マロリオン物語9 ケルの女予言者
THE SEERESS OF KELL
デイヴィッド・エディングス David Eddings
宇佐川晶子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瓦礫《がれき》の山を一掃し
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)比較的最近|雪崩《なだれ》があったらしく
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)ブナ[#「ブナ」は「木+無」、第3水準1-86-12]
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[#ここから3字下げ]
親愛なるレスター
われわれはもう十年、これにたずさわってきた。計算上では、これを終えたときには十歳年をとっているはずだったが、どうやらもうちょっと老けてしまったようだ。もっとも、わたしとしてはふたりの力でとびきりできのいい子供を育てあげたと思っている。わたしにとって楽しかったように、きみにとってもこの歳月が楽しいものであったことを願っている。それに、途中お互い殺しあわずにすんだ事実には、ふたりとも誇りを持っていい。ただしそれはわれわれのすぐれた人徳のためというより、ふたりのかけがえのない女性の人間ばなれした忍耐のたまものではあるのだが。
[#地付き]デイヴィッド・エディングス
[#改丁]
目 次
プロローグ
第一部 ケル
第二部 ペリヴォー
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
ケルの女予言者
[#改ページ]
登場人物
ベルガリオン(ガリオン)………………リヴァ王
セ・ネドラ…………………………………ガリオンの妃
ベルガラス…………………………………魔術師
ポルガラ……………………………………ベルガラスの娘
ダーニク……………………………………ポルガラの夫
エリオンド…………………………………〈珠〉を運んだ若者
トス…………………………………………〈物言わぬ男〉
ケルダー(シルク)………………………ドラスニアの王子
リセル(ヴェルヴェット)………………ドラスニアの密偵
サディ………………………………………ニーサの宦官
ベルディン…………………………………魔術師
ザカーズ……………………………………マロリーの皇帝
シラディス…………………………………予言者
ゲラン………………………………………ベルガリオンの息子
ザンドラマス………………………………〈闇の子〉
ナラダス……………………………………ザンドラマスの腹心
[#改丁]
プロローグ
いにしえの書、『マロリーの福音書』第一巻よりの抜粋。
さて、これより人間の時代――
人間は第一の時代に創造され、困惑と驚嘆のうちに目ざめて周囲の世界を眺めた。人間を創造した神々は、かれを観察し、かれの仲間である動物の中から喜ばしいものを選んで、残りを捨て、追い払った。ある者たちはウルとして知られる神霊を探すために、われわれ仲間を置いて西へ向かい、われわれはそれきりかれらを見ることはなかった。またある者たちは神々を否定して、はるか北へ向かい、悪魔たちと戦った。またある者たちは世界の諸事に関心を持ち、東へ向かってそこに強大な都市を建設した。
だが、われわれは絶望してコリム山脈の暗い地べたにすわりこみ、創られて見捨てられたみずからの運命を嘆き悲しんだ。
すると、われわれが悲しみにうちふるえているさなかに、われわれ仲間の女のひとりが狂喜の念にとらわれた。あたかも強い手につかまえられ、ゆさぶられているかのようだった。女はすわっていた地べたから立ちあがり、目の上を布でしばり、人間がそれまでには見たことのないものを見たことを示した。なぜなら、ああ、彼女こそ世界最初の女予言者だったからである。目に映じる光景をとらえたまま、女はわれわれに向かって言った。
「見よ! われらを創りたまいし神々の前に、祝祭が用意された。この祝祭を〈命の祝祭〉と呼ぶがよい。われらを創りたまいし神々は喜ばしきものを選ばれ、喜ばしくないものを選ばれなかった。
われらこそがその〈命の祝祭〉である。おまえたちは祝祭の客がおまえたちを選ばなかったことを悲しんでいる。しかし、絶望することはない。なぜならば客はまだ祝祭に到着していないからである。他の客たちは満足したが、この偉大なる〈命の祝祭〉は、いまなお遅れてあらわれる〈最愛なる客〉を待っている。そしてわれは言おう、それこそがわれらを選ばれるお方なのだと。したがってそのお方がくるまで耐えることだ。それは確かなことだからである。苦悩を捨て、おまえたちの顔を天と地とに向けよ。そこにおまえたちは兆しを読みとるからである。かれがあらわれるのはおまえたちの上なのだ。だから心するがよい。おまえたちがかれを選ばなければ、かれはおまえたちを選んでくださらぬかもしれぬ。われらはその〈運命〉のためにこそ創られたのだ。だから起きよ、もはや地べたにすわりこみ、無益で愚かな嘆きにひたることはない。おまえたちの前方に横たわる務めを果たし、かれがあやまたずあらわれるように支度をするがよい」
それらの言葉にわれわれは息をのみ、注意深くそれらを考慮した。われわれは女予言者に問いかけたが、女の返事はあいまいだった。そこでわれわれは天を仰ぎ、地から聞こえるささやきに耳をかたむけた。見、聞き、知るために。空の書を読み、岩のすきまからもれるささやきを聞きとることを知ったとき、われわれは、ふたつ[#「ふたつ」に傍点]の魂がこちらへ向かってくること、そのひとつは善だがもうひとつは悪であるという無数の警告を見いだした。長いこと努力をしたが、われわれは依然としてひどく混乱していた。どちらの魂が真で、どちらの魂が偽りか見分けられなかったからである。じつに、悪は天の書において、そして地のささやきにおいても、善を装い、だれひとり善悪の区別をつけることができなかった。
そこでわれわれはコリム山脈の暗がりから外へ出た。そして人間の関心事を捨て去り、われわれの前に横たわる務めを果たすために全力を注いだ。仲間である魔法使いと予言者は霊界の助けを求め、妖術師は死者と額を寄せ、占い師は大地からの助言を求めた。だが、悲しいかな、かれらにもなにもわからなかった。
ついにわれわれは不毛の平地に集まり、われわれが学んだすべてを結集させた。すべてとは、われわれが星、岩、人間の心、魂の意識から学んだ真実である。
時の果てしない廊下には傷つけられた分け目があることを知るがよい――というのも、まさしく創造の中心に分け目があるからである。これは自然なことであって、この世の終わりまで分け目は消えないと言った者もいるが、そうではない。もし分け目が永久に消えぬと定められているのならば、創造の目的はそれを包含することにあるはずである。しかるに、星や魂や岩の裂け目からの声は、その分け目が消え、ふたたびひとつになる日がくることを語っている。創造それ自体がその日のくるのを知っているからである。
さらに、ふたつの魂が時の中心で争っていることを知るがよい。これらが創造を二分割したふたつの面なのだ。そしてある一定の時間で、これらの魂はこの世界の上で会い、〈選択〉のときが訪れる。もし〈選択〉が行なわれなければ、この世界は消え、女予言者の語った〈最愛なる客〉はけっしてあらわれない。なぜなら、われわれに語ったとき、女予言者が意図していたのはこういうことだったからである――「心せよ、おまえたちがかれを選ばなければ、かれはおまえたちを選んでくださらぬかもしれぬ」われわれがしなければならぬ〈選択〉は、善と悪の選択であり、善と悪の区別なのである。われわれが選択をしたあとに存在する現実は、善の現実か悪の現実であって、そのいずれかがこの世の終わりまで世界を支配する。
この真実をも見るがよい。すなわち、この世界と他のすべての世界の岩は、分け目の中心にあるふたつの石について絶え間なくつぶやいているのだ。かつてこれらの石はひとつであって、万物の中心にあった。ところが、他のすべてと同様、ふたつの石はふたつに分けられ、分断の瞬間にそれらはいっさいの太陽を破壊した力でひきちぎられたのである。そしてこれらの石がふたたび互いの前にあらわれる場所で、ふたつの魂は最後の対決を行なうであろう。その日がくるのは、一切がふたたびひとつになるときである。ただし、ふたつの石は、その不和があまりに大きいがため、けっしてひとつになることはありえない。不和の終わる日に、石のひとつは永遠に存在することをやめ、その日に魂のひとつも永遠に消滅するであろう。
これらがわれわれの集めた真実だった。そして第一の時代の終末を記すこれらの真実こそ、われわれが発見したものだった。
さて、人間の第二の時代は雷と地震の中ではじまった。見よ、大地そのものがまっぷたつに裂け、海は荒れくるって、世界そのものが分裂したように人間の土地を分断した。コリム山脈は震動し、うめき、隆起し、海に呑みこまれた。われわれはそうなることを知っていた。仲間である予言者たちが警告していたからである。したがって、われわれはわれわれの道をゆき、世界がひびわれて海がすさまじいいきおいで引き、また押し寄せてくる前に、安全な場所を見つけ、そこにとどまったのである。
それから何日も海は荒れくるい、竜神の信者たちは海から逃げだしてコリム山脈を越え、われわれの北に移り住んだ。するとわれわれの予言者たちが、いつか竜神の信者たちが征服者としてわれわれのところへやってくるだろうと告げた。そこでわれわれは相談しあい、いかにすれば竜神の信者たちの機嫌をそこねずにすむか、かれらがあらわれたとき、いかにすればわれわれの研究を邪魔されずにすむかを考えた。最後にわれわれは、いかに隣人たちが好戦的であろうと、地面を耕して暮らす単純な農夫が相手なら気にもとめないだろうという結論に達した。そこでわれわれは生活をそのように整えた。われわれは都市を壊したあと瓦礫《がれき》の山を一掃し、隣人たちを警戒させないように、ねたまれることのないように、大地に身をゆだねたのである。
こうして歳月は世紀となり、世紀は永遠となった。われわれが予想していたように、アンガラクの子孫がわれわれのところへやってきて君主の座をうちたてた。かれらはわれわれの住む土地をダラシアと呼び、われわれはかれらの望むままのことをし、研究をつづけた。
そのころはるか北方でアルダー神の弟子が他数名の者たちとともに、竜神がアルダーから盗んだものの返還を要求した。その行動はきわめて重大だったため、返還が実現したとき、それをもって第二の時代は終わり、第三の時代がはじまった。
さて第三の時代になると、グロリムと呼ばれるアンガラクの僧侶たちがわれわれのもとにやってきて竜神の話をし、竜神がわれわれの愛情を渇望していると話した。耳にはいるすべてのことがらを考慮するわれわれは、かれらの話も考慮した。そして天の書をひもとき、トラクは時の中心で争った魂のひとつをあらわす神の化身だと判断した。しかし、もうひとつの神はどこなのだろう? ふたつある魂のうちのひとつに接近されたら、どのように選べばよいのだろう? そのとき、われわれはそれがわれわれに課せられた恐ろしい義務であることを悟った。ふたつの魂は交互にわれわれのもとにあらわれ、それぞれが自分こそは善であり、もういっぽうが悪なのだと主張するにちがいない。しかし、選ぶのは人間なのだ。そこでわれわれは話し合ったすえに、グロリム僧たちが性急にわれわれに強要するトラク崇拝の形式[#「形式」に傍点]だけを受け入れることにした。こうすれば竜神の性質を観察する機会を持つことができ、もうひとりの神が出現したときにより正しい選択をすることができる。
やがて世界の出来事がわれわれのところへも押し寄せてきた。アンガラク人はメルセネ人と称する東の都市建設者たちとの結婚によって結びつきを強め、メルセネ人との協力のもとに大陸にまたがる帝国を建設した。アンガラク人は行為の実行者だったが、メルセネ人は仕事の遂行者だった。行為はひとたび行なわれればそれきりだが、仕事は毎日のようにある。メルセネ人は終わりのない仕事の手助けを求めてわれわれのもとへやってきた。たまたまわれわれの仲間のひとりがメルセネ人を助けて北へ旅をするチャンスを得た。かれはアシャバなるところへ行き、おりしもやってきた嵐から身を守る避難所を捜し求めた。ところがアシャバにあった家の主は、グロリムでもアンガラク人でも他の人間でもなかった。われわれの仲間はトラクの家に知らずに出くわしていたのである。さて、トラクはわれわれに関心を持ち、われわれの仲間は竜神を見るにいたった。そしてかれがトラクの顔を見た瞬間、第三の時代は終わり、第四の時代がはじまったのである。なぜなら、アンガラクの竜神はわれわれが待っていた神ではなかったからだ。かれの上にあったしるしはかれの上にとどまっているのみであり、われわれの仲間は即座にトラクが死ぬ運命にあって、かれのものであるしるしはかれとともについえることを悟った。
こうしてわれわれはわれわれの過ちに気づき、自分たちが見ていなかったもの――神ですら運命の駒にすぎないのだということ――を知って驚いた。なぜならトラクはふたつの運命のひとつをあらわす神であって、すべての運命ではなかったからである。
さて、世界のはるかかなたで、ひとりの王が殺され、家族もひとり残らず犠牲となった――ひとりをのぞいて。この王はふたつの力の石のひとつの保管人であった。王殺害の報が伝わったとき、トラクは狂喜した。これで古くからの敵がいなくなったと思ったからである。そこでトラクは西方の諸王国に戦争をしかける用意をはじめた。しかし天にあらわれる兆しや岩からもれるささやきは、われわれにトラクが考えていることはまちがいだと告げた。石はまだ守られており、守護者の家系は途切れていなかったのである。トラクの戦争はかれを苦悩させるに相違なかった。
竜神の戦いの準備は長きにわたり、かれが君臨するアンガラクの民に課した務めは何世紀にもおよんだ。われわれと同じように、トラクも天を仰ぎ、西方に戦いをしかける時期を読もうとした。ところがトラクが見たのは見たくもない兆しでしかなく、かれは空に書かれた託宣を全部は読まなかった。兆しのほんの一部だけを読み、トラクは考えられるかぎり最悪の日に武力を行使した。
われわれの予想どおり、トラクの軍勢ははるか西のボー・ミンブルの都市の前に広がる広大な平原において、無残な敗北を喫した。竜神は敵の到来を待つために眠りにはいらねばならなかった。
やがてわれわれのもとへ別の名前を告げるささやきが伝わりはじめた。その名のささやきはしだいに明瞭になり、その子の誕生の日、そのささやきは大きな叫びとなった。〈神をほふる者〉ベルガリオンがついにあらわれたのである。
こうして出来事は歩調を早め、恐るべき対決めざして、天の書のページがぼやけて読めぬほどの早さで進んだ。そして人々が世界が創造された日として祝う日に、力の石がベルガリオンに引きわたされた。かれの手がそれにふれた刹那、天の書は大いなる光にあふれ、ベルガリオンの名がもっとも遠くの星からひびいてきた。
われわれはベルガリオンが力の石を持ってマロリーへ向かうのを感じ、トラクの長い眠りが浅くなりだしたことを感じた。そしてついにあの恐るべき夜がやってきた。なすすべもなくわれわれが見守る中、天の書のぶあついページが目にもとまらぬ速度でめくれた。それが止まったとき、われわれはトラクは殺される≠ニいう恐怖の一行を読みとった。天の書はおののき、すべての創造物のすべての光が消えた。そのぞっとするような闇と静寂の瞬間、第四の時代は終わり、第五の時代がはじまった。
第五の時代がはじまったとき、われわれは天の書の中にひとつの謎を発見した。以前は、いっさいがベルガリオンとトラクの対決へ向けて動いていたが、いまやものごとは別の対決へ向けて動いていたのである。星々を見ると、運命は選ばれたが、最後の遭遇におけるその他の局面はまだ未選択であるという兆しがあらわれていた。われわれはそれらの存在の動きを感じることができたが、それらがだれなのか、なんなのかはわからなかった。偉大なる書物のページが暗く、あいまいだったからである。だが、われわれは闇の衣をまといベールをつけた存在を感じた。それは人々の営みの中をすりぬけていった。月がはっきりとわれわれに助言したのは、その暗い存在が女であるということだった。
天の書をおおう大いなる混乱のただ中で、われわれはひとつのものを見た。人間の時代は、ひとつの時代ごとに短くなり、ふたつの運命の対決を示す〈出来事〉がしだいしだいに近くまでやってきているということである。のんびりと考えている時代は終わったのだ。いまやわれわれは最後の〈出来事〉をうかつに見過ごすことのないように、急がねばならない。
その最後の〈出来事〉の参加者が、定められたときに約束の場所にそろってあらわれるように、われわれはかれらを刺激し、もしくはあざむかねばならないと判断した。
そこでわれわれは〈選択をしなければならぬ女〉の影を、ベールをかぶった闇の存在と、〈神をほふる者〉ベルガリオンのもとへ送った。こうして彼女はわれわれの選んだ場所へ最終的に通じる道に、ふたりを配した。
これでわれわれの用意はすべて終わり、果たされるべきことを残すのみとなった。われわれはこの〈出来事〉ですべてが終わることを知っていた。天地の分裂はあまりにも長きにわたっていた。このふたつの運命の対決が終われば、すべてはふたたびひとつになるであろう。
[#改丁]
第一部 ケル
[#改ページ]
希薄なひんやりした空中に、濃い緑色の葉をびっしりつけて樹脂を隅々にゆきわたらせた木木の匂いが濃厚にたちこめていた。雪原を行く一行の頭上にまばゆい日差しがふりそそぎ、急な水音が絶えまなくひびいている。岩だらけの川床を騒がしくくだっていく水が、何リーグも下方のダーシヴァとガンダハールの平原の川に注ぎこむ音だ。かれらの目的地、大マガン川へせわしなく流れてゆくその水音に寄り添うようにして、陰鬱な風のためいきが、丘陵をおおう松や樅《もみ》の深い緑の森をいつ果てるともなく吹き抜けていた。丘陵は漠然とした渇望をあらわすように、空へ向かって盛りあがっている。ガリオンとその仲間がたどる隊商道は、しだいに登り坂になり、川床沿いに曲がりくねりながら丘陵の側面を這いあがっていた。丘の頂上に登るたびに、また別の丘が見えてくる。そのすべてにのしかかるようにそびえているのは、大陸の背骨だった。そこでは想像を絶するような峰々が空の天井に触れんばかりに屹立していた。万年雪のマントをかぶった純粋で清新な峰々である。山については知識豊かなガリオンだったが、これほど巨大な連峰は見たことがなかった。それらのばかでかい尖峰が何リーグも離れたところにあるのはわかりきったことなのに、山の空気があまりにも澄んでいるために、手を伸ばせば届きそうなほど近くに見える。
ここには永遠の安らぎがあった。下方の平原でかれら全員につきまとっていた混乱と不安を洗い流し、どうかすると注意力や思考すらも消し去る安らぎだった。道を曲がって頂上に達するたびに、新たな景観が出現した。そのひとつひとつがいましがた見た景色をしのぐすばらしさだった。しまいにかれらは驚異にうたれ、声もなく馬を進ませた。ここでは人間の創造物は無意味な駄物になりさがってしまう。これら永遠の山脈に人間が肩を並べることはけっしてないし、絶対にできないのだ。
季節は夏で、日は長く、陽光に満ちあふれていた。曲がりくねった道端の木立では鳥たちがさえずり、太陽に暖められた常緑樹の匂いに、急勾配の草原をおおいつくす野花の絨緞のえもいわれぬ香りがまじっていた。ときおり岩かげから鷲の獰猛な鋭い鳴き声がひびいた。「首都を移そうと考えたことはあるかい?」ガリオンは隣りで馬を進ませているマロリー皇帝にたずねた。その口調は低く抑えられていた。大声でしゃべると周囲の大自然を冒涜するような気がしたからだ。
「いや、そういうことはない、ガリオン」ザカーズは答えた。「わが政府はここでは機能しないだろう。官僚政治を動かしているのは主としてメルセネ人だからな。メルセネ人は現実的に見えるが、じつはそうではない。ここに首都があったら、官僚たちは時間の半分は景色をながめ、残りの半分は詩を書いて過ごしてしまう。だれも仕事をしなくなる。おまけに、冬になったら、どんなことになるか見当もつかん」
「雪かい?」
ザカーズはうなずいた。「ここの人間は雪をインチで計るような手間のかかることはしない。フィートで計るのだ」
「こんなところに人がいるのか? ひとりも見かけなかったぞ」
「数は多くない――毛皮捕りの罠猟師、金を追い求める者、そういった連中だ」ザカーズは、かすかな笑みを浮かべた。「じっさいはそんなのは口実だと思う。孤独を好む人間もいるからな」
「孤独にひたるにはうってつけの場所だな」
一行がマガン川の土手にあるアテスカ将軍の飛び領土を出発してから、マロリー皇帝は変わっていた。前より痩せ、生気のなかった目がいきいきしている。ガリオンやその仲間のように、かれもまた目と耳を絶えずそばだてて、用心深く馬に乗っていた。しかし変わったのは外面だけではなかった。これまでのザカーズは物思いに沈んだ、陰気ともいえる男だった。暗い鬱に閉じこもることもしばしばながら、同時に冷酷な野望に満ちてもいた。ガリオンはこのマロリー人の野望とあからさまな権力への渇望は、内面にかきたてられた欲求というよりも、むしろ皇帝の自身にたいする絶え間ない試練のようなものであり、もっと深く掘りさげるなら、自己破壊への衝動からくるものではないかとしばしば感じていた。いままでのザカーズはかれ自身とかれの帝国の富すべてをありえない苦闘の中へ投げこみ、最後にはだれか自分を殺してくれるほどの強者と出くわして、耐えがたい人生の重荷から解放されるのをひそかに願っているかのようだった。
だが、いまはもうちがう。マガン川の土手でシラディスと会ったことが、ザカーズを永遠に変えていた。平板でつまらなかったこれまでの世界が、まったく新しい世界に生まれ変わったようだった。ときどきガリオンはこの友だちの顔にかすかな希望を見つけたようにすら思った。希望がザカーズの気質の一部を占めていたことは一度もなかったというのに。
道の大きな角を曲がったとき、ガリオンは、ダーシヴァの死の森で発見した雌狼が、腰を落とした格好で辛抱強く一行を待っているのに気づいた。雌狼のふるまいは、しだいにかれを困惑させるようになっていた。けがをしていた前足が治ったいまは、ときおり自分の群れを捜して周囲の森を走りまわっている。だが、群れを見つけられなくても一向にへっちゃらで、いつもガリオンたちのところへもどってくるのだ。まるで風変わりな群れの一員として、ガリオンとその仲間と一緒にいることに満足しきっているかのようだった。森や人気のない山中にいるかぎり、雌狼のこうしたおかしな態度はこれといった問題にはならない。だが、ガリオンたちはいつも荒野にいるわけではないし、野生の、しかも神経質な狼が、人間の大勢いる騒々しい通りにあらわれたら、控え目に言っても、かなりの注目を集めるにちがいないのだ。
「具合いはどう?」ガリオンは狼の言葉で親身にたずねた。
「快調ですわ」雌狼は答えた。
「群れの足跡を見つけたかい?」
「他の狼たちのはたくさんあるけれど、わたしの仲間の足跡はないわ。もうしばらくあなたがたと一緒にいることになりそうよ。わたしの子はどこかしら?」
ガリオンはうしろからがたがたとやってくる小型の二輪馬車を、肩ごしにちらりと振りかえった。「丸い足のついた乗り物に、ぼくの妻とすわっているよ」
雌狼はためいきをついた。「あまりいつまでもすわっていると、走ったり、獲物を捕ったりすることができなくなってしまうわ」その口調は不満そうだった。「それに、あなたの奥さんがたくさん食べ物をやりつづければ、あの子のおなかはぱんぱんになって、食べ物のすくないきびしい季節に生き残れなくなるのよ」
「妻にそう言っておこう」
「聞き入れるかしら?」
「たぶんだめだろうが、話してみるよ。子狼が好きだから、ああやってそばに置いておきたいのさ」
「あの子に狩りのやりかたをすぐにでも教える必要があるわ」
「ああ。わかっている。そのことも説明するよ」
「感謝しますわ」雌狼はそう言ったあと、用心深くあたりを見まわした。「気をつけて進んだほうがいいわね。ここにはある生き物が住んでいるのよ。何度か臭いをかぎあてたけれど、姿は見なかったわ。でも、とても大きいのよ」
「どのくらいだ?」
「あなたのすわっているその動物よりも大きいわ」雌狼はクレティエンヌを見やった。毎日見ているおかげで、大きな灰色の種馬は雌狼がいることにさほど神経をとがらせなくなっていたが、それでもガリオンは、クレティエンヌは雌狼にあまり接近されないことを望んでいるにちがいないと思っていた。
「きみの言ったことをぼくの群れのリーダーに伝えよう」ガリオンは約束した。どういうわけか、雌狼はベルガラスを避けていた。ガリオンは自分の知らない狼なりのエチケットが、その態度には反映しているのかもしれないと考えた。
「じゃ、群れ捜しをつづけるわ」雌狼は立ちあがった。「その動物に出くわすかもしれないし、そうすれば、どんな動物なのかわかるしね」狼はそこで言葉を切った。「でも、臭いからすると、危険な相手よ。どんなものでも――わたしたちなら避けるようなものでも――食べてしまうの」彼女はそれだけ言うと向きを変えて、足音もたてずにすばやく森の中へはいっていった。
「まったく気味が悪いな」ザカーズが言った。「人間が動物に話しかけるのは聞いたことがあるが、動物の言葉で話しかけるのなど聞いたこともない」
「代々つづく特異性なんだよ」ガリオンはにやにやした。「最初はぼくだって信じられなかった。小鳥たちがしょっちゅうポルおばさんのところへきて話しかけてたものだ――たいがいは卵についてね。小鳥というのは卵の話をするのが大好きなんだ。ときにはじつにばかげたこともする。狼のほうがよほど威厳がある」ガリオンはちょっと考えた。「いまの話はポルおばさんに言うにはおよばないよ」
「ごまかすのか、ガリオン?」ザカーズは笑った。
「賢明なだけさ。ベルガラスと話をしなけりゃならない。しっかり目をあけといてくれ。雌狼の話だと森のどこかにある種の動物がいるようなんだ。馬よりもでかくて、きわめて危険なやつらしい。あの口ぶりだと、人喰い動物だな」
「どんな姿をしてるんだ?」
「雌狼も直接見たわけじゃない。だが、臭いをかぎ、足跡を見てる」
「用心しよう」
「そうしてくれ」ガリオンは馬首をめぐらしてうしろへ向かった。ベルガラスとポルおばさんが激論のまっさいちゅうだった。
「ダーニクには〈谷〉のどこかに塔が必要だ」ベルガラスが言っていた。
「その理由がわからないのよ、おとうさん」ポルガラが答えた。
「アルダーの弟子はみな塔を持っておるんだ、ポル。習慣なんだ」
「古い習慣がただ幅をきかせているだけのことだわ――いまさらそんなことをしたって無意味だっていうのにね」
「ダーニクはこれから勉強する必要があるんだぞ、ポル。年がら年じゅうおまえに監視されて、どうやって勉強できるんだ?」
ポルガラはひややかな目でベルガラスをにらみつけた。
「表現が悪かったかもしれんな」
「訂正するならたっぷり時間をかけることね、おとうさん。喜んで待つわよ」
「おじいさん」ガリオンは手綱をひいて、声をかけた。「雌狼と話していたんだが、彼女が言うには森にはものすごくでかい動物がいるらしい」
「熊じゃないのか?」
「ちがうだろうな。何度か臭いをかぎあててるんだ。熊ならわかったはずだろう?」
「そうだな」
「正確には言わなかったが、どうも食べる対象を選ばないやつらしいよ」ガリオンは一呼吸おいた。「これはぼくの単なる想像かな、それとも彼女が狼としては風変わりなのかどっちかだ」
「なんの話をしとるんだ?」
「彼女は言葉を妙に出ししぶるんだよ。もっとまだ言うことがあるみたいにね」
「賢いのさ、それだけのことだ。女にはめずらしい特徴だが、そういう女がいないわけじゃない」
「すてきな展開になってきたわね、この会話は」ポルガラがちくりといやみを言った。
「おお、まだおったのか、ポル? もうとっくに他の仕事を見つけたと思っていた」老人はものやわらかに言った。
ポルガラは氷のような目でにらみつけたが、ベルガラスは平然たるものだった。「みんなに警告したほうがいいぞ、ガリオン。狼はめったなことでは他の生き物についてとやかく言わんものだ。その動物がどんなものだろうと、ありふれたやつではないことは確かだ。ありふれていないということは、たいがい危険だということだよ。セ・ネドラにわれわれのほうへくるよう言うんだ。いまのように馬たちのうしろからついてくるようでは、いささか物騒だからな」ベルガラスは考えて言った。「セ・ネドラをびっくりさせるようなことは言わずに、リセルを一緒にあの二輪馬車に乗せるんだ」
「リセルを?」
「あの金髪の娘だ。えくぼのある」
「リセルなら知ってるよ、おじいさん。ダーニクか――それともトスのほうがいいんじゃないの?」
「いや。かれらのどちらかが馬車に乗れば、セ・ネドラはなにかまずいことがあるのに気づいてこわがるかもしれん。獲物をとる動物というのは恐怖の匂いをかぎつける。彼女をそういう危険にさらすのはよそう。リセルはじつによく訓練されておるし、短剣の二本や三本いろんなところに隠し持っておるだろう」ベルガラスはいやらしい笑いを浮かべた。「シルクならその隠し場所を知っとるだろうよ」
「おとうさん[#「おとうさん」に傍点]!」ポルガラがいきまいた。
「おまえさんは知らなかったのか、ポル? やれやれ、いったいどこを見とるんだ」
「おじいさんに分あり[#「分あり」に傍点]、だな」ガリオンはつぶやいた。
「ほれみろ」ベルガラスはどうだというようにポルガラに笑ってみせた。
ガリオンはにやにや笑いをおばさんに見られないようにクレティエンヌの馬首をめぐらした。
その晩は普段より少し用心して、うしろを険しい崖に、前を山を流れる深い川にはさまれたハコヤナギの木立にテントをはった。太陽が上方の万年雪におおわれた山の端に沈み、夕闇が峡谷や小谷を薄墨色に染めるころ、ほうぼうを飛びまわって下界の動きに目を光らせていたベルディンがもどってきた。「野宿するにはちと早いんじゃないのか?」微光をはなって変身したあと、かれは耳ざわりな声で言った。
「馬たちが疲れておるんだ」ベルガラスはセ・ネドラを横目で見ながら答えた。「相当急勾配の道だしな」
「こんなのはまだ序の口さ」ベルディンは足をひきずって焚火のほうへ近づいた。「この先はもっとけわしくなるぜ」
「足をどうした?」
「鷲とささやかな意見の不一致があってな――バカな鳥だよ、鷲ってのは。鷹と鳩の見分けもつけられないんだ。教育してやらにゃならなかった。おれがやつの翼の羽をごっそりむしりとっているすきに、おれを噛みやがった」
「おじさんたら」ポルガラが非難をこめて言った。
「やりだしたのは向こうなんだぞ」
「わしらのあとからやってくる兵隊はいるのか?」ベルガラスがきいた。
「ダーシヴァ兵が少しな。だが向こうは二、三日遅れてる。ウルヴォンの軍は撤退しはじめた。ウルヴォンもナハズもいないんじゃ、とどまっていてもしかたがないさ」
「それですくなくとも部隊の一部はおれたちの後方からいなくなったわけだ」シルクが口をはさんだ。
「ほくそえむのはまだ早いぞ」ベルディンがたしなめた。「護衛とカランド兵がいなくなって、ダーシヴァ軍はおれたちだけに注意を向けてりゃよくなったんだからな」
「それもそうだ。おれたちがここにいるのをやつらは知ってるのかな?」
「ザンドラマスは知ってるし、あの女が手下の兵たちにそれを隠すとは思えない。あしたの午後にはたぶん雪道にはいる。足跡を隠す方法を考えておいたほうがいいぞ」ベルディンはきょろきょろして、ガリオンにたずねた。「あの雌狼はどこだ?」
「獲物を捜してる。さっきまでは仲間の群れの痕跡を捜してた」
「あることがわかってな」ベルガラスがセ・ネドラに聞こえないことを確認しながら、声を落として言った。「雌狼はガリオンにこのあたりに大きな動物がいると教えたのだ。今夜ポルが見まわりに行く予定だが、おまえさんがあしたかぎまわるのも悪くあるまい。わしはびっくりしたい気分じゃないんだ」
「なにが発見できるかやってみるさ」
サディとヴェルヴェットは焚火の向こう側に腰をおろしていた。小さな土焼きの壺を横倒しにして、チーズのかけらでジスと子供たちをつって外へ出そうとしている。「ミルクが少しあったらよかったんですがね」サディが甲高い声で言った。「ミルクは幼い蛇にとてもいいんですよ。歯を丈夫にするんです」
「おぼえておくわ」ヴェルヴェットが言った。
「将来は蛇使いとして身をたてるつもりですか、辺境伯令嬢?」
「かわいいんですもの。清潔だし、おとなしいし、やたらに食べないしね。それに緊急のときにはとても役に立つわ」
サディは共感をこめてヴェルヴェットにほほえみかけた。「われわれはあなたをニーサ人に変えてしまいそうですね、リセル」
「このおれがそれを阻止できるなら、だめだぜ」シルクがガリオンに向かって陰気につぶやいた。
その日の夕食にかれらは鱒を焼いた。ダーニクとトスが、テントをはり終わってから竿と疑似餌を持って川の土手へ歩いていった成果だった。このところアルダー神の弟子になったことでいくらか変化があらわれたものの、お気に入りの娯楽にたいするダーニクの欲求は少しも衰えていなかった。ダーニクとかれの物言わぬ友人にとっては、こうした小遠足についてはもう話し合う必要さえなかった。湖や小川の近くにテントをはるときはいついかなるときでも、ふたりは反射的に行動した。
夕食後ポルガラは暗い森の中へ飛び去ったが、帰ってくると、雌狼が警告したような大きな獣がいる気配はなかったと報告した。
翌朝は冷えこみ、空中には霜がおりそうな寒気があった。馬の吐く息が山の空気の中に白く浮きだし、ガリオンたちはマントをしっかり身体にまとって出発した。
ベルディンが予想していたとおり、その午後遅くに雪線を越えた。荷馬車のわだちに残って白いすじを描く雪は、はじめのうちは表皮のように薄かったが、どんどん進むにつれて深いふきだまりになっていった。一行は雪の中で野営して、翌朝早くふたたび出発した。シルクはくびき[#「くびき」に傍点]のようなものをこしらえて荷馬の一頭につけ、くびき[#「くびき」に傍点]につないだロープに頭ほどの大きさの丸い石を一ダースばかり結びつけた。どこまでも白い世界を貫く道を一行が進みだしたとき、小男は石が雪につける跡を慎重に観察し、「まずまずだな」と自己満足の体《てい》で言った。
「その仕掛けの目的がよくわからないんですがね、ケルダー王子」サディが率直に言った。
「石のおかげで荷馬車とそっくりな跡がつくんだ」シルクは説明した。「馬の足跡だけだと、兵隊たちが疑わしく思っておれたちのあとをつけてくるかもしれない。だが隊商道についた荷馬車の跡はそれほど目立たない」
「考えましたな」宦官は言った。「ですが、茂みの枝を切って、それをうしろへひきずっていけばすむことじゃないですか?」
シルクは首をふった。「雪についた跡を全部消しちまったら、かえって疑われるよ。ここは交通量の多い道なんだぜ」
「すべて考えずみというわけだ」
「こそこそやるのが、学園でのかれの主要な研究分野だったんですもの」ヴェルヴェットがセ・ネドラや子狼と一緒に乗っている小型の二輪馬車から言った。「腕がにぶらないようにと、そのためだけにこそこそやるときもあるくらい」
「そりゃ言いすぎだぞ、リセル」シルクは傷つけられた口ぶりで反論した。
「そうかしら?」
「いや、まあその――しかしだな、そうずけずけと言わなくてもいいじゃないか。それにこそこそやる≠ニいうのは不快な表現だ」
「もっといい表現が思いつけて?」
「そうだな、回避する≠フほうがいくらかましだ」
「同じ意味なんだから、言いまわしにこだわることはないんじゃない?」リセルは勝ち誇ったようにえくぼをみせてシルクに笑いかけた。
「スタイルの問題なんだよ、リセル」
隊商道はしだいに険しさを増し、両側に積もる雪はどんどん深くなった。前方の山頂から長さ数マイルの雪煙が吹きくだり、強まる風は肌を刺す乾いた冷気を連れてきた。
正午ごろ、前方の連峰が、西からわきあがった見るからに不吉な雲によって、にわかにかすみはじめた。雌狼が遠くから一行のほうへ駆けてきた。「あなたの群れと動物たちのための避難所を捜したほうがいいわ」雌狼はせっぱつまった口調で言った。
「ここに住む例の生き物を発見したのか?」ガリオンはたずねた。
「いいえ。こっちのほうがもっと危険なのよ」狼は近づいてくる層雲を意味ありげに振りかえった。
「群れのリーダーに話そう」
「それがいいわ」雌狼は鼻づらでザカーズを示した。「この人間にわたしのあとをついてこさせて。少し先に木立があるの。かれとわたしとで適当な場所を見つけるわ」
「彼女が一緒に行ってもらいたがっている」ガリオンはマロリー人に言った。「悪天候になりそうなんだ。前方の木立に避難すべきだと考えている。場所を見つけてくれ、ぼくはみんなに注意してくる」
「吹雪か?」ザカーズはたずねた。
「そうらしい。よほどの天気でもないかぎり、狼が神経質になることはないんだ」ガリオンはくるりとクレティエンヌの向きを変えると、あともどりして仲間に用心を呼びかけに行った。雪のために滑りやすくなった急な道を急いで進むのはむずかしかった。雌狼がザカーズを連れていった木立に一行がたどりついたときには、寒風にあおられた雪が肌を刺す小さな弾丸のように周囲で舞っていた。接近しあって成長した松の若木が木立を作っていた。比較的最近|雪崩《なだれ》があったらしく、木立が大きくなぎたおされて、もつれあった枝や折れた幹が急勾配の岩の斜面に山をなしていた。ダーニクとトスは、風が強まり、雪がいちだんと強くふりしきりだすのと競うように、あわただしく仕事にとりかかった。ガリオンたちも手伝った。まもなく斜面に寄りかかるように、枝を格子に組んだ差しかけ小屋ができあがった。かれらはその骨組みにテントをかぶせ、しっかり結びつけて、丸太を重石がわりにのせた。それから内部の邪魔なものをどけ、粗末な小屋の天井の低い部分に馬たちを入れた。タッチの差で、猛烈な吹雪が襲ってきた。
風がくるったようにうなり、木立は渦巻く雪に埋もれてしまったように見えた。
「ベルディンは大丈夫でしょうか?」ダーニクがちょっと心配そうにたずねた。
「ベルディンなら心配するにはおよばんよ」ベルガラスは答えた。「もうとっくに嵐の外へ出ている。嵐の上空へ抜けたか、あるいは人間にもどって吹雪が通過するまで雪だまりにもぐりこんでいるかだ」
「それじゃ凍死しちゃうわ!」セ・ネドラが叫んだ。
「雪の下にいれば、死にはせんよ」ベルガラスはセ・ネドラを安心させた。「ベルディンは天気など気にもしないのだ」老人は差しかけ小屋の入口にすわって渦巻く雪を見つめている雌狼を見やって、あらたまって言った。「警告してくれて感謝するぞ」
「わたしはもうあなたの群れの一員です、尊敬すべきリーダー」雌狼も同じようにあらたまった口調で答えた。「みんなの安全はみんなの責任ですわ」
「よくぞ言った」
雌狼はしっぽを動かしたが、なにも言わなかった。
吹雪は終日つづき、夜になってガリオンや仲間がダーニクのおこした火を囲んでいるときも、一向におさまらなかった。やがて真夜中ごろ、風がはじまったときと同じように、ぴたりとやんだ。雪は朝まで木立に降りつづいたが、やがてそれも弱まった。だが、被害は大きかった。差しかけ小屋の外に降りつもった雪は、ガリオンの膝の上まであった。「雪かきをして、道を作らなくてはならないようだな」ダーニクががっかりしたように言った。「あの隊商道に引きかえすには、この雪の中を四分の一マイル進まなければならないし、この降りたての雪の下にはなにが隠れているかわからない。いま――ここで――馬の脚が折れたら大変だ」
「わたしの二輪馬車はどうなるの?」セ・ネドラがダーニクにたずねた。
「置いていくしかないだろうな、セ・ネドラ。雪が深すぎる。たとえ馬車を道にもどしたとしても、この雪じゃ、馬はあれを引いていけないよ」
セ・ネドラはためいきをつき、「とってもいい二輪馬車なのよ」と言ったあと、真顔でシルクに視線を移した。「あれを貸してくださってほんとにありがとう。もういらないから、おかえしするわ」
隊商道までの急斜面に道をつけてくれたのはトスだった。他の面々はトスのあとから雪を踏みならして道を広げ、足で下にひそんでいる丸太や枝を捜した。隊商道に引きかえすまで二時間近くかかり、高地での作業にみんな息を切らしていた。
いったん道を作ると、かれらは馬たちと一緒に差しかけ小屋で待っていた女性たちのところへひきかえしはじめた。ところが半分ばかり行ったとき、雌狼がふいに耳をうしろに倒してうなり声をあげた。
「どうした?」ガリオンは言った。
「例の動物よ。獲物を探してるわ」
「気をつけろ!」ガリオンはみんなに向かって叫んだ。「例の動物があっちにいる!」かれは肩ごしに手を伸ばして、〈鉄拳〉の剣を抜きはなった。
雪崩《なだれ》の跡がついた木立の向こう側から、そいつが出てきた。もじゃもじゃの毛皮が雪にぬれて固まっている。怪物は残忍そうに体を低くかまえてすり足でやってきた。醜い顔はどこか人間じみていて、よけいに気味が悪い。つきでた額の下に豚のような小さな目がくぼんでいる。下あごがつきだし、巨大な二本の湾曲した黄色い牙が頬の上まで伸びていた。そいつは口をあけて咆哮し、広い胸をこぶしでたたいて直立した。身の丈は八フィートはありそうだった。
「信じられん!」ベルガラスが叫んだ。
「なにごとです?」サディが問いつめた。
「あれはエルドラクだ」ベルガラスは言った。「エルドラクたちはウルゴ国にしか棲息していないのだ」
「あなたの勘違いだ、ベルガラス」ザカーズが異議を唱えた。「あれは猿熊と呼ばれているものだ。この山中に何頭かいる」
「あいつの正確な種を論じあうのはまたの機会にしたらどうなんです?」シルクが言った。「目下の主たる問題は、戦うか逃げるかでしょう」
「この雪では走れないよ」ガリオンは陰気に言った。「戦うしかないだろうな」
「そう言うんじゃないかと思った」
「なによりもまず、あいつを女性たちから遠ざけておかなくては」ダーニクは宦官を見て言った。「サディ、あんたの短剣に塗ってある毒はあいつを殺せるかね?」
サディは毛むくじゃらの獣を疑わしげに見た。「大丈夫でしょう。しかし、あれはものすごく大きいですからね。毒の効き目があらわれるのにしばらく時間がかかりますよ」
「では、それでいこう」ベルガラスが決断した。「わしらが注意をひきつけているすきに、サディがあいつのうしろへまわりこむのだ。サディがあいつに短剣を突き刺したら、撤退して毒がまわるのを待つ。散らばれ、危険を冒すんじゃないぞ」老人の姿がぼやけ、狼があらわれた。
かれらは武器を構え、おおざっぱな半円を作った。怪物はその間も木立のはしでわめきながら胸をたたき、しだいに猛りくるってきた。やがて怪物は巨大な足で雪をまき散らしながらこちらへ向かってきた。サディが短剣を低く構えてじわじわと斜面をのぼりだしたとき、ベルガラスと雌狼が牙をむいて怪物に飛びかかった。
威嚇的に剣を振りまわし、深い雪の中を進みだしたとき、ガリオンの頭は冴えわたっていた。かれはこの動物がグルルやエルドラクほど敏捷でないことに気づいた。狼たちのふいの攻撃に対応できずに、動物の周囲にたちまち点々と血が飛び散った。動物はいらだちと憤怒のあまり咆哮しながら、死にものぐるいでダーニクに突進した。だが、トスがダーニクの前に飛びだし、ずっしり重い杖の先端を獣の顔にめりこませた。それは激痛の叫びをあげると、巨大な両腕を広げて大きな物言わぬ男をはがいじめにしようとした。だがガリオンは剣でそれの片方の肩をなでぎりにし、同時にザカーズがもういっぽうの毛むくじゃらの腕の下へ突っこんで、鞭を振りまわすように、胸と腹に深々と剣を突き刺した。
動物はわめいた。傷口から血がほとばしった。
「もういつでもいいぞ、サディ」シルクが重い短剣の一本を突きたてようと、敏捷に動きながら、せきたてた。
狼たちはさっきから動物の脇腹と脚を攻撃しつづけていた。サディは猛りくるう獣の背後にそろそろと近づいた。獣はばかでかい両腕をめったやたらに振りまわして襲撃者たちを遠ざけようとしている。
そのとき、外科医顔負けの正確さで、雌狼が獣の左の膝の裏の筋肉を牙でひきちぎった。
耳をふさぎたくなるような苦悶の悲鳴があがった――動物が妙に人間に似ているだけによけいそれは気味が悪かった。毛むくじゃらの獣は傷ついた脚をつかんでうしろにひっくり返った。
ガリオンは大きな剣をさかさまにして柄《つか》の横棒をつかみ、のたうちまわる身体にまたがって武器をもちあげ、毛むくじゃらの胸を刺し貫こうとした。
「頼む!」獣は叫んだ。獰猛な顔が苦痛と恐怖にゆがんでいた。「どうかおれを殺さないでくれ!」
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それはグロリムだった。血に染まった雪の中に倒れている巨大な獣がぼやけだして人間にもどったとき、ガリオンの仲間が最後のとどめをさそうと武器を構えて近づいてきた。
「待て!」ダーニクが鋭く言った。「これは人間だ!」
かれらは立ち止まって、雪の中に横たわる瀕死の僧侶をまじまじと見つめた。
ガリオンは無情に、グロリムのあごの下に剣の先をあてがった。激しい怒りをおさえて、かれはひややかに言った。「ようし、わけを話せ――隠しだてはしないほうが身のためだぞ。だれの差し金でこんなことをした?」
「ナラダスだ」グロリムはうめくように言った。「ヘミルの神殿の高僧のな」
「ザンドラマスの子分のか?」ガリオンは問いつめた。「白目のあいつか?」
「そうだ。おれはナラダスに命令されたことをしていただけだ。どうか殺さないでくれ」
「どうしてナラダスはわれわれを攻撃しろと命令したんだ?」
「おれはおまえたちのひとりを殺すことになっていた」
「だれだ?」
「だれでもかまわないとのことだった。とにかくおまえたちのひとりを確実に殺せとの命令だった」
「連中はいまだにあの退屈な手垢のついたゲームをやってるわけか」シルクが短剣を鞘におさめながらひとりごちた。「グロリムってやつはまったく想像力が貧困だな」
サディが小さな細身のナイフをかざして、物問いたげにガリオンを見た。
「だめだよ!」エリオンドが鋭く言った。
ガリオンはためらった。「見逃してやろう、サディ。冷酷に殺すのは気がひける」
「アローン人はこれだ」サディはためいきをつくと、目をぎょろつかせて澄みきった空を仰いだ。「むろん、わかっているんでしょうな、われわれがこの状態でこいつをおきざりにすれば、どのみちこいつは死ぬんですよ。一緒に連れていこうとすれば、足手まといになる――こいつがおよそ信用できない人間だということは言うまでもない」
「エリオンド」ガリオンは言った。「ポルおばさんを連れてきてくれないか。こいつが出血多量で死なないうちに、傷の手当てをしてやったほうがいい」ガリオンはふたたび人間の姿にもどったベルガラスを見て、きいた。「反対意見でも?」
「わしはなにも言っとらんぞ」
「よかった」
「そいつがグロリムにもどる前に、さっさと殺しちまえばよかったんだよ」背後の茂みから耳なれたしゃがれ声がした。ベルディンが丸太の上にすわって、なにやら生の、まだ羽根がちょっと残っているものをくちゃくちゃ噛んでいた。
「わしらに加勢しようとは思いつかなかったのか?」ベルガラスがいやみたらしく言った。
「おまえたちはちゃんと戦ってたからな」醜い魔術師は肩をすくめると、げっぷをして、朝食の残りを雌狼にぽいとほうり投げた。
「感謝しますわ」雌狼はていねいに言うと、食べかけの残骸をばりばりと噛みくだいた。ベルディンに彼女の言葉が理解できたのかどうかわからなかったが、たぶん通じたのだろうとガリオンは思った。
「マロリーのこんなところでエルドラクがなにをしているのだ?」ベルガラスがきいた。
「そいつはエルドラクとはちょいとちがうぜ、ベルガラス」ベルディンは答えて、べとべとになった羽根をぺっと吐きだした。
「よかろう。だが、マロリーのグロリムがどうしてエルドラクの容貌を知ったのだ?」
「ちっとも人の話を聞いてないんだな、おまえさんは。この山中にもエルドラクの仲間がわずかにいるんだ。エルドラク属とつながりはあるが、同じじゃない。たとえば、ほんもののエルドラクほどでかくないし、利口でもないんだ」
「怪物はみんなウルゴ国に棲んでいるのだとばかり思っていたが」
「頭を使えよ、ベルガラス。チェレクにはトロルがいるし、アルグロスはアレンディアにも棲息している。ドリュアドは南トルネドラに棲んでいる。それにあのドラゴンだ。あれがどこに[#「どこに」に傍点]棲んでいるかはだれにもわからん。怪物はそこらじゅうに散らばってるんだ。ウルゴにやや集中しているだけのことさ」
「そのようだな」ベルガラスはおとなしく言った。かれはザカーズを見た。「これをなんと呼んだ?」
「猿熊だ。あまり正確ではないだろうが、ここに住む人間たちはあまり教養がないからしかたあるまい」
「ナラダスはいまどこにいるんだ?」シルクが傷だらけのグロリムにたずねた。
「バラサで見た」グロリムは答えた。「そこからどこへ行ったかは知らない」
「ザンドラマスも一緒だったか?」
「見かけなかったが、だからといってバラサにいなかったということにはならない。あの聖なる女魔術師はもうあまり頻繁に姿を見せない」
「皮膚の下の光のせいか?」イタチ顔の小男はずるがしこくたずねた。
グロリムの顔がさらに青ざめた。「あのことを話すのは禁じられているのだ――仲間うちでさえ許されない」おびえた口調で答えた。
「いいってことよ」シルクはにやりとして、短剣を引き抜いた。「おれが許可する」
グロリムはごくりと唾をのみこんでから、こっくりした。
「なかなか根性があるじゃないか」シルクはグロリムの肩をたたいた。「あの光はいつごろあらわれたんだ?」
「確かなことは言えない。ザンドラマスは長いあいだナラダスとともに西へ行っていたんだ。帰ってきたとき、光があらわれはじめていた。ヘミルの僧侶のひとりに噂好きなのがいて、あれは疫病みたいなものだとよく言っていた」
「言っていた?」
「ザンドラマスに知られて、心臓をえぐりだされたんだ」
「それこそおれたちが愛するようになったザンドラマスだよ、まちがいなく」
ポルおばさんがセ・ネドラやヴェルヴェットを連れて、雪を踏んでやってきた。彼女がひとこともしゃべらずにグロリムの傷の手当てをしているあいだに、ダーニクとトスは差しかけ小屋に引きかえして馬たちを連れだした。つぎにふたりはテントをはずし、骨組みを壊した。馬たちを引いてグロリムが横たわる場所へもどってくると、サディが鞍に歩みよって、例の赤い革の箱をあけた。「安全のためですよ」サディはガリオンにささやいて、小さなガラス瓶を取りだした。
ガリオンは眉を片方つりあげた。
「あいつを傷つけるわけじゃありません」宦官は請け合った。「これを飲めば扱いやすくなる。それに、あなたは情け深い気持ちになっておられるから、これであいつの傷の痛みも麻痺するはずです」
「ぼくたちがあいつを殺さなかったことが、不満なんだな?」
「無分別なことだと思いますよ、ベルガリオン」サディは真顔で言った。「敵は死ねば敵でなくなる。生きていればどこまでもつきまとうんです。ですが、お決めになるのはあなたですから」
「譲歩するよ」ガリオンは言った。「あいつのそばを離れないでくれ。手に負えなくなってきたら、なんでも妥当だと思えることをしていい」
サディはうっすらと微笑した。「そのほうがはるかに賢明な処置です。実利的かけひきの基本を教えてさしあげますよ」
一行は馬たちを引いて急斜面をのぼり、隊商道に出てから馬にまたがった。吹雪にともなってうなりをあげていた突風が、雪の大部分を吹き払っていたが、木立や突きでた岩の角には深い雪が積もっていた。道に雪がすくないとどんどん進めたが、ふきだまりがあるとテンポは格段に落ちた。嵐が去ったいま、新雪を照らす日差しはまばゆく、ガリオンは目を細めていたにもかかわらず、一時間もすると猛烈な頭痛に襲われはじめた。
シルクが手綱を引いた。「ひとつふたつ予防策を講じるときだな」かれはマントから薄手のスカーフを取りだして、目隠しした。ガリオンはふいにレルグのことを思いだした。洞窟生まれのあのウルの熱列な信者は、開けた場所へ出るときはいつも目隠しをしていたっけ。
「目隠しですか?」サディがきいた。「いつから予言者になったんです、ケルダー王子?」
「おれは透視力に恵まれてるわけじゃないよ、サディ」シルクは答えた。「このスカーフは透けて見えるほど薄いんだ。雪から反射するぎらぎらの日光から目を守ろうというのさ」
「すこぶる名案ですな」サディは感心したように言った。
「だろう、あの日差しを長いこと見てると、目が見えなくなるぞ――すくなくとも一時的に」シルクは目隠しの位置を調整した。「これは北ドラスニアのトナカイ追いたちがあみだした予防策なんだ。抜群の効果がある」
「危ない目にあわんにこしたことはないな」ベルガラスも布きれで目隠しをしながら、にやりとした。「ことによると、ダラシアの魔術師たちはケルへ行こうとするグロリムたちの目をこうやって見えなくしたのかもしれん」
「そんな単純な手を使ったのだとしたら、がっかりですわ」ヴェルヴェットがスカーフを目の上で結ぼうとしながら言った。「不可思議な魔術を使ったほうがずっとすてき。雪目なんて、ひどく散文的なことですもの」
一行はふきだまりの中を進み、ふたつのそびえる峰のあいだの高い道へとのぼっていった。午後の三時ごろ、高い道についた。ばかでかい岩のあいだを曲がりくねってつづいていた道は、頂上につくとまっすぐに伸びていた。馬たちを休ませるために小休止して、かれらは道の向こうに横たわる広大な荒れ野を見渡した。
トスが目隠しをはずして、ダーニクにジェスチャーをした。鍛冶屋が目を保護していたスカーフをとると、物言わぬ巨漢は指である方向をさした。とたんに、ダーニクの顔に畏怖がみなぎった。「見ろ!」かれは押し殺した声でささやいた。
みんなも目隠しをはずした。
「|すげえ《ベラー》!」シルクがあえぐように言った。「あんなにでかいものがあるのか!」
周囲の連峰が急にちぢんだように見えた。そこにひとつだけ、人知を越えた大きさと高さの山が、荘厳な孤高を保ってそびえている。完全な左右対称の、鋭く屹立した円錐形の白い山だ。裾野はとてつもなく広大で、山頂は付近の連峰より何千フィートも高かった。絶対の静寂がそれを囲んでいるようだった。ただ存在しているだけで、どんな山にも不可能なことをことごとく達成しているかのように見える。
「世界の最高峰だ」ザカーズが聞きとれぬほどの声で言った。「メルセネ大学の学者たちはあの高さを計算し、西の大陸の連峰の高さと比較した。あれはどの山より何千フィートも高かった」
「頼むよ、ザカーズ」シルクが苦しげな表情で言った。「どのくらいの高さなのか、おれには言わないでくれ」
ザカーズはとまどった顔をした。
「気づいてると思うが、おれはあまりでかいほうじゃない。巨大だってことは、おれをユーウツな気分にさせるんだ。あんたの山がおれより大きいことは認める。だが、どのくらいでかいかは知りたくないんだよ」
トスがふたたびダーニクにジェスチャーをした。
「あの山の陰に、ケルがあると言っている」鍛冶屋は通訳した。
「それはいささか漠然としすぎてやしませんか、善人」サディが皮肉っぽく言った。「あの山の陰には大陸の半分がはいってしまうんですよ」
ベルディンがふたたび舞いおりてきた。「でかいな、ええ?」かれは目をすがめて空にそびえる巨大な白い峰を見やった。
「わかっとる」ベルガラスは答えた。「前方のようすはどうだ?」
「うんざりするくらいくだり坂がつづいてる――すくなくとも、あそこのあの怪物みたいな山の斜面にたどり着くまではな」
「そんなことはここからでも見えるわい」
「そりゃよかった。おまえが連れてるグロリムをかたづけられそうな場所を見つけたぜ。じっさい何ヵ所もな」
「かたづける≠ニは、正確にはどういう意味、おじさん?」ポルガラが疑わしげにたずねた。
「この道をくだっていく途中、いくつか高い絶壁があるんだ」ベルディンはそっけなく答えた。「事故ってやつは起きるもんだからな」
「問題外だわ。わたしが傷の手当てをしたのは、おじさんがこのグロリムを断崖から投げ落とすまで生かしておくためじゃないのよ」
「ポルガラ、おまえはおれの宗教の儀式を邪魔しているんだぜ」
彼女は眉をつりあげた。
「知ってると思ってたがな。信仰のひとつなんだよ。出くわしたグロリムはことごとく抹殺すべし=v
「その宗教に改宗しようかとさえ思うよ」ザカーズが口をはさんだ。
「あんた、ほんとうにアレンド人じゃないのか?」ガリオンが言った。
ベルディンはためいきをもらした。「ポル、おまえさんがあくまでも他人の楽しみをだいなしにするつもりなら、他の処理方法を言うよ。おれは雪線の下のほうで|羊飼い《シープハーダー》の群れを見つけたんだ」
「|羊飼い《シェパード》でしょ、おじさん」ポルガラは訂正した。
「意味は同じだよ。よく調べれば、言葉だって同じなんだ」
「シェパードのほうがひびきがいいわ」
「いい、が聞いてあきれるぜ」ベルディンはフンと鼻を鳴らした。「羊はバカだ。くさいし、まずい。羊を追って一生を過ごす連中は欠陥人間か、変質者かのどっちかだ」
「きょうの午後はまたえらく威勢がいいじゃないか」ベルガラスがベルディンをほめたたえた。
「飛ぶには絶好の日だったんだ」ベルディンは歯をむきだしてにんまりした。「太陽が照らす新雪の上空がどんなにあったかいか見当がつくか? あんまり高く飛んだんで、目の前に斑点がちらつきはじめたくらいさ」
「しょうがない人ね、おじさんは」ポルガラがぴしゃりと言った。「空気がそんなに薄いところへ行っちゃだめじゃないの」
「だれだってときにはしょうがないことをするさ」ベルディンは肩をすくめた。「それにあの高さから一気に降下するのは、信じられんくらい気持ちがいいんだ。一緒にやってみちゃどうだ、教えてやるぞ」
「おじさんたら、さっぱり成長しないのね」
「のようだな。成長なんぞしたくもない」ベルディンはベルガラスを見た。「一マイルばかり進んだらテントをはったほうがいいと思うぜ」
「まだ早い」
「いや、早いどころか遅いよ。あの午後の太陽はじつにあったかい――こんな高地でもだ。雪がやわらかくなりだしてる。おれはすでに三つも雪崩《なだれ》を見たんだ。ここで推測を誤ると、いやってほどのスピードでころがり落ちるかもしれんぞ」
「聞き捨てならん話だな。では、この道からはずれて、夜にそなえよう」
「おれはこのまま先へ進む」ベルディンは腰をかがめて、両腕を広げた。「ほんとに一緒にきたくないのか、ポル?」
「バカを言わないで」
魔術師は薄気味悪い笑いを残して空へ舞いあがった。
かれらは尾根の上で夜の準備にとりかかった。絶え間ない風にさらされる場所だったが、雪崩の危険はなかった。その晩、ガリオンは熟睡できなかった。吹きさらしの尾根を荒しまわる風が、かれとセ・ネドラの休むテントの頑丈な生地をバタバタと騒がせ、その騒音が何度追い払おうとしても意識の中へ侵入してきた。ガリオンはしきりと寝がえりをうった。
「あなたも眠れないの?」セ・ネドラが冷えこむ闇の中で言った。
「風のせいさ」
「考えないようにするのよ」
「考えるまでもないよ。大太鼓をかかえて眠ろうとするようなもんだからな」
「けさのあなたはとても勇敢だったわ、ガリオン。あの化物のことを聞いたときには、わたし、ふるえあがっちゃった」
「化物退治なら前にも経験があるからね。もうしばらくしたら、きみだって慣れるさ」
「まあ、わたしたち厭世的になってきてやしない?」
「行動に関連のある特徴なのさ。われわれ強い英雄に厭世感はつきものなんだ。朝飯前に化物の一匹や二匹と戦ったほうが食がすすむ」
「あなたは変わったわ、ガリオン」
「そんなことはない」
「いいえ、変わったわ。はじめて会ったとき、あなたは絶対そんなことは言わなかったわよ」
「きみがはじめて会ったときのぼくは、万事を真剣に考えすぎていたんだ」
「いまのわたしたちはなにも真剣に考えていないっていうの?」セ・ネドラは非難がましく言った。
「もちろん、真剣だよ。ぼくがこうなるまでに払い落としてきたのは、ささいなどうでもいいことなんだ。すでに終わったことを心配するのはあまり意味がないじゃないか」
「でも、わたしたちのどっちも眠れない以上――」そこまで言って、セ・ネドラはガリオンを引き寄せ、すこぶる真剣なキスをした。
その夜、気温は急激に下がり、目をさましてみると、前日の午後危険なほどやわらかくなっていた雪はかちかちに凍っていた。一行は雪崩の危険にさらされずに進んだ。かれらのたどる山頂のそちら側は、吹雪のあいだまともに風をうけていたため、隊商道にはほとんど雪がなく、馬たちはハイペースで進んだ。午後の三時には雪から解放されて、春の世界へ馬を乗り入れた。急勾配の草原は緑豊かで、あちこちにほころんだ野花が山のそよ風にゆれていた。氷河の表面が溶けて流れだした小川が、きらめく石ころの上をさらさらと流れ、やさしい目をした鹿が通りすぎるガリオンたちを穏やかな驚きをこめて見守った。
雪線の数マイル下方に、尽きざる食欲を見せて草や野花を一心不乱に食《は》んでいる羊の群れが見えてきた。羊飼いたちは全員質素な白のうわっぱりを着て、犬たちに仕事をまかせ、小丘や岩の上にぼんやりすわっていた。
雌狼はクレティエンヌの隣りを落ちついてゆるやかに駆けていた。もっとも、羊をじっと見ている黄褐色の目は真剣で、ときおり、耳がぴくぴく動きはしたが。
「やめたほうがいいよ」ガリオンは狼の言葉で雌狼に言った。
「本気で考えていたわけじゃありませんわ」雌狼は答えた。「前にもああいう動物に出会ったことがあるの――あれを守っている人間や犬にも。一匹ぐらいつかまえるのはなんでもないけれど、それをすると犬が興奮するし、うるさく吠えられると食事の邪魔になるしね」狼の舌がだらりと垂れて、狼流のにやにや笑いをあらわした。「でも、あの動物たちを逃げまわらせることはできるわ。森がだれのものなのか、みんな知っておくべきよ」
「群れのリーダーはその意見に賛成しないと思うね」
「ああ」雌狼は賛成の意を表明した。「群れのリーダーは、ご自分をおおげさに考えすぎるのかもしれないわ。あの方にはそういうところがありますもの」
「なんて言ってるんだ?」ザカーズが興味ありげにたずねた。
「羊を追いまわすことを考えてるんだ」ガリオンは答えた。「殺そうというんじゃなくて、ただ逃げまどわせるためにね。きっとおもしろいんだろう」
「おもしろい? 狼がおもしろがるとは変わっているな」
「そうでもないさ。狼というのは遊び好きなんだ。ユーモアのセンスもある」
ザカーズは考えこむ顔つきになった。「なあ、ガリオン? 人間は、世界を所有しているのは人間だと思っている。しかし、ほんとうはあらゆる種類の生き物と世界を共有しているんだ。そして創造主にとっては、人間も動物も区別はない。動物には動物の社会があるし、文化だってあるだろう。動物はわれわれのことは一顧だにしない、そうだろう?」
「ぼくたちがかれらを不愉快がらせるとき以外はね」
「一帝国の支配者にとっては、自尊心をこなごなにするほどの衝撃だ」ザカーズは皮肉っぽく微笑した。「われわれは地球上でもっとも力のあるふたりの人間だ。ところが狼たちはちょっとした不愉快の種ぐらいにしかわれわれを見ていない」
「それがぼくたちに教えているのは、謙遜ということだ。謙遜は人間にとっていいことだよ」
「だろうな」
一行が羊飼いの野営地にたどりついたのは、夕方だった。羊飼いの野営地は半永久的なものなので、にわか作りの旅人のテントにくらべると、たいていよくゆきとどいている。たとえば、テントは大きくて、柱で組んだ枠の上に広げられている。きっちり隙間なく並べられた丸太の通りの両側に、そういうテントが並んでいた。羊飼いの馬たちを入れる囲いは、通りの低いほうの端にあり、山の小川をせきとめる丸太のダムがきらめく小さな池を作り、羊や馬に飲み水を提供していた。野営地のある小谷に夕闇がおりはじめ、料理の焚火から青い煙の筋が風のない静かな空中へたちのぼっている。
ガリオンとザカーズが野営地のすぐ外で手綱を引くと、テントのひとつから、濃い褐色に日焼けし、雪のように髪の白い痩せて背の高い男が出てきた。羊飼いのおさだまりの服装らしい、例の簡素な白のうわっぱりを着ている。「あなたがたがおいでになるのはわかっていました」男は言った。ひどく低い、静かな声だった。「夕食をわたしたちと一緒になさいませんか?」男をよく見たガリオンは、かつて世界の向こう側のヴァーカト島で会ったヴァードを思わせるところがあるのに気づいた。ダル人とクトル・マーゴスの奴隷族に血のつながりがあるのは、いまや疑問の余地がなかった。
「光栄だ」ザカーズは招待に応じた。「しかし好意につけこむようなことはしたくない」
「とんでもない。わたしはバークです。馬の世話を手下の者にさせましょう」
他の面々がやってきて、たちどまった。
「ようこそ、みなさん」バークはみんなに挨拶した。「馬からおりてはどうですか? 夕食の支度がもうできるころです。みなさんのためにテントをとっておきました」かれは重々しく雌狼を見て、小首をかしげた。狼の存在に動じていないのはあきらかだった。
「願ってもないことですわ」ポルガラが馬をおりながら言った。「文明からこんなに遠く離れたところで、こんな思いやりのあるもてなしにあうとは意外ですわね」
「文明は個人に備わっているものですよ、レディ」バークは答えた。
「けがをした男を連れているんですよ」サディが言った。「山の途中で出くわした気の毒な旅人でしてね。できるだけの手当てはしたが、われわれは先を急いでいるから、傷がかえって悪化するのではないかと気がかりなんです」
「ここへ置いていってかまいません。わたしたちが世話をしましょう」バークは薬を飲まされて鞍にぐったりとすわっている僧侶を、じろじろ見た。「グロリムですな。もしや、あなたがたはケルへ行かれるのでは?」
「そこに立ち寄らねばならんのだ」ベルガラスが用心深く言った。
「でしたら、このグロリムを連れていくのはどのみち無理ですよ」
「そういう噂は聞いてたんだよ」シルクが勢いよく馬からおりた。「ケルへ行こうとすると、ほんとにグロリムは目が見えなくなるのか?」
「噂ではそうです。いま、この野営地にもそういうグロリムがひとりいますよ。夏の牧草地へ羊を追っていったときに、森の中でさまよっているところを見つけたんです」
ベルガラスの目がかすかに細まった。「そのグロリムと話ができるだろうか?」老人はたずねた。「じつはそういうことがらを研究しておってな、こまかい情報を知りたいとつねづね考えていたのだ」
「もちろんです」バークは同意した。「右の一番奥のテントにいますよ」
「ガリオン、ポル、一緒に行こう」老人はきびきびと言うと、丸太の通りを歩きだした。おかしなことに、雌狼もついていった。
「どうして急に興味を持ったの、おとうさん?」声が届かないところまでくると、ポルガラがたずねた。
「ダル人がケルにかけた呪いとやらが、実際どの程度効果があるのかつきとめたいのだ。たいしたものでなければ、ケルにたどりついたとき、ザンドラマスと鉢合わせしないともかぎらんからな」
行ってみると、問題のグロリムはテントの床にすわっていた。荒々しい角ばった顔は和らぎ、すべてのグロリムに共通する燃えるような狂気はめしいた目から消えていた。代わって、その顔はある種の驚異に満たされていた。
「調子はどうだね、友だち?」ベルガラスはそっとたずねた。
「満ち足りている」グロリムは答えた。そんな言葉をトラクに仕える僧侶の口から聞くと妙な気がした。
「どうしてケルへ近づこうとしたんだ? 呪いのことを知らなかったのか?」
「あれは呪いではない。祝福だ」
「祝福?」
「わたしはダル人の聖都へ行くようにと、女魔術師のザンドラマスに命令された」グロリムはつづけた。「成功すれば高位につけてやると」グロリムは静かに微笑した。「自分がケルへ出向いても安全かどうか確かめるために、ザンドラマスは呪いの力を試してみたかったのだろう」
「安全ではなかったのだろう?」
「口で説明するのはむずかしい。もし、ザンドラマスが自分で試していたら、大いなる利益がもたらされたかもしれん」
「目が見えなくなるのを、利益とは呼べんぞ」
「しかし、わたしは目が見えないわけではない」
「呪いで目が見えなくなるのだと思っていたが」
「それはちがう。たしかに周囲の世界は見えない。しかし、それは他のものを見ているからなのだ――わたしの心を喜びで満たすものを」
「ほう? それはなんだね?」
「神の顔を見ているのだよ、死ぬまでずっと」
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それはつねにそこにあった。深いひんやりした森にいるときでも、かれらはそれが白く清らかな静寂をもって頭上にそびえているのを感じることができた。山はかれらの目と思考を満たし、夢までも満たした。そのきらめく純白の巨大な山に向かってくる日もくる日も馬を進めるうちに、シルクはしだいにいらだちはじめた。「あれに空の半分を隠されちまって、こんなところでなにができるっていうんだよ?」ある天気のいい午後、シルクはたまりかねてわめいた。
「無視すればいいんじゃないかしら、ケルダー」ヴェルヴェットがやんわりと言った。
「あんなでかいものをどうやって無視できるんだ?」シルクは言いかえした。「どんなに自分がこれみよがしか――低俗ですらあるってことが――あれにはわかってるのかね」
「言うことがめちゃくちゃね。あの山はわたしたちがどう感じようと気にもしないわ。あれはわたしたち全員がいなくなったあとも、ずっとあそこにそびえつづけるのよ」ヴェルヴェットは言葉を切った。「あなたを悩ませているのはそのことなの、ケルダー? はかない人生の途上で、永遠なるものに出くわしたから?」
「星だって永遠だぜ」シルクは指摘した。「その点じゃ泥だってそうだ。だが、星や泥はあのいやらしいものみたいにずうずうしくはない」シルクはザカーズに視線を移した。「これまであのてっぺんに登ったやつはいるのかね?」
「どうして登りたがる者がいる?」
「打ち負かすためさ。足元にひれ伏させるためだ」シルクは笑った。「このほうがよっぽどめちゃくちゃだな、え?」
しかしザカーズは南の空をふさいでいるそのとてつもない存在をじっと見つめていた。「どうかな、ケルダー。山と戦う可能性については、これまで考えたこともない。人間を打ち負かすのはたやすい。だが、山を打ち負かすのは――まったく別のことだ」
「山が戦いたがるかなあ?」エリオンドが口を開いた。この若者はめったにしゃべらなかったから、ときどきトスと同じで口がきけないのかと思うほどだった。そしてこのごろは前よりいっそう黙っていることが多くなった。「山はあなたたちを歓迎してくれるかもしれませんよ」エリオンドは穏やかにほほえんだ。「あれはさみしがっているんじゃないかな。あそこへ登って下界を見おろすぐらい勇敢なだれかと一緒に世界を眺めたがっているのかもしれません」
ザカーズとシルクは急に飢えたような目つきになって長いこと顔を見合わせていた。「ロープがいるな」シルクが感情をまじえない口調で言った。
「いくつかの道具もいりそうだ」ザカーズがつけたした。「上へ上へと登る途中で、氷に穴をあけて、身体を支えてくれるような道具が」
「ダーニクならおれたちのためにそういうやつを考案してくれるぜ」
「ふたりともやめてくれない?」ポルガラがちくりと言った。「いま考えなくちゃならないことは他にもあるでしょう」
「想像してみただけだよ、ポルガラ」シルクは軽くいなした。「いつまでもこんな話をしてるわけがないだろう。話が終われば――そう、それっきりさ」
かれらは山の影響でひとり残らず微妙に変化していた。会話はだんだんよけいなものになり、みんながみんな長々と考えるようになった。そして夜野営して焚火を囲む静かなひとときに、考えたことがらを交換しあった。それはなぜか清浄と治癒のひとときとなり、孤独な巨峰に近づくにつれて、かれらの結びつきはいちだんと深まった。
ある夜、ガリオンは昼間のような明るさに目がさめた。毛布の下から這いだしてテントの垂れ布をめくった。満月が昇っていて、青白い光輝が世界を満たしていた。暗い満天の星空を背に山が白く、くっきりと浮かびあがり、まるで命あるもののように冷たい光に輝いていた。
目が動きをとらえた。ポルおばさんが、ダーニクと一緒に使っているテントからあらわれた。月光に浸《ひた》された山を思わせる白いローブをまとっている。しばらく黙想していたかと思うと、彼女はかすかに身をよじって、低く呼びかけた。「ダーニク、きて見てごらんなさい」
ダーニクがテントから姿をあらわした。裸の胸にさがる銀の護符が月光を浴びてきらめいた。かれはポルガラの肩に腕をまわし、ふたりは立ったままこの比類ない夜の美に見とれた。
ガリオンは声をかけそうになったが、なにかがかれを黙らせた。ふたりの分かちあっている時間は、はいりこむには気がひけるほど親密だった。かなりたってから、ポルおばさんが夫になにごとかささやき、ふたりはほほえみながら向きを変え、手をつないでテントにもどった。
ガリオンは静かに垂れ布をおろし、毛布にもどった。
一行がほぼ南西の方角へ進みつづけるうちに、ゆっくりと森は変化した。まだ山中にいたときは、木々はところどころにポプラの混じる常緑樹だった。巨大な山のふもとの低地に近づくにつれて、めっきり|ブナ[#「ブナ」は「木+無」、第3水準1-86-12]《ぶな》と楡《にれ》の木立が増えた。そしてとうとう太古の樫《かし》の森にはいった。
木漏れ日の落ちる広がった枝の下を進みながら、ガリオンは南トルネドラの〈ドリュアドの森〉を鮮明に思いだした。ちらりと目をやると、やはり同じ思いでいるらしく、小柄な妻の顔にも懐かしげな表情が浮かんでいる。夢のような充足感にとらわれて、セ・ネドラは彼女だけにしか聞こえない声に聞き入っているようだった。
すばらしい夏の日の昼ごろ、一行は別の旅人に追いついた。鹿革の服を着た、あご髭の白い老人だ。荷役用の騾馬《らば》の背に積まれたでこぼこの包みから突きでた道具の柄が、老人が世界中の荒野を放浪する世捨て人の砂金採りであることを声高に主張している。老人はみすぼらしい山岳用の小馬に乗っていた。小馬の脚があまりにもずんぐり短いので、足がいまにも地面に届きそうだ。鎖かたびらを着て兜をかぶったガリオンとザカーズが隣りに並ぶと、砂金採りは言った。「だれかがうしろからやってくる音を聞いたと思ったんだ。ここらの森じゃあまり人間を見かけんからな――呪いやなんかのせいで」
「呪いはグロリムだけにきくんじゃなかったのかい」ガリオンが言った。
「いちかばちかの危険を冒すような真似はしないにこしたことはないと、たいがいの連中は思っている。あんたがたはどこへ行く?」
「ケルだ」ガリオンは答えた。隠しても意味がなかった。
「招待されているんだろうね。ケルの人間は、ただふらりとやってきたよそものを歓迎しないぞ」
「かれらはわれわれが行くのを知っている」
「ああ、それなら大丈夫だ。風変わりなところだからな、ケルは。人間も風変わりだし。むろんあの山の真下で暮らしていれば、だれだってそのうち普通じゃなくなるがね。かまわなければ、この二マイル先にあるバラサへの曲がり角まで、あんたがたとご一緒するよ」
「好きにしたらいい」ザカーズが言った。「しかし、砂金を探すのなら時間をむだにすることにならないか?」
「去年の冬、山の中で迷子になってな」老人は答えた。「食べ物がなくなっちまったんだ。おまけにときどき無性にしゃべりたくなる。小馬と騾馬は聞き上手だが、返事はしてくれん。狼もいるが、あんまりうろうろ動きまわるんで、しゃべろうにもきっかけがつかめないんだ」砂金採りは雌狼を見やると、驚いたことに狼の言葉で話しかけた。「調子はどうだい、おふくろさん?」ひどいアクセントで、つっかえがちなしゃべりかただったが、まぎれもなく狼の言葉だった。
「驚いたこと」雌狼はあっけにとられたようだったが、やがて気をとりなおして礼儀正しく答えた。「満足しているわ」
「それはよかった。どうして人間と一緒にいる?」
「しばらく前からこの群れに加わっているのよ」
「ほう」
「どうやって狼の言葉をおぼえたんだ?」ガリオンは目を丸くしてたずねた。
「じゃ、あんたにもわかるんだな」老人はなぜかそれを知ってうれしそうだった。かれは鞍によりかかった。「狼たちのいる高地でずっと暮らしてきたんでな」と説明した。「隣人の言葉を学ぶのは礼儀だ」老人はにやにやした。「だが正直なところ、最初はほとんどちんぷんかんぷんだった。しかし、一生懸命耳をすませば、わかってくる。五年ほど前、狼の群れと一緒に穴ぐらの中で一冬過ごしたんだ。それがずいぶん助けになった」
「じっさいに狼たちがあんたを同居させたのか?」ザカーズがきいた。
「かれらがおれに慣れるまでしばらくかかった」老人は認めた。「だが、おれが役に立ったので、まあ受け入れてくれたのさ」
「役に立ったというと?」
「穴ぐらはちょっと窮屈だったんだよ。おれはそこに道具を持ってる」かれは親指をぐいと立てて、荷役用の騾馬を示した。「穴を掘って少し大きくしたのさ。狼たちは感謝したようだった。それからしばらくたって、おれは群れが獲物を探しているあいだ、子狼たちの世話を引き受けた。かわいかったよ。子猫みたいにいたずらなんだ。その後は、熊と仲良くなろうとしてみた。まるでだめだったな。熊というやつは冷淡な集団でな。ほとんどの時間、仲間うちだけで過ごすんだ。鹿はびくびくしすぎていて、友だちづきあいをするには疲れる。狼が一番だ」
年老いた砂金採りの小馬はあまり進むのが早くなかったので、まもなく残りの面々が追いついてきた。
「いいことあったかい?」シルクが鼻をうごめかせながら砂金採りにたずねた。
「まあね」白いあご髭の老人は適当に返事した。
「失敬。せんさくするつもりじゃなかったんだよ」シルクはあやまった。
「いいってことさ、友だち。あんたが正直者だということは見りゃわかる」
ヴェルヴェットが笑いを押し殺した。
「身についた習慣でね」老人はつづけた。「どのくらいの金を掘り当てたか、だれかれかまわずしゃべるのはあまり賢明とは言えないからな」
「よくわかるとも」
「だが、普通は低地へおりるときはあまり金は持ってこないんだ――必要なものを買う分しか持ってこない。残りは山の中に置いてくる」
「すると、金でなにをするんだね?」ダーニクがたずねた。「だってあんたは四六時中金を探しているわけだろう? 使わないなら、苦労して見つける意味がないじゃないか?」
「そういうものなのさ」老人は肩をすくめた。「それに金は山の上にいく口実を与えてくれる。理由もないのに山に登ると、人間はむなしくなるんだよ」老人はまたにやにやした。「川床にポケット一杯の金を見つけるときのある種の興奮も捨てがたいしな。だれかも言ってるように、見つけることは使うことにまさる楽しみなんだ。金は見てもきれいだしね」
「ああ、まったくだ」シルクが熱っぽく同意した。
年老いた砂金採りは雌狼を一瞥《いちべつ》してから、ベルガラスを見た。「この狼のふるまいからすると、あんたがこの一団のリーダーだな」
ベルガラスはそれを聞いてやや驚いたようだった。
「かれは狼の言葉を学んだんだ」ガリオンが説明した。
「これは驚いた」ベルガラスは無意識に雌狼のせりふを繰りかえした。
「この若いふたりにあることを忠告しようと思っていたんだが、話すべき相手はどうやらあんたらしい」
「もちろん聞くとも」
「ダル人はおかしな連中だ。おかしな迷信を信じている。この森を神聖視しているとまでは言わないが、連中は森を異常なほど大事に考えているんだ。木は伐らないほうがいい――どんなことがあろうとも、ここではなにも、だれも殺してはならん」かれは雌狼を指さした。「こいつはそのことをすでに知っているよ。あんたもこいつがここではけっして獲物を捕ろうとしなかったことに気づいただろう。ダル人はこの森を血でけがされたくないんだ。おれだったら、かれらの考えを尊重する。ダル人は助けになる。だがかれらの信念にたてついたら、すこぶるやっかいなことになる」
「情報に感謝するよ」ベルガラスは言った。
「得た知識をわけたところで害にはならないさ」老人はそう言って顔をあげ、道をながめた。「さて、おれが一緒なのはここまでだ。このすぐ先にバラサへ行く道がある。話ができて楽しかったよ」かれはみすぼらしい帽子を持ちあげて礼儀正しくポルガラに会釈すると、雌狼を見た。「元気でな、おふくろさん」それから小馬の脇腹をかかとで蹴った。小馬はゆったり駆けだし、バラサへつづく道の手前を曲がって見えなくなった。
「なんて感じのいいお年寄りなのかしら」セ・ネドラが言った。
「役にも立ってくれたわ」ポルガラがつけくわえた。「ベルディンおじさんに連絡をとったほうがいいわよ、おとうさん」とベルガラスに言った。「わたしたちがこの森にいるあいだは、兎や鳩に手だしをしないよう伝えてちょうだい」
「そのことを忘れとった。いますぐ注意しよう」ベルガラスは顔を上向けて目を閉じた。
「あの老人はほんとに狼と話ができるのか?」シルクがガリオンにたずねた。
「狼の言葉を知っているんだ。あまりうまくないが、ちゃんと知っている」
「しゃべるのより理解するほうがうまいわ」雌狼が言った。
ガリオンは彼女がいまのやりとりを理解していることにちょっとびっくりして、雌狼を見つめた。
「人間の言葉をおぼえるのはむずかしくないわ」雌狼は言った。「顔に白い毛皮のあるあの人間が言ったように、一生懸命耳をかたむければ、あっというまにおぼえられるわ。あなたの言葉をしゃべりたいとは思わないけれどね」雌狼は批判的につけくわえた。「人間の言葉をしゃべろうとすると、舌を噛みそうになるんですもの」
そのときガリオンの頭にふとあることが浮かんだ。その考えが絶対に正しいことはまちがいなかった。「おじいさん」
「あとにしてくれ、ガリオン。忙しいのだ」
「待つよ」
「重要なことか?」
「と思う」
ベルガラスは好奇心にかられて目をあけた。「どんなことだ?」
「トル・ホネスでぼくたちがしゃべったことをおぼえてる――あの雪の朝のことだけど?」
「おぼえていると思うが」
「ぼくたちはいっさいが前にも起きたような気がすると言っていたんだ」
「ああ、思いだしたぞ」
「おじいさんはこう言っただろう、ふたつの予言が分裂したとき、事態がいわば停止したって――そのふたつがまたもとどおりになるまで、未来はありえないって。それからこうも言った、それまでわれわれは同じ一連の出来事を何度も何度もくぐりぬけなくてはならないとね」
「ほんとうにわしがそう言ったか?」ベルガラスはなんとなくうれしげだった。「深遠な言葉じゃないか、ええ? だが、なにを言いたいのだ? どうしていまになってそんな話をする?」
「またそれが起きたと思うからだよ」ガリオンはシルクを見た。「ぼくたち三人がクトル・ミシュラクへ向かっていたとき、ガール・オグ・ナドラクで会ったあの年とった金鉱掘りをおぼえてるか?」
シルクはやや疑わしげにうなずいた。
「たったいまぼくたちが話をした老人は、ほとんど同一人物と言ってもおかしくないんじゃないか?」
「そういわれてみると……」シルクの目が細まった。「なるほどな。ベルガラス、これはどういうことなんです?」
ベルガラスは頭上で葉を茂らせている枝を目をすがめて見た。「しばらく考えさせてくれ。たしかに、いくつか類似点がある。あのふたりは同じたぐいの人間で、ふたりそろってわしらにあることを警告した。ベルディンをここに呼びもどしたほうがよさそうだな。こいつはじつに重大なことかもしれん」
十五分とたたないうちに、青い縞もようの鷹が空から舞いおりてきて、姿がぼやけ、小柄な魔術師に変身した。「なにをそう興奮してるんだよ?」ベルディンは不機嫌に問いつめた。
「わしらはある人間に会ったのだ」ベルガラスが答えた。
「それはめでたいこった」
「重要なことらしいのだ、ベルディン」ベルガラスはいそいで、ものごとは繰りかえすという自分の説を説明した。
「ちょいと消化不良な説だな」ベルディンはうなった。「だが、驚くにはあたらんな。おまえの仮説はいつだってそうなんだから」かれは目をすがめた。「しかし、きわめて正確と言っていいだろう――これまでのところは」
「ありがとうよ」ベルガラスはそっけなく言った。それから一度はガール・オグ・ナドラクで、もう一度はここで起きたふたつの出会いを説明した。「びっくりするほど似通っている、ちがうか?」
「偶然かな?」
「ものごとを偶然の一致としてかたづけることほど、面倒に巻きこまれるのに最高の方法はないぞ」
「わかったよ。話し合うために、偶然じゃなかったということにしよう」ベルディンは道端の泥の中にしゃがみこみ、額にしわを寄せて考えこんだ。「おまえのこの説を全体におけるはじめの一歩と考えちゃどうだ? こうした繰りかえしが、事件の起きる途中の見すごせない要所要所で起きていると仮定してみようぜ」
「標識のように、かな?」ダーニクが言った。
「そのとおり。それよりうまい言葉はおれにも考えつかなったよ。こういう標識がいましも起きようとしているほんとうに重大なことがらを指していると考えてみるんだ――言ってみりゃ警告みたいなもんだな」
「仮定する≠ニか考える≠ニかいう言葉がしきりに聞こえてくるが、それじゃ完全に推測の領域じゃないのかね」シルクが疑わしげに言った。
「おまえは勇敢な男だよ、ケルダー」ベルディンが皮肉たっぷりに言った。「最大級の災害についてなにかがおまえに警告してくれようってときに、おまえはそれを無視するほうを選ぶんだからな。そういう態度は心底勇敢なのか、心底バカなのかどっちかだ。むろんおれは後者の代わりに勇敢≠ニいう言葉を使うことで、疑わしい点は有利に解釈してやってるんだぜ」
「かれの勝ちね」ヴェルヴェットがつぶやいた。
シルクはちょっと赤くなった。「しかし、どんなことが起きようとしているかがどうやってわかるんだよ?」
「わからんさ」とベルガラス。「状況が特別な警戒を呼びかけている、それだけのことだ。わしらは警告を受けたのだ。あとはわしらしだいだ」
その晩テントをはるとき、かれらは格別の注意を払った。ポルガラは手早く夕食を整え、食事がすむが早いか焚火は消された。ガリオンとシルクは最初の見張りに立った。野営地の背後の小丘のてっぺんに立って、かれらは暗闇に目をこらした。
「こういうの大嫌いなんだよ」シルクがささやいた。
「なんのことさ?」
「なにかが起きるとわかっているのに、そのなにかの正体がわからないってこと。あの老人ふたりが自分たちだけであれこれ考えてくれりゃよかったのにな」
「びっくりするのが好きなんじゃなかったのかい?」
「おびえながら生きるより、びっくりするほうがいいに決まってる。ただし、おれの神経はもう前みたいに太くないんだ」
「シルクはときどき緊張しすぎるからね。期待から得られる楽しみの数々を考えてごらんよ」
「おまえにはがっかりだな、ガリオン。もののわかる、いいやつだと思ってたのに」
「ぼくがなにを言った?」
「期待とはね。この状況でそれを言うなら不安≠セろ。不安はだれにとってもいいことじゃない」
「なにかが起きる場合にそなえて心の準備をしておく、つまりはそういうことさ」
「おれならいつだって準備はできてるんだぜ、ガリオン。そうやってこれまでずっと生きてきたんだ。しかしいまのおれは、リュートの弦みたいにきつく巻かれていまにもプッツリ切れちまいそうな気持ちだよ」
「そのことは考えないようにしよう」
「もちろんだとも」シルクは皮肉をこめて言いかえした。「しかしそれじゃ警告をされた意味がないじゃないか? おれたちはそれを考えることになってるんじゃないのか?」
太陽がまだ昇らないうちに、見張りに立っていたサディが野営地にもどってきて、忍び足でテントからテントへ歩いて警告をささやいた。「あっちにだれかいますよ」かれはガリオンのテントの垂れ布を指ではじいて言った。
ガリオンは毛布の下からころがり出て、反射的に剣に手を伸ばしたところで、動きをとめた。あの年寄りの砂金採りは流血はならぬと警告していた。ぼくたちが待っていたことがらとは、これなのだろうか? ぼくたちは禁じられたことにしたがうことになっているのだろうか、それとも、無視してより高尚な必要性に応じることになっているのか? だがいまは、ためらっている暇はなかった。剣を手に、ガリオンはテントから飛びだした。
日の出前の色彩のない空から、あの鋼色を帯びた独特の光が射していた。影を作らない光だった。大きく広がった樫の木々の下はそれほど暗くなく、わずかにあかるかった。ガリオンはすばやく行動した。風で畝《うね》のできた古い朽ち葉や、この太古の森の床に散らばる折れた枝は、ほとんど踏まなかった。
ザカーズが小丘の上に剣を持って立っていた。
「やつらはどこだ?」ガリオンの声はささやきというより、息のようだった。
「南からやってきた」ザカーズはささやきかえした。
「何人だ?」
「よくわからん」
「こっそりこちらに接近しようとしているのか?」
「そうは見えなかった。向こうの木立のあいだに隠れているのかもしれないし、ただ森を通りぬけていただけかもしれん」
ガリオンは強まる光の中へ目をこらした。そのとき、かれらが見えた。かれらは全身白ずくめだった――ローブか丈の長いうわっぱりのようなものを着ている。身を隠そうとするようすはない。動作は落ちついており、ゆったりした穏やかな平静さが身辺に漂っていた。十ヤードほどの間隔で一列縦隊になってやってくる。かれらが森を進むその方法には、なにかしら見覚えがあった。
「やつらに必要なのはたいまつだけだな」シルクがガリオンの真うしろから言った。小男は声をひそめようともしなかった。
「静かにしてろ!」ザカーズが低く叱った。
「なんで? 連中はおれたちがここにいるのを知ってるんだぜ」シルクは辛辣にくすりと笑った。「ヴァーカト島にいたあのときのことをおぼえてるか?」シルクはガリオンに言った。「おまえとおれはヴァードとやつの仲間のあとを追って、濡れた草むらを三十分も這いまわってた。おれたちがそこにいたのをあいつらはずっと知っていたんだ、いまなら絶対の確信を持ってそう言える。あいつらのうしろをくっついて歩いてれば、あんないやな目にあわなくてすんだかもしれない」
「なんの話をしてるんだ、ケルダー?」ザカーズが声をひそめて問いつめた。
「ベルガラスの言う繰りかえしのひとつでね」シルクは肩をすくめた。「ガリオンとおれは前にこれとそっくりの経験をしたことがあるんだよ」と、うらめしげにためいきをついた。「新しいことがなんにも起きないとしたら、こんな退屈な人生もないな」そのあとかれは声をはりあげて、森の中の白装束の一行に呼びかけた。「おれたちはこっちだぞ」
「気でもちがったのか?」ザカーズは叫んだ。
「そうでもないさ。とはいっても、気がちがっていちゃあ、ほんとうのところはわからないよな? あの連中はダル人だ。そしてこの世のはじまりからこっち、ダル人が他人に危害を加えたことはただの一度もなかったんじゃないかな」
不思議な行列のリーダーは小丘のふもとで立ちどまると、白いロープについている頭巾を払いのけた。「お待ちしていました」かれは言った。「聖なる女予言者が、あなたがたを無事ケルまでお連れするよう、われわれを遣わしたのです」
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ドラスニアのケヴァ王はその朝、いらいらしていた。前の晩、母親とチェレクのアンヘグ王の使者の会話を盗み聞きし、道徳的なジレンマからいらだっていたのだ。立ち聞きしたことを母親にあかすのはむろん論外だから、母親自身がその問題を持ちだしてくるまでは話し合うこともできない。だが、母親が打ち明けてくれそうなようすはまるでなく、だからやきもきしていたのだ。
ここらへんで、ケヴァ王がじっさいは母親のプライヴァシーに立ち入るような少年ではないことを述べておくべきだろう。かれは本来つつしみのある若者だった。しかし、かれはまたドラスニア人でもある。ドラスニア人には、適当な表現がないからしかたがないが、物見高いとでもいうべき国民的特徴があるのだ。どんな人間にもある程度の物見高さはあるが、ドラスニア人におけるその特徴は強迫観念と言ってもいいほどだった。諜報活動をドラスニアの国家的産業に仕立てあげたのは、かれらの生来の物見高さだと主張する者もいる。代々の諜報活動がドラスニア人にもともとあった物見高さに拍車をかけたのだとする、同様の執拗な意見もある。この論争は鶏か卵かに関する終わりなき議論とそっくりだ。意味がないところまで瓜ふたつと言っていい。幼少のころ、ケヴァは宮廷の密偵のひとりのあとをこっそりつけていき、母親の居間の東壁のうしろに隠し戸棚があるのを発見した。かれは定期的にその戸棚にもぐりこんで、国家の事件、その他興味深い問題の成行きをたどった。なんといっても王なのだから、情報を得る権利はちゃんとあった。密偵ごっこの理由づけに、こうすれば母上が問題をぼくにあかす手間がはぶける、とケヴァは考えたのである。かれは思いやりのある少年だった。
さて、問題の会話とは、トレルハイム伯爵とかれの船〈海鳥〉号、それにトレルハイムの息子のウンラクをはじめとするその他数名の、謎めいた失踪に関するものだった。
トレルハイム伯爵、つまりバラクは、当てにならない人間と考えられており、消えた仲間たちの評判は、どちらかというと、バラク以上に悪かった。アローンの王たちは、バラクとその仲間が、どことも知れぬ海をうろつきまわっているというゆゆしき事態に、動転していた。
しかし、ケヴァ王を悩ませていたのは、そのゆゆしき事態のほうではなく、自分をさしおいて友だちのウンラクがその一行に加わっている事実のほうだった。その不公平さが胸にわだかまっていた。王であるという事実が、少しでも危険な要素があると、自動的に自分をはじきだすような気がした。だれもかれもがケヴァを危険にさらさないように注意を払っていた。しかし、ケヴァは危険にさらされてみたかった。安全は退屈だったし、退屈を避けるためならどんなことでもしたがる年齢だったからである。
赤ずくめの服装で、かれはその冬の朝、ボクトールにある宮殿の大理石の廊下を歩いていった。大きなタペストリーの前で立ち止まり、それをながめるふりをした。つぎに、だれにも見られていないことがやや確実になると――なんといってもここはドラスニアなのだから――タペストリーのうしろにすべりこみ、先に述べた小さな戸棚の中へはいりこんだ。
母親が、ナドラクの娘のヴェラと、ケルダー王子のみすぼらしい相棒ヤーブレックと話し合っていた。ヴェラはいつもケヴァ王を落ちつかない気持ちにさせた。ヴェラは、まだ折り合いをつける準備のできていないある種の感情をケヴァの中に引き起こす。だから、かれは習慣的にヴェラを避けていた。いっぽうのヤーブレックは、とてもおもしろかった。かれの話っぷりはぶっきらぼうで、生彩に富み、意味さえわからない悪態に色どられていた。
「そのうちあらわれるって、ポレン」ヤーブレックがケヴァの母親を安心させていた。「バラクは退屈しちまったんだよ、それだけのこった」
「かれひとりが退屈になったのなら、こんなに心配はしないわ」ポレン王妃は答えた。「でも、この退屈が伝染するらしい事実が心配なのよ。バラクの連れは世界一堅実とは言えない人たちなんですもの」
「あいつらならおれも会ったことがある」ヤーブレックはぶつぶつ言った。「あんたの言うとおりかもしれねえ」かれはしばらくいったりきたりした。「うちのやつらにあいつらを監視させよう」
「ヤーブレック、わたしは世界最高の諜報部をかかえているのよ」
「そうかもしれんけどよ、ポレン、シルクとおれの手下のほうが数が多いし、ジャヴェリンが聞いたこともないようないろんな場所に仕事場や倉庫を持ってるんだ」ヤーブレックはヴェラを見た。「ガール・オグ・ナドラクへおれと一緒にこねえか?」
「冬だというのに?」ポレンは反対した。
「もっと服を着こめばいい。それだけのこった」ヤーブレックは肩をすくめた。
「あそこでなにをしようってんだい?」ヴェラがたずねた。「あんたが仕事の話をしてるのをすわって聞いてるんじゃ、あまり興味は持てないね」
「ヤー・ナドラクへ行こうかと思ったのさ。ジャヴェリンの部下はドロスタのたくらみを探りだす件じゃあまりツイてなかったようだからな」ヤーブレックは口をつぐんで、推しはかるようにポレン王妃を見た。「最近になって連中がなにかをつかんだなら話は別だが、おれの耳にはなにもはいってこないんだ」
「わたしがあなたに隠しごとをすると思うの、ヤーブレック?」ポレンはしらばっくれた。
「するだろうな。なにかつかんでるなら、教えろよ、ポレン。むだな旅はまっぴらごめんだ。冬のヤー・ナドラクはみじめったらしいところだしな」
「まだなにもないわ」ポレンは真顔で答えた。
ヤーブレックはぶつくさ言った。「そんなことだろうと思ったぜ。ドラスニア人はひと目見りゃドラスニア人だってわかっちまうからな、注意を引かずにヤー・ナドラクをうろつきまわれっこない」かれはヴェラをちらっと見た。「どう思う?」
「それもそうだね」ヴェラは同意した。「ここがいやだと言ってるんじゃないよ、ポレン。でもあんたのこの計画――あたしをレディに仕立てあげようっていう――はちょいとあたしの注意力を低下させはじめてるんだ。きのう、あたしが短剣を一本しか持たないで部屋を出ただなんて、信じられるかい? あたしには新鮮な空気と頭をすっきりさせてくれる気の抜けたビールが必要なんだと思うよ」
ケヴァの母はためいきをついた。「わたしが教えたことを全部忘れないようにしてね、ヴェラ」
「記憶力はすごくいいんだよ。それにボクトールとヤー・ナドラクのちがいだってちゃんとわかってるしさ。ひとつには、ボクトールのほうがいい匂いがするもん」
「どのくらい留守にするの?」ポレンは痩せて手足のひょろ長いヤーブレックにたずねた。
「ひと月かそこらだろうな。ヤー・ナドラクへは遠まわりして行ったほうがいいと思うんだ。おれが行くのをドロスタに知られたくない」
「わかったわ」ポレンはそのあとあることを思いついた。「最後にひとつだけ、ヤーブレック」
「ああん?」
「わたしはヴェラが大好きなの。ガール・オグ・ナドラクにいるあいだに、彼女を売るようなまちがいをしでかさないでね。そんなことをしたら、失望から立ちなおれなくなるわ」
「こんな女だれが買うかよ?」ヤーブレックは答えた。それからにやっとして、ヴェラが反射的に短剣の一本に手を伸ばすと同時に飛びのいた。
永遠なるサルミスラは現在の宦官長アディスをすくなからぬ嫌悪をこめてながめた。アディスは無能なだけでなく、うすぎたなかった。虹色のローブは食べ物のしみがつき、頭と顔にはまばらに毛が生えている。この男ほどの楽天家はいまいとサルミスラは結論づけた。宦官長の地位にのぼりつめたいま、こやつは自堕落のかぎりを尽くしているのだ。アディスはニーサで手にはいるきわめて有害な薬のいくつかを愕然とするほど大量に消費し、しばしば夢遊病者めいたうつろな目つきで、よろめきながら、サルミスラの前にあらわれた。風呂にもあまりはいらないので、スシス・トールの気候と、使用する多様な薬があいまって、アディスの身体は腐ったような悪臭を放っていた。いま、蛇の女王はちろちろ動く舌で空気をなめてみて、臭いをかぐだけでなくアディスの味まであじわうことができた。
アディスは壇の前の大理石の床にひれふして、鼻にかかった女々しい声で取るに足らないことがらに関する報告を行なっていた。取るに足らないことがらが宦官長の日々を埋め尽くしていた。重要なことがらは処理しきれないので、アディスはどうでもいいようなことがらに専念した。限られた才能しかない人間に特有の一心不乱な集中力で、ささいなことを針小棒大にふくらませ、それが天変地異の大事件であるかのように報告した。たいていの場合サルミスラは、このアディスという男はほんとうに注意を向けるべきことがらをまるで理解していないのだと軽蔑した。
「それでおしまいだろうね、アディス」サルミスラは寝椅子のような王座の上でせわしなくとぐろを動かしながら、シュウシュウとささやくように言った。
「ですが、女王さま」アディスは抗議した。朝食のあと飲んだ六個ばかりの薬が、かれを大胆にしていた。「この問題はきわめて緊急を要するのです」
「おまえにとっては、だろう。わたしにはどうでもよいことだよ。暗殺者を雇って、その太守の首を斬らせればそれでいい」
アディスは狼狽に目を見開いて、女王を見つめた。「で、ですが、永遠なるサルミスラさま」恐怖のあまり声が甲高くなった。「太守は国家安全にはなくてはならぬ存在です」
「あの太守はおまえを買収して地位にかじりついているけちな日和見《ひよりみ》主義者だよ。これといった使い途もない男さ。おまえの完全な献身と服従の証拠として、あいつの首を持ってくるがいい」
「く、くびをですか?」
「目がついているのは頭だろうが、アディス」サルミスラはあざけった。「まちがって、代わりに足を持ってくるんじゃないよ。さあ、行くがいい」
アディスは一段か二段ごとにひざまずき、よろめきながらドアのほうへあとずさった。
「そうそう、アディス。風呂にはいるまで、二度と謁見の間にはいってはならぬ」かれはぽかんと口をあけてサルミスラを見た。
「くさいんだよ、アディス。吐き気がする。さあ、出ておいき」
アディスは逃げるように立ち去った。
「ああ、わたしのサディ」女王はうらめしげにためいきをもらした。「どこにいる? どうしてわたしを見捨てた?」
クトル・マーゴスのウルギット大王は青い上着にズボンという恰好で、ドロジム宮殿のけばけばしい王座に背筋を伸ばしてすわっていた。ジャヴェリンはこの大王の服装と態度の変化の陰には、ウルギットの新妻の存在があるらしいとひそかに考えた。ウルギットは結婚のもたらすストレスをあまりうまく乗り切っていなかった。なにかすこぶる心を混乱させるものが人生にはいりこんできたかのような、かすかな困惑の色がその顔に浮かんでいる。
「以上が目下の状況に関するわれわれの評価です、陛下」ジャヴェリンはそう報告をしめくくった。「ここクトル・マーゴスにおけるカル・ザカーズの兵力は大幅に減少しましたから、陛下はいともたやすくザカーズ軍を海へ蹴落とせますよ」
「きみがそう言うのはたやすいがね、ケンドン辺境伯」ウルギットはやや気むずかしく答えた。「しかしきみたちアローン人はその掃討作戦にほかならぬきみたちの兵力を投入するわけではないのだからな」
「陛下が提起なさっているのは、やや微妙な問題です」ジャヴェリンはめまぐるしく頭を働かせた。「当初からわれわれはマロリー帝国に共通の敵を持っていることで意見の一致を見てきましたが、アローン人とマーゴ人のあいだに横たわる永劫の敵意は一夜にして消えるものではありません。陛下はほんとうに陛下の沿岸からチェレクの艦隊を一掃したり、クタンならびにハッガの平原からアルガーの馬族を追いだしたいと思っておいでなのですか? アローンの諸王やポレン王妃はもちろん指示を出すでしょうが、戦場の司令官たちは、王たちの命令をかれらなりの予想に合わせてしまう流儀を持っています。陛下の将軍たちにしても、アローンの部隊が向かってくるのを見たら、陛下の指示を誤解するほうを選ぶかもしれませんよ」
「それはそうだな」ウルギットは譲歩した。「では、トルネドラの軍隊はどうだ? トルネドラとクトル・マーゴスのあいだには昔からずっと良好な関係があるのだぞ」
ジャヴェリンはそれとなく咳ばらいをして、望まれぬ聞き手がいないかどうかこっそり周囲を見まわした。相当の注意をはらって行動しなければならなかった。ウルギットの変化は目をみはるばかりで、予想していた以上にぬかりがなかった。ときにはまさしく鰻《うなぎ》のようにのらりくらりと問いをかわし、微調整したジャヴェリンの頭の働かせかたを本能的に見抜いているようだった。「ここだけの話と考えてよろしいでしょうね、陛下?」ジャヴェリンはなかばささやくように言った。
「信用したまえ、辺境伯」ウルギットはささやきかえした。「もっとも、マーゴ人の――それもウルガ王朝の一員の――言葉を信じるのは、判断力がおそまつだと言わねばならんがね。マーゴ人は信用ならんことで有名だし、ウルガ一族の人間はみなおかしいからな」
ジャヴェリンは指の爪を噛みながら、上手をとられているのではあるまいかと強く意識した。「われわれはトル・ホネスからある不安な情報を受けとったのです」
「ほう?」
「トルネドラ人の特徴はご存じでしょう――大きなチャンスにはつねに敏感に反応します」
「いや、まったくだ」ウルギットは笑った。「子供時代のわがはいの一番好きな思い出は、だれにもその死を悲しまれなかったわがはいの父、タウル・ウルガスがラン・ボルーンから最新の提案を受けとったとき、ひっくりかえって家具に噛みついたことだよ」
「よろしいですか、陛下」ジャヴェリンはつづけた。「いかなる意味においても、ヴァラナ皇帝がこれにからんでいると申しあげているのではありませんが、かなり高位のトルネドラ人が数名、マル・ゼスと接触していたのです」
「それは問題だな、え? しかしヴァラナは部隊を掌握している。かれがザカーズに敵対しているかぎり、われわれは安泰だ」
「おっしゃるとおりです――ヴァラナが生きているかぎりは」
「クーデターの可能性を示唆しているのか?」
「そういう噂はありません、陛下。陛下ご自身の王国がクーデターの証拠を示しているのですよ。北トルネドラの貴族はいまだに、ボルーン家とアナディレ家がかれらの機先を制してヴァラナを皇帝の座につけたやりかたに怒りくるっているのです。もしヴァラナになにか起きて、ヴォードゥーかホネスかホービテのひとりが後釜にすわれば、すべての保証はなくなってしまう。マル・ゼスとトル・ホネスとの同盟はマーゴやアローンにとっても同様の障害になりかねません。しかしそれ以上に、もしそういう同盟が内密にされ、陛下がこのクトル・マーゴスにトルネドラの兵力をかかえており、かれらが突然陣営の変動を指示されたら、陛下はトルネドラ軍とマロリー軍にはさまれてしまうでしょう。夏を過ごすのに快適な方法とは思えません」
ウルギットは身ぶるいした。
「この状況では、陛下」ジャヴェリンはよどみなくつづけた。「以下のような方法をとられてはいかがでしょう」かれは指を折って項目をひとつずつあげていった。「ひとつ、ここクトル・マーゴスではマロリー軍の存在は大幅に縮小されています。ふたつ、陛下の国境内にいるアローンの兵力は必要でもなければ、役に立ちそうにもありません。陛下はじゅうぶんマロリー兵を追いだすだけの部隊を持っておいでだし、陛下の部隊とわれわれの部隊のあいだで対立が生じるようなことはあってはなりません。三つ、トルネドラにおけるいささか陰気な政治的状況は、ここに部隊を派遣することをきわめて危険なものにしています」
「待ってくれ、ケンドン」ウルギットは反論した。「きみがこのラク・ウルガへきたのは同盟と一般大衆の利益について、熱のこもったありとあらゆるたぐいの話をするためだろう。しかるに、部隊を戦場へ送りこむときになると、きみはしりごみしている。どうしてわがはいの時間を無駄にする?」
「交渉をはじめたときから、状況が変化したからです、陛下」ジャヴェリンは言った。「われわれはマロリー軍の大々的撤退は予想していませんでしたし、トルネドラにおける不穏な状態も予想外でした」
「では、この交渉からわがはいはなにを得ることになるのだ?」
「陛下がかれの要塞へ進軍していると聞いたら、カル・ザカーズはどんなことをしそうですか?」
「まわれ右をして、ただちに全軍をクトル・マーゴスへ送りかえすだろう」
「チェレクの艦隊の中を通ってですか?」ジャヴェリンは肩をすくめた。「タール・マードゥのあと、ザカーズはそれをやろうとしました、おぼえておられますか? アンヘグ王とかれの血に飢えた家来たちは、ザカーズの艦隊の大部分を沈没させ、かれの連隊を溺死させたのですよ」
「ほんとうだろうな?」ウルギットは思案した。「ザカーズの軍がクトル・マーゴスへもどれないように、アンヘグが東海岸を封鎖すると思うか?」
「喜んでするでしょうな。チェレク人は他人の船を沈めることに子供じみた喜びを感じますからね」
「しかし、クトル・マーゴスの南端へまわりこむには、アンヘグには地図が必要だぞ」
ジャヴェリンは咳ばらいした。「その――地図ならすでに持っております、陛下」すまなそうに言った。
ウルギットは王座の肘掛けにこぶしをたたきつけた。「手のうちを見せろ、ケンドン! きみは大使としてここにいるんだぞ、密偵としてではない」
「密偵としての修練を積んでいるだけです、陛下」ジャヴェリンは臆せずに答えたあと、話をつづけた。「ところで、〈東の海〉にいるチェレクの艦隊に加えて、ゴスカの北と西の国境、およびアラガの北西の国境に、われわれはアルガーの騎兵隊とドラスニアの槍兵を配備する用意をしています。それだけの用意をしておけば、マロリー軍の脱出路を効果的に封鎖して、クトル・マーゴスに閉じこめ、ミシュラク・アク・タールを通るカル・ザカーズ気に入りの侵入路をはばみ、なおかつ、トル・ホネスとマル・ゼスのあいだに宿泊所がある場合は、トルネドラの部隊を封じこめることができるはずです。こうすれば、だれもが自分のなわばりをほぼ守ることになり、チェレク軍はマロリー軍を大陸によせつけずに、われわれの満足のいくようにすべてに決着がつけられます」
「クトル・マーゴスを完全に孤立化させることにもなる」ウルギットはジャヴェリンがごまかすつもりでいたその事実を指摘した。「わたしはきみの投げた栗を火中から救うことで自分の王国を疲弊させているんだよ。それにアローン人、トルネドラ人、アレンド人、センダー人は、わがもの顔にやってきて西の大陸におけるアンガラクの部隊を追いだしている」
「ナドラク人、タール人も同盟者ですよ、陛下」
「きみと取引しよう」ウルギットはそっけなく言った。「わがはいにアレンド人とリヴァ人をくれれば、喜んでタール人とナドラク人をやろう」
「このことがらについてわが政府に連絡すべきときがきたようです。わたしのしたことはすでに権限を越えていますからね。これ以上のことはボクトールから指示を仰ぎませんと」
「ポレンによろしく伝えてくれ」ウルギットは言った。「そしてこう言ってくれ、共通の親類の健康を祈るとね」
辞去しながら、ジャヴェリンはキツネにつままれた思いだった。
〈闇の子〉はその朝、バラサのグロリム神殿の私室にある鏡という鏡をうち砕いていた。あれがいまや顔にまであらわれはじめていた。両の頬の皮膚や額の下に、あの渦巻く光をおぼろげに認めて、彼女はその事実を見せつけた鏡をこなごなにしたのだった――それ以外の鏡も同様の目にあった。それがすむと、〈闇の子〉はてのひらにぱっくりあいた傷口を恐ろしげに見つめた。血にも光がまじっている。はじめて予言の言葉を読んだときに、体内にみなぎったあのくるおしい喜びを、彼女はにがにがしげに思い起こした。「見よ、〈闇の子〉は他のすべての者より高位に昇り、星々の光によって飾られるであろう」だが、星の光は光輪でもなければ、輝く後光でもなかった。光はじわじわとザンドラマスに侵入してくる病いだった。
だが、彼女を憔悴させはじめたのは、渦巻く光だけではなかった。しだいに、思考が、記憶が、夢までもが、彼女自身のものではなくなってきたのだ。同じ夢にたびたびうなされて、ザンドラマスは何度も悲鳴をあげて目をさました。なにか想像もつかぬ真空に、肉体もなく、関心もなく宙づりになって、すべてを他人ごとのようにながめているように思えた。巨大な星がひとつ、軌道の途中でくるくる回転してうごめき、膨張してだんだん赤くなり、ふるえながら避けがたい消滅へ向かっていた。中心をはずれたその星の無作為なうごめきは、当初は心配でもなんでもなかったが、やがてそれがますます明確になってくると、平然としてはいられなくなった。やがて、真空を漂う肉体も性別もない意識は、かすかな興味と、増大する不安をおぼえた。これがまちがいだった。これは意図されていたことではなかった。そして、つぎの瞬間、それが起きた。巨大な赤い星が、爆発が起きるはずのないところで爆発したのだ。それがまちがった場所で起きたために、他の星々がまきこまれた。燃えあがるエネルギーの膨張するボールが、さざなみを打つように外へと広がり、つぎつぎに太陽をのみこんで、とうとう全銀河が食い尽くされた。
真空の中の意識は銀河の爆発と同時に、内側に恐るべきねじれを感じ、つかのま銀河が一ヵ所ではなくいくつもの場所に存在するように思えた。しばらくすると、銀河はもはやひとつではなくなった。「こんなことがあってはならない」意識は音のない声で言った。
「まさしく」別の音のない声が答えた。
夜毎ザンドラマスを叩き起こして絶叫させるのは、その恐怖――これまでずっとかんぺきな永遠の孤独を守ってきたところに、別の存在があるのを感じた恐怖だった。
〈闇の子〉はそれらの思考を――記憶といってもいい――意識から締めだそうとした。部屋のドアをたたく音がし、ザンドラマスはグロリムの頭巾をかぶって顔を隠した。「なんだい?」しわがれ声でたずねた。
ドアがあいて、この神殿の司祭がはいってきた。「ナラダスが出発しました、聖なる女魔術師さま」司祭は報告した。「報告を求めておいででしたので」
「わかった」ザンドラマスは平板な声で言った。
「西方から使者が到着しました」司祭はつづけた。「西のグロリムであるひとりの高僧がフィンダの荒れ果てた西部沿岸に上陸し、ダラシアを横断してケルへ向かっているとの知らせです」
ザンドラマスは満足がわずかに湧いているのを感じた。「マロリーへよくきたね、アガチャク」彼女はのどを鳴らさんばかりだった。「おまえをずっと待っていたのだよ」
その朝、ヴァーカト島の南端は霧が出ていたが、ガートは漁師だったから、ここの海にはくわしかった。かれは夜明けの光とともに船を出し、もっぱら陸地の匂いと主な潮流をたよりにオールを漕いだ。ときおり漕ぐ手をとめて、網をたぐりよせ、もがいている銀色の腹をした魚を足の下の大きな箱へ入れた。それからまた網を投げ、つかまえた魚が足元ではねまわっているあいだ、ふたたびオールを漕ぎはじめた。
漁にはもってこいの朝だった。ガートは霧に頓着しなかった。他にも釣り舟が出ているのは知っていたが、霧のせいで海原にいるのは自分ひとりのような気分になれ、ガートはそれが気に入っていた。
かれの警戒心を呼び覚ましたのは、舟に打ち寄せる潮流の引きのかすかな変化だった。ガートはいそいでオールを引きあげ、近づいてくる船に自分の存在を知らせようと、身を乗りだしてへさきにとりつけた鐘をたたきはじめた。
そのときガートは船を見た。それはこれまで見たどんな船ともちがっていた。それは長く、大きく、ほっそりしていた。高く突きでた船首|斜檣《しゃしょう》は、ごてごてした彫刻で飾りたててある。船を動かす何十本ものオールがうなりをあげて水を切っていた。その船がどんな目的のために作られたかは一目瞭然だった。不吉な船とすれちがいざま、ガートはぶるっと見ぶるいした。
船首の近くに鎖かたびらを着た赤髭の巨漢が立って、手すりから身を乗りだしていた。「釣れたか?」巨漢はガートに呼びかけた。
「まあまあだ」ガートは用心深く答えた。そんなばかでかい男を乗せた船に錨をおろされて、自分の[#「自分の」に傍点]魚を横どりされてはたまらないと思った。
「ヴァーカト島の南部沿岸はまだか?」赤髭の巨漢はたずねた。
ガートは空気の匂いをかぎ、かすかな陸地の匂いをかぎつけた。「いま通りすぎようとしてるとこだよ。沿岸はここいらで北東へ曲がっているんだ」
光る鎧に身を固めた男が、赤髭のいる手すりのところへやってきた。黒いちぢれ髪で、兜を片腕の下にかかえこんでいる。「おぬしはこのあたりの海域をことごとく知り抜いているようであるな」男はガートがめったに聞いたことのない、古めかしいしゃべりかたをした。「その知識を快く他人と分かちあう態度は感心でござる。ときに、マロリーへの最短針路をわれらに教えてはもらえぬか?」
「それはあんたがたがマロリーのどこへ行こうとしているかによるな」ガートは答えた。
「一番近くの港だ」赤髭が言った。
ガートは眉間にしわをよせて、家の棚に置いてきた地図の詳細を思いだそうとした。「ダラシア南西部のダル・ゼルバだろうな。おれなら、あと十か二十リーグばかり真東へ進んで、それから北東へ針路をとるね」
「で、おぬしの申したその港へ到着するまで、いかばかりかかるのだ?」鎧の男がたずねた。
ガートは隣りに並んだ細長い船をじっと見た。「あんたがたの船がどのくらい速く進めるかによるな。距離は三百五十リーグばかりだ。トゥリムの珊瑚礁を迂回するにはもう一回向きを変えなけりゃならない。おそろしく危険な珊瑚礁だって話だ。あれを突っきろうとする者はいないよ」
「ことによると、われらがその最初の人間になるかもしれませぬぞ、閣下」鎧の男は威勢よく友だちに言った。
巨漢は大きな片手で目をおおった。「よしてくれ、マンドラレン」かれはうんざりしたように言った。「珊瑚礁でおれの船が裂けてでもみろ、おれたちは残りを泳がなけりゃならなくなるぞ。それにおまえのその格好じゃ泳ぐわけにいかないぜ」
ばかでかい船は霧の中へすべるように動きだした。
「そいつはどういう種類の船なんだ?」ガートは見えなくなる船に呼びかけた。
「チェレクの戦さ船だ」誇らしげな野太い声がかえってきた。「世界最大の船さ」
「なんて名前だ?」ガートは両手で口を囲って叫んだ。
「〈海鳥〉号だ」返事が漂ってきた。
[#改ページ]
それは大都市ではなかったが、その建築様式はガリオンがこれまで見たこともないほど洗練されていた。広大な白い峰のふもと近くにある浅い谷にうずくまったようすは、ちょうど山の膝で休んでいるように見えた。ほっそりした白い尖塔と大理石の列柱の都市。尖塔のあいだにばらまかれた低い建物の大部分は、壁全体がガラスでできている。そうした建物のまわりには広々とした芝生が広がり、下には大理石のベンチが置かれた木立が茂っていた。芝生と芝生のあいだには、形式ばった庭がある――箱のような生け垣と、低い白壁に両側を仕切られた花壇だ。庭と建物の中庭では噴水が躍っていた。
ザカーズは呆然とケルの都市を見つめた。「こんなところにあるとは、ついぞ知らなかった!」かれは叫んだ。
「ケルを知らなかったのか?」ガリオンはたずねた。
「ケルのことは知っていたさ。だが、こんなふうだとは知らなかった」ザカーズはしかめっつらをした。「これにくらべたら、マル・ゼスはまるで物置きの寄せ集めではないか」
「トル・ホネスもね――メルセネだってそうだ」ガリオンは同意した。
「ダル人がまともな家の建てかたを知っているとさえ思わなかったのだ」マロリー人は言った。「それなのに、いきなりこんなものを見せつけられるのだからな」
トスがさっきからダーニクにジェスチャーをしていた。
「これは世界最古の都市だそうだ」鍛冶屋が通訳した。「世界がひび割れるよりずっと以前に、こういうふうに建てられたんだ。一万年近く、ほとんど変わっていない」
ザカーズがためいきをもらした。「では、どうやって建てたのか忘れてしまっただろうな。ダル人の建築師に頼みこんで仕事をしてもらおうと思ったのに。そうすればマル・ゼスもいくらか見栄えがよくなるかもしれん」
トスがまたジェスチャーをすると、ダーニクはけげんな顔になった。「わたしの解釈がまちがっているらしい」鍛冶屋はつぶやいた。
「トスはなんて言ったんだい?」
「わたしの解釈だと、ダル人がこれまでしたことはなにひとつ忘れられていないってことになる」ダーニクは友だちを見た。「これでいいのか?」
トスはこっくりして、またジェスチャーした。
ダーニクの目がまんまるになった。「現在生きているすべてのダル人は、死んだすべてのダル人の知っていたことを、全部知っているんだそうだ」
「だとしたら、すごく優秀な学校があるんだな、きっと」ガリオンは言った。
トスはそれには微笑しただけだった。わずかに哀れみの混じった不思議な微笑だった。つぎにトスはダーニクに短くジェスチャーして、馬からおり、歩きだした。
「どこへ行くつもりだ?」シルクがきいた。
「シラディスに会いにだ」ダーニクが答えた。
「おれたちが一緒に行っちゃまずいのか?」
ダーニクはうなずいた。「シラディスの用意ができたら、彼女のほうからわたしたちのところへくるんだ」
ガリオンがこれまでに見たダル人と同様、ケルの住民は肩に深い頭巾を縫いつけた白い簡素なローブを着ていた。かれらは二、三人ずつかたまって穏やかな議論に熱中しながら、芝生を静かに歩いたり、庭にすわったりしていた。本や巻物をかかえている者もいれば、手ぶらの者もいる。ガリオンはどういうわけか、メルセネの大学や、トル・ホネスの大学を思いだした。しかし、この学者グループが、ああいうえらぶった大学の教授連の生活を満たすくだらない研究よりはるかに高尚な研究に従事していることはまちがいなかった。
ダル人のグループが一行に付き添ってこの宝石のような都市を進み、穏やかにカーヴする通りを歩いて、形式ばった庭のひとつの向こう端に建つ飾りけのない家へ案内した。戸口に白いローブ姿の老人が細長い杖にすがって立っていた。老人の目はあくまでも青く、髪は雪のように白かった。「長いことあなたがたのおいでを待っておったのじゃ」老人はふるえる声で言った。「『いにしえの書』が第五の時代に〈光の子〉とその一行が案内を求めてケルへくるであろうと予言していたのでな」
「では〈闇の子〉は?」ベルガラスは馬をおりながら老人にたずねた。「彼女もここへくるのか?」
「いや、ベルガラスどの」老人は答えた。「ここへはこないが、どこかよそで、他の方法で、行くべき方角を見つけるだろう。わしはダラン、あなたがたをお迎えすることになっている」
「あんたがここを支配しているのか、ダラン?」ザカーズも馬をおりながらたずねた。
「だれもここを支配してはおらんよ、マロリー皇帝。あなたですらも」ダランは言った。
「わしらを知っているようだ」ベルガラスがつぶやいた。
「天の書がはじめにわれわれに開かれたときからずっと、われわれはあなたがたを知っていたのだ。あなたがたの名が運勢に大きく書かれているのでな。いまからあなたがたを休息できる場所へお連れしよう。そこで聖なる女予言者のもたらす喜びを待ってくだされ」老人はガリオンの横にいる妙におとなしい雌狼とそのうしろではねまわっている子狼を見やった。「加減はどうだね?」老人はあらたまった口調でたずねた。
「満足していますわ」雌狼は狼の言葉で答えた。
「それはよかった」老人も狼の言葉で言った。
「おれをのぞく世界中の人間は狼語がしゃべれるのかね?」シルクが辛辣に言った。
「鍛えてあげようか?」とガリオン。
「よけいなお世話だ」
そのあと、白髪の老人はみんなの先に立ち、危なっかしい足どりで青々とした芝生を横切り、正面に広いきらめく階段のある大理石の大きな建物に近づいた。「この家は、第三の時代のはじめにあなたがたのために用意されたものだ、ベルガラスどの」老人は言った。「その最初の石が積まれたのは、あなたが〈永遠の夜の都市〉から〈師《アルダー》の珠〉を取りかえした日のことだった」
「あれはずいぶん昔のことだ」魔術師はつぶやいた。
「当初、ひとつの時代は長かった」ダランは同意した。「いまは短くなったがね。じゅうぶん休んでくだされ。みなさんの馬の面倒はわしらが見ましょう」それだけ言うと、ダランはまわれ右をして杖にすがったまま自分の家へ引きかえしていった。
「いつかはダル人ももったいぶらずにとっとと出てきて、わけのわからんごたく抜きではっきりしゃべるようになるんだろうな。そして世界は終わる」ベルディンがしかめっつらをした。「中へはいろうぜ。このうちがあのじいさんの言ったように大昔のものなら、ほこりが膝まで積もってるだろうから、掃除をする必要がある」
「きれいにしようというの、おじさんが?」ポルガラが笑い声をたて、かれらは大理石の階段をのぼりはじめた。
「泥ならいくらあってもへっちゃらだがな、ポル、ほこりは鼻がむずむずするんだよ」
だが、家の中はしみひとつなかった。窓にさがった紗のカーテンがかぐわしい夏の微風に揺れている。家具は見た目には作りも妙で、ふるめかしかったが、すわり心地は快適だった。壁は不思議なカーヴを描いており、角がない。
かれらはこの不思議な家に慣れようと、あちこちさまよい歩いた。やがて一同は丸天井の大きな中央の部屋に集まった。小さな泉からあふれた水が一方の壁をしたたり落ちている。
「裏口がひとつもない」シルクが批判的に言った。
「逃げだすつもりだったの、ケルダー?」ヴェルヴェットがたずねた。
「そういうわけじゃないさ。しかし、必要が生じた場合のために、選択の余地がないと困るだろ」
「もしものときは窓から飛びおりればいいわ」
「それはしろうとのやることだよ、リセル。窓から飛びだすのは、学園の一年ぼうずだけだ」
「わかってるわ。でも、ときには状況に甘んじなくちゃならないこともあるんじゃなくて」
ガリオンの耳に奇妙なつぶやきが聞こえた。はじめは泉の音かと思ったが、水の流れる音とはちがう。「外へ出てあたりのようすを調べたら、ダル人たちが気にすると思うかい?」ガリオンはベルガラスにたずねた。
「もう少しようすをみよう。われわれはいわばここへ入れられたわけだからな。ずっとここにいることになるのか、それとも他になにかあるのか、まだわからん。無謀なまねをする前に、事態を確かめてみよう。ここのダル人たち――中でもシラディス――は、われわれに必要ななにかを持っているのだ。かれらを怒らせないことだ」ベルガラスはダーニクを見た。「シラディスがいつここへくるのかトスはなにか言ったかね?」
「べつになにも。しかし、そう時間はかからないような印象を受けましたよ」
「そいつはあまり当てにならないぜ、兄弟」ベルディンが言った。「ダル人の時間の観念は普通じゃないんだ。年よりも時代で時間をたどるんだからな」
ザカーズはさきほどから、水のしたたる泉から数ヤード離れた壁をじろじろながめていた。「気づいたかね、この壁は漆喰もないのにつながっている」
ダーニクがザカーズのそばにきて、ナイフを鞘から抜き、大理石の板と板のあいだの隙間をナイフで探った。「ほぞ穴とほぞだ」鍛冶屋は考えこむように言った。「それもじつにぴたりとあっている。この家を建てるには何年もかかったにちがいない」
「すべてがその方法で組み合わされているとすると、都市の建設には何世紀もかかったことになる」ザカーズが言い添えた。「ダル人たちはこういう方法をどこで学んだのだろう? それはいつのことだろう?」
「おそらく第一の時代だろう」ベルガラスが口をはさんだ。
「その言いかたはやめろ、ベルガラス」ベルディンがいらだたしげにさえぎった。「やつらとそっくりじゃないか」
「つねにわしは地元の習慣に従おうとしているのさ」
「よくわからないな」ザカーズが不満をもらした。
「第一の時代とは、人間の創造からトラクが世界を打ち砕いた日までの時期をいうのだ」ベルガラスが説明した。「黎明期はやや曖昧でな。わしらの師は、師とその兄弟がいつ世界を創ったかについては、あまりはっきりしたことは言われなかった。神々のだれひとりとしてそのことを話したがらないのは、神々の父がそれを認めようとなさらなかったからだろう。だが、世界が粉砕された時期は、きわめてはっきりと示されている」
「それが起きたとき、あなたはいたんですか、レディ・ポルガラ?」サディが興味しんしんでたずねた。
「いいえ」ポルガラは答えた。「妹とわたしが生まれたのはそれからもう少しあとよ」
「どのくらいあとです?」
「二千年かそこらじゃなかったかしら、ね、おとうさん?」
「そのぐらいだな、ああ」
「ぞっとしますよ、あなたがたが気も遠くなりそうな歳月を一日二日のようにあしらうのを聞くと」サディは身ぶるいした。
「どうして世界が粉砕される前に、ダル人がこの建築工法を身につけたと思うのだ?」ザカーズがベルガラスにたずねた。
「『いにしえの書』のいくつかのくだりを読んだのさ」老人は言った。「ダル人の歴史を詳細につづった本でな。世界が打ち砕かれ、〈東の海〉がなだれこんだあと、おまえさんたちアンガラク人はマロリーへ逃げた。ダル人は最後にはアンガラク人と折り合いをつけなくてはならないことを知っていたから、素朴な農夫を装うことに決めたのだ。かれらは都市という都市を――このひとつだけをのぞいて――ばらばらにした」
「どうして、ケルには手をふれずに出ていったのだろう?」
「分解する必要がなかったのだ。ほんとうに心配すべき相手はグロリムだったし、グロリムはここへはこられない」
「だが、グロリム以外のアンガラク人ならこられるぞ」ザカーズは抜け目なく言った。「どうしてこのような都市の存在をアンガラク人は政府に報告しなかったのだろう?」
「たぶん忘れるようにしむけられているからよ」ポルガラが言った。
ザカーズは鋭く彼女を見た。
「じっさいはそれほどむずかしいことじゃないわ、ザカーズ。たいていは、それとなくほのめかすだけで記憶を消せるのよ」いらだたしげな表情がポルガラの顔を横切った。「あのぶつぶついう音はなんなの?」
「おれにはなにも聞こえないけどなあ」シルクがけげんそうに言った。
「じゃ、あなたの耳には栓がしてあるのよ、ケルダー」
日が沈むころ、やわらかな白いローブを着た数人の娘が、夕食の盆を運んできた。
「そういうことは世界中どこでも同じなのね」ヴェルヴェットが娘のひとりに皮肉めかして言った。「男たちはすわって談笑し、女が食事の用意をする」
「まあ、わたしたちは気にもしていませんわ」娘は熱っぽく答えた。「食事の支度をするのは名誉なことです」娘はとても大きな黒い目と、つやのある茶色の髪をしていた。
「そういう考えが事態をますます悪くするのよ」とヴェルヴェット。「最初に男たちはわたしたち女にそういう仕事を全部押しつけておいて、あとでわたしたちがそれを好きでやっているんだと思わせるんだわ」
娘はおどろいたようにヴェルヴェットを見たあと、おかしそうに笑った。それからやましげにあたりを見まわし、赤くなった。
ベルディンは娘たちがはいってくるなり、クリスタルの酒瓶をつかんでいた。酒杯になみなみと酒を注ぎ、がぶりと飲んだとたん、のどを詰まらせたような音をたてて、紫がかった液体を室内にブーッと吐きだした。「なんだ、こりゃ?」ベルディンは憤慨してわめいた。
「フルーツジュースです」黒髪の娘が安心させるように言った。「とても新鮮ですわ。ついけさがたしぼったばかりです」
「長時間置いて発酵させないのか?」
「悪くするということでしょうか? まあ、とんでもない。変な臭いがしたら、捨ててしまいます」
ベルディンはうめいた。「エールはどうなんだ? ビールは?」
「なんですの、それ?」
「いけすかないところだぜ、ここは」ちびの魔術師はベルガラスに文句を言った。
だが、ポルガラの顔にはしてやったりの笑みが浮かんでいた。
「ありゃいったいどういうつもりだったんだ?」ダラシアの娘たちがいなくなると、シルクはヴェルヴェットにたずねた。「あのおしゃべりのことさ」
「根まわしよ」ヴェルヴェットは謎めかして答えた。「会話のとっかかりを作るための手段」
「これだからな、女は」シルクはためいきをついて、天井を仰いだ。
ガリオンとセ・ネドラはすばやく目を見交わした。ふたりとも結婚当初、それとまったく同じ調子で、ほとんど同じことを何度も言い合ったことを思いだしたのだ。ふたりは声をそろえて笑った。
「なにがそんなにおかしいんだ?」シルクが疑うようにきいた。
「べつに、ケルダー。なんでもないの」セ・ネドラは言った。
ガリオンはその晩よく眠れなかった。耳の奥のつぶやきが、眠りこみそうになるたびに、意識を引きもどすのだ。翌朝起きたときは、目がざらざらして頭がぼうっとしていた。
中央の大きな部屋へ行ってみると、ダーニクがいた。鍛冶屋は泉のそばの壁に耳を押し当てていた。
「どうかした?」ガリオンはたずねた。
「あの音の出どころを突き止めようとしているんだ。鉛管の中の音かもしれない。この泉の水にも、源があるはずだからね。たぶん、パイプが引いてあるんだ。そしてそのパイプが床下か、壁の中を通っているんだよ」
「パイプを流れる水があんな音をたてるかい?」
ダーニクは笑った。「パイプがどんな音をたてるか、きみにはわからないだろうな、ガリオン。一度、見捨てられた町を見たことがある。だれもがその町には幽霊が出ると思っていた。その薄気味悪い音は、市の水源から出ていたんだ」
サディがふたたび虹色のローブを着て、部屋にはいってきた。
「カラフルだね」ガリオンは言った。この数ヵ月、宦官はチュニックとズボンとセンダリアの短いブーツばかり身につけていた。
サディは肩をすくめた。「どういうわけか、けさはホームシックになりましてね」かれはためいきをついた。「あの山を見ることがなかったら、満足しきって人生を終わらせることができたのにと思いますよ。なにをしているんです、善人ダーニク? 建築工法を調べているんですか?」
「いや。あの音の原因をつきとめようとしているんだ」
「どの音です?」
「聞こえるはずだよ」
サディは首をかしげた。「窓の外の小鳥たちのさえずりなら聞こえますがね。近くに小川があるのもわかる。しかし、聞こえるのはそれだけですよ」
ガリオンとダーニクは思案げにじっと視線を交わした。「シルクもきのう、この音が聞こえなかった」ダーニクは思いだして言った。
「みんなを起こしてこようか?」
「気を悪くするよ、ガリオン」
「そのうちなおるさ。重要なことのような気がするんだ」
みんなが一列になってぞろぞろとはいってきたとき、不機嫌な目が何対かガリオンに向けられた。
「どういうことなんだ、ガリオン?」ベルガラスがたまりかねてたずねた。
「実験とでもいったらいいかな、おじいさん」
「おまえの実験で他人の時間をむだにするな」
「まあ、けさのわたしたち[#「わたしたち」に傍点]はご機嫌ななめですわね」セ・ネドラが老人に言った。
「よく眠れなかったんだ」
「おかしいわ。わたしは赤ちゃんみたいにぐっすり眠れたのに」
「ダーニク」ガリオンが言った。「あそこに立ってくれるかな?」と、部屋の片側を指さした。「サディ、あんたはあっちだ」と別の側を指さした。「二、三分で終わるよ」ガリオンはみんなに言った。「ひとりひとりに小声で質問するから、イエスかノーで答えてほしいんだ」
「どうかしたんじゃないのか?」ベルガラスがむっつりと言った。
「みんな、自分の聞いた質問について話し合わないでくれよ、実験がだいなしになる」
「徹底した科学的原則にのっとってるな」ベルディンがうなずいた。「ガリオンの言うとおりにやろうぜ。好奇心をそそられたよ」
ガリオンはひとりひとりに簡単な質問をささやいた。「あのぶつぶついう音が聞こえるか?」返事にしたがって、ひとりひとりをサディかダーニクの側にふりわけた。実験はすぐに終わり、ガリオンの疑問を裏づける結果が出た。ダーニク側にいるのは、ベルガラス、ポルガラ、ベルディン、そして――意外にも――エリオンドだった。サディの側には、シルク、ヴェルヴェット、セ・ネドラ、ザカーズが立った。
「そろそろこのくだらん実験を説明してくれるんだろうな?」ベルガラスがたずねた。
「全員に同じ質問をしたんだ、おじいさん。おじいさんの側にいるのは、あの音が聞こえた者だ。あっちにいる連中には聞こえていない」
「聞こえないはずがなかろう。あのせいで、わしはろくろく眠れなかったんだぞ」
「だからけさはそんなにぷりぷりしてるんだな」ベルディンが言った。「みごとな実験だったぜ、ガリオン。さ、このもうろくじじいにわけを説明してやれよ」
「むずかしいことじゃないんだ、おじいさん」ガリオンはなだめる口調になった。「あんまり単純なんで、見落としているんだよ。あの音が聞こえるのは、おじいさんがよく言ってた能力≠持っている者だけなんだ。普通の人には聞こえないんだよ」
「嘘じゃありませんよ、ベルガラス」シルクが言った。「おれにはなんの音も聞こえない」
「わたしはケルを見た瞬間から、ずっと聞いていたよ」ダーニクがつけたした。
「不思議だろうが?」ベルディンがベルガラスに言った。「もうちょい踏みこんで考えてみるか、それとも、ベッドにもどりたいか?」
「ばかを言うな」ベルガラスはうわの空で答えた。
「ようし、じゃ、先へ進むぜ」ベルディンがつづけた。「ここでは普通の人間には聞こえないが、おれたちには聞こえる音がする。そこからすぐにもうひとつのことを思いつけるが、どうだ?」
ベルガラスはうなずいた。「だれかが魔術を使っている音だ」
「だとしたら、これは自然の音ではないな」ダーニクは考えこんだが、ふいに笑いだした。「実験してくれて感謝するよ、ガリオン。もうちょっとで床をはがすところだった」
「なんの話?」ポルガラがたずねた。
「どこかの水のパイプから出る音だと思ったんだ」
「しかし、これは魔術ではない」とベルガラス。「魔術のときに発生するのと同じ音には聞こえないし、同じ音には感じられん」
ベルディンがべとべとに固まった髭を考え考えしごいた。「なんでそう思う? ここの連中はケルへこようとするグロリムや、グロリムの一団を全部片づけられる力を持ってるんだぜ。だったら、なんでわざわざあんな呪いをかけるんだ?」
「言っている意味がよくわからんな」
「大部分のグロリムは魔術師だ、だろう? だから、やつらにだってこの音は聞こえる。例の呪いが、グロリムどもを遠ざけてこの音を聞かれないようにするためのものだとしたらどうだ?」
「ちょっとややこしい話ではないかね、ベルディン?」ザカーズが疑い深そうにたずねた。
「そんなこたないさ。じっさい、おれの話は単純だよ。じっさいにはこわくもない相手を遠ざけるための呪いなんて、意味が通らん。これまでだれもが例の呪いはケルそのものを守るためにあると考えていたが、それだって、意味が通らんよ。もっと大事な守るべきものが他にあると考えたほうが、単純だろう?」
「聞かれたら大変だとダル人が思うようなどんなことが、この音にあるのかしら?」ヴェルヴェットが混乱したようにたずねた。
「ようし。音とはなんだ?」
「またそれを持ちだすのはやめてくれんか」ベルガラスがためいきをついた。
「森の中の音の話じゃない。音とは、意味がなければ単なる雑音だ。意味のある音をおれたちはなんて呼ぶ?」
「話、かな?」シルクが思いきって言った。
「そのとおり」
「わからないわ」セ・ネドラがすなおに言った。「ダル人は秘密にしておきたいどんなことをしゃべっているのかしら? どうせかれらの言っていることはだれにもわからないのに」
ベルディンがお手あげだというように両手を広げた。しかしダーニクは思案のしわを顔に刻んで、行ったりきたりしている。「もしかすると、なにを[#「なにを」に傍点]言っているかではなくて、どう[#「どう」に傍点]言っているかの問題かもしれない」
「これでもわかりにくいといっておれ[#「おれ」に傍点]を非難するか?」ベルディンがベルガラスにつめよった。
「どういうことだ、ダーニク?」
「手探りしているところですよ。あの雑音、というか音――なんとでも好きに呼べばいいが――はだれかが人を蛙に変える合図ではない」そこで言葉を切ると、鍛冶屋はたずねた。「わたしたちはほんとうにそんなことができるんでしょうか?」
「そうさ」とベルディン。「しかし、そんな手間をかけることはない。蛙ってやつはすごい速度で繁殖するんだ。どうせいらいらさせられるんなら、百万匹のいまいましい蛙どもより、人間ひとりのほうがまだましだ」
「すると、あれは魔術がたてる音ではないわけだ」ダーニクはつづけた。
「おそらくな」ベルガラスが同意した。
「セ・ネドラの言うとおりだと思うんですよ。ダル人がなにを言っているのか、だれにもほんとうは理解できない――ダル人以外はね。わたしもシラディスの言っていることが半分はわからないんです」
「すると、どういうことになる?」ベルディンが目を光らせて真剣にたずねた。
「わかりません。しかし、なにを[#「なにを」に傍点]よりもいかに[#「いかに」に傍点]のほうが重要だという気がするんです」ダーニクは急にまごついた顔になった。「しゃべりすぎましたよ。わたしよりもあなたがたの中に、このことについてもっと言いたいことがある人がいるにきまっている」
「おれはそうは思わないぜ」とベルディン。「おまえはいい線まできてるよ。もうちょいだ」
ダーニクはいまではほんとうに汗をかいていた。考えをまとめようと、かれは片手で目をおおった。ガリオンは部屋中の者が息をつめて、自分たちにはおよそ理解できない考えをまとめようと努力している古くからの友人を見守っているのに気づいた。
「ダル人が守ろうとしているものがあるにちがいないんだ」鍛冶屋はつづけた。「それは、すくなくともかれらにとってはごく単純なものにちがいない。だが、かれらはそれを他のだれにも理解されたくないんだ。トスがここにいてくれたらなあ。かれなら説明できるかもしれん」つぎの瞬間、ダーニクの目が大きく見開かれた。
「どうしたの、ディア?」ポルガラがたずねた。
「そんなはずはない!」鍛冶屋は急にひどく興奮して叫んだ。「まさか!」
「ダーニク!」ポルガラがじれったそうに言った。
「おぼえているかね、トスとわたしがはじめて話を交わしたときのことを――つまり、手振り身振りでだが?」ダーニクはろくすっぽ息もつがずに、猛烈な早さでしゃべりだした。「われわれは一緒に働いていたんだ。人間は他人と一緒に働いていると、相手のしていることが正確にわかるようになる――相手の考えていることまでもだ」ダーニクはシルクを見つめた。「きみとガリオンとポルはあの指言葉を使うだろう」
「ああ」
「トスのジェスチャーを見たことがあるね。手を二、三度振るだけで――トスがやるように――かなり多くのことを伝えられる。秘密言葉にもあれだけのことができるかね?」
ガリオンにはもう答えがわかっていた。
シルクの声は当惑に満ちていた。「いや。無理だ」
「だがわたしはトスが言おうとしていることが正確にわかるんだ。ジェスチャーにはなんの意味もない。トスはかれがほんとうにしていることの合理的説明をわたしに与えるために、ジェスチャーをするだけなんだ」ダーニクの顔に畏怖が広がった。「かれはわたしの意識にじかに言葉を植えつけてきたんだ――しゃべることもしないで。かれはそうしなければならないんだ、なぜなら、しゃべることができないからさ。われわれが聞いているこのつぶやきがそれと同じものだったら? それがダル人同士の話だとしたら? そして遠い距離をへだててかれらにそれができるとしたら?」
「そして、時をもへだててだ」ベルディンが驚きに満ちた声で言った。「おれたちが最初にここについたとき、おまえのでかい、物静かな友だちがなんて言ったかおぼえてるか? かれはこう言った、ダル人がこれまでにしたことで忘れられたことはひとつもないし、生きているすべてのダル人は、死者となったすべてのダル人が知っていたことを残らず知っていると」
「ばからしいことを言うな、ベルディン」ベルガラスがフンと鼻を鳴らした。
「いいや。ばからしいもんか。蟻はそれをやる。蜂だってそうだ」
「わしらは蟻ではない――蜂でもない」
「おれは蜂のできることはたいがいできるぜ」ベルディンは肩をすくめた。「蜂蜜作りをのぞいてな――それにおまえさんだってまあまあの蟻塚を作れるだろ」
「なんの話をしているのか、どっちかが説明してくれないかしら?」セ・ネドラが眉を八の字にして聞いた。
「集団意識の可能性をほのめかしているのよ、ディア」ポルガラがばかに静かに言った。「あまりうまくやっているとは言えないけれど、そっちのほうへ手探りで進んでいってるわ」彼女はふたりの老人に恩きせがましい笑顔を向けた。「個々にはあまり知性的ではないけれど、集団になるととても賢くなる動物が――たいがいは昆虫だけど――いるの。一匹の蜂はあまり利口じゃないけれど、蜜蜂の巣はこれまで起きたことをすべて知っているわ」
雌狼が大理石の床にカチカチと爪の音をたててはいってきた。子狼が急いであとからついてくる。「狼もそれをやりますわ」雌狼はそう言って、これまでのやりとりを戸口で聞いていたことを教えた。
「なんて言ったんだ?」シルクがたずねた。
「狼も同じことをするってさ」ガリオンは通訳した。そのときかれはあることを思いだした。「一度ヘターと話していたとき、かれが馬も同じだと言っていたよ。馬は自分たちを一頭一頭とは考えずに、群れの一部として考えるとね」
「ほんとうに人間にそんなことができるのかしら?」ヴェルヴェットが信じられないようにたずねた。
「つきとめる方法がひとつあるわ」ポルガラが答えた。
「いかん、ポル」ベルガラスがばかにきっぱりと言った。「危険すぎる。ひきずりこまれて、二度ともどれなくなるかもしれん」
「いいえ、おとうさん」ポルガラは冷静に答えた。「ダル人はわたしを入れてくれないかもしれないけれど、わたしを傷つけたりはしないわ。わたしが立ち去りたいと言えば、出してくれるわ」
「どうしてそんなことがわかる?」
「わかるのよ」そう言って彼女は目を閉じた。
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ポルガラがその美しく整ったかんぺきな顔を上向けるのを、一同は不安そうに見守った。彼女は目を閉じて、意識を集中させた。やがて奇妙な表情が浮かんだ。
「どうだ?」ベルガラスがたずねた。
「静かにして、おとうさん。聴いているところよ」
ベルガラスは立ったまま、いらいらと椅子の背を指でたたき、他の者たちは息を殺して見守った。
ようやくポルガラはどことなく名残おしげなためいきとともに、目をあけた。「とてつもなく大きいわ」彼女は声をひそめるようにして言った。「ケルの人々がこれまでに持ったすべての思考と――すべての記憶を有しているのよ。黎明期の記憶さえあって、かれらのひとりひとりがそれを共有しているの」
「それで、おまえも共有したのか?」ベルガラスはたずねた。
「しばらくはね、おとうさん。かれらがわたしに垣間見せてくれたのよ。でも、いくつかの部分は見えないようにさえぎられているわ」
「やっぱりな」ベルディンが顔をしかめた。「おれたちをちょっとでも有利にするものには、近寄らせまいとしているんだ。この世のはじめっから、連中はよそものを排除する柵の上にすわってるのさ」
ポルガラはふたたびためいきをついて、低い寝椅子に腰をおろした。
「大丈夫か、ポル?」ダーニクが気づかってたずねた。
「なんでもないわ、ダーニク」ポルガラは答えた。「これまで経験したことのないものをしばらく見たせいよ。かれらのほうから立ち去るように言ったわ」
シルクの目がかすかに細まった。「おれたちが外へ出てあたりのようすをうかがったら、ダル人たちは怒るかな?」
「そんなことないわ。気にもとめないわよ」
「じゃ、つぎにおれたちが取るべき手段はそれだな」シルクは言った。「最後の選択をするのがダル人で、すくなくともシラディスがそのひとりだってことはわかってる。だが、このダル人たちの集団霊がシラディスにある方向を与えようとしているのかもしれない」
「そいつはじつにおもしろい表現だな、ケルダー」ベルディンが言った。
「え?」
「集団霊さ。どうやって思いついた?」
「言葉には凝るたちでね」
「けっきょくおまえにもなにがしかの希望はあるのかもしれんな。そのうちじっくり話し合う必要がありそうだ」
「仰せのとおりにするよ、ベルディン」シルクははでなお辞儀をしてから、つづけた。「とにかく、事態を決定するのはダル人なんだから、かれらをもっとよく知るべきだと思うんだ。かれらがまちがった方向に向かっているとしたら、おれたちで訂正してやれるかもしれない」
「全体としてまわりくどい感じはありますが、悪い考えではなさそうです」サディがつぶやいた。「しかし二手に別れるべきですね。そのほうが調査範囲が広がります」
「朝食後ただちに行動開始だ」ベルガラスがうなずいた。
「朝食後?」ガリオンは一刻も早く調査をはじめたかった。
「わしは腹がへっているのだ、ガリオン。腹がへっていると頭が働かんのだよ」
「なるほどそうだったのか」ベルディンがそっけなく言った。「もっとおまえが若いときに、いっぱい食わせておくんだったよ」
「おまえというやつは、ときどきじつに鼻持ちならなくなるな、わかってるのか?」
「そりゃわかってるさ」
昨夜と同じ娘たちの一団が朝食を運んできた。ヴェルヴェットは目の大きな、つややかな茶色の髪の娘をわきへ連れていって、二言、三言話をした。それからテーブルにもどってきて、みんなに報告した。「彼女の名前はオナテルですわ。セ・ネドラとわたしを彼女たちが働いている場所へ招待してくれました。若い女の子は大のおしゃべりですから、きっとなにか役に立つことがわかると思います」
「オナテルといったら、ヴァーカト島でわたしたちが会ったあの女予言者の名前じゃありませんか?」サディが言った。
「ダラシアの女性にはよくある名前なのだ」ザカーズが説明した。「あのオナテルはもっとも名誉ある女予言者のひとりだった」
「しかしヴァーカト島はクトル・マーゴスにあるんですよ」サディは指摘した。
「それほど不思議なことではない」ベルガラスが言った。「以前から、ダル人とクトル・マーゴスの奴隷族には密接なつながりがあり、絶えず連絡を取り合っているというきわめて明瞭な徴候があったのだよ。あらためてそれが確認されただけのことだ」
朝の太陽は暖かく、あかるかった。かれらは家から出て四方へぶらぶらと歩きだした。ガリオンとザカーズは鎧を脱ぎ、剣を置いてきたが、ガリオンは〈珠〉だけはベルトに結びつけた小袋にこっそり忍ばせてきた。ふたりは露のおりた芝生を横切って、都市の中心にほど近い大きな建物群のほうへ歩いていった。
「その石にはいつもばかに慎重なんだな、ガリオン」ザカーズが言った。
「慎重というのが正確な表現かどうかわからないが、まあ、そうかもしれないね――広い意味では。〈珠〉はじつに危険だからね、偶然これが人を傷つけるような事態になってほしくないんだ」
「どんなことをするんだ?」
「よくわからない。これがだれかになにかをするところは見たことがないからね――トラクをのぞいて。だが、あれは剣のしたことかもしれないんだ」
「〈珠〉にさわれるのは世界できみひとりなんだな?」
「そんなことないさ。エリオンドは二年間これを持って歩きまわっていたんだ。かれはこれを人々に与えようとしつづけた。その人々というのは、ほとんどアローン人だったから、〈珠〉を奪うようなばかなまねはしなかったよ」
「すると、それにさわれるのはきみとエリオンドだけなのか?」
「ぼくの息子もさわれる」ガリオンは言った。「息子が生まれた直後、ぼくは〈珠〉をさわらせたんだ。〈珠〉は息子に会ってとても喜んだよ」
「石が? 喜んだ?」
「他の石とはちがうのさ」ガリオンは微笑した。「ときにはいささかハメをはずすこともある。夢中になってわれを忘れてしまうんだ。場合によっては、ぼくは自分の考えることにすごく気を使わなくちゃならない。ぼくがほんとうになにかを求めていると判断したら、石が単独で行動するかもしれないからね」ガリオンは笑った。「一度、トラクが世界を粉砕したときのことを想像していたんだ。すると、石は進んで世界につぎを当てる方法をぼくに教えようとしたよ」
「バカな!」
「いや、ほんとさ。石には不可能≠ニいう言葉の概念がないんだ。ぼくがほんとうに望めば、空にぼくの名前をつづることだってできるだろうな」ベルトにつけた小袋がうごめいた。「やめろ!」ガリオンは〈珠〉を叱った。「いまのは単なる説明だ、要求じゃない」
ザカーズがまじまじとガリオンを見ていた。
「グロテスクだと思わないか?」ガリオンは皮肉めかして言った。「夜空の地平線から地平線までベルガリオン≠フ文字が横ぎっているなんて?」
「なあ、ガリオン、わたしはこれまでずっと、いつかはきみとわたしが戦いあう日がくると信じてきた。わたしがそれを断念したら、失望するか?」
「耐えられるとは思うけどね」ガリオンはにやりとしてみせた。「他になにごともなければ、ぼくはあんたなしでもいつでもスタートできるよ。あんたはときどきようすを見に立ち寄ればいい。セ・ネドラが夕食を作ってくれるさ。もちろん、あまり腕のいいコックじゃないが、多少の犠牲はやむをえないだろう?」
ふたりはしばらく見つめあってから、いっせいに吹きだした。ラク・ウルガで夢想家のウルギットと会ったことからはじまったさまざまなことがらが、これで完結したのだ。ガリオンはアローン人とアンガラク人のあいだの五千年におよぶ憎悪の解消へ向けて、自分が最初の何歩かを踏みだしたことに気づいて、深い満足をおぼえた。
かれらが大理石の通りをぶらつき、きらめく噴水のそばを通り過ぎても、ダル人たちはほとんど注意を向けてこなかった。ケルの住民は瞑想にでもふけっているように、静かに自分たちの行動に従事しており、目はまったく外部に向けられていなかった。会話がさほど必要でないせいで、めったにしゃべることもなかった。
「なんだか薄気味悪いところだな」ザカーズが感想をもらした。「だれもなにもしていない都市には不慣れなのだ」
「いや、かれらだってちゃんとなにかをしているさ」
「わたしの言う意味はわかるだろう。店の一軒もなければ、通りを掃いている者さえいないのだぞ」
「まあ、ちょっと変といえば変だな」ガリオンはきょろきょろした。「でも、もっと変なのはぼくたちがここへついてから、ひとりの予言者も見かけていないということだ。ここは予言者の都市だと思っていたんだが」
「家にこもっているのかもしれん」
「そうかもしれないね」
朝の散歩はこれといった収穫にならなかった。ふたりはときどき白いローブの市民たちと会話を持とうとした。礼儀正しいのは確かなのだが、ダル人たちは進んでしゃべろうとはしなかった。聞かれた質問に答えるだけなので、会話がすぐに途切れてしまう。
「いらいらさせるやつらだぜ、なあ?」割り当てられた部屋にサディともどってきたとき、シルクが言った。「あんなに会話に興味のない人間の一団にはお目にかかったためしがない。天気の話をしようってやつさえいないんだからな」
「セ・ネドラとリセルがどっちへ行ったか見てなかったかい?」ガリオンがシルクにたずねた。
「町の向こう側のどこかだろ。あの娘たちがおれたちの昼食を運んでくるときに、一緒にもどってくるんじゃないのか」
ガリオンはみんなを見まわしてきいた。「だれか予言者を見かけた?」
「ここにはいないわ」ポルガラが言った。彼女は窓辺にすわって、ダーニクのチュニックのひとつを修繕しているところだった。「ある老女が予言者たちは特別の場所を持っているんだと話してくれたの。それは都市の中じゃないのよ」
「どうやってそのばあさんから答えを聞きだしたんです?」シルクがきいた。
「いたって率直にたずねたのよ。情報がほしかったら、少ししつこいぐらいにしなけりゃだめよ」
シルクの予想どおり、ヴェルヴェットとセ・ネドラは食事運びの娘たちと一緒にもどってきた。
「あなたの奥様はすばらしく頭がよくていらっしゃるわ、ベルガリオン」ダラシアの娘たちが立ち去ったあと、ヴェルヴェットが言った。「まるで頭がからっぽみたいなしゃべりかたをなさいましたのよ。午前中ピーチクパーチクしゃべりっぱなしでしたの」
「ピーチクパーチクですって?」セ・ネドラが反論した。
「そうでしたでしょ?」
「ええ、まあね。でもピーチクパーチク≠セなんて、ずいぶんひどい言いかただわ」
「それには理由があったのでしょうな?」サディが言った。
「もちろんよ」と、セ・ネドラ。「あの娘たちがあまりおしゃべりじゃないってすぐにわかったから、わたしが間を埋めたの。しばらくたったら、彼女たちもぽつぽつしゃべりはじめたわ。わたしがしゃべりまくったから、リセルは彼女たちの顔を観察できたのよ」セ・ネドラは得意げににっこりした。「自分で言うのもなんだけど、かなりうまくいったわ」
「彼女たちからなにか聞きだせたの?」ポルガラがたずねた。
「少しですけれど」ヴェルヴェットは答えた。「とりたててどうということじゃありませんが、いくつかのヒントにはなりました。午後になったら、もうちょっといろいろなことがわかるはずですわ」
セ・ネドラがあたりを見まわした。「ダーニクはどこなの? それにエリオンドは?」
「きまりきってるでしょう?」ポルガラがためいきまじりに言った。
「魚がいそうな場所をどこで見つけたのかしら?」
「ダーニクは数マイル先からでも水の匂いをかぎつけられるのよ」ポルガラがあきらめの口調で言った。「どんな種類の魚がそこにいるかも、どのくらいいるかもわかるの。ひょっとしたら、魚たちの名前だってわかるのかもしれないわ」
「おれなんか、そんなに魚を気にかけたことなんぞ一度もないな」とベルディン。
「ダーニクだって気にかけているのかどうか怪しいものよ、おじさん」
「そんならなんで魚をほっといてやらないんだ?」
ポルガラは力なく両手を広げた。「わたしが知ってるわけないでしょう? 魚釣りをする連中の動機なんて、おそろしくあいまいなものだわ。でも、ひとつだけはっきりしていることがあるの」
「ほう? なんだ、それは?」
「ダーニクとじっくり話し合いたいと何度も言ってたでしょう」
「ああ、そうさ」
「だったら、魚釣りの方法をおぼえたほうがいいんじゃないかしら。そうでもしないと、絶対ダーニクはつかまらないわよ」
「だれかシラディスの噂を知っている人間に会わなかったか?」ガリオンはたずねた。
「ぜんぜん」ベルディンが答えた。
「ほんとうはここにぐずぐずしている時間なんかないんだ」ガリオンはいらだった。
「わたしならだれかから返事を引きだせるかもしれん」ザカーズが言った。「シラディスは、このケルで彼女に会うことをわたしに命じたのだからな」ザカーズはちょっとひるんだ口調で言った。「自分がこんなことを言うとは信じられん。八つのときから、わたしになにかをしろと命令した者などひとりもいなかったのだ。いずれにせよ、わたしの言う意味はわかるだろう。シラディスの命令に従わなくてはならないから、彼女のところへ連れていけと主張できるかもしれない」
「その言葉を使ってると、いまにのどがつまっちゃうぜ、ザカーズ」シルクがからかった。「従うというのは、あんたみたいな地位にある人間にとってはむずかしい概念だからな」
「人をいらだたせるやつだな、かれは」ザカーズはガリオンに言った。
「そうなんだよ」
「まあ、陛下がた」ヴェルヴェットがわざとおどろいたように目を丸くした。「ひどいことおっしゃるのね」
「だが、わたしの言うとおりではないか?」とザカーズ。
「もちろんですわ。でも、それは言ってはいけないことなんです」
シルクはちょっと頭にきたようだった。「あっちへ行ってやろうか? そうすりゃ心おきなくおれの悪口が言えるだろう」
「まあ、そんな必要はなくてよ、ケルダー」ヴェルヴェットがえくぼを見せて言った。
午後になっても、情報はあまり集まらず、実りのない調査がかれら全員をいらだたせた。夕食のあと、ガリオンはザカーズに言った。「やっぱりあんたのアイデアに従ったほうがいいような気がしてきたよ。朝一番に、ふたりであのダランという老人に会いにいかないか? あんたがシラディスに会う予定であることをかれにはっきり言ってやるんだ。少し積極的に行動すべきときだと思う」
「そのとおりだ」ザカーズはうなずいた。
ところが、ダランもまたケルの他の市民同様、さっぱり手ごたえがなかった。「辛抱することじゃ、マロリー皇帝」ダランは言った。「聖なる女予言者はしかるべきときがくればあなたのところへあらわれる」
「それはいつなんだ?」ガリオンはつっけんどんにたずねた。
「シラディスが知っておる。ほんとうに重要なのはそのことだけなのだ、ちがうかね?」
「ダランがあんな弱々しいじいさんじゃなければ、しめあげて返事を聞きだしてやったのに」歩いて家まで引きかえす途中、ガリオンはザカーズに言った。
「こういう中途半端な状態がさらにつづくようなら、かれの年齢や健康など無視するぞ。このように質問をはぐらかされるのは、わたしの習慣ではないのだ」ザカーズも言った。
ガリオンとザカーズが広い大理石の階段にたどりついたとき、反対側からヴェルヴェットとセ・ネドラが帰ってきた。ふたりとも急ぎ足で、セ・ネドラのほうは勝ち誇った表情を浮かべている。
「ついに役に立つ情報を仕入れましたわ」ヴェルヴェットが言った。「中へはいって、すぐにみんなに話しましょう」
一同がふたたび丸天井の部屋に集まると、金髪の娘はまじめそのものの口調でしゃべりだした。「これはあまり正確な情報ではありませんけど、ここの住民から聞きだせるのはこれで精一杯だと思うんです。けさ、セ・ネドラとわたしは例の娘たちが働いている家へもう一度行ってみました。彼女たちははた織りをしていました。そういうことをしていると、人間は警戒心がゆるむんです。とにかく、あの目の大きな娘オナテルはそこにいなくて、セ・ネドラが例によっておつむの軽い表情を作り――」
「そんなことしなかったわ」セ・ネドラが憤慨したように言った。
「あら、でもしてらしたのよ、ディア――それもかんぺきだったわ。セ・ネドラは無邪気そのものといったようすで、目を大きく見開き、娘たちにたずねたんです。わたしたちの大事なお友だち≠フ姿が見えないが、どこにいるのかって。すると、娘のひとりがうっかり口をすべらせたんですの。オナテルは予言者たちの場所≠ナ仕事をするために呼ばれて行ったと言ったんです。すると、セ・ネドラの目がいちだんと――そんなことが可能なら、ですけど――うつろになり、それはどこなのかときいたんです。だれも答えませんでしたが、ひとりの娘が山のほうへ視線をやったんです」
「あの化物みたいな山を見ずにすませられる人間なんかいないぜ」シルクがせせら笑った。「その情報はあまり信用ならないな、リセル」
「その娘ははた織りをしていたのよ、ケルダー。わたしも何度かしたことがあるわ。あれは絶対に目を離せないものなの。彼女はセ・ネドラの質問に答えるように目を山へ向けたあと、あわてて視線をもどしてへまをとりつくろおうとしたわ。わたしだって学園の生徒だったのよ、シルク。あなたに負けないぐらい人の心は読めるんですからね。あの娘の行動は、大声で返事を叫んだも同然よ。予言者たちはあの山のどこか上のほうにいるんだわ」
シルクは顔をしかめた。「リセルの言うとおりらしいや。学園で力を入れていることのひとつが、それなんだ。自分の求めているものを知っていれば、他人の顔は開いた本みたいに読める」かれは肩をそびやかした。「なあ、ザカーズ、おれたちは思っていた以上に早くあの山へ登ることになりそうだぞ」
「わたしはそうは思わないわ、ケルダー」ポルガラがきっぱりと言った。「一生の半分をかけてあそこの氷河をつつきまわっても、あなたに予言者たちは発見できないわよ」
「なにかもっといい考えでもあるんですかい?」
「いくつかね」ポルガラは立ちあがった。「いらっしゃい、ガリオン。あなたもよ、おじさん」
「なにをしようというんだ、ポル?」ベルガラスが問いつめた。
「上から見てくるのよ」
「山を見ることにちがいはないじゃないですか」シルクが文句を言った。
「でも、ひとつだけちがいがあるわ、ケルダー」ポルガラはやさしく言った。「あなたは飛べないでしょ」
「そりゃまあ、そういうやりかたをするんならね」シルクはつまらなそうだった。
「するのよ、シルク。それが女であることの利点のひとつなの。わたしはありとあらゆる不公平な手段を使うようにできてるし、あなたはそれを受け入れざるをえないの。だって、受け入れないのはあまりにもおとなげないでしょう」
「彼女に分あり[#「分あり」に傍点]、だな」ガリオンはつぶやいた。
「きみはそう言いつづけているな」ザカーズがわけがおからないという顔をした。「どうしてだ?」
「アローンのジョークなのさ」
「少し時間を節約したらどうだ、ポル?」ベルガラスが提案した。「空へ飛び立つ前に、あの集団意識から裏づけがとれるかどうかやってみてくれ」
「名案ね、おとうさん」ポルガラは目を閉じ、あごをあげた。しばらくしてから、彼女はかぶりをふった。「もう入れてくれないわ」
「それ自体、裏づけみたいなもんじゃないか」ベルディンが笑った。
「どういうことですか」サディが剃りたての頭をこすりながら言った。
「ダル人は利口かもしれないが、あまりずるがしこくないんだよ」ベルディンはサディに説明した。「おれたちの仲間のふたりの娘は、ある情報を拾いあげた。その情報が正しくなければ、ポルを締めだす理由がない。ポルが締めだされたということは、おれたちがなにかをつかんだということさ。都市の外へ出よう」かれはポルガラに言った。「そうすれば秘密が洩れる心配がないだろう」
「ぼくはそんなにうまく飛べないよ、ポルおばさん」ガリオンは疑わしげに言った。「ほんとうにぼくが必要なのかな?」
「危険を冒したくないのよ、ガリオン。もしダル人たちがこの家に帰れなくなるような手段を講じたら、それを突破するために〈珠〉を使う必要が生じるかもしれないでしょう。第一、一緒にきてくれれば、手間がはぶけるわ」
「なるほど。そのとおりだね」
「連絡を絶やすな」三人がドアに向かったとき、ベルガラスが言った。
「言われるまでもないことだ」ベルディンがうなった。
いったん芝生まで出ると、ちびの魔術師は目を細めてあたりを観察した。「あそこだろうな」と指さした。「町はずれのあの茂みなら、おれたちのしていることを隠してくれそうだ」
「そうね、おじさん」ポルガラが同意した。
「もうひとつ、ポル。おれは腹をたてないように努力してるんだ」
「めずらしいこと」
「けさのおまえさんはなかなかいい女だ」ベルディンはにやにやした。「とにかく、ああいう山はみずから気候を左右する――とりわけ、風をな」
「ええ、わかってるわ、おじさん」
「おまえさんが真っ白な梟《ふくろう》に目がないのは知ってるが、あれの羽根は柔らかすぎる。突風に巻きこまれたらすっぱだかにされちまうぞ」
ポルガラは険しい目で長々とベルディンをにらみつけた。
「羽根をはたき落とされたいのか?」
「いいえ、おじさん、実際問題としてそれはごめんだわ」
「だったら、おれの流儀にならっちゃどうだ? 鷹も悪くないと思うかもしれんぞ」
「青い縞もようの?」
「まあ、それはおまえしだいだが、青はおまえさんに似合うぜ、ポル」
「うまいこと言うのね」ポルガラは笑った。「いいわよ、おじさんの流儀にならうわ」
「おれが最初に変身する。そうすりゃ、おれをモデルにして正確な姿になれるだろう」
「鷹がどんな姿をしているかぐらい知ってるわ、おじさん」
「そりゃ知ってるだろうよ、ポル。おれはただ役に立ってやろうとしているだけさ」
「ご親切に」
狼以外のものに変身するのはひどく妙な感じだった。ガリオンは慎重に全身を見まわし、頭上の枝に猛々しい目つきで威厳たっぷりにとまっているベルディンと自分を何度も比較した。
「上出来だ」ベルディンが言った。「ただし、このつぎは尾の羽根をもうちょっとふっくらさせろよ。舵とりに必要なんだ」
ポルガラが近くの枝から言った。「いい、紳士がた、はじめましょう」
「おれが先頭だ」ベルディンが言った。「経験を積んでるからな。下向きの風にぶつかったら、山から離れるんだぞ。あっちの岩壁にぶちあたりたくないだろう」ベルディンは翼をひろげ、二、三度はばたいて飛び立った。
ガリオンが以前空に舞いあがったのは、たった一度、ゲラン誘拐の報を聞いてジャーヴィクショルムからリヴァまでの長距離を飛行したときだった。そのときは斑点のある隼《はやぶさ》となって飛んだ。青い縞もようの鷹は隼よりはるかに大きく、山岳地帯の飛行は〈風の海〉の広大なひろがりの上を飛ぶのとは、まるでちがっていた。岩壁の近くでは気流がさかんに渦巻き、予測不可能なだけに危険だった。
三羽の鷹は螺旋《らせん》を描いて、上昇する空気の柱に乗って上へ上へと飛んだ。そうすると努力しないでも飛ぶことができ、ガリオンはベルディンの飛行にたいする強い喜びが理解できそうな気がした。
かれはまた目が信じられないほど鋭くなっていることにも気づいた。山肌のあらゆる詳細が手に取るようによく見える。昆虫や、野の花の花びらのひとつひとつが見えた。山に棲息する小型の齧歯動物がちょこちょこと落石を飛び越えたときには、鋭い爪がひとりでにうごめいた。
「なんのためにわたしたちがここにいるのかを忘れないことよ、ガリオン」ポルおばさんの声が静かな意識の中に聞こえた。
「だけどさ――」大きく爪を広げて獲物めがけて急降下したい欲望は、ほとんど抑えきれないほど強かった。
「だけどもへちまもないわ、ガリオン。朝食はもうすんだはずよ。かわいそうな小動物はほっておきなさい」
「楽しみを全部取りあげようってのか、ポル」ベルディンの抗議が聞こえた。
「わたしたちは楽しむためにここにいるんじゃないのよ、おじさん。どんどん行って」
突然乱気流が発生して、ガリオンはふいをつかれた。下向きの激しい風が岩だらけの斜面のほうへかれを投げつけ、ガリオンは間一髪で斜面にたたきつけられるのをよけた。風にもみくちゃにされ、翼をもがれそうになったところへ、にわかに猛烈な豪雨が襲ってきて、大きな冷たい雨つぶがぬれた大ハンマーのように身体をたたいた。
「自然の嵐じゃないわ、ガリオン!」ポルおばさんの声がはっきりと聞こえた。ガリオンは死にものぐるいであたりを見まわしたが、ポルおばさんは見えなかった。
「どこにいるんだ?」ガリオンは叫んだ。
「そんなことはいいから、〈珠〉を使うのよ! ダル人たちがわたしたちを遠ざけようとしているわ!」
こんなところで〈珠〉に自分の声が聞こえるかどうか自信がなかったが、試してみるしかなかった。猛烈な雨とうなる風が大地を襲い、ガリオンをめちゃくちゃに翻弄した。「やめさせろ!」ガリオンは〈珠〉に向かって叫んだ。「風も、雨も、全部だ!」
〈珠〉が力を解き放つと同時に、ガリオンはうねりを感じて空中でよろめき、懸命に翼をばたつかせてバランスをとった。周囲の空気がにわかにあざやかな青に変わったように思えた。
すると、乱気流とそれにともなう雨がぴたりと静まり、温かい空気の柱がまた発生して、ずんずん夏の空中へと昇りだした。
下向きの風のせいで、ガリオンはすくなくとも千フィート降下していた。気がつくと、ポルおばさんとベルディンは一マイルの距離をはさんで左右に離れていた。螺旋状にもう一度上へ飛行しながら見ると、ポルおばさんたちも上へ昇りながら、ガリオンのほうへ向かってくる。
「油断しちゃだめよ」ポルおばさんの声が言った。「ダル人たちがまたなにかをわたしたちに投げつけようとしたら、〈珠〉を使って抑制して」
もとの高度に達するまで数分とかからなかった。かれらは森や岩の崩れた斜面の上空を上へ上へと飛びつづけ、木々が途絶えて万年雪を見おろす山腹の上空にたどりついた。そこは急勾配の草原になっていて、山の微風に草や野花が揺れていた。
「そこだ!」ベルディンの声は興奮にかれているようだった。「踏みならされた道がある」
「ただの獣道じゃないことは確か、おじさん?」ポルガラがきいた。
「獣道にしちゃ、まっすぐすぎるよ、ポル。鹿は命がかかっていりゃ、まっすぐ歩きっこない。あの道は人間が作ったものだ。どこへつづくのか見てみようぜ」ベルディンは片方の翼を斜めにして、岩だらけの尾根の溝へむかって伸びた草原の中の道めがけて急降下した。草原の南端で、かれは翼を広げた。「地面におりよう。残りの道は歩いてたどったほうがよさそうだ」
ポルおばさんとガリオンはベルディンのあとから急降下し、三人そろって本来の姿にもどった。「ちょっと危ないところだった」ベルディンは言った。「あと数フィートで岩くずれした斜面でくちばしをへし折るところだったんだ」かれは非難がましくポルガラを見た。「これでもダル人はだれも傷つけないって持論を訂正しないのか?」
「そのうち考えましょう」
「剣を持ってくればよかったよ」ガリオンは言った。「やっかいなことにぶつかったら、これじゃ無防備すぎる」
「おれたちがぶつかりそうなやっかいごとに、おまえの剣がそれほど役に立ってくれるかどうかわからんな。だが、〈珠〉との接触はなくすなよ。これがどこへつづくのか確かめようぜ」ベルディンは急勾配の道を尾根のほうへ歩きだした。
尾根の溝は大きなふたつの岩のあいだの細道だった。トスが道のまん中に立って、静かにかれらの行く手をふさいでいた。
ポルガラはひややかにトスの顔を見すえた。「わたしたちは予言者の場所へ行くところなのよ、トス。あらかじめ定められていることなの」
トスがつかのま遠くを見るような目つきになった。そのあと、かれはうなずくと、わきに寄ってかれらを通した。
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その洞窟は広大で、中に都市があった。数千フィートの高度差を別にすれば、都市はケルそっくりだったが、もちろん、芝生や庭はなかった。目隠しをした予言者たちに光は不要だから、都市は薄暗かった。予言者たちの物言わぬ案内人たちの目も、おそらくそのかすかな光に慣れてしまっているのだろう、とガリオンは思った。
暗い通りにはほとんど人気《ひとけ》がなく、トスに連れられて都市にはいる途中で見かけた者たちは、まったくといってよいほどガリオンたち一行に興味を示さなかった。ベルディンはベタベタと歩きながら、ぶつぶつひとりごとを言っていた。
「どうしたのよ、おじさん?」ポルガラはたずねた。
「どれだけ大勢の人間が慣習の奴隷になってるか、これまで気づいたことがあるか?」
「なにを言おうとしているのかさっぱりわからないわ」
「この町は洞窟の中にあるってのに、家にはやっぱり屋根がある。ばかげた話じゃないか? ここにゃ雨は降らないんだぜ」
「でも寒くなるわ――ことに冬はね。家に屋根がなかったら、熱を逃さないようにするのはむずかしいんじゃなくて?」
ベルディンは渋い顔をした。「そういやそうだな」
トスが一同を案内した家は、この不思議な洞窟都市のどまん中にあった。周囲の家とまったく同じ作りだが、その位置がそこに住む人間の重要性をほのめかしていた。トスはノックもせずに中にはいり、簡素な部屋へみんなを通した。シラディスが待っていた。青白い若々しい顔をひとつしかない蝋燭が照らしていた。
「そなたたちの到着は、われらの予想以上に早かった」シラディスは言った。奇妙にも、彼女の声はこれまでの会見とはどことなくちがっていた。ガリオンは女予言者が複数の声でしゃべっているような落ちつかない気分になった。まるでコーラスのようだった。
「それじゃ、わたしたちがくるのを知っていたの?」ポルガラがたずねた。
「もちろんじゃ。これはそなたたちが三重の務めを完了させる前の時の問題にすぎぬ」
「務めですって?」
「そなたほどの力の持ち主にとっては、簡単な努力ですむ務めじゃ、ポルガラ。だが、それは必要な試験なのだ」
「そういうことを聞いたおぼえは――」
「申したとおり、あまりにも簡単なので、そなたは忘れたのであろう」
「思いださせてもらいたいね」ベルディンがむっつりと言った。
「もちろんだとも、やさしいベルディン」シラディスは微笑した。「そなたたちはこの場所を発見した。雨風を静めて、ここへたどりついた。そしてポルガラは都市へはいるのに必要な言葉を正確に口にした」
「ますますもってわからん」
「謎はときとして、意識を開くためのもっとも確実なる方法なのじゃ」
ベルディンはぶつぶつこぼした。
「謎は解かれねばならぬし、務めはそなたたちに明かされる前に完了されねばならぬ」シラディスは立ちあがった。「では、この場所から離れ、ケルへおりるのじゃ。わが案内人であるよき友が、ベルガラスの手に渡されるべき書を運ぶであろう」
物言わぬ大男がぼんやりと照らされた部屋の向こう端の書棚に歩み寄り、黒い革表紙の大きな本をつかんだ。かれはそれを腕にかかえると、女主人の手をとって、一同の先頭に立ち家の外に出た。
「なんでこそこそするんだ、シラディス?」ベルディンは目隠しをした娘にきいた。「なんで予言者たちはケルにいないで、こんな山奥に隠れてるんだ?」
「だが、これがケルなのじゃ、やさしいベルディン」
「じゃ、谷間の都市はなんなんだよ?」
「あれもケルじゃ」シラディスは微笑した。「われらのあいだではずっとこうだった。他の都市とちがい、われらの社会は広く分散している。ここは予言者たちの場所。この山中には他の場所も多数ある――魔法使いの場所、妖術師の場所、占い師の場所――すべてケルの一部じゃ」
「ダル人なら不必要に複雑なことでも理解できるってわけか」
「よそ者の都市はそれぞれ異なる目的のために建てられている。商業のための都市もあれば、敵の襲撃から身を守るための都市もあろう、ベルディン。われらの都市は研究のために建てられているのじゃ」
「仲間と話し合うために一日中歩かなけりゃならなかったら、どうやって研究ができるんだ?」
「歩く必要はない、ベルディン。われらはいつでも好きなときに、話し合うことができる。そなたやベルガラスもそうやって意志を通わせるのではないのか?」
「ちがうね」
「ではどうやって?」
「おれたちの会話は内密なものなんだ」
「われらには秘密は必要ない。ひとりの考えは全員の考えなのじゃ」
かれらが洞窟から暖かい日差しの中へふたたび出たのは、もうすぐ正午というときだった。トスはそっとシラディスを導きながら、先に立って尾根の溝へ引きかえし、高原を横切る急勾配の道をたどった。一時間ほどくだったあと、ひんやりした緑の森にはいった。木のこずえから小鳥たちがさえずり、ななめにさしこむ日差しの中を昆虫たちが火花のように飛びかっていた。
道は依然として険しく、ガリオンはたちまち長時間くだり坂を歩くやっかいさに気づいた。左足の爪先におおきな水ぶくれができてひりひりしていた。右足も何ヵ所か痛むところがあり、水ぶくれができるのは時間の問題だった。かれは歯をくいしばって、足をひきひきくだりつづけた。
もうすぐ日が沈もうというころ、谷間で夕日を浴びてきらめいている都市に到着した。ダランに提供された家めざして大理石の通りを歩いているとき、ガリオンはベルディンもやはり足をひきずっているのに気づいて、軽い満足をおぼえた。
はいっていくと、他の面々は食事の最中だった。たまたまガリオンがザカーズの顔を見たとき、そのマロリー人はシラディスがいることに気づいた。ザカーズのオリーブ色の顔がかすかに青ざめ、身元を隠すために生やしていた短い黒い髭が浮きあがって見えた。ザカーズは椅子から立つと、わずかに頭をさげて、うやうやしく言った。「聖なる女予言者」
「マロリー皇帝」シラディスはそれに応えて言った。「暗雲のダーシヴァでそなたに約束したとおり、人質としてそなたに身をゆだねましょうぞ」
「その必要はない、シラディス」ザカーズはとまどいぎみに赤くなりながら答えた。「ダーシヴァでは自分がなにをすることになっているのか明確に理解しないうちに、あわててしゃべってしまったのだ。いまはちゃんとわかっている」
「それでも、わたしはそなたの人質なのじゃ、そのようにあらかじめ定められているのだから。わたしを待ち受ける務めに相対するために、そなたとともに〈もはや存在しない場所〉へ行かねばならぬ」
「みんなおなかがすいたでしょう」ヴェルヴェットが口を開いた。「テーブルにきて食事をなさったらいかが」
「まず、ある務めを完了させねばならぬのじゃ、〈女狩人〉」シラディスはヴェルヴェットに言った。彼女が両手を突きだすと、トスが山から持ってきた重い書物を手渡した。「ベルガラスどの」シラディスはコーラスのような不思議な声で言った。「われらは運命の指示に従い、われらの聖なる書をそなたの手に預ける。そなたの目的地はこのページにあらわされているゆえ、心して読むように」
ベルガラスはすばやく立ちあがると、シラディスに近づいて、渇望に手をふるわせて本を受けとった。「感謝する、シラディス。この本がいかに貴重であるかはよくわかっているから、預かっているあいだは丁重に扱い、必要なものを見つけたらすぐにかえそう」それだけ言うと、ベルガラスは窓辺の小さなテーブルに歩み寄り、腰をおろして重い本を開いた。
「つめろよ」ベルディンがテーブルに接近して、椅子をもう一脚ひきよせた。ふたりの老人は周囲のことをすっかり忘れ、頭をよせあってぱりぱりと音をたてるページをめくりはじめた。
「じゃ、食事をどう、シラディス?」ポルガラが目隠しをした娘にたずねた。
「そなたはおもいやりがある、ポルガラ」ケルの女予言者は答えた。「この会合にそなえてそなたたちがここに到着してから、わたしは絶食していた。空腹で力がはいらないほどじゃ」
ポルガラはやさしくシラディスをテーブルへ導き、セ・ネドラとヴェルヴェットのあいだにすわらせた。
「わたしの赤ちゃんは元気なの、聖なる女予言者?」セ・ネドラがせきこんでたずねた。
「元気にしている、リヴァの女王。だが、かれはそなたのもとへしきりに帰りたがっている」
「あの子がわたしをおぼえているなんて意外だわ」セ・ネドラはさびしげに言った。「ザンドラマスに誘拐されたとき、あの子はほんの赤ちゃんだったのよ」とためいきをつき、「見られなかったことが多すぎるわ――これからも見ることのないことがたくさんあるんだわ」下くちびるがふるえだした。
ガリオンは妻のかたわらへ行き、慰めるようにセ・ネドラを抱きよせた。「心配するな、セ・ネドラ」
「そうなの、シラディス?」セ・ネドラは涙声でたずねた。「またなにもかも元通りになるの?」
「それは言えぬ、セ・ネドラ。われらの前にはふたつの道があり、運勢ですらわれらがそのどちらに足を踏みだすか知らぬのだ」
「山中までの道中はどうだった?」シルクがきいた。激しい好奇心のせいというより、心痛むやりとりから話題を変えるためだろうとガリオンは思った。
「神経がぴりぴりしたよ」ガリオンは答えた。「ぼくは飛ぶのがうまくないし、悪天候にぶつかってね」
シルクはけげんそうだった。「しかし、一日中上天気だったじゃないか」
「ぼくたちのいたところはそうじゃなかったのさ」ガリオンはシラディスをちらりと見て、大惨事になるところだった下向きの突風については黙っていることにした。「あなたがたの住んでいる場所について、みんなに話してもかまわないか?」
「もちろん、ベルガリオン」シラディスは微笑した。「ここにいる者たちはそなたの仲間なのだから、なにひとつ隠すべきではない」
「クトル・マーゴスのカーシャ山をおぼえてるか?」ガリオンはシルクにきいた。
「忘れようと努力してる」
「ふむ、予言者たちは、カーシャにダガシ族が建てた町によく似た都市を持っているんだ。巨大な洞窟の中にね」
「やれやれ、行かなくてよかったよ」
シラディスはシルクのほうへ顔を向けた。気づかわしげなしわが額に刻まれている。「そなたはいまだにあのいわれなき恐怖を克服していなかったのか、ケルダー?」
「まあそうだな――だがおれならいわれなきとは言わないな。信じてくれよ、シラディス、理由ならあるんだ――いくらでもある」シルクは身ぶるいした。
「勇気をふるいおこさねばならぬ、ケルダー、なぜならいずれそなたはそういう場所へはいらねばならぬからじゃ」
「パスできるなら、おれは遠慮するよ」
「はいらねばならぬ、ケルダー。そなたに選択の余地はない」
シルクはいまにも死にそうな顔をしたが、なにも言わなかった。
するとヴェルヴェットが言った。「教えてほしいの、シラディス。ジスの妊娠の経過に干渉したのはあなただったの?」
「あのようなごく自然のことがらに作為を感ずるとは、そなたは頭の回転が早い、リセル」女予言者は言った。「しかし、あれはわたしではない。ヴァーカト島の魔術師ヴァードが、アシャバでのジスの務めが完了するまで出産を待つようジスに命じたのじゃ」
「ヴァードは魔術師なの?」ポルガラがびっくりしてたずねた。「ふつう魔術師はすぐにわかるのに、かれの場合はなにも感じなかったわ」
「ヴァードはきわめてとらえにくいのじゃ」シラディスは同意した。「クトル・マーゴスは事情が事情なだけに、われらのわざを実行するさいは、用心に用心を重ねなくてはならぬ。マーゴ人の土地に住むグロリムはそのようなわざが必然的に引き起こすただならぬ気配に、たいそう敏感なのじゃ」
「ヴァーカト島では、われわれはあなたにすっかり腹をたててしまった」ダーニクが言った。「あなたのしたことの理由が理解できなかったからだ。それで、しばらくのあいだわたしはトスにひどい仕打ちをしてしまったんだ。かれはわたしを許してくれたがね」
物言わぬ大男はダーニクに笑いかけると、二、三のジェスチャーをした。
ダーニクは笑った。「もうそういうことはしなくていいんだ、トス。ようやく、きみがわたしに話しかける方法がわかったんだよ」
トスは両手をおろした。
ダーニクはしばらく耳をかたむけていた。「そうなんだ」とうなずいた。「このほうがずっと楽だ――それにずっと早い――もうわれわれは互いに手を振りまわさなくていい。そうだ、エリオンドとわたしとでこの都市から少しくだったところに池を見つけたんだよ。ほれぼれするような鱒がいるんだ」
トスの笑いが大きく広がった。
「きみも喜んでくれるだろうと思った」ダーニクは笑いかえした。
「わたしたち、あなたの案内人を堕落させてしまったんじゃないかしら、シラディス」ポルガラがあやまった。
「そんなことはない、ポルガラ」女予言者は微笑した。「この情熱はトスが子供のころからあったものだ。旅の途中、かれはしばしば言いわけを見つけては湖や小川にへばりついていた。わたしはトスを責めはしない。わたしも魚が好きだし、トスの魚料理は絶品だから」
かれらは食事をすませると、『マロリーの福音書』を読むのに余念のないベルガラスとベルディンの邪魔にならないように、すわって静かに話し合った。
「ザンドラマスはわれわれの行く場所をどうやって見つけるんだろう?」ガリオンは女予言者にたずねた。「グロリムなんだから、ここへはこられないだろう」
「それをそなたに言うわけにはまいらぬ、〈光の子〉。だが、ザンドラマスは指定された場所にしかるべきときに到着するであろう」
「ぼくの息子を連れてか?」
「そう予言されている」
「そのときが待ちきれない」ガリオンはひややかに言った。「ザンドラマスとぼくが片づけなくてはならないことは山ほどある」
「憎しみのあまり、そなたの務めを忘れてはならぬ」シラディスは真顔で言った。
「それで、ぼくの務めとはなんなのだ、シラディス?」
「そのときになればわかる」
「だが、事前にはわからないのか?」
「わからぬ。考える時間があれば、務めの遂行が損なわれることになるからじゃ」
「ではこのわたしの務めはどんなものだ、聖なる女予言者?」ザカーズがきいた。「ここ、ケルで教えてくれると言ったぞ」
「それは内密に明かさねばならぬことなのじゃ、マロリー皇帝。しかし、そなたの務めがはじまるのは、そなたの仲間たちの務めが完了したときであり、それがそなたの人生の均衡を奪うものであることを知っておくがよい」
「務めの話をしているついでといってはなんですが」サディが口をはさんだ。「わたしの務めも説明してはもらえませんか」
「おまえはすでにそれをはじめている、サディ」
「うまくやっていますか?」
シラディスは微笑した。「これまでのところは」
「それがどんなことかわかれば、もっとうまくやれるかもしれませんよ」
「いや、サディ。ベルガリオンの務めと同じく、そなたの務めも、そなたがそれを知れば損なわれるであろう」
「われわれが向かうその場所とは、かなり遠いのかね?」ダーニクがたずねた。
「何リーグとある。そしてやらねばならぬことも多い」
「では、食糧のことでダランと話し合う必要がありそうだな。出発する前に、馬たちのひづめも調べておいたほうがいい。蹄鉄を打ちなおすにはちょうどいいころかもしれない」
「そんなバカな!」ベルガラスが突然わめいた。
「どうしたの、おとうさん?」ポルガラがきいた。
「コリムなんだ! 対決はコリムで起きることになっとる!」
「どこなんです、それは?」サディがまごついてたずねた。
「もうない場所だよ」ベルディンがうめいた。「もうあそこにゃない。トラクが世界を打ち壊したときに、海底に沈んだ山の尾根だったんだ。『アローンの書』にこう書いてある、コリムの高き場所、それはもはや存在しない≠ニな」
「こじつけめいた論理だよな」シルクが言った。「〈もはや存在しない場所〉を表現したときからずっと、種々の予言はそれを示していたってわけか」
ベルディンが考えこみながら片方の耳をひっぱった。「他にももうひとつある。メルセネでセンジがおれたちにしゃべった話をおぼえてるか? サルディオンを盗んだ学者が最後に姿を目撃されたのは、ガンダハールの南端で、それきりもどってこなかったって話をさ。センジはこう言った、学者の船はダラシアの沿岸沖で嵐にあって遭難したようだってな。あいつの言ったことが正しいような気がしてきた。おれたちはサルディオンがある場所へ行かなけりゃならないんだ。どうもおれはサルディオンが五千年以上昔に海底に沈んだ山のてっぺんにあるようないやな気がしてきたぜ」
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一行が輝く大理石の都市ケルから出発したとき、リヴァの女王は物思いに沈んでいた。ケルの西の森を馬で進んでいる途中、彼女にとりついた無気力な気分は、一マイル毎にますます強まっていった。セ・ネドラはまわりで交わされるとりとめのない会話にも加わらず、ただ聞いていた。
「あんたがこの件について、どうしてそう冷静でいられるのかわしにはわからんな、シラディス」ベルガラスが目隠しをした女予言者に言っていた。「サルディオンが海底に沈んでいるとしたら、あんたの務めもわしらの務め同様失敗するんだぞ。それにどうしてわしらはペリヴォーへ行くような道草をくっているのだ?」
「『聖なる書』からそなたが受けとった指示が、いずれそれをそなたに明らかにするであろう、ベルガラスどの」
「あんたが自分でわしに説明するわけにはいかんのか? なにしろ、急いでいるんだからな」
「それはできぬ。ザンドラマスに与えぬ援助をそなたに与えるわけにはいかぬ。この謎を解くのはそなたの――そしてザンドラマスの――務めじゃ。ひとりを助けて、もうひとりを助けないのは禁じられている」
「そう言うだろうと思ったよ」ベルガラスはむっつりと言った。
「ペリヴォーはどこにあるんだ?」ガリオンはザカーズにたずねた。
「ダラシアの南岸沖の島だ」ザカーズは答えた。「そこの住民はひどく変わっている。言い伝えによれば、かれらは二千年ほど昔難破船でその島に流れついた西方の人間の子孫なのだ。島にはほとんど値打ちがなく、住民は恐ろしく好戦的だ。そこを支配するのにかかりそうな手間を考えれば、放置しておいたほうがましだというのがマル・ゼスにおける一般的な考えだ。ウルヴォンですらグロリムたちをあの島へ送りこもうとはしなかった」
「住民がそんなに野蛮だとしたら、そこへ行くのは物騒じゃないか?」
「いや。じっさいには、かれらは礼儀正しく、親切ですらある――軍を上陸させようとしないかぎりは。上陸させたら最後、事態は悪化するがね」
「その場所へ行くだけの時間がほんとうにおれたちにあるのかね?」シルクはケルの女予言者にたずねた。
「たっぷりある、ケルダー王子」シラディスは答えた。「何億年ものあいだ、運勢は〈もはや存在しない場所〉はそなたとそなたの仲間の到来を待っている、とわれらに告げている。そなたとそなたの仲間が対決に指定された日にそこへ到着することもじゃ」
「ザンドラマスも、なんだろうな?」
シラディスは小さなやさしい微笑を浮かべた。「〈闇の子〉がいなければ、どうして対決することができよう?」
「ちょっぴりだがユーモアのきらめきを見つけたぞ、シラディス」シルクはからかった。「予言者のイメージを損ねるんじゃないのか?」
「そなたにはわれらのことがよくわかっていないのじゃ、ケルダー王子」シラディスはまた微笑した。「われらはしばしば、運命に大書された伝言やばかげた長文を見て身をふるわせて笑う。だが、普通の者には、そういうしるしはあらかじめ無視するか読むのを避けるよう定められているのじゃ。天の指示に従うがいい、ケルダー。そなたの運命を避けようと、苦悩したり悩んだりするのはやめよ」
「運命≠チて言葉を軽々しく使いすぎるよ、シラディス」シルクは不満そうに言った。
「そなたは誕生のときにそなたの前に置かれた運命に応じて、ここへきたのではないのか? 商売や陰謀にたいするそなたの関心のすべては、約束の日までそなたの心を占める娯楽にすぎぬ」
「おまえは子供みたいにふるまってきたんだよ、というわけか。思いやりのある言いかただな」
「われらはみな子供なのじゃ、ケルダー」
ベルディンが斑もように日の差しこむ森に舞いおりてきて、翼を巧みに動かして木の幹をよけ、地面におりて変身した。
「面倒ごとか?」ベルガラスがきいた。
「予想したほどじゃない」ちびの魔術師は肩をすくめた。「そのことがちょいと気にかかる」
「ちょっと矛盾するんじゃないのか?」
「一貫性は小心者の武器なのさ。ザンドラマスはケルへくることができなかった、そうだよな?」
「わしらの知るかぎりでは」
「だったら、対決の場所までおれたちについてこなけりゃならない、だろ?」
「それがどこかをつきとめる他の手段を見つけていないかぎりはな」
「気になるのはそこなんだ。おれたちについてこなけりゃならないなら、あの女のことだ、部隊に森を包囲させ、グロリムどもにおれたちの行く先を探しださせようとするのが当然だろうが?」
「そうだな」
「ところが、あっちにゃ軍隊はいない――巡回してる兵隊はいるが、そいつらは習慣的にそうしてるだけだ」
ベルガラスは眉をひそめた。「ザンドラマスはなにをたくらんでいるんだ?」
「それだよ。どこかでおれたちをあっといわせようと手ぐすねひいてるんだ」
「とすると、油断は禁物だな。背後からこっそり忍びよられるのはまっぴらだ」
「そうしてくれたら、かえって手間がはぶけるぜ」
「そうでもなかろう。この問題については、簡単な部分などひとつもなかったのだ。この段階でそれが変化するとは思えん」
「偵察してくる」ちびの魔術師は姿を変えて、舞いあがった。
その晩、かれらは苔むして露頭した岩からほとばしりでる泉の近くにテントをはった。ベルガラスは不機嫌で元気がないようだったので、みんなはかれを避けて、もうすっかり習慣化した仕事にとりかかった。
「今夜はばかに静かだな」夕食後、焚火のそばにすわったままガリオンはセ・ネドラに言った。「どうかしたのか?」
「おしゃべりしたい気分じゃないの」小柄な女王にとりついていた無気力感は、日が暮れても消えなかった。じっさい、セ・ネドラは夕方鞍の上で何度もうつらうつらしていた。
「疲れているみたいだぞ」
「ちょっとね。もう長いこと旅をつづけているでしょう。旅の疲れが出てきたんだと思うわ」
「じゃ、もう休んだほうがいい。ぐっすり眠れば気分もよくなる」
セ・ネドラはあくびをすると両腕をガリオンのほうへ突きだした。「運んでいって」
ガリオンはびっくりした顔をした。セ・ネドラは夫をおどろかせたことに気をよくした。おどろいたときのガリオンの顔は、いつも目が丸くなり、ひどく少年ぽく見えた。「加減でも悪いの?」かれはたずねた。
「そうじゃないわ、ガリオン。眠いだけよ。ちょっと甘えたいの。わたしをテントまで運んでベッドに寝かせ、ちゃんとふとんをかけて」
「まあ、きみがそうしてほしいなら……」ガリオンは立ちあがって、軽々とセ・ネドラを抱きあげると野営地を横切って、かれらのテントへ向かった。
「ガリオン」かれが毛布を肩のあたりへそっとひきあげてやると、セ・ネドラは眠そうにつぶやいた。
「なんだい?」
「寝るときはあの鎖かたびらを脱いでね。古い鉄のおなべみたいな臭いがするんですもの」
その夜、セ・ネドラは奇怪な夢にうなされた。何年も見たことも、考えたことさえもない人人や場所を見ているようだった。父親の宮殿を守る軍団兵や、大理石の廊下を急いでやってくる父の家令のモリン卿を見た。つぎに彼女はリヴァにいて、リヴァの番人ブランドと理解不能な会話を長々とかわしており、窓辺ではブランドの金髪の姪が腰をおろして亜麻糸をつむいでいた。肩甲骨のあいだから短剣の柄が突きでているのに、アレルは平気なようだった。セ・ネドラは身じろぎして寝言をつぶやき、すぐまた夢を見はじめた。
こんどは東部ダラシアのレオンにいるようだった。彼女はナドラクの踊り子ヴェラのベルトから短剣をなにげなく引き抜いて、やはりなにげなく、熊神教の頭《かしら》である黒髭のウルフガーの腹に深々とそれを突き刺した。ウルフガーはセ・ネドラが短剣を突き刺したとき、あざけるような口調でベルガラスに話しかけており、ゆっくりと短剣をひねりまわしているセ・ネドラを見ようともしなかった。
それからセ・ネドラはふたたびリヴァにいて、ガリオンとふたりで裸のままきらめく森の泉のそばにすわっており、頭上を無数の蝶が飛びまわっていた。
浅い眠りの中で、彼女はチェレクにあるヴァル・アローンの古代都市へ旅し、そのあとボクトールへ行ってローダー王の葬儀に参列した。もう一度タール・マードゥの戦場を見、彼女の守護者を自称するブランドの息子、オルバンの顔を見た。
その夢は首尾一貫していなかった。セ・ネドラは難なく一ヵ所から一ヵ所へと動きまわり、なにかを求めて時と空間を移動していたが、自分がなにを失ったのか思いだすことができなかった。
翌朝目がさめたとき、彼女は昨夜と同じように疲れていた。なにをするにも骨が折れ、あくびばかりでた。
「どうしたんだ?」服を着たあと、ガリオンがきいた。「よく眠れなかったのか?」
「あまり」セ・ネドラは答えた。「すごく変な夢ばかり見たの」
「その話をしたらどうだい? 毎晩同じ夢を見ないようにするには、それが一番いい方法だ」
「ちっとも意味が通ってないのよ、ガリオン。めちゃくちゃなの。だれかがひとつの場所からひとつの場所へと、彼女なりの理由でわたしをひっぱりまわしていたみたいだったわ」
「彼女? そのだれかとは女だったのか?」
「わたし彼女≠チて言った? どうしてかしら。一度も姿を見なかったのに」セ・ネドラはまたあくびをした。「それがだれだろうと、終わりにしてもらいたいわ。あんな夢は一晩でたくさん」そのあと、彼女はまつげの下から横目でガリオンを見た。「でも、ちょっとだけすてきなところもあったの。わたしたちがリヴァのあの泉のそばにすわっていたの。なにをしていたか知りたい?」
ガリオンの首にゆっくりと朱がさした。「い、いや、セ・ネドラ。けっこうだ」
だがセ・ネドラは話した――微に入り細に入り――とうとうかれがテントから逃げだすまで。
ケルを発ってから彼女にとりついていた奇妙な無力感は、不眠のためにいっそう強まり、その朝馬に乗りながらセ・ネドラは半分眠っていた。いくら努力しても、眠気を払うことができなかった。ガリオンは何度もそれでは馬が道に迷うと注意したが、妻が目をあけていられないのを見て、手綱を取りあげ、セ・ネドラの馬を導いた。
九時ごろ、ベルディンが合流した。「隠れたほうがいいぜ」かれはきびきびとベルガラスに言った。「ダーシヴァの巡回部隊がこの道をやってくる」
「わしらを捜しているのか?」
「そんなこと知るか。そうだとしても、あまり真剣じゃない。二百ヤードばかり森へひっこんで、やつらに通過させちまおう。ちゃんと監視していて、連中が通り過ぎたら知らせてやるよ」
「よし」ベルガラスは道からそれると、一行を先導して森にはいり隠れた。
馬をおり、緊張してようすをうかがっていると、まもなく馬にまたがり駆け足で森の道をやってくる兵士たちの鎧の音が聞こえた。
このきわめて危険な状況でも、セ・ネドラは目をあけておくことができなかった。みんなのささやき声がぼんやりと聞こえたが、ついにまた眠りこんでしまった。
やがて目がさめた――というより、すくなくとも部分的には目ざめていた。彼女はぼんやりしたままひとりで森を歩いていた。みんなから離れていることを心配しなければならないのに、奇妙にもなんとも思わなかった。なんらかの得体の知れぬ招きに従って、セ・ネドラはあてもなく歩きつづけた。
ようやく草の茂る空き地にたどりついた。背の高い金髪の娘が野花のまん中に立って、毛布にくるんだものを抱いていた。娘の金髪のおさげはこめかみのあたりで渦巻き型にとめられており、肌はしぼりたてのミルクのように真っ白だった。ブランドの姪のアレルだった。「おはようございます、女王陛下」アレルはリヴァの女王に挨拶した。「ずっとお待ちしていましたわ」
これは変だとセ・ネドラの意識の奥深くでなにかが叫ぼうとした――背の高いリヴァの娘がここにいるわけがない。だがセ・ネドラはそのわけが思いだせなかった。逡巡の一瞬が過ぎた。「おはよう、アレル」セ・ネドラは仲良しの友だちに言った。「いったいここでなにをしているの?」
「あなたをお助けするためにきました、セ・ネドラ。わたしが見つけたものを見てください」彼女は毛布の角を折りかえして、小さな顔をのぞかせた。
「わたしの赤ちゃんだわ!」喜びにわれを忘れてセ・ネドラは叫んだ。両腕をもどかしげに伸ばして駆け寄り、眠っている乳飲み子を友だちから抱きとると、しっかりと抱きしめてやわらかい巻き毛に頬を押しつけた。「どうやってこの子を見つけたの?」セ・ネドラはアレルにたずねた。「わたしたちずっとこの子を捜していたのよ」
「この森をひとりで旅していたのです」アレルは答えた。「すると焚火の匂いがしたような気がしました。調べにいくと、小川のそばにテントがたててあったのです。テントの中をのぞくと、ゲラン王子がいらっしゃいました。他にはだれもいなかったので、王子さまを抱きあげて、あなたを捜しにきたのですわ」
セ・ネドラの意識は相変わらず警告を叫んでいたが、喜びに酔いしれている彼女は耳をかたむけなかった。セ・ネドラは赤ん坊を抱きしめて前後にゆすりながらあやした。
「ベルガリオン王はどこにいらっしゃいますの?」アレルがたずねた。
「向こうのどこかにいるわ」セ・ネドラはあいまいな身振りをした。
「陛下のところへいらっしゃって、王子さまがご無事なことをお知らせしたほうがよいと思います」
「ええ。きっと喜ぶわ」
「わたくしはいま手が離せないんです、セ・ネドラ。おひとりで帰る道を見つけられるとお思いですか?」
「あら、もちろんよ。でも一緒にこられないの? 陛下はわたしたちの息子をかえしてくれたほうびをあなたに与えたがるわ」
アレルはほほえんだ。「女王陛下のうれしそうなお顔を拝見しただけでじゅうぶんです。それに、わたくしが片づけなければならない問題というのは、とても重要なことなのです。でも、あとでみなさんに追いつけるかもしれません。どちらへいらっしゃいますの?」
「南だと思うわ」セ・ネドラは答えた。「海岸へ行かなくちゃならないのよ」
「まあ?」
「そうなの。わたしたちは島へ行くのよ――たしか、ペリヴォーという名前だったと思うわ」
「なにかの対決がもうすぐある予定でございましたでしょう? それはそのペリヴォーという場所で起きるんですの?」
「あら、ちがうわよ」セ・ネドラは赤ん坊をあやしながら笑った。「わたしたちがペリヴォーへ行くのは、その対決に関する情報をもっと手に入れるためなの。そこからまた旅をつづけるのよ」
「ペリヴォーではみなさんに合流できないかもしれません」アレルはわずかに眉をひそめて言った。「対決の起きる場所を教えていただけないでしょうか。そこでならきっとみなさんにお目にかかることができます」
「ええと」セ・ネドラは考えこんだ。「なんて言ってたかしら? そうそう、思いだしたわ。コリムというところよ」
「コリム[#「コリム」に傍点]!」アレルはびっくりして叫んだ。
「ええ。最初はベルガラスもそれをつきとめたとき、とっても動転したようだったけれど、シラディスが万事心配はないと言ったの。だからわたしたちはペリヴォーへ行かなくちゃならないのよ。すべてを明白にするものがペリヴォーにあるとシラディスが言ってるの。海図かなにかのことじゃないかしら」セ・ネドラはちょっと軽率な笑い声をたてた。「正直にいうとね、アレル、この何日かとっても眠くて、まわりでみんながなにを言っているのかろくすっぽわかっていないのよ」
「もちろんですわ」アレルは額にしわをよせて、うわの空で言った。「どうしてペリヴォーが鍵になるのだろう?」彼女はひとりごちた。「そんなばかげたことがあっていいのだろうか? コリムという言葉にまちがいはありませんの? 聞きちがえたのかもしれませんわ」
「わたしはそう聞いたわ。自分で読んだわけじゃないけれど、ベルガラスとベルディンがコリムの高き場所、それはもはや存在しない≠ニいうくだりについてずっとしゃべりつづけていたし、対決が起きる予定なのは〈もはや存在しない場所〉でしょう? つじつまは合うじゃないの」
「ええ」アレルは不審そうに答えた。「考えてみればそうですわね」それからアレルは背すじをのばし、服のしわをはたいた。「もう行かなくてはなりません、セ・ネドラ。赤ちゃんをご主人のところへ連れてお帰りなさい。陛下によろしく」彼女の目が日差しを受けてぎらりと光ったように見えた。「ポルガラにもくれぐれもよろしく伝えてください」とつけくわえた。その言いかたにはどことなく悪意がこめられているようだった。アレルはくるりと背を向けると、野花の咲き乱れる草原を横切り、森の暗い端へむかって歩き去った。
「さよなら、アレル」セ・ネドラはうしろ姿に呼びかけた。「赤ちゃんを見つけてくれてほんとうにありがとう」
アレルは振りむきもしなければ、答えもしなかった。
ガリオンは気もくるわんばかりだった。妻がいなくなったことにはじめて気づいたとき、かれは鞍に飛び乗りクレティエンヌを大急ぎで走らせた。森を三百ヤード行ったところで、ベルガラスが追いついてきた。「ガリオン! 止まるんだ!」老人は叫んだ。
「でも、おじいさん!」ガリオンは叫びかえした。「セ・ネドラを見つけなくちゃ!」
「どこから捜しはじめるつもりだ? それとも運をたよりに、ぐるぐる走りまわろうというのか?」
「しかし――」
「頭を使え、おい! その何倍も早い手段が他にあるだろう。セ・ネドラの匂いは知っているな?」
「もちろん、だけど――」
「わしらには鼻がある。その馬からおりて、テントまで送りかえせ。わしらは変身して、セ・ネドラの臭跡をたどるのだ。そのほうがずっと早いし、はるかに確実だ」
ガリオンはきゅうにひどく自分がまぬけに思えてきた。「頭に血がのぼっていたんだ」
「だろうな。その馬を帰らせろ」
ガリオンは馬からすべりおりると、クレティエンヌの尻をぴしゃりとたたいた。大きな灰色の馬はみんながまだ隠れている場所へ飛びだしていった。「セ・ネドラはいったいなにを考えているんだ?」ガリオンはいきまいた。
「彼女が考えていたかどうかはわからんぞ」ベルガラスはつぶやいた。「この二、三日ようすがおかしかった。さあ捜索開始だ。見つけるのが早ければそれだけ早く彼女をみんなのところへ連れて帰れる。事実関係はおまえのおばさんが徹底的にさぐってくれるさ」老人はすでに大きな銀色の狼に変身しはじめていた。「おまえが先に行け」かれはガリオンにうなった。「彼女の匂いになじみがあるのはおまえのほうだ」
ガリオンは変身すると鼻がセ・ネドラのかぎなれた香りをつかむまで行ったりきたりした。「こっちへ行ったんだ」かれはベルガラスに思考を投げた。
「臭跡はどのくらい新しい?」老狼はきいた。
「三十分以上はたっていない」ガリオンは走りだそうと身をかがめて答えた。
「よし。見つけにいこう」二匹は獲物を捜す狼の流儀で鼻を地面すれすれにして、流れるように森を走った。
十五分ばかりたったとき、かれらはセ・ネドラを発見した。彼女は両腕にそっとかかえているものを小声であやしながら、しあわせそうに森の中を引きかえしてきた。
「びっくりさせるな」ベルガラスが警告した。「ここにはひどく変な雰囲気が漂っている。彼女の言うことにさからうなよ」二匹は微光を放ちながら変身した。
セ・ネドラはふたりを見たとたん、小さな喜びの声をあげた。「ああ、ガリオン!」そう叫ぶなり、駆けよってきた。「見て! アレルがわたしたちの赤ちゃんを見つけてくれたのよ!」
「アレル? しかし、アレルは――」
「だまってろ!」ベルガラスが声をひそめて叱りつけた。「セ・ネドラをヒステリー状態にするな」
「そりゃ――ああ――それはすごいな、セ・ネドラ」ガリオンは自然に聞こえるように努力しながら言った。
「長い長い道のりだったわ」セ・ネドラの目に涙が盛りあがった。「この子は前と少しも変わっていないわ。見て、ガリオン。きれいな子じゃなくて?」
セ・ネドラは毛布を折りかえした。ガリオンが見ると、セ・ネドラが壊れものでも抱くように持っていたのは、赤ん坊ではなくて一巻きのぼろだった。
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第二部 ペリヴォー
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永遠なるサルミスラはその朝、宦官長のアディスの勤めを途中でさえぎって先をつづけさせなかった。アディスは気に入りの薬のひとつをしこたま飲んでもうろうとしたまま、日課である報告をしに、謁見の間によろめきはいってきたのだ。かれが壇まで十二フィートの距離に近づいたとき、サルミスラは鼻が曲がりそうな体臭をかぎとった。アディスが風呂にはいらずに女王の前に出てはならぬという命令に従わなかったのはあきらかだった。サルミスラは宦官長が王座の前の大理石の床にひれふし、不明瞭な声で報告を行なうのをひややかな目でながめた。報告はいっこうに終わらなかった。蛇の女王の命令で、彼女の同類の小さな緑色の蛇が一匹、寝椅子のような王座の下からあらわれ、静かにのどを鳴らした。こうしてアディスは不服従にふさわしい報いを受けたのだった。
そしていま、永遠なるサルミスラは王座の上で物思わしげにとぐろを巻き、鏡に写るわが身を退屈そうに見つめていた。新しい宦官長を選ぶ面倒な仕事がまだ残っていたが、じっさいにはそういう気分になれなかった。ようやく彼女は心を決め、その雑用をしばらく延期することにした。宮殿の宦官たちに地位争奪戦のチャンスを与えてやろう。争奪戦ではいつも大勢の死者が出るが、どうせ宮殿には宦官がありあまっているのだ。
王座の下からいらだたしげなつぶやきが聞こえた。ペットの緑色の蛇がなにかのことで腹をたてているようだった。「どうしたのだえ、エザー?」
「あいつらに噛みつくようおっしゃる前に、身体を洗うよう言ってくれませんか、サルミスラ?」エザーは訴えるように言った。「せめて、あいつらがくさいことぐらい、警告してくださってもいいじゃないですか」エザーとサルミスラは種類こそちがうが、言葉はある程度わかりあえた。
「悪かったね、エザー。わたしとしたことが、配慮が足りなかったよ」サルミスラにとって、人間は相対的に軽蔑の対象でしかなかった。蛇の女王は人間に対するときとはうって変わって、爬虫類には大変礼儀正しかった――特に、毒のある爬虫類には。蛇の世界では、それが賢明な態度と考えられているのである。
「あなたのせいというわけじゃなかったんですよ、サルミスラ」エザーもまた蛇だった。かれもじつに礼儀正しかった。「ただ、口に残るいやな味を消す方法があればなあと思っているだけです」
「ミルクを一皿取りにいかせよう。役に立つかもしれないよ」
「ありがとう、サルミスラ。しかし、あいつの味でミルクが固まってしまうかもしれません。ぼくがほんとうにほしいのは、よく太った鼠なんです――生きていればなおいい」
「ただちに手配しよう、エザー」サルミスラはほっそりした首の上の三角形の顔を動かし、「おまえ」と、王座の片側にひざまずいている宦官のひとりに、鋭く命令した。「鼠をつかまえておいで。わたしの小さな緑の友だちが腹をすかせているのだよ」
「ただいま、神聖なるサルミスラさま」宦官はぺこぺこしながら答えると、いそいで立ちあがり、一歩ごとにひざまずきながらドアのほうへあとずさっていった。
「ありがとう、サルミスラ」エザーはのどを鳴らした。「人間というのは、まったく取るに足らないものですね」
「かれらは恐怖にしか反応しないのさ」サルミスラはうなずいた。「そして欲望にしか」
「それで思いだしました。先日のお願いを考えてくださるお時間がありましたか?」
「捜させているところだよ」サルミスラはエザーを安心させた。「ただ、おまえの種は大変珍しくてね、雌を見つけるには少し時間がかかりそうなのだ」
「必要とあれば、待ちますとも、サルミスラ」エザーはのどを鳴らした。「ぼくたちはとても辛抱強いのです。文句を言うつもりはありませんが、あなたがサディを追放したりしなければ、こんな手間はいらなかったでしょう。サディの小さな蛇とぼくはとても仲がよかったんですから」
「それにはときどき気づいていたよ。あのままなら、いまごろおまえは父親になっていたかもしれないね」
緑色の蛇は王座の下から頭をするりと出して、サルミスラを見つめた。その種類の蛇がすべてそうであるように、かれの緑色の背中には真っ赤な縞がはいっていた。「父親とはなんです?」かれは鈍い、興味のなさそうな口調でたずねた。
「おまえにはむずかしい概念だよ」サルミスラは答えた。「人間はどういうわけかそれを重視する」
「人間のひねくれた特性なんか、どうでもいいではありませんか」
「気にしているわけではないよ――すくなくとも、もういまはね」
「あなたは昔から心では蛇だったんですよ、サルミスラ」
「おや、ありがとう、エザー」女王はうれしそうに言ったあと、せわしなく鱗をこすりあわせた。「新しい宦官長を選ばなくてはならない。退屈な仕事だよ」
「どうしてそんなことで頭を悩ますのです? でたらめにひとりを選べばいいんです。人間なんて、どれも同じですからね」
「ほとんどはね。しかし、わたしはサディの居どころをつきとめようとしているのだよ。スシス・トールへもどってくるよう説得したいのだ」
「あの人間は別です」エザーは同意した。「サディはどことなくわれわれの仲間のような気がするんですよ」
「かれには爬虫類的な資質があるだろう? 盗っ人の悪党ではあるが、かれほどこの宮殿をうまく管理した者はひとりもいないのだよ。サディが不名誉を働いたときに、わたしが脱皮していなかったら、許してやったことだろう」
「脱皮はつねにつらい時期ですからね」エザーはうなずいた。「ちょっと助言してもいいでしょうか、サルミスラ、あの時期には人間を遠ざけておくべきですよ」
「何人かはそばにはべらせておく必要があるのだよ。他はともかく、そうすれば噛みつく相手に困らないからね」
「鼠にかぎったほうがいいですよ。味もいいし、のみこむこともできるんです」
「サディを説得してもどってこさせることができれば、わたしたちの問題はふたつとも解決する」サルミスラはそっけなく言った。「わたしに手を焼かせずに宮殿をきりもりする人間ができるわけだし、おまえは小さな遊び友だちを取りもどせるのだからね」
「いい思いつきです、サルミスラ」エザーはきょろきょろした。「あなたが鼠を取りにいかせたあの人間は、赤ん坊鼠でも育てているんでしょうかね?」
ヤーブレックとヴェラは夜にそなえて城門が閉じられる寸前に、ヤー・ナドラクに忍びこんだ。雪の降る夕方のことだった。ラヴェンダー色のサテンのドレスをボクトールに置いてきたヴェラは、いつものぴっちりした革の衣服に着替えていた。冬だったので、その上に、トル・ホネスでは一財産の値打がありそうな黒貂《くろてん》の外套を着ていた。「この場所はなんだっていつもこうくさいんだよ?」雪に埋もれた通りを馬にまたがって川の土手のほうへ向かいながら、ヴェラは自分の所有者にたずねた。
「ドロスタが下水道システムの契約をいとこのひとりに発注してるからだろうよ」ヤーブレックは肩をすくめて、みすぼらしいフェルトの外套をしっかりと巻きつけた。「市民はそのシステムのために大枚の税金を払ったってのに、ドロスタのいとこってのは、下水の技術よりも、金の横領のほうに長《た》けてたんだ。ま、あれは一族の血だな。ドロスタですら国庫から金をくすねてやがるんだ」
「とんでもないことじゃないか」
「おれたちの王はとんでもない野郎なんだよ、ヴェラ」
「宮殿はたしかあっちのほうだったよね」ヴェラは町の中心部を指さした。
「ドロスタは夜のこんな時間には宮殿には絶対にいないんだ。日が沈むとさみしくなって、いつも仲間を求めて宮殿を出ていくのさ」
「じゃ、どこにいてもおかしくないわけだ」
「そりゃどうかな。暗くなってからドロスタを歓迎するような場所はヤー・ナドラクにゃそうないぜ。われらが王は広く愛されているわけじゃないからな」ヤーブレックはごみの散乱する路地を指さした。「こっちへ行こうぜ。仲買人の仕事場に寄って、おまえに適当な服を見つけよう」
「あたしの着てるもののどこが悪いのさ?」
「おれたちがこれから行くところじゃ、黒貂は人目を引きすぎるんだよ、ヴェラ。おれたちは注意を引いちゃまずいんだ」
シルクとヤーブレックは広範囲にわたる商業帝国を所有しているが、このヤー・ナドラクにある仕事場は、毛皮や、ふかふかのマロリーの絨緞がところ狭しと並ぶほら穴みたいな倉庫の二階にあった。仲買人はゼルミットというやぶにらみのナドラク人で、見かけ同様ほとんど信用ならない男だった。ヴェラはゼルミットが昔からきらいで、かれの前に出るときは習慣的に短剣を鞘から出し、誤解の生じる余地のないことをはっきり見せつけるようにしていた。もちろん、ヴェラは厳密にはヤーブレックの所有物のひとつだったし、ゼルミットは雇用主の持ちものならなんでも手を出すという評判だったから、彼女の態度は正当といえる。
「調子はどうだ?」ヴェラと一緒に散らかり放題の仕事場にはいったとき、ヤーブレックはたずねた。
「うまくやってまさ」ゼルミットは耳ざわりな声で言った。
「もっと特定して言え、ゼルミット」ヤーブレックはぶっきらぼうに言った。「全般的な返事を聞くと、歯がうずくんだよ」
「ボクトールを迂回してドラスニアの税関をよける道を発見しましたぜ」
「そいつは役に立つ」
「時間はちょいとかかりますが、ドラスニアの税金を払わずにトル・ホネスに毛皮を持ちこめます。毛皮市場におけるわれわれのもうけは、六十パーセントまで上昇してますよ」
ヤーブレックはにんまりした。「シルクがここへ引きかえしてきても、その情報を伝える必要はないぜ。ときどきやっこさんは愛国主義にかられることがあるし、なんてったってポレンはやつのおばさんなんだからな」
「シルクに話そうとは思ってませんでしたよ。しかし、マロリーの絨緞はやっぱりドラスニアを通って運ばなけりゃなりませんな。あの商品の最高の市場は、依然として中部アレンディアの大市だし、ウルゴランドを横断してあれを運んでくれるのはシルクしかいませんからね」ゼルミットは顔をしかめて、先をつづけた。「しかし、何者かが値段を切り下げてるんですよ。なにが起きてるのかつきとめられるまで、輸入品は量を削減したほうがいいかもしれませんぜ」
「おれがマロリーから持ち帰った例の宝石は売ったのか?」
「もちろんでさ。こっそり持ちだして、南へ向かう途中あちこちで売りさばきましたよ」
「よし。宝石の詰まったでかい籠を持っておまえが一ヵ所にあらわれると、市場はいつも顔色なしだからな。ところで、ドロスタが今夜もいつもの場所にいるかどうか知ってるか?」
ゼルミットはうなずいた。「日が暮れる直前にそこへ行きましたよ」
「ヴェラが着る特徴のないマントがいるんだ」
ゼルミットは目を細くして女を見た。
ヴェラは毛皮の外套のボタンをはずして、短剣の柄《つか》に両手をかけた。「さっさと試してみたらどうなんだい、ゼルミット? ケリをつけちまおうよ」
「おれはなにもしようなんて思っちゃいなかったぜ、ヴェラ」ゼルミットはしらばっくれた。「おまえのサイズを見てただけさ」
「そんな嘘はお見通しだよ」ヴェラはそっけなく言った。「肩のあの切り傷、治ったかい?」
「天気が悪いとちょいとうずくぞ」ゼルミットは文句をつけた。
「行儀よくしてりゃそんなことにはならなかったのさ」
「おまえにぴったりの古いマントがあったはずだ。ちょいとみすぼらしいがな」
「なおいい」とヤーブレック。「〈片目の犬〉亭に行くんだから、客にとけこめるようじゃなけりゃまずいんだ」
ヴェラは黒貂を脱いで椅子にかけた。「これをなくすんじゃないよ、ゼルミット」と警告した。「気に入ってんだからね、たまたまこれが隊商の荷物になってトル・ホネスへ行くようなことになったら、まちがいなくあたしもあんたもぞっとするようなことが起きるからね」
「脅迫するにはおよばねえよ、ヴェラ」ヤーブレックが穏やかに言った。
「脅迫なもんか、ヤーブレック」ヴェラは言いかえした。「ゼルミットとあたしが理解しあっていることを確認したかっただけさ」
「マントを取ってくる」ゼルミットが言った。
「さっさとしなよ」
マントはみすぼらしいどころか、ぼろぼろだった。一度も洗ったことのないような臭いがした。ヴェラはいやいやそれを肩にひっかけた。
「頭巾をかぶれ」ヤーブレックが命令した。
「だったら、髪を洗わなくちゃ」
「それで?」
「冬にあたしみたいな髪の毛が乾くまでどんなに時間がかかるか知ってるのかい?」
「いいからかぶれ、ヴェラ。なんでいつもおれにさからうんだよ?」
「主義の問題だよ」
ヤーブレックは嘆かわしげにためいきをつくと、ゼルミットに言いつけた。「おれたちの馬の世話をしとけよ。この先は歩いていく」それからヴェラの先に立って仕事場の外に出た。通りまでくると、外套の脇ポケットから一端に革の首輪がついた長い鎖をとりだし、「これをつけろ」とヴェラに言った。
「もう何年も鎖も首輪もつけたことなんてないよ」
「おまえの身を守るためだ、ヴェラ」ヤーブレックはうんざりしたように言った。「これから行くのは町でいちばん荒っぽいところなんだ。そして〈片目の犬〉亭はそこでいちばん荒っぽい居酒屋だ。鎖をつけてりゃ、だれもおまえにちょっかいを出さない――おれと喧嘩したくなけりゃな。鎖をつけてないと、居酒屋にいる男の中に誤解するやつがいるかもしれないだろ」
「あたしの短剣はそのためにあるんだよ、ヤーブレック」
「いいからつけろ、ヴェラ。おかしなことだが、おれはおまえが気に入ってるんだ、おまえにけがをしてほしくない」
「愛情かい、ヤーブレック?」ヴェラは笑った。「あんたがほんとに好きなのは金だけだと思ってたよ」
「おれは頭のてっぺんから爪先までごろつきってわけじゃないんだ、ヴェラ」
「ほんものの相手があらわれるまで、あたしを好きでいりゃいいさ」ヴェラは首輪をしめながら言った。「じっさいのところ、あたしもあんたが気に入ってるよ」
ヤーブレックの目がまん丸になり、かれはにやりと笑った。
「でも、それほどじゃないからね」ヴェラはつけたした。
〈片目の犬〉亭はこれまでヴェラが足を踏み入れた中で、もっともきたならしい居酒屋だった。そしてヴェラは生まれてこのかた数え切れないほどたくさんの低級な賭博宿や、みすぼらしい居酒屋に出入りしていた。十二歳のときから、彼女は望まない愛情の撃退にいつも短剣を使ってきた。人を殺さねばならない目にあったことはほとんどなかった――二、三人のしつこい相手をのぞけば。にもかかわらず、ヴェラは分別ある男なら絶対に手をださない女という評判を確立してしまっていた。もっとも、ときにはその評判が邪魔になることもあった。手だしをされてもいいと思うときがたまにはあったから。熱烈な賛美者の手とか足にひとつふたつの切り傷をつければ、彼女の名誉は保たれた。あとのことは――そう、だれにわかるだろう?
「ここのビールは一滴も飲むんじゃないぞ」はいりながら、ヤーブレックが念をおした。「大樽はあけっぱなしだから、いつも溺れた鼠が何匹かはいってるんだ」かれは鎖を手に巻きつけた。
ヴェラは中を見まわした。「ほんとにきたないところだね、ヤーブレック」
「おまえはポレンと長く過ごしすぎたんだ。それで神経が細くなってきてるのさ」
「はらわたをかきだしてもらいたいのかい?」
「それでこそおれの女だ」ヤーブレックはにやにやした。「二階へ行こうぜ」
「なにがあるのさ?」
「女たちだ。ドロスタがここへくるのは鼠味のピールのためじゃない」
「スケベなやつだね、わかってるのかい?」
「おまえはドロスタに会ったことがないんだな? スケベなんてのは序の口さ。おれはやつに会うたびに胃袋がでんぐりかえるんだ」
「いきなりはいってくつもりかい? まずはじめにちょっとかぎまわらないのかい?」
「おまえはドラスニアに長くいすぎたんだよ」ヤーブレックは答え、ふたりは階段をのぼりはじめた。「ドロスタとおれは顔見知りなんだ。おれに嘘をつくようなまねはしない。ことの真相をつかんだら、とっととこのくさい町から出られるんだ」
「あんただってちょっと感じやすくなってるじゃないのさ」
廊下のつきあたりにドアがあり、ナドラク人の兵士がふたり、その両側に立っていた。ドロスタ・レク・タン王が中にいるのだ。
「これまで何人はいった?」ヴェラとドアの正面で立ち止まると、ヤーブレックは兵士たちにきいた。
「三人だよな?」ひとりがもうひとりにたずねた。
「忘れちまった」きかれたほうは肩をすくめた。「おれにはどれも同じに見えるよ。三人か四人だな。おぼえてない」
「陛下はいま忙しいのか?」ヤーブレックはたずねた。
「休息しておいでだ」
「年をとってきたんだな。たった三人ぽっちを相手にしたあとで、休息したことなんかこれまで一度もなかった。おれがきてることを伝えてくれないか? 仕事上の提案事項があるんだよ」ヤーブレックはほのめかすようにヴェラの鎖をゆすった。
兵士のひとりが頭から足の先までヴェラをながめまわした。「この女なら陛下をしゃきっとさせられるかもしれんな」
「またあっというまに眠らせてやるさ」ヴェラはみすぼらしいマントの前をあけて短剣を見せた。
「おまえ、森で育った狂暴な女の仲間か?」もうひとりの兵士がたずねた。「そんな短剣を持っていちゃ、陛下のところへ通すわけにはいかん」
「あたしから取りあげてみるかい?」
「やめとくよ」兵士は用心深く答えた。
「いい心がけだね。短剣をとぎなおすのはすごく退屈だしさ、最近じゃ骨まで届くような傷ばかり負わせてるんだ」
もう片方の兵士がドアをあけた。「またあのヤーブレックが参っていますが、陛下。陛下に売りつける女を連れてます」
「三人買ったばかりだぞ」卑猥な笑いの混じった甲高い声が答えた。
「この女は別格ですよ、陛下」
「ほめられるのはいいもんだね」ヴェラがひとりごちた。
兵士は彼女に歯を見せて笑いかけた。
「ヤーブレック、はいってまいれ!」ドロスタ王のきいきい声が命令した。
「ただいま、陛下。こいよ、ヴェラ」ヤーブレックは鎖を引っぱって、ヴェラを部屋に入れた。
ガール・オグ・ナドラクのドロスタ・レク・タン王は寝乱れたベッドに半裸で寝そべっていた。かれはヴェラがこれまでに見た最高に醜悪な男だった。背中にこぶのあるちびのベルディンですら、ドロスタにくらべればハンサムに見える。痩せた身体に飛びでた目。あばただらけの顔、もじゃもじゃの髭。「このばかものめが!」ドロスタ王はヤーブレックを叱りつけた。「ヤー・ナドラクはマロリーの密偵に占拠されておるのだぞ。やつらはおまえがケルダー王子の相棒で、おまえが事実上ポレンの宮殿に住んでいるのを知っているのだ」
「だれにも見られちゃいませんよ、ドロスタ」ヤーブレックは言った。「たとえ見られたって、れっきとした理由があったんでさ」とヴェラの鎖をゆすった。
「ほんとうにその女を売るのか?」ドロスタはヴェラを見つめた。
「まさか。しかし、興味を持ったやつらには値段が折り合わなかったと言えばいいんでしょうが」
「では、ここへきたほんとうの理由はなんだ?」
「ポレンがあんたの行動にちょいと関心を持っているんです。ジャヴェリンは陛下の宮殿に密偵を潜入させたが、陛下もさるもの、やつらはなかなか陛下の行動がつかめない。それで、時間の節約をかねて、おれが直接陛下のところへ出向いてきたわけで」
「わしがなにかをたくらんでいるとどうして思うのだ?」
「いつもそうですからね」
ドロスタはきんきん声で笑った。「それもそうだ。だがどうしてわしがおまえにしゃべらなくてはならんのだ?」
「しゃべらないと、おれが宮殿内に陣どるからですよ。そうすりゃマロリー人たちはあんたにだまされたと思うでしょうな」
「それでは脅迫ではないか、ヤーブレック」ドロスタは非難した。
「そう呼ぶ人間もいますね、たしかに」
ドロスタはためいきをついた。「よかろう、ヤーブレック。しかしポレンの耳に入れるだけだぞ。おまえやシルクは利用してはならん。わしはザカーズと仲直りしようとしているのだ。タール・マードゥでわしがやつの敵側についたとき、やつはひどく怒ってな。ザカーズがクトル・マーゴス全域を鎮圧するのはほんの時間の問題だし、ザカーズがわしを捜しに北へやってくるかと思うと気が気でないのだ。ザカーズの国務長官のブラドーとずっと交渉してきたが、ようやく和解に到達しそうでな。ブラドーの部下たちがガール・オグ・ナドラクを通過して西へ潜入するのをほうっておいてやれば、わしの身も安全だ。わしが役に立つと思えば、いかにこうるさいザカーズでも生きたままわしの皮をはぐ楽しみは見合わせるだろうからな」
ヤーブレックは疑わしげにドロスタを見た。「なるほどね。ドロスタ、他には? それだけじゃ、ザカーズがあんたの皮を林檎みたいにむくのを思いとどまらせやしませんよ」
「ときどきおまえは察しがよすぎるぞ、ヤーブレック、おまえ自身のためによくない」
「いいから、ドロスタ。来月もこのヤー・ナドラクで陰謀をめぐらしながらすごすなんてごめんですからね」
ドロスタは観念した。「わしはマロリーの絨緞にかかる輸入税を削減したんだ。ザカーズはクトル・マーゴスでの戦いをつづけるのに税収入が必要だ。わしが輸入税を削減すれば、マロリーの商人は市場でおまえやシルクより安く商品を売ることができる。この計画全体は、わしを必要欠くべからざる存在にすることによって、ザカーズがわしに手だしをしないようにすることなのだよ」
「絨緞のもうけが落ちこんでるのはどういうわけだといぶかしく思ってたんだ」ヤーブレックはひとりごちた。「それだけですかね?」
「誓ってもよい、ヤーブレック」
「あんたの誓いはちょいと値打がさがってきてますぜ、陛下」
ドロスタはほれぼれとヴェラをながめていた。「絶対にこの女を売る気はないのか?」
「あんたにゃ手が出ないよ、陛下」ヴェラが言った。「そしてもうじきあんたはがまんできなくなる。あたしが手段を講じなくちゃならないのは、そのときさ」
「自国の王に本気でナイフを抜くのではあるまい?」
「試してみなよ」
「そうそう、もうひとつあった、ドロスタ」ヤーブレックがつけくわえた。「こんど、シルクとおれはあんたがマロリー人に課すのと同じ輸入税を払うことにさせてもらいますぜ」
ドロスタの目がいちだんと飛びだした。「とんでもないぞ!」かれは叫ばんばかりだった。「ブラドーが気づいたらどうする?」
「じゃ、気づかれないようにしなけりゃならんでしょうな。それがおれの口止め料だ。たとえあんたが税を削減しなくても、あんたがする気でいることをおれがしゃべりますぜ。そうなりゃ、ザカーズにとって陛下は必要欠くべからざる存在でもなんでもなくなるわけだ、そうでしょう?」
「おまえは泥棒野郎だ、ヤーブレック」
「商売は商売ですよ、ドロスタ」ヤーブレックはしらっと言ってのけた。
チェレクのアンヘグ王はヴァラナ皇帝との話し合いに向けて、はるばるトル・ホネスへやってきた。王宮に足を踏み入れると、アンヘグはただちに本題を切りだした。「困ったことになった、ヴァラナ」
「ほう?」
「わしのいとこのトレルハイム伯爵を知っているな?」
「バラクですか? もちろん」
「あいつがこのところ姿を見せないのだ。あのばかでかい船で、仲間ともどもいなくなったのだよ」
「自由な海原へ、というわけですな。仲間とはだれなんです?」
「チョ・ハグの息子のヘター、ミンブレイト人のマンドラレン、アストゥリア人のレルドリン。息子のウンラクと、熱烈なウルの信者であるレルグも一緒だ」
ヴァラナは眉をひそめた。「それは物騒な一団だ」
「物騒以上だ。あれではまるで天災が発生場所を捜しているようなものだ」
「行き先についてなにか思い当たることは?」
「どっちへ向かっているのかがわかっていれば、推測もできるが、それすらできん」
ドアに丁重なノックがあった。「チェレク人がひとり参っております、陛下」ドアの外の見張りが知らせた。「船乗りのようでして、アンヘグ王と話をする必要があると言っておりますが」
「通せ」皇帝は指示した。
それはグレルディクだった。わずかに酔っている。「あんたの問題は解決したようだぜ、アンヘグ。あの桟橋にあんたをおろしたあと、しばらくドック周辺をうろついて、どんな情報が集められるかやってみたんだ」
「つまり、居酒屋へ行ったわけだな」
「茶店じゃ船乗りは見つけられないだろうが。とにかく、トルネドラ人の商人を乗せてる船長に出くわしたんだ。そいつはマロリーの商品の荷を積んで〈東の海〉を南へ横切り、クトル・マーゴスの南端へ行ってきたんだ」
「それはおもしろい。しかし、なんのことやらわからんな」
「船を見たんだよ。おれが〈海鳥〉号の説明をしたら、船長はそれこそ自分の見た船だと言ったのさ」
「とにかく、それがとっかかりになる。バラクのやつ、どこへ行くつもりだろう?」
「きまってるだろ、マロリーさ」
約一週間の航海のあと、〈海鳥〉号はマロリー大陸の南西海岸にあるダル・ゼルバに入港した。バラクは二、三の質問をしたあと、仲間たちを連れてその港町にあるシルクの仲買人の仕事場へ向かった。
仲買人はひどく痩せた男で、栄養不良というより衰弱しているのに近かった。
「おれたちはケルダー王子の居場所をつきとめようとしてるんだ」バラクはわれ鐘のような声で言った。「緊急の用件だから、シルクの居どころについておれたちになにか教えてくれたら感謝する」
仲買人は眉をしかめた。「最後に聞いたところだと、大陸の反対側のメルセネにいたが、それはもう一ヵ月以上も前のことだ。ケルダー王子はほうぼう動きまわるからね」
「それがシルクなんだ」ヘターがつぶやいた。
「メルセネからどっちへ行ったか見当はつくか?」バラクはきいた。
「この仕事場はできたばかりでね。使者がわたしのところへまわってくるのは最後なんだよ」仲買人は顔をしかめた。「ダル・フィンダの仲買人はケルダーとヤーブレックがこの仕事場を作ったとき、ちょいと気を悪くしてた。わたしがライバルになるかもしれないと思ったんだろう。ときどきそいつはわたしにものごとを伝え忘れるんだ。しばらくそいつの仕事場はものが豊富だったから、使者はいつもあそこに立ち寄る。ダラシアのこのあたりでケルダーの居場所を知ってるやつがいるとすれば、そいつだろう」
「よし。で、ダル・フィンダてのはどこなんだ?」
「川を四十リーグほど上流へ行ったところだ」
「恩にきるぜ。マロリーのこのあたりの地図を持ってないか?」
「見つけてやれると思うよ」
「ありがとうよ。おれたちはこの辺には不案内なんだ」
「すると、われわれは川をさかのぼるのか?」シルクの仲買人が地図を捜しに部屋を出ていくと、ヘターが言った。
「ガリオンたちを見つけられる場所がそこしかなけりゃ、そうするしかないな」バラクは答えた。
フィンダ川の流れはゆるやかで、漕ぎ手たちはスイスイと上流へ向かった。翌日遅く川べりの町につくが早いか、一行はただちにシルクの仕事場へ行った。
ここの仲買人はダル・ゼルバの仲買人とは正反対だった。単に太っているというよりぶよぶよで、ばかでかい手は肉厚で、赤ら顔だった。特に協力的とは言えなかった。「あんたがたが王子の友人だとどうしてわかるんだ?」仲買人は疑わしげに問いつめた。「見ず知らずの他人に居場所を教えるつもりはないね」
「面倒を起こしたいのか?」バラクがきいた。
仲買人は赤髭の大男を見あげて、ごくりと唾を飲んだ。「いや、しかし王子は居どころを秘密にしておきたがることもあるからな」
「それはなにかを盗もうと計画しているときのことだろう」ヘターが言い足した。
「盗む?」仲買人はショックを受けたような声で反論した。「王子は尊敬すべき商売人だぞ」
「嘘つきで、詐欺師で、こそ泥で、密偵でもある」とヘター。「さあ、どこにいるんだ? しばらく前にメルセネにいたと聞いたんだ。そこからどこへ行った?」
「王子の容貌を説明できるか?」仲買人は言いかえした。
「背が低い」ヘターは答えた。「痩せてるほうだ。鼠みたいな顔つきで、長い尖った鼻をしてる。口がうまく、自分のことをおかしなやつだと思っている」
「まさにケルダー王子そのものだ」仲買人は認めた。
「そのわれらが友人が大変に危険な立場にあると聞いたのでござる」マンドラレンが口をはさんだ。「われわれは加勢せんものと、はるばる船でやってきたのだ」
「なんであんたがたの大半が鎧を着ているのかと不思議に思っていたんだ。ほう、そうだったのか。最後に聞いたところだと、ケルダー王子はケルという場所へ向かっている」
「指で示してくれ」バラクは地図を広げた。
「こっちだ」仲買人が言った。
「この川は航行できるのか?」
「北のバラサまではな」
「よし。大陸の南端をまわって、あの川をさかのぼろう。水路からこのケルという場所まではどのくらいある?」
「東の土手から一リーグかそこらだ。ものすごく大きな山のふもとにあるんだ。だが、おれなら用心するな。ケルにはひどく妙な噂があるんだ。予言者たちが住んでいて、とりわけよそ者は歓迎されないのさ」
「やってみるしかないな」バラクは言った。「情報提供感謝するぜ。追いついたら、あんたに世話になったとケルダーに言っておくよ」
かれらは翌朝川をくだった。風があったので、帆がふくらんで漕ぎ手たちを後押しし、おどろくほど速く進むことができた。もうすぐ正午というとき、前方のどこからかやかましい爆発音が何度も聞こえた。
「どうやら嵐に遭遇することになりそうでござるな」マンドラレンが言った。
バラクはけげんそうな顔をした。「空は晴れてるぜ、マンドラレン。それにありゃ雷の音じゃない」かれは声をはりあげて、「オールだけにして、帆をおろせ」と船乗りたちに命令すると、鋭く舵をきって〈海鳥〉号を土手へ近づけた。
ヘター、レルグ、レルドリンが下から出てきた。「なんで止まるんだ?」ヘターがたずねた。
「すぐ前方でなにかおかしなことが起きてるんだ」バラクは答えた。「へまをしないうちに、ようすを見てきたほうがいいと思ってな」
「馬を出そうか?」
「それはよそう。そう遠くないし、馬に乗ってる人間は目立つ」
「シルクみたいなしゃべりかたになってきたぞ」
「おれたちは長いこと一緒にいたからな。ウンラク!」バラクは息子に向かって叫んだ。ウンラクは船首にいた。「おれたちはこれからあの音の正体をさぐってくる。もどってくるまでおまえがここの責任者になれ」
「でも、父さん!」赤毛の少年は抗議した。
「命令だ、ウンラク!」バラクは一喝した。
「はい」ウンラクはふくれっつらをした。
〈海鳥〉号はゆっくりと流れの中で向きを変え、草におおわれた川の土手にそっとぶつかった。バラクたちは手すりから土手へ飛びおりると、用心深く歩きだした。
雷とは思えないあの奇妙な爆発音がさらにひびいた。
「あれがなんだろうと、すぐそこから聞こえてくるな」ヘターが静かに言った。
「なにが起きているのかわかるまで姿を隠していようぜ」バラクが言った。「前にああいう音を聞いたことがある――ラク・クトルでベルガラスとクトゥーチクが戦っていたときだ」
「魔術師たちのしわざと言われるのか?」マンドラレンが言った。
「断定はできないが、どうもそうじゃないかという気がするんだ。そっちにだれがいるのか、あるいはなにがあるのかこの目で見るまで隠れていたほうがいい」
かれらは背の低い木立の端に忍び寄って、開けた平原をのぞいた。
芝生の上に黒装束の人影が多数横たわって、煙をあげている。平原の端近くには、恐ろしげに肩を寄せあう人影がいくつも見えた。
「マーゴ人か?」ヘターがおどろいたように言った。
「拙者にはそうでないように思えますな、閣下」マンドラレンが言った。「ようく見れば、やつらのマントの頭巾が色とりどりであることがわかりましょう。あの色はグロリムの階級を示すものでござる。トレルハイム卿、警戒を呼びかけたのはまことに賢明でしたぞ」
「なんであんな煙が出てるんだろう?」レルドリンが神経質に弓をいじりながらささやいた。
その問いに答えるかのように、黒いローブをまとい、頭巾をかぶった人影が小丘のてっぺんに立ちあがり、さげすむような身振りをした。白熱する火の玉がその人影の手から飛びだし、じゅうじゅう音を立てながら開けた平原を突っきっておびえたグロリムのひとりの胸に命中した。それと同時に、またあの爆発音がひびいた。グロリムは悲鳴をあげて胸をかきむしりながら地面に倒れた。
「これであの音の正体がわかった」レルグがつぶやいた。
「バラク」ヘターが静かに言った。「小丘の上のあの人間は女だ」
「確かか?」
「目のよさではだれにも負けないさ、バラク。男と女のちがいぐらいわかる」
「おれだってわかる。だが、あんなマントに全身をくるんでいる場合は別だ」
「こんどあの女が両腕を持ちあげたとき、肘を見てみろ。女の肘はわれわれとはちがうんだ。アダーラが赤ん坊を抱くためだと言っている」
「ひとりでくるのがこわかったのか、アガチャク?」小丘の頂上の女があざけるように問いつめた。つぎの瞬間、女はまた火の玉を放ち、またひとりグロリムが地面に崩れ落ちた。
「わたしはなにもこわくない、ザンドラマス」うつろな声が平原の端にある木立から聞こえた。
「これであいつらが何者かわかったな」ヘターがひとりごちた。「しかし、どうして戦っているんだろう?」
「ザンドラマスは女なのか?」レルドリンがびっくりしてきいた。
ヘターはうなずいた。「ポレン王妃がしばらく前にそのことをつきとめたんだ。ポレンがアローンの諸王にそれを伝え、チョ・ハグがわたしに教えてくれた」
ザンドラマスはなにげないともいえる態度で残る三人のグロリムを倒すと、言った。「どうだい、アガチャク、もう隠れるのはよして出てきたらどう? それともこっちから見つけにいかなけりゃならないのかい?」
顔色の悪い長身のグロリムが木立からあらわれた。「おまえの火はわたしには効かないぞ、ザンドラマス」かれは頭巾の女のほうへ歩きだした。
「だれが火のことなど考えているものか、アガチャク」ザンドラマスはのどを鳴らさんばかりだった。「これがおまえの運命だよ」にわかに身体がにじんでちらちら光りだしたかと思うと、いままでザンドラマスの立っていた場所に巨大な恐ろしい獣があらわれた。蛇のような長い首に、ばかでかい蝙蝠《こうもり》のような翼のある獣だった。
「|たまげたな《ベラー》! ザンドラマスがドラゴンに変身した!」バラクがうめくように言った。
ドラゴンは翼を広げて、空中に飛びだした。青白い顔のグロリムは両腕を持ちあげてあとずさった。激しい衝撃音が起き、ドラゴンが突然一面の緑色の火の海に包まれた。ドラゴンの口からとどろく声は、依然としてザンドラマスの声だった。「もっと慎重に勉強しておくべきだったね、アガチャク。そうしていれば、トラクのおかげでドラゴンには魔術が効かないことがわかったのに」ドラゴンはいまやすくみあがっているグロリムの頭上を飛びまわった。「ついでだが、アガチャク、ウルヴォンが死んだと知ったら、うれしいだろう。あいつに会ったら、わたしからよろしくと伝えておくれ」ザンドラマスはそれだけ言うと、アガチャクの胸に鋭い爪をくいこませた。アガチャクは一度だけ絶叫した。ドラゴンの口からいきなり赤黒い火の渦がとびだして、アガチャクの顔をのみこんだ。ドラゴンはかれの頭を食いちぎった。
レルドリンがいまにも吐きそうな音をたてた。「ひどい!」レルドリンは嫌悪のこもった声で言った。「あのグロリムを食べてる!」
ドラゴンがいまわしいご馳走をたいらげるあいだ、身の毛もよだつバリバリという音がつづいた。食事がすむと、ザンドラマスは甲高い勝利の叫びをあげて巨大な翼を広げ、東へ飛びさった。
「もう出ていっても安全だろうか?」すぐそばからふるえ声がたずねた。
「姿を見せたほうが身のためだぜ」バラクが剣を抜きながら、不吉に言った。
それはひとりのタール人だった。土色の髪に、だらしない口元をした若者だった。
「タール人がマロリーでなにをしてるんだ?」レルドリンがその見知らぬ若者にたずねた。
「アガチャクがわがはいを連れてきたんだ」タール人はがたがたふるえながら答えた。
「名前は?」レルグがきいた。
「ミシュラク・アク・タールのナセル王だ。アガチャクがここでやらなけりゃならないことがあるから、それを助けてくれたら、わがはいをアンガラクの君主にしてくれると言ったんだ。後生だ、わがはいを置いていかないでくれ」涙が若者の顔を伝い落ちた。
バラクは仲間を見やった。全員の顔に哀れみの表情が浮かんでいた。「しかたないな」バラクはしぶしぶ言った。「一緒に行こうぜ」
[#改ページ]
10[#「10」は縦中横]
「彼女、どうしたんだろう、ポルおばさん?」ガリオンは毛布でくるんだぼろをあやしながらすわっているセ・ネドラを見ていた。
「つきとめなくちゃね」ポルガラは言った。「サディ、オレトがいるわ」
「ほんとうにいいんですか、レディ・ポルガラ?」宦官はいぶかしげに、指の細い両手を広げた。「いまのような状態では……」
「ポルおばさん、危険なようなら――」ガリオンは言いかけた。
「オレトはどちらかといえば無害なのよ」ポルガラはさえぎった。「いくらか心臓を刺激するけれど、セ・ネドラは丈夫な心臓をしているわ。大陸の半分向こうにいても、鼓動が聞こえるほどよ。わたしたちに必要なのは、たったいまなにが起きているかを知ることでしょう。それをさぐりだすには、オレトが一番てっとりばやい手段なの」
サディは赤い革の箱をあけると、小さなガラス瓶のひとつをポルガラに渡した。ポルガラは考えたすえに黄色い液体を三滴カップに落とし、水をカップのふちまで入れた。「セ・ネドラ、ディア」と小さな女王に声をかけ、「きっとのどがかわいたでしょう。これを飲むといいわ」と、カップを茜色の髪の娘に手渡した。
「あら、ありがとう、レディ・ポルガラ」セ・ネドラはごくごくと飲んだ。「ほんとうのこと言うとね、だれかにお水を持ってきてもらおうかと思ってたの」
「うまいじゃないか、ポル」ベルディンがささやいた。
「こんなのおちゃのこさいさいよ、おじさん」
「いったい、このふたりはなんの話をしているのだ?」ザカーズがガリオンにたずねた。
「ポルおばさんがセ・ネドラの意識にのどが渇いたという考えを植えつけたのさ」
「きみたちは実際にそういうことができるのか?」
「おばさんの言ったとおり、おちゃのこさいさいだよ」
「きみも[#「きみも」に傍点]できるのか?」
「どうかな。一度も試したことがないんだ」だがガリオンの注意は幸福そうにほほえんでいる小柄な妻に釘づけになっていた。
ポルガラは落ちつきはらって待った。
「そろそろはじめられると思いますよ、レディ・ポルガラ」サディがしばらくしてから言った。
ポルガラはうわの空で答えた。「サディ、わたしたちはもう長いつきあいなのよ。わたしがあなたを閣下′トばわりしていないのだから、あなただってレディ#イきにしたらどうなの?」
「ありがたいことです、ポルガラ」
「さ、セ・ネドラ」ポルガラは声をかけた。
「なんですの、ポルおばさん?」小柄な女王の目の焦点が少しずれていた。
「あんな呼びかたははじめてだ」シルクがベルディンに言った。
「ガリオンとの生活が長いからな。似通ってくるのさ」ちびの魔術師は答えた。
「おれがああいう呼びかたをしたら、彼女どうするかなあ?」
「そいつはやめておくんだな」ベルディンは言った。「もっとも、おまえしだいだがね。妙ちくりんな赤カブにされちまうぜ」
「セ・ネドラ」ポルガラは言った。「どうやって赤ちゃんを取りもどしたのか、正確なところを話してくれない?」
「アレルが見つけてくれたの」セ・ネドラはにっこりした。「これでますますアレルが好きになるわ」
「わたしたちはみんなアレルが好きよ」
「この子、ハンサムでしょう?」セ・ネドラは毛布のへりをめくってぼろを見せた。
「かわいいわ、ディア。アレルとは話すチャンスがあったの?」
「ええ、ポルおばさん。彼女はとても重要なことをしているの。だから、いまここにこられないのよ。ペリヴォーでわたしたちに追いつけるかもしれないと言ってたわ――そうじゃなけりゃ、コリムで」
「じゃ、彼女はわたしたちの行き先を知っていたの?」
「あら、ちがうのよ、ポルおばさん」セ・ネドラは笑った。「わたしが教えてあげなけりゃならなかったの。とってもわたしたちと一緒にいたがっているんですもの。でも、大事な仕事があるでしょ。アレルはわたしにどこへ行くのかたずねたの。だからペリヴォーとコリムのことを教えてあげたのよ。でも、コリムについてはちょっとびっくりしてたみたいだったわ」
ポルおばさんの目が細まった。「なるほどね。ダーニク、テントをたててくれない? セ・ネドラと赤ちゃんは少し休む必要がありそうだわ」
「すぐにやるよ、ポル」ポルガラの夫はすばやくポルガラを見たあとうなずいた。
「そういえば、ポルおばさん」セ・ネドラがうれしそうに言った。「ほんとうにわたしちょっと疲れているみたい。きっとゲランもお昼寝をしなくちゃいけないわ。赤ちゃんてたくさん眠るんですものね。お乳をやるわ。そうすれば眠るわよ。ゲランはいつもお乳を飲むと眠るの」
「しっかりしろよ」リヴァの王の目に涙があふれているのに気づいて、ザカーズはそっと声をかけ、友だちの肩をぎゅっとつかんだ。
「だが、彼女がわれに返ったら、どういうことになるのだ?」
「ポルガラがちゃんとやってくれる」
ダーニクがテントをたてたあと、ポルガラは幸せそうに顔を輝かせている幼い母親を中へ入れた。まもなく、ガリオンはかすかなうねりを感じ、ささやくような音を聞いた。しばらくすると、おばさんがセ・ネドラのかかえていた毛布を持ってテントから出てきた。「これを処分して」彼女はそれをガリオンの両手に押しこんだ。
「大丈夫?」ガリオンはたずねた。
「いまは眠っているわ。一時間ほどで目がさめるでしょう。目がさめたら、このことはなにもおぼえていないわ。わたしたちが口をすべらせたりしなければ、この件はこれでおしまいよ」
ガリオンは毛布を森の中へ持っていき、茂みの下に隠した。もどってくると、かれはシラディスに歩みよった。「ザンドラマスだったんだろう?」
「そうじゃ」シラディスはひとこと答えた。
「そしてきみはこういうことが起きるのを知っていたんだな?」
「そうじゃ」
「どうしてひとこと言ってくれなかった?」
「教えていれば、起きなくてはならぬ出来事に干渉することになる」
「残酷だな、シラディス」
「必然的な出来事というのはときに残酷なものじゃ。よいか、ベルガリオン、ザンドラマスはそなたたちのようにケルへ行くことができなかった。したがって、そなたの仲間のひとりから対決の場所をつきとめなくてはならなかったのだ。そうでなければ、しかるべきときに〈もはや存在しない場所〉へ行けない」
「どうしてセ・ネドラを選んだんだ?」
「おぼえていようが、ザンドラマスはこれまでにも何度か、そなたの女王の意志にはいりこんでいる。その絆にふたたびつけこむことは、ザンドラマスにとってはたやすいことなのじゃ」
「許せないよ、シラディス」
「ガリオン」ザカーズが口をはさんだ。「よせ。セ・ネドラは傷ついたわけではないし、シラディスは義務を果たしただけなんだ」マロリー人は妙にシラディスをかばった。
ガリオンは怒りに顔をどす黒くして、くるりと背を向け大股に歩き去った。
目がさめたとき、セ・ネドラは森での出会いをまったくおぼえていないようで、いつものセ・ネドラにもどったようだった。ダーニクがテントをたたみ、一行は馬で進みつづけた。
日が沈むころ森の端につき、そこで夜を明かすことになった。ガリオンは故意にザカーズを避けた。目隠しをした女予言者の肩を持った友だちと仲良くする自信がなかったのだ。一行がケルを発つ前にシラディスと長々と話しこんでいたザカーズは、いまやすっかりシラディスの言いなりになっているようだった。しかし、皇帝はときどき当惑した目つきになり、鞍の上でしばしばうしろを振りかえってはシラディスを見た。
だがその夜は、ふたりが見張り役だったので、ガリオンはもう友だちを避けるわけにいかなかった。
「まだわたしに腹を立てているのか、ガリオン」ザカーズがたずねた。
ガリオンはためいきをついた。「いや、ちがうんだ。ほんとうに怒っていたわけじゃない――ちょっといらだっていただけだ。なんといっても、ぼくが腹を立てている相手はザンドラマスであって、あんたやシラディスじゃない。妻に小細工を弄するようなやつにはがまんならないんだ」
「あれは起きるべくして起きたことなんだよ。ザンドラマスは対決の行なわれる場所をつきとめなくてはならなかった。ザンドラマスもそこにいなくてはならないのだからな」
「たぶんその通りだろうな。シラディスはあんたの務めについてくわしいことを教えてくれたのか?」
「いくつかは。しかし、それは話さないことになっている。わたしに言えるのは、非常に重要な人物がやってくること、わたしがかれを助けることになっていることだけだ」
「そしてその仕事に生涯かかわることになるのか?」
「その他大勢の人間もな」
「ぼくもか?」
「それはちがうだろう。きみの務めは対決のあとに終わるのだと思う。シラディスはきみがすでにじゅうぶんつらい目にあっているとほのめかしていた」
翌朝一行は早々に出発し、バラサ川の西側沿いのゆるやかに起伏する平原へ向かった。あちこちに農村があった。粗末な村に見えたが、家はみな、じつにみごとに作られていた。ダラシア人の村人たちが単純素朴な道具で畑を耕していた。
「これがすべて見せかけとはな」ザカーズが皮肉っぽく言った。「この連中はおそらくメルセネ人よりはるかに洗練されているのだ。そして大変な苦労をして、その事実を隠している」
「真実を知っていても、そなたの民やトラクの僧侶たちはかれらをそっとしておいただろうか?」シラディスがたずねた。
「そっとはしておかなかっただろう」ザカーズは認めた。「とりわけメルセネ人は多数のダル人をむりやり官僚政治の一員にしようとしたにちがいない」
「それはわれらの務めに相反したであろう」
「いまはよくわかる。マル・ゼスにもどったら、ダラシアの保護政治に向けて帝国の政策を多少変更するつもりだ。きみたちダル人はマロリーにとって、ハツカダイコンやカブを育てることよりはるかに重要なことをしているのだからな」
「すべてがうまくゆけば、われらの仕事は対決が起きれば完了するであろう、ザカーズ皇帝」
「しかし、きみたちの研究はつづくのだろう?」
シラディスは微笑した。「もちろんじゃ。大昔からの習慣はそう簡単には消えない」
ベルガラスがシラディスの隣りに馬をつけてたずねた。「ペリヴォーについたとき、わしらがなにを捜すことになっているのか、もうちょっと特定できないか?」
「ケルでそなたに申したとおりじゃ、ベルガラスどの。ペリヴォーでそなたは〈もはや存在しない場所〉へそなたたちを導いてくれる地図を捜さねばならぬ」
「ペリヴォーの人々が、世界の他の土地の人々よりもそのことをよく知っているのはなぜなのだ?」
シラディスは答えなかった。
「それもあんたが教えようとしないことがらのひとつらしいな」
「こんどはそうではないかもしれぬ、ベルガラス」
ベルディンが舞いおりてきた。「油断しないほうがいいぜ。このすぐ先にダーシヴァ兵の巡回部隊がいる」
「人数は?」ガリオンはすばやくたずねた。
「一ダースほどだ。ひとりグロリムを連れてる。あまりそばへ行きたくなかったが、どうも例の白目らしい。つぎの谷の木立に身を潜めてるぜ」
「わたしたちがここを通ることがどうしてわかったのかしら?」ヴェルヴェットがとまどいぎみに言った。
「ザンドラマスはわたしたちがペリヴォーへ行くのを知っているのよ」ポルガラが答えた。「これは一番の近道なの」
「ダーシヴァ兵の一ダースぐらいたいした脅威ではない」ザカーズは自信たっぷりだった。「ほんとうの目的はなんなのだろう?」
「遅延だ」ベルガラスが言った。「ザンドラマスはわしらを遅らせて、自分が先にペリヴォーへつきたいのだ。あの女はどんなに遠くからでもナラダスと意志を通わせることができる。この先レンガまでの道は、数マイルごとにナラダスが罠をしかけていると思ってまちがいない」
ザカーズは短い髭をかきながら、眉をよせてじっとなにごとか考えていた。ややあって、鞍袋のひとつをあけ、地図を取りだしてながめた。「まだレンガまでは十五リーグほどある」ザカーズは目をすがめてベルディンを見やった。「その距離をどのくらいの時間で飛べる?」
「二時間だな。どうして?」
「レンガには帝国駐屯地がある。駐屯部隊の司令官あてに、わたしの封印つきの手紙を出すのだ。そうすれば部隊を動かして、背後から罠をめちゃくちゃにしてくれるだろう。われわれが部隊と合流すれば、もうナラダスは手だしをすまい」そこまで言ってザカーズはあることを思いだし、シラディスに言った。「聖なる女予言者、ダーシヴァで、ケルへくるとき部隊をおいてくるようにとわたしに言ったが、あの禁止令はまだ有効なのか?」
「いや、カル・ザカーズ」
「よかった。では手紙を書こう」
「すぐ先に隠れてる巡回部隊はどうする?」シルクはガリオンにたずねた。「ザカーズの部隊が到着するまでここで待つのか?」
「気がのらないな。ちょっと身体を動かすのはどうだい?」
シルクはそれに答えて、いたずらっぽくにやりとした。
「でも、まだひとつ問題がありますわ」ヴェルヴェットが言った。「ベルディンがレンガのほうへ行ってしまったら、待ち伏せしている連中を偵察する者がいなくなってしまいます」
「黄色い髪の女に、その心配はないと言って」雌狼がガリオンに言った。「わたしなら見られずに行動できるわ。見られても、人間は注意を払わないでしょう」
「心配いらない、リセル」ガリオンは言った。「雌狼が偵察してくれる」
「とても心強い人物ですわね」ヴェルヴェットはほほえんだ。
「人物?」とシルク。
「ええ、そうじゃない?」
シルクはおでこにしわを寄せた。「まあ、そうかもしれない。彼女はじつに個性的だからな」
雌狼はシルクに向かってしっぽをふると、はねるようにいなくなった。
ガリオンは〈鉄拳〉の剣を鞘から抜きながら言った。「ようし、こそこそ隠れているダーシヴァ兵たちを訪問してみようじゃないか」
「ナラダスがなにかやっかいなことを引き起こすんじゃないのか?」ザカーズが手紙をベルディンに渡しながらたずねた。
「望むところさ」ガリオンは答えた。
しかしナラダスは木立にひそんでいるダーシヴァ兵たちの中からすでに姿を消していた。こぜりあいはあっという間に終わった。待ち伏せしていた連中のほとんどは、戦うより逃げるほうに忙しかったからだ。
「しろうとめ」ザカーズが鼻を鳴らし、血のついた剣を倒した敵のマントでぬぐった。
「すごく腕があがったじゃないか」ガリオンはほめた。
「若いときに受けた訓練が生きてきたらしい」ザカーズは謙遜した。
「ヘターのサーベルさばきとそっくりだよな」シルクがダーシヴァ兵の胸から短剣を引き抜きながら言った。
「よく似てる」ガリオンはうなずいた。「ヘターはチョ・ハグから手ほどきを受けたんだ。アルガリア一の剣術の名人から」
「タウル・ウルガスが勝てなかったのも道理だ」とシルク。
「その戦いを見るためなら、なにをくれてやってもおしくなかったのに」ザカーズは無念そうだった。
「ぼくもさ」ガリオンは言った。「もっとも、そのときは別の場所で忙しかったからしかたないけどな」
「ひそかにトラクに迫っていたのだろう?」ザカーズがほのめかした。
「ひそかに≠ニいうのは正確な言葉じゃないな。トラクはぼくの行くのを知っていたんだ」
「婦人たちとベルガラスを連れてくるよ」ダーニクが口をはさんだ。
ベルガラスは追いついてくると言った。「ベルディンとしゃべったんだ。ナラダスはおまえたちがここへつく前にこの木立から逃げだした。ベルディンはやつを殺そうと思ったらしいが、手紙を爪でつかんでいたんでな、果たせなかった」
「やつはどんな姿をしてたんです?」シルクがきいた。「ナラダスのことですが」
「烏さ」ベルガラスはさもいやそうに言った。「グロリムは昔からどういうわけだか烏が好きなんだ」
シルクがいきなり笑いだした。「マーゴ人のアシャラクがアレンディアの平原で烏に変身したときのことをおぼえてるか? そしてポルガラがアシャラクを処分させようとあの鷲を呼び寄せたときのことをさ。一時間近く、黒い羽根が雨みたいに降ってきたっけ」
「マーゴ人アシャラクとは何者だ?」ザカーズがたずねた。
「クトゥーチクの子分のひとりだったのだ」ベルガラスが答えた。
「その鷲はかれを殺したのか?」
「いや。あとでガリオンが殺した」シルクが言った。
「剣でか?」
「いや。素手でさ」
「きっと強烈な一撃だったのだろうな。マーゴ人は屈強な連中だ」
「じつはただの平手打ちだったんだ」ガリオンは言った。「火をつけたんだよ」アシャラクのことを考えたのは数年ぶりだった。おどろいたことに、もうその記憶はガリオンを悩ませなかった。
ザカーズが恐怖のまなこでガリオンを見つめた。
「アシャラクはぼくの両親を殺した犯人だったんだ」ガリオンは説明した。「火をつけるのが妥当な行為に思えた。やつは両親を焼死させた。だから同じことをやったんだ。さあ、行こうか?」
疲れ知らずの雌狼は一行の前方をくまなく調べ、日が沈む前にさらにふたつ、待ち伏せていた部隊を見つけだした。しかし、闇打ちに失敗した最初の部隊の生き残りたちが警告していたので、このふたつのダーシヴァ軍は、ガリオンたちがやってくるのを見るやいなや、われ先にと逃げていった。
「がっかりですな」ふたつめの部隊に逃げられたあと、サディが毒を塗った小さな短剣を鞘におさめながら言った。
「これだけ細工をしておいてそれが水の泡と消えたとわかったら、ナラダスのやつ、ダーシヴァ兵たちをこってりしぼりあげるぞ」シルクが陽気につけくわえた。「祭壇を見つけたらさっそく、ダーシヴァ兵をたくさんいけにえにするだろう」
翌日の正午ごろ、かれらはレンガからきたザカーズの帝国部隊に会った。部隊の司令官は馬で前に進みでると、目をみはってザカーズを凝視した。「陛下、ほんとうに陛下ですか?」
ザカーズは黒い無精髭をこすって、笑った。「これのことを言っているのか、大佐? あそこにいるあの老人の提案だったのだ」とベルガラスを指さした。「わたしであることを見破られたくないのだ。わたしの顔はマロリー中のコインに刻印されているからな。北へくるのにやっかいな点はあったのか?」
「申しあげるほどのことはなにもありません、陛下。一ダースあまりのダーシヴァ兵の部隊に遭遇しました――たいがいは木立に隠れていました。われわれが包囲すると、たちまち降伏しましたよ。降伏するのになれた連中です」
「逃げるのにもなれているぞ」ザカーズはにやりとした。
大佐はためらいがちに皇帝を見た。「こんなことを申しあげてもお怒りにならないでいただきたいのですが、陛下、わたくしがマル・ゼスにいたときの陛下とはまるで別人ようです」
「ほう?」
「武装された陛下を拝見したことは一度もありませんでした」
「物騒な時代だからな、大佐。物騒な」
「こう申しあげても大目に見ていただけるなら、陛下、陛下が笑ったのを聞いたのもはじめてです――微笑を見たことさえありませんでした」
「以前はちょっとしたわけがあったのだ、大佐。レンガへ参ろうか?」
かれらがレンガに到着すると、シラディスはトスの助けを借りて一行をまっすぐ波止場へ案内した。風変わりな形の船がかれらを待っていた。
「感謝するぞ、大佐」ザカーズは部隊の司令官に言った。「船を用意してくれるとは、ゆきとどいているな」
大佐は答えて言った。「せっかくですが、陛下、わたくしはこの船とは無関係です」
ザカーズがおどろいてトスを見ると、物言わぬ大男は短くダーニクに笑いかけた。
ダーニクは眉間にかすかなしわを寄せた。「気をつけたほうがいいよ、カル・ザカーズ。この船が手配されたのは数千年昔なんだ」
ベルガラスの顔がふいに笑いでくずれた。「するとわしらはスケジュールどおりに行動しているらしいな。約束に遅れるのは大きらいなのだ」
「ほんとかよ?」ベルディンが言った。「おぼえてるが、おまえさんは約束から五年もたってからあらわれたことがあるんだぜ」
「なにか邪魔がはいったのだ」
「いつもなにかだ。あれはおまえさんがマラゴーで女たちにうつつを抜かしていたときのことじゃなかったのか?」
ベルガラスは咳ばらいして、うしろめたそうにこっそり娘を見やった。
ポルガラは片方の眉をつりあげたが、なにも言わなかった。
クトル・マーゴスのゴラトからヴァーカト島へかれらを運んだときの船乗りたちと同様、こんどの船を漕ぐ船乗りたちもやはり口のきけない者たちだった。ガリオンはまたしても、あの同じことが繰りかえされる不思議な感覚に襲われた。かれらが船に乗りこむと、船乗りたちはただちにすべての索を解いて、帆をあげた。
「奇妙だな」シルクがつぶやいた。「風は沖合いから吹いてくる。なのに、おれたちはまっしぐらにそっちへ向かってるぜ」
「わたしもそれには気づいたよ」ダーニクが賛意を表した。
「だろう? ダル人には正常なルールはあてはまらないようだな」
「ベルガリオン、そなたと、そなたの友人ザカーズとで、わたしとともに船尾の船室へきてもらえまいか?」船が港を離れると、シラディスが言った。
「もちろんだ、聖なる女予言者」ガリオンは答えた。船尾へ歩きながら、ガリオンはザカーズが目隠しをした娘の手を取って、ほとんど無意識のうちにトスの心遣いをまねているのに気づいた。そのとき、リヴァ王の心を妙な考えがよぎった。ザカーズの顔はふしぎに穏やかで、目には不可解な表情が浮かんでいた。ありえないことのように思えたが、ガリオンはマロリー皇帝の心をじかにのぞきこんだようにはっきりと、自分の推測がまちがいのない真実であることを知った。かれはそっと微笑を隠した。
船尾にはきらめくふたつの鎧が直立していた。まるでボー・ミンブルで騎士たちが身につけていた鎧のようだった。
「ペリヴォーでそなたたちはこれを着なければならぬ」シラディスが言った。
「わけがあるんだろうね」ガリオンは言った。
「まさしく。そしてわれらがあの海岸に近づくとき、そなたたちは面頬をさげ、いかなることがあろうとも、わたしがよいと言うまで面頬をあげてはならぬ」
「その理由は教えてくれないんだろう?」
シラディスはやさしく微笑して、ガリオンの腕に手をおいた。「それが必要であることを知っておけばよいのじゃ」
「そうくるだろうと思ったよ」ガリオンはザカーズに言うと、船室のドアに近づいて声をはりあげた。「ダーニク、こっちへきてくれないか、手助けがいりそうなんだよ」
「まだ着なくてもよいでのではないか?」ザカーズがきいた。
「これまで鎧兜を全部着たことがあるか?」
「いや。ない」
「なれるまでちょっと時間がかかるんだ。マンドラレンだって最初に着たときはちょっと文句を言ったくらいでね」
「マンドラレン? きみの友人のあのミンブレイト人がか?」
ガリオンはうなずいた。「かれはセ・ネドラの擁護者なんだ」
「擁護老はきみだと思っていた」
「ぼくは夫さ。適用されるルールがちがうんだ」ガリオンは批判的にザカーズの剣を見た。刃が細くて軽い武器だった。「もっと大きな剣が必要になるよ、シラディス」かれは女予言者に言った。
「あの戸棚にはいっている、ベルガリオン」
「万事ぬかりがないね」ガリオンは皮肉っぽく言った。かれは戸棚をあけた。中にほとんど肩まで達する、刃の大きな剣があった。ガリオンはそれを両手で持ちあげ、「あんたの剣だ、陛下」と、柄《つか》をザカーズに向けた。
「ありがとう、陛下」ザカーズはにやりとした。剣をつかんだとたん、ザカーズの目が大きく見開かれた。「なんて重さだ!」毒づきながら、もうちょっとで巨大な剣を落としそうになった。「人間はほんとうにこんなものを使って戦いあうのか?」
「しょっちゅうね。アレンディアではそれがおもな娯楽なんだ。それを重いと思うなら、ぼくのを持ってみるんだな」そのときガリオンはあることを思いだした。「目覚めよ」といくらか命令口調で〈珠〉に言った。
石のつぶやきはかすかに腹だたしげだった。
ガリオンは指示した。「やりすぎは禁物だが、友だちの剣が少し重いんだ。軽くしてやろうじゃないか――いちどにちょっとずつ」ザカーズが剣を持ちあげようとするのをガリオンは見守った。「もうちょっとだ」〈珠〉に指示した。
剣の先端が持ちあがった――ゆっくりと。
「どうだ?」ガリオンはきいた。
「もう少しだな」ザカーズはうなった。
「やってくれ」ガリオンは〈珠〉に言った。
「よくなった――」ザカーズはためいきをついた。「――だがその石にそんなふうに話しかけてほんとうに大丈夫なのか?」
「きびしい態度をとることが必要なのさ。ときには犬か馬みたいなものなんだ――あるいは女とかね」
「そなたの発言をけっしてわすれまいぞ、ベルガリオン王」シラディスが手厳しく言った。
ガリオンはにやりとし、やんわりと言った。「そうだろうね、聖なる女予言者」
「きみに分あり[#「分あり」に傍点]、だな」とザカーズ。
「便利だろう、その言葉」ガリオンは笑った。「もうじきあんたをアローン人にしてやるよ」
[#改ページ]
11[#「11」は縦中横]
船は風にさからって進みつづけた。港まで三リーグというとき、一羽のアホウドリがあらわれて、熾天使《してんし》のように翼を停止させてついてきた。一度だけそれが鳴き声をたてると、ポルガラが応答するように小首をかたむけた。するとアホウドリは船を先導するかのように、船首のすぐ前に位置を占めた。
「妙じゃありません?」ヴェルヴェットが言った。「ヴァーカト島へ行く途中でわたしたちが見た鳥とそっくりですわ」
「ええ、ディア」ポルガラが言った。「同じ鳥よ」
「そんなこと不可能です、レディ・ポルガラ。ヴァーカト島は世界の裏側ですもの」
「ああいう翼を持つ鳥にとっては、距離など無意味なのよ」
「ここでなにをしているのかしら?」
「あの鳥にはあの鳥なりの務めがあるの」
「まあ? どんな務めですの?」
「言おうとしないから、きかないほうが無難だと思うわ」
ザカーズはさっきから鎧を身体になじませようと、甲板を行ったりきたりしていた。「こういうものは見かけはじつにすばらしいが、着ごこちはあまりよくないな」
「ほんとうに必要なときに着ていない心細さを思えば、そうでもないさ」ガリオンは言った。
「しかし、きみはそういう状態にも慣れているのだろう?」
「そんなことはないよ」
ペリヴォーの島までかなりの距離があったにもかかわらず、物言わぬ乗組員の漕ぐ不思議な船はハイペースで進み、翌日の正午ごろには林のある海岸についた。
「正直に言うとな」馬たちをおろしながら、シルクがガリオンに言った。「おれはあの船からおりられてほっとしてるんだ。風にさからって進む船とか、ののしり声ひとつあげない船乗りとか、どうも神経にさわるんだよ」
「このぼくだって、こんどのことではいろいろと神経質になってるさ」ガリオンは答えた。
「唯一のちがいは、おれはただの平凡な人間だってことだ。おまえは英雄だからな」
「そのことがどう関係してくるんだ?」
「英雄ってのは、神経質になっちゃいけないんだぜ」
「だれがそんなことを決めた?」
「周知の事実だよ。あのアホウドリはどうなった?」
「陸が見えてきたとたんに飛び去った」ガリオンは面頬をさげた。
「ポルガラの言う鳥の話は気にしないことにしてるんだ」シルクはみぶるいした。「おれはおおぜいの船乗りを知っているが、連中がああいう鳥についていいことを言うのを聞いたためしがない」
「船乗りは迷信深いのさ」
「ガリオン、迷信にはすべて事実にもとづく根拠があるんだぜ」小男は目を細めて海岸の上端にならぶ黒々とした木々をじっと見た。「あまり心躍る海岸じゃないな。どうしてどこかの港におれたちをおろさなかったんだろう?」
「ダル人の行動の理由なんて、だれにもわからないんじゃないかな」
馬たちが船からおろされたあと、ガリオンたち一行は馬にまたがって海岸をのぼり、森にはいった。「きみとザカーズのために槍を作ったほうがよさそうだな」ダーニクがガリオンに言った。「シラディスはわけがあってきみたちふたりに鎧兜をつけさせたんだし、槍なしで武装しているとどことなく間が抜けて見えるんだよ」ダーニクは馬からおりて斧を取りだすと、木立の中へはいっていった。しばらくして頑丈な丸太を二本持ってもどってきた。「今夜テントをはったあとで、先を尖らせてあげよう」と約束した。
「うまく持てない」ザカーズが槍と楯をいじりまわしながら言った。
「こうするんだ」ガリオンはやってみせた。「楯を左腕にとめて、左手で手綱をつかむ。それから槍の柄を右足のわきのあぶみにつっこみ、あいているほうの手で先端を持つ」
「これまで槍で戦ったことがあるのか?」
「何度かね。鎧兜を着ているやつが相手だと、すごく効果がある。いったん相手を馬から蹴落としてしまえば、立ちあがるまでにかなり手間どるからな」
ベルディンは例によって、先方を偵察していた。もどってきて木々のあいだにほとんど翼を動かさずに静止した。「信じないだろうがな」ベルディンは本来の姿にもどると、ベルガラスに言った。
「なんだ?」
「この先に城があるぜ」
「なにがあるだと?」
「でかい建物だ。普通は城壁と濠《ほり》とはね橋がついてる」
「城がなにかぐらい知っとる」
「じゃあなんできくんだよ? とにかく、この先の城はまるでアレンディアから直接移動してきたように見えるんだ」
「わしらのためにこの謎をあきらかにできるかね、シラディス?」ベルガラスは女予言者にたずねた。
「ほんとうは謎でもなんでもない、ベルガラスどの」シラディスは答えた。「二千年ばかり昔、西からきた冒険者の一団が、この島の海岸に漂着したのじゃ。船をふたたび作りあげるのは不可能と悟ると、かれらはここに住みつき地元住民の中から妻をめとった。しきたり、礼儀作法、話しかたまで、かれらは故国の流儀を守っている」
「そなたとか、そちとか、かい?」シルクがきいた。
シラディスはうなずいた。
「で、城も?」
ふたたびうなずいた。
「すると男たちはみんな鎧兜をつけてるのか? ガリオンとザカーズが着ているようなやつを?」
「そなたの申すとおりじゃ、ケルダー王子」
シルクはうめいた。
「どうしたのだ、ケルダー?」ザカーズがたずねた。
「遠路はるばるやってきたあげくが、またミンブレイト人に会うのかと思うとがっくりだよ」
「タール・マードゥの戦場からわたしが受けとった報告は、かれらはきわめて勇敢だというものばかりだったぞ。この島の評判もそれで説明がつくかもしれん」
「ああ、そりゃ勇敢だよ、ザカーズ」小男は言った。「ミンブレイト人は世界一勇敢な連中さ――そのわけは、ものごとに恐怖を感じるだけの脳みそがないからなんだ。ガリオンの友だちのマンドラレンは自分は無敵だと頭から信じきってる」
「無敵なんですもの」セ・ネドラが反射的に自分の騎士をかばった。「一度、かれが素手でライオンを殺すのを見たわ」
「かれの評判は耳にしていた」ザカーズが言った。「誇張だと思っていたが」
「そうでもないんだ」と、ガリオン。「あるとき、マンドラレンがバラクとヘターに三人でトルネドラ全域を攻撃しないかと持ちかけていたのを聞いたことがある」
「ふざけていたのだろう」
「ミンブレイトの騎士はふざけるのがどんなことかも知らないんだよ」シルクが言った。
「あなたがたがわたしの騎士を侮辱するのを黙って聞いてるわけにいかないわ」セ・ネドラがいきまいた。
「侮辱しているんじゃないよ、セ・ネドラ」シルクが言った。「マンドラレンの人となりを説明してるんだ。かれの高潔さといったら、おれの髪の毛だって胸を痛めるほどさ」
「高潔さはドラスニア人には縁遠い概念だと思うけど」
「縁遠いんじゃないよ、セ・ネドラ。理解不可能なんだ」
「二千年のあいだに、かれらも変わっただろう」ダーニクが期待をこめて言った。
「おれなら当てにしないぜ」ベルディンがぶつくさ言った。「おれの経験じゃ、孤立して暮らす人間は、もとからあった性向を石みたいに固くするきらいがある」
「だが、そなたたち全員にあることを警告せねばならぬ」シラディスが口をはさんだ。「この島の住民の性質は、一種独特じゃ。多くの点では、そなたたちが形容したとおりだが、かれらの性質にはダル人の部分もあり、われらダル人の術に精通している」
「ほう、すばらしい」シルクが皮肉たっぷりに言った。「魔術を駆使するミンブレイト人か。狙いをどこにさだめるか、それでわかるというわけだ」
「シラディス、ザカーズとぼくが鎧兜を着ているのはそのためなのか?」
シラディスはうなずいた。
「どうしてそう言ってくれなかったんだ?」
「そなたがひとりでそれを見つけだすことが必要だったからじゃ」
「ともかく、ようすを見にいこうじゃないか」ベルガラスが言った。「ミンブレイト人を相手にしたことなら前にもあるし、いつもやっかいな目にはあわずにすんできた」
金色の午後の日差しを浴びて、かれらは森の中を進んでいった。森の端についたとき、ベルディンが報告した建築物が見えた。てっぺんに高い突起のような塔があり、城につきものの胸壁が備わっていて要塞化されている。
「てごわそうだな」ザカーズがつぶやいた。
「木立にひそんでいてもしかたがない」ベルガラスが言った。「しかし、あの広々とした場所を横切ってはすぐに見つかってしまうな。ガリオン、おまえとザカーズが先頭になれ。鎧兜を着た人間はたいがい丁重に迎えられるものだ」
「おれたちはただ城まで馬で進んでいくんですか?」シルクがたずねた。
「そのほうがよかろう。かれらがいまだにミンブレイト人のような考えかたをするなら、当然一夜の宿を提供する気になるだろうし、いずれにしてもわしらには情報が必要だ」
かれらはさえぎるもののない草原に出ると、陰気な城めざして馬を歩かせた。「向こうへついたら、話はぼくにまかせたほうがいい」ガリオンはザカーズに言った。「なんとか方言がわかるからな」
「名案だ」ザカーズは賛成した。「貴殿だのなんじだの、わたしならのどがつかえてしまう」
城の内部からラッパが大きな音をたてた。ガリオンたちの姿を認めたしるしである。数分後、きらめく鎧兜に身を固めた十二人の騎士が駆け足ではね橋の向こうから馬を走らせてきた。ガリオンはクレティエンヌをわずかに前に出した。
「歩調をゆるめられよ、騎士どの」騎士たちのリーダーとおぼしき男が言った。「わがはいはアステリグ卿、この城の男爵である。貴殿の氏名と、わがはいの城門に貴殿たち一行がこられたわけを明かせられたい」
「氏名を明かすわけにはまいらぬ、騎士どの」ガリオンは答えた。「ゆえあってのことだが、いずれは貴殿に打ち明けよう。わがはいと、この騎士とは、後方に控えし仲間とともにきわめて緊急を要する探索に関与しており、一夜の宿を求めてここへ参ったしだいだ。数時間ここにとどめてもらえまいか」ガリオンはうまくしゃべれたことに鼻が高かった。
「おたずねになるまでもない、騎士どの」男爵は言った。「まことの騎士であれば、好意からではなくとも、名誉によって、探索に従事する騎士に援助と宿を提供するのは当然でござる」
「お礼の言葉もない、アステリグ卿。ごらんの通り、連れにはさる高貴のご婦人がたもあり、長旅ですっかり疲労している」
「ではそのままこちらへ進まれよ、おふたかた。ご婦人がたの休息を計らうは、騎士と生まれた男すべての至上の義務なり」男爵は華麗にくつわをめぐらすと、部下たちをぴたりと従え、長い丘を城へ向かってのぼりはじめた。
「優雅なものだ」ザカーズが感嘆の体《てい》でつぶやいた。
「ボー・ミンブルでしばらく過ごしたことがあるんだ」ガリオンは説明した。「しばらくすればあんたもかれらのしゃべりかたがわかってくるよ。唯一の困った点は、文章が込みいっているせいで、ときどき最後までたどりつかないうちに、自分でもなにを言っていたのかわからなくなるってことなんだ」
アステリグ男爵は先頭に立ってはね橋を渡り、かれらは全員板石敷きの中庭におりたった。
「召使いたちが貴殿とお仲間を適当な部屋へご案内いたす、騎士どの。みなさんそこで休まれるとよい。そのあと、よろしければ大広間へきて、わがはいがいかようにして貴殿の高潔なる探索をお助けできるか、話してはくれまいか」
「かたじけない、閣下」ガリオンは言った。「ご婦人たちがくつろぐのを見届けしだい、ただちに友なる騎士とふたりで大広間に参じよう」
かれらは男爵の召使いのひとりについて、城塞の二階にある快適な部屋へ向かった。
「あなたにはほんとうに関心したわよ、ガリオン」ポルガラが言った。「教養ある言葉の話しかたについて、ちょっとでも心得があるなんて意外だったわ」
「ありがとう、と言っていいんだろうな」とガリオン。
「おまえとザカーズは男爵と三人だけで話をしたほうがよいだろう」ベルガラスがガリオンに言った。「なかなかうまく素性を隠したが、あとのわしらが一緒だと、男爵が紹介を求めるかもしれん。慎重に話を聞きだしてくれ。土地の習慣とかそういうことをたずねるんだ。偶発している戦争があるかどうかをきいてくれ」老人はザカーズに視線を移した。「島の首都はなんという?」
「たしか、ダル・ペリヴォーだと思う」
「では、そこがわしらの目的地だろうな。それはどこにある?」
「島の反対側だ」
「やっぱり」シルクがためいきをついた。
「はじめたほうがいいぞ」ベルガラスは鎧兜のふたりに言った。「城主を待たせるな」
「これがすべて片づいたら、かれをわたしに雇わせることを考えてくれないか?」鎧を鳴らして廊下を歩きながら、ザカーズがガリオンにたずねた。「まとまった金が作れるぞ。そしてわたしは世界でもっとも有能な政府を持つことになる」
「いつまでも死なないであんたの政府をきりもりしそうな人間がほんとうにほしいのか?」ガリオンはおもしろそうな口調できいた。「かれがシルクとサディを束にしたより堕落している事実も承知したうえでのことか? ベルガラスはおそろしくたちの悪いじいさんだよ、カル・ザカーズ。この世に生きているすべての世代を合わせたよりも賢くて、人をうんざりさせる癖をいやってほど持ってるぞ」
「かれはきみのおじいさんだろう、ガリオン」ザカーズは抗議した。「よくもそんな口がきけるな」
「真実は真実さ、陛下」
「きみたちアローン人はまったく変わった連中だよ、友だち」
「ぼくたちはそれを隠そうとしたことは一度もないさ、友だち」
背後で爪が廊下にあたるカチカチという音がして、雌狼がふたりのあいだにわりこんできた。「どこへいくの」雌狼はガリオンにきいた。
「この家の主人と話をしにいくんだ」
「あなたたちについていくわ。必要とあらば、うっかりしたまちがいを防ぐ助けになるかもしれないでしょう」
「なんと言ったんだ?」ザカーズがたずねた。
「ぼくたちが重大なまちがいをしでかさないように、一緒についてくるそうだ」
「狼がか?」
「これは普通の狼じゃないよ、ザカーズ。ぼくはだんだん疑わしく感じはじめてるんだ」
「子供がいくらかでもわたしのことをわかってくれてよかったわ」雌狼はくんくんと鼻を鳴らした。
「ありがとう。親愛なるきみが認めてくれてうれしいよ」
雌狼はガリオンにしっぽをふってみせた。「でも、その発見はあなたの胸にしまっておいてもらいたいの」
「もちろんさ」
「いったいなにをしゃべっているんだ?」ザカーズがたずねた。
「狼らしいことをさ」ガリオンは言った。「通訳のしようがないんだ」
アステリグ男爵は鎧兜を脱いで、パチパチと火の燃える炉辺の前のばかでかい椅子にすわっていた。「つねにごらんのとおりなのだ、おふたかた」男爵は言った。「石は敵から身を守る楯となりはしても、永遠に冷たく、冬の寒気はそのかたくなな表面からゆっくりとしみだしてくる。やむなくわれらは火を絶やさぬことを要求される、夏がそのやさしい暖かさでこの島を浸してくれるときですらな」
「おっしゃるとおりだ、閣下」ガリオンは答えた。「ボー・ミンブルの巨大なる城壁も、これ同様の威圧するような寒さを与える」
「すると、騎士どの、貴殿はボー・ミンブルを見たことがおありか?」男爵はおどろいてたずねた。「あの有名な都市を見るためなら、すべてを投げだしても惜しくはないのだが。実際にはどのような都市なのか?」
「大都市だ、閣下」ガリオンは言った。「金色の石が日差しに照りはえるさまは、天をも恥入らせるほどだ」
男爵の目がうるんだ。「ああ、騎士どの」感きわまった声で男爵は言った。「高貴なる目的をたずさえた騎士とのこの思いもよらぬ遭遇と、つかのまのすばらしい会話こそ、わが人生の誉れであるぞ。なぜなら、ボー・ミンブルの記憶は果てしない歳月の流れにこだまし、この孤独なる放浪の身たるわれらを支えてきたものだからだ。しかし、そのこだまは季節が過ぎるたびに薄れゆき、愛する者たちの顔が残酷な時のうつろいとともに夢の中でしか思いだせなくなるのと、まさしく同じありさまになってしまった」
「閣下」ザカーズがどもりがちに言った。「貴殿の話しぶりにわたしは感動した。わたしに力があれば――事実、あるが――いつの日か貴殿をボー・ミンブルへお連れいたし、あの城の王座の前に貴殿を誘いだしたい。そうすれば貴殿を同胞と再会させることができよう」
「ほらね」ガリオンは友だちにささやいた。「だんだん慣れてくるだろう」
男爵ははばかることなく涙をぬぐうと、ぎごちない一瞬をやりすごそうとガリオンに言った。「貴殿のこの犬だが、騎士どの、わがはいの思うにどうやら雌犬らしいが――」
「じっとしてろ」ガリオンは雌狼にきっぱりと言った。
「なんて腹の立つ言葉なの」雌狼はうなった。
「かれが発明したんじゃない。かれのせいじゃないよ」
「しなやかで、軽快な身体つきをしている」男爵はつづけた。「その金色の目などは、当王国にはびこるあわれな雑種犬の目とは似ても似つかぬ知性をたたえている。騎士どの、これはいかような種類か?」
「狼だ、閣下」
「狼とな!」男爵はとびあがって叫んだ。「その恐るべき獣がわれらにとびかかり、われらをむさぼらぬうちに、逃げねばならぬ」
つぎにガリオンがやったのは、いささかこれみよがしな態度だったが、そういうことは人々を感動させる場合がある。手を伸ばして雌狼の耳をかいてやったのだ。
「貴殿は信じられぬほど勇敢であるな、騎士どの」男爵はあっけにとられて言った。
「この雌狼とは友だちなのだ、閣下」ガリオンは答えた。「貴殿には想像もつかぬ絆によって、われらは結ばれている」
「それはやめたほうがいいわよ」雌狼が言った。「余分な前足がないならね」
「よせったら!」ガリオンは叫んで手をひっこめた。
「あら、そうかしら?」雌狼は歯をむきだして笑った。
「貴殿は獣の言葉をしゃべっているのか?」男爵は息をあえがせた。
「多少であれば、話せる、閣下。動物には動物の言葉があるのはご存じだろう。わがはいはいまだ蛇の言葉はものにしていない。舌の形状と関係があると思われる」
男爵はいきなり笑いだした。「貴殿はおかしな男だ、騎士どの。貴殿のおかげで考えるべきこと、おどろかされたことがたくさんある。では、本題にはいるといたそう。貴殿の探索とはいかようなものなのか?」
「慎重にね」雌狼がガリオンに警告した。
ガリオンは頭をひねり、こう切りだした。「ご存じだろうが、閣下、現在世界には大悪がはびこっている」これなら問題はなかった。世界にはつねに悪事があふれていたからだ。
「いかにも」男爵は熱っぽく賛成した。
「その悪に立ち向かうのが、ここにいる不変の友とわがはいが心に誓った務めなのだ。しかしながら、貴殿も噂というものを知っておられよう。あれは吠える犬のごとく、われらが戦わんとする極悪非道の敵にわれらが素性を教えてしまうものだ。もしもこの人間の風上にも置けぬ敵がわれらの接近をあらかじめ知ってしまえば、手下どもがわれらを待ち伏せしよう。かようなしだいで、われらは面頬をおろして顔を隠し、全世界にわれらの氏名を明かすことを控えねばならぬ――さなくば、世界のさまざまな場所に住む同胞の名誉を汚すことになりかねない」ガリオンはだんだんおもしろくなってきた。「われらは生きたものはなにひとつ恐れておらぬ」マンドラレンだってこうもきっぱりとは言えなかっただろう。「しかしながら、われらのこの探索には大切な仲間がおり、かれらの命を危険にさらすわけにはいかない。さらに、われらの探索はわれらの勇気を鼓舞するほどの危険な魔術をはらんでいる。かようなしだいにて、不本意ではあるが、この見さげ果てた敵にしかるべき天誅《てんちゅう》をくわえるため、泥棒のごとくこそこそと近づいていかねばならぬのだ」ガリオンは運命のひびきのような調子をくわえて、最後の言葉をしめくくった。
男爵はたちまち事情をのみこんだ。「わがはいの剣も、部下たちの剣も、ただちに貴殿の加勢に参じようぞ、閣下。その悪党どもをこれを最後に根絶やしにいたそうではないか」男爵は骨の随までミンブレイト人だった、まちがいなく。
ガリオンは無念そうに片手をあげた。「いや、アステリグ卿。貴殿と貴殿の勇気ある同志の加勢を心から歓迎したいところだが、そうはまいらぬのだ。この務めはわがはいと仲間たちに課せられたものなのだ。貴殿の援助を受け入れては、あの世の同胞たちを怒らせることになろう。この件に関しては加勢を得てはならぬのだ。われらは――ひとり残らず――いつかは死ぬ身。しかるにあの世は不死身の世界。魂の命令を無視することは、この究極の戦いにおいてわれらの味方となる友好的な魂の目標をぶちこわすことになりかねぬ」
男爵は悲しそうだった。「断腸の思いだが、騎士どの、貴殿の話ももっともでござるな。さらに、わがはいの同胞のひとりが最近ダル・ペリヴォーの首都から到着したばかりであり、宮廷におけるさまざまな出来事がよからぬ方向へ向かっていることをこっそり教えてくれたところなのだ。わずか数日前のこと、ひとりの魔法使いが王の宮殿にあらわれた。あきらかに貴殿の申したような魔法を使い、そやつはわずか数時間のうちにわれらが王を惑わせ、王にとりいって、いまや側近におさまっている。いまでは王国でほぼ絶対の権威をふりまわしているありさま。油断めさるな、おふたかた。たまたまこの魔法使いが貴殿の宿敵の子分のひとりということがないともかぎらぬし、だとすれば、敵はいまや貴殿たちにゆゆしき損傷を与える力を持っていることになる」男爵は皮肉に顔をゆがめた。「王をあざむくなど魔法使いにとっては朝飯前だったに相違ござらぬ。このようなことを申すのはふとどきかもしれぬが、陛下は知力に恵まれた方ではないのだ」ミンブレイト人がこんなことを? 「この魔法使いは」と男爵はつづけた。「邪悪な人物であるから、どうかわがはいの同志愛をくんで、あやつには近寄りめさるな」
「かたじけない、閣下」ガリオンは言った。「しかし、われらの目的と探索のためには、どうあってもダル・ペリヴォーへ行かねばならぬ。必要とあらば、われらはこの魔法使いと対決し、王国をその悪しき影響からお救いいたそう」
「神々と魂が貴殿を導かんことを」男爵は熱っぽく言ってから、にやりとした。「こう申してもよければ、貴殿と貴殿の勇敢にして寡黙なお連れが、妥当と考える懲罰をくだすところを見たいものだ」
「光栄だ、閣下」ザカーズが言った。
「では、それを目的として、明日、わがはいと貴族たちとはダル・ペリヴォーの王宮へ向かい、盛大なる馬場試合に参加いたそう。これは直面した当面の問題を処理するために、王が定めた戦士選抜の手段なのだ。さらに、昔ながらの伝統により、この期間中は誤解や不和が一時すえおかれる。われらが西へ旅しようとも、騒ぎにはならぬやもしれぬぞ。よろしければ、おふたかた、わがはいとともに首都へ行かれてはどうだ?」
「閣下」ガリオンは鎧兜をきしませて頭をさげた。「その提案と心のこもった招待、われらとしても願ったりかなったりだ。よろしければ、そろそろ失礼して準備をせねばならない」
長い廊下をガリオンとザカーズが大股に歩いていると、雌狼の爪のたてる音が金属のひびきのように聞こえた。「ほっとしたわ」雌狼は言った。「まずまずのできだったわよ――二匹の子狼にしてはね」
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12[#「12」は縦中横]
ペリヴォーは、羊が草をはむなだらかなエメラルド・グリーンの丘と、作物が一直線に並ぶ黒々と耕された畑を持つ、気持ちのよい島だった。アステリグ男爵はいくばくかの誇りをこめて、周囲を見渡した。「美しい土地だ。はるか彼方のアレンディアの美しさにおよばぬことはあきらかであるがな」
「アレンディアをごらんになれば、貴殿は失望するやもしれぬ、閣下」ガリオンは言った。「かの地は美しいが、王国は国内の騒乱や農奴の悲哀によって、はなはだしく傷ついている」
「アレンディアではその悲痛なる状況がいまだにはびこっているのか? 当地では何世紀も前に奴隷制は廃止された」
ガリオンはそれを聞いてちょっとおどろいた。
「われらがあらわれる以前、この島の住民は穏やかな者たちでござった。そしてわれらの祖先は住民のあいだから妻をめとったのだ。当初それらの平民は、アレンディアのしきたりどおり、奴隷制に縛られていたが、われらの祖先はすぐにそれがはなはだ不公平であることに気づいた。というのも、結婚により奴隷が親戚となったからでござる」男爵はかすかに眉をひそめた。「貴殿の申されたその国内の不和は、われらが先祖の故国をそれほどまでに苦しめているのか?」
ガリオンはためいきをついた。「あれがおさまることはあまり期待できぬな、閣下。三つの大きな公国が数世紀にわたり戦いあい、ようやくそのうちのひとつ――ミンブル――が名ばかりの優勢を勝ちとった。だが、以来つねに反乱の可能性が見えかくれしている。さらに南部アレンディアの貴族たちがじつにささいな理由から血なまぐさい戦いを展開している」
「戦争だと? まことか? ここペリヴォーでもそのような事件は起きるが、われらは極力戦いを形式化し、死者の数をおさえるよう努めている」
「形式化≠ニはいかなる意味か、閣下?」
「そのようないざこざは――激しい怒り、あるいは深刻な侮辱の場合は別だが――習慣上、馬上試合によって決着をつけるのでござる」男爵は微笑した。「まったく、本人同士のたくらみによるいざこざの多くが、ただ馬上試合をするための口実であることもよくあるのだ――貴族も平民も等しく馬上試合を楽しみにしているのでな」
「なんとも成熟した社会だ、閣下」ザカーズが言った。
いりくんだ文章をしゃべる緊張で、ガリオンはしだいに疲れてきた。かれは男爵に仲間と相談しなければならないことがあると告げて、ベルガラスや他の面々と話をしに引きかえした。
「男爵との仲はどうだ?」シルクがきいた。
「快調だよ。ダル人との結婚が、アレンド人のいらだたしい性向をかなり変化させたんだ」
「たとえば?」
「ひとつには救いがたいばかさ加減を、さ。かれらは奴隷制を廃止し、いざこざの解決に戦争ではなく馬上試合を利用している」ガリオンはうつらうつらしているベルガラスを見やった。「おじいさん」
ベルガラスは目をあけた。
「ぼくたち、ザンドラマスより先にここへついたと思うかい?」
「それは知りようがない」
「また〈珠〉を使ってもいいんだ」
「よしたほうが無難だ。ザンドラマスが島にいるとしても、どこへ上陸したか知る手だてはないのだ。こっちへはこなかったかもしれんし、だとすれば、〈珠〉はザンドラマスの臭跡に反応しないだろう。だが、女のほうはそれを感じとるはずだ。そしてわしらがここにいることが知られてしまう。おまけにサルディオンは世界のこのあたりにあるのだぞ。まだサルディオンを目覚めさせることはない」
「友だちの男爵に聞いたらいいじゃないか」シルクが言った。「ザンドラマスがここにいるなら、なにか噂を聞いたかもしれないぜ」
「そういうことはなかろう」とベルガラス。「これまでにも、ザンドラマスは姿を見られないために最大限の努力をしている」
「それもそうですね」シルクは同意した。「いまじゃ、ザンドラマスはもっとまずい立場にあるわけだし。肌の下のあの光を説明するのは並みたいていのことじゃない」
「ダル・ペリヴォーにつくまで待とう」ベルガラスが決断をくだした。「取りかえしのつかぬことをしてしまわぬうちに、事態を整頓したい」
「シラディスにきくのはどうだろう?」ガリオンは女予言者をちらりと振りかえりながら低い声でたずねた。シラディスは男爵が女性陣のために用意してくれたすばらしい馬車に乗っていた。
「だめだ」ベルガラスは言った。「答えることを許されておらんのだ」
「このことについては、おれたちはある程度有利な立場にあると思うよ」シルクが言った。「選択をするのはシラディスだし、彼女がザンドラマスじゃなくて、おれたちに同行しているという事実は縁起がいい、だろう?」
「ぼくはそうは思わないな」ガリオンは賛成できなかった。「彼女がぼくたちに同行しているのは、ザカーズから目を離さないためだと思う。かれはきわめて重要ななにかをすることになっていて、シラディスはザカーズに横道にそれてほしくないんだ」
シルクはぶつぶつこぼした。「見つけることになってるとかいう地図はどのへんで捜しはじめることになってるんです?」とベルガラスにたずねた。
「おそらく図書館で、だろう」老人は答えた。「この地図がまた謎≠フひとつでな。わしはこれまで図書館での捜しものにはかなりツイていたんだ。ガリオン、男爵を説得してわしらをダル・ペリヴォーの王宮へ連れていってもらえるかどうかやってみてくれ。宮殿の書庫は普通内容がそろっているからな」
「わかってるさ」ガリオンは言った。
「いずれにせよ、その魔法使いとやらを見てみたい。シルク、ダル・ペリヴォーにおまえさんの仕事場はあるのか?」
「それがあいにく、ベルガラス。ここには商売の価値があるものがひとつもないんですよ」
「まあ、気にするな。おまえさんは商売人なんだ、都市には他にも商人がいる。そういう連中と仕事の話をしにいってくれ。船荷の輸送ルートを調べたいというんだ。利用できる地図はもれなく見てもらいたい。わしらが捜しているものはわかっているな」
「ずるいぜ、ベルガラス」ベルディンが言った。
「どういう意味だ?」
「シラディスはおまえが[#「おまえが」に傍点]地図を見つける予定だと言ったんだぞ」
「わしは責任を仲間に委任しているだけだ、ベルディン。完全に正当な行為だぞ」
「シラディスがそう考えるとは思えないね」
「おまえが彼女に説明したらよかろう。わしよりずっと説得力があるんだからな」
かれらはゆっくりと進んだ。なによりも馬を疲れさせないためだとガリオンは感じた。ペリヴォーの馬は大きくないし、鎧兜の男たちを乗せているのだ。こんなわけで、一行が丘の頂上にのぼりつき、ペリヴォーの首都である港町を眼下にしたのは、出発後数日目のことだった。
「ダル・ペリヴォーをごらんあれ」男爵が言った。「島の誉れであり心臓である首都でござる」
ガリオンは一目で、二千年前にこの海岸に漂着したアレンド人たちが、意識的な努力のすえにボー・ミンブル瓜ふたつの町を建設したことを悟った。都市の城壁は高くぶあつく、黄色かった。その城壁の内側から、あざやかな色とりどりの三角旗がはためいている。
「かれらは黄色の石をどこで見つけたのだ、閣下?」ザカーズが男爵にたずねた。「ここまでの道中、そのような石は見なかった」
男爵はちょっとバツが悪そうに咳ばらいした。「あの城壁は塗ってあるのだ、騎士どの」
「いったいなんのために?」
「ボー・ミンブルに似せるためにだ」男爵はいささかうらめしげだった。「われらの祖先はアレンディアが恋しかったのでござる。ボー・ミンブルはわれらが故国の宝石であり、その金色の城壁は気も遠くなる距離をへだててわれらの血に語りかけてくるのだ」
「ああ」とザカーズ。
「騎士どの、お約束どおり」と男爵はガリオンに言った。「喜んで貴殿とお仲間を王宮へお連れいたそう。陛下はまちがいなく貴殿に名誉をお与えになり、おもてなしくださるだろう」
「いま一度貴殿の世話になる、閣下」ガリオンは答えた。
男爵はちょっと狡猾そうな笑みを浮かべた。「じつを申せば、騎士どの、わがはいの動機はかならずしも寛大な親切心ではないのだ。高貴な探索に心血を注ぐ見知らぬ騎士を宮廷へ招待することによって、わがはいもまたかなりの信頼を得ることになるのでござる」
「それはよかった」ガリオンは笑った。「だれにとっても損はない」
宮殿はボー・ミンブルの宮殿とほぼ同一だった。要塞の内側に高い城壁と頑丈な門のある要塞がひかえている。
「すくなくとも今回は、おじいさんが木を育てる必要はなさそうだ」ガリオンはザカーズにつぶやいた。
「なにをするって?」
「はじめてぼくたちがボー・ミンブルに行ったとき、宮殿の門前にいた騎士が、おじいさんを魔術師ベルガラスだと紹介したマンドラレンの言葉を信用しなかったんだ。そこでおじいさんは馬のしっぽにからまっていた小枝をとって、宮殿の前の地面に林檎の木を育てたのさ。それから疑心暗鬼の騎士にこの先死ぬまでその木の世話をしろと命令したんだ」
「その騎士はほんとうにそうしたのか?」
「だろうね。ミンブレイト人はああいうたぐいの命令をくそまじめに受けとるから」
「わけのわからん連中だな」
「ああ、まったくだよ。マンドラレンなんか、子供のころから愛していた娘と結婚するにも、ぼくが強制してやらなけりゃならなかったくらいなんだ。おかげではじまっていた戦いを中断させなけりゃならなかった」
「どうやって戦いを中止させたんだ?」
「脅かしてやったのさ。連中、青くなってね」ガリオンはそのときのことを考えた。「しかし、ぼくが作った雷雨は役に立った。とにかく、マンドラレンとネリーナは長年愛し合ってきながら、その間ずっと互いの胸のうちを明かすことができずに悶々としてたんだ。しまいにぼくはうんざりしてきた。そこで仲を取りもったのさ。そのときもまた脅かしてやったんだ。背中にこのでかい剣を持ってたからな」ガリオンは親指で背中を示した。「これはただならぬ注意を集めることができるんだよ」
「ガリオン!」ザカーズは笑った。「荒っぽいふるまいをするんだな、きみは」
「そうさ。そうかもしれない」ガリオンは認めた。「だが、そのおかげでけっきょくかれらは結婚した。いまではふたりとも幸せに酔ってる。仲がまずくなっても、ぼくのせいにできるわけだしな」
「きみは他の人間とはちがう、ガリオン」ザカーズはきまじめな口調で言った。
「ああ」ガリオンはためいきをついた。「たぶんね。だが、普通の人間でありたいと思っているんだ。世界があんたとぼくの上に重くのしかかっている、ザカーズ。この重みはぼくたちだけでは払いのけられない。夏の朝に、日の出を見る目的だけで馬を走らせて、つぎの丘の頂上の向こうになにがあるか見てみたいと思わないか?」
「それはわれわれのしていることではないか」
「そうでもないさ。ぼくたちがこんなことをしているのはそうせざるをえないからだ。ぼくが言うのは、純粋な楽しみのためにそういうことがしたくないかってことなんだ」
「もう何年も楽しむためだけになにかをやったことなど一度もない」
「タール人のゲセル王をはりつけにすると脅迫したのは楽しかったんじゃないのか? セ・ネドラからその話を聞いたよ」
ザカーズは笑った。「あれは悪くなかった。むろん、そんなことはしなかったがね。ゲセルはばかだが、あの時点ではまあ、必要な人間だったのだ」
「いつでもそうなるな。あんたとぼくは必要なことをし、ほんとうにしたいことはしないんだ。どっちもこの地位を求めたわけではないが、必要なことをし、ぼくたちに期待されることをする。さもないと、この世界は消滅し、善良で正直な人々が巻きそえになって死ぬ。できるなら、そういうことは許せない。善良で正直な人間を裏切ることはできないし、あんただって同じだろう。あんた自身、善良すぎるんだ」
「善良? わたしが?」
「あんたは自分をみくびっているんだ、ザカーズ。ぼくはもうすぐだれかがあらわれて、それ以上自分を憎まないことをあんたに教えると思う」
ザカーズのおどろきようは、はためにもはっきりわかった。
「ぼくが知らなかったと思うのか?」ガリオンはずけずけと言い放った。「だが、それももうほとんど終わりかけてるよ。あんたの苦痛や苦しみや後悔はもう終わったんだ。どうすれば幸福になれるか、指示してほしかったら、ぼくに言ってくれ。なんといっても、友だちはそのためにあるんだからな」
ザカーズの面頬の背後から鳴咽が洩れた。
雌狼はさっきからかれらの馬のあいだに立っていた。彼女はガリオンを見あげた。「とてもよくできたわ。あなたを過小評価していたようね、子狼。あなたは子供なんかじゃないのかもしれないわ」
「最善を尽くしただけだよ」ガリオンも狼の言葉で答えた。「ぼくがこれまで失望の種だったんじゃないといいが」
「あなたには期待が持てるわ、ガリオン」
その言葉が、これまでガリオンが内心疑ってきたことを裏づけた。「ありがとう、おばあさん」やっと自分の話している相手がわかって、ガリオンは言った。
「そう言うまでずいぶん時間がかかったじゃないの?」
「失礼にあたると思っていたんですよ」
「どうやらあなたはわたしの長女と長く一緒にいすぎたようだわ。彼女は作法にとらわれすぎなのよ。わたしの正体はあなたひとりの胸におさめておいてもらえて?」
「あなたがお望みなら」
「そのほうが賢明だわ」彼女は宮殿の門を見やった。「ここはどういう場所?」
「王の宮殿ですよ」
「狼にとって王とはどんなもの?」
「人間のあいだでは、王には敬意を払うのがしきたりなんです、おばあさん。王のかぶる冠よりも、しきたりにたいする敬意ですがね」
「なんて奇妙なんでしょう」雌狼は鼻を鳴らした。
鎖が盛大な音をたて、ようやくはね橋が轟音とともにおりてきた。アステリグ男爵と家来たちが先に立って一行を宮殿の中庭へ案内した。
ボー・ミンブルと同様、ダル・ペリヴォーの謁見の間も広大な丸天井を持っていた。周囲の壁の上方に彫刻をほどこした控え壁がついている。控え壁のあいだには高く細い窓があり、ステンド・グラスから差しこむ日差しはまるで宝石のようだった。床は磨きこまれた大理石で、向こう端に赤い絨緞を敷いた石の壇があり、どっしりした紫色の幕を背にペリヴォーの王座が置かれている。幕のたれた壁際には、二千年におよぶ王家の巨大な古びた武器が並んでいた。槍に鎚矛に、人間の背丈より高い巨大な剣が、忘れられた王たちのぼろぼろの戦旗にまじって壁からぶらさがっている。
あまりの類似にガリオンは少しぼんやりし、きらめく鎧姿のマンドラレンが、赤髭のバラクと馬にまたがったヘターを両わきに、大股に大理石の床を横切って自分たちを出迎えにくるのが見えたような錯覚を起こした。またしても、同じことが繰りかえされているようなあの不思議な感覚が襲いかかってきた。ガリオンはおどろきとともに、ザカーズに過去の経験をひとつずつ話すことによって、自分が事実それらを追加体験していたことに気づいた。摩訶不思議だが、これは、いまや避けようのない〈もはや存在しない場所〉における対決にそなえた、ある種の浄化作用のように思えた。
「おふたかた」アステリグ男爵がガリオンとザカーズに言った。「よければ、オルドリン王の王座に近づき、わがはいから貴殿たちを陛下に紹介申しあげるぞ。貴殿の探索が貴殿たちに課した種々の拘束については、わがはいが陛下にお話しいたそう」
「貴殿らしい礼儀と心遣いだ、アステリグ卿。よろこんで貴殿の王にごあいさついたそう」ガリオンは言った。
三人は大理石の床を絨緞敷きの壇のほうへ進んでいった。ガリオンの気づいたところでは、オルドリン王はアレンディアのコロダリン王よりがっしりした体格をしていたが、目にあらわれているのは、思考らしきもののかけらすらない、あの恐るべき知性の欠如だった。
背の高い頑丈な体躯の騎士がアステリグの前にたちはだかった。「無礼であるぞ、卿」騎士は言った。「王が顔をごらんになれるよう、貴殿の連れに面頬をあげるよう指示いたせ」
「顔を隠す必要のある理由については、わがはいから陛下にご説明いたす」アステリグはいささか撫然として答えた。「このふたりの騎士が、あえて友人と呼ぶが、われらが王に失礼を働くつもりがないことは、わがはいが断言する」
「あいにくだが、アステリグ男爵、これを認めるわけにはまいらぬ」
男爵の手が剣の柄にのびた。
「待たれよ」ガリオンは警告して、アステリグの腕に籠手をはめた手をかけた。「知ってのとおり、王の面前で剣を交えることは禁じられている」
「礼儀をわきまえておられるな、騎士どの」行く手をふさいだ騎士の口調は、いまでは少し心もとなげだった。
「王の面前に出るのはなにもこれが最初ではない、卿、しきたりには精通している。面頬をさげたまま王座に近づくのが、けっして陛下にたいする不敬ゆえの行為ではないことを、はっきり申しあげておく。しかし、われらに課せられたあるゆゆしき義務により、こうせざるをえないのだ」
騎士はますます自信をなくしたようだった。「貴殿はまことにしゃべるのがたくみだ、騎士どの」しぶしぶ認めた。
「では、かまわなければ、アステリグ男爵とわがはいの連れと、わがはい自身と一緒に王座のそばまで行ってはいかがかな? 貴殿ほど勇敢なお方なら、ふらちな真似を防ぐのはたやすいはずだ」やっかいな状況では、ちょっとしたお世辞はけっしてマイナスにはならない。
「貴殿の言うとおりだ、騎士どの」騎士は決断した。
四人は王座に近づき、ややぎごちなく一礼した。「陛下」アステリグが言った。
「男爵か」オルドリンはうわの空でうなずいてみせた。
「つつしんでここに、さる高貴な探索のため遠路旅をつづけているふたりの騎士をご紹介申しあげます」
王は興味をひかれたようだった。探索≠フ言葉がミンブレイト魂をゆさぶったのだ。
「お気づきのこととは存じますが、陛下」アステリグはつづけた。「友人たちは面頬をさげております。これは不敬のしるしではなく、かれらの探索の性質上やむなくとっている処置でございます。世間には悪がはびこっておりますが、かれらはさまざまな仲間とともにそれに立ち向かうべく旅をしているのでございます。わが島の海岸のかなたの世界に、この者たちの敵がおり、顔を見せればたちどころに正体を見抜かれてしまいましょう。またこの者たちの接近が前もって知られるようなことになれば、敵に接近をはばまれないともかぎりませぬ。面頬をあげられぬのは、かようなわけがあってのことでございます」
「もっともな用心だ」王はうなずいた。「よくきたな、ふたりとも」
「おそれいります、陛下」ガリオンは言った。「われらの置かれた立場をご理解いただき、感謝いたします。探索は危険な魔力に満ちており、素性をあかせば、探索は水泡と帰し、その結果全世界が苦しむことになりましょう」
「よくわかるぞ、騎士よ、それ以上そちたちの探索を詮索するつもりはない。壁に耳ありと言うではないか。ここですら、そちのさがす悪党の子分がまぎれこんでいるかもしれん」
「よくぞ申された、王よ」耳ざわりな声が謁見の間の奥から言った。「わたし自身よく知っているが、魔力の力は無限だ。このふたりの勇敢な騎士のいさましさをもってしても、魔力に立ち向かうには不じゅうぶんかもしれん」
ガリオンは振りかえった。しゃべっている男の目は両方とも真っ白だった。
「わがはいの言った魔法使いだ」アステリグがガリオンに耳うちした。「気をつけよ、騎士どの、やつは王を言いなりにしているのだ」
「おお、エレゼル」王の顔が明るくなった。「さあ、こちらへ参れ。この者たちの行く手にあらわれそうな魔力の危険を避ける方法について、ふたりの探索者に忠告してやったらどうだ」
「喜んで、陛下」ナラダスは答えた。
「やつが何者か知っているんだな?」ザカーズがガリオンにささやいた。
「ああ」
ナラダスは王座に近づいた。「図々しく提案してよければ、おふたかた」ナラダスは猫なで声で言った。「近々大規模な馬上試合が予定されている。あなたがたが参加しなければ、まちがいなくここに潜んでいるあなたがたの捜し求める敵の子分どもの疑いを招くだろう。したがってだ、わたしの第一の忠告は、われわれの馬上試合に参加して、疑念をいだかせるようなへまを避けることだ」
「すばらしい提案だ、エレゼル」頭のからっぽな王は同意した。「これはエレゼルといってな、偉大なる魔法使いであるとともに、余と最も親しい顧問なのだ。いまの言葉をよく考えるがよいぞ。利点が多くある。さらに、かようなたくましい騎士をきたるべき娯楽に迎えられるとはおおいなる喜びだ」
ガリオンは歯ぎしりした。ナラダスはこれまでもずっとガリオンたちを足止めしようと画策してきたが、その一見無害な提案によって、ようやくいま、まんまとおのれの企みを成功させたのだ。しかし、ガリオンにはどうすることもできない。「喜んで陛下と陛下の勇猛果敢なる騎士たちとともに、娯楽に加わらせていただきましょう」ガリオンは言った。「それで、試合はいつはじまるのですか?」
「あと十日だ、騎士よ」
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13[#「13」は縦中横]
かれらが案内された部屋もまた、どことなく見おぼえがあった。何世紀も昔にここの海岸に流れついたアレンド人たちは、細部にいたるまでボー・ミングルの王宮をみごとに再現していた――その使い勝手の悪さも含めて。つねに実利家のダーニクはそのことにすぐさま気づいた。
「いい機会だと思って、少しは改良すればよかったものを」
「古風であることにはすくなからぬ魅力があるわ、ディア」ポルガラが微笑しながら言った。
「郷愁を誘うのも悪くないだろうがね、ポル、しかし二、三近代的な改良を加えたところでそれほど雰囲気を損なうこともないだろう。風呂が地下にあることには気づいたかね?」
「それは問題ですわよ、レディ・ポルガラ」ヴェルヴェットがダーニクの肩を持った。
「マル・ゼスのお風呂はとっても快適だったわ」セ・ネドラが同意した。「自分の部屋にお風呂があれば、いくらでも楽しんだり、いたずらしたりできるもの」
ガリオンの耳が真っ赤になった。
「この会話のもっともおもしろい部分を聞きそこなっているような気がするな」ザカーズがからかった。
「よけいなお世話だ」ガリオンはつっけんどんに言った。
そのあと裁縫師たちが到着し、ガリオンの観察によると、ポルガラたち女性陣は、つねに女心をうきうきとさせるらしいあの行動に夢中になった。
裁縫師たちのすぐあとから仕立屋がやってきた。裁縫師同様、仕立屋はみんながいかに流行おくれかを指摘することに精力をかたむける連中だ。ベルディンは、いうまでもなく、頑として仕立屋たちの職務を拒否し、しつこく食い下がるひとりに節くれだったばかでかいげんこつを突きだして、いまのままで完全に満足していることを示してみせた。
しかし、ガリオンとザカーズはケルの女予言者によって強制されていたから、鎧兜を脱がなかった。
ようやくかれらだけになったとき、ベルガラスの表情がいかめしくなった。「あの馬上試合ではふたりともくれぐれも注意してもらいたい」老人は鎧兜のふたりに言った。「ナラダスはわしらの正体を見抜いて、早くもわしらの日程を遅らせた。それ以上の行動に出ることもありうるぞ」ベルガラスは鋭くドアのほうへ目をやって、「どこへ行くつもりだ?」とシルクを問いつめた。
「ちょっとかぎまわってこようかなと」ちびの泥棒は無邪気に言った。「みんながなんに直面することになるのか知っておいても害はないでしょう」
「よかろう、だが気をつけろよ――まちがってなにかをポケットにすべりこませんようにな。わしらはここできわめて危ない橋を渡っているのだ。おまえさんがなにかをくすねているところをだれかに見られたら、ただではすまないぞ」
「ベルガラス」シルクはむっとした口調で答えた。「おれがなにかをくすねてるところを見た者なんか、これまでひとりだっていやしませんぜ」そう言って、シルクはぶつくさこぼしながら出ていった。
「盗んでいないと言おうとしているのか?」ザカーズがたずねた。
「いいえ」エリオンドが答えた。「盗んでいるところをだれも見たことがないと言ってるだけです」エリオンドはやさしくほほえんだ。「かれはいくつか悪い癖を持っていますけど、ぼくたちはなんとかそれをやめさせようとしてきたんですよ」ガリオンがこの若い友だちがなにかを言うのを実際に聞いたのは、ずいぶん久しぶりだった。エリオンドはしだいに黙りがちになっていた――元気をなくしていると言ったほうが正しいかもしれない。気になる傾向だった。かれはこれまでもずっと風変わりな若者だったし、他のだれにも感知できないことがらを感知できるようだった。レオンでシラディスの言った宿命的な言葉を思いだして、ガリオンは背筋が寒くなった――「そなたの探索は大いなる危険をはらむことになろう、ベルガリオン、そしてそなたの仲間のひとりが、その途中で命を落とすであろう」
そのとき、ガリオンの記憶がシラディスを呼びつけたかのように、目隠しをしたケルの女予言者が、女たちが裁縫師たちと相談していた部屋から出てきた。そのすぐあとから、やけに短いシュミーズ一枚のセ・ネドラがついてくる。「文句なしにぴったりの化粧着しゃないの、シラディス」と抗議している。
「そなたにぴったりなのであろう、リヴァの女王」女予言者は答えた。「だが、あのような派手な着物はわたしにはふさわしくない」
「セ・ネドラ!」ガリオンはショックのあまり声をうわずらせた。「服を着てないじゃないか!」
「まあ、そんなことどうでもいいでしょ!」セ・ネドラは言いかえした。「ここにいる人はみんな下着だけの女を見た経験があるわよ。わたしはただ、謎めかした若いお友だちをききわけよくさせようとしているだけだわ。シラディス、あの化粧着を着ないと、わたしかんかんに怒るわよ――それにその髪だってなんとかしなくちゃ」
女予言者はまちがわずに小柄な女王を両腕に閉じこめ、愛情をこめて抱きしめた。「いとしい、いとしいセ・ネドラ」とやさしく言った。「そなたの心はそなた自身より豊かにして、そなたの気遣いはわたしの心まで満たしてくれる。だが、わたしはこの質素な服で満足なのじゃ。いずれわたしの趣味が変わることがあれば、そのときは喜んでそなたの勧めに従おう」
「話してもむだね」セ・ネドラは両腕を宙に投げだすと、シュミーズの裾をかわいらしくふりたてて、いま出てきた部屋へ大股に引きかえしていった。
「もっと食わせたほうがいいな」ベルディンがガリオンに言った。「ガリガリじゃないか」
「あのほうが好きなんだよ」ガリオンは答えてから、シラディスを見た。「すわらないか、聖なる女予言者?」
「かまわなければ」
「もちろんだ」ガリオンは手をふって、ほとんど本能的に女主人に手を貸そうとしたトスを押しとどめ、すわり心地のいい椅子にシラディスをすわらせた。
「ありがとう、ベルガリオン。そなたは勇敢なだけでなくやさしくもある」彼女はほほえんだ。まるで太陽がのぼってきたような笑みだった。シラディスは片手を髪にやった。「ほんとうにそんなに見苦しいか?」とたずねた。
「とてもいいよ、シラディス」ガリオンは言った。「セ・ネドラはおおげさなんだ。それに人を――たいていはぼくだが――飾りたてることにものすごい情熱を燃やすんだよ」
「そなたはそれで、彼女の努力がうとましいのか、ベルガリオン?」
「そうでもない。すくなくとも、彼女がそれをやろうとしなかったら、さびしくなるだろう」
「そなたは愛の罠にとらわれているのだ、ベルガリオン王。そなたも力のある魔術師だが、そなたの小さな女王の魔力のほうが一枚上手。なぜならば、彼女はあの小さなてのひらにそなたをつかんでいるのだから」
「そのとおりだと思うよ。だが、実際、それほどぼくは気にしてないんだ」
「これがもっと甘ったるくなってきたら、おれは吐くからな」ベルディンが不機嫌に言った。
やがてシルクがもどってきた。
「収穫は?」ベルガラスがたずねた。
「ナラダスにだしぬかれましたよ。書庫へ立ち寄ったら、係の男が――」
「司書というんだ」ベルガラスはうわの空で訂正した。
「なんとでも言ってください。とにかく、そいつがナラダスはくるが早いか書庫を荒しまわったと言ったんです」
「やっぱりな。ザンドラマスは島にはいないのだ。ナラダスをここへ送りこみ、かわりに捜させたのだ。まだ捜しているのか?」
「ではないようですよ」
「すると、発見したということか」
「そしておれたちに見られないように、捜しものをひきちぎったんだろうよ」ベルディンがつけくわえた。
「いや、やさしいベルディン」シラディスが言った。「そなたたちが捜しているその地図はまだある。だが、それはそなたたちが捜そうとしている場所にはない」
「二、三ヒントをくれないか?」ベルガラスがきいた。
シラディスは首をふった。
「やっぱり」
「その[#「その」に傍点]地図と言ったな」ベルディンは遠まわしに問題点をついた。「ということは、たったひとつしかないというわけか?」
シラディスはうなずいた。
ベルディンは肩をすくめた。「ほう、なるほど。われらがふたりの英雄が他人の鎧兜をへこませているあいだ、おれたちには捜しものという仕事ができるわけだ」
「それで思いだした」ガリオンはザカーズを見た。「槍にはあまりなじみがないだろう?」
「ああ、ない」
「じゃ、明日の朝どこかへ行こう。手ほどきをしてやるよ」
「賢明な計画のようだな」
ふたりは翌朝早起きをして、馬で宮殿を出た。「町の外へ行ったほうがいいと思うんだ」ガリオンは言った。「宮殿のそばに練習場があるが、そこだと他の騎士たちがいるだろう。気どるつもりじゃないが、最初の突きというのは、たいていすごくぶざまなものなんだ。ぼくたちは腕の立つ騎士ということになってるわけだから、あんたがまったくの初心者であることを知られないようにしよう」
「心遣い感謝するよ」ザカーズはそっけなく言った。
「公衆の面前で恥をかきたいのか?」
「べつに」
「じゃ、ぼくのやりかたでやろう」
ふたりは町を出て、数マイル先の草原へ向かった。
「きみは楯をふたつ持ってるな」ザカーズが気づいて言った。「それが習慣なのか?」
「ひとつは敵用の楯だ」
「敵?」
「ま、切株か木だな。標的が必要なんだよ」ガリオンは手綱をひいた。「さあ、ぼくたちは正式な試合に参加することになってるんだ。相手を殺すことが目的じゃない。というのは、人を殺してしまうのはよくないことだと考えられているからだ。たぶん先の丸い槍を使うことになるだろう。それなら致命傷を負わせる危険がすくないからな」
「しかし、ときには死ぬこともあるのだろう?」
「そういうこともたまにはある。しかし正式の馬上槍試合の目的は相手を馬から突き落とすことに尽きる。相手めがけて馬を走らせ、相手の楯のまん中に槍の狙いを定めるんだ」
「相手も同じことをするわけだな」
「そのとおり」
「気持ちのいいものではなさそうだ」
「そうさ。数回の突きで、頭から尻まで傷だらけになる」
「かれらはそれを娯楽のためにやるのか?」
「かならずしもそういうわけじゃない。競争の一形式なんだよ。試合をして、だれが一番かを決めるんだ」
「それならわかる」
「あんたの気に入りそうな方式だと思ってたんだ」
かれらは余分な楯を杉の木の低い枝にしばりつけた。「ちょうどこのぐらいの高さだ」ガリオンは言った。「ぼくが最初の二回の突きをやってみせる。よく見ててくれよ。つぎはそっちの番だ」
槍についてはすっかり熟達していたガリオンはどちらの突きでも楯のどまん中を突いた。
「最後の一秒にどうして立ちあがるのだ?」ザカーズがたずねた。
「実際は見かけほど前のめりに立っていたわけじゃない。要するに、あぶみに両足をふんばり、身体を前傾させ、身体を静止させるんだ。そうすると、馬の体重があんたの体重に加算される」
「なるほど。わたしにやらせてくれ」
ザカーズの最初の突きは完全に楯をはずれた。「どこが悪かったのだ?」
「立ちあがって前傾したとき、槍の先がぐらついていたんだ。狙いをしっかり定めることだよ」
「ああ、そうか。よし、もう一度やらせてくれ」つぎの突きで、ザカーズは楯をななめにたたき、楯が枝のまわりを回転した。「よくなったか?」
ガリオンはかぶりをふった。「それだと相手を殺してしまう。楯の上部をそういうふうにたたくと、あんたの槍は上へそれて相手の面頬をつきぬけ、首を突くことになるんだ」
「もう一度やってみる」
正午までにザカーズは格段の進歩をした。
「きょうはこれでじゅうぶんだ」ガリオンは言った。「ここはちょっと暑くなってきたしな」
「わたしはまだ平気だ」ザカーズは反対した。
「あんたの馬のことを考えていたんだよ」
「ああそうか。たしかに少し汗をかいているな」
「少しどころじゃない。それに、ぼくは腹がへってきた」
馬上試合の日は快晴だった。通りには色あざやかな服を着たダル・ペリヴォー市民の渦が、お祭りの行なわれる競技場の方角へひっきりなしに移動していた。「たったいま思いついたんだが」ガリオンは宮殿を出たときザカーズに言った。「だれが試合の勝者になろうと、ぼくたちにはほんとうはどうでもいいわけだよな?」
「どういうことだ?」
「ぼくたちにはそんなことよりずっと重要な務めがあるんだし、あちこちの骨を折ったりしたらまずい。だから、いくつか突きをやって何人かの騎士を落馬させたら、鞍から落ちるんだよ。そうすればけがをする危険を冒さずに、名誉を保つことができる」
「わざと負けるというのか?」ザカーズは信じられないように聞きかえした。
「まあ、そうだ」
「わたしは生まれてこのかた、いかなる試合にも負けたことがないのだぞ」
「日を追うごとにますますマンドラレンに似てくるな」
「しかもだ」ザカーズは先をつづけた。「きみはあることを見過ごしていると思う。われわれは高潔な探索に従事する強い騎士というふれこみなのだぞ。手を抜くような真似をすれば、ナラダスが王の耳にあらゆるたぐいのいやみと疑念を吹きこむだろう。いっぽう、われわれが勝てば、ナラダスの鼻をあかしてやれる」
「勝つだって?」ガリオンはふんとせせら笑った。「あんたはこの一週間ほどでびっくりするほど上達した。だが、ぼくたちが相手をする騎士たちは赤ん坊のときから槍の練習をしてるんだぜ。ぼくたちが勝つ見込みなんかあるものか」
「では妥協案はどうだ?」ザカーズはずるがしこくたずねた。
「どういうことだ?」
「われわれが試合に勝てば、王はほとんどどんなことでも許してくれる、そうだろう?」
「たいていはそうなるな」
「ベルガラスに例の地図を見せてやったらどんなにか喜ぶと思わないか? 王なら地図のありかをきっと知っている――そうでなくても、ナラダスを強制して地図を出させることができる」
「問題はそこだな」
「きみは魔術師だ。われわれが勝つよう仕組めるだろう?」
「それはきたないんじゃないか?」
「きみは言うことがまったく矛盾してるな、ガリオン。最初はきみがわざと落馬することを提案したのだぞ。それだってきたないではないか? いいかね、わたしはマロリー皇帝だ。きたない手を使う許可はわたしが与える。さあ、どうなんだ?」
ガリオンはそれについて考え、あることを思いだした。「マンドラレンとネリーナをぶじ結婚させるために、ぼくが戦いを中断させなくちゃならなかったという話をおぼえてるか?」
「おぼえてるが?」
「ぼくがやったのはこういうことなんだ。槍というのは、いつかは折れる。この試合が終わるころには、試合場所は折れた槍で足首まで埋まるだろう。だが、ぼくがあの戦いを中断させたあの日、ぼくの槍はけっして折れなかった。純粋な力でぼくがいわば槍をくるんだのさ。じつに効果的だった。だれひとり、ミンブルきっての騎士ですら、あの日は馬上にとどまることができなかった」
「嵐を作ったと言ったはずだが」
「それはもうちょっとあとのことだ。広大な平地をはさんでふたつの部隊がにらみあっていたんだ。さすがのミンブレイト人も、雷で芝生に大穴があけられていく平地を横切って突進しようとはしなかった。それほどばかというわけでもないのさ」
「おどろくべき経験の持ち主だな、きみは」ザカーズは笑った。
「あの日はちょっとおもしろかったな。ふたつの部隊をまるまるいじめられるなんて、そうざらにあることじゃない。だが、そのせいであとになってとんでもない目にあっちゃってさ。天候をいじりまわすと、その結果がどういうことになるかは推測がつかない。ベルガラスとベルディンはそれから半年というもの、世界を駆けまわって事態を収拾するはめになった。帰ってきたとき、おじいさんはすごい剣幕だったよ。あらゆるたぐいの罵詈雑言をぼくに投げつけた。
ばかもの≠ヘ一番穏やかな表現だった」
「試合場所≠ニか言っていたな。あれはなんのことだ?」
「地面に杭を何本も打ちこんで、そのてっぺんに長くて重い棒をくくりつけるんだ。棒の位置は馬の肩の高さにする。試合をする騎士たちはその棒をはさんで、相手めがけて馬で走るんだ。馬同士がぶつからないための配慮なんだろうな。良馬は高価だ。ああ、それで別のことを思いだした。いずれにしても、ぼくたちはこの試合ではある程度は有利な立場にある。ぼくたちの馬はここの馬よりずっと大きいし、強いからな」
「ほんとうだろうな? それでもやはりきみがきたない手を使ってくれたほうが安心だ」
「ぼくもだ。正当な戦いかたをすれば、やっぱり打ち身だらけになって、ふたりとも一週間はベッドから出られなくなるだろうし、ぼくたちには予定がある――あの対決が行なわれる場所を首尾よく見つけだせればの話だが」
馬上試合の行なわれる競技場は色あざやかな旗布や風にひるがえる三角旗で陽気に飾りたてられていた。王をはじめ、宮廷の貴婦人たちや、試合には年をとりすぎている貴族たちのために、観覧席が設けられていた。平民は競技場の向こう側に立って、むさぼるように目を輝かせている。はでな衣装をきたふたりの道化師が、騎士たちが用意をするあいだ群衆を楽しませていた。競技場の両端には目もさめるような縞もようの大天幕がたっていた――騎士たちが鎧兜の修繕をさせたり、負傷者が人目にふれずに休息したりするための場所だ。うめいたり、身もだえたりしている人間が見えると、楽しいはずの午後がしめっぽくなってしまうからだ。
「すぐにもどる」ガリオンは友だちに言った。「ちょっとおじいさんと話したいことがあるんだ」馬をおりてあかるい緑の芝生を横切り、ベルガラスのすわっている観覧席の端へと歩きだした。老人は雪のように白いローブを着て、むっとした表情を浮かべていた。
「品位があるよ」ガリオンは言った。
「だれかのばかげた思いつきだ」とベルガラス。
「まぎれもない歳月の重みが顔を輝かせていますって」シルクが真うしろからあつかましく言った。「人は本能的にあなたをできるだけ威厳たっぷりに見せたがるんです」
「怒鳴られたいのか? どうした、ガリオン?」
「ザカーズとぼくはちょっときたない手を使うつもりなんだ。ぼくたちが勝てば、王は頼みごとを聞いてくれるだろうからね――おじいさんに例の地図を見せるというような」
「うまくいくかもしれん」
「馬上試合でどうやってそんな手を使うんだ?」シルクがきいた。
「方法はいろいろあるさ」
「まちがいなく勝つんだろうな?」
「うけあってもいい」
シルクははじかれたように立ちあがった。
「どこへ行く?」ベルガラスが問いつめた。
「ちょっと金を賭けてきたいんですよ」小男は小走りに見えなくなった。
「あいかわらずのやつだ」
「だが、ひとつ問題があるんだ。ここにはナラダスがいる。あいつはグロリムだから、ぼくたちがしていることに感づくだろう。頼むよ、おじいさん、邪魔をさせないでほしいんだ。のるかそるかのときに、あいつに干渉されたくない」
「ナラダスはわしにまかせろ」ベルガラスはひややかな口調で言った。「向こうへもどって最善を尽くせ。だが、油断するなよ」
「ああ」ガリオンはきびすをかえして、ザカーズが馬たちとともに待っている場所へ引きかえした。
「ぼくたちは第二列か、第三列めだ」ガリオンは言った。「前の馬上試合の勝者たちに一番最初に突かせるのがしきたりなんだよ。二列めか三列めなら、でしゃばりすぎの印象を与えることもないし、あんたも試合場所への接近のしかたが観察できてちょうどいい」ガリオンはあたりを見まわした。「突く前に自分たちの槍はあずけなくちゃならない。向こうでぼくたちに一本ずつ先の丸い槍をあっちのあの棚から取ってくれる。ぼくたちの手がそれにふれた瞬間、ぼくが細工をするよ」
「きみは油断もすきもない若者だな、ガリオン。ケルダーはなにをしているのだ? 仕事熱心なスリのように、あの観覧席から駆けだしていったぞ」
「ぼくたちの計画を耳にしたとたん、賭をしにいったんだ」
ザカーズはいきなりげらげらと笑いはじめた。「それがわかっていればな。代わりにかれに賭金を渡しておいたのに」
「でも、儲けをシルクから取りかえすのはちょっと骨だよ」
かれらの友だち、アステリグ男爵は二度目のつきで落馬した。「大丈夫なのか?」ザカーズが心配そうにたずねた。
「まだ動いてるよ。たぶん脚を片方折っただけだろう」
「すくなくともこれでかれと戦わずにすむわけだ。友だちを傷つけるのはいやだからな。もちろん、わたしにはそんなに大勢友だちはいないが」
「思っている以上にたくさんいるのかもしれないよ」
第一列の三度目の突きのあと、ザカーズは言った。「ガリオン、これまでフェンシングの研究をしたことは?」
「アローン人は軽い剣は使わないんだ。例外はアルガー人だけだよ」
「わかっている。だが、論理は似たようなものだ。最後の瞬間に手首か肘をひねれば、敵の槍を払いのけることができる。そうすればそのすきにふたたび狙いをさだめて、敵の楯の中心につっこむことができる。その時点で敵に攻撃のチャンスはない、そうだろう?」
ガリオンは考えてみた。「奇抜もいいところだ」と疑わしげに言った。
「ではやはり魔術を使うのだな? 魔術ならうまくいくのか?」
「ザカーズ、あんたは十五フィートの槍を使っているんだぞ。一フィートにつき、重さは二ポンドもある。そんなにすばやく槍を振りまわすには、ゴリラ並みの腕が必要だよ」
「そうでもない。じっさいはそれほど前後に振りまわす必要はないのだ。こつんと突くだけで足りる。やってみていいか?」
「そっちのアイデアだ。うまくいかなければ、ぼくが収拾するさ」
「きみを当てにできるのはわかっていたよ」ザカーズの声は興奮しているようだった――少年のようですらあった。
「あーあ」ガリオンは絶望的につぶやいた。
「どうかしたのか?」
「いや、なんでもない。いいから試してみろよ、どうしてもしたけりゃね」
「やってみてもたいしたちがいはあるまい? わたしがけがをするわけがない、ちがうか?」
「そこまではわからない。あれを見ろよ」ガリオンはたったいま落馬して、試合場所の中央の棒を飛び越え、分解した鎧兜を四方八方へばらまいた騎士を指さした。
「たいした負傷ではあるまい」
「まだ動いてるよ――ちょっとだが――しかし医者が容体を見るには、まず鍛冶屋があの男を鎧の残骸から救出しないことにはね」
「やはりわたしの案はうまくいくと思う」ザカーズは頑固だった。
「失敗したら、壮大な葬式を出してやるよ。ようし。ぼくたちの番だ。槍をもらいにいこう」
槍の先端には、粗布で固く巻きこんだ羊の毛皮が幾重にも巻きつけてあった。その結果、じつに慈悲深い丸いボールのように見えたが、ガリオンはそれが恐るべき力で人間を鞍から突き落とすことができるのを悟った。骨折は槍の与える衝撃のせいではなく、むしろ地面に落下するときの激しいショックのせいなのだ。意志の集中にとりかかったとき、ガリオンはその点に少し気を取られていたので、意志を解き放つさいに適当な言葉を思いつくことができなかった。
そんなふうになれ≠ェ精一杯だった。狙いどおりの結果になってくれるかどうかあまり自信がなかった。最初の対戦相手はガリオンの槍が楯にさわる五フィートも手前で、鞍から投げだされた。ガリオンは槍の周囲の力のオーラを調整した。おどろいたことに、ザカーズの方法はとてもうまくいった。二の腕をほとんど気づかれぬ程度に一回ひねって相手の槍をそらしてから、なまくらな槍を相手の楯のどまん中めがけて突き刺すのだ。相手は突進する馬の背からいやおうなしに投げだされ、宙を飛んで、鍛冶屋の仕事場が崩壊したような音とともに地面にたたきつけられる。かれらの対戦相手はふたりそろって気絶したまま場内から運びだされた。
ペリヴォーの誇りにとってはあいにくの一日だった。魔術のそなわった武器を使いなれてくるにつれ、リヴァ王もマロリー皇帝も鋼に身を固めたペリヴォーの騎士たちの列をつぎつぎに突破し、治療所はうめき声をあげる負傷者で満員になった。大混乱どころではすまなかった。負傷者の数は気の毒なほどにふくれあがった。ついには、猪突猛進が身上のミンブレイト人たちも、対戦相手がただならぬ力の持ち主だと気づいておとなしくなり、額をよせあって相談しあった。やがてかれらは全員一致で降参した。
「まったく残念だな」ザカーズが名残惜しそうに言った。「やっと楽しみはじめたところだったのに」
ガリオンは友だちの言葉には耳を貸さないことにした。
ふたりが王にしきたりの敬礼をするため、観覧席のほうへ引きかえすと、ナラダスが脂ぎった笑いを浮かべて前に出てきた。「おめでとう、おふたかた。あなたがたは大いなる勇気と並み外れた腕の持ち主だ。あなたがたは試合に勝ち、本日の栄冠を手にいれた。この試合の勝者たちに課せられる偉大なる栄誉については、聞きおよんでおられような?」
「いや」ガリオンは平板な口調で言った。「あいにくだが知らぬ」
「われらが美しき王国の平穏を乱すやっかいな獣を倒す名誉を、あなたがたは得たのだ」
「どんな獣だ?」ガリオンは疑わしげにたずねた。
「もちろんドラゴンにきまっているではないか、騎士どの」
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「ナラダスのやつ、またおれたちをだましたんじゃないのか?」試合のあと、ガリオンたちが部屋にもどると、ベルディンがぶつぶつ言った。「あの野郎にはちょいといらいらしてきたぜ。なにか手を打とうかと思ってるんだ」
「騒々しい音が出すぎる」ベルガラスが言った。「ここの住民は生粋のミンブレイト人ではないんだぞ」老人はシラディスのほうを向いた。「魔術は一定の音を出す」
「ええ、知っている」シラディスは答えた。
「もちろんあんたにも聞きとれような」
シラディスはうなずいた。
「この島にはそれを聞きとることのできるダル人が他にもいるだろう?」
「ええ、ベルガラスどの」
「混血のミンブレイト人はどうなのだ? かれらの血のすくなくとも半分はダル人だ。かれらの中にもそれを聞きとれる連中がいるのかね?」
「そのとおりじゃ」
「おじいさん」ガリオンは不安そうに言った。「ということは、ダル・ペリヴォーの住民の半数はぼくが槍に細工した音を聞いたことになるよ」
「群衆のざわめき以上の音は聞いておらん」
「だとしても、聞いたことにはかわりない」
「魔術の細工の音との違いなどわかりゃせんよ」
シルクがにこりともしないで口をはさんだ。「おれなら魔術を使わないから、物音ひとつたてないことは保証してもいい」
「しかし、ある程度の証拠が残るでしょう、ケルダー」サディが指摘した。「しかもわれわれは宮殿ではよそものなんですから、ナラダスの背中からあなたの短剣の一本が突きでているのが発見されたりしたら、まずいことになりますよ。わたしにまかせてはどうです? わたしならもっとずっと自然に見せられます」
「あんたが言っているのは、冷酷な殺人だよ、サディ」ダーニクがとがめた。
「反感をおぼえるのはしかたありませんがね、善人ダーニク」宦官は答えた。「しかしナラダスはすでに二度もわたしたちをだましているんですよ。そのたびごとにわたしたちは前進をはばまれている。かれは片づけなくてはなりません」
「サディの言うとおりだ、ダーニク」ベルガラスが言った。
「ジスはどう?」ヴェルヴェットがサディにほのめかした。
かれは首をふった。「赤ん坊のそばを離れっこありませんよ――だれかに噛みつく楽しみのためであってもね。ジスに負けないくらい効果的な手段が他にもいくつかあるんです。時間はかかるかもしれないが、うまくいくでしょう」
「ザカーズとぼくはまだザンドラマスと対戦しなくちゃならないんだぞ」ガリオンはむっつりと言った。「しかもこんどは単独でやらなくちゃならない――あのばからしい試合のせいでね」
「ザンドラマスのはずがありませんわ」ヴェルヴェットが言った。「あなたがたおふたりが勇敢に戦っているあいだに、セ・ネドラとふたりで宮廷の若い貴婦人たちと話をしたんです。この恐ろしい獣≠ヘもう何世紀も昔からときどきあらわれているんです。ザンドラマスが動きだしたのはたかだか十二年前からでしょう? あなたが戦われるドラゴンはほんもののドラゴンだと思いますわ」
「それはどうかしら、リセル」ポルガラが言った。「ザンドラマスはいつでもあのドラゴンの姿になれるのよ。ほんもののドラゴンが寝ぐらで眠っていれば、ザンドラマスがこのあたり一帯を荒しまわっていたとしてもちっとも不思議ではないわ――わたしたちが対決の場所へたどりつく前に、それをくつがえすもくろみの一環としてね」
「一目見ればどっちのドラゴンかわかるはずだ」ガリオンが言った。
「どうやって見分けるのだ?」ザカーズがきいた。
「最初に出くわしたとき、ザンドラマスのしっぽを四フィートばかり切り落としてやったのさ。ぼくたちがここで会うドラゴンのしっぽが短かったら、ザンドラマスだとすぐわかる」
「今夜の祝賀会とやらには、ほんとうに出席しなけりゃならんのか?」ベルディンがきいた。
「そう期待されてるわ、おじさん」ポルおばさんが言った。
「そうはおっしゃっても、あっしにゃ着るものなんぞ一枚もないよ、わかってるでしょうが」ベルディンはフェルデガーストのなまりにもどって言った。
「わたしたちが面倒をみるわよ、おじさん」ポルガラの声には不吉なひびきがあった。
その夜の行事は何週間も前から計画されていた。それは馬上試合の盛大なフィナーレであり、ダンス・パーティでもあった――ガリオンとザカーズはまだ鎧兜を脱げないので、ダンス・パーティには参加できない。宴会も、面頬をあげられないので、ごちそうにはあずかれない。さらにこの地にあらわれて、われらが人里離れた島に栄光を与えしふたりの偉大なる勝者≠ヨの華やかな乾杯も、いやというほどあるだろう。オルドリン王の宮廷の貴族たちは、競い合ってガリオンとザカーズをほめたたえるにちがいない。
「祝賀会はどのくらいつづくのだ?」ザカーズがガリオンにささやいた。
「何時間もさ」
「そう言うのではないかと思った。女性たちがきたぞ」
ポルガラがセ・ネドラとヴェルヴェットを両わきにしたがえて、まるで女王のように悠然と、謁見の間にはいってきた。シラディスは、不思議にも――当然かもしれないが――一緒ではなかった。ポルガラは例のごとく銀糸で縁どりをしたロイヤル・ブルーのビロードのドレスだった。あたりをはらう威厳だった。セ・ネドラはウェディング・ドレスにそっくりのクリーム色のドレスだったが、婚礼のドレスを飾っていた小粒の真珠は見あたらず、豊かな茜色の髪が片方の肩の上で波うっていた。ヴェルヴェットはラヴェンダー色のサテンのドレスを着ていた。ペリヴォーの若い騎士たち――その日の馬上試合のあと、まだ歩行可能な――は、見ていてかわいそうになるぐらい、ヴェルヴェットの容姿に魅了されていた。
「あいまいな紹介をするときらしいや」ガリオンはザカーズにつぶやいた。素性を隠す必要性を主張していたため、女性たちは到着以来ずっと部屋にこもっていたのだ。ガリオンは前に進みでると、彼女たちを王座の前まで連れていった。「陛下」ガリオンはオルドリン王に呼びかけてわずかに頭を下げた。「わけあってわれらの素性を隠す必要があるため、この者たちの出身地をことこまかに申しあげることはできませんが、紹介申しあげないのは、陛下にたいし、またこの女性たち自身にたいし、不作法となりましょう。つつしんでここにエラト公爵婦人をご紹介いたします」これなら安全だった。世界のこちら側に暮らす人間には、エラトがどこにあるのか皆目見当もつかないだろう。
ポルガラは優雅そのものに膝を折ってお辞儀し、豊かにひびく声で王に挨拶した。「陛下」
オルドリン王はいきおいよく立ちあがると、深々と一礼して答えた。「公爵婦人、そなたの存在はわれらのむさくるしい宮殿を照らす光であるぞ」
「そして、陛下」ガリオンはつづけた。「クセラ妃殿下です」セ・ネドラはまじまじとガリオンを見つめた。「きみの本名は知られすぎてるかもしれないだろ」ガリオンはささやいた。
セ・ネドラはたちまち真顔にもどった。「陛下」彼女のお辞儀もポルガラのそれにまさるとも劣らず、優雅だった。けっきょく、宮殿で生まれ育った少女はなにかしら身につけるものだ。
「妃殿下」王は答えた。「そなたの美しさは余からしゃべる力を奪う」
「いい人じゃない?」セ・ネドラはつぶやいた。
「そして最後ではありますが、陛下、けっして軽んじてはならない、トゥリア辺境伯令嬢です」ガリオンはさも大事そうにヴェルヴェットを紹介した。
ヴェルヴェットが膝を折り曲げてお辞儀した。「陛下」身体を起こしたとき、彼女はにっこりとほほえんでえくぼの魅力を最大限に発揮した。
「これは――」王はどもって、また会釈した。「――そなたのほほえみには心臓がとまる」オルドリンはやや不審そうにきょろきょろした。「たしかそなたの仲間にはもうひとり婦人がおっただろう、騎士よ」とガリオンにたずねた。
「目の見えぬ気の毒な娘でございますわ、陛下」ポルガラがひきとった。「最近になってわたくしどもの道連れになったのです。宮廷の娯楽は、思いますに、永久の闇に生きる者には無意味なのでございましょう。娘の世話はわたくしどもの仲間で、娘の家族の忠実なる家来でもある大男がしております。昼の光が彼女の目から永久に消えた暗澹たる日より、この男が娘を導き守っているのでございます」
同情の涙が王の頬に伝い落ちた。けっきょくのところ、アレンド人は移住者ですらも情緒的民族なのである。
そのあと他の仲間たちがはいってきた。面頬のおかげで、にやにや笑いが隠れてよかったとガリオンは思った。ベルディンの顔はまるで雷雲だった。髪と髭は洗われて櫛でとかされ、ベルガラスの白いローブによく似た青いローブを着せられている。ガリオンは女性たちを紹介したときのように、男性陣の紹介もよどみなく進め、最後にベルディンを紹介した。「そしてこれはマスター・フェルデガーストでございます、陛下。非常に才能豊かな道化師でして、そのすばらしい冗談はわれわれ全員の疲れた長旅を明るくしてくれました」
ベルディンはガリオンに向かってしかめっつらをしてから、うやうやしく一礼した。「ああ、これは陛下、この都市とこの宮殿の堂々たる美しさには、まっこと圧倒されっぱなしでござりまする。トル・ホネスやマル・ゼスやメルセネに負けないすばらしさですな――あの三つの都市はどれもこれもあっしの商売を繁盛させ、言葉では言えないようなあっしの才能を披露するのにぴったりのところでござんしたよ」
王はおもしろそうに笑って、「マスター・フェルデガーストか」と会釈した。「悲しみに満ちた世界では、そなたのような者は貴重な存在だ」
「ああ、ありがたいお言葉ですな、陛下」
形式的な紹介が一段落すると、ガリオンたちは自然に人混みにまぎれこんだ。決意をひめたような顔つきの若い女性がガリオンとザカーズに近づいてきて、膝を折ってお辞儀した。「おふたかたほど偉大な騎士どのはいらっしゃいませんわ。そしてお仲間が高貴な方々であることからいたしましても、おふたりが高位の人物でいらっしゃることは火を見るよりあきらかでございます。王位についていらっしゃるとしても不思議ではございませんわ」娘は感情を抑えた目つきでガリオンを見つめた。「もしや、婚約でもしていらっしゃいますの、騎士どの?」
例の手合いか、ガリオンは心中ひそかにうめいて答えた。「結婚しています、レディ」この状況に対処する方法はもうちゃんとわかっていた。
「まあ」娘の目にまぎれもない失望の色が浮かんだ。つぎに彼女はザカーズのほうを向いた。「ではあなたは、閣下? やはり奥方がおいでですの――それとも婚約していらっしゃるのですか?」
「いえ、レディ」ザカーズはけげんそうに答えた。
娘の目が輝いた。
ガリオンはそこから先をつづけさせなかった。「さあ、そろそろあのどうしようもなくまずい薬を飲む時間だぞ」
「薬?」ザカーズがあっけにとられて言った。
ガリオンはためいきをついた。「貴殿の病いは悪化しているようだ」と悲しみを装って言った。「貴殿のこの忘れっぽさは、より激しい症状があらわれる兆しなのだ。貴殿の一族の呪いである先祖代々の狂気が貴殿にとりつかぬうちに、われらの探索が終了するよう、七つの神々に祈ろうではないか」
決然とした顔つきの娘は、大きく見開いた目に恐怖をみなぎらせてあとずさった。
「なんの話をしているのだ、ガリオン?」ザカーズは責めた。
「前にもこういう経験があるんだよ。あの娘は未来の夫を捜していたのさ」
「ばかな」
「彼女にとってはまじめなことだったんだ」
やがてダンスがはじまった。ガリオンとザカーズは見物する側へまわった。「くだらない時間つぶしだな」ザカーズが言った。「正気の男があんなことで時間をむだにする理由が理解できん」
「ご婦人がたがダンスをしたがるからしかたないのさ。ぼくはダンスぎらいの女性に会ったためしがない。女性は生まれつきダンスに目がないんだろう」王座のほうへ目をやると、オルドリン王はだれとも話していなかった。微笑を浮かべて音楽に合わせ足拍子を取っている。「ベルガラスを見つけて王と話をしにいこう。例の地図のことを聞くにはいいチャンスかもしれない」
ベルガラスは胸壁のひとつによりかかって、うんざり顔でダンスに興じる貴族たちをながめていた。「おじいさん」ガリオンは声をかけた。「いまはだれも王に話しかけてない。あの地図のことをききにいったらどうだろう」
「名案だ。このパーティは夜までつづきそうだから、個人的に話す機会はあまりないかもしれん」
かれらは王座に近づくと一礼した。「お話ししてもかまわないでしょうか、陛下?」ガリオンはたずねた。
「もちろんだ、騎士よ。そなたとそなたの仲間は余の試合の勝者だ。そなたの話に耳をかたむけぬのはへそ曲がりというものであろう。で、話したいこととはいかような問題か?」
「ささいなことでございます、陛下。このマスター・ガラスは――」ガリオンは紹介のときにベル≠はずしていた。「――さきほど申しあげましたように、わが最年長の顧問であり、幼少のころよりわたしを導いてきた人物でございます。さらにかなり著名な学者でございまして、さきごろ研究対象を地理に転じました。地理学老のあいだには古代世界の配置をめぐる長年の論争があるのです。まことに偶然ながら、マスター・ガラスはある古代地図がここダル・ペリヴォーの宮殿に保管されていることを確かな筋から聞きおよびました。抑えがたい好奇心に突き動かされて、マスター・ガラスは、陛下がかような地図がじっさいに存在するかどうかをご存じか、おたずねしてくれと申すのです。そしてもし陛下がご存じであれば、どうかそれを読ませていただきたいと懇願しております」
「マスター・ガラス」と王は言った。「そなたの情報筋はまちがっておらなかったぞ。そなたの求める地図はわれらのもっとも尊い遺宝のひとつなのじゃ。と申すのは、遠い昔この島の海岸へわれらが祖先を導いたのがほかならぬその地図だからだ。暇ができしだい、喜んでそなたの研究のためにその地図を見せるといたそう」
そのとき王座のうしろの紫色の幕の陰から、ナラダスが出てきた。「あいにくながら、しばらく研究の時間はないように思われます、陛下」その口調には、どことなく満足げなひびきがあった。「お許しください、陛下、しかし残念な知らせを急いでお伝えしようとして、話の最後の部分が耳にはいってしまったのです。ただいま東から到着した使者が、ドラゴンめがたったいまここから三リーグ足らずのダル・エスタの村を荒しまわっていると申しております。どこをどう破壊するか予測のつかぬ怪獣でありますから、何日か森にひそんでふたたびあらわれぬともかぎりません。この災難はかえってわれらにとっては好都合かもしれません。いまこそ攻撃のチャンスです。われらがふたりの勇ましい勝者が出撃して、このやっかいな獣を退治するのに、これほど願ってもない機会がございましょうか? この力強い騎士たちはおそらくこの老人の忠告を頼りにするでありましょうから、騎士たちの戦略を導くためにも、老人も同行すべきだと思われます」
「よくぞ申した、エレゼル」愚かな王は熱狂的に同意した。「あの怪獣を隠れ家からおびきだすのに何週間もかかるのではあるまいかと恐れていたのだ。それがたった一晩ですんだとはな。では出撃なされよ、わが勝者たちとマスター・ガラス。余の王国からこのドラゴンを退治してくれれば、いかなる願いも聞きとどけようそ」
「時宜を得た発見でござったな、マスター・エレゼル」ベルガラスは言った。なにげない言いかただったが、ガリオンには祖父がその意味するところをじゅうぶん承知していることがよくわかった。「陛下の申されたとおり、貴殿のおかげで時間をむだにせずにすんだ。暇になったらすぐにでも適当な礼をいたすそ」
ナラダスは少したじろいで、心配そうな顔になった。「礼にはおよばぬ、マスター・ガラス。わたしは陛下と王国に義務を尽くしているだけのことだ」
「ああ、義務をな」とベルガラス。「われわれには多くの義務がある、そうではないか? こんど〈闇の子〉に祈るときはよろしくつたえてくれ。あらかじめ定められているとおり、そのうち会おうとな」
それだけ言うとベルガラスは向きを変え、ガリオンとザカーズを従えてダンスに興じる人々のあいだを通りぬけ、大股に謁見の間をあとにした。他人の目があるかぎり、老人は無表情だった。だが、人気のない廊下にたどりつくと、ベルガラスは口ぎたない悪態をつきはじめた。
「もう少しであの地図を見られるところだったのだ」といきまいた。「ナラダスめ、また邪魔をしおったな」
「引きかえしてみんなを連れてこようか?」ガリオンがきいた。
「いや。事情を言えば、みんな一緒に行きたがるだろうし、それでは言い合いになるだけだ。メモを残しておこう」
「また?」
「この繰りかえしというやつ、だんだん定期的に起きるようになってきたな」
「ポルおばさんがこんどは同じように反応しないといいけどね」
「いったいなんの話だ?」ザカーズがたずねた。
「シルクとおじいさんとぼくとでトラクに会いにいったとき、リヴァをこっそり抜けだしたんだよ」ガリオンは説明した。「メモを残していったんだが、ポルおばさんはおいてきぼりをくったことが不満だったんだ。ぼくの理解するところだと、さんざん罰あたりなことを言って怒りくるったんだ」
「レディ・ポルガラが? 彼女はじつに上品な女性だぞ」
「心にもないことを言うな、ザカーズ」ベルガラスが言った。「ポルはものごとが自分の思いどおりに運ばないと、手がつけられなくなるのだ」
「きっと遺伝ですね」ザカーズはやんわりと言った。
「からかっとるのか? ふたりとも厩へ行ってくれ。厩番に馬たちに鞍をつけるように言って、問題の村がどこにあるのかつきとめるんだ。わしは出発前にシラディスとちょっと話したいことがある。あの娘からもうちょっとはっきりした答えを引きだすつもりだ。二、三分したら中庭で落ちあおう」
かれらが馬にまたがったのは、それから十分ばかりたったときだった。ガリオンとザカーズは厩の壁の棚から槍を取り、三人は宮殿の敷地から出発した。「シラディスとの話はうまくいった?」ガリオンはベルガラスにたずねた。
「まあな。村にいるドラゴンはザンドラマスではないと教えてくれたよ」
「じゃ、ほんもののドラゴンなのか?」
「おそらくな。しかしシラディスはわしになにか隠しておった。ドラゴンになにか他の魂が乗りうつっていると言ったのだ。ふたりともくれぐれも気をつけろよ。ドラゴンというやつは普通はじつにばかなんだが、なにかの魂に導かれているとすると、少しは目はしがきくのかもしれん」
暗い横道から影がひとつあらわれた。雌狼だった。
「調子はどうです?」ガリオンは礼儀ただしく挨拶し、もうちょっとでおばあさん≠ニつけくわえそうになった。
「満足してるわ」彼女は答えた。「獲物をとりにいくのね。わたしもついていくわ」
「ぼくたちが捜している動物は食べるためのものじゃないことを言っておきますよ」
「狼は食べるためだけに狩りをするわけじゃないわ」
「ではどうぞついてきてください」
「なんて言ってるんだ?」ザカーズがきいた。
「一緒にきたがっているんだよ」
「危険だということを警告したのか?」
「もう知っているようだ」
「好きにさせるさ」ベルガラスが肩をすくめた。「狼に命令しようとしてもむだだ」
かれらは城門を出て、厩番のひとりが教えてくれた道をたどった。「八マイルぐらいあると言ってた」ガリオンは言った。
ベルガラスは目を細めて夜空を仰いだ。「いいぞ。満月が出ている。その村まで一マイルのところまで全力疾走しよう」
「そこまできたとどうやってわかるのだ?」ザカーズがたずねた。
「近づけばわかる」ベルガラスは不気味に答えた。「ありとあらゆるたぐいの火が見えてくるのだ」
「ほんとうにドラゴンは火を吐くわけではないのだろう?」
「いや、事実吐くのだ。おまえたちはふたりとも鎧兜を着ているから、多少は安全だ。ドラゴンは背中より脇や腹のほうがいくらか柔らかい。槍を突き刺して、剣でとどめを刺すようにしろ。長引かせるなよ。早く宮殿にもどって、例の地図を見たいのだ。行こう」
一時間ほどしたとき、すぐ前方に赤い火の輝きが見えた。ベルガラスは手綱を引いて言った。「慎重に進もう。あそこへ突っこむ前に、ドラゴンの位置を正確に知っておきたい」
「わたしが見に行くわ」雌狼は闇の中へはねていった。
「彼女がきてくれてよかったよ」ベルガラスは言った。「どういうわけか、あの雌狼がそばにいると心が休まる」
面頬がガリオンの微笑を隠した。
ダル・エスタの村は丘のてっぺんにあった。納屋や家々から黒ずんだ赤い炎が噴きあげているのが見えた。丘を登っていくと、雌狼がかれらを待っていた。「わたしたちの捜している獣が見えたわ」彼女は言った。「ちょうどいま、人間の家があるあの丘の向こう側で食事をしているところよ」
「なにを食べているんだろう?」ガリオンは不安になってたずねた。
「あなたたちが乗っているような動物よ」
「どういうことだ?」ザカーズがきいた。
「ドラゴンは村の反対側にいるのだ」ベルガラスが通訳した。「いま馬を食べている」
「馬[#「馬」に傍点]を? ベルガラス、こんなときにおどかしっこはなしだ。そのドラゴンはどのくらいの大きさがあるのだ?」
「家一軒ぐらいだろう――むろん、翼を別にしてな」
ザカーズはごくりと唾をのみこんだ。「われわれは考えなおしたほうがいいのではないか? わたしの人生は最近まであまり楽しくなかった。せっかくおもしろくなってきた人生を、もう少し味わいたい」
「いまさらあとへはひけないよ」ガリオンは言った。「ドラゴンはあまり早く飛べないんだ。離陸するのにもかなり時間がかかる。獲物を食べているあいだに不意をつくことができれば、向こうが攻撃してこないうちに殺せるだろう」
三人は用心深く丘をまわった。よく見るとあたりの穀物畑が踏み荒され、食べかけの牝牛の死骸がころがっている。他にも死んでいるものがあった――ガリオンは慎重にそういうものを見ないように努めた。
やがてドラゴンが見えた。「これは!」ザカーズが低い声でうなった。「象よりも大きいではないか!」
ドラゴンは馬の死骸を前足の爪でつかんでいた。食べているなどという生易しいものではなく、がつがつとむさぼっている。
「やってみろ」ベルガラスが言った。「ドラゴンは食べているときはたいてい注意散漫になる。しかし、気をつけろよ。槍を突き刺したらすぐに離れるのだ。馬を倒すんじゃないぞ。ころべば、馬がドラゴンに殺されるし、ドラゴンと戦うとき馬に乗っていないと大変不利だ。雌狼とわしは背後から忍び寄って、しっぽを攻撃する。しっぽは弱点だから、何度か噛みつけば注意をそらすことができるだろう」ベルガラスは馬をおりると、少し離れたところへ歩いていき、銀色の大きな狼に変身した。
「あれを見るといまだに落ちつかない気分になる」ザカーズが告白した。
ガリオンは獲物を食べているドラゴンを注意して観察していた。「ドラゴンが翼を持ちあげていることに注意してくれ。ああいうふうに頭をさげていると、翼が邪魔になってうしろが見えないんだ。あんたはあっち側へまわってくれ。ぼくはこっち側に行く。ふたりとも位置についたら、ぼくが口笛を吹く。そうしたら突撃だ。できるだけすばやく接近し、あの持ちあげられた翼のうしろから出ないようにしろ。なるべく深く槍をつきさしたら、そのままにしておくんだ。槍が二本身体から突きでていれば、少しは動きの邪魔になるはずだ。槍を突き刺したら、すぐにまわれ右をして逃げだせ」
「この件については、きみはおそろしく冷酷なんだな、ガリオン」
「こういう状況だと、そうならざるをえないんだよ。ぐずぐず考えていたら、なんにもやらずじまいになる。これはぼくたちがこれまでにやった中でもっとも理性的な戦いというわけじゃないんだ。うまくやれよ」
「きみもな」
かれらは二手に分かれて、馬をむさぼり食うドラゴンを両側からはさみこむ位置までゆっくりと馬を進めた。ザカーズが槍を二度振って、位置についたことを示した。ガリオンは大きく深呼吸した。気がつくと、両手がかすかにふるえている。かれはあらゆる思考を振りはらって、ドラゴンの肩のすぐうしろの一点に神経を集中した。それから鋭く口笛を吹いた。
ふたりは突撃した。
ガリオンの戦略はある程度まではじつにうまくいった。ところが、ドラゴンの鱗だらけの皮膚は予想以上に固く、かれらの槍はガリオンが望んでいたほど深く刺さらなかった。かれはクレティエンヌの馬首をめぐらし、いきなり走りだした。
ドラゴンは悲鳴をあげて火を吐き、ガリオンのほうを向こうとした。期待どおり、脇から突きでた二本の槍がドラゴンの動きを妨げた。と、そのとき、ベルガラスと雌狼が矢のように走りこんできて、鱗だらけのしっぽを噛み、くいちぎった。ドラゴンは死にものぐるいで帆のような翼をばたつかせはじめた。耳ざわりな悲鳴をあげ、火を吐きながら宙によたよたと舞いあがった。
(逃げていく!)ガリオンは祖父に思考を投げつけた。
(もどってくるさ。執念深い獣なんだ)
ガリオンは死んだ馬のそばを通ってザカーズに合流した。
「われわれの与えた傷が命取りになるのだろうな?」マロリー人が期待をこめて言った。
「ぼくは当てにしないな」ガリオンは答えた。「あまり深く刺さらなかったみたいだ。もっといきおいをつけるには、あと百ヤードさがって突進すべきだったんだ。おじいさんがドラゴンはまたもどってくると言ってる」
(ガリオン)ベルガラスの声が意識の中で聞こえた。(わしはこれからあることをする。ザカーズに仰天するなと言っておけ)
「ザカーズ、おじいさんがいまからある種の魔術を使う。興奮するなよ」
「なにをするのだ?」
「さあね。教えてくれなかった」つぎの瞬間、ガリオンはおなじみのうねりと押し寄せる物音を感じとった。周囲の空気が水色に変化した。
「色彩豊かだな」ザカーズが言った。「なにが起きるのだ?」その声は落ちつかなげだった。
ベルガラスが闇の中から出てきた。「これでよし」かれは狼の言葉で言った。
「なんだい、これは?」ガリオンはたずねた。
「いわば防壁のようなものだ。これが火からおまえたちを守ってくれる――すくなくとも部分的にな。あとは鎧兜があるから大丈夫だろう。軽いやけどぐらいはするかもしれんが、火はどうということはない。だが、いさましすぎるのは禁物だ。ドラゴンにはまだ爪と牙がある」
「防壁みたいなものだ」ガリオンはザカーズに教えた。「ぼくたちを炎から守る役に立つ」
そのとき東のほうから金切り声がして、空にすすまじりの炎が噴きあがった。「油断するな!」ガリオンは鋭く言った。「もどってくるぞ!」〈珠〉におとなしくしているよう警告して、ガリオンは〈鉄拳〉の剣を抜きはなった。ザカーズも段平《だんびら》をシュッと音をたてて鞘から抜いた。
「散開するんだ」ガリオンは言った。「ドラゴンが一度にふたりを攻撃できないように、できるだけ離れろ。ドラゴンがあんたに襲いかかってきたら、ぼくが背後から攻撃する。ぼくに襲いかかってきたら、あんたが背後から攻撃してくれ。できれば、しっぽを狙うんだ。しっぽを攻撃されると、ドラゴンはくるったようになる。しっぽを守ろうとまわれ右をしようとする。そうしたら、ぼくたちのどっちかドラゴンの前にいるほうが、思う存分首を攻撃できるだろう」
「承知した」ザカーズは言った。
ふたりはふたたび扇形に広がって、ドラゴンの攻撃を緊張のうちに待ち受けた。
見ると、さっき突き刺した槍は二本とも噛みきられ、脇から短く突きでているだけだった。ドラゴンが舞いおりたのはザカーズの上だった。その衝撃で、ザカーズが鞍からころげ落ちた。あわてて立ちあがろうとするザカーズを、ドラゴンが炎でくるんだ。
ザカーズは何度も立ちあがろうとしたが、炎を吹きつけられるたびに本能的にひるんでしまった。ドラゴンの獰猛な爪を突きつけられて、ザカーズは立ちあがることができない。蛇のような首が猛スピードで前に伸び、残忍な牙がザカーズの鎧をひっかいた。
その時点で、ガリオンは戦略を放棄することにした。いますぐ友だちを守らなければならない。かれは鞍から飛びおりて、ザカーズの加勢に駆けつけた。「火をくれ!」〈珠〉に向かって吠えると、たちどころに剣があざやかな青い炎を放った。トラクがドラゴンを創った当時既知の事実だった魔術にたいする免疫が、このドラゴンにも与えられているのはまちがいないが、〈珠〉の力にはかなわないかもしれない。それを祈るだけだった。ガリオンはもがいているザカーズの前に立ちはだかると、両手で剣を振りまわし、ドラゴンを撃退した。〈鉄拳〉の剣がドラゴンの顔を切りつけるたびに、ジュッという音がして、ドラゴンは苦痛の悲鳴をあげた。だが、逃げようとはしなかった。
「立つんだ!」ガリオンはザカーズに叫んだ。「立ちあがれ!」背後でマロリー人が鎧を鳴らして立とうともがいているのが聞こえた。ガリオンの攻撃による痛みを無視して、突然ドラゴンが爪でガリオンをひっかき、かれはバランスをくずした。ガリオンはうしろへよろめいてザカーズの上に倒れた。ドラゴンは勝ち誇ったように甲高い声をあげて、突っこんできた。ガリオンが必死で剣を突きだすと、ジュウッといやな音がしてドラゴンの飛びでた左目がぐしゃぐしゃになった。立ちあがろうともがいているとき、不思議な考えがガリオンの頭に浮かんだ。同じ目だ。トラクの左目は〈珠〉の威力で破壊された。そしていま同じことがドラゴンにも起きた。自分たちがおそろしく危険な目にあっているにもかかわらず、ふいにガリオンは勝利を確信した。
ドラゴンが苦痛と憤怒に絶叫しながらあおむけにひっくりかえった。ガリオンはそのすきにもがきながらたちあがり、ザカーズをひっぱり起こした。「ドラゴンの左側へまわれ!」とわめいた。「あっち側は見えないんだ! ぼくが注意をひきつける。あんたは首をたたき斬れ!」
かれらは二方向に分かれてドラゴンが倒れているうちに位置につこうと急いだ。ガリオンは大きな燃える剣をありったけの力で振りまわし、ドラゴンの鼻づらにばかでかい傷口をあけた。血が噴きだしてかれの鎧兜をびしょぬれにし、ドラゴンは渦巻く炎を吐いて応酬した。ガリオンは火にもめげずに切りこみ、何度も顔を攻撃した。ザカーズが両手につかんだ剣を蛇のような首にふりおろすのが見えたが、ぶあつく重なりあった鱗には、いくら努力しても歯が立たなかった。ガリオンは燃える剣で敵を攻撃しつづけた。片目を失ったドラゴンはかれをひっかき、ガリオンは鱗におおわれた前足に剣をふりおろして半分まで切りこんだ。耐えがたいほど傷つけられたドラゴンはよろよろとあとずさりはじめた。
「逃がすな!」ガリオンはザカーズに叫んだ。「反撃の暇を与えるな!」
ふたりは交互に攻撃を繰りかえしながら、無情にじわじわと怪獣を撃退した。ガリオンが剣をふりおろすと、ドラゴンはこうべをめぐらしてかれを炎に包んだ。すると、ザカーズが無防備な後頭部を一撃するのだった。それにそなえようとドラゴンが反対側を向くと、こんどはガリオンが攻撃する。この情け容赦のない戦術に混乱し、翻弄されて、ドラゴンは無力に頭を前後にふりむけた。かまどのように熱い息は、攻撃者ではなく、もっぱら周囲の茂みや芝生を焦がした。ついにそれ以上の苦痛に耐えられなくなったドラゴンは、帆のような翼を懸命にばたつかせはじめ、不器用に地面から浮きあがろうとした。
「行かせるな!」ガリオンは呼びかけた。「このまま痛めつけるんだ!」かれらは残酷な攻撃を続行した。「翼をやろう!」ガリオンはどなった。「飛ばせるな!」
かれらは攻撃の的を蝙蝠《こうもり》のような翼に切り替えて、ドラゴンの逃亡への最後の道を絶とうとしたが、鱗だらけの皮膚はかれらの剣をはじきかえした。ドラゴンはぎごちなく宙に浮かぶと、あいかわらず甲高い声をたてて火を吐き、無数の傷口から血をしたたらせて東のほうへ飛んでいった。
ベルガラスが人間の姿にもどってかれらのほうへ近づいてきた。怒りで顔がどす黒くなっている。「ふたりとも気でもくるったのか?」老人はわめかんばかりだった。「気をつけうと言ったはずだ!」
「思いどおりにことが運ばなかったのだ、ベルガラス」ザカーズがあえぎながら答えた。「しかたがなかったのだ」かれはリヴァの王を見た。「またきみに命を助けてもらったな、ガリオン。それが習慣になりはじめている」
「そうなるようになってるらしいや」ガリオンは疲れ果てて地べたにすわりこんだ。「しかし、この先もまだあいつを追いつめなくちゃならない。そうしないと、何度でももどってくる」
「わたしはそうは思わないわ」雌狼が言った。「傷ついた獣については、わたしは経験豊かなのよ。あなたは彼女に棒をつきさし、目をえぐりだし、顔を前足をさんざん切りつけたわ。彼女は寝ぐらにもどってじっとしているでしょう、傷がいえるか――死ぬまで」
ガリオンはすぐにそれをザカーズに通訳した。
「だが、ひとつ問題がある」マロリー皇帝は疑わしげに言った。「われわれがドラゴンを永遠に追いはらったことをどうやって王に納得させるのだ? 殺したのであれば、これ以上の義務はないが、王は――意見番のナラダスがついているのだから――ドラゴンがもどってこないことが確実になるまでここにとどまれと主張するかもしれない」
ベルガラスは眉をひそめて言った。「シラディスは正しかったようだ。あのドラゴンの行動はどうもドラゴンらしくない。ガリオンが燃える剣で攻撃するたびに、瞬間的にすくみあがっていた」
「だれだってすくみあがるのではないか?」ザカーズがたずねた。
「この場合は少しちがう。ドラゴンにとって、火などはものの数ではないはずだ。あのドラゴンはなにかに指示されていたのだ――〈珠〉が傷つけることのできるなにかによって。もどったらベルディンと話し合ってみよう。おまえたちが一息ついたら、馬たちを連れてこよう。ダル・ペリヴォーへ引きかえして、例の地図を見てみたい」
[#改ページ]
15[#「15」は縦中横]
かれらが宮殿へひきあげたのは明け方近かった。おどろいたことに、ほとんど全員が起きていた。ガリオンとザカーズが謁見の間にはいっていったとき、固唾《かたず》をのむ気配がさざなみのように広がった。ガリオンの鎧兜は焦げ、ドラゴンの血で赤く染まっていたし、ザカーズの外衣は黒焦げで、胸当ての片側には大きな牙の跡がついていた。ふたりの鎧の状態が遭遇のものすごさを端的に物語っていた。
「わが栄誉ある勝者たちよ!」かれらが謁見の間にはいったとたん、王は狂喜した。はじめガリオンは王が早とちりしたのかと思った――かれらが生きて帰ってきたので、ドラゴンをまんまと殺したのだと。
しかし王はこう言った。「あの忌まわしい動物は長いことこの王国を荒しまわってきた。だれかがあれを放逐したのはこれがはじめてであるぞ」そしてベルガラスの不審げな表情に気づくと、王はわけを話した。「ほんの二時間前、われらはドラゴンが苦痛と恐怖の叫びをあげて都市の上空を飛んでいくのを見たのじゃ」
「どちらへ行きましたか、陛下?」ガリオンはたずねた。
「海のほうへ飛んでいくのを目撃されたのが最後だ、騎士よ。だれもが知ってのとおり、ドラゴンの寝ぐらはどこか西のほうにあるのでな。そなたとそなたの勇気ある仲間のこらしめが、あれを王国から追い払ったのだ。あれが寝ぐらに隠れ、傷をなめていることは疑いの余地がない。さあ、どうかことの顛末を話してくれ」
「わしがやろう」ベルガラスがつぶやいた。かれは前に進みでた。「陛下のふたりの勝者は、人品にふさわしく控え目な者たちでございます。おそらくふたりとも自慢話と思われたくないがため、このたびの偉業についてはあまり話そうとしないでしょう。そこでこのわたしが代わって対決のもようをご説明申しあげたほうがよかろうと存じます。そうしますれば、陛下も、また宮廷の方々も事実をより明白にお知りになれるでしょう」
「よくぞ申した、マスター・ガラス」王は答えた。「まことの謙譲は高貴なる者の誉れじゃ。しかし、そなたの申したとおり、そうした美徳はこの騎士たちが遭遇いたしたような対決の真相をしばしばあいまいなものにする。どうか話してくれ」
「どこからはじめましょう?」ベルガラスは考えた。「ああ、そうです。陛下もご存じのとおり、ドラゴンがダル・エスタの村を荒しているとマスター・エレゼルが時宜を得た警告をしてくれましたが、あれは遅すぎたほどでした。われわれはこの広間を出て馬にまたがると、くだんの村へ急ぎました。村は燃えさかっておりました。ドラゴンが火を吐いていたのです。家畜や大勢の村人はすでに殺されており、一部はドラゴンによって食われておりました――ドラゴンにとっては肉はすべて食べ物なのです」
「哀れよのう」王が嘆息した。
「口先だけの同情だな」ザカーズがガリオンにささやいた。「ほんとうに気の毒と思うなら、国の金庫から村人に金をやって家を建てるたしにしてやったらいいのに」
「国民から税をしぼりあげておいて、それをわざわざかえすようなことをするのか?」ガリオンはわざとらしくあきれたような口調で言った。「あんたの提案にはおどろいたな」
「陛下の勝者たちは慎重に村のまわりの一帯を偵察いたしました」ベルガラスは話しつづけていた。「そしてほどなくドラゴンの居場所をつきとめたのです。まさしくそのとき、ドラゴンは一群れの馬たちを食べているところでございました」
「わたしが見たのは一頭だけだぞ」とザカーズ。
「ときどきあの人は、話を事実以上におもしろくするために脚色するんだよ」ガリオンはささやきかえした。
ベルガラスの話は佳境にはいろうとしていた。「わたしの忠告により」とひかえめな口調で、「陛下の勝者たちは状況を把握せんものと一呼吸置きました。そしてわれわれ全員は、ドラゴンがその血も凍る食事にすっかり気をとられていることを確信したのです。と申しますのは、その巨大な身体と残虐さゆえ、無敵を信じるドラゴンが用心深くなる理由はどこにもなかったからであります。勝者たちは二手に分かれると、馬をむさぼるドラゴンの左右にまわりこみました。両側から攻撃し、あわよくばドラゴンの急所に槍を突き刺そうという算段だったのであります。慎重を期して、ふたりは少しずつ進んでいきました。指折りの武勇の士といえども、いささかも無謀なところはなかったからでございます」
老人の話を聞きもらすまいと、謁見の間は水を打ったように静まりかえっていた。ちょうどその昔ガリオンがファルドー農園の食堂で、息を殺し無我夢中になってベルガラスの物語に聞きいったように。
「少しやりすぎではないのか?」ザカーズがささやいた。
「ああなっちゃうらしいんだ。おじいさんの手にかかると、おもしろい話はおもしろいだけではすまなくなる。脚色しないと気がすまなくなるらしい」
聴衆の注意をすっかりひきつけた手ごたえを得ると、ベルガラスは物語作者の技巧をさまざまに駆使しはじめた。声をひそめたかと思うと、いきなり大声を出し、テンポをあげたりさげたりした。抑揚にまで変化をつけた。ときには聞きとれないほど声を落とした。自分でもさんざん楽しんでいるのはあきらかだった。ドラゴンにたいする同時攻撃のもようを微に入り細をうがって描写した。ドラゴンの最初の撤退を語り、ふたりの騎士の心中に湧きあがった勝利感――事実とは反する――と、槍でとどめをさしたとふたりが信じこんだことまで惜しげなくつけくわえた。この最後の部分は完全なフィクションだったが、緊迫感を高めるのに役だった。
「わたしもその[#「その」に傍点]戦いを見たかったよ」ザカーズがつぶやいた。「われわれの戦いはもっとずっと単調だった」
つぎに老人は復讐に燃えるドラゴンが舞いもどってきた話にかかり、事態をもっとおもしろくするために、ザカーズの置かれた危機的状況をおそろしく誇張した。「そのとき」とベルガラスはつづけた。「かれの忠実な仲間が、わが身の危険もかえりみず、争いのただ中へ飛びこんでいったのであります。友がすでに致命傷を負ったのではあるまいかとの恐れと義憤にかられ、かれは怪獣の面前に飛びだすや、頼もしい剣を両手で大きくふりまわしました」
「ほんとうにあんなことを考えていたのか?」ザカーズがガリオンにきいた。
「まあね」
「すると」とベルガラスは言った。「燃えさかる村からの照りかえしであったのか、この英雄の剣が真っ赤に光るのが見えたような気がいたしたのでございます。かれはいくたびとなく剣をふりおろし、そのつど、真紅の血の川と苦痛の叫びによって報いられました。そのとき、なんと恐ろしいことでありましょうか、ドラゴンの恐るべき爪が偶然にもわれらが勝者をよろめかせ、かれは倒れてしまったのです――あろうことか、むなしく起きあがろうともがいていた友の身体の真上に」
ふたりの英雄の存在が、かれらが生還したなによりの証拠であるにもかかわらず、謁見の間に集まった群衆のあいだから、絶望のうめきがもれた。
「包み隠さず申すならば、この心にも暗雲が広がったことでございました。ところが、残忍なるドラゴンがまさにわれらが勝者たちの命を奪わんとした刹那、ひとりが――その名は申しますまい――燃える剣でいまわしい獣の目を貫いたのであります」
われんばかりの拍手が起きた。
「ドラゴンは激痛に悲鳴をあげつつ、よろめき、もんどりうって倒れました。われらが勝者たちはすかさずこのチャンスをとらえ、はね起きたのでございます。こうして血みどろの戦いがふたたびはじまりました」ベルガラスは、ガリオンとザカーズが実際にやった攻撃をすくなくとも十倍にふくらませて、まことしやかにしゃべりつづけた。
「そんなに何度もあの剣を振りまわしていたら、腕がもげていたぞ」ザカーズが言った。
「気にするなって」ガリオンは言った。「ああやって楽しんでいるんだ」
「ついに」ベルガラスは最後の締めにはいった。「恐れというものを知らずにいたドラゴンは、もはや苛酷な責めに耐えきれなくなり、臆病にも背中を見せて戦いの場から逃げだし、陛下のおっしゃったように、秘密の寝ぐらめざしてこの美しい都市の上空を飛んでいったのでございます。今宵あのドラゴンが味わった恐怖は、受けた傷にも増して手痛いものであったと思うのであります。ドラゴンが陛下の王国にもどってくることは二度とないでしょう。なぜならば、愚かではありますが、かような苦しみを味わった場所へ喜んで引きかえしてくるはずがないからでございます。陛下、これが戦いの正確なご説明でございます」
「みごとじゃ!」王は嬉々として言った。そして謁見の間に居ならぶ聴衆からわれるような拍手喝采が起きた。ベルガラスはくるりとまわれ右をして一礼し、ガリオンとザカーズにも同様に頭をさげるよう指示し、寛大にも称賛をわかちあわせてやった。
宮廷の貴族たちは――中にはほんとうに涙をためている者もいた――この三人組を祝福しようと押しあいへしあいした。ガリオンとザカーズの場合は、そのあっぱれな偉業を、ベルガラスの場合は劇的な話ぶりを讃えるために。ガリオンはナラダスが王のななめうしろに立っているのに気づいた。真っ白な目が憎悪に燃えている。「気を抜かないほうがいいよ」ガリオンはふたりの仲間に言った。「ナラダスがなにかたくらんでいる」
騒ぎが静まったとき、白目のグロリムが壇にあがった。「わたしもこの広間においでのみなさん同様、ふたりの勇敢なる英雄とかれらのあっぱれな忠告者を讃えたいと思う。かれらほどすばらしい組み合わせは、かつてこの王国にはなかった。しかしながら、ここにひとつ気になることがあると思われるのだ。マスター・ガラスはこの言語に絶する壮絶な戦いの現場からもどられたばかりで、無理からぬことながら目撃なされたことに興奮しておられよう。したがって、ドラゴンの現在の心理状態についてあまりにも楽観的にすぎるのではあるまいか。じじつ、普通の動物であればそのような激しい苦痛を味わった場所を避けようとするであろう。しかし、このいまわしい、唾棄すべき化物は普通の動物ではない。われらの知るところからいたせば、怒りと復讐への飢えに駆られるのが当然ではなかろうか? この頼もしい勝者たちがいま出発してしまうと、この美しい愛すべき王国は憎悪をたぎらせた化物の復讐にさらされることになる」
「思ったとおりだ」ザカーズが歯ぎしりした。
「したがって、わたしはつつしんで陛下とこの宮廷の貴族の方々に、この騎士たちの処遇については、性急な結論を出さぬほうがよいのではないかと忠告申しあげるしだいだ。あの化物と対決し、成功する可能性があるのは、このおふたりだけではないか。この国の他の騎士たちを束にしたところで、これだけはっきりした断言ができようか?」
「そなたの申すとおりかもしれんな、マスター・エレゼル」王が思いがけなくひややかに言った。「しかし、かれらが従事している高潔なる探索を考えるに、かれらの意志を曲げてまでここにとどまらせるのは、余としても心苦しいのじゃ。われらはすでにじゅうぶんすぎるほどかれらの出発を遅らせている。かれらはわれらのために存分に働いてくれたのだ。これ以上欲を申すのは、あまりにも無礼であろう。したがって、余は明日を国をあげての感謝と祝賀の日とし、盛大なる宴会を催してこの無敵の勝者たちに名誉を与え、惜しみながらかれらに別れを告げることにいたそう。どうやら日が昇ったようじゃ。われらが勝者たちがきのうの馬上試合と昨夜の憎きドラゴンとの戦いで疲労しきっていることは疑いの余地がない。したがって、きょうは準備にあてることにし、明日を喜びと感謝の日とする。それではみな寝るといたそう。心身とも疲れをとり、起きてのちはわれらの務めに励むのじゃ」
「永久にあれを言ってくれないのかと思った」すし詰めの謁見の間からひきあげる途中で、ザカーズが言った。「いまなら立ったまま眠れそうだ」
「やめてくれよ」ガリオンが言った。「鎧兜を着てるんだからな、ひっくりかえったらものすごい音がする。たたき起こされるのはまっぴらだぞ。ぼくもあんたに負けないぐらいくたくたなんだ」
「すくなくともきみには一緒に眠る人がいる」
「じつをいうと、ひとりじゃなくてふたりいるんだ、子狼をいれるとね。動物の子供というやつは爪先に異常な関心があるんだよ」
ザカーズは笑った。
「おじいさん、いままで王はなんでもナラダスの言うなりだっただろう。王の意識をいじったのかい?」
「ふたつ提案をしたことはしたがね」ベルガラスは認めた。「普段はああいうことはしたくないのだが、状況が状況だったからな」
外の廊下に出たとき、ナラダスが追いついてきた。「まだきさまの勝ちではないぞ、ベルガラス」声をひそめて吐きすてるように言った。
「ああ、そうだろうな」ベルガラスはびくともせずに認めた。「しかし、おまえも同じことだ、ナラダス。わしの想像では、ザンドラマスは――その名は前に聞いたことがあるだろう――おまえがここでみじめにも失敗したと知ったら、不機嫌になるだろうな。いますぐ逃げだせば、ザンドラマスの手の届かんところに逃げられるかもしれんぞ――すくなくともしばらくのあいだはな」
「決着はまだついていないぞ、ベルガラス」
「決着ずみとは思ったこともない」ベルガラスは手を伸ばすと、からかうようにナラダスの頬をたたいた。「さあ、逃げるがいい、グロリム。まだ五体満足のうちにな」と、言葉を切り、「むろん、わしに挑みたいなら話は別だ。自分の才能に限度があることをとくと考えるがいい。挑戦するなとは言わんが、すべてはおまえしだいだ」
〈永遠なる者〉に驚いたような一瞥を投げると、ナラダスは逃げていった。
「ああいうやつを脅かすのは楽しいもんだ」ベルガラスはほくそえんだ。
「こわい人なんだな、あなたは」ザカーズが言った。
「やさしいふりをしたことはないんでな、ザカーズ」ベルガラスはにやりとした。「サディと話をしにいこう。ナラダスが目ざわりになってきた。あいつもわしらをつけまわすのをやめる潮時だろう」
「なにかするのだろう?」ザカーズが廊下を歩きながらたずねた。
「けりをつけるためにかね? もちろんだとも」
「ラク・ハッガでわたしが邪魔をしたとき、やろうと思えばわたしを煙にしてしまえたのだろう?」
「だろうな」
「しかし、そうはしなかった。なぜだ?」
「おまえさんが必要になるかもしれんと考えたからだ。他の連中よりおまえさんには見るべきものがあったんでな」
「世界の半分を支配する皇帝以上のなにかがあったということか?」
「そんな称号はくず[#「くず」に傍点]だ、ザカーズ」ベルガラスは軽蔑的な言いかたをした。「おまえさんのこの友だちは〈西方の大君主〉だが、いまだにブーツをはく足をまちがえておるんだぞ」
「だれが!」ガリオンはカッとして言いかえした。
「セ・ネドラの助けがあるからちゃんとブーツをはけるんだ。おまえさんにほんとうに必要なのはそれなのだ、ザカーズ――妻だ、おまえさんを見苦しくないようにしてくれるだれかなのだ」
「そんなのは問題外だと思うがね、ベルガラス」ザカーズはためいきをついた。
「いまにわかるさ」〈永遠なる者〉は言った。
ダル・ペリヴォーの王宮の部屋でかれらが受けた応対は、心を慰めるものではなかった。
「このおいぼれ!」ポルガラが父親をどなりつけた。事態はそこから急激に悪化した。
「このバカ!」セ・ネドラがガリオンに金切り声を投げつけた。
ポルガラがなだめた。「お願い、セ・ネドラ、まずわたしに最後まで言わせてちょうだい」
「あら、もちろんですわ、レディ・ポルガラ」リヴァの女王は礼儀正しく同調した。「ごめんなさい。頭にくることでは、あなたのほうがずっと年季がはいっているんですもの。それに、わたしはこいつ[#「こいつ」に傍点]とベッドでふたりきりになって、思い知らせてやることができますから」
「これでもわたしに結婚をさせたいのか?」ザカーズがベルガラスにきいた。
「結婚にも欠点はある」ベルガラスは穏やかに答えてあたりをながめまわした。「壁はまだ立っているし、爆発の跡も見あたらんようだ。けっきょく、おまえも成長しとるようだな、ポル」
「またメモを置いていったのね?」彼女はいまにも叫びだしそうだった。「情けないメモを?」
「時間がなかったのだ」
「三人だけでドラゴンと戦いにいったわけ?」
「だいたいのところはな。だが雌狼が一緒だった」
「動物が? それが身を守るためにおとうさんが考えついたことなの?」
「彼女はじつに役に立ったぞ」
その時点でポルガラはののしりはじめた――いくつかの異なる言語で。
「なあ、ポル」ベルガラスは穏やかにそれを聞きとがめた。「おまえはそういう言葉がどういう意味なのか知りもしないじゃないか――すくなくともわしはそう願っている」
「みくびるのはよしてちょうだい。まだすんだわけじゃないわよ。さあ、セ・ネドラ、あなたの番よ」
「陛下との話し合いは内密にしたほうがいいと思うの――そのほうが遠慮しないですむし」小さな女王はひややかな口調で言った。
ガリオンはひるんだ。
そのとき、おどろいたことにシラディスが口を開いた。「まっさきにわたしに相談することなく、命にかかわる危険に身を投じるとは失礼なことじゃ、マロリー皇帝」ベルガラスがドラゴンとの対決におもむく前にシラディスと話し合ったはずだが、例によってかれ一流のとぼけかたで自分たちがなにをするつもりでいるか、明言しなかったらしい。
「貴女の許しを乞いたい、聖なる女予言者」ザカーズは知らず知らずに古めかしい言いかたであやまった。「事態が切迫していたため、相談している暇がなかったのだ」
「言いわけがおじょうずね」ヴェルヴェットがつぶやいた。「かれならまだ紳士に仕立てられそう」
ザカーズは面頬をあげて、ヴェルヴェットににやりと笑いかけた――びっくりするほど少年ぽさの残った笑いだった。
「しかし、カル・ザカーズ」シラディスがしかつめらしくつづけた。「わたしがそなたの性急にして思慮のない無鉄砲さに激怒していることを知るがよい」
「貴女を怒らせたかと思うと、どうしてよいかわからなくなる、聖なる女予言者、どうかわたしの過ちを許す心を見つけてもらいたい」
「ああ」ヴェルヴェットがためいきをもらした。「かれはほんとにすばらしいわ。ケルダー、メモを取っていた?」
「おれ?」シルクはあっけにとられたようだった。
「ええ。あなたよ」
あまりにも多くのことが起きたので、ガリオンは疲労のきわみにあった。「ダーニク」かれは訴えるように言った。「これを脱ぐのを手伝ってくれるか?」と、鎧の胸当てをげんこつでたたいた。
「きみがそう言うなら」ダーニクの声までが、そっけなく聞こえた。
「ほんとうにかれはぼくらと一緒に寝なくちゃならないのか?」ガリオンは朝方、不平をもらした。
「あったかいんですもの」セ・ネドラがぶっきらぼうな口調で答えた。「それがなによりなの。おまけに、かれはわたしの心の隙間を埋めてくれるわ――もちろん、ちょっとではあるけれど」
布団の下で子狼は夢中でガリオンの爪先をなめていたが、やがて恐れていたとおり、かじりだした。
かれらはいつまでたっても目がさめず、昼すぎの三時頃起きた。そして召使いを王のところへやり、今夜の祝賀会は極度の疲労のために欠席したいと願いでた。
「例の地図を見せてほしいと言うのに願ってもないチャンスじゃないか?」ベルディンが言った。
「わしはそうは思わん」とベルガラス。「ナラダスはあせりはじめている。ザンドラマスの冷血ぶりを知っているやつのことだ、なにがなんでもわしらを地図に近づけまいとするだろう。それにまだ王はやつの言いなりだ。わしらの邪魔をするためなら、どんな口実もひねりだす。やつをけむに巻いてやろうじゃないか。うっかり油断させれば、サディがやつを眠らせることができるかもしれんぞ」
宦官はおどけたように一礼した。
「別の手もありますよ、ベルガラス」シルクが申しでた。「おれがこっそり動きまわって、情報を集めるんです。地図のありかをつきとめることができれば、ちょいとしたコソ泥行為でおれたちの問題は解決だ」
「つかまったらどうするんだ?」ダーニクがたずねた。
「おいおいダーニク」シルクは傷つけられた声で言った。「侮辱するのはやめてくれよ」
「見込みはありますわ」ヴェルヴェットが言った。「ケルダーは口を閉じている人間の歯だって盗めるんですから」
「危険は冒さないほうがいいわ」ポルガラが言った。「ナラダスはグロリムなのよ。地図の周辺にいくつか罠をしかけていても不思議ではないわ。わたしたち全員について、風評だけでも知っているでしょうし、シルクの特殊な才能にもじゅうぶん気づいているにちがいないわ」
「ぼくたち、ほんとうにかれを殺さなくちゃならないのかな?」エリオンドが悲しそうにたずねた。「ナラダスのことだけど」
「しかたがないと思うよ、エリオンド」ガリオンは言った。「やつが生きているかぎり、ぼくたちは、ことあるごとにやつと衝突するだろう」ガリオンは眉を寄せた。「ぼくの想像かもしれないが、ザンドラマスは選択権をシラディスにゆだねるのをひどく渋っているように思える。ぼくたちをはばむことができれば、勝利はザンドラマスのものになるだろう」
「そなたの考えはかならずしもまちがってはおらぬ、ベルガリオン」シラディスが言った。「ザンドラマスはわたしの務めを妨げるために全力を尽くしてきた」と、そこでいっとき微笑し、「じつを申せば、彼女はひどくわたしをいらだたせたのじゃ。だから、もしザンドラマスとそなたのどちらかを選ぶかとすれば、わたしはザンドラマスを選ばぬことによって報復する気持ちに駆られるかもしれぬ」
「予言者からそういうことを聞くとは思わなかったぜ」ベルディンが言った。「あんた、ほんとうにあの孤高の柵、よそものを寄せつけないあの柵からおりてくる気か、シラディス?」
シラディスはまた微笑した。「やさしいベルディン」と愛情をこめて言った。「われらの中立はきまぐれの結果ではなく、義務の結果なのじゃ――そなたが生まれる前からわれらに課せられた義務の」
一日の大半を眠っていたので、かれらは夜遅くまで話しこんだ。ガリオンは翌朝さわやかな気分で目をさまし、その日の祝典にのぞむ気になっていた。
オルドリン王の宮廷の貴族たちは前日と昨夜の半分を、われらが英雄たる勝者たち≠たたえる演説の――長くて、はでで、退屈がおきまりの――準備に費やしていた。面頬のせいで気がゆるみ、ガリオンは何度もうとうとした――疲労のせいではなく、退屈のあまり。あるとき、鎧の脇腹がかすかに鳴るのが聞こえた。
「いたた!」セ・ネドラが肘をさすった。
「どうしたんだ、ディア?」
「その鋼を全部着てなくちゃいけないの?」
「ああ。しかし、ぼくがこれを着ているのはわかってただろう。どうしてあばら骨をつつこうなんてしたんだ?」
「習慣でしょ、たぶん。眠っちゃだめじゃないの、ガリオン」
「寝てなんかいるものか」ガリオンは嘘をついた。
「ほんと? じゃ、どうしていびきをかいてたの?」
演説のあと、王は貴族たちがそろって眠そうな目つきになっているのを見て、マスター・フェルデガースト≠ノみんなの目をさまさせるよう呼びかけた。
ベルディンのその日のすばらしさは桁はずれだった。逆立ちで歩き、びっくりするようなとんぼがえりをした。あざやかな手さばきで手品をし――その間いっときも口を休めずに、歌うような調子で冗談をまくしたてた。「この祝祭にあっしがささやかな色を添えることができたんなら、いいんですがね、陛下」熱烈な拍手喝采に応えてお辞儀したあと、ベルディンはそうしめくくった。
「そなたはまことに一級品であるな、マスター・フェルデガースト」王はほめた。「きょうそなたが見せてくれたものの記憶が、この広間のわびしい冬の宵を暖めてくれるであろう」
「ああ、ありがたいお言葉で、陛下」ベルディンは一礼した。
宴会がはじまる前に、ガリオンとザカーズは軽い食事をとりに部屋へ引きあげた。面頬をあげないと大広間ではなにも食べられないからだ。だが、賓客として、宴会に出席しないわけにいかない。
「他人の食事をながめることをこんなに楽しむ気になったことはただの一度もないな」宴会場にはいって、椅子にすわったあと、ザカーズはガリオンに耳うちした。
「娯楽がほしければ、ベルディンを見てるといい。ポルおばさんがゆうべきっぱり申し渡してたよ。きょうはお行儀よくしないと承知しないってね。いつものベルディンの食べかたを見てるだろう。行儀よくしなけりゃならないと、それが重荷になって、ベルディンはめちゃくちゃをやらかすんだ」
ナラダスは王の右側にすわっていた。白い目が不安な色をたたえている――やや呆然としてさえ見える。ベルガラスが地図を手に入れようとしない事実にあきらかにとまどっているのだ。
やがて給仕たちがごちそうを運んできた。食べ物の匂いにガリオンはつばがわいてきて、さっきもうちょっとたくさん食べておけばよかったと思った。
「出発の前に王の料理長と話をしなくちゃ」ポルガラが言った。「このスープは絶品だわ」
サディがこずるそうにくすくす笑った。
「なにをおもしろがってるの、サディ?」
「見ててください、ポルガラ。わけを話したら、おもしろくなくなってしまう」
突然テーブルの上座で騒ぎが起きた。ナラダスが立ちあがりかけて、両手でのどをかきむしった。目が飛びだし、苦しそうな声をあげている。
「のどをつまらせたぞ!」王が叫んだ。「だれか助けてやれ!」
上座に近い数人の貴族がはじかれたように立ちあがって、グロリムの背中をたたきはじめた。だが、ナラダスはもがきつづけた。舌が飛びだし、顔が青ざめてきた。
「助けるのだ!」王は絶叫せんばかりに言った。
だがナラダスは助からなかった。かれはのけぞり、身体をこわばらせて、床にひっくりかえった。
宴会場から悲痛な叫びがあがった。
「どうやってやったの?」ヴェルヴェットがサディにささやいた。「誓ってもいいけど、あなたはナラダスの食べ物のそばには行かなかったでしょう」
サディは悪意に満ちた笑みを浮かべた。「やつの食べ物に近寄る必要はなかったんですよ、リセル。昨夜、ナラダスがいつもどこにすわるか注意して見ておいたんです。やつはいつも王の右にすわるときまっている。そこで一時間ばかり前にこっそりここへ忍びこみ、やつのスプーンに人間ののどを腫れあがらせて呼吸困難を招くあるものをちょっぴり塗りつけたんです」サディはいったん口をつぐんでから、つけくわえた。「ナラダスがスープを楽しんだのだといいんですがね。わたしは十二分に楽しみましたよ」
「リセル」シルクが言った。「ボクトールへもどったら、おじさんとおしゃべりしたらどうだ? サディは目下失職中だし、ジャヴェリンは才能ある人間を雇えるかもしれないぞ」
「ボクトールは雪が降っていますよ、ケルダー」サディはいやそうだった。「わたしは雪がそう好きじゃないんです」
「かならずしもボクトールに配置されるわけじゃないさ、サディ。トル・ホネスなんかどうだ? もっとも、頭に毛を生やさなけりゃならないだろうな」
ザカーズが身をのりだして、笑いながら宦官をほめた。「みごとだ、サディ。文句なしだな。ナラダスはラク・ハッガでわたしに毒を盛ったが、あんたがここでやつに毒を盛りかえしてくれた。なあ、マル・ゼスでわたしのために働いてくれるなら、ジャヴェリンの二倍の額を出すぞ」
「ザカーズ!」シルクが叫んだ。
「世界中から雇用のチャンスが殺到してきたようですな」サディがすまして言った。
「優秀な人材はなかなか見つからないものだよ、友だち」ザカーズが言った。
王は顔面蒼白になってふるえながら、家来に付き添われて宴会場から出ていった。テーブルのそばを通りすぎるとき、ガリオンは王のすすり泣きを聞いた。
ベルガラスが声をひそめて毒づきはじめた。
「どうしたのよ、おとうさん?」ポルガラがたずねた。
「あのバカはこの先何週間も嘆き悲しむぞ。これでは、いつまでたっても地図を手に入れることができんじゃないか」
[#改ページ]
16[#「16」は縦中横]
部屋にもどったとき、ベルガラスはまだ悪態をついていた。「自分のまぬけさ加減に腹がたつわい。ナラダスを殺す前に、やつの正体をあばいておくべきだったのだ。いまさら王にやつは悪者だったのだと言ってみたところで聞きいれまい」
シラディスはテーブルについて質素な食事をしていた。トスがかばうようにそばに立っている。「なにをしたのじゃ、長老どの?」彼女はたずねた。
「ナラダスはあの世へ行った」ベルガラスは答えた。「そしていま王はやつの死を嘆き悲しんでいる。王が落ちつきを取りもどして、わしに例の地図を見せるまでには何週間もかかりそうなのだ」
シラディスの顔から表情が消え、ガリオンはあの奇妙な集団霊のつぶやきを聞いたような気がした。「このことについて、そなたを助ける許可が出た、長老どの」シラディスは言った。「〈闇の子〉はわれらが務めを割り当てたとき、われらが課した掟《おきて》にそむいた。みずからここへおもむき、地図を捜すことをせずに、手下を送りこんだ。したがって、わたしに与えられている拘束がゆるめられたのじゃ」
彼女は椅子に背をもたせかけると、短くトスに話しかけた。かれはうなずいて、静かに部屋を出ていった。「われらを助けてくれる者を呼びにやったのじゃ」シラディスは説明した。
「なにをするつもりなんだ?」シルクがたずねた。
「あらかじめそなたに話すのは賢明ではないかもしれぬ、ケルダー王子。しかし、ナラダスの死体のある場所を発見してくれるか?」
「それならできるはずだ」シルクは答えた。「ちょっと聞いてくる」かれは部屋を出ていった。
「ケルダー王子がナラダスの死体のありかをつきとめてもどってきたら、そなた、リヴァの王と、そなた、マロリー皇帝は王のもとへ行き、有無を言わせぬ強い口調で真夜中にその場所へ同行することを王に求めるのじゃ。なぜなら、ある真実がそこで王にあかされ、王の苦悩を軽くするからじゃ」
「シラディスよ」ベルディンがためいきをついた。「なんでおまえさんはいつもものごとをややこしくするんだ?」
シラディスはほとんどはにかんだように微笑した。「それがわたしの数すくない楽しみのひとつなのじゃ、やさしいベルディン。あいまいに話せば、人はわたしの言葉をより注意深く吟味する。言われたことがわかりかけてきた人々を見ていると、満足の念がわいてくる」
「それが猛烈に人をいらだたせる事実にも、満足するんだろうな?」
「それも喜びのひとつかもしれぬ」シラディスはいたずらっぽく同意した。
「おい、彼女もけっきょくのところ人間らしいぜ」ベルディンはベルガラスに言った。
シルクがもどってきたのはそれから十分ばかりたったときだった。「見つけたぞ」しめしめと言わんばかりの口調だった。「宮殿一階にチャムダー礼拝堂というのがあって、そこに安置されてる。のぞいてきたんだ。ナラダスのやつ、目をつぶっているときのほうが何百倍も魅力的だぜ。葬式は明日の予定だ。いまは夏だし、もちが悪いからな」
「いまは何時ごろだろう、善人?」シラディスがダーニクにたずねた。
鍛冶屋は窓に近づいて星を見あげた。「真夜中まであと一時間というところだろう」
「では、いまから行くがよい、ベルガリオンとザカーズ。ありったけの努力をして、説得するのじゃ。王が真夜中に礼拝堂にいることが絶対に欠かせない条件なのじゃ」
「われわれが王を連れていくよ、聖なる女予言者」ザカーズが約束した。
「ひきずってでもね」ガリオンがつけくわえた。
「彼女がなにを考えているのかわかればな」外の廊下を歩きながら、ザカーズはガリオンに言った。「理由を教えてやれれば、王を説得するのも少しは楽なはずだ」
「かえって疑念を抱くかもしれないぞ」ガリオンは賛成しなかった。「たぶんシラディスは突拍子もないことを計画しているんだ。そういうことは人によっては受け入れがたいものなんだよ」
「ああ、それもそうだな」ザカーズはにやりとした。
「陛下はおひとりでいたがっておられます」王の部屋のドアを見張る護衛のひとりが、入室を求めたガリオンたちに言った。
「きわめて緊急の用件であると伝えてもらいたいのだ」ガリオンは言った。
「お伝えはしますが、騎士どの」護衛は疑わしげだった。「陛下はご友人の死にすっかり動転しておられるのです」
護衛は二、三分してもどってきた。「お会いになることに同意なさいました。しかし、どうか手みじかに願います、騎士どの。陛下は大変お苦しみなのです」
「もちろんだ」ガリオンはつぶやいた。
王の私室は装飾過剰だった。王自身は身体が埋もれそうなふかふかのクッションつきの椅子にすわって、一本だけともした蝋燭のあかりで薄い本を読んでいた。ゆがんだ顔が、泣きつづけていたことを示すように腫れている。ガリオンたちが王の前に出ると、王は本を持ちあげて言った。「心を慰める書物だ。しかしながら、余にはあまり役に立たぬ。どういう用件か、騎士たちよ?」
「われらの慰めを陛下に差しあげたく参りました」ガリオンは慎重にきりだした。「はじめの苦悩はつねにもっとも鋭いものでございます。時の流れが陛下の苦痛を和らげてくれましょう」
「だが完全に消し去ることはできぬ、騎士よ」
「仰せのとおりでございます、陛下。かような状況を考えますと、われらが陛下にお願いにあがったことはいささか残酷にすぎるかもしれません。ですが、これほど緊急を要するものでなければ、陛下のお邪魔をしようとはいたしませんでした」
「つづけよ、騎士」王の目にかすかな好奇心があらわれた。
「まさしく今夜、ある真実があかされるのです、陛下」ガリオンは話しつづけた。「そしてそれらの真実は、陛下の亡くなったご友人の前でのみあかされることになっています」
「考えられぬことじゃ、騎士よ」王は固い表情で言った。
「われらはそれらの真実をあかすであろう者より、それが陛下の悲嘆をある程度やわらげることをしかと聞いてまいりました。エレゼルは陛下のもっとも親愛なる友人だったのですから、陛下がむやみに苦しまれていると知れば、さぞ無念でありましょう」
「いかにも」王は同意した。「エレゼルは心の広い男だった」
「お察しします」とガリオン。
「陛下がエレゼル閣下の安置されている礼拝堂へ行かれるには、もうひとつ、より個人的理由があろうかと思います、陛下」ザカーズがつけくわえた。「葬儀は明日と聞いております。儀式には陛下の宮廷中の者が参列するでありましょう。陛下がおひとりでエレゼルを訪れ、かれの懐かしい面影をご記憶に刻みつけることができるのは、今宵かぎりでございましょう。わが友とわたしが礼拝堂のドアを見張っておりますれば、陛下は心おきなくエレゼルの魂とお話しになれるのです」
王は考えこんだ。「そなたの言うとおりかもしれぬな、騎士よ。心がはりさける思いだが、最後にエレゼルの顔を見ることにいたそう。よかろう、では礼拝堂へ参ろう」王は立ちあがると、かれらをともなって部屋を出た。
アレンドの神をまつったチャムダー礼拝堂は、死体を安置した棺台の頭に一本だけともされた蝋燭によってぼんやりと照らされていた。金色の布に動かぬ身体を胸までおおわれたナラダスは、穏やかな、清らかといってもいい顔をしていた。だが、ナラダスがグロリムの経歴を隠していたのを知っているガリオンが見ると、その穏やかさは見かけだけの嘘っぱちだった。
「われらは礼拝堂のドアを見張りましょう」ザカーズが言った。「陛下はご友人とおふたりで別れを惜しんでください」かれとガリオンは廊下に出て、ドアをしめた。
「ずいぶんよどみなかったじゃないか」ガリオンは友だちに言った。
「きみも悪くなかった。よどみがあろうとなかろうと、ともかく王をここへ連れこんだな」
かれらはドアの前でシラディスと他の仲間を待った。十五分ほどしたとき、かれらが到着した。
「王は中か?」ベルガラスがガリオンにたずねた。
「ああ。ちょっと話をはしょらなくちゃならなかったが、やっと同意したんだ」
シラディスの隣りに、黒装束に黒頭巾の人物が立っていた。どうやら女らしい。ダル人と見てまちがいなさそうだが、ガリオンはその種族が白以外の色を着ているのをはじめて見た。「これがわれらを手伝ってくれる者じゃ」女予言者が言った。「真夜中が近い、王のもとへ参ろう」
ガリオンはドアをあけ、かれらは一列になって中へはいった。
王がおどろいたように顔をあげた。
「狼狽することはない、ペリヴォーの王よ」シラディスが言った。「そなたの勝者たちがそなたに申したように、われらはそなたに真実をあかすために参ったのじゃ。そなたの悲しみを弱めるであろう真実をな」
「ありがたいことだが、ご婦人」王は答えた。「まず不可能だ。余の悲しみは薄れも、消えもせぬ。ここに余のもっとも親愛なる友が横たわり、余の心はこの冷たい棺台に友とともに横たわっているのだ」
「そなたが親から受け継いだ性質は一部はダル人のものじゃ、陛下。したがって、そなたはわれらの多くがある資質に恵まれているのに気づいておられよう。そなたがエレゼルと呼んでいた者は、生前そなたに隠していたことがある。わたしはエレゼルの魂が闇に沈む前に、かれに質問をする者を呼びよせたのじゃ」
「降霊術者のことか? まことか? そのような者がいることを噂には聞いていたが、その技をこの目で見たことはない」
「そのような資質に恵まれた者が、霊のあらわすことを誤って話すことがありえないのはご存じであろう?」
「そう聞いている、たしかに」
「それが真実であることはわたしが保証する。ではこのエレゼルの意識を探り、かれがわれらにあかす真実がいかなるものであるか見てみようではないか」
黒いローブに頭巾をかぶった降霊術者が棺台に歩み寄り、青白いほっそりした両手をナラダスの胸に置いた。
シラディスが質問をしはじめた。「そなたは何者か?」
「おれの名前はナラダスだった」黒ずくめの降霊術者がうつろなどもりがちの声で答えた。「ダーシヴァのヘミルにあるトラク神殿の高僧グロリムだった」
王が驚愕のおももちで、シラディスを凝視し、つぎにナラダスの死体に目をこらした。
「そなたはだれに仕えていた?」シラディスがたずねた。
「グロリムの尼僧ザンドラマス、またの名を〈闇の子〉に」
「なぜこの王国へきた?」
「おれの女主人がある地図のありかをつきとめ、〈光の子〉が〈もはや存在しない場所〉へ行くのを妨害するために、おれを送りこんだのだ」
「それらの目的を達成するため、どのような手段を使ったのか?」
「この島の王をさがしだした。のうたりんのバカ者で、そいつをいいくるめたんだ。やつはおれが捜していた地図をおれに見せた。地図によってわかった驚くべき事実は、おれの密使によって女主人のもとへ早速伝えられた。いまごろは、最後の対決が行なわれる場が正確に伝わっているだろう。おれはまぬけな王にとりいって、〈光の子〉とその仲間の進行を遅らせるために、さまざまな行動を起こした。やつらが遅れれば、おれの女主人がさきに〈もはや存在しない場所〉へたどりつくことができ、女主人が信用していないある女予言者の手に対決の結果をゆだねなくてもすむからだ」
「そなたの女主人は自分に課せられたこの務めをどうしてみずから果たさなかったのか?」シラディスの声はきびしかった。
「ザンドラマスには他の関心事があったんだ。おれはザンドラマスの右腕で、おれのしたことはすべてザンドラマスが自分でしたことも同じだったのさ」
「魂が手の届かぬところへ沈みはじめています、聖なる女予言者」降霊術者が普通の声にもどって言った。「もうじきこれ以上返事を得るのは困難になりますから、急いで質問してください」
「命じられた最後の予言の答えをみずから捜そうともしなかったとは、そなたの女主人にいかなる関心事があったというのか?」
「クトル・マーゴスのアガチャクというグロリムの高僧が、おれの女主人にとってかわろうと、〈もはや存在しない場所〉を捜してマロリーへきていたんだ。ザンドラマスに挑む力を持つグロリムとしては、このアガチャクが最後のひとりだった。ザンドラマスはフィンダの荒れ野のそばでアガチャクに会い、そこでやつを殺した」うつろな声がとぎれ、やがてすがりつくような泣き声が聞こえた。「ザンドラマス!」声が叫んだ。「おれは死なないと言ったじゃないか! 約束したじゃないか、ザンドラマス!」最後の言葉は想像を絶する奈落の底へ吸いこまれていくかに思えた。
黒頭巾の降霊術者の頭ががっくりと前に垂れ、彼女は激しくふるえだした。「魂は行ってしまいました、聖なる女予言者」疲れきった声で言った。「真夜中が過ぎ、かれはもはや手の届かぬところへ行ってしまったのです」
「ごくろうだった」シラディスはぽつりと言った。
「ささやかながら、あなたとあなたのおそれおおいお務めのお手伝いができたことを祈ります、聖なる女予言者。もうさがってよろしいでしょうか? この病んだ魂との交信で、心身ともに疲れはててしまいました」
シラディスが短くうなずくと、降霊術者は静かに礼拝堂から立ち去った。
ペリヴォーの王は血の気のひいた顔を毅然とあげて、棺台のほうへ歩いていった。そしてナラダスの胸までかけられた金色の布をはぎとり、床に投げ捨てた。「ボロでもかけておけばよい」食いしばった歯のすきまから王は吐き捨てるように言った。「このひとでなしのグロリムの顔はもう見たくもない」
「なにか見つけてまいりましょう、陛下」ダーニクが同情のこもった声で言い、廊下へ出ていった。
残りの面々は黙って王のわきに立っていた。オルドリン王は棺台に背中を向けて、歯がみしながら礼拝堂奥の壁をにらみつけた。
まもなく鍛冶屋が汚れてカビの生えた、ごわごわの破けた麻布を持ってもどってきた。「廊下のすぐ先に倉庫がありました、陛下。これは鼠穴につめてあったものです。いかがでしょうか?」
「申し分ない、友よ。どうかそれをあの死肉の顔の上に投げてくれぬか。ここでそなたたち全員に宣言いたそう、この悪党の葬儀はなしといたす。どこかの溝と、鍬に数杯の土がこやつの墓となるであろう」
「鍬数杯では足りません、陛下」ダーニクは抜け目なく言った。「こやつはすでに陛下の王国を思う存分けがしたのです。これ以上けがされてはなりません。わたしが陛下のために始末いたしましょう」
「気に入ったぞ」王は言った。「そのグロリムを埋めるときは顔を下にして埋めるように」
「仰せのとおりに、陛下」ダーニクは約束して、トスにあごをしゃくった。ふたりはナラダスの死体の肩をつかんで乱暴に棺台から持ちあげると、礼拝堂の外へひきずっていった。サンダルばきの死体の足が床にあたって、無作法にはねた。
シルクはザカーズに接近し、声をひそめて言った。「これでアガチャクが死んだのがわかったな。ウルギットが聞けば喜ぶだろう。使者を送って、ウルギットにこのことを教えてくれないか?」
「きみの弟とわたしのあいだの緊張はそれほどとけてはいないよ、ケルダー」
「そなたたちはいったい何者なのじゃ?」王が問いつめた。「このそなたたちの探索とやらは、単なるごまかしだったのか?」
「われらの身をあかすときがきた」シラディスが重々しく言った。「素性を隠す必要はもはやない。なぜなら、この場所ヘザンドラマスが送りこんだ他の密偵たちは、ナラダスの知識なくしては、またナラダスの手助けなくしては、ザンドラマスと連絡ができぬからじゃ」
「まったくザンドラマスらしいよ」シルクが言った。「自分のことさえ信じないんだ」
ガリオンとザカーズはほっとしながら面頬をあげた。「あなたの王国は孤立している、陛下」ガリオンは普通の言葉使いにもどって言った。「外の世界について、どの程度知っておいでですか?」
「ときどき船乗りたちがこの港にやってくるのだ」王は答えた。「そういう者たちがいろいろなことを知らせてくれる」
「その昔この世界を形作った出来事についてはいかがです?」
「われらの祖先たちは多くの書物を持ってきた、騎士よ。航海は長く退屈であるからな。それらの書物の中には歴史書もあり、余はそれを読んだことがある」
「なるほど。でしたら、説明が多少は簡単になるはずです。わたしはリヴァのベルガリオン王です」
王の目がまん丸になった。「〈神をほふる者〉か?」畏怖に満ちた声でたずねた。
「お聞きになったことがあるとみえる」ガリオンは皮肉っぽく言った。
「世界中が知っておることだ。御身はほんとうにアンガラクの神を殺したのか?」
「そのようですね。ここにいるわたしの友だちはマロリー皇帝カル・ザカーズです」
王はふるえはじめた。「いったいいかような大事が、不倶戴天の敵同士であった御身らを結びつけたのか?」
「そのうちお話ししましょう、陛下。ナラダスを埋めにいっている心強い人物は、ダーニク、アルダー神の一番新しい弟子です。そこにいる背の低いのはベルディン、やはり弟子で、もみあげのあるのは魔術師ベルガラス」
「〈永遠なる者〉かね?」王は息が詰まりそうな声をだした。
「そう大仰に紹介しなくてもいいじゃないか、ガリオン」ベルガラスが傷つけられた口調で言った。「ああいう言いかたは人を動転させるぞ」
「時間の節約になるんだよ、おじいさん」ガリオンは答えた。「一房の白髪がある長身の女性はベルガラスの娘の女魔術師ポルガラです。赤毛の小柄な女性はわたしの妻、セ・ネドラ。金髪の娘はドラスニアのリセル辺境伯令嬢で、ドラスニア諜報部長の姪、ナラダスの正体をあばいてみせた目隠しの女性はケルの女予言者ですよ。ダーニクを手伝って出ていった大男は、女予言者の案内人のトス、そしてこれはドラスニアのケルダー王子」
「世界一金持ちの男の?」
「その評判はちょっとおおげさですよ、陛下」シルクが謙虚に言った。「もっとも、そうなりたいと努力はしていますがね」
「金髪の若者はエリオンドといって、大変親しい友だちです」
「かようにやんごとなき方々を目の前にしているとは、まことにおそれ多いかぎりだ。御身らのだれが〈光の子〉なのか?」
「その荷はわたしが負っているのです、陛下」ガリオンは言った。「さて、これは主としてアローンの歴史であり予言なのですが、過去においてときどき〈光の子〉と〈闇の子〉のあいだに対決があったことはご存じでしょう。われわれはこれからその最後の対決に向かうところなのです。その対決が世界の運命を決定するのです。目下のわれわれの問題は、それが起きる予定の場所をつきとめることです」
「では、御身の探索とは余が想像していた以上に恐るべきものなのだな、ベルガリオン王。余にできることならどんな援助もいたそう。極悪なグロリムのナラダスに丸めこまれて、余は御身らの邪魔をしてしまった。その過ちを少しでも償うことができるなら、いかなる助けも惜しまない。余の船団を送りだし、御身のために対決の場所を捜しださせよう。エバルの海岸からコリムの珊瑚礁にいたるまで、徹底的に捜索させるつもりだ」
「どこの珊瑚礁だと?」ベルガラスが叫んだ。
「コリムだ、ベルガラスどの。この島の北西にある。御身が求めていたあの地図に、その場所がはっきりと記されている。余の部屋へ参られるがいい、お見せいたそう」
「やっとたどりついたようだな、ベルガラス」ベルディンが言った。「あの地図を一目見りゃ、おまえさんはうちに帰れるぜ」
「なんのことだ?」
「それがおまえさんの務めの終わりってことよ。だが、おまえさんの努力には感謝する」
「わしがその先も同行したって、かまわんだろうが?」
「そりゃもちろんおまえさんしだいだが、おまえさんがおろそかにしていた大事なことからおまえさんを引き離すのは心苦しいからな」ベルディンのにやにや笑いが意地悪そうに広がった。ベルガラスをちくちくいたぶるのは、ベルディン気に入りの娯楽のひとつだった。
こうしてかれらが礼拝堂の入口へ向かったとき、ガリオンは雌狼が戸口にすわっているのに気づいた。彼女は金色の目を熱っぽく光らせて、狼風に舌をたらして微笑した。
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17[#「17」は縦中横]
かれらは王のあとについて、ぼんやりと照らされた人気のないペリヴォー宮殿の真夜中の廊下を歩いていった。緊迫した興奮がガリオンの胸にふつふつとわいてきた。ぼくたちの勝ちだ。どんなにザンドラマスが邪魔をしようと、やはりぼくたちが勝つのだ。謎の答えは目と鼻の先にあり、ひとたびその答えがわかれば対決が行なわれる。地上のどんな力もそれを妨げることはもうできない。
(やめんか)心の中の声が言った。(いまは浮かれてよいときではない――冷静さが必要なときなのだ。ファルドー農園のことを考えろ。いつもそれがおまえを落ちつかせてくれるようだからな)
(いったい、いままで――)ガリオンは言いかけてやめた。
(いままでなんだって?)
(なんでもありません。質問はつねにあなたをいらだたせますからね)
(おどろいたな。おまえがわたしの言ったことをちゃんとおぼえているとは。ファルドー農園だぞ、ガリオン。ファルドー農園だ)
ガリオンは言われたとおりにした。長年の間に薄れてしまったとばかり思っていた記憶が、にわかに鮮明によみがえってきた。農園のたたずまい、小屋や納屋や台所が、鍛冶場が、一階の食堂が、寝所の並ぶ二階の廊下――その全部があの中庭を囲んでいる――が見えた。鍛冶場からダーニクのハンマーがたてる鋼のひびきが聞こえ、ポルおばさんの台所から漂ってくる焼きたてパンの温かい匂いが鼻孔をうった。ファルドーやクラルト老人、ブリルの顔までが見えた。ドルーンとランドリグ、そして最後にズブレット――金髪のずるくてかわいいズブレット――が見えた。身体をすっぽりと包みこむような穏やかさがガリオンの気を静めた。それはかなり以前に〈永遠の夜の都市〉で片目の神の墓の前にたたずんだときにかれをのみこんだあの穏やかさと似ていた。
(そのほうがいい)声が言った。(それにしがみついているのだ。これからの数日、おまえははっきりした頭でものごとを考えなくてはならなくなる。たえずそわそわしているようではそれができん。すべてが終わったあとで好きにするがいい)
(ぼくがまだ生きていれば、ね)
(期待はできるぞ)それだけ言って声は消えた。
王の部屋のドアを見張っていた護衛がかれらを中へ通すと、王はまっすぐに戸棚のところへ歩いていき、鍵をあけて、一巻きのひびわれた古い羊皮紙をとりだした。「ひどく文字が薄れておるのだ、あいにくと」王は言った。「光から守ろうとはしたのだが、なにぶんにも相当古いものなのでな」王はテーブルに近づくと注意深く地図をひろげて、隅に重石がわりの本をのせた。またもやガリオンは激しい興奮をおぼえ、あわててファルドー農園の記憶を手探りした。
ペリヴォーの王は人差し指で地図を示した。「ここがペリヴォーだ。そしてここがコリムの珊瑚礁」
その宿命の場所を長く見つめすぎると、くるおしい興奮と勝利感がふたたび頭をもたげるのがわかっていたので、ガリオンはただちらりとそこを見るだけにして、地図の残りの部分に目をさまよわせた。記されている字のつづりが妙に古めかしい。かれの目は自動的に自分の王国を捜していた。それはライヴァ≠ニつづられていた。アラインディア≠竍ケレク=Aトル・ナイドラ=Aドラスナイア≠竍クトール・マーゴース≠烽った。
「つづりがまちがっているな」ザカーズが言った。「正しい名前はトゥリム珊瑚礁《リーフ》だ」
ベルディンが説明をはじめたが、ガリオンはすでに答えを知っていた。「ものごとは変化するんだ」とベルディンは言った。「おれたちの言葉の発音のしかたもしかり。言葉のひびきは何世紀ものあいだに変化する。あの珊瑚礁の名前も、たぶんこの数百年間で何度か変わっただろう。よくある現象さ。たとえば、もしベルガラスが育った村の住民がしゃべっていたような言葉でしゃべったとしたら、おれたちのだれも理解できんだろう。この珊瑚礁はしばらくのあいだトリムとかなんとか呼ばれていて、最後にトゥリムに落ちついたんだろうと思うね。また何度か変わるかもしれん。おれはその種のことを研究したんだ。いいか、どういうことかっていうとな――」
「いつまでしゃべってるつもりだ?」ベルガラスがいらいらと問いつめた。
「教養を深めることにおまえは興味がないのか?」
「いまはないね」
ベルディンはためいきをついた。「とにかくな、おれたちが文字と称してるものは、言葉のひびきを再現するひとつの方法にすぎんのだ。ひびきが変われば、つづりだって変わる。ちがいは簡単に説明のつく問題なんだ」
「そなたの説明は説得力がある、やさしいベルディン」シラディスが口をはさんだ。「だが、特にこの場合、ひびきの変化はわざと行なわれたのじゃ」
「わざと?」シルクが言った。「だ、だれによって?」
「ふたつの予言によってじゃ、ケルダー王子。ゲームをさらに複雑にするため、それらはベルガラスどのとザンドラマスからその場所を隠すため、言葉のひびきを変えたのじゃ。このふたりが、最後の対決が起きる前にその謎を解決することを要求されたのじゃ」
「ゲームだって?」シルクは信じられないように聞きかえした。「こんな重要なことをめぐって、その予言とやらはゲームをしていたのか?」
「これらふたつの永遠の意識は、われらとはちがう、ケルダー王子。それらは無数の方法で互いに争っている。しばしばひとつが星の針路を変えようとすると、もうひとつはそれを変えまいとする。また他のときには、ひとつが一粒の砂を動かそうとし、もうひとつが全力を注いで砂粒を動かすまいとする。そのような争いが気も遠くなる昔からつづいている。そのふたつの意識がベルガラスとザンドラマスを相手に仕掛けた謎ときゲームは、それらが論争を形式化するために使った手段のひとつにすぎぬ。なぜなら、それらが直接たがいに対立するようなことがあれば、宇宙はふたつに分裂するからじゃ」
ガリオンは突然、マーゴのナチャクの正体をコロダリン王に暴露する直前に、ボー・ミンブルの謁見の問で頭に浮かんだイメージを思いだした。あのとき、かれはふたりの顔のない勝負師がゲームの席についているのを見たような気がした。かれの意識ではとてもわからないほど、動きの複雑なゲームだった。いま、ガリオンは絶対の確信を持って、シラディスがいましがた説明した崇高な実在を垣間《かいま》見たことに気づいた。(わざとやったのですか?)ガリオンは意識の中の声にたずねた。
(あたりまえだろう。おまえに必要なことをさせるには、いささかばかりの後押しがないといかん。おまえは競争心のある若者だからな、偉大なゲームのイメージがおまえを動かすかもしれんと考えたのだ)
そのときガリオンはふとあることを思いついた。「シラディス、ぼくたちはこんなに大勢なのに、どうしてザンドラマスはまったくのひとりなんだ?」
「ずっとこういう状態だったのじゃ、ベルガリオン。〈闇の子〉は孤立している、ちょうどトラクがかれだけの自尊心に浸っていたように。だが、そなたはつつましい。これまででしゃばろうとしたことはただの一度もなかった。なぜなら、みずからの価値に無頓着だからじゃ。みずからの重要性をひけらかさない、これがそなたのよいところじゃ、〈光の子〉よ。〈闇の予言〉はこれまでもただひとりの者を選び、その者に予言の力のすべてを注ぎこんだ。しかし〈光の予言〉はその力があまたの者のあいだに分散するほうを選んだのじゃ。その重荷の大部分を背負っているのはそなただが、そなたの仲間もみな重荷を分かちあっている。ふたつの予言の相違は単純ながら、意義深いものなのじゃ」
ベルディンはけげんそうだった。「すると、絶対主義と分担化された責任感のちがいみたいなものだってことか?」
「おおかたそのようなものじゃ。しかし、この相違のほうがより複雑といえよう」
「おれは簡素化しようとしてただけだ」
「すると、それが第一歩だな」ベルガラスはそう言ったあと、ペリヴォーの王を見た。「この珊瑚礁をわしらに説明してもらえるかね、陛下? 地図の上で示されただけでは、正確とは言いがたい」
「喜んで、ベルガラスどの。若い頃、余はそちらのほうへ船を向かわせたものだ。それだけすばらしい珊瑚礁なのだよ。船乗りたちも、あれだけの珊瑚礁は世界広しといえども他にはないと断言しておる。一連なりのごつごつと尖った珊瑚が海から隆起してできておるのだ。尖った珊瑚そのものはただちに目にはいるため、避けるのはわけもない。しかしながら、他の危険が海面下にひそんでおる。珊瑚礁のすきまを獰猛な潮流が渦巻いており、さらにそのあたり一帯は天候が定まらぬのだ。かかる危険ゆえに、この珊瑚礁は詳しい地図にされたことがない。分別のある船乗りたちはことごとくそれを避けておるし、その危険な障害物にはけっして近づかぬのじゃ」
ダーニクとトスがはいってきた。「始末しました、陛下」ダーニクが報告した。「ナラダスはもうちゃんと地中に埋まっていますよ。もう二度と陛下を――われわれをも――悩ませることはありません。埋めた場所をお知りになりたかったですか?」
「いや、友よ。今夜はそなたとそなたの大きな連れに大変世話になった。この返礼がわしにできるようなら、なんでもいたすぞ、遠慮せずに申しでるように」
「シラディス」ベルガラスが言った。「これが謎の最後の部分か? それともまだなにかごちゃごちゃと残っているのか?」
「いや、長老どの。謎解きゲームは終わりじゃ。これからは行動のゲームがはじまる」
「ついにか」ベルガラスはなにがなしほっとしたようだった。かれはベルディンと地図調べに取りかかった。
「見つかったのか?」ダーニクがシルクに聞いた。「つまり、コリムの場所が地図に出ているのかね?」
シルクはダーニクをテーブルまで連れていった。「ここさ」と指さしながら言った。「これはすごく古い地図でな。いまの地図にあるコリムという名前はつづりがちがっているのさ。だからおれたちはここまでこなくちゃならなかったんだ」
「一枚の羊皮紙を求めてわれわれはずいぶんあっちへ行ったりこっちへ行ったりしたわけだ」鍛冶屋はひとりごちた。
「まったくだよ。シラディスによれば、それはみんなこのガリオンの頭の中の友人と、もうひとりのやつ――たぶんザンドラマスの頭の中の――によって仕組まれたゲームの一部だったんだ」
「ゲームは大嫌いだ」
「おれはそうでもない」
「ドラスニア人だからな」
「まあ、そうだな」
「コリム山脈のある場所はだいたいここらへんだろうな、ベルガラス」ベルディンが指で距離を計りながら言った。「トラクが世界にひびを入れたときに、ちょいと移動しちまったかもしれん」
「あの日はずいぶんたくさんのものが動かされてしまった」
「まったくな」ベルディンが熱っぽくうなずいた。「おれは立ちあがるのに苦労したよ。体型がおまえより地べたに近いからな」
「わかりきったことを言わんでもいい。陛下」と老人は王に声をかけた。「珊瑚礁について、もう少し明確な説明はできないかね? 波にもまれる船から、尖った先端におりるのはむずかしいし、危険だろう」
「余の記憶に誤りがなければ、たしか岩だらけの浜があった。尖った岩の側面が波で削りとられ、荒海にもまれてこなごなになってできた浜であろうな。潮がひくと、長年のあいだに集まったこの粗石が海面の上に隆起し、岩の先端から先端へと自由に動きまわる足場になってくれる」
「モリンド国からマロリーまでの陸橋みたいなもんだな」シルクが思いだすのも苦々しげに言った。「あれはあまり愉快な旅じゃなかった」
「なにかの陸標でもあるのか?」ベルガラスはさらにたずねた。「かなり大きな珊瑚礁だ。わしらが行き着かねばならん正確な場所を見つけるには、相当歩くことになる」
王は慎重に言った。「余の嘘いつわりのない知識から申して、絶対に確かであるかどうかはさだかではないが、ある船乗りたちは一番高い先端の北側に洞穴のようなものがあると言っておった。あるとき、冒険心のある連中がその洞穴の深さを探検しようと浜に上陸した。というのも、知ってのとおり、人の近寄らぬ洞穴というのはしばしば海賊どもの略奪品の隠し場所であるからだ。しかしいかに勇猛果敢に挑戦したところで、その先端にはたどりつけなかった。この勇気ある連中がそこに上陸しようとすると、そのたびに海が荒れくるい、雲ひとつない空からにわかに豪雨がふりそそいだからじゃ」
「それだ、ベルガラス」ベルディンは勝ち誇ったような高笑いをした。「くだらない探究心に駆られた連中を、なにかがその洞穴に近づけまいとしてきたんだ」
「ふたつのなにかが、だな」ベルガラスがうなずいた。「だが、おまえの言うとおりだ。わしらはついに対決の正確な場所をつきとめたのだ。その洞穴の中だ」
シルクがうめいた。
「気分でも悪いのか、ケルダー王子?」王がたずねた。
「まだですがね、陛下。もうじき悪くなりそうです」
「ケルダー王子は洞穴が苦手なんですの、陛下」ヴェルヴェットがにっこりしながら説明した。
「そんなたいそうなことじゃないんだ、リセル」ネズミ顔の小男は反論した。「ほんとうはもっとずっと簡単なことなのさ。洞穴を見るたびに、おれは絶体絶命の恐怖に駆られるんだ」
「そういう病いについて聞いたことがあるぞ」王は言った。「不思議な病いだが、いったい原因はいかなるものなのであろうな」
「おれの恐怖の原因は不思議でもなんでもありませんよ、陛下」シルクはあっさりと言った。「その原因なら正確にわかっているんです」
すると王は言った。「その危険な珊瑚礁へ行かれるつもりなら、ベルガラスどの、余は御身と御身の仲間をそこまで運ぶ頑丈な船を用意いたそう。朝方には出帆の用意をさせる」
「ありがたい」
「今夜御身らがしてくれたことを思えば、なんでもない」王は言葉を切って、考えこむ顔つきになった。「ひとでなしのナラダスの魂が言ったように、余はつまらぬばかものかもしれんが、感謝の気持ちに鈍感なわけではない。御身らにはしなければならぬ用意があろう。もう御身らの出発を遅らせはしない。出発前に、もう一度お目にかかろう」
「感謝します、陛下」ガリオンは言った。一礼したとき、鎧がきしんだ。かれはみんなを引き連れて部屋を出た。ドアのすぐ外に雌狼がすわっているのを見ても、ガリオンはちっともおどろかなかった。
「時はぴたりと一致しているわね、シラディス」いったん全員が廊下に出たとき、ポルガラが女予言者に言った。「アシャバで、あなたは対決まであと九ヵ月あると言ったわ。わたしの計算では、あさってがちょうど九ヵ月めなのよ」
「そなたの計算は正しい、ポルガラ」
「じゃ、あっているのね。わたしたちが珊瑚礁にたどりつくまでには丸一日かかり、わたしたちは翌朝洞穴にはいるんだわ」ポルガラはちょっと皮肉っぽくほほえんだ。「これまでずっとわたしたちは遅刻するんじゃないかと気をもんでいたけれど、ちゃんときっかりに到着できるのね」と笑った。「杞憂だったわ」
「さてと、これで場所と時はわかったわけだ」ダーニクが言った。「残るは、その場所へ行ってうまくやってのけるということだな」
「そういうことになるね」シルクが同意した。
エリオンドがためいきをついた。ガリオンはぞっとするような、それとない疑惑をおぼえた。(かれなんですか?)ガリオンは乾いた声にたずねた。(死ぬのはエリオンドなんですか?) だが声は答えようとしなかった。
一同は雌狼を従えて部屋にはいった。
「ここにくるまでずいぶんかかったものだな」ベルガラスがうんざりした声で言った。「この延々とつづく旅でいささかわしもくたびれてきた」
「くたびれてきただと?」ベルディンがフンと鼻を鳴らした。「おまえさんは生まれつきくたびれてるんだよ。だが、まだこれで終わりじゃないんだぜ」
「わしらが家に帰ったら、わしは一世紀ばかり塔に閉じこもるからな」
「そいつはいいや。あの塔をすっかりきれいにするにはそのくらいかかるはずだからな――そうそう、もうひとつあるぞ、ベルガラス、あのぐらぐらしてる階段を直しちゃどうだ?」
「そのうちとりかかるさ」
「みんなおれたちが勝つと思ってるんだな?」シルクが言った。「この時点で将来の予定をたてるのはちょいと早計だと思うがね――聖なる女予言者が結果についてひとつふたつヒントを漏らしてくれるんでもないかぎり」かれはシラディスを見た。
「それは許されないであろう、ケルダー王子――たとえわたしが答えを知っているとしても」
「知らないということか?」シルクは信じられないようにたずねた。
「〈選択〉はまだなされていない」シラディスは率直に答えた。「わたしが〈光の子〉と〈闇の子〉の前に立つまで、なされないのじゃ。その瞬間まで、結果はどちらとも言えぬ」
「未来を予言できないなら、予言者でいてもしょうがないじゃないか」
「とりわけこの〈出来事〉は予言を許されていないのじゃ、ケルダー」シラディスは辛辣に言った。
「わしらは少し寝ておいたほうがいいだろう」ベルガラスが言った。「あすからの二日間は目もまわる忙しさになりそうだ」
雌狼はガリオンとセ・ネドラについてかれらの部屋まで行き、一緒に中へはいった。セ・ネドラはちょっとびっくりした顔をしたが、雌狼はまっすぐベッドに近づき前足をベッドにのせて、足を四本とも宙に投げだし仰向けになって眠っている子狼を批判的にながめた。
雌狼はかすかにとがめるような目つきでガリオンを見た。「この子ったら太ってしまったわ」彼女は言った。「あなたの奥さんがたくさん食べ物を与えて甘やかしているからよ。これじゃもう狼とは言えないわ。狼らしい匂いもしやしない」
「妻がときどき風呂に入れているんですよ」ガリオンは説明した。
「お風呂ですって」雌狼は軽蔑に満ちた口調で言った。「狼は雨か、川を泳いで渡る途中に濡れるぐらいでちょうどいいのよ」彼女はお尻を落としてすわりこんだ。「あなたの奥さんにお願いしておきたいわ」
「ぼくから伝えますよ」
「もうとっくに伝えてくれたかと思っていたのに。これからも子狼の面倒を見つづけるつもりかどうか聞いてちょうだい。あまり甘やかすと愛玩用の子犬になりさがってしまうことは、付け加えるまでもないでしょうけど」
「あなたの要求を慎重に繰りかえすようにしましょう」
「彼女、なんて言ってるの?」セ・ネドラがたずねた。
「きみが子狼の面倒を見てくれるかどうか知りたがってるんだ」
「もちろんよ。ずっとそうしたかったの」そう言うとセ・ネドラはしゃがみこんで、衝動的に雌狼の首を抱きしめた。「かれのことはまかせて」と約束した。
「奥さんの匂いは悪くないわ」雌狼はガリオンに言った。
「ぼくもそれには気づいてました」
「そうでしょうとも」雌狼はたちあがると、静かに部屋を出ていった。
「もう出ていくつもりなのね?」セ・ネドラが残念そうに言った。「彼女がいないとさみしいわ」
「どうしてそう思うんだ?」
「出ていくんじゃなけりゃ、どうして子供をあきらめたりできて?」
「それだけじゃないと思うな。彼女には準備することがあるんだ」
「わたし、くたくただわ、ガリオン。ベッドにはいりましょう」
しばらくあと、ビロードのような闇の中でベッドに身を寄せあいながら、セ・ネドラがためいきをついた。「あと二日で赤ちゃんにまた会えるのね。とてもとても長かったわ」
「いつまでも考えないほうがいい、セ・ネドラ。休まなくちゃ。考えすぎると眠れなくなるぞ」
セ・ネドラはまたためいきをつき、まもなく眠りに落ちた。
(選択をしなければならないのはシラディスひとりではない)意識の中の声がガリオンに言った。(おまえとザンドラマスもまた、選択をしなければならんのだ)
(どんな選択なんです?)
(おまえは後継者を選ばねばならん。ザンドラマスはすでに後継者を選んでいる。おまえは〈光の子〉として最後の務めをじっくり考えているはずだ。きわめて重大な務めになる)
(やっぱりそうでしたか。だれかにこの重責をゆだねるのかと思うとなんとなくさびしい気もするけど、ほっとするな。そうすればまた平凡な人間にもどれるわけだ)
(おまえが平凡だったことは一度もなかったのだぞ。生まれた瞬間から〈光の子〉だったのだからな)
(あなたと話せなくなってさびしくなりますよ)
(感傷的になるんじゃない、ガリオン。おまえがどうしているかようすを見るために、わたしはときどき立ち寄るかもしれん。さあ、少し眠るといい)
翌朝目がさめてからも、ガリオンはしばらくベッドから出なかった。かれはあることについて、長いこと考えまいとしてきたのだが、いまはいやおうなしにそれに直面せざるをえなかった。ザンドラマスを憎む理由はすべてそろっている、しかし……
ついに意を決してベッドからすべりでると服を着てベルガラスを捜しにいった。
老人は中央の間でシラディスと一緒にすわっていた。「おじいさん、ひとつ問題があるんだ」
「めずらしいことではなかろう。こんどはなんだ?」
「あしたぼくはザンドラマスと対決することになってる」
「ほう、そうか? そうなんだろうな」
「やめてくれないかな。まじめな話なんだ」
「すまん、ガリオン。きょうは茶化したい気分なのだ」
「ザンドラマスの行動をやめさせるには、殺すしかないだろう。でも、それが自分にできるかどうか自信がないんだ。トラクの場合はできたが、ザンドラマスは女だ」
「まあ、たしかに女だった[#「だった」に傍点]。だが、ザンドラマスが女であることはいまやふさわしからぬ状態になってきている――ザンドラマス自身にとってすらな」
「それでもやっぱり殺せそうにない」
「その必要はない、ベルガリオン」シラディスが元気づけた。「わたしの選択がいかなるものになろうと、ザンドラマスにはもうひとつの運命が横たわっている。そなたが彼女の血を流すことは求められておらぬ」
大きな安堵の波がガリオンを包みこんだ。「ありがとう、聖なる女予言者。それに直面するのをぼくはずっと恐れていたんだ。ザンドラマスを殺すのがぼくの務めのひとつでなくてよかった。そうそう、ところでおじいさん、ぼくのここにいる友だちが――」と額をたたき、「――また訪れていたんだ。ゆうべ、かれはぼくの最後の務めは後継者を選ぶことだと言った。おじいさんに助けてもらうことはできないんだろうね?」
「ああ、ガリオン、残念だが。わしが助けになるとは思えん、そうだろう、シラディス?」
「そのとおりじゃ、ベルガラスどの。その務めは〈光の子〉だけに課せられている」
「やっぱり」ガリオンはむっつりと言った。
「そうだ、もうひとつあった、ガリオン」ベルガラスが言った。「おまえの選ぶ後継者は神になる正当なチャンスがあるんだ。わしを選ぶなよ。わしはそういう仕事には向いておらん」
他の仲間がひとりずつ、あるいはふたり組になってはいってきた。ひとりがはいってくるたびに、ガリオンはその顔をじっくりながめ、神としての友だちを思い描こうとした。ポルおばさん? だめだ、なんだか似つかわしくない。ダーニクも自動的に除外される。おばさんからかれを取りあげることはできなかった。シルクは? 考えただけでガリオンは力ない笑い声をあげそうになった。ザカーズはどうだ? 可能性はある。ザカーズはアンガラク人だし、新しい神はアンガラク種族の神となるわけだから。だが、ザカーズはいささか予測のつかないところがある。つい最近までは権力にとりつかれていた。いきなり神にまつりあげられたら、精神のバランスを欠いてまた以前のザカーズに逆もどりしてしまうかもしれない。ガリオンはためいきをついた。後継者についてはもう少し考えなくては。
召使いたちが朝食を運んできた。セ・ネドラはあきらかにゆうべの約束をおぼえていて、子狼のために皿を用意させた。皿には卵、ソーセージ、そしてジャムがたっぷりと載っている。雌狼は身ぶるいして顔をそむけた。
一同は食事中は故意に明日の対決の話題を避けた。対決はいまや避けられないものだったから、話し合ったところで意味がなかったからだ。
ベルガラスは満足した顔つきで皿をおしやると、ガリオンに言った。「このもてなしの礼を王に言うのを忘れるなよ」
そのとき雌狼が近寄ってきて老人の膝に頭をのせた。ベルガラスはおどろいたようだった。狼はふだんはかれを避けていたからだ。「どうした?」と雌狼にたずねた。
すると一同があっけにとられたことに、雌狼はじっさいに笑い声をたて、人間の言葉ではっきりとベルガラスに言った。「あなたの脳みそは眠ってしまっているのね、おいぼれ狼。もうとっくにわたしに気づいていると思ったわ。こうしたらいかが?」突然青い光輪が彼女を囲った。「それともこう?」ちらちらした光が生じたかと思うと、雌狼は消えて黄褐色の髪に金色の目をした、茶色の服の女が立っていた。
「おかあさま!」ポルおばさんが叫んだ。
「あなたも父親同様観察力がたりないわよ、ポルガラ」ポレドラはとがめた。「ガリオンはとっくに知っていたわ」
しかしベルガラスは恐怖のまなこで子狼を見つめている。
「まあ、ばかね、あなた」ベルガラスの妻は言った。「わたしたちが終生夫婦であることはご存じでしょ。あの子狼は弱って病気だったので、群れに置いていかれたのよ。わたしは面倒を見ていただけ」
ケルの女予言者の顔にやさしい微笑が浮かんでいた。「これが〈見張り女〉じゃ、ベルガラスどの。これでそなたの仲間が勢ぞろいした。だが、これまでもずっとそうであったように、彼女がつねにそなたとともにいることを忘れぬように」
底本:「マロリオン物語9 ケルの女予言者」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1991(平成 3)年11月30日 発行
1997(平成 9)年11月15日 二刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2009年1月31日作成
2009年2月10日校正
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このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] マロリオン物語9 ケルの女予言者.zip iWbp3iMHRN 121,371,701 ff66fd52d8bada15ddc9a6e32eff46f6
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
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底本は1ページ18行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html