マロリオン物語10 宿命の戦い
THE SEERESS OF KELL
デイヴィッド・エディングス David Eddings
宇佐川晶子訳
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)アーチ型の斜間《はすま》から
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)第一|斜檣《しゃしょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)痔ろう[#「痔ろう」に傍点]ぐらいのもの
-------------------------------------------------------
[#ここから3字下げ]
親愛なるレスター
われわれはもう十年、これにたずさわってきた。計算上では、これを終えたときには十歳年をとっているはずだったが、どうやらもうちょっと老けてしまったようだ。もっとも、わたしとしてはふたりの力でとびきりできのいい子供を育てあげたと思っている。わたしにとって楽しかったように、きみにとってもこの歳月が楽しいものであったことを願っている。それに、途中お互い殺しあわずにすんだ事実には、ふたりとも誇りを持っていい。ただしそれはわれわれのすぐれた人徳のためというより、ふたりのかけがえのない女性の人間ばなれした忍耐のたまものではあるのだが。
[#地から1字上げ]デイヴィッド・エディングス
[#改丁]
目 次
コリムの高き場所
エピローグ
解説/神月摩由璃
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
宿命の戦い
[#改ページ]
登場人物
ベルガリオン(ガリオン)………………リヴァ王
セ・ネドラ…………………………………ガリオンの妃
ベルガラス…………………………………魔術師
ポレドラ……………………………………ベルガラスの妻
ポルガラ……………………………………ベルガラスの娘
ダーニク……………………………………ポルガラの夫
ベルディン…………………………………魔術師
ケルダー(シルク)………………………ドラスニアの王子
リセル(ヴェルヴェット)………………ドラスニアの密偵
サディ………………………………………ニーサの宦官
ザカーズ……………………………………マロリーの皇帝
エリオンド…………………………………〈珠〉を運んだ若者
シラディス…………………………………予言者
トス…………………………………………〈物言わぬ男〉
ゲラン………………………………………ベルガリオンの息子
ザンドラマス………………………………〈闇の子〉
[#改丁]
コリムの高き場所
[#改ページ]
1
ガリオンはこれまで何度も祖母に――というより祖母の影像に――会っていたが、ポルおばさんと彼女のそっくりさ加減は薄気味悪いほどだった。もちろんちがうところもいくつかあった。たとえば、ポルおばさんの髪は、あの生えぎわの白い一房をのぞけば真っ黒ともいえる色だし、目は深い深い青だ。いっぽうのポレドラの髪はヴェルヴェットの金髪に限りなく近い黄褐色で、目は狼の目と同じ金色をしている。しかしふたりの女性の容貌はほとんど同一といってもよかった。ガリオンが一度だけ影像を見たポルおばさんの妹、ベルダランがやはりそのふたりと瓜ふたつだったように。ベルガラスとかれの妻と娘は、さきほどから部屋の向こう側で寄り添っており、しかめっつらをしているくせに、目に涙をたたえたベルディンが、家族の再会を邪魔するなといわんばかりに、その三人と他の仲間のあいだに立ちはだかっていた。
「あの女性は何者なのだ?」ザカーズが困惑ぎみにガリオンにたずねた。
「ぼくのおばあさんだよ」ガリオンは包み隠さずに言った。「ベルガラスの奥さんさ」
「かれが妻帯者だとは知らなかった」
「ポルおばさんはどこからきたと思ってたんだ?」
「そういうことは考えつかなかったのだ」周囲を見まわしたザカーズは、セ・ネドラとヴェルヴェットが薄くて小さなハンカチで目をふいているのに気づいた。
「どうしてみんなあんなに涙ぐんでばかりいるのだ?」
「ぼくたちは全員、おばあさんはポルおばさんと妹のベルダランが生まれたときにお産で死んだものと思っていたんだ」
「それはいつごろのことだ?」
「ポルおばさんは三千歳を軽く越しているからな」ガリオンは肩をすくめた。
ザカーズはふるえはじめた。「で、ベルガラスはその間ずっと苦悩しつづけていたのか?」
「そうだ」そのときのガリオンはほんとうは話などしたくなかった。かれがしたかったのは、喜びに輝く家族の顔を前にして飲むことだった。家族という言葉が自然と思い浮かび、ガリオンはポルおばさんが厳密に言えば自分のおばさんではないことを最初に知ったあとの、あのつらかったときをふいに思いだした。あのときはおそろしいほどの孤独を味わったものだ――孤児というひどく物悲しい言葉が胸につきささった。ずいぶん時間がかかったが、いまではなんの問題もない。家族の顔ぶれはほぼかんぺきだった。ベルガラスもポレドラもポルおばさんも話などしていない。話すのは不必要なことだったからだ。かわりにかれらはそばへ引き寄せた椅子にすわって、互いの顔を見つめ、手をとりあっていた。ガリオンはかれらの感情の激しさがかすかながらわかりかけてきた。だが、のけものにされている感じはなく、むしろ喜びをわかちあっているような気がした。
ダーニクがみんなのところへ部屋をつっきってやってきた。堅実で実務家のダーニクでさえ、とめどなくこぼれる涙で目が光っていた。「かれらだけにしておいてあげようじゃないか。いずれにせよ、荷作りをすませておくのにちょうどいいころだ。これから船に乗るんだからな」
「ポレドラはあなたが知っていたと言ったわ」かれらが部屋にもどったとき、セ・ネドラがそう言ってガリオンを責めた。
「ああ」ガリオンは認めた。
「どうして教えてくれなかったの?」
「秘密にしておいてくれと頼まれたんだよ」
「妻は別でしょ、ガリオン」
「そうかあ?」ガリオンはおどろいたふりをした。「いつからそんなルールができたんだ?」
「たったいまわたしが作ったのよ」セ・ネドラは白状したあと、両腕をガリオンの首にまわしてキスした。「ああ、ガリオン、とっても愛してるわ」
「そう願いたいな。荷作りをはじめようか?」
ペリヴォーの王宮の廊下はひえびえしていた。ガリオンとセ・ネドラは中央の部屋へ引きかえした。アーチ型の斜間《はすま》から金色の朝の光がさしこみ、自然までがその特別な、神聖とさえいえる一日を祝福しているようだった。
かれらがふたたび一堂に会したとき、ベルガラスと妻と娘はすっかり落ちつきを取りもどし喜んで仲間を迎えた。
「みんなを紹介しましょうか、おかあさま?」ポルおばさんがたずねた。
「みんなのことならもう知っていますよ、ポルガラ」ポレドラは答えた。「ずっとあなたと一緒だったんですからね、そうでしょう?」
「どうして教えてくださらなかったの?」
「あなたが自分で気がつくかどうか見たかったのよ。ちょっとあなたにはがっかりさせられたわ、ポルガラ」
「おかあさま」ポルガラが抗議した。「子供たちの前でそんなことをおっしゃらないでよ」
ふたりはあの豊かにひびく声をそろえて笑った。やがてポルガラが言った。「みなさん、これがわたしの母、ポレドラよ」
かれらは黄褐色の髪をした伝説的女性のまわりに集まった。シルクがオーバーにポレドラの手にキスして、茶目っけたっぷりに言った。「レディ・ポレドラ、おれたちはベルガラスにおめでとうを言うべきなんでしょうね。すべてを考慮すると、あなたはえらく損をしたと思いますよ。娘さんがベルガラスを改心させようと努力してかれこれ三千年ぐらいになるが、目立った成功はおさめていないんですからね」
ポレドラはほほえんだ。「娘よりもこの狼のほうが命令の方法はたくさん持っているわ、ケルダー王子」ポレドラは狼だったときのしゃべりかたについもどってしまうようだった。
「ようし、ポレドラ」ベルディンがべたべたと足音をたてて進みでながら、うなるように言った。「ほんとうはなにが起きたんだ? 娘たちが生まれたあと、おれたちの師がおれたちのところへきて、あんたはもうこの世にいないと言った。おれたちはてっきりあんたが死んだってことだと思ったんだぜ。双子はそれから丸まる二ヵ月間泣きわめくし、おれは赤ん坊どもの世話をするはめになった。いったいなにが起きたんだ?」
「アルダーはあなたに嘘をついたわけじゃないわ、ベルディン」ポレドラは冷静に答えた。「まったく現実的な意味で、わたしはもうこの世にはいなかったの。いいこと、娘たちが生まれたあと、アルダーとウルがわたしのところへ見えたのよ。ふたりはわたしに果たしてもらいたい大きな務めがあるが、それを果たすには同様に大きな犠牲を払うことになると言われたわ。その務めに備えるために、わたしはあなたがたみんなをあとに残していかなければならないとね。はじめわたしは断わったのよ。でも、かれらがその務めの内容を説明してくださったとき、同意するしかなかった。わたしは〈谷〉に背を向けてウルとともにプロルグへ行き、指示を受け取ったの。ときおりウルは不憫《ふびん》がって、自由にこの世へわたしを行かせ、わたしの家族がどうしているか確かめることを許してくださったわ」ポレドラはきびしい目つきでベルガラスを見た。「あなたとは話しあうことが山のようにあるわよ、おいぼれ狼」
ベルガラスはたじろいだ。
「その重大な務めについて、われわれに教えてくださることはないんでしょうな?」サディが穏やかにたずねた。
「残念だけど」
「そうだろうと思ったんです」宦官はつぶやいた。
するとポレドラは金髪の若者に声をかけた。「エリオンド」
「ポレドラ」エリオンドは例によって、この事態の展開にちっともおどろいていないようだった。これまでにもエリオンドがまったくおどろいたことがないのに、ガリオンは気づいていた。
「最後に会ったときからずいぶん成長したわ」ポレドラが言った。
「そうでしょう」
「用意はできていて?」
その問いがガリオンの背筋を冷たくした。オルドリン王に素性を明かす前の晩に見た奇妙な夢を突然思いだしたのだ。
ドアに丁重なノックがあった。ダーニクがあけると、鎧を着た騎士が外に立っていた。「陛下のご命令により、港で船がみなさまがたをお待ちしていることをお伝えにまいりました、閣下」と、騎士は言った。
「わたしは閣下なんかじゃ――」ダーニクが言いかけた。
「ほっとけよ、ダーニク」シルクがそう言って、戸口の鎧姿の男に話しかけた。「騎士どの、陛下はどこにおられるのか? 陛下のたび重なるご好意にたいし、お礼を申し上げてから出発いたしたい」
「陛下はみなさまを港にて待っておられます、閣下。港でみなさまに別れをお告げになり、みなさまの行く手に横たわる偉大なる冒険に向けて、みなさまを見送られるおつもりでございましょう」
「では急ぐといたそう、騎士どの」シルクは約束した。「世界有数の君主のおひとりをいつまでもお待たせいたすのは、失礼のきわみ。貴殿は称賛に価する態度で与えられた仕事を果たされた、騎士どの。一同感謝いたす」
騎士は晴れやかにほほえみながら一礼すると、廊下へ出た。
「あんなしゃべりかたをどこでおぼえたの、ケルダー?」ヴェルヴェットがおどろいたようにたずねた。
「ああ、親愛なるレディ」シルクはばかばかしいほどおおげさに答えた。「見かけは平凡きわまりなくとも、その陰に詩人がひそんでいることをそなたは知らなかったのであろうか? そなたに喜びを与えるのであれば、そなたの心を奪う比類なきすべての部分に品のない世辞をお送りいたそう」シルクはほのめかすようにヴェルヴェットの身体を上から下までながめまわした。
「ケルダー!」彼女は真っ赤になって叫んだ。
「なかなかおもしろいよ」シルクは古めかしい話しかたに触れてそう言った――すくなくともガリオンは、話しかたのことであってほしいと思った。「いったんいたす≠ニかめさる≠ニかであるゆえに≠ニかの言いまわしが身につくと、ひびきといい韻律といい、悪くないよ、そうじゃないか?」
「わたしたちは知ったかぶりの連中に囲まれてますのよ、おかあさま」ポルガラがためいきをついた。
「ベルガラス」ダーニクが真剣に言った。「馬に乗っていってもあまり意味はなさそうですね。珊瑚礁にたどりついたら、岩場をよじのぼったり、波を乗り越えたりすることになるわけですから。馬は足手まといになるだけじゃないですか?」
「あんたの言うとおりだろうな、ダーニク」老人は同意した。
「これから厩へ言って、厩番たちと話してきます」鍛冶屋は言った。「みんなは先へ行っててくれないか。すぐに追いつくよ」かれは向きを変えて部屋を出ていった。
「すぐれて実務的な人ね」ポレドラが感想をもらした。
「でもあのいたって実務的なうわべの陰に詩人が隠れているのよ、おかあさま――」ポルガラは微笑した。「――わたしがあの人のそういう面をどんなに楽しく思っているか、きっと信じていただけないと思うわ」
「いまが潮時だわ、おいぼれ狼。そろそろこの島を出ないとね」ポレドラは皮肉めかして言った。「あと二日もいれば、みんなが腰をすえてへたな詩を作りだすわよ」
やがて召使いたちがやってきて、港へ運ぶ一行の荷物を持っていった。ガリオンたちは宮殿の廊下をひとかたまりになって進み、ダル・ペリヴォーの街路へ出た。夜があけたときはまばゆいほどの好天だったのに、西の空にぶあつい紫色の雲がわきあがって、コリムの空が荒れもようであることを雄弁に物語っていた。
「わかっちゃいるけどな」シルクがためいきをついた。「一度――たった一度でいいから、こういうめったにない出来事が上天気の中で起きるのを見たいもんだよ」
ガリオンはその陽気な軽口の陰にひそんでいるものをじゅうぶんに理解していた。みんな、ある不安をかかえて明日という日を迎えようとしている。対決の起きる前に、仲間のひとりが命を落とすというレオンでのシラディスの発言が、ひとりひとりの心に重くのしかかっていた。勝手知ったるやりかたで、ひとりひとりが恐怖を少しでも薄れさせようと努めているのだ。そこまで考えたとき、ガリオンはあることを思いだして歩調を落とし、ケルの女予言者に近づいた。「シラディス」と目隠しをした娘に言った。「ザカーズとぼくは珊瑚礁についたら鎧兜を着なくちゃならないのか?」その朝、もう二度と鋼に身体をとじこめなくていいのだとほっとしながら着た上着の前をガリオンはひっぱった。「ぼくが言いたいのは、対決が完全に精神的なものであるならば、鎧兜は不要なんじゃないかってことなんだが、どうなんだい? しかし、戦う可能性があるなら、また鎧を着る覚悟でいなけりゃならないだろう?」
「そなたの考えは手にとるようにわかる、リヴァのベルガリオン」シラディスはやさしくガリオンを叱った。「わたしがそなたと話しあってはならぬことをたずねて答えを引きだそうとたくらんでいるのであろう。そなたの好きなようにすればよい、リヴァの王。しかし、いささかの鋼をあちこちにまとっておくことは、思慮分別から申せば、もしやのことがあった場合、役立つかもしれぬ」
「わたしはそなたによって導かれるのだ」ガリオンはにやにやした。「そなたの思慮分別は、わたしには英知の道に思われる」
「冗談でも言おうとはかない努力をしているのか、ベルガリオン?」
「ぼくがか、聖なる女予言者?」ガリオンはにやりとしてみせると、ザカーズとサディのすぐうしろを手をつないで歩いているベルガラスとポレドラのところまで大股に歩いていった。「おじいさん、やっとのことでシラディスから答えを引きだしたよ」
「だれもできなかったことだぞ」老人が答えた。
「ぼくたちが珊瑚礁についたとき、戦いがあるらしい。ついたときにザカーズとぼくは鎧兜をつけるべきなのかどうかと彼女にたずねたんだ。直接には答えてくれなかったが、悪い考えじゃないと言ったんだ――万が一のためにね」
「他の連中にも伝えたほうがよかろうな。なにもわからんまま事態にぶつかるような真似は避けたい」
「そうするよ」
王は派手な服に身を包んだ宮廷の貴族たちとともに、港の波立つ水に長く突きでた波止場でかれらを待っていた。穏やかな朝だというのに、白貂《しろてん》のローブをまとい、重い金の冠をかぶっていた。「御身と御身の高貴なるお仲間をこうして迎えられてまことにうれしいかぎりだ、リヴァのベルガリオン」王は麗々しく述べた。「そして御身らの出発を悲しみのうちにこうして待っておるのじゃ。ここにいる大勢の者がこのことがらについて話しかける許可を余に求めたのだが、余は御身らのためにかかる許可は頑としてくださなかった。御身らの探索が急を要するものであることは十二分に理解しておるのでな」
「陛下はじつに忠実な友人であられます」ガリオンは口先ばかりの演説をしないですんだことに心底感謝しながらそう言うと、王の手を温かく握りしめた。「神々が明日の勝利をわれらにお与えくだされば、まっすぐにこの幸多き島に引きかえしましょう。そうすれば、かような温かいもてなしをしてくださった陛下や宮廷のみなさんに心からの感謝を表明できるというもの」それに、どうせかれらは馬をとりにもどってこなければならなかった。「陛下、いまやわれらの運命がわれらを待っています。われらは別れの挨拶もそこそこに船に乗り、断固たる決意でその運命に立ち向かわねばなりません。神々が許されるなら、すぐにでももどってまいります。さようなら、友よ」
「さらばじゃ、リヴァのベルガリオン」王は涙声で言った。「神々が御身と御身の仲間に勝利をお与えくださることを」
「そうなるよう祈ってください」ガリオンはいささか芝居がかったしぐさでマントをひるがえすと、仲間の先頭に立って渡り板を渡った。ちらりと肩ごしにふりかえると、ダーニクが群衆をかきわけて進んでくるのが見えた。あれを利用しよう。ダーニクが船に乗ったら、すぐにでもすべての索をほどくよう命令するのだ。そうすれば船の手すりごしにいつまでも別れの言葉を叫ばなくてもすむ。
ダーニクのすぐあとから荷物を載せた荷車がいくつかやってきた。かれらの手荷物がすばやく船へ運びこまれると、ガリオンは船長と話をしに船尾へ行った。しわだらけの日焼けした顔をした、白髪まじりの老船長だった。
西方の船の甲板は白木の板でできていて、たいていは、みがき石で白っぽくみがきあげてあるが、ここの船はそれとはちがい、上甲板もそれを囲む手すりも黒く光るニスで仕上げてあり、真っ白なロープがきちんと輪になってぴかぴかにみがかれたビレーピンからさがっていた。その効果は、これみよがしともいえるほどこぎれいで、船長が自分の船に強い誇りを持っていることがしのばれた。船長自身はややくたびれた青い上着を着ている。要するにくつろいでいるのだ。陽気なビロードの帽子が片耳の上でいきにかしいでいた。
「これで全部だと思う、船長」ガリオンは言った。「潮の流れが変わらないうちに錨をあげて出航したほうがよさそうだ」
「海に出たことがおありとみえるね、若さまは」船長は賛同をこめて言った。「お仲間もそうだといいんだが。陸の人間を乗せるのはいつもちょっとした試練なんだ。風に向かってげえげえ吐くのがいい考えじゃないってことがちっとも連中にはわからないらしい」船長は鼓膜が破れそうな声をはりあげた。「ロープを全部はずせ! 出航の用意だ!」
「あんたは島の人間としゃべりかたがちがうな、船長」ガリオンは言った。
「同じだったら、おれのほうがおどろいちまうよ、若さま。おれはメルセネ諸島の出身なんだ。二十年ばかり前、ふるさとのあるところでおれに関するいやな噂が行きわたってね、しばらくいないほうがよさそうだと考えたんだ。それでここへきた。おれがここへついたとき、ここの連中が船をなんて呼んでいたか教えても信じないだろうな」
「海を行く城とか?」
「じゃ、見なすったんだな?」
「世界の別の場所でね」
「帆をあげい!」船長は乗組員たちにどなった。「なあ、若さまよ」かれはガリオンにむかってにやりとした。「じき呼んでも聞こえないところへきますぜ。そうすれば、あのものすごいしゃべりかたからも解放されるわけだ。どこまで話したかね? ああ、そうそう。おれがここにきたとき、ペリヴォーの船ときたら、でかいくしゃみひとつで転覆しちまうほど上が重かったんでさ。そのことをここの連中に説明するのに、五年もかかったなんて信じられますかい?」
「あんたはびっくりするほどしゃべったにちがいないな」ガリオンは笑った。
「ビレーピンに一巻か二巻分ぐらいはしゃべったかな。しかし、ついに挑戦状をたたきつけるしかなかったんだ。あの石頭どもときたら、だれも挑戦を拒否できなかった。そこで島一周の競争を提案したんだよ。二十隻の船がスタートしたが完走したのはおれの船だけだった。それでようやく耳をかたむけはじめたんだ。それからの五年は造船場で建造の監督をした。そのあと王がやっとこさっとこおれを船へもどしてくれんだ。おかげで男爵位をもらったな――だからどうってことじゃないがね。どっかに城だって持ってるはずだよ」
波止場からまさしくミンブレイト式にすさまじい物音がした。宮廷の騎士たちがホルンでかれらを見送っているのだ。「情けなくないかね?」船長が言った。「あの島の人間はみんな音痴なんじゃないかと思うぜ」船長は感心したようにガリオンを見た。「なんでもあんたがたはトゥリムの珊瑚礁へ行くそうだな」
「コリムだろう」ガリオンはうわの空で訂正した。
「陸の人間の話を聞いてきたと見える。連中は名称を正しく発音することすらできないんだ。とにかく、上陸したい場所がはっきりする前に、おれを呼んでくれ。あの珊瑚礁のまわりにはじつに嫌な水域があってな。へまはしたくない場所なんだ。おれは非常に正確な海図を持ってるんでね」
「王の話だと、珊瑚礁の海図はないということだった」
船長はずるがしこそうに片目をつぶった。「さっき言ったおれの噂を聞いて、一部の船長たちがおれのあとについてこようとしたことがあるんだよ。追いかけようとした≠ニいったほうが正確かもしれんな。ときとして、報酬がそういうことをさせるんだ。いずれにしても、いちど穏やかな天候のときにその珊瑚礁のそばを通ったことがあるんだ。おれは水深を計ってみることにした。みんながこわがってついてこないような場所に、隠れ場を持っていたって悪くあるまい」
「あんたの名前は、船長?」
「クレスカだ、若さま」
「若さまはやめてくれ、ガリオンでいい」
「あんたの好きなようにしよう、ガリオン。そろそろ上甲板からおりてくれるか? このおんぼろ風呂桶を港から出しちまうから」
しゃべりかたもちがうし、世界の半周分は距離が離れていたが、クレスカ船長はバラクの友だちのグレルディクとそっくりだったから、ガリオンは急に気が楽になった。ガリオンはみんなのいる下へおりていって言った。「ついてるよ。船長はメルセネ人なんだ。優柔不断じゃないし、珊瑚礁の海図も持ってるんだ。このあたりで海図を持ってるのはたぶんあの船長だけだろう。上陸したい場所を決めたら、すぐに知らせてくれと言ってる」
「そのほうが都合がいいんだな」シルクが言った。
「たぶんね。しかし、かれの主な関心は船の底を傷つけないことじゃないかと思うよ」
「いずれにしても、おれが乗っているあいだはそうであってほしいね」とシルク。
「ぼくは甲板へもどる」ガリオンは言った。「航海の第一日めに船室におしこめられていると、いつでもなぜかちょっと気分が悪くなるんだ」
「あなたってほんとうに島国の統治者なの?」ポレドラが言った。
「単なる慣れの問題ですよ、おばあさん」
「そりゃそうね」
海も空も不安定だった。西からはあいかわらず重たげな層雲が移動してきて、長い大きな白波がそっちからうねりながらやってきた。おそらくクトル・マーゴスの東の沿岸沖のどこかで発生した波だろう。島国の王としてガリオンはその現象が異常なものではないと知っていたが、それにしても、海面をなでる風が西へ吹いているのに、雲の動きでもわかるように、その風が上空では東へ吹いているのに気づいたときには、迷信じみた不安を感じないわけにいかなかった。前にもたびたびこういう現象は見たことがあるが、今回は天候が自然の原因に反応しているのか、他のなにかに反応しているのかよくわからなかった。ガリオンはぼんやり考えた。もし船が見つからなかったら、例のふたつの永遠の意識はどんな手を打っただろう。そんなことを考えたせいか、つかのま、海がふたつに分かれて海底を横切る広い道が見えたような気がした。おどろいている魚たちの散らばる道だ。自分自身に託された宿命の重みがだんだん軽くなってくるのを感じた。クトル・ミシュラクへの長くつらい道をたどっていたときのように、ふたつの予言が対決へ向けて、コリムへ自分を導いているのだという確信がしだいに強まってきた。ガリオン自身が選んだことではないとはいえ、その対決はすべてがはじまったとき以来、宇宙全体が渇望してきた最終の〈出来事〉なのだ。不平がましい「なんでぼくが?」という疑問が、口もとにのぼった。
すると、いつのまにかセ・ネドラがそばにいた。彼女はガリオンの腕の下にもぐりこんできた。自分たちがじつは愛しあっていることにようやく気づいたあの最初の陶酔の日々によくやっていたように。「なにを考えているの、ガリオン?」彼女はそっとたずねた。宮殿で着ていた古めかしい緑色のサテンのドレスを脱ぎ、セ・ネドラは実用的なグレイの服に着替えていた。
「べつに。心配ごとが迫ってきてるせいだろう」
「心配するようなどんなことがあって? わたしたちは勝つんでしょう?」
「それはまだ決まってないよ」
「もちろんあなたが勝つのよ。いつだってそうだわ」
「こんどのはちょっとちがうんだ、セ・ネドラ」ガリオンはためいきをついた。「だが、ぼくが心配しているのは対決のことだけじゃない。後継者を選ばなけりゃならないんだ。そしてぼくの選んだ人間が新たな〈光の子〉になる――そして神にね。まちがった人間を選んだりしたら、とんでもない神を創ってしまうことになるんだ。シルクが神だなんて想像できるか? かれなら他の神々のポケットからものをくすねたり、星座に品のない落書きをしたりするよ」
「たしかにシルクは神にふさわしい性格じゃなさそうね」セ・ネドラはうなずいた。「わたしはシルクが大好きだけど、ウルは強く反対なさると思うわ。他にはどんな悩みがあるの?」
「知ってるだろう。ぼくたちのひとりが明日には命を落とすんだ」
「そのことなら心配いらないわ、ガリオン」彼女はいたずらっぽく言った。「それはわたしなの。はじめからわかってたわ」
「ばかを言うんじゃない。そんなことはさせないさ」
「まあ? どうやって?」
「どんなやりかただろうと、きみを傷つけるなら〈選択〉はしないと言ってやるんだ」
「ガリオン!」セ・ネドラは息をのんだ。「だめよ! そんなことをしたら、宇宙を破壊することになるのよ!」
「だからなんだっていうんだ? きみのいない宇宙なんてぼくにはなんの意味もないよ、わかってるだろう」
「うれしいわ、でもだめ。どうせあなたはそんなことはしないわ。異常に責任感が強いんですもの」
「どうしてきみは自分がそのひとりだと思うんだ?」
「務めよ、ガリオン。わたしたちはみんなそれぞれ務めを持ってるわ――ひとつ以上持っている人もいる。ベルガラスは対決の行なわれる場所を見つけださなけりゃならないわ。ヴェルヴェットはハラカンを殺さなくちゃならなかった。サディにだって務めがあったのよ。かれはナラダスを殺さなくちゃならなかったの。わたしにはなんの務めもないわ――死ぬことだけ」
その時点でガリオンはセ・ネドラに言うことにした。「きみにもちゃんと務めがあったんだよ、セ・ネドラ。しかもきみはそれをとてもうまくやった」
「なんのこと?」
「おぼえてないだろうな。ぼくたちがケルを出発したあと、きみは何日かひどく眠たがっていた」
「ええ、それならおぼえてるわ」
「あれはきみが眠かったわけじゃないんだ。ザンドラマスがきみの意識に手を加えていたんだよ。あの女は前にも同じことをした。ラク・ハッガへ行く途中、気分が悪くなったのをおぼえてるかい?」
「ええ」
「あれは種類がちがうが、やっぱりザンドラマスのせいだったんだ。あいつはもう一年以上にわたって、きみをあやつろうとしてきたんだよ」
セ・ネドラはまじまじとガリオンを見つめた。
「とにかく、ぼくたちがケルを発ったあと、ザンドラマスはまんまときみの意識を眠らせることに成功した。きみはふらふらとさまよい歩いて森にはいり、アレルに会ったと思いこんだんだ」
「アレルですって? 彼女は死んだのよ」
「わかってる。しかしきみはそれでもアレルに会ったと思い、きみはアレルの姿をした女にぼくたちの赤ん坊のように見えるものを渡されたんだ。そのあと、アレルがきみにいくつか質問をし、きみがそれに答えた」
「どんな質問?」
「ザンドラマスは対決が行なわれる予定の場所をつきとめなくてはならなかった。そして彼女はケルへ行くことができなかった。そこできみにそのことをきけるように、アレルのふりをしたんだ。きみはザンドラマスにペリヴォーのことを話し、地図やコリムのことを話した。それがきみの務めだったのさ」
「あなたたちを裏切ったの?」セ・ネドラの顔がこわばった。
「そうじゃない。きみは宇宙を救ったんだ。ザンドラマスはしかるべきときに、どうしてもコリムにいなけりゃならないんだからな。だれかがあいつに行き先を教えなくちゃならなかったんだ。それがきみの務めだったというわけだ」
「そのことはなにもおぼえていないわ」
「もちろんだよ。ポルおばさんがきみの意識からこの記憶を抹消したんだ。ちっとも悪くなんかない。たとえ起きたことをおぼえていたとしても、良心の呵責なんかおぼえることはないんだ」
「でもやっぱりあなたたちを裏切ったのよ」
「きみはやらなけりゃならないことをしたんだ、セ・ネドラ」ガリオンはちょっといたずらっぽく微笑した。「ねえ、このことについてはふたつの陣営が同じことをしようとしているんだよ。ぼくたち――それにもちろんザンドラマス――はコリムを見つけようとし、もうひとつの陣営にそれを発見させまいとした。そうすれば自分たちが不戦勝をおさめることができるからさ。でも、絶対にそういうふうにはならなかった。対決はシラディスが選択をする前に、どうしても起きなくてはならないんだ。予言は他の方法で対決が起きることを許さない。どっちの陣営も、ありえないことをしようと大変な努力を払ったんだ。ぼくたちは最初から気づいているべきだったんだよ。気づいていれば、こんなに大変な目にあわないでもすんだだろう。ぼくの唯一のなぐさめは、ザンドラマスがぼくたち以上にむだな努力をしたということだな」
「それでもやっぱり死ぬのはわたしにちがいないわ」
「ばかばかしい」
「死ぬ前に赤ちゃんを抱きたいわ」セ・ネドラは悲しそうに言った。
「きみは死なないよ、セ・ネドラ」
彼女はガリオンの言うことに耳を貸さなかった。「あなたも気をつけてね、ガリオン」きっぱりと言った。「ちゃんと食べて、冬にはあたたかくしてるのよ。わたしたちの息子にわたしを忘れさせるようなことはしないで」
「セ・ネドラ、いいかげんにしないか」
「最後にひとつだけ、ガリオン」セ・ネドラはかまわずつづけた。「わたしが死んでしばらくしたら、また結婚してほしいの。この三千年間、ベルガラスがやってたみたいなまねはおことわりよ」
「あたりまえじゃないか。第一、きみにはなにも起きないよ」
「いまにわかるわ。約束して、ガリオン。あなたはひとりでいちゃだめなの、だれか世話をしてくれる人が必要なのよ」
「そろそろ終わり?」そう言ったのはポレドラだった。彼女は前檣《ぜんしょう》の陰からなにげないようすで出てきた。「とてもかわいいし、なんともメランコリックだけれど、すこし大げさすぎやしないかしら? ガリオンの言うとおりよ、セ・ネドラ。あなたにはなにも起きないわ、だからその高潔な精神はたたんでどこかの引きだしにでもしまったらどうなの?」
「わたしにはわかってるんです、ポレドラ」セ・ネドラは頑固だった。
「あさっての朝、目をさまして自分が五体健全であることに気づいてもあまりがっかりしないことね」
「じゃ、だれなんですの?」
「わたしよ」ポレドラはあっさりと言った。「三千年も前から知っていたことなの。だからそれに慣れる時間はたっぷりあったわ。すくなくとも、永遠の別れをする前に、愛する人たちと一緒に過ごす日を持てたんですもの。セ・ネドラ、風がとても冷たいわ。風邪をひかないうちに下へおりましょう」
「ポルおばさんそっくりね」有無を言わさぬポレドラのあとから、下の甲板へおりていきながら、セ・ネドラは肩ごしに言った。
「当然だよ」ガリオンは言いかえした。
「はじまったようだな」シルクがそう遠くないところから言った。
「なにがはじまったって?」
「センチなさよなら合戦がさ。みんながあした太陽が沈むのを見られないのは自分だと思いこんでいるんだ。きっとみんなひとりずつここへきて、きみにさよならを言うぜ。おれが一番乗りだと思ったが――さっさとすませちまおうとな――セ・ネドラに先を越された」
「きみが? きみは叩いても死なないやつだよ、シルク。悪運が強すぎる」
「おれの運はおれが作ってきたんだ、ガリオン。運命の駒をいじるのはそうむずかしいことじゃない」小男の顔がなにかを回想するように、ぼんやりとした。「おれたちなかなか楽しい思いをしたよな。悪いことを補ってあまりある楽しさだった。人間に望めるだけの思いはしたよ」
「きみもセ・ネドラやぼくの祖母と同じくらい悲観的なんだな」
「どうしてもそう思えちゃうんだよ。ひどくおれらしくないことだがね。あまり悲しんでくれるな、ガリオン。もしおれがそのひとりになれば、非常に不快な決定をくだすいやな思いをしないですむんだ」
「へえ? どんな決定だい?」
「おれの結婚観は知ってるだろう?」
「ああ、知ってる。何度も聞かされたからね」
シルクはためいきをついた。「にもかかわらず、どうやらリセルのことで決心しなけりゃならなくなりそうなんだよ」
「いつになったら決めるのかと思ってた」
「知ってたのか?」シルクはびっくりしたようだった。
「みんなだって知ってたさ、シルク。リセルはきみを獲得しようとし、そのとおりのことをした」
「いやになるよ――もうろくしてついに罠にはまっちまうとはな」
「きみがそんなひどい目にあってるとはぼくなら言わないね」
「おれはこんなふうなことを考えてまでいるんだ」シルクは憂鬱そうに言った。「リセルとおれはこれまでどおりやっていけると思う。しかし、真夜中に彼女の寝室へこっそり廊下を歩いて忍びこむのは、どういうわけかちょっと失礼な気がするんだ。そういうことをするには彼女のことが好きすぎるんだよ」
「好きすぎる?」
「じゃあ言ってやるさ」シルクはかみつくように言った。「おれはリセルに惚れてるんだ。はっきり聞きだせていい気分だろう?」
「ぼくはただ明確にさせたかっただけさ。きみがそれを認めたのは――自分にたいしても――これがはじめてなのかい?」
「ずっと避けようとしていたんだ。なあ、他の話をしないか?」シルクはきょろきょろあたりをうかがった。「あいつがよその空間を見つけて飛んでいってくれりゃいいのになあ」と気むずかしげな口調で言った。
「あいつ?」
「あのいまいましいアホウドリだよ。またもどってきやがった」シルクは指さした。ガリオンがふりかえると、ばかでかい翼の白い海鳥がまたしても第一|斜檣《しゃしょう》のすぐ先にいるのが見えた。昼が近づくにつれ、しだいに紫色を濃くしてきた西方の層雲を背に、真っ白な鳥がこの世のものならぬ白い光に輝いているように見える。
「まったく奇妙だな」ガリオンは言った。
「あいつがなにをたくらんでいるのか知りたいよ」シルクは言った。「おれは下へ行く。これ以上あいつを見たくないんだ」かれはガリオンの手を握り、わざと荒っぽく言った。「おもしろかったよ。気をつけてな」
「行かなくてもいいじゃないか」
「おまえに会おうと列を作って待ってる他のみんなに席を譲らなくちゃな、陛下」シルクはにやりとした。「きょうはおまえにとって気の滅入る日になるぜ。ベルディンがもうエールの樽を見つけたかどうかつきとめてくる」陽気に手をふると、小男はくるりと背を向けて下に通じる階段のほうへ歩き去った。
シルクの予見はピタリとあたった。ガリオンの仲間がひとり、またひとりと甲板にあがってきては別れを告げた。みんながみんな死ぬのは自分だと固く信じていた。総じてその日はきわめて陰鬱な日だった。
あたりが暗くなってきたころ、自作の墓碑名を語る最後のひとりが立ち去った。ガリオンは手すりにもたれて船の後方でちらちら光る航跡をながめた。
「いやな一日だった、だろう?」またシルクだった。
「ひどいもんさ。ベルディンはエールを見つけたのか?」
「あれはやめといたほうがいい。あしたのために鋭気を養っておく必要があるからな。おれがここへきたのは、おまえが仲間に注ぎこまれた憂鬱な気分のせいで溺死しようという気になってやしないかどうか見るためなんだ」シルクは眉をひそめた。「あれはなんだ?」
「あれって?」
「あのすごい物音さ」かれは船首のほうを見た。「あれだ」と緊張して言った。
紫色の空が日没とともにほとんど真っ黒に変わっていた。雲の間に輝く夕日の黒ずんだ赤い光が、黒い空をところどころ染めている。水平線の下のあたりは錆色にぼやけ、まるで泡だつ波の白いネックレスをつけているように見えた。
クレスカ船長が、ほとんど陸と縁のない人間特有のゆれるような歩きかたで、こちらへやってきた。「あれですぜ」とかれらに言った。「あれが例の珊瑚礁だ」
ガリオンは〈もはや存在しない場所〉に目をこらした。思考と感情がたがいにせめぎあっていた。
そのとき、アホウドリが異様な鳴き声をあげた。まるで勝利の声のように聞こえた。大きな真珠色の鳥は翼を一度だけかたむけると、静止しているように見える飛びかたでコリムのほうへ飛び去った。
[#改ページ]
2
家令のオスカタットはクトル・マーゴスのウルギット王の謁見の間めざして、ドロジム宮殿の廊下を落ちついた歩調で歩いていた。傷痕のあるその顔はけわしく、心は乱れていた。謁見の間の警備されたドアの前で足をとめ、「陛下にお話ししたいことがある」と告げた。
衛兵たちはすぐさまドアをあけた。ウルギット王との相互合意によって、オスカタットの称号はいまでもただの家令だったが、衛兵たちは宮殿内のあらゆる人間と同じく、オスカタットがクトル・マーゴスでは王に次ぐナンバー・ツーの存在であることを認識していた。
オスカタットがはいっていくと、ネズミ顔の君主はプララ王妃とタマジン皇太后、すなわちオスカタットの妻と話をしていた。「ああ、オスカタットか」ウルギットが言った。「これで家族がそろったな。いま、ドロジム宮殿の大々的改造の話をしていたのだ。天井にはりつけたこの宝石やら何トンもの金箔はじつに悪趣味だ。おまえもそう言っただろう? それだけではない、金が入用なのだ。あのクズをすっかりとりのぞけば、戦争協力に必要な金が作れる」
「重大問題が起きたのです、ウルギット」オスカタットは王に言った。王の命令によって、オスカタットは個人的な会話ではいつも王をファースト・ネームで呼んでいた。
「それは残念だな」ウルギットは王座の上のクッションに深く沈みこんだ。ウルギットの名目上の父親、タウル・ウルガスは、軽蔑からクッションの快適さをはねつけ、たとえば冷たい石の上に何時間もすわっているようなマーゴの剛毅さを好んでいた。そのばかげた態度から狂った王が得たものといえば、痔ろう[#「痔ろう」に傍点]ぐらいのもので、それは晩年のタウル・ウルガスのいらいらを増大させるもととなった。
「きちんとすわりなさい、ウルギット」王の母であるレディ・タマジンがうわの空で言った。
「はい、母上」ウルギットはいくらか王座の上で背すじを伸ばした。「先をつづけてくれ、オスカタット。だが、内容を言うときは穏やかにな。ここへきてわがはいは重大問題≠ニは、すなわち災害のことだと気づくようになったのだ」
「ダガシ族の長老ジャハーブとこのところずっと連絡をとっていたのです」オスカタットは報告した。「わたしの要求で、かれは高僧アガチャクの所在をつきとめようとしていました。そしてついにアガチャクを発見したのです――というより、アガチャクがクトル・マーゴスを発ってから入港した港を発見しました」
「たいしたものだな」ウルギットはにんまりした。「いい知らせをもってきてくれた。すると、アガチャクはクトル・マーゴスにはもういないわけか。世界の果てまで行ってくれるといいのだが。いいことを教えてくれたな、オスカタット。あの歩く死体がわが王国の残存物をけがすことはもはやないわけだから、これでよく眠れるようになる。ジャハーブの密偵たちはアガチャクの目的地もつきとめられるのか?」
「かれはマロリーへ向かっています、ウルギット。あの行動から判断して、サルディオンがマロリーにあると信じているようですな。アガチャクはタール・マードゥへ行き、ナセル王を説きふせて同行させたのです」
ウルギットはいきなりげらげらと笑いだし、嬉々として叫んだ。「ほんとうにやったわけか!」
「どういうことでしょう」
「わがはいがアガチャクにほのめかしたのだ。サルディオンを捜しにいくときは、わがはいではなくナセルを連れていったらどうだとな。アガチャクはあのバカのおかげでいまごろ困りはてているぞ。あのふたりの会話を聞くためならなにをくれても惜しくなかったな。運よく成功すれば、アガチャクはナセルをアンガラクの王に仕立てることになるわけだ。ナセルは自分の靴紐すら結べないというのに」
「じっさいにアガチャクが成功すると思っていらっしゃるのではないんでしょう?」プララ王妃がすべらかな額にかすかなしわを刻んで言った。プララ王妃は妊娠七ヵ月で、このところ心配症になっていた。
「勝つということか?」ウルギットはふんと笑った。「アガチャクには万にひとつのチャンスもない。第一にベルガリオンを――ベルガラスやポルガラはいうまでもなく――かわさねばならんのだぞ。かれらに灰にされてしまうさ」ウルギットは皮肉っぽい薄笑いを浮かべた。「力のある友だちをもっているのはじつに気持ちのいいものだな」とそこで言葉を切り、ちょっと眉をしかめた。「だが、ほんとうはベルガリオンに警告すべきだ――ケルダーにも」かれはふたたびクッションにだらしなくもたれた。「われわれのところに最後に入った情報では、ベルガリオンたち一行はカル・ザカーズとともにラク・ハッガを出発したということだ。おそらくマル・ゼスへ行ったにちがいない、客としてだか、囚人としてだかはわからんが」ウルギットは長い尖った鼻をひっぱった。「しかし、ベルガリオンがいつまでも囚人にとどまっているような人間でないことはわかっている。ともかく、ザカーズならベルガリオンがどこにいるのか知っているだろう。オスカタット、ダガシ族をひとり、マル・ゼスへやる方法はあるか?」
「やってみることはできます、ウルギット。しかし成功の見込みは薄いですな。それにダガシ族が皇帝に会うのはむずかしいかもしれません。ザカーズは内戦をかかえていますから、おそらくあまり耳をかたむけようとはしないでしょう」
「それもそうだな」ウルギットは王座の肘掛けを指でたたいた。「しかし、ザカーズはこのクトル・マーゴスで起きていることにあいかわらず通じていると言ったな?」
「それは疑いの余地がありません」
「ではかれをベルガリオンへのわれわれの使者にしたらどうなのだ?」
「あなたのお考えは性急すぎてついていけません、ウルギット」オスカタットは正直に言った。
「マロリー軍に占拠されているもっとも近くの町はどこだ?」
「ラク・クタカには縮小した駐屯部隊がまだ配備されています。あの部隊なら数時間で掃討できますが、ザカーズに総勢を率いてクトル・マーゴスに引きかえすような理由は与えたくありません」
ウルギットは肩をすくめた。「わがはい自身強くそう思っている。しかし、ベルガリオンにはいくつかの恩があるし、できるだけ兄上を守りたいのだ。どうすればよいか教えよう、オスカタット。三部隊ほどを率いて、ラク・クタヵへ行ってくれ。町はずれにいるマロリー人がラク・ハッガへ逃げて、われわれがザカーズの都市を攻撃しはじめているとカル・ザカーズに知らせるだろう。ザカーズの注意を引くことはまちがいない。しばらくラク・クタカ周辺をうろついてから、包囲するのだ。駐屯部隊の司令官との交渉を求めろ。状況を司令官に説明するのだ。この件に関する利益の一致を指摘する手紙をわがはいがカル・ザカーズに書こう。わがはいがあのおいぼれ魔術師にこのクトル・マーゴスにいてもらいたくないのと同じように、ザカーズだとてマロリーにアガチャクがいては迷惑なはずだ。ザカーズにその情報をベルガリオンに伝えるように、わがはいが強く示唆しよう。われわれがラク・クタカを包囲したことは、そのころにはとっくにザカーズの耳にはいっているだろうから、わがはいの手紙を見ることだけはまちがいない。かれはベルガリオンに連絡するだろう。そうすれば、われわれは〈神をほふる者〉がわれわれにかわってわれわれの問題を解決してくれるのをながめていればいいわけだ」ウルギットは急ににやりとした。「わからんぞ。ことによるとこれが執念深き皇帝≠ニわがはいとの和解に向けての第一歩となるかもしれん。アンガラク人が互いに殺しあうのはそろそろやめる潮時だと本気でわがはいは思っているのだ」
「もっとスピードを出せんのか?」アンヘグ王はグレルディク船長を問いつめた。
「聞くまでもないだろう、アンヘグ」グレルディクはぶつくさ言った。「帆の数を増やすことができりゃ、矢みたいに速くなるさ――五分間ぐらいはな。やがてマストは折れ、おれたちは手で漕いでいくことになる。どっちがいい?」
「グレルディク、反逆罪《レズマジェステ》という言葉を聞いたことがあるか?」
「しょっちゅうあんたが言ってるじゃないか、アンヘグ。だがな、ときには海上の法にだって目を向けるべきだぜ。この船で海に出ているときにゃ、ヴァル・アローンでのあんたよりおれのほうが絶対の権力があるんだからな。もし、おれが漕げといったら漕ぐんだ――いやなら泳いでくれや」
アンヘグは悪態をつきながら歩き去った。
「どうだった?」アローンの王が船首へ近づいたとき、ヴァラナ皇帝がたずねた。
「余計なお世話だと言いやがった」アンヘグはぶつくさこぼした。「そんなに急いでいるなら、オールを使わせてやってもいいとさ」
「これまでオールを漕いだことがあるのかね?」
「一度な。チェレク人は海の人間だ。わしの父親は甲板水夫として航海をすることがわしへの教育だと考えた。オールを漕ぐのはなんでもなかった。しゃくにさわったのは鞭でうたれることだった」
「一国の王子がほんとうに鞭で打たれたのか?」ヴァラナは信じられないように聞いた。
「うしろにいるとオール漕ぎの顔は見えにくいものさ」アンヘグは肩をすくめた。「漕ぎ手頭はもっとスピードをあげさせようとしていた。われわれはそのときトルネドラの商人を追いかけていたのだ。トルネドラの海域にその船を入れたくなかったのさ」
「アンヘグ!」ヴァラナが叫んだ。
「何年も前のことだよ、ヴァラナ。いまではトルネドラの船には干渉するなという命令を出している――すくなくとも目撃者のいる前ではな。要するに、グレルディクはたぶん正しいということだ。帆を全部あげたら、風がマストを根こそぎにするだろうし、あんたもわしもオールを漕ぐはめになる」
「ではバラクに追いつく見込みはあまりないのだな?」
「それはわからん。バラクはグレルディクほど腕のいい水夫ではないし、あのばかでかい風呂桶は、舵にたいする反応が鈍い。われわれは日毎に距離をちぢめている。バラクはマロリーへついたら、港ごとに立ち寄っていろいろなことを聞かねばならんだろう。おおかたのマロリー人はガリオンが歩いてきて目に唾をかけたとしても、それがガリオンだということに気づかんよ。だが、ケルダーは別だ。あのちびの泥棒はマロリーのほとんどの都市と町に仕事場をもっているのだ。バラクの考えることはわかっている。マロリーへついたら、やつはさっそくシルクを捜しはじめるだろう。シルクとガリオンが一緒なのはあきらかだからな。だが、シルクについて質問をする必要はない。わしがやらねばならんのは、二、三の町の港にたむろしている連中に〈海鳥〉号の説明をすること、それだけだ。エールを数杯も飲ませてやれば、バラクの行き先はたちどころにわかる。あいつがガリオンを見つけてなにもかもぶちこわしてしまわないうちに、追いつけるといいのだがね。あの目の見えない娘がバラクに一緒に行ってはならんなどと言わんでくれりゃよかったんだ。なにかをバラクにやらせるもっともてっとり早い方法は、それを禁じることなのさ。たとえバラクがガリオンに追いついても、ベルガラスがいればなんとかしてくれるだろう」
「バラクに追いついたとしても、どうやってかれを思いとどまらせる? かれの船はこれより遅いかもしれないが、あれだって大きいし、こちらより大勢乗っているぞ」
「グレルディクとわしとでそれはなんとかする」アンヘグは答えた。「船首よりの船倉にグレルディクが特殊な道具を入れてきたのだ。いまはこの船のへさきにボルトでとめてある。わしの命令にそむいてバラクがこっちへくるのを拒んだら、グレルディクがそのままバラクの船に突っこむ。船が沈んでしまってはバラクもそう速くは進めまい」
「アンヘグ、それはひどすぎるぞ!」
「バラクがやろうとしていることも似たようなものさ。あいつがガリオンのところへまんまとたどりついたりしたら、ザンドラマスが勝利をおさめ、われわれはトラク以上に始末の悪い人間にしいたげられたまま一生を終えるんだ。それを避けるために〈海鳥〉を沈めなくてはならんのだとしたら、わしは何十回でもやる」アンヘグはためいきをついた。「だが、あいつが溺れ死んだら、寂しくなるな」
ドラスニアのポレン王妃はその朝、諜報部長のケンドン辺境伯を私室へ呼び、明確な言葉使いで命令を発した。「ひとり残らずよ、ジャヴェリン」彼女は断固たる口調で言った。「きょう一日、宮殿のこの翼から密偵を全員しめだしてもらいたいの」
「ポレン!」ジャヴェリンはあっけにとられた。「そんなことは前代未聞です!」
「そうでもないわ。たったいま聞いたでしょう――わたしの口から。非公式の密偵たちも一掃するよう、部下たちに言ってちょうだい。一時間以内に、宮殿のこの翼を人っこひとりいない状態にしたいのよ。わたしにも専用の密偵たちがいるわ、ジャヴェリン。だからありきたりの隠れ場所はみんな知っているわよ。全員追いだして」
「あなたにはがっかりですよ、ポレン。君主は諜報部をこんなふうにあしらわないものです。これが部下たちの士気にどう影響するかおわかりですか?」
「はっきり言いますけどね、ケンドン、あなたの率いる筋金入りの密偵集団の士気など、このさい気にしていられないのよ。これはきわめて緊急の問題なの」
「わが諜報部があなたを失望させたことがありましたか、陛下?」ジャヴェリンの口調はいささか撫然としていた。
「二回あったと思うわ。熊神教は諜報部に潜入したんじゃなかったかしら? それにハルダー将軍のことで、あなたの部下はわたしに警告しないという救いがたい不始末をしでかしたじゃないの」
ジャヴェリンはためいきをついた。「わかりましたよ、ポレン、ときには二、三のささいなミスをしました」
「ハルダーが熊神教に寝がえったことを、ささいと表現するの?」
「やけに批判的でいらっしゃいますな、ポレン」
「この翼に人をいれないでちょうだい、ジャヴェリン。息子を呼ばせたいの? 王室にたいする密偵活動を今後永久に禁じるという声明書を作成しますよ」
「そんな!」ジャヴェリンの顔から血の気がひいた。「そんなことをしたら、諜報部全体が崩壊してしまいます。王室にたいする密偵活動権は、これまでずっと模範的任務に与えられる最高の報酬だったのですよ。部下のほとんどはそのチャンスにとびつくのです」ジャヴェリンはわずかに眉をよせて、つけくわえた。「もっとも、シルクはもう三回も断わっていますが」
「密偵たちを全員追いだして、ジャヴェリン――すぐ外の廊下のタペストリーのうしろの隠れ戸棚を忘れないように」
「どうやってあれ[#「あれ」に傍点]を見つけられたのです?」
「わたしではないの。じつはケヴァが見つけたのよ」
ジャヴェリンはうめいた。
それから数時間後、ポレンは息子のケヴァ王とともに辛抱強く居間にすわっていた。ケヴァは急速に大人になりつつあった。声はすでに決断力をひめたバリトンに落ちつき、頬には柔らかな髭が生えはじめていた。かれの母親は大多数の摂政とはまったく対照的に、国会や列強との交渉を少しずつ息子に経験させてきた。ポレンがそっとケヴァを前面に押しだして、権威者という望まぬ自分の地位から徐々にしりぞくことができるのも、そう先のことではなさそうだった。ケヴァはいい王になるとポレンは思っていた。父親がかつてそうであったように、ケヴァもじつに抜け目がなかったし、君主にもっとも必要な特質である良識にも恵まれていた。
居間のドアに重苦しいノックがあった。「はい?」ポレンが答えた。
「おれだよ、ポレン」厚かましい声が言った。「ヤーブレックだ」
「おはいりなさい、ヤーブレック。話しあうことがあるのよ」
ヤーブレックがドアを押しあけて、ヴェラと一緒に入ってきた。ポレンは嘆息した。ガール・オグ・ナドラクへ行っているあいだに、ヴェラは逆もどりしていた。ポレンがあんなに苦心して作り上げたうわべだけの身だしなみはすっかりはげ落ちていた。彼女の服装を見れば、以前のがさつで粗野な女にまたもどってしまったことはあきらかだ。
「この急ぎようはなんなんだよ、ポレン?」みすぼらしいフェルトの外套とよれよれの帽子を部屋の隅にほうりだしながら、ヤーブレックが不機嫌に言った。「あんたの使者はおれのとこへくるのに馬を殺しかけてたぜ」
「緊急の事態が持ち上がったのよ」ドラスニアの女王は答えた。「わたしたち全員に関係のあることだと思うの。でも、絶対に口外しないでもらいたいのよ」
「口外ね」ヤーブレックはあざけり半分に笑った。「あんたの宮殿じゃ秘密なんか存在しないのはわかってるだろうが、ポレン」
「こんどは存在するのよ」ポレンは自慢げに言った。「けさ、ジャヴェリンに宮殿のこの翼から密偵を残らず追いだすよう命令したの」
ヤーブレックはにやにやした。「やっこさん、どうした?」
「あいにく、気を悪くしたようだったわ」
「よしよし。あいつ、このごろちょいと自信過剰だったからな。よし、仕事にとりかかろうぜ。問題ってなんなんだ?」
「ちょっと待って。ドロスタがたくらんでいることをつきとめた?」
「あたりきよ。やつはザカーズとの仲直りをねらってるんだ。国務長官のマロリー人と交渉してたんだ――じかにじゃないがね。ブラドーって名前のやつだ。とにかくよ、ドロスタはマロリー人の密偵たちがガール・オグ・ナドラクを通って、西方へ潜入するのを見て見ぬフリをしてるんだ」
ポレンはヤーブレックのしゃべりかたからピンときた。「残らず話してちょうだい、ヤーブレック。まだしゃべっていないことがあるでしょう」
ヤーブレックはためいきをついて、こぼした。「だから利口な女と取引するのはいやなんだ。どういうわけか、どうも自然じゃないって気がする」そう言ってから抜け目なく、ヴェラの短剣にぶすりとやられないところまでとびすさった。「わかったよ」ヤーブレックはあきらめた。「ふたつ別々の戦線で戦っているんで、ザカーズには金がいるんだ、それも大金が。ドロスタはマロリーの絨緞の輸入税を削減した――すくなくともマル・ゼスに税金を払う商人たちにたいしてはな。そういうマロリー人たちがアレンドの市場でシルクやおれのもうけをぴんはねしてるんだ」
「その情報を利用するわけね?」
「当然だろ」ヤーブレックはちょっと考えた。「あんただってかなりのもうけになるチャンスだぜ。ドロスタはマロリー人にたいする輸入税を十五パーセントもカットしたんだ。だったらあんたは同じ率だけ税金をあげちまえばいい。そうすりゃあんただってもうかるし、シルクやおれもマロリーの商人に対抗できる」
「わたしをだまそうとしているようだけど、ヤーブレック」ポレンは疑わしげに言った。
「おれが?」
「そのことはあとで話しましょう。さ、ようく聞いてちょうだい。わたしがあなたを呼んだのは、こういうわけなの。バラクとマンドラレンとヘターとレルドリン、それにレルグが船でマロリーに向かっているのよ。確信があるわけではないけれど、ベルガリオンの探索に干渉するつもりだとわたしたちは考えているわ。あなたはレオンにいたことがあるし、ダラシアの女予言者がわたしたちになんと言ったか知っているでしょう。あのせっかちな連中にはなにがなんでも干渉させてはならないのよ」
「そりゃもっともだ」
「マロリーにいるあなたの手下連中にどのくらい早く手紙を届けられて?」
「二、三週間だな。最優先にすりゃ、もうちょい早いかもしれねえ」
「これは最優先も最優先の問題なのよ、ヤーブレック。アンヘグとヴァラナがバラクを追跡しているけれど、間にあうかどうかわからないわ。わたしたちとしてはバラクを遅らせなくてはならないし、それにはかれに誤った情報を与えるのが一番いい手段なのよ。マロリーにいる手下たちにバラクに嘘を言うよう指示してもらいたいの。ことあるごとにバラクを見当違いの方角へ行かせてちょうだい。バラクはケルダーの足跡をたどるつもりでしょうから、情報を求めてマロリー中のあなたの仕事場に顔を出すわ。ケルダーたち一行がマガ・レンやペン・ダカへ向かっているとしたら、マル・ダリヤへ向かっていると思わせるようにしてもらいたいの」
「そういう手順はわかってるって、ポレン」ヤーブレックは言った。かれは値踏みするように目を細めてポレンを見た。「このドラスニアでの権力をもうじき陛下に委ねるつもりなんだな?」
「ええ、数年のうちにね」
「マロリーのこの一件にケリがついたら、シルクとおれとであんたと長い話しあいをしたいと思ってるんだ」
「あら?」
「おれたちの組織のナンバー・スリーになるってのはどうだい――ボクトールでのあんたの義務が全部片づいてからってことだけどよ?」
「おほめにあずかって恐縮だわ、ヤーブレック。どうしてそんな提案をしたの?」
「あんたはえらく抜け目がないし、ありとあらゆるコネを持ってる。分け前なら五パーセントまで引き揚げる用意があるぜ」
「ぜんぜん問題にならないな、ヤーブレック」おどろいたことに、ケヴァ王が横から口をはさんだ。「最低二十パーセントはもらわないと」
「二十だ?」ヤーブレックの声は悲鳴に近かった。
「ぼくは母上の利益を守らなくてはならないんだ」ケヴァはものやわらかに言った。「母上はいつまでも若くはないし、晩年床磨きをしている母上など見たくない」
「そりゃおいはぎも同じだぜ、ケヴァ!」ヤーブレックの顔は真っ赤になっていた。
「きみののどにナイフをあてているわけじゃないさ、ヤーブレック。長い目で見れば、母上が独力で事業をはじめられれば、そのほうがほんとうはいいんだ。とてもうまくやれるはずだよ――とりわけ、王族全員がドラスニアの輸入税を免除されるという事実を考慮するとね」
「自分で自分の手を突き刺しちゃったんじゃないのかい、ヤーブレック」ヴェラがにんまりしながら言った。「どうせきょうはあんたにとってよくないニュースばっかりなんだから、ついでにあたしもひとつ言ってあげるよ。これが全部終わったら、あたしを売ってもらいたいんだ」
「売る? だれにだよ?」
「そのときになったら教えるさ」
「そいつは金を持ってるのか?」
「さあね、だけどそんなことはどうでもいいんだ。あんたの取り分はあたしが払ってやるさ」
「そんなことを言いだすとは、おまえ、そいつのことで頭が一杯なんだな」
「あんたには想像もつかないくらいさ、ヤーブレック。あたしはその男のために生まれてきたんだよ」
「われわれはここにとどまるようにと命令されたのだ、アテスカ」ブラドーは頑固に言い張った。
「それは以前のことで、こう音沙汰なしでは事情も変わってくる」アテスカ将軍はかれらが共有している大きな天幕の中を神経質に行ったりきたりしながら、言った。アテスカは軍服姿で、金をちりばめた鋼の胸当てをつけていた。「皇帝の安泰とご無事を守るのがわたしの義務なんだ」
「それはわたしだとて同じだよ」ブラドーは膝のあいだにうっとりと寝そべっている、だいぶ大きくなった子猫のふわふわしたおなかをうわの空でなでた。
「なるほど、だったらなにか手を打てばどうなんだ? もう何週間も皇帝からはなんの連絡もない。あなたの諜報網ですら皇帝の居どころをつきとめられないではないか」
「それはわかっている、アテスカ。だがね、きみが神経質になっている――あるいは退屈しているのか――という理由だけで、皇帝じきじきの命令にそむくつもりはない」
「では、ここにとどまって子猫たちの世話をしていればいい」アテスカはあてこすりを言った。「わたしは明朝、軍を移動させる」
「そんな皮肉を言われる筋合いはないぞ、アテスカ」
「悪かった、ブラドー。この長い音沙汰なしの状態に少しいらだっているんだ。つい失礼なことを言った」
「わたしもきみと同じくらい気にはなっている、アテスカ。しかしね、皇帝の命令に真っ向から反抗するという考えには、わたしの長年の訓練で培われた本能がこぞって反対するのだよ」ブラドーの膝のあいだの子猫が甘えてかれの指に鼻を押しつけた。「陛下がもどられたら、この子猫をいただいてもよいかとおたずねしようと思っているのだ。じっさい、日増しにこの猫が好きになってきたよ」
「好きになさることだ。毎年二、三匹の赤ん坊猫のもらい手捜しに苦労していれば、やっかいごとに巻きこまれずにすむかもしれない」鼻のつぶれた将軍は考えこむように片方の耳たぶをひっぱった。「妥協案はどうだろう?」とほのめかした。
「わたしはいつでも進んで耳をかたむけるぞ」
「ふむ。われわれはウルヴォンの軍の大部分が解散したことを知っている。ウルヴォンが死んだというかなり確かな証言もある」
「そうだな」
「ザンドラマスはダラシアの保護領に部隊を移動させた」
「わたしの部下たちがそう報告してきた」
「そしていま、われわれはふたりとも陛下の政府における上級官吏だ、そうだろう?」
「そうだ」
「だったら、われわれはわれわれ自身の主導権を行使して、マル・ゼスと相談せずに、戦場で発生する戦略上の状況を利用してもかまわないんじゃないか?」
「まあそうだな。だが、わたしはきみほど戦場経験がない」
「わたしの経験もごく平均的なものだ、ブラドー。よし、こういうことだ。ダーシヴァはほとんど無防備だ。そこで、新たにペルデインで渡河することを命令し、ダーシヴァ占領へ動いてはどうだろう。そうやって、ザンドラマスを支援基地から切り離してしまうんだ。ザンドラマスの援軍が引きかえそうとしたら、あの山脈のふもとづたいに大規模な抵抗線を敷いて、連中を撃退する。そうすれば、あのふたつの地域をまた帝国の支配下におけるだろう。われわれは勲章さえもらえるかもしれないぞ」
「そうなれば、陛下は喜ばれるだろうな」
「大喜びされるさ、ブラドー」
「しかし、ダーシヴァを占領することが陛下の居どころをつかむのにどう役立つのかまだのみこめないが」
「それはあなたが軍人ではないからさ。われわれは敵の跡を見失ってはならないんだ。この場合の敵とはダーシヴァ軍だ。こういう状況における平均的な軍事上の手順は、優秀な偵察隊を送りだして敵と接触させ、敵の兵力と意図を判断することだ。この偵察隊がたまたまその途中で陛下に出くわすことになったら、まあ――」アテスカはそのときはそのときと言うように両手を広げた。
「その偵察隊の指揮官にはよほど念入りに指示を与えておかんといかんな」ブラドーは用心深く指摘した。「未熟な中尉あたりだと、へどもどして、われわれが皇帝に知られたくないことまでべらべらしゃべってしまうかもしれん」
「わたしは優秀な偵察隊と言ったんだよ、ブラドー」アテスカは微笑した。「経験豊かな編成部隊はどうかと考えていたんだ。編成部隊は大佐によって指揮される。わたしの部下にはじつに頭の切れる大佐が大勢いるんだ」
ブラドーは友人にむかってにやりとした。「いつはじめるね?」
「明朝はなにか予定があったのか?」
「延期できない予定はひとつもない」ブラドーは答えた。
「だが、なんだってこうなることがわからなかったんだよ?」バラクは甲板長のドロラグを問いつめた。ふたりは突風まじりの横殴りの雨に髭をむしりとられんばかりにして、後甲板に立っていた。
ドロラグは片手でびしょぬれの顔をぬぐった。「これっぽちも感じなかったんですよ、バラク」かれは正直に言った。「この脚がおれをだましたことはこれまでただのいっぺんもなかったんだから」ドロラグは過去のあるときに片脚を折るという不運に見舞われたひとりだった――ドロラグの場合、それは居酒屋での喧嘩が原因だったが。骨がくっついてからまもなく、かれはその脚が天候の変化に異常に敏感であることを発見していた。ドロラグは気味が悪いほど正確に悪天候のきざしを予見することができた。だから、水夫仲間たちはいつもかれを注意深く観察した。ドロラグが歩くたびに顔をしかめると、かれらはさっそく嵐の到来を推測して水平線に目を向けたし、ドロラグが脚をひきずると、帆をちぢめて安全索の調整にとりかかったし、苦痛の叫びをあげて倒れようものなら、ただちにすべてのハッチを当て木でふさいで錨をおろし、下へおりた。ドロラグは一時の不自由を一生の宝にしていた。つねに最高の報酬を要求し、仕事らしい仕事をしなくてもだれも不満に思わなかった。だれからもよく観察できるように、ただ甲板をいったりきたりしていればよかったのだ。奇跡の脚のおかげで、すでに発生した嵐がいつ襲ってくるか、その正確な時刻まで、ある程度予見することさえできた。だが、こんどはちがった。〈海鳥〉の甲板に風と豪雨をもたらした嵐は、まったく不意にやってきた。ドロラグはその嵐の到来にみんなと同じくらいおどろいていた。
「酔っぱらったあげくにころんでまた脚を折ったんじゃないのか?」バラクは疑わしげに問いつめた。かれは人間の身体構造についてはほとんどなにも知らなかった。斧や剣で相手のどの部分を一撃すれば、望ましい結果――たいていは致命的な――を得られるかということ以外は。赤髭の大男は、もしドロラグが脚を折ったことで天候が読めるようになったのなら、二度折ればもっとよく読めるようになるのではあるまいかと、ぼんやり考えた。
「まさか、冗談じゃないですよ、バラク」ドロラグは気を悪くしたように言った。「まずいエール二、三杯のために、一生を危うくするようなまねはしませんや」
「じゃ、どうして嵐に気づかなかったんだよ?」
「わかりません、バラク。自然の嵐じゃないのかもしれませんぜ。どっかの魔法使いが呼びよせたってこともある。そういうことだったら、おれの脚が反応するかどうかわからないからね」
「いつだって言いわけをするのは簡単なもんだ」バラクはあざけった。「無知な人間は説明できないことがあると、かならず魔法のせいにしやがる」
「そういうことを言われたんじゃ、ひっこんじゃいられねえ」ドロラグはカッとなって言った。「自分の面倒は自分で見られるが、超自然現象はおれの責任じゃないやね」
「下へおりろ、ドロラグ」バラクは命じた。「脚ととことん話しあって、もっとましな言いわけを思いつけるかどうかやってみるんだな」
ドロラグはぶつくさ言いながら、揺れる甲板を脚をひきずって歩き去った。
バラクは不機嫌だった。あらゆるものがかれを遅らせようと陰謀をたくらんでいるように思えた。かれとその仲間がアガチャクのいまわしい死を目撃してからまもなく、〈海鳥〉は海中に沈んでいた丸太にぶつかって、継目がゆがんでしまっていた。継目から流れこんだ水を懸命にかきだすことで、ようやくダル・ゼルバまで下流に向かって船をのろのろ進ませ、修繕のために砂州まで押し上げた。その雑用のおかげで、かれらは二週間の遅れをとっていた。そこへこの嵐がどこからともなく襲いかかり、さらに遅れてしまったのだ。そのとき、ウンラクが鈍い顔つきのタールの王を従えて、下からあがってきた。真っ赤な髪を風にくしゃくしゃにされながら、ウンラクはあたりを見まわした。「おさまってきたんじゃないか、とうさん?」
「そうでもない」
「ヘターが話があるんだって」
「おれはこのでかいあばれものの舵をとらなけりゃならん」
「航海士にやらせればいいよ、とうさん。船首を風にずっと向けてればいいんだ。ヘターが例の地図を調べていたんだけど、このままだと危険らしいんだ」
「このちっぽけな嵐のせいでか? ばかを言うんじゃない」
「〈海鳥〉の船底は岩にぶつかっても壊れない?」
「深い水の中でならな」
「すぐにすむ話だと思うよ。ちょっと下へきてよ、とうさん。ヘターに見せてもらうといいよ」
バラクはぶつぶつ言いながら舵輪を一等航海士にまかせて、息子のあとから甲板昇降口の階段へ向かった。タールの王のナセルは無関心な顔でふたりのあとに従った。ナセルはウンラクよりちょっと年上だったが、道に迷った子犬みたいにバラクの赤毛の息子にくっついていた。ウンラクはそのわずらわしい連れにあまり丁重ではなかったが。
「どうしたんだ、ヘター?」バラクは狭苦しい船室に入っていくなり、友だちを問いつめた。
「こっちへきて、これを見ろ」長身のアルガー人は言った。
バラクはボルトで留めたテーブルに近づいて地図を見おろした。
「われわれはきのうの朝、ダル・ゼルバを出発した、そうだな?」
「そうだ。だれかがあの川の中になにがあるか注意を払っていたら、もっと早く出発した。きのう船首で見張りに立っていたのがどいつかわかったら、船底くぐりにかけてやる」
「船底くぐりとはなんだ?」ナセルがウンラクにきいた。
「すごくこわいことさ」赤毛の少年は答えた。
「では、だまっていてくれればよかった。わがはいはこわいことは好きではない」
「仰せのとおりに、陛下」ウンラクにも礼儀はあった。
「ただナセルと呼んでくれないか?」タール人は懇願するように言った。「どうせわがはいはほんとうは王ではない。決定はみんな母上がしているのだ」
「あんたの好きなようにしてあげるよ、ナセル」ウンラクは同情的に言った。
「きのうからどのくらい進んだと思う?」ヘターがバラクにたずねた。
「そうだな、二十リーグってところだろう。とんでもない水域にいたせいで、夜っぴいて船を動かさなけりゃならなかったからな」
「そうすると、いまはこのあたりだろう?」ヘターが地図の上の不吉なしるしを指さした。
「その珊瑚礁の近くにはきてないぜ、ヘター。河口のあの入り江を出てからすぐにおれたちは南東へ向かったんだからな」
「しかし南東へはきていなかったんだよ、バラク。マロリーの西部沿岸づたいに潮流があるらしいんだ。それも相当強力なやつが。何度か調べてみたんだ。船首は南東に向けられていても〈海鳥〉はその潮流のせいでほぼ真南へ流されている」
「いつからそんなに船にくわしくなったんだよ?」
「くわしくなる必要はないのさ、バラク。木の棒を右舷側に投げてみろよ。この船は数分とたたないうちにその棒に追いつく。船首がどっちへ向けられていようと、われわれはまちがいなく南へ流れているんだ。一時間もすれば、あの珊瑚礁に砕ける波音が聞こえてくると思う」
「われらが友が真実を語っていることはせっしゃが保証いたしますぞ、トレルハイム閣下」マンドラレンが断言した。「せっしゃ自身、その棒の実験を目撃したのでござる。まさしく、われわれは南へ向かっております」
「どうすればいいんだよ?」レルドリンがいささか不安げにたずねた。
バラクはむっつりと地図を見つめた。「しかたがない。この嵐の中をもどることは不可能だ。錨をふたつともおろして、船を停止させてくれる海底にぶつかることを祈るだけだな。それからじっと嵐が過ぎるのを待つ。その珊瑚礁だが、なんて名前だ、ヘター?」
「トゥリムだ」アルガー人は答えた。
[#改ページ]
3
世界中の船室というものがほとんどそうであるように、クレスカ船長の船室も天井が低く、黒ずんだ梁《はり》が頭上を走っていた。家具はボルトで床に留められ、梁からさがったオイル・ランプが、〈東の海〉からの白波に揺れる錨をおろした船の動きにつれて、ゆらゆらと揺れていた。ガリオンは海が好きだった。深い海には静寂と、解放感があった。陸にいると、人ごみが気になることばかりをささやきかけてきて、その中を自分がつぎつぎとせっかちに移動しているような気がする。だが、海ではなにものにも邪魔されずにひとりで考える時間があった。それに辛抱強く寄せてはかえす波も、ゆるやかな空の動きも、思考を長く深くさせてくれる。
一行の夕食は質素だった。心のこもった豆のスープと厚切りの味わい豊かな黒パン、それだけだ。かれらは食事がすむと簡素なテーブルを囲んでベンチに腰かけ、雑談しながら船長の到着を待った。船長は船の安全を確認しだいやってくる約束になっていた。
だいぶ成長した子狼がセ・ネドラのそばのテーブルの下に寝そべっていた。わざとらしい懇願の色を目に浮かべている。セ・ネドラはだれも見ていないと判断すると、狼にちょっぴり食べ物をわけてやった。なんといっても、狼というのは抜け目がない。
「波が荒くなっているようだな」ザカーズが首をかしげて珊瑚礁の岩に砕けるやかましい波音に耳をすました。「上陸するのはやっかいなことになりそうだ」
「それはどうかな」ベルガラスが言った。「この嵐はおそらく地球ができあがった日から発生することを義務づけられていたのだ。わしらの邪魔をすることはなかろう」
「ちょいと運命論づいているんじゃないのか、ベルガラス?」ベルディンが言った。「それもいささか自信過剰の運命論だぜ」
「わしはそうは思わん。ふたつの予言はこの対決を起こさねばならんのだ。時のはじまりのころより、予言はこの場所を念頭においていたのだ。ここにいる予定である者の到着を、ふたつの予言が妨害させるわけがない」
「じゃ、なんだってこんな嵐を引き起こしてるんだよ?」
「この嵐はわしらの――あるいはザンドラマスの――足をひっぱるために意図されたものではないのだ」
「じゃなにが目的なんだ?」
「おそらく遠ざけておきたい連中がほかにいるのだろう。あす、あの珊瑚礁にいることになっているのは、ある特定の人間だけなのだからな。わしらの務めが完了するまで、予言は何者をも珊瑚礁に足を踏み入れさせんつもりなのだ」
ガリオンはシラディスを見た。目隠しをした娘の顔は穏やかで、静謐でさえあった。顔の上半分をおおう布のせいで、いつもながら顔は一部しか見えない。しかし、ガリオンはふいに彼女が絶世の美人であることに気づいた。「すると、ちょっとおもしろいことになるね、おじいさん」ガリオンは言った。「シラディス、〈闇の子〉はいつもひとりだったと言わなかったかい? つまり、あしたザンドラマスはひとりでぼくたちと対決しなければならないということじゃないか?」
「そなたは勘違いしている、リヴァのベルガリオン。そなたもそなたの仲間もこの世のはじまりから、星に名前を大書されているのじゃ。しかしながら、〈闇の子〉に同行する者たちはいささかも重要ではない。かれらの名前は天の書には書かれておらぬ。闇の予言において重要な使者となるのはザンドラマスだけなのじゃ。彼女が連れてくる他の者たちは、あきらかに彼女が適当に選んだのであって、その数はそなたたちの数に見合うように限られている」
「だったら、公平な戦いだわ」ヴェルヴェットが納得したようにつぶやいた。「たぶん互角の戦いになるわね」
「だがおれにとってはあまり縁起がよくない」ベルディンが言った。「レオンで、おまえさんはガリオンと一緒にここへくる予定の人間を注意深く羅列《られつ》しただろう。おれの記憶じゃ、おれの名前はリストになかったぜ。予言はおれに招待状を送るのを忘れたんだと思うか?」
「いいえ、やさしいベルディン。そなたの存在はいまは欠くことができぬ。ザンドラマスは家来の中に予言とは無縁の者を連れている。そなたはその人間を相手にするのじゃ、数の上では」
「ザンドラマスは相手をだまさないと、ゲームをすることもできないのか?」シルクが言った。
「あなたはできるの?」とヴェルヴェット。
「それは話がちがう。おれはくだらん金のためにゲームをしているにすぎないんだ――どうでもいい金属のために。このゲームの賭金のほうが何倍も高い」
船室のドアが開いて、クレスカ船長が羊皮紙の巻き物をいくつかかかえて入ってきた。いまは上着を脱いで、タールのしみがついたキャンバス地のうわっぱりを着ている。帽子はかぶっていない。ガリオンは船長の刈りこんだ髪がベルガラスのそれと同じ銀色であるのに気づいた。褐色に日焼けした丈夫そうな顔と、びっくりするほど対照的な髪だ。「嵐はしずまってきたようだ」船長は報告した。「すくなくとも珊瑚礁のまわりではね。こんな嵐にお目にかかったのははじめてだ」
「はじめてじゃなかったら、こっちがおどろくよ、船長」ベルディンが言った。「おれたちに判断できるかぎり、これはこの種のやつとしては最初の――そしてたぶん最後の――嵐なんだ」
「それはちがう」クレスカ船長は反論した。「嵐としちゃあ、別段めずらしいものじゃない」
「ほっとけ」ベルガラスが小声でベルディンに言った。「かれはメルセネ人だ。こういうことには慣れてない」
「それでは、と」船長はかれらのスープ皿をおしやって、テーブルに地図を載せた。「われわれがいるのはここだ」と指さした。「で、珊瑚礁のどのあたりに上陸するつもりだね?」
「一番高い岩の峰だ」ベルガラスが言った。
クレスカはためいきをついた。「そんなことだろうと思ってた。おれの海図だと珊瑚礁のその部分はあまり正確じゃない。そのあたりの水深を計ろうとすると、どこからともなくスコールがやってきて、逃げだすはめになったんでね」船長はちょっと考えてから、こう結論づけた。「いいだろう、目的地点から半マイルばかりのところで船をとめて、大型艇に乗っていきゃいい。しかし、珊瑚礁のそのあたりについては知っておいたほうがいいことがありますぜ」
「ほう?」とベルガラス。
「あそこにゃ人がいるらしいんで」
「そんなはずはないと思うがね」
「火を起こす動物といや、人間以外におれは知らないがね。あの珊瑚礁にある岩の峰の北側には洞窟があるんだが、もう何年も前からその入口から火あかりが洩れているのを大勢の船乗りたちが見ているんでさ。おれの推測だと、海賊の一味があそこに住んでいるんじゃないのかね。闇夜に小型艇で洞窟から出て、珊瑚礁の陸側の海峡で商人たちを待ち伏せするのは、海賊たちにとってそうむずかしいことじゃない」
「いまわれわれのいるところから、その火は見えるのか?」ガリオンはきいた。
「たぶんね。上へあがって見てみましょうや」
女たちとサディ、トスが船室に残り、ガリオンたち仲間はクレスカ船長のあとから甲板昇降口の階段をのぼって甲板に出た。乗組員たちが錨をおろしたときは、索具をちぎらんばかりに吹いていた風はいつしかやんで、珊瑚礁に打ち寄せる波ももう白く泡だってはいなかった。
「あそこだよ」クレスカが指さした。「この角度からだとあまりよく見えないが、わかるだろう。洞窟の入口の正面から見ると、ほんとうにあかるくてね」
ガリオンは海から突きでたばかでかい峰の斜面をわずかに登ったあたりに、黒ずんだ赤い輝きをぼんやりと見ることができた。珊瑚礁にある他の岩はほとんど細い尖塔のように見えるが、中央のその峰だけはちがう形をしていた。なぜかガリオンはそれを見て、ウルゴ国の遠く離れたプロルグの遺跡である、先端を切り落としたような山を思いだした。
「あの山のてっぺんがどうしてあんな具合いに切り取られたのか、だれも満足のいく説明をしてくれたことがないんだ」クレスカは言った。
「たぶん話せば長くなるんだろうよ」シルクが言った。小男はふるえていた。「やっぱりここは寒いや。下へまたおりないか?」
ガリオンは歩調を落としてベルガラスと並んだ。「あのあかりはなんのせいだろう、おじいさん?」ガリオンは低い声でたずねた。
「わしにもよくわからん。しかし、サルディオンではないかと思う。あの洞窟にサルディオンがあるのはわかっておる」
「そうなの?」
「もちろんだ。対決のとき、〈珠〉とサルディオンはおまえとザンドラマスが対峙するように、対峙しなければならんのだ。サルディオンを盗んだあのメルセネの学者――センジがわしらに話してくれた学者――はガンダハールの南端を船でまわって、この海域で行方不明になった。単なる偶然にしてはできすぎている。サルディオンが学者をあやつっていたのだ。学者はあの石が行きたがっていた正確な場所ヘサルディオンを運んだのだよ。サルディオンはかれこれもう五百年もあの洞窟でわしらを待っているのだ」
ガリオンは肩ごしにうしろを見た。剣の柄《つか》には革の袋がかぶせられていたが、もし反応していれば、〈珠〉の静かな輝きが見えるのは絶対に確かだった。「〈珠〉はつねにサルディオンの存在に反応するんじゃないのかい?」
「まだ距離がありすぎるのかもしれん。わしらはまだ海の上だからな。広々とした海原は〈珠〉を混乱させるのだ。ことによると、〈珠〉がサルディオンから隠れようとしているのかもしれん」
「そんな複雑なことをじっさいに〈珠〉が考えられるのかい? ぼくの気づいたところだと、ふだんの〈珠〉はひどく子供っぽいんだよ」
「〈珠〉を見くびってはいかんぞ、ガリオン」
「じゃあ、すべてつじつまがあうわけだな?」
「そうでなくてはならんのだ、ガリオン。そうでなかったら、あす起きるはずのことが起きなくなる」
「どうだったの、おとうさん?」かれらが船室にふたたび入っていくと、ポルガラがたずねた。
「たしかにあの洞窟になんらかの火がある」ベルガラスは言った。しかし、かれの指は他のことをポルガラに伝えていた――(それについては、船長がいなくなってからもっとくわしく話す)――ベルガラスはクレスカのほうを向いた。「つぎの干潮はいつだね?」
クレスカは目をすがめて計算した。「いま終わったところだな。これから潮が満ちてくる。つぎの干潮は夜明けごろだろう。おれの観察が正しければ、大潮になるはずだ。さてと、おれは上へ行くからみなさんはそろそろ休んだほうがいい。あしたは大変な一日になるみたいだからね」
「ありがとう、クレスカ船長」ガリオンは船乗りの手を握った。
「それは言いっこなしだよ、ガリオン」クレスカはにやりとした。「ペリヴォーの王さまはこの航海のためにたっぷり報酬をはずんでくれたんだ。お安い御用さ」
「なるほど」ガリオンはにやりと笑いかえした。「友人の懐具合いが豊かになるのを見るのはいいものだ」
船長は声をたてて笑うと、酔ったような足取りで立ち去った。
「かれがしゃべっていたのはなんのことです?」サディがたずねた。「大潮ってなんですか?」
「月に二回しか起きないものでな」ベルガラスが説明した。「干満の差の極端なやつだ。太陽と月の位置に関係があるのさ」
「明日をきわだって特別な日にするために、すべてが通常とちがっているみたいだな」シルクがひとりごちた。
「それで、おとうさん」ポルガラがきびきびと言った。「あの洞窟の火はどうだったの?」
「確実というわけじゃないが、海賊の一味ではないとわしは思うね、ポル――予言があらゆる努力をはらって人間をあの洞窟に近づけまいとしてきたことを考えるとな」
「じゃ、なんだと思うの?」
「おそらくサルディオンだろう」
「サルディオンは赤い輝きを放つのかしら?」
老人は肩をすくめた。「〈珠〉は青く輝く。サルディオンが別の色に輝いてもおかしくはあるまい」
「なんで緑じゃないんです?」シルクがきいた。
「緑は中間的な色彩なんだよ」ベルディンが言った。「青と黄色を混ぜると緑になる」
「あんたは役に立たない情報の宝庫なんだな。それを知ってたかい、ベルディン?」シルクは言った。
「役に立たない情報なんかひとつもないぜ、ケルダー」ベルディンは鼻であしらった。
ザカーズが言った。「それで、われわれはどうするのだ?」
「シラディス」ベルガラスは女予言者に言った。「ずっと考えているんだが、どうも行き詰まってしまう。だれもあの洞窟にはたどりつかんのではないか? つまりだな、予言はわしらより先にザンドラマスをあそこへ行かせるつもりはないし、かといって、われわれを先に行かせるつもりもないのだ」
「おどろいたな」ベルディンはつぶやいた。「そりゃまさしくほんものの論理みたいに聞こえるぜ。おまえ、気分でも悪いのか、ベルガラス」
「ほっといてくれ」ベルガラスは噛みつくように言った。「どうなんだ、シラディス?」
シラディスはためらい、放心したような表情になった。ガリオンはコーラスに似たかすかなつぶやきを聞いたように思った。「そなたの推理は正しい、長老どの。しばらく前、ザンドラマスも同じことを考えた。したがってわたしはザンドラマスが知らないことをそなたに教えるわけにいかぬ。しかしながら、ザンドラマスはみずからの推理の結果を拒み、その結論の裏をかくことにきゅうきゅうとした」
するとザカーズが言った。「なるほど、すると、われわれ全員が同時にあそこへたどりつくのだ。だれもがそれを知っているのだから、遠慮していてもしかたがない、そうだろう? いいから浜へおりて、まっすぐその洞窟へ行こう」
「あんたとぼくが鎧兜をつけるあいだだけ待ってからな」ガリオンがつけくわえた。「この船の上で武装するのは賢明じゃないだろう。クレスカを神経質にさせるかもしれない」
「いい計画だと思うよ、ザカーズ」ダーニクが同意した。
「おれはそうでもないな」シルクは疑わしげだった。「こっそり行くほうが有利だ」
「ドラスニア人らしいわ」セ・ネドラがためいきをついた。
「聞き流す前にかれの理由も聞いたらどうかしら、セ・ネドラ」ヴェルヴェットがほのめかした。
「こういうことなんだよ」シルクはつづけた。「ザンドラマスは自分が先にあの洞窟に行けないことをようく知っている。それでも、何ヵ月ものあいだルールの裏をかく方法がないものかとようすをうかがっていた。だから、おれたちもそういうふうに考えてみようじゃないか」
「毒を飲むほうがましだわ」セ・ネドラが身ぶるいした。
「これは敵を理解するための単なる手段だよ、セ・ネドラ。さて、ザンドラマスはおれたちより先にあの洞窟にたどりつき、ガリオンに出くわす必要性を避けようと見込みのない希望をいだいている。なんてったって、ガリオンはトラクを殺したんだからな、正気の人間ならだれだって〈神をほふる者〉と喜んで対決するわけがない」
「リヴァへ帰るときは、それはぼくの称号から取り除くつもりだ」ガリオンは気むずかしげに言った。
「それはあとでもできるさ」とシルク。「ザンドラマスは洞窟の入口に着いてあたりを見まわし、おれたちがいないとわかったら、どんな気持ちになるだろう?」
「あなたの考えていることがわかってきましたよ、ケルダー」サディが感心したように言った。
「あんたならわかるだろうな」ザカーズがそっけなく言った。
「じつにすばらしい考えですよ、カル・ザカーズ」宦官は言った。「ザンドラマスは欣喜雀躍するでしょう。予言を出しぬいて、自分が勝ったんだと思いこむでしょう」
「そのあとおれたち全員が岩陰から出ていき、ザンドラマスがやっぱりガリオンと対決しなけりゃならず、シラディスの選択に従わなきゃならないと悟ったとき、彼女はどうなる?」
「たぶん激しい失望感を味わうわね」ヴェルヴェットが言った。
「失望という表現じゃ穏やかすぎると思うぜ」シルクは言った。「無念、のほうが近いね。それに焦りと健全な一服の恐怖を足してみろよ、おれたちが目にするのは頭の回転が鈍った人物だ。それにひきかえ、おれたちは洞窟についたら戦いがあることを確信している。敵の将軍がおたおたしてたら、勝ち目があるのはこっちにきまってる」
「戦略上はもっともな推理だな、シルク」ザカーズが認めた。
「同感だ」ベルガラスが言った。「他になにもなければ、ザンドラマスにこれまで裏をかかれたおかえしをするいいチャンスになる。『アシャバの神託』の数ページを破り取ったことで、わしはいまだにあの女に恨みがあるのだ。明日の朝早くクレスカ船長と話をして、問題の峰の東側に浜があるかどうかつぎとめるとしよう。大潮なら、わしらのチャンスは大きいはずだ。浜の存在をつきとめたら、洞窟の入口近くに身を潜めて、ザンドラマスがあらわれるのを待つ。それから出ていって、びっくりさせてやるのだ」
「おれがおまえらの立場をもっと有利にしてやるよ」ベルディンが言った。「上空を偵察して、ザンドラマスが上陸したら知らせる。そうすりゃ、覚悟ができるだろう」
「でも鷹はだめよ、おじさん」ポルガラが言った。
「なんで?」
「ザンドラマスはばかじゃないわ。鷹に珊瑚礁は不似合いよ。鷹のえさなんてどこにもないでしょう」
「嵐が鷹を沖合いへ吹き飛ばしたんだと思うかもしれんだろ」
「しっぽの羽根を危険にさらしたいの? 鴎がいいわ、おじさん」
「鴎だ?」ベルディンは不満たらたらだった。「しかし、あいつらは低能だ――おまけにえらく不潔なんだぜ」
「あんたがそれを言うのかい? 不潔なのがいやだって?」シルクが顔をあげてたずねた。シルクはさっきから忙しそうに指折りなにかを数えていた。
「でしゃばるなよ、ケルダー」ベルディンが不吉なうなり声をあげた。
「ゲラン王子が生まれたのはあの月の何日だった?」シルクはセ・ネドラにたずねた。
「七日よ、どうして?」
「明日をきわめて特別な日にする要素がここにもうひとつあるようだぞ。おれの勘定があってれば、明日はゲランの二度目の誕生日だ」
「まさか!」セ・ネドラは叫んだ。「わたしの赤ちゃんは冬に生まれたのよ」
「セ・ネドラ」ガリオンはそっと言った。「リヴァは世界の最北に近い位置にあるんだ。この珊瑚礁は最南に近い。リヴァはいまは冬なんだよ。ゲランが生まれてからの月を数えてごらん――ザンドラマスに奪われるまでゲランがぼくたちと一緒だった時間、ぼくたちがレオンへ侵攻した時間、プロルグまで行き、そこからトル・ホネスへ、ニーサへ、他にもぼくたちが立ち寄らなくてはならなかったすべての場所を思い浮かべてごらん。正しく計算したら、それがほぼ二年の歳月になることがわかるはずだ」
セ・ネドラは不審そうに指折り月を数えていった。最後までくると、目が大きく見開かれた。「ほんとだわ! ゲランは明日で二つになるんだわ!」
ダーニクが小さな女王の腕に手を置いた。「きみからのプレゼントとして、なにか作れるかどうかやってみるよ、セ・ネドラ」とやさしく言った。「こんなに長いあいだ両親から引き離されていたんだから、坊やは誕生プレゼントをもらうべきだ」
セ・ネドラの目に涙があふれた。「おお、ダーニク」彼女は泣きながらかれを抱きしめた。「なにもかも考えてくださるのね」
ガリオンはポルおばさんを見て、わずかに指を動かした。(女性たちでセ・ネドラを連れていって、寝かせてくれないかな? ようやくここまできたんだ、このことを考えすぎると、セ・ネドラは神経がまいってしまう。いずれにせよ、あしたは彼女にとって相当つらい日になるだろうし)
(あなたの言うとおりかもしれないわ)
女性たちが立ち去ったあと、ガリオンたち男はボルトで留めたテーブルを囲んですわり、追想にふけった。ずっと昔のあの風の強い夜、ガリオン、ベルガラス、ポルおばさん、そしてダーニクがファルドー農園の門から忍びでて、可能と不可能が混然一体となった世界へ踏みだしたとき以来、経験してきた数々の冒険を、かれらはことこまかに語りあった。ガリオンはふたたび他のなにかと一体になったような浄化作用を感じた。闇の中に横たわる珊瑚礁にたどりつくまでの長い旅の途中で起きたすべての出来事を再現することによって、みんなで一切を一点に集中させ、決意と目的意識を強めているように思えた。そうすることがなぜか役に立つ気がした。
「このくらいにしておこう」とうとうベルガラスが立ちあがりながら言った。「わしらの通ってきた跡になにがあるかはもうみんなわかっている。そろそろなにもかもどこかへしまいこんで、前を見るときだ。少し眠ろう」
ガリオンがそっとベッドにはいると、セ・ネドラが落ちつかなげに身じろぎした。「一晩中起きてるつもりかと思ったわ」彼女は眠そうに言った。
「話しあっていたんだ」
「知ってるわ。ここにいても、低い話し声が聞こえたもの。男の人って、女はいつもいつもおしゃべりしてると思ってるんでしょう」
「ちがうのか?」
「まあそうね。でも女がおしゃべりするのは手がふさがっているあいだなの。男の人はちがうわ」
「そうかもしれないな」
しばらく沈黙があった。「ガリオン」
「なんだ、セ・ネドラ?」
「あなたのナイフを借りてもいい――あなたが子供だったとき、ダーニクからもらった小さな短剣を」
「なにかを切りたいなら、教えてくれ。ぼくが切ってあげよう」
「そういうことじゃないのよ、ガリオン。あしたナイフを持っていたいの」
「なんのために?」
「ザンドラマスを見たら、その場で彼女を殺してやるの」
「セ・ネドラ!」
「わたしにはザンドラマスを殺す権利がそろってるのよ、ガリオン。あなたはシラディスに、ザンドラマスは女だから自分には殺せないと言ったでしょう。わたしにはあなたのようなためらいはないわ。心臓だってえぐりだしてやる――あの女に心臓があるなら――じわじわとね」セ・ネドラはガリオンがこれまで聞いたこともないような激しさをこめてそう言った。「わたしは血がほしいのよ、ガリオン! たくさんの血が。そして突き刺したナイフをひねるとき、あの女が悲鳴をあげるのを聞きたいの。短剣を貸してくれるでしょう?」
「絶対にだめだ!」
「それならけっこうよ、ガリオン」セ・ネドラはひややかな口調で言った。「きっとリセルが貸してくれるわ。リセルは女ですもの、わたしの気持ちをわかってくれるわ」それだけ言うと、セ・ネドラはガリオンに背を向けた。
「セ・ネドラ」ガリオンはなだめるように言った。
「なんなの?」すねた口調だった。
「無茶を言わないでくれよ、ディア」
「無茶を言いたいんじゃないわ。わたしはザンドラマスを殺したいのよ」
「きみをそんな危険にさらすつもりはないよ。あした、ぼくたちにはやらなくちゃならないもっと重要なことがたくさんあるんだ」
セ・ネドラはためいきをついた。「そのとおりかもしれないわね、ただ――」
「ただなんだい?」
セ・ネドラは向きなおると、ガリオンの首に両腕を巻きつけた。「なんでもないの、ガリオン。もう眠りましょう」ガリオンの胸に寄り添ったかとおもうと、まもなく規則正しい寝息が聞こえてきて、セ・ネドラが眠りに落ちたことがわかった。
(ナイフを与えるべきだったな)ガリオンの心の中の声が言った。(どうせ明日シルクがこっそり取りかえしてくれただろう)
(しかし――)
(話しあうことがあるのだ、ガリオン。後継者について考えたか?)
(ええ――まあ。しかし、仲間のだれもふさわしくないんですよ)
(ひとりひとりについて、まじめに考えたのか?)
(はい、でもまだ結論が出せないんです)
(まだおまえは選択をすることになっておらんのだ。おまえがやるべきことは、かれらのひとりひとりについて考慮し、かれらを意識にしっかりと植えつけること、それだけだ)
(じゃあ、いつ選択するんです?)
(ぎりぎり最後の瞬間にだ、ガリオン。ザンドラマスはおまえの思考を聞き取ることができるかもしれん。しかし、おまえがまだ決めていないことは聞きようがないだろう)
(もしぼくがへまをしたらどうなるんです?)
(おまえにへまができるとはわたしはまったく思っておらんよ、ガリオン。まったくな)
その晩ガリオンはよく眠れなかった。見る夢はどれも混沌として、脈絡がなく、何度も目覚めては安らぎのない浅い眠りに落ちた。はじめは、その昔〈風の島〉で人生が取りかえしのつかない変化をとげてしまう直前に見た、ひどく不安で奇怪な夢をもっとゆがめたものが繰りかえしあらわれた。「覚悟はいいか?」という問いかけが、意識の天井に何度もこだました。そうかと思うと、少年時代の友人を殺しなさいというポルおばさんのそっけない指示が心の中で荒れ狂っているまま、ふたたびランドリグと向きあっていた。そのあとは、ヴァル・アローン郊外の、雪深い森で出くわしたあの熊がいて、怒りと憎悪を目にたぎらせ、雪を爪でひっかいていた。「覚悟はいいか?」バラクが獣を放す前にそうたずねた。それからいつの間にか、色彩のない平原に立っていて、理解できないゲームの駒に周囲を囲まれており、心の中の声に早くしろとせきたてられながら、その駒を動かすべきか決断しようとしていた。
夢はそれとなく変化して、異なる雰囲気になった。夢というのはどんなに不気味であっても、見る者の意識によって形成されるからどことなく親しみがある。ところがガリオンの夢は、クトル・ミシュラクでの対決前にトラクが夢や思考に侵入してきたのとほとんど同じように、まったくガリオンのあずかり知らぬ意識によって形成されているように思えた。
またしてもガリオンは土の肥沃な〈ドリュアドの森〉でマーゴ人アシャラクと向きあっていて、またもあの一度だけの平手打ちと「燃えてしまえ」という運命の一言とともに意識を解き放った。これはなじみのある悪夢だった。何年もガリオンの眠りにつきまとっていた夢だった。アガチャクの頬が火ぶくれになり、いぶりはじめるのが見えた。グロリムが絶叫し、焼ける顔をかきむしるのが見えた。心臓がえぐられるような嘆願の声、「師よ、お慈悲を!」が聞こえた。その嘆願をはねつけて、かれは炎を強めたが、今回はその夢にいつもつきまとう自己嫌悪はなく、敵が目の前で身悶え、焼けていくのを残忍な興奮と喜びを持って眺めているだけだった。ガリオンの意識の奥底で、なにかが叫んでその冒涜的な喜びを拒もうとした。
そのあと、かれはクトル・ミシュラクにいて、片目の神の身体に何度も燃える剣を突き刺していた。トラクの「母上!」という絶望の叫びも、こんどは哀れみではなく、ふくれあがる満足感でガリオンを満たした。自分が笑っているのがわかった。冷酷無情な笑いがかれの人間性を抹殺した。
ガリオンはすくみあがって声のない恐怖の叫びをあげた。自分の殺した者たちのおぞましい姿にひるんだのではなく、かれらの絶望的苦悩をあざ笑う自分の気持ちにひるんだのだった。
[#改ページ]
4
翌朝の夜明け前、主船室に集まったときのかれらは陰鬱な一団だった。ガリオンはふいにおどろくべき洞察力で、悪夢にうなされたのが自分ひとりではなかったことを確信した。洞察とか直感的な理解力は、普段のガリオンとはあまり縁がなかった。堅実なセンダリア人気質がそういうことを疑わしいばかりか、ある特別な意味で、不道徳なこととして受け入れなかったからだ。(あなたがしたんですか?)ガリオンは声にたずねた。
(いや。おどろくべきことだが、すべておまえが独力で見抜いたのだ。かなりおまえも進歩しているようだな――むろん、ゆっくりとではあるが、進歩であることに変わりはない)
(ほめてもらって恐縮ですよ)
(それは言うな)
シルクは船室に入ってきたとき妙にうろたえて見えた。目は焦点が定まらず、手はわなわなとふるえている。小男はベンチにがっくりとすわりこむと、両手に顔を埋めた。「あのエール、ちょっとは残ってるかい?」かれはしわがれ声でベルディンにきいた。
「けさはちょいとびびってるのか、ケルダー?」ちびの魔術師はたずねた。
「そうじゃないさ。シルクはこれから起きることを考えているんじゃないんだ。ゆうべいやな夢を見たんだよ」
シルクがさっと顔をあげた。「なんでわかった?」
「ぼくも見たんだ。ぼくはマーゴ人アシャラクにしたことをまた経験しなけりゃならなかった。それにまたトラクを殺したんだ――何度も。ぼくたちの冒険の数がふえるのにつれて、状況は悪化した」
「おれはほらあなで罠にかけられたんだ」シルクがぶるっと身ぶるいした。「真っ暗がりでさ、四方の壁がどんどんおれに接近してくるのがわかるんだ。今度レルグに会ったら、あいつの横っつらをひっぱたくんじゃないかと思うよ――もちろんそっとな。レルグはまあ、友だちだから」
「いやな夢にうなされたのがわたしひとりじゃなくて、ほっとしましたよ」サディが口をはさんだ。宦官はテーブルにミルクのボウルを置いており、ジスと赤ん坊蛇たちがそのまわりに集まってのどを鳴らしながらミルクをなめていた。ガリオンは、ジスとその子供たちにもうだれもあまり関心を払っていないのに気づいて、ちょっとびっくりした。人間というのは、ほとんどどんなことにも慣れてしまえるものらしい。サディは長い指をした手で剃りあげた頭をなでた。「わたしはスシス・トールの街路をさまよっているようでした。そして、物乞いをして生きのびようとしているんです。いやな夢だった」
「わたしはザンドラマスがわたしの赤ちゃんをいけにえにしている夢を見たわ」セ・ネドラがひきつった声で言った。「泣き声がしてたくさんの血が――とてもたくさんの血が流れていたわ」
「不思議だ」ザカーズが言った。「わたしは裁判をしていた。大勢の人々に有罪判決をくださねばならなかった。そのうちのひとりはわたしが大変心をかけていた人物だったが、彼女にも有罪を申し渡さねばならなかったのだ」
「わたしも夢を見ましたわ」ヴェルヴェットが告白した。
「ぼくたち全員が見たんだよ」ガリオンは言った。「クトル・ミシュラクへ向かっていたときも、同じことがぼくに起きたんだ。トラクがぼくの夢にずっと侵入していたんだ」かれはシラディスを見て、たずねた。「〈闇の子〉はいつもこういう手を使うのか? ぼくたちが対決に向かっていると、いつもそういう出来事が繰りかえす。そのことにはみんなが気づいていたんだ。これも繰りかえし起きる出来事のひとつなのか?」
「そなたは大変察しがよい、リヴァのベルガリオン」女予言老は言った。「これらの対決がはじまって以来の数えきれぬほど長い歳月のあいだ、不和が終了するまで一連の出来事が際限なく繰りかえされるにちがいないと悟ったのは、〈光の子〉であれ〈闇の子〉であれ、そなたがはじめてじゃ」
「それほどの功を認められることじゃないよ」ガリオンは率直に言った。「ぼくの理解するところだと、対決と対決のあいだの時間はだんだんせばまってきている。たぶんぼくはふたつの対決を経験する史上初の〈光の子〉――〈闇の子〉も含めて――なのかもしれない。にもかかわらず、繰りかえしが起きていると気づくまでしばらくかかったんだ。すると、悪夢はそのパターンのひとつなのか?」
「そなたはずるい、ベルガリオン」シラディスはやさしく微笑した。「あいにくだが、それは正しくない。しかし、そのような賢い認識をむだにするのは、残念な気がする」
「からかおうとしているのかい、聖なる女予言者?」
「わたしが、ベルガリオン?」シラディスはシルクの口調をそっくりまねた。
「彼女をひっぱたいてもいいんじゃないのか」ベルディンがほのめかした。
「あの人間の山が彼女を保護するようにそびえているのにか?」ガリオンはトスに向かってにやりとしてみせた。それから目を細めてたずねた。「このことで、ぼくたちを助けることは許されていないんだろう、シラディス?」
シラディスはためいきをついてうなずいた。
「いいんだよ、女予言者。その疑問にたいする実際的な答えはぼくたちで見つけるさ」ガリオンはベルガラスに視線を移して言った。「それじゃやってみようか。トラクは悪夢でぼくをおびえさせようとした。こんどはザンドラマスが同じことをしようとしているように見える。ただし、前回とちがうのはザンドラマスがそれをぼくたち全員にやっている点だ。これまでよくあった繰りかえしのひとつじゃないとすると、これはいったいなんなんだろう?」
「あの子の分析能力は相当なもんだぞ、ベルガラス」ベルディンが言った。
「当然さ」老人は謙遜した。
「自分の背中をたたこうとして肩の関節をはずさんようにしろよ」ベルディンは憎まれ口をたたくと、立ちあがっておでこに思考のしわを刻んだまま、行ったりきたりしはじめた。「じゃ、やってみるか。ひとつ。これは、当初からおれたちにつきまとっていた退屈な繰りかえしのひとつではない、そうだな?」
「そうだ」ベルガラスが同意した。
「ふたつ。それは前回とほぼ同じようにして起きた」ベルディンはガリオンを見た。「そうだな?」
「そうだよ」
「これじゃたったのふたつだ。二回じゃ、偶然ということもありうるが、偶然じゃないと仮定しようぜ。おれたちは〈光の子〉がつねに仲間連れなのに、〈闇の子〉はつねにひとりであることを知ってる」
「シラディスの話によるとそうだ」ベルガラスがうなずいた。
「彼女がおれたちに嘘をつく理由はない。ようし、〈光の子〉に仲間がいるのに、〈闇の子〉がひとりきりだとすると、〈闇の子〉はひどく不利になるんじゃないか?」
「おまえはそう思うんだな」
「しかしこの両者の力は神々でさえ結果が読めないほど、つねに伯仲していた。〈闇の子〉はなにかを利用して、おれたちのあきらかな優勢をひっくりかえそうとしている。おれはこの悪夢もその一環だと思うんだ」
シルクが立ちあがって、ガリオンに歩みよった。「こういう議論を聞いてると、頭痛がしてくるんだ」と小声で言った。「しばらく甲板に出てる」シルクが船室から立ち去ると、これといった理由もなく、ひょろりとした若い狼もあとについていった。
「悪夢の二つや三つ、どうってことはないとわしは思うがね、ベルディン」ベルガラスが反論した。
「でも、悪夢がザンドラマスのたくらみのほんの一部だとしたらどうなの、おいぼれ狼?」ポレドラがきいた。「あなたもポルもボー・ミンブルにいたわ。あれもこれらの対決のひとつだったのよ。あなたがたふたりはすでに二度〈光の子〉に同行したのよ。ボー・ミンブルではなにが起きて?」
「たしかに悪夢を見た」ベルガラスは一歩譲って、ベルディンの意見に同意した。
「ほかにはどんなことがあった?」ちびの魔術師が真剣にたずねた。
「わしらは存在しないものを見た。だがあれは近くにいたグロリムどもが作りだしたものだろう」
「それで?」
「だれもが気がふれたようになった。わしらはブランドが歯でトラクを攻撃しようとするのを思いとどまらせるので精いっぱいだった。そしてクトル・ミシュラクでわしはベルゼダーを硬い岩に封じこめ、ポルはあいつを掘りだしてあいつの血を飲みたがった」
「おとうさん! だれが飲みたがるもんですか!」ポルガラが異議をとなえた。
「おや、ほんとか? おまえはあの日怒りくるっていたじゃないか、ポル」
「同じパターンにあてはまるわね、おいぼれ狼」ポレドラが陰気に言った。「わたしたちはありふれた武器で戦うわ。ガリオンの剣はありふれてはいないけれど、それでもただの剣だわ」
「おまえがクトル・ミシュラクにいたとしたら、そうは言わなかっただろうよ」ベルガラスは言った。
「いたのよ[#「いたのよ」に傍点]、ベルガラス」ポレドラは答えた。
「いたって[#「いたって」に傍点]?」
「もちろんだわ。廃墟に隠れて見ていたのよ。とにかく、〈闇の子〉は肉体を攻撃しない。精神を攻撃するのよ。〈闇の子〉がすべての均衡をあれだけかんぺきに保っているのは、だからなのよ」
「悪夢、幻覚、そして最後に狂気」ポルガラがひとりごちた。「わたしたちに投げつけるためのいまわしいことがら。うまくいったかもしれないわ――ザンドラマスがこれほど不器用でなかったら」
「なんのことかわからないな、ポル」ダーニクが言った。
「ザンドラマスはへまをしたのよ」ポルガラは肩をすくめた。「悪夢を見たのがひとりだけだったら、たぶん見た者はそれを気にしないように努めるでしょうし、よりによって対決の朝に話を持ちだすようなことは絶対にしないわ。ところが、ザンドラマスはわたしたち全員に悪夢を送りつけてきた。そんなことをしなければ、この会話は起きなかったはずよ」
「ザンドラマスもつまづくことがあるとはいい気味だ」ベルガラスが言った。「つまり、あの女はわしらに干渉していたんだな。その策略の裏をかく最善の方法は、悪夢をわしらの意識からしめだすことだ」
「そして存在するはずのないものが見えてきたら、すくなからず用心することね」ポルガラがつけくわえた。
シルクと狼が階段をおりて船室にもどってきた。「けさは文句のつけようのない天気だよ」かれはほくほくしながら報告すると、ちょっと身をかがめて子狼の耳をかいた。
「すばらしい」サディがそっけなくつぶやいた。サディは小さな短剣に作りたての毒を注意深く塗りつけているところだった。丈夫な革の上着に腿まで届く革のブーツをはいている。スシス・トールにいたころのサディはほっそりしていながら丸みがあって、変にしまりがないように見えた。しかしいまは細いながら強靱な感じがする。薬と無縁の、激しい運動を強いられる節制のある一年余の生活が、サディをすっかり変えていた。
「申し分ないんだ」シルクは言った。「けさは霧が出てるんだよ、みなさん。その上を歩けるぐらいぶあつい、湿った灰色のすてきな霧が。追いはぎも喜びそうな霧だ」
「シルクがそこまで思うなら信頼しよう」ダーニクがほほえんだ。鍛冶屋はいつもの服を着ていたが、斧はトスに与えて、自分は悪魔のナハズを撃退したあのおそるべき大ハンマーを持っていた。
「おれたちはまたも予言に鼻づらをつかまれてひきまわされてるんだ」ベルディンがいらだたしげに言った。「だが、すくなくともゆうべの決断は正しかったらしいな。深い霧が出ててくれりゃ、こそこそ行動するのは簡単だ」ベルディンはいつもとまったく変わらなかった。ぼろをまとい、薄汚れて、ひどく醜かった。
「わたしたちを助けようとしてくれているのかもしれませんわ」ヴェルヴェットが言った。三十分前に船室に入ってきたとき、ヴェルヴェットはかれら全員をあっと言わせていた。彼女が着ていたのは、ナドラクの踊り子ヴェラがいつも着ているような身体にぴっちりした革の服だったのだ。妙に男っぽい服で、そっけないほどだった。「予言はこれまでザンドラマスをずいぶん援助してきたんですもの。こんどはわたしたちがちょっと援助してもらう番なんじゃないかしら」
(そうなんですか?)ガリオンは意識を共有している存在にたずねた。(あなたとあなたの片割れはかわるがわるぼくたちを助けているんですか?)
(ばかを言うものではないぞ、ガリオン。だれも助けてなどおらん。そういうことは、ほかでもないこの段階では禁じられているのだ)
(すると、この霧はどこからきたんです?)
(霧は普通どこからくる?)
(そんなことをどうしてぼくが知ってるんです?)
(それもそうだ。ベルディンにきけ。かれなら教えてくれるだろう。いま出ている霧はまったく自然に発生したものだ)
「リセル」ガリオンは言った。「友人に聞いてみたんだ。霧は人工的なものじゃない。単なる嵐の置きみやげだ」
「がっかりですわ」
セ・ネドラはその朝起きたとき、ドリュアドのチュニックを着るという強い意志を持っていた。だが、ガリオンはその思いつきに頑として反対した。かわりに彼女は動きが妨げられないように、ペチコートなしで、簡素なグレイの毛織の服を着ていた。あきらかに、意識的に身軽な服装をしているのだ。ガリオンはセ・ネドラが服のどこかに、最低ひとつはナイフを隠しているにちがいないと思っていた。「どうしていつまでもぐずぐずしてるの?」セ・ネドラが問いつめた。
「まだ暗いからよ、ディア」ポルガラが辛抱強く説明した。「すくなくとももう少しあかるくなるのを待たなければ」ポルガラとその母親はほとんど見分けがつかないほどよく似た平凡な服を着ていた。ポルガラのはグレイで、ポレドラのは茶色だった。
そのときポレドラが言った。「ガリオン、調理室へおりていって、そろそろ朝食の用意をしてほしいと言ってもらえない? わたしたちはみんななにかおなかに入れるべきだわ。昼食を食べられるかどうかわからないんですからね」ポレドラはベルガラスのとなりに腰をおろした。かれらふたりはほとんど無意識に手を取りあった。ガリオンはそう言われたことにちょっとむっとした。なんといってもかれは王なのだ。小間使いの少年ではない。つぎの瞬間、ガリオンはそれがいかにばかげた考えであるかに気づいて、立ちあがろうとした。
「ぼくが行きますよ、ガリオン」エリオンドが口を開いた。まるで年上の友人の心中を読みとったかのようだった。エリオンドはいつもと同じ質素な茶色の農夫が着るような服を着て、武器らしきものはまったく持っていなかった。
若者が船室のドアを出ていったとき、ガリオンは妙なことを思った。どうして仲間のひとりひとりの服装にこれほど関心を払っているのだろう? いままでかれら全員を見てきているのだし、かれらがけさ着ている服だって見慣れたものばかりで、とりたてて印象に残るものではない。そこまで考えたとき、ガリオンはぞっとするような確信とともに悟った。かれらのひとりがきょう死ぬことになっている。だから、犠牲となるひとりをこの先一生記憶に刻みつけておくために、こうして注意深く観察していたのだ。ガリオンはザカーズを見た。マロリー人の友だちは短いあご髭を剃り落としていた。かすかにオリーブがかった肌はもう青白くはなく、あごのやや白っぽい部分をのぞけば、日焼けして健康そうに見えた。ガリオンのとそっくりの簡素な服を着ている。珊瑚礁へ着いたらただちにふたりとも鎧兜を着ることになっているからだ。
穏やかな顔をしたトスは、いつもどおりの服装だった――腰布とサンダル、片方の肩に無漂白の毛布をひっかけている。だが、いつも持っている重そうな杖は手にない。代わって、ダーニクの斧が膝に載っている。
ケルの女予言者はいつもと同じだった。頭巾のついた白いローブは輝いており、しわひとつないいつもと同じ目隠しが、目をおおっている。ガリオンはぼんやりと、眠るときはあの布をはずすのだろうかと考えた。そのとき、ひやりとする思いが胸に浮かんだ。きょう、かれらが失うひとりがシラディスだったら? 彼女は務めのためにいっさいを犠牲にしていた。いくらふたつの予言でも、このやせぎすの娘から最後の犠牲を要求するほど残酷にはなれないだろう。
ベルガラスはもちろん変化がなかった。変化のしようがない。あいかわらず左右ちぐはぐのブーツに、継ぎのあたったズボン、語り部のミスター・ウルフとしてファルドー農園にあらわれたときに着ていた錆色のチュニックという服装だった。老人に関してひとつだけちがっているのは、空いているほうの手にジョッキをつかんでいないことだった。前夜の夕食の席で、ベルガラスはほとんどうわのそらで泡立つエールがなみなみと注がれたジョッキを自分のほうへ引き寄せた。すると、ポレドラがこれまたほとんどうわの空で、きっぱりとジョッキをとりあげ、中身を舷窓から海に捨ててしまった。ベルガラスの酒のみの日々はことによるといきなり幕を閉じたのではないかと、ガリオンは強く感じた。だとしたら、完全にしらふの祖父と長い会話をするのもまた悪くないかもしれない。
かれらは会話らしい会話もせずに朝食を食べた。ろくに話すことがなかったからだ。セ・ネドラは忠実に子狼に食べ物を与えたあと、悲しそうにガリオンを見た。「この子をよろしくね」
その話をむしかえしてもしかたがなかった。きょうが自分の最後の日だと、固く信じこんでいるセ・ネドラにいくら言い聞かせたところで意味がない。「ゲランにやったらどうかしら」セ・ネドラはつけくわえた。「男の子は犬を飼うべきだし、この子の世話をすることで責任感が芽生えるわ」
「ぼくは犬を飼ったことは一度もなかったよ」ガリオンは言った。
「思いやりがおありじゃなかったのね、ポルおばさん」セ・ネドラは無意識に――無意識ではなかったのかもしれないが――その呼びかたをした。
「犬の世話をしている暇なんて、ガリオンにはなかったのよ、セ・ネドラ」ポルガラは答えた。「わたしたちのガリオンはそれは多忙な人生を送っていたんですからね」
「いっさいが片づいたら、少しは暇になるといいがな」ガリオンは言った。
食事がすんだあと、クレスカ船長が海図を持って船室に入ってきた。「これはあまり正確じゃないんで」と弁解口調で言った。「ゆうべおれが言ったように、あの峰のまわりの水深はあまり正確に計れなかったんだよ。浜まで数百ヤードのところまではちょっとずつ船で行ける。その先は大型艇で行かなけりゃだめだ。この霧のせいで、あいにく、いっそう複雑になってきたよ」
「峰の東側に浜はあるのか?」ベルガラスがたずねた。
「ごく浅くはなってる」クレスカは答えた。「だが、大潮でかなり水が引くはずだ」
「よし。持って上陸しなければならんものがいくつかあるのだ」ベルガラスはガリオンとザカーズが着る鎧兜を入れたふたつの丈夫な粗布の袋を指さした。
「手下に運ばせよう」
「いつになったら出発できるの?」セ・ネドラがいらいらとたずねた。
「あと二十分ばかりしてからだね、おじょうさん」
「まだそんなに?」
クレスカはうなずいた。「太陽を早く昇らせる方法でもあみだせれば話は別だが」
セ・ネドラはすばやくベルガラスを見た。
「やめなさい」ベルガラスは言った。
「船長」ポレドラが狼を指さして言った。「わたくしたちのペットの面倒をみてくれる人がいるかしら? ときどき少しはしゃぎすぎるので、とんでもないときに吠えだしたりしたら大変だわ」
「もちろんですとも、レディ」クレスカは狼を見てもそれが狼だと気づくほど長時間陸で過ごしたことがなさそうだった。
クレスカの言ったちょっとずつ≠ヘ、おそろしく退屈な過程であることが判明した。乗組員たちは錨をあげたあと、オールを漕いだ。ふたかきするたびに、かれらは手をとめ、その間船首にいる者が鉛のおもりのついた測深線を水中からひきあげた。
「のろいな」全員が甲板に立っているとき、シルクが低い声で言った。「だが、すくなくとも静かではある。あの珊瑚礁にだれがいるかわからないし、そいつらを警戒させるのはよくないからね」
「浅くなってきてますぜ、船長」測深線をつかんでいる乗組員がかろうじて聞き取れるほどの声で報告した。見るからに戦いを控えていると知れるガリオンたち一行の身じたくは、どんな言葉よりも声高に静寂の必要性を強調していた。乗組員はふたたび測深線を投げた。船がそのおもりつきの測深線に導かれてゆっくり移動するのに、果てしなく思える時間がかかった。「底がどんどん浅くなってきてます、船長」乗組員が言った。「二尋ってとこです」
「オールをおさめい」クレスカは低い声で命令した。「錨をおろせ。ここがおれたちの行けるぎりぎりの位置だ」船長は一等航海士のほうを向いた。「おれたちが大型艇で船を離れたら、もう百ヤードばかりうしろへさがって、そこに錨をおろせ。もどってくるときは口笛を吹く――いつもの合図だ。おれたちを誘導しろ」
「了解」
「前にもこういう経験があるらしいな」シルクが船長に言った。
「何度かね」クレスカは認めた。
「きょう、万事うまくいったら、ちょっとあんたと話がしたいんだ。あんたの興味をひきそうな商売上の提案があるんだよ」
「そのことしか考えられないの?」ヴェルヴェットがきいた。
「チャンスは逃したらそれっきりだからね、親愛なるリセル」シルクはえらそうに答えた。
「あなたって手に負えないわ」
「たしかにそう言ってもまちがいじゃない」
錨鎖孔に詰めこんだ油のしみた粗布が、重い鉄鉤が暗い海中に沈んでいくときのガラガラというやかましい錨鎖の音をやわらげた。ガリオンは大波の下の岩に錨の先端がこすれる音を、聞くというより肌で感じた。
「大型艇に乗りこもう」クレスカが言った。「おれたち全員が乗ったら、乗組員が大型艇を下におろす」かれはすまなさそうにガリオンたちを見た。「みなさんにはオールを漕いでもらわなけりゃならないんだ、ガリオン。大勢乗りこむんでね」
「もちろんだよ、船長」
「あんたがたが無事岸にたどりつけるまでおれも一緒に行く」
するとベルガラスが言った。「船長、いったんわしらが上陸したら、あんたの船をすこし離したほうがいい。拾ってもらう用意ができたら、あんたに合図を送る」
「わかった」
「あすの朝までに合図がなかったら、ペリヴォーへ引きかえしたほうがいい。そのときはわしらはもどってこないからだ」
クレスカの顔は真剣だった。「あんたがたがあの珊瑚礁でやろうとしてるのは、それほど危険なことなのか?」
「それほど、なんて生易しいもんじゃない」シルクが言った。「おれたちはこぞってできるだけそのことは考えないようにしてるんだぞ」
油のように見える黒い海の上を、大波から湧いてくるような霧の灰色の巻き髭をかきわけるようにして大型艇を漕ぐのは、薄気味悪かった。ガリオンは突然スシス・トールのあの霧深い夜を思いだした。あのとき、かれらは片目の暗殺者イサスの案内だけを頼りに、〈蛇の川〉を横切ったのだ。ガリオンはオールを漕ぎながら、ぼんやりとイサスはどうしただろうと考えた。
十回ばかり漕ぐたびに、ともで舵をとっているクレスカ船長が停止の合図をして、頭をかしげ、波音に耳をかたむけた。「あと二百ヤードだな」かれは低い声で言った。「おまえ」とへさきで別の測深線をもっている乗組員に言った。「休まずに測深しろ。岩にぶつけたくないんだ。浅くなってきたら教えろ」
「了解」
大型艇は暗い霧の中を見えない浜に向かって這うように進みつづけた。浜では波が砂利に打ち寄せ、あの一種独特のきしむような音とともに、そのつど砂利をすくいあげて、陸地のきわまで運んでいた。そのあと波はメランコリーな嘆きの音とともに砂利をふたたびかきよせてひいていく。それはまるで満腹することを知らぬ海が、地球のまわりを悠然と何周もする巨大な波のうねる果てしない大洋の中へ陸地をのみこみ、世界全体を海にしてしまうことができない無念さを声に出して悲しんでいるかのようだった。
東の空におおいかぶさっていた重たげな霧の層が少しずつ明るくなりはじめ、霧にまぎれた黒い波の上に朝日が射した。
「あと百ヤード」クレスカが緊張して言った。
ベルガラスが言った。「わしらがあそこに着いたら、船長、乗組員たちをボートから出さないでくれ。かれらの上陸は許されないことだし、上陸しようとしないほうが身のためだ。岸に着いたら、わしらがただちにあんたがたごとボートを海に押しかえす」
クレスカはごくりと唾を飲みこんで、うなずいた。
ガリオンはいまではいっそう明確に寄せ波の音を聞き取ることができた。海と陸の境界に特有の磯くさい海藻の匂いもする。やがて、すべてをぼかしている霧をすかして、浜の黒っぽい線が見えてきたかと思うと、危険な荒波が静まり、大型艇の周囲の海がまるで一枚のガラスのようにひらべったく、なめらかになった。
「感心な波だな」シルクが言った。
「シーッ」ヴェルヴェットが口に指をあてて言った。「わたし、聴こうとしているのよ」
大型艇のへさきが浜辺の砂利にあたってきしった。ダーニクがおりて、小石だらけの浜の上まで大型艇をひっぱりあげた。ガリオンたちもくるぶしまでの海におりて、岸まで歩いた。「あすの朝会おう、船長」ガリオンはトスが艇を押しもどす用意をしたとき、静かに言った。「できればね」
「幸運を祈る、ガリオン」クレスカは言った。「全員が船にそろったら、ことのしだいを残らず話してくれなけりゃな」
「そのときまでには忘れていたいよ」ガリオンはうらめしげに言った。
「勝てばそんなことはないさ」クレスカの声が霧の中から聞こえた。
「あの男、気に入ったよ」シルクが言った。「あのカラッとした態度がいい」
「このひらけた浜から離れよう」ベルガラスが言った。「ガリオンの友だちがなんと言ったにせよ、この霧はどうもうさんくさい。身を潜められる岩があったほうが安心だ」
ダーニクとトスが鎧兜のはいったふたつの粗布の袋を持ち上げ、ガリオンとザカーズは剣を抜いて砂利の浜を先に立って歩きだした。かれらの前方にそびえる山は、斑点のある花崗岩を砕いた人工的なブロックを積み上げたように見えた。世界中で花崗岩の山を飽きるほど見てきたガリオンの知識では、普通の花崗岩は崩れるとぼろぼろになり、風雪にさらされて丸くなる。「不思議だ」ダーニクがつぶやきながら、ぬれたままのブーツでかんぺきな真四角のブロックのひとつを蹴った。かれは粗布袋をおろしてナイフを取りだし、ナイフの先でしばらく岩をけずった。「花崗岩じゃないな」鍛冶屋は静かに言った。「花崗岩のように見えるが、非常に硬い。別のものだ」
「分析はあとでもできるさ」ベルディンが言った。「ベルガラスの心配が的中しないように、まず隠れ場所を見つけようぜ。そこに落ちついたら、さっそくおれが何度かあの峰のまわりを飛んでみる」
「なにも見えっこないね」シルクが予測して言った。
「だが、聞くことはできる」
「あそこがいい」ダーニクが大ハンマーで示した。「ブロックのひとつがはずれて、浜へ転げ落ちたように見える。あそこなら相当大きなくぼみがある」
「ベルディン、もういいぞ」ベルガラスが言った。「変身するときは、ゆっくりやれよ。ザンドラマスはわしらとほぼ同時にここに上陸したにちがいない。急ぐと、音を聞き取られる」
「そのくらいわかってる、ベルガラス」
奇妙な階段のような形をした峰の側面にあいたくぼみは、隠れるにはじゅうぶんすぎるほどの大きさで、かれらは用心深くそこへおりた。
「うまくいった」シルクが言った。「みんなはここで一息ついたらどうだい? ベルディンが鴎になって、島の周囲を偵察しに行ってくれるから、おれはこのまま先へ行って、手がかりをつかんでくる」
「気をつけろよ」ベルガラスが言った。
「いつかそれを言うのを忘れてくれるんでしょうね、ベルガラス。そうじゃないと、地上の木という木がしおれちまうよ」小男はくぼみからはいだすと、霧にまぎれこんだ。
「ほんとにそればっかり言ってるからな、おまえさんは」ベルディンがベルガラスに言った。
「シルクは熱中型なんだ。絶えず、注意を引きもどしてやる必要があるのさ。おまえさんこそ、いつになったら出発するんだ?」
ベルディンはおそろしく露骨な悪態をついて、ゆっくりと微光を放ち、空へ舞い上がった。
「あなたの気性は一向に改善されていないのね、おいぼれ狼」ポレドラが言った。
「改善したかもしれんと思っていたのか?」
「ちっとも。でも、期待することだけはいつでもできるものだわ」
ベルガラスの予感とは裏腹に、霧はいつまでたっても晴れなかった。三十分ほどたったころ、ベルディンがもどってきた。「何者かが西の浜に上陸した」と報告した。「そいつらの姿は見えなかったが、声はまちがいなく聞きとれた。アンガラク人てやつは、声を落とすことがへたくそらしいな――悪いな、ザカーズ、だが、ほんとうのことだ」
「なんなら、今後三、四世代に渡り、ひそひそ声で話しあうようにと布告をだそうか」
「いや、いいってことよ、ザカーズ」ちびの魔術師はにんまりした。「すくなくとも一部のアンガラク人と敵対しているかぎり、そいつらの到着が聞き取れるほうがいいんだ。ケルダーはもうもどってきたか?」
「まだだ」とガリオン。
「なにをやってるんだ? この石のかたまりはくすねるにはでかすぎるぞ」
そう言ったとたん、シルクがくぼみの端に音もなくあらわれて、石の床に軽々と飛び降りた。「信じられない話があるんだ」
「そうでしょうね」とヴェルヴェット。「でもとりあえず、話してみたら?」
「この峰は人工のものなんだ――すくなくとも、なにかがこれを作ったんだよ。このブロックは峰をテラスみたいに囲んでいるんだ。まっすぐでなめらかなテラスみたいにな。そして、あのひらべったいてっぺんまで階段がつづいている。てっぺんには祭壇とばかでかい王座があるんだ」
「じゃ、そのことだったんだ!」ベルディンが叫んで、パチンと指を鳴らした。「ベルガラス、『トラクの書』を読んだことがあるか?」
「数回、苦心惨憺して読み通した。古代アンガラク語はそれほど得意ではないんだ」
「古代アンガラク語をしゃべれるのか?」ザカーズはすくなからずおどろいてたずねた。「マロリーではあれは禁じられた言語なのだ。トラクはいくつかのことがらを変えて、自分を謎めかしておきたかったのではないだろうか」
「禁止令が実施される前に学んだのだ。ベルディン、どういうことなんだ?」
「冒頭近くのあのくだりをおぼえてるか――思いあがったくだらん話のまんなかへんだ――トラクが世界の創造について、ウルと議論をするために〈コリムの高き場所〉へ登っていったと言っているくだりだよ」
「おぼろげにな」
「とにかく、ウルはそのことは話したがらなかったんだ。するとトラクは自分の父親に背を向けて山をおり、アンガラク人を集めて、またかれらを引き連れてコリムにもどった。トラクは自分がかれらをどうするつもりかを話した。すると、かれらはまさにアンガラクの流儀でうつぶせに倒れ、互いをいけにえとして殺しはじめた。そのくだりの中にハラガチャク≠ニいう言葉があるんだ。神殿≠ニかそういうような意味なんだ。おれはずっと、トラクが比喩的に言っていたんだろうと思っていたが、そうじゃなかったんだな。この峰がその神殿なんだよ。そこにある祭壇が証拠だ。それにこのテラスは、グロリムが人間を神にいけにえにするのをアンガラク人が眺めていた場所なんだ。おれが正しけりゃ、これはトラクが父親と話をした場所でもある。〈やけど顔〉をどう思おうと、ここは地上でもっとも聖なる場所のひとつなんだ」
「トラクの父親のことをずっと話しているが、神々に父親がいるとは知らなかった」ザカーズがとまどいぎみに言った。
「もちろん、いるわ」セ・ネドラがなまいきに言った。「だれだって知っていることよ」
「わたしは知らなかった」
「ウルは神々のおとうさんなのよ」彼女は故意に無造作な態度で言った。
「ウルゴ人の神ではないのか?」
「どちらかというと、そうではないのだ」ベルガラスが言った。「初代ゴリムがむりやりウルを彼らの神にしたのだ」
「どうやって神に強制などすることができるのだ?」
「慎重にやったのさ」とベルディン。「ごくごく慎重にな」
「わたしはウルにお目にかかったことがあるわ」セ・ネドラが聞かれもしないのに言った。「ウルはわたしを気に入ってくださってるようなの」
「彼女にはときどきひどくいらいらさせられるな」ザカーズがガリオンに言った。
「あんたもそう思うかい」
「あなたがたに気に入ってもらわなくたってかまわないわ」セ・ネドラは巻毛をふりたてた。「あなたがたのどっちにもね。神に気にいられているかぎり、へっちゃらよ」
その時点で、ガリオンは希望を持ちはじめた。セ・ネドラが積極的にかれらをからかっているのなら、あきらかに、彼女は想像上の自分の死をそれほどまじめに考えていないのだ。それでもガリオンは例のナイフを取り上げることができればと思わずにいられなかった。
「おまえさんのすばらしい探検の途中で、もしやあの洞窟のありかをつきとめなかったか?」ベルガラスはシルクにたずねた。「おまえさんが霧の中をうろついていたのは、そのためだろうと思っていたのだがね」
「洞窟? ああ、あれは北側のあたりにあるんですよ。その前面には野外劇場みたいなのがある。北面のほぼどまんなかです。洞窟なら最初の十分で見つけましたよ」
ベルガラスはシルクをにらみつけた。
「でも、正確には洞窟じゃない。峰の内側の奥に洞窟があるのかもしれないが、開口部は大きな戸口といったほうが近いですね。両側に円柱があって、入口の上に見慣れた顔がある」
「トラクか?」ガリオンは暗い気分で言った。
「あたり」
「では出発したほうがいいんじゃないかな?」ダーニクがほのめかした。「ザンドラマスがすでに上陸しているなら……」と両手を広げた。
「ならどうなんだ?」ベルディンが言った。
みんなはちびの魔術師をいっせいに見つめた。
「ザンドラマスはおれたちがそこへ行かなけりゃ、洞窟にははいれないんだろう?」ベルディンはシラディスにたずねた。
「そうじゃ、ベルディン。単独ではいることは禁じられている」
「よし。じゃ、まちぼうけをくわせてやろうぜ。きっと不安のあまり死にそうになるぜ。だれか食い物をもってくることを思いついたか? 鴎にならなけりゃならないかもしれないが、生の魚を食うことはないからな」
[#改ページ]
5
ザンドラマスは異常な興奮状態になっているにちがいないとベルディンが判断するまで、かれらは一時間近くも待った。ガリオンとザカーズはその時間を利用して、鎧兜を着た。「ちょいと見てくる」ちびの魔術師がようやく言った。かれは時間をかけて、鴎の姿になると、霧の中へ漂うように昇っていった。もどってきたとき、ベルディンは小気味よさそうにくすくす笑っていた。「女があんな言葉を使うのを聞いたのは、後にも先にもこれがはじめてだ。おまえだってあれにはかなわないぜ、ポル」
「なにをしていた?」ベルガラスがきいた。
「洞窟の入口の外に立ってた――それとも、あれはドアかな。なんとでも好きに呼べばいい。ざっと四十人のグロリムを引き連れてた」
「四十人も?」ガリオンは叫んで、シラディスのほうを向いた。「ぼくたちはちょうど互角だと言わなかったか?」
「そなたは最低五人と互角であろう、ベルガリオン?」シラディスは率直に言った。
「まあその――」
「引き連れてた、と言ったな」ベルガラスが兄弟に言った。
「星をちりばめたわれらが友は、そのドアだかなんだかがくっついてるしろものを、数人のグロリムにむりやり突破させようとしたんだな。だがグロリムどもはそれに失敗した。そのとき、ドアを封印している力が働いたのか、ザンドラマスが堪忍袋の緒を切らしたのか、おれにはよくわからんが、とにかく、五人ばかりのグロリムがその瞬間にあきらかに死んじまったんだ。ザンドラマスはののしり声をあげながら外を大股に歩きまわっていたよ。ついでだが、グロリムどもは全員頭巾の内側に紫色の裏地をつけてるぜ」
「じゃ、魔術師なんだわ」ポルガラがひややかに言った。
「グロリムの魔術はそれほど深いもんじゃないさ」ベルディンは肩をすくめた。
「ザンドラマスの皮膚の下に光があらわれているかどうか見えたのかい?」ガリオンはたずねた。
「ああ、見えたとも。まるで夏の夜の蛍でいっぱいの草原みたいな顔だった。他にも見えたものがあるんだ。あのアホウドリがそこにいるんだよ。おれたちは会釈をかわしたが、立ち止まっておしゃべりしている時間はなかった」
「あの鳥はなにをしてたんだ?」シルクが疑わしげにたずねた。
「ただふわふわと飛んでいた。アホウドリがどういうものか知ってるだろう。やつらは一週間に一度しか翼を動かさないんじゃないかと思うね。霧が薄くなってきてる。外に出て、あの野外劇場の真上のテラスのひとつに立って、この陰気な雰囲気を追いはらっちゃどうだ。霧の中から黒い人影の一団があらわれるのを見たら、ザンドラマスのやつ、ぎょっとするぜ。そう思わないか?」
「わたしの赤ちゃんを見たの?」セ・ネドラが真剣にたずねた。
「あの子はもう赤ん坊じゃないよ。あの顔つきから思うに、どうも連れの仲間があまり好きじゃないようだ。あのようすからすると、やつらに負けないぐらい不機嫌になりつつあったな。ガリオンがあそこへ行って、剣を渡すことができりゃ、おれたちはあの子が事態にケリをつけてくれるのをひっこんで見物していられるかもしれんぞ」
「乳歯が生えかわるまで、息子に人殺しはさせたくないね」ガリオンはきっぱりと言った。「他にだれかいたか?」
「オトラス大公の奥方の説明から考えて、大公が一団の中にいるな。安っぽい冠をかぶって、王が着るようなお古のローブを着てるんだ。知性の点では、相当劣る目つきだな」
「あの男はわたしにやらせてくれ」ザカーズが歯ぎしりした。「これまで個人的レベルで反逆罪をさばく機会に恵まれなかったのだ」
「あいつの奥方はあんたに永遠の借りができるわけだ」ベルディンがにやにやした。「じきじきに礼を言いに――なにを置いても――わざわざマル・ゼスまで出向く決心をするかもしれないぜ。肉置《ししお》き豊かな女でな、ザカーズ。たっぷり休息しといたほうがいいぞ」
「このような会話はわたしにはどうでもよく思われる」シラディスがツンとして言った。「時間はすぎてゆく。出発しよう」
「そなたの心の欲するままに、さ」ベルディンはにんまりした。
シラディスは思わず微笑した。
かれらはふたたびあの陽気なからいばりの会話をした。目前に迫っているのは、いまだかつてないきわめて重要な〈出来事〉であり、それを茶化すのは人間としての自然な反応だったからである。
シルクがまっさきにくぼみから出た。かれのやわらかいブーツは足の下のぬれた石を踏んでも物音ひとつたてなかった。しかしガリオンとザカーズは金属音を立てないように、ずいぶん慎重に動かなくてはならなかった。きっちり積みあげられた石のテラスは、それぞれ高さが約十フィートもあったが、規則正しい間隔でひとつのテラスからその上のテラスへと階段が伸びていた。シルクはそのテラスを三つばかり先へ登ってから、先端を切り落としたピラミッドをまわりはじめた。「できるだけ足音を立てないようにしたほうがいいよ」小男はささやいた。「あの野外劇場からここは百ヤードぐらいしか離れていないんだ。地獄耳のグロリムに聞かれたくないもんな」
かれらは角を曲がって数分間北の正面づたいに用心深く進んでいった。やがてシルクが立ち止まり、端から身をのりだして下の霧の中をのぞきこんだ。「ここだ」とささやいた。「野外劇場は峰の側面にある長方形のへこみなんだよ。浜からあの入口――だかなんだか知らないが――までずっと伸びているんだ。端まで行ってみると、おれたちのところから下のテラスがきれいに断ち切られているのが見える。野外劇場はおれたちの真下にある。いま、ザンドラマスとは百ヤードと離れてない」
ガリオンは霧の中を見おろしながら、ちょっと意志を働かせれば、この邪魔な霧を払いのけて、敵の顔を見られるのにと思った。
「落ちつけって」ベルディンがささやきかけた。「もうじきだよ。ザンドラマスをびっくりさせてやるんだからな、せっかくのお膳立てをぶちこわすな」
霧の中からてんでばらばらに声が立ちのぼってきた――耳ざわりな、ぜいぜいというグロリムの声だ。声は霧のために不明瞭で、言葉を聞きわけることはできなかったが、その必要もなかった。
かれらは待った。
太陽はすでに東の水平線上に昇り、霧を通してその白っぽい円盤がかすかに見える。嵐の置きみやげか、雲が乱れていた。霧が渦を巻きはじめた。頭上の霧がじょじょに晴れてきて、空がのぞいた。珊瑚礁の上にきたならしい飛雲がぶあつくかかっているが、東へ数リーグほど伸びているにすぎない。そんなわけで、東の水平線上に低く昇った太陽が、雲の下側を照らして、怒ったような赤みがかったオレンジ色に雲を染めている。空が燃えているようだった。
「目がさめるようだ」サディがつぶやいて、神経質に毒塗りの短剣を片手から片手へと移動させた。かれは赤い革の箱を下に置いて、ふたをあけた。土焼きの壺をとりだして、栓をぬき、壺を横に倒した。「この珊瑚礁には鼠がいるはずです」サディは言った。「でなければ、海鳥の卵とかね。ジスと赤ん坊蛇たちは心配いりませんよ」それから立ちあがって、箱からとりだした小さな袋を注意深くチュニックのポケットにしまいこんだ。「ちょっとした用心です」と説明するようにささやいた。
いま、霧は真珠色の大洋のように、かれらの下、ピラミッドの陰の部分に漂っていた。ガリオンはメランコリックなふしぎな鳴き声をきいて、目をあげた。アホウドリが翼を静止させて、霧の上をさまよっていた。ガリオンは邪魔な霧の中をじっと見おろしながら、ほとんどうわの空で剣の柄《つか》から革のおおいをとりのけた。〈珠〉はかすかに輝いていた。その色は青ではなく、燃える空のように真っ赤だった。
「あれがその証拠だわ、おいぼれ狼」ポレドラが夫に言った。「サルディオンがあの洞窟にあるのよ」
ベルガラスがうなるような声をあげた。かれの銀色の髪と髭は頭上の雲から反射する光で赤く光っていた。
下方の霧がぐるぐるまわりだした。表面はまるで海が怒っているように見えた。霧はだんだん薄れてきた。ガリオンは霧の下にぼんやりした姿をいくつか認めることができた。
いまでは霧はかすみ程度になっていた。
「聖なる女魔術師さま!」驚愕に満ちたグロリムの声が叫んだ。「ごらんください!」
光る黒いサテンのローブに頭巾をかぶった人影がくるりとこちらを向き、ガリオンは〈闇の子〉の顔をまともにのぞきこんだ。その皮膚の下の光のようすについては何度も聞いていたが、それらの説明は実物をこうしてまのあたりにすると消し飛んでしまった。ザンドラマスの顔の光は静止しておらず、皮膚の下でせわしなく渦巻いていた。古代のピラミッドの陰になって、その姿は黒っぽく、はっきりとは見えないが、渦巻く光がザンドラマスの所在を示している。『アシャバの神託』の謎めいた言葉にあったように、まるで星をちりばめた宇宙≠ェザンドラマスの肉体に閉じこめられているかのようだった。
ガリオンは背後でセ・ネドラが鋭く息を吸いこむ音を聞いた。振り向くと、小さな女王は片手に短剣をつかみ、目に憎悪をたぎらせて野外劇場に通じる階段のほうへ走りだしていた。ポルガラとヴェルヴェットがその死にものぐるいの計画に一早く気づいて、すばやくセ・ネドラを静止し、短剣をとりあげた。
するとポレドラがテラスの端へ進みでて、はっきりした声で言った。「ではとうとうそのときがきたわけね、ザンドラマス」
「あたしはおまえがおまえの仲間に加わるのを待っていたんだよ」女魔術師はあざけるような口調で答えた。「おまえが道に迷ったのではないかと心配していたのさ。さあ、これで全部そろった。順序よくことを進めるとしようか」
「順序よくというけれど、おまえこそ多少遅れたんじゃないの、ザンドラマス」ポレドラは言った。「でも、どうってことはないわ。わたしたちは全員予言されていたとおり、予定の場所に予定の時刻に到着したわ。ばかげた言いあいはよして、中へ入らないこと? 宇宙はきっとわたしたちにいらだっているにちがいないわ」
「まだだよ、ポレドラ」ザンドラマスは感情をまじえずに答えた。
「退屈だこと」ベルガラスの妻はうんざりして言った。「それがおまえの悪いところよ、ザンドラマス。あきらかにだめだとわかっているのに、まだあきらめない。おまえはさんざん手を尽くしてこの対決を避けようとしてきたけれど、すべて無駄だったわ。無益な試みが、かえって早くおまえをこの場所へ連れてくることになったのよ。無駄な抵抗はやめて、そろそろいさぎよくしたらどうなの?」
「いやだね、ポレドラ」
ポレドラはためいきをつき、あきらめの口調で言った。「わかったわ、ザンドラマス。好きなようにしたら」ポレドラは腕を伸ばしてガリオンを指した。「それほどこだわるなら、わたしが〈神をほふる者〉を呼びましょう」
ガリオンはゆっくりと背中に手を伸ばして剣の柄《つか》を握りしめた。鞘から抜かれた瞬間、剣がシュッと怒りの音をたてた。すでにきらめく青の炎を放っていた。ガリオンの心はいま、氷のように平静だった。クトル・ミシュラクでもそうだったように、すべての疑いや恐怖は消え、〈光の子〉の精神が完全に乗り移っていた。かれは両手で柄《つか》をつかみ、ゆっくりと持ち上げて、燃える刃で頭上で渦巻く雲を指した。「これがなんじの運命だ、ザンドラマス!」ガリオンは恐ろしい声でわめいた。古めかしい言葉がすらすらと口をついて出た。
「それはまだ決まっておらぬぞ、ベルガリオン」ザンドラマスは予想どおり挑むような口調で言ったが、その陰にはなにか別のものがひそんでいた。「運命はかならずしもそれほど簡単に読まれるものではない」ザンドラマスが尊大なしぐさをすると、グロリムたちがザンドラマスを取りかこんで気味の悪い古代言語で耳ざわりな詠唱をとなえはじめた。
「さがって!」ポルガラが鋭く警告した。彼女と両親とベルディンがテラスの端へ歩みよった。
視界のはじに、かすかにゆらめく真っ黒な影があらわれて、ガリオンはあいまいな恐怖をおぼえはじめた。「注意しろよ」ガリオンは静かに仲間に警告した。「ザンドラマスのやつ、ゆうべぼくたちが話しあったあの幻覚のひとつをあやつりはじめたらしいぞ」つぎの瞬間、ガリオンはすさまじいうねりと嵐のような物音を感じとった。漆黒の波がザンドラマスの周囲に集まったグロリムたちの伸ばされた手からうねり出た。だがベルディンたち四人の魔術師が一斉に一言叫ぶと、波はこなごなに砕けて黒い破片となり、おびえた鼠よろしく野外劇場のまわりをすべるように逃げまどった。数人のグロリムが石の床に倒れてのたうちまわり、残りはにわかに青ざめてあとずさった。
ベルディンは意地悪そうにけたけたと笑った。「またやってみたいのかよ、え?」かれはザンドラマスをからかった。「そのつもりなら、もっとグロリムを連れてくるんだったな。おまえさん、おそろしい割合で連中を消費してるぜ、おい」
「そういうことはやらんでほしいな」ベルガラスがベルディンに言った。
「向こうもそう思ってるさ。あいつは深刻ぶってるんだ。ちょっとからかってやれば、ペースを乱されてこっちの思うつぼだ」
ザンドラマスは表情ひとつ変えずに、ちびの魔術師に火の玉を投げつけたが、ベルディンはうるさい虫でも追い払うようにそれをはたき落とした。
ガリオンはふいに気づいた。いきなりあらわれた一面の闇も、火の玉も本当の攻撃手段ではないのだ。それらはただの目くらまし、視界のはじのあの影から気をそらすための手段なのだ。
ダーシヴァの魔女はひややかな笑みをちらりと浮かべた。「どうでもよいことだ」と肩をすくめた。「あたしはおまえを試していただけさ、うすのろ。笑いつづけるがいい、ベルディン。あたしは人が死ぬのを見るのが好きなのだよ」
「そうだろうとも」ベルディンは同意した。「そうやって笑ってりゃいい、そしてちょいとまわりをながめるこった。できるあいだにおてんとさまにさよならを言っといたほうがいいぜ、そういつまでも見ちゃいられないだろうからな」
「ほんとうにそういう脅し文句が必要なのか?」ベルガラスがあきあきしてたずねた。
「習慣なんだよ」とベルディン。「侮辱とほらは重要な用件に共通の前奏曲なんだ。それに、あいつ、はじめやがったぞ」かれはザンドラマスの手下のグロリムたちが威嚇的に前進しはじめたのを見おろした。「だが、そろそろ時間ぎれらしいな。下へおりて、グロリム入りの大鍋いっぱいのシチュウの準備といくか? おれはこまぎれにしたのが入ってるほうがいいな」ベルディンは片手を伸ばして指をパチンと鳴らし、先端が鉤のように湾曲したウルゴのナイフの柄《つか》を握った。
ガリオンを先頭に、かれらは決然と階段に歩みよって階段をおりはじめた。同時に、手に手に武器を持ったグロリムたちが階段の下へかけよった。
「さがってろ!」シルクがヴェルヴェットを一喝した。ヴェルヴェットは短剣のひとつを手慣れたふうに低くかまえて、きっぱりした態度でかれらに同行していた。
「いやよ」彼女はきびきびと言った。「わたしは投資対象を保護しているの」
「なんだ、その投資対象って?」
「その話ならあとでもできるわ。いまは忙しいのよ」
グロリムたちの先頭を切っているのは、トスに負けないほどの大男だった。巨大な斧をふりわまし、目には狂気が満ちている。大男がガリオンから五フィートのところへきたとき、サディがリヴァの王の肩口に近づき、握りこぶし一杯の不思議な色の粉を、階段をのぼってくるグロリムの顔に投げつけた。グロリムは頭をふって、目をこすった。それからくしゃみをした。とたんに、目に恐怖がみなぎって、絶叫した。恐怖の叫びをあげて斧を落とし、くるりとまわれ右をすると、仲間を階段から蹴ちらさんばかりにして猛スピードで階段をかけおりた。野外劇場の床についても、大男は立ち止まらずに海めがけて突っ走った。腰までつかる海水の中へ出たあと、海中に沈んで見えないテラスの端を踏みはずした。大男は泳ぎかたを知らなかったらしい。
「あの粉はもう使いきったのかと思ってたよ」シルクがサディにそう言いながら、短剣のひとつをなめらかな動作で上手投げに大きく投げた。ひとりのグロリムがうしろへよろけ、胸から突き出た短剣を引き抜いた拍子に足を踏みはずし、仰向けに階段をころげ落ちた。
「不測の事態のために、いつも少しとってあるんですよ」サディは答えながら、ひょいと首をひっこめて剣をかわし、毒塗りの短剣でグロリムの腹を切りさいた。グロリムは一瞬身体をこわばらせてから、ゆっくりと階段のわきにひっくりかえった。黒装束の連中が多数、背後からガリオンたちの不意をつこうと、階段のごつごつした側面をはいあがってきた。ヴェルヴェットは膝をつくと、冷静に、階段のてっぺんからのぞいたグロリムの上向いた顔に短剣をつきたてた。男はしわがれた叫びをあげて顔をつかみ、うしろ向きに倒れて、仲間の何人かを巻きぞえに落下した。
つぎに金髪のドラスニアの娘は階段の反対側へかけつけ、絹の紐をふりだすと、階段をはいあがってきたグロリムの首にてぎわよくそれを巻きつけた。ヴェルヴェットはもがいている相手の両腕の下をくぐりぬけ、背中合わせになってから、身体を前に倒した。グロリムの両足が階段から浮き上がり、相手は両手で首に巻きついた紐をつかもうとした。足がむなしく空を蹴っているあいだに、顔がどすぐろくなり、やがて身体がぐったりとなった。ヴェルヴェットはふりかえると紐をほどいて、動かない身体を情け容赦なくわきへ蹴飛ばした。
ダーニクとトスはガリオンとザカーズのとなりへ移動していた。四人は落ちついて階段を一段一段おりていくと、かれらを迎え討とうとかけあがってくる黒装束の数人を斬ったり、たたきのめしたりした。ダーニクのハンマーの威力たるや、リヴァの王の剣とさして変わらぬ効果をもっているようだった。無情に階段をおりていくかれらの前で、グロリムたちがつぎつぎと倒れた。トスはダーニクの斧で規則正しく敵をたたき斬っていた。その顔は木を伐る人のように無表情だった。ザカーズはフェンシングの選手を思わせた。軽いが巨大な剣でフェイントをかけたり、敵をかわしたりした。ザカーズの突きはすばやく、たいていは致命傷を与えた。このおそるべき四人組の下の階段にはたちまちねじれた死体が散乱し、血の川が流れはじめた。
「足もとに気をつけろ」ダーニクがまたひとりグロリムの頭蓋骨をたたきつぶしながら、警告した。「階段がすべりやすくなってきている」
ガリオンはまたもグロリムの頭を斬り落とした。胴体が階段のわきにひっくりかえると同時に、頭は子供のボールよろしくはねながら階段を落ちていった。ガリオンは肩ごしにすばやくうしろを見た。ベルガラスとベルディンはヴェルヴェットに加勢して、階段の側面をはいあがってくる黒装束の男たちを撃退していた。ベルディンは鉤のように先端の曲がったナイフをグロリムの目に突き立てることに、よこしまな喜びを感じているようだった。そのうちかれは鋭くナイフをねじって、大きな脳みその塊をほじくりだした。ベルガラスは親指をベルトがわりのロープにひっかけて、平然と相手の攻撃を待っていた。グロリムの頭が階段の端にのぞくと、老人は片足をうしろへ引いてトラクを崇拝する僧侶の顔面を蹴飛ばした。階段から石の野外劇場までの距離は三十フィートもあったから、ベルガラスに蹴落とされてまたはいあがってこようとするグロリムはほとんどいなかった。
かれらが階段をおりきったとき、ザンドラマスの手下のグロリムたちの大半は死んでいた。サディが例によって慎重に、すばやく階段の片側からもう片側へと移動しながら、野外劇場の床に落下していたグロリムたちの身体に――負傷してうめいている者同様、ぴくりともしない死体にも――毒塗りの短剣を平静に刺してまわった。
ザンドラマスは敵の襲撃の激しさにおどろいたようだった。しかし一歩もあとへは引かず、さげすむような不敵な態度をとっていた。彼女の背後に、恐怖のあまりだらしなく口をあけた男が立っていた。安っぽい冠をかぶり、着古したような王衣をまとっている。容貌がどことなくザカーズに似ていたので、ガリオンはこれがオトラス大公だろうと思った。そしてついに、ガリオンは自分の幼い息子を見た。血なまぐさい襲撃のあいだ、かれは息子を見ないようにしてきた。一瞬の気の迷いも許されないときに、息子を見ればどうなるかわからなかったからだ。ベルディンが言っていたとおり、ゲランはもはや赤ん坊ではなかった。金髪の巻毛が顔にやわらかさを添えているが、父の視線を受け止めたその目は毅然としていた。ゲランはあきらかに、かれの腕をきつく握っている女を憎悪していた。
ガリオンが重々しく剣をひさしのところまで持ちあげて敬礼すると、ゲランも同じように重重しく空いているほうの手を上げてそれに答えた。
それからリヴァの王は足元にころがっているグロリムの頭をわきへ蹴るのに一瞬立ち止まっただけで、情け容赦のない前進を開始した。ダル・ペリヴォーで感じていた不安は、いまはきれいさっぱり消えていた。ザンドラマスはわずか数ヤード先に立っていた。ザンドラマスが女だという事実も、もはや問題にならなかった。かれは燃える剣を持ちあげて、歩きつづけた。
視界周辺のゆらめく影がしだいに黒くなって、ガリオンがちゅうちょすると恐怖感が増大した。どんなに抑えようとしても、その恐怖はもみ消せなかった。かれはためらった。
はじめはぼんやりしていた影が凝固してすさまじい形相の顔となり、それが黒装束の女魔術師のうしろにそびえたった。目はうつろな空洞、口はあたかもその顔の持ち主が光や栄光のある場所からは想像もつかぬ恐怖に突き落とされたかのような、言葉では言いあらわせない喪失の表情に開いている。だが、その喪失があらわしているのは情熱ややさしさではなく、むしろその悲哀を分かちあう相手を見つけようとするすさまじいまでの欲求だった。
「地獄の大王を見るがいい!」ザンドラマスが勝ち誇ったように叫んだ。「かれがおまえたち全員を永遠の闇と炎と絶望の中へひきずりこむまで、短い生を味わうがいい」
ガリオンは足をとめた。この世のものとも思えぬその恐怖に立ち向かうのはむずかしかった。
と、そのとき、記憶の中から声がした。声とともにイメージがわきあがった。かれはどこかの森のじめじめした空き地に立っていた。軽い霧雨が、低くたれこめた夜空から落ちて、足もとの枯葉がぬれそぼっていた。エリオンドが落ちつきはらって、みんなに話しかけている。これは自分たちがザンドラマスと最初に遭遇した直後の情景だ、とガリオンは悟った。あのときザンドラマスはドラゴンの姿でかれらに襲いかかってきた。「でも、火はほんものじゃなかったんだ」と若者は説明していた。「みんなそのことを知らなかった?」エリオンドはかれらの無知に少しおどろいたように見えた。「あれはただのまぼろしだったんだよ。すべての悪は実際には――まぼろしなんだ。心配させてしまったなら悪かったけど、説明している暇がなかったんだ」
それが鍵だったのだと、いまガリオンは悟った。幻覚は攪乱された心が生みだすものだったのだ。まぼろしは現実ではない。ぼくは気が変になっているわけではない。地獄の大王の顔は、セ・ネドラがケルの下方の森で出会ったアレルのまぼろしのように、現実ではないのだ。〈闇の子〉が〈光の子〉に太刀打ちするために持っている武器は、心を標的にしたケチな小手先のもの、つまりまぼろしだけなのだ。まぼろしは強力な武器ではあるが、きわめてもろくもある。一筋の光で破壊されてしまう。ガリオンはふたたび歩きだした。
「ガリオン!」シルクが叫んだ。
「顔なんか無視しろ」ガリオンは言った。「あれはほんものじゃない。ザンドラマスはぼくたちをおびやかして気を動転させようとしているんだ。あの顔はそこにはない。影ほどの実体もないのさ」
ザンドラマスがひるむと、彼女の背後の巨大な顔がゆらめいて消えた。ザンドラマスの視線がすばやく左右に動き、洞窟の入口に束の間静止するのをガリオンは見逃さなかった。ガリオンは直観した。洞窟になにかある――ザンドラマスの最後の楯となるなにかがあるのだ。そのとき、ザンドラマスは〈闇の子〉につねに仕えていた悪魔という武器が消えたこともかまわず、残りのグロリムたちにすばやいジェスチャーを送った。
「やめよ」それはケルの女予言者のあかるく澄んだ声だった。「これは認められぬ。決着をつけるのは〈選択〉であって、無分別な喧嘩であってはならぬのじゃ。剣をおさめよ、リヴァのベルガリオン、手下をさがらせよ、ダーシヴァのザンドラマス」
ガリオンはふいに脚の筋肉がこわばって、一歩も前に進めないのに気づいた。やっとのことで身体をねじってふりむくと、シラディスがエリオンドに導かれて階段をおりてくるのが見えた。そのすぐあとから、ポルおばさん、ポレドラ、リヴァの女王がおりてくる。
「ふたりがここで分かちあう務めとは」シラディスがひびくコーラスのような声でつづけた。「殺しあうことではない。いずれか一方がもう一方を殺すようなことがあれば、そなたたちの務めは果たされぬままに終わり、わたしもまたわたしの務めを完了できなくなる。このように、いまもこれまでもすべてがそうだった。そしていま殺しあうことになれば、すべてが永遠に滅びるであろう。剣をおさめよ、ベルガリオン。グロリムたちを遠ざけるのじゃ、ザンドラマス。〈もはや存在しない場所〉に入り、選択をしようではないか。宇宙はわれらがぐずぐずしていることにうんざりしている」
ガリオンはしぶしぶ剣を鞘におさめたが、ダーシヴァの魔女は目を細めると、ぞっとするような無表情な声でグロリムたちに命令した。「アンガラクの新しい神の名において、めしいのダラシア人を殺すのだ」
神がかった精神の高揚にとらわれている残りのグロリムたちが階段のふもとに向かって前進しはじめた。エリオンドがためいきをついて、きっぱりとシラディスをかばうようにシラディスの前に立った。
「その必要はない、〈珠を運ぶ者〉」シラディスが言った。彼女がかすかに首をかしげると、コーラスの声がにわかに大きくなった。グロリムたちはひるんだかと思うと、あたりを手探りしはじめ、周囲の日光に見えない目をこらした。
「これが呪いなんだな」ザカーズがささやいた。「ケルの周囲にはりめぐらされているというあの呪いだ。グロリムたちは目が見えなくなっているぞ」
だが、こんどのグロリムたちが闇の中で見たものは、かれらがケルの上の羊のいる野営地で会ったあの年老いたトラク崇拝の穏やかな僧侶が見ていた神の顔ではなく、まったく別のなにかだった。呪いはどうやらふたつあるようだった。グロリムたちははじめ警戒の叫びをあげ、つづいて恐怖の声をたてた。やがて叫びが悲鳴になり、かれらは向きを変えて我先にとよつんばいになって自分たちの見たものから逃げだそうとした。かれらはやみくもに水際まではっていき、サディがあの不思議な粉を顔に投げつけた大男のグロリムの後を追った。もがきながら、いまは穏やかにうねっている波の中へはいっていき、ひとりずつ階段から足を踏みはずして深い海中に落ちた。
泳げる者もいたが、ごく小数だった。泳げる者は死にものぐるいで避けられぬ死に向かって泳いでいった。そうでない者は海中に沈み、頭がすっかり見えなくなったあとも、両手を海面から突きだしていた。しばらくのあいだ泡の柱が黒い海面にのぼってきたが、やがてそれも消えてしまった。
アホウドリが巨大な翼を静止させて泡立つ海の上を漂っていたが、少しすると野外劇場の上へもどってきた。
[#改ページ]
6
「これでそなたはこれまで選んできたように、ひとりぼっちになった、〈闇の子〉よ」シラディスがいかめしく言った。
「ここにいた連中などどうでもよかったのさ、シラディス」ザンドラマスは冷淡に答えた。「連中は目的を果たした。もはや用済みなのだ」
「ではその入口をくぐり、〈もはや存在しない場所〉にはいってサルディオンの前に立ち、そなたの選択をする覚悟ができたのか?」
「もちろんだよ、聖なる女予言者」ザンドラマスは思いがけない温和な口調で同意した。「喜んで〈光の子〉とともにトラクの神殿に入ろう」
「用心しろよ、ガリオン」シルクがささやいた。「どうもくさいぜ。ザンドラマスのやつ、なにかたくらんでる」
だがシラディスも策略に気づいたようだった。「急に態度を変えたのはどういうわけじゃ、ザンドラマス。そなたはこの数ヵ月というもの、この対決を避けようと無益な試みをしてきた。ところがいまになってばかに熱心に洞窟へ入ろうとしている。なにがそうまでそなたを変えたのじゃ? ことによると、その洞窟には目に見えぬ危険がひそんでいるのではないか? そなたはいまだに〈光の子〉を死へとおびきよせ、〈選択〉の必然性を避けようと考えているのか?」
「その問いにたいする答えは、めしいの魔女、あの入口の中にあるよ」ザンドラマスはしわがれ声で答えると、きらめく顔をガリオンに向けた。「もちろん偉大なる〈神をほふる者〉は恐れてなどいない。それともトラクを殺したかれは、突然臆病風に吹かれてちぢみあがるのだろうかね? ただの女であるあたしが世界一のつわものにどんな脅威を与えられるというのさ? では、一緒にこの洞窟を調べてみようじゃないか。安心してあたしは身の安全をおまえの手にゆだねるよ、ベルガリオン」
「そうではなかろう、ザンドラマス」ケルの女予言者はきっぱりと言った。「いまさらごまかしや裏切りはきかぬ。〈選択〉だけがそなたを自由にする」シラディスは言葉を切って、つかの間頭を垂れた。ガリオンはまたあのコーラスのようなつぶやきを聞いた。「ああ、それでわかった」ようやくシラディスは言った。「天の書のある一節が不明瞭だったのが、いまあきらかになった」彼女は入口のほうを向いた。「出てくるがよい、魔神よ。闇に潜み、餌食を待つのはよして、わたしたちにそなたが見えるよう出てくるがよい」
「だめだよ!」ザンドラマスがしわがれ声で叫んだ。
だが遅すぎた。しぶしぶと、まるで駆りたてられるように、傷つき、足をひきずったドラゴンが洞窟からよろよろとあらわれ、咆哮しながら炎と煙の渦を吐いた。
「またか」ザカーズがうめいた。
だがガリオンが見たのは、ドラゴンだけではなかった。ほんの十四歳のころ、ヴァル・アローン郊外の雪に埋もれた森で、猪に槍を突き刺したあと逆に猪に襲われそうになったことがある。そのとき、かれを救いに突進してきたおそろしい熊にバラクの姿形がだぶって見えたように、いま、ドラゴンに魔神モージャの姿が重なって見えた。モージャは、わめくウルヴォンを地獄の底無し穴へひきずりこんだ悪魔ナハズの宿敵だった。モージャは六本の蛇のような腕で巨大な剣をつかんでいた――忘れようにも忘れられない剣だ。魔神はドラゴンの姿形の中に閉じこもったまま、トラクのおそるべき影の剣、クスゥレク・ゴルを振りまわしながら大きく前に進みでた。
重なりあった見るもいまわしい獣がかれらに向かってきたとき、頭上の真っ赤な雲から稲妻がほとばしった。「広がれ!」ガリオンは叫んだ。「シルク、みんなに散らばるように言うんだ!」大きく息を吸うと、すさまじい稲妻が赤く怒ったような空から落下し、地面をゆるがす大音響とともにテラスつきのピラミッドの両側を打ち砕いた。「行こう!」ガリオンはザカーズに叫ぶと、ふたたび〈鉄拳〉の剣を抜きはなった。だがつぎの瞬間、かれはおどろいて棒立ちになった。ポレドラがまるで草原でも横切るかのように落ちつきはらって、おそろしい悪魔に近づいていった。「おまえの師は〈まやかしの神〉であろう、モージャ」ポレドラは急に動けなくなった目の前の獣に言った。「でも、まやかしのときはもう終わりなのだよ。ほんとうのことだけをお言い。おまえのここでの目的はなに? この場所でのおまえの仲間たちの目的はなんなの?」
魔神はドラゴンの姿の内側で凍りついたようになり、身動きしようと憎悪のうなりをあげながらのたうちまわった。
「お言い、モージャ」ポレドラは命令した。「だれがどういう力を持っていたの?」
「言うものか」モージャは吐き捨てるように言った。
「言うとも」ガリオンの祖母はぞっとするような静かな声で言った。
モージャはとたんに激しい苦痛の叫びをあげた。
「おまえの目的はなんなの?」ポレドラは重ねてたずねた。
「おれは地獄の大王に仕えているんだ」悪魔は叫んだ。
「で、地獄の大王のここでの目的は?」
「力の石を手に入れることさ」モージャはわめいた。
「それはまたなぜ?」
「鎖を壊すためだ。呪うべきウルが大昔にかれをしばりつけた鎖をな」
「ではどうしておまえは〈闇の子〉を助けているの、それにおまえの敵のナハズはどうしてトラクの弟子を助けたの? おまえの師は、ナハズとザンドラマスが神を呼びだそうとしたのを知らなかったの? 地獄の大王をよりいっそうしっかりとしばりあげる神を?」
「かれらが求めたものなどどうでもよい」モージャはどなった。「ナハズとおれは事実いがみあっていたが、おれたちの争いは狂ったウルヴォンのためでも、あばずれのザンドラマスのためでもなかった。やつらのどちらかがサルディオンを手に入れた瞬間に、地獄の大王がおれの手――あるいはナハズの手――を通してその石をつかむのだ。それから石の力を使い、おれたちのどちらかがクトラグ・ヤスカを〈神をほふる者〉から力ずくで取り上げ、両方の石を師に渡すのだ。師がふたつの石を持った瞬間、師が新しい神となる。鎖はちぎれ、師は同等の力――いやそれ以上の力を持つ神として、ウルと戦うのだ。そして一切は師ひとりのものとなる」
「では、〈闇の子〉やトラクの弟子の運命は?」
「やつらがおれたちの報酬となることになっていた。いまもナハズは地獄の真っ暗な穴の中で狂ったウルヴォンを果てしなく食らっているだろう。ちょうどこれからおれがザンドラマスを食らうようにな。地獄の大王が与えてくださる最後の報酬は、永遠の苦痛なのだ」
ダーシヴァの魔女は自分の運命がかくも残酷に語られるのを聞いて恐怖のあえぎをもらした。
「おれをとめることはできないぜ、ポレドラ」モージャはあざけった。「地獄の大王がおれの手に力を与えてくださったからな」
「でも、おまえの手はこのぶざまな獣の身体に閉じこめられているのよ」ポレドラは言った。「おまえはおまえの選択をした。そしてこの場所では、いったんなされた選択は取り消せないわ。おまえはひとりで戦うのね。おまえの唯一の味方は地獄の大王ではなく、おまえが選んだこの愚かな獣にすぎないのだから」
悪魔は牙がぎっしり生えたおそろしい口をかっと開いて大声でわめくと、巨大な肩をゆすって、自分を閉じこめているその姿から自由になろうと死にものぐるいでもがいた。
「つまり、われわれは悪魔とドラゴンの両方と戦わねばならないということか?」ザカーズがふるえる声でガリオンにたずねた。
「そうらしいな」
「ガリオン、気でもくるったのか?」
「それがぼくたちのすることなんだ、ザカーズ。ポレドラがすくなくともモージャの力を制限してくれた――どうやったのかはわからないが、制限してくれたのは確かだ。全力を出しきれないんだから、ぼくたちにも見込みはある。やってみよう」ガリオンはガチャリとひさしをおろすと、燃える剣を振りまわしながら大股に進みでた。
シルクや他の面々はばらばらに分かれて、両側と背後からドラゴンに近づいていった。
ザカーズと用心深く歩を進めるにつれて、ガリオンは大きな利点になりそうなことに気づいた。ドラゴンの原始的な心と悪魔の老練な精神との融合が完全ではないのだ。ドラゴンは思いこんだら他のことには気がまわらない愚直さで、真正面に立っている敵だけに、片方しかない目を向け、両側から迫ってくるガリオンの仲間たちには目もくれずに突進してきた。だがモージャは両側と背後からの危険にじゅうぶん気づいている。蝙蝠《こうもり》のような翼を持つ巨大な生き物の内側で不自然に合体している精神の作用で、ドラゴンがドラゴンらしからぬためらいを示した。そこをすかさずシルクが、倒れているグロリムから奪った剣で背後から突っこみ、のたうっている尻尾に雄々しく切りかかった。
ドラゴンは苦痛の叫びをあげて、大きくあけた口からいきなり炎を吐いた。モージャが働かせていたわずかな支配力を無視して、ドラゴンはぎごちなく振りかえり、シルクの攻撃に応じようとした。だがちびの泥棒は身も軽くドラゴンをかわし、それと同時に他の仲間がわきばらに襲いかかった。ダーニクは一定のリズムで無防備なわきばらにハンマーをふりおろし、その間トスがもう一方のわきばらをめちゃくちゃにたたき切った。
ドラゴンがシルクの攻撃にはむかおうと、ほぼ完全に向きを変えるのを見たとき、命がけの計画がひとりでにガリオンの頭に浮かんだ。「尻尾をやるんだ!」かれはザカーズに叫ぶと、助走できるように数歩うしろへさがり、走りだした。鎧兜のせいで、動作はぎごちなかった。かれはのたうつ尻尾にとびのると、そのままドラゴンの背中へ駆け上がった。
「ガリオン!」セ・ネドラが恐怖の悲鳴をあげるのが聞こえた。かれは妻のおびえた悲鳴を無視して鱗だらけの背中をよじのぼり、ついに蝙蝠《こうもり》のような翼のあいだにあるドラゴンの肩の上に立った。ドラゴンが燃える剣の攻撃をこわがりもしなければ、感じもしないことはわかっていた。だが、モージャはこわがるはずだ。かれは〈鉄拳〉の剣を両手で持ちあげると、鱗におおわれた首の根もとにふりおろした。ドラゴンは恐ろしい頭を動かして火と煙を吐きながら、警戒もせずに攻撃者を捜し求めた。しかし、モージャは〈珠〉の力に焼かれて悲鳴をあげた。思うつぼだった。ドラゴンは独力では多数の攻撃に立ち向かえない。この状況でドラゴンをきわめて危険な生き物にしているのは、魔神の知力だったが、ガリオンは以前の経験から、〈珠〉が悪魔に耐えがたい苦痛を与えられるのを知っていた。〈珠〉の威力は神の力をもしのぐのである。悪魔たちは神々の前から逃げだすが、〈アルダーの珠〉の懲らしめからは逃げられない。「もっと熱く!」ガリオンはまたも剣を持ちあげながら石に命じた。そしてふたたび斬って斬って斬りつけた。巨大な剣はもはやドラゴンの鱗にはねかえされることなく、鱗を焼いて肉に達した。ドラゴンの中に閉じこめられたおぼろげなモージャの姿が絶叫した。剣がドラゴンの首を斬ると同時に悪魔の首をも斬ったのだ。さらに一撃を加えかけたところで、ガリオンは剣を引き、柄《つか》の横木の部分を握りしめてばかでかいドラゴンの肩の中央にずぶりと突き立てた。
モージャが悲鳴をあげた。
ガリオンは剣を前後にねじって傷口をさらに広げた。
ドラゴンさえもそれを感じて、甲高い鳴き声をあげた。
ガリオンはふたたび剣を引き抜くと、血まみれの傷口に、こんどはさらに深く剣を突き刺した。
ドラゴンとモージャがそろって絶叫した。
おかしなことに、ガリオンは過ぎ去った少年のころのことを思いだした。クラルトじいさんが柵の柱を立てようと、穴を掘っているのを眺めていたときのことだ。ガリオンは意識的にあの年配の農場労働者のリズミカルな動作をまねた。クラルトがシャベルを高々と持ちあげたように、引き抜いた剣を頭上高くふりあげて、ドラゴンの肉に突き立てた。突き立てるたびに傷は深くなり、ふるえる肉から血がほとばしった。一瞬白い骨が見え、かれは狙い場所を変えた。〈鉄拳〉の剣でさえ、その木の幹のように太い背骨をたたき斬ることはできなかったからだ。
仲間たちはしばらくうしろへさがって、リヴァの王の正気とは思えぬ大胆不敵な行為をあぜんとしてながめていた。やがて、ドラゴンの蛇のような頭が空中高くもたげられ、ドラゴンが死にものぐるいで振りむいて、背骨にあけた巨大な穴を攻撃している敵に噛みつこうとするのに気づくと、仲間はわれにかえって攻撃しはじめた。ドラゴンののど、腹、脇をおおう比較的やわらかな鱗を突き刺しはじめた。巨大な獣に踏みつけられないように、すばやい突進と後退をくりかえしながら、シルク、ヴェルヴェット、サディは、逆上したドラゴンの無防備な腹側を攻撃した。ダーニクが着実にドラゴンのわきばらをたたきつづけ、肋骨を堅実に一本ずつへし折るあいだ、トスは反対側のわきばらをたたき斬った。ベルガラスとポレドラはふたたび狼になってのたうつ尻尾に噛みついていた。
やがてガリオンは捜し求めていたものを見た――もやい綱を思わせる腱がドラゴンの巨大な一方の翼の下に下向きに通っていたのだ。「もっと熱くなれ!」かれはまた〈珠〉に叫んだ。
剣が新たにぱっと燃え上がった。こんどはガリオンは剣をふりおろさなかった。かわりに刃の部分を腱にあてて前後にひき、たたき斬るというより頑丈な靱帯を焼ききることにとりかかった。
炎の充満した口からすさまじい苦痛のわめき声がひびきわたった。ドラゴンはよろめいて倒れ、巨大な四肢を激痛のあまりばたつかせた。
ガリオンはドラゴンが倒れた拍子に投げだされた。必死にころげまわって、宙をひっかく爪から逃れようとした。そのときザカーズがあらわれて、力まかせにガリオンをひっぱって立たせた。「気は確かか、ガリオン!」かれは悲鳴にも似た声で叫んだ。「大丈夫か?」
「なんでもない」ガリオンはしっかりした声で言った。「ケリをつけてしまおう」
だが、すでにトスが駆けつけていた。ドラゴンのばかでかい頭部の陰に大きく足を広げて立ち、ドラゴンののどもとに斧をふりおろしていた。切断された動脈からおびただしい血がほとばしり、物言わぬ巨漢はがっしりした肩を波うたせて、樽のようなのど笛をさがしあてて切断しようとした。ガリオンたちの執拗な攻撃にもかかわらず、ドラゴンにさしたる変化はあらわれなかった。しかし、トスの一心不乱な攻撃はドラゴンの命を脅かしていた。もしかれが太い軟骨のようなそののど笛を切断するか、あるいはそれに穴をあけるかでもしたら、ドラゴンは息ができなくなって、あるいは血でのどをふさがれて、死ぬだろう。ドラゴンは前足で地面をかきむしって、物言わぬ大男の上にのしかかろうとした。
「トス!」ダーニクが叫んだ。「逃げろ! やられるぞ!」
だが、攻撃したのは牙の生えた口ではなかった。血まみれのドラゴンの身体の内側に、ガリオンはモージャの不明瞭な姿が死にものぐるいで影の剣、クスゥレク・ゴルを持ち上げるのをおぼろげに認めた。つぎの瞬間、魔神は剣を突きだした。刃が空気を貫くようにドラゴンの胸を突き抜けて、あっというまにトスを串刺しにした。物言わぬ巨漢は身体をこわばらせたかと思うと、死にあっても叫びすらあげられずにぐったりとくずれおちた。
「やめろ!」ダーニクが言いようのない喪失感にうちひしがれた声でわめいた。
ガリオンの心が氷に変わった。「ドラゴンの歯を遠ざけておいてくれ」感情を抜き取ったような平板な口調でザカーズに言うと、これまでのどんな攻撃もかなわない一撃を加えようとふたたび剣をふりあげた。かれはトスがあけた傷口ではなく、ドラゴンの広い胸に狙いをさだめた。
クスゥレク・ゴルがガリオンをはねつけようと中からひらめきでたが、死にものぐるいで身を守ろうとするその一突きをかわし、かれは剣の柄《つか》の大きな横木を肩にあてた。そしてひるんでいる悪魔を憎悪ひとすじの視線で釘づけにした。〈珠〉が力を解き放ち、すさまじいうねりが生じて、ガリオンはよろめきそうになった。
リヴァ王の剣が水に沈む棒のように、抵抗なくドラゴンの心臓につきささった。
ドラゴンと魔神の双方から恐ろしいわめき声があがり、それが突然ごぼごぼというためいきにも似た音にのみこまれた。
ガリオンは陰気に剣を引き抜くと、けいれんしている獣からさがった。と、炎上する家屋が焼け落ちるように、ドラゴンは地面にくずれ、二、三度けいれんして動かなくなった。
ガリオンはそっとふりかえった。
トスの顔は穏やかだったが、目隠しをしたシラディスがかれの遺体の片側に、ダーニクがその反対側にひざまずいていた。ふたりともはばかることなく泣いていた。
頭上高く、アホウドリが一度だけ鳴き声をたてた。悲痛な鳴き声だった。
シラディスは涙で目隠しをぬらして泣いていた。
けむったようなオレンジ色の空が頭上で渦巻き、ところどころに墨を流したように黒い部分のある層雲が、移動し、とぐろを巻き、波動した。昇ったばかりの太陽に底を染められた雲が身悶え、おののいて、酔っぱらったような稲妻を引き起こし、その稲妻がどんよりした空をよろめき落ちて峰の頂上にある片目の神の祭壇を無残に打ち砕いた。
シラディスは泣いていた。
野外劇場の床の鋭い四角い石は、夜明けまで珊瑚礁をおおっていたからみつくような霧と、きのうのどしゃぶりのためにまだ黒くぬれていた。鉄のように堅牢なその石の白い斑点が、ぬれた光沢の下で星のように輝いた。
シラディスは泣いていた。
ガリオンは深く息を吸いこむと、野外劇場を見まわした。それははじめにかれが想像していたほど大きくなかった――こんな小さな所で、あれほどの出来事が起きたのかと思うほどだった。だが、そう考えるなら、世界だって、そこで起きていることを包含できるほど大きくはない。仲間たちの顔は空から落ちてくるどもるような稲妻の強力な閃光を浴びて、周期的に死人のように白く輝き、まるでたったいま起きたことのすさまじさに恐れおののいているように見えた。野外劇場にはグロリムの死体が点々と散らばっていた。石の上にちぢんだ黒い物体となって横たわり、あるいは、骨なしのぐにゃぐにゃしたかたまりのように階段に倒れている。ガリオンは奇妙な声のないとどろきがしだいに小さくなり、ためいきのようになって消えるのを聞きつけた。なげやりにドラゴンに目を向けると、大きく開いた口から舌が突きでていた。爬虫類特有の目が無表情にガリオンを見つめかえしている。かれが聞いた音は、その巨大な死骸からもれてくるのだった。内臓が死に気づかずに、消化という機械的な仕事をつづけているのだ。ザンドラマスはショックのあまり棒立ちになっていた。自分の育てた動物と、その動物をわがものにするために送りこんだ悪魔がともに死に、〈選択〉の場所に力も楯もなく立つことだけは避けようとしてきた必死の努力が、さながら打ち寄せる波にくずれさる子供の砂の城よろしく、こなごなに砕かれてしまったからだ。ガリオンの息子が、信頼と誇りのこもった目で父親を見、ガリオンはその澄んだ視線からたしかななぐさめを得た。
シラディスは泣いていた。ガリオンの意識の中にある他の一切は回想といきあたりばったりの印象から引きだされていた。しかし、ひとつだけ疑いの余地のない事実があった。ケルの女予言者が苦悩におしひしがれているということだ。ほかでもないこのとき、彼女は宇宙でもっとも重要な人物だった。おそらくこれまでもずっとそうだっただろう。世界はこのたったひとつの〈選択〉をするために、このときこの場所にこのかよわい娘を連れてくる目的を表明するために創造されたといってもいい、とガリオンは思った。だが、いま彼女にそれができるだろうか? 彼女の案内役であり保護者であった者――彼女が真に愛していた世界でたったひとりの人間――の死が、〈選択〉をする力を彼女から奪ってしまったのではないだろうか?
シラディスは泣いていた。彼女が泣いているあいだも時間はすぎていった。ガリオンは予言者たちを導くあの天の書を自分が読んでいるかのように、いまはっきりと悟った。対決と〈選択〉のときは、ほかでもないこの日というだけではなく、この日の特定の瞬間に実現するということを。そしてシラディスが耐えがたい苦悩にうちひしがれ、その瞬間に選択をすることができなかったら、過去、現在、未来の一切がはかない夢のようにゆらめいて消えてしまうということを。彼女は泣きやまなくてはならない。さもないとすべてが永遠に失われてしまう。
それは澄んだひとつの声ではじまった。声はしだいに高まって、人間の悲哀のすべてを結集した哀歌となった。すると、他の声たちが単独で、あるいは三重唱で、あるいは八重唱で、その胸をひきさくような歌に加わった。予言者たちの集団意識のコーラスはケルの女予言者の苦悩の深さを理解すると、真っ暗な絶望の中へはいりこみ、しだいに弱まって墓石の沈黙よりもさらに深い静寂の中へ消えていった。
シラディスは泣いていた。だが、ひとりで泣いているわけではなかった。彼女の全種族が、ともに泣いていた。
そのうら悲しい声がふたたびはじまった。メロディは消えていったそれと似通っていた。ガリオンの音楽的素養に乏しい耳には、ほとんど同じように思えたが、微妙な和音の変化が生じていて、他の声たちが加わると、さらに和音が増えていつしか歌になり、最後の調べで苦悩と筆舌に尽くしがたい絶望が問われた。
またしても歌がはじまった。こんどは単独の声でではなく、力強い和音であり、その勝利にあふれた肯定は、天の根っこをゆるがすかと思われた。メロディは基本的には同じだったが、挽歌としてはじまっていたものがいまでは歓喜の歌になっていた。
シラディスがトスの片手をそっと動かない胸にのせ、乱れた髪をなでつけ、トスの身体ごしに手さぐりで手を伸ばし、ダーニクの涙にぬれた顔をなぐさめるようにさわった。
シラディスは立ち上がった。もう泣いてはいなかった。ガリオンの恐怖が、珊瑚礁をおおっていた朝霧が太陽の攻撃にあって退散したように、あとかたもなく消えた。「行くのじゃ」シラディスは決意をひめた声で言うと、邪魔者の消えた入口を指さした。「時は近づいている。洞窟にはいるのじゃ、〈光の子〉よ、〈闇の子〉よ。なぜなら、われらには、一度おこなえば、あとへは引きかえせぬ選択が待っているからじゃ。だから、わたしとともに〈もはや存在しない場所〉へ行き、全人類の運命を決するのだ」ケルの女予言者はしっかりした足どりで、トラクの顔の石面を上に飾った洞窟の入口に向かって歩きだした。
ガリオンはその澄んだ声にあらがえず、サテンのローブ姿のザンドラマスと並んでほっそりした女予言者についていった。〈闇の子〉とともに入口をくぐったとき、かれは鎧を着た右肩がかすかになにかにこすれるのを感じた。この対決を支配している力も完全に確信があるわけではないのだと気づいて、ガリオンはひねくれた楽しみをおぼえた。かれとダーシヴァの魔女のあいだには障壁が置かれていた。ザンドラマスのむきだしののどは、復讐に満ちた両手をのばせば簡単に届くところにあったが、その障壁のために、まるで月の向こう側にいるような、容易には殺せない状態になっていた。ガリオンはおぼろげに仲間があとについてきているのを知った。友人たちにつづいてゲランと、がたがたとふるえているオトラスがついてきている。
「そこまでする必要はない、リヴァのベルガリオン」ザンドラマスがせっぱつまった口調でささやいた。「あたしたちは全宇宙でもっとも力のあるふたりなのだよ。そのふたりが、この頭のおかしい娘のでたらめな選択に従うのかい? あたしたちの選択はあたしたち自身がしたらいい。そしてふたりとも神になるのさ。あたしたちならウルやその他の神々を敵にまわしても、楽に万物を支配できる」顔の皮膚の下で渦巻く光が、いまでは回転の速度を早め、目はぎらぎらと赤く光っていた。「いったんあたしたちが神になってしまえば、おまえはあの俗界の妻を捨てて――なんといってもあれは人間じゃないのだからね――あたしと夫婦になればよい。おまえはあたしによって神々の父親になれるのだし、天上の喜びを互いに味わえるのだよ。おまえだって男たちがみなそうだったように、あたしを美しいと思うだろう。あたしは神々の情熱でおまえの毎日を焼き尽くしてあげよう。そしてあたしたちは〈光〉と〈闇〉の合体を共有するのさ」
ガリオンはあっけにとられた。〈闇の子〉の精神の単純ぶりに空恐ろしくさえなった。事態は堅固な石のように動かすことも変えることもできないのだ。それが変わらないのは変われないからだ。ガリオンは重要ななにかをつかもうと、手さぐりしはじめた。光は変わることができる。日々がそれを証明している。闇は変わることができない。そのとき、ついにガリオンは宇宙をふたつに分断した永遠の不和のほんとうの意味を理解した。〈闇〉は不動の停止を求めた。だが〈光〉は進歩を求めたのだ。〈闇〉は認識ずみの完全性の中にうずくまったが、〈光〉はより完全になりうる可能性めざして動きつづけた。ガリオンが口を開いたときに言ったことは、ザンドラマスの露骨な誘惑への返事ではなく、〈闇の精神〉そのものにたいする返事だった。「事態は変わるんだ。おまえがなにをしようと、ぼくにそのことを疑わせることはできない。トラクはぼくの父親になることを提案し、こんどはザンドラマスがぼくの妻になることを提案している。ぼくはトラクを拒絶したし、ザンドラマスを拒絶する。ぼくを不動の状態に閉じこめることはできない。ぼくがたったひとつのささいなことがらを変えたら、おまえは負ける。できるものならその潮の流れを止めてみるがいい、そしてぼくが務めを果たす邪魔をしないでくれ」
ザンドラマスの口からもれたあえぎは単なる人間のあえぎ声ではなかった。ガリオンの突然の理解は〈闇〉の手先だけでなく、〈闇〉そのものを突き刺していた。かれはかすかな羽根でなぶられるような探りを感じたが、なすがままにされていた。
ザンドラマスが憎々しげなかすれ声をたてた。憎悪に満ちたいらだちで目が燃え上がった。
「ほしいものを見つけられなかったのか?」ガリオンはきいた。
女の口から出た声はそっけなく、無感動だった。「最後にはおまえが選択をしなければならないのだ」声は言った。
ガリオンの口から出た声もガリオンの声ではなく、無味乾燥で冷徹だった。「時間はたっぷりある」それは答えた。「わたしの道具は必要なときに選択をするだろう」
「賢明な行動だが、ゲームの終わりをしるすのはそれではないぞ」
「もちろんだ。最後の処置はケルの女予言者の手にゆだねられている」
「では、そうしよう」
かれらはカビくさい長い廊下を歩いていった。
「こういうのは大嫌いなんだ」シルクが背後でつぶやくのが聞こえた。
「大丈夫よ、ケルダー」ヴェルヴェットが小男をなぐさめている。「わたしがついているわ」
やがて廊下が広がって、水につかった洞窟になった。壁が不規則にごつごつしているのは、これが創られたものではなく天然の洞窟だからだ。向こうの壁から水がしみだして、鈴のような音をたてて暗い水たまりにしたたりおちていた。腐った肉の臭いと爬虫類特有のかすかな臭いがし、床にはかじられた白骨が散らばっている。皮肉な成行きによって、竜神の住処《すみか》は、いつしかドラゴンそのものの寝ぐらになっていた。この場所を守るのに、これほどぴったりの見張りはなかった。
近くの壁ぎわに、岩から掘りだしたばかでかい王座があり、その前にいまではすっかり見慣れた祭壇が立っていた。その祭壇の中央に人間の頭より大きな長方形の石が載っている。石は赤く輝いて、その邪悪な光が洞窟を照らしていた。祭壇の片側には人間の骸骨があった。骨の腕がなにかを求めるように伸ばされている。ガリオンはけげんに思った。トラクへのいけにえだろうか? ドラゴンの犠牲者か? そのとき、思い当たった。石の魅力にとりつかれて大学からサルディオンを盗み、この場所へ逃げてきたメルセネの学者が、ここで息絶えたのだ。
肩ごしにガリオンは〈珠〉がいきなり動物じみたうなりをあげるのを聞いた。すると、祭壇の上の赤いサルディオンからも似たような音がした。無数の言語の混乱したざわめきが起きた。いくつかはおそらく宇宙のはてから聞こえてきたのだろう。白濁した赤いサルディオンから青い筋が浮かび上がってきた。すると同じように、怒ったような赤が波状に〈珠〉を浸し、あらゆる時代のすべての争いがこの小さな閉ざされた場所に集まった。
「抑えろ、ガリオン!」ベルガラスが鋭く言った。「ほっておくと、かれらは互いを滅ぼしてしまうぞ――宇宙までもな!」
ガリオンは肩ごしに腕を伸ばし、しるしのあるてのひらで〈珠〉をおおうと、復讐にはやる石に無言で話しかけた。「まだ早い」かれは言った。「すべてはそのときがきてからだ」なぜ自分がその言葉を選んだか、説明できなかった。すねた子供のようにぶつぶつ言いながら〈珠〉は静かになった。するとサルディオンもしぶしぶうなるのをやめた。だが光はふたつの石の表面から消えなかった。
(じつに巧みだったな)ガリオンの意識の中の声がかれをねぎらった。(われわれの敵は今、いささか均衡をなくしている。だが、自信過剰になるな。われわれはここではやや不利なのだ。〈闇の子〉の精神はこの洞窟ではきわめて強いからな)
(どうしてそれを前に教えてくれなかったんです?)
(教えていたら、どうにかしていたか? 注意して聞け、ガリオン。わたしの敵は事態をシラディスの手にゆだねるべきだということに同意した。だが、ザンドラマスはそのような誓約はしなかった。彼女は最後の試みに出る公算が強い。ザンドラマスとサルディオンのあいだに入れ。なんとしてでも、彼女にあの石をさわらせてはならん)
(わかりました)ガリオンは陰気に言った。じわじわとサルディオンの前に立とうとすれば、ダーシヴァの魔女に感づかれるだろう。かれは代わりにいたって平然と、祭壇の前に立ちふさがって剣を抜き、剣の先を洞窟の床に突きたてて、柄《つか》の上で両手を交差させた。
「なにをするつもり?」ザンドラマスが疑わしげな、荒々しい声で問いただした。
「ぼくがなにをしているかわかっているだろう、ザンドラマス」ガリオンは答えた。「ふたつの精神はシラディスに決着をつけさせることに同意した。おまえが同意したとはまだ聞いていない。いまだに〈選択〉を避けられると思っているのか?」
光の点におおわれた顔が憎々しげにゆがんだ。「おまえはこのつぐないをするのだよ、ベルガリオン。おまえもおまえの愛する一切も、ここで滅びるのだ」
「それを決めるのはシラディスであって、おまえではない。シラディスが選択をしてしまうまでは、だれもサルディオンにさわることはないのだ」
ザンドラマスはやりばのない憤怒に歯ぎしりした。
そのときポレドラがサルディオンの光に黄褐色の髪を染めて、そばにやってきた。「大変よくできたわ、若い狼」彼女はガリオンに言った。
「おまえにはもう力がないのだよ、ポレドラ」ザンドラマスの結ばれた口から妙に抽象的な言葉がこぼれでた。
「そこだよ」ポレドラのくちびるを通して聞きおぼえのあるそっけない声がしゃべった。
「なんのことかわからぬ」
「わからないのは、役目が終わってしまうといつも道具を捨ててきたからだ。ポレドラは、ボー・ミンブルでの〈光の子〉だった。彼女はあそこでトラクを負かすことさえできたのだ――一時的であるにせよな。その力はひとたび与えられれば、完全になくなることはありえない。ポレドラが魔神をあやつったことからも、それくらいのことはわかりそうなものではないか?」
ガリオンはそれを聞いて仰天した。ポレドラが? 五百年前のあのおそるべき戦いのあいだ、〈光の子〉だった?
声はつづいた。「わかるか?」それは相手にたずねた。
「だからなんだというのだ? ゲームはもうじき終わる」
「わかるかと聞いているのだ。われわれのルールはおまえがそれを認めることを要求したのだぞ」
「けっこう。認めよう。ばかに子供じみているな」
「ルールはルールだ。それにゲームはまだ終わってはいない」
ガリオンはふたたびザンドラマスに視線をもどし、相手が急にサルディオンのほうへ動いてもそれに対処できるように警戒の目を光らせた。
「問題の時はいつなのだ、シラディス?」ベルガラスがケルの女予言者に静かにたずねた。
「まもなくじゃ」彼女は答えた。「もうまもなく」
「おれたちはみんなここにいるぜ」シルクが神経質に天井を見上げながら言った。「先に進まないか?」
シラディスは言った。「その日はきょうだが、その瞬間はまだなのじゃ、ケルダー。〈選択〉の瞬間、大いなる光があらわれるであろう。わたしでさえ見える光が」
最終的な〈出来事〉がいまにも起きようとしている事実をガリオンに気づかせたのは、かれを浸した一切を超越した不思議な平静心だった。それはクトル・ミシュラクの廃墟でトラクに会ったとき、かれを包みこんだあの穏やかな心と同じものだった。
すると、瞬間的ではあってもトラクの名を思い浮かべたことが、その片目の神の魂を永遠の眠りからさましたかのように、トラクのぞっとする声が『アシャバの神託』の最後のページにある、あの予言めいた一節を読み上げるのが聞こえたような気がした。
「互いの憎悪がいつの日か天を引き裂くことがあろうとも、われわれが兄弟であることを知るがよい、ベルガリオン。おそるべき務めを分かちあっている点で、われわれは兄弟なのだ。おまえがわたしの言葉を読んでいるということは、すなわちわたしはおまえに滅ぼされたということだ。したがって、わたしはおまえに務めの重荷を負おせなくてはならぬ。これらのページに予告されているのは忌まわしいことだ。それを実現させてはならぬ。世界を滅ぼすのだ。必要とあれば宇宙を滅ぼしてでも、それが実現するのを許してはならぬ。いまや過去のすべて、現在のすべて、未来のすべてがおまえの手に握られている。万歳、わたしの憎むべき兄弟よ、さらばだ。われわれは〈永遠の夜の都市〉で会うだろう――それとももう会ったのか――そしてわれわれの争いには決着がつく。しかし、務めはあいかわらず〈もはや存在しない場所〉でわれわれの前に横たわっている。われわれのひとりがそこへ行き、最後の恐怖に立ち向かわねばならぬ。それがおまえなら、われわれを裏切るな。他のすべてに失敗しようとも、おまえはひとり息子から命を奪わねばならぬ、ちょうどわたしから命を奪ったように」
ところがこんどはトラクの言葉は、ガリオンの胸を悲嘆で満たしはしなかった。それらはただかれの決意を固めると同時に、理解を深めただけだった。アシャバで出現したまぼろしのあまりの恐ろしさに、トラクは我にかえるやいなや、この恐るべき務めに秘められた可能性を、とっさに不倶戴天の敵に押しつけたのだ。トラクの異常なまでの自尊心もその瞬間的恐怖には勝てなかった。トラクが予言書のページに手を加えたのは、もっとあと、つまり、自尊心が盛りかえしてきたあとだったのだ。正気にかえったその寒々とした瞬間に、傷ついた神はおそらく一生に一度だけ真実を語ったのだろう。その真実の一瞬によって、自尊心をかなぐり捨てねばならなかったトラクの苦悩はどんなだっただろうか。心の奥でガリオンは古い敵が自分に課した務めに忠誠を誓った。「力の限りを尽くして、この忌まわしい出来事の実現を阻むぞ、兄弟」かれはトラクの魂に思考を投げた。「眠りにもどるがいい、重荷はぼくが引き受ける」
サルディオンの陰鬱な赤い輝きがザンドラマスの肉体に封じこめられた渦巻く光を静止させていた。ガリオンはいま相手の容貌をはっきりと見ることができた。ザンドラマスの表情は不安そうだった。自分を支配している精神の突然の同意に、あきらかに動転している。いかなる犠牲を払ってでも勝つという野望が、その精神の支えをなくして、くじかれてしまったのだ。彼女自身の心は――心というより、その残骸は――あいかわらず選択に直面するのを避けることに懸命だった。ふたつの予言はそもそものはじめから、一切をケルの女予言者の手にゆだねることに同意していた。数々のごまかし、ぺてん、そして世界中にしるされた〈闇の子〉の通過を物語る無数の残虐行為は、すべてダーシヴァの魔女自身のひねくれたグロリム的認識の結果だった。この瞬間のザンドラマスはこれまでの彼女よりもさらに危険だった。
「それで、ザンドラマス」ポレドラが言った。「おまえがわたしたちの対決に選んだときがいまなの? 最後の瞬間を間近に控えたいま、互いを滅ぼしあうのかしら? おまえがシラディスの選択を待てば、これまであんなに必死に求めていたものを獲得するチャンスは五分五分になるのよ。でも、わたしと対決すれば、おまえはすべてのことがらを運にまかせることになる。運まかせとひきかえに、成功の五分のチャンスを投げ捨てるの?」
「あたしのほうがおまえより強いのだよ、ポレドラ」ザンドラマスは不敵に言い放った。「あたしは〈闇の子〉なんだからね」
「そしてわたしは〈光の子〉だったのよ。まだあの力を奮い起こせる可能性はあるのよ。それなのに、危険な賭けをするつもり? すべてを賭けるの、ザンドラマス? なにもかも?」
ザンドラマスの目が細まり、ガリオンは彼女の意志が歯をくいしばるのをはっきり感じることができた。つぎの瞬間、すさまじいエネルギーのうねりと轟音とともに、ザンドラマスは意志を解き放った。闇のオーラがにわかにザンドラマスを包囲し、ザンドラマスはガリオンの息子をつかんで持ち上げた。「こんなふうに、あたしは支配するんだよ、ポレドラ!」しわがれ声で言うと、もがく子供の手首をひっつかみ、〈珠〉のしるしのあるゲランの手を自分の前に突きださせた。「ベルガリオンの息子の手がサルディオンにふれた瞬間、あたしは勝つ」ザンドラマスは一歩また一歩と容赦なく進みだした。
ガリオンは剣をもちあげて、切っ先をザンドラマスに狙い定めた。「あの女を押しもどせ」と〈珠〉に命令した。強烈な青い光が剣の先から飛びだした。黒いオーラにぶつかると光はふたつに分かれて影を包んだものの、ザンドラマスを食い止めることはできなかった。(なんとかしろ!)ガリオンは無言で叫んだ。
(干渉はできん)声が言った。
「ほんとうにそれがおまえにできる最善のことなの、ザンドラマス?」ポレドラが落ちつきはらってきいた。ガリオンはそれとまったく同じ口調をポルおばさんから何度も聞いたことがあったが、それほど不屈の決意がこめられていたことはなかった。ポレドラはなにげないともいえるしぐさで片手をあげると、意志を解き放った。そのうねりと物音に、ガリオンの膝はがくがくした。ザンドラマスとゲランを包んでいた黒いオーラが消えた。それでもダーシヴァの魔女はひるむことなくゆっくりと進みつづけた。「自分の息子を殺すのかい、リヴァのベルガリオン?」ザンドラマスはきいた。「息子を殺さずにあたしを斬ることはできないよ」
(ぼくにはできない!)ガリオンは叫んだ。ふいに涙があふれた。(だめだ!)
(やらねばならん。こういうことが起きる可能性は知らされていただろう。ザンドラマスがおまえの息子の手をサルディオンにまんまとふれさせたら、かれは死ぬよりひどいことになるのだぞ。やらねばならんことをやれ、ガリオン)
こらえきれずに泣きながらガリオンは剣をふりあげた。ゲランが静かな目でじっとガリオンの顔を見た。
「やめて!」セ・ネドラだった。彼女は洞窟の床を走ってザンドラマスの前に身を投げた。その顔は真っ青だった。「わたしの赤ちゃんを殺すつもりなら、わたしも殺さなくちゃならないわ、ガリオン」セ・ネドラはとぎれとぎれに言うと、ガリオンに背を向けて頭を垂れた。
「なおけっこうだね」ザンドラマスは小気味よさそうに目を細めた。「息子と妻を両方とも殺すのかい、リヴァのベルガリオン? その苦悩を墓までひきずっていくか?」
ガリオンは苦悶に顔をゆがませて燃える剣の柄《つか》をなお一層固く握りしめた。ひとふりで、自分の人生がめちゃくちゃになる。
ザンドラマスはゲランをつかんだまま、信じられずにガリオンを凝視した。「まさか!」彼女はわめいた。「できるものか!」
ガリオンは歯を食いしばり、剣をさらに高くふりあげた。
ザンドラマスの不安が突然恐怖に変わった。足がとまり、おそるべき剣の一撃からあとずさりはじめた。
「いまよ、セ・ネドラ!」ポルガラの声が鞭のようにしなった。
死に身をゆだねていたかに見えたリヴァの女王が、ばねのようにいきなり起き上がった。飛びかかってザンドラマスの腕からゲランを奪い、ポルガラのそばに逃げもどった。
ザンドラマスはわめきながら、顔に怒りをみなぎらせて追いかけようとした。
「およし、ザンドラマス」ポレドラが言った。「こちらへきたら、わたしがおまえを殺すわ――あるいはベルガリオンがね。おまえはうかつにもおまえの決心を暴露したのよ。おまえの選択は行なわれた。おまえはもう〈闇の子〉ではなく、ありふれたグロリムの尼僧にすぎないわ。おまえはもうここに用はない。好き勝手に立ちさるがいい――それとも死ぬか」
ザンドラマスは凍りついた。
「おまえの逃避もごまかしもすべて水の泡となったのよ、ザンドラマス。おまえにはもはや道はないわ。ケルの女予言者の決定に従うの?」
ザンドラマスはポレドラをにらみつけた。星におおわれた顔の上で、恐怖と激しい憎悪がせめぎあった。
「どうなの、ザンドラマス? 約束された高位への道を目前に死ぬ?」ポレドラの金色の目が射ぬくようにグロリムの尼僧の顔をのぞきこんだ。「ははあ、いやなのね」ポレドラは静かに言った。「おまえは死にたくないんだわ。死にきれないというわけね。でもおまえのその口から言葉が聞こえてくるのよ、ザンドラマス。さあ、シラディスの決定を受け入れるの?」
ザンドラマスは歯を食いしばって答えた。「受け入れる」
[#改ページ]
7
外では依然として雷鳴がとどろき、地球が創られたとき以来きざしていた嵐にともなう風が、外の野外劇場から洞窟に通じる通路でうなっていた。なかばうわの空でふたたび剣を鞘におさめながら、ガリオンは自分の意識が行なっていることを正確に認識した。過去にたびたび起きていたことなのに、どうして予測できなかったかと不思議だった。状況はかれの決定を求めていた。決定にもはや頭を悩ますこともなく、周囲の状態の細かな点検に神経を集中している事実こそ、かれがすでに心の奥底で決定をくだしている証拠だった。自分のしていることにはれっきとした理由があるとガリオンは思った。さしせまった危機や対決に神経を使っても興奮するだけだ。興奮すれば、もしこうなったらどうしよう≠ニいう無意味な不安が生じ、優柔不断に苦しむことになる。正しかろうと、正しくなかろうと、選択はもう行なわれたのだ。いつまでも心配してもなんの役にも立たない。ガリオンは選択が注意深い推論のみならず、深い感情にも基づいているのを知っていた。かれは静かな平安を感じていた。どんな選択だろうと、それが正しいのだという知識から生まれた平安だった。ガリオンは冷静に洞窟そのものに注意を移した。
サルディオンの赤い光がまんべんなくあたりを照らしているために、はっきりとはわからないが、壁の石は玄武岩の一種のように見えた。それが砕けて無数のひらべったい表面や尖った先端を形づくっている。床はきわめてなめらかだった。長年におよぶ辛抱強い水の侵食によるものか、あるいは、父であるウルと争い、最後には父を拒んでこの洞窟に逗留していたトラクが、なめらかなほうがよいと考えた結果か、そのいずれかだろう。洞窟の向こう側の水たまりにしたたっている水は、どことなく謎めいていた。ここは珊瑚礁にあるもっとも高い岩の峰なのだ。水はここから下へ流れるはずであって、壁のどこかに隠れた泉へのぼっていくことはありえない。ベルディンならたぶん説明してくれるだろう――それともダーニクなら。ガリオンはこの奇妙な場所では警戒を怠ってはならないことを知っていた。水力学に気をとられて気を散らすのはまっぴらだった。
この薄暗い洞窟ではそれが唯一の光源だったから、そのうちガリオンの無関心な目は自然とサルディオンに吸いよせられた。美しい石ではなかった。淡いオレンジと乳白色の細い縞もようが、〈珠〉が放つゆらめく青い光に染まっている。サルディオンは〈珠〉と同じようになめらかで磨きこまれていた。〈珠〉はアルダーの手によって磨かれていたが、サルディオンはだれの手によって磨かれたのだろう? 未知の神によって? 人間の先祖である獣じみた毛深い種族が鈍い目つきで石の上にしゃがみこみ、何代も何代も、このオレンジと白のなめらかな表面を人間の手というより動物の前足のような固くて爪の割れた手で、わけもわからずになでさすったのだろうか? そのような愚かな動物でさえ石の力を感じたことだろう。そしてそれを神と――あるいは神からもらった物体と――思ったのだ。機械的に石をなでさすったかれらの行為は、あいまいながら崇拝の行為だったのかもしれない。
つぎにガリオンは仲間たちの顔へ視線をさまよわせた。この世のはじめから星に大きく書かれていた運命に応えて、ほかならぬこの日にこの場所へかれとともにやってきた者たちの見慣れた顔を。トスの死が未回答だった問いに答えを与え、いまやすべてがととのっていた。
シラディスがまだ涙の跡が残る顔に苦悩をにじませて、祭壇に近づいた。「時は近づいている」彼女は澄んだゆるぎのない声で言った。「いま〈光の子〉と〈闇の子〉のいずれかを選ばねばならぬ。わたしの〈選択〉が達成される瞬間に、すべてが用意されていなければならぬ。ふたりとも選択がいったんなされれば後にはひけぬことを知っておくように」
「あたしの選択はこの世のはじめになされたんだよ」ザンドラマスが高らかに言った。「時の果てしない廊下にベルガリオンの息子の名がこだましている。なぜならベルガリオン以外のすべての手をよせつけぬクトラグ・ヤスカに、息子は手をふれたからさ。ゲランがクトラグ・サルディウスに手をふれる瞬間に、かれは他の一切をしのぐ全能の神となり、万物を支配する権利を手中にするだろう。進みでよ、〈闇の子〉よ。トラクの祭壇の前に立ち、ケルの女予言者の〈選択〉を待ち受けるのだ。彼女がおまえを選ぶ瞬間、手を伸ばしておまえの運命をつかむのだよ」
それが最後の手がかりだった。ガリオンは心の奥底で自分がどんな選択をしたかを知り、それが完全に正しかったことを知った。ゲランがしぶしぶ祭壇のほうへ歩いてゆき、たちどまってふりかえった。小さな顔はいかめしかった。
「そしていま〈光の子〉よ」シラディスが言った。「そなたが選択をするときがきた。そなたの仲間のだれにそなたは重荷を背負わせるのか?」
ガリオンは悲劇的センスはほとんど持ちあわせていなかった。セ・ネドラは――ときにはポルおばさんも――どんな状況を与えられても劇的言動をすることができる。だが堅実で実際的なセンダー人のガリオンは、とかくあっさりした現実的な言動をしがちだった。しかし、ザンドラマスがかれの選択がどうでるかを知っているのはまちがいなかった。ケルの女予言者の手に〈選択〉をゆだねることに不承不承同意したにもかかわらず、黒装束の魔女がいまだに捨身の計略を隠し持っていることもわかっていた。その決定的瞬間にザンドラマスをためらわせるような、彼女の不意をつくようなことをしなければならない。ガリオンがまちがった選択をしそうになったら、魔女は狂喜してついに自分が勝ったと思うだろう。そう思わせておいて、ぎりぎりのところで正しい選択をすればいい。〈闇の子〉の一瞬の後悔が彼女の手を凍りつかせ、彼女をはばむすきを与えてくれるだろう。ガリオンは慎重にザンドラマスとゲランとオトラスの位置を確認した。ゲランは祭壇の正面から十フィートほどのところに立っており、ザンドラマスとは数フィートと離れていない。オトラスは洞窟の奥のざらざらした石壁にへばりついている。
絶対に、ミスは許されない。ザンドラマスの心に耐えがたいほどの疑惑をかきたてておいて、一瞬のうちに希望を打ち砕かなくてはならない。ガリオンは巧妙に、決心をつけかねて難渋している表情を装った。仲間たちのあいだを困惑しきった顔でうろうろ歩きまわった。ときどき立ち止まって、かれらの顔をじっとのぞきこみ、いまにもまちがった人物を選びそうに片手を持ち上げることさえした。そうするたびに、ザンドラマスから狂喜のうねりがおしよせてくるのをはっきりと感じることができた。彼女は感情を隠そうとさえしていなかった。しめしめ。かれの敵はもはや理性を失っていた。
「なにをしているの?」ポルガラの前で立ち止まったとき、彼女がささやいた。
「あとで説明する」ガリオンは小声で答えた。「必要なことなんだ――それに重要なことでもある。ぼくを信用して、ポルおばさん」かれは動きつづけた。ベルガラスのところへきたとき、ザンドラマスからつかのま不安がにじみでるのを感じた。〈永遠なる者〉はたしかに候補になる人物だったし、〈光の子〉の名声――および、神性――が加われば、相当てごわい相手になる。
「いつまでうろうろしているつもりだ、ガリオン?」祖父がつぶやいた。
「ザンドラマスを動揺させようとしているんだ」ガリオンはささやいた。「ぼくが選択をしたあと、あいつから目を離さないでほしいんだ。なにかやろうとするかもしれない」
「では、選ぶべき人間はもうわかっているのだな?」
「もちろんだ。でも、考えないようにしている。ザンドラマスに心を読まれるのはいやだからね」
老人はしかめっつらをした。「おまえのやりかたでやれ、ガリオン。ただし、あまり長びかせるなよ。ザンドラマス同様シラディスをいらだたせんようにな」
ガリオンはうなずくと、意識をザンドラマスの意識のほうへ押しだしたままサディとヴェルヴェットの前を通りすぎた。ザンドラマスの感情はいまやめまぐるしく変化していた。感情が高ぶっているのはあきらかだった。これ以上事態をひきのばしても、無意味だ。ガリオンはシルクとエリオンドの前でついに立ち止まると、ネズミ顔の小男に警告した。「表情を変えないでくれ。ぼくがなにをしても、そのままの顔でいるんだ。ザンドラマスに表情が変化するところを見られちゃまずい」
「ここでへまをやるなよ、ガリオン」シルクは言った。「どんなたぐいのことにせよ、突然どっきりさせられるのはごめんだぜ」
ガリオンはうなずいた。もうほとんど終わったも同然だった。かれは弟といってもいい若者、エリオンドを見つめた。「すまないな、エリオンド」と低い声であやまった。「ぼくがやろうとしていることに、とても感謝する気持ちにはなれないだろうね」
「いいんです、ベルガリオン」エリオンドはほほえんだ。「ずいぶん前からこうなることは知っていたんです。覚悟はできてます」
それで決まりがついた。エリオンドは覚悟はいいか?≠ニいう。遍在的な問かけの、おそらくは最後の答えをしてくれたのだ。まるで生まれた日からずっと覚悟ができていたかのようだった。いま、すべてがしかるべき場所にぴたりとおさまり、なにをもってしてもふたたびそれをばらばらにすることはできなくなった。
「選ぶのじゃ、ベルガリオン」シラディスがせきたてた。
「選ぼう、シラディス」ガリオンは率直に言うと、片手を伸ばし、エリオンドの肩においた。「これがぼくの選択だ。これが〈光の子〉だ」
「かんぺきだ!」ベルガラスが叫んだ。
(でかしたぞ!)ガリオンの意識の中の声が同意した。
むなしいような気持ちのあとに、ガリオンは奇妙な悲しみをおぼえた。自分はもう〈光の子〉ではないのだ。いま、それはエリオンドの責務だったが、ガリオンはまだ自分にも最後の責務がひとつだけ残っているのを知っていた。かれはなにげなく見えるように努力しながら、ゆっくりとふりかえった。光の点におおわれたザンドラマスの顔の上で、怒りと恐怖と挫折が混じりあっていた。ガリオンのくだした選択が正しかったなによりの証拠だった。かれは誤りのない選択をしたのだ。これからしようとしていることをポルおばさんがするのは、何度も見たり感じたりしたが、ガリオンがするのはこんどがはじめてだった。だが、いまはいきあたりばったりの実験ができるときではない。かれは慎重にふたたび意識を送りだした。今回は詳細というより、ザンドラマスの全体的な感情の反応をさぐるのが目的だった。ザンドラマスが行動に出る前に、彼女の意図を正確につかまなくてはならない。
ダーシヴァの魔女の意識はもつれあった思考と感情に満ちていた。ガリオンのごまかしがザンドラマスの中にかきたてたやみくもな希望がうまく効果を発揮してくれたようだった。ザンドラマスはいま考えをまとめてつぎの手段に移ることができずにあがいていた。だが、手段を講じなくてはならない。ガリオンはザンドラマスがケルの女予言者の手に事態を完全にゆだねることができないのを感じとった。
「では〈光の子〉よ、わたしがそなたたちのいずれかを選べるように〈闇の子〉のとなりへ行って立つがよい」シラディスが言った。
エリオンドはうなずくと、向きを変えて洞窟を横切り、ゲランの横に立った。
「用意は整ったわ、シラディス」ポレドラが言った。「あなたの選択以外のすべての選択はおこなわれたのよ。これは約束された場所であり、きょうが約束された日だわ。あなたの務めを果たすときがきたのよ」
「まだじゃ、ポレドラ」シラディスの声は不安そうにふるえていた。「〈選択〉の瞬間がきたという合図は、天の書から伝わってこなくてはならぬ」
「でもあなたに天は見えないのよ、シラディス」ガリオンの祖母は思いださせた。「わたしたちは地下に立っているんですからね。天の書はおおい隠されているわ」
「天の書のところへ行く必要はない。向こうがわたしのところへくる」
「よく考えるがいいよ、シラディス」ザンドラマスがおだてるような口調でせきたてた。「あたしの言葉をよく考えるんだ。ベルガリオンの息子以外に選びようがないじゃないか」
ガリオンの意識がにわかに鋭くなった。ザンドラマスはひとつの決定をくだしていた。ザンドラマスは自分がなにをするかを正確に知っていながら、巧みにそれをガリオンから隠していたのだ。敵ながらあっぱれだった。ザンドラマスはそもそものはじめから、兵をあやつるような正確さで自分の動きのひとつひとつを――この場所における防御のひとつひとつまでも――準備していた。そして防御がひとつくずれるたびに、つぎの防御にとびついた。ガリオンがザンドラマスの意識から思考を拾いだせなかったのは、そのためだったのだ。ザンドラマスは自分がなにをすることになっているのかすでに知っていたから、わざわざそれを考えるまでもなかったのだ。しかし、ガリオンはザンドラマスのつぎの行動がシラディスに関係したものであることを感じとった。それはザンドラマスの最後の防御線だった。「やめるんだな、ザンドラマス」かれは魔女に言った。「それが誤りであることはわかっているだろう。シラディスに手を出すな」
「ではお選びよ、シラディス」魔女は命令した。
「だめじゃ。そのときがまだきていない」シラディスの顔が非人間的な苦悩にゆがんだ。
そのときガリオンはそれを感じた。ザンドラマスから押し寄せてくるためらいと疑惑の波は、すべて目隠しをした女予言者に集中していた。これが最後の必死の試みなのだ。かれらをうまく攻撃しそこなったザンドラマスは、いまやシラディスを攻撃していた。(彼女を助けて、ポルおばさん)ガリオンは死にものぐるいで思考を投げた。(ザンドラマスはシラディスに〈選択〉をさせまいとしている)
(ええ、ガリオン)ポルガラの声が静かにかえってきた。(知っているわ)
(なんとかしてくれ!)
(まだそのときではないわ。助けるのは〈選択〉の瞬間でなくてはならないのよ。早まってなにかしようとしたら、ザンドラマスが感づいて妨害手段を講じるわ)
「外でなにかが起きている」ダーニクが切迫した口調で言った。「光のようなものが通路から射してくるぞ」
ガリオンはすばやく視線を動かした。その光はまだぼんやりして不明瞭だったが、これまでに見たどんな光ともちがっていた。
「〈選択〉のときがきたのだよ、シラディス」ザンドラマスの声は容赦がなかった。「お選び!」
「できない!」女予言者は強まる光のほうを向きながら泣き声を出した。「まだじゃ! わたしにはまだ準備ができていない!」彼女は両手をしぼりながら床をよろめき歩いた。「用意ができていない! 選べないのじゃ! もうひとつ光を送って!」
「選ぶんだよ!」ザンドラマスは冷たく繰りかえした。
「光が見えさえしたら!」シラディスはすすり泣いた。「見えさえしたら!」
するとついにポルガラが行動に出た。「簡単なことよ、シラディス」彼女は冷静な、なぐさめに満ちた口調で言った。「あなたの想像が視界を曇らせているのよ、それだけのことだわ」彼女は手を伸ばすと、目隠しをそっととりはずした。「人間の目で見て、選択をしてごらんなさい」
「それは禁じられている!」ザンドラマスが優位をくつがえされて、金切り声で抗議した。
「いいえ、もし禁じられているなら、目隠しははずせなかったでしょうよ」
シラディスは洞窟の中のかすかな光にさえたじろいであとずさった。「だめじゃ!」両手で目をおおって彼女は叫んだ。「できない!」
ザンドラマスの目がにわかに光った。「あたしの勝ちだよ!」勝ち誇ってわめいた。「〈選択〉は行なわれなくてはならない。しかしいまや選ぶのはシラディスではない。選択権はもはやシラディスの手にはないのだ。なぜなら選ばないという決断もまた選択にちがいないのだからね」
「そうなのか?」ガリオンはすばやくベルディンにたずねた。
「それについての考えかたには、ふたつの流派があるんだ」
「イエスかノーかで言ってくれよ、ベルディン」
「わからないんだよ。ほんとうにわからないんだ、ガリオン」
外に通じる通路の入口から、突然強烈な光が音もなく炸裂した。太陽よりもまばゆい光が膨張し、大きくなった。洞窟の岩の裂け目までが白熱するような、ありえないほど強烈な光だった。
「ついにきたぞ」ガリオンの内なる友人がエリオンドの口を通して冷静に言った。「いまが〈選択〉の瞬間だ。選べ、シラディス、さもないと一切が破壊される」
「きたな」もうひとつの、やはり冷静な声がガリオンの息子のくちびるからもれた。「いまこそ〈選択〉の瞬間だ。選べ、シラディス、さもないと一切が破壊される」
シラディスは決心をつけかねて動揺し、目の前のふたつの顔にかわるがわるめまぐるしく視線を動かした。ふたたび彼女は両手をもみしだいた。
「選べないのだ!」マロリー皇帝が衝動的に足を踏みだしながら叫んだ。
「選ばなくちゃならない!」ガリオンは友だちの腕をつかんだ。「選ばないと、すべてが失われてしまうんだ!」
ザンドラマスの目にまたもよこしまな喜びがわきあがった。「この娘にはむりだよ!」尼僧は笑いださんばかりだった。「おまえはおまえの選択をしたのさ、シラディス。もうとりかえしがつかない。それじゃ、あたしがおまえに代わって〈選択〉し、〈闇の神〉の再来とともに高位につこう!」
それがザンドラマスの最後の致命的失敗だった。シラディスは目を怒らせて背筋を伸ばし、星におおいつくされた魔女の顔をまともにのぞきこんだ。「そうではない、ザンドラマス」女予言者はひややかな声で言った。「これまでのは不決断であって、選択ではない。その瞬間はまだ通過していない」シラディスは美しい顔を毅然ともたげ、目を閉じた。ケルの予言者たちの大きなコーラスが狭苦しい洞窟いっぱいに広がった。コーラスは問いかける調子では終わらなかった。
「では決断は完全にわたしのものなのですね」シラディスは言った。「条件はすべて満たされているのですか?」彼女はその問いをエリオンドとゲランの背後にある目に見えないふたつの意識に向かって言った。
「満たされている」ひとりがエリオンドの口から言った。
「満たされている」もうひとりがゲランの口から言った。
「ではわたしの〈選択〉をお聞きください」ふたたびシラディスは幼い少年と若者の顔をじっと見つめた。それから、人間ばなれした絶望の叫びとともに、エリオンドの腕の中に倒れこんだ。「そなたを選ぶ!」彼女はすすり泣いた。「善のためであれ、悪のためであれ、そなたを選ぶ!」
すさまじい横ゆれが生じた――地震でないことはたしかだった。洞窟の壁からも天井からも小石ひとつ落ちなかったからだ。ガリオンは全世界が一方に動いた――数インチか、数ヤードか、数千リーグか――のだと確信した。そしてその確信から、いまの動きが宇宙的なものであったことを同様に確信した。シラディスが苦しんだあげくに下した決定が、人間の理解を越えた猛烈な力を解き放ったのだった。
まばゆい光が少しずつ弱まり、サルディオンの輝きが力を失いはじめた。ケルの女予言者の〈選択〉の瞬間、ザンドラマスはすくみあがっていたが、いま、彼女の顔の皮膚の下で渦巻く光がちらつきはじめたように見えた。やがてそれらはぐるぐるまわりだし、どんどん明るくなっていった。「やめて!」ザンドラマスは悲鳴をあげた。「やめて!」
「たぶんおまえの肉の内側にあるそれらの光が、おまえの求める高位への道なのよ、ザンドラマス」ポレドラが言った。「おまえがどんな星座よりも明るく光るのは、いまなのかもしれない。〈闇の予言〉によく仕えたほうびに、それがおまえの位を高める方法を見つけてくれるかもしれないわ」そう言うと、ガリオンの祖母は洞窟の床をつっきってサテンの服の魔女に歩み寄った。
ザンドラマスはさらにちぢみあがった。「あたしにさわるんじゃないよ」
「わたしがさわるのはおまえじゃないわ、ザンドラマス、おまえの衣服よ。おまえが高位とほうびを受け取れるようにしてやるのよ」ポレドラはサテンの頭巾を払いのけ、黒い服をはぎとった。ザンドラマスは裸身を隠そうともしなかった。なぜなら、身体などなかったからだ。いまのザンドラマスはますます明るさを増しながら渦巻ききらめく光でいっぱいの、おぼろげな輪郭にすぎなかった。
ゲランがしっかりした小さな足で母の腕に駆け寄り、セ・ネドラはうれし泣きしながらゲランを包みこんでしっかりと抱き寄せた。「ゲランはどうなるんだ?」ガリオンはエリオンドにたずねた。「けっきょく、ゲランは〈闇の子〉なんだろう」
「もはや〈闇の子〉は存在しないんだ、ガリオン」エリオンドが質問に答えた。「あなたの子は安全だよ」
ガリオンはとてつもなく大きな安堵が波のように押し寄せてくるのを感じた。つぎに、シラディスが〈選択〉をした瞬間から感じていたものが、しだいに意識に侵入してくるのがわかった。それは神と一対一で向きあったときにいつも感じるあの圧倒的な存在感だった。ガリオンはじっとエリオンドを見た。するとその感覚がさらに強まった。かれの若い友が一変したようにさえ見えた。これまでのエリオンドははたちをいくらも出ない若者のように見えていた。ところがいま、その顔はふしぎに年齢不詳でありながら、ガリオンとほぼ同年齢に見えた。以前はやさしく無邪気だった表情が、いまではいかめしく、英知さえ感じさせるようになっていた。
「ぼくたちにはここでもうひとつやることがある、ベルガリオン」エリオンドはおごそかな口調で言った。かれはザカーズを手招きすると、まだ泣いているシラディスをそっとマロリー人の腕に抱かせた。「彼女の面倒をみてもらいたい」エリオンドは言った。
「一生をかけても、エリオンド」ザカーズは約束すると、すすり泣く娘をみんなのところへ連れていった。
「さあ、ベルガリオン」エリオンドはつづけた。「ぼくの兄弟の〈珠〉を〈鉄拳〉の剣の柄《つか》からはずしてほしい。ここではじまったことを終わらせるときがきた」
「もちろんだとも」ガリオンは答えると、背中へ腕を伸ばして剣の柄《つか》に手をのせた。「はずれろ」と言うと、〈珠〉は手にころげおちた。ガリオンはそれを若い神に差しだした。
エリオンドは青く輝く石を受け取って、サルディオンのほうを向き、手の中の〈珠〉を見おろした。すべての分裂の中心だったそのふたつの石を見るかれの顔に、説明しがたい表情が浮かんだ。エリオンドは伏せていた顔をもたげた。いまは静謐な表情になっていた。「それならしかたがない」とようやく言った。
つぎの瞬間、ガリオンがぎょっとしたことに、エリオンドは〈珠〉を持つ手に力をこめると、〈珠〉を手ごと輝くサルディオンの中へ徐々に押しこみはじめた。
赤らんだ石がひるんだように見えた。最期の瞬間のクトゥーチクのように、石は最初に膨張し、つぎに収縮した。それから最期にもう一度膨張した。そしてクトゥーチクと同じように、爆発した――だがその爆発は想像もつかぬ力をひめた球体の内側に固く閉じこめられていた。それがエリオンドの意志によるものか、それとも〈珠〉の力によるものか、それともなにか別の理由によるものかはわからなかった。ガリオンはその力がただものではないことを悟った。この狭苦しい場所で起きていることは、全世界をばらばらにしてしまえるほどの威力をはらんでいるのだ。
エリオンドの不死身の肉体によって部分的に抑えられたとはいえ、その衝撃はすさまじく、かれらは全員床にたたきつけられた。天井から岩や小石がばらばらと落ちてきて、コリムの唯一の名残となったピラミッド型の小島全体が、ラク・クトルを崩壊させた地震以上の激しい揺れに振動した。ガリオンは無意識にうねる床をころがって鎧兜をつけた身体でセ・ネドラとゲランをかばった。気がつくと、仲間の多くが同じように愛する者たちをかばっていた。
地面は断続的に揺れつづけ、エリオンドの手をめりこませたまま祭壇の上に載っているものは、もはやサルディオンではなく、太陽の何千倍も明るいエネルギーをひめたボールだった。
やがてエリオンドはあいかわらず穏やかな顔のまま、かつてはサルディオンだった輝くボールの中心から〈珠〉をとりのぞいた。〈アルダーの珠〉がなくなったことがサルディオンを一個の形に維持していた拘束力をとりのぞいたかのように、クトラグ・サルディウスの燃える破片が洞窟の屋根をつきぬけて外へ飛びだし、ゆれるピラミッドから頂上をはたきおとした。巨大な石がばらばらと四方八方へ飛び散った。
突然出現した空は、太陽よりも明るい光に満ちていた。地平線から地平線までその光が広がっている。サルディオンの破片は上向きに飛んでいき、その光にのみこまれて見えなくなった。
ザンドラマスが動物じみた泣き声をあげた。肉体の名残であるかすかな輪郭をよじって、彼女は叫んだ。「まさか! そんなことがあるはずがない! 約束したではないか!」ザンドラマスがだれにむかって叫んでいるのか、ガリオンにはわからなかった。わかりようがなかった。ザンドラマスは嘆願するようにエリオンドに両手を伸ばした。「助けておくれ、アンガラクの神! モージャの手に、地獄の大王のいまわしい抱擁にあたしをゆだねないでおくれ! 助けて!」
やがてザンドラマスのぼんやりした輪郭がふたつにわれ、彼女の実体となっていた渦巻く光がサルディオンの破片のあとを追って空に見える広大な光の中へ流れでていった。
ダーシヴァの魔女の残骸が脱ぎ捨てられた服のように床に落ち、もうだれの役にも立たないぼろのようにずたずたに破れた。
エリオンドの口から出た声は、ガリオンには聞き慣れた声だった。かれはこれまでずっとその声を聞いてきたのだ。
「得点」それはただ事実を述べているだけといわんばかりに、感情のこもらない超然たる口調で言った。「得点、ゲームは終わりだ」
[#改ページ]
8
洞窟内がにわかに不気味なくらい静まりかえった。ガリオンは立ち上がると、セ・ネドラを助け起こした。「だいじょうぶかい?」と押し殺した声でたずねた。セ・ネドラはうわの空でうなずいた。幼い息子のようすを調べているのだ。彼女の汚れた顔に気づかわしげな表情が浮かんでいた。ガリオンはあたりを見まわした。「みんな、だいじょうぶか?」
「あの地震はもうおさまったのか?」シルクがヴェルヴェットの身体をかばったままたずねた。
「終わったよ、ケルダー」エリオンドが言った。若い神はこちらを向くと、厳粛に〈珠〉をガリオンにかえした。
「きみが持っておくんじゃないのか?」ガリオンはきいた。「ぼくはてっきり――」
「いや、ガリオン。あなたはいまでも〈珠の守護者〉なんだ」
なぜかそれを聞いてガリオンは快い気持ちになった。こんな大変な出来事のさなかですら、ガリオンは喪失感をおぼえていた。そしてなんとなく、自分はもうその宝石をあきらめなくてはならないのだと思いこんでいたのだ。ガリオンは欲ばりではなかったが、長年のあいだに〈珠〉は所有物を越えた友だちのような存在になっていた。
「われらはこの場所から出てゆかぬのか?」シラディスがきいた。その声は深い悲しみに満ちていた。「わたしは愛する友をあのまま置き去りにしたくない」
ダーニクがシラディスの肩にやさしく手をおいた。かれらは全員きびすをかえし、無言で荒れた洞窟をあとにした。
かれらは日光よりもあかるい光の中へ出た。背後の薄暗い洞窟さえも貫いていた強烈なその光輝は、弱まって穏やかな光になっていた。ガリオンは周囲に目をやった。時刻はたしかにちがっているが、以前にもこれとすっかり同じ経験をしたような不思議な気分だった。〈もはや存在しない場所〉を荒しまわった嵐と稲妻は過ぎ去っていた。雲がふたたび空にわき、ドラゴンや悪魔のモージャと戦っていたあいだ珊瑚礁をたたいていた風は、やさしい微風におさまっていた。クトル・ミシュラクでトラクが死んだあと、ガリオンはトラク死後の最初の日の夜明けを目撃しているのだという奇妙な感覚にとらわれたことがあった。いまは正午だったが――もちろんそれから何年もあとの――あれとまったく同じ日の正午のように思えた。クトル・ミシュラクではじまったことが、いまやっと完了したのだ。終わったのだ。ガリオンはおそろしいほどの安堵感に打たれた。少し放心状態でもあった。このきわめて重大な日が明けそめて、夜明けの光が霧深い海上をゆっくりと包みこんだときからずっと、感情的、肉体的にエネルギーを放出しつづけてきたために、すっかり力が抜けて、消耗しきっていた。いまはなによりもまず鎧兜を脱ぎたかったが、その面倒さを考えただけで、おっくうだった。かれはぐったりしながら兜をぬぎにかかった。そしてもう一度まわりにいる仲間の顔をながめた。
ゲランはもうあきらかに歩けるようになっていたが、セ・ネドラは抱くことを主張してゆずらず、頬をしっかりとゲランの頬に押し当てていた。ときおり頬を離すのはキスをするときだけだった。ゲランはまんざらでもなさそうだった。
ザカーズはケルの女予言者の肩に腕をまわしていた。その顔つきからすると、腕をどけるつもりはまったくないらしい。互いに愛しあっていることを告白した最初のころ、セ・ネドラが絶えずそれとそっくりな形で自分の胸によりそっていたことを思いだして、ガリオンは思わず微笑した。かれは太陽の光を浴びた波を眺めているエリオンドのところへ力なく歩いていって、たずねた。「ちょっときいてもいいかい?」
「もちろん、ガリオン」
ガリオンは目でザカーズとシラディスを示した。「あれも予測されている事態の一部なのかい? つまりね、ザカーズは若いころ、とても大切な人を失っているんだ。いままたシラディスを失ったら、かれはだめになってしまうかもしれない。そういうことが起きてほしくないんだよ」
「安心していいんだ、ガリオン」エリオンドはほほえんだ。「どんなことも、あのふたりを引き離すことはできない。あれはあらかじめさだめられていたことのひとつなんだ」
「よかった。かれらは知ってるのか?」
「シラディスはね。彼女がそのうちザカーズに説明するよ」
「じゃ、彼女はいまでも予言者なのか?」
「いや。ポルガラが目隠しをはずしたときに、彼女の人生のその部分は終了した。でもシラディスは未来を見たし、とても記憶力がいいんだよ」
そのことをしばらく考えたあと、ガリオンはおどろいて目を丸くした。「というと、宇宙全体の運命はただの人間の選択にかかっていたってことか?」信じられないようにたずねた。
「ぼくならシラディスをただの人間とは呼ばないよ。彼女は幼児のころからその選択にそなえて準備をしてきた。だが、ある意味ではあなたの言うとおりだ。〈選択〉は人間によって行なわれなくてはならなかった。なんの助けもなく、行なわれなくてはならなかったんだ。あの瞬間は、シラディスの仲間ですら助けにはならなかったんだ」
ガリオンは身ぶるいした。「さぞおそろしかっただろうな。どんなにか心細かっただろう」
「たしかに。でも選択をする人間はいつだってそうなんだ」
「シラディスはいきあたりばったりにただ選んだわけじゃないんだろう?」
「もちろんだ。だが、彼女はほんとうはあなたの息子とぼくのどちらかを選んでいたんじゃない。〈光〉と〈闇〉のどちらかを選んでいたんだ」
「だとすると、どこがむずかしいのかわからないな。だれだって闇よりは光が好きなんじゃないのか?」
「あなたやぼくならそうかもしれない。でも予言者はつねに、〈光〉と〈闇〉が同一物の両面にすぎないことを知っている。ザカーズとシラディスのことはあまり心配しなくていいよ、ガリオン」エリオンドは最初の話題にもどって言った。そして人差し指で額をたたいた。「ここにいるぼくたち共通の友人があのふたりについて、いくつかの取り決めをしたんだ。ザカーズはこれからの生涯、きわめて重要な人物になる。ぼくたちの友人は、人を元気づけ、ほうびを与えることによって――ときには前もって――必要なことをさせる流儀の持ち主だからね」
「レルグとタイバの例のようにか?」
「あるいは、あなたとセ・ネドラのように――その点ではポルガラとダーニクでもいいわけだけどね」
「ザカーズがなにをすることになっているのか教えてもらえるか? きみがかれになにをしてもらう必要があるというんだ?」
「かれはあなたがはじめたことを完了させる」
「ぼくのやりかたが正しくなかったということか?」
「もちろんそうじゃないさ。でもあなたはアンガラク人じゃない。いずれわかると思う。それほど複雑なことじゃないんだ」
ガリオンはふとあることを考えた。そう考えたとたん、それが絶対に正しいことを確信した。「きみはずっと知っていたんだな。つまり、自分がほんとうは何者かということを」
「可能性があることは知っていた。でも、シラディスが〈選択〉をするまでは、可能性は現実にはならなかった」エリオンドは向こうを見やった。トスの動かぬ身体を囲んで、仲間が悲嘆にくれていた。「みんながぼくたちを必要としていると思う」
トスの顔は穏やかで、両手は胸の上で組まれ、モージャがかれを刺殺したときにクスゥレク・ゴルがつけた傷を隠していた。シラディスはザカーズの腕に抱きかかえられて、新たな涙で顔をぬらしていた。
「ほんとに、この考えは正しいのか?」ベルディンがダーニクにきいた。
「そうだ」鍛冶屋は率直に言った。「いいかい――」
「説明するにはおよばんさ、ダーニク」ベルディンは言った。「おまえに確信があるのかどうか知りたかっただけだ。担架を作ろうぜ。そのほうが威厳をそこなわない」ベルディンが短いジェスチャーをすると、トスの遺体のわきにたくさんのなめらかでまっすぐな棒と、一巻のロープが出現した。ふたりは慎重に棒を組みあわせて担架を作ると、物言わぬ大男の遺体をもちあげてそれにのせた。「ベルガラス」ベルディンが言った。「ガリオン、ここからちょっと助けが必要なんだ」
トスの遺体を洞窟の中へ転位させるのはかれらのだれにでもできただろう。だが、四人の魔術師は人類と同じくらい古くからある儀式にのっとり、遺体をその最後の安住の場所へ手で運ぶほうを選んだ。
サルディオンの爆発が洞窟の天井を突き破っていたため、真昼の太陽がそれまでは薄暗かった洞窟を光で満たしていた。サルディオンが載っていた陰気な祭壇を見たとき、シラディスはかすかに身体をふるわせた。「わたしにはひどく暗い忌まわしいものに思える」彼女は小さな声で言った。
「ほんとうにあまり魅力的じゃないわね」セ・ネドラが批判がましく言って、エリオンドのほうを見た。「もしかして――?」
「いいですとも」エリオンドはうなずくと、ぞんざいに四角く切られた祭壇をちらとながめた。祭壇の輪郭がかすかにぼやけたかと思うと、なめらかな純白の大理石の棺台になった。
「このほうがずっといいわ」セ・ネドラは言った。「ありがとう」
「トスはぼくの友だちでもあったんですよ、セ・ネドラ」若い神は答えた。
厳密にはそれは正式な葬儀ではなかった。ガリオンと友人たちはただ棺台のまわりに集まり、旅立った友の顔を見つめた。小さな洞窟にあまりに多くの力が集中したので、ガリオンはだれが最初の花を作りだしたのかよくわからなかった。蔦のような蔓の巻き髭が突然壁をはいあがった。だが蔦とちがい、その蔓にはかぐわしい白い花がびっしり咲いていた。つづいて、ほんのまばたきほどの一瞬に、床が豊かな緑の苔の絨緞におおわれた。無数の花が棺台をおおうと、シラディスが進みでてポレドラが与えた一輪の白薔薇を、動かない巨漢の胸に置いた。彼女はトスの冷たい額にくちづけて、ためいきをもらした。「花はすぐにもしおれて色あせてしまうような気がする」
「いや、シラディス」エリオンドがやさしく言った。「これらの花は枯れない。この世の終わりまで、みずみずしく、いつまでも新鮮でありつづけるだろう」
「感謝します、アンガラクの神よ」シラディスはうれしそうに言った。
ダーニクとベルディンは水たまりのそばの一角へさがって、なにやら相談していた。やがてふたりはそろって顔をあげ、しばらく意識を集中させて、洞窟の屋根にきらめく水晶をはめこんだ。日光が反射して虹色に輝いた。
「そろそろ出発の時間よ、シラディス」ポルガラがほっそりした娘に言った。「わたしたちはできるだけのことをしたわ」彼女とその母親は、まだすすり泣いている女予言者の腕をとって、他のみんなを従え、ゆっくりと通路のほうへ彼女を連れもどした。
最後に洞窟を出たのはダーニクだった。かれはトスの動かぬ肩に手をおいて、棺台のわきに立ちつくしていた。ようやく鍛冶屋は片手を伸ばし、トスの釣り竿を空中から取りだした。それをそっと友の亡骸のわきに置くと、一度だけ胸の上で組まれた大きな手を軽くたたいた。それから背中を向け、立ち去った。
ふたたび外に出たとき、ベルディンと鍛冶屋は通路をさらにたくさんの水晶で封じた。
「いい感じだな」シルクが入口の上の像を指さして、ガリオンにぽつりと言った。「おまえたちのどっちが考えついたんだ?」
ガリオンは振りかえって見た。トラクの顔はなくなり、そこにエリオンドの顔の像が祝福するようにほほえんでいた。「さあ、どっちかな」かれは答えた。「どっちでもかまわないんじゃないか」かれは鎧の胸当てを指でたたいた。「これを脱ぐのを手伝ってくれるか? もういらないと思うんだ」
「だろうな」シルクは同意した。「たぶんいらないよ。状況からして、戦う相手をきらしちまっただろ」
「そう願いたいよ」
それからかなりの時間がたった。かれらは野外劇場からグロリムたちの死体をどかし、石の床にちらばっていた破壊物の破片を片づけていた。だが、ドラゴンの巨大な死骸については、できることはほとんどなかった。ガリオンは野外劇場につづく階段の一番下にすわっていた。セ・ネドラは眠っている子供をあいかわらず抱きかかえたまま、かれの腕の中でまどろんでいる。
「ちっとも悪くなかったぞ」おなじみの声がガリオンに言った。もっとも、こんどは声はかれの意識の天井でこだましているのではなく、すぐ隣りからしゃべっているように聞こえた。
「あなたはいなくなったのだと思ってましたよ」妻と息子を起こさぬように、ガリオンは小声で言った。
「そうではない」声は答えた。
「たしかあなたはこんどのことの決着がついたら、新しい声――意識といったほうが適切だと思いますが――があらわれるだろうと、一度言われたはずです」
「そうだ。だが、わたしはその新しい声の一部なのだよ」
「よくわかりませんね」
「そうこみいったことではない、ガリオン。事故以前、意識はたったひとつしかなかったが、そのうち他のすべてがそうであったように、意識も分割された。いま、それはもとにもどったが、わたしはもとの意識の一部だったから、またそこに加わったのだよ。われわれはまたひとつになったのだ」
「それがあまりこみいったことではないというんですか?」
「ほんとうにもっと説明してもらいたいのか?」
ガリオンはなにか言いそうになったが、やめることにした。「でも、まだ分離できるんでしょう?」
「いや。それは別の分裂を招くだけだ」
「それじゃどうやって――」最後の瞬間に、ガリオンは自分がほんとうはその質問をしたくないことに気づいた。「この話はこのくらいにしませんか? それより、あの光はなんだったんです?」
「あれが事故、つまり、宇宙を分裂させたことだったのだ。あれがわたしをわたしの相手から分裂させ、〈珠〉をサルディオンから分裂させた」
「そのことはずっと昔に起きたのだと思ってました」
「そうだ――はるか昔にな」
「しかし――」
「ちがう聞きかたをしてみろ、ガリオン。光についてはよく知っているのか?」
「あれはただの光でしょう?」
「それだけではない。木を伐っている人間から遠く離れて立ったことがあるか?」
「はい」
「人間が木を伐ると、ちょっとたってから音が聞こえることに気づいたかね?」
「ええ、言われてみるとそうでした。どうしてああなるんです?」
「その間隔は音がおまえの耳に達するのにかかる時間量なのだ。光は音よりずっと早く動くが、やはり一ヵ所から一ヵ所へ移動するには時間がかかる」
「それに関してはあなたの言葉を信用します」
「事故がどんなものだったか知っているか?」
「星々のあいだであったことでしょう」
「そのとおり。ある星が死にかけていたのだ。そしてそれは死ぬ予定ではなかった場所で死んだ。瀕死の星がまちがった場所で爆発し、それがすべての星に――銀河に感染した。銀河が爆発したとき、宇宙の骨組みがばらばらになった。宇宙は分裂することによって、みずからを守った。それがこの一切の原因なのだ」
「なるほど。では、どうしてぼくたちは光について話していたんです?」
「突然の光――爆発する銀河の放った光――それが事故だったのだ。それはいまやっとこの場所に到達した」
ガリオンは唾をのみこんだ。「その事故はどのくらい離れていたんです?」
「その数字はおまえにとっては意味をなさんよ」
「どのくらい昔に起きたんです?」
「その数字もおまえには理解できん。シラディスに聞いてみたらどうだ。彼女なら教えてくれるだろう。彼女はそれをかなり正確に計算させるきわめて特別な理由を持っていたからな」
ガリオンはじょじょにわかってきた。「そうだったのか」思わず叫んだ。「〈選択〉の瞬間は、事故の光がこの世界に届いた瞬間だったんだ」
「よくできた、ガリオン」
「爆発した星の集合体は、シラディスが〈選択〉をしたあとまたもとにもどるんですか? だって、宇宙にあいたその穴はなにかが埋めなくちゃならないでしょう?」
「ますます好調だぞ、ガリオン。おまえが誇らしい。サルディオンとザンドラマスが爆発して小さな強い光の点になり、洞窟の屋根を吹き飛ばしたのをおぼえているだろう?」
「そう簡単に忘れられるようなことじゃありませんからね」ガリオンは身ぶるいした。
「あれには理由があったのだ。ザンドラマスとサルディオン――というより、かれらの破片――は、おまえの言うその穴≠ヨともどっていくところなのだ。かれらが継ぎ当てになるだろう。むろん、かれらはもどっていく途中で大きくなっていく」
「それでどのくらいの――」ガリオンは言いかけてやめた。「また無意味な数字ですか?」
「まるで無意味だ」
「ザンドラマスについて、いくつかのことに気づいたんです。彼女はこのすべてを計算していたんですね? そもそものはじめから?」
「わたしの敵対者はつねにきわめて用意周到だったからな」
「ぼくが言おうとしているのは、ザンドラマスはあらゆる手筈をあらかじめ整えていたということなんです。例の熊神教の信者たちを拾いにチェレクへいく前に、ニーサですべてのお膳立てをととのえていました。そのあと、ザンドラマスはリヴァへ行ってゲランを奪い、すべての準備ができたわけです。ぼくたちが熊神教を疑うような細工までしたんです」
「ザンドラマスなら非常にすぐれた将軍になれただろうな」
「しかし、やりすぎました。いかに計略がすぐれていようと、はじめの計略が失敗した場合は、つねに偶然性に頼らなくてはならなかった」ガリオンはふと思った。「モージャはザンドラマスを手に入れたんですか? サルディオンが爆発したとき、彼女はばらばらに吹き飛んだわけでしょう? ザンドラマスの魂はまだあの星々と混じりあっているんですか、それとも、地獄へ引きずりおろされたんですか? ばらばらになる直前、ザンドラマスはひどくこわがっているようでしたが」
「わたしにはわからんのだ、ガリオン。わたしの敵対者とわたしはこの[#「この」に傍点]宇宙を扱っているのであって、地獄を扱っているわけではない――いうまでもなく地獄は独特の宇宙なのでな」
「もしシラディスがエリオンドのかわりにゲランを選んでいたら、どうなったんです?」
「おまえと〈珠〉が、いまごろ新しい場所へ移動していただろう」
ガリオンは鳥肌が立つのを感じた。「それなのに、警告もしてくれなかったんですか?」信じられないようにたずねた。
「ほんとうにそういうことをあらかじめ知っておきたかったのか? 知っていたらどうなったというのだ?」
ガリオンはその問いを受け流すことにした。「エリオンドはこれまでもずっと神だったんですか?」
「さっきかれが説明したのを聞いていなかったのか? エリオンドは七番目の神になることを予定されていたのだ。トラクは事故によって生じた、ミスだった」
「それじゃ、かれはずっといたんですか? エリオンドは?」
「ずっとというのは長い歳月だ、ガリオン。エリオンドは事故以来つねに存在していた――魂として。おまえが生まれたとき、かれは世界中を動きはじめたのだ」
「じゃ、ぼくたちは同い年なんですか?」
「年齢は神々には無意味な概念だ。神々はみずから選ぶ年齢になれる。きょう、ここで起きたことにむけて事態が動きだしたのは、〈珠〉が盗まれたときだった。ゼダーが〈珠〉を盗みたがったから、エリオンドがゼダーを見つけだして、盗みかたをかれに教えたのだ。おまえを動かしたのは、第一にそのことだった。もしゼダーが〈珠〉を盗んでいなかったら、おまえはまだファルドー農園にいただろう――おそらくズブレットと結婚していただろうな。このことについては、バランスのとれた見方を心がけることだ、ガリオン。だが、きわめて特異な点において、この世界は、おまえがものごとを決定する途中でそのよりどころとなるものをおまえに与えるためだけに創造されたのだ」
「冗談はよしてください」
「冗談ではない、ガリオン。おまえはシラディスという例外をのぞけば、これまでに生存した――今後もあわせて――もっとも重要な人間なのだ。おまえは悪い神を殺して良い神ととりかえた。その過程においてはずいぶんじたばたしたが、最後にはそれをちゃんとやってのけた。わたしはじっさい、おまえが誇らしい。全体として、おまえは上々だったよ」
「援助の手がたくさんありました」
「それはそうだが、少しはうぬぼれてもかまわん――とにかく、しばらくのあいだはな。もっともわたしならうぬぼれもほどほどにするがね。慢心はあまりよいものではない」
ガリオンは笑いを押し殺した。「なぜぼくなんです?」できるだけ悲しげで、愚かしく聞こえるようにたずねた。
おどろいたような沈黙があり、やがて声は笑いだした。「それを蒸しかえすのはやめてくれないか、ガリオン」
「すみません。これからどうなるんです?」
「おまえは家へ帰る」
「いえ、世界のことですよ」
「多くはザカーズに依存することになろう。いまやエリオンドがアンガラクの神であり、ウルギットやドロスタやナセルをさしおいて、ザカーズがアンガラクの真の支配者になる。いささか骨の折れることだし、ザカーズはその過程で大勢のグロリムを使わねばならんだろうが、まずその前に、世界中のアンガラク人にエリオンドを認めさせなくてはならんだろうな」
「かれならうまくやりますよ」ガリオンは肩をすくめた。「ザカーズはものごとを押しつけるのは得意なんだ」
「そういう面はシラディスが矯正できるだろう」
「なるほど。そのあとはどうなるんです? アンガラク人がエリオンドを受け入れたあとは?」
「その動きが広がるだろう。おそらくおまえは、エリオンドが全世界の神となる日を見るまで長生きできる。それがそもそものはじめから予定されていたことなのだ」
「そしてかれが神権と支配権を持つであろう≠ナすか?」ガリオンはあるグロリムの予言を思いだして、気落ちしながら引用した。
「そんなばかな質問をするな。エリオンドがいけにえを見て喜びながら王座にふんぞりかえっている図など想像できるか?」
「いや、そんなことは。じゃ、他の神々はどうなるんです? アルダーやその他の神々は?」
「かれらは動きつづける。かれらはここへきた目的を果たした。宇宙には他にも数え切れないほどたくさんの世界がある」
「ウルは? かれも行ってしまうのですか?」
「ウルはどこにも行かない、ガリオン。ウルはどこにでもいる。これがすべての問いの答えになるのではないか? わたしは他にもしなければならんことがあるのだ。取り決めをしてやらねばならない人間が大勢いるのでな。そうそう、ついでといってはなんだが、おまえの娘たちにおめでとうを言っておく」
「娘たち?」
「小さな女の子たちさ。へそ曲がりだが、男の子たちよりはかわいいし、いい匂いがするぞ」
「何人です?」ガリオンはあわててたずねた。
「いっぱいだ。正確な人数は言わん。せっかくのおどろきをだいなしにしたくない。だが、リヴァへもどったら、育児室を拡張したほうがいいぞ」長い間があった。「ではさらばだ、ガリオン」声は言った。その口調はもうそっけなくはなかった。「元気でな」
そして声は消えた。
日が沈もうとしていた。ガリオン、セ・ネドラ、ゲランは洞窟の入口の近くでみんなに合流した。みんなはドラゴンのばかでかい死骸からあまり遠くないところに腰をおろして、おし黙っていた。
「これをなんとかすべきだな」ベルガラスがつぶやいた。「ほんとうは悪い獣ではなかったのだ。ただ、愚かだっただけでな。愚かだったということは、罪でもなんでもない。わしはこのドラゴンにはずっと同情していたんだ。鳥たちがついばむにまかせて、このだだっぴろい場所におきざりにするのは忍びない」
「おまえさんは女々しいところがあるんだな、ベルガラス」ベルディンが言った。「情けないやつだ」
「わしらはみんな年をとると感傷的になるのさ」ベルガラスは肩をすくめた。
「彼女、だいじょうぶなの?」ヴェルヴェットが、ジスの小さな壺を持ってもどってきたサディにきいた。「ずいぶん手間どったのね」
「ジスは元気ですよ」宦官は答えた。「赤ん坊の一匹が遊びたがったんです。わたしから隠れるのがおもしろいと思ったんでしょう。見つけだすのにちょっと時間をくったんですよ」
「おれたちがここに居残る理由があるのかね?」シルクが言った。「かがり火をともしたほうがいいんじゃないのか。そうすりゃクレスカ船長が暗くならないうちにおれたちを拾ってくれるかもしれない」
「ぼくたちは連れを待っているんだよ、ケルダー」エリオンドが言った。
「連れ? だれのことだい?」
「数人の友人たちが立ち寄ることになっているんだ」
「きみの友人か、それともおれたちのか?」
「両方のだ。ほら、そのうちのひとりがきた」エリオンドが沖合いを指さした。
かれらはいっせいに振りかえった。
シルクが突然笑いだした。「わかってるべきだったよ。バラクが命令に従うわけないもんな」
かれらはそろって穏やかにうねる海を見た。〈海鳥〉は天候のわりに元気がなさそうだったが、それでもやっとのことで波をかきわけ、面舵《おもかじ》をとって珊瑚礁のほうへ向かってきた。「ベルディン」シルクが言った。「浜へおりて、かがり火をつけてやっちゃどうだい?」
「自分でできないのか?」
「喜んでやるさ――岩に火をつける方法を教えてくれたらすぐにね」
「そうか、忘れてた」
「ほんとにベルガラスより年下なのか? 記憶力が衰えてきてるみたいだぜ」
「余計なお世話だ、シルク。あのばかでかいはしけを浜へ誘導できるかどうか、行ってみよう」
ふたりは水ぎわまでおりていった。
「こうなることになってたのか?」ガリオンはエリオンドにたずねた。「バラクがあらわれるってことだが?」
「ぼくたちはそれに関与していた、たしかに」エリオンドは認めた。「あなたはリヴァへ帰る輸送手段が必要になるし、バラクや他の連中はいわば、ここでなにが起きたか知る権利があるわけだから」
「他の連中も? だいじょうぶなのか? だって、たしかレオンでシラディスが言ったことによれば――」
「もう問題はない」エリオンドは微笑した。「〈選択〉は行なわれた。じっさい、ぼくたちに会いに大勢の人々がやってくるよ。ぼくたち共通の友は、しまりのない結末をピシッとさせることに情熱をかたむけているんだ」
「きみはとっくにそれに気づいていたんだな」
〈海鳥〉は珊瑚礁の風下側に碇泊した。大型艇が右舷側から押しだされ、海面をすべってきた。ガリオンには海が夕日で金色に溶けているように見えた。かれらは全員浜へおりて、艇がすべるように珊瑚礁の浜へ向かってきたとき、シルクとベルディンに追いついた。
「なにをもたもたしてたんだよ?」シルクがあいだに横たわる海のこちらからバラクに叫んだ。バラクは夕日に髭を燃えたたせて、大型艇のへさきに立っていた。
かれは歯を見せてにやりとし、叫びかえした。「どうなった?」
「しごくうまくいったよ」シルクは大声で答えてから、はっとしたようだった。「ごめんよ、シラディス」と女予言者に言った。「いまのは無神経だったな」
「そうでもない、ケルダー王子。わが連れの犠牲は進んでなされたのじゃ。かれの魂もわれらの成功に喜んでいるであろう」
ガリオンは友だちみんながバラクと一緒に大型艇に乗っているのに気づいた。マンドラレンの鎧が山のようなチェレク人のすぐ背後できらめいていた。しなやかな鞭のようなヘターがいた。レルドリン、レルグまでもいる。バラクの息子のウンラクはとも[#「とも」に傍点]に鎖でつながれていた。ウンラクはすっかり大人びていた。それにしてもあの鎖はなにごとだろう?
バラクは大きな足を船べりにかけて、とびおりようとした。
「気をつけろ」シルクが言った。「そこは深いぞ。たくさんのグロリムがそこで難儀したんだ」
「おまえがやつらを海に投げこんだのか?」バラクはきいた。
「いや。やつらが進んで飛びこんだのさ」
大型艇の竜骨が波に侵食された野外劇場の石にこすれ、バラクたちは艇からおりてきた。「おれたち、だいぶ見物しそこなったのか?」
「そうでもない」シルクは肩をすくめて答えた。「おまえとしちゃこんなもんだろ、まあまあってところだよ。ああいうのがどういうものか知ってるだろう。おまえの息子はどうかしたのか?」シルクは鎖につながれてちょっとしょげているようなウンラクを見やった。
「別に」バラクは答えた。「正午ごろ、熊に変わったんだ、それだけのことさ。おれたちはそれをまあ、意義深いことだと考えたんだ」
「ちゃんと遺伝してるんだな。しかし、なんでいまウンラクをつないでるんだよ?」
「ああしないと、船乗りたちが息子と一緒に大型艇に乗りこむのはまっぴらだと言ったのさ」
「なんのことかさっぱりわからないな」ザカーズがガリオンにささやいた。
「代々伝わることなんだ」ガリオンは説明した。「バラクの一族はリヴァの王の擁護者なのさ。状況がそれを要求すれば、かれらは熊に変身する。ぼくが危険な目に会ったとき、バラクが何度か熊になった。どうやらバラクはその役目をウンラク――かれの息子に移行させたらしい」
「するとウンラクがきみの擁護者なのか? 少し若すぎるようだし、それにきみはもうそれほどの擁護は必要あるまい」
「そうさ。かれはたぶんゲランの擁護者なんだ。ゲランはあの洞窟ではかなり危険な状態にあったからな」
「みなさん」そのときセ・ネドラが誇らしげな声で言った。「リヴァの皇太子を紹介してもいいかしら?」彼女はみんなに見えるようにゲランを持ち上げた。
「早いとこ下におろさないと、歩きかたを忘れちまうぞ」ベルディンがベルガラスにつぶやいた。
「もうじきセ・ネドラも腕が疲れてくるはずだ」とベルガラス。
バラクと他の面々が小柄な女王のまわりに集まったとき、船乗りたちはしぶしぶバラクの息子の鎖をはずした。
「ウンラク!」バラクがどなった。「こっちへこい!」
「はい、とうさん」少年は大型艇からおりて、前に進みでた。
「この幼い男の子がおまえの義務だ」バラクはゲランを指さした。「おまえがこの方の身になにかが起きるのを黙って見過ごしたりしたら、ただじゃすまんぞ」
ウンラクはセ・ネドラにお辞儀した。「女王陛下、お元気そうですね」
「ありがとう、ウンラク」セ・ネドラはほほえんだ。
「いいでしょうか?」ウンラクはゲランのほうへ腕を伸ばした。「殿下とぼくは知りあいになっておいたほうがいいですから」
「もちろんよ」セ・ネドラは息子を若いチェレク人に渡した。
「あなたがいらっしゃらなくて、ぼくたちさびしかったですよ、殿下」ウンラクは腕の中の幼い男の子に笑いかけた。「こんどこういう長期旅行を計画するときは、ぼくたちに知らせてくれないと困ります。みんなちょっと心配したんです」
ゲランはおもしろそうにくすくす笑った。それから腕を伸ばして、ウンラクのまだ生えそろわない赤い髭をひっぱった。
ウンラクは顔をしかめた。
セ・ネドラは懐かしい友人たちをかわるがわる抱きしめては、手あたりしだいにキスの雨をふらせた。マンドラレンは、いうまでもなく、おおっぴらに泣いていて、そのために大仰な挨拶もできないしまつだった。レルドリンもだいたい似たような状態だった。レルグはふしぎと、リヴァの女王の抱擁にひるむことさえしなかった。どうやら、タイバとの数年になる結婚生活が、レルグにある種の哲学的修正を加えたようだった。
「知らない人物が何人かいるようだな」ヘターが持ち前の静かな声で言った。
シルクがぴしゃりとおでこをたたいた。「おれとしたことがうかつだった。なんでこう忘れっぽくなれたんだろう? こちらはレディ・ポレドラ、ベルガラスの奥方にしてポルガラの母上だ。レディ・ポレドラ死去にまつわる噂は、誇張だったらしいのさ」
「おまえさんはまじめになることがあるのか?」友人たちが黄褐色の髪の女性にいくばくかの畏怖をこめて挨拶しているのを横目に、ベルガラスがぶつぶつ言った。
「ないでしょうね」シルクはふざけて言った。「いま、すごくおもしろくなってきてるとこなんですよ、まだはじめたばかりですからね。では、諸君」シルクは仲間に言った。「この調子でつづけさせてもらうよ。そうでもしないと、紹介だけで真夜中までかかりそうだからね。これはサディ。かれのことはおぼえているはずだ――サルミスラ女王の宮殿の宦官長さ」
「元[#「元」に傍点]宦官長ですよ、ケルダー」サディが訂正してお辞儀した。「はじめまして」
「閣下」ヘターが答えて言った。「あとでありとあらゆるたぐいの説明があるんでしょうな」
「シラディスはもちろんみんなおぼえているよな」シルクがつづけた。「ケルの聖なる女予言者だ。いまはちょっと疲れているんだ。きょうの昼ごろ、きわめて重要な決断をくださなけりゃならなかったから」
「レオンであんたと一緒だったあのでかいやつはどこにいるんだい、シラディス?」バラクがたずねた。
「ああ、トレルハイム卿」シラディスは言った。「わたしの案内役であり保護者でもあった者は、わたしたちの成功を確かなものとするため、命を捧げたのじゃ」
「心からお悔やみする」バラクは率直に言った。
「そしてこれは、言うまでもなく」シルクはなにげない調子で言った。「マロリー皇帝カル・ザカーズ陛下だ。ときどきじつに助けになってくれてね」
ガリオンの友人たちはびっくりして目を丸くし、用心深くザカーズを見た。
「過去の不愉快なことがらはこのさい片づけられると思うが」ザカーズは礼儀正しく言った。「ガリオンとわたしはわれわれのあいだの不和をほぼ解決した」
マンドラレンがぎくしゃくと一礼した。「宇宙的平和が全世界に復活するのを見るまで生きていられるとは、まことに喜ばしいことでござる、皇帝陛下」
「そなたの評判は世間の驚異として、知れわたっておる、マンドール閣下」ザカーズはほぼかんぺきなミンブレイト方言で答えた。「しかしながら、いまわたしはその評判が圧倒的現実の前ではかすんでしまうことを実感いたした」
マンドラレンは晴れやかにほほえんだ。
「うまいじゃないか」ヘターがザカーズにささやいた。
ザカーズはにやりとしてみせた。つぎにかれはバラクに視線を移した。「こんどアンヘグに会うときは、トレルハイム閣下、いまだにわたしがタール・マードゥのあと〈東の海〉で沈められたわが艦隊の請求書を送るつもりでいることを伝えてもらえないかね。賠償金をいくらか払ってもらうのが望ましいと思うが」
「あんたがツイてることを祈るよ、陛下――」バラクはにやにやした。「――だが、アンヘグは国庫の扉をなかなかあけたがらないと思うぜ」
「よせよ」ガリオンは静かにレルドリンをたしなめた。レルドリンはザカーズの名を聞いたとたんに、顔面蒼白になり怒りにふるえて身をそらしていた。
「でも――」
「あれはザカーズのせいじゃない」ガリオンは言った。「きみのいとこは戦闘で死んだ。しかたのないことだ。わだかまりをつのらせても意味がない。この二千五百年のあいだ、アレンディアを騒然とさせてきた原因こそ、そういう無意味な怒りなんだ」
「そして、みんなエリオンドは知ってるはずだな――もとエランドだ」シルクはふたたびわざとなにげない態度で言った。「いまはアンガラクの新しい神」
「なんて言った?」バラクが叫んだ。
「事態をしっかり把握しといたほうがいいぞ、バラク」シルクはチュニックの前で爪を磨いた。
「シルク」エリオンドがとがめるように言った。
「悪い悪い」シルクはにやにやした。「がまんできなかったんだよ。許してもらえるかい、神よ?」シルクは顔をしかめた。「こいつはまたひどく具合いが悪いな。正式にはどう呼べばいいんだ?」
「ただのエリオンドはどう?」
レルグはさっきから死人よろしく青ざめており、いま、ほとんど本能的にひざまずいた。
「そんなことしないでよ、レルグ」エリオンドは言った。「なんといっても、あなたはぼくがほんの子供のころからぼくを知っていたんじゃないか」
「ですが――」
「立って、レルグ」エリオンドはウルゴ人をひっぱって立たせた。「そうそう、ついでだけど、父がよろしくって」
レルグはおそれおおいというように目を伏せた。
「ええと、それから」シルクが皮肉っぽくひとりごちた。「そろそろ公表したほうがいいだろうな。諸君、リセル辺境伯令嬢のことはみんなおぼえてるはずだ、おれのフィアンセだ」
「おまえのフィアンセだと?」バラクが仰天して叫んだ。
「われわれはみんないつかは身を固めなけりゃならないのさ」シルクは肩をすくめた。
かれらはシルクを取り囲んで祝福した。だが、ヴェルヴェットはうれしそうに見えなかった。
「どうかしたのか?」シルクがしらばっくれてヴェルヴェットにきいた。
「なにか忘れてやしない、ケルダー?」彼女はいまいましげにたずねた。
「そうかな」
「まっさきにわたしに婚約のことを聞くべきでしょ」
「聞かなかったか? ほんとに? 拒否するつもりだったんじゃないんだろ?」
「もちろんちがうわ」
「それじゃ、どっちみち――」
「まだ最後までしゃべっていないのよ、ケルダー」ヴェルヴェットは不吉に言った。
「まずいスタートを切っちまったらしいな」
「相当まずいスタートをね」ヴェルヴェットは同意した。
かれらはドラゴンの巨大な死骸からほど遠からぬ野外劇場に盛大な焚火をたいた。ダーニクがやや恥ずかしそうな顔つきで、珊瑚礁のあちこちにあるほうぼうの浜から流木を転位させて大きな薪の山をこしらえていた。ガリオンはその山を批判的にながめた。「かわいた薪をさがしてエリオンドと何時間もうろつきまわった、雨ふりの夜を思いだすよ」ガリオンは古くからの友だちに言った。
「これはいわば特別なんだよ、ガリオン」ダーニクはすまなそうに言い訳した。「それにあのときだって、こういうやりかたでやりたかったのなら、自分でそうできたはずだろう?」
ガリオンはダーニクをにらんだあと、いきなり吹きだした。「そうだね、ダーニク。できたはずだ。それにしても、エリオンドに言わなくちゃだめかな」
「かれが知らないと本気で思っているのか?」
一同はずいぶん遅くまで話しあった。最後に顔を会わせてからじつにたくさんの出来事が起きていたし、話の途中でたえず口をはさんで空白を埋めていかないと顛末がわからなくなるからだった。とうとう、ひとりまたひとりとかれらは眠りに落ちた。
夜明けまでまだ数時間というころ、ガリオンはふいに目覚めた。
かれを起こしたのは音ではなく、光だった。それはひとすじの強烈な青い光線だった。野外劇場が青い光輝にひたされていた。夜空から巨大な光る円柱のようにさしてきた他の光がそれに加わった。赤、黄色、緑、それに名づけようのない色。水際から少し離れたところに、円柱が半円に並んだ。その虹色の光の中心に、清新な白いアホウドリが天使のような翼を動かして浮かんでいた。ガリオンが以前クトル・ミシュラクで見たあの光輝ある姿が柱の純粋な光の中にあらわれはじめた。アルダー、マラ、イッサ、ネドラ、チャルダン、ベラーの神々が歓迎の喜びを顔一面に浮かべて立っていた。
「そのときがきたわ」ベルガラスの両腕に抱かれてすわっていたポレドラが吐息をもらした。彼女は肩にまわされていた夫の腕をきっぱりとどけると、立ち上がった。
「だめだ」ベルガラスが苦しげな口調で抗議した。目には涙があふれている。「まだ時間はある」
「こうなることはわかっていたはずよ、おいぼれ狼」ポレドラはやさしく言った。「こうならなければならないのよ」
「おまえを二度も失うつもりはない」ベルガラスははっきり言うと、同じように立ち上がった。「こんなことにはもはやなんの意味もない」かれは娘を見た。「ポル」
「ええ、おとうさん」ポルガラはダーニクをかたわらに立ち上がった。
「これから先のことはおまえにまかせる。ベルディンとダーニクと双子がおまえを助けてくれるだろう」
「一度にわたしを孤児にするつもり、おとうさん」その声はあふれでる涙のためにくぐもっていた。
「おまえにはそれに耐えられるだけの強さがある、ポル。おかあさんもわしもおまえが誇らしいよ。達者でな」
「ばかなまねはおよしなさい、ベルガラス」ポレドラが断固たる口調で言った。
「ばかなものか。わしは二度とおまえなしでは生きていけない」
「それは許されていないのよ」
「禁じることはできんさ。わしらの師だとて、いまのわしを邪魔することはできん。ひとりで行くな、ポレドラ。わしも一緒に行く」ベルガラスは妻の肩を抱くと、その金色の目の奥をのぞきこんだ。「このほうがいいのだ」
「あなたのお決めになったように」とうとうポレドラは言った。「でもウルが到着なさる前に、行動しなければならないわ。ウルにはこれを禁じる力がおありなのよ。いくらあなたがやりとげようとしてもね」
そのとき、エリオンドがそばにいた。「ほんとうに考えたうえなんですか、ベルガラス?」とかれはたずねた。
「ああ、この三千年間、何度も考えたことだ。だが、ガリオンを待たねばならなかった。やがてガリオンが生まれ、わしを拘束するものはもはやなくなった」
「決心を変えさせるようなものは?」
「なにもない。二度と妻と別れる気はない」
「それじゃ、ぼくがそうしてあげるしかありません」
「それは禁じられているわ、エリオンド」ポレドラが反対した。「務めが課せられたとき、こうなることにわたしは同意したのよ」
「契約というのはつねに再考されるべきものですよ、ポレドラ」エリオンドは言った。「それにぼくの父も兄弟もかれらの決定をぼくに教えてくれませんでした。だから、ぼくはかれらの忠告抜きで状況を処理しなければならないんです」
「おとうさまの意志を無視することはできないわ」ポレドラは反対した。
「でも、ぼくは父の意志をまだ知らないんですよ。もちろん、あとであやまりますが、父はそう怒らないはずです。永遠に怒っていられる人はいないし――たとえぼくの父でも――変更できない決定はありません。必要なら、プロルグでゴリムがもっと哀れみ深くなるようにと父を説得したとき、父が心変わりしたことをぼくが思いださせますよ」
「なんだかやけに聞き覚えのある言いかただな」バラクがヘターに耳うちした。「アンガラクの新しい神はわれらがケルダー王子と過ごした時間が長すぎたようだぜ」
「ああいうのは伝染するようだな」ヘターもうなずいた。
ガリオンの心に不可能な希望が芽ぶいていた。
「もう一回〈珠〉を貸してもらえるかな、ガリオン?」エリオンドが礼儀正しくたずねた。
「もちろん」ガリオンは剣の柄《つか》から〈珠〉をもぎとらんばかりにして、若い神に差しだした。
エリオンドは輝く宝石を手にとると、ベルガラスとその妻に近づいた。それから〈珠〉を持った手を伸ばし、そっとふたりの額に〈珠〉を触れさせた。宝石の接触が死を意味することを知っていたガリオンは、しわがれた叫びとともに前に飛びだしたが、すでに遅すぎた。
ベルガラスとポレドラは互いの目の奥をのぞきこんだまま青い光輪を放って光りはじめた。エリオンドは〈珠〉をリヴァの王にかえした。
「こんなことをして、困ったことにならないのか?」ガリオンはたずねた。
「だいじょうぶだよ、ガリオン」エリオンドは断言した。「これからの数年はあらゆるたぐいの規則を破っていかなければならないんだ。だから、実行しはじめておいたほうがいいんだ」
水際の輝く光の円柱から深みのある声が聞こえた。一堂に会した神々にすばやく視線を走らせたガリオンは、アホウドリがおそろしいほど輝いているのに気づいた。まぶしくて見ていられないほどだった。
つぎの瞬間、アホウドリは消えてそこに神々の父が息子たちに囲まれて立っていた。「じつにみごとだった、息子よ」ウルは言った。
「父上がわが意識に植えつけたものに気づくまで少しかかってしまいました」エリオンドはあやまった。「察しが悪く、もうしわけありません」
「おまえはこのような事態になれていないのだ、息子よ」ウルは許した。「おまえがこのことでおまえの兄弟の〈珠〉を使ったことは、しかし、予想外であった。じつに率直な行為だ」〈永遠の顔〉にかすかな笑みがのぼった。「たとえわたしが寛大になっていなかったとしても、それだけでわたしは先を越されていたであろう」
「そうではないかと思ったんです、父上」
するとウルは言った。「ポレドラよ、わたしの残酷なごまかしを許してくれ。ごまかしがおまえを意図したものではなく、わが息子を意図したものであったことを知ってもらいたい。息子はひっこみ思案な性格で、意志を使うことにこれまで消極的だったが、かれの意志はいずれこの世界にひろまるだろう。いまこそエリオンドは意志を解きはなつにせよ、抑制するにせよ、最善と思われる道を学ばなくてはならんのだ」
「それじゃ、テストだったんですか、至聖なるお方?」ベルガラスの声にはかすかないらだちがあった。
「発生するすべてのことがらはテストなのだ、ベルガラス」ウルは平静に説明した。「おまえとおまえの妻がこのことでじつにうまくやったことを知り、満足するがいいぞ。わが息子に決断を下させたのは、おまえたちふたりの決意だったのだ。いまだにおまえたちふたりが役にたってくれるとは万事申し分ない。さあ、エリオンド、わたしや、おまえの兄弟のもとへくるがよい。われわれはいま喜んでこの世界をおまえの両手にゆだね、それぞれの道をゆく」
[#改ページ]
9
日が昇っていた。東の水平線に金色の円盤が低くかかっている。空は濃い青で、西から絶えまなく吹く微風が白い波頭をなぶっていた。海から突きでて珊瑚礁の中央にある不思議な形の石のピラミッドには、まだ前日の霧の名残で、かすかな湿った匂いがまつわりついていた。
ガリオンは疲労のあまり頭がぼうっとしていた。身体は休息を求めて悲鳴をあげているのに、心は印象から思考へ、イメージへとめまぐるしく動きまわり、半覚醒状態にかれをしばりつけていた。この〈もはや存在しない場所〉で起きた一切については、あとでいくらでも頭を整頓する時間がある。そう思ったとたん、ガリオンは考えを改めた。〈もはや存在しない場所〉、そんな場所があったとすれば、それはコリムなのだ。コリムはトル・ホネスや、マス・ゼス、ヴァル・アローン以上にゆるぎのない現実だった。ガリオンは眠っている妻と息子をもっとそばへ抱き寄せた。ふたりともいい匂いがした。セ・ネドラの髪はいつものように花のような芳香がし、ゲランは幼い男の子に共通の匂いがした――どう考えても風呂に入る必要のある小さな人間の匂いが。ぼく自身の入浴の必要性はそれ以上だ、とガリオンは結論づけた。きのうはまったく大変な一日だった。
友人たちは野外劇場のまわりのあちこちで、興味深い小グループを作っていた。バラク、ヘター、マンドラレンはザカーズと話していた。リセルは注意を集中するあまり放心したような表情で、シラディスの髪をとかしていた。女性たちはこぞってケルの女予言者の世話をする決心をしたらしい。サディとベルディンはドラゴンの死骸の近くの石の上に寝ころがって、エールを飲んでいる。サディの顔にはもっともらしい表情が浮かんでいるが、苦い醸造酒を飲んでいるのは飲みたいからというより、礼儀上の行為であるのはあきらかだ。ウンラクはあちこち歩きまわっており、そのすぐうしろにはしまりのない顔のタール人の若い王、ナセルがへばりついていた。オトラス大公は、不安と恐怖を顔一杯に浮かべて、いまは封印された洞窟の入口のそばにひとりで立っている。カル・ザカーズはその親戚といくつかのことがらについて論じあうにはまだふさわしくないと考えており、オトラスもその会話を心待ちにしていないことはあきらかだった。エリオンドはポルおばさん、ダーニク、ベルガラス、ポレドラと静かに話しあっている。若い神のまわりには不思議な白っぽい光輪があった。シルクは姿が見えない。
そのとき、ピラミッドの上方からシルクがあらわれた。かれの後方、頂上のずっと向こうのほうで黒い煙がたちのぼっている。小男は階段をおりて、野外劇場を横切り、ガリオンがすわっているところへやってきた。
「なにをしていたんだい?」ガリオンはたずねた。
「クレスカ船長に合図を送ったのさ」シルクは答えた。「かれはペリヴォーへもどる道を知ってるからな。おれはバラクが前に狭い海域で船を操るのを見たことがあるんだ。〈海鳥〉は広広とした海向けにできてる船で、狭いところじゃからきし役に立たないんだ」
「そんなことを言ったら、バラクが気を悪くするよ」
「言うつもりなんかないさ」ネズミ顔の小男はガリオン一家のとなりにごろりと横になった。
「リセルとはもう話しあいをしたのか?」
「先延ばしにしてるらしい。じっくり話しあうのに邪魔のはいらない時間がたっぷりほしいんだろ。結婚てやつはいつもこんなふうなのか? つまりさ、おまえはたえずこういう会話を予期して、びくびくしながら生きてるのか?」
「よくあることだよ。でもまだ結婚してないじゃないか」
「いまだかつてないほど接近してるぜ」
「悔やんでるのかい?」
「いや、そんなことはない。リセルとおれは相性がいいんだ。共通してることがいくらでもある。ただ、いろんなことをおれの頭の上にぶらさげつづけるのだけは勘弁してもらいたいよ。文句といったらそれだけだ」シルクは野外劇場のほうを気むずかしげに見た。「かれはあんなふうに光らなけりゃならないのかね?」とエリオンドを指さした。
「自分で光らせてるなんて知ってもいないんじゃないかな。なにしろ新米だからね。そのうち慣れてくるさ」
「おれたち神を批評しつつ、寝ころがってるんだ。わかってるのか?」
「エリオンドは第一に友だちだったんだよ、シルク。友だちに批評されたって怒ったりしないさ」
「やれやれ、けさのおれたちはこむずかしいことばかり言ってるみだいだな。それにしても、エリオンドが〈珠〉でベルガラスとポレドラにさわったときには、心臓が止まったぜ」
「ぼくもだ」ガリオンは認めた。「でも、かれは自分のしていることがわかっていたらしい」とためいきをもらした。
「どうした?」
「もう全部終わった。終わってみるとさみしくなりそうな気がするんだよ――すくなくとも睡眠不足が解消されればすぐにでも」
「ここ数日はちょっと尋常じゃなかったよな。まあ、おれたちで知恵を寄せあえば、なにかわくわくするようなことを思いつけるさ」
「自分がどうなるかはわかってるんだ」
「へえ? どうなるんだ?」
「ものすごく忙しい父親になるのさ」
「息子はいつまでも子供じゃないぜ、ガリオン」
「子供はゲランだけじゃないんだ。ぼくの頭の中にいる友人が大勢娘が生まれると警告してくれたのさ」
「ふむふむ。それでおまえも少しは落ちつくかもしれないな。批判するわけじゃないが、ガリオン、おまえは腰が定まらなさすぎるぜ。あの燃える剣を持って世界の一角へ駆けていかずに過ぎる一年なんて、ほとんどないときてるんだから」
「からかってるのか?」
「おれが?」シルクは心地よげに背中を伸ばした。「そんなにたくさんの娘を持つ気はないんだろう? つまり、女が子供を産む年齢には限りがあるってことだよ」
「シルク」ガリオンは辛辣に言った。「クセベルをおぼえてるか、南トルネドラの〈森の川〉の近くでぼくたちが会った、あのドリュアドを?」
「えらく男好きの娘だろ――男ならだれでも好きな?」
「そう。彼女はまだ子供を産める年齢だと思うかい?」
「そりゃ、そうだよ」
「クセベルは三百歳を越えてるんだよ。それにセ・ネドラもドリュアドだ」
「しかし、おまえのほうが年をとりすぎて不可能――」シルクは口をつぐんでベルガラスを見た。「うーん、そうか。そいつはちょっと問題だな」
一同が〈海鳥〉に乗船したのはほとんど正午だった。バラクはしぶしぶだったが、クレスカ船長のあとについてペリヴォーへ向かうことに同意していた。だが、ふたりの船乗りが会って、互いの船を調べたあとは、ことはもっと順調に運んだ。クレスカが〈海鳥〉をほめちぎったのである。船をほめるのは、昔からバラクとうまくやる一番いい手だった。
乗組員たちが錨をあげると、ガリオンは右舷の手すりにもたれて、北側の野外劇場から脂ぎった煙をたちのぼらせている、海から突き出した奇妙なピラミッドを見つめた。
「なにも見られなくてつくづく残念だな」ヘターがとなりに肘をついてよりかかりながら、静かに言った。「どんなふうだったんだ?」
「騒々しかったよ」ガリオンは言った。
「なんでベルガラスはあのドラゴンを焼くことにこだわったんだ?」
「ドラゴンを気の毒に思ったのさ」
「ベルガラスのやることは、ときどきわけがわからないね」
「まったくね。ところで、アダーラや子供たちはどうしてる?」
「元気だ。また子供ができてね」
「また[#「また」に傍点]? ヘター、きみたちふたりも、レルグとタイバに負けず劣らずだな」
「そうでもない」ヘターは謙遜した。「かれらのほうがまだ数人多い」かれは非難でもするように眉をひそめた。鷹のような鋭い顔が太陽を背にくっきりと浮かび上がった。「しかし、だれかがズルをしているんじゃないかと思うね。タイバは双子や三つ子を産んでばかりいる。あれではアダーラは追いつけない」
「指摘する気はないけど、マラが介入しているんじゃないかな。マラゴーの人口をまた増やすには時間がかかりそうだからね」ガリオンは首を伸ばして、船首に立っているウンラクを見た。そのすぐうしろにナセルが影のように寄り添っている。「あれはどういうことなんだい?」
「よくわからん」ヘターは言った。「ナセルは哀れな若者でね、ウンラクは同情してるんだと思う。ナセルはこれまであまり親切にされたことがなかったらしい。だから、哀れみさえも受け入れる。われわれが拾ってやってからずっと、まるで子犬みたいにウンラクにまつわりついている」長身のアルガー人はガリオンを見つめた。「疲れているようだな。ちょっと眠ったほうがいいぞ」
「くたくただよ」ガリオンは認めた。「でも昼と夜をあべこべにしたくないんだ。バラクと話をしに行こう。岸にあがったとき、なんだかむくれているみたいだったからな」
「バラクの性格を知ってるだろう。戦いを逸するときまって不機嫌になるのさ。いくつか話をしてやったらいい。壮絶な戦いと同じくらいおもしろい話に目がないんだ」
ふたたび懐かしい友人たちと一緒になれたのはすばらしいことだった。レオンでかれらと別れて以来、ガリオンは胸にぽっかり穴があいたような気分だった。友人たちの率直な自信が身近に感じられなかったことも、もちろんそのひとつだったが、それ以上にさびしかったのは、表面的な口論の下にある快い友情が遠のいてしまったことだった。船尾で肉づきのいい手で舵輪を握っているバラクのところへ歩きだしたとき、ガリオンはザカーズとシラディスが大型艇の風下側に立っているのに気づいた。身ぶりでヘターに立ち止まるように言い、ガリオンは口に指をあてた。
「盗み聞きはあまりいいことじゃないぞ、ガリオン」長身のアルガー人はささやいた。
「かならずしも盗み聞きというわけじゃないんだ」ガリオンはささやきかえした。「処置を講じる必要がないかどうか確認しなけりゃならないだけさ」
「処置?」
「あとで説明するよ」
「これからどうするのだ、聖なる女予言者?」ザカーズはほっそりした娘に心情のにじむ声でたずねていた。
「世界はわたしの前に大きく広がっている、カル・ザカーズ」シラディスはちょっと悲しそうに答えた。「務めという重荷がなくなったからじゃ。そなたはもはやわたしを女予言者≠ニ呼ぶにはおよばぬ。なぜなら、そう呼ばれる重荷もまたなくなったからじゃ。わたしの目はいまや平凡なありふれた日の光にさらされている。いまのわたしは平凡なありふれた女にすぎぬ」
「平凡などではない、シラディス、ありふれてもいない」
「そのようなことを言うとは、そなたは思いやりがある、カル・ザカーズ」
「カル≠ヘやめてくれないか、シラディス? そんな呼称は見栄でしかない。王であり神であるという意味なんだ。ほんとうの神々を見たわけだから、その呼称を使うのがいかに生意気であるかよくわかる。だが、話をもとにもどそう。あなたの目は何年も目隠しされていたのだろう?」
「そうじゃ」
「では、最近鏡を見る機会はなかったわけだね?」
「機会もなかったし、見たいとも思わなかった」
ザカーズはじつに抜け目のない男だったから、思い切った行動にでるチャンスを見逃さなかった。「それでは、わたしの目を貴女の鏡にさせてくれ、シラディス。わたしの目をのぞきこみ、貴女がいかに美しいかを見るがよい」
シラディスは頬を染めた。「そなたのお世辞はわたしをおどろかせる、ザカーズ」
「お世辞というわけではないさ、シラディス」ザカーズはいつもの言葉使いにもどりながら冷静に言った。「あなたはわたしがこれまで会ったなかでずばぬけて美しい女性だ。あなたをケルへ帰らせるのかと思うと――その点では他のどの場所でも同じことだが――むなしくなる。あなたは案内役である友人を失った。どうかわたしをあなたの案内役であり友人である存在にさせてほしい。わたしと一緒にマル・ゼスへもどってくれ。話しあうことは山ほどある。一生かかるかもしれない」
シラディスは白い顔をかすかにそむけた。あるかなきかの微笑がくちびるにのぼり、表情にこそ出さないものの、ザカーズの思いをくみとったことがはっきりとわかった。シラディスはマロリー皇帝にふたたび顔をむけると、おどろいたように目を見ひらいてたずねた。「わたしとともにいるとほんとうに楽しい?」
「あなたがいてくれるとわたしの日々は満ち足りるのだ、シラディス」
「では喜んでマル・ゼスへお供する。なぜならそなたはいまやわたしの真の友であり、最愛の連れなのだから」
ガリオンはあごをしゃくると、ヘターと一緒に船尾へ向かった。
「われわれはなにをしていたんだ?」ヘターがきいた。「いまのは完全に私的会話のようだったぞ」
「そうさ」ガリオンは言った。「ああなることをちゃんと知っておく必要があったんだ、それだけのことだ。ああなるとは聞かされていたが、ときにはちょっと確認しておきたいんだよ」
ヘターはけげんそうだった。
「ザカーズは世界一孤独な男だったんだ。それがかれをひどく虚無的で冷たい――そして危険な人間にしていた。いま、状況は変化した。かれはもう孤独じゃない。その変化がこの先ザカーズがかかえる義務を軽くするはずなんだ」
「ガリオン、やけにこむずかしいことを言うんだな。わたしから見れば、うら若い女性が巧みに男を操ってるだけだよ」
「たしかにそう見えるね」
翌朝早く、セ・ネドラがいきなりベッドから起き上がって、甲板へ駆けあがった。ガリオンは仰天してあとを追った。「失礼」セ・ネドラは、手すりから身を乗りだしていたポルガラに言った。そして老いを知らぬその女性のとなりに陣取り、ふたりそろってしばらく海中に吐きつづけた。
「あなたもですの?」セ・ネドラは力ない微笑を浮かべて言った。
ポルガラはハンカチで口もとをぬぐってうなずいた。
それからふたりは抱きあって笑いだした。
「あのふたり、だいじょうぶなんですか?」ちょうど若い子狼を連れて甲板に出てきたポレドラにガリオンはたずねた。「ふたりともこれまで船酔いなんてしたことがないのに」
「あれは船酔いじゃないわ、ガリオン」ポレドラは謎めいた微笑を浮かべて言った。
「じゃあどうして――」
「ふたりとも元気よ、ガリオン。普通以上にね。船室へおもどりなさない。あとはまかせて」
ガリオンは起きたばかりだったので、頭がまだちょっとぼんやりしていた。だから、階段を半分おりるまでことのしだいがのみこめなかった。かれは目をまん丸にして立ち止まった。「セ[#「セ」に傍点]・ネドラ[#「ネドラ」に傍点]が?」思わず大声を出した。「それにポルおばさん[#「ポルおばさん」に傍点]も?」つぎの瞬間、ガリオンも笑いだした。
ボー・マンドルの無敵の男爵、マンドラレン卿の出現は、オルドリン王の宮廷に畏怖に満ちた静寂をもたらした。ペリヴォーはいわば僻地だったから、マンドラレンの名声はその島には届いていなかったが、そのまぎれもない存在――圧倒的気品とすきのなさ――に、宮廷中は肝をつぶした。マンドラレンは根っからのミンブレイト人であり、それが身辺にはっきり漂っていた。
ガリオンとザカーズはまたしても鎧兜のいでたちで、そのみごとな騎士をまんなかに、王座に近づいた。「陛下」ガリオンは一礼して言った。「われらが探索がはなばなしい成功のうちに終わりましたことをお知らせできるのは、このうえない喜びであります。陛下の島の海岸を荒しまわった獣はもはや生きてはおりません。世界を苦しめていた悪は、永久に滅ぼされたのであります。幸運とは、ときに双手を広げて寛大なる祝福を与えてくれるものでありますが、このたびの幸運は、わが仲間とわがはいとを、懐かしい愛する友人たちと再会させてくれたのでございます――かれらの多くについては、名前を秘して紹介いたします。しかしながら、陛下ならびに宮廷のみなさんにとり、きわめて重要であることがよくわかっておりますゆえ、どうしてもここではるかアレンディアからやってきた最強の騎士を紹介しなければなりますまい。かれはコロダリン王の片腕であります。同胞としての愛情をこめて陛下にご挨拶申し上げるにちがいありません。つつしんでここにボー・マンドル男爵にして世界最高の騎士であるマンドラレン卿をご紹介いたします」
「だんだんうまくなってきたじゃないか」ザカーズがそっと言った。
「練習、練習」とガリオン。
「陛下」マンドラレンはあたりに響きわたる声で、王座に向かってお辞儀した。「陛下ならびに陛下の宮中の方々に喜んでご挨拶申し、またみなさん全員を同胞とお呼びする喜びをここに表明いたす。おそらく、アレンディアの君主であられるコロダリン王ならびにマヤセラナ王妃から、陛下に温かい挨拶が送られるものと思いまする。なんとなれば、せっしゃがボー・ミンブルへ帰り、かつて失われたがいまふたたびはからずも見いだされたみなさんのことをお伝え申し上げれば、両陛下の目には感謝の涙があふれ、両陛下は遠くから、兄弟として陛下を抱擁申し上げると思われるからでござる。偉大なるチャルダンがせっしゃに力をお与えくだされば、せっしゃはそのあと、聖なるアレンディアの分かたれた王室の再結合――再統一とあえて申しますが――を願う文書をたずさえて、このすばらしい都市にもどってまいりましょうぞ」
「マンドラレンはいまのを一気に言ったのか?」ザカーズがすくなからぬ畏怖をこめてガリオンにささやいた。
「いや、途中で休んだよ」ガリオンはささやきかえした。「マンドラレンはこういうのが得意中の得意なんだ。これはしばらくかかりそうだぞ――まあ、二、三日というところだな」
それほど長くはかからなかったが、ガリオンの推測はだいたい当たっていた。ペリヴォーの貴族たちの舌は最初は鈍りがちだった。マンドラレンの突然の出現にびっくりし、そのとどまるところを知らぬ雄弁さに圧倒されてしまったからだ。しかし、興奮のうちに眠れぬ一夜が過ぎると、本来のおしゃべり好きなミンブレイト人気質が頭をもたげてきた。翌日は華麗なおしゃべりに花が咲き、種々の娯楽をまじえた宴会が夜遅くまでつづいた。ベルガラスは説きふせられて、珊瑚礁で起きた出来事をちょっと潤色してしゃべった。老人はもっと信じがたい出来事のいくつかについては、賢明に言及を避けた。冒険譚の途中にいきなり神々が出てきては、どんなに人のいい聴衆でも疑問を感じることがあるからだ。
ガリオンは宴会のテーブルをはさんで正面にすわっているエリオンドのほうへ身をのりだして、そっと話しかけた。「すくなくとも、きみの正体はばらさなかったね」
「そうだね」エリオンドは同意した。「そのことでは、ベルガラスに感謝する方法を考えなくちゃならないな」
「ポレドラをかれの手にかえしただけで、いまのベルガラスにはじゅうぶんだ。それ以上なにかしたら、かえって困らせちゃうよ。しかし、いつかは明かすことになるんだろうね――きみの正体を」
「でも、ちょっと準備が必要になると思う。セ・ネドラとじっくり話しあう必要がありそうだ」
「セ・ネドラと?」
「彼女はタール・マードゥへ軍を率いていっただろう。あのとき、どうやって兵を徴集したのか、詳しいことを知りたいんだ。ぼくには最初は小規模だった軍を、セ・ネドラがどんどんふくらませていったように思える。ぼくのことを知らせるにも、それが最良の方法かもしれない」
「きみのセンダリア的なところがあらわれてきたよ、エリオンド」ガリオンは笑った。「ダーニクはぼくたちふたりにかれの気質を植えつけたようだな」つぎにガリオンはちょっと居心地が悪そうに咳ばらいした。「またやってるぞ」とエリオンドに注意した。
「やってるって、なにを?」
「光ってるんだよ」
「見えるのか?」
ガリオンはうなずいた。「あいにくと」
「練習しなけりゃならないな」
娯楽をまじえた宴会は数日にわたって夜遅くまでつづいたが、貴族たちは習慣的に朝寝坊なので、ガリオンと友人たちは午前中は心おきなく、レオンで別れてからの出来事を話しあうことができた。故国にとどまった者たちの話は日常的なことばかりだった――子供たち、結婚、そして国事。ガリオンはブランドの息子のカイルがリヴァの王国を自分と遜色なく管理していたことを知って、とても喜んだ。さらに、クトル・マーゴス南東部ではマーゴ人たちがマロリー人の存在に注意を奪われていたので、西の諸王国にはおおむね平和が浸透し、貿易が盛んに行なわれていた。その情報に、シルクの鼻がぴくぴく動きはじめた。
「これはみんないい話ばかりだ」バラクが大きな声で言った。「だが、故国の話はこれくらいにして、ほんものの話をしないか? 好奇心で死にそうなんだ」
というわけで、かれらは話をはじめた。ものごとを取りつくろうようなまねは許されなかった。どんな些末事にも、聞き手たちは夢中になった。
「ほんとうにそんなことをしたのかい?」シルクがアレンディッシュの平地の上の丘陵で、ドラゴンにばけていたザンドラマスと最初に遭遇したときのことを劇的に描写したあと、レルドリンがガリオンにたずねた。
「まあね」ガリオンはひかえめに答えた。「尻尾全部じゃない。ほんの四フィートぐらいだ。だが、ザンドラマスの注意をとらえはしたようだった」
「国へ帰ったら、ここにいるわれらが偉大な英雄は、ドラゴンをいたぶる分野≠ナキャリアを積む気だぞ」シルクは笑った。
「でも、ドラゴンはもういないのよ、ケルダー」ヴェルヴェットが指摘した。
「ああ、それなら心配いらないぜ、リセル」シルクはにやにやした。「エリオンドがガリオンのためにいくつか作ってくれるかもしれない」
「余計なお世話だ」とガリオン。
やがて、話の途中でかれらは全員ジスを見なければ気がすまなくなり、サディがやや誇らしげに小さな緑色の蛇と、くねくね動いている子蛇たちを披露した。
「それほど物騒には見えないけどな」バラクが疑わしげに言った。
「そのせりふはハラカンに言うんだね」シルクがにやにやした。「リセルがアシャバでその小さいやつをハラカンの顔めがけて投げつけたんだ。ジスは何度かハラカンに噛みつき、石みたいにやつの身体を硬直させた」
「死んだのか?」大男はきいた。
「あれくらい死んだやつは見たことがないね」
「シルク、話をちょっとはしょってるぞ」ヘターが文句をつけた。
「いますべての出来事を話すのは不可能だよ、ヘター」ダーニクが言った。
「心配ないさ、ダーニク」バラクが言った。「道中長いんだ。海の上で時間はいくらでもあるさ」
その日の午後、人々にせがまれて、ベルディンは珊瑚礁へ出発する前にやってのけた芸を再び披露するはめになった。そのあと、ガリオンは仲間たちの才能の一部を見せるために、競技場への移動を示唆した。まず、レルドリンが王と廷臣たちにみごとな弓術を示して、遠くの木からプラムをとるまったく新しい方法を一同に見せた。バラクは鉄の棒をねじり曲げてプレッツェルもどきにしてみせ、ヘターは見る者を幻惑する手綱さばきで人々を驚嘆させた。レルグが硬い石壁を通り抜けたときには、多くの貴婦人が卒倒し、子供たちは悲鳴をあげて逃げだした。
「まだあれを見るだけの用意ができていなかったようだな」シルクが言った。そう言うシルクは、レルグが壁に近づいたときに抜け目なく背中を向けていた。「おれもなんだ」
それから数日後の昼ごろ、二隻の船がそれぞれ別方向から港に入った。一隻は見おぼえのあるチェレクの戦さ船で、もう一隻からはアテスカ将軍とブラドー国務長官が降りてきた。戦さ船の渡し板からグレルディクがアンヘグ王とヴァラナ皇帝を先導してきた。
「バラク!」アンヘグが板を歩いてきながら大声で叫んだ。「わしがおまえを鎖につないででもヴァル・アローンへ連れて帰っちゃならんという理由がひとつでも思いつけるか?」
「機嫌が悪いな」ヘターがバラクに言った。
「酒を飲ませりゃおとなしくなるさ」赤髭の男は肩をすくめた。
「すまん、ガリオン」アンヘグはわれ鐘のような声で言った。「ヴァラナとわしとでバラクをつかまえようとしたんだが、あのでかいだるま船はわれわれの予想以上に船足が早くてな」
「だるま船?」バラクがぶつぶつこぼした。
「いいんだよ、アンヘグ」ガリオンは答えた。「かれらは、ことが全部終わってから到着したんだ」
「それじゃ、息子を取りもどしたのか?」
「ああ」
「じゃあ、見せてくれよ。その子を見つけようと、われわれは多大の努力をしたんだからな」
セ・ネドラがゲランを抱いて進みでた。アンヘグはふたりを力強く抱擁した。「女王陛下」とリヴァの王妃に挨拶し、「殿下」と、歯を見せて笑いながら小さな男の子をくすぐった。ゲランは身をくねらせて笑った。
セ・ネドラは膝を曲げてお辞儀しようとした。
「それはしなくていい、セ・ネドラ」アンヘグが言った。「赤ん坊を落とすぞ」
セ・ネドラは声をたてて笑ってから、ヴァラナ皇帝にほほえみかけた。「おじさま」
「セ・ネドラ」銀髪の皇帝は答えた。「元気そうだな」と言ったあと、ヴァラナは目を細くして、「気のせいかな。少し太ったんじゃないか?」
「ほんの一時的なものですわ、おじさま。わけはあとで説明します」
ブラドーとアテスカがザカーズに歩み寄った。「これは皇帝陛下」アテスカが驚きを装って皇帝に言った。「よりによってこんなところで陛下にお目にかかるとは」
「アテスカ将軍、われわれはそういうごまかしはもうしなくてもよい仲なのではないのか?」ザカーズは言った。
「われわれは陛下のことを心配申し上げていたのです」ブラドーが言った。「どうせ近くまできたのですから……」禿頭の男は両手を広げた。
「おまえたちふたりはこのあたりでいったいなにをしていたのだ? マガン川の土手で別れたはずだが?」
「あることが起きまして、陛下」アテスカが割って入った。「ウルヴォンの軍が敗走し、ダーシヴァ軍は動転したようでした。そこでブラドーと一緒にそのすきをとらえ、ペルデインとダーシヴァをふたたび帝国の領土にもどしたのです。そして残りのダーシヴァ軍を壊滅させようと、東部ダラシア中を追跡したのです」
「よくやった、ふたりとも」ザカーズはほめた。「大変けっこうだ。わたしはもっと頻繁に休暇を取ったほうがよさそうだな」
「休暇を取るというのは、ほんとうにかれの思いつきなんですかね?」サディがささやいた。
「もちろんさ」シルクは答えた。「ドラゴンと戦うのは、じつに気持ちのいいものなんだ」
ザカーズとヴァラナは先刻から、さぐるように互いを見やっていた。
ガリオンは丁寧に言った。「ぼくがおふたりを紹介したほうがよさそうだ。ヴァラナ皇帝、こちらはマロリーのカル・ザカーズ皇帝陛下。ザカーズ皇帝、こちらはトルネドラ帝国ラン・ボルーン二十四世陛下だ」
「ただのヴァラナでいいよ、ガリオン」トルネドラ人は言うと、「あなたのことはいろいろと聞いていましたよ、カル・ザカーズ」と片手を差しだした。
「悪いことばかりでしょうな、きっと、ヴァラナ」ザカーズは微笑して、もうひとりの皇帝の手を温かく握った。
「噂というのはえてして不正確なものですよ、ザカーズ」
「われわれには話しあうことがいくらでもある、陛下」ザカーズは言った。
「まったくだ、陛下」
ペリヴォーのオルドリン王は神経衰弱の一歩手前のように見えた。かれの支配する島国の王国は、まったく突然に王族の襲来に会ったようなものだった。ガリオンはなるべく穏やかに、王をおどかさないように、紹介をしていった。オルドリン王はふたこと、みこと挨拶をもぐもぐとつぶやき、いつもの仰々しい言葉使いをほとんど忘れていた。ガリオンはオルドリンにそっと耳うちした。「これは記念すべき機会ですよ、陛下。マロリーのザカーズ、トルネドラのヴァラナ、チェレクのアンヘグが一堂に会するとは、世界が長年望んできた平和に向けての大きな一歩を予測させるものです」
「御身の存在で、その機会はさらに記念すべきものとなっている、リヴァのベルガリオン」
ガリオンは軽くうなずいて、それを認めた。「しかし、陛下の宮廷の心こもるもてなしには、既知の世界も驚きましょう。かように高貴な理由において、この機会をとらえぬのは愚かなことです。そこでおりいってのお願いですが、わが友人たちとしばらく話しあいをし、この願ってもない遭遇の可能性をさぐりたいのです。もっとも、わたしにとっては、そのようなことはこういう事態が実現したことにくらべれば、取るに足らぬことに思われますが。きっと神々自身のお力そえがあったのでしょう」
「おっしゃるとおりだ、陛下」オルドリンは賛成した。「わが宮殿の最上階に会議室がござる、ベルガリオン王。いまから陛下とそのご友人がたでそこを自由にお使いになるとよい。まぎれもなく、この遭遇から画期的な事態が生じましょうぞ。わが宮殿の屋根の下でそのようなことが起きるとは、それだけでもこのうえない名誉じゃ」
宮殿の最上階の会議室で開かれたのは、即席の会議だった。みんなの同意により、ベルガラスが議長をつとめた。ガリオンはポレン王妃の利益を守ることに同意し、ダーニクはフルラク王の利益を守ることになった。レルグはウルゴ――とマラゴーを代表して発言した。マンドラレンはアレンディアを代表し、ヘターは父であるチョ・ハグに代わって発言した。シルクは弟のウルギットの代役をした。サディはサルミスラの代理として、また、ナセルはタール人を代表して発言したが、かれの場合はほとんどしゃべらなかった。ガール・オグ・ナドラクのドロスタ・レク・タンの代役については、だれもとりたてて関心を示さなかった。
最初に、話しあいから貿易問題は排除するという同意が取りつけられてヴァラナをいたく失望させたあと、かれらは仕事にかかった。
二日めのなかばごろ、ガリオンは椅子によりかかって、シルクとザカーズがマロリーとクトル・マーゴス間の平和条約をめぐり、絶えまない押し問答をしているのをぼんやりと聞いていた。ガリオンは嘆かわしげにためいきをついた。ほんの数日前、かれとその仲間は全世界的にきわめて記念すべき〈出来事〉を目撃し、またそれに参加していたのだ。ところがいまではテーブルを囲んで、国家の政治という世俗的問題に夢中になっている。それがひどくつまらなく思えた。だが、ガリオンは世界の大半の人間は、コリムで起きたことよりも自分の身辺の出来事にずっと関心があることぐらい承知していた――とにかく、しばらくのあいだは。
最後に〈ダル・ペリヴォーの講和〉が締結された。それは試案であって、一般的な言葉で述べられていた。その講和条約はもちろん、実際には出席していない君主たちによる批准を必要としていた。内容はさほど充実しておらず、真の政治的交渉に特有のおおざっぱなギブ・アンド・テイクの精神よりは、ひたすら善意に基づいていた。にもかかわらず、人類の最良の希望を具現しているようにガリオンは感じた。ベルディンのおびただしいメモを写すために書記たちが呼ばれ、できあがった文書はもてなし役でもある君主、ペリヴォーのオルドリン王の証印を押した上で発表されるべきだということになった。
署名の儀式ははなばなしかった。ミンブレイト人ははなばなしい儀式が大の得意なのである。
そして翌日、別れのときがきた。ザカーズ、シラディス、エリオンド、アテスカ、ブラドーはマル・ゼスへ、残りの面々は故国への長い船旅に向けて〈海鳥〉に乗りこんだ。ガリオンはザカーズと長い話をした。ふたりは手紙をやりとりする約束を交わし、国情が許すなら、訪問しあうことを約束した。手紙のやりとりが簡単なことであるのはふたりともわかっていた。だが、訪問はそう簡単にはいきそうになかった。
そのあとガリオンはエリオンドに別れを告げている家族のところへ行った。若く、まだ知る者もすくないアンガラクの神とともに、ガリオンはアテスカの船が待機している桟橋まで歩いた。「ずいぶん長いこと一緒にきたね、エリオンド」
「うん」エリオンドはうなずいた。
「きみの前途には山のような問題が控えているんだよ」
「たぶん、あなたには想像もつかないほどたくさんね、ガリオン」
「覚悟はできてるかい?」
「ああ、ガリオン、できてる」
「よかった。ぼくが必要になったら、呼んでくれ。きみがどこにいようと、ありったけの早さで駆けつける」
「おぼえておくよ」
「あまり忙しくして、あの馬を太らせるなよ」
エリオンドはほほえんだ。「その危険はない。あの馬とはまだ長い道のりを一緒に行くことになっているんだ」
「元気でな、エリオンド」
「あなたも、ガリオン」
かれらは握手を交わし、やがてエリオンドは渡し板をのぼって待っている船に乗りこんだ。
ガリオンはためいきをもらして、〈海鳥〉が係留されているところへ引きかえした。渡し板をのぼってみんなに合流し、アテスカの船が、革紐でつながれた猟犬のようにうずうずしているグレルディクの船をわずかによけて、ゆっくりと港を出るのを見守った。
やがてバラクの乗組員たちがすべての索をほどいて、港から漕ぎだした。帆が上げられ、〈海鳥〉は船首を故国へ向けた。
[#改ページ]
10[#「10」は縦中横]
天気は快晴で、間断のない微風が〈海鳥〉の帆をふくらませ、グレルディクのつぎはぎだらけのおんぼろ戦さ船のあとから、〈海鳥〉を北西へ向かわせていた。途中、ウンラクのたっての願いで、二隻の船はミシュラク・アク・タールに寄り、ナセルを彼自身の王国へおろした。
日は長く、毎日が陽光とツンとする海の匂いにあふれていた。ガリオンと友人たちはそんな日の大半を日当たりのいい主船室で過ごした。コリムへの探索の物語は長く複雑だったが、ガリオンたちに同行していなかった連中は詳細にいたるまで根ほり葉ほり聞きたがった。かれらがしょっちゅう口をはさんだり、質問したりするため、話は大幅に本筋からそれ、ときには相前後することもあったが、這うようにして少しずつ進んでいった。話の中には、普通の聴き手なら信じられないと思うことがいくらでもあった。だが、バラクも他のみんなも異議をさしはさんだりしなかった。みんなベルガラスやポルガラやガリオンとの付きあいが長かったから、不可能なことなどほとんどないと知っていたのだ。唯一の例外がヴァラナ皇帝で、かれは相変わらずひどく懐疑的だった――ガリオンの察するところ、ほんとうの不信というよりは哲学的見地から。
ウンラクはナセルがかれ自身の王国の港町におりる前に、長々と忠告を与えた。その忠告とは、ナセルはもっと自己主張すべきであり、母親の支配を断ち切るべきだというものだった。ウンラクは若いタール人が下船したあと、意外なことにさみしそうだった。
〈海鳥〉はそのあと南に針路をとり、依然としてグレルディクの船のあとをついて、クトル・マーゴス北東部の荒涼たるゴスカの海岸にそって進んだ。「見苦しいだろう?」ある日バラクがグレルディクの船を指さしながらガリオンに言った。「まるで漂う難破船だ」
「グレルディクは船をかなり酷使してるな」ガリオンは認めた。「何度かかれと航海したことがあるんだ」
「あの男は海を尊敬していないんだ」バラクは不満げだった。「それに飲みすぎるしな」
ガリオンは目をぱちくりさせた。「なんだって?」
「そりゃ、おれだってときにはジョッキ一杯のエールぐらい飲むが、グレルディクは海ほど飲むんだ。ぞっとするぜ、ガリオン。不敬だとさえ思うね」
「ぼくよりバラクのほうが海については詳しいから、バラクがそう言うならそうなんだろうな」
グレルディクの船と〈海鳥〉はヴァーカト島と、ハッガとゴラトの南部沿岸のあいだの狭い海峡を通過した。南の地方では夏だったので、天気はあいわからず快晴で、かれらは大いに距離をかせいだ。ウルガ半島の先端から並ぶ岩だらけの危険な小列島の間を通過したあと、シルクが甲板にあらわれた。「ふたりともここで時間をつぶすのが好きなんだな」かれはガリオンとバラクに言った。
「陸が見えているときは甲板に出るのが好きなんだよ」ガリオンは言った。「海岸線が流れていくのが見えると、どこかへ近づきつつあるという気分になれるんだ。ポルおばさんはどうしてる?」
「編物さ」シルクは肩をすくめた。「セ・ネドラとリセルに手ほどきをしてる。三人で小さな服をごまんと作ってるぜ」
「どうしてかな」ガリオンはしらばっくれて言った。
「頼みごとがあるんだよ、バラク」シルクは言った。
「なんだ?」
「ラク・ウルガに寄りたいんだ。例の講和条約の写しをウルギットにやりたいのさ。ザカーズがダル・ペリヴォーで、おれの弟が実際に知る必要のある提案をふたつほどしたんでね」
「港に入ったら、ヘターを鎖でマストにしばりつけるのを手伝うか?」バラクはきいた。
シルクはけげんな顔をしたが、急に思いあたったようだった。「ああ、忘れてたよ。ヘターをマーゴ人のうじゃうじゃいる都市に連れていくのはあまりいい考えじゃなかったんだな」
「いいなんてもんじゃないぜ、シルク。そんなことをしたら、たちまちとんでもないことになっちまう」
「ぼくにヘターと話をさせてくれ」ガリオンが言った。「ちょっとは落ちつかせることができると思う」
「おまえにそんなことができるなら、つぎの暴風につっこむときに甲板に出て、風と話をしてくれよ」とバラク。「ヘターはことマーゴ人となると、天気と同じくらい聞きわけが悪いんだ」
しかし長身のアルガー人は、マーゴ≠ニいう言葉を聞いて顔をこわばらせ、長剣に手を伸ばしたりしなかった。航海のあいだ、みんなからウルギットのほんとうの素性を聞かされていたおかげで、ガリオンがためらいがちにラク・ウルガに立ち寄る予定を告げると、ヘターの鷹のような鋭い顔は好奇心に活気づいた。「抑えるようにするよ、ガリオン」かれは約束した。「じつを言うと、まんまとマーゴ人の王になったそのドラスニア人に会ってみたいと思ってるんだ」
代々マーゴ人とアローン人を対立させ、いまではほとんど本能といっても過言ではない敵意を考慮して、ベルガラスはラク・ウルガではじゅうぶん気をつけるようにとの忠告をした。「事態はいまは鎮静している。それをかきまぜるようなことはするな。バラク、休戦旗をあげろ。声が波止場に届く距離まできたら、わしがウルギットの家令のオスカタットを呼びにやらせる」
「そいつは信頼できるのかい?」バラクは疑わしげだった。
「できると思う。だが、わしら全員でドロジム宮殿まで歩いていくのはよそう。わしらが上陸したら、〈海鳥〉とグレルディクの船は港の奥にひっこませてくれ。いかに過激なマーゴの船長でも、ひらけた海でチェレクの船二隻を攻撃しようとはせんだろう。わしはポルと連絡を絶やさないでおくから、そういう事態になったら助けを呼ぶ」
船と岸のあいだで叫びあい、マーゴ人の大佐を説得してドロジム宮殿までオスカタットを呼びに行かせるにはかなりの時間がかかった。大佐が決心を固めたのは、バラクが投石器の使用を命令したことと関連があったかもしれない。ラク・ウルガはあまり魅力的な町ではなかったが、大佐が町を灰にしてほしくないと思ったのはあきらかだった。
「もうお帰りになったのですか?」ようやく波止場に到着したとき、オスカタットは岸から呼びかけた。
「近くまできたんで、寄ろうと思ったんだ」シルクは軽い口調で言った。「できれば陛下と話したい。そっちがマーゴ人たちをおとなしくさせてくれれば、おれたちもここにいるアローン人を静かにさせるよ」
オスカタットはただならぬ脅迫もどきの命令をいきなりたてつづけに発した。ガリオン、ベルガラス、シルクは〈海鳥〉の大型艇に乗り移った。バラクと――船はウンラクにまかせて――ヘター、それにマンドラレンが同行した。
「どうなったのですか?」ウルギット王直属の黒い服の近衛隊につきそわれて、一行がドロジム宮殿へ波止場から歩き始めたとき、オスカタットがシルクにたずねた。
「すこぶるうまくいったよ」シルクは得意げに言った。
「それをお聞きになったら、陛下は喜ばれるでしょう」
一行ははでなドロジム宮殿に入り、オスカタットが先に立ってたいまつの照らすいがらっぽい廊下から謁見の間に向かった。「陛下はこの方々に会われることになっているのだ」オスカタットは声荒く護衛たちに言った。「いまからお会いになる。ドアをあけろ」
護衛のひとりは新米のようだった。「しかし、この連中はアローン人です、オスカタット閣下」
「だからなんだというのだ? ドアをあけろ」
「しかし――」
オスカタットは冷やかに重い剣を抜いた。「だから?」故意にやんわりした口調で言った。
「いえ――なんでもありません、オスカタット閣下」護衛はくりかえした。「なんでも」
「ではどうしてまだドアがしまっているのだ?」
ドアはあわててあけられた。
「ケルダー!」響きわたるような叫びが謁見の間のはるか端のほうから聞こえた。ウルギット王が冠もかしぐほどの勢いで、壇の階段をころげるようにかけおりてきた。ウルギットはシルクを荒っぽく抱擁すると、堰《せき》を切ったように笑いだした。「死んだかと思った」笑いすぎてしわがれた声で言った。
「元気そうだな、ウルギット」シルクは言った。
ウルギットは顔をちょっとしかめた。「結婚したんだ」
「ついにプララにつかまったんだな。おれも近々結婚するのさ」
「あの金髪の娘とか? プララがあの娘の恋心をわがはいに話してくれた。それにしても、難攻不落のケルダー王子がついに結婚か」
「それについては、まだあまり大金を賭けないほうがいいぜ、ウルギット」シルクは弟に言った。「剣に生きる決心をする余地がまだないわけじゃないんだから。ここにはだれもいないか? おまえに話しておきたいことがいくつかあるんだ。それほど時間もないしな」
「いるのは母上とプララだけだ」ウルギットは言った。「それにもちろん、わがはいの継父上《ちちうえ》とな」
「継父上《ちちうえ》?」シルクは叫ぶなり、仰天してオスカタットを見た。
「母上はさびしくなっていたのだ。タウル・ウルガスからさんざん受けたふざけ半分の虐待が懐かしかったのだろうな。わがはいは自分の影響力を利用して、母上をオスカタットと結婚させだのだよ。だが、母上にとって、オスカタットは失望以外のなにものでもないと思うね。わがはいの知るかぎり、かれは階段の一段だって母上を蹴落としていないし、一度たりとも母上の頭を蹴ってもいないからな」
「こういう話をするときの陛下は手に負えないのです」オスカタットがウルギットに代わってあやまった。
「上機嫌で困るくらいさ、オスカタット」ウルギットは笑った。「トラクの煮えたつ目にかけて、会いたかったよ、ケルダー」つぎにかれはガリオンとベルガラスに挨拶し、バラクとマンドラレンとヘターを物問いたげに見やった。
「トレルハイム伯爵のバラクだ」シルクが赤髭の巨漢を紹介した。
「噂以上に大きいな」とウルギット。
「ボー・マンドル男爵のマンドラレン卿」
「紳士≠ネる言葉の神々の定義だな」
「そしてアルガリアのチョ・ハグ王の息子のヘター」
ウルギットは急に恐ろしげな目つきになってちぢみあがった。オスカタットですら、一歩あとずさった。
「心配するなって、ウルギット」シルクが鷹揚に言った。「ヘターはおまえの首都の通りをずっと歩いてきたんだぜ。家来のひとりだって殺さなかったんだ」
「画期的だな」ウルギットは神経質につぶやいた。「変わられたな、ヘター卿。噂によれば、身の丈は千フィートで、マーゴ人の頭蓋骨の首飾りをさげているということだったが」
「休暇中なんでね」ヘターはそっけなく言った。
ウルギットはにやりとした。「われわれはお互いに不快になることはないようだな?」まだ少し不安そうにたずねた。
「ああ、陛下」ヘターは言った。「そういうことはなさそうだ。どういうわけか、陛下には興味をそそられる」
「それはよかった。しかし、いらだってきたら知らせてくれたまえ。父の家来だった将軍たちがまだ十数人ドロジム宮殿にひそんでいるのだ。オスカタットがいまだにやつらを首にする理由を見つけていないのでな。わがはいが連中を呼びにやらせるから、かれらを片づければ気分がすっきりするだろう。どのみち、わがはいにとっても目の上のたんこぶなのだ」ウルギットは眉をしかめた。「貴殿の来訪がわかっていればな。何年も前から貴殿の父上に贈物をしたいと思っていたのだ」
ヘターは眉を片方つりあげてウルギットを見た。
「父上はなにものにもかえがたい偉業をわがはいのためにしてくださった。長剣でタウル・ウルガスの腹を貫いたのだよ。あとでわがはいがとどめをさしたことを父上に伝えてもらえないか?」
「へえ? 父に刺されたなら、普通はとどめをさすにはおよばないはずだが」
「ああ、タウル・ウルガスはたしかにちゃんと死んでいたよ」ウルギットはヘターを安心させた。「だが、どこかのグロリムがやってきてたまたま生きかえらせたりしてはまずいから、父が埋葬される前にわがはいがのどをかき切ったのだ」
「のどをかき切った?」ヘターですらもそれにはびっくりしたようだった。
「ざっくりとね」ウルギットはうれしそうに言った。「わがはいは十歳ぐらいのときに短剣を盗み、以後数年間はそれをといで過ごしたのだ。タウル・ウルガスののどを裂いたあと、心臓に杭を打ちこみ、地下十七フィートに埋めた――頭を下にしてね。泥から足を突きだした格好は過去何年かの姿にくらべて、格段によく見えた。穴掘りが一段落して一息つきながら、わがはいはその光景を心ゆくまで楽しんだよ」
「自分でタウル・ウルガスを埋めたのかね?」バラクがたずねた。
「だれにも譲りたくなかったのでね。確信がほしかったのだ。まちがいなく埋めたあと、埋葬場所を隠すために数頭の馬に何度もその場所を踏ませた。察しがついたと思うが、父とわがはいとは折りあいが悪かったのだ。生きているマーゴ人のだれひとり父の正確な埋葬場所を知らないと思うと、うきうきする。妃と母上のところへ行かないか? そのあと、そのすばらしい知らせとやらを聞かせてくれ。カル・ザカーズはトラクの両腕の中で休んでいるのだろうな?」
「そうじゃないと思うぜ」
「残念な」とウルギット。
プララ王妃とタマジン皇太后は、ポルガラやセ・ネドラやヴェルヴェットがまだ〈海鳥〉に乗っていると知ると、旧交をあたために謁見の間を出ていった。
「すわってくれたまえ、諸君」ウルギットはプララたちがいなくなると言った。かれは王座にだらしなく腰かけて、片脚を肘かけにのせた。「わがはいに話したいことというのはなんだ、ケルダー?」
シルクは壇の端にすわって、チュニックの中に手をいれた。
「それはやめてくれないか、ケルダー」ウルギットはこわごわ言った。「短剣をたくさん隠し持っているのはわかっているのだ」
「こんどは短剣じゃないさ、ウルギット」シルクは弟を安心させた。「これだけだ」と、たたんだ羊皮紙の束を手渡した。
ウルギットはそれを開いて、すばやく目を走らせた。「ペリヴォーのオルドリンとは何者だい?」とたずねた。
「マロリーの南岸沖にある島の王だ」ガリオンが説明した。「ぼくたちの一団はオルドリンの宮殿で会ったんだよ」
「大変な一団だな」ウルギットは署名をながめながら言って、眉を寄せた。「わがはいの代わりに発言しているようだな」とシルクに言った。
「かれはおまえさんの利益をかなりよく守ったぞ、ウルギット」ベルガラスが言った。「気づいただろうが、われわれの考案した項目の大部分は一般的なものだが、これはまだ手始めだからな」
「まったくだ、ベルガラス」ウルギットはうなずいた。「だれもドロスタの代表発言はしなかったようだ」
「ガール・オグ・ナドラクの王はだれも代表者がいなかったのでござる、陛下」マンドラレンが言った。
「ドロスタもかわいそうに」ウルギットはくすくす笑った。「かれはいつも取り残されるようだな。どれもみなじつにけっこうだ。それにこれで十年ほどは平和が保証されるかもしれん――マル・ゼスの宮殿のどうでもいい部屋を飾るのに、わがはいの首をのせた皿をザカーズに持たせることを諸君が約束すればだが」
「おまえと話しあいにきた一番の問題がそれなんだよ」シルクが言った。「ザカーズはおれたち全員がペリヴォーを出発するときにマル・ゼスへもどったんだが、おれは別れる前にかれとじっくり話をしたんだ。ザカーズはついに平和交渉を受け入れることに同意したんだよ」
「平和?」ウルギットはあざ笑った。「ザカーズの望む平和は永遠の平和だけだ――すなわち、生きているすべてのマーゴ人の死だよ。そしてわがはいはかれのリストの一番上に載っている」
「ザカーズは少し変わったんだ」ガリオンは言った。「マーゴ人を皆殺しにすることよりも、いまのかれにはもっと重要なことがある」
「たわごとだよ、ガリオン。だれもがマーゴ人を皆殺しにしたがっている。ほかならぬわがはいですら、そうしたいくらいだ。マーゴ人の王であるわがはいがな」
「マル・ゼスへ使節団を派遣しろ」シルクが忠告した。「ちゃんと交渉するだけの権限を与えるんだ」
「マーゴ人に権限をやれって? ケルダー、気でもくるったのか?」
「わたしなら信頼できる人間を見つけられます、ウルギット」オスカタットが断言した。
「クトル・マーゴスでか? どこでだ? 湿った岩の下にでもいるのか?」
「人間を信用することをはじめなくてはならんぞ、ウルギット」ベルガラスが言った。
「もちろんですとも、ベルガラス」ウルギットは皮肉たっぷりに言った。「わがはいはあなたを信用しなければならない。しかしそれは信用しなければ、ヒキガエルにされてしまうからだ」
「いいから、マル・ゼスに使節団を派遣しろ、ウルギット」シルクは辛抱強く言った。「びっくりする結果が出るかもしれないぜ」
「わがはいを首なしにしない結果ならどんなものでも喜ばしいよ」ウルギットはずるがしこそうに目を細めて兄を見た。「別のことを考えているな、ケルダー。いいから白状しろよ」
「世界は目下まずいことに平和を目前にしてる。相棒とおれはもう何年も戦時を足場に仕事をしてきた。このまま新しい市場を――それと平時の商品用の市場を――開拓できないと、おれたちの事業はガタガタだ。クトル・マーゴスはかれこれ一世代は戦争をしてきたからな」
「じっさいはそれ以上さ。正確には、ウルガ王朝の誕生以来ずっと戦争状態だった」
「それじゃ、おまえの王国には平時の快適さを求める渇望がさぞや強いだろうな――たとえば、家にかぶせる屋根とか、料理をする鍋とか、その鍋にいれるものとかいった商品を求める気持ちが」
「そうだろうな」
「よし。ヤーブレックとおれとでクトル・マーゴスに商品を船で輸送して、ラク・ウルガを大陸の南半分における最大の商業中心地にしてやるよ」
「どうして? クトル・マーゴスは破産状態なんだぞ」
「底無しの鉱山はまだあるんだろ?」
「むろんあるが、あれはみんなマロリー人が支配する領土にあるんだ」
「だがもしおまえがザカーズとの平和条約を締結すれば、マロリー人は引き揚げていくんじゃないか? これについては早急に行動しなけりゃだめだぜ、ウルギット。マロリー人がいなくなったら、ただちにその領土にはいるんだ、部隊だけじゃなく坑夫も連れてな」
「そこからなにが得られる?」
「税金だよ、弟、税金。おまえは金鉱掘りに税金をかけることができるし、おれにも、おれの客たちにも税金をかけることができる。ほんの二、三年でわんさと金がはいってくるぞ」
「そしてトルネドラ人たちがほんの二、三週間でその金をそっくりわがはいからだましとってしまうのだ」
「そうでもないぜ」シルクはにんまりした。「これについて知ってるトルネドラ人はヴァラナだけで、かれはいま港でバラクの船に乗ってる。あと数週間はトル・ホネスにはもどれない」
「同じことじゃないか。わがはいがザカーズと平和条約を結ぶまで、だれも動けないんだろう?」
「そうでもないさ、ウルギット。おまえとおれとで、おれだけにマーゴの市場を解放することを保証する合意書を作成すりゃいいんだ。もちろん、そのための礼金ははずむよ。合意書は完全に合法的なものになる――しかも不動のものだ。そういうことを可能にする貿易合意書ならいやってほど作成したことがある。詳しいことはあとで考えりゃいいが、いま大事なのはおれたち二人の名前を書き留めたものを作るってことだ。そうすりゃ、平時になったときにトルネドラ人がわんさとここに押しかけてきても、その文書を見せて追いかえせる。おれだけに市場が解放されりゃ、おれたちで何百万と稼げるんだぜ。何百万だぞ、ウルギット、何百万だ!」
ふたりの鼻はいまや猛烈にヒクヒク動いていた。
「その独占権を与える合意書にはどんな条項をいれるんだ?」ウルギットが用心深くきいた。
シルクは大きく破顔すると、また上着の中へ手を入れた。「勝手に仮文書を作成しておいたんだ」と別の羊皮紙を取りだした。「時間を節約するためさ、言うまでもないがね」
バラクの乗組員たちが〈海鳥〉をドラスニアの貿易飛び地領の見おぼえのある波止場に係留しているあいだ、ガリオンはいまさらのようにスシス・トールがひどく魅力のない都市であることに気づいた。もやい綱が結ばれるやいなや、シルクが波止場に飛びうつり、通りを走っていった。「やっかいごとにでも巻きこまれそうなのかい?」ガリオンはサディにたずねた。
「そんなことはないでしょう」大型艇のかげにしゃがみこんだサディは答えた。「サルミスラはシルクがだれか知っていますし、わたしは女王を知っています。彼女は感情を顔に出しませんが、好奇心は人一倍強いんですよ。あの手紙を書くのに三日もかかったんです。たぶんサルミスラはわたしに会うでしょう。それはまちがいありません。下に行きませんか、ガリオン? ほんとうはだれにも見られたくないんです」
二時間ほどたったころ、シルクがニーサ人の部隊に伴われてもどってきた。部隊の指揮官は顔なじみだった。
「おまえか、イサス?」サディが隠れている船室の窓から呼びかけた。「もう死んでいるかと思っていた」
「まさか」片目の暗殺者は言った。
「いま宮殿で働いているのか?」
「そうさ」
「女王に雇われて?」
「よりによってね。ときどきジャヴェリンのために半端仕事もしてる」
「女王はそれを知っているのか?」
「もちろん。いいぞ、サディ。女王は二時間の恩赦に同意した。急いだほうがいいぜ。その二時間が尽きないうちにここから逃げだしたいだろうからな。女王はおまえの名前を聞くたびに、牙がうずきだすんだ。だから行こうぜ――おまえが考えなおして、いますぐ逃げだすんじゃないなら」
「いや」サディは言った。「行くよ。かまわなければ、ポルガラとベルガリオンを連れていく」
「おまえしだいさ」イサスはどうでもよさそうに肩をすくめた。
宮殿はあいかわらず蛇と、とろんとした目つきの宦官たちであふれていた。尻の大きな、グロテスクな化粧をしたあばた面の役人が、宮殿の扉の前でかれらを迎えた。「よお、サディ」男は甲高い声で言った。「もどってきたな」
「まだ生きていたのか、イッシュ」サディは冷やかに答えた。「残念だな、じっさい」
イッシュの目が露骨な憎悪に細まった。「発言には若干気をつけているんでね、サディ」キィキィ声で言った。「おまえはもう宦官長じゃないんだ。じじつ、もうじきおれがその地位につくかもしれん」
「では、天が哀れなニーサをお守りくださるように」サディはつぶやいた。
「女王の命令でサディに安全通行権が与えられることは聞いただろう?」イサスが宦官にたずねた。
「女王ご自身の口からは聞いてないね」
「サルミスラにくちびるがあるかよ。イッシュ、おまえはたったいまそれを聞いたんだ――おれからな。さあ、道をあけるのか? それとも、おれの手でまっぷたつにされたいのか?」
イッシュはあとずさった。「脅迫はよせ、イサス」
「脅迫などしてない。質問しているだけよ」そう言うと、暗殺者は一同を先導して磨かれた石の廊下を謁見の問へと向かった。
かれらが足を踏み入れた部屋は変わっていなかった。たぶん変わりようがないのだろう。数千年におよぶ伝統のせいともいえる。サルミスラはとぐろをせわしなくふるわせ、冠をのせた短い頭を鏡の前でくねくねとくねらせながら、王座を占領していた。
「宦官のサディですぜ、女王」イサスがお辞儀しながら知らせた。ガリオンはイサスが他のニーサ人とちがい、王座の前でひれ伏さないのに気づいた。
「ああ」サルミスラはシュウシュウ言った。「それに美しいポルガラとベルガリオン王。あたしに仕えるのをやめてから、おまえは重要な人たちと一緒だったのだね、サディ」
「まったくの偶然でございます、女王様」サディはよどみなく言った。
「命を危険にさらしてまで、またあたしのところへやってくるとは、いったいどんな大事な用件なのだえ?」
「ただこのためでして、永遠なるサルミスラ様」サディは赤い革の箱を床に置いてふたをあけ、たたんだ羊皮紙を取りだした。そしてひれ伏している宦官のあばらをさりげなく蹴って命令した。「これを女王様にお見せしろ」
「ここでの人気を失墜させるようなまねはしないほうがいいよ、サディ」ガリオンはそっと注意した。
「選挙に立候補しているわけじゃありませんからね、ガリオン。嫌われたっていっこうにかまわないんです」
サルミスラは〈ダル・ペリヴォーの講和〉にすばやく目を走らせた。「興味深いね」とシュルシュル言った。
「陛下ならまちがいなく、それらの講和条約に暗に含まれたいくつかの好機にお気づきでしょう」サディは言った。「それを気づかせてさしあげるのがわたしの責任だと思ったのです」
「もちろん、ここになにが暗示されているかわかるとも、サディ。あたしは蛇だよ、ばかじゃない」
「では、これでおいとまいたします、女王様。最後の務めは果たしました」
サルミスラの目がサディを凝視してひらべったくなった。「まだだよ、サディ」彼女はのどを鳴らさんばかりに、小さな声で言った。「もうちょっとそばへくるがよい」
「約束なさいましたよ、サルミスラ様」サディは不安そうだった。
「いやだね、バカをお言いでないよ、サディ。おまえを噛むつもりなどない。みんな計画したことだったのだろう? おまえはこの講和条約が作成される可能性に気づいて、その成行きを追うために、わざとあたしの寵愛を失うようなまねをしたのだね。あたしに代わっておまえがした交渉はみごとだと言わねばなるまい。おまえには大変満足しているよ。この宮殿でもとの地位に復帰することを承諾しておくれだろうね?」
「承諾、ですか、女王様?」サディはまるで少年のようにいきおいこんで言った。「天にも昇る心地です。死ぬまでお仕えいたします」
サルミスラは頭をまわして、ひれ伏している宦官たちを見やった。「全員さがってよい」と命令した。「サディが復帰し、あたしがかれをふたたび宦官長の地位につけたことを宮殿中にふれまわるのだよ。あたしの決定に不満な者がいたら、ここへよこすように。あたしから説明する」
宦官たちは女王をまじまじと見つめた。ガリオンはかれらの多くが無念そうに顔をゆがめているのに気づいた。
「まったくやっかいだねえ」サルミスラは嘆息した。「みんなうれしさのあまり動くこともできないでいるよ。たたきだしておくれ、イサス」
「お望みのとおりに」イサスは剣を抜いた。「全員生かしておきますかい?」
「二、三人いればじゅうぶんだよ、イサス――すばしっこいのを残しておおき」
謁見の間はたちまちからっぽになった。
「いくら感謝してもしたりないほどでございます、陛下」サディが言った。
「そのうち感謝の方法を考えておくよ。まずなによりも、いましがたあたしがほのめかした動機はほんとうだったというふりをふたりですることだね」
「よくわかっております、聖なるサルミスラさま」
「なんといっても、あたしたちは王座の威厳を守らなくてはならぬ。おまえは以前の義務を引き受け、以前の住まいに住むように。適当な名誉と報酬についてはあとで考えるとしよう」サルミスラは言葉を切った。「おまえがいなくてさびしかったのだよ、サディ。どれほどさびしかったかはだれにもわかるまい」頭がゆっくりと動いて、女王はポルガラをながめた。「ザンドラマスとの遭遇はどうなった、ポルガラ?」
「ザンドラマスはもういないのよ、サルミスラ」
「すばらしいね。あたしはあの女が好きだったためしがなかったのさ。で、宇宙はまたもとどおりになるのかい?」
「そうよ、サルミスラ」
「それを聞いてほっとしたね。混沌や分裂は蛇にはいらだたしいものでね。あたしたちはなによりも静寂と秩序が好きなのさ」
ガリオンは、小さな緑色の蛇がサルミスラの王座の下から這いだして、サディの赤い革の箱に近づいていくのに気づいた。箱はあけっぱなしのまま大理石の床に置き去りになっていた。小さな蛇は鎌首をもたげて、土焼きの壺を見た。そして誘うようにのどを鳴らした。
「で、息子を取りもどしたのかい、陛下?」サルミスラがガリオンにきいた。
「取りもどしたよ、女王陛下」
「それはよかった。奥さんによろしく伝えておくれ」
「伝えよう、サルミスラ」
「そろそろ行かなくてはならないわ」ポルガラが言った。「さよなら、サディ」
「さようなら、レディ・ポルガラ」サディはガリオンを見た。「さようなら、ガリオン。おもしろいことがたくさんありましたね」
「うん、そうだね」ガリオンは宦官と握手しながらうなずいた。
「わたしに代わってみなさんにお別れを言っておいてください。ときどき国事に関することでみなさんともお会いすることになるでしょうが、そのときはもうこれまでのわたしたちではない、そうでしょう?」
「ああ、たぶんね」ガリオンはポルおばさんとイサスについて謁見の間を出ようとした。
「ちょっと待って、ポルガラ」サルミスラが言った。
「なあに?」
「あんたはここの状況をずいぶん変えたよ。はじめあたしはあんたにひどく腹を立てたが、いまは考えなおすゆとりができた。けっきょく、すべてはこれ以上望めないほどよくなった。感謝するよ」
ポルガラは軽くうなずいた。
「授かりもの、おめでとう」サルミスラはつけくわえた。
蛇の女王が妊娠を察知したことに、ポルガラの顔はおどろきひとつ示さなかった。「ありがとう、サルミスラ」彼女は言った。
かれらはトル・ホネスに寄港して、ヴァラナ皇帝に宮殿まで同行した。生え抜きの元兵士である肩のいかつい皇帝は、いささか心ここにあらずといったようすだった。一同がヴァラナの居室へ向かう途中で、かれが宮殿の役人に二言、三言話すと、役人は足早に立ち去った。
かれらの別れの挨拶は短く、ぶっきらぼうなくらいだった。ヴァラナはいつもどおり礼儀正しかったが、頭が他のことで一杯なのはあきらかだった。
宮殿をあとにしたとき、セ・ネドラはぷりぷりしていた。いまではほとんどゲランを手放したことのない彼女は、このときも幼い息子を抱いてうわの空で息子の金色の巻毛に手櫛を入れていた。「おじさまったら、失礼だわ」憤懣やるかたないように言った。
シルクは宮殿へつづく大理石の広い車寄せを見おろした。この北の地方にも春が近づきつつあり、車寄せの両側の古い巨木に若葉が萌えだしていた。贅沢な服を着た大勢のトルネドラ人が、走らんばかりにして車寄せを宮殿のほうへ向かっていった。「きみのおじさんだか、兄さんだか、どっちでも好きな呼びかたでかまわないが、かれはいまきわめて重要な問題をかかえているんだよ」小男はセ・ネドラに言った。
「ごく普通の礼儀以上に重要なことなんてあるのかしら?」
「ちょうどいまは、クトル・マーゴスがその重要事項なのさ」
「さっぱりわからないわ」
「ザカーズとウルギットが平和条約を結べば、クトル・マーゴスにありとあらゆるたぐいの商業上のチャンスがころがりこむ」
「そのくらいわかるわよ」セ・ネドラは皮肉っぽく言った。
「そりゃわかるよな。きみはなんてったってトルネドラ人なんだから」
「あなたこそ、それについてどうしてなにもしないのよ?」
「おれはもうしたんだよ、セ・ネドラ」シルクはにこりとして真珠色の上着の前で大きな指輪を磨いた。「おれがなにをしたかをつきとめたら、ヴァラナはすごくおれに腹をたてるだろうな」
「正確にはなにをしたの?」
「海にもどったら教えるよ。きみはまだボルーン家の人間だし、一族のわずかな手数料が入ってくる立場にあるんだからね。おじさんに告げ口なんかをして、せっかくのショックを台なしにしてほしくない」
一行は西の沿岸に平行して北へ進み、ボー・ミンブルの数リーグ西にある浅瀬めざしてアレンド川をさかのぼった。そのあと、馬に乗り換え、春の日差しを浴びてミンブレイト・アレンド人の昔話で有名な都市へ向かった。
コロダリン王の宮廷は、世界の果てでミンブレイト・アレンド人が発見されたというマンドラレンの知らせに騒然となった。オルドリン王からの挨拶にふさわしい返事を作成するために、たくさん廷臣や役人がさまざまな書庫へあわてて送りこまれた。
しかしながら、レルドリンによって王座へ運ばれた〈ダル・ペリヴォーの講和〉の写しは、宮廷の老練な幾人かの顔に困惑の表情を生ぜしめた。「両陛下」と年配の廷臣がコロダリンとマヤセラナに向かって口を開いた。「われらのあわれなアレンディアはまたも残りの文明世界に遅れをとったのではないでしょうか。過去におきましてもつねにわれわれはアローンとアンガラクのほぼ永遠とも言える争いにすくなからぬ慰めを得てまいりましたし、最近ではマロリーとマーゴの不和に安楽を見いだしてまいりました。と申しますのも、連中の多少の確執がわれわれの不和の言いわけとなると考えたからでございます。このわずかな慰めは、しかしもはや手に届かぬものとなるようでございます。このきわめて悲劇的王国にのみ、憎悪や粗暴な争いがいまだ蔓延していると言わせておいてよいのでしょうか? くだらぬ言い争いやばかげた国内戦争がわれわれの互いの関係をそこねているかぎり、いかにしてわれわれは平和な世界で尊大にふるまえましょう?」
「貴殿の言い分はまことに腹だたしいものでありますぞ、閣下」強情そうな若い男爵が年配の廷臣を非難した。「まことのミンブレイト人であれば、こと名誉にかかわる言動に無関心でいられようか」
「せっしゃはミンブレイト人のみについて話しているのではござらんぞ、閣下」年配の男はやんわりと言った。「ミンブレイト人同様、全アレンド人とアストゥリア人について話しているのでござる」
「アストゥリア人には名誉などござらん」男爵はせせら笑った。
レルドリンがすぐさま剣に手を伸ばした。
「やめたまえ、若き友よ」マンドラレンがせっかちな若者をなだめた。「この侮辱はここ――ミンブレイトの土の上でなされたのでござる。であるから、それに答えるのはせっしゃの責任であり、喜びである」マンドラレンは前に進みでた。「貴殿の言葉はおそらくよく考えずに口にしたものであろう」と傲慢な男爵に礼儀正しく言った。「どうか考え直してもらいたい」
「言ったことは言ったことだ、騎士どの」短気な若者は威勢よく言った。
「貴殿は尊敬すべき王の相談役に無作法な口をきいたのでござるぞ」マンドラレンはきっぱりと言った。「そのうえ、北方のわれらが兄弟に許しがたい侮辱を与えた」
「せっしゃにはアストゥリア人の兄弟などおらぬ」騎士は高らかに言った。「悪党や裏切り者との血縁関係を認めるつもりはござらん」
マンドラレンはためいきをついた。「どうかお許しください、陛下」と王に向かって謝った。「おそれいりますが、いまからぞんざいなしゃべりかたをいたしますゆえ、ご婦人がたには退出願ったほうがよいかと存じまする」
だが宮廷の貴婦人たちは、このときばかりはてこでも動かなかった。
マンドラレンは横柄な薄笑いを浮かべている男爵のほうに向きなおった。「閣下」偉大な騎士はよそよそしく言った。「貴殿の面は猿そっくりだし、姿形はゆがんでいる。おまけにその髭は下劣そのもの、人間の顔のしかるべき飾りというより、いっそ野良犬のケツのまわりの下品な毛そっくりだ。もしや、貴殿の母親がいやらしい妄想にとらわれて、過去のあるとき好色な山羊といちゃついたのではなかろうな?」
男爵の顔がどす黒くなった。言いかえそうにもうまくしゃべれないありさまだった。
「激怒しているようだな、閣下」マンドラレンはあいわからずものやわらかに言った。「それとも不体裁な出生の秘密を暴露されて、人間のしゃべりかたができなくなったのかもしれぬな」と品定めするように男爵をながめた。「閣下、どうやら貴殿はしつけの悪さのみならず、意気地のなさにも悩んでいるようだ。というのも、名誉を重んじる者なら、せっしゃが投げつけたようなひどい侮辱にがまんするわけがないからでござる。したがって、さらに刺激を与えなければならないようであるな」マンドラレンは籠手をはずした。
周知のように、挑戦状をたたきつけるときは籠手を床に投げ捨てるのが習慣だった。マンドラレンはなぜか的をはずした。若い男爵はうしろによろめいて、折れた歯と血を吐きだした。「そなたはもはや若者ではないのだぞ、マンドラレン卿」男爵はいきまいた。「疑わしい名声を利用してこれまで戦いを避けてきたのだろうが、真の腕前を試されるときがきたようだな」
「しゃべった」マンドラレンはさもおどろいたように言った。「閣下ならびにご婦人がた、この奇跡をごらんください――犬が口をききましたぞ」
宮廷中がそれを聞いて笑った。
「中庭へ移動いたそうではないか、フリーズ殿」マンドラレンはつづけた。「よぼよぼの騎士と一戦交えるのは、貴殿には一興かもしれぬ」
それからの十分はなまいきな若い男爵にとっておそろしく長かった。その気になれば一刀のもとに男爵をまっぷたつにすること確実のマンドラレンは、代わりに男爵をオモチャ扱いし、手痛いばかりか屈辱的でもある傷を多数負わせた。しかし、偉大な騎士がへし折った骨はみな末端の骨ばかりで、裂傷も打ち身もたいしたものではなかった。男爵はよろめきふらつき、必死で身を守ろうとしたが、マンドラレンはあざやかな手際で男爵の鎧兜をはぎとり、ずたずたにした。ついに、アレンディアの無敵の騎士はことのしだいにあきてきたらしく、若者のすねの骨をふたつとも一撃のもとにへし折った。男爵は痛さのあまりわめきながら倒れた。
「頼むから、閣下」マンドラレンは叱った。「そのような大声で苦痛を訴えないでもらえまいか。ご婦人がたがびっくりするではないか。静かにうめけ。その不作法な身もだえを最小限におさえるのだ」静まりかえって、おびえてすらいる群衆のほうを、マンドラレンはおごそかに振りかえった。「そして他にもこのむこうみずな若者のごとき偏見を持つ者がいるなら、せっしゃが剣を鞘におさめる前に、そう言ってもらいたい。何度も武器をふりまわすのは、嘘いつわりなく疲れることなのでござる」かれはあたりを見まわした。「では、先へ進むといたそうか、かたがた。このばかげた行為にはまったくうんざりなのだ。いらいらするばかりでござる」
どう思ったのかはともかく、宮廷の騎士たちはその時点でおとなしくしていることを選んだ。
セ・ネドラがしずしずと中庭へ出てきた。「わが騎士よ」彼女は誇らしげにマンドラレンに言った。つぎの瞬間、彼女の目がいたずらっぽくきらめいた。「そなたの武勇は残酷な老いがそなたの手足を麻痺させ、そなたの漆黒の髪を雪のようにしようとも、変わらないことをしかと見届けました」
「老いですと?」マンドラレンが抗議した。
「からかってるだけよ、マンドラレン」セ・ネドラは笑った。「剣をしまって。きょうはだれもあなたと遊びたがらないわ」
かれらはマンドラレンとレルドリン、それにレルグに別れを告げた。レルグはボー・ミンブルからタイバや子供たちのいるマラゴーへもどることになったのだ。
「マンドラレン!」都市から馬で出るとき、アンヘグ王が声をはりあげた。「ここが冬になったら、ヴァル・アローンへこい。バラクと一緒に猪狩りに行こう」
「かならずやまいりますぞ、陛下」マンドラレンは胸壁から約束した。
「おれはあの男が好きなんだ」アンヘグは心から言った。
一行はふたたび船に乗り、フルラク王に〈ダル・ペリヴォーの講和〉を伝えるべく、北のセンダーをめざした。シルクとヴェルヴェットはバラクやアンヘグとともに〈海鳥〉で北へ向かい、残りの者たちは馬でのんびりと山越えをしてアルガリアへ行き、そこから〈谷〉をめざす計画だった。
波止場での別れは短かった。ひとつにはまたもうすぐ互いに会うつもりだったからであり、ひとつにはだれしも感傷的になっていると思われたくないからだった。ガリオンにとっては、とりわけシルクとバラクとの別れがつらかった。不思議と仲のよいそのふたりとは、これまでの人生の半分以上を仲間として過ごしてきただけに、別れるのは痛みにも似たものがあった。世界を揺るがす冒険の数々はいまや終わっていた。状況も以前とは変わってくる。
「もうやっかいな目にあわないですむと思うか?」あきらかにバラクも同じように感じているらしく、しわがれ声でたずねた。「朝目がさめてベッドのとなりに熊が寝ているとわかると、メレルが動転するんでな」
「そういうことにならないよう、最善をつくすよ」ガリオンは約束した。
「あのとき、ウィノルドの郊外でおれが言ったことをおぼえてるか――えらく冷えこんだあの朝のことだが?」シルクがきいた。
ガリオンは思いだそうと眉間にしわをよせた。
「おれたちは重要な時代に生きていて、いまはそういう重要な出来事に参加するときなんだと言ったんだ」
「そうそう、思いだしたよ」
「それについて暇なときに考えてみたんだ。そしてもう一度考えなおしたいと思ってるんだよ」シルクが急ににやりとしたので、ガリオンは、小男がそんなことはちっとも考えてないのだとピンときた。
「この夏アローン会議で会おう、ガリオン」アンヘグが出航間近な〈海鳥〉の手すりの向こうから怒鳴った。「今年の開催地はリヴァだ。本気でとりくめば、おれたちでおまえにちゃんと歌をうたうコツを教えられるかもしれん」
かれらは翌朝早くセンダーを出発して山道をたどり、ミュロスについた。厳密にはミュロスへ寄る必要はなかったのだが、ガリオンはリヴァまでの帰途すべての友人に会うことに決めていた。北へ向かうにつれて少しずつ仲間が減ってくるのはさびしいものだった。ガリオンは仲間全員と別れる心がまえがまだできていなかった。
かれらは遅い春の日差しの中を馬でセンダリアを横断し、山を越えてアルガリアへ入り、一週間あまりのちに要塞に到着した。チョ・ハグ王はコリムでの対決の結果にことのほか喜び、ダル・ペリヴォーにおける即席の会議の結果に仰天した。頭は切れるがときに非常識なアンヘグにくらべると、チョ・ハグははるかに堅実だったので、ベルガラスとガリオンはエリオンドが神になったおどろくべき経緯について詳細な話をした。
「かれは昔から不思議な子供だった」話を聞き終わると、チョ・ハグは低い静かな声で考えこむように言った。「しかしそれを言うなら、この一連の出来事全体が不思議だったよ。われわれは重要な時代に生きる特権を与えられたのだ」
「まったくな」ベルガラスはうなずいた。「もう事態がおさまったことを祈るとしよう――すくなくともしばらくのあいだは」
するとヘターが言った。「父上、マーゴスのウルギット王が、父上に謝意を伝えてほしいと言っていました」
「マーゴの王に会ったのか? だが戦いにはならなかった?」チョ・ハグはおどろいたようだった。
「ウルギットは、父上がこれまで会ったマーゴ人とはまるでちがいますよ」ヘターは言った。「かれは、父上がタウル・ウルガスを殺したことで感謝したがっていたんです」
「息子にしては珍しい感情だな」
ガリオンがウルギットの素性を説明すると、ふだんは物静かなアルガリアの王はいきなり笑いだした。「わたしはケルダー王子の父上を知っていたのだ。いかにもかれがやりそうなことだよ」
婦人たちはゲランとアダーラの幼い子供たちのまわりに集まっていた。ガリオンのいとこは大きなおなかをかかえ、ほとんどの時間を夢見るような微笑をうかべ、自然が身体にもたらした無情な変化を受け入れていた。セ・ネドラとポルおばさんがそろって妊娠したことは、アダーラとシラー王妃を驚異の念で満たし、ポレドラは彼女たちのあいだにすわって謎めいたほほえみをうかべていた。ポレドラは見かけよりはるかにたくさんのことを知っているにちがいない、とガリオンは思った。
十日ほどたつと、ダーニクがそわそわしはじめた。「われわれはずいぶん長いこと家から離れていたんだよ、ポル」ある朝かれは言った。「まだ穀物の種をまく時間はある。それに、少し掃除だってしなけりゃならないだろう――垣根を修理したり、屋根を点検したり、そういうことを」
「そのとおりね、ディア」ポルガラは穏やかに同意した。妊娠はめっきりポルガラを変えていた。いまではどんなことも彼女を動転させないようだった。
出発の日、ガリオンは中庭におりてクレティエンヌに鞍を乗せた。要塞には喜んで代わりに鞍を乗せてくれるアルガーの馬族が大勢いたが、ガリオンは自分でやりたいのだというふりをした。他のみんなは長々と別れを惜しんでいたが、ガリオンはあと一回でも別れを口にしたら、涙をこらえきれないことがわかっていた。
「とてもいい馬ね、ガリオン」
いとこのアダーラだった。妊娠が女性に与える静穏な表情をうかべたアダーラを見て、ガリオンはあらためてヘターはなんと幸運な男なのかと思った。はじめて会ったときから、ガリオンとアダーラのあいだにはいつも特別の絆と特別の愛情があった。「ザカーズがくれたんだ」ガリオンは答えた。馬のことを話しているかぎり、感情をおさえていられる自信があった。
アダーラは、だが、馬のことを話しにきたのではなかった。彼女はガリオンの首のうしろにそっと片手をかけて、ガリオンにキスした。「さようなら、ガリオン」低い声で言った。
「さようなら、アダーラ」ガリオンの声がくぐもった。「さようなら」
[#改ページ]
11[#「11」は縦中横]
リヴァのベルガリオン王、またの名を〈西方の大君主〉、またの名を〈西海の王〉、またの名を〈神をほふる者〉、すなわちかんぺきなる英雄は、リヴァのセ・ネドラ王妃、つまりトルネドラ帝国の皇女にしてボルーン家の宝石である共同統治者と長々と議論をしていた。議論の話題は、リヴァの王位継承者であり、〈珠〉の世襲的保管者であり、つい最近までは〈闇の子〉であったゲラン皇太子を抱く特権はだれに帰すべきかというものだった。この会話はアルガーの要塞から〈アルダー谷〉まで一家で馬を走らせているあいだ、えんえんとつづいた。
ついに、しぶしぶとではあるが、セ・ネドラ王妃が譲歩した。魔術師ベルガラスが予言したとおり、セ・ネドラ王妃の腕が幼い息子を抱きつづけることにとうとう疲れ、彼女はいくばくかの安堵とともにゲランを手放したのだった。
「落とさないようにしてよ」セ・ネドラは夫に注意した。
「わかってるよ」ガリオンは答えて、息子を鞍のすぐ前のクレティエンヌの首に乗せた。
「それと、日焼けさせないようにしてちょうだい」
ザンドラマスから救いだされたゲランは、気だてのいい男の子だった。片言をしゃべるようになったかれは、小さな顔に真剣な表情をみなぎらせて、ものごとを父親に説明しようとした。南へ馬で進んでいく途中も、いかにも大事なことのように鹿や兎を指さし、満足しきったようすで父親の胸に金髪の巻毛の頭をもたせかけてときおりうたたねをした。だが、ある朝は聞きわけが悪かった。ガリオンは考えるともなく〈珠〉を剣の柄《つか》からはずしてオモチャがわりに息子に持たせた。ゲランは喜び、輝く宝石を両手ではさんで魅入られたようにじっとのぞきこんだ。耳もとへ近づけて、〈珠〉の歌に一時間も聞きいっていることもよくあった。どうやら、〈珠〉のほうが幼い男の子よりもっとうれしがっているようだった。
「それだけどな、なんとも複雑な気持ちになるぜ、ガリオン」ベルディンが不満げに言った。「おまえは宇宙でもっとも強力な物体を子供のオモチャにしちまったんだ」
「けっきょくはゲランのものだからね――つまり、将来は。互いを知っておいたほうがいいんだよ、そうだろう?」
「なくしたりしたらどうするんだ?」
「ベルディン、本気で〈珠〉がなくなったりすると思ってるのかい?」
だが、このお遊びは〈西方の大君主〉のとなりでポレドラが手綱を引いた時点で、やや唐突におしまいになった。
「この種のことをするにはゲランは幼すぎるわ」ポレドラは叱るように言った。彼女が片腕を伸ばすと、妙にねじれた結び目のある棒が一本手の中に出現した。「〈珠〉をしまって、ガリオン。かわりにこれをあげて」
「それは端がひとつしかない例の棒でしょう?」ガリオンは、かつて散らかった塔の中でベルガラスに見せられたことのあるオモチャを思いだして、疑うように言った――幼いころのポルおばさんをすっかりとりこにしたあのオモチャだ。
ポレドラはうなずいた。「ゲランはこの棒にかかりっきりになるはずよ」
ゲランは喜んで〈珠〉を放し、新しいオモチャにとびついた。だが〈珠〉はそれから数時間ガリオンの耳に文句を言いつづけた。
一日ばかりしてからかれらは小屋に到着した。ポレドラは小屋を見おろす丘の頂上から批判的に下を見おろした。「いくつか変えたところがあるのね」彼女は娘に言った。
「お気に召さないの、おかあさま?」
「もちろんそんなことないわ、ポルガラ。家というのは所有老の性格を反映するものよ」
「やらなけりゃならないことがごまんとあるはずだ」ダーニクが言った。「あの垣根は修繕が必要だ。直さないと、アルガーの牝牛が戸口まで大挙してくるぞ」
「小屋全体もきれいにする必要があるわ」ポルガラがつけくわえた。
かれらは丘をくだって馬からおり、小屋の中へ入った。「こんなことってあるかしら」ポルガラが叫んで、あらゆるものの上にうっすらと積もったほこりをがっかりしたようにながめた。「箒が何本もいるわ、ダーニク」
「そうだね、ディア」かれはうなずいた。
ベルガラスは食料品室をあさっていた。
「いまはだめよ、おとうさん」ポルガラがきびきびと言った。「おとうさんとベルディンおじさんとガリオンは外へ出て、わたしの菜園の草取りをしてもらいたいの」
「なんだと?」ベルガラスは信じられないように問いつめた。
「あした種をまきたいのよ。わたしのために地面をきれいにして、おとうさん」
ガリオン、ベルディン、ベルガラスは、ふくれっつらでダーニクが道具をしまってある差しかけ小屋へ向かった。
ガリオンはポルおばさんの菜園をがっくりした気分で見た。小軍隊でも養えるほど菜園は大きく見えた。
ベルディンは鍬でいいかげんに地面を二、三度つついた。「こんなことってあるかよ!」いきなりわめくや、ベルディンは鍬を放り投げ、人さし指を地面につきつけた。指を動かすと、耕されたばかりのきれいな畝が菜園を横切りはじめた。
「ポルおばさんが怒るよ」ガリオンは警告した。
「見つからなけりゃ、へっちゃらさ」ベルディンはぶつぶつ言って、ポルガラとポレドラとリヴァの王妃が箒とぞうきんでせっせと働いている小屋のほうを見やった。「おまえの番だ、ベルガラス。畝が曲がらないようにしろよ」
「地面をかきならす前にポルをおだててエールをもらえるかどうかやってみようぜ」三人の仕事が一段落したとき、ベルディンが言った。「こういうことをすると汗をかく――この方法でやってすらな」
たまたまダーニクも垣根を直す仕事を中断して、ちょっとのあいだ一休みしに小屋にもどってきていた。女性たちは忙しげに箒を使い、ほこりをかきまわしていた。ガリオンが見ていると、ほこりはすでに掃かれた場所にしつこく舞い降りた。ほこりというのはそんなものなのだ。
「ゲランはどこ?」突然セ・ネドラが叫んで箒を落とし、うろたえてあたりを見まわした。
ポルガラの目が遠くを見る目つきになった。「まあ、ダーニク」いたって平然と彼女は言った。「かれを小川からすくいあげてちょうだい」
「なんですって?」セ・ネドラが金切り声をあげると同時にダーニクがすばやく外に出ていった。
「だいじょうぶよ、セ・ネドラ」ポルガラが安心させた。「小川に落ちただけ、それだけだわ」
「それだけですって?」セ・ネドラの声が一オクターブ高くなった。
「小さな男の子にとってはよくある遊びよ」ポルガラは言った。「ガリオンも落ちたし、エリオンドも落ちたわ、そしてこんどはゲランというわけ。心配しないで。ゲランはじっさい、じょうずに泳いでいるわよ」
「どうやって泳ぎかたをおぼえたのかしら?」
「まったくね。小さな男の子は生まれつき泳ぐ能力があるのかもしれないわ――一部の男の子はね。溺れようとしたのはガリオンだけだったわ」
「泳ぐコツをつかみかけたところだったんだよ、ポルおばさん」ガリオンは抗議した。「そのとき、運悪くあの丸太の下にもぐって頭をぶつけたんだ」
セ・ネドラは恐怖のまなざしでガリオンを見つめると、いきなりしゃがみこんで泣きだした。
ダーニクがゲランのチュニックの背中のあたりをつかんではいってきた。小さな男の子はずぶぬれだったが、いかにも楽しそうだった。「泥んこなんだよ、ポル」鍛冶屋は言った。「エリオンドはよくずぶぬれになったものだが、こんなに泥んこになったことはなかったと思うね」
「ゲランを外に連れだして、セ・ネドラ」ポルガラが指示した。「きれいにした床に泥を落としてるわ。ガリオン、差しかけ小屋にたらいがあるの。たらいを庭に出して、水をはって」ポルガラはゲランの母親にほほえみかけた。「どっちみちそろそろお風呂にいれていいころよ。どういうわけか、小さな男の子っていつもお風呂にいれる必要があるようね。ガリオンなんか眠っているときでもきたなくなったものだわ」
何不足ないある夜のこと、ガリオンは小屋のドアのすぐ外でベルガラスと落ちあった。「なんだか元気がないね、おじいさん。どうかしたのかい?」
「日常的取り決めについて考えておったんだ。ポレドラはわしと一緒にわしの塔に引っ越すつもりでいる」
「だから?」
「おそらくこれから十年かそこらは掃除だの、窓にカーテンをつるすだのといったことにかかわることになるだろう。窓にカーテンみたいな邪魔物があったら、どうやって世界を見わたすことができるんだ?」
「そういうことにはならないんじゃないかな。ペリヴォーで、おばあさんは狼は鳥ほどきれい好きじゃないと言ってたからね」
「嘘をついたんだ、ガリオン。わしを信用しろ、ポレドラは嘘をついたんだよ」
数日後、ふたりの来客があった。もう夏が近いというのに、ヤーブレックはあいかわらずみすぼらしいフェルトの外套を着て、もじゃもじゃの毛皮の帽子をかぶり、わびしげな顔つきをしていた。肉感的なナドラクの踊り子、ヴェラは、いつものぴちぴちの黒い革の服を着ていた。
「なにをたくらんでいる、ヤーブレック?」ベルガラスはシルクの相棒にたずねた。
「おれのアイディアじゃないんですよ、ベルガラス。ヴェラのやつがどうしてもここへくると言ってきかなかったんで」
「そのくらいにしておきなよ」ヴェラが命令口調で言った。「時間がありあまってるわけじゃないんだからね。用件にとりかかろうじゃないのさ。みんなを家から連れてきてよ。このことを目撃してほしいんだ」
「正確にいうと、なにを目撃するの、ヴェラ?」セ・ネドラが黒髪の娘にきいた。
「ヤーブレックがあたしを売るんだよ」
「ヴェラ[#「ヴェラ」に傍点]!」セ・ネドラがたまりかねたように叫んだ。「そんなひどいこと[#「そんなひどいこと」に傍点]!」
「やだね、だまっててよ」ヴェラはぴしゃりと言った。ヴェラが使った言葉は正確には、だまっててなどという穏やかなものではなかった。彼女はきょろきょろした。「全員そろったかい?」
「これで全部だ」ベルガラスが言った。
「よしと」ヴェラは鞍からすべりおりると、草むらにあぐらをかいてすわった。「仕事にかかろうじゃないの。あんた――ベルディンだかフェルデガーストだかなんだか知らないけど――は、一度マロリーであたしを買いたいって言っただろう。本気だったのかい?」
ベルディンは目をぱちくりさせた。「まあ――」と言いよどみ、「まあな」
「イエスかノーで言っておくれよ、ベルディン」ヴェラはてきぱき言った。
「よし、じゃ、イエスだ。おまえはべっぴんだし、悪態をつくのもうまいしな」
「あたしを手に入れるためになにを提供する用意がある?」
ベルディンは言葉につまって、急に赤くなった。
「ぐずぐずしないでよ、ベルディン。このことに一日かけるわけにはいかないんだよ。ヤーブレックに申し出をしとくれよ」
「本気かよ?」ヤーブレックが叫んだ。
「生まれてこのかたこんなに本気になったことはないくらいさ。いくら出すつもりだい、ベルディン?」
「ヴェラ」ヤーブレックが抗議した。「こいつはまったくのナンセンスだぜ」
「おだまり、ヤーブレック。どう、ベルディン? いくら?」
「おれの持っているすべてを出す」ベルディンは答えた。目に驚嘆が満ちていた。
「それじゃよくわからないね。数で言っておくれよ。数を出してくれないとあたしたちは値切れないんだから」
ベルディンは垢や脂で固まった髭をかいた。「ベルガラス、トルネドラ人が侵入してくる前にマラゴーでおまえが見つけたあのダイヤモンド、まだ持ってるか?」
「と思う。わしの塔のどこかにあるはずだ」
「それじゃ干し草の山から針を見つけるようなもんだな」
「南の壁ぎわの本箱の中よ」ポレドラが教えてくれた。「『ダリネの書』の鼠にかじられた写しのうしろにあるわ」
「ほんとか?」ベルガラスが言った。「どうして知っているんだ?」
「シラディスがレオンでわたしをなんと呼んだかおぼえていて?」
「〈見張り女〉?」
「それで質問の答えになったでしょう?」
「あのダイヤモンドをおれに貸してくれないか?」ベルディンは兄弟分にきいた。「ゆずってくれないか、のほうが正しいな。いつまでたってもかえせそうにないから」
「いいとも、ベルディン」ベルガラスは言った。「どうせ使っていないんだ」
「くれるのか?」
ベルガラスはうなずいた。それから片手を伸ばして意識を集中した。
いきなりかれの手の中に出現したダイヤモンドは氷の塊そっくりだった。はっきりとピンクがかった色をしていることをのぞけば。
それはまた林檎よりも大きかった。
「こいつはたまげた!」ヤーブレックが叫んだ。
「いくらごうつくばりでも、これならこの気をそそるあまっこの値段にふさわしいと思うだろうが?」ベルディンはフェルデガーストの言いまわしでそう言うと、ベルガラスの手の中の石を指さした。
「どんな女のために支払われた金よりも百倍は値打があるよ」ヤーブレックが畏怖に満ちた口調で言った。
「だったら、妥当な値段だよ」ヴェラが勝ち誇ったように言った。「ヤーブレック、ガール・オグ・ナドラクへもどったらそのことを言いふらしておくれよ。あの王国中の女があたしの売値を思って、これからの百年間、夜毎悔し泣きするかと思うと、うきうきする」
「おまえは残酷な女だぜ、ヴェラ」ヤーブレックはにやにやした。
「プライドの問題だよ」ヴェラは藍色の髪をゆすった。「さ、ちっとも長くかからなかっただろう?」彼女はたちあがると、両手の泥をはらった。「ヤーブレック、あたしの所有者証を持ってるかい?」
「ああ」
「そいつを出して、新しい所有者に売ったと署名しておくれよ」
「まずこいつを山分けにしなけりゃな」ヤーブレックは惜しそうにピンクの石を見た。「このきれいなのを割るのはまったくもったいないぜ」
「とっときなよ」ヴェラは無関心に言った。「あたしはいらない」
「本気か?」
「あんたにあげる。書類を出しなって、ヤーブレック」
「なにもかもほんとに本気なのかよ、ヴェラ?」ヤーブレックはまたきいた。
「こんなに本気になったことはないさ」
「だけどよ、あいつはえらい醜男だぜ――悪いな、ベルディン、だがほんとのことだ。ヴェラ、いったいなんでよりによってあいつを選んだんだ?」
「理由はひとつだけさ」
「なんだ?」
「飛べるからだよ」ヴェラの口ぶりには驚嘆の念があふれていた。
ヤーブレックは首をふりふり鞍袋に近づいた。所有者証を持ってくると、それに署名をして、ベルディンに渡した。
「で、あっしはこれをどうすりゃいいんで?」ベルディンはたずねた。ガリオンは、ちびの魔術師がみずからの激しい思いを隠すために、その言いまわしを使っていることに気づいた。
「とっとくなり、捨てるなりすれば」ヴェラが肩をすくめた。「あたしにはもうなんの意味もないよ」
「それでは」ベルディンは書類を丸めると、てのひらにのせた。丸められた書類はいきなり燃え上がって灰になった。「そら」かれは灰を吹き飛ばした。「これでもう書類に悩まされることはない。そうだろうが? これで全部か?」
「まだだよ」ヴェラはかがみこんでブーツの内側から二本の短剣を抜き取った。それからベルトにはさんであった他の二本も抜き取った。「そら」彼女の目はとてもなごやかだった。「これももういらないんだ」ヴェラは新しい所有者に短剣を渡した。
「まあ」ポルガラが目に涙をためて言った。
「どうしたんだ、ポル?」ダーニクが心配そうにたずねた。
「あれはナドラクの女にできるもっとも神聖な行為なのよ」ポルガラはエプロンのへりで目をふきながら答えた。「ヴェラはベルディンに完全に自分をゆだねたの。すてきなことだわ」
「で、あっしにナイフがなんの役に立つだろう?」ベルディンはやさしい微笑をうかべて言った。かれが一本ずつ短剣を宙に投げると、それらは細い煙となって消えた。ベルディンはベルガラスのほうを向いて言った。「さらばだ、ベルガラス。おもしろかったな、え?」
「楽しかったよ」ベルガラスの目が涙でうるんだ。
「それに、ダーニクよ、ここらでおまえさんがおれの代わりになってくれそうだ」
「死にかけているような言いかただね」とダーニク。
「そうじゃないさ、ダーニク、死ぬわけじゃない。ちょっと変わるだけだ。双子によろしく言ってくれ。事情を説明してやってくれよ。もうけたな、ヤーブレック。だが、おれはいまでもおれのほうが得をしたと思ってるぜ。ガリオン、世界を動かしつづけるよう努力しろよ」
「それはエリオンドがやることになってるんだよ」
「わかってる。だがかれから目を離すな。エリオンドがやっかいごとに巻きこまれんようにしてやれ」
ベルディンはセ・ネドラにはなにも言わなかった。ただ音をたててキスしただけだった。それからポレドラにもキスをした。ポレドラは金色の目に愛情をたたえて、好ましげにベルディンを見た。
「あばよ」ベルディンは最後にポルガラに声をかけ、親しみをこめてお尻をぴしゃりとたたいたあと、意味ありげに彼女のウェストを眺めた。「ああいう甘いものばかり食べつづけてると、太るぞと言っただろうが」
するとポルガラは目に涙をためてベルディンにキスした。
「それじゃ、かわいこちゃんよ」ベルディンはヴェラに言った。「ちょいと散歩しようじゃないか。出発前に話しとくことがどっさりあるのよ」ふたりは手をつないで丘の頂上めざして歩いていった。頂上にたどりつくと、ふたりは立ちどまってしばらく話しあった。それから抱きあって長い熱烈なキスをかわしたあと、抱きあったままちらちらと微光を放って、ほとんど溶けてしまったように見えた。
一羽はおなじみの鷹だった。翼の縞が目のさめるような青だった。だがもう一羽の鷹の翼はラヴェンダー色の縞もようだった。二羽は一緒に空中に飛び立ち、螺旋《らせん》を描きながら輝く空へ楽々とのぼっていった。かれらは正式な結婚のダンスを踊りながらどんどん上昇し、ついにはふたつの点となって〈谷〉の向こうに見えなくなった。
こうしてベルディンとヴェラは二度ともどってこなかった。
ガリオンたちみんなはそれから二週間小屋にとどまった。そのうち、ポルガラとダーニクがふたりきりになりたがっている気配を察して、ポレドラが残りのみんなに〈谷〉へいくことを提案した。出発の夜、もどってくることを約束して、ガリオンとセ・ネドラは息子とずいぶん大きくなった子狼を連れ、ベルガラスとポレドラとともに〈谷〉の中心部へおりていった。
昼ごろ、ベルガラスの懐かしいずんぐりした塔に到着し、てっぺんの円形の部屋めざして階段をのぼりはじめた。「その段に気をつけろ」老人はのぼりながらうわの空でみんなに言った。しかし今回は、ガリオンは足をとめてみんなを先に行かせた。手を下に伸ばして段の石板を持ち上げ、下をのぞきこんだ。ハシバミの実ほどの丸い石がはさまっていた。ガリオンはその石をとってポケットに入れ、石板をもとにもどした。よく見ると他の段はみんな中央がすりへっているのに、この段だけはまったく変形していなかった。ベルガラスはいったい何世紀のあいだ――それとも何億年――この段をまたいですごしてきたのだろう。ガリオンは自分のしたことに気をよくして、階段をのぼりはじめた。
「なにをしていたんだ?」ベルガラスがたずねた。
「あの段を直していたのさ」ガリオンは丸い石を老人に渡した。「これが下にはさまっていたんだ。もうぐらぐらしない」
「あのぐらぐらの段がなくなってしまったとはな」ガリオンの祖父はぶつぶつこぼしながら、小石を見つめて眉をひそめた。「そうか、いま思いだした。わしはわざとこれを段の下につっこんだんだ」
「いったいなんのためですの?」セ・ネドラがたずねた。
「これはダイヤモンドなんだ、セ・ネドラ」ベルガラスは肩をすくめた。「これがこなごなになるまでどのくらいの月日がかかるのか知りたかったのさ」
「ダイヤモンドですって?」セ・ネドラはごくりと唾をのみこんで、目を丸くした。
「なんならあげよう」ベルガラスはダイヤモンドをセ・ネドラにほうり投げた。
すると、彼女のトルネドラ人気質を考えると、セ・ネドラはおどろくほどあっさりと言ってのけた。「いいえ、けっこうですわ、ベルガラス。あなたを古いお友だちから引き裂きたくありませんもの。ガリオンとわたしとで、帰るときにもとのところへもどしてさしあげてよ」
ベルガラスは笑った。
ゲランと子狼は窓のそばでじゃれあっていた。かれらの遊びはかなり荒っぽくて、狼は乱暴に子供をあしらっては隙をみてゲランの首や顔をなめ、小さな男の子はそのたびにげらげらと笑いころげていた。
ポレドラは、ちらかった円形の部屋を見まわしていた。「わが家に帰ってくるのはいいものね」果の爪あとのついた椅子の背をいとおしげになでながら、ガリオンに言った。「わたしはこの椅子にとまってほとんど千年近くを過ごしたのよ」
「なにをなさってたんですの、おばあさま?」セ・ネドラがたずねた。セ・ネドラはいつしかガリオンの呼びかけをまねるようになっていた。
「あの人を見張っていたのよ」黄褐色の髪の女性は答えた。「最後にはわたしに気づくとわかっていたわ。でも、これほど長くかかるとはね。かれの注意をひくためにとんでもないことをしなけりゃならなかったわ」
「まあ?」
「つまりこの姿を選んだということ」言いながら、ポレドラは片手を胸にあてた。「梟か狼のわたしより、女としてのわたしのほうに興味があるようだったから」
「ずっときこうと思っていたことがあるのだ」ベルガラスが言った。「わしらが会ったときあたりに他の狼は一匹もいなかった。おまえさんはあそこでなにをしとったんだ?」
「あなたを待っていたのよ」
かれは目をぱちくりさせた。「わしがくるのを知っていたのか?」
「もちろん」
「それはいつのことだったんですの?」セ・ネドラがきいた。
「トラクがアルダーから〈珠〉を盗んだ直後だ」ベルガラスは答えたが、かれの心はほかにあるようだった。「わが師はベラーに事態を知らせるためにわしを北へつかわした。わしは早くつくために狼の姿になった。ポレドラとはいまの北アルガリアのどこかで会ったんだ」かれは妻を見た。「わしがくるとだれが言ったのだ?」
「だれも言う必要はなかったのよ、ベルガラス」彼女は答えた。「わたしは生まれたときからあなたがくる――いつかは――のを知っていたの。でも、ずいぶん時間がかかったわ」彼女はとがめるようにまわりをながめた。「ここをちょっときれいにすべきだと思うわ。それにあの窓には絶対にカーテンが必要ね」
「ほらな?」ベルガラスはガリオンに言った。
たくさんのキスと抱擁と握手と涙があった――涙は、もっとも、それほどたくさんではなかったが。やがてセ・ネドラがゲランを抱き上げ、ガリオンは子狼をかかえて、階段をおりはじめた。
「そうそう」ガリオンは途中まで来て言った。「さっきのダイヤモンドをかしてくれよ。あった場所にもどしておこう」
「ただの石ころだっていいんじゃないの、ガリオン?」セ・ネドラの目が急に計算高くなった。
「セ・ネドラ、そんなにダイヤモンドがほしいなら、ぼくが買ってあげるよ」
「わかってるわ、ガリオン、でもこれを持っていればふたつになるでしょ」
ガリオンは笑ってから、しっかり握られた妻の小さなこぶしから断固ダイヤモンドを奪い取って、段の下のもとの位置にもどした。
かれらは馬にまたがり、春の真昼のあかるい日差しの中、ゆっくりと塔をあとにした。セ・ネドラはゲランを抱き、子狼はときおり駆けだして兎を追いかけながら、セ・ネドラの横ではねまわった。
少し行ったところで、ガリオンはなじみ深いささやくような音を耳にした。かれはクレティエンヌの手綱を引いた。「セ・ネドラ」と、後方の塔を指さし、「見てごらん」
彼女は振りかえった。「なにも見えないわよ」
「待てよ。いまに出てくるから」
「出てくるって?」
「おばあさんとおじいさんさ。ほらきた」
二匹の狼が開け放たれた塔のドアから飛びだしてきて、並んで草原を横切っていった。二匹の走りかたは、なにものにも束縛されない自由を満喫している強い喜びに満ちていた。
「てっきりお掃除をはじめるんだとばかり思ってたのに」セ・ネドラが言った。
「このほうが重要なんだよ、セ・ネドラ。ずっとずっと重要なことなんだ」
日が沈もうというころ、ふたりは小屋に到着した。ダーニクはまだ畑で忙しげに働いており、ポルガラが台所で歌を口ずさんでいるのが聞こえた。セ・ネドラは小屋にはいり、ガリオンと子狼は畑のダーニクのところへ行った。
その夜の食事は鵞鳥の丸焼きその他もろもろだった。グレイヴィー、ドレッシング、野菜三種、そしてかまどから出したばかりでバターをしたたらせている焼き立てのパン。
「この鵞鳥をどこで手にいれたんだい、ポル?」ダーニクがたずねた。
「だまし取ったのよ」ポルガラは落ちつきはらって言った。
「ポル[#「ポル」に傍点]!」
「あとで説明するわ、ディア。それより、さめないうちに食べましょうよ」
食後、かれらは暖炉のそばに腰をおろした。ほんとうは火などいらなかった――なにしろドアも窓もあけっぱなしにしているほどだったのだから。でも火や炉辺は家庭の一部であり、厳密には必要のない場合でも、欠くことのできない大切な要素なのだ。
ポルガラはゲランを抱いていた。かれの巻毛に頬を寄せて、夢みるような満ち足りた表情を浮かべている。「ちょっと練習をね」彼女はそっとセ・ネドラに言った。
「あなたが忘れるわけがありませんわ、ポルおばさん」リヴァの女王は言った。「だって何百人もの小さな男の子を育てたんですもの」
「まあ、そんなに大勢ではないわよ、ディア。でも練習しておいて損はないでしょう」
子狼は暖炉の前で眠っていた。だが小さく鳴き声をあげて、脚をびくびく動かしている。
「夢を見ているんだな」ダーニクが微笑した。
「むりもないよ」ガリオンは言った。「おじいさんの塔からもどってくるあいだ、ずっと兎を追いかけていたんだ。でも一匹もつかまえなかったな。本気でつかまえるつもりはなかったらしい」
「夢を見るって言えば」ポルおばさんが立ち上がった。「あなたがた、あすは朝早く出発したいんでしょう。もうみんな休まない?」
かれらは翌朝、夜明けとともに起きて心のこもった朝食を食べた。そのあとダーニクとガリオンは馬たちに鞍を乗せに外に出た。
別れはさっぱりしたものだった。この四人のあいだでは長々と別れを言いあう必要はなかった。心がつながっているからだ。いくつかの言葉とキスを交わし、ダーニクとガリオンが短く握手をしたあと、リヴァの王とその家族は丘をのぼった。
頂上まであと半分というところでセ・ネドラが鞍の中で身をよじり、呼びかけた。「ポルおばさん、愛してますわ」
「ええ、ディア」ポルガラは声をはりあげた。「わかってるわ。わたしもよ」
それからガリオンは先に立って丘をのぼり、故郷へ向かった。
[#改丁]
エピローグ
[#改ページ]
秋のなかばだった。その夏の終わりにリヴァでアローン会議が開かれた。それはにぎやかな、騒々しいとも言える会議になった。ふだんなら出席しない多数の人々が出席した。非アローン人の統治者たち――と、その王妃たち――の数のほうがアローン人の君主たちより多いほどだった。西方全土からやってきた淑女たちはセ・ネドラとポルガラのもとに殺到して祝福の雨をふらせ、子供たちはゲランのまわりに集まって、かれのあかるい性格に――そして、長いこと使われていなかった焼き菓子専用台所にいたる道と、そこにつまっているすべての宝をその小さな男の子が発見した事実に――魅了された。真相を明かせば、その年はほとんど国務らしい国務は行なわれなかった。それから、例によって、晩夏の一連の嵐が会議の終了を告げ、訪問客たちは真剣に家路につくことを考えはじめた。これは昔からリヴァで会議を開く利点のひとつだった。いくら客たちがぐずぐずしたがっても、着実な季節の移り変わりが暇ごいをすべき時期であることを客たちに納得させてくれるのだ。
リヴァの国情は落ちついていた。王と王妃がゲラン皇太子を連れてついに帰国を果たしたときは、国をあげての祝祭に明け暮れたものの、いかに熱狂的であれ、永遠に祝いごとに熱をあげていられる者はおらず、数週間もすると事態は平常にもどっていた。
現在、ガリオンはほとんど毎日カイルとともに過ごしていた。多くの決定がガリオンの留守中になされていた。ガリオンはほぼ例外なくそうしたことがらに関するカイルの決定を認めたが、それでもやはり決定の内容を知っておく必要があったし、なかには王の署名によって批准される必要のある決定もいくつかあった。
セ・ネドラの妊娠は順調だった。小さな王妃のおなかははちきれんばかりにふくらみ、彼女はしだいにおこりっぽくなった。そういう微妙な状態にある女性をときに襲う風変わりな食べ物への欲求は、ふつうはおおいに慰めになるのだが、リヴァの王妃にとってはそのかぎりではなかった。男性の半分は、そういう食い道楽的な欲求は妻にとって単なる娯楽の変形ではないかと疑っている。風変わりで、手に入れるのがむずかしい食べ物があり、愛妻家の夫が遠路はるばる出かけないとそれが入手できなかったりすればするだけ、女たちはそういう食べ物が目の前に山と積まれなければ死んでしまうと言い張るのだ。ガリオンはそういうわがままはみな、安心したい欲求にほかならないのではないかとひそかに思っていた。夫が草の根分けても季節はずれの莓やら、世界の裏側の海にしかない不思議な海藻やらをいそいそと見つけに行ってくれれば、それは妻のウエストのくびれがなくなろうとも、まだ妻を愛しているという確たるしるしになる。ただ、セ・ネドラにとってはそれはなんの慰めにもならなかった。なぜなら、彼女が一見不可能な要求をするたびに、ガリオンはただとなりの部屋に行って問題の食べ物をその場で想像し、差しだすからだ――たいていは銀の皿にのせて。セ・ネドラはだんだんむくれはじめ、ついには不可能な要求をすることをいっさいあきらめてしまった。
こうしたある冷たい秋の夜遅く、うっすらと氷におおわれたマロリーの船が波止場にはいり、船長がマロリーのザカーズの封印つきのきちんとたたまれた羊皮紙の包みを持ってきた。ガリオンは船長に礼をはずみ、城塞で乗組員ともども心から歓迎したあと、ザカーズの手紙を持ってただちに王宮へ向かった。セ・ネドラは暖炉のそばにすわって編物をしていた。ゲランと子狼は炉辺に一緒に寝ころんで、そろって夢を見ていた。この一人と一匹はいつも一緒に眠った。セ・ネドラもはじめはふたりを夜別々にしようとしていたが、もうすっかりあきらめていた。世界中のどんなドアも両側から鍵をかけることはできないからだ。
「どうしたの、ディア?」ガリオンがはいっていくと、セ・ネドラはたずねた。
「ザカーズから手紙がきた」
「まあ、なんて言ってきたの?」
「まだ読んでいないんだ」
「あけてみて、ガリオン。マル・ゼスでなにが起きているのかぜひ知りたいわ」
ガリオンは封を切って、羊皮紙を広げた。かれは声に出して読んだ。
「〈西方の大君主〉、〈神をほふる者〉、〈西海の王〉であるリヴァのベルガリオン王陛下、ならびに、〈風の島〉の共同統治者、トルネドラ帝国の皇女、ボルーン家の宝石であるセ・ネドラ王妃に――全アンガラクの皇帝、ザカーズより。
ふたりとも元気でいることと思う。きみたちの娘にこんにちはを言うよ。彼女がもう生まれているにせよ、まだにせよだ(とりあえず断言しておくが、わたしは急に千里眼になったわけではない。シラディスは一度、彼女のあの特異な視力はもう消えてしまったと言ったが、かならずしもそうではなさそうだ)。
きみたちと別れてからここではじつに多くの出来事があった。宮廷はどうやら、コリムへのわれわれの旅の直接の結果と、そこで起きたことによるわたしの性格の変わりようにすくなからず喜んでいるようだ。わたしはきわめて扱いづらい統治者だったらしい。といっても、ここマル・ゼスのすべてが幸福なおとぎ話の世界になったわけではない。将軍たちはわたしがウルギット王との平和条約を締結する意志を宣言すると、すっかり動転してしまった。将軍がどういう連中かはきみも知っているだろう。お気に入りの戦争をとりあげようものなら、連中は甘やかされた子供のようにだだをこね、文句を並べ、ふくれっつらをする。おかげで数人の首ねっこを力一杯おさえつけなければならなかった。ついでだが、最近アテスカをマロリー軍の最高司令官の地位に昇進させたよ。これもまた他の将軍たちの怒りをあおったが、全員を喜ばせることはだれにもできん。
ウルギットとは互いに連絡をとりあった。かれはたぐいまれな男だな――おどけたところは兄さんそっくりだ。うまくやっていけそうな気がする。ダラシア保護領の自治をわたしが発表したとき、官僚たちは集団卒倒をおこしそうになった。ダル人は独自の道を歩むことを認められるべきだというのがわたしの意見だが、官僚の多くはダラシアに利益を投資しているため、将軍連中同様不満たらたらなのだ。しかし、政府の長官全員の諸事についてブラドーに徹底した調査をさせる意図を発表すると、その不満はぴたりとおさまった。保護領における所有物の大量略奪騒ぎは、ほとんどなくなろうとしている。
さらにおどろくべきは、われわれがダル・ペリヴォーから帰国してまもなく、ひとりの年老いたグロリムが宮殿に到着したことだ。わたしはそのグロリムを追いはらおうとしたが、エリオンドが断固反対した。老人は発音不可能なグロリムの名前を持っていたが、エリオンドはそれをどういう理由からか、ペラスに変えた。穏やかな性格の老人だが、ときおりひどく奇妙なしゃべりかたをする。かれの使う言葉は『アシャバの神託』の言葉やダル人の『マロリーの福音書』に非常によく似ている。じつに風変わりだ」
「ほとんど忘れかけてたよ」ガリオンは読むのを中断した。
「なんのこと、ディア?」セ・ネドラが編物から目をあげてたずねた。
「ペルデインでぼくたちが会ったあのグロリムの老人のことをおぼえてるかい? 雌鶏にきみがつつかれたあの夜のことだが?」
「ええ。とてもいいおじいさんみたいだったわ」
「それ以上だったよ、セ・ネドラ。かれは予言者でもあったんだ。例の声は、かれがエリオンドの最初の弟子になるだろうと言ったんだ」
「エリオンドってすごく顔が広いのね。先を読んで、ガリオン」
「シラディスとペラスとわたしはエリオンドと長時間にわたって話しあい、エリオンドの素性はすくなくともしばらくは隠しておいたほうがいいという結論に達した。あんなに無邪気な若者を人間の堕落やごまかしにはまださらしたくない。神になったばかりのかれの気をそぐようなことはお互い、やらないようにしよう。トラクと、かれの崇拝を求める激しい欲求を思いだして、われわれはエリオンドのことも崇拝しようとしたのだが、かれはそんなわれわれを笑っただけだった。ポルガラはエリオンドを育てているとき、なにかを忘れたのではないだろうね?
だが、われわれはひとつだけ例外を作った。われわれの一団は、第三、第七、第九部隊とともにマル・ヤスカを訪問したのだ。神殿の護衛とチャンディムたちは逃げようとしたが、アテスカがぬかりなくかれらを包囲した。わたしはエリオンドがあの名のないかれの馬で朝の遠乗りに出かけるまで待ち、集まったグロリムたちに有無を言わさぬ口調で話しかけた。エリオンドを失望させたくなかったが、かれらがただちに宗旨を変えなければ、大変に遺憾であることをグロリムたちに示してやった。アテスカがわたしの横に立って剣に手をかけていたので、連中はすぐさまわたしの言う意味を悟った。そこへ、だしぬけにエリオンドが神殿にあらわれた(あのかれの馬はどうしてあんなに速く移動できるのだ? その朝見たときは、エリオンドはマル・ヤスカより三リーグ以上離れた場所にいたのだぞ)。かれは黒い服はあまり魅力的ではないし、白い服のほうがずっとあなたたちに似合うとグロリムどもに言った。それからあるかなきかの微笑を浮かべて、ほんとうに神殿中のグロリムの服の色を変えてしまった。これでマロリーのそのあたりでは、かれの素性もバレてしまっただろうな。つぎにエリオンドはグロリムたちにもうナイフは必要ないと言った。するとそこにあったすべての短剣が消滅した。そのあとかれは聖所の火を消して、祭壇を花で飾った。以来、それらのささいな変更がここマロリーでは一般的なものになったようだ。ウルギットは最近、クトル・マーゴスでも似たような状態が広まるかどうか検討中だ。われわれの新しい神は、じょじょに神であることに慣れてきているようだ。
ちぢめて言うと、グロリムたちは全員ひれ伏した。わたしはいまだにその改宗のすくなくとも一部は嘘ではないかと疑っているので、まだ軍の解体は考えていない。エリオンドはかれらに、起き上がって外へ行き、病める者、貧しい者、みなしごや浮浪者の世話をするようにと言った。
マル・ゼスへ引きかえす途中で、ペラスが馬の手綱をひいてわたしと並び、気味が悪いほど穏やかな微笑を浮かべてわたしに笑いかけ、言った。『わが師は、そろそろあなたは状態を変えるときだと考えておられます、マロリー皇帝』わたしはいささかぎょっとしたよ。譲位して、羊飼いかなにかになるようエリオンドに勧められるのではないかと半分こわかったのだ。すると、ペラスがつづけた。
『わが師はあなたがあることを長々と遅らせているとお考えなのです』
『ほう?』わたしは用心深く言った。
『その遅れがケルの女予言者をかなり失望させているのですよ。わが師は、あなたが彼女に求婚するよう強く示唆しておられます。なにか邪魔がはいらないうちに、それが実現することを望んでおられるのです』
というわけで、マル・ゼスにつくと、わたしはわたしの考えでは、いたって実用的なプロポーズをした――するとシラディスははねつけたのだ! 心臓が止まるかと思ったよ。やがて謎めいた小さな女予言者はかんかんにおこりだした。彼女はわたしに実用的プロポーズについての感想をしゃべった――延々とね。あんな彼女は見たことがなかった。実際感情的になっていて、彼女が使った言葉のいくつかは、占めかしいものの、悪態に近かった。書物で調べなくてはならなかったほどさ。それほど曖昧でわかりにくかった」
「やるわね、シラディスも」セ・ネドラが熱っぽく言った。
手紙はつづいていた。
「仲直りのためにわたしはやむなくひざまずき、愚かしくておおげさなプロポーズをした。すると彼女はわたしの熱情に感動して機嫌を直し、首をたてにふった」
「男ってみんな同じなんだから!」セ・ネドラはフンと鼻を鳴らした。
「結婚式の費用で、わたしは文なし同然になってしまった。ケルダーの仕事仲間のひとりから借金しなければならなかったほどだ――不当に高い利子つきでね。もちろん、エリオンドが司会をつとめた。神に結婚の儀式を行なってもらうとは、大変なことになったものだ。とにかく、シラディスとわたしは先月結婚し、わたしは嘘いつわりなく、生まれてこのかたこれほど幸福だったことはない」
「まあ」セ・ネドラがおなじみの感激に声をつまらせて言った。「なんてすてきなの」彼女はハンカチを取りにいった。
「まだあるよ」ガリオンは言った。
「つづけてちょうだい」セ・ネドラは目をふきながら言った。
「アンガラクのマロリー人は、わたしがダル人を結婚相手に選んだことに実際は失望しているが、その気持ちをぬけめなく隠している。わたしはずいぶん変わったが、かれらの気持ちが見抜けないほど変わったわけではない。シラディスは新しい身分にとまどっている。また、わたしは宝石が妃にとっては欠かすことのできぬ装飾品であることを納得させそこねてしまった。彼女は代わりに花をつけており、宮廷の貴婦人たちがそれに右へならえをしたことで、マル・ゼスの宝石商たちはみんな失望している。
遠い親戚にあたるオトラス大公については、首を斬らせるつもりでいたが、いたましいほどバカなので、そのアイデアは放棄し、故国へ送りかえした。ダル・ペリヴォーできみの友人のベルディンがした提案に従い、わたしはあのバカに、妻をメルセネ市の宮殿にやって死ぬまで二度と彼女には近寄るな、と命令しておいたよ。あの女性はメルセネで多少醜聞の的になるだろうが、これまで長らくあの愚か者に耐えてきたのだから、多少はいい目を見られるだろう。
こちらはざっとこんなところだ、ガリオン。われわれは友人全員の消息に飢えている。かれらにわれわれの心からの挨拶と愛情を送る。
[#地から2字上げ]ザカーズとシラディス王妃
あのこれみよがしな称号を省いていることに注目してくれ。そうそう、ところでわたしの猫が数ヵ月前に、またしてもわたしに不貞を働いたのだ。セ・ネドラは子猫は好きだろうか?――あるいはきみたちの生まれたての娘に一匹どうだろう? なんなら、二匹送れる。
[#地から1字上げ]Z」
その年の冬のはじめ、リヴァの王妃はますますおこりっぽくなり、ウエストまわりの増加に比例して、気むずかしく、気みじかになった。女性の中には妊娠にみごとに順応する人たちもいる。リヴァの王妃はみごとに順応しなかった。彼女は夫にたいし、ひどくぶっきらぼうになった。息子にもすぐ腹をたてた。あるときなど、なにもしていない子狼をぎごちなく蹴とばそうとまでした。狼はすばやく蹴りをかわしたあと、とまどいぎみにガリオンを見た。「おこらせるようなことをしたのかな?」子狼はきいた。
「いいや」ガリオンは答えた。「妻はただ機嫌が悪いんだ。子を産むときが近づいてきているんだよ。そういう時期はいつも人間の女は不愉快になって、おこりっぽくなるんだ」
「ふーん」狼は言った。「人間ってずいぶん変わっているんだね」
「まったく」ガリオンは同意を示した。
猛りくるう吹雪の最中に、ポレドラを〈風の島〉へ連れてきたのは、いうまでもなくグレルディクだった。
「どうやってたどりついたんだ?」梁の低い食堂の暖炉の前に、ふたりでエールのジョッキを手にして腰をおろしたとき、ガリオンは毛皮にくるまった船乗りにたずねた。
「ベルガラスのかみさんが道を教えてくれたんだ」グレルディクは肩をすくめた。「ありゃ、たいした女だぜ、知ってたか?」
「そりゃもう」
「航海中、乗組員たちのだれひとりたったの一杯も酒を飲まなかったのを知ってるか? このおれすらもだ。どういうわけだが、おれたちはぜんぜん[#「ぜんぜん」に傍点]飲みたくならなかったんだ」
「ぼくの祖母は強い偏見を持っていてね。ちょっといいかな? 二階へ行って、祖母と話してきたいんだ」
「いいともよ、ガリオン」グレルディクはにやりとして、ほぼ満杯のエールの樽をいとおしげにたたいた。「おれのことなら気にすんな」
ガリオンは階段をのぼって王の住居へ向かった。
黄褐色の髪の女性は暖炉のそばにすわって、子狼の耳をぼんやりとなでていた。セ・ネドラはややぶかっこうに、寝椅子に横たわっていた。
「ああ、きたのね、ガリオン」ポレドラはそれとなく空気の匂いをかいだ。「飲んでいたようね」その口調は不満そうだった。
「グレルディクとジョッキ一杯だけエールを飲んだんですよ」
「じゃ、部屋の向こう側にすわってもらえるかしら? わたしはとても嗅覚が鋭いの。エールの臭いをかぐと気分が悪くなるのよ」
「だから飲むのを認めないんですか?」
「もちろん。他にどんな理由があるの?」
「ポルおばさんはなにか道徳的理由で認めていないようだけど」
「ポルガラはわけのわからない偏見を持っているのよ。さて、それじゃ」ポレドラは真顔になってつづけた。「目下娘は旅ができる状態じゃないから、わたしがここへセ・ネドラの赤ちゃんをとりあげにきたの。ポルからありとあらゆるたぐいの指示を受けてきたわ。そのほとんどは無視するつもりだけれどね。出産は自然なものなんだから、よけいなことはあまりしないほうがいいのよ。陣痛がはじまったら、あなたにはゲランとこの子狼を城塞の一番遠くの端まで連れて行ってもらいたいの。全部すんだら、あなたがたを呼びにやるわ」
「わかりました、おばあさん」
「ガリオンって、聞きわけがいいのね」ポレドラはリヴァの王妃に言った。
「わたし、かれが気に入ってますの」
「そうでしょうとも。それでね、ガリオン、赤ちゃんが生まれて万事順調だと確認できたら、すぐにあなたとわたしは〈谷〉へもどることになっているのよ。ポルガラの予定日はセ・ネドラの数週間あとだけれど、あまりぐずぐずはしていられないわ。ポルは出産のとき、あなたにその場にいてもらいたがっているの」
「行かなきゃだめよ、ガリオン」セ・ネドラが言った。「わたしも行けたらいいのに」
出産したばかりの妻を置いていくことにガリオンはいささか疑問をおぼえたが、ポルおばさんが赤ちゃんを産むときは〈谷〉にいたいのも事実だった。
それから三日後の夜、ガリオンはエリオンドと一緒に草深い丘の長い斜面を馬で駆けおりるすてきな夢を見ていた。
「ガリオン」セ・ネドラがかれのあばら骨のあたりを突ついた。
「なんだい、ディア?」ガリオンはまだ半分眠っていた。
「おばあさまを呼びにいったほうがいいと思うわ」
眠気が一気に消しとんだ。「確かかい?」
「わたしは前にも経験してるのよ、ディア」
ガリオンはすばやくベッドからころがりでた。
「行く前にキスして」
かれはキスした。
「城塞の向こう側に行くとき、ゲランと子狼を連れていくのを忘れないでね。向こうへ行ったら、ゲランはベッドにまた寝かせて」
「もちろん」
奇妙な表情がセ・ネドラの顔にあらわれた。「急いだほうがよさそうだわ、ガリオン」
ガリオンは駆けだした。
明け方近く、リヴァの王妃は女の子を産んだ。赤ん坊は茜色の短い髪と、緑色の目をしていた。何世紀ものあいだそうだったように、ドリュアドの血筋がこの子にもあらわれていた。ポレドラは毛布にくるんだ赤ん坊を抱いて、城塞の静まりかえった廊下を通り、ガリオンたちのいる部屋へ向かった。ガリオンは暖炉の前にすわっており、ゲランと狼は手足をからませあって寝椅子で眠っていた。
「セ・ネドラはだいじょうぶですか?」ガリオンは立ちあがってたずねた。
「元気よ」祖母はかれを安心させた。「ちょっと疲れているだけ。とても軽いお産だったわ」
ガリオンは安堵の吐息をついてから、毛布の角をめくって娘の小さな顔をのぞきこんだ。「母親似だな」人はみなだれしも、そういう相似がおどろくべきことであるかのように、生まれたての子供を見ると、まず最初にその子が母親似か父親似かを指摘する。ガリオンは赤ん坊をそっと抱いて、その小さな赤い顔を見つめた。赤ん坊は緑色の目でじっとかれを見つめかえした。見慣れた目つきだった。「おはよう、ベルダラン」ガリオンは静かに言った。かれはずいぶん前にその名前に決めていた。これからまだ他にも娘は産まれるだろう。彼女たちは両親の双方の大勢の女の親戚にちなんだ名前をつけられるだろう。だが、最初の娘だけはどうしてもポルおばさんの金髪の双子の妹、ガリオンはたった一度おぼろげな像を見ただけだが、いまでもかれらみんなの人生の中心にいるあの女性の名前をもらわなくてはならないように思えたのだ。
「ありがとう、ガリオン」ポレドラがぽつりと言った。
「なんだかそれがふさわしいように思えるんです」
ゲラン王子は赤ん坊の妹にあまり感銘は受けなかった。だが、男の子はそんなものだ。「すごくちっちゃくない?」ふたりを引きあわせようとした父親に起こされたとき、かれはそうたずねた。
「赤ん坊は小さいものなんだ。だんだん大きくなるのさ」
「ふうん」ゲランは重々しくベルダランを見つめた。それから、なにかほめ言葉を言わなくてはならないと思ったらしく、つけくわえた。「きれいな髪だね。おかあさまのと同じ色じゃない?」
「そうなんだ」
その朝、リヴァの鐘は祝福の音をとどろかせ、リヴァの人々は喜んだ。もっとも、王朝の安泰を願うあまり、心の中ではまた王子さまであったらよかったのにと思った者たちも少しは――ことによると大勢――いた。王のいないときが何世紀もあったため、リヴァ人はそういうことに神経質なのである。
セ・ネドラは言うまでもなく喜びに満ちあふれていた。ガリオンがかれらの娘にと選んだ名前についても、最小限の不満を表明しただけだった。彼女の身体に流れるドリュアドの血は、伝統的なク≠ナはじまる名前を強く求めていた。だが、セ・ネドラはそれについてちょっと細工をし、その問題は満足のいく解決に達した。ガリオンは妻が心の中で、ベルダランの名前のどこかにク≠挿入したにちがいないと思っていた。そしてそれについては、知らないほうがいいと判断したのだった。
リヴァの王妃は若くて健康だったので、出産の疲れからたちまち回復した。それでも、数日間はベッドから出なかった――主として、小さな王妃とさらに小さな王女を見ようと王宮の寝室にぞろぞろとはいってくるリヴァの貴族や、外国の高官たちにおおげさな印象を与えるために。
それから数日後、ポレドラはガリオンに言った。「ここはだいたい問題なさそうだわ。いよいよ〈谷〉へもどるしたくをしなくてはね。ポルガラの予定日が近づいているのよ」
ガリオンはうなずいた。「グレルディクに港にいるように頼んでおいたんです。かれなら他のだれよりも早くぼくたちをセンダリアへ連れていってくれるでしょう」
「あれはまったくあてにならない男よ」
「ポルおばさんもそっくり同じことを言ってたな。しかしグレルディクは世界一の船乗りですよ。馬を船に乗りこませるよう手配しましょう」
「いいえ」ポレドラはそっけなく言った。「わたしたちは急ぐのよ、ガリオン。馬じゃ、遅くなってしまうわ」
「センダリアの海岸から〈谷〉までずっと走っていきたいんですか?」ガリオンはいささかあきれてたずねた。
「それほど遠くはないわ、ガリオン」ポレドラは微笑した。
「食料はどうするんです?」
彼女はおもしろがっているような目でガリオンを見た。ガリオンは急にひどく自分がまぬけに思えた。
家族との別れは思いがこもっていたが、あっさりしていた。「薄着をしちゃだめよ」セ・ネドラは指示した。「冬なんですからね」
ガリオンは自分と祖母がどんなふうに旅をする気でいるか、はっきりとはセ・ネドラに話さないことにした。
「そうそう」セ・ネドラは羊皮紙を一枚ガリオンに渡した。「これをポルおばさんにあげて」
ガリオンは紙を見た。それは妻と娘を色つきで描いた、なかなかうまい画家のスケッチだった。
「とてもいいでしょう?」
「いいね」
「走っていったほうがいいわよ」セ・ネドラは言った。「あまりぐずぐずしてると、行かせたくなくなっちゃうわ」
「暖かくしてるんだよ、セ・ネドラ。子供たちをたのむ」
「もちろんよ。愛してるわ、陛下」
「ぼくも愛してるよ、女王陛下」ガリオンは妻と息子と娘にキスして、静かに部屋を出た。
海は荒れていたが、好戦的でがむしゃらなグレルディクは、どんなに険悪だろうと、天気にはほとんど無頓着だった。つぎはぎだらけで、見るからにおんぼろのグレルディクの船は風に追いまくられて、どんなに大胆な船長でさえあわてて帆をおろしそうな状況のもとで猛スピードで荒海を進み、二日後にはセンダリアの海岸にたどりついた。
「人気のない浜ならどこでもいいよ、グレルディク」ガリオンは言った。「ぼくたちは急いでいるし、センダーに寄ったりすれば、フルラクとライラが祝宴をはってぼくらを足止めするからな」
「馬もないのに、どうやって浜から先に行くんだ?」グレルディクはぶっきらぼうにたずねた。
「方法はあるさ」
「例のか?」グレルディクはいやそうに言った。
ガリオンはうなずいた。
「そりゃ自然じゃないぜ」
「ぼくは自然じゃない一族の出なんだよ」
グレルディクは不満げにぶつぶつ言いながら、嵐に一掃された浜に船を近づけ、塩でおおわれた平らな地面にはびこる草むらに船のへりをつけた。「これでいいのかい?」
「けっこうだ」ガリオンは言った。
ガリオンと祖母は風の吹きすさぶ浜でマントをはためかせながら、グレルディクが沖のほうへ遠ざかるまで待った。「そろそろはじめてよさそうですね」ガリオンは剣をもうちょっと具合いのいい位置に直した。
「あなたがどうしてそれを持ってきたのか、わけがわからないわ」ポレドラは言った。
「〈珠〉がポルおばさんの赤ちゃんを見たがっているんですよ」ガリオンは肩をすくめた。
「そんなおかしな話を聞いたのは生まれてはじめてよ、ガリオン。行きましょうか?」
かれらはちらちらと微光を放って姿を消した。つぎの瞬間には二匹の狼が足取り軽く浜から草地へ駆けあがり、すべるように内陸へ走っていった。
ふたりが〈谷〉につくまでには一週間とかからなかった。足を止めたのは獲物をつかまえるときだけだったし、めったに休まなかったからだ。その一週間に、ガリオンは狼でいることについてじつに多くのことを学んだ。これまでにもベルガラスからいろいろなことを教わったが、ベルガラスが狼に変身するようになったのは成人してからだった。それにひきかえ、ポレドラは正真正銘の狼といってもよかった。
かれらはある雪の夜、小屋を見おろす丘の頂上にのぼって、下をながめた。半分雪にうもれた垣根のあるこぎれいな農場が見えた。小屋の窓はさしまねくように暖かい黄色の光に満ちている。
「間にあったかな?」ガリオンはかたわらの金色の目をした狼にたずねた。
「ええ」ポレドラは答えた。「でも、人間の使う獣に乗ってこなかったのは賢明な判断だったと思うわ。だいぶ迫っているわよ。下へおりて、どうなっているのか確かめましょう」
かれらは舞い落ちる雪の中、丘をくだり、戸口で本来の姿にもどった。
小屋の内部は暖かく、あかるかった。みごとにおなかのせりだしたポルガラがガリオンと彼女の母親のためにテーブルに食事の用意をしていた。ベルガラスは暖炉のそばに腰をおろし、ダーニクはこつこつと馬具を修理していた。
「夕食をとっておいたのよ」ポルおばさんはガリオンとポレドラに言った。「わたしたちはもうすませたの」
「ぼくたちが今夜つくのを知ってたの?」ガリオンはたずねた。
「もちろんよ、ディア。おかあさまとはずっと連絡を絶やしていないんですからね。セ・ネドラはどう?」
「彼女もベルダランも元気だよ」ガリオンはさりげなく言った。ポルおばさんにはこれまでさんざんびっくりさせられてきたから、こんどはかれがびっくりさせる番だった。
ポルガラはもうちょっとでお皿を落としそうになり、きらきら光る目をまんまるにした。「まあ、ガリオン」彼女はいきなりガリオンを抱きしめた。
「その名前、気に入ってくれた? 少しは?」
「あなたには想像もつかないくらいにね、ガリオン」
「加減はどうなの、ポルガラ?」ポレドラがマントを脱ぎながらたずねた。
「いいわ――と思うけど」ポルおばさんはほほえんだ。「もちろん、手順については知っているけれど、わたし個人が体験するのはなにしろこれがはじめてでしょう。赤ちゃんて、この時期にはずいぶんおなかを蹴るものなのね。二、三分前には、一度に三ヵ所を蹴ったみたいだわ」
「かれがパンチをくりだしているんじゃないのかな」ダーニクが言った。
「かれ?」ポルガラはほほえんだ。
「いやその――便宜上そう言っただけだよ、ポル」
「なんなら、男か女かわしが見て教えてやろうか?」ベルガラスが申し出た。
「とんでもない!」ポルガラは言った。「わたしは自分で確かめたいの」
雪は明け方にやんで、雲は朝の九時ごろには吹き払われた。太陽が顔をのぞかせ、小屋の周囲の積もったばかりの雪をまばゆく照らした。空は濃い青で、冷えこむ日だったにもかかわらず、真冬の身を切るような寒気はまだ訪れていなかった。
ガリオン、ダーニク、ベルガラスは夜明けに小屋から追いだされて、そういう状況に男がたいがい味わう役たたずな気分で、あたりをうろついた。かれらは農場のそばを流れる小さな川の土手にたたずんだ。ベルガラスは澄んだ水の中をのぞきこみ、水面のすぐ下に黒っぽい細長い形をたくさん認めて、ダーニクにたずねた。「最近、釣りはしているのかね?」
「いえ」ダーニクはちょっと悲しそうに言った。「以前ほど夢中になれないようなんですよ」
かれらはそのわけを知っていたが、だれも口に出さなかった。
ポレドラは食事を運んできたが、断固として小屋には入れてくれなかった。午後遅く、彼女は男たちにダーニクの炉で湯をわかす仕事を言いつけた。炉は道具小屋にあった。
「どうしてこういうことをするのかさっぱりわからないんだよ」ダーニクが炉からふきこぼれそうなやかんをまたひとつ持ち上げながら、告白した。「どうしていつも熱湯が必要なんだろう?」
「必要なもんか」ベルガラスが言った。ベルガラスは積み上げた薪の上に気持ちよさそうに寝そべって、ダーニクが作った複雑な彫刻をほどこしたゆりかごをためつすがめつしていた。「男たちに邪魔をさせないためのたんなる手段なのさ。何千年も昔にどこかの利口な女が思いつき、女どもは以来その習慣に敬意を払ってきたんだ。なあに、単なる熱湯じゃないか、ダーニク。それで女たちが満足なら、どうってことはない」
月の昇ったのは遅かったが、星たちが雪に美しい光を投げかけ、世界中がやわらかな青白い光輝に浸っているようだった。それは、これまでガリオンが見た夜の中でも、もっともかんぺきに近い夜であり、自然のすべてが息をとめているように思えた。
ガリオンとベルガラスはダーニクがしだいにいらだちはじめたのに気づいて、夕食の腹ごなしに丘のてっぺんまで歩いてみないかと誘った。ふたりともこれまでダーニクが忙しくすることによって不快な感情を追いはらっているのを見てきたからだ。
雪の中を丘の頂上めざして歩きながら、ダーニクは夜空を見上げた。「今夜はほんとうに特別な感じのする夜じゃないか?」かれはちょっとはにかんだように笑った。「たとえ雨がふっていても、わたしはそう感じると思うが」
「ぼくもいつもそうなるよ」ガリオンはそう言ってから、やはり笑った。息が冷たい夜気に白く浮きでた。「二度経験したからといって、いつもと言っていいかどうかはわからないけど、ダーニクの言う意味わかるよ。ぼくもついこの前同じような気持ちになったんだ」ガリオンは小屋の向こうの冷たい星々の下に白く静かに横たわる雪原をながめた。「ダーニクやおじいさんにも、今夜がひどく静かに思える?」
「そよとの風もないしね」ダーニクはうなずいた。「それに雪がすべての物音をくるみこんでいる」かれは首をかしげた。「それにしても、きみが言うように、ばかにしんとしている。星だって今夜はじつにあかるい。論理的な説明があるんだろうがね」
ベルガラスがかれらにほほえみかけた。「おまえさんたちふたりにはこれっぽっちのロマンもないのか? 今夜がきわめて特別な夜かもしれんということを思いつかなかったのか?」
ふたりは不思議そうにベルガラスを見た。
「ようく考えてみろ」ベルガラスは言った。「ポルは生涯の大半を他人の子供たちを育てることに注いできたんだ。わしはポルが子供を育てるのをずっと見守ってきた。新しい赤ん坊を腕に抱くたびに、ポルがかすかな痛みのようなものをおぼえているのをわしは感じることができた。それが今夜変わろうとしている。だから今夜はごく現実的な意味で、特別な夜なのだ。今夜、ポルガラはほかならぬ自分の赤ん坊を産むのだからな。世間にとってはたいした意味は持たんことかもしれんが、わしらにとっては重要なことなのだ」
「そのとおりです」ダーニクが熱っぽく言った。そして善人の目に考えこむような表情が忍びこんだ。「このところ、鍛冶仕事をしているんですよ、ベルガラス」
「ああ。音が聞こえていたよ」
「われわれみんながまたスタート地点にもどったような気がしませんか? もちろん、まったく以前と同じわけじゃありませんが、なんとなくそんな気がするんです」
「ぼくも似たようなことを考えていたんだ」ガリオンは認めた。「ずっとそういう不思議な気持ちでいたんだよ」
「長旅をしたあと、わが家に帰るのはあたりまえのことだろう」ベルガラスが片足で雪の塊を蹴った。
「そんなに単純なもんじゃないと思うよ、おじいさん」
「わたしもそう思いますね」とダーニク。「どういうものか、もっと重要なことのように思えるんです」
ベルガラスは眉間にしわを寄せた。「じつはわしも同じなんだ。ベルディンがここにいてくれればな。あいつならたちどころに説明できるだろう。むろん、わしらのだれにも理解できんだろうが、それでもやつなら説明できる」老人はあご髭を掻いた。「だが、わしはその理由になりそうなあることを発見したぞ」いささか疑わしげに言った。
「なんです、それは?」ダーニクがたずねた。
「去年だったか、ガリオンとわしとで長々と話しこんだことがあってな。ガリオンはものごとが何度も繰りかえし起きていることに気づいたんだ。わしらがその話をしているところを聞いたことがあるだろう」
ダーニクはうなずいた。
「わしらは、ものごとが繰りかえし起きるのは、ある事故が未来をなくしてしまったからだという結論に到達した」
「筋は通っていますね」
「どういうわけか、それがいま変わったのだ。シラディスが〈選択〉を行ない、事故の影響が抹消されたのだ。もう、未来はありうるのだよ」
「じゃ、なんでだれもが出発点にもどるんだい?」ガリオンはたずねた。
「理にかなったことだよ」ダーニクがまじめそのもので言った。「なにかをはじめれば、十中八、九は最初にもどらなくてはならない、そうだろう? 未来だって同じことだ」
「これで説明はついたということにしようじゃないか」ベルガラスが言った。「事態は停止した。いま、それがふたたび動きだし、だれもが受けるに価するものを得た。わしらはよいものを得、相手側は悪いものを得た。わしらが正しいほうを選んだことはそれで証明されたようなものだよ」
ガリオンはいきなり笑いだした。
「なにがそんなにおかしいんだ?」ダーニクがたずねた。
「ぼくらの赤ん坊が生まれるちょっと前に、セ・ネドラがヴェルヴェット――リセルから手紙を受けとったんだよ。リセルはシルクをやいのやいのとせっついて、まんまと結婚の日取りを決めさせたんだ。たぶん、それがシルクの受けるに価するものなんだな。だけど、シルクはそのことを考えるたびに、頭をかきむしってるだろうね」
「結婚式はいつなんだい?」ダーニクがたずねた。
「来年の夏だ。リセルがぼくたち全員にボクトールにきてもらって、彼女の勝利を目撃してほしがっているんだよ」
「そりゃ言いすぎだぞ、ガリオン」ダーニクがとがめた。
「だが、そんなところだろうよ」ベルガラスがにやにやした。かれはチュニックの内側に手を入れて、土焼きの酒瓶を取りだした。「寒気を追っぱらうのにちょっとどうだ?」と差しだした。「あのウルゴの強烈な醸造酒だ」
「おばあさんがいやがるよ」ガリオンは警告した。
「おまえのばあさんはいまここにいるわけじゃないんだぞ、ガリオン。彼女は目下多忙なんだ」
かれら三人は雪の丘の頂上に立って、農場を見おろした。わらぶき屋根は雪でかさが高くなり、軒からさがるつららが宝石のようにきらめいている。小さな窓ガラスは黄金色のランプの光に輝いて、前庭にこんもりと積もった雪を淡い黄色に染めていた。男たちがいりもしない湯をわかして午後を過ごした鍛冶場の赤らんだ輝きが、小屋からかすかにもれている。煙突から薪の青い煙がまっすぐに立ちのぼり、星々のあいだにまぎれこみそうなほど空高くのぼっていく。
奇妙な音がガリオンの耳を満たした。その正体がわかるまでにしばらくかかった。それは〈珠〉だった。〈珠〉が言葉にならない切望の歌をうたっているのだった。
静寂はいまやほとんど手でさわれそうな気がし、きらめく星たちと雪をかぶった大地との距離がちぢまったように見えた。
そのとき、小屋から一度だけ泣き声が聞こえた。赤ん坊の声だった。新生児の泣き声にありがちな憤慨と不快に満ちた声ではなく、驚異と、言葉では言いあらわせない喜びにあふれた声だった。
やさしい青い光が突然〈珠〉から放たれ、切望の歌が歓喜の歌に変わった。
〈珠〉の歌が消えたとき、ダーニクが大きく息を吸った。「下へ行こうか?」
「もうちょっと待ったほうがいいだろう」ベルガラスが言った。「まだごたごたしているにきまっとる。ポルに髪をとくチャンスをやったほうがいい」
「少しぐらい髪が乱れていようと、わたしはかまいませんよ」とダーニク。
「ポルがかまうんだ。もうしばらく待とう」
不思議なことに〈珠〉はまた切望のメロディをうたっていた。さっきと同じようにあいかわらず手でさわれそうな静寂を破るのは、ポルガラの赤ん坊のうれしそうな細い泣き声だけだった。
三人の友は丘の頂上に立ち、冷たい夜気に白い息を吐きながら、そのかすかな泣き声に聴き入った。
「肺が丈夫なんだよ」ガリオンは新米の父親をおだてた。
ダーニクはわが子の泣き声に耳をかたむけたまま、ちょっとだけにやりとした。
するとその泣き声がひとつだけではなくなった。もうひとつの声が加わったのだ。
こんど〈珠〉がいきなり放った光は、かれらの周囲の雪を照らすほど強い青い輝きだった。〈珠〉の喜びの歌は勝ち誇った調べだった。
「わしにはわかっていたぞ!」ベルガラスが小躍りして叫んだ。
「ふたり[#「ふたり」に傍点]?」ダーニクがうわずった声をだした。「双子[#「双子」に傍点]ですか?」
「遺伝だよ、ダーニク」ベルガラスは鍛冶屋を荒っぽく抱擁しながら笑った。
「男の子、それとも女の子の双子ですか?」ダーニクは聞きかえした。
「どっちだってかまわんだろう? しかし下へおりて、どちらかつきとめたほうがよさそうだな」
だが、向きを変えたとき、三人は小屋のそばでなにかが起きているのを見た。かれらは星空から真っ青なひと筋の光がおりてくるのを凝視した。その光の筋にすぐに水色の光が加わった。天からのふたつの光が雪にふれたとたん、小屋は淡い青の光に浸された。つぎにそれらの光に他の光が加わった。赤、黄、緑、ラヴェンダー、そしてガリオンには名づけようのない色。最後にまばゆい白のひと筋の光線が、それらの色に加わった。虹の色のように、それらの光は前庭に半円に射した。それから、それらのまぶしい光の柱が上昇して、さまざまな色合いの脈動する幕となって夜空を満たした。
つぎの瞬間、神々がそこにいて、前庭に立ち、〈珠〉の歌に力強い祝福の歌を重ねあわせていた。
エリオンドが振り向いて丘の上のかれらを見上げた。かれの穏やかな顔は純粋な喜びの笑みで輝いていた。エリオンドはかれらを手招きした。「こっちへきて」かれは言った。
「これでかんぺきだ」ウルの声も喜びにあふれていた。「なにもかもよくなった」
やがて三人の友は神の光を顔に受けて、その奇跡を見るために雪に埋もれた丘をくだりはじめた。きわめて順当ではあっても、やっぱりそれはひとつの奇跡だった。
[#改ページ]
[#ここから2字下げ]
というわけで、子供たちよ、終わりのときが
きた。そのうち別の時代に別の物語があるかも
しれないが、この話はこれでおしまいである。
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
〈アルダー谷〉でポリッジを☆
[#地から2字上げ]神月摩由璃
先日のこと、ある筋から「アメリカでは〈マロリオン物語〉の続篇が既に出ているらしい」という噂を聞かされてビックリ!
そんな話は聞いてないゾ――ってなわけで、大急ぎで編集部のKさんに確かめてみました。その噂は本当か。もし本当なら、その本の刊行予定はあるのかどうか、ってね。
……で、調べていただいたところによると、残念ながら、どうもそういう事実はないようなのですな。
「魔法にかけられた女王の呪いをとくために遍歴の旅に出る四十代の騎士の物語」なるものは出ているそうなのですが、どうもこれは〈マロリオン物語〉とも〈ベルガリアード物語〉とも関係ない物語らしいのです。マロリオン世界のいずれかの国のいずれかの時代の物語……って可能性も無きにしも非《あら》ずってとこだけど、いずれにしても直接の続篇(続々篇かナ?)ではないみたい。
それにしても、こんな噂が出るということ自体、とりも直さず読者がそれを望んでいるという証明のようなものなのだから、如何《いか》にこのシリーズの人気が高いか、推《お》して知れようというものです。「もっともっと、この続きが読みたい!」という読者の愛着が、百出する新作ファンタジイの中にあって、〈ベルガリアード物語〉〈マロリオン物語〉両作品の人気を根底でガッチリと支えているのかもしれませんね。
……と、いうわけで、〈マロリオン物語〉第十巻『宿命の戦い』をお届けします☆
〈ベルガリアード物語〉の続篇――というか第二部というか――として始まったこの物語もついに最終巻。ベルガラスの妻ポレドラが加わって役者も揃《そろ》い、我らがヒーロー・ガリオン君の探索の旅もどうやら終着点が見えたようです。
八八年の一月に〈ベルガリアード物語〉第一巻目が出版されてから、かれこれ四年。リアルタイムで追いかけてきた方ごくろーサマ、やっと完結したみたいだからそろそろ読もうかな、と思ってらっしゃる方お待ちどーサマ。最終巻です、最終巻。〈ベルガリアード物語〉〈マロリオン物語〉共通のテーマたる〈光〉と〈闇〉の対決の、そもそもの始まりまでが解き明かされる、激動の最終巻。どうぞご存分にお楽しみください。
ファルドー農園の皿洗いの少年だったガリオンがリヴァの国王の正統な血筋に連なる者であることが判明し、続いて魔術を操る力を発揮して、ただの〈ガリオン〉から〈ベルガリオン〉となり、更にトラク神に盗まれた〈アルダーの珠〉を取り戻してリヴァ王の玉座に就《つ》いたと思ったら、今度は〈光の子〉として〈闇の子〉トラク神を倒し、世界を破滅の恐怖から救う――という、実に目まぐるしい展開を見せてくれた〈ベルガリアード物語〉の続篇というだけあって、この〈マロリオン物語〉においても、物事はそもそもの始めから、片時もじっとしているということがありません。
マンドラレンの恋人ネリーナの夫の死に伴って起きようとしていた内戦を収めるためにガリオンが起こした嵐で世界中の気候が狂いかけ、ベルガラスたちが大わらわで事態の収拾に飛び回る羽目になるやら、結婚して八年にもなるというのに未だに懐妊の様子がないセ・ネドラを離縁させてガリオンに新しい妃を迎えさせようと目論《もくろ》む(なんたって王家には子どもが絶対に必要ですからね。八年も子どもができなきゃあ、そういう話が出てもおかしくないかもしれない。〈嫁《か》して三年、子無きは去れ〉ってね★)動きがあることをセ・ネドラが知って、大騒ぎになるやら――あぁ息が切れた――で、ポルおばさん、ガリオン、ベルガラスらおなじみの面面が、文字通り世界中を飛び回っての大活躍です。
もっとも、トラク神との戦いの時に比べたら、事件といっても平和なもの。席の温まる暇もないくらい飛び回っていても、人間の平和な営みを守る――という仕事は、魔術師の役割の一つなのかもしれませんしね。
――とはいえ、こんな平和がそうそう続くわけがありません。
陰謀です。策略です。権力と支配への飽くなき欲望を抱く悪役の登場です……
悪役の名はザンドラマス。トラク神の跡を襲って〈闇の子〉となった謎の人物。ザンドラマスは奸計をめぐらし、ポルおばさんの魔術の力でめでたく産まれたセ・ネドラとガリオンの息子ゲランをまんまと誘拐してしまいます。
動揺するガリオンたちの前に女予言者が現われ、〈光の子〉と〈闇の子〉の戦いが今一度繰り返され、〈光〉と〈闇〉の問で或る選択がなされなければならないと告げます。ガリオンは〈光の子〉として〈闇の子〉ザンドラマスと対決せねばならず、そしてもしガリオンがザンドラマスを阻止することができなければ、ゲラン王子の命と引き換えにしか〈闇〉に勝つ術はないと言うのです。
息子を救うために、そして世界を〈闇〉の手から救うために、ガリオンたち一行は再び、長い探索と追跡の旅に出ることとなるのでした――!
王に女王に騎士に馬、王子に皇帝に貴族にスパイ……と、ガリオンたちの探索行は、まるで〈一〇一匹王サマ大行進〉みたい☆
しかも、こんなに上の連中があっちこっち放浪してて国元は大丈夫なんだろうか、と不安になってきちゃうほどの長旅なんだもんね。きっちりとした政治機構ができあがってさえいれば、ホントのところ王サマが留守にしてたって国は維持できちゃうのかもしれないけど、国に帰ったら玉座がなくなってる、なんて心配はないのかな!?
おまけに、類は友を呼ぶというかなんというか、ガリオンのお仲間はみんな、ひと癖もふた癖もある連中ばっかし。人間よりも馬と意識が通じ易い堅物ヘターやら、池や川を見ると釣りを始めちゃうダーニクやら、家族も親戚も友だちもみいんな密偵――のヴェルヴェットことドラスニア国辺境伯令嬢リセルやら、蛇と毒薬をこよなく愛する蛇神教の宦官《かんがん》サディやら、悪態をつくことにかけては誰にも負けないベルディンおじさんやら、奇人変人困ったちゃん大集合。かの〈永遠なる男〉ベルガラスだって、七千年生きてきたうちの四千年はお酒を呑んでて、二千年は宿酔《ふつかよ》い、残り千年は娘にお説教くらってたんじゃないかという放蕩《ほうとう》ぶり。この連中が謎と冒険の旅を繰り広げてくれるんだから、道中さぞかし気苦労が絶えないことでしょうね、ポルおばさん。
けれど、次から次へと現われては読者を楽しませてくれる〈予言〉と謎と奇人変人の中でも、最大の謎(?)は、なんといっても異母兄弟シルクとウルギットの容貌でしょう。そうそう、あの「鼻の長い、ネズミのような顔」ってやつ。
だってさ、確かシルクのお母さんって、すごい美人だった筈だよね。ウルギットのお母さんだって息を呑むほどの美人だったみたいだし。それでもってシルクとウルギットの親父さんは、これまたかなり人目を引く顔立ちだったんでしょ!? 不貞を働いたら即、死刑! のマーゴの女性――それも王妃が「許されぬ恋」をしちゃったくらいのさ……
それなのに、その親父さんと美貌の母親たちの血を引くはずのシルクとウルギットが二人ともネズミ顔ってのは、どーいうこと? 美貌の遺伝子の相乗効果を打ち破って現われた、あの瓜二つの「ネズミのような長い鼻」は、いったい誰の遺伝なんだ!? うぅん、わからん★
でも男は顔じゃない――のかもしれない。
そのネズミのような顔にもかかわらず、シルクってわりと人気のあるキャラクターみたいだものね。私もけっこうファンだし。やはりこれは、あの軽妙洒脱な性格に加えて、可哀想なお母さんのエピソードだとか、ポレン王妃への秘められた恋心だとかいった、読者に好意を持たれる要素を兼ね備えているところが強みなんだろうか?
――けど★
ちょいと一つだけ文句がいいたい。
報われない思いを抱いて生きてゆく、男は辛いぜ、シルク!――と思われていたわりには、シルクってば、あっさりヴェルヴェットになびいちゃったと思いません!?
そりゃ、子持ちの未亡人よりは十九の乙女の方がいいだろうとは思うし、私も、冷静で賢く勇敢なリセル辺境伯令嬢は大好きだけど……けど、ヴェルヴェットが登場してからはポレン王妃に対する恋心の方はどこへ行ってしまわれたやら、って雰囲気なんだもんね。ちょっと釈然としないものがあるゾ。
……ふぅん、そうなの。恋敵のローダー王(別に競り合っていたわけではないが)が死んじゃってポレン王妃が「他人《ひと》のもの」でなくなったら、執着心が薄れちゃったのね……
なァんて、つい意地悪言ってやりたくなってしまう(シルク好きなのにさ)。
しかも、しかもだ。ヴェルヴェットは二十歳そこそこ。シルクは……四十八!!
思わず逆上して、「おっ、おね〜さんは許しませんよ、ヴェルヴェットちゃん。そんな三十も年上の、くたびれたおぢさん(繰り返すが、私はシルクのファンだ)とだなんてッ」――とか何とか口走っちゃいそう。
だけどこれって、シルクが口説いたんじゃなくて、ヴェルヴェットがシルクに迫ったんだもんなあ……いいなあ……。登場人物のうちで私が一番気に入っているベルディンおじさんだって、若くて美貌の嫁さん(!)もらっちゃうし、この辺り「おぢさん」の願望が現われてませんか、エディングスさん!?――なんてね。
……まあ遺伝子や恋愛の問題はさておいて。
シルクの歳がわかったのはいい(良くないッ!)けれど、わからないのはガリオンの歳。
ファルドー農園を出たのが十四歳の時で、それから既に十二、三年――否、〈ベルガリアード物語〉の途中で生まれたバラクの息子アンヘグの顎にはそろそろ髭が生え始め、ポレン王妃の息子ケヴァは声変わりしてしまっている、という事実を鑑《かんが》みると、軽く十四、五年くらいは経っていそうだから――この巻あたりでは、ガリオンも既に二十七〜九歳くらいにはなってるのじゃないかと思えるのだけれど……
……それにしては……それにしてはガリオン君、いつまでたってもガキっぽ――いやいや、「いつまでも少年の心を失わない」と言っておこう。
神さまを殺しちゃう、なんていうとんでもない経験に加えて王様稼業を十年近くやってるはずなのに、未だに口調は「だっておばさん、ぼくはね……」。無邪気というか飾り気がないというか……まあ、このくらい泰然とした、おいそれと影響されない強い精神を持ってないと、
〈意志〉と〈言葉〉を使いこなす立派な魔術師にはなれないのかもしれないんだけどね。
――けれどもし、魔術師になると永遠に(あるいはそれに近く)生きることとなるのなら、ガリオンも永遠に生きるのだろうか?
セ・ネドラはドリュアドだから短くとも二、三百年、長ければ千年以上も生きられたとしても、まさか〈不死〉ではありますまい。だとすると、セ・ネドラが死んだ後も、ガリオンは生きてゆくのかな。ポルおばさんが妹を諦めたように、ガリオンもセ・ネドラを諦めなくてはならない時が、いつかやってくるのだろうか……?
……うっく。考えてたら、なんだか哀しくなってきちゃった……
さて、長い長いガリオンの物語、この巻でいよいよ〈光の子〉と〈闇の子〉の最後の対決の時を迎えることとなったのですが、ここで最も興味がある――という言い方は不謹慎かな。気になる、と言い替えよう――事柄は、ズバリ「今度は誰が死ぬのか」ということでしょう。
〈ベルガリアード物語〉ではダーニクが死んだ。白状すると八巻目の途中辺りまではもう一度ダーニクが死ぬのかと思っていたのだけど(もう一度死んで生き返ったら〈不死〉になれるのかな? なんて思ったのです。そしたらポルおばさんが再び愛する人を失ってしまう、なんてことにならなくてすむでしょ!?)、どうもそういう雰囲気でもない。ダーニクったら神さまの弟子なんかになっちゃうしさ。
トラクとの対決の時と同じ事が繰り返されるのだったら必ず誰か死ぬはずだし、予言者のシラディス嬢だって「一人死ぬ」と断言してる。これは誰も死なずには済みそうにありません。では誰ァれ?
ガリオン?――だったりすると、物語が途中で終わっちゃうよね。ベルガラスやポルガラ、シルク、ヴェルヴェットといった連中も死にそうな気はしない。――でも、かえってこういう人の方が危ないのかな? それともザカーズ?――彼が死んだら、皇帝の座をめぐって世界規模の戦争になりそう。危険がいっぱい、ってところですな。……ではエランド? 確かに彼は影の薄いところがあるが……しかし、神さまにポリッジをおごってもらうような奴(考えてみれば図太い話だ)が死ぬだろうか、そう簡単に……?
こうやって順々に考えてゆくと、誰もが死にそうで死ななさそうで……
いっそのこと、――あなたは誰が死ぬと思います? なァんて、読者アンケートとってみたくなっちゃいますな。いろんな答えが出るだろうし、一種の人気投票みたいな側面も見えて面白かったかもしれないね。
ちなみに、これを書いている時点で、もちろん私は誰が死ぬこととなったか――そして何故、死ぬのがその人でなければならなかったか、その理由も――知っているわけです。解説から読み始める人がいたら気の毒ですから、誰だったのかは書きませんけど、ひと言……いえ、ふた言だけ言っておこう。
――エディングスさん、あれはあんまりだ。
泣いたぞ、私は★
古の夢、神の恵みを具現したかのような世界と登場人物たちに、いつの間にかどうしようもなく魅《ひ》かれてゆく――これが、〈ベルガリアード物語〉と〈マロリオン物語〉の世界に魅了された人々の、偽らざる心境ではないでしょうか。
魅力的なキャラクター、胸踊る事件、しっかりした世界設定、そして読者を最後まで引きつけるに充分な筆力……
これだけの条件を兼ね備えたエディングス氏のことですもの、たとえ〈マロリオン物語〉の続篇でなくとも、これからもきっと、読者をたっぷりと楽しませてくれる(もしかしたら〈ベルガリアード物語〉〈マロリオン物語〉よりも更に面白い)物語を読ませてくれるに違いありません。
一日も早く新作が邦訳で読めるように、みんなでお祈りしましょうね(おいおい)。
エディングスさん、頑張って書いてね――ってさ☆
余談☆
〈ベルガリアード物語〉〈マロリオン物語〉合わせて十五枚にもなんなんとする、おおやちきさんの華麗な表紙絵を、できることならセ・ネドラに見せてあげたいものだと思いません!?
子どものように華奢で小さくて「胸がないのよね」と嘆いているはずのセ・ネドラが、表紙絵ではホラこんなにグラマー☆ ご機嫌ナナメの妻にてこずっている最中のガリオンに、こっそり送ってあげたいものです。「まあ素敵」って、一発で機嫌がなおるんじゃないかと思うんだけど?
……でも無骨《ぶこつ》なガリオンのことだから、「ほらセ・ネドラ、胸だよ」とかって微妙な問題点をモロについちゃって、かえって火に油を注ぐことになったりしてね。
さて結果や如何《いか》に!?
頑張れガリオン、世界は君を待っている☆
底本:「マロリオン物語10 宿命の戦い」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1992(平成 4)年 1月31日 発行
1997(平成 9)年11月15日 二刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2009年1月31日作成
2009年2月10日校正
----------------------------------------
このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] マロリオン物語10 宿命の戦い.zip iWbp3iMHRN 83,086,404 ea86a1365ef394574d2d72530bc60bc5
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
----------------------------------------
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
底本は1ページ18行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
----------------------------------------
使用したWindows機種依存文字
----------------------------------------
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
----------------------------------------
注意点、気になった点など
----------------------------------------
底本71頁9行 緑は中間的な色彩なんだよ
光の三原色:赤緑青 RGB
色の三原色:赤黄青 RYB (シアン・マゼンタ・イエロー CMY)
サルディオンが発する光の話なので緑を中間的というのはおかしい気もする。
底本168頁14行/15行 「得点」/「得点、ゲームは終わりだ」
「得点」という訳では違和感が…。GOALの訳か?
2355〜2357行(底本308頁)
底本のレイアウトに近づけるため、青空文庫形式には沿わない文章中での無意味な改行を行っています。
[#改ページ]
----------------------------------------
底本の校正ミスと思われる部分
----------------------------------------
底本117頁5行 ふりわまし
「ふりまわし」だと思うのだが。
底本196頁15行 イッサ
イサ
底本213頁12行他 マヤセラナ王妃
ベルガリアードではマヤセラーナ
底本231頁9行 結婚させだ
結婚させた