角川文庫
嵐が丘
[#地から2字上げ]E・ブロンテ 著
[#地から2字上げ]大和 資雄 訳
主要人物
ロックウッド氏
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ロンドンから来てスラシクロス・グレンジに滞留する紳士。この物語の聞き手。
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エレン・ディーン(ネリー、ネル)
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スラシクロス・グレンジの家政婦。ヒンドリ・アンショーと乳姉弟で嵐が丘に生まる。物語の語り手。
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ヒースクリフ
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物語の主人公。先代アンショー氏に拾われ、ヒンドリやキャサリンと一緒に嵐が丘で育つ。
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キャサリン・アンショー(大キャシー)
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ヒースクリフの恋人。エドガー・リントン夫人となる。
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キャサリン・リントン(小キャシー)
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右上とエドガー・リントンとの間の娘、ヒースクリフの子に嫁して未亡人となる。
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ヒンドリ・アンショー
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大キャシーの兄で嵐が丘の主人であった。
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ヘアトン・アンショー
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右上のむすこ。
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エドガー・リントン
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大キャシーの夫で小キャシーの父。スラシクロス・グレンジの主人であった。
[#ここで字下げ終わり]
イザベラ・リントン
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右上の妹でヒースクリフの妻となる。
[#ここで字下げ終わり]
リントン・ヒースクリフ
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右上のむすこ。小キャシーと結婚して早死にする。
[#ここで字下げ終わり]
ジョウゼフ
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嵐が丘(アンショー家ついでヒースクリフ家)の老僕。
[#ここで字下げ終わり]
一八〇一年――いま地主の家を訪ねて帰って来たところだ。これからめんどうくさい|隣《となり》づきあいをして行かねばならぬのはこの家だけだ。ここはほんとうに美しい土地。イギリスじゅうでこれほど世間離れのした土地はちょっと|捜《さが》しあてられまい。人間嫌いな者にとっては全く天国だ。そしてヒースクリフ君と僕とはこうした孤独を分けあうには|好《よ》い相棒だ。すてきな|奴《やつ》! 僕が馬で乗りつけたとき、疑い深く|眉《まゆ》の奥に引っこましたあの黒い目。僕があいさつしたとき、おやすく握手なんかしてたまるかといわんばかりに、ますます深くチョッキに指を|突《つ》っこんだあの|頑《がん》|固《こ》な態度。そうしたやり方が、かえってあの男に好感をもたせたとは、ご当人様も気がつくまい。
「ヒースクリフさんですか?」と僕が言うと、頭を縦にふったのがその答だった。
「ロックウッドです。今度あなたの貸家をお借りしたものです。あのスラシクロス・グレンジにぜひ住みたいなどとお願いして、ご迷惑でなかったかと思いましたので、今度こちらに到着するとさっそくお|伺《うかが》いしたのです。昨日|承《うけたまわ》ればあなたのお考えでは――」
「スラシクロス・グレンジは家屋敷とも私のものですよ」と彼はたじろぎながら私の話をさえぎって、「自分の迷惑になることだったら、なかなか私はうんと言わないでしょうよ。まあ、おはいりなさい」
せばめた歯の間から|漏《も》れたこの「おはいりなさい」は、「くたばりやがれ!」というような感じを表わしていた。自分のもたれていた門の|扉《とびら》を、あける|気《け》|配《はい》もなかった。それで僕は意地にもこの「おはいりなさい」に従ってやるぞときめた。僕よりも一枚うわてのうちとけにくい男がいることに興味を覚えたので。
馬が胸で門の戸を押しつけているのを見て、彼はとうとう手を出して|柵《さく》の門の|鎖《くさり》を解き、しぶしぶ僕を案内して盛り上げ|路《みち》を歩いて行き、庭前に来かかったときに召使を呼んだ。――
「ジョウゼフ! ロックウッドさんの馬を連れて行け。そしてブドウ酒でも持って来い」
こう|一人《ひ と り》の男に何でも言いつけるところをみると、この家の召使はあの男だけだな。どうりで|敷《しき》|石《いし》の間には草が生えているし、|生《いけ》|垣《がき》は牛の食べるのに任せてあるのも無理はない。
ジョウゼフは中年の、いや老年の方に近い男だった。――がんじょうで筋骨はたくましいが、非常な老年かもしれない。不平家らしい、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な、低い調子の声で、「やれやれ、願わくば神よ!」などとぶつくさ言いながら僕の馬を引き取って、ばかに気むずかしい顔をして僕を見ているので、ははア、こいつが神様の助けを求めたのは消化不良のせいで、やっかいな客が来たせいではなかったのだと、僕は善意に推察した。
ワザリング・ハイツとはヒースクリフ君の屋敷の名だ。ワザリングとはこの地方では意味のある形容詞で、空が荒れることであるが、この屋敷の位置は|嵐《あらし》に吹きさらしになるのである。この高台では年じゅう身も引きしまるようなすがすがしい風通しに相違ない。高台に吹きあたる北風の強さは、家の|端《はし》にある数本のいじけたモミの木がはなはだしく傾いていることからも思いやられる。やせこけたイバラも日光の恵みを|請《こ》うかのように、枝という枝をみな同じ方向に伸ばしていた。家は幸い建築師の|先《せん》|見《けん》で|堅《けん》|固《ご》に建てられていた。狭い窓は厚い壁の奥深くはめこめられ、家の|四《よ》|隅《すみ》は張り出した大きな石で固められていた。
|敷《しき》|居《い》をまたぐ前に、|玄《げん》|関《かん》の正面ことに大戸の周囲にむやみと彫りつけた異様な彫刻を見て、僕は感嘆してしばらく立ち止った。大戸の真上には、あちこち欠け落ちた無数のワシ頭にライオン胴体の怪獣やら、裸体の子供などを刻んだ間に、「一五〇〇年」という年号と、「ヘアトン・アンショー」という名前とが認められた。僕は感想をのべて|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》な主人からこの家の歴史の概略を聞きたかったのだが、戸口で待っていた彼の態度は、さっさとはいるか、さもなくばとっとと帰れ、と要求しているように見えたので、まだ奥の様子も見ないのに彼の|機《き》|嫌《げん》をそこねては、と思って|尋《たず》ねることはよした。
一歩はいるとすぐ家族の居間になっていた。取次の|間《ま》もなければ|廊《ろう》|下《か》もなかった。この居間をこの地方ではとくに「うち」と称している。通例は居間と台所とを|兼《か》ねているのだが、ワザリング・ハイツでは台所は全然別の方に引っこんでいるらしい。少なくとも、ずっと奥の方から話し声や食器の音などが聞えたし、この部屋の大きな|炉《ろ》|辺《へん》には|煮《に》|炊《た》きする道具もないし、壁にも|銅《どう》|鍋《なべ》や水こし器などの光が見えなかった。ただし一方の|隅《すみ》には、カシ材の調理台付き|大《おお》|戸《と》|棚《だな》の上に、|幾《いく》|列《れつ》も並べて屋根裏にとどくほど積み上げられた合金製の皿が、銀の水差しやら|大《たい》|杯《はい》の間にまじって|華《はな》やかに照りかえっていた。屋根裏は天井板が張っていなかったからむき出しに見えた。ただ|堅《かた》パンや牛のもも肉や羊肉やハムなどを|載《の》せた木製の棚が屋根裏の一部を隠していた。炉棚の上の方には雑多なやくざ鉄砲やら一|対《つい》の乗馬用ピストルなどが掛けてあった。炉棚には装飾のつもりであろう、けばけばしく塗り立てた茶入れが三つ置いてあり、床はなめらかな白い石だった。|椅《い》|子《す》は背より高い原始的な細工で、緑色に塗ってある。そのほか重い黒いのが一、二|脚《きゃく》隅っこに潜んでいた。調理台の下のアーチには、大きな赤黒いポインター種の|牝《めす》|犬《いぬ》が、キイキイいっている小犬どもの一群にかこまれて、横になっていたし、まだほかの犬どもが他の場所にひっこんでいた。
部屋も家具も、北部地方の普通の農家としてならば、べつだん変ったものでもなかった。一徹な顔をして、半ズボンやゲートルやしっくり似合うたくましい手足をもったこうした農家の主人が、|泡《あわ》|立《だ》つビールの|大《たい》|杯《はい》を|載《の》せた円テーブルの前で安楽|椅《い》|子《す》にすわっているところなら、諸君がちょうど食後の時刻に訪ねて行けば、この高原地方五、六マイル|界《かい》|隈《わい》どこにも見ることができる図である。しかしヒースクリフ君はその住所や生活と奇妙な対照をなす男だ。彼の|容《よう》|貌《ぼう》は色の黒いジプシーのようだが、服装や身のこなしは紳士――少なくともいなか紳士らしかった。様子が|無《む》|造《ぞう》|作《さ》なので幾分だらしないようにも見えるけれど、それでいてちっとも変でないのは、|丈《たけ》がまっすぐに高く、からだつきがしっかりしているせいであろう。ずいぶんむっつりしている。何となしに|野《や》|卑《ひ》な|傲《ごう》|慢《まん》なところがあるように思われるふしもないではない。しかしけっしてそうでないのだと僕は同情をもって共鳴した。彼は感情をわざとらしく他人に示すことが|嫌《きら》いなので、それであんなに無口なのだと僕は直感した。彼は外面に表わさずに愛したり憎んだりしているたちの男なのだろう。そして他人から愛し返されようが憎み返されようが、まるで問題外みたいに思っているのだろう。いや、それは僕のあまり行きすぎた推量かもしれないぞ。僕は自分の|性分《しょうぶん》でもってあまり|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に他人を|推《お》しすぎる。ヒースクリフ君が初対面の者にわけもなく親しそうにしなかったり、うちとけない理由は、僕の動機とはまるで違っているかもしれない。僕は一風変っている人間だと観念することだ。母はよく僕に、お前はとうてい気持のいい家庭はもてまいと言ったものだが、ついこの前の夏にも僕は自分でこの言葉を明らかに裏書きをした。
好い|日《ひ》|和《より》の一か月を海岸で暮しているうちに、僕は非常にかわいらしい人と一緒になる機会を得た。彼女が僕に注意しなかった間は、僕の目には、ほんとうの女神のように見えた。『十二夜』のヴァイオラと同様、僕は「けっして口では恋を語らなかった」。でももしかりにも目が口ほどに物を言うものとしたら、どんな|阿《あ》|呆《ほう》でも僕が首ったけになっていたことはわかったろう。彼女はとうとう僕の目つきを読んで返事の目つきをした。――この世にあれほど|優《やさ》しい目つきはまたとあるまい。それだのに僕はどうした? 言うも恥ずかしい話だが、僕はカタツムリみたいに冷やかにひっこんでしまったのだ。目をかわすごとに僕の目はだんだん冷淡になって行ったので、しまいにはかわいそうにその|無《む》|邪《じゃ》|気《き》な娘は自分の感覚が間違っていたものと|独《ひと》りできめてしまい、この感違いのためにすっかり面食らって、彼女の母を説きつけて、そこそこに海岸から退却してしまった。この風変りな性質傾向のゆえをもって、僕は打算的な冷血漢という評判を得た。それがどんなに見当はずれの評判か僕だけにしかわかるまい。
僕は炉石の一端に家主と向い合せに席を占めた。そして黙っている間に母犬をなでてやろうとした。母犬は子犬から離れて来て、僕の足のうしろに|狼《おおかみ》のように潜んでいたのだ。そして|唇《くちびる》をそらし、かみつこうとしてよだれに|濡《ぬ》れた白い歯をむき出していた。僕がなでてやったら犬は怒って長いうなり声を出した。「あなたはその犬にさわらない方がいいですよ」とヒースクリフ君は一緒になってうなった。そして足をどんと踏んで、いっそうひどいおどし文句をひかえた形だ。「その犬は甘やかされつけていないんですから。おもちゃにして飼ってる犬じゃないんですからね」それから大またに|脇《わき》|戸《ど》の方へ歩いて行って、またも「ジョウゼフ!」と叫んだ。
ジョウゼフは穴倉の奥で何やらぶつくさ言っていたが、なかなか昇って来る気配もなかった。それで主人は彼のところに降りて行った。僕は猛悪な|牝《めす》|犬《いぬ》と、二匹のものすごいむく毛の番犬とに、面とむかって一人残された。犬どもはゆだんなく僕の一挙一動を見張っていた。奴らの|牙《きば》にかかってはたまらないので僕はじっとしていた。しかし黙ってばかにするなら感づくまいと思って、この三匹にむかって|目《ま》ばたきしたり|渋面《じゅうめん》を作ったりしたのがいけなかった。しかめた僕の面相がしゃくにさわったと見えて、犬の奥様は|堪忍袋《かんにんぶくろ》を切らして突然|憤《ふん》|激《げき》し、僕の|膝《ひざ》に|跳《と》びついた。僕はそいつを突きのけておいて、いそいでテーブルを引っ張って|障壁《しょうへき》にした。このやり方が気に食わなかったものか、犬の全群が|奮《ふん》|起《き》した。大小老幼とりどりの四足の悪鬼が半ダース、ここかしこの隠れ|家《が》から僕を目がけて攻めかけて来る。奴らの攻撃の主力はとくに僕の|踵《かかと》と上着の|裾《すそ》とに向けられた。そこで僕は火かき棒をもってできるだけ有効にこの犬軍を防ぎ止めながら、平和|克《こく》|復《ふく》のためによぎなく大声をあげて家人の救援を求めた。
ヒースクリフ君と下男とは憎らしいほどのろくさ穴倉の階段を昇って来た。いま炉ばたでは、かみついたり、ほえたりして|大嵐《おおあらし》が|捲《ま》き起っているのに、二人とも平生より一秒でも速くは動いていなかった。幸いに台所から一人いそいで|駈《か》けつけてくれた。がんじょうな女だ。かっぽう着の|裾《すそ》を|端折《は し よ》り、|腕《うで》をまくり上げ、|頬《ほっ》ぺたを火のようにして僕たちの間に割って入り、フライパンの武器と|舌《した》とを使って魔法のようにこの嵐をしずめる効果をあげた。そして主人がこの場にはいって来た時には、大風の後の海のように、彼女だけが息をはずませていた。
「一体全体どうしたんだ?」と|尋《たず》ねながら僕の方を見た仕打ちは、こんな|冷《れい》|遇《ぐう》を受けた後の僕にとうてい耐えられないものだった。
「全く一体どうしたんです!」と僕も負けずに言ってやった。「悪鬼につかれた豚の群れでさえ、あなたの犬より悪い|性根《しょうね》は持てますまいよ。どうせのことなら、初対面の客に|虎《とら》の子でも放した方がましでしょう!」
「私の犬はじっとしてる人にはかまやしません」と彼はテーブルの位置を直して、私の前に|酒《さけ》|瓶《びん》を置きながら言った。「犬が見張りをすることは当然です。どうです、ブドウ酒を一杯?」
「ありがとう。いただきません」
「かまれなかったようですね?」
「かまれたのだったら、かみついた奴に|烙《らく》|印《いん》を押してやったでしょうよ」
ヒースクリフはやや顔の筋肉をゆるめて歯をむき出した。
「まあまあ、ロックウッドさん、あなたは興奮していますね。さあ、すこしおやりなさい。この家に客は非常にまれなので、実際のところ、私も犬も客の|待《たい》|遇《ぐう》の方法をほとんど知らないのです。さあ、あなたのご健康を!」
僕は一礼して返礼に|乾《かん》|盃《ぱい》した。たかが犬どもの悪ざれに立腹して、|渋《しぶ》い顔をしているのも|大人《お と な》|気《げ》ないと思ったし、それに彼は僕の失敗をおかしがっているようなので、このうえ僕ばかり不快な思いをして、みなをおもしろがらせることはまっぴらだと感づいた。彼の方でもいい借家人を立腹させるのは|愚《ぐ》だという用心深い考えからでもあろう、今までのような代名詞や助動詞をはぶく簡略な話ぶりを改めて、僕の興味をひきそうな話題――今度僕の借りた隠れ|家《が》の長所やら欠点やらを話した。この話題については彼は大変くわしいことまで知っていた。そして僕は帰宅する前に、明日もう一度訪問しようという気になった。彼の方では二度と再び来てもらいたくないことは明白だった。かまうもんか。僕は来よう。彼に比べると、僕だってこれでずいぶん交際好きだとわれながら感ずるのは不思議である。
昨日は午後から霧になって寒かった。僕はヒースの|藪《やぶ》や沼地をたどってワザリング・ハイツに出かけて行くのはよして、書斎の火のそばで一日を送ろうという気になった。
しかし階下で|午《ご》|餐《さん》を済まして(ぼくは正午から一時までの間に|正《せい》|餐《さん》にする。うちの家政婦は家と一緒に|造《ぞう》|作《さく》のようにしてヒースクリフ家から借り入れたのだが、いかにも主婦らしい婦人で、僕が五時に正餐にしていいと言うのに、そうしたことはできないとみえるし、またしようともしないのだ)、そしてこれからゆっくりしようと思いながら階段を昇って、書斎にはいってみると、小さい女中がブラシだの炭取りだの取り散らしたなかに|膝《ひざ》をついて、燃えさしの石炭の火を消してしまって、ひどい|埃《ほこり》の煙を立てているのだ。これを見ると僕はうんざりしてすぐ階下に引き返した。帽子をかぶって、四マイル歩いて、ちょうどヒースクリフの庭の門まで来たとき、おりから|吹雪《ふ ぶ き》の前ぶれをして降り出した雪にあうのを危うく|免《まぬか》れた。
吹きさらしの丘の頂上は|黒《くろ》|霜《しも》でいてつき、寒い空気は僕の手足の先まで|震《ふる》わせた。門の|鎖《くさり》がはずせなかったから|跳《と》び越えて、両側にはびこったスグリの|生《いけ》|垣《がき》の間の盛り上げ|路《みち》を|敷《しき》|石《いし》伝いに走って行き、それから指の関節がうずくまで戸口をたたいたが、犬ばかりほえて、いっこう答はなかった。
「この家の奴らはろくでなしだな!」と僕は心で叫んだ。「こんなつっけんどんな|冷《れい》|遇《ぐう》をすると、きさまらは永久に人間から仲間はずれにされるぞ。少なくとも僕は昼日中に戸締りなんかしておいたことはない。かまうもんか、はいってやれ!」こう決心して、僕は|掛《かけ》|金《がね》をつかんでいきなり振った。|渋《しぶ》い面をしたジョウゼフの奴が|納《な》|屋《や》の|円《まる》|窓《まど》から頭をつき出した。
「何の用だね? |旦《だん》|那《な》様は羊の飼場さ居る。話があるならこの|納《な》|屋《や》の|端《はし》っこを|廻《まわ》って行きなされ」
「家の中には|誰《だれ》も戸をあけてくれる人は居らんのか?」と僕は折り返して|尋《たず》ねた。
「奥様のほかに誰も居ないよ。しかもあなたが晩まですさまじい音を立てていても、その戸をあけてくれっこはないだよ」
「なぜさ? お前が奥様に私のことを取次いでくれられないのか? え、ジョウゼフ」
「だめだよ! そんなことに関わりたくない」と言ってその頭は引っこんでしまった。
雪はいよいよ本降りになってきた。僕がもう一ぺん試してみようとハンドルをつかんだとき、上着を着ない一人の若者が|熊《くま》|手《で》をかついで裏庭に現われた。そして僕について来いと呼びかけた。そこで|洗《せん》|濯《たく》|場《ば》を通り抜け、石炭積場、ポンプ置場、|鳩《はと》|小《ご》|舎《や》などになっているたたき[#「たたき」に傍点]の場所を通って、とうとうこの前に訪ねた時のあの大きな、暖かい、気持|好《よ》い部屋に来た。|煖《だん》|炉《ろ》の中には石炭や|泥《でい》|炭《たん》や|薪《まき》などをまぜてたくさん|焚《た》いた火が|快《こころよ》く赤くなっていた。そして夕食のご|馳《ち》|走《そう》をたっぷり用意した食卓の近くに、先にはちっとも思い設けなかった人物、「奥様」がいるのを見たときは|嬉《うれ》しかった。僕は一礼した。そしておすわりなさいと言うのを待っていた。彼女は|椅《い》|子《す》によりかかったまま私を見つめたが、身動きもしなければ物も言わなかった。
「ひどい天気です」と僕は言った。「奥さん、あの戸がお宅の召使たちの|怠《たい》|慢《まん》のためにひどい目にあわなくてはならないのは困りますね。戸をたたいて入れてもらうのに大した骨折りでしたよ!」
彼女は一ト口もきかなかった。僕は見つめた。彼女も見つめた。とにかく、彼女は冷淡に、|無頓着《むとんちゃく》に僕を見すえていた。それにはたまらなく|当《とう》|惑《わく》もしたし、不快でもあった。
「おかけなさい」と若者は荒っぽく言った。「今に帰って来るだろうから」
僕は従った。そして|咳《せき》|払《ばら》いして、ジュノーの畜生を呼んだ。|奴《やっこ》さん二度目の会見なので、ぼくをご存じの|証拠《しょうこ》として|尻尾《し っ ぽ》のさきを動かしあそばされた。
「きれいな動物ですね!」と僕はまた始めた。「小さいのを一匹私に下さいませんか? 奥さん」
「それは私のものではありません」とかわいい主婦ははねつけるように言った。ヒースクリフだってこうまですげないあいさつはすまい。
「ああ、それじゃあなたのお気に入りのものは、あちらにいるんでしょう!」と、僕は何やら|猫《ねこ》のようなものがたくさん居る暗がりの|蒲《ふ》|団《とん》の方を見ながら言った。
「ずいぶん変なお気に入りのものですこと」と彼女は人をばかにするように言った。
不幸にしてそれは死んだ|兎《うさぎ》を重ねておいたのだった。僕はもう一度咳払いをして、|椅《い》|子《す》を炉ばたに近く引き寄せ、|今日《き ょ う》の空模様が悪くなってきた話を繰返した。
「あなたは出て来なけりゃ好かったのにね」こう言いながら彼女は立って、|炉《ろ》|棚《だな》から色塗りの茶入れを二つ取ろうとした。
彼女の位置は今まで光の陰になっていた。いま初めて彼女の顔も全身も明白に見えた。彼女はやさがたでやっと娘の時代をすぎたかすぎないくらいに見えた。すばらしい|姿《すがた》だ。それにこんなきれいな小さな顔はまだ見たことがない。目鼻立ちは小さくて非常に色白だ。|亜《あ》|麻《ま》|色《いろ》、というよりむしろ金色の巻毛が、なよやかな首すじにほつれている。目の表情が|好《よ》かったら、不可抗な魅力をもっていたろうに、感じやすい僕の心にとって幸いなことには、その目が表わしていたのは、その美しい目には奇妙に不自然な、|侮《ぶ》|蔑《べつ》と絶望との間を往来する感情だった。茶入れはほとんど彼女の手の届かないところにあった。僕は手を貸そうとした。すると彼女は、まるで|吝嗇家《りんしょくか》が金を数える手伝いをはねつけるかのように、僕の方に向き直った。そして、
「あなたのお手伝いはいりません。自分で取れますから」とかみつくようにいった。
「どうも失礼いたしました」と僕はいそいで答えた。
「あなたはお茶によばれたのですか?」彼女は小ざっぱりした黒い|上《うわ》|衣《ぎ》にエプロンを結び、|急須《きゅうす》へ一|匙《さじ》の茶を入れようとしながらこう|尋《たず》ねた。
「結構ですね、一杯|頂戴《ちょうだい》しましょう」僕は答えた。
「あなたはよばれたのですか?」と彼女は繰り返した。
「いいえ」と、僕はやや|微笑《びしょう》しながら言った。「あなたが招待して下さるべきおかたなのでしょう」
彼女は茶を茶|匙《さじ》もろとももとのところへ打っちゃって、|機《き》|嫌《げん》を悪くして|椅《い》|子《す》に|退《しりぞ》いた。|額《ひたい》には小じわを寄せ、子供が泣き出そうとする時のように、赤い|下唇《したくちびる》を突き出した。
その間、あの若い男は全く見すぼらしい上衣をからだに引っかけ、|煖《だん》|炉《ろ》の前に立って、まるで|不《ふ》|具《ぐ》|戴《たい》|天《てん》の|仇《かたき》をにらむかのように僕を横目でにらみつけた。僕はこの男が召使なのかどうか疑い始めた。服装も言葉も粗野で、ヒースクリフ夫妻に見るような上品な点はみじんもなかった。彼のトビ色の厚い巻毛はむしゃくしゃで手入れしていないし、|髯《ひげ》は熊みたいに|頬《ほお》にのさばり生え、手は一般労働者の手のように日に焼けていた。けれども彼の態度には何の|拘《こう》|束《そく》もなく、|高《こう》|慢《まん》のようにさえ見え、それにこの家の主婦に対してなんら|雇人《やといにん》らしいかいがいしさを示していない。彼の身分について明らかな|証拠《しょうこ》がないので、彼の変なそぶりを気にかけないのが第一だと思った。こうして五分間たった後ヒースクリフが帰って来たので、|居《い》|心《ごこ》|地《ち》の悪い状態からひとまず|免《まぬか》れることができた。
「お約束どおりお|伺《うかが》いしていますよ!」と、僕は快活をよそおって言った。「この雪では帰られませんから、半時間ばかりおじゃまさせていただきましょう」
「半時間?」と彼は服に降りかかった白いものを払いながら言った。「あなたはわざわざひどい|吹雪《ふ ぶ き》を選んで出かけなさるのですね。沼の中に迷って落ちこむ危険があることを知りませんか! こんな日にはこの沢原の地理に明るい者でも、よく道に迷いますよ。それに今のところではこの雪がはれるみこみは断じてありません」
「たぶん若い人に送っていただけると思いますが。そしてグレンジで明朝まで泊って下さればいいでしょう。どなたか一人頼まれないでしょうか?」
「いや、それはできないでしょう」
「おやおや、それは! じゃあ私の|分《ふん》|別《べつ》に頼るよりほかにしかたがない」
「フウム!」
「お茶を出すんだろう?」見すぼらしい服の若者が、恐ろしいにらみを僕から主婦に移して言った。
「その人にお茶を入れてあげますか?」と彼女はヒースクリフに尋ねた。
「入れたらいいじゃないか?」この答の言い方はびっくりするほど野蛮だった。この言葉の調子は本物の悪党の根性を表わしていた。僕はもうヒースクリフをすてきな男だなどと呼ぶ気はなくなった。食卓の準備がととのうと、彼は、「さあ、椅子をもっと前にお出しなさい」と招いた。われわれはみな、粗野な若者も一緒に、食卓をかこんだ。食事をしたためる間、かたくるしい沈黙が支配した。
この|陰《いん》|鬱《うつ》がもし僕のせいだとすると、僕はそれを散ずる義務があると思った。この三人がまさか毎日こんなに苦虫をかんだような顔をして黙りこくって食卓についているはずはあるまい。また彼らがどんな気むずかし屋だといっても、|揃《そろ》いも揃ったこの|渋面《じゅうめん》が彼らの毎日の顔つきでもあるまい。
「|奇《き》|態《たい》なことですが――」と、一杯の茶を飲んで二杯目を注いでもらう間に僕は話し出した。
「奇態なことですが、われわれの習慣はずいぶん趣味や考え方を造り上げるものですね。ぜんぜん世間を外に暮すあなたがたのような生活に、どんな幸福があるものだろうか|大《たい》|概《がい》の人には想像できますまい。だがヒースクリフさん、家族にかこまれ、あなたの家庭と心とを支配する守り神のような|優《やさ》しい奥さんとともに――」
「私の優しい奥さん!」彼はほとんど悪魔のような冷笑を顔に浮べてさえぎった。「どこに居ます? その優しい私の奥さんというのは?」
「ヒースクリフ夫人です。あなたの奥さんです」
「なるほど、はあ――私の妻の魂が天国に仕える天女になって、からだは亡くなった後もながくワザリング・ハイツの幸運をまもるとおっしゃるのですね! そうですか?」
これは間違ったと感づいて僕は訂正しようとした。この二人は夫婦にしてはあんまり年齢の|隔《へだた》りが大き過ぎると覚ってもよかりそうなものだったに。一方は四十|年《ねん》|輩《ぱい》だ。娘と恋愛して結婚しようなどという|迷《めい》|夢《む》はめったにおこらないほど男の心が成熟しきっている年輩だ。ただ老後の|慰《い》|安《あん》ということのために、そうした夢想は取って置かれる。それにまた彼女はやっと十七くらいにも見えないのだ。
そこでひょっと思いついた。――僕のすぐ|肱《ひじ》の先にいるこの|阿《あ》|呆《ほう》が、|鉢《はち》でお茶を飲んだり、手も洗わずにパンを食べたりしているこの|無《ぶ》|作《さ》|法《ほう》|者《もの》が、彼女の夫なのかもしれない。するとこいつがむろんヒースクリフの|息《むす》|子《こ》だ。これじゃまるで人間を生き埋めにするようなものだ。彼女は世の中にあいつよりいい人がいることを知らないばっかりにこんなぼくねんじん[#「ぼくねんじん」に傍点]に身を任せたのだろう。かわいそうに――彼女は今この僕を見てさだめしあんな男を選んだことを後悔しているだろう。気をつけなくてはならない。この最後の考えはうぬぼれのように聞えようが、そうではない。僕の|隣《となり》のこの若者は見苦しくってほとんど寄りつけないように思われた。これでも僕は相当好男子だということを経験上知っているのだ。
「ヒースクリフ夫人は私の|息《むす》|子《こ》の嫁です」とヒースクリフが言った言葉は、僕の推測を確かめた。彼はこう言いながら彼女の方に特別な顔つきを向けた。それは憎しみの表情だった。ただし彼の顔面筋肉が逆にできていて、他人と同じようには心の言葉を解釈しないというなら別問題である。
「ああ、そうですか――今度はわかりました。あなたが恵み深い天女の幸福な持主ですね」と、僕は隣の若者に言った。
今度はさっきよりいっそういけなかった。若者はまっ赤になり、今にも|跳《と》びかかりそうな顔をして|拳《こぶし》を固めた。しかしその場はどうやらわれに返っておちついたらしく、|殺《さつ》|伐《ばつ》な|罵《ば》|詈《り》の|嵐《あらし》だけで|鬱《うっ》|憤《ぷん》を晴らしたが、僕の方ではそんな悪口は気にかけないように注意した。
「あなたのご推測は不幸にしてはずれています!」と主人は言った。「われわれはどちらもあなたの言う|優《やさ》しい天女を所有する特権がないのです。彼女の夫は死にました。さきほど言ったとおり、あれはうちの嫁ですから、私の息子と結婚したことになるはずでしょう」
「してこの若いかたは――」
「私の息子ではない、けっして!」
ヒースクリフはもう一度|微笑《びしょう》した。あたかもこの熊を私の子だと思うのはあんまりだという様子で。
「僕の名前はヘアトン・アンショーってんだ」と若者はほえた。「この名前に敬意を表するがいいぞ!」
「私はちっとも不敬なことを言いませんよ」と僕はこの男が名乗りをあげた様子がものものしいのを心に笑いながら答えた。
彼はもはや僕を見つめなかったし、僕も奴を張り飛ばしたくなったり、ふき出したりしては、と思ったから奴をにらみ返そうとしなかった。僕はこんなお楽しい一家とはもう明らかに没交渉だと感じてきた。精神的に不快な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》は、温かい火やご|馳《ち》|走《そう》の物質的安楽を帳消しにしてあまりあった。そして三度目にあのあばら家の門をくぐることは、よほど考えものだと思った。
食事は終ったが誰ひとり世間話をするのでもなかった。僕は空模様を見に窓ぎわに行った。悲壮な光景だ。日は早く暮れて暗い夜になろうとしている。そして空も丘もただ激しい|颶《ぐ》|風《ふう》と息づまるような雪とに一つになって|掻《か》きまぜられていた。
「道案内がなくては家に帰りつくことはできないようですよ」と僕は音をあげずにはいられなかった。「路はもう雪で埋もれているでしょう。埋もれていないにせよ、あの雪降りの暗さでは一歩先もわかりますまい」
「ヘアトン、あの十二頭の羊を|納《な》|屋《や》の庭に追いこめ。一晩じゅうあの野ざらしの羊かこいの中に置いちゃ雪埋めになる。追いこんだら、戸板でも当てがっておくんだぞ」とヒースクリフは言った。
「どうしたらいいでしょう?」と僕はいよいよいらいらして言った。
僕の問に答はなかった。振り返って見まわすと、居るのはただ二人。犬に食わす|粥《かゆ》を|桶《おけ》に入れて持って来たジョウゼフと、|煖《だん》|炉《ろ》のそばによりかかって|慰《なぐさ》みにマッチの|束《たば》を燃やしているヒースクリフ夫人とだけだ。マッチは彼女が茶入れをもとのところに置く際に|炉《ろ》|棚《だな》から落したものだ。ジョウゼフは持物を置くと、室内を|検《けん》|閲《えつ》するように一渡り見渡し、それからしわがれ声をしぼり出した。
「驚いたもんだ、みなが出て行ったのに、ぐずぐずなまけてくだらねえことをしていられるとは! だがお前さんはろくでなしだからしゃべったって|無《む》|駄《だ》だ――死んだお|母《つか》さんみたいに、まっすぐに地獄の悪魔さ行かねえうちは、何ぼしたって悪いところは直らねえ!」
僕にこの雄弁がふるわれたとちょっと感違いして、ひどく腹を立て、この老いぼれ野郎を部屋の外へ|蹴《け》とばしてくれようと思って一歩踏み出したとき、ヒースクリフ夫人の答が僕の足を止めた。
「この悪党の老いぼれ偽善者!」と彼女は答えた。「地獄の悪魔なんて言葉を口に出すと、からだもそっくりそこへ運んで行かれるわ。こわくなくって? 私を怒らすのはよした方がいいのよ。そうしないと私は神通力でもってお前をさらって行くように|祈《き》|祷《とう》するよ。およしよ!ご覧、ジョウゼフ」と棚から一冊の長い黒い本を出して見せながら、「私がどんなに魔術に上達したか一つ試してみせようか。もうじきに免許皆伝になってよ。あの赤い|牝《め》|牛《うし》が死んだのもただごとじゃないわ。お前のリウマチだって、神明のご光来だとは思えないわ!」
「おお、恐ろしい邪悪の女だ! 神よ願わくばわれらを悪より救い出し給え!」と老人はおそるおそる言った。
「いや、とうていだめ! お前は救われなくってよ。見放されたやくざよ、お前は。――あっちへ出ておいで! そうしないと大変な目にあわすよ。お前をすっかり|蝋《ろう》と粘土とで造りかえさせるよ。そして私がきめたおきてを最初に越える者はひどい目にあうわよ――どんな目にあうか私は言うまい。だが今にわかるだろう? さあ、出ておいで! 私はお前をにらめているんですよ!」
この小さな|巫《み》|女《こ》が美しい目つきにわざと悪意あるふりをすると、ジョウゼフはほんとうに恐怖で震えあがり、「ひどい奴だ!」と叫んだり祈ったりしながら、あたふたと逃げて出た。彼女のしぐさはわびしい一種の慰みから出ているに相違ないと思った僕は、今二人きりになったので、彼女の心を僕の当惑していることに向けようとした。
「奥さん、うるさいでしょうがちょっとお聞き下さい」と僕はまじめに言った。「そのお顔であなたはどうしても親切なおかたでないはずがないと思われます。どうぞ私の帰りみちの道しるべになるものを教えて下さいませんか。あなたはロンドンに行くにはどう行くのかご存じないでしょうが、同様に私は自分の家にどう帰ったらいいかわからないんです」
「あなたが来た|路《みち》をお帰りなさい」彼女は例の長い本とロウソクとを前にして|椅《い》|子《す》に身を埋めながら言った。「これは簡単ですけれど、私ができる範囲ではたしかな助言です」
「それではもし私が沼や雪に埋もれた穴のなかで死体となって発見されたとお聞きになっても、あなたの良心は自分も少し悪かったとささやかないでしょうかしら?」
「なぜです? 私はあなたをお送りできませんわ。あの人たちは庭の|垣《かき》の|端《はし》までさえ私を出してくれませんもの」
「あなたに! こんな夜に私のために|敷《しき》|居《い》をまたぐことだってあなたにお頼みできません。私はただ道を知らせて下さいというので、あなたに道案内せよというわけじゃないんです。あるいはまたヒースクリフさんに私の道案内をつけるようにお|勧《すす》め下されたいんです」
「誰を? この家にはあの人と、アンショーとジラーとジョウゼフと私といます。どれがいいのです?」
「農場には若い衆がいないんですか?」
「ええ、これだけで全部です」
「それでは泊めていただくよりほかしかたがありませんね」
「それはこの家の主人とおきめになることです。私に何の関係もありませんわ」
「これをいい見せしめにして今後二度とここにやって来ないがいいですぜ」とヒースクリフの冷酷な声が台所の戸口から聞えた。「ここに泊るといっても来客の用意がないから、ヘアトンかジョウゼフと同じ寝床でなくてはならないが、それでいいですか?」
「この部屋の|椅《い》|子《す》の上に寝ましょう」と僕は答えた。
「いやいや、金持であろうと貧乏人であろうと他人は他人だ。家人の目のとどかないところに入れておくわけにはいかない」礼儀をわきまえないあさましい奴はこう言うのだ。
この|侮辱《ぶじょく》を受けて僕の|堪忍袋《かんにんぶくろ》は切れた。僕は|憎《ぞう》|悪《お》の言葉を残して彼の前を通り過ぎ庭の方にとび出した。急いだあまりにアンショーにつき当ったりしながら。まっ|暗《くら》|闇《やみ》だったので出口がどこなのか見つからない。ぐるぐる|廻《まわ》ってもどると彼ら同士のお|行儀《ぎょうぎ》のよいものの言い方を聞いた。まず若者は僕に味方しているようでもあった。
「僕があの人と一緒に屋敷のはずれまで行ってやろう」
「きさまはあいつと地獄まで行くがいい!」と、若者の主人だか親族だか知らないが、こう叫んだ。「そしていったい誰が馬の世話をするんだ? ええ?」
「馬どもの世話を一晩くらい|怠《おこた》ったところで人一人の命には換えられないわ。誰か行かなくてはならないわ」とヒースクリフ夫人が案外親切につぶやくのが聞えた。
「お前の命令でなんか行かないぞ!」とヘアトンが口を返した。「もしお前があいつを大事に思うなら黙って引っこんでいるがいい」
「それならあの人の幽霊があなたにつきますからね。そしてヒースクリフさんはもう二度と借家人がなくなって、あのグレンジの屋敷をあばら家にしてしまうでしょうよ!」と彼女は鋭く答えた。
「お聞きなされ、あの女はみんなをのろってるぞ!」僕がやって行ったときジョウゼフはこうつぶやいていた。
彼は話し声が耳にとどくところにいて、|提灯《ちょうちん》の光で牛の乳をしぼっていたのだ。僕はその提灯をいきなりつかんで、明日の朝返すよと叫びながら一番近い裏門に突進した。
「|旦《だん》|那《な》|様《さま》! あの人が提灯を盗んだよ!」と、|老《ろう》|僕《ぼく》はこう叫んで僕の退却を追跡した。「おし! ナッシャ! おしおし! 犬! ウルフ! おしおし! あいつをつかまえろ!」
小さい戸を開くと、三匹の|兎《うさぎ》のような動物が僕の|喉《のど》|笛《ぶえ》を目がけてとびつき、僕を引きずり倒して提灯の火を消してしまった。そのときヒースクリフとヘアトンとの高笑いが聞えてきたので僕の|忿《ふん》|怒《ぬ》と無念とは頂点に達した。幸いにも|獣《けもの》は前足を伸ばし、あくびをし尾を振ったりしただけで、僕を生きたままむさぼり食おうとはしなかったが、それ以上の安心を許さなかったので、僕はこいつらの意地悪な主人たちが来て助けるまで、横倒れになっていなくてはならなかった。帽子もかぶらずに|激《げき》|怒《ど》で身を震わしながら、僕を外へ出せ、一分間でもここに置くと君たちはひどい目にあうぞなどと悪漢どもに命令し、|憎《ぞう》|悪《お》の無限の深さではリヤ王のせりふに類するような、つじつまの合わない|復讐《ふくしゅう》のおどし文句を並べていた。
僕はあまりひどく興奮して鼻血がどっさり流れたのに、ヒースクリフはまだ笑っているし、こっちはますます|憤《ふん》|慨《がい》した。もしもこの際僕よりは合理的でここの主人よりは人情のある人が手近かに居なかったら、この場面はどう結末をつけたかわかったものじゃなかった。この登場人物はジラーだった。あのがんじょうなおかみさんだ。彼女はとうとうこの騒動を見きわめに来た。そして彼らのどっちかが僕に暴力を加えたと思ったのだろう。主人には直接に手出しができないので、彼女は声の大砲を若い方の悪漢に差し向けた。
「ねえ、アンショーさん。そしてこの次には何をしようとしていたんです? このうちの戸口でもって人殺しをしようとしてたんですの? どうもこの家は私には向きませんね。――ご覧なさい。かわいそうにこの若い人は息が絶えそうですよ! 静かに、静かに! あなたはそう騒いじゃいけません。いらっしゃい私が直してあげましょう。さあ、じっとしていらっしゃい」
こう言いながら彼女はいきなり氷のような水を三合ばかり、僕の首筋にぶっかけて、台所に引っ張って行った。ヒースクリフ君はつづいて来た。彼の一時の快活な様子はもう消せ失せて、平生のむっつりに返っていた。
僕は非常に気分が悪かった。めまいがして気が遠くなった。こうしてしかたなく僕は彼の屋根の下に泊らせられた。彼は僕にブランデーを一杯飲ませるようにジラーに命じ、その奥の部屋にひっこんで行った。彼女は僕の苦境に同情して|慰《なぐさ》め、主人の言いつけに従ったので、やや|蘇《そ》|生《せい》の思いをした。こうして僕は寝床につれて行かれた。
二階に案内する途中、彼女は僕にロウソクの|灯《ひ》を隠し、音を立てないようにと注意した。今僕が通される部屋に対して、彼女の主人は奇妙な考えをもっていて、やむを得ない場合のほかはこの部屋には誰も泊めないのだそうだ。僕はそのわけを|尋《たず》ねた。彼女も知らなかった。まだ一、二年しかここに住んでいなかったのだ。そしてこの家にはあまりにたくさん変なことがあるので、彼女にはもう好奇心も起しきれないのだと言う。
僕もひどく頭がボンヤリしていて好奇心どころではなかったが、戸を固く閉ざし、寝床を求めてあたりを|見《み》|廻《まわ》した。家具は一脚の|椅《い》|子《す》、|衣裳戸棚《いしょうとだな》が一つ、それからカシ材の大きな箱が一つ、その四方に頂上の近くで窓が切ってあるところ、まるで馬車の窓にそっくりだ。近寄って見るとそれは珍しい古風な寝台で、家族が一人一人自分の寝室をもつ必要がないように便利にこしらえたものである。実際それは小さな密室になっていて、窓をかこんでいる窓べりの下部は、棚でテーブルの代用にもなる。僕は鏡板をつけた側面の戸をあけ、|手燭《てしょく》をもってその中にはいって戸を閉じると、ヒースクリフをはじめ皆の者の見張りから|免《まぬか》れたように感じてほっとした。
僕が手燭を置いた窓べりには、湿っぽくかびの生えた本が数冊、|片《かた》|隅《すみ》に積んであった。窓べりのペンキの上は落書で一杯だった。それはしかし大小さまざまの字体で繰返し書いた「キャサリン・アンショー」という名前だけで、ところどころそれが「キャサリン・ヒースクリフ」となったり、「キャサリン・リントン」となったりしていた。
気抜けしたようにぼんやりして頭を窓にもたせながら、僕はキャサリン・アンショー――ヒースクリフ――リントンと繰返しているうち、いつしかうとうとと目をつぶった。しかしこのまどろみがものの五分とつづかないうちに、またぞろあの白い文字が|闇《やみ》のなかから|妖《よう》|怪《かい》のようにはっきりと浮き出してきて、そこらじゅうの空気はキャサリンで一杯になった。この|厄《やっ》|介《かい》な名前を頭から払いのけようとして起きてみると、ロウソクのしんが古本の一冊に傾いていて、その辺は子牛の皮でもあぶったように|焦《こ》げ|臭《くさ》かった。僕はそのしんをはさみとった。そしてさむけはするし、はき気をもよおして、ひどく気分が悪いので、起き上ってすわり、焦げた本を|膝《ひざ》の上にひろげた。聖書であった。細かい活字で印刷してある。恐ろしくかび臭かった。見返しには「キャサリン・アンショー用書」と記して、日付は二十五年ほど昔になっていた。僕はそれを閉じて別の本を手にとりつぎつぎにとうとう全部|検《けん》|閲《えつ》した。キャサリンの蔵書はよく選択されていたし、よく読まれたかどうかわからないが、とにかくよく使われたと見えて大分いたんでいた。印刷屋が残しておいた余白という余白にはほとんどどの章にも何やら注釈のような書入れがあった。断片の文章もあれば、日記の|体《てい》|裁《さい》をそなえたものもあって、子供らしい定まらない手でたどたどしく書いてあった。余白のページ(最初それに偶然ぶつかった時はさだめし宝ものと思われたことだろうが)の上に、わがジョウゼフ君の似顔の漫画が、荒っぽく、しかしいきいきと描いてあったのを見たときは|嬉《うれ》しかった。直接の興味がまだ見ぬキャサリンに対して|湧《わ》いて来て、僕は消えかかった|象形文字《しょうけいもじ》のような彼女の|手《しゅ》|蹟《せき》を判読しようとした。
「恐ろしい日曜!」と下の一節は書き起してあった。「お父さんがこの世に|還《かえ》って来なさるといいけれど。ヒンドリはいやな二代目。――ヒースクリフに対する仕打ちったらひどい。――Hと私とは反逆を|企《くわだ》てている。――私たちは今晩その一歩をふみだした。
一日じゅう、雨が土砂降りでした。私たちは教会に行くことができなかったので、ジョウゼフが屋根裏で集会を司会しなくてはならなかった。その間ヒンドリ夫婦は階下の|煖《だん》|炉《ろ》の前に気持|好《よ》さそうにあたっていた――何のけっして聖書など読むものですか。――それは確かよ――ヒースクリフと私とあの不幸な|作男《さくおとこ》とは|祈《き》|祷《とう》|書《しょ》をもたせられて屋根裏に上らされた。私たちは麦袋の上に一列に整列させられ、寒いのでうなったり震えたりしながら、ジョウゼフもやはりさむけがすると好い、そしてそのためにお説教を短くしてくれるといいと思っていた。てんでだめ! 礼拝のお勤めはきっちり三時間つづいた。それだのに私たちが階下に降りるとお兄さんは『何だ、もう済んだのか?』だなんてずいぶんひどいわ。日曜の夕はお父さんがいらしった|頃《ころ》は、あまりやかましくさえしなければ遊ぶお許しが出たものでした。今ではちょっと笑ってもすぐ|隅《すみ》っこに追っぱらわれるのですもの!
『お前は今度この家に主人ができたことを忘れている』とこの暴君は言うのです。『僕の|機《き》|嫌《げん》をそこねる奴はまっ先にやっつけるぞ! じっと|謹《つつし》んで黙ってるがいい。おお小僧! お前だったか。フランセスや。こっちに来るときあいつの髪の毛を引っ張っておやり。あいつはいま人をばかにして指を鳴らしていたから』フランセスは本気であの人の髪をひっぱって、それから行って兄様の|膝《ひざ》の上に腰かけ、それから赤ん坊同士のようにキスをしたり、いつまでとなくつまらないことを話したり――ほんとうに聞くのも恥ずかしいようなばかなおしゃべりなの。私たちは調理台の下のアーチをできるだけ|居《い》|心《ごこ》|地《ち》よくした。ちょうど私たちの前掛をつないで、それをカーテンのつもりにしてかけていると、ジョウゼフが|厩《うまや》から用事でやって来た。彼は私のこしらえたカーテンを裂いて私の両耳をなぐりどら声でどなった。
『|大《おお》|旦《だん》|那《な》様はやっとお|葬《とむら》いが済んだばかりだし、安息日はまだ終らず、|福《ふく》|音《いん》の響はお前さんの耳にまだ残って居るのに、遊んでいるとは全体何事だ! 恥ずかしいことだ! すわりなさい。悪い子供だ! よい本は幾らでもある。お前さんたちの魂のことを考えなさい!』
こう言いながら彼は私たちを強制して席につかせ、私たちの前に|駄《だ》|本《ほん》を突きつけて、火がやっとぼんやりそのテキストを照らすほど|煖《だん》|炉《ろ》から遠く離れたところにすわらせた。私はこんな課業に我慢できなかった。それでこんなよい本はまっぴらですと言いながら、表紙の背をつかんでその薄汚い本を犬小屋にほうり投げた。ヒースクリフも彼の本を同じ場所に|蹴《け》とばした。すると騒ぎが起ったのです。
『ヒンドリ旦那様!』と私たちの牧師役は叫んだ。『旦那様、来て下さい! キャシーさんは「救世の鉄かぶと」の背を打っちゃるし、ヒースクリフは「|亡《ほろ》びの大道」の上巻を足で蹴とばしましたよ! ありがたいご本をこんなふうにするなんて全く恐ろしいことだ。エヘッ! 大旦那様だったら存分になぐって下さるだに――もう死になさったしのう!』
ヒンドリは炉ばたの天国から急いでやって来て、私たちの一方の|襟《えり》|首《くび》をつかみ、もう一人の方のは腕をとらえて台所の奥部屋にひっぱりこむと、そこでジョウゼフはしかつめらしく今に必ずここに悪魔が来て私たちを連れて行くと申し渡した。こう宣告されたので私たちはめいめい|隅《すみ》っこに小さくなって悪魔の到来を待ちかまえていた。私はこの本とインキ|壺《つぼ》とを|棚《たな》からおろし、戸を少々あけて光を採り、二十分間ほどもこの日記を書いて過した。けれども私のお仲間は待ち疲れて提案することには、今から|搾乳場《さくにゅうじょう》の女の|外《がい》|套《とう》をせしめて、外の沢原にそれを着て出かけようと言うのです。うまい思いつきね。――そして意地わるのあのじいさんがそのあとにやって来たら、なるほど自分の予言はあたったと思うでしょう。――外は雨が降ってるけれど、いくら何でもここにこうしているより寒いことも湿っぽいこともないでしょう」
僕はキャサリンがこの計画を実行したに違いないと思う。なぜなら次の文章はまた別のことになっているのだ。彼女は涙もろくなってきている。
「ヒンドリがあんなに私を泣かすとは夢にも思わなかった!」と書きつづけてある。「私の頭は|枕《まくら》の上に|載《の》っけておけないほど痛んだ。それでも私は泣きやめられなかった。かわいそうなヒースクリフ! ヒンドリは彼を宿無しと呼んで、私たちと一緒にすわったり食事したりさせない。そして私に彼と遊んではならないと言いつけた。もし言いつけをきかないと彼を追い出すなんておどかす。お父さんがあまりHを勝手にさせておいたなどと、まあなんということでしょう。お父様のことまで悪く言ったりして。そして僕はあいつの|待《たい》|遇《ぐう》を正当なところまで引きもどしてやるんだなんて言って。――」
僕はぼんやりとかすんで来たページの上にこっくりこっくりやり始めた。僕の眼は|筆《ひっ》|蹟《せき》から活字へとさまよった。赤い飾りのついた表題に「七度の七十倍。および七十一倍目の最初。ギマデン・サウの教会堂におけるジェイブス・ブランダラム牧師の説教」とあった。そしてジェイブス・ブランダラムがこの題目でどんな説教をしたんだろう! と半意識的に頭を使っているうちに寝床に身を埋めて眠ってしまった。だが悪い茶と悪い気分との影響はなんというひどいものだろう! さもなければいったい他の何物が僕にこんな恐ろしい夜を過させたのだろう! 僕が苦しい味を知って以来、この苦しさにかりそめにも比べられるような経験はまだなかったと思う。
僕はどこに居るんだかわからなくなった、と思うと、もはや夢を見ていた。朝らしかったと思う。僕はジョウゼフに案内されて家に帰って来るところだった。雪は|路《みち》を幾ヤードも深く埋めていた。そしてわれわれは転んでは起き転んでは起きして行くと、ジョウゼフは僕が巡礼者の|杖《つえ》を忘れて来た、というのでしつこく責める。たしか巡礼者の杖といったのを覚えている。それが無いと家に帰ることができないと言って、僕を頭の重いこん棒でなぐりそうにするのだ。自分の住居にはいるのにそんな道具が必要だというのは変だと僕はちょっと考えた。すると新しい考えが浮んだ。僕は家に行くのではなくて、有名なジェイブス・ブランダラムが聖書の句から取った「七度の七十倍」という題目で説教するのを|聴《き》きに行くところなのだ。ジョウゼフか、その説教者か、あるいは僕かが、その「七十一倍目の最初」の罪を犯して、それを|暴《ばく》|露《ろ》されて破門されることになっていた。
われわれは教会堂に来た。僕はいつか散歩して二、三度ここを実際に通ったことがある。それは二つの丘の間の|窪《くぼ》|地《ち》にあった。沼の近くの小高い盆地だ。沼地の|泥《でい》|炭《たん》の湿気は、そこの墓に埋められた|死《し》|骸《がい》に防腐剤の香油を塗る目的に適していると言われている。建物の屋根はこれまで保全されてきたが、何分にも牧師の給料が一年にわずか二十ポンドで、それに二室だけの住宅は仕切りの壁がくちて一室になってしまいそうなぼろ家なので、そこの住職を引き受ける|僧《そう》|侶《りょ》は一人もなかった。その上またこの教会の信徒は自分のふところから一ペニの銭を出して|寺《じ》|禄《ろく》を増すよりは、むしろ僧侶を|餓《が》|死《し》させる方がましと考えているとの評判だった。けれども僕の夢ではジェイブスの説教にはたくさんの熱心な聴衆が集っていた。そしてまあなんという説教だろう! 七度を七十倍した四百九十の部分に分けて、その一つ一つが普通の日曜講壇の説教に立派に|匹《ひっ》|敵《てき》するもので、それぞれ別の罪について説いているのだ。彼はどこからそんなに|捜《さが》して来たのか僕は知らない。彼は「七度を七十倍」という句について一個の見解をもっていて、信徒はあらゆる場合にそれぞれ違った罪を犯すということが必然のように思われているらしい。それらのいわゆる罪は奇妙な性質のもので、僕が今まで想像もしなかったような罪悪なのだ。おお、どんなに僕はうんざりしたことか! どんなに身もだえしたり、あくびをしたり、居眠りしかけたり、そしてまた元気を出したりしたろう! どんなにからだをつねったり突ついたり、目をこすったり、立ち上ったり、またすわってみたりしたことだろう! そしてジョウゼフにいつか終ったら知らせてくれと、そっと|肱《ひじ》を突いたりした。僕はしまいまで|聴《き》かねばならぬはめになった。とうとうしかし彼は「七十一倍目」の罪の話まで進んだ。この瀬戸ぎわになったとき、突然僕に霊感があった。僕はその霊感に動かされて立った。そしてジェイブス・ブランダラムはキリスト教徒が|赦《ゆる》してやるに及ばない罪人だと宣告してやるのだ。「君」と僕は叫んだ。「この|四《し》|壁《へき》のなかにあって、僕はつづけざまにあなたの四百九十の題目の説教を耐え忍び、そして赦してあげた。七度を七十倍しただけ僕は帽子をかぶってまさに帰らんとした。しかるに理不尽にもあなたは七度を七十倍しただけ僕を席にもどした。だが四百九十一度はもうあまり多過ぎる。同じ受難者諸君、彼をおそえ! 彼を引きずり下ろして、こなごなにくだいて、彼を知る所にもはや彼を居なくしてしまえ!」
「なんじはその人なり!」とジェイブスは叫んだ。――|腰《こし》|掛《かけ》によりかかってしばらく|荘《そう》|厳《ごん》にじっとしていた後で、「七度を七十倍しただけあなたは口をあんぐり開いて顔をしかめた。――七度を七十倍しただけ私は私の魂に相談した。――ああこれも人間の弱点でやむをえぬ。赦してやろう! けれども七十一倍目のが来た。兄弟よ、聖書に記された裁判を彼に執行して下さい。かかる栄誉を神のあらゆる聖徒は有しているのですぞ!」
こう言って言葉を切ると、会衆たちは皆めいめい|巡礼杖《じゅんれいづえ》を振り上げながら、一団になって僕のまわりに押し寄せた。そこで防ぐ武器を持たなかった僕は、一番手近かな、しかも一番猛烈な攻撃者ジョウゼフにつかみかかって彼の武器を取ろうとした。群集のなだれと一緒に幾つかのこん棒は十文字に飛びかい、僕をねらった打撃が他の者の脳天にあたったりした。たちまち会堂のなかは、なぐる音なぐり返す音で響き渡った。人々の手は皆その隣人と闘った。そしてブランダラムは黙っているのもいやだとみえて、一所懸命に講壇の板をやかましくガタガタ鳴らした。その音があまりひどかったので、とうとう僕は目がさめて名状しがたいほど安心した。だがいったい何があのやかましい騒動の夢を見させたのか? 何があのジェイブスの騒々しい役割を演じたのだろう? 何でもないのだ。モミの木の枝が風の泣き叫ぶごとに|格《こう》|子《し》|戸《ど》に触れて、その乾いた実ががらがらと窓を打つだけなのだ! 僕は疑問に思ってちょっと耳を傾け、眠りを|妨《さまた》げる音を確かめ、それから向き直ってまどろみ、そしてまた夢を見た。前の夢もこれ以上ないほどいやなものだったが、今度のはまたそれに輪をかけたほど不快だった。
今度はカシ材の箱部屋のなかで寝ているのだ。そして明らかに烈風と吹雪とが聞える。モミの木の枝がざわつく音も繰返して聞える。そしてそれぞれ何の音だかがわかる。けれどもあまりうるさいので、できることならその音をとめてやろうと決心した。そして僕は起き上ってこの開き窓の掛けがねをはずそうとしたように思うのだ。ところが|肱《ひじ》がねは|壺《つぼ》がねにハンダづけにしてあった。そこは先に目がさめたとき見ておいたはずだが忘れてしまっている。とにかく僕は「どうしてもとめてやるぞ!」とつぶやいて、こぶしを固めてガラスをたたき、腕を伸ばしてうるさい枝をつかんだ。ところがどうだ! 僕がつかんだのは枝ではなくて、氷のように冷たい小さな手の指なのだ。僕はすさまじく恐ろしい悪魔の捕虜になった。腕を引こうとするが、怪物の手はしがみついて、「入れて下さい、入れて下さい!」とそれはそれは哀れっぽい泣き声でいうのだ。僕はしばらく手放そうとして、もがきつづけてから、「誰だ?」と|尋《たず》ねた。「キャサリン・リントン」と震えながらそれは答えた。(どうして僕は「リントン」を考えたんだろう? それよりか「アンショー」という|姓《せい》をたくさん読んでいたのに)「私、家に帰って来たの。今まで沢原で|路《みち》に迷っていたんです」とそれが話したとき、僕は窓ごしにのぞいている子供の顔をぼんやりと認めた。恐怖は僕を残酷にした。こいつを振り払うことは、とうていだめだと知ったので、その握りこぶしを破れたガラスのところにひっぱってきて、血がどんどん流れて夜具を浸すまで、メチャクチャにこすりつけた。それでもまだ「入れて下さい!」と泣くのだ。そして|万《まん》|力《りき》のようにしっかりとしがみついて放れないので、僕はおそろしくてまるで気ちがいのようになった。「入れることができないじゃないか!」と僕はとうとう言った。「入れてもらいたいなら私の手を放せ!」するとその指は握りをゆるめた。僕は手を穴から引っこめて、大急ぎで本をピラミッド形に積み上げてその穴をふさいで、そして哀れっぽい願いが聞えないように両耳を指で止めた。僕はそうやって十五分以上も耳の穴をふさいでいたように思う。それでもまだ悲しげな泣声が、うめきつづけていた!「出て失せろ!」と僕はどなった。「二十年も願ったって、僕はお前を入れないぞ!」「二十年です」とその声は言った。「二十年です。私は二十年のあいだ宿無しでしたの!」すると外ではかすかに窓穴をがさがさかき始めて、積み重ねた本が前にのめりそうになって動いた。僕はとび上ろうとした。が、手も足も動かない。それで恐怖で気ちがいのようになって高くうなった。ところがそのうなり声は夢だけでなかったと知って面食らった。急ぎ足の足音が僕の部屋の戸に近づいて来る。誰かが強い手で戸を押し開いた。そして|灯《ほ》かげが箱寝台の上の角窓からちらちら差しこんで来た。僕はまだ青くなってどきどきしてすわって|額《ひたい》の汗をふいていた。侵入者はためらっているようだった。そして何やら口のなかで言っていたが、とうとう彼はなかばささやくように、もちろん答を予期しないらしく、「誰か居るかえ?」と尋ねた。僕はヒースクリフの声を知っていたし、それに黙っていたら|捜《さが》し始めるかもしれないと思ったから、正直に僕が居ることを知らせた方が得策だと考えた。そうしたつもりで僕は鏡板の戸を開いた。この動作がひき起した結果は、とうていちょっとやそっとでは忘れられない。
ヒースクリフはシャツとズボンとだけで入口の近くに立っていたが、手に持ったロウソクは指に|滴《したた》り、顔はうしろの壁のようにまっ白になっていた。カシの戸の最初のきしりで彼は電気に打たれたようにギクリとした。そして持っていた|燭台《しょくだい》を足下に落したが、それを拾うこともできないくらいひどく興奮していた。
「何でもない。あなたの泊り客ですよ」彼の|臆病《おくびょう》をこれ以上さらけ出して恥ずかしい思いをさせたくないと思って僕は言った。
「私は恐ろしい夢にうなされましたのでね、うっかり叫んでしまったんです。おさわがせして済みませんでした」
「おお、じつにけしからんですな、ロックウッドさん! 地獄にでもおちたがいい――」とこの家の主人は言って燭台を|椅《い》|子《す》の上に置いた。それをちゃんと持っていることはとうてい不可能だと知ったのだろう。「して誰があなたをこの部屋に案内したんです?」と彼は手のひらに|爪《つめ》を押しつぶすほど固くこぶしを握り、あごがガタガタするのを|抑《おさ》えるため歯を食いしばりながら言いつづけた。「誰でしたか一体? そんな奴はこの家からすぐさま追い出してしまうつもりです」
「あなたの女中のジラーです」僕は床にとびおりて、上衣を|素《す》|早《ばや》く着ながら言った。「あなたがあんな女中を追い出したって私はちっともかまいませんよ、ヒースクリフさん。全くお払い箱になる値打ちは十分ですからね。あの女は私をだしに使ってここに化物が出ることを確かめようとしたに相違ない。全く|妖《よう》|怪《かい》|変《へん》|化《げ》でウジャウジャしている。あなたがこんな部屋を|締《し》め切っておくのはもっともですね、実際。こんな化物部屋に泊めてもらっても誰だってありがたくありませんからな」
「それは一体どうしたわけです?」とヒースクリフは言った。「して、あなたは何をしているんです? まあ横になって夜を明かすがいいでしょう。あなたがここに居る以上はしかたがない。だが|後生《ごしょう》だから二度とあの恐ろしい声は立てないことですよ。あなたが首でも切られるときでなくっちゃ、あんなめっそうもない声を立てられることはまっぴらです!」
「もしもあのちっぽけな鬼が窓からはいったが最後、あの女はたぶん私の首を絞めたでしょうよ!」と僕は言葉を返した。「あなたのご愛想のいいご先祖様の迫害には私こそもうとてもやりきれない。ジェイブス・ブランダラム牧師というおかたはあなたの母方の|親《しん》|戚《せき》でなかったんですか? それからあのキャサリン・リントンとかアンショーとか何とかいうおてんば娘――きっと魔物がおいて行った|取《とり》|換《かえ》っ|児《こ》に相違ない! いけないちびだ! 二十年のあいだ|成仏《じょうぶつ》できないで地上をうろついていたと私に言った。取返しのつかない罪を|犯《おか》した罰に違いない」
こう言って、すぐに僕は本の中に落書きしてあったキャサリンとヒースクリフとの関係を思い出した。それまでは全く忘れていたのだ。思慮のないことを言ったと思って赤くなった。そこであわてて何食わぬ顔で付け加えた。「私は今夜の|宵《よい》の口を実のところ――」ここでまた僕はつかえた。初めは「そこにある古い本を読んで過した」と言うところだったのだが、それではその本に印刷してあることも、書きこみしてあることも、みな知っていることがばれるのでまずい。そこで僕はこれをやめて次のように|訂《てい》|正《せい》した。――「その窓ぶちの|棚《たな》に書いてある落書きの字を|綴《つづ》って過したのです。何でも単調な仕事をして、眠気を|催《もよお》すようにと思いましてね、ちょうど数でも数えてるように――」
「一体何のつもりであなたはそんなことを私に話すんです?」とヒースクリフは野蛮な荒々しさでどなりつけた。「どうしてあなたは私の家の屋根の下でそんなことをわざわざ言うんです? ああ、あんなことを言うのは気が狂ってるせいだ!」こう言って彼は怒りのあまり自分の|額《ひたい》を自分で打った。
僕は彼の言葉を怒るべきか、または弁明をつづけるべきか、わからなかった。だが彼はあまり激しく興奮したようなので、僕はかわいそうになって来た。そして夢物語をきかせてやった。ただし僕はかつてキャサリン・リントンという名前を今まで聞いたことがないこと、しかしそれを何度も繰返して読んでいるうちだんだん想像が|湧《わ》き出し、その名前を人物化してついには自分で自分の想像を|抑《おさ》えることができなくなったことを念を押して語った。僕が語るにつれて、ヒースクリフは次第に寝台のかげに後しざりして、とうとうその|背《はい》|後《ご》にほとんど隠れるようにしてすわった。しかし彼の不規則な苦しそうな呼吸から推測すると、彼は非常に激しい感情をしいて抑えつけようと努力しているらしかった。
彼の心の中で戦っている|苦《く》|悶《もん》に感づいた様子を見せたくなかったから、髪や|髭《ひげ》の手入れをわざと音を立ててつづけながら、時計を出してみて夜の長いことなど|独《ひと》りごとを言った。「まだやっと三時前か! もう六時|頃《ごろ》と思っていたのに。ここでは時のたつのが遅いのかしら。八時に寝床についたはずなのに!」
「冬にはいつも九時に寝て四時に起きるのです」とこの家の主人は、うなり声を抑えて言った。彼の腕の影が動いた様子から察するに、どうやら眼から涙を|拭《ぬぐ》ったらしかった。「ロックウッドさん」と彼は付け加えた。「私の部屋に来てもかまいません。こんなに早く階下に降りたところで、そうするよりほかにしかたがない。それにあなたの子供みたいな叫び声のおかげで私はすっかり眼が|覚《さ》めて眠られなくなりましたしね」
「私だって眠られませんよ。夜明けまで庭を歩いて、それから帰ります。もう二度とおじゃましませんからご心配なさるには及びません。都会であろうといなかであろうと、交際の楽しみを求めようとすることにはもうこりごりしました。|分《ふん》|別《べつ》のある人間は自分独りを友達にして満足すべきものなんでしょう」
「愉快な友達だ!」とヒースクリフはつぶやいた。「このロウソクを持って好きなところに行って下さい。私もじきに行きますから。ただし庭に出てはだめですよ。犬がつないでありませんからね。それから『うち』もだめです――ジュノーが番兵しているから、そして――いや、あなたはただ|廊《ろう》|下《か》と階段とをぶらつくことしかできませんよ、ともかく出て下さい――私は二分もたったら出ます」
この部屋を出ることだけは彼の言葉に従った。この狭い廊下がどこへ通じているのかわからないので、僕はじっと立っていたとき、はからずもこの地主の迷信的な点を目撃したのだ。それは分別ありげな彼の外見を奇妙に裏切るものだった。
彼は寝床の上に行って|格《こう》|子《し》|戸《ど》をねじあけ、それを引くときに|堪《た》え切れない激情の涙にくれた。「はいれ! はいれ!」と泣きじゃくりながら言って、「キャシー! おいで! おお、もう一度おいで! おお、私のほんとうにかわいいお前! 今度こそはキャサリン、お聞き!」だが幽霊は幽霊なみの気まぐれを示していっこう出て来る気配もなかった。ただ雪とつむじ風とがさっと吹きこんで、僕の立っているところまで吹き通し、ともし火を消してしまった。
こんなうわ言を言う様子にはあまり悲しみが|溢《あふ》れ出て痛々しげなので、ばかばかしいと思うのを通り越して同情してしまった。そして立聞きなどするんでなかったと思ったり、くだらない夢の話などしなければよかったと思ったり、自分ながら腹を立ててそこを去った。理由は僕にはわからないけれど、とにかく僕の話が彼をあんなに苦しませたのだから。僕は気をつけて階下に降り、台所の奥に行って、炉の火をかき寄せ、消えたロウソクをまたともすことができた。誰も起き出さない。何も動くものはなかった。ただ灰色のぶち猫が炉ばたから|這《は》い出して来て、僕にぶつぶつ言うような鳴声であいさつしただけだ。
弓形の二脚の|腰《こし》|掛《かけ》が炉をほとんど取りかこんでいた。その一脚の方に僕がからだを伸ばすと、|猫《ねこ》が他の一脚の上に乗った。そしてわれわれは両方とも居眠りをしていると、この隠れ場に誰かが侵入して来た。ジョウゼフだ。引窓を通じて屋根に消えている木のはしごを、のそりのそりとおりて来る。屋根裏の部屋からおりて来たのだろう。そして僕が格子べりの間にちらつかせて置いたロウソクの|焔《ほのお》をぶっそうげににらんで、猫をベンチの上から引きずり下ろし、その後がまに腰をすえて三インチのパイプに|煙草《た ば こ》をつめ始めた。彼の部屋に僕がはいりこんでいることを口に出すも恥ずべき|厚《こう》|顔《がん》と思ったに相違ない。彼はものも言わずにパイプをくわえたまま腕を組み、ぷかぷかふかし出した。彼が安楽境を|享楽《きょうらく》しているのに僕はじゃまだてしないでおいた。やがて最後の煙の輪をふかしてしまうと、深いため息を一つして起き上り、来たときと同じように|荘《そう》|厳《ごん》に出て行った。
今度は少し軽い足音をしてはいって来た者がある。僕は「お早う」を言おうとして口をあいたが、あいさつはやめて再び口を閉じた。ヘアトン・アンショーが低い声で|祈《き》|祷《とう》しているらしかったからだ。彼は手当り次第のものに|呪《のろ》いの言葉を浴びせながら、雪かきをしようと|鋤《すき》かシャベルかをさがして|片《かた》|隅《すみ》をかきまわしていた。彼はベンチのうしろからのぞきこんで鼻の|孔《あな》をふくらましたが、僕の仲間の猫に対してと同じく僕には何のあいさつもしなかった。僕は彼の準備によってここを退去できることと思い、お尻の痛い寝床を離れて彼について行こうとした。そうと知った彼は鋤の|端《はし》で内の方の戸を押して、居場所を換えるならそちらに行かなくてはならないと発音の悪い言葉で知らせた。
戸は「うち」に開いた。もう女たちが起きて来ていた。ジラーは非常に大きいふいごで|煖《だん》|炉《ろ》から火の粉を立てていたし、ヒースクリフ夫人は炉ばたにひざまずいて|焔《ほのお》の光で本を読んでいた。手を目と炉の光の間にかざしながら、夢中になって読んでいるようだ。ただ女中が火の粉を飛ばしてよこすのを|叱《しか》ったり、犬が顔に鼻をすり寄せるのを折々押しのけたりするときだけ、目は本から離れた。驚いたことにはヒースクリフもそこに居た。彼は火のそばに立って背中をこちらに向け、ちょうどジラーをかわいそうに暴風のごとくどなりつけた騒動のあとであった。ジラーは仕事をしながら時々エプロンの端で涙をふきふき|憤《ふん》|激《げき》のうめき声を立てていた。
「そしてお前は何の役にも立たん奴だ――」と彼は僕がはいったときに彼の義理の娘に向ってどなり出した。そしてアヒルとか羊などと言うのと同じように何の害もない形容語ではあるが、通例は|伏《ふせ》|字《じ》で書き表わされる悪口を連発した。
「またそんなくだらんまねをして! ほかの者はみな働いてパンを得ているのに――お前は私のおなさけで食ってるんだよ! そんなくだらんものはほうってしまって、何かして働かんか! お前はいつまでも私の目につく所にいて私を苦しませているんだから、その|償《つぐな》いをさせてやる。――いいかえ、このろくでなしのやくざ女!」
「そんならくだらん物をほうってしまいましょう。いやだと言えばあなたは力ずくでもほうらせることがおできになりますからね」とその若い未亡人は答えて本を閉じそれを|椅《い》|子《す》の上にほうった。「でも私は気のむいたことでなくては何もいたしませんわ。いくらあなたが舌の抜けるほどののしってもだめです!」
ヒースクリフが手をあげると、彼女はとび上って安全な距離だけ逃げたのは、明らかに彼のこぶしの力を|日《ひ》|頃《ごろ》から知っているらしい。こうした内輪げんかのもてなしをうけることはたまらないので、僕は|煖《だん》|炉《ろ》に温まりたいふうをして、そして今までの口論はちっとも知らないふうをして、さっさとはいって行った。彼らもさすがにいがみ合うことをやめるだけの礼儀は知っていた。ヒースクリフは彼のこぶしを安全地帯のポケットに納めた。ヒースクリフ夫人は|唇《くちびる》をそらしてずっと離れた席に行き、そこで僕の居るあいだじっとして銅像の役目を演じた。何もしないという声明を守ったわけだ。僕は長居はしなかった。朝飯の食卓に加わることはことわって、|黎《れい》|明《めい》の|曙《しょ》|光《こう》が輝き出すとすぐ外の空気にのがれ出た。もう晴れて静かだった。空気は目に見えぬ氷のように冷たかった。
庭の|端《はし》まで行かないうち地主は僕を呼び止めて、原野を一緒に横切って行こうと申し出た。そう言ってくれたのは好都合だった。丘の背はただもう大波のうねる白い一つの海原だったからだ。高い丘も低い谷も実際の土地の高低を表わしていないからだ。少なくともたくさんの穴は平地の高さになっていた。石切場の跡の土手はきのう歩いて来たとき心に留めておいた地図からすっかり消されていた。僕は|路《みち》の片側に六ないし七ヤードおきにまっすぐ並んだ石の線が、荒野を一筋に通っているのを目標にして置いた。それらの石は暗夜の道しるべになるように、そして今のように雪が降って両側の沼と道とがごっちゃになったときのために、白く塗って建てられてあった。けれどもここかしこに、ぽつぽつ薄汚く見える点のほか、それらの目標は|跡《あと》|方《かた》もなく消えていた。それで僕がいいつもりで路をたどろうとする際、僕の連れは時々右の方へとか左の方へとか注意してくれなくてはならなかった。
僕たちはほとんど言葉をかわさなかった。彼はスラシクロスの|荘苑《しょうえん》の入口で足をとめて、もう道を間違う気づかいがあるまいと言った。僕たちの別れのあいさつはただそそくさと一礼しただけだった。そしてそれから先は自分だけの|分《ふん》|別《べつ》をたよりにして進んだ。門番小屋はまだ空き家になっていたからだ。この門からグレンジまでは二マイルあった。それをどうやら四マイルも歩いたように思う。林のなかを迷ったり、雪に首まで埋まったりしたからだ。その|艱《かん》|難《なん》は実際こうした経験をなめたことのある人ならではわからない。どんなふうにさまよっていたにせよ、とにかく家に着いたとき十二時が打った。ワザリング・ハイツから普通の道のりにするとちょうど一マイルを一時間かかったわけになる。
僕の借家に人間の|造《ぞう》|作《さく》としてついていた家政婦とその仲間たちとがとんで出て僕を歓迎した。そしてもう僕のことはあきらめていたところだったと、口々にそうぞうしく叫んだ。ゆうべ行き倒れになってしまったものと誰もが思っていたそうだ。そして死体を|捜《そう》|索《さく》しに出かけねばなるまいと思っていたところだったそうだ。今はもう無事に帰って来たのだから騒ぐなと僕は言いつけた。そして心臓の底までしびれたようになって二階に重い足をひきずって行った。そこで乾いた着物に着換えて、冷えた体温を回復するために三、四十分間あちらこちら行きつ戻りつした後、子猫のように弱って書斎に移されたのだが、召使が僕の元気を回復するようにと|支《し》|度《たく》してくれた、気持よい火や、湯気の立つコーヒーも、いっこう|嬉《うれ》しいとも感じないほど弱り果てていた。
僕たちはなんというしようのない気まぐれなんだろう! 社会のあらゆる交際を絶とうと決心した僕が、そしてとうとう交際などほとんどできない場所に来合せた幸運を感謝したその僕が、なんという弱い|意《い》|気《く》|地《じ》なしだ! 日暮れまでわびしさと闘ったあげく、とうとう降参せざるをえなくなって、住居に必要な品を尋ねる口実のもとに、夕食を運んで来たディーン夫人に対して、僕の食事ちゅうそばにすわっていてくれと頼んだ。彼女が|素《す》|敵《てき》な話上手で、僕に気乗りさせてくれるか、それとも話をききながら眠らせてくれればいいがと思いながら。
「あなたはこの家にずいぶん永年住んでいたんだってね」と僕は始めた。「十六年とか言ったね?」
「十八年ですよ。私は奥様がお嫁入りなすったとき、おつき申して参ったのです。奥様がなくなんなすってからは、|旦《だん》|那《な》様が私を家政婦にして残してお置きなすったんです」
「そうなの」
しばらくだんまりがつづいた。彼女は自分のこと以外には話上手でないらしい。僕は彼女の身の上話にはほとんど興味が乗らなかった。けれどもしばらくのあいだ彼女は|膝《ひざ》の上に手を置き、その赤ら顔に追想の雲を浮べながら黙りこんでいた後に、つぶやいた。
「ああ、あれから世の中はたいそう変りましたよ!」
「そう、あなたはずいぶんさまざまな移り変りを見てきたでしょうね?」
「はい。またさまざまと困ったことにもあいましたし」
「そうそう、あの地主の家族について話を仕向けてみよう!」と僕は心のなかで思った。かっこうな話題だ。そしてあのきれいな未亡人の身の上を知りたい。あの美人はこんないなかの生まれだろうか? いやここの無愛想な土着の人たちには縁もゆかりもない他国の人に相違あるまい。こう思って僕はディーン夫人にヒースクリフがなぜこのスラシクロス・グレンジを貸して、場所も住居もこの屋敷にずっと劣るワザリング・ハイツに住んでいるのか|尋《たず》ねた。「あの人にはこの屋敷をきちんとしてゆく金が無いんですか?」
「金持なんですよ!」と彼女は答えた。「どのくらい持っているやら誰も知らないほど持ってて、それが年々ふえてゆくんです。どうしてどうしてあの人の財産はこれよりかもっと立派な家で暮してゆくのに十分なのですけれど、あの人は大変にけちん坊の握り屋なんです。それでスラシクロス・グレンジに移るつもりをしていても、いい借家人があると聞きこむと、もう三、四百ポンドもうける機会を取逃すことはたまらないんでしょう。この世界にたった一人ぽっちなくせにあんな|貪《どん》|慾《よく》な人は珍しいですね!」
「あの人には息子が一人いたようじゃないの?」
「ええ、居ましたが――死んだのです」
「してあの若い夫人、ヒースクリフ夫人はその人の未亡人ですか?」
「ええ」
「もとはどこから来たかたです?」
「どこからって、あなた、あの人は私の亡くなったご主人の娘さんなのです。キャサリン・リントンというのが娘さん時代のお名前です。私がお乳をおあげ申したんですよ。おかわいそうに! 私はヒースクリフさんがここに移ればいいにと思ったものです。そうすりゃ、また若奥様と一緒に暮すことができたでしょうに」
「何? キャサリン・リントン!」と私は驚いて叫んだ。だがちょっと考えてみると、それはあの幽霊のキャサリンではないことがわかった。「それじゃ私の前にこの家に住んでたのはリントンという人ですね?」と僕はつづけた。
「そうです」
「そしてあのアンショーは誰です? ヒースクリフさんと一緒に住んでるヘアトン・アンショーは? あの二人は親類なんですか?」
「いいえ、あの人は亡くなったリントン夫人の|甥《おい》です」
「あの若い婦人のいとこだね? そうすると」
「そうです。そしてあの未亡人は亡くなった夫ともいとこ同士でした。ヘアトンとは母方のいとこで、夫とは父方のいとこでした。ヒースクリフはリントン様の妹さんと結婚したのです」
「ワザリング・ハイツの家の表の戸に、『アンショー』と彫ってあったようだが、あれは昔からの|家《いえ》|柄《がら》ですか?」
「たいそう|旧《ふる》い家柄ですよ。そしてヘアトンが今ではその最後の一人です。そしてキャシー嬢は私どものご主人の家筋の最後のおかたなのです。――リントン家のですよ。あなたはワザリング・ハイツにいらっしゃったんですか? あのお嬢様はお変りもございませんでしたかしら?」
「ヒースクリフ夫人ですか? たいそう元気のようでしたし、それに大そう美しかったです。だがあんまり幸福ではないようだな」
「ええ、あなた。そうでしょうとも! してあの家の主人をどうお思いになりまして?」
「どっちかといえば、あらっぽい男ですね、ディーンさん。あれがあの人の性質じゃないんですか?」
「のこぎりの歯のようにあらっぽくて、ひきうすの石のように固いんですよ! あまりあの人には|係《かか》わらない方がいいですね」
「あんなげすばった男になるには、ずいぶん世の中の浮き沈みにあったに相違ない。あの人の生い立ちをご存じですか?」
「あの人の生い立ちですか? それはよその鳥の巣で卵からかえって、育つとその鳥のヒナを追い落すあのかっこう鳥のようなんですよ。――どこで生れたのか、両親は誰なのか、最初どうしてお金をもうけたのか、それだけは私も存じませんが、そのほかは皆知っております。そしてヘアトンはかわいそうに毛並みの|揃《そろ》わないカヤクグリのようにほうり出されたのですよ! だまされたことを知らずにいるのは村じゅうで当人のあの若者一人です」
「それじゃ一つディーンさん、あの人たちの話をどうぞ聞かせておくれ。そうすれば|慈《じ》|善《ぜん》の徳行になりますよ。どうせ寝床についたって休めそうもないんだから、ここに起きていて一時間ばかり話しておくれよ」
「ええ、ようござんすとも! 今ちょっと縫物を持って参りましょう。そしてお好きなだけ起きてお話いたしましょう。ですけどあなたは|風《か》|邪《ぜ》をおひきになりましたね。さむ気がしておいでのようでしたよ。おかゆでも召上ってそれを追い出してしまわなくてはなりません」
まめまめしい婦人はそそくさと出て行った。僕は火に近よってうずくまった。頭だけがほてって、からだじゅうはさむ気がした。それに僕はばかになったように神経や脳が興奮していた。気持が悪いというわけでもないが、不安だった。昨日から今日にかけての出来事にたたられて重大な結果になりはすまいかと(今でもだが)|懸《け》|念《ねん》した。彼女は間もなく湯気の立つ|鉢《はち》と針仕事の|籠《かご》とを持ってもどって来た。そして鉢の方を炉がこいの上に置き、僕が話相手になることがいかにもうれしいらしく|椅《い》|子《す》を近寄せた。
私がこの家にきて住む前には――と、もう話の|催《さい》|促《そく》も受けずに彼女は語り出した。――|大《たい》|概《がい》いつもワザリング・ハイツに居りました。私の母がヘアトンのお父様ヒンドリ・アンショー様の|乳《う》|母《ば》で、私はいつもお子様たちと遊んでいたからです。私はお使いにも行きましたし、枯草を取りこむ手伝いもしましたし、それから畑をぶらついて、誰にでも呼ばれしだい、手をかしたものです。夏の天気のいいある朝――収穫時の初め|頃《ごろ》のように覚えていますが、――|大《おお》|旦《だん》|那《な》様のアンショー様が旅行の|支《し》|度《たく》を整えて階下に降りて来て、ジョウゼフに留守中の仕事を話された後に、ヒンドリとキャシーと私――その時私は子供と一緒におかゆを食べていたものですから――この三人の方を向いて、|息《むす》|子《こ》に言うには「さあ、いい子や、父様は今日リバプールに行くんじゃ。おみやげに何を買って来ようか! 何でも言うがよい。だが|往《ゆ》きも帰りも歩くんじゃから小さいものでなくちゃ困る。六十マイルの往復はずいぶん長い道中じゃでのう!」するとヒンドリはバイオリンが欲しいと言いました。キャシーさんはというと、その頃やっと六歳でしたが、|厩《うまや》の馬ならどれでも乗りこなせましたので、|鞭《むち》が欲しいとのことでした。大旦那様は私のことをもお忘れなさいませんでした。時おりきびしいことはあっても、根が親切なおかたでしたから、私にはリンゴとナシとをポケットに一杯いれて持って来ると約束なすって子供らにキスし、さよならを言って出発なさいました。
三日間のお留守が私どもにはたいそうながい間のように思われて、キャシーは父様はいつ帰るのとたびたび|尋《たず》ねました。アンショー夫人は夫の帰宅を三日目の夕飯時までにと待ち設けて、一時間また一時間とご飯をお延ばしなさいました。けれどもいっこうご帰宅の模様が見えないので、子供らはとうとう門まで|駈《か》け出して見ることもあきてしまったのです。もう暗くなっていました。夫人は子供らを寝せようとしましたが、子供たちは起きて待たしてと願うのでした。ところがちょうど十一時頃、戸の掛けがねが静かにはずされてご主人はお帰りなさいました。来るなりすぐさま|椅《い》|子《す》に身を投げ、笑って、うなって、死にそうにくたびれたから皆そばに寄るな、全国残らずやるといっても二度とあんなにして歩くことはまっぴらじゃ、と、おっしゃいました。
「そしてあげくのはてに死ぬほどたまげた目にあうとは!」と言って、|小《こ》|脇《わき》に包みこんだ|外《がい》|套《とう》を開きなさいました。
「これをご覧! ねえお前」と夫人に、「私は今までこんなに閉口したことはないよ。だがお前はこれを神様のたまものと思わねばならん。ずいぶん悪魔様のたまものみたいに黒い色をしているがのう」
皆がそのまわりに集まりました。私はキャシーさんの頭越しにのぞいて見ると、それはぼろを着た黒い髪の、汚い子供でした。もう歩いたり話したりするほど成長して、ことに顔などはキャサリンより年上に見えましたが、立たされるとただキョトキョトあたりを見まわして、幾度もわけのわからぬ|片《かた》|言《こと》をいうだけでした。私は驚きました。アンショー夫人はその子を戸の外へほうりだしかねませんでした。養って教育してやるべき自分の子供が二人もあるのに、この家にそんなジプシーの子みたいなものを、あなたはまあよくも連れて来られたものですね、と言いながらたいそうなお腹立ちでした。一体どうなさるおつもりなのです? それともお気が狂いなすったの? とも、なじりました。|旦《だん》|那《な》様は説明しようとなさっても、何分死ぬほど疲れておいででしたので、奥様がプンプン言いなさるあいだに私がやっとわかった話は、この子がリバプールの市街で|餓《う》えて泊る家もなくて、|唖《おし》みたいにろくにものもいえずにいたのを、旦那様が見つけて拾い上げて保護者を|尋《たず》ねたそうですが、誰の子だか知る者が無く、けれどもいったん見つけた以上、置き去りにはしたくないと思ったので、といったところで旅費も日数もないことであるし、|無《む》|駄《だ》な費用をかけるよりは、いっそすぐさま家に連れて帰る方がいいと思ったというお話なのでした。それでやっと奥様も、静かにぶつぶつ言う程度にしずまりました。旦那様は私にその子のからだを洗って、小ざっぱりしたものを着せ、子供らと一緒に寝させてやるように言いつけました。
ヒンドリとキャシーは一騒ぎがしずまるまでおとなしく見たり聞いたりしていましたが、やがて、お父様のポケットに手を突っこんで約束のおみやげを|捜《さが》しました。ヒンドリは十四の少年でしたが、父の|外《がい》|套《とう》のポケットからばらばらにこわれたバイオリンの破片を引き出したときには、声を立てて泣き出してしまいました。キャシーはお父様が拾い|児《ご》に気を取られたあまり、約束の|鞭《むち》を落したと聞いて、すっかりそこねた|機《き》|嫌《げん》を、拾い児の方へ持って行き、小さいでく[#「でく」に傍点]の坊にむかっていがみかかったり、|唾《つば》をかけたりしたため、お父様からお|行儀《ぎょうぎ》を教えてやるといわれてしたたか打たれ、痛い目にあいました。二人は拾い児と一緒に寝るどころか子供部屋に入れることすら|拒《こば》みました。私もやはりそれ以上の|分《ふん》|別《べつ》がなかったので、明朝になったらどこかへ行ってしまうだろうと思ってその子を階段の踊り場の上にそっと置いて寝ました。偶然にかあるいは声を聞きつけたものか、その子はアンショーさんの室の戸口に|這《は》い出し、ご主人が室を出なさるときそれを見つけましたので、なぜその子がそこに来たのかとお調べになり、私はよぎなく有りのままを申し上げましたところ、不人情と|卑怯《ひきょう》との罰としてお暇が出ました。
これがあの家にヒースクリフの来たそもそもの始まりです。四、五日たって帰って来ますと、(ながのお暇でないことを知っていましたから)その子はヒースクリフという名をつけられていました。それは幼いうちに亡くなったこの家の|息《むす》|子《こ》の名であったのですが、その後はこの拾い児の名とも姓ともなっているのです。キャシーはその子とたいそう仲好しになっていました。しかしヒンドリは嫌っていましたし、実のところ私も嫌っていました。そして私たちはその子をいじめ、|侮辱《ぶじょく》して取扱ったのですが、べつだんそれを不当とは思えなかったし、それにいじめているのを見ても、奥様はその子をかばって私たちを|叱《しか》るようなことはなかったのです。
陰気でがまん強い子のようでしたが、たぶん|虐待《ぎゃくたい》に対して無感覚になったのでしょう。ヒンドリに打たれても、|瞬《まばた》きもせず涙もこぼさず、私につねられてもギクッとして眼を開くだけで、自分でけがでもしたかのように誰をもとがめるふうも見えませんでした。アンショー様は「父のないかわいそうな|児《こ》」が(老主人はそう呼んでいました)|息《むす》|子《こ》にいじめられてがまんしているところを見るとやっきになって怒りました。老主人はヒースクリフを不思議なほど|可《か》|愛《わい》がり、彼の言うことは何でも信じて(ただしその子はほんの少ししかものを言わないし、言うことはたいていほんとうのことでしたが)、わがままで、いたずら好きでしたがってあまりかわいがられないキャシーよりは、ずっと大事に目をかけていました。
こうしてそもそもの始まりから、彼はこの家で悪い感情を養ったのですが、その後二年とたたぬうちに奥様は亡くなられ、|若《わか》|旦《だん》|那《な》様は父上に対して親愛よりはむしろ圧迫を感じていたことを知り、ヒースクリフが父上の愛情と自分の特権とを横取りしていたと感づいたので、これらの|恨《うら》みを心にいだくようになりました。私はしばらく同情もしたのですが、子供らがはしか[#「はしか」に傍点]にかかって看護もしなくてはならないし、同時に家の仕事もやってゆかなくてはならないので、私の考えは変ってきたのです。ヒースクリフは重態で、一番ひどかった間は私を|枕《まくら》もとから離しませんでした。彼は私が親切に世話するとばかり思って、よぎなくしてやっているという察しがつかなかったのでしょう。とはいえ彼はどんな子供と比べても一番おとなしい病人でした。彼と他の子らとの差は私に不公平な態度を改めさせました。キャシーとその兄とは私を恐ろしく弱らせましたが、彼は子羊のように従順で苦情を言いませんでした。ただし心の|優《やさ》しさから出た従順ではなく、えこじなためにめんどうがなかったのですけれど。
あの子は重態を切り抜け、それを医師は大部分私のおかげだといって看護ぶりをほめましたので、私はとても得意で、その|称讃《しょうさん》の|源《みなもと》になった彼に対して優しくなりましたので、ヒンドリはこうして最後の味方を失ってしまいました。それでも私はどうしてもヒースクリフを|溺《でき》|愛《あい》するまでにはゆきませんでした。そして|大《おお》|旦《だん》|那《な》様は一体なぜこの陰気な|児《こ》をああもかわいがるのかしら、いっこう見どころもない児だし、それにああまでかわいがられても感謝の様子も見えないようであったのに、と不思議に思うことがたびたびでした。かといって彼は恩人に対してべつだん|横着《おうちゃく》なわけでもなく、単に無感覚なだけのことでした。ただし彼は旦那様の心に絶大な勢力を占めていることを十分知り、彼が一言でも告口すれば、家内じゅうの者はみな彼の意のままにならざるをえないことをも自覚していました。たとえばこんなことがございます。アンショー様がいつか村の市で子馬を二頭お買いあそばして、二人はそれぞれ一頭ずつもらい、ヒースクリフはいい方を取ったのでしたが、それが間もなくびっこになり、それと知って彼はヒンドリに言うには――
「君は僕と馬を取換えっこしなくっちゃならないよ。僕の馬は気に食わないもの。もしいやだというなら、今週僕を|鞭《むち》で三度も打ったことをお前のお父様に言いつけて、肩のところまで黒あざになった僕の腕をお父様に見せるから」
ヒンドリは舌を出して彼の耳のあたりを張りとばしました。
「すぐに取換えた方がいいぜ」と彼は言い張って門の方へ逃げながら(二人は|厩《うまや》にいたのです)、「今に取換えなくてはならなくなるよ。そしてなぐったことを言いつければ、君は利子をつけて返されるよ」
「行っちまえ! こん畜生め」とヒンドリは|馬《ば》|鈴《れい》|薯《しょ》や乾草を|量《はか》るに使う鉄のおもりを持っておどかしながら叫びました。
「ぶっつけてみろ」と彼はじっと立ったまま答えて「お父様が死んだらすぐ僕を家から追い出すなんて君が生意気言ったことも、言いつけてやるから。そしたらお前こそすぐ追い出されないかどうか見てやらあ」
ヒンドリの投げつけたおもりが胸にあたって、彼はその場に倒れましたが、すぐさまよろめき起きて、息もつけずにまっ|青《さお》になったまま、もし私がとめなかったら、ご主人のところに行ってヒンドリの仕打ちを訴え、思う存分|復讐《ふくしゅう》を遂げたに違いないのです。
「そんなら僕の子馬を持って行け、ジプシーめ」とアンショーの|坊《ぼっ》ちゃんは言って、「そして落っこちて首っ玉を折ってしまえ、さあ持って行って、くたばっちまえ、この|乞《こ》|食《じき》野郎の生意気め! お父様のものを皆だまして取れ、そして後から、悪魔の子鬼の|本性《ほんしょう》を現わすんだ。そら、子馬を連れて行け。そいつにけられて|脳《のう》|味《み》|噌《そ》がとび出るといいや!」
ヒースクリフは皆まで聞かない中にもう馬のつなぎを解きに行って、それを|厩《うまや》の自分の仕切りに移すところでしたが、馬のうしろに行った時、ちょうど悪口が終ったヒンドリは、いきなり馬の足もとに彼をなぐりたおして、立ち止って彼を望みどおりにしてやったかどうか見きわめもせずに、一所懸命走って逃げて行きました。あの子供があれほどさんざんな目にあいながら、冷静に勇気をだして自分の意志を通して行ったのを見て、私もおどろいたくらいで、やがて|鞍《くら》も何もかも取換えてしまうと、家の中にはいる前に、ひどく打たれたためめまいするのをしずめようと、乾草の|束《たば》の上に腰をおろしたのでした。私は彼の打傷を馬のせいにしておくようにわけなく承知させました。自分が欲しい物さえ手に入れてしまえば、その後はどんなことを人が話そうといっこうに彼は気にかけないのでした。こうした事件については彼はめったに苦情を言わないので、私はこの子は|執念《しゅうねん》深くないのだとほんとうに思いこんだものです。しかし私が全然思いちがいをしていたことは、だんだんお話しするとおわかりになりましょう。
年がたつにつれてアンショー様は弱ってきました。元気な|壮《そう》|健《けん》なおかたでしたが、その体力は急に衰えて、炉ばたに閉じこもってからは、ひどく怒りっぽくなりました。つまらないことにも腹を立て、自分の権威が軽んじられると疑っては、まるで気ちがいのようになるのでした。このことがことにはなはだしいのは、誰かが彼のお気に入りの子を|好《い》い加減にあしらったり、抑えつけようとした場合で、自分がヒースクリフをかわいがるゆえ皆はあの子を嫌って|邪《じゃ》|慳《けん》にしたがる、といった考えが頭にあるものとみえて、あの|児《こ》に対してよくないことを一言でも言わないかと、痛々しいほど警戒しておられました。それがこの少年にとってかえっていけなかったのです。われわれの中で親切な者はご主人の気に触れまいとして、そのお気に入りの子の|機《き》|嫌《げん》をとったのですが、その結果はあの子供の高慢と邪心とをいよいよ助長することになるからです。でもやはりそれはある程度やむをえないことでした。ヒンドリがお父様の前で彼を二、三度|侮辱《ぶじょく》したことがありましたが、そのつどご老体は烈火のように怒り、|杖《つえ》をとって坊ちゃんを打とうとなさいましたけれど、振り上げる力はないので怒りに身をふるわせるのでした。
とうとう私どもの牧師補は(私どものところには牧師補が一人いて、|俸給《ほうきゅう》をおぎなうため、リントン家とアンショー家との子供らに物を教えたり、すこしばかりの畑を自分で作ったりしていました)坊ちゃんを大学にやるように|勧《すす》めましたので、アンショー様はそれに同意しましたが、それもしかし不承不承でのことらしく、「ヒンドリはふがいなしだからどこへ行ってもろく[#「ろく」に傍点]な者になれるもんか」と言っておられました。
私は心からもう平和を得たいと望みました。主人が自分で自分を不快にしておいでになると思うと、私はせつない思いがしました。お年とご病気との不満が家庭の不和から生じたものと私は想像しましたが、それはご自分でもそうだと言っておられたし、また実際に|次《し》|第《だい》に衰弱してゆくおからだに心の不満が宿っているのでした。とはいえ私どもはどうにか無事に暮していけたのでしたろうが、キャシーさんと召使のジョウゼフとの二人には困ったものでした。あの家でお会いになったでしょう、あのジョウゼフは今でもたぶんそうだと思いますが、きわめてうるさい|独《ひと》りよがりの|偽《ぎ》|善《ぜん》|者《しゃ》で、いつも自分に都合の好い文句を聖書からかき集めては、周囲の人たちを口汚くののしっていました。小器用に説教したり、しかつめらしく教義を述べたりするこつをのみこんで、アンショー様をたいそう感服させてしまい、ご主人が弱るにつれてますますあの男は勢力を得るようになったのです。しじゅうご主人に魂のことだの、子供らをきびしくしつけることだのを説き立て、ヒンドリは神から見放された者だとご主人にいよいよ信じさせ、そして毎晩毎晩きっとヒースクリフとキャシーとに対する苦情を長々と語り、アンショー様の偏見にへつらうため、キャシーには一番重い非難を積みかさねることにしているのでした。
実際キャサリンはまたとないほどのわがままッ|児《こ》で、一日のうちに五十回以上も私どもの|堪忍袋《かんにんぶくろ》を破るのでした。朝、階下に降りたときから夜寝室に昇って行くまで、私どもは一分間でもわるさ[#「わるさ」に傍点]されない安心なときがなかったのです。いつも大元気で、いつも舌を動かし、歌ったり、笑ったりして、ほかの人が自分と同じようにしないと誰でも困らせていました。こうきかないおてんばな児でしたけれど、村じゅうで一番美しい目と、一番かわいいほほえみと、一番軽快な足とを持っていて、たとえ私たちを本気でどならせても、たいていすぐにまた寄り添って来ますので、私たちもかわいそうなことをしたと|慰《なぐさ》める心で、黙らないわけにいかず、結局あの児にはいっこうわるげがないのでした。あの子はまたヒースクリフが大好きでした。私どもがあの子に一番きく罰と考えたのは、ヒースクリフからあの子を引き離しておくことでしたが、それでもヒースクリフのおかげで一番ご主人から|叱《しか》られたのはあの子でした。遊ぶときには自分が小さな奥様になることが何より好きで、召使たちを自由に使い、仲間に命令し、私に対してもそうしましたけれど、私はそんな買物ごっこや注文ごっこはまっぴらでしたから、ご免こうむることに決めておきました。
さて、アンショー様は子供らの|冗談《じょうだん》がわかりませんでしたから、いつも厳格でまじめでしたが、キャサリンの方では、お父様が病気になって以来、以前お元気の|頃《ころ》よりもなぜあんなに気むずかしくなったのかわかりませんでした。それでお気にさわってお叱りを受けますと、かえっておもしろがってお父様を怒らす気になり、また皆から同時に叱られることをこの上なく|愉《ゆ》|快《かい》に思い、生意気な小にくらしい顔と早い臨機応変の言葉で私どもに挑戦し、ジョウゼフの神がかりの|呪《のろ》いをばかにし、私をからかって閉口させ、それにお父様が一番嫌うことをして――というのはご主人は感違いしておられたのですが、あの子の実は見せかけの|横《おう》|暴《ぼう》の方が、ご主人の親切よりもかえってヒースクリフに対して有力で、この少年はキャシーの命令なら何でもするのに、ご主人の言うことは気が向かないとしないといった態度を故意に見せつけるのでした。一日一杯ありたけのいたずらをした後、夜になるとその|償《つぐな》いにやさしい心がお嬢様に起ってくることがありました。「だめだよ、キャシー」と老主人はよく言いましたが、「わしはお前がかわいくない。お前は兄さんよりいけない。あっちへ行ってお祈りして、神様におわびしなさい。お母様とわしとは、お前を育てたことを後悔するようにならなけりゃいいが!」こう言われると最初は泣き出したものですが、いつでもはねつけられるものですから、お嬢様はもう無感覚になって、お父様にわるかったと言って、|謝《あやま》るようにと私が言っても、ただ笑ってしまうようになったのでした。
けれどもとうとうアンショー様がこの世の苦しみを終えるときが来ました。ご主人は十月のある夕、炉ばたで|椅《い》|子《す》に腰かけたまま静かに|瞑《めい》|目《もく》なさいました。強い風は家のまわりを吹きまくり、煙突の中でほえ、|嵐《あらし》のように荒れ狂いましたが、寒い|木《こ》|枯《がら》しではありませんでした。私どもは皆一緒にいました。私は炉ばたから少し離れた所にすわってせっせと編物をしていましたし、ジョウゼフはテーブルのそばで聖書を読んでいました。(その|頃《ころ》召使たちは仕事をしまうとたいていうちにいましたから)。キャシーさんは病気でおとなしくなっていましたが、お父様の|膝《ひざ》にもたれ、ヒースクリフは床の上にキャシーの膝を|枕《まくら》にして寝ていました。ご主人はまどろみなさる前に、めったになくキャシーがおとなしくしているのを見て喜び、あの子の美しい髪を|撫《な》でてこうおっしゃったのを覚えています。「キャシーや、お前はなぜいつもおとなしい子になっていられないのかえ?」するとお嬢様はお父様の顔を見上げながら笑って答えました。「お父様、あなたはなぜいつも|優《やさ》しいおかたになっていられないの?」ところがまたお父様のお気を悪くしたようなので、彼女はお父様の手にキスして、お休みになるよう歌をうたってあげましょうと言ったのでした。キャシーがたいそう低く歌い始めますと、お父様の指は娘の髪からすべり落ち、頭は胸にたれさがってゆきました。私はキャシーにお父様の目を|覚《さ》まさないよう静かにと申しました。三十分たっぷり私たちはみな|二十日鼠《はつかねずみ》のように黙りこみ、もし一章読み終えたジョウゼフが|旦《だん》|那《な》様を起し|祈《き》|祷《とう》して寝室にお連れしようと言って立ち上らなかったなら、まだまだ黙りつづけていたに相違ないのです。あの男は進み寄ってご主人の名を呼び、肩に手を触れたのですが、動く気配もないので、ロウソクをつけてのぞき込みました。彼が|燈火《あ か り》をおいたとき、私は何かしら不吉なことが起った気がして、子供らを両腕で抱えながら、「二階に行ってお休みなさい。あまり音をたてないようにね。――今晩は二人だけでお祈りできましょう――ジョウゼフはすこし用事があるのよ」とささやきました。
「私それよりかお父様にお休みなさいをするのよ」とキャサリンは私どもが抑える前にご主人の首に両手を|廻《まわ》しながら言いました。かわいそうにあの子はすぐに父の死を知って叫び出したのです。「おお、お父様は死んじゃった、ヒースクリフ! お父様は死んじゃった!」そして二人は胸も裂けんばかりに泣き出しました。
私も二人と一緒になって大声で激しく泣きましたが、ジョウゼフはもう天国の聖徒になったおかたに対して何と思ってそんなにほえているのかと言い、私に|外《がい》|套《とう》を着てギマトンまで走って行って、医者と牧師とを連れて来るように言いました。私はもう医者も牧師も何になるのかわかりませんでしたが、とにかく雨風の中をでかけて医者だけつれて来ました。牧師は明朝来るといったのです。出来事の説明はジョウゼフにまかせて私は子供部屋に|駈《か》けこみました。そこの戸はあいていて、もう真夜中過ぎなのに、二人は寝ていませんでした。しかし両方とも静かでべつだん|慰《なぐさ》める必要もないほどでした。小さな二人は私が思いつくよりもずっと好い考えで互いに慰め合っていたのでした。どんな牧師でも二人が無邪気に語り合っていたほど美しい天国を描くことはできますまい。それをすすり泣きながら聞いていた私は、私どもが皆安らかにそこへ行けたらと思わずにはいられませんでした。
ヒンドリ様はお葬式のために帰って来ましたが、私どもの驚いたことは、そしてあっちでもこっちでも近所のうわさの種になったのは、あのかたが細君をつれて来たことでした。あのかたはその女が何者でどこで生れたのかちっとも知らせませんでした。が、たぶん金も名もない女なので父にも結婚を秘密にしておいたのでしょう。
その女は自分のために家の中をたいして乱すようなたちではありませんでした。この家の|敷《しき》|居《い》をまたいだ瞬間、|埋《まい》|葬《そう》の用意と|哀《あい》|悼《とう》する人々とを除けば、見るもの聞くもの皆その女を喜ばせるように見えました。葬式の間そのしぐさや|素《そ》|振《ぶ》りをみると半分たりない女のようで、私が子供らの着物の世話をしてやらねばならないのに、その女は私をつれて自分の部屋にかけ込み、身震いして両手を握りしめながら、「あの人たちはもう行ってしまったの?」と繰返して尋ねるのでした。
その女は喪服を見るとどんな気持になるかということを、ヒステリーのような感情を表わして語り始め、おびえたり震えたりしたあげく、とうとう泣き出してしまい、私がわけを|尋《たず》ねますと、何だか死ぬのがこわいなどと答えました。その女は私と同じく死にそうにも見えませんでした。やや|痩《やせ》|形《がた》でしたが、若くて元気な顔色をして、目はまるでダイヤのように輝いていました。ただし階段を昇るとき息切れしたり、ちょっとの物音にも震え上ったり、時々苦しそうなせきをしたりするのを私は気がついていましたけれど、こうした|徴候《ちょうこう》が何の前兆になるのかちっとも存じませんでしたから、私はいっこう同情する気にもなりませんでした。だいたい私どもこの土地の者はね、ロックウッドさん、先方からおなじみになってこなければ、他国の人たちとなかなかおなじみにはならないのですよ。
若いアンショー様は三年見ないうちに大分変っていました。以前に比べるとやせて|血色《けっしょく》が悪くなり、話しぶりも着物も全く変り、帰って来た即日ジョウゼフと私とに対して、以後は「うち」を明け渡して台所の奥に住居するようにと申し渡しました。はじめは今まで使わずにおいた小さい部屋に|絨毯《じゅうたん》を敷いたり家具を整えたりして、それを居間にするつもりなのでしたが、細君は「うち」の白い床、輝く大きな|煖《だん》|炉《ろ》、合金の皿や|瀬《せ》|戸《と》|物《もの》|棚《だな》、それに犬|小《ご》|舎《や》だの、平生いる室内のあちこち歩き|廻《まわ》れる広い場所だのが、たいそう気に入ってしまったので、新たに別の部屋を整えて細君を|慰《なぐさ》める必要がなくなって、初めのもくろみをよしたのでした。
その細君はまた新しい知合の中に妹がいることを|嬉《うれ》しがり、キャサリンにたわいもないことをしゃべったり、キスしたり、一緒に走り廻ったり、いろいろな贈り物をやったりしていましたが、じきにあきてしまい、細君が怒りっぽくなってきますと、ヒンドリの方では|次《し》|第《だい》に暴君のようになってきたのです。で細君がヒースクリフはいけ好かないとちょっと言ったものですから、ヒンドリの彼に対する昔の憎しみはたちまち再び燃えて、自分らと一緒にせずに召使同様に取扱い、牧師補に教えさせていたのを止め、その代りに戸外で労働しなくてはならないと主張し、とうとう畑の若い衆と一緒に、激しく働かせることにしてしまったのでした。
キャシーは自分の教わったことを彼にも教え、畑で一緒に働いたり遊んだりしましたので、あの少年は最初こうした境遇に落されてもがまんしていました。若主人は二人が自分の見えない所にいさえすれば、何をしようとてんでかまいませんでしたから、二人が野蛮人のように粗野になることはわかりきっていました。若主人は二人が日曜日に教会に行くことさえ注意してやりませんでしたので、牧師補とジョウゼフとは二人が教会を休んだときその不注意を非難しましたら、若主人はヒースクリフをなぐりつけるように命じて、キャサリンには昼食や夕食を絶食させました。けれども朝、野原に逃げて行き、一日じゅうそこで暮すことが二人の何よりの楽しみでしたから、そんな罰ぐらいは笑いの種に過ぎなかったのです。牧師補はいくらキャサリンに書物の|暗誦《あんしょう》課題を出しても、ジョウゼフはいくら腕が疲れるまでヒースクリフをなぐっても、二人が一緒になって何かたわいもない|復讐《ふくしゅう》の計画を相談しているときは何もかも忘れているのでした。私はこの二人が日ごとに無鉄砲になってゆくのを見て幾度も泣いて悲しみましたけれど、この味方のない二人に対してまだ私が保っていた小さな勢力を失うまいとして、私は一言も言いかねていたのです。ある日曜日の夕方、二人はやかましくしたとか何とかの軽いとがで居間から追われ、夕食時になって私が呼びに行きましたがどこにも見えません。私どもは上も下も家じゅう残らず|捜《さが》し、庭も|厩《うまや》もくまなく見まわりましたが、どこにも見当らないので、ヒンドリはしまいにかんしゃくを起して|戸《と》|締《じま》りをしてしまえと命じ、夜中に帰っても二人を家に入れるなと言うのでした。家の者は寝ましたが、私は心配で寝られないので、雨が降っていたのに|格《こう》|子《し》|窓《まど》をあけて、頭を突き出しながら耳を澄まし、もし二人が帰ったら、若主人の命令にそむいても入れてやろうとしていました。しばらくして路の方から足音が聞え、カンテラの光が門からチラチラ見えてきましたので、私は頭からショールをかぶって、二人が戸をたたいてアンショー様を起さぬうちにと外にかけ出しました。そこにはヒースクリフだけがいました。――私は彼一人しかいないのを見るとにわかに不安に打たれました。
「キャサリンさんはどこにいるの? けがでもしたんじゃないでしょうね?」と私はあわただしく尋ねますと、「スラシクロス・グレンジにいるよ」と彼は答えて、「僕も一緒にいたかったんだけれど、あの家の人たちは礼儀を知らないので僕に泊れって言わなかったんだ」
「こんなことをするとひどい目にあうんですよ。追い出されてしまうまでこりないのね。一体何だってスラシクロス・グレンジまでふらついて行ったのです?」
「ネリーや、僕の|濡《ぬ》れた服を脱がしておくれ。残らず聞かしてあげるから」
私はご主人を起さないようにと彼に注意して、彼が着物を着換えている間ロウソクを差し出して待っていますと、彼は続けて、「キャシーと僕とは|洗《せん》|濯《たく》|場《ば》から抜け出して勝手にぶらつき|廻《まわ》ってるうち、グレンジのあかりが見えたもんだから、僕たちはリントン家の子供たちも、お父様とお母様とが|煖《だん》|炉《ろ》のそばであたりながら食べたり飲んだり歌ったり笑ったりしているのに、|隅《すみ》っこに震えて立ちながら日曜の|夕《ゆうべ》を過すのかしらと思って、一つ行ってみようということになったのさ。あそこでもそうしてると思うの? あそこの子供たちも説教本を読まされたり、下男から教理問答をさせられたり、よく答えられないと、聖書の人名や地名だらけの文句を一段も|暗誦《あんしょう》させられたりしてると思う?」
「たぶんそうじゃないでしょうね」と私は答えて、「あそこのは良いお子供さんですから、あなたがたみたいに悪いことをして罰なんか受けることはないでしょうよ」
「ネリー、お説法はおよしよ。くだらない! 何でもないんだよ。僕たちはこのハイツの頂上からあそこの|猟苑《りょうえん》まで休まずに走ったのさ――キャサリンははだしになったもんで、この|駈《か》けっこには完全にまけさ。あすの朝あなたはキャシーの|靴《くつ》を沼で|捜《さが》さなくっちゃなるまいよ。僕たちは|垣《かき》|根《ね》の破れた所からはいって、暗い所を手探りしながら応接間の窓下の花壇まで行ったら、あかりがさしてきた。日おおいはまだ掛けてなかったし、カーテンは半分しかしめてなかったので、僕たちは土台の上に立って窓わくにしがみつきながら中を見ることができたんだ。それはきれいだったよ。――まっ|赤《か》な|絨毯《じゅうたん》が敷いてあって、まっ赤に包まれた|椅《い》|子《す》やテーブルがあるし、金色で|縁《ふち》をとったまっ赤な天井のまん中から、銀の鎖でもって|吊燭台《つりしょくだい》の飾りガラスが下っていて、それが小さな柔らかなロウソクの光でキラキラしているんだ。リントンの|小《お》|父《じ》さんも|小《お》|母《ば》さんもそこにはいなかった。エドガーとその妹とだけでもってその室を独占していたよ。幸福な子供たちじゃないか? 僕たちだったら天国のように思うだろうなあ! そしてその良い子供たちは何をしてたと思う! 妹のイザベラはキャシーより一つ下で十一だと思うが、室の向う|隅《すみ》に寝ころがって、まるで魔女から赤く焼いた針でも突き刺されてるのかと思うほどわめき立ててるし、エドガーは炉ばたに立って泣きじゃくっているんだ。まん中のテーブルには小犬が一匹前足を震わせてうなっていたが、二人が言い争ってる話から察すると、この小犬を双方からちぎれるほど引っ張り合ってたことがわかったんだ。ばかな奴らだ! あんな事して|嬉《うれ》しがってるんだ! たかが犬っころの取り合いなんかして、両方ともさんざん引っ張り合いしたあげく、どっちでもいらないと言って泣き出しちゃってさ。僕たちは声をたててあの甘えっ|児《こ》らを笑ってやったよ。|軽《けい》|蔑《べつ》しちゃった! キャサリンのほしいものを僕が取ろうとしたところなんぞ見たことがある? 僕たちがあんなにして、部屋の両端に分れて、泣いたりほえたり転がったりしてるところを見たことがある? 僕はたとえジョウゼフを屋根の一番高い|破《は》|風《ふ》からおっぽりなげ、ヒンドリの血で家の正面を塗りつぶす特権を与えられようとも、スラシクロス・グレンジのエドガー・リントンの境遇と僕のここの境遇とを取換えたくなんざないや!」
「静かに! ヒースクリフ、お前さんはまだキャサリンをなぜ残して来たのか話さないでしょう?」
「そうそう。僕たちが笑ったって言ったね、するとリントン兄妹は一緒になって矢のように戸の所に飛んで来た。しばらくひっそりした後、『おお母さん母さん、おお父さん! おお母さん! 来て|頂戴《ちょうだい》! おお父さん! おお!』ってほんとうにこんなふうにほえるんだよ。それから僕らはもっとあいつらを恐がらせるひどい音をたててやって、そのうちに誰かが来てかんぬきをはずす音が聞えたので、逃げるが第一と窓わくの下へとびおりたのさ。僕はキャシーの手をとって急がせたとたんに、突然あれは転んじゃった。そして、『お逃げよ、ヒースクリフ! あそこの人たちはブルドッグを放したのよ。私かみつかれちゃったの』と言ってささやくので、見ると、|奴《やっこ》さんはキャシーのかかとにかみついてるんだよ、ネリー。そして鼻息を荒くしてるのが聞えるんだ。キャシーはうならなかった――どうして! あれは気ちがい牛に|角《つの》で突かれたってうなったりしないぜ! だが僕は声を立てた。キリスト教国じゅうのどんな悪魔でも滅ぼしてしまうくらいあくたいをどなり散らしてやった。そして石を拾って奴さんの|顎《あご》のあいだに突っ込んで、力一杯|喉《のど》の奥に押しつけてやった。獣みたいな下男がカンテラをさげてやって来て、『スカルカー、しっかりくわえてろ!』って抜かしやがったが、スカルカーの獲物を見て声色を変えた。犬の方は息を詰まらして、大きな紫色の舌を口から五寸も垂らし、だらりと垂れた|唇《くちびる》から血のよだれを流していた。下男はキャシーを抱き起こしてみるとへたばっていたが、それはけっしてこわいせいでなく、確かに痛いせいだったに相違ない。下男はキャシーを内に抱いて行ったので、僕はいまいましい野郎だ、覚えてやがれって、ぶつくさ文句を言いながら|奴《やつ》について行ったんだ。『何だったえ? ロバート』ってリントンが入口で叫んだ。『スカルカーは小さな女の子をつかまえたんですよ』ってそいつは答えて僕をつかみながら、『それからここに男の子がいます。本物の悪党づらをしていますよ! きっと|泥《どろ》|棒《ぼう》どもはこいつらを窓からはいらせ、皆が寝込んだ|頃《ころ》に戸をあけさせて、やすやすと私どもを殺そうとしたんです。黙れ、口汚くしゃべる|盗《ぬす》っ人だ! こんなことをしやがって、|絞《こう》|首《しゅ》|台《だい》行きだぞ。リントン様、鉄砲をおしまいになってはいけません』
『いや、ロバート』って今度はあの老いぼれが言うんだ、『奴らは|昨日《き の う》私の地代が手に入る日だと知って、うまいところを押えようと思って来たのじゃ。はいって来い。歓迎してくれよう。これジョン、|戸《と》|締《じま》りの鎖を結びつけてくれ。ジェニー、スカルカーに少し水をおやり。いやしくも保安判事の|邸《てい》|宅《たく》をもはばからず、しかも日曜日なのに! どこまで|横着《おうちゃく》をやるつもりじゃ? おおメアリー、ここに来てご覧! こわかないよ。子供だもの――だがこいつらの顔には明らかに悪相があるから、こんな人相に相当した悪事を働いて本性を現わさない前に、さっそくしばり首の刑に処した方が国家のためになるじゃろう』こう言ってあの|親《おや》|爺《じ》が僕を|吊燭台《つりしょくだい》の下に引っ張ると、リントン夫人は鼻の上に|眼鏡《め が ね》をのっけて、恐ろしさに両手をあげた。|臆病《おくびょう》な子供たちもおそるおそる近寄って来たが、イザベラはまわらぬ舌で言うことに、『まあ驚いたこと! お父さん、|牢《ろう》|屋《や》に入れておやりなさいな。私のなれたキジを盗んだうらないの息子とそっくりよ。ねえ、エドガー?』
皆が僕を調べている間にキャシーはやって来て、この最後の話を聞きこんで笑った。エドガー・リントンはじろじろ見つめていたが、やっとわかったらしかった。ほら、教会で会うだろう、ほかの場所ではめったに会いはしないけれどね。『アンショーのお嬢さんですよ』って|奴《やっこ》さんは母親にささやいて、『まあご覧なさい、あんなにスカルカーがかんで――足からあんなに血が!』
『アンショーさんのお嬢さん! まさか!』と奥さんは叫んで、『アンショーさんとこのお嬢さんがジプシーと一緒にうろつき|廻《まわ》るなんて! だがなるほどあの子は喪服を着ている――ほんとうにそうだ――まあ一生びっこになってしまうかもしれませんねえ!』
『あの子の兄はなんという不とどきじゃ!』とリントンさんは僕の方からキャサリンの方に向き直って叫んだ。『私はシールダーズから聞いているが』(これはあの牧師補の名でした)『あの人は妹を全く異教徒に成長させておくそうじゃ。だがこれは何者じゃ? お嬢さんはどこでこんな仲間と一緒になったのかしら? おおわかった、これは隣の亡くなった主人がリバプールに行ったときの変な拾い物だな――インド種だかアメリカ種だか、スペイン種だかの捨てられ小僧だな』って抜かすんだ。
『何にしてもよくない子ですね』と今度は老夫人が、『上品な家には全く不向きな子じゃありませんか? あの子の言葉をお聞きでしたか? うちの子があんな言葉を聞かされては大変ですね』
僕はまた悪口を言い出してやった。――怒っちゃいけないよ、ネリー。――それだもんでロバートに僕を引きずり出させたんだ。キャシーと一緒でなくちゃ行かない、って言ったんだが、|奴《やつ》は僕を庭に引っ張って僕の手にカンテラを押しつけてよこし、お前のお|行儀《ぎょうぎ》をアンショーさんに知らせてあげるぞ、とっとと行けって言やがって、戸をしめてしまった。カーテンはまだ|片《かた》|隅《すみ》の方があいていたので、僕はキャサリンさえ帰る望みだったら、あの人たちが帰さないって言っても、大きな窓ガラスをみじんにたたき破ってやるぞと思って、また|覗《のぞ》き見を始めたんだ。キャシーは|安《あん》|楽《らく》|椅《い》|子《す》に黙って静かにすわっていた。リントン夫人は僕たちが出かけるとき拝借して来た、あの乳場の女の灰色のマントを脱いでやって、頭を振ったりしながらお説法してるようだった。キャシーはお嬢様なんだから僕とは|待《たい》|遇《ぐう》を区別したのさ。それから下女がたらいにお湯を入れて来て足を洗ってくれるし、リントンさんはブドウ酒に水を割ったのを一杯こしらえてくれるし、イザベラは皿に盛った菓子をあれの|膝《ひざ》にあけてくれるし、エドガーは離れて口をあいて立っていたっけ。その後で皆はあれのきれいな髪を|拭《ふ》いて|櫛《くし》ですいてやり、ばかに大きなスリッパをはかせて、|煖《だん》|炉《ろ》の|傍《そば》に|椅《い》|子《す》ごと引っ張ってゆくと、キャシーは食物を小犬やスカルカーに分けてやり、食べてる犬の鼻先をつねったりしながら、この上なくおもしろがっているので、そのはればれした顔がかすかに反射したのか、リントン家族のぼんやりした青い目にも多少の活気を帯びてきたらしかった。それを見て僕は帰ることにしたんだ。あの人たちはまるで|阿《あ》|呆《ほう》みたいになって感嘆してたよ。あんな奴らと比べたらキャシーはとうていお話にならないほどすてきだからね。いや世界じゅうの誰に比べたってそうじゃないか? ねえネリー?」
「今度の仕事ではお前さんが考えているよりよほど大変になりますよ」と私はあかりを|蔽《おお》って消しながら言いました。「ヒースクリフ、お前さんはなかなかこりないんだから、きっとヒンドリさんは極端な手段を講ずるでしょう。今にご覧なさい」
この言葉は私の希望以上に実現されました。あの不運な冒険はアンショーを激怒させました。それから翌日リントン氏が事情を釈明するため訪ねて来て、若主人の家内取締り方についてずけずけと非難しましたので、アンショーは意地にも真剣に監督してやるぞ、という気になったのです。ヒースクリフは|打擲《ちょうちゃく》されませんでしたが、以後キャサリンと一言でも話したら|放《ほう》|逐《ちく》すると申しわたされ、アンショーの細君は義妹が帰宅したら、強制でなしに策略で適当な取締りをすることになりました。強制でキャシーを取締ろうとしても不可能だとわかったことでしょう。
キャシーはクリスマスまで五週間スラシクロス・グレンジにとどまっていました。それまでの間に|踵《かかと》の傷も全快し、|行儀《ぎょうぎ》も大分よくなりました。奥様は時々見舞いに出かけて改善計画に着手し、立派な着物をきせたりおだてあげたりしてキャシーの自尊心を高めようとし、キャシーもその手にのせられてしまって、あの荒っぽい無謀の小さな蛮人が家に飛びこむ代りに、そして私たちを息詰まるほど抱きしめる代りに、きれいな黒い小馬から降りたのは、じつに気品のある令嬢で、羽根飾りのついたビーバーの帽子からトビ色の巻毛が垂れ、両手でつまをとらねばならぬほど長い毛織の婦人用乗馬服を着こみ、しずしずとはいって来たのでした。ヒンドリは妹を馬から助けおろしながら|嬉《うれ》しそうに、「おや、キャシー、お前は全く美人だよ! 見ちがえるようになった。まるで貴婦人みたいだ。ねえフランセス、あのイザベラ・リントンなど比べものにならないじゃないか?」
「イザベラは|生《き》|地《じ》がよくないですもの」とフランセスは答えて、「でもここに来てまた野放しにならぬよう気をつけなければならないわ。エレンや、キャサリンの服を脱ぐお手伝いをなさい。どれちょっと、あなた、髪のカールが乱れちゃう――私が帽子の|紐《ひも》をといてあげるわ」
乗馬服を脱がせてあげますと、その下から輝いたのはすてきな|格《こう》|子《し》|縞《じま》の絹製上着に白ズボン、それに磨きあげて光る|靴《くつ》でした。犬どもが歓迎してはねて来ましたのでキャシーの目は喜ばしげに輝きましたが、立派な着物にじゃれつかれるのがこわさになでてやりませんでした。キャシーは私におとなしくキスしました。私はクリスマスのケーキをこしらえてメリケン粉だらけになっていましたので、抱きしめるのはとてもだめだったでしょう。それからキャシーはヒースクリフを|捜《さが》してあたりを見まわしました。アンショー夫妻は二人の会見を注意深く見まもっていたのでした。その様子によって、二人の友達を|離《り》|間《かん》することがうまくいくかどうか、幾分か見定めることもできるだろうと思ったからなのです。
最初ヒースクリフはなかなか見つかりませんでした。キャサリンの不在になる以前からヒースクリフが|無頓着《むとんちゃく》であり、また誰からも頓着されなかったとすれば、その後はさらに十倍もそうでした。私以外には彼を汚い|児《こ》だと言って一週間に一度くらいは頭を洗えと命ずるだけの親切さえ誰も示しませんでした。あのくらいの|年《とし》|頃《ごろ》の子供たちは|石《せっ》|鹸《けん》で洗うことをめったに喜びません。したがって三か月も|泥《どろ》や|塵《ちり》にまみれたなりの着物や、|櫛《くし》も入れない厚い髪は言わずもがな、顔や手もいやにどす黒くなっているので、彼が期待していた乱れ髪の相棒のかわりに、こうまで輝かしい上品な令嬢がはいって来たのを見て、背高の|長《なが》|椅《い》|子《す》の|隅《すみ》っこに隠れたのも無理はないのです。
「ヒースクリフは居ないの?」とキャシーは言いながら手袋を脱ぎますと、現われた指は何もせずに引きこもっていたためおどろくほどまっ白でした。
「ヒースクリフ、出てきてもいいよ」とヒンドリさんは少年が面くらった様子を見ておもしろがり、いやな|下《げ》|郎《ろう》の若者として出て来させることを|満《まん》|悦《えつ》しながら叫びました。「お前もほかの召使たちのように出てきて、キャサリンさんにごあいさつしたらよい」
キャシーは隠れていた友達を一目見るなり、抱きしめに飛んで行き、一秒のうちに七つ八つ彼の|頬《ほお》へキスし、それからやめて引きさがり、突然笑い出して言いました。――
「まあ、なんてまっ黒な、|仏頂面《ぶっちょうづら》――そしてまあなんておかしな、こわい顔でしょう! でもこれはエドガーやイザベラを見慣れたせいね。まあいいわ、ヒースクリフ、私を見忘れたの?」
キャシーがこう|尋《たず》ねたのも無理ないことでした。恥と誇りとで彼の顔色は二重に|陰《いん》|鬱《うつ》になり、身じろぎもせずにいましたから。
「握手しなさい、ヒースクリフ」とアンショーさんは調子を|和《やわ》らげて「たまには許してやろう」
「いやだ」と彼はとうとう口を開きました。「僕は笑い者になるのはやりきれない。そんなことをされてたまるもんか!」そう言って彼は行こうとしましたが、キャシーはそれをとめました。
「私はあなたを笑い者にするつもりじゃなかったわよ。でも止められなかったんですもの、握手くらいはするものよ、ね、ヒースクリフ。何だってそんなにふくれてるの? あなたがあんまり変に見えたから笑っただけよ。髪を洗って|櫛《くし》を入れたらそれでいいじゃないの。でもあなたはずいぶん汚いのね!」
キャシーは自分の手にとった彼の薄汚い指と自分の着物を気づかわしげに見つめ、自分の着物が彼のと触れて、飛んだ飾りをこしらえやすまいかと心配していました。
「僕にさわらなくたっていいぜ!」と彼はキャシーの視線を追って手をふりほどきながら答えました。「僕が汚くしようと僕の勝手だ。僕は汚い方が好きだからこれからも汚くするんだ」
こう言うが早いか彼はいきなりとっとと室を出ました。主人夫妻はおもしろがっていましたが、キャシーは自分の言葉がなぜあんなに彼の気を悪くしたのかわかりかねて、ひどく心を悩ましていました。
私は令嬢付添いの役目を果して、ケーキを|釜《かま》の中に入れ、うちと台所とをクリスマスの前夜にふさわしいように、|煖《だん》|炉《ろ》で盛んに温めて|居《い》|心《ごこ》|地《ち》よくし、それから腰をおろして、|独《ひと》りぼっちでクリスマスの賛美歌を口ずさむことにしましたが、ジョウゼフがその歌の陽気な調子はまるで流行歌のお隣だなどと言っても、私はいっこう平気でした。ジョウゼフは|祈《き》|祷《とう》のため自分の部屋に早くから引込んでいましたし、アンショー夫妻は、小さなリントン兄妹へのお礼の贈り物として、キャシーのために買ってやった玩具を、いろいろ取り出してキャシーの注意をひいていました。かねてから兄妹をあす遊びによこすように招待してあったので、リントン夫人はかわいい子供たちをあの「口汚いわんぱく小僧」と一緒にせぬよう、くれぐれも注意してほしいという条件付きでこの招待を|承諾《しょうだく》していたのでした。
こうして私は|独《ひと》りぼっちになっていたのです。私は|薬《やく》|味《み》をいためる|芳《こうば》しい香をかぎ、ぴかぴかしている台所道具や、磨きあげてヒイラギで飾った柱時計や、|晩《ばん》|餐《さん》にあたためた酒をつぐようにとお盆の上に並んで|待《たい》|機《き》している銀の|盃《さかずき》や、ことにまた私が特別に注意して、一点の汚れもないようにお|掃《そう》|除《じ》して磨きあげた床板など、そうしたものにわれながら見とれ、心の中でいちいちほめながら、|大《おお》|旦《だん》|那《な》様がご存命の|頃《ころ》は、よくこうきちんと用意したところにおいでになって、私をまことにまめまめしい娘じゃとおっしゃっては、一シル銀貨をクリスマスのお心付けにと下さったものだっけ、と思い出し、すると大旦那様が、ヒースクリフをかわいがって、ご自分の死後に冷遇されなければいいがとご心配になっていたことなど、つぎつぎと思い出されて、果てはかわいそうな少年の現在の有様に思いいたると、私の歌は泣きの涙に変ってしまうのでした。しかし彼の不幸を泣くよりも、それを幾分なりとよくしてやるように骨折る方が賢いと考え、私は立ち上って庭へ彼を|捜《さが》しに出かけました。あまり遠くない|厩《うまや》で、彼は新しい小馬のつやつやした毛を|撫《な》でつけたり、いつものとおり他の|獣《けもの》どもにも飼料をやっているところでした。
「急いでなさいよ、ヒースクリフ!」と私は言って、「台所はたいそう暖かでいいよ。ジョウゼフは二階に上ってしまったし、早くしておしまいよ。キャシーさんが出て来る前に、あなたをスマートに|身《み》|支《じ》|度《たく》してあげましょう。そうすりゃ、あなたがた二人は、寝るまで炉ばたで長いお話ができましょう」
彼は仕事をつづけ、私の方に振向きもしませんでした。
「おいで――来ないの。あなたがた二人前にはまあたっぷりのケーキがありますよ。それにあなたの身支度に三十分はかかるし」
私は五分間待ちましたが、何の答もないので帰りました。キャサリンはお兄様夫婦と夕食をし、私とジョウゼフとは、向うがブツブツ言えばこっちも|仏頂面《ぶっちょうづら》で|応酬《おうしゅう》しながら、仲の悪い食事を一緒にしたためました。ヒースクリフのケーキとチーズとは一晩じゅうテーブルの上に妖精たちのために残されていました。彼は九時まで|頑《がん》|張《ば》って働き続け、それからむっつり黙って自分の室に引込みました。キャシーは新しい友達を歓迎する準備で遅くまで起きていましたが、一度古い友達と話しに台所に来て、彼がいないので、どうしたのとちょっと|尋《たず》ねただけで、またすぐ戻って行きました。翌朝ヒースクリフは早く起きましたが、休日なので不|機《き》|嫌《げん》の持って行き場もなく、沢原の方に出かけて、家族の人たちが教会に行くまで姿を見せませんでした。空腹と反省とが彼の機嫌を少し直したとみえて、私にしばらくつきまとっていましたが、勇気を|奮《ふる》ってだしぬけに言いました。――
「ネリーや、僕をきちんとさしておくれ。おとなしくなろうと思うんだ」
「そうね、もう好い時分ね、ヒースクリフ。あなたはキャサリンを悲しませたのです。キャシーは家に帰って来てわるかったと思ってるでしょうよ! キャシーばかりちやほやされるもんだから、あなたはねたんでいるみたいね」
キャサリンをねたむという考えは彼のふにおちないようでしたが、あの人を悲しませたということは彼にはっきりわかりました。
「キャシーは悲しいって言ってたのかえ?」と彼はたいそうまじめな顔で|尋《たず》ねました。
「あなたが|今《け》|朝《さ》もいないと私が話したとき、キャシーは泣きましたよ」
「そうかえ、僕だってゆうべ泣いたぜ。しかも僕の方がキャシーより泣くわけがたんとあったんだ」
「そうね。あなたは高慢な心と空腹とを抱えて寝床に行ったんですものね。高慢な人ってものは、|独《ひと》りで勝手に悲しみを育てあげる。けれどもそのかんしゃくを恥じたのなら、キャシーが帰って来たら|謝《あやま》らなくてはなりませんよ、いいですか。進んでキスを求めて、そして言わなくてはなりません――何といったら一番いいか知ってるでしょう。ただ真心からするんですよ。キャシーは立派な着物を着たもんだから、よそよそしくなったなんて思わないようにね。さあ、私はご|馳《ち》|走《そう》の|支《し》|度《たく》をしなくてはならないんだけれど、都合をつけて身支度をしてあげますよ、エドガー・リントンなんかあなたのそばに来ると、まるで人形みたいにしか見えないようにしてあげます。そうですとも、年下だけれど、背も高いし肩幅は二倍もあるし、あなたは|瞬《またた》く間にあんな子を張りたおすことができるでしょうよ。そう思わない?」
ヒースクリフの顔は一時輝きましたが、また曇ってため息をついて言いました。
「でもネリーや、僕があいつを二十回も張りたおしたところで、そのためにあいつの|風《ふう》|采《さい》がさがるものでもないし、僕のがあがるものでもない。僕もあんなトビ色の髪と白い|肌《はだ》と、それからあんな服装や、身のこなしや、それにあんなお金持になる運を持っていたらなあ!」
「それからちょっとのことでもお母さんと呼んで泣くようにね。そして百姓の子が|拳《げん》|固《こ》をふり上げるとびくびくするし、ちょっと雨が降っても一日家に引込んでいる子になりたいのね。ねえヒースクリフ、そんな|意《い》|気《く》|地《じ》のないことでどうします! どれ、鏡においで、どうすればいいか教えてあげます。それ、目のあいだの二つのしわをご覧。弓なりにならず中がくぼんでる濃い|眉《まゆ》|毛《げ》をご覧。悪魔のスパイか何ぞのように、その下に|潜《ひそ》んで光っているが、けっして率直にその窓をあけたことのないほど、深く埋まっている一|対《つい》の黒鬼をご覧。その無愛想なしわを寄せずに、うちとけて|目《ま》ぶたを上げ、黒鬼の目を自信ある無邪気な天使の目に変え、とやかくと物事を疑ぐらずに、確かに敵だと思う人のほかは味方として親しんでみるよう、いつも望んで心がけてご覧なさい。いやらしい野良犬が|蹴《け》られてあたりまえと思いながら、そのために、蹴った人ばかりでなしに世の中全体を憎むような、そんな顔つきはしないことですよ」
「もっと別の言葉で言うと、僕はエドガー・リントンの大きな青い目と、なだらかな|額《ひたい》とを望まなければならないのだね。僕はそのとおり望むよ。だが望んだところで僕が望むものになるたしにもならないしなあ」
「|善《よ》い心は美しい顔になるたしになりますとも。――たとえあなたがほんものの黒ん坊だったにしてもです。悪い心は一番美しい顔をさえ|醜《みにく》い顔以下の悪い人相にしてしまいます。さあ、これで顔洗いも髪すきも、しかめ顔もみんなおしまいですよ。ずいぶんきれいになったと思いませんか? そりゃきれいになりますとも。まるで変装の王子様のようです。あなたのお父様はシナの皇帝で、お母様はインドの女王様で、両方ともたった一週間の収入でもって、ワザリング・ハイツとスラシクロス・グレンジとを一緒に買い上げることができるおかたかもしれないでしょう? そしてあなたは悪い水夫どもにかどわかされて、このイギリスに来たのかもしれません。私があなたのような境遇だったら、私の生れについて高い考え方をするわ。そして自分の偉い身分のことを考えると勇気と|威《い》|厳《げん》とが出て、それでもってこの辺のちっぽけな百姓どもの圧迫くらい、平気で|堪《た》えられると思いますがねえ」
こうおしゃべりしているうちに、ヒースクリフのしかめ顔は|次《し》|第《だい》に消え、ほんとうに|愉《ゆ》|快《かい》げに見えて参りましたが、その時がらがらと馬車が|路《みち》から庭にはいって来る音がしたので、私どもの会話は|妨《さまた》げられてしまいました。彼は窓へ私は戸口に走って行きましたら、ちょうどリントン兄妹が|外《がい》|套《とう》や毛皮にくるまって自家用馬車から降り、こちらの家の人々もめいめい馬から降りたところでした。こちらでは冬になると馬で教会に行くことが多いのです。キャサリンは両手でリントン兄妹の手を引いて家にみちびき入れ、炉の前にすわらせますと、二人の白い顔はじきに赤らみました。
私はヒースクリフに、急いで行って|機《き》|嫌《げん》のいい|愛嬌《あいきょう》を見せるようにすすめ、彼も喜んでそれに従ったのでしたが、運の悪いことには、彼が台所の方から戸をあけた時、ヒンドリも他方からそれをあけたので、二人は出っくわしてしまい、主人は彼が常になくきれいで快活なのを見て、しゃくにさわったものか、それともたぶんリントン夫人との約束を果そうとするあまり、彼をいきなりぐいとうしろに押しつけて、腹立たしげにジョウゼフに命じて言うには、「こいつをこの室にいれないようにして、|晩《ばん》|餐《さん》が終るまで屋根裏部屋に押し込んでおいてくれ。まんじゅうに指を突っ込んだり、|果《くだ》|物《もの》をかっさらったりする気だからね、一分間でもそんなもののある所には置けやしない」
「いいえ、だんな様」と私は言わずにいられませんでした。「この子は、何にも手を触れませんよ、この子は。それにこの子だって私どもと同じようにご|馳《ち》|走《そう》の|分《わけ》|前《まえ》を頂くのが当然でしょう」
「|拳《げん》|骨《こつ》の分前を|戴《いただ》かしてやるよ、夜にならぬうちに下の部屋におりているのを見つけたら」とヒンドリは叫んで、「あっちへ行け、この宿無しめ! 何だ! お前、おしゃれになる気だな! どれ、その上品な髪の毛をつかんでやるからちょっと待ちな。そいつを引っ張り延ばして見せる!」
「ひっぱり延ばさなくてもずいぶん長いじゃありませんか」とリントンの坊ちゃんが戸口からのぞき込みながら言いました。「よくあれで頭痛がしないものですね。目の上まで延びて子馬のたてがみみたいですね!」
こう言ったのは別に|侮辱《ぶじょく》する気でなかったのですが、ヒースクリフの方では、|人《ひと》|馴《な》れのしない|烈《はげ》しい気性から、その時すでに競争相手として嫌っていたらしい者から、こんな無礼と思われることを言われてとうてい我慢ができませんでした。で、手近かに熱いリンゴスープを|容《い》れた舟形の|蓋《ふた》|物《もの》があったのをつかむが早いか、いきなり坊ちゃんの顔から首筋の辺に投げつけましたので、向うでは泣き出してしまい、イザベラとキャサリンとは何事かとその場に|駈《か》けつけました。アンショーさんはすぐと乱暴者をつかまえて、自分の室に運んで行き、かんしゃくをさますために、そこでたぶんひどい荒療治をなさったに相違ありません。まっ赤になって息をきらして出てきなさったのです。私は皿洗い用の|布《ふ》|巾《きん》を取って、いらぬ口を出した罰だと思いながら、わざと手荒くエドガーの鼻や口を|拭《ふ》きこすりました。彼の妹は家に帰るといって泣き出しますし、キャサリンはみんなの様子を見て赤面しながら、途方に暮れて立っていました。
「あなたはあの人に口をきかなけりゃ好かったのに!」キャサリンはエドガーに忠告しました。
「あの人は|機《き》|嫌《げん》がわるかったのよ。あなたはせっかくの訪問をめちゃめちゃにしてしまうし、あれは打たれるし、私あの人が打たれるのいやなの。ご|馳《ち》|走《そう》が食べられないわ。何だってあの人に口をきいたの? エドガー」
「口なんかききゃしなかったんだ」と泣きじゃくりながら、彼は私の手をのがれ、自分の麻のハンカチで飛ばっちりの残りを|拭《ふ》き「あいつと一口も話をしないって、私はお母さんと約束して来たんだもの。するもんか」
「そう、じゃ泣くんじゃないわよ」とキャサリンは軽蔑するように答えて、「あなたは死にはしないのよ。もう茶目をするんじゃありません。それ兄さんが来るわ。静かに! お黙り! イザベラ! あなたなんぞ誰もどうしもしないじゃないの?」
「さあさあ、みんな席についた!」と叫びながらヒンドリは急いでやって来て、「あの|獣《けもの》みたいな小僧のおかげで、ずいぶん温まったよ。今度はねえ、エドガー君、|拳《げん》|骨《こつ》で仕返しをしてやり給え、よくお|腹《なか》がすくよ!」
子供連はおいしいご|馳《ち》|走《そう》を見ると|機《き》|嫌《げん》を直しました。乗物に揺られて腹が|空《す》いている矢先でしたし、べつだんけがをしたのでもなかったので、|造《ぞう》|作《さ》もなくなだめられたのです。アンショーさんがみんなの皿一杯にたっぷり肉を切って分けるかたわら、奥様はおもしろおかしく話して皆を喜ばせました。私は奥様のうしろで給仕していましたが、キャサリンが湿っぽい目つきもせず、平気な様子で自分の前の|鵞鳥《がちょう》の|翼《つばさ》の肉を切り始めるのを見て、心ひそかに思ったのでした。
「不人情な子。古い遊び仲間のみじめな有様を平気でよそに見ている。あんながりがりな子とは思わなかったのに」
やがて|唇《くち》まで一ト切れ上げていきましたが、またそれを皿に置くかと見るまに、彼女の|頬《ほお》はさっと赤らみ、涙がその上をほとばしりました。彼女はフォークを|床《ゆか》に落し、それを拾うと見せて、急いでテーブル掛けの下にもぐり込み、悲しみの涙を隠したのです。私はもはやキャシーを不人情とは思いませんでした。私は彼女が|独《ひと》りでその席から脱け出してヒースクリフに会う機会を得ようと悩んで、その日一日じゅう|煉《れん》|獄《ごく》の苦しみだったことを認めたのです。私は内緒でご|馳《ち》|走《そう》を運ぼうとしたときに知ったのですが、ヒースクリフは主人から閉じこめられていたのでした。
夕方になるとダンスが始まりました。キャシーはイザベラの相手がいないのを理由にして、ヒースクリフをゆるしてくれるように願ったのですが、それはむだでした。そして私が不足の人数を補うことにきめられました。私たちは皆ダンスに熱中して陰気なことは忘れてしまい、ギマトンから楽団が着いてからはますますおもしろくなって来ました。楽隊は総勢十五人、大ラッパ、小ラッパ、クラリネット、|大《おお》|竪《たて》|笛《ぶえ》、フレンチホルン、ヴィオロンチェロなど管絃楽器のほかに歌い手も交っていて、しかるべき家々を巡回演奏し、クリスマスにはいつも寄付を|貰《もら》うことになっていましたが、私どもはそれを聞くことを第一等のもてなしとしていたのでした。普通のクリスマスの歌がすむと、いろいろな歌やグリー曲を演奏させました。アンショー夫人が音楽好きでしたので、彼らは十分聞かせてくれました。
キャサリンも楽隊が好きでした。しかし階段の頂上で聞くと一番好いと言って、|暗《くら》|闇《やみ》の中を登って行きました。私もついて行きました。あんまり人が大ぜいいましたため、みんなは私どものいないことには、少しも気がつかずに、階下の戸をしめてしまいました。キャシーは階段の頂上まで登りましたが止まりもせずに、ヒースクリフが閉じこめられている屋根裏に登って行って、彼を呼びましたけれど、最初しばらくは彼はなかなか答えようとしませんでした。そのうちにとうとう彼女は板壁ごしに話を交わすように|納《なっ》|得《とく》させましたが、私は二人の話をじゃませずにおいて、やがて楽隊がひとまず終り、楽手たちが中休みをしそうだと思われる|頃《ころ》、キャシーに知らせるため階段を登って行きました。彼女の姿は外側に見えず、その声が内に聞えました。|小《こ》|猿《ざる》さんはこちらの屋根裏部屋の引窓から|這《は》い出して、屋根伝いに向うの屋根裏部屋の引窓にはいっていったのでしたが、私は彼女をなだめてまた出てこさせる骨折りはなみたいていではありませんでした。彼女が出て来た時はヒースクリフも一緒でした。そして私に言うことには、ジョウゼフは彼のいわゆる「悪魔の賛美歌」なる楽隊の音を聞くのがいやさに、隣の家に出かけて行ったから、ヒースクリフを台所に連れて行ってくれるようにとせがむのです。私は、あなたがたの悪企みをけっして助力はしないけれど、この|囚人《しゅうじん》は昨日からご飯を食べていないから、今度だけはヒンドリさんをだますことをば大目に見て上げよう、と申しました。で彼は階下に降り、私は炉ばたに彼をすわらせて、ご|馳《ち》|走《そう》をどっさり出してやりましたが、気分が悪いとみえてさっぱり食べず、せっかくご馳走しようとした私の|志《こころざし》もむだでした。彼は|膝《ひざ》の上に|両肱《りょうひじ》をつき手に|顎《あご》を支えて、黙然と考えに|耽《ふけ》っていました。何をそんなに考え込んでいるのかときいてみますと、おもおもしく答えました――
「僕はどうやってヒンドリに仕返しをしてやろうかと思案してるんだ。僕はしまいに仕返しができれば、いつまで待ってもかまわない。仕遂げる前にあいつが死なないでくれるといいがなあ!」
「まあ、何を言うんです! ヒースクリフ。悪い人を罰するのは神様がなさることです。私どもは|赦《ゆる》すことを知らなくてはなりません」
「いいや、神様がなさることじゃ僕は満足できない。一番いい方法がわかりさえしたらと思うよ! ほっといておくれ、計画を立ててしまうんだから。それを考えている間は、ちっとも苦痛なんぞ感じないんだ」
ですが、まあロックウッドさん、こんな話はあなたにはいっこうおもしろくないことでしたっけ。よくもこうおしゃべりしたものとあきれちまいます。そしてあなたのおかゆは冷えちゃうし、お眠くてこっくりこっくりなすっておいででしょう! ヒースクリフの身の上話などあなたがお聞きになる必要のことなら、半ダースほどの言葉で全部お話ができましたのにね。――
こう自分から話を中止して、この家政婦は立ち上り、|裁《さい》|縫《ほう》道具を片づけ出したんだが、僕はどうして居眠りするどころじゃない。なかなか|炉《ろ》|傍《ばた》から離れられなくなっちゃったんだ。
「まあおすわりよ、ディーンさん」と僕は言う、「ねえ、どうかもう三十分すわっておくれ。詳しく気ながにお話ししてくれたのは|至《し》|極《ごく》結構だ。それが僕の好きな話し方さ。その調子でお|終《しま》いまでつづけておくれ。話に出て来る人物はどれもみな多少は興味があるよ」
「でも時計はもう十一時を打つところですもの」
「かまやしない――僕にとっちゃ十一時や十二時なんざ|宵《よい》の口だもの。朝は十時までも寝てる者にとっちゃ、一時や二時に寝たってまだ早い」
「十時までなぞお休みなすっていらしてはいけません。それじゃ朝の好いところがまるでなくなっちまいます。朝十時までにその日の仕事の半分してしまわない人は、あとの半分がその日じゅうには片づきますまいよ」
「まあいいからディーンさん。|椅《い》|子《す》におかけなさい。どうせ私は|明日《あ し た》の午後まで今晩を延長させるつもりなんだから、何だかよほど|頑《がん》|固《こ》なかぜになりそうに思われるし」
「そんなことはございますまいがね。ではその後三年間ほどの出来事は略すことにして下さいまし、でその間にアンショー夫人は――」
「いやいやそんなことは許されませんよ! あなたが|独《ひと》りですわっているとき、その前の|絨毯《じゅうたん》の上で|親《おや》|猫《ねこ》が子猫をなめてるとしてご覧なさい。あなたはその|動《どう》|作《さ》をじっと見ていると、子猫が一つの耳をなめ残されるのさえ気にかかって不快な気分になりませんか?」
「それはまた恐ろしく|無精《ぶしょう》な気分ですこと」
「どうしてなかなか、うんざりするほど活動的な気分です。しかもそれが現在の私の気分なんだから、略したりせずに詳しく話し続けて下さい。一体私たちが都会に住んでいるときには、近所の人になどいちいち|頓着《とんちゃく》していられないが、ちょうど|牢《ろう》|獄《ごく》のなかのクモが普通の家のクモよりも、そこに住む人から注意される価値をもっているように、こういう土地の人々は都会人よりもそこに来て住むわれわれにとって興味があるものです。しかもそうした深い興味は、単にこれを見る者の境遇が|寂《さみ》しいせいばかりではないのです。地方の人々の生活が都会人よりもずっと真剣で、自分自身の道をふみ、くだらない外部の|事《こと》|柄《がら》や|上《うわ》っ|面《つら》の変化などを気にしないせいでもありましょう、私は|日《ひ》|頃《ごろ》どんな愛でも一年とは続くものではないと信じている人間なんだが、こういう土地では死ぬまで変らぬ愛なども、ありえそうに思われる。一方では|飢《う》えた人にたった一皿の食物をやるようなもので、すべての|食慾《しょくよく》をその一皿に集中してたらふく[#「たらふく」に傍点]たいらげる。他方、都会人はフランス人の料理番たちが用意した食卓につくようなもので、ただ全体としてのご|馳《ち》|走《そう》を同じく十分に食べるけれど、その一皿一皿はほとんど注意もされず、記憶にも残らないといったようなものですかね」
「おお、この土地の人たちだって、あなたが私どもと親しくなれば、よそとちっとも変りはありませんよ」とディーン女史は僕の雄弁にいささかまごついて言ったが、僕はすぐに答弁して、
「失礼だが、そういうあなたが第一その断定を裏切る何よりの|証拠《しょうこ》じゃありませんか! ほんの少しのいなかふうのほかには、あなたにはちっとも身分の低い人々にありがちな態度がありませんよ。あなたは確かに世間並の召使たちが考える以上のことを、今まで考えて来たに相違ありません。それというのも、周囲に心を散らすくだらないものごとがないため、いやでもおうでもそうした反省力を養わされているのです」
ディーン夫人は笑った。
「私は自分でも相当しっかりした、理屈のわかる人間と思っているんでございますがね。それはしかしこの丘の間に住んで、年がら年じゅう同じ人々の顔や動作ばかりを見ているからだけでもないのです。私はずいぶんきびしいしつけを受けましたおかげで|分《ふん》|別《べつ》もつきました。それにロックウッドさん、私はこれでもなかなかあなたがご想像なさる以上に、本をどっさり読んでいるのでございますよ。この家の蔵書の中で、私が目を通して何かの益を得ていない本は、ギリシャ語、ラテン語、フランス語のものを除きますと、一冊もないほどです。そうした言葉の何々語という区別だけはどうやらできますし、まあ貧乏人の娘としては、極上の方かと存じます。しかしまあ世間話のようにして話を続けてよければ、この調子で続ける方がよいでしょう。そして三年とばすのをよして、あくる年の夏に話を移すくらいにしておきましょう――それは一七七八年の夏で、今からざっと二十三年前のことになるのでございます。
晴れた六月の朝、私の最初のかわいい育て|児《ご》で、また古いアンショー家の血筋の最後の児が生れました。私どもは遠く離れた農場で枯草を作るのに忙しいおりから、いつも朝飯を運んで来る女の子が、常よりも一時間も早く、牧場を横切り小道を|駈《か》け上って来て、走りながら叫びました。
「ねえ! そりゃたいした赤ん坊よ!」とその子はあえぎあえぎ「今までに生れた子の中で一等立派な坊やよ! だがお医者様がね、奥様はもうだめだって言ったよ。何か月も前から肺病だったんですとさ。お医者様がヒンドリ様に話しているところを聞いちゃったんだよ、病人はもう精も根もつきてるって、そして冬になる前に死ぬだろうってさ。ネリー、今すぐ帰らなくてはなりませんよ。あなたが赤ん坊を育てるの。牛乳にお砂糖入れて養って、昼も夜もおもりをするんですと。私があなただったらいいんだけどなあ! だって奥様がいなくなれば、あの赤ちゃんはまるであなたのものになるんだもの」
「だが奥様はひどく悪いの?」と私は|熊《くま》|手《で》をほうり出し、ボンネットの|紐《ひも》を結びながら言いました。
「きっとそうでしょう。だけれど見たところは元気よ。そしてね、あの子がおとなになるのを見るまで生き延びられると思ってるみたいに話してるの。喜んでしまって気が変になってるんです。だってそりゃきれいな赤ちゃんなんですもの! もし私だったら死なないわ。何ぼケネスが何とか言ったって、あんな赤ちゃんを見ただけでも良くなりますわね。アーチャーのお|婆《ばあ》様が天使のような赤ちゃんをだいておりてきて、うちのを|旦《だん》|那《な》様にお目にかけ、旦那様のお顔がちょうどはればれと輝き出したとき、ろくでもない|辻《つじ》|占《うら》ばかりぬかすあの老いぼれジョウゼフが出しゃばって言うことには『アンショーさん、奥さんがあなたにこの子供をのこすまで生きたことは、神の恵みですぞ、あの婦人が来た時これは永くないわいと思ったものだが、今度この冬こそ気の毒ながらたぶんだめじゃ。あんまり騒いだり気をもんだりしてはなりませんわい。何としてもいたしかたないでのう。それにまたあなたはあんな|燈《とう》|心《しん》|草《そう》みたいなヒョロヒョロ女を妻に選びなさるよりも、もっとましなことをご存じでしたろうにさ!』ですって!」
「そしたら旦那様は何とお答えなさったの?」と私は|訊《き》きました。
「そりゃ|悪《あく》|態《たい》を言ったでしょう。でもそんなこと私は気に留めなかったわ、赤ちゃんを見たい一心だったもので――」そしてその子供はまた赤ん坊のことを|有頂天《うちょうてん》になってしゃべり出しました。私の方もその子と同じことで、早く赤ん坊が見たさに家に急ぎました。もっともヒンドリさんをお気の毒にも思いました。あの人の心にはたった二つの|偶《ぐう》|像《ぞう》のほかに何もいれる余地がなく、それが妻と自分とであり、どちらもかわいいのでしたが、細君をほとんど|崇《すう》|拝《はい》していましたから、死なれでもしたら|堪《た》えられないだろうと思いました。
私どもがワザリング・ハイツに着きますと、あのかたは玄関の所に立っていて、私がはいりがけに、
「赤ちゃんはどうしました?」と言いますと、
「まるで|駈《か》け出しそうだよ! ネルや」と快活な笑顔でおっしゃいました。
「そして奥様は?」と私は思い切ってたずねました。「お医者様がおっしゃるには――」
「医者なんかくたばっちまえ!」と主人はまっ|赤《か》になってさえぎりました。――「フランセスが言ってるとおり、来週の|今《いま》|頃《ごろ》までにはすっかりよくなるだろうよ。お前、二階に行くの? お話ししないと約束するなら私が今に行くって、奥様にそう言ってくれない? 私がそばにいると、あれは黙っていられないので出て来たところなんだ。あれはどうしても――ケネスさんが言ったと申し上げるんだよ――静かにしていなくちゃならないんだ」
このことづてをアンショー夫人に申し上げますと、うきうきして|愉《ゆ》|快《かい》そうに答えました。――
「私はろくに一言も口をきかないのよ、エレン。それだのにあの人ったら二度も泣きながら出て行ったの。そう、話はしない約束をしますって言ってちょうだい。ただしあの人を笑ってあげることはこの限りに|非《あら》ず、ってね!」
おかわいそうに! 死ぬまぎわまで、こうした快活な心はちっとも衰えませんでしたよ。そして|旦《だん》|那《な》様は|頑《がん》|固《こ》に、いや、むきになって、だんだん快方に向っていると主張し、ケネスさんがもうこうなっては私の薬はだめだ、これ以上むだな費用をおかけなさるに及ぶまい、って言った時、あの人はこう答えたのでした。――
「私こそそうするに及ぶまいって知っていますよ。あれは元気です――もうあなたのお薬も何もいりません。肺結核なんぞじゃなかったのですよ。ただの熱で、それもなくなっています。脈だって私と同じくらい遅いし、|頬《ほお》だって冷やかです」
これと同じことを奥様にも話しますと、話された方でもそれを信じている様子でした。ところがある晩病人が夫の肩にもたれて明日は起きられると思うなどと話していた最中、突然せきがこみ上げてきましたので――ほんの軽いせきでしたが――夫は妻を腕に抱えますと、妻は両腕で夫の首のまわりにすがり、そして顔色が変ってそれでもう死んでいました。
あの女の子の予言のとおり、赤ん坊のヘアトンは全然私のものになりました。アンショーさんは赤ん坊が丈夫で泣かないならば、そのことでは満足でした。しかしご自分の方はだんだん|自《じ》|暴《ぼう》|自《じ》|棄《き》になってきました。あの人の悲しみは嘆きではありませんでした。泣きも祈りもせず、ののしりそして|憤《いきどお》り、神様をも人をも|呪《のろ》い、やけ[#「やけ」に傍点]の|放《ほう》|蕩《とう》に身をゆだねました。召使たちはとうていその暴君的非行に耐えかね、残ったのはジョウゼフと私と二人きりになりました。私は預っている赤ん坊を残して出て行く気になれませんでしたし、それにアンショーさんとは前に申しましたように|乳《ちき》|姉《よう》|弟《だい》になっていますので、赤の他人よりはその仕打ちに我慢もできたのです。ジョウゼフは小作人や雇い人に威張り散らすために残っていました。|叱《しか》りつけることがどっさりある所に構え込んでいるのが彼の使命でしたから。
主人の|不行跡《ふぎょうせき》と悪友たちとは、キャサリンとヒースクリフとにいいお手本を示しました。後者に対する|虐待《ぎゃくたい》にいたっては、聖者をさえ悪に変じかねないほどでした。そして実際あの青年はそのころ一種の悪魔に取りつかれているようでした。彼はヒンドリがもはや救われないほど|堕《だ》|落《らく》しているのを見て喜び、いよいよ陰険に|兇悪《きょうあく》になって行くのが日増しに目立ってきました。まるで地獄のようになった家の様子は、とうていお話になりません。牧師補も訪ねてこなくなり、エドガー・リントンがキャシーを訪ねて来るほかには、身持ちのいい人は誰一人私どもに近寄らなくなってしまいました。十五のキャシーはいなかの女王でした。彼女に肩を並べる娘は一人もないので、高慢な片意地なものになってしまったのです。実のところ私は幼女時代を過ぎたキャシーが好きでなくなりました。それでその尊大ぶった鼻柱をおりおりくじいてやって、怒らせもしましたけれど、そのくせちっとも私を嫌いませんでした。彼女は昔なじみに対して奇妙に気が変らず、ヒースクリフにも彼女の変らぬ愛情が保たれていて、若いリントンのあらゆる長所をもってしても、同程度の深い印象を与えることは困難でした。リントンさんは|先《さき》|頃《ごろ》まで私の主人でしたおかたで、あの|炉《ろ》|棚《だな》の上にかけてあるのがその|肖像《しょうぞう》です。元は一方にはあの人のをかけ、片方にはあの人の奥様の肖像をかけておいたのですが、キャサリンの方は取りはずされてしまいましたので、あいにくその方はごらんに入れられないのです。よくお見えになりますか?――
ディーン女史は|燭台《しょくだい》をあげたので、その肖像の|優《やさ》|形《がた》な顔が僕に見えた。ハイツの若い婦人と生き写しだが、表情はもっと静かで、にこやかである。きれいな絵だ。長い金髪がこめかみのあたりで軽くうねり、目は大きくてまじめで、|風《ふう》|采《さい》はあんまり優雅過ぎるくらいだ。こういう男のためなら、キャサリンが最初の友ヒースクリフを忘れたとしても怪しむに足りない。それよりか、この|外《がい》|貌《ぼう》にふさわしい心を持つ彼が、僕の想像しているようなキャサリン・アンショーを、どうして好きになることができたのか、その方がよほど僕には不思議だ。
「じつに気持のいい肖像だ。似ていますか?」と僕は家政婦に言った。
「ええ、|上機嫌《じょうきげん》の時はもっといいお顔でした。あれは平生の顔です。概してあのかたは元気がありませんでした。――
キャサリンはリントン家に五週間ほど滞在して以来、その家族と親しくなりました。リントン家の人と一緒にいるあいだ彼女の乱暴な素質を現わす誘惑もなく、いつもきちんとしている人々の中で粗暴にしては恥ずかしいとの|分《ふん》|別《べつ》がありましたので、利発な親切を示してわれ知らず老主人夫妻をだまし、イザベラには嘆称され、その兄には心も魂も打ち込まれ、そうなると名誉心に富んだ彼女は元来人気を得ることに内心得意でしたので、べつだん誰を|欺《あざむ》くというつもりもなく、二重人格のような|猫《ねこ》かぶりをすることになったのでした。ヒースクリフを「|野《や》|卑《ひ》な不良青年」だの「|獣《けもの》にも劣った奴」だのとよぶ所では、彼女は彼と同じ挙動をつとめて避けましたが、自分の家では礼儀を守っても笑われるばかりですし、|放縦《ほうしょう》な性質を制したところで、信用も得なければほめられもしないので、そんなことをする気になりませんでした。
エドガーさんが勇気を出してワザリング・ハイツを公然と訪問することは、たまにしかありませんでした。彼はアンショーの不評判を恐れ、会うのを避けましたが、でもアンショー家から一番|鄭重《ていちょう》に|待《たい》|遇《ぐう》され、その訪問の目的を知っていますので主人すら彼を立腹さすようなことは|控《ひか》え、親切なもてなしはできないばあいには、さまたげにならぬようにしていました。しかしキャサリンの方は彼の訪問をあまり喜ばないように私には思われました。彼女はたくらみもなく|手《て》|管《くだ》もなく、この二人の友達が、かりそめにも出会うことを明らさまにいやがっていたのです。というのはヒースクリフがリントンを目の前で|軽《けい》|蔑《べつ》しますと、かげでそうする時と同じように、彼女はやはりヒースクリフに半分同意できず、またリントンがヒースクリフに|嫌《けん》|悪《お》や反感を示す場合は、彼女は自分の古い遊び友達がけなされるのを平気で聞き流してはいられないのでした。彼女は私にからかわれるのがつらさに、その当惑や言うに言われぬ気苦労を隠そうとつとめましたが、それはむだで、私はそのことでたびたび彼女を|嘲笑《ちょうしょう》しました。というとなんだが意地悪のように聞えましょうが、ひどく高慢な娘でしたので、何か|懲《こ》りてもっと|謙《けん》|遜《そん》にならなければ、彼女の悩みに同情することなど実際できなかったのです。でもしまいには、私のほかに相談相手にしようと思う人もないので、自分から私に打明ける気になったものでした。
ある日、午後からヒンドリさんは外出し、ヒースクリフはそれをいいことにして仕事を休みました。彼はその|頃《ころ》たしか十六になっていたと思いますが、べつだん|容《よう》|貌《ぼう》が|醜《みにく》いわけでもなく、また知能が欠けているのでもないのに、内心も外見も人が寄りつかないようないやな印象をわざと人に与えるようにしていたものでした。あの人の現在の様子にはそんな跡かたもないですがね。第一に、彼はその頃にはもう少年時代の教育の恩恵を失い、朝早くから夕おそくまで絶えず働かされるため、かつて持っていた知識|慾《よく》や本や学問への愛好は消え失せ、亡き老アンショー様のごひいきによってつぎ込まれた幼い頃の優越感もすっかり衰えていました。彼は長いことキャサリンと同等に勉強しようとつとめましたが、痛切な無言の無念をのこしてそれも投げ出し、しかも全然投げ出してしまい、こうして彼が元のレベル以下になり下がるほかどうにもしようがないと思った時、誰が何と言っても、向上の一歩をふみ出すように説き伏せることはできませんでした。こうなると次には、からだの外見まで精神の低下と共鳴し、歩調はだらしなくなり、顔は|卑《いや》しくなり、天性うちとけぬ性向がほとんど|白《はく》|痴《ち》のように極端に非社交的な無愛想になり、そのごく少数の知合いからさえ大事にされるよりは、かえって|厭《いや》がられることにすごい喜びを感じているようでした。
それでも彼が仕事のひまな季節には、相変らずキャサリンとは友達でしたが、言葉に出して彼女への愛を表わすのはやめて、そんな愛情をおれに注いだって報いることはできないんだと自覚しているかのように、彼女の少女らしい|愛《あい》|撫《ぶ》をいまいましげに避けていました。さてその|午《ひる》過ぎのこと、私がキャシーの服の世話をしているところへ、彼は仕事を休むつもりだと知らせるために、うち[#「うち」に傍点]にやって来たのでした。キャシーは彼がなまける気を起そうとは思い設けませんでしたので、そこを|独《ひと》り占めするつもりで、どうにかエドガーさんに自分の兄の不在を知らせ、彼を待ち構えていたところなのでした。
「キャシー、午後は忙しいの? どこかへ行くところかえ?」とヒースクリフは|尋《たず》ねました。
「いいえ、雨が降ってるもの」
「じゃ何だって絹の服なんか着込んでるんだい? 誰か来るんじゃあるまいね?」
「わからないわ」とお嬢さんはどもって、「だがヒースクリフ、あなたは畑に出ているはずなのに。お昼食から一時間たっていてよ、私はもう出たことと思ってたわ」
「ヒンドリはしゃくなことにはしじゅう家にばかりいるから、こんな機会はめったにないんだ。僕は今日は働かないで一緒にここにいるよ」
「おお、だってジョウゼフが告げるから、行った方がいいわよ!」
「ジョウゼフはペニストンの岩山の向うで石炭を荷車に積んでるよ。暗くなるまでかかるから大丈夫さ」
そう言いながら、彼はぶらぶら炉ばたに来てすわりました。キャサリンは|眉《まゆ》をひそめてちょっと考えましたが、エドガーの訪問をヒースクリフに|妨《さまた》げさせないようにしなくてはと思いました。
「イザベラとエドガーとが、今日の午後訪ねて来るとか言っててよ」と彼女は一分間ほど黙っていた後ようやくこういって、「雨が降ってるから来やすまいけれど、来るかもしれないわ。来ればあなたは役に立たぬなまけ者といって|叱《しか》られることになってよ」
「今日は忙しいってエレンに言わせたらいいだろう。ねえキャシー。あんなおっちょこちょいの友達のために僕を追い出さないでおくれよ! 僕は時々不平を言おうと思うんだが、一体あいつらは――まあよそう――」
「あの人たちがどうなの?」とキャサリンは困った顔付きで彼を見つめながら叫んで、「おおネリー!」と今度は私の手から頭をぐいと引き離しながらかんしゃく声で、「そんなに|無《む》|闇《やみ》にすいて、私の巻毛がすっかり延びちまうじゃないの! もうたくさん。いいわ、私|独《ひと》りでするから。それで何の不平を言おうと思うってさ、ヒースクリフ」
「何でもないよ――ただあの壁の|暦《こよみ》をご覧」と窓の近くにかかっているわくのついたビラをさしながら、「あの×印はあなたがリントン兄妹と一緒に過した夕の数で、点の方は僕と一緒だった晩さ。わかるかえ? 僕は毎日印をつけていたんだ」
「ええ、ずいぶんばかげてるわねえ、私が注意をするかと思って!」とキャサリンはつっけんどんに、「そして一体あれがどうなのさ?」
「僕が[#「僕が」に傍点]注意してるってことさ」とヒースクリフは言いました。
「そんなら私はしじゅうあなたと一緒にいなくっちゃいけないの?」と彼女はいよいよいらだって、「一緒にいると私にとって何かいい事があって? あなたに何か話があるの? 私を喜ばそうとするあなたのお話や仕ぐさがあれじゃあ、まるで|唖《おし》か赤ん坊と同じ事だわ!」
「僕があまり話が少ないとか、僕の相手になるのはいやだとか、そんなことは今まで言ったことがないじゃないか! キャシー」とヒースクリフはたいそう興奮していいました。
「何にも知らないし何も言わない相手がどこにあるの?」と彼女はつぶやきました。
彼は立ち上ったけれど、もう自分の感情を表わすことができませんでした。|馬《ば》|蹄《てい》の音が|敷《しき》|石《いし》|道《みち》から聞えて来たからです。そして|優《やさ》しくノックして若いリントンがはいって来ました。思いがけない招待を受けた喜びで顔は輝いていました。むろんキャサリンははいって来た友と出て行った友との差異を認めたに相違ありません。その対照はちょうど山だらけの吹きさらしの炭坑地方を出て美麗で|肥《ひ》|沃《よく》な流域に入るようなもので、その声とあいさつもまた|風《ふう》|采《さい》と同じく反対でした。エドガー・リントンのは気持のいい低い調子の話し振りで、発音はちょうどあなたのように歯切れがよく、軟らかで、この土地の人のように荒っぽくありませんでした。
「あまり早過ぎはしなかったでしょうね?」と彼は私の方をちらと見て言いました。私は皿を|拭《ふ》いて、調理台の奥の引出しを片づけ始めていたのです。
「いいえ」とキャサリンは答え、「ネリーや、お前そこで何してるの?」
「私の仕事をしております」と私は答えました。(私はヒンドリさんから、リントンがこっそり訪問する時でも、いつも第三者として一緒にいるようにと言いつけられていたのでした)
彼女は私のうしろに来て、腹立たしげにささやきました――「|布《ふ》|巾《きん》を持ってあっちへお|出《い》で。お客様があるのにその前でもって、召使が布巾で|拭《ふ》いたり|掃《そう》|除《じ》し始める法があるの!」
「|旦《だん》|那《な》様がお留守なのでちょうどいい機会なんですよ」と私は大きな声で、「ご在宅の時は、こんなことをして旦那様の前で私がそわそわしているとご|機《き》|嫌《げん》がよくないのです。エドガー様はきっとお許し下さいます」
「私の前だって、そんなことをしてそわそわされちゃたまらないわ」と令嬢は客に口を開く間もおかせず|横《おう》|柄《へい》に叫びました。彼女はさきほどヒースクリフとちょっと口論してから、まだ心のおちつきを回復していないのでした。
「それはお気の毒様でございますね、お嬢様」と答えて、私はせっせと仕事に取り掛りました。
彼女はエドガーから見えないと思って、私の手から布巾を引ったくり、腕の上を思うさまぎゅうっとつねりました。前にも申しましたとおり、私は彼女を愛しませんでしたし、かえって彼女の虚栄心をおりおりからかっておもしろがるくらいでしたが、その時は私をあんまり痛い目に会わせましたので、それまで|膝《ひざ》をついていた私はとび上って、叫びました。
「おや、お嬢さん、見っともないじゃありませんか! あなたには私をつねる権利はないでしょう。私は|堪《かん》|忍《にん》しませんよ」
「私はお前に|触《さわ》りゃしないわ、うそつきね!」そう言いながら彼女の指はまたつねりたそうにむずむずし、両方の耳たぶをまっ赤にして怒っていました。彼女は自分の激情を隠すことはけっしてできず、いつも怒ると顔色をすっかり変えるのでした。
「そんならこれは何ですの?」と答えて、私は彼女に|論《ろん》|駁《ばく》する明白な|証拠《しょうこ》として紫色になった|肌《はだ》を見せてやりました。
彼女は足をふみ鳴らし、ちょっと迷っていましたが、とうとうこみ上げて来る|癇癪《かんしゃく》に耐え兼ねて、いきなり私の|頬《ほお》をなぐりつけました。ずいぶん痛かったので私の両眼には涙が一杯になりました。
「キャサリン! キャサリンってば!」とリントンは自分の|崇《すう》|拝《はい》する偶像が|偽《いつわ》りと乱暴との二重の罪を犯したので、びっくりして言葉を差し|挿《はさ》みました。
「部屋から出ておしまい! エレン」と繰返しながら彼女は総身を震わしていました。
どこへでも私の後をついて来る小さなヘアトンは、私に近い床の上にすわっていましたが、私の涙を見て自分も泣き出し、泣きじゃくりながら「キャシー|叔《お》|母《ば》ちゃんの意地悪」に対して抗議を持ち込みましたところ、|夜《や》|叉《しゃ》のようになった彼女は、この不運な子を目がけてやって来て両肩を引っつかみ、かわいそうに子供が|鉛《なまり》のように|蒼《あお》くなるまで揺すぶったのでした。エドガーはこの子を助けようとして思わず彼女の両手を抑えましたが、その一つの手がもぎ放された瞬間、その手がいきなり今度はエドガーの耳にたたきつけられ、しかも|冗談《じょうだん》とは受け取れないほどしたたかななぐり方なので、青年はあっけに取られて引っ込みました。私はヘアトンを抱いて台所に行きましたが、この不快な出来事の始末を二人がどう取りきめるかを見たかったので、台所に通ずる戸はあけ放しておきました。|侮辱《ぶじょく》された客はまっ|蒼《さお》になって|唇《くちびる》を震わしながら帽子を置いた所へ行きました。
「それがいいんです」と私は|独《ひと》り|言《ごと》して、「よく今のことを|戒《いま》しめにしてお帰りなさい。彼女の本性の一端をお目にかけたのは親切なのです」
「あなたはどこへ行こうとなさるの?」とキャサリンは戸口へ進みながら|尋《たず》ねました。
彼はよけて通ろうとしました。
「お帰りになってはいけません」と彼女は力を入れて叫びました。
「私は帰らねばなりません。帰ります!」と彼はしいて穏やかな声で答えました。
「いいえ」と彼女は戸の引手を握って、「まだいけませんよ、エドガー・リントン。おすわんなさい。そんなに腹を立てたままお帰しすることはできません。それでは私、夜っぴてせつない思いをしなくてはなりませんもの。私はあなたのためにせつない思いをしたくありません」
「僕はあなたから|殴《なぐ》られてこのままここにいられますか?」とリントンは問いました。
キャサリンは無言でした。
「おかげであなたが恐ろしくて恥ずかしくもなりました。もう二度とここには来ません!」
彼女の両眼は|濡《ぬ》れて光り、まぶたはきらめき出しました。
「しかもあなたはたくらんでうそを言ったんだ!」
「そうじゃないわ!」とものを言えるようになって、「私何もたくらんでなんかしないわ! いいわ、帰りたいならお帰りなさいな! 私は泣きます――病みつくまで泣きます!」
彼女は|椅《い》|子《す》のそばに|膝《ひざ》をついて、心の底から泣き出しました。エドガーはそれでも庭まで決心を|翻《ひるが》えさずに出たのでしたが、そこでぐずぐずしていましたので、私は彼を励まそうとして叫びました。
「お嬢様は恐ろしく気ままなんですよ。まるで|駄《だ》|々《だ》っ|児《こ》より悪いんです。あなたはお家にお帰りなすったがようござんす。そうでないとああして私たちを手こずらせるばかりですから」
しかし優柔な少年は横目で窓の中を見ていました。|猫《ねこ》が殺しかけた|鼠《ねずみ》や食べかけた鳥を残して去れないと同じように、彼にここを去る力はないのでした。ああ! もうだめだ、彼には魔がさしている、そして彼はなるようになるのだ、と私は思いました。はたして彼はツカツカと|戻《もど》って来て、再び家の中に急いではいり込んで戸をたてました。しばらくしてアンショーが非常に酔っぱらって、家もなにも私どもの耳もとに引き倒さんばかりのけんまくで帰って来ましたので(酔うとこの人のいつもの|癖《くせ》でしたが)私はそれを知らせにはいって行きますと、さきほどのけんかはどこへやら、かえって若い男女同士の遠慮を取り除く役に立って、二人は友達という仮面を脱ぎ|捨《す》て、恋人として、許し合うことができた様子なのでした。
ヒンドリさんが帰宅したと知らせますと、リントンは大急ぎで出て馬に乗り、キャサリンは自分の室に逃げました。私はヘアトン坊やを隠しに行き、そして主人の|猟銃《りょうじゅう》から弾丸を抜き取っておきました。主人は気ちがいじみて興奮するとよくこの銃を振り|廻《まわ》したがって、彼を怒らした者の|生命《い の ち》は元より、彼の注意をひく者の生命さえ危くすることを何とも思っていませんので、私はその前から危険な弾丸を抜き取っておくことを思いついていたのです。こうしておけばまかり間ちがって発砲するようなことになっても大丈夫ですから。
彼は聞くも恐ろしいようなことをどなり散らしながらはいって来て、私が子供を台所の|戸《と》|棚《だな》の中に隠しているところを見つけました。ヘアトンは父親の|野獣《やじゅう》のような愛か、気ちがいじみた怒りか、どちらにせよ恐ろしい目にあっては大変と観念しているのでした。前の場合なら息が詰まって死にそうになるまで|接《せっ》|吻《ぷん》され、後の場合なら炉の中にほうり込まれたり、壁に打ちつけられたりするにきまっていました。ですからかわいそうにどんな所に隠されようと私のするなりに全然おとなしくしているのでした。
「そら、今度こそ見つけたぞ」とヒンドリは叫びながら、私の首筋を犬かなんぞのように後に引っ張りました。「きっとお前は内緒でこの|児《こ》を殺す気だな! 道理であの児がいつも見えないと思った。やい、ネリー、地獄の鬼に手伝わしてきさまの口にこの|肉切庖丁《にくきりぼうちょう》をのみ込ましてやるぞ。笑う奴があるか。おれはたった今ケネスの|奴《やつ》を黒馬沼の中に、頭からまっさかさまに|叩《たた》っ込んで来たんだ。一人も二人も同じこったからきさまも殺してやる。殺さないでどうする!」
「それはようござんすが、ヒンドリ様、その庖丁だけはご免ですよ、それで赤にしんを切っていたんですもの。もし何なら鉄砲の方にして下さいまし」と私は答えました。
「何だと。もし何ならくたばらしちまうぞ。イギリスの法律はな、家の中をきちんと取締ることを|妨《さまた》げるわけにゃいかんぞ。それにおれの家ときたら|忌《い》まわしいんだ!――さあ、口をあけろ!」
彼は刃物を握って、|切《きっ》|尖《さき》を私の歯の間に|挿《さ》し込みましたけれど、私はこんな気まぐれにはもう平気でした。私はペッと|唾《つば》を吐いて、あまりまずくてとても食べる気になりませんと言いました。
「ああ!」と彼は私を|緩《ゆる》めて、「許してくれ、ネルや。あの小にくらしい小僧ッ子はヘアトンじゃないや。おれを迎えに走っても来ないで、鬼でも来たかのように叫びやがる。あいつがおれの子なら皮を引んむいてやってもいい。人間らしくもない|餓《が》|鬼《き》だ、こっちに来い! お|人《ひと》|善《よ》しでだまされたお父さんをだまさないように教えてくれる。なあ、こいつは耳や毛並を少し刈り込んでやった方がきれいになるだろう? 犬なんぞそうやるときつくなる。おれはなんでもきついものが好きだ――|鋏《はさみ》を持って来い――きつくキチンとした方がいい。それに耳を大切にするなんてけしからん見え坊だ――ろくでもないうぬぼれだ。耳なんかなくたってけっこう馬鹿なのにさ。これ坊や黙って黙って! さあ、良い坊やだよ。涙を|拭《ふ》いて笑ってごらんよ。父さんにキスをしな。いいだろう。何だ! いやだって? こら。ヘアトン、キスしろ! なんだっておれはこんな化物を育てたんだろう! ほんとにこいつの首っ玉をくじいてやるからな」
かわいそうにヘアトンは火のつくように泣きながら、一所懸命に父親の腕を|蹴《け》とばしましたが、とうとう二階に連れて行かれ、手すりの上に持ち上げられた時は泣声を倍にしました。私は子供がびっくりしてひきつけ[#「ひきつけ」に傍点]でも起したら大変ですと叫び、助けようとして走って行きました。行って見るとヒンドリは手すりから身をのめらして、階下の物音を聞いていましたが、自分の手に何を抱いているのかほとんど忘れているようでした。
「誰だえ? あれは」と階段の下に近づいた足音を聞きつけて彼はこう私に尋ねました。私はその足音でヒースクリフだとわかりましたから、こっちに来ちゃいけないと信号するつもりでやはり下をのぞきました。そして私が目をヘアトンから放した瞬間、ヘアトンはいきなりはね返ったので、ぼんやり抱いていた父親の手から離れて手すりから落っこちました。
大変と思ってゾッとするまもなく私は子供が安全なのを見ました。ヒースクリフがこの危機一髪の時にちょうど下を通りかかり、自然的|衝動《しょうどう》で子供を受け止めて、その子を立たせ、この危いことを|惹《ひ》き起した張本人を見極めるために上を見上げました。五シリングで手離した|富《とみ》|籤《くじ》が、その翌日になって五千ポンド当ったのを知ったけちんぼでさえ、彼が上にアンショー氏の姿を認めた時の顔ほどには、|茫《ぼう》|然《ぜん》とした表情はできないでしょう。それは言葉よりも明白に、われとわが|復讐《ふくしゅう》を|妨《さまた》げる道具になった無念さを強く表わしていました。もし|暗《くら》|闇《やみ》であったら、彼はおそらくヘアトンの頭を階段に打ち付けても、自分の失策の取り返しをつけたかったでしょう。ですが私らは彼の救助を見とどけていました。そして私はさっそく降りて大事な預りものを胸にしっかり抱きしめました。ヒンドリは酔いもさめて赤面しながら、のそのそと降りて来ました。
「エレンや、お前がいけないんだ、私の目につかない所に隠しておけばよかったんだ。私からその子を取っておけばよかったんだ。どこもけがしなかったかな?」
「けが! 死ぬかそれとも|白《はく》|痴《ち》になってしまうところだったんです! おお! この子のお母様が墓から出て来て、あなたがこんなに|虐待《ぎゃくたい》なさるところを見に来ないのは不思議ですね。自分の身内をこんな目にあわすなんて、あなたは異教徒よりも悪い!」
彼は子供に触れようとしました。私に抱かれると、今までおびえていたその子はすぐさま|啜《すす》り泣きをやめていたのでした。それだのに父親の最初の指が触れるや否や、さっきよりいっそう高く叫び出し、まるでひきつけ[#「ひきつけ」に傍点]でも起しそうに暴れました。
「あなたおかまいなさらんがいいでしょう!」と私は言って、「この子はあなたが嫌いなんです――みんながあなたを嫌っています。――ほんとうのことです。あなたは結構な家族をおもちです。そして結構なご身分におなりになりましたね!」
「おれはまだまだ結構になるだろうぜ、ネリー」とこの心得違いの人はまた元の冷酷に返って笑いながら、「まあ今のところはそいつを連れてあっちへ行け。そして、こら、ヒースクリフ! きさまもおれの手のとどかん所、声の聞えん所に|失《う》せろ。今晩は殺さないつもりだ。だがこの家に火をつけないとも限らんぞ。それはおれの風向きしだいだ」
こう言いながら彼は|戸《と》|棚《だな》からブランデーの三合|瓶《びん》を取り出し、コップに注ぎました。
「いいえ、およしなさいまし!」と私は頼みました。「ヒンドリ様、お気をつけて下さい。あなたご自身のことはかまわないにせよ、この不運な子供さんをかわいそうに思って下さい」
「それにゃおれよりかもっとよく世話する者があるだろうぜ」と彼は答えました。
「ご自分の|魂《たましい》を大切になさいませ!」と私は|酒《しゅ》|杯《はい》を彼の手からもぎ取ろうとしました。
「いやだよ。それどころか、おれは魂を地獄に送ってその造主を罰してやるのが実に|愉《ゆ》|快《かい》なんだ。さあ魂の|奴《やつ》に心の底から|引《いん》|導《どう》渡して祝杯だ!」
彼は酒をグイグイ引っかけては私どもに退去を命じ、その命令の後には、繰返すにも記憶するにもとうてい耐えられない暴言を付け足すのでした。
「あいつが酒で死ねないとは残念だな」とヒースクリフは戸をしめた後に|呪《のろ》いのこだま[#「こだま」に傍点]を返してつぶやきました。「あいつは精一杯、酒びたりになってるけれど、からだが死ねないのさ。ケネスさんは自分の馬を|賭《か》けても断言するっていったが、あいつはギマトンからこっちで誰よりかも長生きし、何か変ったことでも起りさえしなければ、|白髪頭《しらがあたま》の罪人になって墓場に行くに違いないってさ」
私は台所に行って坊やを寝かしつけるためすわりました。ヒースクリフはたぶん|納《な》|屋《や》に行ったものと私は思ったのですが、実は背の高い|腰《こし》|掛《かけ》の向うかげにいて、壁ぎわのベンチの上におさまり、炉ばたから離れて黙り込んでいたことが後になってわかりました。
私はヘアトンを|膝《ひざ》の上で|揺《ゆす》りながら、次のような文句で始まる歌を小声で歌っていました――
「夜の夜中に目々さめて 子どもが泣けば
母さんは お墓の下で聞きました――」
その時キャシー嬢様が、今まで自分の部屋からさきほどの騒ぎを聞いていたのでしたが、出て来てヒョイと戸口から頭を出しながらささやきました。
「ネリーや、お前お|独《ひと》りかえ?」
「はい、お嬢様」と私が答えました。
彼女ははいって炉ばたに近寄りました。私は何か話すことでもあるのだろうと思って見上げました。その顔は何かしら混乱と心配との表情を示していました。彼女の|唇《くちびる》は何か言おうとしてなかば開きかけ息を吸ったものの、言葉は出ずにため息だけが|洩《も》れました。私はまださきほどの彼女の振舞いを忘れはしませんので、知らぬ顔で歌いつづけました。
「ヒースクリフはどこに行ったの?」と彼女は歌を遮って|尋《たず》ねました。
「たぶん馬小屋で仕事してるのでしょう」と私は答えました。
ヒースクリフは「いや、ここにいる」と言いませんでした。たぶんうたたねをしていたのでしょう。それからまた長いまがあって、その間私はキャサリンの|頬《ほお》から一、二滴の涙が床石に落ちるのを見ました。先刻の恥ずべき行ないを後悔してるのかしらと、私は自問しました。とすれば珍しいことだが、自分で入りたいときに本論に入るがよい――私は助け舟を出すことはない! 否々、彼女は自分のことでなければあまり物に屈託しないのだ。
「おお、ネリーや!」と彼女はとうとう叫んで、「私はほんとうに不仕合せなんだわ!」
「それはどうも」と私はいって、「あなたは気むずかし屋さんだから、たくさんお友達はあり、いっこう心配はなくとも、それでいて満足ができないのですよ」
「ネリーや、お前私に秘密を守ってくれない?」そう言って彼女は私のそばにひざまずき、どんなに当然|憤《ふん》|慨《がい》すべき時でも、人の|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な心をそらす魅力のある目つきで、私の顔を見上げたのでした。
「それは守る値打ちのある秘密?」と私はよほど|渋面《じゅうめん》を|和《やわ》らげて尋ねました。
「そうよ、そしてそのために私くさくさするの。だから言ってしまわなくちゃならないわ! 一体私はどうすればいいでしょう。今日ね、エドガー・リントンが結婚を申し込んだの。私は答えたわ。でもどう言って答えたか話す前に、お前はどう言えばよかったと思う?」
「そりゃお嬢様、どうして私にわかるものですか。しかしそれはあなたが今日あんな仕ぐさをお目にかけた後のことでしょうから、お断わりした方が賢明だったと思います。あんな事をされたくせに、その後で申し込むなんて、あの人はよほどの低能か、または冒険好きな|阿《あ》|呆《ほう》でしょうからね」
「そんなことを言うなら、もうお前に話さないわ」と彼女は|膝《ひざ》を起しながらむっとして、「私は|承諾《しょうだく》したわ。ネリー、私が悪かったかどうか、早く言ってよ!」
「承諾を? そんならいまさらかれこれ言ったってどうなるものですか? その言葉であなたは責任を負っています。もう|翻《ひるがえ》すことはできません」
「だけど私は承諾をすべきだったかどうか、言ってみてよ!」と彼女は両手をこすり合せながら顔をしかめて、いらいらした口調で言いました。
「その問の適当な答をする前に、いろいろ考えねばならぬことがあるのです」と私は名文句きどりで言って、「何よりも先に、あなたはエドガー様を愛していますか?」
「誰があの方を愛せずにいられよう? もちろんのことよ」と彼女は答えました。それから次のような試問をしたのです。二十二の娘にとって不当な試問ではありますまい。
「なぜあの人を愛するのです、キャシーさん」
「なぜってことないわ、愛するから愛するでいいじゃないの」
「いけません、なぜかおっしゃい」
「そうね、あのかたは美男子で一緒にいると気持がいいからよ」
「いけません」と私の批評。
「そしてあのかたは若くて明朗だから」
「なおさらいけません」
「そしてあのかたは私を愛していらっしゃるから」
「その順になっては可もなく不可もなしですね」
「そしてあのかたはお父様の|後《あと》|嗣《つぎ》だから今にお金持になります。そして私はこの辺で第一の貴婦人になって、ああいうかたを|良人《お っ と》に持つことを誇りに思うでしょう」
「それは一番いけません! そんなら今度はあなたがどんなふうに愛しているか言ってご覧なさい」
「誰でもがするように、さ。お前ばかね」
「いいえどういたしまして。まあ言ってご覧なさい」
「私はあのかたの足の下の土を愛し、あのかたの頭の上の空を愛し、あのかたの触れるすべての物を愛し、あのかたのおっしゃるすべての言葉を愛しますわ。私はあのかたのあらゆるお顔つき、あらゆる行動、あのかたを全部そっくり愛します。これでもいけなくって?」
「そんなになぜ?」
「いいえ、お前は|冗談《じょうだん》にしてるんだわ。ずいぶんな意地悪ね! 私にとっちゃ冗談ごとじゃないのよ!」お嬢様は|眉《まゆ》をひそめて顔を|煖《だん》|炉《ろ》の方へそむけました。
「私は冗談どころじゃありませんよ、キャサリン様」と答えて、「あなたがエドガー様を愛するのは、あのかたがきれいで、若くて、明朗で、お金持で、そしてあなたを愛しているからです。一番終りのは、しかし、無くてもいいのでしょう。無くたってあなたはあのかたを愛するでしょう。そしてそれだけあっても前の四つの魅力がなかったら、あなたはあの人を愛しますまい」
「それはそうですとも。私はただかわいそうに思うだけです――いや、たぶん嫌うでしょうよ。そんな|醜《みにく》いぼくねんじんでしたら」
「そんなら世間には他にたくさんきれいで金持の若い男がいますよ――あのかたよりもっときれいな、もっとお金持なおかたもいましょう。そうした殿方を愛してもさしつかえありますまい?」
「あったにしても私の目につかないものはしかたないわ! エドガーのようなかたはほかに一人も見たことがないもの」
「これから見ないともかぎりません。それにあの人はいつまでもきれいで、若くはないでしょうし、いつまでも金持ではないかもしれませんよ」
「今はそうでしょう。私は現在さえよければそれでいいわ。もっと理屈に合った物の言い方をしてはどう?」
「そうですか、それで決りました。現在さえよければいいのならリントン様と結婚なさい」
「お前の許可はいらないわ――私のすることだから。そしてお前はまだそれでいいかどうか言わないじゃないの」
「間違いなくいいですよ、人がただ現在さえよければといって結婚してよければ。それでは何だってあなたが不仕合せなのかお聞きしましょう。お兄様はお喜びでしょうし、エドガー家の|大《おお》|旦《だん》|那《な》様ご夫婦も反対なさらないでしょう。あなただって、この乱脈な|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》な家からのがれて、裕福なれっきとした家庭に行けます。そしてあなたはエドガー様を愛しているし、エドガー様はあなたを愛していらっしゃる。万事すらすら運ぶらしいのに――どこに故障があるのです?」
「ここに! そしてここに!」キャサリンは片手で|額《ひたい》を、片手で胸を打って、「どちらでも私の|魂《たましい》の宿っているところに――私の魂に、そして私の心に私は確かに間違っていると感じるの!」
「それは不思議ですね! 私にはわかりません」
「それは私の秘密よ、でもお前が私をばかにさえしなければそれを明かしてもいいわ。はっきりと説明できないけれど、私の感じを話してみるわ」
彼女はまた私の|側《そば》にすわって、顔つきはますます物思わしげに重々しくなり、握り合せた両手は震えていました。
「ネリーや、お前変な夢を見ることがあって?」としばらく思案した後に突然|尋《たず》ねました。
「ええ、おりおり」と私は答えました。
「私もよ。いつまでも心にこびりついて自分の考えを変えさすような夢を今までによく見たの。それはまるで水の中に注いだブドウ酒のように私の心に行きわたって、私の心の色を変えてゆくの。そして今度のもやはりそれよ――今それを話してあげるわ――でもその夢におかしな所があっても笑っちゃいやよ」
「おお、およしなさいキャサリン様。幽霊や夢をいまさら呼び出さなくても、この家はもう十分不吉なのです。さあさ、いつものあなたのように陽気におなりなさい! このヘアトン坊やをご覧なさい――何の悪夢も見ていません。眠りながらほほえんで、なんてかわいらしいこと!」
「そうですわ、|独《ひと》りで悪口を言ってるこの|児《こ》の父親もなんて、かわいらしいこと! お前はご存じでしょうが、あの人だってこんなにかわいらしくふとって小さな無邪気な時がやっぱりあったのね。でもネリーや、私はどうしても聞いてもらわなくちゃならないわ――長くないのよ。私今夜はとても陽気になれないもの」
「いいえ、私は聞きたくありません、聞きたくありません!」と私は急いで繰返しました。
私は今でもそうですが、夢については迷信家でした。それにキャサリンの様子が常になく陰気で、何かしら不吉な変事を予想させるような所がありましたので、私はそれを聞くのがこわくなったのでした。彼女は気を損じたようでしたが、その話は続けませんでした。しばらくしてから別の話題でも取り上げるようにして始めました。
「ネリーや、私がもし天国に行っても、ひどくみじめだろうと思うのよ」
「あなたは天国に行くがらでもありませんからね。およそ罪深い人々は天国に行っても皆みじめでしょうね」
「いいえ、そのためではないの。私、天国に行った夢を見てよ」
「夢の話はご免ですと申し上げましたのに。私はもう寝ます」と私はまたさえぎりました。
私が|椅《い》|下《す》から立ち上ろうとしましたので、キャシーは笑ってそれを|抑《おさ》えました。
「何でもないのよ。私が言おうと思ったことはね、天国は私の住む家ではなさそうだったというだけなの。そして、私は地上に帰りたくて胸も裂けるほど泣いたの。すると天使たちが大変怒って、私を|嵐《あらし》が丘のてっぺんのヒースの|藪《やぶ》の中にほうり出したの。私はそこであまり|嬉《うれ》しいんで|啜《すす》り泣きして目がさめたわ。これがけっこうほかのことと同様に私の秘密の説明にもなるのよ。私は天国に行く必要がないのと同じように、エドガー・リントンとの結婚にも用がないわ。向うの部屋にいる意地悪なお兄様がヒースクリフをあんなに下品にさえしなかったら、私はエドガーと結婚するなんて考えなかったのに。今ヒースクリフと結婚すれば、私は品が下がるでしょう。だから私がどんなに彼を愛しているか彼に知らせずにおきましょう。私が彼を愛するのはきれいだの何のというためではなしに、私以上に私自身だからなの。私たちの魂が何からできていたにせよ、私のとあの人のとは同じものです。リントンのは全然別です。まるで稲妻と月光、火と霜みたいに違っていてよ」
この話が皆まで終らないうちに、私はヒースクリフがこの室にいたことに感づいたのです。|微《かす》かな物音に振り返って見ると、ヒースクリフが|腰《こし》|掛《かけ》から立ち上って、こっそりと室から出て行くのを見つけたのです。彼は、キャサリンが彼と結婚すれば品が下がるでしょうと言ったところまで聞いて、その次の話はもう聞かずに出てしまったのでした。キャサリンは床の上にすわっていたため、腰掛の背に|妨《さまた》げられて彼がそこにいたのも、出て行くところも、見えなかったのです。しかし私はハッとして、彼女に黙ってと申しました。
「どうしたの?」と彼女は神経的にまわりを|見《み》|廻《まわ》して尋ねました。
「ジョウゼフが来ましたよ」とおりよくジョウゼフの荷車の音が道路から聞えたのをしおに答えて、「そしてヒースクリフも一緒に来るかもしれません。たった今彼が戸口の所にいなかったともかぎりませんよ」
「おお、彼がまさか戸口で立ち聞きはしなかったわね! ヘアトンを私に|頂戴《ちょうだい》。そのあいだあなたは夕食の|支《し》|度《たく》をして、できたら私を呼んでね。そして私はこのいやな良心をごまかそうと思うの。ヒースクリフが気づかないことにしておきたいわ。ヒースクリフはこんなことに気がつかないわね? 恋するって心はどんなものかわからないでしょうね?」
「わかるまいものでもありますまいよ。あなたと同じことでしょう。そしてもし彼があなたを恋していたら、彼ほど不幸な者はまたと世にありますまい。あなたがリントン夫人となるや否や、彼は友達も恋も何もかも失ってしまうんですからね! あなたは彼と別れられるかどうか、彼がこの世に全く捨てられても耐えられるかどうか、それを考えたことがありますか?」
「彼が全く捨てられる! 私たちが別れられるって!」と彼女は|憤《いきどお》ったように叫んで、「一体誰が私たちを離すんですって? そんなことをする人は誰であろうとろくな目にあいませんよ。エレンや、私たちの生きるかぎり、どんな人のためであろうと、あの人と別れることはできないわ。私にヒースクリフを捨てさせようとしたら、世界じゅうのリントンがみんな消えてなくなるでしょうよ。ああ、私はあの人を捨てちまうなんてつもりはちっともないわ! そんな大きな犠牲を払ってリントン夫人になんぞ私なりゃしなくってよ! あの人はこれからだってやっぱし今までどおり私にとっちゃ大事な人よ! エドガーは反感を捨てて、少なくともあの人を許さなくちゃならない。エドガーだって私のほんとうの気持を知ったらきっとそうするわ。そう言えばお前は私を利己主義の女と思うだろうが、私がもしヒースクリフと結婚すれば私たちは|乞《こ》|食《じき》になるほかはないでしょう? しかしリントンと結婚すれば、私はヒースクリフを助けて、お兄様の所から独立さしてあげることができるじゃないの?」
「キャサリン様、あなたの|良人《お っ と》のお金でですか? 今にあのかたがあなたのあてにしてるようなお人好しじゃないことがわかります。そして私はむろんそんな審判官でもありませんが、今のことはあなたがリントンの妻になる動機の中で一番いけないようですね」
「そうじゃないわ」と彼女は答えて、「一番立派な動機よ! ほかの理由なんか皆私の気まぐれを満足させるだけだわ。エドガーにとってもエドガー自身を満足させるだけです。ところがこれは私がエドガーに対する感情と、私自身に対する感情と、この両方を一身に含んでいる人のためなんですもの。ちょっと言い表わすことはむずかしいけれど、お前だって誰だって自分以上の自分が|在《あ》り、また在らねばならぬはずと考えますね。自分という考えが全然この身一つに含まれてるだけなら、私に何の生きがいがあって? この世での私の大きな苦しみは、またヒースクリフの苦しみでもあったの。そのどちらをも私は最初から感じて見つめていましたわ。私の生きて行く上の大きな心配もまたあの人のことなの。ほかのものは一切滅んでしまっても彼さえ残れば私は|依《い》|然《ぜん》として生きながらえてゆくわ。ほかの者は皆残っていても彼が|亡《ほろ》んでしまえば、この宇宙は私にとって赤の他人みたいに思われるわ。私がその宇宙の一部分だとは思えなくなるわ。リントンに対する私の愛は森の枝葉みたいなもので、時がたてば変って冬枯れの木のようになることは私にわかっててよ。ヒースクリフに対する私の愛は地の底の|千《ち》|歳《とせ》の|巌《いわお》のように、見た目にいいことはないけれど、なくてはならないものなの。ネリーや、私はヒースクリフよ! あの人はいつもいつも私の心にいてよ。私自身が必ずしも私にとって|愉《ゆ》|快《かい》なものじゃないと同様に、あの人も愉快なものとしてではなく、私自身として私の心にいてよ。だからあの人と別れるなんて言っちゃいや――とてもできない話だもの。そして――」
キャシーは話をとぎらして、顔を私の着物のひだで隠しましたが、私はいきなり着物を引っ張りました。もうこんなばかげきった言葉に我慢ができなくなったのです。
「あなたのくだらない話から私が何か意味を|汲《く》み取れたとしたら、それはあなたが結婚をする場合の義務を|弁《わきま》えないか、それともあなたはよくない無定見な娘だと私に思わせるくらいでしょう。だがこれ以上私を秘密攻めにするのはご免こうむります。そんな秘密を守ることなんぞもう受け合いかねますからね」
「お前守っておくれだろうね?」と彼女は本気で|尋《たず》ねました。
「いいえ、受け合いかねます」と私は繰返しました。
キャシーがなおも念を押そうとした時、ジョウゼフがはいって来たので話はそれっきりになりました。キャサリンは|隅《すみ》の方に行ってヘアトンをあやし、そのあいだに私は夕食をこしらえました。こしらえあげると私と仲間とどっちがヒンドリ様に夕食を運ぶかの問題で口論を始め、きまらないうちにご|馳《ち》|走《そう》はほとんど冷えました。私たちは主人がしばらく|独《ひと》りで部屋にいた所にはいって行くのが特にこわかったので、まず主人に夕食を召し上るかどうかジョウゼフが尋ねてみることに決着しました。
「あの|阿《あ》|呆《ほう》めが今時分になっても何だって野良から戻って来ないのかのう? 一体何をしてるんだろう、ふといなまけ野郎だ」とジョウゼフ老はヒースクリフを|捜《さが》してあたりを見まわしながらこう言いました。
「私が呼んで来ましょう」と私は答えて「きっと|納《な》|屋《や》にいるのでしょうよ」
私は行って呼んでみましたが答がありません。帰って来てキャサリンに向って、彼がさっきの話もここで聞いてたに違いないこと、そしてヒンドリの彼に対する仕打ちがあんまりだという話が始まる時この台所を出て行ったことを小声で知らせました。キャサリンは非常に驚いて、ヘアトン坊やを|長《なが》|椅《い》|子《す》の上にほうり出したまま、すぐさま自分で友達を捜しに行き、なぜそんなにあわてるのか、また自分の話がどのくらいヒースクリフを落胆させたか、そういうことを考えてみる余裕などてんでなかったのです。あまりいつまでもキャサリンがもどって来ないので、ジョウゼフはもう待つまいと言い出したほどでした。これはてっきり自分の|祈《き》|祷《とう》を聞くまいとしてわざとぐずぐずしてるに違いない。何でもろくでもないふしだらにかけては際限がない|餓《が》|鬼《き》どもだといってこの老人は邪推してました。そしてその晩は食前の例の十五分もかかる祈祷のおまけに、二人のためとあってさらに長々しい言葉を添えました。食後の祈りもこの調子にやられるところでしたが、ちょうどお嬢様があわただしくその場に割り込んで来て、この老人に、すぐさま出て行ってどこかでヒースクリフがぶらついてたらさっそく連れて来るようにと命じたのでした。
「私ヒースクリフに話したいことがあるの。二階へ行って寝る前に、ぜひ話さなくちゃならないわ。門は開いてるし、私は牧場の向う|端《はし》で精一杯の声を出して叫んだのに、何の返答もなかったのだから、どこか私の声の聞えない所にいるんだわ」
ジョウゼフは最初この言い付けを拒みましたけれど、キャサリンは非常に本気になっていましたゆえ、|有《う》|無《む》を言わせませんでした。で、とうとう老人は帽子を頭にのっけて、不承不承出て行ったのです。
キャサリンはしばらく室内をあちこちと歩きながら言うのでした。――「まああの人はどこにいるのかしら。一体どこにいられよう? ネリーや、私さっき何をしゃべったの? 忘れちゃったんですもの。私今日の|午《ひる》|過《す》ぎはやんちゃ[#「やんちゃ」に傍点]だったので、おこったのでしょうか? ねえってば! 私あの人の気にさわるようなことを何か言ったかどうか教えて|頂戴《ちょうだい》。帰って来てくれるといいわねえ! 帰ってほしいわ!」
「くだらない事にその騒ぎようは何です!」と叫んでみたものの実は私も不安なのでした。「つまらない事で気をもんでいなさいますね。たいした事じゃないじゃありませんか。ヒースクリフが例によって沢原の方に月夜の散歩に出かけようと、それともふてくされて私たちに口をきくのがいやなので乾草置場で寝ていようと。そうそうきっとあそこにいますとも。今にちゃんと|捜《さが》してお目にかけますよ!」
こうして私もまた捜しに出かけたのでしたが、その結果はむだでした。ジョウゼフの|捜《そう》|索《さく》も同じ結果だったのです。
「あの餓鬼め、悪い方さ悪い方さとばかし|嵩《こう》じて行きやがる!」と老人は帰って来て申すのです。「門も何も一杯にあけっ放して行ったで、お嬢様の子馬は麦畑を二|畝《せ》もふみつけやがって、まっすぐと牧場さのたく[#「のたく」に傍点]って行きやがった! だが|旦《だん》|那《な》様は明日、悪鬼みたいになんなさるぜ。それももっともなことじゃ。あんなやくざ餓鬼をいつも広大に|堪《かん》|忍《にん》してやんなさる――全く偉い堪忍じゃ! だがいつもそうばかりは参らんわい。今度こそは皆の衆も見とってみさっしゃい。旦那様の気を荒立たせては必ずただではすまぬわい」
「お前ヒースクリフを見つけたの? 私が言いつけたとおりに捜してくれたのかえ?」とキャサリンは言葉を|挿《はさ》みました。
「馬でも捜した方がましだわい。その方がよっぽど気が|利《き》いてらア。だがこう煙突の中みたいにまっ|暗《くら》|闇《やみ》の晩にはとても馬だって人間だって捜すことはできやしない。ヒースクリフはなかなかわしの口笛などで呼んだって来る|奴《やつ》じゃないわい――たぶんあなたの呼び声なら聞くでしょうぜ!」
全く夏にしてはひどい暗い晩でした。雲は今にも雷が鳴り出しそうでしたし、今に雨が降り出せば世話なしに戻って来ましょうから、みんなもう寝た方がいいでしょうと私は申しました。しかし何と言ってもキャサリンはおちつきません。門から戸口までしじゅう行ったり来たりそわそわしてちっともじっとしていませんでしたが、しまいには道路に近い|塀《へい》の|片《かた》|隅《すみ》にじっともたれたまま、私がいくら言ってもきかずに、雷が鳴り出し大粒の雨が降りかかるのに、時々ヒースクリフを呼んでは耳をすまし、それから声を出して泣くのでした。その激しい泣き方はヘアトンも、どんな赤ん坊も、かなわないくらいでした。
真夜中ごろ、私どもがまだ寝ずにいますと、|嵐《あらし》がひどい勢いで丘を鳴らしながらやって来ました。暴風は吹き、雷は鳴り、そのどちらかが家の隅の|樹《き》を裂き、大きな枝が屋根に落ちて東の煙出しの一部を|叩《たた》き落し、|煤《すす》やら石かけやらが音を立てて台所の炉に落ちて来ました。私どもは家のまん中に雷が落ちたと思いました。ジョウゼフはひざまずいて神様に祈り、族長ノアとロトとの故事のごとく、不信仰な者は雷に打たしめ給うとも正しき者は救い給えと祈り願うのでした。私もこの一家に神の審判がくだったと思いました。ちょうどヨナはアンショー様に相当すると考えて、あのお方がまだ生きてるかどうか確かめるために、その部屋の戸の引手を|廻《まわ》してみますと、例の暴言で答える声が確かに聞えますので、ジョウゼフは自分のような聖者と主人のような罪人とを明らかに区別し給えと、前よりいっそうやかましくわめきたてました。しかし二十分ほどたつと雷鳴は私どもみんなを少しも傷つけずに過ぎ去りました。ただキャシーはいくら家にはいるように言ってもきかず、ボンネットもかぶらずショールも着ずに外に立っていたので、髪の毛といわず着物といわず、水の浸み込める限り|濡鼠《ぬれねずみ》になったのでした。キャシーははいってきて長い|腰《こし》|掛《かけ》の上に横たわり、びしょ|濡《ぬ》れのままで、腰掛の背の方にそむけた顔を手で|蔽《おお》いました。
「お嬢様!」と私はキャシーの肩に手をかけて申しました。「あなたは死のうとなさるおつもりじゃないでしょうね。もう何時とお思いです? 十二時半ですよ。さあ! おやすみなさいまし。あんなばか者をそんなに待っててもしかたがありません。たぶんギマトンにでも行って泊っているのでしょう。そして私たちがこんなに遅くまで待っているとは想像しますまい。せいぜい起きてるのはヒンドリ様だけだと思ってるでしょう。そしてご主人から戸をあけていただくことはどうしてもいやなのでしょうよ」
「いやいや、ギマトンなどにはけっしていない。沼地の穴の底に落ちても不思議はないのじゃ。神罰はでたらめでなかったのじゃから、用心しなさっしゃい、お嬢様。この次はあなたの番に違いないですぞ。まことに天は公平じゃ! やくざ者の間からえり分けられ選ばれた人々には、万事につけていいことがあるのじゃ。聖書にもあるじゃろう――」
こう言ってジョウゼフは聖句を引用し始め、私どもが捜し出せるように何章の何節を見なさいと言うのでした。
私は強情なお嬢様に、起きて濡れた着物を着換えるよう言ったのですが|無《む》|駄《だ》でしたので、ジョウゼフには勝手に説教させ、キャシーには随意に身ぶるいさせておいて、ヘアトン坊やをつれて寝床に行きました。坊やは周囲の人々が皆眠ってるかのようにすやすやと寝入りました。ジョウゼフはその後もしばらく聖書を読んでるのが聞えましたが、やがて例ののろのろした足取りで階段を昇って行くようでした。そのうち私は眠ってしまったのです。
翌朝いつもより遅く起きて階下に降りますと、キャサリンはまだ炉ばたにすわっているのが、よろい戸の|隙《すき》|間《ま》からさしこむ光で見定められました。居間に通ずる戸も少しばかり開いていましたので、光は居間の開いた窓からもはいってくるのでした。ヒンドリはもう起きて、やつれた眠たそうな顔で台所の炉ばたに立っていました。
「どうしたんだえ、キャシー。まるで|溺《おぼ》れた犬ころみたいなひどいざまだね。何だってそんなに|濡《ぬ》れて青くなってるんだえ?」と兄は妹に言ってるところでした。
「私濡れてたのよ、そして寒いの。それだけよ」とキャシーはしぶしぶ答えていました。私は主人がよほど酔いのさめてるのを見て叫びました。――
「おお、お嬢様がやんちゃなのですよ! 昨晩雨に打たれて濡れたまんまで、夜っぴて起きてたのです。いくら申し上げてもじっとしててきかないんですからね」
アンショー様は驚いて私どもを見つめました。
「夜っぴて? 一体どうして? まさか雷様がこわくってじゃあるまいね。ずっと前にやんでしまったんだから」
私たちはヒースクリフの不在を話したくないので、隠せるだけ隠しておくつもりでした。私はお嬢様が何のつもりで起きてたのか知らないと答えましたし、キャシーも黙っていました。さわやかな涼しい朝でした。|格《こう》|子《し》|窓《まど》をあけますと、庭から|芳《かんば》しい花の香がすぐに室内を満たしましたが、キャサリンはつっけんどんに、「エレンや、窓をおしめ。私|凍《こご》えちまうわ!」といって、歯の根をがたがた震わせながら、ほとんど消えかかってる炉の火にすり寄って縮こまるのでした。
「病気だな」とヒンドリは妹の手首をとって、「それで寝なかったんだろう。畜生! またこの家にしちめんどうな病人なんか出られてたまるもんか。何だってお前雨の中になんか出たんだ?」
「いつものとおりあの野郎のあとを追ってさ!」とジョウゼフは私どもがためらっているのを好いことにして|毒《どく》|舌《ぜつ》を|挿《はさ》んだのでした。「|旦《だん》|那《な》様、わしがあなただったら身分の高下なく、どっちもこの家の|敷《しき》|居《い》をまたがせねえだに! 旦那様が留守の日には、いつだってあの|猫《ねこ》みてえなリントンが、こそこそやって来ねえ日はねえ。それにネリーは良いおかたじゃ、ちゃんと台所にいて見張番なさっしゃる。それで旦那様が表口から帰って来なさりゃ、リントンはちゃんと裏の口からお出ましじゃ。うちの立派なお嬢様はそれからまた色ごとに出かけなさる。夜中の十二時過ぎに、あのろくでもねえ|呆《あき》れたジプシー野郎のヒースクリフと、草原ん中を|潜《もぐ》り歩きなさるとは全く見上げたご所業じゃわい。みんなこのわしを|盲《めくら》と思ってるが、なかなか、たちが違う。わしはリントンの息子が来るのも帰るのも見とどけやした。おまけにお前さんが(と今度は|鋭《えい》|鋒《ほう》を私の方に向けて)なんとろくでなしのすべた|阿《あ》|魔《ま》ッちょ? 旦那様の馬の|蹄《てい》|音《おん》が道路の方で聞えると、すばしこく『うち』にご注進にかけ込むところも、ちゃんとこの目で見とどけやしたのじゃ」
「お黙りよ、たち聞きじじい!」とキャサリンは叫んで、「私の前でそんな失礼をお言いでない! エドガー・リントンはねえお兄様、昨日|偶《ぐう》|然《ぜん》に来たのよ。そしてあのかたに帰るように言ったのは私よ。だってお兄様はあんなでしたから、あのかたとお会いになりたくあるまいと思ったの」
「|嘘《うそ》だろう、キャシー」と兄は言って、「お前はむちゃなばかだね! だがリントンのことはしばらくおいて、ゆうべはヒースクリフは一緒にいなかったかえ? ほんとうの事をお言いよ。あいつが罰を受けるからと心配しないでよい。おれのあいつを嫌いなことには変りないが、|昨日《き の う》あいつはヘアトン坊やを助けてくれたから、首っ玉を引き抜いてやることは許さねばなるまい。そのためには|今《け》|朝《さ》さっそくあいつを追い出してくれる。だがあいつがいなくなったら気をつけるがいいぜ、おれの|癇癪玉《かんしゃくだま》はお前たちに投げつけられるようになるんだからな!」
「私ゆうべはヒースクリフを見なかったの」とキャシーは情けなさそうに|啜《すす》り泣き出しながら言うのでした。
「でもあの人を追い出すのなら、私も一緒に行くわ。けれどもお兄様があの人を追い出す機会はおそらくないでしょう。きっとあの人は行ってしまったんだわ」ここでキャシーはもう悲しみの涙がたえきれなくなって残りの言葉は聞きとれませんでした。
ヒンドリはキャサリンに悪口をさんざん浴びせかけ、すぐ自分の部屋に引っ込まないと痛い目を見せてもっと泣かしてやるって言うのです。私は無理矢理にキャシーを従わせました。キャシーが自分の部屋にはいった時演じた場面は一生忘れられません。私はこわくなってしまったんです。――てっきりキャシーは気が狂うのだと思い込みましたから、私はジョウゼフに医者へ走ってもらいました。|譫妄症《せんもうしょう》になりかかってるとのことでした。ケネス先生は彼女を見るとすぐ重病と診断し、熱病だと言いました。そしてヒルをつけて血を吸わせ、私にミルクとおもゆとで養ってやるようにと話し、階段や窓から身投げさせないようにと注意して帰りました。百姓家が二マイルも三マイルも離れてぽつぽつ立っているこの村では、この医者もなかなかいそがしいのでした。
私もそう|優《やさ》しい看護婦の役目を勤めたとは申されませんし、ジョウゼフや主人はなおさらたちが悪いのに、病人自身がまた手に負えないほど気まぐれで強情でしたが、それでもキャシーはとうとう切り抜けてなおりました。実はリントンの奥様がたびたび見舞いに来て、万事を調整し、私どもを|督《とく》|励《れい》して下すったのです。そしてキャシーが快方に向った時、スラシクロス・グレンジに連れて行くと主張なさいました。この病人がいなくなったのは私どもにとっては大変ありがたいことでしたが、お気の毒なことには、奥様はご自分の親切が|仇《あだ》になって、|旦《だん》|那《な》様もろとも熱病に感染し、お二人とも四、五日の間をおいて引きつづきお亡くなりになったのでした。
キャシーは以前よりいっそう生意気になり、|癇癪持《かんしゃくも》ちになり、|傲《ごう》|慢《まん》になって家に帰りました。ヒースクリフはあの雷雨の夜以来とんと消息が知れませんでした。ある日キャシーがあんまり私を腹立たせましたので、まずかったのですが、彼の家出はあなたのせいですと責めました。事実そのとおりなのでしたし、キャシーもよくそれを知っていたのです。ところがそれからというものは数か月間、キャシーは私に召使としての用事以外、一切口をききませんでした。ジョウゼフとも絶交の形でした。老人の方ではキャシーを相変らず小娘のようにみてお説教したかったのですが、キャシーはもう一人前の婦人のつもりで私どもの主人だという|気位《きぐらい》がありました。それに近ごろ病気のため、いっそう注意して扱ってくれないと困るという考えもありました。それから医者も私どもにキャサリンの気をいらだてるといけないから気ままにさせておくようにと申しつけました。お嬢様の見解では、誰でもが自分に逆らうのは殺すも同様なのでした。アンショー様とそのお友達とからキャシーは離れていました。アンショー様はケネス先生から教えられ、また妹の癇癪のはげしい発作におびえて、キャシーの要求のままに放任し、妹の火のような癇癪をつのらすことを避けていました。むしろあまり|寛《かん》|大《だい》過ぎるほど妹の気まぐれを満足させていました。愛情からというよりは自負心からなのです。主人はリントン家と縁組を結んで名誉を得たいのでしたから、妹が自分に|干渉《かんしょう》しないかぎり、私どもをキャシーがどんなに|奴《ど》|隷《れい》あつかいにふみつけようと、知ったことじゃなかったのです。エドガー・リントンは昔から今まで、また将来の幾多の男の例に|洩《も》れず、|有頂天《うちょうてん》になっていたのでした。そして父の死後三年たって、ギマトン教会堂にキャサリンを花嫁として導いた時、この世に生きるものの中で一番幸福な男と自ら思い込んでいました。
私は気が進まなかったのでしたが、キャシーに付き添ってワザリング・ハイツをあとに、ここに来るよう説きつけられてしまいました。ヘアトン坊やはもう五つになって、私はちょうど文字を教え始めたところだったのです。坊やとの別れはつらかったのですが、キャサリンの涙はもっと有力でした。私が行くことを断わったとき、そしていくら頼んでも私が動かないと見て取ったとき、キャシーは泣きながら|良人《お っ と》と兄とに訴えました。するとエドガーの方では私に過分の給料を提供し、主人の方では私に出て行けと命じるのでした。お嬢様がいない以上は女の召使はいらないし、ヘアトン坊やは牧師補が引受けてだんだんと仕込むからいいと言うのです。それゆえ私は命令に従うよりほかにしかたがありませんでした。私は穏当な人間をみな追い出してはただ家の没落を早めるばかりですと主人に申してやりました。そしてヘアトンにさようならのキスをしました。それ以来あの子と私とは全くの他人になってしまったのです。思えばおかしなことですが、あのヘアトンはエレン・ディーンを全然忘れているに相違ないのです。しかも坊やはエレンにとって世界じゅうのなにものにも|優《まさ》って大事なものでしたし、このエレンもまたあの子にとっては同様でしたのに!
僕の家政婦はここまで物語ると、ふと|煖《だん》|炉《ろ》の上の方の掛時計に目をやったが、針が一時を三十分も|廻《まわ》ってるのを見てびっくりした。そしてもう一秒でもとどまっててくれようとしない。それに僕自身もこの話の続きを聞くことはしばらく延ばしたかった。そしてエレンが寝に行った後で一、二時間もじっと空想に|耽《ふけ》っていたのだが、しかたがない、元気を出して寝にゆこう。頭は重いし手足はだるいけれど。――
一〇
|隠《いん》|遁《とん》生活のすてきな序幕! 四週間の|呵責《かしゃく》、|苦《く》|悶《もん》、そして病患! おお、この吹きさらしの風、陰惨な北国の空、途絶した往来、まだるっこいいなか医師! おお、人間の顔の少なさ、それにもまして情けないのは、春まで家の外に出られると思うなとのケネスのおどし文句! ヒースクリフ君は今しがた見舞いに来た。七日前に|奴《やっこ》さん雷鳥を一トつがい贈ってくれた。終り初物だ。ひどい|奴《やつ》! 僕の病気にまるで涼しい顔をしてるなんて、そんな手はない。お前のせいだぞとよっぽど言ってやりたかった。だが僕の|傍《そば》に一時間たっぷりすわって、丸薬や水薬、|発《はっ》|泡《ぽう》|膏《こう》やヒルなどといったいやな話ではなく、いろいろな世間話をしてくれるほど好意のある男を、どうして僕は怒らせることができよう? 今は安静時期だ。読書する気力はないが、何かしらおもしろい話でも聞けたらと思う。ディーンさんに来てもらってあの話をしまいまで聞いたってわるいことはないだろう? 僕は彼女が話した所までの出来事は思い出せる。そうだ、物語の主人公は家出して、三年間も消息が知れないんだった。そして女主人公は結婚したはずだ。よし、|呼《よび》|鈴《りん》だ、僕が元気に話せるのを見て喜ぶだろう。ディーンさんは来た。
「お薬にはまだ二十分もまがございますよ」
「あんな薬はまっぴらご免。私はあの――」
「あの散薬はもうよさなくちゃならないとお医者様がおっしゃいました」
「しめ、しめ! まあまあお聞き。来てまあここにおすわり。そのにがい|薬瓶《くすりびん》から手を引いてさ。それからポケットから編物をお出しなさい。――それでよろしい。――さあこの前のつづきから今までのヒースクリフ君の経歴を話しておくれ。あの人はあれから大陸で教育を受けて、紳士になって帰って来たの? 大学にはいって給費生にでもなったの? それともアメリカにでも渡って、独立騒ぎのどさくさに乗じ本国の血をしぼって名誉でも得たの? それともまたイギリスで|追《おい》|剥《はぎ》でも働いてもっと手っとり早くお金でも|儲《もう》けたの?」
「何でも少しずつはやったらしいんですよ、ロックウッド様。でもどれともはっきり申すことはできませんの。前にもお話ししましたとおり、私はあの人がどうしてお金を儲けたのかは存じません。またあんなに野蛮な無学|文《もん》|盲《もう》に沈ませられていた心が、どのようにして相当の所まで向上したものかも知りません。けれどもあなたがおもしろいとおぼし召して、退屈なさらないのでしたら、ご免こうむって例の調子でお話しいたしましょう。今朝はお加減はよろしいようですか?」
「たいそう」
「それは結構ですこと」
ディーンさんは話しはじめた。
私はキャサリンとスラシクロス・グレンジに来ました。予期に反してうれしかったことは、キャシーが案外たいへんおとなしいのです。|良人《お っ と》のリントン様を過ぎるほど愛してるようでしたし、良人の妹にすら十分な愛情を示していました。事実この兄妹はキャサリンを|慰《なぐさ》めるためずいぶん注意したのです。イバラがスイカズラになびくのではなしに、スイカズラがイバラを抱いていたのです。互いにゆずり合うのではなくて、一方はつんと直立し、他の二人が従っていました。反対するでもなしまた無愛想にするでもない人たちに対して、誰が意地悪な仕打ちができましょう? エドガー様はキャシーの|機《き》|嫌《げん》をそこねることを深く恐れていたらしいのです。その事をキャシーには悟らせまいとつとめておいででしたが、召使たちがキャシーの|横《おう》|柄《へい》な命令につっけんどんな返事をしたり、いやな顔をしたりするのを見聞きするごとに、ご自分のことではけっして曇らせたことのない|旦《だん》|那《な》様の|眉《まゆ》|根《ね》が、不興げに曇って困った心を表わすのでした。そして幾度も私の無遠慮を手きびしくたしなめられました。奥様の不機嫌な顔をみることは、ナイフで刺されるよりも苦痛の感じがするともおっしゃいました。で親切なご主人を悲しませまいとして、私もよほど穏やかにキャシーに対するようになりました。そして半年ばかりの間は、火薬は爆発させる火が近づかなかったため、砂と同様に何の危険もありませんでした。キャサリンは時おり沈んで黙り込む日の続くことがありましたが、主人はそうした場合同情ある沈黙を保ちなさいました。というのも今まで気の沈んだことのないキャシーが、先日の重病で体質に変化を来たしたせいとお思いなすったからです。やがてキャシーが快活になると主人も快活に応待なさいました。そして私もお二人はますます増大する深い幸福をほんとうに得ていたと言ってよいと思います。
それも夢でした。そうです、私どもは結局自分のためを計るようにならざるをえないのです。温和で寛大な人も利己主義にかけては、横柄でわがままな人よりほんのわずか正しいだけです。温和も寛大も、先方が自分の利益を第一に考慮しないと感ずる事情に|遭《そう》|遇《ぐう》すれば、もうお|終《しま》いなのです。九月のある静かな夕べ、私は果樹園から|採《と》って来たリンゴの重い|籠《かご》をさげて帰って来ました。|夕《ゆう》|闇《やみ》が迫って月が庭の高い|垣《かき》|根《ね》からのぞき、建物の数多い出ばりの|隅《すみ》にぼんやりしたかげをひそませていました。私は勝手口の階段の上に籠を置き、しばらくたたずんで|快《こころよ》い静かな空気を吸っていました。私の目は月に、背は入口にむけられていました。すると背後から声が聞えたのです――。
「ネリーかえ? そこにいるのは」
深い声で耳慣れない調子でしたが、それでいて私の名前の呼び方にどこかしら聞きおぼえがありました。私は誰かとおそるおそる振り返って見ました。戸は皆閉じていましたし、階段に近づいたさいには人影もなかったのですから――。ところが玄関の所に動くものがいて、それが次第に近づき、やがて黒い服を着た、顔も髪も黒い、背の高い男を認めました。男はわき戸によって、自分でそれをあけるつもりらしく、|掛《かけ》|金《がね》に指をかけるのです。
いったい誰だろう? アンショー様かしら? 否々、声はちっとも彼に似ていない、と私は考えました。
「私はここで一時間も待っていたよ」と私がじっとみつめていると男は言うのです。「そしてそのあいだ|周囲《あ た り》は死んだように静かなんだ。私ははいる元気がなかった。お前私がわからないかえ? ご覧、私は知らない人間ではないよ!」
一筋の光が男の顔に落ちました。黄ばんだ色の|頬《ほお》は黒い頬ひげにおおわれ、|眉《まゆ》はけわしく、目は奥まって異様に光っていました。その目で思い出したのです。
「まあ!」と私はこれがこの世の来客かどうか半信半疑で叫び、あんまりびっくりして両手をあげながら、「まあ、あなたは帰ったの! ほんとうにあなたかえ? え?」
「そう、ヒースクリフさ」と彼は目を私から移して窓の方を見上げながら答えました。窓はきらめく月影を幾つとなく宿していましたが、内側には何のともし火も見えませんでした。
「みんな家にいるの? あれはどこにいる? ネリー、お前いやな顔をしてるね――何もそう当惑するには及ばないよ。あれはここにいるの? 言っておくれよ! 私はあれに――お前の家の奥様に、ちょっと話したいことがあるんだ。うちに行って奥様にそう言っておくれ、ギマトンから誰か奥様に会いに来たって」
「奥様は何と思いなさるでしょう? どうなさるでしょう?」と私は叫びました。「私は驚いてしまって何が何やらわからない。――奥様など頭が変になるでしょう! あなたはたしかにヒースクリフなの? でも変ったわねえ! どうしてもわからない。あなたは兵隊になっていたの?」
「行って私のことづてを伝えておくれ」といらだったように私の言葉をさえぎって、「そうしてくれないうちは私は地獄にいる思いがするよ!」
そう言って|掛《かけ》|金《がね》をはずしましたので、私は家にはいりましたが、リントン様夫妻がいられる居間の所まで来てはいりかねていました。しかしとうとう思い切って、ロウソクをつけましょうかという口実をこしらえて戸を開きました。
お二人は窓の所にすわっておいででした。その|窓《まど》|格《ごう》|子《し》は壁際にぴったり押し開かれて、窓外には庭木が見え、その向うには荒れた緑の|猟苑《りょうえん》がギマトンの谷間までつづき、川霧が長い線を引いてうねうねと丘の頂のあたりまで|這《は》っていました。ご存じのように、あの教会堂の先で沼々から流れる|溝《みぞ》が、谷間を縫う小川と合しています。ワザリング・ハイツはこの銀のような|靄《もや》の上に|聳《そび》えているのですが、私どもの古い家は丘の向う側にかくれているためここから見えませんでした。この部屋もその中の人たちも、またこの人たちが|眺《なが》めている景色も驚くほど平和に見えました。私はとても取次の役を果す気になれなくなって、ロウソクのことを|尋《たず》ねるとあとは何も言わずに部屋を出たのでしたが、こんなばかなことではと引き返して小声で申しました。
「ギマトンからいらしたおかたが奥様にお目にかかりたいとのことでございます」
「何の用なの?」とリントン夫人は尋ねました。
「お聞きいたしませんでした」と私は答えました。
「そう、じゃネリーや、カーテンをおろしてお茶を用意して|頂戴《ちょうだい》。すぐに戻って来ますから」
こういって部屋から出なさった後で、エドガー様はべつだん気にも留めずに誰が来たのかとお尋ねになりました。
「奥様の思いもかけぬ人です。あのヒースクリフです。――|旦《だん》|那《な》様は覚えておいでですか? あのアンショー様の家におりましたっけ」
「なに? あのジプシーかい――あの作男かい?」とエドガー様は叫びました。「そんならなぜキャサリンにそう言わなかったんだ」
「まあ、お静かに! 旦那様、そんなことをおっしゃってはいけません。奥様がお聞きになるとがっかりなさいますよ。あの人が家出した時キャサリン様のしょげ方ったらなかったほどです。今度帰って来たらさだめし大喜びでいらっしゃいましょう」
リントン様は部屋の向う側の窓際に行って庭を見おろしました。そして窓をあけて首を出しましたが窓下に二人がいたとみえてたちまち叫びました――
「これ、そこに立っていないで、親しいお方なら家に連れておいで!」
間もなく|掛《かけ》|金《がね》を上げ下ろしする音が聞えて、キャサリンは荒々しく息をはずませて階段をとび上って来ましたが、あまりの興奮に喜びどころか、顔を見るとまるで怖ろしい災難でも起きたのかと思われるようでした。
「おお、エドガー、エドガー!」と両腕を夫の首に投げかけて、息を切らしながら、「おお、あなた! ヒースクリフが帰って来ましたよ!」と言って息詰まるほど固く|抱《ほう》|擁《よう》するのでした。
「そうかい」と夫は気むずかしそうに言って、「でも私の首を絞めなくったって好いよ。あの男をそんなにたいした宝物とは思わなかったね。そんなに気ちがいのようにならないでもいいさ!」
「あなたはあの人をお嫌いなのでしたね」とキャサリンは狂喜する心を押ししずめて、「でも私に免じてお友達になって下さらなくっちゃだめよ。お上りって申しましょうか?」
「ここに? この居間にかい?」
「ほかにどこがありますの?」
エドガー様は腹立たしそうに台所ぐらいが適当だろうと言いますと、奥様はその偏屈をなかば|憤《いきどお》りなかば|嘲《あざ》|笑《わら》って、道化た顔をこしらえて|良人《お っ と》をみつめていましたが、しばらくして――
「いいえ、私台所にすわるのはまっぴらですわ。ここにね、エレン、テーブルを二つ|据《す》えておくれ。一つは|旦《だん》|那《な》様とイザベラ様、つまり身分のお高いかたのためにね。も一つの方は|卑《いや》しい者どもの分としてヒースクリフと私とがすわるようにね。それでよござんすね、あなた。それとも別の室に火をともさせましょうか? それならそうとおっしゃって下さいまし。私、下に行って私の客を連れて参ります。あまり|嬉《うれ》しくって何だか夢のような気がしますわ」
こう言って駆け下りようとしますとエドガーは留めて、私に向い――
「お前が案内をしなさい。そしてキャサリン、喜ぶのはいいが、ばかな真似はおよし! 家出した下男をまるで兄弟か何ぞのように歓迎するさまを、家じゅうの者に見せつけなくともいい」
私がおりて見ますと、ヒースクリフはおはいりなさいと言われるのを明らかに予期して、玄関の所で待っていました。そして一言も言わず私について来ましたが、リントン夫妻の前に案内しますと、二人は何か熱して言い合いでもしたらしく、両方とも|頬《ほお》をほてらせていました。けれども奥様はその友達が戸口に見えますと、別の感情で熱し、とんで出て彼の両手をとり、リントンの|許《もと》へひっぱって来て、リントンのいやがる手を|掴《つか》み、二人を握手させたのでした。いま炉の火とロウソクの光とで照らされてみますと、ヒースクリフの変りようにさらに驚きました。|丈《たけ》の高い強そうなたくましい男になっていて、並んでいる主人はいかにも|細《ほっそ》りして子供じみて見えました。まっすぐな姿勢は軍隊にいたのかと思わせました。顔もリントン様よりずっと|老《ふ》けて見えるのは、表情や|眼《め》|鼻《はな》|立《だ》ちの|凜《りん》としているせいです。以前の|無《む》|智《ち》な|野《や》|卑《ひ》なところは失せ、いかにも賢そうでした。|陰《いん》|鬱《うつ》な|眉《まゆ》|根《ね》にも、暗い情熱に燃える黒い目にも、まだ未開人種にみるような凶猛性のかげが|潜《ひそ》んでいましたが、それも抑制されていましたし、堂々たる態度さえ身につき、上品というにはきつ過ぎますが、荒っぽいところはまったくありませんでした。主人の驚きも私に勝るとも劣らぬほどで、さきほど作男と呼んだこの男を、何と呼んだものかとしばらくは迷っておいででした。ヒースクリフは握った細い手を放して垂れ、主人が口を開くまでひややかに見つめて立っていました。
「おすわり下さい」と主人はやっと言って、「私の|妻《さい》は昔の事を思い出して、私に心からあなたを迎えさせたいようです。妻が喜ぶことならむろん私も|嬉《うれ》しく思います」
「私もご同様です。ことに奥様をお喜ばせすることに私が一役買うのでしたら、喜んで一、二時間ほどおじゃましましょう」とヒースクリフは言いました。
ヒースクリフが向い合ってすわった時、キャサリンはじっとその顔をみつめ、目を放すと消えてしまいはすまいかと心配しているようでした。ヒースクリフの方ではおりおりちらりと目を上げてキャシーを見るだけでしたが、そのたびにまぎれもない歓びを女の目からくみ取って、次第に自信をもって見返すようになりました。二人ともお互いの歓喜に酔って何のこだわりもありませんでしたが、エドガー様はそうじゃなかったのです。全くの不愉快でまっ|蒼《さお》になっていました。ことに奥様が立って行ってヒースクリフの手を再び握り、気が狂ったように笑ったその時に、エドガー様は不快の感情の頂点に達していたのでした。
「明日になると夢と思うかもしれないわ!」とキャサリンはさけんで、「あなたとまたこうして会ったり触れたり話したりした事を、ほんとうとは思えないと思うの。でもひどいヒースクリフね! あなたにはこんなに歓迎される資格はないわ。三年間も|音《おと》|沙《さ》|汰《た》なしで帰って来もしないで、私のことなぞてんで思いもしないんだもの」
「なかなかあなたが私を思ったくらいじゃないんだ」とヒースクリフはつぶやいて、「私はね、キャシー、あなたの結婚したことをついこのあいだ聞いたんだよ。さっき下の庭先で待ってる間、こういう計画を考えていたんだ。――あなたの顔をちょっと見てから――たぶんびっくりした顔か、|嬉《うれ》しいふりをした顔をさ――それからヒンドリに返報して、その後で法律のお世話にならないように自分で自分をお仕置きして|成仏《じょうぶつ》しようという筋書なのさ。だがあなたの歓迎にあってすっかり心を変えちゃった。しかしこの次に私と会う時、その|素《そ》|振《ぶ》りを変えないようにして下さいよ。また私を追い出さないようにね。あなたはほんとうに私にすまないと思っていたの? そう、それはそのはずだ。私はあなたの三年前の最後の言葉を聞いて以来、みじめな生活を通して戦って来たんです。あなたは私を|赦《ゆる》して下さらなくちゃならない。私はただあなたのためにばかり苦闘してきたのだからなあ!」
「キャサリン、お茶が冷えちまうじゃないか、テーブルに着いて下さい」とリントンは平生の口調を乱さぬよう、また礼儀を欠かぬように努めながら言葉をはさんで、「ヒースクリフさんは今晩どこにお泊りなさるにせよ、これから遠い路をお歩きなさるんだ。それに私はのどが乾いた」
キャサリンは湯沸しの前にすわり、ベルで呼んだイザベラも来ましたので、皆様に|椅《い》|子《す》をすすめて私は部屋を|退《さが》りました。食事はものの十分とかかりませんでした。キャサリンは一口も食べず飲まずでした。エドガーは皿に茶をこぼして|水《みず》|溜《たま》りをこしらえ、ほとんど一口も飲みませんでした。客もこの晩は一時間と長くいませんでした。帰りぎわに私がギマトンに行くのかと|尋《たず》ねますと、
「いや、ワザリング・ハイツに」と答え、「|今《け》|朝《さ》私が訪ねた時、アンショーさんは私を招待してくれたから」
アンショー様がこの人を招待! そしてこの人がアンショー様を訪ねた! 私はこの人が帰った後で、この言葉を念入りに考えました。ちょいと偽善者になって、羊の皮をかぶった|狼《おおかみ》のように、悪いことをしにこの|田舎《い な か》にやって来たのじゃないかしら? 私はじっと考え込んで、あの人はいっそよそへ行っていた方がましかもしれぬと心の底で胸騒ぎを覚えたのでした。
真夜中ごろ私は寝入りばなを起されました。リントン夫人が私の部屋にはいって来て、寝床のそばにすわり、私の髪をひっぱって起したのです。
「私は眠れないのよ。エレン」と奥様は弁解のつもりでこう言って、「誰でもいいから一緒に私の幸福を喜んで欲しいの。エドガーはね、自分でおもしろくないことを私が|嬉《うれ》しがっているものだから、ご|機《き》|嫌《げん》が悪いのよ。すねてつまらない言葉のほかは、口をきこうともしないで、気分が悪くて眠いのに無理に話しかけるのは、私がわがままで残酷なのだって言うの。ちょっとのことでもすぐに気分が悪いの何のって言うんだわ! 私ほんの少しばかりヒースクリフのことをほめたのよ、そしたらエドガーは頭の痛いせいか、それともやきもちのせいか知らないけれど、泣き出しちゃったの。それで私は泣虫を置いて来たのよ」
「|旦《だん》|那《な》様の前でヒースクリフをほめて何になるんです?」と私は答えて、「あのおかたたちはお若い時分から、お互いに嫌い合っていたのです。ヒースクリフだってエドガー様のことをほめるのを聞けば、きっといい気持はしないでしょう。――それが人情ですもの。お二人に露骨なけんかをさせたくないとお思いなさるなら、リントン様の前であの人のことなどおっしゃらない方がいいですよ」
「でもそれじゃあまり|意《い》|気《く》|地《じ》がないじゃないの? 私|嫉《しっ》|妬《と》などしないわ。いくらイザベラの金髪が立派でも、|肌《はだ》が白くても、優雅な姿でも、家じゅうの皆にかわいがられても、私ちっとも気にさわらないわ。二人がいさかいでもすると、ネリー、お前さんだってすぐにイザベラの肩を持つじゃないの。それでも私は甘い母親みたいにいつも折れて、かわいい人とあれを呼んで|機《き》|嫌《げん》を直すようになだめるでしょう。私があれと仲好くしていると、あれのお兄様が喜ぶので、私も|嬉《うれ》しいの。けれどあの兄妹はそれはそれはよく似ていてよ。甘えっ|児《こ》で、世の中は自分の都合どおりになるように思ってるんだもの。私は二人の機嫌をとっているけれど、したたか|折《せっ》|檻《かん》してやれば二人ともかえって良くなるかもしれないわ」
「それはお嬢様、あなたが間違っていますよ」と私は言って「あのおかたたちこそあなたの機嫌をとっていらっしゃるのです。そうでもしなくちゃしかたがないんですよ。お二人が何でもあなたの望みどおりせっせとなさる間は、あなただってお二人の一時のわがままくらいは大目に見てあげることができるのです。しかしお|終《しま》いにはどちらにも重大な|事《こと》|柄《がら》で争いが起きましょうよ。そうなるとあなたに意気地がないといわれてる人たちだって、あなたと同様に意地を張ることができるのです」
「そしたら私たちは死ぬまで争うでしょう。だけどどうかしら、ね、ネリー」とキャサリンは笑いながら「いいえいいえ! リントンは私をそれはそれは愛しているから、たとえ私があの人を殺そうとしたって、私に|復讐《ふくしゅう》する気にはなれますまいよ」
それほどの旦那様の愛情に対して、なおさら大切にして上げるべきですと私は忠告しますと、
「しますとも」とキャシーは答えて、「だって何もつまらぬことで泣いたりしないでも好いじゃないの、それじゃあまり子供|臭《くさ》いわ。私がヒースクリフのことをほめて誰からでも尊敬される価値があると言い、この地方の一流の紳士と立派に交際できると言ったからって、何も涙を流して泣かなくたって、私のために自分からそう言って喜んでくれたらいいでしょう。いいえぜひヒースクリフと|懇《こん》|意《い》になってくれなくてはならないわ。そうすればだんだんと好きになるかもしれません。ヒースクリフの方でどんなにあの人をいやがる理由があるか考慮に入れるなら、ヒースクリフの態度は立派だったと思うわ」
「ワザリング・ハイツに行ったことをあなたはどうお考えですか?」と私は|尋《たず》ねて、「なるほど見かけはすっかり変って、立派なクリスチャンです。敵に対してまでまんべんなく好意を尽すのですものね!」
「それは自分で説明してたわよ」とキャシーは答えて、「そりゃ私だって驚いてよ。でもあのかたはこう言ったわ。――たぶんお前があそこにいるだろうと思って、それでお前から私の消息を尋ねるつもりであそこに行ったんですって。ところがジョウゼフが取次いだので、ヒンドリが出て来て、あのかたに今まで何をやってどんな暮しをしていたと尋ね出し、とうとう『まあおはいり』ってことになったんですって。すると家の中では五、六人で|賭《かけ》|事《ごと》をやっているところだったので、ヒースクリフもその仲間に加わったんでしょう。お兄様はかなりなお金を負けちゃって、あのかたの|懐《ふと》|中《ころ》が温かいことがわかったもんだから、今晩また来るようにと言うので、ヒースクリフが|承諾《しょうだく》したのですって。ヒンドリは無鉄砲なたちだから、用心してお友達を選ぶなんてことはないのよ。自分が以前あんなにさんざんひどい目にあわせた人を、そう容易に信じられるものでもあるまいに、そんな道理なんか考えることはめんどうなのよ。でもヒースクリフが言うには、昔いじめられた人とまた交際を始めたおもな理由は、このグレンジから短時間で歩ける場所におちつきたいためと、も一つはもと私と一緒に住んでいた家の思い出のためもあり、それにギマトンに宿を取るよりもあそこにいる方が、私にしてもあのかたと会う機会が多かろうと考えたからなんですって、ハイツに宿を借りるについてはずいぶん宿料を奮発するらしいわ。お兄様は|慾《よく》|張《ば》りだからその条件に動かされるわよ。お兄様ったらいつも慾張りだったわ。もっとも片方の手で|掴《つか》んだものを別の手で投げ出すんですけれどね」
「あそこは若い男のかたが宿を取るにはずいぶん好い場所ですこと!」と私は言いました。「奥様、結果がどうなるか恐ろしくお思いになりませんの?」
「ヒースクリフにとってなら何もこわいことはないわ。あの強い頭で危険を防ぎますよ。ヒンドリの方はちょっと危いけれど、道徳の方ならあれ以上悪くなりようがないし、またからだの方の危険なら、いくら何でも私のお兄様ですもの、ヒースクリフだって大丈夫どうしもしないわ。私今晩の出来事のおかげで、神様とも人間とも和解することができたのよ! 今までは神様に|憤《ふん》|慨《がい》して|叛《そむ》いていたの。おお、私それはそれはつらい悲しみをこらえていたんだわ! あの人がこの思いを知ったなら、そのつらい悲しみがはれたのにまた曇らせるようにくだらないむずかりなんぞしてるのを恥じ入るでしょう。その悲しみを私|独《ひと》りでこらえていたのは、エドガーへの親切心からなのよ。私がたびたび感じた苦しみを|洩《も》らしていたとしてご覧なさい、あの人だって私と同様その悲しい苦しい思いを軽くしたいと悟ったでしょうよ。でも今はすんだことだわ。もうあの人の愚劣なまねに|復讐《ふくしゅう》はしないわ。私ほんとうにこれからはどんな事でも|辛《しん》|抱《ぼう》ができてよ! この世の中で一番|卑《いや》しい者が私の|頬《ほお》を|殴《なぐ》っても、私はもう一方の頬を|廻《まわ》らすばかりでなしに、その人を腹立たせたことを|謝《あやま》ることさえできてよ。その証拠には、私これからすぐエドガーのところへ行って|和《わ》|睦《ぼく》しましょう。おやすみ! 私は天使よ!」
こうして|独《ひと》りで悦に入ってキャシーは出て行きましたが、あくる朝になるとキャシーが決心を実行した成功は明らかでした。リントン様は|機《き》|嫌《げん》を直したばかりか(ただしキャサリンのお天気があまり|好《よ》|過《す》ぎるので、旦那様の気持はまだ沈んでいるように見えましたが)、午後イザベラをつれてワザリング・ハイツに出かけることさえ、奥様にお許しなすったほどでした。そのかわり奥様の方でも|溢《あふ》れるばかりの|愛嬌《あいきょう》と愛情とを|旦《だん》|那《な》様に報いましたので、数日間というものは家じゅうは天国の楽園のようで、私ども召使も旦那様と同様この常住のお天気の|恩《おん》|沢《たく》にあずかりました。
ヒースクリフは――今度はヒースクリフ様と言わなくてはなりますまいが――最初はスラシクロス・グレンジを訪問することをよほど控え目にしていました。自分がやって行くことを主人がどれくらいこらえるだろうか推測していたらしいのです。キャサリンの方も彼を迎える喜びをあまりあらわさないのが正当と思っていました。こうして彼は訪問を待ち設けられる権利を次第に固めていったのです。彼は少年時代の特徴であった打ち解けない性質をまだ多分に持っていました。それが感情のあらゆる激発を隠すことに役立ちました。それで旦那様の不安は一時休まり、そして新しい事件のためにしばらくはその心配が別の方向にそらされてしまったのです。
旦那様の新しい心配のたねは、妹のイザベラが来客のヒースクリフに対して急に激しい恋を現わし始めた思いがけない不幸な出来事から生じたのです。イザベラはその|頃《ころ》十八の美しいお嬢様で、様子は子供じみていましたけれど、|智《ち》|慧《え》は鋭敏、感情も鋭敏、それに怒るとずいぶん|癇《かん》の強い方でした。妹思いの|優《やさ》しい旦那様もこの妹の物好きな熱い執心には面食らいなすったようでした。名もない男と縁を結んで家名を落すことや、ご自分に男子の相続人が生れない時は、こんな男の手に家の財産が握られるかもしれないことはしばらくさしおくとしても、|分《ふん》|別《べつ》深いリントン様はヒースクリフの天性を顧慮なさいました。よしんば外見は変ったにせよ、彼の心は変りえないもので実際変ってはいないのでした。この心を旦那様は恐れたのです。胸を悪くするほど嫌いだったのです。イザベラをこの男にゆだねることは虫が好かなかったのです。妹の恋は先方から言い寄られて生じたのではなく、いわば妹の片思いであったことをわかっておられたなら、なおさらのことこの男に妹をやる気にはなれなかったでしょう。しかし旦那様は妹の恋を知った時、てっきりヒースクリフの策謀と思ったのでした。
私たちはよほど以前からお嬢様が何事かにいらいらして|焦《こ》がれているのに気づいていました。すねて|癇癪《かんしゃく》を起して、しょっちゅうキャサリンにがみがみものを言っては、あやうく小さな|堪忍袋《かんにんぶくろ》を切らすくらいてこずらせていたのです。私たちはそれを気分が悪いせいと思ってあまりとがめませんでした。――実際お嬢様は目に見えてやせ衰えてゆくのでした。しかしある日のこと、特別のわがままを起して、朝飯は食べないというし、召使が言いつけを守らないとか、奥様が少しも家の中で自由を許さないとか、エドガーが自分をかまってくれないとか、皆でわざと自分をいじめようとして部屋に火も入れずに、戸をあけ放しにするものだから|風《か》|邪《ぜ》をひいちゃったとか、そのほかさまざまくだらぬ文句をつけますので、奥様は心からお嬢様を|叱《しか》って、床につくようにときつく申し渡し、おどしのつもりで医者を呼びにやると言ったのでした。ケネス医師の名を聞くとすぐさま、お嬢様は健康には何の異常もないと言い、ただキャサリンが|邪《じゃ》|慳《けん》にするためにつらい思いをするのだといって叫びました。するとこの不合理な断定に驚いた奥様は言ったのです――
「まあ、このいけない甘えっ|児《こ》! 私が邪慳にするなんてどこからそんなことが言えるの? あなたは気が少しどうかしてるわ。いつ私が邪慳なことをして?」
「|昨日《き の う》よ」とイザベラは泣きじゃくりながら、「そして今もよ!」と言うのです。
「昨日! それはいつの時?」と義姉の方。
「沢原を歩いてる時よ、私には勝手に好きな所をお歩きなぞとおっしゃって、ご自分はヒースクリフ様と一緒に散歩なすってさ!」
「まあ、それがあなたの邪慳という意味なの?」とキャサリンは笑って、「私たちは何もあなたをじゃまものあつかいにしたわけじゃなかったのよ。あなたが一緒にいようといっこうかまやしなかったわ。私はただ、ヒースクリフの話すことなんぞあなたにはちっともおもしろくあるまいと思っただけよ」
「|嘘《うそ》よ!」と若いお嬢様は泣き出しながら、「私があのかたと一緒にいたいことをご存じのくせに、お姉様はわざとそれをじゃましようとなさったのよ!」
「正気で言うのかしら?」とリントン夫人は私に向って言い、それから、「じゃあイザベラ、私はあの時の会話をそのままもう一遍ここで繰返すから、あなたのおもしろいと思うところがあるなら言ってご覧」
「私会話なんぞどうだってかまわないわ。ただあのかたと一緒に――」
「ええ、それで?」とキャサリンは言葉を半分にして出し|渋《しぶ》っている義妹を|促《うなが》しました。
「私あのおかたと一緒にいたいと言うのよ。いつだってあのかたのお|傍《そば》にいたいわ。追い払われたくないわよ!」とイザベラは調子づいて、「キャシー、あなたはまるでイソップ物語にあるまぐさ|桶《おけ》を占領した犬みたいね、自分ばかり愛されようと思って、他人の恋のじゃまをなさるのね!」
「まあ、あなたはずいぶん失礼な|小《こ》|猿《ざる》さんね!」とリントン夫人は驚きのあまり叫んで、「でもこんなばかげたことは私信じますまい。あなたがヒースクリフからほめられたいと思うことができるなんて、そしてあの人を感じの好い男と思うなんて、それは有り得ないことですわ! それは私の誤解でしょうね、イザベラ?」
「いいえ、そうじゃないのよ」と恋する娘はむき[#「むき」に傍点]になって、「私はあなたがエドガーを愛した以上にあのかたを愛しています。そしてあのおかたもあなたさえじゃまだてなさらなければきっと私を愛します!」
「それじゃあ私なら一王国をいただいてもあなたの身になりたくありません!」とキャサリンは語気を強めて言い、それからしんみりと話したようです。「ネリーや、私に加勢してこの人の恋が狂気の|沙《さ》|汰《た》だということを|納《なっ》|得《とく》させておくれ。ヒースクリフがどんな男かこの人に話しておくれ。教育も修養もない|頑《がん》|迷《めい》なあの男。ハリエニシダのはびこる|玄《げん》|武《ぶ》|岩《がん》だらけの乾いた荒野にひとしい男。イザベラ、あなたの心をあの男に与えるようにと勧めるくらいならば、あの小さなカナリヤを冬の寒空に森へ放す方がまだましだわ! あなたはあの人の品性を知らないばっかりに、かわいそうに頭の中で夢をえがいているのね。あのきびしい外見の奥底に、あの人が深い慈悲や愛情をかくしていると想像してはだめよ! あの人は磨かない|金《こん》|剛《ごう》|石《せき》ではないのです。真珠を含む|牡《か》|蠣《き》|殻《がら》のような|武《ぶ》|骨《こつ》|者《もの》ではないのです。|獰《どう》|猛《もう》な、不人情な、|狼《おおかみ》みたいな男なのです。私はあの男に対して『これこれの敵をいじめることは不人情で残酷だから、かまわないでおいて下さい』とは言いません。『あの人たちをいじめることは、この私が[#「私が」に傍点]いやだから、ほっといて下さい』と言います。イザベラ、あの男はあなたを|厄《やっ》|介《かい》|者《もの》と思うようになったが最後、|雀《すずめ》の卵のようにあなたをつぶしっちまうでしょうよ。あの男がリントン家の人を愛し得ないのは知れたことです。もっともあなたの財産や相続権などと結婚することならできましょうがね。|貪《どん》|慾《よく》が、あの人に付きまとう罪となっていますから。以上が私の描いたあの男です。しかも私はあの男の味方ですよ。――そう、あの男が本気であなたを|餌《えさ》にしたいと思うなら、私は口をつぐんであなたをあの男の|陥《おと》し穴におとさせるくらい親しい友達ですよ」
しかしイザベラは|憤《ふん》|慨《がい》して義姉をにらみつけて言いますには、
「恥さらしだわ! 恥さらしだわ! あなたのように毒々しい|中傷《ちゅうしょう》をする友達は、二十人の敵よりもなおさらいけないわよ!」
「おや! じゃあ、あなたは私の言葉を信じないのね! 私が意地わるな利己主義で物を言ってるとお考えなのね?」とキャサリンが申しますと、
「そうですとも」とイザベラは答えて、「あなたの意地悪にはぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするわ!」
「よござんす!」とキャサリンは叫んで、「それがあなたの精神なら勝手になさい。もうかまいません。あなたのひねくれた失礼な暴言にはかないません」
こう言い捨ててリントン夫人は|室《へや》をお出になりました。そのあとでイザベラは|啜《すす》り泣きながら言うのです――
「私はお姉様の利己主義のために悩まなくてはならないんだわ! みんな私のじゃまをするのよ。お姉様は私のただ一つしきゃない|慰《なぐさ》めをめちゃめちゃにしてよ。でもきっとあんなこと|嘘《うそ》よ。ね、嘘でしょう? ヒースクリフ様はそんな鬼じゃないわ。|気《け》|高《だか》い真実の精神をお持ちになっててよ。さもなければ何でお姉様のことを忘れずにおいでになることができましょう?」
そこで私は申し上げました――
「お嬢様、あの人のことは忘れておしまいなさい。あの人は|凶兆《きょうちょう》の鳥です。あなたのお相手たるべき人ではありません。奥様はひどくお話しになりましたが、でも私はあのお言葉が不当とは思えません。奥様はあの人の心を私よりも、いえ他の誰よりもよくご存じです。しかも奥様はあの人のことを実際より悪くはおっしゃいません。正直な人は自分の行いを隠さないものです。今まであの人は何をして暮したでしょう? どうやってお金を|儲《もう》けたでしょう? 自分の嫌いな人が住むあのワザリング・ハイツになぜ|逗留《とうりゅう》しているのでしょう? あの人が来てからアンショー様はいよいよ悪くなって行くそうです。二人は一晩じゅう|賭《かけ》|事《ごと》で夜を明かし、そしてヒンドリは屋敷を|抵《てい》|当《とう》にしてあの人からお金を借りてるそうですよ。賭事をしてお酒を|呑《の》むほかは何もなさらないんですって。つい一週間前にギマトンでジョウゼフにあって聞いたのです。あの|爺《じい》さんが言ってました、『ネリー、いまに私らは検死の役人様のお調べを受けるようになりそうじゃわい。一人がまるで小牛でも殺すみたいに荒々しく自殺しようと暴れるのを、もう一人がやっと|抑《おさ》えて危く指を切り落すところさ。自殺しそこねたのは|旦《だん》|那《な》様じゃ。そして神様の最後の裁判に出かけたがってござらした。旦那様はどんな裁判官も、ポーロ様でも、ペテロ様でも、ヨハネ様でも、マタイ様でも、なんにもおっかなくねえ。全くこういう尊いおかたの前にでも、旦那様は平気な顔をして出たがってござるのじゃ! そしてあのしたたか者のヒースクリフ、お前さんも気をつけなせえ、めったにないしたたか者じゃ! 正真正銘の悪魔の|冗談《じょうだん》をば、歯をむき出して誰にも劣らず笑ってのけることができる|奴《やつ》じゃ。|奴《やっこ》さんグレンジに行っちゃ、あのご立派な暮しぶりを何も言わねえのかえ? まあこうじゃ――夕方に起きて、さっそくさいころ、それからブランデー、よろい戸をすっかりおろして翌日の|午《ひる》|頃《ごろ》までロウソクをともして続けていると、やがてあのばか[#「ばか」に傍点]旦那が口汚くののしり叫びながらご自分の部屋に帰って行きなさる。いやはや|行儀《ぎょうぎ》のいい人は耳を|塞《ふさ》ぐようなひどいことを言うのじゃ。するとあの悪党の方じゃあ勝った金を数えて、食事をして、寝て、それからグレンジの奥様の所さおしゃべりに出かけるわけさ。もちろん奴さんはキャサリン奥様に向って、お父様の遺産が奴さんの|懐《ふところ》に転げ込む筋道を話して聞かせるのさ。それからあの奥様のお父様の息子が「亡びの大道」を急ぐ有様や、奴さんが|先《さき》|廻《まわ》りして、その大道の関門を開けてやることも話すことじゃろう!』まあこういう話なんですよ、お嬢様。ジョウゼフは老いぼれた悪たれ|爺《じじい》ではございますが|嘘《うそ》は申しません。そこであの爺が申したヒースクリフの|行状《ぎょうじょう》をほんとうとしますと、あなたはまさかそうした夫を持ちたいとはお思いにならないでしょう。どうですか?」
「お前も皆とぐる[#「ぐる」に傍点]になってるのね、エレン」とイザベラは答えて、「そんな|中傷《ちゅうしょう》には耳をかさないわ。この世に幸福がないと私に納得させようなんて、お前たちはなんてひどい人たちでしょう!」
イザベラがそののち放任しておかれたならこの|妄《もう》|想《そう》に打ち|克《か》ったか、あるいはますますそれを|募《つの》らせて行ったか、それは私にわかりません。しかしイザベラにはゆっくり反省する時日がありませんでした。この翌日、隣の町で治安判事会があって、旦那様は出席せねばなりませんでした。するとヒースクリフ様はこの留守を知って常より早くやって来ました。キャサリンとイザベラとは図書室にすわって、互いに敵意を持ちながら無言でいました。お嬢様は一時の激情のあまり秘密な感情を|洩《も》らした|無《む》|分《ふん》|別《べつ》のゆえに警戒し、奥様の方ではもっと|熟慮《じゅくりょ》した分別でイザベラをほんとうに腹立たしく思い、義妹の|小癪《こしゃく》なふるまいは再び笑いに流すにせよ、奥様自身にとってそれは笑い事と見ていられぬと考えたのでした。奥様はヒースクリフが窓下を通るのを見て笑いました。そのいたずらっぽい意地わるの微笑が|唇《くちびる》に現われたところを、私は炉ばたを掃きながら認めたのです。イザベラは|瞑《めい》|想《そう》か書物かに気をとられ、戸が開くまでそこにじっとしておりました。そして戸が開いた時はそこをぬけ出そうにもすでに遅いのでした。もしできたなら脱け出したかったでしょうけれど。
「おはいりなさい。ちょうどいい所にようこそ!」奥様は快活に言って、|椅《い》|子《す》を炉の|傍《そば》に|勧《すす》めました。「ここにいる二人はお互いの胸に冷たいわだかまりができて、それを解くためにはぜひとも第三者が必要なの。しかも私たち二人が選ぶ第三者こそ、ほかでもないあなたよ。私はお知らせすることを誇りに思いますが、あなたに対してとうとう私以上にご執心なおかたをお目にかけますよ。さぞかし|嬉《うれ》しいでしょうね――いいえ、ネリーじゃありませんから、そんなに|睨《にら》みつけちゃいけません。私のかわいい義妹があなたの美しい姿や心を考えるだけでも胸を焦がしているのです。あなたはエドガーの兄弟になることができるのですよ! これ、これ、イザベラ、逃げようたって逃がしません」|憤《ふん》|慨《がい》して立ち上った居たたまれない思いの義妹を、キャサリンはすまして留めながら話しをつづけますよう、「ヒースクリフ。私たちはあなたのためにまるで|猫《ねこ》みたいにけんかしてましたのよ。でも熱のあげかたでは私確かに|一《いち》|目《もく》おきましたわ。それに私さえじゃまだてしなけりゃ、私の自称競争者はてっきりあなたの|魂《たましい》を射止めて、生涯あなたを独占して、私の映像なんぞ永遠にあなたの心から消されちまうんですってさ!」
「キャサリン!」とイザベラはしいて態度をとりつくろい、しっかり|掴《つか》まれていても何のそのとばかりこう言いました。
「|冗談《じょうだん》半分にもせよ、あなたは私の悪口を言わずに、ほんとうのことを言って下すってありがとう! ヒースクリフ様、あなたのこのお友達に、私を放して下さるようおっしゃって下さいまし。姉はあなたと私とがまだ親しい|間柄《あいだがら》でないことを忘れているのです。姉のおもしろがっていることは私にとって非常な苦痛なのです」
客は何の答もなく座に着き、この娘が彼をどう思っていようといっこう平気な様子でしたので、イザベラは義姉の方を向いて、放してくれるようにとまじめな願いをささやくのでした。
「いえいえ!」とリントン夫人は答えて、「私は|秣槽《まぐさおけ》を占領した犬みたいだなんてまた言われるといやですもの。まあ逃げずにおとなしくしていらっしゃいな。ヒースクリフ、あなたはなぜこの|嬉《うれ》しい知らせを聞いて満足の意を表してくれないの? エドガーの私に対する愛情など、この人があなたに対する愛情と比べれば物の数でもないんですとさ。イザベラはたしかにそんな事を言ってよ、ねえエレン。この人とあなたと一緒に居ることを私が気にくわないんでじゃましたのですって。それが悲しくくやしいといって一昨日の散歩以来イザベラは物を食べないんですよ」
「あなたの言葉はあてにならないようだね」とヒースクリフは|椅《い》|子《す》を二人の方に向けて、「とにかく今はこのかたは私と一緒にいるのがおいやなんだ」
こう言って男は珍奇な|醜《みにく》い動物でも見るように、問題の当人を見つめました――たとえばインドから到来のムカデか何ぞを見るように、いやらしいながら好奇心に誘われて|覗《のぞ》くといったふうに。かわいそうに娘はいたたまらず、青くなったり赤くなったりして、そのうちに涙がまつげに輝き、キャサリンの|掴《つか》んだ手を振り放そうとして、小さな指一杯に力をこめるのでした。しかしその腕から一本の指を起せばすぐ他のがおりてしめるので、全部を一時に振り放すことができないと知って、イザベラは|爪《つめ》を利用しはじめましたので、掴んでいる方の手にはすぐに赤い三日月型の美しい模様ができました。
「|牝《めす》|虎《とら》がいますよ!」と奥様は叫んで義妹を放し、痛いので手を振りながら、「まあひどい。出て行って、その|牝狐《めぎつね》みたいな顔をお引っ込めなさい。あなたの好きな人の前でそんな爪をお目にかけるなんてずいぶんばかね! この人がどんな結論を引き出すか想像できないの? ねえ、ヒースクリフ! あれがあなたを|傷《いた》める武器よ――目を引っ|掻《か》かれないように注意なさい」
「私をおどしたりしようものなら、あんな爪なんぞ|剥《は》ぎとってやる」と娘が出て戸をしめた時に男は乱暴に言い放って、「だがキャシー、あんなにしてあいつをいじめるのは何のつもり? あなたの言ったことはほんとうじゃないね?」
「ほんとうですとも」と奥様は答えて、「彼女はあなたのためにこの数週間死ぬほどこがれていたの。そして|今《け》|朝《さ》はあなたのことをほめて|有頂天《うちょうてん》になってしゃべった上、私がその|崇《すう》|拝《はい》熱を下げようと思ってあなたの欠点をあからさまに言ったので、私に|悪《あっ》|口《こう》|雑《ぞう》|言《ごん》の|洪《こう》|水《ずい》を注ぎかけたのよ。だけどそのことはもう気にしないで|頂戴《ちょうだい》。私は彼女のこましゃくれをたしなめようとしただけのことよ。私はあの子が好きなので、あれをあなたの|餌《え》|食《じき》にさせちまうのが、ちとかわいそうよ、ねえヒースクリフ」
「あんな餌食じゃあ、こっちこそかわいそうだよ。まるで|食《グ》|屍《ー》|鬼《ル》みたいにしてならともかくだがね。あんな不景気な青ッ|面《つら》と僕が一緒に暮したとしたら、いろいろと変った|噂《うわさ》をあなたがたは聞かされましょうよ。あの青白いつらを|生《なま》|傷《きず》でもって虹の七色に|彩《いろど》ったり、毎日か一日おきに|殴《なぐ》りつけて青い目を黒くしてやったり、そんな事は一番お茶の子のあたりまえのことさ。あの目はリントンの目といやに似てやがる」
「気持よく似ているでしょう。あれは|鳩《はと》の目ですわ――天使の目よ」
「あいつは兄の相続人なのかね?」とヒースクリフはちょっと沈黙のまを置いたのち|尋《たず》ねました。
「そう思うと私ちょいと残念ね。私、半ダースも子供を産んで、彼女の権利をなくしてやりたいんだけれど。まあ当分はそんな問題をお忘れなさいな。あなたはあんまり隣人の物を欲しがりますよ。よござんすか、その隣人の物はつまり私のものじゃありませんか!」
「それが仮りに私の物[#「私の物」に傍点]になったにしても、やっぱりあなたの物に変りないんだ」とヒースクリフは言って、「だがイザべラ・リントンはばかな娘かもしれないけれど、まさか狂人じゃあるまいし――だがあなたのご忠告に従って、結局この事はこれで打ち切りにしましょう」
でこの問題は二人の話題から打ち切りになり、キャサリンの方は心の中でも打ち切りになったでしょう。が他方では、この晩たびたび心にそれを思い起したに相違ないのです。リントン夫人が室を出るたびに、私は彼が|独《ひと》りほほえむ――というよりは気味悪くほくそえんで、何か|善《よ》からぬ考えに|耽《ふけ》っている様子を見ました。
私は彼の行動を監視しようと決心しました。私の心はいつも奥様よりもむしろ|旦《だん》|那《な》様の味方でした。それは無理もないことと思います。なぜなら、旦那様は親切で、人を信じ、名誉を重んずる人でした。奥様は――その反対だと申すことはできませんが、ご自分の主義に忠実とはいえないほど気ままで、その感情に対してはなおさらのこと同情を持てませんでした、ヒースクリフ氏の手からワザリング・ハイツとグレンジとを平穏に救って、私たちをまた元の――あの人の帰って来なかった時分に返すような、そんな出来事でも起ればいいにと私は思ったものでした。あの人の来訪は私にとって不断の悪夢でした。ご主人にとっても同様でしたろう。あの人がハイツにいることは、名状しがたい一種の圧迫でしたから。神様はあそこの迷える羊をお見すてになって、悪の道にさまようにまかせ、迷える羊と安全な囲いとの間には悪い獣が一匹|徘《はい》|徊《かい》し、時機をうかがってとびかかりざま食い殺そうとしている――私にはそんな気がいたしましたのです。
一一
おりおりこうした事を独りでくよくよ考えますと、私は突然恐怖のあまり立ち上って、農場がどんなになっているか見に行こうとボンネットをかぶるのでした。世間で何と|噂《うわさ》しているかをヒンドリに警告することは、私の義務なんだと私は良心を|納《なっ》|得《とく》させました。それから彼の習慣となった悪癖のかずかずを思い起してみますと、もう|済《さい》|度《ど》しがたいように思われ、それに私の忠言が本気に受け|容《い》れられるだけの貫禄を保てるやら疑わしく、結局あの不吉な家に再びはいることをよしてしまうのでした。
一度私はギマトンに行く途中、寄りみちしてあの昔なじみの門をくぐりました。それはちょうど今時分――晴れた霜の午後でした。地上は裸で、|路《みち》は固く乾いていました。大道が左手の沢地の方にわかれる所に、石の道しるべがありますが、あらい砂岩の柱の北側にはワザリング・ハイツの頭文字がきざまれ、東側にはギマトン、西南にはスラシクロス・グレンジの頭文字がそれぞれ彫りつけてあって、三方に行く道案内になっているのです。私はそこまでやって来ました。太陽はその石の灰色の頭を黄色く照らして、私に夏のことを思わせました。そしてなぜか知りませんが突然私の胸に幼い|頃《ころ》の感じがみなぎったのです。ヒンドリと私とは二十年前よくここに来たものでした。私は雨露に打たれて損じた石材を長い間じっと見つめていました。それからかがんでみると、底に近い一つの穴の中には、ちゃんとカタツムリの|殻《から》や小石がつまっていましたが、私たちはそこへ木の実やら|朽《く》ちやすいものまで、いろんな物をしまい込むのが楽しみなのでした。――すると草枯れた芝土にすわっている幼な友達がありありと目に浮んで来ました。あの髪の黒い四角な頭を前かがみにして、小さな手に石板のかけらをもって土をすくい出している姿が……
「かわいそうなヒンドリ」私は思わず叫びました。私はぎくりとしました――その子供が顔をあげて私をまともに見つめたように、私の肉眼が一時まぼろしを見たからです。まぼろしはまたたく間に消えうせました。がたちまち私はハイツに行ってみたくてどうにもならぬ気がしました。まぼろしに現われた人は死ぬと伝える迷信がこの衝動に従えと|促《うなが》します。「もしかあの人が死んだのだったら!」私は思いました。「それともじきに死ぬのだったら! いまのが死の前兆だったとしたら!」
家に近づくにつれいよいよ私の胸はときめき、門が見えた時は手足が|慄《ふる》えました。先ほどの幽霊が私を追い越して、門からのぞきながら立っている。縮れ毛の、茶色の目をした少年がその後から顔を門の|扉《とびら》の|格《こう》|子《し》に寄せているのを見たとき、私はそう思ったのでした。が考えてみるとそれはヘアトンに相違ありません。十か月前別れてからたいして変っていない私のヘアトン坊やなのです。
「まあ、坊や!」私は一時あのばかげた心配をわすれて叫びました。「ヘアトン、ネリーですよ! ねえや[#「ねえや」に傍点]のネリーです」
子供は私ののばした腕から遠のいて、大きな石ころを拾い上げました。
「ヘアトン、私はお前のお父様に会いに来たの」子供のこの挙動から察して、ネリーが彼の記憶にあるとしても、そのネリーとこの私とが同人と思わないかもしれないと思ってこう言ってみたのです。
子供は石を投げつけようとして振り上げますので、私はなだめる話を始めましたが、その手を止めることができませんでした。石は私のボンネットにあたりました。続いてこの小さな子のどもりがちな口から、意味が自分にわかっているやらいないやら、ひとくさりの|悪《あっ》|口《こう》|雑《ぞう》|言《ごん》がいかにも物慣れた口調で出てきました。そしてまだいたいけな顔を、恐ろしい意地悪の表情でゆがめるのです。私は悲しさのあまり怒るどころではなかったことがおわかりでしょう。私は涙がこみあげてきそうになり、ポケットから|蜜《み》|柑《かん》を一つ取り出して、この子をなだめるためそれを差し出しました。子供はちょっとためらっていましたが、いきなりそれを引ったくりました。まるで私がそれをただ見せびらかして、彼を失望させるとでも考えたらしいのです。私はもう一つ取り出して、今度は彼の手のとどかぬ所にさし上げて見せました。
「坊や、誰があなたにそんなお立派な言葉を教えましたか? 牧師様が?」
「くたばりやがれ、牧師なんか! お前もよ! おれにそいつをくれよ」子供はこう答えるのです。
「どこでそんなお|行儀《ぎょうぎ》を覚えました? おっしゃい。そしたらこれをあげます。あなたの先生は誰です?」
「悪魔のとっちゃんよ」が子供の返事でした。
「そしてとっちゃんから何を習いました?」
子供は|果《くだ》|物《もの》にとびつきましたが、私はずっと高く差し上げて|尋《たず》ねました。
「とうさんから何を教わるの?」
「何にも教わらないや。ただそばへ寄りつくなって言うよ。とっちゃんは僕にかなわないんだ。僕が悪口言ってやるもんだからさ」
「ああ! そして悪魔がとうさんの悪口を教えるんですね?」
「うう――うんにゃあ……」子供はしぶりました。
「そんなら誰です?」
「ヒースクリフ」
私はこの子にヒースクリフが好きかと尋ねてみました。
「うん」と子供は再び答えました。
私はその理由を知ろうとして次の言葉を言わせただけでした。――「僕知らないよ――とっちゃんが僕にひどいことをするから、あの人は、とっちゃんにその仕返しをするんだ。――とっちゃんが僕の悪口を言うから、それであの人はとっちゃんの悪口をいうんだ。あの人は僕に何でも好きなことをしろって言うよ」
「それじゃ、あの若い牧師先生はあなたに読み書きを教えて下さらないの?」と私は追求しました。
「うんにゃ、あんな先生なんか家の|敷《しき》|居《い》をまたいだら、腐れ歯をたたき折って、のどに|呑《の》み込ましてくれるってさ。――ヒースクリフがそう言ったよ!」
私は子供の手に|蜜《み》|柑《かん》を渡して、ネリー・ディーンという女が話したいと言って庭木戸のところで待っていますと、そうお父様に言えと命じました。子供は家にはいって行きましたが、ヒンドリの代りにヒースクリフが戸口の敷石に現われました。私はまるで化物に出あったようにおびえて、すぐさま背を向けるが早いか、一所懸命に道を|駈《か》け降り、あの道しるべの石に到着するまでは一休みもしませんでした。このことはイザベラ嬢の事件とべつだん関係がないのですが、ただ私は以後さらに厳重に見張りをしようと決心しました。そしてリントン夫人の楽しみを|妨《さまた》げることからたとえ家庭の風波を起そうとも、私はあの悪者の勢力がグレンジに伸びることを断じて防ごうといたしました。
次にヒースクリフが訪れたとき、お嬢様は庭で|鳩《はと》に|餌《えさ》をやっておいででした。お嬢様は義姉にこの三日間一言も口をききませんでしたが、したがってあの|駄《だ》|々《だ》ッ|児《こ》らしい泣言も言わなくなったので、私たちはせいせいしたと思っていたのです。これまでヒースクリフは、イザベラに不必要なお世辞など一言も言ったことがありませんのに、その日はお嬢様を見るや否や、まず用心深く家の前を一渡り|見《み》|廻《まわ》しました。私は台所の窓ぎわに立っていましたが、その時ひょいと隠れたのです。それから彼は敷石を横切ってお嬢様の|側《そば》に行き、何やら話しますと、お嬢様は当惑したらしくそこを去ろうとしましたら、彼はそれをとめて手をお嬢様の腕にかけます。お嬢様は顔をそむけました。彼は何か答えにくいようなことをたずねたらしいのです。再び家の方をちらりと見渡し、誰も見ている者がないと思って、彼は失礼にもお嬢様を|抱《ほう》|擁《よう》してしまいました。
「ユダ! 裏切者! それにまた偽善者ね、|慎重《しんちょう》な|欺《ぎ》|瞞《まん》|家《か》!」と私は叫びました。
「誰のこと? ネリー」キャサリンの声がすぐ|傍《そば》で言いました。あまり夢中で外の二人に気を取られ、奥様のはいって来たのに気がつかずにいたのでした。
「あなたのかいのない友達です」と私は|憤《ふん》|慨《がい》して答えました。「あそこにいる|卑《ひ》|劣《れつ》|漢《かん》です。おお、私たちを見つけてこちらに来ますよ! あなたにはお嬢様が嫌いだと言っておきながら、ああやってお嬢様に恋をしかけるなんて、一体何と言って弁解する気でしょうか?」
リントン夫人はイザベラが男から離れて庭に|駈《か》け込むところを見ました。それから一分間ののち、ヒースクリフは戸をあけました。私は|鬱《うっ》|憤《ぷん》を|洩《も》らしたくてたまりませんでしたが、キャサリンは黙っていなさいと腹立たしげにおおいかぶせ、差し出た口をきくなら台所から出て行ってもらうと私をおどしました。
「ネリー、お前がそんなことを言うのを聞いたら、世間ではお前をここの奥様かと思いますよ。お前は身分相応の位置に納まっているがいいわ! ヒースクリフ、こんな騒ぎを起して、あなた何をしていましたの? イザベラにはかまっちゃいけないって言ったじゃありませんか! あなたはここに来るのがいやになって、リントンに締め出しを食わされたいのでなかったら、これからどうぞ気をつけて下さいな!」
「そんな事をあいつにさせてたまるかい!」と悪者は答えました。これを聞いて私はこの男をひどく憎みました。「あいつはおとなしく|辛《しん》|抱《ぼう》してくれりゃいいんだ! あいつを極楽へ追いやってしまいたくて、僕は日増しに気ちがいみたいになっていくのに!」
「しっ!」とキャサリンは制して内側の戸を閉じ、「私の気をもませるもんじゃないわ! なぜあなたは私のたのみをきいてくれないの? あの|娘《こ》はわざとあなたの所へやって来て?」
「それがあなたにどうなんだ?」と彼は荒っぽく言って、「先方が望むなら、僕には彼女にキスする権利があるんだ。あなたはそれに抗議する権利がない。僕はあなた[#「あなた」に傍点]の|良人《お っ と》じゃありませんよ。あなた[#「あなた」に傍点]は何も私を|妬《や》かなくていい!」
「私、あなたを妬きはしないわ」と奥様は答えて、「私はあなたのために心配なんです。しかめッ|面《つら》はおよしなさい。私をそうにらみつけちゃいけません。あなたがイザベラをお好きなら、結婚させてあげるわ。だけどお好き? ほんとうのことをおっしゃいな、ヒースクリフ! そうら、返答がありますまい、そんなはずがないことはわかってるんです!」
「リントン様は、妹様がこの人と結婚するのをご承知なさいましょうか?」と私は|尋《たず》ねました。
「承知しなければなりません」と奥様はきっぱり答えました。
「そんなめんどうは省けるだろうよ」とヒースクリフは言って、「|承諾《しょうだく》しなくたって、僕がやろうと思えば、やれる事なんだ。あなたのことではね、キャサリン、ちょうどいい機会だから、ちょいと言っておきたい事があるんだ。気をつけて欲しい、あなたは僕を地獄のような目にあわせた、――全く地獄のような目に! 僕は覚えて[#「覚えて」に傍点]いるよ、いいかえ? 僕がそれを気にかけないなんて、そんな虫のいいことを思ってるなら、あなたはばかだ。僕を甘い言葉ですかすことができると思ってるなら、あなたは|阿《あ》|呆《ほう》だ。そして僕が|復讐《ふくしゅう》もせずに辛抱してると思うなら、今にすぐ、その反対のことを思わしてあげるよ! ついでながら、妹さんの秘密を知らしてくれてありがとう。僕はぜひそれをできるだけ利用しよう。じゃましないで、見ていなさい!」
「これがこの人の性格の一面なのね!」とリントン夫人は驚いて叫びました。「私があなたを地獄のような目にあわして――そしてあなたが復讐するんですって? 恩知らずの畜生ね、どうやって復讐なさるの? 一体私はあなたをどんな地獄のような目にあわせて?」
「私は何もあなたに復讐はしない」ヒースクリフは少しもの柔らかに言って、「そんな|目《もく》|算《さん》じゃない。暴君は|奴《ど》|隷《れい》をふみつけるが、奴隷は暴君に仕返しせずに、自分の下の者をふみつける。あなたはご自分の|慰《なぐさ》みのために、私に死の|呵責《かしゃく》をさせて下すって結構です。ただ、私にも同じような慰みを許して下さい。そしてできるだけ私を|侮辱《ぶじょく》しないで下さい。私の宮殿を根こそぎ壊してから、そのかわりに掘立小屋を建ててくれて、それでいい気になって、ご自分の慈善を得意がることはよして下さい。あなたがほんとうに私をイザベラと結婚させたいのだったら、私は自分でのどを切った方がましだ!」
「まあ、じゃりんき[#「りんき」に傍点]しないことがいけないの?」とキャサリンは叫びました。「そう、そんなら私お嫁の世話なんか二度としないわ。堕落した|魂《たましい》をわざわざ悪魔に|捧《ささ》げるようにつまんないのね。あなたは悪魔みたいに|禍《わざわい》をかもすことがお好きなのよ。あなたはそれを証明してるわ。この|頃《ごろ》エドガーは、あなたの訪問がひき起した|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》も直り、私も安心して落着き始めたのに、そうするとあなたは私たちの平和が気にくわず、また一けんかさせようと決心したらしいのね。なんなら、エドガーとけんかなさい、ヒースクリフ、そしてあの人の妹をだましなさい。そうすればあなたは私に|復讐《ふくしゅう》するにはまさに一番有効な方法を見つけたことになるでしょうよ」
話はとぎれました。リントン夫人は顔を赤らめて|陰《いん》|鬱《うつ》に炉の|傍《そば》にすわっていました。奥様を助けていた魂はだんだん手におえなくなり、|鎮《しず》めることも|抑《おさ》えることもできないのです。男は炉ばたに突立って、腕組して、よからぬ物思いに|耽《ふけ》っていました。私は二人をこの位置に残して、ご主人の所へ行きました。キャサリンが階下でいつまでも何してるのかと、ご主人はいぶかしく思っておいででした。
「エレン」とご主人は私がはいるとおっしゃって、「お前奥様を見かけなかったかい?」
「奥様は台所にいらっしゃいます」と私は答えて、「ヒースクリフ様の振舞いにお気の毒なほど悩まされておいででございます。あの方の訪問に対して、これまでとはちと違ったあしらいをする時が来たと、私は思います。あまり|物《もの》|優《やさ》しくなさいますと害があります。そしてとうとうこんなことができてしまいました――」そう言って私は、あの庭の一幕や、それに引きつづくいさかいをなるべく遠慮なしに全部申し上げました。私はあまり奥様にとって不利にならぬよう話したつもりです。もっとも、奥様があとで客のために弁護して、ご自分からそうした結果を招いたのなら別ですけれど。エドガー・リントンは私の話を終りまで聞くもじれったいようでした。その最初にもれた言葉は、妻もよくないのだという気持をあらわしていました。
「とてもたまらん!」とご主人は叫びました。「あんな男を友達扱いにして、私にまでお|相伴《しょうばん》させるなんて|恥辱《ちじょく》だ! 召使部屋から下男を二人呼んでおいで、エレン。キャサリンにこれ以上あの下等な悪党と議論させておかぬ――私はもう十分に妻の|機《き》|嫌《げん》を取っているんだ」
ご主人は二階から降りて、下男たちに|廊《ろう》|下《か》で待っているよう命じ、私をしたがえて台所へ行きました。そこではまたもや二人が口論を始めていました。少なくともリントン夫人の方は、いっそう熱してどなっておいででした。ヒースクリフは窓際に移っていて、奥様のあらあらしい|罵《ののし》りにいささか|辟《へき》|易《えき》したらしく、|頭《こうべ》を垂れておりましたが、目ざとくご主人を見つけ、急いで相手の言葉を制しますと、奥様もそれと察して、突然言葉を止めてしまいました。
「どうしたのです?」とリントンは奥様にむかって、「こんな|下《げ》|司《す》にあんな言葉をつかわれても、まだ話相手になっているなんて、いったい何の礼儀の観念をあなたは持っておいでなのかね? これがこの男の平生の話し振りなので、あなたはそれを何とも思わないんだろう。あなたはこの男の|野《や》|卑《ひ》に慣れてしまってる。そしてたぶん私もやはりそれに慣れることができると思っておいでだ!」
「あなたは戸口で立ち聞きしていらしたのね? エドガー」と奥様は|良人《お っ と》の立腹にはおかまいなしに、またそれを|軽《けい》|蔑《べつ》するように、ますます人を怒らすつもりの口調でたずねました。ヒースクリフはご主人の話にまなじりを上げましたが奥様の言葉を聞いてあざけるように笑いました。リントン様の注意を自分の方にひくためにわざとしたらしいのです。それは成功しました。がエドガーは少しも怒りをあらわさずに彼に応待しました。
「私はあなたに対してこれまでずいぶん我慢していましたよ」とご主人は静かにいって、「あなたのみじめな堕落した品性を、知らなかったからではありません。あなたには一部分の責任しかないと思ったからです。キャサリンがあなたとの交際をつづけたがり、私も愚かにも黙認しました。あなたは最も徳高き者をも汚す道徳上の毒です。それゆえ、またさらに悪い結果を防ぐために、今後この家に出入することを拒絶し、今すぐ立ち去って下さるよう警告します。三分間の遅滞は、あなたの退去を強制的に、そして|恥辱的《ちじょくてき》にしてもやむをえません」
あざけりにみちた目で、ヒースクリフはこの言葉の主の|丈《たけ》と幅を計りました。
「キャシー、あなたの子羊が、まるで|牡《お》|牛《うし》みたいにおどすよ」と彼は言って、「この子羊の脳天はうっかりすると僕のこぶしで砕けそうだね。おお! リントンさん、私は実に残念に思いますよ、あなたは張り倒してあげる値打ちもないんでね!」
ご主人は|廊《ろう》|下《か》の方をちらと見て、下男をつれて来るよう私に合図なさいました。――とてもなぐり合いなどなさる気がなかったのです。私はその目配せに従いました。が、リントン夫人は怪しんで、私の後を追い、私が下男たちを呼ぼうとしました時、いきなり私を後に引きよせ、戸をぴしゃりとしめて|鍵《かぎ》をかけてしまいました。
「男らしいなさりようね!」と奥様は良人の怒った驚きの目に答えておっしゃるには、「あなたがこのかたに手むかう勇気がなければ、お|謝《あやま》りになるか、それとも打たれなさるがいいわ。そうすれば虚勢なんぞお張りになることが直りましょうよ。いいえ、あなたが鍵を取ろうなんてなさるなら、私はこれをのんじまいますわ。私はお二人のための心尽しに対して、ずいぶん気持のいいご返礼に預るのね! 一方の|惰弱《だじゃく》、それに片方の|性悪《しょうわる》、それをしじゅう大目に見てあげて、おまけにお話にもならないばかばかしい、まるで恩知らずの見本を|頂戴《ちょうだい》するなんて! エドガー、私はあなたとあなたのものとを|護《まも》ってあげていたところですよ。それに私のことを悪く思うなんて、ヒースクリフがあなたを病みつくまで|殴《なぐ》ってくれるといいわ!」
ご主人を病みつかせるほどの目にあわすには、強い|打擲《ちょうちゃく》をまつにおよびませんでした。ご主人はキャサリンから鍵をもぎ取ろうとなさいますと、奥様はそれを炉の火のまっただ中にほうり込みましたので、エドガー様は神経的に震えだし、顔は死人のようにまっ|青《さお》になりました。過度の激情を|抑《おさ》えられなかったのです。|苦《く》|悶《もん》、|屈辱《くつじょく》、それらの感じが一度にこみ上げてきて、すっかり参ってしまったのです。でご主人は|椅《い》|子《す》の背にもたれ、そのまま顔をおおい隠しました。
「おお、これが昔ならお立派な武士の|面《めん》|目《ぼく》でしょう!」とリントン夫人は言いはなって、「私たちの負よ! 私たちの負よ! 王様が|二十日鼠《はつかねずみ》の群れに軍隊を差向けないと同様に、ヒースクリフはあなたに対してなんか指一本もあげますまいよ。元気をお出し! 大丈夫誰も何ともしやしないわ! あなたなんぞ子羊じゃないわ。生れたての|兎《うさぎ》の|児《こ》よ」
「血管の中にお乳が流れてるような、気の弱い|臆病者《おくびょうもの》を、あなたは大好きなんでしょう」と奥様のお友達は言って、「そうしたあなたのお好みに対して祝意を表しますよ。こんな|涎《よだれ》たらしのぶるぶる震える|奴《やつ》を、あなたは私より好きなんだ! こんな者をこぶしで殴りたくはないが、足で|蹴《け》とばしたら胸がすくだろうな。|奴《やっこ》さん泣いてるんかい、それとも痛がって気が遠くなるところかな?」
そう言って近づいて来て、リントンのもたれてた椅子を小突きました。離れておればよかったんです。ご主人はいきなりとび上って、奴の首をいやと言うほどどやしつけました。相手が少し軽い男なら倒れるくらいだったのです。奴さん一分間ほど息を詰まらしていましたが、その間にリントン様は後の戸から庭へ出て、そこから表の入口にお|廻《まわ》りになりました。
「そうれご覧! あなたは二度とここへ来れなくなっちまった」とキャサリンは叫んで、「出てらっしゃい。さあ――あの人は両手にピストルを持って、半ダースの手下をつれてやって来ますよ。あの人が私たちの話を立ち聞きしたのなら、あなたをけっして|赦《ゆる》しっこありません。ヒースクリフ! あなたは私にまのわるいことをしてくれてね! まあいいわ、急いでお逃げよ! あなたじゃなしに、エドガーの方が狩り立てられるのだったらいいに」
「のどの中が焼けるほど|殴《なぐ》られたままで、僕が出て行くと思うのかい?」と男はどなりました。「地獄にかけてもいやだ! ここのしきいをまたいで出る前に、あいつの骨を腐ったハシバミみたいに、つぶしてやる! 今あいつを床に|叩《たた》きつけておかないと、いつか奴を殺してやるんだ! だから奴の命が大事だと思うなら今あいつをとっちめさせるがいい!」
「|旦《だん》|那《な》様はいらっしゃいません」とちょっとうそをついて私は口を|挿《はさ》みました。「|馭《ぎょ》|者《しゃ》と庭番二人がやって来ます。あなたはあの人たちに道路へ突き出されるのを、わざわざお待ちなさいますね! めいめい|棍《こん》|棒《ぼう》を持ってます。旦那様はたぶんお部屋の窓から、みんながご命令どおりにするのを見ておいででしょうよ」
庭番たちと馭者とはやって来ましたが、実はリントンも一緒でした。一同はもう庭まで来ていました。ヒースクリフは考え直して、三人の手下どもを相手にするのはよそうと決心しました。そして|火《ひ》|掻《かき》|棒《ぼう》を握って、内側の戸の|錠《じょう》を叩き壊し、一同がふみ込んだ時には、そこから逃げ出してしまったのでした。
リントン夫人はひどく興奮して、私に二階について来るように命じましたが、この騒ぎの元は私から起ったとはご存じないので、その事はそっとして置きたいものと私は心配なのでした。
「ネリー、私はまるで気が狂いそうよ!」と奥様はソファに身を投げ出して叫び、「千人もの|鍛《か》|冶《じ》|屋《や》の|鎚《つち》が頭の中でガンガンやってるわよ! イザベラに私の目につかないようになさいってお言い、このさわぎは彼女のせいよ。彼女でも誰でも、今この上私の怒りをつのらせようものなら、気がふれて暴れ出しそうよ。そしてネリー、今晩エドガーにあったら、私が重病になるおそれがあると言って|頂戴《ちょうだい》――ほんとうにそうなるといいわ。あの人は私を恐ろしく驚かせて苦しませてよ! 私もあの人を驚かしてやりたい。それに、あの人はここへやって来て、悪口やら|愚《ぐ》|痴《ち》やらをだらだらと始めそうだわ。そうなれば私だってむろん黙っていないし、そしたらどこではてしがつくかわかりゃしないわ! ね、ネリーや、そうしておくれでない? お前は今日のことでは私に何の罪もないことをご存じね。あの人が立ち聞きするなんて何に取りつかれたのかしら? お前が出て行った後で、ヒースクリフの言いようったらまるで無茶だったけれど、私はじきに話をイザベラの事からそらすことができたので、その後は何でもないことだったの。ばかが自分の悪口を聞きたがる執心、ある人たちには悪鬼みたいに取りつくあの執念のおかげで、今は何もかもめちゃめちゃになっちゃったわ! エドガーが私たちの話を耳に入れなくとも、そのために悪いことになんかなりはしなかったのに。私はあの人のために声がかれるほどヒースクリフを|叱《しか》った後にあの人があんなわけのわからぬ不快な調子で私に口を切った時は、ほんとうに私あの二人が互いに何をしようとかまやしないと思ったわ。それに、あの場の結末がどうなったにせよ、私たちはもういつまでともわからないほど長い間、てんでんばらばらに離れてしまわねばならぬと思ったのですもの! いいわよ、もしも私ヒースクリフを友達にしておくことができなければ――もしもエドガーが卑劣でやきもちをやくなら、私自分の胸を|傷《いた》めて、そして二人の胸を傷めてやるわ。いよいよせっぱつまったら、それが万事を片づけるてっとり早いみちよ! でも、それは最後の望みとして取っておこう――リントンに不意打ちをくわすのはかわいそうだから。この点では私を怒らすことを恐れてあの人も用心していてよ。その政策を|棄《す》てることの危険を、お前はよく話して、燃えると狂気のようになる私の激しやすい性分を、あの人に注意しなくてはなりませんよ。お前はそんな冷淡な顔をしないで、も少し私の事を心配してくれるように見せてはどう?」
こうした言いつけを聞いている私の鈍感な様子は、むろんずいぶん奥様のしゃくにさわりました。奥様の言葉はまったく真剣だったからです。しかし前もって自分の激情を|上手《じょうず》に利用しようと|企《くわだ》てることができる人は、その発作の最中ですら意志を働かせて、かなりの程度までどうにか自制することもできるだろうと、私は思ったのです。それに私はご主人を「驚かして」その苦悩を二倍にしてまでも、奥様のわがままを助長させたくないのでした。それゆえ私は後でご主人が居間の方に来るのに出会ったとき、何事も申しませんでした。そしてお二人がまた口論を始めるかどうか聞くために、私はちょいとせんえつながらまた二階へと引き返して参りました。
ご主人がまず口を切りました。
「そのままでいいよ、キャサリン」といったお声には少しの怒りもありませんでしたが、ずいぶん悲しげな失望の調子をおびておりました。「私は長居はしない。口論しに来たのでもなければ仲直りに来たのでもない。ただ、私の知りたく思うことは、今晩のような事が起きてもなお、あなたははたして今までどおりの親しい交際をあの――」
「おお、|後生《ごしょう》ですから」と奥様は足をふみ鳴らしながらさえぎって、「後生ですから、今はそのことをこれ以上言わないで下さい! あなたの冷たい血は熱しっこないのですもの。あなたの血管は氷水で一杯です。私のは煮え立っていて、冷たいものを見ただけでも|躍《おど》ります」
「私がいるのがいやなら、私の問いに答えなさい」とリントン様は言い張って、「あなたはぜひとも答えなくてはならない、あんな乱暴ぐらいに私は驚かないよ。あなたは心持次第で、誰よりも冷静になれる人なんだ。一体、あなたは、今後ヒースクリフを|棄《す》てる気か、それとも私を棄てる気かね? 私の[#「私の」に傍点]味方で同時にまたあの男の[#「あの男の」に傍点]友であるわけにはいかない。あなたがどちらを選ぶのか、私はそれを知りたい。否、絶対に請求する」
「私におかまい下さらぬよう、こちらから請求いたしますわ!」とキャサリンは荒々しく叫んで、「要求いたしますわ! あなたは私がほとんど立てないことをご覧にならない? エドガー。あなた、私をそっとしておいて、あちらに行って下さい!」
そう言って|呼《よび》|鈴《りん》を、ぶるんと音たててこわれるまで、やけに鳴らしましたが、私はゆっくりはいって行きました。それは全く聖人をも怒らすほどのむちゃな|癇癪《かんしゃく》の起しようでした。頭をソファの腕に打ちつけて横になったまま、まるで歯が粉々になるかと思われるほどひどく歯ぎしりしている始末! リントン様はにわかに後悔しかつ|懸《け》|念《ねん》して、奥様を見まもりながら立っていましたが、私に水を少し持って来るようおっしゃいました。奥様はものを言うにも息がつけません。私は一杯の水を持って来ましたが、飲もうとなさらぬので、それを顔にかけてやりました。数秒して体がこわばり、目がつり上り、そして|頬《ほお》は白くまた鉛色になって、まるで死人のようでした。リントンはたいへん|驚愕《きょうがく》した様子に見えました。
「けっして何の事もございません」と私はささやきました。実は心に案じないわけにいきませんでしたけれど私はご主人に屈服させたくないのでした。
「|唇《くちびる》に血が!」とふるえながらご主人が言われますので、
「ご心配はいりません!」と私はつっけんどんに答え、以前奥様が気ちがいの発作をして見せようとたくらんでおられたことを申し上げました。それが不注意にも高声でしたので、たぶん聞えたのでしょう、奥様はいきなり立ち上りました。その髪は両肩に振りかかり、両眼はきらめき、首や腕の筋肉は超自然に突出した有様に、私は少なくとも骨の二、三枚は折られる覚悟をしましたが、奥様はしばらく周囲をにらんだだけで、そのまま室を出て行ってしまいました。ご主人の命令で私はすぐ跡を追いましたが、奥様のお部屋の戸口まで来ますと閉め出しを食わされました。
翌朝になっても奥様は朝食に下りていらっしゃらないので、私は何かお食事を運びましょうかと申し上げますと、「いいえ!」ときっぱり答えられました。同じ問いが昼食にもお八つにも繰返され、翌日の朝にもまた繰返されましたけれど、いつも同じお答でした。リントン様の方では書斎におこもりになって、奥様が何をしているか|尋《たず》ねようともなさいませんでした。そしてイザベラを一時間も引き寄せて、ヒースクリフから言い寄られた時の恐ろしかった感じを聞こうとしましたが、イザベラの答が|逃口上《にげこうじょう》で要領を得ず、不満足のまま審問を閉じねばなりませんでした。ただ、おごそかに警告なさいましたことは、もしもイザベラがあのくだらない求婚者に油をそそぐような狂気の態度に出るなら、兄妹の縁も何もかも、すっかり絶ってしまうぞと申し渡しなすったことでございました。
一二
リントン嬢はいつも無言で、そして|大《たい》|概《がい》いつも涙ぐんで、|猟苑《りょうえん》や庭を元気なくぶらついていますし、そのお兄様は、開いたこともない書籍の間に閉じこもって、おそらく、キャサリンが自分から後悔し、謝罪しにやって来て、そして和解を求めるであろうと待ちあぐんでいますし、キャサリンの方では|頑《がん》|固《こ》に|断《だん》|食《じき》を続け、たぶん、|良人《お っ と》が走って来て自分の|足《あし》|許《もと》にひざまずかないのはただ自負心のためで、内心では自分のいないことが|寂《さみ》しくて食事ものどに通るまいと推測していますし、そうした人々の間にあって、このグレンジには|分《ふん》|別《べつ》ある心はただ一つ、しかもそれは私のからだに宿っているのだと自重して、私は家事にいそしんでおりました。私は|無《む》|駄《だ》|骨《ぼね》を折ってお嬢様を|慰《なぐさ》めもせず、奥様を|諫《いさ》めもせず、奥様の声が聞けないので、その名前だけでも聞きたいとこがれていらっしゃるご主人の溜め息に注意もしませんでした。私は、めいめいがご自分で仲直りするがいいと決めていました。そしてじれったいほどおもむろながら、その仲直りの|微《かす》かな|曙《しょ》|光《こう》が、とうとう見えて来たと喜び出したのですが、それも|束《つか》の|間《ま》のぬか喜びなのでした。
リントン夫人は三日目に部屋の|扉《とびら》を開きました。水差しにも|瓶《かめ》にも水が尽きたので、水を|汲《く》んで来るように、そして死にそうだからお|粥《かゆ》を少し持って来るようにとおっしゃいました。その「死にそうだ」という言葉をエドガーの耳に入れたいつもりだな、と私は思いましたが、まさかとたかをくくって、私の胸にその言葉を畳み込み、お茶とバタなしのトーストとを持って行きました。それをがつがつ食べて飲んで、また|枕《まくら》にもたれ、こぶしを固く握ってうめいておいででした。
「おお、私死のう」と叫んで、「誰も私のことをてんでかまってくれないんだもの。何も食べずにいればよかった」
ややしばらくしてひとりごとのようにつぶやきました――
「いいえ、私死なないわ――あの人は喜ぶでしょうけれどね――あの人ったら私をちっとも愛しちゃいない――私が死んだとて寂しくも悲しくも思うもんですか!」
「奥様、何かご用がございますか?」奥様の幽霊のような顔色と、大げさな様子にもかかわらず、なお外見はすました態度を保って、私はたずねました。
「あの冷淡さんは何しているの?」と厚い乱れ髪をやつれた顔からかき上げながら、「あの人は|昏《こん》|睡《すい》しているの? それとも死んでるの?」
「いいえ」と私は答えて、「リントン様のことでしたら、まあお達者の方でございましょう。少しお勉強に|凝《こ》り過ぎておいでのようですけれど。もう他にお相手がございませんものですから、しじゅうご本の中にばかり閉じこもっていらっしゃいます」
奥様のほんとうの容態がわかったなら、こんなことを言うべきでなかったのですが、病気のお芝居をやってるとしか私には思えなかったのです。
「ご本の中にですって? 私が死にかかっているのに! 墓場にはいりかけているのに!」と驚いたように叫び、それから向うの壁にかかっている鏡を見つめながら、「まあ! あの人は私がどんなに変ったか知らないのね! あれがキャサリン・リントンなの! 私がすねて、芝居でもしてるように思ってるのね。お前あの人に全く正真正銘のことですって言っておくれでない? ネリーや、今からでも手遅れでなければ、私はあの人がどう思ってるかわかったらすぐに、二つの|途《みち》のどちらかを選ぼうと思うの。すぐに飢え死にしてしまうか――でもこのほうはあの人に人情がないのなら|呵責《かしゃく》にもなるまいけれど――それともなおってこの土地を去るか――。お前はあの人についてほんとうのことを言っているの? 気をつけて物をお言いよ。あの人は私の命のことを実際そんなに全然無関心なの?」
「おや、奥様」と私は答えて、「|旦《だん》|那《な》様はまさかあなたの気が変だなんて思いませんから、もちろんあなたが飢え死になさろうなどとはご|懸《け》|念《ねん》なさいません」
「お前そうお思いなの? 私が飢え死にする気でいると話してくれられない? あの人に|納《なっ》|得《とく》させておくれ! お前の心で確かにそう思うとお話しするのよ!」
「いやです。あなたはさきほど何かをおいしそうに召し上ったじゃございませんか。で明朝になると少しお元気が出ましょうよ」
「ああ私が死ねばあの人も死ぬのだったら、私すぐにでも死んでよ!」と奥様は言葉をはさんで、「この恐ろしい三晩、私ちっとも|瞼《まぶた》を閉じなかったの。そりゃあ苦しかったわ! ネリー、私何かに取りつかれたのよ! だがお前まで私を好かないように思われてくる。なんて不思議でしょう! 皆お互いに憎みあっても、この私を愛せずにいられなかったと思ったのに、わずか二、三時間で皆が私の敵になったのね――そうよ、ここの家の人は皆よ。そうした冷たい顔にかこまれながら死ぬのは、なんてさびしいことでしょう! イザベラはこわがってそしていやがって、部屋にはいって来ますまい――キャサリンの死ぬのを見ることはこわいでしょうからね。そしてエドガーはしかつめらしく|傍《そば》に立って私の臨終を見とどけ、それから『この家に平和の回復したことを感謝します』と神様に|祈《き》|祷《とう》を|捧《ささ》げ、そして書斎の本に帰って行くでしょうよ! 私が死にかけてるのに、感じのある者なら一体どうして本など読んでいられるかしら!」
リントン様の哲人めいた冷静なあきらめぶりを私から聞かされて、奥様はもうたまりかねたのでした。|身《み》|悶《もだ》えし、熱に浮かされた狂乱は激しくなり、歯で|枕《まくら》を|噛《か》み切り、やがて火のようになって起き上って、窓をあけておくれと私におっしゃいました。冬の最中でした。風は東北から強く吹きつけていました。で、私はお断わり申しました。しかし奥様の顔色も気分も急にしおれ返りましたので、私はぎくりとしました。以前のお病気のことと、お気にさわっちゃならぬといった医師の言いつけとが思い当りました。一分前の狂暴はどこへやら、今は静かに|片《かた》|肱《ひじ》をついて、私の不従順な断わりにもいっこう|無頓着《むとんちゃく》な様子で、今しがた破った|枕《まくら》のさけ目から羽毛を引き抜き、それを種類別に敷布の上に並べなどして、子供じみた|慰《なぐさ》みごとに興じているようでした。奥様の心はすでにほかの連想に移っていたのです。
「それは七面鳥の羽毛」と|独《ひと》りでつぶやいて、「そしてこれは|野《の》|鴨《がも》ので、これが|鳩《はと》の。ああ、鳩の羽毛が枕に入れてあったのね――道理で私死ねなかったのだわ。これを寝る時にゆかへ捨てることにしよう。それからここに|雷鳥《らいちょう》の羽があるし、そしてこれは――いろんな鳥の毛が千もある中だって、わからないでどうしましょう――|田《た》|鳧《げり》のよ。かわいい鳥。沢原のまん中で私たちの頭の上を舞っていたっけ。巣に帰りたかったのね。だって雨雲が丘に触れて、鳥は雨の来るのを感じていたんですもの。この羽は野原で拾ったものよ。あの鳥は撃たれたのじゃないわ。――私たちは冬にあの鳥の巣が小さな|骸《がい》|骨《こつ》で一杯なのを見たっけ。ヒースクリフがその上に網をかけて置いたんですもの、親鳥はこわがって来られやしないわ。それ以来ヒースクリフはけっして田鳧を撃たないと約束して、それから撃たなかったのよ。そう、ここにもまだあるわ。あの人は私の田鳧を撃ったのかしら? ねえネリーや、どれか赤いのがあって? 見せて|頂戴《ちょうだい》」
「そんな赤ん坊の真似はおよし遊ばせ」と私はさえぎって、枕をひったくり、穴を敷ぶとんの方に向けました。一|掴《つか》みずつ枕の中実を取り出していたからです。「さあ、お休みなすって、目をお閉じなさい。熱に浮かされていらっしゃいますよ。まあこの散らかしよう! 綿毛はまるで雪のように飛んでいます」
私はあちこち歩いてそれを拾い集めていました。
「ネリーや」と奥様はまた夢見るように話し続けて、「お前は|白《しら》|髪《が》で腰の曲った|婆《ばあ》さんなのよ。そしてこの寝台はね、ペニストンの岩の下の|仙《せん》|人《にん》|窟《くつ》よ。お前は私たちの若い|牝《め》|牛《うし》を打とうと思って、ひうち石のやじりを拾い集めてるのよ、でも私がそばにいる間だけ、それを羊の毛かなんぞのように見せてるんだわ。いや、これはもう五十年も後のことよ。お前が今そうだっていうのじゃないの。私ちっとも熱に浮かされてなんかいやしない。お前は感違いしてよ。でなくちゃ、お前がほんとうにしなびた|妖《よう》|婆《ば》で、私がペニストンの岩の下にいたと思わなければならない。私はちゃんと意識しててよ。今は夜でしょう。そしてテーブルの上にロウソクが二本立ててあるでしょう。それで|黒《くろ》|塗《ぬり》の|戸《と》|棚《だな》が、まるで黒玉のように光ってるでしょう」
「黒塗の戸棚! どこにそんなものがあります? あなたは夢心地で話していらっしゃいますね」
「いつものとおり、壁に寄せてあるじゃないの。何だか変ね――その中に顔が見える!」
「戸棚なんかこの部屋にございません。今までだって置いたことがございません」と私は席に戻りながら言って、奥様を見ることができるようにカーテンを上げて結びました。
「お前にはあの顔が見えないの?」と奥様はじっと鏡を見つめておっしゃいます。
それはご自分のお顔ですと、いくら申し上げてもおわかりにならないので、私は立って行って鏡に|肩《かた》|掛《かけ》をかぶせてしまいました。
「そのうしろにまだ居るわ!」となおも心配げにおっしゃって、「そして動いた。誰? おお、ネリーや、お前が行った後でそれが出てこなければいいがねえ! この部屋には幽霊が出るのよ。私|独《ひと》りでいるのがこわいわ」
私は奥様の手をとって、静かになさるよう申し上げました。なぜなら、引続く震えにおからだをけいれんさせて、なかなか鏡から目を離そうとはなさいませんので。
「ここには誰もおりません。鏡に写っていたのは奥様のご自分の姿です。さっきまでそれがおわかりでしたのに」
「私! そして時計は十二時を打ってる。ではほんとうなのね。まあこわい!」
奥様の指は夜具をしっかりつかんで、それを目の上に引き寄せました。私は|旦《だん》|那《な》様をお呼びしようと思って、戸口にこっそりと歩み寄りましたが、鋭い叫びで呼び返されてしまいました。肩掛が鏡から|辷《すべ》り落ちていたのです。
「まあ、何事です! 今度はどなたが|臆病者《おくびょうもの》ですか! 目をさましなさい! あれは鏡です。あなたはご自分の影を見ておいでなのです。あなたのおそばにはちゃんと私もおりますよ」
奥様はふるえながらおどおどして、私にしがみついているうちに、顔色から恐怖の色は次第に去って、青ざめた色は恥じらいのほてりに代ってゆきました。
「おお、ネリーや、私ね、実家にいたと思ったの。ワザリング・ハイツで私の部屋に寝てたと思ってたの、私は弱っているものだから頭がおかしくなって、それで思わず叫んじゃったの。何も言わずに、私と一緒にいて、ね。私眠るのがこわい。夢にうなされるんですもの」
「ぐっすりお眠りになるとよござんすよ」と私はお答えして、 「こんな苦しい目におあいなさるのですから、もう二度と絶食なんぞなさらない方がよろしゅうございます」
「おお、私、元の家の寝床にいるんだといいに!」と奥様は両手を絞って苦しげに言うことに、「そして風はあの|格《こう》|子《し》|戸《ど》の側のモミの木に鳴っているのね。どうぞあの風に触れさせておくれ――あの風は沢原をまっすぐに吹き下ろして来るのね――一息でも吸わしておくれ!」
お心をしずめるために、私はちょっとのあいだ窓を少しあけておきました。冷たい風がさっと吹き込みました。私は窓を閉じて、また元の座につきました。今、奥様は静かに横になって、お顔は涙に|濡《ぬ》れていました。身の疲れは心をすっかりしずめて、さすがに火のようなキャサリンも、今は泣虫の子供同様でした。
「私がここに閉じこもってから、どのくらい経つの?」と奥様は突然元気になって尋ねました。
「あれは月曜日の晩でした。そして今は木曜日の夜、いえもう金曜日の午前でございます」
「まあ! 同じ週の?」と奥様は叫んで、「たったそれだけの短い間なの?」
「ひや水と|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》とだけで生きてるには、もういい加減たくさんな間でございますよ」と私は申しました。
「そうね、退屈な長い時間のように思うけれど」と奥様は疑うようにつぶやいて、「もっと長い間に相違ないわ。あの二人がいさかいした後で、私は居間にいたことを覚えている。それからエドガーがあんまりしゃくにさわるので、私はやけになってこの部屋にかけ込んだのだわ。戸をしめるが早いか、何もかもわからなくなって、床の上に倒れちゃったの。もしエドガーがいつまでも私をいじめるなら、きっと私はひきつけるか、それとも乱暴な気ちがいになっちまいそうだということを、私はエドガーに説明できなかったの! だって、舌も頭も自由に働かないし、それにエドガーはたぶん私の苦しみがわからなかったでしょう。私、ただエドガーの声の届かない所へ逃げようとする|分《ふん》|別《べつ》だけ、やっとあったんだわ。ようやく物が見えたり聞えたりするくらいになったらもう夜が明けかかっていたの。ネリーや、そのあいだ私が何を思ってたか今話してあげよう。それを繰返し繰返し思い続けて行くうちに、何だか気ちがいになりゃしないかと|懸《け》|念《ねん》したほどよ。あのテーブルの|脚《あし》に頭を支え、目は夜明け前の灰色の四角な窓をぼんやり認めながら、そこに倒れていると、私は昔の家のあのカシワの鏡板の箱寝台にはいってるように思って、|覚《さ》めたばかりなので思い出せないけれど、何かしら大変な悲しみでもって胸が痛んでいたの。じっと考えてみて、一体どうしたことかわからずにじれているうち、じつに不思議なことには、過去七年間の私の生活が全然空虚になったのよ! どうしても有ったこととは思えないの。私は子供で、お父様のお葬式がすんだばかりで、ヒンドリ兄様が私とヒースクリフとを引き離してしまったので、私の悲しみが始まったところなの。私はその時初めて|独《ひと》りぼっちになったので、一晩じゅう泣き通したのち、不吉なまどろみの夢からさめて、箱寝台の戸をあけるつもりで手をあげたら、そこの手がそのテーブルの頭にぶつかったのよ! その手で|絨毯《じゅうたん》をさっとはらったとたん、記憶が突然よみがえっちゃったの。すると今までの|苦《く》|悶《もん》が今度は失望の発作に|呑《の》み込まれちゃって、ほんとうにまあなぜあんなに物狂わしく落胆したのか自分ながらわからないくらいだわ。べつだんこれという理由もなし、きっと一時的の精神|錯《さく》|乱《らん》ね。でも十二の年にハイツとそこのあらゆる幼な|馴《な》|染《じみ》から離れ、そのころ私にとってなくてならぬものだったヒースクリフから引き離されて、その後急にリントン夫人になり、スラシクロス・グレンジの奥様になり、よその男の妻になり、それまで私の世界だった所から、それ以来、追放者とも|流《る》|浪《ろう》|人《にん》ともなってるのですもの、私のはい|廻《まわ》ってた|深《しん》|淵《えん》の|閃《ひらめ》きくらいは、お前にだって想像できるでしょう! まあネリーや、勝手に頭を振るがいい、お前さんが私の気を変にさせる手助けをしたくせに! お前はエドガーに話してくれるとよかったのに、ほんとうにさ、そして私を安静にしておくように言い張ればよかったんだわ! おお私まるで燃えるようだわ! 外に出ていたい! 私もう一度半野蛮で元気で、そして自由な子供になって、ひどい目にあわされても狂乱したりせずに、かえって笑ってやりたい! なぜ私こうも変ったのかしら? なぜ少しの言葉にも私の血潮は地獄のような大混乱にたぎりたつのかしら? あの丘のヒースの|藪《やぶ》の中に行けば、またほんとうの私に返るに相違ないけれど。もう一度その窓を一杯にあけておくれ。あけたままにしてとめ金を掛けておくれ! 速くさ、なぜお前動かないの?」
「|風《か》|邪《ぜ》を引かせてあなたを死なせたくないからです」と私は答えました。
「私に生きる機会を与えたくないからです、というつもりね」すねたようにこう言って、「私だってまだ人手にばかりすがらなくたってやって行けてよ。自分であけるからいいわ」
そして私がおとめできないうちに寝床から抜け出し、大変危い足取りで部屋を横切り、窓をあけてからだを外に突き出し、外の凍った空気がまるでナイフのように鋭く肩の辺を切っても、いっこう平気なのです。私はまず嘆願し、しまいには力ずくで引き戻そうとしたのですが、奥様の狂気の力にはとうていかなわないとすぐに観念しました(奥様は確かに狂気でした。後の振舞いや気ちがいじみた話し振りから察してどうもそうとしか思えないのです)。月はなくて、下界の万物は霧の暗さの中に横たわり、|遠《おち》|近《こち》のどの家からも一点の光さえひらめきませんでした。ともし火はみんなとうに消されていたのです。それでワザリング・ハイツの|燈火《あ か り》などはけっして見えないのに、奥様は見えると言いはるのでした。
「ご覧! あれが私の室で、ロウソクがともり、前に|樹《き》が揺れている。も一つのロウソクはジョウゼフの屋根裏部屋のよ。ジョウゼフは遅くまで起きてるのね! 私が帰ったら門の|錠《じょう》をおろそうと思って待ってるんだわ。いいわ、も少し待ってるがいい。ずいぶん難儀な旅路ですもの、ここを行くのは悲しい心持よ。それにこの旅を行くには、ギマトンの教会の側を通らなきゃならないんですもの! 私たちは幽霊なんか平気でよく一緒にあそこに行ったものね。そしてお互いに|挑戦《ちょうせん》し、墓場の中に立って、お化け出ろなんて言ったものね。だがヒースクリフ、もし私が今あなたに挑戦したら、あなたは来る元気があって? もしあなたが来れば、私は離さない。私は|独《ひと》りであそこへ寝ていないでしょうね。たとえ私を十二フィートも地の底に埋めて、その上にあの教会をのっけても、あなたと一緒でなけりゃ安眠しないわ、けっしてしないわ!」
ちょっとまを置いてから、奇妙な微笑を浮べてまた言葉を続けるのでした。「あの人は思っている――私の方で来ればいいにと思ってるでしょう。では道を見つけてよ! あの教会の墓場を通らずにね。まああなたは遅いこと! 安心なさい、あなたはいつも私の後からついて来たものよ!」
気が狂っているのに話してもむだと悟りましたので、私は奥様を|抑《おさ》えたままで、何か着せてあげるものを取ろうと工夫していました。うっかり手を放して、あけ放しの|窓《まど》|格《ごう》|子《し》のそばに奥様一人放ってはおけないのでした。その時、驚いたことには、ドアの|把《とっ》|手《て》の音がしてリントン様がはいって来ました。文庫からちょうど出て、|廊《ろう》|下《か》を通りがけに私たちの話が聞えたので、こんな遅い時刻に一体何事かと、好奇心か|懸《け》|念《ねん》かで、つきとめてみようとなすったのでしょう。
「おお、|旦《だん》|那《な》様!」と私は主人の|唇《くちびる》まで出かかった驚きの叫びをおさえるように言いました。目にとまった光景と、室内の風寒い|雰《ふん》|囲《い》|気《き》とにはびっくりなさるはずです。「まあ、おかわいそうに奥様はご病気です。私は全く|敗《ま》けてしまいます。どうにも私の手におえません。なにとぞここに来て、奥様に寝床につくようにお|勧《すす》め下さい。ご立腹をお忘れ下さい。気ままで、人の言うことをきかないおかたですから」
「キャサリンが病気?」とおっしゃりながら私たちの方へ急いで来なすって、「窓をおしめ! エレン。キャサリン! どうして――」と言いかけて黙ってしまいました。夫人の様子のやつれはてた|凄《すご》|味《み》に驚いて二の句がつげず、主人はただ|驚愕《きょうがく》のあまり奥様から私へと目を見張るばかりでした。
「奥様はここでいらいらしながら、ほとんど何も召し上らず、文句もおっしゃらずにおいででした」と私は言葉を続け、「それに今晩まで誰もここに入れて下さらないので、私たちもこうしたこととはいっこう存じませんでしたから、旦那様にお知らせ申し上げることもできませんでした。しかし何でもございません」
私はまずい説明をしたと思いました。旦那様はしぶい顔をなさいました。「これが何でもないのかい? エレン・ディーン」と厳しくおっしゃって、「私に知らせずにおいたわけを、もっとはっきり説明しなさい」そして両腕で奥様をだいて、痛ましげにその顔をのぞきました。
最初奥様はご主人がわかりませんでした。ただ宙を見つめている目には|良人《お っ と》の顔も見えなかったのです。しかしこの精神|錯《さく》|乱《らん》はまだ軽かったので、やがて目を外の|暗《くら》|闇《やみ》に向けた凝視から離して、ようやく旦那様に注意を集中し、ご自分を抱えているのは誰かとわかったようでした。
「ああエドガー・リントン、あなたがいらしたの?」と|憤《ふん》|慨《がい》して言うには「あなたなどはちっとも用のない時にばかりいつも見つかって、必要の時となるとけっしていやしないのね! 今にたんと|愁嘆《しゅうたん》があるでしょう――それが私にはわかりますわ――けれど、どんな愁嘆もあそこの私の狭い家に行く私を抑えるわけにはいかないわ。あの私の休み場所、あそこへ私はこの春の終らない前に行くわ! それはね、あの教会の屋根の下のリントン家の墓地なんかじゃないの。墓石をのっけた野ざらしの墓よ、あなたはリントン家の墓地へ行こうと、私の方へ来ようとお勝手よ!」
「キャサリン、どうしたんだ? お前は私にとってもう他人なのかえ? お前は愛しているのか、あの悪党のヒース――」
「黙って!」と夫人は叫んで、「たった今お黙りなさい。あなたがその名前を言ってしまえば、私は窓から飛びおりて即座に事の結末をつけます! あなたが現在ふれてるこのからだはあなたのものでしょうが、私の|魂《たましい》は二度とあなたが手を触れる前にあの丘の頂上にいましょうよ。エドガー、私もうあなたに用事がないわ。もうあなたではだめなのよ。書物にお帰りなさいませ。あなたが私の中に持っていたものはみんな無くなっても、あなたはまだほかに|慰《なぐさ》めをお持ちで結構ですことね」
「|旦《だん》|那《な》様、奥様は正気でございませんのです」と私は言葉をはさんで「一晩じゅううわごとを言っておいででした。安静にして適当な看護をしてあげれば回復しましょう。今後私たちは奥様の気にふれないよう注意しなくてはなりません」
「お前からよけいな忠告はもうたくさんだ」とリントン様はおっしゃって、「お前は奥様の性質を知っているはずなのに、かえって気を悪くさせるように仕向けたんだ。そしてこの三日間奥様がどうであったか、ちっとも私に知らせないじゃないか! それは不人情というものだよ! 幾月も病んでいたって、こうまで変るものじゃあるまいさ!」
私は弁解し始めました。ひとのつむじ曲りのために|叱《しか》られてはたまらぬと思ったからです。「奥様が天性|頑《がん》|固《こ》で|高《たか》|飛《び》|車《しゃ》なことは存じております」と私は叫んで「けれどもその激しいご気象を、あなたが甘やかして助長なさりたいとはいっこう存じませんでしたよ! 奥様のご|機《き》|嫌《げん》をとるために、ヒースクリフさんを大目に見ねばならぬとは存じませんでした。私はあなたにお知らせ申し上げて、忠実な召使の義務を果しました。それなのに私は忠実な召使のありがたい報酬を|頂戴《ちょうだい》いたしました。よござんす、この次からは気をつけねばならぬという|戒《いまし》めになりました。この次からあなた様はお一人で早耳におなり遊ばせ!」
「この次から勝手なこしらえ事など話すと、暇をやるよ」とご主人は答えました。
「そんならあなた様は何もお聞きなさりたくないのでございますね?」と私は言って、「ヒースクリフはあなたのおゆるしを得てお嬢様に求婚しに来るのですね? そしてあなたのお留守の機会ごとにちょくちょく訪ねて来ては、あなたのおためにならぬことを、|毒《どく》|舌《ぜつ》で奥様に吹き込むことも、みんなあなたのおゆるしずみですのね?」
キャサリンの意識は混乱していましたけれど、気はまだ確かで、私たちの話に注意して耳を立てていたのでした。
「ああ、ネリーはうらぎりをやってたのね!」と奥様は|憤《ふん》|然《ぜん》と叫んで、「ネリーは私の隠れた敵ね、この|鬼婆《おにばばあ》! だから私たちを傷つけるつもりで石矢じりを|捜《さが》しているのね! 私を放して下さい、思い知らせてやるから! ほえづらかいて取消しさせてやるわ!」
狂暴な怒りが|眉《まゆ》の下で燃え輝き、旦那様の腕から放れようとして、やけに身をもがくのでした。私は事の成り行きを待つ気がありませんでしたので、独断で医者の助けを求めようと決心して、その部屋を去りました。
道路へ出ようとして庭を通りますと、馬をつなぐ|鉤《かぎ》が|塀《へい》に打ち込んである所で、私は何やら白い物が風もないのにふらふら動いているのを見ました。急いでいたにもかかわらず、私はそれを見きわめようとして立ち寄りました。後日、幽霊を見たという確信が私の想像にしるされてはならぬと思ったからです。見た時よりも、触れてみてなおさらびっくりし当惑しましたが、それはイザベラお嬢様の猟犬ファニーがハンカチでつるされて、もはや虫の息なのでした。私は手早く犬を解いて、庭におろしてやりました。昨夜お嬢様がお|寝《やす》みなさる時、この犬が二階へついて行くのを見ましたが、一体どうして外へ出てきたのか、またなんていたずらな人がこんな目にあわせたのか、私はずいぶん不思議に思いました。|鉤《かぎ》から結び目をほどいている時、かなり遠くで走っている馬のひづめの音を続けさまに聞いたように思います。が、私の心を占めていることがあまりたくさんでしたから、この事情を考えてみる余裕はほとんどありませんでした。場所がら、しかも夜明けの二時|頃《ごろ》に、これは奇怪な物音なのでしたけれど。
私が通りに出ますと、幸いにケネスさんが村の患者を診察に、ちょうどお家から出て来られました。で、キャサリン・リントンの病状をお話しして、すぐさま一緒に引き返してもらいました。このお医者は率直で|朴《ぼく》|訥《とつ》な人で、キャサリンのこのたびの第二の発病は、この前の時以上に|差《さし》|図《ず》どおり従わないと、生命が危いかもしれぬ、と遠慮なしに言うのでした。
「ネリー・ディーン」と医者はいうには、「これにはどうも特別の原因があるに相違ない。一体グレンジでは何の騒ぎがあったんだえ? こちらじゃ変な評判が立っているよ。キャサリンのように強い達者な女は、ちょっとしたことじゃ病気にならないし、それにああしたたちの人に病気されちゃたまらない。熱病や何ぞをあれらに切り抜けさせることはむずかしいからね。いったい、始めの様子はどんなふうだったのかね?」
「|旦《だん》|那《な》様が今にお話しなさるでしょうが」と私は答えて、「とにかくあなたはアンショー一家の|烈《はげ》しい気質を、なかんずくリントン夫人は一番烈しいことを、ご存じでしょう。申してみますといさかいがもとです。激情の|嵐《あらし》の最中、一種の発作にやられた、というのが少なくとも奥様の説明です。それっきり、ご自分の室に閉じこもってしまいなすったのですからね。それ以後食事もお断わりになり、今ではたわごとを口走ったり、半分夢みるようにうっとりしてたりして、それで周囲の人々をわかっておいでですけれど、心はさまざまの奇態な観念や幻想で一杯なのです」
「リントンさんは悲観するだろうかね?」とケネス様は疑問の調子で言いました。
「悲観? それどころか、万一何か起きたら、旦那様は喪心なさいましょうよ。よけいなことをおっしゃって旦那様をおどさないで下さいな!」と私は答えました。
「うん、注意するように言っておいたのに」と医者はいって「私の警告を聞かないんだから、その責任は彼が負わねばならんよ! |近《ちか》|頃《ごろ》あの人はヒースクリフさんと親しくないのかい?」
「ヒースクリフはしげしげグレンジを訪問します」と私は答えて、「むしろ奥様との幼な|馴《な》|染《じみ》をいいことにしてやって来るので、旦那様が好んで話相手になさるからではございませんがね。でもただいまではあのかたも訪ねてくる手数がいらなくなりました。お嬢様に対して大それた野心を表わしたからです。たぶん二度と出入りを許されますまい」
「でリントン嬢は|奴《やつ》に|肱《ひじ》|鉄《てつ》を食らわしたのかい?」と医者は次に|尋《たず》ねました。
「お嬢様は平生から私には何も打明けなさいません」と私は答えました。この話題を続けるのがいやなのでした。すると医者は頭を振って言いますには、――
「いや、あの娘は食えないぜ。ちゃんと秘密を胸におさめているのさ! だがあれも実際おばかさんだよ。確かな筋から聞いたことだがね、昨夜ね――全く良い夜の気だった!――あれとヒースクリフとがお前さんの家のうしろの植込みの中を、二時間以上も歩いていたそうだ。あの男はあの娘に二度と家にはいらずに、すぐに彼の馬に乗って一緒に行こうってくどいたそうだぜ! だがあの娘はこの次に会う時にはきっとその用意をしておくからと誓って、ようやっとあの男のくどきを引きはずしたということだ。この話を私に聞かせた人も、この次に会う時っていつにきめたやら、それは聞き|洩《も》らしたそうだ。だからリントンさんにしっかりするようにお|勧《すす》めするがいいぜ!」
この話を聞いて、私の胸は新しい心配で|塞《ふさ》がりました。私はケネス医師を後にして、ほとんど走り通しで戻って来ました。あの小犬はまだ庭でキャンキャン鳴いていました。私はちょっと時間をさいて木戸をあけてやりましたが、小犬は家の戸口に行かずに、草の上をあちこちかぎ|廻《まわ》りながら、道路の方へ出たい様子でしたけれど、私はつかみあげて一緒に家の中に連れてはいりました。イザベラの部屋に昇ってみますと、|嫌《けん》|疑《ぎ》は確かになりました。そこはからっぽでした。ああ、私がもう二、三時間も早かったなら、リントン夫人の病気を知らせてイザベラの|軽《けい》|率《そつ》な手段をおとめできたでしょうに、今となっては何のしようがございましょう? すぐさま跡を追えばかろうじて追いつけるかもしれません。でも私にはそれもできませんし、家人を起して家じゅうで騒ぎ立てたくもなし、まして、現に心配事で気をとられて、次の心配事にまで心を使う余裕がない旦那様に、なんでこの事を打明けられましょう! 私は口をつぐんで成り行きに任せるよりしかたがないと思いました。そのうちにケネス医師がつきましたので、私はおちつかない顔をして取次ぎに出ました。キャサリンは安らかならぬ眠りに落ちて寝ていました。あの激しい狂乱を旦那様は上手になだめてしまって、今は|枕許《まくらもと》にのぞきこむようにして、病人の苦しげな表情の微細な変化にしじゅう注目しておいででした。
医者は自分で診察してから旦那様に申すには、絶対安静を保ち続けてさえあげれば、大丈夫回復なさるとのことでした。私に対して|洩《も》らしたところでは、この病人にとって恐るべき危険は、死よりもむしろ一生精神病になることなのだそうです。
私はその夜まんじりともしませんでした。リントン様も同様でした。全くのところ、私も旦那様も寝ませんでした。召使たちも皆いつもの時間よりずっと早く起きて、家じゅうを忍び足で歩き、めいめいの仕事の用むきで顔を合わせると、忍び声で話しあいました。イザベラのほかは皆立働いていました。そして皆々はお嬢様のばかにぐっすり寝ておいでのことに不審をもってきました。お兄様もまた妹が起きたかとお|尋《たず》ねになって、起き出るのをお待ちかねのようで、それに妹が義姉のことをさっぱり心配せぬ様子にお腹立ちのようでした。私は旦那様からイザベラを呼べと言われやすまいかとびくびくしていました。けれども私は幸いにお嬢様の逃亡を最初にお告げする苦労からのがれました。朝早くギマトンに使いに行っていた思慮の浅い女中が、息せき切って帰ってきて口をあいたまま階段をかけ上り、|扉《とびら》を開いたまま部屋に飛び込んで来て叫びますよう――
「まあ大変だ! この次にはどんな災難に見舞われねばならないんでしょう? 旦那様、うちのお嬢様が――」
「やかましいわよ!」と私はあまりのわめきように腹が立って、あわてて制しました。
「低い声でお言い、メアリ。どうしたの? うちのお嬢様がどうかしたの?」とリントン様は尋ねました。
「行ってしまいました! あのヒースクリフが連れて逃げたんですよ!」と小娘はあえぎました。
「まさか!」とリントン様は胸騒ぎして立ち上りながら叫びました。「そんなはずがない。どうしてそう思うんだ? エレン・ディーン、行って見ておいで、|阿《あ》|呆《ほ》らしい、そんなはずがない」
こう言いながらも、主人は小娘を戸の所へつれて行って、なぜそんなことをいうのかと再び問いただしました。
「でも私みちでうちに牛乳を配達する小僧にあいましたら」と小娘はどもりながら申しますには、「グレンジのお屋敷で大騒ぎしなかったかってききますので、私は奥様のお病気のことだと思って、大変よと答えましたところが、追手が立ったろうねって言いますから、私はきょとんとしていました。牛乳配達は私が何も知らないとわかって話してくれたのです。真夜中をあんまり過ぎない|頃《ころ》、ギマトンから二マイル離れたある|鍛《か》|冶《じ》|屋《や》の店で、男と女とが馬のかなくつを打たせたのですって。鍛冶屋の娘が起きて誰かと思ってのぞいたら、二人ともちゃんと知った人で、男の方は確かヒースクリフでしたって。それにまた誰だってあの人を見まちがいっこありません。その男は鍛冶屋に金貨を払ったんですって。女の方はマントで顔を隠すようにしていたそうですが、水を一杯欲しいといって、飲んでいる時それがうしろにずれ落ちたので、鍛冶屋の娘ははっきりその顔を見たそうです。二人が馬に乗った時、ヒースクリフは両方の|手《た》|綱《づな》を握り、村から顔をそむけ、でこぼこ道を全速力で|駈《か》けて行ったんですって。その娘は父親の鍛冶屋には黙ってたけれど、|今《け》|朝《さ》になってギマトンの村じゅうにこの話をしたそうです」
私は走って行って、ほんの形式上イザベラの室をのぞき、戻って来て小娘の言葉を承認しました。リントン様は寝台の側へ戻って腰かけていましたが、私が帰ると、目を上げて私の|茫《ぼう》|然《ぜん》とした顔色を読み、ひと言もおっしゃらずに目を伏せなさいました。
「追手を立ててお嬢様を取り戻す手段でも手配してみましょうか? いかがいたしたものでございましょう?」と私は申しました。
「自分からこのんで行ったんだ。好きなら勝手に行くがいいさ。もうあれのことは何も言わないでおくれ。今日からあれはただ名ばかりの妹だ。私があれを絶縁するからではない、あれが私を絶縁したからだ」
そしてそれだけがこの問題についてのご主人のお言葉の全部でした。それ以上はひと言もお|尋《たず》ねにならず、また何ら妹のことを口にしませんでした。ただ、この家にある妹の持物一切を、その新家庭の所在がわかりしだい送ってやるよう、私に言いつけなさっただけでございました。
一三
ふた月の間この|駆《かけ》|落《おち》|者《もの》は見えませんでした。その二か月で、リントン夫人は一番たちの悪い|脳《のう》|膜《まく》|炎《えん》にやられて、でもそれを征服しました。一人子を看護する母親だって、エドガーが奥様を介抱したほどのことはできますまい。昼夜看護して、いらだつ神経と狂った頭の病人があらゆる迷惑をかけても、|辛《しん》|抱《ぼう》強く我慢なすったのでした。どうせ苦心して墓場行きから救ったところで、将来たえまない心配のもとになるのが落ちだろうって、ケネス医師も言ったのでしたが、――実際、ただの廃人を生かすために、エドガーの健康と気力とが犠牲になっていると言われたのですが――それでもキャサリンの生命が大丈夫と言われた時、エドガーの感謝と喜びとはそれはそれはたいしたものでした。幾時間も続けて奥様の側にすわって、だんだんと回復して行くからだを見つめながら、心もまた正気にかえって、やがて全く元どおりになるであろうとまぼろしを描いて、あてにならぬ|朗《ほがら》かな望みをいだくのでした。
初めて奥様がお部屋を出たのは三月の初めでした。その朝、リントン様は奥様の|枕許《まくらもと》に金色のクローカスを一|掴《つか》みおいたのでした。奥様は目ざめて、長らく何の喜びの光も知らずにいた目でそれを見つけ、熱心にその花を拾い集めながら、その目は歓びに輝きました。
「これはあのハイツで一番早咲きの花ね!」と奥様は叫んで、「これを見るとあの雪どけ|頃《ころ》の軟らかい風や、暖かな日光や、|鹿《か》の|子《こ》まだらの淡雪を思い出すわ。エドガー、もう南風が吹いて、雪はあらまし|融《と》けてやしないの?」
「雪はね、この辺じゃすっかり消えちゃったよ」と|旦《だん》|那《な》様は答えて、「この沢原じゅうで二か所だけ白い点が見える。空は青く、ひばりは歌い、谷川の水はみんなみなぎっているよ。キャサリン、去年の春の今時分は、お前がこの家にいたならばと思って待ちこがれていたものだ。だが今度は、お前が一、二マイルもあの丘に登ったらと思うよ。吹く風はとても気持がいいし、あの風にあたると、お前も元気がよくなりゃしないかと思うけれど」
「私はもう一遍しか、あすこに行かれないわ」と病人は言って、「あすこにあなたは私を置き去りにして、私は永久にとどまることになるのよ。来年の春には、あなたはまた私がこの家にいたならばと思って、今日のことを思い出し、あの頃は幸福だったがとお思いになるでしょう」
リントン様はこの上なく|優《やさ》しい|愛《あい》|撫《ぶ》のかぎりを尽して、愛情|溢《あふ》れる言葉で病人を励まそうとしましたが、奥様はぼんやりと花を見つめながら、まつ毛に涙を一杯ためて、それを|頬《ほお》に流れるままにしていました。私たちは病人がほんとうによくなって来たことがわかりましたので、一つ所に閉じこもっていては、いよいよこうして気が滅入ることと思い、場所を変えてあげたら幾分か|憂《う》さ晴らしになろうと考えました。で長い間ほうっといた居間に火を入れるよう、旦那様は私に言いつけて、日当りのいい窓ぎわに|安《あん》|楽《らく》|椅《い》|子《す》を置かせ、ご自分で奥様をここにつれて来ました。そこで奥様は気持のいい暖かさを楽しみながら、長らくすわっておられましたが、案の|定《じょう》、その周囲の物を見て元気づいたようでした。べつだん目新しい物とてないのですが、いやな病室にまつわる、わびしい連想を起させる物の無いだけでもまだしもでした。夕刻までにはずいぶん疲れたようでしたが、何と申し上げても元の部屋に帰ろうとなさらないので、他の部屋の準備ができあがるまで私は居間の長椅子を仮の寝床に仕立てねばなりませんでした。階段を昇降する疲労のないように、私どもは居間と同様階下にあるこの部屋、現在あなたが休んでいらっしゃるこの部屋に、家具一式を整えたのでした。まもなく奥様はこの部屋と居間との間を、エドガーの腕に支えられて、|往《ゆき》|来《き》できるほど丈夫になりました。実際あれほど看護されては、全快なさるだろうと私は思ったことでした。それに奥様の全快を祈る二重の訳があったので、その生命にはもう一つの生命が頼っていたのです。やがてリントン様の心も晴れるだろうし、所有の土地も|後《あと》|嗣《つぎ》が生れれば他人の手に渡らずにすむしなどという希望を、私どもはいだいていました。
私はここでイザベラがお兄様に短い手紙を寄せたことを申し上げねばなりません。それは家出してから六週間ほどたって後、ヒースクリフとの結婚を知らせたものでした。形式的な冷やかな文言でしたが、下の余白に鉛筆で、あいまいな言いわけや、あの行為が兄上を立腹させたなら、どうぞゆるして下さるようとの|懇《こん》|願《がん》や、あの際は全くやむをえなかったので、でもこうなった上は何とも取返しがつかないこと、などが書きたしてありました。リントン様は返事を書かなかったようです。さらに二週間たって、私は長い手紙を受け取りました。|蜜《みつ》|月《げつ》を終えたばかりの花嫁の便りとしては、それはずいぶん変なものだと思いました。まだとってありますから、読んでお聞かせしましょう。存命中大切な人ならば、死人の|遺《のこ》した品もまた大切なものです。
なつかしいエレン――(と書き出してあります)昨晩ワザリング・ハイツに来て、それで始めて聞いたの。キャサリンが今まで、そして今でも、大病なのですってね。で、キャサリンに|宛《あ》てては書けないし、お兄様ったら、ご立腹のせいかご心配のせいか、私にご返事下さらないのよ。でも、私誰かに宛てて書かなくてはならない。それで残るところはただお前だけなの。
エドガーに言って|頂戴《ちょうだい》、もう一度お会いできるなら、世界じゅうの物にも換えたいって。そして家を出て二十四時間たつともう私の心はスラシクロス・グレンジに帰っていたって。そして今の今も、お兄様とキャサリンとに対して、なつかしい思いで一杯ですって。でも[#「でも」に傍点]、思いどおりにならないわ[#「思いどおりにならないわ」に傍点]――(この言葉には|傍《ぼう》|線《せん》が引いてございます)――お兄様たちは私をお待ち下さるに及びません。ご随意な判断をなすってかまいません。けれども、私が帰りたいにも帰れないことを、意志の弱いせいにしたり、愛情の不足なせいにしたりすることだけは、どうぞおよし下さい。さてここから後はお前だけに宛てた手紙よ。お前に二つ質問したい。第一に――
お前がここに住んでいた時、人間味のある同情心を、どうやって保つ工夫をして? 周囲の人たちの感情は私とちぐはぐで、どうにも理解できないの。
第二の問題には私非常に興味を持っているのだけれど、こうなのよ――
ヒースクリフさんは人間かしら? もしそうなら、気ちがいかしら? もし人間でないなら、鬼かしら? なぜ私がこんな質問をするか、そのわけは言いますまい。ただ私は一体何者と結婚したのか、できればそれを説明してもらいたいの。というのは、私に会いに来てくれる時によ。エレン、お前すぐ訪ねて来てくれなけりゃならない。手紙はだめよ。来ておくれ。エドガーから何かことづてをもってね。
ところでね、私がどんなふうにこの新家庭に迎えられたか聞いて|頂戴《ちょうだい》。ここのハイツがまあ私の新家庭なのだろうと観念しているの。こんなまわりの|慰《い》|安《あん》の欠乏なんてことを長々と書くのは、自分で心を楽しませるためなんだけれど、慰安なんてことは、ないのでさびしいと思う時以外に、てんで考えることがないのよ。でも、その慰安の欠乏だけが私の不幸の全部で、そのほかはみんな不自然な夢だったとしたら、私はうれしくて笑ったり踊ったりしましょうけれど!
私たちが沢原へ目を向けた時、太陽はグレンジのうしろに沈んだので、六時だなとわかりました。私の同伴者は馬をとめて、小半時間も|猟苑《りょうえん》や庭や、それからたぶん住居の様子までも、できるだけくわしく検分していました。で私たちがこの農家のたたき[#「たたき」に傍点]にした中庭におり立った時は、もう|暗《くら》|闇《やみ》で、お前の昔仲間のジョウゼフが、あぶらロウソクをともして出て来て、私たちを迎えてくれたのはいいけれどそのお出迎えの礼儀は、この男の信用をすっかり高めちゃったわ。まず第一番に、その|手燭《てしょく》を私の顔の高さにさし上げて、にくにくしげに横目でにらみつけ、|下唇《したくちびる》を突き出して、顔をそむけ、それから私たちの二頭の馬をつれて|厩《うまや》に行き、またやって来て、こんどは外の門の戸締りをするの。まるで昔のお城にでも住んでるみたいによ。
ヒースクリフは立ち止ってこの|爺《じい》やと話していたので、私は台所にはいりました――うす汚い乱雑な穴みたいな所ね。お前は見違えるかもしれないわ。お前がそこをきりまわしていた時分とは、まるっきり変っていますもの。炉ばたに乱暴な子供が立っていました。たくましい手足をして、汚れた着物をきて、目つきや口もとがキャサリンと似ていてよ。
「この子はエドガーの義理の|甥《おい》だわ」と私は考えたの。「してみると私にとってもやはり甥になるわけよ。私握手しなくてはならない。そして――そう、|接《せっ》|吻《ぷん》しなくてはならないわ。最初によく理解しておく方がいいもの」
私は近寄って、まるまると肥えた手首をとろうとしながら「坊や、ご|機《き》|嫌《げん》いかが?」
そう言うと、子供はわけのわからない片言で何か答えました。
「ヘアトン、あなたと私とお友達にならない?」と私はまた会話をこころみました。
「出て行かないとスロットラをけしかけるぞ」というおどし文句と悪口が、私への返報なの。
「おしおし! スロットラ、こいつめ!」と小僧は小声で言って、|隅《すみ》っこの犬の寝床からあいのこのブルドッグを起し、「さあ、お前出て行くか?」と、えらそうに言うのよ。
命がおしいので言うことをきき、|敷《しき》|居《い》をまたいで、ほかの人たちの来るのを待っていたけれど、ヒースクリフさんはどこにも見えないので、私は|厩《うまや》に行ってジョウゼフに一緒に来てくれと言うと、じっと見つめて、ぶつぶつつぶやいた後、鼻をしかめて答えるには、――
「ムニャムニャのムニャ! キリスト信者がそんなことを聞いたためしがごわしたかえ? クシャクシャのモグモグ! それでお前様の言うことがどうしておれにわかるべえ?」
「私と一緒にうちにはいっておくれっていうのに!」と私は叫んだの。この|爺《じい》やさん耳が遠いなと思ったけれど、あまり失礼な言いぐさなんですっかりしゃくにさわったの。
「まっぴらじゃ。ほかに用事がごわすわい」こう答えておいて、自分の仕事を続けながら、細長い|顎《あご》を動かして、この上なしの|軽《けい》|蔑《べつ》の目つきで、私の着物と顔色とをじろじろ見てるのよ。着物の方はおあいにく、ずいぶん立派だったけれど、私の顔ときたら、さだめしおあつらえむきに哀れだったでしょうよ。
私は中庭をまわって、くぐり戸からもう一つの入口に出て、思い切ってその戸を|叩《たた》いたの。誰かもう少していねいな召使が出てきそうなものだと思って。しばらくしてそこをあけたのは、のっぽな男でネッカチーフもつけず、そのほかひどくだらしないふうなの。肩までたれてるぼうぼう髪で、顔つきもわからないほどだったけれど、この人の目もやはりキャサリンに似てるのよ。でもその美しさはすっかり失せて、幽霊みたいにすごい目なの。
「何のご用かね? あなたはどなたです?」ってこわい調子できくので、
「もとはイザベラ・リントンと申しました」と私は答えて、「以前お目にかかったことがございます。ただ今ではヒースクリフ様と結婚いたしまして、ここにつれて来られました。――あの人はあなたのご|承諾《しょうだく》を得てのことと存じますけれど」
「それじゃ彼は帰って来たな?」とこの隠者は飢えた|狼《おおかみ》みたいに目をぎょろつかせて言うのでした。
「ええ、私たちはたったいま参りました」と私は答えて、「でもあの人は台所の戸口に私を置き去りにしましたの、そして私が中にはいろうとしましたら、あなたの坊ちゃんが番兵の役を勤めて、ブルドッグの援兵を呼んで、私をおどして追い出しました」
「あの憎い野郎がよく約束を守ったな!」と私のこれからの宿主はほえて、私のうしろの|暗《くら》|闇《やみ》をすかして、ヒースクリフを見つけようとするのでした。それからあの「悪魔め」がもし自分をだましたらどうしてやるとおどし文句やら、のろいやらの|独《ひと》り|言《ごと》にふける始末。
私はこの第二の入口をたたいてみたことを後悔し、この人の|毒《どく》|舌《ぜつ》の終る前に、こっそり出て行こうと思ったけれど、それを実行できないうちに、中にはいれといわれちゃって、はいると戸の|錠《じょう》をおろしてとじこめられたのよ。そこには大|煖《だん》|炉《ろ》があって、それがとほうもなく大きなこの室でただ一つの光なの。床一面はほこりで灰色になっていたわ。一度はピカピカ輝いていた合金の皿は、私が子供の|頃《ころ》よく目をひかされたものでしたが、今ではさびと|埃《ほこり》とでやはりうす黒くなっててよ。女中を呼んで寝室に案内してもらってもいいでしょうかときいても、アンショーさんは返事もしてくれないの。そしてポケットに手を突っ込んであちこち歩いていて、私がいることなんぞてんで忘れているらしいの。で、あんまり夢中になって考えてるふうだったし、それにその様子全体がいかにも人ぎらいらしいので、私は二度と物を言いかけることをひかえたくらいよ。
エレンや、私が楽しくもない炉ばたに、孤独よりもわびしい気持ですわって、ひどく沈んでいたと言っても驚くまいね。四マイルへだてた所には、私が地上で愛する人たちばかり住む楽しい家があるのに、その四マイルのかわりにまるで大西洋が私たちの間をへだててるように、私はそれを越えて行けないのだもの! 私は自分に|尋《たず》ねてみたわ――どこに|慰《い》|安《あん》を求めたらいいのかしら? そして他の何よりも悲しいことには――けっしてエドガーやキャサリンには言っていけないことよ――この悲しみが第一番にこみあげてくるの。それはね、ヒースクリフに反抗して私の味方になれる人、またなろうとする人が誰一人いやしないその絶望よ。最初私はむしろ喜んでワザリング・ハイツに避難所を求めたものよ。そうすればヒースクリフとたった二人きりで暮す心配はないと思ったからなの。けれども、あの人は私がはいり込む家の人たちをよく知ってたので、ちっとも干渉される心配なんかなかったのよ。
私はすわったまま黙って考え込んで悲しい時間をすごしていたわ。柱時計は八時を打ち、九時を打っても、アンショーさんは相変らず行きつ戻りつ歩いていて、頭を胸にがくりとたれ、ひと言も物を言わずに、ただ時々うなったり嘆声をもらしたりするだけでした。私は家の中の女の声を聞きわけようと耳を澄まし、その間とめどもない|悔《かい》|恨《こん》や不吉な予想にふけっているうち、とうとう、それをおさえ切れぬため息と涙とのうちに、声に出してしゃべっていたのよ。どんなに声を立ててなげいたのか自分でもわからなかったけど、しまいには例の|足拍子《あしびょうし》をとって歩いていたアンショーさんが私の前でとまって、今始めて気がついたような驚きの目を見張ってましたわ。で、この人の注意の回復したのに乗じて私は叫んだの。――
「私、旅の疲れが出ましたから、もう休みとうござんすわ! 女中さんはどこにいますの? 教えて下さいな。来てくれないんですもの!」
「女中なんかいないよ。あなたは何でも一人でしなくちゃならないんだ!」こういう答よ。
「それでは私どこで寝るんでしょう?」といって|啜《すす》り泣いたわ。くたびれたのとせつないのとで圧倒されて、もうちゃんとすましていられなくなったの。
「ジョウゼフがあなたをヒースクリフの部屋に案内してくれるよ。あすこの戸をおあけ。あの|爺《じい》やがいるから」
こう言うので、その言葉どおりに行こうとすると、急にとめて変な口調で言い足すの。――
「お部屋の|錠《じょう》をおろして、かんぬきをかけて寝て下さいよ――間違いなくね!」
「ええ!」と私は言って、「でも、なぜでございますの?」とききました。ヒースクリフと私とがわざわざかんぬきなどかけてとじこもることを思うといやでした。
「これ、ご覧!」と言いながら、胴着から奇妙な構造のピストルを一|梃《ちょう》出したのよ。その銃身には両刃のバネ仕掛けのナイフがついてるの。で、これを見せつけながら言うよう、「こいつはやけくそな男にとって大きな|誘《ゆう》|惑《わく》じゃないかね? 毎晩これを持って出かけて、あいつの部屋の戸を破りたくてむずむずするんだ。あの戸が開いたら最後、|奴《やっこ》さんお|陀《だ》|仏《ぶつ》さ? その一分前まで、よした方がいいって理由を百も承知でいたところで、その時になりゃきっとやりますからね。何かしら、あいつを殺して私自身の計画をめちゃめちゃにさせようとする悪魔がいるんです。あなたは愛ゆえにその悪魔とできるだけ戦うんだな。でも時節が来れば、天国じゅうの天使がみんなであいつを助けようたって、そうはさせないぞ!」
私はその凶器を物珍しく見てました。と、ふといやな考えが浮ぶの。私がそうした道具を持ってたら、どんなにか力強いでしょう! で、この人の手からそれを取って、刃の所に手を触れてみたの。すると、私の顔にさっと現われた表情を、この人はびっくりして見てたわ。それは恐怖じゃないことよ。いかにも欲しそうな顔つきだったと思うわ。するとこの人はそのピストルを惜しそうに取り戻して、ナイフを折り閉じ、もとのかくしに入れちゃったの。
「あいつに言ったってかまいませんよ」とこう言って、「用心させなさい。あいつのために見張りをなさるがいい。あなたは僕たちの|間柄《あいだがら》をご存じですね。あいつが危険でもあなたはたまげることはない」
「一体ヒースクリフはあなたに何をしたんですの?」と私はたずねて、「そんなにまでおにくしみなすってもあきたらないなんて、あなたにどんな害を加えたんですの? あの人をこの家から追い出しなすった方が賢明じゃございませんかしら?」
「ばかな!」とこの人はどなって、「あいつが出て行こうなんて言い出そうものなら、もうお陀仏さ。出て行けなんてあなたがあいつにすすめようものなら、あなたは人殺しですぜ! あいつから取り返す機会もなしに、僕はスッテンテンになるんですか? あのヘアトンが|乞《こ》|食《じき》になるんですか? べらぼうな! きっと今に取り返してみせる。それどころかあいつの金も取ってやる。それからあいつの血も取ってやる。そしてあいつの魂は地獄にくれてやろう! 地獄はこのお客様のおかげで、前の十倍も暗黒になるだろうて!」
エレン、お前のもとの主人の日常については、かねてお前から聞いていたけれど、もうあやうく狂人になりかかってるのね。――少なくともゆうべはそうだったわ。私はそばに寄るのがこわかったわ。あの|爺《じい》やのげすな|渋面《じゅうめん》の方がまだしもと思ったくらいよ。さてこの人はまたふさぎこんで歩き始めたので、私は|掛《かけ》|金《がね》をはずして、台所へ逃げて来ました。ジョウゼフが炉の所にかがんで、そこに掛けてある|大《おお》|鍋《なべ》をのぞき込んでいましたっけ。そばの|長《なが》|椅《い》|子《す》の上に、オートミールをいれた木の|鉢《はち》がありました。鍋の中のものが煮立ち出すと、爺やは振り返って鉢に手を突っ込もうとするので、私たちの夕飯の|支《し》|度《たく》をする所と思い、それにお|腹《なか》も|空《す》いてたので、それでも食べようと決心して、私は突然、「私自分でそのお|粥《かゆ》を作るわ!」と叫んだの。そしてその鉢を爺やの手のとどかない所に持って来て、私は帽子と乗馬服とをぬぎながら言葉をつづけて、
「アンショーさんが自分のことは自分でしろっておっしゃるから、私これからそうしてよ。私、お前さんたちに奥様ぶらないわ、|飢《うえ》|死《じ》にしちゃたまらないからね」
「おや!」と爺やはつぶやきながら、うね織りの|長《なが》|靴《くつ》|下《した》を|膝《ひざ》からくるぶしへさすりながら言うよう、「また新奇な命令が出る日にゃ――やっとこせえで二人の|旦《だん》|那《な》様になれたと思ったら、今度は奥様までわしの頭の上にいただかねばならねえくらいなら、もうはや、出て行く時じゃわい。この住みなれた所から、出て行かなくてならねえ日の目を見ようとは、ついぞ思ったこともなかったものじゃ。だが、その日も大分間近くなったようじゃな!」
私はこの|慨《がい》|嘆《たん》におかまいなしに、さっさと仕事にとりかかり、こうしたことがみんなおもしろい遊びごとだった時分を思い出して嘆息し、その思い出すらすぐさま追いやってしまわなくちゃならなかったの。過去の幸福を思い出すのはせつないことだわ。それでそのまぼろしを描き出しそうになればなるほど、お|粥《かゆ》をかき|廻《まわ》す棒はいよいよ急速度で走り廻り、オートミールが一つかみずつますます早わざで湯の中に落ちて行ったの。ジョウゼフは私の料理法を見てますます|憤《ふん》|慨《がい》し、
「そオれ!」と叫んで、「ヘアトン、お前様はお粥を今晩食べられないだろうて。わしの握りこぶしほどもある大きな|塊《かたまり》ばかしじゃ。そオれまた! もしわしがあんたじゃったら、|鉢《はち》ぐるみそっくり入れてしまうんじゃが! それ、上皮をすくい取って、それでうちきりじゃ。ドタン、バタン、それでよくまあ底が抜けないものじゃて!」
どんぶりにそれを盛ったら、ほんとうにお粗末でまずそうだったわ。四人前できて、それと二升五合入の水差に一杯のしぼりたての牛乳を|搾乳場《さくにゅうじょう》から持って来たのを、ヘアトンがつかんで、水差に口づけでラッパのみを始めたの。およしなさい、|茶《ちゃ》|碗《わん》についで飲まなくちゃだめよ、そんな汚いことをした牛乳なんて私には飲めません、って私たしなめたら、|爺《じい》やの皮肉先生が、この|潔《けっ》|癖《ぺき》ぶりにすっかりご立腹で、私に向って幾度も繰返し言うことに、「この子だってお前様と身分が全然同じいんじゃ」って。そして「お前様と全然同様に健康なんじゃ」って。それでもって私のことを、よくもおくめんもなくそううぬぼれられたもんだなんて言うのよ。その間この悪太郎さんはラッパ|呑《の》みを続けて、それから私の方に向いてばかにしたように顔をこしらえながら、水差の中によだれを流しているの。
「私、別の部屋でお夕飯をいただくわ。この家にはお居間になってる部屋がないの?」こう私が尋ねると、
「お居間!」とジョウゼフは冷やかすようにオウム返しに言って、「お居間! いや、ここにはお居間なんてえもなあござらぬわい。もしお前様がわしらと一緒にいるがいやなら、|旦《だん》|那《な》様と一緒にいるがいい。旦那様の所がいやなら、わしらと一緒じゃ」
「そんならお二階に行くわ。お部屋に案内して|頂戴《ちょうだい》」
そう言って私は自分のどんぶりを盆にのせ、それから自分でもう少し牛乳を取って来ました。|爺《じい》やは大いにぶつぶつ言いながら立ち上り、私の先になって二階へ上り、おりおり通りすがりの室をあけて|覗《のぞ》いたりしながら、屋根裏部屋までのぼって来たの。
「ここに部屋があるわい」としまいにガタガタのちょうつがいの戸をいきなり押しながら言うことに、「ちょっくらお|粥《かゆ》を食べるくらい、ここで結構じゃ。|隅《すみ》っこに麦俵があるけんど、そこはかなりきれいになっとる。もしその大した絹の衣装をよごすのがこわけりゃ、ハンカチでもひろげて敷いたらよかんべい」
この「部屋」は一種の物置場で、麦もやしや|穀《こく》|類《るい》がプンプン|匂《にお》い、それらを入れたさまざまの袋が周囲にうずたかく積まれ、まん中にだだ広いあきまを残しているというしまつに、私は腹が立ってジョウゼフをねめつけながら叫んだの――
「まあお前さん、ここはねる所じゃないわ。寝室に案内しておくれ」
すると爺やは、「寝室!」とばかにした口調で繰返して、「ここにある寝室はあれだけだで見なされ――あれはわしのじゃ」
爺やが指さしたもう一つの屋根裏部屋は、その四方の壁がいっそうがらんとしている点と、片端に、|藍《あい》|色《いろ》の掛けぶとんつきの大きな、低い、カーテン無しの寝台が一脚ある点が、この物置場と違っているだけでした。
「私があんたの寝室に何の用があって?」と私は言ってやって、「ヒースクリフさんがこの家のこんなてっぺんに泊っているんじゃないでしょ?」
「ああ! お前さんが見たいなあヒースクリフ|旦《だん》|那《な》の寝室のことかね?」と爺やは新発見でもしたかのように叫んで、「そんならそうと最初から言われれば、こげえな騒ぎしねえで断わるんじゃったわい。そればかりは見られんのじゃ。あの旦那はいつでも|錠《じょう》をおろして、ご自分のほか誰にもかまわせなさらんのじゃ」
「立派なお家ですことね、ジョウゼフ」と私は言わずにいられなかったのよ。「それに|愉《ゆ》|快《かい》な家族ね。私の運命をここの人たちとつないだ日、世界じゅうのありとあらゆる狂気をみんな集めた精が、私の|脳《のう》|髄《ずい》に宿ったように思うわ! でも、いまさらそんなこと言ったって始まらないことね。ほかに部屋があるでしょう。|後生《ごしょう》だから早くね、そしてどこかにおちつかして|頂戴《ちょうだい》!」
爺やは私の願いに答えず、ただ木の階段を強情にとぼとぼと降りて行って、一室の前にとまりました。そのとまった様子や、また家具の上等な品質などから察するに、これは一番良い部屋だなと思いました。|絨毯《じゅうたん》が敷いてある――品は上等だけれど、模様なんぞ|埃《ほこり》で消されてるの。切込み細工の紙すだれがちぎれてさがってる|炉《ろ》|棚《だな》。立派なオーク材の寝台。それに、ずいぶん高価な材料を使って現代風にこしらえた、広幅の深紅色のカーテンが取りつけてあったけれど、そのカーテンは乱暴に取扱われたらしいの。寝台の周囲に、|花《はな》|綵《づな》をなして垂れ下がっているのれんは|鐶《かん》からちぎれて、それを支えている鉄の棒は、|片《かた》|隅《すみ》の所で弓形に曲り、布がゆかに|曳《ひ》きずっているのです。|椅《い》|子《す》もやっぱり壊れてたわ。しかもひどい壊れようなのが多いの。それに深いきずが壁の鏡板をさんざんにしてたわ。私、決心して、はいってここを占領しようとした時、|阿《あ》|呆《ほ》な案内者は「これは旦那様の部屋じゃ」だって。私の夕食はもう冷えちゃうし、|食慾《しょくよく》はなくなるし、とても我慢がしきれなくなったので、どこか引っ込んで休む所をすぐ用意するようにと言い張ったら、――
「どこにじゃ!」とこの信心家の年寄はおっしゃって、「ああ主よ恵み給え! 主よ|赦《ゆる》し給え! 一体どこの地獄へお前様は行きたいのじゃ? できそこないのうるさい能無しめ! ヘアトンの小さな部屋のほか、残らず見たのじゃ。そのほかに寝る部屋なんかこの家にないわい!」
私はすっかり|憤《ふん》|慨《がい》しちゃって、お盆を中味ぐるみゆかに投げつけ、階段のてっぺんに腰をおろし、両手を顔にあてて泣きだしたの。
「えへッ!」とジョウゼフは叫んで、「よくやったね、キャシー嬢様! だが旦那様はそのこわれた丼にけつまずくべえ。そしたら何か聞かされるべ。どんなことになるか今に聞かされるべ。ろくでなしの気ちがいあまっちょ! 神様の貴い|賜《たま》わり物を、かんしゃく起して足の下にぶん投げたりして、お前様は今日からクリスマスまでひもじい思いをする|罰《ばち》あたるべえ! だがお前様はあまり長く|癇癪《かんしゃく》を起していられるもんじゃねえよ、きっとじゃ。ヒースクリフがそんな立派なお|行儀《ぎょうぎ》をみて我慢すると思うかね? お前様がそうプンプンしてるところを見つけてくれるといいんじゃがな。あの人が見てくれるといいとばかしわしは思うんじゃ」
こうどなりつけながら、爺やはロウソクを持って下の部屋に行ってしまったので、私だけ|暗《くら》|闇《やみ》に残ったの。するとこのばかな|仕《し》|業《わざ》の後にくる反省の時期が、私の自尊心と憤慨とをおさえつけて、|癇癪玉《かんしゃくだま》のとばっちりを片づけに動きだす必要を私に認めさせました。そこへ思いがけない助け舟がスロットラという姿であらわれたのよ。この犬はうちの老スカルカーの|息《むす》|子《こ》だなと私は今になってわかってよ。子犬の|頃《ころ》はグレンジで育って、それを私のお父様がヒンドリさんにあげたの。だから私を覚えてたんだと思うわ。あいさつのつもりで私に鼻をこすりつけ、それから急いでお|粥《かゆ》をたいらげてくれたの。その間に私は一段また一段と手探りしながら、壊れた瀬戸かけを拾い集め、手すりにこぼれた牛乳のとばっちりをハンカチで|拭《ふ》いて行ったの。
私と犬との働きが終るやいなや、|廊《ろう》|下《か》にアンショーの|靴《くつ》|音《おと》が聞えたので、私の助手はしっぽをまいて壁ぎわに身を寄せ、私は近くの戸口に忍び込みました。犬が主人をさけようとした努力は失敗したらしく、あたふたと階段をかけ下りる音と、長いあわれっぽいうめき声とで、私はそれと察したんです。私は運が好かったのよ、あの人は通り過ぎ、自分の室にはいって戸をしめたんです。するとすぐつづいて、ジョウゼフがヘアトンを寝室につれて来ました。私はそのへアトンの部屋に隠れていたのでした。|爺《じい》やは私を見つけて言うよう――
「今では、この家にも、お前様とその|傲《ごう》|慢《まん》とを入れる場所が十分あると見えるわい。ここはからじゃ。お前様一人ではいってるがいい。連れは、いつもお仲間の悪魔どんじゃ!」
こう言われたのを好いことにして、私は炉ばたの|椅《い》|子《す》に身を投げかけるが早いか、こっくりこっくり眠っちゃったの。
私の眠りは深くて好い気持だったわ。でもじきに|醒《さ》めちゃったのよ。ヒースクリフさんが私を起したんですもの。この人ははいって来るなり、例のお|優《やさ》しい調子でもって、そこで何してるんだって私にどなるんです。私は遅くまでこんな所にいた理由を話したわ――あなたのポケットに私たちの部屋の|鍵《かぎ》があるんですからって。ところがこの「私たち」って形容詞がひどく気にさわったらしいの。それはどんなことがあってもお前の部屋じゃない、お前の部屋にしてたまるもんか! って言ったわ。それからとてもひどいことを言ったけれど、私はこの人の言葉を繰返しますまい。この人の日常の行為も書きますまい。この人は私をいやがらせることが上手で、なんとその一所懸命なこと! 私は自分の恐怖を絶するほど、非常にこの人に|驚嘆《きょうたん》することがたびたびよ。それでも、|虎《とら》や|毒《どく》|蛇《じゃ》でさえ、この人に|匹《ひっ》|敵《てき》するほどの恐怖を私に起すことができないわ。この人はキャサリンの病気のことを話して、お兄様のせいにして攻撃し、お兄様をとっちめるまでは、私をその身がわりに苦しめてやるんだって言うの。
私はこの人が憎らしい――私はみじめね――私はばかだったわ! グレンジの人たちにはこんなことをひと言だってもらしちゃいけないわよ。私、毎日お前を待っていてよ。私を失望させないでおくれ!
イザベラより
一四
この手紙を読みおわるや否や、私はご主人の|許《もと》に出かけて、|妹御《いもうとご》がハイツに着いて私にお手紙を下さったこと、奥様のお病気を心配していなさること、お兄様に非常に会いたがっていなさること、また私に託して何なりとお許しのしるしを、なるべく早くお伝えいただくように望んでいられることなどを申し上げました。
「お許し?」とリントン様は言って、「私には何も妹を許すことがないよ。お前は今日の午後でもワザリング・ハイツに行ってかまわない。そして私は怒って[#「怒って」に傍点]はいない、妹を失ったことを悲しんで[#「悲しんで」に傍点]いるんだと言うがいい。ことにあれは幸福になりっこがないと思うので、なおさら気の毒なのだ。だが私が会いに行くなんて、それは問題外のことだ。私と妹は永久に別れたんだからね。でも、あれがほんとうに私を喜ばせたいのなら、夫の悪党に、この土地を去れって|勧《すす》めるがいい」
「では、妹様に一筆ちょっとお書き遊ばすわけにいきますまいか?」って私は嘆願しました。
「いや」と主人は答えて、「そんな必要はない。私とヒースクリフ家と文通することは、お互いに控えよう。それは禁物だよ!」
エドガー様の冷淡に私はひどく失望しました。このお言葉を、どうやったらもっと温かに言い伝えられよう、ちょっと一筆イザベラに|慰《なぐさ》めの手紙を書くことすら断わられたことを、何と申し上げておだやかに伝えられよう、こう思って、私はハイツへ行くみちみち頭を悩ましたことでした。イザベラは朝から私を待ちかねて見張ってたらしいんです。私が庭の盛上げ道を上って行きますと、|窓《まど》|格《ごう》|子《し》からこちらを見ているイザベラを見ましたので、頭を下げてあいさつしましたが、むこうでは見られるのがこわいかのように、ひょいと引っ込んでしまいました。私は無断ではいって行きました。以前には気持の|好《よ》かった家が、そのときのわびしいすさんだ光景ったらありませんでしたよ! 実際のところ、私がもしこの若い新夫人の立場にあったら、少なくとも|炉《ろ》|辺《へん》のちりを払い、|雑《ぞう》|巾《きん》でテーブルを|拭《ふ》くくらいはいたしましょうに、しかしこの若夫人はすでに周囲のぶしょうの気風にしみてしまっているのでした。そのきれいな顔はやつれて活気なく、髪はカールせず、だらしなく垂れさがったり、頭の周囲に|無《む》|造《ぞう》|作《さ》にまきつけてありました。おそらく昨夜以来その身なりに手をふれてないのでしょう。ヒンドリはそこにいませんでした。ヒースクリフさんはテーブルによって、紙入れの中のものをめくっていましたが、私を見ると立ち上って、とても親しげに安否をたずね、|椅《い》|子《す》をすすめてくれました。この家で|行儀《ぎょうぎ》よく見えるのはこの人だけでした。今までこの人がこれほど立派に見えたことはないと思いました。境遇はこの人たちの地位をすっかり変えてしまって、知らない者が見たらこの人こそ|氏《うじ》も育ちも上品な紳士と見え、細君の方を全くのじだらく女と思うことでしょうよ! 若奥様は出て来て熱心に私を迎え、予期していた手紙を受け取るつもりで片手を差出しました。私は頭を横に振りました。先方はその意味を|解《げ》しかねたと見え、私が|脇《わき》|棚《だな》へ帽子を置きに行きますと、そこへついて来て、持ってきたものをすぐに渡すようにと、小声で私にせがむのでした。ヒースクリフは妻の内証事の意味を察して――
「ネリーや、何かイザベラにとどけ物があるのなら(きっとあるんだろうがね)それを渡しておやり。秘密にする必要はないよ。われわれの間には何の秘密もないんだからね」
「おお、私は何も持っておりませんわ」と私は答えました。すぐほんとうのことを言うのが一番いいと思ったからです。「|旦《だん》|那《な》様はお妹様に当分手紙も訪問も期待してはならないって、そう伝えるようにおっしゃいました。でも奥様、あなたによろしくって、そしてご幸福を祈っており、先日の悲しい事件もゆるすと言っておいででした。しかしリントン家とこの家とは今後交際を絶たねばならん。交際を続けても何にもならないだろうから、とのお言葉でした」
ヒースクリフ夫人の|唇《くちびる》はかすかにふるえました。そして窓ぎわの席に戻りました。その|良人《お っ と》は私に近い炉石の上に立って、キャサリンのことをたずね始めました。私は話してもさしつかえないと思う範囲で、奥様の病気のことを話しました。この人は根ほり葉ほり審問して、奥様の病気の原因についての事実を、私から|大《たい》|概《がい》聞き取ってしまったのです。ご自分の勝手で病気を招いた点で、私は奥様を当然に非難しました。そして最後に私の希望として、あなたもリントン様の例にならって、今後は良かれ悪しかれ彼の家族に干渉なさらぬがよかろうと申し上げました。
「リントン夫人は今ちょうどなおりかけておいでです」と私は言って、「けっして元のままにはなりますまいが、生命だけは取りとめなさいました。もしあなたがほんとうにあのかたのためをお思いなさるなら、二度とお会いなさらぬことです。それどころか、この土地を全然お立ちのきなさることです。ご未練がないように申し上げますが、キャサリン・リントンは、あなたの|昔馴染《むかしなじみ》のキャサリン・アンショーと今では全然違っています。ちょうどあなたの奥様と私とが違ってるようなものです。顔や姿はひどく変りました。性格はなおさらのことです、やむをえずあのかたと暮さなくてはならないおかたは、今後はただ、ありし昔の思い出と、一般の人道と、義務の観念とによって、やっとその愛情を持続なさるだけのことでしょうよ!」
「そいつあ全く有りそうなことさね」ヒースクリフはしいて冷静をよそおっていうには、「お前の主人には一般の人道と義務の観念とのほかに頼るものが何にもないってこたあ、全く有りそうなことさ。だが、私はキャサリンをあいつの義務[#「義務」に傍点]と人道[#「人道」に傍点]とに任せておけると思うかね? そして私がキャサリンを思う感情があいつのと比較になると思うのかえ! お前が帰る前に、ぜひとも約束してもらわなくてはならないんだ。キャサリンに私を会わせるってことをだよ。お前が|承諾《しょうだく》しようとすまいと、私は自分で会うぜ! どうだえ」
「ヒースクリフさん、それはいけませんよ。私の手引ではけっして会わせません。今度あなたとリントン様と|衝突《しょうとつ》したら、あの人は全く死んでしまうでしょう」と私は答えました。
「お前の助力で、それは避けられるだろうよ」とさらに言って、「それに、もしそんな危険があるとすれば――あいつがあの人の生命に少しでも苦しみを加えるようなことがあれば――そうなりゃ、もう非常手段に訴えることが正当と思うよ! あいつがいなくなったら、キャサリンはひどく苦しむだろうかしら、お前は心の底を割って判断して欲しい。彼女が苦しみやしないかと思う|懸《け》|念《ねん》が、私の手を控えさせるのだ。私とあいつとの感情の相違はそこだよ。もしあいつが私のようにほんとうにキャサリンから愛されているものなら、そして私があいつのような立場だったとしたなら、私の生存を苦しいものにするほどの憎しみでもってあいつを憎んだとしても、私はけっしてあいつに対して危害を加えようとは思うまいよ。お前は、どうだかって顔つきしてるね、勝手に疑うがいいさ! 彼女があいつと一緒にいたいと思う間は、私はけっしてあいつを彼女のそばから追わないんだ。だが彼女の愛があいつから去った瞬間、私はあいつの心臓をえぐり出して血を|啜《すす》りかねないぜ! しかしそれまでは――お前が信じないって言うなら、私を知らないのだ――それまでは、あいつの頭の毛一筋にだって触れるくらいなら、むしろなぶり殺しにされて死んでもいいよ!」
「ですけれど」と私はさえぎって、「あなたに似合わずお考えが足りませんのね。奥様の全快の望みがすっかりめちゃめちゃになっちまうじゃありませんか、今また奥様にあなたのことを思い出させたりしては。せっかくあなたのことを|大《たい》|概《がい》忘れかけていなさるのに、そうやってまた病人を不和と|苦《く》|悶《もん》との騒ぎにまき込んだりしては」
「彼女が私のことを大概忘れかけてるとお前は思うのかえ?」とヒースクリフは言って「おお、ネリー、そうじゃなかろうね! お前は私と同じように知ってるはずだ、彼女がリントンのことを一度思うたびに、私のことを千度も思ってるよ! 私の|生涯《しょうがい》で一番悲惨な時代には、彼女が私を忘れたかもしれないなんて思ったものだった。去年の夏、この近所に帰って来た|頃《ころ》も、そんな気がたびたびしたものだった。だが、そんな恐るべき考えは、彼女自身の口から聞かされないかぎり、今じゃ二度と私の心に起らないんだ。もしそんなことになったら、リントンもヒンドリもへちまもなかろうし、私の描いた夢もだいなしで、二つの言葉が私の将来の全部だろう――死と地獄とさ。彼女を失った後の生存なんて地獄だろうからね。だが彼女がエドガー・リントンの愛着を私のより重くみてるなんて、ちょっとの間でも思ったのは私がばかだった。あんな貧弱な人間が全力を尽したところで、八十年かかって私の一日分も愛せるものか。それにキャサリンは私と同様、深い情愛をもっている。彼女の愛情の全部があいつに独占されるくらいなら、海がすっぽり馬の|水《すい》|槽《そう》ん中に入れられようぜ。べらぼうな! あいつなんざ彼女の犬や馬ほどにも彼女に思われてないんだ。あいつが私と同様に愛されるなんて|柄《がら》にないことだよ。のれんに腕おしじゃあ、彼女が愛するにも愛しようがないじゃないか」
「キャサリンとエドガーとは、どんなすいた同士にも|敗《ま》けないほど、お互いに愛しあっていてよ!」とイザベラは突然元気よく叫び出して、「誰だってそんな物の言いようをする権利はないわ。それにお兄様のけなされるのを、私黙って聞いていられないわよ!」
「お前の兄さんはお前をとほうもなくかわいがってるからね、そうだろう?」とヒースクリフはさげすむように言って、「お前を世の中の荒波に、びっくりするほどサッサとほうり出すしさ」
「お兄様は私が苦しんでることをご存じないんです。私そんなことは言ってやらなかったんですからね」とイザベラは答えました。
「そんなら何か言ってやったんだな。お前は手紙を書いてやったんだろう?」
「結婚したことを知らせてやりましたわ――あなたはその手紙を見たじゃありませんか」
「その後なんにも言ってやらんのか?」
「なんにも」
「若奥様は境遇が変ったため、ひどくやつれて見えますことね」と私は言って、「誰かの愛が足りないことは明らかですわ。誰のか|大《たい》|概《がい》わかりますが、たぶん言わない方がいいでしょう」
「私は彼女自身の愛が足りないと思わなくてはならないね」とヒースクリフは言って、「彼女は|堕《だ》|落《らく》してじだらく女になってるんだよ! 私を喜ばそうとすることなんざ、とっくの昔にあきてしまってるのさ。お前はほんとうにしないかもしれないがね、私たちが結婚した翌朝、こいつは家に行くって泣いたんだ。だが、あまりきれいすぎない方が、この家には適当だろう。その辺をぶらつき|廻《まわ》って、私の体面をよごしてくれないよう用心するつもりだよ」
「ですけれどね、あなたの奥様は大事にされつけていらっしゃいました。みんなからいつも大切にされる一人娘らしくお育ちなすったんですもの。奥様の身のまわりをきちんとさせるように、女中を置いてあげなくてはなりませんわ。そしてあなたは奥様にやさしくしてあげなくてはなりませんね。エドガー様についてあなたはどうお考えなさろうと、あなたの奥様が強い愛情を持ち得ることは、疑うことができませんね、さもなくば、以前の家庭の結構な暮しや、楽しみや、家族をまで棄てて、こんな|寂《さみ》しいところであなたと満足して暮そうとなさらないでしょう」
「なあに、彼女は幻を描いてそうしたものを|棄《す》てたのさ」と答えて、「私を物語の英雄のように想像して、私の騎士的献身から無限の|溺《でき》|愛《あい》を期待したのさ。私は|奴《やっこ》さんを理性的人間とはほとんど思われないよ。それほど|頑《がん》|迷《めい》に、彼女は私の品性を空想で作り上げ、勝手に想像したその虚偽の印象にもとづいて行動しつづけてきたんだ。だが彼女もとうとう私を知りかけて来たようだよ。最初には私をよく立腹させたあの愚かな微笑や|渋面《じゅうめん》を、この|頃《ごろ》では見かけないからね。それにお前さんの|有頂天《うちょうてん》な想像はちと見当はずれで、私はお前さんなんぞ好いちゃいないんだって、そう私が言った時、それが私のまじめな言葉だってことがわからぬようなドンバチ加減、それも近頃ではようやくなおったようだしね。私が奴さんを愛していないってことを発見するのが、奴さんの|炯《けい》|眼《がん》の驚くべき努力だったんだ。一時はどんなに教えてもとうていわからんと思ったくらいさ! しかもそれが今だによくわかっていないね。現に|今《け》|朝《さ》も、驚き入ったるご明察の一端を|披《ひ》|瀝《れき》遊ばすことには、あなたを嫌わせることにやっと今ご成功なすったわね、だってさ! じつに、ハーキュリーズもはだしの骨折りだよ! 首尾|好《よ》く成功しますれば感謝|至《し》|極《ごく》に存じまアすだ。ねえ、さっきの言葉はほんとうかい? イザベラ、お前は確かに私を嫌ってるかい? もしお前を半日一人でほっておいたら、また私のところにやって来て、ため息をついたり、甘い言葉をかけたりしないかね? ネリー、彼女はお前の前で私に大いに|優《やさ》しそうにしてもらいたかったらしいよ。こうほんとうのことを|暴《ばく》|露《ろ》されては虚栄心が傷つけられるからね。だが、全然片思いだったことを、誰が知ろうと私はかまわないよ。私はこのことについて彼女にうそを言ったことがないからね。だまして優しい顔を見せたなんて言われる気づかいはないんだ。グレンジからやって来る時、彼女が最初に見た私の仕事は、彼女の小犬を縛り首にしたことだった。許してやってくれと嘆願された時、私が答えて言った最初の言葉は、お前のうちのものなんぞ、ただ一人を除くほか、みんな縛り首してやりたいっていったんだ。たぶん彼女はその除外例を自分のことと思い込んだろうよ。だが、どんな残酷な行為も彼女をいやがらせなかった。ただ自分の大事なからださえ安全なら、そうした|残虐《ざんぎゃく》を内心感服してるらしいんだぜ! ところでね、こんなあわれむべき、奴隷根性の、さもしい|牝《めす》|犬《いぬ》が、私に愛され得ると夢みるなんて、よくよくのばか、本物のこけじゃあないかね! ネリーや、お前の主人に言いなよ、私はイザベラみたいな|卑《いや》しいものを、今までに見たことがないと言ったって。実際リントン家の|面《つら》よごしさ。|奴《やっこ》さんどのくらい|辛《しん》|抱《ぼう》して|性《しょう》こりもなく私にまつわりつくかと、私はさまざまにためしてみたが、ただ新しい思いつきが浮ばないばっかりに、時々はその手をゆるめることもあるよ。だが、もう一つお前の主人に言っておくれ、私は法律の範囲を厳格に守ってるから、兄弟としても治安判事としてもご安心なさいってね。離婚請求権なんぞは|爪《つめ》のあかほども今までにあたえていやしない。それにまた、私たちを離婚させてくれたって、イザベラはいっこうありがたがるまいよ。もし出て行きたけりゃ出ていってもいい。目の前にいられる気持悪さときちゃあ、いじめてやる満足くらいでとても引き合わないからね!」
「ヒースクリフさん、それはまるで狂人の物の言いようですね」と私は言って、「あなたの奥様はきっとあなたを狂人と思っていらっしゃるのです。だから今まで辛抱していられたのです。けれども今はあなたが出て行ってもいいとおっしゃるのですから、むろんそのお許しどおりになさるでしょう。奥様、あなたはご自分から好んでこの人と一緒にいなさるほど、そうまでも迷い込んでいらっしゃいますまいね?」
「エレンや、用心なさいよ!」と、イザベラは目を|憤《いきどお》りに光らせながら言いましたが、この表情から察するところ、|良人《お っ と》がこの妻に自分をにくませようとする努力は、十分成功していることが明白でした。「この人の言うことは一言も信じちゃいけないのよ。この人はうそつき鬼だわ! 怪物よ、人間じゃないわ! 前にも出て行っていいって言ったことがあるのよ。それで出て行こうとしたのよ。けれど二度とそれを繰返すのはもうまっぴらよ! ただね、エレン、お兄様やキャサリンにこの人の非道な話を一口も言わないでおくれ、どんな仮面をかぶったところで、この人は|畢竟《ひっきょう》エドガーをおこらして、やけにさせようと思っているのよ。この人はお兄様を支配しようとして、そのために私と結婚したんですとさ。ところがそうはさせませんよ、そのくらいならいっそ死ぬわ! どうぞこの人が悪魔みたいな用心を忘れて、私を殺してくれるといい! 私が胸に描くことのできるただ一つの楽しみは、死ぬことかまたはこの人の死ぬのを見ることか、そのどちらかよ!」
「こら――今はそのくらいにしておけ!」とヒースクリフは細君に言って、さらに私に向い、「ネリー、お前がもし法廷に呼び出される場合には、そいつの今の言葉を忘れまいね! それからあの顔つきをよくご覧。|好《い》い加減私と似合いの夫婦らしいね。けれどもイザベラ、今お前は自分で自分を監視できそうにもないよ。うっかり自殺でもされると、私はお前の法律上の保護者だから、しじゅう監視していなくてはならない。その義務がどんなにいやでもいたし方がないよ。二階へ行きなさい。私はちょっとエレン・ディーンに内証で話したいことがある。そっちじゃない――二階だというのに! さあ、これが二階へ行く道だよ、ねんねさん!」
ヒースクリフは細君を部屋からつまみ出して、戻りながらつぶやくには――
「私には情け|容《よう》|赦《しゃ》がないんだよ! 虫けらめがもがけばもがくほど、そのはらわたをますますふみつけてやりたくなるんだ! 精神的な|歯《は》|茎《ぐき》のうずきさ。歯の生える時のように、痛めば痛むほどひどく力を入れて食いしばるんだ」
「情け容赦という言葉の意味があなたにおわかりですか?」と私は急いで帽子を取り上げながら、「あなたは生れてから情けということをちょっとでも感じたことがありますか?」
「まあそれを置いてさ!」こうさえぎったのは、私の帰ろうとするのを察したからでした。「まだ帰るんじゃないよ。さあネリー、こっちにおいで。私がキャサリンに会う決心を実行するには、ぜひともお前に手伝ってもらわねばならん。いやでも手伝わせるよ。しかも|猶《ゆう》|予《よ》なしにさ。私には何らの害心がないことを誓うよ。私は何も騒動を起したくはないし、リントン氏をおこらしたり|侮辱《ぶじょく》したりしたくない。ただ彼女自身の口から、どんな容態なのか、またなぜ病気になったのか、それを聞きたい。そして私にできることで何か彼女に役立つことがないかとたずねたいんだ。昨夜私はグレンジの庭に六時間もいた。今晩も行くつもりだ。はいり込む機会を見つけるまでは、毎日毎晩出かけるよ。もしもエドガー・リントンに出あったら、いやおうなしに|撲《なぐ》り倒して、私が内にはいってる間おとなしく待たしておくさ。もし召使たちが手むかって来たら、このピストルでおどしつけてやるんだ。だが、奴らや主人に出っくわさないようにしてくれる方がよかろうじゃないか? お前にわけなくできることだしさ。私が行ったらお前に合図をするから、キャサリンのそばに誰もいなくなったら、こっそり私をうちに入れて、それから私が帰るまで見張りしてくれたら、それでいいんだ。お前は何も良心にやましいことはないよ、わざわいを防ぐのだからね」
私は自分の主人の家でそんな裏切り役を勤めることは拒絶しました。それにおのれの望みをみたすために、リントン夫人の平静を破ることは、残酷でかつわがままですと力説しました。「何でもない出来事ですら、奥様は痛ましく驚きなさいます」と私は言って、「非常に神経が過敏なのですもの。ましてびっくりさせたりしてはたまったものじゃありません。そんな強情はおよし下さいよ! さもないと、ご主人にあなたの計画を申し上げなくてはなりません。そうすれば、家の戸締りも厳重になり、家の人たちも用心して、そんな不当な侵入を防ぐ手段をとりますよ!」
「そういうことなら、私の方でもお前を引留める手段をとるよ!」とヒースクリフは叫んで、「お前をあすの朝までワザリング・ハイツから出してやらないよ。キャサリンが私に会ってはたまらんなんて言うのはばかな話だ。それに彼女をびっくりさせることなんぞ私はしたくないよ。お前があらかじめ彼女に言っておかなくてはならない。――私が行ってもいいかって、きいておくれ。彼女は私の名を口にしないし、また私の名を彼女の前で誰も口にしないとお前は言うが、あの家では私の話が禁制なんだし、そしたら一体彼女は誰に向って私のことを言うだろう? お前たちはみんな|良人《お っ と》のスパイどもだと彼女は思ってるんだ。ああ、彼女はお前たちの中ではまるで地獄にいるようなものだろうな! 何よりも彼女の沈黙によって、彼女が何を感じているか私にはわかる。彼女は時々そわそわして不安げだそうだね――それが平静と言えるかしら? 彼女の心がおちつかないとお前は言ったね。べらぼうな、あんな恐ろしい孤独でどうしておちついていられるもんか! あの気のぬけた、けちな野郎が、義務[#「義務」に傍点]と人道[#「人道」に傍点]とから彼女を|介《かい》|抱《ほう》するとさ! おなさけ[#「おなさけ」に傍点]と慈悲[#「慈悲」に傍点]とでね! そんな薄っぺらな|鉢《はち》|植《うえ》の土ほどの介抱で彼女の力が回復するくらいなら、植木鉢にカシの樹を植えて茂らせようと思うのも同然さ! 即座にことをきめようじゃないか――お前はここに泊っていて、私はリントンやその召使どもをやっつけて、キャサリンのそばに行こうか? それともお前は今までどおり私の味方になって、私が頼んだことをしてくれるか? さあ、きめた! お前が|頑《がん》|固《こ》に強情を張るなら、私は一分間もぐずぐずしていることはないんだからね!」
ほんとうにロックウッドさん、私は議論もし、苦情も言い、幾度もはっきりとお断わりもいたしましたが、とうとう無理矢理に承知させられてしまいました。私はヒースクリフの手紙を家の奥様に取次ぐことになり、そして奥様が|承諾《しょうだく》なすったら、リントンのこの次留守になる時を知らせると約束しました。その時私は家にいないことにし、他の召使たちも同様に外出させるのですから、ヒースクリフはやって来て勝手次第にはいり込めばいいわけになるのです。これは正しいやり方でしょうか、それとも不正なことでしょうか? 方便とは申せ、正しくないでしょうね。しかしまたもや爆発しようとする騒動を、私はこの承諾によって防ぎ止めたと思いました。またこのことがキャサリンの精神病に好転機を生ずるかもしれないとも思いました。するとまた先日私のつげ口をエドガー様がひどくお|叱《しか》りなすったことを思い出しました。そして、これは信頼の裏切りと|苛《か》|酷《こく》にも名づけられるべきことかもしれませんが、もう必ずこれっきりと、私は心の中に幾度もくりかえし念をおして、この問題に対する良心のあらゆる不安をやわらげようとしたのでした。にもかかわらず、私の帰りみちは行きよりも悲しい道中でした。そして手紙をリントン夫人の手に渡す決心のきまるまでは、ずいぶん心迷いしたものでございました。
でもただいまケネスが見えました。私は下へ行って、あなたのご容態を申し上げましょう。私の物語はこちらの言葉で申しますとずいぶん dree な(退屈で長たらしい)もので、もうひと朝も暇つぶしのお役に立つことでございましょう。
退屈で陰気だな! お人よしの家政婦が医者の応接に下りて行った時、僕はそう考えた。それになぐさみにえらぶような種類の話でもない。だが、まあいいや! ディーン女史の苦い薬草から、僕は滋養剤をしぼり取るんだ。それにまず、キャサリン・ヒースクリフの輝く目にひそむ魅力に用心が肝要。僕があの|若《わか》|後《ご》|家《け》にぞっこん参ったりして、しかも彼女が母親の第二版てなことになった日にゃ、妙ちきりんなあんばいになろうぜ!
一五
また一週間過ぎた。その間に近づく僕の健康だ、そして春だ! 家政婦はたいした用事もない暇のおりに、たびたびすわって、私に隣家の人の一代記を聞かせてくれた。それをそのまま記しつづけよう。ただし少々簡略にした。しかし大体からいって、ぼくの家政婦君は実に話上手で、ぼくはその話の言葉に朱を入れることができそうにもないのだ。
ハイツを訪れた日の夕方、私はヒースクリフさんが家のあたりに来ていることを、姿は見かけませんでしたけれど、見たようにはっきりと知りました。私は例の手紙をまだポケットに入れて持っていましたので、またもやおどされたり、いじめられたりしたくありませんでしたから、戸外に出ることを避けていました。|旦《だん》|那《な》様がどこかへお出かけになるまでは、その手紙を私は渡すまいと決めていました。キャサリンがそれを読んだ時どうなるか、私には推察できなかったからです。その結果、それを渡さずに三日過ぎてしまいました。四日目は日曜日でした。で、みんなが教会に行った後、私はそれを奥様の部屋に届けました。その日は一人の下男が私と一緒に留守番をしていました。いつもは礼拝の間、家の戸締りをしておく習慣でしたけれど、その日は暖かな気持よい天気でしたから、私たちは戸をすっかりあけ放しておいたのです。誰がやって来るかわかっていますので、私は約束を果さなくてはなりません。で相棒の召使に申しますよう、奥様はオレンジを非常に召し上りたいそうだから、村へ一走りして少し買って来て欲しい、お代は明日払うことにして、とこう頼みました。召使が出て行くと、私は二階へ参りました。
リントン夫人はゆったりした白い着物を着て、肩には軽いショールをかけ、開いた窓の張出しの所に、いつものようにすわっていました。厚くて長い髪の毛は、病気の始め|頃《ごろ》よほど取払われたのですが、今ではそれをただ自然のままにすいて、ふさふさとこめかみや首に垂れていました。その|容《よう》|貌《ぼう》は私がヒースクリフに話したとおり変っていました。でも穏やかな時は、その変化に地上のものとは思えない美しさが見えました。あの目の光は、夢みるようなそして|憂《ゆう》|鬱《うつ》な柔らかさに変っていました。それは周囲の物を見ているような印象を与えませんでした。いつでも遠方を見つめているようでした。いわばこの世のほかのずっと遠方をです。それからその顔の青白い色――その|凄《すご》|味《み》は次第に肉づきの回復するに従って消えていましたが――それと精神状態にもとづく表情とは、それらの原因を痛々しく示していましたが、見る人の心を痛ませる魅力を増していました。そうした変化はいつでも私に対して、またおそらくこの病人を見たすべての人々に対しても、外見で知られる回復の証拠を否定させて、もはや死相の|極《ごく》|印《いん》をこの病人に刻みつけていました。
一冊の本が彼女の前の窓べりの上にひろげられていました。そして有るか無しかの風がおりおりページをひるがえしていました。たぶんリントンがその本をそこに置いていったのでしょう。なぜなれば、病人は読書なんぞで気を|紛《まぎ》らそうとしませんでしたのに、リントンはかつての妻の楽しみであったそうした|事《こと》|柄《がら》に病妻の心をさそってみようと、根気よく試みていらしたからです。キャサリンは|良人《お っ と》の目的を|覚《さと》り、|機《き》|嫌《げん》のいい時にはうるさい顔も見せず、ただものうげなため息をおりおり抑えるようにして良人の努力の|無《む》|駄《だ》なことを示し、そしてしまいにはとても悲しげな微笑とキスとで良人をとめるのでした。気分が悪いと|癇癪《かんしゃく》を起して横を向き、顔を両手で隠したり、または怒って良人を突きのけたりさえしました。そんな時リントンは妻を一人にして置くように注意しました。自分のすることが何の役にも立たないことをご存じなのでした。
ギマトンの教会堂の鐘はまだ鳴りやみませんでした。谷川のみなぎる|快《こころよ》い流れは耳をなごめるように聞えて来ました。それはまだ聞えない夏の木の葉のさやぎの代りになる美しい音でした。グレンジのあたりでは、木々の茂る|頃《ころ》になると、この小川の音楽は|青嵐《あおあらし》に消されて聞えません。ワザリング・ハイツですと、大雪どけや雨季などの後の静かな日には、この流れの音がいつでも聞えます。そしてそのワザリング・ハイツのことを、キャサリンは耳を傾けながら考えていたのでした――と言っても、もしかりに何か考えたり聞いたりしていたならばです。けれどもこの病人は、私が前に申しましたような目つきをして、ぼんやりと遠方を見ていました。それはこの世の物を見れども見えず、聞けども聞えずといった様子なのでした。
「奥様、お手紙でございます」と言って、|膝《ひざ》の上に置かれたお手に、私はそれをそっとはさんであげました。「すぐにお読みになって下さい、ご返事がいりますので。封をお切りしましょうか?」こう申し上げますと奥様は視線を動かさずに「ええ」とお答えになりました。私は開封しました。それはまことに短い手紙でした。「さあ。お読み遊ばせ」と私は申しました。奥様が手を引っ込めたのでそれが落ちました。私は拾って奥様の膝の上に置き、それに目を通そうとなさるまで待っていましたが、いつまで待っても読もうとなさいませんので、とうとうまた申しました。――
「奥様。私がお読みしなくてはなりませんか? ヒースクリフさんからです」
奥様はハッとして、どぎまぎしながら思い出そうと目を輝かし、そして考えをまとめようと努力しているようでした。それから手紙を取り上げて読んでいるようでしたが、署名の所まで来るとため息を|洩《も》らしました。それでもまだ意味が取れないらしく、ご返事を|承《うけたまわ》りたいと申し上げても、ただその署名をさしながら、悲しげな、けげんそうな目つきでじっと私をみつめるのでした。
「あのかたがあなたにお会いしたいんだそうです」と、私は通訳がいるのだと察して申し上げ、「あのかたは|今《いま》|頃《ごろ》もう庭へ来て、ご返事をお待ちかねでしょう」
こう話して窓外を見ますと、下の芝草で|日《ひ》|向《なた》ぼっこをしていた大きな犬が、ほえようとするかのように耳を立て、やがて立てた耳を垂れ、怪しい奴とは思わない人がやって来たことを、尾を振って知らせていました。奥様は前かがみになって、息を殺しながら聞いていました。まもなく足音が広間を横切りました。家があけ放してあるのを見るとたまらなくなって、はいらずにおれなかったのでしょう。たぶんヒースクリフは、私が約束をやめる気になったと思い、大胆にまかせて事をやる決心をしたと見えます。熱心に緊張してキャサリンは部屋の入口をみつめました。どの部屋かちょっとわからずにまごついているらしいので、奥様は私に案内するよう合図なさいましたが、私が戸口まで行かないうちに外ではこの部屋を探り当てて、一歩か二歩で奥様のそばに寄り、両腕の中に奥様を抱きしめていました。
五分間ほどあの人は何も言いませんでした。抱きしめた腕をゆるめもしませんでした。その間に非常にたくさんのキスをしました。たぶんあの人が今までの一生に経験したキスをみんな合せたより、もっとたくさんでしたろう。しかもこの時奥様がまずあの人にキスしたのでした。そしてあの人がまぎれもない|苦《く》|悶《もん》のために奥様の顔を見るにたえない有様は、私には明白にわかりましたよ! もう全快の見込みはない――もうだめだ、きっと死ぬのだ。奥様を一目見た時、あの人は私と同じようにこうした直感に打たれたのです。
「おお、キャシイ! おお、私の生命! どうして私に|堪《た》えられよう!」これがあの人の言った最初の言葉でした。その調子は絶望を隠そうとしていないのでした。それから、それはそれは懸命に奥様をみつめていました。私はあの人の目から涙が出るだろうと思ったほどでした。が、その目は苦悩に燃えていて、涙に溶けはしませんでした。
「何さ?」キャサリンは後ろによりかかり、にわかに|眉《まゆ》|根《ね》を曇らせてその凝視に|応《こた》えながら言いました。この病人の|機《き》|嫌《げん》はいつも変る気まぐれ次第の風見のようでした。
「ヒースクリフ、あなたとエドガーとが私の心を悲しみでめちゃめちゃにしてしまったんだわ! それだのにあなたがたは、まるで自分たちの方がかわいそうな人たちででもあるかのように、私の所へやって来ては泣きごとをいうのね! 私はけっしてあなたがたをかわいそうに思ってあげないわ。あなたがたは私を殺して、そのせいでますます太って行くようなものよ。あなたがたはなんてお強いんでしょう! 私が死んじゃってから何年生きるおつもりなの?」
ヒースクリフはキャサリンを|抱《ほう》|擁《よう》するために|片《かた》|膝《ひざ》をついておりましたが、立ち上ろうとしましたところ髪の毛をつかまれて、引きすえられました。
「私はこうやって一緒に死ぬまであなたをつかんでおれたらいいけれど!」と、キャサリンは切なそうに言葉をつづけて、「あなたが苦しんだとてちっともかまわないわ。なぜあなたは苦しまないの? 私が苦しんでいるのに! 私を忘れるおつもり? 私が土の下にはいれば、あなたは幸福なんでしょう? 今から二十年もしたらおっしゃるでしょうね――これがキャサリン・アンショーの墓だ。私は昔この女を愛したことがあった。そしてなくした時は悲しかったものだ。だがそれは過去のことだ。その後私は多くの者を愛した。私の子供たちは私にとってこの女どころではなくかわいいのだ。私は死んでこの女の所に行くことを喜ばない。子供たちと死別することが悲しいね!――あなたはそうおっしゃるでしょう? ね、ヒースクリフ」
「あなたと同じに気がちがうまで私をいじめないでおくれ」と彼は叫んで、つかまれた頭を無理に振り放し、歯ぎしりをするのでした。
この二人の様子は、冷静な|傍《ぼう》|観《かん》|者《しゃ》にとっては、奇妙なそして恐ろしい光景でした。キャサリンが浮世のからだとともに浮世の性格をすてないかぎり、天国もその身にとっては|鬼《き》|界《かい》が島のように思われたのも無理がありません。その現在の顔には、その青白い|頬《ほお》に、その血のけのない|唇《くちびる》に、そしてきらめく目に、ある狂暴な執念が宿っていました。そしてしっかりと握った手には、今までつかんでいた男の髪の毛が残っていました。その相手はと言えば、片手で自分のからだを支え起しながら、片手ではキャサリンの腕を押えていました。彼の|優《やさ》しみの持ち合せは、病人の状態の要求に|叶《かな》うには不十分でしたので、彼がおさえた手を放した時、おさえられた|蒼《あお》|白《じろ》い皮膚に、四つの指跡がくっきりと青くついたのを私は見ました。
「あなたは悪魔にとりつかれているんだね、死にかかっていながら私にそんな物の言いようをするなんて」とヒースクリフは乱暴に言って、「あなたは考えてみないんだね、その言葉がみんな私の記憶に焼きつけられて、私がおき去りにされた後には、永久にいよいよ深く私の心に食い入るんだよ。わかってるはずだ、私があなたを殺したなんていうのは自分を|欺《あざむ》いてるんだ。それにキャサリン、私が自分の生命を絶つと同時にあなたを忘れることができたらなア! それもあなたにはわかってるはずなんだ。あなたが墓の下で太平楽でいる間私は地獄の苦しみにもだえるんだ。あなたの|極《ごく》|道《どう》な身勝手は、それだけでも十分じゃないか!」
「私は太平楽じゃなかろうと思うわ」とキャサリンはうめきました。はげしい、そして乱脈な鼓動のために再び病身の感じに呼び返されるのでした。過度の興奮にたえかねた心臓の鼓動は、外から見えも聞えもしたほどでした。で、しばらくは言葉をつげませんでしたが、この発作が終ると、前よりも優しくこう続けました。――
「あなたを私よりもっとひどく苦しめたいとは私思わないの。ただね、あなたとはけっして離れたくないと思うのよ。そして私の言葉が今後あなたを悩ますとしても、私だって墓の下で同じ悩みを感じてるわ。私のためと思ってゆるして下さいね! も一度ここに来て|膝《ひざ》をついて! あなたは今まで一度だって私を苦しめたことなんてなくってよ。いや、もしあなたが胸にもって怒っていらっしゃるなら、私のひどい言葉よりも、私に対して怒ったことの方が、あなたにとってずっといけない記憶になるでしょうよ! だから怒っちゃいや、も一度ここに来ない? ね!」
ヒースクリフはキャサリンの|椅《い》|子《す》のうしろへ来てかがみましたが、深い感動でまっ青になったその顔を見せないようにしました。一方ではそれを見ようとして、首をまげて後へ|廻《まわ》しました。相手は見せまいとして、突然振り向いて炉ばたへ行き、そこで背を私たちの方へ向けて黙って立っていました。キャサリンはけげんそうにそれを見ましたが、胸のうちに刻々と新しい感情が起ってくるのでした。しばらくして、やや長らく男の後姿をみつめた後、|憤《ふん》|慨《がい》した失望の調子で私にこう言いました。――
「ああ、ネリーや、あの人はちょっとのあいだ心を|和《やわ》らげて、私を墓場から引留めようともしないのね。それが私の愛され方なのよ! いいわ、かまわないわ、あれは私のヒースクリフじゃないわ。私のヒースクリフを私は今でも愛してよ。そして私と一緒につれて行くわ。私の|魂《たましい》の中にいるんですもの。結局、一番いやなものはこのボロ|牢《ろう》|屋《や》みたいな病身ね。ここに閉じこめられることは、もうあきあきしたわ。私はあの輝く世界にのがれていつもそこにいたい。涙を通してぼんやりとそれを見たり、痛む胸の|垣《かき》|根《ね》ごしにあこがれたりするのでなしに、ほんとうにそれと一緒になってその中にいたい。ネリーや、お前は私より幸運だと思ってるでしょう。健康で強くてさ。お前は私を気の毒に思ってる――でもそれはすぐと変ってしまうわ。やがて私がお前を気の毒に思うようになるわよ。私はお前たちみんなと比べ物にならないほど遠い高い所にいるでしょうよ」こう言って今度は|独《ひと》り|言《ごと》のように続けるには、「あの人が私の|傍《そば》に寄りたがらないなんて不思議ね。私の傍に来たいのだと思ったら。ね、ヒースクリフ! もう|機《き》|嫌《げん》を直さなくっちゃならないわ。ここにいらっしゃいったら、ヒースクリフ」
熱心のあまり病人は立ち上って、|椅《い》|子《す》の|肱《ひじ》|掛《か》けでからだを支えました。この一所懸命な願いに相手は振り返りました。それはひどく絶望した様子でした。大きな|濡《ぬ》れた目はとうとう彼女へ荒々しく|閃《ひら》めき、胸はけいれんでも起したように波立っていました。少しのあいだ二人は離れていて、それからどうして抱き合ったか私にはほとんど見えませんでしたが、キャサリンがとび上ると相手はそれは受け止め、二人はしっかりと|抱《ほう》|擁《よう》し合ったのでした。病人は生きて離れまいと思われました。実際私の眼にはまさしく無感覚の状態に見えました。男は手近かの椅子に腰を下ろし、私が急いで近寄っていって奥様が気絶したのかどうか見きわめようとしますと、私に向って歯をむき出し、狂犬のように|泡《あわ》を吹き、さわらせまいとして奥様を大切そうに引きよせるのでした。私は相手が私と同じ種類の生き物ではないように感じられ、物を言ったところで通じないと思いましたので、ひどく当惑して、口をつぐんで離れてたたずみました。
やがてキャサリンが動いて私を少し安心させました。手をあげて男の|頸《くび》にまきつけ、|頬《ほお》を相手の頬へすり寄せたのでした。するとまた一方ではそれを狂気のように|抱《ほう》|擁《よう》しながら、あらあらしく言うことには、――
「あなたが今までどんなに無情であったかを、私にいま教えてくれるのですね――無情でそして不実だった。なぜ私をいやしめたのです? なぜあなた自身の心に|背《そむ》いたのです? |慰《なぐさ》めの言葉なんか一言だって私は持たない。あなたにとってこれは当然なんだ。あなたは自らを殺してるんだ。そうさ、私にキスして泣くがいい。そして私のキスと涙とを奪い取るがいい。それがあなたのからだをめちゃめちゃにしちまうんだ。あなたは私を愛してた――それなら私を|棄《す》てる何の権利があったんです? 答えてご覧、あなたがリントンに対して感じた貧弱な出来心のために、私を棄てる何の権利があるんです? 不幸も|堕《だ》|落《らく》も死も何もかも、神や悪魔の加え得る一切は我々を離れさせないんだ。だから我々の仲をさいたのはあなただ。あなた自身の意志なんだ。私があなたの心をめちゃめちゃにしたのではない――あなたがそうしたのだ。しかもあなたは自分をそうした上に、そのために私の心をめちゃめちゃにしたのだ。私のからだが強いものだからなおさらいけないんだ。私は生きたいだろうか! 私はどんな生きざまをするだろう、あなたが今に――おお! 自らの|魂《たましい》である愛人を墓の中に埋めてあなたは|娑《しゃ》|婆《ば》に生き残っていたいと思うか?」
「私をなじらないで下さい」とキャサリンは|啜《すす》り泣きながら、「私がまちがいをしたにせよ、そのために私は死ぬところじゃありませんか。それで十分だわ! あなただってやはり私を棄てたでしょう。でも私はとがめないわ! 私はあなたを許してあげる。その代り私をゆるしてね!」
「ゆるすのはつらい。そしてその目を見、そのやつれた|頬《ほお》に触れることはつらい」と彼は答えて「もう一度私にキスしておくれ。そして私にあなたの目を見せないでおくれ。私はあなたが私にしたことを許すよ。私は自分を殺した者を愛する――しかしあなたを殺した者をどうして愛することができよう?」
二人は沈黙しました――二人の顔はお互いの顔にかくれ、お互いの涙で洗われました。少なくとも私には二人が泣いているものと思われました。こうした非常な場合にはヒースクリフすら泣けるものとみえます。
やがて私はひどく不安になりました。なぜなれば午後の時は早くも過ぎ、私が使いにやった男は帰り、谷の上の西日の光で、私はギマトン教会堂の玄関から群集が外に群がり出るのをみとめることができたからでした。
「礼拝が終りました」と私は知らせて、「ご主人は半時間たてばここにお見えになりましょう」
ヒースクリフは何やらののしりの言葉をうなりましたが、キャサリンをいっそう激しく抱きしめました――キャサリンは身動きもしませんでした。
間もなく一団の召使たちが台所の建物の|翼《よく》の方へと道を登って来るのが見えました。リントンさんもたいしておくれてはいませんでした。そしてご自分で門をお開きなすって、たぶん、まるで夏のように軟らかにそよ風息づく美しい午後の外気を楽しんでいられるのでしょう、ゆっくりと|逍遥《しょうよう》しながら登って来られました。
「それ、お帰りになりました」と私は叫んで、「|後生《ごしょう》だから早くおりて下さい! 表の階段ですと誰にも会いますまい。早く! そしてあのかたがすっかり家におはいりなさるまで木の間にじっとしていらっしゃい」
「私は行かなくてはならないよ、キャシー」とヒースクリフは相手の両腕から抜けようとしながら、「しかし私が生きているかぎり、あなたが眠る前にもう一度あなたを見に来よう。私はあなたの窓から五ヤードと離れていまい」
「あなたは行っちゃいけないわ!」とキャサリンは弱った力でできるかぎり強く男を引きとめながら、「あなたを行かせはしないわ」
「一時間だけお待ちね」と男は熱心に嘆願しました。
「一分だっていや」とキャサリンは答えました。
「私は行かなくてはならない――リントンがじきに上って来るよ」と不安になった侵入者は言い張りました。
ヒースクリフは立ち上ってキャサリンの指を振りほどくつもりでしたが、キャサリンはあえぎながら、しっかりとしがみつくのでした。その顔には狂暴な決心が見えました。
「いいえ!」とキャサリンは叫んで「ああ、行っちゃだめよ、だめよ。もうこれが最後よ! エドガーは私たちをどうにもしますまい。ヒースクリフ、私は死ぬの、死ぬのよ!」
「畜生め! あいつが来やがった」とヒースクリフは|椅《い》|子《す》にどっと腰をおろしながら叫んで、「静かに、ね、静かに、静かに、キャサリン! 私はここにいようよ。このままあいつにうち殺されても、私は口に祝福をとなえながら死んでいこう」
そして二人はまたもやしっかりと抱き合いました。私はご主人の階段を登る|靴《くつ》|音《おと》を聞きました――|額《ひたい》に冷汗がにじみました。私はびくびくしていました。
「あなたはキャシーのうわごとに耳を傾けるつもりですか?」と私は言葉はげしく申しました。「キャシーは自分で何を言っているか知らないのです。正気を失って自分でどうしようもないキャシーを、あなたはだめにしてしまいなさるつもりですか? お立ちなさい! あなたはすぐに抜け出られたのに。それは今までにあなたがなすったことの中で一番非道なことです。あなたがそうしていればみんなだめになってしまいます――ご主人も、キャシー奥さんも、召使も」
私は両手を握りしめて叫びました。リントンさんは騒ぎを聞きつけて急いで階段を上っていらっしゃいました。この興奮の最中、キャサリンの両腕がだらりと落ち、その頭がたれ下がったのを見て、私は心から喜んだのでした。
「気絶したのかそれとも死んだのかしら」と私は思いました。「結局その方がましだ。生きながらえて周囲のみんなに重荷となり、不幸を作る者となるよりは、死んだ方がはるかにましだろう」
エドガーは驚きと怒りとでまっ青になって、この招かれざる客にとびかかったのでした。そしてどうするつもりでしたか私にはわかりません。しかしヒースクリフはエドガーのこの感情的挙動をすぐさまやめさせました。生命のないように見えるキャサリンのからだをエドガーの両腕にのせかけたからでした。
「それ!」と彼は言って「あなたが鬼でなければまずこの人を助けなさい――それから話をきこう!」
彼は居間に来てすわりました。リントンさんは私をお呼びなすって、いろいろと手を尽した末ようやくキャサリンを正気に帰しました。しかしキャシーはまるでぼんやりしていました。ため息をつき、うなり、そして誰をもわからないのでした。エドガーは奥さんを心配するあまり、そのいやな友達を忘れていました。私は忘れませんでした。で、機会を見つけるとすぐに行って、あの人に立ち去ってくれるよう頼んだのでした。キャサリンは回復したと話し、明朝私がキャシーの今晩の様子を知らせてあげようと言って、|納《なっ》|得《とく》させたのでした。
「私は戸の外に出て行くのをいやとは言わない」とあの人は答えて「だが私は庭にいよう。そしてネリーや、明日の朝約束をきっと守るようにね。私はあの|落《か》|葉《ら》|松《まつ》の木立の下にいようよ。いいね! そうしないとリントンが家にいようがいまいが私はまたやって来るよ」
ヒースクリフは半分開いたドアからチラと素早い一目を奥の部屋に送り、私が話したことをほんとうらしいとたしかめて、この家からその不吉な姿を消したのでした。
一六
その夜の十二時|頃《ごろ》に、あなたがワザリング・ハイツでお会いなすったあのキャサリンが生れたのです。ちっぽけな七月児でした。そして二時間ののち母親が死んだのです。ヒースクリフのいないことに気づくほど、あるいはエドガーを見知るほどには意識を回復せずにしまいました。エドガーが愛妻を失った時の気も狂うほどの有様は、あまりいたいたしいことでながながと申し上げられません。その後の結果はどんなに深く悲しんだかを示しました。それに私の見たところ、もう一つ困ったことにはエドガーが男の|嗣《し》|子《し》なしにとり残されたことでした。私は弱々しい遺児を見たとき悲しみました。そして心の中に先代リントン様の偏愛を責めました。ご自分の娘イザベラに遺産を定め、息子エドガーの子供には定めなかったというのは、ほんの人情の自然かもしれませんがね。かわいそうにそれは歓迎されない赤ん坊でした。生れた最初の間は、死ぬほど泣いたとて、誰もちっとも気にとめなかったのです。私たちは後になってこの粗略を|償《つぐな》いました。しかしその出生の時は、おそらくその|末《まつ》|期《ご》も同様でしょうが、|寄《よる》|辺《べ》ないみたいでした。
翌日――戸外は輝かしい|愉《ゆ》|快《かい》な日でした――朝日は静かな室の|日《ひ》|除《よ》けを通して軟らかに忍び入り、寝床とその上に横たわる人とを軟らかな|優《やさ》しい光で満たしました。エドガー・リントンは頭を|枕《まくら》の上に横たえ両眼を閉じていました。その若い美しい|容《よう》|貌《ぼう》はかたわらの人の顔とほとんど同様に死人らしく、そして固定していました。しかし|良人《お っ と》の方のは|苦《く》|悶《もん》に疲れはてた静寂であり、妻のは完全な平和の静寂でした。キャシーの|額《ひたい》にはしわがなく、そのまぶたは閉じ、唇は微笑の表情をおび――天国のどんな天使でもこれ以上美しくは見えますまい。そして私はキャシーの横たわる無限の静けさを共にしたのでした。この神の与える安眠の穏やかな姿を見つめた時ほど、私の心が神聖な気分になったことはございません。私は数時間前にキャシーの言った言葉を本能的に繰返しました。「私たちみんなと比べ物にならないほど遠い高い所にいる! まだ地上にいるにせよ、あるいは今はもう天国にいるにせよ、キャシーの|魂《たましい》は神様とともに安らかなのだ!」
それは私だけに特別なことかもしれませんが、死人の部屋で|通《つ》|夜《や》している間、私は|大《たい》|概《がい》いつでも幸福なのです。狂気や絶望にかられて泣き悲しむ人と一緒に、この勤めをするのではだめですけれどね。この世も地獄も乱し得ない休息を見て、無限のそして暗影のない来世の安心を私は感じます。死んだ人のはいって行った永遠の世界、そこには生命が限りなくつづき、愛は限りなくその同情を得、歓喜は限りなくその満足を得るのですもの。リントン様がキャサリンの祝福された|成仏《じょうぶつ》をあんまり嘆くので、あのおかたの愛にすら多分のわがままがあるということをその時に思いました。なるほど、あんな気ままな気短かな一生を送った後、キャサリンがはたして最後に平和の港にはいることができるかどうか、人は疑うかもしれません。冷たい反省の時には疑うでもありましょう。けれどもキャサリンの死骸を前にしては、それは疑い得ないことでした。その|屍《しかばね》の明らかな静けさは、その中に前に宿っていた|魂《たましい》の同じ静けさをも保証するように思われました。
あなたはこうした人々があの世で幸福になると信じなさいますか? 私はどうもその点を知りたいのでございます。
僕はディーンさんのこの質問に答えることを断わった。そんな質問はなんだか異端的のように感じられたからである。で、この婦人は語りつづけた――
キャサリン・リントンの生涯をたどってみますと、どうもあの奥様はあの世で幸福であると思ってよいかどうか疑問です。しかし私どもはあのおかたを神様の|御《み》|手《て》にゆだねましょう。
ご主人はお眠りのようでしたので、私は日の出後まもなくその室を去って、こっそりと清らかなそしてさわやかな戸外に出ました。召使たちは私が長いお通夜の眠気を払いに出たと思ったでしょう。が、実はヒースクリフさんに会うのが私のおもな目的なのでした。もしあの人が一晩じゅうあの|落《か》|葉《ら》|松《まつ》の木立の中にいたのなら、グレンジでの騒ぎをちっとも聞きつけなかったでしょう。たぶんギマトンへ行く使いの馬のひづめの音を聞いたくらいのものでしょう。もし家の近くに来ていたなら、あちこちとちらつくともし火の様子や、表戸や裏戸のしげくあけ立てする物音などから察して、家の中では尋常ならぬことが起ったと気づいたかもしれません。私はあの人を見つけたいと思いましたが、でもなんだかそれが心配でした。私はあの恐ろしい知らせを話さねばならぬと感じ、早くそれをやってのけたいと思いました。でも、どう話していいのかわかりませんでした。あの人はいました。数ヤード先の|猟苑《りょうえん》に、一本のトネリコの老樹によりかかり、帽子を脱ぎ、髪を露でびっしょり|濡《ぬ》らしていました。若葉の枝々にむすんだ夜露がからだの周りにしたたっていたのです。その位置に長い間じっと立っていたことでしょう。なぜなれば三フィートと離れていないあたりを一|番《つがい》の黒ツグミが、巣を作るのに忙しく行ったり来たりしていましたが、あの人が|傍《そば》にいるのをまるで一本の丸太棒ほどにも気にしていませんでしたから。私が近づきましたので鳥どもは飛び去り、あの人は目を上げて言いました――
「あれは死んだ!」とあの人は言って「それを聞くためにあなたを待ったんじゃない。ハンカチをのけなさい。私の前で泣くんじゃない。あんたがたなんかみんな地獄に行くがいいんだ! あれはあんたがたの涙なんぞ一滴だってほしかないんだ!」
私はキャシーのためと同様にこの人のためにも泣きました。私どもは自分にも他人にもなんの感情も持たない人々をさえ時には|憐《あわ》れむものです。最初この人の顔を見た時、私は彼が昨夜の異変をすでに知っていると|覚《さと》りました。そしてこの人の|唇《くちびる》が動き、視線を地上に向けていましたので、私はおろかにもこの人が心を静めて祈っているのだと思ったものでした。
「はい、あの人は亡くなりました!」と私は|啜《すす》り泣きをおさえ、|頬《ほお》の涙を|拭《ふ》きながら答えました。「天国に召されたことと思います。そこで私どもはみんな、正しいみさとしを聞き、悪を去って善につくならば、やがてあの人と一緒になることができるでしょう」
「そんならあれがその正しいみさとしを聞いたのかい?」とヒースクリフはむりに冷笑してたずねますには「あれは聖者のように死んだかい? さあ、ほんとうの話を私に聞かせておくれ。どんなにして――」
そう言いかけて彼女の名前を言おうとしましたが、どうしても言うことができないのでした。そして唇をかみしめながら内心の|苦《く》|悶《もん》と黙って戦い続けて、しばらくは、ひるまない|凶猛《きょうもう》な目つきでにらみながら私の同情を拒否しているようでした。
「どんなにしてあれは死んだ!」とようやく言葉を続けて、この人の大胆にもにあわず、甘んじて背後の木によりかかっていました。なぜなれば心の苦悶の末、この人はわれにもあらず指の先までわなないていたのでした。
「かわいそうに」と私は心の中に思いました。「あなたは同じ人間並みの心臓も神経もあるのですね! なぜそれを隠したがるのですか? あなたの自尊心は神様をあざむくことができません! 神が心臓や神経をしぼって涙を出せるなら出してみろ、とあなたは威張って神様を試していますが、結局神様があなたを屈服させて涙に暮れさせる時が来ますよ」
「子羊のように静かに!」と私は口に出して答えました。「あのかたはため息をつき、そしてからだを伸ばしました。まるで子供が生き返るように目ざめて、また眠りに落ちるようでした。それから五分たって私の手はあのかたの心臓にかすかな鼓動を一つ感じ、もうそれだけでした!」
「そして――あれは私のことをなにか言ったかい?」とヒースクリフはためらいながらたずねました。あたかもこの問に対する答が、聞くにたえないくわしい話をされるのではないかと|懸《け》|念《ねん》するようでした。
「あのかたの正気はとうとう回復しませんでした。あの時あなたと別れてから、あのかたは誰の顔も見わけませんでした。あのかたは美しい微笑を顔に浮べておいででした。あのかたの最近の心は楽しかった幼い日に帰ってさまよっていました。あのかたの生涯は|優《やさ》しい夢に閉じました――どうぞあの世でもあのまま優しくお目覚めになりますように!」
「どうかあれが苦悶に目覚めるようにだ!」と、彼は地だんだをふみ、おさえきれない激情の突発にうなりながら、驚くほど乱暴に叫びました。「なんだ、あれは死ぬまでうそつきだったんだ! あれはどこにいるんだ? あすこじゃない――天国じゃない――失われてもいない――どこだ? おお! あなたは私の苦しみなんどちっともかまわないと言ったね! そして私も一つの祈りをしよう――それを舌の根のこわばるまで繰返そう! キャサリン・アンショーよ、私が生きているかぎりお前も安らかには浮ばれないように! お前は、私がお前を殺したと言った。そんなら化けて、私に来ておくれ! 殺された人たちは下手人のところに化けて出るものだよ。私は幽霊が地上に実際さまよっていることを知っている。いつも私と一緒にいておくれ――どんな姿でもいい――私を気ちがいにしておくれ! ただ、お前のいないこの|深《しん》|淵《えん》に、私を置きざりにだけはしてくれるな! おお神よ! それは言葉では言われない! 私は私の生命なしには生きて行けない! 私は私の魂なしには生きて行けない!」
ヒースクリフは節のある|樹《き》の幹に頭を打ちつけて、目を上げ、人間のようにではなく、まるで死ぬほどナイフや|槍《やり》で血まみれにされた野獣のように|吠《ほ》えました。私は木の皮のあたりに血のしぶきを見ました。あの人の手も|額《ひたい》も血でよごれていました。私が見たこの場面はおそらく一晩じゅう幾度も演じられたことでしたろう。それは私の同情をほとんど動かしませんでした。それは私をびっくりさせました。でも私はそのまま放っておくのはいやでした。しかし私が見ているのに気がつくほど気が静まるやいなや、私に行けと命じてどなりました。で、私は立ち去りました。|鎮《しず》めたり|慰《なぐさ》めたりすることはとても私の手に負えないことでしたもの!
リントン夫人のお葬式は、その死亡後の金曜にすることにきまりました。それまで|柩《ひつぎ》は|蓋《ふた》をせずに、花や|香《かぐ》わしい木の葉などに飾られて大広間に置かれました。リントン様は眠らずに見守りながら日夜そこで過しました。またこの際のことは私以外は誰も知りませんでしたが、ヒースクリフもやはり眠らずに戸外で夜を過したのでした。私はあの人と話しませんでしたが、でもあの人は家にはいられたらはいるつもりでいることが私にわかりました。そして火曜日の日暮|頃《ごろ》、ご主人が全くのお疲れから二時間ほど室を余儀なく去られた時、私は行って窓をあけ、あの人の|堅《けん》|忍《にん》|不《ふ》|抜《ばつ》の心に動かされて、その崇拝する偶像の色あせた姿に最後の別れをつげる機会を与えようとしました。あの人はその好機を逸せず、用心深く手取早くやって来ました。非常に用心深くして少しの物音もたてず、いるかいないかわからないほどでした。ほんとうに私はあの人のそこに来たことがわからないほどでしたが、ただなきがらの顔のまわりの布が乱れ、床の上に銀糸で結んだ薄色の巻毛が落ちていました。それはよく見るとキャサリンの首にかけたロケットから取り出したものとわかりました。ヒースクリフはそのロケットを開いて中味を捨て、自分の黒い髪の毛を入れかえておいたのでした。私はその両方をねじってそれを一緒に入れておきました。
アンショーさんはもちろん妹の死骸を野辺送りするために呼ばれました。しかも何の言いわけもなしにとうとう来ませんでした。それで|良人《お っ と》のほか、野辺送りをした人はみんな小作人や召使だけでした。イザベラは呼ばれませんでした。
キャサリンの墓地は、村人の驚いたことには、教会堂内のリントン家の彫刻付きの墓碑の下でもなく、また会堂の外にあるあの人の生家の墓場のそばでもなくて、教会墓地の|片《かた》|隅《すみ》の緑の斜面に掘られました。そこの|垣《かき》|根《ね》はたいそう低くて、ヒースやコケモモなどの|藪《やぶ》が沢原から|這《は》い上り、|泥《でい》|炭《たん》|土《ど》がほとんどその垣根を埋めていました。キャサリンの良人は今その同じ場所に眠っています。墓のしるしに、上にはどちらにも単純な墓石があり、その下に粗末な灰色の墓石があります。
一七
その金曜日は一か月ほどつづいたお天気の最後の日でした。夕方から天気がくずれて、風は南から東北に変ってまず雨を呼び、ついで|霙《みぞれ》と雪とを吹きつけました。翌朝になると今まで三週間の夏があったとは誰にも想像がつかないほどでした。桜草やクローカスは冬みたいな吹きだまりの雪の下にかくれ、ヒバリは声なく、芽早い木々の若葉は寒さにやられて黒ずみました。その朝はわびしく、ひえびえと、そして陰気に、そろそろと過ぎました。ご主人はお部屋に閉じこもっておいででした。私はさびしい居間を育児部屋にして、そこで|膝《ひざ》の上に泣き人形のような|赤《あか》|児《ご》をのせてゆすぶりながらすわっていました。そしてカーテンのない窓を埋めて、なおも吹きつける雪をしばらくのあいだ見つめていますと、戸が開いて、誰かが息を切らして笑いながらはいって来ました。ちょっとのま私は驚くよりもむしろ腹が立ち、女中かと思って叫びました――
「およし! よくも浮かれて見せるわね! |旦《だん》|那《な》様がお聞きなさったら何とおっしゃるでしょう?」
「ごめんなさい!」と聞きなれた声が答えて、「でも私はお兄様が寝てるのを知ってるのよ。私はとてもこらえられないの」
そう言ってその人は炉ばたに進みより、あえぎながら|脇《わき》|腹《ばら》を手でおさえていました。
「私はワザリング・ハイツから、ずっと走りつづけて来たのよ!」と、しばらくして言葉をつづけ、「走らないところは飛んで来たわ。いくど転んだか数えきれない。おお、からだじゅうが痛いわ! 驚くことないわよ! もう少しおちついて話せるようになったら説明するわ。いまは|後生《ごしょう》だからちょっと出かけて、私をギマトンまで乗せて行く馬車を言いつけて、それから女中に私の衣装だんすから着物を五、六枚さがさせておくれよ」
侵入者はヒースクリフ夫人でした。どう見たって笑っている場合のように見えませんでした。
髪の毛は、雪や水に|濡《ぬ》れて肩になびき、ふだん着ていたあの娘らしい着物を着て、ご身分よりはむしろお年にふさわしい身なりでした。それは袖の短い、えりぐりの深い服で、頭に何もかぶらず、|襟《えり》|巻《まき》もしていません。その上着は薄い絹なので、濡れて|肌《はだ》にぴったり付き、足には薄いスリッパだけはいていました。おまけに耳の根元は深い切傷があって、寒さのために多量の出血がくいとめられているのでした。白い顔は|引《ひっ》|掻《か》かれて傷つき、からだは疲労のためにほとんど立っていることもできないほどでした。私がつくづくとそれを見たとき、最初の驚きがたいしてへらなかったことはお察しできましょう。
「まあ若奥様」と私は叫んで、「あなたがその着物をすっかりお脱ぎなすって、乾いたお召物と着替えなさるまでは、私はどこにも動きませんし、何事もおききしますまい。それにどうしても今晩ギマトンへいらっしゃってはいけませんよ。ですから馬車を命ずるにもおよびません」
「どうしても私は出かけるわ」とイザベラは言って、「歩いてでも馬に乗ってでも。それでも、ちゃんと着替えることに異議はないのよ。そして――ああ、なんて血が首筋をつたわって流れるんでしょう! 火に暖まったので傷口がピリピリするわ」
イザベラは、言いつけを聞かないうちはからだにさわらせないと言い張りました。|馭《ぎょ》|者《しゃ》が馬車の用意をするように命じられ、女中が必要な着物をまとめて包むように言いつけられるまでは、傷の手当をして着物を着かえさせることを|承諾《しょうだく》しませんでした。
「ねえ、エレンや」とイザベラが言ったときは、私のお世話がすんで、イザベラは一杯のお茶を前において炉ばたの|安《あん》|楽《らく》|椅《い》|子《す》にすわっていました。「お前は私の前にすわって、キャサリンの赤ん坊をそっちへおいておくれ。私はその赤ん坊を見るのがいや! 私がここにはいって来たときにあんなばか笑いをしたからと言って、キャサリンのことを何とも思っていないと考えちゃいけないわ。私だって泣いたわ、ひどく泣いたわ――そうよ、ほかの誰よりも泣くわけがあったんですもの。私たちはあのように仲直りせずに別れたのですからね。だから私はすまないと思うわ。けれど、それだからといって、あの男――あんなけだもの[#「けだもの」に傍点]に同情なんてしやしないわ! おお、私にその|火《ひ》|掻《か》き|棒《ぼう》をかして|頂戴《ちょうだい》! この指輪が私の身のまわりにつけているあの男の最後の品よ」と言って薬指から金の指輪をはずし、それをゆかに投げつけました。「たたきつぶしてやるわ」と子供じみた憎しみでそれを打ちながら、「そして今度は焼いてやろう!」と言ってその|虐待《ぎゃくたい》された品を拾って、石炭の中に落しました。「そら! あの人がまた私をつれ戻したら、別なのを買わしてやりましょう。あの人のことだからエドガーをいじめるために、私に会いに来ないものでもないわ。そんな考えがあの意地わるの頭に思い浮ぶと悪いから、私はここに長居をしていられないのよ。それにエドガーは親切ではなかったしね? だから私はたすけを|乞《こ》いに来ません。これ以上お兄様にご心配をかけませんわ。やむをえないことで今ここに逃げ込んだのだけど、もしお兄様がこの居間にいらっしゃるのだったら、私は台所で顔を洗い、からだを暖め、必要なものをお前に取って来てもらって、それからまたどこかに行ってしまったでしょうよ。どこかあのひどい――人間のからだをした化物の、手のとどかないところに! ああ、あの人はひどく怒っていたわ! もしか私がつかまっていようものなら! ヒンドリ・アンショーがあの人の腕力にかなわないのは残念だわ。もしかヒンドリにそれができたら、あの人がヒンドリに殺される目にあうのを見ないうちは、私逃げ出してなんて来やしなかったのに!」
「まあ、そんなに早口に話しちゃだめですよ、お嬢様!」と私はさえぎりました。「お顔のまわりに結んでおいたハンカチがずれて、また傷口から血が出るではありませんか。お茶を召上りなさい。一息ついて、そして笑うのはおよしなさい。笑いは今この家ではきんもつです。それにあなたのおからだにもさわりますわ!」
「ごもっともね」とイザベラは答えて、「赤ん坊のあの声はまあ! しょっちゅう泣きつづけているのね――一時間ほど私に聞えないところにやっておくれ。それ以上は長居しないから」
私は|呼《よび》|鈴《りん》を鳴らして、赤ん坊を召使に渡しました。それから私はイザベラに、そんなあられもない様子をしてなぜワザリング・ハイツから逃げて来たのか、そして私たちの家にいるのがいやなら一体どこへ行くつもりかとたずねました。
「私は一つにはエドガーを|慰《なぐさ》めるため、また二つには赤ん坊の世話をするため、この家にいるのが当然ですし、そうしたいわよ。このグレンジは私のおさとですもの。でもヒースクリフは私にそうはさせないわよ! 私が太って快活になり、私たち兄弟が平和に暮すのを見て、あの人は私たちの安楽をじゃましようと決心せずにいられると思うの? 私の声が聞え、私の姿が見えることさえ、あの人をひどく悩ますほど、あの人は私を嫌っているのよ。それをたしかめているから、わたし満足だわ。私があの人のいる所にはいって行くと、あの人の顔の筋肉はひとりでにゆがんで憎しみの表情に変るのよ。私だってあの人に対して憎しみの感情を抱くだけの十分な理由があるわ。そのことをあの人は知っているので、そのためにも私を憎むのね。一つにはもともとあの人が私を嫌いなせいもあるのよ。私がうまく逃げてしまえば、あの人はイギリスじゅう私を追いまわすことは、まずあるまいと思われるほど、ひどく私を嫌っているのよ。だから私はすっかり逃げてしまわなければならないわ。最初私はあの人から殺されたいと思ったのだけれど、今ではそうは思わないわ。むしろあの人が自殺してしまうといいわ! あの人は私の愛をすっかり消してくれたので、私は気が楽よ。今でも私はあの人を以前どんなに愛していたか思い出すことができてよ。今だってあの人を愛しているとかすかに想像することもできるわ、もしも――いいえ、いいえ! もしあの人が私を|溺《でき》|愛《あい》したにせよ、あの悪魔のような性質がどこかで表われたことでしょう。キャサリンはあの人をあれほどよく知っていながら、あんなに高く買いかぶるとは、ひどく変った趣味をもっていたものね。怪物め! この世から、そして私の記憶から、消されたらよいのに!」
「シーッ! あの人も人間ですよ」と私は言って、「もっと慈悲深い気持になっておあげなさいまし。世の中にはあの人よりもっと悪い人だっていますよ!」
「あの人は人間じゃないわ、私の慈悲を要求する権利はあの人にはないわ。私があの人に心をささげたとき、あの人はそれを取り、ひねり殺して私に投げ返したのです。人は心で感ずるものですよ、エレン。あの人が私の心を殺したので、私にはもうあの人に好意を感ずる力はないのよ。また、たとえあの人が今日から死ぬまで|呻《うめ》き苦しんでキャサリンのために血の涙を流したとて、私は同情なんかしないわ! ええ、ほんとうよ! わたし同情なんかしてやるもんか!」そしてイザベラは泣き出しました。しかしすぐにまつ毛から涙をぬぐって言いつづけました。
「あなたは私がなぜとうとう逃げ出したか|尋《たず》ねたのね。それは私があの人の怒りを悪意以上につのらせることができたからよ。赤熱したペンチで神経をぬき取ることは、頭をなぐることよりももっと冷静を要します。あの人はご自慢の悪魔のような用心を忘れるほど興奮して、人殺しの乱暴をやりだしたのよ。私はあの人を怒らせることができて|愉《ゆ》|快《かい》だったわ。その愉快さが私の自己保存の本能を目覚めさしたの。そこで私はまあ自由な境遇に|脱《ぬ》け出したのよ。もし私があの人の手に二たび|戻《もど》ったなら、あの人はどんなひどい|復讐《ふくしゅう》でも勝手にするがいいわ。
昨日アンショーさんはお葬式に来るはずでした。そのためにかなりお酒をつつしんだのです。いつも六時には気ちがいのように|呑《の》んだくれて寝て、十二時になると酔ったまま起きるのですが、きのうは酒を控えたものだから、ダンスにも教会にもどこにも行くどころか、まるで自殺しかねないような無気力さで目を|覚《さ》まし、それで、どこへも行かずに、炉ばたにすわりこんでジンかブランデーかをコップで飲んでいましたっけ。
ヒースクリフ――私はその名前を言うのさえぞっとするわ――あの人はこの前の日曜日から今日まで家では他人みたいよ。天使から食物を|貰《もら》ってたのか、それとも地獄のあの人の同類から養われてたのか知らないけれど、とにかくほとんど一週間のあいだあの人は私たちと一緒に食事をしないのよ。夜明け|頃《ごろ》に家にかえって来て二階の部屋に行き、|鍵《かぎ》をかけて閉じこもるのよ――そんなことをしなくたって、誰があの人と一緒にいたがるものですか! そこであの人はまるでメソジストのように祈り続けてたわ。しかしあの人の祈った神様はもう感じのない死骸なのです。そしてあの人の呼びかける神様は奇妙に悪魔と混同されていました! この貴重な祈りの末――それは|大《たい》|概《がい》あの人の声がかれてのどにからまるまで続いていたけど――あの人はまた出て行ってしまうの。いつもまっすぐグレンジに行くのよ! 私はなぜエドガーが警官を呼んであの人を監禁させないのかと思うわ! 私にしてみれば、キャサリンのことが悲しかったとはいえ、下劣な圧制から釈放されていたこの数日を、休日のように思わないわけにはいかなかったわよ。
私はジョウゼフのはてしないお談義を泣かずに聞けるほど、そして家じゅうをこそどろ[#「こそどろ」に傍点]みたいにびくびくして歩かなくなったほど、かなり元気を回復しました。ジョウゼフなどの言うことで泣いたりするなんてお前は思わないわね。しかしあの|爺《じい》ややヘアトンと一緒にいるのはいやだわ。私はむしろヒンドリと一緒にいてその恐ろしい話を聞く方が、『ちっちゃな|旦《だん》|那《な》様』のヘアトンやその忠実な後立てのあのいまいましい爺やと一緒にいるよりましだわ! ヒースクリフが家にいるときは、私はたびたび台所へ逃げてあの連中のお仲間入りをしなくてはならなかったの。さもなければしめっぽい空部屋でひもじい思いをしていなくてはならなかったの。今週のようにあの人の留守の間は、私は居間の炉ばたにテーブルと|椅《い》|子《す》をすえて、アンショーさんが何をやっていようと平気でいると、むこうも私のする事に干渉しません。あの人は誰も怒らせさえしなければ今はいつもよりおとなしいの。いっそう|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》で沈んでいますが、以前のように乱暴じゃないわ。ジョウゼフが言うには、あの人は人間が変り、神様があの人の心にふれ給うて、「火より|脱《のが》れ出るごとく」あの人を救い給うんですって。そうしたよい変化の|徴候《ちょうこう》を見て私は頭をひねるんだけれど、それは私に無関係のことね。
昨晩私は例の炉ばたの|片《かた》|隅《すみ》で十二時近くまで起きて古い本を読んでいたの。外では|吹雪《ふ ぶ き》が荒れていたし、私の心は絶えず教会の墓場とそこの新しい墓とにひかれて、二階の寝室に行くのがひどく気味悪く思われたのよ! もの悲しい光景がじきに目にうかぶので、私は本のページからほとんど目を上げられなかったわ。ヒンドリは片手で頭をささえながら私の向い側にすわっていました。たぶんやっぱり同じ事を思っていたんでしょう。この人は無茶になるほど飲んだくれるのをやめて、二、三時間というもの身動きもせず、ものも言わなかったわ。家じゅうには何の物音もなく、ただ|呻《うな》るような風がおりおり窓を揺り、石炭がかすかに音を立て、私がときどきロウソクの長いしんをつむ時にしんきり[#「しんきり」に傍点]|鋏《ばさみ》がかちりと鳴るだけなの。ヘアトンとジョウゼフとはたぶんぐっすり寝込んでいたのでしょう。それはほんとうに、ほんとうに悲しかったわ。それで私は本を読みながらため息をついたわ。喜びという喜びはみんなこの世界から消え去って、もう二度と帰って来ないように思われたんですもの。
悲しい沈黙はとうとう台所の掛けがねの音で破られ、ヒースクリフがいつもより早く例のお通夜から帰って来ました。たぶんにわかの|嵐《あらし》のためでしたろう。その入口は戸締りしてありました。で別の入口からはいろうとして|廻《まわ》って来る足音がしました。私は感じていることがつい口に出て立ち上ると、今まで戸口の方をにらんでいたアンショーさんが向き直って私を見ました。
『あの男を五分ほど外に立たせておいてやりたいんだ。あなたは反対しますまいね?』
『ええ一晩じゅうあれを外に置いたってかまやしません』と私は答えて、『どうぞ! |錠《じょう》をおろしてかんぬきを掛けて下さい』
アンショーはあの人が表口へつく前にそこの戸締りをしてしまいました。それから|戻《もど》って来て私のテーブルの向い側に|椅《い》|子《す》を持ち出し、テーブルの上にかぶさるようにして、憎しみに燃える目を輝かせながら、同感を求めるように私の目をのぞき込みました。その様子は人殺しのように見え、すごい感じがしたので、私の同感を全面的に得るわけにはいかなかったわ。しかし話をもちかけるだけの同感を見つけて、こんなことを言い出したのよ。
『あなたと僕とはあの外にいる男に支払ってやる大きな負債がありますよ! われわれが|臆病者《おくびょうもの》でなければ、一緒になってそれを返却してもよかろう。あなたはお兄さんのように|意《い》|気《く》|地《じ》なしなんですか? 最後まで我慢して一度も|復讐《ふくしゅう》を試みないつもりなのかい?』
『私はもう我慢をするのはいやです』と私は答えて、『そして私は自分の身にむくいて来ないような復讐なら喜んでします。けれども裏切りと暴力とは両端がとがっている|槍《やり》です。その槍をもちいるものは敵よりもひどく傷つきます』
『裏切りと暴力とは、同じ裏切りと暴力とに対して正当な返報だ!』とヒンドリは叫んで、『ヒースクリフの奥さん、私はあなたに何もして下さるなとたのみます。ただじっとすわって黙っていて下さい。さあ、それができますか? あなただってあの悪魔の生存の終末を見ることは、私と同様に|愉《ゆ》|快《かい》でしょうさ。あなたがあいつを出し抜かなければ、あいつがあなたの命取りになり、私の破滅になる。あの悪魔め、くたばっちまえ! あいつはもうこの家の主人づらして戸を|叩《たた》きやがる! あなたは黙っていると約束して下さい。そうすればあの時計が、今は一時三分前だが、一時を打つ前にあなたは自由な女になりますよ!』
そしてこの人は私がいつか手紙に書いてよこした例の道具を懐中から取り出して、ロウソクを消そうとしました。しかし私はそれを取り上げて、この人の腕をつかみました。
『私は黙っていられません! あの人に手を下してはいけません。戸を閉じたままで静かにしていらっしゃい!』
『いや! 私は決心した。そして誓って実行してみせる!』とこのやけになった人は叫んで、『ご迷惑かも知れないが、私はあなたに親切をしてあげるのだ! そしてヘアトンには正当に相続させてやろう! あなたは私をかばうために頭をなやます必要はない。キャサリンは死んだ。私が今すぐに自分でのどを突いたとて誰も私の死をくやむ者もなし、恥じる者もない――それにもう年貢の納め時だ!』
とめようとしたって、まるで熊と争うようなもの、ないし気ちがいと議論するようなものでした。私に残された|唯《ゆい》|一《いつ》の手段は、|格《こう》|子《し》の所に走って行って、ねらわれている犠牲者に、待ち伏せしている運命を警告してやることでした。
『今夜はどこか別の所でおやすみになった方がいいわ!』私は得意の|口《こう》|吻《ふん》で、『あなたがどうしてもはいろうとなさるなら、アンショーさんがあなたを撃とうとしていますよ』
『お前は戸をあけた方がいいぜ、お前――』とあの人はそれから、私が繰返すのもいやらしいお上品な言葉で私に呼びかけるのでした。
『そんなら私はかまいません。おはいりなさい、そして勝手に撃ち殺されたがいいわ! 私は自分の義務をつくしましたから』
そう言って私は窓をしめ、炉ばたの私の場所に|戻《もど》って来たの。あの人をおびやかしている危険に対して、少しでも心配するふりをするほどの偽善心を、あいにく私は持ち合せていなかったんですもの。アンショーは、私がまだあの悪者を愛していると言って、ひどく私をののしり、私が示した卑屈な|心根《こころね》に対してありとあらゆる悪口を言いました。私は心の中で思ったわ、(しかも良心はけっして私を|咎《とが》めなかったわ)ヒースクリフがこの人を殺してこの世の不幸から救ってくれたら、この人にとって[#「この人にとって」に傍点]どんなにか幸福なことでしょう! またこの人がヒースクリフを殺して正当な|住処《す み か》に送ってしまったなら私にとって[#「私にとって」に傍点]どんなにか幸福なことでしょう! 私がこんなことを考えていた時、うしろの窓がヒースクリフの一撃で音を立てて床の上に落ち、その黒い顔が不吉らしくのぞきこんだの。窓の両側の柱はたいそうせまかったので、顔ばかりはいって肩ははいらなかったので、私はまず大丈夫と喜んでほほえんでしまったの。あの人の髪も服も雪でまっ白になり、するどい、人食いのような歯は、寒さと怒りとでむき出しに|闇《やみ》の中で光っていたわ。
『イザベラ、僕をうちに入れろ。入れないと後悔させてやるぞ!』
とあの人は、ジョウゼフの言葉をかりると、『毒づいた』のよ。
『私、人殺しはできないことよ』と私は答えて、『ヒンドリさんがナイフを仕込んだピストルにたまをこめて見張りをしていますからね』
『そんなら台所の戸口からいれろ』って、いうんです。
『ヒンドリがあなたより先にそこへ|廻《まわ》りますよ』と私は答えて、『|吹雪《ふ ぶ き》にへこむなんて、あなたの愛もけちなものね! ヒンドリさんと私とは夏の月の照る間だけ静かに寝床で休ませてもらいましたが、冬の風が吹くと、あなたはまたここへ逃げ込んで来なくてはならないのね! ヒースクリフ、もし私があなただったら、あの人の墓の上に寝て、忠義な犬のように死ぬでしょうに。今となってはこの世は全く生きがいがないじゃない? 私がはっきり感じていたところでは、キャサリンはあなたの生命の喜びのすべてだったはずでしょう。あの人の死後あなたが生き残ろうと思うなんて、私には想像できませんわ』
『あいつはそこにいるな?』ヒンドリは窓の破れ目に走りよって叫び、『ここから腕を出せたら、あいつを打ち殺してやれるぞ!』
エレンや、お前は私をほんとうに意地悪だと考えるかも知れないわね――でもお前はまだ事情の全部を知らないのだから、そう決めないでよ! 私はたとえあんな人の命でも、無いものにしようとする|企《くわだ》てを、助けたり、けしかけたりする気には、どうしてもなれないのよ。それでいてあの人が死ねばいいと願わずにいられないの。だから、あの人がアンショーの武器に向ってとびかかり、それをもぎ取ってしまった時、私は恐ろしく失望し、そしてさっきの私の|毒《どく》|舌《ぜつ》の結果を恐れて青くなったわよ。
弾丸は放たれ、ナイフがバネで勢いよく|台《だい》|尻《じり》におさまるとたん、その持主のアンショーの手首に食いこんじゃったのよ。ヒースクリフは力まかせにそれを引っ張ってもぎ取り、その際相手の肉を長く切って、そのナイフを血のしたたるままでポケットに突っこんだわよ。それから石を拾って二つの窓の間の仕切りをたたきこわして、家の中に飛び込んでしまったの。相手は激しい苦痛と、動脈か大静脈からほとばしる出血とで、気を失って倒れていました。あの悪者はその上を踏んだり|蹴《け》ったりして、頭を幾度も床板に打ちつけ、片手で私をおさえつけて、しばらくはジョウゼフを呼びに行かせませんでした。あの人は人間以上の自制力を働かして、相手の息の根をすっかり止めてしまうことだけはやめ、息切れがして、いじめることを切上げ、死にかけたようなからだを|長《なが》|椅《い》|子《す》の上に引っ張り上げました。そこでアンショーの上着の袖を引きさいて傷口をひどく乱暴にしばりながら、さきほど蹴とばした時と同じような元気でどなり散らしていました。私は自由になったので、時をうつさず|爺《じい》やを呼びに行ったの。|奴《やっこ》さん、私の急ぐ話の意味がだんだんにわかって来ると、一度に二段ずつ階段を下りて行きながら、あえぎあえぎ言いました――
『いったいこの騒ぎは何事じゃ? いったいこの騒ぎは何事じゃ?』
『この騒ぎはこうだ』とヒースクリフはどなりつけて、『きさまの主人は気が違ったんだ。もうひと月も生きのびたら、おれはこいつを気ちがい病院に入れてやる。いったい何だってきさまはおれをしめ出したんだ、この歯抜け老いぼれ犬め! そんな所でぶつくさ言って突っ立ってるなよ。こっちに来い。おれはこいつの看護なんかしたくない。その赤いやつを洗ってやれ。きさまのロウソクの火に気をつけろ――そいつの血は半分以上ブランデーだからな!』
『それじゃお前様は|旦《だん》|那《な》様を殺しにかかっただな?』とジョウゼフは恐ろしがって両手をあげて、上を見上げながら叫んで、『こんな有様を今まで見たことはごわせんわい! ああ神様、願わくは――』
ヒースクリフは爺やをつき飛ばして、血のまん中に|膝《ひざ》をつかせ、タオルを投げつけたわ。しかし老人はそれで血を|拭《ふ》きとろうとはせずに、両手を合せて|祈《き》|祷《とう》を始め、私はその奇妙な文句がおかしくて笑っちゃった。もうどんなことにも驚かないような心の状態だったわ。実際私はまるで罪人が絞首台の下に立った時のようなすてばちな気持だったのよ。
『おお、お前のことをわすれていた』と暴君は言って、『お前が拭け。さあ、かがんでさ。お前こいつと、ぐるになってるな? このマムシめ。そら、それがお前に相応な仕事だ!』
あの人は私を歯ががたがた言うまでゆさぶって、ジョウゼフのそばに私をひき|据《す》えたのよ。ジョウゼフは祈祷をちゃんと終えてから立ち上り、すぐさまグレンジへ出かけると誓うの。リントンさんは判事様だ、たとえ五十人の奥さんに死なれても、こういう事はしらべて下さらねばならぬ、と言って、ひどく|頑《がん》|固《こ》に決心しているので、ヒースクリフは私の口から出来事の要点を繰返させるのが得策だと思ったらしいの。私が質問に答えてしぶしぶ話してやったら、老人はのしかかるようにして、|憎《ぞう》|悪《お》のあまり胸の高まりにあえぎながら聞いていたわ。ヒースクリフがこの騒ぎの張本人ではないと言うことを、この老人に|納《なっ》|得《とく》させるには大変な骨折りだったのよ。ことに私は無理にしぼり取られるようにして答えていたんですもの。しかし間もなくアンショーがまだ生きているとわかったので、この|老《ろう》|僕《ぼく》は気付けの酒を急いで服用させて、そのおかげでアンショーはやがてからだを動かし、意識を回復したのよ。ヒースクリフは相手が無意識の間に受けた仕打ちを知らないとわかったので、彼を精神錯乱的の|泥《でい》|酔《すい》状態と称し、そしてもう君の乱暴な行為をとがめはしないと言って、寝床に行くようにすすめたの。ありがたいことには、この当然な忠告をあたえた後あの人は出て行き、そしてヒンドリは炉ばたに寝そべりました。私はこんなにやすやすとのがれられたのを驚きながら、自分の部屋に引き上げたの。
朝十一時半ごろに寝室から下りて来たら、アンショーさんはひどく気分の悪い様子で炉ばたにすわり、この人の悪霊みたいなヒースクリフはやはりやつれて青ざめて|炉《ろ》|棚《だな》によりかかってたわ。どちらも食事する気がなさそうなので、食卓の上のものがみんな冷えるまで待って、私はとうとう一人で食べ始めたの。私のたくましい|食慾《しょくよく》には何のさまたげもないし、時々私は無言の二人を見やって、一種満足と優越との感じを覚え、おだやかな良心の安らかさを心に感じたのよ。食事を終えて、私はいつになく気ままに炉ばたに近づき、アンショーの席をまわって、あの人のそばの|隅《すみ》っこに|膝《ひざ》をついたの。
ヒースクリフは、私の方をちらりとも見ないので、私はあの人の顔をじっと見上げて、まるで石にでもなったかのように安心してつくづくと|眺《なが》めました。かつては私が非常に男らしく思い、今では実に悪魔らしく思っているあの人の|額《ひたい》には、重い暗雲の影がさし、あのバシリスク(|怪《かい》|蛇《じゃ》)みたいな目には不眠のためにほとんど毒気も光も消えていたわ。まつ毛が|濡《ぬ》れてたから、たぶん泣いてたのね。|唇《くちびる》にはいつもの|猛《もう》|悪《あく》なあざ笑いが見えず、言うに言われぬ悲しみの表情で口を閉じていたわ。これがもしほかの人だったら、こうした悲しみの前に私は顔をおおうことでしょう。しかしこの人の場合は、私はかえって|悦《よろこ》んだわ。倒れた敵をはずかしめるのは|卑怯《ひきょう》のようだけれど、私はこの機を逸せず|投《なげ》|槍《やり》をつきささずにはいられなかったわよ。私が|仇《あだ》を仇でむくいる喜びを味わうことのできるのは、あの人の弱っているときだけだもの」
「おやまあ、お嬢様!」と私は言葉をさしはさんで、「あなたは聖書を一生に一度も開いたことがないのかと思われましょう。神様が敵を苦しめて下されば、それでもう満足しなくてはなりません。その上さらにあなたの|呵責《かしゃく》を加えるのは、|卑怯《ひきょう》でもあり出過ぎたことでもありましょう!」
「エレンや、なるほどそれは一般にはそうでしょう」とイザベラ様は話し続けました。「しかし私がそれに関係がなくては、どんな不幸がヒースクリフにふりかかったって私を満足さすことはできないじゃないの? もし私があの人を自分で苦しめることができたら、そしてあの人がそれを私のせいだと知ってくれるなら、あの人の苦しみがもっと少なくともかまやしない。おお、私はまだまだあの人から借りている苦しみを返さなくちゃならないわ! あの人を許すことのできる条件はたった一つ、目には目、歯には歯をもって報いるということなの。あらゆる苦しみに対してそれだけの苦しみを返してやり、あの人を私と同じ程度まで引きおろしてやるの。あの人がまっ先に人を苦しめたのだから、あの人をまっ先にあやまらせるのよ。そうよ、そうすれば私だって幾分か寛大な心も見せてあげるだろうけれどね、エレン。でも私に|復讐《ふくしゅう》できるなんてこと、てんでありっこないわ。だから私があの人を許すなんて、とてもできやしないのよ。さて、ヒンドリが水を欲しがったので、私はコップに|汲《く》んであげて、気分はどうですかと|尋《たず》ねてみたの。
『もっと悪くなりたいんだがな』と答えて、『だがこの腕を除いて、私のからだじゅうはまるで大ぜいの小鬼と戦ったみたいに痛むよ!』
『そうでしょう、無理もないわ』と私は言葉をついで、『キャサリンはいつもあなたのからだを傷つけさせないっていばっていました。――つまりある人々はキャサリンを怒らせることを|懸《け》|念《ねん》して、あなたを傷つけまいというんでしょう。人間が墓場から実際に出て来ないのは仕合せですわ。さもなけりゃ、昨晩キャサリンはいやな場面を目撃したことでしょうよ! あなたは胸や肩に打ち身やけがはなくって!』
『どうだか知らない』とあの人は答えて、『だがそれはどういう意味? あいつは僕が倒れたとき、僕をなぐったりしたかしら?』
『あの人はあなたをふみつけ、|蹴《け》|飛《と》ばし、床にたたきつけましたよ』と私は小声で言って、『あの人の口には、あなたを歯でかみさいて食べたさに、|唾《つば》がたまっていましたよ。あの人は半分だけしか人間でないんですからね。いや半分も人間ではないんですよ。そしてその残りは悪魔なのよ』
アンショーさんは私と同様に顔を上げて、私たちの共同の敵の顔を見たら、あの人は自分の|苦《く》|悶《もん》に気をとられて、あたりの事にはまるで感じないようなのよ。長く立っていればいるほど、そのつらい思案はますますはっきりと暗黒になって顔にあらわれたわ。
『ああ、せめて僕が死にぎわにでも、あいつをしめ殺す力を神様が下さるなら、僕は喜んで地獄に行きたいな』とこの人は我慢しきれないで、立ち上ろうともがき、とても戦うどころではないとさとってがっかりして倒れるの。
『いいえ、あの人があなたの身内を一人殺しただけでたくさんですわ』と私は声を高めて、『グレンジでは、もしヒースクリフさんさえいなかったら、あなたの妹さんはまだ生きていたろうにって、誰もみな思っていますよ。結局、あの人から愛されるよりも嫌われる方がいいんです。あの人が帰って来る前には、私たちがどんなに幸福だったか――キャサリンがどんなに幸福だったか――それを思いますと、私はあの人が帰って来た日を|呪《のろ》いたくなります』
たぶんヒースクリフは、私がそう言った気持よりも、その言葉の真実なことに気づいたのね。それがあの人の注意をひいたことがわかったの。あの人の目は涙の雨を灰にそそぎ、そして息づまるような|吐《と》|息《いき》をついたからよ。私はあの人をまともに、にらんで冷笑したわ。地獄の曇った窓みたいな目がちょっとの間わたしの方にひらめいたけれど、あの人の目からいつも|覗《のぞ》いている悪魔は、涙ですっかり曇って|潤《うるお》っていたので、私はもう一度|臆《おく》|面《めん》もなく声を立てて|嘲笑《ちょうしょう》してやったわよ。
『立ってあっちへ出てうせろ』と泣いていた人は言ったらしいの。その声はほとんど聞き取れなかったけれど、少なくともそんなことを言ったように思ったわ。
『ご免なさい』と私は答えて、『しかし私だってやはりキャサリンを愛していたのよ。今あのかたのお兄さんには|介《かい》|抱《ほう》が必要です。だから私はキャサリンのためにその介抱役をつとめましょう。今ではあのかたが死んだので、私はヒンドリの中にあの人のおもかげが見えるようよ! ヒンドリの目はキャサリンそっくりですわ。あなたがその目をえぐり取ろうとしたり、なぐりつけて|瞼《まぶた》を黒くしたり赤くしたりしなければね。それにまたキャサリンの――』
『立て、|阿《あ》|呆《ほう》め、踏み殺されないようにしろよ!』とあの人は叫んで、おどかしの身振りをしたので私も腰を上げたわ。
『だけれども』と私は逃げ腰をしながら言葉をつづけて、『もしかわいそうにキャサリンがあなたを信用して、ヒースクリフ夫人という|滑《こっ》|稽《けい》な、恥ずかしい、下等な名前になっていたなら、やはり同じようなみじめな目に早晩あうのでしたろう! キャサリンならあなたのひどい仕打ちをおとなしく|辛《しん》|抱《ぼう》していますまい。憎しみといやらしさとをきっと声で表わすに相違ありませんよ』
腰掛の背とアンショーのからだとが私とあの人との間にあったので、あの人は私をつかまえようとはせずに、ディナー・ナイフを食卓から取って私の頭に投げつけたわよ。それは私の耳の下をかすったので、言葉をとめたけれど、私はささったナイフをぬいて、戸の方へ飛んで逃げながらまた悪口を言ってやったから、その方が飛び道具よりもかえって深くあの人の心を刺したでしょう。私が最後にちらと見た光景は、あの人がひどく怒って走って来ようとするのをアンショーに抱き止められ、二人とも炉ばたに折りかさなって倒れたところだったわ。私は台所を通って逃げて行くとき、ジョウゼフに、|旦《だん》|那《な》様のところへ急いで行けと命じ、戸口で|椅《い》|子《す》の背から一腹児の小犬どもをぶら下げて遊んでいたヘアトンをつっころばして、私はまるで|煉《れん》|獄《ごく》からのがれた霊魂のように幸福に、とんだりはねたりして急な坂道をかけ下り、それから曲りくねった本道を捨てて、まっすぐに荒地を越え、ころがるように土手を越え、沢を徒歩でわたり、グレンジの|燈火《あ か り》を目あてに実際まっしぐらにかけて来たのよ。全くあんなワザリング・ハイツの屋根の下でまた一晩でも泊るよりか、私は地獄に一生すむように申し渡された方がよっぽどましだわ」
イザベラは話をやめてお茶を飲みました。それから、ボンネットと、私がもってきておいた大きなショールとを着せてくれと私に言いつけて、もう一時間ここにいて下さいという私の願いにてんで耳を傾けずに、椅子の上にあがってエドガーとキャサリンの二人の肖像にキスし、私にも同じあいさつをして、主人を取り戻して大喜びでキャンキャン言っているファニーに送られて、馬車の方へ降りて行きました。こうしてここを去ってから、あの人は一度もこの付近に帰って来ません。しかし事態がようやくおちついた時、あの人と私のご主人との間に、規則的に手紙の往復がありました。たぶんあの人の新しい住居は南の、ロンドン付近らしく、逃げて行ってから数か月目にそこで男の子を生みました。その子はリントンと名づけられ、あの人の手紙によると最初から弱い、気むずかしい子であったそうです。
ヒースクリフさんはある日、村で私と会った時あの人のありかを|尋《たず》ねました。私は教えませんでした。すると、別に重要なことでもないが、ただ兄の家に来ることだけは気をつけなくてはならない、兄のところに来るくらいならいやでも自分が引き取って養わねばなるまい、と言っていました。私は何事も知らせたくなかったのですが、あの人は出て行った妻の居所と、子供のできたことを、ほかの召使から聞き知ったのでした。でもあの人はイザベラをもう苦しめませんでした。その|堪《かん》|忍《にん》に対してイザベラは、あの人の冷淡をありがたく思ったことでしょう。あの人は私に会うとたびたび赤ん坊のことを尋ねました。そして赤ん坊の名前を聞いて苦笑しながら言いました――
「その赤ん坊まで僕にきらわせるつもりかね」
「赤ちゃんについては何もあなたに知らせたくないのでしょう」と私は答えました。
「でも僕は今に欲しくなれば、その|児《こ》を取り返すよ。そのつもりでいるがいいだろうよ!」
幸いにその子の母はその時の来る前に死にました。キャサリンの死後およそ十三年、リントンが十二かそこらになった時でした。
思いがけないイザベラの訪問の翌日、私はそのことをご主人に話す機会がありませんでした。ご主人は人と話をするのを避けて、何もものを言いたくない気分でした。ご主人が私の話を聞いて下さった時、妹さんがその|良人《お っ と》を捨てたと聞いて喜んだようでした。ご主人は|日《ひ》|頃《ごろ》|優《やさ》しい性質にも似合わず、あの人を嫌っていました。その嫌い方は非常に深くて鋭敏で、ヒースクリフの関係ありそうな所にはどこにも行きたがらないほどでした。その上、悲しみがご主人を全くの隠者にしてしまいました。治安判事の役目もなげ出し、教会に行くのさえやめ、何事につけ村人の目をさけて、お屋敷の|猟苑《りょうえん》とお庭とのほかにはさっぱり出ずに暮し、ただたまに沢原の方へ一人ぽっちで散歩して、|大《たい》|概《がい》は夕方に、|稀《まれ》には朝早くよその人たちが出歩かない前に、奥様のお墓を訪ねるだけでした。でも、ご主人は|気《き》|立《だて》のよいおかたでしたから、長らく全く不幸に暮すことはなかったのです。亡き妻の亡霊が現われるようにと願うようなおかたではありませんでした。時はあきらめをもたらし、普通の喜びよりもかえって甘い憂いをもたらしました。熱烈な、心優しい愛情と、天国を望むあこがれとで、亡き妻の記憶を呼び起しておられました。奥様が天国に行かれたことをご主人は疑わなかったのです。
それにまたご主人にはこの世のなぐさめと愛情がありました。数日間は、さきほど申しましたように、亡き人の小さな忘れ形見にも注意しないようでしたが、その冷たい心は四月の雪よりも早くとけて、赤ちゃんが片言を言ったり一足あぶなげに歩いたりするまでに、その赤ちゃんは父の心の一切を支配するようになりました。その子はキャサリンと名づけられましたが、いつも短くキャシーと呼ばれました。母のキャサリンはご主人からキャシーと呼ばれたことは一度もありませんでした。それはヒースクリフがキャシーといつも呼んでいたからでしょう。赤ちゃんはしかしいつでもキャシーで、それが母親と区別され、しかも母親と結ばれていました。ご主人の愛情はこの赤ちゃんと母親との関係から生じたもので、その子が自分の子だからではなかったのです。
私はご主人とヒンドリ・アンショーとをよく比べて見たものでした。そしてこの二人の行ないが同じ事情のもとでなぜこうも反対なのかしら、と解釈に苦しみました。二人とも|優《やさ》しい|良人《お っ と》で、どちらも子供をかわいがりましたのに、善につけ悪につけこの二人がなぜ同じ道をとらないのか、私にはどうもわかりかねました。しかし心ひそかに思ってみますと、ヒンドリはいっそうしっかりした頭を持っているようにみえながら、その実かえって悪い弱い人であることを悲しくも示していました。あの人の船が砕けた時、船長は位置を捨て、船員は船を救おうとはせずに騒ぎ乱れてしまって、不運な船を見限ってしまいました。リントンはその反対に忠実な人のまことの勇気を示しました。神様におまかせしたのです。そして神様はこの人を|慰《なぐさ》めて下さいました。一方は希望し、他方は失望しました。二人はめいめいの運命をえらび、そしてその運命をたえ忍ぶように正しく定められました。しかしあなたは私の道徳訓話なんか聞きたくはございますまいね、ロックウッドさん。こんな|事《こと》|柄《がら》について、あなたは私などよりもよく判断なさいましょう。少なくともあなたは判断しようとお思いになるでしょう。それはどちらでも同じことです。
アンショーの最後は予期されたとおりでした。早く妹のあとを追い、その間ようやく六か月もたつかたたないくらいでしたろう。グレンジにいる私どもは、死ぬ前のあの人の状態についてごく簡単な話さえ聞きませんでした。私がすべてを聞き知ったのは、お葬式の手伝いに行ったときのことでした。ケネスさんがご主人にその出来事を知らせに来て下さいました。
「ねえ、ネリー」とケネスさんはある朝庭先に馬を乗りつけて呼びかけました。あまり朝早いことなので何か悪い知らせだとすぐに予感しました。「さしあたりあなたと僕とがおくやみに行く番だよ。こんどおさらばしたのは誰だと思うかい?」
「どなたです?」と私は面くらってたずねました。
「まああててご覧」と馬から降りながら答えて、|手《た》|綱《づな》を戸口の|鉤《かぎ》にかけ、「さあエプロンのはしをおつまみ。きっとそれで涙を|拭《ふ》かなくちゃならんからね」
「ヒースクリフさんじゃありますまいね?」と私は叫びました。
「おや! あんたはあの人のために泣いてやれるのかい?」と医者は言って、「いや、ヒースクリフは丈夫な若者だ。今日も大元気のようだ。――私は今しがたあの人に会って来たよ。奥さんをなくしてから急にふとってきたようだ」
「そんなら誰です?」と私はじれったくなって繰返しました。
「ヒンドリ・アンショーだ! あんたの昔友達のヒンドリさ」と答えて、「そして私の悪友さ。ここしばらくの間はあまり乱暴になってちょっとつき合えなかったけれど。ほら! あんたはやはり雨降りだ。だが泣くのはおよし。殿様みたいに酔っ払って、すっかり本性を発揮して死んだからね。かわいそうになあ! 私だって悲しいよ。人間は昔の友達を惜しまずにはいられないものだ。あの男にはずいぶん悪党なところがあったし、私に対してもたびたび|好《よ》くないことをしたものだがね。あの男は二十七そこそこだったと思うが――それはあんたの|齢《とし》だね。あんたがあれとおない年だとは誰も思うまいな」
じつのところ、この知らせは私にとってリントン奥様の死んだ時よりも大きな痛手でした。昔のさまざまな思い出が私の心にまつわりついていました。私は玄関にすわって、身内の者でも失ったかのように泣きました。お医者さんには別の召使に案内させて下さいと頼んだのです。あの人は正当な死に方をしたのかしら? それは考えずにはいられない問題でした。どうしてもその考えが私を悩ましました。あんまりその考えがうるさくしつこいので、私はお許しをいただいてワザリング・ハイツに行き、死人に対する最後の勤めのお手伝いをしようと決心しました。リントン様はどうもそれをお許しなさるのがいやのようでしたが、私はあの人の|寄《よる》|辺《べ》のないことを雄弁にときたてて、あの人は私の旧主人で|乳《ちき》|姉《よう》|弟《だい》でもあるので、今のご主人と同様に私の勤めを要求する権利があると申しました。それに忘れ形見のヘアトンは亡き奥様の|甥《おい》でもあり、他に近親がないのでご主人がその|後《こう》|見《けん》になって、遺産がどうなっているかしらべ、義兄の後事をめんどう見てやるのがあたりまえであり、またそうしなくてはならないものでしょう、とも申し上げました。ご主人は当時そうした|事《こと》|柄《がら》の世話をするには不適当でしたが、|顧《こ》|問《もん》弁護士に話しておくようにと私に命じ、そしてとうとう行くお許しが出ました。ご主人の顧問弁護士はアンショーのと同じ人でした。その人を私は村に訪ねて、一緒に来てくれるように頼みました。弁護士は頭を振って言いますには、ヒースクリフはかまわずに放っておいた方がいいとのことでした。もしも事実が明るみに出ると、ヘアトンは|乞《こ》|食《じき》同様なことがわかるだろうと断言しました。
「あの子の父親は借金を残して死んだ」と弁護士は説明して、「財産はのこらず|抵《てい》|当《とう》にはいっているので、相続人にとって与えられた|唯《ゆい》|一《いつ》のチャンスは、債権者の心へ幾分でも愛情を起させる機会をつくって、寛大な取扱いをさせるようにするほかしかたがないね」
ハイツに着いて、私は万事が|手《て》|筈《はず》よく運ばれているかどうか見に来たと説明しますと、大いに困っていた様子のジョウゼフは、私の来たことを喜びました。ヒースクリフさんは私に別に用事はないようだと言いましたが、泊って葬式の世話をしたいなら、してくれてもいいと言いました。
「厳密に言えば、あの馬鹿者の死体は、葬式などせずに十字路に埋めてやるべきなんだ」とあの人は言って、「昨日の午後十分ほどあの男を一人で置いたら、その間にうちの二つの戸をしめきって私を入れないようにし、そして一晩じゅうわざと死ぬまで酒をのみ明かしたんだよ! 今朝馬みたいな鼻息がきこえるのでわれわれが|錠前《じょうまえ》を破って部屋にはいってみると、あの|長《なが》|椅《い》|子《す》に寝そべっていて、皮をはいだって起きそうにもなかった。私はケネスを迎えにやった。ケネスは来たが、あのけだもの野郎は、もう腐れ肉になっていたんだ。あいつは死んで冷たくなって硬くなっていた。だからもうあいつのことで騒ぐのは|無《む》|駄《だ》だったって、お前も認めるだろうよ!」
|老《ろう》|僕《ぼく》はこの話を|是《ぜ》|認《にん》しましたが、不平らしくささやきました――
「ヒースクリフさんは自分で医者に行った方がよかったんじゃ! ヒースクリフさんよりも、わしの方がよくご主人の|介《かい》|抱《ほう》をしてあげただろうに――ご主人はわしが出て行くときはまだ死んではいなかった。けっして死んではいなかった!」
私はお葬式を立派にするようにと主張しました。ヒースクリフさんはそれも私の好きなようにするがいいと言って、しかしその費用はみんなわしの|懐《ふところ》から出ることを覚えていてほしいと言いました。あの人は冷淡な|無頓着《むとんちゃく》な態度をたもち、喜びも悲しみも示しませんでした。ただ困難なひと仕事を首尾よくやりおおせた冷たい満足の表情だけがあったようです。実際私は一度あの人の大満悦らしい様子をみとめました。それは人々が|柩《ひつぎ》を家から運び出しているちょうどその時でした。あの人にも会葬者に列する|偽《ぎ》|善《ぜん》はありました。そしてヘアトンと一緒に柩に従うに先だって、あの人は不幸な子供をテーブルの上に抱き上げて、特別楽しそうにささやきました。
「さあ、おれのかわいい坊や、お前はおれのものだ! そして同じ風に吹き曲げられれば、どんな木だって曲って育たないものかどうかを見てやろう!」この言葉の意味を知るはずもない無邪気な子供は、この話を聞いて喜びながら、ヒースクリフの|頬《ほお》ひげをいじったり、頬をなでたりしていました。しかし私はその言葉の意味を察して鋭く言ってやりました――
「その子は私が一緒にスラシクロス・グレンジにつれて行かねばなりません。何が何でもその子はてんであなたのものではございませんよ!」
「リントンがそう言うのかい!」あの人は尋ねました。
「もちろんです――その子をつれて来るようにと私に命じなさいました」と私は答えました。
「そうか」とあの悪者が言うには、「その問題をいま議論するのはよそう。だが私は子供を育ててみたい気がする。もしお前の主人がこの子を引き取ろうとすれば、私は自分の子をこの子の代りにこの家の相続人にしなくてはならないよ。そのことをお前の主人に言っておくれ。私は争わずにヘアトンを手放すとは約束しない。しかし自分の子をつれて来ることはまあ確かだよ。そのことを忘れずにお前の主人に言っておくれ」
これを聞くともう私たちには手が出ないのでした。私は帰ったときにその問題をご主人にくりかえしてお話しました。エドガー・リントンは最初からたいして興味がないようでしたが、もう何も干渉がましいことはおっしゃいませんでした。もしご主人が全く乗気で世話したとしても、この事については幾分でも効果をあげ得たとは思われません。
ワザリング・ハイツの客が今は主人でした。あの人は確固とした所有権を持っていました。そしてそのことを弁護士に証明し、弁護士はまたリントン様にそれを証明しましたが、それによるとアンショーはその|賭《と》|博《ばく》ぐせを満たす現金が欲しさに、所有地を残らず|抵《てい》|当《とう》に入れていたのでした。その抵当権者はヒースクリフなのでした。こうして今はこの近所で第一流の紳士たるべきはずのヘアトンは、その父の根深い|怨《おん》|敵《てき》に全く世話になる立場になってしまいました。そして自分のものであるべき家にしもべとして、しかも給金も|貰《もら》わずに暮しています。友達もなし、不当なことをされているとも知らないので、立ち直ることも全くできないのです。
一八
ディーン夫人の物語はなおも続く。――その不吉な時期につづく十二年間は、私の生涯で一番幸福な時代でした。その間の私のおもな心配は小さなお嬢様のちょくちょくやる病気でした。貧富にかかわらずどんな子供でも経験しなくてはならない軽い病気でした。その他のことと言っては、最初の六か月も|経《た》つと、嬢ちゃまは|落《か》|葉《ら》|松《まつ》のように成長して、歩くこともでき、亡きリントン夫人の墓にヒースがふたたび花咲く前に、自己流で何とかあんよも、おしゃべりもできるようになりました。この赤ん坊は|寂《さみ》しい家に日光をもたらしたもののうちでも一番の|愛嬌者《あいきょうもの》で、アンショー系統のきれいな黒い目と、リントン系統の色白の|肌《はだ》と、小造りな顔立ちと、黄色いちぢれ毛とを持ったほんとうの美人でした。気の強い子でしたが乱暴というほどではなく、愛情にかけては過度に敏感で、強烈な心をもっていました。その激しい情愛は母親をしのばせました。けれども母親には似ていませんでした。なぜなら、|鳩《はと》のように|優《やさ》しくおとなしくて、優しい声と悲しげな表情とをもっていましたから。怒っても乱暴でなく、その愛は猛烈ではなくて、深く優しいのでした。しかしその美点を出し抜く欠点も確かにありました。生意気な傾向がその一つ。また気質の善悪にかかわらず、甘えっ子が必ず持っている強情がそれでした。召使がこの子供を怒らすと、「父様に言ってやるわ!」がいつものおきまりでした。そして父親には、ただにらむだけでもあの子を|叱《しか》ることは、胸が張りさけるほどのつらい仕事でしたろうに。リントン様はこのお嬢様にひとことの荒い言葉も話したことがなかったと思います。そしてご自分でお嬢様の教育を全部引き受けて、それを楽しんでいらっしゃいました。幸いに好奇心と頭のよさとがあの子をよくできる生徒にしました。物おぼえが早くて熱心なので、教え方もよいということになって父親も得意でした。
十三になるまで、お嬢様は一度も|猟苑《りょうえん》の外に一人で出て行ったことはありません。リントン様はまれにお嬢さんをつれて一マイルかそこら出かけることがありましたが、他の者にはけっしてまかせませんでした。ギマトンは彼女の耳には|空《くう》な名前で、教会だけが、自分の家以外に近よったり、はいったりした|唯《ゆい》|一《いつ》の建物でした。ワザリング・ハイツやヒースクリフ氏などのことは何も知りませんでした。全く|世《よ》|捨《すて》|人《びと》のようでした。そして全く満足しているようでした。しかし時々子供部屋から向うを見渡しながら、私にいったものでした――
「エレンや、いつになったらあの丘の上まで歩けるの? 一体あの丘の向う側には何があるのかしら――海?」
「いいえ、キャシー嬢様、やはりあのような丘があるのですよ」と私は答えるのでした。
「あの金色の岩の下に立ってみたら、どんなでしょう?」と一度たずねたことがありました。
あのペニストン岩の|断《だん》|崖《がい》は特別に注意をひいたのでしょう。その時ちょうど岩や丘の頂上に入日が輝き、そのほかの、見渡す景色はことごとく暗くかげっていたのでした。私はあの岩が裸な石のかたまりで、その割れ目にも、いじけた木がやっと生えるだけの土もないと説明しました。
「そしてここがもう夕暮れなのになぜあの岩山はいつまでも輝いているの?」と追求しました。
「なぜならあそこはここよりもずっと高いからですよ」と私は答えて、「あなたはあそこに登ることはできますまい。とても高くってけわしいのですもの。冬になると|霜《しも》がここよりも先にいつも降りています。そして夏深くなるまで、あの東北側の黒い|洞《どう》|穴《けつ》の下には雪があるんですよ!」
「おお、お前はあそこに登ったことがあるのね!」とお嬢様は喜んでさけび、「そんなら私だって|大人《お と な》になったら行けるわ。お父様はあそこにいらっしゃったことがあって?」
「あんなところは難儀して行く値打ちがないって、お父様はおっしゃるでしょう」と私は早口に答えて、「あなたがお父様と散歩なさる野原の方がずっときれいです。そしてスラシクロスの|猟苑《りょうえん》は世界じゅうで一番きれいなところです」
「でも私その猟苑は知ってるけれど、あの岩山は知らないもの」とひとり言のようにつぶやいていました。「そしてあそこの一番高いてっぺんからあたりを見たらおもしろいと思うわ――いつか私の小馬のミニーに乗って行って見ましょう」
女中の一人が、|豆《まめ》|仙《せん》|人《にん》の|岩《がん》|窟《くつ》の話をしたので、キャシーは岩山行きの計画をはたしたい欲望で頭がまるでぼっとなりました。その事を父親にもせがみますので、もっと大きくなったら行ってもいいと、ご主人はとうとう約束をなさいました。でもお嬢様は毎月一つずつ年をとるかのように計算して、「さあ、もう大きくなったからペニストンの岩山へ行ってもいいでしょう?」と口ぐせのようにたずねるのでした。そこへ行く道はワザリング・ハイツのすぐそばを|廻《まわ》っていました。エドガーはそこを通らせたくないので、お嬢様はいつでも同じ答をうけました――
「いや、まだだよ、まだだよ」と。
ヒースクリフ夫人は夫の|許《もと》を去ってから十二年ほど生きていたと私は前に申しました。いったいあの一族は虚弱なたちでした。ヒースクリフ夫人とその兄のエドガーとはどちらもこの地方でふつう見る人のような血色のよい健康なからだをもっていませんでした。夫人の死病が何であったか私はよく存じませんが、たぶんあのお兄さまと同じ熱病で死んだと思います。あの病気は初期には緩慢で、しかしなおらなくて、終りになると急激に生命を|消耗《しょうもう》してしまうのです。夫人は病みついて四か月にわたる病気がもう直るまいとお兄様に手紙を書き、もしできたら来て下さるようにと頼んだのでした。なぜならいろいろ取りきめることもあり、お兄様と最後の別れもしたく、子供のリントンを安全にお兄様の手に渡したいからと言うのです。子供は自分と一緒にいたようにして、死後はお兄様と一緒に暮させたい望みでした。子供の父親はその子を養い教育してやるめんどうを見たくあるまいと、夫人は確信して、喜んでいたことでしょう。私のご主人は一刻のためらいもなく妹さんの頼みを|承諾《しょうだく》なさいました。普通の用事の訪問ではしぶしぶ家を出るおかたでしたが、このときは飛んで行かれました。留守中はキャサリン嬢様にとくに気をつけるようにと私におっしゃって、たとえ私と一緒でも|猟苑《りょうえん》の外へお嬢様を出してはならないと幾度も命令なさいました。お嬢様が一人で出かけることなど、ご主人は予想なさいませんでした。
お留守は三週間でした。初めの一日か二日は、お嬢様はひどく沈んで、読書も遊びもせずに書斎の|隅《すみ》にすわっていましたので、私は何の世話もありませんでした。しかしそれからじりじりした気むずかしい退屈のときがやって来ました。私は忙しくもあり年もとって来ましたので、一緒にかけ|廻《まわ》って遊び相手にはなれませんでした。そこで、お嬢様がひとりで楽しむような一策を案じました。私はお嬢様に屋敷の庭のまわりを、ある時は徒歩で、ある時は小馬に乗って散歩をさせ、帰った時にその間の冒険をのこらず聞いて、事実やら空想やらさまざままじった話を|辛《しん》|抱《ぼう》づよく聞いてあげることにしました。
夏は盛りでした。キャシーはこの一人歩きをたいそう喜んで、たびたび朝飯からお茶の時までずっと外にいようとしました。そして毎晩空想まじりの話を私に聞かせて過しました。私にはキャシーが屋敷の外に出る心配はありませんでした。門はたいていしまっていましたし、もしあいていてもその外へ一人で出て行くまいと思ったからです。しかし不幸にも私の安心は間違っていたことがわかりました。キャシーはある朝八時に私のところにやって来て、今日はアラビアの商人になって、隊商をつれて|砂《さ》|漠《ばく》を横切るので、自分と家畜とのために十分な糧食をほしいというのです。家畜というのは馬が一頭とラクダが三頭、これは大きな猟犬一頭とポインター種の犬二頭で代用されていました。私はたくさんうまいものを|仕《し》|度《たく》して、それをバスケットに入れて|鞍《くら》の片側にかけてあげました。キャシーは妖精のように快活に小馬に飛び乗って、つば広の帽子と|紗《しゃ》のベールとで七月の太陽を防ぎ、私が早がけをせぬように、そして早く帰るようにという言葉にもろくに耳もかさず、陽気に笑いながらかけて行きました。このおてんばさんはお茶時になっても帰りませんでした。旅行者の一人であるあの猟犬は老犬で安楽が好きでしたのでもどって来ましたが、キャシーも小馬も二匹のポインターも、どの方向にも見えませんので、私はあの道この道に使を出し、とうとう自分でも|捜《さが》しに出かけました。屋敷の庭の境にある植込みの|垣《かき》|根《ね》を|繕《つくろ》っている職人がいましたので、私はお嬢様を見なかったかとたずねました。
「朝に見ましたよ」とその男は答えて、「そのお嬢様なら私にハシバミの枝を|鞭《むち》にするから切ってほしいと言って、それからあすこの垣の一番低いところで小馬を飛び越えさせて、早駆けしてどこかに見えなくなってしまいましたよ」
この知らせを聞いて私がどんな感じだったかお察しがつきましょう。私はすぐにお嬢様がペニストンの岩山へ出かけたに相違ないと思いました。「お嬢様はどうなることかしら」と叫んで、私はその男が修繕していた垣の破れ目をくぐり抜け、まっすぐ街道に出ました。私はまるで|賭《か》けでもしたかのように幾マイルも急いで行って、とうとうハイツの見える曲り角まで来ましたが、遠くにも近くにもキャサリンは見えませんでした。岩山へはヒースクリフさんのところから一マイル半ほどあり、グレンジからは四マイルでしたので、私は岩山につくまでに日が暮れるだろうと心配しはじめました。
「もしお嬢様があの岩山に登っているうちに滑ったらどうしましょう。もしも死んだら? それとも骨を折ったりしたら?」と私は思いました。その|懸《け》|念《ねん》はほんとうに苦痛でした。それで農場のそばを急いで通ったとき、ポインターの中で一番強い犬のチャーリーが、頭をはらし耳から血を出して窓の下に寝ているのを見て、私は喜んでまずほっといたしました。私はくぐり戸を開けて表戸へ|廻《まわ》り、激しく戸をたたきました。先にギマトンに住んでいたことがあって知合いの女が返事をしました。この女はアンショーさんの死後、ここの女中になっていたのでした。
「ああ、あなたはお嬢様をさがしにいらしたのね! ご心配いりませんよ。ご無事でここに居られます。|旦《だん》|那《な》様のお帰りかと思ったら、そうでなくてよかったわ」
「それじゃあの人は家にいないんですね?」と私はあまり急いで歩いたりびっくりしたため、全く息が切れてあえぎながら言いました。
「ええ、お留守ですよ」とその女は答えて、「旦那様もジョウゼフもよそへ出かけました。まだ一時間かそこらはお帰りにはなりますまい。はいってちょっとおやすみなさいよ」
はいってみますと、私の|迷《まい》|児《ご》の子羊は炉ばたで小さなゆり|椅《い》|子《す》に腰かけて、からだを揺さぶっていました。その椅子はキャシーの母が小さいとき使っていたものでした。帽子を壁にかけちゃって、キャシーはもうすっかりいい気になって、この上ない|上機嫌《じょうきげん》でヘアトンにおしゃべりしながら笑っていました。ヘアトンはもう十八の大きなたくましい若者でしたが、キャシーの口からやまずに流れ出る話や質問の意味はほんの少ししかわからずに、それでも相当な好奇心と驚きとでキャシーを見つめていました。
「いいですわよ、お嬢様!」と私はおこった顔をして、内心の喜びをかくしながら申しました。
「お父様がお帰りなさるまでもうこれっきり馬にはお乗せしませんよ。もう二度と一人で敷居の外には出しませんよ。このおてんばのおてんばのお嬢様!」
「あらエレン!」と、キャシーは陽気に叫んで、飛び上って私のそばに走って来て、「今晩はおもしろいお話を聞かせてあげようね。とうとうお前に見つかったわ。お前は今までにここに来たことがあるの?」
「帽子をかぶってすぐ家に帰るんですよ」と私は言って、「私はあなたをなさけなく思いますよ、キャシーお嬢様。あんまりひどいことをなさいましたよ。口をとがらしたって泣いたってだめです。そんなことをしても、あなたを|捜《さが》しまわった私の苦労の埋合せにはなりません。お父様があなたを外に出してはいけないとどれほど私におっしゃったことでしょう。それだのにこんなにしてこっそり抜け出すなんて! あなたはずるい|小狐《こぎつね》さんですよ。もう誰もあなたを信用しませんからね」
「私が何をしたの?」と|啜《すす》り泣きしましたがすぐにやめて、「お父様はなんにも私に言いつけなかったわ。だから私を|叱《しか》ったりなさらないわ。お父様はお前みたいに意地悪ではないことよ!」
「さあ、さあ!」と私は繰返して、「リボンを結んであげましょう。さあもうすねるのはよしましょう。まあ恥ずかしいこと! 十三にもなってそんなに赤ちゃんみたいで!」
私がこう叫んだのは、お嬢様が帽子を脱いで、私の手の届かない炉ばたへ逃げたからです。
「いいえ」と女中は言って、「ディーンさん、おかわいいお嬢様にあまりつらくあたらないで下さいな。私たちがここにお引き止めしたのです。あなたが心配なさるといけないといって、お嬢様はここに休まずに先を急ごうとしておいででしたけれど。ヘアトンがお供すると言いましたし、私もそれがいいと思ったのです。丘の道はずいぶんひどいですからね」
ヘアトンはこの話の間両手をポケットにつっ込んで立っていました。私の侵入を喜ばないように見えましたけれど、きまりわるがって口がきけないのでした。
「いつまでお待ちすればいいんですの?」と私は女中のとりなしにかまわずに申しました。「もう十分もたてば暗くなりますよ。小馬はどこにいます、キャシー嬢様、そしてフィーニックスは? 早くしないと置きざりにして行きますよ。どうにでもお好きなように」
「小馬は庭にいるし、フィーニックスはあすこにとじ込められているわ。あれはかみつかれたのよ。チャーリーもそうなの。くわしいお話をしようと思っていたんだけど、お前が怒っているので、話してあげなくってよ」
私はキャシーの帽子を拾い上げ、それをかぶせてあげようと近よりましたが、この家の人たちがみんな味方なのを知って、キャシーは部屋じゅうを飛びまわりはじめ、私が追いかけると|二十日鼠《はつかねずみ》のように家具の上を飛びこえたり、下に潜ったり、かげにかくれたりして、私が追いかけるのを笑いものにするのでした。ヘアトンと女中とが笑いますと、キャシーも一緒になって笑ってますます生意気になりましたので、とうとう私はひどく立腹して叫びました――
「よござんす、キャシー嬢様、この家が誰のものだかご存知でしたら、早く帰った方がいいとお思いになるでしょうよ」
「ここはあなたのお父様のお家じゃなくって?」とキャシーはヘアトンに向って言いました。
「いいや」とヘアトンはうつむいてきまりわるそうに顔を赤くして答えました。
ヘアトンはキャシーからじっとみつめられているのに|堪《た》えられないのでした。キャシーの目はちょうどヘアトン自身の目とそっくりなのでしたけれども。
「そんならどなたの家? あなたのご主人のお家?」とキャシーはたずねました。
ヘアトンはいよいよ赤くなりましたが、今度のは前とは違った感情からなのでした。そして何やらぶつくさ悪口を言って、顔をそむけました。
「誰がこの人の主人なの?」とこのうるさい少女は私にたずねるのでした。「あの人は『われわれの家』と言い、『うちの人たち』と言ってたわ。私はこの家の主人の息子さんだと思っていたの。それにこの人はお嬢様と呼ばなかったわ。召使だったら、そう呼びそうなものじゃなくって?」
ヘアトンはこの子供じみた話を聞いて、雷雲のように暗くなりました。私は無言でキャシーのからだをゆすぶって、ようやくのことで帰る|仕《し》|度《たく》をさせました。
「さあ、私の馬をつれて来てちょうだい」とキャシーはまるでグレンジで|馬《ば》|丁《てい》の小僧に言うように、未知の親戚に向って言いました。「そしてあなたも一緒に来て|頂戴《ちょうだい》。あの魔物の猟師が沼からわき上るところを私は見たいし、そしてあなたの言った『ヨウシェイ』(妖精)のことも聞きたいのよ。だから早くよ! どうしたの? 私の馬をつれて来て頂戴ったら」
「おれはお前の召使になるより前に、お前がくたばるのを見てやらあ!」
「私の何するのを見て下さるんですって?」とキャサリンは驚いてたずねました。
「くたばるのをよ――この生意気な|阿《あ》|魔《ま》ッちょめ」とヘアトンは答えました。
「そらね、キャシー嬢様、お立派なお友達の所に来たでしょう!」と私は言葉をはさんで、「若いお嬢様に対して、お上品な言葉ですこと! どうぞそのおかたと口論など始めないで下さいよ。さあ、私たちでミニーをさがして、帰りましょう」
「でもエレンや」とキャシーは驚いて見すえながら、「なんだってあのかたは私にあんなことをおっしゃるんでしょう? あのかたは私が頼んだことをしてはいけないの? 意地悪ね、私はあなたが言ったことをお父様に言いつけるわよ――ね、いいわね!」
ヘアトンはこのおどかしに平気なようでした。それでキャシーの目には|憤《ふん》|慨《がい》の涙がわいてきました。「あの小馬をつれて来てよ」とキャシーは女中に向って叫び、「そして今すぐ私の犬を解いてやってよ!」
「お嬢様、お静かに願います」と女中は答えて「あなたはもっとお静かにおっしゃってもご損になりませんよ。ここにいらっしゃるヘアトン様はご主人の坊ちゃまではございませんが、あなたのいとこなんですよ。それに私はあなたのご用を勤めるために雇われたのではございませんよ」
「その人が私のいとこ!」とキャシーは冷笑して叫びました。
「ええ、まさにそのとおり」とこの|叱《しか》り屋さんは答えました。
「おおエレンや、この人たちにあんなことを言わせないでよ」とキャシーはひどくめんくらって言葉を続けますよう、「パパは私のいとこをつれて来るためにロンドンへおでかけになったのよ。私のいとこは立派な紳士の坊ちゃんです。私の――」キャシーは言葉を止めて声を立てて泣き出しました。こんな|野《や》|卑《ひ》な男と親類だなどと考えただけで気がてんとうしたのでした。
「お黙りなさい!」と私は小声で言って、「いとこがたくさんいることだってありますよ、しかもいろいろ変ったのがね。それだからといってその人が何も悪くなるものではありません。ただいやな悪いいとこと友達になる必要はございません」
「エレンや、この人は私のいとこじゃないわ!」とキャシーは言いましたが、考えたらいよいよ悲しくなったのでしょう、考えまいとするかのように私の両腕にからだを投げかけました。
私はキャシーにも女中にもほとほと悩まされました。この女中はヘアトンの身分をキャシーに知らせ、キャシーはまたロンドンのいとこなどと余計なことを女中に知らせてしまったからです。若いリントンが間もなく到着することは、むろんこの女中の口からヒースクリフに知れるでしょう。またキャシーは父の帰りを待って、さっそくこの無教育な親類との関係について、女中の断言したことを父から説明してもらおうとするでしょう。ヘアトンは召使と思われたいまいましさもようやく収まって、キャシーの悲しみに心を動かされたようでした。そして小馬を戸口につれて来て、キャシーをなぐさめるために犬小屋からワニ足のテリヤの小犬をつれて来て、キャシーの手に渡し、さっきの言葉は別に悪い意味ではなかったのだから泣くのをやめるようにと言ってくれました。キャシーはちょっと泣きやめて、その若者をこわごわと見ましたが、それからまたもや泣き出しました。
かわいそうな若者に対するこの反感を見て、私は微笑せずにいられませんでした。ヘアトンは立派な体格の筋骨たくましい若者で、目鼻だちも美しく、ふとって健康でしたが、毎日畑で仕事をしたり、また野原で|兎《うさぎ》やその他の|獲《え》|物《もの》を追いかけるのにふさわしい衣服を着ていました。それでもその人相には、父親が持たなかった|善《よ》い気立てを認めることができるように思われました。よい性質は雑草の荒野の中にかくれているのは事実で、はびこった雑草が放任されたいい性質の成長を|妨《さまた》げて高くおおいかぶさっていたのです。それにもかかわらず豊かな土である証拠が見え、もっと良好な状態のもとでは立派なみのりがあろうと思われました。ヒースクリフさんはこの若者を肉体的には|虐待《ぎゃくたい》しなかったようです。そうしたいじめ方をする気がヒースクリフに起らなかったのは、ヘアトンの大胆な、ものに恐れない性質のおかげでした。ヒースクリフの判断では、いじめつけたらおもしろかろうと思わせるような、|臆病《おくびょう》な感受性がヘアトンには少しもないのでした。それでヒースクリフはこの少年を野獣のようにしてやろうという方面にその悪意を向けたらしいのです。この少年は読むことも書くことも教わりませんでした。ヒースクリフのじゃまをしないかぎりは、どんな悪い習慣も|叱《しか》られることがなく、美徳へ向って一歩でも導かれず、また悪徳に対して一言の訓戒をも与えられませんでした。それにまた、私の聞いたところでは、ジョウゼフが偏狭なひいきのためにこの少年をいっそう悪化させるのに力を得たようです。少年はこの旧家のいわば主人でしたから、ジョウゼフは少年を坊っちゃまあつかいにして甘やかしたのでした。元来ジョウゼフはキャサリン・アンショーとヒースクリフとをその子供の時分に非難するのが常で、この二人の「ろくでもないふしだら」のせいで、主人が|癇癪《かんしゃく》を起して、酒に|慰《い》|安《あん》を求めるようになったのだと言っていましたが、そのように今でもこの老人はヘアトンの欠点の全責任を、少年の財産を|横領《おうりょう》したヒースクリフのせいにしていました。少年が|野《や》|卑《ひ》な言葉を使っても、ジョウゼフはそれを正そうともせず、|不《ぶ》|作《さ》|法《ほう》をしても|咎《とが》めませんでした。ヘアトンが極度まで悪くなるのを見ていることが、ジョウゼフに満足を与えるようでした。この少年が|堕《だ》|落《らく》して、その|魂《たましい》が破滅の底に捨てられるものと、老人は認めて、しかしそれに対しては、ヒースクリフが全責任を負わねばならない、と考えていました。へアトンを破滅させた罪はヒースクリフにむくいられるであろうと考えて、大いに心を|慰《なぐさ》めていました。ジョウゼフはこの少年に名前や血統の誇りを注ぎ込みました。もしできることなら、この少年と現在のハイツの屋敷の持主との間に憎しみをそだてあげてやりたかったのですが、ジョウゼフ老人がヒースクリフをこわがることはほとんど迷信になっていましたので、ヒースクリフに関する|鬱《うっ》|憤《ぷん》を、この老人はぶつくさあてこすりと|蔭《かげ》|口《ぐち》のおどし文句とでもらすだけでした。私はその|頃《ころ》のワザリング・ハイツの人々の日常生活を、親しく知っていたと申すのではありません。実際にあまり見ていませんから、ただ人づてに聞いたことを申します。村の人たちは、ヒースクリフさんがけち[#「けち」に傍点]で、小作人たちに対しては残酷な地主だと言っていましたが、家の中は女中の心づかいで昔の気持よい家庭になって、ヒンドリの時代にいつもあった騒動の場面は今は演じられなくなりました。主人はひどく憂鬱になって、善悪をとわずどんな人にもつきあいを求めようとしませんでした。そして今でもそうなのです。
これではしかし話が進みませんね。キャシーはヘアトンが仲なおりの印にくれたテリヤを断わって、自分が連れて来た二頭の犬チャーリーとフィーニックスとを要求しました。犬どもはびっこをひきながら、頭を垂れてやって来ました。そして私たちはみんな元気なく家に帰って行きました。お嬢さんにその日をどうして暮したのかといくらたずねてもだめでした。ただキャシーの巡礼の目的地がペニストン岩山であったことだけは、私の想像どおりでした。そしてキャシーはべつだんの冒険もなくてあの農場に着いたとき、ヘアトンがたまたま犬どもを従えて出て来ると、その犬どもがキャシーの従者を攻撃して、激しい戦争が始まり、両方の持主がやっとのことでそれを引き分けたと思われます。それがあの二人がお互いに知り合った始めでしょう。キャサリンはヘアトンに自分の名前や行先を話して、道案内を頼み、しまいに、まんまとお供を迎せつけてしまったのでした。そしてヘアトンは妖精のほら穴やそのほかたくさんの奇妙なところの不思議なものを見せてくれたそうです。しかしキャシーのご|機《き》|嫌《げん》をそこねていましたので、私はキャシーの見たおもしろいものの話を聞かせてもらえませんでした。しかしこの案内役は最初キャシーのお気に入りであったことは想像ができます。とうとうキャシーはヘアトンを召使呼ばわりして彼の感情を害し、そのうえヒースクリフの女中がキャシーをヘアトンのいとこと呼んで、キャシーの機嫌をそんじてしまったのです。それからヘアトンが言った言葉はキャシーの胸に痛く食い込みました。キャシーはグレンジではみんなからちやほやされて、「|可《か》|愛《わい》い子」であり「女王」であり「天使」でしたのに、よその人にあんなにひどく|侮辱《ぶじょく》されたのですもの。|合《が》|点《てん》がいかなかったでしょう。そしてお父様に訴えないように、私はひどく苦心してやっと約束させました。お父様がハイツの人たちをどんなに嫌っておいでになるか、またキャシーがあそこに行ったことがわかればどんなに残念にお思いになることか、その点を私は説明しました。それに私がお父様のお言いつけを|怠《おこた》ったことがわかれば、お父様は非常にお腹立ちになって、たぶん私はお暇をいただかねばなるまいということを、特に力を入れて話しました。キャシーにはそのような予想さえとてもたえられないことでした。それゆえ誓約をして、私のためにその約束を守ってくれました。結局、キャシーはかわいらしいお嬢様でした。
一九
黒わくの手紙がご主人の帰る日を知らせて来ました。イザベラが死んだので、お嬢様に喪服を着せ、若い|甥《おい》のために部屋やその他の用意をととのえるようにと、書いてありました。キャサリンはお父様を迎えるのだと思うと、もう、うれしくて走り|廻《まわ》りました。また「ほんとの」いとこのさまざまな美点をたいへんほがらかに予想していました。二人が到着する晩方になりました。早朝からキャシーは自分のこまごましたものを片づけるのに|忙《いそが》しかったのですが、いま新しい喪服を着て、――でもかわいそうに! |叔《お》|母《ば》の死などはべつだん悲しく思われなかったのです――私にさんざんせがんで、二人を迎えるために屋敷のはずれまで一緒に行くことにしてしまいました。
「リントンはちょうど半年だけ私より若いのよ」とキャシーはおしゃべりしました。私たちは|木《こ》|蔭《かげ》のこけの生えた芝土の起伏する所をぶらぶら歩いていたのです。「その人をお友達にして遊んだらどんなにか|愉《ゆ》|快《かい》でしょうね! イザベラ叔母さんはパパにその人の美しい髪の毛をいつか送ってよこしたけど、私のより色がうすくて、もっと|亜《あ》|麻《ま》|色《いろ》で、ちょうど同じくらいに細かい毛でしたわ。私、それを大事にして小さなガラス箱にしまってあるわ。その髪の持主にあったらどんなに|嬉《うれ》しかろうと、私たびたび思っていたの。おお! 私なんて仕合せでしょう――そして大好きなパパがお帰りになるんですもの! ねえ、エレン、走りましょうよ! さあってば」
キャシーは走っては|戻《もど》り、また走りだし、私のゆっくりした歩みが屋敷の門に着くまで幾度もそうやって、それから道ばたの草土手に腰かけて、じっと待っていようとしましたがだめでした。一分間もじっとしていられないのでした。
「父様たらずいぶん遅いのね!」と叫んで、「ああ道に何やらほこりが立ちましたよ――来るわよ! 違ったわ! 一体いつ着くのでしょう? ちょいと半マイルほど行ってみない? ほんの半マイルよ。ねえ、行くと言ってよ、あの曲り角のカバの木立のところまでね」
私は断然はねつけました。とうとうキャシーの待ったかいがあって、遠方に馬車が見えました。キャシーは父の顔が窓からのぞいているのを見ると、声をあげて両手をひろげました。父親も娘と同様に夢中で馬車からおり、しばらくしてようやく二人はほかに人がいることを思い出しました。二人が抱き合っている間、私はリントンをのぞき込みました。まるで冬みたいに毛裏のマントをぬくぬくと着込んで、|隅《すみ》の方で寝ていました。青白い、弱々しい、女のような少年で、ご主人の弟かと思われるほどよく似ていましたが、エドガー・リントンにはけっして見られない病的なわがままがありました。ご主人は私がのぞきこんでいるのをご覧になって、握手をしてから、ドアを閉じてそっとして置くようにおっしゃいました。その子は旅に疲れていたからです。キャシーは一目見たいと言いましたが、父親に呼ばれて一緒に|猟苑《りょうえん》の方へ歩き出し、私は召使たちに指図するために先に急ぎました。
リントン様は玄関の石段の下でキャシーにおっしゃいました。「ねえ、キャシーや、お前の|従弟《い と こ》はお前のように強くないし活発でもないんだよ。それについこの間お母さんをなくした。それだからお前と一緒にさっそく遊んだり走り|廻《まわ》ったりするだろうと思ってはいけない。あまり話しかけてうるさがらせてはいけない。せめて今晩は静かにさせておくんですよ」
「はい、パパ」とキャサリンは答えて、「でも私あの人に会いたいわ。一度も窓から顔を出さないんですもの」
馬車は止り、眠っている少年は起され、|伯《お》|父《じ》の手で抱きおろされました。
「リントン、これがお前の|従姉《い と こ》のキャシーだよ」と言ってご主人は二人の小さな手を握らせ、「キャシーはもうとうにお前が好きになっている。だから今晩は泣くんじゃないよ、キャシーが悲しがるからね。つとめて元気をお出しよ。旅行は終ったし、もう何も仕事はなし、ゆっくり休んで好きなようにするがいい」
「そんなら寝床に寝せて下さい」と少年はキャサリンのあいさつをさけて答え、出かかる涙を払うために指を目に当てました。
「さあさ、いい坊ちゃんですね」と私はその子を案内しながらささやきました。「あなたはお嬢様をも泣かせてしまいます――ご覧なさい、どんなにお嬢様があなたのために悲しんでいらっしゃるか」
私はキャシーがこの子のために悲しんでいたのかどうかは知りませんが、少なくともこの子と同じくらい悲しい顔をして父のところへ来ました。三人がみんな家にはいって書斎に上りますと、お茶の用意ができていました。私はリントンの帽子とマントをぬがせてやり、食卓のそばの|椅《い》|子《す》にかけさせましたが、その子は椅子につくとさっそく泣きだしました。ご主人はどうしたのかとおたずねになりました。
「僕は椅子に腰かけられないんだもの」とその子は泣きじゃくりました。
「そんならソファーにおかけなさい。今じきエレンにお茶を持ってこさせますよ」とその子の|伯《お》|父《じ》は我慢して言いました。
ご主人はこの気むずかしい病身の預りもののために、旅行中ひどく苦労をなすったことと思います。小さなリントンはゆるゆると下にずり落ちてソファーの上に横になりました。キャサリンは足台と自分のカップとを少年のそばに持って来ました。最初キャシーはじっとすわっていましたが、長つづきせず、前から望んでいたとおりに、小さな|従弟《い と こ》を自分の|愛《あい》|玩《がん》|物《ぶつ》にしようときめていましたので、キャシーは従弟の巻毛をなで始め、|頬《ほお》にキスをしてやり、自分の台皿で赤ん坊にでもするようにしてお茶をすすめたりしました。そうされて少年は喜びました。まるで赤ん坊と同様なのです。そして涙をふいてかすかに笑顔になりました。
「ああ、あの子は結構やってゆけるだろうよ」とご主人は二人をしばらく見ていた後に、私に言いました。「結構だよ、われわれがあの子を育ててゆければね、エレン。同じ|年《とし》|頃《ごろ》の子供仲間がいるから、あの子はじきに新しい元気を注ぎこまれるだろう。そしてもっと強くなりたいと思えば強くなれるだろうよ」
「はい、もし私たちがあの坊ちゃんを育ててゆけますればね!」と私は心の中で思いました。とてもその望みはあるまいという|懸《け》|念《ねん》が私に浮んできました。そしてこの子供がヒースクリフに引き取られたとき、どうしてこの弱虫がワザリング・ハイツで父親とヘアトンとだけの間で暮すでしょう! あの二人はどんな遊び相手になり、どんな教育者になることでしょう! われわれの疑念は私が期待したよりもなお早く、すぐ決定されました。お茶がすんで、私は子供たちを二階の寝室につれて行き、小さなリントンは眠るまで私をはなしませんでしたので、それまでそばについていてやって、それから下に降りて、広間のテーブルのそばに立って、ご主人の寝室用のロウソクをともしていますと、若い女中が台所から来て、ヒースクリフさんのしもべのジョウゼフが入口にいて、ご主人とお話し申したいと言っている由を私に知らせました。
「私が先に何の用事なのか聞いてみましょう」と私はかなりうろたえて申しました。「今時分やって来て人をわずらわすなんて。それに長い旅からお帰りなすったばかりなのに。ご主人はお会いになることができないだろうと思いますよ」
私がこう言っているうちに、ジョウゼフはもう台所を通りぬけて広間にやって来ました。晴着を着込んで、ひどくしかつめらしい|渋《しぶ》い顔をして、片手に帽子を持ち、片手にステッキをにぎって、マットで|靴《くつ》をぬぐっているところでした。
「今晩は、ジョウゼフ」と私は冷淡に言って、「何のご用です?」
「リントン|旦《だん》|那《な》様にお話があるんだ」と彼は私を無視するように手をふって答えました。
「リントン様はおやすみなさるところです。特別の用事でもなければ、今時分お会いになりますまい。そちらで腰かけて用向きを私にことづてなさる方がいいでしょう」
「旦那様のお部屋はどこだ」とこの男は閉じているドアの並びを|眺《なが》めながらたずねました。
ジョウゼフは私の取次ぎを断わるつもりだな、と私はさとりましたので、しぶしぶ二階の書斎に行って、時でもない来客をお知らせし、翌日会うことにして追い払うようにご主人におすすめしました。リントン様は私にそれをお許しなさるすきがありませんでした。なぜならばジョウゼフが私のすぐ後について登って来て、部屋にはいり、両手をステッキの頭のところに重ねてテーブルの向う側に立ち、まるで反対を予期しているかのように大声でしゃべり出したからです。
「ヒースクリフが子供をつれて来いと言って私をよこしましたんじゃ。子供をつれないでは帰ることはならねえだ」
エドガー・リントンはしばらく無言でした。非常な悲しみの表情が顔を曇らせました。ご自分としても子供のためにかわいそうだとお思いになったのでしょうが、妹イザベラの希望と心配と、子供のためを思うせつな願いと、その子を兄上にゆだねる頼みとを思い起して、子供を渡した後のことをひどく|不《ふ》|憫《びん》に思い、どうかして渡すことを避けたいものと心の中で考えましたが、何の妙案も浮びませんでした。その子をこちらで育てたいそぶり[#「そぶり」に傍点]を見せれば、先方はいっそう急に要求するでしょう。あきらめるよりほかしかたがありませんでした。しかし子供を眠りから起したくはありませんでした。
「ヒースクリフさんに言っておくれ」とご主人はおだやかに答えて、「子供は明日ワザリング・ハイツにお送りします。いまねているし、すぐさまあそこまで行けないほど疲れ切っている。それからまた伝えてほしいが、リントンの母親はあの子をこの私に預けたがっていましたよ。それに今のところあの子の健康はきわめて心もとないということもね」
「うんにゃ!」とジョウゼフは|横《おう》|柄《へい》ぶって|杖《つえ》で床をどしんと打って、「うんにゃ! それはだめです。ヒースクリフはあの子の母親なんて何とも思っていやしねえだ。あんた様のことだってなんにも考えていやしねえ。ただ子供をよこしてもらいたいのじゃ。何がなんでも私は子供を連れて行かなくてはならねえだ。ようごわすか?」
「今晩はいかん!」とリントン様はきっぱり答えました。「すぐ下に降りなさい。そして私が言ったことをお前の主人に伝えなさい。エレンや、下につれて行ってあげなさい」
そう言ってご主人はこの|憤《ふん》|慨《がい》した老人の腕を取って室外に連れ出し、ドアをしめました。
「ようし!」とジョウゼフはのろのろと下に降りながら叫びました。「明日はヒースクリフが自分で来るぞ。あの人を突き出せるなら突き出してみろ!」
二〇
このおどし文句が実行される危険をさけるために、リントン様は私に命じて、少年をキャサリンの小馬に乗せて、朝早く父親の家につれて行くようにとのことで、さて言われますには――
「今となっては、われわれはあの子供の運命を|善《よ》かれ|悪《あ》しかれ支配する力がないのだから、あの子がどこに行ったかを娘にはけっして言ってはいけない。娘は今後あの子と交際することができないし、それにあの子の近くにいることを知らずにいる方が娘のためによい。そわそわしてハイツに出かけたりするといけないからね。あの子の父親が突然迎えをよこしたので行かねばならなかったのだ、とだけ娘に言っておくれ」
リントンは五時に全くいやいやながら起こされて、またよそへ行く|仕《し》|度《たく》をしなくてはならぬと聞いて驚きました。しかし私は|事《こと》|柄《がら》をやわらげて申しました。――父親のヒースクリフさんがひどく会いたがっているので、旅の疲れが回復するまで待ち切れずに迎えによこしたため、しばらくお父様と一緒に暮しに行くのです――と。
「僕のお父さんだって!」と少年は妙に当惑したように言って、「お母さんは一度だってお父さんのことなんか僕に話したことがなかったよ。お父さんて一体どこにいるの? 僕は|伯《お》|父《じ》さんと一緒にいる方がいいや」
「お父様はグレンジからあまり遠くないところにお住いです」と私は答えて、「あそこの丘のすぐ向うで、たいして遠いことはありませんよ。元気になったら歩いてここに来られましょう。おうちに帰ってお父様に会うのですから喜ばしいことですよ。お母様を愛したようにお父様を愛する気にならねばなりません。そうすればお父様もあなたを愛してくださるでしょう」
「でも僕はなぜ以前お父様のことを聞かなかったのだろう?」と少年はたずねました。「なぜお母さんはほかの人たちのようにお父様と一緒に暮さなかったの?」
「お父様は仕事のために北の方においででした。そしてお母様はお弱かったので南に住まわねばならなかったのです」と私は答えました。
「だってお母さんはなぜ私にお父様のことを話してくれなかったんだろう?」と少年はねばりました。「お母さんはたびたび|伯《お》|父《じ》さんのことを僕に話して下さった。だからずっと前から伯父さんが好きになっていたんだ。どうして僕がお父様を愛するわけがあるんだえ? 僕はお父様なんて知りゃしない」
「おお、子供はみな両親を愛しますよ」と私は申しました。「たぶんお母様はあまりお父様のことをあなたに話すと、あなたがお父様と一緒にいたがるだろうと思ったのでしょう。さあ急ぎましょう。こんないいお天気に朝早く馬に乗るのは、もう一時間寝ているよりずっとましです」
「あの人[#「あの人」に傍点]は僕たちと一緒に行くの? きのう会ったあの小さなお嬢さんさ?」
「いいえ、|今《け》|朝《さ》は」と私は答えました。
「伯父さんは?」と問いつづけますので、
「いいえ、あそこへは私がお供いたしましょう」と私は答えました。
リントンはまくらの上に仰向けに寝てぼんやり考え込んでいました。
「僕は伯父さんと一緒でなけりゃ行かないよ」と少年はとうとう叫びました。「お前は僕をどこへつれて行くつもりだかわかりゃしない」
私は子供が父親に会うのをいやがるなどばかなことだと言って、少年を説きつけてみました。それでも少年は着がえを|頑《がん》|固《こ》にこばみますので、なだめて寝床から起こすのにやむなくご主人の助けをかりねばなりませんでした。ほんのしばらくの間だけとか、エドガー伯父様とキャシーとはたびたび訪ねて行くなどという、子供だましの保証を幾度もしてやって、かわいそうに少年はとうとう出かけることになりました。そのほかいずれもあてにならぬ約束を、私は行く途中でも勝手にこしらえておりおり繰返しました。ヒースの香るすがすがしい空気や、輝やかしい日光や、ミニーの穏やかなだく[#「だく」に傍点]の足並などが、ほどなく少年の沈んだ気分を引き立てました。そしてだんだん興味をもって、活発に今度の家やその家族などについて質問しはじめました。
「ワザリング・ハイツはスラシクロス・グレンジのような|愉《ゆ》|快《かい》な場所なの?」と少年は谷間の方を|名《な》|残《ご》りおしげに振返りながら|尋《たず》ねました。そこから薄霧が立ち昇り、青空の|裾《すそ》に綿雲のようにたなびいていました。
「あそこはそれほど木の中に埋まっていませんし、広くもありませんが、まわりの景色を美しく見渡すことができます。それに空気がもっと新鮮で乾燥していて、あなたの健康のためにずっといいでしょう。たぶん最初は古くて暗い建物だと思うかも知れませんが、でもそれは立派な家で、この近所ではグレンジの次に指折られるのです。そしてそれはそれは気持のよい野外散歩ができますよ! へアトン・アンショー――キャシー嬢様のいとこであなたのいとこにもなるわけですが――あの子があなたに美しい所を残らず案内してくれるでしょう。お天気のいい時には本を持ち出して緑の|窪《くぼ》|地《ち》をあなたの書斎にすることもできます。そして時々は|伯《お》|父《じ》さんもあなたと一緒に散歩をなさるでしょう。伯父さんはよくあの丘の上にお出かけなさいますよ」
「そして僕のお父さんてどんな人?」と少年は尋ねて、「伯父さんのように若くてきれいな人?」
「同じくらいお若いですがね」と私は答えて、「でも髪も目も黒くて、きつそうに見え、それにたけも高くからだも大きいですよ。たぶん最初はあまり|優《やさ》しく親切とは思われないでしょう。そうしたたちの人ではありませんからね。でも、よござんすか、よくうちとけて素直になさるんですよ。そうすれば自然お父様も、どんな伯父さんよりかもあなたをかわいがるでしょう、自分の子ですもの」
「髪も目も黒いって――」と少年は考えこんで、「どうも想像ができない。それでは僕はお父さんと似ていないんだね?」
「あまり似ていません」と答えましたが、この少年の白い顔とほっそりしたからだと、大きな、ものうげな目とを暗い心で見やりながら、ちっとも似ていないと思いました。その目は母親のとそっくりでした。ただ、おりおり病的な敏感が一時それを輝やかせるほかには、母親のあの激しい気象の|面《おも》|影《かげ》はありませんでした。
「お父さんがママや僕に会いに一度も来なかったのは、なんて不思議なことだろう!」とつぶやいて、「お父さんは僕を見たことがあるの? あったとしても僕まだ赤ん坊だったに違いない。僕はお父さんのことを何一つ覚えていないんだもの!」
「おや、リントンさん」と私は言って、「三百マイルはたいした距離です。それに十年はあなたがたが感ずるほど、大人の人たちには長く感じられるものではありません。たぶんヒースクリフさんはいつも夏になると行くつもりでいて、都合のよいおりがなく、そして今となってはもう遅すぎたのです。そのことについてあまりうるさくお父様にたずねてはいけません。うるさがらせるだけで何のよいこともありますまいから」
それからはこの少年は何かしら一人で考えこんでいましたが、やがて農場の庭の門前で私たちは止りました。私は少年の顔色を読もうと見まもっていました。少年は彫刻してある玄関やひさしの低い|窓《まど》|格《ごう》|子《し》や、乱雑なグズベリの|藪《やぶ》や、ひねくれたモミの木立などをまじめに注意深く見まわして、それから頭を振りました。少年は内心でこの新しい住家の外観を全く嫌ったらしいのです。しかしまだ不平を言うのは後に|延《のば》すだけの|分《ふん》|別《べつ》がありました。家の内部が外観の貧弱を補うかも知れないと思ったのでしょう。少年が馬からおりぬうち、私は行ってドアをあけました。六時半でした。家族はちょうど朝飯を終えたところで、召使が食卓を片づけて|拭《ふ》いていました。ジョウゼフは主人の|椅《い》|子《す》のそばに立って、びっこの馬のことを何やら話していました。ヘアトンは牧草|乾《ほ》し場に出て行く|仕《し》|度《たく》をしていました。
「やあ、ネリー!」とヒースクリフさんは私を見て言いました。「私は出かけて行って、自分で私の子をつれて来なくてはなるまいと思っていた。お前がつれて来てくれたんだね。将来どんな者に仕上げることができるか、どれ一つみてみよう」
と言って立ち上り、|大《おお》|股《また》でドアの方に行きますと、ヘアトンもジョウゼフも好奇心で口をあんぐりあけてついてきました。かわいそうにリントンはおびえた視線を三人の顔に走らせました。
「全くだ」とジョウゼフはおもおもしく|検《けん》|閲《えつ》した後に言いました。「エドガー様は|旦《だん》|那《な》様と取りかえっこをしなさっただ。あれはエドガー様の娘っ子みたいだ」
ヒースクリフは|息《むす》|子《こ》を|見《み》|据《す》えてどぎまぎさせ、しまいにぶるぶる身ぶるいさせるまで見つめてから、いまいましそうに|嘲笑《ちょうしょう》しました。
「いやはや! なんて美男子だ! なんてきれいなかわいらしい子だ!」と感嘆して、「あいつらはその子をカタツムリや酸っぱいミルクで育てたのかね、ネリー。ああ、いまいましい! だがこいつはおれが思ってたより悪い――あまり楽観はしてなかったんだがな!」
私は震えてまごまごしている少年に、馬からおりて家にはいるように申しました。彼には父親の話の意味が十分わからず、また自分のことを言ったのかどうか見当もつかず、実際そのこわい、あざ笑っている人が、はたして父親なのか、はっきりしませんでした。そしてますますおびえて私にしがみつき、ヒースクリフがすわって「こっちに来い」と言っても、少年は私の肩に顔を隠して泣くのでした。
「チェッ!」とヒースクリフは片手をのばして少年を荒々しく|膝《ひざ》の間に引きよせ、子供の|顎《あご》を支えて頭を持ち上げました。「何も泣くことはないよ! われわれはお前をどうもしやしまいし、ね、リントン――お前の名前はそうだったな? お前は全く母親の子だ。私に似たところがどこにあるんだえ、泣虫さん」
父は子の帽子をぬがせ、厚い金髪を|撫《な》で上げ、細い腕と小さな指にさわりました。その間リントンは泣きやんで、大きな青い目を上げてその検査人を検査しました。
「お前は私を知っているかい?」とヒースクリフは、子供の手足がどこもみなひとしく弱々しいことを確かめた後に|尋《たず》ねました。
「いいえ」とリントンはぼんやりとした、恐怖のまなざしで見つめながら言いました。
「たぶんお前は私のことを聞いていたろうね?」
「いいえ」と子供はまた答えました。
「いいえだって? 父親の私に対する孝行の念をお前に起させないようにしつけたとは、なんてけしからん母親だろう! そんなら言って聞かすが、お前は私の|息《むす》|子《こ》だよ。お前がどんなお父さんを持っているかをお前に知らせずにおくなんて、お前のお母さんはよくないすべた[#「すべた」に傍点]だ。これ、びくびくしたり赤い顔をしたりしないでもいい。お前の血が白くないことを見せるのは悪くないけれどね。いい息子になるんだよ。そうすりゃお前のためになるようにしてあげるよ。ネリー、疲れたらすわって休んでおいで。そうでなかったらすぐ家に帰るがいい。たぶんお前は今聞いたり見たりしたことを、グレンジにいるあのバカに報告するだろう。お前がここにぐずぐずしていると、こいつはおちつくまいて」
「それでは」と私は答えて、「そのお子さんを大切にしてやって下さいよ、ヒースクリフさん。さもないと長いことはありますまい。それに広い世界であなたの身内はそのかた一人です。今後かけがえのないただ一人なのでございますよ――よござんすか」
「心配しないでもいい。私はその子をほんとうに大切してやるよ」と父親は笑いながら言って、「しかしただ外の者は誰もこの子を大切にしてはならない。私はこの子の愛情を独占したいんだ。そしてまず親切の手はじめに、ジョウゼフ、その子に何か朝飯を持っておいで。ヘアトンのとんま野郎め、仕事に出て行け。そうだよ、ネリー」と二人が出て行ったときヒースクリフは言いました、「私の息子はお前たちの屋敷の未来の所有主だ。そして私の息子が相続人とはっきり決まるまでは、私はこの子を死なせたくない。それに、この子は私のものだ。私の子孫があいつらの家屋敷の立派な持主になるのを見て私は勝ち誇りたいんだ。私の子供があいつらの子供たちを給金で雇って親たちが持っていた土地を耕させるところを見たいんだ。こんな奴でも我慢して引き取ってやることができるのは、ただそれを楽しみにしてのことさ。私はじたい[#「じたい」に傍点]こいつを|軽《けい》|蔑《べつ》するが、これがいろいろな昔の記憶を私に起させるのでなおさら気に食わないんだ! だがいま話した思案だけでも結構だ。お前の主人が自分の子供をいたわると同じように、私はこの子を大切にしていたわってやるよ。この子のためにきれいに家具をととのえた部屋を二階に用意させておいた。この子に好きなことを勉強させるために、二十マイル遠方から一週に三回来るように家庭教師も頼んである。ヘアトンにはこの子の言いつけをきくように申しわたしてある。これの身にそなわっているお上品な紳士らしい点を保って、この家の人たちに対して高く構えていられるように、万事手配りをしておいたんだ。だが残念なことには、こいつはさっぱりめんどうをみてやる値打ちがない。私がもしこの世に幸福を望むなら、それはこいつが誇るに足る奴であってくれることなんだがな。こんな青い|面《つら》した泣虫じゃてんでがっかりだよ!」
こう話しているところへ、ジョウゼフが、牛乳|粥《がゆ》を|鉢《はち》に盛って来て、それをリントンの前に置きました。少年はいやな顔をしていなかくさいごたごたした粥をかきまわしましたが、食べられないと申しました。私には、この|老《ろう》|僕《ぼく》もまた、主人と同様に、この少年を軽蔑していることがわかりました。ヒースクリフが召使どもに息子を尊敬するように申しわたしてありましたので、その軽蔑の念は胸の底に畳んでおかねばなりませんでしたけれど。
「食べられないとな?」と老僕は主人に聞えぬように小声で言って、リントンの顔をのぞきこみました。
「だがヘアトン様が小さかったおりには、いつもこればっかり召上ったものじゃ。あのかたに結構じゃったものは、あなたにもやはり結構なはずじゃがな!」
「僕は食べないよ」とリントンははき出すように言って、「それをあっちへ持っておいでよ」
ジョウゼフは|憤《ふん》|慨《がい》してその食物をひったくり、私たちの所へそれを持って来ました。
「このたべものに何か悪いところがありますかの?」とジョウゼフはお盆をヒースクリフの鼻先に突き出してたずねました。
「どうかしたのか?」と主人は言いました。
「さようじゃて!」とジョウゼフは答えて、「あのお上品な坊ちゃまはそれを食べられないと仰せじゃ。ごもっともじゃわい! この坊ちゃまの|母《はは》|御《ご》がちょうどこのとおりじゃった――あのかたのパンを作る麦をまくには、われわれはちっと汚なすぎるとでもお考えなのじゃった」
「その子の母親のことは私に言わないでおくれ」と主人は腹立たしそうに言って、「何かその子の食べられるものを持って来れば、それでいいじゃないか。そいつはいつもどんなものを食べてるんだい、ネリー!」
私が熱いミルクかお茶がいいと申しますと、それを用意するようにと召使は命じられました。私は心のうちに|独《ひと》り|言《ごと》しました――まあこれでよし、父親の利己主義のせいであの子は安楽に暮せるだろう。からだの弱いこともわかっているし、相当な|待《たい》|遇《ぐう》が必要なこともわかっている。帰ってから私はヒースクリフの|機《き》|嫌《げん》の向き方をエドガー様に知らせて安心させましょう。そう思って長居は無用とこの家をこっそりと去りました。リントンは人なつこい羊番犬のお愛想をこわごわはねつけていましたので、その|隙《すき》に乗じて出て来たのでした。しかしリントンはよく気を配っていたので、だまされませんでした。私がドアをしめたとき、叫び声が聞え、つづいて次の言葉が狂気のように繰返されるのを聞きました。
「おいて行っちゃいけない! 僕はここに泊らないよ!」
それから掛けがねが上げられて、またおろされました。あの子を外に出さなかったのです。私はミニーに乗って走らせました。こうして私の短いお守り役が終ったのでした。
二一
私たちはその日小さなキャシーに手こずりました。キャシーはその朝いとこに会おうと思って、大元気で起きましたが、行ってしまったと聞いてひどく泣き悲しみましたので、エドガー様さえあの子はじきに帰って来ると言って娘を|慰《なぐさ》めねばなりませんでした。ただしご主人は「もし連れて来られればだよ」とつけ加えましたが、とてもそんな望みはないのでした。この約束でキャシーはどうにか泣きやみました。しかし時はもっと力がありました。キャシーは時々いつリントンが帰って来るのかと父親に|尋《たず》ねましたが、二度とそのいとこと会わぬうちに次第に記憶はうすれて、顔も見忘れるくらいになってしまいました。
ギマトンに用事があって出かけるおり、私がワザリング・ハイツの女中に出会いますと、いつも坊っちゃまがどうしていなさるかをたずねました。あの子もキャサリン同様まるで家の中に閉じこもっていて、さっぱり姿を見かけないからです。女中の話では相変らず弱いからだで、|厄《やっ》|介《かい》|者《もの》になっている様子でした。ヒースクリフさんは幾分か隠そうと努めているらしいけれど、いつまでも、ますますあの子をいやがっているらしく、あの子の声に対してさえ反感を持っていて、同じ部屋に幾分間と一緒にいられないそうですし、話などもいっこうに交されないのだそうです。リントンは学課を勉強して、夜は家の者が居間と言っている小部屋で過し、そうでなければ、一日じゅう寝床に|就《つ》いていたりするとのことでした。あの子はいつも|咳《せき》をしたり、|風《か》|邪《ぜ》をひいたり、どこか痛かったり、何かしらしじゅうからだの故障があるのでした。
「私はあんな気の弱い人間を見たことがありません」と、その女中はつけ加えて言いました。「それにひどく用心深いのです。夕方少しでも遅くまで私が窓をあけておくと、あのは子すぐ騒ぎ立てるのです。おお! これじゃ死んじゃう、ですって! ちょっと夜気にあたると、もうそれなんですよ! そして真夏でも火をおこしておかなくてはなりません。ジョウゼフのたばこのパイプは毒だそうです。そしていつでもお菓子やおいしいものを食べなくては承知しないし、いつでも牛乳牛乳とばかりで――私たちが冬にどれほど冷たい思いをしようが、てんで気にかけやしません。自分はいつも毛皮のマントにくるまって炉ばたの|椅《い》|子《す》にすわり、炉の|脇《わき》|棚《だな》の上にはトーストやら水やそのほかの飲物などを置いておきます。たまたまヘアトンがかわいそうに思って|慰《なぐさ》めに来ます。ヘアトンは乱暴だけれど性質は悪くありませんね。するとこの二人は、一方はののしり一方は泣いて、必ず別れてしまいます。ご主人はあれが自分の子供でなかったなら、ミイラになるほどヘアトンに|鞭《むち》でなぐりつけさせて喜ぶでしょう。あの子が自分でどんな|養生《ようじょう》をしているかが半分でも父親に知れたら、あの家から追い出されるに相違ないと私は思います。けれどもご主人はそんなことにならないように、けっして子供の居間にははいって来ません。そしてもしリントンが父の居間にやって来ますと、ご主人はすぐさま子供を二階に追い立てるのです」
この話から察してみますと、若いリントン・ヒースクリフは、生れつきそうでないにせよ、周囲の同情が全然ないので、利己的な不快な子になったものと思われます。したがって私のあの子に対する興味も薄れました。でもやはりあの子の運命を悲しく思い、私たちと一緒にいられたならと思うこともありました。エドガー様は私によくあの子の|噂《うわさ》を聞いてくるようにと言いました。ずいぶんとあの子のことをご心配なすって、少々いやな目に会っても会おうとしておられたようでした。そして私に命じて、あの子が村にやって来るかどうかをあの家の女中に尋ねさせたこともありました。女中の話では、あの子は父親と一緒に馬に乗って二度だけ村に出たことがあるそうですが、二度ともその後三、四日は疲れてへとへとのようだったそうです。その女中はあの子が来てからたしか二年後に暇をとったと私は記憶しています。そして私の知らない人がその後に来て、今でもあそこにおります。
グレンジでは元のように楽しく月日が過ぎて、キャシーは十六になりました。その誕生日にも私たちはいっこうお祝いもいたしませんでした。それはなくなった奥様の命日でもあったからです。ご主人はいつもその日は一人で書斎にこもり、夕方になるとギマトンの教会の墓地まで出かけ、真夜中すぎまでそこにおられることもありました。それゆえキャシーは勝手に自分で遊ぶように放任されました。この年の三月二十日はのどかな春日でしたが、ご主人が書斎に引っ込みますと、お嬢様はよそ行きの服装で二階から下りて来て、野原のはずれまで一緒に出かけようと私に言いました。あまり遠方に行かずに一時間以内に帰ってくるなら行ってもよろしいと、お父様がお許しなさったそうです。
「だからさあ、早くおしよ、エレン!」とお嬢様は大声で言いました。「私行きたいところがあるの。|雷鳥《らいちょう》の群れがいるところよ。もう巣を作ったかしら、私行ってみたいわ」
「それはかなり遠方でございますよ、あの鳥はこの近くの野原に巣を作ったりしませんよ」と私は答えました。
「いいえ、そんなことないわ。私、お父様と一緒にそのすぐそばまで行ったことがあってよ」とお嬢様は言いました。
私はもうその事を考えずに、ボンネットをかぶって出かけました。キャシーは私の先にとんで行き、それから私のそばに|戻《もど》り、小犬のようにまた走って行くのでした。最初はあちこちで歌うヒバリに耳をかたむけたり、|朗《ほが》らかな暖かい日光を浴びて、私はたいそう|愉《ゆ》|快《かい》でした。なお|嬉《うれ》しいことは、私のかわいい大好きなキャシーが金髪の巻毛を豊かに後になびかせ、野バラの花のようなやわらかい清らかな明るい|頬《ほお》をして、曇りない喜びで目を輝かしているのを見ることでした。キャシーはそのころ楽しい天使のような小娘でした。それでまだ満足できなかったのは残念でした。
「ねえ、その雷鳥はどこにいますの。もう見つけなくてはなりません。グレンジの|猟苑《りょうえん》の|垣《かき》|根《ね》はもうとっくに通り越してしまいましたよ」と私は申しました。
「ええ、もうちょっとよ、すぐその先なの」と言うのがいつもキャシーの答えでした。「あの小山に登って、あの土手を越えて、お前が向う側につくまでに鳥をとび立たせるわよ」
しかし登ったり越えたりする小山や土手は幾つも幾つもありましたので、とうとう私はくたびれて来て、もうやめて戻らなくてはならないと申しました。キャシーは私をずっと追い越していたので私は声を上げて叫びました。けれども聞えないのか聞かないのか、キャシーはずんずん|跳《と》んで行きますので、私はどうでもついて行かなくてはならないのでした。しまいにキャシーは|窪《くぼ》|地《ち》に潜りこむように消えました。そして私が|二《ふた》|度《たび》その姿を見つけたときは、自分の家よりもワザリング・ハイツの方にかえって二マイル近いところに来ていました。そこで二人の人がキャシーを止めていましたが、その一人はヒースクリフさん自身のように見えました。
キャシーは雷鳥の巣を|略奪《りゃくだつ》――少なくとも狩り出している現場を見つかったのでした。ハイツはヒースクリフの所有地でしたから、あの人は密猟者をとがめているのでした。
「私はまだ一つも取らないし一つも見つけないのよ」とキャシーは、私が骨折ってそこまでやっと着いたとき、両手を|拡《ひろ》げたりせばめたりしながら話していました。「私は取るつもりではなかったの。ただこの鳥の卵がたくさんたくさんあるとパパから聞いたので、それを見たいと思っただけだわ」
ヒースクリフはその相手を知っていることを示すように、したがってその相手に悪意を見せるように、意地悪い微笑を浮ベて私を見ながら、「パパ」とは誰かとキャシーに|尋《たず》ねました。
「スラシクロス・グレンジのリントンです」とキャシーは答えて「あなたは私を知らないのね。でなけりゃそんな物の言いようはなさらないはずだわ」
「そんならあなたのパパは大変にえらいかただと思っていなさるのですかね」と冷やかすように相手はたずねました。
「そしてあなたはどういうおかたですの?」とキャサリンは好奇心で相手を見つめながら尋ねました。「その人は前にあったことがありますよ。あなたのお子様ですね?」
キャシーはもう一人の方、ヘアトンをさしていました。この青年はその後二年|経《た》ってもただ大きく強くなっただけで、相変らず|不《ぶ》|作《さ》|法《ほう》で粗暴でした。
「キャシー嬢様」と私は言葉をさしはさんで、「私たちが出てから一時間どころか、もうかれこれ三時間になります。ほんとうに帰らなくてはなりませんよ」
「いいや、これは私の子ではない」とヒースクリフは私にかまわずに答えて、「しかし私にも子供が一人おりますよ。あなたはお会いなすったことがある。ばあやは急いでいるようだが、あなたもばあやも少し休んだ方がいいと思う。ちょっとそのヒースの丘のてっぺんを|廻《まわ》って私の家にいらっしゃいませんか? 疲れを休めれば楽になるから、かえって早くお家に帰られましょう。ほんとうに歓迎しますよ」
私はキャサリンにどうあってもその申し出に同意してはならない、それは全く問題にならないということをささやきました。
「なぜ?」とキャシーは聞えるほどの声で尋ねました。「私走りくたびれたわ。それに草原は露でしめっているし――ここにすわれないし、エレン、行きましょうよ。それにこの人は私が|息《むす》|子《こ》さんを見たことがあると言ったけれど、たぶん感ちがいでしょう。でも私はこのかたの住んでいらっしゃる所がわかってよ。ほら、ペニストンの岩から帰り|途《みち》によった農家よ。そうでしょう?」
「そうですよ。これネリー、よけいなことを言わないことだよ――立ち寄って私のうちのものに会うとお嬢さんは喜ぶだろうよ。ヘアトン、そのお嬢さんを連れて先に行っとれ。ネリー、お前は私と一緒に歩こう」
「いいえ、お嬢様そんなところに行くもんじゃありませんよ」と私はヒースクリフがつかんだ私の腕をふりはなそうともがきながら叫びましたが、お嬢様は全速力で岡の|端《はし》を|廻《まわ》って走って行って、もう戸口の敷石のところに着いていました。一緒に行けと命じられたヘアトンはキャシーにつきそって行こうとせずに、恥ずかしそうに道ばたに寄って、姿が見えなくなりました。
「ヒースクリフさん、これはあんまりです」と私は言葉をつづけて、「あなたにもいけないことがおわかりなはずです。お嬢さんはリントンとお会いなさるでしょう。そして私たちが家に帰りつくなりさっそく何事もご主人にわかり、私はお|叱《しか》りをこうむるでしょう」
「私はあの子をリントンに会わせてやりたいんだ」とあの人は答えて、「息子はここ数日やや健康らしく見える、人に会えるほど気分のいいことはあいつにはあまりないんだ。それにあの娘にはここに来たことを黙っているように|納《なっ》|得《とく》させてやろうよ――どこがいけないんだ?」
「いけないことは、私がお嬢様をあなたの家に立ち寄らせたことがわかると、ご主人は私をお憎みなさることです。そしてお嬢様をそそのかして呼ぶのは、あなたに何かいけない|企《たくら》みがあると私はにらんでいます」と私は答えました。
「私の企みというのは|至《し》|極《ごく》正直のものさ。私のもくろみ[#「もくろみ」に傍点]を残らず打明けようか」とあの人は言いますには、「あのいとこ同士が恋し合って結婚するようにするんだ。私はお前の主人に対して気前よくしているんだよ。あの小娘は何の財産を相続する見込みもないんだが、私の希望に添うようにしてくれれば、私のリントンと共有の財産相続人にしてやろうと思うんだ」
「もしリントンがなくなったら、何しろいつとも知れぬお弱いおからだですからね、そしたらキャサリンは相続人でしょう」
「いいや、そうじゃない」とあの人が言うには、「先代リントンの遺言書にはそういう条項はないんだ。あいつの財産は私に来るはずだ。だが前もって争いを防ぐためにあの二人を一緒にさせたい。私はそう決めたんだよ」
「私は二度と再びあなたの家にお嬢様のお供をしないことにきめましたよ」と私は門口に着いたときに言い返しました。そこにはキャシー嬢様が私たちの来るのを待っていました。
ヒースクリフは私に黙るように命じました。そして私たちの先に立って小道を登り、急いで戸をあけました。お嬢様はヒースクリフをどう思ったらよかろうかと、たびたびその顔を見上げていました。しかし今ヒースクリフはキャシーを見てほほえみ、話しかける声も軟らかでした。それで私は、キャシーの母親の思い出がこの人の心を軟らげて、キャシーにとって不利なことをやめさせたのかも知れないと思ったのでしたが、それはいかにも愚かなことでした。リントンは炉ばたに立っていました。帽子をかぶっていましたから、今まで農園を歩いていたのでしょう。そしてジョウゼフに乾いた|靴《くつ》をもって来いと言いつけていました。まだ満十六には幾月か足りないのですが、年にしては|丈《たけ》が高くなっていました。顔は相変らずきれいで、目と顔色とは以前よりも明るくなっていました。しかしそれは健康によい空気と暖かい日光とから受けた一時の輝きかも知れません。
「さあ、あれは誰かね?」とヒースクリフはキャシーの方を向いて、「ご存じですか?」
「あなたのお子さん?」とキャシーは二人を見くらべながら、疑わしそうに言いました。
「そうですよ。だがあなたはこの子に初めてお会いなのですか? あなたは忘れっぽいおかたですね、考えてご覧なさい。リントン、お前はあんなに会いたがって私たちをせびっていたお前のいとこを覚えているかい?」
「なんですって、リントンですって!」とキャシーはその名を聞いて急に喜び驚いて、「あれがあの小さなリントンですの? 今じゃ私より丈が高いのね! あなたがリントンなの?」
少年は前へ進んで来て、そうだと言いました。キャシーは熱烈に昔の友達にキスしました。年月のたつうちに互いに見違えるほど変った様子を、二人は驚きながら見つめていました。キャサリンは十分丈が伸びて、その姿は豊かでしかもすらりとして、まるで|鋼《はがね》のように弾力があり、全体の様子は健康と元気とで輝いていました。リントンの|容《よう》|貌《ぼう》や動作はとてもけだるそうで、その姿はひどく|痩《や》せていました。が、その態度にはそれらの欠点をおぎなうような上品さがあって、不快な感じはありませんでした。いろいろと|優《やさ》しい言葉を交した後に、キャシーはヒースクリフのそばに行きました。あの人は戸口にたたずみながら戸の内と外とに注意をくばっていました。戸の外のものを見るふりをして、その実は戸の内のものだけを見ていたのでした。
「それじゃあなたは私の|叔《お》|父《じ》さんですのね!」と伸び上りながら、「あなたは最初意地わるそうでしたが、私はあなたが好きになってきました。なぜリントンをつれてグレンジにいらっしゃらないのですか? ずっとこんな近所におりながら、ちっとも私たちに会わないなんて変ですわ。なんだってそんなことをなさるの?」
「あすこへあなたが生れる前に一、二度よけいに訪ねすぎたんですよ」とあの人は答えて、「これこれ、私にキスなんかおよしよ。したけりゃいくらでもリントンにしておやり。私には|無《む》|駄《だ》なことだ」
「わからずやのエレン!」とキャシーは持てあました|抱《ほう》|擁《よう》をその次に私に向けて言いました。「意地わるなエレン! ここに来るのをとめるなんて! 私は今度から毎朝ここに散歩に来ましょう、ねえ、いいでしよう、叔父さん。そして時にはパパをつれて来るわ。いいでしょう?」
「むろんいいですとも!」と実はその両人に対する深い反感から起る|渋《しぶ》い顔をやっとおさえて答えました。「だがお待ち」とお嬢様の方を向いて言葉をつづけ、「いま気がついたから、話しておいた方がよかろう。リントンさんは私に偏見をいだいていらっしゃる。私たちはキリスト教徒らしくないひどいけんかをひと|頃《ころ》やったことがあるんだ。それであなたがここに来るなんてお父様にお話しなさると、もう二度と行ってはならぬときびしくとめられますよ。それであなたが今後いとこに会わなくてもいいと言うのでなければ、お父様に話してはいけません。ここへ来るなら来てもいいが、それをしゃべってはいけませんよ」
「なぜあなたがたはけんかをなすったの?」とキャサリンはかなりがっかりしてたずねました。
「あなたのお父様は私が妹さんと結婚するにはあんまり貧乏すぎるとお考えになったんだね」とヒースクリフは答えて、「それで私があなたの|叔《お》|母《ば》様と結婚したので、お父様は残念がったのです――つまり自尊心を傷つけられたのですね。そして一生それをゆるさないでしょう」
「それはいけないわ!」とお嬢様は言って、「私いつかお父様にそう申しましょう。だけどリントンと私とは父親同士の争いに何の関係もありません。そんなら私はここに来ませんから、リントンをグレンジに来るようにして下さい」
「あすこは僕には遠すぎるよ」とキャシーのいとこはつぶやいて、「四マイルも歩いちゃ死んじまう。だめだよ。キャサリンさん、あなたの方でここへ来て下さい、時々でいい。毎朝でなくとも一週に一度か二度くらいね」
父は子に苦々しい|軽《けい》|蔑《べつ》の視線を投じました。
「ネリーや、私は骨折損をするのかな」とヒースクリフは私につぶやいて、「この弱虫野郎が『キャサリンさん』だとさ。そのキャサリンさんは、あいつの|意《い》|気《く》|地《じ》なさを見抜いて悪魔に渡してしまうだろうよ。これがヘアトンであったらな! ヘアトンは身分こそ落ちても、私はあいつを一日に二十回も|羨《うらや》むんだよ。あいつがヒンドリめの息子でさえなかったら、私はかわいがっただろうに。だがあいつは大丈夫あの娘の気に入りっこはないと思う。しかしこの弱虫めがぐずぐずしていると、あいつに競争させてやるぞ。この弱虫めは十八まで生きるかどうかあぶないものだ。ああ、いまいましい|腑《ふ》|抜《ぬ》け野郎め! あいつは自分の足を乾かすことにばかり気をとられて、さっばり娘の方を見ない。おい、リントン!」
「はい、お父さん」と少年は答えました。
「何かその辺にお前のいとこに見せてあげるものがないのか? |兎《うさぎ》やイタチの巣でも見せてあげたらどうだい? お前が|靴《くつ》を替える前に庭の方に案内して、それから|厩《うまや》に行って馬を見せておあげよ」
「あなたはここにおすわりになる方がよくない?」とリントンは再び動くのが|億《おっ》|劫《くう》だというような口調でキャシーに言いました。
「さあどうでしょうかしら」とキャシーはドアの方を出て行きたそうに|眺《なが》めて、動きたい気持を明らかに示していました。
少年の方はすわったまま|煖《だん》|炉《ろ》に近寄ってちぢこまりました。ヒースクリフは立ち上り、台所の方へ行って、そこからヘアトンを呼びながら庭へ出ました。ヘアトンは返事して、まもなく二人はまたはいって来ました。この若者は顔を洗っていたのに相違ありません。なぜなら|頬《ほお》がぴかぴかして髪の毛が|濡《ぬ》れていましたから。
「ねえ、|叔《お》|父《じ》さんにお|尋《たず》ねしますが、そのかたは私のいとこではありませんね?」とキャシーは女中のいつかの言葉を思い出してたずねました。
「いとこですよ、あなたのお母様の|甥《おい》です。お嫌いですか?」とヒースクリフ。
キャサリンは変な顔つきでした。
「立派な若者じゃありませんか?」とヒースクリフは言葉を続けました。
失礼な小娘は|爪《つま》|立《だ》ちして何やらヒースクリフの耳にささやきました。ヒースクリフは笑い、ヘアトンは顔を曇らせました。この若者は自分が|軽《けい》|蔑《べつ》されているらしい事実に対してきわめて敏感でしたから、ぼんやりと自分が他人に劣っていることを|覚《さと》っているらしいのでした。しかしその主人、いや|後《こう》|見《けん》|人《にん》は、次のように言ってその曇りを追いやってくれました。
「ヘアトン、お前は人気者だよ! このお嬢さんはお前を――何でしたっけ? とにかくばかにほめたよ。さあ、お嬢さんと一緒に農場をまわっておいで。紳士らしくするんだよ、いいね。悪い言葉を使っちゃいけない。お嬢さんがお前を見ないときにこっちからじろじろ見てはいけない。そしてお嬢さんがお前を見てるときには、自分の顔をかくすようにするんだ。そしてお前が何か話をするときは、ゆっくり言って、ポケットから手を出しておけよ。さあ行って、できるだけ立派におもてなしするんだよ」
ヒースクリフは若い二人が窓の下を過ぎて歩いて行くのを|眺《なが》めていました。ヘアトンは顔を全く相手からそむけていました。まるで旅行者か画家みたいな様子で、いつも見なれている景色を眺めていました。キャシーはそれをそっと見て、ちょっと感服の表情を示しました。それから注意を転じて自分のおもしろそうなものをあちこちと眺め、歌をうたって話の欠乏を補いながら、|愉《ゆ》|快《かい》そうに歩いて行きました。
「私はあれの舌を封じたんだ。しじゅう黙り通しでひと言も物を言えまいて!」とヒースクリフは言って、「ネリー、お前は私があれの年ぐらいの|頃《ころ》をおぼえているね。いやもう少し若かったね。私もあんなに愚鈍そうに見えたかい? ジョウゼフがよく『どんつく』と言ったっけが」
「もっと悪かったですよ。あなたはおまけにもっと|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》でしたからね」と私は答えました。
「私はあれに楽しみを持っているんだ」とヒースクリフは心の反省を言葉にして言い続けました。「あれは私の期待を満足させた。もしあれが生れつきばかであったら、私は半分もおもしろく思わないだろうに。だがあれは愚鈍じゃない。私はあれのすべての感情を自分で感じたおぼえがあるので全く同情できる。たとえばあれがいま何を悩んでいるか私にははっきりわかる。しかしそれはこれからあれが悩むことのほんの初歩なんだ。今夜あれは粗野と無知との|零《れい》|落《らく》状態から浮び出ることができまい。私はあれの父親の悪党が私をつかまえていたよりもずっとしっかりあれをつかまえている。しかもあれをもっと|賤《いや》しくしている。あれは自分の野蛮を得意がっているからだ。私はあれに何でも少し文化的なことをくだらん|惰弱《だじゃく》なこととして|軽《けい》|蔑《べつ》させている。ヒンドリがもし生きていて自分の息子を見たら、私が自分の息子を鼻にかける程度にでもあいつはあれの息子を鼻にかけるだろうか! だが二人の子供には差がある。一方は敷石にされている黄金だが、私の子は銀の役目をまねている|錫《すず》なんだ。私の息子はてんで無価値な奴だが、あんなくだらぬ素質ながら行けるところまで行かしてやろう。あいつの息子はごく上等の素質を持っているが、|埋《うずも》れて役に立たないどころか、もっと悪くされたのだ。私は何の悔いることもない。だがあいつは私以外の人々にはわからないほど残念がるだろう。それに何よりなのはヘアトンがむやみに私を好いていることさ! その点で私はヒンドリを負かしたとお前も認めるだろう。もしもあの死んだ悪党めが墓から迷い出て、あいつの子供にひどい仕打ちを与えたと私をののしったにしても、あの子はこの世界でたった一人の味方を親父がののしるのを|憤《ふん》|慨《がい》して、かえって親父に手むかって墓場に追いかえすぜ、きっとそんなおもしろいことになるぜ!」ヒースクリフはそう言って悪魔のように笑いました。私は何も答えませんでした。相手が私の答を待ち設けていなかったことを知っていたからです。やがて私たちの話が聞えないほど離れてすわっていたリントンは、不安の様子を示しはじめました。少しぐらいの疲労を恐れて、キャサリンの話相手になる楽しみを自分からなくしたことを後悔しているのでしょう。その目がそわそわと窓の方を|眺《なが》め、その手がぐずぐずと帽子の方にのびるのを見て、
「さあ立て、このなまけ坊や!」と、父親はさも親身らしそうに呼びかけました。「あの二人の後を追いかけな! まだあのかどの、|蜜《みつ》|蜂《ばち》の巣箱の台のところまでしか行っていないよ」
リントンは元気を出して炉ばたを離れました。|窓《まど》|格《ごう》|子《し》が開いていましたので、その子が出て行ったとき、キャシーが無愛想な案内役にドアの上の方に彫ってある字は何ですとたずねる声が聞えました。ヘアトンはじっと上を見ていましたが、全くの無教育者のように頭をかきました。
「なんだかくそいまいましいことが書いてあるんだ。おれには読めねえ」と若者は答えました。
「読めないんですって?」とキャサリンは叫んで、「私、読めるわ。英語ですもの。でもなぜあれがあすこにあるのか知りたいのよ」
リントンはくすくす笑いました。これがおもしろそうな表情をした最初でした。
「その人は字を知らないんですよ」とリントンはいとこに言って、「こんな巨大なる愚人があると思われますか!」
「それで一人前なの?」とキャシーはまじめにたずねて「それともこの人は鈍くてあたりまえでないんですの? 今私は二度ものをたずねたのですが、二度ともぼんやりしていて私の言うことがわからないらしいの。私にはどうもこの人の言うことがよくわからないわ!」
リントンはまた笑ってあざけるようにヘアトンを見ました。ヘアトンはその時にはよくわけがわからないようでした。
「なまけただけのことです。そうだろうアンショー」とリントンは言って、「僕のいとこは君を低能だと思っているんだよ。君がいつも『学問』をばかにしている報いさ。キャサリン、あなたはこの人の恐ろしいヨークシアなまりにお気づきでしたか?」
「なんだ学問なんかこん畜生、どこに用があるんだ!」とヘアトンは毎日の仲間に対してはすらすらと言ってのけました。そのことを何かもっと言おうとしましたが、ほかの二人がどっと笑い出してしまいました。軽はずみなお嬢様は、この変な話しぶりを笑い草にすることができておもしろがったのでした。
「その言葉にこん畜生なんて、入れる必要がどこにあるんだ!」とリントンはくすくす笑って、「お父さんは君に悪い言葉を使うなって言ったのに、君は口を開けばきっと何か一つ悪い言葉をつかうね。紳士らしくしたらどうなんだ!」
「もしお前が男よりは女と言った方がいいような奴でなかったら、今すぐにお前をなぐり倒してやるんだがな。この貧弱な|木摺《ラ ー ス》みたいなやせっぽ野郎!」とこのやぼな若者は|憤《ふん》|慨《がい》して退却しましたが、その顔は怒りと|口《く》|惜《や》しさとでまっ|赤《か》でした。|侮辱《ぶじょく》されたことはわかっても、どう言ってそれを怒ったらよいかわからないので当惑したのでした。
ヒースクリフさんは私と同様にこの会話を聞いていましたが、若者が去ったのを見て微笑しました。ですがそのすぐ後で、軽薄な二人に一種のいやらしいと言ったような目つきをなげました。二人は戸口のところでまだおしゃべりしていたのです。青年はヘアトンの欠点を言い立てたり、その奇妙の振舞いを話して、元気になっていましたし、また少女の方ではリントンの生意気な意地わるな|蔭《かげ》|口《ぐち》を、べつだんその表わす陰険な性質など考えずに、ただおもしろがっていました。私はリントンに対して同情よりはむしろ|嫌《けん》|悪《お》の念を起し、その父親が息子を安っぽく考えていることを幾分ゆるす気になりました。
私たちは午後までそこにいました。それまではキャシー嬢様が帰ろうとしなかったのです。しかし帰ったときにご主人はまだ部屋から出ていらっしゃらず、したがって私たちの長い不在をご存じありませんでした。家に帰る途中で、私は今訪問して来た家の人々の性質などをお嬢様に教えておきたかったので、話してあげたのですが、キャシーは私があすこの人々に対して偏見を持っていると思い込んでいました。
「おや!」とキャシーは言って、「エレン、お前はお父さんの肩を持っているのね。それは不公平よ。そうでなければリントンがここから大変遠いところにいるなどと言って、私を何年もだますはずがないわ。私ほんとうはとても怒ってるのよ。でも今はうれしいので、怒ってみせることができないのよ! |叔《お》|父《じ》さんのことをかれこれ言わないでちょうだい。あれは私の[#「私の」に傍点]叔父さんですからね。あの方とけんかするなんて、私お父さまを|叱《しか》ってあげるわ」
そんな調子でしゃべり続けますので、私はキャシーの間違いを|納《なっ》|得《とく》させる努力をやめました。その晩はお父様に会わなかったので黙っていました。翌日になるとその訪問のことがすっかり露見して私はくやしく思いましたが、ぜんぜんすまなく思ったわけでもないので。なぜなら今後キャシーを指図したり警戒したりする責任は、私よりもご主人がお引き受けになればいっそう効果があろうと思ったからです。しかしご主人はあまり気が小さくて、娘をハイツの人たちと交際させたくないことの十分な理由を話しませんので、キャサリンの方では、自分のわがままな意志を|妨《さまた》げるあらゆる|束《そく》|縛《ばく》に対して、十分納得の行く理由を聞きたがるのでした。
「お父さん!」と朝のあいさつの後にキャシーは呼びかけて、「きのう野原を散歩して私が誰に会ったかおわかりになって? まあ、お父さんったらびっくりしてるわ! お父さんがよくなかったのね、そうでしょう? わかってよ。でもお聞きなさい。どうして私にわかってしまったか話してあげましょう。エレンまでお父様の味方のくせに、私がリントンに会いたがったり、またリントンが来ないのでがっかりしたりすると、いつも私に同情するふりをしていたんですわ!」
キャシーは昨日の遠足とその結果とを事実どおり話しましたので、ご主人は一度ならず私の方に非難の目を向けましたが、キャシーの話の終るまで何もおっしゃいませんでした。それからキャシーを|側《そば》に引きよせて、ご主人は、なぜリントンがこの近所にいることを隠していたのか知っているかと娘にたずねました。それは害もない楽しみを禁じるためであろうか?
「それはお父様がヒースクリフさんを嫌っておいでだからです」と娘は答えました。
「そんならキャシー、お前はお父さんが自分の感情をお前のよりも大事にすると思うんだね? いや、それは私がヒースクリフさんを嫌うからではなくて、ヒースクリフさんが私を嫌っているからだ。あの人は自分の嫌いな人たちを、すこしでも機会があればあだして、破滅させて喜ぶ悪魔的な人だからね。あの人と交際せずにはお前がリントンと交際をつづけられないことを私は知っていたし、あの人は私のためにお前をひどく嫌うことも知っていたので、ただお前のために私は用心してリントンに二度と会わせないようにしたのだよ。お前が大きくなったらいつかこのことを説明しようと思っていたのだが、今まで延ばしておいたのがいけなかった!」
「でもヒースクリフさんはほんとうに飾り気のない親切なおかたよ」とキャサリンは父の言葉を少しも信ぜぬように言って、「そしてあの人は私たちが互いに会うことに反対しませんでした。好きな時にいつでも来るがいいと言いました。ただお父さんがあの人といさかいをして、あの人とイザベラ|叔《お》|母《ば》さんと結婚するのをお許しにならなかったので、私があすこに行くことをお父さんに話してはいけないと言っていました。そしてお父さんはまだあの人をゆるしてあげないんでしょう。お父さんがいけないのよ。少なくともあの人は私とリントンとを友達にしようとしているのに、お父さんはそうして下さらないのですもの」
ご主人はキャシーが義理の叔父の悪い性質をこれだけではとても信じないとさとって、あの人がイザベラに対する仕打ちや、ワザリング・ハイツがあの人の所有となった始末を大体話して聞かせました。ご主人はこの話題をあまり長くつづけるに耐えませんでした。なぜなればあまり口に出しませんでしたが、リントン夫人の死後いつもあの旧敵を恐れ|忌《い》む心を抱いていたのでした。
「彼がいなかったら妻はまだ生きていただろうに!」というのがご主人のいつもの|愚《ぐ》|痴《ち》でした。そしてその目にはヒースクリフが人殺しのように見えるのでした。キャシー嬢さんは激しい気性と無思慮から起るちょっとした不従順や不正や|癇癪《かんしゃく》などを自分でやると、その日のうちに自分の悪かったことを後悔するのでしたが、それ以外には何も世の中の悪事を知りませんでしたので、長年の間胸に|復讐《ふくしゅう》を隠して思いつづけ、良心に何の裁きも受けずにその計画をおちついてなしとげることのできる人の腹黒さに驚いてしまいました。今までの自分のあらゆる学問や考えではうかがいしれなかったこの人間性の新しい見方を知って、キャシーはひどく驚き、深く心に印象された様子でしたので、エドガー様はもはやこの問題をつづける必要がないと思いましたが、ただこうつけ加えました――
「私があの人の家にお前を近づけたくなかったわけが、今度はよくおわかりだろうね。さあ、今までのとおりに仕事や遊びをして、あの人たちのことはもう二度と考えるんじゃないよ!」
キャサリンは父親にキスして、いつものとおり二時間ほど静かに課業を勉強しました。それから父親と一緒に屋敷の庭に出て、一日は常のごとく過ぎました。しかし夜に寝室に退いたのち私が着換えの世話に行ってみますと、キャシーは寝台のそばに|膝《ひざ》をついて泣いていました。
「まあ何です!」と私は呼びかけて、「あなたに何かほんとうの悲しみがあったら、こんな小さな|衝突《しょうとつ》でむだな涙を流すなんて恥ずかしく思うでしょうよ、キャサリンさん、あなたにはほんとうの悲しみなんて影もないのです。かりにお父様も私も死んで、あなたがこの世に一人ぼっちで取り残されたとしたらどうお思いになって? そのような不幸と今の場合とをくらべてお父様や私のいることを神様に感謝なさい。もっと友達がほしいなどと欲ばるんじゃありません」
「私は自分のために泣いているんじゃないわ、エレン。あの人のためなのよ。あの人は明日また私に会えると思っているのよ。それでもって、きっとひどく失望するでしょう。私を待っているのに、私は行かないんですもの!」
「ばからしい」と私は言って、「あなたがあの人を思っているほどあの人の方でもあなたを思っているものとお思いですか? あの人にはヘアトンと言う友達があるじゃありませんか?たった二度、それも午後からだけ二度会ったばかりの親類が見えないからとて、泣く人なんか百人に一人だってありゃしません。リントンは事のありようを推測して、それ以上はくよくよしますまい」
「でも私は行けないわけをあの人に書いてやってはいけないかしら?」キャシーは立ち上ってたずねました。「そして貸してあげると約束した本を送ってあげてはどうかしら? あのかたの本は私が持っているのほどおもしろくはないのよ。それで私の本がどんなにおもしろいか話したら、ぜひ見せてくれと言ったのねえ。エレン、いけないかしら?」
「いけませんとも!」と私はきっぱりと答えて、「そしたらあの人もあなたに手紙をよこすでしょう。そしてきりがありますまい。いいえ、お嬢様、交際は全然やめなくてはなりません。お父様がそうなさりたいのです。そして私もそのように気をつけます」
「でも短い手紙一つぐらい――」と嘆願するような顔つきをしてまた言い出しました。
「およしなさい!」と私はさえぎって、「短い手紙のことなんてもう二度と言いっこなしにしましょう。おやすみなさい」
キャシーは私にひどくおてんばらしい顔つきを見せ、それがあんまりひどいので私は最初お休みのキスをしてやるまいと思い、ひどく|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に夜具をかけてドアを閉じましたが、途中で思い返して静かに|戻《もど》って行きましたら、まあお嬢様は紙を前において鉛筆を持ってテーブルの所に立っているじゃありませんか! そして私がまたはいって来たのを見て、紙や鉛筆をこそこそ隠すのです。
「キャサリン、たとえあなたがそれを書いても、誰も持って行ってくれる人はありませんから、今はロウソクを消しておきましょう」
私は|焔《ほのお》に|蓋《ふた》をしますと、キャシーは私の手を平手で打って、|癇癪《かんしゃく》を起して「意地わる!」と言いました。私が部屋を出ますと、キャシーは非常に腹を立てて戸に|閂《かんぬき》をおろしました。その手紙はとうとう書きあげられて、村から来た牛乳配達の手を通して|宛《あて》|名《な》の人にとどけられました。そのことは後になって私が知ったのです。幾週間か過ぎてキャシーは機嫌を直しました。しかし一人でこっそりと|片《かた》|隅《すみ》に行くことがひどく好きになりました。おりおり私はキャシーの読書中に突然そばに行ってみますと、キャシーはいつもはっとして本の上にかがみ、何かを隠そうとするのでしたが、紙片の|端《はし》っこがページの外につき出ているのを私は見つけてしまいました。また何かたくらんで、朝早く起きて台所の辺をぶらぶらして、何か待っているようなこともありました。書斎のたんすの小さな引出しを占有して、キャシーはそれをのぞきこんで幾時間も何やらやっていることもあり、そこの|鍵《かぎ》を特に注意して自分で持って行くのでした。
ある日キャシーがこの引出しをのぞいているとき、私は今までそこにはいっていた遊び道具や小間物などがなくなって、その代りにたたんだ紙片がはいっているのを見つけました。私は好奇心と疑いとを起して、その秘蔵の品をのぞこうと決心し、夜キャシーとご主人とがめいめい寝室に行って大丈夫になったとき、私はこの家の鍵たばの中からその引出しに合うのを見つけてそれを開き、中のものをそっくりエプロンにあけて、私の部屋でゆっくりそれを調べようと持って来ました。もちろん感づいてはいたのですが、それがリントン・ヒースクリフからのおびただしい数の手紙でしたのでさすがに驚きました。ほとんど毎日来たのに相違ないのです。キャシーから出した手紙の返事でしょう。始めの|頃《ころ》のは筆の|淀《よど》んだ短いものでしたが、だんだん長い恋文になって、書いたものは年齢相応のばかげたものながら、所々にもっと経験に富んだ人から教わったような筆つきがありました。中には非常な熱と月並な調子とが奇妙に一緒になっているのもあり、強い感情で始まって、まるで中学生が|架《か》|空《くう》の恋人に対して書くような、気取った言葉の多い文章で終っているのでした。それがキャシーを満足させたかどうかわかりませんが、私にはつまらないものと思われました。もう十分と思われるくらい読んで、私はそれをハンカチに縛りこんで取りのけ、空の引出しにまた鍵をかけておきました。
翌朝キャシーはいつものとおり早く起きて台所に行きました。そして、どこかの少年がやって来ますと、キャシーは戸口に行って、|搾乳場《さくにゅうじょう》の女がその少年の|罐《かん》に牛乳を入れている間、少年のジャケツのポケットに何やら押し込み、そしてそこから何やらを引き出しました。私は庭をまわってその使いを待ち伏せました。少年はその頼まれものを防ぐために勇ましく戦って、牛乳はこぼれましたが、とうとう私はその手紙を無理に奪い取り、急いで家に帰らないとひどい目にあわすぞと少年をおどして、ひとり|垣《かき》|根《ね》の下でキャシーの恋文を読みました。それはいとこのよりも単純で、雄弁で、まことにかわいらしくてまことにばかげていました。私はこれはいけないと頭をふって、考え込みながら家にはいりました。その日は雨降りで、キャシーは|猟苑《りょうえん》を散歩して気晴しすることができませんでしたので、朝の課業の終った後、例の引出しのところに行って|慰《なぐさ》めを求めました。ご主人はテーブルで読書しておられました。私は窓のカーテンの|縁《ふち》に房をつける仕事をわざと見つけて、それをしながらキャシーのすることをじっと見すえていました。巣に一杯のピヨピヨいう|雛《ひな》|鳥《どり》を残して飛び去った親鳥が、帰って留守の間に|略奪《りゃくだつ》された巣を見たときの悲しい叫びや羽ばたきでさえも、キャシーが一声ああと叫んで今までの幸福そうな顔を変えたほどには、あんなに完全な失望の色を表わしはしなかったでしょうに。リントン様は見上げました。
「どうしたの? けがでもしたの?」
父親のこの言葉の調子と顔つきとで、あのしまっておいたものを見つけたのは父でなかったとキャシーは安心しました。
「いいえ、パパ!」とキャシーは息をはずませて、「エレン、エレン! 一緒に二階へ来ておくれ。気分がよくないから」
私は呼ばれるままキャシーについて出ました。
「おお、エレン! お前あれを取ったのね」と私たちが寝室に二人だけになったとき、キャシーは|膝《ひざ》をついてさっそくはじめました。「おお、あれをお返しよ。そうすればもう二度としないからさ! パパに言わないでね。まだ言わないでしょう、エレンや、言わないと言っておくれよ。私ほんとうにわるい子だったわ。でももう二度としないわよ!」
私は非常に厳格な態度で、キャシーにお立ちなさいと命じました。
「キャサリンさん、あなたはかなり深入りしているようですね。あれじゃ恥ずかしいのも当然ですわ! 暇な時間に読むには結構な|紙《かみ》|屑《くず》たばですこと。全く印刷してもいいくらい結構なものですよ! お父様にお目にかけたら何とお思い遊ばすことでしょう。私はまだお目にかけませんが――。そんなばかげた秘密がいつまでも守れると思ってはあてがはずれますよ。恥ずかしいじゃありませんか! そしてあなたの方から先にあんなくだらない手紙をやり始めたにちがいないですね。あの人から先に書いてよこすはずがありませんものね」
「私じゃないわ! 私じゃないわ!」とキャシーは胸も張り裂けんばかりにすすり泣いて、「はじめ私はあの人を恋しいなんて一度も思ったことなんかなかったわよ、でもしまいに――」
「恋しいですって!」と私はその言葉に無上の|軽《けい》|蔑《べつ》をこめて言いました。「恋しいですとさ! そんな話をきいた人がありますか! そのくらいなら私は、一年に一度麦を買いに来る粉屋だって恋しいと言ってもいいでしょうよ。結構な恋ですこと! あなたは二回を通じても四時間足らずしか今までにあのリントンに会ったことがないじゃありませんか! ほら、こんな子供くさいやくざな文。私は書斎にこれをもって行って、お父様がそんな恋とやらをなんとおっしゃるか見ましょう」
キャシーはこの大事な手紙に飛びつきましたが、私はそれを頭の上に高く差し上げました。するとキャシーはそれを焼いてくれるようにとか、そのほかどうしてもよいから、ただ父親に見せないようにと、狂人のように嘆願しました。私は|叱《しか》りたくもあり笑いたくもあったので、(なぜなれば私はそれをみんな娘らしい見え坊と思いましたから)幾分心を|和《やわ》らげて言いました――
「私は焼いてもいいですが、その代りあなたは固く約束しなくてはなりませんよ。けっして二度と手紙をやりとりしないこと、それから――あなたは本なども送ってやりましたね――本でも、髪の毛、指輪、おもちゃなどをやってはいけません。いいですか?」
「おもちゃなんかやりとりしないわよ!」とキャサリンは叫びました。自負心が|羞恥心《しゅうちしん》に打勝ったのでした。
「ではとにかくどんなものでもいけません。あなたが約束しないなら私は行きます」
「約束するわ、エレン!」とキャシーは私の服をとらえて、「おお、どうぞそれを火にくべて下さいね、どうぞ!」
しかし私が|火《ひ》|掻《かき》|棒《ぼう》で炉の中に場所をこしらえにかかりますと、キャシーにとってその犠牲は|堪《た》えられない苦痛になりました。キャシーは「一通か二通だけでも残しておいて」としきりに哀願しました。
「一通か二通リントンのために残してよ!」私はハンカチを解いて、片端から手紙を火に入れはじめますと、|焔《ほのお》はめらめらと煙突から舞い昇って行きました。
「この意地わる! 私は一つ取るわよ」とキャシーは叫びながら|煖《だん》|炉《ろ》に手を入れて、指をやけどしてやっと幾枚かの半分こげた手紙を引っぱり出しました。
「よござんす――そんなら私もお父様にお目にかけるのを少し取っておきます!」そう言って私は残りを一束にして戸口へ行きかけました。
キャシーは焼け残りの紙を火にもやして、身振りで私にこの犠牲の奉納を仕遂げるように願いました。それが終ると、私は灰をかきまぜて一シャベルの石炭を上にのせました。キャシーは無言で、ひどい目にあったと感じながら自分の部屋に退きました。私は下におりてご主人に、お嬢様の気分はほとんど回復しましたが、しばらくお休みなすった方がいいでしょうと申しました。キャシーは食事をしませんでした。お茶のときに青ざめて目の|縁《ふち》を赤くして、ひどく沈んだ様子で出て来ました。翌朝私は少年に次のような返事の紙片を渡しました。「ヒースクリフ若様はリントン嬢に今後手紙をよこさないで下さい。以後はお受け取りいたしませんから」それ以来あの少年はポケットに何も入れずに牛乳を取りに来るようになりました。
二二
夏も終って秋の初め、ミカエル祭も過ぎた|頃《ころ》でしたが、その年は刈入れが遅くて、私どもの畑でもまだ刈入れのすまない所もありました。リントン様とお嬢様とは刈入れに働く人たちの間をよく散歩なさいました。最後の麦束を運ぶ日に二人は夕暮まで出ていましたが、その晩はおり悪しくしめっぽく寒かったので、ご主人はひどい|風《か》|邪《ぜ》をひいて、それが肺に進んで|頑《がん》|固《こ》な長わずらいとなり、一冬じゅうほとんど外出なさらずに閉じこもるようなことになりました。
かわいそうにキャシーは小さなロマンスの失敗に恐れをなし、それを放棄してからは、ずいぶん悲しげに気だるそうになりましたので、父上は勉強を少なくしてもっと運動するように勧めました。キャシーはもはや父上をお友達にすることができなくなったのですから、私はなるべくその代りをおつとめしようとしましたが、あまり頼りない代りでした。なぜなれば私はその日その日のたくさんな仕事がありますので、わずか二、三時間しか散歩のお供をすることができず、それに私のお相手では、とても父上ほどには好ましくないことは明白でした。
十月か十一月初めかのある日、さわやかな雨模様の午後でしたが、芝生や|小《こ》|径《みち》はしめった枯草や落葉でさらさらと音を立て、冷たい青空はなかば雲にかくれて、暗い灰色の流れ雲は西からどんどん|湧《わ》き上り、大雨を前触れしていましたし、たしかに|驟雨《しゅうう》がやって来ると思いましたから、私はお嬢様に今日は散歩をよすようにと頼みました。キャシーはききませんでしたので、私はしぶしぶ|外《がい》|套《とう》を着て、|傘《かさ》を持って、|猟苑《りょうえん》の|端《はし》まで散歩のお供をすることにしました。キャシーは何かしおれた時にはこうしたほんの形式ばかりの散歩をするのが常でした。しかもお父上の病状がいつもより悪いときには、キャシーはきまってしおれ込みました。ご病人は自分の口から今日は悪いと言うことはありませんでしたが、いつもより黙りこんで顔色の沈んでいることから、キャシーにも私にもそれと感づかれるのでした。キャシーは悲しく歩みました。走りたく思わせるような薄ら寒い風が吹いていましたが、キャシーは今は走ったり|跳《と》んだりするどころではありませんでした。おりおり手をあげては|頬《ほお》に流れるものを|拭《ぬぐ》っているところを私は横目で見つけましたので、何かしら気をそらすことがあるまいかと、私はあたりを見まわしました。道の片側には荒れた高土手があって、そこにハシバミやいじけたカシの木が根をなかばさらけ出し、危く地面にしがみついていました。カシの木にとっては土が軟らかすぎましたので、その中の幾本かは強い風のためにほとんど横倒れになっていました。夏にはキャシーはこの木に登って枝の間にすわり、地上から二十フィートもある高い所で揺さぶっていたものでした。その|敏捷《びんしょう》と軽やかな子供らしい心とをうれしく思いながらも、キャシーがそんな高い所にいるのを見つけると、いつも私はやはり|叱《しか》った方がいいと思いました。でも私の叱り方はキャシーが降りて来る必要のないようなものでした。このそよ風に揺らぐ|揺《よう》|籃《らん》のような所にすわって、食後からお茶時まで、キャシーは幼いころ私に教わった歌をひとり口ずさんだり、一緒に|樹《き》にとまっている小鳥が|雛《ひな》|鳥《どり》を養い、またそれに飛び方を教えている有様を|眺《なが》めたり、あるいはまた目を閉じてなかば物を思いなかば夢見心地で休み、言うに言われぬほど幸福そうにのんびりしていたものでした。
「ねえ、お嬢様!」と私は一本の曲った樹の根本を指さして申しました。「ここにはまだ冬が来ません。七月にはこの辺の芝生の段々をライラック色の|花霞《はながすみ》にしていたあのたくさんのブルーベルの中で、たった一つ咲き残った花があすこに見えます。土手に登ってあれを|摘《つ》んで、お父様にお目にかけてはいかがですか?」
キャシーは、この世の避難所のような木かげでふるえている|寂《さみ》しげな花を、長いこと眺めていましたがようやく答えました――
「いいえ、私はあれをそっとしておきましょう。だがエレンや、あれは悲しそうに見えなくって?」
「そうですね」と私は答えて、「ちょうどあなたのように飢えて水気がないように見えます。あなたの|頬《ほお》には血の気がありませんよ。手をつないで走りましょう。あなたはひどく元気がないようです。私だってあなたにならまけないと思いますよ」
「いいえ」とキャシーは繰返して、散歩をつづけ、おりおり止ってはじっと|苔《こけ》を見つめて考え込んだり、また白っぽくなった枯草の|叢《くさむら》や、|褐色《かっしょく》の落葉のかさなりの間に、輝くオレンジ色の|笠《かさ》をひろげているキノコなどを見つめて物思いに沈んでいました。そして時々顔をかくすように手を挙げては涙を|拭《ぬぐ》うらしいのでした。
「キャシー、なぜお泣きになるのです?」と私は近寄ってキャシーの肩に腕をまわして申しました。「泣いてはいけません。お父様はお|風《か》|邪《ぜ》をお引き遊ばしただけでたいしたことはないのですからね」
キャシーはもはや涙を止めようとしませんでした。呼吸は|啜《すす》り泣きでつまってしまいました。
「おお、でもこれからお父さんのご病気はたいしたことになりそうです」とキャシーは言って、「そしてお父さんとお前とがいなくなって私ひとりぼっちになったらどうしましょう? 私はお前の言ったことを忘れられないわ、エレン。お前の言葉はいつも私の耳の底にあるの。お父さんとお前が死んでしまったら、人生はどんなに変るだろう。この世はどんなにか|寂《さみ》しくつまらなくなるだろう」
「あなたの方が私たちよりも先に死なないともかぎりません」と私は答えて、「将来の|禍《わざわい》を予想することはよくないことです。私たちのうち誰かが死ぬまでには、まだ長い長い年月があると考えましょう。ご主人はお若いし、私は丈夫で、それにやっと四十五ですもの。私の母は八十まで生きて、死ぬまで元気な女でしたよ。そしてリントン様は六十まで生きていらっしゃるとすれば、あなたが今まで生きて数えた年よりも、もっと長い年月があります。そして二十年以上も後の禍を今から悲しむのはばかげたことじゃありませんか?」
「だってイザベラ|叔《お》|母《ば》さんはお父さんよりも若くて亡くなったのよ」とキャシーはもっと|慰《なぐさ》めを求めたいように気弱く私を見上げて言いました。
「イザベラ叔母さんは私やあなたに看護してもらいませんでした」と私は笑って、「あのかたはご主人ほど幸福ではありませんでした。心から愛する人を持たなかったのです。あなたのなすべきことは、お父様によく仕え、自分で快活にしてそれを見るお父さんも快活にしてあげることです。そしてどんなことでもご心配をかけないようにすることです。よござんすか、キャシー? 私はかくさずに申しますが、もしあなたがむちゃで向う見ずで、お父様を早く死ねばよいと思っている人間の|息《むす》|子《こ》に対して愚かしい気まぐれな愛情を抱いたりすれば、そしてお父様が別れさせた方がよいとお考えなすったことについて、不平がましく思ったりしてそのことがお父様に知れたならば、それこそあなたはお父様を殺すことになるでしょうよ」
「私はお父さんの病気以外には何もかれこれ思いはしないことよ」とキャシーは答えて、「お父さんと比べたら私はほかに何も大切なものなんかないわ。私が正気で生きているかぎりは、けっして、けっして、お父さんを悩ますようなことをしたり言ったりしないわ。私はお父さんを自分の身よりも愛しているんだもの。私はお父さんのあとに生きながらえるようにと毎晩お祈りしています。お父様がみじめな思いをなさるよりか、私がむしろ不幸な目にあった方がましだと思うからです。このことは私が自分の身よりもお父さんを愛している|証拠《しょうこ》よ」
「よいお言葉です」と私は答えて、「しかし言葉だけでなく実行がそれを証明せねばなりません。そしてお父様がご全快の後も、今のその決心をお忘れになってはいけませんよ」
私たちは話しながら、道路につづいている門の戸に近づきました。お嬢様は再び快活になって、|垣《かき》に登ってその上に腰をおろし、道端に影を作っている野バラの木の一番上の枝にまっ|赤《か》になっている実を取ろうと手をのばしました。下枝の実はなくなっていましたが、上の実はキャシーが今いる位置から取れるほかには、ただ鳥がついばむことができるだけでした。取ろうとしてからだをのばすと、帽子が落ちました。門の|扉《とびら》は|錠《じょう》がおりていましたので、帽子を取りに垣の向う側に下りて行こうと言うのです。私は落ちないように気をつけなさいと申しますと、キャシーは身軽に向う側に消えました。けれども帰って来るのはそうたやすくはゆきません。石垣はすべっこくて、きれいにセメントで塗り込めてありましたし、野バラの|藪《やぶ》やキイチゴのしげみが登って来るじゃまをしていました。私は愚かにも、キャシーが笑いながら次のように叫ぶのを聞くまでは、そのことに気がつきませんでした。
「エレンや、|鍵《かぎ》をとって来てもらわなくちゃなるまいね。そうでないと私はまわって門番小屋まで走って行かなくてはならない。こちら側から石垣を登ることはできないんですもの」
「そこにじっとしていらっしゃい」と私は答えて、「ポケットに鍵束がありますからどうにかあけることができるでしょう。もしできなければ行って来ますから」
キャシーが扉の前であちこち踊っておもしろがっている間に、私は大きな鍵をつぎつぎとみんな合わせてみました。どれも合わないので、そこにじっとしているようにともう一度繰返して言い、大急ぎで家に走って帰ろうとしていますと、何か近づいて来る物音が聞えました。それは馬の|蹄《ひづめ》の音で、キャシーの踊りはやみ、その馬も間もなくとまりました。
「それは誰?」と私は小声で言いました。
「エレンや、戸をあけられないかしら」とキャシーは心配そうに小声で答えました。
「ほう、リントンさんのお嬢さん!」と馬に乗って来た人の太い声が聞えました。
「しばらくでしたね。そんなに急いでおはいりなさらなくてもいいでしょう。おたずねして説明していただきたいことがありますから」
「ヒースクリフさん、あなたとお話はいたしませんよ」とキャシーは答えました。「お父さんがおっしゃるには、あなたは悪い人でお父さんをも私をも憎んでいらっしゃるんですって。そしてエレンもやはりそう言っています」
「そんなことはどうでもいい」とヒースクリフは言いました。(それはあの人なのでした)
「私は自分の|息《むす》|子《こ》を憎んでいないと思うんだが、その息子についてあなたにお|尋《たず》ねしたいことがあるんです。そう、あなたが顔を赤らめるのももっともだ。二、三月前、あなたはリントンにいたずらに恋をしかけて、しじゅう手紙を書いてやりませんでしたか? あなたがたは二人ともそんなことをして打たれるだけの値打ちがあるんだ! ことにあなたは年が上で、それに成行きからみれば、あなたの方が思いやりに欠けていましたよ。私はあなたの手紙を手に入れましたから、私にたいして生意気なことを言えばその手紙をお父さんに送ってやりますよ。たぶんあなたはその遊びに飽きて、それをやめてしまったのですね? そしてあなたはリントンをいわば失望の沼に落してしまったのです。あいつは本気でしたからな。ほんとうに恋をしていましたよ。全くのところ、あいつはあなたの心変りに心が|傷《いた》んで、あなたのために死ぬところです。形容ではなくて実際です。この六週間、ヘアトンはいつもあいつにからかい、そして私はもっとまじめな手段であいつの|阿《あ》|呆《ほう》を目覚ましてやろうとおどしたけれど、あいつは日に増し悪くなるばっかりです。あなたが回復させてやらなければ、あいつは夏が来るまでに土の下にうずまるでしょうよ!」
「あなたはまあ何だってかわいそうに、そんな子供にまっ赤な|嘘《うそ》を言えるんですか?」と私はこちら側から叫びました。「どうぞ馬に乗って行って下さい! どうしてあなたはそんなくだらない嘘をわざわざこねあげるのですか? お嬢さん、|錠《じょう》を石でもってたたきこわしましょう。そんなひどいでたらめを信じてはいけません。ご自分のことでもおわかりでしょうが、知りもしない人を恋して死ぬなんて、そんなことはあるはずがありません」
「おや、立ち聞きをしている者があるとは知らなかった」と悪者は聞きつけられてつぶやいてから、「ディーンさん、私はあなたが好きなんだが、その裏表のあるやり方は嫌いだね」と大きな声で言い続けて、「私が『かわいそうにそんな子供』を憎んでいるなぞと言って、私の家によせつけないようにおどかしばなしをこしらえて、この娘さんをこわがらせるなんて、あなたこそ何だってそんなまっ赤な|嘘《うそ》が言えるんですか? キャサリン・リントン、(おおその名前だけでも私の心を温める)かわいいお嬢さん、私は今週中ずっと留守なんです。私がほんとうのことを言っていないかどうか、行ってみて下さい。どうぞね! あなたのお父様が私の|境遇《きょうぐう》にあるとして、そしてリントンがあなたの立場であったらどうでしょうか、想像して下さい。あなたの父親自身があなたの愛人にお願いするのに、その愛人があなたを|慰《なぐさ》めるために一歩も動くのがいやだと言ったなら、あなたはそのつれない愛人をどう思いますか、お考え下さい。そして全くの|頑《がん》|迷《めい》からそんなあやまりに|陥《おちい》らないで下さい。これが嘘なら地獄に落ちてもかまわない。あいつはほんとうに墓場に行きかけています。そしてあなたのほかには誰もあいつを救うことはできないのです!」
|錠《じょう》があいたので私は向う側に出かけました。「誓って言う。リントンは死にかけているよ」とヒースクリフは私を見すえて繰返しました。「悲しみと失望とがあれの死を早めている。ネリーや、もしお前がお嬢さんを行かせたくないなら、自分で来て見てごらん。だが私は来週の|今《いま》|頃《ごろ》まで帰って来ないから、お前の主人だって娘がいとこを訪問することにあまり反対すまいと思うよ!」
「こちらにおはいりなさい」と私はキャシーの腕をとってほとんど無理やりにこちらに引きもどしました。なぜなら、キャシーは|偽《いつわ》りを言っているにしてはあまりに真剣すぎるヒースクリフの顔を迷った目でながめながら、まごまごしていたからです。
ヒースクリフは馬を引きよせてうつむきながら言いました――
「キャサリンさん、実を言うと私はあまりリントンに|優《やさ》しくないんですよ。そしてヘアトンやジョウゼフはなおさらひどいのです。全くあれは|邪《じゃ》|慳《けん》な連中と暮しています。それであの子は愛を求め、また親切を求めるのです。だからあなたからの親切な言葉は何よりの薬でしょうよ。ディーンさんの不人情な忠告なんぞ気にかけないで、寛大な心になって、どうにかしてあの子に会ってやって下さい。あの子は夜も昼もあなたのことを思って、あなたがあれを嫌っているんじゃないのだと言って聞かせてもだめなのです。あなたは手紙もよこさないし訪ねても下さらないんですからね」
私は|扉《とびら》を閉じて、ゆるくなった|錠《じょう》を助けるために石を一つころがして支えておきました。そして|傘《かさ》をひろげ、キャシーをその下に引き寄せました。もう雨が木の枝のざわざわ鳴る間から落ちはじめて、ぐずぐずするなと警告していたからです。私たちが大急ぎで家に帰る途中では、せっせと歩いていましたので、ヒースクリフに出会ったことについてはひと言も話しませんでした。しかしキャシーの心が今は二重の|闇《やみ》で曇っていることが、私には本能的にわかりました。キャシーの顔色は見違えるように悲しげで、いま聞いたことがことごとくほんとうだと思っていることは明らかでした。
ご主人は私たちの帰る前にもうお休みになっていました。キャシーは父の容態をたずねにこっそりとその室に行ったのですが、もう眠っておいででしたので、帰って来て私に、書斎で一緒にいてくれるように頼みました。私たちは一緒にお茶を飲み、それからキャシーは|絨毯《じゅうたん》の上に寝ころび、疲れたので黙っていてくれるようにと私に言いました。私は本を取って読むふりをしました。私が本を読み|耽《ふけ》っていると思われる|頃《ころ》に、キャシーはだまって泣き始めました。この際これが何よりの気晴しであったことでしょう。私はしばらくそのままにしておいて、それから|諫《いさ》めました。ヒースクリフさんが|息《むす》|子《こ》について言ったことをことごとく|嘲《あざけ》り笑いました。キャシーは当然私に同意するものと思い込んでいたのです。ああ! しかし私にはあの人の話が与えた効果を打ち消す|技倆《ぎりょう》がありませんでした。キャシーはあの人の思うつぼにはまったのです。
「エレン、お前の言うことはほんとうかもしれない」とキャシーは答えて、「でも私は自分で知るまではどうしても心配だわ。私が手紙をやらなかったのは私のせいではないということをリントンに話して、私が心変りしていないことを|納《なっ》|得《とく》させなくてはならない」
愚かにもこう思い込んだ者に対して、怒っても反対しても何の役に立ちましょう! 私たちはその晩敵意をいだいて別れました。しかし翌日私はお嬢様のお供をしてワザリング・ハイツへと出かけました。キャシーは小馬に乗って行ったのです。キャシーの悲しみを見、その青ざめた、がっかりした顔色や重たい目を見るに見かねて、私はとうとう負けたのです。しかしリントンが私たちを元気よく歓迎するでしょう。そしてあの話がほとんど根も葉もないことがわかるでしょう。私はそう思ってかすかな望みをかけていたのでした。
二三
雨の夜は明けて霧の朝でした。なかばは|霜《しも》、なかばは霧雨、そして昨夜の雨でできた幾筋かの流れは高原から音を立てて流れ、私たちの道をさえぎっていました。私は足がずぶ|濡《ぬ》れになり、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》で元気がなくて、こうした|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》な事がらを十分味わうのにふさわしい気分でした。ヒースクリフさんがほんとうに不在かどうかたしかめるために、私たちは勝手口からあの農家にはいりました。私はあの人の言葉をあまり信じなかったからです。
ジョウゼフは一人ぼっちらしく、勢いよく燃える炉ばたにすわって、テーブルの上には焼いたオートケーキの大きく切ったのを林立させ、六合ほどのビールが置いてあり、そして例の黒い短いパイプをくわえて、まるで極楽気分でした。キャシーは炉へ走って行ってあたりました。私は主人が在宅かとたずねました。あまり長いこと返事がないので、この老人はつんぼになったのかと思って、もう一度大きな声で繰返してたずねました。
「うんね――うん!」と老人はうなるというよりはむしろ鼻声を出して、「うんね――うん! おめえさんだちゃもと来た所さけえらねばなんねえ」
「ジョウゼフ!」と奥の室からとげとげしい声が私と同時に叫びました。「いくど呼んだらいいんだ! もう火が消えかかっているじゃないか。ジョウゼフ! すぐ来てくれよ」
たばこを勢いよく一吹き吹いてじっと炉の中を見つめているのは、この呼び声に耳をかさないつもりでしょう。女中とヘアトンはいませんでした。たぶん一人はお使いに、一人は仕事に出かけているのでしょう。それはリントンの声でしたので私たちははいって行きました。
「おお、きさまは屋根裏部屋でくたばるがいい! |餓《う》え死にしちまえ」と少年は私たちを怠慢な召使とまちがえて言いました。
その間違いに気がついて言葉を止めますと、キャシーは少年の方に飛んで行きました。
「ああ、リントンのお嬢さんなの?」と少年はよりかかっていた大きな|椅《い》|子《す》のもたれから頭をあげて、「いや、キスしちゃいけない。息ができなくなる。まあ! あなたが来るだろうってパパが言ってはいたが」と、キャシーの|抱《ほう》|擁《よう》からすこし回復したのち言葉を続けました。その間キャシーはひどく後悔した様子でそばに立っていました。「どうぞドアをしめて下さいませんか? あけっぱなしのままおはいりになるんだもの。それにあのいまいましい奴らは|煖《だん》|炉《ろ》に石炭をもって来ないんです。ひどく寒い!」
私は炉の燃え残りをかきたてて自分で石炭をとって来ました。病人は灰だらけになると言ってぶつぶつ言いましたが、力のない|咳《せき》をして熱で苦しいらしくみえましたので、私はこの子の|癇癪《かんしゃく》をとがめないことにしました。
「ねえ、リントン」とキャシーはリントンの|額《ひたい》のしわがゆるんだとき小声で、「私が来てよかった? 何か看病してあげられないかしら?」
「なんだってあなたはもっとはやく来なかったんです?」とリントンはたずねて、「あなたは手紙なんてよこすかわりに来てくれればよかったのに。長い手紙を書くと恐ろしく疲れるんです。あなたとじかに話した方がずっといい。今じゃ僕は話すことも何をすることもできやしない。いったいジラーはどこにいるんだろう! あなた(と私の方を見て)ちょっと台所に行ってみて下さいませんか?」私は前にも用をたしてやりましたのに、ありがとうとも言われませんでしたので、この少年の命令であちこち走り|廻《まわ》るのはいやでしたからすぐ答えました――
「ジョウゼフしか誰もいませんよ」
「何か飲みたいんだがな」とリントンはそっぽう向いて、じれったそうに叫び、それから私たちに言いました。「パパが出かけてから、ジラーはしょっちゅうギマトンへぶらぶらやって行くんです。実際ひどい! それで僕はここにおりて来なくてはならないのですよ――奴らは僕が二階から呼んでも返事しないことにきめてやがるんですからね」
「ヒースクリフの坊ちゃん、お父様はあなたに気をつけて下さいますか?」と私は|尋《たず》ねて、キャシーが親しく言い寄ろうとするのを知って|妨《さまた》げたのです。
「気をつけてですって? 少なくとも奴らにもう少し気をつけさせてくれますよ」と少年は叫んで――「ひどい奴らだ! お嬢さん、あの野獣のヘアトンが僕をばかにするんです! いやな奴だ! 全くいやな奴らばっかりだ」
キャシーは水を|捜《さが》しはじめ、|戸《と》|棚《だな》の上に水さしのあるのが目にとまったので、コップに入れて持って来ました。少年はそれにテーブルの上の|瓶《びん》からブドウ酒を一|匙《さじ》入れてくれるようにと頼みました。少し飲むと前よりもややおちついて、キャシーに礼を言いました。
「私が来てよかった?」とキャシーは前の問いを繰返し、病人にほのかな微笑が浮んだのをみとめて喜びました。
「ええ、よかったとも。あなたのような|優《やさ》しい声を聞くのは何だか珍しいみたいだなあ!」あの子は答えて、「しかしあなたが来なかったので僕は|業《ごう》|腹《はら》だった。それにパパはそれを僕のせいにするんだもの。そして僕を情けない、だらしない、やくざな奴だと言い、あなたが僕を|軽《けい》|蔑《べつ》しているのだと言い、そしてもしもパパが僕だったら、今時分までにはあなたのお父さんよりもグレンジで勢力を振るっているだろうに、なんて言うんです。でもお嬢さん、あなたは僕を軽蔑なんかしませんね――」
「キャサリンとかキャシーとかおっしゃってよ!」とお嬢さんは言葉をさえぎって、「あなたを軽蔑ですって? いいえ、パパとエレンとの次に私は誰よりあなたが好きよ。でもヒースクリフさんは嫌いよ。あの方が帰れば私はここへ来られないわ。あの方は長らくお留守なの?」
「長らくでもありません」とリントンは答えて、「でも|銃猟期《じゅうりょうき》が始まってからはたびたび野原の方へ出かけます。その留守に一時間ばかり話しに来て下すってもいいでしょう。どうぞいいと言って下さいよ! あなたに対して|癇癪《かんしゃく》なんか起しはしないだろうと思うんだ。あなたは僕を怒らしたりしないし、いつも喜んで力になってくれるもの、そうでしょう?」
「ええ」とキャシーはリントンの長い軟らかな髪を|撫《な》でながら、「もしパパさえ許して下さるなら、私は毎日半日でもあなたと一緒にいたいんだけど。かわいいリントン! あなたが私の弟だったらいいのに」
「そしたらあなたは僕をお父さん同様に愛して下さるでしょう」とあの子はいっそう快活になって、「でもパパは言いましたよ、もしあなたが僕の奥さんになったら、あなたはお父さんよりも誰よりも僕を一番愛するだろうって。だからあなたがそうなってくれたらいいんだがな」
「いいえ! 私はパパ以上に誰も愛したりしないわよ」とキャシーはまじめに答えて、「それに世間にはよく自分の奥さんを嫌う人があるけれど、兄弟姉妹ならそんなことはないから、あなたが私の弟になれば、あなたは私たちと一緒に暮すでしょうし、パパは私と同様にあなたをかわいがって下さるでしょう」
リントンは奥さんを嫌う人なんてないと否定しました。しかしキャシーはあると主張して、自分の知ってる例にこの少年の父がキャシーの|叔《お》|母《ば》をきらっていたことを引き合いに出しました。私はキャシーの|無《む》|分《ふん》|別《べつ》な話を止めようとしましたけれど、結局キャシーは知っていることをなんでもしゃべってしまいました。ヒースクリフの坊ちゃんはひどく立腹して、キャシーの話は|嘘《うそ》だと断定しました。
「パパが私にそう言ったわ。そしてパパは嘘なんか言いやしないわよ」とキャシーは生意気な口調で言いました。
「僕のパパはあなたのパパを|軽《けい》|蔑《べつ》してるよ!」とリントンは叫んで、「そして|卑怯《ひきょう》なばか者だと言ってるよ」と言いました。
「あなたのパパは悪人よ」とキャシーは答えて、「そしてあの人の言うことを繰返してしゃべるなんて、あなたはよっぽどわからずやね。あの人はイザベラ叔母さんをあんなにして逃げ出させたんですもの。それは悪人に相違ないわ」
「お母さんはパパから逃げ出したんじゃない。言い|逆《さか》らいはさせないよ」と少年は言いました。
「逃げ出したのよ」とお嬢さんは叫びました。
「よし、そんならあなたにだって言ってあげることがある。あなたのお母さんはあなたのお父さんを嫌っていたんだ。どうだい」とリントンは言いました。
「まあ!」とキャシーはあんまりおこって言葉もつげずに叫びました。
「そしてあなたのお母さんは僕のお父さんを愛していたんだ」と少年は言いました。
「この嘘つき小僧! もうあなたなんか大嫌いよ」とキャシーはあえいで、顔は|忿《ふん》|怒《ぬ》でまっ|赤《か》になりました。
「愛していたよ! 愛していたよ!」とリントンはふしをつけて言い、|椅《い》|子《す》にどっかと沈み、後に立っている議論相手の興奮を見て楽しもうと頭を仰向けました。
「坊ちゃん、おだまんなさい! それもあなたのお父さんの話でしょうよ」
「そうじゃないよ。お前こそだまっておいでよ!」と少年は答えて、「愛していたよ、愛していたよ、キャサリン! あなたのお母さんは僕のパパを愛してたんだよ、愛してたんだよ!」
キャシーはわれを忘れて椅子を荒々しく突きましたので、少年はころげ落ちて片腕をつきました。するとすぐ息づまるような|咳《せき》が出はじめて、あの|凱《がい》|歌《か》をやめなくてはなりませんでした。
その咳は大変長く続いて私すらおどろきました。キャシーは何も言いませんでしたけど、悪いことをしたと仰天してあらんかぎりの力で泣きました。私は咳がやむまで少年をささえてやりました。やがて少年は私を押しやって、無言でうなだれました。キャシーも泣き止めて、少年の前にすわり、おもおもしい顔で|煖《だん》|炉《ろ》の火を見ていました。
「坊ちゃん、どうですか?」と私は十分ほどしてたずねました。
「その人にも僕の苦しみを感じさせたいよ」と少年は答えて、「ひどい、残酷な人だ! ヘアトンだって僕に手を触れたことなんかないし、僕を打ったことなんて一度だってありゃしない。それに僕は今日いつもよりよかったんだ。それだのに――」そこで声はすすり泣きで消えてしまいました。
「私はあなたを打ちはしなくってよ!」とキャシーはまたもや感情が高まって泣きたくなるのを、|唇《くちびる》を|噛《か》んで|抑《おさ》えながら不平を言いました。
リントン・ヒースクリフはひどく苦しそうにため息をしたり|呻《うめ》いたりして十五分もそれを続け、まるでわざとキャシーを困らせるためらしく、キャシーのこらえかねたすすり泣きを聞くたびに、ことさら苦しそうな悲痛な声の調子を新たに高めるのです。
「リントン、痛くしてすまなかったわね」とキャシーはとうとう心の苦しみに耐えかねて、「でも私ならあんな少しばかり突いたって痛くないので、あなただってそんなに痛がるなんて思わなかったんだけれど、あなたはそんなにたんと痛くはないでしょう? あなたを苦しめたと思ったままで私とても家に帰られないじゃないの! 返事してよ! 言いなさいったら」
「あなたに言うことはできない」と少年はつぶやいて、「あなたが僕を痛くしたもんだから、僕は一晩じゅうこの|咳《せき》に苦しめられて寝られないんだ。もしあなたがその苦しみを知っていたらそれがどんなだかわかるんだけれどな。だが僕がそばに誰もいずにひどく苦しんでいる間に、あなたは気持よく眠るだろう。こういう恐ろしい夜を幾晩も過したらあなたはいったいどう思うだろう!」と言って自分でなさけなくなって声をあげて泣き出しました。
「あなたは毎晩恐ろしい夜を過す習慣なのですから、あなたの安眠を妨げるのはお嬢さんじゃないんで、お嬢さんが訪ねていらっしゃらなくとも同じことでしょう。でもお嬢さんは二度とあなたのおじゃまをいたしますまい。そしてたぶん私たちが帰ったら、あなたはもっと落着くでしょうよ」
「私は帰らなくてはならないのね?」とキャサリンは少年をのぞき込むようにして悲しげにたずね、「リントン、あなたは私に帰ってほしいの?」
「してしまったことはもうどうにもならないんだ」とリントンはキャシーから尻込みしながら、すねて答えました。「あなたが僕をいじめて熱を出させたから、ますます悪くなるだけさ」
「そう、そんなら私は帰らなくてはならないのね?」とお嬢さんは繰返しました。
「せめて僕をほっといて下さい」と少年は言って、「とてもあなたのお話に我慢できない」
お嬢さんはぐずぐずして、私が帰ろうと|勧《すす》めても聞かずに退屈なほど長い間いましたが、リントンは見むきもしなければ話もしないので、キャシーはとうとうドアの方にやって来て私もその後に続きました。私たちは叫び声で呼び返されました。リントンが|椅《い》|子《す》から滑り落ちて炉石のところにころがり、できるだけはげしく|駄《だ》|々《だ》をこねて悩まそうと決心をした、手におえない甘えっ子の、ほんの片意地から身もだえしているのでした。私は今までの挙動でこの少年の気質をすっかり見てとりましたので、|機《き》|嫌《げん》をとろうとするのはばかげたことだとすぐわかりました。お嬢さんはそうではなかったので、びっくりして走り寄って、ひざまずいて、泣いて、なだめて、願って、しまいに少年が息切れして疲れてくるまでそうしていましたが、けっして彼はキャシーを困らしたことを後悔しておとなしくなったのではないのです。
「私が長椅子の上に坊ちゃんを|載《の》せてあげましょう」と私は言って、「そしてそこで勝手にころがっていればいいんです。泊って看病してあげるわけにはいきませんよ。お嬢さん、あなたはべつだん坊ちゃんの役に立つでもなし、また坊ちゃんの病気があなたにこがれて起ったのでもないことがわかって、それでご満足だろうと思います。さあこれでよし! いらっしゃい。そばには誰もこんな駄々っ子にかまい手がないと知れば、おとなしく寝ているようになりますよ!」
お嬢さんは長椅子の上に載せられたリントンの頭の下にクッションを当てがい、水をやりますと、少年は水をいらないとはねつけ、クッションがまるで丸太か石ころであるかのように不安げに頭をもじもじさせていました。キャシーはそれをもっと工合よく直そうとしました。
「これじゃだめだ。低すぎらあ」と少年は言いました。
キャサリンは、も一つクッションを持って来てその上に重ねました。
「これじゃ高すぎる」とこのしゃくにさわる奴はつぶやきました。
「じゃ、どうすればいいの?」とキャシーはがっかりして|尋《たず》ねました。
キャシーが|長《なが》|椅《い》|子《す》の|傍《そば》になかばひざまずきますと、リントンはキャシーにからみついて、枕の代りにその肩に頭をもたせかけました。
「いいえ、それはいけません」と私は言って、「ヒースクリフの坊ちゃん、あなたはクッションで満足なさいまし。お嬢様があなたのおかげでもうずいぶん時間をつぶしました。私たちはもう五分とここにいるわけにはいきません」
「いいえ、かまわないわよ!」とキャシーは言って、「この人は今おとなしくなってじっとしていますよ。私が来たためにかえって悪くなったと思うと、私は今晩この人よりもずっと悲しい苦しい思いをするでしょう。そのことがこの人にもだんだんわかってきたの。もしほんとうに私が来たために悪くなったのなら、私はもう二度と来やしなくってよ。リントン、ほんとうのことを言って頂戴。あなたを苦しめるようなら、私はここに来てはならないんだから」
「あなたはここに来なくちゃいけませんよ、僕を直してくれるために」と少年は答えて、「あなたは来るのが当然だ。僕を苦しめたんだから。ひどく苦しめたんだ! あなたがはいって来たときは今のように悪くはなかったでしょう?」
「でもあなたは自分で泣いたり怒ったりして悪くなったんでしょう」と私は申しました。
「私のせいばかりじゃないわ」と少女のいとこも言って、「でも、もう仲直りしましょう。そしてあなただって私に会いたがっているでしょう。ね、いつかまた来て欲しいのでしょう?」
「僕さっきもそう言ったじゃないか」と少年はじれったそうに答えて、「長椅子に腰かけてあなたの|膝《ひざ》によりかからしておくれよ。ママはいつも|午《ひる》すぎじゅうずっとそうやっていてくれたっけ。じっと動かないでしゃべらないですわっていておくれよ。そうでなけりゃいつか僕に教えてくれると約束した長いおもしろいバラッド(民謡)を歌ってくれてもいいし、物語でもいい。でも僕はバラッドの方がいいや。ねえ、歌ってよ」
キャサリンは知っているうちで一番長いのを歌いました。それでどちらも|大《だい》|機《き》|嫌《げん》でした。リントンはもう一つと|所《しょ》|望《もう》し、それがすむと、私がしきりに反対するにもかかわらず、またもう一つと言い、十二時が打つまで続けて、ヘアトンが昼飯を食べに庭にはいって来る音がしました。
「明日ね、キャサリン、明日ここに来てくれるでしょうね?」とヒースクリフの坊ちゃんはしぶしぶ立ち上ったキャシーの服をとらえて|尋《たず》ねました。
「いいえ!」と私はそばから答えて、「あさってだってやはりだめです」と言いました。しかしキャシーは別な答えをしてやったに相違ありません。なぜなればキャシーがかがんで何やら耳うちすると、少年の顔は晴やかになったからです。
「明日出かけてはいけませんよ、よござんすか、お嬢さん?」と私はこの家から出たときに申しました。「よもやそんなことを思っていらっしゃらないでしょうね?」
キャシーはほほえみました。
「ええ、私は十分用心しましょう」と私は言葉をつづけて、「私はあの|錠《じょう》を直させましょう。そうすりゃお嬢さんはほかに出かける道がありますまい」
「私はあの|石《いし》|垣《がき》を乗り越すことができてよ」とキャシーは笑いながら言って、「エレンや、グレンジは|牢《ろう》|屋《や》じゃないし、お前は私の牢番じゃないことよ。それに私だってもう十七よ、一人前の女だわ。それにまた私が看病してあげればリントンはじきに直るのは受け合いよ。私の方があの人より年上だし賢いし、あんなに子供じみていないでしょう? 少しなだめてやればじきにあの人は私の指図に従うと思うの。おとなしい時にはかわいらしいよい子だわ。もしあの子が私のものなら、私はうんとかわいがってあげたい。けっしてもうけんかはしないと思うわ。お互いに慣れたらけんかにならないわ。お前はあの人が好き? ね、エレンや」
「好きですって!」と私は叫んで、「やっとこさ十いくつまで生きた無類の意地わる小僧の病人なんぞをね。ヒースクリフさんが推測したように、あの子はとても二十まで生きのびない方がまだしもの仕合せですよ。それどころか私は次の春までどうかと思うんです。あの子がなくなったってあすこの家にとってたいしたことでもありますまい。あの子の父親があれを連れて行ったのは、私たちにとってかえって仕合せでした。あの子は親切にされるといよいよ図に乗ってやっかいなわがまま者になるんです。お嬢さん、あなたあんな人を|良人《お っ と》にする機会がなくてほんとうに結構でした」
キャシーはこの話をきいておもおもしい真顔になりました。あの子の死ぬことを、こんなふうに|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に言われたので感情を害したのです。
「あの人は私よりも若いことよ」とキャシーは長い間黙って考えていたのち答えて、「だからあの人は私よりも長生きするのがあたりまえです、長生きするでしょう。私と同じくらい長生きするに相違ないわ。初めてこちらの北国に来たときと今も同じくらいの健康だわ。たしかにそうよ! あの人の病気はほんの|風《か》|邪《ぜ》だわ。パパと同じことなんだわ。お前はパパが直ると言うじゃないの? そんならどうしてあの人だって直らないことがあって?」
「そうかもしれませんね」と私は言って、「でも結局私たちは心配するにおよびません。お嬢さんよく聞いて下さい。私は言ったとおりします、いいですか。私と一緒であろうがあるまいが、もしあなたが二度とワザリング・ハイツに行こうなんてなさると、私はきっとお父様に申し上げますよ。そしてお父様のお許しがないかぎり、あなたのいとこと交際を始めてはなりません」
「もう始まってるじゃないの!」とキャシーは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》にぶつぶつ言いました。
「そんならそれを続けてはいけません!」と私は申しました。
「考えておくわ!」と答えて、キャシーは小馬に早駆けさせて先に行ってしまい、私は後について行くのがなかなか難儀でした。
私たちは昼食前に家に着き、ご主人はわれわれが|猟苑《りょうえん》に散歩していたとお思いになって、別にどこに行っていたともお|尋《たず》ねになりませんでした。家にはいるとさっそく|濡《ぬ》れた|靴《くつ》と靴下とを代えましたけれど、あんなに長い間ハイツにそのままでいたのがいけなかったのです。翌朝から私は寝込んでしまって、三週間仕事もできませんでした。その時までついぞ経験したことのない災難で、幸いなことにはその後もそんな目にあったことがございません。
私のかわいいお嬢様は天使のように私を看護し、私の|寂《さみ》しさを慰めてくれました。病床にこもったため私はひどくしょげこんでしまったのです。いつも|忙《いそが》しく立ち働くからだにとって寝ているのは退屈なことです。でも私の場合などは|愚《ぐ》|痴《ち》をいう理由の一番少ない方でした。キャサリンはお父様の室を去るとすぐ私の病床に来てくれました。キャサリンの一日はお父様と私と二人に分けられて、ただの一分も娯楽の時間をとらずに、食事も勉強も遊びもほったらかしでした。あれほど|優《やさ》しい看病人はめったにありますまい。お父様をあれほど愛していて、しかもあれほど私に時間をさいて下さるとは、よほど温かな情を持ったかたに相違ございません。お嬢様の一日は私たち二人の病人に分けられていたとただいま申し上げましたが、ご主人は早くおやすみなさいますし、私も|大《たい》|概《がい》六時過ぎになると看病していただくほどのこともなかったので、晩には自由な時間があったのです。かわいそうに! 私はキャシーがお茶どきの後何をしていたか考えませんでした。そしておやすみを言いに私の寝室をのぞきこんだときに、おりおり血色のいい|頬《ほお》をして、|華《きゃ》|奢《しゃ》な指が桃色になっているのを認めたことがありましたが、まさかその血色が寒い原を越えて遠乗りしてきたせいとは思わずに、書斎の熱い|煖《だん》|炉《ろ》のせいと思いこんでいました。
二四
三週間目の終りに、私は部屋を出て家の中を歩きまわることができました。そして初めて夜起きていた時のこと、目が疲れているので、キャサリンに何か読んで下さいと頼みました。ご主人はもう床におつきになったので私たちは書斎にいました。キャシーはしぶしぶ|承諾《しょうだく》したように私には思われましたので、本が気に入らないのかと思って、私はどれでも読んだものの中からご自分で選んで下さいと申しました。キャシーは気に入りの本を選んで、一時間ほどちゃんと読んで聞かせましたが、それからたびたび|尋《たず》ねるのでした。
「エレンや、お前疲れないこと? もう休んだ方がいいのじゃなくって? そんなに遅くまで起きていると気分が悪くなりますよ」
「いえいえ、私は疲れません」と私はいつも答えていました。
私の心が動かされないのを見て、キャシーはその役目をつづけるのがいやだということを示す別の方法を試みました。あくびをしてみたり、背伸びをしてみたりして、さて――
「エレンや、私疲れちゃったわ」と言うのでした。
「そんならやめて、お話でもして下さいな」と答えました。
ますますいけませんでした。キャシーはふくれてため息をついて、八時まで時計を見ていましたが、とうとうすっかり眠くなって自分の部屋に行きました。そのすねた重い目や、しじゅうその目をこすっていたことから、私はたぶん眠いせいだろうと推察したのです。次の晩、キャシーはもっとじれったそうに見えました。私と夜を過すようになってから三日目の晩には、頭痛がすると言って私を置き去りにしました。私はどうも怪しいと思って、長らくひとりでじっとしていた後、行って様子はどうなのか尋ね、暗い二階に寝ていずに、降りて来てソファの上に横になっているようにすすめてみようと決心しました。二階にも下にもキャサリンの姿は見えませんでした。召使たちもお嬢様を見なかったとのことでした。私はエドガー様のドアで耳を澄しました――しんとしていました。私はキャシーの部屋に行って、|手燭《てしょく》を消し、窓ぎわにすわっていました。
月は明るく輝いていました。一面の雪が地上を|蔽《おお》うていました。それで私は、たぶんキャシーが頭をせいせいさせるために庭を散歩してみる気になったのかも知れないと考えました。|猟苑《りょうえん》の内側の|垣《かき》|根《ね》に沿うて人影が忍びよるのが見えました。が、お嬢様ではありませんでした。明るみへ出て来たのを見ると、それは|馬《ば》|丁《てい》の一人でした。しばらく庭から車寄せの方を見て|佇《たたず》んでいましたが、何か見つけたように足早に立ち去って、間もなくお嬢様の小馬をつれて来ました。その|傍《そば》には今馬から下りたばかりのキャシーが歩いていました。馬丁はその小馬を|曳《ひ》いてこっそりと草原を|厩《うまや》の方に行きました。キャシーは客間の窓からはいって、私の待ち構えている部屋に音もなくやって来ました。静かにドアをのぞきこんで、雪だらけの|靴《くつ》をぬぎ、帽子をはずし、私の探偵していることに気づかずに、マントをぬぎかけたときに、私は突然立ち上って姿を現わしました。その一瞬間キャシーは驚いて石のようになり、何か聞き取れない叫び声を出して、みじろぎもせずに立っていました。
「キャサリンお嬢様」と私は言い出しましたが、最近の親切にしみじみ感じていましたので|叱《しか》ることができませんでした。「今時分どこへお出かけでして? 何だっていつわりを言って私をだまそうとしたりなさるのです? おっしゃい」
「猟苑の|端《はし》まで」とキャシーはどもるように言って、「私いつわりなんか言いやしないわ」
「それからほかにどこへも行きませんでしたか?」と私は問いました。
「いいえ」と小声の答えでした。
「おお、キャサリン!」と私は悲しくなって叫び、「あなたは悪いことをなすったと思うでしょう。でなければ私にいつわりを言わねばならぬはずがありません。それが私は悲しいのです。あなたが構えて|嘘《うそ》を言うのを聞くくらいなら、私は三か月も病気をした方がよろしゅうございます」
キャシーはとんで来て、わっと泣きながら、私の首に両腕をかけました。
「エレンや、私はお前が怒ると思って怖かったのよ」とキャシーは言って、「怒らないと約束しておくれ、そうすればほんとうのことを話してあげるから、私は隠しておくのが嫌いよ」
私たちは窓べりにすわりました。むろんその秘密が何であるか想像がつきましたが、それが何であろうとけっして叱らないと安心させましたので、キャシーは打明け話を始めました――
「エレンや、私はワザリング・ハイツに行って来たのよ。お前が病気になってから、一日だって行かない日はなかったの。お前が|床《とこ》|上《あ》げをする前三日と、後二日とだけ行かなかったけれど。私はマイクルに本や絵をくれてやってミニーを毎晩|仕《し》|度《たく》させ、そしてまた|厩《うまや》に連れ帰させたの。お前はマイクルを|叱《しか》っちゃいけないわよ、ね。私は六時半までにハイツに着いて、|大《たい》|概《がい》八時半まであすこにいて、それからミニーを早駆けさせて帰って来るの。私が出かけたのは自分の楽しみではないことよ。時にはずいぶんひどい思いをしたわ。でも時々、そうね、一週間に一度くらい、楽しいこともあったわ。最初私がリントンとの約束を守るために、お前を説き伏せることはなかなかつらい仕事だと覚悟していたのよ。あの日あすこから帰るとき、私は次の日もまた訪ねて来ると約束したのですもの。でも、あの翌朝お前が病気で起きられなくなったので、そのめんどうは助かったわけよ。|午《ひる》過ぎマイクルが|猟苑《りょうえん》の門の|扉《とびら》の|錠《じょう》を直して閉じていたとき、私は|鍵《かぎ》を手に入れちゃったの。そして私のいとこが病気で、グレンジに来ることができないので、私が訪ねて行くのを待っているのだと話して、それからパパが私の訪問に反対することも打明けて、それから小馬のことを話して取りきめたのよ。マイクルは本が好きで、もうじき暇をとって結婚することになっているんですってさ。それであの若者は書斎から本を貸して下さればお望みどおりにしてあげようと言ったけれど、私はそれよりか自分の本をあげようと言ったの。その方がかえってマイクルにはよかったんですもの。
二度目に行ったとき、リントンは元気そうに見えました。そしてあすこの女中のジラーは部屋をきれいにし、気持のよい火を|煖《だん》|炉《ろ》に燃やし、今日はなんでもお好きなようにして下さいと言いました。ジョウゼフは祈りの会に出かけたし、ヘアトン・アンショーは犬をつれて出かけたと言うことですが、これはうちの森へキジを盗みに行ったんですって、あとで聞いたのよ。ジラーは温かいブドウ酒やショウガパンなどを私に持って来てくれて、非常に親切なようでしたよ。リントンは|肱《ひじ》|掛《かけ》|椅《い》|子《す》にかけ私は炉石の上の小さな揺り椅子にかけて、とても|愉《ゆ》|快《かい》に笑ったりしました。いくらでも話すことがあったわ。夏になったらどこへ行こう、何をしようなどと計画したの。ここでいちいち繰返さなくってよ。お前はきっとつまらないなんて言うでしょうからね。
でも一度私たちはあぶなくけんかするところでした。暑い七月を過す一番たのしい方法は、草原のまん中でヒースの生えた土手に、朝から夕方まで寝ころんでいることだって、あの人は言うんです。花の間をミツバチが夢心地にさそうようにぶんぶん飛びまわるし、ヒバリは頭の上に高くさえずるし、青空に雲もなく、明るい太陽はやすらかに輝いている、それがあの人の一番完全な極楽の境地なのだそうです。私はそんなことでなしに、さらさら鳴る緑の木の枝に乗っかって、西風に吹かれながらゆすぶっているのがいい。そして頭の上には輝く白い雲がどんどんかすめて行く、そしてヒバリだけでなしにツグミや黒鳥やベニヒワや|閑《かん》|古《こ》|鳥《どり》などが、あちらからもこちらからも盛んに歌をうたい、遠方には草原が見え、それが涼しそうな小暗い谷になって絶えて行く。だがすぐ近くにはそよ風のままに波うってゆれる長い草の丘が大きく起伏している。そして森や鳴りひびく川瀬や、そのほかすべての世界が目覚めて喜び狂っている、そういう境地がいいわ。あの人は万物が平和に酔いしれて寝てほしいし、私はみんな輝かしい大歓楽のなかにきらめき踊ってほしいのです。あの人の天国は半分しきゃ生きていない、と私が言えば、私のは酔っ払っているとあの人が言います。あなたの極楽では私は眠ってしまうでしょうと私が言えば、あなたの極楽ではとても息がつけないと、あの人はひどくがみがみ言うようになってきたのよ。でもしまいに私たちはいい気候になったらどちらもしてみようということで折れ合ったの。それからお互いにキスして仲直りしたのよ。
それから一時間ばかりすわっていた後、私は|絨毯《じゅうたん》の敷いてないつるつるした床の、その大きな室を見て、テーブルをのけたらどんなにいい遊び場だろうと思ったの。そこでリントンにたのんで、ジラーを加勢に呼んでもらい、目かくし鬼をしようと言い出したのよ。ジラーが鬼になって私たちをつかまえるのよ。お前もよくやらされたでしょう、エレン。リントンはそんなことはおもしろくないからいやだって言うのよ。けれど、ボール遊びをすることには|承諾《しょうだく》したわ。|独《こ》|楽《ま》だの輪だの羽子板だの羽根だの古い玩具のごたごた入れてある|戸《と》|棚《だな》の中に、私たちはボールを二つ見つけたの。一つにはC、ほかのにはHとしるしがあったので、私はキャサリンの頭文字だからCの方にしよう、そしてHの方はヒースクリフの頭文字だからあの人にと思ったの。けれどもHの方のは中から|麩《ふすま》が出るのでリントンはいやだと言ったわ。私はいつもあの人を負かしたものだから、あの人はまた|機《き》|嫌《げん》を|損《そこ》ね、それに|咳《せき》が出て、元の|椅《い》|子《す》に帰ってしまったの。その晩は、でも、じきに機嫌を直したわ。二つ三つ歌をうたってあげたらチャームされちゃったのね。お前が私に教えてくれた歌なのよ、エレン。そして私が帰らなくてはならなくなった時に、あの人は明日の晩も来てくれるように私にたのむので、私は約束したの。ミニーと私とは風のように軽々と家に飛んで来て、私は朝までワザリング・ハイツと、私のかわいいいとこの夢をみていたの。
翌朝私は悲しかったわ。お前が病気だったせいでもあり、またお父様が私の訪問を知ってお許し下さるのならいいんだけれどと思ったせいもあったのね。でも晩のお茶がすむと美しい月夜だったので、小馬に乗って出かけると|憂《ゆう》|鬱《うつ》な気分は晴れ、私はまた楽しい晩を過すだろうと一人で思い、そして私をもっと喜ばすことは、かわいいリントンが楽しい晩を過すだろうと思うことだったわ。あすこの庭に着いて、裏口の方へまわって行ったとき、あのアンショーが私を迎え、私の|手《た》|綱《づな》を取って表玄関から私をはいらせ、ミニーの首をたたいていい馬だなと言って、私に何か話しかけてもらいたい様子でした。私は馬を放っといてくれるように言って、そうしないと馬があなたを|蹴《け》とばすでしょうとおどしました。アンショーは下品な口調で『蹴とばしたってたいしたことはねえや』と言いながらその両脚を微笑しながら見ていました。私は小馬にあの男を蹴とばさしてやろうかと思いましたが、アンショーはドアをあけに立ち去って、掛金をはずす時に戸の上の彫刻を見上げながら、なかばきまり悪そうな、なかば得意な、とんまな態度で言いました――
『キャサリンお嬢様! 僕はもうあれが読めるよ』
『すてきね!』と私は感服して、『では読んでみて|頂戴《ちょうだい》な――あなたは賢くなったのね!』
ヘアトンは一字一字のろのろと『ヘアトン・アンショー』という名前を読みました。
『そしてあの数字は?』と私は若者がそこですっかりやめたのを見て|促《うなが》すように叫びますと、
『それはまだわからねえや』と答えたので、
『あらあなたは愚人ね!』と私はその失敗を心から笑いながらそう言ってやったのよ。
あのばか者は|唇《くちびる》の辺に苦笑を浮べ、|眉《まゆ》|根《ね》をしかめて、私と一緒に笑っていいかどうか迷っているようでした。私の笑いが親しい|冗談《じょうだん》なのやら、それとも|軽《けい》|蔑《べつ》なのやら(実際は軽蔑だったのよ)、この人にはわからなかったらしいの。そこで私はその疑いをはっきりさせるために、元どおりまじめな態度になって、私はリントンに会いに来たので、あなたに会いに来たのではないから、あっちへ行って下さいと言ってやりました。ヘアトンはまっ|赤《か》になって――月明りでそれがわかったのよ――掛金から手を離して、全く自尊心を傷つけられた|恰《かっ》|好《こう》でこそこそ逃げて行ったわ。自分の名前を読めるようになったものだから、ヘアトンはたぶんリントンと同等に学問があると思ったのでしょうが、私はそう思わなかったので、あの人はひどく当てがはずれたのね」
「お嬢様、お待ちあそばせ!」と私は言葉をさえぎって、「小言を申すのではございませんが、私はその点であなたの仕打ちが好きではありません。ヘアトンだってヒースクリフの坊ちゃんと同様にあなたのいとこです。それを思えばあなたがそんなことをなさるのはどんなに間違っているかおわかりなさいましょう。少なくともヘアトンがリントンと同様に学問したいと思うことは、ほめてやってもいい心がけです。そしてたぶんあの人はみせびらかしたいためばかりで勉強したのではなかったのでしょう。あなたは以前にきっとあの人の無学を軽蔑なすったでしょう。そこでそれを直してあなたを喜ばせたかったのです。それが十分にしとげられなかったからと言って、冷笑したりすることはひどくわるい仕打ちです。あなただってあの人のようにして育てられたら、同様に粗野にならないでしょうか? あの人だって子供の時分には、あなたが子供の時分と同様に物おぼえのいい賢い子供でしたよ。あの卑劣なヒースクリフがあの子をあんなにひどくしたために、いま|侮辱《ぶじょく》されなければならないかと思うと、私は腹が立ちます」
「ああいいのよ、エレンや、お前泣いたりしやしないでしょう、ね?」とキャシーは私がひどく本気なのでおどろいて言いますには、「だがまあお待ちよ。ヘアトンが私を喜ばすためにABCをおぼえたのか、そしてあの野獣に礼儀を守る値打ちがあるかどうか、今にわかりますよ。私ははいりました。リントンは|長《なが》|椅《い》|子《す》に横になっていて、私を迎えるために半分起き上りました。
『キャサリン、僕は今晩加減が悪いんだ』とあの人は言って、『あなた一人だけでお話ししてくれなければいけない。そして僕に聞かせておくれ。さあ、僕の|傍《そば》におすわりよ。きっと約束を破らずに来てくれるだろうと思っていた。あなたが帰る前に僕は今晩もまた約束しよう』
あの人は病気なのだから、私はじらしてはならないと思い、|優《やさ》しくものをいって何の質問もせずに、なるべく何事にもあの人をいら立たせないようにしました。その晩は私のいい本を、二、三冊もって行ってやったのでした。あの人はその一冊を少し読んでくれと言うので、私は望みどおりしてあげようとしたとき、アンショーが荒々しくドアをあけてはいって来ました。さっきのことを考え直してみて腹を立てたのでしょう。まっすぐ私たちの所へやって来てリントンの腕をつかみ、椅子から振り落しました。
『お前の部屋に行け!』とアンショーはあまり怒って、ほとんど何を言っているかわからないような声で言いました。顔はふくれて|獰《どう》|猛《もう》な顔つきをしていました。『その女がきさまに会いに来たのならあっちへつれて行け。おれをこの部屋にいられなくしてはいけないぞ。二人とも|失《う》せやがれ!』
ヘアトン・アンショーは私たちをののしって、リントンが答える暇もなく台所へ投げ飛ばしてしまうところでした。私もリントンに続いて部屋を出ますと、ヘアトンは私をもなぐりつけそうな様子でこぶしを握りしめました。そのとき私は怖かったので本を一冊落しましたら、ヘアトンはそれを|蹴《け》とばしてよこして、ドアをしめ出しました。炉ばたで意地の悪いしわがれた笑い声が聞えましたので、見るとあのいやなジョウゼフが骨ばった手をこすりながら、からだをふるわして立っていました。
『あの人はお前さんたちにきっと返報をするじゃろうと思っていたわい! あれはりっぱな若者じゃ! あれでなかなかしっかりした精神をもっておいでじゃ! あの人は知っておいでなのじゃ、わしと同様に知っておいでじゃ、一体だれがここのご主人であるべきかを承知しておいでじゃ――エヘッ、ヘッ、ヘッ! お前さんたちを追っぱらったのは当然なことじゃわい! エヘッ、ヘッ、ヘッ!』
『どこへ行けばいいのです?』と私は老いぼれ|爺《じじい》の冷やかしにはかまわずにリントンに|訊《たず》ねました。
リントンはまっ|青《さお》になってふるえていました。もうそのときはあの人はきれいじゃなかったわ。いいえ、それどころか恐ろしいようだったわ! やせ細った顔と大きな目とはまるで狂人のような、力のない悪鬼みたいな表情になりました。そしてドアのハンドルをつかんでゆすぶりましたが、それには内側から|鍵《かぎ》がかけてありました。
『僕を入れないと、お前を殺してやるぞ! 入れないか? 入れないと殺すぞ!』とあの人は言うというよりむしろ叫んで、『悪魔! 畜生! 殺すぞ、殺すぞ!』とどなったのよ。
ジョウゼフはまたしわがれた笑い声をあげました。
『そうら、それが父親の本性じゃ!』とあの|爺《じじい》は大きな声で言うには、『あれが父親の本性じゃ! われわれは両親の性質をいつでも受けつぐものじゃ。ヘアトン君、かまうことはない。こわがらぬがいい。こいつは君にかかって行けないのじゃ』
私はリントンの手をとって、どこかへひっぱって行こうとしたけれど、あの人は手がつけられないほど恐ろしい勢いで叫ぶのよ。とうとうひどい|咳《せき》が出てきてその叫び声をつまらせてしまいました。血がどっと口から出てあの人は床に倒れました。私はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として庭へ走り出て、できるだけ大声でジラーを呼びました。|納《な》|屋《や》の後の小屋で牛の乳をしぼっていたジラーは、私の声を聞きつけて、仕事をやめて急いで来て何事が起ったのかと|尋《たず》ねました。私は息がつけないので説明もせず、ジラーを家に引っぱって来てリントンを捜しました。アンショーが自分のひき起した|禍《わざわい》を調べに来て、病人を二階に運んで行ったのでした。ジラーと私とはその後から登って行きましたが、階段の上でアンショーは私をとめ、はいってはならぬ、家に帰らなくてはいけないと言うのです。私は、あなたがリントンを殺したのです、どうしてもはいります、と叫びました。ジョウゼフはドアの|鍵《かぎ》を下して、私にそんなばかなまねをしてはならぬと申し渡し、私もあの人と同様に狂人に生れついたのかなどと言いました。私は泣きながら立っているとジラーが出て来て、あの人はじきによくなるけれどその叫び声と大騒ぎにたえられないのですと言って、私をつれてほとんど抱えるようにして下の居間へ引っぱって来ました。
エレンや、私は頭から髪の毛をむしりとろうとしたわ! 私は泣いて泣いて目がほとんど|盲《めくら》になりました。そしてお前があんなに同情してやったごろつきは向う側に立って、おりおり私にだまれと言ったりして自分のせいではないと否認するのです。しまいに私はパパに言いつけて、|牢《ろう》|屋《や》の中に入れて首をくくらせてもらうとおどしたので、しくしく泣きだして、その|卑怯《ひきょう》な泣顔をかくすため急いで逃げてしまったわ。それでもまだ私はあの男をやっかい払いしなかったのよ。とうとう私はみんなからむりやり帰らされて、屋敷から何百ヤードかの所へ来たとき、あの男は|路《ろ》|傍《ぼう》の物かげから突然現われて、ミニーを抑えて私を止めました。
『キャサリンお嬢様、私はひどくすまないと思っています』と言い出して、『だがあれはあんまりひどいじゃないか――』
私はたぶん殺されると思ったので|鞭《むち》でいきなりあの人を打ったわ。あの人は例の恐ろしいののしりの言葉を叫んで私を放したので、私はまるで夢中で馬をとばして帰って来ました。
その晩私はお前におやすみを言わなかったの。そして次の晩はやはりひどく行きたかったけれど、私はワザリング・ハイツに行きませんでした。しかし奇妙に興奮して、リントンが死んだという知らせがいつ来ないとも限らないように思ったり、ヘアトンと出会ったときのことを思って|身《み》|慄《ぶる》いしたりしました。そのまた次の日はとても|懸《け》|念《ねん》に|堪《た》えかねて、元気を出してもう一度こっそり出かけました。五時に歩いて出かけたのです。それは見とがめられずにあの家に忍び込んでリントンの部屋に上って行けるかも知れないと思ったからなのよ。けれど私が近づくと犬が|吠《ほ》えちゃったの。ジラーが出迎えてくれて、坊ちゃんはたいそうよくなったと言って、小さなきれいな、そして|絨毯《じゅうたん》を敷いた部屋に案内しました。そこにリントンが小さなソファに寝て私の貸してやった本を読んでいたので、私はそれを見てとても言葉で言えないほど|嬉《うれ》しかったわ。けれど、まあエレンや、あの人はまる一時間じゅう話もしなければ私を見ようともしないのよ。それほど不幸な気質なのね。それに驚いたことには、あの人が口を開いたとき、ありもしないことを言うのよ。私が一昨日の騒ぎを起したんですとさ。そしてヘアトンは何も悪くないんですってさ! 答えれば私は腹が立つばかりなので、その部屋から出てしまいました。その後からあの人はかすかな声で『キャサリン』と言いましたっけ。あの人は私の方でそうした出ようをするとは思いがけなかったようなの。でも私は|戻《もど》りませんでした。そしてその翌日は家で暮した二度目の晩で、もう二度とあの人を訪ねてやらないと決心を固めかけたぐらいでしたけれど、そのまま寝て、また起きて、そして何もあの人の便りも聞かないことはあんまり寂しく悲しかったので、せっかくの決心もちゃんと固まらないうちに消えてなくなってしまったの。前にはあそこへ行くのが悪いことのように思われたのに、今では行かないと悪いように思われました。マイクルが来て、ミニーに|鞍《くら》を|仕《し》|度《たく》しましょうかと言うので、私は『ええ』と答え、やがてミニーが私を乗せて丘を越えたとき、私は義務を果しているように思いました。中庭へ行くには表の窓の前を通らなければなりませんでしたので、見つかるまいとしてもだめでした。
『坊ちゃまは居間にいらっしゃいます』ジラーは私が客間の方へ行こうとするのを見て言いました。アンショーもそこにいましたがすぐ部屋から出て行きました。リントンは大きな|肱《ひじ》|掛《かけ》|椅《い》|子《す》にすわってうとうとしていました。私は|煖《だん》|炉《ろ》の方へ行って、まじめな口調で、そして心の中でもなかば本気で言いました――
『リントン、あなたは私を好かないのですから、そして私がわざわざあなたを苦しめに来るように思って、いつもそんなふうに言っていますから、もう今晩きりでお目にかかりません。お互いにさようならを言いましょうよ。そしてあなたのお父様に、あなたは私に会いたくないと申し上げて、そのことについてあの人が二度とでたらめを言わないようにしておいて下さい』
『キャサリン、すわって帽子をお取りなさい』とあの人は答えて『あなたは僕よりずっと幸福なんだから僕よりも心が|優《やさ》しくなくてはならないと思う。パパはひどく僕の悪口を言って、ひどく|軽《けい》|蔑《べつ》するので、僕は自分でもそうかしらと自然に思うようになるんです。僕は時々お父さんが言うほどに全く何の役にも立たない人間かどうかと自分で疑うのです。そうするとひどく|癇癪《かんしゃく》が起って心がいらいらして来て、誰でも嫌いになるんです! 僕は実際やくざで、|大《たい》|概《がい》いつでも気質もよくないし元気もよくない。それで、もしお望みならばあなたはさようならをおっしゃるがいいでしょう。やっかい払いをなさるがいいです。けれども、ただこれだけ僕の言い分も信じておいて下さい。もし僕があなたのように優しく親切でおとなしくなることができれば、僕だってそうしたいんだ。それは僕があなたのように幸福に健康になりたいと思うより以上なんだ。そしてあなたが親切にして下すったので、僕はあなたの愛に相当する以上深くあなたを愛しているんだ。僕の性質をあなたに見せずにおくことはできなかったし、またいつだってできないことだろうが、しかし僕はそのことを残念に思って後悔している。死ぬまで後悔することだろう!』
この人はほんとうのことを言っているのだ、|赦《ゆる》してあげなければならないと私は感じました。すぐにまたこの人がいさかいを始めても、私は赦してあげなくてはならない。そう思ったの。そこで私たちは仲直りをしたけれど、その晩は私がいる間じゅう二人とも泣きました。悲しかったためばかりではないのよ。でも私はリントンがそんなひねくれた性質を持っていることが悲しかったのです。あの人はけっして友達を気楽にさせないでしょう。そして自分でもけっして気楽なことはありますまい!
私はその晩以来いつもあの人の小さな居間に行きました。あの人のお父様が翌日帰ったからなのよ。三回ほど、私たちは最初の晩のように|愉《ゆ》|快《かい》でした。そのほかの晩はいつ訪ねて行っても殺風景でそれにやっかいでした――あるときはあの人のわがままと意地わるとのため、またあるときはあの人の病気のためでした。でも私はあの人のわがままやひねくれ根性をも病気と同じように我慢してやるようになりました。ヒースクリフさんはわざと私に会わないようにしていました。ほとんど一度も見えなかったわ。こないだの日曜にいつもより早く行ったとき、ヒースクリフさんがかわいそうにリントンを、昨晩の仕打ちがいけないと言って、残酷にののしっているのが聞えました。立ち聞きでもしていたのでなければ、ヒースクリフさんは昨晩のことを知るはずがないわ。たしかにリントンはその前の晩私に意地わるをしたのだけれど、それは私以外には誰もかれこれ言わなくともいいことなんです。それで私ははいって行ってヒースクリフさんのお談義をじゃましてそう言ってやりました。ヒースクリフさんは大笑いして、私がそのことをそのように思っていてくれればありがたいと言って、出て行ってしまいました。それ以来、私に意地わるを言う時には小さな声で言うようにと、私はリントンに注意してやりました。
エレンや、これですっかり話してあげたのよ。それで私はワザリング・ハイツへ行くことを止めるわけにはいかないわ。私たち二人がみじめになるんだもの。それに、お前がパパに告げないでおいてさえくれれば、私があすこへ行ったって誰の平和を乱すこともないのよ。お前はまさか告げないでしょう? そんなことをすればずいぶん不人情よ」
「お嬢様、私は明日までにその点について決心をいたしましょう」と私は答えて、「それはとくと考えてみる必要があります。それであなたにお休みをして、私は行って考えましょう」
私はご主人の前でそのことを口に出してとくと考えました。つまり、まっすぐにその足でご主人の室に行ってそのことをのこらず申し上げてしまったのです。ただしキャシーとリントンとの会話や、ヘアトンに関する|事《こと》|柄《がら》だけは省きました。リントン様は私に礼を言うよりもまずおどろいて心配してしまいました。翌朝キャサリンは私が信頼にそむいて裏切ったことを知り、秘密の訪問もこれでおしまいだと|覚《さと》ったのです。禁止に対して泣いてもがいたのですが|無《む》|駄《だ》でした。せめてリントンを|憐《あわれ》んで下さいとお父様に嘆願したのですが、ご主人はただリントンが来たい時にグレンジに来てもよろしいという許しの手紙を書こうと約束なすっただけでした。ただしリントンはワザリング・ハイツで今後キャサリンに会おうと思ってはならないと言うこともその手紙に書くとのことでした。もしご主人が|甥《おい》の気質と健康状態とをご存知でしたならば、このわずかばかりの気休めさえ与えない方がよいとお思い遊ばしたでしょうに。
二五
ただ今の出来事は昨年の冬に起ったことでございますのよ。――とディーンさんは言うのである。――まる一年たつかたたないのです。昨年の冬には、一年のちに私がよそのおかたをこの家にお迎えしてその事をお話し申し上げようなどとは思いもよらないことでした。でもあなたはいつまでもよそのおかたか知ら? あなたはおひとりで暮していつも満足していらっしゃるにはあまりお若いようです。そして私の想像では、誰でもキャサリン・リントンを見たらあの人を愛せずにはいられますまい。おや、あなたは笑っていらっしゃいますね。でも私があの人の事を話すと、あなたは大変元気が出て熱心にお聞きなさるのはなぜですの? あなたのお部屋の|炉《ろ》|棚《だな》の上にあの人の肖像をかけておくようにおっしゃったのはなぜですの? そしてまたなぜ――?
「よして下さいよ!」僕は叫んで、「僕があの人に|惚《ほ》れこむことは全くありそうな話ですよ。だがあの人は僕に惚れるでしょうか? どうもその点はひどく心もとないから、僕はそんな|誘《ゆう》|惑《わく》にはまりこんで僕の心の平静を乱す気にはなりませんよ。それに僕の家はここじゃないんですからね。僕は|忙《いそが》しい世界の人間で、その手もとに帰らなくてはならないんですよ。この先を話して下さい。キャサリンは父親の命令に従いましたか?」
「従いましたよ」と家政婦は話を続けた。――あの人がお父様にたいする愛情はあの人の心の中でやはり一番強い感情でした。それにご主人は怒らずにお話しなすったのです。ご自分の大切なたから娘を危険と敵とのまん中に|遺《のこ》そうとする人の、深い|優《やさ》しみの心でお話しなすったのでした。この言葉の思い出だけが父として娘を導くために遺し得る|唯《ゆい》|一《いつ》の助力であろうと、お思いになったのでしょう。ご主人は数日後に私におっしゃいました――
「エレンや、私は|甥《おい》が手紙を書いてくれるか、訪ねてくれるかして欲しいと思う。お前、腹を割って打明けてくれないか、あれのことをどう思うかい? あれはよくなったろうか? それとも|大人《お と な》になってよくなる見込みがあるだろうか?」
「あのかたはひどくお弱いようでございますよ」と私はお答えして、「そしてどうも無事に大人になれそうにもありません。けれどもあの人は父親には似ていないということだけは確かに申し上げることができます。そしてもしキャサリンお嬢様が不幸にもあの人と結婚することになりましたなら、お嬢様がばかばかしいほどひどく甘やかすのでなければ、あの人はとうていお嬢様の手におえないなんてことはありますまい。でも|旦《だん》|那《な》様、まだあの人を親しく知って、あの人がお嬢様とお似合いになるかどうか見定めるときが十分にございましょう。あの人が成年に達するまでまだ四年以上もございますもの」
エドガーは嘆息しました。そして窓ぎわに行ってギマトンの教会の方をご覧になりました。それは霧の午後でしたが、二月の太陽は光りうすく輝いて、教会のお墓場の二本のモミの木とまばらに散らばった墓石とをやっと見ることができました。
ご主人はなかば|独《ひと》り|言《ごと》のようにおっしゃいました。「私は来たるべき運命が早く来てくれるといいとたびたび祈ったものだ。だが今ではそれを怖れて逃げようとしている。私が|花《はな》|婿《むこ》としてあの谷に降りて行った時の思い出よりも、もうじき五、六か月経てば、いやたぶん五、六週間もたてばあすこに運ばれてあの|淋《さみ》しい穴に埋められることを思う方が、|快《こころよ》いように思っていたのだった! エレンや、私の小さなキャシーと一緒に暮してきたことは大変幸福だった。冬の夜も夏の日も、あの子は私の|傍《そば》で生ける希望だった。しかし私はあの古い教会堂の影で、六月の長い夕を、あの子の母親の墓場の緑の土まんじゅうの上に寝ながら、あの多くの墓石の間でひとり思い出にふけり、早く私もこの下に横たわりたいとあこがれたものだった。しかし私はキャシーのために何をしてやれるだろう? どうして私はあれを手放したものだろう? あのリントンがヒースクリフの子だからと言って私はちっともかまわない。もしあの子が私の代りにキャシーをなぐさめてくれることができれば、あれが私の手元からキャシーを取って行ったとてちっともかまわない。またヒースクリフが目的を果して、私の最後の祝福を奪い取って|凱《がい》|歌《か》を奏したとてかまわない! けれどもリントンがやくざ者であったら、あれの父親の弱い|傀《かい》|儡《らい》にすぎなかったら、そしたら私はキャシーをあれにやることはできない! キャシーのうきうきした心を圧しつぶすことはつらいだろうが、私の息のあるかぎりはあれに悲しい思いをさせなければならぬ。そして私が死んだ時にあれをひとりぼっちで残さねばならぬ。かわいい子! 私はむしろあの子を神様の手にゆだねて、私が死ぬ前にあの子を土に埋めたい」
「このままで神様にお嬢様をおまかせなさいまし」と私は答えて、「そんなことは万々ないようにお祈りいたしますが、神様の摂理で万が一にも|旦《だん》|那《な》様がもしものことがございましても、私がお嬢様の味方になって最後までご助力いたしましょう。キャサリンお嬢様は善良なおかたです。故意に悪いことをなさる気づかいはございません、そして義務をつくす人々はいつでも結局は報いられます」
春も盛りになりましたが、ご主人はお嬢様を連れてお庭を散歩するようにはなりましたけれど、まだほんとうの健康を回復なさいませんでした。お嬢様のまだ若い考えでは、これだけでもうご本復と思ったのです。そしてキャシーの|頬《ほお》は血色をおび、目は輝きました。お父様のご病気は確かに治ったものと思ったのです。
キャシーの十七回の誕生日に、ご主人は墓参をなさいませんでした。雨降りだったのです。私が、「旦那様、今日はお出かけ遊ばさないでしょうね?」と申し上げますと、
「うん、今年はもう少し延ばそう」とおっしゃいました。
エドガー・リントン様はリントンにぜひ会いたいと、手紙をまたお書きなさいました。そしてもし病人が来られるなら、あれの父親はあの子をここに来ることを許したでしょう。しかし実際は、父親から教えられてリントンがよこした返事に書いてありましたことは、父がグレンジに訪ねて行くことを許さないけれど、|伯《お》|父《じ》様のご親切なお言葉を|嬉《うれ》しく思いますということ、そしていつか散歩のついでに伯父様にお目にかかって、自分といとこと二人が長い間今のように全然離れていることのないように、じきじきにお願いしたいと思っている、というようなことでした。
そこまではその手紙は単純で、おそらく自分で書いたものでしょう。ヒースクリフは自分の子供がキャサリンに会いたいと願うことにかけては雄弁になれることを知っていました。その次に書いてあったことは、こうなのです。――
「私はキャサリンがここへ来てくれるようにとは申し上げません。けれども私の父が私にそちらへ行くことを禁じ、伯父様はキャサリンにこちらへ来るのを禁じなさるので、私は一生キャサリンと会えないのでしょうか? どうぞ時々キャサリンを連れてハイツの方へ馬でお出かけ下さい。そして伯父様の前で私たち二人に言葉を交さして下さい! 私たちはこんなに離れていなくてはならないようなことは何もいたしませんでした。伯父様は私に対して怒っていらっしゃいませんし、べつに私をお嫌いなさる理由もないと思います。おなつかしい伯父様! 明日お手紙を下さいませ。そしてスラシクロス・グレンジ以外のどこでもお好きな場所で私に会ってやると書いて下さい。お会い下されば私が父親の性格と違うことがおわかりなさると思います。父は私を父の子というよりはむしろ伯父様の|甥《おい》だと申しております。そしてたとえ私がキャサリンと似合わないような欠点を持っていたとしても、キャサリンはそれらを大目に見てくれるでしょう。そしてキャサリンのために伯父様もまたそうして下さるでしょうと思います。私の健康についてお|尋《たず》ね下さいましたが、今は大分よろしゅうございます。しかしあらゆる希望を断たれ、孤独にされ、あるいは私をいつも嫌ってばかりいる人たちと一緒にいねばならないとしたら、どうして私は快活にそして健康になることができましょう?」
エドガーは、少年には同情なさいましたけれど、キャサリンを連れて行くことはできませんでしたから、その願いを|承諾《しょうだく》なさいませんでした。夏にでもなったら会おうと書いてやりました。家庭でつらい位置にあることをよく知っているから、おりおりに手紙を書いてよこすがよい、そうすれば手紙でできるだけの助言となぐさめの言葉を書いてあげようとも言っておやりになりました。リントンは伯父の言葉に従いました。でも放任しておいたら、手紙にさんざん不平や泣言をならべて何もかも台なしにしてしまったかも知れません。しかし父親が鋭くあの子を監視していました。そしてもちろん私のご主人が書いてあげる手紙をことごとく見せるようにと申し渡したのでした。それで自分自身の苦悩や、いつもまっ先に考えている|事《こと》|柄《がら》を筆にせずに、自分の味方で愛する人から離されているつらいさだめをくどくどと書いてよこしました。また伯父様は自分にぜひ近いうちに会って下さらねばならぬ、さもなければ伯父様が実のない約束をして故意に自分をだましたと思わなくてはならない、という意味を穏やかに言ってよこしました。
グレンジの家ではキャシーがリントンの有力な味方でした。この二人がとうとうご主人を説きつけて、一週間に一度私の監督の|下《もと》にグレンジに一番ちかい野原で一緒に散歩したり馬で出かけたりすることを|承諾《しょうだく》させました。六月になってもまだご主人は病気が思わしくなかったのです。毎年ご自分の収入の幾分をお嬢様の財産にしようと貯蓄していらっしゃいましたが、ご主人はキャシーが先祖代々のこの家を所有し――あるいは少なくともしばらくたってこの家に|戻《もど》って来るように望んでいらしたことは自然の情でした。それでそのようになる|唯《ゆい》|一《いつ》の見込みはヒースクリフの相続人と結婚することでした。ご主人はヒースクリフの子供がほとんどご自分と同様に急速にからだが衰えているとはご存知なかったのです。誰だって知らなかったことでしょう。医者は一度もハイツに来ませんでしたし、また私たちのうち誰もあの子に会ってその容体を知らせる者がなかったからです。私さえ以前のわるい予測が間違っていたと思うようになりました。あの子が沼地の野原に歩くなり馬に乗るなりしてやって来て、それほど熱心に目的を遂げようとするからには、きっとほんとうに健康を回復したに相違ないと思ったのです。私は後にヒースクリフがその子に対してしたことがわかったのですが、父親があのように|瀕《ひん》|死《し》の息子に対して、|暴虐無道《ぼうぎゃくむどう》の仕打ちをして無理矢理にこんな熱心をよそおわせたことは、とうてい想像もできませんでした。ヒースクリフは自分の|貪《どん》|欲《よく》で無情な計画が息子の死によって水の|泡《あわ》になるのを心配して、いよいよ急激に努力を倍加したのでした。
二六
夏も盛りをすぎたころ、エドガーは両人の懇願をしぶしぶ承諾し、キャサリンと私とは初めて一緒にヒースクリフの息子と会いに馬で出かけました。息づまるようなむし暑い日でした。日は照りませんでしたが、空には雲がまだらで|靄《もや》がかかり、雨になりそうな模様はありませんでした。私たちの会う場所は十字路のしるべの石標の所に決めてありました。しかしそこについてみると、使いによこされた小さな牧童が私たちに言いました――
「リントン坊ちゃんは、ハイツのじきこっち側にいます。それで、も少し向うへ行って会って下さると大変ありがたいって話してましたよ」
「それではリントン坊ちゃんは|伯《お》|父《じ》様の最初の命令を忘れています」と私は言って、「エドガー様はグレンジの土地で会うようにと私たちにおっしゃいました。ここから向うへ行けばもうグレンジの領分ではありません」
「そうだね、私たちがあの人のところへ着いたら、ぐるりと馬を返しましょう」キャシーは答えて、「そして私の家の方へ散歩して来ればいいわ」と言うのです。
しかし私たちがあの子のところへ着いて見ますと、そこはヒースクリフの家から四分の一マイルもないところで、あの子は馬に乗っていませんでしたので、私たちはやむなく馬から降りて、私たちの馬に草を食わせておかねばなりませんでした。あの子は草原に寝ころんで、私たちの来るのを待っていましたが、数ヤード近くに行くまで起き上りませんでした。それからあの子はひどく弱々しく歩き、顔色がまっ青でしたので、私はすぐに叫びました――
「おやまあ、ヒースクリフの坊ちゃん、あなたは|今《け》|朝《さ》散歩などなさるどころではありません。まあなんてわるい顔色でしょう」
キャサリンは悲しみ驚いていとこを見ました。口に出かかった喜びの叫びがおどろきのそれに変りました。しばらくぶりで会った喜びが、心配な見舞いの言葉になって、いつもよりも容体が悪いのかどうかと|尋《たず》ねました。
「いや――いいんだ――いいんだよ」とあの子はふるえながらあえいで、支えてもらうようにキャシーの手につかまりながら、大きな青い目でおずおずとキャシーを見るのでした。その目の周りの|窪《くぼ》みはかつて持っていた|物《もの》|憂《う》い表情を|憔悴《しょうすい》した|凄《すご》|味《み》に変じていました。
「でもあなたはよくないようよ」とキャシーは主張して、「この前にお目にかかった時よりも悪いようよ。ずっとやせて、それに――」
「僕は疲れてるんだ」とリントンはすぐさまさえぎって、「あまり暑くって歩かれないや。ここで休もうよ。それに朝になると僕は気分のよくないことがよくあるんだ。――お父さんは僕があんまり早く成長するからだと言っているよ」
キャシーはしかたがなくすわったので、リントンはその側によりかかりました。
「ここはあなたの極楽とちょっと似てるじゃありませんか」とキャシーは快活になろうと努力しながら言って、
「めいめいが一番|愉《ゆ》|快《かい》だと思う場所で、こうしたなら極楽だというようにして、それぞれ二日遊びましょうと相談がまとまったことをあなたは覚えていて? 今日のはまああなたの分ですね。ただ雲があるけれど、大変軟らかで感じのいい雲ですわ。日が照っているよりかえっていいわ。来週はもしあなたができるなら、グレンジの|猟苑《りょうえん》に馬で出かけて、私の極楽を試してみようではありませんか」
リントンはキャシーの言ったことを記憶していないように見えました。それに話をしていることがひどく苦しそうでした。キャシーの話し出したことに全然興味を持たず、とてもキャシーと一緒に楽しむことができないことは明白でしたので、キャシーは失望の色を隠すことができませんでした。リントンのからだにも様子にも何かしら以前と変りはてた所がありました。かわいがれば甘えたそうなすねた態度は、気乗りのしないような無感覚に変っていました。なだめられたさにわざとふくれる子供のような|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》は影をひそめ、なくなって、|長患《ながわずら》いの病人の、自分のことにばかり夢中の気むずかし屋になって、他人の|慰《なぐさ》めをうるさがり、他人の快活な上機嫌を|侮辱《ぶじょく》と思うようになったらしいのです。リントンが私たちと無理に一緒にいることを満足と思うよりも、むしろ刑罰のように感じている様子を、私だけでなしにキャシーもまた気がついたのでした。そこでキャシーは間もなく帰ろうと遠慮なしに申し出たのでした。しかしこの申し出は意外にもリントンをぼんやりした状態から|覚《かく》|醒《せい》させ、奇妙な興奮状態に導きました。リントンは何か|怖《お》じるようにハイツの方を|眺《なが》めながら、「もう半時間でもいいからここにおって下さい」とキャシーに願うのでした。
「でもあなたはここですわってらっしゃるよりも、お家にいらした方がずっと楽だと思うわ」とキャシーはいって、「今日は私、お話をしたり、歌を歌ったり、おしゃべりをしたりなんかして、あなたを喜ばしてあげることができないわよ。この半年で、あなたの方が私よりかも賢くおなりになったんですもの。私の気晴しなんぞ、もうおもしろくないでしょう。そうでなくて、私にあなたをたのしますことができるなら、私は喜んでここにいましょうけれど」
「ここにいて休んでいて下さい」とリントンは答えて、「そしてねキャサリン、私がひどく重い病気になっていると思ったり言ったりしてはいけないよ。天気が重苦しくて暑いもんで僕は弱っているんだ。あなたが来る前に僕はひとりでずいぶん歩いたんだよ。僕はそうとう健康なんだから、|伯《お》|父《じ》さんにそう言っておくれね?」
「ええ、あなたがそう言っていたと私は父に申しましょう。私はとてもそうは思えないわ」と私のお嬢様は、少年がわかりきった|嘘《うそ》を|頑《がん》|固《こ》に言い張ることを怪しみながら言いました。
「そしてまた来週の木曜ここに来て下さい」とリントンはキャシーのまぶしい目を避けながら言葉を続けて、「そしてあなたにここに来ることを許して下すったことに対して、伯父さんにくれぐれもお礼を申し上げて下さい。そして――そしてもしあなたが私の父に会ったら、そして父があなたに私のことを|尋《たず》ねたら、私がひどく黙りこんでぼんやりしていたと私の父に思わせないようにして下さい。今のあなたのようにして、黙ってふさぎこんでいちゃいけません――父は怒るだろうから」――
「あなたのお父さんが怒ったって私なんともありゃしないことよ」とキャシーは自分がヒースクリフから怒られるのかと思って大声で言いました。
「でも僕はこわいよ」とリントンはおびえながら言って、「キャサリン、父を僕に対して怒らせちゃいけないよ。とてもきびしいんだから」
「ヒースクリフの坊ちゃん、お父さんがあなたにきびしいんですって?」と私は尋ねました。「あまやかしておくことがいやになったんですね。憎しみが消極から積極へ変って行ったんですね?」
リントンは私を見つめましたが答えませんでした。キャシーはもう十分間リントンの側にすわっていましたが、その間リントンの頭は眠そうに胸に垂れ下り、疲労のためか苦痛のためか小さなうなり声をおさえきれずにもらすほかは何も言いませんでした。それからキャシーは退屈まぎれに|藪《やぶ》の小さな木の実をさがし出して、それを私に分けてくれました。しかしリントンにはそれをやりませんでした。これ以上相手になっては、かえってリントンを疲らせ苦しめるばかりと思ったからです。
「もう三十分になりますか? エレン」とキャシーはとうとう私の耳にささやきました。「ここにいねばならないわけが私にはわからないわ。あの人は眠っているし、お父様は私たちの帰りを待っていらっしゃるでしょうしね」
「ええ、でもその人を眠ってるままにして私たちは帰るわけにはいまきせん」と私は答えて、「目が|覚《さ》めるまで待ちましょう。我慢していらっしゃい。あなたはひどく熱心に来たがっておいででしたが、あなたがリントンに会いたいあこがれはじきに発散してしまいましたね!」
「何だってこの人は私に会いたがったんでしょう?」とキャサリンは答えて、「以前に一番|機《き》|嫌《げん》のわるいときだって、今のこの人の奇妙な気分よりはよかったわ。今日会ったのは、この人のお父さんから|叱《しか》られるのがこわさに無理やりに、強制された仕事のようだわ。でも私は、ヒースクリフさんがリントンになぜこんないたいたしいことを命じたのか知らないけれど、ヒースクリフさんを喜ばすためになんぞ来るつもりはないのよ。この人の健康が前より回復したのは|嬉《うれ》しいけれど、この人は以前のように喜ばないし、私に対してもずっと愛情が無くなったようなのでつまらないわ」
「この人の健康が前よりも回復していますって?」と私は言いました。
「ええ」とキャシーは答えて、「なぜなら私がいつか話してあげたように、この人はしじゅうひどく苦しがったものよ。パパに伝えてくれとこの人が言ったほどにそうとう丈夫になったとはいえないけれど、前よりはよくなったらしいわ」
「お嬢様、私はその点であなたと違いますよ。この人は前よりかずっと悪くなったように思われてなりません」
リントンはこのとき誰かに名前を呼ばれたかのように、おどおどしながら居眠りからはっと目を覚しました。
「いいえ」とキャサリンは言って、「呼びはしなくってよ、夢でしょう。あなたはどうしてまあ朝っぱらから家の外で居眠りなんかできるのかしら」
「僕の父が呼んだように思ったんだよ」とリントンは向うの丘の頂をちらと見上げながら、あえぐように言いました。「ほんとうに誰も呼びやしなかったかえ?」
「ほんとうですとも」キャシーは答えて、「ただエレンと私とがあなたの健康について議論をしていたのよ。あなたはほんとうに、私たちが冬に別れたときよりもお達者になって? もしそうなら、一つのことは確かに以前よりも弱くなってよ。それは私に対するあなたの心よ。そうでしょう?」
「いや、いや、強くなっているよ!」と答えて、リントンの両眼から涙が流れました。それでもまだ何か声が聞えるような気がするらしく、その声の主を見きわめようとしてあちこちきょときょと見まわすのでした。キャシーは立ち上って言いました。「今日はお別れしなくてはなりません。正直に申しますけど、私今日はひどく失望してしまいました。あなた以外には誰にもそんなことを申しませんけれど。そうは言っても私はヒースクリフさんを恐れるわけではないのよ」
「静かに」とリントンは小声で、「|後生《ごしょう》だから静かに! 父さんがやって来る」と言ってキャサリンを引き止めようとして、その腕にしがみつきました。しかしそう言われるとキャサリンは急いでリントンを離して口笛を鳴らしてミニーを呼びますと、小馬は犬のようにその言いつけに従いました。
「次の木曜日にここへ来ましょう」とキャサリンは|鞍《くら》の上に飛び上りながら大声で言いました。「さよなら。早くってば、エレン!」
こうして私たちはあの子と別れて来ました。あの子は父親が近づいて来ることばかり思って気を取られ、私たちが去ったことにはほとんど気がつかない様子でした。
私たちが家に着かないうちに、キャサリンの不快な気持はよほど緩和されて、リントンのからだやまた自分に対する友情などについてぼんやりした不安な疑念を抱くとともに、|憐《れん》|憫《びん》と後悔との混りあった感じが起るのでした。このつぎ行ってみればはっきりわかることですから、今はあんまり考えずにおおきなさいと、私はキャサリンに忠告したのでしたが、その私もやはり同じような感じがいたしました。ご主人は私たちからそのときの模様をおききになりました。|甥《おい》|御《ご》からの感謝のことづてはしかるべく伝えられました。その他のことについてはキャシー嬢様はあっさりとお話し申し上げました。私もまた何を隠し何を話せばよいのかわかりませんでしたので、ご主人の質問に対してはあまり詳しくお答えいたしませんでした。
二七
七日過ぎました。その間エドガー・リントンの病勢は毎日目に見えて急激に変ってゆきました。前に幾月もかかってなしとげられた破壊はいまや数時間の|侵蝕《しんしょく》に|匹《ひっ》|敵《てき》しました。それでも私たちはキャサリンをだましていました。しかし敏感なお嬢様はもうだまされてはいませんでした。その敏感な心はだんだん現実になろうとする恐るべき未来の|凶事《きょうじ》をひそかに予想し、そのことについて考え続けていました。木曜日が来ても馬に乗って出かけようと言い出す気になれないようでしたので、私はあの約束のことをお嬢様に申し上げて、ご主人にお嬢様を外に連れて出るお許しを願いました。ご主人は今では毎日ほんのわずかの間しか書斎にすわっていることができませんでしたが、その書斎とご主人の室とがお嬢様にとって全世界になっていたのです。お嬢様は|寸《すん》|陰《いん》を惜しんでお父様の|枕《まくら》もとに寄り添い、あるいはお父様の|傍《そば》にすわっていました。看病と悲しみで顔色も青ざめてきましたので、もっと|愉《ゆ》|快《かい》な場所で愉快な交際をしたらよかろうと、ご主人は喜んでお嬢様を外出させました。自分の死後もキャシーは全然ひとりぼっちにはなるまい、そう思ってご主人は自ら心を|慰《なぐさ》められたことでしょう。
ご主人のお考えでは、自分の|甥《おい》は自分と顔かたちが似ているので、心も自分と似ているだろう、と常々思っておいでのようでした。私はそれをたびたびのお言葉の端から察していました。リントン少年の手紙にはあの少年のいけない性質がほとんど何ら現われていませんでしたから、無理もないことでした。そして私もご主人の見当違いを正そうとはいたしかねました。それは私の|恕《ゆる》すべき心弱さからでした。私がご忠言申し上げたところで、それを用いる力も機会もご主人にはありますまいから、無益なことを申し上げて最後のお心を乱させたとて何になろうか、と私は思ったのです。
私たちは出かけるのを午後までのばしました。この上もない晴れた八月の午後でした。丘々から立ち昇るいぶきは生命にみちみちておりましたので、それを吸う者はたとい死にかかっていても生きかえるであろうと思われるほどでした。キャサリンの顔はちょうど景色と同じでした。つまり影と光とがすみやかに交替してその上をかすめました。しかし影の方が長い間とどまっていました。光の方はほんのちょっとの間だけでしたが、それでもかわいそうにキャシーの小さな心は、このわずかの間|憂《うれ》いを忘れることをさえやましく思うのでした。
若いリントンはこの前と同じ場所で待っていました。お嬢様は馬からおりて私に言いますには、今日はほんのちょっとの間しかここにいないつもりゆえ、お前は馬に乗ったまま私の小馬を押えているがいいとのことでした。しかし私は馬からおりました。私に託された大切な預り物のお嬢様を一刻たりとも目から放したくはなかったからです。で、私たちは一緒にヒースの繁った丘を登って行きました。ヒースクリフの坊ちゃんはこのたびは大元気で私たちを迎えました。しかしそれはほんとうにみちみちた元気ではなく、喜びの元気でもなく、元気にしなくては大変だと思う恐怖心からのように見うけられました。
「遅かったね!」とあの子は息苦しげに言いますには、「お父さんがひどくわるいんじゃない? 僕はあなたが来ないのかも知れないと思っていた」
「なぜあなたはもっとあからさまにものを言わないのでしょう?」とキャサリンはあいさつを抜きにして大声で言いますには、「あなたは私に会いたくないと、なぜまっすぐに言わないの? ねえリントン、あなたが二度目に私をここに呼び出したのは、わざわざ私たち両方を困らすためで、ほかに何の理由もなさそうだわ、ずいぶん変ね!」
リントンはぶるぶる|慄《ふる》えて、なかば嘆願するように、なかば恥じるような目つきでキャシーをちょっと見ましたが、キャシーの方ではこの|謎《なぞ》のような様子を解釈する余裕がないほどいらいらしていたのです。
「私のお父様はひどく悪いのよ」とキャシーは言って、「そしてなぜ私はお父様の病床のそばから離れてここへ呼び出されたのでしょう? 私が約束を守らなければいいとあなたは思っているくせに、なぜあなたは使をよこして、今日の約束はお流れにしようといってくれないの? さあ! 返答して下さいな。ふざけた、くだらない遊びごとは私の心からぜんぜん追い出されています。今はあなたの心にもない言葉にへいへい言ってお調子を合せることなんかもうまっぴらだわ!」
「僕の心にもない言葉」とリントンはぶつぶつ言いますには、「それは何のことです? |後生《ごしょう》だからキャサリン、そんなに怒らないでおくれ! 好きなだけ|軽《けい》|蔑《べつ》しておくれ。僕はやくざな|臆病者《おくびょうもの》だ。どんなに|辱《はずか》しめられても足りないくらいだ。だが僕はとてもあなたの怒りには値しないやくざ者だ。僕の父を憎んでおくれ。そして僕には怒らずに軽蔑しておくれ」
「あほくさ!」とキャサリンはすっかり怒って叫びました。「鈍つくのばか者! そしてまあこの人ったらぶるぶる|慄《ふる》えてるわ、まるで私がほんとうにこの人を打とうとでもしてるかのようね! リントン、あなたは軽蔑してくれなんて予約申し込みにはおよばないわ。その様子を見せられちゃ、誰だってあなたを軽蔑して差し上げるでしょうよ。お帰りなさいよ! 私は家に帰ります。あなたを炉ばたから引っぱり出して芝居するなんてばかげています――何の芝居をするんです? 私の着物をお放しったら。あなたが泣いたり怖がったりするのをもしも私が|憐《あわ》れんだりしたら、あなたはそんな|憐《れん》|憫《びん》を|蹴《け》とばしてはねつけるのがあたりまえよ。エレンや、こんなことをするのはどんなに恥ずべきことだかこの人に教えてやって|頂戴《ちょうだい》。さあ立って、地べたに|這《は》う|卑《いや》しいものの真似なんぞおよしなさいよ――およしったら」
リントンは顔を涙で泣き|濡《ぬ》らして、|苦《く》|悶《もん》の様子を表わしながら、ぐったり弱りきったからだを地べたに投げました。それは非常に恐怖心に駆られて縮み上っているようでした。
「おお! 僕はとてもたまらないよ!」とリントンはすすり泣きながら、「キャサリン、それに僕は裏切者なんだ。僕はこわくて言われないよ! だがあなたが僕を置き去りにすれば、僕は殺されるんだ! ねえキャサリン、僕の命はあなたの|掌《て》の中にあるんだよ。あなたは僕を愛していると言ったことがあるね。そんならあなたの害になることでもあるまい。ああ、行かないでくれるの? 親切な、|優《やさ》しいキャサリン! そしてあなたはたぶん|承諾《しょうだく》してくれるだろう――父は僕をあなたの|傍《そば》で死なせるつもりなんだ!」
お嬢様はリントンの激しい|苦《く》|悶《もん》を見て、起してやろうと身をかがめました。懐かしい思い出の感情が今の|癇癪《かんしゃく》をやわらげ、キャサリンは全く同情して心配し出しました。
「何を承諾するの? ここにとどまっていることなの?」とキャシーは尋ねて、「今の変な話の意味をお言いなさい。そうしたら私は一緒にいてあげるわ。あなたの様子は、言葉と矛盾してるものだから、私にはわけがわからないじゃないの! おちついて、あからさまに、あなたの胸を重苦しく圧しつけている|事《こと》|柄《がら》をすぐさまみんな打明けなさいな。あなたは私を危害にあわせたくないでしょう? もしもあなたがあらかじめ防げるならば、私を敵にいじめさせたくないでしょう? あなたはご自分に|臆病《おくびょう》なだけで、一番親しい友に対して臆病未練な裏切りをしたりしないだろうと私は思うわ」
「だって僕の父さんが僕を|脅《おど》すんだもの」と少年は|痩《や》せ細った指でこぶしを固めながら、息をはずませて言うのでした。
「そして僕は父さんがこわい――こわいんだ! どうしても言えないよ!」
「そんならいいわ!」とキャサリンはさげすむような|憐《あわ》れみをこめて言いました。「あなたの秘密をお守りなさいな。私はあなたみたいな臆病者とは違ってよ。自分だけ勝手に助かるがいいわ。私はこわくないから」
キャシーの寛大な態度はリントンに涙を催させました。あの子は|烈《はげ》しく泣きながら、キャシーの支えてくれる手にキスしましたが、それでも言う勇気がないのでした。私はその秘密が何であろうかと思案しましたが、私の好意がもとになって、この子なり他の者なりのために、キャサリンを苦しませるようなことがあってはならぬと決心しました。その時、|草《くさ》|叢《むら》がざわめく音を聞いて見上げますと、ヒースクリフさんが|嵐《あらし》が丘を下って私たちのすぐ近くに来ていたのでした。リントンのすすり泣きが私に聞えるほどでしたから、二人の若者は私からあまり離れておりませんでしたのに、ヒースクリフさんは二人の方には目もくれずに、あの人が私以外の人には誰に対しても用いないうちとけた口調で、私に言葉をかけました。私はその誠意を疑わずにいられませんでした。
「ネリー、私の家にこんな近い所でお前にあうなんて好いあんばいだ! グレンジではみなお変りはないかえ? 話しておくれ。|噂《うわさ》によると」と声をひそめて、「エドガー・リントンは臨終に近いそうだが、たぶん世間ではあの人の病気を大げさに言ってるんだろうね?」
「いいえ、ご主人はもうあぶないんです。ほんとうですよ」と私は答えて、「私たちみんなにとって悲しいことですが、あのかたにとってはお恵みでしょう!」
「どのくらいもつだろう? お前の考えでは」とあの人は尋ねました。
「わかりません」と私は申しました。
「なぜなら」とあの人は二人の若い者たちをじっと見つめながら言いました。リントンは頭を上げようにも上げかねていましたし、キャサリンはそのために動くことができませんでした。――「なぜならあすこにいる小僧は私のもくろみを水の|泡《あわ》にしてしまいそうだったんだ。それであいつの|伯《お》|父《じ》さんがあいつより先におさらばしてくれるのはありがたいことさ。おい! その小僧は長いことそんな真似をやってたのかい? 私はあの小僧に泣く|術《すべ》についても少しばかり教えこんでおいたんだ。あいつはリントンのお嬢さんとだいたい快活にお相手していたろうか?」
「快活に? いいえ、あの子はひどく苦しい様子でしたよ」と私は答えて、「あの子を見ると、この丘で恋人と歩きまわったりせずに、寝床について医者の手当を受けなくてはいけないと思いますね」
「一、二日|経《た》てばそうしてやろうよ」とヒースクリフはつぶやきました。それから大声で、「おいリントン、立て、立て! 地べたにへたばっていてはいけないよ。立て、とっとと立て!」
リントンはたぶん父親から|睨《にら》まれたからでしょう、またもややるせない恐怖にかられて泣いてへたばりました。ほかに何もそんなにこわがる理由がないのです。あの子は父の言葉に従おうと数回努力してみましたが、わずかな力はすっかりこの時には尽きてしまって、|唸《うな》りながらまた後に倒れてしまいました。ヒースクリフさんは歩みよって息子を抱きあげ、芝土の高まったところによりかからせました。
「さあ」と父親は荒っぽい心を押えて言いました。「そろそろ私は腹が立ってきたぞ。お前の|意《い》|気《く》|地《じ》なしの性根をしっかりさせないと――くたばっちまえ! さっさと立て!」
「立つよ、お父さん!」とあの子はあえいで「だけど僕をほっといて下さい。さもないと気を失いそうです。私はほんとうにお父さんの言ったとおりにしましたよ。私が快活だってことをキャサリンが受けあってくれますよ。ああキャサリン、僕の|傍《そば》にいておくれ。手を貸しておくれ」
「私の手を取れ」と父親は言って、「お前の足で立て。ほうら――お嬢さんが手を貸して下すった。それでよし。お嬢さんを見ていろ。リントンのお嬢さん。そんなにこわがって、あなたは私を悪魔か何ぞのように思っておいでですね。私の子供と一緒にどうぞ家まで来て下さいませんか? その子は私にさわられると身震いするんです」
「リントン!」とキャサリンはささやいて、「私はワザリング・ハイツに行くことはできないのよ。パパがいけないとおっしゃったんだもの。あなたのお父さんはあなたをどうもなさらないのに、何だってそんなにこわがるのです?」
「僕は二度と家にはいれないんだ」とあの子は答えて、「僕はあなたと一緒でなければ二度と家にはいれないことになっているんだ!」
「だまれ!」と父親はどなりました。「われわれはキャサリンの親孝行に感服する。ネリーや、そいつを連れて来ておくれ。お前の言葉にしたがってさっそく医者に見せよう」
「それがよござんしょう」と私は答えて、「でも私はお嬢様とご一緒にいなくてはなりません。あなたの坊ちゃんをお世話することは私の仕事ではありません」
「お前はずいぶん|頑《がん》|固《こ》だね!」とヒースクリフは言って、「それはわかってるさ――だが、私はお前が|憐《あわ》れみをおぼえる|隙《ひま》もなくその赤ん坊をつまみあげて泣かせるが、それでいいんだね、そんなら来い、大将。お前は私に守られて帰りたいんだな?」
父親はもう一度近よって、かよわい子をつかもうとしましたが、リントンは後しざりしていとこにしがみつき、気ちがいのように嘆願して、一緒に行ってくれるようにたのみますので、それにはどうしても拒絶ができませんでした。どんなに不賛成でも私はお嬢様を止めかねました。ましてお嬢様はどうしてそれが拒めましょう? 何があの子をそれほどこわがらせたか、私たちには見わけるすべもありませんでした。でも現にあの子は恐怖で力もなくなっていましたので、これ以上その恐怖をつのらせるとあの子はばかになってしまいかねないのでした。私たちは戸口に着いて、キャサリンは中に入り、病人を|椅《い》|子《す》へ連れて行くまで私は立って待っていました。じきに出てくると思ったのです。その時ヒースクリフさんが私を家の中に押し込んでどなりました――
「私の家は|厄病《やくびょう》にとりつかれているんじゃないぜ、ネリー。今日はひとつ、もてなしたいんだ。まあおすわり。戸をしめたっていいだろう」
あの人はドアを閉じてそれに|錠《じょう》を下しました。私はぎょっとしました。
「お前が家に帰らぬうちに、どうでもお茶をご|馳《ち》|走《そう》するよ」とヒースクリフは言葉をついで、「私は一人きりだ。ヘアトンは牛をひいてリーズの牧場に出かけたし、ジラーとジョウゼフとは|遊《ゆ》|山《さん》に行った。それで私は一人ぼっちには慣れているけれど、できるならばおもしろい話相手がほしいよ。リントンのお嬢さん、その子の|傍《そば》におすわりなさい。私の持っているものをあなたに差し上げます。受け取っていただく値打ちもたいしてない贈物ですが、ほかに差上げるものがないのです。というのはそのリントンのことです! 何だってそんなに|睨《にら》めるのです! 私をこわがるように見えるものに対して私がどんなに|凶暴《きょうぼう》な感情を抱くかは全く不思議なくらいだ。私がもし法律のやかましくない、そして趣味の上等でない国で生れていたら、その二人をゆっくり生体解剖にして、今晩の|慰《なぐさ》みに自分におごってやるだろうにな」
そう言って一息ついて、テーブルを打ち、|独《ひと》りごとのように、「くそ! しゃくな奴らだ」と悪態をつきました。
「あなたなんかこわくはないわ!」とキャサリンはこの独り言の方は聞き得ずに叫びました。
キャサリンは詰め寄りました。黒い目は激情と決心とできらめきました。「その|鍵《かぎ》を下さい――どうしても下さい! 私はたとえ|餓《が》|死《し》してもここで飲み食いはいたしません!」と言いました。
ヒースクリフはテーブルの上にあった鍵を自分の手に取りました。そしてお嬢様の大胆におどろいたらしく見上げました。あるいはたぶんこの娘の母親を思い出したのでしょう。声や目つきがそっくりでしたから。
キャサリンは鍵をつかみ、相手のゆるんだ指からほとんどそれをひったくりましたが、この|早《はや》|業《わざ》で相手はハッとわれに返って手早くその鍵を取り戻しました。
「さあ、キャサリン・リントン」とヒースクリフは言って、「離れておいで。そうしないと私はあなたを|殴《なぐ》り倒すよ。そしたらディーンさんは気ちがいになろうぜ」
そう言われてもかまわず、キャサリンはまたもや相手の握っている手とその中の鍵とをつかまえました。「私たちはどうしたって帰ります!」と繰返して、相手の鉄のような筋肉をゆるめようとできるだけやってみました。|爪《つめ》を立てても|利《き》き目がないので今度は歯でかなりひどく|咬《か》みつきました。私はヒースクリフからじろりと|睨《にら》まれてちょっと手出しができずにすくみました。相手の指にばかり気をとられていたキャサリンは顔の方には気がつきませんでした。ヒースクリフはパッと指を開いて、争いの目的物を放しましたが、一方がそれを取らぬうちに、空いた手でキャサリンをとらえて|膝《ひざ》|元《もと》に引っぱり寄せ、他方の手でお嬢様の頭の両側をめったやたら[#「めったやたら」に傍点]になぐりつけました。お嬢様の方でへこたれたならば、十分に|威《い》|嚇《かく》の効果があるはずの|打擲《ちょうちゃく》でしたけれど。
この悪鬼のような乱暴を見て私はいきなり男に飛びかかりました。「この悪者め! この悪者め!」と私は続けざまに叫びました。しかし脚を一突き突かれて言葉も出ませんでした。私は肥っているものですからじきに息切れがするのです。で、そのせいと怒ったせいとで目まいがして後ろへよろめき、息づまるかそれとも血管が破裂するかとばかり思われました。この騒ぎは二分間で終りました。キャサリンは放されて両手をこめかみにあて、耳が取れたのか付いているのか自分でもわからない様子でした。かわいそうにまるで|葦《あし》のようにふるえて、すっかり閉口してテーブルにもたれていました。
「私は子供の|折《せっ》|檻《かん》のしかたを知っているよ。どうだ、わかったか」とこの悪人は床に落ちていた|鍵《かぎ》を拾おうとかがみながら苦々しげに言いました。「さあ、リントンの|傍《そば》へ行って、好きなだけ泣くがいい。私は明日はあなたの父親になるんだよ。四、五日たてばあなたのひとりしかない父親になるのだろう。そうすりゃたんと|殴《なぐ》ってやるよ。なかなか我慢強い子だね。弱虫じゃないな。あんな悪魔みたいな|癇癪《かんしゃく》の目つきを二度としようものなら、毎日痛い思いを味わわしてあげるよ」
キャシーはリントンの傍へは行かずに、私の傍に走って来てひざまずき、その燃えるような|頬《ほお》を私の|膝《ひざ》にのせて激しく泣きました。リントンは|二十日鼠《はつかねずみ》のようにおとなしく|長《なが》|椅《い》|子《す》の|隅《すみ》にちぢこまって、殴られたのが自分でなくてよかったと思っている様子でした。ヒースクリフは私たちがみんな閉口しているのを見て立ち上り、手早く自分でお茶を入れ始めました。|茶《ちゃ》|碗《わん》を整えてお茶を注ぐとまず私にそれを渡して言いました。
「|機《き》|嫌《げん》を直してお前のやんちゃなお嬢様と私の|倅《せがれ》とにこれをやっておくれ。私が入れたのだけれど毒ははいっていないよ。私はお前たちの馬を|捜《さが》して来るから」
あの人が出て行ってから私たちがまず思ったのは、どこかやぶって出ることでした。台所の方の戸を押してみましたが、外から鍵がかかっていました。窓を見ましたが、どれもこれもキャシーの小さなからだすら通れないほど狭いのでした。
「リントン坊ちゃん」と私は全く監禁されているのを知って呼びかけました。「あなたはあの悪魔みたいなお父さんが何をするつもりなのか知っているでしょう。言わないと、さっきあなたのお父さんがやったように私があなたの|横《よこ》|面《つら》を|殴《なぐ》りますよ」
「そうよ、リントン、あなたは言わなくてはいけないわよ」とキャサリンも言って、「私が来たのはあなたのためよ、それを言わないなんて断わるならひどい恩知らずだわ」
「僕に少しお茶をおくれよ。のどが|渇《かわ》いちゃった。そしたら話すよ」と少年は答えて言いますよう、
「ディーンさん、離れておくれよ。そんな僕を見下して立っていちゃいやだよ。ああ、キャサリン、あなたは僕の|茶《ちゃ》|碗《わん》に涙を落したよ。僕はそれを飲まない。ほかのをおくれよ」
キャサリンは別のをリントンにやって、涙をふきました。この少年はもはや自分にとってこわいことがなくなったので、尊大な態度になって来て、私は憎らしくなりました。野原であんな苦闘していたのにこの家にはいるとたちまちけろりとしていました。私たちをここにうまく誘って来なかったなら、たぶんこの子はひどい目にあわすとおどかされていたのだろう、と私は察しました。それが巧くいったのでもはやさしあたって恐れることはなくなったのでしょう。
「パパは僕たちを結婚させたいんだよ」とお茶を少し|啜《すす》った後に言葉を続けて、「だけれどあなたのパパがいま僕たちを結婚させまいし、待っているうちに僕の方が死んでしまうといけないので、今日のうちに僕たちは結婚させられることになっているんだ。そしてあなたは今晩ここで泊るんだよ。あなたがパパの言うことをきけば、明日家に帰されるんだ。そのときは僕も一緒に連れて行くんだよ」
「あなたを一緒に連れて行くんですって? このちっぽけなちびさんを?」と私は叫んで、「あなたが結婚するんですって! まあとほうもない。あの人は気が狂っているのか、それとも私たちをみんなばかだと思っているのですね。そしてこのきれいな健康な強いお嬢さんが、お前さんみたいなちっぽけな死にかかっているお|猿《さる》さんと結婚すると思っているのですか? キャサリン・リントン嬢にかぎらず、誰だってあなたを夫にする人があるなどと、あなたは思っているのですか? |卑怯《ひきょう》にも空涙でだまして、私たちをここに連れて来るなんて、|鞭《むち》でぶってもいいくらいです。これ、そんなにばかみたいな顔をしないだっていいですよ。お前さんのけしからん裏切りとその低能くさい|自《うぬ》|惚《ぼ》れな考えに対して、私はお前さんをこっぴどくふり|廻《まわ》してやりたくてたまらないんだよ」
私はあの子の胸ぐらをとってちょっとゆすりますと、あの子は|咳《せき》をしはじめて、泣いたりわめいたり例の常習手段に訴えましたので、キャサリンは私をとがめました。
「今晩じゅう帰さないんですって? いいえ」と言ってお嬢様はゆっくりあたりを見まわしながら、「エレンや、私はその戸口を焼いてもぜひ出て行ってみせるわ」
そう言ってほんとうにこのおどし文句の実行に取りかかりそうでしたので、リントンは自分の身を気づかってびっくりして立ち上り、|啜《すす》り泣きながらかよわい腕でいとこを抱きしめました――
「僕と一緒になって、僕を助けてくれられないの? 僕をグレンジに行かしてくれないの? おお! キャサリン! あなたはどうしても僕を捨てて行っちゃいけない、僕のお父さんに従わなくてはならない、どうしても!」
「私は自分のお父様に従わなくてはならないわよ」と一方では答え、「そしてこんな残酷な気がかりから安心させてあげなくてはならないわ。一晩じゅうなんて! お父様はなんと思っておいででしょう? 今時分だってもう心配していらっしゃいましょう。静かになさい! あなたはもうこわいことはないわ。でも、もし私のじゃまをすると――いいの、リントン、私はあなたよりもパパを愛しているんだから!」
父親のヒースクリフの怒りに対する非常な恐怖心が、再びこの|臆病者《おくびょうもの》を雄弁にしました。キャサリンはほとんど狂わんばかりでしたが、それでもぜひ家に帰らねばならぬと主張して、自分の方で嘆願するようにして、いとこの勝手な|苦《く》|悶《もん》を静めるようになだめました。そうこうしている間に私たちの|牢《ろう》|番《ばん》が|戻《もど》って来ました。
「あなたがたの馬は行ってしまった」と言って、「これ、リントン! また泣いているのか? お前に誰かがどうかしたのか? さあ、さあ、泣くのはよして寝ろよ。もう一、二か月たてばお前だってこのお嬢さんの今の乱暴に強い手で仕返ししてやることができよう。お前はただ純潔な愛をもとめて焦がれているんだろう。そのほかのものはこの世界じゅうで何もいらないのだったね――私はどうしてもこのお嬢さんをお前と一緒にしてやるよ! さあ、寝床に! ジラーは今晩帰って来ないからお前は自分で着物をぬぎなさい。黙れ! 泣かずに静かにしろよ! 自分の部屋に引っ込んでしまえばもうこわがるに及ばない。ついでだがお前はかなりうまくやった。あとのことは私が引き受けてやるよ」
ヒースクリフは息子を通すために戸をあけてそのままおさえながらそう言いました。あの子はおずおずと出て行きましたが、ちょうどスパニエルが戸をあけてくれた人に意地わるく戸の間にはさまれはすまいかと、疑いながら出て行く姿と似ていました。|鍵《かぎ》は再びかけられました。ヒースクリフは私とお嬢様が黙って立っている炉ばたにやって来ました。キャサリンは見上げて本能的に手を|頬《ほお》へあげました。あの人が|傍《そば》に寄って来たので、さっきの痛い感じを思い出したのでしょう。誰だってこの子供らしい所作をとげとげしく|咎《とが》めだてするわけにはいきますまい。けれどもヒースクリフはいやな顔をしてにらめながらつぶやきました。
「おお、あなたは私をこわくないんだったね! あなたの勇気はうまく猫をかぶっているようだ。ひどくこわがっているように見えますよ!」
「私はいまほんとうに恐れています」とキャサリンは答えて、「もし私がここに泊れば、パパがかわいそうだからです。私にはパパを悲しませることはとても|堪《た》えがたいことです――いまパパは――ああパパは――ヒースクリフさん、どうぞ私を家に帰らして下さい! 私はリントンと結婚することを約束します。パパだってそうすることを喜ぶでしょうし、私はあの人を愛しているんですから。そして私が自分から進んでしようとすることを、あなたはなぜ私に|強《し》いるのですか?」
「強いるなら強いさしてごらんなさい!」と私は叫びました。「こんな|辺《へん》|鄙《ぴ》なところにいても、ありがたいことにはお国の法律がありますよ。この人が私の生みの子であっても、そんなことをするなら私は訴えてやります。牧師さんの特権によらないでそんなことをすれば重罪になりますよ」
「だまっといで!」とこの悪者は言いました。「騒ぐのはよしなよ! お前にしゃべってほしくはないよ。リントンのお嬢さん、あなたのお父さんが悲しがっていると思うのは私にとって実に痛快だ。うれしくてとても眠られないくらい、いい腹いせだ。そういうことを知らしてくれるのは、これから二十四時間私の家にあなたがたを泊めておくためにはこの上もない確かないい思いつきだよ。あなたがリントンと結婚するという約束はぜひとも守ってもらうようにしますよ。それをしとげないではこの家から帰しはしませんからね」
「そんならパパに私が安全なことを知らせるためにエレンを使いにやって下さい!」とキャサリンは激しく泣きながら言いますには、「そうでなければ今すぐ結婚させて下さい。かわいそうなパパ! エレンや、どうしたらいいでしょう。パパは私たちがいなくなったとお思いでしょうね」
「そうじゃないよ! あなたが看病にあきて、ちょっと遊びに逃げて行ったと思ってるだろうよ」とヒースクリフが答えました。「お父さんからいけないと命じられているのに、あなたは自分から進んで私の家にはいったのは確かなんだ。そしてあなたぐらいの|年《とし》|頃《ごろ》では遊びたいのも全くむりはないよ。そしてあなたは病人の看病がいやになるはずだ。その病人がたまたまあなたのお父さんであるだけのことさ。キャサリン、あなたがこの世に生れ出たときにお父さんの幸福な時代は終ってしまったのさ。お父さんはたぶんあなたがこの世に生れ出たことを|呪《のろ》っただろう。少なくとも私はそうだった。今度は自分が死ぬときにもう一度あなたを呪えばちょうどいいだろうさ。私もそうしたいものだね。私はあなたを愛しはしないよ! 愛したりしてたまるものか! しじゅう泣いてるがいい。私の思うところではそれがこれからあなたのおもな気晴しになるだろうて。リントンがあなたのお父さんの役を補わないかぎりはね。そしてあなたの|先《せん》|見《けん》の|明《めい》あるお父さんはリントンがあなたを幸福にすると思っていられるらしいね。あの人の忠告となぐさめとの手紙は私にとって大変おもしろかった。この世での終りにあの人は私の|宝子《たからご》にむかってあの人の宝子をよく世話してくれるようにとすすめている。そして結婚したら親切にしてくれるようにと言っておいでだ。よく世話して親切に――それは父親のすることだ! だがリントンはありったけの世話と親切とをまず自分のからだに残らずつくしてしまわなければならないんだ。リントンは小暴君の役割をよく演ずることができる。あの子は何匹の猫でもいじめることは引受けるだろう。|牙《きば》を抜いて|爪《つめ》を切ってさえおけばね。あなたがたが家に帰ったら、確かにあの子の親切についてほんとうに立派な話をあの子の|伯《お》|父《じ》さんに聞かせてあげることができるだろうよ」
「それは全くそのとおりですよ!」と私は言って、「あなたのお子さんの性質を説明し、あなたとよく似ていることを示してあげて下さい。そうすれば、キャシーお嬢様はあんな|毒《どく》|蛇《へび》みたいな者と結婚する前にとくと再考なさるがいいと思いますよ!」
「今あの子のお愛想のよい性質のことを言ったとて私はたいして気にかけないよ」とヒースクリフは答えて、「お嬢さんはあの子と結婚するか、さもなくばお前の主人が死ぬまでお前と一緒に監禁されるか、どちらかでなくてはならないんだ。私はお前さんたち二人をここにちゃんと隠しておける。私の言うことが疑わしければお嬢さんの言葉を取消させてご覧よ。そうすれば自分で|合《が》|点《てん》がいくようになろうぜ」
「私は取消しませんよ」キャサリンは言って、「もしその後でスラシクロス・グレンジに帰れるなら、私はこの一時間以内にあの人と結婚するわ。ヒースクリフさん、あなたは残酷な人ですが、鬼ではありません。まさかただの意地わるから私の幸福をみんな台なしになさることはありますまい。私がわざと逃げだしたようにパパから思われ、帰らぬうちにパパに死なれでもしたら、私は生きてゆけるでしょうか? 私はもう泣くのをやめました。そしてあなたの足もとにひざまずきましょう。けっして立ち上らずに、あなたが私の顔を見返すまではいつまでもあなたのお顔から目を放しません。いいえ、わきを向いてはいけません。どうぞ私を見て下さい。べつだんあなたの腹を立てるような顔をしていません。私はあなたを嫌いません。私は打たれたことを怒っていません。|叔《お》|父《じ》さん、あなたは今までのうちに誰かを愛したことはないのですか? 一遍も? ああ、ぜひ一度私の方を見て下さらなくてはなりません。私それはそれはみじめです。あなただって私をかわいそうに思わないわけにいかないでしょう」
「そのイモリみたいな指を放してどけ! どかぬと|蹴《け》るぜ!」とヒースクリフはあらあらしく少女をつきのけてどなりました。「|蛇《へび》から抱きつかれる方がまだしもだ。いったい何だって私にへつらうなんてことを考えたんだ? 私はお前さんが大嫌いだ!」
そう言ってあの人は肩をすくめ、全く|厭《いと》わしくて|虫《むし》|酸《ず》が走るかのように、からだを震わして、|椅《い》|子《す》を後に引きました。私は立ち上って口を開き、全く立て続けの|悪《あっ》|口《こう》|雑《ぞう》|言《ごん》を始めましたが、また最初の一|齣《こま》の中途で黙らされてしまいました。二の句をつぐや否やたちまち私だけ別室につれて行くぞとおどかされたのです。いよいよ暗くなってきました。庭の入口で人の話し声が聞えました。あの人は実に頭がよく働いていました。私どもはぼんやりだったのです。あの人はさっそく立って行って、外で二、三分立ち話をして、また一人で|戻《もど》って来ました。
「あなたのいとこのヘアトンだったと思いますよ」と私はキャサリンに申しました。「あの子が来てくれるといいですね! あの子が私たちの味方をしないものでもありますまい?」
「今のはグレンジからあなたがたを|捜《さが》しによこされた三人の召使どもだよ」とヒースクリフは私の言葉を耳にはさんで言いました。「お前は|窓《まど》|格《ごう》|子《し》をあけて呼べばよかったのに。だがその娘っ子はお前がそうしなかったのを喜んでいるだろうぜ、きっとだ。その子はここに泊らなくてはならなくなったのを喜んでるに相違ないよ」
機会を失ったと知って、私たちは二人とも止めどなく泣きました。あの人は九時まで私たちを泣かせておきましたが、それから台所を通って二階のジラーの部屋に私たちを追い立てました。私はお嬢様にあの人の言うがままになるようにとささやきました。そこの窓から|脱《ぬ》け出られるかも知れませんし、また屋根裏に登って明り取りの高窓からどうにかして逃げられるかも知れんと思ったのでした。しかし窓は階下のと同様狭くてだめでした。屋根裏へ通ずる引窓もやってみましたが戸締りがしてありました。私たちは以前と同様に監禁されてしまったのです。二人とも寝ませんでした。キャサリンは|窓《まど》|格《ごう》|子《し》の|傍《そば》に立って心配そうに夜明けを待っていました。お休みなすったら、と私がたびたび申し上げましても答はただ深い|吐《と》|息《いき》だけでした。私は|椅《い》|子《す》に腰を下し、からだをゆすりながら、幾度も義務を|怠《おこた》った私の罪に対して、われとわが心を責めました。私のこの罪から、ご主人一家のあらゆる不幸が起ったのだ、とその時は思ったものでした。事実そんなわけでないことは存じておりますが、その不吉な夜は自分でそう想像したのでした。そしてヒースクリフですら私よりは罪が浅いと思ったほどでした。
七時にあの男が来て、リントン嬢は起きているかと|尋《たず》ねました。お嬢様はすぐさまドアへ飛んで行って、「はい」と答えました。
「そんならこっちへ」といってドアをあけてお嬢様を引き出しましたので、私も続いて出ようと立ち上りましたら、また|錠《じょう》をおろしてしまいました。私は出してくれるように頼みました。
「|辛《しん》|抱《ぼう》しておいで。すこしたったら朝飯を持って来てあげるから」との答でした。
私は戸板をやかましく|叩《たた》き、怒って掛けがねをがちゃがちゃ鳴らしました。戸の外ではキャサリンが、なぜ私だけまだ閉じ込めておくのかと尋ねました。もう一時間我慢しなくてはならないんだ、とあの男は答えて、二人は行ってしまいました。私は二、三時間我慢しました。とうとう足音が聞えましたが、ヒースクリフの歩き方ではありませんでした。
「食べ物を持って来たよ。戸をあけろ!」と誰かの声がしました。
さっそく|承諾《しょうだく》してみると、ヘアトンが私に一日じゅう十分なほどの食物を持って来たのでした。
「これを取りな」と若者はお盆を私の手に押しつけて言いました。
「ちょっと待っておくれ」と私。
「いやだ」といくら待ってくれと頼んでも、耳をかさずにヘアトンは出て行きました。
そして私はその日一日そこに閉じ込められていました。その夜も、そして翌日もまたその翌日も都合五晩四日、私は毎朝一度ヘアトンを見る以外には誰とも会わずに押し込められました。そしてヘアトンは典型的な|牢《ろう》|番《ばん》でした。むっつり黙って、正義感や同情心などをいくら動かそうとしてもてんでつんぼ同様でした。
二八
五日目の午前、いや午後でしたろう、違った足音が近づいて来ました――軽くて短い足音でした。そして今度は別な人がはいって来ました。それはジラーでした。赤いショールを着て、黒の絹のボンネットをかぶり、腕には柳のバスケットをぶらぶらさせていました。
「あら、まあ! ディーンさん!」とジラーは叫んで、「ああ、ギマトンではあなたの|噂《うわさ》をしていますよ。私は主人からあなたがたが見つけられてここに泊っていると聞くまで、あなたはお嬢さんと一緒にブラックホースの沼に沈んだとばかり思っていましたよ! まあ! あなたがたはきっと島に着いたのでしょうね? そしてどのくらいあの穴にいました? ここの主人があなたを救ったのですか? でもそんなにやつれませんね。あまりひどい目にあわなかったのね?」
「あなたの主人はほんとうの悪党よ!」と私は答えました。「だが、この応報は思い知らせてやります。そんな|嘘《うそ》八百をでっちあげなくてもよかったのに。残らずさらけ出してやるわ!」
「そりゃまたなんのこと?」ジラーが言いました。「それはあの人の話じゃなくて、村でみんなが言ってることです――あなたが沼にはまってしまったというんです。帰って来て私はアンショーに言いました――
『ヘアトンさん、まあ大変なことが私の出かけた後に起りましたよ。まだ若いきれいなお嬢さんと元気なネリー・ディーンとは気の毒ですね』するとヘアトンは目を見張りました。私はまだ何も知らないのだと思って、その|噂《うわさ》を聞かせました。主人は|傍《そば》で聞いていましたが、ちょっと微笑して言いますには、
『もしあの人たちが沼に落ちたにしても、今では上っているよ。ネリー・ディーンは現在お前の部屋に泊っている。二階へ行って、あの女に帰れと言うがいい。そこに|鍵《かぎ》がある。沼水があれの頭にはいって、気が変になって家に走って行くところだったが、私はあれが正気に返るまでおし込めておいたんだ。すぐグレンジに行くように言ってやりなさい。行ければね。そしてお嬢さんはあの人の葬式に間に合うように帰るだろうって言伝てしておくれ』と申されましたよ」
「エドガー様は亡くなられたのではないでしょうね?」と私はあえいで、「おお、ジラー! ジラー!」
「いえ、いえ――まああなた、おすわりなさい」とジラーは答えて、「あなたはまだよほどいけないわ。エドガーさんはなくなりませんよ。ケネス医師はもう一日つづくだろうって言ってました。私は道で会って聞いたんです」
すわるどころか、私は帽子や|襟《えり》|巻《まき》を引っつかんで、開いているドアから下へ急いで行きました。居間で誰かキャサリンのことを知らせてくれる者がいないかと見まわしました。日光が一杯にさしてドアは広く開いていましたが、近くに誰も見えませんでした。すぐさま出て行こうか、それとも戻ってお嬢様を|捜《さが》そうかと迷ったとき、軽い|咳《せき》が私の注意を炉ばたに引きつけました。リントンがひとりぼっち|長《なが》|椅《い》|子《す》の上におさまって、あめちょこをしゃぶって、ぼんやりと私の動作を|眺《なが》めていました。「キャサリン嬢さんはどこにいます?」と私はこの子がひとりぼっちでいるところをつかまえて、おどかして聞いてやろうと、言葉するどくたずねました。リントンはがんぜない子供みたいにあめちょこをしゃぶりつづけました。
「お帰りになったのかい?」と私は言いました。
「いいや、二階にいるよ。帰るわけにはいかないんだ。僕たちはあの人を帰さないよ」
「お前さんがお嬢さんを帰さないって、この|阿《あ》|呆《ほ》小僧!」と私は叫びました。「私をその部屋にすぐ案内しなさい。さもないとお前さんをひどく泣かせてあげるよ」
「パパがお前を泣かせるだろうぜ、あすこへ行こうとすればさ」と答えて、「パパが言ったよ、キャサリンに|優《やさ》しくしてはいけない、あれは僕の妻だから、僕の|傍《そば》から離れようなんて思うのは|不《ふ》|埒《らち》だってさ! パパが言うには、あれは僕を嫌って、死ねばいいと思ってるんだとさ。そしたら僕の金を取ってやろうと思っているんだ。だけどそうはさせないや。家に帰らせないんだ。けっして帰らせはしないよ! 好きなだけ泣いて病気になるがいいんだ!」
リントンはまたあめちょこをしゃぶりだして、目をとじ、眠ろうとするかのようでした。
「ヒースクリフの坊ちゃん」と私は言い出しました。「あなたはこの冬あなたにつくしたキャサリンの親切をみんな忘れましたか? あの|頃《ころ》あなたはあの人を愛していると言っていましたね、そしてあの人はあなたに本をもって行き歌をうたってやり、|吹雪《ふ ぶ き》の中を幾度もあなたに会いに来たじゃありませんか? 一晩行かなかったため、あなたががっかりするだろうと思ってあの人は泣きました。その時あの人はあなたには百倍も過分な親切だと、あなただって感じたでしょう。それだのに今はお父さんの|嘘《うそ》を信じているのね。あなただってお父さんがあなたがたを二人とも嫌っていることを知っているくせに、お父さんに味方してあの人を苦しめるんですね。ずいぶん結構な感謝ですね」
リントンは|唇《くちびる》からあめちょこを取りました。「お嬢様はあなたが嫌いでこのワザリング・ハイツに来ましたか?」と私は言葉をつづけて、「ひとりで考えてごらんなさい! あなたのお金なんてそんなもののあることさえあのかたはご存知ありません。そして今あのかたが病気だとご自分で言っていながら、あなたは二階の|淋《さみ》しい部屋にお嬢様をひとりぼっち置いとくんですね! あなたはご自分でそんなにしてほったらかしにされることが、どんなにつらい事だかおぼえていらっしゃるでしょうに! あなたは自分の苦しみを哀れに思うことはできたでしょう。あのかたはあなたの苦しみを気の毒に思いましたよ。だがあなたはあのかたがひどい目にあってもかわいそうに思わないんですか! ヒースクリフの坊ちゃん、いい年をした女、しかもただの召使の私ですら涙が流れます。それだのにあなたはあんなに愛するようなことをいって、ほとんどあのかたを崇拝せんばかりに思っていたはずなのに、涙はすっかり自分のためばかりにしまい込んで、そこで楽々と寝ていらっしゃる。ああ! あなたは不人情な自分勝手な坊ちゃんです!」
「僕はあの人と一緒にいられないよ」とあの子はつむじを曲げて答えますには、「とても僕一人ではいられないよ。あの人はひどく泣いて僕にはこらえきれないんだ。父さんを呼ぶぞと言ってもやめないんだ。僕は一度父さんを呼んで、静かにしないと絞め殺すぞって|嚇《おど》してもらったんだが、父さんが部屋から出るとまたすぐ泣き出して、僕が困って眠られないからと叫んでも、一晩じゅうおいおい泣き明かしたんだよ」
「ヒースクリフさんはお留守なの?」と私は|尋《たず》ねました。このあさましい少年はとてもいとこの心の悩みに同情する力がないと思ったからです。
「庭でお医者のケネスと話しているよ」とあの子は答えて、「とうとう|伯《お》|父《じ》さんはほんとうに死にかかっているとお医者は言ってるよ。いいあんばいだ。その後で僕がグレンジの主人になるんだからね。キャサリンはいつもそれを『私の家』と言っていたけれど、それはあの人のでなくて僕のだ。あの人の持ってるものは何でもみな僕のものだとパパが言ってるよ。あの人のきれいな本もみんな僕のだ――その本だのかわいい小鳥だの小馬のミニーだのをみんな、もし僕が部屋から|鍵《かぎ》を持ち出してあの人を出してやれば、そっくり僕にあげようなんて言ったけれど、それはみんな僕のものだ。あの人のものなんて何一つありゃしないんだ。そう言ってやったらあの人は泣いて、首から小さな絵をはずしてそれをあげるって言うんだ、金の|枠《わく》に入れた二人の絵で、一方はあの人の母で、も一つは伯父さんで、どちらも若いときの絵だった。それは昨日の話だよ――僕はその両方ともやはり僕のものだと言って、あの人から取ろうとしたんだ。意地わるなあいつは僕にくれようとしないで、僕をおしつけて痛くしたんだ。僕は泣き出した。あの人はそうするといつでもこわがるんだ。パパがやって来るのを聞きつけて、あの人は|枠《わく》の|蝶番《ちょうつがい》をこわしてそれを二つにわけ、あの人の母親の肖像を僕にくれて、ほかの方をかくそうとした。パパはどうしたんだと聞くので僕がわけを話したら、パパは僕の持っていた方を取り上げて、別の方を僕に渡せとあの人に言った。それを聞かないもんだから、パパはあの人をなぐり倒してそれを鎖からもぎ取って足でふみつけちゃったんだ」
「そしてあなたはなぐられるのを見て喜んだんですか?」と私はあの子の話を|促《うなが》すつもりで|尋《たず》ねました。
「僕は見ないふりしていた」とあの子は答えて、「父さんが犬だの馬だのを打つときには僕はいつも見ないふりをするよ。とてもひどく打つんだからね。でも僕は最初は喜んだよ。あの人は僕を突いたりしたんで罰を受けて当然だった。だが、パパが行ってしまってから、あの人は僕を窓ぎわに引っぱって行って、口の中が血だらけになっているのを見せた。|頬《ほっ》ぺたの裏側が歯にあたって切れたんだ。それからあの人は肖像のきれはしを拾い集めて行って、壁にむいて腰かけて、その後は僕に一言も口をきかないんだ。痛くて口がきけないのかと思った。そう思うのはしゃくだったんだが、泣き通しに泣くんでしようがない。それにひどく青ざめた顔をしているので、僕はこわいよ」
「そしてあなたはその|鍵《かぎ》を手に入れられるの?」と私は言いました。
「ああ、二階に行けばね」とあの子は答えて、「だが僕はいま二階へ行けないよ」
「どの部屋にあるの?」と私。
「おお」と相手は言って、「お前には言えないよ。秘密なんだ。ヘアトンにだってジラーにだって知らせないんだ。やれやれ、お前のおかげで疲れちゃった。行っちまえ!」そう言って顔をそむけ、|腕枕《うでまくら》をして目を閉じました。
私はヒースクリフさんに会わずに帰って、グレンジからお嬢様を救助によこすのが得策と思いました。帰ると仲間の召使たちの驚きと喜びとは非常なものでした。そしてお嬢様が無事と知るやいなや二、三人が早くも二階へかけ上って、エドガー様のお部屋のドアでこの知らせを叫ぼうとしましたが、私がまず自分でそれをお知らせ申し上げることにしました。まあわずか数日でなんと変り果てなすったことでしょう!
ご主人は悲しみと|諦《あきら》めとの化身のようになってひたすら死を待っておいででした。そしてたいそうお若く見えました。三十九におなりでしたが、誰が見ても少なくとも十はお若く見えました。キャサリンのことを思っていらしたのでしょう。その名をつぶやいておいででした。私はお手を取って申しました。
「キャサリンは今に参りますよ、ご主人様。生きてぴんぴんしておいでになります。たぶん今晩ここに来られると思います」
私はこの知らせの最初の効果を見て震えました。ご主人はなかば起き上って部屋じゅうをじっと見まわし、それから気を失って卒倒なさいました。やっと正気に返られたとき、私はお嬢様と一緒に|強《し》いられてハイツに出かけ留め置きされたことを話しました。私は少し事実をもじって、ヒースクリフが私を強制してあの家にはいらせたように話しました。またなるたけリントン少年の悪口を言わないようにしました。ヒースクリフの乱暴な仕打ちについてもあまり申し上げませんでした。それでなくてさえご主人はもう|溢《あふ》れるほどの苦しみをなめていらっしゃるのですから、これ以上はなるべくその苦しみを増さないようにしてあげたいと思ったからでございます。
ご主人のお察しでは、敵がこちらの伝来の不動産もめいめいの動産も残らずその子の手に、あるいはむしろ自分の手に巻きあげるつもりだろうとのことでした。しかしなぜ相手がこちらの死ぬまで待たなかったか、そこがご主人にとって|解《げ》しかねる|謎《なぞ》でした。なぜなれば先方の子もご主人とほとんど一緒にこの世を去るだろうということをご存じなかったからです。とにかくご主人は遺言状を変更する方がよいとお考えになりました。つまりキャサリンの財産を自分勝手に処理できないように、保管人の手に信託して、キャサリンの一生の間、また子供ができたらその子供に、それを役立てるようにしようと決心なさいました。こうすればリントンの死んだ後も財産はヒースクリフさんに転げ込まないわけでした。
ご主人の命令を受けて、私は一人の男を弁護士の所に迎えにやり、四人の男衆に武器を用意させてお嬢様を監禁から取り戻しにやりました。どちらもひどく待たせました。ようやく単独で行った召使の方が先に帰って来ました。弁護士のグリーンさんはおり|悪《あ》しく不在で二時間も待たされたのだそうです。そして村にちょっと緊急な用件があるので今すぐには来られないが、朝までにはスラシクロス・グレンジに来ると言ったそうです。それから四人の男衆もやはり手ぶらで|戻《もど》って来ました。キャサリンが病気で、しかもひどく悪いので、とても室から出られないのだそうで、ヒースクリフは男衆をお嬢様に会わせなかったそうです。私はそんな話をまに受けて|戻《もど》って来たばか者どもを|叱《しか》りつけてやりました。そしてご主人にはこの話を伝えずにおき、夜が明けたら大ぜいでハイツに押しかけて、もしお嬢様を神妙に引き渡さなかったら、ほんとうに暴力で押し入ってやるぞと決心しました。必ずご主人にはお嬢様と会わしておあげしましょうと、私は再三心に誓いました。あの悪魔めがじゃまだてしようとすれば、あいつをあすこの戸口の石段に|叩《たた》きつけて血祭にあげてでも!
幸いにそれほどのことにならずにすみました。夜中の三時、水差しに水を入れに階下に下りて、広間を通り抜けていますと、いきなり玄関にノックする音が聞えたので、私は飛び上ってしまいました。
「おお! 何だ、グリーンか」と私はわれに返って、「何でもない、グリーンさ」と言いながら誰かにあけさせようと思って歩き出しましたが、ノックはまた繰返され、高くはないがせがむように叩くのです。私は水差しを|手《て》|摺《す》りの上に置いて、自分で急いで行ってあけてやりました。中秋の満月が外を明るく照していました。それは弁護士ではなかったのです。私のかわいいお嬢様が私の首ッ玉に飛びついてきて、|啜《すす》り泣きながら言いました――
「エレン! エレン! パパは生きてる?」
「はい、私の天使のお嬢様、生きておいでです。まあありがたい、あなたがご無事でお帰りになって、よくまあ!」
キャサリンは息を弾ませていましたけれど、リントン様のお部屋にかけ上ろうとしました。しかし私は無理に|椅《い》|子《す》にすわらせて、気つけの酒を飲ませ、青ざめた顔を洗ってやり、それを私のエプロンで|擦《こす》って少し血色の出るようにしてあげました。それから私が先に行ってお嬢様のお帰りをお知らせしなくてはならぬと申しました。そしてお父様に対してはヒースクリフの坊ちゃまと幸福に暮しましょうとおっしゃって下さいと頼みました。キャサリンは目を見張りましたが、なぜそんな|嘘《うそ》を言うことを私が|勧《すす》めたかすぐ了解して、不平や泣言は言うまいと私に|請《う》け合ってくれました。
私は父子の対面の場にいるに耐えませんでした。それで室の戸の外に十五分ほど立っていましたが、それでも室にはいったときにはベッドに近寄る気になれないくらいでした。しかしみんなおちついていました。キャサリンの絶望も父親の喜びもともに静かでした。キャサリンは外見では平静に父を支えていました。父親は目をあげて娘の顔をじっと見つめ、その目は歓びに酔って大きく見開かれていました。
あのおかたはほんとうに安らかな|大往生《だいおうじょう》をとげなさいましたよ、ロックウッドさん。そうでした。お嬢様の頬にキス遊ばして小声でこうおっしゃいました――
「私は亡妻の所に行く。かわいい子、お前も私たちの所に来るんだよ!」そしてもう二度と身動きもお話もなさらずに、|脈搏《みゃくはく》が全く絶えて魂が離れるまで、ただあのうっとりとした輝く凝視をつづけていらっしゃいました。誰もご臨終の正確な時刻を気づきませんでした。それほどぜんぜん|苦《く》|悶《もん》のないご|最《さい》|期《ご》でした。
キャサリンは涙をことごとく泣き|涸《か》らしたのか、それとも悲しみが重すぎて涙を|堰《せ》き止めたのか、朝日が出るまで、そこに涙も流さずすわっていました。正午になってまだ死の|枕辺《まくらべ》に打ち沈んでじっとすわっていようとしましたが、私はそこを出てしばらく休むように|強《し》いて|勧《すす》めました。そこから別室にお移しすることができてちょうどよいあんばいでした。昼飯時に弁護士が来たからです。それまでワザリング・ハイツに行って|手《て》|筈《はず》の指図を受けて来たのでした。この弁護士はヒースクリフさんに買収されていたので、それゆえご主人がお呼びなすったのに今まで来なかったのです。幸いに、お嬢様が着いてから、ご主人は少しも世の俗事にお心を乱されませんでした。
グリーンさんはこの屋敷じゅうの人も物も一切をさし出がましく処理しました。そして私以外の雇人全部に暇を申し渡しました。おまけにエドガー・リントンを奥様の側に埋葬せずに、リントン家の教会墓地に埋めると主張するほどまでに、その代理の権限を振りまわしましたが、それでは遺言状にそむくことになりますし、私は声を大にしてその非を鳴らしてやりました。葬式は急いですまされ、今はリントン・ヒースクリフ夫人になったキャサリンは、父上の|遺《い》|骸《がい》がグレンジを去るまでこちらにとどまることを許されました。
キャサリンが私に語ったところによりますと、リントンはとうとうキャサリンの|煩《はん》|悶《もん》を見るに見かねて、後で父親から|叱《しか》られる危険を|冒《おか》して室から出してくれたのだそうです。私の出してやった使の者たちが戸口でわめき立てているのを聞き、それに対するヒースクリフの答弁を察し、キャサリンはすっかり自暴自棄になったのでした。リントンは私が去ってまもなく二階の小部屋に連れて来られたのですが、キャサリンの様子に|怖《お》じ|気《け》がついて、父親の再び上って来ぬうちに|鍵《かぎ》をとって来て部屋の戸の|錠《じょう》をあけ、さかしくも戸をちゃんと閉じないで再び鍵だけをまわしておき、寝る時刻が来たとき、その晩だけヘアトンと同じ室に寝たいと父親に願って許されたのでした。キャサリンは夜明け前に室から|脱《ぬ》け出しました。犬が|吠《ほ》え立てるといけないので、戸口から出ようとしないで、空間を|捜《さが》してその窓を物色しているうちおりよく昔母親の室であった所にはいり込み、そこの|窓《まど》|格《ごう》|子《し》からモミの木を伝って、たやすく外の地面に飛び下りたのだそうです。キャサリンに共謀したリントンは小心な工夫を凝らしたにもかかわらず、逃亡を|幇《ほう》|助《じょ》したかどでひどい目にあったのでした。
二九
葬式の後の夜、キャサリンと私とは書斎にすわって、ご主人の死を悲しく黙想し、ことに一人は絶望してふさぎこみ、それからまた|憂《ゆう》|鬱《うつ》な行末のことを推測してみたりしていました。
少なくともリントンの生存中、このままグレンジに住み続けることが許されるなら、それがキャサリンの将来にとって最善の成行きでしょう。リントンはこちらの屋敷に来て、私は家政婦としてとどまるのです。この意見に私たちは一致しました。これはあまり虫がよすぎる希望のようにも思われましたが、とにかく、私は希望を持ちました。そしてこのまま今までの家で今までの仕事をつづけ、そして何よりも今までどおりに私の大切なお嬢様と一緒にいられるように見込みを立てて、めいりがちな気分を引き立てようとしました。そのとき一人の召使が、お暇が出た者ですけれどまだ|立《たち》|退《の》かずにいたのですが、あわただしくはいって来て、「あの鬼ヒースクリフ」が中庭からやって来たが、しめ出しを食わしてやりましょうか、と言いました。
私たちが気ちがい|沙《ざ》|汰《た》にもそんな命令をしたところで、とても実行をする|隙《すき》がありませんでした。ヒースクリフはノックもせず名前も告げずにはいって来ました。あの人はここの主人でしたから、一言もなくずかずかとはいりこむ特典を利用したのです。召使の声を聞きつけて私たちのいる書斎にやって来て、召使に出て行けと身振りで言いつけ、ドアをしめました。
それは十八年前にこの人が客として案内されたその同じ室でした。同じ月が窓から照らしていました。窓の外には同じ秋景色がありました。私たちはまだロウソクをともしませんでしたが、室内のものは何もかも壁にかけてある肖像に至るまでみんな見えました。リントン夫人の|素《す》|晴《ばら》しい頭もその|良人《お っ と》の上品な顔も見ることができました。ヒースクリフは炉に歩みよりました。時はほとんどこの人のからだを変えていませんでした。同じ人はその浅黒い顔がやや青味を増していっそう落ちつき、からだは二、三貫ほども重くなりましたろうか、他には何の変りもありませんでした。キャサリンはこの人を見ると飛び出したい衝動にかられて立ち上りました。
「待てっ!」とあの人は手をあげてそれを止め、「もう逃げてはいけないよ! どこに行くつもりです? 私はあなたを家に連れに来たのだ。これからは従順な娘になって、私の|忰《せがれ》を二度と私に|背《そむ》かせたりしてはいけません。あいつがあの事に共謀したと知って、私はどうやってあいつを罰しようかと当惑しました。あんな吹けば飛ぶような弱虫なんだから、一ひねりすれば死んじまいそうな奴だが、今度あいつの顔をご覧になれば相当な目にあったことがわかりましょう! 私は一昨日の晩あいつを二階から連れて来てちょっと|椅《い》|子《す》にすわらせ、それからけっしてあいつに手を触れなかったよ。私はヘアトンを部屋から出してやって私たち二人きりになった。二時間たってからジョウゼフを呼んであいつをまた二階へ連れて行かせたんだが、それ以来私の姿を見るとあいつはまるで幽霊でも見るかのようにぶるぶるしている。私が|傍《そば》にいなくてもあいつはたびたび私を見るらしい。ヘアトンの話では、あいつは夜中に幾時間もつづけざま泣き叫んで、私から助けてもらうためにあなたを呼ぶそうだ。あなたはあのお立派な配偶者を好こうと好くまいと、ぜひとも来なくてはならない。あいつは今度あなたの受持ですからね。あいつのことは一切あなたにおまかせしますよ」
「なぜキャサリンをこのままここに置かないのですか?」と私は言って、「そしてリントン坊ちゃんをこちらによこしたらいいでしょう。あなたは二人ともお嫌いなんだから、いなくたってお|淋《さみ》しくもないでしょう。一緒にいてもあなたの不自然なお心にとっては毎日のうるさい|荷《に》|厄《やっ》|介《かい》になるだけのことでしょう」
「私はこのグレンジを人に貸すつもりだ」とあの人は答えて、「それに私だって自分の子供たちをそばに置きたいよ。それにまたその娘さんはパンを得るだけのつとめをしなくてはなるまい。リントンが死んだ後、私はこの娘さんをぜいたくや気まぐれで養おうとしちゃいないんだからね。さあ、急いで用意なさい。また私に強制させないでおくれよ」
「行きますよ」とキャサリンは言いました。「リントンはこの世で私が愛するすべてです。あなたがどんなにあの人を私に嫌わせるようにしても、また私をあの人に嫌わせるようにしても、私たちをお互いに嫌わせることはけっしてできません! 私が|傍《そば》についている時にあの人に対して指一本でもささせはしませんよ。私をだまそうったってだめです!」
「あなたはなかなか元気な勇士だ」とヒースクリフは答えますには、「だが私はあいつに指一本でもさすほどにはあなたが好きではありませんよ。なるだけ長いあいだ苦しみのつづくかぎり、その苦しみのご|利《り》|益《やく》を十分に受けさせてあげよう。あいつをあなたに嫌わせるのは私じゃない。あいつの実に愛すべき精神がわかればいまにあなたはあいつを嫌うようになりますよ。あなたが逃げ帰ったこととその結果とに対してあいつはひどく苦々しく思っていますからね。今あなたが言った|気《け》|高《だか》い愛に対して感謝を予期してはいけませんよ。『僕がお父さんほど強かったならばこうやってあの人をいじめてやるんだが』と言って、あいつがジラーにむかって|愉《ゆ》|快《かい》な想像を話しているのを私はきいた。そういう意志があれば、あいつの病身がかえって|智《ち》|恵《え》を鋭くして、力の代りになるものを見つけるだろう」
「あのかたがいけない性質をもっていることは私も知っています」とキャサリンは言って、「何しろあなたの|息《むす》|子《こ》さんですもの。でも私の性質はもっと善良です、あのかたを|赦《ゆる》してあげることができるのです。私はあの人が愛していることを知っています。それゆえ私はあのかたを愛します。ヒースクリフさん。あなたには誰一人あなたを愛する人がありません。あなたが私たちをどんなにみじめにしても、あなたの残酷な仕打ちは、あなたのみじめな状態から出たしわざと思えば、それで私たちの|腹《はら》|癒《い》せになりますわ。あなたはみじめじゃなくって? まるで悪魔みたいに|独《ひと》りぼっちで、悪魔みたいにねたみ深いんでしょう? だあれ[#「だあれ」に傍点]もあなたを愛さない――あなたが死んだってだあれ[#「だあれ」に傍点]も泣きません! 私はあなたのようになりたくないわ!」
キャサリンは一種の|侘《わ》びしい勝ち誇りの気持で話しました。これから同じ一家族になる人に対して同情し、敵の悲しみから自分の喜びを得ようとしているようでした。
「お前さんこそ今に自分で自分の身に|愛《あい》|想《そ》をつかすようにならしてやるよ」と|舅《しゅうと》は言って、「それがこわけりゃ、そんな所に立っていないで、あっちへ行け、この|小癪《こしゃく》なあまっちょ。そして持物を用意しろよ!」
キャサリンはツンとして出て行きました。その間に私はジラーと入れ代りにハイツで働きたいと願いましたが、どうしても許してくれず、黙っておれと言って、それからあの人は初めて室を見まわして肖像画を見ました。そしてリントン夫人のをつくづく見つめたのち言いますよう――
「これを私の所に持って行こう。私が必要なわけでもないけれど――」あの人は突然炉の方へむいて、まず何と言ったらいいでしょうかしら、微笑とでも言っておかねばならぬ表情で言葉をつづけました。「昨日私が何をしたか話して聞かそうか! 私はリントンの墓を掘っていた寺男にあの女の|棺《かん》|桶《おけ》の|蓋《ふた》の上から土をのけさせ、自分でそれをあけてみたんだ。私は一緒にあの中にいたらよかったとまで思った。私があれの顔を再び見たとき――それはまだあれの顔そっくりなんだ――寺男が私をそこから動かすのは容易じゃなかった。だが寺男の言うことによると、それは風にあてると変ってしまうそうだから、私は棺の片側を|叩《たた》いてしまりをゆるくして、また土をかぶせておいた――リントンの棺にむいてる側じゃないよ! あのくそ野郎め! あいつの|死《し》|骸《がい》なんぞ|鉛《なまり》の棺に入れて|白蝋《は ん だ》づけにしてやりたい。私があすこに一緒に埋まる時には、あれの棺の片側を引っぱりとってしまい、私の棺の片側もそっと抜き出してもらうように、寺男にわいろをつかませておいた。私はそうさせるよ。そうすりゃ、やがてリントンの棺が朽ちて、あいつの土くれが私どもの方まで来る時分には、私どもはもうすっかり互いに一緒になって、どっちだかわからなくなっているだろうよ!」
「あなたはひどい人ですよ、ヒースクリフさん」と私はおどろいて言いました。「死人を侵害したりして心に恥じませんか?」
「私は誰をも侵害なんかしないよ、ネリー」とあの人は答えて、「ただ私自身に少しばかり安心を与えるのさ。私はずっと気楽になるだろうし、お前は私を土の下でおとなしくさせておけるだろうから、私に迷って出られる心配がなくなるというものさ。あの女を侵害するって? いや! あの人こそ私を侵害していたんだ! 夜となく昼となく、十八年間を通して、昨夜まで毎日絶えず休まず私を悩ましていたんだ。だが私は昨夜心が静まったよ。私の心臓がとまり、私の冷たく凍った|頬《ほお》をあの人の頬に寄せて、あの眠っている人の|傍《そば》で最後の眠りを眠っている私を夢みたんだ」
「そしてあの人が土になり、あるいはもっと醜悪なものになったら、あなたは何を夢みなさるでしょうか?」と私は言ってやりました。
「あの人と一緒に土なり何なりに成るのさ、その方がなおさら幸福だよ!」とあの人は答えて、「そのくらいの変化を私が恐れると思うのかい? 私は|蓋《ふた》をあける際にそうした変化を予期していたが、私があすこにはいるまではまだそんなことが始まらなければ、いっそううれしい次第さ。それに、私があの人の情熱を脱却した冷静な|容《よう》|貌《ぼう》の印象をはっきり受けなかったならば、あの奇妙な感情はたぶんなくならなかっただろうよ。その感情には変な由来があるんだ。お前も知ってのとおり、あの人が亡くなってのち、私は気ちがいのようになって、朝から晩までしじゅうあの人の魂を私に返すようあの人に祈っていた。私は幽霊を深く信じている。それはこの世に存在し得るし、また実在していると固く信じているのだ。あの人の埋められた日には雪が降ったっけ、夕暮れに私は墓場へ行った。まるで冬のように風が|寂《さみ》しく吹き|荒《すさ》んでいた。あたりはしんとしていた。あの人のばかな夫がこんなにおそく墓場にやって来るおそれはなかったし、ほかには誰もあんなところに用のある者はなかったんだ。ひとりぼっちになって、私たちの間をへだてるものはただ二ヤードの土だけと知って、私はひとりごとを言った――もう一度私はあの人をこの腕で抱きしめよう! もしもあの人が冷たくなっていたら、私をぞっとさせるのは北風だと思おう。あの人が動かないにしても眠っているのだと考えよう。
私は道具小屋から|鋤《すき》をもって来て、一所懸命に掘り出した。鋤が|棺《かん》にあたったので、私は手でやりだした。板がねじ|釘《くぎ》のあたりできしみ出した。もう少しで目的を果そうとしたとき、墓のはしに近く地上でのぞき込んでいる人の気配がして息の音が聞えるようだった。私はこの|蓋《ふた》を取り去ることができさえしたら私たち二人の上から土をかぶせてもらいたいものだが、と私はつぶやいた。そして私はなおさらやけ力を出してやってみた。するとまたもや私の耳のそばでため息が聞えた。なま暖かい息が|霙《みぞれ》まじりの風に代ったような気がした。ちゃんと肉体のある生き物は近くにいなかったが、|暗《くら》|闇《やみ》で見えないけれど近づいて来る人の気配を誰でも感ずるように、私は確かにキャシーがそこにいると感じた。土の下ではなくて、この地上にだ。突然安心の感じが私の心臓からからだじゅうに流れた。私はつらい仕事をやめて、たちまち|慰《なぐさ》められた。とても言葉で現わせないほど慰められた。あの人が私と一緒にいたのだ。墓をまた埋めている間もそれはずっと私と一緒にいて、私を家まで送ってくれた。お前は笑うなら笑ってもいい。だが私は確かにあすこであの人に会ったのだ。私は確かにあの人と一緒にいたのだ。だからあの人と話をせずにはいられなかった。ハイツに着いていきなり戸口へ走った。戸は閉ざされていた。あのいまいましいアンショーと私の妻とが、私のはいるのを|拒《こば》んだことを覚えている。私は立ち上ってあいつを息の根のとまるほど|蹴《け》とばして、どんどん二階にかけ上り、私の部屋にそしてあの人の部屋にはいった。私はいらいらしてあたりを見まわした。私はあの人が|側《そば》にいるのを感じた。私はほとんどあの人を見ることができた。それでもどうしても見ることができなかった。私はそのとき血の汗を流していたに相違ない。それほど私は|憧《あこが》れてもだえていた。それほど私はただ一目でもよいからこの目に見えてくれと熱心に願っていたのだ! だが見えなかった。あの人は生きているときもおりおりそうであったが、私に対して悪魔だった! それ以来というもの、あるときはいっそう激しく、またあるときはやや軽く、私はそのやりきれない苦しみにさいなまれた! ひどい奴だ、あんなにしじゅう私の神経をありったけ緊張させつづけるとは。もし私の神経が|腸腺《ちょうせん》みたいに強くなかったら、とっくの昔にリントンのように弱って|弛《ゆる》んでしまっただろう。私がヘアトンと居間にすわっているときは、出かけてあの人と会わなくてはならないように思われた。私が沢地の野原を歩いているときには、家に訪ねて来るあの人と会わなくてはならないように思われた。家から出かけているときには急いで帰って来た。あの人は必ずハイツのどこかにいるに相違ない。その点は確かだった! そして私があの人の部屋で眠るとそこからたたき出された。どうしてもそこで寝ることができなかったのだ。なぜなら、私が目を閉じるとすぐさまあの人は窓外にやって来たり、鏡板の後に忍び込んだり、部屋の中にはいって来たり、あの人が子供の時分していた同じ|枕《まくら》にあのかわいらしい頭を休めたりしたからだ。それで私は目をあいていなくてはならなかった。そうやって一晩に百回も目を開いたり閉じたりして、その結果はいつでも失望するばかりであった。ひどい|呵責《かしゃく》だったよ! 私は時々声を出して|呻《うめ》いた。とうとうあの老いぼれ悪党のジョウゼフめはてっきり私の心の中で良心が悪魔の役を演じていると信じてしまった。だが今はあの人を見て以来、私は穏やかになった。すこしはね。十八年間絶えず希望の幻を見せて私を裏切るなんて、全く奇妙な殺し方だ。一寸刻みどころではなくて、髪一筋の幅の何分の一にも切りさいなむひどいなぶり殺しにあったんだよ!」
ヒースクリフさんは話をやめて|額《ひたい》を|拭《ふ》きました。汗で|濡《ぬ》れて髪の毛がまつわりついていました。目は炉の赤い燃えさしを|見《み》|据《す》えていました。|眉《まゆ》はしかめられずに、こめかみのそばまであげられていました。いつものこわい顔つきはやわらいで、特殊な当惑と、一心に一つの物事に対して心を緊張させている苦しげな様子とが見えました。あの人はただなかば私を相手に話していましたので、私は沈黙をつづけていました。私はあの人の話を聞くのがいやだったのです。しばらくしてあの人はまた肖像のことを思い、それを取りはずして、もっとよく|眺《なが》めようとソファに立てかけました。そのうちにキャサリンがはいって来て、小馬に|鞍《くら》を置けばそれでほかの用意はよいと言いました。
「それを明日とどけておくれ」とヒースクリフは私に言い、それからキャサリンに向って言いました。「小馬に乗らなくともいいでしょう。好い夜の気だからね。それにワザリング・ハイツでは小馬がいらないんだ。出かける時には|膝《ひざ》|栗《くり》|毛《げ》で結構さ。さあ、お出かけなさい」
「さよなら、エレン」と|懐《なつか》しい若奥様は小声で言いました。私にキスした時、|唇《くちびる》は氷のようでした。
「私に会いに来てね、エレン、忘れずにね」
「ディーンさん、そんなことをしないようにしておくれ!」と新しい|舅《しゅうと》は言いました。「私がお前に話したいときにはここに来る。お前の方から私の家に来てもらいたくないよ!」
舅は新嫁に急ぐように身振りで|促《うなが》しましたので、キャサリンは振返って、私に断腸の思いをさせた|一《いち》|瞥《べつ》をのこして舅の命に従いました。あの人たちが庭をおりて行くのを、私は窓から見まもっていました。ヒースクリフはキャサリンと腕を組んでいました。キャサリンの方ではそうされるのを最初は明らかにさからったらしい様子でした。こうしてあの男は早足の|大《おお》|跨《また》でキャシーを小路に急がせ、路の並木は二人の姿を隠してしまいました。
三〇
私はハイツを訪問しましたが、あのかたには|一《いち》|別《べつ》以来お目にかかりません。私があのかたの安否をお|伺《うかが》いに行ったとき、ジョウゼフが戸口を守っていて私を通しませんでした。あれが言うにはリントン若奥様はお|忙《いそが》しいし、主人は留守だとのことでした。ジラーがあの家の人々の日常について幾分か私に話してくれましたが、さもなくば、私は誰が死んだやら生きてるのやらすらもろくにわからないくらいでした。その話振りから察すると、ジラーはキャサリンを|気位《きぐらい》が高くて嫌いだと思っているようでした。若奥様が最初ジラーに何か頼んだところが、ヒースクリフさんはジラーに、自分のことだけは、嫁自身にやらせるように命じたので、ジラーは喜んで命令に従ったのでした。心の狭いわがままな女です。キャサリンはこの冷遇に対して子供のようにすねて、|軽《けい》|蔑《べつ》の念でそれに報い、この女中が非常な|怨《うら》みでも自分に与えたかのように、この女を敵の一人に数え入れてしまったのです。私は六週間ほど前にジラーと長話をしました。あなたがおいでになる少し前、私たちが沢地の原で寄り集ったある日のことでした。そのときあの女は次のようなことを申しました。
「若奥様がハイツに到着して最初にしたことは、私にもジョウゼフにもおやすみのあいさつもなさらずに、二階へかけ上ったことでした。そしてリントンの部屋に閉じこもって朝までそこにおいででしたが、ご主人とアンショーとが朝飯を食べている間に、からだじゅうぶるぶる震えながら居間にはいって来て医者を呼んでもらえまいかと|尋《たず》ねました――いとこがひどく重態だというのです。
『知ってるよ!』とヒースクリフは答えて、『だがあいつの命なんて一銭の値打ちもないから、私はあいつに一銭だっておあしをかけないつもりだ』
『でも私どうしたらいいかわかりません』と、若奥様は言って、『もし誰も私に手を貸して下さらなければあのかたは死ぬでしょう!』
『出て行ってくれ!』とご主人は叫んで、『あいつのことはもう一言も聞かせないでくれ! ここに居る人たちは誰一人あいつがどうなったってかまやしない。あなたがそれを気にするなら、看病しておやり。さもなければ、あいつを閉じ込めてほっとくがいい』
それから若奥様は私にうるさくせがみますので、私はあのやっかいな人に苦しめられることはもうたくさんですと申しました。私たちはそれぞれ受持の仕事があったし、あのかたの仕事はリントンの付添役なのでした。ヒースクリフさんはそれをあのかたにまかしておけと私に命じたのでした。
二人がどうやっていたのか私にはわかりません。たぶん坊ちゃまはひどく|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》で、夜昼うなり、若奥様はまるで眠れなかったでしょう。それはあのかたの青い顔と重いまぶたとから察しられました。おりおりあのかたはすっかりとほうにくれた様子で台所にやって来て、助けを求めたいようでした。しかし私はご主人の命令にそむこうとはしませんでした――とてもあのご主人の命令にはそむかれませんよ、ディーンさん。私だってケネスを呼んで来なくてはいけないと思いましたが、助言したり不平を言ったりするのは私のすることではないと思って、いつでも手出しすることを断わりました。一、二度こんなことがありました。みんな寝床に|就《つ》いた後、夜中に自分の部屋の戸をあけますと、あのかたが階段の一番上のところで泣きながらすわっているのを見たのです。そんなときは、心を動かされて|係《かかわ》りあっては大変と、私は急いでドアをしめました。そのときはほんとうにあのかたがおかわいそうでしたよ。でも私はお暇を出されたくはありませんからね。
とうとうある晩あのかたは私の部屋にずかずかはいって来て、こう言って私をすっかりまごつかせてしまいました――
『ヒースクリフさんに息子が死にそうだと言って下さい――今度こそはほんとうです。すぐ起きてそう言って下さい!』と言ってあのかたはまた見えなくなりました。私は十分ほど耳をすまして震えながらじっとしていました。何の気配もありません――家じゅうはしんとしていました。
あのかたは感違いしたのだろう、と私は思いました。じきによくなるだろう。人さわがせをせずにおこう、そう思ってうとうとしました。けれども私の眠りはまたもや鋭いベルの音で|妨《さまた》げられました――リントンのために取りつけてある家じゅうでただ一つのベルでした。ご主人は私を呼んで、どうしたのか見てくるように、そして二度とこんな物音を立てないように言いつけて来い、とのことでした。
私はキャサリンの言葉を伝えました。ご主人は何やら文句を言いながら、しばらくしてロウソクをともして息子さんの部屋へ行きました。私もついて行きました。若奥様は両手を|膝《ひざ》の上に組んでベッドの|傍《そば》にすわっていました。ご主人は近よってロウソクの光でリントンの顔を照らし、手を触れてみました。それからキャサリンの方を見て、
『これ、キャサリン、どうだい?』
キャサリンは黙りこんでいました。
『どうだね、キャサリン?』とご主人は繰返しました。
『この人はもう安全ですし、私も自由の身になりました』とキャサリンは答えて、『私は安心すべきはずです――けれども』包みきれぬ苦痛の気持で言葉をつづけ、『あなたはあんまり長い間私をひとりぼっちにほっといて死と戦わせたので、私はただもう死ばっかり気にしていますよ! 私もまるで死人同様な気がしますわ!』
そしてほんとうにあのかたは死人のように見えました。私はブドウ酒を少し差上げました。ヘアトンとジョウゼフとはベルの音や足音で目をさまし、ドアの外で私たちの話を聞いていましたが、やがてはいって来ました。ジョウゼフは確かに坊ちゃまの亡くなったことを喜んでいたと思います。ヘアトンはちょっと困った様子でしたが、リントンのことを考えるよりもキャサリンを見つめることに気をとられていました。ご主人はこの人に出て行って寝ろと命じました。用事がなかったのです。ご主人はジョウゼフに命じて死体をご自分の室に運ばせ、私に対しても部屋に帰れと命じ、若奥様だけそこに残りました。
翌朝ご主人は私をあのかたの所へ、下に来て朝飯を食べるよう伝えさせました。あのかたは着物を脱いで眠ろうとしている様子でしたが、病気とのこと、――私は別に驚きませんでした。その|由《よし》をご主人に知らせますと、次のように答えられました。――
『よし、葬式がすむまでほっとけ、そして時々二階へ行ってみて、あれの必要なものを持って行ってやれ。そしてよくなったように見えたら、私に知らせてくれ』」
ジラーの話によると、キャシーは二週間二階の部屋に寝ていたそうです。ジラーは一日に一回お見舞いして、もっと親しくしたかったそうですが、親切にしてあげようとするとキャシーは|傲《ごう》|然《ぜん》としてたちまちこちらの好意を拒絶したそうです。
ヒースクリフは一度息子リントンの遺言状を見せに病室を訪れました。あの子は自分の全財産と、キャシーのものであった動産全部を父親にのこしました。あの子は|伯《お》|父《じ》が死んだときキャシーの不在の間に、父親に|脅《おど》されあるいはすかされて、こんな遺言をしたのでしょう。土地は未成年者なので自分でどうにもできないのですが、ヒースクリフさんはそれについても、自分の妻の権利と自分のとで法律上所有権を得たらしいのです。とにかく、キャサリンは|手《て》|許《もと》に金も味方もないので|舅《しゅうと》の所有を|妨《さまた》げることができないのです。ジラーの話はつづきます――
「私以外にはその一度を除けば誰一人あのかたの部屋に近寄りませんでしたし、あのかたのことを何か|尋《たず》ねる人もありませんでした。初めて居間に下りて来たのは日曜の午後でした。その日私がご|馳《ち》|走《そう》を運んで行きましたとき、こんな寒い所にもういられないとどなりますので、|旦《だん》|那《な》様はスラシクロス・グレンジにお出かけになるところですし、アンショーも私もあなたがおりていらっしっても何とも言いません、と申し上げますと、ヒースクリフの馬の|駈《か》け去る音が聞えるや|否《いな》や、あのかたはさっそく下に降りていらっしゃいました。喪服を着て、金髪の巻毛をクェイカア宗徒のように質素に耳の後に|撫《な》でつけていました。十分に髪を|櫛《くし》ですくことができなかったのです」
「ジョウゼフと私は日曜には|大《たい》|概《がい》教会に行きます」(ご存じのようにこの教会には今牧師がいません。――とディーン夫人は説明して――メソジスト派か|浸《しん》|礼《れい》派か私はよく存じませんが、ギマトンではそれを礼拝所といっております)「その日曜もジョウゼフは行きましたが」とジラーは話をつづけて、「しかし私は家にいる方が|妥《だ》|当《とう》と考えました。若い人たちは年上の者が監督すればそれだけ安心です。ヘアトンははにかみやですけれど、お|行儀《ぎょうぎ》のよい模範人物でもありません。私はこの人のいとこが今日たぶんここに降りて来て一緒にすわるだろうと知らせ、あのおかたは今までいつも安息日の守られるのを見なれているから、今日はあのかたがここにすわっている間、猟銃を手放し、家の内の仕事もやめるがよかろうと申しました。若者はそれを聞いてさっと顔を赤らめ、手や着物に目をやりました。|鯨《げい》|油《ゆ》と銃火薬とはすぐさま目のつかぬ場所に押しかくされました。あのかたのお相手をするつもりで、身なりにも気をつけたいと思う様子が見えました。そこで私は笑いながら、ご主人がそばにおいでの時などはとても笑えないのですが、もし必要ならば助力してあげましょうといって、あの人のまごついた態度をからかってやりました。若者は気をわるくして何やらののしり始めました」
「これさ、ディーンさん」とジラーは私の苦々しい顔色を見て言いつづけますには、「あなたの家のお嬢様はヘアトン様のお相手にはもったいない、とあなたはたぶん思っているでしょうし、それはたぶんもっともでしょうけれど、私はあのかたの高慢を一段引き下げたいと思いますよ。今となってはあのかたの学問や器量が何でしょう? あのかたはあなたや私と同様に、いやきっと私たちよりもっと貧乏ですわ。あなたは貯めていらっしゃるし、私もその方へ精一杯励んでいますからね」
ヘアトンはジラーに手伝わせて身なりをととのえ、ジラーは彼におせじを言ってご|機《き》|嫌《げん》をとりましたので、キャサリンがはいって来たときには、ヘアトンは先に|侮辱《ぶじょく》されたこともなかば忘れ、なるべく相手の気持をよくしようとつとめたそうです。
「若奥様は」とジラーは話を続け、「まるでつららのように冷たく、王女のように|気位《きぐらい》高くはいって来ました。私は立ち上って私のすわっていた|肱《ひじ》|掛《かけ》|椅《い》|子《す》をすすめました。ところがあのかたは私の礼儀に対しては知らん顔でつんとしていました。アンショーもまた立ち上って、あのかたに長椅子をすすめ、火の近くに寄ってすわるようにと言い、そしてさぞ|凍《こご》えたろうといたわりました。
『私はもうひと月以上もこごえて凍え死にをしかかっていたわよ』あのかたはいかにも人をばかにしたようにその『こごえる』という言葉を強めて答えました。
それからご自分で椅子を持って来て、私たちから離れた所にそれを置き、温まるまですわっていましたが、あたりを見まわして|戸《と》|棚《だな》に幾冊かの本を見つけますと、すぐにまた立って行ってそれに手を伸ばしました。しかし本は高すぎて手がとどきませんので、あのかたのいとこはしばらくその様子を見守っていた後に、とうとう元気を出してそれを取ってやりました。あのかたは服をひろげて出しましたので、ヘアトンはそれに最初のひとつかみの本を入れてあげました。
それはこの若者にとって大進歩でした。あのかたはお礼を言いませんでしたけれども、彼の方では自分の好意があのかたに受けいれられたことをありがたく思い、あのかたが本を調べている間うしろに立ちどまっていて本の古い|挿《そう》|画《が》のおもしろいと思った所をかがんで指さしたりさえしました。あのかたが彼の指から本のページをぐいとひっぱったりする失敬な態度にも、ヘアトンはひるみませんでしたが、少し後に|退《しりぞ》いて本の代りにあのかたを見ていました。あのかたはそのまま本を読み、あるいは何か読む本を捜していました。あのかたの顔は彼から見えず、また若奥様からも彼が見えませんでしたので、彼は次第にあのかたの濃い、絹のような巻毛にすっかり|見《み》|惚《と》れてしまって、たぶん子供が|燈《あかり》に心をひかれるように、つい無意識に手を出して、とうとう見とれることから触れることに進んでしまい、まるで小鳥にでも触れるように|優《やさ》しくその巻毛を|撫《な》でたのでした。すると首にナイフでも突き刺さったかのように、あのかたはひどくびっくりして振返りました。
『あっちへ行って|頂戴《ちょうだい》、いますぐ! 何だって私にさわったりするんです! なぜそこに立ってるの?』とあのかたはいまわしげに叫んで、『いけすかない人ね! 私のそばに寄ると、また二階へ行っちまいますよ』
ヘアトンはまるで|阿《あ》|呆《ほう》みたいなふうで尻込みして、ごくおとなしく背高|長《なが》|椅《い》|子《す》に腰をおろし、あのかたはそれから三十分ほども本をめくり続けました。ついにアンショーは私の方に歩み寄って、私にささやきました。――
『ジラー、お前、あのおかたに本を読んでくれるように頼んでくれないか? 何もしないでいるのはもう退屈した。何か読んでもらえるといいんだがなあ! おれがそうして欲しいと言わずに、お前が自分でそうして欲しいように言って頼んでおくれよ』
『ヘアトン様があなたに何か読んでいただきたいそうですよ、奥様』と私はさっそく申しました。『そうしていただけばご親切を大変感謝なさるそうです』
あのかたは顔をしかめ、こちらを見上げて答えました――
『ヘアトンさんもお前さんたちもみんなよく覚えておくがいい。あなたたちが偽善的に示す親切ごかしなどを私はお断わりしますよ。私はあなたがたを|軽《けい》|蔑《べつ》します。あなたがたの誰とも口をききますまい! 親切な言葉をかけてくれるなら、いやそれどころか、顔を見せてくれるだけでも、私は自分の命をやっても惜しくないと思ったときには、あなたがたはみんな私から離れていたのです。だがあなたがたに対して|怨《うら》みごとは言いますまい! 私は寒くてたまらないからここにおりて来たのです。あなたがたを楽しませるためじゃないわ。あなたがたの相手になって楽しむためでもないわ』
『おれが何したってんだ? 何か文句言われることでもしたってえのか?』とアンショーは言い出しました。
『おお! あなたは別よ!』と若奥様は答えて、『あなたなんぞに来てもらわなくともさびしいとも何とも思いやしないわ』
ヘアトンはこの生意気な言いぐさに激して言いますには、『だが、おれはお前さんの代りにお|通《つ》|夜《や》をしてやろうって、ヒースクリフさんに一度ならず申し出て頼んだんだ――』
『おだまり。私の耳もとであなたのいやらしい声を聞くくらいなら、私は家の外になりどこになり出て行くわよ!』と若奥様は言いました。
そんなら勝手に地獄にでも行くがいい、とヘアトンはつぶやいて、掛けておいた鉄砲を取りおろし、もはや日曜日の仕事を遠慮しませんでした。そして今度はずけずけ物を言いましたので、あのかたは元の孤独な部屋に退却した方がいいと思ったのですが、|霜《しも》が下りていましたので、自尊心を傷つけられながらもよぎなくだんだん私たちと一緒にいるようになりました。しかしそののちもはや私のお人好しをばかにされないように気をつけて、それ以来私はあのかたと同様に強硬になりました。あのかたは私たちの家では誰からも愛されず好かれません。とても愛される値打ちがないのです。なぜならば、誰かあの人にちょっと一言でも言おうものなら、だれかれの差別なく|鎌《かま》|首《くび》をもたげて身構えるのですもの! あのかたはご主人に対してすら食ってかかり、実際ご主人にあのかたを|鞭《むち》|打《う》たせるほど反抗するのです。そして痛い目にあわされるほど、いよいよますます毒々しくなるのです」
「最初この話を私が聞きましたとき、私はお暇をとって粗末な家を借り、キャサリンに来てもらって一緒に住もうと決心しました。けれどもヒースクリフさんがそれを許すくらいなら、ヘアトンにだって独立させて家を持たせるはずなのです。目下のところキャサリンが再婚でもしなければ、何とも救済の道はないと思います。そしてその計画を整えることは私の力に及ばないところなのでございます」――
ディーン夫人の物語はこれで終った。医者があんな見込みをつけたにもかかわらず、僕はぐんぐんからだの力を回復して、まだ一月の第二週だったけれども、一、二日したら馬に乗ってワザリング・ハイツへ出かけ、これから半年ロンドンで暮すつもりだとこの屋敷の持主に話し、もし何なら、十月以後は僕の代りに別の借手を|捜《さが》してもいいと言って来よう。どれだけやると言われたって、もう一冬ここで過すことなんか僕はまっぴらだ。
三一
昨日はいい天気で風がなく、|霜《しも》が下りた。僕はかねて思ったとおりハイツに出かけた。家政婦はハイツの若い未亡人に短い手紙を持っていってくれと頼んだ。僕は断わらなかった。好人物の女はそれを頼むときにべつだん変なことを思いつかなかったからだ。表戸は開いていたが、あの意地わるく見張りしている門はこの前のときと同様に戸締りしてあったので、僕はノックしてアンショーを庭の花壇から呼び出すと、門の鎖をはずしてくれたので僕は中にはいった。この男はいなか者にしては好男子だ。今回は彼に特に注意して見ていたのに、せっかくのそうした好機を台なしにしてやろうとせいぜい努めているように見えた。
ヒースクリフさんはおうちかどうかと|尋《たず》ねると、いやと答えて、だが食事の時刻には帰るだろうと言う。十一時だったので、僕ははいって待っていたいと言うと、彼はすぐさま道具をおっぽり出して僕をつれて行ったが、主人の代りとしてではなくて、まるで番犬の役目をするみたいだった。
僕たちが一緒にはいって行くと、キャサリンは何か野菜のお|惣《そう》|菜《ざい》を用意して働いていたが、この前見たときよりもいよいよ|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》で、ますます元気がなくなったように見えた。彼女は僕を見るために目もあげずに、前と同様に普通の礼儀を無視して、僕がお辞儀をしてもお早うを言ってもてんで知らん顔だ。
「彼女はディーン夫人が僕に信じさせようとするほどにはかわいらしくない」と思った。「なるほど美人であるが、天の使ではない」
アンショーは不機嫌そうに彼女のものを台所へもって行けと命じた。「あなたが自分で持っておいでなさい」と彼女は仕事を終えるが早いか何もかも押しやって、窓の|傍《そば》の|腰《こし》|掛《かけ》に行って、そこで|膝《ひざ》の上のかぶらの|切《きり》|屑《くず》で鳥や|獣《けもの》の形を彫刻しはじめた。僕は庭を見たいふりして彼女に近づき、ディーン夫人からの手紙をヘアトンに見つからずにうまく彼女の膝の下に落したつもりでいた。と、彼女は大きな声で、
「それは何です?」なんて尋ねて、それを押しやった。
「あなたの昔なじみの、グレンジの家政婦からの手紙です」と僕はせっかくの親切からこっそりやったことをさらけ出されて面くらい、自分の文だと疑われはすまいかと|懸《け》|念《ねん》して答えた。彼女はそれと知って喜んで拾い上げようとしたのだが、ヘアトンに先んじられてしまった。彼はそれを自分のチョッキにしまいこんで、ヒースクリフさんにまず見せねばならぬと言った。これを聞いてキャサリンは黙ってわれわれから顔をそむけ、ポケットのハンカチを出してこっそりと目にあてた。すると彼女のいとこは|優《やさ》しい感情を|抑《おさ》えつけるためしばらく努力した後に、手紙を引っぱり出して、彼女の|傍《そば》の床にひどく無愛想に投げつけた。キャサリンはそれを拾って熱心に読み、彼女の里の家の人々について僕に二、三|尋《たず》ねたが、それらの問の中には|辻《つじ》|褄《つま》の合ったのも合わないのもあった。それから丘の方を見つめながら|独《ひと》り|言《ごと》のようにつぶやいた。――
「私ミニーに乗ってあすこに下りて行きたいわ! あすこに登りたいわ! おお! 私はあきあきした――ほんとうにいやんなっちゃったわ、ヘアトン!」そして彼女は美しい頭を|窓《まど》|枠《わく》にもたせて、半分あくびをし半分ため息を|吐《つ》きながら、われわれが注視しようがしまいがいっこう平気で気がつきもせず、ぼんやりと悲しみに浸っていた。
「ヒースクリフの奥さん」と僕はちょっと黙りこんでいた後言った。「私はあなたのお知合いなんですがね。あなたが私に近づいてきてお話なさらないのが奇妙なくらいですよ。私んとこの家政婦ときたら、あなたのことを話してあなたをほめることでは退屈知らずにしゃべります。それだのに、あなたについて、あるいはあなたから何の便りも持ち帰らずに、ただあなたがその手紙を受取りなすって何もおっしゃらなかったというんでは、どんなにかあの人は失望するでしょう!」
こう言ってやったら驚いたように尋ねた。――
「エレンはあなたを好いているんですか?」
「ええ、そうですとも」と僕はどぎまぎして答えた。
「こう伝えて下さい」と彼女は言葉を続けて、「私は返事をあげたいけど、書くものがないんです。一ページちぎりとって書くにも本一冊ないんです」
「本一冊もないんですって!」と僕は驚いていった。「失礼なお|尋《たず》ねでしょうが、本一冊もなしにここであなたはどうして暮していらっしゃいますか? 本はたくさんありますが、それでさえ私はグレンジでおりおりひどく退屈します――本でも取り上げられてごらんなさい、私はやけ[#「やけ」に傍点]になってしまうでしょう!」
「私、本を持っていましたときは、いつもそれを読んでいました」とキャサリンは答えて、「そしてヒースクリフさんはちっとも本を読まないので、私の本をなくしてやろうと考えついたのです。私はこの幾週間というもの一冊の本の影さえ見ません。ただ一度、私はジョウゼフの神学書を|捜《さが》して、あの|爺《じい》さんにひどく腹を立てられました。それからヘアトン、私は一度あなたの部屋であなたが隠しておいた本を偶然見つけましたよ――ラテン語やギリシア語の本だの、物語だの、詩の本だの、みんな昔なじみのものでした。私はそれをここに持って来たのでした。それをあなたはまるでカササギが銀の|匙《さじ》を集めるように、ただ盗むのがおもしろいばっかりに集めたのです。それはあなたにとって何の役にも立ちません。それともあなたは自分でそれを楽しめないので、ほかの誰にもそれを楽しませまいと、意地わるしてそれを隠したのです。たぶんあなたのそねみから、ヒースクリフさんに|勧《すす》めて私の大切なものを奪いとらせたのでしょう? しかし私はあれを|大《たい》|概《がい》私の頭に書きつけ、私の心に印刷しておきましたから、あなたはそれを私から奪い取ることができませんよ!」
アンショーはひそかに文献収集をやっていたのをいとこに|暴《ばく》|露《ろ》されて、まっ|赤《か》になり、どもりながら|憤《ふん》|慨《がい》して彼女の|咎《とが》めだてを否定した。
「ヘアトンさんは知識|慾《よく》にかられたのですね」と僕は彼に|助《すけ》|太《だ》|刀《ち》して言った。「あなたの学問を|嫉《しっ》|妬《と》したのではなく、あなたの学問に|私淑《ししゅく》したのです。数年たてば立派な学者になるでしょう」
「そしてその人は今に私を|阿《あ》|呆《ほう》にしてしまいたいのでしょう」とキャサリンは答えて、「そうです、私はその人が|独《ひと》りで一字一字拾い読みをしようとしているのを聞きました。全くおもしろい間違いをやっていましたわ! もう一度昨日やったようにあのチェヴィ・チェイスの歌を読んで下さいな――それはとてもおもしろかったわ。私、聞いてよ、それからあなたがむずかしい言葉を知ろうと思って字引を繰り、字引に書いてある説明がわからないので、いまいましがってぶつぶつ言っているのも聞いたわ!」
無学のためあざけられ、勉強して知ろうとすればまたもやあざけられ、若者はあんまりひどいと思ったらしい。僕もそう思った。そしてこの若者が無教育に育てられ、自らその無学を開発しようとした最初の試みについてディーン夫人が話したことを思い出し、言葉を|挿《はさ》んだ――
「しかしヒースクリフの奥さん、私たちはそれぞれ初歩の時代があったものです。そしてご同様その初手には転げたりよろめいたりしたものです。私たちの教師が手助けしてくれずに私たちを|軽《けい》|蔑《べつ》したなら、今でも私たちは転んだりよろけたりしているでしょうに」
「おお!」と彼女は答えて、「私はこの人の学問を制限したいのではありません。それかといってこの人は何も私のものを占有しなくともいいのです! そしてくだらぬ間違いや発音違いをして私をおかしがらせないでもいいのです! あの本は散文の方も詩の方も私にとってはほかの思い出で神聖なものになっています。それをこの人の口でいやしくされ、けがされるのがいやですわ! ことにこの人はわざと意地わるからそうしたかのように、繰返して読むことが一番好きな、私の気に入りの本ばかり選んで持って行ったんですよ!」
ヘアトンの胸はしばらく沈黙のうちに高まった。|口《く》|惜《や》しさと|忿《ふん》|怒《ぬ》との激情にもだえて、それをおさえつけることは容易なわざでなかった。僕は立ち上って、彼の当惑を救ってやろうという紳士らしい考えから、戸口に立って外の景色を|眺《なが》めていた。彼も僕の例にならったが、それから室を出て、やがて両手に六冊ほどの本をもって現われ、それをキャサリンの|膝《ひざ》に投げつけて叫んだ――
「それを持って行け、おれは二度とそんなものは聞きたくもないし、読みたくもないし、考えたくもないぞ!」
「そんなものはもう欲しくないわ」と彼女は答えて、「私はそれをあなたと結びつけて考えていやらしく思うでしょうよ」
彼女はたびたび繰りひろげられたらしい一冊を開いて、初心者のたどたどしい語調でひと所を読み、それからあざ笑って、それを投げ出した。「そしてお聞きなさい」とさらに怒らすように言って、同じようにして古歌謡の一行をやり始めた。
しかし若者の自尊心はもはや|堪《かん》|忍《にん》ならなかったろう。ヘアトンが彼女の生意気な舌を|殴《なぐ》りつけて黙らした物音が聞えた。しかし僕は不当とも思わなかった。この意地わるな小娘はいとこの無教養ながらも敏感な感情を害しようと全力を尽したので、腕力に訴えることが、|差引勘定《さしひきかんじょう》して彼女に返報する|唯《ゆい》|一《いつ》の方法であった。それから彼は本を集めて炉の火に投じた。かかる犠牲を、立腹に対して|献《ささ》げることがどんなに苦痛であったか、それは彼の顔色に読めた。それらの本が燃え尽されたとき、若者はかつてそれらの本から受けた楽しみを思い出したことであろう。またそれらの本から期待していた|捷利《しょうり》といよいよ増して行く楽しみとを思い出したであろう。僕はまた何が彼をひそかに勉強させたかをも想像してみた。キャサリンに出会うまで彼は毎日の労働と粗野な動物的|享楽《きょうらく》とで満足していたのだ。彼女から|軽《けい》|蔑《べつ》されて恥じ、彼女から|賞《ほ》めてもらいたさに彼は初めて高級な勉強をやり出したのだ。ところが軽蔑から|免《まぬか》れて|称讃《しょうさん》を|博《はく》するどころか、彼の向上の努力にちょうど反対の結果を得たのであった。
「そうです、あなたのようなけだものが本を読んで学ぶことのできることは、せいぜいそのくらいのところだわ!」とキャサリンは傷つけられた|唇《くちびる》をなめて、|憤《いきどお》りの目で炎を見まもりながら叫んだ。
「もう黙った方がよかろうぜ!」と若者は荒々しく答えた。
そして彼はもう何も言えないほど興奮して、戸口へ急いで行った。僕はよけて彼を通してやったが、まだ|敷《しき》|居《い》|石《いし》を越さないうちに、ヒースクリフ氏が盛り上げ路を通ってやって来て彼と会い、肩に手を置いて|尋《たず》ねた――
「どうしたんだ、お前」
「何でもないんだ」と彼は言って、|独《ひと》りで悲しみと怒りとに思う存分|耽《ふけ》ろうと逃げて行った。ヒースクリフはその後をじっと見送ってため息をした。
「自分で自分のもくろみをじゃまするなんて奇妙なことだ」と彼は私がうしろにいるのに気がつかずにつぶやいて、「だが、おれがあいつの顔にあいつの父の|面《おも》|影《かげ》を求めようとするのに、彼女の面影が日増しに見えてくるとは! 何だってあいつはあれとあんなに似てやがるんだろう? とてもまともに見ていられない」
彼は視線を地上に落して、ふさぎこんではいって来た。彼の顔には以前見かけなかった一種おちつかない、不安げな表情があった。からだも以前より|痩《や》せて見えた。嫁は|舅《しゅうと》を窓から見つけるとさっそく台所に逃げたので、僕一人が残った。
「外出なさることができるようになって結構でしたね、ロックウッドさん」と彼は僕のあいさつに答えて言うよう、――
「そう申すのも一部は私の利己心からです。こんな|寂《さみ》しい土地なので、あなたに出て行かれては、代りの借家人がちょっと見つかりますまいからね。何だってあなたはこんな土地に来なすったのかと、私は一度ならず不思議に思いましたよ」
「ほんのくだらん気まぐれでしょうな」と僕は答えて、「それにしても、いまにくだらん気まぐれが私を神隠しにしようとするんです。私は来週ロンドンに出ます。そしてあらかじめ申し上げておかねばなりませんが、私は契約期間の満一か年だけお借りして、それ以上あのスラシクロス・グレンジにいるつもりはありません。もうこれ以上あすこに住むまいと思います」
「ああ、そうですか。あなたは世間から追放されているのがいやになんなすったでしょう?」と彼は言って、「しかし、もしもあなたがもはや住む気のない家の家賃を払うのは免除してもらおうと思っておいでなすったのなら、あなたのお出ましは|無《む》|駄《だ》ですよ――私はどなたからでも取るべきものは取るのに|容《よう》|赦《しゃ》しないのですから」
「私は何も免除なんかしていただくつもりで出かけて来たのではありません」と僕はかなりしゃくにさわって大きな声を出した。「ご希望ならば今でもお払いいたしましょう」と言って僕はポケットから約束手形帳を取り出した。
「いいえ」と彼は冷やかに答えて、「あなたが万一こちらにお帰りにならなくとも、債務の弁償には十分なだけのものを後に残しておいでなさるでしょう。私はそんなに急ぎませんよ。まあおすわり下さい。そしてご一緒に食事をしましょう。二度と訪ねて来る気づかいのないお客は、たいてい歓待されますよ。キャサリン、どこにいるんだ? 食べ物を持っておいで」
キャサリンは盆にナイフとフォークとを|載《の》せて持って来た。
「お前はジョウゼフと一緒に食事するがいい」とヒースクリフは小声で言って、「そしてあの人が行ってしまうまで台所にいなさい」
彼女は|舅《しゅうと》の言いつけにきちんと従った。おそらく彼女はその言いつけにそむく気はなかったのだろう。いなか者や世捨て人たちの間で暮しているので、上等な人間に出会ってもたぶんそれを鑑識できないのだろう。
一方にいかつい陰気なヒースクリフ氏を控え、他方に全くだんまりのヘアトンを控えて、僕はあまり|愉《ゆ》|快《かい》でもない食事をすまし、早々に辞去した。僕は裏口から出てキャサリンの最後の|一《いち》|瞥《べつ》を得、かつは老ジョウゼフをうるさがらせてくれようと思ったのだが、ヘアトンが僕の馬を表にまわすように言いつかり、ここの主人自ら僕を戸口に送って来たので、残念ながら希望を果すことができなかった。
「あすこの家では生活がどんなにか|侘《わ》びしいことだろう!」と僕はゆくゆく馬上で思った。「もしもリントン・ヒースクリフ夫人と僕とが、彼女の善良な|乳《う》|母《ば》が望んだように、突然ひょっこり|惚《ほ》れ合って、手に手をとって都の騒々しい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》へと移住して行ったなら、彼女にとってはなんとお|伽噺《とぎばなし》よりなおいっそうロマンチックなことの実現ではなかろうか!」
三二
一八〇二年。――この九月に僕は北部地方の友人に沢原で猟をやるから荒しに来いと招かれて、その男の|邸《やしき》に旅行の途中、はからずもギマトンから十五マイル以内のところにやって来た。沿道の居酒屋兼旅館でそこの|馬《ば》|丁《てい》が僕の馬に|呑《の》ませる水の|桶《おけ》を手にしていたとき、刈立てのまっ|青《さお》な|燕《えん》|麦《ばく》を積んだ車が通りかかった。馬丁は言うよう――
「あれはギマトンから来たのでがす、確かに! あすこの衆は他の衆よりかもいつでも三週間遅うがんす」
「ギマトン?」と僕は繰返した。あの地方の僕の住居はもうぼんやりと夢のようになっていたのだ。
「ああ、そうか。それはここからどのくらいあるのかい?」
「たぶんその丘越しに十四マイルばかりで、それにひどい路でがす」と彼は答えた。
僕は突然スラシクロス・グレンジに行ってみる気になった。まだやっと正午になったくらいの時刻だったし、どうせ|旅《はた》|籠《ご》|屋《や》で泊るくらいなら、自分の家で一晩過すのもよかろうと思った。それに家主に支払いをすますためにたやすく一日|割《さ》くことができるし、そうすれば再びこの地方にやって来るめんどうが省けるというものだ。少憩の後、僕は下男に命じて村に行く道を|尋《たず》ねさせ、さんざんわれわれの馬を疲れさせて、やっとのことでその旅程を約三時間かかって達した。
僕は下男を村に残して、|独《ひと》りで谷を下って行った。灰色の教会堂はいよいよ灰色に見え、|寂《さみ》しい墓地はますます寂しく見えた。沢原の羊が墓地の短い草を食い切っているのが見えた。気持の好い暖かな天気だった。旅行するには暖かすぎるくらいだったが、空や地上の|愉《ゆ》|快《かい》な景色を楽しむにはちっともさしつかえなかった。もしもこの景色を八月|頃《ごろ》に見たならば、僕は確かにこの|寂《せき》|寞《ばく》孤独の境にひと月過したくなったことであろう。丘々に囲まれたこれらの谷々と、ヒース茂る野のぶっきらぼうな大胆な起伏は、冬にはこの上なく荒涼として|侘《わ》びしく、夏にはまたとなく|神《こう》|々《ごう》しく美しい。
僕は日暮れ前にグレンジに着いて、ノックして案内を|乞《こ》うたが、一筋の細い青い煙の輪が台所の煙突から立ち昇っている点から察すれば、家の者は奥の方に引っ込んでいたらしく、|叩《たた》いても誰も聞きつけなかった。僕は庭に馬を乗り入れた。車寄せの所で九つか十になる女の|児《こ》が編物をしていた。馬に乗るときの踏段の石に一人の|婆《ばあ》さんがよりかかって黙想のたばこをふかしていた。
「ディーン夫人はおいでかね?」と僕は婆さんに尋ねた。
「ディーン様かね? いいえ!」と答えて、「あのかたはここに住んでいなさらぬだよ。ハイツにいなさるだ」
「そんならお前さんが家の世話人かね?」と僕は続けてきくと、
「あいさよう、私がこの家を世話していますんじゃ」との答だ。
「ああそうか、私がこの家の主人のロックウッドだよ。泊る部屋があるかしら? 今晩ずっとここに泊りたいんだが」
「ご主人様かね!」と婆さんは驚いて叫んで、「おやまあ、あなた様がおいでなさるなんて誰が知っていましたべえ? 先にひと言知らせて下はればいいだに! ここには何一つだってさっぱりした場所もなし、結構なものも何一つないでのう!」
婆さんはきせるをほうり出してあたふた奥にはいった。小娘も続いた。僕もはいった。するとじきに婆さんの今の言葉がほんとうなことがわかり、おまけに僕のだしぬけの出現がほとんど彼女をぼうとさせてしまったことを知って、僕は婆さんにおちつくように命じた。ちょっと散歩してくるから、その間に居間の|隅《すみ》を片づけて夕飯を食べられるようにし、寝室の用意をしておくよう、それから|掃《そう》|除《じ》なんぞしないでいいから、ただいい火と乾いてさっぱりした敷布とだけは必要だと、言いつけた。婆さんは|畏《かしこ》まってできるだけせっせと働き出した。ただし|炉《ろ》|刷《ば》|毛《け》を|火《ひ》|掻《かき》|棒《ぼう》と間違えて|炉《ろ》|格《ごう》|子《し》の中に突っ込んでみたり、その他さまざまの仕事道具を使い間違っていた。しかし休む所を整えて僕の帰宅を準備するだろうと、彼女の精力に信頼してここを退出した。外出の行先はワザリング・ハイツだ。庭を過ぎたとき、ふと思いついて|戻《もど》って来た。
「ハイツじゃ皆さん変りないかね?」と僕は女に|尋《たず》ねた。
「あい、|大《おお》|方《かた》そうでがんしょ!」と彼女は赤い火種を火皿にのせて走りながら答えた。
なぜディーン夫人がグレンジを去ったのか尋ねたかったけれど、こんな急場に際して婆さんの仕事を長引かすわけにいかないので、さらに引返して外に出た。入日の薄れ行く夕映えを後にし、月の出の照りまさる穏やかな光を前に望んでぶらぶら歩みながら、|猟苑《りょうえん》を過ぎ、ヒースクリフ氏の住家に曲る|砂《じゃ》|利《り》|小《こ》|径《みち》を登って行った。その家の見えるところまで|辿《たど》り着かぬうちに、日の残光はわずかに西空をほんのりと|琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》に染めているだけであった。けれども輝き渡る月の光で、|路《みち》の小石が一つ一つ見え、草の葉が一枚一枚見えた。門を乗り越えたり|叩《たた》いたりしなくてもよかった。手で押すとすぐ開いたからだ。これは改善されたわいと思った。鼻で|嗅《か》いでみてもう一つの改善を知った。それは平凡な果樹の間からアラセイトウやニオイアラセイトウなどの芳香が空中に漂っていたことである。
戸も窓も開いていたが、ここも石炭産地の例に|洩《も》れず、快い赤い火が炉を明るくして燃えていた。それを見る目の気持よさは余計な熱さをも我慢させる。だが、ワザリング・ハイツの居間は大変に広いので、そこにいる人たちはその余計な熱をあまり受けない場所に引っ込んでいることができる。したがってその時そこにいた人もみな窓からあまり遠くない所にすわっていたから、内へはいらぬ前にその姿を見、その話し声を聞くことができた。それゆえ、僕は見た。耳を傾けた。|佇《たたず》んでいる間にいよいよつのってゆく好奇心と|羨《せん》|望《ぼう》の念とに駆られたのである。
「コントレエアリですって!」と銀鈴を振るような声が言って、「これで三度目よ、このとんまさん! もう二度と言ってあげないわ。思い出してご覧。さもないと髪の毛を引張ってよ!」
「そんなら、コントラリだ」と相手は太いしかしおとなしい声で答えて、「さあ、こんなによくおぼえていたご|褒《ほう》|美《び》にキスしておくれ」
「だめです、もう一度一つも間違いなく読み返さなくっちゃあ」
男は読み出した。若い男で、相当いい服を着て、本を前においてテーブルにすわっていた。その|美《び》|貌《ぼう》は喜びに輝き、視線は本のページから肩の上の小さい白い手へとつい移っていた。その手の持主がかような不注意の|兆候《ちょうこう》を見つけると、その手は小気味よく|頬《ほお》をなぐりつけて、彼の注意を呼び返すのであった。その手の持主は背後に立っていた。彼女が彼の勉強を監督して|覗《のぞ》きこむと、彼女の軽い輝く巻毛はおりおり彼の|褐色《かっしょく》の髪と交ってもつれあった。そして彼女の顔――彼がそれを見ることができなかったのは幸いであった。そうでなかったら彼はあんなにおちついていられなかったろうに。僕はその顔が見えた。そしてその|魅《み》|惑《わく》するような美に見とれる以外にもっとどうにかしてもいい機会があったのに、それを|抛《ほう》ってしまったことを後悔して|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
課業が終った。ほかに間違いがなかったわけでもないが、生徒はご|褒《ほう》|美《び》を要求し少なくとも五つキスしてもらったが、彼はそれにたっぷり報い返した。それから二人は戸口に来たが、互いの話から察すると彼らはこれから出かけて沢原に散歩するところらしい。こういう場合に彼の近くに不幸にして僕の姿を現わしたりしたら、ヘアトン・アンショーの口に出してではなくともその心の中で、僕は地獄界の最下層の穴に|呪《のろ》いおとされるに相違ないと思った。それでひどくさもしい思いをして、そしてひとが悪いとは思いながら、僕はこそこそと台所の方にまわって隠れ場所を求めた。こちらの入口も無抵抗に開いた。そして戸口に僕の旧友ネリー・ディーンがすわっていた。縫物をしながら歌をうたっていたが、歌声は奥から聞えるだみ声の荒々しい|怒《ど》|罵《ば》の言葉でたびたび妨害された。
「とにかく、お前さんの声を聞かされてるよりか、朝から晩まで私の耳もとで奴らにわめかれる方がよっぽどましじゃ!」と台所の住人はネリーの何やら言った言葉に答えて言うよう、「わしがありがたい聖書を開くと、いつでもきまってお前さんは悪魔だの、この世界に生れたあらゆる恐ろしい邪悪だのを、|讃《たた》えて歌ってるようじゃが、ひどい恥知らずじゃわい! おお、お前さんは全くやくざ者じゃわ。そしてあの女もじゃ。そしてかわいそうにあの若者はお前さんたち二人から地獄に|堕《おと》されてしまうのじゃ。かわいそうな若者じゃのう!」と彼は嘆息のうなり声をたてて、「あの若者は魔女に迷わされているんじゃ。確かにそうじゃ! おお、主よ彼らを裁き給え。われらの支配者たちのあいだには|掟《おきて》もなく|裁判《さ ば き》もなければなり!」
「ええ、ないですよ! あれば、われわれは火あぶりの|薪《まき》の中にすわらなくてはなりますまいよ」と歌う女は答えて、「だがお黙りなさい、お|爺《じい》さん。そしてあなたの聖書をクリスチャンらしくお読みなさい。そして私のことなんてご心配なさらないで下さい。これは『妖精アニーの婚礼』って歌で、いい節ですよ、ダンスに合うんです」
ディーン夫人が始めようとしたとき、僕ははいって行った。彼女はすぐさま僕を見つけて、とび上って叫んだ――
「おおや、まあ、ロックウッドさん! 何だってあなたはこんな出し抜けにひょっこり帰っていらしたんですの? スラシクロス・グレンジはまるで締切りになっております。前もってお知らせ下さればよかったのに!」
「私がいる間だけはあすこに泊れるように話を決めて来ましたよ」と僕は答えて、「私は明日また出かけてしまいます。だが、あなたはなぜここに移って来たのです?」
「ジラーがお暇をとったので、ヒースクリフさんが私をこちらによんだのです。あなたがロンドンにお立ちなすって間もなくでしたよ、それであなたがまたこちらにお帰りなさるまでこの家にいることになりましたのです。まあどうぞおはいり下さいまし! 夕方ギマトンから歩いていらしたのですか?」
「グレンジからです」と僕は答えて、「そしてあっちで僕の宿の用意をしている間に、あなたの家のご主人と用事をすましたいと思って来たのです。これをはずすと急にはまたの機会があるまいからね」
「何のご用事でございますの?」とネリーは僕を居間に案内しながら言って、「主人はいま外出しています。すぐにはお帰りになりますまい」
「家賃のことです」と僕は答えた。
「おお! それなら奥様と話合いなさらなくてはなりません」と彼女は言うよう、「むしろ私とでしょう。奥様はまだそういう事務のとりきめにはお慣れになりませんから、私が代理をいたします。ほかに誰もいませんので」
僕は意外な顔をした。
「ああ! あなたはまだヒースクリフの死んだことはご存じなかったのですね」と彼女はまた言った。
「ヒースクリフが死んだって!」と僕はびっくりして叫んで、「それはいつのことです?」
「三か月前のことです。がまあおすわりなさいまし。そしてお帽子を取らせて下さいまし。そしたら詳しい話を申し上げましょう。ちょっと、あなたは何か召し上りなさいまして?」
「何もいりませんよ。私は家で晩飯を言いつけておきました。あなたもまあおすわり。よもやあの人が死ぬとは思わなかった! どうしてそんなことになったのか話して下さい。あの若い連中はしばらく帰るまいということでしたね?」
「帰りますまい――夜遅くまでぶらついているので、毎晩私はあの人たちを|叱《しか》ってやらなくてはなりません。それでもいっこう平気なものです。まあちょっと私どもの古いビールを一口お上り下さい――きっとおからだによろしいでしょう――お疲れのように見えますから」
僕が断わる|隙《ひま》もないうちに彼女は酒をとりに急いで行った。ジョウゼフが彼女に|詰《きつ》|問《もん》している声が聞えた。
「お前さんみたいないい年をしておとこ[#「おとこ」に傍点]をもつなんて、すさまじい|醜聞《しゅうぶん》ではないか? そのおまけにじゃ、ご主人の酒蔵から貯えものを持ち出してふるまってやるとは何事じゃ。わしは黙って見ているのが全くはずかしいわい」
彼女はかかわりあって返答せずに、ほどなくなみなみと酒を入れた三合入りの銀の容器を持って再びはいって来た。僕はふさわしい熱心をこめてその酒を賞美した。それから彼女はヒースクリフの物語の続きを僕に聞かせてくれた。彼女の言葉でいうと、彼は「変な」|最《さい》|期《ご》を遂げたのであった。
*
あなたがお立ちなすってから二週間とたたないころ、私はワザリング・ハイツに呼ばれまして、キャサリンのために喜んでこちらに参りました。最初キャサリンと会ったとき、私は悲しくなってぞっとしました。別れてからそれほどひどく変っていたのです。私をここに呼ぶ気を新たに起したのはなぜなのか、ヒースクリフさんは説明しませんでした。ただ私に会いたくなったこととキャサリンを見るのがいやになったことだけを私に話しました。私は小さな居間を自分の部屋にしてキャサリンと一緒にいました。ヒースクリフは一日に一度か二度やむをえずキャサリンに会えばそれで関の山でした。キャサリンはこんなぐあいになったことを喜んでいるようでした。そして私はキャサリンがグレンジで楽しんでいたようなたくさんの本や何かを次第にこの部屋にこっそり運んで来て、かなり気持よくやっているつもりでいい気になっていましたが、そんな幻想は長続きしませんでした。最初満足していたキャサリンは間もなくいらいらしておちつかなくなりました。一つにはキャサリンは庭の外に出ることを禁じられておりましたので、春が近づくにつれてこんな狭苦しい所に閉じこめられていることを、ひどく不平に思い始めたのでした。また一つには、私が家の用事でたびたびキャサリンを置き去りにしなくてはなりませんでしたので、|寂《さみ》しいとこぼすのです。平和に|独《ひと》りぼっちつくねんとすわっているよりましと、台所でジョウゼフとけんかしたりしていました。私はこの二人の|小《こ》|競《ぜ》り|合《あ》いには気をとめませんでしたけれど、ヘアトンもまたおりおり主人が茶の間を独占したいときなど台所にやって来なくてはなりませんでした。最初の間キャサリンはヘアトンがやって来ると台所を去るか、あるいは静かに私の仕事を手伝って、彼と話をしたり呼びかけたりするのを避けていましたし、ヘアトンはいつでもこの上なくむっつりして口を開きませんでしたけれども、やがてキャサリンは態度を変えて、もはやヘアトンにかまわないではいられなくなり、話しかけてみたり、間抜けで|惰《なま》け者だと批評してみたり、またあのようにして一晩じゅうすわって炉の火を|眺《なが》めたり居眠りしたりしながら、どうして根気よく暮して行かれるものだろう、などと驚嘆の言葉を|洩《も》らしたりするようになったのです。
「エレンや、あの人はまるで犬か馬車馬みたいじゃなくって?」とキャサリンはいつでしたか言いますには、「働いて、食べて、そして眠って、いつまでも同じなのね! なんて|空々寂々《くうくうじゃくじゃく》な心を持ってる人でしょう! ヘアトン、あなたは夢をみることがあって? 見ればどんな夢なの? でもあなたは私に物を言うことができないのね?」
そしてキャサリンは若者を見ましたが、若者は口も開かなければ見返しもしませんでした。
「あの人はたぶんいま夢をみているところよ」とキャサリンは言葉を続け、「あの人はまるでジュノウが肩をびくびく動かすように自分の肩をびくびく動かしたわ。エレンや、|尋《たず》ねてごらん」
「あなたが礼儀を守らないと、ヘアトンさんはご主人に頼んであなたを二階に追い払うでしょうよ」と私はたしなめました。ヘアトンは肩を動かしたばかりでなく、|拳《こぶし》を握って今にもそれを|振《ふる》いたそうにしていたのでした。
またこんなことを言ったこともありました。「私が台所にいるとなぜヘアトンが話をしないのか私知ってるわ。私が笑うかと思って恐れているんだわ。エレン、お前どう思って? あの人は一度読み方を独習しかけて、私に笑われたものだから、本を燃してしまって、それっきり勉強をやめてしまったっけ――ばか者じゃなかったこと?」
「あなたこそ意地わるじゃありませんでしたろうか? どうです」と私は申しました。
「たぶんそうでしたろう。でもあの人がそんなわからずやとは思わなかったわ。ヘアトン、私が今あなたに本をあげたなら受け取る? あげてみるわ!」
そう言って今まで読んでいた本を若者の手にのせますと、若者はそれを|抛《ほう》り投げて、ばかなまねをよさないと首っ玉をへし折ってやるぞとつぶやきました。
「そんなら、私はこのテーブルの引出しにそれを入れておきましょう。そして寝ましょう」
そう言ってキャサリンは、ヘアトンがその本をとるかどうか見ていてくれるよう、私にささやいておいて台所から出ました。しかしヘアトンはそれを見向きもしませんでしたので、あくる朝そう申しましたら、ひどく失望していました。ヘアトンがいつもむっつりしてのほほん[#「のほほん」に傍点]なので、キャサリンは気に病んでいるようでした。せっかく勉強しようとしていたのに、|嘲《あざけ》りの不意打ちを|喰《く》わしてやめさせてしまった、その心無い仕打ちを|悔《く》いているようでした。十分有効にそれをやってしまったのでしたから。しかし賢いキャサリンは自分の旧悪を改め|償《つぐな》おうと計っていたのです。居間ではやりづらいので、台所で私がアイロンかけやその他おちついてやる仕事をしている間、キャサリンはおもしろい本を持ち出して来て、それを私に音読して聞かせました。|傍《そば》にヘアトンがいるときにはたいていおもしろい所で読みきっておいて、その本をそこらに置きざりにして行きました。これを何度も繰返しましたが、若者はまるで|騾《ら》|馬《ば》みたいに強情で、|餌《えさ》には食いつかずに、雨の日などにはジョウゼフと一緒にたばこをふかして、炉の両側に一人ずつ自動人形のようにすわっていました。老人の方は幸いに耳が遠いので、この人流に言うなら例の邪悪なたわごとがわかりませんでしたし、若者の方はできるだけ聞かないふりをしていました。お天気の晩には、若者は銃猟に出かけ、キャサリンはあくびしたりため息したりして、私に話をしろとせがみ、私が何か話し出すとすぐに中庭や庭にかけ出しました。しまいには最後の手段として泣き出し、生きていてもつまらないからもう生きてるのはいやになったと言うのでした。
ヒースクリフさんはいよいよ人と一緒にいることを嫌うようになり、ヘアトン・アンショーをほとんど居間から追い出しました。それに三月の初めにヘアトンはけがのため幾日かの間台所で暮しました。一人で丘に出ていたとき、銃が爆裂して、その破片で腕を負傷し、家に着くまでにずいぶんたくさん血が出ました。その結果、ヘアトンは傷口が回復するまでいやでも応でも炉ばたで静かにしていなくてはならないのでした。ヘアトンのそこにいることはキャサリンの気に合いました。とにかく、そのためにキャサリンは二階の自分の部屋にいることをいよいよいやがるようになりました。そして私に|強《し》いて下で仕事をさせて一緒におらせるようにしました。
復活祭の月曜日に、ジョウゼフはギマトンの市場に牛をひいて行き、午後に私は台所で|洗《せん》|濯《たく》|物《もの》の仕上げをせっせとしていました。ヘアトン・アンショーはいつものようにむっつりして炉ばたにすわり、キャサリンは窓ガラスに絵を描いたりして|隙《ひま》な時間をまぎらし、|抑《おさ》えられてでもいたかのように突然声をあげて歌ったり、嘆声を|洩《も》らしたり、またもどかしそうにいとこの方をちらりと見たりしましたけれど、彼の方では相も変らずたばこをふかし|炉《ろ》|格《ごう》|子《し》の中を見つめていました。もう窓明りをさえぎるのはよして下さいと私から言われて、キャサリンは炉ばたへ行きましたので、私はどうするのかしら、とちょっと注意していましたが、まもなくこう言っているのが聞えました。――
「ヘアトン、私はわかったのよ、仲好くしたいと――私はあなたがいとこで|嬉《うれ》しいと思うわ――もしあなたがこんなに私に意地わるく|素《そっ》|気《け》なくなっていなかったら」
ヘアトンは返事をしませんでした。
「ヘアトン、ヘアトン、ヘアトンってば! 聞えないの?」とキャサリンは続けました。
「あっちへ行けよ!」とヘアトンは|妥協《だきょう》しない荒々しい口調でどなりつけました。
「そのパイプを下さいな」とキャサリンは用心深く手を出して、それを口から抜きとりました。
取り戻そうとする|隙《ひま》もなく、パイプは折られて炉の火に投げ入れられました。ヘアトンは何かののしりながら別のパイプをつかみました。
「およしなさい」とキャサリンは言いますよう、「まあ私の言うことをお聞きなさいな。たばこの煙が私の顔にかかっては話ができやしないわ」
「地獄の鬼の所へでも行け!」とヘアトンは|憤《ふん》|激《げき》して叫んで、「おれにかまうな!」
「いいえ、いやです」とキャサリンは根気よく言い張って、「私どうしてあなたに話をさせたらいいでしょうかしら。あなたは私の話を聞くまいと決心しているんだもの。私があなたのことをとんまといったのは、べつだん悪い意味じゃないことよ。あなたを|軽《けい》|蔑《べつ》したのじゃないわ。さあ、ヘアトン、どうしてもあなたは私の言うことに耳をとめなくてはならないわ。あなたは私のいとこですもの。私をあなたのいとこと認めてくれなくちゃいけません」
「おれはお前みたいな奴に何もかまわないぞ、お前のくそ高慢にも、お前の人をばかにした腐れ計略にも、おれはもうかかわりはしないぞ」と若者は答えて、「おれが二度とお前を横目でだって見るくらいなら、からだも|魂《たましい》もとっくに地獄に行っちまう方がましだ。さあ今、たった今出て行け!」
キャサリンは顔をしかめて窓の席に帰り、唇を|噛《か》み、調子外れの|鼻《はな》|唄《うた》で|啜《すす》り泣きたい気持を隠そうと努めました。
「ヘアトンさん、あなたはいとこと仲好くしなくてはいけません」と私が口を入れました。「生意気なことをしたと思って後悔していなさるんですもの。そうすればあなたのためにもなるでしょうよ。このかたを友達にもてばあなたは別人のようになるでしょうからね」
「友達!」とヘアトンは叫んで、「その人が僕を憎んで、|靴《くつ》を|拭《ふ》いてもらうことさえいやだとおれを|卑《いや》しめているのにか! いやだ! たとい王様にしてやるからと言ったって、おれはもうけっしてそいつの好意を求めるために|軽《けい》|蔑《べつ》されはしないぞ!」
「私があなたを憎んでいるんじゃなくって、あなたが私を憎んでいるんですわ!」
とキャシーはもはやこらえきれなくなって泣き出しながら、「あなたはヒースクリフさんと同じように、それよりかもっとひどく、私を憎んでいるのよ」
「お前は腐れ|嘘《うそ》つきだ」とアンショーは言って、「そんならなぜおれはお前の味方をして百遍もあの人を怒らしたと思う? それだのにお前はおれをあざ笑って軽蔑して、おまけに――いつまでもうるさくしてると、おれはあっちに行って、お前がおれを台所からいびり出したと言ってやるぞ!」
「あなたが私の味方になってくれたなんて私知らなかったわ」と涙を拭きながら答えて、「そして私は情けなく思って誰にでもつらく当っていたんだけれど、今はあなたにお礼をいっておわびしますわ。そのほかに私はどうすればいいんでしょう?」
キャサリンはまた炉ばたに行って、すなおに手を差しのべました。相手はまるで雷雲のように険悪な顔をして、両手の|拳《こぶし》をしっかり握りしめたまま、じっと床をにらんでいました。この|頑《がん》|固《こ》な仕打ちをさせるものは|嫌《けん》|悪《お》でなくて強情な|片《かた》|意《い》|地《じ》なのだ、とキャサリンは本能的に察したに相違ありません。なぜなれば、ちょっともじもじした後、かがんで相手の|頬《ほお》に|優《やさ》しく|接《せっ》|吻《ぷん》したのでした。この小さないたずら女は私が見ていなかったと思って、|戻《もど》って来て元の|窓《まど》|脇《わき》の場所にまじめくさってすわりました。私はたしなめるように頭を横に振りますと、顔赤らめてささやきますよう――
「そうよ! だって私どうすればよかったの? エレン。あの人は握手しようともしないし、見向きもしないんですもの。私はあの人が好きだということ――仲よくしたいということを、何とかして示さなくてはならなかったのよ」
接吻がヘアトンを信じさせたかどうか私にはわかりませんが、しばらくの間あの人は顔を見られないように大変気をつけていました。そして顔をあげたとき、視線をどちらへ向けたらいいかとひどく当惑していました。
キャサリンはきれいな本を一冊白紙でてぎわよく包んでいましたが、それをリボンで結び、「ヘアトン・アンショー様へ」と書いて、その|名《な》|宛《あて》の受取人にこの贈り物を持って行く使者になってくれるよう私に頼みました。
「そしてもし受け取ってくれたなら、私は行ってそれの読み方をちゃんとお教えいたしましょうと言っておくれ」とことづてして、「もし受け取って下さらないなら、私は二階へ行って、二度とおじゃまをいたしませんと言ってね」
私はそれを持って行って、その言葉を繰返しました。贈った人は心配して見守っていました。ヘアトンは指を開こうとしないので、私はそれを|膝《ひざ》の上に置きました。べつだん投げ飛ばしもしませんでした。私は|戻《もど》って来て自分の仕事をつづけました。キャサリンは頭と両腕をテーブルの上にもたせていましたが、包紙を取り去る|微《かす》かな音を聞いてそっと立ち上り、静かにいとこの|傍《そば》に来てすわりました。若者は震え、顔は輝き、平素のあの荒々しさ、あのむっつりした|無《ぶ》|骨《こつ》さは跡形なく消えて、いとこの物問うような目と嘆願のささやきとに答えるのにも、最初は一語を発する勇気すら出ませんでした。
「|赦《ゆる》すと言って下さいな、ヘアトン、どうぞね! 一言そう言って下されば私はとても幸福になるのですもの」
ヘアトンは何やら聞きとれないことをつぶやきました。
「そしてあなたは私のお友達になって下さいますね?」とキャサリンはさらに|尋《たず》ねました。
「いや、あなたは一生毎日僕のことを恥ずかしく思うでしょう」と一方は答えて、「しかもあなたが僕を知れば知るほど、ますます恥ずかしい思いをなさるだろうから、それが僕にはやりきれないんだ」
「それであなたは私のお友達にならないって言うの?」とあのかたは言って、|蜜《みつ》のように甘くほほえみ、そっと寄り添って行くのでした。
それからの話し声はいっこう聞えませんでしたが、その次に振り返って見ましたときには、あの受け取られた本の上をのぞきこんでいる、二人の|素《す》|晴《ばら》しく輝かしい顔を見ましたので、講和条約が双方で|批准《ひじゅん》されたことを私は疑いませんでした。今までの敵はそれ以来というもの|盟《ちか》い合った味方同士となりました。
二人が研究していた本には豪華な絵がたくさんありました。それに何しろ二人のその時の状態ですから、すっかり夢中になって、ジョウゼフが帰って来るまで二人はそのまま動きませんでした。キャサリンがヘアトン・アンショーと同じベンチに腰かけて手をいとこの肩にかけている光景を見て、かわいそうにこの老人はすっかりたまげてしまい、気に入りの若者が若奥様の近寄るままにしているのには、これまたすっかり度を失ってしまいました。あんまり深く感じ入ってその晩はこのことについて文句が出ませんでした。ただ、老人の感情は大きなため息によって|洩《も》らされるだけでした。ため息をつきながら|爺《じい》さんは大型の聖書をテーブルの上に重々しくひろげましたが、やがてその日の取引の結果である汚い紙幣を手帳の間から取り出し、それを聖書の上にのせて、ようやくヘアトンを呼びよせて申しますよう――
「これを持ってご主人の部屋に行ってな、そしてあちらにいる方がいいじゃろう。わしも自分の部屋に行こう。この部屋はわしらにとって品が下っているし、適当じゃないわい。わしらはこんな所から抜け出して別の部屋を|捜《さが》さねばならんのじゃ」
「さあ、キャサリン」と私は申しました。「私たちもここから『抜け出して』行かねばなりません。私はすっかりアイロンをかけてしまいましたよ。さあ行きますよ、よござんすか?」
「まだ八時にならないじゃないの?」とキャサリンは不承不承に立ち上って、「ヘアトン、私この本を炉だなの上に残して置いて、明日もっと別なのを持って来ますわ」
「お前さんの残して置く何本によらず、わしは茶の間に持って行こうわい」とジョウゼフが申しますよう、「それでお前さんが二度とそれを見つけたならたいした不思議なことじゃろうて。それでよければ勝手にするがよかんべえ」
キャシーは、そんなことをするとお前さんの本を同じようにして仕返ししてあげると老人を|脅《おど》して、ヘアトンの前を通るときにっこり笑い、うたいながら二階へ行きました。おそらく最初にリントンを訪問した|頃《ころ》を除くならば、キャシーがこの家の中でこんなにうきうきしていたことは、まず今までになかったと思います。
こうして由来した親しみはぐんぐん発展して行きました。でも一時の|妨《さまた》げには出会ったこともないではありません。アンショーはなかなか希望どおりには学問が進みませんし、若奥様だって哲学者でもなし、忍耐の典型というわけでもありませんからね。しかし両方の心は同じ点に向い、一方は愛しかつ認めようとし、他は愛しかつ認められようとして、おしまいにはその目的点に到達するようにしました。
ロックウッドさん、ヒースクリフ夫人の心を得るのは容易であったとおわかりでしょう。しかし今になってみますと、あなたが試してみないでよかったと私は思いますよ。私の何よりの希望はこの二人の結合です。両人の結婚式の日には私は誰をも|羨《うらや》みますまい。その日にはイギリスじゅうで私ほど幸福な女は誰もないでしょうからね!
三三
その月曜日の翌日、アンショーはまだいつもの仕事ができずに、家に残っていましたので、私は従来のようにキャシーを|手《て》|許《もと》に引き止めておくことができないことをすぐ|覚《さと》りました。キャシーは私よりも早く起きて庭に出ました。そこでいとこが何か簡単な仕事をしていたのです。そして私が朝飯を食べに二人を呼びに行きますと、キャシーはいとこを説きつけて、カランツやグズベリの|藪《やぶ》から広い場所を切り拓いて、そこへグレンジから植木や草花を移植しようと盛んに計画を話しあっていました。
私はわずか三十分の間に成しとげられた荒し方に恐れをなしてしまいました。黒カランツの藪はジョウゼフの何より大切なものですのに、キャシーはそのまん中に花壇の場所を選定していたじゃありませんか!
「これ! そんな事をして見つかるとさっそくご主人に告げられてしまいますよ」と私は叫んで、「お庭をそんな勝手に荒して何と申し訳なさいます? 大目玉が私どもの頭の上で爆発するから、今に見ていてご覧なさい! ヘアトンさん、あなたは愚かにもその人の言うなりになって、こんなへまをやらなくたって、もっとちえがありそうなものね!」
「これがジョウゼフのものだってことあ忘れてたんだ」とアンショーは困った様子で答えて、「だが僕がしたんだってあいつに言ってやるよ」
私たちはいつもヒースクリフさんと一緒に食事しました。私はお茶を出したり食物を切り盛りしたりして主婦の役を勤めていましたので、食卓にぜひ必要な人物でした。キャサリンはいつも私の|傍《そば》にすわっていましたが、その日はいつの間にかヘアトンの近くにすわっていました。敵意を隠そうとしなかったように、|慎《つつ》しみ深く親しみを隠すということがないのでした。
「いいですか、あんまりヘアトンと話したり、あの人の方ばかり見ていてはいけませんよ」と私は食事部屋にはいるとき小声で教えておいたのでした。「そうするとヒースクリフさんは立腹して、あなたがた二人を気ちがいのようにどなるでしょうからね」
「私そんなことしませんわ」とその時は答えていたのです。
一分間の後、キャシーはもういとこの方ににじり寄って、その|粥《かゆ》|鉢《ばち》に桜草を突き立てていました。
ヘアトンはそこではキャシーと話をするどころか、その顔を見るさえ恥ずかしいほどでしたが、キャシーの方ではなおもからかい続けますので、二度ばかり危く笑い出すところでした。私が顔をしかめますと、キャシーは|舅《しゅうと》の方を見ましたが、舅の心は同席の者のことなどより別な|事《こと》|柄《がら》を考えているらしく、その顔つきが示していましたので、その様子を慎重に見つめながら、キャシーはちょっとの間まじめになりました。それから向きをかえてまたもやふざけ出し、とうとうヘアトンはこらえかねてクックッと声を|洩《も》らしました。するとヒースクリフさんはじろりと私たちを見渡しました。キャサリンは例の神経質なしかも|挑戦的《ちょうせんてき》な目つきでにらみ返しました。それがヒースクリフはいやでたまらないのでした。
「私の手のとどかぬ所にいるのは仕合せだぞ」と主人はどなって、「私をいつもそのいまいましい目でにらみ返すなんて、どんな鬼がお前に取りついているんだ? その目を下に向けろ! そしてお前がそこにいることを二度と私に思い出させるなよ。笑うくせなんかなおしてやったつもりだのに、まだこりないのか!」
「笑ったのは僕だ」とヘアトンはつぶやきました。
「何だって?」と主人は尋ねました。
ヘアトンは皿鉢に目を落して、自白を繰返しませんでした。それをヒースクリフさんはちょっと見て、黙って朝飯をつづけ、妨害された黙想に再び|耽《ふけ》りました。私たちの食事はもうほとんどすんでいましたし、若い二人は用心深く互いに離れましたので、私は食卓から立つまではもはやじゃまがはいろうとは予期しませんでした。するとジョウゼフが戸口に現われました。その震えている|唇《くちびる》と、怒り|猛《たけ》った目とは、大事なスグリの|藪《やぶ》に対して行なわれた暴行が見つかったことを示していました。それを見つける前に、この|爺《じい》さんはキャシーがいとこと一緒にその場所にいたのを見たに相違ありません。なぜなれば、その|顎《あご》は|反《はん》|芻《すう》している牛の|顎《あご》のように働いて、言葉が聞きとりにくいながらも、こう言い出したからです――
「わしは給料を|貰《もら》って、出て行かねばならん! わしは六十年間ご奉公した家で死ぬつもりであったのじゃ。そしてわしの本や持物をぜんぶ屋根裏部屋へ持って行って、あの人たちに台所を明け渡してしまうつもりであった。それもこれも事を|穏《おん》|便《びん》にするためなのじゃ。自分の炉ばたを離れるのはつらいことじゃが、わしはそれさえできると思っていたのじゃ! けれども今度あの女はわしの庭までわしから取ってしまった。全くいかに何でも、|旦《だん》|那《な》様、わしはもう我慢がなりませんわい! あなたがたはくびきに甘んじておりなさるじゃろうが、わしはそんなものに慣れておらんのじゃ。そして年寄は新しい重荷にそう早くは慣れないものじゃからのう。わしは道でハンマーでも|振《ふる》ってわしの食べる|糧《かて》をかせいだ方がましじゃわい!」
「こらこら、|阿《あ》|呆《ほう》!」とヒースクリフはさえぎって、「いい加減にしてよせ! 何の苦情だ。私はお前とネリーのけんかを干渉しないよ。ネリーがお前を石炭穴倉に投げ込んだって知りやせん」
「ネリーではごわせんのじゃ!」とジョウゼフは答えて、「わしは何もネリーのために職場を変えなくてもいいのじゃ――ネリーも意地のわるいやくざ女じゃが、ありがたいことにあの女は人の|魂《たましい》を盗むことはできんのじゃ。あの女はもともときれいでなかったから、男が見ても|瞬《まばた》きして見ぬふりをするくらいのものじゃ。ところがそちらのすさまじい下品な女王様は、その厚かましい目と|小癪《こしゃく》なやり方とで、うちの若者を迷わせて、とうとう――いや! わしは全く胸が張りさけるわい! あの若者はわしが親切にしてやったことも何もかも忘れてしまって、庭じゅうで一番立派なカランツの木の列をすっかり引っこ抜いてしまったのじゃ!」ここで|爺《じい》さんは声を出して泣いてしまいました。ひどいことをされたくやしさと、アンショーの忘恩や危険な状態などを思って|女《め》|々《め》しくなったのでした。
「このばか者は酔っぱらってるのか?」とヒースクリフさんは|尋《たず》ねて、「ヘアトン、こいつが小言を言っているのはお前のことか?」
「僕は二、三本|藪《やぶ》をぬいたよ」と若者は答えて、「だがすぐに元通りに直しておくつもりだ」
「そして何だってお前は抜いたんだ?」と主人は言いました。
キャサリンは賢い口をはさみました。
「私たちはそこに花を植えたかったのよ。私だけが悪いのよ、私が頼んだんですもの」
「そしていったい誰がここで棒切れ一本にでも手を触れることをお前に許したんだ?」と|舅《しゅうと》はひどく驚いて尋ね、それからヘアトンの方に向いて、「そして誰がお前にそいつの言うことをきけと命じたんだ?」
若者は無言でした。そのいとこは答えて――
「あなたは私の土地をみんな取り上げてしまったくせに、庭を飾るため私にわずか二、三ヤードばかりの地面をけちけちなさらなくてもいいでしょうに!」
「お前の土地だって! この生意気なすべため! お前に土地なんてもともとなかったくせに」とヒースクリフは言いました。
「それに私のお|銭《あし》もよ」と若奥様は相手の怒った目をにらみ返して言葉をつづけ、しばらくして朝飯の残りのパン切れを一口食べました。
「黙れ! さっさとすましてあっちへ行け!」と一方はどなりました。
「そしてヘアトンの土地もお|銭《あし》もよ」とこの向う見ず屋さんは言い続けて、「ヘアトンと私とは今度味方なのよ。私はヘアトンにあなたのことを残らずしゃべってきかせるわ!」
ご主人はちょっと面くらったようでした。そしてまっ|青《さお》になって立ち上り、この上ない憎しみの表情でキャサリンを見つづけていました。
「あなたが私を打てば、ヘアトンがあなたを打ちますよ」とキャシーは言って、「だからおすわりになる方がよくってよ」
「もしヘアトンがお前をこの部屋から追い出さないなら、私はヘアトンを地獄へ|叩《たた》き落してやるぞ」とヒースクリフはどなって、「ふてくされの魔性女め! お前はあの男をそそのかして、私に|背《そむ》かせようってのか? この女をつれてあっちへ行け! 聞えないのか? この女を台所へおっぽり込め! エレン・ディーン、もしお前がこの女を二度と再び私の目の前につれて来たら、この女を殺してやるぞ!」
ヘアトンは小声でキャシーにあちらへ行くように言ってきかせました。
「あっちへ引きずって行けったら!」とヒースクリフは荒々しく叫んで、「お前はまだぐずぐずしてしゃべっているのか?」と言いながら、自分で自分の命令を行ないに近寄って来ました。
「この人はもうあなたの言うことなんか聞きませんよ、この悪者」とキャサリンは言って、「そしてこの人も今に私のするとおりにあなたを嫌うようになるわよ」
「しっ! お黙り!」と若者は|咎《とが》めるように小声で言って、「そんなことをあの人に言うものじゃない。もうよせ」
「だってあなたはあの人に私を打たせたくないでしょう?」とキャシーは大声で言いました。
「おいでよ、さあ!」と若者は熱心に制しました。
それはおそ過ぎました。ヒースクリフはキャサリンを引っ捕えました。
「こら、きさまなんぞはあっちへ行ってろ!」とあの人はアンショーに言って、それから、「けしからんあまっちょだ! 今度こそはもうとても|容《よう》|赦《しゃ》ならんぞ。永久に後悔させてやるぞ!」
そう言ってキャサリンの髪の毛をつかみましたので、ヘアトンは今度だけは|赦《ゆる》してやるように願いながら、髪の毛を放させようとしました。ヒースクリフの黒い目は輝きました。まるでキャサリンを八つ裂きにせんばかりの気勢でしたので、私はすっかり興奮して、ひどい目にあってもいいから助けてあげようとしましたら、あの人は突然その指をゆるめ、頭の髪から腕へとその|掴《つか》んだ手を移し、じっとキャサリンの顔を見つめました。それからキャサリンの目に手をあて、その手を引いて目をそむけ、しばらく気をおちつかせているように見えましたが、再びキャサリンの方へ向き直って無理に冷静な調子で言いました――
「お前はこれから私を怒らせないようにしなくてはいけないよ。そうでないといつかほんとうにお前を殺してしまうだろうよ! デイーンさんと一緒にあっちへ行っていなさい、そしてディーンさんだけに威張っていればいい。ヘアトン・アンショーは、もしお前の言うことなんか聞けば、私が勘当してやるぞ! お前の愛はあいつを家なしの|乞《こ》|食《じき》にするだろう。ネリー、そいつを連れて行っておくれ。お前たちみんなあっちへ行け!」
私は若奥様を連れて出ました。無事に逃げることができてよほど|嬉《うれ》しかったと見えて|逆《さか》らいませんでした。ヘアトンもやはり続いて出ました。そしてヒースクリフさんはお昼食までその部屋に一人でいました。私はキャサリンに一人だけ二階で食事をするようにすすめました。しかしご主人は食卓にキャサリンのいないのを見つけて、私に呼んで来るよう言いつけました。ご主人は誰とも物を言わず、ほんの少し食べたばかりで、食事がすむとすぐに外出しました。夕方まで帰らないとのことでした。
二人の新しいお友達同士はその留守の間階下の居間にいました。そのとき、ヘアトンの亡くなった父に対するヒースクリフの仕打ちを、キャサリンが話し出そうとしますと、ヘアトンは断然それを止めている様子でした。ヘアトンは一口でもヒースクリフの悪口を言わせないと言いました。あの人が悪魔であろうとかまやしない、どこまでも自分はあの人の味方だと言いました。あの人の悪口を言いはじめるくらいなら、以前のように自分のことを悪く言われた方がましだと言いました。これを聞いてキャサリンは|機《き》|嫌《げん》を悪くしました。しかしあなたのお父様を私がわるく言ったらあなたはどう思う、と言って、ヘアトンはキャサリンを黙らせてしまいました。そこでキャサリンはアンショーが主人の評判をわが事のように親身に思っていることを知りました。とても理屈では破ることのできないきずな――習慣で造られた鎖によって結びつけられていることを知り、その二人の間の鎖を解くことは残酷だと悟りました。それ以来、キャシーはヒースクリフへの不平や反感を言い現わすことを避けるように、好意を示しました。そしてヒースクリフとヘアトンとの間に敵意を起させようとしたことを、キャシーは悲しんで私に打明けました。その後というものは、ヘアトンのいる前では、全く一口もヒースクリフの悪口をキャシーは言ったことがありません。
この小さな不和を経て、二人はまた仲よくなり、生徒と先生との各自の仕事になかなか|忙《いそが》しくなりました。私は自分の仕事を終えた後に、二人と一緒に|宵《よい》を過しましたが、二人を見ているとまことに心が|慰《なぐさ》められて、時のたつのも知らないほどでした。ご存知のように、この二人はどちらも多少私の子供のようなものでした。私は長い間一方を自慢にしてきましたし、他方も今は確かに同様な満足を私に与えました。あの青年の正直な、温かい、|聡《そう》|明《めい》な生れつきは、育ちのためにかかった|無《む》|智《ち》と|野《や》|卑《ひ》との雲を|速《すみ》やかに散らしてゆきました。またキャサリンのまじめな|称讃《しょうさん》は青年の勉強を励ます|鞭《むち》となりました。心が賢明になるにつれて顔つきも明るく利発そうになり、その|容《よう》|貌《ぼう》に魂と|気《け》|高《だか》さとが出て参りました。それでいつぞやお嬢様が岩山へ遠出をしたとき、私がさがしに出かけてワザリング・ハイツで見たあの人とはほとんど想像もできないほどでした。こうして私が感服し、二人が勉強しているうちに、次第に|宵《よい》|闇《やみ》が深くなって、やがてご主人が帰宅しました。それも全く思いがけなく表口からはいって来て、われわれ三人が頭を上げてちらりと見る間もなく、みんなを見て立っていました。今でも思い出しますが、あれほど|愉《ゆ》|快《かい》な、あれほど罪のない光景はなかったと思いますよ。あれを|叱《しか》るなんてはなはだしい恥です。炉の火は赤く燃えさかって二人の美しい頭を照らし、二人の顔は子供らしい熱心でほてっていました。一方は二十三で、他方は十八でしたが、はじめて物心を感じ、はじめて物学びをする|初《うい》|々《うい》しさにあふれて、あの地味な興ざめた|大人《お と な》の感じはまるでないのでした。
二人は一緒に目を上げてヒースクリフさんを見ました。たぶんあなたはあの二人の目が全くそっくりで、そしてどちらもキャサリン・アンショーの目と似ていることにお気づきなさらなかったでしょう。今のキャサリンはあまり母親と似ていません。ただ似ているのは|額《ひたい》の広いことと、|鼻《び》|孔《こう》の曲線とだけで、それがあの人をやや高慢に見せるのですが、それはべつだんあの人の本心ではないのです。ヘアトンの方はずっと|叔《お》|母《ば》(キャサリンの母)に似ています。それは全く不思議なくらいです。ことにそのときには驚くほどでした。感覚は活発になっており、心の働きが|目《め》|覚《ざ》めて珍しくいきいきしていたからです。今は亡きあの人とこうまで似ていることが、ヒースクリフの心を|和《やわら》げたのでしょう。明らかにいらいらしながら炉ばたに歩いて行きましたが、若者を見るとそれがたちまち|鎮《しず》まりました。あるいはそのいらだたしさの性質を変えたというべきかもしれません。なぜなればまだほんとうに平穏なのではなかったからです。若者の手から本を取り上げて、開いているぺージをちらと見ましたが、やがて何も言わずにそれを返し、キャサリンにあちらへ行くように手で指図しました。ヘアトンもその後からじきに出て行きました。私も行こうとしますと、まだここにおれと命じられました。
「これはみじめな結末ではなかろうか?」とヒースクリフが今しがた目撃した光景をしばらく考えこんでいた後に言いますよう、「私の激しい努力の果てのばかげた結末じゃないか? 私は二軒の家を取り壊す|梃《て》|子《こ》や|鶴《つる》|嘴《はし》を手に入れて、まるでハーキュリーズのように働ける訓練をして、さてみんな準備が整い、どうにでもできる場合になって、どちらの|瓦《かわら》一枚|剥《は》がす意志もなくなってしまったんだ! 私の旧敵らは私を打ち負かさなかった。奴らの代りである子供たちに私がまさに|復讐《ふくしゅう》すべきときなのだ。やればできたのだ。そして何者も私を|妨《さまた》げることができなかったのだ。だが何にもなりゃしない! 私には打つ気がないんだ。手をあげるのがめんどうくさくてできないんだ! 今までしじゅう苦しんで努力して、あげくの果てがただ慈悲寛大の立派な性分を示したにすぎないようなものじゃないか。それどころではない、打ち壊してそれを楽しむ力がなくなってしまったし、何にもならないのに打ち壊すのも|億《おっ》|劫《くう》だ。
ネリー、奇態な変化が近づいている。私は今その前兆の影の中にいるのだ。私は毎日の生活にほとんど興味がないので、飲み食いすら忘れるくらいだ。今この部屋から出て行った二人だけが、私にとってはっきりした物の姿を留めているにすぎない。しかもその姿は私に|苦《く》|悶《もん》といっていいくらいの苦しみを起すのだ。あの娘のことは言いたくもないし、考えたくもない。だがあれが見えないでくれたらと思う。あれが目の前にいると狂気になるような感じを|掻《か》き立てる。あの若者の方はまた違ったふうに私の心を動かすのだが、もし私が気ちがいと思われずにやりおおせるんだったら、私は二度とあいつの顔を見ないだろうに! お前はおそらく、私が気ちがいになりそうだと思うだろうよ、もしも――」とあのかたは無理に微笑しようと努めながらつけ加えますよう、「あの若者が呼び起し、あるいは身に現わす過去の連想や観念の、無数のさまざまな形を私が述べようなんてしたならさ。だが、お前は私が話すことをおしゃべりしないだろうし、私の心はしじゅう閉じ込められてばかりいるものだから、とうとうそれを人に打明けたい気持になったんだ。
五分前に見た時ヘアトンは人間ではなくて、私の若い時分の化身のように見えた。あれに対してはさまざまな感じが起きてくるので、理屈に合った話を交すこともできなかったくらいだ。まず第一にあれが実によくキャサリンと似ているので、おそろしくあの女を連想させた。この点が私の想像を一番力強くひきつけたろうとお前は思うかもしれないが、実際は一番無力な点だった。なぜなら、いったい何が私にとってあの女を連想させないものがあろう? 何があの女を思い出させないだろうか? この床を見下すたびに、あの女の姿がこの|敷《しき》|石《いし》の上にいつも写って見えるのだ! 空の雲という雲に、地上のあらゆる|樹《き》|々《ぎ》に、夜の空気を満たし、昼の万象に影をうつして、あの女の姿は私を取り巻いているのだ! 最も平凡な人間の顔でも、私自身の顔でさえも、あの女と似ているように見えるんだ。この全世界がことごとく、あの女の存在したことを思い出させる備忘録だ。恐ろしい備忘録の集積だ。しかもそれらは、あの女が存在したこと、そして私があの女を失ってしまったことを思い出させるのだ! そうさ、ヘアトンの姿は私の不滅の恋人の幽霊だ。私の権利を保とうとする激しい努力の幽霊だ。私の|堕《だ》|落《らく》、私の誇り、私の幸福、そしてその悩みの幽霊だ。
しかしこんなことをお前に繰返すのは気ちがいじみている。が、これだけ言えば、私がいつも|独《ひと》りぼっちでいるのはいやでも、あの男と一緒にいたとて何のいいこともないどころか、私が絶えず悩んでいる苦しみをいっそうひどくするばかりだ、というわけがお前にもわかるだろう。あいつとあれのいとことがどういう仲になろうと、私が知らん顔をしているのは、一部分はこうした理由もあるのさ。私はもうあの二人に注意することができない」
「でもあなたのおっしゃる変化というのは何ですの? ヒースクリフさん」と私はその様子に驚いて|尋《たず》ねました。もっともあの人は正気を失うおそれもありませんでしたし、死ぬ気づかいもないように私には思われました。からだは|至《し》|極《ごく》強く健康でした。理性についていえば、子供の|頃《ころ》から暗いことばかりを考え、奇妙な空想に|耽《ふけ》って楽しんでいました。それであの人の亡くなった偶像のことばかりを思いつづけて、そのことでは幾分狂的のようでしたが、その他のあらゆる点では、あの人の頭は私と変りなく健全でした。
「そのことは、時が来なければ私にもわかるまい。今のところでは、自分でも半分しか意識していない」とあの人は言いました。
「あなたはご病気だとお思いですの?」と私は尋ねました。
「いいや、ネリー、そうは思わないよ」とあの人は答えました。
「なら、あなたは死ぬのがこわいんですか?」と私は追求しました。
「こわいかって! いいや!」とあの人は答えて、「私には死がこわくもなければ、死の予感もないし、死を望むのでもない。どうしてそんなことがあろう? からだはガッチリできているし、節制も守って生活しているし、危険のない仕事をしているんだから、頭にほとんど黒い髪のなくなるまで地上に生き残るのが当然だし、また、たぶん生き残るだろうよ。だが、私はとてもこの状態をつづけてゆくわけにはいかない! 私は自分が呼吸することを思い出してしなくてはならぬ――自分の心臓の脈を打つことさえ思い出してしなくてはならぬほどだよ! それはまるで強いバネを反対に曲げているようなものだ。ある一つの思想によって誘われないと、ちょっとした活動さえ無理に強制してするんだ。一つの普遍な観念に連合しなければ、生きているものでも、死んでいるものでも、どんなものでもむりに強制して認めるんだ。私にはただ一つの願望がある。そして、私の全身と私のすべての能力とが、それを得ようとしてあこがれているのだ。しかもずいぶん長らく、ひどく一筋にあこがれているので、私はそれが遠からず達しられるだろうと信じている。その願望が私の生命を食い尽しているからね。つまりそれが遂げられることを見越しただけで私は|呑《の》み尽されてしまうのさ。この告白は私を安心させない。しかし黙っていたらとてもわからない私の現在の気分状態を、いくらか説明することになろう。ああ、やれやれ! 長い闘いだ。もう終ってほしいんだが!」
あの人は恐ろしい|独《ひと》り|言《ごと》をつぶやきながら、室内を歩きはじめました。しまいに私も、ジョウゼフがそう信じたとあの人が言ったように、良心があの人の心をこの世ながらの地獄に変えたのだと信ずる気になりました。こうしてついにどうなることだろうと、私はひどく怪しみました。たとえあの人が以前こんな気持を顔色にすらめったに表わしたことがなかったにせよ、それがあの人のいつもの気持であったことは疑いないのでした。あの人はそれを|自《みずか》ら断言したのです。でも誰一人あの人のいつもの様子からその事実を推測した者はありますまい。ロックウッドさん、あなたもあの人にお会いなすったとき、推測なさらなかったでしょう。でもその|頃《ころ》も今の私の話の当時も、あの人は同じことでした。ただ長らく一人ぼっちでいることをいよいよ好むようになり、人と一緒にいるときはおそらく以前にもまして言葉少なくなっただけでした。
三四
その晩から数日の間、ヒースクリフさんは食事のとき私たちと会うことを避けていました。それでも表立ってヘアトンとキャシーとを追い除けることは承認しませんでした。あの人は自分の感情にそれほどすっかり負けることを嫌って、むしろ自分から食事に出て来ないことを選び、そして二十四時間に一度の食事があの人の身を支えるに十分なようでした。
ある夜、家族が寝てしまってから、あの人が階下へおりて、玄関から出て行く音を私は聞きました。私はあの人が|戻《もど》って来る音をついに聞きませんでしたが、翌朝あの人がまだ帰っていないことがわかりました。時は四月、天気は心地よく暖かで、草原は雨と太陽とが力一杯にあざやかにした緑色。そして南の|垣《かき》|根《ね》に寄った、背の低い、二本のリンゴの木は花ざかりでした。朝飯後、キャサリンの主張で私は|椅《い》|子《す》を持ち出し、家の|端《はし》にあるモミの|樹《き》のかげで針仕事をしながらすわっていました。キャサリンはすっかりけがの|癒《い》えたヘアトンをだまして、自分の小庭を|耕《たがや》させ、整えさせましたが、この庭はジョウゼフの苦情によってこの|隅《すみ》に場所を替えたのでした。私はあたりに|馨《かお》る春の香を吸い、頭の上の美しいのどかな青空を|眺《なが》めて、いい心持で楽しんでいますと、境に植える桜草の根を取りに門の近くへ走って行ったキャサリンが、まだいくらも取らないうちに|戻《もど》って来て、ヒースクリフさんが帰って来たと私たちに知らせました。
「そして私に言ったのよ」とキャシーは困った顔をして言いました。
「何て言ったんだえ?」とヘアトンが|尋《たず》ねました。
「私にできるだけ早くあっちへ行けって言ったのよ」と答えて、「でも、あの人の顔があんまりいつもと違って見えたもんで、私ちょっと立ち止って見つめたくらいなの」
「どんなふうにさ?」とヘアトンが問いました。
「そうね、ほとんど明るくて|愉《ゆ》|快《かい》そうだったわ。いいえ、ほとんどどころではないわ。とてもひどく興奮して物狂わしく喜んでいてよ!」
「それじゃ夜歩きがおもしろいのでしょうか?」と私は平気をよそおいながら申しましたが、心中ではキャシーと同様に驚いて、事の真相を確かめたくてたまりませんでした。主人の|嬉《うれ》しそうな顔を見るなんていつもはほとんどないことだからです。私は言いわけを作って家にはいりました。ヒースクリフは開いた戸口に立って、青い顔をして震えていましたが、でも実際その目には奇妙な喜びの輝きがあって、それが顔全体の様子をすっかり変えていました。
「朝飯を召し上りませんか?」と私は申しました、「夜っぴて歩き|廻《まわ》ってさだめしお|腹《なか》がおすきでしょう!」あの人がどこに行って来たか知りたかったのですが、じかに尋ねるのもいやでした。
「いや、腹はすかない」とあの人は頭をそむけて答えましたが、こいつはおれの|上機嫌《じょうきげん》の理由をあてようとしてるなと思ったらしく、やや|侮辱《ぶじょく》したような言い方でした。
私は迷いました。今ちょっと忠告をする好機会であるかどうかわからなかったのです。
「寝ないで外をぶらつくのはよくないと思います」と私は意見して、「とにかく、こんな湿気の多い時節にはよくありません。|風《か》|邪《ぜ》をお引きになるかもしれませんし、熱病にやられないものでもありません。今あなたのご様子は普通じゃありませんよ!」
「なあにたいしたことはないよ」とあの人は答えて、「しかも大いに喜んで耐えられることなんだから、かまわずにほっといてくれたらそれでいい。――家にはいりなさい。そして私にうるさくしないでおくれ」
私は言われたとおりにしました。そして行きずりに気がついたのですが、あの人の息づかいはまるで猫みたいに早かったのです。
「そうだわ!」と私は心に思いました。「きっと私たちの家には病人ができるでしょう。いったいあの人は何をしていたのでしょう」
その日のお昼にあの人は私たちと一緒に食卓について、まるで以前からの|断《だん》|食《じき》を一度に|償《つぐな》うつもりのように、私の手から山盛りに盛った皿を受取りました。
「私は風邪も引かないし熱も出ないよ。ネリー」とあの人は私の今朝の言葉を引合いに出して言いました。「そしてお前のくれるご|馳《ち》|走《そう》をこれから大いに賞味するんだ」
そう言ってナイフとフォークとを取って食べ始めようとしましたが、そのとき突然あの人の食欲は消え失せたようでした。持ったものを食卓の上に置いて、熱心に窓の方を見つめ、それから立ち上って出て行きました。そして私たちの食事が終るまで、庭であちこち歩いているのが見えました。アンショーは出て行ってなぜあの人が食べないのかきいて来ると言いました。私たちが何かあの人の気にさわったのだと思ったのです。
「どうなの、来るって?」とキャサリンはいとこが帰って来たときに呼びかけました。
「いいや」と若者は答えて、「だが怒ってはいないよ。実際あの人は珍しく喜んでいるようだ。ただ僕が二度話しかけたら、うるさがったよ。そして彼女の所に行けと言った。何だってお前はほかの者と一緒にいたがるんだろう、って言うんだ」
私はあの人の皿の物が冷めないようにストーブの|鉄《てつ》|格《ごう》|子《し》の上に置きました。二、三時間たって室が片づけられたとき、あの人がまたはいって来ましたが、前よりちっともおちついていませんでしたし、その黒い|眉《まゆ》の下にはどうも不自然な喜びの様子が見えました。前と同じように血の気の失せた顔色をしていましたが、その前歯は時々微笑しているようにちらつきました。からだは震えていました。それは寒さや衰弱のために震えるのでなくて、張りきった|紐《ひも》が打震えるようでした。ぶるぶるしているのではなく、むしろ強くぞくぞくしているのでした。
いったいどうしたことか|尋《たず》ねてみようと、私は思いました。私がたずねなければ誰がたずねましょう! 私は大声で申しました。
「何かいい知らせでもございましたか? ヒースクリフさん。あなたはいつになく元気でいらっしゃるように見えますよ」
「どこから私にいい知らせが来るんだえ?」とあの人は言って、「私は腹が|空《す》いて元気なのさ。そしてどうも食べてはならないようだ」
「あなたのご昼食はここにございます」と私は答えて、「なぜ召し上らないのですか?」
「今は食べたくない」とあの人は早口につぶやいて、「晩飯まで待とう。そしてネリー、今度だけヘアトンやほかの者に、私から離れていてくれるよう言っておくれ。私は誰からもじゃまをされたくない。ここに私一人っきりいたいんだ」
「そんな追い立てをなさるのは何か新しい理由でもあるのですか?」と私は尋ねました。「なぜあなたはそんなに変なのです? わけを話して下さい。昨夜はどこにおいででした? 私はくだらん好奇心からおたずねするのではありませんよ。しかし――」
「お前は全くくだらん好奇心からたずねているんだ」とあの人は笑って私の言葉をさえぎりました。「だが、私は答えてやろう。昨夜私は地獄のしきいにいたよ。今日私は私の天国の見える所にいるんだ。私はそれを見つめている。ほとんど三フィートほどしか離れていないぜ! さあ、お前はもう行った方がよかろう! 余計な|穿《せん》|鑿《さく》だてさえしなければ、べつだんこわいものを見たり聞いたりするようなことはなかろうよ」
私は炉ばたを|掃《は》き、食卓を|拭《ふ》いて室を出ました。前よりもかえってわけがわからなくなってしまいました。
その日の午後あの人はもう外に出ませんでした。誰もあの人の独居を妨げませんでした。そのうち八時になりましたので、私は呼ばれませんでしたけれど、ロウソクと夕飯とをあの人の所に運んで行く方がいいと思いました。あの人は開いた|格《こう》|子《し》|窓《まど》の|棚《たな》によりかかっていましたけれど、外を|眺《なが》めずに、顔を暗い室内に向けていました。もう|煖《だん》|炉《ろ》の火は燃えつきて灰になっていました。室内は曇った夕暮れの湿っぽい穏やかな空気に満ちていました。そしてそれはそれは静かで、ギマトンの丘を流れ下る谷川のさざめきが聞えるばかりか、小石の上を越す流れの音も、水面上の大きな石に当ってしぶきだつ瀬の響さえも聞きわけられました。私は消えかかる不気味な|煖《だん》|炉《ろ》を見て不満の声をあげ、開いている窓を一つ一つ閉じて、とうとうあの人のよりかかっている窓の所に来ました。
「しめなくてはなりますまいね!」と私はあの人を|覚《さ》ますために尋ねました。なぜなら、あの人は身動きもしなかったからです。
私がそう言ったとき、あかりがあの人の顔をさっと照らしました。おお、ロックウッドさん、私がそれを一目見てどんなにぎょっとしたか、とても申し上げることができませんよ! あの|窪《くぼ》んだ黒い目! あの微笑とすごい|蒼《あお》|白《じろ》さ! それはヒースクリフさんではなくて、悪鬼のように見えました。私はこわさのあまり、ロウソクを壁の方に傾けましたので、あかりは消えて私は暗がりの中に立っていました。
「ああ、しめておくれ」とあの人はいつもの声で答えて、「これ、それは全くのへまだぜ!何だってロウソクを横にするんだえ? 早く行って別のをつけておいで」
私は恐ろしくばかみたいになり、あたふたと飛び出して、ジョウゼフに申しました――
「|旦《だん》|那《な》様があなたに|燈《ひ》を持って来いって、そして煖炉の火を|焚《た》くように言っていましたよ」私はその時とても自分で行く勇気がなかったのです。
ジョウゼフは|十能《じゅうのう》に火種をがらがら入れて持って行きましたが、すぐにまたそれを持って|戻《もど》って来ました。一方の手には夕飯を|載《の》せたお盆を持っていました。ヒースクリフさんは寝床に行くから、朝まで何も食べたくないとのことでした。
まもなく階段を上るあの人の足音が聞えました。あの人はいつもの寝室に行かないで、あの鏡板で囲った寝台のある室にはいりました。前に申しましたように、あそこの窓は誰でも出入りできるほど広いので、またもや夜中に出て行くつもりであろうと私には思われました。あの人は私たちに|覚《さと》られずに、そっと|脱《ぬ》け出したかったでしょうから。
「あの人は|死《し》|骸《がい》を食うという|食《グ》|屍《ー》|鬼《ル》かしら、それとも夜中に墓を脱け出して、人の|生《いき》|血《ち》を|啜《すす》るという吸血鬼かしら?」と私は考えました。私はそうしたいまわしい鬼の化身の話を読んだことがありました。それから私はあの人を赤ん坊のときから青年になるまで守り育てたことを思い出し、あの人の今までのほとんど|全生涯《ぜんしょうがい》のことを考え出しました。そしてそんな恐怖の感じに打ち負けるとはなんてばかげたことであろうと思いました。「しかし善人にかばわれてかえってあだ[#「あだ」に傍点]をしたあの小さな黒い児は、一体どこから来たのかしら?」と私がうとうとと夢心地になった時、『迷信』がささやきました。そして私はなかば夢心地で、あの人にはどんな親がふさわしかろうかと想像をたくましくしはじめました。それから目ざめていたときの考えを繰返して、あの人の正体をいろいろと|物《もの》|凄《すご》いもののように心に|辿《たど》ってみました。しまいにあの人の死と葬式のことを描いてみたようでしたが、今思い出せることは、墓の石碑を何と彫らせたらいいか大変困って、寺男に相談したことです。あの人には|苗字《みょうじ》がないし、年齢もわからないので、しかたなく「ヒースクリフ」という一語だけ彫らせて満足しなくてはなりませんでした。その夢が正夢になって、実際私たちはそうしたのです。あなたが教会の墓地にいらっしゃれば、あの人の石碑にはただその一語と死んだ日付とが記されてあるのをご覧になるでしょう。
夜が明けて私の常識は回復されました。私は起きて庭に行き、あの人の窓の下に足跡があるかどうかを、なるたけ早く確かめようとしました。足跡はありませんでした。「あの人は家におったのだ。今日はきっと大丈夫だろう」と私は思いました。私はいつものとおり家じゅうの人々の朝飯を|仕《し》|度《たく》しましたが、ご主人は遅くまで寝ていましたので、起きて階下に来ないうちに、先に朝飯をすますように、私はヘアトンとキャサリンとに申しました。二人は外に出て|樹《こ》かげで食べようと言いますので、私は二人のために小さなテーブルを持ち出して据えました。
|戻《もど》って家にはいりましたら、ヒースクリフさんが起きて階下に降りていました。あの人はジョウゼフと何か農場のことを話していて、それに関する明細な指図を与えていましたが、早口に話して、頭をしじゅう|傍《そば》の方に向け、相変らず興奮しているようで、昨日よりもそれがいっそうひどいくらいでした。
ジョウゼフが室を出ると、あの人はいつもすわる場所に腰かけましたので、私はその前に一杯のコーヒーを置きました。あの人はそれを近く引き寄せ、両腕をテーブルの上に置いて、私が察するところ、向い側の壁のひとところを見つめ、おちつかない輝く目で見上げ見下し、三十秒ほどの間ずっと呼吸を止めるくらい熱心な興味で|眺《なが》めていました。
「さあさあ」と私はあの人の手にパンを押しつけて申しました。「召し上って下さい。熱いうちにお飲み下さい。一時間近くも前から朝飯がお待ちしておりました」
あの人は私に気づかぬ様子で微笑していました。そんな微笑を見るくらいなら、いつものように歯ぎしりするのを見る方がまだしもでした。
「ヒースクリフ様! |旦《だん》|那《な》様」と私は大声で言って、「|後生《ごしょう》ですからそんなに亡霊でも見るようにして見つめないで下さい」
「後生だからそんなに大声で叫ばないでおくれ」とあの人は答えて、「振向いてあたりを見てごらん。この部屋には私ら二人だけかえ?」
「もちろん」と私は答えて、「もちろん二人だけです」
口ではそう申しましたものの、何だか幻の人がおりそうな気もして、思わずあの人の言葉どおり振向いてあたりを見まわしました。あの人は自分の前にある朝飯のものを手で払いのけて、あいた場所に前のめりによりかかり、いっそうゆったりとして見つめていました。
さて、私はあの人が壁を見ているのではないとわかりました。なぜなら、あの人の方だけを見ておりますと、二ヤードほど離れているものを何かじっと見つめているのです。そしてその物が何だかわかりませんけれど、それがあの人に|歓《よろこ》びと苦しみと両方を極度に与えているように見えました。少なくともあの人の顔の|苦《く》|悶《もん》の、しかも|恍《こう》|惚《こつ》とした表情から、私にはそう考えられました。その幻の物は静止していないようでした。あの人の目は疲れを知らず一心にそれを追っていました。私と話をしている間さえ、けっしてその視線は離れませんでした。長らく食物を召し上りませんと注意してあげても|無《む》|駄《だ》でした。私の願いに応じて何かに手を触れようと身動きしても、一片のパンを取ろうとして手をのばしても、それに手のとどかないうちに指が曲って|拳《こぶし》を握り、目的を忘れてテーブルの上に止ってしまうのでした。
私は忍耐の模範みたいにすわって、あの人の奪われた注意を、一心不乱にみて思いこんでいることから離して、私の方にひこうとしてみました。しまいにあの人は|癇癪《かんしゃく》を起して、なぜ自分の好きな時に食事するよう放任しないかと尋ねました。次には私に給仕してもらわなくてもいいから、食物を置いて行けと言って、あの人は家を出てぶらぶら庭へ下り、そのまま門を出て見えなくなりました。
心配のうちに刻々と時は移って、また晩になりました。私は夜おそくまで寝ませんでした。寝てからも眠れませんでした。あの人は真夜中すぎて帰りましたが、寝床に行かずに階下の部屋に閉じこもっていました。私は耳をすまし、幾度も寝返りし、しまいに着物をきて階下に降りて行きました。さまざまのくだらない疑いで頭を悩ましながら、そのまま寝ていることはとてもいやだったのです。
ヒースクリフさんの足音が聞えました。おちつかない足どりで床を踏みながら、|呻《うめ》きのような深い息を吸って、おりおり静けさを破るのでした。また何やらきれぎれの言葉をつぶやいていました。私に聞き取れたのはただキャサリンの名と、親しみまたは苦しみを表わす激した語調とだけでした。それはまるで目の前にいる人に話すような語調でした。低い、熱烈な、|魂《たましい》の奥底から絞り出されるような声でした。私はまっすぐにその部屋へはいって行く勇気がないし、しかしあの人を夢心地からさましたかったので、台所の火をたきつけにかかりました。炉をかきまわし、もえかすを|掻《か》き出しはじめたのです。これは案外早く効を奏して、あの人の注意を引きました。あの人はすぐに戸をあけて言いますよう――
「ネリー、ここへおいで。もう朝かい? お前のあかりを持っておいで」
「四時でございます」と私は答えて、「ロウソクをお持ちになって二階の寝室にいらっしゃいますでしょう。この火でおつけなさったら」
「いや、私は二階に行きたくないよ」とあの人は言って、「おはいり、そして私に火を|焚《た》きつけておくれ。そしてこの部屋でお前のする仕事を何なりとするがいい」
「そちらへ運ぶ前に、まずこちらで火種を赤くおこさなくてはなりません」と私は答えて|椅《い》|子《す》とふいごとを持って来ました。
あの人はまた次第に気を奪われて行く状態になって、しばらく室内をあちこち歩きまわっていました。重苦しいため息が大変|繁《しげ》くつづいて、その間に普通の呼吸をする余地がないほどでした。
「夜が明けたら私はグリーンを迎えに使を出そう」とあの人は言って、「私はあの男に法律上のことを聞いておきたい。今のうちならまだそんな事を考えることができるし、おちついて事を処理することもできるからね。まだ遺言状を書いていないんだ。私の遺産をどうしたらいいかもわからない。そんなものはこの地上から全滅させたいよ」
「私ならそんな話をしますまいよ、ヒースクリフさん」と私はさえぎって、「遺言状のことなんかしばらくほっときなさいまし。まだ生きていて、あなたのさまざまな不正を|懺《ざん》|悔《げ》なさらなくてはなりませんよ! 私はあなたの神経がまさか狂おうとは思いませんでしたが、今ではどうやら大変狂っているようです。そしてご自分のとが[#「とが」に傍点]で今にほとんど全く狂ってしまいます。この三日間のあなたのやり方では、どんな巨人だって疲れきってしまうでしょう。どうぞ食物を召し上って睡眠をお取り下さい。ちょっと鏡をご覧になりさえすれば、そのどちらもあなたにとってどんなに必要かじきわかります。|頬《ほお》はこけ、目は血走り、まるで|餓《が》|死《し》しそうな人みたいで、そして睡眠不足で|盲《めくら》になりそうに見えますよ」
「私が食べられないのも眠られないのも、それは私のとがじゃない。何ももくろんで故意にやってるわけではないんだよ。私はできるようになればすぐ食べもしよう、寝もしよう。だが、お前がいま私にそれを|勧《すす》めるのは、水の中でもがいている人に、二、三尺で岸に着くという所で休めと言うようなものさ。私はまず岸に着いて、それから休もう。そうだね、グリーンさんのことはまあほっといていいよ。私の不正を懺悔しろなぞとお前は言うが、私は何も不正なんかしたことがないし、懺悔することもない。私は幸福すぎるくらいだ。それでいてまだ十分幸福ではない。私の魂の幸福は私の肉体を殺す。しかしそれでも満たされないのだ」
「幸福ですって? |旦《だん》|那《な》様が?」と私は大声で申しました。「まあ変な幸福ですこと! あなたがお怒りなさらずに聞いて下さるなら、あなたをもっと幸福にする忠告を申し上げたいのですけれど」
「それは何だい? 言ってごらん」とあの人は言いました。
「あなただってご存じでしょう、ヒースクリフさん」と私は言って、「十三の|歳《とし》からあなたは利己主義な、そしてクリスチャンらしくない生活をして、おそらくその間じゅうほとんど聖書を手にしたことがなかったでしょう。聖書にしるされたことはお忘れになったに相違ありませんし、いまは聖書の言葉を探索なさる暇もないでしょう。それで、それを説明していただくため、どの宗派の牧師様でもいいですから、来ていただいてはいかがでしょう。そしてあなたが聖書の教えからどんなに離れておいでになるか示していただき、死ぬ前に改めなければ、天国に行くにはどんなに不適当だか教えていただいてはいかがでしょう?」
「ネリーや、私は怒るどころか、むしろありがたく思うよ」とあの人は言って、「なぜなら、お前は私に葬式のことを気づかせてくれたからね。私の|埋《まい》|葬《そう》は夕方に教会の墓地でやって欲しい。よかったらお前とヘアトンとについて来てもらいたい。そしてあの二つの|棺《かん》について私が頼んでおいたことを、寺男が守るように特に注意しておくれ。牧師なんか誰も来るに及ばないし、私について何も言ってもらう必要もない。実際私はもうじき私の[#「私の」に傍点]天国に行き着くところだよ。他人の天国なんか、私にとってまるで何の価値もないし、いっこう|羨《うらや》ましいこともないさ!」
「でもあなたが|頑《がん》|固《こ》な|断《だん》|食《じき》を続けて、そのために死んで、そして教会の|境《けい》|内《だい》に埋葬することはならんと断わられたら、どうでしょう?」と私はあの人の|不《ふ》|信《しん》|心《じん》な平気さに|呆《あき》れてそう申しました。
「そんなことはあるまいよ」とあの人は答えて、「もしそんなことになったら、お前は私をこっそり墓場に運ばせなくてはならないよ。そうしないと私は、死人がそのまま|亡《ほろ》びてしまうものじゃないということを、お前に実際に思い知らせてやるぞ!」
家の者たちが起きて来る音を聞くと、あの人は自分の部屋に引っ込んで行きましたので、私はほっとした思いで自由な息を呼吸しました。しかし午後になってジョウゼフとヘアトンとが仕事に出かけましたとき、あの人はまた台所にやって来て、すごい顔をして、居間に来てすわれと私に言いました。誰かお相手がほしいというのです。私は断わりました。あなたの乱暴な話や様子がこわくって、とても一人でお相手になる元気も意志もありません、と率直に申しましたのです。
「お前は私を悪魔だと思ってるんだね」とあの人は無気味な笑いようをして言いますよう、「上品な家には恐ろしくてとても住まわせられない|代《しろ》|物《もの》と思ってるんだ」それからキャサリンの方に向き直りました。キャサリンはちょうど台所に来ていたのですが、あの人の近づくのを見て、私のうしろに寄りましたので、あの人は半分|嘲《あざけ》るように言いますよう、「お前[#「お前」に傍点]は来ないかい? ねえ。何も私はお前に害をしないよ。いやお前に対して私は悪魔よりまだわるかった。そうだ、たった一人だけ私から逃げず相手になってくれる者がいるよ! ああ! あの女は残酷だ。ええ、くそッ! これはとても人間の性質には耐えられないことだ――おれの性質にだってとても」
あの人はもう誰にも相手になってくれと頼みませんでした。そして夕暮れになると自分の部屋に帰って行きました。その夜は一晩じゅう、そして朝になってからもおそくまで、あの人の|呻《うな》ったり|呟《つぶや》いたりするのが私たちに聞えました。ヘアトンはしきりにはいって見ようとしましたけれど、私は医者のケネスさんをつれて来て、はいって見てもらうように言いつけました。医者が来て、私がはいっていいですかと言ってドアをあけようとしますと、|鍵《かぎ》がかかっているのです。ヒースクリフは私たちをののしり、からだは良くなったから一人でほっといて欲しいと言いますので、医者は帰って行きました。
次の晩はひどい雨でした。ほんとうに夜明けまで土砂降りでした。そして私が朝の散歩に家をまわりますと、主人の部屋の窓が開いていて、雨がどしどしはいり込んでいました。「あの人は寝床にいるわけにいかない」と私は考えて、「あの雨じゃずぶ|濡《ぬ》れになってしまうでしょうに! 起きているか、それとも外に出ているに相違ない、でも私はもう大騒ぎせずに、思いきってはいってみよう!」
別の鍵でドアがうまくあきましたので、私は部屋にはいって箱寝室の|格《こう》|子《し》|戸《ど》をあけようと走って行きました。部屋はからっぽだったからです。で、急いで押しあけて|覗《のぞ》きこみました。ヒースクリフさんはそこにいました――仰向けに寝ていました。目は非常に鋭くて猛烈なので私はぎょっとしました。それからあの人はほほえんでいるように見えました。私はまさか死んでいるとは思えませんでしたが、顔とのどとは雨に洗われ、夜具は濡れ、からだは全く動きませんでした。窓格子はばたばた|煽《あお》って、|窓《まど》|敷《しき》|居《い》の上に|載《の》せた片手は|擦《こす》れていましたけれど、傷ついた皮膚からは血がちっとも流れ出ていません。私は指で|触《さわ》って見ましたとき、もはや疑うことができませんでした。あの人は死んで硬くなっていたのです!
私は窓の掛金をかけ、あの人の長い黒い髪を|額《ひたい》からかき上げ、目を閉じてあげようとしました。できるなら他の人の見ないうちに、あの恐ろしい、生きているような、大歓喜の眼光を消そうとしたのです。その目はなかなか閉じようとしませんでした。私の試みを|嘲笑《ちょうしょう》しているように見えました。そして開いた|唇《くちびる》と鋭い白い歯とがやっぱり嘲笑しているように見えるのでした! またもや|臆病風《おくびょうかぜ》にとりつかれ、私はジョウゼフを大声で呼びました。ジョウゼフは|引《ひき》|摺《ず》り足でやって来て騒ぎたてましたが、死人にかまうことは断じて拒絶しました。
「悪魔があの人の|魂《たましい》をさらって行ったのじゃ」とジョウゼフは大声で言いますよう、「そのおまけに|死《し》|骸《がい》までさらってもわしはかまわんわい。へえ! 歯をむき出してせせら笑って死ぬとは、何たる悪人の人相じゃ!」そう言ってこの老いぼれ老人は、死人の顔を|真《ま》|似《ね》してせせら笑いました。今に寝台のまわりを|雀《こ》|躍《おど》りするつもりだな、と私は思いました。しかし|爺《じい》さんは突然気をおちつけて、ひざまずいて両手をあげ、ほんとうの主人でかつ旧家の血統を引く人々がそれぞれ権利を回復したことに対して、神様に感謝を|捧《ささ》げました。
この恐ろしい出来事で私はほっとしました。そして私の思い出は一種の重苦しい悲しみを伴って、どうしても過ぎし日に返るのでした。しかし死んだ人から一番ひどい目にあわされたかわいそうなヘアトンが、心から|悼《いた》み悲しんだただ一人の者でした。ヘアトンは一晩じゅう遺骸の|傍《そば》にすわって、心から痛ましげに泣き明かしました。冷たい手を握り、誰でも|眺《なが》めるさえいやがる皮肉そうな野蛮な顔にキスし、鍛えた鋼鉄のように硬いけれど、それでいて情け深い心から、自然に|湧《わ》き出る強い悲しみをもってヒースクリフの死を嘆きました。
医者のケネスさんはこの家の主人が何の病気で死んだのか診断に苦しみました。私は後でめんどうが起ると困りますので、あの人が四日の間何一つ口にしなかった事を秘しました。それにまたあの人が故意に|断《だん》|食《じき》したのではないと私は信じていました。断食はあの人の奇態な病気の結果であって原因ではなかったと思います。
私たちはあの人の生前の望みどおりに葬りましたが、近所の人々みんなから悪評を受けました。ヘアトンと私、寺男、|柩《ひつぎ》を運ぶ男が六人とそれだけの葬列でした。六人の男は柩を墓の中に置くと帰ってしまいました。私たちは残っていて寺男が土をかぶせるのを見ました。ヘアトンは涙を流しながら緑の芝土を掘り取って、それを自分で赤茶けた|土饅頭《どまんじゅう》の上に敷きましたので、今ではこの新塚もその隣のキャサリンたちの塚と同様に、なだらかに緑草に|蔽《おお》われています。この新塚に眠る人も同様に安らかに眠ることと私は念じております。しかしこの地方の人人は、もしあなたが|尋《たず》ねてごらんになれば、あの人の幽霊が出ると断言いたしますよ。教会の近くで出会ったとか、野原でとか、この家の中でさえ見たと証言する人たちがいます。ばかげた話だとあなたはおっしゃるでしょうし、私もそう申します。それでもあの台所の炉の|傍《そば》にいる|爺《じい》さんは、あの人が死んで以来いつも雨降りの晩に部屋の窓から外を|眺《なが》めていると、二人の幽霊が出たと断言します。そしてひと月ほど前に私にも奇妙なことが起りました。ある晩グレンジに行く途中でした。まっ暗な晩で、雷が鳴り出しそうでした。ちょうどハイツの曲り角で親羊一頭と子羊二頭とを追って行く男の子と出会いました。その子はひどく泣いていました。たぶん子羊が|怖《おじ》|気《け》づいて子供の言うことをきかないので、手を焼いてるんだろうと思いました。
「まあ、この子はどうしたの!」と私は尋ねました。
「あすこにヒースクリフと女の人がいるんだもの、向うの山の|端《はし》の下ん所に」と少年は泣きじゃくって、「それだから僕あの人たちの傍を通って行かれないんだ」
私には何も見えませんでした。しかし羊も子供も進もうとしません。で、私は下手の道を通って行くように子供に申しました。この子は一人で野原を横切っている時、親たちや仲間の羊飼などが幾度も話したばかげたことを思い出して、たぶん自分から幽霊をつくり出したのでしょう。でも、私はこの頃暗い晩には外に出たくありませんよ。そしてこのこわい家に|独《ひと》りぼっち残されているのはいやなんです。まあしかたがありません。あの人たちがここを出て、グレンジに移ると私もほっとするでしょう。
「そんなら、あの人たちはグレンジに引っ越すのかい?」と僕は言った。
「はい」とディーン夫人は答えて、「あの人たちが結婚するとすぐ移ることになっています。結婚は新年の元旦にするはずです」
「それじゃ誰がこの家に住むんです?」
「それあジョウゼフが家番をするでしょう。若い者でも置いて相手にしながら。そしてみんな台所に住むことにして、ほかの部屋を締切りにするんでしょうよ」
「締切りにして例の幽霊たちの専用にするんだね」と僕は言ってやった。
「いいえ、ロックウッドさん」とネリーは頭を振って、「死んだ人たちは平和に|成仏《じょうぶつ》していると私は信じます。しかし死んだ人のことを軽々しく言うのはよくありませんね」
ちょうどその時庭の木戸があいて、散歩に行った二人づれが帰って来た。
「あの人たちなら何も恐れないね」と僕は近づいて来る二人を窓から見まもりながら言った。
「二人一緒なら、大魔王が悪魔の大軍をことごとく|率《ひき》いて来ても、平気で向って行くだろうね」
二人が入口の石段を上り、もう一目だけ月を――もっと正確に言うなら、月の光でお互いの顔を見ようと立ち止ったとき、僕はまたもやあの人たちから逃れなくてはどうしても居たたまらない感じがした。そこでディーン夫人の手に心づけを握らせて、僕の乱暴な|不《ぶ》|作《さ》|法《ほう》を|諫《いさ》める言葉にも耳をかさず、二人が居間のドアをあけると同時に、台所を通って裏から出てしまった。それでジョウゼフに、同じ召使の|朋《ほう》|輩《ばい》が僕とはしたない|不《ふ》|謹《きん》|慎《しん》を働いているという見解を、確かめさせることになりかねなかったが、僕がこの|爺《じい》さんの|足《あし》|許《もと》にソヴリン金貨を投げてやったので、その気持のいい響のおかげで、幸いにも僕をしかるべき品性の男と認めてくれたらしい。
帰り|途《みち》は教会の方に|廻《まわ》り|路《みち》したので手間どった。教会堂の|垣《かき》の下に立ったとき、たった七か月の間にも大分荒廃がひどくなったことを知った。窓はいくつもガラスが破れて黒い穴を見せていたし、屋根のスレイトはところどころ屋根の直線からはみ出して、やがて来る|野《の》|分《わき》にだんだん吹き落されそうであった。
僕が|捜《さが》してじきに見つけたのは、野原につづく斜面の上の三つの墓石だ。まん中のは灰色でヒースの|藪《やぶ》になかば埋れていた。エドガー・リントンの墓だけが、その根元から|這《は》い上って生えている芝草と|苔《こけ》とでよく調和していた。ヒースクリフの墓はまだあらわであった。
おだやかな空の下で墓のまわりを|低《てい》|徊《かい》しながら、ヒースやヘアベルの|叢《くさむら》にはためき飛ぶ|蛾《が》を打ち見やり、草を分けて吹くやわらかな風に|聴《き》き、この静かな大地に眠る人々にとって静かならぬ眠りがあろうなどと、誰がどうして想像できるのかしらと僕は思った。
解 説
[#ここから2字下げ]大和 資雄
作者と作品
遺伝と環境とは人間形成の重大な要素であり、エミリ・ジェイン・ブロンテ(Emily Jane Bront早jの遺伝の要素はケルトである。父は一部のイングランド人に嫌われるアイルランド人、劇作家ワイルド、詩人イエイツ、小説家ジョイス、随筆家ロバート・リンドたちと同じアイリシュであった。名はパトリック、姓はブランティ。パトリックはアイルランドの守護の聖者ゆえ、この名の人はアイリシュ系と思ってよい。一七七七年三月十七日、聖パトリック祭日に、北アイルランドのダウン州エムズデール村で、プロテスタント信徒の農家の長男として生まれ、多くの弟妹がいた。体格は堂々として強健、性質は謹直、知能は優秀、人品も立派、貧しいながらも工場で働いて、独学して村の教師となり、二十五歳になるまでに、大学に進学の準備に努め、一八〇二年、ケンブリッジ大学の聖ジョンズ学寮に入学した。まことに|剛《ごう》|毅《き》|不《ふ》|屈《くつ》の意志の人といってよい。この聖ヨハネの学寮は、すぐれた|抒情《じょじょう》詩人たち、ソネットの祖サー・トマス・ワイアットや、トマス・ナッシュ、|稀《き》|才《さい》ベン・ジョンソン、ロバート・ヘリック、マシュウ・プライアー、そしてワーズワスの|揺《よう》|籃《らん》であったから、情熱のアイリシュ青年の詩心を|育《はぐく》んだにちがいない。彼もやがて詩集を出すことになる。彼は故郷を去ると共に、姓をブロンテと|更《か》えた。ブロンテというのは、シシリア島の町の名で、彼が大学に入る三年前に、一七九九年八月十三日、ネルソン提督が、この島国をナポレオンの海軍から救ったお礼に、島の王様からブロンテ|公爵《こうしゃく》の称号を贈られていた。ナイルの海戦でナポレオン海軍をたたいて、ナポリやシシリアをフランスから|奪《だっ》|還《かん》し、本国からは男爵にすらまだ|叙《じょ》せられないが、四十一歳の海の英雄ブロンテ公の名は、彼のブランティ姓をちょいと変更させる動機となったのである。ここに彼の内向性ながらも想像力の豊かな、|浪《ろう》|漫《まん》|的《てき》性格を見ることができると考えられる。
彼は四年間の大学生活を終えて学位を取ると、アングリカンチャーチ(英国国教)の牧師補に任命されて、エセックス州ウェザースフィールド教区に赴任し、そこで一女性と相愛したけれど、結婚にふみきらずに、北英ヨオクシアのハーツヘッドとクリフトンと両教区兼任の牧師補に転勤した。彼はハーツヘッドに五年住んで、このころから|冥《めい》|想《そう》|詩《し》や小説を書いて出版した。小説はリチャードソンの「パメラ」を、さらに教訓的にした凡作であるという。このハーツヘッドで彼は結婚したのである。
ブロンテ姉妹の母となる彼女は、アングロサクソン人ではなくて、やはりケルト人であるが、ウェルシュ系のコオニシュである。アイリシュより知性的であるが、やはり芸術的な人種であり、第二十世紀の英文学で代表的コオニシュは、Qという筆名で小説を書いたクィラークーチ教授であろう。彼女はマライア・ブランウェルといって、イギリス本土の西南端の、コオンウォール州ペンザンス港の商人トマス・ブランウェルの娘である。両親とも死んで、ブラッドフォードの|叔《お》|父《じ》のもとに来ていたが、そこはハーツヘッドに近く、叔父はその教区の牧師で、パトリック・ブロンテの言わば同業なかまだった。情熱を内に深く秘めた、質素な|優《やさ》しい|小《こ》|柄《がら》な女性で、二人の間にかわされた恋文からも、チャーミングな人柄と文才とが察しられる。両人は一八一二年十二月二十九日に結婚した。彼女は彼より五年若い三十歳であった。翌年長女マライアを生み、その翌年、一八一四年に次女エリザベスを生み、それから同じヨオクシアのブラッドフォードに近いソーントン村の教区に移るようになって、そこで三女シャーロットを一八一六年四月二十一日に生み、翌年六月二十六日に|唯《ただ》一人の男の子パトリック・ブランウェルを生み、またも翌年、一八一八年七月三十日、四女エミリ・ジェインを生み、一年おいて、一八二〇年に五女アンヌを生み、生後三か月でブラッドフォードから九マイル西北の奥地ホーアス教区の牧師館に移り、結婚八年たらずの間に次々と六人の子を生んで、貧乏な牧師補の家政を切り盛りして|良人《お っ と》をよく助け、結婚生活十年にもならぬのに、一八二一年九月十五日、静かに耐え忍んでいた|癌《がん》のひどい苦痛から解放されて永眠した。これがブロンテ姉妹の母の性格であり、人生である。こうした両親の心身の性格は子らの心身の過半を形成したとはいえ、環境の与えたものも、なかなか無視できない。
環境は彼女のばあい故郷ヨオクシアの原野がその一ばん重要な部分を占める。彼女はほとんど終生、ヨオクシアの西部ウェスト・ライディングの、ペナイン山脈に近い|僻《へき》|地《ち》の|原野《ム ー ア》で暮らした。冬になると、ペナインの山おろしの烈風が、|暗《あん》|澹《たん》たる|吹雪《ふ ぶ き》を地上の原野にたたきつける。その激しさが彼女を感化した。夏になると、さわやかな小川のせせらぎに呼応して、谷間の木立の茂みに小鳥がさえずり、緑の野づらは白または薄紫のヒースの小花にいろどられる。その平和な美しさが彼女を感化した。愛も憎しみも赤裸々な、山国の農民たちも彼女を感化した。
ヨオクシアに次いで重要な環境は、彼女の家庭であるが、その中心である母も父も、遺伝の比重に反して、環境としての感化力はほとんどゼロで、そのことが逆にエミリたちの個性を、制限なしに自由に、伸ばしたと言っていい。母はエミリの三つの時すでに|亡《な》い。父は四十なかばで妻に死なれ、八つをかしらに当歳の赤ん坊まで六人を残され、妻の姉エリザベス・ブランウェルというメソジスト教徒の老嬢に来てもらって、子女の養育を彼女と女中タビイにまかせ、ひとりで書斎にこもり、食事も書斎でひとりで食べるようになった。当時アイルランド人といえば英国本土では、よそ者あつかいされて、しかも彼のようなプロテスタントは、大部分のアイルランド人からも異端視されていた。彼は言わばエグザイルであった。再婚の機会を求めて得ず、孤独の|殻《から》に閉じこもった彼の気持もわかる。|伯《お》|母《ば》も当時の新興宗教の狂信者で、子女に読み書き算数の初歩を教えたけれど、やはり自分だけひとりで食事して、家族と交際しなかった。そこで子供たち同士の家庭生活ということになる。六人もいれば遊び相手に事欠くことがない。それに愛犬キーパーがいる。|鵞鳥《がちょう》のヴィクトリアやアデレイドがいる。|鷹《たか》のヒアローもいる。
一八二四年七月一日、十一歳になった長女マライアと、一つ年下のエリザベスとが、付近のカウアン・ブリッジの寄宿学校に入れられ、八月十日に八歳のシャーロットが、そして十一月二十五日に六歳のエミリが同じ学校に送りこまれたが、これは聖職者たちの女児のための給費制の寄宿学校で、不衛生の上に食事も貧弱、しつけは冷厳、とても幼少児童の養護にも教育にも無理な所なのである。まずマライアが、はしかにつづいて肺病になり、翌年帰宅して死に、次にエリザベスも病気になって二週間後に姉のあとを追って死んだ。残る二人は、すぐに家に引き取られた。父はただ一人の男の子に希望を託したらしい。自分でパトリック・ブランウェルだけ教えて、女児は伯母にまかされた。この学校にたいするシャーロットの|憤《いきどお》りは「ジェイン・エア」のローウッド校にたいする怒りとなって描かれている。
作品の芽生えは、父が一八二六年の六月五日の夜、リーズ市から帰宅して、子どもらにおみやげのおもちゃを与えた時から始まる。エミリは八歳のころだが、この思い出を土台にして、「|嵐《あらし》が丘」の老アンショーが、リヴァプールから|捨《すて》|児《ご》を家に持ち込んだ夜のことを印象的に書いたと思われる。三姉妹は自分たちめいめいのおもちゃよりも、ブランウェルのもらった箱の中の、一ダースの木製軍人がうらやましかった。ブランウェルは気前よく姉妹たち専用の軍人を一個ずつ貸し与えた。四人は十二士の中から各自の勇士を|創《つく》りあげ、彼らのグラスタウンという都と国を想像して建てた。この連合王国は四つの王国から成り、ウェリントンズランドのウェリントン将軍が統治している。これはシャーロットの軍人である。エミリの軍人は初めのころ|侍従《じじゅう》少年とよばれていたが、サー・ウィリアム・エドワード・パリイとなり、グラスタウン連合王国の中では、スコットランドのように|厳粛《げんしゅく》で貧しいパリスランドの王であり、偉大な北極探検家となる。やがて年長のシャーロットとブランウェルとは、ウェリントン公の長男が東洋に建てるアングリア帝国のロマンスを展開させるが、一八三一年シャーロットがロウ・ヘッドの学校に入寮して中絶する。しかしエミリはアンヌを相手に北太平洋のゴンダル王国を想像し、彼女の短い生涯を一貫して、|叙《じょ》|事《じ》|詩《し》ゴンダルを書いたのである。
エミリの詩作品は久しく彼女自身のことを歌った個々の|抒情詩《じょじょうし》と思われていた。しかし一九三六年になって、エミリのゴンダル詩稿本が大英博物館に収められるに至り、それらの多くはこの一大物語詩にちりばめられた部分であることが初めて明白になった。それらによって復元された物語は、米国テキサス大学のファニー・エリザベス・ラッチフォード博士の「ゴンダルの女王」(一九五五年)に|拠《よ》れば、大要次のようなものである。
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ゴンダル島アルコナ王国の王女、オーガスタ・ジェラルディーン・アルミーダ(エイ・ジー・エイ)は、ロジナとも呼ばれ、ヴィーナス(金星)を運命の星として生まれた。輝かしい少女時代から、愛らしくて|大《おお》|様《よう》で、勇気があり真実で、喜びの使者であった彼女は、輝かしいヴィーナスの星の本統の娘に成長して、気性は|烈《はげ》しく、思想は詩人的で、愛情は気まぐれで変り易い女王となる。彼女に魅せられた男たち皆から|崇《すう》|拝《はい》されて、彼女の愛の光に照らされる男たち皆に悲劇をひき起こした。――エルベの殿様は戦死し、アミーデアスは追放されて異郷で死に、アルフレッド公も流離の末に自殺し、フェルナンドウは捕われて投獄され、気が狂って自殺し、ジュリアスは暗殺される。
アンゴラの王子、ジュリアス・ブレンゼイダに、彼女は一生一度の、変らぬ真実の恋を知った。彼女の野心に誘われ、彼女から政治上にも軍事上にも援助を受けて、ジュリアスは競争者のエグザイナ王朝の王子たちを|敗《やぶ》り、信義を裏切って全ゴンダル島と南方のガールダイン島との帝王となるが、その全盛の時に、彼は、かつての彼女の|継《まま》|娘《こ》アンジェリカと、その乳兄弟アミーデアスとを首謀とする、公私両面の敵たちに暗殺される。彼らはジュリアスを倒して彼の恋人に対しても|復讐《ふくしゅう》したのであった。
ジュリアスの帝国が亡びると、女王エイ・ジー・エイは子をつれて逃げ、その子は山の|吹雪《ふ ぶ き》のなかで死ぬ。やがて彼女は時を得て、味方の軍勢を集め、王位を回復し、十五年余り|泰《たい》|平《へい》の天下に君臨しながら、常にジュリアスを|憶《おも》って哀痛に耐えなかった。
ある日彼女の旧敵アンジェリカが原野で彼女を見つけ、腰元とその恋人と二人のほかに付き添う者がいなかったので、仲間のダグラスに腰元たちを殺させ、女王をも殺させる。親衛隊長エルドレッド公は部下たちに逆徒を追わせ、かつてあれほど崇拝され、あれほど強気だったこの女性が、今はさびしい失望の|残《ざん》|骸《がい》となって、月光のもと彼の前に横たわるのを見て、彼女の|嵐《あらし》のような生涯を憶いながら、ひとり彼女のむくろを|護《まも》るのであった。
[#ここで字下げ終わり]
この作品は「嵐が丘」にも劣らぬ傑作である。三姉妹が男の筆名で出版した詩集の中で、エミリの作品はすべてゴンダル女王に関する物語詩の一部といってよい。「その日は照るだろうか曇るだろうか?」の詩は、彼女の誕生後の命名洗礼の日の天気について、|占《うら》|易《ない》|師《し》が|后《きさき》に語ることばであり、その前夜となって后が窓から|眺《なが》めた荒涼たる嵐の野づらに、一八三六年十二月十三日の日付けの詩行となる――
[#ここから2字下げ]
嵐のもとに曲りながら、高波うつヘザー、
真夜中と月の光と明るく輝く星々、
暗黒と光輝とが歓喜してまじりあい、
大地は天に昇り、天は大地に降り、
人間の魂をその陰気な|土《つち》|牢《ろう》から送り出し、
足かせをひきちぎり|鉄《てっ》|柵《さく》を破る。
[#ここで字下げ終わり]
これは風すさぶヨオクシア原野であると共に、ロマンスの王女の運命を予言する象徴でもあって、エミリ・ブロンテの詩は、どれもほとんどゴンダル女王の物語詩と見ることによって、その実写主義と|浪《ろう》|漫《まん》主義と神秘との|交《こう》|錯《さく》が理解される。翌一八三七年八月の日付、「日は沈んだ、そして長い草は今夕風にものうく揺れている」その他数篇は、王女が情人エルベ公アレグザンダーの戦死をエルノア|湖《こ》|畔《はん》の戦場で嘆く歌である。一八四五年三月三日の作品「土のなかは冷たい」は、王位を回復した女王が、亡き恋人ジュリアスを思うのである。
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土のなかは冷たい、そしてあなたの上に積もる深い雪よ!
遠く、遠く離れて、|寂《さみ》しい墓の中に冷たい!
ついに「時」のすべてすりへらす波に|離《さ》かれ、
私の|唯《ただ》一人の恋人よ、君を愛することを私は忘れたのか?
今、ひとりになって、私の思いはもはや
アンゴラの岸の山々に舞い|翔《かけ》り
その翼を休めないのか? ヒースとシダの葉が あの|気《け》|高《だか》い心を永久に|恒《つね》に|蔽《おお》う|処《ところ》に。
[#ここで字下げ終わり]
この物語詩は必ずしも年々順を追うて作られたものではなく、あとから前の部分を補足した所も多い。そして物語が終ってから、ジュリアスの帝国の共和派と王党との内戦の詩を書き始めている。そのなかで、内乱の危機に臨むゴンダル人の決意が、有名な詩になっている。――
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|卑怯《ひきょう》な魂は私のものでない。世の|嵐《あらし》騒ぐ場で震える私ではない。私は『天』の栄光の輝くのを見る。すると『信仰』もひとしく輝いて、私を『恐怖』から武装し警衛する。
おゝ、わが胸ぬちの神、|恒《つね》に|在《いま》す全能の神よ、『不死の生命』なる私があなたに力を得る時私に宿る生命よ。
人々の心を動かす|数《あま》|多《た》の教義は|虚《むな》しい。言いがたく虚しい。しなびた雑草のように無価値で、無際涯の海の|泡《あわ》のように無益だ、あなたの無限をかくも固く信じて守る者に、疑念を起こさせようとしても|徒《むだ》なことだ。『不滅』の|不動磐石《ふどうばんじゃく》の上に、かくも確実に|錨《いかり》をおろしているものを。
広く包容する愛で、あなたの魂は永遠の歳月を|活《い》かし、みなぎって上空にひろがり、変り、保ち、|融《と》け、生みそして育て上げる。
たとえ地球も月も|亡《ほろ》び、太陽も宇宙もなくなって、あなたひとりが残されようとも、みんなの|『生存』《エグジステンス》はあなたのなかに生き|存《ながら》えるであろう。
そこには『死』の入る余地がない。『死』の力で無くすることのできる原子もない。あなたが『|存在《ビーイング》』であり、『|息《い》|吹《ぶき》』であり、あなたそのものが滅びることは永久にないであろうから
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](一八四六年一月二日)
これはエミリの二十八歳の作で、姉妹の詩集が姉によって編集された直後に書いたものである。同年九月十四日作の「なぜどの時代のどこの国か知ろうとたずねるのか?」を、「嵐が丘」出版後の一八四八年五月十三日に書き直した。それが彼女の最後の作品となった。そのころ兄のブランウェルは結核が悪化して、九月に死んだ。エミリは兄の葬式に|風《か》|邪《ぜ》にやられ、|咳《せき》がひどくて外出ができなくなったが、病床に|就《つ》かず、医者の診療をも拒んだ。十二月十九日の朝、いつものように起きて針仕事をしていたが、正午ごろ初めて医師の来診を|承諾《しょうだく》した。|直《ただ》ちに医者が呼ばれたけれど、まだ来ないうちに午後二時ごろ息が絶えた。三十歳四か月であった。作者については、年譜を参照されたい。
「嵐が丘」について
あるいは心理学的立場から、あるいは社会学的立場から、またそのリアリズム、ロマンチシズム、エスセチシズム(審美主義)、ダイアボリズム(悪魔主義)、ミスチシズム(神秘主義)、ローカルカラー、バイロンやスコットその他イギリスの天才たちの、またドイツのホフマンの作品の暗示など、「嵐が丘」の原文を熟読すれば、幾らでも考察の材料があり、読者の感受性と好みにしたがってさまざまに感じられ考えられる。それでよい。ただ日本で最初の翻訳者として、私は二、三の暗示を試みることが許されるであろう。
第一に、この作品における自然描写は、作者がそれを売物にしていないから多くはないにせよ、まことに見事ではないか。郷土の原野のリアルな相が、作者の詩心と清純な文体とによって、場所も時代も超えた普遍的な世界を現出させているのではないか。
第二に、ヒイスクリフの性格は、人間の極限を見事に示しているではないか。作者エミリを最も高く理解し、愛していた姉シャーロットさえ、ヴィクトリア朝の俗世間の偽善に迷わされて、「嵐が丘」再版の序文に、ヒイスクリフを悪魔の化身と評し、さんざんに|罵《ののし》っているが、キャサリンを愛していないどころか、むしろこの世のものでない強い愛情を|注《そそ》いで、終生変らなかったのではないか。裏切られた|憤《いきどお》りを彼女に向けずに、リントン兄妹とヒンドリ・アンショオに向けたではないか。そしてその連中は、結構なご身分でありながら、ヒイスクリフに比べものにならぬ|卑怯《ひきょう》なやからではなかったか。キャサリンのように、ある時は狂気になれるほど弱い頭や心の持主なら、まだしも幸いである。第十二章の五種類の鳥の羽根を並べる狂気の何という美しさ、かなしさ! しかし強いヒイスクリフは、驚嘆すべき意力で狂気と悪戦苦闘しているではないか。キャサリンが死んだ時、彼は苦痛のあまり、狂気になってもよいと言い、彼女の霊と会う神秘の世界にあこがれているではないか。「キャサリン・アンショオよ、私が生きている限りお前も安らかには浮かばれないように! 私は幽霊が地上にさまよっていることを知っている。いつも私と一緒にいておくれ――どんな姿でもいい――私を気ちがいにしておくれ! ただ、お前のいない|深《しん》|淵《えん》に私を置きざりにだけはしてくれるな!」(第十六章)
第三に話術がまことに自然に構成されているではないか。都会人のロックウッド氏に、まず主人公ヒイスクリフと、ヨオクシア原野の物すごい|吹雪《ふ ぶ き》を描写させ、それから病床の彼を|聴《き》き手にして、「嵐が丘」のアンショオ家三代にわたり勤続する家政婦ネリイ(エレン)・ディーンに、ヒイスクリフの|生《お》い立ちを物語らせ、病気が直って都に帰ったロックウッド氏を、最後にふたたび登場させて、物語をしめくくらせる。いわゆる巧妙な小説作法の常習に反して、作者はこの二人に話術を全部あずけている。モオムは|拙《つたな》いと評したが、むしろ巧妙とも考えられる。ウォルタ・スコットもこの手を試みたが、エミリ・ブロンテはそれを発展させて、異常な内容に親近感を与えさせている。
第四に、作中に用いる対照の方法も、自然であると同時にまた巧妙ではないか。まず「嵐が丘」のアンショオ家と、「スラシクロス・グレンジ」(ツグミの|辻《つじ》農園)のリントン家との対照がある。前者はヨオクシア人の情熱と線の太さを特色とする一族で、後者はお上品ぶって皮相的な一族である。ヒイスクリフもヒンドリもキャサリンも、正にボードレールの「永遠に苦しみ尽きざる」カイン族であり、エドザーやイザベラは「眠り、飲み、食う」アベル族であろう。また持てる者と持たざる者との対照は、ヒンドリとヒイスクリフの生い立ちにも、青年エドガーとヒイスクリフにも見られ、作者は|捨《すて》|児《ご》のヒイスクリフに両家の所有権を与えて、両者の地位を転倒させている。しかもその所有権はさらに転じて、ヒンドリの子ヘアトンと、エドガーの子の小キャサリンとに、正当に帰属するのである。こうした財産と家族との対照と変化とは、この作品のリアリズムとロマンチシズムとの接線を巧妙に描いているではないか。性格の対照は|到《いた》る|処《ところ》に見られるが、後半における二代目ヒイスクリフ少年(リントン・ヒイスクリフ)と、二代目ヒンドリ少年(ヘアトン・アンショオ)との、何と巧みな性格創造であろう! 愛無き結婚からは心身とも病的な、|稀《き》|代《だい》の|我《わが》|儘《まま》|児《こ》が生まれた。父親に投げ落とされて死すべきところを、赤ん坊のヘアトンがヒイスクリフに助けられた|挿《そう》|話《わ》は、ヒイスクリフの死を心から泣いた青年ヘアトンを導入する巧妙な|伏《ふく》|線《せん》であり、ヒイスクリフは老アンショオから受けた恩愛を、孫に報いることになる。そうした運命の対照も、この作品の見事な統一と調和を生み出していると考えられるではないか。
年 譜
一八一八年
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八月三十日エミリ・ジェイン・ブロンテがヨオクシアのソーントンで生まれる。
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一八二〇年 二歳
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一月十七日妹アンヌ生まれる。三か月後ホーアス教区の牧師館に移る。
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一八二一年 三歳
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九月十五日母マラリヤ病死。|伯《お》|母《ば》(母の姉)エリザベス・ブランウェルが子女の養育と家政とを助ける。
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一八二四年 六歳
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七月一日長姉マライア、次姉エリザベスがカウアン・ブリッジ寄宿学校に入学。八月十日シャーロットが、そして十一月二十五日エミリが同校に入学。
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一八二五年 七歳
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長姉マライアが結核で死ぬ、|享年《きょうねん》十二。つづいて次姉エリザベス病死、十一歳。シャーロットとエミリとは退学。女中タビイが住みこむ。
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一八二六年 八歳
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六月五日の夜、父が近くのリーズ市から帰宅して、四人の子らにみやげを買ってきたが、兄ブランウェルのもらった十二個の軍人木製人形を人物に見立て、四人で物語を空想し始める。それがシャーロットとブランウェルと共作の「アングリア」物語となり、エミリとアンヌと(ほとんどがエミリ)の「ゴンダル」物語とに展開して行く。
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一八三一年 一三歳
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姉シャーロットはロウヘッドのウーラー女史塾に入寮、翌年退学。
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一八三三年 一五歳
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姉の学友エレン・ナッシイが夏に招かれて来訪し、エミリの印象を書いた。エミリは姉妹の中で最も背が高く、すらりとしていた。髪が美しい。口数は少ない。戸外の原野に出ると、非常に元気になり、岩間や水際を走りまわった。犬や|兎《うさぎ》や小鳥を愛して人間にでも話すように話しかけた。
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一八三四年 一六歳
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七月四日付シャーロットからエレン・ナッシイ|宛《あて》に推称している詩人や作家の文学に、姉妹たちは読みふけっていたと思われる。それらは、ミルトン、シェイクスピア、トムソン、ゴウルドスミス、スコット、バイロン、キャンブル、ワーズワス、サウジイたちの詩、スコットの小説、ジョンソンの詩人伝、ボズエルのジョンソン伝、サウジイのネルソン伝、ロックハートのバーンズ伝、ムアのバイロン伝、ギルバート・ホワイトのセルボーン博物記などである。当時、姉妹ことに姉が、小説家ではスコットただ一人だけに心酔していたことは注目すべきことである。
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一八三五年 一七歳
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姉がロウヘッドに助教として招かれたので、エミリは生徒としてつれて行かれる。エミリは故郷の原野にあこがれて、三か月たらずで退学して帰郷。アンヌが入り代って同校に入学。ブランウェルはロンドンに絵を学ぶと称して上京し、むだに金を使って帰郷。
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一八三六年 一八歳
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エミリはハリファックスのロウヒル学校の教師を半年勤める。
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一八三八年 二〇歳
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姉が健康を害して学校教師をやめ、アンヌをつれて帰郷。
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一八三九年 二一歳
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アンヌ、シャーロット、ブランウェル三人は次々に住み込み家庭教師となって家を離れる。エミリはドイツの本を読みながら上手にパンを焼き家庭の柱として働く。シャーロットは数か月でやつれて帰郷し、ブランウェルも父に呼び|戻《もど》されて帰る。
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一八四〇年 二二歳
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アンヌも家庭教師をやめて帰る。父のもとに若いウィリアム・ウェイトマン牧師補が来任し、みんなに好意をもたれたが、アンヌと相愛の仲になったと思われている。ブランウェルはホーレスの|頌詩《しょうし》を英訳してハートリ・コウルリジに送り、励ましの手紙をもらう。彼はまた家庭教師に出て戻り、駅員となってすぐやめ、多芸多才のどれも物にならず、酒に、そして麻薬に、転落し始める。
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一八四一年 二三歳
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姉はホワイト家に家庭教師として、しばらく住み込む。姉妹はホーアスに私塾を開いて生活の設計を立てようとする。伯母が留学の費用を出して、上の姉妹が費用の安いベルギーのブリュッセルでフランス語に磨きをかけることにきまる。
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一八四二年 二四歳
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二月、シャーロットとエミリとは、父にロンドンまで送られ、初めてロンドンを見物し、父と別れて、ブリュッセル市イザベル街エジェ塾に入寮。この都はシャーロットの「ヴィレット市」となって描かれた。エジェ教授は姉妹の天才を見出し、とくにエミリについては、後に、「彼女は男に生まれたらよかったのに。さぞかし偉大な航海者になったでもあろう」と語った。彼女はここでフランス語のほかにドイツ語を学び、ホフマンの小説に親しむ。姉はエジェに|思《し》|慕《ぼ》を寄せ始める。彼をモデルにして後に「教授」を書く。「ジェイン・エア」のロチェスターにもエジェの|面《おも》|影《かげ》が見出される。ウェイトマン牧師補が結核で死んだ知らせにつづいて、|伯《お》|母《ば》|危《き》|篤《とく》の報が十月に来る。姉妹は帰国したが臨終にはとても間に合わなかった。留守中ブランウェルの|匿《とく》|名《めい》の詩「アフガン戦争」がリーズ市の新聞に|載《の》る。アンヌは彼女を最も愛した伯母に死なれ、ウェイトマン牧師補に死なれ、ソープグリーンのロビンソン家の家庭教師を引続き勤めることになり、ブランウェルを連れて行く。
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一八四三年 二五歳
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一月、姉は再び単身ブリュッセルに行く。エミリは寂しくなった牧師館で父と犬と鳥と家一切を守って家事を引き受ける。
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一八四四年 二六歳
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一月、姉帰る。私塾の生徒募集に応ずる者一人もない。
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一八四五年 二七歳
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父のもとにアーサー・ベル・ニコルズ牧師補来任、後にシャーロットの夫君となるアイルランド青年である。ブランウェルはロビンソン家の夫人に言い寄って解雇され、アンヌも辞職して帰宅。秋、姉がエミリの詩を発見し、三姉妹の詩集出版を計画する。姉はエジェに失恋の別れの手紙を出す。
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一八四六年 二八歳
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五月、「カラー、エリス、アクトン  ――ベル三兄弟詩集」をロンドンのエイロット・アンド・ジョウンズ社から出版。|伯《お》|母《ば》の遺産から三十ギニの印刷代を払う。二冊だけ売れる。二つ三つの批評が出てエリス・ベル(エミリ・ブロンテ)の詩が認められる。姉妹は小説に転向して、それぞれ「教授」「嵐が丘」「アグネス・グレイ」を書き上げ、たびたび出版社から送り返される。姉は父の眼科手術に付き添ってマンチェスターに行き、「ジェイン・エア」起稿。
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一八四七年 二九歳
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姉の「ジェイン・エア」(カラー・ベル著)がスミス・アンド・エルダー社から|賞讃《しょうさん》される。十二月、ニュービイ社が、かねて引き受けていた「嵐が丘」(エリス・ベル著)、「アグネス・グレイ」(アクトン・ベル著)を出版、世評かんばしくない。
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一八四八年 三〇歳
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一月、姉の「ジェイン・エア」再版、版権料五百ポンド受け取る。三月に第三版。妹アンヌの第二作「ワイルドフェル館の人たち」七月出版。エミリに結核の|徴候《ちょうこう》、健康衰える。「ジェイン・エア」のアメリカ版の問題でシャーロットとアンヌとが初めてスミス出版社を訪れ、女性作者の正体を現わす。九月二十四日、兄パトリック・ブランウェル・ブロンテ死ぬ(結核)。葬式の時エミリが|風《か》|邪《ぜ》にかかり、次第に衰弱が著しくなり、十二月十九日午後二時ごろ死ぬ。ついに病床に|就《つ》かず、医師の診療も受けなかった。
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|改《かい》|訳《やく》 |嵐《あらし》が|丘《おか》
E・ブロンテ/|大和《や ま と》|資《やす》|雄《お》=訳
平成13年3月9日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『改訳 嵐が丘』昭和38年12月15日初版発行
平成11年 5月10日改訂43版発行