれとキャシーの区別がつかんようになっているだろうよ!」
「なんて恐ろしいことをなすったんでしょう、ヒースクリフさん! 死んだひとの眠りを乱して恥かしいとも思わなかったんですか?」
「おれは誰の眠りも乱しはせんよ、ネリー。ただおれはそうしておれ自身を安らかに眠れるようにしただけだ。もうこれでおれは非常に気が楽になるだろう。そしておれが地の下へはいるときはおまえたちはおれの幽霊に出てこられる心配がだいぶ減ることになる。キャシーの眠りを乱すというのか? いいや、断じて! キャシーこそつい昨夜《ゆうべ》まで夜も昼も、十八年のあいだ――絶え間なく――慈悲も情けもなく――おれの安静を乱しつづけたのだ。そして昨夜、やっとおれは心が安まったのだ。昨夜の夢で、おれはああして静かに眠っているキャシーのそばに、永遠の眠りを眠っていた、おれの心臓は鼓動を止め、おれの頬《ほお》は彼女の頬にひたと凍りついていた――」
「そしてキャサリンが朽ちて土になるか、それとももっとあさましい姿になっていたら。そのときはどんな夢をごらんになったでしょう?」
「彼女といっしょに朽ちる夢をさ、そのほうがもっと幸福になれるだろう!」とヒースクリフは答えました。「おまえはおれが、そういう種類の変化を厭《いと》うと思うのか? 蓋をあけるとき、そうした変化をおれは予想していた、が、それはまだ始まっていなくて、始まるときはおれもいっしょにそうなるのだと思ったら、よけいにうれしかったよ。それから、もしキャシーの死顔が、まったく煩悩《ぼんのう》を脱しているというはっきりした印象を受けなかったら、おれの不思議な気持は容易に変らなかったろう。この変化は実に妙なふうに始まったのだ。おれがキャシーの死後、すてばち《・・・・》になっていたことは、おまえの知ってるとおりだ。彼女《あのひと》の精霊がおれのところへ帰ってくれるようにと、彼女に向かって、夜明けまで、ずっと祈りつづけていた! おれは幽霊というものを強く信じている。幽霊がこの世に存在できるし、また存在してると思っている! キャシーが埋葬された日に、雪が降った。日が暮れてから、おれは墓地へ行った。まるで真冬のような寒い風が吹きすさんで――まことにものさびしかった。あの馬鹿《ばか》な夫がこのおそい時刻にこの辺をうろつく心配はないと思ったし、ほかには誰もここへ来る用事のある者はなかった。たった一人で、二ヤードの軟らかい土のほかにおれたち二人の仲を隔てるものはないと思うと、おれは自分に言っていた――『もう一度、キャシーをおれの腕のなかに抱こう! もしその体が冷たかったら、冷や冷やするのはこの北風のせいだと思おう。また彼女が動かなかったら、それは眠っているのだ』おれは物置から鋤《すき》を持ってきて、力いっぱい掘りはじめた――鋤が棺をひっ掻《か》いた。おれは穴へはいって手で蓋をあけにかかった。ねじ釘《くぎ》を打ったあたりの板がメリメリと音を立てはじめた。もう少しで目的に手が届くというときに、誰か上で、墓の縁の下をのぞきこんで、ため息をつくのが聞こえたような気がした。『この蓋さえはがすことができれば、おれたちの上に土をかぶせて、埋めてくれる人間があればいいのだが!』とおれはつぶやいて、ますますすてばち《・・・・》になってあけようとした。また、すぐ耳のそばで、吐息が聞こえる。その温かい息がみぞれまじりの風を押しのけて、おれにかかったような気がするのだ。肉と血を持った生きものがそばにいないことはわかっているのだが、闇《やみ》のなかで姿は見わけられなくとも、生きた人間の近づくのがたしかにわかるように、たしかにおれはキャシーがそこにいるのを感じた――おれの足の下にではなく、地の上にだよ。急に、救われたという感じが、おれの心臓から全身へ流れた。とっさにおれはせつない労働をやめてしまって、ほっとして振り返った。なんとも言えないほどほっとしたのだ。彼女がそこにおれといっしょにいた。おれが墓の土を埋めるあいだそこにいて、いっしょに家へ連れて帰ってくれた。笑いたければ笑ってもいいよ、しかしおれは家へ帰れば彼女に会えるものと思い込んでいた。彼女がそばにいると信じきっていて、おれは彼女に話しかけずにいられなかったほどだ。嵐が丘へ着くと、おれは夢中で扉のところへ走り寄った。扉は締まっていた。あのアーンショーの野郎とおれの女房《にょうぼう》とが、おれを入れまいとしたのをおれは憶《おぼ》えている。あの酔っぱらいを蹴《け》りつけて気絶させる間もおそいような気がして、二階へ――おれと彼女との部屋へ走り上がったのを憶えている。性急に部屋のなかをみまわした――彼女がおれのそばにいるのが感じられた――ほとんど彼女の姿を見ることができそうに思った。だがやっぱり見ることはできなかったのだ! 一目会いたいというそのときのおれのせつない思い――その恋慕の苦しさ悩ましさで、おれは血の汗を流したとしても不思議ではなかった! おれは会えなかった。生きてるうちもそうだったが、彼女は魔性の女としておれを苦しめたのだ! そしてそれ以来、ときによって程度の差はあったが、おれはあの憎むべき呵責《かしゃく》の玩具《おもちゃ》にされてきた! 地獄だよ、まったく! こんな調子で神経を張りつめてばかりいたから、もしおれの神経が楽器の絃《いと》のように強靱《きょうじん》でなかったら、とうの昔にリントンの神経みたいにたるんで薄弱になっていたことだろう。ヘアトンといっしょに居間にいると、外へ出たら彼女に会えるかも知れんし、荒野《ムーア》を歩いていると、家へ帰ったら会えそうな気がする。家を離れると、いつも帰るのが急がれて、きっと嵐が丘のどこかにいるにちがいない、必ずいると思うのだ! それから彼女の部屋に眠ると――おれはたたき出されてしまう。どうしてもおれはあの部屋では寝られなかった。目をつぶると、キャシーが、窓の外にいるような気がしたり、箱寝台の羽目板を引きあけているような、部屋へはいりかけているような、ときには子どものころよくそうしたように、おれと同じ枕《まくら》にあのかわいい頭をのせているような気さえして、目をあけて見ずにいられないんだ。そんなふうにして一晩に百遍も目をあけたりつぶったりして――いつも失望ばかりしている! あれにはまったく苦しんだよ! 幾度も大声でうなるものだから、あのジョーゼフの悪党爺《じじ》いなどは、おれの良心が心のなかで悪魔のように暴れてるんだと信じて疑わないほどだ。だから今、彼女に会ってからというもの、おれは心が安まった――いくらかね。とにかく、十八年間、亡霊のような一つの希望に欺《あざむ》かれつづけるというのは、一寸だめし五分だめしどころじゃない、髪の毛の太さぐらいずつ、ちびりちびりと殺されてゆくようなものだった!」
ヒースクリフ氏は話しやめて、額をぬぐいました。髪の毛が額にかかって、汗でぬれておりました。眼は煖炉の赤い残り火をみつめ、眉《まゆ》は内へ寄らずに逆にこめかみのほうへぐっと開いています。そのせいで陰惨な顔の感じが減り、そのかわり一種奇妙な困惑の表情、たった一つのことにだけ気をとられて、心が緊張しているための苦しそうな表情が現われていました。私に話しかけているのは形ばかりのことですから、私は沈黙を守っておりました。私はあのひとの話を聞くのは、虫が好きませんでしたわ! 少したって、ヒースクリフはまた肖像を見ながら思いにふけっておりましたが、やがてそれを取りおろしてソファに立てかけ、見やすい場所からしみじみ眺めていました。そんなことをしているうちに、キャサリンがはいってきて、支度が出来たから、馬に鞍《くら》をおかせましょうかと言いました。
「あれを明日届けてくれ」とヒースクリフは私に言って、それからキャサリンのほうを向いて――「子馬には乗らんでいい。今夜はいい月夜だし、嵐が丘へ行ってしまえば、子馬はいらん。おまえが出かけるぐらいのところは、おまえの足でたくさんだ。さあ行こう」
「さよなら、エレン!」私の大切なお嬢さまはおっしゃいました。私に接吻《せっぷん》なさったとき、嬢さまのくちびるは氷のようでございました。「ときどき会いに来てね、エレン、忘れないでね」
「そんな心配をせんでもらいたいな、ディーンさん! おまえに話があるときはここへ来る。おれの家へ立ち入ってもらいたくないな!」
ヒースクリフは嬢さまに先へ行けと合図をしました。嬢さまはそれに従って、出がけに私のほうをちらと見ましたが、その視線に、私の心臓は切り裂かれるような気がいたしました。庭を歩いて行くふたりの姿を、私は窓から見送りました。ヒースクリフは自分の腕で、ぎゅっとキャサリンの腕をかかえこんでいました。そうされることを、嬢さまは明らかに嫌って、はじめは断わろうとしたにちがいないのですが。そして大またに、嬢さまを急がせながら、小道へはいって行き、やがて立ち木の陰に姿をかくしてしまいました。
30
私は嵐《あらし》が丘《おか》へたずねて行ったこともございますが、嬢さまにはそれきりお目にかかりません。私が嬢さまの様子を見に行きますと、ジョーゼフが、扉《とびら》に手をかけたまま立ちはだかって、私を内へ入れません。リントンさまの奥さまはお忙しいし、旦《だん》那《な》はお留守だと、申します。ズィラがあの一家の様子をいくらか聞かせてくれましたが、さもなければ私は誰《だれ》が死んで誰が生きてるかも知らずにおりましたでしょう。ズィラがキャサリンを高慢だと思って、好いていないことは、あの女の話から推察がつきます。はじめ向こうの家へ行ったとき、嬢さまはズィラに何かと世話してもらおうと思ったのですが、ヒースクリフさんが、ズィラには自分の用事だけしておけばよいと言い、またキャサリンには自分のことは自分でしろと言ったので、気の狭い自分勝手な女ですから、主人の言葉をいいことにして、何もしてあげないらしいのです。この不親切をキャサリンは子どもっぽく不快に思い、軽蔑《けいべつ》の眼で見返すようになりまして、ズィラのことを、何か非常に悪いことをされたかのように、はっきり敵がたの一人に数えるようになりました。私は六週間ほど前、あなたさまがお見えになる少し前でしたが、ある日荒《ムー》野《ア》でズィラと行き会いまして、長話をいたしましたが、ズィラの話はこんなふうでございました――
「若奥さまが嵐が丘へお着きになると、わたしやジョーゼフに今晩はともおっしゃらないで、いきなり二階へ駆け上がって、リントンさんのお部屋へはいったきり、朝まで出ていらっしゃらなかったんですよ。それから、旦那さまとアーンショーさんとが朝飯を召し上がってるときに、居間へはいってきて、ぶるぶるふるえながら、お医者を呼んでいただけないかしらってお訊《き》きになったんです。坊っちゃんが大変わるかったんです。
「『そんなことは知っとる!』ヒースクリフ旦那は答えました。『だがあいつの命なんぞ一文の値打ちもありはせんから、一文の銭もあいつにかけたくないんだ』
「『でもあたしにはどうしていいかわからないんですもの。誰も助けて下さらなければ、あのひとは死んでしまいますわ!』
「『出て行ってくれ』と旦那はどなりました。『あいつのことについては何もおれの耳へ入れんでくれ! あいつがどうなろうと、ここには心配する者は一人もおらん。おまえが心配になるなら、看病してやるがいい! 心配したくなかったら、あいつの部屋に外からかぎをかけて、捨てておけ』
「それからキャサリンさんはわたしを困らせはじめましてね、だからわたしは言ったんです、わたしはあのうるさいひとではいままでさんざん困らされています。みんなめいめいに仕事があって、リントンさんのめんどうをみるのはあなたの役でしょう、ヒースクリフさんはわたしに、リントンのことはキャサリンに任しておけとおっしゃったんですよ、とね。
「おふたりがどんなふうにしていたか、わたしにはわかりません。坊っちゃんはとても苦しんで、夜もうなってたようですし、嬢さんは休む暇もあまりなかったんじゃないかと思いますよ。元気のない青白い顔色や、はれぼったい眼をみれば誰の眼にもわかりましたわ。ときどき途方に暮れた様子で台所へはいって来て、助けてもらいたいような顔していましたが、わたしは旦那の言いつけにそむく気にはなれませんでしたよ。だってディーンさん、ほんとにわたしは旦那に逆らうのはいやですものねえ。そりゃケネス先生を呼ばないのはひどいとは思いましたけどね、そんなことを口に出したり、ぶつぶつ言ったりするのは、わたしの役目じゃありませんから、いつでもおせっかいするのはお断わりしていたんですよ。一度か二度、もうみんな寝てから、わたしが何かの拍子にまた扉をあけると、嬢さんが階段のいちばん上にすわって、泣いてるのを見かけたことがあるんです。そんな時もわたしは、手出しがしたくなるとたいへんだと思って、急いで扉をしめてなかへはいってしまうんです。ほんとにあの時分は、キャサリンがかわいそうだと思いましたがね、でも、叱《しか》られて馘《くび》になるのは、いやですからねえ、あなた。
「とうとうある晩、嬢さんはわたしの部屋へえらいけんまくではいってきましてね、わたしゃびっくりして、どうしようかと思いましたよ。嬢さんはこう言うんです――
「『ヒースクリフさんに言ってちょうだい、リントンが死ぬところですって――こんどこそは本当よ。さ、すぐ起きて、言ってきてちょうだい』
「これだけ言うと、また出て行ってしまったんです。わたしは十五分ぐらい、じっと物音に耳をすまして、ふるえていました。なんの音もしません――家じゅうしんとしてるんです。
「若奥さんは思い違いしたんだね、とわたしは一人で言いました。どうにか切り抜けたらしい、わたしが邪魔をすることはない、こう思って、うとうとしかけたんです。すると今度はベルがけたたましく鳴ったので、またわたしは眠りを破られました――家じゅうに一つしかないベルで、リントンさんのために取りつけてあったんです。そこで旦那がわたしを呼んで、どうしたことだか見てこい、それからあんなやかましい音は二度とさせるなと言ってこいと言うんです。
「わたしはキャサリンのことづてを伝えました。旦那はひとりで悪態をついて、間もなく蝋燭《ろうそく》をつけて出てきて、おふたりの部屋へはいって行きました。わたしもついて行きました。若奥さんは、寝床のそばにひざの上で両手を組んで腰かけていました。旦那は近寄って、リントンさんの顔へ明かりを近寄せて見て、それから体にさわっていました。そのあとでキャサリンさんのほうを向いて、
「『さてと――キャサリン、おまえはどんな気持だ?』
「嬢さんは、黙っています。
「『どんな気持がするね、キャサリン?』
「『リントンはもう安心です、そしてあたしは自由になりました。あたしは気が楽になるはずなんですけど――でも』隠しきれないにがにがしさをこめて、つづけて言いました。『お義父《とう》さんが、あまり長いあいだあたし一人に死と戦わせておいて、かまって下さらなかったから、あたしには死のほかの何も感じられないし、見えなくなってしまいましたわ! 自分も死んだような気がするわ!』
「ほんとに見た目も死人のようでしたよ! わたしは少し葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》を飲ませました。ヘアトンとジョーゼフも、ベルの音や足音に起こされて、部屋の外でわたしたちの話を聞いていましたが、このときはいって来ました。ジョーゼフは若旦那の死んだのを、たしかに喜んでいましたよ。ヘアトンはちょっと困ったような顔をしていました。もっとも、リントンさんのことを考えるよりは、キャサリンさんの様子に気をとられて、そっちばかり見ていましたがね。けれども旦那はヘアトンさんに早く帰って寝ろと言いました。あのひとには手伝ってもらうことはなかったんです。旦那はそれからジョーゼフに遺骸《なきがら》を自分の部屋へ移させて、わたしには部屋へ帰れと言い、若奥さんだけ一人でその部屋に残りました。
「朝になって、旦那はわたしをキャサリンのところへやって、朝飯に降りてこなくちゃいけないと言わせました。嬢さんは着物を脱いで、これから寝ようとしていたところでしたが、病気になってしまったと言うんです。わたしはちっとも意外とは思いませんでしたよ。ヒースクリフさんに知らせますと、こう答えました――
「『よし、葬式のあとまで寝かしておいてやれ。ときどき様子を見てやって、ほしい物を持って行ってやれ。そしてよくなったようだったら、すぐにおれに知らせろ』」
ズィラの話によりますと、キャシーは二階に二週間、寝ていたそうです。ズィラは一日に二度行って、実はもう少し親切にしてあげたいと思ったけれども、何かよけいにしてやろうとすると、キャサリンは高飛車に二言と言わせずはねつけてしまうのだそうです。
ヒースクリフも一度だけ上がって行きましたが、それはリントンの遺言状を見せるためでした。リントンは自分のと、かつてキャサリンの所有だった分のと、両方の動産の全部を、父親に遺贈したのでした。嬢さんがエドガーさまのおなくなりのとき、一週間留守にしていたあいだに、哀れな少年は脅迫されるか、または丸められたかして、その遺言状を作ってしまったのです。土地のほうは、未成年者なので、手をつけることはできません。けれどもヒースクリフ氏は、自分の妻の権利と自分の権利とで、このほうも所有権を主張して押えてしまいました。たぶん合法的なのだろうとは思いますが、とにかくキャサリンは金もなければたよる味方もありませんので、義父の押えたものをどうすることもできませんのです。
「わたしのほかには」とズィラは申しました。「この一度を除いて、誰もキャサリンの扉に近づく者はなかったし、どうしているかと訊く者もなかったんですよ。はじめて居間へ降りてみえたのは、日曜日の午後でした。嬢さんは、わたしがお昼ご飯を持って行きますと、これ以上寒い部屋にはいられないって泣き出したものですから、旦那はスラシュクロス屋敷へ出かけるし、アーンショーとわたしとはあなたが降りていらっしゃるのを邪魔立てはしませんよと言ったんです。それでヒースクリフの馬が走り出てゆく音が聞こえるとすぐ、喪服姿で出てきました。黄色い巻髪は、耳のうしろにクエーカーみたいに質素になでつけていました。巻髪を櫛《くし》でとかしつけることができなかったからでしょう。
「ジョーゼフとわたしはたいてい日曜には礼拝堂へ行きます」――そこの会堂は、ご承知のとおり、今は牧師さんがいませんので――とディーンさんが注釈をはさんだ――それで村のひとたちはギマトンにあるメソディストだかバプティストだかの(私はどっちだか存じません)寺のことを、礼拝堂《チャペル》と呼んでおります。「ジョーゼフはその日も行きましたが」ズィラの話のつづきです。「わたしは家にいるほうがいいと思いました。若いひとたちというものは、いつも年上の者がそばで見ているほうがまちがいがありませんからね。それにヘアトンさんは、ずいぶん恥かしがりのくせに、行儀はいいほうじゃないんですものね。わたしはそれで、キャサリンさんが居間にくるはずだから、あの方はいつも安息日を大切にする家で育った方ですし、嬢さんのいるあいだは、鉄砲をいじったり、家のなかの仕事をしたりするのはよしなさいって言ってあげました。それを聞くとヘアトンは赤くなって、自分の手や着物をきょろきょろ見てるんです。鯨油や火薬をまたたく間にどこかへ隠しちまいました。ははあこのひと、しんみり嬢さんのお相手するつもりだな、とわたしは見てとりました。またそのそぶりから、嬢さんの前に出ても恥かしくないようにおめかしをしたいんだなと察しがつきましたから、そこで笑いながら――旦那のいるときはとても笑ってなんぞいられませんがね――お望みならわたしが手伝ってあげましょうと言って、あわてぶりを冷やかしたんです。するとすぐふくれ面《つら》になって、悪態をつきはじめましたっけ。
「あのね、ディーンさん」ズィラは私がその話しぶりが気に入らない様子を見てとりまして、こんなふうに話をつづけました。「あなたの大切なお嬢さんは、ヘアトンさんにはもったいないとお思いかもしれませんが、そりゃまったくそのとおりですよ。でも正直いいますとね、わたしはお嬢さんが少しだけあの気位を低くなさるといいと思うんですがね。だって今となってみれば、いくら学問があっても品がよくっても、どうなるというんでしょう? あの方はあなたやわたしと同じ貧乏人になってしまったんですよ。いいえ、本当いえばわたしたち以上に貧乏ですよ。あなたはお金をためてるし、わたしだって少しずつでもそう心がけていますからね」
ヘアトンはズィラに手伝ってもらうことを承知しました。ズィラはお世辞を言って、ヘアトンを上機嫌《じょうきげん》にしてしまいました。それで、キャサリンがはいってきたときは、以前に恥ずかしめられたことは半分忘れて、なんとか気に入られようと骨を折ったらしいのです。ズィラの話はこうでした――
「若奥さんははいってきました。氷みたいに冷ややかに、王女さまみたいに高慢な態度です。わたしは立って、肱《ひじ》掛《か》け椅子《いす》の自分の席をすすめました。いいえ、いいのよ、ツンとして、わたしのお愛想なんか鼻であしらわれてしまいました。アーンショーも立って、長椅子へ来て、火の近くであたりなさい、寒いだろうと言いました。
「『あたしは一月以上も、死ぬような思いをしたわ』できる限りのいやみをその死ぬという言葉にこめて、嬢さんは答えました。
「そして自分で椅子を取って、わたしからもヘアトンさんからも離れたところにおきました。体が温まるまでじっと腰かけていてから、あたりをみまわして、たくさんの本が食器台の上においてあるのをみつけました。すぐに立って、それを取ろうと手を伸ばしましたが、高すぎて届きません。その様子をヘアトンはしばらくみていましたが、とうとう思いきって助け舟に出てきました。嬢さんが上着をひろげている上へ、いちばん初めに手に当った本を載せてやったんです。
「これはあの子としては大変な進歩でしたわ。キャサリンさんはお礼を言いませんでしたが、それでもヘアトンさんは嬢さんが自分の助力を受け入れただけでありがたかったんでしょう、こんどは大胆になって、嬢さんが本を見ている後ろに立って、そのなかにおもしろいと思う古い絵でもあると、身をかがめてそれを指さしたりまでするようになりました。嬢さんが邪慳《じゃけん》にその指を本のページから払いのけてもひるみもしません。少しうしろへさがって、本のかわりに嬢さんを眺《なが》めて満足しています。嬢さんは本を読みつづけるか、読むものを捜すかしています。ヘアトンはだんだん熱中して、豊かな絹糸のような巻髪だけを熱心に観察しているんです。嬢さんの顔は見えませんが、嬢さんのほうもヘアトンさんの顔は見えないんです。そして、たぶん自分が何をしているかあまりはっきり気がつかずにだろうと思うんですけどね、つまり、子どもが無心に蝋燭の火を見ているときみたいなものでしょう、とうとう、ただみつめてるだけでなくて、手でさわりはじめたんです。手を出して巻髪の一つを、まるで小鳥をなでてやるときみたいに、やさしくなでました。それが嬢さんには、首にナイフでも突き刺されたように感じたんでしょうか、いきなりものすごくいきり立って振り返りました。
「『どきなさい、今すぐ! あたしにさわるなんてなんて失礼な! なぜ動かないの?』いかにも不快そうに、嬢さんは叫びました。『あんたには我慢ができないわ! あたしの近くへ寄るなら、二階へ帰りますよ』
「ヘアトンさんはこれ以上できないほど間抜けな顔をして引き下がりました。ひどくおとなしくなって、長椅子にすわっていました。キャサリンさんはそれから半時間以上も本のページをめくっていましたが、やがてアーンショーはわたしのところへ来て、小声で言うのです――
「『ズィラ、おれたちに本を読んでくれるように頼んでくれないか? おれは何もしないでいるのにあきちゃった。だから聞かせてもらえたらいいと思うんだ! おれが聞きたいって言わないで、おまえから頼んでくれよ』
「『奥さま、ヘアトンさまが奥さまに本を読んでいただきたいそうですの』すぐにわたしは言いました。『そうしていただけるととてもありがたいって――感謝すると言っておいでですよ』
「キャサリンは顔をしかめました。顔を上げて、答えました。
「『ヘアトンさん、いいえ、みなさん、あたしはあなたがたが口先だけで親切をしたがるような、そういう虚飾は嫌《きら》いだということを、どうぞわかっていただきたいわ! あたしはあなたがたを軽蔑していますから、誰とも話なんかしないつもりです! あたしが、たった一言の親切な言葉のためなら、いいえ、あなたがたのうちの一人の顔をみるだけのためでも、生命《いのち》をあげてもいいと思う時分には、あなたがたはそばへも寄りつきませんでした。でもあたしはあなたがたに恨みごとを言おうとは思いません! 寒さのためにこうして階《し》下《た》へ追い落されましたけれど、あなたがたのお楽しみのためにも、あなたがたと親しくするためにも降りてきたわけじゃありません』
「『おれが何をしたんだ?』アーンショーが言い出しました。『なんでおれがおこられるんだ?』
「『あら、あなたは別よ!』ヒースクリフ夫人は答えました。『あなたみたいなひとが来てくれなくてさびしいと思ったんじゃないわ』
「『だがおれは何度も頼んで――』キャサリンの無遠慮な言葉にカッとなって、『ヒースクリフさんに、あんたの代りにおれがお通夜《つや》するって言ったのに――』
「『黙ってちょうだい! あんたの不愉快な声を聞くくらいなら、外へ出ちゃうほうがいいわ、どこへだって行くわ!』
「ヘアトンは口のなかで、おれにとってはおまえなんぞは地獄へ行っちゃったってかまわねえや、とつぶやいて、遠慮をすてて鉄砲を取りおろして日曜日の楽しみにふけり出しました。それからはすっかり気楽になって、いろんなおしゃべりを始めました。それでやがてキャサリンさんはもうひっこんで一人になるときだと思ったようでしたが、霜が降りて寒くはなるし、いくら気位ばかり高くても、わたしたち下《げ》賤《せん》の者の仲間にならないわけにはいかなくなりました。けれども、わたしもひとのいいところをこれ以上馬鹿《ばか》にされてはたまらないと思ったものですから、それ以来キャサリンさんに負けずにがんこに黙っているようになりました。そんなふうで、家じゅうに一人の恋人も、気の合う者もなくなってしまったんです。またそれが当り前でしてね、誰《だれ》かちょっとでもあのひとに話しかけると、誰でもかまわずけんか腰でにらみつけるんですもの! 嬢さんは旦《だん》那《な》にさえ食ってかかるでしょう。実際、打《ぶ》つなら打ってごらんなさいとまで言うんですからね。そしていじめられればいじめられるほど、恨みを胸にためるようになるんでしょうね」
はじめ、私はこのズィラの話を聞きましたとき、いまの勤めをやめて、小さな家でも借り、キャサリンを呼んで、いっしょに暮らそうと決心しましたの。けれどもヒースクリフさんはヘアトンに一戸をかまえさせてやる気がないのと同様に、キャサリンにもそれを許すはずはございません。ですから今のところ、嬢さまが再婚でもなさるよりほかに、私にはなんの手段も思いつきません。またその再婚ということは、私の力ではとても及ばないことでございますからね。
これでディーンさんの話は終った。医者の予言とは相違して、僕はぐんぐん元気を取り戻《もど》しつつある。まだ一月の第二週であるが、一両日中に、嵐が丘まで、乗馬で行ってくるつもりだ。家主に会って、これから半年はロンドンで暮らすことと、十月以後の新しい借り手を、さがしたければおさがしなさいと言うためだ。僕はとてもこの土地で、もう一冬すごす気にはなれない。
31
昨日はよく晴れた穏やかな日で、霜がひどかった。僕は予定どおり嵐《あらし》が丘《おか》へ行った。家政婦のディーンさんから、彼女の「お嬢さま」への短い手紙を届けてくれと頼まれたが、おばさんはそれを少しもおかしいことだとは感じていない様子だったから、僕は断わらなかった。
玄関の扉《とびら》は開いていたが、門は前回の訪問のときと同様、いかにもひとを忌《い》み顔に締まっていた。たたくと、庭の花床のあいだから、アーンショーが出てきて、鎖をはずしてくれたので、庭の内へはいった。この若者は田舎としてはまず好男子といってよかろう。今日はちょっと気をつけて観察したが、ヘアトン先生、そのときはせっかくの好男子を一生懸命で台なしにしているとしか思えなかった。
ヒースクリフさんはご在宅か、と訊《き》くと、いまはいないが昼飯には帰ってくるという。十一時だったから、ではなかへはいって待たせてもらいたいと言うと、青年はさっそく、道具を投げ出していっしょについてきたが、あるじの代りをつとめるというふうではなくて、番犬の役目を果たしている感じだった。
二人いっしょに居間へはいると、キャサリンがいた。食事の支度に何か野菜を料理して働いていたが、はじめて会ったときよりもさらに不機《ふき》嫌《げん》な、元気のない顔をしていた。ろくに顔も上げず、僕だということに気づきもせずに、この前同様、普通の礼儀をまるで無視して、用事をつづけている、僕が頭を下げようが、お早《はよ》うと言おうが、てんで知らぬ顔をきめこんでいるのだ。
「どうもディーンさんがおれに信じさせたがっているほど、気のやさしいひとではなさそうに見えるが」と腹のなかで考えた。「美人にはちがいないが天使ではない」
アーンショーが横柄《おうへい》に、彼女の料理している物を台所へ持って行けと命令する。「あんたが持って行きなさいよ」と彼女は言って、仕事をすませるやいなや品物を押しやって、窓ぎわの椅子《いす》へひっこみ、ひざに載せたかぶの皮に鳥や獣の形を彫刻しはじめた。僕は庭を見るようなふりをして、彼女のそばへ近寄った。そして、ディーンさんの手紙を、ヘアトンに気づかれないように、すばやく彼女のひざの上へ落した、と思いきや――彼女は大きな声で「これはなんですか?」と言って、ほうり出してしまった。
「あなたの古なじみ、スラシュクロス屋敷の家政婦からの手紙です」せっかくの親切をぶちこわしにされた不快と、僕が艶書《えんしょ》でも渡そうとしたと誤解されてはたまらんという恐怖とを、こもごも感じながら、僕は答えた。そうと聞けば、いそいそと拾い上げたいところだったろうが、ヘアトンのほうが早かった。彼は手紙を拾って、ヒースクリフさんに先に見せるんだと言いながら、自分のチョッキに納めてしまった。そこでキャサリンは無言で僕たちから顔をそむけ、こっそりとハンカチを取り出して、眼《め》にあてがった。すると彼女の従兄《いとこ》は、しばしおのれのやさしい心を押えつけようと苦しんだ末、手紙を抜き出して、できるだけ無粋なやり方で彼女のそばの床の上に投げ出した。キャサリンはそれを拾って、夢中で読み、それから自分の前の家の住人たちについて、つじつまの合うのや合わないのや、さまざまの質問を僕にした。そして丘のほうを見つめながら、口のなかでひとりごとをつぶやいた――
「あたしはミニーに乗ってあの辺を駆けまわりたいわ! あの丘へ登りたいわ! ああ! あたしはあきあきした――うんざりしたわ! ヘアトン!」そしてあくびともため息ともつかぬ息をもらしながらかわいらしい頭を窓の縁にもたせ、放心したような悲哀の表情へと沈んでいった。僕たちに見られていることを気にも止めねば気づきもせぬ風《ふ》情《ぜい》だった。
「ヒースクリフ夫人」しばらく無言の行をした末に、僕は言った。「ぼくがあなたの知己のひとりだということに、あなたは気がついていらっしゃらないようですね。あなたのことはなんでもよく知ってるものですから、あなたがお話にきて下さらないのが不思議な気がするくらいなんです。うちの家政婦は、いくらあなたのおうわさをしてあなたをほめても飽きないんです。ですから、もしぼくがあなたからなんのお知らせも持って帰らないで、ただ手紙は受け取ったが何も言わなかったと言ったら、ディーンさんはさぞがっかりするだろうと思いますね」
この話はよほど意外だったと見えて、彼女は訊いた。
「エレンはあなたが好きなんでしょうか?」
「ええ、ずいぶん――」僕はためらいながら答えた。
「ぜひこう言ってくださいな、あのね、手紙の返事を書きたいけれど、書くものがありません、本もないから、破いて書くこともできないって」
「本がないんですって!」僕は叫んだ。「こんな田舎で本がなかったら、どんなくふうをして暮らせばいいんです? ――失礼なことを訊くようですが。大きな書庫が備えてあっても、ぼくはあの家で退屈に悩まされることがよくありますよ。本を持って行かれたら、ぼくは気が変になってしまいますね!」
「本のあるあいだは、あたしもいつも読んでいました。ところがヒースクリフさんはけっして読まないんです。だからあたしの本を焼いてしまおうという了見を起こしたのね。もう何週間も一冊の本も読みません。たった一度、ジョーゼフのためている神学の本を掻《か》きまわして、とてもおこられちゃったのよ。それからもう一度はね、ヘアトン、あたしはあんたが自分の部屋にないしょでしまいこんでる本をみつけたわよ――ラテン語の本とギリシャ語の本と、それから物語と詩集が少し――みんななつかしい本ばかりだったわ。あたし詩集だけここへ持ってきたわ――そしてあんたがあんなものを集めるなんて、かささぎが銀のさじを盗むようなもので、ただ盗むのが楽しみでやってるんだわ! あんたにはなんの役にも立たないはずですもの。それとも、もしかすると、あんたは自分が本を読む楽しみを味わえないもんだから、ほかの者にも楽しませたくないという意地わるな気持から、隠したりなんかしたのかもしれないわね。そうだわ、あんたはそういうねたみ心を持っているから、お義父《とう》さんに知恵をつけて、あたしの大切な宝物を取り上げさせちゃったんでしょう! でもあすこにある本の大部分は、あたしの頭脳《あたま》に書いて心臓《こころ》に印刷してあるから、それまであたしから奪いとることはできないわよ」
アーンショーは、自分の秘密の蔵書のことを、こんなふうに従妹《いとこ》に暴露されたので真っ赤になり、へどもどしながら彼女の攻撃の不当なことを憤慨した。
「ヘアトン君は知識をふやしたいという熱望に駆られているんですよ」と僕が助け舟を出した。「このひとはあなたの学識をねたんでるんじゃなくて、それを模範として、みずから努めているんです。四、五年もすれば優秀な学徒になるでしょう」
「そしてそのあいだに、あたしを無学文盲に陥《おとしい》れようと思ってるんですわ。ええ、そういえば、あたしもこのひとが書いたり読んだりやってるのをそばで聞いてるんですけど、そりゃとてもおもしろいまちがいをやってるんですのよ! あんた、きのうやったように、『羊狩り《チェヴイ・チェイズ》』を、もう一ぺん暗誦《あんしょう》して聞かせないこと? すばらしく愉快だったわよ。あたし聞いてたわ、あんたはむずかしい字をさがそうと思って、字引きをめくってたわ、そうして字引きの説明が読めないもんだから、おこって悪態をついてたわね、ちゃんと聞いちゃったわ!」
明らかに、青年は、自分が無学だからと言ってあざけられ、その無学から脱しようと努めたからと言ってまた笑われるのでは、あまりにひどすぎると感じたらしい。僕もそれに似た感じを持った。そして文盲の闇《やみ》のなかで育てられてきた彼が、はじめて自ら啓蒙《けいもう》の火を点じようと企てたときの挿《そう》話《わ》を、ディーンさんから聞いたのを思い出しながら、感想を述べた――
「しかしヒースクリフ夫人、われわれもお互いに、習いはじめの時があったではありませんか。お互いにとば《・・》口のところでつまずいたりよろけたりしたものです。もし教師が手を引っぱってくれないで罵《ば》倒《とう》ばかりされていたら、われわれもいまだにつまずいたりよろけたりしているでしょうね」
「あら! あたしだってヘアトンの勉強の邪魔をしたくはありませんわ。でもそれにしても、このひとがあたしの物を盗んで自分の物にしていいという法もありませんし、あんな卑《いや》しいまちがいや変な発音をして、あたしにその自分の本まで愚劣なものに思わせてもいいという法はありませんわ! あの何冊かの本は、散文でも詩でも、ほかの思い出がまつわっていて、あたしにとっては神聖なものになっています。ですからあたし、このひとの口にかかって卑しいものにされてけがされるのがたまらないんですもの! それに、何よりも憎らしいことは、このひとったら、あたしが大好きで繰り返して読むのを何よりの楽しみにしているものばかり、まるで計画的な悪意で選んだみたいに、持って行ったんです」
ヘアトンはしばし無言のまま、興奮に胸を波打たせていた。深刻な屈辱と怒りとの感情に押し伏せられて、もがいているのだが、それをはね返すのは容易なことでないらしい。僕は立ち上がって、紳士のたしなみとして彼にばつの悪い思いをさせまいと思い、戸口のほうへ行って、そこにたたずんで外を眺《なが》めていた。ヘアトンもそのまねをして、部屋を出て行った。やがてまた現われたとき、五、六巻の書籍を小わきにかかえていた。それをキャサリンのひざの上に投げこみながら、彼は叫んだ――
「返すぞ! おれはもう二度とその本を読んでもらいたくねえ! 自分でも読まねえし、考えるのもいやだ!」
「こんなもの、もういらないわ。これを見るとあんたを思い出すから、嫌《きら》いになっちゃったわ」
彼女は、そのなかから、明らかに幾度となく読み返されたとおぼしい一冊を開いて、習いたてのたどたどしい調子で、その一個《か》所《しょ》を読みあげ、そして笑い出して、本を投げ出した。「それからこうなのよ、お聞きなさいよ」と、意地わるく、また同じような調子で、古い民謡《バラッド》の一節をやりはじめた。
だがヘアトンの自愛の心は、もはやこれ以上の呵責《かしゃく》に堪えかねた。僕は聞いた――それも必ずしも非難する気持ではなしに聞いた――彼女の小しゃくな舌の動きをやめさせるピシャリという手の音を。この生意気な娘は、訓練こそされていないが感じやすい従兄《いとこ》のこころを、その忍びうる限度まで傷つけてしまったのだ。そしてこの屈辱に相当するだけの効果を、凌辱者《りょうじょくしゃ》に対する返報として支払って、気持の上の貸し借りを清算するためには、腕力で議論するよりほかに方法はあるまい。さてそれから彼は書物を拾いあつめて、炉のなかへ投げ込んだ。一時の立腹に対してそれらの本を犠牲としてささげることが、いかに堪えがたい苦痛であるか、僕は彼の顔に、まざまざとそれを読む思いがした。本が燃えてゆくのを見ながら、この若者は、これまでにそれらの書物が与えてくれた楽しさを思い、またこれから読み進むに従って、絶えずその楽しさが増大するであろうことや、ついにそれを読破したときの征服の喜びやを予想して、胸をおどらせたことを思い出しているに違いない、と僕は想像した。また僕は、彼がその秘密の勉強をはげむにいたった理由も、推察に難《かた》くないと思った。キャサリンが現われるまでの彼は、日々の労働と、素《そ》朴《ぼく》な動物的享《きょう》楽《らく》とで満足していたのである。彼女に馬鹿《ばか》にされた恥かしさと、彼女にほめられたい一心とに拍車をかけられ、はじめて彼は字をおぼえようという高尚《こうしょう》な野心に燃えたったのだ。そして、みずからを高めようとする彼の努力は、一面ではキャサリンの侮《ぶ》蔑《べつ》から彼をまもる楯《たて》となり、他面では彼女の賞讃《しょうさん》を彼にかちえさせてくれるだろうと思いのほか、まさにその正反対の結果を生んでしまったではないか。
「そうだわ、あんたみたいなケダモノが本なんぞ読もうとすれば、こんなことになるのが関の山だわ!」キャサリンは傷のついたくちびるをかみしめ、怒りに燃える眼で燃え上がる炎を眺めながら叫んだ。
「てめえこそ、もういいかげんに黙ったほうがいいぞ」彼は猛然と言い返した。
興奮のあまり、彼はそれ以上ものが言えなかった。脱《だっ》兎《と》のように戸口へ出てきたので、僕はかたわらへ寄って彼を通らせた。だがまだ戸口の石段を跨またがぬうちに、盛土道《もりづちみち》をやって来たヒースクリフ氏にばったり会った。あるじは彼の肩に手をかけて訊いた――
「おお、おまえ、何をしに行くんだ!」
「いや、なんでもねえ、なんでもねえんです」――言いすてて、自分ひとりで存分に悲しんだりおこったりするために走り去ってしまった。
ヒースクリフはその後ろ姿をみつめて、嘆息した。
「おれが自分の考えを自分でぶちこわすとしたら妙な話だが」と、僕がうしろにいるとは知らず、つぶやいた。「しかしあいつの顔のなかに、あいつの父親の面《つら》を見てやりたいと思うときに、日ましにはっきりとキャシーの面影《おもかげ》が見えてくる! なんであの畜生、あんなに似とるのか? おれはもうあいつの顔を見るのがつらくなった」
彼は地面に眼を落しながら、物思わしげにはいってきた。その顔には、かつて僕の見かけたことのない落着かぬ不安げな表情があった。体つきも、げっそりとやせたようだ。キャサリンは彼の姿を窓から見つけると、たちまち台所へ逃げ込んだから、残っていたのは僕ひとりだった。
「おお、ようやく外に出られるようになりましたな、おめでとう、ロックウッド君」僕の挨拶《あいさつ》にこたえて、彼は言った。「わしのほうの都合から言ってもおめでたい。この山のなかで、あんたに死なれたら、代りの借家人がなかなか見つからんからね。なんでまたきみのようなひとがこんな田舎へ来る気になったか、わしは一度ならず不審に思ったものだ」
「まあ閑人《ひまじん》の気まぐれでしょうね、ヒースクリフさん。が、そうでなかったとしても、その気まぐれがぼくをここから追い出したがっているところです。来週ぼくはロンドンへ出発します。それで、お約束の十二カ月を過ぎても、スラシュクロス屋敷をつづけてお借りする気持になれないということを、あらかじめお知らせしておかなければなりません。たぶんもうあすこでは暮らさないだろうと思いますから」
「おお、なるほど、きみもとうとう世間から見捨てられて暮らすのにあきたとみえますね?――だが、もしきみが使わない家の家賃をまけてくれろとかけあいに来られたんだとしたら、せっかくのご足労がむだになりましたぜ。わしは誰からでももらうべき金をもらうことにかけては容赦はせんですからな」
「ぼくはなんのかけあいにも来たんじゃありませんよ」僕はかなり癪《しゃく》にさわって、叫んだ。「もしお望みなら、この場でお払いしてしまいましょう」そしてポケットから紙入れを出した。
「いいや、いいや」相手は涼しい顔で、「お帰りにならんとしても、きみのことだから支払いにあてるには十分な金を残して行かれることだろう。わしは何も急ぐわけではないんだ。まあゆっくりして、昼飯を食って行って下さい。二度と来ないお客というものは、たいがい歓迎されるものだ。キャサリン、昼飯を持って来い、どこにいるんだ?」
キャサリンはナイフやフォークを盆に載せてはいって来た。
「おまえはジョーゼフと、あちらでいっしょに食え」わきを向いて、ヒースクリフは小声で言う。「そして、客が帰るまで、台所におれ」
彼女はきわめて正確にその指図に従った。おそらく反抗する気持がなくなったのだろう。文盲者《あきめくら》や人間ぎらいのなかで暮らしているから、たぶんもっと高尚な人間に会っても、その価値を認めることはできないのだろう。
右に怖い顔したむっつり屋のヒースクリフ氏、左におしのごときヘアトン、この二人と同席して、あまり愉快でない食事を終った僕は、早めにいとまを告げた。ジョーゼフ老人には迷惑でも、お別れにキャサリンに一目あいたかったから、僕は裏から出たかったのだが、ヘアトンが言いつけられて僕の馬を引いてきたし、あるじみずから戸口まで送って出たので、その望みはかなえられなかった。
「なんたる味気ない生活が、あの家では営まれていることだ!」馬上で道を降《くだ》りながら、僕は考えた。もしあのリントン・ヒースクリフ夫人という女性が、彼女の乳母が望むように、おれと愛情で結びついて、ふたりして都会の雑踏する雰《ふん》囲気《いき》のなかへ移り住むことにでもなったら、それこそ彼女にとっては、おとぎ話よりもロマンチックな夢が現実になったと言えるだろう!
32
一八〇二年――
ことしの九月、僕《ぼく》は北のほうの一友人から荒野《ムーア》地方での猟に招かれ、その猟場へおもむく途中、思いがけなくギマトンから十五マイルのところをよぎった。道に沿った酒場の馬丁が、水桶《みずおけ》を抱いて僕の馬どもに水をやっていたが、刈りたての真《ま》っ青《さお》なからす麦を積んだ一台の荷馬車が通りがかると、彼は言った――
「ああ、あれはギマトンから積んできただな! あすこはほかの土地よりも三週間は収穫《とりいれ》が遅れるだからな」
「ギマトン?」おうむがえしに僕は言ったが――あの土地の僕の住まいのことは、もうぼんやりと夢のようにしか、おぼえていない。「ああ! ギマトンなら知ってるよ。ここからどのくらい離れている?」
「山を越して十四マイルでさあ、難儀な道でね」と彼は答えた。
急にスラシュクロス屋敷をたずねる気になった。まだ正午を過ぎたばかりだし、宿屋に泊るくらいなら、自分の屋根の下で一夜を明かしても同じことだと気がついたのだ。そればかりではない、家主との用件をかたづけるために一日つぶすのはなんでもないし、おかげでこの辺までもう一度乗り込んでくる手間がはぶけるわけだ。しばらく休んでから、僕は召使にギマトンの村へ行く道をきかせた。そして馬どもには大変な骨折りだったが、どうにか三時間で十四マイルの道をたどりついた。
召使を村に残して、僕は一人で谷をくだって行った。例の灰色の教会はますます灰色にみえ、さびしい墓場はいっそうさびしかった。一匹の荒野羊《ムーア・シープ》が墓場の短い芝草を食《は》んでいるのが見える。うららかな暑い日だった――旅には少し暑すぎるくらいだった。が、その暑さは、見あげる山々、見おろす谷々の風景の麗《うる》わしさを、楽しむ妨げにはならなかった。もしこの風景を、もっと八月に近いころに見たのだったら、このさびしい土地に一月ばかり暮らしてみたい誘惑に駆られたに違いない。いくつもの丘に囲まれたそれらの渓谷《けいこく》と、あくまで放胆に、荒々しく、うねりひろがるヒースの野と、冬はこれよりうら悲しい世界はなく、夏はこれにまさる撩乱《りょうらん》たる天国はあるまいとさえ思われる。
僕は日暮れ前にスラシュクロス屋敷に着いて、戸をたたいた。召使たちは建物の裏側にひっこんでしまったらしいことが、炊事場の煙突から一筋だけ出ている青いもくもくした煙でわかった。これでは聞こえないはずだと思って、僕は裏庭へ乗り入れた。入口のひさしの下で、九つか十の女の子が編みものをしていて、戸口の階段にもたれた一人の老《ろう》婆《ば》が、静かにパイプをくゆらせている。
「ディーンさんはいるかね?」僕は老婆にたずねた。
「ディーンさんかね? いましねえよ! あのひとはここでなくて、丘の家にいますだよ」
「じゃ、おまえさんがここの家政婦さんかね?」
「へえ、わしがお留守しとりますだが」
「なるほど、ぼくがここのあるじのロックウッドだがね。ぼくのいられるような部屋があるかしら? 今晩とまりたいんだ」
「旦《だん》那《な》さまでござんしたか!」婆《ばあ》さんはおどろいて叫んだ。「さアてまあ、おまえさまがござるとは、ちっとも知りましねえんでなあ! 前にちょっくら知らせてくらっしゃればようござんしたに、ちゃんと風を通した、さっぱりしたお部屋は、はあ、一つもござんせんわい!」
老婆がパイプを投げだして、あたふたとなかへはいる、あとから女の子がついて行った。僕もはいって行ったが、彼女の話のとおりであることがすぐにわかったばかりでなく、僕の出現は婆さんにとってはなはだ好ましからぬ驚きであって、ほとんど度を失わんばかりだということもわかったので、僕はもう少し落着きなさいとたしなめて、ところで少し散歩してくるから、その暇に、食事のできるような居間の片隅《かたすみ》と、寝られるような寝室とを支度しておくように、掃いたりほこりをふきとったりするには及ばん、ただあたたかい煖《だん》炉《ろ》と乾いた敷布《シーツ》さえあれば十分だ、と言いつけた。婆さんは一生懸命、命ぜられたとおりにやるつもりではあるようだったが、煖炉掃除のブラシを火掻《ひか》き棒とまちがえて炉《ろ》格《ごう》子《し》のなかへつっこんだほか、彼女の仕事に必要な数種の道具の使いみちを、ことごとく取りちがえていたようだ。けれどもとにかく帰るまでに休み場所の用意をととのえることを、彼女の活躍にまつことにして、引きさがった。嵐が丘こそ、僕の計画した遠足の目的地である。一つ思い出したことがあって、僕は一度裏庭を出たのをまたあと戻《もど》りした。
「嵐が丘では皆さん変りないのかね?」
「へえ、そう思いますだが」真っ赤な火種を火《ひ》皿《ざら》に載せて大急ぎで運んで行きながら、婆さんは答えた。
僕はディーンさんがなぜこの家をすてて行ったのか、そのわけを訊《き》きたかったのだが、婆さんとしては一刻の猶《ゆう》予《よ》もならぬ繁忙の場合とあればしかたもなく、家を出ることにした。落日の赤光《しゃっこう》を背に受け、月の出しなのはなやかな光を前に望みながら――一つは刻々に色あせてゆき、他の一つはいよいよ明かるくなるなかを――僕は猟場《パーク》を出はずれて、やがてヒースクリフ氏の住居へ向かう岐道《えだみち》の、石ころの多い坂を上って行った。その家がまだ見えぬうちに、日はもう沈んで、西の空には琥《こ》珀色《はくいろ》の夕ばえが残るばかりとなったが、かの皎々《こうこう》たる月明によって、道ばたの小石の一粒一粒、草の葉の一枚一枚までも数えられた。僕は門を乗り越えも叩《たた》きもせずにすんだ――手で押したらすぐにあいたのだ。これは一つの進歩だぞ、と思った。つづいて鼻から吸い込んだ芳香が、もう一つの進歩を僕に認めさせた。ありふれた果樹のあいだから、アラセイトウやニオイアラセイトウのかおりが、風に乗ってただよってきたのだ。
扉《とびら》も窓格《まどごう》子《し》もあけはなたれている。それでいて炭田地方の常として、あかあかとみごとな火が、煖炉を明かるくしている。眼にたのしいその明かるさは、むだな熱さをもいとわせないのだ。だが嵐が丘の家は広いから、住む人々がその熱さを避けるのに不足はない。それゆえ、誰《だれ》かがこの家のうちにいるとすれば、窓からあまり遠くない場所に座を占めているにちがいない。げんに僕は家にはいる前に、その姿を見、その語る声を聞くこともできた。従って僕は見たり聞いたりせざるを得なかったのだが、それがために一種の好奇心とうらやましさとの入りまじった気持に駆られ、かつ庭先でぐずぐずしているあいだに、その感情がしだいに強まってくるのを覚えた。
「ハンツイ《・・》(反対)ですって?」銀鈴を振るような涼しい声が言った――「これで三度目よ、わからずやねえ! もう教えてあげないわ。さあ思い出しなさいよ――できないと髪の毛を引っぱるわよ」
「じゃ、ハンタイ、だ」もう一つの、低くて太いが調子をやわらげた声が答えた。「そうだろ、よく覚えてたごほうびにキスしてくれよ」
「いや、その前にずうっと読んでごらんなさい、一つもまちがいをしないで」
男性の声の主が朗読をはじめた。彼は恥かしからぬ服装をした若い男で、テーブルに向かって腰かけ、一冊の本を前においている。その美《び》貌《ぼう》は喜びにほてり、そのひとみは辛抱して正面の書物のページの上だけに注いでいられなくて、ややもすれば彼の肩にかけられた小さな白い手のほうへうろついてゆく。だがその手の持主は、そんな横《よこ》眼《め》を使っていることを看破するたびごとに、たちまちその白い小さな手で軽快な平手打ちを頬《ほお》に食わせて、彼を我にかえらせる。手の持主はうしろに立っている。おりおり、彼女が勉強を指導するためにかがむと、光沢のある金髪の巻毛が、青年の栗色《くりいろ》の縮れ毛ともつれあうのである。そして彼女の顔は――しあわせにもその顔を彼は見ることができないのだが、もし見えたら、あんなに落着いて勉強できないにきまっているのだ。不幸にして僕には見えた。そのうっとりするほどの美しさを、ただ見つめているだけでなく、もう少しなんとかできたかもしれぬ機会を、むざむざ取り逃がしたくやしさに、僕はくちびるをかんでいた。
朗読は終ったが、滞りなくというわけにはゆかなかった。けれどもこの生徒はごほうびを請求して、少なくとも五つのキスをちょうだいした。だが気まえのいい彼は、五つどころか、もっとたくさんお返しをした。それからかれらは戸口へ出てきて、さてふたりで相談しているところから察すると、これから戸外へ出て荒野《ムーア》を散歩することになりそうだった。思うに、もし散歩の途中、僕がこの不運なる姿をヘアトン・アーンショーの目にふれさせたら、よしんば口に出さずとも、心のうちでは、僕を八寒地獄の奈《な》落《らく》の底へ蹴《け》落《おと》してくれようと思うに違いない。そこで、はなはだ卑劣で、たちが悪いとは思ったが、僕はこっそりと裏へまわって、台所に避難することにした。こちらの入口も同じく開放的で、扉のところにはわが旧友ネリー・ディーンが、縫いものをしながら歌をうたっていたが、家のなかから、はなはだ音楽的でない発音で、はげしく罵《ば》倒《とう》と憤慨の言葉が合いの手に飛んでくるので、彼女の歌声はややもすればとぎれるのだった。
「とにかく、おめえの歌を聞くくれえなら、朝から晩まで罰あたりの悪態《あくてえ》つかれるほうが、よっぽどましだわ!」台所を占領している男が、僕の聞かなかったネリーの言葉への返事として言っていた。「おめえがそうやって魔《サタ》王《ン》をあがめるばかりでねえ、この世のありとあらゆる恐ろしい悪事をほめたてる歌をうたいくさるで、わしらもってえなくて聖書をあけることもできねえでねえか、なんたる恥しらずめが! うわあ! おめえこそ正札つきのろくでなしだわ、あの若《わか》後家《ごけ》もそうだわ、だから若旦那はかわいそうに、おめえら二人に魂をさらわれるのだ。お気の毒なことだわ!」それから一つうなり声を発して、「ヘアトンさまは化かされてるだ、わしゃよう知っとるわい! おお神さま、魔女どもをおさばきくだせえまし。この国の司《つかさ》どもの眼には、法も正義もござりましねえだ!」
「ああないともさ! もしあったら、あたしたちは今ごろ、燃えさかる薪《たきぎ》のなかにすわらされてることでしょうよ! だけどお爺《じい》さん、もう黙って、クリスチャンらしくおまえの聖書でもお読みな、あたしのことを心配しないで。いま歌っているのは『妖精《ようせい》アニーの結婚』だよ――かわいらしい節だわ――ダンスの曲でね」
ディーンさんがまた歌い出そうとしたときに、僕が進み寄った。すぐに僕と知って、彼女は声をあげながら勢いよく立って、「まあ、ようこそ、ロックウッドさま! どうしてまたいきなりお帰りになって? スラシュクロス屋敷は閉め切りにしてしまいましたよ。ちょっとお知らせを下さればいいのに!」
「ぼくのいるあいだの支度だけはさせるようにしてきましたよ」と僕は答えた。「あしたはまた発《た》ちます。ところでディーンさん、どうしてこっちへ引っ越したんです? 聞かせてください」
「ズィラが暇をとりましたので、ヒースクリフさんから来てくれと望まれましてね、あなたがロンドンへお発ちになって間もなくでございました、そしてあなたのお帰りまでいてくれということで。でもまあ、おはいりくださいまし! 今晩ギマトンから歩いていらっしゃいましたの?」
「スラシュクロス屋敷からです、ぼくの泊る支度をしてくれているあいだに、お宅のご主人との用事を済ませたいんです。近いうちにこちらへもう一度くる機会はなさそうだから」
「なんのご用事でございましょう?」僕を案内しながら、ネリーが言った。「いまはおりませんし、容易に帰ってきませんですよ」
「家賃のことですよ」
「ああ! それでしたら、ヒースクリフ奥さまとのあいだでおすましになれますわ。というより、実はあたくしで間に合いますの。奥さまは、まだそういうことをしつけていらっしゃいませんから、あたくしが代理をつとめますの、ほかに誰もいませんので」
僕が驚いた顔をしたので、
「ああ! そうでしたね、あなたはまだヒースクリフが亡《な》くなったことをご存じありませんでしたのね」と彼女は言葉をつづけた。
「ヒースクリフが死んだ!」愕然《がくぜん》として、僕は叫んだ。「いつごろです?」
「もう三《み》月《つき》になります、でもまあお掛けになって、あたしにお帽子を取らせて下さいまし、それからすっかりお話しいたしますから。ちょっと、あなたはまだ何も召し上がっていらっしゃらないんでしょう?」
「いや何もほしくないんです。晩飯はうちの者に言いつけてきたしね。あんたもおかけ。いや、あのひとが死のうとは夢にも思わなかった! どういうふうだったか、話して下さい。しばらく帰ってこないと、今あんたが言ったのは――あの若いひとたちのこと?」
「そうなんですの――ああして始終、遅くまで歩いていますから、ほんとは、毎晩小言を言わなきゃなりませんのよ、でもあたしの言うことなんか聞きませんのでねえ。まあせめて手まえどものビールでも召し上がれ。きっとお元気が出ますわ、お疲れのようですから」
彼女は、僕にことわる隙《すき》を与えず、ビールをとりに行ったが、やがてジョーゼフが「いい年齢《とし》をして男がたずねてくるなんて人ぎきの悪い話でねえか? おまけに旦那の穴蔵から、ビールまで持ち出しくさるだ! わしゃこの年齢になるが、そんなざまア見ると恥かしくなるわい」と言ってるのが聞こえた。
ネリーは爺さんの相手にならずに、すぐに一パイント入りの銀器になみなみと注《つ》いだビールを持って帰ってきた。僕はその中身を、それにふさわしい熱心さで賞美した。そのあとで彼女は、ヒースクリフ伝の末段を語ってくれた。――彼は、彼女の言葉によると「奇妙な」最後をとげたのである。
あなたさまが、お立ちになりまして二週間たたないうちに、私は嵐が丘から呼ばれました。(と彼女は語った)キャサリンのために、私は喜んで承知いたしました。はじめて嬢さまに会いましたときは、私は悲しんだばかりでなく、ぞっとするほど驚きました。お別れする前とは、それほどひどい変りようでございました。ヒースクリフさんは、前とは考えを変えて、私を呼び入れた理由は説明しませんで、ただおまえに来てもらいたくなった、おれはキャサリンの顔を見るのがいやなのだ、おまえは客間《パーラー》を自分の居間にして、そこにキャサリンをおいてやれ、おれは一日に一度か二度、よんどころなく顔を合わせれば、もうそれでたくさんだ、とだけ申しました。キャサリンはこの取りきめを喜んだようでした。そして少しずつ私は、たくさんの本や、そのほかお屋敷時代の嬢さまのお好きだった品々を、こっそり取り寄せまして、どうやらこれで私たちは気楽に過ごして行けるわねえと、ひとりでほくほくしておりました。が、そんな夢は長くつづきませんでした。はじめはなんの不平も言わなかったキャサリンが、じきにいらいらとして落着きがなくなりました。一つには、嬢さまは庭から外へ出ることを禁じられておりまして、春の露が野原に置くころになりますと、狭苦しい垣《かき》のなかに閉じ込められているのを苦にしてじれておりました。もう一つ、家事をするために私は部屋にいられないことが多うございましたので、そのあいだひとりぼっちでさびしいと言ってこぼすのです。ひとりで平和でいるよりも、台所でジョーゼフとけんかしているほうが好きなのです。私はこのふたりの小ぜりあいはちっとも気にとめませんでしたけれども、ヘアトンも台所へ来《こ》なければならないことがよくありますの、それはヒースクリフさんが居間で自分一人になりたいときがあるからですの。キャサリンは初めはヘアトンが寄ってくると、台所を出て行くか、おとなしく私の用事を手伝って、ヘアトンの悪口を言ったり話しかけたりしないようにしていましたが――またヘアトンのほうは、できるだけ渋い顔で黙ってばかりいましたが――しばらくすると嬢さまの態度が変りまして、ほっておけなくなってきました。ヘアトンに話はしかける、愚かなことや怠けることをいちいち批評はする、どうしてヘアトンみたいな生活をして辛抱してるんでしょうか、どうして一晩じゅう煖炉をにらんで居眠りばかりしてるんでしょうかと不思議がる――というふうになりました。
「あのひと、まるで犬と同じことじゃなくて、ねえエレン?」一度はこんなふうに言いました。「それとも荷車ひきの馬かしら? いつまでたっても、働いて、食べて、寝るだけじゃないの? どこまでからっぽな、つまらない頭もってるんでしょう? ヘアトン、あんた夢みたことある? もしあるならなんの夢? でもあたしには言えないのね?」
それからヘアトンの顔をじろりと見るのですが、相手は口も開きませんし見向きもいたしません。
「このひと、きっと今、夢をみてるんだわね。ジューノオが肩をピクピク動かすみたいに、このひとも動かしてるわ。訊いてみてよ、エレン」
「ヘアトンさんは、あんたが慎まないと、旦那さまにあんたを二階へ追い上げて下さいと頼みますよ!」私は申しました。ヘアトンは肩をピクピクさせるだけでなく、握りこぶしをかためて、それを振りまわしたくなったような顔をしていましたのです。
「あたしが台所にいると、ヘアトンが口をきかないわけは、わかってるわ」また他のときはこうも言いました。「あたしに笑われるのが怖いからなの。エレン、おまえどう思って? 前にこのひと、一度自分で読み方を勉強しかけたことがあるのよ、あたしが笑ったら、本を焼いちゃって、勉強もやめちゃったの。馬鹿《ばか》なことしたと思わない?」
「あなたはいけないことしたと思いませんか? 先に返事してごらんなさい」
「たぶんいけなかったと思うわ。でもあたしはヘアトンがそんな馬鹿なことをすると思わなかったの。ヘアトン、もしあたしが本を一冊あげたら、あんた受け取ってくれる? あたしためしてみよう!」
そう言って、読みさしていた本をヘアトンの手の上に載せますと、一方はそれを払いのけて、もしへらず口をやめなければ、おまえの首をたたき折ってやると、つぶやきました。
「いいわ、あたし、この本をこのテーブルの引き出しに入れとくわ。そしてもう寝るの」
それから私に、ヘアトンが本に手を触れるかどうか、見ていてくれと耳打ちして、出て行きました。けれどもヘアトンは本に近づきませんでしたので、翌朝そう話しましたら、嬢さまは大変にがっかりしておりましたの。私は、嬢さまがヘアトンの不機《ふき》嫌《げん》なことや勉強をやめたままでいることについて悪いと思っているのが、よくわかっておりました。ヘアトンを苦しめて向上心を失わせたことに、良心の呵責《かしゃく》を感じているのです。また実際、あまり効果てきめんでしたから。けれども嬢さまは利口ですから、この失敗を取り返そうとくふうを凝らしていました。私がアイロンをかけるとか、そのほか客間《パーラー》へ持ってゆけないような用事をしているときに、何かおもしろい本を持ってきて、大きな声で私に読んで聞かせます。ヘアトンがいあわせますとキャサリンはたいがいちょうどおもしろいところでやめて、そこへ本を投げ出して行ってしまいます。それを何度も繰り返すのです。ヘアトンはまた、まるでろばのように一徹でして、その餌《えさ》にとびつかずに、雨の日などジョーゼフといっしょに煙草《たばこ》をふかしています。ふたりはまるで自動人形のように、煖炉の右と左に、じっと腰かけているのです。ジョーゼフのほうは嬢さまの読む本を「おっそろしいたわごと」だと言っていますが、幸いなことに耳が遠くなって聞こえませんし、ヘアトンのほうは一生懸命で聞いていないふりをしているのです。お天気のよい日はヘアトンは猟に出かけてしまいますから、キャサリンは欠伸《あくび》をしたりため息をついたり、私に何か話をしようといってせがむかと思うと、私が話をはじめたとたんにお庭か裏庭へ走り出てしまったりしています。そうしてあげくの果ては泣き出して、もう生きているのがいやになったとか、あたしの一生は無意味だとか言うのです。
ヒースクリフさんは、日一日と他人とつきあうのが嫌《きら》いになりまして、ほとんど始終アーンショーを居間から追い出していました。三月の初め、ヘアトンはけがをしまして、幾日か台所にばかり釘《くぎ》づけになっていたことがあります。山のなかで鉄砲が暴発して、弾丸《たま》のかけらが腕に当ったので、帰り着くまでにたくさんの出血がありました。それがために、失った血を取り返すまで、火のそばで静かにしていなければなりませんでした。キャサリンはヘアトンがいるほうがいいらしく――とにかくいままでよりも二階の部屋を嫌ったことは確かでして、自分がついてきたいものですから、私に階下《した》で用事をさがさせるようにばかり仕向けるのでございました。
復活祭の翌日の月曜日には、ジョーゼフがギマトン市場へ牛を引いて出かけました。お昼すぎ、私は台所でせっせと洗たく物を片づけておりました。アーンショーの若旦《わかだん》那《な》は例によってブスッとして煖《だん》炉《ろ》の端に腰をおろし、若奥さまはしばらく退屈まぎらしに窓ガラスに絵を描《か》いていました。絵だけではまぎれませんので、ときどきいきなりたまっていたものを噴き出すように歌をうたいだしてはすぐやめたり、口のなかで何か叫んだり、じっと炉《ろ》格《ごう》子《し》をみつめて煙草ばかりふかしている従《いと》兄《こ》の方角を、腹立たしそうに、またじれったそうにチラッチラッと見返ったり、いろいろの合いの手を使っておりました。私が、そこに立っていられては暗くて用事が足せなくなったと注意しましたので、炉石のほうへやって来ました。それから何をしているか、あまり気をつけておりませんでしたが、そのうちにこんなことを言いだすのが聞こえました――
「ヘアトン、あたしね、このごろやっとわかったんだけど、あのね、あたしはね――実はね――もしあんたが、あたしにおこらなくなって、それから乱暴しなくなったら、あんたを従兄に持ってることを喜ぶようになりたいと思うの」
ヘアトンはなんの返事もしません。
「ヘアトン、ねえヘアトン、ヘアトンてば! 聞こえないの?」と嬢さまは言いつづけます。
「あっちへ行ってくれ!」うなり声で、少しも相手を受けつけない荒っぽさでした。
「そのパイプを貸して」キャサリンは言って、そうっと手を出して、彼の口からパイプを抜き取りました。
取り返そうとする間も与えず、ポキッと折られて、火のなかへ投げこまれていました。ヘアトンはののしりの言葉を従妹《いとこ》に浴びせて、別の一本を手に取りました。
「待って」とキャサリンは叫んで、「その前にあたしの言うことを聞いてちょうだい。だってその雲が顔にかかってくるうちは話ができないんですもの」
「頼むから悪魔のところへ行ってくれ!」獰《どう》猛《もう》な声でどなりました。「おれをかまわんでくれ!」
「かまうわよ」どこまでも嬢さまはしつこく、「かまわずにいられないわよ。どうしたらあんたがあたしに話をするようになるか、わからなくて困ってるのよ。それをあんたはどうしてもわかってくれようとしないんだわ。あたしがあんたを馬鹿だと言ったって、別に悪い気持で言ってやしないのよ。あんたを軽蔑《けいべつ》してるという意味ではないわ。ねえ、ヘアトン、あたしを無視しないでよ! あたしの従兄じゃないの、あたしを自分のものだと思ってくれていいのよ」
「おまえなんぞに用はねえ、おまえみてえな卑《いや》しい、高慢なやつに用はねえ、ひとをからかってばかりいやがって畜生! おれがもし二度と横眼を使っておめえのほうを見たら、体も魂も地獄へ落ちたってかまわねえんだ。さあたった今この屋敷内から出て失《う》せやがれ!」
キャサリンは顔をしかめて、くちびるをかみしめながら窓ぎわの椅子《いす》へと退却しました――だんだん泣きたくなってくるのを隠そうと、変な節の鼻歌を歌いながら。
「従兄妹《いとこ》どうしなんだから、あんたがた仲よくしなくちゃいけませんわ、ヘアトンさん」私が口を入れました。「あのとおりキャサリンが生意気言ったことを後悔してるんですもの。そのほうがあなたにとっても、どのくらいいいことかわかりません。嬢さまといっしょに遊ぶようになれば、あなたは別人になれますよ」
「いっしょに遊ぶだと! ふん、おれを嫌って、おれに自分の靴《くつ》も磨《みが》かせたくないと思ってるやつとか! いやだい! たとい王さまにしてくれると言ったって、そんなやつのご機嫌をとって馬鹿にされたくはねえや」
「あたしがあんたを嫌ってるんじゃなくて、あんたがあたしを嫌ってるんじゃありませんか!」もう苦しさをごまかしきれなくなって、キャシーは泣いていました。「ヒースクリフさんがあたしを嫌うように、いいえ、それよりもっと嫌ってるんだわ」
「おまえはひでえ嘘《うそ》つきだぞ、畜生!」アーンショーは攻撃を始めました。「そんなら、なぜおれが、百ぺんもおまえの肩をもって、ヒースクリフさんにおこられたんだ? しかもおまえがおれをあざ笑ったり軽蔑したりしてる時分のことだぞ。それから――勝手におれをからかってろ、おれは向こうの部屋へ行って、キャシーがうるさいから、台所にいられなくなったって言ってやるから」
「あんたがあたしの肩をもってくれたことは知らなかったわ」眼《め》をふきながら嬢さまは答えました。「あたしはみじめな気持だったから、誰《だれ》にでも意地がわるかったのね。でもいまは、あなたにお礼を言うわ、そしてごめんなさいってあやまるわ。それからあとはどうすればいいの?」
言いながら煖炉へ戻《もど》って、すなおに手を差しのべました。ヘアトンは夕立ち雲みたいにまっ暗なふくれ顔になって、じっと床の一点をにらみつけています。キャサリンは本能的に、こうした頑《がん》固《こ》な態度をとっているのは片意地でひねくれているだけで、本心から嫌ってるからではないことを見抜いたにちがいありません。一瞬、心をきめかねていたようですが、すぐに身をかがめてヘアトンの頬《ほお》にやさしくくちびるを押し当てたのですから。このいたずら娘は、私が見ていなかったと思ったのでしょう、もとの姿勢にかえると、ひどく殊勝な顔になって、もとの窓ぎわの椅子に腰をおろしました。私が叱《しか》るかわりに首を振ってみせますと、やっと顔を赤くして、ささやきました――
「いいじゃないのよ! どうすればよかったっていうの、エレン? 握手もしてくれなきゃ振り向いてもくれないんでしょ、なんとかして好きだっていうあたしの気持を――仲よしになりたいって気持を、見せなきゃならないんですもの」
この接吻《せっぷん》でヘアトンが納得させられたかどうか、それはわかりませんけれども、何分間かのあいだ、一生懸命に顔を見られまいとして骨を折っていた末に、ようやく顔を上げましたときには、眼の向け場に困って、まことにせつなそうでございました。
キャサリンのほうは一心に白い紙で一冊のきれいな本を包んでおりましたが、それをリボンで結びまして、「ヘアトン・アーンショーさまへ」と宛《あて》名《な》を書き、私に使節になってその贈物を受取り主のところまで届けてくれと頼むのでした。
「そしてこう言ってちょうだい、もしこの本を受け取って下されば、あたしが行って正しい読み方を教えてあげます、って。それからもし受け取ってくれなければ、あたしは二階へ上がって、これっきりしつこいことは言いません、って」
私はそれを持って行って、伝言を申しました。王女さまは心配そうにこっちを見ております。ヘアトンは握りしめた指を開こうとしませんので、私は贈物をひざの上に載せました。ひざからたたき落しもいたしませんでした。私はまた戻って仕事しておりました。キャサリンは頭と腕をテーブルにもたせて、じっとしておりましたが、とうとう包み紙を開くかすかな音が聞こえました。すうっとテーブルを離れて、静かに従兄の隣に腰かけました。ヘアトンはふるえています。顔が燃えております。粗野なところや、気むずかしいとげとげしさは、もう跡形もなく消えてしまいました。けれど最初は、キャサリンのもの問いたげな眼にも、口のなかで言っている哀願の言葉にも、声に出して答える勇気が、なかなかふるい起こせません。
「赦《ゆる》すって言ってね、ヘアトン、言ってくれる? たったそれだけ言ってくれれば、あたしとても幸福になるんだけど」
ヘアトンは何か聞きとれない文句をつぶやきました。
「そしてあたしのお友だちになってくれる?」
「いやだ、きみは一生、毎日、おれと友だちになって恥かしいと思うぜ。おれをよく知れば知るほど、よけい恥かしくなるだろう。それじゃおれがたまらないや」
「だから友だちになりたくないって言うの?」蜜《みつ》のように甘い微笑をうかべて、近々と身をすりよせながら、嬢さまは言いました。
それから先の話はもうよく聞きとれませんでしたが、次に振り返って見ましたとき、例の首尾よく受納された本を開いて、その上にうつむいている二つの顔の、あまりにも晴れやかに、輝くばかりなのを見まして、条約はもうとっくに双方の批准《ひじゅん》を終り、昨日の敵国は今日から先、切っても切れぬ同盟国となったことを、私は確信いたしました。
二人の勉強している本には、ぜいたくな挿《さし》絵《え》がたくさんはいっておりました。その挿絵の魅力と、たがいに寄り添ったすわり心地の魅力と、その両方のために、ふたりはジョーゼフが帰るまで動きませんでした。ジョーゼフは気の毒な男で、キャサリンがヘアトン・アーンショーと同じ長椅子に、しかもその手を若者の肩にのせてもたれかかっている光景に、完全にあっけにとられておりました。また爺《じい》さんのごひいきのヘアトン若旦那までが、キャサリンに寄りつかれて平気でいるので、すっかりあわててしまいました。あまり深く感動したと見えまして、その晩はそのことについて一言《ひとこと》の批評も口に出しませんで、やがて大きな聖書をしかつめらしくテーブルの上にひろげ、その上に紙入れから取り出した汚ないお紙幣《さつ》を――その日の取り引きの売り上げでしょう――並べまして、さて爺さんの漏らした大きなため息だけが、当夜の心持を物語る唯一《ゆいいつ》のものでございました。それから、ヘアトンを呼び寄せまして、
「若旦那さま、この紙幣《さつ》を旦那のところへ持ってってくらっせい。そうして向こうにいなさるがいいだ。わしは自分の部屋へ引き取りますだ。ここはどうも風儀が悪くて、わしらには向かねえでがす。逃げ出してほかを捜さにゃなりますめえよ」
「いらっしゃい、キャサリン」と私は申しました。「あたしたちも逃げ出しましょうよ。もうアイロンかけも済みましたし、あなたもようござんすか?」
「まだ八時にならないわ!」不承不承に立ち上がりながら、「ヘアトン、あたしこの本を炉《ろ》棚《だな》の上におきます。あすまたほかのを持ってくるわね」
「おめえさまのおいとく本があったら、みんなわしが居間のほうへ持って行きますだぞ」とジョーゼフが言いました。「それで、はあ、その本が二度とみつかったら不思議だわ。そういうわけだから、おめえさまの好きにしなさるがええだ」
キャシーは、あたしの本が無くなったら、おまえの持ってる本で償わせるからと言って爺さんをおどしておいて、ヘアトンのそばを通りながらにっこり笑って、歌をうたいながら階段を上がって行きました。おそらくリントンのところへはじめて通い出したころを別にすれば、あちらのお屋敷に嬢さまがいらしったころ、あれほどうきうきとうれしそうになすっていたことはなかったと、私は申してもいいと思います。
こうして親しくなったふたりは、ぐんぐんと親しみを深めてゆきました。もっとも、ときどきちょっとした仲たがいはございました。アーンショーさんはそう急にはあの野性がなくなって文明人になるはずはありませんし、キャサリン嬢さまも冷静なほうではなく、辛抱のお手本とはとてもゆきません。けれどもふたりの心はどちらも同じ目標を目ざしておりまして――ひとりは愛するゆえに価値を認めたいと心から望んでおりますし、ひとりは愛するがゆえに価値を認められたいと望んでいたので――結局その同じ目標へ到達しようと、ふたりは心を合わせてくふうを凝らしていたわけでした。
いかがでございますか、ロックウッドさま、ヒースクリフ夫人の心を得るのは存外やさしいことだったのが、おわかりになりましたでしょう? けれども今は、あなたがご出馬にならなかったことを、私、よろこんでおりますのよ。私の何よりも願っておりますことは、あのふたりの結婚でございましょう。その日が参りましたら、おそらくイングランドじゅうで私以上に幸福な女はございますまい、もうけっして他人をうらやむ心はなくなるだろうと思いますわ!
33
あの月曜の翌朝も、アーンショーさんはまだ常の仕事をする体ではありませんので、家のまわりにぶらぶらしていました。それで、私はすぐに、もうこれまでのように嬢さまを手もとに引きつけておくことは、実際上できないと覚《さと》りましたの。嬢さまは私より先に階《し》下《た》へおりまして、お庭へ出るとさっそくヘアトンが何か軽い仕事をしているのを見つけました。私が朝飯に来るようにふたりに言いに行きますと、嬢さまはヘアトンに勧めて、す《・》ぐり《・・》やグズベリのやぶを取り払って広い空地を作らせ、そこにあちらのお屋敷から草花を移植する計画を、ふたりで熱心に相談しているところでした。
私はわずか三十分ほどのあいだにそれだけの地所を根こそぎ取り払ってしまったことにびっくりしてしまいました。黒すぐり《・・・》の木はジョーゼフが大切にしていたもので、キャサリンはちょうどそのやぶのまんなかに花壇を作る場所を選定してしまったのです。
「さあ大変よ、ジョーゼフがみつけたら、旦《だん》那《な》さんにすっかり見せてしまいますよ。そのときお庭にこんな勝手なことをした申し開きを、なんと言ってつけるおつもり? 大きな雷が頭のてっぺんから落ちますよ、見ててごらんなさい! ヘアトンさん、あんたもまた、嬢さまに言われたからって、こんなむちゃなことをしなくっても、もう少し分別がありそうなもんですねえ!」
「あれがジョーゼフのだってことは忘れていたよ」困った顔してアーンショーは答えました。「おれがやったって言うからいいよ」
私どもいつも食事はヒースクリフさんといっしょにいたしました。お茶を入れたり肉を切ったりする主婦の役は、私がしておりました。ですから私は食卓に出ないわけに参りません。キャサリンは、ふだんは私の横にすわりますのに、今日はこっそりヘアトンに近いほうに座を占めてしまいました。それでだんだん私も、嬢さまが敵意を見せるのにも遠慮しなかったかわり、仲のよいところも遠慮なしにひとに見せつける気でいることがわかりました。
「あのね、ヘアトンとあまりたくさんおしゃべりしたり、ヘアトンのほうばかり見ていたりしないように気をつけて下さいね」居間へはいるとき、こう私はこっそり教えました。「そんなことをすればきっとヒースクリフさんの機《き》嫌《げん》が悪くなって、あなたがたふたりとも気違いみたいにどなられますよ」
「あたし、そういうことしないわ」
そう私に答えてから一分もしないうちに、キャサリンはヘアトンのほうへにじり寄って、おかゆの皿《さら》のなかに桜草の花をつっこんだりしていました。
ヘアトンのほうは食卓で嬢さまに話しかけるほど大胆ではありません。ほとんど顔も見られないのです。それを嬢さまは相変らず、こそこそいたずらをしかけるので、しまいにはヘアトンはもう少しで笑わせられてしまいそうになったことが二度ございました。私が顔をしかめて見せますと、キャサリンは今度はヒースクリフさんのほうを見ました。ご主人は席上のひとたちよりも他のことに心を奪われていることが、その顔つきに見えていますので、ちょいとの間キャサリンもまじめになって、じいっとその顔を重々しく見据《みす》えました。それからまたこっちを向くと、もう一度ふざけはじめまして、とうとうヘアトンは押えきれずに、含み笑いを漏らしてしまいました。ヒースクリフ氏はハッとして、すばやく一座の者の顔を見まわしました。その眼がキャサリンの神経質でしかもいどみかかるような視線とぶつかりました。平常からヒースクリフの嫌《きら》っている眼つきなのです。
「おまえのところまでおれの手が届かなくて幸いというものだ。いったいどんな悪魔が乗りうつれば、そんな憎々しい眼で、いつまでもおれをにらみかえせるんだ、おまえは? 眼をふせろ! そして二度とおまえのいることをおれに思い出させるな、おまえの笑う癖は、おれが、なおしてやったつもりだが」
「いま笑ったのはわしです」ヘアトンが低い声で言いました。
「なんだって?」主人は訊《き》き直しました。
ヘアトンは皿のほうを見ていて自白の言葉は繰り返しませんでした。ヒースクリフ氏はちょっとその様子を眺《なが》めていましたが、やがて何も言わずに食事とさっき中断された黙想とをつづけました。食事はもうおしまいに近づき、若いふたりも用心して少し離れましたから、そこで私もまず今のところはこれ以上ごたごたさせずに済むことと思いました。ところへジョーゼフが戸口にあらわれました。ふるえるくちびると怒りに燃えた眼とで、大切にしているすぐり《・・・》のやぶがむごたらしい目にあわされたのを知っているのが一目でわかります。キャシーとヘアトンが、さきほどその場所にいたことを、現場へ行ってみる前からジョーゼフは知っていたにちがいありません。それはまるで牛が反芻《はんすう》するときのように、あごをがくがくさせるために、何を言ってるのやらわかりにくいのですけれど、とにかくこんなふうにどなり出したことで知れるのです――
「わしは給金もらって出て行くでがす! いままでわしは六十年があいだ奉公した家で、死ぬつもりでいましただ、わしが書物と少しばかりの荷物とを屋根裏へ運んで、台所をあの手《て》合《ええ》に明け渡すつもりでいましただが、それも家のなかに波風たてねえためでがす。おのが炉石と別れるのは、なんぼうつれえことでがすが、なあに、できねえことはねえと、思っていましただ! ところが、今度は、あの女《おな》子《ご》は、わしの庭まで取り上げるちゅうだ、なんぼなんでも、旦那さま、わしゃ堪忍《かんにん》がならねえでがす! 旦那は辛抱しなさるがええだ、また辛抱しなさるだろうが――わしゃその辛抱しつけねえだから、年寄りちゅうものはなかなか新規の苦労に慣れるものでねえ。年取ってこんな苦労するくれえなら、はあ、土方にでもなっておまんまをいただいたほうがましでがす!」
「やめろ、おい、もうろくおやじ!」ヒースクリフはさえぎりました。「いいかげんにしろ! 何が気に入らないんだ! きさまとネリーのけんかにはおれは立ち入らんぞ、ネリーがきさまを石炭置場へほうりこんだっておれの知ったことじゃない」
「ネリーの話じゃござりましねえ! ネリーがいやだから出てゆくわしでがすか? ――意地のわるい、やくざな女にゃちげえねえが、ありがてえこった! ネリーにはひとの魂を盗むことはできねえ! あの女は器量もあんまりよくねえから、ひとがまぶしがってまともに顔が見られねえなんてことはありましねえだ。いけずうずうしい色目を使って口《く》説《どき》まいて、うちの若旦那をたぶらかしたのは、そこにいるおっかねえ外《げ》道《どう》の王女さまでがすぞ――そのあげくに――いいやもう! わしゃ肝が煎《い》れてなんねえわ! 若旦那は、この年《とし》月《つき》、わしが尽した忠義も丹誠もみんな忘れて、庭いちばんのすぐり《・・・》の木を、ごっそり引っこ抜いてしまわっしゃるとは!」ここで爺《じい》さんは手ばなしで泣き出しました。あまりに残酷な迫害を蒙《こうむ》ったくやしさやら、アーンショーの忘恩と、恋に眼がくらんでいる危ない身の上への嘆きやらで、意地も張りも抜けた風《ふ》情《ぜい》でした。
「このもうろく爺《じじ》い、酔っぱらってるのか?」ヒースクリフ氏は訊きました。「ヘアトン、こいつの言ってるのはおまえのことか?」
「すぐり《・・・》のやぶから二株三株ひっこ抜いたんです。だがまた植えなおしてやりますよ」
「なぜまたそんなものを引っこ抜いたんだ?」
利口なキャサリンがそこで口を出しました。
「あたしたちはあすこへ草花を少し植えたいと思いましたの。悪いのはあたしだけですわ、あたしがヘアトンにやってくれって頼んだんですもの」
「それでまた、どこのどいつが、その辺の棒切れ一本でも、おまえに勝手にさわっていいと言った?」義父はもってのほかという顔で詰問《きつもん》しました。そして今度はヘアトンのほうを向いて、「また誰《だれ》がキャサリンの言うままにしろとおまえに命令したか?」
ヘアトンのほうは無言でしたが、キャサリンのほうは答えました――
「お義父《とう》さんはあたしの土地をみんな取っちゃったんですもの、あたしが少しぐらいお庭をきれいに飾ろうとしたって、文句を言うことはないじゃありませんか!」
「きさまの土地だと? このずうずうしいおひきずりめ! きさまの土地なんぞ初めからありはせん」ヒースクリフが言いました。
「それからあたしのお金もよ」嬢さまは屈せず、義父のおこってにらむ眼をにらみ返しながら、朝飯に残したパンの皮をかんでいます。
「黙れ! 早く食って出てゆけ!」
「おまけにヘアトンの土地もお金もだわ」不敵な娘はまだ追いかけて、「ヘアトンとあたしとは、もう味方同士になったから、あなたのことはみんなあたしが話してやりますわ!」
主人はちょっと面くらったようでした。真《ま》っ青《さお》な顔になり、立ち上がって、じっと、極度の憎しみを面《おもて》にあらわしてキャサリンの顔をみつめました。
「もしあたしをぶったら、ヘアトンがあなたをぶちますよ。だからあなたもおすわりになったほうがよくてよ」
「もしヘアトンがきさまをこの部屋から追い出さなければ、おれがヘアトンをなぐり殺す!」雷のように、ヒースクリフはののしりました。「憎い男ったらしめ! ヘアトンをおれに逆らわせようとする気か? あっちへ連れてゆけ! わからんか? その女を台所へほうり出せ! 二度とそいつをおれの眼にふれさせたら、エレン・ディーン、おれはそいつを生かしてはおかんぞ!」
ヘアトンは小声でキャサリンに出て行くように言いきかせています。
「そいつを引きずって行け」ヒースクリフは残忍に叫びます。「まだそこで話なんかしているつもりか?」そして待ちきれずに、自分で命令を実行しようとして、近寄りました。
「もうこれから、このひとはあんたの言うことなんかきくもんですか、悪人!」キャサリンは言いました。「このひともあたしと同じようにあんたを嫌うようになるのは、もうじきだわ」
「黙って! 黙って!」青年は恨めしそうに小声で言いました。「ヒースクリフさんに向かって、そんなものの言い方をしないでくれ、聞きたくないよ。やめてくれよ」
「でもまさかあのひとにあたしをぶたせたくはないでしょう?」キャサリンは叫びました。
「さあ、おいで」ヘアトンは熱心にささやきました。
でも、もう遅すぎました。ヒースクリフは嬢さまを捕えてしまったのです。
「いいから、おまえはどけ!」とアーンショーに言って、「呪《のろ》われた妖《よう》婦《ふ》めが! いいか、とうとう今度こそ、この女はおれの我慢のならぬところまで、おれをおこらせてしまったのだ。だから死ぬまで後悔するように、思い知らしてくれるのだ!」
ヒースクリフの手は、キャサリンの髪をつかんでいました。ヘアトンは、どうか一度だけ、ひどい目にあわせないでやって下さいと哀願しながら、その手を離させようとしました。ヒースクリフの黒い眼がキラッと光りました。いまにもキャサリンを八つ裂きにするかと思われ、私もすっかりのぼせあがって恐ろしさを忘れ、思いきって嬢さまを助けるために手出しをしようとした、そのときでした、急にヒースクリフの手がゆるんだのです。ぎゅっと頭をつかんでいた手を離して、今度は腕をつかみ、じっと嬢さまの顔をみつめました。それから、嬢さまの眼の上へその手を持って行き、しばらく落着きを取り戻《もど》そうとするように、そこに立ちつくしていましたが、やがて新たにキャサリンに向かい、とってつけた穏やかな調子で、言いました。「おまえはおれを逆上させんように心がけなければいかん、さもないと、いつかおれはほんとうにおまえを殺すかもしれんぞ! ディーンおばさんといっしょに向こうへ行って、そばについていてもらえ。生意気はエレンだけに言うようにしろ、それからヘアトンだが、もしおまえの言うことを聞いてるところをみつけたら、たたき出して、どこで飯を食おうと勝手しだいにさせてやる! おまえの愛情がヘアトンを宿なしの乞《こ》食《じき》にするのだぞ。ネリー、連れてゆけ、そしてみんな、おれの邪魔をせんでくれ! 行ってくれ」
私は嬢さまを連れて出ました。嬢さまは、助かったのがうれしくて、もう逆らいませんでした。ヘアトンもついてきました。それでヒースクリフ氏は午餐《ディナー》まで居間に一人でいました。私はキャサリンに二階で食事するようにさせたのですが、ヒースクリフはその席があいているのを見ると、すぐ私を呼びに行かせました。そして私にはほとんど口をきかず、食べるものもわずかで、すませるとすぐに、夕方までには戻るからと言いおいて出てゆきました。
仲よしになったふたりはその留守中の居間に落着きました。私が偶然ふたりの話を耳にしましたとき、ヘアトンは、自分の父に対するヒースクリフの仕打ちを、キャサリンがあけすけに話して聞かせようと言うのを、きっぱりした態度ではねつけておりました。ヘアトンはこう言うのです――ぼくはヒースクリフを悪く言うような話は一言でも聞かされるのはいやだ。たといあのひとが悪魔であってもかまわぬ、ぼくはあのひとの味方をする。そしてきみがヒースクリフさんに向かって行くくらいなら、前のようにぼくをやっつけてくれたほうがいい――キャサリンはこれにはだいぶ不平のようでしたが、ヘアトンは、もしぼくがきみのお父さんのことを悪く言ったら、きみはどんな気持がする? という論法で嬢さまを黙らせてしまいました。そう言われてはじめて嬢さまは、アーンショーさんが、ヒースクリフの体面を自分のこととして大切にしていること、理屈では切り離せない強い絆《きずな》で――長いあいだの日常の生活で鍛えあげられた鉄の鎖で、ヒースクリフに結びつけられているので、その鎖を解こうとすることはかえってヘアトンをひどく苦しめるものだ、ということを理解いたしました。それ以来、キャサリンは思いやり深く、ヒースクリフについて苦情を言ったり反感を示したりするのを遠慮するようになったばかりでなく、私に、ヒースクリフとヘアトンの仲を悪くさせようと躍《やっ》起《き》になったりして、ほんとに悪かったと思って後悔していると告白しておりました。また事実、それからは、あれほど自分を苦しめているヒースクリフの悪口をヘアトンの耳には一言半句も入れたことはないと、私は信じておりますの。
この軽い争論がことなく片づきますと、ふたりはまた仲よく先生と生徒になって、いろいろの勉強をせっせとやりはじめました。私も用事をすませると仲間入りをいたしまして、ふたりのすることを見ておりますと、本当に心が慰まりいい気持になりまして、時の移るのを忘れておりました。ご承知のとおり、このふたりは私からすれば自分の子どものようなものでございます。そのなかのひとりは、ずっと長いあいだ私の自慢のたねでしたけれども、これからは、もうひとりのほうもそうなってくれるに違いない、そういう気がいたしましたんです。ヘアトンの生得の正直な、あたたかい、聡明《そうめい》な性質は、いままでつちかわれてきた無知と低劣の雲をぐんぐんと払いのけてゆきました。またキャサリンが真心こめてほめそやしますのが拍車になって、ますます勉強をはげむのでした。知恵の光が心を明かるくするだけでなく顔つきまで明かるくして、その上にいったいに精気と品位とがそなわって参りました。それを見ますと、いつぞや嬢さまがペニストンのがけへ行った帰り、嵐が丘の家に立ち寄ったところへ私がさがしにきました、あの日に見たのと同じ顔だとはとても思えません。私がこうして感心しているそばでふたりが勉強をつづけておりますうちに、いつか夕闇《ゆうやみ》が濃くなってきたと思うと、ヒースクリフも帰ってきました。それも玄関から、私どもが思いもかけないうちにはいってきまして、三人が顔をあげて姿を見る前にその場の有様をすっかり見られてしまいました。いいわ、とそのときの私は腹のなかで思いました――こんなに楽しい、こんなに罪のない光景というものがあるでしょうか、いまふたりの若い者を叱《しか》りとばすのは、よくよく恥知らずだわ。赤い煖《だん》炉《ろ》の光がその二つのかわいらしい頭を照らして、まるで子どもらしく一心不乱に熱中している二つの顔を夕闇のなかに浮き出させております。ほんとに、ヘアトンは二十三、キャサリンは十八になってはいますが、ふたりとも次から次と新奇な出来事や境遇にぶつかることがあまりに多かったために、おとならしく冷静な、物事に動かされない気持というものを、これまで経験したことも外に見せたこともなかったのでございます。
ふたりは同時に顔を上げて、ヒースクリフ氏と眼と眼を合わせました――たぶんあなたはお気づきになったことはございますまいが、あのふたりの眼は、まるでそっくりなほど似ておりまして、つまりキャサリン・アーンショーの眼をしておりますの。いまのキャサリンは、額の広さ、それからちょっと高慢な感じに見える――当人はそんなつもりですかどうですか――とにかく鼻の穴のまるみのかげ《・・》ん《・》でそう見えるのですが、そういうところを別にしますと、眼のほかにはなくなったお母さまと似たところはございません。ヘアトンとなりますと、もっとよく似ております。平常から妙な気がするほど似てはいましたが特にそのときに限って、実にハッと思うほど似ておりました。やはりそれは感覚がいきいきとして、精神の働きも格段に活溌《かっぱつ》だったからでございましょう。たぶんこの愛人とそっくりだったことが、ヒースクリフを無力にしたものと思われます――眼にみえて憤激した面《おも》持《もち》で煖炉へ歩み寄ったのですが、若者の顔を見ると同時に、その憤激の色が退《ひ》いてしまいました――いいえ、興奮の性質が変ったと申すべきでしょう、やはり興奮はしていたのですから。ヘアトンの手にしていた本を取り上げて、開いたところをちょっと見ましたが、よく調べはせずにそれを返し、ただ手まねでキャサリンに出て行けと合図しただけでした。ヘアトンもすぐ嬢さまのあとから出てゆきましたし、私も立とうとしておりましたが、ヒースクリフはもっといろと私に言うのです。
「哀れな結末だよ、まったく、そう思わんかね?」いましがた目撃した光景のことを、しばらく考えふけってから、こんなふうに語りはじめました。「おれの暴虐《ぼうぎゃく》な行動がこんなにいきなりおしまいになっちまったということがさ! おれは二軒の家をぶちこわすために、梃《てこ》だのつるはしだのを手に入れて、ハーキュリーズほどの仕事ができるように自分を訓練して、さていよいよ何もかも準備ができ、おれのしたい放題にできるようになった時に、気がついてみたら、両方の家の瓦《かわら》一枚へがそうという気が、おれになくなっちまってるんだ! おれの古い敵どもが、おれを打ち負かしたわけじゃない。いまこそやつらの代りの者どもに復讐《ふくしゅう》すべきときなのだ。やろうと思えばできた。誰ひとりおれの邪魔する者はない。だが仇《かたき》をとってなんの役に立つ! 打ちのめす気にならんのだ。手を振り上げるのがおっくうなんだ! そう言うと、まるでおれが長いあいだあくせく働いてきたのが、ただただ太っ腹な善人らしい顔をしてみせたいためで、ほかになんの下心もなかったように聞こえるじゃないか。とんでもない話だ。おれはやつらの破滅を楽しむという気持を失ってしまった、すっかりものぐさになって、なんの役にも立たんのに破滅させる気にならんのだよ。
「ネリー、不思議な変化がいま近づいている。おれは現在、その前触れを感じている。毎日の生活に興味が持てなくなったのだから、飲み食いまで忘れていることが多い。いまここを出て行ったあのふたり、あれだけが、はっきりした実体を備えたものとして、おれの前に姿を現わしている。しかもその姿が、おれに七転八倒させるほどの苦痛を与えているのだ。女のほうのことは、おれは言いたくない、考えたくない、ただ本心から、彼女《あれ》がおれの眼に見えなければいいにとだけ思う。彼女《あれ》がそばにいると、ただもう気が狂いそうになるだけだ。男はそれとはまた別だが、しかしやはり、もしおれが気違いと思われさえしなければ、二度とやつの顔をみないだろうよ」そして、わざと笑ってみせようとしながら、次のように言いました。「もしやつがおれの心に呼びさます――というか、やつの体そのものに顕現しているというか――無数の過去の連想やら観念やらその思い出の千態万様の現われを、おれが話して聞かせたら、たぶんおまえは、現におれが気の狂いかねない状態にあると思うだろうな。けれどもおまえなら、おれの話すことを口外はせんだろう。おれの心は長いあいだ殻《から》をかぶって閉じこもっていたものだが、とうとう今になっておれは、他《ひ》人《と》に心のなかを見せたい気持になった。
「五分前、ヘアトンの顔を見たときは、若いころのおれが幽霊みたいに化けて出たのかと思った、人間とは思えなかった。あのときはやつに対して、あまりいろんなことを一度に入り乱れて感じていたから、正気で話しかけることはとてもできなかったろう。まず第一に、やつがぎょっとするほどキャサリンに似ていたことから、あいつと彼女《あのひと》とが、なんともいえぬ恐ろしさで連想された。だがおまえなぞは、それがおれの想像力をいちばん強く捕える連想だと思うだろうが、実はいちばん弱いのだ。だってそうだろう、おれにとって彼女を連想させないものといったら、何がある? 彼女《あのひと》を思い出させないものが一つでもあるか? この床を見おろしたって、彼女の顔かたちが敷石のなかに現われているのを見ずにはいられないのだ! どの雲も、どの木立ちも――夜は空中いっぱいに、昼はどんな物でも見さえすればそこに見つかるほど――おれは彼女《あのひと》の姿にとりまかれているよ! ――男や女のどんな平凡な顔でも――おれの顔までも――どこか似ていておれを悩ますんだ。なんのことはない、全世界が、『彼女は生きていた、おれはあのひとを失ってしまった』ということを思い出させる記念品の、憎むべき一大コレクションなんだ! ま、とにかく、ヘアトンの姿は、おれの不滅の恋の亡霊でもあったが、またおれの権利を失うまいとする狂暴な努力、おれの堕落、おれの自尊心、おれの幸福、そしておれの苦《く》悶《もん》――そうしたものの亡霊でもあったわけだ。
「だが、こんなふうにさっき考えたことをいちいち思い出しておまえに話して聞かせるということが、すでに気違いじみてるなあ。ただ、年じゅうひとりぼっちでいたくないために、ヘアトンといっしょに暮らしてはいるが、それがおれにとってなぜちっとも良いことではないか、いまの話で、それだけはおまえにもわかったろう。むしろおれの受けている常住不断の呵責《かしゃく》が加わるばかりだということ、そして彼が彼の従妹《いとこ》とやってることを、おれが苦にしないことにしたのは、一つはそういうところからきている。もうおれはあのふたりになんの注意も払う気にはなれん」
「でも、あなたのおっしゃる『変化』というのは、なんのことですの、ヒースクリフさん?」私はこういう態度におどろかされて、訊《き》きました。もっとも私の判断では、このひとは気が狂いそうだとか、死ぬんではないかしらとか思わせるところはなく、気力も健康もしっかりしておりましたし、ものの考え方にしましても、もともと子どものときから暗いことを考えふけったり、奇妙な空想を胸にたくわえたりする性質《たち》でございました。先だたれた恋人について偏執《へんしゅう》をいだいていたことは事実かもしれませんが、他《ほか》の点についてはすべて私の頭と同様な健全な頭を持っておりました。
「それは来てみなければおれにはわからん。今はただぼんやりそんな気がするだけなんだ」
「体が悪いような気がしますか、しませんでしょう?」
「ああ、しないよ、ネリー」
「では死ぬことを心配してらっしゃるわけでもないんですね」私は問いつめました。
「心配? そんなものはない! おれは死ぬのを恐ろしいとも思わんし、死にそうだという予感もない、また死にたいという希望も持たんね。第一そんなはずもなかろうじゃないか? おれの頑丈《がんじょう》な体質、節制のある日常生活、危険のない職業、そういう点からすれば、当然おれの頭に毛が一本もなくなるまで、この世に残っているはずだし、またおそらく残ってるだろう。ところがおれはいまの状態をつづけることはできんのだ! おれは自分が呼吸していることを――いや、おれの心臓が鼓動してることまで――ややもすれば忘れている、思い出し思い出しやってるようなものだ! つまり、まるで強いばねを逆方向に曲げているようなもので、ある一つの思想によって促されないかぎり、どんな簡単なことでも、おれは無理に自分を強《し》いなければやれんし、ある一つの絶対的な観念と結びつかんかぎり、どんな人間、その他の生きものでも、死んだ物でも、無理しなければそれに気がつかんのだ。おれはたった一つの願いを持っていて、おれの全存在、全能力は、その願いをかなえようとしてあがき、あこがれているのだ。これだけ長い年月、これだけひたむきに、そればかりあがき求めてきたのだから、おれはいま、その願いが――しかもまもなく《・・・・》――かなえられるだろう《・・・》と、そうはっきり信じている。なぜなら、その願望は、すでにおれのこの世での存在を食いほろぼしてしまったからだ。その願望がかなうであろうという期待のなかに、おれ自身が呑《の》みこまれてしまったからだ。――おれはこんなことを告白したからといって、別に気持が楽になったとも思わんが、しかし、おれの気持には、こんな話でもしなければわからん面がいろいろあって、それを平常おまえたちも見せられているのだが、いくらかこれでわかったろう。ああ、ああ、長い戦いだなあ、早くおしまいにしたいものだなあ!」
ヒースクリフはひとりで恐ろしい言葉をつぶやきながら、部屋のなかを歩きはじめました。そのひとりごとがあまりいつまでもつづくので、私はジョーゼフが信じているといつかヒースクリフが話したことは本当ではないかという気がしました。つまり良心がこのひとの心を一つの現世地獄に変じてしまったという話です。ほんとにこれが永久に終らないのではあるまいかと心配いたしました。こうした心の有様をいままではたとい顔色にも、ひとに見せたことはなかったのですが、しかしこれがこのひとの平常の気分なのだ、そうにちがいないと私は思いました。自分でもそれを肯定しておったのでございます。けれども日常の態度からは、誰《だれ》ひとりとしてそうだと感づいた者はございません。ロックウッドさま、あなたもあのひとにお会いになって、そんなふうにはお思いになりませんでしたけれど、いまの私の話のころのあのひとは、あなたがお会いになったころと全然同じでしたのよ。ただいくらか長いあいだひとりでいるのをよけいに好むようになって、またおそらく他人といっしょのときの無愛想が、いくらか激しくなっただけでしたわ。
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その晩から数日のあいだ、ヒースクリフは食事で私どもと顔を合わせるのを避けておりました。それでもヘアトンとキャサリンとを食卓に加えないことに、形式にこだわって同意しようとしませんでした。自分の感情にそれほど完全に左右されたと考えるのが不愉快だったので、それよりは自分が食卓に出ないほうがましだと思ったようです。そして二十四時間中に一回食事をすれば、体をもたせるには十分だと考えているように見えました。
ある夜、家族の者が寝しずまってからヒースクリフ氏が階下《した》へ降りて、玄関から出てゆく音を私は聞きました。帰ってきたらしい音は聞こえず、朝になってもやはりいませんでした。もうそのときは四月にはいっておりまして、陽気はまことに心地よく暖かで、雨と日光とがいやがうえにも草の緑を濃くしておりましたし、家の南側の二本の背たけの低い林《りん》檎《ご》の木は花ざかりでございました。朝飯のあと、キャサリンは家の裏側のもみの木立ちの下に椅子《いす》を持ちだして、私にもそこでお仕事をしろとしきりに申します。それからヘアトンに向かっては、けがもすっかりなおりきりましたので――ジョーゼフの苦情によって例の小花園はそのもみの木の近くに場所をかわりまして――その花壇の地ならしをしてくれと、しきりにうまく持ちかけておりました。私はあたりにただよう春の香気と、頭上に仰ぐ麗《うるわ》しい青空とを心ゆくばかり楽しんでおりましたが、花園の垣《かき》にするさくら草の根を取りに門の近くまで走って行った嬢さまが、そのとき半分ほどだけ抱えて帰ってきまして、ヒースクリフさんがはいってくると告げました。「そしてあたしに口をきいたのよ」そう妙な顔をして、つけ加えました。
「なんて言ったい?」とヘアトンが訊《き》きました。
「できるだけ早く消えてなくなれって言ったの」と答えて、「でも、あんまりふだんと様子がちがうから、あたししばらく動かないで顔を見ていたの」
「どんなふうに?」
「それがねえ、まあ、朗らかな、明かるい顔といってもいいような――いいえ、それどころじゃないわ――とてもとても興奮して、夢中なくらいうれしそうなの!」
「すると夜あるきしておもしろいことがあったのね」私はなにげないふうを装ってそんなふうに申しましたが、実は嬢さまに負けないほど驚きまして、その話が本当かどうか、たしかめたくてたまりません――うれしそうなヒースクリフなんて、とてもざらにある見ものではございませんもの。私は何か言いわけをこしらえて内へはいりました。ヒースクリフはあけ放した扉《とびら》のところに立っていました、青い顔です、ふるえております――でも、たしかに、不思議な、歓喜にあふれた輝きがその眼《め》にあって、顔ぜんたいの感じが、そのためにすっかり変ってしまいました。
「朝ご飯めしあがりますか?」私が申しました。「一晩お歩きになって、ずいぶんお腹《なか》がおすきになったでしょうに!」どこへ行ってきたか知りたかったのですが、じかに訊くのははばかられました。
「いや、腹はすいていないよ」横を向いて馬《ば》鹿《か》にしたような返事でしたが、私が上機嫌《じょうきげん》のわけを探ろうとしているのを見ぬかれたような気がしました。
私はちょっとまごつきました。はたして忠告めいたことを言っていい場合かどうか、見当がつきませんでしたが――
「お寝《やす》みにもならないで外をお歩きになるのはよろしくないと思いますわ。とにかくこの露の多い季節に、賢くはありませんね。遠慮のないところ、性《たち》の悪い風邪か、熱病にかかりますよ。もうなんだか様子が悪そうですわ!」
「我慢のできんようなことは一つもないし、すばらしく愉快なんだ、ただしおまえがおれをかまわずおいてくれたとしてだぜ。内へはいんなさい、そしておれの邪魔をしないでくれ」
私はそのとおりに従いました。すれちがうときに、まるで猫《ねこ》のように呼吸がはやいことに気がつきました。
「きっと病気がはじまるわ」私はひとりで考えました。「いったい何をしてきたのかしら、かいもく見当がつかないわね」正午にはみんなと午餐《ディナー》の席について、まるで朝飯の分を取り返すつもりかのように、私から山のようなお皿《さら》を受けとりました。
「おれは風邪も引かん、熱病にもならんよ、ネリー」朝がた私が言ったことにあてこすって言うのです。「だからおまえのくれた料理を平らげてみせるぜ」
ナイフとフォークをとりあげ、食べはじめようとしましたが、とたんに食べる気がなくなったらしいのです。ナイフとフォークを食卓におき、一心に窓のほうを見ておりましたが、こんどは立ち上がって出て行きました。見れば庭をあちこちと歩きまわっております。それが私どもの食事が終るまでつづきました。アーンショーさんが、出て行ってなぜ食べないのか訊いてくると言います、何か私どもが不快な思いをさせたと思ったのです。
「どう、帰るって?」ヘアトンが帰ると、キャサリンが声をかけました。
「いや――だがおこってはいないよ。まったく珍しく機嫌がいいようだね。ただぼくが二度話しかけたんで、癇癪《かんしゃく》を起こしてたけど。そしてそのあとで、早くキャサリンのところへ帰れと言ったぜ、どうしておまえは他人といっしょになんぞいたい気持になれるのか、不思議だというんだ」
私はヒースクリフのお皿がさめないように煖《だん》炉《ろ》の脇棚《わきだな》に載せました。そして一、二時間の後、部屋に誰《だれ》もいなくなったとき、あのひとは帰ってきました。興奮は少しも静まっておりません。太い眉《まゆ》の下には、さきほどと同じ不自然な――たしかに不自然でした――喜びの色があらわれていますし、やはり同じ血のない顔色で、ときどき一種の微笑に似た表情で歯を見せます。寒《さむ》気《け》や臆病《おくびょう》でふるえるのとはちがいますが、全身がふるえております――ちょうどピンと引っぱった弦がふるえるような、強い戦慄《せんりつ》です。
いったいどうしたのか、訊こう、だってほかに訊く者はないじゃないの? と私は思いました。それで私は声をかけました。
「何かいい知らせでもお聞きになりましたの、ヒースクリフさま? 何かいつになくはずんでいらっしゃるようね」
「いい知らせがどこからおれに来るんだい? おれは腹がへったのではずんでるんだよ、だから、どうも物を食ってはいかんらしいよ」
「お皿はここにありますよ。なぜおあがりにならないの?」
「いまはほしくない」早口でつぶやきます。「晩飯までのばそう、それから、ネリー、一ぺんだけ言うがもう言わんぜ、おまえに頼む、ヘアトンともう一人に、おれのそばへ寄るなと言ってくれ。おれは誰からもわずらわされたくない。この部屋におれ一人でいたい」
「ふたりを出すのは何か新しいわけがあってでしょうか? なぜそんな妙なご様子してらっしゃるのか、教えて下さいません、ヒースクリフさま? 昨晩はどこへおいでになったの? 何もつまらない好奇心でお訊きするんじゃなくて――」
「いや、まことにつまらない好奇心で訊いてるんだよ」笑いながらさえぎって、「だが、まあ答えよう。昨夜《ゆうべ》おれは地獄の入口にいたよ。今日は、おれの天国が、もうすぐそこに見えている。この眼がそれを見ているのだ――三フィートとは離れないところに! さあ、もうあっちへ行ったほうがいいぞ! 何かほじくり出そうとさえしなければ、怖いものを見たり聞いたりしないですむだろう」
煖炉のお掃除とテーブルの片づけとをして、私は外へ出ましたが、ますますわけのわからない気持でございました。
その午後は部屋から一歩も出ませんで、また誰も孤独を侵す者はございませんでした。八時になりましたので、呼ばれはしませんが、蝋燭《ろうそく》と晩ご飯とを持って行くのがよかろうと思案しました。ヒースクリフはあけ放った窓の下の横板にもたれていましたが、外を見てはいませんでした。顔は奥の暗いほうを向いておりました。煖炉の火は消えて、灰になっております。室内は湿っぽい曇った宵《よい》の温和な空気に満たされ、あまり静かなので、ギマトンの小川の、つぶやくような音ばかりでなく、さざ波たてるそのせせらぎも、小石の上、水から出ている大石のあいだを、流れる水のひびきまでも、一つ一つ聞きわけられます。私は炉《ろ》格《ごう》子《し》のなかが暗いのを見て、思わず不満を声に出し、一つ一つ窓をしめてまわってから、主人のそばへ参りました。
「ここもしめましょうか?」あまり身動きもせずにいるので、気を引き立てたいと思って、私は訊きました。
そう言っているとき、灯火《ともしび》がヒースクリフの顔の上にひらめきました。まあ、ロックウッドさま、一目みたその瞬間に私がふるえ上がったその恐ろしさ、とても口では申せません! あのくぼんだ黒い両の眼! あの微笑とあのすごい青い顔色! ヒースクリフさんではなくて、悪鬼としか私には見えませんでしたわ、しかもあまりの恐ろしさに蝋燭の明かりを壁のほうへ傾けたものですから、私は暗闇《くらやみ》のなかに残されてしまいましたんです。
「うむ、しめてくれ」答えたのは、いつも聞くヒースクリフの声です。「そうれ、なんというへまをするんだ! 蝋燭を横にする者があるか? 早くほかのを持って来いよ」
私は馬鹿のように無性に恐ろしくなって急いで部屋をとびだし、ジョーゼフに申しました
「旦《だん》那《な》がおまえに蝋燭を持ってきて、炉の火を起こしてくれとおっしゃったよ」そのときはとてももう一度、自分ではいってゆく気にはなれませんでしたもの。
ジョーゼフはがさがさとショベルに炭火を載せて、はいって行きました。そして片手に晩ご飯のお皿を持ってすぐに帰って参りまして、ヒースクリフ旦那はもう寝なさるから、あすの朝までは何も食いたくないと言ったと申します。そのあと、すぐ階段をのぼってゆく音が聞こえました。そして自分の寝室でなく、例の羽目板で囲んだベッドのある部屋へはいりました。あの部屋の窓は、前に申しましたとおり、誰でも出られるくらいの幅がございます、それでふと私は、また今夜も夜なかに出て行くつもりではないかしらん、出かけることを私たちに気づかれたくないのかもしれない、とそういう考えが浮かびました。
「食屍鬼《グウル》かしら、それとも吸血鬼《ヴァンパイア》かしら」私はひとりで思いふけりました。そういう人間の形をした恐ろしい悪鬼のことを本で読んだことがあるのです。そしてその時、私はあのひとの子どものころに世話してあげたこと、青年になってゆくあいだずっとみまもっていたことなどを順々に考えまして、ずっと今日までのあのひとの全生涯《ぜんしょうがい》をほとんどたどってしまいました。それだのになんとまあ理屈にあわない恐怖感に我を忘れたものだろう、と思いました。「だけどあの小さな色の黒い子どもは、いったいどこから来て、あの善良な老人に拾われ、その恩人の家に仇《あだ》をしたのだろう?」うとうとと無意識のうちに落ち込みながら、私の迷信が心のなかでそうつぶやきます、そして、半分は夢のなかにいながら、あのひとにふさわしい出生のことをあれこれと空想しはじめました。それからまた目をさまして同じ考えを繰り返しておりますうち、またもあのひとの生涯をずっとたどって、そのなかへ陰惨な想像をつけ加えて考えましたが、とうとう死ぬところやお葬式の光景まで頭に描いたりいたしました。その空想のなかで一つだけ覚えていますのは、墓碑の文句を注文する役目になり、寺男とそのことで相談したのですが、そのことでひどく騒いだことでした。つまりあのひとには名字がありませんし、年齢《とし》がわかりませんので、ただ「ヒースクリフ」とだけ記してあきらめるほかございませんでした。ところがこの夢はそっくり本当になったのでございます。墓地へおいでになってごらんになればわかりますが、墓石にはただその名と、なくなった年月日だけしかございません。
明けがた、私はやっと意識を取り戻《もど》しました。明かるくなりますとさっそく、起きて、庭へ出て、窓の下に足跡はないかと調べに参りました。ございませんでした。「では家にいたのね」私は思いました。「そんなら今日はもうなんともないでしょう」いつものとおり家じゅうの朝飯をこしらえまして、ヘアトンとキャサリンとに、ヒースクリフさんは床につくのが遅かったから降りてこないうちにおあがりなさいと申しました。ふたりは庭で、枝の下で食事したいと言いますので、私は小さなテーブルを持ち出しました。
そして家へはいりますと、ヒースクリフ氏は下にいました。ジョーゼフと、何か農場の用事で話をしておりました。その用件について、明快に、こまかい指図を与えていましたが、ひどい早口で、首を始終横へ向け、昨日と同じ興奮した表情をしておりました。いえ、もっと激しいようでございました。ジョーゼフが去りますと、いつもすわる場所にすわりましたので、私はコーヒーの碗《わん》を前におきました。その碗を引き寄せ、卓上に両腕をやすめ、そして、私が見たところでは正面の壁ですが、そのほうをギラギラ光る落着きのない眼で見まして、壁のある一部を上に下に、丹念に見ておりました。その熱心なこと、時には二、三十秒もじっと息を止めたままでいたほどです。
「さあさあ」私はパンを手のそばへ押しやりながら申しました。「これをあがって、コーヒーを召しあがれ、熱いうちに。もう一時間も前から出来ていましたのよ」
私の言葉など聞いてもいないふうで、それなのに微笑しているのです。気味がわるくて、いっそ微笑しないで歯がみをされたほうがいいような気がしました。
「ヒースクリフさま! 旦那さま!」私は叫びました。「どうぞ、お願いですから、この世のものではない幻でも見るようににらむのをやめて下さい」
「お願いだ、そんな大きな声を出さんでくれ。後ろを見ろ、おれたち二人のほかに誰もいないか? 教えてくれ」
「もちろん――もちろん二人きりですよ」
と答えましたものの、我知らず、やはりひょっとしたら、と思ったわけでもありませんのに、私は部屋のなかを見まわしました。と、ヒースクリフは手を一度横へ動かしただけで、朝食の食器のおいてあるなかに、自分の前だけ空所をつくり、そこにもたれて前かがみになり、前よりも姿勢を楽にして凝視をつづけております。
いまはもう、壁を見ているのではないことに私は気づきました。ヒースクリフのほうだけを注意してみますと、確かに二ヤード以内の距離にある何かをみつめているらしいのです。そしてその何かがなんであるにせよ、それは喜悦と苦痛とをともども極度にまで感じさせるものらしいのです。少なくともヒースクリフの苦悩し、しかも狂喜する表情を見れば、おのずとそう考えさせられるのです。その妄想の対象はじっとしてはおりません。また彼の眼も疲れを知らぬ熱心さでその対象を追いまわし、私と話している最中ですらも、絶対に離れないのです。私はあまり長く絶食していることについて申しましたけれど相手にされませんでした。もし私の願いをききいれて、何かにさわろうと身動きすれば、一片のパンを取るために手を伸ばせば、指はパンまで届かぬうちに折り曲げられ、はじめの目的は忘れきって、そのままテーブルの上におかれたままなのです。
私はどこまでも辛抱強くそばにすわって、その幻想にまったく吸いこまれてしまった注意をこちらへ引こうとしつづけましたが、とうとうヒースクリフはいらいらして立ち上がり、なぜおまえは飯のあいだおれを一人でおいてくれんのか? と問い返して、もうこの次からは給仕をしてくれなくていい、食膳《しょくぜん》をしつらえたら、出て行っていいのだ、とこう言うのです。この言葉を言い終って、ヒースクリフは居間を出て、庭の小道をゆっくりと歩み、門を出て見えなくなりました。
不安のなかを、時が移りまして、また夜になりました。私は遅くまで起きておりまして、部屋へ引き取りましてからも、眠ることができません。真夜中すぎに主人は帰りまして、寝室へは行かず、下の間にひとり閉じこもりました。私はじっと耳をすまして、寝がえりを幾度もしたあげく、着物を着て階下《した》へ参りました。無数のつまらぬ不安に頭を悩まされ、もどかしく、とても横になってはいられませんでした。
落着きなく床を踏むヒースクリフ氏の足音が聞こえます。そして絶えず、うめき声に似た深い息を吸う音が沈黙を破ります。きれぎれな言葉もつぶやきました。なかで私に聞きとれたのはキャサリンの名だけで、それは何か熱愛か苦痛かを現わす言葉と組み合わせて、しかもまるでその場にいる人物に話しかけるように、つぶやかれたようでございました――低い、切実な、魂の奥底からしぼり出されるような声で。部屋のなかへまっすぐにはいる勇気はありませんが、この妄想《もうそう》からなんとかして他へ心を向けさせたくて、台所の炉の火をわざと掻《か》きまわし、燃えがらをつっつきはじめました。私の思ったよりは早く誘い出しに成功しまして、ヒースクリフはすぐに扉をあけ、こう言いました――
「ネリー、こっちへ来いよ――もう朝か? 明かりをもってはいっておいで」
「いま四時を打つところですわ」私は答えました。「お二階へお持ちになる明かりがご入用ですわね、この火でおつけなさいまし」
「二階へは行きたくない。それよりはいってきて、おれに火を起こしてくれんか、ほかにも何かする用事があるなら、やっていいぞ」
「そちらへ持ってゆく前に、石炭を燃して赤くしませんと」と答えて、椅子を引き寄せ、ふいごを手にとりました。
そのあいだ、ヒースクリフは、精神錯乱に近い状態で、あちこちうろうろしておりました。深い吐息がつづけさまに出て、そのあいだに普通の呼吸をするいとまを与えないほどでした。
「夜が明けたらグリーンを呼ぶつもりだ」ふと言いました。「いまならまだ俗な用事に頭を使えるし、平静にものができるから、いまのうちに法律上のことを訊《き》いておきたい。おれは遺言を書いてないし、遺産をどう処分するか、決心がつかん。財産など、いっそこの地上から空に消えてくれたらいちばんいいんだが」
「あたしならそうは言いませんね、ヒースクリフさん」私は言葉をはさみました。「遺言はもうしばらくあとのことになさいまし。あなたはまだ自分の犯したいろいろの不正を後悔なさるだけのお暇はおありですよ。まさかあなたの強い神経が変になろうとは、あたしは夢にも思いませんでしたよ。でもいまは、おどろくほど変ですわ。それもほとんど全部あなたがご自分でそうなすったんですものね。この三日のあいだのあなたのようなことをすれば、どんな巨人《タイタン》だって倒れてしまいますわ。ぜひ何か召しあがって、少しでもお休みなさいまし。ちょっと鏡でご自分の顔をごらんになれば、食べて休まなければならないことは一目でおわかりになるはずです。頬《ほお》はげっそりこけて、眼は血走って、飢えかつえた上に眠れないためめくらになりかかったひとのようですわよ」
「食ったり休んだりできんのは、おれのせいではないのだよ。ほんとの話だ、何もおれはこれという計画をきめていたんじゃない。できるようにさえなれば、すぐに食いもするし、眠りもする。だがおまえがそう言っても、岸まで腕一本の長さしか離れていないのに、まだ水のなかでもがいてる人間に休めと言うのと同じことなのだ! だからまずおれは岸に手を届かせねばならん、そうすれば休むよ。まあいい、グリーンのことはかまわん、おれの不正を後悔しろという話なら、おれはなんの不正も働かなかったから、したがってなんの後悔することもない。おれは幸福すぎるほどだ、しかもまだ幸福になり足らん。おれの魂の至福は、おれの肉体を殺すが、しかもまだみずから満足せん」
「幸福ですと、旦那さま?」私は叫びました。「おかしな幸福ですこと! もしあなたがおこらずに聞いて下さるなら、あなたをもっと幸福にしてさしあげられる助言ができるかもしれませんよ」
「どういうことだ? 言ってくれ」
「あなたはよくお気づきのはずですわ――あなたは十三のお歳《とし》から、自分本位の、クリスチャンらしくない生活をしてきました。たぶんそれ以来今日まで、聖書を手にとったことは一度もないでしょう。あのご本の内容もお忘れになってしまったにちがいありません。そして今はそのなかをおさがしになる暇もないかもしれないのですよ。誰か――何派の牧師さんでもかまいません――お呼びになって、教えを聞かせてもらい、あなたが聖書の教訓とどのくらいかけ離れた迷いの道へはいってしまって、もし死ぬ前に悔い改めなければ聖書の天国へはいることのかなわない人間になってしまったか――そういうことを教えてもらうことは、けっして害にはなるまいと思いますがねえ」
「おこるどころではない、ありがたいくらいだよ、ネリー。その話で、おれの葬式をどうしてもらうかという問題を思い出したからね。まあなんだな、いやでなかったら、ヘアトンとおまえとで、おれを送ってくれるといいな。そのとき、寺男が、例の二つの棺のことでおれの指図どおりにするかどうか、特別に気をつけてくれ、忘れずにな! 牧師に来てもらうことはいらん、またおれの棺のそばでなんの説教も読経《どきょう》もいらん。――言っとくがね、もうおれは、ほとんどおれの《・・・》天国に行き着くところなんだ。だから他人の天国なぞはおれにはなんの値打ちもないし、ほしくもないんだ」
「それでかりに、あなたがどこまでも頑《がん》固《こ》に断食《だんじき》をお守りになって、そういうことで死んだとしますよ、すると、教会が境内にあなたを葬《ほうむ》ることを断わったとしたらどうなさるの?」あまりに不信心な冷淡さに気持が悪くなって、私は申しました。「あなたはそれでもいいんですか?」
「そんなことはせんだろう」とヒースクリフは答えました。「もし断わったらおまえが秘密に移してくれなければ困るな。もしそれを忘れたら、死人が消えてなくなるものでないことを、自分の目で思い知らされるぞ!」
他の者の起きた音を聞くとすぐに、ヒースクリフは巣のなかへひっこみましたので、私も少し楽に息がつけました。けれども午後、ジョーゼフとヘアトンが働いているあいだに、また台所へはいってきまして、すごい顔で、私に居間に来ていてくれと命じました。誰《だれ》かそばにいさせたかったのです。私はあなたの奇妙なお話とご様子とで恐ろしくなりましたから、一人でおそばにいるだけの丈夫な神経もないし、またその意志もありません、とはっきり申して断わりました。
「おまえはおれを悪魔と思っとるんだなあ」陰惨な笑い声といっしょに、ヒースクリフは申しました。「まともな家に住めんような、恐ろしい化けものと思っとるんだ」そして、折からそこにいあわせた――義父がはいってきたとき、私の後ろへ隠れていたキャサリンに向かって、なかばあざ笑うように――「おまえなら来てくれるか、娘さん? おれは何も悪いことはせんぞ。せんとも! おまえには、もうさんざん悪魔よりも悪いことをしてきたからな。ふむなるほど、ここに一人、おれといっしょにいることを尻《しり》ごみせんやつがおるな! やれやれ! 無情な女だなあ。人間の血と肉のある者には、いいや、このおれにさえ――ええい、呪《のろ》われろ! とても我慢がならんというのに!」
それきり誰にも来てくれと言いませんでした。暮れがた、自分の部屋へ行きました。一晩じゅう、いいえ、朝もずっと日が上るまで、ひとりでうなったりつぶやいたりしているのが聞こえました。ヘアトンは心配して、なんとか寝室へはいりたがっていましたが、私はケネス先生を呼ぶように言いまして、先生にはいってもらって診てもらうのがいいと申しました。医師が来ましたので、私は声をかけ、扉《とびら》をあけようとしますと、鍵《かぎ》がかかっておりました。ヒースクリフはうるさい、地獄へ行けとどなりました。おれは気分がよくなったから、ほっといてもらいたいのだと言いますと、先生は帰ってしまいました。
次の晩は雨でございました、本当に夜明けまで抜けるほどの大雨が降りつづきました。それで、私が朝がた家のまわりを歩きましたとき、ご主人の部屋の窓があけ放され、雨がまっすぐ降りこんでいるのが見えました。まさか眠ってるはずはないわね、と私は思いました。あの雨でずぶぬれになるはずだもの。起きているか、出ているかのどっちかにちがいないわ。でもあたしはよけいな苦労をするよりも、大胆にはいって行って、様子を見よう――
他の鍵でうまく内へはいり、誰もいませんので、寝台の羽目板をあけようと走り寄り、手ばやく押し開いて、なかをのぞきこみました。ヒースクリフ氏はそこにおりました――仰むけに、横たわって。その鋭く狂暴な眼《め》と私の眼が合いましたとき、私は、ぎょっとして後ろへさがりかけました、するとこんどはにやりと笑ったようでした。死んでいるとは、どうしても思えませんでしたが、顔も、のども、雨で洗われて、蒲《ふ》団《とん》はしずくをたらしているのに、そのひとはびくとも動かないのです。窓格《まどごう》子《し》は前後にばたばた揺れ、窓かまちにおいた片手をすりむいていますのに、皮膚の破れたところから、血は一滴も流れておりません。そしてその手の上に自分の指をおいてみて、私はもはや疑うことができませんでした。ヒースクリフ氏は死んで硬くなっていたのです!
私は窓に掛け金をかけ、死人の額にかかっている黒い長い髪の毛を掻き上げました。できるものならば、あの恐ろしい、生けるひとのような、大歓喜の凝視をば、他の者が見ないうちに隠してしまいたいと思い、その眼を閉じようといたしました。眼は閉じようとしませんばかりか、まるで私のすることをあざ笑うかのようです。いいえ、少し開いたくちびると鋭い白い歯もあざ笑っていました! またも臆病風《おくびょうかぜ》に襲われ、たまらなくなってジョーゼフを呼びました。ジョーゼフはのろのろとやってきて、騒ぎたてましたが、ヒースクリフの世話をすることは、金輪際《こんりんざい》いやだとはっきり申しました。
「悪魔が旦那の魂をさらって行ったぜや」爺《じい》さんはわめきました。「このついでに死《し》骸《がい》もさらって行くかもしれねえだが、おりゃちっともかまうことはねえだ! エヘッ! 死にぎわにまでにやにや笑って、なんたるはあ悪相だぞい!」そう言ってこの老いた罪びともまたあざけりの笑いを漏らしております。この爺さんは寝台のまわりを踊りまわる気だろうかと思いましたが、そうではなくて、急にまじめな顔になって、床にひざまずき、両手を高く上げ、この家の正当のご主人と旧家の家系とが昔の権利を取り戻したことについて、感謝の祈りをささげました。
このいやらしい出来事に、私は眼がくらんだような気がしました。そしておのずと、思い出は、胸をふさがれるような悲しみとともに、昔へ帰って行くのでした。けれど、もっともひどい目にあわされたヘアトンこそ、もっとも本心から嘆き悲しんだ唯《ただ》ひとりでございました。夜っぴて遺《い》骸《がい》のそばにつきそい、いたましく真心から泣いておりました。遺骸の手を握りしめ、誰もみな尻ごみして熟視しない冷笑的な獰猛《どうもう》な顔に接吻《せっぷん》をしました。鍛えた鋼《はがね》のように強靱《きょうじん》でありながら、しかも寛容な仁者の心から、自然にわき起こる力づよい傷心――それがヘアトンのヒースクリフをいたむ真心でございました。
ケネス先生は何が死因かを定めかねて困っておりました。四日間も何ひとつ口へ入れなかったことを、私はめんどうが起こるのを恐れて、隠しておりました。またあのとき、あのひとは故意に絶食していたのではございません、何か不思議な病気になった結果として食べなかったので、原因ではありません、そう私はいまも信じておりますの。
私どもは、世間からずいぶん悪く言われましたけれど、ヒースクリフの望みどおりに埋葬いたしました。アーンショーと私と、寺男、それに棺をになった六人の男と、これだけが会葬者の全部でございました。六人の男は、棺を墓穴へ置くとすぐ立ち去りました。私どもがあとに残って土をかぶせました。ヘアトンは涙を滝のように流しながら、縁の芝土を掘り起こして、みずから赤土の土饅頭《どまんじゅう》の上にかぶせました。ただいまでは並んで横たわる他の墓塚《はかづか》と同じようになめらかに青々としております――そして私はその下に眠るひとも、やはり他のふたりと同じく安らかに眠ってくれればよいと思いますの。けれども、もし村人たちにお訊《たず》ねにでもなりましたら、聖書に誓ってヒースクリフの魂は、地上をさまよっている、と申すでしょう。教会の近くで会ったとか、荒野《ムーア》で見たとか、この家のなかで見たとかいううわさを立てております。つまらん作り話だと、あなたさまはおっしゃいましょう。私もそう申します。でもあの台所で煖《だん》炉《ろ》にあたっている老人などは、あれ以来、雨の夜には必ず、寝台の窓から外を見ているふたりの幽霊をたしかに見たと、言っております。そして私にも、一カ月ばかり前に、妙なことがありましたの。ある晩、スラシュクロス屋敷へ行く途中でございました――雷雨になりそうな真っ暗な晩で――ちょうど嵐が丘から本道へ出る曲りかどのところで、私は羊を二匹と山羊《やぎ》を二匹、前に歩かせている一人の男の子に出会いました。
その子がわあわあと泣いておりますので、私はきっと山羊がよく歩かなくて、困っているのだろうと思いました。
「どうしたの、坊っちゃん?」と私が訊きました。
「ヒースクリフが女といっしょにいるんだ、あっちの、丘の下に」泣きながら、こう言うのです。「だから怖くて、通り抜けられないんだよう」
私には何も見えませんが、羊も子どもも、どうしても行こうとしません。それで私は下の低い道を行けと教えました。たぶん荒野《ムーア》をたった一人で渡っているうち、親たちや仲間の子どもがしきりに話す嘘話《うそばなし》を思い出して、幽霊を見た気になったのでしょう。でもやっぱり私も、いまでは闇《やみ》の夜に外へは出たくなくなりました。またこの気味の悪い家に一人で留守居をするのも好まなくなりました。どうにもいやでしかたがないんですの。ふたりのひとたちがこの家を捨てて、あちらのお屋敷へ移ってくれたら、うれしいと思いますわ。
「すると、あのふたりはあっちへ移るつもりなんですね」と僕は言った。
「はあ」とディーンさんは答えた。「ご婚礼の済みしだいということになっております。そして式はお正月の元日ときまっております」
「それでは、ここには誰が住むんです?」
「それは、あのジョーゼフが番をいたしますよ。若い男を一人、いっしょにおいてやれましょう。二人で台所で暮らして、ほかは締め切りにいたします」
「つまり例の幽霊たちが住みたがってるからですね」と僕は言った。
「いいえ、ロックウッドさま」ネリーは首を振りながら、「死んだひとたちはみな平和にしているにちがいありません。また幽霊のことを軽々しくお話しになってはいけませんわ」
そのとき、庭の門が勢いよく開き、散歩に行ったひとたちが帰ってきた。
「あのふたりは何も怖がってやしない」近づいてくる男女を窓ごしに眺《なが》めながら、僕はちょっと愚痴を言った。「手をつないでなら魔《サタ》王《ン》とその全軍とが来ても、あとへは引きそうもないや」
扉の前の石を踏みかけて、ヘアトンとキャサリンとは残り惜しそうに振り返り、月を見上げるために立ち止まった――あるいは、もっと正確には、月の光でおたがいの顔を見合うために――僕はまたもかれらから遁走《とんそう》せざるを得ないはめに陥った。そこで、ディーンさんの手のなかに心づけを握らせると、その失礼をとがめる彼女の声には耳をかさず、かれらが居間の扉を開くとたんに台所から姿を消した。だからもし幸いにもジョーゼフが、僕の投げてやったソヴレン金貨の美しい音で身分ある人物と認めてくれなかったとしたら、ますます爺さんは同僚ディーンさんの派手ないたずらについて、彼の意見の誤りでなかったことを確信したにちがいないのだ。
帰り道は、教会のほうへ道をそらしたので、よほど長くなった。会堂の壁の下まで来て、わずか七カ月のあいだにも建物はますます荒廃しているのがわかった。窓の多くはガラスがなくなって黒い穴になり、屋根のスレートはあちこちで屋根の本来の線からはみだして、やがて来たるべき秋の嵐《あらし》に、しだいしだいに地上にずり落ちるのを待つばかりとなっていた。
僕はいくらも捜さずに、荒野《ムーア》のとなりの斜面に立つ三つの墓石を発見した。中央のは灰色になって、ヒースになかば埋まっていた。エドガー・リントンの墓碑だけが、根もとにはい上がった芝草と苔《こけ》とによって、墓石らしく落着いていた。ヒースクリフのはまだなまなましかった。
なごやかな空の下、僕は墓《ぼ》畔《はん》にしばし、たたずんだ。ヒースやほたるぶくろの葉かげに、蛾《が》の舞っているのを眺め、草をわけて息づくかすかな風に耳をすました。そして、この静かな大地の下に眠るひとびとの夢が安らかでないとは、はたして誰が想像するのだろうかと、いぶからずにはいられなかった。
解説
田中西二郎
ここに訳出したのは、十九世紀イギリスの女流作家、エミリー・ジェーン・ブロンテ(Emily Jane Bront 1818―48)の作、WUTHERING HEIGHTS, 1847 である。ワザリングとは七ページで作者自身の説明している通り、嵐《あらし》のときの風の騒ぎを形容する方言であるから、その意味をくんで『ワザリング・ハイツ』を『嵐が丘』と訳したのは斎藤勇博士がはじめであると聞いている。いわば『イムプロヴィザトオレン』を『即興詩人』とするのと同様、わが国での定訳ともいうべき訳語であるから、本書もこれを踏襲した。
英文学史に有名なブロンテ姉妹は、シャーロット、エミリー、アンの順で、この小説の作者はすなわちその二番目に当る。姉のシャーロットは翻訳や映画で親しまれている名作『ジェーン・エア』をはじめ数編の長編小説の作者で、妹アンにも、『アグネス・グレイ』と題する小説の作があるが、これは今日ではあまり読まれていない。十九世紀のイギリス文壇で、オースティンやジョージ・エリオットに比較される名声をはせたのはシャーロット・ブロンテであって、エミリーではない。エミリーは他に少数の詩があるだけで、小説はこの『嵐が丘』一編しか遺《のこ》さなかった。しかしこのただ一編の小説は時を経るにしたがって、異常な感銘をますます多くの読者に与えるようになり、今日ではこの作に対する芸術的評価は『ジェーン・エア』をすらしのいでいる。一八六四年に初版を出したイッポリト・テーヌの『英文学史』はその第五巻「現代作家」中に、わずかにシャーロットの名を挙げているが、エミリーには言及していない。また一九〇〇年から一九〇三年にいたる東京帝国大学でのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の英文学史講義にも、シャーロットはヴィクトリア朝小説史の劈頭《へきとう》をかざる重要な作家として遇せられているが、エミリーとその『嵐が丘』とについては、「その凄《すご》味《み》のある想像力によって、近来批評家の注目をひいているので、将来あるいは新たな人気《ヴォーグ》を博するかも知れぬ」と述べられているだけである。ハーンは東京にいても英国の文学界の消息には注意を怠らなかった人だから、これは原作の出版後五十年の実情であったろう。つまり一般にエミリーはシャーロットの妹として記憶されていたにすぎない。果たせるかな、「新たな人気」は二十世紀に入って湧《わ》き起こったが、それを半世紀後の今日では、何人も単なる「流行《ヴォーグ》」とは認めないだろう。サマセット・モームはこれを世界の十大小説の一つに数え、詩人エドマンド・ブランデンは、シェークスピアの『リア王』、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』と並べて「英語文学の三大悲劇』の一つと称している。この書が英文学のみならず、世界文学史上に占めるべき位置については、これ以上の贅言《ぜいげん》は不要であろう。
ブロンテ家は、アイルランドの出である。ハーンのいわゆるエミリーの weird imagination(凄味のある想像力)はイギリス人には稀《まれ》なもので、それを彼女のアイルランド人の血に帰しようとする人があるのは、あながち不思議ではない。
とにかく姉妹の父パトリック・ブロンテは北部アイルランドのダウン州に生まれた。彼の父親すなわちシャーロットやエミリーの祖父はヒュー・プランティー Hugh Prunty という名で、わずかの土地を耕すだけでは暮らしが立たず、石灰焼きの仕事をしたり、近所の作男に雇われたりしている、しがない小百姓だった。一七七六年にこの貧家に生まれたパトリック少年は利発で、野心もあったので、十六歳ごろから小学校教師を勤め、二十五歳でケンブリッジ大学へ入学する幸運をつかんだ。どういう事情で大学に入ったかについては諸説があるが、とにかく学校教師時代に誰《だれ》か牧師にその学才を認められ、その援助でケンブリッジのセント・ジョンズ学寮《カレッジ》に入ることができたのだといわれている。学生時代の成績もよく、特待生、給費生になり、二十九歳で文学士の資格をとり、ついで英国教会の牧師に任命された。彼の父親は読み書きもろくにできなかったため、教会の戸籍には Brunty とか Bruntee とか綴《つづ》られていたので、ケンブリッジ時代のパトリックは、ブランティと名乗っていたらしい。その姓を、彼は在学中に Bronte と変え、その後さらにeのあたまに分音符(‥)をつけ、Patrick Bront と署名するようになった。英文学史に不滅の名をとどめるブロンテという姓の由来は、およそ右のとおりである。
パトリック・ブロンテ牧師は長身で、美《び》貌《ぼう》の青年であった。そのハンサムな、立派な恰《かっ》幅《ぷく》は、後に息子のパトリック・ブランウェルが美青年として多くの女性から愛されたことともつながりがあるであろうし、またサマセット・モームがその著『世界の十大小説』で指摘しているように、恋に恵まれなかった彼の二人の天才的な娘がその作中に描いた男性――“シャーロットのロチェスター”と“エミリーのヒースクリフ”とがいちじるしく似ており、その原型(材料)はおそらく気むずかし屋の父親パトリックであったろうという推定にも根拠を与えているようである。その好男子の牧師にしては結婚はわりに遅く、三十六歳、ヨークシャーのハーツヘッドで副牧師をしている時代に、土地の中産階級に属する良家の娘、小《こ》柄《がら》で、器量もあまりよくない三十歳のマライア・ブランウェルと結ばれた。結婚生活九年で、一男五女を生み、癌《がん》で早世した不幸な女性である。ブロンテ牧師の晩婚の理由として、それ以前にある若い女性と恋に落ち、婚約にまで進みながら、もっとよい相手がみつかるだろうという自惚《うぬぼれ》からこの女性を袖《そで》にしたため、教区の人々の非難を買う、といった失敗があったと伝えられている。
妻の死の一年前、一八二〇年に、ブロンテ氏はヨークシャーのホーワスという村の“終身副牧師”に任ぜられ、そこが彼の終生の住地となり、同時にそこが彼の娘たちの世に残した『ジェーン・エア』や『嵐が丘』の書かれる場所ともなった。野心家であった彼としてはこの地位は不満なものであったにちがいない。彼には文学上の野心もあり、二冊の詩集、一編の小説を書いたが、さして取《とり》柄《え》のあるものとは認められていない。もともと我が強く、誇りも高い人物であったのに、不遇と、妻に早く死なれ、多くの子女の養育の責任をもたされた男が、シャーロットの伝記者ギャスケル夫人の結論したような“わがままで、おこりっぽい、横暴な”男になっていったのは、自然な成り行きであったと思われる。子供たち、特に娘たちが、この父親を尊敬はしても彼になつくことはなく、そのためにホーワスの牧師館の生活は、多くの書物が伝えるような寂しい辛《つら》い生活であったというのは感傷的な誇張がまじっているにしても、なごやかな、明かるい、家庭的団欒《だんらん》に恵まれていなかったことは事実であろう。
すでに言ったように、ブロンテ家には、息子一人、娘五人が生まれた。上からマライア(一八一三年)、エリザベス(一八一四年)、シャーロット(一八一六年)、パトリック・ブランウェル(男児、一八一七年)エミリー・ジェーン(一八一八年)、アン(一八二〇年)の順で、母マライアはアンの生まれた翌年になくなった。ブロンテ牧師には再婚の意志があったが、とりあえず妻の姉で未婚だったエリザベス・ブランウェルを説きつけて、牧師館へ呼び寄せ、子供たちの面倒をみてもらうことにした。六人の子をもつ四十五歳の男やもめの田舎牧師に再婚の機会が恵まれるはずもなく、むしろ子供たちの伯母が家事と育児を引き受けてくれたことを幸運とするべきだったろう。
一八二四年に、父親は上の四人の女の子をホーワスから数マイル離れたカワン・ブリッジの学校へ送り、寄宿させた。この学校は当時八歳だったシャーロットのおかげで歴史に悪名を残すことになる。それは貧しい牧師の子女を教育する目的で建てられたばかりの学校であったが、まもなくその教育方針のきびしさと管理の劣悪さとでわるい評判が立ち、そのうえ土地が健康にわるいこと、食事のひどいことなども影響して、上の二人の姉、マライアとエリザベスとは結核になり、家へ帰されてから間もなく死んだ。シャーロットとエミリーもまもなく退学したが、子供心に忘れることのできない虐待《ぎゃくたい》への憤《いきどお》りと、二人の姉、特にすぐれた知能に恵まれた長姉マライアの死の悲しみとが、『ジェーン・エア』の四―九章での“ローウッド学校”の描写となって表われた。この筆誅《ひっちゅう》は小説の発表当時も読者の関心をひいたが、一八五七年にギャスケル女史のシャーロット伝が世に出ると、カワン・ブリッジの名が世間に知られ、大きな社会問題になり、学校の関係者が女史を名誉毀《き》損《そん》で訴えようとした、などという事件にまで発展した。とにかく、この学校にあずけられたのは、エミリーが六歳から七歳へかけてであった。『ジェーン・エア』の右の章に表われる薄幸な少女ヘレン・バーンズの挿《そう》話《わ》は、長姉マライアの俤《おもかげ》をつたえたものといわれている――それは十一、二歳で、すでにラテン語やフランス語に通じ、歴史や地理や文学の書を多く読み、特に牧師の娘らしく聖書を篤《あつ》く信仰して罪びととしての自覚に徹し、教師の虐待をも少しも恨まない少女の像である。
ブロンテ姉妹の生活については、シェークスピアに次ぐほど多くの書物が書かれたといわれるほどで、詳しい研究がなされているが、その多くの書で最も詳しく書かれているのはエミリーの父ブロンテと、兄パトリック・ブランウェルと、姉シャーロットの事跡であって、エミリーとアンとについての記述はまことに少ない。それは、一つにはシャーロットが生存中から折紙つきの女流作家として一世に喧伝《けんでん》されたためであり、また兄の場合は、彼パトリック・ブランウェルがいわば一家の“プロテジェ(秘蔵《ひぞ》っ子《こ》)”であって、年もゆかぬ四人の子女をカワン・ブリッジのような学校へやったのも、ブロンテ牧師が子供たちのなかで一人息子だけを偏愛したためとみられぬことはない。のみならずブランウェルは才気煥発《かんぱつ》、美貌の青年で、父にあまやかされてわがままいっぱいに振舞い、文学や絵画で身を立てようとしながら成功せず、家族の心配をよそに飲酒と放蕩《ほうとう》に身をもちくずしたあげく、失意の身で三十一歳で夭折《ようせつ》した。いわば生活者として、伝記家の興味をそそるに十分な性格の人物であり、材料も多いからであって、つい今年(一九六一年)も有名なダフネ・デュ・モーリア(『レベッカ』等の作者)が彼を主人公にした伝記小説をものし、評判になっているが、わたしはまだ書物を見ていない。エミリーとその文学について、この兄が重要な関係をもつのは、本書『嵐が丘』の全部、あるいは一部が、ブランウェルの筆に成ったものだという“一説”が存在するためである。姉のシャーロットがこの作をエミリーの作品だと断言しているのをはじめ、大多数の研究者は結論的にこの説を虚偽として斥《しりぞ》けているが、一方にそれを事実として信じ《・・》ていた《・・・》人々があったことも事実である。その多くはブランウェルの友人であって、かれらはブランウェル自身がそう言っていた、と証言し、ある友人はヨークシャーのある旅宿でブランウェルが自作の未定稿断片と称して読みあげた原稿が、ほかならぬ『嵐が丘』の一部だったとさえ述べたと言う。これらの友人が嘘《うそ》つきであったか、ブランウェル自身が、その虚栄心の強い性格から、妹の書きかけの草稿を自作だといつわり称したか、さまざまの臆測《おくそく》が生じうるけれども、いまこの説の真偽を検討する余裕はない。ただこのような説が多少とも信じられる理由があるとすれば、それは『嵐が丘』が世間知らずの二十八、九歳の老嬢が書いたものとしてはあまりに奔放大胆な、特に女性らしからぬ強烈な表現に満ちているので、そう信じられぬように感ずる人があるためであろう。もしまともに取り組むとすれば、一編の推理小説にもなりそうな考証のテーマであるが、ここではこれ以上の深入りは避けよう。いずれにせよ、シェークスピア=ベーコン説を想起させるこの種の疑惑が寄せられるということは、この作品の魅力と、作者の“人間”についての謎《なぞ》の深さとを語るものであることは疑いない。
カワン・ブリッジを退いて後、シャーロットは別のロウ・ヘッドという私立学校へ行き、一八三五年にはここの教師となった。エミリーもこの年、同じ学校へ生徒として入学したが、郷愁がはげしく、三カ月で家へ帰った。翌年、彼女はロウ・ヒルという学塾《がくじゅく》に六カ月間、助教師を勤めたが、一八四二年二月、二十四歳で、姉とともにベルギー、ブリュッセルのエジェ寄宿学校へ留学することになる。以上の短い寄宿生活の期間を除き、七歳から二十四歳まで、エミリーは主としてホーワスに住み、伯母を助けて家事に最もよく尽した。アンは家庭教師として他家へ住みこみの生活が多く、シャーロットも同様だった。このように三人の姉妹が家事の手伝いや家庭教師生活で次第に婚期を逸していったのは、老いた父に婚資とすべき蓄えもなく、死後には牧師には恩給もつかないし、若干の資産をもっていた伯母エリザベスはブランウェルを愛して、娘たちに遺産を贈る考えのないことが判っていたため、何とかして自活の道をみつけなければならないし、このような立場の牧師の家庭では教育者として以外に独立の生計を立ててゆく途《みち》はないからだった。ブリュッセルへ行ったのは外国語を修めて、姉妹で独立の私塾を開こうという計画からであった。
ブリュッセルの寄宿学校の校主兼教師であるエジェ氏はエミリーの学才を認め、彼女は特にこの時期にはドイツ語をよく学び、ドイツ浪漫派の文学に親しんだ。ホフマンその他のドイツ文学の影響は『嵐が丘』にも軽視することはできない。それはこの小説のもつ怪奇味とも関係があるが、何よりも全編にみなぎる深い自然感情、神秘的《ミスティック》な自然の把《は》握《あく》において、ドイツ浪漫派との精神的な類似の深さを感ぜしめるのである。が、これについてはさらに後に述べる。だがブリュッセルの生活から大きな転機に見舞われたのはシャーロットのほうで、彼女は妻のあるエジェ氏を思慕するようになり、その年十一月、姉妹は伯母ミス・ブランウェルの死の報に接してホーワスへ帰り、エミリーはそのまま老父の身のまわりや家事のために居残ったが、姉は翌四三年ふたたび教師兼生徒としてエジェ学校へ戻《もど》ることになる。シャーロットの恋は遂げられる望みがなく、彼女は失意の底で四四年に帰った。この不幸な恋に取材したのがシャーロットの最後の作『ヴィレット』である。そのころ、ブランウェルも家庭教師づとめで家を出ていたが、四五年、エミリー二十七歳のとき、職を逐《お》われて帰り、生活の乱れはようやく目にあまるようになった。
私塾計画も思うに任せないので、三人の老嬢は今度は文学で世に立とうという野心を起こした。一八四六年、三人の詩稿を集め、それぞれの頭文字だけを残した男名前で、『カラー、エリス、およびアクトン・ベル詩集』'Poems by Curror, Ellis, and Acton Bell'と題して自費出版した。シャーロット三十歳、エミリー二十八歳、アン二十六歳であった。費用はベルギー留学と同じく伯母の金で、一八四三年に伯母が死んだとき各自に分配された遺産は、この出版で使い果たされた。だが売れたのはわずか二部であった――この数字も文学史に残る記録的なものである。
ここで、この姉妹の幼時からの文学的教養について語るべきだろう。単なる文芸作品の享受《きょうじゅ》ではない、積極的な、創作的実践が、ごく早期から、異常な熱意でブランウェルをも加えた四人のあいだで、いわば孤立した文学共同体を形成していた、というまことに珍しい事実を書き落すわけにはゆかない。それは一八二六年(エミリー八歳)にさかのぼるといわれる。あるとき父が近くの都市リーズへ出たとき、十二個の兵隊人形を土産に買って帰った。それから四人の子供の空想がかきたてられ、二人ずつ組んで秘密の遊びにふけることで、かれらの情操生活が自力で発育していったのである。遊びとは空想の国土に無数の人物を動かし、戦争や革命や変愛や悪徳の物語を創作することだった。かれらのこの特殊な生活の特異性は、それが短い子供時代だけの幼稚な遊戯にとどまることなく、二十代をかなり越える頃《ころ》まで一貫して続けられたことにある。それはまさしく“ロマンティック時代”と呼ばれる歴史上ユニークな、自我の解放と現実否定との精神史上の一時代の特徴をまざまざと物語る驚異的な出来事の一つである。バイロン、シェリー、ワーズワース、コールリッジの絢爛《けんらん》たる詩精神が開花していた時代に、ヨークシャーの寒村の牧師館に住む少年や少女は同じ時代精神の息吹《いぶ》きをその魂のアンテナに鋭くキャッチしていた。この事実を最も強く立証しているものは、ほかならぬ『嵐が丘』『ジェーン・エア』の二作である。『嵐が丘』については後に述べるとして、『ジェーン・エア』の男主人公《ヒーロー》、地主ロチェスターは、一貫した人物典型としてエミリーの創造したヒースクリフには遠く及ばないが、それだけにシャーロットが比較的理知的な、道徳的な気質にもかかわらずいかに強く“バイロン的”な男性への魅力に憑《つ》かれていたかを物語っている。皮肉で、露悪的で、容貌《ようぼう》が普通の美男でなく恐ろしげで、荒々しく、知能はすぐれているが不均衡で、漁色と放浪を好み、世の中の因襲や束縛を憎み、軽《けい》蔑《べつ》している――これは『ジェーン・エア』が現われた一八四〇年代後半にはすでに一度飽きられて、もっと穏当な、社交的な人物が好まれるようになった一時代を経て、ふたたび新奇さの印象を与えるような性格だった。どこの国、いつの時代でも、当時もてはやされた思潮より一時代前の思潮を深く身に着け、それと自己の独創性とを結びつけた芸術家が、時代の新しい星として脚光を浴びるのはよく見る現象である。『嵐が丘』の独創性はあまりにも強力であったために、当代の文壇では多く注意されなかったけれども、その情熱の激越さ、神秘的傾向、さらに前にも言った自然への傾倒の深さは、まさしくロマンティック精神をその背景に持っている。
さて、このロマンティックの時代精神を、単に幼年的な感受性だけでなく、成熟した知性の裏づけをもって受けとめた少年、少女たちの秘密の試みは、一つはエミリーとアンが合作した『ゴンダル年代記』と題する史詩であり、もう一つはシャーロットとブランウェルの合作による『アングリア』と題するロマンスであった。後者はアフリカの空想の王国二代にわたる華麗な戦争と恋愛の一大散文ロマンスであって、シャーロットが十五歳になった頃にはもう二十巻以上の小型本に製本された原稿ができていたといわれる。このロマンスに出てくる英雄はみなバイロン的な――悪魔主義的、反道徳的な英雄であって、高貴な性情をもちながら情熱的な人妻と恋に落ちたり、私生児を生んだり、友人を裏切って破滅させたり、突飛な行動、皮肉な饒舌《じょうぜつ》、そして女性に対しては高圧的、ときには嗜虐的《しぎゃくてき》ですらある男性ばかりである。この作品はシャーロットの夫ニコルズ牧師によって大切に保存されたので幸いに今日も残っており、近年は出版もされたが、エミリーとアンの『ゴンダル年代記』のほうは惜しいことにいま伝わっていない。
それは大西洋上の空想の島にあるゴンダルという王朝の史詩といったものであるらしいが、その全貌は判らず、そこに登場する人物の作という形をとったエミリーの抒情詩《じょじょうし》だけが、前記の三人詩集に載せられて残っている。それらは紛《まご》うかたなく『嵐が丘』の作者と同じ精神の刻印をうたれた作品として読まれるものである。エミリーの死後四十八年目、一八九五年にいたって、ニコルズ氏の遺品の中から発見された金属の小箱のなかに、シャーロットがエミリーとアンとの記念のために保存しておいた各自筆の紙片があった。それは一八四一年と一八四五年とのエミリーの誕生日(七月三十日)の記念に、姉妹がとりかわした追想の手記であって、二人が合作した『年代記』に関する思い出もまた簡単ながら記されていたので、この史詩の存在がはじめて明かるみに出たのである。エミリーが最初に詩を書いたのは一八三六年(十八歳)と信ぜられ、『年代記』はその前後から数年書き続けられたらしい。それらの詩によって、ゴンダルの宮廷には王党と共和党との激しい政争があり、血みどろな愛憎や復讐《ふくしゅう》の場面が展開したことが推定されている。遠くはウォルポールやラドクリフのゴシック・ロマンス、近くはスコットの騎士譚《ものがたり》、リットン卿《きょう》の怪談などが、彼女たちの空想を刺激したにはちがいなかろうが、それが数年にわたって有機的な構造をもち、複雑な細部をもつ年代記的史詩にまで作り育てられたということは、その想像力の奔放と熾《し》烈《れつ》と、おどろくべきものがある。『嵐が丘』がその人物の心理の上ではすばらしい自然な迫真性をもちながら、物語の構成は作者の強烈な自我に支えられた堅牢《けんろう》な建築美をもっていることは、この事実を知れば少しもおどろくにあたらない。
エミリーの詩は“三人詩集”に二十一編おさめられている。シャーロットが姉の権威で手を加えたといわれるが、後年マシュウ・アーノルドが、ブロンテ姉妹の墓域をとぶらって作った挽《ばん》歌《か》『ホーワスの墓地』の中で、「その魂の強壮、熱烈、奔放、悲痛、バイロン死後に匹敵するものなし」とうたったそれらの詩編は、もちろん、エミリーその人の天才の現われだった。『虜囚』The Prisoner 『追憶』Remembrance 『老いたるストアの徒』The Old Stoic 『幻想』The Visionary 『われに怯懦《きょうだ》の魂なし』No Coward Soul in Mine 等が傑作として挙げられる。これらの詩によって、われわれは『嵐が丘』を理解する二つの鍵《かぎ》を与えられる。
一つは作者が幻覚をみる神秘家だったことである。『虜囚』や『幻想』によって、それが知られる。彼女は「神的なものとの合一」を、ただ一度だけ経験した。それは彼女にとって「有頂天の痛苦」であり「法悦の極みなる苦悩」であったと、彼女は告白する。『嵐が丘』にも反キリスト教的な主我主義がみられるように、これらの詩にも汎《はん》神論的な逸脱があるとして世評は嫌《きら》ったが、そこにブレークにも比すべき強烈な宗教的体験があったことは疑えない。それは聖書や教会とかかわりのない彼女ひとりの天国の幻である。ヒースクリフが恋人の幻をその死後十八年目に、はっきりと目のあたりに見ながら、恍惚《こうこつ》の極《きわみ》、涅《ね》槃《はん》にも似た死を遂げることが、作者にとっては少しも不自然でなかったことを、これらの詩は教える。キャサリンの幻はヒースクリフにとっては天国であった。そしてネリー・ディーンにとっては地獄であった。
次に、たといこのような天国への憧憬《しょうけい》に憑かれていたとしても、それを彼女は彼女自身の魂の内部の出来事だと明瞭《めいりょう》に意識していた、という事実である。言いかえれば彼女は魂の自由のほかには、なんらの救抜《きゅうばつ》をも求めないストイックであった。
祈らばわが祈りは一つ、
わが唇《くちびる》はつぶやかむ、
「いまわが抱く心のままに在らしめたまえ、
われに自由を与えたまえ」と。
さればわが日、沈みを急ぐいまこのとき、
ひたにわがもとむるもの、
生と死をつらぬきて雄々しく耐うる
鎖なき魂ひとつ。
――『老いたるストアの徒』第二、三節。
ひとはこの短い詩に、フランス浪漫派のストイック詩人、アルフレッド・ド・ヴィニィを思い出すだろう。これがこの時二十四歳以上ではなかった一処女の感懐だった。十六歳のキャサリン・アーンショーは、女中のネリーに向かい《おまえにしろ誰《だれ》にしろ、自分以上の『自分の生命』がある、またはあらねばならぬ、という考えはみんな持ってるでしょう。もしあたしというものが、ここにあるだけのものが全部だったなら、神があたしをお造りになったかい《・・》がどこにあるでしょう?》というむずかしい神学的な意見を述べる。彼女は天国へ行った夢をみた。《なんでもないことなの、ただ天国ってところは、あたしの住むところじゃなさそうだと言いたかっただけ。だからあたしは、地上へ帰りたくて、胸の張り裂けるほど悲しんで泣いてたの。天使たちがとてもおこって、嵐が丘のてっぺんの荒地《ヒース》のまんなかへあたしを投げ落したの。で、そこで、うれし泣きに泣いてるところで目がさめたの》聖書の天国は、キャサリンの魂にとっても鎖につながれた牢獄にほかならなかった。小娘がこういう思想を語ることを不自然だとする技巧上の欠点に目をつける人は多いかもしれぬ。しかし作者にとってこういう精神的体験が事実だったとすれば、彼女はやすやすと、なんの唐突さも感ぜずに、それを作中の彼女の分身に語らせただろう。技巧上の問題は、この思想がどれほど読者の胸に迫るか――したがって当然に読者自身の精神的体験との相関的な問題である。
さて、詩集の出版で失敗した三人姉妹は、こんどは競争で小説を書きだした。そのころ、彼女らの薄幸な男兄弟パトリック・ブランウェルが年上の人妻と恋に落ち、自暴自棄になって飲酒にふけるという事件が起こり、一家の暗翳《あんえい》はますます濃くなった。そのなかで、エミリーの『嵐が丘』とアンの『アグネス・グレイ』とは脱稿し、ロンドンの小出版社ニュービィが出版を引き受けた(一八四六年八月―二十八歳)が、その出版が一年あまり暇どっているあいだに、シャーロットのほうは処女作『教授』を方々で拒絶された揚句に、第二作『ジェーン・エア』が日の目をみた。後の雁《がん》が先になって、しかも六週間で初版を売り切るというすばらしい好評を博し、無名作家カラー・ベルの名は一時に喧伝《けんでん》された。ニュービィがエリス・ベル(エミリー)とアクトン・ベル(アン)の二人を世に送ったのは、ひとえに『ジェーン・エア』のこの成功につられてのことだった。こうして『嵐が丘』は一八四七年十二月、作者二十九歳の歳末に世に出たが、世評はシャーロットの作のかげに霞《かす》んで、はなはだ芳《かんば》しくなかった。
翌一八四八年、ブロンテ家は二人の家族を失った。阿片《アヘン》と酒に中毒し、肺患をつのらせたブランウェルが、九月に三十一歳で死んだ。老いた父は眼《め》を病んで、盲目同然になり、寵《ちょう》愛《あい》したこの一人息子を失ったのである。だがその父に先だって、同じ肺患に悩みながら、気丈に家事を引き受けていたエミリーは、兄の葬《とむら》いのときにひいた風邪がひどくなったのにもめげず、薬ものまず床にもつかぬまま、咳《せき》に苦しみ、高熱と闘い続け、十二月十九日、油の尽きた燭《しょく》の灯《ひ》が消えるように息を引き取った。バイロンをしのぐ烈々たる精神の火が三十歳の処女の弱い肉体を焼き尽したのである。――ついで、翌四九年にはアンが没し、六年後の一八五五年にはシャーロットも文名を惜しまれつつ三十九歳の若さで世を去った。
エミリーの伝記者メアリー・ロビンソンは十五歳のエミリーの外貌《がいぼう》を次のように記している(一八八三年刊)、「背の高い、腕の長い少女。体はもうすっかり大人になっていて、歩き方に弾力があって軽快だった。その細《ほ》っそりした体つきは、晴着を装った時はまるで女王さまのように見えたが、口笛を吹いて犬を呼びながら、荒野の高低の多い地面の上を、前かがみになって大股《おおまた》に歩いているところは、締りがなく、どこか男の子を思わせるものがあった。背の高い、痩《や》せた、体に締りのない少女――別に不器量というわけではないが、目鼻立ちが整っていず、顔色は青白く、濁っている。その黒い髪の毛は生まれつき美しく、後年、大きな櫛《くし》を使って頭の後ろでゆるく止めるようになってからは、よく似合って見えた。が、一八三三年(十五歳)のころは、ちりちりに縮らせて束ねていたので似合わなかった。目は榛色《はしばみいろ》をしていて美しかった」(岩波新書版、西川正身訳、モーム『世界の十大小説』から)
エミリーは内気で、社交性がなく、感情が激しく、ほとんど友達ができなかった。ブリュッセルのエジェ氏は、彼女は男に生まれたらよかった、その意志の強さは男子にも稀《まれ》にみるものだと評したという。彼女が一つ思いつめたら、誰もその決心を翻《ひるがえ》させることはできないのを、家族は皆知っていた。犬が非常に好きで、大きなブルドッグをかわいがっていたが、この犬がつけあがって、二階のベッドにのけぞって寝る悪い癖があり、あるときエミリーはこの獰猛《どうもう》な犬の首筋をとらえて下へひきずりおろし、女中やシャーロットがいまにも食い殺されるかとはらはらしている目の前で、拳《こぶし》で両方の目を打ち据《す》え、さんざん懲《こ》らしめてから、またそのふくれあがった顔の手当てをしてやったという話もある。彼女が男のようだったという印象と、男性の恋人をもった事実が知られていないということから、モームは昔も今も別に珍しくはない同性愛的性向の持主であったと推定しているが、あるいはそうであったかも知れない。これは『嵐が丘』がまことに強烈な恋愛を描いていながら、どんな控え目な女性の作品にも現われる肉体的、あるいはエロティックな描写がほとんどみられないことの説明としても一つの解釈であろう。
ヨークシャーのヒースの生い茂るムーアランドの自然は、この小説にも、また姉シャーロットの『ジェーン・エア』にも、まことに美しい表現を見いだしている。自然描写の量の豊かさは、むしろ後者の方にある。ジェーンとロチェスターの恋の場面での庭の景色、ジェーンが放浪中に野宿する、朝日にかがやく“黄金の砂《さ》漠《ばく》”のような野原など、忘れられない印象を残すが、それにもかかわらず『嵐が丘』にこそ、まるで泥炭《でいたん》地《ち》のムーアそのものが物語を一つの建築物のように、その自然に根ざしたもののように感じさせるのはなぜだろうか? それはまさしくこの作品の生命に深くつながるものである。それは単に叙景が美しいとか、“地方色”がよく出ているとかいう以上の何ものかである。ヨークシャーの風土が全編を統一して、そこに生きる人間や生起する事件そのものを、あたかもこの風土からの必然的な産物と感じさせる。作者の孤独な生涯《しょうがい》は、ヨークシャーの自然と切り離すことのできぬ結びつきを持った。敏感な個性が、己れを取り巻く自然環境から、その豊かな心情の養いを得ながら、同時に、かくして育《はぐく》んだ心情によって、その自然の個性的な美を把《は》握《あく》する。ロマンティシズムが自然を発見したといわれるのは、このような“自然と自我の合一”の直観、感情をさしていうのだが、『嵐が丘』ほどにこの自然感情の芳烈な流露をほしいままにした作品は絶無といわぬまでも稀有《けう》であろう。
《冬はこれよりうら悲しい世界はなく、夏はこれにまさる撩乱《りょうらん》たる天国はあるまい》と書かれているホーワス近傍の谷、丘、原野、沼、疎《そ》林《りん》――そして積雪と烈風と雷雨と、泥炭地特有の霧と、これが彼女の生きた環境であり、天国よりも好ましい自己の住むべき国であった。むろんこれは人間やその農耕生活と切り離された自然ではなく、そこに礎石を深く下ろして、何百年前からか、生活の場として建てられた家が『嵐が丘』であり、そこに生活の根を下ろしている人々、わけてもその荒々しい環境、風土の具象的な人格化とも見られるのが、ほかならぬヒースクリフその人だ。Heathcliff“ヒースの崖《がけ》”という名をこの男が与えられたのも、むろん偶然ではない。「あたしはヒースクリフです!」と叫ぶキャサリン・アーンショーは、たしかに作者の分身であるが、彼女がそう叫ぶ以上、ヒースクリフこそはそれ以上にも作者その人の暗い情熱を体現しているのは言うまでもあるまい。いわばエミリー・ブロンテはキャサリン・アーンショーとして激しくヒースクリフという想像裏の男性像を愛したが、同時にこの暗い情熱の男性においてしか自己を表現し得ない魂の持主であったように思われる。ヒースクリフと母キャサリンとの恋愛の情熱にこそ――あるいはこの情熱にのみ、この作品の恐るべき強烈な迫力があることは、E・M・フォースターもW・S・モームも、ともに口をそろえて説くところである。
フォースターはその著『小説の諸相』で、小説のなかに“予言”という様相《アスペクト》を現出した作家として、ドストエフスキー、メルヴィル、D・H・ロレンスとともにエミリー・ブロンテを挙げている。ただこの四人だけだ、とフォースターは言うのである。“予言”とは“幻想”と対置される様相であって、いわば日常的現実の瑣《さ》末性《まつせい》のなかから、突如として姿を現わす永遠の相、小説作品がそれを感得させるのは、単なる“声の調子”あるいは“文体”の力なのであるが、しかもそれは、紛《まご》う方《かた》なく、作者その人の予言者的資質に帰するよりほかはないところの“あるもの”である。フォースターは言う。
「ヒースクリフとキャサリン・アーンショーとの激情は(他の小説とは)別の作用をする。人物の内に住むのでなく、雷雲のように彼らを囲繞《いにょう》し、ロックウッドが窓からさしこまれた手の夢を見る瞬間から、ヒースクリフが、同じ窓を開けたままで死んでいるところを発見される瞬間まで、この小説のいたるところに起こる爆発をひき起こすのです。『嵐が丘』は音響に満ち満ちています――暴雨や烈風や、その音は言葉や思想よりも重要です。これは偉大な小説ではありますが、読み終って、ヒースクリフと母親キャサリンとのほかは、何も思い出せません。二人が別れるところから物語が始まり、死後の結合によって物語を閉じます。二人が“幽霊になって出る”のも当然のことで、こういう人間にほかの何ができましょうか? 生きているうちでさえも、彼らの愛と憎しみとは彼らを超越していたのです」(拙訳新潮文庫版『小説の諸相』一六七ページ)
モームも言っている、「恋愛の苦しみ、法悦感、残酷さが、これほど力強く描き出されている小説を、私はほかに一つも思い出すことができない。『嵐が丘』には、もちろん、重大な欠陥がいくつかある。しかし、そんなものは少しも問題にはならない。それはちょうど吹き倒された木の幹が、そこここに押し流された岩が、雪の吹きだまりが、高山の急流が物狂おしい勢いで山腹を流れ下るのを妨げはするものの、せき止めることがないのと同様である。『嵐が丘』は他のどのような書物にも比較することができない。もし比較するとすればエル・グレコの偉大な絵の一つで、雷雲が厚く空を蔽《おお》うている陰気で荒れ果てた風景の中で、丈の高い、痩せ衰えた人物が数名、いずれも姿勢をねじまげ、不気味な感情の虜《とりこ》となって息を殺しているところを描いた絵が一つあるだけである。稲妻が一筋、鉛色をした空を走っているのが、場面に不可思議な恐ろしさを与えている絵が一つあるだけである」(岩波新書版、西川正身訳、モーム『世界の十大小説』(下)一七四―五ページ)
わたしはさきにこの作品の堅牢《けんろう》な建築美について語った。いわば『嵐が丘』のもつ構造美であるが、それをわたしは他の機会に、「『嵐が丘』の世界は“時間”という要素を床石に使った堅牢な二階建てのような構造を持っている」と書いたことがある。その意味はこの小説の読者がすぐ気づくように、約三十年間に、二つの世代によって、二つの恋愛が、外見上、ごく照応的に進行し、それが物語の骨組みになっているということである。第一の恋愛はヒースクリフとキャサリン・アーンショーとのそれで、第二の変愛はヒースクリフがイザベラ・リントンに生ませたリントン・ヒースクリフと、キャサリンがエドガー・リントンに嫁いで生んだ娘キャサリンとのあいだに起こる。その恋愛の葛藤《かっとう》は、どちらもエドガー・リントンとヘアトン・アーンショーという第三の人物の存在がからむことによって紛糾し、両方とも言い合わせたように世俗的な意味で結ばれるのは女性が最初に愛した男ではない。おそらくこれは当時のロマンスの観念に影響され、作者がこしらえ構えた枠組《わくぐみ》であって、現代の読者の趣味には合わない。フォースターもモームも、その小説観では相《あい》容《い》れないほど異なった考え方をもつ現代作家でありながら、右のように『嵐が丘』については、二人とも第一の恋愛の“雷雲”のような情熱のすさまじさが物語の主軸であり、むしろ全部であるという強烈な印象をもち、それに圧倒され、無条件の讃《さん》辞《じ》を述べている。してみれば、いきおい第二の恋愛は迫力と美しさにおいて劣ると見るほかはなく、この小説の後半は作者の工夫の未熟さを示すものということになる。
わたしはしかし両大家の批評に異を立てる意味ではなしに、この物語の“二階建て”構造を否定しないのである。両大家とも、かりに未熟だとしても、その未熟さが気にならないほど、全編が緊張していることを認めている。フォースターは、“二人の別れるところから死後の結合まで”という時間的《・・・》の要素に言及している。かつてウィリアム・ワイラーが演出して『嵐が丘』の映画が作られたが、これは上手にその二階を取り外した一階建ての物語として、なかなかよく出来ていたけれども、サー・ローレンス・オリヴィエのヒースクリフの名演をもってしても原作のもつ迫力や美しさにはほど遠いものだった。二階があり、情熱と美とにおいて劣る第二の恋愛があって、やはり両大家の前記のような感銘が読後に残るのである。モームは娘のキャサリンとヘアトンとの人間に魅力と鮮明さが欠けていることを指摘しているが、この二人は“一階”時代の人物エドガーやヒンドリーの子として、そのような傍役《わきやく》的存在として、最初から構想されたのであろう。むしろ第二の変愛にハーンのいわゆる“凄《すご》味《み》”を与えているのは虚弱児リントン・ヒースクリフである。彼は父ヒースクリフの傀儡《かいらい》なのだが、傀儡として、これほど悪魔的に虚弱、劣悪な傀儡を描き得たのは、やはりエミリーの天才的筆致である。
わたしは主として作者の生涯がこの作品に投げかける暗示として、この小説の特質について語ってきた。アイルランド人の血、貧しく、母のない牧師の家、ヨークシャーの自然、迷信的な伝説とゴシック・ロマンス、浪漫主義の時代思潮、『ゴンダル年代記』、神秘的感覚と「歓喜にみちた苦悩」と、「鎖なき魂」を求める心、一切の外的幸福を拒絶するストイシズム――これらの暗示は、みな小説『嵐が丘』の有するユニークな諸特質に投影されているのだが、貧寒な片田舎の一処女の生涯をどういろどってみたところで、この大小説の与える感銘には及びもつかないのだ。否《いな》、伝記的事実を、どうひねくって解釈してみても、一巻の『嵐が丘』ほど明瞭に、エミリー・ブロンテという天才を知ることはできない。この小説の女主人公キャサリンが「あたしはヒースクリフです!」と叫んでいるように、この小説そのものが、「エミリー・ブロンテは私だ」と読者に向かって叫んでいるかのようである。だからわたしは、読者――ことに作者の年齢に近い若い読者にお願いしたい、作者についての予備知識などは念頭におかず、小説にじかに体当りするつもりで読んで下さいと。そうすればこの小説は、あなたの一生に、そうたびたびは味わえないような感激を与えるだろう。実際、あなたと同年配の、世間知らずの女が書いた小説だと、あまく見たら、小説のほうであなたを軽蔑《けいべつ》して、寄せつけないだろう。
これまで、この小説は、多くの批評家から、筋の運びがたどたどしいの、舞台に変化が乏しいの、派手なおもしろさや諧謔《かいぎゃく》がないの、世相の複雑な陰翳《いんえい》がないの、肉欲の汚ならしさが描けていないの、常識はずれな怪異、不自然が多いの――とずいぶん欠点を挙げられている。これらの欠点は、みな前に述べた作者の略伝だけ知っていれば、読まなくても予想のつくようなものばかりで、モームの言葉のとおり、たとい欠点だとしてもそれらを押し流す一貫した強い感動が読者を待ち受けている。批評家というものは作品を信じないでゴシップだけを信じるものだと誰かが言ったが、若い読者よ、わたしはあなたにはそういう批評家のような読み方をしていただきたくない。この作者の伝記は、たしかに大抵の小説よりはおもしろい。だからこそ重ねていうが、小説はそれよりはるかに壮烈で、豊富で、悲痛で、強力で――そしてあなたの内面生活に大きな養分を与えるだろう。
(一九六一年七月)
小説『嵐が丘』年譜
(1)各年号の下のアラビア数字は母キャサリン・アーンショーの満年齢を、漢数字は娘キャサリン・リントンの満年齢を示す。
(2)〔 〕内の数字はその出来事の語られる章を示す。
一七六五年 0
キャサリン・アーンショー生まれる。〔4〕
一七七一年 6
老アーンショー、リバプールから孤児ヒースクリフを連れ帰り嵐が丘に養う。〔4〕
一七七三年 8
春、老アーンショー夫人死す。〔4〕
一七七四年 9
ヒンドリー・アーンショー大学へ遊学。〔5〕
一七七七年 12
老アーンショー死す。〔5〕
ヒンドリー、妻フランセスをつれて帰宅。〔6〕
秋からクリスマスへかけて、キャサリンとリントン兄妹《きょうだい》との接触はじまる。〔6―7〕
一七七八年 13
ヘアトン・アーンショー生まれる。フランセス死す。〔8〕
一七七九年 14
エドガー・リントンとキャサリン・アーンショー婚約、ヒースクリフ失踪《しっそう》する。〔8―9〕
一七八〇年 15
老リントン夫妻、相ついで死す。〔9〕
一七八三年 18
三月、エドガーとキャサリン結婚、ネリー・ディーン、キャサリンに付き添ってスラシュクロス屋敷へ行く。〔10〕
九月、ヒースクリフ突然に帰り、嵐が丘に住む。〔10〕
一七八四年 19
ヒースクリフしばしばスラシュクロス屋敷を訪《おとな》い、イザベラを誘惑して逃亡し、彼女と結婚する。キャサリン、脳を病む。〔11―12〕
春、ヒースクリフ夫妻、旅行から帰り、嵐が丘に住む。〔13〕
三月二十日、キャサリンは女児キャサリンを生んで死ぬ。〔14―16〕
同二十五日、母キャサリン埋葬され、ヒースクリフはその墓をあばく。〔16〕
翌二十六日、イザベラ、嵐が丘を逃亡、夫と別居する。〔17〕
九月、ヒンドリー・アーンショー死し、ヒースクリフが嵐が丘の主人となる。〔17〕
十月、イザベラ、ヒースクリフの男の子を生み、リントン・ヒースクリフと名づける。〔17〕
一七九七年 一三
イザベラ死す。リントン・ヒースクリフは伯父エドガーにひきとられるが、まもなく嵐が丘へ連れて行かれる。〔18―20〕
一八〇〇年 一六
三月二十日、キャサリンが久しぶりに嵐が丘へ行き、リントン・ヒースクリフと再会する。〔21〕
キャサリンとリントン・ヒースクリフの間に手紙の往復あり。〔21〕
秋、エドガー・リントン病む。乳母ネリー・ディーンも病み、その間にキャサリンはひそかに嵐が丘をたびたび訪れる。〔22―23〕
一八〇一年 一七
八月、キャサリンはヒースクリフの計らいで従弟《いとこ》リントンに会い、その後さらにヒースクリフに欺《だま》されて嵐が丘に連れ去られ、強制的にリントンと結婚させられる。〔24―28〕
八月、エドガー・リントン死す。ヒースクリフは恋人キャサリンの墓を再びあばく。娘キャサリンは嵐が丘へ引きとられ、リントン・ヒースクリフは相続人としてスラシュクロス屋敷その他リントン家の遺産を相続する。〔29〕
十月、リントン・ヒースクリフ死す。ヒースクリフはこの息子の財産を相続し、もとのアーンショー、リントン両家の遺産をことごとく掌中におさめる。嵐が丘には彼とヘアトン・アーンショーとキャサリンと女中ズィラ、老僕《ろうぼく》ジョーゼフが住むことになる。〔30〕
十一月、青年ロックウッド、ヒースクリフからスラシュクロス屋敷を一年契約で借り受ける。ネリー・ディーンがその家政婦をつとめる。ロックウッドは嵐が丘を訪ねて一夜を明かし、キャサリン・アーンショーの幽霊に会う。翌日帰宅して病床につく。〔1―4〕
一八〇二年 一八
一月、ロックウッド、スラシュクロス屋敷を去りロンドンへおもむく。〔31〕
二月、ネリーは嵐が丘へ戻《もど》る。その後次第にキャサリンとヘアトンは親しくなる。〔32
―33〕
春、ヒースクリフ四日間断食《だんじき》、不眠のまま死す。〔34〕
九月、ロックウッド再びこの地へ来て、スラシュクロス屋敷と嵐が丘を訪ね、ヒースクリフの死の顛末《てんまつ》を、ネリーに聞く。〔32―34〕