嵐が丘
エミリー・ブロンテ/岡田忠軒訳
目 次
嵐が丘
エリス・ベルとアクトン・ベル略伝
『嵐が丘』第二版の編者序文
解説
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おもな登場人物
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ヒースクリフ……先代アーンショウに拾われて「嵐が丘」に育つ。恋と復讐に執念を燃やす。
キャサリン・アーンショウ……ヒースクリフの恋人。エドガー・リントンと結婚する。
エドガー・リントン……キャサリンの夫。スラッシクロス屋敷の主人。
イザベラ・リントン……エドガーの娘。ヒースクリフの妻となる。
エレン・ディーン(ネリー)……スラッシクロス屋敷の家政婦。もと「嵐が丘」の召使いで、この物語の語り手。
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嵐が丘
一八〇一年……
家主を訪問して、いま帰ったところだ……つきあわなくてはならない隣人は彼だけである。ここはたしかにすばらしい土地だ! イングランドじゅうで、騒がしい世間からこんなに完全に離れた場所に住みつけるなんて、信じられないくらいだ。人間ぎらいのぼくにとってはぴったりの天国といえる。ヒースクリフとぼくとはこの孤独の世界をともにするのにふさわしい組みあわせだ。彼はなんてすばらしいやつだろう! ぼくが馬を乗りつけると、彼の黒い目はひどく疑い深そうに眉の下に引っこみ、名前をつげると、両手の指はあくまで油断しないようすで、いっそう深くチョッキの中へ隠されてしまった。そのときぼくがどんな親しみを感じたか、彼は夢にも思わなかったのだ。
「ヒースクリフさんですね!」とぼくは言った。
答えるかわりにちょっとうなずいただけだった。
「こんどあなたのお家をお借りしたロックウッドです。到着早々ごあいさつにまいりましたのは、スラッシクロス屋敷《グレンジ》をぜひともお借りしたいと、しつこくお願いして、ご迷惑じゃなかったかと思いまして……きのう聞いた話では、何か別のお考えもあったとか……」
「スラッシクロス屋敷はわたしのものですよ」と彼は不意をつかれたようにぼくをさえぎった。「できることなら、だれにも迷惑なんかかけさせやしないんだが……まあ、おはいり!」
その「おはいり」は歯を固くあわせ た ま ま 言 い、「くたばりやがれ」といった感情をしめしていた。彼がもたれかかっている門の扉さえ、そのことばに応じて開く気配はない。そんなようすを見たために、なおさらぼくはお言葉どおりはいってやれ、という気持になったらしい。ぼくなんかよりはるかにうちとけない男に興味をもってしまったのだ。
ぼくの乗ってきた馬の胸が力いっばい木戸を押しつけているのを見て、彼は片手を出して、かかっているくさりをはずし、むっつりしたままさきに立って、土を盛りあげた道を歩いて行った。中庭にはいると、「ジョーゼフ、ロックウッドさんの馬をあずかってやれ。それからぶどう酒を持ってこい」と呼びかけた。
「これで召使は全部らしいな」一人にふたつの用事を言いつけるのを聞いて、そんな考えが浮かんだ。「どうりで、敷石のあいだは草ぼうぼうだし、生垣の刈りこみは家畜に任せてあるはずだ。
ジョーゼフは年輩の……というよりも、もう老人だった、元気で頑丈なからだつきだが、たぶん相当な年なのだろう。「やれやれ、神さま!」とぼくの馬を引きとってくれながら、気むずかしく不機嫌そうにつぶやいた。同時にひどくむっとした顔でぼくの顔を見ているので、きっとこの爺《じい》さんは昼飯の消化に神さまのお助けが必要なのだろう、いまの信心深い叫び声も、ぼくが不意にやって来たせいではないだろう、と大いに同情してやった。
「|嵐が丘《ワザリング・ハイツ》」というのがヒースクリフ氏の住居の名だ。「ワザリング」とは、こんな場所のせいで、嵐のときにさらされる激しい風をうまく言い表わした土地言葉なのである。実際その頂きでは、澄んで身もひきしまるような風が始終吹いているにちがいない。屋敷のはしの二、三本のいじけた樅《もみ》の木が、ひどくかしいでいるのを見ても、やせこけた一列のさんざしが日光の恵みを求めるように、みな同じ方向に枝を伸ばしているのを見ても、崖ぎわをこえて吹きつける北風の強さがわかろうというものだ。さいわい建築家がさきのことをよく考えて、家を頑丈に作っておいた。小さい窓は壁に深く埋めこまれ、家の角の部分は大きな石の張り出しで守られていた。
敷居をまたぐ前にぼくは立ちどまり、建物の正面、とりわけ中央の扉のあたりにふんだんにつけられた、異様な彫刻を感心してながめた。扉の上の、崩れかかった怪獣《グリフィン》や、無作法なかっこうの男の児《こ》がいっぱいいる中に、「一五〇〇年」という年号と「ヘアトン・アーンショウ」という名前を認めた。ぼくは少し感想でものべて、無愛想な主人からこの屋敷の簡単な来歴を聞いてみたかった。しかしドアのところに立った彼の態度ときたら、ぼくにさっさと中へはいるか、いやならきっぱり立ち去れ、と言わんばかりだったし、ぼくもこの家のいちばん奥まで拝見しないうちに、これ以上怒らせてもつまらない、と考えなおした。
一歩中にはいると、すぐ家族の居間で、玄関の間も廊下もなかった。この地方では、ここを特に他の部屋と区別して、「うち」と呼んでいる。ふつうは台所と居間もいっしょになっているのだが、嵐が丘では台所はまったく別の場所に退散させられているらしい。少なくとも話し声や台所道具のたてる音は、ずっと奥のほうから聞こえたし、大きな暖炉のあたりには、煮炊《にた》きやパン作りをしている形跡もなく、壁にも銅製の鍋《なべ》や錫《すず》の水切り器が光っているわけではなかった。もっとも一隅には巨大な樫《かし》の食器棚があり、その上に銀の水差しや大コップを混じえた、無数の白鑞《しろめ》製の皿が何段も積み重ねられて屋根までとどき、炉の光と熱をきらきら反射していた。屋根裏は天井板が張ってないので、見ようとすれば屋根の骨組がまる見えだった。ただ燕麦《えんばく》の菓子や牛の脚肉、羊肉、ハムなどをのせた木の台が作ってあり、そこだけ屋根裏が隠れていた。炉の上のほうに、さまざまなぶっそうな古い銃と二挺の大型ピストルがかけてあり、棚には飾りとして三つのけばけばしい色を塗った茶筒がならべてある。床はなめらかな白い石でできていた。いくつかの椅子はもたれの高い、素朴な作りで、緑色に塗ってある。どっしりした黒い椅子がひとつかふたつ陰のほうに見えた。食器棚の下のアーチ形になったところに、大きな、黒っぽい赤茶色の雌《めす》のポインターが寝そべり、そのまわりに子犬が集まってキーキー泣いていた。ほかにも何匹かの犬がすみっこにうろうろしていた。
部屋も家具も、半ズボンとゲートルでたくましい両脚をさらに強そうに見せた頑固な顔つきの、飾りけのない、北国の農民のものだとしたら、特に変わったところはないといってよい。そんな人物が肱かけ椅子にかけ、円テーブルに泡だつビールのジョッキをおいた光景は、食後の適当な時間に行けば、この辺の丘陵地帯五、六マイルのところではどこにでも見られる。しかしヒースクリフの人物はその住居や暮らしぶりと奇妙にそぐわなかった。容貌《ようぼう》は浅黒いジプシーみたいで、服装や態度は紳士風だった。紳士というのは、多くの田舎《いなか》の地主なみの紳士だというわけだ。少しだらしのないところがあるとも言えるが、きりっとした堂々たる風采《ふうさい》のために、その無頓着さが不都合には見えない。そしてやや無愛想だった。人によっては下品な尊大さととるかもしれないが、ぼくの胸のうちには共鳴するところがあって、ぜんぜんちがうのだと考えた。ぼくには彼の無口さが、感情をおおっぴらに表わすこと……おたがいに親しみをしめしあうことを嫌うためなのだと本能的にわかる。彼はひそかに愛しも憎みもするが、他人が自分を愛したり憎んだりするのは無礼だと考えるようだ。……いや、これは早まりすぎた。ぼくはぼく自身の性格をいい気になって押しつけているのだ。ヒースクリフ氏が勝手に知人ぶる人によそよそしくするのは、ぼくとはまったくちがった理由によるのだろう。きっとぼくの性質が風変わりなのだ。ぼくの母はよく、お前にはしあわせな家庭はもてっこないよ、と言ったものだ。たしかにそのとおりだということを、この前の夏にみごとに自分で証明してしまった。
海岸でひと月よい天気に恵まれて過ごすうち、ぼくはすごく魅力的な女性と知りあいになった。彼女がぼくなんかに目もくれないうちは、ぼくの目には彼女がこの世の女神のように写った。口に出して「つもる思いを告白はしなかった」けれど、目が口ほどにものを言うものなら、どんなばかだってぼくが首ったけだったことがわかったはずだ。ついに彼女に気持が通じ、その目がこちらの愛情に答え……想像もつかぬほどやさしい思いをこめて見つめてくれた。するとぼくはどうしたか? 恥ずかしいけど白状する……蝸牛《かたつむり》みたいに、冷ややかに自分の殻《から》に引っこんでしまったのだ。意味深長な目つきに合うたびにますます冷たく、遠ざかってしまった。ついに可哀想に、うぶなその人は自分のかんちがいだったかと疑い、誤解したと思いこんでうろたえ、母親を説きつけて引きあげて行ってしまった。こんな変てこな性分のおかげで、ぼくはわざと冷酷にふるまう男という評判をとった。いかに不当な評判であるか、ぼくだけがよく知っている。
ぼくの家主が歩みよったのと反対側の、暖炉の一方のはしにぼくは腰をおろし、沈黙の気まずさを粉《まぎ》らすために、親犬の頭をなでようとした。その犬はいつのまにか子犬のそばを離れ、唇をめくりあげ、白い歯によだれをためて飛びかかろうとしながら、ぼくの足のうしろに忍び寄っていた。なでてやると、のどから長いうなり声をたてた。
「その犬にかまわないほうがいい」とヒースクリフ氏も犬にあわせてうなり声で言い、足で犬を蹴りつけ、それ以上狂暴なようすをしめさせないようにした。「甘やかされるのに慣れてないんでね……愛玩《あいがん》用じゃないんだから」そして脇のドアに大股で近づき、ふたたび「ジョーゼフ!」とどなった。
ジョーゼフは穴蔵の奥でなにやらぶつぶつ言っていたが、あがってくる気配は見せなかった。それで主人のほうからおりて行き、ぼくだけ獰猛《どうもう》な雌犬と、二匹の恐ろしい毛むくじやらの羊用番犬と、さし向かいで残されてしまった。番犬は雌犬といっしょになってぼくの一挙一動を油断なく監視していた。すすんで犬どもの牙にかかりたくはなかったから、ぼくは動かないでいた。が、黙って軽蔑してやったところでわかりっこないだろうと思い、三匹に目くばせしたりしかめ面《つら》して見せたりしたのがいけなかった。ぼくがいろいろ見せた顔のうちのどれかが雌犬のお気に召さなかったらしい。突然猛りたってぼくの膝《ひざ》に飛びのってきた。ぼくは突き飛ばし、いそいでテーブルをあいだに置いた。これが犬の仲間の全部を煽《あお》りたててしまった。大小とりどり、老若さまざまの四つの足の悪魔どもが六匹、どこかの隠れ場所から同じ目標に向かって飛びだしてきた。特に踵《かかと》と上衣の裾《すそ》が攻撃のまととなった。火掻《ひか》き棒で大物の襲撃を精いっぱいはずしながら、大声あげて家人の助けを求め、その場を静めてもらわなければならなくなった。
ヒースクリフ氏と下男が、腹のたつほど落ち着きはらって穴蔵の階段をのぼってきた。暖炉のまわりは咬《か》みついたり吠えたてたりの大騒動だというのに、ふだんより一秒でも急ぐようすはなかった。さいわい、台所からいち早く駆けつけてくれた人がいる。大柄なおばさんで、ガウンをたくしあげ、腕まくりし、頬を火で真っ赤にほてらせ、フライパンをふり回しながら、われわれの真っただなかへ飛びこんで来た。そしてその武器と舌をきわめて有効に使ったので、騒ぎは魔法のように静まり、彼女一人が暴風のあとの海よろしく胸を波うたせているだけ。やっとその場に主人が現われた。
「いったい、どうしたというんです?」と言って、じろりとぼくを見るようすは、こんなひどいもてなしを受けたあととしては我慢ならないものだった。
「まったく、どうしたわけですかね!」とぼくはつぶやいた。「悪鬼にとりつかれた豚の群れだって、お宅のけだものどもよりましな根性をしてたでしょう。いっそのこと、初めての客は虎の群れにでも投げこんだらいいでしょう!」
「何もしない人には手だししないはずなんだ」と彼は言い、酒びんをぼくの前に置き、テーブルをもとの位置にもどした。「犬が油断なく警戒するのはあたりまえのことさ。まあぶどう酒でも一杯どうです?」
「いや、けっこうです」
「咬《か》まれはしなかったろうね?」
「咬まれたら、咬んだやつにこちらの印《しるし》も残してやりましたよ」ヒースクリフ氏の表情がゆるんで、にやっと笑った。
「まあ、まあ、うろたえなさんな、ロックウッドさん。さ、ぶどう酒を少しどうです。この家にお客が来るのはめったにないから、正直なところ、わたしも犬ももてなしかたを知らないんでね。では、ご健康を祝して!」
ぼくは頭をさげてお返しの乾杯をした。やくざ犬どもが無礼を働いたからといって、ふくれ面《つら》しているのもばかげたことだという気になってきたのだ。おまけにこれ以上彼をおもしろがらせてやるのもしゃくだった。どうやら向こうは楽しんでいたようだからだ。すると彼のほうも……たぶん、けっこうな借家人を怒らせては損だという慎重な考えに傾いたらしく……代名詞などをちゃんと言わないぶっきらぼうな話し方を少しやわらげ、ぼくの興味を引きそうな話題を持ち出してきた。つまりぼくの選んだ隠遁《いんとん》場所の長所と短所を論じはじめたのだ。この話題になると彼はなかなか博識だった。こうして別れを告げるころには元気が出て、明日もう一度訪ねさせてもらうと言ってしまった。彼は明らかに二度と邪魔されたくないようすだった。でも、かまうものか、行ってやれ。彼とくらべたら、ぼくのほうがずっと社交的に見えるのだから驚いてしまう。
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咋日は午後になると霧が出て冷えてきた。ヒースの茂みとぬかるみの中を、嵐が丘まで苦労して行くよりは、書斎の火のそばで過ごそうかという気持にもなった。ところが正餐《ディナー》をすまして二階へもどり(註……ぼくは十二時と一時のあいだに正餐をとる。屋敷を借りると同時に、そこの居着きの人として雇った家政婦は、親切な婦人だが、正餐は五時にしてほしい、というぼくの頼みがどうしてもわからない。いや、わかってくれようとはしないのだ)、そんなものぐさなことを考えながら階段をのぼり、書斎にはいったら、女中が雑木のそだや石炭入れを散らかした床に膝をつき、石炭がらの山で火を消してしまい、もうもうたるほこりをたてている最中だった。こんな光景を見て、たちまちぼくは退散してしまった。帽子をかぶり、四マイルの道を歩いて、吹雪の前の羽毛のような雪片が舞い落ちはじめる前に、うまくヒースクリフ氏の庭木戸に着くことができた。
吹きさらしの丘の頂きでは、大地は黒ずんだ霜に固く凍りつき、冷たい風にからだじゅう震えあがった。門のくさりがはずれないので、飛びこえてしまった。生えひろがった|すぐり《ヽヽヽ》の茂みに縁どられた盛り土道の敷石を走って、玄関をノックしたが返答がない。そのうち指の関節が痛んでくるし、犬が吠えだした。
「ひどい連中ばかりだ!」とぼくは心の中で叫んだ。「こんな乱暴な客あしらいをしてたら、世間から永久に相手にされなくなるのが当然だ。少なくともぼくなら真っ昼間からドアに錠なんかおろしておきはしない。かまうものか……はいってやれ!」そう決心して、掛け金をつかんで激しくゆすぶった。気むずかしい顔をしたジョーゼフが納屋の丸窓から首を突きだした。
「何の用だね?」と彼は叫んだ。「旦那は羊小屋だ。旦那に話があるんなら、納屋のはじを回って行きなされ」
「戸をあけてくれる人は中にいないのかね?」とぼくも思わずどなり返した。
「奥さましかいねえ。おめえさんが晩までがたがたやったって、あけてくれる気づけえはねえ」
「なぜだい? ぼくの来たことを奥さんに話してくれないか、ジョーゼフ?」
「やなこった! わしの知ったことではねえ」そうつぶやいて首を引っこめてしまった。
雪はどんどん降りだした。ぼくはもう一度ゆすぶってみようと、ドアのハンドルをつかんだ。そのとき、上衣も着けずに熊手をかついだ若者が裏庭に姿を現わした。彼がぼくについてこい、と声をかけてくれたので、洗濯場をぬけて、石炭置場、ポンプ、鳩舎などのあるたたきのところを通って行くと、ついに昨日も通された、大きな、暖い、居心地のよい部屋にたどりついた。そこは石炭や泥炭や薪をいっしょにくべた大きな炉が輝いて、気持よくぽかぽかしていた。晩飯のごちそうをたっぷり盛った食卓の近くに「奥さま」がいるのに気がついて嬉しくなった。それまではこんな人がいるなんて思いもよらなかったのだ。ぼくは会釈して、おかけ下さいと言ってくれるのを待った。が彼女は椅子にもたれたままぼくを見ただけで、身動きもせず黙っている。
「ひどいお天気ですね!」とぼくは言った。「失礼ですが、ヒースクリフの奥さん、召使の人がのんびりしてるので、玄関の戸はひどい目に会うようですね。ぼくがノックしてもあけてくれないので、骨を折りました」
相手はぜんぜん口を開かない。ぼくはじっと顔を見つめた……向こうも見つめ返す。とにかく彼女は冷淡な、よそよそしい視線をぼくに注いでいる。ひどくばつが悪く、不愉快になってきた。「かけなよ」と若者がそっけなく言った。「すぐ来るよ」
ぼくは言われるままに腰をかけ、咳ばらいして、例のやくざ犬のジュノーを呼んでやった。すると二度目の対面というわけで、ぼくを知っているしるしに尻尾《しっぽ》のほんの尖端だけ動かして見せてくれた
「りっばな犬ですね!」とぼくはまた切りだした。「子犬のほうをよそへおやりになる気はありますか、奥さん?」
「あたしのじゃありません」愛らしい女主人の返事ときたら、ヒースクリフだってかなうまいと思うくらい、けんもほろろだった。
「ああ、あなたのお気に入りはこっちでしたか」ぼくは猫みたいなものがいっぱいいる、薄暗いすみっこのクッションのほうを向いて、続けた。
「変なお気に入りだこと!」と彼女はあざけるように言った。
あいにく、それは死んだ兎の山だったのだ。ぼくはもう一度咳ばらいをし、夕方の天気が荒れてきたことをくり返して言った。
「出かけて来なければよかったのですわ」彼女はそう言って立ちあがり、手を伸ばして炉棚から彩色した茶筒をふたつ取ろうとした。
彼女の位置はそれまで陰になっていたが、これで初めて全身と顔がはっきり見えた。ほっそりして、まだ少女期を脱しきっていない若さだった。姿は見とれるほど美しく、こんなにすばらしく愛くるしい小さな顔を見たのは初めてだ。目鼻だちは小づくりで、ぬけるような色白だ。亜麻色《あまいろ》、というより金色の巻き毛がゆるやかに、ほっそりしたうなじに垂れている。目はやさしい表情をしていたら、とびつきたいほど魅力的だったにちがいない。だが、ぼくみたいな感じやすい人間にとっては幸いにも、その目がしめしていたただひとつの感情は軽蔑とも一種の絶望ともつかず、その美しい目にぜんぜんそぐわないものだった。
茶筒は彼女の手にはなかなか届きそうもなかった。ぼくが手を出して助けてやろうとすると、守銭奴《しゅせんど》が金勘定の手伝いでも申しこまれたかのように向き直り、噛《か》みつくような見幕《けんまく》で、「放っておいて下さい。自分で取れます」
「これは失礼!」とぼくはあわてて答えた。
「お茶によばれたのですか?」とこぎれいな黒い服にエプロンを結び、お茶の葉をひと匙《さじ》ポットに入れかけて、問いただす。
「喜んでごちそうになります」
「よばれたんですか?」とまた聞く。
「いいえ」ぼくはなかば笑いながら、「奥さんがよんで下さると一番いいんですが」
すると彼女は匙ごと茶の葉を缶に投げこみ、ぷんとして、椅子にもどった。額に皺《しわ》をよせ、赤い下唇を突き出し、子供が泣きだしかけたような顔をした。
いっぽう、さっきの若者はおそろしく見すぼらしい上衣をひっかけて暖炉の火の前に立ち、横目でぼくのほうをにらんでいた。まるでぼくと彼のあいだに、たがいに殺さずにはおかぬ怨《うら》みがまだ晴らされていないかのようだった。これは下男なのか、それともちがうのだろうか、と考え始めた。服装もことばも粗野で、ヒースクリフ夫妻に見られるような気位はぜんぜんない。濃い茶色の巻き毛はくしゃくしゃで櫛《くし》も入れず、頬ひげは熊みたいに頬をおおい、両手は賎《いや》しい作男のように日焼けしている。しかも態度ときたら横柄《おおへい》といっていいくらい無造作で、この家の女主人に仕える召使らしいまめまめしさはまるでない。彼の立場をはっきりしめすものがないから、奇妙な振舞は気にしないのがいちばんと考えた。五分ばかりするとヒースクリフがはいってきたので、いくらか気まずい立場から救われた。
「どうです、約束どおりやって来ましたよ!」とぼくはわざと快活そうに叫んだ。「この天気じゃ、半時間は動けそうもありません……そのあいだだけ置いて下さるならね」
「半時間だって?」と彼は服の雪をはらい落としながら言った。「それじゃ吹雪のいちばんひどい時を選んでうろつくことになりそうだ。沼地で迷い子になる危険があってもいいのかね? この辺の荒野《ムア》を歩きなれた者だって、こんな晩はよく道に迷うんだ。いまのところ晴れる見こみはないね」
「お宅の若い人に案内して頂けませんか、今夜はぼくの屋敷で泊まってもらうことにして……だれか貸して頂けませんか?」
「いや、だめだめ」
「だめですか! なるほど、それなら、ぼくの勘に頼って帰るしかありません」
「ふふん、どうかな」
「茶をいれる気かい?」と見すぼらしい上衣の若者が、鋭い目つきをぼくから若い女性のほうに移して聞いた。
「この人に出すんですか?」と彼女はヒースクリフにおずおずと伺《うかが》いをたてた。
「仕度したらいいだろう!」という返事は、あまりに乱暴で、ぼくはぎくっとしたくらいだ。その語調には本当のねじけた本性が現われていた。もはやヒースクリフをすてきなやつだなんて呼ぶ気はしなくなった。お茶の用意ができると、彼はぼくを「さあ、あんたの椅子を前へ出しなさい」と呼んでくれた。そこで一同は例の粗野な若者も加えて、食卓のまわりに集まった。食事のあいだじゅうきびしい沈黙が支配していた。
重苦しい空気を招いたのがぼくだったとすれば、それをはらいのける努力をする義務もある、と考えた。毎日こんなに陰気におし黙っていられるはずはない。どんな気むずかし屋ばかりだって、そろいもそろって毎日こんなしかめ面ばかりしていられるものじゃない。
「不思議なものですね」一杯飲み終えて、おかわりを待つあいだにぼくは始めた……「不思議なもので、習慣というものはぼくらの趣味や思想を型にはめてしまいます。ヒースクリフさん、あなたみたいに完全に世間から離れた生活をしていてもしあわせがあるなんて、たいていの人には想像もつかないでしょう。でも、失礼ですが、ご家族の皆さんにとり巻かれ、やさしい奥さんが守り神のようにあなたの家庭と心の上にいてくれる場合は……」
「わたしのやさしい奥さんだって!」ぼくをさえぎった主人の顔にはほとんど悪魔的な冷笑が浮かんでいた。「どこにいるんだね……わたしのやさしい奥さんなんて?」
「ヒースクリフ夫人、あなたの奥さんのことですよ」
「うん、そうか……じゃ、あんたは、わたしの妻の霊が、肉体の消えうせた後も、守護天使の役目をして、嵐が丘の運命を見守っていると言いたいんだな。そういうことかね?」
へまをやった、と気がついたぼくは、なんとか取りつくろおうとした。その二人が夫婦であるにしては、年齢がちがいすぎることに早く気がつくべきだった。いっぽうは四十歳前後……若い娘と恋愛して結婚しようなどという迷夢はめったにいだかぬ、気力にみちあふれた年ごろではないか。そんな夢はもっと老年の慰めにとっておかれるものだ。片方はまだ十七にも届かないくらいだ。
そのときふっと頭にひらめいたのは……「ぼくの横で鉢からお茶を飲み、手も洗わずにパンを食べている田舎者が、彼女の夫なのかも知れない。むろんヒースクリフ二世というわけだ。これこそ埋もれた生活から生まれてきた男だ。彼女はもっとましな男もいることを知らずに、あんな粗野な男に身を任せてしまったのだ! かわいそうに……ぼくを見たために、あんな夫を選んでしまった不運を後悔するようなことになったら大変だ」こんな考えは自惚《うぬぼ》れみたいだが、ちがう。ぼくの隣の若者ときたら、胸くそわるくなるようなやつだが、ぼくのほうはまず魅力的な人間だということを、経験上知っているからだ。
「ヒースクリフ夫人はわたしの義理の娘です」とヒースクリフは言って、わたしの推測の正しさを裏書きしてくれた。それを言うとき、ヒースクリフは妙な顔つきで彼女のほうを見た。それは憎悪の表情だった……彼の顔の筋肉がよほどひねくれた動きをして、ふつうの人のように心の中で思うことを表わさないとすれば別だが。
「ああ、なるほど……それでわかりました。きみがあのやさしい妖精を手に入れた幸運な人なんですね」とぼくは隣の若者のほうを向いて言った。
これは前よりもまずかった。若者は真っ赤になり、拳を握りしめ、飛びかかってきそうなようすを見せた。が、じきに心を落ち着け、腹立ちを押し殺すかわりに、ぼくについて何かひどい呪い文句を吐いたが、ぼくは知らぬふりをしていた。
「あんたの推測はまずかったね」と主人が言った。「わたしらはどっちも、君のいうやさしい妖精とやらの持主にはなれないのさ。これの夫は亡くなったよ。義理の娘だと言ったでしょう、つまりわたしの息子と結婚したわけさ」
「それでこちらの若い方は……」
「むろん、わたしの伜《せがれ》じゃない!」
ヒースクリフはまた笑った。こんな熊みたいな男の父親にされるのは、冗談も度がすぎると言いたげだった。
「おれはヘアトン・アーンショウというんだ」と若者がうなるように言った。「おれの名に敬意をはらってもらいたい!」
「敬意を欠いた覚えはありませんよ」とぼくは答えた。向こうがもったいぶった名乗りかたをしたので、内心おかしくてたまらなかった。
若者はいつまでもじっとぼくをにらんでいる。その横面を殴りつけてやるか、おかしさに吹きだすかしてしまいたくなったので、こちらからさきに目をそらした。このけっこうな家庭のだんらんには、とても居たたまれぬ気がしてきた。せっかくまわりがぽかぽか暖く居心地よいのに、陰気な気分が立ちこめ、消し去ってしまう。これでは、もう一度この家に訪問するのは、慎重に考えなければならない、と思った。
食事が終わっても、だれひとり雑談をはじめるのでもない。ぼくは窓に近づいて、大気のようすを調べた。陰うつな眺めが目にはいった。いつもより早く真っ暗な夜となり、荒涼と吹きめぐる風と、息づまるような雪に溶けこんで、空と丘のけじめもつかない。
「これじゃ、とても案内人なしには帰れそうもない」と思わず叫んでしまった。「道はとっくにうずまってるだろうし、たとえ道があったって、ひと足さきも見わけがつかないだろう」
「ヘアトン、あの十頭ばかりの羊を納屋の庇《ひさし》の下へ追いこんでおけ。ひと晩じゅう囲いの中においたら、雪に埋まってしまう。前に板を立てておけよ」とヒースクリフが言った。
「ぼくはどうしたらいいのかな?」とぼくはしだいにじりじりしてきながら、続けて言った。だれも答えてくれない。ふり返ると、犬に粥《かゆ》の桶を運んできたジョーゼフと、暖炉に身をかがめたヒースクリフ夫人しか見えない。夫人はさっき茶缶をもとにもどすとき、炉棚から落ちたマッチの束《たば》を燃やして楽しんでいる。ジョーゼフは桶をおくと、室内をじろじろ見まわし、しわがれ声でがなりたてた……
「おめえさまはまあ、みんな外へ出てるっちゅうに、そんなとこでのらくらしたり、悪いことをしてなさる! だが、おめえさまはろくでなしだ。言ったってなんにもなんねえ……悪いくせをなおそうたぁしねえ、だから、おめえさまのおふくろさまがさきにいっちまったように、とっとと悪魔のとこへ行くがいいだ!」
ぼくは一瞬、この毒舌が自分に向けられたものと思った。それでかっと逆上し、老いぼれの悪党を扉の外へ蹴とばしてやろう、と進みでた。ところが、ヒースクリフ夫人が答えたので、ぼくはひきとめられた。
「この恥さらしの猫っかぶり! 悪魔のことなんか口にしたら、おまえこそからだごともっていかれてしまうよ。あたしを怒らせないがいい。でないと、おまえに悪魔が特別に目をかけて、さらっていくようにしてやるから。お待ち! よくって、ジョーゼフ」と言いながら、彼女は細長い黒い本を棚から取った。「あたしの魔術がどんなに上達したか見せてやる。あたしはじきに残らず極めてしまうのだからね。あの赤牛が死んだのは偶然じゃない。お前のリューマチだって、神さまのおぼしめしだなんて思ったら、大まちがいだよ!」
「えい、なんて恐ろしいこった! 神さま、わしらを災いからお救い下さい!」
「だめよ、外道《げどう》め! お前なんか神さまに見捨てられてるんだ。行ってしまえ。行かないとほんとにひどいめに合わせるよ! 蝋と粘土で固めてしまうよ! あたしの定めた掟《おきて》をふみはずす者がいたら、それこそあたしは……どんなにしてやるか、教えてやらないけど……でも、いまにわかるよ。行きなさいったら! 行くまで見ているよ!」
かわいい魔女が美しい目に敵意をこめるふりをすると、ジョーゼフは本気で震えあがり、お祈りするやら、「恐ろしいこった」と叫ぶやらして、逃げだした。ぼくは彼女の振舞を一種の退屈しのぎの冗談と思ったので、二人だけになると、なんとかぼくの困った立場に同情をひこうと、本気で切りだした。
「ヒースクリフ夫人、ご迷惑かもしれませんが、そんなやさしいお顔をしていたら、心もきっとやさしいにちがいありませんから、申しあげるんです。帰り道がわかるような目じるしを教えて頂けませんか。あなたもロンドンヘ行く道がわからないでしょうけれど、ぼくもどうやって家へ帰ったものか、見当がつかないんです!」
「来た道をお帰りになったらいいのよ」と彼女は答えて、椅子にからだを落ち着け、燭台を手にして、さっきの細長い本を前に拡げた。「そっけない教え方みたいだけど、これよりたしかなことは言えません」
「では、ぼくが沼地の中か、雪に埋まった穴の中で死体になって発見された、と聞いても、責任の一端はあなたにある、とささやいてくれるような良心はないとおっしゃるんですか?」
「なぜですか? あたしにはあなたのお伴はできません。庭の塀のはしまでだって行かせてもらえないのに」
「あなたのお伴なんて、とんでもない! こんな晩には、ぼくのために家の外へ出ていただくことだって、お願いできやしませんよ」とぼくは叫んだ。「道案内をお願いしてるんじゃなく、道を教えて下さい、と言ってるだけですよ。それがだめなら、ヒースクリフさんに、案内人をつけてくれるように頼んでいただきたいんです」
「だれにするの? ヒースクリフとアーンショウと、ジラーと、ジョーゼフと、それにあたししかいないのに。このうちのだれにしたいの?」
「農場に若い男はいないんですか?」
「いません。いま言ったので全部です」
「それじゃ、ここに泊めてもらうしかないわけだ」
「それはここの主人と相談して決めてもらうことです。あたしには関係ないわ」
「あんたもこれに懲《こ》りて、この辺の山をむやみと歩き回らんことだね」台所の入口から、ヒースクリフの手きびしい声がした。「ここに泊まると言ったって、客の用意なんかしてないよ。泊まる気なら、ヘアトンかジョーゼフの寝床にいっしょに寝てもらうしかない」
「この部屋の椅子の上でも眠れます」とぼくは答えた。
「だめ、だめ! 金持でも貧乏人でも、他人は他人だ。わたしが目を配ってないときに、家の中をうろつき回られるのは趣味にあわない!」とこの礼儀知らずのならず者が答えた。
こんな侮辱に、ぼくの忍耐力も限度に来た。いまいましさをぶちまけてから、彼のそばをすりぬけて庭へ飛びだした。あわてたのでアーンショウにぶつかってしまった。真っ暗闇で出口もわからない。ぐるぐる歩き回るうちに、ここの仲間同志の礼儀正しさをしめすもうひとつのやりとりを耳にした。初めのうちは、若者がぼくの味方になってくれそうだった。
「おれが猟園《パーク》のとこまで送ってやるよ」と彼が言うのだ。
「地獄まで送って行きやがれ!」と彼の主人……どんな関係かは知らないけれど……が叫んだ。
「それで馬の世話をだれがやるんだ、ええ?」
「馬をひと晩ぐらい放っておいたって、人間一人の命にはかえられません。だれか行ってやらなくてはならないわ」と意外にやさしくヒースクリフ夫人がつぶやいた。
「おめえの指図でなんか行くもんかい!」とヘアトンがやり返した。「あの男が心配だったら、黙ってろ」
「それなら、あの人の幽霊につきまとわれるがいい。ヒースクリフさんの屋敷がぼろぼろになるまで、二度と借り手なんかできないほうがいいんだわ!」彼女も激しくやり返した。
「そら、聞きな、若奥さまが二人を呪ってるだ!」とジョーゼフがつぶやいた。その爺《じい》さんのほうへぼくは進んで行った。
彼はすぐ近くで角灯の明かりを頼りに、牛の乳をしぼっていた。ぼくはいきなり角灯を奪い取り、明日《あした》返すよ、と叫びながら、いちばん近い門へ向かって走った。
「旦那さま! 旦那さま! カンテラを盗みましたぞ! それ、ナッシャ! それ、犬よ! それ、ウルフ! つかめえろ! つかめえろ!」ジョーゼフはぼくの逃げるあとを追って来ながら叫んだ。
小門をあけたとき、二匹の毛むくじゃらの怪物がぼくの喉首《のどくび》めがけて飛びかかり、ぼくを押し倒し、灯を消してしまった。ヒースクリフとヘアトンが声をそろえてげらげら笑ったので、ぼくの激昂《げっこう》と無念さは頂点に達した。さいわい、犬どもはぼくを生きながらむさぼり食うよりも、前足を伸ばしたり、あくびしたり、尾を振りたてるほうに熱心だったからよかった。が、起きあがるのは許そうとしないので、意地悪な飼い主たちが助けてくれる気になるまで、倒れているより仕方がなかった。やっと起きあがると、帽子も飛ばしたまま、憤怒に身を震わせて、悪漢どもに、ぼくを外に出せ、これ以上一分でもここにおいたら、ただではおかないぞ、とか、わけもわからぬ脅し文句をならべたが、それにはリア王にも負けない無限の憎悪がこもっていたのである。
激昂のあまり、鼻血がどくどく吹きだした。それでもまだヒースクリフは笑っている。ぼくはどなり続けた。このときぼくよりも理性的で、この家の主人よりも親切な人間が手近にいてくれなかったら、この場がどう収まったか見当もつかない。それは、あの頑丈な家政婦のジラーだった。彼女がこの騒ぎはどうしたのか、とようすを見に来たのだ。彼女は家のだれかがぼくに乱暴を働いたものと思ったが、まさか主人に食ってかかるわけにもいかず、若いほうの悪党に鉾先《ほこさき》を向けてまくしたてた。
「まったく、アーンショウさん」と彼女は叫んだ。「この次はどんなことをするかわかりはしない! この家の玄関さきで人殺しでもする気なんですか? こんな家はまったくわたしの性にあわない……かわいそうに、あの若い人は息も絶えだえじゃありませんか! 静かに、静かに! あなたもそんなにどなるのはやめて、中へはいりなさい。わたしが手当てしてあげますよ。さあさあ静かにして」
こう言うと、いきなり氷のような冷水をぼくの首筋に浴びせかけ、台所へ引きずりこんだ。ヒースクリフ氏もついて来た。さっきの一時的な笑い顔はたちまち消えて、いつもの気むずかしさにもどっていた。
ぼくはひどく気分が悪く、目まいがして、気を失いそうだった。やむをえず、ヒースクリフの屋根の下に泊まることを承知してしまった。彼はジラーに、ブランデーを一杯持ってきてやれ、と命じてから、奥の部屋へ引っこんでしまった。いっぽうジラーはぼくの惨めな立場を慰めて、言いつけどおりブランデーを飲ませてくれた。ぼくがいくらか元気を取りもどすと、ベッドヘ案内してくれた。
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二階へ案内しながら、彼女はぼくに、蝋燭《ろうそく》の灯を洩らさないように、物音をたてないように、と注意した。これからぼくを寝《やす》ませてくれる部屋について、主人が妙な考えを持っていて、だれもそこに泊めたがらないのだ、と言う。ぼくはその理由をたずねたが、知らない、と彼女は答えた。ここへ来て一年か二年にしかならないし、この家ときたら、妙なことばかりありすぎて、いちいちせんさくする気にもなれない、と言うのだ。ぼくも頭がぼうっとしていて、好奇心どころではないので、ドアをしめ、ベッドの場所を探した。椅子一脚、衣裳|箪笥《だんす》ひとつ、それに大きな樫の箱しか家具はない。樫の箱にはてっぺんのほうに、乗合馬車の窓みたいな四角の穴があいている。箱に近づいてのぞいてみると、それは一風変わった古風な寝台で、家族の一人一人が個室を持たなくてもすむように、巧みに考案したものだった。実際それはひとつの小部屋をなし、窓についた張りだし台がテーブルの役をしていた。ぼくは鏡板をはった戸を引きあけ、灯《あかり》を持って中にはいり、もとどおり戸をしめた。これでもう、ヒースクリフだろうとだれだろうと、監視していたって平気だという気がした。
燭台をおいた窓の張りだし台の隅のほうに、かびくさい本が数冊積みあげてあり、また台に塗ったペンキにはひっかいたような文字が書きつけてあった。しかしこの落書きは大小さまざまの書体で、同じ名前が何度も書いてあるだけだった……『キャサリン・アーンショウ』、それがところどころ『キャサリン・ヒースクリフ』に変わり、また『キャサリン・リントン』になったりしていた。
気抜けしたように、茫然《ぼうぜん》と窓に頭をもたせかけ、キャサリン・アーンショウ……ヒースクリフ……リントン、と文字の綴《つづ》りをたどるうち、いつか目をとじていた。が、五分と眠らないうちに、暗闇の中から白い文字がぎらぎらと妖怪のように浮かびあがった……あたりはキャサリンという文字でいっぱいになってしまった。この出しゃばりな名前を追いはらおうと、ぱっと目をあけると、蝋燭のしんが古い書物のひとつに傾きかかり、小牛の皮のこげる臭いがあたりにたちこめていた。ぼくは蝋燭のしんをつみ取り、寒さとなかなか消えないむかつきのため、落着かないので起きなおり、表紙の焼け焦げた本を膝に拡げた。それは細かい文字の聖書で、おそろしくかび臭かった。見返しに文字が記されていた……「キャサリン・アーンショウ所有」というのと、二十五、六年前の日付である。その本をとじ、別の一冊を取り、また一冊と、ついにみな目をとおしてしまった。キャサリンの蔵書はよりぬきの本がそろい、痛み具合から実によく利用されたことがわかる。もっとも本来の目的にだけ利用されたとは言えないようで、ペン書きの感想……少なくとも感想らしい書きこみ……をやっていない章はほとんどなく、印刷してないところはぎっしり文字で埋まっていた。ばらばらな文章だったり、形の定まらない子供っぽい文字で書き散らした、毎日の日記形式のものもあった。印刷してない余分のページ(初めて見つけたとき、どんなにすてきと思ったろう)の上のほうに、わが友ジョーゼフのみごとな似顔絵が……荒っぽいが力強い線で……描いてあるのを見て、すこぶる愉快だった。たちまち、会ったこともないキャサリンに対する興味が燃えあがり、早速、インクの色も薄れた、読みにくい文字の判読にとりかかった。
「いやな日曜日!」絵の下の文はそういう書き出しだった。「お父様がもう一度帰って下さったらいいのに。ヒンドリー兄さんがお父さまのかわりだなんて、ぞっとする……ヒースクリフヘのやり方ったら、とてもひどい……Hとあたしで反抗してやることにした……今夜はその手初めをやった。
「一日じゅう、どしゃ降りだった。教会には行けないので、ジョーゼフが、かわりに屋根裏部屋で礼拝の集りをどうしてもするという。ヒンドリーと義姉《ねえ》さんが下で気持よく火にあたっているというのに……うけあうけど、聖書なんて読んでやしないのに……ヒースクリフとあたしと、かわいそうな野良働きの男の子が祈祷書を持って屋根裏部屋へ追いやられた。小麦袋の上に一列にならばせられ、寒さにうめいたり震えたりしていた。ジョーゼフも震えるといい、そうしたら自分だってつらいから、お説教を短かく切りあげてくれるだろうに、と思っていたのに、とんだ当てはずれ! 礼拝はきっかり三時間も続いた。だのに兄さんたら、あたしたちが降りてくるのを見て、ぬけぬけと、『なんだ、もうすんじゃったのか』だって。前には日曜の晩は、騒ぎすぎたりしない限り、遊んでよいことになっていたのに、いまではちょっと笑い声をたてただけでもすみっこへ追っぱらわれるのだ!
「『おまえたちはこの家に主人がいることを忘れてるんだ』と、暴君は言う。『おれを怒らしたやつは、片っぱしからやっつけてやる! 絶対まじめに、おとなしくしてろ。やい、小僧、いまのは貴様か?……ねえ、フランシスや、そばを通るとき、そいつの髪の毛を引っぱっておやり。さっき指を鳴らしたのを聞いたんだ』フランシス義姉さんは思いきり彼の髪を引っぱり夫のところへ行って膝に乗っかった。それから二人はまるで赤ん坊どうしみたいに、何時間もキスしたり、くだらないことをべちゃくちゃやって……あんまりばかげたおしやべりには、こっちのほうが恥ずかしくなってしまう。わたしたちは食器棚の下の弓形になったところへもぐりこみ、できるだけ居心地よくすることにした。二人のエプロンをつなぎあわせ、カーテンがわりに垂らしたら、厩からジョーゼフが用事ではいって来た。すぐにわたしの作ったカーテンをひきはがし、わたしの横|面《つら》をひっぱたいて、しわがれ声でどなった……
「『大旦那さまのお葬いがすんだばかりで、安息日もまだ終わってねえ、福音書を読む声もまだ耳に残ってるちゅうに、もうふざけてるだ! 恥さらしめ! ちゃんと坐ってるだ、しょうのねえ餓鬼ともが! 読む気なら、ためになる本がいっぺえあるだに! ちゃんと坐って、魂のことでも考えるがいいだ!』
「こう言ってジョーゼフは、あたしたちを追い出して、無理やりちゃんとならばせ、遠い暖炉からのぼんやりした明かりで、彼の押しつけるおもしろくもない本を読ませようとした。あたしにはとてもこんなことは我慢できない、読まされていた薄汚ない本の背をつかみ、ためになる本なんて大嫌い、と言いながら、犬小屋へ放りこんでやった。ヒースクリフも、持たされていた本を犬小屋へ蹴《け》とばした。さあ、それからあとが大騒ぎ!
「『ヒンドリーさまあ!』あたしたちの説教師は叫びたてた。『旦那さま、来て下せえ! キャシー嬢ちやんが「救いの兜」の裏側をもぎ取っちまったし、ヒースクリフは「破滅への大道」の初めのところを足で蹴とばしましただ! こんなことをさしとくなんて、とんでもねえことでがすぞ! ああ……大旦那さまだったら、ちゃんとこらしめてやったにちげえねえだ……だがもうお亡くなりになってしまった!』
「ヒンドリーは炉辺の天国から飛んできて、わたしたちの一人は襟首を、もう一人は腕をつかまえ、二人とも裏の台所へ放りこんだ。ジョーゼフはそこなら悪魔がまちがいなく迎えに来る、と脅かした。わたしたちはそれをおもしろがって、めいめい隅っこに引っこみ、悪魔の到来を待っていた。わたしは手を伸ばして、棚からこの本とインク壷を取り、明かりがはいるように居間のドアを少しあけて、二十分ばかりこれを書いて過ごした。だけどヒースクリフはいらいらしはじめ、乳|搾《しぼ》り女の外套を借りてかぶり、荒野《ムア》をはね回ろう、と提案した。愉快な思いつきだ……あの苦虫の爺やがはいってきたら、予言が当たった、と思うだろう……ここにいたって、寒さと湿っぽさは雨の中と変わりはしないのだ」
***
キャサリンはこの計画を実行したようだ。その次には別のことが書いてあった。その文は涙っぽい調子になっていた。「ヒンドリーにこんなに泣かされるなんて夢にも思わなかった! 頭が痛んで、枕にのせていられないくらい。でもまだ泣かずにいられない。かわいそうなヒースクリフ、ヒンドリーはあの子を宿なしと呼び、もうあたしたちと同席させず、いっしよに食事もさせてやらない。あたしといっしょに遊んでもいけないと言い、命令に背いたら、あの子を家から追い出してやると言う。お父さまがヒースクリフを甘やかしすぎたって、非難までしている(よくもお父さまの悪口など言えたものだ)。そしてあの子を当然の身分に落としてやるのだと毒づいている……」
***
ぼくははっきり見えないページを読みながら、ついうとうとしはじめた。目はペンの書きこみから印刷した文字へと移っていった。赤い装飾文字の表題が見えた……「七|度《たび》の七十倍とその七十一倍めの初め〔ペテロがキリストに自分の兄弟が自分に罪を犯した時七度まで許せばよいかと問うた時、イエスがこの位まで許せと答えた回数〕。ギマデン・スーフ礼拝堂におけるジェイベズ・ブランダラム師の説教」というのだ。なかばうとうとしながら、ジェイベズ・ブランダラム師はこの問題をどう考えるのかなどと考えるうちに、ベッドにからだをのばして眠りこんでしまった。ああ、悪いお茶を飲んだり、腹を立てたりした罰はてきめんだった! でなくて、どうしてこんなひどい一夜を過ごすことになったろう。物心《ものごころ》ついて苦しむことを知って以来、こんなひどい夜を過ごしたことはない。
慣れない場所の感じを忘れきれないうちに、夢を見はじめた。もう朝になっているような気がした。ジョーゼフを案内役にして家へ帰る途中のようだった。雪は行く手に何ヤードも積もり、その中をもがきながら進んで行くあいだ、連れの老人はぼくが巡礼の杖を忘れてきた、と休まず責めたてる。杖がなくては家の中になどとてもはいれはしないぞ、と大きな握りのついた棍棒を大いばりで振り回す。あれが巡礼の杖なんだな、とぼくは思った。自分の家に入れてもらうのに、そんな武器が必要だなんてばかげてる、とぼくはちょっと思った。するとまた新しい考えがひらめいた。ぼくは家へ帰るところじゃない。有名なジェイベズ・ブランダラム師の「七度の七十倍」という聖句にもとづいた説教を聞きに行くところなのだ。ジョーゼフかその牧師か、それともぼくかが「七十一回目の初め」の罪を犯したために、公衆の面前にさらされ、破門されることになっているのだ。
教会堂に着いた。そこは実際に、散歩のとき二、三度通ったことがある。それは二つの丘にはさまれた窪地に建っていた。窪地といっても沼の近くの小高いところで、泥炭質の湿気はそこに葬られた二、三の遺骸を完全にミイラ化するのに役立っているという。教会堂の屋根はいままでのところちゃんと保たれているが、なにしろ牧師の年俸がわずか二十ポンドだし、二部屋の住居も仕切り壁が崩れてまもなく一室になりかけているときては、ここで聖職を引き受けようとする牧師はいない。ましてやこの教区の信者ときたら、たとえ牧師が飢え死にしたって、自分の懐から一文でも余分に出して生活費をふやしてやるのは嫌だ、という連中ばかりだというもっぱらの噂だから、なおさらのことだ。しかし、ぼくの夢では、ジェイベズは教会堂に熱心な会衆をぎっしり集めていた。そして説教をやった……やれやれ! その説教ときたら! 「七度の七十倍の四百九十部」に分かれ、そのひとつひとつがふつうの説教壇からの説教にたっぷり相当し、しかもそれぞれちがう罪を論じているのだ! どこからそんなに多くの罪を探してきたのか、見当もつかない。その聖書の文句を彼独特のやり方で解釈し、信者たるもの、あらゆる機会にそれぞれちがう罪を犯さなければならない、と言っているように聞こえる。その罪というのがまた恐ろしく変てこな、想像もつかぬようなものばかりなのだ。
まったく、退屈してしまった。からだをよじったり、欠伸《あくび》したり、こっくりこっくりして、はっと気がついたりした。自分をつねり、突っつき、目をこすり、立ちあがったり坐りなおしたり、ジョーゼフをそっと突っついて、そんな罪を犯したことがあるか教えてくれ、と言ったり、何遍そんなことをくり返したことか! しかも説教を終わりまで聞かなければならない運命になっていた。ついに牧師は「七十一回目の初め」にたどりついた。その重大なる瞬間、突如として霊感がひらめいた。ぼくは思わず立ちあがり、ジェイベズ・ブランダラムこそ、キリスト教徒として許せぬ罪を犯した罪人である、と公然と非難したくなった。
「牧師さん」とぼくは叫んだ。「この教会堂の中に坐り続け、あなたの四百九十項目のお説教を辛抱し、大目に見てやった。ぼくは七度の七十倍だけ帽子をつかんで出てしまおうとした……あなたは非常識にも、七度の七十倍もぼくを席にもどらせた。四百九十一回目とはあんまりだ。同じ苦痛をなめた諸君、こいつをやっつけよう! 説教壇から引きずり降ろし、こっぱみじんに叩きつぶし、故郷の人もこいつがわからぬようにしてしまえ!」
「汝こそその罪人なり!」とジェイベズは、厳《おご》そかに沈黙したあとで、椅子のクッションによりかかって叫んだ。「七度の七十倍、おまえは顔を歪《ゆが》めて欠伸をした……七度の七十倍、わたしは心に問うた……見よ、これこそ人間の弱さである、これもまた赦されんことを! さあいよいよ七十一回目の最初となりました! 同胞よ、しるされたる審きをかの男におこなえ。かかるほまれはそのもろもろの聖徒にあり! 」
結びの言葉とともに、会衆のすべてが手に手に巡礼の杖をふりかざし、一団となってぼくのまわりに押し寄せた。からだを守る武器もないぼくは、すぐ近くの最も狂暴な攻撃者のジョーゼフの棍棒を奪い取ろうと、取っ組みあいをはじめた。大勢の揉みあう中を棍棒が飛び交い、ぼくをねらった棍棒が他のやつの頭に当たったりする。会堂全都が殴ったり殴り返したりの音に鳴りひびき、すべての手がそばの人間をひっぱたく。ブランダラムもぼやぼやしてはいられず、夢中で説教壇の板を叩き続ける。板があまり猛烈な音をたてるので、やっと目が覚め、本当に救われた気持になった。なぜあんなすさまじい騒動の夢なんか見たのだろう。騒ぎの中でジェイベズの役割を演じたのは何だったろう? それはただ突風がむせぶように吹きすぎるとき、樅の木の枝が窓格子に触れ、乾いた実が窓ガラスにうち当たっているだけだった。一瞬、何だろうと耳を澄ましたが、音の正体がわかると、寝返りをうち、うとうとしはじめ、また夢を見た。前のも気持の悪い夢だったが、それに負けないくらい不愉快な夢だった。
今度は樫の小部屋に寝ていることも意識していたし、烈しい風の音も、雪の吹きつける音もはっきり聞いていた。また樅の大枝が気になる音をたてていることも、その原因も承知していた。でも、あまりうるさいので、できたら静まらしてやろうと思った。それで起きて行って、戸の掛け金をはずそうとしたらしい。掛け金はつぼ釘にハンダづけになっていた。目が覚めているとき、それは見ていたのに、忘れてしまったのだ。「しかしあの音はやめさせなくては!」とつぶやいて、拳固で窓ガラスを叩きこわし、やかましい枝をつかもうと腕を伸ばした。ところが、手がつかんだのは枝ではなくて、氷のように冷たい、小さな手だったのだ! 恐い夢にうなされるときの激しい恐怖が襲った。腕を引っこめようとしたが、その手はしがみついて放さない。世にも悲しい声で、すすり泣くように、「入れて……あたしを入れてよう!」と言う。「きみはだれだ?」ぼくは手をふりほどこうと、もがきながら聞いた。「キャサリン・リントンよ」その声が震えながら答えた(なぜリントンの名が頭に浮かんだのだろう? リントンよりもアーンショウの名を二十倍も読んだはずなのに)。「あたし、帰って来たの……荒野《ムア》で道に迷ったのよ!」そう言っているとき、窓ごしに子供の顔がのぞきこんでいるのがぼんやりと見えた。恐怖のあまり、ぼくは残酷になった。どうやってもふり放せないとわかったので、子供の手首を破れた窓ガラスヘ引きよせ、前後にぐいぐいこすりつけてやった。たちまち血が流れ出し、夜具をべっとり濡らした。女の子はまだ「入れてよう」と泣き続け、握った手をあくまで放そうとしない。ぼくは恐怖で気も狂いそうだった。「これじゃ入れてやれやしない」とうとうぼくは言った。「入れてもらいたけりゃ、手を放してくれ!」それで指の力がゆるんだので、ぼくは手を割れ目からすばやく中へ引っこめ、急いで本をピラミッド形に積みあげて穴をふさいだ。そして悲しい訴えを聞くまいと耳をふさいだ。十五分以上もそうしていたろうか。それでも手を放して聞いてみると、やっぱり悲しいうめき声が続いている! 「行ってくれ!」とぼくは叫んだ。「入れてやるものか、二十年間頼みとおしたってだめだ!」「二十年間だわ」と恨めしそうな声が言った。「二十年間なの。二十年もうろついてきたのよ!」そして外側から弱々しくひっかく音が聞こえだし、積んでおいた本がこちらへ押されるように動いた。飛び起きようとしたが、手足がきかない。恐ろしさのあまり狂気のように、大声で喚《わめ》きたてた。弱ったことに、喚いたのは夢ではなく、ほんとにやってしまったのだ、部屋の戸口へ急いで駈けつける足音がして、だれか強
くそれを押しあけた。ベッドの上部の四角の窓から、明かりがちらちらさしこんだ。ぼくはまだガタガタ震えが止まらず、額の冷汗をぬぐっていた。侵入者はためらい、何かぶつぶつ言っているらしい。やっと、明らかに返事は予期しないようすで、なかばつぶやくように言った。「だれかいるのか?」ぼくはここにいることを白状するのがいちばんよいと思った。ヒースクリフの声だとわかったし、黙っていたらもっと奥まで探すだろうと思ったからだ。そんなつもりでからだをめぐらし、鏡板の戸をあけた。その動作がひき起こした結果は、ちょっと忘れられるようなものではない。
ヒースクリフはシャツとズボンだけで入口の近くに立っていた。手にした蝋燭の蝋が指にしたたり落ちている。顔は血の気がなく、背後の壁とそっくりだった。樫の戸が最初にきしると、彼は電気に打たれたように飛びあがった! 蝋燭はその手から数フィートも飛ばされたが、あまりに度を失って、拾うこともできなかった。
「あなたのお客ですよ」とぼくは叫んだ。これ以上臆病をさらけださせ、恥をかかせては気の毒と思ったのだ。「恐ろしい夢にうなされて、つい、眠ったまま叫んでしまったんですよ。お騒がせしてすみません」
「なんだ、畜生! ロックウッド君か! きみなんか悪魔に……」とその家の主人は言い、蝋燭をしっかり持っていられないので、椅子の上に立てた。「だれがきみをこの部屋へ案内したんだ?」爪が食いこむほど掌を握りしめ、顎ががくがくするのを押えようと歯ぎしりしながら、彼は続けた。「だれなんだ? そんなやつはたったいま、この家から追いだしてやる!」
「あなたの召使のジラーですよ」と言って、ぼくは床に飛び降り、いそいで服を着けはじめた。「お好きなようにして下さい、ヒースクリフさん。あの召使は追いだされてが当然です。きっとぼくを使って、この部屋に幽霊が出るという証拠をもうひとつ手に入れようとしたんですよ。まったく、本当です……幽霊や鬼どもがうようよしてるんだ。あなたがここを締め切りにしておくのももっともですよ。こんな化物《ばけもの》の巣に寝かされて、ありがたがる人なんかないでしょうからね!」
「それはどういうことだね?」とヒースクリフはたずねた。「それにきみは何をやってるんだね? ここにはいった以上、ここで寝て夜を明かすがいい。だが、後生だから、あんな恐ろしい声は二度と出さないでくれ! 咽喉《のど》ぶえをかき切られるのでもない限り、あんな声を出すものじゃない」
「あの小悪魔が窓からはいって来たら、きっとしめ殺されていましたよ!」とぼくはやり返した。「ぼくはもう、あなたのもてなしのいいご先祖にいじめられるのはたくさんです。ジェイベズ・ブランダラム師というのは、あなたの母方の親類じゃなかったんですか? それからキャサリン・リントンとかアーンショウとか、なんとか言ったあのお転婆娘が……あれは悪魔が取り換えた子にきまってるが……ほんとに恐ろしい子供ですね! 二十年も地上をさ迷っていると言ったけど、この世で犯した罪の当然の報いにきまってる!」
こう言ってしまったとたんに、本の中でヒースクリフとキャサリンの名がならんでいたことを思い出した。こうして目が覚めるまで、すっかり忘れていたのだ。ぼくは軽率だった、と顔を赤くした。が、しくじりに気づいたようすはそれ以上見せずに、急いでつけ足した……「実はベッドで寝つくまで……」と言いかけてまたやめた……「あの古い本を読んでいた」と言いかけたのだが、それでは本の印刷した内容だけでなく、書きこみまで知っていることになる。それで考えなおして、また続けた……「窓の張りだし台の落書きの名前を読んでいました。眠れるように、そんな単調なことをやったんです。ほら、たとえば、数をかぞえるとか、または……」
「いったい、どんなつもりでそんな話をわたしにするんだ!」ヒースクリフは激しい見幕でどなった。「よくも……よくも、この屋根の下でそんなことが言えたな!……ああ、まったく、そんなことを言うのは気違いだ!」そして怒りのあまり、自分の額を叩いた。
そんな文句に憤慨してよいやら、もっと弁解を続けてよいやら、見当もつかなかった。しかし強いショックを受けたらしい相手のようすが哀れになり、夢の話を続けた。「キャサリン・リントン」などという名は、いままで聞いたこともないが、何度もくり返して読んでいるうちに、それがある印象を与え、夢の中で想像力が自由になると、人間の姿をとって現われたにちがいない、とぼくは言った。ヒースクリフは話を聞きながら、しだいに寝台の陰に身をかがめ、ついにはほとんどその背後に隠れて坐りこんでしまった。しかしその不規則のとぎれがちの呼吸から、激しい心の動揺を押えつけようとしていることがわかった。彼の苦悶に気づいたようすを見せないように、ぼくはわざと騒々しく身仕度を続け、時計を見たり、長い夜だ、と独りごとを言ったりした。「まだ三時前だ! てっきり六時ごろだと思ったのに! ここでは時間も止まってるらしい。たしか八時には寝たはずなのに!」
「冬はいつも九時に寝て、四時に起きるんだ」と主人がうめき声を押えながら言った。その腕の影の動きでは、どうやら目から涙をさっとぬぐったらしい。「ロックウッド君、わたしの部屋へ来るといい。こんなに早く階下《した》へ降りられたら、邪魔になるだけだ。あんたの子供じみた叫び声で、わたしも眠れなくなってしまった」
「ぼくだってそうです。夜明けまで庭で散歩でもして、それから帰りましょう。もう二度とお邪魔しませんから、心配はご無用です。町でも田舎でも、人とつきあって楽しもうなどという気は、これですっかりなくなりましたよ。賢明な人間は、自分だけを友として満足すべきです」
「それが楽しい相手なのだ!」とヒースクリフはつぶやいた。「蝋燭をもって、どこでも好きな所へ行きなさい。わたしもすぐあとから行こう。ただ庭は避けたほうがいい。犬をつないでないからね。|うち《ヽヽ》のほうは……ジュノーが番をしているから……いや、階段か廊下のあたりをぶらついているよりほかはないね。とにかく、ここから出てくれ! 二分ばかりしたらわたしも行く!」
言われるとおり、とにかく部屋だけは出た。ところが、狭い廊下がどこへ行くのかわからずに立っていた。そのとき思いもかけず、この主人の、思慮ありそうな外見とは妙にそぐわぬ、迷信じみたふるまいを目にした。彼は寝台の上にあがり、格子窓をこじあけ、引っぱりながら、たえきれずに激しく泣きだしたのだ。「おはいり! おはいりったら!」彼はすすり泣きながら言った。「キャシー、来ておくれ。ねえ、本当に……もう一度だけ! おお、いとしいキャシー! 今度こそ、おれの願いを聞いておくれ、キャサリン、今度こそはね!」ところが幽霊のほうは幽霊らしい気まぐれさで、もう現われそうな気配も見せない。雪と風は渦を巻いて激しく吹きこみ、ぼくの立っているところまで吹きつけて、灯を消してしまった。
うわ言を口走り、痛ましい悲嘆にもだえるのを見て、ばからしいと思うよりも同情してしまった。しかし、そんなことを立ち聞きした自分に腹をたて、また奇怪な悪夢の話などしたことを後悔しながら、そこを離れた。あの話が……なぜかぼくにはわからないけれど……彼の苦悩をひき起こしたのだ。用心しながら階下へ降り、裏の台所へ行った。一箇所にかきよせた火が少し残っていたので、消えた蝋燭をまたつけることができた。灰色のぶち猫が灰の中から這《は》いだして、ぐちっぽい泣き声をたてたほかは、ひっそりしていた。
弧状をした二つのベンチが、炉を囲むようにおいてあった。そのひとつにぼくは寝そべった。年とった猫がもういっぽうに乗った。だれも邪魔しないうちは、両方とも、うとうとまどろんでいたが、やがてジョーゼフが引き窓から屋根裏へ通じている、木の梯子を伝ってのろのろと降りて来た。そこが彼の屋根裏部屋への上り口らしかった。ぼくが火床の中にちらちら燃えたたせておいた小さな炎に、彼は陰険な目を向け、猫をベンチから追いはらって、そのあとに坐りこみ、三インチのパイプに煙草を詰めはじめた。ぼくが彼の神聖な私室にいるのは、あまりにずうずうしく、口にするのもけがらわしいことだと考えているようすだった。物も言わずにパイプを口にくわえ、腕組みして、すぱすぱやっている。その楽しみを妨害しないでやろうと、ぼくも知らぬ顔をしていた。最後の煙を吹かし終わると、深い溜息をひとつついて立ちあがり、来たときと同じように重々しく出て行った。
次に、もっとはずむような足音がはいって来た。ぼくは「お早よう」と言いかけたが、挨拶しそびれて、口をつぐんでしまった。ヘアトン・アーンショウがすみっこをひっかき回し、雪かきの鋤《すき》かシャベルを探しているのだが、手にふれるものにはなんでも続けざまにぶつぶつ悪態をついて、祈祷がわりにしていたからだ。鼻の孔をふくらませながら、ベンチの背の向こうからこちらを見たが、猫ともぼくとも挨拶をかわそうなどと考えもしなかった。彼の仕度を見て、もう外へ出てもよいのだ、と思い、固いベンチを離れて、あとについて行こうとした。それに気づいた彼は、鋤のさきで奥のドアを突き、なにやら口の中で言って、どこかへ行く気なら、ここから出ろ、という意味を伝えた。
そのドアをあけると居間で、女たちはもう起きだしていた。ジラーは大きなふいごで煙突に炎を吹きあげているし、ヒースクリフ夫人は、炉辺にひざまずき、炎の光をたよりに本を読んでいた。片手を目の前にかざして炉のほてりを避けながら、読書に熱中しているようだった。火の粉がかかるとジラーを叱ったり、ときどき鼻づらを顔にこすりつけるずうずうしい犬を押しやるときしか、本から目を離さなかった。意外にも、ヒースクリフまでそこにいた。彼は背中をこちらに向けて火にあたり、いま哀れなジラーにひどく喚きたてたばかりだった。ジラーはときどき仕事の手を休めては、エプロンのはしをつまみあげて目を拭き、口惜しげなうめき声を出していた。
「それにおまえもだ、このろくでなしの……」ぼくがはいって行ったとき、息子の嫁に向かって、「いい子」とか「とんま」とかいうのと同じ悪気のないものではあるが、ふつうは伏字にしておくような種類の呼び名を浴びせかけたところだった。「そら、またおまえは、くだらんまやかしの本など読んで! ほかの者はみな働いて食ってるというのに……おまえはおれのお情けで生きているんだぞ! そんながらくたはどこかへやってしまって、何か仕事を見つけろ。いつまでも目ざわりな姿をさらしていると、ただではおかんぞ……聞いてるのか、このあばずれ!」
「がらくた本は片づけますよ。いやだといったって、どうせやらされるんですから」と若い夫人は答えて、本を閉じ、椅子の上へ投げだした。「だけど、いくらあなたが毒づいたって、あたしのしたいことしかしませんからね!」
ヒースクリフは手をふりあげた。相手はその痛さをよく知っているらしく、手の届かぬ距離まで飛びのいた。犬と猿のあいだの喧嘩を見て楽しみたくもなかったので、さっさと部屋にはいって行った。早く暖炉の火にあたりたいだけで、喧嘩の邪魔をしたことなどぜんぜん気がつかないふりをした。二人とも争いをやめるだけの礼儀は心得ていた。ヒースクリフは殴りたい誘惑に負けないように、手をポケットにしまった。ヒースクリフ夫人は唇を歪めながら、遠い椅子へ行って、ぼくのいるあいだじゅう彫像のように動かず、さっき自分で言ったとおり、何もしないでいた。それも長い時間ではなかった。朝食に誘われたが、断わった。朝の光がさしはじめるとすぐ、戸外へ逃げだした。外はもう晴れあがって風もおさまり、厳しい氷のような冷たさだった。
家主はぼくが庭のはずれまで来ないうちに呼びとめ、荒野《ムア》を越える道づれをしてやろうと言った。ありがたい申し出だった。なぜなら、丘の背全体が大波のうねる、白一色の大海と化していたから。その高低は必ずしも土地の高低をしめしているのではないし、少なくとも、無数の穴が雪で埋まって平らになっているのだ。石切場の跡の土手も、昨日歩いて頭に刻みつけておいた地図から、すっかり婆を消していた。道の片側に、六、七ヤードの間隔で、直立した一列の石が荒地のはしからはしまで続いていたのを見ておいた。この石は闇夜の目じるしに、わざわざ石灰で白く塗ってあり、また、今日のような雪降りに、しっかりした道と両側の深い沼をとりちがえないように、立ててあるのだ。しかしいまは、ここかしこに汚れた点々が見えているだけで、石の存在の跡形もなくなっている。ぼくの道づれはたびたび右へとか左へとか、ぼくに注意する必要があった。そんなときでさえ、ぼくは曲がりくねった道をちゃんとたどっているつもりでいた。話はほとんどしなかった。やがてスラッシクロスの猟園《パーク》の入口でヒースクリフは足を止め、ここからさきはまちがえっこない、と言った。別れの挨拶はちょっと頭を下げ合っただけだった。門番小屋にはまだ番人が住んでいなかったので、ぼくは自分の判断だけに頼って、どんどん進んだ。その入口から屋敷まではニマイルだった。だが、その距離をわざわざ四マイルにしてしまったらしい。林の中で迷い子になったり、雪に首まで埋まったり、その難儀ときたら、実際に経験した人でなくてはとてもわかりっこない。とにかく、どうさまよったにせよ、家に着いたときは、時計が十二時を打つところだった。嵐が丘からふつうの道を歩いたとすれば、一マイルにちょうど一時間かけたことになる。
家つきの家政婦とその下働きの召使たちが、飛びだしてきてぼくを迎え入れた。もうすっかりぼくのことをあきらめていました、とがやがやと言いたてた。みなぼくが昨夜のうちに死んでしまったものと思い、どうやって遺体の捜査に取りかかろうかと思案していたのだった。ぼくはみんなに、こうして帰った姿を見たのだから、もう落着いてもらいたい、と言い、心臓までこごえきったようになって、重たいからだを二階へひきずった。そこで乾いた服に着替え、三、四十分も歩きまわって体温をとりもどしてから、子猫みたいに弱々しく、書斎のほうへ移った。明るく燃える火も、家政婦が元気づけにいれてくれた湯気のたつコーヒーも、十分楽しむ気力がなかった。
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人間なんて、風向きしだいの、なんと頼りない風見鶏《かざみどり》だろう! いっさいの世間的交渉を断とうと決心し、交際などほとんど不可能に見える場所をやっと見つけ、その幸運を感謝していた、このぼくが……ほんとに意気地なしったらない。夕方まではどうにか憂鬱《ゆううつ》と孤独の苦しみと戦い続けたが、とうとう旗を巻いて降参してしまったのだ。家事上の必要なことをいろいろ聞きたいという口実で、家政婦のミセス・ディーンが夕食を運んできたのをつかまえ、食事のあいだここにいてくれるように、と頼んだのだ。彼女が徹底的なおしゃべり女だったらよい、話で気分をひきたててもらうか、子守唄がわりに寝つかせてもらえばよい、と心から願った。
「あんたはこの土地にずいぶん長く住んでるんでしたね」とぼくは切りだした。「十六年て言わなかったかしら?」
「十八年ですよ。ここの奥さまが結婚なさったとき、付き添ってまいりましたんですから……奥さまが亡くなられたあとも、旦那さまがずっと家政婦としておいて下さいました」
「なるほど」
しばらく話がとぎれた。どうやら、おしゃべりのほうではないらしい。自分の身の上なら話してくれるかもしれないが、そんな話はぼくにはあまり興味がない。しかし両膝においた手をにぎりしめ、血色のよい顔に考えこむような色を浮かべ、しばらく思案したのち、だしぬけに言った……
「ほんとに、あの頃から、世の中もすっかり変わりました!」
「そうだろうね」とぼくは言った。「さぞかし、いろいろな移り変わりを見てきたことだろうね」
「ええ、それはもう。面倒なこともいろいろね」
そうだ、話を家主の家族のことに向けてやろう! とぼくは思った……切りだすのにちょうどいい話題だ……それにあの少女のような美しい未亡人、あの人の身の上が聞いてみたい。この土地の人だろうか、いや、どうやら無愛想《ぶあいそう》な土地の連中が、仲間として認めたがらない、よそ者らしい……こう考えて、ディーンさんに、なぜヒースクリフはスラッシクロス屋敷を人に貸して、ずっと劣った場所と建物に住んでいるのか、と聞いてみた。「この所有地をちゃんとしておくだけの金がないのかね?」
「お金がないなんて、とんでもない! どんなにあるかわからないほど金持ちですし、しかも年々増えるばかりです。そうですとも、ここよりずっとりっばな屋敷にだって住めるんですわ。でもあの人ったら、とてもつましくて……にぎり屋なんです。ですから、自分でスラッシクロス屋敷へ越してくる気があっても、よい借り手があると聞けば、何百ポンドかよけいにもうける機会を見逃がせるような人じゃありません。身寄りもない人間だというのに、どうしてあんなに欲が深いのでしょうね!」
「息子があったようだけど?」
「はい、一人いましたけれど……亡くなってしまいました」
「それで、あのヒースクリフ夫人という若い人が、その未亡人だね?」
「はい」
「あの人、もとはどこの人なの?」
「あら、旦那さま。わたしの、亡くなったご主人のお嬢さまでございますよ。結婚前はキャサリン・リントンとおっしゃいました。わたしがお育てしたんです。ほんとにかわいそうな方! ヒースクリフさんがこちらへ移ってくればいいと思いますよ、そしたら、またいっしょに暮らせるんですけれど」
「なんだって! キャサリン・リントン?」ぼくはぎょっとして、叫んだ。が、すぐに昨夜の幽霊のキャサリンとは別なんだ、と思いなおして、話を続けた。
「じゃ、この屋敷の前の主人はリントンといったんだね?」
「そうでございます」
「すると、あのアーンショウというのは何だね? ヒークリフさんのところにいる、ヘアトン・アーンショウのことだけど。二人は親類なの?」
「いいえ、あの人は亡くなったリントン夫人の|甥ご《おいヽ》さんでございますわ」
「じゃ、あの若い婦人のいとこだね」
「はい、キャサリンの結婚した人もやはりいとこになります。ヘアトンは母方の、ご主人は父方のいとこでした。ヒースクリフさんは、リントンさまの妹さんをお貰いになったんです」
「嵐が丘の玄関の戸の上に、『アーンショウ』と彫ってあったっけ。旧家なのかね?」
「たいそうな旧家でございますよ。ヘアトンが最後の血すじにあたる方で、ちょうどキャシーお嬢さまが、こちらの……つまり、リントン家の最後の方なのと同じでございます。嵐が丘へ行ってらしったのですか? こんなことお聞きするのは失礼でございますけど、お嬢さまがどうしていらっしゃるか知りたくてたまりませんの!」
「ヒースクリフ夫人のこと? とても元気そうだった。そしてとてもきれいだったよ。でも、あまりしあわせそうではなかったね」
「あら、そうでしょうとも! それで、あそこの主人のほうはどうお思いになりまして?」
「ちょっと荒っぽい男のようだね、ディーンさん。そういう性格でもないのかい?」
「いいえ、鋸の歯のように荒っぽく、石のように頑固なんです! あんな人とはなるべくかかりあいにならないほうがいいですわ」
「あんなけちん坊になるには、いろいろ浮き沈みがあったんだろうね。あの男の経歴をいくらか知ってるの?」
「他人の巣を横取りするカッコー鳥みたいな人間ですわ、旦那さま……わたしは、なにもかも知っています。ただ、どこの生まれか、両親は何者なのか、初めどうやってお金を作ったのか、それだけは存じませんけどね。ヘアトンときたら、|いわひばり《ヽヽヽヽヽ》の雛みたいに、追い出されてしまったんですよ! かわいそうに、この教区じゅうで、自分が欺《だま》されたことに気づかないのは、ご当人だけなんです」
「それじゃ、ディーンさん、あの人たちのことを、少しぼくに話してくれないかな。ベッドにはいっても眠れそうもないから、一時間ばかり、こうしておしゃべりでもして下さるとありがたいんだけどね」
「ええ、ようございますとも、旦那さま! ちょっと縫い物を取ってまいります。それから、お好きなだけここにいてあげますわ。でも、お風邪をひいたようですね。震えてらっしゃいますもの。熱いお粥《かゆ》を召しあがって、追いはらっておしまいなさいまし」
このりっばな婦人は、そそくさと出て行った。ぼくは暖炉に近寄って身をちぢめた。頭ばかり熱っぽく、からだはぞくぞくした。おまけに、神経も頭もばかみたいに興奮していた。気分はそれほど悪くないが、昨日から今日にかけての、いろいろなできごとから、重大な結果になりはしないかという不安が強かった(いまでも、その不安は消えない)。家政婦はじきに湯気のたつ鉢と、縫い物の籠を持ってもどってきた。鉢を炉格子の脇の棚にのせ、ぼくが人づきあいのいい人間だとわかって、いかにも嬉しいというようすで、自分の席に腰をおろした。
こちらの屋敷へまいりますまでは(と彼女は、もう催促されるのを待たずに、話しだした)、ほとんどずっと嵐が丘におりました。わたしの母がヘアトンのお父さまだったヒンドリー・アーンショウの乳母だったからです。わたしはいつもあの家の子供たちと遊んでいました。わたしは走り使いをしたり、乾草作りを手伝ったり、農場のあたりにいて、用事を言いつけられるのを待っていました。ある夏の晴れた朝のこと……たしか収穫の始まるころでしたが……大旦那さまのアーンショウさまが旅仕度をして階下《した》へ降りてこられました。ジョーゼフにその日の仕度を言いつけますと、ヒンドリーとキャシーとわたしのほうを向いて……そのときわたしも二人といっしょに、ポリッジをいただいていたのですが……最初に息子さんにおっしゃいました、「坊や、お父さんは今日リヴァプールへ行くんだが、お土産《みやげ》は何にしようかね? なんでも好きなものを言いなさい。だが、往《ゆ》き帰りとも歩きだから、小さなものにするんだよ。片道六マイルで、大変な道のりだ!」ヒンドリーはヴァイオリンがいい、と言いました。こんどはキャシーちゃんにお聞きになりました。まだ六つになるかならないかでしたが、厩《うまや》のどの馬にでも乗れましたので、鞭《むち》がいい、と答えました。大旦那さまはわたしのことも忘れませんでした。ときどききびしいこともありましたが、心のやさしい方でした。わたしにはポケットいっぱいのりんごと梨をもってきてやろう、と約束して下さり、それから子供たちにキスして別れを告げ、出発なさいました。
三日間のお留守が、わたしたちにはずいぶん長く思われました。小さなキャシーは、お父さまはいつ帰るの、と何度も聞きます。奥さまは三日目の夕食時までにはお帰りだろうと思い、夕食を一時間、一時間とのばしておられました。でも、お帰りの気配はありません。とうとう子供たちも、門のところまで見に駆けて行くのにあきてしまいました。そのうち暗くなってしまい、奥さまは子供たちを寝かせようとなさいましたが、子供たちはべそをかいて、ずっと起きていたい、とせがみます。ちょうど十一時ごろ、ドアの掛け金がそっとはずされたと思うと、大旦那さまのお帰りでした。笑ったり、うなったりしながら椅子にどすんとおかけになり、みんな近寄らないでくれ、疲れて死にそうだ……イギリスの三つの王国をくれると言ったって、こんな長歩きはもうごめんだ、と言われました。
「あげくのはてに、胆をつぶすような目に合わされた!」そうおっしゃって、大旦那さまは両腕にかかえていた大外套を開いて見せました。「まあごらんよ、おまえ! わしは一生のうちでこんなに弱ったのは初めてだ。だが、おまえたちも、これを神さまのお授かりものだと思わなくてはならないよ。まるで悪魔がよこしたように真っ黒な子なんだが」
わたしたちはまわりにみな集まりました。キャシーちゃんの頭ごしにのぞいて見ると、汚ならしい、ぼろをまとった、髪の黒い男の子なんです。もう歩いたり話したりできて、顔つきもキャシーちゃんよりも年上に見えました。でも、立たせてみると、ただじろじろ見回して、ちんぷんかんぷんなことを何遍もくり返しているだけなんです。わたしは気味悪くなってしまいました。アーンショウの奥さまはいまにも外へ放り出してしまいそうでした。すっかり怒ってしまって、うちにも育てなくてはならない子供がいるというのに、なぜそんなジプシーの子なんか家の中へ連れて来たんですか、とおっしゃるのです。いったいどうするおつもりです、気でも狂ったんですか? と詰め寄ります。大旦那さまは事情を説明しようとなさいましたが、なにしろくたくたに疲れきっておられました。奥さまの非難のあいだに、どうにかわたしに聞きとれた説明はこんなでした。大旦那さまはその子がリヴァプールの街でおなかをすかせ、家もなく、唖《おし》みたいにろくに口もきけないでいるのを見つけて拾いあげ、どこの子かと聞いても、だれ一人知っている人はなかったそうです。所持金も滞在期間も限られていましたので、手間どってむだな金を使うよりも、すぐ家に連れて帰ったほうがよいとお思いになったのです。どうしても、そのまま打っちゃっておく気にはなれなかったからでした。それでまあ、結局、奥さまもぶつぶつ言いながらもあきらめてしまわれました。アーンショウさまはわたしに、その子を洗って、さっぱりした服を着せ、子供たちといっしょに寝かしてやるように、と言いつけました。
ヒンドリーとキャシーは両親の話がつくまで、おとなしく見ているだけでしたが、待ちかねたように、二人ともお父さまのポケットに手を突っこみ、約束のお土産を探しはじめました。ヒンドリーは十四になっていましたが、大外套の中から、ばらばらに壊れたヴァイオリンをひっぱりだすと、大声で泣きだしてしまいました。キャシーのほうは、大旦那さまがよその子に構っているうちに、鞭を失《な》くしてしまったと聞くと、腹いせに、とんまな顔をしたその子に歯をむいて見せたり、唾をひっかけたりして、おかげでお父さまからびしゃり、と叩かれ、もっとお行儀よくしなさい、と言われるしまつでした。二人とも、こんな子といっしょに寝るのはおろか、同じ部屋にいるのだって絶対いやだ、と言いはりました。わたしだって分別があるわけではありませんから、明日になったら、いなくなってくれるだろう、と階段の踊り場に放っておきました。ところが、偶然だったのか、あるいは旦那さまのお声を聞きつけたのでしょうか、その子はアーンショウさまのお部屋のドアまで這《は》って行き、お部屋を出た大旦那さまに発見されました。どうしてそんなところへ来たのか、と調べられ、とうとうわたしは白状させられてしまいました。ひきょうな不人情なことをした罰で、わたしはお屋敷から追いだされてしまいました。
これが初めてアーンショウ一家の前にヒースクリフが現われた事情なんです。二、三日たってわたしがまたお屋敷へ舞いもどりますと(追いだされたといっても、それきりになるとは考えませんでした)、あの子はヒースクリフという名をつけられていました。それは小さいとき亡くなった坊っちゃんの名前でしたが、それ以来この子は名も姓もいっしょにして、そう呼ばれることになりました。キャシーちゃんとその子はもうすっかり仲良しになっていました。でも、ヒンドリーはこの子を憎み、正直に言いますと、わたしもそうだったのです。それで二人していじめてやり、ずいぶんひどいこともしました。わたしはまだ物の道理もわからない年ごろで、まちがったことをしているとも思いませんでしたし、奥さまはわたしたちがいじめているところを見ても、ひとこともあの子をかばって叱ったりしません。
彼は気むずかしい、我慢づよい子のようでした。たぶん、虐待《ぎゃくたい》には慣れっこだったのでしょう。ヒンドリーに打たれても、まばたきもせず、涙ひとつこぼしません。わたしがつねっても、自分でまちがって痛くしたのだからだれのせいでもないというように、ちょっと息を吸いこみ、目を見はるだけなのです。大旦那さまは、かわいそうな父なし子、と呼ぶのが口癖《くちぐせ》でしたが、その子が自分の息子にいじめられてもじっとこらえているのをごらんになると、とても腹をたてました。不思議なくらいヒースクリフがお好きで、あの子の言うことは何でも信じてしまいます(もっとも、彼はとても無口で、たいてい言うことに嘘はありませんでしたが)。いたずらで、気まぐれで、憎らしくなってしまうようなキャシーよりも、ずっとかわいがっておられました。
こんなわけで、最初からあの子は家の中にいやな感情を植えつけてしまいました。アーンショウの奥さまが、それから二年もしないうちに亡くなられますと、若旦那さまのヒンドリーはお父さまを味方でなく圧制者と見なし、ヒースクリフを父親の愛情と、息子の権利を奪う横領者だと考えるようになり、その被害をくよくよ思いつめ、陰気な性質になっていきました。しばらくはわたしもヒンドリーに同情していました。でも、子供たちがみな|はしか《ヽヽヽ》にかかって、わたしが看病しなければならなくなり、それといっしょに女としての仕事を引き受けるようになりますと、わたしの考えは変わりました。ヒースクリフは重態でしたが、いちばん病気が重いとき、いつもわたしにそばにいて貰いたがりました……きっとわたしが本当に尽してくれると思ったからで、仕方なしにやっていることを察する知恵はなかったのでしょう。でも、介抱してあげるとき、あんなおとなしい子はまたとなかったでしょうね。ほかの二人とはまるでちがうものですから、わたしものけ者にはできなくなってしまいました。キャシーとヒンドリーにはまったく手をやきましたが、あの子だけは子羊みたいに文句ひとつ言いません。もっとも、世話がやけなかったのも、おとなしいからではなく、頑固だったせいでしょうけれど。
あの子は助かりました。お医者さまはみなわたしの力だと、看護ぶりをほめて下さいました。ほめられて得意になったわたしは、そのもとになったあの子に、ついやさしくするようになり、こうしてヒンドリーは最後の味方まで失ってしまったのです。でもわたしにはまだ、ヒースクリフが夢中で好きになるというわけにはいきません。大旦那さまは、あのむっつりした子のどこがそんなに気にいってるのだろう、とよく思いました。あの子ときたら、わたしの覚えている限りでは、甘やかされたって感謝の気持をしめしたことなどありません。でもヒースクリフは恩人に無礼だったわけではなく、ただ感じなかっただけなんですね。それでも大旦那さまの心をつかんでいることは十分心得ていて、自分が何か言いさえすれば、家じゅうの者が思いどおりに動かせることも知っていました。たとえば、いつだったか、大旦那さまが教区の定期市で子馬を二頭買ってこられて、二人の男の子に一頭ずつお与えになりました。ヒースクリフはいいほうの馬を取りましたが、それはじきにびっこになってしまいました。それを見ると彼はヒンドリーに言いました……
「馬をおれと取っ換えっこしろ。おれの馬はいやになったんだ。取っ換えなきゃ、今週、おまえがおれを鞭で三度殴ったのを、おまえのおやじに言いつけて、おれの腕を見せてやるぜ。なにしろ肩まで黒あざになってるんだからな」ヒンドリーは舌を出して、相手の横面を殴りつけました。ヒースクリフは「すぐ取っ換えたほうがおまえのためだぞ」としつこく言いながら、玄関へ逃げました(二人は厩にいたのです)。「どうせ取っ換えさせられるんだ。おれが殴られたことを言いつけりゃあ、おまけをつけて殴られるんだぞ」「行っちまえ、犬め!」とヒンドリーは叫び、じゃがいもや乾草を計るときに使う秤《はかり》の鉄の分銅をふりあげました。「投げてみろ」とヒースクリフはじっと立ったまま答えました。「投げたら言いつけてやる。おやじが死んだら、すぐおれを叩きだすっていばったのをな。そしたら、おまえのほうが叩きだされるんじゃないのかい」するとヒンドリーは分銅を投げつけました。胸に当たったからたまりません。どすん、と彼は倒れました。ですが、すぐに、喘《あえ》ぎながら、真っ青な顔で、よろよろ起きあがりました。わたしが止めなかったら、そのまま旦那さまのところへ行き、そのありさまを見せて、だれがやったのかを暗示し、思う存分の復讐をしたにちがいありません。「それじゃ、ぼくの馬を持っていけ、ジプシーめ!」とアーンショウ坊っちゃんは言いました。「そいつに乗って首の骨でも折るがいい。持っていって、くたばっちまえ、乞食のでしゃばり野郎! おやじの持ち物をみんなだまし取って、そのあとで正体を見せるがいい、この悪魔の餓鬼め! さあそれを持っていけ。蹴とばされて、脳味噌でも叩きだされろ!」
ヒースクリフはさっさと子馬のところへ行き、綱をほどいて自分の厩へ移しました。彼が馬のうしろへ回ったとき、ヒンドリーは悪態をついてしまうと、いきなりヒースクリフを馬の足もとへ突き倒し、うまく悪態どおりになったかどうか見とどけもせず、一目散に逃げて行きました。そのあと、あの子が平気で起きあがり、自分の考えどおりにやっていくのには、わたしもびっくりしてしまいました。鞍やなんかをすっかり取り換えると、乾草の束の上へ腰をおろして、ひどく殴られてふらふらする頭を静めてから家の中へはいるのです。わたしがその傷を馬のせいにするから、と頼みますと、彼はすぐ承知してくれました。欲しいものを手に入れた以上、どんな風に話したってかまわないというのでしょう。まったく、こんな騒ぎのことではめったにぐちを言わなかったので、わたしはあの子には復讐心はないものと思いこんでいました。でも、あとでお話しするように、わたしはすっかりだまされていたのです。
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そのうち大旦那さまのアーンショウさまのからだが弱ってまいりました。それまでは達者で活動的な方でしたが、急に体力がなくなったのです。暖炉のそばにひきこもるようになり、痛々しいくらい気短かになられました。なんでもないことにも腹を立てて、自分の権威が軽んじられたと思うと、すっかり逆上してしまいます。とりわけ、お気に入りのヒースクリフがだまされるとか、いじめられるとかすると、大変な腹立ちようでした。ヒースクリフがひと言でも悪口を言われはせぬかとかわいそうなくらい気を使うのでした。自分がかわいがるために、みんなに嫌われ、意地悪をされるのだ、という考えが頭にこびりついていたらしいんです。それはあの子にはかえってよくないことでした。わたしたちの中で思いやりのある人たちは、主人を怒らせたくないので、つい|えこひいき《ヽヽヽヽヽ》に調子を合わせるようになります。このことがあの子の高慢さやねじけた性質を、どんどん増長させるもとになったのです。でもそれもある程度しかたのないことでした。二、三度、ヒンドリーがお父さまのおられるそばで、ヒースクリフをばかにしたことがあり、大旦那さまはいきりたち、杖を取って打ちのめそうとしましたが、それができないので、口惜しさのあまりからだじゅうぶるぶる震えておりました。
とうとう村の牧師補が、(その頃は、ここにも牧師補がいまして、リントン家とアーンショウ家の子供たちに勉強を教えたり、わずかな土地を耕して暮らしのたしにしていましたが)、その人から息子さんを大学にあげては、とすすめられて、アーンショウさんも同意しました。もっともあまり気は進まず、ヒンドリーはやくざ者だから、どこへ行ったって|ろく《ヽヽ》な者になれっこないだろう、と言っておられました。
これで家の中も平和になってくれるとよい、とわたしは心から望みました。主人が自分の善行のために苦しんでおられるのだと考えると、胸が痛みました。大旦那さまの老衰やご病気も、家庭の不和が原因だとわたしは考えておりました。ご自分でもよくそうおっしゃっていたのですが、衰えていくおからだはどうしようもなくなっていたのです。でもキャシー嬢ちゃんと下男のジョーゼフの二人さえいなかったら、なんとか平和に暮らせていけたかもしれません。向こうであの下男にお会いになったでしょう。あの男は昔から……いまだってそうにきまってますが……本当にうるさい、独りよがりの偽善者で、いつも聖書をほじくり回して自分に都合のよい文句を捜しだし、まわりの者に呪いをかけているんです。お説教したり、ありがたそうなお話をするのが上手なので、すっかりアーンショウさまに取り入り、大旦那さまがお弱くなるにつれて、いよいよ影響力をもつようになりました。大旦那さまの魂の問題や、子供たちの厳しい躾《しつけ》について、情ようしゃもなく指図し悩ませます。ヒンドリーを道楽息子と思いこませたのもジョーゼフです。毎晩毎晩きまってヒースクリフとキャサリンの悪口を長々とのべたてますが、とりわけキャサリンにいちばん重い罪をきせて、アーンショウさまのヒースクリフびいきの弱点に取り入ることも忘れませんでした。
たしかにキャサリンは、わたしがそれまでに見たこともないような悪い癖のある子供でした。一日のうちに五十遍でもたりないくらいわたしたちみんなをやりきれない気持にさせます。朝起きてから、夜ベッドにはいるまで、お嬢さまのいたずらがやんだと安心できるときは、それこそ一分間もありません。いつも元気にはちきれそう、舌は回りっぱなし……歌ったり、笑ったり、それに調子をあわせてくれない人をいじめたり、まったく手のつけられない、いたずら娘でした! でも教区じゅうでいちばん生き生きした目と、かわいらしい笑顔をし、だれよりも敏捷な娘でした。いずれにせよ、キャサリンに悪気はなかったと思います。その証拠に、いったん相手をほんとうに泣かせてしまいますと、きっとそのそばに離れずついていてやり、反対に泣かされたほうがお嬢さまを安心させるために泣きやまなければならなくなるんです。お嬢さまはヒースクリフが大好きでした。ですからいちばんひどい罰でこらしめてやろうとすれば、ヒースクリフから引き離しておくだけでよいのです。それでも、お嬢さまはヒースクリフのことでわたしたちの中でいちばんよく叱られていました。遊ぶときは、小さな女主人の役がなにより好きで、すぐ手を使い、遊び仲間に命令します。わたしに対しても同じでしたが、わたしは叩かれたり、命令されたりするのは我慢できないので、彼女に思い知らせてやりました。
さて、アーンショウさまは子供たちの冗談のわかるような方ではなく、いつも子供たちに厳しくまじめに接しておられました。キャサリンにしてみれば、なぜお父さまが病気になってから、元気なときとちがって、気むずかしく、すぐ怒りだすようになったのかわかりません。ですから、お父さまにがみがみお小言《こごと》を言われれば、なおさら怒らせてやろうという、いたずらな楽しみが生まれます。わたしたちがみないっしょになってお嬢さまを叱るときほど、お嬢さまが満足そうなことはありません。びくともせず生意気な表情で、ぽんぽん口答えします。神さまをひきあいのジョーゼフの罵《ののし》り文句なんか茶化してしまい、わたしをからかい、お父さまのいちばんいやがることをします。ヒースクリフにわざと横柄《おうへい》な態度をとると、お父さまは本気だと思うのですが、そうやるほうが、お父さまの親切なんかより、ずっと効果があるんだということを、見せつけるのです。自分の命令ならヒースクリフは何でも聞く、でもお父さまの命令だったら気の向いたときしか聞かない、ということをしめすのです。一日じゅう思う存分いたずらをやったあとで、夜になると、その埋めあわせに、お父さまに甘えに来ることがあります。すると、お年を召した旦那さまはいつもこうおっしゃるのでした。「だめだよ、キャシー、わしにはおまえなんか好きになれん。おまえは兄よりまだ悪い子だ。向こうへいってお祈りして、神さまの許しを乞うがいい。わしもお母さんもおまえのようなやつを育てたことを後悔しなければならんのじゃないかな!」こう言われると、初めのうちはお嬢さまは泣きだしました。でもいつもはねつけられて慣れっこになってしまい、わたしがお嬢さまに、自分が悪かったと言って、許して下さるようにお願いしなさい、とすすめても、笑うだけでした。
でも、とうとう、アーンショウさまのこの世の苦しみも終わるときがまいりました。十月のある夕べ、大旦那さまは炉辺の椅子にかけたまま、静かに息を引きとられました。強い風が家の周囲を吹きめぐり、煙突の中で吠え声をあげていました。烈しく嵐のような風音でしたが、寒くはなく、みないっしょに集まっておりました……わたしは暖炉から少し離れたところでせっせと編み物をやり、ジョーゼフはテーブルのそばで聖書を読んでいました。(その頃は召使たちは仕事がすむと、たいてい、居間でくつろいでいたのです。)キャシーお嬢さまは前から加減が悪かったので、静かでした。そしてお父さまの膝にもたれ、ヒースクリフはお嬢さまの膝に頭をのっけて床に寝そべっていました。忘れもしませんが、大旦那さまはうとうと眠りこまれる前、お嬢さまの美しい髪をなでておられました……お嬢さまが珍らしくおとなしくしているのが嬉しかったのですね……こう言われました。「どうしていつもいい子でいられないのかね、キャシー?」お嬢さまは顔をぐるっと上に向け、笑って答えました。「どうしていつもいいお父さまではいられないの、ねえ?」でも、たちまちお父さまの機嫌が悪くなってしまいましたので、お嬢さまはその手にキスし、眠れるように歌をうたってあげる、と言いました。低い声で歌いだしましたが、そのうち旦那さまの指はお嬢さまの手からすべり落ち、首をがくんと胸に落としました。わたしはお嬢さまに、目を覚まされないように、歌をやめて、じっとしているほうがよい、と言いました。みんなたっぷり三十分も、唖《おし》のように黙っていました。聖書の一章を読み終えたジョーゼフが立ちあがり、お祈りして寝《やす》んでいただくのだから、お起こししなくちゃ、と言わなかったら、もっとそうやっていたかもしれません。ジョーゼフが近づいて、お名前を呼び、肩にさわりました。旦那さまは身動きもなさいません。ジョーゼフは燭台を取って、よく見ました。彼が燭台を下においたとき、わたしはなにか変わりごとがあったのだ、と思い、子供たちの腕をとって、「二階へいらっしゃい、静かにしてね……今夜はあなたたちだけでお祈りするの……ジョーゼフには用事があるようだから」と小声で言いました。「あたし、さきにお父さまにおやすみを言うわ」と、キャサリンはとめるひまもなく、お父さまの首にしがみつきました。かわいそうに、たちまち、お父さまが亡くなったことを知ってしまいました……「お父さまが大変! ヒースクリフ、お父さまが死んじゃった!」と叫びたて、二人とも、胸もはり裂けそうな泣き声をたてました。
わたしもいっしょになって、大声で激しく泣きました。でもジョーゼフは、天国で聖者となられた方のことを、そんなに泣きわめくとはどういう気だ、と叱りつけました。そしてわたしに外套を着て、ギマトンから医者と牧師を呼んで来い、と言いつけました。わたしはいまさら医者や牧師が何の役にたつのか、と思いましたけれど、雨風をおかして出かけて行き、お医者さまのほうだけ連れてもどりました。牧師さまは、あしたの朝来ると言ったのです。お医者さまへの説明はジョーゼフに任せて、わたしは子供部屋へ走って行きました。ドアは開いていて、真夜中過ぎというのに、まだ寝ていません。でも二人とも、もう落ち着いていて、慰めてやる必要はありませんでした。幼い者たちはわたしなど思いつけない、りっぱなことを考えて、慰めあっていました。無邪気な話の中で、この世のどんな牧師も話したことのない、美しい天国を思い描いていました。すすり泣きながら聞いていたわたしも、みなそんな天国に安らかに行けたら、と願わずにはいられませんでした。
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ヒンドリーさまがお葬式に帰って来ました……びっくりしたことに、また、近所じゅうの噂の種になったことですが……奥さまを連れて来たのです。ど ん な素姓《すじょう》の人で、どこの生まれなのか、彼は何も話してくれません。たぶん誇りにするような財産も家がらもない人だったのでしょう。でなかったら、結婚をお父さまに隠しておいたはずはありません。この奥さまは自分から家の中をかき回すような人ではありませんでした。家にはいったその時から、目にふれること、まわりで起こることが、何もかも、すっかり気に入ってしまったようでした。もっとも、お葬式の準備とお悔やみの人々については別でした。お葬式のあいだの振舞いから、わたしは彼女が少し|たりない《ヽヽヽヽ》のではないかと思ったくらいです。自分の部屋に逃げこみ、わたしが子供たちに服を着せてやらなくてはならないのに、いっしょにひっぱりこんで、ぶるぶる震えながら両手をにぎりあわせ、「あの人たちもう帰ったかしら?」と何度も何度も聞くのです。それからヒステリックな調子で、喪服を見るのはとてもこわいのだ、と話しだしました。びくっとしたり、震えたり、とうとう泣きだしてしまいました……いったいどうしたのか、と聞きますと、なんだかわからないけど、死ということがこわくてたまらないの、と言うのです。わたしだってそうですが、彼女は簡単に死にそうな女だとは思えませんでした。いくぶん痩《や》せ気味ですが、若くて、顔の色つやもよく、目はダイヤのように輝いていました。でもたしかに、階段を昇るとき、息がとてもせわしくなったり、小さな突然の物音にも震えあがったり、ときどき苦しそうに咳《せ》きこむことはわたしも気づいておりました。でも、そんな徴候がなんの前兆か知らず、同情する気にもなれませんでした。この土地の人は一般に、よそ者に対しては、向こうからさきに好きになってくれない限り、こちらから好意をよせることはございませんのですよ、ロックウッドさま。
若主人のアーンショウさまは三年の不在のあいだにずいぶん変わられました。前よりも痩せて、血色が悪くなり、話し方や服装まですっかりちがってしまいました。帰られたその日、これからジョーゼフとわたしは奥の台所を居場所にし、居間のほうは自分に引き渡すように、と言われました。本当は、空いている小部屋にじゅうたんを敷き、壁紙を張って、そこを居間にしたかったのですけれど、奥さまが、こちらの白い床や、赤々と燃える大きな暖炉や、白鑞《しろめ》製の皿や陶器棚、犬小屋、ふだんくつろぐのに自由に動き回る余地のある点、などがとても気に入ったと言われましたので、奥さまを喜ばすのにわざわざ部屋を改造する必要もない、と最初の計画をおやめになったのです。
奥さまは新しい妹さんができたことを喜び、初めのうちはキャサリンとおしゃべりしたり、キスしたり、いっしょに走り回ったり、贈り物をどっさりあげたりしていました。でもじきにその愛情にあきてしまいました。奥さまが気むずかしくなるにつれ、ヒンドリーは暴君になりました。奥さまが、ヒースクリフを嫌うような言葉を二言《ふたこと》、三言《みこと》言っただけで、たちまち若主人の心に、昔の憎しみが甦《よみがえ》ってきました。それであの子を家族のあいだから召使いの中へ追いやってしまい、牧師補に勉強を教わるのもやめさせ、それより野良へ出て働けと言いはって、農場で働くほかの若者以上の激しい労働を否応なしにさせました。
ヒースクリフはこうして身分を落とされても、初めのうちはよく辛抱《しんぼう》していました。それはキャシーが自分の習ったことは教えてやったし、野良へ出ていっしょに働いたり遊んだりしてやったからです。自然二人とも野蛮人《やばんじん》みたいな粗野な人間に育っていきそうでした。若主人は二人の姿さえ見なければ、どんなに振舞おうと、何をしようと、おかまいなしです。日曜日に教会へ行くことだって気をつけてやろうとはしなかったのですが、二人が欠席したとき、ジョーゼフと牧師補が監督の不行き届きを非難しました。そこであわててヒースクリフを鞭で叩き、キャサリンには昼食か晩ご飯を罰として抜かせました。でも二人の子供のいちばん大きな楽しみといえば、朝のうち荒野《ムア》へ逃げだして行って、一日じゅういることなので、あとでもらう罰なんかせせら笑うようになりました。牧師補が聖書の章をいくらたくさんキャサリンに暗記させたって、ジョーゼフがヒースクリフを自分の腕が痛くなるまで鞭で打ちすえたって、二人がまたいっしょになったとたん……少なくとも何か仕返しのいたずらを思いついたとたん……何もかも忘れてしまうのです。わたしは二人が日ましに向こう見ずになっていくのを見て、ひそかに泣いたことが何度もあります。でもこの味方もない子供たちが、わたしにまだいくらかよせていた信頼を失いたくないと思って、ひと言《こと》も注意してやれませんでした。ある日曜日の夕方のことでした。二人は騒いだとか、そんなちょっとしたいたずらのために、居間から追い出されてしまいました。わたしが夕食に呼びに行きますと、どこにも姿が見あたりません。みんなして家じゅう、二階も階下も、庭も厩もすっかり探しましたが、姿は見えません。とうとうヒンドリーはかんかんになり、ドアにみな閂《かんぬき》をかけ、今夜ひと晩あいつらを入れてはならん、と言い渡しました。家の者はみな寝てしまいましたが、わたしは気がかりで横にもなれません。雨が降っていましたが、格子戸《こうしど》をあけて首を出し、耳を澄ませていました。もしも帰って来たら、言いつけに背いたって、中に入れてやる決心をしていたのです。しばらくすると、道をこちらへやってくる足音が聞こえ、角燈《カンテラ》の灯が門を通してちらちら見えました。わたしはノックされてアーンショウさまが目を覚ましてはいけないと、頭からショールを引っかぶり、走って行きました。すると、ヒースクリフが一人で立っているではありませんか。一人しかいないので、わたしはぎょっとしました。
「キャサリンお嬢さまはどこ? 何か起こったんじゃないでしょうね?」とわたしは急《せ》きこんで聞きました。「スラッシクロス屋敷だよ」と彼は答えました。「おれもいたかったんだけど、礼儀知らずが、おれには泊まっていけとも言いやがらねえ」
「まあ、叱られますよ! あんたは追いだされなければわからないのね! いったい、どうしてふらふらスラッシクロス屋敷なんかへ行ったんです?」
「濡れた服をさきに脱がしてくれよ。それからみんな話してやるよ、ネリー」
わたしは主人の目を覚まさないように気をつけさせ、彼が服をぬぐまで、蝋燭を消さずに待ってやりました。そのあいだ彼は話を続けました……「キャシーとおれは洗濯場から抜け出して、気ままに歩き回っていたんだ。そしたらあの屋敷の灯が見えたので、リントンの家でもやっぱり日曜の晩は、お父さんとお母さんが暖炉の前で目までこがすくらいあったまりながら、食べたり飲んだり、歌ったり笑ったりして、子供たちだけすみっこで震えさしておくのかどうか、行って見ようと思ったんだ。あそこではそうやっていると思う? それに説教集を読んだり、下男から教義問答をやらされて、ちゃんと答えられないと、聖書の中の名前をいっぱい覚えさせられたりしていると思うかい?」
「そんなことはないでしょうね」とわたしは答えました。「あそこのお子さんはおとなしいにきまってるから、あんたたちみたいないたずらをして、そんな目にあうことはないんですよ」
「お説教はやめにしな、ネリー。ばかばかしいや! おれたちは嵐が丘のてっぺんから、猟園《パーク》まで一気に駆けてったんだよ……キャサリンははだしだったから、競争は完全に負けさ。あしたキャシーの靴を沼地で探してきてくれよ。おれたちは生け垣のこわれたところからはいって、小径を手さぐりして行き、客間の窓の下の花壇に忍びこんだ。部屋から明かりがさしていたよ。鎧戸《よろいど》はしめてなくて、カーテンも半分引いてあるだけだった。二人とも土台に乗っかって、窓の出っ張りにつかまったら、中がのぞきこめた。そしたら……ああ、きれいだったぜ!……真っ赤なじゅうたんが敷いてあって、椅子もテーブルも、真っ赤な布がかぶせてあり、真っ白な天井は金色の縁がついてるし、真ん中から、銀の鎖にガラス飾りがいっぱいついた吊燭台がぶらさがり、小さな蝋燭の柔らかい光できらきらしてるんだ。リントンのおじさんもおばさんも見えず、エドガーと妹だけでそこを占領してるんだよ。あれで楽しくないはずはないんだ。おれたちだったら、天国にいるような気がしたろうな! だのに、いったい、おまえがおとなしいっていう子供が何してたと思う? イザベラは……たしか十一で、キャシーよりひとつ年下なんだけど……あの子は部屋の奥のすみっこでひっくり返ってキーキー泣いてたんだ。まるで魔女に真っ赤に焼けた針でも突き刺されてるみたいにね。エドガーも暖炉のそばに立ってしくしく泣いていた。テーブルの真ん中には子犬がすわって、前足を震わせてきゃんきゃんやってる。二人で文句を言いあっていたので、両方から犬をちぎれるぐらいひっぱったことがわかった。ばかなやつらさ! あんなことをして遊んでるんだから! どっちがあったかい毛のかたまりを抱くかで喧嘩して、取りっこしたくせに、どっちもいらないって泣きだしたりして。おれたちは、あの甘ったれどもを思いきり笑ってやった。ばかなやつらだからさ! いつおれがキャサリンの欲しいものを取りたがったりした? おれたちが部屋のすみとすみにわかれて、わめいたり、しくしくやったり、転げ回ったりして楽しんでるところを、見たことがあるかい? 何遍生まれ返ったって、ここのおれの境遇をスラッシクロス屋敷のエドガー・リントンなんかと取り換えっこしたくはないね……たとえジョーゼフを部屋のいちばん高いところから投げ落とし、家の正面をヒンドリーの血でぬりたくってもいいって言われたって、いやなこった!」
「しっ、静かに!」とわたしはさえぎって、「ヒースクリフ、どうしてキャサリンをおいて来たのか、まだ話してないじゃないの」
「いいかい、おれたちが笑ったらね、リントンのやつらが聞きつけて、一度にぱっとドアまで飛んで来た。急に静かになって、こんどは叫びだした。『ねえ、ママ、ママ! ねえ、パパ! ねえ、ママ! 来てよ! ねえ、パパ。ねえったら!』そんなぐあいに吠《ほ》えたてたんだ。おれたちは、もっとこわがらしてやれ、とがたがた音をたてた。ところがだれか閂をはずしかけたんで、窓から降りちゃった。逃げだしたほうがいいと思った。キャシーの手を取って、せきたてながら走ってたら、急にキャシーが転《ころ》んじゃった。『逃げて、ヒースクリフ。逃げて!』とささやいた。『ブルドックを離したわ。あたしにかみついた!』犬の畜生め、キャシーの足首にかみついたんだよ、ネリー。ものすごい鼻息が聞こえた。キャシーは悲鳴をあげなかった……そうだとも! 気違い牛の角《つの》にくし刺しになったって、みっともない声なんか出す子じゃない。でも、おれはどなってやった! 世界じゅうの悪魔をやっつけるくらいに悪態をわめきたててやった。石を拾って、犬の口へ突っこみ、力いっぱい咽喉の奥まで押しこんでやった。とうとう、けだものみたいな下男が角灯《カンテラ》を持ってやって来て、『離すな、スカルカー、離すじゃねえぞ!』とけしかけた。だけどスカルカーが喰《くら》いついてるものを見て、調子を変えた。犬は首をしめられて、キャシーを離した。でっかい紫色の|べろ《ヽヽ》が、口から長々と垂れ下り、唇はだらんとして、血のまじった涎《よだれ》を流している。下男はキャシーを助け起こした。キャシーは青い顔をしてたけど、絶対にこわいからじゃなく、痛かったせいだ。下男はキャシーを家の中へ運んで行った。おれは怒って悪態をぶつぶつ言いながら、後についていった。『何をつかまえたね、ロバート?』とリントンが入口から呼びかけた。『スカルカーがちっちゃな女の子をつかまえたんですよ、旦那さま』と答えてから、おれをつかまえながら、『小憎もいます。ひどい悪党づらのやつです! たぶん、泥棒どもはみんな寝静まってから、こいつらをさきに窓から忍びこませて、戸をあけさせる気だったんですよ。そうやればわしらを造作なく殺せますからね。こら、黙らねえか、口ぎたねえ盗《ぬす》っ人《と》めが! おめえはこれで絞首台行きだ。リントンさま、鉄砲は出しとくほうがいいです』するとまぬけのおいぼれが言うんだ。『うん、出しとくとも。悪人どもは、きのうがわしの小作料の支払い日だと知っていて、うまいところを襲うつもりだったんだな。さあ、中へ入れなさい。わしがやつらの相手をしてやろう。それ、ジョン、ドアの鎖をしっかりかけてな。スカルカーに水をやれよ、ジェニー。治安判事の邸へ、しかも安息日に押しこむのだからな! どこまでずうずうしいのかわかりはせん。ちょっと、メアリーや、見てごらん! こわがることはない、まだ子供だよ……だが悪人の相がありありと顔に出ている。その本性が顔だけでなく悪事に現われないうち、早く絞首刑にしてしまうほうが国のためではないだろうか?』リントンはおれを吊燭台の下に引っ張って行き、おばさんは眼鏡を鼻にのっけて、恐ろしそうに両手をあげた。弱虫の子供たちまで近寄って来て、イザベラなんか、舌足らずに、『まあこわい! この子を穴倉へ入れてよ、パパ。この子、あたしの飼ってた雉《きじ》を盗んだ占い師の子にそっくりよ。似てるでしょう、エドガー?』
「みんなでおれをじろじろ見てるところへ、キャシーがやって来た。イザベラのいまのことばを聞いて吹きだした。エドガー・リントンは、じっと探るように見てたけど、やっと頭も働きだして、キャシーがだれかわかったようだ。ほかではめったに会わないけど、教会で会うからね。『あの人はアーンショウのお嬢さんだよ』と母親にささやいた。『ごらん、スカルカーのやつ、ひどく噛《か》みついて……足からあんなに血が!』
「『アーンショウのお嬢さんですって? ばかおっしゃい!』とおばさんが叫んだ。『アーンショウのお嬢ささんがジプシーなんかとここいらをほっつき歩くもんですか! でも、まあ、この子は喪服を着てるわ……たしかに喪服よ……それに、この子、一生片輪になってしまうかもしれない!』
「『この子の兄の怠慢はふとどきだ!』とリントンはおれからキャサリンのほうへ向いて叫んだ。『ジールダース(これは例の牧師補の名前でございます)から聞いてるが、この子の兄さんは、この子が本物の異教徒のように育って行くのを放っておくそうだ。だが、こいつは何者だ? どこでこんな仲間を拾ってきたんだろう? ははあ、なるほど! こいつは亡くなったアーンショウさんが、リヴァプールヘ旅をしたときのふしぎな拾い物だ……東インド人の水夫の子か、アメリカ人かスペイン人の捨て子なんだ』
「『とにかく、たちの悪い子ですわ』って、ばあさんが言いやがった。『上品な家におけるような子じゃありません! あなた、この子のことばをお聞きになって? うちの子供たちが聞いたと思うと、ぞっとしますわ』
「おれはまた悪態をついてやった……怒るなよ、ネリー……するとロバートにおれをつまみ出せって言いつけた。おれはキャシーといっしょでなけりゃ動かないって言ってやった。ロバートがおれを庭へ引きずり出して、角灯をむりやり持たせ、アーンショウさんにおれのことは話してやる、さっさと帰れ、とドアをしめ切ってしまった。カーテンはまだひとすみにくくられていたので、またのぞき見することにした。キャサリンが帰りたがっているのに、あいつらが出してやらないのなら、大きい窓ガラスをこなごなにたたきこわしてやるつもりだった。でも、キャシーはおとなしくソファに掛けていた。リントンのおばさんは、出掛けるとき借りていった乳しぼり女の灰色の外套をぬがし、頭をふりながら何かお説教しているようだった。あの子はお嬢さんだから、おれとは待遇がちがうんだ。そこへ女中が洗面器にお湯を入れて持って来て、足を洗ってやった。リントンさんはニーガス酒をこしらえてやるし、イザベラは山盛りの菓子の皿をキャサリンの膝にのっけてやるし、エドガーは離れてぽかんとして見ていた。そのあと、みんなでキャシーのきれいな髪を乾かして櫛でとかしてやり、でっかいスリッパをはかせて、椅子ごと暖炉のほうへ動かしてやった。おれが立ち去るとき、あの子はすっかり上機嫌で、菓子を子犬とスカルカーにわけてやり、食べてるスカルカーの鼻をつまんでみたりしていた。リントンの子供たちのぼんやりした青い目もいくらかきらきらしてきたようだった……キャシーのきれいな顔の輝きが、向こうに写ったんだろう。みんな、馬鹿みたいにぽかんと見とれてたからね。キャシーのほうがどんなにすばらしいかわからないよ……世界じゅうのだれにだって負けやしない。ね、そうだろう、ネリー?」
「今夜のことは、あんたが考えているよりずっと大変な騒ぎになるでしょうよ」とわたしはヒースクリフに蒲団を掛けてやり、灯を消しながら答えました。「あんたときたら、しようのない子ね、ヒースクリフ。ヒンドリーさまはきっと思いきった処置をなさるわ。まあ見ててごらんなさい」わたしの言ったことばはわたしの望む以上に的中してしまいました。この不運な冒険を知ってアーンショウはかんかんになりました。それにリントンさんも、あと始末のために、翌朝自分で訪問なさり、家族の取り締まりについて、さんざんお説教をなさいましたので、ヒンドリーもやっと真剣に身の回りを考えるようになりました。ヒースクリフは鞭で打たれはしませんでしたが、今後キャサリンにひと言《こと》でも口をきいたら最後、家から追い出す、と言い渡されました。アーンショウ夫人もキャシーが帰りしだい、力づくでなく、いろいろ手をつくして、きちんと躾《しつ》けていこうと言いました。力づくでしようとしたって、それはとてもだめだったでしょう。
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キャシーはクリスマスまで五週間、スラッシクロス屋敷に泊まっていました。そのうちに足の傷もすっかりなおり、お行儀もずっとよくなりました。奥さまはそのあいだ、たびたび訪ねて行き、お嬢さまをよくする計画に取りかかりましたが、それはきれいな服や、おだてを使って、自尊心を高めさせることでした。これは、お嬢さまも喜んで受け入れました。ですから、帽子もかぶらない乱暴な無作法な小娘が家の中へ駆けこみ、いきなりわたしたちに飛びついて息もできないほど抱きしめるかと思ったら、意外にも、りっぱな黒い小馬から降りたのは、いかにも気品のあるご令嬢で、羽根のついた海狸《ビーバー》帽の下からとび色の巻き毛を垂らし、長い毛織の婦人乗馬服を着けていて、家の中へはいるのに、しとやかに服を両手で持ちあげるのでした。ヒンドリーはキャシーを馬から助け降ろしてやりながら、嬉しそうに叫びました。「いや、これは、キャシー、たいした別嬪《べっぴん》になったな! 見違えてしまうところだったよ。もうすっかり貴婦人だよ。イザベラ・リントンなんかとてもかなやしないだろう、フランシス?」「イザベラはキャシーみたいな器量よしじゃありませんわ」とヒンドリーの奥さまは答えました。「だけどキャシーもよく気をつけて、ここで前みたいな荒っぽいやり方にもどらないことね。エレンや、キャサリンちゃんのお召しものを脱がせておあげ……あら、だめよ、キャシー、巻き毛がこわれちゃうわ……あたしに帽子を取らせてね」
わたしが乗馬服を脱がせてあげますと、その下から目もまばゆいばかりに、すてきな格子縞《こうしじま》の絹の上衣、白のズボン、ピカピカ磨きたてた靴が現われました。犬たちがお嬢さまの帰りを喜んで飛びかかってきますと、嬉しそうに目を輝かせていましたが、すてきな服にじゃれつかれるのが心配で、なでてやることもできません。わたしへのキスもそっとしただけ。わたしはちょうどクリスマスケーキの作りかけで粉だらけだったので、抱きしめたら大変だったからでしょう。それからキャシーはヒースクリフがいないかと見回しました。アーンショウ夫妻は二人の出会いを案じながらうかがっていました。二人の仲をうまく割けるかどうか、そのときの模様によって、ある程度判断できるだろうと思っていたのです。
ヒースクリフは初めのうち、なかなか見つかりませんでした、もともとだらしなく、だれにもかまってもらえない子でしたが、キャサリンがいなくなってからは、前の十倍もひどくなりました。あの子に汚い子だね、と言ってやり、週に一度でもからだを洗わせてやるだけの親切ささえ、わたし以外はだれ一人持っていませんでした。それにあの年ごろの子は石鹸と水を使うのが好きだなんてことはめったにありませんものね。ですから、三月《みつき》も泥や埃《ほこり》にまみれたままの服を着て、髪は櫛も入れずにのび放題、顔も手もむさくるしく、真っ黒でした。自分と同じもじゃもじゃ頭のおてんば娘が帰ると思ったのに、まばゆいばかりのしとやかな令嬢が家に来たのでは、ヒースクリフだって長椅子の陰にこそこそ隠れもしたくなるでしょう。「ヒースクリフはいないの?」とキャシーは手袋を取りながら聞きました。何もせず家の中にいた指は、びっくりするほど白くなっていました。
「ヒースクリフ、出て来てもいいぞ」とヒンドリーさまはあの子のうろたえぶりをおもしろがり、せっぱつまってどんな嫌らしいごろつきみたいなようすで現われるか見てやろう、と愉快でならなかったのです。「出て来てほかの召使のように、キャサリンお嬢さんお帰りなさいと言ってあげろよ」
キャシーは友達が隠れているのをちらと見ると、駆け寄って抱きしめました。たちまち七つか八つ、相手の頬にキスしましたが、はっとやめて、身を引き、吹きだしながら、叫びました。「あら、なんて真っ黒な、気むずかしい顔をしてるのよ! それにまあ……おかしな、こわい顔! でも、あたしがエドガーやイザベラを見慣れたせいなのね。どうしたの、ヒースクリフ、あたしのことを忘れてしまった?」
キャシーがそうたずねたのももっともで、ヒースクリフの顔は恥ずかしさと自尊心で二重に暗くなり、からだも固くなっていたのです。
「握手したらどうだい、ヒースクリフ」とアーンショウの若旦那さまはお情けのように言いました。「たまにはそのくらいやらしてやるよ」
「いやだ」とヒースクリフは、やっと口がきけるようになって言いました。「ばかにされるのはいやだ。我慢できねえ」
そう言ってその場から飛びだして行こうとしたのを、キャシーお嬢さまがまたつかまえてしまいました。
「あたし、ばかになんかするつもりじゃなかったわ。でもつい笑っちゃったの。ヒースクリフ、せめて握手して! 何をすねてるの? あんたが変なかっこうをしてたからじゃないの。顔を洗って髪をとかせば、それでいいのよ。でもずいぶん汚いのね!」
キャシーは握っていた黒ずんだ手を心配そうに見てから、自分の服に目をやりました。ヒースクリフの服に触れて、何かつきはしなかったかと心配だったのです。
「おれにさわってくれなくたっていいんだ!」とヒースクリフはキャシーの目の動きを追い、手をふり放して、言いました。「おれは好きなだけ汚なくしてやる。汚ないほうが好きなんだから、汚なくするんだ」
そう言うなり、主人夫婦がおもしろがっている中を、さっと飛び出して行ってしまいました。キャサリンはなぜ自分の言葉にあんなに怒ったのか見当もつかず、不安でたまりませんでした。わたしは帰ってきたお嬢さまの身の回りの世話をすませ、ケーキをオーブンに入れ、クリスマス・イヴらしく居間にも台所にも、たっぷり火を焚《た》いて、気持よくしてから、一人になって腰をおろし、聖歌を歌って楽しもうとしていました。ジョーゼフから、おまえの楽しい曲というのは流行歌に近いものだといや味を言われていましたが、気にしません。ジョーゼフは自分の部屋へ引っこんで、一人でお祈りしていました。主人夫婦は、キャサリンがお世話になったお礼として、リントン家の子供たちに贈るために買い求めた、いろいろな派手やかな品物を見せて、キャシーの気を引こうとしています。明日嵐が丘で一日過ごすように招待したところ、向こうでも承諾したのですが、ひとつだけ条件がついていました。というのは、リントン夫人が、大切な子供たちに、あの「口ぎたない悪たれ少年」を近づけないように注意してほしい、と言ったのです。
さて、わたしは台所に一人でおりました。熱せられた香料がぷんと匂《にお》っています。ピカピカした台所道具、磨きあげ、柊《ひいらぎ》を飾りつけた時計、夕食に暖めたビールを注いで出すため盆にならべた銀の盃、とりわけ、わたしが特別念入りに洗い清めた、しみひとつない床……それらをわたしはほれぼれとながめました。そのひとつひとつを心ひそかに賞讃し、むかしは、こうしてすっかりきれいにすると、大旦那さまのアーンショウさまがはいって来られ、わたしをかいがいしい働き者とほめて下さり、クリスマスの心づけに、一シリング銀貨を一枚そっと握らせて下さったものだ、などと思いだしていました。そこから、わたしの思いは大旦那さまがヒースクリフを甘やかされたこと、自分が死んだら、あの子は放ったらかしになってしまうだろうと心配なさっていたことなどに移ってゆき、自然と、あの子の現在の境遇が哀れになり、歌うどころか泣きたいような気持になってしまいました。でも、じきに、彼の受けている不当な待遇に涙をこぼすより、少しでもよくする努力をしてやるほうがよい、と考えなおし、立ちあがってあの子を探しに中庭へ出てみました。べつに遠くへ行ってはいませんでした。厩で新しく来た小馬の艶々した毛並をなでつけたり、いつものように他の家畜にえさをやったりしていました。
「早くすましてしまいなさい、ヒースクリフ!」とわたしは声をかけました。「台所はとても気持がいいわ。ジョーセフは二階に行ったのよ。さあ、早くして。キャシーが来る前に、きれいな服を着せてあげるからね。そしたら二人だけで暖炉を使って、寝るまでゆっくりおしゃべりができるじゃないの」
ところがヒースクリフは仕事を続け、わたしをふり向いて見ようともしません。
「さあ……すぐ来るんでしょう?」とわたしは続けて言いました。「二人にお菓子をあげるわ、まず充分にね。あんたの着付には三十分かかるのよ」
五分くらい待ちましたが、返事をしないので、そのままもどりました。キャサリンは兄夫婦といっしょに夕食をとり、ジョーゼフとわたしは二人で気まずい食事をしました。相手はぶうぶう口小言、こちらも負けずにやり返しながらの食事です。ヒースクリフのお菓子とチーズは、まるで妖精へのお供《そな》えもののように、ひと晩じゅうテーブルに残っていました。あの子は九時までわざと働き続け、そのあと、むっつり物も言わずに自分の部屋へ行ってしまいました。キャシーは新しい友達を迎えるために、なにやかやと指図をしなければならないので、夜ふかししていました。一度だけ古い友達と話すつもりで台所へはいって来ましたが、彼が自分の部屋へ行ったあとでした。でも、あの人どうしたのかしら、と言っただけで、すぐ出て行きました。朝になると、ヒースクリフは早く起きました。休日だったので、むしゃくしゃしたまま荒野《ムア》へ出かけ、家の人たちが教会へ行ってしまってからやっと姿を見せました。腹もすき、いろいろ考えて、気分がなおったようでした。しばらくわたしのそばにくっついていましたが、勇気をふりしぼって、だしぬけに強く訴えました。
「ネリー、おれをきちんとさせてくれ。これからおとなしくするよ」
「もう、そうやっていい頃よ、ヒースクリフ。あんたはキャサリンにつらい思いをさせたの。きっと帰って来たのを後悔してるわ! あんた、お嬢さまが自分よりちやほやされるからって、ねたんでるんでしょう」
キャサリンをねたむという意味があの子にはわからなかったけれど、つらい思いをさせるということは、はっきりわかるのでした。
「キャシーがつらいって言った?」そう聞くときの顔は真剣そのものでした。「あんたがけさも出て行ってしまったと言ったら、泣いたわ」
「だって、おれだってゆうべ泣いたよ。おれのほうがあの子よりずっと泣いていいはずだったんだ」
「そうね、あんたが誇りを傷つけられて、腹をすかしたまま寝てしまったのは、たしかにもっともだったわ。誇りの高い人って、自分で悲しみをつくりだすのよ。でも、ちょっとしたことに怒ったのが恥ずかしいと思ったら、お嬢さまが来たとき、あやまるのよ、いいわね? そばへ寄ってキスさせて下さい、って言うの、それから……どう言ったらいいか、自分でわかってるわね。ただ心をこめなくてはだめ。りっぱな服を着たから他人になった、と考えてるようなやり方ではだめなのよ、それじゃ、ごちそうの用意をしなくちゃならないけど、ちょっと時間を割《さ》いて、おめかしさしてあげる。エドガー・リントンなんか、あんたとならんだら、人形みたいにしか見えないようにね。ほんとにそうなるわよ。あんたのほうが年下だけど、きっとあの子より背は高いし、肩幅は二倍もあるでしょう。エドガーなんか、たちまち殴り倒してしまえるわ! そう思わない?」
ヒースクリフの顔は一瞬ぱっと輝きました。すぐに、また暗くかげり、溜息をつきました。
「だけど、ネリー、おれがあいつを何遍殴り倒してみたって、あいつが醜くなるわけじゃなし、おれがいい男になるわけじゃないだろ。おれも金髪で色が白くって、いい服を着て、お行儀よくして、あいつぐらいの金持になれるんならなあ!」
「それで、何かといえば、泣いてママを呼んでたらいいの?」とわたしは言ってやりました。「百姓の子供が拳固をふりあげたって、ぶるぶる震えたり、雨がちょっと降れば、一日じゅう家に坐っていたりしたいの? ね、ヒースクリフ、そんな考えは意気地がなさすぎるわ! 鏡の前へいらっしゃい、あんたが望んだらいいことを教えてあげる。そら、両目の間に二本の立てじわがあるでしょう。濃い眉は弓なりにそらないで、真ん中が下がってるし、黒鬼みたいな目が、深く引っこんで、思いきって大胆に窓をあけようとせず、悪魔の回し者みたいに、陰にひそんできらきら光ってるのがわかる? その気むずかしい皺《しわ》をのばし、まぶたを明るく開いて、鬼みたいな目を、自信に満ちた、無邪気な天使の目に変えようと心がけるのよ。疑ったり怪しんだりしないで、たしかに敵だとわかるまでは、みんな友達だと思わなくてはいけないの、心がけの悪い野良犬みたいな顔になってはだめよ。そんな野良犬は人に蹴られて当然の報いだとわかっていても、蹴った相手ばかりか世間全体を恨むようなことになるの」
「つまり、おれもエドガー・リントンみたいな大きな青い目と、きれいな額になるように望めっていうんだな。それはおれだって望むさ……だけど望んだってどうにもなりゃしない」とヒースクリフは答えました。
「よい心がけを持てば、顔も美しくなるのよ、ヒースクリフ。たとえあんたが本当の黒ん坊だとしても、そうよ。心が悪ければ、どんな美しい顔をしてたって、醜いどころかもっとひどくなるわ。さあ、これで顔も洗ったし、髪もとかしたし、ぷりぷり顔もやめた、っと……あんたもなかなか美男子だと思わない? わたしはほんとにそう思うわ。変装した王子様と言っていいくらいよ。あんたのお父さんは支那の皇帝で、お母さんはインドの女王だったかも知れない。二人とも一週間分の収入で、嵐が丘とスラッシクロス屋敷をあわせて買い取るくらいお金持だったかもしれないのよ。あんたは悪い水夫にさらわれて、イギリスに連れて来られたの。あたしがあんただったら、自分が高貴の生まれなんだときめて、けちな百姓なんかにいじめられたってびくともしない勇気と威厳を持つようにするわ!」
こんなおしゃべりを続けていますと、ヒースクリフもしだいにしかめ面を和らげ、とても楽しそうになってきました。すると突然、道に沿って中庭へはいってくる、がらがらいう音に会話は中断されました。ヒースクリフは窓へ、わたしはドアヘ走り寄りますと、ちょうどリントン兄妹が外套と毛皮にすっぽりくるまって、自家用馬車から降り、アーンショウ家の人たちも馬から降りるところでした。冬にはよく馬で教会へ行ったものでございます。キャサリンはこの二人の子供の手をひとつずつ取り、居間へ案内し、暖炉の前に坐らせました。子供たちの青ざめた顔にたちまち血色がさしてきました。
わたしはヒースクリフに、早くそこへ行って、機嫌のよい顔を見せるように、とせきたてました。彼は喜んで承知しました。でも運悪く、彼が台所からのドアをあけるやいなや、ヒンドリーが反対側からあけてきたのです。そこで鉢あわせをし、主人のほうではヒースクリフがこざっぱりして楽しそうなのが癩にさわったのか、それとも、リントン夫人への約束を守りたかったのか、いきなりあの子をうしろへ突きとばし、ジョーゼフに怒って言いつけました。「こいつをこの部屋へ入れるな……食事がすむまで屋根裏部屋へ放りこんでおけ。こいつはちょっとでもそこらへ置いたら、菓子に指を突っこんだり、果物をくすねたりするんだ」
「いいえ、旦那さま」わたしは思わず口を出しました。「この子は何にも手をつけません、大丈夫です。この子だって、みんなと同じごちそうをわけてやらなくてはかわいそうでしょうに」
「暗くならないうち下へまた降りて来やがったら、おれの拳骨でもくらわしてやるよ」とヒンドリーはどなりました。「行っちまえ、この宿なしめ! 何だこれは! 貴様、しゃれ男気どりか? 待ってろ、その上品ぶった髪の毛をひっつかんでやるからな。……引っぱって、もっと長くしてやるぞ!」
「そのままだって、長すぎるくらいさ」、とリントンの坊っちゃんが戸口から顔を出して言いました。「あれで頭が痛くならないかな。子馬のたてがみが目にかぶさってるみたいだ!」
それは別に侮辱のつもりで言ったわけではありませんが、ヒースクリフは相手をその頃から恋敵として憎んでいたらしいので、そんな無礼を言われれば、激しい気性からいって、とても我慢できません。いきなり熱いリンゴソースの深皿を(それがいちばん近くにあったものですから)つかんで相手の顔から首筋にかけて思う存分浴びせかけました。たちまちエドガーは泣きだし、イザベラとキャサリンがその場へ駆けつけました。アーンショウはすぐに乱暴した当人をつかまえ、自分の部屋へ連れて行きました。そこで、腹いせの荒療治をなさったにきまっています。そこから出て来たときは真っ赤に上気し、息を切らしていました。わたしは皿ぶきんを取って来て、よけいな口出しした罰ですよ、と言いながら、少し邪険に、エドガーの鼻や口をごしごしやってあげました。妹のほうはもう家へ帰る、と泣きだすし、キャシーは真っ赤になり、おろおろしていました。
「あの子に口をきくからいけないのよ!」とお嬢さまはリントン坊っちゃんをたしなめました。「あの子は機嫌が悪かったの。おかげでせっかくの訪問をめちゃめちゃにしてしまったじゃないの。おまけにあの子はぶたれるのよ。あたし、それが嫌なの! ごちそうなんかのどにとおらなくなってしまうわ。なぜあの子に口なんかきいたのよ、エドガー?」
「何も言やしないよ」と少年はすすり泣きしながら言い、わたしの拭いている手から離れ、あとは自分の白麻のハンカチで拭きとりました。「ぼくはママに、あいつにはひと言も口をきかないって約束して来た。だから口をききやしなかった」
「それなら、もう泣かないでよ」とキャサリンはさも軽蔑したように答えました、「殺されたわけじゃないのに。もういたずらはやめてね。お兄さまが来るわ、静かにして! イザベラも、やめてよ! あなたは何もされやしないでしょう?」
「さあさあ、みなさん……席に着いて!」とヒンドリーは騒々しくはいって来て、叫びました。「あん畜生のおかげで、からだがぽかぽかしてきたよ。エドガー君、こんどはきみの拳固でやり返すんだね……食事もおいしくなるよ!」
小さいパーティの人たちは、よい匂いのするごちそうを見ると、だれひとり怪我をしたわけでもありませんから、すぐに落着きを取りもどしました。馬車に乗って来て、お腹もすいていたし、じきに気持がまぎれました。アーンショウさまはみんなの皿にたっぷり肉を切って分けますし、奥さまははしゃいだおしゃべりでいっそう楽しませました。わたしは奥さまの椅子のうしろでお給仕役に立っていましたが、キャサリンが涙ひとつ浮かべず、けろっとしたようすで、目の前の鵞鳥の手羽を切りはじめるのを見ると、胸が痛みました。「薄情な子だわ」とひそかに思ったのです。「もとからの友達が苦しんでいるのに、あっさり忘れてしまうなんて。あんなに自分勝手とは思わなかった」キャサリンは肉のひと切れを口に運びかけて、また下へ置きました。みるみる頬が真っ赤になり、涙がぼろぼろ伝って落ちました。フォークを床にすべり落とし、あわてて拾うふりをしてテーブルかけの下にもぐり、泣き顔を隠しました。もうわたしもキャシーを冷たい子だなんて言えません。その日キャシーは一日じゅう煉獄にいるような苦しみを味わい、なんとかして一人になりたい、ヒースクリフのところへ行ってみたいと思いながら、その機会をじりじりとうかがっていたことが、わたしにはわかったからです。ヒースクリフは主人の手で部屋へ閉じこめられていました。それはわたしがこっそりごちそうを持って行ってやろうとして、わかったことなのです。
夕方、ダンスをしました。キャシーはイザベラ・リントンの相手がいないから、ヒースクリフを出してやって下さい、と頼みました。その訴えも空しく、わたしが代わりをしろと言われました。ダンスに夢中になって、みんなの暗い気分はすっかりけし飛びました。その上、ギマトン楽団が到着したので、いよいよ楽しくなりました。これは歌手のほかに、トランペット、トロンボーン、クラリネット、バスーン、フレンチ・ホルン、バス・ヴィオルなどで総勢十五人でした。クリスマスごとにおもだった家庭を回って寄付をもらって歩く楽団ですが、わたしどもはそれを聞くのを何よりの楽しみにしておりました。いつものクリスマスの祝い歌を歌ったあと、いろいろな歌や合唱曲を演奏してもらいました。アーンショウ夫人が音楽好きでしたので、楽隊はたくさん聞かせてくれました。
キャサリンも音楽が好きでした。でも階段のてっぺんがいちばんよく聞こえると言って、暗がりを二階へ上がって行きます。わたしは後を追いました。階下の居間は人がいっぱいだったので、二人がいなくなったのをだれも気づかずに、ドアをしめてしまいました。キャサリンは階段の上に来ても立ち止まらず、もっと上へ昇って行き、ヒースクリフの閉じこめられている屋根裏部屋の前まで来て、呼びました。ヒースクリフはしばらくは、強情に返事をしません。キャシーは辛抱づよく呼び続け、とうとう板の扉ごしに話をするように説きつけました。わたしはかわいそうな二人の邪魔をしないで、話をさせておきましたが、歌も終わりかけ、歌い手たちがもてなしを受ける頃になったので、お嬢さまに注意しようと、梯子を昇って行きました。ところがお嬢さまの姿は外側にはなく、中から声がします。まるで小猿みたいに、いっぽうの屋根裏部屋の明かり取りの窓から這いだし、屋根づたいに向こうの屋根裏部屋の小窓まで行って、もぐりこんだのです。お嬢さまをなだめすかして外へ呼びだすのはひと苦労でした。出てきたと思うと、ヒースクリフもいっしょで、お嬢さまはわたしに、どうしても彼を台所へ連れて行けと言ってききません。ジョーゼフはいつも「悪魔の聖歌」とよんでいる歌声を聞かないように、隣家へ逃げだしてしまったのです。わたしは悪だくみの手助けなんて絶対ごめんだ、と言ってやりましたが、この閉じこめられた子は昨日の昼食のあとは何も食べていないのだと気がついて、こんどだけはヒンドリーさまをだますのを見のがしてやることにしました。ヒースクリフは降りて来ました。暖炉のそばにかけさせ、どっさりごちそうを出してあげました。でも青い顔をしていて、あまり食べられません。せっかくのわたしの心づくしもむだになりました。あの子は両肘を膝に突き、両手で顎《あご》を支えて、むっつりと考えこんでいました。何を考えているの、と聞きますと、まじめくさって、言うのです。
「どうやってヒンドリーのやつに仕返ししてやろうか、と考えてるんだ。いつか仕返しができるなら、どんなに長くかかったってかまわない。それができるまで、あいつが死なずにいてくれたらいいんだ!」
「何を言うの、ヒースクリフ! 悪い人間を罰するのは神さまのなさることよ。わたしたちは赦《ゆる》せるようにならなければいけないんですよ」とわたしは言いました。「だめだ、神さまなんかにゃ、まかせておけやしない! おれの気持ちが満足しないもん」とあの子は言い返しました。「いちばんいいやり方さえわかったらなあ! 放っといてくれ、おれは一人で考えだすんだ。それを考えているあいだは、苦しみも感じないんだ!」
でも、ロックウッドさま、ついうかうかとこんな話をして、退屈なさったでしょう。どうしてこんなおしゃべりをする気になったものか、本当にあきれてしまいます。お粥《かゆ》はさめてしまいますし、旦那さまはおやすみになりたくて、こっくりこっくりなさってらっしゃるのに! ヒースクリフの身の上話なんか、旦那さまにお聞かせする必要のあることはほんのわずかな言葉ですみますのにねえ。
こう言って自分から話をやめると、家政婦は立ちあがり、縫い物を片づけはじめた。だがぼくは暖炉のそばから離れる気にはなれなかったし、とても眠くてこっくりするどころではなかった。「ディーンさん、まあ坐って下さいよ」ぼくはあわてて言った。「もう半時間ぐらい、いいじゃないですか! あなたのゆっくりした話し方でちょうどよかったんです。ぼくはそんな話し方が好きなんだ。だから同じ調子でお終《しま》いまでやって下さいよ。いまの話に出てくる人物は、みなそれぞれ興味がある」
「でも、旦那さま。もう十一時を打つところでございますよ」
「かまやしないよ……ぼくは十二時前に寝ることはないんだから。朝は十時頃まで寝てるんだもの、一時や二時はまだ宵の口さ」
「十時までおやすみになるのはいけません。朝のいちばんいい時間がとっくに過ぎてしまいますもの。十時までに一日の仕事を半分すませてしまわない人は、残りの半分もまずやらずじまいになるものですわ」
「ディーンさん、それはそれとして、もう一度坐って下さいよ。あしたは夜を午後まで延長して寝るつもりだからね。少なくとも、この風邪はしつこそうだし」
「そうなってはいけませんわ。でも、とにかく、三年ばかり飛ばして続けることにいたします。この三年の間にアーンショウの奥さまは……」
「だめだめ、そんなのはいやだよ! あんたはこんな気分を知らないかしら……たった一人でいるとき、すぐ前の敷物の上で親猫が子猫をなめてやっているとする。夢中になって見ていると、親が子猫の片耳をなめ忘れても、とても腹がたってくる、というような?」
「ずいぶんものぐさな気分ですこと」
「いや、とんでもない、いやになるくらい張りつめた気分さ。それが、現在の僕の気分なんだ。だから、こまかく話して下さいよ。この地方の人たちは、都会の人間にくらべると、ぼくにはずっと貴重に思われるね。ちょうどふつうの家の中の蜘蛛《くも》よりも、土牢の中の蜘蛛のほうが、そこにいる人間にとってずっとありがたいのと同じにね。だけど、この土地の人たちの強い魅力は、見る人の立場のせいだけとは言いきれない。この辺の人々はずっと真剣に、自分に没頭して生きていて、うわべの変化や取るに足らない外面的な物事に心を奪われないせいなんだ。こういう土地だと、生涯変わらぬ恋なんていうものもありそうな気がする。ぼく自身は、恋愛なんて一年だって続くものじゃない、と固く信じてるんだけどね。ここでは、腹ぺこの人間が一皿だけのごちそうをあてがわれるようなもので、ありったけの食欲をその一皿に集中して、十分に食べつくすわけだ。都会のほうでは、フランス人のコックたちが腕をふるった、たくさんの料理のテーブルにつかされるようなもので、全体から同じくらいの楽しみは得られるだろうが、ひとつひとつはほとんど注意もしないし記憶にも残らないといったところさ」
「まあ、そうでしょうか! ここに住むわたしどもだって、よく知ってくれば、よその人たちと同じことでございますよ」とディーンさんは、わたしの弁舌に少し面くらったようだった。
「いや、失礼だけど」ぼくは答えた。「そういうディーンさん自身が、いまのことばをはっきり打ち消していますよ。取るに足らない点で、いくらか田舎めいたところはあるけど、ぼくがかねがねあんた方の階級の人に特有なものだと考えていた態度なんか、ぜんぜんないものね。あんたは一般の召使なんかより、ずっといろいろなことを考えてきたにちがいない。くだらないことに人生を空費する機会がなかったので、自然と内省力が養われてきたんでしょうね」
ディーンさんは笑った。
「そりゃ自分でもしっかりした、物の道理のわかった女だとは思っています。でも、それはこんな山の中で、年がら年じゅう同じ顔だけ見たり、同じようなことだけやってきたせいばかりとは言えません。私は厳しい躾《しつけ》を受けたために、分別もつきましたし、それにロックウッドさま、これでもご想像以上にたくさん本を読んでいるんでございますよ。この書斎にある本のどれをおあけになっても、わたしの読んでいないもの……それから何か学ばなかったものはありません。ギリシャ語とか、ラテン語とか、フランス語とかの棚は別ですけど。それでも何語かぐらいの区別はつきます。貧乏人の娘にはその程度がせいぜいのところでございますわ。それはそうと、わたしの話を世間話のように続けるのでしたら、もうはじめたほうがよさそうでございますね。では三年間を飛ばすのはやめにして、翌年の夏……一七七八年の夏……に移らせて頂きましょう。それはいまから二十三年ほど前のことになります」
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六月のある晴れた朝のこと、旧家のアーンショウ家の最後の子供で、わたしが初めてお世話した、かわいい赤ちゃんが生まれました。わたしどもはちょうど遠い畑で乾草作りに忙しい最中でした。いつも朝食を運んで来る娘が一時間も早く、牧場を横切り、小径を駆けて来ながら、わたしの名を呼ぶのです。
「ほんとに、とってもすてきな赤ちゃんよ!」と息を切らしながら、言いました。「あんなかわいい赤ちゃんは、見たこともない! でもお医者さまは、奥さまが助からないだろうって言ってるよ。奥さまはずっと肺病だったんだって。お医者さまが、旦那さまに言ってるのを聞いたの……もう体力がまるでないから、冬まではもたないだろうって。あんたすぐ帰れってよ。赤ちゃんはあんたが育てるんだって、ネリー。お砂糖入りのミルクをやったり、夜も昼も世話してあげるんだって。あんたが羨ましいな。奥さまがいなくなったら、赤ちゃんはすっかりあんたのものになるんだもの!」
「でも奥さまはそんなに悪いの?」わたしは草かきを放りだして、ボンネットの紐《ひも》を結びながら聞きました。
「そうらしいの。でも見たところ元気そうなの」と娘は答えました。「奥さまの話してるのを聞くと、赤ちゃんがおとなになるまで生きてる気らしいね。きっと嬉しくて気が変になっちゃったんだ。そりゃ、きれいな赤ちゃんなんだもの! あたしだったら、決して死にゃしないね。ケネス先生が何と言ったって、あの赤ちゃんを見ただけで、良くなっちゃうよ。あの先生ったら、まったく腹がたつ。アーチャーの奥さんが、かわいい天使の赤ちゃんを抱いて、居間の旦那さまのところへ降りて来たら、旦那さまの顔がたちまちにこにこしだしたの。するとすかさず、あの老いぼれ医者が寄って来て、『アーンショウさん、奥さんがここまで生き延びて息子さんを残せただけでも、ありがたいことですよ。奥さんが来られたときから、わしはもうあまり長いことはあるまい、と思ったんだがね。こうなっては正直に言わなくてはならないが、たぶんこの冬までの命だろうね。いまさらうろたえたり、くよくよしてみたって、どうにもならんことだ! それに、君だって、あんな燈心草《とうしんそう》みたいな弱々しい奥さんをもらわなくてもよかったろうに』だってさ!」
「旦那さまはなんて答えたの?」
「なんか毒づいたんでしょう。でもあたしは旦那さまのことなんか気をつけてなかった。赤ちゃんを見るほうに夢中だったもの」と言って、娘はまたうっとりしたように赤ちゃんのようすを話しだしました。わたしもその子に劣らず興奮し、赤ちゃんを見たさに、一刻も早くと、急いで家へ帰りましたが、ヒンドリーのことを思うと気の毒でなりませんでした。あの人の心はふたつの偶像だけでいっぱいだったのです……それは奥さまと自分自身です。そのふたつの愛情に溺れるばかりか、そのひとつの奥さまを崇拝するほどでしたから、もしも亡くなられたら、どうやって耐えられるか、わたしには考えようもありませんでした。
嵐が丘へ帰りますと、旦那さまは表の戸口に立っていました。はいりかけながら、わたしは「赤ちゃんはいかがですか」と聞いてみました。
「すぐにでも走り回りそうだよ、ネリー」とその顔に明るい微笑を浮かべました。
「それで奥さまは?」とわたしは思いきってたずねました。「先生のお話だと……」
「先生なんてくそくらえだ!」と旦那さまは真っ赤になってさえぎりました。「フランシスに悪いところはない。来週のいまごろはすっかりよくなるんだ。おまえは二階へ行くのか? 口をきかない約束をすれば、おれも行くって奥さんに言ってくれ。話をやめないから、おれは降りて来てしまったんだ。あれに絶対に……ケネス先生が絶対に口をきいちゃいけないって言ったことを話してやってくれ」
わたしはそのとおり、アーンショウの奥さまに伝えました。奥さまは浮き浮きしたようすで、元気に答えました。
「エレン、あたしはひと言《こと》も口をきかなかったのよ。だのに、旦那さまったら、二度も泣きながら出て行ってしまうの。いいわ、話をしない約束するからって伝えて。でもあの人のことを笑うだけならかまわないはずね!」
おかわいそうに! 亡くなる一週間前まで、ほがらかな心は変わらず、旦那さまは頑固に、いいえ、むきになって、奥さまが日ましによくなっているのだ、とおっしゃっていました。ケネス先生が、病気がここまで進んでは、自分の薬も効かない、これ以上往診しても、むだなお金をかけさせるだけだ、と注意されたのに、旦那さまは負けずに言い返します。
「そうだ、むだにきまってる……あれはもう治ったんだ……もうあんたに診《み》てもらう必要なんかない! あれは肺病じゃなかったんだ。ただの熱で、それも引いてしまった。脈だってもうぼくと同じくらいおそいし、頬だって同じくらい冷たくなったんだ!」
旦那さまは奥さまにも同じことを言い、奥さまのほうも、信じているようすでした。ところがある夜、旦那さまの肩にもたれて、あしたは起きられそうですわ、と言っている最中に、咳の発作が起こり……ほんのちょっとした発作でしたのに……旦那さまが抱きかかえますと、奥さまは両手をその首に回し、そのままお顔の色が変わって、こと切れてしまいました。
あの娘《こ》が言ったとおり、赤ちゃんのヘアトンはすっかりわたしの手に任されました。アーンショウさまは、赤ちゃんがすこやかで泣き声をたてさえしなければ、満足しておりました。でもご自分のほうはすっかり自暴自棄になっていました。その悲しみは、あらわにおもてに出して嘆くようなものではありませんでした。泣きもしなければ祈りもせず、ただ人を罵《ののし》り、食ってかかり、神も人も呪い、無茶な放蕩に身を持ちくずしたのです。召使たちは、あまりに邪険な狂暴なやり方には長く辛抱できず、とうとう踏み止まったのはジョーゼフとわたしの二人だけになってしまいました。わたしは預かった赤ちゃんを置いていく気にはなれませんし、それに、わたしは旦那さまの乳兄妹でございますからね。赤の他人よりはあの人のわがままも大目に見る気になれたのです。ジョーゼフはこれまでどおり、小作人や作男たちにいばりちらしておりました。それというのも、あの爺さんは、悪いことがいっぱいあって、始終がみがみ言える場所に住むのがもって生まれた天職でしたからね。
旦那さまの不行跡や悪友はキャサリンとヒースクリフには結構なお手本になりました。ヒースクリフに対する主人の仕打ちときたら、聖人だって悪魔にしてしまうようなひどさでした。また、ほんとに、あの時期のヒースクリフは、何か悪魔に取りつかれているかのようでした。ヒンドリーが救いようもないほど堕落していくのを見て喜んでいたのです。自分のほうでも、日ましにすさんだ陰鬱さと狂暴性がはっきりと目だってきました。その頃の家の中ときたら、地獄のようなありさまで、その半分も口では話せません。牧師さんは訪ねて来なくなるし、ちゃんとした人間はだれも寄りつかなくなりました。ただ、エドガー・リントンがときどきキャシーを訪ねるのがただひとつの例外でした。十五歳になったキャシーは、このあたりの女王になっていました。だれ一人ならぶものはありません。それでとても高慢ちきな、わがまま娘になってしまいました。正直のところ、わたしはキャシーが子供でなくなってから、嫌うようになっていました。たびたび、その高慢さをへこましてやろうとして、怒らせてしまいました。それでも、お嬢さまは決してわたしを嫌いになりませんでした。昔から好きだった相手には、不思議に心変わりしないんです。ヒースクリフにも、前と変わらぬ愛情を持ち続けていました。リントンの坊っちゃんだって、いろいろな点ですぐれているのに、ヒースクリフと同じようにお嬢さまの心に深い印象を与えることはむずかしかったのです。この坊っちゃんが前のわたしの主人でした。暖炉の上のあそこにあるのが、その方の肖像画でございます。もとは、あれが片方にかかり、奥さまのがもういっぽうにかかっていたのでございますけど、奥さまのほうははずされました。そこにあったら、奥さまがどんな方だったか、いくらかおわかりになれるんですけれど。旦那さまのほうはお見えになりますか?
ディーンさんが蝋燭を持ちあげてくれたので、おだやかな顔だちがよくわかった。嵐が丘の若い婦人にそっくりだが、もっと物思わしげな、人なつっこい表情をしていた。なかなか感じのよい肖像画だ。長い金髪がこめかみの上に少し波うち、目は大きく、生《き》まじめで、風采《ふうさい》には気品がありすぎるくらいだ。こんな人のためなら、キャサリン・アーンショウが最初の友を忘れてしまったのも不思議はない、という気がした。それより、不思議でたまらないが、こんな容姿にふさわしい心の持主だったらしい青年が、なぜぼくの想像するようなキャサリン・アーンショウなんかが好きになってしまったのだろう。
「なかなか感じのいい肖像画だね。似ているのかね?」とぼくは家政婦に言った。
「はい。でもお元気のときは、もっとりっぱでございました。ふだんのお顔があんな風で、だいたい、活気のとぼしい方でした」
キャサリンは、リントン家で五週間過ごして以来、ずっと向こうの人達と交際を続けておりました。その人たちといっしょだと乱暴なところを見せたい気も起こらないし、いつも親切に扱われるところで不作法にするのを恥じるだけの分別もありましたから、あどけない優雅さで、無意識のうちに老夫妻をだますことになり、イザベラには崇拝され、兄さんのエドガーの心をすっかりとらえてしまいました……功名心の強い娘ですから、みんなに大事にされるのが初めから嬉しくてたまらず、別にだれかをだまそうというはっきりした考えもなく、二重人格を身につけてしまったのです。ヒースクリフが「卑しいごろつき少年」とか「畜生にも劣るやつ」とか言われているあちらの家では、ヒースクリフみたいな振舞をしないように気をつけますが、自分の家へ帰ると、どうせ笑われるだけですから上品にしようなどとは考えず、奔放な性質を押えても感心する人も褒《ほ》める人もありませんので、そんな気にもなりません。
エドガー坊っちゃんは嵐が丘をおおっぴらに訪ねてくる勇気はなかなか出せません。アーンショウの悪い評判におじけづき、顔をあわせるのをこわがっていたのです。でも、おいでになれば、いつも精いっぱいのおもてなしはしたものです。主人だって坊っちゃんの訪問の理由はわかっていましたから、相手を怒らせないようにし、愛想よくできそうもないときは、自分から顔を出さないことにしておりました。むしろわたしは、エドガーの訪問を嫌っていたのはキャサリンのほうだと思います。もともと、わざとらしいことのできる性質ではなく、男をだます手管なんて知りませんから、二人の男友達が出会うのをいやがっていたことはたしかです。ヒースクリフがエドガーのいる前で軽蔑を表わしても、いないときのようにはっきり相づちをうてませんし、エドガーがヒースクリフに対して嫌悪や反感をしめすとき、幼な友達がけなされてもなんでもないというように、相手の悪意を無視するわけにもいきません。そんな当惑や口に言えない苦しみをわたしに笑われまいと、一所けんめい隠そうとするのですが、わたしはすぐ見抜いてしまって、よく笑ってやりました。こんなことを申しあげるといかにもわたしが意地悪のようですけれど、お嬢さまときたら、とても高慢なので、もっとおだやかな謙遜《けんそん》な心になってくれない限り、悩みに同情してあげる気持にはなれなかったのです。結局、お嬢さまもわたしに全部打ち明けて、相談するよりほかはなくなりました。ほかには相談相手にできるような人はだれもいなかったのですもの。
ある日の午後、ヒンドリーさまがどこかへ出かけて行きました。それをよいことに、ヒースクリフは仕事を休んでしまいました。そのときヒースクリフは十六歳になっていたと思いますが、顔|形《かたち》が醜いわけでもなく、知能が足りないわけでもないのに、心も外見もわざと他人に嫌われるように努めているようすでした。現在のあの人にはそんなところは少しも残っていませんけれど。まず第一に、その頃はもう幼時の教育で得たものをすっかりなくしてしまいました。早朝から夜おそくまでの、休む間もない激しい労働に、前にはあった知識欲や、本や勉強を愛する気持もすっかりなくなりました。大旦那さまにかわいがられて子供心に注ぎこまれた優越感も消えてしまいました。キャサリンの勉強に負けまいと、長いこと頑張ったのですが、結局、口にこそ出しませんが、無念に思いながらあきらめました。それも徹底的に思いきってしまったのです。どうしても前の水準よりも落ちるよりほかはないと悟ると、もうどんなに説いてやっても向上の努力をさせることはできませんでした。精神的な堕落に、外見までが調子をあわせました。だらしない歩き方をし、卑しい顔つきになりました。生まれつき無口な性格がいっそうつのり、阿呆《あほう》かと思われるくらい極端に気むずかしく人づき合いが悪くなりました。どうやら、わずかな知人たちの心に、尊敬よりは反感をかきたててやることに、陰険な喜びを感じているようでした。この頃でも労働の合間には、いつもキャサリンといっしょでしたが、もう言葉に出して好きだとは言わなくなり、キャサリンが少女らしく愛撫しようとしても、そんな愛情のしるしを見せたって嬉しくもなんともないよ、とでも言いたげに、疑い深く、むっとして身を引いてしまいます。さきほど申しあげた午後のことですが、ヒースクリフは今日は仕事は休みだ、と言うために、居間へはいって来ました。わたしはちょうどキャシーお嬢さまの着付けを手伝っておりました。お嬢さまはヒースクリフが怠ける気になるなんて思いもよらなかったし、この居間を独占できると思い、何かの方法で、エドガーさんに兄の留守を知らせてやり、ここへ迎える用意をしていたのです。
「キャシー、今日は忙しいの? どこかへ行くのかい?」とヒースクリフがたずねました。
「ううん、雨だもの」
「そんなら、なぜそんな絹の服なんか着てるんだい? だれも来ないんだろうな?」
「さあ、あたしは知らないけど」とお嬢さまは口ごもりました。「だけど、ヒースクリフ、あんたは畑に行ってなきゃいけない時間でしょ。お昼ご飯から一時間にもなるのよ。もう行ってると思った」
「ヒンドリーのろくでなしが、おれたちをめったに自由にしてくれないからな」とヒースクリフは言いました。「今日はもう仕事はやめた。きみといっしょにいるよ」
「あら、だってジョーゼフが告げ口するわ。行くほうがいいのよ!」
「ジョーゼフはぺニストン山の向こう側で石灰を積みこんでるよ。どうせ暗くなるまでかかるんだから、わかりっこないさ」
こう言って、ヒースクリフはぶらぶら暖炉のそばへ行き、腰をおろしました。キャサリンは眉をひそめ、ちょっと思案しました……これから来る客のために、どうしても巧く邪魔者を除いておく必要がありました。「イザベラとエドガーが今日の午後来るとか言ってたっけ」としばらく黙っていたあとで言いました。「雨になったから、たいてい来ないんだろうけど。でも、ひょっとしたら来るかもしれない。もし来れば、また怠けたことがわかって、あんたが叱られることになるわ」
「用があるってエレンに言わせりゃいいよ、キャシー」とヒースクリフもあとへ引きません。「きみの、やくざな、まぬけの友だちのために、おれを追い出さないでくれよ! ときどきおれは文句を言いたくなるんだけど、あいつらは……まあ、やめとこう……」
「あいつらがどうだって?」キャサリンは困った顔をして相手を見つめました。「だめよ、ネリー!」といらいらして、わたしの手からぐいと頭を引き離しました。「やたらにとかしつけるから、カールが解けちゃったじゃないの! もうたくさん、放っといて。それで、あんた、どんな文句を言いたくなるのよ、ヒースクリフ?」
「なんでもないさ……いいから、壁の暦を見てみなよ」と彼は窓ぎわにかけた枠に入れた一枚の紙を指さしました。「×印はきみがリントンのやつらと過ごした晩で、点を打ったのがおれと過ごした晩だ。わかった? おれは毎日しるしをつけてるんだ」
「あらそう……ばからしいわね。あたしがそんなこと気にしてると思った?」キャサリンはすねた調子で言いました。「いったいどういうことなの?」
「おれが気にしてるってことを見せてやるためさ」とヒースクリフは言います。
「それじゃ、あたしはいつでもあんたといっしょでなきゃいけないって言うの?」とキャサリンはますますいらいらしながら聞きました。「いっしょにいたってあたしに何のたしになるの? どんなことを話してくれるの? あんたときたら赤ん坊か唖みたい。楽しいことなんて、何も言えないし、何もできやしない!」
「キャシー、いままできみは一度だっておれが口をきかないとか、いっしょにいてもつまらないとか言ったことはなかったぜ!」ヒースクリフもひどく興奮して叫びました。
「何も知らないし、何もしない人とじゃ、いっしょにいることにならないわ」とキャシーはつぶやきました。
相手は立ちあがりました。でもそれ以上感情をぶちまける暇もありませんでした。そのとき敷石の上に馬の蹄《ひづめ》の音が聞こえ、静かにノックして、リントン坊っちゃんがはいって来たのです。思いがけない招待をうけて、顔は喜びに輝いていました。一人が出て行き、一人がはいって来たとき、二人の友達のちがいをキャサリンはむろんはっきり見てとったにちがいありません。その対照は、たとえばわびしい山ばかりの石炭地帯が、美しい肥沃《ひよく》な谷間に変わったようなものです。外見ばかりか、声もあいさつのしぶりもまるでちがいました。エドガーさんの話し方はやさしく静かで、発音もあなたさまのようでした。この土地でわたしどもが話すように、つっけんどんなところもなく、ずっとおだやかでした。
「ぼく、早く来すぎなかったかしら?」と坊っちゃんはわたしのほうをちらりと見て言いました。わたしは食器棚のはしのほうで、お皿を拭いたり、引き出しを整とんしたりしておりました。
「いいえ」とキャサリンが答えました。「ネリー、そこで何をやってるの?」
「わたしの仕事をしていますよ、お嬢さま」とわたしは答えました。(ヒンドリーさまから、エドガー・リントンがこっそり訪ねて来たら、いつでも二人のそばにいてくれ、と仰せつかっていたのでございます)
キャシーはわたしのうしろに来て、不機嫌そうにささやきました。「ふきんを持ってあっちへ行ってよ。お客さまがうちに来てるとき、召使が目の前で磨いたり、こすったりやりだすものじゃないわ!」
「旦那さまのお留守のときが、ちょうどいいんですよ。いらっしゃるときにばたばたしたら、ご機嫌が悪いんですよ。きっとエドガーさまは許して下さいますわ」とわたしはお客に聞こえるように答えました。
「あたしのいるところでだって、ばたばたしてもらいたくないわ」お嬢さまはお客の口をきくすきも与えず、威丈高《いたけだか》に言いました。ヒースクリフとちょっと口論してから、まだ気持が落ち着いていなかったのです。
「すみません、キャサリンお嬢さま」とわたしは答えたまま、せっせと仕事を続けました。お嬢さまは、エドガーには見えないと思ったのでしょう、わたしの手からふきんをひったくり、とても憎らしげにわたしの腕をぎゅっとつねって、しばらくねじりあげました。前にも申しましたが、わたしはお嬢さまが好きではなく、ときどき高慢の鼻をへし折ってやっては楽しんでいたくらいでした。おまけに、とても痛くされたので、ひざまずいていたわたしは飛びあがり、叫び声をあげてやりました。「まあ、お嬢さまったら、ひどいことをなさる……わたしをつねる権利なんかあるんですか! わたしは我慢できません」
「嘘つき、おまえなんか、さわりもしないわ!」お嬢さまはもう一度つねろうと指をむずむずさせ、怒りに耳まで真っ赤にしながら叫びました。激情を隠す力がなく、怒ると顔じゅう火のように燃えたってしまうのです。
「では、これは何ですの?」とわたしははっきりと腕に残る紫色の証拠をつきつけて、やりこめました。
お嬢さまはじだんだ踏み、一瞬ためらいましたが、わがまま根性に駆られて抑えようもなく、わたしの頬をひっぱたきました。その痛かったこと、思わず両目に涙があふれました。
「キャサリン、ねえ、キャサリンてば!」リントンは自分の偶像が嘘をついたり、暴力をふるったり、二重の罪を犯したのにひどいショックを受け、口をはさみました。
「この部屋から出て行け、エレン!」嬢さまはからだじゅう震わしながら繰り返しました。どこへでもわたしについて回るヘアトン坊やは、近くの床に坐っていましたが、わたしの涙を見て自分も泣きだし、「キャシーおばちゃんの意地悪」と言ってすすり泣きしはじめました。こんどはキャシーの怒りはかわいそうに、坊やに向けられました。いきなり坊やの肩をつかまえ、顔が土色になるまでゆすぶったのです。エドガーは思わず助けようと、お嬢さまの手を押えました。お嬢さまはたちまち片手をふりほどき、とても冗談とは思えない勢いで、びっくりしているエドガーの横面に打ちおろしました。エドガーはきもをつぶして身を引きました。わたしはヘアトンを抱きあげ、台所へ逃げて行きましたが、あいだの扉はあけたままにしておきました。二人がどうやって、この行きちがいの結着をつけるか、知りたかったのです。侮辱された訪問者は真っ蒼になり、唇を震わせながら、帽子を置いたところへ行きました。
「それがいいんだわ!」とわたしは思いました。「これを戒めにして、帰ってしまうがいい! お嬢さまの本領を少しでも見せてあげたのは親切というものだわ」
「どこへいらっしゃるの?」キャサリンはドアのほうへ行きながら聞きました。エドガーはそれをよけて、通り抜けようとします。
「帰ってはいけないわ!」お嬢さまは断固として言いました。
「帰るさ、こんなところにいられやしないよ!」とエドガーは落ち着いた声で答えました。
「だめよ、まだ帰っちゃいけないわ、エドガー・リントン。坐ってよ。怒らせたままでは帰さないわ。あたし、一晩じゅうみじめな気持でいなきゃならない。あなたのことでみじめになりたくないのよ!」とお嬢さまはドアのハンドルを押えて言い張りました。
「きみにぶたれて、ここにいられると思うかい?」とリントンは言いました。
キャサリンは黙っていました。
「きみがこわくなったし、恥ずかしくなったんだ。もう二度とここには来ませんよ!」
キャシーの目はきらきら光り、まぶたをぱちぱちさせました。
「それにきみは承知しながら嘘をついたじゃないか!」
「ちがうわ!」とキャサリンはやっと口がきけるようになって、呼びました。「承知しながら、何も言ったりしないわ。いいわよ、帰りたかったら帰りなさい……行ってしまったらいいわ! あたしは泣くの……思いきり泣いて病気になってやるわ!」
お嬢さまは椅子のそばに膝をつき、本気で泣きだしました。エドガーは中庭までは決心を変えずに出て行ったものの、そこでためらっていました。わたしは元気づけてやろうと、声をかけました。
「お嬢さまは恐ろしくわがままなんです」とわたしは大きな声で言いました。「あんなだだっ子ってありませんわ。さっさと馬に乗って帰ったほうがいいんですよ。でないと本当に病気になってわたしたちを困らせるだけですわ」
気の弱いエドガーは窓から横目でのぞきこみました。ちょうど猫が半殺しの鼠か、食べかけの小鳥を捨てて行けないのと同じで、立ち去る決心がつかないのです。ああ、あの子はもう救いようがない、自分から不幸に飛びこんで行く運命なのだ……とわたしは思いました。実際にそのとおりになったのでございます。エドガーは急に引き返して、|うち《ヽヽ》の中へまた急いではいって来て、うしろ手にドアをしめました。しばらくたって、旦那さまがぐでんぐでんになって帰って来ましたから、(酔っぱらうといつもそうなのですが)どんな大騒動でもひき起こしかねない、と知らせに行きました。すると、さっきの喧嘩のおかげで二人はいっそう打ち解け……若い人らしい臆病の垣も破れ、ただの友情の体裁を捨て去り、たがいに恋を打ち明けあっておりました。
ヒンドリーさまが帰ったと聞くと、リントンはあわてて馬のところへ、キャサリンは自分の部屋へ飛んで行きました。わたしは急いでヘアトン坊やを隠し、主人の猟銃から弾丸を抜きに行きました。気違いじみた興奮にとらわれると、猟銃をもてあそぶ癖があり、怒らせた者とか、あまり目につきすぎたものは、生命を落とす危険があったからです。それで、たとえ旦那さまが逆上して引き金を引いても被害が少ないように、弾丸を抜いておくことを思いついたのでした。
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旦那さまは聞くも恐ろしい呪い文句を吐き散らしながらはいって来ました。すぐに、わたしがヘアトン坊やを台所の戸棚へ隠そうとしているところを、見つけてしまいました。坊やは父親の野獣じみたかわいがり方も、狂人みたいな怒り方も、ふつうの子供として恐ろしいとしか感じていませんでした。かわいがられるときは、死ぬほど抱きしめられてキスされるかもしれないし、怒るときは、暖炉に投げこまれるか壁に叩きつけられるかしそうでした。ですから哀れな坊やは、わたしがどこに隠してもじっとおとなしくしていました。「そら、やっと見つけたぞ!」とヒンドリーは叫んで、わたしの首すじを犬のようにつかんで、うしろへ引き寄せました。「畜生、貴様らはしめしあわせて、この子を殺そうとしてやがるんだな! さあ、よくわかったぞ、それでこの子の姿がいつも見当たらないんだ! だが、ネリー、悪魔の助けを借りて、貴様にこの肉切りナイフを呑みこませてやる! 何を笑うんだ。おれはついさっき、ケネスを真っさかさまに、ブラックホース沼へぶちこんで来たばかりなんだ。どうせ一人も二人も同じことだ……貴様らのうちのだれか殺してやりたい。殺すまでは胸がおさまらん!」
「でも、肉切りナイフはごめんですわ、ヒンドリーさま。にしんの燻製を切ってきたんですからね。よかったら、いっそ鉄砲で射ち殺して下さい」とわたしは答えました。
「おまえなんか地獄へ行くがいい! おれが行かせてやるぞ。イギリスにゃ、主人が家の中をちゃんと取り締まるのを邪魔するような法律はないんだ。なんだ、この家のひどいありさまは! 口をあけろ」
ヒンドリーはナイフを手につかみ、切っ先をわたしの歯のあいだにさしこみました。でもわたしはヒンドリーのこんな悪ふざけをそんなにこわいと思ったことはありません。ぺっと唾を吐いて、いやな味ですね……これじゃ、とても頂く気にはなれません、と言ってやりました。
「なんだ!」とヒンドリーはわたしを放して言いました。「あの憎ったらしい|がき《ヽヽ》はヘアトンじゃないな。これはすまなかった、ネリー。おれを迎えに飛んで来るどころか、まるで鬼にでも会ったようにキーキー泣きたてやがって。ヘアトンだったら、生きたまま皮をはいでやる。ひねくれ小僧め、こっちへ来い。お人よしの、だまされほうだいのおやじをだますと、ただじゃおかないぞ。どうだ、この小僧は、耳を切ったほうがいい子になると思わんか? 犬ならそうしてやると強くなる。おれは強いものが好きなんだ……鋏《はさみ》を持ってこい……強くって、格好のいいのが好きなんだ! それに、耳なんか大事にしておくのは、いまいましい気取りだ……悪魔のようなうぬぼれだ……耳なんかつけてなくたって、人間はもともと|ろば《ヽヽ》みたいな間抜けなんだ。しっ、小僧、静かにしろ! よしよし、いい子だぞ! 泣くな、涙を拭け……嬉しいだろう、キスしてくれ。なんだ! いやだと? キスしろ、ヘアトン! 畜生、キスしろったら! やれやれ、こんな化け物を育ててやるもんか! よし、きっとこの|がき《ヽヽ》の首をへし折ってやるぞ」
かわいそうにヘアトンは、父親の腕の中で、精いっぱい泣きわめいたり、蹴ったりしていましたが、父親が二階へ連れて行き、手すりの外へさしだすと、さらに火のついたように泣き叫びました。そんなことをしたら、赤ちゃんがおびえてひきつけます、とわたしは叫んで、助けに駆けつけました。そばへ行きますと、ヒンドリーは手すりから身を乗りだして、階下の物音に耳をすませ、手にしたものも忘れたようでした。「あれはだれだ?」だれかの足音が階段の下に近づいて来るのを聞いて、言いました。ヒースクリフの足音だとわかったので、わたしはこっちへ来るなと合図するために、からだを乗りだしました。わたしの目が離れた瞬間、ヘアトンはからだをびくんと動かし、ぼんやり抱いていた父親の手から抜け落ちました。
ぞっとするひまもなく、すぐわたしたちは子供が無事だったと知りました。ちょうどきわどい瞬間に、ヒースクリフが真下へ来たのです。思わず本能的に、落ちてくるものを抱きとめ、床に立たせてやり、だれがこんな事故の張本人かと、上を見あげました。そこにアーンショウさまの姿を認めたときの、あっけにとられた顔といったら、守銭奴が富くじを五シリングで手放し、翌日になって五千ポンドになっていると知ったときの顔つきだって、とても及ばないくらいでした。そこには、自分で自分の復讐を妨げてしまった、煮えたぎるような無念さが、言葉ではつくせぬほどありありと現われておりました。もしあたりが暗かったら、ヘアトンの頭を階段へたたきつけてでも、失敗を取りかえそうとしたでしょう。でもみんなヘアトンが助かったのを見てしまいました。わたしはすぐ階下へ走り降り、大事な預りものを胸に抱きしめました。ヒンドリーは酔いもさめ、きまり悪そうにゆっくりと降りて来ました。
「お前が悪いんだ、エレン。見えないところへ隠しておけばよかったんだ。おれの手から取っていればよかったんだ。どこか怪我はなかったか?」
「怪我ですって!」わたしは腹立ちまぎれに叫びました。「たとえ死ななくたって、ばかになってたところでしたよ! ほんとにまあ、あなたがどんな扱いをしてるか見るために、よくもこの子のお母さまがお墓から出てらっしゃらないものとふしぎなくらいですわ。あなたは邪教徒よりまだひどい方です……ご自分の血と肉を分けたお子さんをこんな目に会わせて!」
ヒンドリーは坊やに触ってみようとしました。すると、せっかくわたしに抱かれたのを知り、泣きじゃくって恐怖も忘れたのに、父親の指がちょっと触れただけで、前よりも大きくけたたましい泣き声をあげ、あばれて、ひきつけでも起こしそうでした。
「坊やにかまわないで下さい!」わたしは続けて言いました。「坊やは旦那さまが嫌いです!……だれだってあなたが嫌いなんです……うそじゃありません! あなたのご家族はしあわせですよ……けっこうなご身分になったものですこと!」
「もっとけっこうなご身分になりそうだぜ、ネリー」道を踏みはずしたこの男は、ふだんの冷酷さにもどって、笑いました。「とにかくいまは、小僧といっしょにあっちへ行け。それから、いいか、ヒースクリフ! きさまもおれの手の届かない、音も聞こえないところへ、行ってしまえ。今夜のところは、きさまを殺しはしない。まあ、この家におれが火でもつけない限りはな……だが、それもこっちの風向きしだいだ」
こう言いながら、ヒンドリーは食器棚からブランデーの一パイント瓶を取りだし、コップに少し注ぎました。
「いけません、やめて下さい」とわたしは頼みました。「少しはお考えになって下さい。ご自分のことはどうでも、このかわいそうな坊やを憫《あわ》れんでやって下さい!」
「そいつにゃ、どんなやつだって、おれなんかよりよくしてやれるだろう」
「ご自分の魂を大切にすることですよ!」とわたしは言いながら、コップをその手からもぎ取ろうとしました。
「大きなお世話だ! それどころか、こんな魂を造った神へのこらしめに、これを地獄へ送りこめたら、どんなに愉快だろう! おれの魂の地獄行きに乾杯だ!」神さまも何もない、ひどい悪態《あくたい》でした。
酒をあおり、わたしたちに早く行ってしまえ、といらだたしげに言います。お終《しま》いに、くり返すことも、記憶することもいまわしい、ぞっとするような呪い文句をならべたてました。
「酒におぼれてくたばってしまえないのが哀れさ」とヒースクリフは、ドアが閉まってから、呪い文句をまねて、ぶつぶつ言いました。「浴びるほど飲んだって、からだが頑丈だからこたえないんだ。ケネス先生は、ギマトンのこっち側で、あいつがいちばん長生きする、白髪頭の大悪人になるまで墓場には行かぬ、と言っている。先生は牡馬を賭けても誓うそうだ。もっとも、めったにないような事故でも運よく起これば別だそうだがね」
わたしは台所へはいって行き、わたしのかわいい子羊を寝かしつけようと、腰をおろしてあやしました。ヒースクリフは納屋のほうへ出て行ったものと思っていました。でもあとでわかったのですが、長椅子の向こう側へ行っただけで、暖炉から離れた窓ぎわのベンチに寝そべり、ずっと黙りこくっていたのでした。
わたしはヘアトンを膝にのせて揺すぶってやり、次のような文句ではじまる歌を口ずさんでいました……
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おそい夜ふけに、赤ちゃん泣けば
お墓の母さん、聞きつけた……
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そのときまでキャシーお嬢さまは自分の部屋で騒ぎを聞いていたのですが、このとき顔をのぞかせて、そっと言いました。
「ネリー、一人だけ?」
「そうですよ、お嬢さま」
お嬢さまははいって来て、炉の近くへ行きました。何か言うつもりなのだと思って、わたしは顔をあげました。すると当惑した、心配そうな顔をしています。何か言いたげに唇をなかばひらき、ちょっと息を吸いましたが、言葉にはならず、ため息を洩らしました。ついさっきまでのお嬢さまの仕打ちが忘れられないわたしは、知らん顔で歌を続けました。
「ヒースクリフはどこ?」とお嬢さまはわたしの歌をさえぎって、聞きました。
「厩で仕事をしてるんでしょ?」
その返事をヒースクリフが打ち消さなかったのは、たぶん眠りこんでいたせいでしょう。またしばらく沈黙が続きました。そのあいだ、キャサリンの頬を、ひと滴《しずく》、ふた滴《しずく》、涙が伝い、床石《ゆかいし》に落ちるのに気づきました。さっきのみっともない行為を後悔しているのかしら?……とわたしはひそかに考えました。だとすれば、珍らしいこと。でも、それが言いたければ自分から言いだしたらいいのに……こちらから助けてやるものか! ほんとに、この人ときたら、自分のこと以外はめったに心配なんかしないんだから。
「ねえ、おまえ!」と、とうとう言いました。「あたし、とってもみじめなの!」
「お気の毒に」とわたしは言いました。「気むずかしいお嬢さまですね。お友だちがいっぱいいて、苦労なんかほとんどないのに、まだ足りないんですか!」
「ネリー、おまえ秘密を守ってくれる?」キャサリンはわたしのそばに跪《ひぎまず》き、愛くるしい瞳でわたしを見つめました。どんなに理由があって憤慨してみても、その気持がつい消えてしまうような目つきでした。
「守る値うちのある秘密なんですか?」とわたしは少し機嫌をなおして聞きました。
「そうよ、そのことで悩んでるの。どうしても胸にしまっておけない! いったい、どうしたらいいのか知りたいの。今日ね、エドガー・リントンから結婚してくれって言われて、あたし、返事をしてしまったんだけど。それでね、あたしが承知したか、ことわったか、聞く前に、どっちにすればよかったか、教えてちょうだい」
「あら、お嬢さま、わたしにわかりっこありませんわ。そりゃあ、今日お嬢さまがあの方の前で一幕演じたことを考えると、ことわるほうがりこうかもしれませんけどね。だって、あのあとで結婚を申し込むなんて、手のつけられない頓馬《とんま》か、向こう見ずのばかにきまってますもの」
「そんな言い方をするなら、もう話さないわ」とお嬢さまは怒ったように立ちあがりました。
「あたしは承知したの、ネリー。まちがってたかどうか、早く言って!」
「承知なさったんですって! それじゃ、いまさら議論したってはじまらないじゃありませんか? 約束してしまったら、取り消しはできませんよ」
「でも、とにかく教えて……それでよかったかどうか……ねえ!」お嬢さまは両手を握りあわせ、顔をしかめながら、いらだたしげに言いました。
「その質問にちゃんと答えるには、いろいろな点を考えてみなくてはなりませんよ」とわたしはもったいぶって言いました。「まず、第一に、あなたはエドガーさんを愛してるんですか?」
「愛してないはずがあって? むろん愛してるわ」
そこでわたしは次のようにいろいろ問いただしました。……二十二の娘としては、思慮に富んだやり方だったと思います。
「キャシーさま、なぜエドガーさんを愛しているんですか?」
「何を言ってるの、あたしは好きなの……それで十分だわ」
「いいえ、ちがいます。理由をちゃんとおっしゃいな」
「そうね、ハンサムだし、いっしょにいると楽しいからよ」
「そんなのだめ!」とわたしは批評しました。
「それに、若くって、朗らかだから」
「まだ、だめ」
「そして、あたしを愛してくれるからよ」
「やっとそれを言ったんじゃ、あまり問題になりません」
「それに彼はお金持になるでしょう。あたし、この辺でいちばんえらい奥さまになりたいし、あんな夫を持てたら誇らしいもの」
「そんなの、いちばん悪い理由です。それでは、あなたのほうでは、彼をどんな風に愛するのか言ってごらんなさい」
「そうね、みんながやるように……ばかね、ネリーは」
「いいえ、ばかじゃありません……答えて下さい」
「あの人の踏む土を、頭の上の空を、あの人が手に触れるすべてのもの、あの人の話すすべてのことばを愛します。あの人のどんな表情も、どんな行為も、そして、あの人をひっくるめてみんな愛します。さあ、これでどう?」
「でも、その理由は?」
「いやよ、からかってるのね。ずいぶん意地悪だわ。あたしにとっては冗談どころじゃないのに!」お嬢さまはわたしをにらみつけ、暖炉のほうへ顔をそむけました。
「からかうなんて、とんでもないですわ、お嬢さま。あなたがエドガーさんを愛するのは、ハンサムで、若くって、朗らかで、お金持で、あなたを愛しているからですね。でも、最後の理由はなくたって同じですよ。たぶんあの方が愛してくれなくても、お嬢さまはやっぱり愛するんでしょう。もしも向こうで愛していたって、初めの四つの魅力がなかったら、お嬢さまのほうで好きにならないでしょうからね」
「ええ、そりゃそうよ。あの人が醜くかったり、道化師みたいだったら、憐れんでやるだけ……たぶん憎むでしょうね」
「でも世の中には、ほかにもハンサムなお金持の青年はいますよ。あの方より、もっとハンサムで、お金のある人だっているでしょう。そんな人たちをなぜ愛そうとしないんですか?」
「それはほかにもいるでしょうけど、あたしの前には現われないわ。エドガーみたいな人に会ったの初めてよ」
「そのうち会うかもしれませんわ。エドガーさんだって、いつまでもハンサムで、若くっているわけではないでしょうし、ずっとお金持でいられるかどうかもわかりません」
「でもいまのところはそうよ。あたしは現在のことだけ考えればいいの。もっとわけのわかったことを言ってちょうだい」
「そうですか、それで決まりました。現在だけ考えればいいんでしたら、リントンさんと結婚なさい」
「おまえの許可を求めてるわけじゃないわ……どうせ結婚するんだから。だけど、あたしが正しいかどうか、まだ言ってくれないわね」
「そりゃもう正しいですよ。もしも現在だけを考えて結婚するのが正しいとしたらね。それはそうと、お嬢さまは何が悲しいのかうかがいましょうよ。お兄さまはお喜びになるでしょうし、あちらのご両親も反対なさらないと思います。お嬢さまは乱れきった、楽しみのない家庭をのがれて、お金持のりっぱな家庭にはいれるんですもの。あなたはエドガーを愛し、エドガーからは愛される。万事順調で、すらすら行きそうですね……どこにさしつかえがありますか?」
「ここよ! そしてここに……」とキャサリンは片手で額を、もういっぽうの手で胸をたたいて見せました。「魂がどっちにあるのかわからないけど……魂の中でも心でも、あたしがまちがっているとはっきりわかるの」
「まあ、それは変ですね! わたしにはなんのことかわかりませんわ」
「それがあたしの秘密なの。おまえがばかにしないなら、説明してあげるわ……はっきりは言えないけど。でも、感じるとおりに話してみるわ」
お嬢さまはふたたびわたしのそばに坐りました。その顔はしだいに悲しく深刻になり、握りあわせた手がぶるぶる震えました。
「ネリー、おまえは妙な夢なんか見ることない?」しばらく考えてから、突然言いました。
「ありますわ、ときどき」
「あたしもそうなの。あとまで心に残っていて、考え方まで変えてしまうような夢を何度か見たわ……水の中にぶどう酒を落としたみたいに、あたしの心のすみずみまでしみとおって、心の色あいを変えてしまったの。これから話すのも、そういう夢のひとつなの……でも途中でどんなことを話しても、笑わないで」
「あら、お嬢さま、およしになって!」とわたしは叫びました。「わざわざ幽霊や幻を呼びだして悩まされなくても、わたしたちはいまだってけっこう気味の悪い思いをしています。さあ、さあ、もう元気を出して、いつものお嬢さまらしくありませんわ。ヘアトン坊やをごらんなさい! この子なんか陰気な夢を見たりしません。眠りながら、こんなかわいらしい笑顔をしてるんです!」
「本当ね。でもこの子の父親は、ひとりぼっちで、なんてすごい呪い文句を吐くんでしょう! おまえは覚えてるんでしょうけど、兄さんだって、その子みたいに丸々した赤ちゃんで、あどけない無邪気なときもあったのね。それはそうと、ネリー、どうしても聞いてもらいたいの。長い話じゃないから。今夜はあたし、とても明るい気分になれないの」
「いやですわ、聞きたくありません!」とわたしは急いでくり返しました。
現在でも変わりませんが、その頃のわたしは、夢についてとても迷信深かったのでございます。キャサリンのようすが異常に陰気でしたので、何か不気味なものを感じ、そこから前兆を引き出して、恐ろしい破局を予想してしまいそうな気がしたのでございます。お嬢さまは怒ったようですが、その話を進めようとはしません。やがて、ほかの話題を思いついたらしく、話しはじめました。
「ネリー、あたしはもし天国にいるとしても、とてもみじめだろうと思うの」
「あなたが天国へ行くのにふさわしくないからですわ。罪を犯した人はみな天国へ行ってもみじめでしょう」
「でもそんなことじゃないわ。いつか一度、天国へ行った夢を見たのよ」
「キャサリンさま。夢の話はたくさんですって申しあげたでしょう! わたしはもう、やすみます」とわたしはまたさえぎりました。
椅子から立ちあがりかけますと、お嬢さまは笑って、わたしを押えました。
「なんでもないのよ。あたしの言いたかったのは、天国はあたしの住むところじゃなさそうだ、っていうことだけ。あたしは地上へ帰りたくて、胸がはり裂けるほど泣いたわ。すると天使たちが怒って、あたしを、嵐が丘のてっぺんの、ヒースの茂みの中に投げおろしたの。そこであたしは嬉し泣きしながら目が覚めた。これだって、あたしの秘密を説明することになるでしょう。それからもうひとつの秘密もね。あたしは天国に行く必要がないように、エドガー・リントンと結婚する必要もないはずなの。向こうにいる意地悪な兄さんが、ヒースクリフをあんなに卑しくしてしまわなかったら、そんなことを思いつきもしなかったわ。いまでは、ヒースクリフと結婚するのはあたしの堕落になるだけだわ。だから、どんなにあの人を愛していても、知らせないでおくの。でも、ネリー、あたしがヒースクリフを愛するのは、ハンサムだからじゃなくて、あたしよりももっと、彼があたし自身に近いからなのよ。魂が何でできてるか知らないけど、彼とあたしの魂は同じものなの。エドガーの魂とくらべたら、月の光と稲光ぐらい、霜と火ぐらいちがってるのよ」
この話が終わらないうちに、わたしはヒースクリフがいることに気がつきました。微かに動く気配を感じて、ふり返って見ますと、彼はベンチから起きあがり、そうっと抜けだすところでした。彼はキャサリンが、ヒースクリフと結婚するのは堕落だ、と言うところまで聞くと、それ以上聞こうともせず、出て行ってしまったのです。キャサリンは床に坐っていたので、長椅子の高い背に邪魔されて、彼がいたのも立ち去ったのも気づきませんでしたが、わたしははっとして、思わず、しっ、と言いました。
「どうしたの?」とお嬢さまは不安そうに見回しました。
「ジョーゼフが帰りました」ちょうどよく、道に荷車のがらがらいう音を聞いて、答えました。「ヒースクリフもいっしょにはいってくるかもしれません。いまだって、ドアのところで聞いてたかもしれませんよ」
「あら、ドアのところからじゃ聞こえっこないわ! 夕飯の仕度をするあいだ、ヘアトンを抱かせて。用意ができたら、あたしもいっしょに食事に呼んでね。良心が落ち着かないんだもの。ヒースクリフは何も知らないのだって思いこんで、自分をあざむきたいの。ヒースクリフは本当に知らないわね? 恋なんてどんなことか、わかる人じゃないわね?」
「お嬢さまの知っていることを、あの人が知らないわけはないと思いますよ。それにしても、あなたをあの子が愛してるとしたら、これほど不運な人間もないでしょうね! あなたがリントン夫人になったとたん、友達も、恋も、何もかも失ってしまうんですからね! あの子と別れたら、あなたが、どうやって耐えるか、この世の中でだれにも見捨てられて、あの子がどうやって耐えるか、考えてみたことがありますか? だって、お嬢さまは……」
「あの子がみんなに見捨てられるって! あたしたちが離ればなれになるって!」とお嬢さまは怒ったように叫びました。「だれがあたしたちを引き離すの? そんなことをする人はミロ〔古代ギリシアにいたという大力者、老年になり狼に食われて悲惨な最期をとげた〕みたいな運命になるわ! エレン、あたしの生きている限り、そんなことはさせないわ。どんな人のためにだって、いやよ。あたしがヒースクリフを見捨てるようなことがあったら、この地上からリントン家の人だって残らず溶けて消えてしまわなくてはならないでしょう。よくって、そんな考えなんかないんだから……そんなつもりで言ったんじゃないのよ! そんな犠牲をはらわせられるんだったら、リントン夫人なんかになりっこないわ! ヒースクリフは、いままでと同じように、これからもずっと、あたしにとって大切なの。エドガーはいまのような敵意を捨てるか、せめて、我慢して寛大になってくれなくてはいけないわ。あの子に対するあたしの本当の気持がわかってくれたら、いずれそうしてくれるわ。わかったわ、ネリー、あたしを自分勝手なひどい女と思ってるんでしょう。だけど、あたしがもしもヒースクリフと結婚したら、二人とも乞食になるだけなんだってことを考えなかった? 反対にリントン家へお嫁にいけば、あたしはヒースクリフを助けて、兄さんの支配から独立させてやれるのよ」
「あなたのご主人のお金でですか、お嬢さま? エドガーさんだって、あなたが当てにするほど言いなりにはならないでしょう。それに、わたしには批判なんかできないけど、リントン坊っちゃんの奥さまになる動機としては、それがいちばん悪いようですね」
「うそ、いちばんいいのよ!」とお嬢さまは言い返しました。「ほかの動機はあたしの気まぐれを満足させるため、それにエドガーのためだけど、これは、エドガーとあたし自身について、あたしの感じてることを、じかに理解してくれる人のためのものよ。巧く言い表わせないけど、おまえだって、だれだって、自分を越えた自分の存在があるし、なければならないと考えてるにちがいないわ。あたしというものがこのからだに包まれた自分しかないとしたら、せっかく神さまに創って頂いた甲斐《ムア》がないわ。この世のあたしの大きな不幸は、ヒースクリフが不幸だったことよ。あたしは初めからひとつひとつ見守り、感じてきた……この人生で、あたしの考える重大なことといえば彼なの。ほかのすべてのものが滅んでしまっても、彼さえ残っていたら、あたしは存在し続けるし、ほかのすべてが残っても、彼がいなくなったら、この宇宙があたしには用のないものとなって、自分がその一部だという気もしなくなるでしょう。あたしのエドガーに対する愛情は森に茂った葉のようなもの。時がたてば、冬になると木々の姿が変わるように、変わってしまうことはよくわかっている。ヒースクリフに対する愛情はその下の永遠の岩みたいなもの、目に見える喜びは与えないけれど、なくてはならないものなの。ネリー、あたしはヒースクリフそのものなの! 彼はいつも、どんなときでもあたしの心の中にいる。あたし自身があたしにとって喜びになるとは限らないように、喜びとしてではなく、あたしの存在そのものとして心の中にいる。だから、二度とあたしたちが別れるなんて、言わないでちょうだい。そんなことはできっこないし、それに……」
お嬢さまは言葉を切って、わたしの服のひだに顔をうずめました。わたしは邪険に押しのけてやりました。ばからしくて辛抱できなくなったからです。
「お嬢さま、そのたわいのない話に何か意味があるとしたって」とわたしは言いました。「あなたは結婚によって負うことになる義務をご存じないか、さもなければ、あなたは心のねじけた、節操のないお嬢さまだということがよくわかるだけですよ。でも、これ以上の秘密でわたしを悩ますのは、ごめんですよ。秘密を守る約束はもうしませんから」
「秘密を守ってくれるわね?」とお嬢さまはせがみました。
「いいえ、お約束はしません」とわたしはくり返しました。
お嬢さまはなおもわたしに迫ろうとしましたが、ジョーゼフがはいって来ましたので、話は打ち切りとなりました。キャサリンは席をすみに移し、わたしが夕食の用意をするあいだ、ヘアトンのお守りをしてくれました。夕食ができますと、わたしとジョーゼフはどちらがヒンドリーさまに食事を運ぶかで、口論をはじめ、料理がほとんどさめてしまうまで、けりがつきませんでした。結局旦那さまが食べたくなれば自分で言うだろうから、それまで放っておこう、ということで意見があいました。わたしたちは、旦那さまがしばらく一人でおられたところへはいっていくのをとりわけこわがっておりましたから。
「ところで、あのまぬけ野郎め、なんだってまだ野良からけえってきねえんだ? 何してるだ? ぐうたらの大たわけめが!」とジョーゼフ老人はヒースクリフがいないかと見回しながら言いました。
「わたしが呼んで来ましょう。きっと納屋にいるのよ」とわたしは答え、外へ出て呼んでみましたが、返事はありません。引き返して、キャサリンに、ヒースクリフがさっきの話を大部分聞いてしまったらしい、とささやき、彼に対する旦那さまの仕打ちについて文句を言ったとき、ちょうど彼が台所を出るのを見た、と話してしまいました。彼女は飛びあがるほど驚きうろたえ、ヘアトンを長椅子に放りだして、自分で友達を捜しに走りだしました。なぜそんなにあわてたのか、自分の話が彼にどんな風にとられたのか、考えるゆとりもなかったようです。なかなかもどって来ないので、ジョーゼフはこれ以上待たずに食事をはじめよう、と言いだしました。二人はきっとおれの長いお祈りを聞くのがいやさに、帰ろうとしないのだと邪推し、二人とも「性悪だからどんなけがれたことでもやりかねねえ」ときめつけました。二人のために、今夜はいつもの食前の十五分のお祈りに、特別のおまけをつけ加えました。食後のお祈りにも、おまけをつけるつもりだったようです。そこへお嬢さまが駆けこんで、ジョーゼフに、すぐ道を走って行って、ヒースクリフがどこへ行ったにしても、きっと捜して、連れもどしておくれ、とあわただしく言いつけました。
「あたしは寝る前にあの子に話があるの、どうしてもよ! 門はあいてる。呼んでも聞こえないところへ行っちゃったのよ。窪地の向こうのはしで、声を限りに呼んだのに、返事がないの」
ジョーゼフは初めはいやがりましたが、お嬢さまは真剣そのもので、反対したって聞きはしません。とうとう爺さんは帽子をかぶり、ぶつくさ言いながら出掛けて行きました。そのあいだにも、キャサリンは部屋の中を行ったり来たりしながら口走るのでした。
「どこへ行ったのかしら……いったいどこだっていうの? ネリー、あたし、どんなことを言った? みんな忘れてしまった。おひるからあたしの機嫌が悪かったので、怒ってたの? ねえったら! あたしがどんなことを言ってあの人を悲しませたのか、言ってよ。帰って来てくれたらいいのに。ほんとに。帰って来てくれないかしら!」
「なんですか、つまらないことを騒ぎたてて!」とわたしも少し不安でしたけれど、たしなめてやりました。「なんでもないことにおびえたりして! ヒースクリフが月夜の荒野《ムア》を歩き回っていようと、機嫌をそこねてわたしたちと口を聞くのがいやさに、乾草置場で寝ていようと、大騒ぎすることはないじゃありませんか。きっと乾草置場に隠れてるんですよ。いま捜しだしてきてあげますからね!」
わたしはもう一度捜しに出掛けましたが、やっぱり見つかりません。ジョーゼフの捜索も同じ結果になりました。
「あの小僧め、だんだん悪《わる》になるばかしだ!」とジョーゼフは帰って来るなり言いました。「門はいっぺえに開け放しときやがって。嬢さまの子馬が小麦畑を二つばかし踏んづけて、牧場へまごまご行っちまっただ! だが、あしたになりゃ、旦那さまは悪魔のように怒りなさるだ。それも無理はねえだ。あんないいかげんなやくざ者に、よくも辛抱してなさるだ……まったく辛抱のいいこった! だげども、いつまで続くもんじゃねえど……みんな、そのうちわかるだ! 旦那を怒らしたら、ただですむわけがねえど!」
「ヒースクリフを見つけたの、まぬけ」とキャサリンがさえぎりました。「言いつけどおり、ヒースクリフを捜してたの?」
「あんなやつより、馬を捜すほうがよっぽどましだ。そのほうが、理屈にあうちゅうもんだ。そんでも、こんな晩にゃ、馬でも人間でも、とても捜せるもんじゃねえ……煙突みてえに真っくらな晩だによ! おまけに、わしが口笛吹いたって、出て来るようなやつじゃねえ……嬢さまが呼びゃあ、耳も聞こえるだろうがね!」
夏にしてはたいそう暗い晩でございました。雷が来そうな雲行きでしたので、雨が降りだせば、きっともどって来るでしょうから、これ以上捜し回らず、腰を落ち着けましょう、とわたしは言いました。でも、キャサリンはどう言ってやっても落ち着きません。うろうろして、門と玄関のあいだを行ったり来たり、少しもじっとしていられないほど興奮しています。しまいには、石垣のわきの道路に近いところに坐りこんで動こうとしません。わたしがいさめても、雷が鳴ってきても、大粒の雨がまわりに音をたてはじめても、おかまいなしです。じっとそこにいて、ときどき彼の名を呼び、耳をすませ、わっと泣きだすのです。激情のあまり泣きだすときは、ヘアトンに限らず、どんな赤ちゃんだってかないません。
真夜中ごろ、わたしたちがまだ起きているうちに、嵐が猛然と騒がしく嵐が丘に襲いかかってきました。雷ばかりか風も烈しく、そのどちらかが屋敷のすみの一本の樹を引き裂きました。大枝が屋根の上に倒れ、東側の組みあわせ煙突の一部をたたきこわし、台所の炉の中へ、石や煤《すす》ががらがらと落ちて来ました。わたしたちの真っただ中へ雷が落ちたのかと思いました。ショーゼフは、ぱっと膝をつき、神さま、どうか族長ノアとロト〔ノアは大洪水のとき神の恵みにより箱船にのって助かり、ロトは天上からの火によって滅んだ悪の町ソドムから救い出された〕を思いだされ、大昔のように、罪びとどもは懲らしめても、正しき者は救いたまえ、と祈りを捧げました。わたしだって、これはわたしたちにくだされた神のさばきではないか、という気がしたくらいです。さしずめ、アーンショウさまが神罰を受けるヨナ〔ヘブライの預言者。神意にそむき海中に沈められ、鯨の腹に入れられたが、のち神の恵みにより救われた〕だ、と思いましたので、お部屋のドアのハンドルをゆすぶって、旦那さまがまだ生きていらっしゃるかどうかたしかめました。返事ははっきりとしましたが、その乱暴な調子を聞くと、ジョーゼフは、わしのような聖者と旦那のような罪びとは、はっきり区別されるはずだ、と前よりも騒々しくわめきたてました。でも二十分もすると嵐は収まり、わたしたちも無事だとわかりました。ただキャシーだけはあくまで強情を張りとおして、中にはいろうともせず、帽子も肩かけも着けず、雨に打たれていましたので、髪も服も濡れほうだいに濡れてしまいました。やがて家にはいって、ずぶ濡れのまま長椅子に横になり、椅子の背のほうにそむけた顔を両手でおおっておりました。
「ちょっと、お嬢さまっ!」とわたしは肩に手をかけて言いました。「まさか、あなたは死んでしまうつもりじゃないでしょうね? いま何時かわかってるんですか? 十二時半なんですよ。さあ、もうおやすみなさい! あんなばかな人をいつまで待ってもむだですよ。きっとギマトンにでも行って、あそこで泊まってくるんでしょうよ。こんなにおそくまで、わたしたちが起きて待ってるなんて思ってませんわ。考えるのはせいぜい、ヒンドリーさましか起きてないだろうから、旦那さまに戸をあけてもらうより帰らないでやれ、というぐらいのものですよ」
「いや、いや、ギマトンなんかに行っちゃいねえ」と
ジョーゼフが言いました。「あいつは沼の穴の底に沈んじまってるにちげえねえ。さっきの神さまのお出ましは、ただごとではねえ、嬢さまも気をつけなさるがいいだ……この次はおめえさまの番かもしれねえ。なにもかも、ありがてえおぼし召しだ! 神さまに選ばれ、屑どもの中から救いだされた者にゃ、万事うまい具合に運んでいくだ。聖書にみんな言われてるとおりだ」こう言って聖書の言葉をいくつか引用し、それが何章の何節だ、と講釈しはじめました。
意地っ張りな娘に、起きて濡れたものを取るように、といくら頼んでもむだですので、わたしはお説教を続けるジョーゼフと、震えているキャシーを残したまま、ヘアトン坊やを抱いて床につきました。坊やは回りでもみな寝静まっていたかのように、ぐっすり眠っていました。それからもしばらくジョーゼフが聖書を読み続けるのが聞こえましたが、やがてのろのろ梯子を登る足音を聞いたと思うと、わたしも眠りに落ちました。
翌朝、ふだんよりいくらか遅く起きて階下へ降《お》りますと、鎧戸の隙間からさしこむ日ざしで、キャサリンお嬢さまがまだ暖炉のそばに掛けているのが見えました。居間のドアも少し開いていて、そっちの締めてない窓から光がさしこんでいます。ヒンドリーさまももう起きていまして、やつれた眠たげな顔で台所の炉の前に立っておられました。
「キャシー、どこが悪いんだね」わたしがはいって行ったとき、そう言っているところでした。「溺れた犬ころみたいな情ないようすじゃないか。なぜそんなびしょ濡れで、青い顔をしてるんだ、おい?」
「あたし、濡れたの。そして寒いの。それだけよ」とお嬢さまはしぶしぶ答えました。
「ほんとに、しようのない方なんですよ!」わたしは旦那さまの酔いが覚めてだいぶしっかりしてきたのを見て、言いました。「ゆうべの大雨でずぶ濡れになったんですよ。そのまま一晩じゅう坐りっきりで、何て申しあげても動こうとしなかったんですもの」
アーンショウさまはびっくりして二人を見つめました。「一晩じゅうだと! なぜ起きてたんだ? まさか雷がこわかったわけでもあるまい? とっくにやんじゃったんだから」
二人とも、ヒースクリフのいないことは隠せるかぎり隠しておこうと思いました。わたしは、なぜお嬢さまが徹夜する気になったのかわかりません、と答え、お嬢さんも黙っておりました。さわやかな涼しい朝となっていました。わたしが窓格子をあけると、たちまち室内は花園のかぐわしい香りに満たされました。でもキャサリンはだだをこねるように、「エレン、窓をしめて。凍え死にしそうだわ!」と言いました。そして歯をがちがち言わせながら、消えかかった残り火のほうへ身を縮めて近づけました。
「この子は病気だ」とヒンドリーさまはお嬢さまの手首を取ってみて、言いました。「だから寝ようとしなかったんだろう。ちえっ、くそいまいましい! もう病人に悩まされるのはたくさんだ。なんだって雨の中へなんか出て行ったんだ」
「いつものとおりでがす、男を追っかけてったんで!」ジョーゼフはわたしたちがためらっているのをさいわいに、横あいからしわがれ声で口を出し、持ち前の悪態をつきました。「旦那さま、わしがおめえさまだったら、身分がよかろうか悪かろうが、嬢さまのとこへ寄って来やがるやつらの鼻っ先で戸をぴしゃっとしめてやるだ! 旦那さまがお留守となりゃ、どろぼう猫のリントンがこそこそ忍んで来ねえ日は一日もねえ。おまけに、このネリーさんてのが、たいそうなあまときてらあ! 台所で旦那さまを見張ってて、旦那さまがあっちの口から入ってくりゃ、野郎はこっちの口から出るっちゅう寸法さ、それからうちのりっぱな嬢さまのほうでも、いそいそあいびきにお出ましだ! 夜の十二時過ぎにもなって、あのヒースクリフの胸くそわりい、恐ろしい悪魔のジプシー野郎と野原をごそごそ歩いてるとは、けっこうなご品行ですわい! みんなわしが盲だと思ってるだが、そんなこたあねえ、明き盲なんかじゃねえど!……リントンの若造《わかぞう》が来るとこも帰るとこも見ただ。てめえだって見ただ(と話のほこさきをわたしに向けて)……この穀《ごく》つぶしの、ひきずりあまめ! てめえが、旦那の馬の蹄の音が道でするが早えか、飛びあがって居間へ駆けこんだのも、ちゃんと見ただ」
「お黙り、おいぼれの立ち聞き屋!」とキャサリンが叫びました。「あたしの前で無礼は許さないから! エドガー・リントンがきのう来たのは偶然なのよ、ヒンドリー。このあたしが帰って下さいって言ったんですからね。兄さんが昨日みたいなありさまでは、会いたくないだろうと思って」
「嘘だ、キャシーは嘘を言ってるんだ」と旦那さまは答えました。「おまえときたら、途方もない阿呆《あほう》だ! だがまあ、リントンのことなんかいまはどうでもいい。それよりどうなんだ、おまえはゆうベヒースクリフといっしょじゃなかったのか? さあ正直に言え、あいつがひどい目にあわされるのを心配することはない。あいつを憎んでることは変わらないが、子供の命を助けてもらったばかりだからな。首根っ子をへし折ってやったりしたら、良心にとがめるよ。そんなことがないように、たったいま、すぐここから追っぱらってやるつもりだ。あいつがいなくなったら、おまえたちもみんな気をつけるがいい。あいつの分だけ、おれのかんしゃく玉がおまえたちによけいに飛ぶようになるからな」
「ゆうべはヒースクリフを一度も見なかったわ」とキャサリンは答え、激しくすすり泣きしはじめました。「兄さんがあの子を追い出すなら、あたしもいっしょに出て行くわ。でも、たぶん、もう手おくれよ。自分のほうから出て行っちゃったらしいもの」こう言うと、悲しみを抑えきれずに泣きじゃくり、ほかの言葉は聞きとれませんでした。
ヒンドリーさまは、さんざんお嬢さまをあざけり、悪態をついてから、さっさと自分の部屋へ引っこんでしまえ、さもないとおれがひどい目に会わしてやるぞ、とおどかしました。わたしはお嬢さまにむりやり言うことを聞かせましたが、自分の部屋へ行ったとき、お嬢さまが悲しみに取り乱したようすはとても忘れられるものではございません。ほんとにぞっといたしました。お嬢さまの気が狂ってしまうのではないかと思い、ジョーゼフに、お医者さままで、ひと走りしてもらいました。やっぱり精神錯乱のはじまりでした。ケネス先生はひと目見るなり、これは危険な状態だ、とおっしゃいました。熱病だったのです。病人の血をとってから、乳漿《ホエイ》と重湯《おもゆ》だけ食べさせるように、階段や窓から飛びおりたりしないように注意しなさい、とわたしに指示して帰って行かれました。なにしろ先生は家と家とのあいだがニマイルも三マイルも離れたこの教区で、たいそう忙しかったのです。
わたしもやさしく看護したとは言えませんが、ジョーゼフや旦那さまときてはなおさらひどく、おまけに、類のないほど手のかかるわがままな病人でしたが、どうやら病気は切り抜けました。実はリントンの奥さまがときどきお見舞に来て下さり、物事をちゃんとさせ、叱ったり指図したりして下さったのです。キャサリンが快方に向かったとき、ぜひスラッシクロス屋敷のほうへ連れてくるようにと申され、わたしたちはおかげで助かり本当に感謝いたしました。でもお気の毒に、奥さまのこの親切が仇となり、ご夫婦そろって熱病に感染され、二、三日のあいだをおいて、お二人とも亡くなってしまわれたのでございます。お嬢さまはまたもどって来ましたが、前よりももっと生意気に、怒りっぽく、高慢になっていました。あの雷雨の夜以来、ふっつりとヒースクリフの消息は絶えたままでした。ある日、お嬢さまにとても腹をたてさせられたことがあって、ついうっかり、ヒースクリフがいなくなったのはあなたのせいだ、と口をすべらしてしまいました。事実、そのとおりで、お嬢さまもよく承知のことでした。それ以来数か月のあいだは、お嬢さまはわたしをたんなる召使として扱い、親しい口はいっさいきいてくれなくなりました。ジョーゼフとも同じ絶交の形でした。爺さんはあくまで思ったことを口に出して、お嬢さまを小娘あつかいにしてお説教したくてたまらないのですが、お嬢さまのほうは一人前の女性であり主人なのだという考えですし、おまけに病後を大切に扱ってもらうのは当然だと思っていたのです。それにお医者さまも、あまり怒らせてはよくない、気ままにさせておくのがいちばんだと言われました。じっさいお嬢さまの目はだれでも自分に公然と逆らったら、殺してやるというような色を見せるのです。アーンショウさまやその仲間の人たちからもお嬢さまは超然としておりました。ケネス先生の注意もあり、彼女を怒らすと、たちまち危険な発作の気配をしめすものですから、兄さんも望みどおりにさせて、もともと激しやすい気性をいっそういらだたせないようにしていました。むしろ彼女の気まぐれを甘やかしすぎるくらいでした。それも愛情からではなく、見栄からだったのでございます。つまり、妹がリントン家と縁組みして、家の格式を高めてくれることを心から望んでいたのです。ですから、自分に干渉しないかぎり、お嬢さまがわたしたちを奴隷のように踏みつけにしたって、なんとも思ってはいなかったのです! エドガー・リントンは、昔から、またこれからも、そんな男は無数にあるように、恋にすっかりのぼせておりました。それで父親の死後三年たって、キャサリンの手をとってギマトン教会堂へ行ったときは、この世で自分ほど幸福な男はないと信じていたのです。
わたしはいやでたまらなかったのですが、とうとう説き伏せられて嵐が丘を離れ、お嬢さまにつき添ってこちらへまいりました。ヘアトン坊やはそろそろ五歳になる頃で、わたしは文字を教えはじめたばかりでした。坊やとの別れはほんとに辛《つろ》うございましたが、キャサリンの涙にはとても勝てませんでした。わたしが行くのをことわり、いくら頼まれても、その心が変わらないのを見ると、お嬢さまはエドガーさんと兄さんに泣きついたのです。エドガーさんはお給金をいくらでも出すと言います。ヒンドリーさまはすぐ荷物をまとめる、女主人のいなくなったこの家に女手は要らん、ヘアトンの教育は、いずれ牧師補に引き受けてもらうからいい、と言います。これでは、わたしの選ぶ道は一つしかありません。言われるとおりにするだけでした。旦那さまには、まともな人間をみな追い出してしまっては、この家の破滅が少し早まるだけですよ、と言ってあげました。わたしはヘアトン坊やにキスし、さよならを言いました。その時以来、あの子とは赤の他人になってしまったのです。考えてみれば変な気持ですが、あの子はきっと、エレン・ディーンのことなどすっかり忘れてしまったのでございますよ。あの子がわたしにとって、わたしがあの子にとって、世界じゅうをあわせたよりも、もっと大切なものだったことも覚えてはいないでしょう。
ここまで話すと、家政婦のディーンさんは暖炉の上の時計にちらと目を走らせ、長針が一時半をさしているのを見て、びっくりした。せめてもう少しと引きとめても、もう承知してくれなかったが、実のところぼくのほうでも話の続きはあとのほうがかえっていいと思った。彼女が寝室に引き下がってから、ぼくはさらに一、二時間物思いにふけっていた。頭と手足がだるく、ずきずきするけれど、ぼくもここらで思い切って寝室へ引きあげることにしよう。
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隠遁生活のなんと楽しい序幕だろう! 四週間もころげ回って苦しんだ病気とは! ああ、さむざむとした風、きびしい北国の空、人も通れぬ道、来るのに手間どる田舎医者! それに、ああ、人間の顔はさっぱり見られないときた! なによりひどいのは、春まで外出できるとは思うな、というケネス先生の恐ろしい宣告!
ヒースクリフがいま見舞に来てくれたばかりだ。七日ばかり前に、ひとつがいの雷鳥を届けてくれた……この季節の最後のものだ。悪党め! ぼくがこんな病気になったのも、彼にぜんぜん責任がないとは言えない。あの男にそれをよっぽど言ってやりたかった。しかし、残念だが、べッドのそばにたっぷり一時間も坐って、丸薬だの、水薬だの、発泡膏《はっぽうこう》だの、蛭だのとはちがう話をしてくれた男の気にさわるようなことが、どうして言えよう? いまはすっかり気分が楽になった。が、読書するほどの元気はない。しかし、面白いことならやれそうな気がする。ミセス・ディーンを呼んで、例の話の続きをやってもらったらどうだろう? この前話してもらったところまでの主なできごとは、ちゃんと思い出せる。そうだ、主人公は姿をくらまし、三年間消息を絶ち、女主人公は結婚したんだっけ。呼鈴を鳴らしてみよう。ぼくが元気よく話せるようになったのを喜んでくれるだろう。ディーンさんが顔を見せた。
「お薬の時間まで、まだ二十分もございますよ、旦那さま」
「そんなものはたくさんだ、やめにしてくれ!」とぼくは答えた。「ぼくの望んでるのは……」
「粉薬はやめるようにと先生がおっしゃっていましたが」
「喜んでやめるよ! まあ、ぼくにも言わせて下さい。ここへ来て、腰を落ち着けて。その苦い薬瓶から手を離して下さいよ。ポケットから編み物を出して……そうそう……さあ、この前やめたところから現在までの、ヒースクリフ氏の物語を続けて下さいよ。彼は大陸で教育を終えて、りっぱな紳士となって帰国したんですか? それともどこかの大学の特待生となったか、またはアメリカヘでも脱出して独立戦争に参加し、自分を育ててくれた母国の兵隊の血を吸って名誉を得たか。もっと手っとり早いところ、街道で追いはぎでもやって一財産つくったというところかしら?」
「そんなことをどれもみな少しずつやってきたのかもしれませんね、ロックウッドさま。でも、どれってたしかなことは言えません。前にも申しましたが、どうやってお金を作って来たのか知りませんし、野蛮な無知の中に落ちこんでいた心を、どんなやり方で高めたのかもわかりません。ですけれど、よろしかったら、いつもの調子で話を続けさせて頂きましょうか。ただ、ご興味があって、退屈なさらなければですよ。けさはご気分がよろしいのですか?」
「ああ、とても」
「それはようございました」
さて、わたしはキャサリンお嬢さまにつき添って、スラッシクロス屋敷へまいりました。そうしますと、わたしの取り越し苦労にすぎなかったと安心しましたのは、お嬢さまが思ったよりずっとりっぱに振舞われたことです。ご主人のリントンさまを愛しすぎるくらい愛し、妹さんにもすこぶる愛情をしめしました。それにしても、ご兄妹のほうでも、キャサリンを居心地よくしてやるために、とても気を使っていたことはたしかでございます。茨《いばら》が枝をかがめてすいかずらに寄り添うというより、すいかずらが茨を抱きしめている、といった具合でございました。両方からゆずりあったのではなく、一人はつんとそり返ったまま、ほかの二人がなびいていたのです。それに、逆らいもされず、冷淡にもされなかったら、だれだってつむじを曲げたり、不機嫌になったりすることはできないでしょう。わたしには、エドガーさまがキャサリンの機嫌を損ねまいと、心底《しんそこ》から恐れているようすがよくわかりました。むろんキャサリンには知られないようにしていましたが、わたしが突っけんどんな返事をするのを聞いたり、ほかの召使が奥さまの横柄《おうへい》な命令にいやな顔をするのを見たりしますと、ご自分のことでは決して見せない不愉快そうなしかめ顔をなさって、困ったようすをなさるのでした。わたしは生意気だといって、何度きびしく叱られたかわかりませんし、妻の怒るのを見るのは、ナイフで突き刺されるより苦痛だ、とはっきり言われたものでした。やさしい旦那さまを悲しませないように、わたしもしだいに腹をたてないようになりました。こうして半年ばかりは、火薬も砂のように静かにしていましたが、それも爆発を起こさせる火がそばに来なかったからなんです。キャサリンにはときどき何日も陰気に黙りこんでしまうことがありました。その時エドガーさまは黙ってやさしくいたわってやりました。前にはキャサリンがふさぎこむことなどなかったので、大病のせいで体に変調があったのだろうとおっしゃっていたのです。彼女の顔に明るい輝きがもどりますと、旦那さまも晴れやかな顔で答えました。ご夫婦は深い、しだいに深まってゆく幸福をしっかりつかんでいたと申してよいでしよう。
その幸福は終わりました。そうですね、結局は人間はみな自分本位に生きるしかないのでしょう。やさしい寛大な人だって、傲慢《ごうまん》な人間よりもいくらかわがままさがましだというだけなのですわ。二人の幸福も、めいめいが相手の幸福を自分にとっていちばん大事なことだと考えていないことを、あるきっかけから感じたとき、終わりました。九月のあるおだやかな夕方、わたしが籠いっぱいりんごを摘んで果樹園からもどって来たときでした。もう薄暗くなり、月が中庭の高い塀の上から顔をのぞかせ、屋敷のあちこちに突き出た部分のすみずみにぼんやりした形の影ができておりました。台所の戸口のあがり段に籠をおいて、ひと休みし、やわらかな、かぐわしい大気をしばらく吸いこんでいました。わたしの目は月を見あげ、背は入口に向けておりました。そのとき、うしろで声がしました。
「ネリー、ちがうかい?」
太く低い声で、聞きなれない口調でした。でも、どこかわたしの名の呼び方に、聞きなれたところがあります。声の主を見ようと、こわごわふり向きました。ドアはみなしまっていたし、上がり段まで来るとき、人影を見なかったからです。ポーチで何か動きました。近づいてみると、黒服を着た、顔も髪も黒い、背の高い男でした。彼は壁にもたれて、ドアの掛け金に指をかけ、自分であけるつもりのようでした。「いったいだれかしら?」とわたしは思いました。「アーンショウさまかしら? いえ、ちがう! 声がまるで似てないわ」
「ぼくはここで一時間も待ったぞ」なおもじろじろ見ていますと、彼は続けました。「そのあいだ、ここらじゅうが墓場のようにしんとしていた。かってにはいるわけにもいかないしな。ぼくがわからないのか? ほら、ぼくは見ず知らずの人間じゃないよ!」
ひとすじの月の光がその顔に射しました。血色の悪い頬は黒いひげになかばおおわれ、眉はけわしく、眼は深く落ちくぼんで、異様な感じでした。その目に覚えがありました。
「まあ!」わたしは本人が生きていて本当に訪ねてきたのかどうか信じられず、そう叫び、びっくり仰天して両手をあげました。「まあ、帰ってきたの? 本当にあなたですか? 本当に?」
「そのとおり……ヒースクリフだ」と彼は答え、目をわたしから窓へ移しました。窓は月光をきらきら反射していましたが、中から灯影は見えません。「みんな家にいるのか? キャシーはどこだ? ネリー、おまえは喜んでくれないんだな! なにもそんなにうろたえることはない。キヤシーはいるのか? 言ってくれ! ひと言《こと》だけ話したいんだ……おまえの女主人と。さあ、行って、ギマトンから来た人が会いたいと言ってると伝えてくれ」
「奥さまはどう思われるかしら?」とわたしは叫びました。「どうなさるかしら? わたしだって意外で、どうしていいかわからないのに……奥さまは気が狂ってしまうかもしれない。たしかにあんたはヒースクリフね! でも変わったわ! ほんとに、とても見分けがつかないわ。兵隊にでも行ってたんですか?」
「いいから早く伝えてくれ」彼はいらだたしげにさえぎりました。「伝えてくれるまでは、地獄の苦しみなんだ!」
彼が掛け金をはずしましたので、わたしは中へはいりました。でも、リントン夫妻の居間の前まで行っても、どうしてもそれ以上進めません。やっとのことで、蝋燭をおつけしましょうかと聞くことにして、ドアをあけました。
お二人は窓ぎわに腰をおろしていました。格子戸はいっぱいに開かれて、壁にぴったり着けてあり、庭の木立や草の生い茂った猟園《パーク》の向こうに、ギマトンの谷が見え、一条の霧がほとんどその頂までゆらゆら立ちのぼっていました。(旦那さまもお気づきでしょうけれど、教会堂を通り過ぎるとすぐ、沼地から流れ出る溝が渓谷にそって曲がっている小川といっしょになります)嵐が丘がこの銀色の靄《もや》の上にそそり立っていました。でもわたしどものなつかしい家は、丘の向こう側を少し下ったところにあるので、ここからは見えません。居間のようすも、そこにおられるお二人も、またいっしょにながめ入っておられる風景も、胸をうたれるような平和な感じでした。つい用事を果たすのに気おくれし、蝋燭のことをお聞きしただけで、何も言わずに引き下がってしまうところでした。さすがに自分の愚かさに気づいて引き返し、口ごもりながら言いました。「奥さま、ギマトンから来た人が、奥さまにお目にかかりたいそうです」
「何の用なの?」
「それは聞きませんでしたけど」
「いいわ、カーテンをしめて、ネリー。それからお茶を運んでね。あたし、じきにもどるわ」
奥さまは部屋を出て行きました。エドガーさまは何気なく、だれだね、と聞かれました。
「奥さまには思いがけない人でございます。例のヒースクリフなんです……覚えていらっしゃるでしょう、旦那さま……前にアーンショウさまのところにいた……」
「なんだと! あのジプシーか……作男の? なぜキャサリンにそう言わなかったんだ?」
「しっ! あの人をそんな風におっしゃってはいけませんわ、旦那さま。奥さまがお聞きになったら、とても悲しがられます。あの人がいなくなったとき、大変な嘆きようだったのでございますから。きっと帰って来たので大喜びでございましょう」
リントンさまは部屋の向こう側の、中庭を見おろす窓のところへ行き、そこをあけて外をのぞきました。その下に二人がいたものと見え、すぐ旦那さまは叫びました。「ねえ、おまえ、そんなところに立っているんじゃないよ! なにか特別の方なら中へお入れしなさい」やがて掛け金ががちゃんと鳴り、キャサリンが息を切らし、狂ったように二階へ駆けあがって来ました。あまり興奮して、喜びの顔とは見えません。ほんとに、その顔を見れば、恐ろしい災難でも起こったかと思いたくなるほどでした。
「ああ、エドガー、エドガー!」あえぎながら言い、主人の首にしがみつきました。「ああ、エドガー、ねえあなた! ヒースクリフが帰って来たのよ……あの人が!」そしてぎゅっと強く抱きしめます。
「わかったよ、わかったよ」と夫は不機嫌に言いました。「だからって、ぼくの首をしめないでおくれ! あれがそんなたいした宝だなんて、思いもしなかったよ。なにもそんな大騒ぎぎをすることはないだろう!」
「あなたがお嫌いだったことは知っていますわ。でも、あたしのために、これからはお友達になって下さらなくちゃ。あがって来るように言いましょうか」キャサリンは熱烈な喜びをいくらか抑えて言いました。
「ここへかい? この居間へ?」
「ほかにあって?」
旦那さまはむっとした顔で、台所のほうがよくはないか、と言いました。リントン夫人は夫の気むずかしさをなかば怒り、なかばからかうように、おどけた顔で夫を見つめました……
「いけませんわ」しばらくして言いました「あたしは台所なんかに坐れません。エレン、ここヘテーブルを二つ出して。ひとつは身分の高い旦那さまとイザベラお嬢さまのため、もうひとつは身分の低いヒースクリフとわたしのためにね。それならご満足ですか、あなた? それとも、ほかの部屋に火をたかせましょうか? それならそうとおっしゃって下さいな。あたし、下へ行って、お客さまを引きとめておきます。ほんとに嬉しくて夢みたい!」
そう言って、また飛びだそうとするのを、エドガーが引きとめました。
「おまえが行って、あがらせたらいい」とわたしに向かって言ってから、「キャサリン、喜ぶのはいいが、ばかげた真似はやめてくれないか! 飛び出した下男を、おまえが兄弟あつかいして歓迎するのを、家じゅうの者に見せることはない」
わたしが階下へ行きますと、ヒースクリフはポーチの下で待っていて、中へはいれと言われるのを当然だと思っているようでした。わたしの案内に、よけいな口も聞かずについて来ました。ご主人夫妻の前に連れて来ますと、お二人とも激しい口論のあとと見えて、顔を真っ赤にしていました。でも、奥さまの顔は幼な友だちが戸口に現われると、また別の感情にほてりました。たちまちヒースクリフに走りよって両手をとり、夫の前へ連れて行きました。気の進まないリントンさまの手をつかみ、むりやりヒースクリフの手の中へ押しこみました。こうして暖炉の火と蝋燭の火に照らされたヒースクリフは、たいへんな変わりようで、わたしは改めてびっくりしました。背が高くてたくましい、りっぱなからだつきの男になっていたのです。ならべて見ますと、主人のほうはいかにもほっそりして、子供っぽく見えました。ヒースクリフのまっすぐな姿勢は、軍隊にいたのではないかと思わせ、その顔つきも、表情といい、しっかりした目鼻だちといい、リントンさまよりずっと年上に見えます。なかなか理知的で、もとの堕落のあとは少しも見えません。けわしい眉や、暗い情熱を潜めた目のあたりに、まだいくらか野蛮な荒々しさが感じられましたが、それも抑えられていました。態度には威厳すらあって、上品と呼ぶには、いかめしさが勝っていましたが、粗野なところはすっかりなくなっておりました。旦那さまの驚きもわたしに劣るどころか、むしろそれ以上でしたから、もとのように作男と呼んでいいものかどうか、しばらく迷っておりました。ヒースクリフは相手のきゃしゃな手を放し、相手が口を切るまで、冷たく見つめておりました。
「まあ、おかけ下さい」と主人はやっと言いました。「家内は昔のことを覚えていて、わたしに心からおもてなしするようにと望んでいます。むろんわたしは家内の喜ぶようなことがあれば満足です」
「こちらも同じです」とヒースクリフは答えました。「ましてぼくがお役に立てることでしたらなおさらです。喜んで一、二時間お邪魔させていただきますよ」
ヒースクリフはキャサリンに向かいあって掛けました。奥さまは目を放したら消えてしまうのではないかと恐れるように、じっと目を注いだままです。ヒースクリフのほうは彼女にあまり顔を向けず、時たまちらっと視線を走らせるだけで満足していました。でもそのたびにしだいに大胆になり、相手の視線から受けるあからさまな喜びを、自分も視線にこめて投げ返すようになりました。二人はたがいの喜びにひたりきって、はたへの気がねも忘れています。エドガーさまだけが別でした。心の底からの不愉快さに顔も青ざめてきました。その不愉快さは、奥さまが立ちあがり、敷物を踏んでヒースクリフに近づき、その手を取って、われを忘れたような笑い声をたてたとき、頂点に達しました。
「あしたになれば夢だと思うでしょう!」と奥さまは叫びました。「こうしてまたあんたに会えて手を触れ、お話ができたなんて、とても信じられないでしょう。でも、ヒースクリフ、あんたはひどい人ね! こんな歓迎を受ける資格なんてない。三年も姿をくらまして、音沙汰《おとさた》なしで、あたしのことなんか考えてもくれなかったんだから!」
「きみがぼくのことを考えていたより少しはよけいに考えていたよ」とヒースクリフはつぶやきました。「キャシー、きみの結婚のことを聞いたのは、そんなに前じゃない。下の庭で待っているうちに、こんな計画を考えたんだが……君の顔をひと目だけ見よう……たぶんびっくりして目をむき、喜んでいるようなふりをしてくれる顔をね……そのあとでヒンドリーに昔の恨みを晴らし、法律の世話にならなくてもすむように、自分で自分の片をつけようとね。ところがきみに歓迎されたら、そんな考えはけし飛んでしまった。だが、このつぎに会ったときも態度を変えないように、気をつけてくれよ! いや、もう二度とぼくを追いだすようなことはしないだろうね。ほんとうにすまないと思っていたんだね? そうだろう、それが当然だ。きみの声を最後に聞いたときからずっと、ぼくはつらい生活を闘って来たんだ。ぼくのことを許してくれたまえ、きみのためにだけ闘ってきたんだから!」
「キャサリン、お茶を冷やして飲む気でなかったら、テーブルにつきなさい」リントンさまは努めて平生の口調と適当な礼儀を保とうとしながら、口をはさみました。「ヒースクリフさんは、今夜どこへ泊まられるのか知らないが、どっちみち長い道のりを歩かれるのだろうし、ぼくものどがかわいた」
奥さまは紅茶わかしの前に坐り、イザベラお嬢さまも呼ばれてやって来ました。わたしはみんなの椅子を前に出しておいて、部屋を出ました。お茶はものの十分とかからずに終わりました。キャサリンは自分のカップにはとうとう一度も注ぎませんでした。食べ物も飲み物ものどを通らなかったのです。エドガーも受け皿にお茶をこぼしたりして、ほとんどひと口も飲みません。その晩の客は、そのあと一時間ばかりで立ち去りました。帰るとき、わたしは、ギマトンヘ行くのですか、と聞きました。
「いや、嵐が丘だ」と答えました。「けさ寄ったら、アーンショウ氏が招いてくれたんだ」アーンショウさまが彼を招いたって! また彼もアーンショウさまを訪ねたなんて! 彼が帰ったあと、その言葉をわたしは、いろいろ考え悩みました。彼は少し偽善者になり、猫をかぶって悪事をするために、この土地へ舞いもどったのではないかしら? わたしは考えこんでしまいました。彼があのまま帰らずいてくれたほうがよかったのだ、と心の奥にいやな予感がひらめいたのです。
真夜中ごろ、寝入りばなをリントン夫人に起こされました。奥さまはそっとわたしの部屋へはいって来て、ベッドのそばに坐り、髪の毛を引っぱって起こしたのです。
「あたし、眠れないの、エレン」と奥さまは言いわけしました。「だれかそばにいて、あたしの幸福をいっしょに喜んでもらいたいの! エドガーは自分に興味のないことをあたしが喜んでるって、機嫌が悪いの。怒って、ばかみたいな文句を言うだけで、口をきこうともしてくれないの。気分が悪くて眠いのに、あたしが話したがるのは、残酷で、自分かってだって言うの。ちょっと気にさわると、いつも気分が悪いって言いだすんだもの! あたしが、ひと言《こと》ふた言《こと》ヒースクリフのことを褒《ほ》めたら、頭が痛いのか、やきもちやきなのか知らないけど、泣きだしたりして……だから起きて来ちゃった」
「旦那さまの前でヒースクリフを褒めて、何になりますか? 子供のときからおたがいに反感を持ってたんじゃありませんか。ヒースクリフだって、旦那さまが褒められるのを聞いたら、やっぱり怒りますわ。それが人情というものですよ。二人におおっぴらな喧嘩をさせたくなかったら、ヒースクリフに関しては、旦那さまをそっとしておくことですわ」
「それだったら、けちな根性をさらけだすことになるんじゃない?」と彼女は続けました。「あたしはやきもちなんかやかない。イザベラのつやのいい金髪も、真っ白な肌も、上品なやさしさも、家じゅうでちやほやされることも、ちっとも気にならないわ。ネリー、おまえだって、ときどきイザベラとあたしが口論すると、すぐイザベラの肩をもつでしょう。そのたびに、あたしは甘い母親みたいに負けてやるわ。あの子をいい子、っておだてて、機嫌をなおさせてやるじゃないの。二人が仲良くしていると、旦那さまが喜ぶでしょう、そうしたらあたしだって嬉しいもの。でも、あの兄妹はそっくりね……二人とも、まるで甘やかされていて、世の中はみな自分たちに都合のいいようにできてると思ってるんだわ。あたしも二人のご機嫌はとってやるけど、やっぱり、ぴしっと懲《こ》らしめてやったほうがよくなると思うの」
「それはちがいますよ、奥さま。あちらで奥さまのご機嫌をとってらっしゃるんですよ。もしそうしなかったら、どんなことになるか、わたしにはわかっています。お二人のほうでなんでもあなたの気に入るように努めてらっしゃる限りは、奥さまのほうだって、あの方たちの一時の気まぐれを許してあげることができるというものですわ。でも、いつかは、あなたにもあちらにも、同じように重大な事が起こって争うことになりかねませんね。そうなると、あなたが意気地なしと思っている人たちだって、あなたに負けず頑固だってこともありますよ」
「そうなったら、ぎりぎりまで、やりあうだけよ。そうじゃない、ネリー?」奥さまは笑いながら言い返しました。「うそよ! ほんとはね、あたしはリントンの愛情を信じてる。たとえ、あたしに殺されたって、復讐なんか望む人じゃないわ」
そんな愛情に対しても、もっと旦那さまを大切にしてあげなくては、とわたしは忠告しました。「大切にしてるわ」と奥さまは答えました。「だけど、くだらないことで泣きごとを言うことはないのよ。子供じみてるわ。あたしがヒースクリフはもうだれにも尊敬される値打ちがあるんだから、その友人になることは、この土地第一の紳士として名誉なことだ、と言ったからって、泣きだすことはないでしょ。むしろ自分から進んでそう言うのが当然でしょう。だから同意して喜んでくれたっていいはずよ。ヒースクリフに慣れてくれなくては困るし、好きになってくれたっていいんだわ。ヒースクリフのほうにこそ、旦那さまに言い分があるのに、それを考えたら、ヒースクリフの態度はりっぱだったわ!」
「嵐が丘へ行くって言ったことを、どうお考えになりますか?」とわたしは聞いてみました。「見たところ、すっかりりっぱになったようですね。本当のキリスト教徒ですわ……どこでも昔の敵に好意を見せて歩くんですから!」
「それは自分から説明したわ。あたしだって驚いたんだけど、あの人は、おまえがまだあっちにいるものと思って、あたしのことを聞くつもりで訪ねたんだって。ジョーゼフがヒンドリーに報《し》らせたら、自分で出て来て、いままで何をしていたのかとか、どうやって暮らしていたのかとか、聞いたのね。あげくに中へはいれっていうことになったの。ちょうど何人かでトランプやってて、ヒースクリフも仲間にはいったのね。それで兄さんがあの人に負けてお金を取られたの。ところが、あの人がたくさんお金を持ってると知って、また晩に来ないかって誘い、あの人も承知したというわけ。ヒンドリーは向こう見ずで、友達なんか慎重に選ぼうとしないの。あれほど卑劣ないじめ方をした相手を、うっかり信用できるものじゃないってことなど、考えようともしないのね。でも、ヒースクリフが言うには、昔の迫害者と|より《ヽヽ》をもどした第一の理由は、この屋敷まで歩いて来られる場所に落ち着きたいのと、あたしといっしょに暮らした家がなつかしいからだって。それにギマトンに住むよりは、あそこのほうが、あたしだって会う機会が多くなるだろうって言うの。嵐が丘に泊めてもらえるなら、いくらでもお金は出すつもりでいるの。だから、兄さんのように貪欲な人なら飛びつかないはずはないわ。昔から欲の皮が突っぱってるんだもの。そのくせ、右手でつかんだお金は、すぐ左手で投げ出しちゃうのよ」
「若い人が住みつくにはけっこうな場所ですよ!」とわたしは言いました。「奥さま、その結果がどうなるか、心配にはならないんですか?」
「ヒースクリフのことは心配しないわ。しっかりしてるから、危険に会いっこないもの。ヒンドリー兄さんのほうはちょっと心配だけど、あれ以上道徳的に堕落しようもないし、兄さんの身に危害を加えるようなことは、あたしが中に立って防げるもの。今夜のできごとのおかげで、あたしは神さまとも人間とも仲なおりできたのよ! あたしは神さまのみ心にだって、怒って楯《たて》ついてきたんだから! ネリー、あたしはほんとにつらい、みじめな運命に耐えてきたのよ! あたしのつらさがエドガーにわかっていたら、つまらないことに腹をたてて、せっかく救われたあたしの気持をまた暗くしてしまうことなんか、恥ずかしくてできないはずよ。あたしが一人で耐えてきたのは、エドガーへの思いやりからなんだもの。あたしが始終感じていた苦しみを表に出していたら、エドガーだってあたしと同じくらい、少しでも苦しみが楽になることを願ってくれる気になったでしょう。でも、もうすんだことだし、あの人の愚かさに仕返ししてやるつもりなんかないわ。これからは、あたしにはどんなことだって耐えられる! この世でもっとも下等な奴に頬を叩かれたって、もういっぽうの頬を向けてやれるし、怒らせたことを詫びてやれるわ。その証拠に、いまからすぐエドガーのところへ行って仲なおりするの。おやすみ! あたしは天使よ!」
いい気な自己満足に確信をもって、キャサリンは出て行きました。その決心の実行がよい結果になったことは、翌朝はっきりわかりました。リントンさまはすっかり機嫌をなおしたばかりか(もっともキャサリンの溢れるばかりの元気にまだ圧倒されているようでしたけれど)、奥さまが午後からイザベラを連れて嵐が丘へ行くということも反対しませんでした。そのかわり、奥さまのほうでもやさしい愛情をふんだんに注いでやりました。それから数日間というもの、家の中は天国のように和やかで、主人も召使たちも、いつも明るい日光にひたる思いでございました。
ヒースクリフは……これからはヒースクリフさんと言わなくてはならないのでしょうが……スラッシクロス屋敷を訪ねるのも初めは慎重にしておりました。自分が押しかけるのをここの主人がどのくらいまで辛抱するか、計算しているようでした。キャサリンも彼を迎えるとき、喜びをあまり表に出さないほうが賢明だ、と考えるようになりました。こうして彼はしだいに、客として迎えられる立場を固めていきました。子供の時から目立っていた、なかなかうち解けない性質が、まだ多分に残っていて、人をはっとさせるような感情の表現を抑えることができたのです。旦那さまの不安もいくぶんおさまりました。ですが、別の方面で、しばらくのあいだ、心配しなくてはならない事情が起こってきたのです。
旦那さまの新しい苦労は、こうして大目に見てやっている客に、イザベラが急に、どうにもならないほど惹《ひ》きつけられてしまったという、予想もしなかった不運から生じたものです。イザベラお嬢さまはその頃十八才の愛くるしいお嬢さまでしたが、頭もよく、鋭い感情の持ち主で、腹をたてると激しい気性は見せましたが、なさることはまだ子供でした。お兄さまは、とても妹思いで、心から愛していらっしゃったのですから、この突拍子もない相手の選択に胆をつぶしました。名もない男と結ばれる不名誉さと、自分に男の子がいなかった場合に、財産がこんな男の子に渡ってしまう恐れのあることは別としても、旦那さまにはヒースクリフの性質を見抜く分別がおありだったのです。外見だけは変わったにせよ、心は変わるはずもなし、また変わっていないことを知っておいでだったのです。そしてその心を恐れ、反感をもっておられました。イザベラをそんな男にゆだねるのか、と考えるだけで不吉な予感にすくみあがるのでした。まして妹の愛情が自分のほうから燃えあがったもので、相手にはぜんぜんそれに答える愛情がわかないのだ、と知ったら、なおさら兄としていやな気持になったことでしょう。妹の愛情に気づいた瞬間から、てっきりヒースクリフが、計画的に謀《はか》ったことと決めてしまわれたくらいでございますから。
わたしどもはみな、しばらく前から、イザベラお嬢さまが何かにいらいらし、悩んでいるのに気づいておりました。怒りっぽく、沈みがちで、始終奥さまに突っかかったり冷やかしてみたり、もともと我慢のない奥さまの気性がいつも爆発しそうになりました。まわりの人はそれを病気のせいだろうと、ある程度までは大目に見ておりました。とにかく、だれにもはっきりわかるほど、日ましに痩《や》せ細り、顔色が衰えていったのですから。ところがある日、とくべつひどく意地を張って、朝ご飯も食べようとせず、召使たちが言うとおりにしてくれないとか、家の中であたしがみんなにばかにされているのに、お義姉《ねえ》さまは放っておくとか、お兄さまもかまってくれないとか、当たり散らします。ドアをみんなあけ放しておいたから風邪を引いてしまったとか、居間の火を消したのは、わざとあたしを怒らせるためなんだとか、あとからあとから他愛もない難くせをつけてすねるのでした。奥さまはさっさとやすんだらいいでしょう、とぴしゃりと言い、思いきり叱りつけて、お医者を呼びにやるから、とおどかしました。ケネス先生の名前が出ると、たちまちイザベラは、あたしはどこも悪くない、キャサリンがつらく当たるから、不幸なだけなんだ、と言いました。
「つらく当たるなんて、よくも言ったわね。手に負えない甘えっ子だわ!」奥さまは無茶な言い分にあきれて叫びました。「頭がどうかしてるんだわ。いつあたしがつらく当たったの。言ってごらんなさい」
「きのうよ」とイザベラはすすり泣きしはじめました。「いまだってそうじゃないの!」
「きのうですって! どんなとき?」
「荒野《ムア》を散歩してるときよ。あたしに、どこでも好きなところを歩いておいでって言いながら、自分ではちゃっかり、ヒースクリフさんと歩いてたじゃないの!」
「それがあんたの言う、つらく当たるってことなの?」キャサリンは笑いだしました。「あれはなにもあんたが邪魔だという意味じゃなかったのよ。あんたがいっしょにいようといまいと、あたしたちはかまやしないわ。あたしはただ、ヒースクリフの話を聞いたって、あんたにはおもしろくもないだろうと思っただけじゃないの」
「ちがうわ」とお嬢さまは泣きながら言いました。「あたしを追っぱらいたかったのよ。あたしがそばにいたがっていることを知ってたからだわ!」
「この子、正気なの?」と奥さまはわたしの助けを求めました。「あたしたちの話したことを、ひと言《こと》残らずくり返してあげたっていいわよ、イザベラ。どこがおもしろいのか、言ってくれるといいわ」
「話なんかどうだっていいの。あたし、ただあの方と……」
「え、あの方と?」とキャサリンは義妹《いもうと》が言い渋っているのを見て言いました。
「いっしょにいたかったの! いつでも追っぱらわれるのはいやだわ!」イザベラは突然、興奮しました。
「キャシー、あなたって秣桶《まぐさ》の犬〔イソップ物語。自分は食べられない枯れ草のはいった秣桶を占領して牛に食べさせない意地悪な犬〕みたいに意地悪よ。自分一人だけ愛されたいと思ってるんだわ!」
「生意気な小猿ね!」と奥さまはびっくりして叫びました。「こんなばかげたことってあるかしら! あんたがヒースクリフに愛されたいなんて、とんでもない……あの人を感じのいい人だと思うなんて! イザベラ、まさか、あたしの誤解じゃないでしょうね」
「いいえ、おあいにくさま」とお嬢さまはもうすっかりのぼせあがっているのです。「あなたがエドガーを愛したより、ずっとあたしはあの方を愛してるわ。あの方だって、お義姉《ねえ》さまさえ許してくれたら、あたしを愛して下さるはずよ!」
「そうなの。あたしなら王国をひとつもらえたって、あんたみたいにはなりたくないわ!」キャサリンは力をこめて断言しました。その言葉にいつわりはなさそうでした。「ネリー、あんたからも、この子の気違いざたが自分にわかるように、言ってやってちょうだい。ヒースクリフかどんな人間か、話してやって。行儀も教養もない野性の男で、|はりえにしだ《ヽヽヽヽヽヽ》と砂岩ばかりの、乾き切った荒れ地なんだって。あんたの心をあんな男に捧げろ、なんて勧めるのは、あの小さなカナリアを、冬の日に猟園《パーク》へ放りだすようなものだわ! ねんねちゃん、そんな夢みたいなことを思いつくのは、かわいそうに、あの男の性格をまるで知らないからなのよ。ね、お願いだから、きびしい顔の下にやさしさや愛情を深く隠してるなんて考えないでちょうだい! まだ磨かないダイヤモンドだとか、粗野だけど、真珠を隠している牡蠣《かき》だとか、そんなんじゃない。荒々しい、情知らずの、狼みたいなやつなのよ。あたしはあの男には、『だれそれは放っておきなさい。あの人たちを傷つけるのは卑劣な、残酷なことだから』なんて言わないわ。『あの人たちは放っておいて。あの人たちがひどい目に会うのは、|あたし《ヽヽヽ》はいやなんだから』って言うの。ねえ、イザベラ、あの男はあなたが厄介な重荷だと思いだしたら最後、雀の卵みたいにおしつぶしちゃうわよ。彼はリントン家の人を愛せるはずがないんだわ。でも、あなたの財産を目当ての結婚なら、いくらでもできる男よ! 貪欲の罪がすっかりあの男をとらえてきてるんだから。これがあたしの見ている彼の姿よ。でも、あたしは彼の友達なの……親しい友達なんだから、彼が本気であなたをとりこにしようとしてるんだったら、あたしはたぶん、あなたがわなにかかるのを黙って見ていたでしょうね」
イザベラお嬢さまは憤然として義姉の顔を見つめました。
「うそつき! 恥知らず!」と怒ってくり返しました。「ひどい悪意にみちた友達ね。お義姉《ねえ》さまみたいな友達なら、二十人の敵を持つほうがまだましよ!」
「まあ! それじゃ、あたしの言うことを信じてくれないのね? あたしが腹ぐろい利己主義から話していると思ってるのね?」
「それにきまってるもの」とイザベラはやり返しました。「お義姉さまを見るとぞっとするわ!」
「いいわ! そんな気なら、好きなようになさい。あたしも言うだけのことは言ったし、そんな生意気な横柄な人と議論なんかしないわ」
「そしてあたしはお義姉さまの利己主義に苦しむのよ!」イザベラはリントン夫人が部屋を出て行くと、すすり泣きました。「みんな、よってたかって、あたしをいじめる。お義姉さまはあたしのたったひとつの慰めまで、だめにしてしまった。だけど、お義姉さまの言ったのは、みんな嘘でしょ? ヒースクリフさんは悪魔なんかじゃない。りっぱな心を持ってるわ。そして誠実な心もね。でなかったら、お義姉さまのことを忘れないでいられるはずはないわ」
「あの人のことなど忘れておしまいなさい、お嬢さま」とわたしは言いました。「あの人は不吉な鳥で、あなたに向く人じゃありませんよ。奥さまは強い言い方をなさったけれど、わたしには反対できません。わたしとか、ほかのだれよりも、あの男の心をよく知ってらっしゃるんですからね。実際以上に悪くおっしゃるはずがありませんわ。正直な人間なら、自分のしたことを隠したりしません。いままであの人はどんなことをして生きてきたんでしょう。どうやってお金持になったんでしょう。なぜ、嵐が丘なんかに泊まっているんでしょう? 憎んでいる人の家じゃありませんか。アーンショウさまはあの人が来てから、前よりもすさんでくるばかりだという噂です。毎晩いっしょに夜明かしし、ヒンドリーさまは土地を抵当にあの男から金を借りて、ばくちとお酒にひたりっきりですって。つい一週間前に聞いたことですけど……話したのはジョーゼフでね……ギマトンで会ったのですが、こう言うんですよ、『ネリー、うちじゃ、いずれ、検死官のお調べを受けることになるで。一人がまるで子牛でも殺すみてえに、わが身に刃物を突き刺そうとするし、もう一人はとめようとして、すんでのこと指一本切り落とされるとこだった。そいつは、うちの旦那でな、ひどくのぼせあがって、神さまの審判が待ち遠しくてならねえんだ。旦那はパウロさまだろうが、ペテロさまだろうが、ヨハネさまだろうが、どんな偉《えれ》え神さまがお裁きになったって、おっかなくねえだ、ふんとに! 旦那はな、おのれの恥知らずの顔を聖者さまの前へ突きだしたくてならねえだ! おまけに、あのヒースクリフって若僧ときたら、なんともはや、たいしたやつだで! 悪魔みてえなばか騒ぎを見てたって、平気でにたにた笑ってるやつだ。スラッシクロス屋敷へ行ったとき、こっちのりっぱな暮らしぶりを何も話さねえかね? いいか、こんな具合だで……日が暮れてから起きる。それから、サイコロにブランデー。鎧戸をしめきって、あくる日の真っ昼間まで蝋燭のつけっ放しときてら。あげくのはてに、あのばか旦那が、まともな人間なら、恥ずかしくって指を耳に突っこみたくなるほど、毒づいたりわめいたりしながら、部屋へ引きあげるだ。そうするとあの悪党めが、金勘定して、飯くって、寝て、こんどはひとの家の奥さまとむだ話をしにのこのこ出かけるだ。きっと、キャサリン奥さまにゃ、奥さまの親父さまの金が自分のふところに流れこむことや、自分がさき回りして邪魔をとりのけた破滅の道を、親父さまの息子が駆けおりて行くことなんど、話して聞かせてるにちげえねえ』だって。ですからね、お嬢さま、ジョーゼフはいやなやつだけど、嘘はつきませんからね……ヒースクリフのやり方が話のとおりだとしたら、そんな男を夫にしたいなんて思わないでしょうね?」
「おまえもほかの人たちとぐるなのよ、エレン! そんな悪口をだれが聞くもんですか。この世には幸福なんてないものだと、あたしに信じさせるつもりなんだから、ずいぶんたちが悪いわ!」
もしも放っておいたら、お嬢さまがこんな心の迷いに打ち勝ったか、それとも、いつまでも思いをつのらせていったか、どちらとも言えません。お嬢さまはよく反省するだけのひまがなかったのです。その翌日、隣りの町に治安判事の集会があって、旦那さまは出席しなければなりませんでした。ヒースクリフさんは、留守を知っていて、ふだんよりいくらか早目にやって来ました。キャサリンとイザベラは書斎にいて、たがいに腹をたてながら、言いあいもせずにいました。イザベラは昨日の軽率な振舞と、一時の激情に駆られて心の秘密を洩らしてしまったことでうろたえ、キャサリンはいろいろ考えたすえ、イザベラに本当に腹をたてていました。たとえまた義妹の生意気さを笑うにしても、自分にとってはもう笑いごとではすまないのだと思っていました。ヒースクリフが窓の外を通り過ぎるのを見ると、キャサリンは笑いました。わたしは炉辺のお掃除をしておりましたが、奥さまの口もとの意地悪い微笑を見のがしませんでした。イザベラは考えこんでいたのか、本に気をとられていたのか、ドアのあくまでじっとしていました。できれば、喜んで逃げだしたかったのでしょうが、気がついたときはもうおそかったのです。
「さあどうぞ、ちょうどよかったわ!」奥さまは晴れやかな声をたてて、椅子を暖炉のほうへ引き寄せました。「この二人は冷たい仲で、だれか和解させてくれる三人目を待ってたところなの。あんたなら二人にとって願ってもない人だわ。ヒースクリフ、やっとあんたに、あたし以上にあんたに首ったけの人をお引きあわせできるわ。あんただってまんざらじゃないでしょう。まさか、ネリーじゃないわ。そのひとなんか見ないで! あたしの義妹が、かわいそうに、あんたの美しい姿と心を考えるだけでも、胸がはり裂けそうなんですって。エドガーの義弟になるのも、あんたの心しだいよ! だめ、だめ、イザベラ、逃がしはしない」うろたえ、憤然と立ちあがったイザベラを、わざと奥さまはおどけたふりをして、つかまえました。「あたしたちったら、あんたのことで猫みたいに喧嘩してたのよ、ヒースクリフ。献身と愛情を打ち明ける点では、あたしすっかり降参しちゃった。その上、あたしが身を引いてやるたしなみさえあれば、あたしの恋敵は……この人がそのつもりなんだけど……あんたの心に恋の矢を射こんで、ぜったいあんたを放さず、あたしの面影など永久に忘れさせてしまうんですって!」
「キャサリン!」イザベラはやっと落ち着きを取りもどし、しっかりつかんでいる手をふり離そうともがくのをやめて、言いました。「たとえ冗談でも、あなたが真実だけ言ってくれて、あたしの悪口を言わなかったのはありがたいわ! ヒースクリフさん、お願いです、あなたのお友だちにあたしを放すように言って下さい。義姉はあなたとあたしがまだ親しい間柄じゃないってことを忘れてるんです。義姉にとってはおもしろくっても、あたしには口で言えないほどつらいことなんです」
客が何も答えずに腰をおろし、お嬢さまが自分にどんな感情を持っていようと、まるで無関心なようすでしたので、お嬢さまは自分を苦しめている義姉のほうを向き、放して下さいと小声で真剣に訴えました。
「放さないわよ!」と奥さまは強く言いました。「二度と秣桶の犬なんて言われたくないわ。ここにいらっしゃい。では聞いて! ヒースクリフ、あたしが嬉しいことを教えてあげたのに、なぜ満足そうな顔をしないの? イザベラは、エドガーのあたしに対する愛情なんか、この人があんたに抱いている愛情にくらべれば問題にならないって、はっきり言うのよ。たしか、そんなことを言ってたわ。そうじゃなかった、エレン? おまけに一昨日《おととい》散歩したときからずっと、ご飯も食べないの。あたしがこの人を邪魔にして、あなたのそばから追っぱらったから、悲しくて腹がたってしょうがないんですって」
「きみは本当のことを言ってないようだな」とヒースクリフは、椅子を二人のほうに向けて言いました。「とにかく、いまのところは、ぼくのそばから逃げだしたがってるんだぜ!」
そして彼は話されている人を、まるで見なれない、いやらしい動物でも見るように、じろじろ見ていました。たとえば、ぞっとさせられるけれど好奇心から見ずにはいられない、インド産の|むかで《ヽヽヽ》かなんかのように。かわいそうに、お嬢さまにはとても耐えられず、青くなったり赤くなったりし、睫毛《まつげ》に涙をため、小さな指先に力をこめて、キャサリンのしっかりつかんだ手を腕からもぎ離そうとします。でも一本の指を引き離すと、たちまち別の指がしめつけ、五本の指全部を一度に離させることができません。ついに爪の先を使いはじめました。じきに相手の指に、鋭い、血のにじんだ三日月型の跡ができました。
「めすの虎みたい!」と奥さまは叫んで、イザベラを放し、痛そうに手をふりました。「行くがいい! 行ってくれて助かるわ。雌《め》ぎつねみたいな顔を見たくもない! 好きな人の前で爪を見せるなんて、いいばかよ! 彼がどう思うか、考えられないの? ね、ヒースクリフ! あの武器は効き目があるのよ……あんたも目に気をつけることね」
「おれをひっかこうなんてしたら、爪をひっぺがしてやる」イザベラが出て、ドアがしまると、ヒースクリフは残忍な口調で答えました。「だけど、キャシー、なんだってあいつをあんな風にからかったんだい? まさか本当のことを言ったんじゃないだろうね?」
「本当よ、保証するわ。あの子ったら、何週間もあんたに恋い焦がれてるの。今朝も、あたしがあんたの欠点をはっきり話してやって、あの子の熱をさましてやろうとしたら、わめきたてて、いやというほど悪態を浴びせたわ。でも、もうかまわないで。あんまり生意気だから、とっちめてやろうと思っただけよ。ねえヒースクリフ、あたしはあの子が大好きなの。だからあんたに捕まって喰いつくされるのがいやなのよ」
「おれはあいつなんか大嫌いだから、そんなことをする気にはなれないよ。屍肉《しにく》を食う食屍鬼《グール》みたいにやるんなら別だけど。あんな胸くそわるい、蝋人形みたいな顔の女と二人だけで暮らしたら、妙な噂を聞くことになるだろう。いちばんふつうの噂でも、毎日か一日おきぐらいに、あの白っ茶けた顔に七色の生傷ができるとか、青い目が黒いあざに縁どられるというやつさ。あの目ときたら、うんざりするほどリントンに似てやがる」
「うっとりするほどでしょう! 鳩みたいな目だし……天使の目じゃないの!」とキャサリンが言いました。
「あいつは兄貴の財産の相続人だろうな」と彼は少し黙っていてから聞きました。「残念だけどそうらしいの。六人ぐらい甥ができて、あの子の相続権を奪ってしまえるといいのに! だけど、いまはそんなことを考えるのはよしなさい。あんたは隣人の財産を欲しがりすぎるわ。ここの隣人の財産はあたしのものなんだから、忘れないでね」
「それがおれのものになったって、やっぱり同じことじゃないか」とヒースクリフは言いました。「だがイザベラ・リントンはばかかもしれないが、気が狂ってるわけじゃないだろう。とにかく、きみの言うとおり、こんな話はやめにしよう」
その問題はもう二人の話から除かれてしまいました。キャサリンは心の中でもきれいに忘れてしまったようです。でも相手はその晩何度も思い出したにきまっています。わたしは彼がひそかににこにこするのを……いいえ、にたにたするのを見ました。奥さまが何かの折に部屋から出ていかれるたびに、考えごとにふけるようすが不気味に思われました。わたしは彼の行動を監視することに決めました。わたしの心はいつもキャサリンよりは、旦那さまのほうをお慕いしておりました。旦那さまのほうが親切で人を疑わない、正直な方でしたから、そうなったものと思います……キャサリンは正反対とは申せませんけれど、あまりに自由気ままに振舞われるので、いったい節操があるのかどうか信じられませんし、ましてやさまざまな感情の変化には好意が持てませんでした。何か事件が起こって、嵐が丘とこのお屋敷からヒースクリフを穏やかに追いだし、みんな彼が帰って来る前のようになってくれるといいと、わたしは願っておりました。彼のたびたびの訪問はわたしにとっては悪夢の連続のようなものでしたが、旦那さまにもきっと同じだったと思います。あんな男が嵐が丘に住んでいることは、言いようのない重苦しい感じでした。わたしには、神さまが迷える羊のヒンドリーをお見捨てになり、かってに悪の道へ迷いこませておかれると、悪い獣が現われて羊が檻にもどる邪魔をし、飛びかかって食い殺す機会をねらっているのだ、というように感じられました。
[#改ページ]
十一
ときどきこんなことを一人で考えていますと、急に恐ろしくなって立ちあがり、あの農場がどんなようすか見て来よう、とボンネットをかぶってみたものでございます。世間ではヒンドリーの行状をどう噂しているか、あの方に忠告してあげるのがわたしの義務だと、自分の良心に言い聞かせてはみますが、そのたびにまた、すっかり固まってしまったあのかたの悪習を思いだし、改心させる望みはないのだと考えまして、せっかく忠告しても本気で聞いてもらえる自信もないし、あの陰気な家に二度と足を踏み入れる勇気がなくなってしまうのです。
一度、ギマトンヘ行く途中、回り道してあのなつかしい門の前を通ったことがあります。だいたいいまお話している時期のことで、よく晴れた、寒い午後でした。地面に雪はなく、道路は固く乾いておりました。わたしは街道が左手の荒野《ムア》に分かれている石標のところまでまいりました。それはざらざらした砂岩の柱で北側にはW・H(嵐が丘)、東側にG《ギマトン》、南西側にT・G(スラッシクロス屋敷)という文字が彫ってあります。この屋敷と嵐が丘と村への道しるべなのです。石標の灰色のてっぺんに太陽が黄色く照りつけ、なんとなく夏が思い出されました。すると、なぜかわかりませんが、突然子供のころの気持が胸にあふれてきたのです。二十年前、ヒンドリーとここをお気に入りの遊び場所にしていました。風雨にさらされた石標を長いこと見つめていて、ふと身をかがめますと、根元の近くの穴の中にまだ蝸牛《かたつむり》の殻や小石がいっぱいつまっていました。わたしたちはそんなものを、もっとこわれやすい物といっしょにそこにしまいこむのが好きでした。たちまち昔の遊び友だちが枯れた芝生に坐っているのが、現実みたいにはっきりと見えるような気がしました。黒い角ばった頭が前かがみになり、小さな手が石板のかけらをもって土を掘り出しているのです。「かわいそうなヒンドリー!」わたしは思わず叫んでしまいました。そしてぎょっと目を見張りました。一瞬わたしの目は、その子供が顔をあげ、わたしの顔をまっすぐ見つめたのをたしかに見たような気がしたのです! たちまち幻は消えました。でも、すぐあとからどうしても嵐が丘へ行かずにはいられない気持になりました。迷信もはたらいて、その衝動にしたがわずにいられませんでした! もしかしてヒンドリーが死んだのだったら!……死にかけているのだったら!……あれが死の知らせだとしたら! 屋敷に近づけば近づくほど、ますます胸さわぎします。建物が目にはいったとたん、からだじゅうぶるぶる震えました。さっきの幻がさきまわりして、門の中からこっちを見ているんですもの。くしゃくしゃの髪をした、茶色の目の男の子が門の横棒に健康そうな顔を押しつけているのを見たせつな、わたしはてっきりそうだと思ったのです。よく考えたら、これはヘアトン、わたしのヘアトン坊やだとわかりました。十か月前に別れて以来、いくらも変わっていません。
「あらまあ、坊っちゃん!」たちまち、さっきの愚かな恐怖など忘れて、呼びかけました。「ヘアトン。ネリーですよ! あなたをお守《も》りしたネリーよ」
坊やは抱こうとするわたしの腕のとどかないところへ逃げ、大きな石を拾いました。
「坊やのお父さまに会いに来たのよ、ヘアトン」坊やのしぐさから、たとえネリーの記憶が残っているとしても、わたしがその人だと気づかないのだと思って、そうつけたしました。
彼は石を投げようとふりあげました。何とかなだめようと言葉をかけましたが、やめようとせず、石はわたしのボンネットにあたりました。続いて坊やのたどたどしい口から、悪態がつぎつぎと吐き出されました。言っていることの意味がわかっているのかどうか、いかにも慣れた調子で力をこめ、赤ん坊みたいな顔がゆがんで、ぎょっとするような悪意の表情を見せました。ほんとに、腹がたつよりも情なくなってしまいました。泣きたいような気持で、ポケットから蜜柑《みかん》をひとつ取り出し、機嫌をとろうとさしだしました。坊やはしばらくためらいましたが、いきなり持った手からひったくりました。まるで見せびらかしておいて、くれないのだと思ったようです。わたしはもうひとつ出して、今度はとどかないように高く手をあげました。
「だれがそんないい言葉を教えてくれたの、坊や? 牧師さん?」
「牧師なんかくそ食らえ! おめえもだ! それをくれよ」
「どこで勉強したのか言ってごらん、そしたらあげます。だれが教えてくれるの?」
「悪魔の父《と》っちゃんだい」
「その父《とう》ちゃんから何を教わるの?」
坊やは蜜柑に飛びかかりました。わたしはもっと高くあげて、「何を教えてくれるの?」
「何も教えてくれやしねえ。ただ、どいてろって言うだけだい。おれが悪態つくから、父っちゃんはおれが我慢ならねえんだ」
「まあ! それで悪魔が父ちゃんに向かって悪態つくことを教えるのね?」
「うん……ちがわい」
「じゃ、だれ?」
「ヒースクリフだい」
ヒースクリフさんは好きかと聞いてみました。
「うん!」と坊やはまた答えました。
好きなわけを聞きたかったのに、こんなことばしか聞かされませんでした……「わかんねえや。父っちゃんがおれに文句言うと、ヒースクリフがやり返してくれる……父っちゃんがおれの悪態を言うと、父っちゃんの悪態を言うんだ。おじちゃんはおれに好きなようにしていいって言うよ」
「それじゃ牧師さんは読み書きを教えて下さらないのね?」
「うん。おらあ聞いたよ、牧師の野郎が敷居をまたぎやがったら、あん畜生の……歯をへし折って……喉の中へ押しこんでやるんだって。ヒースクリフが約束したんだ!」
わたしは蜜柑を手にもたせてやり、ネリー・ディーンという女の人が話したいことがあって、庭木戸のところで待っている、とお父さんに話すようにと言いました。坊やは敷石道を歩いて家にはいって行きました。ところがドアの前の敷石の上へ現われたのは、ヒンドリーではなくヒースクリフでした。わたしはたちまちくるっと背を向け、悪鬼でも呼び出したようにおびえながら、道を走れるだけ走って、道しるべの石のところまでとまりませんでした。これはイザベラお嬢さまの問題とはあまり関係がありません。ただそのときから、わたしはいっそう警戒を厳重にし、全力をつくして、こんな忌まわしい力がスラッシクロス屋敷に及ぶのを防ぎとめようと決心したのでございます。たとえそのためにリントン夫人の気に入らないことがあり、お屋敷に波風がたっても仕方がないと思いました。
その次にヒースクリフが来ましたとき、イザベラお嬢さまはちょうど中庭で鳩に餌をやっていました。この三日間というもの、お嬢さまは兄嫁にひと言も口をききませんでしたが、同時にうるさい愚痴もやめてしまいましたので、わたしどもはほっとしておりました。ヒースクリフはイザベラお嬢さまによけいなお愛想などひと言も言ったことがないのを、わたしはよく知っておりました。ですが、このときに限って、お嬢さまの姿を見るなり、まず初めに慎重に家の前をひととおり見回しました。わたしは台所の窓ぎわに立っていましたが、すぐ見えないように隠れました。ヒースクリフは敷石の上を横切ってお嬢さまに近づき、何か言いました。お嬢さまはどぎまぎし、逃げ出したいようすでしたが、ヒースクリフはそうさせまいと、腕に手をかけました。お嬢さまは顔をそむけました。どうやらお嬢さまの答えたくないことを聞いているようでした。ヒースクリフはふたたび家のほうにすばやく目を走らせ、だれも見ていないと思ったらしく、この悪漢がずうずうしくもお嬢さまを抱きしめたのです。「ユダ!裏切り者!」とわたしはわめきたてました。「偽善者にもなったの? 計画的にだます気ね!」
「だれのこと、ネリー?」すぐそばでキャサリンの声がしました。外の二人に気をとられ、奥さまのはいって来たのに気がつかなかったのです。
「奥さまのろくでなしの友だちですよ!」わたしは激しく答えました。「あそこでこそこそやってる悪党です。あら、わたしたちを見ましたわ……はいって来ます! 奥さまにはイザベラさまが嫌いだなんて言っておきながら、お嬢さまに言い寄ったりして、もっともらしい口実を見つける手ぎわを知ってるのかしら?」
奥さまはイザベラがからだを振りほどき、庭へ逃げだすのを見ました。すぐあとでヒースクリフがドアをあけました。わたしは腹がたって何か言わずにはいられませんでしたが、キャサリンは怒って、黙っていなさいと言い、出しゃばって無礼な口出ししたら、台所から追いだしてしまうとおどかしました。
「おまえの言ってることを人が聞いたら、おまえのほうが主人だと思うわ! 召使なら召使らしくしたらいいのよ! ヒースクリフ、いったい何なの、こんな騒ぎをひき起こして? イザベラにかまうなって言ってあるでしょう!……お願いするわ。ここへ来るのがいやになって、リントンに目の前で戸に閂をかけてもらいたいのなら別だけど!」
「そんなことさせるもんか!」と悪党は答えました。そのときわたしは心からこの男を憎みました。「おとなしく辛抱してるほうがあいつの身のためだ! 毎日毎日、おれはあいつを天国へ送ってやりたくてじりじりしてくるんだ!」
「しっ!」とキャサリンは言って、内側の扉をしめました。「あたしをいらいらさせないでよ。なぜあたしのお願いを無視したの? イザベラがわざとあんたのほうへ行ったの?」
「それがきみにどうだっていうんだ」と彼はがみがみ言いました。「おれにゃ、あの子が望むなら、キスする権利があるんだ。きみにとやこう言う権利はない。おれはきみの亭主じゃないんだ。おれに嫉妬するこたあないよ!」
「嫉妬なんかしないわ。あんたのことを心配してるのよ。さあそんなしかめっ面はやめて。あたしをにらみつけることはないわ! イザベラが好きなら、結婚させてあげます。でも好きなの? 本当のことを言ってちょうだい、ヒースクリフ! そら、返事をしないじゃないの。好きじゃないことはたしかだわ!」
「それに旦那さまはお嬢さまがこの人と結婚するのを賛成なさいますかしら?」とわたしは聞いてみました。
「きっと賛成します」と奥さまはきっぱりと答えました。
「あいつに手間をかけさせることはない」とヒースクリフは言いました。「あいつの賛成なんかなくたって、けっこうやっていけるさ。ところでキャサリン、きみについて、ついでに、少し言っておきたいことがある。きみがおれにひどい仕打ちをしたことだが……途方もない恐ろしいやり方だった! それをおれはちゃんと覚えているんだってことを、知っててもらいたい! いいかね? おれがそんなことを感じていないなどとうぬぼれていたら、きみはばかだ。おれが甘いことばでいい気になるような男だと思うなら、きみは大たわけだぞ。おれが復讐もせずに我慢していられそうだなんて考えていたら、遠からず正反対だということをはっきり見せてやる! とにかく、義妹《いもうと》さんの秘密を話してくれてありがとう。その秘密を必ず最大限に利用してやる。きみはどいてりゃいいのだ!」
「まあ、この人にこんな意外なところがあったのかしら?」とリントン夫人はあきれて叫びました。「あなたに途方もない仕打ちをしたんですって……復讐するんだって! どうやって復讐するつもり? 恩知らずの人でなし……あたしがどんなひどい仕打ちをしたっていうのよ?」
「なにもきみに復讐するつもりはないよ」とヒースクリフは幾分調子をやわらげて言いました。「そんなことを企らむものか。暴君が奴隷を苦しめても、奴隷は暴君には歯向かわないものだ。自分より下の者を押しつぶすだけさ。きみがおれを慰さみに死ぬほどいじめたってかまわないから、おれが同じように少し楽しんだって、放っておいて、なるべくおれを侮辱しないで欲しいんだ。おれの宮殿を押しつぶして、代わりにあばら家《や》を建ててくれて、家を恵んでやったと自分の施しに得意になって感心するのはやめてくれよ。もしきみが本当におれがイザベラと結婚するのを望んでるんだと考えたら、おれは喉をかき切って死ぬだろう!」
「あら、それじゃ、あたしが嫉妬しないのがいけないの?」とキャサリンは言いました。「それなら、お嫁さんのお世話なんて、もう口にしないわ。堕落した魂をわざわざ悪魔に捧げるのと同じむだなことですものね。あんたも悪魔みたいに、他人を不幸にするのが楽しみなのね。自分で証明してるわ。エドガーはあんたが来ると不機嫌になったけど、やっと気持がおさまり、あたしも安心して落ち着いてきたところよ。ところがあなたはあたしたちが平和だといらいらし、喧嘩を起こさせようとしてるようね。ヒースクリフ、よかったらエドガーと喧嘩するといいわ。あの人の妹をだましてやるの。そしたら、あたしに復讐するいちばんいい方法でしょう」
話はそれでとぎれました。リントン夫人は顔を真っ赤にし、暗くふさぎこんで炉辺に坐りました。それまで奥さまに仕えていた人間が、いまや手に負えなくなり、押えることも、支配することもできなくなったのです。ヒースクリフは腕組みして炉の前に立ち、腹ぐろい考えにふけっています。二人をそのままにおいて、わたしは旦那さまのところへまいりました。旦那さまはなぜ奥さまが階下で手間どっているのかといぶかっていらっしゃるところでした。
「エレン」わたしがはいって行きますと、旦那さまは言われました「奥さんを見たかい?」
「はい、台所においででございます。旦那さま」とわたしは答えました。「ヒースクリフの振舞にたいそう困ってらっしゃるんです。もうこのへんであの人の訪問をなんとかしなくてはなりませんわ。あまり甘い顔をなさいますと、とんだことになります。とうとうこんなことになりました……」わたしは中庭で起こったことを話し、そのあとの口論も思いきってできるだけありのままに申しあげました。その告げ口が奥さまにそんなに不利になるとは思いませんでしたが、あとで奥さまがヒースクリフを弁護なさったため、不利にしてしまったのです。旦那さまはわたしの話を最後まで聞くのももどかしいようすで、最初におっしゃった言葉から、妻にも責任があると考えていらっしゃることがわかりました。
「もう我慢できない!」と強く非難なさいました。「あんな男を友人と認め、わたしにまで交際を押しつけるとは! エレン、下男部屋からだれか二人呼んで来なさい。キャサリンにあんな下等なならず者といつまでも言い合いをさせてはおけない……彼女《あれ》もこれだけ甘やかしてやったら十分だろう」
旦那さまは階下へ降り、下男たちを廊下で待たせておいて、わたしをつれて台所へ行きました。そこの二人はまた激しい口論をはじめていたらしく、少なくとも奥さまは勢いを盛り返して叱りつけておりました。ヒースクリフは窓のそばへ行って頭を垂れ、その猛烈ななじり方に、いくらかひるんだようすでした。さきに主人の姿を認めたのは彼で、あわてて相手に黙るように合図しました。奥さまは合図の意味を悟って、ぴたりと口をつぐみました。
「これはどうしたことだ?」と旦那さまは奥さまに向かって言われました。「あのならず者にあんなことを言われて、まだここにいるとは、おまえは礼儀をどう考えているのだね? あれがこの男のふつうの話し方なのだから、おまえはなんとも思わんのだろうな。自分がこの男の卑しさに慣れているから、わたしのほうも慣れてくるだろうと思ってるらしいな!」
「エドガー、戸口で立ち聞きしてたんですか?」と奥さまは夫の腹だちなど気にもならないし、軽蔑しているのだというように、わざと怒らすような口調で言い返しました。ヒースクリフは主人の言葉に眉をつりあげましたが、奥さまの言葉を聞くと、あざけるように笑いました。旦那さまの注意をひくために、わざとやったようでした。それはうまくいきました。でも、エドガーは怒りを爆発させて相手の思うつぼにはまることはしませんでした。
「いままではきみに辛抱してきましたがね」と旦那さまは落ち着いて言われました。「きみの不幸な堕落した品性を知らなかったわけではないが、そうなったのも、きみだけの責任ではないと思っていたのでね。キャサリンもきみとの交際を続けたがっていたので、目をつむったわけだ……愚かにもね。きみの存在はどんな徳の高い者も汚してしまう道徳的な毒素だ。こういう理由と、これ以上の悪い結果をまねかないために、今後はこの家の出入りをおことわりする。いますぐここから出て行ってもらいたい。三分間猶予するが、それで出て行かなければ、いやおうなしに不面目な帰り方をしてもらうことになる」
ヒースクリフは相手の背丈や肩幅をまったくばかにしきった目つきでながめ回しました。
「キャシー、きみのこの子羊が、牡牛みたいにおどかすぜ! おれの拳固で頭をぶち割られそうだな。やれやれ、リントン君! きみが殴《なぐ》り倒してやる値打ちもないのが、死ぬほどくやしいんだ!」
ご主人さまは廊下のほうをちらっと見て、わたしに下男たちをつれて来いと合図しました。思いきって自分でぶつかるお考えはなかったのです。わたしが合図どおりにしますと、奥さまは何か感づいたらしく、あとについて来ました。下男たちを呼ぼうとしますと、わたしを引きもどして、ドアをぴしゃりとしめ、鍵をかけてしまいました。
「りっぱなやり方ですわ!」奥さまは旦那さまのびっくりし、怒った顔を見て言いました。「かかっていく勇気がないなら、あやまるか、おとなしく殴られたらいいわ。ありもしない勇気を見せかける癖がなおるでしょう。だめ、あなたに鍵を取られるくらいなら、飲みこんでしまうわ! 二人に親切にしてやって、こんなにうれしい報いを受けるんですからね! 一人は意気地なし、一人は悪党、どちらもずっとちやほやしてきたのに、ばかばかしくて話にもならない。ひどい恩知らずの見本ふたつを、お礼に見せられただけ! エドガー、あたしはあなたとあなたの財産を守ってきたのよ。そのあたしを悪く思うなんて、ヒースクリフに死ぬほど叩きのめされるといいわ!」
でもご主人さまは叩きのめされなくても、死ぬような気分になりました。キャサリンの手から鍵をもぎ取ろうとしたとき、奥さまは取られまいと、暖炉のいちばん真っ赤に燃えているところへ投げこんだのです。すると旦那さまはぶるぶる震えだし、顔は死人のように青ざめました。激しい興奮がどうしても押えきれず、苦悶と屈辱が入り混じってすっかり打ちのめされてしまいました。椅子の背にもたれかかり、顔をおおいました。
「あら、まあ! 昔だったらこれで騎士になれたところね!」と奥さまは言いました。「負けたわ! こちらの負けよ! ヒースクリフがあなたに指一本でもふりあげるのは、王様が二十日鼠の群れに軍隊をさし向けるようなものですからね! 元気をお出しなさい! だれも痛くしたりしませんよ! あなたみたいな人は、子羊どころか、まだ乳を吸ってる野兎の子だわ」
「こんな乳くさい弱虫亭主をもって、おめでとう、キャシー」とヒースクリフが言いました。「いい趣味だよ。こんな涎《よだれ》ったらしの、震えどおしのやつが、おれより好きだなんてな! こんなのは拳固で殴る気はしないが、足で蹴っ飛ばしても、相当満足できるぜ。こいつ、泣いてるのか、こわくて気絶するところなのかね?」
ヒースクリフはリントンさまのかけておられる椅子に近づいて、ぐいと押しました。そばへ近寄らなければよかったのです。旦那さまは急にさっと立ちあがり、相手の喉もとに思いきり一撃をくれました。もっときゃしゃな男だったらひっくり返されていたでしょう。ヒースクリフも一瞬息がとまってしまいました。相手の息がつまってる隙《すき》に、旦那さまはうしろのドアから中庭へ出て、そこから玄関のほうへ回りました。
「そらごらんなさい! もうここへ来られなくなったでしょう」とキャサリンが言いました。「さあ、早く逃げて。ピストルを両手に、下男を五、六人つれてもどって来るわ。もしもあの人があたしたちの話を聞いていたんだったら、決してあんたを容赦しないわ。ヒースクリフ、あんたはあたしに|あだ《ヽヽ》をしたわね! でも、もう逃げて……早く! エドガーならいいけど、あんたが追いつめられるのは見たくないのよ」
「喉が焼けるほど殴られて、すなおに帰れると思ってるのか?」彼はすごい見幕でした。「畜生、帰れるもんか! この家の敷居をまたいで出る前に、あいつの肋骨を腐った|はしばみ《ヽヽヽヽ》の実みたいに叩きつぶしてやる! いまあいつを殴り倒さなけりゃ、いつか殺すことになる。きみにはあいつの命が大切なんだから、いまやらせてくれ!」
「旦那さまはおいでになりませんよ!」わたしは横合いからちょっと嘘をつきました。「馭者と庭番二人です。あの人たちに道へ突き出されるのを待ってるつもりじゃないでしょうね! めいめい棍棒を持ってます。旦那さまはきっと命令どおりにするように、お部屋の窓から見張ってらっしゃるんです」
庭番と馭者はたしかにいました。でも本当は旦那さまもいっしょだったのです。みんなもう中庭にはいって来ていました。ヒースクリフは考えなおして、三人の下男と戦うのは避けることにしました。火|掻《か》き棒を取って内側のドアの錠を叩きこわし、一同が踏みこむのと入れちがいに逃げだしました。
奥さまはすっかり興奮していて、わたしに二階までついておいで、と言いました。この騒動にわたしも一役買っていたことを奥さまは知りませんでしたし、わたしも知られないように苦心しておりました。
「ネリー、気が狂いそうだわ!」そう叫んで、奥さまはソファに身を投げました。「頭の中で鍛冶屋の槌《つち》がいっぱい、がんがんやってるみたい! イザベラにはそばへ来るなって言って。この騒ぎはあの子のせいだわ。あの子かだれかが、いまあたしをこれ以上怒らせたら、どうなってしまうかわからない! それから、ネリー、今夜また旦那さまに会ったら、奥さまは大病になりそうだって、言ってちょうだい。ほんとにそうなるといいわ。こんなにひどくあたしを驚かしたり、悲しませたりしたんだもの! こっちだって驚かしてやりたい。おまけに、またやって来て、悪態やら愚痴やらのべたてるかもしれないでしょう。あたしだってきっと負けてはいないし、いつになったら終わるかわかりゃしないわ! ねえ、ネリー、言ってくれるわね。今度のことはぜんぜんあたしの罪じゃないってことは、おまえもわかってるはずだわ。なぜエドガーは立ち聞きなんかする気になったのかしら? おまえが出て行ったあと、ヒースクリフの話したことは乱暴だったわ。でもイザベラのことなんかじきに忘れさせることだってできたし、ほかはなんでもない話だったわ。だのに、もうなにもかもめちゃめちゃになってしまった。それも魔がさして自分の悪口が聞かずにいられなくなる、ばか者の執念からよ! エドガーがあたしたちの話を聞かなくたって、ひどい目に会ったわけじゃないのに。ほんとに、エドガーのことを思えばこそ、声を枯らしてまでヒースクリフを叱ってやったのに。すぐそのあとから、あたしにあんなわけのわからないいや味を浴びせるんだから、もうあの二人が何をしあったってかまわない気になったわ。それに、あの争いがどんな風におさまったって、あたしたちはみんなばらばらになって、いついっしょになれるかわからないのだ、と思ったからなおさらよ! いいわ、ヒースクリフを友だちにしておけないなら……もしもエドガーがさもしいやきもちをやくなら、悲しみに心をめちゃめちゃにし、あの二人の心を悲しませてやるわ。あたしが追いつめられたら、みんな片をつけてしまうのに、手っ取り早くていいわ! でもそれはいよいよ望みがなくなるまで取っておくわ。リントンを驚かすつもりはないもの。これまではあの人はあたしを怒らせないように、気をつけていたわ。そのやり方を変えたら大変なことになるって、おまえから話してちょうだい。あたしの激しい気性は火がついたら狂ったようになるんだって、注意しておいて。ネリー、その冷淡な顔はやめられないの? 少しはあたしのことに心配顔を見せてよ」
こんな言いつけをわたしがぼんやり聞き流していたので、だいぶ奥さまの癇にさわったにちがいありません。奥さまはまったく真剣そのものだったのですから。でも、自分の激情の発作を利用しようと、前もって計画できる人なら、たとえ発作中だって、意志の力を働かして、なんとか自分を抑えられるはずだと思いました。まして、奥さまの言うように、旦那さまを「びっくりさせ」て、奥さまの利己主義に都合がいいように、旦那さまの苦労を倍加させることなど、わたしとしてはしたくありません。ですから旦那さまがお部屋のほうへ来られるのにお会いしても何も申しあげず、お二人の口喧嘩がまたはじまるかどうかと、引き返して耳をすませていました。旦那さまからさきに口火を切られました。
「キャサリン、そのままでいなさい」それは怒った声ではなく、悲しく打ち沈んでおりました。「わたしのほうから出て行く。わたしは喧嘩をしに来たのでも、仲なおりしに来たのでもない。ただちょっと聞いておきたい。今夜のようなことがあっても、きみはずっとあの男と親しくして……」
「ああ、後生だから!」と奥さまはじだんだふんで、さえぎりました。「後生だから、もうその話はやめて! あなたの冷たい血は熱く燃えたつことはないのよ。血管には氷のような水がつまっているの。でもあたしの血は煮えたぎっているのよ。そんな冷たさを見ると、狂いたつわ」
「わたしを向こうに行かせたければ、質問に答えることだ」旦那さまも負けずに言われました。「答えなさい。そんなに荒れ狂ったって、こわがりはしないよ。その気になれば、きみはだれにも負けないくらい冷静になれる人だということは知っている。今後ヒースクリフをあきらめるつもりか、それともわたしをあきらめるつもりかね? わたしとあの男を同時にきみの味方にしておくことは不可能だ。どちらを選ぶか、ここではっきり聞いておかなくてはならない」
「あたしは放っておいてもらわなければならないのよ!」キャサリンはものすごい見幕で叫びたてました。「放っといて頂くわ! あたしに我慢できないことが、あなたにはわからないの? エドガー、あなた……出て行って下さい」
彼女は猛烈に呼び鈴を鳴らし、とうとうビーンと音をたててこわしてしまいました。わたしはゆっくりとはいって行きました。まったく、こんな無茶な、たちの悪い怒り方をしたら、聖人だって我慢できないでしょう! 横に倒れて、頭をソファの肘に打ちつけ、歯がこなごなに砕けるかとばかり歯ぎしりしているのです! 旦那さまは急に後悔と恐怖におそわれたように、立って見おろしていました。わたしに水をもって来いと言われます。奥さまは息がつまって口もきけません。わたしはコップに水を満たして持って行きました。飲もうともしません。それで顔にふりかけてあげました。見るまにからだをのばして硬直したようになり、目を上に向けました。頬は青ざめて土色になり、まるで死人の相でした。リントンさまはおびえたようすをしておられました。
「なんでもございませんよ」とわたしは小声で申しました。内心はやっぱり心配だったのですが、旦那さまにここで挫《くじ》けて頂きたくなかったのです。
「唇に血が出ている!」旦那さまは震えていらっしゃるんです。
「大丈夫ですよ!」わたしはそっけなく答え、旦那さまのおいでになる前に、狂気の発作をして見せると決めていたことを話しました。うっかりそれを聞こえるように言ってしまい、奥さまの耳にはいったのです。たちまちがばと起きあがり……髪は両肩に乱れ、目はぎらぎら光り、首と腕の筋肉が異様にふくれあがっていました。わたしは少なくとも骨の何本かは折られるものと覚悟を決めました。奥様はちょっとのあいだ、あたりをきっとにらんだだけで、部屋から飛びだして行ってしまいました。旦那さまがついて行くようにと言われますので、奥さまの部屋のドアまで行きましたが、鼻さきでぴしゃりと閉められ、そこで遮《さえぎ》られてしまいました。翌朝になっても、奥さまは朝食に降りて来ようとしませんので、何かお持ちしましょうか、と伺《うかが》いに行きました。その返事は「いらない!」とだけで、とりつくしまもありません。昼食のときもお茶のときも、同じことを聞きに行き、同じ返事しか得られません。あくる日も同じでした。旦那さまといえば、書斎でずっと過ごされ、奥さまのことを聞こうともなさいません。イザベラお嬢さまとは一時間ほど話し合って、ヒースクリフが言い寄ったとき、当然感じたはずの恐怖の告白を聞き出そうとしましたが、とらえどころのない返事ばかりで要領を得ず、不満な気持で質問をやめなければなりませんでした。それでも、お嬢さまがもしも血迷って、あのやくざな求婚者に自信をつけさせるようなことをしたら、もはや兄妹の縁もそれ限りだと、厳重に警告なさいました。
[#改ページ]
十二
イザベラお嬢さまはいつもおし黙り、たいてい涙ぐみながら、猟園《パーク》や庭をぼんやり歩き回っておりました。お兄さまは開いてもみない本に埋まって過ごされました……たぶん、キャサリンが自分のしたことを後悔し、進んで許しを乞《こ》い、和解したいとやって来るのではないかと、なんとなく期待し続けて、待ちくたびれていたのでございましょう……奥さまは奥さまで頑固に絶食を続けていました。おそらく、食事ごとにエドガーは自分がいないから喉もつまりそうな思いをしているだろう、ただ自尊心から、自分の足もとにひれ伏しに来られないのだ、などと考えていたのでしょう。わたしはもっぱら家事にはげんでいました。この屋敷じゅうで物のわかった心といえば、ただひとつだけ、それはわたしのからだに宿っているのだと確信していたのです。それでお嬢さまにむだな慰めの言葉もかけず、奥さまに忠告もいたしません。旦那さまは奥さまの声が聞けないので、せめて人が名前だけでも口にするのを聞きたくてたまらなかったのですが、たびたび出される溜息も、わたしはたいして気にとめずにおりました。仲なおりしたかったら、自分たちでかってになさったらいい、と腹を決めていたのです。そして、いやになるくらいゆっくりとではあっても、どうやらとうとう仲なおりの曙光《しょこう》が見えて来た……とにかく最初はそう思って喜んだものでございました。
三日目になりますと、奥さまはドアをあけ、水差しにもワイン瓶にも水がなくなったから、入れて来るように、それに死にそうだから、お粥《かゆ》も一杯欲しい、と言いました。どうやら旦那さまの耳に聞かせるつもりらしい、とわたしは受け取りました。まさか死ぬなんて信じられませんから、それはわたしの胸にしまっておくことにして、お茶と何もつけないトーストを持って行きました。奥さまはがつがつと食べたり飲んだりしました。そしてまた枕の上に倒れ、両手を握りしめて、うなり声をあげました。「ああ、死んでしまいたい。だれ一人あたしなんかかまってくれないんだもの。あんなもの食べなきゃよかった」そしてしばらくたってから、こんなつぶやきが聞こえました。「いやだ、死ぬものか……あの人が喜ぶだけだもの……あたしなんかぜんぜん愛していないんだわ……死んだって、さびしいとも思やしない!」
「何かご用でございましたか、奥さま?」死人みたいな顔つきと、変な大げさな身ぶりを見ても、わたしは相変わらずうわべは落ち着きはらったようすをしておりました。
「あの薄情者は何してるの?」奥さまは房《ふさ》々した、もつれた髪を、やつれた顔からはらいのけながら、聞きました。「眠り病にでもかかったの、それとも死んじゃった?」
「どちらでもございません、旦那さまのことでしたらね。けっこうお元気のようすですわ。お勉強は過ぎるようですけれど……お相手もないので、ずっと本の中に埋もれっきりでいらっしゃいます」
奥さまの本当の容態を知っていたら、そんなことは言うのではなかったと思いますが、わたしはどうしても病気のふりをしているという考えが捨てられなかったのです。
「本に埋もれっきりだって!」奥さまは面くらったように言いました。「あたしは死にかけてるのよ! お墓の縁《ふち》にいるのよ! ほんとに、じれったい! あたしのこの変わり方をあの人は知ってるの?」と言い続けながら、反対側の壁にかかった鏡の中の自分の顔をじっと見つめました。「あれがキャサリン・リントンかしら! あの人はあたしがふてくされて……ふざけてやってると思ってるのよ。ほんとに恐ろしく重大なことなんだって、お前から伝えてくれない? ネリーや、いまからでも手おくれでなかったら、旦那さまの気持がわかりしだい、どちらかひとつを選ぶつもりよ……このまますぐ飢え死にしてしまうか……それもあの人に愛情がなければ懲《こ》らしめにはならないけど……さもなければもとどおりのからだになって、この土地から出て行くわ。いまおまえが旦那さまのようすを話したのは本当のこと? よく聞いてちょうだい。あの人は本当にそんなにあたしの命なんか気にかけていないの?」
「だって奥さま。旦那さまは奥さまの気持がすっかり乱れておいでだなんてご存じないんですよ。ええ、それは、絶食して死ぬつもりだなんてご心配はしてらっしゃいません」
「そう思う? あたしはそのつもりなんだって、話してくれない? よくわからせてやるのよ! おまえ自身の考えを話すの。おまえもたしかにそう思ってるって言うのよ!」
「いいえ、奥さま、お忘れですね、さっきおいしそうにお食事を召しあがったじゃありませんか。それであしたは元気になったことがわかりますよ」
「あたしが死ねば、あの人も必ず死ぬものなら」と奥さまはわたしをさえぎりました。「あたしはいますぐ死んでやる! この恐ろしい三晩、瞼を閉じたこともないわ……ああ、ほんとうに苦しかった! うなされ続けよ、ネリー! でも、おまえまであたしを嫌いだしたような気がするわ。変だわねえ! みんなおたがいに憎んだり軽蔑したりしていても、あたしのことだけは愛さずにいられないのだなんて考えていたのに。それがつい二、三時間のうちに、みんな敵に変わってしまうなんて。それは絶対たしかよ、この屋敷の人たちがみんなよ。その人たちの冷たい顔に囲まれて死ぬなんて、さびしいことだわ! イザベラはおびえて、気味悪がって、この部屋へはいろうともしない。キャサリンの死ぬのを見るのがこわいんでしょう。エドガーは重々しい顔で、そばに立って、あたしの最後を見届けると、家の中にまた平和をもたらしてくれた神さまに感謝の祈りを捧げ、自分の本に帰って行くんだわ! いったい、少しでも感情というものがあったら、あたしが死にかけているとき、本なんかにかまっていられるかしら?」
奥さまはわたしが話してあげた、旦那さまの静かなあきらめという考えは我慢できないのでした。転げ回りながら、熱に浮かされた精神の乱れが昂ぶって狂気となり、歯で枕を食い破りました。全身が熱に燃えたつようになって、起きあがり、窓をあけて、と言います。冬のさなかで、北東の風が強く吹いていましたので、わたしは反対しました。奥さまの顔につぎつぎと変わる表情と、気分のさまざまなむらに、わたしは不安でたまらなくなりました。奥さまの以前の病気や、奥さまに逆らってはならないとお医者に言われたことなどを思いだしたのです。ついさっきまで荒れ狂っていたのに、いまはもう片腕でからだを支え、わたしが言いつけを聞かなかったことなど忘れてしまい、さっきこしらえた枕の破れ目から鳥の羽根を引きだして、敷布の上に種類別にならべ、子供みたいに遊んでいます。心はすでにほかの連想をさ迷っていたのです。
「あれは七面鳥。これは野鴨。こっちは鳩の羽根」とつぶやいていました。「まあ、鳩の羽根なんか枕へ入れておいたのね……どうりで死ねないはずだわ!今度寝るときは、床の上へ捨てておくようにしましょう。これは赤雷鳥の羽根よ。これは……どんなたくさんの羽根の中でも見わけられるでしょう……|たげり《ヽヽヽ》よ。かわいい小鳥。荒野《ムア》の真ん中で頭の上をくるくる舞っていた。巣に帰りたがってたの。雲が丘のうねりの上まで降りてきて、雨が降って来そうだったから。この羽根はヒースの野から拾ったの。鳥は射たれなかったわ。冬になって巣を見つけたら、ちっちゃな骸骨《がいこつ》でいっぱいだった。ヒースクリフが巣にわなをかけたから、親鳥には帰れないの。それからは決して、|たげり《ヽヽヽ》は射たないって約束させた。ヒースクリフはもう射たなかったわ。あら、まだある! ネリー、あの人、あたしの|たげり《ヽヽヽ》を射ったの? 赤い血がついているかしら、どれかに? どう、見せて」
「そんな子供じみたこと、およしなさいまし!」とわたしはさえぎって、枕を取りあげてしまい、穴のできたほうを下にして、敷布団に押しつけました。奥さまは中味を穴からひと掴《つか》みずつ引き出していたのです。
「横になって目をおつむりなさいな。うわ言を言ってるんですわ。まあすっかり散らかしてしまって! 羽根が雪みたいに飛び散ってますわ」
わたしはあちこちと、拾い集めて歩きました。
「ネリー、お前をみてるとね」と奥さまは夢見るように続けました。「年とったお婆さんみたい……髪はしらがになりかけて、背中が曲がって。このベッドはペニストンの岩山のふもとにある、妖精の洞穴。おまえはうちの若い牝牛を傷つけようと、石の鏃《やじり》を拾ってるの。だけど、あたしがそばにいるあいだは、羊の毛のかたまりを集めるようなふりをしてるのね。いまから五十年もさきの、おまえのことだわ……いまはもちろんそんなのじゃないわね。あたしはうわ言なんか言ってやしない……おまえの思いちがいよ。でなかったら、おまえがほんとうに皺くちゃの魔法使いで、あたしはペニストンの岩山のふもとにいると思うはずよ。あたしはちゃんとわかってるの、いま夜だということ、テーブルの上に蝋燭が二本あって、黒い戸棚が黒玉みたいに光っていることが……」
「黒い戸棚ですって? それはどこですか? 奥さまは寝ごとを言ってらっしゃるんです!」
「いつものように、壁に寄せてあるじゃないの。あら、変だこと……あの中に顔が見える!」
「この部屋に戸棚なんてありません、前からありませんよ」とわたしは言って、また椅子にもどり、奥さまのようすを見守るために、ベッドのカーテンをくくりあげました。
「おまえには、あの顔が見えないの?」奥さまは鏡を真剣にのぞきこみながら聞きました。どんなに言ってあげても、それが自分の顔だとわからせることはできません。わたしはとうとう立っていって、鏡にショールをかぶせてしまいました。
「まだそのうしろにいるわ!」心配そうに、なおも続けます。「動いたわ。だれなの? おまえがいなくなったら、出てくるんじゃないでしょうね! まあ、ネリー、この部屋には幽霊がいるのよ! 一人になるのがこわいわ!」
わたしは奥さまの手を取り、落ち着いて下さいと言いました。何度も震えあがって全身を痙攣《けいせん》させ、どうしても鏡から目を離そうとしないからです。
「だれもいませんよ!」とわたしは強く言いました。「ご自分の姿が写ってたんですよ、奥さま。さっきはおわかりだったじゃありませんか」
「あたしの姿だって!」と奥さまは喘《あえ》ぎながら言います。「時計が十二時を打ってるわ! じゃ、やっぱり本当だ!……こわい!」こう言って蒲団をつかみ、目の上までかぶってしまいました。わたしは旦那さまをお呼びしようと、ドアのところまでそっと行きかけました。でも、耳をつんざくような悲鳴に引きもどされました……ショールが鏡の枠からずり落ちたのです。
「まあ、どうなさいました? びくびくしてるのはだれでしょう? しっかりして下さいな! あれはただのガラスです……鏡なんですよ、奥さま。あの中に奥さまが写ってるんです。そら、そばにわたしも写ってるじゃありませんか」
震え、うろたえながら、わたしにしっかりとつかまっていましたが、しだいに恐怖がその顔から消え、青ざめた顔に恥ずかしそうな赤味がさしてきました。
「あら変ねえ! あたし、実家《うち》にいるんだと思ってたわ」とため息をつきました。「嵐が丘のあたしの部屋に寝てるつもりだったんだわ。からだが弱ったので、頭が混乱して、知らずに声をたてちゃったのね。何も言わないで、ここにいてちょうだい。眠るのがこわいの……夢にうなされるんだもの」
「ぐっすりおやすみになると良くなりますよ、奥さま。この苦しみに懲《こ》りて、二度と絶食なんかなさらないことですね」
「ああ、ここが実家《うち》の自分のベッドだったらねえ!」両手を固く握りあわせながら、悲しそうにことばを続けました。「そしてあの格子窓のそばの樅の木を鳴らす風があったらねえ。あの風に触れさせ て よ! ……荒野《ムア》から真っすぐ吹きつけて来るの……一息だけでも吸わせてよ!」
その気持を静めてあげようと、ちょっとのあいだだけ窓をあけました。冷たい強い風がさっと吹きこみました。わたしは窓をしめて、もとの場所へもどりました。奥さまは静かにふせっていましたが、顔は涙に濡れていました。からだが極度に疲れて、気力もすっかり失っていたのです。あの火のように激しいキャサリンも泣きべそをかく子供と同じです。
「ここへ閉じこもってから、どのくらいになるの?」突然、我に帰ったように聞きました。
「月曜の夜からで……いまは、木曜の夜、というより、もう金曜の朝ですよ」
「なんだって! 同じ週の? そんな短いあいだだったの?」
「水しか飲まずに腹をたててらっしゃるには、長すぎるくらいですよ」
「だけど、やりきれないほど長い時間だったような気がする」奥さまは信じられないようにつぶやきました、「もっと長いはずだわ。あの二人が喧嘩したあと居間にいて、エドガーが意地悪く、じらせたから、夢中でこの部屋へ駆けこんだのを覚えている。ドアをしめきったとたん、目の前が真っ暗になり、床に倒れてしまったの。エドガーには説明できなかったけど、いつまでもいじめられたら、発作を起こすか、狂い回りそうだったの! わたしの舌も頭も働かなかったので、あの人にはあたしの苦しみが察しられなかったのね。あの人の姿からも声からも、逃れたいと考えるのがやっとだったわ。どうにか見えたり、聞こえたりするようになったら、もう夜明けだった。ネリー、そのときあたしが考えたこと、気が狂いはしないかと心配するくらい、何度も何度も考えたことを話してあげる。テーブルの脚に頭をつけて、目はぼんやり灰色の四角な窓を見ながら、そこに倒れていたら、実家《うち》で樫の板を張ったベッドにはいってるような気がしたの。目が覚めたばかりで、思い出せないけど、何か大きな悲しみに胸が痛んでいたの。何だったかしらと考え、悩んでいると、不思議なことに、いままでの七年間の生活がまるでないみたいになってしまった! そんな期間があったことさえ思いだせなくなったの。あたしは子供だった。お父さまのお葬式がすんだばかり。あたしの苦しみはヒンドリー兄さんにあたしとヒースクリフが引き離されたことからはじまったの。あたしは初めて一人ぼっちで寝かされた。一晩泣きとおしてから、暗い気持でうとうとし、目が覚めて鏡板の戸をあけようと手をのばしたら……テーブルの裏側にぶつかった。じゅうたんをなでていたら、とつぜん記憶がよみがえってきたの。こんどは、それまでの悲しみが急に激しい絶望にのみこまれてしまったわ。なぜあんなに無闇とみじめな気持だったのかわからない。きっと一時的な錯乱だったのね。だってあまり理由なんてないんだもの。でも十二の年に嵐が丘から引き離されて、小さいときからなじんできたあらゆるものから、あのころのあたしのすべてだったヒースクリフから、切り離されて、たちまちリントン夫人、スラッシクロス屋敷の奥さまという赤の他人の妻にならされたのだと考えたら……その日から、自分の世界だった場所からの追放人、捨てられた人間になったのだとすれば……あたしが這い回った底なしの淵がおまえにもいくらかわかるでしょう! 首を振るなら振ったっていいわ、ネリー、おまえだってあたしの心をかき乱す手伝いをしているのよ! おまえがエドガーに言ってくれたらよかったんだわ。本当よ。旦那さまに言って、あたしをそっとしておかせてくれたらよかったんだわ! ああ、からだが焼けるようだ! 外へ出たい! もう一度少女になって、半分野性で、頑丈で、自由でいたい。苦しめられても、気が狂ったりせず、笑い返してやりたい! なぜこんなに変わってしまったのかしら? 何かちょっと言われるくらいで、どうして血が狂いたってしまうのかしら? きっとあの丘のヒースの中にはいったら、本当のあたしが取りもどせるのよ。もう一度、窓をいっぱいにあけて。あけてしっかり留めておいて! 早くったら。なぜ、立たないの?」
「奥さまに風邪を引かれて死なれたら大変だからですわ」とわたしは答えました。
「あたしを元気にならせたくないのね」と奥さまはすねたように言いました。「でも、まだからだの自由がきかないわけじゃないから、自分であけるわよ」
止めるひまもなく、ベッドからすべり降りて、よろよろと部屋を横ぎり、窓をあけ放ちました。刃物のように鋭く両肩を刺す、凍るような外気にもとんじゃくせず、からだを乗りだしました。わたしはやめて下さい、と強く言い、しまいにはむりやり引きもどそうとしました。ところが精神の錯乱した(本当に錯乱状態だということは、そのあとの動作や狂乱ぶりからわかりました)奥さまの力にはとてもかないませんでした。月はなく、地上のあらゆる物は霧のたちこめる闇にのまれていました。遠近のどの家からも灯ひとつ洩《も》れません……みんなとっくに消したあとでした。嵐が丘の灯はここからは見えないはずです……それでも奥さまはその光りがたしかに見えると言い張りました。
「ごらん!」とむきになって言います。「あれが蝋燭のついた、あたしの部屋。あの前で木が揺れてるわ。もうひとつの灯はジョーゼフの屋根裏部屋。ジョーゼフは夜ふかしするのね。あたしが帰ったら門をしめようと、待ってるんだわ。いいわ、まだ少しくらい待ってくれるでしょう。道は険しいし、悲しい心で行くんだもの。おまけに、その道を行くとギマトン教会のそばを通らなきゃならないし! そこの幽霊なんかこわくないって、よく二人で行ったわ。お墓のあいだに立って、幽霊に出てこいって言えるかどうか、おたがいに勇気をくらべあった。だけどヒースクリフ、もしいまもやってごらん、て言ったら、やれる? もしやるなら、あたしもついて行ってあげる。あたしはあそこに一人で寝ていたくない……みんなして十二フィートもの深さにあたしを埋めて、その上に教会堂を倒しておいたって、あんたがそばへ来てくれるまでは、落ち着いてなんかいない。絶対いやよ!」
そこでことばを切り、奇妙な微笑を浮かべて、また続けました。「あの人は考えているの……あたしのほうから行ってもらいたいのよ……それなら、道を見つけてよ! あの墓地を通らない道を。ぐずぐずしてるのね! がまんしなさい、いつだってあたしのあとからついて来たんだから!」
気の狂った人と議論してもむだだと思いましたので、奥さまをつかまえたまま、(開いた格子窓のそばに奥さまを一人でおくのは心配でしたから)何かからだをくるんであげるものを取ろうとしました。そのとき、ドアのハンドルががちゃがちゃ鳴って、旦那さまがはいって来られたので、びっくりしてしまいました。いま書斎から出て来られたばかりで、廊下を通りながら、話し声を聞きつけ、こんなにおそく何事だろうと、好奇心のためか心配のためか、調べて見る気になられたのです。
「ちょっと、旦那さま!」とわたしは叫んで、目に写った光景と、寒風に吹きさらされた室内に、旦那さまが思わず叫び声を立てようとするのを制しました。「おかわいそうに、奥さまはご病気でございます。わがままばかりおっしゃって、とてもわたしの手には負えません。こちらへいらして、おやすみになるようにおっしゃって下さいまし。お腹だちはお忘れになって……奥さまのなさりたいようにさせてあげるよりほかはありませんわ」
「キャサリンが病気だと?」旦那さまはあわててそばへ近づかれました。「エレン、窓をしめなさい! キャサリン! なぜ……」
言いかけて口をつぐんでしまいました。奥さまのやつれきったようすにことばが続かず、ぼうぜんとおびえたように奥さまとわたしを交互《こうご》に見ておられるばかりでした。「この部屋でずっと悩んでいらしたのです。ほとんど何も召しあがらず、不平もおっしゃらず、今夜まではだれも中へ入れて下さいませんでした。ですからどんなごようすかわからず、旦那さまにもお報《し》らせしようがありませんでした。でも何でもございません」
いかにも説明がまずかったと自分でも思いましたが、旦那さまは顔をしかめて、「これが何でもないと言うのかね、エレン・ディーン? わたしに報らせなかった理由をもっとはっきり説明しなさい!」と厳しく言われました。そして奥さまを両腕に抱き、つらそうに見守っておられました。
初めは奥さまは、旦那さまがわかったような目つきをしませんでした。うつろな目にはご主人も映らなかったのです。でも精神錯乱は続きはしませんでした。外の暗闇を見つめていた目を離しますと、しだいに注意をご主人に集め、自分を抱いている人がだれかわかりました。
「まあ、来て下さったの、エドガー。来たのね?」とまた怒りに興奮して言いました。「あなたったら、ちっとも用のないときは出て来るくせに、来てほしいときには決して来ない人なのね! あたしたちはこれからとても悲しむことになるわ……ほんとにそうなるの……だけど、いくら悲しんだからって、あたしが向こうのあたしの小さい家へ行くのを引きとめられやしないわ。そこはあたしの休息の場所、春が過ぎてしまわないうち、行くことになっているのよ! そら、あそこよ……よくって、教会堂の屋根におおわれた、リントン家のお墓のあいだなんかじゃない。吹きさらしの野の中で、墓石をひとつのっけただけ。あなたは、リントン家の墓へ行こうと、あたしのところへ来ようと、お好きなように!」
「キャサリン、きみは何をしたのだ?」と主人は口を切りました。「わたしはもうきみにとっては何でもなくなってしまったのかい? きみが愛するのはあの悪党のヒース……」
「やめて! 黙ってよ! あなたがその名を口にしたら、あたしは窓から飛び降りて、すぐ決着をつけてしまうわ! いまあなたの触れているこのからだはあなたにあげたっていい。でもあたしの魂は、その手が二度とさわらないうちに、あの丘のてっぺんへ行ってしまうわ。エドガー、あなたに用はないわ。あなたに会いたい気持なんかもうなくなってしまったの。本のところへもどるといいわ。心の慰めがあってしあわせね。あたしの心の中にあなたが持っていたものは、みんななくなってしまったんですから」
「奥さまは頭が変になってらっしゃるんです」とわたしは口をはさみました。「夕方からずっと、わけのわからないことばかり口走ってらっしゃるんです。安静にさせて、よく介抱してあげたら、回復なさいますわ。これからは、お気持をいらだたせないように気をつけてあげるよりほかはありません」
「おまえの忠告などもうたくさんだ」と旦那さまは言われました。「おまえは奥さんの性質をよく知りながら、わざとわたしが苦しめてしまうように仕向けたのだ。しかもこの三日間、ようすがどんなか、ひと言も知らせないなんて! なんという不人情なやつだ! 何か月病気したって、こんなに変わるものじゃないんだ!」
わたしは弁解をはじめました。ひとのひねくれたむら気のおかげで叱られるのは、かなわないと思ったからです。「それは奥さまのご性質がわがままで横暴なことは存じておりました。だからって、旦那さままで、奥さまの激しい気性を増長させようと思ってらっしゃるとは存じませんでしたからね! 奥さまのご機嫌をとるために、わたしがヒースクリフさんを大目に見なくてはならないとは存じませんでした。忠実な召使の義務としてお知らせしただけでございます。そして忠実な召使にふさわしいご褒美《ほうび》をいただいたわけですね! せいぜい、これをよい教訓にして、このつぎは、注意いたします。これからは、旦那さまがご自分でいろいろお探りになることですわ!」
「今度告げ口なんかしたら、ここの勤めはやめてもらうからね、エレン」
「それでは、もう何もお耳にしたくないのでございますね、旦那さま。ヒースクリフがお嬢さまをくどきに来ようと、旦那さまのお留守をねらってはやって来て、奥さまに旦那さまへの敵意を吹っこもうと、許されているわけでございますね?」
奥さまの意識は混乱してはおりましたが、わたしどもの会話には油断なく頭を働かしておりました。「まあ! ネリーが裏切ったんだ!」と、かっとして叫びました。「ネリーはあたしの隠れた敵なんだ。この魔女め! それで、あたしたちを傷つけようと、石|鏃《やじり》を探してるんだ! 手を放して! 思い知らせてやる! いまの言葉は取り消すと、大声でわめかせてやるんだ!」
奥さまの目に狂人らしい怒りが燃えあがり、旦那さまの腕をふり放そうと、死に物狂いであばれました。その成り行きを見届ける気もしなかったので、自分の一存でお医者の助けを呼ぶことに決め、部屋を出て行きました。
道に出ようと庭を抜けると、馬をつなぐ鉤《かぎ》が石垣に打ちこんであるところで、何か白いものが妙な動きをしていました。明らかに風とはちがった力で動いているのです。急いではいましたが、立ちどまって調べることにしました。後までずっと、それが幽霊だったなどという印象が強く残ってはいやだったからです。目で見ただけでなく、手でさわってみて、イザベラお嬢さまの飼っていたスパニエル犬のファニーだと知って、本当に驚きとまどうばかりでした。ハンカチでつるしてあり、もう少しで、息が絶えようとしていました。すぐに犬をほどいて庭の中へ入れてやりました。お嬢さまがおやすみになるとき、その犬が二階へついて行くのを見ていましたので、どうやって、こんなところへ出て来たのか、どんないたずら者がこんな目に会わせたのか、と不思議でなりませんでした。鉤にしばりつけた結び目を解いているとき、少しさきのほうを駆けて行く、馬の蹄《ひずめ》の音を続けて聞いたような気がしましたが、なにしろいろいろなことで頭がいっぱいでしたから、気にもとめませんでした。それでも、夜中の二時に、あんな場所で、不思議な物音でございました。
わたしが通りをずっと行きますと、さいわい、ケネス先生はちょうど村の患者を診るために、家から出られるところでした。リントン夫人の病状をお話しますと、すぐいっしょに来て下さることになりました。先生は飾りけのない、ぶっきらぼうな方で、奥さまがもっと自分の指図に従うようにしない限り、今度の発作では助かるかどうか怪しいものだ、とずけずけ言われます。
「ネリー・ディーン、これにはどうも特別の原因があるように思えてならんね。お屋敷では何があったのかね? ここらでも妙な噂が立っているんだ。キャサリンみたいな頑丈な元気な若い女は、ちょっとやそっとで病気になるものじゃないし、また、ああいう種類の人間は病気をしてはならんのだ。熱や何かを切り抜けさせるのが大変だからな。初めはどんなだったね?」
「旦那さまがお話しになるでしょうけど」とわたしは答えました。「先生はアーンショウ家の激しい気性はご存じですし、中でもあの奥さまがいちばんですからね。このくらいはわたしから申しあげてもかまわないと思いますが、口喧嘩がもとなんです。奥さまは怒り狂っているうちに、発作を起こしたらしいんです。とにかく自分ではそうおっしゃっています。なにしろ、逆上のあまり自分の部屋へ飛びこんで、錠をおろしてしまったんですから。それ以来、何も食べようとなさらず、いまはうわ言と夢うつつの状態のくり返しなんです。まわりの人の見わけはつくんですけれど、頭は妙な考えや幻でいっぱいらしいんです」
「ご主人は後悔するだろうな?」と先生は問いただすように言われます。
「後悔ですって? もしものことがあれば、胸がはりさける思いをなさいますよ! 必要以上に驚かさないであげて下さいまし」
「しかし、わしは注意するように言っておいたはずだ。その警告を無視した結果はやむをえんな! 最近はヒースクリフ氏と親しくしているんじゃないのかね?」
「ヒースクリフはお屋敷にたびたび来ますけど、且那さまがお会いしたがっているわけじゃなく、奥さまと幼な馴染《なじみ》だったことを理由にしてるんです。でももう訪ねてもらわないことにしています。それも、イザベラお嬢さまに思いあがった野心を見せたからなんですわ。もう出入りはできなくなるんじゃないでしょうか」
「それで、イザベラさんはあの男に冷たくしてるのかね?」と先生は続いてたずねました。
「お嬢さまはわたしに何も話して下さらないんです」その話はもう続けたくなかったので、わたしはそう答えました。
「そうだろう、あれはなかなか食えない娘だからな」と先生は首を振りながら言いました。「秘密はみんな胸におさめておくのだ! が、あれもいいおばかさんだ。たしかなところから聞いたんだが、昨晩《ゆうべ》(おまけにあのひどい晩にな!)あのお嬢さんとヒースクリフがあんたの家の裏の林の中を、二時間以上も歩いていたそうだ。男はお嬢さんに、もう家へは帰るな、おれの馬に乗って逃げよう、としつこく言い寄ってたそうだ! わしに教えた人の話だと、お嬢さんがこんど会うときはきっと用意しておくと約束して、どうやらその場はかわしたそうだが、今度いつ会うのか、聞きもらしたそうだ。とにかく、あんたからもリントンさんに言って、よく注意させることだな!」
これを聞いたわたしの胸は、新しい不安にみたされました。ケネス先生をあとにして、ほとんど走り続けで帰りました。あの小犬はまだ植込みできゃんきゃん鳴いていました。ちょっと立ちどまって、木戸をあけてやりました。小犬は玄関のほうへは行かずに、芝生《しばふ》の上をあちこちと嗅《か》ぎ回り、道路へ逃げ出そうとしたので、つかまえて家まで抱いて来ました。イザベラの部屋へあがったとき、わたしの不安が事実となりました。もぬけの殻《から》だったのです。もう二、三時間早く来ていたら、奥さまの病気を知らせ、無謀な手段をやめさせられたかもしれません。でもいまとなってはどうすることができましょう? すぐ追いかけたら、なんとか追いつく見こみもないわけではありません。でも、わたしが追うわけにはいきませんし、家じゅうの人を起こして大騒ぎさせる気にもなれませんでした。旦那さまにもとてもお知らせできませんでした。なにしろ目の前の災難に心を奪われて、別の悲しみに向けるゆとりなどあるはずがないのです! 結局口をつぐみ、事の成り行きにまかせるよりほかはありませんでした。ケネス先生が着きましたので、わたしは不安な顔を隠せぬまま、旦那さまにお報らせに行きました。キャサリンは苦しそうに眠っていました。旦那さまはやっと激しい逆上を鎮《しず》めてやったところで、枕許《まくらもと》に身をかがめ、痛々しい悩みを表わす顔のあらゆる陰影、あらゆる変化を見守っておられました。
先生は一人で診察をすませ、病人のまわりをいつも完全に静かな状態にしておけば、回復の望みはある、と明るく旦那さまに言われました。わたしには、死よりも、むしろ一生頭が狂ってしまう危険がある、という意味のことを言われました。
その夜はわたしは一睡のひまもありませんでした。旦那さまも同じことでした。実際、二人ともとうとう横にはなりませんでした。召使たちはみなふだんよりもずっと早く起き、足音を忍ばせて家の中を歩き回りながら、用事の途中で出会うと、ひそひそ声で話しあうのでした。イザベラお嬢さま以外は、だれもかれも忙しくしておりました。そのうち、お嬢さまはずいぶんよくおやすみだ、とみんなが気づきはじめました。旦那さまもイザベラは起きたかとお聞きになりました。なかなか顔を見せないのにじりじりし、義姉のことをまるで心配していないらしいと気を悪くされているようでした。わたしはお嬢さまを起こしにやらされはしないかとびくびくしていましたが、どうにか家出のことを真っ先に告げるつらい思いはせずにすみました。女中の一人が、朝早くからギマトンまで使いに行ってきたのですが、考えのない娘で、大口をあけ、はあはあ息を切らしながら二階にあがり、部屋に駆けこんで、叫んだのです。
「まあ本当に、大変ですよ! こんどはどんなことになるやら! 旦那さま、旦那さま、お嬢さまが……」
「静かになさい!」あまり騒々しいのに腹がたって、わたしは急いでたしなめました。
「もっと小さい声で言いなさい、メアリー……どうしたというのだ?」と旦那さまはおっしゃいました。「お嬢さんがどうかしたのか?」
「家出しました。行ってしまわれたんです! あのヒースクリフがつれて逃げてしまったんです!」娘は喘ぎながら言いました。
「ばかなことを!」旦那さまはいきまいて立ちあがりました。「そんなばかな……なぜそんなことを考えついたんだ? エレン・ディーン、見てきてくれ。信じられんことだ。そんなはずはない」
そうおっしゃりながらも、女中をドアのところへつれて行き、そんなことを言う理由を話せと、また問いつめました。
「あのう、道でここへ牛乳をとりに来る小僧さんに会ったんです」と娘はどもりながら言いました。「そしたら、お屋敷じゃ大騒ぎじゃないかって聞くんです。あたしは奥さまのご病気のことだろうと思いました。だから、そうだ、と答えました。すると、だれか追いかけて行ったのだろうって聞くから、あっけにとられました。あたしが何も知らないのだとわかったので、小僧さんは紳士とりっぱな女の人が馬の蹄鉄《ていてつ》を打ってもらいに鍛冶屋《かじや》へ寄ったと話しました。ギマトンからニマイルさきで、真夜中からいくらも経ってない頃ですって! 鍛冶屋の娘が起きてだれだろうとのぞいてみたら、すぐ二人がわかったんです。男がだれかわかったとき……たしかにヒースクリフだったそうですけど、だれだってあの男を間違えっこありません……ちょうどおやじさんの手にソヴリン金貨を握らせて支払いをするところだったんですって。女の人はマントで顔をかくしてたけど、水を一口飲みたいと言って、飲んでいるとき、マントがうしろへずれて、顔がはっきり見えたんだそうです。ヒースクリフが両方の手綱《たづな》を持って乗って行き、その村をあとにして、凸凹道を走れるだけ走って行ったそうです。娘はおやじさんには何も言わなかったけど、けさになるとギマトンじゅうに言いふらしたんだそうです」
わたしは走って行って、イザベラの部屋をのぞく恰好だけしてもどり、女中の言うとおりでしたと報告しました。旦那さまはふたたび寝台のわきの椅子にかけていました。わたしがもどりますと、見あげて、わたしのぼんやりした顔色を読み取り、何も指図せず、ひと言もおっしゃらずに、目を伏せておしまいになりました。
「お嬢さまに追いついて、つれもどす方法を取ったらいかがでしょうか? いったいどうしたらよいのでしょう?」とわたしは問いかけてみました。
「自分から出て行ったのだ。行きたければ行く権利はあった。もうあれのことでわたしを悩まさないでくれ。今後は妹といっても名前だけのことだ……それもわたしが縁を切ったのじゃなく、向こうからわたしとの縁を切ったのだ」
このことについて旦那さまの言われたのは、それきりでした。それ以上ひと言もおたずねにならず、妹についてはいっさい口をつぐんでおられました。ただ、わたしには、妹がどこへ行ったにせよ、新家庭の場所がわかったら、この屋敷にある妹の持ち物を残らず届けてやれ、とお命じになっただけでございます。
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十三
ふた月のあいだ、駆け落ちした二人は消息を絶っていました。そのふた月のうちに、奥さまは脳膜《のうまく》炎といわれる病気の最悪の症状を起こし、どうやら切り抜けました。一人っ子の病気を看護する母親だって、エドガーの献身的な看護ぶりにはかなわないくらいでした。昼も夜もつききりで、いらだった神経と狂った頭が加えるあらゆる苦痛をじっと辛抱なさいました。ケネス先生はせっかく奥さまを墓場から救いあげても、その報いは将来たえ間のない苦労の種を作るだけのことだ……要するに、まったくの人間の抜け殻《がら》を生かしておくために、健康と体力を犠牲にしているようなものだ……とさえ言われましたが、キャサリンの生命が危険を脱したと告げられたときの、旦那さまの感謝と喜びときたら抑えようもないくらいでございました。何時間も何時間もベッドのそばに坐り、しだいに健康がよみがえるのを見守り、やがては理性も落ち着いて平衡を取りもどすだろう、じきに完全にもとどおりの妻になってくれるだろう、と思いちがいをし、あまりに楽観的な望みを強くしていらっしゃいました。
奥さまが初めて病室を出られたのは、三月の初めのことでした。朝のうちに旦那さまは、枕の上へひとつかみの黄色のクロッカスを置かれました。長いあいだ喜びの光を見せなかった奥さまの目が、眠りから覚めてそれを見ると、嬉しさに輝き、夢中で拾い集めました。
「これは嵐が丘で真っさきに咲く花よ」と奥さまは喜びの声をあげました。「この花を見ると、雪をとかす、やわらかい風と、あたたかい日の光と、おおかた溶けた雪を思い出すわ。エドガー、南の風が吹いてない? 雪は溶けてしまった頃じゃない?」
「この辺では雪はすっかりなくなったよ。荒野《ムア》全体でも、白いところはふた所しか見えない。空は青く、ひばりが鳴いて、谷川も小川も水があふれているよ。キャサリン、去年の春のいまごろは、ぼくはきみをこの屋根の下へ迎えようと待ちこがれていた。いまでは、きみがあの丘へ一マイルかニマイル登っていけたら、と思うよ。とても気持のいい風が吹いているから、きっと病気もよくなると思うんだけど」
「あたしはもうあそこへ、一度しか行かれないの」と病気の妻が言います。「あそこへ行ったらあたしを置いて帰ってね。あたしは永久にあそこに残るの。来年の春になったら、あなたはまたあしたをこの屋根の下に迎えたいと望むでしょう。そして今日のことをしあわせだったと思い出して下さるでしょうね」
旦那さまは思いきりやさしく妻を愛撫し、愛情のあふれることばで元気づけようとなさいました。でも奥さまはうつろな目で花を見つめ、涙が睫毛《まつげ》にたまり、頬を伝って流れるのも気がつかないようでした。わたしたちはご病気が実際に良くなったことを知っておりましたので、ひとつところに長く閉じこもっていたために、こんなに気持が沈んでしまったのにちがいない、場所を変えてあげれば幾分気分も晴れるだろうと考えました。旦那さまはわたしに何週間も使わなかった二人のお部屋に火を入れ、窓ぎわの日なたに安楽椅子をおくようにと申しつけ、奥さまをつれて来てあげました。奥さまは長いあいだあたたかい日ざしを楽しみ、思ったとおり、まわりの家具などを見て元気づきました。それらは見なれたものではあっても、あのいやな病室につきまとう、やりきれない連想とは無関係のものばかりでした。夕方までにはすっかり疲れてしまったようすですが、どんなに勧《すす》めても病室に帰るとは言いません。それで別の部屋の用意ができるまでソファを寝台がわりにこしらえることにしました。階段ののぼり降りに疲れないように、いまあなたさまがおやすみになっていらっしゃるこの部屋を、ととのえました。お部屋と同じ二階ですから、奥さまはじきに、旦那さまの腕にすがって、こことそちらのお部屋を往き来できるようになりました。ほんとに、あのくらい介抱されたら、全快なさるにちがいない、とわたしは思ったものでございます。全快を望みましたのは二重の理由からでした。と言いますのは奥さまの生命にもうひとつの生命がかかっていたからでございます……これで遠からず後継ぎが生まれれば、旦那さまもお喜びだし、所有地も人手に渡らずにすむだろうと、わたしどもは希望を抱いたのでございます。
ところでお話しておかなければなりませんが、イザベラが家出してから六週間ほどたちまして、お兄さまのもとへ短い手紙が届き、ヒースクリフとの結婚を知らせてきたのでございます。そっけない、冷たい感じの手紙でしたが、下の余白に鉛筆で遠回しのお詫びと自分のやり方がお兄さまを怒らせたとしても、あのときはやむをえなかったし、やってしまった以上、いまさら取り消しもできないのだから、どうぞ悪しからず、仲なおりしてほしい、という哀願が書きつけてありました。旦那さまはご返事はお出しにならなかったようです。それから二週間たって、わたしは長い手紙を受け取りましたが、蜜月をすませたばかりの花嫁から来たものとしては、妙な手紙だと思いました。それを読んでお聞かせしましょう。まだとってございますから。生前大事に思っていた方の形見は、どんなものでも貴重なものでございます。
なつかしいエレン(という呼びかけではじまります)……
あたしは昨夜《ゆうべ》嵐が丘へ来て、初めてキャサリンが病気だったこと、まだとても悪いということを聞きました。たぶんお義姉《ねえ》さまにお手紙を書くわけにはいかないでしょう。お兄さまもあたしの手紙に返事を下さらないのは、とても怒っていらっしゃるか、落胆なさっていらっしゃるからなんでしょう。でも、だれかに書かずにはいられないし、そうなるとおまえしか相手はいないのです。
エドガーお兄さまに伝えてちょうだい、どうしてもお兄さまの顔が一目見たいのだって……家を出て二十四時間とたたないうちに、あたしの心はもうスラッシクロス屋敷に戻ってしまい、いまこの瞬間もそこにあって、お兄さまとキャサリンに対するなつかしさでいっぱいなんだって! でも、あたしは思いどおりにすることができないの(この部分には傍線が引いてあります)……あたしが帰るだろうなんて考えなくていいし、またそれについてどんな推測をしたってかまわないけれど、ただ、家へ帰らないのを意志の弱さや、愛情の不足のせいだとは考えて頂きたくないの。これからあとのことはおまえだけに書きます。まずふたつのことが聞きたいの。第一は……おまえがこちらに住んでいたとき、どうやってだれにも通じる人間らしい気持を保つことができたの? あたしには、まわりの人たちにあたしと触れあえる感情なんてひとつだってあるとは思えない。
第二の質問は、とても興味のあることだけど、こういうことなの……ヒースクリフって人間なのですか? 人間だとしたら、狂人ですか? 狂人でないとしたら、悪魔ですか? こんな質問をする理由《わけ》は言わない。でも、できたら、教えてもらいたいの、あたしの結婚した相手は何者なのか……それは、おまえがあたしに会いに来たときでいいわ。エレン、ぜひ、すぐに会いに来てよ。手紙でなく、来てほしいの。エドガーからも何か言づけをもらって来て下さい。
では、あたしが新家庭に迎えられたようすを話してあげます。新家庭というのは、どうやらこの嵐が丘がそういうことになるらしいのです。
ここに表面的な慰めがないことなど書くのは、おもしろ半分にすぎません。そんな慰めなんて、欲しいと思うときしか考えもしない。それのないことがあたしの不幸のすべてで、ほかの不幸は途方もない空想にすぎないとしたら、それこそ嬉しさに笑い出し、はね回ってやるわ!
荒野《ムア》のほうに向かって行ったとき、太陽はスラッシクロス屋敷のうしろに沈みました。だから六時ごろだと思いました。あたしの相手のヒースクリフは三十分ほど馬をとめ、猟園《パーク》や庭園や、それからおそらく住居までも、できるだけ慎重に調べていました。だから、二人がこの農家の石畳の中庭で馬を降り、おまえの昔の仲間のジョーゼフが獣脂蝋燭をもって出迎えたときは、もう暗くなっていたわ。その出迎えのいんぎんさにはつくづく感心させられた。まず蝋燭をあたしの顔の高さまで持ちあげ、横目で憎らしそうにじろりと見て、むっと下唇を突き出し、ぷいと顔をそむけるの。それから馬を受け取って、厩《うまや》へつれて行き、またやって来たと思ったら、外の木戸をしめるためだった。まるで古いお城に住んでるような感じでした。
ヒースクリフは立ちどまって、ジョーゼフと話していたので、あたしは台所へはいったんだけど……汚なくて、乱雑な穴のようなところ。きっと、おまえにも見わけがつかないくらい、おまえの手がかかっていた頃とは大違いなのでしょう。暖炉のそばに手足が頑丈で、汚ない身なりをした悪たれみたいな子供が立っていた。目と口元はキャサリンに似ているの。
「これが義理の甥なのね」とあたしは考えた……「あたしの甥とも言えるわけだわ。握手してやらなくては。それから……そうね……キスもしてやらなくては。初めから気持が通じたほうがいいんだから」
あたしは近づいて、丸々と太った手を取ろうとしながら、言ったの……
「坊っちゃん、こんにちは」その子はなにやらさっぱりわからない、変てこな言葉で答えたわ。
「お友達にならない、ヘアトン?」何か言わせようと、こんどはそう言ってみた。
根気よくやったお返しは、悪口と、「早く失せなきゃ、スロットラーをけしかけるぞ」というおどかしだけ。
「おい、スロットラー、あにき!」と悪たれ小僧はすみっこに寝ていた混血種のブルドッグを小声で呼び起こし、あたしにいばって見せるの、「さあ、出て行くか?」
命惜しさに言いなりになり、敷居の外へ出て、ほかの人がはいって来るまで待つことにした。ヒースクリフの姿はどこにも見えない。ジョーゼフのいる厩まで行って、いっしょに中にはいってくれと頼んだのに、じろじろあたしをにらんで、ぶつぶつ独りごとを言ってから、鼻をしかめて、答えるの……
「ムニャ、ムニャ、ムニャ! そんなことを聞くなあ初めてだ。ムシャムシャのモグモグだと! おめえさんの言うこたあ、さっぱりわかんねえだ」
「あのね、いっしょに家へはいって下さいって頼んでるの!」耳が遠いのだとは思ったけど、無作法がとても癪にさわって、どなってやった。
「わしゃ、まっぴらだ! 用があるだ」と向こうは答えて仕事を続け、細長い顎をもぐもぐさせ、まるっきりばかにして、あたしの服と顔をじろじろ見回すの。(服のほうは飛びきり上等だけど、顔は相手のお望みどおり、しょげきっていたのでしょう)
あたしは中庭を回り、木戸を抜けて、もうひとつのドアのところへ行き、もっと親切な召使が出て来るかと思って、ノックしてみました。まもなく、戸を開けたのは、背の高い、やせこけた男で、えり巻もせず、ひどくだらしない男なの。顔かたちは、肩にかかったくしゃくしゃの髪でよくわからなかったけど、目はキャサリンの幽霊でも持っていそうな目で、あんな美しさはなく、薄気味わるいけど、やっぱり似ているの。
「何の用だ? おまえは誰だ?」男はこわい顔をして聞きました。
「もとはイザベラ・リントンだったけど。前にあたしにお会いになったことがあるでしょう。最近ヒースクリフと結婚したものですから、ここへつれて来られたんです……あなたのお許しを得てのことでしょうけど」
「それじゃ、あいつがもどったのか?」飢えた狼のように目をぎらぎらさせて、この隠者みたいな男は聞くの。
「ええ……ついさっき、二人で来たばかりです。でも、台所の入口におきざりになったんです。中へはいろうとしたら、おたくの坊っちゃんが見張りしていて、ブルドッグをけしかけて追いだしたんです」
「悪魔野郎が約束を守ってくれてよかった!」あたしのこれからの家主はうなるように言い、ヒースクリフの姿が見つからないかと、あたしの背後の闇をすかして見ました。それから、「もしも悪鬼めがおれをだましたらどうしてやるか見ておれ」と呪いやおどし文句を一人でならべたてました。
この二度目の入口からはいりかけたことを後悔し、相手が悪態をやめないうちに退散しようと思った。でも、ぐずぐずしているうちに、中へはいれと言われ、はいると男は戸をしめて掛け金をかけてしまったの。中には暖炉が盛んに燃えていて、大きな部屋の明かりはその火だけなの。床は全体が灰色によごれ、昔はピカピカしていて、子供のあたしの目を奪った白鑞《しろめ》の食器も、錆《さび》とほこりでくすんでしまっている。女中を呼んで寝室へ案内してもらってもいいでしょうかと聞いたけど、アーンショウさんは返事もしてくれない。両手をポケットに突っこんで、行ったり来たりして、あたしの存在など忘れてしまったみたい。夢中で考えこんでいるようだし、全体の感じがいかにも人間嫌いらしいので、二度と声をかける勇気は出せなかったわ。
あじけない炉辺に、さびしいというだけではない、恐ろしい思いで坐り、四マイルさきには楽しい自分の家があり、この世でそこしかあたしの愛している人はいない。その四マイルが大西洋みたいに越えがたくあたしたちを引き離しているのだと思うと、すっかり気が滅入ってしまった。その気持は、わかってくれるでしょう、エレン? あたしにはその距離が越えられないのよ! あたしは自分の胸に聞いてみた……どこに慰めを求めたらいいのかって。そしたら……よくって、エドガーやキャサリンに言わないでね……ほかのどんな悲しみにも増して強く浮かびあがった悲しみは、ヒースクリフに対抗して、あたしの味方になれる人、なってくれそうな人が一人もいないという絶望感なの! あたしは嵐が丘に避難所を求めて来たの。喜び勇むような気持でよ。ここへ来ればヒースクリフと二人だけで暮らさなくてもすむと思ったからなの。でもヒースクリフはあたしたちを迎える人たちをよく知っていて、干渉される心配なんかしていなかったのね。
悲しいもの思いにふけりながら、あたしは坐っていました。時計が八時を打ち、九時を打っても、まだ同じ部屋の人は頭を胸にうずめたまま、押し黙って行ったり来たりし、ときどき、うめき声や苦しそうな叫び声をあげるだけでした。あたしは家の中に女の声でも聞こえないものかと耳をすませ、その間、狂おしい悔恨と恐ろしい予想がうずまいていましたが、ついこらえきれず、ため息とすすり泣きの声を出してしまいました。どのくらいおおっぴらに嘆いたのか、わからないけど、アーンショウがあたしの前に立ちどまり、初めて気がついたみたいに驚いて見つめているの。気がついてくれたのをさいわい。叫んでやりました……、
「あたし、旅をして疲れているので、やすみたいんです! 女中さんはどこですか? 来てくれそうもないから、女中さんのいるところを教えて下さい」
「女中なんかいない。自分でやるんだ!」
「では、どこでやすんだらいいんですか?」あたしは泣き声になりました。疲れとみじめさにやりきれなくなって、体面どころではなかったの。
「ジョーゼフがヒースクリフの部屋へ案内してくれるだろう。あのドアをあけてみろ……中にいるよ」
言われたとおりにしようとしたら、いきなり引きとめて、変な口調で付け加えるの……
「頼むから、おまえらの部屋に錠をおろして、閂もかけてくれよ……忘れるな!」
「はい! でもなぜですか、アーンショウさん?」ヒースクリフと二人だけで、自分から鍵をかけてしめきるなんて考えたくなかったからなの。
「ほれ見ろ!」と彼はチョッキから、ピストルを出して見せました。銃身に両刃《もろは》の飛びだしナイフをつけた、変わった構造なの。「こいつはやけっぱちの人間にはどえらい誘惑なんだ、そうだろう? 毎晩こいつを持って二階にあがり、あいつの部屋のドアに手をかけてみずにゃいられない。ドアが開いたが最後、あいつはおだぶつだ! そんなことはやめようと、いろいろ理屈を考えてはみるが、すぐそのあとで必ずやってしまう。あいつをやっつけさせ、おれの将来をめちゃめちゃにしてしまおうと、そそのかす悪魔がいるんだ。あんたはあいつを愛しているなら、できるだけその悪魔と戦うがいい。その時がくりゃあ、天国の天使がそろって来たって、あいつは助けられやしねえんだ」
その武器が珍らしさに、よく見ているうちに、恐ろしい考えが浮かんで来た。そんな武器があったら、どんなに心強いだろうって! 彼の手から取って、刃にさわってみたの。一瞬、あたしの顔に浮かんだ表情に、彼はぎょっとしたらしかった。あたしが恐怖じゃなく、それを欲しがってる顔だったからでしょう。彼は油断なく奪い返して、ナイフを収め、もとどおり隠してしまったわ。
「あいつに話したってかまわねえぞ。あいつに警戒させ、あんたも見張ってやるがいい。おれたちのあいだをあんたも知ってるんだな……あいつの危険を知っても驚かんようだから」
「ヒースクリフはあなたに何をしたんですか?」とあたしは聞きました。「こんな物すごい憎しみを受けるなんて、どんなひどいことをしたんですか? いっそのこと、この家から追いだしたらいいでしょうに?」
「だめだ!」とアーンショウは大声を出したの。「出て行くなんて言いやがったら、生かしちゃおかん。あいつにそんなことを勧めたら、あんたが殺すと同じことになるぞ! あいつに巻きあげられたものを取りもどす望みを捨てて、みんなあきらめろと言うのか? ヘアトンを乞食にしろって言うのか? えい、畜生……どうしたって取り返してやる。あいつの金も、ついでに貰ってやる。あいつの血もだ……魂は地獄へくれてやらあ! あんなお客を迎えたら、地獄が前の十倍も暗くなるだろう!」
エレン、おまえのもとの主人の習慣については、前にも話してくれたことがあるけど、明らかに気違いになりかかってるのよ。少なくともゆうべはそうだった。そばにいるだけで身ぶるいがして、あの下男の不作法な仏頂面のほうがまだしも気持がいいくらい。彼がまたふさぎこんで歩きはじめたので、あたしは掛け金をはずして台所へ逃げこんだわ。ジョーゼフは暖炉にかがんで、火の上につるした大鍋をのぞきこんでいた。すぐそばの長椅子にオートミールの木鉢がおいてあった。大鍋の中が煮え立つと、爺さんは木鉢に手を突っこもうとしたの。あたしはてっきりあたしたちの夕食をこしらえているのだと判断し、腹ぺこでもあったし、食べられるようなものを作らなくてはと、思わず叫び声をあげてしまった。「ポリッジはあたしが作る!」木鉢を彼の手の届かないところへ移し、帽子と乗馬服を脱ぎにかかった。「アーンショウさんがね、あたしに自分のことは自分でやれって言ったの。だからそうするわ。あんたたちのあいだで上品にかまえてたら、飢え死にしてしまうわ」
「あれまあ!」とジョーゼフは腰をおろしてつぶやき、うね織りの長靴下を膝から足首までさすってるの。「またちがう指図受けることになるだか……やっと二人の旦那に慣れたと思えば、こんだあ奥さまが上にくるときちゃあ、こらあもう逃げ出さなくちゃなんねえ。住みなれた屋敷を追ん出なくちゃなんねえ日が来るたあ、夢にも思わなかっただが……その日 も 近 え ようだ!」
こんな嘆きに耳もかさず、あたしはさっさと仕事に取りかかった。こんなこともみな楽しい遊びだった頃を思いだしてついため息が出た。でも思い出などすぐはらいのけてしまわなければならなかった。過ぎ去った幸福を思いだすのは拷問と同じだから、その幻影が浮かんで来そうになればなるほど、夢中になってへらでかき回し、どんどんオートミールをつかんでお湯に入れていった。ジョーゼフはあたしの料理のしぶりを見ているうちに、だんだん怒りだしてきたわ。
「こりゃどうだ!」と彼は叫んだの。「ヘアトン! 今夜のポリッジは食えねえど。おれの握りこぶしぐれえの塊まりばっかりだからな。それ、また! わしなら、いっそ鉢ごとみんな放りこんじまうだ! それ、浮きかすをすくっちまえば、それでおしめえだ。どすん、どすん、やって、よくまあ底がぶっこわれねえもんだ!」
お椀につけたら、たしかになんともまずいできだったわ。でも四人分できたし、搾乳場から一ガロン容器の新鮮な牛乳も運ばれて来ました。ヘアトンはいきなりそれを手に取って、広い口からこぼしながら飲みはじめました。あたしは叱りつけ、コップに注いで飲んでちょうだい、そんな汚ないことをしたらあたしに飲めなくなる、と言ってやった。皮肉やの爺さんは上品ぶってる、というわけで、ひどく腹をたてたわ。何回でも「この子はどこからどこまでおめえさんと同等」で「どこからどこまで同じくれえたっしゃだ」と言い、よくもわたしがそんなに気どっていられたものだ、なんて言うの。そのあいだも、この悪たれ小憎は飲み続け、牛乳の中へよだれを垂らしながら、食ってかかるような目つきであたしをにらむの。
「あたしはほかの部屋で夕ご飯をいただくわ」とあたしは言ってやった。「客間っていうのはないの?」
「|きゃくま《ヽヽヽヽ》!」爺さんは口まねして冷やかし、「|きゃ《ヽヽ》|くま《ヽヽ》か! いんや、|きゃくま《ヽヽヽヽ》なんてねえ! わしらといっしょがいやなら、旦那のとこがいい。旦那のとこがいやだちゅうなら、わしらんとこだ」
「それなら二階へ行きます! どこか部屋へ案内して」
あたしはお碗をお盆にのっけて、牛乳も少し自分で取って来ました。さんざんぶうぶう言いながら、爺さんは立ちあがり、さきに立ってあがって行きました。屋根裏部屋までのぼってしまったのだけど、途中ときどき部屋のドアをあけては中をのぞくの。
「この部屋だ」おしまいに、そう言って、蝶番《ちょうつがい》のついたがたがたの板戸をばたんとあけてくれた。
「ポリッジを食うにゃ、これでちょうどいい。それ、すみっこに麦の袋が積んであるが、汚なくはねえ。ぜいたくな絹の衣装を汚すのが心配なら、あの上ヘハンケチでもひろげりゃいいだ」
彼の言う「部屋」とは麹《こうじ》や穀物がぷんぷん匂う物置きみたいなところで、そんな物のはいったいろいろな袋がまわりじゅうに積んであり、真ん中だけがらんと広くあけてあるの。
「まあ、あきれた! ここはやすむ場所じゃないわ。寝室が見たいって言ってるのよ」とあたしは腹をたてて爺やに食ってかかりました。
「|しんしつ《ヽヽヽヽ》だと!」からかうようにくり返して、「ここの|しんしつ《ヽヽヽヽ》をみんな見りゃいいだ……あっちがわしのだ」
爺さんが指さして見せた隣の屋根裏部屋は、まわりの壁のところがこちらよりあいていて、大きな低い、カーテンのないベッドが置いてあり、端に藍色のかけぶとんをのっけてある点がちがうだけ。
「あんたのベッドに、なんの用があるというの? ヒースクリフさんがこんな屋根裏に泊まってるわけはないでしょう?」とあたしは言い返してやった。
「あれ! |ヘイスクリフ《ヽヽヽヽヽヽ》の旦那の寝室に行きたがってるんかね!」爺さんは新発見でもしたように叫んだの。
「そんならなんで初めっからそう言わなかっただ? ひと言いってくれりゃ、こんな騒ぎはしねえでも、そればかりは見るわけにいかねえって教えてやったによ……いつも鍵をかけとくから、ほかの者にゃだれだってはいれっこねえだ」
「けっこうなおうちね、ジョーゼフ。おまけに愉快な人たちばかり」とあたしは言わずにいられなかった。「あたしの運命をこの連中と結びつけた日から、世界中の狂気のエッセンスがあたしの頭にとりついてしまったみたい! でも、それはさしあたってどうだっていいわ……ほかにも部屋はあるんでしょう。後生だから、早くして、どこかへ落ちつかせておくれ!」
こんなに頼むのに、返事もせず、むっつりしたまま、重い足どりで木の階段を降り、ある部屋の前で立ちどまった。そこで立ちどまったことや、家具の上等なことから、いちばんいい部屋なのだと思いました。カーペットが敷いてあった。上等なものだけど、埃で模様も見えないくらい。暖炉があって、切り紙細工が下げてあったけど、ぼろぼろになって垂れてるの。りっぱな樫の寝台には、ゆったりした深紅のカーテンがかけてあり、かなり高価な生地で、作りもモダーンだった。でもいかにも乱暴に扱ったらしく、垂れ幕は環からはずれて花綵《はなづな》のように下がり、吊《つ》っている鉄の棒もいっぽうのはしが弓なりに曲がって、垂らした布が床にひきずっているの。椅子も痛んでいて、大部分が使いものにならないくらい。壁の羽目板も深いくぼみがいくつもできて、見られたものじゃない。ここにはいって使ってやろう、と勇気をふるい起こしていると、まぬけの案内人が、「ここが旦那の部屋だで」と言うの。もう夕食はさめてしまい、食欲もなくなり、辛抱しきれなくなっていたので、いますぐ場所を決めて、やすむ仕度をしてちょうだいと言ってやった。
「いってえどこにあるだね?」と信心深い爺《じじ》いがやりだすの……「とんでもねえこった! 神さま、お許し下せえまし! いってえどこへ行く気だね? できそこねえの、うるせえ、やくざ者が! まだ見てねえのは、ヘアトンの小部屋だけだ。この家にゃ、ほかに寝るとこなんぞありはしねえ!」
あたしは思わず、かっとなりお盆ごとすっかり床に叩きつけてやった。そして階段のいちばん上に坐ると、両手で顔をおおい、泣きだしてしまったの。
「へっ、へっ!」とジョーゼフはわめきたてた。「でかした、キャシー嬢さま! てえしたもんだ! キャシー嬢さま! 旦那がこわれた壺にけつまずくど。そうすりゃきっと文句を言って、あとがどうなるか、いまにわからい。ろくでなしの気違えあま! いくら腹あたてたって、神さまのありがてえお授けものを、足の下へなんぞ放り出しおって、いまからクリスマスまで、ひもじい思いするがいいだ! だけど、いつまでも腹をたててられたらめっけもんだ。そんな見あげたやり方を、ヘイスクリフが黙ってると思うかね? そうやってかっかとしてるところを見てくれるといいだ。まったく、見てくれりゃいいだ」
こうして罵《ののし》りながら、ジョーゼフは下の穴ぐらへおりて行き、蝋燭も持って行ってしまったので、あたしは暗闇の中に残されてしまった。ばかなことをやってしまったあとの反省が起こってきて、この際自尊心を抑え、怒りを押し殺して、あと始末するためにからだを動かす必要を認めたわけ。たちまちスロットラーという思いがけない助けが現われたの。よく見たら、うちで飼っていたスカルカーの子だったの。子犬のときスラッシクロス屋敷で育ち、お父さまからヒンドリーさんにおあげになった犬です。犬のほうでもわかったらしい。あいさつがわりにあたしに鼻を押しつけ、それからさっさとポリッジを食べだしたの。あたしのほうは一段一段手さぐりして、こわれた瀬戸物を拾い集め、手すりに飛び散った牛乳をハンカチで拭いたわ。共同の仕事がすむかすまないうちに、廊下にアーンショウさんの足音が聞こえるの。あたしの協力者は尻っ尾を巻いて壁にぴったりくっつくし、あたしはいちばん近い戸口から部屋の中にこっそり逃げこみました。なんとか主人を避けようとした犬は失敗したらしく、階段をばたばた駆け降りる音と、いつまでもきゃんきゃん鳴く声が聞こえました。あたしは運がよかった! 彼は通りすぎて、自分の部屋にはいり、ドアをしめてしまったの。すぐあとからジョーゼフがヘアトンを寝かせるために上がって来たわ。あたしが隠れたのはヘアトンの部屋だったの。爺さんはあたしを見つけると、こう言うの……「さあ、|うち《ヽヽ》へ行って高慢とさし向かいで寝るがいいだ。下があいたど。一人じめにして悪魔にいつでもいっしょにいてもらやあ、いい組みあわせだ!」
喜んでこのことばに従うことにした。下の居間へ降りて、暖炉のそばの椅子に身を投げだすと、たちまち、うとうとして眠ってしまいました。深い快い眠りだったわ。ただ、いかにも早く終わってしまったけど。ヒースクリフがあたしを起こしたの。彼ははいって来たばかりで、いつものおやさしい口調で、こんなところで何してるんだ、と詰問したの。それで、こんなに遅くまで起きていたわけを話してやった……あたしたちの部屋の鍵を、あなたがポケットに入れているからだって。この「あたしたちの」という言い方に恐しく腹がたったのね。あれはおまえの部屋じゃない、これからだって絶対ちがうのだと毒づいて、畜生おれは……とか何とか言ったけど、彼のことばづかいをくり返したって仕方がないし、いつものやり方を書く気もしないわ。なんとかあたしの憎しみをかきたてようと、休まず手のこんだ工夫をめぐらしているの! あの人にはときどき本当に感心してしまい、恐怖心を忘れてしまうくらいだけど、彼に感じる恐怖にくらべたら、虎や毒蛇なんかなんともないくらいだわ。あたしにキャサリンの病気のことを話して、みんなお兄さまが悪いんだって責めるの。エドガーをとっちめてやるまで、あたしを身がわりに苦しめてやるんだって。あたしはヒースクリフが憎くてならない……あたしはみじめだわ……なんてばかだったのかしら! こんなことを、ひと言だってお屋敷の人には洩らさないようにしてね。毎日おまえを待っています……失望させないでね!
イザベラより
[#改ページ]
十四
この手紙を読んでしまうとすぐ、旦那さまのところへ行き、イザベラさまが嵐が丘へ着いて、わたしに手紙を下さり、奥さまのご病気を心配し、お兄さまにとても会いたがっていらっしゃること、わたしを介してできるだけ早く、お兄さまのお許しのしるしを何か渡して頂きたいと願っていることをお話ししました。
「許しだって!」とリントンさまは言われました。「許すことなんか何もないよ、エレン、よかったら、今日の午後でも嵐が丘へ行ってくれないか。わたしは怒ってはいない、妹を失ったことを悲しんでいるだけだと伝えてくれ。妹がとうてい幸福になれるとは思えないから、なおさら悲しんでいるとね。だが、わたしが会いに行くことなんか問題外だ。永久に縁が切れてしまったのだよ。ほんとうにわたしのためにしてくれる気持があったら、結婚相手の悪党を説いてこの土地からたちのかせることだ」
「では、ほんの一筆だけでも書いてあげないんですか、旦那さま」とわたしは哀願する気持でお聞きしました。
「書いてやらない。むだなことだよ。ヒースクリフの妻との文通は、向こうからもこちらの妻にやってもらいたくないように、なるべく控えたい。おたがいに文通なんかしてはならないのだ!」
エドガーさまの冷たいご返事に、わたしはすっかり気持がふさいでしまいました。お屋敷から向こうに着くまで、旦那さまのお言葉をどうやって少しでも暖い気持をこめて伝えるか、わずか二、三行でもイザベラを慰める手紙を書くのを断わったことを、どんな風に穏やかに伝えたものかと、頭を悩まし続けました。朝からわたしを待って見張っていたものと見え、庭の土手道を進んで行きますと、格子窓のあいだからイザベラがのぞいていました。わたしは会釈しました。ところが人に見られるのを恐れるように、首を引っこめてしまいました。わたしはノックしないで、中にはいりました。もとは明るかったこの家にはかつてなかった、荒れはてた陰気な光景が目にはいりました! 正直なところ、わたしが若奥さまの立場にいたら、少なくとも暖炉の掃除をし、テーブルに雑巾ぐらいはかけたろうと思います。でも、イザベラはもはや、周囲の投げやりな気分に染まっていました。可愛らしい顔も青ざめ、ものうげでした。髪はカールさせず、だらしなく垂らしたり、無造作に頭にぐるぐる巻きつけてありました。服も前の晩から着たままらしいのです。ヒンドリーはいませんでした。ヒースクリフさんはテーブルにかけ、紙入れの書類をひっくり返して見ていました。わたしを見ると立ちあがり、ばかに親しげに、どうだね、と聞き、椅子をすすめました。この家の中できちんとしているのは彼だけで、こんなにりっぱに見えたことはないような気がしました。境遇がすっかり二人の地位を変えてしまい、見知らぬ人の目にはヒースクリフこそ生まれも育ちもりっぱな紳士で、妻はほんとうのひきずり女と写ったことでしょう! イザベラは嬉しそうに近寄ってあいさつし、待ちかねた手紙を取ろうと手を出しました。わたしは首を振りました。イザベラにはその意味が悟れず、わたしがボンネットを置きに食器棚のところへ行きますと、ついて来て、持って来たものをすぐちょうだい、とささやきました。ヒースクリフはイザベラのそぶりに感づいて、
「イザベラに何か持って来たのなら、渡してやったらいい。きっと持って来てるんだろう、ネリー。隠すことはないよ! おれたちのあいだに秘密はないんだ」
「あら、何も持ってませんわ」とわたしは初めから事実を言っておくのがいちばんと思って答えました。「旦那さまからは、お妹さまに、当分手紙も訪問もあてにしてくれるな、というおことづけでございました。奥さま、旦那さまからよろしくって。幸福を祈っているとおっしゃいました。悲しい目に会わされたことは、もうお忘れになるって。ただ今後向こうとこちらのお宅のおつきあいはやめるつもりだ、続けたってよい結果にはならないだろうから、というお考えでございます」
ヒースクリフ夫人は微かに唇を震わせ、窓ぎわの椅子にもどりました。その夫はわたしのそばで、炉の前に立ち、キャサリンのことをいろいろと聞きはじめました。わたしは病気について差支《さしつか》えない限り話してやりましたが、彼は根掘り葉掘り問いつめて、発病の事情をほとんど聞き出してしまいました。わたしはあの病気もご自分で招いたので奥さまが悪いのです、と非難してから、あなたもリントンさまにならって、良くても悪くても、これからは向こうの家庭に干渉しないでもらいたいのです、と言いました。
「リントンの奥さまはやっと治りかけたばかりです。とてももとどおりにはなれないでしょうけれど、命だけは取りとめました。あなたが本当に奥さまのことをお思いなら、二度とお会いしないようにして下さいな。いっそ、この土地からさっぱりと出て行ってしまうことですわ。未練が残らないように申しあげておきますが、キャサリン・リントンさまはあなたの昔なじみのキャサリン・アーンショウとはすっかり別人になったので、わたしとそこの奥さまと同じくらいちがってしまったのですわ。顔つきもずいぶん変わりましたが、性格はそれ以上ですよ。やむをえず連れ添っていらっしゃる旦那さまだって、これから愛情を持ち続けるのは、昔の奥さまの記憶と、人間一般の人情と、義務感からだけになってしまうでしょう!」
「たぶん、そうなるだろうな」とヒースクリフはむりに平静を装って言いました。「おまえの主人が世間一般の人情と義務感しか頼るものがないというのは、本当だろう。だが、おれがキャサリンをあいつの『義務感』や『人情』だけに任せっ放しにすると思うのか? キャサリンに対するこの気持が、あいつなんかと比べられると思うのか? おまえをここから帰してやる前に、きっと約束させるぞ、おれがキャサリンに会えるようにするってことをな。承知しようとするまいと、おれは会う! どうだね?」
「いいですか、ヒースクリフさん、それはいけません。わたしにそんな仲だちができますか。あなたと旦那さまがもう一度衝突したら、それこそ奥さまは死んでしまいますよ」
「おまえが助けてくれれば、避けられるさ」と彼は続けました。「もしそんな危険があるとしたら……あの男が原因となってキャサリンにこれ以上ひとつでも苦しみを加えたら……いいか、おれは最後の手段を取っても文句は言われないはずだ! 正直に言ってくれ、あの男が死ねばキャサリンはひどく悲しむかどうか……悲しみやしないかと思って、決心がにぶるんだ。これでおれとエドガーの気持のちがいがわかるだろう。もしもあいつがおれの立場で、おれがあいつの立場だったら、生きているのも苦しいくらいな憎しみをあいつに燃やしてたって、手ひとつふりあげやしなかったろう。信じられない顔をするなら、してりゃあいい! キャサリンがあいつといっしょにいたいなら、おれはあいつを追っぱらったりはしない。だが、キャサリンの気持ちが離れたら最後、あいつの心臓をつかみだし、生血を飲み干《ほ》してやる! それまでは……おまえが信じられないというなら、おれという人間を知らないからだ……そのときまでは、じわじわなぶり殺しにされたって、あいつの髪の毛ひとすじ手を触れやしない!」
「そうだとしたって」とわたしはさえぎりました。「奥さまがあなたをすっかり忘れかけているのに、いまさらむりやり思い出させ、もう一度ひどい混乱と苦しみに投げこんで、全快の望みをすっかり台なしにしてしまっても平気だというんですか」
「キャサリンがおれを忘れかけてると思っているのか? 嘘だ、ネリー! 忘れていないことはおまえだって承知なんだ! おれにもおまえにもちゃんとわかってるが、リントンのことを一度考えるあいだに、おれのことは千度も考えているんだ! おれだって、ひどくみじめだった頃は、忘れられたなんて考えたこともある。夏の頃、この近くへもどって来るときも、そんな考えにつきまとわれた。だがキャサリンの口からはっきりそうだと言われない限り、二度とそんな恐ろしい考えに苦しまされはしない。しかし、もしそう言われたら、もうリントンも、ヒンドリーも、いままでおれの描いてきたいろいろな夢も、みなおしまいだ。おれの将来はたったふたつの言葉で言いつくせる……『死』と『地獄』、それだけだ。キャサリンを失ったら、あとの人生は地獄しかない。しかしただの一瞬だけでも、キャサリンがおれよりもエドガー・リントンの愛情をありがたがっているなんて考えたおれは阿呆《あほう》だったよ。あのちっぽけな男が精魂《せいこん》こめて愛したって、八十年もかかっておれのひと月分も愛せやしない。しかもキャサリンはおれと同じ深い心を持っているのだ。彼女の愛情があいつなんかに独占できるくらいなら、大海の水だって、あそこの馬の飼い葉桶にかんたんにはいってしまうよ! ちえっ! あんなやつは、キャサリンには飼犬か馬くらいにしか目をかけられやしないんだ。あの男はおれのように愛されるものを持ってない。何にもないやつのどこがキャサリンに愛せるんだい?」
「キャサリンとエドガーはどんな夫婦だって負けないくらい愛しあっています」と、いきなり、勢いよくイザベラが叫びました。「そんなことを言う権利はだれにもないわ。兄が軽蔑されるのを、黙って聞いてはいられません!」
「おまえの兄貴はおまえのことも感心するほど愛してるんだな?」とヒースクリフはせせら笑いました。「あっさり世間の荒波に放りだしたものじゃないか」
「兄はあたしの苦しみを知らないんです。そんなこと言ってやらなかったもの」
「そうか、何か言ってやったというんだな……手紙を書いたな?」
「結婚を知らせるために、書いてやっただけよ……あの通知状はあなたも見たじゃありませんか」
「そのあとは書かないか?」
「ええ」
「イザベラさまは境遇がお変わりになってから、やつれて、おいたわしいようですね」とわたしは言いました。「きっと、だれかの愛情が足りないんでしょう……だれのかは見当がつきますけど、まあ言わないでおきましょう」
「おれの考えじゃ、イザベラ白身の愛情が足りないようだな」とヒースクリフが言いました。「すっかりひきずり女になりさがりやがって! こんなに早くおれを喜ばすのがいやになるとは変わってやがる。おまえには信じられないだろうが、結婚した次の日からもう家へ帰りたがって、めそめそするんだ。だが、こいつもあまり上品じゃないから、この家にはすこぶるぴったりするらしい。まあぶらぶら出歩いて、おれの面汚しをしたりしないようにせいぜい気をつけることにするよ」
「でもねえ、ヒースクリフさん。この奥さまは大切にされ、かしずかれて来た方だということも考えてあげなくてはね。一人娘で家じゅうの人からちやほやされて育った方なんですから。身のまわりをととのえてあげる女中さんをつけ、あなたもやさしくしてあげなくてはいけませんわ。エドガーさまのことをどう考えていたって、この方が強い愛情の持主だということを疑う理由はありませんよ。そうでなかったら、もとのお家の上品な楽しい生活や、親しい人たちを捨ててまで、こんな荒れはてたところにあなたといっしょに満足して住めるはずがないじゃありませんか」
「こいつは夢に迷って、みんな投げ捨てたんだ。おれをロマンスの主人公だと空想し、騎士のような献身的な愛情をたっぷりそそいでもらうつもりだったんだ。とても正気の人間とは考えられないよ。あくまで頑固に、おれをありもせぬ人物に仕立てあげ、でたらめな印象を勝手に作ってそれに従ってきたんだからな。だが、やっと本当のおれがわかってきたらしい。初めのうち、むかむかさせられた、まぬけな薄笑いや、気取った面《つら》が近頃見えなくなったからな。あんまりのぼせるなとか、こいつのことをいろいろ言ってやっても、本気だということがこのとんまにゃわからなかったんだ。おれに愛されてないということを知るのに、なみたいていではない努力をして、やっと頭が働いてきたんだ。一時はいくら教えてやったってむだだと、こっちはあきらめたくらいだよ! だがいまだってまだぼんやりとしかわかってないんだ。今朝なんかいきなり、たいそうな発見でもしたように、とうとうあなたはあたしに嫌わせることに成功しましたね、ときた! いやはや、まったくハーキュリーズなみの大仕事さ! それがやりとげられたら、こっちからお礼を言ってやりたいよ。おまえの言ったことはたしかだろうな、イザベラ? 間違いなくおれを嫌ってるんだな? 半日ぐらい放っておいても、もうため息つきながら、おれの機嫌をとりにやってきやしないだろうな? こいつはせめておまえの前じゃ、思いきりやさしいところを見せてもらいたかったらしい……事実がさらけだされたら虚栄心が傷つくからな。だがおれは、こいつがまったく一人で熱をあげたんだということを、だれが知ろうとかまやしない。こいつにも嘘をついたことはないんだ。ちょっとでもおれが甘い言葉でだましたなんて、こいつに非難される覚えはない。スラッシクロス屋敷を出てから、最初にこいつの目の前でやって見せたのは、こいつの小犬を縛り首にすることだったよ。助けてやってくれと泣きついたから、すぐおれは、おまえにつながってるやつらは、ただ一人を除いて、残らず縛り首にしてやりたい、と言ってやった。どうやらこいつはその例外を自分だと取ったらしい。それにしても、どんな残酷なことをやって見せても、けろりとしてる。自分の大事なからださえ安全なら、生まれつき残酷なことが好きな性分らしいや! ところで、こんな哀れな、奴隷根性の、さもしいめす犬のくせに、おれに愛してもらえるなんて考えるとは、底ぬけのばか……正真正銘の白痴じゃないのか? ネリー、おまえの主人に言ってやれ。生まれてこのかた、おれはこんな浅ましい女は見たことがないって。リントン家の名の汚《けが》れにもなるやつだ。どこまでこいつが辛抱し、恥も外聞もなく、こそこそ尾を振って来るか、いろいろ試してみるが、時には工夫《くふう》も種切れになって、手びかえてしまうくらいだ! もうひとつあいつに伝えておけ。おれはあくまで法律は踏みはずさないから、兄としても治安判事としても安心してくれって。いままでおれはこの女に離婚を主張する権利を与えるようなことは何もしなかった。おまけに、おれたちを別れさせてくれる人がいたって、こいつは感謝するはずもないんだ。なに、出て行きたけりゃ出て行きゃいいのさ……こいつにくっつき回られる胸くそ悪さときちゃ、いじめぬいて楽しむぐらいじゃおっつかないや!」
「ヒースクリフさん」とわたしは言いました。「そんなことは気のふれた人の言うことですよ。奥さまだって、あなたを気違いだと思っているんでしょう。だからこそ、いままであなたに辛抱してきたんですよ。だけどもう出て行ってもよいと言った以上、きっと喜んでお許しどおりなさるでしょう。奥さま、まさかあなただって、進んでこの人のそばにいようとするほど、夢中になってるわけじゃないでしょうね?」
「気をつけて、エレン!」とイザベラは、目を怒りにきらきらさせて言いました。その目の色を見れば、妻の憎しみを煽《あお》ろうとする夫の努力が完全に成功したことは疑えません。
「この人の言うことなんか、ひと言だって信用してはだめよ。嘘つきの悪魔だわ! 化《ば》け物よ、人間じゃない! 前にも出て行っていいって言われて、出て行こうとしたことがあるのよ。だけど、とても二度とやれやしないわ! ただ、エレン、お兄さまにもキャサリンにも、この人のひどい言葉をひと言《こと》も話さないって約束して。どんなにごまかしたって、この人の望みはエドガーを怒らせて自暴自棄にさせることなんだから……あたしとの結婚だって、お兄さまを自由にする力を得たいからだ、って言ってるのよ。だけど、だれがむざむざとそんな力を得させるものですか……そんなことをするくらいなら、あたしがさきに死んでやる! この人が悪魔のような慎重さを忘れ、あたしをひと思いに殺してくれないものかしら! それを祈ってるわ! いまのあたしに考えられるたったひとつの楽しみは、あたしが死ぬか、この人が死ぬのを見るか、どっちかよ!」
「わかった……いいかげんにしろ!」とヒースクリフは言いました。「ネリー、おまえが裁判所へ呼び出されるようなことがあったら、いまのこいつの言葉を思い出してくれ! それにあの顔をよく見てくれ……そろそろおれに似あいの顔になってきたところだ。いや、イザベラ、まだ自分かってなまねはできやしないぞ。おれはおまえの法律上の保護者なんだから、いくら胸くそわるい義務でも、おまえを監督しなきゃならないのだ。二階へ行け。おれはエレン・ディーンと二人だけの話がある。そっちじゃない、二階だと言ったろう! そら、二階はこっちからだ、薄ばか!」
彼はイザベラをつかまえて、部屋から押し出し、ぶつぶつ言いながらもどって来ました。
「憐れむものか! 憐れんでなんかやるものか! 虫けらがもがけばもがくほど、よけい踏みにじって腹わたを押し出してやりたい! 精神的な歯痛みたいなものだ……痛みがひどければひどいほど、よけい力を入れて噛《か》みしめてしまうんだ」
「憐れむという意味がわかるんですか?」急いでボンネットを取りに行きながら、わたしは言いました。「生まれてから、ちょっとでもそんな気持を感じたことがあるんですか?」
「帽子なんか下へ置けよ!」わたしが帰ろうとしたのを察して、言いました。「まだ帰るんじゃないよ。さあここへ来たまえ、ネリー。おれはキャサリンに会う決心を実行するのに、おまえに助けを頼むつもりなんだ。いやなら無理にも助けさせるだけだ。しかもいますぐだ。誓うけど、悪いことなんかたくらんでいない。騒ぎを起こしたり、リントン君を怒らしたり、侮辱したりする気はない。キャサリン自身の口から、どんな具合か、なぜ病気をしたのか、またおれに何かためになることがしてやれないかどうか、聞きたいだけだ。ゆうべおれは六時間もスラッシクロス屋敷の庭にいた。今夜も行くつもりだ。中へはいる機会が見つかるまでは、毎晩、いや昼間だって、行ってやる。エドガー・リントンに出くわしたら、すぐさまこっぴどく殴り倒し、おれのいるあいだ、おとなしくさせておくつもりだ。召使どもが向かって来たら、このピストルでおどかして追っぱらってやる。だが、おれが召使や主人と出くわさないようにしたほうがいいんじゃないかね? おまえならわけなく、そうできる。おれが行ったら合図をするよ、そしたらキャサリンが一人になりしだい、おれを人に見られないように招き入れ、帰るまで見張っててくれればいいんだ。なにもやましいことはありゃしないよ……災いが起こるのを防ぐことなんだから」
わたしは雇って頂いている人の家で、そんな裏切り役をするのはいやです、と反対しました。その上、自分の満足のために、リントン夫人の平静をかき乱すなんて、残酷な利己主義だ、と強く主張しました。「どんなささいなできごとでも、奥さまはとてもおびえるんです。すっかり神経過敏になってしまったんですから、いきなり行って驚かしたら、とても耐えられやしません。どうぞ無理を言わないで下さい、ヒースクリフさん! さもないと、あなたの企らみを旦那さまに知らせなければなりませんよ。そうしたら旦那さまは、そんな無法な侵入からお家と家族を守る処置を取られるでしょう!」
「それなら、ネリー、おれはおまえを押えておく処置をとるまでさ! あしたの朝までは嵐が丘から帰れないからな。キャサリンがおれに会うのに耐えられないなんて、ばかなことを言うな。おれはいきなり驚かすことなんかしたくない。だからお前がさきに話しておくんだ……おれが行ってもいいか、と聞くんだ。キャサリンはおれの名を口にもせず、人からも聞かされないと言ったな。あの家でおれの話が禁物だとしたら、キャサリンだっておれの名をほかの人の前で出しようがあるか? おまけに、おまえたちみんなをエドガーの回し者だと思っているんだ。そうだ、キャサリンはおまえたちのあいだで、地獄の苦しみを味わっているにきまってる! キャサリンが黙っているというだけで、ほかのどんなことよりも、気持がよくわかるんだ。ときどきそわそわして不安そうな顔をするそうだな。それが落ち着いてる証拠なのか? 心が安定してないと言ったろう。恐ろしい孤独の中におかれて、ほかにどうなれるんだ? おまけに、あの気の抜けた、けちな男が『義務』と『人情』から看病してるんだ! 『憐れみ』と『慈善』からな! あいつの薄っぺらな世話ぐらいで、キャサリンの元気が取りもどせるなんて考えるのは、植木鉢で樫の大木を育てようとするのと同じことだ! いますぐ話をつけよう。おまえはここに残り、おれはリントンと下男どもをやっつけてキャサリンのところへ行くことにするか? いままでどおりおれの味方をして、頼むとおりにやってくれるか? さあ決めてくれ! あくまで強情に意地を張るなら、これ以上、一分間でもぐずぐずしていることはないんだ!」
こんなわけでしてね、ロックウッドさま、わたしもいろいろ理屈やら苦情やら言って、五十遍もはっきり断ったのですけれど、結局言いなりにさせられてしまったのですよ。とうとうヒースクリフの手紙を奥さまに届けると約束させられてしまいました。また奥さまさえ承知なさったら、この次のリントンさまのお留守を報《し》らせ、彼が来てかってにはいれるようにする、という約束もしました。わたしはその場にいないようにし、ほかの召使たちも同様によそへやっておくことになったのです。はたしてそれでよかったのでしょうか? やむを得なかったとはいえ、やはり間違いだったと思います。でも、わたしの承諾によって、別の大騒動が防げたのだとも思いましたし、キャサリンの頭の病気にかえって良い転機が生じるかもしれない、とも考えました。ところがまた、エドガーさまにいつか告げ口をきつく叱られたことも思い出しました。たとえ人にこれも背信行為だと厳しく言われるとしても、二度とくり返すはずはないのだから、などと何度も考えて、不安な気持をけんめいに静めようとしました。それでもお屋敷へ帰るときは、出かけるときよりもずっと暗い気分でした。手紙を奥さまの手に渡す決心がつくまでは、さまざまな不安に悩んだのでございます。
おや、ケネス先生がおいでになりましたね。階下《した》へ行って、たいそうよくなられたと申しあげてまいりましょう。わたしの話ときたら、こちらの言葉で言う「だらだら」ですから、またこの次の朝の退屈しのぎに役立てることにいたしましょう。
だらだら、か、そして陰気な話さ! 人のよい婦人が医師を迎えに降りて行ったあと、ぼくは考えた。慰みに聞くような話とは言えない。が、まあ、いいさ! ディーンさんの苦い薬草から、ためになる薬だけせんじ出せばいいのだ。まず第一に、キャサリン・ヒースクリフの美しい目にひそむ魅力に気をつけること。あの若い女性に夢中になってしまい、あの娘が母親にそっくりの性格だとわかったら、それこそ大変な目に会うことだろう!
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十五
また一週間が過ぎ……そのぶんだけぼくは健康にも春にも近づいた! ぼくの隣人の経歴については、家政婦のディーンさんが大事な仕事のあい間をさいては続けてくれた話のおかげで、もうすっかり聞いてしまった。それを少し短縮するだけで、ディーンさんの話した言葉どおりに記録していくことにしよう。彼女は全体として、なかなか上手な語り手だから、ぼくが手を加えたって、よい文章になるわけではない。
その晩……と彼女の話は続く……わたしが嵐が丘へ行って来た日の夕方になりますと、ヒースクリフがお屋敷のあたりをうろついているのを、この目で見るように感じておりました。彼の手紙はまだポケットに入れたままでしたので、また脅迫や催促を受けるといやですから、外へ出ないようにしておりました。手紙を受けとって、奥さまがどんな反応をしめされるか見当もつきませんので、旦那さまがお出かけになるまでは、渡さないことにしていたのです。こうして三日たってやっと手許に届くことになりました。四日目は日曜日でした。家の人がみな教会に行ったあと、奥さまのお部屋へ持って行きました。下男が一人、わたしと留守番をするために残っておりました。いつもは教会で礼拝のあるあいだは、戸口にみな鍵をかけておく習慣でした。でも、その日はとても暖い気持のよいお天気でしたので、全部あけ放しました。だれが来るかを心得ていたわたしは、約束をはたすために、いっしょに残った下男に、奥さまがしきりにオレンジを欲しがっていらっしゃるから、村へ一走りしていくつか買って来るように、代金は明日払うから、と頼みました。彼が出て行きますと、わたしは二階にあがりました。
奥さまはゆるやかな白い服を着て、肩に軽いショールをかけ、いつものように、開いた窓に腰かけておりました。豊かな長い髪は病気の初めに少し切り、いまは自然の巻き毛のまま、櫛でざっとすいて、こめかみやうなじに垂らしています。ヒースクリフにも話したとおり、顔つきは以前と変わりましたが、こうして落ち着いているとき、その変化はこの世ならぬ美しさに見えました。あの目の輝きは、夢みるような、和やかな憂愁の色にかわり、まわりの物を見るという感じではなく、いつもどこか遠く、はるかかなたを……この世の外とも言えるところを……見つめているようでした。それに青ざめた顔色も……いくぶん肉づきが回復して、ものすごいやつれが取れましたが……また精神状態から来る特別な表情も、何が原因かはっきりわかって痛々しいのですが、胸に迫るような美しさをいっそう強めておりました。そして……わたしはいつも思ったのですが、また、だれでもその姿を見たら同じだったと思いますが……目に見える回復のしるしなどみな偽りにすぎず、もはや滅んでいく運命の人としか感じられなかったのでございます。
奥さまの前の窓わくに、一冊の本が拡げられ、あるかないかの風が時おりページをめくっていました。リントンさまがそこへ置かれたのでしょう……奥さまはもう、読書に限らず、何かして気持をまぎらそうなどとすることはなく、旦那さまのほうから、奥さまが以前興味をもっていた事がらに注意を引きつけようと、何時間も努力なさるのがつねだったのです。奥さまは旦那さまのお考えがわかっていて、気分のよいときは穏やかに辛抱しますが、旦那さまの骨折《ほねおり》がむだなことは、ときどきやりきれないようなため息を押し殺すのでもわかりました。おしまいにはいかにも悲しげな微笑と口づけで旦那さまにやめさせてしまいます。ところが機嫌の悪いときときたら、いらいらと顔をそむけ、両手でおおってしまったり、怒って旦那さまを突きのけることもありました。そんなとき旦那さまはせっかくの努力も無益だと悟り、奥さまをそっとしておくように心を配られるのでした。
ギマトンの教会堂の鐘はまだ鳴っていました。水をたたえて、穏やかに流れる谷川のせせらぎが、心も和むように聞こえて来ます。それはまだ訪れない夏の木の葉のさざめきにかわる、快い調べでした。その響きも、木々が葉に覆われる頃は、お屋敷のあたりでは葉音にかき消されてしまいます。嵐が丘では大きな雪解けとか雨季のあとの静かな日には、いつもその流れの音が聞こえました。水音に耳を傾けながら、奥さまが思い出すのは、嵐が丘のことだったのでしょう……それも奥さまがまだ何か考えたり聞いたりするとしてのことです。でも、さきほど申しましたように、ぼんやり遠くを見る顔つきはしていても、耳も目も現実の物をとらえているようすはぜんぜんありませんでした。
「奥さま、お手紙ですよ」と言って、わたしは膝においた手にそっと持たせてあげました。「すぐ読んで頂けませんか。ご返事がいるんですけど。封をお切りしましょうか?」「ええ」と答えましたが、その目の位置は変わりません。わたしは封を切りました……ごく短い手紙です。「さあ、ごらんになって」でも、奥さまは手を引っこめ、手紙を落としてしまいました。拾いあげてまた膝にのせてあげ、読みたい気持になるまで待っておりました。でも、ずっとそのままですので、とうとうわたしは言いました……
「奥さま、お読みしましょうか? ヒースクリフさんから来たんですよ」
奥さまはぎくっとし、記憶をたどる悩ましげな目色となり、考えをまとめようとあがいていました。手紙を持ちあげ、読むように見えましたが、署名のところへ来るとため息をつきました……でもまだ内容はわからなかったようです。ご返事を聞かせて下さい、と言いますと、ただ名前の個所を指さし、悲しい、いぶかしげな目でひたむきにわたしを見つめます。
わたしは奥さまが説明者を必要としているのだと判断し、「そうですよ、奥さまに会いたがっているんですよ。きっともう庭に来て、どんなご返事を持ってくるかと、じりじりして待っていることでしょう」
そう言って、ふと見ると、下の日当たりのよい芝生に寝ていた大きな犬が、吠えだしそうに耳をたてました。すぐもとどおりに垂らし、尾を振りたて、だれか顔見知りの人が来たことを知らせました。奥さまは身を乗りだして、息を殺してじっと聞き耳をたてました。じきに足音がホールを抜けてやって来ました。家が開いていたので、ヒースクリフは中にはいりたい気持が抑えられなかったのです。どうせわたしが約束をはぐらかすだろうと考え、大胆にやってみることにしたのでしょう。真剣な緊張した目で、キャサリンは部屋の入口を見つめていました。ヒースクリフにはすぐにこの部屋とわかりませんでした。奥さまは彼を入れてやるように、わたしに身振りでしめしましたが、わたしがドアまで行かないうちに、向こうで気がつき、一足、二足、大股でたちまちキャサリンのそばに寄り、ひしと抱きしめました。
五分間ほど物も言わず、抱擁をゆるめず、たぶんそれまでにした口づけの数よりももっとたくさんの口づけをしたのでしょう。でも最初に接吻したのは奥さまでした。ヒースクリフは激しい苦悶のために、奥さまの顔をまっすぐ見ることもできなかったのが、はっきりわかりました! 一目姿を見るなり、もはや全快の見こみはまったくないのだという、わたしと同じ確信がひらめいたのです……彼女の運命は決まり、死を待つばかりなのだ、と。
「おお、キャシー! おお、ぼくの命! どうしてこんなことに耐えられよう!」そう最初に言った語調には絶望がそのまま現わされていました。一心に奥さまの顔を見つめ、いまにも涙が滲《にじ》んでくるかと思うほど、ひたむきな凝視でした。その目は苦悩に燃えあがり、涙に溶けようとはしません。
「こんどは何なの?」とキャサリンはからだをうしろにそらせ、急に眉を曇らせて彼を見返しながら言いました。彼女の気分はたえず移り変わるむら気そのままに動く、風見鶏のようでした。「あなたとエドガーで、あたしの胸を引き裂いてしまったのよ、ヒースクリフ! そして二人ともあたしのところへ、そのことを悲しみにやって来るんだわ。まるで自分こそ憐れんでもらいたいという顔をして! あんたなんか、憐れんでやらない。憐れむもんですか。あんたはあたしを殺してしまった……おかげでよくなったんでしょう。あんたって、強い人ね! あたしが死んでから、まだ何年生きていくつもり?」
ヒースクリフはキャサリンを抱こうと片膝ついていましたが、このとき立ちあがろうとしました。キャサリンは髪の毛をつかんで押えつけています。
「こうやって、二人とも死ぬまで、あんたを放したくない!」と奥さまは悲痛な声で言います。「あんたがどんなに苦しんだって、かまやしない。あんたの苦しみなんかどうだっていい。苦しむのが当たり前よ。あたしが苦しんでるんだもの! あんたはあたしなんか忘れてしまう? あたしが土の中に埋められたら、しあわせになる? いまから二十年さきに、あんたは言うのかしら、『あれはキャサリン・アーンショウの墓だ。ずっと昔、おれは彼女を愛していて、死なれるのはつらかった。だがもう過ぎたことだ。あれからいろいろな女を愛したし、いまじゃ、あの女より子供のほうがかわいい。死ぬときは、彼女のそばへ行けることなんて嬉しくもなんともない。子供と別れるほうがつらい』って? そう言うつもりなんでしょう、ヒースクリフ?」
「そんなに苦しめて、ぼくまで気違いにしないでくれ」とヒースクリフは頭をもぎ放し、歯ぎしりしながら叫びました。冷静な第三者には、二人のようすは異常な恐ろしい光景に見えたでしょう。肉体とともに性格的な特徴まで捨ててしまうのでない限り、キャサリンが天国でさえ流刑の地と思うのは当然です。いまその顔には、青ざめた頬にも、血の気の失せた唇にも、きらきら光る目にも、激しい執念深さがこもっていました。固く握りしめた手には、さっきつかんだ男の髪から引き抜いた毛が残されていました。ヒースクリフのほうは、片手をついて起きあがるとき、もういっぽうの手でキャサリンの腕をつかんだのですが、もともと病人に必要ないたわりなど持たない男ですから、手を放したとき、血の気のない肌にくっきりと指の跡が青く残されていました。
「きみは悪魔に取りつかれたのか、死にかかっていながら、ぼくにそんな口のきき方をするなんて?」とヒースクリフは荒々しく言いました。「そんなことばがみんなぼくの記憶に焼きついて、きみに取り残されたあと、永久にいよいよ深く心に食い入るんだということを考えないのか? ぼくがきみを殺したなんて、嘘だとわかっているはずだ……キャサリン、この身を忘れない限り、きみを忘れるはずがないこともわかっているだろう! きみが安らかな眠りについているあいだ、ぼくは地獄の苦しみにのたうち回るというだけでは、その悪魔のようなわがままは満足できないのか?」
「あたしは安らかに眠りやしない」キャサリンは荒々しい、ふぞろいな心臓の鼓動によって、衰えたからだの意識にもどり、うめくように言いました。心臓は極度の興奮のために、はたにいても目に見え、耳にも聞こえるほど激しく打ちはじめたのでした。発作がおさまるまで、しばらく何も言いませんでした。やがて前よりはやさしい口調になって続けました……
「ヒースクリフ、あんたがあたしより苦しめばいいなんて考えてないわ。ただ、いつまでも別れずにいたいと望んでいるだけよ。これから、あたしの言ったことがひと言《こと》でもあんたを悲しませたら、あたしも土の下で同じ悲しみを味わっているんだと思って、あたしのために許してね! もう一度ここへ来て、跪《ひざまず》いて! あんたはいままで一度もあたしを苦しめたことはなかったわ! そうよ、あたしのことを怒ったりしたら、その思い出はあたしのひどい言葉よりも、もっとつらいでしょう! もう一度ここへ来てくれない? お願い!」
ヒースクリフは彼女の椅子のうしろへ回り、身を屈めましたが、感動のあまり土色になった顔を見せまいとしていました。キャサリンは顔を見ようと振り向きました。彼はそうさせまいとし、急に背を向けて、暖炉のところへ行き、こちらに背中を見せたまま、無言で立っていました。リントン夫人の目はいぶかしげに彼を追っていました。彼のひとつひとつの動作で、奥さまの感情は変わっていきます。しばらく黙って見つめていてから、落胆した腹だたしい調子で、わたしに話しかけてきました……
「そら、ごらん、ネリー、あの人ったら、ちょっとだってやさしくして、あたしを墓の外に引き留めておこうなんてしてくれないの。あたしは|そんな風に《ヽヽヽヽヽ》しか愛されてないのね! でも、いいわ。あの人は|あたしの《ヽヽヽヽ》ヒースクリフなんかじゃない。あたしはあたしのヒースクリフを愛し続けるわ。そしてあたしといっしょにつれて行くの。彼はあたしの魂の中にいるんだもの。それに……」と考えこむように、「とにかく、いちばんやりきれないのは、このだめになった肉体という牢獄よ。こんな中に閉じこめられているのはもうたくさん。早くあの輝く世界へ逃《のが》れて、ずっとそこにいたい。涙を透してぼんやり見たり、痛む心の壁を透してあこがれるのでなく、ほんとにそれといっしょになり、中に住みたいの。ネリー、おまえはあたしよりまさっていて、幸福だと思ってるんでしょう。健康で力に溢《あふ》れていて。あたしを哀れと思っているのね……でも、じきにそれは反対になるの。あたしこそおまえを憐れんでやるのよ。おまえたちみんなより、くらべられないくらい、遠く、高いところへ行くんだから。どうしてあの人があたしのそばに来ないのかしら!」奥さまは独りごとを続けました。「あの人が望んでいると思ったのに。ねえ、ヒースクリフ! すねていてはいけないの。そばへおいでったら、ヒースクリフ」
ついに、こらえきれず立ちあがり、椅子の肘でからだを支えました。その切ない訴えに、振り返った彼の顔は救いようのない絶望の表情をしていました。目はかっと見開かれ、ついに涙に濡れ、すさまじい光を帯びて彼女に注がれ、胸はけいれんするように波打っていました。一瞬、たがいに離れていたと思うと、どうやって寄り添ったのか気のつくひまもなく、キャサリンがさっと飛びつき、ヒースクリフは抱きしめ、二人は固い抱擁に組み合わされました。奥さまがとても生きたまま解き放されることはあるまいと思ったくらい、激しい抱き方で、事実、わたしの目には奥さまがそのまま意識を失ったかと見えました。ヒースクリフは手近の椅子に倒れるように腰かけました。わたしが奥さまは気絶なさったのではないかと、あわてて駆け寄り
ますと、彼は歯ぎしりし、泡を吹きだし、まるで狂犬みたいに、人に取られまいと貪欲な警戒心をむきだしにして、いっそう強く抱きしめるのです。わたしにはとても同じ人間といっしょにいるとは思えませんでした。話しかけても彼には通じそうもないので、当惑しきって、離れたところに黙って立っているだけでした。
キャサリンがちょっと動いたので、いくらかほっとしました。彼女は手を伸ばして彼の首に回し、抱かれたまま頬をすり寄せました。彼のほうでも狂おしい愛撫を注ぎながら、激しく興奮して言うのです……
「いまこそきみはどんなに残酷だったか……残酷で不実だったか、ぼくに教えてくれる。ぼくを軽蔑したのはなぜなんだ? いったいどうして自分の心を裏切ったのだ、キャシー? きみを慰めてやる言葉なんかひとつもないよ。当然の報いなんだから。きみは自分で自分を殺したんだ。そうだ、そうやって口づけし、泣くがいい。ぼくの口づけと涙をしぼり取るがいい。ぼくの口づけも涙も、きみを破滅させる……きみを呪うだけだ。きみはぼくを愛していた……それなのにどんな権利があって、ぼくを捨てたんだ? どんな権利《ヽヽ》があって……さあ、答えてくれ……リントンにくだらん浮気ごころを起こしたからか? 不幸も堕落も死も、神や悪魔のどんな試練もぼくらのあいだを裂くことができないから、|きみが《ヽヽヽ》自分の意志で裂いてみせたのか。きみの胸を引き裂いたのはぼくじゃない……|きみが《ヽヽヽ》自分で引き裂いたんだ。自分の胸を引き裂くとき、ぼくの胸まで引き裂いてしまったんだ。ぼくのからだが頑丈なだけ、なおさらつらい。ぼくが生き永らえたいなんて思うだろうか? どんな生き方がぼくにできるのだ、もしもきみが……ああ、ほんとに、自分の魂を墓に埋められながら、生き永らえたいと望む人間なんてあるだろうか?」
「放っといて。あたしにかまわないでちょうだい」キャサリンはすすり泣きしました。「あたしが間違ったとしたって、そのために死ぬんじゃないの。それで十分でしょう! あんただってあたしを捨てたのよ。それだって、あんたを責めたりしないわ! 許してあげているのよ。あたしのことだって許して!」
「許すのは苦しい……きみのその目を見つめたり、やせ衰えた手にさわるのも。もう一度キスして。きみの目を見せないでくれ! きみのやったことは許してあげるよ。|ぼくを《ヽヽヽ》殺してしまったきみを愛してあげる……だが、|きみ自身《ヽヽヽヽ》を殺したきみは! どうしてそのきみを愛せるんだ?」
二人は口をつぐみました……たがいに相手の顔で顔を隠し、めいめいの涙で頬を濡らしあっていました。少なくともわたしには、二人とも涙を流しているように思われました。ヒースクリフでもこんな感情の高まった瞬間には泣くことができるのでしょう。
そのうち、わたしは心配でたまらなくなってきました。午後の時間はどんどん過ぎ、使いに出した下男は帰って来ますし、谷間の上流のほうに傾いた西日の光で、ギマトン教会のポーチから、たくさんの人が出て来るのが見えました。
「礼拝がすみましたよ。三十分もすると旦那さまがお帰りです」とわたしは報《し》らせてやりました。ヒースクリフはうめくように呪いのことばを吐きだし、キャサリンをもっとしっかり抱きしめました。キャサリンはじっとしていました。
やがて一団となった召使たちが、台所のそでのほうへ道をやって来るのが見えました。旦那さまもあまりおくれずにあとから来られます。自分で門をあけ、ゆっくり歩き、夏のように爽《さわ》やかな気配の漂う、気持のよい午後の大気を楽しんでいらっしゃるようでした。
「さあ、旦那さまのお帰りですよ!」とわたしは叫びました。「後生ですから、急いで下へ行って下さい! 正面の階段なら、だれにも会いません。早くして! 旦那さまが中にはいってしまうまで、木のあいだに隠れていて下さい」
「キャシー、ぼくは行かなくちゃ」ヒースクリフは相手の腕から抜けだそうとしました。「だが、ぼくが生きていたら、きみの眠る前にもう一度会いに来る。きみの窓から五ヤードも離れないところにいるよ」
「行ってはだめ!」キャサリンは力の限り、しっかりと彼をとらえていました。「行かせないわ、だめよ」
「一時間だけだよ」と彼はけんめいに頼みました。「一分だっていや」
「だめだったら……リントンがすぐあがって来るんだ」うろたえながら侵入者は訴えました。
彼は無理にも立ちあがり、そうやって彼女の手をふり離そうとしたのに……キャサリンは喘《あえ》ぎながら、固くしがみつきました。顔には狂おしい決意が浮かんでいました。
「いや!」キャサリンは鋭い叫びをあげました。「ね、行かないで、行かないでよ! これが最後だもの! エドガーだって何もしないわ。ヒースクリフ、あたしは死ぬの! 死んでしまうのよ!」
「畜生! 来やがった」とヒースクリフは叫び、もとの椅子にどっかと坐りました。「ねえ、きみ、静かに! しっ、しっ、キャサリンてば! 行きやしないよ。このままあいつに射たれたら、口に祝福を唱えながら死んでやる」
再びひしと抱き合いました。旦那さまが階段をのぼって来る足音が聞こえました……わたしの額から冷や汗が流れました。おびえきって、思わずくってかかりました。
「奥さまの|うわ《ヽヽ》言に耳をかす気なんですか? 自分でも言ってることがわかってないんですよ。自分で自分をどうすることもできないんだから、破滅させるつもりなんですか? 立って下さい! その気なら、すぐ離れられるじゃありませんか。それはあんたのやり方のうちでもいちばん悪魔的なことですよ。あんたのおかげでみんなだめになってしまう……旦那さまも、奥さまも、召使のわたしも」
わたしは両手を揉《も》み絞り、大声をあげてしまったのです。その騒ぎを聞きつけて、旦那さまはあわてて駈けつけて来られました。わたしが叫びたてているうちに、キャサリンの両腕の力がゆるんで下に落ち、頭もがっくり垂れたのを見て、本当にほっとしました。
「気絶したか、死んだかしたのだ」とわたしは思いました。「かえってよかった。死んでくれたら、そのほうがずっとよい。いつまでもまわりじゅうの人の重荷になり、不幸を作りだしていくだけなのだから」
エドガーは驚きと怒りに真っ青になり、招かれない客に飛びかかって行きました。どうなさるつもりだったのか、わかりませんが、相手はいきなり、命も絶えだえのからだをその腕に抱きとらせ、旦那さまの怒りの爆発をそらせてしまいました。
「そら見ろ! 悪魔でなけりゃ、まずこの人を助けてやるがいい……そのあとでおれに文句を言え!」
ヒースクリフは主人のお部屋へはいって、腰をおろしました。旦那さまはわたしをお呼びになり、ずいぶんと骨を折り、さまざまな手をつくしたあと、どうやら奥さまの意識がもどりました。でも、すっかり混乱していて、ため息をついたり、うなったりし、人の顔の見わけもつきません。旦那さまはその身を案じるあまり、憎むべき妻の恋人のことも忘れておいででした。でもわたしは忘れていません。隙《すき》を見てすぐそこへ行き、帰って下さいと頼みました。キャサリンはよくなった、今夜の具合はあしたの朝知らせるから、と約束しました。
「家の外へ出るのはかまわない。だが庭にいるからな。それから、ネリー、あしたの約束を忘れないでくれ。あの落葉松林の下にいるから。いいね! だめなら、リントンがいたって、いなくたって、もう一度来るからな」
彼はキャサリンの部屋のなかば開いたドアの隙間へさっと目を走らせ、わたしのことばが事実らしいとわかると、その不吉な姿を家の中から消しました。
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十六
その夜、十二時ごろ、あなたさまが嵐が丘でお会いになったキャサリンが生まれたのでございます。ちっちゃな、七か月の子でした。その二時間後に、母親が亡くなりました。最後まで意識を回復せず、ヒースクリフの見えないのを悲しむことも、エドガーの顔を見わけることもなしに、終わったのでございます。奥さまにさきだたれた旦那さまの気も狂わんばかりの嘆きようは、あまりに痛ましく、とてもお話する気にはなれません。その後のごようすを見ましても、悲しみがいかに深かったかわかりました。それに加えて大きな不幸は、男の後継ぎもできずに、奥さまに亡くなられたことでした。母親のいない、弱々しい子を見ては、わたしはそれを悲しく思いました。前のリントンさまが、エドガーの子がお嬢さまだったとき、自分の娘のイザベラのほうに財産が渡るようにしておかれたことを(その偏愛もむりのないことでしょうけれど)、ひそかに恨んだものでございました。かわいそうに、だれにも歓迎されない赤ちゃんでした! 生まれたばかりのとき、泣いて泣いて泣き死にしたって、なんとも思ってくれる人はいなかったでしょう。あとになって、わたしたちは放っておいた埋めあわせをするようになりましたけれど、生まれた当座は一人の味方もなかったのです。たぶん一生の終わりもそんな風になる運命なのではないでしょうか。
夜が明けると……外は明るい気持のよい朝となっていました……ひっそりした部屋の鎧戸《よろいど》を透して、日ざしが柔らかくさしこみ、寝椅子と、そこに寝ている人をなごやかな、やさしい光りで包みました。エドガー・リントンは枕に頭をのせ、目を閉じておりました。若々しい美しい顔だちも、かたわらに横たわる人と同じように、死の影におおわれ、ほとんど動きもしません。でも旦那さまのほうは悲しみに疲れきった静かさであり、奥さまのは完全な平和の静かさでした。キャサリンの顔は穏やかで、瞼を閉じ、唇に微笑が漂い、天国のどんな天使もかなわないような美しさでした。わたしにも奥さまのからだを包む無限の静かさが伝わって来ました。かき乱されることのない、神々しい休息の姿を見つめているときくらい、純粋な気持になったことはかつてありません。思わず、二、三時間前の奥さまの言葉をまねて、つぶやいていました……「わたしたちみんなとは、比べられないくらい、遠く離れた高いところへ!……まだ地上にあるにせよ、すでに天国にあるにせよ、奥さまの魂はもう神のみもとに落ち着いていらっしゃる!」
これはわたしだけ特別なのかもしれませんが、そばに取り乱したり絶望したりして悲しむ人がいない限り、亡くなった人の部屋で一晩じゅうお祈りするのが好きなのです。そこには現世も地獄も壊すことのできない静かさが見られ、終わりもなく影もない来世……死者のはいって行った永遠の世界……の確証が感じられるのでございます。そこでは生命は限りなく続き、愛は限りなく応《こた》えられ、喜びは限りなく満ち溢《あふ》れています。このときわたしは、キャサリンの祝福された解放を嘆いておられるリントンさまの愛でさえ、いかに利己的なものかと感じたのでございます。たしかにこの方のように、きままな、せっかちな一生を送ったあとでも、最後には平和な安息の地に行けるものか、と疑う方もございましょう。冷静に考えたら、そんな疑問も起こるかもしれませんけれど、あの場合、ご遺骸を前にして、とてもそんなことなど考えられませんでした。ご遺骸はあくまで静かに横たわり、飛び去った魂にも同じ静かさを保証しているように見えました。
ロックウッドさまは、あんな風な方でも来世で幸福になれるとお考えですか? わたしはそれがどうしても知りたいのでございます。
ぼくはディーンさんの質問には答えなかった。なんだかキリスト教の考え方とはちがうような気がしたからだ。ディーンさんは話を続けた……
キャサリン・リントンの生涯を思い出してみますと、あの方が天国でしあわせだとは考えられない気がします。でもそれは神さまにお任せするより仕方ありませんね。旦那さまは眠っていらっしゃるようでした。わたしは夜明けになるとすぐ部屋を出て、澄んだ爽やかな外気の中へ行きました。召使たちはわたしが長いお通夜の眠気ざましに出て行ったと思ったようですが、実は主な目的はヒースクリフに会うことでした。もしも一晩じゅう落葉松林にいたとすれば、ギマトンヘ走った使いの馬の蹄の音は聞いたでしょうけれど、お屋敷の中の騒ぎは何も知らなかったはずです。もっと近くへ来ていたら、あちこち行きかう灯影や、外のドアが何度もあけたてされたことから、内部の異常に気がついたかもしれません。彼に会いたいと思いながらも、それが心配でした。恐ろしいできごとを教えないわけにはいかないとしたら、早くすませてしまいたい、と思いました。でも、どうやって伝えたものかわかりません。ヒースクリフはやっぱりいました……数ヤード猟園《パーク》にはいったところで、帽子もかぶらず、|とねりこ《ヽヽヽヽ》の木にもたれていました。蕾《つぼみ》をつけた枝にたまって、まわりにぽたぽた落ちる露に、髪の毛はびしょ濡れでした。長いこと同じ位置に立ちつくしていたのでしょう。ひとつがいのつぐみが三フィートと離れないところを飛びかい、せっせと巣を作っていましたが、近くの彼を棒ぐいぐらいにしか見なしていなかったからです。鳥はわたしが近づくと、飛び去りました。彼は顔をあげて言いました。
「死んでしまったな! おまえから聞くために待ってたんじゃない。ハンカチをしまっておけ……おれの前でめそめそやって見せなくてもいい。みんなくそくらえだ! あれはおまえらの涙なんか欲しがってはいないよ!」
わたしはキャサリンだけでなく、彼のためにも泣いていたのです。わたしたちは自分自身にも他人にも何の感情ももたない人間でさえ、憐れんでやることがあるのですね。ヒースクリフの顔を一目見ただけで、痛ましい不幸を知ったのだ、と感じました。唇を動かしながら、じっと地面を見つめているものですから、彼の心はもう静まり、お祈りしているのだ、などとばかなことをふと考えました。
「そうです、亡くなりました!」とわたしはおえつを押え、頬をぬぐいながら答えました。「天国へ召されたのですよ、きっと。神さまのみ教えに従い、悪の道を捨てて、正しい道を歩んだら、みんな、だれもかれも天国でごいっしょになれるでしょう!」
「それじゃ、あれも神さまの教えに従ったというのか?」ヒースクリフはせせら笑いを浮かべようとしました。「聖女のように死んだのか? さあ、死にぎわの本当のようすを話してくれ。どんな風に……」
キヤサリンの名を言おうとして、どうしても言えません。口をきっと結び、内心の苦悶と無言のうちに闘いながら、わたしの同情など寄せつけまいと、弱気を見せぬ狂暴な目つきでにらんでいました。「どんな風に死んだんだ?」やっと言葉を続けました……あの大胆な男が、うしろの木の支えがなくては立っていられないのです。苦闘のあげく、指先までぶるぶる震えるのを抑えようにも抑えることができません。
「かわいそうに!」とわたしは思いました。「あなたにもほかの人間みたいな心と神経があるのね! なぜそれを隠したがるの? いくら強がってみせたって、神さまはごまかせやしません! あんたときたら、おれの心から涙を絞り出せるなら出してみろ、と神さまを試す気みたいだけど、いつかは神さまにその傲慢《ごうまん》さをうち砕かれて泣き叫ぶ時が来ますよ」
ヒースクリフには、「小羊のように静かにね!」と答えてやりました。「溜息をついて、からだを伸ばし、ちょうど子供がふと気がついて、また寝こむように。五分たって、心臓にかすかな鼓動をひとつ感じましたが、それきりになりました!」
「それで……おれのことを何か言ったか?」しばらくためらってから言ったのは、答えとして、耐えられないような細かい事情を聞かされはしまいかと恐れていたようでした。
「意識はもどりませんでした。あんたが出て行ってから、だれの顔も見わけられなくなりました。いまはやさしい微笑を浮かべておやすみになっています。息を引き取る前は、楽しかった子供の頃を思いだしていました。穏やかな夢を見ながら一生を閉じられたのです……あの世でも同じやさしい心で目を覚まされますように!」
「苦しみ悶えながら目を覚ましゃいいんだ!」
ヒースクリフはじだんだ踏んで、恐ろしい見幕で叫びたて、突然襲った激情を押えきれずに、うなり声をあげました。「ちえっ、最後まであいつは嘘つきだ! キャシーはどこだ? あそこじゃない……天国じゃない……死にやしない……どこへ行ったんだろう? そうだ! おれの苦しみなんかなんとも思わないって、きみは言ったな! よし、おれはひとつだけ祈ってやる……おれの舌がこわばってしまうまでくり返してやる……キャサリン・アーンショウは、おれがこの世に生きている限り、安らかに眠ることはないように! きみはおれがきみを殺したと言ったな……それなら幽霊となって出て来い! 殺された人間は幽霊となって殺人者につきまとうはずだ。ほんとに地上をさまよった幽霊のことも知っている。いつでもおれといっしょにいてくれ……どんな姿だっていい! おれを気違いにしたっていい! ただお願いだ、きみの姿が見えないこの地獄に、おれを一人ぼっちにしないでくれ。ああ、たまらない! この苦しみはとても口では言えないのだ! おれの命を失くして生きてはいけない! おれの魂なしに生きていけるものか!」
こう言って、節くれだった木の幹に頭を打ちつけ、きっと見あげて、吠《ほ》えたてるのです。とても人間とは思われず、刀や槍《やり》で突き殺される野獣のようでした。木の皮に点々と血のしぶきが飛んでいて、手も額も血まみれでした。おそらくわたしが見た場面は、一晩じゅう何度もくり返されたのにちがいありません。でもわたしには同情がわくどころか……ただもうぞっとするばかりでした。だからといって、そのまま立ち去る気にもなれません。彼のほうでは、われに帰り、わたしがじっと見ているのを知ると、あっちへ行け、とどなりたてました。わたしも言われるままにしました。彼を静めたり、慰さめたりなどは、とうていわたしなどの力のおよぶことではありません。
リントン夫人のお葬式は亡くなったあとの金曜日と決まりました。その日まで、棺《ひつぎ》は蓋をせずに大広間におかれ、たくさんの花や匂いのよい木の葉ですっかりおおわれていました。リントンさまは夜昼ともに一睡《いっすい》もなさらず、寄り添っておられました。そして……わたし以外のだれにも秘密でしたが……ヒースクリフも、少なくとも夜のあいだは、外でやっぱり眠らずに過ごしておりました。彼と連絡していたわけではありませ
んが、隙《すき》さえあればはいって来ようとしている彼の考えがちゃんとわかっていました。火曜日のこと、日が暮れるとまもなく、疲れはてた且那さまが、やむなく二時間ほど別室へお引き取りになりました。わたしは立って行って、窓のひとつをあけました。実はヒースクリフの辛抱づよさに動かされ、いまは色あせた彼の偶像に、最後の別れを告げる機会を与えてやろうとしたのでございます。彼もその折を逃がそうとせず、用心深く、しかもすばやく利用しました。思いきり慎重にやり、かすかな物音ひとつたてなかったので、やって来たことがわからないくらいでした。ただ遺体の顔にかけた布が乱れ、床の上に銀糸で結んだ薄色の巻き毛が落ちていたので、それと知ったのです。よく見ますと、その巻き毛は、キャサリンの首にかかっていたロケットから取りだしたものでした。ヒースクリフはその飾りの小箱をあけて中味を捨て、かわりに自分の黒い巻き毛を入れておいたのです。わたしは二つの巻き毛をよりあわせ、いっしょに納めておきました。
アーンショウさまもむろん妹の埋葬に参列の招きを受けました。でも断りもよこさず、姿も見せませんでした。こうして、会葬者は旦那さま以外には小作人と召使ばかりになりました。イザベラは招かれませんでした。
キャサリンの埋葬場所は、彫刻のあるリントン家の墓碑の下でも、教会の外側の生家の墓地でもなかったので、村人たちはずいぶんと不審に思いました。教会の墓地のひとすみの、緑の斜面に墓は掘られました。そのあたりは塀《へい》がたいへん低いので、荒野のヒースや苔桃《こけもも》がそれを越えて中まではびこり、泥炭質の土がほとんど塀を埋めてしまいました。主人のエドガーさまもいまは同じ場所に眠っておられます。お墓のしるしとしては、それぞれ簡単な墓石があって、粗末な灰色の板石が土台になっているだけでございます。
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十七
その金曜日は、ひと月続いた晴天の最後の日となりました。夕方から天気がくずれだし、風は南から北東に変わり、まず雨を降らせ、続いてみぞれと雪になりました。次の日は、それまで三週間も夏が続いたとは思えないような変わりかたでした。桜草もクロッカスも冬のような雪の吹きだまりに埋もれ、ひばりは声をひそめ、若木の新しい葉は痛めつけられ黒ずんでしまいました。わびしく、寒々と、陰気に、その日はのろのろと過ぎて行きました! ご主人さまはお部屋に閉じこもりきり、わたし一人でさびしい居間を占領して育児室にし、泣き人形のような赤ちゃんを膝にのせ、左右にゆすぶっていました。そうしながらまだ続いて吹きつける雪片が、カーテンのない窓に積もっていくのをながめていますと、突然ドアが開き、だれか息を切らし、笑い声をたてながら飛びこんできたのです! 思わず、驚くよりも憤慨しました。てっきり女中の一人と思い、叱ってやりました……
「およしなさい! こんなところで、はしたないじゃありませんか! 旦那さまに聞こえたら何ておっしゃるかしら?」
「ごめんね!」と答えたのは聞き覚えのある声でした。「でもエドガーはやすんでいるでしょうし、あたしどうしても我慢《がまん》できないんだもの」
そう言って暖炉のほうへ近づきました。まだ喘《あえ》ぎ、片手でわき腹をおさえています。「嵐が丘からずっと走り続けよ!」とひと息ついて、続けました。「飛ぶようだったところもあるわ。何遍転んだか数えきれない。ああ、からだじゅう痛い! びっくりしなくたっていいの! 落ち着いたら話してあげるわね。とにかくさきに、向こうへ行って、ギマトンヘつれて行ってくれるように馬車を用意させて。だれか女中に言って、あたしの衣裳だんすから服を二、三着出させてちょうだい」
飛びこんで来たのはイザベラだったのです。そのようすはどう見ても笑いごとではなさそうでした……肩になびく髪は雪と水を滴《したた》らせています。いつもの少女っぽい服を着ていましたが、年齢には似合いですが奥さまらしくありません。衿ぐりが深く、袖も短いのに、帽子もショールもしていません。上衣は薄い絹で、濡《ぬ》れて肌にへばりつき、足も薄い室内ぐつで守られているだけです。おまけに、片方の耳の下に深い切り傷があって、寒さのおかげでやっとひどい出血をまぬかれているありさま。白い顔にはひっかききずや青あざ、疲労のために立っているのもやっとなくらい。これではわたしの最初の驚きが、ゆっくり彼女を観察したあとでもあまり変わらなかったことはおわかり頂けるでしょうね。
「まあ、お嬢さま!」とわたしは叫びました。「着ているものをみんなお脱ぎになって、乾いたものに着替えるまでは、わたしはここを動きません、何もお聞きしませんよ。おまけに今夜のうちにギマトンヘなど行かれはしません。馬車の用意なんかいりませんよ」
「絶対、行くわ。歩いても、馬でも。でも身なりをととのえることに異存はないわ。それに……あら、血が首すじに流れてるでしょう! 火にあたたまったら痛んできた」
イザベラはわたしが指図どおりにするまでは、手を触れることも許しません。馭者《ぎょしゃ》に馬車の用意をさせ、女中に必要な衣類の荷造りを始めさせたあとで、やっと傷に包帯したり、着替えを手伝うことに同意してくれました。
「さあ、エレン」わたしのお世話もすみますと、イザベラは暖炉の前の安楽椅子に腰をおろし、一杯のお茶を前にして言いました、「あたしの前に掛けてよ。そのかわいそうなキャサリンの赤ちゃんはわきへやって……見たくないの! だけど、ここへはいってくるとき騒々《そうぞう》しかったからといって、キャサリン義姉《ねえ》さんのことをなんとも思ってないなんてとらないで。あたしだってずいぶん泣いたわ……そうよ、だれにも負けないくらい、泣く理由はあったんだもの。お義姉さまとは喧嘩《けんか》別れになっちゃったでしょう、だからあたしはもう自分を許せないだろうと思うの。でも、それはそれとして、あの人に同情するつもりはないわ……あの野蛮なけだものなんか! そうだ、その火掻き棒を取って! あたしの身に残されてる、あの男のものはこれだけよ」そう言いながら、薬指から金の指輪を抜き取り、床に投げつけました。「叩きつぶしてやる!」と子供じみた憎しみをこめて打ちながら、「燃しちゃうんだ!」と、さんざんに痛めつけた指輪を拾って石炭の火の中へ投げこみました。「これでいい! もしあたしを取り戻したら、もうひとつ買わせてやるわ。あの人はあたしを探しに来て、エドガー兄さんを責めるぐらいのことはやるでしょう。そんな陰険なことを考えつきそうだから、ここにゆっくりしてられないの! それにエドガーだって、あたしには親切にしてくれなかったでしょう? だから助けてもらいに来たくはないし、これ以上面倒に巻きこむつもりもないわ。ただ、やむにやまれずここへ逃げこんだだけ。それもお兄さまが自分の部屋にはいってるって聞かなかったら、台所に寄るだけで顔を洗って、暖まって、おまえに入り用なものだけ取ってきてもらって、すぐまたどこかへ行ってしまうつもりだったの、あの呪われた……人間の姿をした鬼の手の届かないところへ! ああ、あの男ったら、狂ったように怒ったわ! もしかつかまっていたらどうでしょう! ヒンドリーの力がとてもあいつにかなわないのが残念だわ。もしヒンドリーにできるなら、あいつが半殺しになるのを見届けるまでは逃げだしたりなんかしなかったわ!」
「まあ、お嬢さま、そんなに休まずお話しにならないで!」とわたしはさえぎりました。「お顔に巻いてあげたハンカチがほどけて、また傷から血が出ますよ。お茶をあがって、ひと息お入れになったら? 笑うのはおやめなさいな。いまこのお屋敷で笑うことは禁物ですよ。あなたの立場からもいけないことですわ!」
「たしかにそのとおりね。まあ、あの子の泣き声を聞いて! ずっと泣き続けじゃないの……せめて一時間、あたしに聞こえないところへやってちょうだい。それ以上は長居しないから」
わたしはベルを鳴らして、赤ん坊を女中の手に預けました。それからイザベラに、どうしてそんなひどいかっこうで、嵐が丘から逃げださなければならなかったのか、ここにいるのがいやだからといって、どこへ行くつもりなのかと、たずねました。
「あたしはここにいるのが当然だし、いたいとも思うのよ。エドガーを慰めてあげるのと、赤ちゃんの世話をしてあげるのと、ふたつのことができるし、この屋敷はあたしの実家なんだもの。でもあいつがそんなことをさせておきゃしないわ! あたしが太って朗らかになってゆくのを黙って見ていると思う? あたしが平和に暮らすのを見て、その安らかな生活をぶちこわさずに我慢しているような人間だと思って? あの男があたしを嫌って、あたしの声を聞いたり姿を見るだけでもむかつくってことがたしかになって、満足だわ。あたしが彼の目にはいると、あの顔の筋肉がひとりでに憎しみの表情にゆがんでしまうの。ひとつには、あたしにも彼を憎むだけのちゃんとした理由があるのを承知しているからだし、ひとつには、もともとあたしが嫌いなのよ。とにかく本当に嫌ってるんだから、すっかり姿をくらましても、イングランドじゅう追い回すなんてことは、まずないわね。だから、どうしても逃げきらなきゃならないのよ。初めのうちは、あの男が殺してくれればいいと思ったけど、いまは考えない……いっそ向こうで自殺するほうがいいんだわ! あの男はあたしの愛情の火をうまい具合に消してくれたから、気が楽なのよ。いまでもまだ、とてもあの男を愛していたことを思いだせる。これからだって愛せるような気もしなくはないけど、それには……いえ、だめよ! たとえあの人があたしを夢中で愛してたとしたって、悪魔みたいな体質はどっちみち姿を現わしたに違いないもの。キャサリンはとことんまで知っていながらあんなに愛していたのは、よっぽどひねくれた趣味があったのね! 怪物め! あんなやつは、この世界から消えうせ、あたしの記憶から(拭《ぬぐ》拭い去られるがいい!」
「しっ、やめて下さい! あの人だって人間ですよ。もっと同情しておあげなさいまし。もっともっと悪い人だっているんですから!」
「あれは人間じゃない。あたしの同情を要求する資格なんてないわ。あたしが心を捧げたのに、それを取ってひねり殺し、あたしに投げ返したの。エレン、人間は心で感じるものなんだわ。その心を殺されてしまったのだもの、彼のために感じる力はもうないわ。たとえあの人がいまから死ぬ日までキャサリンのためにもだえ苦しんだって、血の涙を流したって、同情なんかしてやらない! そうよ、決して、決して、同情なんかするもんですか!」そう言うと、イザベラは泣きだしました。すぐに睫毛《まつげ》から涙をさっとぬぐい、ふたたび話し始めました。「なぜ、とうとう逃げだしたのか、って言うのね? そうせずにはいられなかったの、あの人を、いつもの憎しみどころではなく、怒り狂わせてやったんだから。真っ赤に焼いた|やっとこ《ヽヽヽヽ》で神経を引き抜くようなことをするには、頭を殴《なぐ》るときよりも冷静さが必要だわ。あの男ったら、完全に逆上して、いつも自慢の悪魔みたいな慎重さを忘れてしまい、殺意をもった暴力をふるいだしたの。あいつを本当に怒らしたのは楽しかった。でも楽しいと思ったら、急にわが身がかわいくなって、ここまで逃げてきたというわけ。もしまた、あの手に捕まったら、どんな恐ろしい復讐でもするがいいわ。
きのう、アーンショウさんはお葬式に来るはずだったのね。そのつもりでお酒も飲まずにいたのよ……ぜんぜんていうわけでもないけど。でも、気違いみたいになって六時ごろ寝床に行き、十二時ごろ酔っぱらったまま目を覚ますなんてことはしなかったわ。おかげで、起きたときは自殺でもしそうなくらい気分が沈み、ダンスはおろか教会にも行けないありさまで、とうとう教会へ行かずに暖炉のそばに腰をすえちゃって、ジンだかブランデーだかを大コップで何杯も飲みだしたの。
ヒースクリフは……名前を言うだけでもぞっとする! ……この前の日曜日から今日まで、めったに家の中に姿を見せなかったわ。天使が食べさせてくれたのか、それとも地獄の親類がやってくれたのか、知らないけど、一週間ぐらい、あたしたちといっしょに食事をしてないのよ。明け方になってやっと帰ると、二階の自分の部屋へ行って鍵をかけてしまうの……だれかがしつこくいっしょにいたがってるみたいにね! その部屋でずっとメソジスト派の信者みたいに祈りつづけるの。だけどあの男がお祈りしたのは、感覚のない塵《ちり》と土くれになったキャサリンなんだし、本当の神さまに呼びかけるときだって、奇妙なことだけど、あの男の悪魔とごっちゃにしてるのよ! やっと大事なお祈りをすますと……たいてい声がかれ、喉がつぶれちゃうまで続くんだけどね……またおでかけ。きまってまっすぐこの屋敷までね! エドガーはなぜ警官を呼んで監禁させないのかしら! あたしはキャサリン義姉さんのことは悲しかったけど、おかげでけがらわしい虐待から逃れられて、息抜きだと思ってしまったわ。
あたしもそれで元気が出て、ジョーゼフの長いお説教も泣かずに聞けるようになったし、前みたいにこそ泥みたいにびくびく家の中を歩きまわることもしなくなったわ。ジョーゼフなんかの言うことで泣くことはないって思うかもしれないけれど、あの爺《じい》やとヘアトンときたら、ほんとにいやな相手だわ。まだしもヒンドリーといっしょにいて、恐ろしい話でも聞いてるほうが、あの爺やの言う『ちっちゃい旦那』のヘアトンや、忠実なお守《も》り役の、胸くそ悪い老いぼれといるよりましだわ! でもヒースクリフがいるときは、あたしもよく台所へ行って二人の仲間入りするか、しめっぽい空き部屋でおなかをすかしているかしなきゃならないの。今週みたいにヒースクリフが留守だと、居間の暖炉の片いっぽうの側にテーブルと椅子を置くの。アーンショウさんが何をしていようとかまわないし、向こうでもあたしのすることには干渉しないわ。あの人も、だれかが怒らせない限り、前よりおとなしくなったわ。前より気むずかしく、ふさぎこんではいるけれど、あまりひどく怒らないの。ジョーゼフは旦那はたしかに人間が変わった、神さまが旦那の心に触れられたので、『火より逃れ出たように』救われた、なんて言ってるけど、良い変化の徴候をどうやって見つけたらよいかわからない。でもあたしにはどっちだっていいことね。
ゆうべ、あたしはおそく、十二時ごろまで、いつものすみっこで古い本を読んでいたの。外はひどい吹雪《ふぶき》だし、教会の墓地や新しいお墓のことが絶えず頭に浮かぶので、二階へ行くのがとても気味悪かったの! もの悲しい光景がすぐに目の前にちらつきそうで、前に置いた本のページからどうしても目があげられないの。ヒンドリーは向こう側に頬杖ついていたけど、きっと同じことを考えこんでいたのでしょう。酒は理性を失う一歩手前で飲むのをやめていて、二、三時間、身動きもしなければ、口もきかないの。家じゅうしんと静まりかえって、ただときどき窓を揺すぶる風のうなり声と、石炭のかすかにはじける音、あたしが時たま蝋燭の長くなった芯《しん》を切る芯切り|ばさみ《ヽヽヽ》の音がするだけ。ヘアトンとジョーゼフはもうぐっすり寝こんでしまったらしかった。あたしはなんだか、悲しくて、悲しくて、やりきれなくなって、本を読みながらため息ばかりついていたわ。この世から喜びがみな消えてしまい、二度と戻って来ないような気がしたの。
暗く沈んだ沈黙をやっと破ったのは、台所の掛け金の音だったわ。ヒースクリフがいつもより早く寝ずの番から帰ってきたの。たぶん、急に嵐になったせいでしょう。その戸口は錠がおろしてあったので、別の入口へ回る足音が聞こえたわ。あたしがやりきれない気持を思わず口に出しながら、立ちあがると、ドアのほうをじっとにらんでいたヒンドリーがふりかえって、あたしを見たの。
『五分間ばかり外においてやろう。文句はないだろうな?』
『ええ、けっこうよ。一晩じゅう外においてくれたってかまわないわ。どうぞ! あの錠に鍵をかけて、閂もしてくださいな』
ヒンドリーはヒースクリフが正面玄関に回らないうちに、戸をしめ切ってしまったの。戻って来るとあたしのかけているテーブルの向かい側に椅子を引き寄せ、テーブルによりかかって、あたしの目を探るように見るの。燃えるような憎しみの目で、同じ感情をあたしの目に見いだそうとしたのね。でも彼の目は人殺しみたいだし、ほんとにそんな気持だったんだもの、あたしの目色がすっかり同じというわけにはいかなかったわ。でもとても元気づいたらしく、こう言うの。
『あんたもおれも、あの外にいる男に相当な借りを返さなくてはならないんだ! 腰抜けでなかったら、力を合わせて返してやったっていいんだ。あんたは兄貴みたいな弱虫かい? 最後までじっと我慢して、一遍もお返ししようなんて思わないのかね?』
『もう我慢するのはあきあきしたわ。こっちへはね返ってこない仕返しなら喜んでする。でも裏切りと暴力は両端のとがった槍と同じよ。使った者が敵よりよけいに傷つくものだわ』
『裏切りと暴力に報いるには裏切りと暴力があるだけだ! ヒースクリフの奥さん、何かやってくれというわけじゃない。じっと坐って静かにしていてくれりゃいいんだ。どうだ、できるかね? 悪魔の命が絶えるのを目のあたりにしたら、おれに劣らず満足なはずだ。あんたのほうで出し抜かない限り、あいつにあんたの生命はとられてしまう。おれだって破滅させられる。いまいましい悪魔野郎め! もうここで主人づらして戸を叩いてやがる! 黙っていると約束してくれ、そうしたらあの時計が打つ前に……もう一時三分前だが……あんたは自由の身になれるんだ!』
彼は懐から、いつかあたしが手紙で話した武器を取り出して、蝋燭を消そうとしたの。だけどあたしは燭台を奪いとり、腕をつかまえてしまった。『あたしには黙っていられない! あの人に手を触れてはだめ。ドアをしめたまま、静かにしてるのよ!』
『いやだ! 腹は決まってる。誓って、実行するぞ!』とやけくそになって叫びました。『あんたがいやだって、おれはあんたを助けてやり、ヘアトンにも正当なことをしてやるんだ! おれをかばおうなんて頭を悩まさなくてもいい。キャサリンだってもう生きてないんだしな。おれがたったいま喉ぶえをかき切ったって、だれ一人悲しむやつも恥じるやつもいやしない……おれも年貢の収めどきだ!』
まるで熊とあらそうか、気違いと議論してるようなものだったわ。もうこうなっては格子窓まで飛んで行き、狙われている相手に、待ち受けている運命を知らせてやるしか方法はなかったの。
『今夜はどこかほかのところで泊まったほうがよさそうね!』と勝ち誇った気持で大声で呼びかけてやった。『どうしてもはいろうとすれば、アーンショウさんがあんたを射ち殺すつもりなんですからね』
『戸をあけたほうがいいぞ、この……』とヒースクリフはとても繰り返す気になれないお上品な呼び方をしてくれた。
『あたしはかかり合いはごめんよ』あたしは負けずに言い返してやった。『よかったら、はいって来て射たれるといいわ! あたしは義務だけははたしたのよ』
そう言うとあたしは窓をしめ、暖炉のそばの席へ戻ってしまった。あいにく偽善心はほとんど持ちあわせがないから、あの人のさらされている危険を気づかうふりなんてできなかったの。アーンショウはかっとなってあたしに毒づき、まだあんな悪党に惚れてやがる、貴様のさもしい根性がはっきりしたと、ありとあらゆる悪口雑言を浴びせた。あたしはひそかに(良心の苛責もなしに)考えたの。もしかしてヒースクリフがこの男のみじめな命を絶ってしまったら、この男にはどんなにしあわせかわからないし、またこの男がヒースクリフを本当の住みかの地獄へ追いやってくれたら、あたしはどんなにしあわせになるだろうって! いろいろ考えめぐらせていると、うしろの窓がヒースクリフの一撃で床に叩き落とされ、あのぞっとするような黒い顔がぬっと覗《のぞ》いたの。両側の支柱の間が狭くて、肩まではいれないので、まず安心と、あたしはにこにこしてやった。彼の髪も服も雪で真っ白、人食い人種みたいな鋭い歯並びが寒さと怒りでむきだしになり、暗闇に光ってたわ。
『イザベラ、中へ入れろ。入れなきゃあとで思い知らせるぞ』と、ジョーゼフのことばで言えば、『うなり立てた』の。
『あたしには人殺しはできない。ヒンドリーさんがナイフのついたピストルに弾をこめて見張ってるのよ』
『台所のドアから入れろ』
『ヒンドリーがさきにそこへ行っちゃうわ。吹雪ぐらいで、帰って来るなんて、情ない愛情だこと! 夏の月が照ってるうちは、おかげでのびのびやすませてもらったけど、冬の風が吹きだしたと思ったら、たちまち屋根を求めて逃げこんで来るんですからね! ヒースクリフ、あたしがあなただったら、あの人のお墓の上に寝て、忠実な犬らしく死んでやるわ。もうこの世も生きる値打ちがないはずよ、どう? キャサリンこそあなたの生きる喜びのすべてなんだと、はっきりとあたしに思い知らしてくれたはずじゃない? あの人に死なれても生きながらえようと考えるなんて、あたしには想像もできないわ』
『あいつはそこだな?』とヒンドリーは叫んで、壊された窓へ駆けよったわ。『腕さえ出せりゃ射てるのに!』
エレン、おまえはあたしのことをほんとに性悪な女と決めてしまいそうだけど、事情をみんな知ってるわけじゃないんだから、勝手に決めないで。いくら、あんなやつの命だって、殺す企てを助けたりそそのかしたりしたくなかった。だけど死んでくれればいい、と願わずにはいられないのよ。だから彼がヒンドリーの凶器に飛びかかってもぎ取ってしまうと、ほんとにがっかりし、さっきからかってやった結果がこわさに縮みあがってしまった。
ピストルは発射され、そのはずみでナイフがはね返り、ヒンドリーの手首に突きささったわ。ヒースクリフが力まかせに引っこ抜いたので、肉がさっと切れてしまった。彼は血のしたたるまま、ナイフをポケットに押しこみ、石を拾って窓と窓との仕切りを叩き壊し、中へ飛びこんで来たの。相手はひどい痛みと、動脈か太い静脈から吹き出す血で、気絶して倒れていたわ。悪党はそれを蹴とばしたり踏んづけたり、頭を何度も床石に叩きつけたりするの。そのあいだ、片手であたしをしっかりつかまえていて、ジョーゼフを呼びに行かせないの。ヒンドリーをひと思いに殺すのをやめたのは、それこそ人間離れした自制心を働かしたようだわ。自分でも息切れしてきて、とうとう乱暴をやめ、まるで死んだようなからだを長椅子へ引っぱりあげたわ。それからアーンショウの上衣の袖を引きちぎり、とても乱暴に傷口をしばってやりながら、蹴とばしていたときと同じすごい勢いで唾を吐いたり罵ったりしてるの。あたしのほうは自由になるとすぐ、爺やを呼びに行った。爺やはあたしの急きこんだ話がやっと呑みこめると、一度に二段ずつ、はあはあ言いながらあわてて階下へ降りて行ったの。
『こりゃあ、……どうしたこった? いってえこの騒ぎは何だね?』
『騒ぎもくそもない、おまえの主人の気が狂ったんだ』とヒースクリフはがなりたてた。
『もうひと月も生きのびていたら、気違い病院へ行かしてやる。ところできさまは、いったいなぜおれをしめだしやがったんだ、この歯抜け犬め! そんなところでもぐもぐ言ってるな。さあ、おれはこいつの介抱なんかしてやらないぞ。血を洗ってやれ。蝋燭の火に気をつけて……その血は半分以上ブランデーだからな!』
『それじゃ、おめえさまは、旦那を殺そうとしてただな?』ジョーゼフは恐怖のあまり目と両手をあげて叫んだの。『こんなとこを、見たこともねえ! おお神さま……』
ヒースクリフは爺やを突き飛ばして、血の流れている真ん中に膝をつかせ、タオルを投げつけてやった。爺やは血を拭こうとはせず、手を組みあわせてお祈りを始めたの。それが変てこな文句なので、あたしは思わず吹きだしちゃった。もうどんなことにも驚かないような気持だった。まったく、悪人が絞首台の下でしめすような不敵さになっていたのね。
『そうだ、おまえを忘れてた』と暴君が言ったわ。『おまえがやれ。さっさと膝をつけ。このまむし女が、あいつとぐるになっておれをやっつける気だな。そら、きさまに似合いの仕事だ!』
ヒースクリフは歯がガタガタ言うほどあたしを揺すぶり、ジョーゼフのそばへ引き据えたの。ジョーゼフは悠々《ゆうゆう》とお祈りをすませ、これからすぐスラッシクロス屋敷へ行くんだと言って立ちあがったわ。リントンさんは治安判事だから、たとえ五十人も奥さんを亡くしたあとだって、こんなことは調べなくてはならないんだって言うの。その決意をあくまでも実行する気なので、ヒースクリフもあたしの口から事件のあらましを聞きだすほうがいいと思ったのね。あたしがいやいやながら質問に答えて話しているあいだ、すぐ前に立ちはだかり、憎しみに胸を波うたせているの。爺さんにヒースクリフがさきに手を出したのではないと納得させるのは、容易じゃなかったわ。ましてあたしがいやなのを無理やり答えさせられたんだもの。でも、じきにアーンショウさんはまだ生きていることがわかったの。ジョーゼフが急いで気つけのお酒を飲ませてやると、その効きめでじきに意識が戻り、からだを動かしはじめたわ。ヒースクリフは、相手が気絶しているあいだに受けた乱暴を知らないのを見てとり、おまえは酔っぱらって狂い回っていたんだと言いくるめ、おまえの狂暴な行為はもう咎《とが》めないでやるから、早く寝たほうがいいと言うの。ありがたいことに、こんな賢明な忠告をしたあとで、ヒースクリフは出て行き、ヒンドリーは暖炉の前に長々と寝そべってしまったの。あたしはあんまりやすやすと危険を免れたのを不思議に思いながら、自分の部屋へ引きあげたというわけ。
今朝十一時半ごろ、下へ降りて来ると、アーンショウさんは炉辺にすわって、死んだような顔をしていた。彼にとりついた悪霊のヒースクリフも、同じくらいやつれた幽霊のような青い顔で、暖炉にもたれていたわ。二人とも食事をする気もないらしいので、わたしはテーブルの上のものがみな冷えてしまうまで待ってから、一人で食べはじめたの。腹いっぱい食べるのを遠慮する理由はなかったし、ときどき黙っている二人をちらちら見ながら、なんとなく満足した優越感が起こり、静かな良心の安らぎを感じていたわ。食べ終えてから、いつになく大胆に自由に振舞い、ヒンドリーの椅子を回って暖炉のそばへ行き、彼のいるすみっこにならんでうずくまったの。
ヒースクリフはあたしのほうを見ようともしない。あたしは見あげて、彼の顔が石にでもなっているように安心して、つくづくながめてやった。前にはとても男らしいと思った顔も、いまはまったく悪魔的に感じられるのだけれど、重苦しい影におおわれていたわ。悪党らしい目は不眠のせいで光りがほとんど消え、睫毛《まつげ》が濡れていて、どうやら泣いているらしかった。口もとからは、いつもの残忍な冷笑が消え、固く結ばれて、ことばに表わせない悲しみが浮かんでいるの。これがほかの人間だったら、そんな嘆きようを見ればあたしも顔をおおわずにいられなかったでしょう。でも彼の場合は、それがまた嬉しかったの。倒れた敵を侮辱するのは卑劣みたいだけど、槍を突き刺してやれるこの機会を逃がすことはできなかった。彼が弱気になった時でもなければ、悪に悪をもって報いてやれる喜びを味わうチャンスはないもの」
「まあ、とんでもない、お嬢さま! いままで一度も聖書を開いたことがないんだろうと思われますよ。あなたの敵を神さまが苦しめて下さったら、それで満足しなくてはいけません。神さまのお与えになる罰にあなたの手まで貸すなんて、卑劣で傲慢なことですわ!」
「それは、一般的にはそうかもしれないわ、エレン。だけどヒースクリフにはどんな不幸がふりかかっても、あたしの手が加わらない限り、満足できないの。あたしがあの人の苦しみを作りだし、あの人にもあたしが原因だとわかるなら、彼の苦しみがもっと少なくたっていいわ。そうよ、あの人にはずいぶん借りがある。あの人を許してやれる条件はただひとつだけ。目には目を、歯には歯をもって報い、あたしに与えられた苦しみのひとつひとつと同じ苦しみを返してやり、あたしと同じみじめな境遇に引きずりおろしてやること。あの人がさきに傷つけたんだもの、向こうからさきにあやまらせてやるの。そうしたら、……ああ、そうできたら、あたしだって少しは寛大さも見せてあげられるわ。でも、あたしの復讐なんてできっこないもの、とうていあの人を許すことはできないわ。それはそうと、ヒンドリーが水を欲しがったので、コップに入れてきてやり、具合はどうかと聞いてみた。
『自分で望むほど悪くはないね。だが腕は別として、からだのすみずみまで、大ぜいの小鬼と戦ったようにずきずきする!』
『それはあたりまえよ。キャサリンはいつも、からだの危害を受けないようにあなたを守ってやっているって自慢してたわ。キャサリンを怒らせるのがこわさに、あなたを傷つけようとしない人がいるという意味だったの。死人が本当にお墓から生き返ることがなくてよかったわ。さもなきゃ、ゆうべなんか、キャサリンはさぞいやな場面を見たでしょうね! 胸や肩に打ち身や切り傷はないこと!』
『どうかな。だがあんたの言うのはどういうことだ。おれが倒れてるとき、あいつが殴りやがったのか!』
『踏んづけたり、蹴とばしたり、床へ叩きつけたりよ』とあたしはささやいた。『おまけに歯で食い裂きたくて、口から涎《よだれ》をたらしてたわ。なにしろあの人は半分しか人間じゃない半分以上もけだものなんだから』
アーンショウさんはあたしと同じに、共通の敵の顔を見あげたわ。そちらは苦悩に心を奪われ、まわりのことなど感じないようす。ずっと立っているうちに、ますます暗い物思いが顔にありありとにじみでるの。
『おお神さま、最後の苦しみの中でもいい、あいつをしめ殺す力を授けて下さるなら、地獄だって喜んで行ってやるんだが』とヒンドリーは耐えきれずにうなり、身をもがいて、起きあがろうとしたけれど、その力もないと悟って絶望して倒れてしまったの。
『いいえ、あんたたち兄妹の一人が殺されただけでたくさんだわ』あたしは聞こえるように言ってやった。『スラッシクロス屋敷じゃ、だれだって、ヒースクリフさんさえいなかったら、妹さんがまだ生きていたってことを、知ってるのよ。つまり、あの人なんかに愛されるよりは憎まれるほうがいいというわけ。あの人が帰って来る日まで、みんなどんなにしあわせだったか……キャサリンがどんなにしあわせだったか……それを思うと、あの日を呪いたい』
たぶんヒースクリフも、それを言ったあたしの気持よりも、その言葉そのものの真実さに気づいたのね。はっと心を打たれたのがわかりました。目から涙をぽろぽろ灰の中に落とし、息もつまるようなため息をいくつもしたの。あたしはまっすぐ顔をにらみつけ、せせら笑ってやった。地獄の窓のその目が涙に曇って、あたしに向かってキラリと光った。でも、そこからいつものぞく悪魔の顔が、涙に濡れてぼやけてるから、あたしにはこわくもなく、もう一度せせら笑ってやった。
『立て、ここから消え失せろ』と嘆きに沈む男が言ったわ。
何を言ってるのかわからないくらいの声だったけど、少なくともこのくらいは言ったと思うの。
『すみません。でもあたしだってキャサリンを愛してたのよ。あの人のお兄さんに介抱が必要なんです。だからお義姉さまのために見てあげるの。お義姉さまが亡くなってしまったから、あたしはヒンドリーにお義姉さまを感じる……まるでそっくりの目をしてるわ。あなたが目をえぐり出そうとして、青あざや赤あざをこしらえてなかったらね。それにキャサリンの……』
『立てったら、やくざの薄のろが! 踏み殺してやるぞ!』そう叫んで、飛びかかろうとしたので、あたしも飛びのいた。
『だけどね』ともっと続けたけど、いつでも逃げだす用意をしていたわ。『キャサリンがあんたなんか信用して、ヒースクリフ夫人なんていうおかしな、浅ましい下劣な名前になったら、じきに同じみじめな姿になってたでしょう! あの人だったらあなたのけがらわしいふるまいをおとなしく辛抱してやしない。きっとあなたなんか、大きらいで、胸くそわるいと、はっきり言ったにきまってるわ』
長椅子の背とアーンショウのからだが邪魔していたので、ヒースクリフはあたしをつかまえようとするかわりに、テーブルの食事用ナイフをつかんで、あたしの頭めがけて投げつけた。耳の下に当たったので、言いかけた言葉がとぎれてしまった。でもナイフを引き抜いて、ドアのほうへ走りながら、もうひとこと言ってやったわ。あいつの飛び道具なんかより、ちょっと深く胸に突き刺さったと思うの。最後にちらりと見た姿は、狂ったように飛びかかろうとするのを、ヒンドリーに抱きすくめられ、二人とももつれあって炉ばたに倒れるところだった。台所を走り抜けながら、ジョーゼフに旦那さまのところへすぐ行くようにと言いつけた。戸口で椅子の背に犬の子を何匹かぶらさげて遊んでいたヘアトンを突き倒し、煉獄から逃れた魂みたいに喜びながら、険しい坂道を飛んだり跳ねたり一目散に駆けおりた。曲がりくねった道はやめてまっすぐ荒野を走り抜け、ころがるように土手を越え、沼地を渡って来た。ほんとに、スラッシクロスの明かり目がけて、まっしぐらに突進したのよ。たとえひと晩だって、もういちど嵐が丘の屋根の下に住むくらいなら、永遠に地獄に住めと宣告されるほうがずっとましだわ」
イザベラは語り終えて、お茶を一杯飲みました。そして立ちあがり、ボンネットとわたしの持って来た大きなショールを着けさせてくれと言い、せめてもう一時間いて下さいと頼むのに耳もかさず、椅子にあがってエドガーとキャサリンの肖像にキスし、わたしにも同じ別れのあいさつをして、馬車のところへ降りて行きました。そのあとに、犬のファニーがついて行き、女主人に再会した喜びにけたたましく吠えたてていました。こうしてイザベラは馬車に乗って行き、二度とこの近くへは戻りませんでした。ただ、事情が少し落ち着いてから、お兄さまとの間の規則的な文通は始められたのでございます。新しい住居は南のほうで、ロンドンの近くだったと思います。こうして逃げだして二、三ヵ月後に、男の子を生みました。リントンと名づけられ、便りによれば、初めから病気がちの、気むずかしい子供のようでございました。
ヒースクリフさんは、ある日村で出会いますと、イザベラはどこにいるのかとたずねました。わたしは教えてやりませんでした。すると居どころなんかどうだっていいが、ただ兄貴のところへは来ないように気をつけさせろ、おれが養うはめになったって、兄貴のところにだけはおかせないぞ、と言いました。わたしは何も教えませんでしたが、ほかの召使から、イザベラの住所と子供が生まれたことを知ってしまいました。それでも別に迫害したりはしませんでした。そうやって我慢してくれるのも、それだけ彼が嫌っているおかげだと、お嬢さまは喜んだことでしょうね。彼はわたしの顔を見ると、よく赤ん坊のことをたずねました。リントンという名前を聞かされたときは、にがにがしく笑って、言いました。
「その子までおれに憎ませたいんだな?」
「それより子供さんのことはあなたに何も知られたくないと思ってるでしょうね」
「だが、おれは欲しくなったら、引き取るぞ。それは覚悟しておくといい!」
幸い、その時が来ないうち、母親は亡くなりました。キャサリンの死後十三年ほどたち、リントンは十二か、もう少し上ぐらいになったときです。
さて、イザベラが不意に訪ねて来た日の翌日も、ご主人さまにお話する機会はありませんでした。旦那さまは人との話を避けておられ、何も相談できるようなごようすではありませんでした。やっとお話できたとき、旦那さまは妹さんが夫のもとを離れたことをお喜びのようでした。その夫のことは、穏やかな性質からは考えられないほど激しく忌《い》み嫌っておられたのです。その嫌いかたは根強く神経質なもので、ヒースクリフの姿を見かけたり、噂を聞いたりしそうなところは、決して行かないようになさっていました。悲しみに、そんな事情も加わって、旦那さまはすっかり隠者みたいになってしまい、治安判事の職も投げだし、教会にさえ出席をやめ、どんなことがあっても村へは出かけず、猟園《パーク》と邸内だけにもっぱら閉じこもった生活をしていらっしゃいました。ただ一人|荒野《ムア》を、散歩なさったり、奥さまのお墓を訪ねたりなさるのが唯一の慰めでしたが、それもたいてい夕方か、ほかの人の出歩かない早朝に限られておりました。ですが本当によくできた方ですから、いつまでも不幸に挫《くじ》けてはいませんでした。キャサリンの魂に幽霊になっても出てくれ、などと祈るような方ではありません。時とともにあきらめと、ありふれた喜びよりも快い、静かな憂いがもたらされました。亡き妻のことを熱烈な、こまやかな愛情をもって思い起こし、天国にあこがれていらっしゃいました。妻はきっとそこに行っているのだと信じて疑わなかったのでございます。
旦那さまにはまた、この世の慰めも愛情もおありでした。二、三日の間、亡き妻の小さな忘れがたみをまったく見向きもしないようだったと申しましたが、その冷淡さは四月の雪のようにたちまち解けてしまいました。赤ちゃんはまだ片言も言えず、よちよち歩きもできないうちから、旦那さまの心を独裁者のように支配してしまったのです。
名前はキャサリンとつけられました。……でも旦那さまは一度としてちゃんとキャサリンと呼んだことはありません。そのくせ母親のキャサリンのほうは決して短く呼ばれたことはなかったのです。たぶんヒースクリフがそう呼んでいたからでしょうね。赤ちゃんはいっもキャシーでした。そう呼ぶと母親と区別でき、しかもつながりが保てるというわけでございました。その愛情は自分の子だからというよりも、奥さまの残された子だということから、はるかに多く湧いたようです。
わたしはよくこの主人とヒンドリー・アーンショウを比べてみて、同じ事情のもとで、お二人の行動がなぜこうも正反対なのかはっきりわからずとまどったものでございます。二人とも妻に甘い夫でしたし、どちらも子供を愛していながら、良いにつけ悪いにつけ、どうして同じ道をたどらなかったのでしょう。でも、考えてみますと、ヒンドリーのほうが頭がよさそうだったのに、実はずっとやくざな、弱い人間だとわかりました。彼という船が暗礁に乗りあげたとき、船長が持ち場を放り出してしまったので、乗組員も船を救うどころか、あわてふためくばかりで、不運な船は助かる見こみもないといったありさまでした。ところがリントンさまは、これと反対に、忠実で誠実な魂の真の勇気を発揮し、神を信頼し、神もまた慰めを与えて下さいました。一人は希望を持ち、一人は絶望しました。二人とも自分でその運命を選んだのですから、それに耐えていく定めなのは当然でございましょう。でも、ロックウッドさま、わたしのお説教などたくさんだとお思いでしょうね。こんなことはみな、あなたさまもわたしと同じようにご判断なさることですもの。すくなくとも、そのくらいできるとお考えでしょうから、同じことでございます。アーンショウの最後はおおよそ予想されたことでした。妹の死のすぐあとを追い、半年と間をおかずに起こりました。スラッシクロス屋敷にいるわたしどもは、亡くなる前のようすについて何の話も聞いておりませんでした。わたしもお葬式の手伝いに行って、初めていろいろなことを知ったようなわけです。ケネス先生が旦那さまのところへそれを知らせに見えました。
「やあ、ネリー」ある朝、中庭へ馬で乗りつけた先生が、わたしに声をかけました。あまり早い時間なので、すぐに悪い知らせだという予感にはっとしました。「こんどはあんたとわたしでお悔やみに行く番だ。だれが死んだと思う?」
「だれなんですか?」わたしは胸騒ぎしました。
「まあ、当ててごらん!」先生は答えて馬をおり、手綱を戸口の鉤にかけました。「エプロンの端をつまんで用意しておくんだな。きっと涙を拭くのに必要だぞ」
「まさか、ヒースクリフさんじゃないでしょうね?」ととっさに言いました。
「なに! あの男にも涙を流すのかね? いや、ヒースクリフは若くて頑丈なやつだ。今も元気いっぱいだよ。いま会ってきたばかりさ。奥さんに逃げられてから、また急に肥ってきたな」
「じゃ、だれですか、ケネス先生?」わたしは急《せ》きこんで言いました。
「ヒンドリー・アーンショウだよ! あんたの幼な友だちのヒンドリーさ。わしの悪友でもあったがね。このところずっと、大分荒れてたから、わしも遠ざかっていたんだが。そら、泣いてるじゃないか。まあ元気を出しなさい。いかにもあの男らしい死に方だったからな。ぐでんぐでんに酔いつぶれて。かわいそうに! わしも悲しい。古い仲間を失くすのはさびしいことだよ。考えもつかんようなあくどいことをやるし、わしもずいぶんひどいことをされたもんだが。やっと三十七ぐらいかな。あんたとはおない年《どし》だが、とても同じ年に生まれたとは思えないよ」
正直に言って、この打撃はキャサリン・リントンの亡くなったときのショックより大きく感じられました。幼時のさまざまな思い出がいつまでも忘れられず、ポーチにすわって、肉親の死のように涙を流し、ケネス先生には、ほかの召使に旦那さまへの取り次ぎをさせて下さいとお願いしました。それに「その死に何か不正なことがなかったろうか?」……という疑いを捨て去ることができませんでした。何をしていてもそれが気にかかり、しつこく心から離れませんので、とうとう嵐が丘へ行かせて頂き、死者への最後のおつとめの手伝いをさせて頂くことにしました。リントンさまはなかなかうんとはおっしゃらないので、わたしはヒンドリーが孤独のまま亡くなったことを精いっぱいのべたて、わたしのもとの主人でもあり乳兄弟でもあるのだから、旦那さまに対すると同様に尽くしてあげる義務があるのです、と申しました。それから、子どものヘアトンは亡くなった奥さまの甥にあたり、ほかに近い肉親がいないのだから、旦那さまが後見人となって、遺産状態を調べ、義兄のさまざまな後の事を見てあげるのが当然で、ぜひそうなさるように、と申しあげました。旦那さまは、いまはとてもそんな問題を考える気持にはなれないから、弁護士に相談するようにと言われ、やっとわたしを行かせて下さいました。旦那さまの弁護士はアーンショウさんの弁護士もしておりました。わたしは村へ行き、いっしょに来てくれるように頼みました。すると弁護士さんは首をふり、ヒースクリフはそっとしておくほうがよい、もし事実が明らかになると、ヘアトンは乞食同然の身の上になってしまう、と言うのです。
「あの子の父親は借金を負って死んだのだ。財産は残らず抵当にはいっていますよ。跡とり息子に残された道は、債権者のヒースクリフの心にいくらかでも同情を起こさせて、寛大な処置をしてくれるのを待つよりほかはないね」
わたしは嵐が丘に着きますと、万事がきちんと運ばれるように見に来たと言いました。困りきっていたらしいジョーゼフはわたしの顔を見て嬉しそうな顔をしました。ヒースクリフさんは、わたしに来てもらう必要はなかったが、その気なら葬式の指図でもして行ったらよい、と言いました。「本当を言やあ、あんな阿呆の死体は葬式なんかやめにして、四つ辻に埋めときゃいいんだ。きのうの午後、おれが十分ばかりそばを離れたすきに、居間のドアを二つとも締め切っておれにはいらせず、わざと死ぬ気で、一晩飲み明かしたんだ! 今朝になると、馬みたいないびきが聞こえる。みんなで錠前を壊してはいって見た。すると、どうだ、長椅子にぶっ倒れてたが、あのぶんじゃ身体の皮をはいだって、頭の皮をひっぺがしたって、起きる気づかいはなかった。おれはケネス先生を呼びにやった。来ることは来たが、もうあん畜生は腐れ肉になってたよ……死んで、冷たく、こわばってやがるんだ。だからそれ以上いくら騒いだってむだだったことはわかるだろう!」
爺やもこの話のとおりだと言ってから、ぶつぶつつぶやきました……
「ヒースクリフが自分で医者を呼びに行きゃよかっただ! わしならもっとよく介抱できたはずだ。わしが家を出る時にゃ、まだ死んじゃいなかった……死ぬ気配もありゃしなかっただ」
わたしはお葬式はりっぱなものにしたいと言い張りました。ヒースクリフさんはその点でもわたしの自由にしてよいが、費用は全部みなおれのふところから出ることを忘れるな、と言いました。彼はずっと喜びも悲しみもしめさない、冷酷な無頓着な態度をとっておりました。どちらかといえば、困難な仕事をうまくやりとげたという残酷な満足感の表われだったようです。実際、一度、その顔には勝ち誇るような表情が認められました。ちょうど家から棺を運びだしているときでした。彼は偽善者らしく葬儀の列に加わりましたが、ヘアトンといっしょに棺に従う前に、不幸な子をテーブルの上に抱いてのせてやり、妙に楽しくてたまらないようすで、つぶやきました。「さあ、かわいい坊や、
これでおまえはおれのものだ! 一本の木を風がねじ曲げたら、ほかの木も同じ風でねじ曲がらないものかどうか見てやろうぜ!」疑うことを知らない子供は、これを聞くと喜んで、ヒースクリフの頬ひげをいじくったり、顔をさすったりしました。でもわたしはその言葉の意味を察して、ずけずけと言ってやりました。「その子はわたしがスラッシクロス屋敷へつれて帰ります。絶対にあなたのものなんかじゃありません!」
「リントンがそう言うのか?」
「もちろんですわ……つれて帰れとおっしゃったんです」
「よし」と悪党は言いました。「いまはその議論はやめておく。だがおれは一度子どもを育ててみたい気がするんだ。だからおまえの主人に伝えるがいい、この子を取って行く気なら、かわりにおれは自分の子をつれて来なくちゃならないんだとな。おとなしくヘアトンをつれて行かせると約束はしないぞ。ただ、おれの子を引き取ることはまず間違いのないところだ。忘れずにそう言っておけよ」
こう言われては手の出しようもありません。帰って、それをかいつまんでお話しますと、初めからあまり関心のなかった旦那さまは、それ以上干渉しようとは言われませんでした。また、たとえその気になったとしても、何かの効果があったとは思われません。
ついに嵐が丘では客が主人におさまりました。ヒースクリフはしっかりと財産権を握り、アーンショウがばくちに狂い現金を手にしようと、持っている限りの土地を抵当に入れたこと、しかもヒースクリフ自身こそ抵当権者だということを、弁護士に証明し、弁護士はまたリントンさまにそれを証明しました。こうして、ヘアトンは本来ならこのあたりで第一級の紳士となるはずなのに、亡き父親の宿敵に完全に寄食する身分に落とされ、自分の家で、給金ももらえない召使の生活をしているのです。味方もなければ、ひどいめに会わされていることも知らないのですから、救われようはありません。
[#改ページ]
十八
ディーンさんの話は続く……
あの暗い時期のあとに続く十二年間は、わたしの生涯でもいちばんしあわせな時代でございました。その年月のあいだでいちばん大きな苦労といえば、小さいお嬢さまがときどきなさる軽い病気くらいのもので、それも貧富にかかわらず、子供がみなかかるようなものでした。ほかの点では、最初の六ヵ月が過ぎますと、お嬢さまは落葉松のようにすくすく育ち、リントン夫人のお墓にふたたびヒースの花が咲く頃には、どうやら一人であんよもおしゃべりもできるようになりました。さびしい家の中にこの上もなく愛くるしい子が日光をもたらしてくれたのです。本当にきりょうよしで、アーンショウ家の特徴の美しい黒い瞳に、リントン家の白い肌と小作りの目鼻、黄色い巻き毛を受けついでおりました。気性は荒っぽくはありませんが、勝気で、ひときわ敏感な生き生きした愛情に溢れていました。人を強く愛することができる点は、母親のキャサリンを思いださせますが、似ているとはいえません。鳩のようにやさしくおとなしくもなれるし、声も静かで、物思わしげな表情をしていました。怒っても決して荒れ狂ったりはせず、愛情も燃えるような激しさでなく、深くやさしいものでした。でも、そんな美点が目立つだけに、欠点も認めないわけにいきません。とかく生意気になりがちなのがそのひとつ。気立ての良しあしにかかわらず、甘やかされた子には避けられない、強情さもそれです。召使がちょっと怒らせても、すぐ「パパに言いつけてあげる!」です。お父さまが叱るようなことがあれば、それもただこわい顔を見せたというだけでも、悲しみに胸もはりさけるような大騒ぎになってしまいます。もっとも旦那さまは一度だってきつい言葉をお嬢さまにかけたことなんかなかったでしょうね。教育はみなご自分でお引き受けになり、それを楽しみにしていらっしゃいました。幸い、好奇心が強く頭もよいので、覚えが早く、どんどん熱心に知識を吸収し、教えるほうも鼻たかだかでした。
十三になるまで、お嬢さまは猟園《パーク》のさきまで一人で行ったことは一度もありません。たまには旦那さまがおつれになって一マイルばかり外へ出ることもありますが、決してほかの人には任せません。ギマトン村と聞いてもお嬢さまには夢のようにしか感じられないし、お屋敷以外に近づいたり、はいったりしたことのある建物は教会堂だけ、嵐が丘もヒースクリフも存在しないのと同じでした。まったくの世捨て人みたいですが、それですっかり満足なさっているように見えました。もっとも、時には子供部屋の窓から遠くながめわたして、こんなことを言うのでした……
「エレン、いつになったらあの丘のてっぺんまで歩いて行けるの? 丘の向こうには何があるのかしら……海なの?」
「いいえ、キャシーお嬢さま。向こうもずっと同じような丘ですよ」
「あの金色の岩は、すぐ下へ行ったら、どんなかしら?」と聞いたこともありました。ペニストンの岩山のきりたつ崖がいちばんお嬢さまの目を惹きつけました。とりわけ沈む日が崖といちばん高い峯々を照らし出し、あたり一帯は影の中に沈んでいるときはそうでした。わたしは、あれは裸の岩のかたまりで、裂け目にも土がなく、いじけた木ひとつ生えてないのだ、と教えてやりました。
「でも、こっちは日が暮れても、あそこだけいつまでも明るいのはなぜ?」
「あそこは、ここよりずっと高いからですよ。お嬢さまにはとても登れません、高くて険しいんですから。冬になると、いつもここよりさきに霜がおります。夏もずっとおそくなってから、北東側のあの黒いくぼみに雪を見たことがありますよ!」
「あら、じゃおまえは登ったことがあるのね!」とお嬢さまは大喜びで叫びました。「それなら、あたしだって、おとなになれば行けるわね。パパも行ったことがあって、エレン?」
「パパはきっとおっしゃいますよ、お嬢さま」とわたしはあわてて答えました、「あそこはわざわざ行くほどのこともない、って。パパとお歩きになる荒野《ムア》のほうがずっとすてきですわ。スラッシクロス猟園《パーク》は世界一すてきなところですよ」
「でもあたし猟園《パーク》なら知ってるけど、あそこは知らないもの」と独りごとを言います。「あのいちばん高いところから見回したら、楽しいでしょうね。いつか子馬のミニーに乗って行くわ」
女中の一人が『妖精の洞穴』というのがあるなどと話したものですから、お嬢さまはこの計画を実行したくて夢中になってしまいました。お父さまにうるさくせがみ、とうとうもっと大きくなったら行かせてあげるという約束をさせました。でも、お嬢さまは年《とし》を日で数えてしまい、「もうペニストン山へ行ってもいい?」と絶えず聞きます。岩山への道は嵐が丘のすぐそばを曲がって行くのですから、旦那さまはそこを通る気がせず、お嬢さまのいつも聞かされるご返事は「いや、まだだよ、キャシー。まだ、行けやしないよ」でした。
ヒースクリフ夫人は夫の許を去ってから、十二年ほど生きていただけだと前に申しましたね。リントン家の人たちは虚弱な体質で、イザベラもエドガーも、この地方で一般に見られる血色のよい健康をもっておりませんでした。イザベラの最後の病気が何だったか、はっきりとは存じませんが、お二人とも同じ病気で亡くなられたのだろうと思います。一種の熱病で、初めはあまり病勢が進みませんが、治ることはなく、終わり頃に急にからだがやつれて命が絶えます。イザベラはお兄さまに手紙をよこして、いままで四カ月患っていて、たぶんもう長いことはないだろうから、できたら会いに来てほしい、というのでした。いろいろ片をつけたいこともあり、最後のお別れを言い、リントン坊やを無事にお兄さまの手にゆだねたい、と書いてありました。イザベラの望みは、それまで自分の手許《てもと》においたリントンを、兄の手に残すことでした。父親のヒースクリフには子どもの養育と教育の面倒を引き受ける気はないものと、思いこもうとしていたのです。旦那さまは一瞬もためらわず、その頼みを聞き入れられ、ふつうの用事ではなかなか家をおあけになろうとしないのに、すぐ駆けつけて行かれました。留守中はくれぐれもキャサリンに気をつけるようにとわたしに言いつけ、たとえわたしのおともでも、猟園《パーク》の外へ出してはいけないと何度も念を押されました。まさかお嬢さまが一人で行ってしまうなどとは考えもなさらなかったのです。
旦那さまは三週間お留守になさいました。最初の一日か二日は、お嬢さまは書斎のすみに坐りこんだきり、しょげきっていて本も読まず、遊ぼうともしませんでした。そうやって静かにしていると、わたしも楽でした。ところがそのあとで退屈してくると、落ち着かずいらいらしはじめました。わたしも忙しかったし、もう年も年でしたから、あちこち走り回ってご機嫌をとるわけにもいきませんので、お嬢さまが一人でも遊べるような方法を考えだしました。それはお庭の旅行に出してあげることでした……歩かせてみたり、子馬に乗せたりして。戻って来ると、事実や、空想をとり混ぜた冒険談を辛抱づよく聞いてあげるのです。
日の照りつける夏の真っ盛りでございました。お嬢さまはこの一人歩きがすっかり気に入って、たびたびなんとかして、朝食からお茶の時間まで外に出ていようとしました。夜になるといろいろな空想物語を話して聞かせます。わたしはお嬢さまがきめられた範囲を越えて行くことなど心配していませんでした。門はみなたいてい錠をおろしてありましたし、たとえ開いていたって、まず一人で出て行くことはあるまいと思っていました。不幸にも、そう信じていたのが間違いでした。ある朝、八時に、キャサリンはわたしのところへ来て、きょうは隊商《キャラバン》を引きつれて砂漠を渡るアラビアの商人になるんだから、自分と動物たちのために、たくさん食糧をちょうだい、と言います。動物とは馬が一頭、らくだが三頭で、らくだの役は大きな猟犬と二匹のポインター犬がつとめるのです。わたしはおいしいものをどっさり用意し、バスケットに入れて鞍の横につるしてあげました。お嬢さまは七月の日ざしを防ぐためにつばの広い帽子と紗のべールをつけ、妖精のように浮き浮きしながら馬に飛び乗り、早駆けはいけません、早く帰るのですよ、とわたしが心配して忠告するのを、小ばかにして、明るく笑いながら、走り去ってしまいました。ところがこのいたずらっ子はお茶の時間になっても姿を見せません。一行に加わった猟犬だけは、もう老犬で楽にしていたいので、戻って来ました。でも、キャシーも、子馬も、二匹のポインターも、どこにも見当たりません。わたしはあちこちの道に人をやり、おしまいには自分で探しに出かけました。屋敷の境のところで、植込みの垣根を直している職人がいましたので、お嬢さまを見かけなかったかとたずねました。
「朝がた見たよ。はしばみの枝を鞭に切ってくれと言ってね。それからあの子馬に向こうの垣根のいちばん低いところを飛び越えて、早駆けですぐ見えなくなっちまった」
これを聞いたわたしの気持はお察しがつきましょう。とっさにペニストン山めがけて行ったに違いない、と直感しました「お嬢さまはどうなることでしょう!」と口走りますと、職人が修繕していた垣根の破れ目をくぐり抜け、まっすぐ街道へと走りました。何か賭けでもしたように、何マイルも夢中で歩き続け、とうとう嵐が丘の見える曲がり角まで来ました。でもキャサリンの姿は遠くにも近くにも見えません。岩山はヒースクリフの家からまだ一マイル半ほどさきにあり、スラッシクロス屋敷からは四マイルありますので、行き着かないうちに日が暮れやしないかと不安になってきました。「岩山を登るとき、お嬢さまが足をすべらせていたらどうしよう? 死んでいたら? 死なないまでも骨でも折っていたら?」いろいろ考えて、不安に身をさいなまれました。ですから、嵐が丘の屋敷のそばを駆け抜けるとき、ポインター犬のうちでいちばん獰猛《どうもう》なチヤーリーが顔を腫らし、耳から血を流しながら、窓の下に寝そべっているのを見たとき、思わずほっとして喜んだくらいです。わたしは木戸をあけて戸口へ走って行き、あけてもらおうと、激しくノックしました。もとギマトンに住んでいた、顔見知りの女が出ました。アーンショウさんが亡くなったころから、ここで女中をしていたのです。
「ああ、お嬢さんを探しに来たんですね! 心配はいりません。無事にこちらにいらっしゃいますよ。でも旦那さまでなくてよかった」
「じゃ、ヒースクリフさんはお留守なんですね?」わたしは急いで歩いたのと、うろたえたのとで、息を切らして言いました。
「ええ、そうなの。旦那さまもジョーゼフも出かけました。まだ一時間やそこら帰って来ないはずです。まあ、はいってひと休みなさいまし」
中にはいってみますと、わたしの迷子の子羊は暖炉のそばで、亡くなった母親が子供のころ使っていた、小さな揺り椅子におさまり、からだをゆすぶっているんです。帽子は壁にかけ、すっかりいい気分になったらしく、とびきり上機嫌で、ヘアトン相手におしゃべりしたり笑ったりしていました。ヘアトンは大柄な頑丈な十八の若者となっていましたが、ひどく珍らしそうに、ぽかんとしてお嬢さまを見つめています。お嬢さまの口から絶えずよどみなく流れだす話や質問がほんのちょっぴりしかわからないらしいのです。
「いいですか、お嬢さま!」わたしは内心の喜びを隠して怒った顔をしながら、言いました。
「パパがお帰りになるまで、これっきりお馬に乗ってはいけませんよ。もう二度とおうちの敷居の外へは出しませんから。ほんとにいけない、いたずらっ子ですね!」
「あーら、エレン!」お嬢さまははしゃいだ調子で叫び、ぴょこんと飛びあがって駆け寄りました。「今夜はとてもおもしろいお話を聞かせてあげるわ。でも、とうとうあたしを見つけちゃったのね。おまえはいつかここへ来たことがあって?」
「帽子をおかぶりなさい、すぐ帰るんですよ。キャシーさまはほんとに困った人ですわ、こんなひどいことをなさって。口をとがらしたって、泣いたって、だめ。そんなことでほうぼう探し回ったわたしの苦労の埋めあわせがつきますか。旦那さまから、外へ出すなど、あんなに言いつかっていたのに、あなたがこっそり抜けだしてしまうんですから! ほんとにずるい子狐だったのね。もうだれもお嬢さまを信用しません」
「あたしが何したっていうのよ?」お嬢さまはすすりあげましたが、すぐやめて、「パパはあたしに何も言ってなかったわ。だから、叱られっこないのよ、エレン……お父さまはおまえみたいな意地悪じゃないもの」
「さあ、さあ! リボンを結んであげましょうね。そらもう、すねるのはよしにして。あら、恥ずかしいことですわ! 十三にもなって、赤ちゃんみたい!」
わたしがそう叫んだのは、お嬢さまが帽子を脱いでしまい、わたしの手の届かない暖炉のほうへ逃げたからです。
「いいじゃありませんか、ディーンさん」女中が口を出しました。「こんなかわいいお嬢さんにきびしくしなくってもさ。わたしたちがお引きとめしたんですよ。お嬢さんはあなたが心配するといけないって、急いで行こうとなさったんです。ヘアトンがお送りするって言って、わたしもそれがいいと思ってたところなんです。丘の道はひどいからね」
ヘアトンは、わたしたちが話しているあいだ、両手をポケットに入れて立っていました。ぶきっちょで口もきけないのですが、わたしの侵入を喜んでいないようすでした。
「いつまで待てばいいんですか?」とわたしは女中のとりなしにかまわず続けました。「もう十分もしたら暗くなってしまいます。子馬はどこですか、お嬢さま? フィーニックスは? 早くなさらないなら、わたしはさきに帰ってしまいます。ですから、お好きなように」
「子馬は中庭よ。フィーニックスはあそこに閉じこめられてるの。噛《か》まれたのよ……チャーリーもそう。みんな話すつもりだったんだけど、ぷんぷんしてるから、話してあげない」
わたしは帽子を拾いあげ、もう一度かぶせてあげようと近づきました。でも、この家の人たちが味方だと見てとったお嬢さまは、部屋じゅうはね回り、追いかけると、二十日鼠みたいに家具の上やうしろを走り、追うのもばからしくなってしまいました。ヘアトンと女中は吹き出し、お嬢さまもいっしょに笑い、ますます調子づいてしまいました。わたしはついたまりかね、本当に腹をたててしまいました。
「よござんす、キャシーさま。あなただって、この家がだれのものかわかったら、すぐ出て行きたくなるでしょうよ」
「あんたのお父さまのでしょう?」とお嬢さまはヘアトンをふり向いて、言いました。
「そうじゃねえ」ヘアトンはきまり悪そうに顔を赤らめ、うつむきました。キャシーにじっと見られると、見返すことができません。お嬢さまの目は自分の目とそっくりなのですけれど。
「じゃだれの……あんたの主人の?」
ヘアトンはさっきとは別の感情で、いっそう赤くなり、なにかぶつぶつ悪態をついて、ぷいと顔をそむけました。
「この人の主人はだれ?」こんどはわたしに聞きます。手のやけるお嬢さまでした。「この人、『おれん家《ち》』とか『おれんとこのやつら』とか言ってたの。だからここの主人の息子だと思ったわ。それに、一度もお嬢さま、って言わないの。召使ならそう呼ぶはずでしょう?」
ヘアトンはこの無邪気な言葉を聞いて、雷雲のような暗い顔をしました。わたしは黙ってお嬢さまをゆすぶり、やっと帰り支度をさせることができました。
「さあ、あたしのお馬をつれてきて」お嬢さまはそれとは知らない従兄《いとこ》に向かって、まるでお屋敷の馬丁に命ずるように言いました。
「あんたもいっしょに来ていいわよ。鬼の猟師が出てくるっていう沼も見たいし、あんたの言った妖精の話も聞きたいの。でも早くして! どうしたの? 馬をつれてきてって言ったじゃないの」
「おめえなんかの下男になるんなら、おめえがくたばるのを見たほうがいいやい!」と若者はうなり声を出しました。
「あたしの何を見るんだって?」キャサリンはびっくりしたようでした。
「くたばるとこよ……この生意気なあまっ子め!」
「そら、キャシーさま! あなたのお友だちはずいぶんすてきでしょう」とわたしは口を出しました。「お嬢さまに向かって、なんて上品な言葉を使うんでしょう! こんな男と言いあいなんか始めないで下さいな。さあ、二人でミニーを探して、帰りましょうね」
「だけど、エレン」とお嬢さまは驚きに目を見張ったまま言いました、「なぜあの人はあたしにあんな口をきくの? あたしの頼んだことをしなきゃならないはずでしょう? 意地悪。おまえの言ったこと、パパに言いつけてあげるわ……いいこと?」
ヘアトンはこんな脅しはいっこうに感じないようすでした。お嬢さまの目にはくやし涙があふれました。こんどは女中に向かって「おまえが馬をつれて来て。いますぐあたしの犬をほどいてやってよ!」と叫びました。
「静かにおっしゃってね、お嬢さん」と女中は答えました。「しとやかに言ったって損はありませんよ。そのヘアトンさんは旦那さまの息子じゃないけど、あなたのいとこなんですよ。あたしだって、あなたにお仕えするために雇われてるわけじゃないんですから」
「あの人があたしのいとこだって!」とキャシーはいかにも軽蔑したように笑いました。
「ええ、そうですよ」とキャシーをとがめた女中が言いました。
「ねえ、エレン! あんなこと言わせておかないでよ」お嬢さまは困りきって続けました。「パパはロンドンヘ、あたしのいとこを迎えにいらっしゃったのよ。あたしのいとこは紳士の息子だわ。あんな人があたしの……」言いかけて、わっと泣きだしました。こんな田舎者と縁つづきだと考えるだけで、気も転倒してしまったのです。
「静かに、もう泣かないで!」とわたしはささやきました。「そりゃ、いとこといったって、たくさんいろいろな人がいるものですよ、キャシーさま。だからって、何も悪いことはありません。不愉快な悪い人たちだったら、つき合わなければいいんですよ」
「エレン、あんなやつ……あんなやつはあたしのいとこじゃない!」そう言いながら、考え直しては、悲しくなり、そんな考えから逃れようと、わたしの胸にしがみつくのです。
わたしはお嬢さまにも、女中にも、余計なことを言ってくれたと腹をたてていました。お嬢さまが話してしまったのだから、リントンが近いうちにロンドンから来ることは、ヒースクリフに伝えられることは間違いないし、またキャサリンだって、お父さまが帰られたらすぐ、無教育な親類の若者について女中が言ったことの説明を求めるにきまっています。ヘアトンは、召使あつかいされてむかむかしたのもおさまると、悲しんでいるお嬢さまに同情したようでした。子馬を玄関に回してやってから、機嫌をとろうと、犬小屋から脚の曲がった美しいテリアの子犬を持ってきて、悪気《わるぎ》はなかったんだから、もう泣かないでくれよ、と言いながらお嬢さまの手に持たせてやりました。お嬢さまは泣きやめ、おびえた恐ろしそうな目で相手をながめましたが、またわっと泣きだしてしまいました。
この気の毒な若者をそんなに嫌うのを見て、わたしは思わず微笑せずにはいられませんでした。つり合いのよくとれたからだをし、筋骨たくましい青年で、目鼻だちもととのい、頑丈で健康そうなのですが、毎日の野良仕事や、兎や何かの獲物を追って荒野を歩き回るのに適した服装をしています。それでも、顔つきには父親のヒンドリーよりも良い心が読みとれるような気がしました。せっかくの良い性質が雑草のはびこる中に埋もれてしまい、放ったらかしになって生長できなくなっているにちがいありません。それでも恵まれた環境におかれれば、きっと豊かなみのりを生む肥えた土壌であることはたしかでした。ヒースクリフはどうやら肉体的にはひどい目にあわせなかったようです。それは、そんな虐待をしようという気を相手に起こさせない、ヘアトンの大胆な性質のおかげでした。いじめられやしないかと、びくびくすることなど全然ないので、虐待する喜びもないとヒースクリフは判断したのでしょう。どうやらヒースクリフの悪意はこの若者を野獣に仕立てることに傾いていたようです。読み書きはなにも教えられず、どんな悪習にそまろうと、ヒースクリフの迷惑にならない限り、叱られません。美徳へは一歩も導かれず、悪徳に対してひと言も戒められないのです。それにわたしの聞いたところでは、ジョーゼフも彼の堕落を大いに助けているようで、旧家の跡とりだということから、子供のときから偏狭なえこひいきをしてちやほや甘やかしたのだそうです。キャサリン・アーンショウとヒースクリフが子供の頃は、二人の「ろくでもねえいたずら」のおかげで旦那さまがかんしゃくを起こしたとか、酒でうさ晴らししてるとか、いつも二人を責めていましたが、今度はヘアトンの欠点はみな、彼の財産を奪ったヒースクリフの責任だとしていました。ヘアトンが悪態をついても、どんなに行儀が悪くても、たしなめようとはしません。ヘアトンが極端に悪くなっていけば、ジョーゼフは満足だというようでした。ヘアトンが台なしになり、魂は地獄に落ちるのを認めていましたが、責任はヒースクリフが負わなければならないのだと考えていたのです。ヘアトンをだめにした罪はヒースクリフが償わなければならない、と考えることが大きな慰めだったのです。ジョーゼフはヘアトンの心に家名と血統に対する誇りを注ぎこんでいました。できれば、ヘアトンと現在の嵐が丘の持ち主との間に憎悪を育てたかったのですが、ヒースクリフに対する恐怖は迷信的とも言えるくらいで、ぶつぶつあてこすりを言ったり、陰でおどし文句をならべたりして、鬱憤《うっぷん》を晴らすだけでした。その頃の嵐が丘の日常生活をくわしく知っていたわけではございません。この目で直接見たものはわずかで、人づてに聞いたままをお話ししているのでございます。村の人たちは、ヒースクリフさんはけちだ、小作人に対しては冷酷なきびしい地主だ、と言っておりました。でも家の中のようすは、女手もはいって、昔どおり居心地よくなり、ヒンドリーの時代にはあたりまえだった飲み騒ぎも演じられなくなりました。主人はふさぎこんでいて、善人とか悪人とかの区別なく、人との交際を求めようとしませんでした……いまでもそのとおりなのです。
ですが、こんなことばかり申しあげておりましては、いっこうにお話が進みません。キャシーお嬢さまは仲直りのしるしのテリアを断わり、自分のつれて来た犬のチャーリーとフィーニックスを返してと要求しました。二匹の犬はうなだれ、びっこを引き引きやって来ました。人間も動物もみんな残らずしょんぼりして家路につきました。その日一日どうやって過ごしたのか、お嬢さまからどうしても聞きだせません。やっと次のことだけ話してくれました。目ざして行ったのはわたしの想像どおり、やっぱりペニストンの岩山でした。嵐が丘の入口までは別に変わったこともなくたどりつきましたが、ちょうどそのときヘアトンが犬を引きつれて現われ、その犬がお嬢さまの犬に襲いかかったのです。たちまちはげしい喧嘩《けんか》となり、やっと両方の飼い主が引きわけました。これがきっかけで二人は近づきになったのです。キャサリンはヘアトンに名前と行く先を告げて、道を教えてもらい、とうとううまく誘ってお供させてしまいました。ヘアトンは『妖精の洞穴』とか、そのほかたくさんの珍しい場所の秘密を開いて見せてくれたのです。わたしはお嬢さまのご機嫌を損じたために、そこで見たいろいろなおもしろいものの話はしてもらえませんでした。ただ、案内役がお嬢さまのお気に入りになったことは察しられました。でもお終《しま》いにはお嬢さまが下男あつかいして相手を怒らせるし、家政婦は若者をお嬢さまの従兄《いとこ》だといって彼女の気を悪くさせてしまいました。それにヘアトンに浴びせられた乱暴な言葉も、心に食いこんでいたのです。お屋敷にいれば、みんなから、「いい子」とか「かわいいお嬢ちゃま」とか、「女王さま」とか「天使」とかもてはやされているのに、初めての人からぞっとするような侮辱を受けたんですもの! その理由がお嬢さまにはさっぱりのみこめません。わたしは、お父さまにこのことで不平を訴えないという約束をしてもらうのに、ずいぶん骨を折りました。お父さまは嵐が丘の人たちがみな大嫌いなのだ、お嬢さまがそこへ行ったと知ればどんなに悲しまれるか知れないと説明してあげたのですが、とくに強調したのは、もしもわたしが旦那さまのお言いつけをおろそかにしたことがお嬢さまの口からわかれば、とてもお怒りになり、わたしはお暇を出されてしまう、ということでした。そんなことになるのはキャシーにはとても耐えられません。わたしのために、それなら言わないと約束し、それを守ってくれました。なんと言いましても、やはり気だてのやさしいお嬢さまなのでした。
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十九
黒わくのついた手紙が、旦那さまのお帰りの日を知らせてきました。イザベラが亡くなったのです。お手紙には、お嬢さまの喪服を手に入れ、若い甥《おい》のために部屋とかいろいろな用意をしておくようにと書いてありました。お父さまのお帰りと聞くと、キャサリンははしゃいで飛び回りました。「ほんとの」いとこの数えきれないほどの美点をあれこれと楽しく予想しました。やっとお二人の着く晩になりました。その日は朝早くから、お嬢さまは身の回りのこまごましたことの整理に忙しかったのですが、いまは新調の黒服を着こんでいました……ほんとにしょうのない子なんです! 叔母さまが亡くなっても、はっきりした悲しみは感じていないのですから……わたしはうるさくせがまれて、とうとう屋敷のさきまでいっしょに迎えに行かされました。
「リントンはまる六カ月あたしより年下よ」木陰に起伏する、苔の生えた芝生の上を、ぶらぶら歩きながら、お嬢さまはおしゃべりします。「その子といっしょに遊べるなんて、すてきだわ! イザベラ叔母さまはパパにリントンのきれいな髪の毛を送って下さったの。あたしのより薄色よ……もっと亜麻色で、同じくらい細いの。ガラスの小箱に大切にしまってあるわ。その髪の毛の人と会えたらどんなに嬉しいだろうって、よく考えたものよ。ほんとに、楽しいわ……パパが、大好きな、大好きなパパがお帰りになるの! 早く、エレン、走りましょうよ! ねえ、走ってよ」
そう言って、駆けだし、戻って来て、また駆けだし、わたしが悠々《ゆうゆう》と門に着くまでに、何遍となく同じことをくり返しました。それから小径のわきの草のはえた土手に坐りこみ、辛抱づよく待とうとしましたが、それどころではなく、一分間もじっとしていられないのです。
「ずいぶんおそいのね!」とうとう叫んでしまいました。「あら、道に埃が立ってるわ……来たのかしら? ちがう! いったい、いつ帰るのよ? ちょっとさきまで行ってみない、エレン……半マイルだけ……ただの半マイルならいいでしょう? いいって言ってよ……あの曲がり角の樺《かば》の林まで!」
わたしはあくまで断わり続けました。でもやっとお嬢さまの落ち着かない気持も終わりました。旅行用の馬車が見えてきたのです。キャシーお嬢さまはお父さまの顔が窓からのぞいているのを見るなり、大声をあげ、両手を差しのべました。お父さまもそれに劣らず夢中で馬車からおりて来られ、かなり長いこと、ほかの人などすっかり忘れてしまったようでした。そうして抱きあっているあいだ、わたしはリントンのお世話をしようと、馬車の中をのぞきこみました。リントンはまるで冬みたいに、毛皮の裏のついた暖い外套にくるまり、すみっこで眠っているのです。青白く、弱々しい、女みたいな少年で、旦那さまの弟さんかと思われるほどよく似ていました。ただエドガー・リントンには決して見られなかった、病的な気むずかしいところがありました。わたしがのぞきこんでいるのを見た旦那さまは、握手をなさって、あの子は旅で疲れているから、扉をしめて、そっとしておくようにと言われました。キャシーはできればひと目見たかったのに、お父さまにこっちへ来るようにと言われ、庭園《パーク》をならんで歩いて行きました。わたしは召使に用意をさせるために、一足さきに急ぎました。
「ところでね、キャシーや」と旦那さまは玄関のあがり段のところで立ちどまり、お嬢さまにおっしゃいました。「おまえの従弟《いとこ》はおまえみたいに丈夫でもないし、ほがらかでもないんだよ。ついせんだって、お母さまを亡くしたばかりなんだから、それを忘れないようにね。あしたからすぐに、いっしょに遊んだり走ったりしてもらおうなんて思ってはいけないんだよ。あまりおしゃべりしてうるさがらせないようにしてね。とにかく今夜はそっとしておいてあげなさい。わかった?」
「はい、わかったわ、パパ。だけどちょっと見たいの。一度も窓から顔を出してくれないんだもの」
馬車が止まり、眠っていた少年は起こされ、伯父に抱いておろしてもらいました。「これがおまえの従姉《いとこ》のキャシーだよ、リントン」旦那さまは二人の小さな手を握手させました。「もうおまえが好きになってしまったよ。今夜は泣いてキャシーを悲しませたりしてはいけないよ。さあ元気を出すんだ。旅行も終わったし、これから休んで、好きなようにしたらいいんだからね」
「じゃ、寝させて」少年はキャシーのあいさつのキスに尻ごみしながら答え、もう出かかった涙を指で押えようとしました。
「さあ、さあ、おりこうですからね」とわたしはその子を家へ入れてやりながらささやきました。「お嬢さままで泣いてしまいますよ……ほら、あんなに心配なさってるんですよ!」
従弟のことが心配だったのかどうかわかりませんが、お嬢さまも負けずに悲しい顔をして、お父さまのところへ戻っていきました。
三人とも中にはいって、お茶の用意のできている書斎へあがりました。わたしはリントンの帽子と外套をぬがせてやり、テーブルの前の椅子に掛けさせました。坐ったかと思うと、また泣きだすのです。旦那さまは、どうしたのかとおたずねになりました。
「ぼく、椅子には掛けられないもの」としくしく泣いています。
「それならソファにお坐り。エレンがお茶を持っていってあげるよ」と伯父《おじ》さまは辛抱づよく言われました。
こんな気むずかしい、病身の子をあずかっては、旅行中もずいぶん苦労なさったにちがいありません。リントンはのろのろソファのところへ行き、横になりました。キャシーは足台と自分の茶碗を持ってそばへ行きました。初めのうちこそ黙っていましたが、とても長続きしません。このかわいい従弟を前から考えていたとおり、ペットにしようと決めたのです。まず巻き毛をなでてやり、頬にキスして、まるで赤ちゃんにしてやるように、自分の受け皿にお茶を入れて飲ませようとしました。まるで赤ん坊みたいなリントンには、これがすっかり気に入りました。涙をふき、明るい顔になって、かすかに笑いました。
「うん、どうやらうまくいきそうだね」と旦那さまは少し二人のようすを見てから、わたしに言われました。「うちへおければ、とても具合よくいくね、エレン。同い年の子供といっしょなら、じきに新しい元気が注ぎこまれる。自分でも強くなりたいと思って、力が出てくるだろう」
「そのとおりでしょう、ここへおくことができたら!」とわたしはひそかにしみじみ思ったものでした。でもその見こみはまずないという不安に心が痛みました。それにしてもあの弱虫がいったいどうやって嵐が丘で暮らしていけるのかしら? あの父親とヘアトンが二人そろって、どんな遊び友達と教育者になることやら! わたしたちの不安はまもなく……わたしの予想よりも早く……確かなものになりました。お茶がすみますと、わたしは子供たちを二階につれていき、リントンの寝入るのを見とどけました……リントンは眠るまでわたしを離そうとしないのです……そして下へおりたところでした。広間のテーブルの前で、旦那さまの寝室の蝋燭をともしておりますと、台所から女中が出てきて、ヒースクリフさんの下男のジョーゼフが旦那さまにお話したいと、戸口に来ている、と伝えました。
「わたしがさきに用件を聞いてみましょう」わたしはぶるぶる震えていました。「こんな時間に人を訪ねるなんて……それも長い旅から帰ったばかりだというのに。旦那さまはたぶんお会いにならないでしょうね」
そう言っているうちに、ジョーゼフはもう台所を抜けてはいってきて、ホールに姿を見せました。よそ行きの服を着こみ、ひどくかしこまった、気むずかしい顔をして、片手に帽子、片手にステッキを持って、マットで靴を拭きはじめました。
「今晩は、ジョーゼフ。何の用ですか?」とわたしはわざとよそよそしく言ってやりました。
「リントンの旦那にお話し申してえことがあるだ」といかにも軽蔑したように、あっちへ行ってろとばかり、手をふりました。
「旦那さまはおやすみになるところです。特別な用事でもない限り、いますぐ聞いて頂くわけにはいきませんよ。あちらへ行って坐ったらいいでしょう。用件はわたしが聞いておきますよ」
「旦那の部屋はどこだね?」とジョーゼフはならんだドアをずっと見渡して、なおも言います。
わたしの取り次ぎをあくまで断わるつもりなので、いやいやながら書斎へ行き、時ならぬ来訪者のことを告げ、明日までお会いにならないほうがよいでしょうと申しあげました。ところが旦那さまがわたしにそう言わせるひまもなく、ジョーゼフがすぐあとについて来てしまいました。部屋にずかずかはいりこみ、テーブルの向こうのはしに腰をおろし、両の拳《こぶし》をステッキの握りに重ねたまま、反対は覚悟だといわんばかりに声を張りあげました……
「ヘイスクリフが息子を迎えにわしをよこしたでがす。どうしたってつれずにゃ帰れねえだ」
旦那さまはしばらく黙っていましたが、言いようもない悲しみの表情が顔を曇らせました。ご自分としても、あの子が不憫でしたが、イザベラの望みや不安を思いだし、息子のための切ない願いや、自分の世話に任されたことなど考えあわせると、子供を手放すのはいかにもつらい悲しいことで、どうしたら避けられるかと思案しておられました。でも名案は浮かばず、手もとにおきたい気持をちょっとでも見せたら、相手はよけい高飛車に出るばかりでしょうから、あきらめるよりほかはありません。それでも、寝入っているのを起こす気にはなれませんでした。
「ヒースクリフさんに伝えて下さい」と旦那さまはおだやかに答えました。「息子さんはあした、嵐が丘へ送り届けますとね。もう寝てしまったし、すっかり疲れているので、いまから遠い道をやるわけにはいかないんだ。それからもうひとつ伝えてもらいたい。リントンの母親は、わたしの保護のもとにおきたいと望んでいたし、現在あの子の健康は非常に不安定なのだ」
「いや、とんでもねえ!」ジョーゼフは杖で床をどん、と突き、威たけ高になりました。「だめだ! そんなこたあどうだっていい。ヘイスクリフは母親のことなど、考えちゃいねえ。おめえさまのこともだ。息子を引きとるちゅうだから、わしゃ、つれてかなくちゃなんねえ……これで話はおしめえだ!」
「今夜は行けないというのだ!」リントンさまはきっぱりと言われました。「さっさと下へ降りなさい。主人にはわたしの言ったことを伝えればよい。エレン、下へつれて行きなさい。早く……」
そしてぷりぷりしてる老人の腕を取って立たせてやり、部屋から追いだして、ドアをしめてしまいました。
「ようし、いいとも!」ジョーゼフはのろのろ引きあげながら、わめきました。「あしたになりゃ、うちの旦那が自分で来るど。それが突きだせるもんなら突きだしてみろ!」
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二十
この脅しが実行されるのを避けるために、旦那さまは翌朝早く少年をキャサリンの子馬にのせてつれて行くようにと、お言いつけになりました。そして、こうおっしゃいました……
「もうこちらとしては、良くも悪くも、あの子の運命をどうしようもない。キャシーにはあの子がどこへ行ったのか決して話さないように。これからつきあうわけにはいかないんだから、近くにいることを知らないほうがよい……嵐が丘へ行きたがったりすると困るからね。ただ、あの子の父親が急に迎えをよこしたので、帰らなければならなくなったのだ、と言っておくんだね」
リントンは朝の五時に起こされて、とてもむずかりました。その上、また旅の仕度をするのだと言われて、びっくりしました。わたしは坊っちゃんのお父さまのヒースクリフのところへしばらく泊まりに行くだけだ、お父さまがとても会いたがっていて、きのうの旅の疲れがなおるまで待ちきれないのだ、と事情をやわらげて話しました。
「お父さまだって!」と坊っちゃんはきょとんとして言いました。「ママは一度もお父さまがあるなんて言わなかったよ。どこに住んでるの? ぼくは伯父さまのとこがいいや」
「このお屋敷から少し行ったところに住んでらっしゃるのよ。あの丘のすぐさきです。そんなに遠くはないんですから、元気になったらここまで歩いて来られますよ。おうちへ帰って、お父さまに会えるんですから喜ばなくちゃ。お母さまが好きだったようにお父さまを好きになるようにしなさいね。そうしたらお父さまも愛して下さいますよ」
「でも、なぜいままで聞かされなかったのかな? なぜうちのママはよそのうちみたいにいっしょに住んでなかったの?」
「お父さまはお仕事で北のほうに行ってらしったんです。でもお母さまはからだが弱かったので、南に住まなければならなかったんですよ」
「じゃ、なぜママはぼくに話してくれなかったの?」と、どうしても納得できないようすです。
「伯父さまのことはよく話してくれたよ。だからずっと前から好きになってたんだ。だけど、パパをどうやって好きになったらいいの? 知りもしないのに」
「あら、子供はみなお父さまもお母さまも好きになるものですよ。お母さまはたぶん、お父さまのことをたびたび話したら、あなたがそばへ行きたくなってしまうだろうと、心配してたんですわ。さあ、早くしましょうね。こんなすてきな朝は、早く馬で行くほうが、一時間よけいに眠るよりもずっといいんですよ」
「あの子もいっしょに行くの……きのう会った、あの女の子も?」
「いいえ、いまは行きません」
「伯父さまは?」
「いいえ、わたしがお供します」
リントンはまた枕の上へあお向けになって、考えこんでしまいました。
「伯父さまといっしょでなきゃ行かない」とうとう少年は叫びました。「どこへつれて行かれるかわかんないもの」
お父さまに会うのがいやだなんて、わがまますぎます、と言い聞かせようとしましたが、あくまで身仕度しようとはしません。とうとう旦那さまに来ていただき、いっしょになだめすかしてやっと寝床から出しました。とうとうかわいそうに、すぐ帰るのだからなどと言いくるめられ、出発させられてしまいました。伯父さまとキャシーが会いに行くとか、同じようにいいかげんな約束をずいぶん聞かせたのですが、みなわたしの口からのでまかせで、送って行く途中ずっと何度もくり返してはなだめてやったのでございます。でもしばらくすると、ヒースの香り高い澄んだ空気や、輝く日光、ゆるやかに駆けるミニーの足どりなどで、坊っちゃんの沈んだ気持も明るくなってきました。これから行く家のこと、そこに住む人たちのことなどに、だんだん興味が強まり、活発に質問しはじめました。
「嵐が丘って、スラッシクロス屋敷みたいに楽しいとこ?」と聞きながら、谷間のほうを最後にもう一度ふり返りました。谷間からは薄い霧が立ちのぼり、青空の裾に白い雲をひとつ浮かばせていました。
「嵐が丘はあんなに木に埋まってはいないし、お屋敷ほど大きくもありません。でもまわりの景色はとても美しいながめです。あちらの空気のほうが坊っちゃんのからだにはいいでしょうね……ずっと新鮮で、乾いていますから。初めは建物が古びて暗い感じがするかもしれません。でもりっぱな旧家ですよ。この辺ではお屋敷に次ぐいちばんのお家です。荒野《ムア》の散歩もとても楽しいのよ。ヘアトン・アーンショウが……その人はキャシーお嬢さまのもう一人のいとこで、まあ坊っちゃんのいとこともいえるんですけれど……すてきなところへみな案内してくれますよ。お天気のいい日は本を持っていって、緑のくぼ地を勉強部屋にするんですね。伯父さまだって時にはいっしょに散歩して下さいますよ。よく丘の上まで散歩なさるんですから」
「ぼくのお父さまはどんな人? 伯父さまみたいに若くてきれいなの?」
「同じくらい若い方です。ただ髪の毛と目は黒くて、きつそうですわ。せいも高いしからだも大きいしね。初めはあまりやさしい親切な人のような気がしないかもしれないけれど、そんなようすを見せるのが嫌いなだけですよ。でも、いいですか、お父さまには打ちとけてやさしくなさいね。そうしたらお父さまだって、伯父さまなんかよりかわいがって下さるにきまってますよ。なんといってもご自分のお子さんなんですから」
「髪と目が黒いの! どんな人か想像もできやしない。じゃ、ぼくはお父さまに似てないんだね?」とリントンは考えこみました。
「そう、あまりね」と答えながら、ひそかに、似てるところなんかひとつもない、と思いました。青白い顔、ほっそりしたからだ、大きなものうい目……それは母親そっくりの目ですが、病的な神経質な光がときどきさっとひらめくだけで、イザベラの火花のような活気のひとかけらもありません。いっしょに行く少年をしみじみ見て、つい悲しくなりました。
「お父さまがママとぼくに一度も会いに来ないなんて、変だなあ! ぼくを見たことはあるの? あるとしても、赤ん坊のときだね。お父さまのことは何も覚えてないもの!」
「そりゃ、リントン坊っちゃま。三百マイルといえばずいぶん遠方ですよ。十年といったって、大人にとっては、坊っちゃんなんかが考えるのとはまるで長さがちがいますからね。きっとヒースクリフさんは夏になるたびに行こう行こうと思いながら、つい都合がつかずに、とうとうそれきりになってしまったんですよ。でもそんなことはお父さまにうるさく聞くんじゃありませんよ……困らせるだけで、何にもならないんですから」
それからさき、坊っちゃんは一人でじっと考えこんでいました。とうとう嵐が丘の庭に着きました。わたしは連れの少年が、どんな印象を受けるかと、顔色をうかがっていました。坊っちゃんは彫刻のついた正面や、陰気な格子窓、伸びほうだいのすぐりの茂み、いじけた樅の木、などをじっと真剣な目つきでながめ回して、首をふりました。内心、新しい家の外観がまったく気に入らなかったようです。でも、すぐ不平を言うほど考えのない子ではありませんでした。内部にはもっとよい点もあるだろうと思ったらしいのです。坊っちゃんが馬からおりないうちに、わたしはさきに行ってドアをあけました。六時半で、いま朝食を終えたばかりでした。女中がテーブルを片づけて拭いていました。ジョーゼフは主人の椅子のそばに立って、びっこの馬がどうしたとか話していましたし、ヘアトンは干し草畑へ出かける仕度をしていました。
「やあ、ネリー!」とヒースクリフはわたしを見ると言いました。「おれは自分で行って、おれのものを取ってこなくちゃならないかと心配してたところさ。おまえがつれて来てくれたんだね? どれ、どんなやつか見てやるか」
彼は立ちあがり、大股で戸口へ出て行きました。ヘアトンもジョーゼフも、好奇心に口をあんぐりあけてついて行きました。かわいそうに、リントンはびくびくして三人の顔を見回しました。
「ほんとに、まあ」とジョーゼフはもったいぶってじろじろ見たあげくに言いました。「取っかえてしまったにちがいねえ、こりゃあ向こうの娘っ子だ!」
ヒースクリフはじっと見つめ、息子がどぎまぎして震えだすと、ばかにしたように笑いました。「いやこれはこれは! なんてまあ美男子だ! なんてかわいい、うっとりするような子だろう! 蝸牛《かたつむり》と酸《す》っぱいミルクだけで育てられたんじゃないのかい、ネリー? ええ、畜生! 思ったよりまだひどいや……どうせ、ろくなやつを期待してたわけじゃないが!」
うろたえ、震えている子に、わたしは馬からおりて中へはいるようにと言いました。坊っちゃんには父親の言葉の意味も、自分に言われたものかどうかも、よくわからなかったのです。それどころか、あざ笑っている、初めて会ったこわい人が父親だということさえまだはっきりしないのです。ますます恐れおののきながら、わたしにしがみつきました。ヒースクリフさんが腰をおろして、「こっちへおいで」と言うと、わたしの肩に顔を隠して泣きはじめました。
「ちえっ、ちえっ!」とヒースクリフは舌うちし、片手を伸ばして乱暴に少年を膝《ひざ》のあいだへ引きずり寄せ、顎を掴《つか》まえて上向かせました。「びくびくするな! ひどい目に会わせやしないんだ、リントン! そういう名だったな? おまえはまったくお母さんだけの子だな! おれとのつながりはどれだけあるんだい、泣き虫くん?」
ヒースクリフは坊っちゃんの帽子を脱がせ、ふさふさした亜麻色の巻き毛をうしろへなであげたり、ほっそりした腕や小さな指にさわったりしました。そうして調べているうちに、リントンも泣きやめ、大きな青い目をあげて、観察者を自分でも観察しはじめました。
「おれを知ってるかね?」ヒースクリフは少年の手足がみな同じようにもろく弱々しいのをたしかめると、こう聞きました。
「いいえ」リントンは恐ろしさにうつろな目を向けていました。
「おれのことは聞いたろうな?」
「いいえ」
「聞かないと! おれに対して子としての敬意を起こさせないでおいたなんて、恥知らずの母親だ……じゃ、教えてやる、おまえはおれの息子だ。おまえの母親は腹黒いあばずれだから、おまえにどんな父親がいるのかも教えなかったんだ。こら、びくついたり、赤くなったりするな! そりゃ、おまえの血が白くないとわかって、安心だけどな。いい子になれよ、おれもよくしてやるからな。ネリー、疲れてたら、坐ったらどうだい。疲れてなきゃ、帰ることさ。ここで見聞きしたことを、お屋敷のやくざに報告しなくちゃならないだろうし、こいつもおまえにぐずぐずしてられたら、落
ち着かないだろう」
「じゃ、ヒースクリフさん、坊っちゃんにやさしくしてあげて下さいな。そうしないと、この坊っちゃんも長いことはありませんよ。それに広い世間でただ一人の、かけがえのない身内ですからね……どうぞお忘れなく」
「心配はいらない。とびきり大事にしてやる」とヒースクリフは笑いました。「ただ、ほかのやつにはこの子にやさしくさせない。おれはこの子の愛情をあくまで独占したいんだからな。そこでまず、親切の手初めとして、ジョーゼフ、この子に朝めしを持ってこい。ヘアトン、阿呆《あほう》のろくでなし、さっさと仕事に行かないか」二人が仕事に出て行きますと、わたしに向かって、「いいか、ネリー、おれの息子はいずれおまえの屋敷の持ち主になる。こいつのあとでおれが相続できることがたしかになるまで、こいつに死んでもらいたくないんだ。おまけに、これは|おれの子《ヽヽヽヽ》だ。|おれの《ヽヽヽ》子孫がやつらの家屋敷のれっきとした主人になるのを見て得意になりたい。おれの子供がやつらの子供を賃金で雇い、やつらの父親の土地を耕させるのを見たいんだ。この胸くそ悪い小僧を辛抱できるのも、それだけの理由からだ。おれはこんなやつは軽蔑するし、いやな記憶がつきまとうから、憎いんだ! しかし、いま言った理由だけで大丈夫……おれのところへおいても心配ない。おまえの主人が自分の子の面倒を見るように、世話をしてやるよ。二階に部屋をとってきれいに家具をそなえてやったよ。家庭教師も頼んで、週に三回、二十マイルもさきから来て、あの子の習いたいことは何でも教えてもらうことになっている。ヘアトンにはこの子の言うとおりにしろと言っておいた。要するに、この子をまわりの連中より上において、こいつのすぐれたところ、紳士らしいところを失くさせないように、あらゆる用意をしておいたのだ。だが、せっかくの骨折りがいもない、こんなやつじゃ、残念だ。おれがこの世でなにか幸福を望んだとすれば、こいつがおれの誇りにできるようなやつだということだけだった。こんな青白い泣き虫じゃ、泣いても泣ききれないよ!」
そう言っているうちに、ジョーゼフが牛乳を入れたポリッジの鉢を持って来て、リントンの前へ置きました。リントンはいかにもいやそうな顔で粗末なオートミールをかき回し、こんなものは食べられない、と言いました。爺やも主人と同じように、少年をばかにしきったようすが見えました。でもヒースクリフが召使たちに少年を尊敬させたがっていることは明らかでしたから、爺やもその気持を胸におさめておくよりほかはありません。
「食えねえだって?」爺やはリントンの顔をのぞきこみ、主人に聞こえないように、小声で言いました。「だけどヘアトンの若旦那だって、ちっちゃいときにゃ、これしか食わなかったど。あの子に食えたもんだら、おめえさんだって食えるはずだ、そうだろうが!」
「ぼくは食べない!」リントンはかんしゃくを起こしました。「あっちへ持ってけ」
ジョーゼフもぷりぷりしてその食べ物をひったくり、わたしたちのところへ持って来ました。
「この食い物のどこが悪いかね?」と盆をヒースクリフの鼻さきへ突きつけました。
「悪いはずはないだろう」
「そうだとも! だがあのお上品な坊っちゃまは食えねえとおっしゃるだ。まあ、無理もなかろうって! おふくろさんが、そうだったもんな……わしらの蒔《ま》いた麦のパンじゃ汚なくって食えねえちゅうくれえだったかんな」
「おれの前であれの母親の話をするな」とヒースクリフは怒って言いました。「あの子に食えるものをやれば、それでいい。ネリー、この子はいつも何を食べてるんだね?」
沸《わ》かしたミルクかお茶がいいでしょう、と言いますと、すぐ家政婦に作れと言いつけました。そうだ、これでよい、父親の利己主義のおかげで、坊っちゃんも気楽に暮らせそうだ、とわたしは思いました。あの子の虚弱な体質を知り、かなり大切に扱わなければならないと認めているようだ。旦那さまにはヒースクリフの考え方をお伝えして、安心させてあげることにしよう。それで、いつまでもそこにいる口実もないので、坊っちゃんがなれなれしく近よってきた羊の番犬をびくびくしながら追いはらっているすきに、そっと抜けだしました。でも坊っちゃんはわたしのようすに注意していたので、だまされませんでした。扉をしめるなり、わっと泣きだし、狂ったように続けざまに叫びたてました……
「おいてかないで! ここにいたくないよう! ぼくも帰るんだよう!」
すると掛け金がかちりとかけられました。坊っちゃんを出さないようにしたのです。わたしはミニーに乗り、小走りさせました。こうしてわたしの短いお守り役も終わりました。
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二十一
その日のキャシーにはほんとに手こずりました。従弟と遊ぶつもりで、張り切って起きてきたのに、よそへ行ったと聞かされて、悲しさに泣きわめき、とうとう旦那さままで、きっとじきに戻るのだから、と慰めてやらなければなりませんでした。そう言ったあとで、「もしもつれてこられたら」と付け加えました。むろんその望みはまったくなかったのです。そんな約束ではなかなかお嬢さまをなだめるわけにはいきません。ですが、時の力は大きいもので、その後もときどき、お父さまにリントンはいつ帰るのと聞きはしましたが、会わないでいるうちに、相手の顔の記憶は薄れていき、次に再会したときは、もうだれかすっかり忘れておりました。
ギマトンヘ用事で出かけて、嵐が丘の家政婦に出会うことがありますと、いつもわたしは坊っちゃんの消息をたずねました。坊っちゃんもキャサリンと同じように、ほとんど家に引っこんだきりで、少しも姿を見せなかったからです。その人の話から、相変わらず病身で、手のかかる子らしいとわかりました。ヒースクリフは隠そうと努めてはいるものの、リントンを嫌う気持がますます根強くなっているようで、声を聞くだけでもむかつき、少し長くいっしょの部屋にいても耐えられなくなるということでした。二人でいろいろ話し合うこともなく、リントンはお部屋と呼んでいる小部屋で勉強したり、夜の時間を過ごしたり、そうでないときは一日じゅうベッドに寝ています。とにかく年じゅう咳をしたり風邪を引いたり、どこか痛かったり、なにかしら故障があるのだということでした。
「わたしは、あんないくじなしって見たこともないわ」とその女は言いました。「自分のからだにばかり気を使って、夕方ちょっと遅くまで窓をあけておこうものなら、たちまち大騒ぎ。大変だ! 死んじゃう! 夜風がはいる! と、こうなんだから! 夏の盛りでも暖炉がなくちゃいられないし、ジョーゼフの|きせる《ヽヽヽ》は毒だと言うし、いつでもお菓子やおいしいものがいるし、明けても暮れても牛乳、牛乳とくる……ほかのものが冬の寒さにかじかんでたって、おかまいなし。自分だけは暖炉のそばの椅子で毛皮の外套にくるまり、焼きパンをひたしたお湯やスープなんかを、暖炉の中で暖めてすすってるんだからね。ヘアトンが同情して、そばへ来て慰めてやろうとするんだけどね……ヘアトンは荒っぽいけど性質は悪くないんです……必ず喧嘩別れになって一方は毒づく、一方は泣きだすというしまつなの。旦那さまだって、自分の子でさえなけりゃ、きっとヘアトンにミイラになるほど鞭でひっぱたかせて喜んでいなさるよ。おまけに自分のからだばかり大事にしてることを少しでも知ったら、怒って家の外へ放りだしちゃうでしょうね。だけど、そんな気を起こすといけないから、旦那さまは決して坊っちゃんのお部屋にははいらないようにしてるし、|うち《ヽヽ》でいっしょにいるとき、坊っちゃんがわがままを見せると、たちまち二階へ追いやってしまうんですよ」
その話から、リントン坊っちゃんは生まれつきそうではないにしろ、まわりの人が少しも好意をしめさないために、わがままな気むずかしい子になってしまったらしいと思いました。そうなると、わたしまで坊っちゃんへの関心が薄れるようになりました。それでもやっぱりあの子の運命を哀れむ気持はあり、こちらに残しておけたのだったら、と思わずにいられませんでした。旦那さまはわたしになんとかしてようすを探らせようとなさいました。いろいろ心を砕いていらっしゃったのでしょう。自分でも少しは危険を冒しても会ってみたいと考えておられるようすでした。一度など、あの子が村に来ることがあるかどうか、向こうの家政婦に聞いてみろとおっしゃいました。家政婦の話では、二度、父親といっしょに馬で来たことがあるそうです。ところが二度とも、家へ帰ってから三、四日ぐったりしてしまったのでした。その家政婦はたしかリントン坊っちゃんが来て二年後に暇をとりました。次に来た家政婦はわたしの知らない人でしたが、現在まであちらにおります。
お屋敷ではその後また前のような楽しい日々が続き、やがてキャシーお嬢さまは十六才になられました。お誕生日にもお屋敷ではお祝いごとを何もいたしません。その日がちょうど奥さまのご命日に当たるからでございます。その日になりますと、旦那さまはかならず一日じゅう書斎にこもって過ごされ、日が暮れてから、ギマトンの墓地までお出かけになり、真夜中過ぎまでいらっしゃることもまれではありませんでした。それでキャシーは自分で工夫して遊ばなければなりません。その年の春の三月二十日はうららかな日でございました。お父さまが書斎へ引きこもってしまわれると、お嬢さまはよそゆきの服装で階下《した》へ降りて 来 ま し た。荒野《ムア》のはずれまでわたしといっしょに散歩してもいいかとお父さまに聞いたら、遠くへは行かないで、一時間以内に戻ればよい、とお許しが出たのだそうです。
「だから早くしてよ、エレン! あたしの行きたい場所はわかってるの。赤雷鳥が集ってるところよ。もう巣を作ったかどうか見たいの」
「それじゃ、ずいぶん遠くですね。雷鳥は荒野《ムア》のはずれになんか巣を作りませんから」
「いいえ、遠くないわ。パパとすぐ近くまで行ったことがあるのよ」
わたしはそれ以上深くも考えずに、ボンネットをかぶって出かけました。お嬢さまはわたしの前を飛びはねて行ったり、そばへ戻り、すぐまた駆けだしてみたり、若いグレイハウンド犬みたいでした。初めのうちは、わたしも存分に楽しんでおりました。遠く近くさえずるひばりの声に耳を傾け、暖かく快い日ざしを浴びながら、わたしのペット、わたしの喜びであるキャシーが、金色の巻き毛をうしろになびかせ、咲きほこる野ばらのようにやさしく清らかな頬を上気させ、曇りない喜びに目を輝かせているさまを見守っていました。あの頃のお嬢さまときたら、天使そのままの幸福にあふれていました。でもかわいそうに、満足していたとは言えないのです。
「さて、あなたのおっしゃる雷鳥はどこですか、キャシーお嬢さま? もう見つけてもいい頃ですね。お屋敷の猟園《パーク》の垣はもうずっと遠くなってしまいましたよ」
「あら、もうちょっとよ……ほんのちょっとだけね、エレン」お嬢さまの返事はいつまでも同じです。「あの丘を登って、あそこの土手を越えるの。おまえが向こう側へ着かないうちに、雷鳥を飛びたたせてあげるわ」
でも登ったり、越えたりしなくてはならない丘や土手はいくらでもありました。とうとうわたしは疲れてしまって、ここいらでやめて引き返さなくては、と言いました。ずっとさきに行っていたお嬢さまに大声で呼びかけたのですが、聞こえないのか聞こうとしないのか、どんどん飛びはねて行ってしまいます。仕方なしにわたしもついて行きました。とうとうその姿がくぼ地に見えなくなってしまいました。やっとまた見えるところまで行きますと、それはお屋敷より嵐が丘のほうに二マイルも近い場所でした。しかも二人の男がお嬢さまを捕えるところだったのでございます。一人はまぎれもなくヒースクリフさんでした。
キャシーは雷鳥の巣を盗もうとしているところを、または少なくとも探しだそうとしているところをつかまったのです。この丘はヒースクリフの土地ですから、密猟者をとがめていたのです。
「あたしはひとつも取らないわ。見つけもしなかったんです」わたしがやっとこさ、そこまで着いたとき、お嬢さまは両手を広げて間違いないことをしめしながら弁解していました。「取るつもりなんかありません。パパからここならたくさんいるって聞いて、卵を見に来ただけよ」
ヒースクリフは意地悪く、にやっとして、この子はだれか知っている、だからいじめてやるんだぞ、というようにわたしに目くばせし、「パパ」とはだれだ、とお嬢さまにわざと聞きました。
「スラッシクロス屋敷のリントンよ。やっぱりあたしを知らなかったのね。知ってたらあんなこと言わなかったはずだわ」
「それじゃ、パパというのは、たいそう偉くて尊敬されてると思ってるんだな?」とヒースクリフは皮肉たっぷりに言いました。
「それじゃあなたはどういう人?」キャサリンはふしぎそうに相手を見つめました。「あの人、前に見たことがあるわ。あなたの息子さん?」
お嬢さまはもう一人のヘアトンのほうを指さしました。あれから年は二つとりましたが、前よりも大きく、がっしりしてきただけで、相変わらずぎごちない、粗野なようすでした。
「お嬢さま」とわたしは口をはさみました。「一時間のつもりが、もうじき三時間ですよ。ほんとに帰らなくては」
「ちがう、あれはわたしの息子じゃない」とヒースクリフはわたしをわきへ押しのけて答えました。「だがわたしにも息子が一人いてね、あんたも前に会ったはずですよ。乳母《うば》さんは急いでいるようだが、お二人とも、ちょっと休んで行ったら、疲れもなおっていいと思いますよ。このヒースの丘をひと回りして、わたしのうちへ寄ってくれませんか? 休んだほうが、早くお家へ帰れます。うちではみな大いに歓迎しますよ」
わたしはキャシーに、どんなことがあってもそんな申し出をきいてはいけない、大変なことなんですから、と耳うちしました。
「なぜなの?」とお嬢さまは聞こえるように問い返しました。「走って疲れちゃったのに、ここの地面は露でぬれてるでしょう。行きましょうよ、エレン。それにあの人、あたしが息子さんに会ったことがあるって言ってるじゃないの。思いちがいでしょうけど、住んでるおうちはわかるわ。ペニストン山の帰りに寄った農家よ。そうじゃなくて?」
「そのとおり。さあ、ネリー、おまえは黙ってるんだよ……お嬢さんはうちへ寄ったら大喜びするよ。ヘアトン、お嬢さんといっしょにさきに行け。おれといっしょに歩こうや、ネリー」
「いけません、お嬢さまはそんなところへ行ってはいけないんです」わたしはヒースクリフにつかまれた腕をもぎ放そうともがきながら、叫びました。でもお嬢さまは一所けんめい駆けて丘のはしを回り、もう戸口の敷石に着くところです。送っていけと言われたヘアトンは、案内しようともせず、きまり悪そうに道のはしへ離れ、姿を消してしまいました。
「ヒースクリフさん、そんなこと、ひどすぎますわ」とわたしはつづけました「自分でもよくないことだと承知してるくせに。あちらでリントンさんに会えば、お屋敷へ帰ってすぐみんな話してしまいます。お叱りを受けるのはわたしですからね」
「おれはあの子をリントンに会わせたいんだ。この二、三日リントンも元気がいいんでね……あいつを人に会わしてやれることはめったにない。お嬢さんにはよく言ってきかせて、うちへ寄ったことなんか秘密にさせりゃいい。何も悪いことはないじゃないか」
「悪いですとも、お嬢さまをお宅へ寄らせたとわかれば、わたしは旦那さまから恨まれます。お嬢さまにそんなことをさせて、何か悪いたくらみなんでしょう」
「おれのたくらみは正直きわまるものさ。それじゃ、みんな教えてやる。あの二人のいとこ同志を好きにならせて、結婚させよう、という寸法さ。おれはおまえの主人に親切にしてやってるんだぜ! あの娘には遺産相続の見こみはない。だがおれの望みどおりにやってくれれば、たちまちリントンと共同相続人になれるんだ」
「でもリントン坊っちゃんが亡くなったら……とにかくあの方の命はおぼつかないんですから……そのときはキャサリンがあとの相続人なんでしょうね」
「いや、そうはいかないね。先代のリントンの遺言状には、それを保証する文句ははいってない。リントンの財産はおれのものになるのさ。だが、ごたごたを起こさないように、二人を結婚させておきたいんだ。おれはあくまでそうさせるつもりだ」
「わたしはあくまで二度とお嬢さまをお宅に近づけないつもりですよ」門まで来たとき、わたしは言い返してやりました。キャシーお嬢さまはそこで待っていました。
ヒースクリフはわたしにもう黙れと言い、さきに立って小|径《みち》を急ぎ、ドアをあけました。お嬢さまはヒースクリフをどう考えていいのやらきめかねるように、ちらっ、ちらっと見ていました。ところが今度はヒースクリフはお嬢さまと目が会うたびににこにこし、やさしい声で話しかけるのです。ですから、わたしは愚かにも、お嬢さまの母親を思いだして悪意が解け、ひどい目に会わせる気もなくなるのかもしれないと思いました。リントンは暖炉の前に立っていました。野原でも散歩してきたところらしく、帽子をかぶったまま、ジョーゼフに乾いた靴を持って来いと言いつけていました。十六にはまだ何カ月かあるという年ごろにしては、背が高くなっていました。前のように愛らしい顔だちで、目と顔色はわたしの記憶にあるよりは輝きがありました。でも、それは健康によい空気と暖い太陽のおかげで一時的に色つやが増しただけなのでした。
「さあ、あれはだれだね? わかる?」とヒースクリフはキャシーのほうを向いて聞きました。
「息子さん?」お嬢さまは疑わしそうに二人をかわるがわる見くらべました。
「そうだ、そのとおり。だけど今度初めて会ったのかね? 考えてごらん! なんだ、ずいぶん忘れっぽいんだね。リントン、従姉《いとこ》を思い出せないか。会いたい、会いたいって、ひどくてこずらされたもんだがな?」
「まあ、リントン!」キャシーはその名を聞いて、意外な喜びにぱっと顔を輝かせました。「あれがリントン坊や? あたしより背が高いじゃないの! あなたはほんとにリントン?」
少年は進み出て、そうだと言いました。お嬢さまは熱烈にキスし、二人とも時の経過によるおたがいの変わりかたに驚いて、じっと見つめあっていました。キャサリンは背丈はすっかり伸びきり、ふくよかでしかもすらりとした容姿に、はがねのような弾力があり、全体の感じが健康と活気に輝いていました。リントンは表情も動作もものうく、からだつきはいかにもほっそりしていました。が、その態度にはこうした欠点を補う上品さがそなわり、いやな感じはしません。従弟といろいろと愛情を交換しあってから、キャシーはヒースクリフさんのところへ行きました。彼は戸口にたたずんで、家の中と外とに気を配っているようでした。実は、外のものを見ているふりをしながら、中のことだけに注意していたのです。
「じゃ、あなたはあたしの叔父さまですね!」キャシーはそう言って、あいさつのキスをしようと背伸びしました。「初めは怒ってらしたけど、なんだか好きになれそうな気がしたの。なぜリントンと、スラッシクロスヘいらっしゃらないの? ずっとこんな近くに住んでいながら、一度も訪ねて下さらないなんて、変だわ……どうしてなの?」
「あんたの生まれる前、一度か二度よけいに訪ねすぎたのでね。おっと……キスはたくさん! わたしになんかするより、リントンにしてやって下さいよ。わたしにしたってむだだ」
「エレンてひどいわ!」とキャサリンは叫んで、こんどはわたしに飛びつき、抑えられない感情をわたしにふり注ぎながら、「エレンの意地悪! あたしをここへ寄らせまいとするなんて。だけどこれから毎朝ここまで散歩するわよ。よくって、叔父さま? ときどきパパもつれて来ますわ。喜んで下さる?」
「もちろんですとも!」と叔父は答えながらも、毎朝来るという訪問者への強い反感から、抑えきれないしかめ面《つら》が浮かんでくるのです。「だが、待って下さい」とお嬢さまに向かって言葉を続けました。「考えてみると、やっぱり話しておくほうがよさそうだ。リントンさんはわたしを嫌っておられるのだ。前に一度、おたがいにひどく乱暴な言い合いをしたのでね。もしもここに来たことを話したら、お父さんはあんたの訪問を絶対に禁止するだろう。だから、話してはいけないよ。これからさき、いとこに会うことなんかどうでもいいというなら別だが。とにかくあんたは来たければ来てもいいが、お父さんに話してはだめだ」
「なぜけんかなさったの?」とキャサリンはすっかり元気をなくしてしまいました。
「あんたのお父さんが、わたしは貧乏で、お父さんの妹さんと結婚する資格はないと考えたのさ。ところが結婚してしまったので、くやしがってるんだ。プライドを傷つけられたから、許せないのだ」
「そんなの、間違いよ! いつか、あたしから言ってあげます。でもリントンとあたしはそんなけんかに関係ないはずよ。それだったらあたしが来るかわりに、リントンにスラッシクロスヘ来てもらうわ」
「ぼくにゃ遠くて行けやしない」とリントンはつぶやきました。「四マイルも歩いたら死んじゃうよ。だめだよ、キャサリンさん。やっぱりあんたがときどき来てよ。毎朝でなくてもいいから、週に一、二度くらい」
父親は苦々しい軽蔑の視線を息子に走らせ、わたしにぶつぶつ言いました。
「ネリー、これじゃおれの骨折りもむだになりそうだな。あの弱虫がキャサリンさんと呼んでる相手に、やくざの正体がわかり、相手にされなくなっちまいそうだ。まったく、これがヘアトンならな!……あんなに卑しくなっていても、あのヘアトンがおれの息子だったら、と一日に何度思うかしれやしない。ヒンドリーの息子でなかったら、かわいがってやったのにな。それでもまさかあいつがキャシーに好かれる心配もあるまい。うちのやくざ者がぐずぐずしてたら、あいつと競争させてやろう。どうせ十八まで生きるかどうかもおぼつかないのだ。まったく、あん畜生の気ぬけ野郎が! 足を乾かすのに夢中で、娘を見ようともしない……おいリントン!」
「なに、お父さま?」
「お嬢さんを案内して見せてあげる物はないのか。兎か|いたち《ヽヽヽ》の巣でもどうだ? 靴をはき替えるより、庭へ連れてってあげなさい。厩《うまや》へ行っておまえの馬を見せてあげるといい」
「ここに坐ってるほうがいいんじゃない?」とリントンは、もう一度動くのはいやだという調子で、キャシーに話しかけました。
「さあ、わからないわ」とお嬢さまは答えて、戸口をちらと見ました。その目つきは外へ行きたそうで、どうやらはね回りたくてむずむずしているのです。
リントンは椅子を離れようとせず、ますますからだを小さくして火に近づきます。ヒースクリフは立ちあがって台所へ行き、中庭へ出て、ヘアトンを呼びました。ヘアトンの声がして、じきに二人してはいって来ました。ヘアトンの頬は赤くほてり、髪はぬれていて、いままでからだを洗っていたようすです。
「ああ、そうだわ、叔父さまにお聞きしたいんですけど」とキャシーお嬢さまはいつかの家政婦のことばを思いだして、いきなり言いました。「あの人、あたしのいとこじゃないんでしょ?」
「いとこだよ、あんたのお母さんの甥だ。好きになれないかね?」
キャサリンは妙な顔をしました。
「ハンサムじゃないか?」
思いやりのないお嬢さまはつまさき立ちになって、ヒースクリフの耳になにかひと言ささやきました。彼が笑うと、ヘアトンは顔を曇らせました。ヘアトンは人に軽蔑されることにとても敏感で、漠然とした劣等感を持っているようでした。でも彼の主人とも後見人ともとれる人が、すかさず言った言葉で、怒った顔が消えました。
「ヘアトン、おまえはここの人気者だ! お嬢さんはおまえのことを……ええと、なんて言ったっけ? とにかくえらく褒《ほ》めたんだ。さあ、お嬢さんに農場をひと回り案内してやりな。いいか、紳士らしくふるまえよ! 下品な言葉は使うな。お嬢さんがおまえを見てないとき、じろじろ見るな。お嬢さんに見られたらすぐ顔を隠すようにするんだ。口をきくときはゆっくりしゃべって、手はポケットから出しておくんだぞ。さあ行け。できるだけ上品におもてなししろ」
ヒースクリフは二人が窓の外を通って行くのをじっと見ていました。ヘアトンはつれの人からすっかり顔をそむけ、見なれた風景を旅人か画家のように、熱心に見ているようなようすをしていました。キャサリンは相手のほうをひそかにちらと見ましたが、その目つきはあまり心を打たれたようでもありません。すぐに自分でおもしろいものを探しだすことに気をとられ、話をしないうめあわせに鼻歌をうたいながら、うきうきと軽やかに歩いて行きます。
「おれはあいつを話もできないように育ててやったよ」とヒースクリフは言いました。「戻ってくるまで、ひと言も口がきけないだろう! ネリー、あいつの年ごろのおれを覚えているだろう……いや、もう少し小さい頃のおれを。おれもあんなまぬけ面《つら》をしてたかね。ジョーゼフが『うすのろ』というような?」
「いいえ、もっと悪かったんですよ。すねた顔をしてただけよけいにね」
「おれにはあいつが楽しみだ」とヒースクリフは考えることをそのまま口に出して続けました。
「おれの期待どおりになってくれたからな。あれが生まれつきのばかだったら、とてもこんなに楽しい思いはできないだろう。ところがあれはばかどころじゃない。おれの身に覚えがあるだけに、あいつの気持はみなよくわかる。たとえば、いま何を苦しんでいるのか、ちゃんとわかってる。だがそんなのは、これからさきもっと苦しまなければならないことのほんの序の口さ。あいつは現在の粗野と無知のどん底から決して浮かびあがれやしないのだ。おれはあいつの父親のならず者がおれを思いのままにしたよりも、もっとしっかりつかまえて放さず、もっと卑しい人間としておさえつけているんだ。あいつときたら野獣みたいなところを誇りにさえしている。おれがあいつに、動物的でないものはみんなばかげていて男らしくないと軽蔑するように教えたのだ。もしもヒンドリーがあの息子を見たら、鼻を高くすると思わないかね?……おれが自分の息子を自慢するくらいにな。だが二人には、こんなちがいがある……一人は敷石に使われた黄金、もう一人は銀に見せかけるために磨いた錫、というところだ。おれの息子なんか何の値打ちもないがらくたさ。だがあんなくだらぬものでも行けるところまで行かしてやるつもりだ。ヒンドリーの息子はすばらしい素質を持ちながら、みんなむだになっている。役にたたないどころか、もっとひどくなっている。おれには悔むことは何もないが、ヒンドリーにしてみれば、おれ以外のだれにもわからないくらい無念だろう。しかも、ヘアトンのやつはおれが好きでたまらないときてはな! これでおまえもおれがヒンドリーを負かしたことを認めるだろう。もしも死んだ悪党が墓場からよみがえり、息子をひどいめに会わせたと文句を言ったら、おもしろい見ものになるぞ。息子のやつはこの世でたった一人の味方をよくも罵ったなと怒って、親父を追い返すにきまってるからな!」
ヒースクリフはそう言って、くすくす悪魔のように笑いました。わたしは答えませんでした。返事を求めたわけではないからです。いっぽう、リントンは、離れていて、これが聞こえなかったのですが、そわそわしはじめました。どうやら、疲れるのがいやだからといって、キャサリンと遊ぶ楽しみを捨ててしまったことを後悔してきたようです。キョロキョロ窓を見やったり、ためらいながら帽子に手をやったりするのに気がついて、父親はわざと親切そうに言葉をかけました。
「そら、立て、ものぐさ坊主! 二人を追いかけなさい! いま角《かど》にいる。蜜蜂の巣箱のところだ」
リントンは元気を奮い起こして炉辺から離れました。格子窓が開いていたので、リントンが出て行くとき、キャシーが無愛想なおともに、戸口の上に何て書いてあるの、とたずねる声が聞こえました。ヘアトンは見あげて、いかにも無教育者らしく頭をかきました。
「何かろくでもねえことさ。読めねえけど」
「読めないんだって? あたし読めるわ、英語ですもの。でも、なぜあそこに書いてあるのか知りたいのよ」
リントンはくすくす笑いました……初めて見せた楽しい笑顔でした。
「ヘアトンは字が読めないんだ。こんなひどいばかがいるなんて、信じられないだろう?」
「あれで一人前なの? 足りないのかしら? どこか悪いんじゃない? あたし、もう二度も質問したのよ。だのに二度ともぽかんとして、あたしの言うことが理解できないみたい。あたしにもこの人の言うことはよくわからないのよ!」
リントンはまたくすくす笑い、あざけるようにヘアトンを見ました。ヘアトンは、とっさになんのことやらのみこめないようすです。
「怠け者だというだけさ、そうだろう、ヘアトン? キャシーはおまえを白痴だと思ってるよ。それでわかったろう、『無用の勉強』なんてばかにしたから、こんなことになるんだ。キャサリン、彼のすごい田舎なまりに気がついた?」
「なんだ、本なんて、畜生め、勉強して、何の役にたつんだ?」とヘアトンは毎日いっしょにいる相手には遠慮なくうなるように言い返しました。もっとまくしたてるつもりだったのに、ほかの二人はおもしろそうにどっと笑いだしてしまいました。浮わついたお嬢さまはヘアトンの変わった話しぶりが笑いものにできると知って大喜びでした。
「その言い方に、『畜生め』なんて言って何の役にたつんだい?」とリントン坊っちゃんはくすくす笑いました。「パパが悪い言葉は使うなって言ったろう。だのに口をきけば汚ない言葉が出ちゃう。紳士らしくやってみたらどうだい。そら、やってごらん!」
「てめえが女みてえでなけりゃ、ここで殴《なぐ》り倒してやるんだ。いいか、へなちょこ野郎め!」粗野な若者は怒ってやり返し、顔を怒りと屈辱に真っ赤にしながら立ち去りました。侮辱されたと知りながら、怒りをどう表わすか、とまどっていたのです。
ヒースクリフもわたしと同じようにこのやりとりを聞いていましたが、ヘアトンが行ってしまうと、にやりとしました。すぐそのあとで、戸口でまだべちゃくちゃやっている生意気な二人のほうへ、異常な反感をこめた視線を送りました。リントンはヘアトンの短所や欠陥をならべたてるときは生き生きとし、いろいろとおかしな行為を話して聞かせます。キャシーもリントンの生意気な、悪意にみちた話をおもしろがっていました。二人ともどんな意地悪をやっているのか考えてもみません。わたしだって聞いていて、リントンを同情するよりもいとわしくなり、父親が軽蔑するのもある程度仕方がないという気がしてきました。
わたしたちは午後まで嵐が丘にいました。それより早くキャシーお嬢さまを帰らせることはどうしてもできなかったのです。幸い旦那さまはずっとお部屋にこもりきりで、長い時間家を空《あ》けたことなど知りません。家へ帰る途中、いま別れたばかりの人たちの性格について、よく話してあげたかったのですが、お嬢さまはわたしが反感を持っているのだと決めてしまっていました。
「へえ、そうなの! エレンはパパの味方なのよ。わかってる、おまえは公平じゃないの。でなかったら、リントンがここからずっと遠くに住んでるなんて、何年もあたしをあざむけるはずがないもの。あたし、ほんとうはとても怒ってるのよ。いま楽しくて、怒り顔ができないだけなのよ! だけど叔父さまのことについては、何も言ってはいけないわ。あたしの叔父さまなんだから、いいわね。あの方とけんかするなんて、お父さまのことも叱ってあげなくては」
そんな調子ですから、わたしもお嬢さまの思いちがいをわからせようと骨折るのはやめました。その夜はお父さまとは顔をあわせなかったので、お嬢さまは今日の訪問についてはお話しませんでした。あくる日、みんなわかってしまい、わたしは本当にくやしい思いをしたものです。ですがしょげきってしまったわけでもございません。お嬢さまの指導や注意はなんと申しましても旦那さまに責任をとっていただくほうがずっと効果がある、と考えたからでございます。でも気の弱い旦那さまはお嬢さまに嵐が丘の人たちと交わってもらいたくない理由が十分に説明できません。甘やかされてきたキャサリンは、少しでも自由にできないことがあると、納得できる理由を聞くまでは承知しません。
「パパ!」朝のあいさつがすむと、いきなりお嬢さまは言ったのです。「きのう荒野《ムア》へ散歩に行ったとき、だれに会ったか当ててごらんなさい。あら、パパ、びっくりなさったわ! きっと何か悪いことをしてるんでしょう? あたしが会ったのは……いいから聞いて。どうしてお父さまの秘密を知ったか、お話してあげますからね。エレンも、お父さまとぐるだったのよ。そのくせ、あたしがリントンの帰りを待ちこがれて、いつもがっかりしていると、さも同情するようなふりなんかして」
お嬢さまはきのうの遠出とそのあとの出来事をありのままに話してしまいました。旦那さまはわたしに何度も非難の目を向けられましたが、お嬢さまが話し終えるまで黙っておられました。それからキャシーをそばへ引き寄せ、なぜリントンが近くにいることを隠してきたか知っているか、とお聞きになりました。そして、おまえに何の害もない楽しみを許さずにいたと思うのか、と付け加えられました。
「パパがヒースクリフさんを嫌ってらしったからよ」とキャシーは答えました。
「それじゃ、キャシー、わたしがおまえの気持より自分の気持のほうを大事にしているのだ、と思っているんだね? ちがうよ。わたしがヒースクリフさんを嫌っているからじゃなくて、ヒースクリフさんのほうがわたしを嫌っているんだよ。あの男はほんとに悪魔みたいなやつで、嫌いな相手が少しでも隙《すき》を見せたら、苦しめ破滅させて喜ぶのだ。おまえがリントンとつき合えば、あの男に会わないわけにはいかない。そしたら、わたしの娘だという理由で、おまえを憎むようになるだろう。それがわかっているから、だれのためでもなく、おまえ自身のために、リントンに二度と会わせないように用心してきたのだよ。いずれおまえが大きくなったら、話すつもりでいたのだが、いままで黙っていてすまないことをした」
「でも、パパ、ヒースクリフさんはとても親切にしてくれたわ」とキャシーは少しも納得がいかないようでした。「それに、二人が会うことにも反対しなかったわ……いつでも好きなときに来ていいけど、ただ、パパには言わないでおけって。パパとはけんかしたし、イザベラおばさまと結婚したことを許そうとしないからだって。そのとおりなんでしょう? パパがいけないのよ。少なくとも叔父さまはあたしたち……リントンとあたしを仲良しにさせようとしているのに、パパはちがうんだもの」
旦那さまは義理の叔父が凶悪な性質だと話しても、信じてくれそうもないのを見て、イザベラに対する仕打ちや、嵐が丘を手におさめたいきさつをざっと話してあげました。それを詳しく話すことなどとてもできないことでした。ほとんど口にしたことはなくても、宿敵への恐怖と嫌悪は、奥さまの死後ずっと胸をおおい、いまでも当時と同じ強さで感じられるのです。「あの男さえいなかったら、妻はまだ生きていたろうに!」というつらい思いがたえずつきまとい、旦那さまから見れば、ヒースクリフは人殺しだったのです。キャシーお嬢さまの知っている悪い行為といえば、せいぜいかっとなりやすい性質や軽率さから、言いつけを守らないとか、人を困らせたり、腹をたてたりするといった、自分のささいな過失だけ、それもその日のうちに後悔してしまうくらいのものです。長い年月にわたって復讐のたくらみを隠し続け、良心のとがめもなく計画的に実行していける邪悪な心があると聞いて、お嬢さまはびっくりしてしまいました。いままで教わったことも考えたこともない、人間性の新しい一面に、深刻な印象とショックを受けたもようですから、旦那さまはこれ以上続ける必要はないとお考えになり、ひと言だけ付け加えておっしゃいました。
「ねえ、キャシーや、これでなぜおまえにあの家へ行ったり、あの家の人たちに会ったりしてもらいたくないか、わかったね。さあそれでは、これまでどおりの勉強や遊びに戻って、あの人たちのことは考えないようにしなさい」
キャサリンはお父さまにキスをして、いつものとおりおとなしく二時間ほど勉強しました。そのあとはお父さまといっしょに道に出て、ふだんのように一日過ごしました。ところが夜になり、お嬢さまが寝室に引きとってから、着換えを手伝いに行ってみますと、ベッドのわきにひざまずいて泣いているのです。
「あらまあ、おばかさんですね!」とわたしは声をかけました。「もしあなたにほんとうの悲しみがあったら、こんなちっぽけな不運に涙を流すなんて恥ずかしくなりますわ。お嬢さまはまだ悲しみらしい悲しみはひとかけらも知らないでしょう。考えてもごらんなさいまし、お父さまもわたしも死んでしまって、お嬢さま一人この世に残されるようなことがあったら、どんな気持でしょう。そんな不幸とこんどのことと比べてみて、もっとたくさん友だちが欲しいなんて欲ばらずに、現在愛してくれる人がいることを感謝することですわ」
「エレン、あたしは自分のために泣いてるんじゃないの。リントンがかわいそうだからよ。あしたもあたしに会えると思ってるのに、どんなにがっかりするでしょうね。あたしを待っていても、行ってあげられないんだもの!」
「ばかばかしい。あなたが考えてあげるほど、あの子があなたのことを考えていると思いますか? あの子にはヘアトンという相手がいるじゃありませんか。たった二度、それも半日しか会わない親戚に会えなくなるからって、泣く人なんか、百人に一人もいません。リントンは事情を察して、これ以上あなたのことでくよくよしたりしませんよ」
「でも、なぜ行かれないのか、手紙でちょっと書いてやってはいけない?」とキャシーは立ちあがりました。「貸してあげる約束をした本を届けるだけならいいでしょう? あたしみたいないいご本は持ってないんだもの。あたしの本がとてもおもしろいって話したら、どうしても借りたいって。ねえ、いけない、エレン?」
「いけませんとも! いけないにきまってますわ!」わたしはきっぱり答えました。「そんなことをしたら、向こうでも手紙をよこすでしょうし、きりがなくなってしまいます。いけません、お嬢さま、交際はいっさいおやめなさい。パパが望んでらっしゃるし、わたしも見張っていますからね」
「だって短い手紙のひとつくらい……」とキャシーは哀願するような顔で、またはじめました。
「もう黙って! 手紙の話はやめましょう。そしておやすみなさいな」
キャシーは反抗的な目でわたしをにらみました。あまり憎らしい顔だったので、おやすみのキスはやめようと思ったくらいです。とても不愉快な気持で、かけぶとんをかけ、外へ出てドアをしめました。少し来てから、また不憫になり、そっと戻ってみますと、どうでしょう! お嬢さまはテーブルに向かって立ち、白い紙を前に置き、手に鉛筆を持っているのです。わたしがはいって行きますと気がとがめて、こそこそ隠してしまいました。
「お書きになったって、だれも届けてあげませんよ、キャサリン。とにかく蝋燭を消しますから」
わたしが蝋燭の炎にふたをかぶせますと、その手をいきなりぴしゃりと叩いて、「意地悪!」と怒った声を浴びせました。わたしはまた部屋を出てしまいましたが、キャシーはすこぶる険悪に、ふくれて、ドアの閂をかけてしまいました。結局手紙は書きあげられ、村から牛乳を取りにくる少年の手で宛て先に届けられました。それをわたしが知ったのはしばらくたってからでした。何週間かすると、キャシーの機嫌もなおりました。でも一人ですみっこへこそこそ隠れるのが妙に好きになり、また本を読んでいるところへ急に近寄ったりすると、ぎくっとして本の上に突っぷし、いかにもそれを隠したがっているのがわかります。そんなとき、本の外へ何枚かの紙のはしがのぞいているのです。そうかと思うと朝早く起きて、何か来るのを待つようすで、台所のあたりをうろうろするようになりました。書斎の小さな引き出しを一人で使っていますが、そこで何時間も費やし、離れるときは鍵を置き忘れないように、特別注意していました。
ある日、お嬢さまがこの引き出しを調べているとき、わたしは最近までおもちゃや小間物を入れてあったのが、いくつもの折りたたんだ紙に変わっているのを見てしまいました。好奇心と疑いの気持から、お嬢さまの秘密の宝物をのぞいてみようと決めました。夜になり、お嬢さまと旦那さまが二階に引きあげてしまうのを見とどけると、さっそく家の鍵束の中を探して、引き出しに合う鍵を見つけました。そこをあけて、中身をそっくりエプロンヘあけ、自分の部屋へ持ってきて、ゆっくり調べることにしました。初めから感づいていたものの、それがみなリントン・ヒースクリフからの手紙と知っては、やはり唖然《あぜん》としました。ほとんど毎日来たにちがいなく、しかもお嬢さまの送った手紙への返事だったのです。初めの頃の日付けのものは、ぎごちない短い手紙ですが、しだいにこまごまと書いた恋文となっていきました。書き手の年令からみて当然のたわいもない内容ですが、あちこちにもっと経験のある人から借りたらしい表現がはいっています。なかには情熱と単調さがとても異様に入りまじっている手紙もあって、熱烈な感情で書きだしながら、結びは空想の、ありもせぬ恋人に中学生が書くような、気取った、もって回った調子で終わっているのです。そんなのがキャシーを満足させたのかどうかわかりませんが、わたしには何の値打ちもないくだらないものとしか思われませんでした。ひととおり目をとおしますと、ハンカチに束ねてよそに隠し、空《から》の引き出しにまた鍵をかけておきました。
いつものとおり、お嬢さまは朝早く台所へおりて来ました。一人の少年がやって来ますと、戸口へ出て行きました。乳しぼり女が少年の罐に牛乳を入れてやっているあいだに、何やら彼の上着のポケットに押しこみ、別のものを引きだしました。わたしは庭を回って手紙の使者を待ち伏せました。ところが預かりものを取られまいと勇敢に抵抗するものですから、牛乳をこぼしてしまいました。でもとうとう手紙を奪い取りさっさと帰らないとただではおかないよ、と少年を、おどかして、石垣の下でキャシーお嬢さまの愛情のこもる手紙を読みました。リントンのよりも率直で雄弁で、とてもかわいらしくもあり、とてもばかげてもいました。わたしは首をふり、いろいろ考えながら家へはいりました。その日は雨で、お嬢さまは庭園《パーク》を散歩して楽しむわけにもいきません。朝の勉強がすみますと、例の引き出しのところへ行って慰さめを得ようとしました。お父さまはテーブルで読書をなさっています。わたしはわざと窓のカーテンのはしを房にする仕事をはじめ、お嬢さまのようすをじっと見守っておりました。親鳥が出て行くとき、巣にいっぱいになって鳴きたてていた雛鳥が、舞い戻ってみると、みな奪い去られていると知ったら、どんな悲痛な叫び声や羽ばたきで絶望をしめすことでしょう。でもそれすら、お嬢さまがひと言「あっ!」と叫び、ついさっきまでの幸福な顔色が一変したときの限りない絶望には及ばなかったでしょう。旦那さまも顔をおあげになりました。
「どうした、キャシー? どこか痛くしたの?」
その語調と顔つきから、お嬢さまは秘蔵の宝をあばいたのはパパではないと知りました。
「いいえ、パパ!」と喘《あえ》ぐように答えました。「エレン! エレン! 二階へ来てちょうだい……気分が悪いのよ!」わたしは言いつけどおり、いっしょに部屋の外へ出ました。
「まあ、エレン! おまえが取ったのね」二階の部屋で二人だけになるとすぐ、お嬢さまは跪《ひざまず》いて言いました。「お願い、返してよ。決して決して二度としないわ! パパに言わないで。まだ言ってないでしょう、エレン? 言わないわね! ほんとにあたしがいけなかったの。でももうしないから!」
わたしは落ち着いた、きびしい態度で、お立ちなさいと言いました。
「あれでは、お嬢さま、ずいぶん深入りなさってるようですね。恥ずかしがるのも無理はありませんね! まったく、暇な時間にはすてきな紙くずのご勉強なんですね。ほんとに、印刷してもいいようなりっぱなものばかり! お父さまにお見せしたら、どうお思いになるでしょうね? まだお目にかけやしません。でもお嬢さまのばかげた秘密なんか、わたしがいつまでも守るなんて思わないで下さいね。恥ずかしいことですわ! こんなくだらない文通をするように誘ったのはきっとお嬢さまのほうでしょう。リントンが先に考えつくはずはありませんもの」
「あたしじゃない! あたしじゃない!」いまにも胸が張り裂けるかのように、キャシーはすすり泣きました。「あたしは一度だってあの人を恋するなんて考えなかったんだけど……」
「恋ですって!」わたしはその語をできるだけ軽蔑するように言いました。「恋だなんて! そんな話ってありませんわ! 一年に一度だけ、うちの麦を買いにくる粉屋を恋するというようなものじゃありませんか。まあ変わった恋ですこと! 二度会った時間を合わせても、いままで四時間会ったか会わないくらいだというのに! はい、ここに赤ちゃんみたいなたわごとの手紙があります。これを書斎へ持って行って、お父さまがこの『恋』を何ておっしゃるか伺ってみましょう」
お嬢さまは貴重な手紙の束に飛びかかりました。わたしは頭の上へさしあげてしまいました。するといよいよ血相を変えて、みんな焼いてしまってちょうだい……パパにさえ見せないならどう処分したっていい、と哀願します。わたしの内心では叱るよりも吹きだしたくてたまらなくて……これもみな少女らしいうぬぼれから始まったことでしょうから……お終《しま》いには少しやさしくしてあげました。
「もしこれを焼くことにしたら、もう二度と手紙のやりとりをしないって、固く約束して下さいますか。本も……本を送ったことはちゃんと承知しておりますよ……巻き毛も指輪も、おもちゃなんかも決して送らないって?」
「おもちゃなんかやりとりしてないわ!」プライドから、思わず恥ずかしさを忘れてキャシーは叫びました。
「とにかく何も送らないことですよ、お嬢さま。約束して下さらないなら、さあ参りましょう」
「約束するわ、エレン!」お嬢さまはわたしの服をつかんで、叫びました。「さあ、火に投げこんで。早くしてよ!」
でも、火かき棒で手紙を入れる隙を作りはじめますと、そんな犠牲をはらうのが切なくなって、せめて一、二通残しておいて、と真剣に訴えました。
「ひとつかふたつだけよ、エレン。リントンのために取っておきたいの!」
わたしはハンカチをほどき、すみのほうから手紙を落としはじめました。炎は煙突の中をめらめらとのぼっていきました。
「ひとつ取るわよ、情知らず!」とお嬢さまは叫んで、さっと手を火の中へ伸ばし、指に火傷《やけど》しながら、半焦げになった紙きれをつかみだしました。
「よござんす……少しお父さまにお見せしましょうね!」とわたしは答えて、残りを包んでしまい、また戸口のほうへ行きかけました。
お嬢さまは黒焦げの紙片を炎の中へ投げこんで、わたしに残りもみんな焼いてしまうようにと、手ぶりでうながしました。犠牲は果たされました。わたしは灰をかきたて、シャベル一杯の石炭をかぶせてしまいました。お嬢さまは何も言わず、心はひどく傷つきながら、自分の部屋へ引きこもってしまいました。わたしは階下へ行き、旦那さまにお嬢さまの気分はほとんどなおりましたが、少しおやすみになったほうがよいでしょう、とお話しました。キャシーは昼食を食べようともしません。お茶の時間になるとまた姿を見せました。青い顔で、目のふちを赤くし、すっかり打ちしおれたようすでした。あくる朝、わたしは手紙の返事として、紙切れにこう書いて渡しました。……「ヒースクリフの坊っちゃまには今後はリントンのお嬢さまにお手紙をお届け下さらないようお願いします。お嬢さまはお受け取りになりません」それ以来、男の子はポケットに何も入れて来ないようになりました。
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二十二
夏が終わり、初秋の季節となりました。ミカエル祭も過ぎましたが、その年は取り入れがおくれて、お屋敷でもまだ刈り入れの終わらない畑がいくつかありました。旦那さまとお嬢さまは麦刈りの人々の間をよく散歩なさいました。最後の麦束を運び入れるときは、暗くなるまで外にいらっしゃいました。あいにくその夕方は冷えてしめっぽかったので、旦那さまはひどい風邪《かぜ》をお引きになり、肺が侵されてこじれてしまい、とうとう冬の間じゅう、ほとんど一度も外出なさらず閉じこもって過ごされました。
かわいそうにキャシーは小さなロマンスのためにおびえ、それを棄《す》てたときから悲しみに元気をなくしてしまいました。旦那さまは読書はほどほどにして、もっと運動しなくてはいけないとおっしゃいます。お嬢さまの散歩の相手がなくなってしまったので、できるだけその代わりをしてあげるのがわたしの務《つと》めだとは思いましたが、そんな代理はとても無理でした。毎日の仕事が多くて、お嬢さまのおともをする時間はせいぜい二、三時間しかとれないのです。それにわたしではお父さまほど望ましい相手になれないことがよくわかりました。
十月のある午後、いいえ十一月の初めだったかもしれませんが……さわやかな雨もよいの午後のことでした。芝生や小径《こみち》には湿った枯葉がかさこそと音をたて、さむざむとした青空はなかば雲に隠されていました……暗い灰色の旗雲で、西のほうからみるみる拡がり、大雨が来そうでした。……きっとにわか雨になると思ったわたしは、お嬢さまに散歩はやめて下さいと言いました。でも聞き入れてくれません。わたしはしぶしぶ外套を着て、傘を持ち、猟園《パーク》のはしまで散歩のおともをしました。元気のないとき、お嬢さまはたいていその形ばかりの散歩をします。お父さまのかげんがふだんより悪くなると、お嬢さまはいつも元気を失くしてしまうのでした。もっとも旦那さまの口からかげんが悪いなどと決しておっしゃるわけではなく、話をしなくなったり、暗い顔色をなさっているのを見て、お嬢さまもわたしもそれを知るのでした。お嬢さまは悲しそうに歩いて行きました。冷たい風に会うと、駆けだしたくなりそうなものなのに、走ったり飛びはねたりしません。そっとようすをうかがっていると、ときどき手をあげて、頬からなにやら拭きとるのです。その気持をまぎらすようなものはないかと、わたしは見回しました。道の片方は高い、でこぼこした土手になり、榛《はしばみ》やいじけた樫の木が根をなかばむき出しにして、やっと生えています。とくに樫には土がゆるすぎるので、何本かは強い風のためにほとんど横倒しになっていました。夏になるとキャシーお嬢さまはこんな木の幹によじ登り、地面から二十フィートもある枝に腰かけて、ゆすぶって喜ぶのでした。わたしとしては、そんな敏捷《びんしょう》さや子供らしい快活さは嬉しいのですけれど、やはりそんな高い所にいるのを見つけしだい、叱らないわけにはいきません。でも降りなくてもいいのだと、お嬢さまにもわかるように、叱るのです。昼食からお茶の時間まで、キャシーはそよ風に揺れるそのゆりかごに寝て、何もせずに古い歌……わたしの教えた子守唄……を一人で歌ったり、同じ木に住む小鳥たちが雛に餌をやったり飛ばせようと誘ったりするのをながめたり、目を閉じて、ことばでは言いつくせない幸福感にひたって考えたり、夢みたりしたものでした。
「ごらんなさい、お嬢さま!」わたしは一本のねじれた木の根元を指さして叫びました。「ここにはまだ冬が来ていません。ほら、あそこに小さな花が。七月ごろ、この芝生の段々をライラック色に包んでいた釣鐘《つりがね》草の最後の蕾《つぼみ》なんですね。登って摘んで来て、お父さまに見せておあげになったら?」
キャシーは土の陰に隠れて震えている、ひとつしかない花を長いこと見つめていましたが、やがて答えました。
「いやよ、そっとしておきたいわ。でも寂しそうだわね、エレン?」
「そうですね。お嬢さまみたいにしおれて元気がありませんわ。お嬢さまの頬ったら血の気もありませんよ。手をつないで駆けましょうね。お嬢さまときたらさっぱり元気がないんですもの、わたしだって今日はおくれませんよ」
「だめよ」とキャシーはまた言って、ゆっくり歩きつづけました。ときどき立ち止まっては、苔や、白ちゃけた草むらや、褐色の落葉のつもっている中にあざやかなオレンジ色をひろげたきのこなどを、考えこむようにながめるのです。そしてときどきそむけた顔に手を当てました。
「キャサリン、なぜ泣いたりなさるんですか?」わたしは近づいて、肩に手をかけました。
「お父さまがお風邪を引かれたからって、泣くことなどないじゃありませんか。お風邪だけですんでよかったと、感謝なさるのが本当ですよ」
それを聞くともう涙をこらえられず、息が詰まってしまうほど、泣きじゃくりました。
「ちがう、きっともっと大変なことになるのよ。パパもおまえもいなくなって、一人ぼっちになったらどうしたらいいの? エレン、いつかのおまえの言葉が忘れられないの。いつも耳にこびりついてるの。パパもおまえも死んじゃったら、人生はどんなに変わってしまうかしら。この世がどんなにさびしくなるかしら」
「お嬢さまのほうがわたしたちよりさきに亡くなるかもしれないじゃありませんか。さきざきの悪いことを考えるものではありませんよ。わたしたちはまだ何年も何年もこうしていられるのだと考えることですよ。……旦那さまはお若いし、わたしは丈夫で、四十五になるかならずですよ。わたしの母なんか八十まで生きていて、最後までそりゃ元気でしたよ。お父さまが六十までお元気だとしても、お嬢さまがいままでとって来た年よりももっとたくさんの年月があるんですよ、お嬢さま。二十年以上もさきの不幸をいまから悲しむなんて、ばからしいじゃありませんか」
「だって、イザベラ叔母さまはパパより若くっても亡くなったじゃない」キャシーは少しでも慰めになるものを得ようと、おずおずわたしを見あげました。
「イザベラ叔母さまには、お嬢さまやわたしのように看病してあげる方がいなかったんです。お父さまのようにしあわせじゃなかったし、生きがいになるものがなかったんです。あなたはただお父さまを大切にしてあげたり、元気な顔を見せて力づけてあげたりなさったらいいんです。どんなことにせよご心配をかけないようになさることですわ。その点をよく気をつけてね、キャシー! いいですか、はっきり申しますけど、お嬢さまがわがままな向こう見ずな気持を起こして、お父さまに早く墓場へ行ってもらいたがっている人の息子なんかに、ばかげた、たあいもない想いを寄せたり、お父さまがよいとお考えになって別れさせたのに、くよくよしているようすなど見せたら、お父さまのお命を縮めることになりますからね」
「くよくよするって、パパのご病気が心配なだけなのよ、パパほど大切なものはないんだもの。あたしは決して……決して……ほんとに正気でもなくさない限り、決してパパのいやがるようなことをしたり言ったりしないわ。あたしは自分以上にパパを愛してるのよ、エレン。毎晩あたしが、パパより後まで生きていますようにって、お祈りしてることでも、わかるわ。パパに悲しい思いをさせるよりあたしが悲しむほうがいいからよ……あたしが自分よりパパを愛してる証拠でしょう」
「よく言って下さいました。でも行ないでもそれを証拠だてなくてはなりませんわ。お父さまが良くおなりになってからも、いろいろ心配なさっているときの決心を忘れないようにね」
話しているうちに、道に面している門の近くに来ました。お嬢さまはふたたび明るい顔になり、石垣のてっぺんに登り、腰をおろして、街道側をおおっている野ばらのいちばん先の枝に真っ赤に光っている実を取ろうと手を伸ばしました。下のほうの実はもうなくなって、高いところはキャシーの登っている場所からでなくては、小鳥のほかは触れられません。実を取ろうと腕を伸ばすとき、お嬢さまの帽子が落ちました。門には鍵がかかっていましたので、外へ降りて拾って来ると言います。落ちないように気をつけて、と言ってあげますと、すばやく姿を消しました。でも戻るのはそうかんたんにはいきません。石垣はすべすべした石をちゃんとセメントで固めてありますし、野ばらや黒いちごの蔓《つる》はよじ登って来る足がかりにはなりません。わたしもうっかりして、それに気づかずにいますと、キャシーが外から笑いながら声をかけました……
「エレン、鍵を取ってきてもらわなくちゃだめね。でなきゃ、あたしが門番小屋まで回らなくちゃ。この石垣はこっち側から登れないわ!」
「そこにいらっしゃいね。ポケットに鍵束がありますから、あけられるかもしれません。だめなら、行って来ます」
わたしが大きい鍵を順々に試していると、キャシーは門の前で踊り回って楽しんでいました。最後の鍵まで差しこんでみましたが、ついにどれも合いません。そこにいるようにと、もう一度念を押して、大急ぎで母屋へ引き返しかけました。そのとき、近づいてくる物音を聞いて足をとめました。小走りの馬の蹄《ひづめ》の音です。キャシーも踊りをやめました。
「だれですか?」とわたしは小声で聞きました。
「エレン、門があけられたらねえ」と心配そうな声でささやき返しました。
「ほう、リントンのお嬢さん!」と太い声が叫びました(それが馬に乗ってきた男でした)……
「会えてよかった。なにも急いではいることはない。説明してもらいたいことがあるんだ」
「ヒースクリフさん、あなたとは口をききません」とキャサリンは答えました。「あなたは悪い方だって、パパに聞きました。お父さまとあたしを憎んでるんだって。エレンもそう言っています」
「そんなことはどうだっていい」とヒースクリフは(やっぱりあの男だったのです)答えました。「自分の息子だけは憎んでいないつもりだからな。あんたに考えてもらいたいのはその息子のことだ。なるほど、たしかに赤い顔をする理由があるんだな。二、三カ月前、リントンにせっせと手紙をよこさなかったかね……遊び半分に恋をしかけたんだろう? 二人とも笞《むち》で引っぱたいてやるのがちょうどいい! とくにあんたはそうだ。年上だし、どうやらあんたのほうが無神経だとわかったからな。わたしはあんたの手紙を持ってる。生意気なことを言ったら、お父さんに届けてやるぞ。あんたのほうは、遊びにあきて、やめたようだな? とにかく、やめたとたんに、リントンを『絶望の沼』へ突き落とした。あの子は真剣だった。本気で恋をした。間違いなく、死ぬほど恋いこがれている。あんたのむら気で悲嘆にくれているんだ……口先だけじゃない、事実そのとおりなんだ。ヘアトンには六週間ものべつからかわれるし、わたしも本気になってやり方を考え、おどかしてばかな夢を覚ましてやろうとしたが、日ましに悪くなるばかりだ。あんたが元気づけてやらない限り、夏を待たずに土の中へはいってしまいそうだ!」
「なにもわからない、こんな子供に、よくもそんなあつかましい嘘が言えたものですね」とわたしは内側から声をかけました。「どうか行ってしまって下さいな! そんなくだらない嘘っぱちをよくもこしらえたものですわ。お嬢さま、いま石で錠をたたきこわします。そんな腹ぐろいでたらめを信じてはだめですよ。自分でもわかるでしょう、知りもしない人を恋して死ぬ人間なんているものですか」
「立ち聞きしてるやつがいるとは知らなかった」と見破られた悪党がつぶやきました。「やあ、ごりっぱなディーン夫人、おれはあんたが好きだけど、裏表のあるのはいやだね」とこちらに聞こえるように言い返しました。「あんたこそひどい嘘をついて『こんな子供』をおれが憎んでると言ったり、こわい作り話をして、お嬢さんをおびえさせ、おれの家の入口に近づかせないようにしてるじゃないか。キャサリン・リントン(この名を口にするだけでも心が暖かくなるが)、かわいいお嬢さん、わたしは今週いっぱい留守になるから、わたしが本当のことを言ってないかどかうか、見とどけに行って下さいよ。いい子だから、ぜひそうして下さい! かりにあんたのお父さんがわたしの身になり、リントンとあんたの立場が入れかわったとしたら、どうだ。あんたのお父さんがリントンに頼んでいるのに、あんたを慰めてやろうと一歩も動いてくれないとしても、その無情な恋人をありがたがるかね? ただの浅はかさから、それと同じ間違いをしないで下さいよ。わたしが嘘をついたら地獄へ落ちてもいい、リントンは死にかけてる。あんたしか救ってやれる人はいないんですよ!」
やっと錠前がこわれたので、わたしは飛びだしました。「ほんとに、リントンは死にかかってるんだ」とヒースクリフはわたしをじっと見すえてくり返しました。「悲しみと落胆からよけい早く死にそうだ。ネリー、お嬢さんを行かせない気なら、自分で行ってみるといい。とにかくおれは来週のいまごろまでは帰らない。おまえの主人だって、この子が従弟の見舞いに行くのをまず反対はしないだろう」
「おはいりなさい」わたしはキャシーの腕を取って、なかば強制的に邸内へ戻らせました。お嬢さまは、嘘があるとは思えぬ厳しい相手の顔つきを、当惑して見つめながら、なかなかはいろうとしなかったのです。
ヒースクリフは馬を近づけ、下へ身をかがめて、言います……
「キャサリンさん、正直なところ、わたしはリントンには手こずっているんだよ。じっさいあの子は無情な連中といっしょにいるわけで、恋もそうだが、親切に飢えてるんだ。あんたの親切なひと言がなにより薬だ。ディーンさんの薄情な忠告なんかかまわなくていい。寛大な気持になって、なんとか会うようにして下さいよ。夜も昼もあんたのことを夢に見て、いくらおまえを嫌ってるわけじゃないと言って聞かせてもわからないんですよ、なにしろ手紙もくれないし、訪ねて来てもくれないんだから」
わたしは門をしめ、こわれた錠前のかわりに石を転がして、押しつけておきました。そして傘をひろげ、お嬢さまを中へ入れてやりました。雨は悲しげな音をあげる木々の枝をとおして、激しく落ち始め、ぐずぐずしてはいられなくなったのです。あわてて家へ引き返すあいだは、ヒースクリフとの出会いを話す余裕などありませんでした。でも、わたしは本能的にキャシーの心が二重の影に曇っているのを察していました。まるで人が変わったように悲しい顔つきになり、明らかにヒースクリフから聞いた話を残らず本当と思いこんでいたのです。
家に着いたときは、旦那さまはもうおやすみになっていました。キャシーがそっとお部屋まで見に行きますと、もう眠りにおちたようすでした。戻ってくると、わたしにいっしょに書斎に来てくれと言います。二人でお茶を飲み、そのあとで、お嬢さまは敷物の上に横になり、疲れたから黙っていて、と言いました。わたしは本を取ってきて、読むふりをしていました。わたしが本にすっかり没頭していると思ったらしく、キャシーは、また声もたてずに泣きはじめました……この場合、それがなによりも気晴らしになるようでした。ですからしばらく気がすむまで泣かせておき、少したってよく言い聞かせてあげました。ヒースクリフが息子について言った話は、みな茶化したり、笑いものにしてやり、お嬢さまも当然同意してくれるものと考えていました。ところが、ヒースクリフの話が与えた効果を消し去るなんて、とてもわたしの力でできることではなかったのです。それこそ彼の考えどおりになっていたのでした。
「おまえの言うとおりかもしれないわね、エレン」とお嬢さまは答えました。「だけど本当のことを知るまでは安心できないの。手紙を書かないのはあたしが悪いんじゃないって、リントンに話して、心変わりなんかしてないことを納得させてやりたいのよ」
こうして浅はかにも信じきっているお嬢さまを怒ってみたって、反対してみたって、何になりましょう? その夜はそのまま……ちぐはぐな気持で別れました。あくる日はわたしがわがままお嬢さまの小馬につきそって、嵐が丘への道をたどって行くことになりました。お嬢さまの悲しみが……青ざめ、しおれきった顔と、悲しみに沈んだ目が、とても見ていられなかったのです。いっそリントン自身に会い、わたしたちを迎えるようすを見せたら、ヒースクリフの話がどんなにいいかげんなものかわかってくれるかしれないと、あわい望みをかけて、とうとうお嬢さまに負けてしまったのです。
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二十三
雨の一夜が明け、霧の深い朝が来ました。……氷のような霧雨でした……高地から音高く流れ落ちる水が、行く手をいくつもの川となって横切っていました。わたしの足はずぶ濡れとなり、いらだたしくふさいだ気分になりました。こんないやなおともの不愉快さを倍加させるのにはちょうどいいところでした。わたしたちはヒースクリフがほんとうに留守なのかたしかめるために、勝手口からはいりました。彼の言うことをわたしはほとんど信用していなかったのです。ジョーゼフがこの上もないしあわせといったようすで「ただ一人、ごうごうと燃える暖炉のわきに掛けていました。そばのテーブルには一クォート入りのビール壜一本と大きな堅焼ビスケットをどっさりおき、黒い短いパイプをくわえています。キャサリンはからだを暖めようと、暖炉に走っていきました。ご主人はおいでかとわたしは聞きました。なかなか返事をしてくれないので、爺さんは耳が遠くなったかと、もう一度大声で言ってやりました。
「あれ……まあ!」うなるというより、鼻で叫ぶような声でした。「うん……ああ! とっとと来たとこへ帰るがいいだ!」
「ジョーゼフ!」わたしと同時に、奥の部屋から怒った声がしました。「何度呼ばせるんだ? もう赤い灰がらが少しあるだけだと言ってるのに。ジョーゼフ! すぐ来いったら」
思いきりすぱすぱやり、びくともせずに、炉格子の中を見つめているようすでは、あくまでそんな呼び声に耳をかすまいとしているようです。家政婦もヘアトンも姿が見えません。たぶん家政婦はお使いで、ヘアトンは野良仕事なのでしょう。呼んでいるのはリントンの声とわかったので、わたしたちは奥へはいって行きました。
「なんだ、おまえなんか屋根裏で死んじまえばいい。飢え死にすりゃいいんだ!」少年はわたしたちのはいって行ったのを、ずるい召使ととりちがえたのです。
その過ちに気がつき、口をとじると、キャシーは飛びついていきました。
「あんただったの、ミス・リントン」彼はもたれていた肘かけ椅子から頭を起こしました。「だめ……キスなんかやめて。息が詰まっちゃう。驚いたなあ! きみが来るって、パパが言ってたとおりだ」キャシーの抱擁からやっと少し息をついて、ことばを続けました。キャシーはいかにも悪いことをしたような顔でそばに立っています。「すまないけど、ドアをしめてくれない? 開け放しなんだもの。あいつら……あのいやなやつらときたら、暖炉に石炭も持って来ない。ああ寒い!」
わたしは残り火をかきたて、石炭入れにいっぱい運んで来ました。病人は灰だらけになったと文句をつけましたが、大儀《たいぎ》そうな咳をしたり、熱っぽく気分が悪そうなので、わたしもわがままを咎《とが》めもしませんでした。
「ねえ、リントン、あたしに会って嬉しい? 何か役にたてることない?」キャサリンは相手のしかめつらが少しなおったとき、小声で言いました。
「なぜもっと早く来てくれなかったの? 手紙なんかより、来てくれるとよかったのに。あんな長い手紙を書くと、疲れちゃうんだ。会って話すほうがずっとよかったよ。いまじゃもう話も何もできやしない。ジラーはどこだろう! あんたが(とわたしの顔を見て)台所へ行って見てきてくれない?」
さっきしてあげたことはお礼も言われなかったし、この子の命令で走り回る気はしなかったので、こう答えました。
「あそこはジョーゼフしかいませんよ」
「何か飲みたいよ」リントンはいらいらしながら言って、ぷいと横を向きました。「ジラーのやつ、パパがいなくなってから、いつもふらふらギマトンヘ行っちゃうんだ。悲しくなっちゃう! ぼくはここへおりて来なきゃなんない……二階にいると、いくら呼んだってみんな知らん顔してるんだもの」
「お父さまはよく見てくださるの、坊っちゃん?」キャサリンがせっかく親しそうに愛嬌《あいきょう》を見せたのに、はねつけられたので、わたしからたずねました。
「見てくれるかって? そりゃ、あいつらにも少しは気をつけるようにさしてるさ。だけどひどいやつらったらない! あのね、ミス・リントン、あのヘアトンのけだものがぼくをばかにするんだ! あいつは大嫌いだ! ほんとに、みんな残らず嫌いだ。いやらしいやつばっかりなんだ」
キャシーは水を探しはじめました。ふと食器棚の水差しに目がとまったので、コップに注いで持って来ました。彼はテーブルの上の瓶からワインを一さじ入れてくれと言い、少し飲むといくらか気分が落ち着いたようで、キャシーの親切が嬉しいと言いました。
「それで、あたしに会って嬉しい?」キャシーは前の質問をくり返し、かすかな微笑が浮かぶのを見て満足したようでした。
「うん、嬉しいよ。あんたみたいなやさしい声を聞くのは珍しいもの! でも、なかなか来てくれないから、怒ってたんだ。パパはぼくのせいだって言うんだもの。ぼくのことを、情ない、よぼよぼのろくでなしだって。あんたまでぼくを軽蔑してるって言うんだ。パパがぼくだったら、いまごろはスラッシクロス屋敷の主人になって、あんたのお父さんよりももっといばってるはずだって。でも、ぼくのことを軽蔑したりしないやね、ミス……」
「キャサリンとか、キャシーとか言ってもらいたいわ」とお嬢さまはさえぎりました。「あなたを軽蔑するって? とんでもないわ! パパとエレンの次に、あなたがこの世でだれよりも好きよ。だけど、ヒースクリフさんは好きになれない。あの人が戻ったら、もう来られないわ。ずっと留守なの?」
「ずっとじゃない。でも猟期がはじまったから、ちょくちょく荒野《ムア》へ出かけるよ。だから留守のあいだ、一、二時間来られるよ。来ると言ってよ。ぼくはあんたにはわがままをしないよ。ぼくを怒らせやしないね。いつも助けてくれるだろうね?」
「そうよ」キャサリンは、リントンの長い柔い髪をなでてやっていました。「パパのお許しさえいただけたら、半日ぐらいそばにいてあげるんだけど。かわいいリントン! あなたがあたしの弟だったらねえ」
「そしたら、あんたのお父さんと同じくらい好きになってくれる?」リントンは少し元気づきました。「でもパパは、もしもあんたがぼくの奥さんだったら、ぼくのことをお父さんよりも誰よりも愛してくれるだろうって。だから、ぼくもそうなってもらいたいんだ」
「だめよ、あたしはパパより好きになれる人なんていないわ」とキャシーは本気で言い返しました。「世間には妻を憎む人だってときどきあるわ。でも、きょうだいを憎むことはないでしょう。あなたがあたしの弟だったら、うちでいっしょに暮らせるし、パパもあたしと同じくらいかわいがって下さるでしょうね」
妻を憎む人なんているはずがない、とリントンは言いました。キャシーは、いると言い張り、自分の知っている例でも、リントンの父親がイザベラ叔母さまを憎んでいたと言いました。わたしは軽率な言葉をやめさせようとしたのですが、うまくいかないうちに、お嬢さまは知っていることをみんなしゃべってしまったのです。リントン坊っちゃんはすっかり腹をたてて、そんな話は嘘っぱちだ、と断定しました。
「パパが話してくれたわ。パパは嘘なんかおっしゃらないのよ」とキャシーはずけずけ言いました。
「ぼくのパパはあんたのお父さんなんか軽蔑してるんだ!」とリントンは叫びました。「けちな阿呆だとさ」
「あんたのパパは悪人よ」とキャサリンも負けていません。「悪人の言うことを口まねする子もいけない子だわ。イザベラ叔母さまがあんな風に逃げだしたんだもの、悪人にきまってるわ」
「ママは逃げだしゃしない。ぼくに反対したらきかないぞ」
「逃げだしたのよ」とお嬢さまは声を張りあげました。
「よし、それじゃ、ぼくだって言ってやる! おまえのお母さんはおまえのお父さんを憎んでたんだ……さあどうだ」
「まあ!」キャシーは叫んで、興奮のあまり、言葉が続きません。
「おまえのお母さんはぼくのパパを愛してたのさ」
「嘘つき! あんたなんか嫌いよ!」お嬢さまはあえぎながら言い、怒って真っ赤になりました。
「パパを愛してたんだ! 愛してたんだ!」とリントンは歌うように言い、椅子に深くもたれ、頭をそらして、うしろに立った相手の動揺ぶりを楽しもうと、ふり向きました。
「およしなさい、坊っちゃん! それもきっとお父さんの作り話でしょうけど」とわたしは言いました。
「ちがわい。おまえなんか黙ってろ! ほんとだ、ほんとだよ、キャサリン! ほんとにパパを愛してたんだ!」
キャシーはわれを忘れて、椅子をぐいと押しつけました。リントンは椅子の肘にからだをぶっつけて倒れました。たちまち激しい咳に息がつまりそうになり、勝ち誇っていた元気もけし飛びました。咳の発作が長いので、わたしもあわててしまいました。キャシーは何も言いませんが、悪いことをしたと、度を失って、思いきり泣きだしてしまいました。わたしは発作がおさまるまで、リントンを押えてやりました。やっと落ち着くと彼はわたしを押しのけ、黙って頭をうなだれていました。キャサリンも泣きやめ、リントンと向かいあった椅子にかけ、気むずかしい顔で暖炉の火をのぞきこんでいました。
「気分はどうですか、坊っちゃん?」十分ほどしてから、わたしはたずねました。
「キャシーもぼくの苦しみを味わうといい。意地悪な、ひどいことをして! ヘアトンだってぼくに手もふれやしない。一度もぶったことなんかないのに。きょうは気分がよかったんだ、そしたら、たちまち……」と言いかけてしくしく泣きだしました。
「あたし、ぶったりしないわ!」キャシーはつぶやき、また興奮しそうなのを押えて唇をかみました。
リントンは大層な苦痛を受けているように溜息をついたり、うなったりし、十五分もそうしていました。従姉《いとこ》を苦しめるために、わざとやっているらしく、キャシーの押し殺したすすり泣きを聞くたびに、声の調子をことさら苦しく悲しげにひびかせるのです。
「痛くしたらごめんね、リントン」とうとうお嬢さまは苦しみにたえきれなくなって言いました。
「だけど、あたしなら、ちょっとぐらい押されたって、痛くなんかならないわ。あんただって痛くするとは思わなかったの。でも、そんなにひどくはないんでしょう、リントン? あなたを苦しめたなんて考えながら帰るのはたまらないの。答えて! 何とか言ってよ」
「話ができないんだ」とリントンはつぶやきました。「とても痛くされたんだもの。一晩じゅう咳で眠れなくなるよ。自分でこんな目に会ったら、つらさがわかるんだ。でも、ぼくがだれもそばにいてもらわずに苦しんでいるのに、きみはすやすやと寝てるんだ。きみがそんな恐ろしい夜を過ごすとしたらどうだろう!」そう言うと、自分がみじめでならないように、大声で泣きだしました。
「坊っちゃんはいつも恐ろしい夜を過ごしてるんでしょう」とわたしは言いました。「お嬢さまのせいで安眠できなくなったわけじゃありませんよ。お嬢さまが来なくたって、同じことでしたよ。いずれにせよ、これっきりお嬢さまにはお邪魔させませんからね。わたしたちが帰ればあなたも落ち着くでしょう」
「あたしは帰らなくちゃいけない?」とキャサリンはリントンのほうへ身をかがめて、悲しそうに言いました。「帰ってもらいたいの、リントン?」
「きみのやったことは、きみになおせやしないんだ」と彼はあとずさりし、すねて言いました。「ぼくをいじめて熱を出させて、もっとひどくすることならできるけど」
「つまり、帰れっていうのね?」キャシーはくり返しました。
「何でもいいから、放っといて。きみのおしゃべりがやりきれないんだ」
お嬢さまは思いきり悪く、わたしがいくら勧めてもなかなか帰る気にはなりません。でもリントンが顔もあげず、口もきかないので、やっと戸口のほうへ歩きだし、わたしも従いました。そのとき突然の悲鳴に、また呼び戻されました。リントンが椅子から炉石の上にすべり落ち、倒れたままもがいているんです。甘やかされ、手に負えなくなったひねくれ根性から、人をできるだけ悲しませ、困らせてやろうとしているのです。わたしはそのふるまいからこの子の性質を見抜き、慰めてやるのもばからしいとすぐ気がつきました。ですがお嬢さまにはわかりません。びっくりして走りより、跪《ひざまず》き、泣いたり、なだめたり、哀願したり、やっとのことでリントンはおとなしくなりました。それも息が切れてきたからで、お嬢さまを苦しめたと気が咎めたわけではありません。
「長椅子に寝かせてあげましょう」とわたしは言いました。「いつまでもここで見てやるわけにはいきませんからね。さあお嬢さま、よくわかったでしょう、あなたがいたって、この子の役にたつわけじゃないって。この病気はあなたに恋いこがれたためじゃありませんよ。さあ、ここに寝かしておけばよしと! 行きましょう。ばかなまねをしたって、そばでかまってくれる人がいないとわかれば、静かに寝ていますよ」
お嬢さまはリントンの頭の下にクッションを当てがってやり、水を勧めました。彼はいらないと言い、石ころか木切れでもおかれたように、クッションの上で窮屈そうに頭を動かします。お嬢さまはもっと楽にしてやろうとしました。
「これじゃだめだ、低すぎるもの」とリントンは言いました。
キャサリンはもうひとつクッションを持ってきて重ねてやりました。
「それじゃ高すぎる」と、このうるさい少年はまたぐずぐず言います。
「じゃ、どうやったらいいのよ?」とお嬢さまもさじを投げたかっこうでした。彼は長椅子のそばに膝を曲げているお嬢さまにしがみつき、その肩を枕がわりにしました。
「いいえ、そんなことはいけません」とわたしは言いました。「クッションで我慢《がまん》するんです、坊っちゃん。お嬢さまはもうあなたのことで、ずいぶん時間をつぶしたんですからね。もう五分とここにはいられないんですよ」
「うそ、うそよ、いられるわ!」とキャシーは答えました。「もう、おとなしく、辛抱してるんだもの。やっとこの人にもわかってきたのよ。あたしが来たので病気が悪くなったなんて思ったら、今夜はあたしのほうがこの人よりみじめになってしまうんだってことも、そしてあたしには二度と来られなくなってしまうんだってこともね。リントン、ほんとのことを言って。もしあなたの病気を悪くしたんだったら、もう二度と来られないんだから」
「来なきゃいけない、そしてぼくを良くしてくれよ。ぼくを痛くさせたんだから、来なきゃいけない。思いきり痛くさせたんじゃないか! あんたがはいって来たときは、いまみたいに悪くはなかったんだ……そうだろう?」
「自分で泣いたり怒ったりして悪くしたんじゃありませんか」とわたしは言いました。
「あたしは何もしないわ。だけど、もう仲なおりしましょうね。あんたは、あたしにいてもらいたいんでしょう? ときどきあたしに会いたくなるってこと、本当だわね?」
「だから言ったじゃないか」とリントンはじれったそうに答えました。「長椅子へ坐って膝によりかからせてよ。ママはいつもそうやってくれたんだ、午後はずっといっしょにだよ。じっとしてて、おしゃべりしないでね。歌が歌えたら、歌ったっていい。でなきゃ長いおもしろい民謡《バラッド》を暗誦してよ……いつか教えてくれるって約束したじゃないか。お話だっていいよ。でもバラッドのほうがいいな。さあ、やって」
キャサリンは覚えているうちでいちばん長いのを暗誦してやりました。そのあいだ二人はとても楽しそうでした。リントンはもうひとつとせがみました。それがすむと、またひとつ。わたしが強く反対しても聞き入れません。こうして時計が十二時を打つまでつづけ、中庭で昼食に帰ったヘアトンの足音がしました。
「じゃ、あした、ね、キャサリン。あしたも来てくれる?」ヒースクリフの坊っちゃんは、しぶしぶ立ちあがるお嬢さまの服をつかまえました。
「だめですよ、あしたもあさっても」とわたしが代わりに答えました。でもお嬢さまはちがう返事をしたにきまっています。身をかがめて、彼の耳に何かささやくと、少年の顔がぱっと明るくなりました。
「よろしゅうございますか、あしたは来ませんよ。いいですか、お嬢さま!」家を出ると、わたしそのことをもちだしました。「まさか、夢のようなことを考えてるんじゃないでしょうね」
お嬢さまはほほえんだだけです。
「まあ、それなら気をつけてますからね。あの錠前はなおさせましょう、ほかに脱けだすところはありませんよ」
「塀《へい》なら乗り越えられるわ」とキャシーは笑いました。「スラッシクロス屋敷は牢屋じゃないわよ、エレン。おまえだって牢番というわけでもないし。それにあたしはすぐ十七よ。子供じゃないわ。リントンだって、あたしがそばで世話をしてあげたら、きっと早く良くなるわ。あの子より年上だし、賢いでしょう。あの人みたいな子供でもないでしょう? ちょっとおだててやれば、あの子はすぐあたしの言うとおりにするわ。おとなしくしていれば、とてもかわいい坊やだもの。あたしのものなら、うんとかわいがってあげるんだけど。おたがいに慣れれば、喧嘩なんかしなくなるでしょう? エレンはあの子が好きになれないの?」
「好きになるですって!」とわたしは思わず言いました。「あのひねくれの青びょうたんなんか……まったくよくも十いくつまで生きてきたものですよ。まあ、ヒースクリフさんの言うとおり、二十《はたち》までは生きられないでしょうから、助かります。こんどの春までだってあぶないものですわ。いつ亡くなったって、あの家にはなんのこともないし、父親が引き取ってくれたのは、ありがたいくらいですよ。やさしくしてやればやるだけ、ぐずぐず駄々《だだ》をこねるんですから。あんな人を夫にする心配がなくて、よかったんですよ、お嬢さま」
この言葉を聞くと、キャサリンは急にむずかしい顔をしました。リントンの死のことを、あまりに無造作に言ったので、感情を害したのです。
「あの子はあたしより若いわ」キャシーはしばらく考えこんだあとで言いました。「だからいちばん長生きするはずよ。きっとそうなるわ。……あたしと同じくらい生きるのが当然なのよ。いまだって、初めてこの北国へ来たときと同じくらい丈夫だわ。たしかにそうよ。ただパパと同じ風邪を引いてるだけなのよ。おまえはパパがきっとよくなるって言ってるでしょう。だったら、あの子だって同じことじゃない?」
「はい、はい、わかりました。とにかく、わたしたちがくよくよしたって仕方がありません。いいですか、お嬢さま、よくお聞きなさいね。わたしは言ったとおりにしますから……わたしがいっしょでも、いっしょでなくても、もしまた嵐が丘へ行こうなんてなさったら、お父さまに申しあげますからね。お父さまがお許しにならなければ、リントン坊っちゃんとのおつきあいをまた始めることはできませんよ」
「もう始まっちゃったわ」とキャシーはすねたようにつぶやきました。
「だから、つづけてはいけないんです」
「考えてみるわ」と答えて、お嬢さまは、さっと、馬を全速力で駆けさせました。わたしはあとから苦労しながらついていきました。二人とも、昼食の時間にならないうちに帰りましたので、旦那さまは猟園《パーク》を散歩してきたものとお考えになり、留守にした理由をおたずねになりませんでした。家にはいるなり、わたしは急いで濡れた靴と靴下をかえました。でも、そのままで長く嵐が丘にいたのがたたって、翌朝は寝こんでしまいました。それから三週間は仕事ができませんでした。こんな災難に会ったのは初めてで、ありがたいことに、その後もそういうことはございません。
お嬢さまはまるで天使のようにやさしく、わたしにつき添って、淋しさを慰さめて下さいました。わたしは寝こんでからすっかり元気がなくなってしまいましてね。いつもじっとしていられず、からだを動かしている者にはやりきれないことですが、わたしなどとても不平を言えた義理ではございませんでした。キャサリンは旦那さまのお部屋から出るとすぐ、わたしの枕もとに来ます。一日がお父さまとわたしのためにわけられ、自分で楽しむ時間は一分間も割《さ》きません。食事も、勉強も、遊びも忘れて、どんな人もかなわないほどやさしく看護して下さいました。あんなにお父さまを愛しながら、これほどまでにわたしに尽して下さるのは、よほど暖い心の持主だったにちがいありません。ところで、お嬢さまの一日が二人のためにわけられたとは申しましたが、旦那さまは早くおやすみだし、わたしもたいてい六時過ぎると何も用事はありませんから、夕方からはお嬢さまは自由にできました。かわいそうに! お茶のあとで、お嬢さまが一人でどうやっていらっしゃるか、考えてもあげませんでした。おやすみを言いにわたしの部屋をのぞくとき、頬は明るい血色に輝き、ほっそりした指先までピンク色をしていることにたびたび気がつきました。でもその赤みが冷たい荒野《ムア》を馬で駆けぬけたためとは夢にも思わず、書斎で熱い暖炉にあたったせいとばかり思っていたのです。
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二十四
三週間目が過ぎますと、やっとわたしは病室を出て、家の中を動き回れるようになりました。初めて夕方まで起きていたとき、わたしは目が弱っていましたので、キャサリンに何か読んで下さいと頼みました。旦那さまはおやすみになったあとで、二人とも書斎にいたのです。お嬢さまは承知して下さいましたが、どうやらあまり気が進まないようすでした。わたしの読む本では気に入らないのだろうかと思って、お嬢さまのお好きなものを選んで下さいと言いました。すると気に入りの本を一冊選び、一時間ほど続けて読んでくれましたが、そのあとで何度も聞くのです。
「エレン、疲れない? もう横になったほうがいいんじゃない? あまり長く起きてると、また悪くなるわよ、エレン」
「いえ、いえ、お嬢さま。疲れはしませんよ」わたしは同じ返事を続けました。どうしてもわたしを動かせないので、別の方法で、読むのがいやになったことをしめそうとしました。欠伸《あくび》したり伸びをしたり、あげくのはてに……
「エレン、疲れちゃった」
「それではやめにして、お話しましょう」それは、なおさら都合が悪いのです。お嬢さまはじりじりし、溜息をつき、八時まで時計ばかり見ていました。とうとうすっかり眠けに負けて、自分の部屋へ引きあげてしまいました。もっともそれはむっつりした、ものうげな顔つきや、しきりと目をこすったりするところから、わたしがそう判断したのです。次の晩は、前の晩よりももっといらいらしていました。わたしといっしょに過ごすようになって三晩目には、頭が痛いと、部屋を出ていってしまいました。どうもそぶりがおかしいと思い、かなり長く一人で書斎にいたあとで、気分がよくなったかどうか聞きに行ってみることにしました。二階の暗いところにいるより、下のソファで横になっては、と勧めてみるつもりでした。ところが二階にはキャサリンが見えません。階下もそうでした。召使たちも見かけませんと言うばかり。旦那さまのお部屋の外で耳を澄ませてみましたが、中はひっそりしています。お嬢さまの部屋へ戻り、蝋燭を消して、窓の下に腰かけました。
月が明るく照り、わずかな雪が地面に散り敷いていました。ひょっとしたら、気分転換に庭でも散歩する気になったのかもしれないと思っていました。そのとき猟園《パーク》の内側の垣に沿って、忍ぶように歩いて行く人影を見つけたのです。でも、お嬢さまではありません。月影の中へ出て来たのは、馬丁の一人でした。かなり長いことたたずんで、屋敷を抜ける馬車道を見ていました。やがて何か見つけたように、急ぎ足で立ち去り、まもなくお嬢さまの子馬を引いてまた姿を現わしました。そればかりか、たったいま馬からおりたばかりのお嬢さまが、並んで歩いてくるのです。馬丁は子馬を引いてこっそり芝生を横切り、厩のほうへ去りました。キャシーは客間の開き窓からはいり、忍び足でわたしが待っている二階へあがって来ました。そっとドアをしめ、雪のついた靴をぬぎ、帽子の紐をといて、わたしが見ているのも知らずにマントをわきにおこうとしました。わたしはいきなり立ちあがって、姿を見せました。お嬢さまは一瞬驚きに立ちすくみ、何か叫び声をあげたまま身動きもしません。
「まあ、お嬢さま」とわたしは切りだしましたが、いままでの親切が身にしみていたので、いきなり叱ることもできません。「こんな時間にどこを乗り回してきたんですか? なぜ、わたしをだまそうとなさるの? どこへ行ってきたんですか? 話して下さい」
「庭園《パーク》のいちばんさきまでよ」とどもって言います。「嘘じゃないわ」
「そのほかどこへも?」
「どこも」と口ごもりました。
「まあ、キャサリン! 自分でもいけないことをしていたことがわかってるんですね。でなきゃわたしにまで嘘をつかないでしょう。ほんとに情ないったらありませんわ。あなたからじょうずな嘘を聞くくらいなら、三月《みつき》も病気をするほうがましですわ」
キャシーは走り寄り、わっと泣きだして、わたしを抱きしめました。
「だって、エレン。おまえに怒られるのがこわかったんだもの。怒らないって、約束して。そしたら本当のことを話すわ。隠しておくのはあたしもいやなの」
二人は窓の下に坐りました。わたしはどんな秘密を聞いても決して怒らないと約束しましたが、むろん秘密は何か察しがつきました。お嬢さまは話し始めました……
「エレン、あたしは嵐が丘へ行ってたの。おまえが病気になってから、一日もかかさずによ。おまえが起きられる前に三度と、起きられてから二度行かなかっただけ。マイクルに本や絵をやって、毎晩ミニーを用意させたり、厩へ戻させたりしたの。よくって、マイクルも叱らないでね。六時半までに嵐が丘に着いて、たいてい八時半ころまでいて、それから|駆け足《ギャロップ》で帰って来たの。自分の楽しみで行ったわけじゃないわ。行ったって、たいてい、ずっとみじめな気持で過ごしたわ。そりゃ楽しいこともあったけど。そうね、一週間にいっぺんくらい。初めは、おまえを説き伏せてリントンとの約束を守るのは、大変だろうと思ってたわ。おまえといっしょに帰るとき、リントンに、あした来るって言ってしまったし。でも次の日から、おまえは二階に寝たきりになったので、面倒がなくなったわけ。お昼過ぎにマイクルが猟園の門の錠前をなおしてるとき、鍵を手に入れて、従弟が病気でこちらへ来られないので、あたしにとても来てもらいたがっているんだけど、パパは行かせてくれないだろうって話して、小馬のことでかけあったの。マイクルは本が好きで、もうじきここをやめて結婚するものだから、書斎の本を貸してくれれば、あたしの望みどおりにしてくれるって言ったの。でもあたしの本をやることにしたら、彼はとても喜んだわ。
二度目に行ったら、リントンは元気そうだったわ。ジラーは(あそこの家政婦だけど)部屋をきれいにして暖い火を入れてくれて、ジョーゼフは祈祷会へ行って留守だし、ヘアトンも犬をつれて出かけたから、好きなようにしていいって言うの。あとで聞いたら、ヘアトンはうちの森の雉《きじ》を盗みに行ったんだって。ジラーは暖めたワインと|しょうが《ヽヽヽヽ》菓子を出してくれて、とてもいい人らしかった。リントンは肘かけ椅子に、あたしは炉の前の小さな揺り椅子にかけて、二人でとても楽しく笑ったり話したりしたわ。話すことはいくらでもあったの。夏になったらどこへ行こうとか、何をしようとか、プランを立てたわ。おまえはばからしいって言うだけでしょうから、話さないけど。
だけど、一度、喧嘩《けんか》しかけたわ。リントンによると、七月の暑い日を過ごすいちばん楽しいやり方は、朝から晩まで、荒野の真ん中のヒースの土手に寝ころんでいることだって。蜜蜂は花の間を眠そうにぶんぶん飛び回り、雲雀《ひばり》は頭の上に高くさえずって、雲ひとつない青空にまぶしい太陽が、いつまでも輝いている。それが彼の考える天国のような幸福の理想なんだって。だけどあたしのは、西風に吹かれ、きらきら光る白い雲が空をどんどん走っていくとき、ざわざわ鳴る緑の木に登ってからだを揺すぶること。雲雀だけでなく、つぐみや、くろどり、紅ひわや、郭公《かっこう》がまわりじゅうに音楽をまきちらし、遠くに見える荒野《ムア》は涼しい暗い谷間に区切られていて、近くには長く伸びた夏草のうねりがそよ風に大きく波うって、森も水のひびきも、まわりじゅうの世界がみんな目覚めて喜びに溢れてるの。あの人はうっとりするような平和の中に横たわるのがいいと言うし、あたしは何から何まできらめく歓びに光り輝き、踊りたっているのがいいと言う。あなたの天国なんか、半分死んでるようなものだって言ったら、向こうじゃ、きみの天国なんか酔っぱらってるんだと言う。あなたの天国じゃ眠ってしまいそうだと言ってやったら、きみの天国じゃ息もつけないって、ぷんぷん怒りだすしまつ。結局、いい気候になったら、ふたつとも試してみようと話しあって、キスして仲なおりしたわ。
一時間ぐらいじっとすわっていてから、あたしはじゅうたんを敷かない、すべすべした床をながめて、テーブルを片づけたらいい遊び場になるだろうと考えたの。リントンにジラーを呼んで鬼ごっこしましょうって言ったの。ジラーを鬼にして、あたしたちをつかまえさせようって。ほら、エレン、おまえだってよくやってくれたじゃないの。リントンは聞かないの。そんなことおもしろくもなんともないって。でもまり遊びには賛成したわ。戸棚の中にいっぱいあるこまや、フープや羽子板や、羽根にまじってまりが二つあったの。ひとつにはC、もうひとつにはHと書いてあったわ。Cはキャサリンの頭文字で、Hはあの子の名前のヒースクリフだと思って、あたしはCのほうを取りたかったのに、Hのほうからはもみ殻がこぼれてたので、リントンはいやがったの。おまけに、あたしがリントンを負かしてばかりいるので、また機嫌が悪くなり、咳をしながら、椅子に戻ってしまった。だけど、その晩はじきに機嫌をなおしたわ。楽しい歌をふたつみっつ歌ってやったのが気に入ったのね……おまえに教わった歌よ、エレン。帰らなければならない時間がくると、次の晩もどうしても来てくれってせがまれて、つい約束したの。ミニーに乗ったあたしは、風のように飛んで帰ったわ。そして朝まで、嵐が丘とかわいい従弟を夢に見てたの。
次の日になると、あたしの気分は沈んでしまった。おまえは病気だったし、嵐が丘へ行くことをお父さまが知っていて、許して下さるのだったら、などと考えたからなの。でもお茶のあとは、美しい月夜になり、馬を走らせていたら、悲しみも消えてしまった。もうひと晩楽しく過ごせる、と一人で考えたの。かわいいリントンも同じだと思うと、もっと嬉しくなった。あの家の庭を駆けぬけ、裏へ回ろうとしたら、あのヘアトンのやつが出てきて、手綱をとり、表玄関からはいれって言うの。ミニーの首を軽くたたいて、いい馬だな、なんて言い、あたしにも何か言ってもらいたいらしいの。あたしは馬なんかかまわないで、蹴られるわ、と言っただけ。そしたらあの下品ななまりで、『蹴ったってたいしたことあるかい』だって。馬の脚を見て笑ってるの。ためしに蹴らせてやろうかと思ったくらいよ。でも彼は玄関の戸をあけに行って、掛け金をはずしながら、上に彫ってある文字を見あげて、照れたのか、得意なのかわからない、ばかみたいな顔で言うの……
『キャサリン嬢さん! おらあ、もうあれが読める』
『えらいわ! じゃ、読んで聞かせて……ずいぶんりこうになったのねえ!』
そしたら、あの名前を、一字一字読んで、一音ごとに引きのばして、読むの……『ヘアトン・アーンショウ』という名を。
『じゃ、あの数字は?』彼がそれきり黙っちゃったから、あたしは励ましてやる気で言ったの。
『まだ読めねえ』だって。
『まあ、にぶいのね!』と言って、読めないのを思いきり笑ってやった。
あのばかは、口もとに薄笑いを浮かべて、こわい目つきをしてたわ。あたしといっしょに笑っていいのやら、あたしの笑ったのが愛想笑いじゃなく、軽蔑じゃないかなんて、わからないらしいの。ほんとうは軽蔑してたんだけど。彼の疑いを除いてやるために、あたしは急にまじめになって、あんたじゃなく、リントンに会いに来たんだから、向こうへ行ってちょうだいって言ってやったわ。彼は真っ赤になり……月の光でわかったんだけど……掛け金から手を離して、うぬぼれを傷つけられたようすで、こそこそ逃げてったわ。自分の名まえが読めるようになったので、もうリントンくらい教養があるつもりなの。あたしがそう思わないので、すっかりまごついちゃったわけ」
「およしなさい、お嬢さま!」とわたしはさえぎりました。「叱るわけじゃありませんけど、そういうやり方は感心しませんね。ヘアトンだってリントン坊っちゃんと同じお嬢さまの従弟ですよ。それを考えてたら、そんな振舞のいけないことはわかったはずです。少なくとも、ヘアトンがリントンに負けない教養を持ちたがるのは、感心な心がけじゃありませんか。ただ見せびらかすために習ったんじゃないでしょう。きっと前にお嬢さまに無学を笑われて恥をかいたからにちがいありませんわ。少しでもよくなってあなたを喜ばせたかったんです。その努力がまだ足りないからって、笑いものにするのは、たしなみがなさすぎます。お嬢さまならあの人の境遇に育っても、あんなに粗野になりませんか? あの人だって、あなたに負けないくらい物覚えのよい、頭のいい子でしたわ。卑劣なヒースクリフが不当な扱いをしたために、そんなにばかにされるようになったと思うと、ほんとうに胸が痛みますわ」
「でも、エレン、そんなことで泣かなくたっていいじゃないの?」キャシーはわたしのひたむきな調子にびっくりして叫びました。
「まあ待って。あの人がABCを習ったのは、あたしを喜ばせるためなのかどうか、あんなけだものに丁寧にしてやる価値があるかどうか、これからわかるわ。あたしが家にはいったら、リントンは長椅子に寝ていて、あたしを見ると半分起きあがって迎えたの。
『ねえ、キャサリン、今夜は具合が悪いんだ。きみ一人で話をして、ぼくは聞くだけにさせて。さあ、ぼくのそばへ掛けてよ。きっと約束を守ってくれると思ってたんだ。今夜も帰る前に約束させるよ』
具合が悪いと聞いて、じらしたりしてはいけないと思って、静かに話してやり、何も聞いたりしないし、決していらだたせないようにしたの。あたしのいちばんおもしろい本を二、三冊持って行ったので、彼はどれか少し読んでくれって言うの。読みかけたところへいきなりヘアトンがドアを押しあけてはいって来たわ。あとから考えて、腹がたってきたのね。あたしたちのところへつかつかやってきて、リントンの腕をつかんで、長椅子から放り出したの。
『てめえの部屋へ行け!』あまり怒っていて、言葉もはっきり、わからないくらい。顔はものすごくふくれあがってたわ。『おめえに会いに来たんなら、女もつれて行け。おれのとこを邪魔させねえぞ。二人とも出て失せろ!』
あたしたちにさんざん悪態をつき、リントンが答えるひまもないうち、台所へ放り出しそうなの。あたしがあとから行くと、げんこを固めて、あたしを殴り倒したくてたまらないみたい。こわくなって、思わず持っていた本を一冊落としてしまった。ヘアトンはそれを蹴とばしてよこして、二人ともしめ出したの。意地のわるい乾いた笑い声が暖炉のそばでしたので、ふり向いたら、あのいやなジョーゼフが骨ばった手を満足そうにもみ合わせながら、からだを震わして笑ってるの。『おめえさまたちをきっとやっつけると思ってただ! てえした若もんだ! ちゃんと性根がすわってなさるだ! ちゃんと知ってなさる……そうとも、だれがあの部屋のあるじか、わしと同じにちゃんとわきまえていなさるだど、エッヘ、ヘッ、ヘッ! うめえぐあいに追い出したど! エッヘ、ヘッ、ヘッ!』
『どこへ行ったらいいの?』あたしは老いぼれの悪党がからかったって、相手にせずに、従弟に聞いたの。
リントンは真っ青な顔をして震えていた。そのようすときたらかわいらしくもなんともなかったわ、エレン。いいえ、それどころか、ぞっとするようだったわ。痩《や》せこけた顔と大きな目が狂ったような、そのくせ何もできない怒りに燃えてるの。そしてドアのハンドルをつかんで揺すぶったけど、中から鍵をかけられてるの。
『入れなきゃ殺してやるぞ!……入れなきゃ殺してやる! 悪魔!……悪魔殺してやる……殺してやる!』それは言葉というより悲鳴みたいだった。
ジョーゼフはまたしわがれた声で笑いだしたの。
『そら、おやじさまそっくりだ! 親父さまだ! 人間はみなふた親のものを少しずつもらうだ。ヘアトン、かまうもんかい……びくびくすんな……こいつにかかってゆけるもんでねえ!」
あたしはリントンの手をつかんで、ドアから引き離そうとしたけど、彼がぞっとするような悲鳴をあげるので、どうすることもできないの。とうとうひどい咳の発作で、声がふさがり血が口から噴き出して、床に倒れてしまったの。あたしは恐ろしさにぼうっとしながら、中庭へ駆け出して、思いきり大声でジラーを呼んだの。すぐ聞きつけてくれた。そのとき納屋のうしろの小屋で乳をしぼってたんだけど、仕事をおいて駆けつけて、何が始まったのかとたずねるの。あたしは息が切れて説明できないので、家の中へ引っぱりこみ、リントンを探したの。アーンショウが自分のやった乱暴の成り行きはどうかと見に出てきて、哀れなリントンを二階に運んでるところだった。ジラーとあたしがあとから上がっていくと、階段のてっぺんであたしを止めて、中へはいるな、うちへ帰れ、って言うの。あたしは、あんたはリントンを殺した、あたしはどうしてもはいるって叫んでやった。ジョーゼフはドアに鍵をかけ、『そんなばかげたまね』はよせ。おめえさまも『あの子みてえな気違いに生まれたか』って言うの。あたしが泣いてたらジラーが出て来て、坊っちゃんはじきによくなるけど、そんな泣き騒ぎしたら坊っちゃんのからだにさわるって、あたしをつかまえて、抱きかかえるように下の居間へつれて来たの。
エレン、あたしは髪の毛をかきむしりたいくらいだったわ! 泣いて泣いて、目がつぶれそうなくらい。だのにおまえがたいそう同情する悪党ときたら、ずうずうしくあたしの前に立って、ときどき『静かにしろ』とか、おれは知らないぞとか言ってるの。とうとうあたしがパパに言いつけてあげる、おまえなんか牢に入れられて縛り首になるんだから、と言ってやったら、びっくり仰天して、めそめそ泣きだし、そんなにうろたえた臆病さが恥ずかしくなって逃げだしたわ。でも、まだ追っ払えたわけじゃないの。とうとうむりやり帰らされることになって、嵐が丘から百ヤードくらい来たと思うと、道ばたの影のところからいきなり出てきて、ミニーを止め、あたしをつかまえるの。
『お嬢さん、おれ、ほんとにすまなかったよ。だけどあんまりひでえからー』
あたしは殺されはしないかと思って、鞭で、一打ちしてやった。そしたらいつものひどい呪い文句をあびせかけて、手を放したの。あたしはまるで無我夢中で家まで馬を飛ばしたわ。
あの晩、おまえにおやすみも言わなかったけど、次の晩はとうとう嵐が丘へ行かずじまいよ。行きたくてたまらなかったけど、変に気がたっていて、リントンが死んだと聞かされるのがこわくなったり、ヘアトンに出会うと思ってぞっとしたりするの。三日目にやっと勇気をふるい起こして、……というより、もう不安にたえられない気持だったのね、またこっそり出かけたわ。五時に出かけて、歩いて行ったの。だれにも見られずにこっそりはいり、リントンの部屋まで、行けると思ったの。でも近づくと犬が吠えたてて、知らせてしまったわ。ジラーが出迎えて、『坊っちゃんは大変よくなりましたよ』と言って、じゅうたんを敷いたきちんとした小部屋へ案内してくれたの。そこではリントンが小さなソファに寝てあたしのあげた本を読んでいたので、なんともいえず嬉しかったわ。ところがね、エレン、あの子ときたらまる一時間、あたしを見ようとも、口をきこうともしネいの。ほんとに情ない性質なのね。やっと口を開いたら、あの騒ぎはあたしが起こしたので、ヘアトンのせいじゃないなんて、嘘ばっかり言うんだから、あきれてしまう! 答えようとすればかっとなってしまいそうだから、あたしはぷいと立って部屋から出てしまった。そのあとから、弱々しい声で『キャサリン!』と呼びかけるの。まさかあたしがそんな風にするとは思わなかったのね。でも引き返さなかった。次の日出かけなかったのが二度目で、もう二度と行ってやるものかと決心しかけていたの。だけど、寝たり起きたりしながら、あの人のことを何も聞かずにいるのはやるせなくて、決心がすっかり固まらないうちにくずれてしまったの。前には嵐が丘へ行くのは悪いと思っていたのに、いまは行かずにいるほうが悪いような気がしてきたの。マイクルが来て、ミニーに鞍をおきますかって聞いたとき、『ええ』と言ってしまい、ミニーに乗って丘を越えて行くとき、義務をはたしてるような気になったわ。中庭へ行くには表の窓の前を通らなければならないので、こっそり行こうとしてもなんにもならない。
『坊っちゃんはうちにいらっしゃいますよ』リントンの部屋へ行きかけるのを見たジラーが言ったわ。はいっていったら、ヘアトンもいて、すぐに出てしまった。リントンは大きな肘かけ椅子でうつらうつらしていたの。暖炉までさっさと行って、いくらか本気で、わざときびしく、言ってやった……
『リントン、あなたはあたしが好きじゃないし、あたしがわざわざあなたをいじめに来ると思っていて、いつもいじめられるようなふりをするんだから、今夜かぎりもう会わないことにしましょうね。おたがいにさよならを言いましょう。ヒースクリフさんには、あなたがあたしに会いたくない以上、このことでもう嘘なんかつかないようにって伝えてね』
『坐って帽子をお取りよ、キャサリン』とあの子は答えるの。『きみはぼくなんかよりかずっとしあわせなんだから、もっとよくわかっておくれよ。パパはぼくの欠点をのべたてて思いきりばかにするんだもの。ぼくだって自信をなくすのが当然だ。パパの言うとおり、人間の屑じゃないかといつも考えちゃう。だからむやみに腹がたっていらいらして、ひとがみな嫌いになっちゃうんだ! ぼくはたしかにろくでなしで、いつも不機嫌でひねくれさ。だからきみがその気なら、もう来てくれなくたっていいよ。きみには厄介ばらいができるんだからね。ただね、キャサリン、ぼくのことも考えて、これだけは信じてよ……ぼくだってなれるものなら、きみみたいにやさしく、親切で、おとなしくなりたいよ。その気持はきみくらい幸福で健康になりたいという気持に負けないどころか、もっと強いくらいなんだ。きみがやさしくしてくれるから、きみに愛される資格もないのに、ついきみを深く愛してしまったんだ。それでぼくの性質も見せることになったけど、ほんとに悪かったと後悔してるよ。このくやしさと後悔は死ぬまでつづくよ!』
あたしはリントンの言葉に嘘はないと感じ、許してやらなくてはならないと思ったわ。すぐまた喧嘩を吹っかけてきたって、許してやらなくてはいけないって。それで仲なおりしたの。でも二人して、あたしのいるあいだじゅう泣きどおしだった。悲しいからだけじゃなくて、あたしはリントンのそんなねじけた性質がかわいそうだったの。あの子は決して友だちを気楽にさせないし、自分もくつろぐことはないの! その次の晩から、あたしはいつもリントンの小部屋へ行ったわ。あくる日にあの子のお父さまが帰ってきたのよ。
初めの晩みたいに楽しく明るくできたのは、三度ぐらいだったわね。あとの訪問はいつも退屈で、ごたごたばっかり。あの子がわがままで意地悪だったり、そうかと思うと病気だったり。それでも、どんなわがままも、病気と同じくらい辛抱してやれるようになったわ。ヒースクリフさんはわざとあたしを避けていたので、ほとんど顔を見たこともないわ。ただ、この前の日曜日は、いつもより早めに行ったら、ゆうべのやり方が悪いって、かわいそうに、リントンにむごく当たり散らしてる声がしたの。立ち聞きしてなかったら、ヒースクリフさんにわかるはずはないのに。たしかにリントンはあたしに突っかかるような態度はとったわ、でも、それはあたしにしか関係のないことでしょう。だからヒースクリフさんがお説教してるところへはいって行って、はっきり言ってやったわ。そしたら笑いだして、そう考えてもらえりゃありがたい、と言って出て行ったの。それからはあたしはリントンに、とげとげしい口を聞くときは小声にしなさいって言ってるの。さあ、エレン、これでみんな話しちゃった。あたしが嵐が丘へ行くのを邪魔したら、二人の人間を不幸にすることになるわ。パパに言いつけさえしなきゃ、あたしが行ったって、だれの平和も乱さずにすむのよ。言いつけやしないでしょうね? そんなことをしたら、ほんとに不人情なことになるわ」
「それについては明日までに考えを決めておきますわ、お嬢さま。よく考えた上でなくてはね。それではもうおやすみなさい。わたしはあちらでゆっくり考えてみることにします」
考えるといっても、実は旦那さまの前で、口に出してのことです。お嬢さまの部屋からまっすぐ旦那さまのお部屋へ行き、なにもかもお話しました。ただ、お嬢さまとリントンとの会話や、ヘアトンのことだけは伏せておきましたけれど。旦那さまの驚きと心痛はわたしにおしめしになった外見以上に深刻でした。朝になると、キャサリンはわたしが秘密を話したこと、嵐が丘への秘密の訪問も最後となったことを知りました。この禁止にお嬢さまは泣いて身もだえし、リントンを憐れんでやって下さいとお父さまに訴えましたが、むだでした。せめてもの救いはお父さまからリントンに手紙を書き、今後はキャサリンを嵐が丘へやることはできないが、リントンのほうは好きなときにスラッシクロスヘ来てもよいと言ってやろうとお約束なさったことでした。それでも旦那さまが甥ごさんの気質と健康状態をご存じだったら、そんな頼りない慰めでも与えないほうがよいとお考えになったと思います。
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二十五
「ロックウッドさま、こんなことはみな去年の冬起こったことでございます」とディーン夫人は言った。「あれからやっと一年になるかならないくらい。去年の冬に、まさか一年たって、こんなことをこの家族とは縁もゆかりもない方のお慰みに、お話していようなんて、考えもしませんでしたよ! でも、あなたさまだって、いつまで縁もゆかりもなくて、いらっしゃれるものですかしらね? まだお若いし、独り暮らしでずっと満足していらっしゃるわけにもいかないでしょう。だれでもキャサリン・リントンを見たら、好きにならずにはいられないんじゃないかと思うんですけれど。笑ってらっしゃいますね。ではなぜ、キャサリンのことをお話しすると、あんなに目を輝やかせて、興味をお見せになるんですか? なぜキャサリンの肖像画を暖炉の上へかけろなんておっしゃったんですか? それから、なぜ……」
「ちょっと待って、ディーンさん」とぼくはさえぎった。「それはぼくがあの人を好きになることもあるかもしれないさ。でも向こうで好きになってくれるかしら? ぼくはぜんぜん自信がないから、誘惑に落ちて、いまの落ち着いた生活を捨てる気にはなれないね。それにぼくはここの人間じゃない。忙しい世界の人間で、いずれそのふところへ帰って行かなくちゃならないんです。さあ続けて下さい。キャサリンはお父さんの命令をききましたか?」
「はい、ききましたとも」と家政婦はつづけた。「お父さまへの愛情が、やはりお嬢さまの心ではいちばん強かったのでございます。旦那さまはお話するとき怒ってはいらっしゃいませんでした。自分の大切な宝ものを危険と敵の真ん中に残して行こうとしている人らしい、深い愛情をもってお話しになりました。お嬢さまを導いてあげるために、残してやれる支えは言葉だけと知っておられたからでございます。数日後、旦那さまはわたしにおっしゃいました……
「エレン、わたしは甥が手紙をよこすか、訪ねてくれるかしたらよいと思う。どうだろう、正直のところ、おまえはあれをどう思ってるのかね? 性格はよくなってきたのかね、それとも大人になれば、よくなる見こみがあるのかね?」
「からだがあんなに弱い方ですからね、旦那さま。とても成人するまでもちそうもありませんわ。でも、これだけは申しあげられます。あの方は父親似ではありません。たとえお嬢さまが運悪くあの方と結婚なさるようなことになっても、よほどばかな甘やかし方さえなさらなければ、お嬢さまの手に負えないようなことはないでしょうね。それでも、旦那さま、これからゆっくり、ご自分でもお会いになり、お嬢さまに適当かどうか、見きわめがつくじゃございませんか。あの方の成人まで、まだ四年以上ございますもの」
旦那さまは溜息をついて、窓ぎわへ行き、ギマトン教会のほうをごらんになりました。霧のかかった午後で、二月の太陽がぼんやりと照り、墓地の二本の樅の木と、まばらに置いた墓石がわずかに見えるだけでした。
「わたしはよく、どうせ来るものなら死は早いほうがよいと祈ったものだ」旦那さまはなかば独りごとのように、おっしゃいました。「だが、いまになると、尻ごみして、恐れているのだよ。あの谷間を花婿となって下って来たときの思い出も、もうまもなく、二、三カ月すれば、いや、たぶん、二、三週間で、あそこへ運ばれて、ただ一人穴の中に横たえられる期待ほど楽しくはないだろうと思っていたのに! エレン、キャシーと暮らすのは本当に楽しかったよ。冬の夜も夏の日も、あの子はわたしのそばで生きた希望そのものだった。だがあの古い教会の下で、あの墓石のあいだで、ひとり物思いにふけるのもやはり楽しかった……六月の長い夕方に、あの子の母親の青々とした塚に横たわって、自分もその下に眠る日を願い、あこがれたものだ。キャシーにはどうしてやったらいいのだろう? どうやってあの子を後に残したらいいのだろうね? リントンがヒースクリフの子だって少しもかまいやしない。わたしが亡くなったあと、あの子を慰めてくれるなら、キャシーをわたしから奪ったっていい。ヒースクリフが目的をとげ、わたしの最後の幸福まで奪ったと、勝ち誇ろうが、気にしやしない! だが、もしリントンがくだらぬやつだったら……父親の道具となるだけの病人だったら……そんなやつにキャシーをやれはしない! そうだとしたら、あの子の快活な気持を押しつぶすのはつらいが、わたしの生きているあいだはあくまで悲しい思いをさせ、ひとりぼっちにしたまま死んでゆくより仕方がないのだ。かわいいキャシー! いっそあの子を神さまにお任せして、わたしよりさきに土の中へ葬ってしまいたいくらいだ」
「お嬢さまのことは現在のままで神さまにお任せなさることですわ、旦那さま」とわたしは答えました。「もしも神さまの思《おぼ》し召《め》しで……めっそうもないことではございますが……旦那さまにもしものことがございましても、わたしが最後までお嬢さまの味方となり、相談相手になりますわ。キャサリンさまはほんとに気だてのよい方です。ご自分からわざと悪いほうに進まれる心配はございません。義務をはたしていく人間は、いつでも最後には報いられるものでございます」
春は深まっていきました。旦那さまはお嬢さまとの庭の散歩をまた始められましたが、本当の体力はいっこうに戻りません。未経験なお嬢さまにとっては、その散歩だけでも全快のしるしと思われました。ましてお父さまの頬がたびたび赤くほてったり、目がキラキラ輝くのを見ては、回復を確信せずにいられませんでした。十七歳の誕生日には、旦那さまはお墓まいりにいらっしやいませんでした。雨が降っていましたので、わたしは申しました……
「今夜はお出かけにならないのでしょうね、旦那さま?」
すると答えて……
「うん、今年は少しさきに延ばそう」
旦那さまはもう一度リントンに、手紙をお書きになり、ぜひ会いたいと言ってやりました。病人のリントンが人前に出られる状態なら、きっと父親も来ることを許したろうと思います。ところがそうはいかなかったので、父親の指図で返事をよこし、自分がスラッシクロス屋敷へ行くのは父が反対なのだという意味のことを書いて来ました。また伯父さまが覚えていて下さって嬉しい、いつか散歩の折にでもお会いし、キャサリンと自分がずっとこんな風に引き離されていないように、直接お願いしたいと思う、とのべていました。
キヤサリンに会いたいというこの部分だけは率直で、たぶん自分の考えどおり書いたのでしょう。キャサリンに会いたいという訴えは本人のほうが雄弁にできると、ヒースクリフは心得ていたのです。それからこんなことも書いてありました……
「キャサリンにこちらへ来て下さいとは言いません。でも、父にはそちらへ行くなと言われ、伯父さまはキャサリンにこちらへ来させないとおっしゃるのでは、もう決してキャサリンに会えないのでしょうか? どうか、ときどきキャサリンといっしょに馬で嵐が丘の近くへおいで下さい。伯父さまの目の前で、ぼくたちに言葉をかわさせて下さい! 二人ともこうして離ればなれにされるようなことをした覚えはありません。伯父さまはぼくを怒っておられませんし、自分でも、ぼくを嫌う理由はないと認めていらっしゃいます。親愛なる伯父さま! 明日、どうかお手紙を下さい。スラッシクロス以外のどこでもお好きなところであなた方に会わせて下さい。お会い下されば、ぼくが父とはちがう性格だということもおわかりになると思います。父も、ぼくは父の子というより伯父さまの甥だ、と言います。ぼくは欠点だらけでキャサリンにはふさわしくないけれど、キャサリンはそれを許してくれました。どうか伯父さまも彼女に免じて欠点を許して下さい。ぼくの健康をおたずねですが……よくなりました。でも希望からすっかり切り離され、孤独の運命を負わされて、ぼくを好いたこともなく、好いてくれそうもない人たちの間におかれていて、どうして朗らかに元気になれるでしょうか?」
旦那さまは坊っちゃんを憐れみはしましたが、その頼みを聞いてやるわけにはいきませんでした。キャサリンといっしょに行くことができなかったからです。たぶん、夏になったら会えるかもしれない、それまではときどき手紙をくれるようにと、ご返事を出し、家庭でのつらい立場はよくわかっているから、できる限りの忠告や慰めを手紙で書いてあげよう、と約束なさいました。リントンは言われるとおりにしましたが、はたから口を出さなかったらおそらくその後の手紙は文句と嘆きだけになり、なにもかもだめにしてしまったでしょう。ですが父親のヒースクリフが厳しい監視の目を光らせていました。もちろん、こちらの旦那さまからの手紙は一行残らず見なければ承知しません。ですからリントン坊っちゃんは、いつもいちばん頭にこびりついている特別な苦しみや悩みは書かずに、友であり恋人であるキャサリンから引き裂かれているむごい立場だけをくどくどのべたてるのでした。そして伯父さまがすぐ会わせてくれない限り、空約束でわざとだましていると思っても仕方がないと、遠回しに言ってきました。
キャシーもこちらでリントンの肩を強くもちます。二人がかりでとうとう旦那さまを説き落とし、わたしの監督のもとに、週に一度、荒野《ムア》のお屋敷にいちばん近いところなら、いっしょに馬に乗ったり散歩してもよいという同意を得ました。六月になっても、旦那さまのおからだは衰えるばかりだったのです。かねがね、毎年、収入の一部をお嬢さまの財産としてとっておかれましたが、先祖代々のこのお屋敷はお嬢さまに残したい……たとえ外へ出ても、まもなく戻ってほしい……と当然ながら望んでいらっしゃいました。そのためには旦那さまの遺産相続人となるリントンと結婚させるよりほかはないと考えておられました。その相続人が自分と同じくらいどんどん衰弱していることはまるでご存じなかったのです。いえ、旦那さまでなくても、だれ一人知らなかったのでしょう。嵐が丘へは医者も行きませんし、こちらには直接リントン坊っちゃんに会って容態を話してくれるような人はいなかったからでございます。わたしですら、不吉な予感は間違いだったのかと考えはじめ、荒野《ムア》の乗馬や散歩のことなど言って、あくまで目的をとげるつもりらしいから、本当に回復してきたにちがいない、と思ったくらいです。まさかあとで知ったように、父親が死にかかったわが子に横暴なむごい扱いをして強制し、いかにも会いたいようすをとらせていたなんて、夢にも思いませんでした。貪欲な冷酷な計画が、息子の死によって破れてしまいそうな危険が迫れば迫るほど、ますますヒースクリフは懸命に努力をしたのです。
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二十六
夏もすでに盛りを過ぎたころ、旦那さまもしぶしぶながら若い二人の願いをきいてあげることにし、キャサリンとわたしは、リントン坊っちゃんに会うために、初めて馬で出かけました。うっとうしい、蒸し暑い日でした。日は照りませんが、雨になるようすはなく、まだら雲が空をおおい、霧がかかっていました。会う場所は四つ辻の石の道標のところときめられていました。でも、そこへ着きますと、小さな牧童が使いに来ていて、こう言うのです……
「リントン坊っちゃんは嵐が丘のすぐこっち側で待ってるよ。すまないけど、もうちょっとさきまで来てくれないかって」
「それでは坊っちゃんは伯父さまの最初の指図を忘れましたね。旦那さまはお屋敷の土地から離れてはならないとおっしゃったんです。ここからさきはもうその外ですよ」とわたしは言いました。
「いいわ、それならリントンのところまで行って、すぐ馬を引き返しましょうよ」とお嬢さまは言いました。「うちのほうへ戻ってくるだけだもの」
ところがリントン坊っちゃんのところまで行ってみますと、嵐が丘から四分の一マイルと離れていず、坊っちゃんは馬もつれておりません。仕方がないのでわたしたちも馬をおりて、馬に草を食べさせておきました。坊っちゃんはヒースの上に寝そべったまま、わたしたちの近づくのを待ち、ほんの二、三ヤードのところへ来るまで起き上がろうとしません。やっと歩きだした足どりはよろよろして、顔には血の気もありません。わたしは思わず叫んでしまいました……
「まあ、坊っちゃん、今朝はとても散歩どころじゃありませんね。ずいぶん顔色が悪いこと!」
キャサリンもリントンを悲しみと驚きの目で見回しました。さっき嬉しい叫びが口まで出かかったのに、たちまち驚きに変わり、長いあいだ遅らされてきた再会を喜ぶはずの言葉は、いつもより具合が悪いのかと、不安な質問に変わりました。
「ううん……よくなった……よくなったんだよ」と彼は震えながら、あえぎあえぎ言います。支えがほしいように、お嬢さまの手を離さず、大きな青い目でおずおず相手を見回すのでした。目のまわりのくぼみが、前にはものうげだった目つきを、やつれた狂おしい感じに見せていました。
「でも、悪くなったようだわ。この前会ったときより悪いようね。あのときより痩せたし、それに……」とキャサリンは相手の言葉を信じようとしません。
「ぼくは疲れたんだ」リントンはあわててさえぎりました。「歩くには暑すぎるから、ここで休もうよ。それに、朝は、よく気分が悪くなるんだ……パパはぼくが早く大きくなりすぎるからだって」
納得できない顔をしてキャシーが腰をおろしますと、リントンはそばによりかかりました。
「ここはあなたが天国と言ってたところみたいね」お嬢さまは努めて快活そうにしていました。
「二人ともいちばん楽しいと思う場所とやり方で二日過ごす約束をしたのを覚えてる? ここはたしかにあなたの場所だわ。雲はあるけど、でもあれはとても柔らかい、きれいな雲よ。日が照りつけるよりいいわ。来週は、あなたさえよければ、スラッシクロス猟園《パーク》まで馬で行って、あたしの天国を試してみましょうね」
リントンはお嬢さまの話すことを覚えていないようでした。どんな会話でも続けるのがとてもつらいらしいのです。なにか話題を持ちだしても興味をしめさず、お嬢さまを楽しませてやる気力もないことがはっきりしましたので、お嬢さまも失望を隠せませんでした。彼のからだ全体や身のこなしが、何となく前とちがっていました。もとはすねても、少し機嫌をとると、すぐいい気になったのに、いまはだるそうな、気乗りしないようすしか見せず、甘やかしてもらいたくてわざとじれたり、からんだりした子供っぽいわがままが少なくなって、本当の病人らしい自分本位の気むずかしさが増し、慰めもよせつけず、愛想のよい笑い声ですら侮辱と感じるのです。わたしたちといっしょでも嬉しがるどころか、むしろ刑罰として忍んでいることは、わたしにもキャサリンにもわかりました。それでお嬢さまはさっさと、もう帰りましょうと言いだしました。ところが意外にも、その言葉を聞くと、眠っているようだったリントンがたちまち我に返り、妙にそわそわしはじめました。嵐が丘のほうをびくびくして見やりながら、せめてもう三十分だけいてくれと頼むのです。
「でも、ここに坐っているより、おうちにいるほうが楽でいいんじゃないの」とキャシーは言いました。「それに今日は、お話や歌やおしゃべりを聞かせてあげても楽しくないようだもの。この半年のうちに、あなたのほうがあたしより賢くなったのね。もうあたしの好きな遊びなんかじゃおもしろくなくなったのよ。そりゃ、楽しませてあげられるなら、喜んでここにいるけど」
「ここにいて、休むといい。キャサリン、ぼくのからだがとても悪いなんて、考えたり言ったりしないでね。天気がうっとうしくて、暑いから、のびちゃっただけだ。それにきみの来るまえ、ぼくには無理なくらい、歩き回っちゃったんだから。伯父さんには、ぼくがかなり元気だったと言ってくれない?」
「あなたがそう言ったことは伝えるわよ、リントン。あたしの口からは、元気だなんて言えないもの」お嬢さまは相手が明らかに事実でないことをしつこく言い張るのが不審でなりません。
「来週の木曜日もここへ来てね」とリントンはお嬢さまのまごついた視線を避けながら、つづけました。「伯父さんに、きみを来させてくれてありがとうって……本当に感謝してるって言ってね、キャサリン。それから……あの、ひょっとしてきみがぼくのお父さんに会って、ぼくのことを聞かれたら、ぼくがすっかり黙りこんでぼんやりしてたなんて思わせないようにしてくれないか。いまみたいにそんな悲しい、がっかりした顔をしないでね……でないとパパが怒るから」
「あの人が怒ったって、平気よ」とキャサリンは自分が怒られるのかと思って答えました。
「ぼくは平気じゃない」とリントンは身震いしました。「キャサリン、どうかぼくが怒られるようなことはしないでね。パパはとてもこわいんだから」
「お父さまがあなたに厳しくするんですか、坊っちゃん? 甘やかすのにあきて、腹の中で憎むだけじゃなく、はっきり表に出すようになったんですか?」とわたしはたずねてみました。
リントンはわたしの顔を見ただけで、答えません。お嬢さまはそれから十分間ぐらいそばにいてやりました。そのあいだ彼の頭は眠そうに胸に垂れたまま、疲労のせいか苦痛のせいか、押し殺したうめき声を洩《も》らすだけ。キャシーは気持をまざらわそうと苔桃《こけもも》の実を探し始め、摘んできたものをわたしに分けてくれました。リントンにはやろうともしません。これ以上かまってやっても相手を疲れさせ、うるさがらせるだけだとわかっていたからです。
「もう三十分たった、エレン?」とうとうお嬢さまはわたしの耳にささやきました。「こんなところにいたって仕方がないわ。眠ってるんだもの。パパだって帰りを待ってらっしゃるわ」
「それでも、眠ったままにして帰るわけにはいきません。目を覚ますまで待ってあげなさいな、少し辛抱して。出かけるときはずいぶん熱心だったけど、かわいそうなリントンに会いたかった気持はたちまち消えてしまったんですね!」
「なぜこの人はあたしに会いたがったの? 前には、どんなに機嫌の悪いときだって、こんな変てこな気分のときよりはましだったわ。まるで強制的にやらされてる仕事みたい……こうして会うことが……お父さんに叱られるのがこわいからみたい。あたしは、ヒースクリフさんを喜ばすために来る気にはなれない。どんな理由でリントンをこんな苦しみに会わせるのかしらないけど。それに、この人のからだがよくなったというのは嬉しいけど、こんなに機嫌がわるく、あたしに冷淡になったのは情けないわ」
「それじゃ、お嬢さまは、この人のからだがほんとによくなってると思いますの?」
「思うわ。だっていままではずいぶん大げさに苦しみを訴えたじゃないの。そりゃ、パパにかなり元気だと伝えてくれと言ったほど良くはないけど、前よりいいことはたしからしいわ」
「そこがわたしとちがうんですよ、お嬢さま。わたしの考えでは、ずっと悪くなってると思いますよ」
このときリントンはぎょっとして、うたた寝から覚め、とまどいながらだれか自分の名前を呼んだかと聞きました。
「いいえ、夢を見たんでしょ」とキャサリンが答えました。「朝のうちから、外でよく眠れるわね」
「お父さまの声がしたと思ったんだ」リントンは威圧するような嵐が丘の頂きを見あげて、あえいでいました。「ほんとにだれも呼ばなかった?」
「ほんとだったら。エレンとあたしが、あなたのからだのことを話してただけよ。リントン、冬のころ別れたときよりほんとに丈夫になったの? からだは丈夫になったとしても、ひとつだけ強くならないものがあるわね……あたしに対する愛情よ。言ってちょうだい……からだは強くなったの?」
それに答えながら、リントンの目から涙がほとばしりました。「うん、そうだ、ほんとだよ!」さっき夢うつつに聞いた声にまだおびえ、声の主をキョロキョロ探しているのです。キャシーは立ちあがりました。「今日はもう別れなくちゃ、今日会って、ほんとにがっかりしたと言わずにいられないわ。むろんあなた以外のだれにも言やしないけど。それもヒースクリフさんがこわいからじゃないわ」
「しっ! お願いだから、黙って……パパが来るんだ」とリントンはつぶやき、キャサリンを引きとめようと、腕にすがりつきました。でもその言葉を聞きますと、お嬢さまはあわてて腕をふりほどき、ミニーを口笛で呼びました。馬は犬のように従順に走って来ました。
「また木曜日に来るわね」とお嬢さまは叫び、鞍に飛び乗りました。「さようなら。エレン、早く!」
こうしてリントンと別れました。あの子は二人の立ち去るのも気がつかないようすで、父親が来ると思って、それだけに気をとられていました。
家へ着かないうちに、キャサリンの不愉快さもうすれて、憐れみと後悔の複雑な気持に変わってきました。リントンの健康と愛情が本当はどうなのだろうと、とりとめのない不安な疑いも強く感じていました。わたしの気持も同じでしたが、もう一度行けばいくらかはっきりするでしょうから、あまりお話しないように、とお嬢さまに忠告してあげました。旦那さまはどんなようすだったかと聞かれました。甥の感謝の言葉はちゃんと伝えられましたが、ほかのことについてはお嬢さまはごくかんたんに触れただけでした。わたしも質問に漠然とした答えしかできませんでした。いったい何を隠し、何を言っていいものやら、迷っていたのでございます。
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二十七
また七日が過ぎました。その一日一日が、この頃から急速に悪くなった旦那さまの病状の変わり方をしめしていました。それまで何カ月もかかって行なわれた破壊が、いまは数時間ごとの侵蝕で進んでくるのでした。それでもキャサリンだけはまだだましておきたかったのですけれど、敏感なお嬢さまはごまかされてはいません。ひそかに感づいて恐ろしい予想を考え続け、しだいに確信を固めていったのです。木曜日がやってきても、馬で出かけようと言いだす気にもなれないようでした。わたしがかわりに言ってあげて、旦那さまから外出のお許しをいただきました。お父さまが毎日短時間……起きていられるわずかな時間……を過ごされる書斎と寝室だけが、いまではお嬢さまのすべての世界となっていたのです。枕もとでお父さまの顔をのぞくか、おそばに寄りそっているとき以外には、ひとときでも惜しまれるようでした。看病と悲しみに顔色も青ざめてきましたので、旦那さまも外に出て従弟に会ったら、楽しい気分転換になるだろうとひそかにお考えになり、喜んでお嬢さまを出してあげたのでございます。こうしておけば自分の死んだあともお嬢さまがひとりぼっちになることはあるまいと、心を慰めておられたのです。
ときどき旦那さまの洩らされる言葉では、旦那さまはリントンを、容貌が自分に似ているから、性格も同じだろうと思いこんでいらっしゃるようでした。リントンの手紙からは、あの欠陥だらけの性格はほとんどうかがわれません。わたしも、つい気の弱さから、旦那さまの誤解を正してあげることはできなかったのです。いまさらそれを知ったところで、うまく計らう力も機会もおありにならないのに、最後のお気持を波だたせてみても、何になろうかと考えてしまったのでございます。
出かけるのは午後までおくらせました。金色にきらめく八月の午後でした。丘から吹く風は生気にあふれ、それを吸いこめば瀕死《ひんし》の人でもみなよみがえりそうでした。キャサリンの顔はまるでその風景と同じ……影と光がめまぐるしく移り変わりました。でも影のほうが長くとどまり、光はつかのまに消えます。それでもかわいそうに、お嬢さまのいじらしい心は、ほんの一瞬でも心配を忘れることをやましく思うのでした。
リントンはこの前と同じ場所を選んで、わたしたちを見守っていました。お嬢さまは馬をおりて、ほんのちょっとしかいないつもりだから、馬に乗ったままで子馬の手綱を持っているようにとわたしに言いました。わたしはききませんでした。お預かりした大事なお嬢さまからつかの間も目を離したくなかったのです。それで二人いっしょにヒースの生えた斜面を登りました。ヒースクリフ坊っちゃんはこんどはずっと意気ごんで迎えました。ですがその意気ごみは本当の元気でも喜びでもなく、むしろ恐怖に近いようでした。
「遅いじゃないか!」彼はそっけなく、苦しそうに言いました。「お父さんの病気が重いんじゃないの? 来ないかと思ってた」
「なぜ正直に言わないの?」キャサリンはあいさつをしかけたのを飲みこんで、言いました。「なぜきっぱりと、あたしに会いたくないって言えないのよ? あたしを二度もこんなところへ呼び出して、それもあたしたち二人をわざと苦しめるだけで、ほかに何の理由もないのに、変じゃないの、リントン!」
リントンはぶるぶる震え、なかば哀願するように、なかば恥じいるように、キャサリンをちらっと見ました。こんな謎めいた態度は、お嬢さまにはとても我慢できません。
「お父さまはとてもお悪いのよ。なぜあたしをお父さまのそばからここまで呼び出すの? あたしに来てもらいたくないなら、なぜ使いをよこして、約束を守らなくてもいいと言ってくれなかったの? さあ、説明してちょうだい! 遊んだりふざけたりしてる気はいまのあたしには全然ないのよ。あなたのお芝居のご機嫌とりはごめんだわ!」
「お芝居だって! それは何のこと? お願いだ、キャサリン、そんなに怒った顔をしないで! ぼくのことなら好きなだけ軽蔑しておくれ。どうせろくでなしの、意気地なしだ。いくら軽蔑されたって足りゃしない。きみに怒られる値うちもないけちなやつさ。憎むならぼくのパパにしてくれ、ぼくは軽蔑するだけにしておくれよ」
「くだらない!」とキャサリンはかんしゃくを起こして叫びました。「なんてばかな、あきれた人でしょう! ほらまた! すぐ震えて、あたしが手を出すと思ってるのかしら! 軽蔑してくれって、頼むことはないわよ、リントン。黙ってたって軽蔑してやりたくなるわ。もう、行きなさいよ! あたし帰るわ。あなたを炉辺から引き出して、お芝居するなんて……何のお芝居かわからないけど……ばからしいわ。あたしの服を離して! あなたが泣いたり、びくびくしたりするのをあたしが憐れんだら、そんな憐れみははねつけるのが本当よ。エレン、こんな態度がどんなにみっともないか、教えてあげるといいわ。さあ、立って、そんなにみっともないかっこうで這《は》ったりしないで……やめてったら!」
顔じゅう涙で濡らし、苦しい表情を浮かべながら、リントンはぐったりとからだを地面に倒しました。極度の恐怖にけいれんしているようでした。
「ああ!」とすすり泣くのです。「ぼくは耐えられない! キャサリン、キャサリン、おまけにぼくは裏切り者だ。そのくせ、きみに言えない! だけどきみに見放されたら、ぼくは殺されるんだ! ねえ、キャサリン、ぼくの命はきみの手に握られてる。ぼくを愛してると言ってくれたじゃないか。愛してくれたって、きみに害があるわけじゃない。だから行かないでくれるだろう、親切な、やさしい、思いやりのある人だもの! きっときみは、承知してくれるね……そしたらパパはぼくをきみのそばで死なせてくれるよ!」
激しい苦悶を見たお嬢さまは、かがんで抱き起こしてやりました。以前のやさしい寛大な気持が腹だたしさを忘れさせ、すっかり同情して、心配になってきたのです。
「承知するって、何のこと? ここにいることなの? わけのわからないことばかり言わずに、はっきり話してくれたら、いてあげる。ちぐはぐなことばかり言って、あたしまで変になっちゃうわ! 落ち着いて率直に、胸にわだかまっていることをみんな言ってしまうのよ。まさかあたしをひどい目に合わすんじゃないでしょうね、リントン? もしあなたに防げるとしたら、どんな敵にもあたしを傷つけさせておかないわね? あなたは自分では臆病でも、親友を裏切るような卑怯なまねはしないでしょうね?」
「でもパパがぼくをおどかしたんだ」とリントンはやせ細った手を握り合わせて、あえぎながら言いました。「ぼくはこわい……パパがこわい! こわくて言えないんだ!」
「いいわよ、そんなら!」キャサリンは軽蔑と憐れみをこめて言いました。「秘密にしておいたらいいわ。あたしは臆病じゃないんですからね。あなたは自分だけ助かればいいのよ。あたしはこわくなんかないわ!」
お嬢さまのおおらかな気持に触れて、またリントンは涙を流しました。お嬢さまが支えている手にキスしながら、激しく泣きじゃくりました。それでもやっぱり打ち明ける勇気はないのです。いったいどんな秘密かと、わたしもいろいろ考えましたが、とにかくわたしの親切気のおかげで、キャサリンが、リントンにせよだれにせよ、役立とうとして苦しむ結果になってはならないと心を決めました。そのとき、ヒースの茂みの中からガサガサいう音を聞いて、見あげますと、嵐が丘をおりて来たヒースクリフさんが、すぐ目の前にいるのです。リントンのすすり泣きが聞こえるほど近くまで来ているのに、二人には目もくれず、ほかの人に見せたこともない、いかにもうちとけた調子で、わたしに声をかけました。それがどこまでこの男の本心なのか疑わずにはいられませんでした。
「やあ、ネリー、わたしの家のこんな近くで会えるとは嬉しいね。スラッシクロスでは変わりはないかね? 話してくれないかな。なんでも世間の噂じゃ」と声を低め、「エドガー・リントンが死にかかっているそうだな。たぶん世間のやつらは病気を大げさに言ってるんだろう」
「いいえ、旦那さまはもういけないんです。噂のとおりですよ。わたしたちにとっては悲しいことだけど、旦那さまにはかえっておしあわせなのですわ!」
「どのくらいもつと思う?」ヒースクリフはたずねました。
「わかるものですか」
「実はな」とヒースクリフは若い二人のほうを見て、続けました。二人は彼の視線に射すくめられ、リントンは身動きもできず、頭もあげられないようで、そのために、キャサリンも動くわけにいきません。……「実は、あそこの小僧がおれの計画をだめにしてしまいそうなんでね。あいつの伯父が早いとこひと足さきに、死んでくれりゃありがたい話さ。へえ! あのがきは、ずっとあんなまねをやってるのか? そりゃ、哀れっぽいやり方はいくらか教えておいたけどな。どうだね、お嬢さんとかなり元気よくやってるのかい?」
「元気よくですって? とんでもない……苦しくてたまらないようでしたよ。あのようすでは恋人と丘の散歩なんかしていないで、お医者さまの手当てをうけながら寝てるのがいいんですよ」
「一日《いちんち》か、二日したら、そうさせてやるさ」とヒースクリフはつぶやきました。「だが、それより前に……起きろ、リントン! 起きないか!」とどなりました。「地べたにはいつくばってるんじゃない。すぐ起きろ!」
リントンはまた恐怖の発作にからだの自由が利かず、へたへたと地面に倒れました。父親ににらまれただけで、そうなってしまったらしいのです。ほかにはそんな情ないようすをする理由はなかったのですから。父親の言うとおりにしようともがきましたが、わずかな力も尽きてしまい、うめき声をあげて倒れてしまいました。ヒースクリフはそばへ行って、起こしてやり、芝生の小高いところへよりかからせました。「さあ」と荒々しさを少し抑えて、「おれも腹がたってきた。そのやくざ根性をしっかりさせないと……こん畜生! さっさと起きゃがれ!」
「起きます、お父さん」リントンは苦しそうに言いました。「だけど、お願いです、放っといて。気絶しそうなんです。ぼく、お父さんの言うとおりにしたんだ。キャサリンが話してくれます、ぼくが……ぼくが……元気よくやったって。ああ、キャサリン、そばにいて。手を貸してくれないか」
「おれの手を使え」とヒースクリフが言いました。「足でちゃんと立て。それ、……お嬢さんが手を貸してくれるぞ。それでいい。お嬢さんのほうを見ろ。リントンのお嬢さん、こんなに息子をこわがらせたら、さぞかしわたしが悪魔みたいな人間だと思うでしょうね。すまないが、この子を家まで歩かせてやってくれませんか? わたしがさわっただけでも震えだすんだから」
「ねえ、リントン!」とキャサリンはささやきました、「あたしは嵐が丘へは行けないのよ。パパにとめられてるの。あなたのお父さまはひどい目に会わしたりしないわ。なぜ、そんなにこわがるのよ?」
「ぼくは家へ二度と帰れない。きみがいなかったら、二度と入れてもらえないんだよ!」
「黙れ!」とヒースクリフは叫びました。「それじゃキャサリンの父親思いを尊重してやるか。ネリー、おまえがこの子を連れてってくれ。おまえの忠告どおり、さっそく医者に見せるよ」
「それがいいんですよ。でもわたしはお嬢さまのそばにいなくてはなりません。わたしの仕事はお宅の息子さんをお世話することじゃありません」
「おまえも頑固なやつだ」とヒースクリフは言いました。「そんなことはわかってる。それじゃこの赤ん坊をつねって、ぎゃあぎゃあ泣かしてやらなきゃ、おまえの同情が湧かないっていうんだな。よしきた。じゃ、うちの若だんな。おれのおともで家へ帰るかね?」
ヒースクリフはもう一度近づき、リントンのもろいからだを鷲づかみしそうな気配を見せました。たちまちリントンはすくみあがり、従姉《いとこ》にしがみついて、どうかいっしょに来てくれと哀願するのですが、断わりようもないほど気違いじみたしつこいやり方でした。わたしがどんなに反対しても、お嬢さまを止めることはできませんでした。お嬢さまだって、とても断わりきれなかったのです。リントンが何をそんなにおびえるのか、わかりっこありませんでしたが、じっさい恐怖に抑えつけられ、それ以上こわがらせたら、そのショックで白痴になってしまいそうでした。とうとう戸口まで来てしまい、キャサリンは中へはいりました。わたしはお嬢さまがすぐ出てくるものと思って、病人を椅子までつれて行くあいだ、外で待ちました。するとヒースクリフがわたしを前へ押しやって、いきなり言いました……
「おれの家は疫病にとっつかれちゃいないんだぞ、ネリー。今日はあたたかくもてなしてやる気でいるんだ。さあかけて、ドアをしめさせてくれ」
彼はドアをしめ、錠をおろしました。わたしははっとしました。
「お茶でも飲んで帰りゃいい。今日はおれ一人だ。ヘアトンはリーズ牧場へ行ったし、ジラーとジョーゼフは遊山旅行にお出かけだ。一人でいるのはなれっこだが、おもしろい相手がいるにこしたことはない。リントンのお嬢さん、あの子のそばに掛けなさい。わたしのものをあんたにあげよう。受け取ってもらうほどのプレゼントじゃないが、ほかには何もないんでね。つまり、このリントンさ。なんで、あの娘はあんなに、目をむいてるんだ! おれをこわがるやつには、妙なことにおれはむごい気持になる! 法律がこんなに厳しくなく、趣味もこんなにお上品でない国に生まれていたら、一夜の慰みに、あの二人を生きたままじわじわ八つ裂きにして楽しんでやるところだ」
ヒースクリフは息を吸いこみ、テーブルを打ち、「畜生! いまいましいやつらだ!」と独りごとのように毒づきました。
「あなたなんかこわくないわ!」ヒースクリフのあとのほうの言葉を聞かなかったキャサリンはそう叫んで、つめ寄りました。黒い目が怒りと決意にきらきら光っていました。「その鍵を下さい。どうしてももらいます! 飢死《うえじに》したって、こんなところで飲んだり食べたりしないわ」
ヒースクリフはテーブルにのせた手に鍵をつかんでいました。キャサリンの大胆さに、ちょっと驚いたように見あげました。ひょっとしたら、その声と目つきを娘に遺《のこ》した人を思いだしたのかもしれません。キャシーは鍵に飛びかかり、そっと持っていた手からもう少しで奪いとるところでしたが、その動作から、我に帰った彼がたちまち取り返してしまいました。
「さあ、キャサリン・リントン。そばへ寄るな! さもないと殴り倒してやる。そうすりゃまたディーンさんが気違いになるぞ」
この警告も気にとめず、キャシーは鍵を握りしめた手をつかみました。「帰るんです!」とくり返し、必死になって鉄のようなこぶしをゆるめさせようとしました。爪をたててもだめとわかると、歯で思いきり噛みつきました。ヒースクリフはすさまじい形相でわたしをにらみつけたので、思わずわたしはすくんでしまい、手出しもできなくなりました。キャサリンは相手の指を開かせることに夢中で顔など見もしません。彼はいきなり手を開き、目的の鍵を手放しました。でもキャシーがしっかりつかみとるひまもなく、彼は自由になった手でお嬢さまをつかまえ、膝の上へ引きずりあげ、片方の手で頬に続けざまに恐ろしい平手打ちをあびせました。もしも片手でつかまえていなかったら、そのひと打ちだけでもさっきのおどかしどおりに殴り倒されていたことでしょう。
悪魔のような暴力に逆上したわたしは、夢中で飛びかかりました。「この悪党! 悪党!」とわたしは叫びたてましたが、胸をひと突きされて、声が出なくなってしまいました。肥っているので、すぐ息が切れます。おまけに、突かれたのと怒りのために、目がくらくらし、うしろへよろめいて、いまにも息が止まるか、血管が破裂してしまいそうでした。その騒ぎは二分ほどで終わりました。キャサリンはやっと離されると、両手をこめかみに当て、両耳がとれてしまったか、ついているかわからないといったような、きょとんとした顔をしていました。かわいそうに、葦みたいに震え、すっかり混乱してテーブルに寄りかかっていました。
「これで、おれが子供のこらしめようを知っていることがわかったな」この悪党は、床に落ちた鍵を拾おうと身をかがめながら、不気味に言いました。「さあ、言われたとおり、リントンのところへ行け。そのあとで思いきり泣くがいい! あしたになったら、おれがおまえの父親だ……二、三日したらおれしか父親はいなくなるんだ……そうしたらたっぷり殴ってやるぞ。いくら殴っても辛抱できそうだ……おまえは弱虫じゃない……もしまたおまえの目があんなはげしい癇癪《かんしやく》を見せたら、毎日でもひっぱたいてやる!」
キャシーはリントンのところへは行かずに、わたしのそばへ駆け寄って、ひざまずき、燃えるような熱い頬をわたしの膝にのせて、声をあげて泣きました。リントンは長椅子のすみっこにちぢこまって、二十《はつか》ねずみみたいにおとなしくし、どうやら折檻《せっかん》が自分以外の者に加えられたのを喜んでいるようすでした。ヒースクリフは、わたしたちがみな狼狽《ろうばい》しているのを見て、立ちあがり、すばやく自分でお茶を入れました。茶碗と受け皿はもう用意してありました。彼はお茶をついで、わたしに渡しました。
「飲んで怒りっ面《つら》をなおせよ。おまえのと、うちのだだっ子にも飲ましてやってくれ。おれがいれたお茶だって、毒ははいってない。外へ行って、おまえたちの馬を探してこようか」
ヒースクリフが出て行くと、真っ先にわたしたちが考えたのは、どこからでもあくまで脱出することでした。台所の戸口を試してみましたが、外から錠をおろしてありました。窓もみな調べました……でも狭すぎて、キャシーの小さなからだでも抜けるのは無理です。
「リントン坊っちゃん」とわたしは二人とも完全に監禁されたと知って、言いました。「あなたにはわかってるはずよ、悪魔のようなお父さんが何をたくらんでいるのか。さあ、おっしゃい! 言わなければ、お父さんがキャシーにしたように、横面を叩きますよ」
「そうよ、リントン、言うべきだわ」とキャサリンも言いました。「あたしが来たのはあなたのためよ。いやだと言うなら、ひどい恩知らずだわ」
「ぼくにお茶をくれ。喉がかわいたんだ。そしたら話すよ」とリントンは答えました。ディーンさん、向こうへ行ってよ。おまえが前に立っているといやなんだ。そら、キャサリン、涙がぼくの茶碗に落ちてるじゃないか。そんなの飲めやしない。別のをくれよ」
キャサリンは別の茶碗を彼のほうへ押しやり、涙をぬぐいました。わたしはこの卑劣な少年が、自分はもう何もこわくないとばかり、落ち着きはらっているのがいまいましくなりました。荒野《ムア》で見せた苦悶は、嵐が丘へはいるやいなや消え去ったのです。どうやらこの子は、わたしたちをここへおびき寄せるのに失敗したら、すさまじい怒りに見舞われるだろうと恐れていたので、うまくいったものだから、さしあたりこわいものもなくなったというのでしょう。
「パパはぼくらを結婚させたがってるんだ」リントンはお茶を少しすすってから、続けました。「だけどきみのお父さんがまだ許しそうもないことがわかってるし、待ってるうちに、ぼくが死んじゃうだろうと心配なんだ。だから、ぼくらは明日の朝結婚することになってるんだ。きみは今夜ひと晩ここに泊まるんだよ。きみがパパの言うとおりにしたら、あした家へ帰してもらえるよ、ぼくをつれてね」
「あんたをつれて帰るんだって、あんたみたいな情ない|ちび《ヽヽ》を?」とわたしは思わず叫びました。
「あんたが結婚するんだって? まあ、あの男は気違いだ。それとも、わたしたちをみんな阿呆《あほう》と思ってるのかしら。あんただって、こんな美しいお嬢さまが、こんな健康で元気いっぱいのお嬢さまが、あんたみたいな死にかかった小猿なんかと、結ばれると思ってるの! キャサリンお嬢さまはもちろんのことだけど、あんたなんかを夫にする人があるなんて考えてるの? 涙なんかで卑怯なだまし方をしてここへつれこんだりして、鞭で打ちのめしてやりたい。それから……さあ、そのまぬけ面《づら》をやめて! わたしはね、あんたをこっぴどく揺さぶってやりたい。見さげはてた裏切りと、頭の足りないうぬぼれのお返しにね」
ほんとに、ちょっとこずいてやりました。たちまち咳《せ》きこみ、例の手で、泣いたりうめいたりしはじめ、わたしはキャサリンに叱られてしまいました。
「ひと晩じゅうここにいろですって? いやよ」お嬢さまはゆっくりあたりを見回しながら言いました。「エレン、あのドアを燃やしたってここから出てやるわ」
すぐそのおどしを実行しようとしますと、リントンはまたいとしいわが身が心配になって、はっと起きあがりました。力のない両腕でお嬢さまを抱きしめ、すすり泣きながら、言うのです……「ぼくと結婚して、ぼくを救ってくれないの……スラッシクロスヘ行かしてくれないの? ねえ、愛するキャサリン! ぼくを置いて帰ってしまっちゃいけないんだ。お父さんの言うとおりにしてくれなくちゃいけない……そうするんだよ!」
「あたしはあたしのお父さまの言うとおりにしなきゃならないの。恐ろしい不安をとり除いてあげるのよ。ひと晩じゅうだなんて! お父さまはどうお思いになるでしょう? いまだって心を痛めていらっしゃるわ。どこかこわすか、火をつけてでも、出て行くわ。静かにしてよ! あなたに何も危険はないわ。だけどあたしの邪魔をしたら……リントン、あたしにはあなたなんかよりパパのほうが大切なんだから!」
ヒースクリフの怒りに対するどうしようもない恐怖から、リントンはまた卑怯な雄弁をふるいました。キャサリンは困って気も狂いそうでした。それでも、あくまで家へ帰ると言い張り、自分勝手な苦しみなんか抑えつけてくれと、リントンに哀願するように言って聞かせました。こうして言い合っているうちに、わたしたちの監禁者がまたはいって来ました。
「馬は逃げちまったよ。だから……こら、リントン! まためそめそやってるのか? お嬢さんが何かしたのか? さあ、さあ……やめろ。寝床へ行け。ひと月かふた月もすりゃな、坊や、こいつがいまいばり散らしてたって、思いきり仕返しができるようになるさ。おまえは清らかな恋にあこがれていて、ほかには何もいらないんだったろう? だからこのお嬢さんをおまえと結婚させてやるんだ! そら、寝ろ! 今夜はジラーが帰って来ないから、自分で着替えをするんだ! しっ! 騒ぐんじゃない! 自分の部屋へはいったら、おれはそばへ行きゃしない。びくびくすることはない。おまえは思いのほかうまくやったよ。あとはおれが引き受けた」
ヒースクリフは息子がとおれるように、ドアをあけて押えながら、言いました。リントンは、そこで待っている人が意地悪くドアで挟《はさ》みはしないかと疑っている狆《ちん》そっくりに、こわごわ出て行きました。そのあとまた鍵がかけられました。ヒースクリフはわたしとお嬢さまが黙って立っている暖炉に近づきました。キャサリンは顔をあげ、本能的に手を頬に当てました。彼が近づいただけで、さっきの痛みがよみがえってきたのです。だれだってそんな子供らしいしぐさを邪険な目では見られないはずなのに、ヒースクリフはお嬢さまをにらみつけて、つぶやきました……
「なんだ! おれなんかこわくないんだろう? おまえの勇気をうまく隠してるのか。そのようすじゃ、ひどくこわがってるようだな!」
「いまはこわいわ。だって、あたしがここにいたら、パパが苦しむからよ。お父さまを苦しませることはできないわ。……いまパパが……いまごろパパが……ヒースクリフさん、あたしを帰らせて下さい! きっとリントンと結婚しますから。パパだってそうさせたがってるし、あたしもリントンを愛してます。あたしが自分から喜んでしようとしているのに、なぜ強制しようとするんですか?」
「強制させたらいいんですよ!」とわたしは叫びました。「ありがたいことに、この国には法律というものがありますよ! どんな辺ぴな場所だって同じことですわ。たとえリントンが自分の子でも、わたしは訴えてやりますよ。それに、牧師さんの手を借りない結婚は重罪ですからね」
「黙れ!」と悪党は言いました。「ぎゃあぎゃあわめきたてるな! おまえなんか黙ってろ。リントンのお嬢さん、あんたのお父さんが苦しむと思うと、こっちは嬉しくてぞくぞくするよ。嬉しくて眠れないくらいだ。そんなことになると聞かされた以上、もうこれから二十四時間は、ぜったいにこの屋根の下に落ち着いてもらうことになるんだ。リントンとの結婚の約束は、守れるようにしてやるよ。結婚式がすむまでは、この家から出さないというわけだ」
「それなら、エレンを帰して。あたしが無事だとパパに知らせてもらうんだから!」キャサリンは激しく泣きながら、叫びました。「でなかったら、いますぐ結婚させて下さい。かわいそうなパパ! エレン、パパはきっと、あたしたちが道に迷ったと思ってるわ。どうしましょう?」
「そんなこと思ってるものか! 看病にあきて、しばらく気晴らしに飛びだしたと思ってるよ」とヒースクリフは答えました。「父親の言いつけをばかにして、自分から進んでこの家へはいったことを嘘だと言えまい。そのくらいの年頃になりゃ、遊びたくなるのも、病人の看護にいや気がさすのもあたりまえさ。その病人だって、ただの父親ときてはな。キャサリン、おまえが生まれたとき、親父さんのいちばん幸福な時代は終わったんだ。たぶん親父さんは、おまえがこの世に生まれてきたことを呪ったはずだ(少なくとも、おれは呪ったぞ)。だから今度自分がこの世を去るとき、おまえを呪えばちょうどいい。おれもいっしょに呪ってやる。おれはおまえなんか愛しちゃいない! 愛する理由があるか? いくらでも泣け。どう見たって、これからおまえの気晴らしは泣くことだけになりそうだ。リントンがほかにいろいろ失ったものの埋めあわせをしてくれない限りはな……おまえの親父さんは目先がきくから、リントンがそうやってくれると思ってるようだ。あいつのよこした忠告やら慰めやらの手紙は、まったくおもしろかった。いちばん最近の手紙には、おれの大事な息子に、わたしの大事な娘の世話を頼む、結婚したらやさしくしてくれ、と書いてあった。大切に、やさしくって……父親らしい思いやりだ。だがリントンは自分の身を大切にやさしく扱うのが精いっぱいだ。リントンは子供の暴君の役はりっぱにやるやつだ。猫の歯を抜いて、爪を切っておけば、何匹だっていじめてやるんだ。今度家へ帰ったら、リントンのやさしさについて、おもしろい話を親父にいっぱいしてやれるはずだ!」
「そのとおりですわ!」とわたしは言いました。「息子さんの性質を説明してやりなさいよ。あなたに似ていることを話してあげるといいんですわ。そうしたらお嬢さまも厄病神《やくびょうがみ》みたいな人といっしょになる前に、考えなおすでしょうから!」
「あいつの愛すべき性質をならべたててやったってかまやしない。どっちみちお嬢さんはあいつを受け入れるか、ここにとらわれたままでいるしかないんだ。おまえだって、主人が亡くなるまでお嬢さんといっしょにいるんだぞ。ここならだれにも見られずに、二人とも監禁しておける。嘘だと思ったら、お嬢さんにさっきの約束を取り消させてみろ。本当かどうかわかるだろう!」
「約束は取り消さないわ」とキャサリンは言いました。「そのあとでスラッシクロスヘ行かせてくれるなら、いますぐでも結婚します。ヒースクリフさん、あなたは残酷な方だけど、悪魔じゃないんですもの、ただの悪意だけで、あたしのしあわせをみな叩きつぶしたりしないでしょうね。もしパパがあたしにわざと放っていかれたのだと考え、あたしの帰る前に亡くなってしまったら、あたしはもう生きてはいけない。もう泣きません。あなたの前にひざまづきます。あたしを見て下さるまで、立ちません。お顔から目をそらしません! いいえ、そっぽを向かないで、あたしを見て下さい! あなたの気にさわるような顔はしません。あたしはあなたを憎みはしません。ぶたれたことなんか、怒っていません。叔父さま、あなたはいままでだれ一人愛したことはないんですか? ただの一度も? お願い、一度だけあたしを見て。こんなにみじめなあたしを見たら、あなただって、気の毒だとか、憐れだとか、思うはずです」
「その|いもり《ヽヽヽ》みたいな指を離せ。どけ。どかなきゃ、蹴とばすぞ!」ヒースクリフはどなって、荒々しくお嬢さまを突きのけました。「蛇にからみつかれるほうがまだましだ。いったいなんだっておれにへつらう気なんか起こしたんだ? いまいましい!」
そう言って肩をすくめ、嫌悪にからだがぞくぞくするかのように身震いし、椅子をうしろへ引きました。わたしは立ちあがり、思いきり悪口をあびせてやろうと口を開きましたが、最初の文句も言いきらぬうちに、それ以上ひと言でも言ったら、おまえだけ別の部屋へつれて行くぞとおどかされ、黙らされてしまいました。もう暗くなっていました……ふと庭木戸のあたりに人声がしました。ヒースクリフはすぐ飛びだしました。わたしたちがうっかりしていたのに、あの男は機敏に悟ったのです。二、三分話したあとで、彼は一人で戻って来ました。
「あなたの従兄のヘアトンだと思ったんですけど」とわたしはキャサリンに言いました。「あの人が来てくれたらいいのに! あの人なら、わたしたちの味方になってくれるかもしれませんよ」
「スラッシクロス屋敷から、おまえらを捜しに下男を三人よこしたのさ」とわたしの言葉を耳にしたヒースクリフは、言いました。「格子窓をあけて、大声で呼びゃよかったんだ。だがこの娘っ子は、おまえがそうしなかったのを喜んでるにきまってる。帰れなくなって嬉しいことはたしかだ」
みすみすチャンスを逃がしたと知ったわたしたちは、二人で思いきり泣いてしまいました。ヒースクリフは九時になるまでわたしたちを泣くままにしておきました。それから台所を通って二階のジラーの部屋へ行け、と言いました。わたしはお嬢さまに、言うとおりになさいとささやきました。ひょっとしたら、そこの窓から抜けだせるかもしれないし、屋根裏へあがって、明かり窓から逃げだす方法もありそうだと考えたのです。ところが二階の窓も階下と同じように狭く、屋根裏部屋へ行く揚げぶたは、押してもびくともしません。ここでもやっぱり閉じこめられていたのです。二人とも横になりませんでした。キャサリンは格子窓のそばを離れず、夜明けをいらいらしながら待っていました。やすんで下さい、と何度お願いしても、答えはただ深い溜息をつくばかり。わたしは椅子にかけて、からだを揺すぶりながら、これもたびたびわたしが義務を怠ったせいだと、きびしく反省しておりました。わたしの主人たちの不幸が、みなわたしのために起こったのだ、という考えがそのとき浮かびました。実際はそうばかりでもなかったのですが、その恐ろしい夜は、まったくそうしか思われず、ヒースクリフでさえわたしよりも罪が軽いような気がしたのでした。
朝の七時にヒースクリフがやって来て、お嬢さまは起きたか、と聞きました。お嬢さまはすぐドアに駆けより、「はい」と答えました。「よし、それなら」と彼はそこをあけ、お嬢さまを外へひっぱり出しました。わたしも立ちあがってついて行くつもりでしたが、彼はまた鍵をかけてしまいました。わたしは出して下さいと叫びたてました。
「我慢してろ。朝飯はじきに持って来させてやる」と彼は答えただけでした。わたしは怒ってドアをどんどん叩いたり、掛け金をガチャガチャいわせたりしました。なぜエレンをまだ閉じこめておくのかと、キャサリンが聞きますと、もう一時間だけ辛抱してもらうんだと答え、二人とも行ってしまいました。わたしは二、三時間辛抱させられました。やっと足音がしたと思うと、それもヒースクリフではなかったのです。
「飯を持って来たぞ。ドアをあけな!」と言う声がしました。急いであけると、ヘアトンで、わたしにはたっぷり一日分ある食べ物を持っていました。
「取れよ」とわたしの手に盆を押しつけました。
「ちょっと待って」とわたしは話しかけました。
「だめだ」とヘアトンは叫び、なんとか引きとめようと頼んでも耳もかさず、戻って行きました。
とうとうその日一日、次の夜もひと晩、次の夜も、また次の夜も、ずっと閉じこめられたままでした。全部で四日と五晩、毎朝一度ヘアトンの顔を見るだけで、だれにも会わず監禁されていました。ヘアトンは模範的な牢番でした。無愛想に黙りこんでいて、彼の正義感や同情を引こうと懸命に訴えたって、まるでつんぼみたいに取りあいません。
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二十八
五日目の午前中、いいえ、もう午後でしたでしょうか、いつもとちがう足音……軽やかな小きざみの足音が近づきました。今度はその人が部屋の中まではいって来ました。ジラーでした。真っ赤なショールをして、黒い絹のボンネットをかぶり、柳のバスケットを腕にかけています。
「あらまあ! ディーンさん!」とジラーは叫びました。「ギマトン村じゃ、あんたの噂でもちきりですよ。わたしゃてっきりブラックホース沼に沈んだものと思ってました。お嬢さんもいっしょにね。初めて旦那さまに、あんた方が見つかったので、ここへ泊めておいたって聞かされてね! いったいどうしたの! うまく沼の島にでも這《は》いあがったんだろうね? 沼にどのくらいつかってました? うちの旦那さまが助けたんですか、ディーンさん? だけどそんなにやつれてないね……からだのほうは何ともなかったんだね?」
「あんたの旦那はひどい悪党ですよ!」とわたしは答えました。「だけど、きっとこのお返しはしてあげます。そんなでたらめの話をこしらえたって何にもなりはしない。すぐ嘘だとばれてしまうのに!」
「それは何のことだね?」とジラーはたずねました。「旦那さまが話してるわけじゃなく、村での噂ですよ……あんた方が沼で溺れたっていうのは。だからわたしは帰ってくると、アーンショウに言いましたよ、『ねえヘアトンさん、わたしが出かけてからえらいことが起こったね。あのきりょうよしのお嬢さんと、元気なネリー・ディーンは、ほんとに気の毒をしたねえ』って。ヘアトンは目を丸くするんだよ。噂のことは何も聞いてないらしいので、みんな話してやりました。旦那さまはそれを聞くと、一人でにやっとして、『沼に落ちたかどうか知らないが、もう出て来てるぞ、ジラー。現にいま、ネリー・ディーンはおまえの部屋に泊まっているんだ。上へ行ったら、帰ってもいいって言ってやれ。これが鍵だ。沼の水でも頭へはいったのか、すっかりおかしくなったまま家へ飛んで行こうとするから、正気に戻るまで閉じこめてやったんだ。元気そうなら、すぐスラッシクロスヘ帰れとおまえから言え。お嬢さんも、あとから主人の葬式に間に合ように帰してやると伝えさせろ』だって」
「うちの旦那さまが亡くなったんですか?」わたしは息もとまりそうになって言いました。「ねえ、ジラー! どうなの、ジラー!」
「いえ、大丈夫。まあ、あんた、坐ってなさいよ。まだずいぶん気分が悪そうだね。旦那さまは亡くなりゃしません。ケネス先生の考えじゃ、もう一日ぐらい、もつだろうって。道で会ったから、聞いてみました」
坐っているどころではなく、わたしは帽子など外で着けるものをつかみ、自由に出られるようになったので、階下へ駆けおりました。居間にはいりますと、キャサリンのことを教えてくれる人はないかと見回しました。日ざしが部屋じゅうに射しドアは広くあけ放してありましたが、あたりにだれも見当たりません。すぐに出かけようか、引き返してお嬢さまを探そうかと思案していますと、暖炉のそばで軽い咳ばらいがしました。思わずそちらを見ると、リントンが一人だけ長椅子に寝て、氷砂糖をなめなめ、ぼんやりした目でわたしの動きを見守っているのです。「お嬢さまはどこ?」とにらみつけてやりました。こうして、一人のところをつかまえた以上、おどかして、口を割らせることができるだろうと思ったのです。リントンは赤ん坊みたいにまだ氷砂糖をしゃぶっています。
「お嬢さまは帰りましたか?」
「ううん、二階だよ。帰れやしない。ぼくらが帰さないから」
「帰さないだって、このまぬけ」とわたしは叫びました。「すぐお嬢さまの部屋へつれてって。いやなら、思いきり泣かせてあげるよ」
「あの部屋へ行こうとすりゃ、おまえのほうがパパに泣かされるぞ。キャサリンにやさしくしちゃいけないって、パパに言われてるんだ。あの子はぼくの妻だから、ぼくから逃げだしたりしたら、とんでもないことだって。あいつはぼくを憎んで、ぼくが死ねばいいと思ってるって、ぼくの財産を横どりするつもりだって、パパが言ったんだ。だけど、あんなやつに取らせるもんか。家へなんか帰さないぞ! 絶対帰すもんか!……いくら泣いたって、気分が悪くなったってかまうものか」
そしてまた氷砂糖をしゃぶりだし、まぶたを閉じて、眠ってしまうつもりらしいのです。「ヒースクリフ坊っちゃん」とわたしはまた続けました、「あなたは去年の冬のキャサリンの親切をすっかり忘れてしまったんですか? あのころお嬢さまを愛しているとはっきり言ったでしょう。お嬢さまも本を持ってきてあげたり、歌を歌ってあげたり、風や雪を冒して何度も会いに来てあげたじゃありませんか。ひと晩だって来られないと、がっかりさせやしないかって泣いたんですよ。その頃のあなたの気持じゃ、キャシーはあなたには何百倍もよすぎるくらいだったはずなのに、いまはお父さんの嘘を信じるんですか。あの人があなた方を二人ともきらっていることを知ってるくせに。それでもいっしょになってお嬢さまをいじめるんですね。ずいぶんりっぱな恩返しじゃありませんか」
リントンは口のはしをゆがめ、氷砂糖を取りだしました。
「お嬢さまが嵐が丘へ来たのは、あなたを憎んでるからですか?」とわたしは続けました。「自分で考えてごらんなさい! あなたの財産については、お嬢さまはあなたの手にはいるものがあることも知らないんですよ。それなのに、お嬢さまの気分が悪いなんてぬけぬけと言って。よくも知らない家の二階に一人で放っておけますね! 同じように放っておかれる辛《つら》さはあんたも身にしみてるはずなのに! 自分の苦しみだとやいやい言い、お嬢さまにも同情してもらいながら、キャサリンの苦しみを何とも感じないんですか! ヒースクリフ坊っちゃん、わたしだってこうして涙を流してるんですよ……いい年をした、ただの召使がね……だのに、あなたときたら、あんなに愛してるふりをしておきながら、お嬢さまをいくら尊敬しても足りないくらいなのに、涙は一滴でも自分のためにとっておいて、のうのうとそこで寝そべってるんですからね。ああ情けない! なんて薄情な、利己主義の人だろう!」
「だって、あの人といっしょにいられやしないもの」リントンはすねたように答えました。「ぼく一人じゃとてもいられない。あんまり泣いて、我慢できないんだ。お父さんを呼ぶと言ったって、泣きやみやしない。一度ほんとに呼んだら、パパは黙らないとしめ殺すっておどかしたけど、出て行ったらすぐ泣きだすんだ。ひと晩じゅう泣いたり、うなったりしつづけで、ぼくが眠れないとどなったって、だめなんだ」
「ヒースクリフさんは留守なんですか?」このやくざな人間は従姉の精神的な苦しみに同情する力もないのだと知って、わたしはたずねました。
「庭でケネス先生と話してるよ。ぼくの伯父さんも、今度こそ本当に死にそうだってさ。ありがたいよ、伯父さんが死ねば、ぼくはあとをついでスラッシクロスの主人になるんだからね。キャサリンはいつもあの屋敷をあたしの家って呼んでたけど、もうあいつのじゃない! ぼくのだ……パパは、キャサリンのものはみんなぼくのものだって言ったよ。あの子のすてきな本だって全部ぼくのだ。もし鍵を取ってきて外へ出してくれたら、本もきれいな小鳥も、子馬のミニーも、みんなくれるって言ったけど、おまえなんかにくれられるものはない、みんな、なにもかもぼくのものなんだ、って言ってやった。そしたら泣きだして、首にかけた小さな絵を取って、あげるって言うんだ。金のケースに二枚の絵がはいってて、片方はキャサリンのお母さん、片方は伯父さんで、二人とも若いときの肖像なんだ。きのうのことだけど……ぼくはそれだってぼくのものだからって、取ってしまおうとした。あの意地悪め、取らせまいとして、ぼくを突きとばしたから、痛くしてしまった。ぼくが悲鳴をあげたら、……そうやるとあいつは震えあがるのさ……たちまちパパの足音がしたので、キャサリンは蝶番《ちょうつがい》をこわしてケースを二つにしてしまい、お母さんのほうをぼくにくれて、もうひとつを隠そうとした。パパがどうしたんだって聞くから、ぼくはみんな話してやった。パパはぼくの持ってたほうを取りあげて、キャサリンの持ってるのもぼくにやってしまえって言ったのに、聞こうとしないの。そしたらパパは……パパはあいつを殴り倒して、鎖からもぎ取り、足で踏みつけたんだ」
「あなたはお嬢さまが殴られるのを喜んで見てたの?」とわたしはたずねました。わたしはたくらみがあって、わざと話を続けさせたのです。
「見ないふりをしてたんだ。パパが犬や馬を殴るときは見て見ないふりをするんだ……そりゃひどいんだもの。だけど初めは喜んだよ……ぼくを突きとばしたから当然の罰だもの。だけどパパが行ってしまったら、キャサリンはぼくを窓ぎわへ呼んで、頬の内側が歯に当たって切れて、口の中が血でいっぱいになってるのを見せたよ。それからこなごなになった肖像を拾い集めて、壁のところへ行って顔を向けて坐ったまま、ずっと口をきかないんだ。痛くて口がきけないのかなって思ったりしたけど、そうでもないんだろう。とにかく休まず泣いてて、しようのないやつだ。おまけに真っ青で、気違いじみた目つきをして、ぞっとしちゃう」
「部屋の鍵はあなたがその気なら取ってこられるんですね?」
「うん、二階へ行けばね。だけどいまは二階まで歩いていけないよ」
「どの部屋においてあるんですか?」
「なんだと、おまえなんかに教えるもんか! ぼくたちの秘密なんだぞ。ヘアトンだって、ジラーだって、だれだって、教えるもんか。ほら、くたびれちゃったじゃないか……あっちへ行け、行っちまえ!」リントンは顔を腕の上にのせて、また目を閉じました。
わたしはヒースクリフに会わずに帰り、屋敷からお嬢さまを救いだす人をつれてくるのがいちばんと考えました。やっと帰りますと、わたしの顔を見た仲間の召使たちはたいそう驚きまた喜んでくれました。お嬢さまも無事だと聞き、二、三人すぐ走って行って、旦那さまのお部屋の前で吉報を告げようとしましたが、わたしが、自分でお知らせするからと、みんなを押えました。わずか数日なのに、旦那さまはなんというお変わりようだったでしょう! ひたすら死を待つ悲しみとあきらめの化身といえました。なんだかとても若がえったようでした。本当のお年は三十九でしたが、少なくとも十歳は若いと言ってもよさそうでした。キャシーのことを考えていたのか、その名をつぶやいておられました。わたしは旦那さまの手に触れて、申しあげました。
「キャサリンさまが帰っていらっしゃいますよ、旦那さま!」とささやいたのです。「ご無事で、お元気です。きっと、今晩はお帰りになりますよ」
それをお報らせしたときすぐ現われた反応に、思わず身震いしてしまいました。なかば起きあがって、部屋じゅうきょろきょろ見回し、それからまた気を失って倒れてしまわれました。気がつかれるとすぐ、わたしは嵐が丘への強制的な訪問と、そこでの監禁のことをお話しいたしました。ヒースクリフが無理やり家へつれこんだと言いましたが、事実は少しちがっていたわけでございます。リントンの悪口はなるべく言わないようにし、その父親の残忍なふるまいも全部は申しあげませんでした……わたしとしましては、そうでなくてもありすぎるくらいな旦那さまの苦しみを、できればふやしたくないと思ったのでございます。
旦那さまは敵の目的のひとつが、こちらの家屋敷だけでなく、動産までを、息子のため、いいえむしろヒースクリフ自身のために手に入れることだと察しておられました。それでもなぜ自分の亡くなるまで待てないのか、旦那さまには納得いきません、それは自分と同じように、甥もまもなくこの世を去ろうとしてるのだとはご存じなかったからでございます。ですが、遺言状は書き換えるほうがよいとお考えになり、キャサリンの財産は自分で自由に使えるようにしないで、管理人の手に任せ、お嬢さまの生きているあいだはお嬢さまが、またその死後は、もしあればその子供たちが、使えるようにしようと決心なさいました。そうしておけば、たとえリントンが死んでも、ヒースクリフの手には落ちないからです。
旦那さまの言いつけで、わたしは下男を一人やって弁護士を呼ばせ、さらに四人に手ごろな武器を持たせて、お嬢さまをつれだしに行かせました。両方ともなかなか手間どりましたが、一人でやったほうがさきに帰って来ました。弁護土のグリーンさんの家に着いたら、あいにく留守で、帰るまで二時間も待たされたそうです。村に片づけなければならないちょっとした用事があるので、そのあと朝までにはスラッシクロス屋敷へ伺うということでした。四人のほうも、お嬢さまをつれずに帰って来ました。キャサリンは病気で、ひどく容態が悪いので、部屋から出られないと言われ、ヒースクリフが会わせてもくれなかったというのです。そんな嘘を聞いて帰ってきたまぬけ連中をさんざん叱りつけてやりましたが、こんなことをとても旦那さまにお話しできません。夜が明けたら、みんな引きつれて嵐が丘へ押しかけ、おとなしくお嬢さまを引き渡さなかったら、本当に力ずくで押し入ろうと決心しました。もしもあの悪魔が邪魔だてしたら、あの家の玄関の敷石の上で殺すようなことになっても、どうしてもお嬢さまを旦那さまに会わせてあげるのだ、と何度も何度も心に誓いました。さいわい、嵐が丘へ行ったり、騒ぎを起こしたりする必要もなくなりました。朝の三時頃、水差しに水を入れようと階下へ降り、それを手にしたままホールを通り抜けていますと、玄関のドアが激しくノックされたので、ぎょっとしました。「そうだ、グリーンさんだ!」とわたしは心を静めて、つぶやきました。「グリーンさんだわ」だれかにあけさせるつもりで、行き過ぎました。ノックはまだくり返され、あまり強くはありませんが、しつこくつづきます。わたしは水差しを手すりの上におき、入れてあげようと急いでそこへ行きました。外は刈り入れどきの満月が明るく照っていました。それは弁護士ではありません。わたしのかわいいお嬢さまが、すすり泣きしながら、いきなり抱きついてきたのです。
「エレン! エレン! パパはまだ生きてらっしゃる?」
「はい、はい、お嬢さま、生きていらっしゃいますとも。神さまのおかげですわ、ご無事に帰って来られて!」息を切らしているのに、すぐお父さまのお部屋へ走って行こうとします。それをむりやり椅子に坐らせ、水を飲ませて、青ざめた顔を洗い、エプロンでこすってあげますと、わずかに赤味がさしてきました。わたしがさきにお帰りをお知らせしますからと言い、ヒースクリフ坊っちゃんとは幸福に暮らせそうだとおっしゃるんですよ、とお願いしました。お嬢さまは目を見張りましたが、すぐわたしが嘘を言わせようとするわけを悟り、愚痴なんか言わないと約束して下さいました。
お二人が顔を会わせるとき、そばにいるのはわたしにはとても耐えられませんでした。十五分ばかりお部屋にはいらずにいましたが、そのあとでも、ベッドのそばへ行くのはつい遠慮してしまいました。それでもお二人とも、ほんとに落ち着いていらっしゃいました。キャサリンの嘆きも、お父さまの喜びと同様に静かにしめされました。はたから見れば、お嬢さまはそっとお父さまを支えているだけのようでした。旦那さまはお嬢さまの顔をじっと見あげていましたが、その目は喜びにうっとりと見開かれているようでした。
お亡くなりになるときは幸福にひたっておられるようでございましたよ、ロックウッドさま。ほんとうに幸福だったのです。お嬢さまの頬に口づけなさって、こうつぶやかれました……
「わたしはお母さんのところへ行くよ、いとしいキャシー、おまえも、いずれわたしたちのところへ来るのだよ!」それきり身動きもなさらず、ものもおっしゃいません。ただうっとりと目を輝かせて、お嬢さまを見守っていらっしゃるうちに、いつのまにか脈が止まり、魂は飛び去ってしまいました。亡くなった時刻は正確にわからないくらい、少しも苦しみはお見せにならなかったのです。
キャサリンはもう涙も枯れはてていたのか、涙のはけ口を見つけるには嘆きがあまりに大きすぎたのか、日がのぼるまで涙も見せずに坐っていました。正午になっても動こうともしません。物思いに沈んで死の床につききりですので、わたしはあちらへ行って少しお休みになってはとしきりに勧めました。やっと別室に行かせることができてよかったと思いました。昼食時間のころ、嵐が丘へ行って今後の処置について指図を受けてきた弁護士がやってきたのです。彼はヒースクリフに買収されていました。それで旦那さまのお呼びにもなかなか来なかったのです。幸い、お嬢さまがお帰りになってからは、旦那さまのお心は世俗的なことがらを考えて乱されることはなかったのですけれど。
グリーンさんは屋敷じゅうのすべてのことがら、すべての人間のことを思いのままに処理しました。まずわたしを除いた使用人の全部に暇をやりました。委任された権利をふりまわして、エドガー・リントンは妻のそばでなく、一族のお墓のところへ埋葬させようとしました。けれども遺言ではそんなことを許していませんし、遺言の意志にそむくことはわたしが声を大きくして反対しました。お葬式はあわただしくすまされました。いまはリントン・ヒースクリフ夫人となったキャサリンは、お父さまのご遺骸がお屋敷を出るまでスラッシクロスにとどまることを許されました。
お嬢さまのお話では、キャサリンの苦しみがとうとうリントンを動かし、危険を冒して逃がしてくれたのだそうです。わたしが行かせた男たちが玄関で言い争うのを聞き、ヒースクリフの答えの意味を察したお嬢さまはそれこそ死にもの狂いになったのです。リントンはわたしが帰るとすぐ二階の小部屋に運ばれたのですが、お嬢さまのようすにおじ気づき、父親があがってこないうち鍵を取って来ました。彼は頭を働かして、鍵をあけた戸をちゃんとしめずに鍵をかけてごまかしたのです。やすむときになると、ヘアトンといっしょに寝かせてくれと言い、その夜だけ許されました。キャサリンは夜明け前に、そっと脱出しました。犬が吠えだすことを恐れてドアから出ようとせずに、空《あ》き部屋を回って窓を調べました。運よく、亡くなったお母さまの部屋に来て、格子窓から造作なく抜け出すことができ、すぐ近くの樅の木を伝って地面におりたったのです。共犯者のリントンは、びくびくしながら、いろいろな小細工をしたのに、逃亡を助けたことがばれて、ひどい目に会ったようです。
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二十九
葬儀のあとの夜、お嬢さまとわたしは書斎におりました。悲しみに沈んで……お嬢さまのほうは絶望しながら……亡くなられた方を偲《しの》んだり、暗い将来のことをいろいろ考えたりしていたのです。
今後のお嬢さまの身のふり方としては、少なくともリントンの生存中は、ここヘリントンも呼んで、このままお屋敷にとどまり、わたしも家政婦として残ることが許されれば、なによりのことだと、二人は話し合いました。実現しそうもない、うますぎる二人の約束でしたが、わたしは強く願い、住みなれたお屋敷も仕事ももとのまま、何よりも、いとしいお嬢さまといっしょだったらと、明るい期待に元気づいていました。ちょうどそのとき下男の一人が(やはり暇をだされたのですが、まだお屋敷に残っていました)飛びこんできて、「あのヒースクリフの悪魔め」が中庭からやって来るが、しめだしてやりましょうか、と言うのです。
たとえ夢中でそうしてくれと命じたって、そのひまはありませんでした。彼はノックもせず、名前も告げず、まったく礼儀抜きで、もうこの家の主人ですから、あるじの特権とばかり、ひと言も言わず、どんどんはいって来たのです。知らせに来た召使の声を聞いて、書斎へやって来ました。中へはいると、身振りで下男を追いだし、ドアをしめました。
そこは十八年前、彼が客として通された部屋でした。あのときと同じ月が窓から対しこみ、外にあるのは同じ秋の景色でした。まだ蝋燭をつけておりませんでしたが、部屋の中は壁の肖像画まで、はっきり見えました。それはリントン夫人の際だって美しい顔と、夫の優雅な面影をしめしておりました。ヒースクリフは暖炉のそばへ行きました。長い歳月も彼の外見をほとんど変えていません。むかしと同じヒースクリフがそこにいるのです……浅黒い顔はいくらか青ざめ、前より落ち着いてきたこと、からだはいくらか目方がふえたようで、ほかはまったく変わりません。その姿を見たとたん、キャサリンは思わず立ちあがり、逃げだそうとしました。
「待て!」とヒースクリフは腕をつかみました。「もう逃がしゃしないぞ! どこへゆくつもりだ? おまえをつれ戻しに来たんだ。素直な娘になれ。おれの息子をそそのかして親に背かせるようなまねはやめるんだ。あいつがおまえを助けたと知ったとき、どうやってこらしめてやるか困ったくらいだ。吹けば飛ぶようなへなちょこ野郎だから、ひとひねりすりゃ死んじまう。あいつの顔つきを見たら、当然の報いを受けたことがわかるだろう! ひと晩、おとといのことだが、あいつを階下へつれて来て、椅子に坐らせてやっただけで、そのあとは指一本さわりやしない。ヘアトンは外へ出し、あいつと二人だけになった。二時間たってジョーゼフを呼んで、二階へつれて行かせたが、それ以来おれが幽霊みたいに神経にこたえるらしい。おれがそばにいなくても、目の前にちらつくようだな。ヘアトンに聞くと、夜中に目を覚まして何時間も悲鳴をあげたり、おれから助けてくれとおまえを呼ぶそうだ。あの大事な婿が好きでも嫌いでも、とにかく来るんだ。あいつはこれからおまえの受持だからな。あいつのことはそっくりおまえに任せてやる」
「お嬢さまをずっとこちらへおいて、リントンさんに来て頂いたらいいじゃありませんか?」とわたしは頼みました。「二人とも嫌いなんだから、いなくたってさびしいことはないでしょうに。ふつうの人情をもたないあなたの心に、毎日うるさいだけなんですから」
「この屋敷は借り手を探すんだ」と彼は答えました。「むろんおれの子供たちはそばにおきたいし、あの娘も自分の食うだけは働かさなくてはならない。エドガー・リントンが死んだ以上、ぶらぶらぜいたくな暮らしをさせておくつもりはないよ。さっさと支度しろ。手間をかけさせるな」
「いいえ、手間をかけさせてあげますわ」とキャサリンは言いました。「もうこの世であたしに愛せるものはリントンしかいないんですもの、あたしにリントンを憎ませ、リントンにあたしを憎ませるように、あなたはできるかぎりのことをやったけど、あたしたちが憎み合うようにすることはできないわ。あたしがそばにいるときリントンをいじめられるものならいじめてごらんなさい、あたしがおどせるならおどしてみたらいいわ」
「大きな口をたたくやつだ」とヒースクリフは答えました。「だがおれは、おまえのためにあいつを痛めつけてやるほど、おまえが好きじゃない。苦しい思いなら、それが続くかぎり、どんなにけっこうなものか、たっぷりおまえに味わわせてやる。あいつがおまえにいまわしい人間になるのは、おまえのせいじゃない……あいつの愛すべき根性のせいだ。おまえに逃げられ、おかげでひどい目に会ったので、しん底から恨んでいるぞ。そんなりっぱな愛情を見せて感謝されると思ったらあてはずれだ。ぼくがお父さんのように強かったら、思いきり仕返ししてやるんだと、ジラーに勇ましい話をしてたっけが、あいつにはそんな性質がある。からだが弱いだけに、知恵のほうを鋭く働かして腕力のかわりを見つけるだろう」
「あの子の悪い性質は知ってます、あなたの息子ですもの」とキャサリンは言いました。「でも幸い、あたしにはそれ以上の良い性質があります、だからそれを許してあげられるのよ。リントンはあたしを愛しているわ。だからあたしもあの人を愛するの。ヒースクリフさん、あなたはだれ一人愛してくれる人がいないのよ。あたしたちをどんなに惨めにしたって、それはあなたがあたしたちよりもっと惨めだから、そんなに残酷になるのだと思うと、せいせいするのよ。あなたは不幸なんじゃなくって? 悪魔のように孤独で、嫉妬ぶかいんでしょう? だれ一人あなたを愛してはくれない……死んだって、泣いてあげる人なんかいやしない! あたしはあなたみたいにはなりたくないわ!」
キャサリンは何かやるせない勝利感をこめて、言いました。これからの自分の家族の気風に調子をあわせて、敵の悲しみから喜びを引き出してやろうと決心したように見えました。
「もう一分でもそこにぐずぐずしていてみろ、自分に愛想がつきるようにさせてやる」と義理の父親が一言いました。「向こうへ行け! このあま! 荷物をまとめるんだ!」
キャサリンは軽蔑するような顔で出て行きました。そのすきに、わたしはここヘジラーに来てもらってもよいから、嵐が丘であの人と代わらせて下さいと頼みました。でも、がんとして許しません。わたしに黙っていろと言い、それから初めて室内を見回し、肖像画に目をつけました。リントン夫人の肖像をつくづくと見たあとで……
「あれは持って帰ろう。必要なわけじゃないが……」そう言って急に顔を暖炉のほうへ向け、微笑とでもいうしかない、えたいのしれない表情を浮かべて、続けました。「きのうおれのやったことを話してやろう! おれはリントンの墓を掘っていた寺男に、キャサリンの棺の上の土をのけさせて、蓋をあけてみたんだ。そこにいっしょにいたいと思ったこともある。キャサリンの顔をまた見ると……まだ生きているときのままだった……寺男がなんと言っても動かなかった。風が当たると変わってしまうと言われ、棺の横板をたたいてはずせるようにしておいて、土をかけた。リントンの側じゃない。だれがあんな畜生なんかに! あんなやつは鉛の棺に入れて、はんだづけにしておきゃいいんだ。おれは寺男に金を握らせ、おれがここへ埋められるときは、ゆるめた横板をはずし、おれの棺の横板も抜き取るように頼んでおいた。おれの棺はそういう作りにするんだ。そうしておけば、そのうちリントンのからだが腐っておれたちのほうへくずれだす頃は、おれとキャサリンはひとつに混り合って、どっちがどっちかわからなくなっているだろう!」
「なんという悪いことをなさるんでしょう、ヒースクリフさん!」とわたしは叫びました。「亡くなった人を騒がして、恥じないんですか?」
「だれも騒がしはしないよ、ネリー。おれの心を少し楽にしただけだ。これでおれの心もだいぶ安まるだろう。おれがあそこへ埋められたら、外へ迷い出したりしないからおまえたちも安心だよ。キャサリンを騒がしたって? とんでもない! 彼女こそおれの心を騒がしてきたのだ。夜となく昼となく、十八年も続けて、絶え間もなく……情ようしゃもなく……ついに昨夜まで。そしてやっと昨夜、おれは落ち着いた。ああして眠っている人のそばで、最後の眠りについた夢を見た……おれの心臓はとまり、凍った頬を彼女の頬につけて」
「もしあの人が溶けて土になっていたか、もっとひどくなっていたら、どんな夢を見たでしょうね」
「おれもいっしょに溶けあわさって、もっと幸福になってる夢さ! おれがそんな変化を恐れていると思うのか? 蓋《ふた》をあけるときは、そんな変わり方を覚悟していたんだ。だがおれもいっしょに変わるときまで、あのままでいてくれるほうが嬉しいにきまってる。それに、キャシーの感情のない死に顔をこの目ではっきり見なかったら、あの妙な気持はまだとれなかったろう。その気持の始まりは妙な具合なんだ。キャシーが死んでから、おれが気違いみたいになったのは知っているだろう。毎日毎日、果てもなく、キャシーに魂を帰してよこせと祈り続けた! おれは亡霊をかたく信じている。亡霊はわれわれの間に存在できる、存在してると確信している! 彼女が埋められた日は、雪が降った。夕暮れになるとおれは墓地へ行った。冬のような冷たい風が吹いて……人影もなかった。彼女の阿呆の亭主がこんなにおそく谷間をのぼってくる心配はなし、ほかにあんな場所に用のある人間もいない。そこにはおれ一人だけで、二ヤードの厚みの柔らかい土しか彼女とのあいだを隔てるものはないのだと思いながら、つぶやいたものだ。『もう一度この腕にキャシーを抱いてやる! もし冷たいからだをしていたら、おれをこごえさせる北風だと考えよう。もし動かなかったら、眠っているのだと考えよう』と。道具小屋から鋤を持って来て、力いっぱい掘りだした……鋤が棺に当たった。こんどは手を使った。ネジ釘のあたりで、板がめりめり音をたて始めた。もう少しで目的をとげそうになったとき、上のほうで、墓穴の縁《ふち》のすぐふた近くで、中をのぞきながら、だれかため息をつくのを聞いたような気がした。『この蓋《ふた》さえ取れたら、二人の頭の上から土をかけてくれりゃいい……』とつぶやき、死にもの狂いでこじあけようとした。するとまたため息が、すぐ耳のそばで聞こえた。みぞれまじりの風のかわりに暖い息を感じたんだ。そばに生身《なまみ》の人間などいないことはわかっていた。だが暗闇の中でも肉体をそなえた人間に近づくと感じるように、姿は見えないが、はっきりおれはキャシーがそこにいるのを感じた。足の下の、土の中ではなく、上にいるのだ。急におれの心臓からからだのすみずみまで、ほっとした感じが走った。苦しい仕事をやめ、たちまち心は慰められてふり向いた。言いようもなく、心は軽くなっていた。キャシーはおれといっしょにいたのだ。もう一度墓穴を埋めるあいだそこにいて、おれを家までつれて来た。笑いたけりゃ笑え。だがおれは家へ帰ればきっとキャシーがいると信じていた。たしかに彼女はおれといっしょだった。話しかけずにはいられなかった。嵐が丘へつくと、我慢しきれずに戸口まで走った。鍵がかかっていた。そのとき、いまいましいアーンショウとおれの女房が中へはいらせまいとしたのだ。おれは途中でヒンドリーを蹴とばして気絶させ、二階へ駆けあがった。おれの部屋、そしてキャシーの部屋へ。いらいらしながら見回した。……そばにキャシーを感じた……いまにも目に見えそうだった。だが、どうしても見えない! 悩ましい恋しさにもだえ、せめてひと目だけでも姿を見たいと夢中で祈って……血の汗を流しそうだった! だがひと目も見えない。生きているうち、よくそうしたように、死んでもおれに悪魔のようなことをする! そのとき以来、時にはひどく、時には軽く、あのたえきれない苦しみにいつももてあそばれてきた! まるで地獄だ! おれの神経を休むまもなくひどく緊張させて、腸線《ガット》のように頑丈な神経でなかったら、とっくにリントンみたいに弱くゆるんでしまったろう。ヘアトンといっしょに居間に坐っていると、外へ出ればキャシーに会えるような気がしてくる。荒野《ムア》を歩いていると、家へ帰って来るのに出会いそうな気がする。家を離れると、あわてて帰ってしまう。嵐が丘のどこかにいるのだと確信していた! もとのキャシーの部屋で寝たが……いたたまれずに飛びだした。とても寝てはいられない。目を閉じればたちまち、窓の外にいたり、ベッドの戸をあけようとしたり、部屋へはいってきたり、子供のときのように、同じ枕にかわいい頭をのっけてきたりする。おれは見ようとして目をあけてしまう。こうして目をあけたり閉じたり、一夜に百遍もくり返し……そのたびに失望させられるだけなんだ……おれはさいなまれた! 何度もあたりかまわずときどきうなるから、ジョーゼフの悪党|爺《じじ》いは、胸の中でおれの良心があばれているのだと信じてるらしい。とにかく、やっとキャシーに会えたから、おれの気持も静まった……少しはな。これはふしぎな殺し方だ。一寸《いっすん》刻みどころかまだ細かく、毛筋ほどにじわじわ切り刻んでいく。十八年間も幻のような希望でおれをだまし続けるなんて!」
ヒースクリフは言葉を切り、額をぬぐいました。髪が汗でぬれてそこにへばりついていました。目は暖炉の残り火にそそがれ、眉はしかめずに、こめかみのほうへ釣りあがっていました。それで、ものすごい表情がいくらか消え、奇妙な悩ましさとひとつのことに心を奪われた苦しそうな緊張の色が浮かんでいました。みなわたしに向かって話したわけでもありませんので、わたしは黙っていました。それにあの人の話を聞きたくもなかったのです! じきに、彼はまた前のように肖像画をながめ始めました。見やすくするために、はずしてソファに立てかけました。そうしているところヘキャシーがはいって来て、小馬に鞍をおけばもう出発できますと言いました。
「この絵をあした届けてくれ」とヒースクリフはわたしに言い、キャサリンのほうを向いて、つけ加えました。「子馬はいらない。いい晩だし、嵐が丘へ行けば、小馬なんかいらなくなる。どこへ行くにも、おまえの足で十分だ。さあ、行こう」
「さようなら、エレン!」お嬢さまは小声で言いました。わたしに口づけしてくださった唇は氷のような冷たさでした。「会いに来てね、エレン。きっとよ」
「そんなことはしないようにしろよ、ディーンさん!」とお嬢さまの新しい父親は言いました。「おまえに話したいときは、おれのほうから来る。おまえにおれの家をせんさくされたくないんだ」
さきに行けとお嬢さまに合図しました。お嬢さまはわたしをふり返って、出て行きましたが、最後の視線には胸をえぐられるようでした。二人が庭を進んで行くのを、私は窓から見送りました。ヒースクリフはキャサリンが初めはとてもいやがったのに、その腕をしっかり抱きかかえていました。お嬢さまをせきたてながら大胯で小径にはいり、たちまち木陰に見えなくなってしまいました。
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三十
一度嵐が丘を訪ねましたが、あれ以来お嬢さまのお顔も見ておりません。お嬢さまのごようすを聞こうと訪ねたとき、ジョーゼフがドアを押えて、入れてくれません。若奥さまは「ふさがってる」し、旦那は留守だと言うのです。ジラーにはあちらの暮らしぶりをいくらか話してもらっていますが、そうでなかったらだれが死んで、だれが生きているのかもわかりません。ジラーの口ぶりではキャサリンを高慢だと思っているようで、好いてないらしいですね。お嬢さまがあちらへ行ったばかりの頃、何か手伝ってもらおうとしたら、ヒースクリフさんがジラーに、おまえは自分のことだけやっていればよい、嫁のことは自分でさせておけと言ったのですね。量見の狭い、自分本位の女ですから、喜んで主人の言いなりになったのです。キャサリンのほうでも無視されて子供のように腹をたて、反対に軽蔑してやり、何かひどい仕打ちでも受けたように、ジラーを敵の仲間と見なしてしまったのです。六週間ほど前、ロックウッドさまのお見えになる少し前のことですが、ある日荒野で出会って、ジラーと長話をしましたが、そのときこんなことを話してくれました……
「若奥さんはね、嵐が丘へ来たと思うと、わたしにもジョーゼフにも今晩はひとつ言わず、さっさと二階へ駆けあがっちゃうんだからね。リントンさんの部屋にはいったきり、朝まで出て来なかったんです。そして旦那さまとアーンショウが朝ごはんを食べてるとき、|うち《ヽヽ》へはいって来て、がたがた震えながら、お医者さんを呼んでくれないか、いとこの具合がとても悪い、って言うんですよ。
『そんなことはわかってる!」とヒースクリフの旦那が答えたわ。『あいつの命なんか、これっぽちの値うちもない。あいつに金を一文でもかけるものか』だって。『でもあたしはどうしたらいいかわからない。だれも手伝ってくれなければ、あの人は死んでしまう!』と若奥さんは言うんです。
『この部屋から出て行け』と旦那さまはどなります。『あいつのことなんか二度と聞かせるな! あいつがどうなろうと、気にする者はここにはいない。おまえが気になりゃあ、看病してやれ。気にならなきゃ、鍵をかけて放っとくんだ』
そしたら若奥さんは、わたしにうるさくせがむの。わたしゃ言ってやったさ、あの厄介《やっかい》な人にゃもうこりごりだって。みんな自分の仕事があるし、リントンさんのお世話は奥さんの仕事だろうって。ヒースクリフさんから、あの人のお世話は奥さんに任せると言われてるんですからね。
二人でどんな風にやっていったか、知らないけど、坊っちゃんはずいぶんいらだったり、夜も昼もうなりどおしだったんでしょうね。若奥さんは青い顔で、目をはらしていたから、いくらも眠らなかったようだね。ときどき台所へはいって来たけれど、しょげきっていて、手伝ってくれと口まで出かかるようすだったけどね。わたしは旦那さまにそむく気はなかった。とてもそむけるものじゃないからね、ディーンさん。わたしもケネス先生を呼びにやらないのはひどいと思ったけど、よけいな口出ししたり、文句を言ったりするわけにはいかないから、おせっかいはしないできたんですよ。一度か二度、みんな寝静まってから、わたしがなにかの拍子にまたドアをあけたら、若奥さんが階段のいちばん上で泣いているのを見ましたっけ。うっかり同情しておせっかいしてはいけないと、あわててドアをしめてしまったんだけどね。あのときはほんとにかわいそうだと思いましたよ。だけど、やっぱり暇はだされたくなかったしね。
とうとうある晩、若奥さんは思いきってわたしの部屋へはいって来ました。そしてこんなことを言うものだから、わたしは胆をつぶしてしまった……
『ヒースクリフさんに、息子さんが死にかけていると言って……今度こそ間違いないわ。すぐ起きて、言ってきてちょうだい』
こう言って、すぐに行ってしまいました。わたしは十五分ばかり、聞き耳をたてて、震えていたけど、何も物音はしない……家じゅう静まり返っていました。
若奥さんの思いちがいだろう、リントンさんはもちなおしたらしい、みんなを騒がすことはない、とわたしはつぶやいて、またうとうとしました。ところがまたけたたましいベルの音で目を覚まさせられてしまいました……家じゅうでひとつしかないベルで、リントンのためにとり付けてあったんだけど、旦那はわたしを呼びつけ、何事か見てこい、二度とあんな音をたてるなと言え、と言いつけました。
わたしはキャサリンに頼まれたことを伝えました。旦那さまは一人で悪態をついてたけど、まもなく蝋燭をつけて出て来て、二人の部屋へ行きました。わたしもついて行ったわ。若奥さんはベッドのそばにかけ、両手を膝に組んでいました。義理の父親は近づいて明かりをリントンの顔にさしかけ、よくながめて、からだにさわりました。それから若奥さんのほうをふり向きました。
『さて……キャサリン、どんな気持だ?』
キャサリンは黙っていました。
『どんな気持だと聞いてるんだ、キャサリン』旦那さまはくり返しました。
『リントンには何の危険もなくなったし、あたしも解放されました。あたしは気楽になるはずなんだけど……でも』あの人は苦しみを隠せませんでした。『あんまり長い間あなたに放っておかれて、一人で死と闘ってきたから、感じたり見たりするものは死だけになってしまった。あたしも死人のような気がするわ!』
ほんとに死人みたいでしたよ! わたしはワインを少しあげました。ヘアトンとジョーゼフもベルの音や足音で起きだし、部屋の外で話を聞いていたんだけど、このときはいって来ました。ジョーゼフは若旦那が片づいたと喜んでいたようですよ。ヘアトンはちょっととまどったようだったけど、リントンのことよりキャサリンを見るほうに夢中だったわ。でも旦那さまにベッドヘ戻れと言われたわ。あの人の助けはいらなかったもの。そのあと旦那さまはジョーゼフになきがらを自分の部屋に運ばせ、わたしにも部屋へ帰らせて、あとには一人若奥さんだけ残りました。
朝になると、旦那さまはわたしから若奥さんに下へ来て朝飯をとるようにと言わせました。若奥さんは服をぬいで寝ようとしていました。気分が悪いと言うのだけど、無理もないわ。それをヒースクリフさんに報告すると、こう答えました……
『そうか、それなら葬式がすむまで放っておけ。ときどき行ってみて、何かいる物があったら持っていってやれ。元気そうになったら、すぐおれに報《し》らせるんだぞ』」
ジラーの話ですと、キャシーは二週間も二階にいたそうです。ジラーは一日に二回ずつのぞいて、できればもっと愛想よくしてやりたかったのだけれど、少しでも親切にしようとすると、尊大な態度ですぐはねつけたのだそうです。
ヒースクリフも一度、リントンの遺言状を見せにあがって行きました。リントンは自分の動産と、前にキャシーの動産だったものを全部父親に遺《のこ》したのです。かわいそうに坊っちゃんは、伯父が亡くなったとき、キャシーが一週間ほど留守にしたあいだに、おどされるか、うまく言いくるめられるかして、そんな遺言状を作ったのです。まだ未成年者でしたから、土地はどうすることもできませんでした。ただ、ヒースクリフは自分と妻の権利として要求し、所有していたのですが、法律ではたぶんそうなるのでしょうね。とにかくお金も味方もないキャサリンには、ヒースクリフの財産に異議をとなえることもできませんでした。
「旦那さまがそのとき一度行っただけで、わたしのほかにあの部屋へ近づいたものはいません」とジラーが言いました。「ようすを聞いてみるものもないの。若奥さんが初めて|うち《ヽヽ》へおりて来たのは、日曜日の午後だったわ。その日、わたしがお昼の食事を運んだら、こんな寒いところにもう辛抱できないって叫ぶのでね。そのとき、きょうは旦那さまはスラッシクロス屋敷へ行くはずだし、アーンショウとわたしなら、奥さんがおりて来たって、邪魔だてすることもないって言ってあげたんですよ。すると、ヒースクリフの馬が走っていく音を聞くとすぐ降りて来ました。黒い喪服を着て、黄色い巻き毛を耳のうしろヘクエーカー教徒みたいに無造作に、とかしつけていたわ。よくとかせたかったんですね」
「ジョーゼフとわたしは、日曜日にはたいてい教会へ行きます」(ここでディーンさんが説明した……あの教会にはご存じのように、いま牧師さんがいません。村ではギマトンのメソジスト派だかパブティスト派だかの礼拝所を教会堂と呼んでいるんです)とジラーは続けて、「ジョーゼフは出かけたけれど、わたしは家にいたほうがいいと思ったんですよ。若い人たちはいつでも年上の者が監督したほうがいいですからね。とくにヘアトンときたら、恥ずかしがりやのくせに、見あげたお行儀とはいえないんでね。わたしはヘアトンに言ってやりましたよ、きょうはどうやらキャサリンさんもおりてくるようだし、いままで安息日をちゃんと守ってきた人だしするから、その前で鉄砲なんかいじらないように、家の中の仕事もよしたほうがいいだろうって。ヘアトンは真っ赤になって、きょろきょろ自分の手や服を見回したと思うと、たちまち鯨油や火薬を隠してしまったわ。自分であの人の相手をするつもりらしく、どうやらいい男ぶりを見せたいようでね。わたしは吹きだしてしまい……旦那さまがそばにいるととても笑うどころじゃないんでね……なんなら、手伝ってめかしたててあげようかと言ったらね、ヘアトンがどぎまぎするからひやかしてやったわ。こんどはぶすっとして、悪態をつきだしたわ」
わたしが彼女のやり方を喜んでいないのを感じたと見え、ジラーは、つづけて言いました。
「どうやら、ディーンさんは、あんたのお嬢さまはヘアトンにはもったいなさすぎると思ってるんでしょう。そのとおりかもしれないやね。だけどわたしに言わせりゃ、あの人の高慢さを少しひかえさせてやりたいところだね。学問があったって、上品だって、いまさら何になりますか? もうあんたやわたしと変わらない貧乏人なんだからね。いえ、もっと貧乏でしょうよ。あんたはためこんでるし、わたしだってそのほうじゃ少しは心がけてるからね」
ヘアトンはジラーに手伝ってもらって身なりをつくろい、おだてられて上機嫌になりました。それでキャサリンが降りて来ると、前に侮辱されたことも忘れて、愛想よくしようと努めたそうです。
「若奥さんははいって来ました。まるで氷柱《つらら》みたいに冷たく、王女さまみたいに高ぶってね。わたしは肘掛椅子から立ちあがって、勧めました。すると、掛けるどころか、せっかくの親切を、つんと鼻であしらうだけ。アーンショウも立ちあがって、長椅子へ来て、火のそばへ掛けたらどうだ、凍《こご》え死んじゃうぞと言いました。
すると『ひと月以上も凍え死にしそうだったわ』って、『凍え死に』という言葉をいかにもばかにしたように引きのばして言うんですよ。
自分で椅子を持って来て、わたしたちから離しておきました。からだが暖まると、あたりを見回し、食器戸棚のたくさんの本を見つけました。すぐ立って行って手を伸ばしたけど、高すぎて届かないの。一所懸命取ろうとするのをしばらく見ていたヘアトンは、やっと勇気をふるい起こして助けてやったわ。奥さんが服の裾を広げているところへ、さきに手に触れた本を入れてやりました。
ヘアトンとしては上出来だったのに、奥さんはお礼も言いません。それでもヘアトンは奥さんが手助けを受けてくれたのが嬉しくて、こんどは思いきって、奥さんが本をめくっているうしろへ回り、古い(挿絵《さしえ》挿し絵の中の興味を引いた点を指さしたりしました。その指先から、いきなり意地悪く本をわきへ引き離されたりしても平気です。少しうしろへ下がって、本のかわりに奥さんをながめて悦に入っています。奥さんは本を読むか、読みたいところを探すかしていました。ヘアトンは、だんだん奥さんのふさふさした絹糸のような巻き毛に興味をもちだしました。奥さんの顔は見えず、また奥さんのほうでもヘアトンの顔は見えません。そして、たぶん自分でも気がつかずに、蝋燭の火に惹《ひ》きつけられる子供みたいに、とうとうながめるだけでなく、手でさわってしまいました。片手をのばし、小鳥でもなでるように、巻き毛のひとつをなでてしまいました。すると、まるで首すじに短刀でも突きたてられたみたいに奥さんはびくっとしてふり向きました。
『行ってよ、さっさと! さわるなんて失礼だわ! なぜそんなところに立ってるの!』いやでたまらないように叫びました。『あなたなんか我慢できないわ! そばへ来たら、二階へ行ってしまうから』
ヘアトンさんは、ほんとにまぬけな顔をして、しりごみし、長椅子に掛けてすっかりおとなしくなってしまいました。奥さんはそれから半時間ばかり、何冊もの本のページをめくっていました。とうとうアーンショウはわたしのところへ来て、ささやきました。
『ジラー、本を読んでくれって頼んでくれないか。何もしねえからうんざりしちゃったよ。だからおれはとても……おれ、読んで聞かしてもらいたいな! おれが頼んだって言うな。おまえが頼むんだ』
『奥さん、ヘアトンさんが本を読んでもらいたいそうですよ』とわたしはすかさず言いました。『そうしてくれればとてもありがたいって……とても恩にきるそうですよ』
奥さんは眉をひそめ、わたしを見あげて答えました……
『ヘアトンさんも、あんたたちみんなも、よくわかってもらいたいの……猫かぶりの親切ずくなんか、あたしはいらないのよ! あんたたちなんか軽蔑します。だれにも口なんかきかないわ! ただのひと言でも親切な言葉を聞くか、せめて一人でも、だれかの顔を見られるなら、命をあげてもいいとさえ思っていたときには、みんな寄りつきもしなかったくせに。でもあんたたちなんかにぐちは言わないわ。ここへ来たのは寒くてやりきれなかったからよ。あんたたちを楽しましたり、仲間入りするためじゃないわ』
『おれがいったい何をしたんだ?』とアーンショウが言い出しました。『おれがどうして悪いんだ?』
『あら、あんたは別よ。あんたみたいな人は来てくれなくても困りゃしなかったわ』と若奥さんは答えました。
『だけどおらあ、何度も言ったり頼んだりしたよ』ずけずけいう相手にかっとなって言いました。『ヒースクリフさんに頼んで、あんたの代わりにお通夜《つや》さしてもらおうとしたんだ……』
『やめてよ! そんな気持のわるい声を聞かされるより、外へでもどこへでも行くほうがましだわ!』と奥さんは言います。
ヘアトンさんは、こんな女は地獄へ行ってくれるといいや! と聞こえないように言い、壁から猟銃をとると、もう遠慮せずに日曜日の楽しみにとりかかり、気楽にしゃべりだしました。じきに奥さんは二階に閉じこもったほうがいいと思ったようですが、厳しい寒さが始まっていたので、プライドどころではなく、いよいよわたしたちのところから離れられなくなってしまいました。ただわたしも二度と人の好《よ》いところをばかにされないように気をつけて、ずっと奥さんに負けずによそよそしくしています。だから若奥さんは家じゃだれからも愛されたり好かれたりしていません。それもあたりまえですよ。ひと言でも口をきいたら、だれかれの見さかいなく突っかかるんだからね! 旦那さまにだって食ってかかり、ぶつならぶつがいいと言うんですよ。痛い目にあえばあうほど、いよいよ毒々しい口をきくんですよ」
初めこの話をジラーから聞きますと、いっそいまのつとめをやめて、小さな家を一軒借り、お嬢さまを引き取っていっしょに暮らそうかとも考えました。ですがヒースクリフさんはヘアトンに自分の家をもたせないのと同様、とても許してくれそうもありません。ですからいまのところ、何の手だてもなく、お嬢さまが再婚でもなさるよりほか救いようはありません。再婚といってもわたしの力では話のまとめようもございません。
これでディーンさんの話は終わった。医者の予想に反して、ぼくはめきめき体力を回復している。まだ一月の二週目だが、一日二日したら馬に乗って出かけるつもりだ。嵐が丘まで行って、家主のヒースクリフに、これから六カ月はロンドンで暮らすと伝えてこよう。家主のほうで、もしその気なら、十月以降は別の借家人を探してくれてもいいと言うつもりだ。こんな土地ではとても二度目の冬を過ごす気にはなれない。
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三十一
きょうはよく晴れた穏やかな日で、寒さが厳しかった。予定どおり嵐が丘へ行った。家政婦からぜひともお嬢さんに短い手紙を届けてくれと頼まれた。この見あげた婦人が、その頼みをあたりまえのことと考えているらしいので、ぼくも断われなかった。玄関の扉はあいていたが、門のほうはこの前のときと同様、用心深くしまっていた。そこを叩くと、花壇のあいだからヘアトンが出て来て、鎖をはずし、中へ入れてくれた。この若者は田舎者にしてはすこぶるハンサムだ。今度は特別注意して見たが、どうやらせっかくの好男子ぶりをできるだけ台なしにしようとしているらしい。
ヒースクリフさんは在宅かとたずねた。すると、いまはいないが、昼食の時には帰るという返事だ。十一時になっていたから、中へはいって待たせてもらおうと言った。すると彼はすぐ道具を放りだし、ぼくについて来たが、主人の代わりをしているというより、番犬の役目をはたしているというところだった。
いっしょに中にはいると、キャサリンがいて、昼食が近いので野菜の下ごしらえをしていた。最初会ったときよりも気むづかしく、元気がなかった。ろくに顔をあげてこちらを見ようともせず、仕事をつづけている。この前と同じように、ふつうの礼儀作法など意に介しないらしい。ぼくが会釈して、おはようと言っても、まるで知らん顔だ。
〔どうも、ディーンさんがおれに信じさせようとしてるほど、気だてのやさしい人じゃなさそうだ。たしかに美人にはちがいない。だが天使ではないな〕とぼくは考えたものだ。
アーンショウはつっけんどんに、野菜を台所へ片づけろと言った。「自分で持ってったらいいわ」とキャサリンは言って、仕事がすむとすぐ自分から押しやり、窓ぎわの腰かけへ引っこんでしまった。そこで膝においた蕪《かぶ》の皮を小鳥や動物の形に刻み始めた。ぼくは庭の景色を見たがっているふりをして、彼女に近づき、ディーンさんの手紙をヘアトンに気づかれないように、うまく膝の上に落としてやった……ところが彼女は人に聞こえるように「これは何ですの?」と言って、ぽいと放りだすのだ。
「あなたの昔なじみの、スラッシクロスの家政婦からの手紙ですよ」せっかくの親切をおおっぴらにされて、面くらいながらぼくは答えた。ぼく自身のつけ文《ぶみ》ととられてはたまらないからだ。それを聞くと彼女は喜んで拾おうとした。だが、ヘアトンにさきを越されてしまった。彼は手紙をつかんでチョッキの中へ入れ、さきにヒースクリフさんに見せなければいけない、と言った。するとキャサリンは黙って顔をそむけ、こっそりハンカチを出して目に当てた。ヘアトンはやさしい気持に負けまいと頑張っていたようだが、じきに手紙を引き出して、わざと邪険にキャサリンの近くの床へ放りつけた。キャサリンは拾ってむさぼるように読んだ。実家の人たちについて、二、三ぼくに聞いたが、もっともな質問もたあいない質問もまじっていた。丘のほうをじっと見つめ、一人つぶやいた……
「ミニーに乗ってあそこを駆け降りたい! あそこを登ってみたい! ああ、いやになってしまった……ヘアトン、あたしも『うんざり』しちゃったわ!」キャサリンはあくびまじりの溜息を洩らし、かわいらしい頭を窓わくにのっけて、悲しい放心状態に落ちこんだ。ぼくたちに見られていてもかまわず、気もつかないようすだった。
「奥さん」ぼくはしばらく黙って掛けていたあとで言った。「ぼくはもうあなたとお近づきになったんじゃありませんか? だのに、こちらへ来て話して下さらないのはおかしいですね。ぼくのところの家政婦は、終始あなたのことを話してほめちぎってるんですよ。ぼくが帰ってもあなたの話もできず、伝言もなかったら、すっかり落胆してしまいます。手紙は受け取ったが、何も言わなかったというだけではね!」
キャサリンはこれを聞くと驚いたようすでした。
「エレンはあなたが好きなんですか?」
「ええ、それはそうですとも」とぼくはすかさず答えた。
「じゃ、言って下さい。返事を書きたいんだけど、書く道具が何もないんだって。本から一ページでも破ろうとしたって、その本がないんだから!」
「本がないんですって!」ぼくはびっくりして叫んだ。「ぶしつけな質問だけど、本もなくて、どうやって毎日過ごせるんですか? ぼくなんかスラッシクロスで、いっぱい本があるけど、しょっちゅう退屈でやりきれなくなる。その本まで取りあげられたら、気が狂っちゃいますよ!」
「本のあるうちは、あたしはいつも読んでいました」とキャサリンが言った。「ヒースクリフさんはぜんぜん読書をしないから、あたしの本を処分してしまおうと思いついたのです。もう何週間も前から本なんて一冊も見かけたことはないわ。一度だけジョーゼフがためこんでる神学書をひっかき回して、すっかり怒らしちゃった。それからヘアトン、一度、あんたの部屋に隠してあるのを見つけたわ……ラテン語の本とギリシャ語の本と、お話と詩の本。みんなあたしのなつかしい愛読書ばかり。詩集はあたしがこっちへ持って来たものなのよ……あんたって、かささぎが銀のさじを集めるように、ただもう盗む楽しみだけで、あの本を集めたのね! あんたなんかの役にたちもしないのに。でなかったら、自分が読めないから、意地悪して他人にも読ませないように隠したのね。ひょっとすると、あんたのそねみから、ヒースクリフさんにあたしの大切な宝物を盗ませたのかもしれないわ。だけど、本の中味はたいていあたしの頭に書きつけ、心に刻みつけてある。それだけは盗めやしないわ!」
ヘアトンはこっそり集めた蔵書をすっぱぬかれて真っ赤になり、憤慨してどもりながら、そんな非難はでたらめだと言った。「ヘアトン君は知識をふやしたいんですよ」とぼくは助太刀をだした。「あなたの教養をねたんでるんじゃなく、負けまいとしてるんですよ。二、三年もしたらりっぱな学者になりますよ」
「そしてそのまに、わたしのほうをばかな人間にしてしまう気なんだわ。そうよ、この人ったら、一人で拾い読みしてるんだけど、ひどい間違いばかりするの! ヘアトン、きのうやってたように、チェヴィ・チェイス〔十四世紀にイングランド軍がスコットランド軍と戦って破れた国境地帯の地名で、その戦いを歌ったバラッドのこと〕を読んでくれない? おかしいったらなかったわ。あたし聞いてたの。辞書をひっくり返して難しい言葉を探しながら、辞書の説明が読めないって、悪態をつくんだもの!」
若者は無学を笑われるばかりか、向上しようとする努力までばかにされるのはあまりひどいと思ったらしい。ぼくだってそう思ったくらいだ。無知の暗黒の中で育てられ、光明をえようと初めて努力した話をディーンさんから聞いたのを思いだして、ぼくは言った……
「ですが、奥さん、だれだって習い始めの時があって、最初はみなつまずいたりよろけたりしたものですよ。そのたびに先生が手をかしてくれずに、あざけってばかりいたら、いまだってつまずいたりよろけたりしているんじゃないでしょうか」
「あら、あたしはこの人の勉強の邪魔をする気なんかないわ。ただ、ひとの本を勝手に持って行って、ひどい間違いや変てこな発音をして、その本まで変なものにしてしまう権利はないはずでしょう! あれは、物語の本だって詩の本だって、いろんな思い出があって、あたしにとっては神聖なものなんです。だのに、あんな人の口にかかって、いやしめられ汚されるのがたまらないんです! おまけに、よりにもよって、あたしがくり返しては読んでいた大好きな本ばかり持って行くんですもの。わざと意地悪してるみたいだわ」
ヘアトンはしばらく無言のまま、胸を大きく波うたせていた。激しい屈辱と怒りにさいなまれ、抑えるのは容易なことではなかった。ぼくは立ちあがり、彼の気まずさを救ってやろうという紳士的な配慮から、戸口のほうへ行って外のようすをながめることにした。ヘアトンもぼくについて来て、部屋を出て行った。まもなく五、六冊の本をかかえて現われ、キャサリンの膝に投げだして、叫んだ……
「さあ取れ! 二度とこんなもの、聞いたり、読んだり、考えたりしたくねえや!」
「あたしだって、もういらない! 見るたびにあんたを思いだして、胸が悪くなるだけよ」
彼女は一冊を開いたが、何度となく読み返したものらしい。その中の一節を習いたてのように、のろのろのばして読んで、笑い、本を投げ飛ばした。「それからこうなの」とわざと怒らすように、いまと同じ調子で古い民謡詩の一節を暗誦しはじめた。
しかしヘアトンも、自尊心からこれ以上の侮辱には耐えられなかった。彼が手を使って生意気な口を閉じさせたらしい音を聞いたが、ぼくもあまりそれを責める気にはなれなかった。この意地悪な女性ときたら、これでもかこれでもかと、ヘアトンの無教養だが感じやすい心を傷つけたのだ。ヘアトンのほうは貸し借りをなくし、受けただけの苦痛を加害者にお返しするには腕力しか方法がなかったのだ。そのあとで彼は本を拾い集め、暖炉へ投げこんでしまった。しかし腹だちまぎれにそんな犠牲をはらうことがどんなにつらいか、その顔から明らかだった。燃えてゆく本を見ながら、ヘアトンはそれらがすでに与えてくれた喜び、そこから得られそうだった誇らしさと、しだいに増す楽しみを思い浮かべていたのではないだろうか。ぼくはこっそり勉強を始めた動機もわかるような気がした。毎日の労働と、粗野な動物的な楽しみに満足していた彼の行く手に、突然キャサリンが現われた。彼女に軽蔑される恥ずかしさと、認められたい願いが、初めて勉強の意欲を植えつけた。ところがせっかく這いあがろうと努力したのに、軽蔑をまぬがれ、称賛を得るどころか、正反対の結果を生じたのだ。
「そうよ、あんたみたいなけだものが本なんか読んだって、せいぜいこんなことになるだけよ!」とキャサリンは血のにじんだ唇をなめ、怒りに目をギラギラさせながら、燃えさかる火をにらんでいた。
「そこらで口をつぐむほうがいいぞ」とヘアトンは荒々しく答えた。
興奮のためにそれ以上口がきけず、さっさと戸口のほうへやって来た。ぼくはわきへよけてやった。だがまだ入口の敷居の外へ出ないうちに、土手道をやって来たヒースクリフとぶつかった。向こうは彼の肩に手をおいてたずねた……
「どうした、おい?」
「なんでもねえや。なんでもねえ」と言って、一人で悲しみと怒りを味わうために、ふり切っていってしまった。ヒースクリフはじっと見送り、ため息をついた。
「自分で自分の計画をぶちこわしてりゃ世話はない」とぼくが背後にいることも知らずにつぶやいた。「だがあいつの顔の中に、父親の面影《おもかげ》を見つけようとするのに、日ましに死んだ彼女の顔が見えてきてしまう。いったい、なんだってあんなに似てやがるんだ? あいつを見るのはまったくやりきれない」
彼は視線を落とし、むっつりしながらはいって来た。いままで見たこともない、落ち着かぬ、不安な表情をしていた。からだもやせてきたようだ。キャサリンはその姿を窓ごしに見るが早いか、たちまち台所に逃げこみ、ぼく一人が残っていた。
「ロックウッドさん、また外出できるようになってよかったね」とヒースクリフはぼくのあいさつに答えて言った。「それもわたしの勝手な都合からだけれどね。こんなさびしい土地じゃ、あんたにいなくなられたら、あとの借り手を見つけるのは簡単にいかないのでね。いったいなぜこんな場所へ来る気になったのか、不思議でならなかったんですよ」
「まあくだらん気まぐれでしょうね」とぼくは答えた。「そうでなかったとしても、こんどはくだらん気まぐれから、神隠しになりそうですよ。実は来週ロンドンヘ出発するんです。前もってお話しておきたいんですが、スラッシクロス屋敷は約束の十二カ月が過ぎたら、もうお借りするつもりはないんです。もうあそこに住むこともないでしょうから」
「ほう、なるほど。世捨て人《びと》の生活はあきあきしたというわけですか? だが、あの屋敷を使わないからって、家賃の免除を頼みに来たのなら、むだ足というものだ。わたしはだれからでも、もらうものはあくまでもらうからね」
「ぼくはなにも免除してもらう気はないですよ」とぼくもだいぶむっとして言った。「お望みならこの場で清算しましょうや」そしてポケットから約束手形帳を出した。
「いやいや」と彼は落ち着きはらって答えた。「たとえ帰って来られなくても、家賃の支払いに十分なものはおいてって下さるだろうからね。わたしは急ぐわけじゃない。まあ坐って昼飯でも食っていったらどうですか。二度と来る心配のない客は、たいてい歓迎されるものでね。キャサリン、食事を持ってこい。どこへ行った?」
キャサリンはナイフやフォークをのせた盆を持ってはいって来た。
「おまえはジョーゼフと食えばいい。あの人が帰るまで台所にはいってろ」とヒースクリフはわきを向いて小声で言った。
キャサリンはそのとおりにした。そむく気などなくなっていたのだろう。いなか者や人間さらいどもの間で暮らしているために、もっと上等の人間に会ってもその価値がわからなくなってしまったのだ。
いっぽうには恐ろしく陰気なヒースクリフ氏、もういっぽうには唖《おし》のように黙りこくったヘアトン、というのでは食事も味気なく、ぼくは早々に別れをつげた。キャサリンをせめてもうひと目見て、ついでにジョーゼフ爺さんを怒らしてやるために、できれば裏口から出たかったが、ヘアトンはぼくの馬を表へ回せと言いつけられ、主人が自分で戸口まで送って来たので、望みはとげられなかった。
馬で道をくだって来る途中、ぼくはこう考えた。「まったく、あそこの家じゃ、この世もわびしいことだろうな! あの善良な乳母のディーンさんが望んだように、ミセス・リントン・ヒースクリフとぼくが愛し合い、二人して都会のにぎやかな世界に移り住むことにでもなってたら、彼女にとってはお伽噺《とぎばなし》以上にロマンチックなことが実現したわけだったろうな!」
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三十二
一八〇二年……
この九月に、ぼくは北部地方のある友人から荒野《ムア》で猟をしないかと誘われた。そこへ出かける途中、思いがけなくギマトン村から十五マイルと離れないところへ出た。街道に沿う宿屋の馬丁が、桶を持ってぼくの馬に水を飲ませていたとき、刈りたての青々とした燕麦を積んだ荷馬車が通りかかった。すると馬丁が言った……
「ありゃきっとギマトンから来たんだ! あそこはいつも、よそより三週間は刈り入れがおそい」
「ギマトンだって?」とぼくはおうむ返しに言った。あの土地に住んだ記憶はもう夢のようにかすんでしまっていた。「ああ、知っている! その村はここからどのくらいかね?」
「あの丘を越えて十四マイルぐれえかな。道が悪くてね」
急にスラッシクロス屋敷を訪ねてみたくなった。まだ正午にもならなかったし、宿屋に泊まるより、自分の借りた家で一夜過ごすほうがいいと思いついた。そうすれば家主との打ち合わせをするのに一日割くことも容易だろうし、もう一度この辺にやってくる手間も省けるというものだ。しばらく休んだのち、ぼくの使用人にその村へ行く道を聞かせ、馬を大いに酷使して、やっとそこまでの道のりを三時間ばかりで走った。
使用人を村に残し、一人谷をおりて行った。くすんでいた教会の建物はいっそうくすみ、さびしい墓地は前よりもさびしく見えた。荒野《ムア》の羊が一匹、墓石の上の短い雑草を食べているのが認められた。気持のよい暖かい天気だった。……ただ旅をするには少し暖かすぎた。それでも美しい景色を仰いだり見おろしたり、十分楽しむことができた。もっと八月に近い頃にながめたのだったら、きっとこの人里離れたところで、ひと月ぐらいぼんやり暮らしたい気持になったろうと思う。丘にかこまれた谷間、くっきりとしたヒースの野の起伏は、冬になるとこれほど荒涼とし、夏になるとこれほどすばらしい光景もない。
日没前にスラッシクロス屋敷に着くと、ノックして入れてもらおうとした。が、ひと筋の細く青い煙が、台所の煙突からゆらゆら立ちのぼっているだけで、住人たちは奥のほうにひっこんでいるらしく、聞こえないようだった。それで中庭へ馬を乗り入れた。ポーチの下に、九つか十ぐらいの女の子が坐って編み物をしており、老婆が入口の乗馬用ふみ段に寄りかかって、考えにふけるようにきせるを吹かしている。
「ディーンさんはいますか?」とぼくはおばさんにたずねた。
「ディーンさんだって? いないよ! ここにはおらんよ。嵐が丘へ行ってるよ」
「じゃ、あんたがここの家政婦さん?」
「ああ、わしがここん家《ち》の番をしてるのさ」
「なるほど。ぼくはここの主人のロックウッドなんだが、泊まる部屋はあるかしら? ひと晩ここにいたいんだが」
「旦那さまかね!」とおばさんはびっくりした。「まあ、旦那さまがおいでだなんて! ひと言知らして下さりゃよかったに。風を入れたり、きれいにしてあるとこはひとつもねえんで。ちゃんとしたお部屋なんぞありゃしません!」
きせるを放りだして、あたふたと駆けこむあとから、女の子がついていった。ぼくは後からはいった。すぐにおばさんの言うとおりだとわかった。いきなり顔を出して老婆の胆をつぶさせたことも気の毒になって、まあ落ち着くようにと言った。少し散歩に出て来るから、その間に居間の片すみで食事できるようにしたり、寝る部屋の用意もしてくれたらよい、掃除なんかいらない、暖い火と乾いたシーツがあれば十分だ、と言ってやった。おばさんは一所けんめいやってくれるつもりらしかったが、火|掻《か》き棒と間違えて暖炉のほうきを炉の中へ突っこんだり、ほかの道具もいろいろとりちがえて使ってしまった。それでも帰るまでにはなんとか休む場所くらい作っておくだろうと、おばさんの奮闘ぶりに信頼して、そこを出た。ぼくがここへやって来た目的は嵐が丘だったのだ。が、中庭を出ると、考えなおして、ひき返した。
「嵐が丘じゃ、皆さん元気だろうね?」とぼくはおばさんに聞いた。
「へい、そんなようだね」と答えた彼女は真っ赤な火種を十能《じゅうのう》にのせて、走って行った。
ディーンさんがなぜこの屋敷から出たのか聞きたかったのだけれど、きわどい仕事の最中に邪魔するわけにもゆかず、とって返して外に出た。真っ赤な入り日を背に、昇りかけた月のやわらかい光を前方に見ながら、ぶらぶら歩いて行った。猟園《パーク》を抜け、ヒースクリフ氏の住居のほうへわかれた石ころの多いわき道を登って行くと、日の光はかすみ、月は輝きを増した。屋敷がまだ見えてこないうちに、もう一日の名残りは、西空になびくにぶい琥珀《こはく》色の明るみしかなくなった。それでも明るい月影で、小径の小石のひとつひとつ、細い草の葉の一枚一枚がはっきり見えた。門は乗り越えたり、叩いたりしなくてすんだ……手でさわるとすぐ開いたのだ。これは改善のひとつの徴候だぞ、と思った。もうひとつの改善は鼻で感じた。ありふれた果樹のあいだから、|あらせいとう《ヽヽヽヽヽヽ》や、|においあらせいとう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の香りが、風にただよってくるのだ。
ドアも格子窓も開いたままなのに、石炭産地はみなそうだが、暖炉に赤い火が明るくさかんに燃えていた。しかし見た目にはくつろいだ感じがするので、暑すぎても辛抱できるのだ。それに嵐が丘の居間は大きいので熱さを避けるゆとりは十分ある。部屋の中の人は窓のひとつの近くにいた。中にはいる前からその姿が見え、話し声も聞こえた。ついようすをうかがい、耳を澄ましてしまった。しばらくたたずむうちに、好奇心と羨やましさの入り混じった気持がしだいに強くなった。
「|はんてえ《ヽヽヽヽ》、だって!」銀の鈴をふるような美しい声がひびきわたった。「三度目もそんな。ばかね! もう教えてあげないから。よく思いだして……でなきゃ髪の毛を引っぱるわよ!」
「それじゃ、はんたいだ」と太いが、おだやかな声が答えた。「さあ、こんなによく言うことをきいたんだから、キスしてくれ」
「だめ、さきにひとつも間違わず、ちゃんと読んでからよ」
男の声が読みはじめた。きちんとした身なりの若者で、本を前にひろげてテーブルにかけていた。整った顔だちが喜びに輝き、目は本のページから、肩におかれた白い手のほうへちらちら走る。ところがそんな怠慢を見つけしだい、その手が頬にぴしゃりと飛んで若者の注意を呼びもどす。白い手の持ち主はうしろに立ち、ときどき勉強を見てやろうと身をかがめると、つやのある薄色の巻き毛が、若者の栗色の髪ともつれあう。彼女の容貌ときたら……若者に顔が見えないのが幸いだった、もし見えたら、とてもまじめに勉強などできなかったはずだ。だがぼくには見えた。思わず唇をかんだ。あのうっとりするような美しさに見とれるだけでなく、なんとかしようもあったかもしれないのに、そのチャンスを逃したという無念さからだった。
勉強は終わった。まだ間違いをいくつもやったのに、若者はほうびを要求して、少なくとも五回はキスしてもらい、彼のほうもたっぷりお返しした。それから二人して戸口のほうへやって来たが、その会話を聞くと、荒野《ムア》へ散歩に出かけるところらしい。こんなところへぼくが運悪く顔を出したら、口に出さないまでも心の中で、地獄のどん底にでも落ちてしまえとヘアトン・アーンショウに呪われるにきまってる。はなはださもしい卑劣なやり方みたいだが、こそこそと横に回って台所に逃げこむことにした。だがそちらもこっそりはいるわけにはゆかず、戸口になつかしいネリー・ディーンがかけて、歌を歌いながら針仕事をしていた。だがその歌は、家の中からいらだたしげに毒づく、まるで歌とはちがった声にたびたび邪魔された。
「とにかく、おめえの歌なんど聞くよりゃあ、朝から晩まで耳ん中で悪態つかれるほうがよっぽどましだあ!」と台所に陣どった男が、ぼくに聞きとれないネリーの言葉にやり返した。「あきれた恥さらしだで。わしが聖書をあけようと思やあ、かならず、悪魔だとかこの世に生まれた身の毛もよだつ悪をなんでも崇《あが》め奉る歌を歌いやがるだ! ふんとに! おめえはこの上もねえろくでなしだ。あの女もそうだ。おめえら二人の手で、若旦那さまの魂は地獄におっこっちまうだ。哀れなこった!」彼はうなり声を出して付け加えた。「若旦那はたぶらかされてるだ、それにきまってる! おお神さま、あの女どもをお裁き下せえまし。わしらの国を治める連中にゃ法律も正義もごぜえませんだ!」
「そのとおりよ! でなきゃ、わたしたちはきっと火あぶりの刑にされてるところね! でも静かにしてよ、爺さん。あんたもキリスト教徒らしく聖書を読んで、わたしにはかまわないでよ。これは『妖精アニーの婚礼』って言ってね……いい曲だわ……ダンスにいい曲よ」ディーンさんがまた歌おうとしたとき、ぼくは近づいた。すぐにぼくと知って、彼女は飛びあがって叫んだ……
「まあ、これは、ロックウッドさま! どうしてだしぬげに? スラッシクロス屋敷は締めっきりなんですよ。ひと言《こと》おっしゃって下さったら!」
「いや、泊まる用意はしてもらうことにしたよ。あしたまた発《た》つ予定でね。それはそうと、どうしてこっちへ移ったんですか、ディーンさん。話してくれないかな」
「ジラーが暇を取ったんです。あなたさまがロンドンヘお発ちになるとすぐですが、またお帰りになるまでこちらへ来てくれと、ヒースクリフさんに言われたものでございますから。でも、どうぞおはいりになって! 日が暮れてからギマトンから歩いてらっしゃったんですか?」
「スラッシクロスからさ。あそこで泊まる支度をしてくれてるあいだに、あんたの主人と用事をすましたいと思ってね。こんな機会はおいそれとできそうもないんでね」
「どんなご用事でございますか」とネリーは|うち《ヽヽ》へ案内しながら聞いた。「いま出かけていて、すぐには戻らないんですけど」
「家賃のことだよ」
「あら! それなら奥さまとお話しになればいいのですわ……わたしでもけっこうです。奥さまはまだ事務的なことに慣れていませんから、わたしがかわりをしております。ほかにだれもいませんので」
ぼくは意外な顔をした。
「ああ、そうですね。まだヒースクリフの亡くなったのをお聞きじゃなかったんですね!」
「ヒースクリフが死んだ!」ぼくはびっくりして叫んだ。「いったい、いつ?」
「三月《みつき》まえです。ま、お掛けになって。お帽子をこちらへいただきます。あとですっかりお話しますから。ちょっと、まだ何も召しあがってないんじゃありませんか?」
「何も欲しくないよ。夕食の用意は言いつけて来たしね。あんたも坐って下さいよ。あの男が死ぬなんて思わなかったな! どんな事情か聞かして下さいよ。まだしばらく戻らないって言ったでしょう……あの若い連中のことだろうけど?」
「そうなんです……おそくまでぶらついて、毎晩叱ってあげなくてはならないんです。でも何を言っても平気なんです。せめて、うちの古いビールでも召しあがれ。元気が出ますよ。なんだかお疲れのようですから」
ことわるひまもなく、彼女はそそくさとビールを取りにいった。すぐジョーゼフの声がした。
「いい年をして男がいるたあ、おっそろしい恥さらしでねえか。おまけに、旦那の穴倉からかってに酒まで持ちだして来るとは! この年まで長生きしたおかげで、こんなことを見せつけられて、いい恥をかくだ」
ディーンさんは立ち止まって言い返しもせず、なみなみと注いだ銀の容器を手にしてすぐ戻って来た。ぼくはその中味を心からほめたたえた。そのあとで、ディーンさんはヒースクリフの話の続きをしてくれた。ヒースクリフは、彼女のことばによると、「奇妙な」最後をとげたのである。
あなたさまがお発《た》ちになって二週間とたたないうちに、わたしは嵐が丘へ呼びよせられました。わたしはキャサリンのために、喜んで従ったのです。初めてお嬢さまにお会いして、わたしは思わず胸をつかれ、悲しみに打たれました。別れてからあまりにひどい変わりようだったからです。ヒースクリフさんはわたしを呼ぶ気になった理由は説明せず、ただわたしに会いたくなった、キヤサリンの顔を見るのはあきた、と言うだけでした。小さな部屋をわたしの居間にして、キャサリンもいっしょにおけと言われました。キャサリンには日に一度か二度だけ、どうしても必要なとき顔を見るだけでもたくさんだというわけでした。お嬢さまはそうしてもらって喜んでいるようでした。わたしは少しずつたくさんの本やいろいろな品物をひそかに運びこみました。それらはみなお嬢さまがスラッシクロスで楽しんでいたものばかりですから、これでまずまず気持よくやってゆけそうだと、一人悦に入っておりました。ですが独り合点《がてん》も長つづきはしませんでした、キャサリンは初めのうちこそ満足そうでしたが、じきにいらいらと落ち着かなくなってきました。ひとつには庭の外へ出ることを禁じられていましたので、春が近づくにつれ、そんな狭い場所に閉じこめられているのがやりきれなくなってきたこと。もうひとつには、わたしが家事に追われてたびたびお嬢さまを放っておいたものですから、さびしさを訴えるようになったことです。一人ぼっちでおとなしく坐っているなら、いっそ台所でジョーゼフと口喧嘩するほうがましだと見え、よくやっていました。そんな小ぜり合いは気にしませんでしたが、ヒースクリフさんが居間を独占したくなると、やむをえずヘアトンはたびたび台所へはいって来ます。初めのうちこそ彼を見るたびにキャサリンは出て行ってしまうか、黙ってわたしの仕事を手伝ったりして、彼に気をつけたり、話しかけたりしないようにしていましたし……ヘアトンだっていつもできるだけむっつり黙りこんでいましたが……そのうちに、お嬢さまは態度を変え、彼が放っておけなくなりました。ずけずけあてこすりを言い始め、のろまの怠け者だと批評したり、あんな生き方によく辛抱できるものだ……寝るまでずっと暖炉の火をにらんでうとうとしているんだから、などと不思議がったりします。
「エレン、あの人、犬と同じじゃない?」そんなことまで言いました、「それとも馬車馬かしら? 働いて、食べて、いつもそれっきり! 心の中は空《から》っぽで、何もないのでしょうね! ヘアトン、夢を見ることがある? 見るとしたら何の夢なの? でもあたしに口もきけないんでしょう!」
そう言って彼の顔を見ましたが、ヘアトンは口も開かず、見返そうともしません。
「きっといまも夢を見てるのよ。ジューノーがやるように肩をぴくぴくさせたわ。エレン、聞いてごらん」
「少しは行儀よくなさらないと、ヘアトンさんが旦那さまに頼んで、お嬢さまをまた二階へあげてしまいますよ!」とわたしは言いました。ヘアトンは肩をぴくつかせるどころか、こぶしを握りしめ、いまにも使いたくてむずむずしていたのです。
「なぜあたしが台所にいると、ヘアトンが口をきかないのか、知ってるわ」ある時は、こんなことも言いました。「あたしに笑われるのがこわいのよ。エレン、どう思う? いつか、一人で読み方を習いだしたの。それをあたしが笑ったら、本を焼いてしまって、勉強もよしたの。ばかだわねえ?」
「お嬢さまが意地悪だったんじゃありませんか? どうですか?」
「そうかもしれないわ。だけどあれほどばかとは思わなかったのよ。ヘアトン、いま本をあげたら、受け取ってくれる? 試してみよう!」
お嬢さまはそれまで読んでいた本を、ヘアトンの手にのせてやりました。彼はすぐ払いのけ、よさなきゃ首根っこをへし折るぞ、とつぶやきました。
「いいわ、ここへ置いとくわ……テーブルの引き出しに。もうやすもうっと」
そして彼が本に手を出すかどうか見張っていてくれ、とわたしに耳打ちして出て行きました。ですがヘアトンは本の近くへ来ようともしません。翌朝それをお嬢さまに言いますと、とてもがっかりしました。彼がどこまでも不機嫌に勉強しないでいるのがお嬢さまは悲しかったのです。せっかく向上しようとした彼をおびえさせ、それが効きすぎてしまったので良心に責められていたのです。なんとかその打撃から立ちなおらせようといろいろ工夫《くふう》をこらしていました。わたしがアイロンかけとか、自分の部屋ではできない静かな仕事をしていますと、おもしろそうな本を持ってきて、わたしに読んで聞かせます。ヘアトンがいあわせると、たいていおもしろい箇所でやめて、その辺に本を放っておきます。何度もそれをくり返しました。ところがヘアトンは騾馬《らば》のように頑固で、お嬢さまの誘いに飛びつくどころか、雨の日はジョーゼフと煙草《たばこ》を吹かすようになりました。暖炉の両側に自動人形のように坐り、爺さんのほうは幸い耳が遠くて、ろくでなしのたわごとは聞こえないし、ヘアトンは懸命に知らんぷりをしていました。天気のよい晩には、ヘアトンは猟に出かけますから、キャサリンは欠伸《あくび》したりため息をついたり、わたしに話をさせようとうるさくせがんだり、わたしが話しだしたとたん、中庭や花園へ走って行ってしまったりします。どうしてもやりきれなくなると泣きだして、生きるのがいやになった、あたしの人生は無意味だ、などと言うのです。
いっぽうヒースクリフさんはいよいよ人を避けるようになり、ほとんどヘアトンを自分の部屋から追い払ってしまいました。ところが三月の初めに、ちょっと怪我をして、ヘアトンは数日台所でじっとしていたことがあります。一人で丘の上へ出ていたとき、銃が暴発《ぼうはつ》して破片が腕を傷つけ、家へ帰りつくまでにおびただしい出血がありました。おかげで、なくした血を取り戻すまでは、いや応なく炉辺でおとなしくしていないわけにはゆかなかったのです。彼がいてくれるとキャサリンはご満悦でした。とにかく、前よりも二階の部屋にいるのを嫌うようになり、自分もついてこられるものですから、なんとかしてわたしに階下の仕事を見つけさせようとするのです。
復活祭の月曜日に、ジョーゼフは牛を何頭か引いてギマトンの市へ出かけ、わたしはお昼過ぎに、台所で急がしく洗濯物の仕上げをしておりました。ヘアトンは相変わらずむっつりと炉のすみにかけていました。お嬢さまは退屈しのぎに窓ガラスに絵を描いたりしていましたが、ときどき静かに歌を歌ったり、何かつぶやいてみたり、いらいらした、じれったそうな視線をちらちら従兄《いとこ》へ走らせたりします。ヘアトンはやっぱり煙草を吹かしつづけ、炉の中をにらんでいるだけです。そこで光を遮《さえぎ》っていては仕事ができません、とわたしが言いますと、お嬢さまは炉のそばへ移りました。そこで何をしていたのか、気をつけてもいませんでしたが、そのうち、こんなことを言いだしました……
「あたしわかってきたわ、ねえヘアトン、あたしが望むのは……あなたがそんなに意地悪だったり、つっけんどんでなかったら、あなたが従兄でうれしい……従兄でいてほしいってことなの」
ヘアトンは返事もしません。
「ヘアトン、ヘアトン、ヘアトンってば! 聞こえないの?」
「あっちへ行け!」ヘアトンは頑固に荒々しくどなります。
「そのパイプを取らせて」キャサリンはおそるおそる手を出し、いきなりパイプを口から取ってしまいました。
取り返そうとするまもなく、パイプは二つに折られ、火に投げこまれました。ヘアトンは彼女に悪態をつき、別のパイプを取りました。
「待ってよ!」とキャサリンは叫びました。
「それよりあたしの言うことを聞いて。煙草の煙が顔にかかったら、話ができないのよ」
「悪魔のとこへ行きやがれ! おれにかまうなって言ってるんだ!」とはげしい剣幕でどなりました。
「いやよ」とキャサリンも負けていません。「あたしあなたのことにかまうわ。どうやったら、口をきいてもらえるかわからないし、あたしをどうしても理解してくれようとしないんだもの。あなたのことをばかって言ったって、本気じゃなかったわ。あなたを軽蔑するつもりなんかないわ。ねえ、あたしの言うことを聞いてよ、ヘアトン! あなたはあたしの従兄でしょう、あたしを自分のものだと考えていいのよ」
「おめえなんかに用はねえ。ひとをさんざんばかにしやがって! おめえなんか横目でだって二度と見るくれえなら、からだも魂も地獄へゆくほうがましだい。さあ、とっとと出てゆけ、早くしろ!」
キャサリンは眉を寄せ、唇をかみながら、窓の下の腰かけへ退き、泣きだしたい気持を隠そうと、調子はずれな鼻歌を歌いました。
「ヘアトンさん、従妹とは仲よくしなくてはいけませんね」とわたしは口を出しました。「お嬢さまも生意気だったと後悔してらっしゃるんですから。あなたにもとてもためになることですよ。お嬢さまと友だちになったら、あなたは生まれ変わりますわ」
「友だちだと! さんざんいやがられ、靴をみがかせる値うちもないと思われてるんだ! いやだ、たとえ王さまにしてくれると言ったって、まだあいつによく思われようとして、ばかにされてたまるもんかい」
「あたしがいやなんじゃなくて、あなたがいやなんだわ!」キャシーはもう苦しみを隠せなくなって、泣きだしました。「あなたはヒースクリフさんと同じくらい、それよりもっとあたしを嫌ってるのよ」
「この大嘘つきが」とヘアトンは始めました。「そんならどうしておれが何遍でもおめえの肩をもって、ヒースクリフに怒られたんだ? それでもおめえはおれをあざ笑い、ばかにしてたじゃねえか。それに……いいや、いくらでもおれをいじめろ、おれはあっちの部屋へ行って、おめえがうるさくって、台所にいられねえと言ってやる!」
「あたしの肩をもってくれたなんて知らなかったわ」とお嬢さまは涙をふいて言いました。「あたしはとても惨《みじ》めで、だれにでも腹をたててたのよ。でも、いまお礼も言うし、お詫びもするわ。ほかにどうしたらいいの?」
お嬢さまは暖炉のそばへ戻り、すなおに手をさしのべました。ヘアトンは雷雲のように暗い険悪な顔をし、ぎゅっと拳《こぶし》を握りしめたまま、床をにらんでいました。キャサリンはこんな強情な態度が、自分への憎しみからではなく、片意地なつむじ曲がりから来ているのだと直感したようでした。一瞬ためらったのち、ふいに身をかがめ、ヘアトンの頬にやさしくキスしたのです。このいたずら者は、わたしが見ていなかったと思い、すまして窓ぎわのもとの席に戻りました。わたしが非難するように首をふりますと、初めてお嬢さまは顔を赤くし、小声で言いました……
「だって、エレン、それならどうすればよかったのよ? 握手もしてくれないし、顔も見てくれないんだもの。なんとかしてあの人が好きだってことを知らせたかったの……仲よしになりたいんだってことを」
キスでヘアトンに本当にわかったかどうか知りませんが、しばらく顔を見せないようにとても気を使っていました。やっと顔をあげたとき、目のやり場に困りきっているのです。キャサリンは一冊のりっぱな本を白い紙できちんと包み、リボンで結んで、「ヘアトン・アーンショウさま」と表に書き、わたしに使節として宛名《あてな》の人に届けてほしいと言いました。
「こう言うのよ、もし受け取ってくれるなら、あたしが行ってちゃんとした読み方を教えてあげるって。もしことわったら、あたしは二階へ行ってしまって、二度とうるさくしないって」
わたしはお嬢さまに心配そうに見守られながら、プレゼントを持って行き、言われたとおりに伝えました。ヘアトンは手を開こうともしないので、膝の上へのせました。でも払いのけようとはしません。わたしは自分の仕事に戻りました。キャサリンは両腕をテーブルの上に置き、うつ伏《ぶせ》していました。やがて包紙をとるかさこそという音がしました。すると彼女は忍び足で立って行き、そっと従兄のそばに坐りました。ヘアトンは震え、真っ赤な顔になりました。いつもの粗野なところもとげとげしい不機嫌さもすっかり消えて、最初のうちは、キャサリンが目で問いかけたり、哀願の言葉をささやいても、ひと言も答えられません。
「あたしを許すと言って、ヘアトン。お願い! それだけ言ってくれたら、あたしはとてもしあわせになれるのよ」
彼はなにやら聞きとれないことをつぶやきました。
「そして、あたしのお友だちになってくれる?」とキャサリンはさらに問いかけました。
「だめだ、これから一生、毎日おれを恥ずかしく思うから。おれのことがわかればわかるほど、恥ずかしくなるよ。そんなこと、おれにゃとても我慢できねえよ」
「じゃ、お友だちになるのはいやなのね?」お嬢さまはうっとりするような微笑を見せながら、身をすり寄せました。そのあとの会話は聞きとれませんでしたが、ふり返ってみますと、受け入れてもらった本のぺージに、生き生きと輝く顔が二つ寄せられ、まず条約は両方から認められ、いままでの敵が今後の同盟国となったもようでした。
二人の勉強している本はすてきな挿絵《さしえ》がいっぱいあったので、その絵や二人寄りそっていることの楽しさに、なかなか動こうとせず、ジョーゼフが帰って来るまでそうやっていました。爺さんは、キャサリンがヘアトン・アーンショウと同じベンチにかけ、片手を相手の肩にかけているのを見て、気の毒にも、すっかり胆をつぶしてしまいましだ。おまけに気に入りのヘアトンがキャサリンなどに寄りそわれて平気でいるのだから面くらったのです。あまりびっくりして、その夜はひと言も意見はのべませんでした。ただ大版の聖書を重々しくテーブルにひろげ、その日の取り引きから得た汚ないお紙幣《さつ》をその上にならべながら、何度も深い溜息をもらすので、心の動揺ぶりがわかるのでした。しばらくたって、やっとヘアトンを呼び寄せました。
「これを旦那のところへ持ってって、そのあとであっちにいなさるといい。わしゃわしの部屋へゆくだ。この穴ぐらはわしらに向くような風儀のいいとこじゃねえだ。早えとこ逃げだして、よそをめっけなくちゃなんねえ」
「さあ、キャシー、わたしたちも『逃げださ』なくちゃ。アイロンかけはすみましたよ。もういいでしょう?」とわたしは言いました。
「まだ八時にもならないわ!」とお嬢さまはしぶしぶ立ちあがりました。「ヘアトン、この本は炉棚の上へ置いとくわね。あしたはもっと持ってきてあげるから」
「本なぞ置いてけば、みんな|うち《ヽヽ》へ持ってっちまうで」ジョーゼフが言いました。「二度と見つかりっこねえだ。まあ、かってにするがいい!」
キャシーはおまえの本でつぐなわしてやるから、とおどかし、ヘアトンのそばを通り過ぎながら、ほほえみ、歌を歌いながら二階へあがって行きました。リントンのところへかよった初めの頃を除いて、お嬢さまがこの家でこんなに浮き浮きしたことはありません。
こうして始まった二人の親しさはどんどん深まりました。もっとも一時的な行きちがいはときどきありました。ヘアトンは望んだだけですぐ洗練されるわけでもなし、お嬢さまも悟りを開いた忍耐力のお手本というわけではありませんからね。ですが二人の気持が同じ点に向かい……一人は愛しているために、尊敬したいと願い、もう一人は愛しているために尊敬されたいと願い……どうやら最後にはその目的を達したのです。
ロックウッドさま、このとおりキャサリンの心をとらえるのはわけないことだったのですよ。でもいまは、あなたさまがそうなさらなくてよかったと思っています。わたしのなによりの願いはあの二人が結ばれることなんでございます。二人の結婚式の日には、わたしはだれもうらやましいと思わないでしょう……イングランドじゅうでわたしほど幸福な女はいないのですから!
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三十三
その月曜日の次の日も、ヘアトンはまだふだんの仕事ができずにうちでぶらぶらしていました。それでわたしはもうこれまでのように、お嬢さまを手もとに引きとめてはおけないとすぐ悟ったのです。お嬢さまはわたしよりもさきに階下へ行き、庭へ出ました。そこでヘアトンが軽い仕事をしているのを見たのです。二人に朝食を知らせに行ったとき、お嬢さまはすでにヘアトンを説きつけて、|すぐり《ヽヽヽ》の茂みを広く切り開かせ、そこヘスラッシクロス屋敷から草花を移し植える計画を熱心にたてていました。
わずか半時間のうちにひどく荒らしてしまったので、わたしは胆をつぶしました。黒|すぐり《ヽヽヽ》はジョーゼフ秘蔵の木だったのに、お嬢さまはその真ん中を花壇の場所と決めてしまったのです。
「まあ! 見つかったらさいご、旦那さまに言いつけられますよ」とわたしは叫びました。「お庭をこんなにかってに荒らして、どんな言いわけをなさるんですか? これでは大変な雷が落ちますよ。見ててごらんなさい……ヘアトンさん、お嬢さまに言われてすぐ、こんな無茶をするなんて、どうしたんですか!」
「ジョーゼフのだってことを忘れてたんだ」とヘアトンはさすがに困ったようでした。「だけど、おれがやったって言うよ」
わたしどもはいつもヒースクリフといっしょに食事をしました。わたしが主婦の役をつとめて、お茶を入れたり肉を切りわけたりしますので、食卓にはどうしてもいないわけにはいきません。キャサリンはいつもわたしのそばに坐るのに、今日はいつのまにかヘアトンの近くへ行きました。前に敵意を見せたときと同じで、もう遠慮せず親しみをしめすつもりなのでした。
「いいですか、ヘアトンさんとあまり話をしたり、顔ばかり見ていないようになさってね」と部屋にはいりながら、わたしは小声で注意しておきました。「ヒースクリフさんはきっと怒って、二人に喰ってかかりますから」
「だいじょうぶよ」でもそのすぐあとで、もうヘアトンのほうへにじり寄り、彼のポリッジの食器に桜草をさしたりしているのです。
ヘアトンはさすがにそこではお嬢さまに口をきかないし、顔を見ようともしません。それでもキャサリンは休まずいたずらをするので、二度ばかりヘアトンも吹きだすところでした。わたしが顔をしかめて見せたので、キャシーはヒースクリフを見ました。ヒースクリフの顔つきでは、ここにいる人間以外のことに心を奪われているようでした。キャサリンはちょっとのあいだまじめな顔をして、ひどく真剣に見つめました。じきにまた顔をもとに戻してふざけ始めます。とうとうヘアトンはくすっと忍び笑いをもらしました。ヒースクリフさんははっとして、すばやくみんなの顔を見回しました。キャサリンは、いつものびくびくした、しかし反抗的な目で見返しましたが、その目つきをヒースクリフさんはひどく嫌っておりました。
「おれの手が届かなくってよかったんだ」彼はどなりました。「いつも、そのいまいましい目でおれをにらみ返しやがって、どんな悪魔に取りつかれてるんだ? その目を伏せろ! 二度とおまえがいることなんか思いださせるな。笑い声なんかたてられないようにしておいたつもりだが」
「おれが笑ったんだよ」とヘアトンがつぶやきました。
「なんだと?」と主人が聞きました。
ヘアトンは食器に目を落とし、二度とその言葉をくり返しません。ヒースクリフさんは彼をちょっと見ただけで、黙って食べ始め、中断されたもの思いを続けました。食事も終わりかけ、若い二人も用心して離れていましたので、どうやらこの場は平穏にすみそうだと思いました。そのときジョーゼフが戸口に現われたのです。唇を震わせ、目を怒りに燃やしていましたので、大切な|すぐり《ヽヽヽ》の藪が荒されたのを見つけたことがわかりました。自分で調べる前に、キャサリンとへアトンをその辺で見たにちがいありません。まるで反芻《はんすう》している牛みたいに顎《あご》をもぐもぐさせ、言ってることがよくわからないのですが、だしぬけにこう言ったのです……
「給金をもらいてえだ、わしは出てゆきます! 六十年も奉公しただから、ここで死ぬつもりだったが。わしの本は屋根裏へあげて、持ち物もみんなそこへやって、台所はそっくりあの二人に明け渡すつもりでいただ。それも穏やかにすますためだったによ。わしの炉ばたを明け渡すなあ、つれえことだが、それもやむをえねえと思っていただ! それをこんだあ、わしの庭まで取りあげちまう! ふんとにまあ、旦那、これじゃ辛抱しきれねえ! 旦那はどんな苦しみに合わされても辛抱するがいい。辛抱できるでしょうが……わしゃ辛抱にゃ慣れてねえ、年よりちゅうもんは初めての苦労においそれと慣れるもんじゃねえ。いっそ土方でもして食いぶちをかせいだほうがましですわい!」
「もう、よせ、あほう!」とヒースクリフがさえぎりました。「いいかげんにしろ! 何をぶうぶう言ってるんだ? おまえとネリーなんかの喧嘩に干渉しないぞ。ネリーがおまえを石炭置場へ放りこもうが、知るもんか」
「ネリーじゃねえです! ネリーなんぞのためにわしは出てゆきゃしねえ……性悪のやくざ女にゃちげえねえが。ありがてえことに、人の心までとろかすようなまねはできねえ。顔を見りゃ惹《ひ》かれるほどのべっぴんだったことはねえだから。あそこの、おっそろしく無作法な女王さまです、遠慮もねえ色目やずうずうしいやり方でうちの若旦那をたぶらかしたのは……そのあげくに……いやはや! わしは胸がはり裂けそうだ! 若旦那はわしが尽くしたことも助けたこともすっかり忘れてしまい、庭のいちばんいい|すぐり《ヽヽヽ》の木を一並びすっかり引き抜いてしまっただ!」そこまで言うと爺さんは手放しで泣きだしました。ひどい被害を受けたくやしさと、ヘアトンの恩知らずと、その将来への不安から気がぬけてしまったのです。「この阿呆《あほう》は酔っぱらってるのか」とヒースクリフさんは聞きました。「ヘアトン、こいつが文句を言ってるのはおまえのことか?」
「あの木を二、三本抜いたんだ。また植えとくよ」と若者は答えました。
「どうして抜いたんだ」
キャサリンが抜け目なく口を出しました。
「あそこへお花を植えようと思ったんです。悪いのはあたしよ。あたしが頼んで抜かせたんだもの」
「いったいだれがおまえに庭の棒きれひとつでも手を触れていいと言ったんだ?」ヒースクリフはひどく面くらったように言い、こんどはヘアトンのほうを向いて、「だれがおまえにこいつの言うことを聞けと言った?」
ヘアトンは黙っていました。代わりにキャサリンが答えました。
「あたしが二、三ヤードくらいの土地を飾ろうとしたって、あなたに文句を言われることはありません。あたしの土地をみんな取ったくせに!」
「きさまの土地だと、よくもこのひきずりあまが……きさまの土地など初めっからありゃしないぞ」とヒースクリフは言いました。
「あたしのお金だってそうよ」とキャサリンは朝食の食べ残りのパンの皮をかみかみ、相手の怒った目を平然と見返していました。
「黙れ! 早くすまして出て行ってしまえ」
「ヘアトンの土地も、ヘアトンのお金も取ったわ」お嬢さまは向こう見ずにまだやめません。
「ヘアトンとあたしは味方になったのよ。ヘアトンにはあなたのことをみんな話してやるわ!」
ヒースクリフは一瞬、たじろいだようです。すぐ真っ青になって立ちあがり、ぞっとするような憎しみをこめてお嬢さまをにらみつけました。
「あたしを殴ったら、ヘアトンが殴り返すわよ。坐ってるほうがいいんじゃないの」
「ヘアトンがきさまをここから追い出さなけりゃ、ヘアトンをぶちのめしてやる」とヒースクリフは喚《わめ》きたてました。「いまいましい魔ものめ! ヘアトンをたきつけて、おれにかからせる気か? こいつをつれてゆけ! 聞こえないのか? 台所へぶちこんでやれ! エレン・ディーン、二度とおれの目の前へつれ出したら、こいつを生かしちゃおかないぞ!」
ヘアトンは声を殺して、お嬢さまに行くほうがいいと言いました。
「引きずり出せ!」ヒースクリフは狂ったように叫びました。「まだぐずぐず文句を言うつもりか?」そして命令を自分で実行しようと、お嬢さまに近寄りました。
「ヘアトンはもうあんたの言うことは聞かないわよ、悪党。じきにあたしと同じくらいあんたを憎むようになるわ」
「しっ! 黙れよ!」若者は非難するようにささやきました。「そんなことは言ってもらいたくねえんだ。やめろよ」
「でも、あの人にあたしを殴らせておきゃしないでしょう?」とキャサリンは叫びました。
「さあ、もういいよ」とヘアトンは真剣にささやきました。
でももう間に合いません。ヒースクリフがお嬢さまをつかまえたのです。
「さあ、おまえはあっちへ行け!」とヒースクリフはヘアトンに言いました。「いまいましい魔ものめ! 今度こそ、我慢できないほど怒らしたな。一生後悔するように、思い知らせてやる!」
その手はお嬢さまの髪の毛をつかんでいました。ヘアトンは、今度だけはひどい目に会わせないでくれと頼みながら、髪の毛から離させようとしました。ヒースクリフの黒い目はぎらぎら光り、いまにもキャサリンを八つ裂きにするかと見えました。わたしはとてもじっとしていられず、思わず助けに飛びだしかけました。そのとき突然、ヒースクリフの手がゆるんだのです。髪の毛を離して、こんどは腕をつかみ、お嬢さまの顔にじっと目を据えていました。それから片手でお嬢さまの目をおおい、しばらく気を落ち着けようとするらしく、そのまま立っていました。また改めてキャシーのほうを向き、平静を装いながら言いました。「これからはおれを怒らせないように気をつけろ。さもないと、いつかおまえをほんとうに殺してしまうだろう! ディーンさんと向こうへ行って、いっしょにいろ。生意気な口はネリーの耳にだけ聞かせりゃいい。ヘアトンのことはな、もしおまえの言いなりになってたら、どこでも自分で食ってゆけるところへ追い出してやる! おまえが愛情をかけると、こいつは宿なしの乞食になるんだ。ネリー、こいつをつれて行け。みんな出てって、おれを一人にするんだ……みんな出ろ!」
わたしはお嬢さまをつれ出しました。逃げ出せるのをさいわいと、お嬢さまはわたしに従いました。ヘアトンも出て来ましたので、昼食の時までその部屋にはヒースクリフしかいませんでした。わたしはキャサリンにおひるは二階であがるように勧めておきましたが、ヒースクリフはお嬢さまの席が空《あ》いているのを見ると、わたしに呼びに行かせました。彼はだれにも言葉をかけず、ろくに食べもしないで、終わるとすぐに、夕方までは帰らないと言って出て行きました。
新しい二人の友だちはヒースクリフの留守じゅう、居間に落ち着いていました。お嬢さまがヘアトンの父親に対するヒースクリフの仕打ちを話してやろうとすると、彼はきびしくやめさせるのでした。ヒースクリフの悪口はひと言も言ってもらいたくない、たとえ悪魔だってかまわないから、おれは彼の味方をすると言うのです。ヒースクリフさんの悪口を始めるくらいなら、いままでどおりおれの悪口を言われるほうがいい、と。これにはキャサリンもむっとしてきたようでした。ですがヘアトンは、おれがあんたのお父さんを悪く言ったらどう思うか、と言って、お嬢さまを黙らせてしまいました。それでお嬢さまはヘアトンがヒースクリフの評判を自分のことのように気にし、理屈では断ちきれない強い絆《きづな》で結ばれていることを知りました。……それは長い習慣で作られた鎖で、解いてやるのはかえって残酷なことなのでした。そのときからヒースクリフのことで苦情を言ったり、反感をしめしたりしないように、やさしく心を配っていました。ヘアトンとヒースクリフの間に反感を植えつけようと努めたことを後悔している、とわたしに打ち明けるようにさえなりました。たしかにそののちは、ヘアトンに聞こえるところで、ひと言でも圧制者の悪口を言ったことはないと思います。
この小さな行きちがいがなくなると、二人はまた仲よしになり、先生と生徒としてのいろいろな仕事を忙しくしていました。わたしも用事のあとで、仲間入りしました。二人のようすを見ていると、ほんとに心が和《なご》み、慰さめられて、時の移るのも忘れるほどでした。わたしにとっては二人とも自分の子供のように思えましたからね。その一人は長いあいだ誇りにしてきましたし、これからはもう一人にも、同じような満足を感じることになりそうでした。生まれつき正直でやさしく、聡明なヘアトンは、またたくまに無知と野蛮に育てられた暗い陰をはらい落とし、キャサリンの誠意のこもった称賛に拍車をかけられてますます勉強に励みました。精神の輝きにつれて顔つきも輝き、気概と上品さまでそなわってきました。お嬢さまがペニストン山の探検に出かけたのを嵐が丘で見つけたとき、わたしの出会った若者と同じ人間とはとても思えません。勉強に励む二人に感心するうち、いつしか夕闇が濃くなり、ヒースクリフが戻って来ました。彼はまったくだしぬけに、表口からはいって来たので、三人が顔をあげて見るひまもなく、ようすをすっかり見られてしまいました。でもそのとき、わたしは考えたのでした……かまやしない、こんな気持のいい、楽しい、罪のない光景なんてあるものではない、この二人を叱るとしたら、まったく恥知らずなことだ、と。炉の赤い光が二つのかわいらしい頭を照らし、子供らしい好奇心に輝く顔が見えました。ヘアトンは二十三、キャサリンは十八でしたが、二人がこれから感じたり学んだりする珍しいことがいっぱいあって、夢を失った大人の白けた感情はまだ知りもせず、表わすこともできなかったのです。
二人は同時に見あげ、ヒースクリフを見ました。ロックウッドさまはお気づきになってないかもしれませんが、二人はまったく同じ目つきで、亡くなったキャサリン・アーンショウそっくりの目をしています。いまのキャサリンは目のほかには、広い額と、本人がどういう気持にせよ、いくぶん高慢な感じのする、弓なりになった鼻孔のほかは、母親に似てはいません。ヘアトンのほうがよく似ています。いつも似ていると思うのですが、そのときは特にびっくりするほどそっくりに見えました。きっとそれは感覚が目覚め、いつになく頭の働きが活発になっていたからでしょう。そんなに似ていたために、ヒースクリフの敵意が抑えられたらしいのです。暖炉に近づくときはたしかに興奮していたのに、若者の顔を見るとたちまち怒りが静まったのです。むしろ興奮の性質が変わったと言ったほうがよいでしょう、消えてしまったのではありませんから。彼はヘアトンの手から本を取りあげ、開いてあるぺージをちらと見ただけで、何も言わずに返してやりました。ただキャサリンにあっちへ行けと手で合図しただけでした。ヘアトンもじきにそのあとから出て行き、わたしも行こうとしましたが、おまえはそこにいろと言います。
「哀れな結末じゃないか?」いま見たばかりの光景をしばらく考えてから、ヒースクリフは言いました。「思いきり努力したあとで、ばかばかしい結果になったものじゃないか。二つの家をこわすた め に| 挺子《てこ》 や鶴嘴《つるはし》を手に入れ、ヘラクレスのような働きができるように自分を鍛《きた》え、なにもかも用意がととのい、おれの自由にできるようになったら、どっちの家からも屋根瓦一枚はがそうという気がなくなった! おれは昔の敵に打ち負かされはしなかった。いまこそあいつらの後つぎどもに復讐するちょうどいい時だ。いまならできる。だれにも邪魔できやしないんだ。だがそれが何になる? おれは打ちのめす気がしない。手をふりあげるのも面倒になったんだ! こんなことを言うと、おれが寛大なりっぱなところを見せたいばかりにいままで骨を折って来たように聞こえるだろう。とんでもないことだ。ただ、あいつらの破滅を喜ぶ気がなくなり、何の満足もないのに人をやっつけるのが面倒くさくなっただけなんだ。
「ネリー、不思議な変化がおれに迫っている。もうその影に包まれているんだ。毎日の生活にすっかり興味をなくしてしまい、飲み食いまで忘れている。いま部屋を出て行った二人が、おれには実体のあるものとして見えるだけだ。しかもあの姿を見ると、おれは苦しみ、悶えるのだ。女のことは何も言いたくないし、考えたくもない。見えさえしなければいいと願うばかりだ。あの女がそばにいるだけで、おれは狂おしくなる。ヘアトンを見ると、またちがった気持が動く。だがおれが気違いのようなようすにならずにあいつが見られるようになったら、二度とあいつを見たくない。おまえはたぶんおれが気違いになりかかっていると思うだろうな」とヒースクリフは無理に笑おうとしながら、付け加えました、「ヘアトンから呼び起こされ、あいつの形に表わされている数しれない過去の連想や観念を話して聞かせたら、きっとそうだろう。だがおれの話を人に言わないだろうな。おれの心はずっと自分の中に閉じこもっていたが、とうとうだれかに打ち明けたくなったのだ。
「つい五分前、おれにはヘアトンが生きた人間ではなく、若い頃のおれの化身のような気がした。あいつに対していろいろ複雑な気持になったので、あいつにちゃんと話しかけることはできなかったろう。なにより、はっとするほどキャサリンに似ているから、やりきれないほどキャサリンを思いだしてしまう。だが、それがいちばん強くおれの想像力を捕えると思うだろうが、実際はいちばん些細《ささい》なことなんだ。おれにとっては、彼女を連想させないものはないのだ。何を見ても思いだすんだ。この床を見おろすと、彼女の顔が板石の中から現われる! どの雲にも、どの木にも……夜は大気を満たし、昼はありとあらゆる物にちらちらと顔をのぞかせ……彼女の面影でおれはとりまかれている! ごくあたりまえの男や女の顔が……おれのこの顔までが……彼女に似ているように見えておれをなぶりものにする。世界じゅうが、かつて彼女が存在し、おれが彼女を失ったという恐ろしい記録で充満しているんだ! そうだ、ヘアトンの姿はおれの不滅の愛の亡霊だった。おれの権利を失うまいとする気違いじみた努力、おれの堕落、おれの誇り、おれの幸福、おれの苦悩の亡霊だったのだ。
だが、こんな考えをおまえにくどくど話するのは気違いざただ。ただこれでおまえにはわかるだろう。なぜいつも一人でいるのをいやがるくせに、ヘアトンといるのがありがたくないか。ありがたいどころか、かえっておれの絶え間のない苦しみを激しくさせるだけだ。そんなこともあって、あいつとあの従妹がどうやっていようとかまわずにいられるのだ。いまではあんなやつらのことなど注意していられないのだ」
「でも、変化というのは何のことですか、ヒースクリフさん?」わたしは彼の態度におびえて言いました。見たところ、別に正気を失うとか、死ぬとかしそうな危険はなく、頑丈で健康そのものでした。理性についても、彼はもともと子供の頃から陰気なことを考えこんだり、奇妙な空想をするのが好きでした。さきだたれた偶像については、偏執狂のようなところがありましたが、ほかの点ではわたしと同じくらいたしかな心を持っておりました。
「それは起こるまではわからない。まだおれもぼんやりとしか意識してないんだ」と彼は答えました。
「どこか、からだが悪いんじゃないでしょうね?」
「いや、どこも悪くないよ、ネリー」
「じゃ、死にはしないかと恐れてるのでは?」
「恐れてる? ちがう! 死なんか恐れやしない。予感もないし、死ぬ見こみもない。そんなことはありっこないよ。こんな頑丈なからだで、節制を守り、危険な仕事をやってるわけでもない。頭の黒い髪の毛が一本もなくなるまでこの世に生きてるのが当然だし、たぶん生きてるだろう! だがこんな状態では生きていられない! いちいち気がついてから呼吸したり……心臓にもやっと思いださせて鼓動をさせてるくらいなんだ! 強いバネを逆に曲げているようなものなんだ。ひとつの思いに駆りたてられない限り、どんなちっぽけなことでも強制しなければやれない。ひとつの、いつでもおれを捕えている考えと結びつかなければ、生きてるものでも死んでるものでも、注意を向けるのがやっとなんだ。おれにはただひとつの願いしかない。おれの全身、おれの全精神がそれをとげたいとこがれているのだ。ずいぶん長い間、一刻も気を散らさず望んできたから、かなえられるだろう……じきにそうなる……と確信している。その望みはおれのすべてを飲みこみ、いつかかなえられるという期待がおれを巻きこんでしまったからだ。こんな告白をしたって、おれの気持は楽にはならない。だが、おれの奇妙な気持がこれでいくらかわかるだろう。ああ、まったく、なんて長い闘いだろう! 早く終わってくれないものか!」
ヒースクリフはなにやら恐ろしい独りごとを言いながら、部屋を歩き始めました。おしまいにはわたしも、ジョーゼフが言ったと彼から聞かされたように、良心が彼の心を生きながらの地獄に変えてしまったのだろうという気がしてきました。いったいどんな結果になるだろうと心配になりました。前にはそんな気分は顔色にもめったに見せなかったのですが、いつもそんな調子だったことは疑えません。自分でもはっきりそう言っているのですから。ですがふだんの態度から、そんなことを推測したひとは一人もないでしょう。ロックウッドさま、あなたもお会いになったとき、そんなことは考えませんでしたでしょう。いまのこのお話のときだって、そのときと少しもちがったようすはなかったのでございます。ただ長い時間一人でいるほうを好むようになり、人前でも前よりもずっと無口になっただけでした。
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三十四
あの晩から数日間は、ヒースクリフさんは食事のとき、わたしどもと顔を合わせるのを避けておりました。それでもはっきりヘアトンとキャシーを食卓から追いはらおうとしたわけではありません。自分の感情にすっかり負けてしまうのはいやだったらしく、むしろ自分で顔を出さないようにしていました。一昼夜に一度の食事で十分足りたようです。
ある夜、家じゅう寝しずまってから、わたしはヒースクリフが階下へおり、玄関から出て行く音を聞きつけました。帰って来たようすはなく、朝になってもまだいませんでした。もう四月でした。快い暖い時候となり、草は雨と日光を十分吸って緑もあざやかに、南の塀のそばの二本のちっぽけなリンゴは花盛りでした。朝食のあとで、キャサリンはわたしに家のはしにある樅の木の下へ椅子を持ち出し、そこで仕事をやれと言ってききません。それから怪我のすっかりなおったヘアトンをうまくだまして、土を掘り小さな花壇を作らせました。ジョーゼフの苦情のために、そのすみに場所を移したのです。わたしはあたりに漂う春の香気と、頭上の美しい穏やかな空を心ゆくまで楽しんでおりました。そのとき、縁《ふち》に植える桜草の根を取りに門の近くまで走って行ったお嬢さまが、半分しか取らずに帰って来て、ヒースクリフさんが帰ったと知らせました。
「あたしに口をきいたのよ」とまごついた顔をしていました。
「なんて言った?」とヘアトンが聞きました。
「さっさと行ってしまえって。でも、いつものようすとまるでちがうので、しばらく立ってよく顔を見ちゃった」
「どんな風なんだ?」
「そうね、明るくて楽しいみたい。いいえ、みたいどころじゃない……|とても《ヽヽヽ》興奮して、のぼせあがって喜んでたわ……」
「それじゃ夜歩きがおもしろかったんですね」わたしはわざと無関心をよそおって言いました。実はお嬢さまに負けず意外で、ほんとうにその言葉どおりかどうかたしかめたくてたまりませんでした。ヒースクリフが喜んでるなんて、めったに見られるものではありませんもの。口実を作って、家の中へはいってみました。ヒースクリフは開いた戸口に立っていました。青ざめた顔をして震えていますが、たしかに、目は不思議な喜びに輝き、顔全体の感じまで変えていました。
「お食事はいかがですか? ひと晩じゅう歩いてきては、お腹もすいたでしょうに!」どこへ行ってきたのかも知りたかったのですが、露骨な聞き方はしたくなかったのです。
「いや、腹はへってない」とヒースクリフは顔をそむけて答えました。わたしが上機嫌のわけを知ろうとしたのを感じたのか、ばかにするような口調でした。
わたしは迷いました。このさいひと言忠告しておくほうがよいのではないかと思案していたのです。
「おやすみにならずに、外を歩き回るのはよくないでしょう」とわたしはとうとう言いました。「いずれにせよ、こんな湿気の多い季節だけはやめたほうがいいと思いますよ。悪い風邪か熱病にかかるかもしれませんからね。現にもうどこかお悪そうですよ!」
「なに、たいしたことはない。このままで嬉しくてたまらないんだ。放っておいてくれりゃあな。中へはいれ。うるさくするな」
わたしは言われるとおりにしましたが、そばを通るとき、彼の猫のようにせわしい呼吸に気がつきました。
「間違いない。近いうち病人がでるだろう。いったいこの人は何をやってきたのかしら」とわたしはひそかに思いました。
その日の昼食のときは彼はわたしどもといっしょに席につき、いままで食べずにいた埋め合わせでもするつもりか、わたしの手から山盛りの皿を受け取りました。
「風邪にも熱病にもかかっちゃいないよ、ネリー」彼は朝のわたしのことばを思いだして言いました。「おまえのくれる食べものは喜んで食べてやるよ」
ナイフとフォークを取って、食べ始めようとし、にわかに食欲がなくなったようでした。手にしたものをまた下に置き、不安そうに窓のほうを見たと思うと、立ちあがって出て行きました。みんな食べているあいだじゅう、庭を行ったり来たりしているのが見えました。アーンショウはなぜ食べないのか聞いてくると言いました。何かわたしどものことで気を悪くしたものと思ったのです。
「どうなの、来るの?」キャサリンは戻ってきた従兄に声をかけました。
「いや……だけど怒ってやしない、それどころか、珍しく機嫌がよかったよ。ただ二度も話しかけたら、うるさがって、キャサリンのところへ行けって言ったけどな。ほかの相手がなぜ欲しいんだと言ったよ」
わたしはヒースクリフのお皿を、冷《さ》めないように暖炉の脇棚へのせておきました。一、二時間して、もう部屋を片づけたあとで、彼が戻って来ました。興奮は少しもおさまっていません。さっきと同じ不自然な喜びが……ほんとに不自然なのです……濃い眉の下に漂い、さっきと同じ血の気のない顔色で、ときどき微笑のように歯を見せます。全身がぶるぶる震えていますが、寒けや衰弱からの震えではなく、ぴんと張りつめた弦が振動するような……ただの身震いではない、強いぞくぞくする興奮状態でした。
どうしたのか聞いてみようと思いました。わたしでなければ聞ける人はいないんですから。
「何かよい知らせをお聞きになったんですか、ヒースクリフさん? ずいぶんお元気のようですけど」わたしは声をかけました。
「いい知らせがどこからくるんだい、このおれに? 腹がへって元気になったんだ。どうやら飯を食わないほうがいいらしい」
「お食事はここにありますよ。どうして召しあがらないんですか?」
「いまはいらない」と気短かそうにつぶやきました。「夕飯まで待つよ。ネリー、今度限り頼むが、ヘアトンともう一人にそばへ来ないように言ってくれ。だれにも邪魔されたくないんだ。ここに一人でいたい」
「そうやって追い出すのは、何か新しいわけがあるんですか? なぜそんな妙なことばかりおっしゃるんですか、ヒースクリフさん。ゆうべどこへいらしったんですか? つまらない好奇心からお聞きしてるんじゃありません……」
「まったくくだらん好奇心から聞いてるんだ」と彼は笑って、さえぎりました。「だが答えてやろう。ゆうべは地獄の入口まで行ったのさ。きょうはおれの天国が見える。おれにはそれが見えている。三フィートと離れないところに来ているんだ! さあもう行くほうがいいぞ! むだなせんさくさえしなければ、こわいものを何も見たり聞いたりするわけじゃない」
わたしは暖炉の掃除をし、テーブルをふいて、そこを出ましたが、いよいよ頭の中は混乱してきました。
その午後は彼は二度と居間から出て行かず、一人でいる彼をだれも邪魔しませんでした。八時になりましたので、呼ばれませんでしたけれど、蝋燭と夕食を持って行くほうがいいと思いました。すると格子窓の下わくにもたれていましたが、外を見ずに暗い室内に顔を向けていました。暖炉の火は消えて灰となり、部屋は曇った夕方のしめやかな、落ち着いた気配に満たされておりました。とてもひっそりして、ギマトンの下方の小川のせせらぎばかりか、さざなみの音、小石をごぼごぼ越える音、越えられない岩の間を縫う音まで聞きわけられました。暗くなった火床にあきれて思わず声を出し、窓をひとつひとつしめて、最後にヒースクリフのもたれている窓に来ました。
「ここもしめましょうか?」身動きもせぬ彼を気づかせようと、たずねました。わたしがことばをかけたとき、蝋燭の火が彼の顔を照らしました。まあ、ロックウッドさま、ひと目見て、わたしのぞっとしたことといったら、何とお話したらいいでしょう! あの落ちくぼんだ黒い目! あのほほえみと、死人のような青白い顔! それはとてもヒースクリフさんとは思われず、悪鬼のようでした。恐怖のあまり、蝋燭を壁に倒しかけ、真っ暗闇にのまれてしまいました。
「うん、しめてくれ」と言う声はいつもの聞きなれた声でした。「そら、なんてへまをやるんだ! 蝋燭を横にして持つやつがあるか。早く別のを持って来い」
ばからしいくらい恐怖にとらわれて、飛びだし、ジョーゼフに言いました……「旦那さまがあんたに蝋燭を持って来て、暖炉の火を起こすようにっておっしゃってるわ」わたしにはすぐまたあの部屋へはいる気にはなれませんでした。ジョーゼフは燃えている石炭を、シャベルにがらがちすくい取っていきました。じきにそのまま持って帰って来ました。もう一方の手には夕食の盆を持っていて、ヒースクリフの旦那はやすむところで、朝まで何も食べたくないそうだ、と言います。すぐそのあとで、ヒースクリフが階段をのぼっていく足音がしました。いつもの自分の部屋ではなく、あの鏡板を張りめぐらしたベッドのある部屋へ向かうのです。前にも申しましたが、あそこの窓はだれでも抜けられるくらい大きくとってあります。また真夜中の出歩きをするつもりなのだな、それをわたしたちに悟られたくないのだな、とわたしはとっさに思いました。
「あの人は食屍鬼《グール》か吸血鬼《ヴァンパイア》なのかしら?」とわたしは考えました。人間の姿をした恐ろしい悪鬼のことを本で読んだことがあるからです。でもすぐ、子供のころ世話をしてやったこと、青年になるまでずっと見てきたこと、ほとんど一生そばにいたことを考え、そんな恐怖感に負けるなんて、いかにも愚かなことと悟りました。「だけどあの善良なアーンショウさまに拾われて、逆に破滅をもたらした、あの真っ黒な子は、いったいどこから来たのかしら?」うとうとして意識を失いかけたわたしに、迷信がささやきかけました。なかば夢うつつで、あの人に似合いの親をあれやこれや想像し始めるのでした。そしてまた覚めている頭で、彼の一生をいろいろと気味わるい見方で考えなおしてみるのでした。おしまいには、彼の死やお葬式まで想像していました。その中で覚えているのは、墓石に刻む文字に困りはてて、寺男に相談したものの、苗字《みょうじ》もなければ年齢もはっきりしない男のことですから、ただ「ヒースクリフ」としておくほかはなかったことです。それが本当に夢のとおりになり、それだけ刻みました。墓地にいらっしゃれば、墓石にその名と亡くなった日付けだけ書いてあるのがごらんになれます。
夜明けになって、やっとふだんのわたしに戻りました。明るくなるとすぐ起きて庭へ出て行き、ヒースクリフの部屋の窓の下に足跡がないかたしかめました。足跡はなく、「ではずっと家にいたのだ。今日はよくなるだろう」とわたしは思ったのでした。いつものとおり家の人たちの朝食を作り、ヘアトンとキャサリンには、旦那さまはけさは遅いからさきにすませなさい、と言いました。二人は外の木陰で食べたいと言いますので、小さいテーブルを出してやりました。
また家へはいりますと、ヒースクリフさんが起きて来ていました。ジョーゼフと何か農場の仕事について話しています。問題の点についてはっきりした、細かい指図を与えているのですが、とても早口で、絶えずわきを見て、咋日と同じ昂奮状態がいっそう激しくなっているようすでした。ジョーゼフが出て行くと、いつもの場所に腰をおろしましたので、わたしはコーヒーを前におきました。彼は茶碗を引き寄せ、テーブルに両腕をのせ、反対側の壁を見つめていました。ある部分だけ見あげたり見おろしたりしているらしく、その目はギラギラ光って落ち着かず、ときどきしばらく息も止めるくらい夢中で見ているのです。
「さあどうぞ」とわたしはパンを手に押しつけてやりました。「冷めないうちに、あがって下さい。もう一時間も前からできてるんですから」
そのことばなど耳にはいらないようでしたが、にやりと笑いました。そんな笑い方をされるより、歯ぎしりでもしてもらったほうがいいくらいでした。
「ヒースクリフさん! 旦那さま! 後生ですから、幽霊でも見るように見つめないで下さい」とわたしは叫びました。
「後生だから、そんな声を出さないでくれ。ここにはだれもいないかどうか見てくれ」
「むろんです……わたしたちしかいやしません」
それでも思わず不安な気がして、見回しました。ヒースクリフさんは朝食の食器を手でわきにどけて、目の前を広くし、身を乗り出してもっと楽な姿勢で見つめるのでした。
ところが、壁を見ているわけでもないことがわかりました。彼だけ注意して見ますと、間違いなく二ヤードと離れていないものを見つめているのです。何かわかりませんが、明らかにそれがこの上もない喜びと苦痛を与えているのです。少なくとも、顔ににじみ出た苦しみに悶えながら、しかも恍惚としている表情を見るとそう思われます。彼の見ている幻は一カ所にじっとしてはいないのです。目は疲れもせずに見張っていて追い回し、わたしと話しているときでさえ、それから離そうとしません。ずっと食事をしないでいることを注意してあげてもむだでした。うるさく言うのを聞いて何か手をつけようとしかけたり、手を伸ばしてパンを取ろうとしても、そこに届かないうちに手は固く握りしめられ、テーブルにおいたまま、しかけたことも忘れてしまいます。
わたしは忍耐のお手本のようにそばにかけて、夢中で考えこんでいることから注意を惹《ひ》きよせようとしましたが、ついにヒースクリフはいらだって、立ちあがり、なぜおれに自由に飯を食わせないのか、この次からは給仕などいらない、皿をならべたらすぐ出て行け、と言いました。そう言い放つと居間を出て、ゆっくり庭の小径を歩いて行き、門の外へ姿を消してしまいました。
不安のうちに時間がたち、また夜となりました。わたしはおそくまで寝室へ行かず、引き取ってからも寝つけませんでした。ヒースクリフは真夜中過ぎに帰って来ました。寝室へは行かずに、下の部屋に閉じこもってしまいました。わたしは耳を澄ませ、寝返りばかり打っていましたが、とうとう服を着て下へ行きました。横になっていると、いろいろつまらない不安に悩まされ、とてもやりきれなかったのです。
ヒースクリフが落ち着かずに床を歩き回る足音が聞きとれました。何度も吸いこむ深い息がうめき声のように聞こえ、静けさを破ります。またきれぎれな言葉をつぶやくのです。ひと言だけ聞こえたのはキャサリンの名で、激しい愛情か苦しみの言葉もいっしょでした。それも目の前の人に言うような、低く、ひたむきな、魂の底からしぼり出される声でした。わたしはとてもまっすぐその部屋へはいる勇気がありません。でもなんとかして妄想から覚ましてやりたいと思い、台所のかまどに向かって行き、わざと火をかきたて、燃えがらをかき回し始めました。思ったより早く彼は気がつき、すぐドアをあけて言いました……
「ネリー、こっちへ来てくれ……もう朝なのか? 明かりを持って来てくれ」
「四時を打っているところです。二階へ持ってらっしゃる蝋燭がいるんですね。この火でおつけになってもよかったのに」
「いや、二階へ行きたくはない。はいって来て、おれに火を起こしてくれ。この部屋ですることがあったら、なんでもしてくれ」
「さきに石炭を真っ赤に起こさなくては、持って行けませんわ」とわたしは椅子を引き寄せ、ふいごをとって答えました。
ヒースクリフはそのあいだ、気が狂いかけたようすであちこち歩き回りました。深い溜息がひっきりなしに出て、ふつうの呼吸もできないくらいでした。
「夜が明けたらグリーンを呼びにやろう。法律問題を考えたり、冷静な処置ができるうち、聞いておきたいことがある。まだ遺言状も書いてないし、遺産のことも決めようがない。そんなものは、この地上から消滅させたいくらいだ」
「そんな話はごめんですわ、ヒースクリフさん。遺言状のことはしばらくそっとしてお置きになったら。まだまだ長生きして、いままでの間違った行為を後悔させられることになるでしょうよ。あなたの丈夫な神経が狂うなんて、思いもかけませんでした。でも、いまは、ほんとにふしぎなくらい狂ってますわ。それもみんな自分の過失からですよ。この三日間のようなやり方をしたら、どんな巨人だってまいってしまいます。さあ、少し食べて眠ることですわ。鏡をちょっと見るだけで、それが必要なことはわかるはずです。頬はこけて、目は血走って、餓え死にしかけ、不眠のために目のつぶれかけた人間みたいですよ」
「食うことも眠ることもできないのはおれが悪いんじゃない。はっきりした考えからこうしてるわけじゃないんだから、どちらもできるようになれば、すぐやるよ。だが、いまそうしろと言うのは、死にもの狂いで泳いで岸に届きそうになったとき、ひと休みしろと言うようなものだ……まず泳ぎつかなくちゃならない。休むのはそのあとだ。そうだ、グリーンさんのことは気にしなくていい。おれが間違った行為を後悔するというが、間違ったことなどやっていない。後悔することなんかないんだ。おれは幸福でたまらない。まだまだ十分じゃないんだ。おれの魂の無上の喜びがからだを焼きつくしてもまだ満足しないのだ」
「幸福ですって、旦那さま?」とわたしは叫びました。「ふしぎな幸福ですこと! 怒らずに聞いて下さいましたら、もっと幸福になれるように忠告してあげたいんですけど」
「どんな忠告だ? 言ってみろ」
「自分でもおわかりでしょう、ヒースクリフさん。あなたは十三のときから自分本位の、キリスト教徒らしくない生き方をしてきました。たぶんそのあいだ聖書を手にしたこともないでしょう。その本の内容もお忘れでしょうし、いまではもうその中の言葉を求めるゆとりもないでしょうね。だれか呼んでもらって……宗派なんかかまいませんから、牧師さんを呼んで……聖書のお話を聞かせていただくのはべつに悪いことじゃないでしょう? 聖書の教えからあなたがどんなにはずれたことをしてきたか、亡くなる前に悔い改めない限り、天国へ行くにはどんなに不似合いか、よく話していただくんですわ」
「怒るどころか、感謝するよ、ネリー。おかげで、おれの葬式をどうやってもらうか、考えついたからな。日が暮れてから教会の墓地へ運んでもらうのだ。よかったら、おまえとヘアトンがついて来てもいい。寺男が二つの棺についておれが指図したことを守るように、特に気をつけるんだぞ! 牧師なんか来なくていい! おれには何も唱えてくれなくていい……いいかね、おれはもうすぐ|おれ《ヽヽ》自身の天国に行くところなんだ。他人の天国なんかおれにはなんの値打ちもなし、行きたくもなんともない」
「でも頑固に絶食をつづけ、それで死んだら、教会じゃ、あの墓地に葬ることは断わると思いますけどね」神を信じない無頓着さにわたしはあきれてしまいました。「それでもいいとおっしゃるんですか?」
「断わりなんかするものか。断わったら、おまえがこっそり移しておいてくれ。そうしなかったら、死んでもすっかり消滅するわけじゃないってことを実際におまえに見せてやるぞ!」
家のほかの人たちの起きだす気配を聞きつけて、ヒースクリフはすぐ自分の部屋へ引きあげてしまい、わたしもほっとしました。ですが午後になって、ジョーゼフとヘアトンが仕事に出ているあいだに、また台所にはいって来て、気違いじみた顔つきで、わたしに居間に来て坐っていてくれ、と言いました。だれかにいっしょにいてもらいたかったのです。わたしは断わりました。奇妙な話ぶりや態度がこわくてたまらないので、とても一人で相手になる勇気もなし、そんな気になれないと、はっきり言ってやりました。
「おまえはおれを悪魔だと思ってるな」いつもの薄気味悪い笑い方をして彼は言いました。「りっぱな家には住めない、身の毛もよだつような化け物だと言うんだろう」ちょうどキャサリンもそこに居合わせ、ヒースクリフが近づくとわたしのうしろに隠れていたのですが、このとき彼女に向かって冷笑するように言いました……「お嬢ちゃん、おまえなら来てくれるかい? ひどい目に合わせやしないよ。いやか! おまえには、悪魔よりひどくしてきたからな。そうだ、一人だけ、おれといっしょにいるのをこわがらないやつがいたっけな! ああほんとうに無情な女さ! えい、ちきしょう! とても生身の人聞に……いくらおれだって……たえきれるものじゃない」
もうだれにもそばへ来いとは言わず、日暮れになると自分の部屋へ行ってしまいました。その夜はひと晩じゅう、明けがたになるまで、うめき声が聞こえました。ヘアトンは心配のあまり、行ってみようとしましたが、わたしはケネス先生を呼んで診《み》てもらうほうがよい、と言いました。先生が来ますと、わたしは入れて下さいと声をかけ、ドアをあけようとすると、鍵がかかっていました。ヒースクリフは中から、悪態をつきました。もう気分はよくなったから放っといてくれ、と言うのです。医者は帰って行きました。
その晩はひどい雨でした。ほんとにひどいどしゃ降りで、夜明けまでつづきました。朝になって家のまわりを歩いてみますと、旦那さまの部屋の戸が開いてばたんばたんいい、雨がまともに吹きこんでいました。ヒースクリフはベッドにいるはずはない、とわたしは思いました。こんな降りようでは、ずぶ濡れになるはずだから、きっと起きているか、外出しているかにちがいない。でも騒ぎたてたりせずに、思いきって見てきてやろう。
別の鍵でなんとか中へはいれましたが、部屋には姿が見えません。寝台の戸をあけようと駆け寄りました。すぐ引きあげて、のぞきこみました。ヒースクリフがいました……仰向けに寝て。するどい、けわしい目つきがわたしの目と会い、思わずぎょっとさせられました。そのとき彼が笑ったようでした。まさか死んでいるとは思えませんでした。でも顔も喉のところも雨に洗われ、寝具からぽたぽたしずくが垂れているのに、彼は身動きひとつしないのです。格子窓は開いたりしまったりし、下わくにおいた片手がすりむけていましたが、傷口から血も出ていません。その手に触れてみると、もはや疑う余地はありませんでした。ヒースクリフは死んで、堅くなっていたのです!
わたしは窓の掛け金をかけ、彼の額に垂れた長い黒い髪をくしでかきあげ、目をつむらせようとしました。できればだれも見ないうちに、恐ろしい、生きているような歓喜の目を、消してしまいたかったからです。それはどうしても閉じようとしません。わたしのやることをあざ笑うようでした。開いた唇や鋭い白い歯にもあざ笑いが浮かんでいるようでした! ふたたび恐怖に襲われて、思わず大声あげてジョーゼフを呼びました。ジョーゼフは足を引きずってあがって来ると、騒ぎたてましたが、どうしても死人に手をかけるのはいやがりました。
「悪魔が旦那の魂をさらっていっただ。ついでに、死骸まで持ってきゃあよかったによ! へっ! 死んでまでにったりにったりしてるたあ、なんてまあ悪党だか!」と、この罰当たりの老いぼれはばかにしたようににたにた笑いました。爺さんは寝台のまわりをはね回りでもしそうでしたが、急に落ち着いて、ひざまずき、両手を高々とあげて、正当な主人と古い家系が当然の権利を取り戻したと、感謝の祈りを捧げました。
わたしは恐ろしい出来事に気も遠くなるようでした。悲しみに胸をふさがれながら、自然と昔のことに思いをはせました。ですが本当にヒースクリフの死を悲しんだのは、いちばんひどい目にあったはずの、かわいそうなヘアトンだけでした。彼はひと晩じゅう遺骸のそばに坐り、心から嘆き悲しみました。死者の手を握りしめ、ほかのものは恐ろしくて見ようともしない、冷笑的な残忍なその顔にキスまでしました。鍛えたはがねのように強いとしても、おおらかさのある心から自然に湧き出る激しい悲しみをもって、ヒースクリフの死を悼《いた》んでいたのです。
ケネス先生はヒースクリフの死囚となった病名を決めかねました。わたしが四日間も何も食べなかったことは、あとの面倒を恐れて隠しておいたからです。それにヒースクリフは初めから絶食するつもりだったわけではなく、妙な病気のためで、それが原因ではなかったとわたしは信じているのです。
世間の非難はずいぶん浴びましたが、ヒースクリフの望みどおりに埋葬いたしました。葬列にはヘアトンとわたしと寺男と、棺をかつぐ六人が加わっただけでした。六人は棺を墓穴へおろすとすぐに去ってしまい、わたしどもはすっかり土がかけられるまで残っておりました。ヘアトンは顔じゅう涙でぬらしながら、緑の芝土を掘りとって、自分で赤土の土|饅頭《まんじゅう》の上にかぶせてやりました。いまではそこも、そばにならんだキャサリンとエドガーの塚と同じように形よく、青々とした草におおわれています。……その下に葬られた人も、他の二人のように安らかに眠っていればよいと思います。ですが村の人たちにお聞きになれば、たしかに、ヒースクリフの幽霊が|さまよって《ヽヽヽヽヽ》いると言いますよ。教会の近くで会ったという人もあれば、ある者は荒野《ムア》で、またある者はこの家で見たと言っています。くだらないたわごとだ、とおっしゃるでしょうね。わたしだってそう思いますよ。でも、あの台所の炉辺にいる爺さんは、あれ以来雨の降る晩にはかならず、ヒースクリフの部屋の窓から、二つの人影がのぞいている、と言うんですよ。わたしもひと月ほどまえ、妙なことに出会っています。ある晩、スラッシクロス屋敷へ行く途中、……暗い晩で、雷が来そうでしたが……ちょうど嵐が丘の曲がり角で、一匹の羊と二匹の子羊を追ってくる小さな男の子に出会いました。その子はひどく泣き叫んでいるのです。わたしはてっきり、子羊がはね回ってよく歩かないせいだろうと、声をかけました。
「どうしたの、坊や?」
「ヒースクリフと女の人がいるんだ、あそこの、山のはじに。おっかなくて通れねえよう」と泣いているのです。
わたしには何も見えません。でも羊も子供も進もうとはしないので、下の道を行ったらよい、と教えてやりました。たぶんあの子は一人で荒野《ムア》を横ぎっているうちに、両親や、仲間たちがいつも話している、たわいもない噂話を思い出し、本当に幽霊を見たような気になったのでしょう。そうはいうもののわたしだって近ごろでは暗くなってからの外出はやっぱりいやでございます。この陰気な家に一人ぼっちになるのも薄気味わるく、どうしてもその気持を抑えられません。ヘアトンとキャサリンが一刻も早くここを引きはらって、スラッシクロス屋敷へ移ってくれるとどんなに助かるかしれないんですけれど。
「それじゃ、二人はスラッシクロスヘ移る気なのかね?」とぼくは言った。
「そうなんですよ」とディーンさんは答えた。「結婚したらすぐにね。式は元日の予定なんでございます」
「すると、ここにはだれが住むことになるのかね?」
「はい、それは、ジョーゼフが管理いたします。たぶん若い男が一人くらい相手に残ることになるんでしょう。二人とも台所だけ使って住んで、ほかはしめきりになるでしょうね」
「ほかの部屋は幽霊たちに好きなように住ませるわけだね」とぼくは言った。
「いいえ、ロックウッドさま」とネリーは首を振った「亡くなった方たちは平和な眠りについていると、わたしは信じているんです。亡くなった方のことを軽々しくおっしゃってはいけませんわ」
そのとき、庭の木戸のしまる音が聞こえ、散歩に出ていた二人が戻って来た。
「あの連中にはこわいものはないんだな」近づいてくる二人を窓ごしに見て、ぼくは言った。「あの二人がいっしょなら、魔王が全軍勢をひきつれて来たって、平気で向かっていきそうだ」
二人が入口の敷居石に足をかけて立ち止まって、もう一度月を見ようとしたとき……正確にいえば、月の光でおたがいの顔を見ようとしたとき……ぼくはふたたび逃げ出さずにいられない気持に駆られた。ディーンさんの手に心づけを押しつけると、そんな無礼を咎《とが》めることばもかまわずに、若い二人が居間のドアをあけるのと同時に、台所を抜けて姿を消した。だから、ジョーゼフの足もとへ投げてやった一ポンド金貨の快い響きのおかげで、幸い立派な人間だと認めてもらったからよいものの、さもなければ爺さんはいよいよ自分の仲間の召使が、けしからぬ情事をやっていると確信したことだろう。
帰りは教会のほうへ回ったので、だいぶ遠道になった。教会の塀の下へ来ると、わずか七カ月で、めっきり荒れかたがひどくなっていた。たいていの窓はガラスがなくなって黒い穴をのぞかせ、スレートもあちこち屋根の線から飛び出し、これからの秋の嵐でしだいにくずれ落ちるばかりとなっていた。
探してみると、すぐ三つの墓石が荒野《ムア》にいちばん近い斜面に見つかった。真ん中のは灰色になり、ヒースになかば埋まっていた。エドガー・リントンの墓だけが土台に這いあがった芝草と苔とでしっとりした感じになっている。ヒースクリフの墓はまだむきだしだった。
穏やかな空の下で、ぼくはしばらく墓石のあたりを歩いてみた。ヒースや釣鐘草《ヘヤ・ベル》のあいだを飛び交う蛾をながめ、草をわけるそよ風に耳を澄ませた。そして、こんな静かな大地の中に眠る者に、落ち着かない眠りがあろうなどと、いったい想像できるだろうか、と考えた。(完)
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エリス・ベルとアクトン・ベル略伝
これまでカラー・ベル、エリス・ベル、アクトン・ベルという三人の名前で出版された作品は、実はみな同一人の作だと考えられてきた。この誤解をぜひとも正したいと思い、わたしは『ジェイン・エア』第三版の序文に短い否定の言葉をつけ加えた。しかしこれも一般の人には信用されなかったようなので、このさい『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』の再版にあたって、いったい事実はどうなのか、はっきり述べたほうがよいという考えになった。
実際わたし自身この二つの名前……エリスとアクトン……にからまる不明な点をもう取り除いてよい頃だと思う。この小さな謎は、以前こそ無害な楽しみをいくらか提供したといえ、もはや興味はなくなった。事情が変わったのだ。こうしてカラー・ベル、エリス・ベル、アクトン・ベルが書いた作品の由来と作者について簡単に説明することがわたしの義務となったわけである。
五年ほど前、わたしと二人の妹とはやや長く別々に暮らしたあと、再びいっしょになり、家で暮らすことになった。教育もあまり進んでいず、したがってわたしたちの家庭以外に社交を求めるきっかけもない片田舎に住んでいると、この世の楽しみと仕事といっても、自分自身とおたがいどうし、また書物と勉強にもっぱら頼るほかはなかった。わたしたちが子供のときからずっと知っていた、もっとも生き生きした喜びと、もっとも大きな刺激は文学的創作の試みであった。前にはそれぞれ書いたものを見せあったが、最近は話しあったり相談しあったりする習慣をやめてしまった。こうしてそれぞれが示していると思われる進歩ぶりをおたがいに知ることがなくなってしまった。
ある日、一八四五年の秋のことであるが、わたしは偶然、妹エミリーの筆跡の詩の原稿を見た。むろん妹に詩才があり、詩を書いていることも知っていたので、驚きもしなかった。が原稿に目をとおしたとき、たんなる驚き以上のものがわたしを捉えた……これらの詩はありきたりの感情の吐露ではなく、そもそも一般に女性の書くような詩ではないという深い確信が湧《わ》いたのだ。それらは凝縮され、簡潔で、力強く、純粋だと思った。わたしの耳にはまた、独特の音楽……野性的で、もの悲しく、しかも心を高めるような響きを伝えてくれた。
妹のエミリーは自分をあらわに示すような性格ではなく、また彼女にいちばん近い、親しい者でさえ、その精神と感情の奥底に、かってに平気ではいりこめるような人間でもなかった。わたしが彼女の原稿を見つけたことを納得させるのに数時間かかり、さらに、そんなすばらしい詩は出版する価値があるのだと説き伏せるのに数時間かかってしまった。しかしわたしは、彼女のような精神をもつ者が、りっぱな野心の火花を秘めていないはずはないと思っていたので、その火花をあおって炎にする努力をあくまであきらめなかった。
そうしているあいだに、下の妹が自分の作品を遠慮がちに示して、エミリーの詩をわたしが喜んだのだから、自分の詩も見てくれてもよいだろう、と遠回しに言った。私の判断は一方に偏《かたよ》らざるをえなかったが、とにかくこれらの詩もそれなりに美しい誠実な哀感をもっていると思った。
わたしたちはずっと若い頃から、いつか作家になる日を夢み続けてきた。この夢は、遠く離ればなれになり、忙しい仕事にかまけていても棄《す》て去ることはなかったが、いまや突然に、力強い、ゆるぎないものとなった。それは決意の性質を帯びるようになったのである。わたしたちの詩の小さな選集を編み、できれば印刷しようと三人で決めた。わたしたちのことが世間に知れてはいやなので、本名を隠してカラー・ベル、エリス・ベル、アクトン・ベルという名を使った。こんなあいまいな名を選んだのは、はっきり男性とわかる名をつけるのはやや良心の咎《とが》めを感じたからであり、そのくせ一方では、わたしたちが女性であることをはっきり示したくはなかった。なぜなら……わたしたちの文章も考え方も、いわゆる「女性的」なものではないなどと当時は考えもしなかった……ただなんとなく、女流作家はとかく偏見をもって見られると感じたからである。批評家が女流作家を攻撃するのに、ときどき人物批評という武器を使い、また努力に報いようとするときは、真の称賛ではないお世辞《せじ》を使うことに気づいていたのだ。
わたしたちの小さな詩集を世に出すのは大変なことだった。当然予想はしていたが、わたしたちもわたしたちの詩も、ぜんぜん相手にされなかった。が、それは初めから覚悟の上だった。私たちは未経験だが、他人の経験を本で読んでいたのだ。いちばん困ったのは問い合わせた出版者からどんな内容にせよ、とにかく返事をもらうのが容易でないことだった。この障害にすっかり悩まされたわたしは、思いきってエディンバラのチェインバーズ社に助言を求めた。その間の事情はもう同社では忘れられているかもしれないが、わたしには忘れられない。なぜなら、同社から簡単な事務的な、しかし丁重な、思慮に富む回答をいただき、それにもとずいて行動したおかげで、ついに活路を見いだしたのである。
詩集は出版された。だが、ほとんど人に知られていないし、知られる価値のあるのはエリス・ベルの詩だけである。その詩についてわたしが抱いていた、いまもなお抱いている、ゆるがぬ確信は、まだ十分な好評の裏づけをえていないとはいえ、わたしはやはり捨てることはないであろう。不成功にもわたしたちは挫《くじ》けなかった。ひたすら成功しようとする努力によって、驚くべき生きがいがえられたのだ。だからあくまで続けなくてはならなかった。わたしたちはめいめい散文の物語に取りかかった。エリス・ベルは『嵐が丘』を、アクトン・ベルは『アグネス.グレイ』を書き、カラー・ベルはまた一冊の物語を書きあげた。これらの原稿はさまざまな出版者のもとへ、一年半にもわたって辛抱づよく持ちこまれた。が、たいてい、不名誉にも即座にはねつけられるだけだった。
ついに『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』が、二人の作者には多少不利な条件で受け入れられた。カラー・ベルの本はどこにも引き受け手がなく、長所も認めてもらえなかったので、作者の気力は滅入るような絶望に挫けてきた。はかない望みをかけて、もうひとつの出版社に当たってみた……スミス・エルダー社である。まもなく……それまでの経験から予想していたよりもずっと早く……一通の手紙が届いた。たぶん「御原稿を出版する意志はありません」という、冷酷な、取りつくしまもない二行だけ書いてあるのだろうと、やりきれない思いで開封したところが、二行どころか便箋二枚の手紙が出てきた。震えながらそれを読んだ。むろん、その物語の出版は営業上の理由で断わってはいたが、作品の長所と短所をきわめていんぎんに、すこぶる思いやり深く、またすこぶる合理的な精神と、まことに曇りのない眼識をもって指摘していたので、拒絶されはしたものの、気品のないことばで承諾されるよりもむしろ喜んだくらいであった。さらに三巻ものの作品なら慎重に考慮したい、とつけ加えてあった。
ちょうどそのとき、私は『ジェイン・エア』を完成しかけていた。前の一巻ものの作品が哀れにもロンドンのあちこちを飛び回っているあいだに書いたのである。三週間たって送ってみると、好意的な練達の方々が受け入れてくれた。これは一八四七年九月の初めのことだが、翌月の十月の終わりにはもう出版された。ところが、妹たちの書いた『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』のほうは印刷に回ってから数カ月にもなるというのに、まだ他の出版社の手で手間どっていたのである。
しかし、ついに二冊とも出版された。批評家たちは正当な評価をしなかった。『嵐が丘』に示された未熟ながらも真の才能はほとんど認められなかった。意図と本質がとりちがえられ、作者の人物も誤まり伝えられた。これは『ジェイン・エア』を書いたのと同じ作者の初期の生硬な習作だと言われたのである。不当な、悲しむべき誤解! 初めのうちこそわたしたちは一笑に付していたが、いまはわたしには本当に残念に思われるのだ。おそらく、こんなところからこの作品に対する偏見が生じたのではあるまいか。あるひとつの努力の成功に乗じて、拙劣な未熟な作品までごまかして売りつけようとするような作家は、実際、執筆にともなう二次的な、卑しむべき利益のみを不当に追求し、真の名誉となる称賛には情ないほど無関心であるにちがいない。もしも書評家や一般読者が本当にこんなことを信じていたとすれば、そんなごまかしに険悪な顔を向けたのはもっとも至極《しごく》なことだ。
しかし、わたしがこんなことに非難や苦情を向けるつもりなのだと取られては困るのだ。わたしにはとてもそんなことはできない。亡き妹の思い出を大切にする気持からも、決してできはしないのだ。彼女だったら、そんなぐちっぽい感情をあらわにすることなど、卑劣な不愉快な弱点と見なしたことであろう。
批評家の一般的なやり方に対し、ひとつの例外を認めることは、わたしの喜びであり義務でもある。天才的な鋭い洞察力と繊細な理解力をそなえた一作家が『嵐が丘』の本質を見抜き、同じ的確さで美点を認め、欠点を論じたのである。書評家たちは、「壁の上の運命の文字」〔バビロニア最後の王ベルシャザルの酒宴のとき、壁に王国の滅亡の運命を示す文字が現れた〕の前に集まり、その文字を読むことも解釈することもできなかった占星学者、占星家、占い者たちの一群を思いださせることがあまりにも多いのである。最後に真の洞察者、すぐれた精神をもつ人、光と英知と理解力をそなえた人間が現われるとき、わたしたちは当然それを喜んでよいのだ。そういう人こそ独創的な精神(その精神がいかに未熟で、教養は不十分で、偏《かたよ》った発達をしていても)による「壁の上の文字……メネ・メネ・テケル・ウパルシン〔数えたり、数えたり、測れり、分かたれたり……神が王を数え、測り、国が分かれて滅亡するという意味の予言〕」の意味を正確に読みとり、「これこそその解読である」と自信をもって言うことができるのだ。
しかしわたしがここに挙《あ》げた作家でさえ、筆者については同じ誤まりを犯し、わたしがその作者と曲解された名誉(私は名誉と見なす)を前にしりぞけた言葉が明瞭を欠いたかのように、真意を曲解されているのである。この点でも、また他のどんなことがらでも、あいまいにしておくのはわたしの軽蔑するところだということを、この方に信じていただきたいものである。そもそも言葉というものは、わたしたちの意図を明らかにするために授かっているのであり、不誠実な不確かさの中に包んでおくためのものではないと信じている。
アクトン・ベルの『ワイルドフェル邸の住人』も同様に不評をこうむった。これはわたしも無理はないと思う。主題の選択がぜんぜん誤まっていたのだ。作者の性格にこれほど不適当なものはないくらいだ。これを選んだ動機は純粋ではあったが、やや病的だったと思われる。彼女は生涯のうちに、すぐ身近で、しかし長期間にわたって、素質が悪用され、才能が酷使された恐るべき結果を見せつけられた〔兄ブランウェルの悲劇的な生涯と死をさす〕。彼女は本来感じやすい、内気な、憂欝な性質であった。その目に見たものが心に深く刻まれ、彼女を傷つけた。彼女はそれをくよくよと考えこみ、ついには、あらゆる細部(むろん、仮空の人物、事件、環境を用いて)を再現し、他人の戒めとする義務があると思いこんでしまった。彼女はそんな仕事がいやでならなかったのに、あくまで捨てようとはしなかった。この主題のことで、はたからあれこれ言うと、かえってその説得を自分を甘やかしてしまう誘惑と見なした。正直でなければならない、飾ったり、かげんしたり、隠したりしてはならない。こういう善意の決心が構成の誤まりを生じさせ、また非難をも招くことになった。しかし、どんな不愉快なことも、おだやかな落ち着いた忍耐力で耐えるのが彼女の習慣だったので、この非難にも耐えた。彼女はきわめて誠実な、活動力のあるクリスチャンだったが、宗教的な憂欝さがその短い、非のうちどころのない生涯に悲しい影をおとしていた。
エリスもアクトンも励みとなるものがなくても、一瞬でも意気消沈したことはない。エリスは気力によって奮起し、アクトンは忍耐力に支えられた。二人とももう一度試みる覚悟だった。希望と力の自覚が二人の心の中にまだ強く残っていた、とわたしは考えたい。しかし大きな変化が近づいた。予想するのは恐ろしく、あとから回想するのは悲しい形で不幸がやって来た。一日の労苦と暑さの中で働く者たちは仕事の中で挫けてしまった。
妹のエミリーがまず弱ってきた。彼女の病状は細かい点までわたしの記憶に刻みこまれているが、ただ回想するにせよ、物語るにせよ、それを考えるのはわたしにはとうていできない。妹は生涯を通じて、目の前に控えている仕事はさっさとすましてしまうほうだったが、今度も手間どりはしなかった。彼女は急激に衰えた。あわただしくわたしたちのもとを去った。しかし肉体が滅んでいくのに、精神はそれまでになく強くなった。来る日も来る日も、彼女が苦しみに大胆に対抗するさまを、わたしは驚嘆と愛情の悲痛な思いで見守ったものである。かつてそんな光景を見たこともなかったが、本当に、なにごとであれ、彼女に匹敵するものを見たことはない。男よりも強く、子供よりも単純な彼女の天性は、まったく比類のないものであった。私たちが舌をまいたのは、他人に対して同情にあふれながら、自分自身に対してはいささかも憐れみをもたないことだった。精神は肉体に冷酷だった。震える手にも、力のなくなった四肢にも、かすんだ目にも、健康のときと同じ仕事を要求した。かたわらでそれを見ながら、忠告することもできないというのは、言葉では表わせない苦痛だった。
希望と不安の交錯する、耐えがたいふた月が苦痛のうちに過ぎた。そしてついに、目の前で衰弱していくにつれ、いよいよわたしたちの心にいとおしいものとなった最愛の者が、死の恐怖と苦痛に会わなければならない日が来た。その日の終わりごろには、肺結核に消耗しつくされたエミリーのなきがらしかわたしたちに残されなかった。彼女は一八四八年十二月十九日に死んだ。
わたしたちはもうこれでたくさんだと思ったのに、それはまったくかってな思いちがいであった。エミリーがまだ埋葬されないうちに、アンが病気に倒れた。エミリーが墓地に送られて二週間とたたないうちに、わたしたちは下の妹が上の妹を追うのを見送る覚悟をしなければならないと、はっきり知ったのである。こうしてアンは同じ道を、もっとゆっくりした足どりでたどったが、そのときの辛抱強さはエミリーの不届さに劣らなかった。彼女の信心深さについては前にも述べたが、最も苦痛にみちた旅路に、心の支えを見いだしたのは、彼女が固く信じていたキリスト教の教義に頼ることによってであった。臨終の最大の試練のとき、その教えの効験をわたしはまのあたりに見たし、彼女を助けてあの世に送りとどけた教えの静かな勝利を証言しなければならない。彼女の亡くなったのは一八四九年五月二十八日である。
二人について、これ以上何を言ったらよいだろう? これ以上あまり言うことはできないし、その必要もない。外見は二人とも控えめな女性だった。完全に世間から隔離された生活のために、遠慮ぶかい態度と習慣ができあがっていた。エミリーの性質には極端な強さと純真さが同居していたようだ。素朴さを失なわない教養と、気どらない趣味、慎しみぶかい外面に隠れて、英雄の知力をも鼓舞《こぶ》し、血潮を燃えたたせるような力と火がひそんでいた。が彼女は世才というものを欠いていた。その能力は実生活の仕事には不向きだった。自分のどんな明白な権利も守れず、どんな正当な利益も考慮することはできなかったろう。彼女と世間とのあいだにはいつでも仲介者がいなければならなかった。その意志はあまり融通がきかず、たいてい自分の利益に反するものだった。おうような気性であったが、激しやすく、気分は突然に変わった。その精神はまったく不屈だった。
アンのほうが温和な従順な性格だった。姉のような能力も情熱も独創性も欠いていたかわりに、彼女なりのおだやかな美徳を十分そなえていた。辛抱づよく、自制心に富み、内省的で、しかも聡明だったので、生来の遠慮ぶかさと無口から、いつも人の陰に引っこんでおり、心には、とくに感情には尼僧のようなヴェールをかけ、めったに取りはずそうとはしなかった。エミリーもアンも学識はなかった。他人の精神の泉を汲んで自分のかめを満たそうなどとは考えなかった。二人ともつねに本性からの衝動、直観の指示にしたがい、狭い体験からつみ重ねた多くの観察によって書いたのである。これを簡単に言えば、未知の人にとってはつまらぬものであり、皮肉な観察者にはさらに無価値だったとしても、ごく親しい間がらで、生涯を通じて知っていた人々にとっては紛れもなくすばらしいもの、真に偉大なものなのであった。
この文を書いた理由は、二人の墓石のちりをぬぐい、いとしい名前から汚点を免れさせることをわたしの神聖な義務と感じたからである。
カラー・ベル(シャーロット・ブロンテ)
一八五〇年九月十九日
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『嵐が丘』第二版の編者序文
わたしはいま、『嵐が丘』を読みとおしてみて、初めてその欠点と言われているもの(たぶん、本当に欠点なのだろうが)をはっきり認めることができた。一般の人たち……作者について知識がなく、物語の舞台がおかれている土地も知らなければ、ヨークシャーのウエスト・ライディンクのはずれの丘陵や小さな村々の住民、風習、自然の特色などにも通じていない人々……にどんな風に考えられるかがはっきりわかったのである。
そんな人にはみな、『嵐が丘』は荒けずりの、風変わりな作品と受けとられるにちがいない。イングランド北部の未開の荒野《ムア》など興味が持てるはずはないのだ。その地方に散らばる住民の言語、風習、また住居や家庭の習慣そのものなどわからないことばかりだろうし……わかった場合も……不愉快に感じるだけだろう。おそらく生まれつききわめておだやかで、感情が極端に走らず、とくに目立つ性質もなく、幼時からすこぶる落ち着いた態度、慎しみぶかい言葉を守るようにしつけられてきた人たちは、荒野《ムア》地方の文盲の作男や、荒野地方の洗練されない地主たちの粗野なもの言い、荒々しいむき出しの感情、嫌悪の情を抑えようともせぬこと、衝動的なえこひいきなどをどう受けとってよいかわからないだろう。この作男や地主たちは自分たちと同じ荒けずりの人間によるほかは、教育もしつけも受けずに育ったのである。それにまた、大部分の読者はこの作品の中で、ふつう頭文字と末尾の文字だけ示して真ん中には一本の横線だけ引いておく習慣になっている、けがらわしい単語をすっかり文字で表わしているページを見せられて大いに不愉快に感じることであろう。わたしにはこのことについての弁解はできそうもないことをただちに申しあげるほうがよいだろう。わたし自身、単語は綴りをみな書くのが合理的なやり方だと思っているからだ。神を恐れぬ乱暴な人間が、よく自分の会話に添える罵《ののし》り言葉を一字か二字だけで暗示する習慣は、どんなに善意から発するにせよ、愚かなむだなことのようにわたしには思える。それにどんな利益があるのか……どんないやな感情を起こさせないですむというのか……どんな恐怖を隠すというのか、わたしにはわからないのだ。
『嵐が丘』の田舎くささについてはわたしも非難を認めざるをえない。わたしだってその点を感じるからだ。まったく徹底的に田舎くさい作品である。荒野《ムア》そのまま、野性的で、ヒースの根みたいにふしくれだっている。また、そうでなかったら自然とは言えないのだ。作者自身、荒野に生まれ育ったのだから。疑いもなく、彼女が都会で生きるべき運命だったら、そこで何か書いたとしたら、ちがった性格をもつことになっていたろう。たとえ偶然あるいは好みによって、同じ題材を選んだとしても、その扱いがちがっていたろう。もしも、エリス・ベルがいわゆる「世間」になれた淑女か紳士だったら、辺ぴな未開地方と住民についての見方も世間知らずの田舎娘が実際にもった見方とだいぶちがっていたろうと思われる。たしかにもっと自由に……もっと広くなっていたろうが、独創性と真実性を増したかどうかは疑わしい。また風景や土地の特色に関する限り、これほど実感のこもることはありえなかったはずだ。エリス・ベルは目と好みだけで風景を楽しむ人のようには描いていない。彼女の故郷の丘陵地帯は彼女にはたんなる風景以上のものだった。そこに棲《す》む野鳥、そこに生じるヒース同様、彼女がその中で生き、それに頼って生きているものなのであった。だからその自然描写は当然そうあるべきようになされ、しかも完璧になされているのだ。
人物描写となると話がちがってくる。彼女の周囲の農民についての実地の見聞は、尼僧院の門前をときどき通る田舎の人々について尼さんがもっている知識と大差はなかったと、率直に認めざるをえない。妹の性格はもともと社交的でなく、環境のせいで孤独の傾向が助長され、強められた。教会に行ったり、丘の上を散歩したりするほかは、家の外に出ることもまれだった。まわりの人には温い気持をもっていたが、その人たちとの交際は決して求めなかったし、ごくわずかな例外を除いて、実際に交際もしなかった。それでもその人たちを……彼らの習慣や言語、一族の来歴などを知っていた。彼らの噂を興味をもって聞き、彼らについて詳細に、あざやかに、正確な細部にわたって話すこともできた。そのくせ彼らと言葉を交わすことはめったになかった。そのため、彼らについて彼女の頭に集めた真実というのは、粗野な隣人たちのだれしも秘めている年代記に耳を傾けるとき、ときたま記憶に強い感銘を受けた悲劇的な、恐ろしい特性をもつものだけに狭く限定されすぎることになった。彼女の想像力は明朗であるよりむしろ陰鬱で、陽気というよりも強烈なものだったので、いまのべたような特色をヒースクリフ、アーンショウ、キャサリンといった人物の創出の材料としたのだ。こうした人物を作りだしたものの、自分でも何をやったのかわかってはいなかった。もしもその作品を原稿で読むのを聞いた人が、かくも残忍な執念ぶかい性質や、かくも救われぬ堕落した魂の与える、胸を圧するような苦しみにおののいたとしても、鮮やかな恐ろしい場面を聞いただけで夜は眠れなくなり、昼も平静をかき乱された、と苦情を言ったとしても、エリス・ベルはなんのことかといぶかしがり、そんな苦情は見せかけだと思うだけだろう。もし生きながらえてさえいたら、その精神はひとりでに強い木のように生長し、より高く、よりまっすぐに、もっと枝を広げ、そこに熟した果実は、もっと豊潤に甘くなり、もっと輝いた色を見せたことであろう。しかしその精神には時と体験しか働きかけることはできなかったのだ。他人の知力の影響などに動かされはしなかったのだ。
『嵐が丘』の大部分を「大きな暗黒の恐怖」がおおっていること、嵐に激した、雷電のような雰囲気の中で、ときどき電光を吸いこむような気もするが、雲におおわれながらも昼の光が、日食にかげりながらも太陽が、いぜんとしてその存在を示している箇所をいくつか指摘したい。真の慈悲心と飾りけのない忠実さの例としては、ネリー・ディーンの性格を見ればよいし、節操と情愛の例としてはエドガー・リントンの性格を見ていただきたい。(人によってはこうした美徳は男性に具体的に現われた場合は、女性の場合ほどりっぱなものではないと考えるかもしれないが、エリス・ベルにはそんな考え方はとうてい理解できなかった。イヴの娘である女性において美徳とされる誠実と温和、辛抱づよさと情ふかさが、アダムの息子である男性においては欠点になるなどと言われることほど彼女を驚かすものはなかったろう。慈悲と寛大さは男女をお作りになった神の最も神聖な属性であり、神に栄光を与えるものが、かよわい人間にとって、そのかたちが男であろうと女であろうと不名誉になるはずはない、と彼女は考えていたのである)。ジョーゼフ老人の描写にはありのままの陰気なユーモアがあり、娘のキャサリンはときどき優雅さや陽気さを見せて生彩がある。また同名の最初の女主人公でさえ、激しい気性の中に、ある不思議な美がひそみ、ゆがんだ激情と情熱的ないこじさの中に誠実さがないわけではない。
ヒースクリフは実際、最後まで救われない。破滅に向かって矢のようにまっすぐに、一度もわきにそれることなく進んでいく……「髪の黒い、悪魔から生まれたような色の黒い子」が初めて包みをほどいて出され、農家の台所に足をおろしたときから、ネリー・ディーンの目の前に、鏡板でかこわれたベッドに仰向けになり、目をかっと見開き、「閉じてやろうとすると、あざ笑い、開いた唇と鋭い白い歯も冷笑しているようだった、」不気味な、頑丈な死体として横たわった最後の時まで。
ヒースクリフはひとつだけ孤独な人間らしい感情を示している。キャサリンに対する愛情のことではない。それは狂暴な非人間的な感情にすぎない。なにかの悪魔の邪悪な本質の中で煮えたぎり、燃えあがる情熱であり、苦しみの中心……魔界の王の永遠に苦悩する魂……を作る炎であり、その絶えまのない、消しがたい破壊による、神の意志の遂行なのである。その神はどこをさ迷おうとも、つねに地獄を背負ってゆかねばならぬ運命を彼に与えているのだ。いや、ヒースクリフを人間に結びつけるものは、ヘアトン・アーンショウ……彼が没落させた青年……に対する関心の粗野な表明だけである。それからまた、ネリー・ディーンに対していくらか示している尊敬の念である。こうした個々の特徴を除けば、彼はインド人の水夫の子でもジプシーの子でもなく、人間の形に悪魔の生命が宿ったもの……食屍鬼《グール》……アラビアの悪鬼だったと言ってもよいであろう。
ヒースクリフのような人間を創造するのが正しいか、また賢明であるか、わたしにはわからない。どうもそうではないらしい。だが、このことだけは知っている……つまり、創造的才能のある作家は、自分にいつでも支配できるとは限らない何ものか……時には一人で不思議な意志を働かし、動きだす何ものかをもっている、ということを。作家は規則をきめ、原則を考えだすことはできよう。そしてこの何ものかは規則と原則に何年間は従うかもしれない。ところがやがて、おそらくは反逆の前ぶれもなしに、もはや「谷間の土地をまぐわでならしたり、紐《ひも》でしばられて畝《うね》みぞに拘束されている」ことなど承知しないときがやって来る……「都会の群集をあざ笑い、馭者の叫び声を無視する」ときが……頼りない見せかけの仕事の続行を断固として拒み、彫像を刻み始めるときがやって来る。そのときプルートーが、ジュピターが、あるいはティシフォニが、サイキが、また人魚が、聖母のような汚れのない女性が、運命と霊感の命ずるままに、生まれ出るのだ。その作品が陰惨であろうと壮麗であろうと、また恐ろしいものであろうと神々しいものであろうと、とにかく選択の余地はなく、おとなしく受け入れるよりほかはない。あなたのやったことは……芸術家というのもいまや名ばかりとなって……自分から発したのでもなく疑うこともしなかった命令によって、従順に仕事をすることだけであった。しかもこの命令はあなたが祈って得たのでもなければ、あなたの気まぐれで取りやめたり、変更することもできないものなのだ。その結果である作品が人を惹《ひ》きつければ、世間はほとんどあなたの功績ではないのに称賛し、また反感をもたれれば、同じ世間がほとんどあなたに責任はないのに、あなたを非難するだろう。
『嵐が丘』は粗末な仕事場で、簡単な道具を用い、質素な材料を刻んで作ったものだ。この彫刻家はさびしい荒野《ムア》で一塊の花崗岩を見つけた。じっと見つめているうちに、そのごつごつした岩から、獰猛《どうもう》で浅黒く、険悪な首が引き出せそうだと考えた。少なくともひとつは偉大な要素……力強さをもった形像が。作者は粗造りののみを用い、モデルは瞑想から生まれた幻しかなかった。時間と労力をかけて、岩石は人間の形をそなえていき、いまや巨大に、暗く、顔をしかめて、なかば彫像となり、なかば岩石のままで立ちはだかっている。彫像としては恐怖すべき悪鬼のようだが、岩として見れば美しいとも言える。なぜなら色合いは柔らかな灰色をし、荒野のこけがおおっているからだ。そしてヒースが釣鐘のような花をつけ、かぐわしい芳香をふりまきながら、巨人の足もとにぴったりと寄りそっているのである。
カラー・ベル(シャーロット・ブロンテ)
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解説
これは異常な執念と情熱の物語である。
作者のエミリー・ブロンテ(一八一八〜四八)はこの小説一篇といくつかの詩を残しただけで、ごく若いうちに亡くなってしまった。この小説の成立事情や内容の特徴、また作者の性格などについては姉のシャーロットの書いた前掲の略伝と第二版の序文(一八五〇)によってうかがい知ることができる。
主人公であるヒースクリフはまず、リヴァプールで拾われて来た真っ黒な正体の知れない子として姿を現わし、ついには自分から食を断ち、雨のびしょびしょ降りこむ寝台の中で死んでいく。その運命は無気味な悪魔的な主人公の姿を浮き出させる。そして最後は彼の幽霊の話でしめくくられる。全篇のテーマは愛情を裏切られた無念さから、主人公が残忍な復讐を次々ととげていくという筋である。だからといって、ただの異様な怪奇小説でも、単純な悪魔的な復讐物語でもない。舞台はさびしい英国北部のヨークシャーの荒野であり、百年以上も前のヴィクトリア朝時代に、当時としてはまったく無名の一新人によって書かれた作品だが、その時と場所を越えて、現代のわたしたちの魂をはげしくゆさぶり、世界文学の偉大な古典のひとつに数えられているのは、十分それだけの理由があるのだ。なによりもこの作品が普遍的な人間の本能と情熱、愛の喜びと悲しみと残酷さを鮮やかに描いて、人生の真実に鋭く触れているからである。
登場人物は一見きわめて異常な人間ばかりのようである。たしかにあたりまえの世間に属する人は語り手のネリー・ディーンと、隠遁《いんとん》生活にあこがれて迷いこんで来た、やや軽薄な都会青年のロックウッドだけである。他の人物はいずれも特異な性格と暗い、あまりに激しい感情の持ち主で、それぞれ強烈な個性をむき出しにしている。しかしその中にのぞいている美しい人間性は救いとなるとともに強く心を打つ。たとえば動物的な粗野と無知の中に閉じこめられたアーンショウは、乱暴な言葉づかいにもかかわらず、一貫してやさしい純真な感情を示す。ロックウッドが嵐が丘を訪れて雪嵐になったとき、その身を気づかうのは彼である。また第二のキャサリンの無邪気さと正義感と勇気もきわめて愛すべく美しいものである。ヒースクリフ自身すらたんなる悪魔として描かれているわけではない。ロックウッドが病気のとき見舞いに来た彼は、たっぷり一時間も話しこんでいるが、これはただ借家人を失いたくないというだけでもなさそうだ。ネリー・ディーンの言葉はしばしば彼の無気味な非人間性を強調するが、彼女は平凡な常識社会の人間であり、彼女の代表する因襲的な道徳や幸福の基準から見れば、それらの一切に背を向けた異教徒的なヒースクリフの情熱や生き方は、そのような判断でしか理解できないのである。平凡なありきたりの彼女の考えは至る所に表わされ、これはキャサリンに魅せられながら、恋愛におちいることを危険と考えるロックウッドも同じことである。そういう陳腐な既成観念に立つ二人の見方は、中心となる物語に現実感を与えるとともに、その悲劇性をいっそうきわだたせている。
ヒースクリフはすさまじい復讐をするが、その復讐に駆られたのはむろん、彼が圧制者アーンショウから受けた虐待と、キャサリンの背信による傷手《いたで》のひどさからだ。ロックウッドが初めて箱型の寝台で読んだキャサリンの日記は、ヒースクリフと結束して兄に反抗しようとする子供らしい決意が綴《つづ》られている。この頃から仲良しの二人の愛情は急速に深まり恋愛に進む。しかしそれはふつうの意味の恋愛よりももっと生命の根源に触れた結びつきなのだ。キャサリンもヒースクリフも荒野の息吹きのような野性的な奔放な生命をもつ。二人は同一なのである。リントンと結婚する前、彼女はそれをネリーに告白している。「……あたしはヒースクリフそのものなの! 彼はいつも、どんなときでもあたしの心の中にいる。あたし自身があたしにとって喜びとなるとは限らないように、喜びとしてではなく、あたしの存在そのものとして心の中にいる……」(第九章)
ヒースクリフもまた彼女が死んだとき言うのだ。
「……おお神よ! この苦しみは口では言えない! おれの命をなくして生きてはいけない! おれの魂なしに生きていけるものか!」(第十六章)
しかしキャサリンはリントンにロマンチックな恋愛の夢を描き、世間的な富や地位の得られるスラッシクロスヘ嫁ぐことによってヒースクリフを裏切ることになる。そのとき彼女はなによりも自分自身を、彼女自身の生命、彼女の魂にささやきかける神秘的な神の声を裏切ることによって、スラッシクロスが精神的な牢獄となる。だからキャサリンが死にかかっているとき、ヒースクリフは厳しく容赦しないのだ。このような裏切りをもたらしたのも原因はアーンショウやエドガー・リントンの富であった。ヒースクリフの復讐はそれを自分の手中に収めることによって着実に実現していく。彼が「にぎり屋」という評判をたてられるようになったのは敵を敵の力である金によって倒すことしか方法がなかったからだ。財産のために彼は結婚という手段を用いる。イザベラに対しては残酷きわまりないが、それを「精神的歯痛」と呼んでいる(第十四章)のは、そんな残虐行為に駆られる彼自身の苦悩の深さと言えるのだ。二代目のキャサリンをしいたげることについても、彼は自分の残酷さをよく意識している。
裏切られた苦しみ、多年嵐が丘とスラッシクロス屋敷の道徳や富や圧制によって被害を受け、取り返しのつかないほど傷ついている彼が、自分の生命と権利を主張するすべは復讐、もう自分の権力の前に敗退したはずの旧敵たちの影を背負っている若い二人に対して憎悪をむき出しにする以外に方法はない。その彼になぜ突然変化が生じたのか。なぜ「なにもかも用意がととのい、おれの自由にできるようになったら、どっちの家からも尾根瓦一枚はがそうという気がなくなった!」(第三十三章)というのだろうか。
彼がたがいに憎ませようとした二人が愛し合うのを見たとき、しかもキャサリンがヘアトンと結んで反抗の意志をはっきり示したとき、そこに見たのは憎悪すべき過去ではなく、哀れまれるべき過去としての自分自身の姿であった。被害者であったはずのヒースクリフがいまや加害者となっていたのだ。富と圧制に反抗してきた彼が、いまや吝嗇漢《りんしょくかん》として暴力者として、圧制と富の側に立ってかよわい二人の自由と権利を奪おうとしている。自分がついに自分自身に対して裏切者となったのである。この裏切りから回復するすべは生死を越えてキャサリンと一体となり、自分に誠実な生き方をするよりほかはないのだ。これが彼に復讐の無意味に気づかせ、「変化」が訪れた理由である。こうして卑劣な男から再び悲劇的人物へと高められる。
この作品のテーマはキャサリンとヒースクリフの強烈な恋愛であり、キャサリンの死後もやはりその愛が最後まで背後にあって働いている。しかし第二のキャサリンとヘアトンの恋愛も、前の恋愛のような強い鮮烈さを欠き、ヘアトンの人物も生彩が乏しいといえ、対照的に重みをもっている。つまり生命と希望のたしかさを感じさせる点で暗い背景の中に美しい情景を点じ、悲劇のフィナーレを明るく色どっている。
ヒースクリフの陰惨な復讐よりも醜いのはリントン坊やである。憎悪と暗黒の意志によって生まれた子供はリントンのように醜怪な生命でしかなく、そこにヒースクリフの苦悩の深さが象徴されているようである。ここでも彼は自らの復讐心によって自ら復讐されているのだ。
「スラッシクロス屋敷」の暖かい明るい平和はキリスト教的な平凡な一般社会の健康と幸福の象徴のように輝いている。その因襲的既成道徳、常識的世界に対して激しく反抗するキャサリンとヒースクリフの奔放な生命と意志は、実は作者エミリー自身の、孤独の中で育てられた魂なのである。ヒースクリフが悪魔の姿をとっているのは、彼の力強い生命が環境によって妨害され暗く歪んだ方向をとらざるをえなかったからだ。しかし死によって生死が越えられ、力と真の生命が回復したのである。
作中随所に現われる荒野《ムア》の自然描写は詩人らしい繊細な感受性と豊かな観察によって鮮やかに読者の胸にやきつけられる。ロックウッドが最初に見たのは嵐が丘の荒涼たる光景だが、「冬になるとこれほど荒涼とし、夏になるとこれほどすばらしい光景もない」(第三十二章)という夏の活気にみちた世界は次の部分に美しくのべられている。
「……西風に吹かれ、きらきら光る白い雲が空をどんどん走っていくとき、ざわざわ鳴る緑の木に登ってからだを揺すぶる……雲雀《ひばり》だけでなく、つぐみや、くろどり、紅ひわや、郭公《かっこう》がまわりじゅうに音楽をまきちらし……森も水のひびきも、まわりじゅうの世界がみんな目覚めて喜びに溢れてるの」(第二十四章)
モームは「世界の十大小説」の中の「嵐が丘」の章で冬の荒野《ムア》や森の独特の美しさについてものべている。
***
エミリー・ブロンテの生いたちと作品の成立事情を簡単にたどってみよう。
エミリーはパトリック・ブロンテという牧師補を父とする四人きょうだいの一人である。パトリック・ブロンテは北アイルランドの貧しい小百姓の家の生まれだが、努力してケンブリッジ大学に入り英国国教会の牧師補の職を得た。本当の名はブランディーだが、ケンブリッジ在学中にブロンテと称するようになった。長身で美貌の青年であった。文学的野心もあり二冊の詩集と小説も出版したが認められなかった。が父親の出版した本が子供たちの文学活動の刺激となったことは否定できない。さて彼は二カ所の牧師補を勤めたあとで三度目にヨークシャー州のデューズベリーに近いハーツヘッドに移り、三十六歳で両親はいないが家柄のよいマライア・ブランウェルと結婚し、二人の子供ができた。
次にヨークシャー西部のブラッドフォード近くの任地にかわり、そこで四人の子供ができた。シャーロット(一八一六)、パトリック・ブランウェル(一八一七)、エミリー(一八一八)、アン(一八二〇)である。一八二〇年にホーワスという村の終身牧師補となり、一生をここで過ごした。ここは交通の便 の 悪 い辺鄙《へんぴ》な土地で、頑固で無口なヨークシャー的性格が最も強く残されていた。両親ともケルト系で、その民族特有の性格は熱情的でプライドが高いと言われる。このふたつの性格が混ざりあってエミリーに強く植えつけられていると言えそうだ。
ホーワスヘ移った翌年一八二一年に母親が亡くなった。パトリックはかつて親しかったある女性にひどく独りよがりの求婚の手紙を送ったが拒絶された。他の女性への求婚もうまくいかず、それ以後ずっと独身で過ごすことになり、小さい子供たちは母方の未婚の伯母にコーンウォル州から来てもらって見てもらうことになった。一八二四年に貧しい牧師の子女のための学校がホーワスから数マイル離れたカウァン・ブリッジにできたので、マライア(十歳)、エリザベス(九歳)、シャーロット(八歳)、エミリー(六歳)をそこに入れた。がその学校の劣悪な環境やきびしい規律のために、上の二人は結核にかかり、家へ帰ると二人とも亡くなってしまった。後年シャーロットは『ジェイン・エア』の中で「ローウッド」という名の学校として、この時代の苦しい思い出を書いた。
一八三一年にシャーロットはロウ・ヘッドのウラー女史の学校にはいった。一年半でやめたが三五年にそこの教師として雇われた。エミリーもそのとき生徒としていっしょに行ったがはげしいホームシックにかかり、健康を害して家に帰ってしまった。代わりにおとなしいアンがそこへ行った。翌年エミリーはロウ・ヒルというパチェット女史の学校の助手を勤めたが、これも半年しか続かなかった。
シャーロットは一八三八年に過労のためウラーの学校をやめて家に帰った。その後シャーロットもアンも上流家庭の住み込み家庭教師としてあちこちと勤めるが、エミリーはほとんど家に残って家事をやっていた。
一八四三年、久しぶりで姉妹が家でいっしょになったが、家庭教師の屈辱的な仕事にいやけがさしたシャーロットの提案で、三人で私塾を作ろうという相談ができあがった。それにはちゃんとした資格が必要なので、伯母から百ポンド立て替えてもらって、シャーロットとエミリーの二人でブリュッセルのエジェ寄宿学校へ留学することにした。一八四二年にロンドンに出て、船で大陸に渡った。二人はここでフランス語とドイツ語を学んだ。このときから親しんだドイツ浪漫派の恐怖小説が『嵐が丘』の着想に影響していると考えられる。
この年の末に伯母の危篤の報《し》らせが来たのであわてて帰国したが、間に合わなかった。一八四三年にブリュッセルのエジェ氏から手紙が来て、シャーロットはそこの教師として雇われることになった。エミリーは父の視力が非常に弱ってきたので家にとどまった。
シャーロットは校長夫人と折合いがうまくいかず、暗い日々を送り、ついに一年足らずで帰国した。ホーワスヘ帰るとエジェ氏に対する思慕を急に強く自覚し始め、たびたび手紙を送ったが、その返事は一度も来なかったようだ。私塾の計画はついに生徒の希望者が一人もなくて、はかなく破れてしまった。この頃、姉妹の心痛の種は一人息子のブランウェルのことだった。
ブランウェルは父親似の美青年となっていたが、幼時から才能もあり、父親に偏愛され、姉妹にも大事にされたので、わがままでうぬぼれの強い、意志薄弱な青年となっていた。初めは画家になるつもりで、一八三五年にロンドンに出て王立美術院に入ろうとしたが望みがはたせなかった。それで作家になろうとして出版社や作家に非常識な思いあがった自信たっぷりの手紙を出したが相手にされず、酒に溺れるようになった。鉄道員になったこともあるが、じきにくびになってしまった。家庭教師にはいった家ではそこの夫人との関係を騒がれて解雇され、自暴自棄となって、酒のほかに阿片まで飲用し始めた。放埒《ほうらつ》な生活に溺れきって健康も衰え、一八四八年三十歳で死んだ。彼は死ぬ日まで姉妹にとっては重苦しい負担となっていた。
こうした不幸の中でも姉妹三人は多年文学的情熱を燃やし続けた。一八四六年夏に初めて三人の詩集を出した。その事情は前掲の序文にものべられているが、三人の貯金から三十ギニーずつ出しあっての自費出版であった。これはだれにも認められず一年間に二部売れただけであった。しかし一方において、三人ともそれぞれ散文小説を書きだしていた。シャーロットは『教授』を、エミリーは『嵐が丘』を、アンは『アグネス・グレイ』を書き始めていた。
シャーロットの『教授』はどこの出版杜も受けつけてくれなかった。しかし父の白内障が悪化してマンチェスターへ行って手術することになったので、つき添って行き、看病しながら書き始めた『ジェイン・エア』が翌年スミス・エルダー社で出版されることになった。こうして一八四七年に『ジェイン・エア』『嵐が丘』『アグネス・グレイ』が相ついで出版された。その中で『ジェイン・エア』は一般読者の好みに投じてベスト・セラーとなり、その年のうちに第二版が出た。『アグネス・グレイ』はいくらか認められたが、『嵐が丘』はあまり迎えられず、非難の声も少なくなくて、その真価はついに認められなかった。
一八四八年にブランウェルが死んだ頃から、不幸の影が暗くブロンテ姉妹をおおった。エミリーの健康は急速に衰えた。彼女は医師も薬も頑固に拒んだ。その年の十二月九日の午後二時、三十歳六ヵ月で亡くなった。
シャーロットがウラー女史の学校時代に得た親友のエレン・ナッシーに送った十二月二十三日付の手紙は次のようにその死を報じている……
「昨日わたしたちはエミリーのかわいそうに衰えきった、うつせみのからだを教会の石だたみの下に横たえました。わたしたちはもう落ち着いています。ほかにどうしようもないのですもの。エミリーの苦しみを見るつらさもなくなったし、断末魔の苦痛の光景も消え失せました。お葬式の日も過ぎてしまいました。エミリーは安らかな眠りについたと思います。きびしい寒気や、膚をさす風を恐れる必要はもうありません。エミリーはそんなものを感じなくなってしまったのです。彼女は前途有望な時期に亡くなりました。人生の盛りに、この世から奪い去られたのです。でもそれが神のおぼしめしであり、エミリーの行った場所はいままでいた所よりよいにちがいありません。想像もつかないような苦悩の中で、驚嘆するほど力強く、神様はわたしを支えて下さいました……」
追いかけるようにアンが病気に倒れ、翌四九年五月に、シャーロットと親友のエレンがつき添ってヨークシャー州東海岸の保養地スカーバラに行かせたけれど、宿につくとじきに容態が急変し、二十八歳で亡くなったのであった。きょうだいのうちで一人残されたシャーロットは『シャーリィ』(一八四九年)、『ヴィレット』(一八五三)を出版し、ギャスケル夫人など文壇の人々との交わりもできた。女流作家として名声も得た。一八五四年に父親の反対を押しきってアーサー・ニコルズという、父親のもとで働いていた牧師補と結婚したが、妊娠中に結核となり、翌年三月に『エマ』という未完の作品を残し、三十九歳で死んだ。パトリック・ブロンテは孤独の生活をつづけ、八十四歳まで生きた。
以上がブロンテ姉妹と呼ばれる三人の作家の生涯のあらましである。三人姉妹の中で、エミリーはいちばん内向的で潔癖で非社交的で、家の外からめったに外に出なかった。姉とブリュッセルへ行ったときも頑固に自分に閉じこもっていて、人と口をきくことも少なかった。彼女の中には、女の子というよりむしろ男の子みたいなところがあるとよく言われていた。おとなしい外面に強烈な個性と激しい感情を秘めており、それが時たま猛烈な勢いで愛犬などに爆発することも、あったという。
『嵐が丘』はきわめて詩的象徴的な性格の小説だが、エミリーはまずなによりも詩人であった。『嵐が丘』は小説を書くことを望んだ詩人の作品である、と言われている。彼女の詩として現在までに確認されているのは二百篇あまりであるが、その中に『ゴンダル詩』と呼ばれるものが四十数篇ある。この詩の世界と神秘的思想が『嵐が丘』の世界と同じであり、同じ天分によって生命を与えられている。この詩の書かれたいきさつは次のようである。
幼年時代の姉妹は他人から隔離され単調でさびしい生活を送っていた。父親は偏屈《へんくつ》で気性が烈しく、気むずかしい変わり者であり、伯母は厳しく、子供たちには楽しみの少ない家庭生活であった。唯一の慰さめとして彼女らが考えだしたのは夢の世界を考え空想物語を組み立てていくことだった。それを抑圧された感情のはけ口としたのである。そのきっかけとなったのは、父親がブランウェルのためにおもちゃの十二個の木製の兵隊を買ってやったことだった。そのひとつひとつに名前をつけ、空想の王国を作り、戦争や恋愛や裏切りなどの歴史を書き続けた。そのひとつの「アングリア国」はシャーロットとブランウェルの二人が創りあげた幻想の世界で、現在でもその原稿が残されている。エミリーとアンは「ゴンダル」という島を考え、さまざまな国と国との戦いの物語を作ったが、その原稿は現存していない。ただ長いあいだ埋もれていた詩の一部にその輪廓が漠然と残されている。これがいわゆる「ゴンダル詩」である。エミリーは二十六歳近くのとき、十八歳の終わり頃から書きためた詩を二冊のノートに書き写した。その二冊のうちの一冊に「ゴンダル詩」という題字を書いた。「ゴンダル詩」は「ゴンダル物語」の人物が歌うという形式をとっている。「ゴンダル物語」が小説に展開再構成されていったのが『嵐が丘』だと考えられている。
エミリーの詩は愛と孤独、死、永遠などをうたい、宇宙とのつながりにおいて人間存在をとらえるような神秘的思想に貫かれ、すべて背後に激しい感情が秘められている。その詩が示すものはエミリーの内部の世界であり、苦悩する感受性のはけ口として、浪漫的な時代思潮の中で、キリスト教の固定観念を越えた自分自身の秘密の世界を、奔放な情熱的な独自の詩的想像力にまかせて、思いのままに吐き出しながら書きあげたのが『嵐が丘』である。
次に掲げるのは彼女の死の二年前、一八四六年一月二目に書かれた詩の最初の一節である
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わたしの魂は臆病ではない
嵐にさわぐ現世の中で震えおののきはしない
わたしは天上の栄光が輝くのを見る
信念がひとしく輝いてわたしを恐怖から守ってくれるのを……
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