マロリオン物語8 ダーシヴァの魔女
SORCERESS OF DARSHIVA
デイヴィッド・エディングス David Eddings
宇佐川晶子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)マル・ゼスとの兵站線《へいたんせん》を再開
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)拳闘|籠手《こて》と呼ばれるもの
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ほくち[#「ほくち」に傍点]を取り出した
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オスカー・ウィリアム・パトリック・ジャンソン=スミスに
ようこそわれわれの世界へ!
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たくさんの愛をこめて
デイヴとレイ
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目 次
第一部 ペルデイン
第二部 ダーシヴァ
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ダーシヴァの魔女
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登場人物
ベルガリオン(ガリオン)………………リヴァ王
セ・ネドラ…………………………………ガリオンの妃
ベルガラス…………………………………魔術師
ポルガラ……………………………………ベルガラスの娘
ダーニク……………………………………ポルガラの夫
エリオンド…………………………………〈珠〉を運んだ少年
トス…………………………………………〈物言わぬ男〉
ケルダー(シルク)………………………ドラスニアの王子
リセル(ヴェルヴェット)………………ドラスニアの密偵
サディ………………………………………ニーサの宦官
ベルディン…………………………………魔術師
ザカーズ……………………………………マロリー皇帝
ザンドラマス………………………………〈闇の子〉
ナラダス……………………………………ザンドラマスの腹心
ウルヴォン…………………………………トラク神の弟子
ゲラン………………………………………ベルガリオンの息子
ポレドラ……………………………………ベルガラスの妻
シラディス…………………………………予言者
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第一部 ペルデイン
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1
ヴェラは憂鬱だった。めったにない気分だったが、なってみると案外悪くなかった。ものうく甘美な哀しみは噂のまとになった。ヴェラが静かな威厳をもってボクトールの宮殿の大理石張りの広い廊下を行くと、その愁いに沈んだ顔を見てだれもが道をあけてくれた。この点に関しては、短剣の演じた役割が多少関係しているのかもしれなかったが、ヴェラはその事実を考慮しないことにした。じっさい、この一週間だれにも短剣を抜いていなかった――最後に短剣をふるわれたのは、彼女のぶっきらぼうな同士愛をもっと親密な友情とかんちがいした、いささかなれなれしい給仕だった。といっても、給仕をそれほど痛めつけたわけではない。血が止まりもしないうちに、かれはヴェラを許していた。
その早朝のヴェラの目的地は、ドラスニア王妃の居間だった。ポレン王妃には困惑させられることばかりだった。ポレンは小柄で、冷静沈着だった。短剣を身につけているでもなく、めったに声を荒らげるでもないのに、ドラスニアと他のアローンの諸王国すべてがこぞって彼女を尊敬していた。ヴェラ自身、なぜだかよくわからないまま、習慣的にラヴェンダー色のサテンのドレスを着けるべきだというその小さな王妃の示唆にしたがっていた。ドレスというのはじゃまっけなしろものだった。脚にからみつくし、お尻が窮屈でたまらない。これまでずっとヴェラは黒い革のズボンにブーツ、革のチョッキを愛用してきた。着心地もよかったし、実用的だった。丈夫なだけでなく、印象づけたいと思う連中に自分の特質を誇示するチャンスも提供してくれた。特別な機会には、脱ぐのが楽な毛織のドレスと、踊ると体にまといつくバラ色のマロリーの絹の上等な透ける下着を着るのが習慣だった。それにひきかえ、サテンのたてる衣ずれの音はうるさいほどだった。もっとも、肌ざわりはよく、二本の短剣と、それを使いたくなる気分以上に女でいることを意識させられて、どぎまぎさせられはしたが。
彼女はポレンの居間のドアを軽くたたいた。
「はい?」ポレンの声が聞こえた。
あの女は一睡もしなかったんだろうか?
「あたしだよ、ポレン――ヴェラだよ」
「はいって、おじょうさん」
ヴェラは歯をくいしばった。なんといっても、彼女は子供ではなかった。十二の誕生日からずっと世界中を旅してきたのだ。六回売られ――そして買われ――テックというやせたナドラク人のわな猟師と結婚して、短いながらめくるめく幸せを味わった日々もあった。ヴェラは気もくるうほどテックを愛していた。それなのに、ポレンは是が非でも調教が必要なじゃじゃ馬かなにかのようにヴェラを考えたがっているふしがある。しゃくにさわる一方で、そう思うと、怒りがやわらいだ。ドラスニアの小柄な金髪の王妃は、ある妙な点で、ヴェラが決して知ることのなかった母親になっていた。聡明で穏やかなその声を聞くと、短剣や売買されたことが意識から抜け落ちてしまうのだった。
「おはよう、ヴェラ」ナドラクの女が部屋に入ってくると、ポレンは言った。「お茶はいかが?」公的場所ではつねに喪服を着ている王妃だったが、その朝の化粧着は淡いバラ色で、そのやわらかな色をまとった彼女はひどく傷つきやすく見えた。
「やあ、ポレン。せっかくだけど、お茶はいいよ」ヴェラは金髪の王妃が腰かけている長椅子の横の椅子にどさりとすわった。
「どしんとすわらないのよ、ヴェラ」ポレンが言った。「レディはどしんとすわったりしないものなの」
「あたしはレディじゃないよ」
「まだね。でもわたしがいま取り組んでいるわ」
「なんであたしのことなんかで時間を無駄にしてるのさ、ポレン?」
「価値があればどんなことでも時間の無駄にはならないわ」
「あたしが? 価値があるって?」
「あなたにはわからないぐらいにね。けさは早起きなのね。なにか困ったことでもあって?」
「眠れなかったんだ。このところすっごく妙ちくりんな夢を見るんだよ」
「夢にわずらわされるのはおよしなさい、おじょうさん。夢は過去だったり、未来だったりするけれど、たいていはそれだけのものなの――夢にすぎないわ」
「あたしをおじょうさん≠ト呼ぶのはやめてよ、ポレン」ヴェラは文句を言った。「ちゃんと調べれば、あたしはあんたとほぼ同年齢だと思うよ」
「歳はあまりちがわないかもしれないわね、でも歳は時の長さを計る唯一の方法じゃないのよ」
ドアに用心深いノックがあった。
「はい?」ポレンは答えた。
「わたくしです、女王陛下」聞きおぼえのある声が言った。
「はいってちょうだい、ケンドン辺境伯」王妃は言った。
ジャヴェリンはヴェラが最後に見たときから変わっていなかった。相変わらずがりがりにやせていて、貴族的で、口はおもしろがっているように皮肉っぽく曲がっていた。着ているのは、それが習慣となっているパール・グレイの上着に、ぴったりした黒いズボンで、骨ばったすねは、そのぴったりしたズボンによってよけいに強調されていた。「陛下」ジャヴェリンは王妃に挨拶した。「そしてレディ・ヴェラ」
「ばかにしないでおくれよ、ジャヴェリン」ヴェラは言い返した。「あたしには称号なんかないんだからね、レディ≠ヘよしとくれ」
「まだ話されていなかったのですか?」ジャヴェリンは穏やかに王妃にたずねた。
「彼女の誕生日のためにとってあるのよ」
「なんのことさ?」ヴェラはつめよった。
「我慢して、ディア」ポレンは言った。「そのうちあなたの称号のこともわかるわ」
「ドラスニアの称号なんていらないよ」
「だれにでも称号はいるのよ、ディア――たとえそれがただのマアム≠ナもね」
「彼女はいつもこんなふうなのかい?」ヴェラはぶっきらぼうにドラスニア諜報部の部長にたずねた。
「まだ乳歯が生えておいでのころはもうちょっと純真でしたな」ジャヴェリンはいんぎんに答えた。「だが牙が生えるともっとおもしろくなられた」
「からかうのはよして、ケンドン」ポレンは言った。「ラク・ウルガはどうでした?」
「醜悪ですな――しかしそれを言うなら、マーゴの都市の大半がそうです」
「で、ウルギット王はどうなの?」
「新婚ほやほやです、陛下。結婚生活がものめずらしくて、ちょっとうわの空といったようすですよ」
ポレンは顔をしかめた。「お祝いを送らなかったわ」困ったように言った。
「失礼ながらわたくしが取り計らっておきました、陛下」ジャヴェリンが言った。「トル・ホネスで求めた――もちろん格安価格で――上等の銀食器一式です。なにしろ、予算に限りがありますので」
ポレンはよそよそしい目つきでじいっとジャヴェリンをにらんだ。
「請求書は家令につけておきました」かれはいけしゃあしゃあとつけくわえた。
「交渉はどうなっているの?」
「おどろくほどうまくいっていますよ、王妃。マーゴスの王はウルガ家代々の病いにまだ屈していないようです。じっさい、まことに抜け目がない」
「そうじゃないかと思ったわ」ポレンは自分だけ合点がいったように答えた。
「なにか隠しておいでですな、ポレン」ジャヴェリンは非難した。
「ええ。女というのはときどき隠し事をするものよ。ドロジムにいるマロリーの密偵たちはちゃんと事情を把握しているのかしら?」
「それはもう」ジャヴェリンは微笑した。「かれらがまちがいなくポイントをついていることをわからせるために、多少明確すぎるほどにしなければならないこともありますが、交渉の経過は連中もじゅうぶん察知していますよ。われわれは連中をやや過敏にさせているようですな」
「帰りの航海は早かったのね」
ジャヴェリンはかすかに身をふるわせた。「アンヘグ王が船をわれわれの自由にさせてくれましてね。船長はあの海賊のグレルディクです。急いでいるとグレルディクに言ったのがまちがいでした。あの大渦巻をつっきる航路は心臓がとまりそうでしたよ」
ドアにまた遠慮がちなノックがあった。
「はい?」ポレンが答えた。
召使いがドアをあけた。「ナドラク人のヤーブレックがまた参っております、女王陛下」
「通してちょうだい」
ヤーブレックはヴェラが知りつくしているぴんと張りつめた顔をしていた。ヴェラの所有者は多くの点で隠しだてのできない男だった。みすぼらしい毛皮の帽子を脱いで片隅にぽいとほうりなげると、挨拶ぬきでいきなり言った。「おはよう、ポレン。なにか飲むものはあるかい? 五日間鞍にまたがってたんで、喉がからからなんだ」
「向こうにあるわ」ポレンは窓のそばの食器棚を指さした。
ヤーブレックはもぐもぐ言って部屋を横切り、クリスタルのデキャンターから大きな酒杯になみなみと酒を注いだ。長々とあおってから、言った。「ジャヴェリン、ヤー・ナドラクに手下がいるか?」
「数名な」ジャヴェリンは用心深く認めた。
「そいつらにドロスタを見張らせといたほうがいいぜ。なんかたくらんでる」
「ドロスタはいつもなにかたくらんでいるんだ」
「それもそうだが、今度はもうちょいと深刻かもしれないぜ。マル・ゼスとの兵站線《へいたんせん》を再開したんだ。タール・マードゥでやつが党派を変えてから、ドロスタとザカーズはずっと仲たがいしてたが、いままたしゃべってる。どうも臭いぜ」
「まちがいないか? わたしの部下からはなんの報告もない」
「じゃ、そいつらはたぶん宮殿内にいるんだ。ドロスタは宮殿じゃ大事な仕事はしないのよ。泥棒連中の居住区にある川沿いの居酒屋へ手下を行かせるんだな。〈片目の犬〉って名前の居酒屋だ。ドロスタはそこへお楽しみに行く。マル・ゼスの密偵がそこの二階の部屋でドロスタと会っていたんだ――ドロスタが女たちから身を引き離すことができるのはそのときなのさ」
「すぐ手配しよう。ドロスタと密偵がなにを話し合っていたのか少しでもわかったか?」
ヤーブレックはかぶりをふって、力なく椅子にすわりこんだ。「ドロスタが護衛どもにおれを居酒屋からつまみだせと命令したんでな」かれはヴェラを見た。「けさはちょいとぐったりしてるみたいじゃねえか。ゆうべ飲み過ぎたのか?」
「あたしはもうほとんど酔っぱらわないんだ」
「おまえをこのボクトールに置いてったのがまちがってたんだな」ヤーブレックは陰気に言った。「ポレンの悪影響だ。おれへのいらいらはもうおさまったのか?」
「たぶんね。あんたがばかなのはあんたのせいじゃないよ」
「ありがとうよ」ヤーブレックはほれぼれとヴェラの全身をながめた。「いつもとちがって一段と女らしいぜ」
「あたしが女だってこと、一度だって疑ったことがある、ヤーブレック?」ヴェラは皮肉っぽくたずねた。
永遠なるサルミスラの宮殿の宦官長、アディスはその朝早く召喚状を受け取り、恐怖にふるえながら謁見の間へ近づいた。近頃の女王はいつもとちがっていた。アディスは苦痛をもって前任者の運命を思いだした。ぼんやりと照らされた謁見の間へ入り、壇の前にひざまずいた。
「宦官長が王座に近づく」崇拝のコーラスが一斉に流れた。つい最近までそのコーラスの一員だったアディスは、かれらの口調にまぎれもないいらだちを聞き取った。
女王は寝椅子でまどろんでいた。シュルシュルと乾いた音で鱗をこすりあわせながら、とぐろを巻いたまだらもようの体を落ち着きなく動かしていた。女王は無表情な蛇の目をあけてアディスをながめ、二叉の舌をちろちろとのぞかせた。
「それで?」常にアディスの血を凍らせてやまないあいまいなささやき声で、女王は気むずかしく言った。
「あ、あなたがわたしをお呼びになったのです、聖なるサルミスラさま」アディスはどもった。
「わかっている、この愚か者。わたしをいらだたせるのはおよし、アディス。脱皮が間近でね、いつもその時期には気が短くなるのだよ。アローン人たちがなにをもくろんでいるのかつきとめよと言っておいたはずだ。おまえの報告を待っているのだよ」
「あまりたいしたことはつきとめられなかったのです、女王さま」
「それはわたしが聞きたかった返事じゃないね、アディス」サルミスラは物騒な口調で言った。「おまえの仕事場の義務はおまえには荷が重すぎるのかい?」
アディスははげしくふるえはじめた。「ド、ドロブレクのもとへ使いをだしました、女王陛下――ここスシス・トールにいるドラスニアの港湾局長です。かれが状況を好転させてくれるものと思ったものですから」
「そうだろうね」女王の口調はよそよそしく、その目は鏡に写るわれとわが身を凝視している。「トルネドラの大使もお呼び。クトル・マーゴスでアローン人たちがやっていることがなんだろうと、ヴァラナもかかわりがある」
「質問をお許しください、聖なるサルミスラさま」アディスはやや混乱しながら言った。「ですが、アローン人やトルネドラ人の行動がわたしどもになぜ関係があるのですか?」
サルミスラはゆっくりとこうべをめぐらした。くねくねした首が空中を泳いだ。「おまえはどうしようもない能なしなのかい、アディス? あたしたちは気にいらなくても、ニーサは世界の一部なんだよ。隣人たちのしていることは常に知っておかねばならない――その理由もね」女王は口をつぐんだ。舌がそわそわと空気を味わった。「なんらかのゲームが進行中なんだ。それにかかわることになるのかどうか判断する前に、正確なことを知っておきたいんだよ」また彼女は口をつぐんだ。「あの片目の男、イサスがどうなったのかもうわかったかい?」
「はい、陛下。イサスはドラスニア諜報部にひきぬかれたのです。最後の報告では、アローンの交渉人たちとラク・ウルガにいました」
「なんともおもしろい。この事態全体の行く末については詳しい情報が是非とも必要だね――それもすぐに。わたしを失望させるでないよ、アディス。おまえの地位はそれほど確かなものではないのだからね。さあ、キスをするがよい」サルミスラは頭をさげた。アディスはよろめきながら壇に近づきこわばったくちびるを女王の冷たい額に触れた。
「けっこうだ、アディス。もうさがってよい」そう言うと、サルミスラは鏡に写るわが身をふたたびじっと見つめた。
ミシュラク・アク・タールのナセル王はしまりのない口、とろんとした目つき、泥色の猫っ毛を持ち、多少なりとも知性に似たものさえまったく持ち合わせない若者だった。かれの王衣はしみだらけでしわくちゃであり、王冠はサイズがあっていなかった。それは耳の上にかぶさっており、たえず目の上までずりさがってきた。
ラク・ウルガのやせこけた高僧アガチャクは、タール人のこの若い王に耐えられなかったが、議論をしているあいだは強いて礼儀正しくしていた。礼儀正しさはアガチャクの長所のひとつではなかった。言うことをきかない相手には、おそるべき報復をちらつかせて断固命令するほうがずっと好きだったが、ナセルの個性を慎重に検討した結果、もしもいきなり脅迫や最後通牒をつきつけたりしたら、とんでもないことになりかねなかった。だから、代わりにへつらいと甘言に頼らざるをえなかったのである。
「予言は明言しておりますぞ、陛下」アガチャクは再度試みた。「わたくしに同行して対決の場へ行くのがどの王であれ、その王がアンガラク全土の君主になるであろうと」
「それはクトル・マーゴスとガール・オグ・ナドラクもわがはいのものになるってことか?」ナセルはたずねた。理解力の欠如した目にかすかな光が宿った。
「まちがいありません、陛下」アガチャクは請け合った。「それにマロリーもです」
「カル・ザカーズにいやがられないか? ザカーズにそんなふうに思われるのはいやだ。かれはかつてわがはいの父を鞭打たせたんだ、知ってたか? はりつけにしようとしたが、まわりに木がなかったんだ」
「はい、聞いたことがあります。しかし心配ご無用です。ザカーズは陛下にひざまずかねばならないでしょう」
「ザカーズがひざまずく――わがはいに?」ナセルは笑った。それはぞっとするほど思考力の欠けた音だった。
「ザカーズに選択の余地はありません、陛下。拒絶すれば、新しい神がその場でザカーズをこなみじんにしてしまうでしょう」
「こなみじんてなんだ?」
アガチャクは歯をくいしばって説明した。「ごくごく小さな破片のことです、陛下」
「ウルギットとドロスタの頭をさげさせるのはかまわないんだ」ナセルは打ち明けた。「でも、ザカーズのことはわからないよ。ウルギットとドロスタは自分たちを抜け目がないと思ってる。あのふたりの高慢な鼻をへし折ってやりたいんだ。だがザカーズは――どうなんだろう」ナセルの目がまた光った。「それはわがはいがクトル・マーゴスとガール・オグ・ナドラクの金を全部ひとりじめにできるってことだな? わがはいにかわって、あのふたりに地面から金を掘らせることができる」王冠がまた目の上にかぶさり、ナセルは頭をのけぞらせて王冠のへりの下から目をのぞかせた。
「マロリー中の金も陛下のものです、宝石も、絹も、絨緞も――陛下専用の象も手に入ります」
「象とはなんだ?」
「たいへん大きな動物ですよ、陛下」
「馬よりも大きいのか?」
「ずっと大きいのです。そのうえ、トルネドラも陛下のものになります。トルネドラにどれだけ金がうなっているかご存じでしょう。陛下は世界の王になれるのですよ」
「牡牛よりもでかいか? ときたまおそろしくでかい牡牛を見たことがあるぞ」
「牡牛の十倍はあります」
ナセルはうれしそうににっこりした。「それならきっと家来たちを行儀よくさせて、注意をひくことができるな」
「絶対です、陛下」
「わがはいはなにをしなければならないんだった?」
「わたくしと一緒に〈もはや存在しない場所〉へ行かねばなりません」
「それがわからないんだ。それがもう存在しないなら、どうやってそこへ行けばいいのか?」
「それは予言がそのうちわれわれにあきらかにしてくれるはずです、陛下」
「ほう。そうなのか。それがどこにあるのか、少しはわかっているのか?」
「これまで得た手がかりによると、マロリーのどこかですな」
ナセルの顔が急に暗くなった。「それはじつに残念だな」かれはむっつりと言った。
「どういうことだか――」
「本当は一緒に行きたいんだ、アガチャク。本当に――金や絨緞や絹もあるし――それにウルギットとドロスタとことによるとザカーズをもわがはいの前にひざまずかせることができるのだ。でも行けないよ」
「わかりませんね。どうしてです?」
「家を出ることは許されないんだ。出たりしたら、母がこっぴどくわがはいをこらしめるだろう。どういうものか知ってるだろう。マロリーまで行くなんて、考えることさえできないよ」
「しかし、陛下は王です」
「だからって状況はちっとも変わらない。わがはいは、いまでも母の言うなりなんだ。子供のことになると、母はみんなにわがはいほどいい子はいないと言うんだよ」
アガチャクはこのうすらばかをヒキガエルかクラゲに変えてやりたいという激しい欲求と戦った。「わたくしが母上と話をしてはどうでしょう?」ともちかけた。「きっと母上を説得して、お許しをもらってさしあげますよ」
「うん、それはすごい名案だよ、アガチャク。母がいいと言えば、わがはいは稲妻みたいにすばやくおまえに同行する」
「それでこそ」アガチャクはたちさろうとした。
「ああ、アガチャク?」ナセルの声は困惑しているようだった。
「なにか?」
「予言てなんだい?」
かれらはごく内密の、非常に差し迫った問題を話し合うために、君主である王たちの注意深い目が届かぬボー・マンドルに集まっていた。だが、不忠義という点ではそれは些細なことでもあったから、みずからの王にそむく輩を表現するひどくいやな言葉は、この際あてはまらない。
そこにはバラクがいた。ヘターも、マンドラレンも、レルドリンもいた。レルグはマラゴーから到着したばかりだったし、バラクの息子のウンラクは窓ぎわの背もたれの高い腰かけにすわっていた。
トレルハイム伯爵が全員に注意をうながそうと咳ばらいをした。かれらはマンドラレンの所有する塔に集まっていた。アーチ型の窓から秋の黄金色の日差しがさしこんでいた。緑色のビロードの上着を着たバラクはがっちりと大きく、ほれぼれするほどだった。赤いあご髭には櫛目がはいり、髪は編まれていた。「ようし」よくひびく声でバラクは言った。「はじめよう。マンドラレン、ここにあがってくる階段にはちゃんと見張りがいるんだろうな? 盗み聞きされるのはまっぴらだぜ」
「絶対だいじょうぶでござる、トレルハイム閣下」堂々たる騎士は熱をこめて答えた。「嘘でない証拠にわがはいの命をおあずけいたしてもかまわん」マンドラレンは鎖かたびらと銀のふちどりのある青い外衣をまとっていた。
「イエスというだけだってじゅうぶんだったんだぜ、マンドラレン」バラクはためいきをついてから、きびきびとつづけた。「さて、おれたちはガリオンや他のみんなに同行することを禁じられている、そうだな?」
「それがレオンでシラディスの言ったことだ」ヘターが低い声で答えた。ヘターは例によって黒い馬のなめし革の服を着て、一房だけ残した頭髪を銀の輪でまとめていた。長い脚を投げ出して椅子にすわっている。
「そうだ、それで」バラクはつづけた。「おれたちはかれらと一緒には行けない。だが、おれたち自身の用件でマロリーへ行くぶんにはかまわない、だろう?」
「どんな用件です?」レルドリンがぽかんとしてたずねた。
「なにか思いつくさ。おれは船を持ってるしな。トル・ホネスまで行って、なにかの船荷を積み込むんだ。それからマロリーへ行き、品物を売買する」
「どうやって〈海鳥〉号を〈東の海〉まで行かせるつもりだ?」ヘターがきいた。「長い航路になるぞ、そう思わないか?」
バラクは鷹揚に片目をつぶってみせた。「地図を持ってる。クトル・マーゴスの南端をまわって〈東の海〉にはいるんだ。そこからマロリーまでは目と鼻の先さ」
「マーゴ人は自分たちの海岸線の地図をおおっぴらに見せることなんかしないと思ってたけどな」レルドリンがあけっぴろげな若い顔にけげんそうな表情を浮かべて言った。
「そうさ」バラクはにんまりした。「だがジャヴェリンがラク・ウルガにいて、まんまとひとつくすねたんだ」
「それをどうやってジャヴェリンから横取りしたんだ?」ヘターがきいた。「かれはマーゴ人以上に用心深いんだぞ」
「ジャヴェリンはグレルディクの船でボクトールへ帰ったんだ。船に弱いから、あまり気分がよくなかったんだな。グレルディクが地図をこっそり拝借して、製図師に写しを書かせたのさ。ジャヴェリンは地図を失敬されたことを知りもしなかった」
「すばらしい計画でござるな、閣下」マンドラレンがいかめしく言った。「しかしながら、一つまずいところがあるように思われまする」
「ああ?」
「周知のように、マロリーは幅が数千リーグ、南からはるか北の極寒地までは何千リーグもある広大な大陸でござる。われらが友人の居場所をつきとめるまでに、一生かからないともかぎらない。したがって、それが貴殿の提案の難点であると思うのでござる」
バラクはずるがしこそうに人さし指を鼻のわきにあてた。「いまそこを話そうとしてたんだ。ボクトールにいたとき、ヤーブレックを酔っぱらわせたんだよ。しらふだとあいつは目から鼻へぬける賢さなんだが、いったんエールを樽半分も飲ませちまえば口が軽くなるんだ。おれはあいつとシルクがマロリーでやってる仕事の運営について二、三質問して、きわめて役に立つ返事をもらった。あのふたりはマロリーの主だった都市全部に仕事場をかまえているらしい。で、その仕事場は互いに絶えず接触してるんだ。他になにをしていようと、シルクは商売の利益に目を光らせてるのさ。そういう仕事場の近くまで行くたびに、かれはなんのかんのと言い訳を見つけてそこに立ち寄り、過去一週間のもうけを確かめるんだ」
「それがシルクなんだ」ヘターがうなずいた。
「おれたちはマロリーのどこかの港に錨をおろして、あのちびの泥棒の仕事場を捜すだけでいいのさ。シルクの居所はかれの部下たちがだいたい知っているだろうし、シルクのいるところには他のみんなもいる」
「閣下」マンドラレンが謝った。「わがはいがまちがっておりましたぞ。貴殿の抜け目のなさをみくびったわがはいを許してもらえましょうか?」
「いいってことよ、マンドラレン」バラクは度量の広いところを見せて言った。
「でも」レルドリンが抗議した。「ぼくたちはやっぱりガリオンたちに合流するのを禁じられているんですよ」
「まっことそのとおり」マンドラレンがうなずいた。「かれらの探索がわれらがために失敗に終わらぬよう、かれらには接近しないほうがよいのです」
「そこのところも解決したんだ」大男は言った。「ガリオンたちと一緒に馬で行くことはできないが、どのくらい離れていなけりゃならないかについては、シラディスはなにも言わなかった、そうだな? おれたちは自分たちの問題だけ気にしてりゃいいんだよ――一リーグかそこら――それとも一マイルばかり距離を置くことだけを。かれらがなんらかの厄介事にまきこまれても助太刀して、すぐまた引き返せるようなところにいればいい。それなら別段悪いことはない、どうだ?」
マンドラレンの顔がにわかに明るくなった。「これは義務でござるぞ、閣下」かれは叫んだ。「道義心の命じるところです。危機にある旅人の助けに駆けつけぬ輩は、神々におおいに嫌われましょうぞ」
「そう考えるだろうと思ったぜ」バラクはばかでかい手で友人の肩をひっぱたいた。
「詭弁だな」レルグが結論は出たとでも言いたげに、しわがれ声で言った。ウルの熱狂的崇拝者であるこのウルゴ人は、ダーニクが平常着ているのにそっくりのチュニックを着ていた。かつては青白かった皮膚はいまでは日に焼け、もう目隠しもしていない。タイバと子どもたちのために建てた家の外で働いた歳月が、徐々にかれの皮膚と目を日光に慣らしたのだ。
「どういう意味だよ、詭弁とは?」バラクが抗議した。
「言ったとおりさ、バラク。神々がごらんになるのは、われわれの意志であって、小利口な言い訳ではない。あんたはマロリーへ言ってベルガリオンに加勢したい――われわれみんながそうだ――しかしこのひねりだした話で神々をだまそうとしてはならん」
かれらはいっせいに力なくレルグをみつめた。
「しかしこんなにうまい計画なんだぜ」バラクが訴えた。
「まったくな」レルグは同意した。「だが、不忠だ。神々への不忠――そして予言への――は罪なのだ」
「また罪かよ、レルグ?」バラクはうんざりした。「それはもう乗り越えたんだと思ったぜ」
「まったくというわけではない」
バラクの息子で、十四歳にして早くも大人の男なみに大きいウンラクが立ち上がった。鎖かたびらを着て、腰のベルトには剣をさげている。髪は燃えるような赤で、まだやわらかいあご髭はすでに頬をおおいはじめていた。「ぼくの考えが正しいかどうか見てみようよ」ウンラクは言った。その声はもう甲高いさえずりではなく、よくひびくバリトンだった。「ぼくたちは予言に従わなくちゃならない、そうだね?」
「一字一句にいたるまでな」レルグがきっぱりと言った。
「じゃ、ぼくがマロリーへ行かなくちゃだめだな」ウンラクは言った。
「話が早すぎるぞ」父親が言った。
「じつはそれほど複雑じゃないんだよ、とうさん。ぼくはリヴァの王位を代々守るための後継者だ、そうだろう?」
「そのとおりだ」ヘターが口をはさんだ。「つづけてみろ、ウンラク。なにを考えているのかわれわれに話してみるんだ」
「ええと」若者は年長者たちのさぐるような目にあって、ちょっと顔を赤らめた。「ゲラン王子がマロリーにいて、危険にさらされているんなら、ぼくはマロリーへ行かなくちゃならないんだ。予言がそう言ってる。でも、ゲラン王子がどこにいるのかわからないから、ベルガリオン王がゲランを見つけるまでかれについていくしかない。そうすればゲランを守ることができる」
バラクは息子に向かって破顔した。
「でも」ウンラクはつけくわえた。「ぼくはこの守る仕事ではまだちょっと未熟だから、ちょっと指導が必要かもしれないんだ。とうさん、とうさんととうさんの友だちを説得してぼくと一緒にきてもらえるかな? ぼくがへまをしでかさないように」
ヘターが立ち上がってバラクの手を握った。「おめでとう」とひとこと言った。
「どうだ、レルグ」バラクは言った。「これならおまえの正しいという感覚も満足か?」
レルグは考え込んだ。「まあそうだな。実際問題として、それならいい」次の瞬間レルグはその厳しい顔にバラクがはじめて見る笑いをいっぱいに浮かべた。「いつ出発する?」レルグはきいた。
マロリー皇帝、カル・ザカーズはマガ・レンの高い塔の窓辺に立ち、雄大なマガン川の広大な広がりをながめていた。ありとあらゆる大きさの川船から成る一大艦隊が都市上流の川面に点々とちらばって、帝国の連隊が上陸を待つ港へと、秩序正しく行進していた。
「ニュースはそれで終わりか?」皇帝はたずねた。
「向こうの事態はいささか混沌としておりまして、皇帝陛下」茶色の長衣を着た国務長官のブラドーが報告した。「しかし、ウルヴォンとザンドラマスの主要な対決はペルデインで行なわれるようです。ウルヴォンは北から南へ移動していますし、ザンドラマスは先月ペルデインを併合して、ウルヴォンとダーシヴァの間に緩衝地帯をもうけました。ザンドラマスはウルヴォンとの対決のためにペルデインへ兵力を緊急投入しています」
「おまえはどう見る、アテスカ?」ザカーズはたずねた。
アテスカ将軍は起立して壁にかかった地図に歩み寄った。しばらくそれを仔細に見たあと、ずんぐりした指を地図につきつけた。「陛下、ここがフェラの町です。われわれは総勢でここへ向かい、この町を占拠します。論理上、必然的軍事作戦基地です。この地点ではマガン川の川幅は約十五マイルで、ダーシヴァからそれ以上の動きが波及するのを阻止するのは、さほど困難なことではありません。ザンドラマスの増強部隊は排除されるでしょう。そうすれば、対決時にはウルヴォンのほうが数の点では優位に立ち、ザンドラマスの軍をひねりつぶすはずです。しかし、ウルヴォン側にも死傷者がでます。どちらの側も狂信者の集団ですから、死ぬまで戦うでしょう。ザンドラマスの軍勢を一掃したあと、ウルヴォンは立ち止まってみずからの傷をなめるはずです。そこをわれわれが攻撃するのです。ウルヴォンは弱っており、かれの部隊は精根尽き果てているでしょう。わが軍はぴんぴんしています。結果は言うまでもありません。そのあと、われわれはマガン川を渡り、ダーシヴァに残った敵を掃討するのです」
「みごとだ、アテスカ」ザカーズのひややかな口元にかすかな微笑がのぼった。「おまえの計画には皮肉な魅力がある。まず、ウルヴォンにザンドラマスを排除させておいて、次にわれわれがウルヴォンを排除する。トラクの弟子に汚い仕事を肩がわりさせるという考えがいい」
「陛下の許可があれば、わたしが先攻部隊を率いて、フェラ占領を監督したいのです」将軍は言った。「われわれがザンドラマスの軍勢を二分するのですから、ザンドラマスは反撃するにちがいありません。町を要塞化する必要があります。また、ペルデインのわれわれの周囲に部隊を潜入させようとするザンドラマスのくわだてを阻止するためにも、川にパトロール隊を設置する必要があります。そこが作戦の中で非常にむずかしいところですから、わたしみずから監督したいのです」
「いいとも、アテスカ」ザカーズは同意した。「とにかくその任務を遂行するのに信用できる者はおまえ以外におらん」
アテスカは頭をさげた。「おそれいります」
「よろしいでしょうか、皇帝陛下」ブラドーが口をはさんだ。「クトル・マーゴスから気になる報告がはいっているのです。わたしどもの密偵の報告によれば、ウルギットとアローン人のあいだでなにかきわめて重大な交渉がおこなわれているのです」
「マーゴ人とアローン人がか?」ザカーズは耳を疑った。「かれらは天地のはじまり以来憎みあってきたのだぞ」
「共通の目標を見つけたのかもしれません」ブラドーは遠まわしに言った。
「わたし、という意味か?」
「筋は通るように思われます、陛下」
「それは食い止めねばならん。アローン人を攻撃しなければならんだろうな。連中の故国の近くで心配事を発生させてやるのだ。そうすればクトル・マーゴスで冒険している暇などなくなるだろう」
アテスカが咳ばらいした。「率直に申しあげてかまいませんか、陛下?」
「おまえが率直でない物言いをしたのは聞いたことがないぞ、アテスカ。なにを考えている?」
「二つの戦線で戦おうとするのは愚か者だけですし、三つの戦線で戦おうとするのは狂人だけです。ペルデインにはこの戦争があり、クトル・マーゴスには別の戦争があります。陛下は三つめの戦争をアロリアで考えておられるのですよ。それは絶対におやめになったほうがいいと思います」
ザカーズは皮肉っぽく微笑した。「おまえは勇気のある男だな、アテスカ。愚か者呼ばわりされたそばから狂人扱いされるとは、ここ久しくなかったことだ」
「陛下ならわたしの図々しさを許してくださるだろうと思ったのです。しかし、これがわたしの率直な意見です」
「かまわんさ、アテスカ」ザカーズはなんでもないというように片手をふった。「おまえがここにいるのは忠告をするためで、わたしにへつらうためではない。それにおまえの正直な言い方には深く感じ入った。よかろう、ここの戦さを片づけるまではアローン人との戦争は延期しよう。愚かしさはしかたがないとしても、狂気は別だ。世界はタウル・ウルガスで狂気にはうんざりしたはずだからな」ザカーズは行ったりきたりしはじめた。「ちくしょう、ベルガリオンめ!」いきなりわめいた。「なにをするつもりだ?」
「あの――陛下」ブラドーが遠慮がちに口をはさんだ。「ベルガリオンは西方にはおりません。つい先週メルセネで姿を目撃されています」
「メルセネでなにをしているのだ?」
「そこまではわからなかったのです、陛下。ですが、ベルガリオンがメルセネ諸島を出発したことはきわめて確実です。どこかこの近くにいるものと思われます」
「混乱に拍車をかけようというのだな、まちがいない。かれを逃がさんよう警戒しろ、アテスカ。あの若者と長い話し合いがしたいのだ。ベルガリオンは自然災害よろしく世界をかっぽしている」
「必ず居所をつきとめるよう努力します、陛下」アテスカは答えた。「では、陛下のお許しがあれば、これから部隊の荷積みを監督しに行きたいと思いますが」
「フェラへつくまでどのくらいかかりそうだ?」
「三、四日でしょう、陛下。部隊にオールを漕がせるつもりです」
「いやがるだろう」
「しかたがありませんよ、陛下」
「よし、行け。わたしも数日おくれで出発する」
アテスカは敬礼して出ていこうとした。
「そうだ、ところで、アテスカ」ザカーズは思いついたように言った。「小猫を一匹連れていったらどうだ?」部屋の向こう側でうろうろしている半分成長した猫たちを指さした。
「あ……」アテスカはためらった。「たいへんありがたいのですが、陛下、猫の毛が目にはいるとまぶたが腫れ上がってしまうんです。これからの数週間は目が見えないと困ります」
ザカーズはためいきをついた。「わかった、アテスカ。それで全部だ」
将軍は一礼して部屋を出ていった。
ザカーズは首をかたむけた。「ふむ、小猫がだめでも、元帥の司令杖は与えなくてはならんだろう――もっとも、アテスカのこの戦いが成功した場合だけだが」
「いうことなしです、陛下」ブラドーがつぶやいた。
オトラス大公のマロリー皇帝としての戴冠式はとどこおりなく行なわれた。もちろんオトラスはどうしようもないまぬけだったから、儀式のあいだじゅう手をつかんであれこれ教えてやらなくてはならなかった。儀式が終わると、ザンドラマスはヘミルの宮殿内にあるごてごてした王座にオトラスをすわらせ、新たな皇帝にへつらい、おもねることという指示を与えた。それから急いでたちさった。
ゲラン王子はザンドラマスがみずから選んでおいた神殿の簡素な部屋にいた。中年のグロリム尼僧がずっと見張っていた。「けさはとてもよい子でした、聖なるザンドラマスさま」尼僧は戻ってきたザンドラマスに言った。
「よい子だろうと、悪い子だろうとおんなじことじゃないか」ザンドラマスは肩をすくめた。「もうさがってよい」
「はい、聖なる尼僧さま」中年女は膝を折り曲げると、出ていった。
ゲラン王子は小さな顔にいかめしい表情を浮かべてザンドラマスを見た。
「けさはおとなしいね、殿下」ザンドラマスは皮肉たっぷりに言った。
子供の表情は変化しなかった。ともに行動するようになって一年余が過ぎていたが、ゲランはザンドラマスにたいして一片の愛情も示したことがなかった。それ以上にいまいましいことに、恐怖もけっして見せたことがない。ゲランは玩具のひとつを持ち上げて、言った。「ボール」
「ああ、そのようだね」ザンドラマスは答えた。そのあと、ゲランの射抜くような凝視がわずらわしかったのだろう、彼女は部屋をつっきって鏡の前に立った。頭巾をはねのけ、じっと鏡に写る自分を見つめた。それはまだ顔には出ていなかった。それはすくなくともほっとすることだった。両手の皮膚の下で渦巻き、きらめく光の点を、彼女は嫌悪の面もちで見た。それから、ばかにゆっくりと衣服の前をはだけて鏡に写る裸身を凝視した。それは広がっていた。そのことには疑いの余地がなかった。乳房も腹もあのまったく同じ渦巻く光の点におおわれていた。
ゲランがだまって近寄ってきて、かたわらに立った。「星」かれは鏡を指さして言った。
「遊んどいで、ゲラン」〈闇の子〉は命令すると、衣服の前を閉じた。
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2
その日の午後、西へ馬を走らせていた一行の目に、ぶあつい暗紫色の層雲が前方にわきあがり、どんどん高くなって青空をおおい隠していくのが見えた。後方にいたダーニクがとうとう前へ出てきて、ベルガラスに言った。「トスが避難所を見つけたほうがいいと言っています。世界でもこのあたりの春の嵐はすさまじいんです」
ベルガラスは肩をすくめた。「前は雨に打たれっぱなしだった」
「長くはつづかないそうですが、そうとうひどくなりそうですよ。午前中いっぱい風が吹きまくるはずです。トスの言うことに耳を傾けるべきじゃないでしょうか、ベルガラス。雨と風だけじゃないんです。たいがいはひょうも降るそうだし、その大きさたるやリンゴほどもあるっていうんですから」
ベルガラスは西の空にそびえる紺色の雲を見やった。そのまん中を稲光がジグザグに通りぬけた。「わかった。どうせきょうはあまり遠くまでは行けんだろう。トスは近くに避難所があるのを知っているのか?」
「一リーグばかり先に農村があります」ダーニクが言った。「われわれが通過してきたのと同じような状態であれば、だれもいないでしょう。頭をひょうから守ってくれるだけの屋根が残っている家が見つかるはずですよ」
「ではそこへ向かおう。嵐はどんどん移動してくる。ベルディンを呼びつけて、探らせるとするか」ベルガラスは顔をあげた。ガリオンは祖父の思念が空へ伸びていくのを感じることができた。
一行はかけ足で進んだ。強まる風がかれらのマントをはためかせ、不快な冷気ときまぐれな冷たい雨を運んできた。
人気《ひとけ》のない村を見おろす丘の頂上についたとき、嵐の先頭がさえぎるもののない平原を壁のようにやってくるのが見えた。
「もうじきくるぞ」ベルガラスが風にかき消されまいと声をはりあげた。「いそごう」
かれらは草を蹴ちらして丘を一気にかけおり、村を円形に囲む耕された広いベルト地帯をよこぎった。村の周囲には塀がはりめぐらされていたが、門は蝶番《ちようつがい》がはずれ、人家の多くは最近火災にあったことを物語っていた。かれらはうなりをあげる風に追われるように砂利の通りを駆け抜けた。ガリオンは大きなポンという音をきいた。そしてもうひとつ。さらに断続的にいくつも。「ひょうだ!」かれは叫んだ。
ヴェルヴェットがきゅうに叫び声をあげて、肩をおさえた。シルクは思わず――そう見えた――リセルの隣りへ馬を並べて自分のマントを広げ、片腕でマントをテントのように支えた。
比較的損傷のないとある家の戸口にベルディンが立っていた。「こっちだ!」かれはせきたてるように叫んだ。「厩のドアはあいてる! 馬たちを中へ入れろ!」
一同は鞍からとびおりて、ほら穴のような厩へいそいで馬たちを入れた。それからドアを押して閉じ、家に向かって裏庭を全速力で引き返した。
「村人たちがいるかどうか調べてみたか?」家にはいると、ベルガラスはベルディンにたずねた。
「だれもいないよ」ベルディンは言った。「どっかの地下室にまた官僚が隠れていなけりゃの話だがな」
戸外の物音がしだいに大きくなって、しまいには間断のないとどろきになった。ガリオンはドアから首を突きだした。大きな氷のかたまりが空からたえまなく落ちてきては、通りの丸石にぶつかってこなごなに砕けている。冷気は一分ごとに強まっていた。「あぶなかったな」かれはつぶやいた。
「ドアをしめて、ガリオン」ポルガラが言った。「火をおこしましょう」
かれらが入った部屋は、あわただしい出発のあとを物語っていた。テーブルと椅子はひっくりかえり、床には割れた皿がちらばっている。ダーニクが周囲を見回して隅から蝋燭を拾い上げた。テーブルをもとどおりにし、割れた皿に蝋燭を立てて、火打ち石と鋼とほくち[#「ほくち」に傍点]を取り出した。
トスが窓に近づいて窓をあけた。腕を伸ばしてよろい戸をしめ、掛け金をかけた。
ダーニクの蝋燭はちょっとくすぶっていたが、やがて炎が強まって部屋に金色の光を投げた。鍛冶屋は暖炉に足を向けた。床は散らかり放題で、家具はひっくりかえっていたが、その部屋は快適だった。壁は白漆喰で、頭上の黒光りした梁は手斧《ちような》できれいに四角く削られていた。暖炉は大きく、開口部はアーチ型だった。すすけた壁からはたくさんの自在鉤がとびだしており、薪の山がそのわきにきちんと積み上げてあった。あたたかみのある場所だった。
「さあ、紳士がた」ポルガラが言った。「そんなところに突ったってないで、家具を起こして、床を掃かないと。もっと蝋燭がいるし、わたしは寝室を調べてみたいわ」
ダーニクの起こした火は安定していた。値踏みするようにそれを見てから、ダーニクは満足して立ち上がった。「馬のようすを見てきたほうがよさそうだな。ここに荷物を持ってこようか、ポル?」
「さしあたっては、食べ物と料理道具だけでいいわ、ディア。でも、ひょうがやむまで待ったほうがいいんじゃなくて?」
「家のわきに屋根のついた歩道があるんだよ。このうちを建てた人間はこういう天候をよく知っていたようだな」ダーニクはトスとエリオンドを連れて出ていった。
ガリオンは部屋を横切って、粗末な腰かけにすわっているヴェルヴェットに歩み寄った。ヴェルヴェットは右肩をかばうように片手でおさえていたが、その顔は青ざめて、額には汗が浮いていた。
「大丈夫かい?」ガリオンはきいた。
「びっくりしただけですわ」ヴェルヴェットは答えた。「でも、たずねてくださるなんておやさしいんですのね」
「おやさしいだって!」ガリオンは急に腹がたった。「きみはぼくにとっては妹みたいなものなんだぞ、リセル。もしきみが怪我をすれば、ぼくはそれを個人的痛みとして受け止める」
「はい、陛下」ヴェルヴェットの微笑が突然部屋をあかるくした。
「ふざけないでくれ、ヴェルヴェット。勇敢にふるまおうとなんてするな。痛いなら、痛いというんだ」
「ちょっとした打ち身ですわ、ベルガリオン」ヴェルヴェットはさからった。その大きな茶色の目には真実がいっぱい浮かんでいたが、その大部分は見せかけだった。
「お尻をたたくぞ」ガリオンは脅かした。
「あら、それはおもしろいこと」ヴェルヴェットは笑った。
ガリオンはその返事については一顧だにしなかった。ただ身をかがめて、リセルの額にキスした。
彼女はちょっとびっくりしたようだった。「まあ、陛下」おどろいたふりをして言った。「いまのをセ・ネドラがごらんになったらどうでしょう?」
「なんとも思わないさ。セ・ネドラはぼくと同じくらいきみを愛してる。ポルおばさんにその肩を見てもらおう」
「ほんとうになんでもないんです、ベルガリオン」
「ポルおばさんと議論したいのか?」
ヴェルヴェットは考えこんだ。「いいえ。やめたほうがよさそうですわ。わたしの手を握っていてくれるようにケルダーを呼んでいただけます?」
「ほかには?」
「よろしければ、もう一度キスを」
ポルガラは治療者らしいそっけなさで、ヴェルヴェットの灰色のドレスの前を開き、注意深く金髪の娘の肩にできた紫色のあざを診察した。ヴェルヴェットは顔を赤らめて豊かな胸を慎み深くおおった。
「どこも折れていないと思うわよ」ポルガラは傷ついた肩をそっと探りながら言った。「でも、かなり痛くなりそうね」
「そのことはひょうに打たれた瞬間にピンときました」ヴェルヴェットが痛みにひるみながら言った。
「ねえ、サディ」ポルガラはきびきびと言った。「よく効く鎮痛剤が必要なの。なにがいいと思う?」
「オレトがありますよ、レディ・ポルガラ」宦官は答えた。
ポルガラは思案した。「だめね。それだと体がしゃんとなるまで二日はかかるわ。ミゼスはある?」
サディはいささかぎょっとしたようだった。「レディ・ポルガラ」抗議口調で言った。「ミゼスはすばらしい鎮静剤ですが――」と痛がっているヴェルヴェットを見た。「例の副作用があるじゃありませんか」
「必要とあらば、わたしたちでリセルをコントロールできるわ」
「どんな副作用なんだ?」金髪の娘のそばを保護者のようにうろついていたシルクが問いつめた。
「ある種の――その、なんというか――熱情を喚起する傾向があるんですよ」サディは遠回しに答えた。「ニーサでは広くその目的で使われています」
「そうか」シルクはちょっと赤くなった。
「一滴でいいわ」ポルガラが言った。「いえ。二滴にして」
「二滴も?」サディが大声を出した。
「痛みがおさまるまで効き目が持続してほしいのよ」
「二滴ならたしかに持続するでしょうが、効果が弱まるまで彼女を閉じ込めておかなけりゃなりませんよ」
「必要なら眠らせておくわ」
サディは納得しかねるといった顔で、赤い箱をあけ、濃い紫の液体がはいったガラス瓶を取り出した。「わたしは反射ですね、レディ・ポルガラ」
「信用してちょうだい」
「だれかがそのせりふを口にすると、いつもわしは神経質になるんだ」ベルガラスがベルディンに言った。
「いろんなことでおまえは神経質になるんだな。あの娘がよくなるまで、どうせおれたちはどこへも行けないんだぜ。ポルは自分の仕事はちゃんとわきまえてるさ」
「かもしれん」ベルガラスは答えた。
サディは紫色の薬を慎重に二滴、コップの水にたらして、指でかきまぜた。そのあと、かなり注意して布きれでその手をふいた。かれはコップをヴェルヴェットに渡した。「ゆっくり飲んでください。すぐにひどく妙な気持ちになってきます」
「妙な気持ち?」ヴェルヴェットは疑わしげに聞き返した。
「そのことはあとで話しましょう。いま知りたいのは、この薬が痛みを取り去ってくれるかどうかですから」
ヴェルヴェットはコップの中身をすすった。「悪くない味よ」
「そりゃそうですよ。コップの底が見えてくればくるほど、おいしくなってくるんです」
ヴェルヴェットは液体を少しずつ飲みつづけた。顔が上気してきた。「まあ、なんだか急に暑くなってこない?」
シルクが彼女の横の腰掛けにすわった。「効き目はどうだ?」
「んん?」
「肩のぐあいはどう?」
「傷を見た、ケルダー?」リセルは服の前をはだけて肩をケルダーに見せた。傷以外の部分も、ケルダーだけでなく部屋にいた全員に見せてしまった。「あら、やだ」隠そうともしないで、ぼんやりと言った。
「さっき言われた手段を講じたほうがいいんじゃありませんか、レディ・ポルガラ」サディが言った。「このままだといつなんどき困ったことになるかわかりませんよ」
ポルガラはうなずいて、片手をヴェルヴェットの額にちょっとあてた。ガリオンは軽いうねりを感じた。
「急にとっても眠くなっちゃったわ」ヴェルヴェットは言った。「薬のせいかしら?」
「まあね」とポルガラ。
頭ががくんと垂れ、ヴェルヴェットはシルクの肩にしなだれかかった。
「彼女を連れてきて、シルク」ポルガラは小男に命令した。「リセルのベッドを見つけましょう」
シルクは眠っている娘を抱き上げて、ポルガラにつきそわれて部屋を出ていった。
「あのお薬はいつもあんな効果があるの?」セ・ネドラがサディにたずねた。
「ミゼスですか? ええ、そうです。棒きれだってその気になるくらいですよ」
「男の人にも効くの?」
「性別にかかわりなくです、女王陛下」
「とっても興味深いわ」セ・ネドラはいたずらそうにガリオンに流し目をくれて、言った。「その小さな瓶、なくさないでね、サディ」
「余計なお世話だ」ガリオンは妻に言った。
部屋が片づくまで、十五分ほどかかっただろう。シルクと戻ってきたとき、ポルガラはほほえんでいた。「いまは眠っているわ。他の部屋も見てきたの。この家の女主人はとてもきれい好きな人間だったようよ。家族が出発したとき、ひどくちらかっていたのはこの部屋ひとつだけですもの」ポルガラは持っていた蝋燭を下におろして満足気に灰色の服のしわをのばした。「とてもいい家だわ、おじさん」とベルディンに言った。
「気に入ってくれてやれやれだ」ベルディンは窓ぎわの背もたれの高い椅子にだらしなくすわって、かぎ裂きのできた左の袖の皮紐を注意深く結びなおした。
「ここから川まであとどのくらいだ?」ベルガラスがきいた。
「まだだいぶある――馬をとばしても最低一日はかかるだろう。それ以上正確にはわからん。風が向かってきたとき、羽根があらかた吹き飛ばされちまったんでな」
「この先の農村地帯はあいかわらずからっぽなのか?」
「それがはっきりせんのだ。おれはそうとう高いところを飛んでたし、下に人間がいたとしても、この嵐でどこかに逃げ込んでただろうからな」
「朝になったら、ひとつ調べてみなけりゃならんな」ベルガラスは椅子によりかかって、炉床のほうへ両足をつきだした。「火を起こしたのは名案だったな。空中にはかなりの寒気がいすわっている」
「地上に三、四インチの氷を積むと、ときどきそういうことが起きるんだ」ベルディンが言った。醜い魔術師は考えこむように目をすがめた。「このあたりでは午後になると定期的にこういう嵐が起きるとすると、朝の数時間のうちにマガン川を渡る必要がある。屋根なしの舟でひょうに見舞われるのは、おれならごめんだ」
「こら、やめろ!」サディがジスの土焼きの壺にむかって鋭く言った。
「なにかあったの?」セ・ネドラがたずねた。
「おかしな音を立てていたんですよ」サディは答えた。「大丈夫なのか確かめようとしたら、わたしに向かって怒ったんです」
「そういうことはときどきあるんでしょう?」
「これはちょっとちがったんです。じっさいにわたしに向かってあっちへ行けと警告してたんですよ」
「病気かしら?」
「そうではなさそうです。まだほんのねんねですし、食べ物についてはかなり注意してきましたからね」
「強壮剤が必要なのかもしれないわね」セ・ネドラは物問いたげにポルガラを見た。
ポルガラは面目なさそうに笑った。「ごめんなさい、セ・ネドラ、でも爬虫類の病気は扱ったことがないのよ」
「なにか他の話をしようぜ」シルクが訴えるように言った。「ジスはそりゃかわいい動物だろうけど、蛇に変わりはないんだからな」
セ・ネドラが急に目を怒らせて、ぱっとシルクのほうを向いた。「よくもそんなことが言えるわね」かみつくように言った。「ジスは二度もわたしたちの命を救ってくれたのよ――一度はラク・ウルガであのグロリムのソーチャクを噛んだとき、もう一度はアシャバでハラカンに噛みついたとき。ジスがいなかったら、わたしたちはここにいないわ。せめてささやかな感謝の気持ちぐらい示してもいいと思うわ」
「そりゃまあ……」シルクはおぼつかなげに言った。「そのとおりだろうが、ちぇっ、セ・ネドラ、おれは蛇というやつに耐えられないんだよ」
「わたしはジスを蛇だなんて思ってさえいないわ」
「セ・ネドラ」シルクは辛抱強く言った。「ジスは長くてやせてるし、のたくるし、腕も足もないうえ、毒を持ってるんだ。よって、ジスは蛇なんだ」
「偏見を持ってるのね」セ・ネドラは非難した。
「う――そうだな、そう言ってもいい」
「あなたにはがっかりだわ、ケルダー王子。彼女はやさしくて、愛らしくて、勇気ある小さな生き物なのよ、それなのに、彼女を侮辱するのね」
シルクは一瞬セ・ネドラを凝視したあと、立ち上がって土焼きの壺に仰々しく一礼した。「大変もうしわけなかったよ、親愛なるジス」と謝った。「おれは頭がどうかしていたんだ。その冷たい小さな緑の心において、おれを許してもらえるかい?」
ジスはシルクに向かってシュウシュウ音を立てたが、その音はしまいに興味ありげなうなりに変化した。
「ほっといてくれと言ってますよ」サディが通訳した。
「ジスの言うことが本当にわかるのか?」
「だいたいのところはね。蛇の語彙は貧弱ですから、二、三の言い回しを拾い上げるのはそうむずかしいことじゃないんです」宦官は眉をひそめた。「しかし、最近はやたらと悪態をついてましてね、ジスらしくないんですよ。普段はいたって品のいい蛇なのに」
「こんな会話におれが加わってるなんて信じられないよ」シルクは首をふりふり廊下へ出て家の奥へ行ってしまった。
ダーニクがトスとエリオンドをしたがえて戻ってきた。ポルガラの料理道具と食べ物の詰まった荷物をかかえていた。ポルガラは暖炉とその設備をとっくり観察してから言った。「このところ簡単な食事ばかりだったわね。ここにはりっぱな台所があるから、利用しない手はないわ」食べ物の荷物をあけて、中をひっかきまわし、「旅行用の携帯食以外に腕のふるいがいのあるものがなにかあったらねえ」とひとりごちるように言った。
「裏に鶏小屋があるぜ」ベルディンが役に立つことを言った。
ポルガラはベルディンにほほえみかけ、ほとんど夢見心地で言った。「ダーニク、ディア」
「すぐに手配するよ、ポル。三羽でどうだろう?」
「四羽にして。それなら出発するときに冷えた鶏肉を持っていけるわ。セ・ネドラ、ダーニクと一緒に行って見つかるだけの卵をみんな集めてちょうだい」
セ・ネドラは目を丸くしてポルガラを見つめた。「いままで卵を集めたことなんて一度もないわ、レディ・ポルガラ」
「むずかしいことじゃないわ、ディア。わらないように注意するだけでいいの、それだけよ」
「でも――」
「卵があれば、朝食にチーズ・オムレツをこしらえようと思ったんだけれど」
セ・ネドラの目があかるくなった。「バスケットを取ってくるわ」いそいで言った。
「すばらしい思いつきね、ディア。おじさん、もう他に興味深いものはないの?」
「家の裏手に醸造所がある」ベルディンは肩をすくめた。「のぞいてみる暇はなかった」
ベルガラスが立ち上がった。「いまからのぞいてみたらどうだ?」
「農村なんかでうまいビールを作れるわけないだろう、ベルガラス」
「ここは例外かもしれんぞ。味見してみるまではなんとも言えんさ、そうじゃないか?」
「それももっともだな」
ふたりの老魔術師は、エリオンドが暖炉にさらに薪をくべているあいだに、家の裏手へ出ていった。
セ・ネドラがぶりぶりしながら戻ってきた。「鶏ったら卵をくれようとしないのよ、レディ・ポルガラ」と文句を言った。「卵の上にすわってるの」
「その下に手を伸ばして、卵を取らなくちゃだめなのよ、ディア」
「そんなことをして鶏たちが怒らない?」
「こわいの?」
小さな女王の目つきがけわしくなり、彼女は決然と部屋を立ち去った。
家の裏にある半地下の貯蔵室は野菜類に占拠されており、ベルガラスとベルディンは醸造所から樽入りのビールを持ってきた。鶏たちがあぶられているあいだ、ポルガラは台所の缶や瓶をひっかきまわした。粉とその他の材料をたくさん見つけだすと、てきぱきと腕まくりして大量の練り粉をまぜあわせ、暖炉のそばの手入れの行き届いたまな板の上でそれを練りはじめた。「今夜はビスケットが食べられると思うわよ」ポルガラは言った。「朝になったらほかほかのパンを焼くわ」
夕食はこの何ヵ月かにガリオンが食べた最高の食事だった。宿屋やそれに類する場所で宴会や舌を満足させるに足る食事は何度もしていたが、ポルおばさんの料理には世界中のコックが束になってもかなわないある種のいわくいいがたい味わいがあった。食べ過ぎるほど食べたあと、ガリオンはためいきとともに皿を押しやって、椅子によりかかった。
「わたしたちのために少しは残す決心をしてくれてよかったわ」セ・ネドラがややそっけない口調で言った。
「なにか気に入らないことでもあるのか?」ガリオンはきいた。
「いいえ、そうじゃないわ、ガリオン。ただちょっといらいらしてるのよ」
「どうして?」
「鶏につつかれたの」大皿の上のあぶられた雌鶏の残骸を指さした。「あの鶏に」彼女は手を伸ばしてその鶏の手羽をむしりとると、小さな白い歯で残酷に噛みついた。「ほうら」セ・ネドラはかたきでも取ったように言った。「いかが?」
ガリオンは妻を知っていたから、笑うような愚かなまねはしなかった。
夕食後、外で荒れ狂う嵐をよそに、一同は満たされた幸福感にひたりながらぐずぐずとテーブルにいすわっていた。
そのとき、光が見え、おずおずとドアをたたく音がした。ガリオンはとびあがって背中の剣に手を伸ばした。
「お邪魔するつもりはありません」ドアの向こう側から短気そうな年寄りの声が言った。「必要なものはすべてお持ちなのかどうか確かめたかっただけです」
ベルガラスが椅子からたちあがり、ドアに近づいてあけた。
「聖なるベルガラスどの」おもてにいた男は深い尊敬をにじませてお辞儀した。ひどく年を取っており、雪のように白い髪にしわ深い顔をして、やせていた。
男はグロリムでもあった。
ベルガラスは用心深く男を見つめた。「わしを知っているのか?」とたずねた。
「もちろんです。みなさんがたのことも知っています。お待ちしていたのですよ。入ってもかまいませんか?」
ベルガラスが黙ってわきへどくと、高齢のグロリム僧はねじれた杖にすがって、よたよたと部屋に入ってきた。かれはポルガラに頭をさげて、「レディ・ポルガラ」とつぶやくと、今度はガリオンのほうを向いて言った。「陛下、陛下のお許しを乞うてもよろしいでしょうか?」
「なぜだ?」ガリオンはきいた。「ぼくになにもしなかっただろう」
「いえ、したのです。陛下。〈永遠の夜の都市〉で起きたことを耳にしたとき、わたしはあなたさまを憎みました。そのことを許していただけますか?」
「許すことはなにもない。そう感じるのは当然のことだったんだ。心境が変化したということか?」
「考えを改めたのです、ベルガリオン王。アンガラクの新しい神はトラクより思いやりに富む、やさしい神であられるでしょう。いまのわたしはひたすらその神にお仕えするために生きているのです。神の降臨をお待ちしているのです」
「まあ、おすわり」ベルガラスが言った。「なにか宗教的体験をしたようだな?」
年老いたグロリムはしわだらけの顔に喜ばしげな笑みを浮かべて、椅子にすわりこんだ。「心を動かされたのです、聖なるベルガラス」かれはなんのてらいもなく言った。「わたしはこの村の神殿で生涯をトラクに仕えることに注いできました。神の死を知ったときは人にはわからないほど苦悩しました。なんの疑いもなくトラク神に仕えていたからです。いま、わたしは神殿の壁からトラクの肖像をとりはずして、いけにえにされる犠牲者の血のかわりに花で祭壇を飾っています。いけにえの儀式の最中にわたし自身ナイフをふるったときのことを、いたく後悔しています」
「それほどまでにあなたを変えたものはなんだったの?」ポルガラがたずねた。
「それはわたしの魂の静寂の中で、わたしに話しかけてきた声でした、レディ・ポルガラ、全世界に光が横溢したかと思われるほどの喜びでわたしを満たしてくれた声だったのです」
「それで、その声はあなたになんと言ったの?」
老僧は黒い服の中へ手を入れて、一枚の羊皮紙をひっぱりだした。「声がわたしに語りかけた言葉を細心の注意を払って、正確に書き記しました。というのも、それがわたしの受けた指示だったからです。人間というものは言われたことを誤解したり、あるいは、気にいらないとか、理解できないとかいう理由で、歪曲したりするものですからね」グロリムは穏やかに微笑した。「しかし、わたしが書いたことは他人に聞かせるためにあるのです。なぜかといえば、それらの言葉はこの紙の上よりわたしの心にしっかりと刻み込まれているからです」かれは羊皮紙を持ち上げて、ふるえる声で読み上げた。「『見よ。〈永遠の夜の都市〉における〈光の子〉と〈闇の子〉の対決ののち、大いなる絶望が〈闇の神の僧侶たち〉の上にふりかかるであろう。なんとなれば、〈神〉は倒れ、もはや民の中にはあらわれないからである。しかし、気落ちすることはない。汝の絶望は新たなる太陽の誕生によって消しさられる夜にすぎぬからである。まことに余は汝に告ぐ、アンガラクは真の神の降臨によって生まれ変わるであろう――〈彼〉はそもそものはじまりより、アンガラクを導くことになっていた人物である。見るがよい、〈闇の神〉は万物を分割した出来事≠フ発生と同時に無から生まれたのであり、アンガラクを導き守るのをあらかじめ定められていたのは〈闇の神〉ではなかったのだ。〈闇の子〉と〈光の子〉の最後の対決において、真実のアンガラクの神があらわされ、汝は心と情熱をその〈神〉に捧げるであろう。
そしてアンガラクのたどるであろう道は選択≠ノよって決定され、一度その選択≠ェなされれば、それはくつがえすことはできず、善と悪とにかかわらず、永遠に世に広まるであろう。なぜなら、聞くがよい、〈もはや存在しない場所〉にはふたりが立つが、選ばれるのはひとりだけだからである。そして〈光の子〉と〈闇の子〉は選択≠予想して立つふたりのもとへかれらを導く精神の重荷に身をゆだねるであろう。選択≠ェ一方を選べば、世界は闇にのまれるであろう。しかし、もう一方を選べばいっさいは光に浸される。時の始まりが起きる以前から定められていたのはそれなのだ。
ゆえに、希望のうちに待つがよい。汝の友を親切に愛情をこめて扱うがよい。それが真実の〈神〉には喜ばしいことだからである。この〈神〉が普遍となり、選ばれれば〈神〉は汝を祝福し、穏やかに汝を支配するであろう』」老グロリムは羊皮紙をおろして、祈るようにこうべをたれた。「このように声が話され、わたしの心を歓喜で満たし、失望を消してくださったのです」
「聞かせてくれて感謝するよ」ベルガラスが言った。「なにか食べ物はどうだ?」
グロリム僧は首をふった。「もう肉は食べないのです。〈神〉の腹立ちをまねくようなことはしたくないのです。短剣も捨てましたし、これからの余生ではもう一滴の血も流すつもりはありません」かれはたちあがった。「そろそろ失礼します。わたしがお邪魔したのは、声がわたしに語られた言葉をあなたがたにお教えするためですし、全アンガラク人の中に少なくともひとりはあなたがたの成功をお祈りしている者がいることをお伝えするためだったのです」
「ありがとう」ベルガラスは心から言った。かれはドアに歩み寄り、穏やかな老人のためにドアをあけて支えてやった。
「ありゃかなり詳しかったじゃないか?」グロリム僧が行ってしまうと、ベルディンが言った。「予言があれだけずばりと本題にふれてるのを聞いたのははじめてだぜ」
「あの男は本当の予言者だっていうんですか?」シルクがきいた。
「もちろんそうさ。ほとんど古典的ケースといっていい。すべての徴候を兼ね備えていたよ――恍惚、急激な人格の変化、なにもかもだ」
「だが、どこかおかしいところがある」ベルガラスがけげんそうに言った。「わしは何千年も予言書を読んで過ごしてきたが、あの男の言ったことはこれまでわしがでくわしたどんな予言書とも――わしら側の予言書であれ、相手側のであれ――感じがちがうのだ」ベルガラスはガリオンを見た。「おまえの友人と接触できるか? かれと話す必要があるのだ」
「やってみるよ」ガリオンは答えた。「でも、ぼくが呼んだからといっていつもきてくれるわけじゃない」
「つかまえられるかどうかやってみろ。重要なことだと言うんだ」
「なにができるかみてみよう」ガリオンは腰をおろして目を閉じた。(いますか?)
(どなるな、ガリオン)気を悪くしたような口ぶりで声が応じた。(耳ががんがんする)
(すみません)ガリオンはあやまった。(そんなに大声でしゃべっているとは知らなかったんです。おじいさんがあなたと話したがっています)
(よかろう。目をあけろ、ガリオン。目をつぶっていたんじゃ見えない)
前にもときどき起きたように、ガリオンは自分が意識のひそやかな片隅に押し込められ、声が意識を支配するのを感じた。「よかろう、ベルガラス」声はガリオンの口を通して言った。「今度はなんだ?」
「ふたつ質問があります」老人は答えた。
「目新しいことではないな。おまえはいつも質問があるのだ」
「グロリム僧の言ったことを聞きましたか?」
「当然だ」
「あなただったのですか? つまり、あのグロリムが聞いた声はあなただったのですか?」
「いや。じっさい問題として、わたしではない」
「すると、もうひとつの存在だったのですか?」
「いや。かれでもなかった」
「じゃあ、だれだったんです?」
「アルダーがおまえを一番弟子に選んだことがときどき信じられなくなる。おまえの頭にはウールでも詰まっているのか?」
「侮辱することはないでしょう」ベルガラスはいささかむすっとして言ったが、ベルディンは甲高い聞き苦しい笑い声をたてた。
「しかたがない」声はためいきをついた。「注意して話すことにしよう。あまり聞きもらさないようにしろ。わたしの分身とわたしは〈宿命〉がふたつに分かたれたとき、誕生した。そこのところはわかったか?」
「それならもう知っていますよ」
「思い出すことさえできたというわけか? これはおどろいた」
「どうも」ベルガラスは感情を殺した声で言った。
「わたしはガリオンの語彙で話している。かれは農民だから、ときに木で鼻をくくったような言い方になるのだ。さて、〈宿命〉がふたたびひとつになるとき、新しい声が出現するというのは、いたって筋の通ったことに思えないか? そのときわたしの分身とわたしは目的を果たすことになる。したがってわれわれはそれ以上必要ないわけだ。わたしたちのあいだにあった何百万年もの不和は、わたしたちの認識力を多少ゆがめてしまった」
ベルガラスはそれを聞いておどろいた顔をした。
「考えてもみろ」声がベルガラスに言った。「わたしはひとつになった宇宙を相手にするには適していない。古い恨みをあまりにもたくさんかかえている。その点、新しい声はなんの先入観もなく、新たにスタートできるのだ。そのほうがいいにきまっている」
「あなたがいなくなるとさびしくなります」
「感傷的になるな、ベルガラス。そういうのには我慢ならんのだ」
「ちょっと待ってください。この新しい声は対決のあと誕生するのですね?」
「じっさいには、対決の瞬間に」
「では、まだ存在していないのに、どうやってさっきの老グロリムに話しかけたのです?」
「時はわれわれにとってはあまり意味がないのだ、ベルガラス。われわれはさしたる困難もなく、時の中をいったりきたりできる」
「未来からグロリムに話しかけていたということですか?」
「あきらかにな」ガリオンは皮肉めいたかすかな微笑が自分のくちもとをよぎるのを感じた。「わたしが過去からおまえに話しかけているのではないとどうしてわかる?」
ベルガラスは目をぱちくりさせた。
「これでわかったぞ」ベルディンが勝ち誇って言った。「おれたちは勝つんだ、ちがいますか?」
「そう望むことはできる。だが保証はない」
「グロリムに話しかけた声は、思いやりのある〈神〉を象徴しているんだ、でしょう?」
「そうだ」
「〈闇の子〉が勝つなら、〈新しい神〉はあまり思いやりに富むとはいえない、ですね?」
「そうだな」
「じゃ、声が未来からグロリムのところへきたという単純な事実こそ――選択≠フあと――〈光の子〉が勝つことをあらわしている、そうじゃないですか?」
〈声〉はためいきをついた。「おまえはどうしていつも問題をややこしくするのだ、ベルディン? グロリムに話しかけた〈声〉は、新しい存在の持つ可能性なのだ。それはただ、物事が最終的に手遅れにならず、優勢になるための準備をしに時をさかのぼっているのだ。選択≠ヘまだ行なわれなかったのだ」
「存在の可能性にそんな力があるんですか?」
「可能性はとほうもない力をもっているのだ、ベルディン――ときには現実よりも強い力を」
「すると、もうひとつの存在の可能性も、それなりの準備をしているわけですね?」
「だとしても、わたしはちっともおどろかんよ。おまえは明白なことについてはすぐれた把握力をもっているな」
「じゃ、おれたちはスタート地点にもどるわけだ。支配をめぐって時と宇宙を越えてとっくみあうふたつの存在が、あいかわらずいるわけですね」
「そうではない。選択≠ェ可能性のひとつを永遠に抹消するだろう」
「わかりませんね」ベルディンはすなおに言った。
「おまえにわかるとは思っていない」
「この新しい声のしている準備とはどんなものなのです?」だしぬけにポルガラがたずねた。
「おまえたちのもとへきたグロリムは予言者となり、〈新しい神〉の一番弟子となるだろう――むろん、〈光の子〉が選ばれればだが」
「グロリムが?」
「決定をくだしたのはわたしではない。だが、〈新しい神〉は〈アンガラクの神〉となるわけだから、つじつまはあうだろう」
「それには多少慣れが必要ですわ」
「おまえもわたし同様多くの偏見を持っているな、ポルガラ」声は笑った。「だが、結局おまえのほうが融通がきく――このふたりの頑迷な老人よりはまちがいなく。いずれおまえはそれを受け入れるようになる。では、もう質問がなければ、わたしにはまだやらねばならんことがあるのだ――時のもうひとつの部分においてな」
それだけ言うと、声は消えた。
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3
いまにも沈もうとする太陽が、近づいてくる嵐を強引に貫いて、西の空にわきあがった紫色の層雲を黄土色に染めていた。ガリオンは長い丘の頂上から隣りの谷を見おろした。そこにはいくつかの部分から構成された建物群があった。あまりにも見慣れたたたずまいだったので、かれは尻を地面に落として、おどろきのあまりしばらくそれをながめていた。しばらくしてからふたたび四本脚でたちあがり、用心深く丈の高い草をかきわけてその農場へ向かった。煙は見えず、大きな門はあけっぱなしだったが、危険は冒さないことにした。農夫というのは反射的に狼に反感を持つものだ。物陰から放たれる矢をよけるような目にだけはあいたくない。
ガリオンは農場を取り囲む空き地のはじで足をとめ、草むらに腹ばいになって、しばらく農場を観察した。無人らしい。かれは走っていって、開けはなたれた門をそっとくぐりぬけた。世界の反対側にあるファルドーの農場と同じくらい広々としている。
あけっぱなしの物置小屋のドアから足を忍ばせて中へはいり、何者かがひそんでいる気配はないかと鼻と耳を働かせて、片方の前足をかすかに浮かせたまま戸口でたちどまった。農場は静まりかえっていた。聞こえるものといえば、中庭の向こうの納屋で乳を張らせた牝牛の不満げなうめきだけだ。もちろん人間の匂いはあったが、どれも何日も前の匂いだった。
ガリオンは小屋からすべりでて、警戒しながらドアからドアへと移動し、あごで取っ手をひねって順番にドアをあけていった。そこは多くの点でびっくりするほど見慣れた雰囲気を漂わせていた。おかげでかれはとっくの昔に忘れたと思っていた胸をえぐるような郷愁に襲われるはめになった。貯蔵室はファルドー農場のそれとほとんど同じだった。鍛冶屋の仕事場はダーニクのそれとうりふたつで、友だちのハンマーが鉄床にぶつかる音がいまにも聞こえてきそうだった。目をつぶっていても、まちがわずに中庭を横切って台所へいけると確信したほどだった。
ガリオンは順序正しく農場の一階の部屋をひとつずつ確かめたあと、爪先の爪で木の階段をひっかきつつ回廊に通じる階段をのぼった。
どこもかしこも閑散としていた。
中庭へ引き返し、ためしに納屋に鼻をつっこんでみた。牝牛が恐怖の鳴き声をたてたので、それ以上牝牛を苦悩させるのはよそうと、あとずさってドアの外へ出た。
「ポルおばさん」ガリオンは思念を送りだした。
「なあに、ディア?」
「ここにはだれもいない。申し分のない場所だよ」
「申し分がないだなんてほめすぎよ、ガリオン」
「自分で見てごらんよ」
数分後、ベルガラスがかけ足で門をくぐりぬけ、鼻をうごめかして、あたりを見回し、本来の姿に戻った。「わが家にかえってきたみたいじゃないか?」かれはにっこりした。
「ぼくもそう思ったんだ」ガリオンは答えた。
ベルディンが螺旋《らせん》を描いて空からおりてきた。「川まで約一リーグだな」変身しながら言った。「このまま行けば、暗くなるまでにつけるぜ」
「行くのはやめて、ここにとどまろう」ベルガラスが言った。「川の土手は巡回されているかもしれんし、必要のない暗がりをこそこそしても意味がない」
ベルディンは肩をすくめた。「おまえしだいさ」
そのとき幽霊のように青白いポルガラが物音ひとつたてずに塀の上空へ舞い降りてきて、中庭中央の手押し車のテールゲートにとまり、いつもの姿になった。
「まあ」彼女はつぶやくと、下におりて周囲をながめた。「あなたの言ったとおりだったわ、ガリオン。本当に申し分ないわ」マントを腕にかけて、彼女は中庭を横切り、台所のドアに近づいた。
五分ばかりたって、ダーニクがみんなを連れて中庭へはいってきた。かれも周囲を見回したあと、いきなり笑いだした。「ファルドー自身があのドアから出てきそうだな。世界の裏と表にあるふたつの場所がこんなに似かよっていることなんてあるのかね?」
「農場にとってはこれがもっとも実用的な作りなんだよ、ダーニク」ベルガラスが教えた。「それにおそかれはやかれ、世界中の実用的人間はここに到達する。あの牝牛をなんとかしてくれんか? 一晩じゅう鳴かれたんじゃ、みんな不眠症になってしまう」
「すぐに乳をしぼりましょう」鍛冶屋は鞍からおりて馬を納屋のほうへひいていった。
ベルガラスは愛情のこもった表情でそのうしろ姿を見送った。「朝になったら、ダーニクをここから引き離さなけりゃいけなくなるかもしれんぞ」
「ポルガラはどこです?」シルクが馬からおりるヴェルヴェットに手をかしてやりながら、たずねた。
「あそこにきまっとるだろう」ベルガラスは台所のほうを指さした。「ポルをあそこから出すのは、ダーニクを鍛冶屋の仕事場からひきずりだす以上に骨が折れるかもしれん」
ヴェルヴェットは夢でも見ているような表情でまわりをながめた。前夜サディが飲ませた薬の効果がまだ完全に消えておらず、ガリオンはポルガラが彼女を厳重に管理しているのだろうと推測した。「とてもすてきだわ」ヴェルヴェットは無意識にシルクのほうへ身を傾けた。「家庭的ね」
シルクの顔つきはいまにも走りだそうとしている男のそれのように、用心深かった。
その夜、梁のある台所の長いテーブルを囲んで、かれらはまたたらふく食べた。蝋燭の金色の光が部屋を満たし、壁にかかったやかんのぴかぴかの銅の底に映ってまたたいていた。午後中強まっていた嵐が外で荒れ狂い、雷鳴と風と豪雨で夜を満たしていたが、部屋は居心地がよく、あたたかだった。
ガリオンは妙に平和な気持ちだった。一年以上たえて知らなかった平和だった。この再生の時間がこの先に控える数ヵ月のクライマックスにそなえて、自分に力を与えてくれるのだと知って、かれはありがたくそれを受け入れた。
「うわ!」サディが叫んだ。食事をすませたあと、宦官は赤い革の箱を台所の向こう端へ持っていって、しぼりたてのあたたかいミルクの皿でジスを小さな家から誘いだそうとしているところだった。
「どうしたの、サディ?」薬の効果と、静かにしていなさいというポルガラの主張をふりはらうように、ヴェルヴェットがたずねた。
「ジスのやつ、わたしたちにちょっとしたプレゼントをしてくれましたよ」サディははしゃいだ口調で答えた。「じっさいには、数匹の小さなプレゼントです」
ヴェルヴェットは興味しんしんでサディのそばへ行った。「まあ」彼女は小さく息をのんだ。「かわいらしいじゃない?」
「なんなの?」ポルガラがたずねた。
「わたしたちのかわいい小さなジスはおかあさんになったんです」ヴェルヴェットが言った。
みんながたちあがって、生まれたての赤ん坊を見に部屋の向こう端に集まった。母親に似て、赤ん坊蛇たちはどれもあざやかな緑色で、鼻から尻尾まで特徴のある赤いしまがはいっていた。全部で五匹で、ミミズほどの大きさもない。皿の端にそろってあごをのせ、小さな二叉の舌を突き出して、喉を鳴らすような音をたてながら温かいミルクをなめている。ジスがまじめくさった顔つきをむりに保って、庇護するように子供たちの上で体をゆらしていた。
「これでジスが最近あんなに不機嫌だった理由がわかりましたよ」サディが言った。「どうして教えてくれなかったんだ、ジス? 出産を手伝ってやれたのに」
「おれなら蛇の産婆になるのはごめんだな」とシルク。「それに、爬虫類ってのは卵を生むんだと思ってたぜ」
「大部分の蛇はそうです」サディは認めた。「しかし、ある種の蛇は胎生なんですよ。ジスはたまたまそっちの種類でしてね」
「太ってきたと思ったのもそのせいだったのね」ヴェルヴェットが言った。「妊娠してたんだわ」
ダーニクがけげんそうな顔をして言った。「なにかおかしいな。ジスの同類はニーサにしかいないんじゃないのかい?」
「そうですよ」とサディ。「ニーサでも非常に珍しい種類です」
「じゃ、どうやって……」ダーニクはちょっぴり赤くなった。「わたしが言おうとしているのは、どうやってこういうことが起きたのかということなんだ。われわれは長いことニーサには行っていない。どこでジスは父親に会ったのかね?」
サディは目をぱちくりさせた。「本当だ。これはありえないことですな。ジス、おまえなにをやらかしたんだい?」
小さな緑色の蛇は知らん顔をした。
「本当はそんなに不思議なことじゃないよ、サディ」エリオンドがうっすら笑いながら言った。「シラディスがアシャバでジスに言ったことをおぼえていない?」
「なにかがおくれているとかいうことだった。わたしはあまり注意を払っていなかったんだよ。あのときわたしたちは気も狂いそうな騒ぎのまっただなかにいたからね、たしか」
「シラディスはこう言ったんだよ、『落ち着くのじゃ、小さな妹よ、おまえの一生の目的がいま達成されるからじゃ。おくれていたそれがいま実現するであろう』これがシラディスの話していたことなんだ。おくれていたことってこのことなんだよ」
「なあ」ベルディンがベルガラスに言った。「おれはエリオンドの言うとおりだと思うぜ。仕事を完成させるために予言が事態に干渉したのはなにも今回がはじめてじゃない。彼女の一生の目的≠チてのは、ジスはあるひとつのこと――ハラカンに噛みつくという――のために生まれたって意味なんだ。だから、いったんジスがそれをやったら、事態はまた正常に戻った」ベルディンはそこまで言って、エリオンドを見た。「シラディスの言ったことをよくも正確におぼえてたな。ウルヴォンの謁見の間にいたときのおれたちはひどく興奮してたってのによ」
「人の言うことはいつもおぼえるようにしてるんです」エリオンドは答えた。「そのときは、いつでも意味が通るってわけじゃないけど、そのうちぴったり組み合わさるときがくるような気がするんです」
「こりゃ摩訶不思議なぼうずだな、ベルガラス」ベルディンは言った。
「わしらもそのことにはときどき気づいておった」
「本当にありうるんですか?」サディはベルガラスにたずねた。「つまり、そういう干渉のことですが?」
「それはぼくの祖父に聞いちゃまずい質問なんだ」ガリオンが笑った。「ありえないことはなんだろうと信じない人だからね」
シルクはジスとその生まれたての子供たちから安全な距離を置いて立っていた。眉が心持ち弓なりになった。「おめでとう、ジス」ようやくかれは小さな緑色の母親に向かって言った。それからいかめしく子供たちを見つめた。「みんなとてもいい子たちのようだな。だが、もしもだれかがこいつらをかわいい赤ちゃん呼ばわりしたら、おれは悲鳴をあげるからな」
かれらは風呂をつかってベッドにひきあげたが、セ・ネドラは気分が落ち着かず、しきりに寝返りを打った。彼女はいきなり起き上がると、つぶやいた。「あのミルク、まだ温かいかしら」毛布をはねのけて、小さな素足でドアへ近づいた。「あなたも飲みたい?」ガリオンにたずねた。
「せっかくだけどいらない、ディア」
「飲めばよく眠れるわよ」
「眠れなくて困っているのはぼくじゃないさ」
セ・ネドラは舌を突き出してみせたあと、廊下へ出ていった。
数分後、ミルクのコップを手に戻ってきたとき、セ・ネドラはいたずらっぽいくすくす笑いをけんめいにこらえていた。
「なにがそんなにおかしい?」
「シルクを見たの」
「それで?」
「かれは気づかなかったけど、わたしは見たの。寝室へ行くところだったわ」
「自分の寝室なんだ、出ようがはいろうがかれの勝手だろう」
セ・ネドラはまたくすりと笑ってベッドにとびこんだ。「問題はそこなのよ、ガリオン。シルクの寝室じゃなかったの」
「そう」ガリオンはどぎまぎして咳きこんだ。「ミルクを飲めよ」
「しばらくそのドアに耳をつけていたのよ。かれらがなんて言ってたか、聞きたくない?」
「いや、別に」
とにかくセ・ネドラは話してきかせた。
雨はふりやんでいたが、はるか西のほうではいまだに雷がとどろき、ジグザグの稲光が西の地平線を荒し回っていた。ガリオンはふいに目ざめて、ベッドに起き上がった。おもてで雷鳴とはちがうとどろきがした。ときどきそれに甲高い叫びのような物音がまじる。ベッドをすべりでて、かれは農場を囲むバルコニーへ出た。長いたいまつの列が外の闇の中で西へ半マイルほどゆっくりと動いている。ガリオンは嵐のなごりをとどめる夜の中へ目をこらしたあと、狼のイメージを意識の中にかきたてはじめた。調べる必要のある事態だった。
たいまつは妙にのろいペースで動いていた。たいまつとの距離がちぢまるにつれて、かれはそれらがばかに高い位置にあるのに気づいた。持ち手が馬に乗っていても、あそこまで高くたいまつをかかげることはできない。とどろきにも似たゆっくりした音と奇妙などなり声はあいかわらずつづいている。しばらくしてからガリオンはイバラの茂みのわきで立ち止まり、腹ばいになって目と耳をそばだてた。巨大な灰色の獣たちの長い列が北東の方角へ向かって夜の中をとぼとぼと進んでいく。ポルおばさんが、クトル・マーゴスのヴァーカト島で森の狂った行者を追い払ったときに作り出した象のイメージなら、すくなくともガリオンは見たことがあった。しかし、象のイメージはあくまでもイメージで、現実はまったくの別物である。かれらはばかでかかった。これまでガリオンが見たことのあるどんな動物よりも大きく、その着実な歩調には一種重苦しい執念深さがあった。かれらの額と横腹は鎧の垂れでおおわれており、そのような重量をぶらさげていることにガリオンは内心ふるえあがったが、象たちは鎧が蜘蛛の巣同然の軽量物体であるかのように動いていた。帆のような耳が歩くたびにゆれ、ぶらぶらした鼻が体の前に垂れ下がっている。ときどき、そのうちの一頭が鼻を丸めて額にふれては、耳をつんざくトランペットのような音をたてた。
粗末な鎧姿の男たちが、その巨大な歩く獣たちの上に乗っていた。どの象を見ても、たいまつをかかげたひとりが巨大な首の上にあぐらをかいてすわっている。そのうしろには投げ槍、投石器、短い弓で武装した男たちが乗っている。行列の先頭で、うしろにつづく象たちよりもゆうに一ヤードは背の高い獣の首にまたがっているのはグロリムの黒装束をまとった男だった。
ガリオンは立ちあがって、もっとそばまで接近した。雨にぬれた草むらをかきわけるかれの用心深い前足は物音ひとつたてなかった。象たちがかれのにおいをすぐにかぎつけるのはわかっていたが、あんなに大きな獣ならたかが一匹の食肉動物は歯牙にもかけないだろうと考えた。それだけ巨大なものの前では、自分がちっぽけなノミのようにさえ思えた。あまりいい気持ちではない。かれ自身の体重は二百ポンドというところだが、象一頭の体重はポンドではなく、トンでないと計りきれなかった。
ガリオンは鼻と目を最大限に使って、五十ヤードばかりの距離を置いてその行列にこっそりついていった。注意はもっぱら、先頭の獣の首にまたがっている黒装束のグロリムに注いだ。
象たちは進みつづけ、ガリオンは距離を保って行列と平行に進んだ。
そうこうするうち、先頭の象の前方の道に、光沢のある黒いサテンの服をきた人影があらわれた。たいまつのあかりを受けて、服がきらめいている。行列がとまり、ガリオンはこっそりと距離をちぢめた。
サテンの服の人影が、渦巻く光に満ちて見える片手をあげて、頭巾を脱いだ。アシャバで、そしてザマドでも、ガリオンは息子の誘拐者の顔を短時間だが見たことがある。だが、そのダーシヴァの魔女との対決は危険と恐怖をはらんでいただけに、正直なところ、〈闇の子〉の容貌を記憶に刻みつける余裕はなかった。いま、さらに接近しながら、かれはたいまつのあかりを浴びた女の顔をじっと見つめた。
端正な、美しいとさえ言える顔だった。髪はつややかに黒く、肌はガリオンの従姉妹のアダーラに似て青白いほどだ。だが、似ているのはそこまでだった。ザンドラマスはグロリムであり、その黒い目はすべてのアンガラク人に共通するあの奇妙に角ばったけわしさをそなえていた。かすかなワシ鼻、広くなめらかな額。とがったあごが顔の輪郭を三角に見せている。
「おまえを待っていたのだよ、ナラダス」ザンドラマスは耳ざわりなアクセントのある声で言った。「いままでどこにいた?」
「お許しください、ご主人さま」先頭の巨大な雄象の首にまたがったグロリムがわびた。「象使いたちがわれわれの聞いた情報よりはるか南にいたのです」ナラダスは頭巾を脱いだ。残酷そうな顔の中で、白い目がゆらめくたいまつのあかりの中でぎらりと光った。「弟子の手下どもとのいざこざはいかがな具合いですか?」
「よくない、ナラダス」ザンドラマスは答えた。「やつの護衛とチャンディムとカランダ人の寄せ集めが、われわれの兵力を数の上で圧倒しているのだよ」
「わたしのうしろには象の騎兵隊がひかえています、ご主人さま」ナラダスは報告した。「かれらが戦いの流れを変えるでしょう。中部ペルデインの草原は、ウルヴォンの護衛やチャンディムやカランド人の血をたっぷり吸うはずですよ。われわれがやつらを撃退し、ダーシヴァを永遠に安全な地にします」
「ダーシヴァなどどうでもよいのだ、ナラダス。わたしは世界を求めているのだよ。マロリーの東の端にあるちっぽけな公国の運命など、わたしには取るにたりない問題だ。ダーシヴァをもちこたえさせようが、ひっくりかえそうが、どうでもよい。ダーシヴァは目的を果たした。もうあそこにはあきあきしているのさ。おまえの獣たちを戦場へ連れていくまで、どのくらいかかるのだえ?」
「せいぜい二日です、ご主人さま」
「では行くがよい。象たちをわたしの将軍たちの指揮下においたら、わたしの後を追ってケルにくるのだ。わたしはヘミルへ戻り、オトラスとベルガリオンのがきを連れてくる。予言者たちの聖なる山の陰でおまえを待っている」
「ウルヴォンが魔神のナハズとその手下どもを連れていたというのは本当ですか、ご主人さま?」
「連れていたよ。だが、もはやそれはわたしたちのおそれるところではない。悪魔を呼びおこすのはさほど困難ではないし、地獄の魔神はナハズひとりではないからね。魔神のモージャがかれの家来とともにわたしたちに加勢することに同意したのだよ。モージャとナハズのあいだには昔から敵意がくすぶっているのさ。かれらはいまや戦いあっているよ、並の兵力など物の数ではない力でね」
「ご主人さま!」ナラダスは叫んだ。「まさかそのような悪魔とつきあっておられるのではないでしょうね!」
「地獄の大王自身とでもつきあうさ、〈もはや存在しない場所〉で勝利をおさめるためならね。モージャは逃亡を装ってナハズを戦場からおびきだした。おまえの獣たちをそこへ連れておゆき。そうすればウルヴォンの軍勢を蹴散らせるだろう。ナハズとかれの手下どもはそこにいないから、おまえの足をひっぱることもない。だから、ありったけのスピードでケルへくるのだよ」
「はい、ご主人さま」ナダラスはおとなしく約束した。
ガリオンの中に怒りがゆっくりと蓄積されていた。息子の誘拐者はかれから数秒と離れぬ場所にいる。かれの牙がその体に食い込む前に、ザンドラマスが意志の力を集められるわけがないことは明白だ。たとえ、集められても手遅れだろう。ガリオンはぞっとするような歯をむきだして、首筋の毛をさかだて這うようにして一度に一歩ずつ、そろそろと近づいていった。かれは血に飢えていた。憎悪が頭の中で火のように燃えさかっている。おそるべき期待にふるえながら、かれは筋肉に力をこめた。低いうなり声が喉に充満した。
結局、ガリオンを現実に引き戻したのはそのうなり声だった。かれの頭をまひさせていた思考は、狼の思考だった。狼は目前のことしか考えない。本当にザンドラマスが二、三歩で飛びかかれそうなところに立っているなら、悲鳴のこだまが近くの丘からはねかえってくる前に、肉を裂き、彼女の立っている道端の草むらに血しぶきをとばすこともできるだろう。しかし、白目のナラダスの前に立っている姿が実体のない投影にすぎないとしたら、湾曲したかれの牙は空をかみくだき、ダーシヴァの魔女はアシャバでやったように、再度かれの復讐から逃れることになる。
ザンドラマスを警戒させたのは、ガリオンの頭の中で燃えていた思考だったのかもしれない。あるいは、ポルガラがしばしばやったように、ザンドラマスもまた意識で周囲を調べ、別の意識の存在をつきとめたのかもしれない。それがなんだったにせよ、魔女は突然ぎくりとして低い声をあげた。「あぶない!」白目の手下にすばやく言った。そのあと、ザンドラマスは冷酷で陰気な微笑を浮かべた。「だがわたしはアローンの魔術に動じない形態を持っているのだよ」ザンドラマスは身をひきしめた。と、姿がぼやけて、とほうもなく大きなドラゴンの姿が突然すくみあがった象たちの前に出現した。ドラゴンはばかでかい翼を広げて、湿った夜気の中へ舞い上がり、甲高いうなり声と赤黒い火で闇を満たした。
「ポルおばさん!」ガリオンの思念が飛び出した。「ドラゴンがくる!」
「なんですって?」ポルガラの思念が返ってきた。
「ザンドラマスが変身した! そっちへ飛んでいくんだ!」
「ここへ戻ってくるのよ!」ポルガラはてきぱきと命令した。「いますぐに!」
ガリオンはぱっと回れ右すると、湿った芝に爪を食い込ませてありったけの速さで農場めざして走った。後方で恐れおののく象たちの悲鳴と足を踏みならす音が聞こえ、それにかぶさるように巨大なドラゴンの耳をつんざくうなりが聞こえた。ガリオンは死にものぐるいで走った。ポルガラや他のみんながどんなに対抗手段をとろうとしてもザンドラマスに効果はないこと、〈鉄拳〉の燃える剣だけがザンドラマスを追い払えることを知っていたからだ。
遠くはなかったが、狼の走りかたで四肢をちぢめては伸ばして進む何秒間かが何時間にも思えた。ドラゴンの吐く火が、前方の上空にわきあがった雷雲を照らしているのが見えた。青ざめた薄気味悪い稲妻がけいれんするようにジグザグのすじを描いて雲から落下した。そのうちにドラゴンは巨大な翼を折りたたみ、逆巻く火のあとから農場めがけてまっさかさまに落ちてきた。
ガリオンは飛ぶように走りながら姿を変え、燃える〈鉄拳〉の剣を頭上にふりかざして門のほうへ走りつづけた。
最後の瞬間にドラゴンはばかでかい翼を広げて、依然として火と煙を噴きながら農場の構内に舞い降りた。蛇のような首を大きく回し、庭を取り巻く木造建築物に白熱した炎の渦を吐きかけた。乾燥した木材が焦げて煙をあげはじめ、あちこちでドア枠のすきまから小さな青い炎がちろちろと上へ伸びはじめた。
ガリオンは燃える剣を高々と持ち上げて庭へかけこむと、くるったようにドラゴンに切りつけはじめた。「きさまには魔術はきかないかもしれないがな、ザンドラマス!」ガリオンはわめいた。「これならどうだ!」
ドラゴンは悲鳴をあげて、炎のカーテンにガリオンをくるみこんだ。だが、かれはそれを無視して〈珠〉と剣の青い炎でドラゴンを打ちすえつづけた。ザンドラマスはついにその執拗な猛打にそれ以上耐えられなくなり、空中に飛び出してやみくもに大きな翼をはばたかせた。やっとのことで宙に浮き、農場の二階の屋根をかろうじて飛び越えた。それからふたたび地上におりて、建物に炎を吐きかけた。
ガリオンは再度対決しようと門から飛び出したが、とたんに棒立ちになった。そこにいたのはドラゴンだけではなかった。不思議な光輪に包まれた青い狼が、姿を変えたダーシヴァの魔女と相対していた。次の瞬間、かつてポルガラがスシス・トールでとてつもなく大きく膨張してイサ神に立ち向かったように、また、ガリオン自身が〈永遠の夜の都市〉でついにトラクと宿命の対決を果たしたときにやったように、青い狼はみるみる巨大化しはじめた。
両者の対決はさながら悪夢をつむぎだす繭だった。ドラゴンは炎で、狼はその恐ろしい牙で戦った。狼は実体がなかったから――牙以外は――ドラゴンの炎は効果がなく、狼の歯は非常に鋭かったが、ドラゴンの鱗だらけの皮を貫くことはできなかった。すさまじい、だが終わりのない戦いに両者は荒れくるった。やがてガリオンはあることを発見したような気がした。光はドラゴンにはマイナス要素だということだ。頭上の空はまだ夜の嵐の名残りをとどめるちぎれ雲によっておおわれ、稲妻の不機嫌な閃光がかえって空をくすませていたが、狼が突っ込むたびに、ドラゴンははっきりとすくみあがっている。ガリオンはピンときた。狼の牙はドラゴンを傷つけることはできないが、青い光輪にはそれができる。光輪はいわば〈珠〉の輝きや、〈鉄拳〉の剣の火に匹敵するものらしい。ポレドラを囲む青い輝きは、彼女が狼の姿を装ったときに、どういうものか〈珠〉の威力にあずかったのだ。無敵のドラゴンの姿でいるときでさえ、ザンドラマスは〈珠〉とそれに類するものをおそれている。ドラゴンのおびえぶりが目立ってくるにつれ、ポレドラはいきおいを得て牙をむき、残忍な突進をくりかえした。そうこうするうちに、突然両者は動きをとめた。無言の同意が行き交ったかのように、どちらも本来の姿に戻った。激しい憎悪を目にたぎらせて、ザンドラマスとポレドラはふたりの女として向き合っていた。
「警告したはずよ、ザンドラマス」ポレドラが死のように冷たい声で言った。「おまえがわたしたち全員を支配する〈宿命〉の目的を妨げようとすれば、いつでもわたしが邪魔をするわ」
「言ったはずだよ、ポレドラ、おまえなどこわくはないとね」魔女は応酬した。
「それならけっこうよ」ポレドラは喉を鳴らさんばかりだった。「ケルの女予言者を呼んで、いまここで、この対決の結果をもとに選択をしてもらいましょう」
「おまえは〈光の子〉ではないんだよ、ポレドラ。定められた対決とおまえはなんのかかわりもない」
「必要なら、わたしはベルガリオンのかわりに立つことができるのよ」ポレドラは答えた。
「なぜなら、おまえとかれの対決は創造の運命の礎となる対決ではないからよ。その最後の対決では、おまえはもはや〈闇の子〉ではなく、ガリオンはもはや〈光の子〉ではないわ。それらの重荷は他の者たちが引き継ぐよう定められているのよ。だから、おまえとわたしの対決をいまこの場で起こさせたらどう」
「おまえはいっさいを混沌へ突き落とそうというのだね、ポレドラ」ザンドラマスはわめいた。
「いっさいを、ではないでしょうね。おまえのほうがわたしより失うものははるかに大きいわ。ベルガリオンは〈光の子〉であり、かれはここから〈もはや存在しない場所〉へ行くでしょう。おまえは〈闇の子〉だけれど、もし、わたしたちがいまここで対決したら、そしておまえが負けたら、だれがおまえの重荷をひきつぐの? ウルヴォン、それともアガチャクかしら? それともほかのだれか? でも、おまえは高位にはつけない。そう思うと耐えられないのじゃなくて? よく考えることね、ザンドラマス、それから選ぶといいわ」
ふたりは向き合って立っていた。西の雲間で夜の嵐の稲妻が最後の青白い閃光を放って、ふたりの顔を不気味な光で浸した。
「どうなの、ザンドラマス?」
「きっと対決してやるよ、ポレドラ、そしてすべてが決まる――だがここでではない。これはわたしの選んだ場所ではないからね」それだけ言うと〈闇の子〉は微光を放って消失し、ガリオンはザンドラマスが転位する激しいうねりを聞くと同時に感じ取った。
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4
ポレドラはゆったりと落ち着いた足取りで、ガリオンのほうへ歩いてきた。金色の目は謎めいていた。「剣をしまいなさい、ガリオン」と言った。「もう必要ないわ」
「はい、おばあさん」ガリオンは背中へ腕をまわして、剣の先を鞘にさしこみ、あとは重みで自然に剣が鞘にすべりこむにまかせた。
「聞いたでしょう?」
「はい、おばあさん」
「じゃ、理解できた?」
「全部はわかりませんでした」
「そのうちきっとわかるわ。中へはいりましょう。夫と娘と話しあう必要があるのよ」
「わかりました」礼儀作法のことでガリオンはいささか心もとない気分だった。ポレドラに手を貸そうとして、彼女に実体がないことがわかったらどう反応すべきなのかよくわからなかったのだ。だが、紳士たるもの、でこぼこ地面を横切るときには淑女に手を貸すものだとたしなみが命令したので、かれは歯をくいしばって腕を伸ばし、ポレドラの肘をささえた。
彼女はガリオンと同じくらいたしかな存在だった。そのことがかれをいくらかほっとさせた。
「ありがとう、ガリオン」ポレドラはちょっと妙な微笑を浮かべた。「本当は手がわたしをつきぬけてしまうと思った?」
ガリオンは顔を赤らめた。「ぼくの考えていることを知ってたんですね」
「もちろんだわ」彼女は低いあたたかみのある声で笑った。「それほど不可解なことじゃないのよ、ガリオン。あなたのもうひとつの姿は狼でしょう。狼というのは思考についてはとてもあけっぴろげなの。あなたも自分では気づいてもいない無数のちょっとしたしぐさの中で、声にだして考えをしゃべっていたというわけなのよ」
「知らなかった」
「そういうあけっぴろげなところがとても魅力的なのよ。小犬たちはしょっちゅうそれをやっているわ」
「どうも」ガリオンはそっけなく言い、ふたりは門をくぐって農場の中庭へはいっていった。
シルクとエリオンドとサディが運んできたバケツで、ダーニクとトスが一階建ての物置小屋の焦げてくすぶっている外壁に水をかけていた。じゅうぶんに建造物を発火させるだけの時間がドラゴンになかったおかげで、火事はどれも大事にはいたっていなかった。
ポルガラがセ・ネドラとヴェルヴェットをしたがえて、重々しく中庭を横切ってきた。「おかあさま」とだけ言った。
「元気そうね、ポルガラ」黄褐色の髪の女性は先週口をきいたばかりのように答えた。「結婚生活が性にあっているのね」
「気にいってますわ」ポルガラはほほえんだ。
「そうじゃないかと思ったわ。あの人、いるかしら? あなただけじゃなく、あの人とも話す必要があるのよ」
「二階の部屋のひとつにいます。こういう会いかたについておとうさんがどう感じるかわかっていらっしゃるでしょう」
「連れてきてもらえない、ガリオン? 時間はたっぷりあるし、あの人が知らなくてはならないことがいくつかあるのよ。今回は自分の感情はわきへ置いておかなけりゃならないでしょうね」
「すぐ呼んできます、おばあさん」ガリオンは回れ右をして、足早に二階の回廊まで木の階段をあがり、ポルおばさんが示したドアに近づいた。
ベルガラスは寝乱れた寝台に腰かけていた。膝に肘をつき、顔を両手に埋めている。
「おじいさん」ガリオンはそっと言った。
「なんだ?」
「彼女がおじいさんと話したがっている」
ベルガラスは顔をあげた。物言わぬ苦悩をひめた顔だった。
「悪いんだけど、おじいさん、すごく重要なことだと言ってるんだ」
ベルガラスはあごをひくと、観念したようにためいきをついた。「わかった」腰をあげながら言った。「それじゃ、行こう」
階段をおりだしたとき、ポレドラにぎごちなく頭をさげているダーニクの姿が見えた。「マアム」と鍛冶屋は言っていた。ふたりが正式に紹介されたのはおそらくこれがはじめてであることに、ガリオンはふいに気づいた。
「ずいぶん堅苦しくて、礼儀正しいのね、ダーニク?」ポレドラは答えた。彼女は腕をのばして、かれの頬に片手をそっとあてた。それからダーニクを抱擁した。「あなたはわたしの娘をとても幸せにしてくれたわ、ダーニク。ありがとう」ポレドラは次にふりかえって、まっすぐベルガラスを見つめた。「それで?」その声には挑むようなひびきがあった。
「ちっとも変わっておらんな」ベルガラスの声は抑えきれぬ感情にくぐもっていた。
「あら、変わりましたとも」ポレドラは皮肉っぽく答えた。「あなたには想像もつかないような点でね」
「そうは見えん」
「そんなことを言ってくださるなんてやさしいのね。あの魔女とわたしのあいだのちょっとした取りかわしのことをお聞きになった?」
ベルガラスはうなずいた。「あぶない真似をしたものだな、ポレドラ。向こうがおまえの挑戦を受けていたら、どうなったのだ?」
「狼は危険な真似を楽しむものだわ」ポレドラは肩をすくめた。「生活にはりを与えてくれますもの。でも、実際にはそれほど危険ではなかったのよ。ザンドラマスは〈闇の子〉だし、〈闇の霊〉が彼女の魂同様彼女の体をも徐々に支配していますわ。よりによってこの時期に、霊があぶない真似をすることはないでしょう。代わりの者を訓練するには時間がかかりすぎるし、最後の対決までにそれほどの時間は残されていないわ。さ、本題にとりかかりましょう。ザンドラマスはいまや〈アンガラクの王〉を手にいれているのよ」
ベルガラスはうなずいた。「そのことは聞いた」
「秘密をさぐりだすのはいつでもお手のものでしたものね。戴冠式はじつにグロテスクでしたわ。ザンドラマスは古代のアンガラクの儀式にしたがったのよ。トラクが出席することになっていたけれど、ザンドラマスはそれを苦心してごまかしたわ。かなりいい加減だったけれど、彼女が作り上げたトラクのイメージはだまされやすい人間をあざむくにはじゅうぶんでしたわ」ポレドラは微笑した。「オトラス大公は完全にまるめこまれていたわね。かれは儀式のあいだに三度失神したの。あのうつけ者ったら、いまでは自分が皇帝なのだと本気で信じているんじゃないかしら――オトラスが不幸にもかれのいとこの手中に落ちたら、そんな妄想はカル・ザカーズの部下たちがすぐに消してくれるでしょうけれど。とにかく、ザンドラマスにはもうひとつ大きな務めがあるのよ」
「ほう?」ベルガラスは言った。「それはなんだ?」
「あなたのと同じ務めですわ。彼女は対決が行なわれることになっている場所をつきとめなくてはならないのよ。ケルまでの道中、ぐずぐずなさらないことだわ。まだ先は長いのよ。時間は残り少なくなってきているし、ザカーズがここにこないうちにあなたがたはマガン川を渡らなくてはね」
「ザカーズだと?」ベルガラスはびっくりした声をだした。
「ご存じなかったとおっしゃるの? ザカーズは何週間か前にマガ・レンの周囲に軍隊を移動させたのよ。数日前には先行部隊を派遣し、ほんのきのう、大軍勢を率いてマガ・レンを出発したわ。ダラシア山脈の北端からガンダハールのジャングルまで、マガン川を封鎖するつもりよ。ザカーズがまんまと封鎖に成功すれば、川を越えるのはむずかしくなるわ」そこまで言って、ポレドラはベルディンに視線を向けた。「あまり変わっていないのね、お友だち」
「おれが変わるとでも思ったのかい、ポレドラ」ベルディンはにやりと笑いかけた。
「その悪評高い古ぼけたチュニックぐらいは変えたんじゃないかと思ったわ――あるいは、いまごろはもうぼろぼろになってあなたの背中からはがれおちたかもしれないとね」
「ときどきつぎをあててるのさ」ベルディンは肩をすくめた。「それで、つぎがへたっちまったら、またその上につぎをあてる。着心地はいいし、おれにはぴったりなんだよ。もっとも、原型は思い出にしかすぎないがな。ほかに、おれたちが知っといたほうがよさそうだと思うことはないのか? それとも、こうしてここでおれの服について討論するのかい?」
ポレドラは笑った。「あなたに会えなくてさびしかったわ。そうそう、クトル・マーゴスの高僧のひとりがダラシア保護領の西部海岸にあるフィンダに上陸したわよ」
「どいつだ?」
「アガチャク」
「〈アンガラクの王〉を連れてるんですか?」シルクが熱っぽくたずねた。
「ええ」
「ウルギット――マーゴスの王ですか?」
ポレドラは首をふった。「いいえ。ウルギットはアガチャクを無視して、同行を拒んだようよ」
「ウルギットがアガチャクを無視した? ほんとですか? ウルギットは自分の影さえこわがるやつなんですよ」
「もうそうではなさそうよ。あなたの弟はあなたが最後にかれと会っていらいすっかり変わったわ、ケルダー。かれの新婚の妻が関係しているのかもしれないわね。彼女はそれはきっぱりした女性でね、自分が抱いているウルギットの像にかれをおしこめようとしているの」
「なんとも気の滅入る話だ」シルクは嘆いた。
「アガチャクはかわりにタールの新しい王を連れてきたわ――ナセルとかいうまぬけよ」ポレドラは夫を見た。「あなたはザンドラマス、ウルヴォン、そしてアガチャクを敵にまわしているのよ。この三人は憎みあっているけれど、あなたが共通の敵であることはちゃんと心得ているわ。結束してあなたに対抗するためなら、自分たちの感情をひとまずおさえる決心をしないともかぎらないのよ」
「ザカーズとマロリー全軍をそれにプラスすれば、おれたちが着くときには〈もはや存在しない場所〉は足の踏み場もなくなるかもしれないな」シルクが皮肉っぽく言った。
「その場所では数はなんの意味もないのよ、ケルダー。そこで問題になるのは三人だけ――〈光の子〉、〈闇の子〉、そして選択をするケルの女予言者だけ」そう言って、ポレドラはエリオンドを見た。「あなたがしなくちゃいけないことはなんだか知っていて?」とたずねた。
「はい」エリオンドはひとこと答えた。「そんなにむずかしいことじゃありません」
「でしょうね」ポレドラは言った。「でも、あなたにしかできないことなのよ」
「その時がくれば準備はできます、ポレドラ」
次に黄褐色の髪の女性はふたたびベルガラスを見た。「さあ、ついにあなたとわたしが、わたしたちの娘たちが生まれて以来ずっと避けてきた例のちょっとした話し合いをするときになったようだわ」彼女はひどくきっぱりと言った。
老人はぎくりとした。
「ふたりきりでね」ポレドラはつけくわえた。「一緒にきてくださいな」
「ああ、ポレドラ」ベルガラスはおとなしく答えた。
叱責か――もっと悪いこと――を予期している小学生のようなベルガラスをしたがえて、ポレドラは目的ありげに農場の門のほうへ歩きだした。
「やっとだわ」ポルガラが安堵のためいきをついた。
「なにごとですの、レディ・ポルガラ?」セ・ネドラがあっけにとられたような小声でたずねた。
「わたしの両親が仲直りをするのよ」ポルガラはうれしそうに答えた。「母はわたしの妹のベルダランとわたしを産んだときに死んだの――死ななかったというべきかしらね。父はその場にいて母を助けてやれなかったことで、ずっと自分を責めてきたのよ。父と〈熊の背〉と他の人たちはそのときトラクから〈珠〉を盗み返しにクトル・ミシュラクへ行っていたの。母はそれがどんなに重要なことかを知っていたから、決して父を責めなかった。でも、父はそう簡単に自分を許すことができず、この何世紀ものあいだ、ずっと自分を罰しつづけてきたのよ。母はついにそれにうんざりしてきたのね、だからその状況を正すべく処置を講じることにしたの」
「まあ」セ・ネドラが声をつまらせた。「すばらしいわ」その目に急に涙があふれた。
ヴェルヴェットが無言で袖口から薄いハンカチをひっぱりだして自分の目をふき、そのあとそれをセ・ネドラに渡した。
一時間ほどして、ベルガラスは戻ってきた。ひとりだったが、顔には穏やかな微笑が浮かび、目には若やいだ光が宿っていた。だれもが質問は控えるべきだと判断した。「いま、夜の何時ごろだと思う?」ベルガラスはダーニクにたずねた。
鍛冶屋は目を細めて空を仰いだ。くまなく吹く風が少しだけ残っていた雲を東へ吹き払い、空に星があらわれている。「夜明けまであと二時間ぐらいじゃないでしょうか、ベルガラス」ダーニクは答えた。「微風が吹いてきたし、朝のにおいがします」
「今夜はもうみんな眠っている時間はなさそうだな」老人は言った。「ポルがあの卵で朝食を作っているあいだに、みんなで荷物をまとめ、馬に鞍をつけようじゃないか」
ポルガラはちょっぴり眉をつりあげてベルガラスを見やった。
「めしぬきで出発させるつもりだったんじゃあるまいな、ポル?」老人はふざけてたずねた。
「いいえ、おとうさん。じっさい、そんなことは考えてなかったわ」
「だろうと思ったよ」ベルガラスは笑い声をたてて、ポルガラを抱きしめた。「ああ、わしのポル」あふれんばかりの愛情をこめて言った。
セ・ネドラの目がまた涙でいっぱいになり、またヴェルヴェットがハンカチに手をのばした。
「あのふたり、いまにあの薄っぺらいきれをぼろぼろにしちまうぜ」シルクがもっともらしく言った。
「だいじょうぶさ」ガリオンは答えた。「ぼくの荷物にハンカチが二枚余分にはいってる」そのとき、かれはあることを思いだして、興奮ぎみに言った。「おじいさん、あやうく忘れるところだったよ。ザンドラマスがドラゴンに変身する前、彼女がナラダスとしゃべっているところを聞いたんだ」
「ほう?」
「ナラダスはこれまでガンダハールにいて、戦場へ象の騎兵隊を率いていこうとしている」
「悪魔どもには象などたいした問題にはならんな」
「悪魔たちはもう戦場にはいないんだ。ザンドラマスがもうひとりの魔神を呼び出して――モージャって名前の――そいつがナハズを戦場におびきだしたからさ。かれらは戦うためにどこか他の場所へ行ってしまったんだ」
ベルガラスはあご髭のはえた片方の頬をかいた。「そのガンダハールの象の騎兵隊はどのくらい優秀なんだ?」とシルクにたずねた。
「無敵に近いですね」シルクは答えた。「象たちは鎧の垂れで体をおおっているし、はむかう敵軍をかたっぱしから踏みつけますから。悪魔たちが戦場にいないなら、ウルヴォンの軍勢に勝利のチャンスはないでしょう」
「いずれにせよ、この戦いには大勢の人間がからみすぎとる」ベルガラスはぶつぶつ言った。「マガン川を渡って、こういう軍勢は軍勢同士好きにやらせよう」
一同は朝食をすますと、馬に乗って農場をあとにした。東の地平線から夜明けの曙光がゆっくりとはいあがりはじめていた。ガリオンは前夜の意味深い寝不足にもかかわらず、不思議とこれといった疲労を感じなかった。日が沈んでからあまりにもたくさんのことが起きており、考えることが山ほどあった。
一行がマガン川に着いたときには、太陽がのぼっていた。トスが身振りで示した方角にしたがって、かれらはゆっくりと南へ向かい、全員をダーシヴァへ運べるだけの大型船が見つかりそうな村をさがした。暖かな日で、前夜の嵐で草も木もみんなきれいに洗われていた。
脚柱の上に立つ小さな泥壁の小屋が並んだ居住地にさしかかった。そばにぐらぐらの波止場が川の中へ突き出している。漁師がひとり、どうでもよさそうに長い竹竿を握ってその波止場のひとつの端に腰をおろしていた。
「あの男に話しかけてくれ、ダーニク」ベルガラスが言った。「舟を借りられる場所を知っているかどうかさぐってみるんだ」
鍛冶屋はうなずいて手綱をひき、馬首をめぐらせた。とっさにガリオンはあとを追った。波止場の陸側の端でふたりは馬をおり、漁師のほうへ歩いていった。
漁師はずんぐりした小柄な男で、手織りのチュニックに泥だらけのかばんみたいな靴をはいていた。むきだしの脚には瘤のある紫色の血管が浮きだしており、あまり清潔な脚とは言いがたかった。顔は日焼けして、髭剃りを怠けたくなるほど髭は濃くない。
「釣れるかね?」ダーニクがきいた。
「自分で見てみなよ」漁師はかたわらの木の桶を指さした。振り向こうともせず、釣り糸の先の赤い浮きをじっと見つめている。さらにその先に餌をつけた釣り針がよどんだ川の水の中にぶらさがっていた。桶には半分ほど水がはいっており、一フィートばかりのマスが数匹ぐるぐると泳いでいた。魚は怒ったような目と突き出た下あごを持っていた。
ダーニクは漁師の横にしゃがみこんで、両手を膝にのせた。「うまそうな魚だ」
「魚は魚よ」ずんぐりした男は肩をすくめた。「桶の中にいるときより、皿にのってるほうが見栄えがするってもんさ」
「だからわれわれは魚をつかまえるんだ」ダーニクはうなずいた。「餌になにを使ってる?」
「はじめのうちはミミズでやってみた」男はあっさりと答えた。「食いつかねえようなんで、白子に切り替えたんだ」
「それはやったことがないな」ダーニクはすなおに言った。「うまくいったかね?」
「この三十分で五匹釣ったよ。ときには魚どもを興奮させすぎちまって、土手まで魚におっかけられねえように木のうしろに隠れて餌を針につけなけりゃならんこともある」
「そいつはいつか試してみないとならんな」ダーニクはうらやましそうに川を見ながら言った。「舟を借りられそうな場所を知らないか? 川を渡らなくてはならないんだ」
漁師は振り向いて、信じられないように鍛冶屋を凝視した。「ダーシヴァ側へか?」と叫んだ。「おい、あんた気でも狂ってるのかよ?」
「向こうになにかまずいことでもあるのか?」
「まずいこと? あっちで起きてることを表現するにはとてもそんな生易しい言い方じゃたりねえよ。悪魔と呼ばれてるものの話をきいたことがあるだろ?」
「何度かね」
「見たことは?」
「一度ある、と思う」
「思うじゃないだろ、友だち。見たことがあるなら、知ってるはずだぜ」男はみぶるいした。「恐ろしいのひとことさ。とにかく、ダーシヴァ中に悪魔がうようよしてるんだ。グロリムもいる。そいつは北からとどろくような声をあげてのし歩く一隊を引き連れてきたんだ。それからもうひとりグロリムがいる――あんたに信じられるなら、これが女なんだ――ザンドラマスって名前で、その女がうしろへさがって呪文をかけ、手下の悪魔どもをどこだか知らんが悪魔の住処《すみか》からひっぱりだしたんだ。で、ダーシヴァじゃ悪魔同士が戦ってるってわけだ」
「このペルデインの北で戦いがあると聞いたがね」
「それは普通の部隊だろ。そいつらが戦ってるのは剣や斧や燃える松ヤニやなんかを使った普通の戦争だ。悪魔たちときたら川を渡ってひきちぎるための新しい地面と、食うための新鮮な人間を捜してやがる。やつらならやるさ、なあ――悪魔なら。連中は人間を食うんだぜ――たいがいは生きたまま」
「それでもダーシヴァへ行かなくてはならないんだよ」ダーニクは言った。
「じゃ、泳ぎはたっしゃなんだろうね。舟はまず見つからねえよ。ここにいた連中はみんな浮くものならどんなものだろうとそいつに飛び乗って、川下のガンダハールのほうへ行っちまったからな。おおかたそっちの野生の象のほうが悪魔よりはましだと思ったんだろ」
「あたりがきてるようだ」ダーニクは礼儀正しく言って、ずんぐりした男の釣り糸の先の浮きを指さした。浮きは水中に沈んでふたたび水面に浮かび上がった。
漁師は竿を空中にぐいと大きく持ち上げてから、ののしり声をあげた。「逃げやがった」
「一匹残らずつかまえるわけにはいかないさ」ダーニクは哲学的に言った。
「だがやってみることはできるぜ」男は笑って釣り糸をたぐりよせ、わきにおいてある土焼きの鉢からぽたぽた水のたれる白子のかたまりをふたたび釣り針につけた。
「わたしなら波止場の下で試してみるね」ダーニクが忠告した。「マスは日陰が好きらしいから」
「白子を餌に使うには、そいつはいいかもしれねえな」漁師は知ったふうに言った。「においをかぎつけたら、たとえ、乗りこえなくちゃならねえ柵があったって、餌めがけて突進してくるぜ」男はふたたび釣り糸を投げ込むと、チュニックの前でうわの空で手をふいた。
「どうしてあんたは残ったんだね?」ダーニクはたずねた。「つまり、このあたりがそんなに物騒なら、どうしてあんたもここを逃げだした他の連中と一緒にガンダハールへ行かなかった?」
「ガンダハールにゃなくしても惜しいものはなんにもない。あそこのやつらはどいつもこいつも気がくるってる。四六時中象を追い回してやがる。象をつかまえてどうするんだってのよ。あそこの魚は餌をつける値打もない。それによ、この五年間でおれがこの波止場をひとりじめにできたのはこれがはじめてなんだ。いつもは水に釣り糸をたれることもできないんだぜ、あんまり人間が多すぎて」
「なるほど」ダーニクは名残りおしげに立ち上がった。「もうちょっと当たってみたほうがよさそうだ。どうしてもどこかで舟を見つけなけりゃならん」
「ダーシヴァ側には近寄りなさんなって」漁師は真顔で言った。「自分の竿をこしらえて、向こう岸の騒動が片づくまでおれとここにすわってたほうが身のためだよ」
「そうしたいのはやまやまなんだがね」ダーニクはためいきをついた。「幸運を祈るよ」
「釣り糸をたれてここにいることが、世界一の幸運さ」男は肩をすくめて浮きに視線を戻した。「ダーシヴァ側へ行っても、悪魔どもにはつかまらないようにしなよ」
「その点だけは気をつけよう」ダーニクは約束した。
ガリオンと一緒にぐらぐらした波止場から、つないである馬たちのところへひきかえしながら、ダーニクはにやにやした。「このあたりの人間はしゃべりかたがちがうね、なあ」
「そうだね」ガリオンはヴォレセボの平原を見おろす道端の居酒屋にいた、おしゃべりな老人と豚のことを思いだした。
「だが、悪くない」ダーニクは率直に言った。「なんだか気分が楽になる」
「でもぼくなら必ずしも真似しようとはしないな」ガリオンは忠告した。「ダーニクもあんなしゃべりかたをしたら、ポルおばさんにせっけんで口を洗われちゃうかもしれない」
「はは」ダーニクは微笑した。「ポルだって本当にそんなことをするわけじゃないだろう、ガリオン」
ガリオンは肩をすくめた。「おばさんはダーニクの奥さんだからね――それにそれはダーニクの口だ」
川の土手の村を見おろす草深い丘の上で、ベルガラスがふたりを待っていた。「どうだった?」
「魚が餌にくらいついてますよ」ダーニクはまじめくさって告げた。
ベルガラスは一瞬まじまじと鍛冶屋を見つめてから、空を仰いでうめいた。「ダーシヴァのことを言っとるんだ」とくいしばった歯のすきまから言った。
「それについては確実なことはわからなかったんです、ベルガラス、しかしこちら側で魚が餌にくらいついているなら、むこう側でだって同じということにほかなりません、そうでしょう?」ダーニクの顔はいたってまじめで、口調は熱がこもっていた。
ベルガラスはくるりと背中を向けて、ぶつくさこぼしながら足を踏みならして行ってしまった。
みんなとふたたび合流したとき、ガリオンは波止場の先端にぽつんとすわっていた男からダーニクが聞き出した情報を手短にくりかえした。
「事態はまったく新たな様相をおびてきたな」シルクが言った。「これからどうする?」
「ひとつ提案してかまいませんか、長老?」サディがベルガラスに言った。「ベルガリオンの言った村人たちの例にならって、わたしたちもガンダハールまで川をくだり、そこで舟を見つけたほうがいいんじゃないでしょうか。時間はちょっとかかりますが、悪魔たちは避けられます」
トスがかぶりをふった。ふだん穏やかな物言わぬ大男の顔に、心配そうな表情が浮かんでいる。かれはダーニクに向かって一連のあいまいな、すばやいジェスチャーをした。
「われわれには時間がないと言ってます」鍛冶屋は通訳した。
「おれたちがケルに着かなくちゃならない特別な時間でもあるのか?」シルクがたずねた。
トスは大きな両手をせわしなく動かして、またジェスチャーをした。
「ケルは封鎖されてダラシアの残りとは切り離されているそうです」ダーニクがみんなに言った。「シラディスがわれわれを通すための手段を講じましたが、彼女がいったんいなくなってしまうと、他の予言者たちがまた封鎖してしまうんです」
「いなくなる?」ベルガラスは少なからずびっくりした。「どこへ行くんだ?」
ダーニクが問うようにトスを見ると、巨人はさらにジェスチャーをした。
「ああ、そうか」ダーニクはベルガラスに向きなおった。「シラディスはまもなく対決の場所へ行く必要があるんです。選択ができるように、対決が起きるときにそこにいなくてはなりません」
「わたしたちと一緒に旅をするわけにはいかないの?」ヴェルヴェットがたずねた。
トスはまたかぶりをふった。ジェスチャーが一段と力強くなった。
「いまのはところどころわからないところがあったよ」ダーニクは大男に打ち明けた。「もしまちがったら、そう言ってくれ」鍛冶屋はまたみんなのほうを向いた。「われわれがケルへ着く前にあることが起きることになっていると言うんです。しかし、もしもそれが起きなければ、シラディスはひとりで旅をしなくてはなりません」
「そのあることがなんなのかトスはしゃべったの?」ポルガラが夫にたずねた。
「わたしにわかったところでは、トスは知らないんだよ、ポル」
「どこでそれが起きるのかは知ってるのか?」ベルガラスがくいさがった。
トスは両手を広げた。
「あの娘には本当にいらいらさせられるな」老人はベルディンを見やった。「どう思う?」
「おれたちにあまり選択の余地はなさそうだな、ベルガラス。その出来事がダーシヴァで起きることになってて、おれたちがダーシヴァを避けたら、それは全然起きないことになる。そして、いっさいがそれにかかってる見込みもあるわけだ」
「よし」ベルガラスは言った。「ではダーシヴァへ行くんだ。わしらは前にも悪魔たちを避けたことがある。いま重要なのは、ザカーズがここへこないうちに川を渡ってしまうことだ」
「舟がいります」とダーニク。
「おれが見つけられるかどうかやってみる」ベルディンがうずくまって両腕を広げた。
「あまりよりごのみをするなよ」ベルガラスが釘をさした。「水に浮けばどんなのでもかまわん」
「忘れんようにする」ベルディンは答えて空に舞い上がった。
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第二部 ダーシヴァ
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それはじっさいは舟ではなかった。事実上、はしけだった。うしろにひきずっている長いロープを見れば、はしけが上流のどこかで、留め具を壊し、流れにのって下流へ漂ってきたことは明白だった。しかし、役には立ってくれそうだった。ガリオンの見たところ、唯一の欠点は右舷の船首に穴があいていて、八フィートばかり船体が水中に没していることだ。
「どう思う、ベルガラス?」ベルディンがたずねた。
「すでに一回沈んでるんじゃ、あまり信用する気にはなれんな」老人は言った。
「泳いでみたいのか? どっちの方向に行っても十マイルはいかださえないんだぜ」
ダーニクが立ったままにごった川の水をじっと見おろした。「だいじょうぶかもしれないな」
「ダーニク」シルクが反論した。「あのしろものは前面にでかい穴があいてるんだぞ」
「あれなら直せる――腐りはじめるほどあれが長いこと水につかっていたんでなければだが」ダーニクは錆色のチュニックとブーツを脱いだ。「つきとめる方法がひとつだけある」かれは川の中へはいっていき、水中にもぐって穴のあいたはしけのほうへ泳いでいった。片側を両手でさぐりながら、一フィートごとにとまってナイフで木を掘った。永遠にも思える時間が過ぎたあと、ダーニクは空気を求めて水面に顔をだした。
「どうだ?」ベルガラスが呼びかけた。
「こっち側はなんともなさそうですね」ダーニクは答えた。「反対側を調べさせてください」かれはふたたび緑っぽい水中にもぐり、反対側をさぐっていった。ほどなく顔をだしたが、はしけの内部を調べるためにふたたびもぐった。つづいてダーニクは船首にぱっくりあいた穴を観察した。再度顔をあげたときは、荒い息をついていた。「だいじょうぶです」ずぶぬれで川からあがってくると、報告した。「なにに衝突したのか知らないが、手ひどい損傷は受けていませんよ。われわれを向こう岸まで渡すぐらいなら、わたしが修理できそうです。だが、まず荷物をおろす必要がある」
「へえ?」シルクの鼻が好奇心にうごめいた。「どんな荷を運んでいたんだい?」
「豆さ」ダーニクは答えた。「豆の袋がいっぱいだよ。もっとも豆が水を吸ってふくらんだせいで、ほとんどの袋ははじけてた」
シルクはうめいた。
「他のだれかのものだったということもあるわ、ケルダー」ヴェルヴェットがなぐさめた。
「からかおうとしてるのか?」
「手伝うよ、ダーニク」ガリオンは簡素なチュニックを脱ぎながら申し出た。
「あ……」ダーニクはためらった。「せっかくだがね、ガリオン、きみの泳ぎを見たことがあるんだよ。土手にいたほうがいい。トスとわたしとでなんとかなる」
「どうやってあれを水から出すつもりだね?」サディがきいた。
「馬たちがいる」ダーニクは肩をすくめた。「われわれがいったんはしけを回転させれば、あとは馬たちが土手までひっぱりあげられるはずだ」
「どうして回転させるんだ?」
「穴は船首にあいてるからさ。岸へひきあげるときに、水をだしてしまいたいからね。水がはいったままじゃ、馬の大群でも動かせないだろう」
「そうか。それは考えつかなかった」
トスは杖を置くと肩にかけている毛布をはずして、川の中へ歩き出した。
エリオンドがチュニックを脱ぎはじめた。
「どこへ行くつもり、あなたは?」ポルガラがたずねた。
「船荷をおろすのを手伝うんですよ、ポルガラ」かれは熱っぽく答えた。「ぼくはすごく泳ぐのがうまいんです。なんども練習しましたからね、でしょう?」それだけ言うと、エリオンドもばしゃばしゃ川にはいっていった。
「どういう意味かよくわかりませんでしたわ」ヴェルヴェットが打ち明けて言った。
ポルガラはうらめしげな吐息をもらした。「小さいころ、エリオンドはダーニクとわたしと一緒に〈谷〉で暮らしていたのよ。近くに川があって、かれは定期的にそこへ落ちてたの」
「まあ、それでですのね」
「ようし」ベルガラスがきびきびと言った。「あの穴をふさぐのに板が必要になるだろう。半マイルばかり上流で、小屋の前を通ったな。引き返して、あの小屋を解体しよう」
浸水したはしけをダーニクが岸へあげたころには、とっぷりと日が暮れていた。このときだけは、自然が協力してくれて、その夜はひょうを降らせる嵐もなかった。かれらはあかりを提供するために、岸で火をたき、鍛冶屋とトスとエリオンドが仕事にとりかかった。
シルクはうなだれてはしけのまわりを一周した。「やっぱりおれのだ」とためいきをもらした。
「装備の整ったはしけを持っているんだな、シルク」慎重に板を測りながらダーニクが言った。「このはしけには船首にあってほしいと思うものが全部そろってる――釘だろう、タールの樽だろう、それによくきれるのこぎりまである。朝までに浮かせられるよ」
「認めてくれてうれしいよ」シルクはにがにがしげに言ってしかめっつらをし、不平をこぼした。「どう考えても不自然だ」
「どうしたの、ケルダー?」ヴェルヴェットがたずねた。
「普通、舟がほしいと、おれは盗む。自分の舟のひとつを使うのが、なんだか不道徳に思えるのさ」
ヴェルヴェットは陽気に笑ってかれの頬をたたいた。「お気の毒だこと。そんなに良心がとがめるんじゃさぞ気分が重いでしょうね」
するとポルガラが言った。「さ、おじょうさんたち。夕食の支度をしましょう」
ダーニク、トス、エリオンドたちが穴の継ぎあてに精をだし、ポルガラ、セ・ネドラ、ヴェルヴェットの三人が夕食の支度をしているあいだ、ガリオンたちはもっと板をとってきて、粗末なオールをこしらえはじめた。食べるあいだもかれらは仕事の手を休めなかった。ガリオンにはなんとなくすべてがしっくりくるように思えた。友だちみんながかれのまわりにいて、みんながみんな忙しかった。舟の修繕はきわめて大事なことだったが、それにかかわる単純な雑用はほとんど通俗的といってもよく、このところ切迫した状況で事にあたらざるをえなかったガリオンは、めずらしくゆったりした気分で手近な仕事に没頭することができた。それは心安らぐ経験だった。
女性陣は食事の後かたづけをすませると、粗布のバケツに川から水をくんできて、熱く焼けた石をいれて水をあたためた。それから風呂をつかうために、ついたてがわりのテントのうしろにひっこんだ。
真夜中近く、ガリオンは水辺までおりていってひりひりする両手を川に浸した。セ・ネドラがそこからあまり遠くないところにすわって、両手いっぱいにつかんだ砂を退屈そうに指のすきまからこぼしていた。「ちょっとぐらい眠れるかどうか横になってみたらどうなんだ、セ・ネドラ?」ガリオンはたずねた。
「わたしだってあなたと同じくらいずっと起きていられるのよ」彼女は答えた。
「それはそうだろうけど、だが、なぜなんだ?」
「保護者ぶらないで、ガリオン。わたしは子供じゃないわ」
「ねえ」ガリオンはいたずらっぽく言った。「そのことならぼくも何度か気づいてたよ」
「ガリオンたら!」セ・ネドラは急に赤くなった。
かれは笑って立ち上がり、セ・ネドラのそばへ行ってチュッとキスをした。「少し眠っておいで、ディア」
「あなたたちはそっちでなにをしてるの?」みんながまだ働いている岸のほうへ視線を向けて、セ・ネドラはたずねた。
「オールを作ってるんだ。あのはしけを川の中へ押し出せば、あとは流れがガンダハールまでずっとぼくたちを運んでいってくれるだろう」
「そう。じゃいいわ。楽しい夜をね」セ・ネドラは伸びをしてあくびをした。「オール作りに戻る前に毛布を取ってきてくださらない?」
ダーニクとトスがほとんど一晩がかりで、船首の穴にタールを塗った粗末な継ぎ板を釘で打ちつける一方、他の面々は長い棒に固定した粗末なオールをつくりあげた。夜明けまであと数時間というころ、霧がぼんやりした巻ひげのように川面からたちのぼりはじめた。ダーニクは継ぎ当ての内側と外側に熱いタールをたっぷり塗りつけたあと、うしろへさがって自分の手仕事をきびしくチェックした。
「おれは水漏れすると思うね」シルクが予想を述べた。
「船はみんな水漏れするものさ」ダーニクは肩をすくめた。「水はくみだせばいい」
はしけをふたたび川の中へ戻すには、おびただしい努力と、きわめて風変わりな索具が必要だった。ダーニクは船にとびのると、たいまつをかかげて船首の継ぎ当てを調べに行った。「ちょっと水がしたたってるだけだ」と満足そうに言った。「これなら進める」
一行が荷物をはしけに積むころには、霧がどんどん濃くなってきた。世界のこのあたりは春だった。上流の川べりではカエルたちがわれ先に熱い恋の歌をうたっている。それは快い、けだるい音だった。数百ヤード下流を偵察していたダーニクが、流れによって土壌がそげている浅い土手を見つけた。かれは残りの材木で傾斜路をこしらえた。一行はそこまではしけをひいていき、馬たちを乗せた。
「もうちょっとあかるくなるまで待とう」鍛冶屋は言った。「霧だけでも困るのに、これに闇を加えたら、先がほとんど見えない。このしろものをこぐのはあまり愉快じゃなさそうだから、楽しくやるにはせめてオールで円を描くぐらいのことはしないとね」
「帆らしきものをつけるわけにはいかないのか?」シルクが期待をこめてたずねた。
「簡単だよ」ダーニクは人さし指を舌でぬらして、立てた。「風を吹かせてくれたら、すぐにでも帆をつけよう」
シルクはがっかりした顔をした。
「きみがそれをやっているあいだに、わたしはセ・ネドラと話をしにいかないと」ダーニクは岸にひきかえして、眠っているガリオンの妻をそっとゆり起こした。
「な? ときたまやっこさんはひどくひねくれたユーモアのセンスを発揮するんだ」シルクはひとりごちた。
その日最初の光が霧にまぎれた東の地平線を染めはじめたとき、一行は霧の中へはしけを押しだし、各自オールをこぐ位置についた。
「非難がましいことは言いたくないんですがね、善人」サディが、船尾に立って舵を握っているダーニクに言った。「ニーサでいやってほど見てきた経験から言って、これだけ霧が深いと、いったん日がすっかりのぼると、太陽がどこにあるんだかさっぱりわからなくなりますよ。どうやって針路を保つつもりです?」
「それはセ・ネドラに任せてあるんだ」鍛冶屋は船首のほうを指さして答えた。
リヴァの王妃は左舷にもたれて、長い紐にゆわえつけられてぷかぷか浮いている一片の木を一心に見守っていた。
「彼女はなにをしてるんです?」サディがいささか当惑したようにたずねた。
「流れを見てる。われわれは流れと直角の位置にいるわけだが、あの紐がはしけから見て同じ角度であるかぎり、針路からはずれていないということになる。どんな角度であるべきかセ・ネドラにわかるように手すりにしるしをつけておいたんだ」
「あなたはあらゆることを考慮しているわけだ」サディがひきつづきオールをひきながら言った。
「そう努めてはいる。ひとつの仕事をとおして自分のやりかたを徹底的に考えぬけば、たいてい問題は避けられるからね」
セ・ネドラが片腕をあげて、あわてたようすで右舷を指さした。この仕事をひどく重大なものとして受け止めているらしい。ダーニクはおとなしく舵を動かした。
大きな川の東岸がひとたび霧にまぎれて見えなくなってしまうと、ガリオンは時間が完全に停止したような気分になった。体を動かしている実感はなかったが、単調な規則正しさでかれは背を曲げてオールをこいだ。
「退屈だな、え?」シルクが言った。
「オールこぎはいつだって退屈さ」ガリオンは答えた。
シルクはまわりをきょろきょろしたあと、声を落とした。「ダーニクの変化に気づいてるか?」
「いや。ちっとも」
「つまりさ、いつものダーニクはかれがそばにいることをこっちが忘れちまうくらい控え目なのに、岸にいたときは、自分ひとりで取り仕切ってたじゃないか」
「ダーニクはいつだってそうなんだよ、シルク。ぼくたちのやってることがあまりよく知らないことだと、だまってついてきて目を見開いてる。だが、知ってることとなると、主導権をとって、やらなきゃならないことをやるんだ」ガリオンは愛情をこめて肩ごしに古い友人をふりかえった。それからいたずらっぽくシルクを見た。「ダーニクはおぼえるのもすごく早いよ。いまじゃ、シルクに負けないぐらい有能な密偵になっているんじゃないかな。メルセネで豆の市場をシルクが操作していたときもじっと観察してたからね。もしダーニクが密偵稼業をする決心でもしたら、シルクもヤーブレックも尻尾の羽の数をちゃんとおぼえておいたほうがいいよ」
シルクの顔が少し心配そうになった。「まさかそんなことしやしないだろう?」
「するかもしれないさ。シルクはダーニクのことを本当には知らないんだよ、そうだろ?」
太陽がさらに高くのぼったときには、霧が日光をおい散らし、まわりの世界はモノクロームになった――白い霧、先へ進んでいるのかどうか、進んでいるとしてもそれが正しい方角なのかどうかさっぱりわからない黒い水。ガリオンは自分たちが完全にセ・ネドラに頼っていることに、多少の違和感をおぼえた。かれらを針路からそらさない角度で手すりにつけられたしるしの延長線上に浮いている紐を見ているのは、彼女の目だけなのだ。妻を愛しているとはいえ、セ・ネドラには気まぐれなところがあるし、彼女の判断は常に最上というわけではない。しかし、右舷や左舷に向けるセ・ネドラの執拗な身振りは、ためらいのかけらもなければ、確信の欠如も示しておらず、ダーニクはおとなしくそれにしたがっている。ガリオンはためいきをついて、こぎつづけた。
午前九時ごろ、霧が晴れはじめると、ベルディンがオールをひっこめて、ベルガラスにたずねた。「おれがいなくてもなんとかなるか? おれたちがどんなところへ突っ込もうとしてるのか、正確に知っとくべきだと思うんだ。ダーシヴァじゃあらゆるたぐいのいやなことが進行中だからな、そのどまんなかに上陸したくはないだろう」
「こぐのにくたびれてきたんだな、え?」老人は皮肉たっぷりに答えた。
「その気になりゃな、おれは船をこいで世界をひとまわりすることだってできるんだ」ベルディンは樫の切株みたいな両腕を折り曲げながら言い返した。「しかし、こっちのほうが重要だろうが。この風呂桶を岸に乗り上げたら、そこでナハズが待ちかまえてたなんてことに本気でなってもらいたいのかよ?」
「どうとでもおまえの正しいと思うようにしろ」
「いつだってそうしてるぜ、ベルガラス――たとえそれがときたまおまえを不愉快にさせようともな」薄汚い魔術師は船首のほうへ歩いていき、ことさらなまりを強調してセ・ネドラに言った。「せっかくだがね、かわいこちゃん、おれはここで失礼するよ」
「あのオールをこいでくれなくちゃ困るわ」セ・ネドラは反対した。「もしみんなが逃げだしたら、どうやって針路を保てばいいの?」
「心配ないって、かわいこちゃん」ベルディンはセ・ネドラの頬を軽くたたいた。次の瞬間、正体のない笑いを残して彼は霧の中へ姿を消した。
「ここへ戻ってきて!」セ・ネドラは怒鳴ったが、ベルディンはすでにいなかった。
やがてあるかなきかの微風がそよいだ。ガリオンはそれがオールをこぐ汗ばんだ首のうしろをかすめるのを感じた。霧がわずかに渦まいて、さらに薄れてきた。
するとぼんやりした黒いものがかれらを取り囲んだ。
「ガリオン!」セ・ネドラが叫んだ。
急速に薄れていく霧の中から、勝ち誇った叫びがいっせいに聞こえた。かれらは多数の船に包囲されていた。それらは意味ありげに移動してかれらの行く手をはばんだ。
「突破しますか?」シルクが緊張したしわがれ声でささやいた。
ベルガラスは自分たちを取り巻いている何隻もの船を無表情に見た。「突破だと? この風呂桶でか? ばかを言うな」
一隻が真正面に進んできた。距離がさらにちぢまったとき、ガリオンはこぎ手たちをよく見ることができた。「マロリー兵だな」かれは落ち着いて言った。「ザカーズの軍だ」
ベルガラスがよりすぐりの悪態をついた。「しばらくおとなしくしていよう。わしらの正体をわかっていないのかもしれん。シルク、おまえさんのおしゃべりでこの窮地を脱することができるかどうかやってみてくれ」
小男は立ち上がると、はしけのへさきへ歩いていった。「こんなところで皇帝の部隊に会えるとはうれしいかぎりですよ。大尉」と行く手をはばんでいる船の指揮官に言った。「このあたりで起きている狂気にケリをつけていただけるんでしょうね」
「名を名乗れ」大尉は答えた。
「もちろんですとも」シルクは額をぴしゃりとたたいた。「わたしとしたことが。名前はヴェターです。ケルダー王子のところで働いていましてね。かれのことはお聞きになったことがおありでしょうな?」
「よく知っている。どこへ行くつもりだ?」
「じつは、ダラシア保護領のバラサへ向かっているんですよ。ケルダー王子がそこに興味をお持ちなんです――もっともダーシヴァを横断できるとしての話ですが。あそこはたいへんな騒ぎですからね」シルクはいったん言葉をきった。「どうでしょう、大尉、付添いとしておたくの兵隊さんを少々貸してもらえないでしょうかね? お礼はわたしの権限でたっぷりはずませていただきますよ」
「考えてみよう」
そのとき、もっと大きな船が霧の中からあらわれて、一行の乗った継ぎ当てのある水漏れするはしけに横づけになった。見おぼえのある顔が手すりこしにこちらを見ていた。「ずいぶんおひさしぶりでしたね、ベルガリオン王」アテスカ将軍が世間話でもするような口調で愉快そうに言った。「あなたとは本当は連絡を絶やさないようにすべきなんです」アテスカはいつもの真紅のマントをはおり、ぴかぴかに磨いた、金の打ち出しもようのある鋼の兜をかぶっていた。
ガリオンの心は沈んだ。いま言い逃れをするのは問題外だった。「われわれがここにいるのを知っていたんだな」とがめるように言った。
「もちろんです。ペルデイン側で部下にあなたを見張らせておいたのですよ」赤いマントの将軍の口調にはしてやったりのひびきがあった。
「気配も感じなかったわ」ポルガラが青いマントを巻きつけながらきっぱりと言った。
「お感じになったりしたら、こっちがびっくりしますよ、レディ」アテスカは答えた。「あなたがたを見張っていたやつらはばかもいいとこでしてね。やつらの頭はマッシュルームの頭みたいにからっぽなんです」アテスカは嫌悪もあらわに川の向こうを見やった。「なにをすればいいのか説明するのに、どれだけ長い時間がかかったか見当もおつきにならんでしょう。どんな軍にもそういうやからがいるものです。われわれはそういう連中を排除しようとしますが、救いがたいばかでも使いみちはあるんですよ」
「とても賢いのね、アテスカ将軍」ポルガラは硬い声で言った。
「とんでもない、レディ・ポルガラ」アテスカは反論した。「わたしは平凡な兵士にすぎませんよ。諜報部に頭でまさる士官などいやしません。ブラドーは賢い男です。かれはタール・マードゥの戦い以来、さまざまなグロリムからあなたの不思議な才能について情報を集めてきたんです、レディ、そして数年がかりであなたの能力についておびただしい情報を集めました。わたしの理解するところ――わたしはその道の専門家ではありませんが――頭がきれればきれるほど、あなたが相手の存在を感知するのは楽になる。だからわたしはさっき言ったぼんくらどもにあなたがたを見張らせたんです」アテスカは批判的にかれらの船を一瞥した。「じつに無残なしろものですな。魔術で浮かせているんですか?」
「そうじゃない」ダーニクが平板な、怒りのこもった声で言った。「技術でだ」
「あなたの技術には敬服しますよ、善人ダーニク」アテスカはやや誇張ぎみに言った。「あなたなら岩を宙に浮かせる方法だってあみだせるでしょうね――本気でそうしたいと思えば」アテスカは言葉をきって、ベルガラスを見た。「このことについては、いずれわれわれは教化されていくでしょうな、長老どの?」
「聞く気ならあるぞ」ベルガラスは用心深く答えた。
「皇帝陛下がいくつかの事柄について、あなたとあなたのお仲間と話し合う強い必要性を感じておいでなのです、聖なるベルガラスどの」アテスカは言った。「で、ご忠告すると、あなたがたはこのひどい船を厄介な騒ぎのどまんなかめがけて、まっしぐらにこいでいるわけです。分別ある人々ならいまこの時期にダーシヴァへ向かったりはしません」
「わたしは分別を持つふりをしたこともない」
アテスカは悲しそうに笑った。「わたしもです」と認めたあと、「目下わたしはあのきわめて無分別な地域に侵入するための軍事的行動を計画しようとしているところなんですよ。よろしければあなたがた紳士たちを――ご婦人たちも――わたしの船にお乗せしましょうか?」アテスカはいったん口をつぐんだ。「ここはどうしても乗っていただくしかないと思いますよ」と残念そうにつけくわえた。「命令ですから。さらに、皇帝陛下のご到着を待つあいだに、情報を分かちあいたいと思うんです」
「ザカーズがここへくるのか?」ガリオンはたずねた。
「わたしから遅れること一日あまりではないでしょうか、陛下」アテスカは答えた。「あなたと長い長い話し合いをなさりたくてたまらないのです」
(どうしようか、おじいさん)ガリオンの指がたずねた。
(さしあたり、わしらにあまり選択の余地はなさそうだな。ベルディンがどこかそこらあたりにいるだろう。なにが起きているか知らせるとしよう。なにか名案があるかもしれん)「わかった、将軍」ベルガラスは声に出して言った。「どうせこぐのにはいささかうんざりしておったんだ」(他のみんなに伝えろ)かれはガリオンに向かって身振りをした。(一緒に行くことになりそうだ――すくなくともダーシヴァ側につくまではな)
アテスカの船は贅沢ではないが、快適だった。かれは前部の、地図や大小さまざまの羊皮紙が散乱するキャビンに集まった。例によって、アテスカ将軍は丁重だが態度はきびしかった。
「もう朝食はおすみですか?」かれはたずねた。
「少しせかされたからな」ベルガラスが言った。
「それでは料理番に頼んでおきましょう」アテスカはドアに近づき、外に立っている赤い軍服姿の見張りのひとりに話しかけた。それから戻ってきて、「待っているあいだに、さっきわたしの言った情報交換をしてはどうでしょう? マル・ゼスを去ったとき、あなたがたはアシャバへ行くと聞いていました。ところが、突然メルセネにあらわれ、こんどはマガン川を渡ってダーシヴァへ行こうとしておられる。まったく神出鬼没の方々だ」
(おれたちがなにをしようとしてるのかもう知ってますぜ)シルクの指がベルガラスに言った。(隠そうとしたって無駄ですよ)
「お願いしますよ、ケルダー王子」アテスカが迷惑そうに言った。「それはやめてください。失礼でしょう」
シルクは笑った。「将軍、あなたの目がよっぽどいいのか、年のせいでおれの指の動きがぎごちなくなったのかどっちかだな。じつを言うと、おれはただベルガラスにおれたちがマロリーへきた理由を隠すことはないんじゃないかと言ってただけなんだ。カル・ザカーズはおれたちがここにいる理由を知ってたから、こそこそしたって意味がないとね」かれがベルガラスに物問いたげな視線を向けると、老人はうなずいた。シルクの顔から笑いが消え、けわしいとさえ言える表情になった。「おれたちはザンドラマスを――そしてベルガリオン王の息子を――追ってアシャバへ行ったんだ。そのあと、あの女を追跡してカランダを横切り、北部セランタにあるジャロトへ向かった。ザンドラマスの足跡がメルセネへ向かっていたので、そこへも行った。それから大陸へ引き返したんだ」
「まだ足跡を追っているんですか?」アテスカは熱っぽくたずねた。
「だいたいはな」シルクはよどみなく嘘をついたあと、その話題をさけた。「アシャバでおれたちが発見したのは、ウルヴォンが完全にくるってるってことだ。カル・ザカーズはきっとそのことに興味を持つぜ。どういうわけか、ウルヴォンはナハズって名前の魔神の言うなりなんだ。ザンドラマスはモージャという別の魔神を呼び起こし、ダーシヴァでその両者が戦いあっている。おれならあの地域に侵入する前によくよく考えるね、将軍。ナハズとモージャは邪魔がはいるのをいやがるだろう」
「メンガはどうなったんです?」アテスカはいきなりたずねた。「悪魔たちを呼びだしているのはメンガだと思っていましたが」
シルクは意地悪そうに微笑した。「メンガはじっさいはハラカンという名のチャンディム僧だったんだ。何世紀もウルヴォンの弟子だった」
「だった?」
「残念だがメンガはもうこの世にはいない。ジスというちっちゃな緑色の蛇に出会って、それからすぐに物事にたいする関心を失った」
アテスカは頭をのけぞらせて笑った。「あなたのペットのことは聞きましたよ、閣下」とサディに言った。「彼女はメダルを受け入れてくれるでしょうかね――帝国のヒロインかなにかのメダルを?」
「興味があるとは思えませんね、アテスカ将軍」サディはそっけなく答えた。「それに、もしだれかが彼女にメダルをピンでつけようとしたら、誤解しかねませんからな」
「もっともです」アテスカはちょっと神経質にあたりを見回した。「ちゃんと閉じ込めてあるんでしょうね?」
「もちろんですわ、将軍」ヴェルヴェットがえくぼを見せて請け合った。「いま、ジスは赤ちゃんたちの世話をしています。とってもかわいいんですのよ。将軍に見せてさしあげたら、サディ?」
「あ……」アテスカはためらった。「またの機会にしましょう」
「さてと、アテスカ将軍」ベルガラスが言った。「わしらはこれまでのことをあんたに話した。今度はあんたが情報を分けてくれる番だと思うがね」
「われわれのほうも行動を秘密にしてはいませんよ、ベルガラスどの。皇帝の勢力はマル・ゼスを出ましたし、われわれはマガ・レンを部隊集結基地として利用しました。わたしは軍の先遣隊を率いてマガン川をくだり、フェラを占拠せよとの指示を受けました。ウルヴォンの軍がペルデインにザンドラマスが配備した部隊を全滅できるよう、ダーシヴァからザンドラマスの増強部隊を一掃するためです。そこでわれわれは、ウルヴォンを襲う計画を立てたんです――徹底的に。そのあと、川を渡ってザンドラマスが残していった勢力と戦うつもりでした」
「なかなかの戦略だな」シルクが言った。
「あいにく、うまくいかなかったんですよ。ダーシヴァの部隊は一掃しましたが、ザンドラマスの手下のひとりがガンダハールへ行って、相当数の象の騎兵部隊を雇ったんです」アテスカは顔をしかめた。「あの件は皇帝陛下と話しあおうと思っているんです。傭兵には反対ではありませんが、ガンダハールの象使いたちは、傭兵として雇われることとなると、いささか無差別ですからね。とにかく、きのう中部ペルデインで戦闘があり、象たちは象がいつもやることをやったんです。ウルヴォンの軍は逃げましたが、セランタのほうへ逃げもどるかわりに、象たちと残りのダーシヴァ軍を側面包囲し、まっすぐマガン川のほうへ向かっています。もしかれらがダーシヴァへはいれば、わたしのほうは大仕事になる。悪魔たちに、グロリムに、チャンディム、猟犬たち、象、カランド人にダーシヴァの全軍を相手に回すことになるんです」アテスカは嘆かわしげにためいきをついた。「どうやらこれはわたしが期待していたような短くて、楽な戦役にはなりそうもありません」
「ウルヴォンとザンドラマスにとことん戦わせたらどうなんだ?」シルクが言った。
「政策ですよ、ケルダー王子。皇帝は臆病者に――あるいは能無しに――思われたくないんです。それにいかなるたぐいの勝利であれ、陛下以外のマロリーの軍にそれを横取りされたくないんですよ。悪しき先例を作ることになるし、他の連中によからぬ考えを与えないともかぎりませんからね。マロリーは外から見えるほど完全に統一された社会ではないんです。われわれをひとつにつなぎとめているのは、圧倒的な帝国の力だけなんですから」
「その論法は認めるよ」シルクが同意した。「安定はビジネスにとって善なんだ」
「そういえば」とアテスカ。「豆についてあなたとわたしとでそのうちじっくり話をしなければなりませんね」
「売るのか、買うのか、アテスカ将軍?」シルクはずうずうしくたずねた。
「本題にはいりましょう、紳士がた」ポルガラが言った。「皇帝はわたしたちをどうするつもりなの?」
「それを決めるのは陛下自身ですから、レディ」アテスカは答えた。「陛下は常にわたしに秘密を打ち明けてくださるわけではないんです。もっとも、あなたがたがマル・ゼスで陛下のもてなしを悪用する道を選んだことについては、ひどく失望しておられましたよ」
「かれらはぼくたちがどこへ行こうとしているのか知っていたんだ」ガリオンは平板な声で言った。「その理由も」
「それがあなたと話したいと考えておられる問題のひとつのようです。あなたがたおふたりがなんらかの和解にこぎつける見込みはありますよ」
「可能性はあるが、それほど見込みがあるわけじゃない」
「皇帝陛下しだいですな」
霧は晴れていたが、ダーシヴァの空はどんよりと曇っていた。アテスカの船の船首に立っていたガリオンはどことなくなじみのあるにおいをかぎつけた。湿った錆と、よどんだ水と、カビ臭いキノコがまじりあったにおいだった。前方に目をこらすと、枯れた白い沈み木の森が見えた。ガリオンはがっかりした。
アテスカが静かに横にきて立った。「わたしに腹を立てないでいただきたいのです」かれは言った。「なんだかあなたとお友だちを捕らえる習慣を自分が作っているような気持ちですよ」
「きみは命令にしたがっているだけだよ、将軍」ガリオンは短く言った。「ぼくが喧嘩をしている相手はきみの皇帝であって、きみじゃない」
「あなたはじつに寛大なお方です、陛下」
「そうでもないさ、将軍、だがやれと言われたことをやっているにすぎない人たちに愚痴をこぼして時間を無駄にするような真似はしないつもりだよ」
アテスカは一マイルと離れていないダーシヴァ側の岸のほうを見やった。「あの雲は正午には晴れそうですね」巧みに話題を変えながら言った。
「それはどうかな、アテスカ」ガリオンは憂鬱そうだった。「クトル・ミシュラクに行ったことはあるかい?」
「軍人には、無人の廃墟へ足を運ぶような理由はあまりないんですよ、陛下」
「クトル・ミシュラクは無人ではなかった。チャンディムがいたし、猟犬も、ぼくには名づけようのない他のものもいたんだ」
「宗教的な狂信者どもですね」アテスカは肩をすくめた。「かれらは奇妙な理由で行動するんです。不健全な場所だそうですね」
ガリオンはダーシヴァ側の岸を指さした。「きみは別のものを見ているんだよ。メルセネ人がトルネドラ人と同じくらい懐疑的なのはわかっている。だからぼくがこれから言うことをどこまできみが信じるかわからない。空中にただよっているあの妙なにおいがわかるかい?」
アテスカはにおいをかいでから、鼻にしわをよせた。「あまりいいにおいじゃありませんね」
「クトル・ミシュラクはまさにそんなにおいがしたんだ。ダーシヴァの上空にたれこめるあの雲は、最低十二年はあそこにあるんだと思うよ」
「それはちょっと受け入れがたいですな」
「あの木々を見ろよ」ガリオンは沈み木を指さした。「森全体を死滅させるのに必要なものはなんだと思う?」
「なんらかの病気でしょう」
「いや、将軍。病気ならいまごろ若木が出てきているはずだよ。あそこには下ばえさえないんだ。あの木々は日光不足で死んだのさ。いまあそこに生えているのはキノコだけだ。ときどき雨がふり、雨水が水たまりを作る。水を蒸発させるほど太陽が照らないから、水はただたまったまま、腐っていく。それがきみがかいでいるものの一部なんだ」
「錆のにおいもしますね。あれはどこからにおってくるんでしょう?」
「よくわからない。クトル・ミシュラクではトラクの鉄塔の廃墟からあんなにおいがしていた。ダーシヴァがたえず薄闇に包まれているのは、それが〈闇の子〉のふるさとだからだ」
「その言葉なら前に聞いたことがあります。〈闇の子〉とは何者なんです?」
「ザンドラマスさ――すくなくとも当面は。本気で部隊をあそこに上陸させたいのか?」
「命令ですから、ベルガリオン王。わたしの部隊はよく訓練されています。太陽が照ろうと照るまいと、かれらはあの岸に要塞化された飛び地をつくりますよ。それからわれわれは皇帝をお待ちするんです。皇帝にはくだすべき決定事項が山ほどおありになる――その筆頭があなたをどうするかということです」
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6
かれらがアテスカの船上で待っているあいだに、兵隊たちが上陸して飛び地領の建設にとりかかった。マロリーの部隊はトルネドラ帝国の軍団に負けないほど有能で、またたくまに数エーカーの土地から邪魔物を排除し、秩序正しい、きちんとしたテントの町を作り上げた。町の内陸側は急ごしらえの防壁と、投石器と、尖った杭の突き出た深い溝によって囲まれた。川側は、やはり先を尖らせた柱をずらりとならべて塀にし、多数の浮きドックを水面に浮かせた。
午後の三時ごろ、ガリオンたちは下船して、飛び地領の中央に位置する護衛つきの大テントへ案内され、丁重ながらきっぱりと、テントの外へ出ないように命令された。
「ベルディンと連絡はとれたんですか?」シルクがベルガラスに小声でたずねた。
老人はうなずいた。「あることに精を出しとるよ」
「あまり長くかからないことを祈りますよ」小男は言った。「ザカーズがいったんここへきたら、もっと警備のゆきとどく場所へおれたちを移そうと決心するにきまってます――たぶん頑丈な壁と鍵つきのドアのある場所へね」シルクは顔をしかめた。「独房はだいっきらいなんだ」
「おおげさすぎるんじゃなくて、ケルダー王子?」セ・ネドラが横から言った。「ザカーズはこれまでだってずっと申し分のない紳士だったじゃない」
「それもそうだ」シルクは皮肉たっぷりに答えた。「ザカーズがハッガの平原ではりつけにしたあのマーゴ人たち全員にそのことを言ってやったらどうだい? ザカーズはね、自分にとって不都合なことじゃなけりゃいたって丁重なんだ。だが、おれたちはかなりかれをいらだたせることをやった。かれがここへ着くまでにおれたちが逃げ出さなかったら、ザカーズは自分がどんなにいらだっているか正確におれたちに見せつけると思うね」
「それはまちがってますよ、ケルダー王子」エリオンドが重々しく言った。「かれは自分がなにをすることになっているかまだ知らないんです、それだけです」
「そりゃどういう意味だ?」
「クトル・マーゴスでシラディスがザカーズに言ったでしょう、これからザカーズは人生の分岐点にさしかかることになるって。これがそのことじゃないかとぼくは思うんです。かれが正しい選択をすれば、ぼくたちはまた友だちになれますよ」
「あんなふうにか?」
「ええ、だいたいのところ」
「ポルガラ、頼むからエリオンドにこういう口をきかせないでくれませんかね」
そのテントにはなじみがあった。例によって赤い絨緞が敷かれたマロリーの士官のテントで、家具は簡単に解体できるものだった。過去に何度もみんなはこれと同じ種類のテントで寝起きしたことがあった。ガリオンはさしたる興味もなく、周囲を見回したあと、ベンチにだらしなくすわりこんだ。
「どうかしたの、ガリオン?」セ・ネドラがやってきて横にすわり、たずねた。
「見りゃわかるだろう? なんで連中はぼくたちをそっとしといてくれないのかね?」
「心配のしすぎだと思うわ」彼女は手をのばして小さな指でガリオンのおでこにさわった。
「あなたの友だちは起きることになっていないことは起こさないわよ。だからくよくよ考えないことね。わたしたちはケルへいくことになってるし、ザカーズにそれをとめることはできないわ、たとえかれがクトル・マーゴスから全軍を連れてきて、わたしたちをとおせんぼしたってね」
「やけに冷静なんだな」
「そう信じなくちゃいられないのよ、ガリオン」セ・ネドラは小さくためいきをついた。「信じなければ、頭がおかしくなっちゃうわ」身をのりだして、ガリオンにキスした。「さ、その気むずかしい顔をひっこめて。このごろベルガラスそっくりになってきてるわよ」
「そりゃしかたないさ。なんてったって、ぼくのおじいさんなんだからな」
「でも、そうなるにはまだ何千年もかかるはずでしょ」セ・ネドラは辛辣に言った。
ふたりの兵士が標準的な軍用食で作った夕食を運んできた。シルクが金属鍋のひとつをあけて、なかをのぞきこみ、ためいきをついた。「そうじゃないかと思ったんだ」
「どうしました、ケルダー?」サディがたずねた。
「豆さ」シルクは鍋を指さして答えた。
「豆好きなんだとばかり思ってましたがね」
「食べるのは好きじゃないんだよ」
前夜眠っていなかったので、かれらは早々にベッドにひきとった。ガリオンはしばらくのあいだ落ち着きなく寝返りをうっていたが、ようやく眠りに落ちた。
翌朝は全員が朝寝をし、ガリオンがカーテンで仕切られたセ・ネドラとの部屋から出ていってみると、シルクがそわそわと歩き回っていた。「やっとおでましか」かれはいくばくかの安堵をこめて言った。「みんな昼まで眠ってるんじゃないかと思ってたんだ」
「どうしたんだ?」ガリオンがきいた。
「話し相手がほしいだけさ」
「さびしいってわけ?」
「まさか。いらいらしてるんだ。ザカーズはたぶんきょうあたりあらわれる。ベルガラスを起こすべきだと思うか?」
「どうして?」
「ベルディンがおれたちをここから脱出させる方法を思いついたかどうかを知るためさ、もちろん」
「心配しすぎだよ」
「おい、おれたち、けさは鈍感すぎるんじゃないのか?」シルクはつっかかるように言った。
「そんなことはないさ。だが、どうしようもないことを心配して、くよくよ悩んでたってしかたがないだろう?」
「ガリオン、ベッドへ戻ったらどうなんだよ」
「さびしいんじゃないかと思ってさ」
「それほどさびしかない」
「アテスカはけさ立ち寄ったか?」
「いや。めちゃくちゃ忙しいんだろう。ザカーズがここへ着くまでに、なんらかの軍事作戦を練っておかなけりゃならないからな」小男はおりたたみ式の椅子のひとつにどすんと腰をおろした。「ベルディンがなにをやってるにせよ、ここから逃げれば最低一部隊がたちまち追ってくるな」と予測した。「追いかけられるのはだいきらいなんだ」
「ファルドー農園を出た夜から、ずっとぼくたちは追いかけられてきたんだ。もう慣れてもいいはずだよ」
「ああ、慣れてるさ、ガリオン。だが、やっぱり好きになれないのさ」
一時間かもう少したったころ、他の面々が起きはじめ、それからほどなくきのうと同じ赤い軍服の兵士たちが朝食を運んできた。テントに閉じ込められてからみんなはそのふたりの兵士以外の人間に会っていなかった。
かれらは昼までとりとめのない会話をして過ごした。暗黙の了解で、だれひとりいまの状態を口にしなかった。
昼ごろ、アテスカ将軍がテントにはいってきた。「皇帝陛下がまもなくご到着になります」と大声で言った。「艦隊がはしけに近づいているところです」
「ごくろうさん、将軍」ベルガラスが答えた。
アテスカは固苦しく一礼して立ち去った。
ポルガラが立ち上がった。「いらっしゃい、女性たち」とセ・ネドラとヴェルヴェットに言った。「着替えてきましょう」
サディは質素なチュニックとズボンを見おろした。「謁見をたまわる者としてふさわしい身なりとはいいがたいですね」と言った。「われわれも着替えたほうがいいと思いますか?」
「なんのために?」ベルガラスは肩をすくめた。「わしたちがザカーズにことを重要視しているという印象は与えんようにしよう」
「そうなんですか?」
「まあな。だが、そのことをザカーズに知らせるにはおよばんぞ」
それからまもなく、マロリー皇帝がアテスカ将軍、国務長官をともなってはいってきた。習慣にたがわず、ザカーズは簡素な麻布のローブを着ていたが、肩に真紅の軍用ケープをかけていた。目はふたたび憂鬱な以前の目に戻っており、青ざめた口は無表情だった。「こんにちは、陛下」ザカーズは平板な、感情を消しさった口調でガリオンに言った。「お元気だったようですな?」
「まあまあです、陛下」ガリオンは答えた。ザカーズが固苦しい口のききかたをするのなら、自分も同じ口調で応じるつもりだった。
「多方面にわたる旅でさぞ疲労しておられるにちがいない」ザカーズはあいかわらず感情のこもらない口調で言った。「特にご婦人がたは。マル・ゼスへ帰る旅はそういうことのないように取り計らうつもりですよ」
「せっかくだが、われわれはマル・ゼスへは戻らない」
「貴公はまちがっている、ベルガリオン。マル・ゼスへ戻るのだ」
「残念だが。差し迫った用件でよそへ行かねばならない」
「ザンドラマスに会ったら貴公が残念がっていたことを伝えておこう」
「ぼくが行かないと聞いたら、ザンドラマスはきっと飛び上がって喜ぶはずだ」
「それも一時のことだ。わたしはあの女を魔女として火あぶりにするつもりでいる」
「幸運を祈る、陛下。だがザンドラマスがひどく激しやすいことがわかっていないようだな」
「あなたがた、少しおとなげないんじゃなくて?」そのときポルガラが口をはさんだ。彼女は青いドレスに着替えてテーブルにすわり、落ち着きはらってエリオンドの靴下の穴をかがっているところだった。
「おとなげないだと!」ザカーズはかみつくように言った。目が急に燃えあがった。
「あなたたちはまだ友だちだし、ふたりともそのことを知っているわ。さ、小学生みたいなまねはおよしなさい」
「立ち入りすぎるのではないかな、レディ・ポルガラ」ザカーズは冷たく言った。
「そうかしら? かなり正確に状況を表現したつもりだけれど。あなたはガリオンを鎖につなぐつもりはないし、ガリオンだってあなたをハツカダイコンに変えるつもりはないのよ。だからいがみあうのはよしなさい」
「この話し合いはまたの機会につづけるとしよう」ザカーズはそっけなく言うと、ポルガラにわずかに頭をさげてテントから出ていった。
「いまのはいささか無作法だったんじゃありませんか、レディ・ポルガラ?」サディがたずねた。
「そんなことはないと思うわ」ポルガラは答えた。「あれでつまらないことが大いに省かれたはずよ」つくろい終えた靴下を彼女は注意深くたたんだ。「エリオンド、そろそろまた足の爪を切ったほうがよさそうね。わたしが直すより先に穴をあけてしまうんですもの」
「以前のかれに戻ってしまったようだね」ガリオンは悲しそうに言った。「ザカーズのことだよ」
「そうでもないわ」ポルガラは言った。「あの大部分は本当の気持ちを隠すためのポーズよ」そこでベルガラスのほうを向き、「ねえ、おとうさん、ベルディンおじさんはもうなにか思いついたの?」
「けさ、あることにとりかかっておった。いまは話しかけられんのだ、やつめ、ウサギを追いかけているんでな。昼めしを食い終わったら、連絡をつけよう」
「仕事に専念することができないの、おじさんは?」
「おいおい、よさんか、ポル。おまえだって太ったウサギを見ると道草を食うことがあるじゃないか」
「まさか!」セ・ネドラがおそろしげに目を見開いて、かみつくようにポルガラに言った。
「あなたにはわからないと思うわ、ディア」ポルガラは言った。「ねえ、あなたのグレイのドレスをもってきてちょうだい。たしか、裾の部分が破れていたし、ちょうどいま裁縫箱が出てるから」
かれらは午後の残りをじっとやりすごした。夕食後はすわって静かに話をした。
シルクが目を細めて、一歩出れば見張りが立っているテントの入口のほうを見やった。「ベルディンはもううまいことやったんですかね?」とベルガラスにささやいた。
「あることをやっとるのさ――ベルディンのことだ、おおかたひどく珍奇なことをな。こまかい点を苦心して解決しようとしている。いったんちゃんと組み合わせたら、すべて話してくれるだろう」
「ふたりで一緒にやったほうがいいんじゃないんですか?」
「やっこさんは自分がやらねばならんことを心得とるんだ。わしのオールまでつっこもうとしても、邪魔になるだけさ」老人は伸びをしてあくびをした。それから立ち上がった。「みんなはどうか知らんが、わしは寝るとするぞ」
翌朝、ガリオンはこっそりと起きて服を着ると、まだ眠っているセ・ネドラを残して、カーテンで仕切られた部屋から忍び出た。
ダーニクとトスがテントの主要部分で、ベルガラスとともにテーブルについていた。
「ベルディンがどうやってそれをやったかなどときいてもむだだぞ」ベルガラスは言っていた。「やつがわしに言ったのは、トスが呼ぶのなら、シラディスはここへきてもいいと言ったということだけなのだ」
ダーニクとトスは二、三のジェスチャーをかわした。「トスは呼んでもいいと言ってますよ」鍛冶屋が通訳した。「いまシラディスにここへきてもらいたいんですか?」
ベルガラスは首をふった。「いや、ザカーズが同席するまで待とう。遠方からイメージを投影するのは、シラディスには非常に疲れることなのだ」老人は渋い顔をした。「ベルディンは彼女を呼ぶ前に、わしらで会話をめいっぱい盛りあげたらどうだと提案している。どうもやつはときどきメロドラマチックになることがあるのだ。何年もそのことで話し合ってきたが、ときどき逆行しおる。おはよう、ガリオン」
ガリオンは三人に軽くうなずいてから、テーブルについた。「シラディスはぼくたちのできないなにをやろうとしてるんだい?」
「よくわからんのだ」ベルガラスは答えた。「だが、彼女がザカーズに不思議な影響力を持っていることは周知の事実だ。シラディスを見るたびに、ザカーズは物事にたいする把握力をなくすきらいがある。ベルディンのやつ、なにを考えているのかどうしてもはっきりと教えようとせんのだが、ひとりで悦に入っているようだった。けさ、ひと芝居打つ元気があるか?」
「そうでもないけど、なんとかやれると思う」
「ザカーズをちょっと刺激するのだ――やりすぎは禁物だぞ、だが、あおられてやつがこっちに脅しをかけるように仕向けるのだ。それを見計らって、わしらはシラディスを呼ぶ。それとなくやるのだぞ。少しずつザカーズを追いつめるのだ」老人はトスを見た。「ガリオンとザカーズが議論をはじめたら、わしから目を離すな」と指示した。「わしは口元を隠して咳をする。そのときがおまえの女主人が必要になるときだ」
トスはうなずいた。
「他のみんなにも話すのかい?」ガリオンはたずねた。
ベルガラスは目を細めて考え、「やめておこう」と言った。「なにが起きているのか知らないほうがみんなの反応も自然かもしれん」
ダーニクがかすかに微笑した。「芝居がかったことが好きなのは、ベルディンひとりじゃないようですね」
「もともとわしはプロの語り部だったのだからな、ダーニク」とベルガラスは思い出させた。「聴衆をリュートよろしく自在に繰ることができるのさ」
残りの人々が目をさまし、朝食が出されたあと、アテスカ将軍がテントに入ってきた。「皇帝陛下から、仕度をしておくようにとの仰せです。一時間以内にマル・ゼスへ出発です」
ガリオンはそれを阻止するためにすばやく手を打った。「皇帝陛下に伝えてくれ、きのうはじめた会話を終わらせるまではどこにも行かないとね」
アテスカは一瞬あっけにとられた顔になったが、やがてわれにかえった。「皇帝に向かってそんな話し方をする人間はいません、陛下」かれはきっぱりと言った。
「だとしたら、目先が変わっておもしろいと思うかもしれないよ」
アテスカは背筋をそらせた。「皇帝はただいま手がふさがっておられます」
ガリオンは椅子にもたれて、脚を組んだ。「持つよ」有無を言わせずに言った。「それだけだ、将軍」
アテスカの顔がこわばった。ややあって、ぎごちなく一礼すると、将軍は回れ右をしてひとことも言わずに出ていった。
「ガリオン!」セ・ネドラがあわてて言った。「わたしたちはザカーズしだいなのよ。わざと失礼な態度をとったのね」
「かれだって、それほどぼくに丁寧だったわけじゃない」ガリオンは肩をすくめた。「マル・ゼスへ戻るつもりはないと言ったのに、ぼくの言葉を無視したんだ。かれの注意をひくにはちょっと時間がかかることもあるようだな」
ポルガラはじろじろとガリオンを見ていたが、やがてベルガラスに向きなおった。「ふたりでなにをたくらんでるの、おとうさん?」
老人は片目をつぶってみせたが、答えなかった。
カル・ザカーズがやってくるまで、ほぼ二分かかった。かれは目を血走らせ、顔を真っ赤にしてテントに飛び込んできた。「どういう意味だ?」わめくようにガリオンに言った。
「どういう意味だとは、どういう意味だ?」
「皇帝の命令だぞ!」
「だから? ぼくはきみの家来じゃない」
「許せん!」
「いずれ慣れるさ。ぼくがやりかけたことをほっておけない性分であることぐらい、もうわかってもよさそうなものだ。そのことはマル・ゼスをぼくたちが出発したときにはっきりさせたと思っていた。ぼくたちはアシャバへ行くと言っただろう。だからそのとおりにしたんだ」
かなりの努力のすえに、皇帝は怒りを抑え込んだ。「わたしはきみときみの友人たちを保護しようとしていたのだぞ、ばかもの」くいしばった歯のすきまから押し出すように言った。「きみはメンガのいるところへまっしぐらに向かっていたのだ」
「ぼくたちにとってメンガなどたいした問題じゃなかったよ」
「アテスカはきみがメンガを殺したと言ったが、わたしはくわしいことは知らされていないのだ」ザカーズはいくらか落ち着きを取り戻したようだった。
「じっさいは、やったのはぼくじゃない。リセル辺境伯令嬢がメンガを殺したんだ」
ザカーズは片方の眉をあげて、えくぼのヴェルヴェットを見た。
「陛下は過大評価をなさってるんですわ」リセルはちょっと膝を折り曲げてつぶやいた。「助っ人がいましたの」
「助っ人? 何者だね?」
「ジスなんです、じつは。メンガは度肝を抜かれたんです」
「その賢い雌蛇のことは抜きにして、なにがあったのかだれか教えてくれないか?」
「いたって簡単だったんですよ、陛下」シルクがすらすらと言った。「アシャバにあるトラクの古い謁見の間で、おれたちはチャンディムやその他と連中とちょいとしたいさかいをやらかしていた。メンガは部下たちに命令を叫んでいた。そこへリセルが胴着の中からジスをひっぱりだして、その小さな緑色のかわいい生き物をメンガの顔に投げつけた。ジスが何度かかみつくと、メンガは板みたいにがちがちになって、床に倒れる前にこときれちまった」
「本当にあの蛇を服の中に入れていたわけではないのだろう?」ザカーズは信じられないようにヴェルヴェットにたずねた。「どうしてそんなことができるのだ?」
「たしかに慣れるまでにはちょっとかかりましたわ」ヴェルヴェットは落ち着きはらって、片手を胴着にあてた。
「本当にそんなふうに起きたわけではないのだろうな?」
「ケルダー王子の描写はいたって正確ですよ、皇帝陛下」サディが請け合った。「ジスはかんかんになっていたんです。辺境伯令嬢がジスをメンガに投げつけたとき、たぶん眠っていたんでしょう。いきなり起こされると、彼女はいつも不機嫌になるんですよ」
「結局のところ」ベルガラスが言った。「メンガはじっさいはチャンディムのひとりで、ウルヴォンのおもな手下のひとりだったのだ」
「ああ、アテスカに聞いた。すると、カランダで起きていたことの背後にはウルヴォンがいたわけだな?」
「いたといってもほんのおまけ程度にな」ベルガラスが答えた。「ウルヴォンは正気ではないのだ。なんであれ背後で糸をあやつるほどの頭はない。完全にナハズという魔神のいいなりになっている。だいたい悪魔とつきあうと、人間は精神がおかしくなるんだ。ウルヴォンはいまや完全に自分を神だと思いこんでいる」
「ウルヴォンがそれほどまでに狂っているなら、ここで戦闘を展開しているのは何者なんだ? アテスカの話では、ダーシヴァ軍を包囲しているウルヴォンの軍と、連中の象の騎兵部隊は、天才的戦略を示しているそうだぞ」
「これはわしの推測だが、指揮しているのはナハズだと考えてまちがいないだろう。魔神というやつは死傷者がどんなに出てもまるで関心がない。人間を脱兎のごとく遁走させる方法も持っている」
「これまで魔神と戦ったことは一度もなかった」ザカーズは考え込んだ。「そやつの目的はなんなのだ?」
「サルディオンだ」ガリオンが答えた。「だれもがそれをわがものにしたがっている――ぼくをふくめて」
「アンガラクに新しい神を誕生させるためか?」
「それがサルディオンのねらいらしい」
「どうも気にいらんな。きみはトラクからわれわれを解放した。マル・ゼスであれ、マル・ヤスカであれ、トラクの後釜を王座につかせるつもりはない。アンガラクには神など不要だ。わたしがいる。そっちの候補者は何者なのだ?」
「まだわからない。教えられていないんだ」
「きみをどうすればいいのだ、ベルガリオン?」ザカーズはためいきをついた。
「ぼくたちがやることになっていることをやれるように、ぼくたちを行かせてもらいたい。新しい神という考えは気にいらないだろうが、ザンドラマスやウルヴォンやアガチャクが提案してくることよりは、ぼくの選択のほうがはるかにましだと思うはずだ」
「アガチャク?」
「ラク・ウルガの高僧だ。かれもマロリーにいる」
「ではその男もわたしが処理しよう。だが、まだきみの問題が残っている」
「そのことならいま言った」
あるかなきかの微笑がザカーズの口元に浮かんだ。「その提案には不安が残るな。きみはあまり当てにできん」
「そっちの目的はなんなのだ?」ベルガラスがザカーズにたずねた。
「マロリーに秩序を回復させるつもりでいる、たとえそうすることで全地域の人口を根絶やしにしなければならないとしてもだ。そのサルディオンとやらはあらゆる人間を異様に扇動するものであるわけだから、わたしの最善の道はそれを見つけだして破壊することだろう」
「よし」ガリオンは立ち上がりながら言った。「では、行こう」
「いや、陛下」ザカーズの口調がふたたびひややかに、よそよそしくなった。「わたしはもう貴公を信用していない。一度失敗したからな。貴公と友人たちを厳重な警備のもとにマル・ゼスに送り返せば、サルディオンを手に入れようとしている人間の少なくともひとりは消去できる。それでこそサルディオンの捜索に集中できるというものだ」
「どこから手をつけるつもりなんだ?」ガリオンはぶっきらぼうにきいた。ベルガラスが示唆していたねらいの周辺をうろうろしていた会話が、うまく運びはじめたように思えた。「なにを捜すのかわかってもいないし、どこからはじめるのかまるで見当もつかないはずだ。それじゃへまをやるだけだ」
「そんなことはどうでもよい、ベルガリオン」
「それは残念。図星をつかれると、いやなもんだろう?」
「貴公はそれのありかを知っているのか?」
「ぼくは見つけ出せる」
「貴公にできるなら、わたしにもできる。それにいくつか手がかりを与えてくれるはずだ」
「そんなつもりはまるでない」
「いったん貴公の友人の何人かを拷問にかければ、もっと協力するようになる。見物もさせてやろう」
「だったら取り替えのきく拷問人を雇うことだな。ぼくにはどんなことができるかまだわかっていないのか? いままでずっとあんたは利口なんだとばかり思っていたよ」
「もうたくさんだ、ベルガリオン」ザカーズはたたきつけるように言った。「準備をしておけ。マル・ゼスへ出発するのだ。貴公を行儀よくさせておくために、仲間をひとりひとり分けることにする。そうすれば、貴公がなにか軽はずみなことをしでかした場合でも、こっちには人質がたくさんいるわけだからな。この会話はこれで終わりだ」
ベルガラスが片手で口をおおって、咳をした。トスがうなずいてこうべを垂れた。
ザカーズがぎょっとしたようにあとずさった。目の前にいきなりちらちらするまぼろしが現われたのだ。かれはガリオンをにらみつけ、問いつめた。「これは手品かなにかか?」
「手品じゃないさ、ザカーズ」ガリオンは答えた。「シラディスからあんたになにか言うことがあるんだ。よく聞くんだな」
「わたしの話を聞くつもりがおありか、ザカーズ?」目隠しをしたケルの女予言者の輝く姿が質問した。
ザカーズの顔はまだ疑惑でこわばっていた。「なんだ、シラディス?」ぶっきらぼうにたずねた。
「そなたのところへ長居はできぬのじゃ、マロリー皇帝。かつてわたしはそなたの人生の分かれ道について、そなたに話したことがある。そなたはいまそこへ到達した。尊大な態度はやめて、わたしがそなたに課さねばならぬ務めに従うよう。そなたは人質の話をした」
ザカーズは身をそらせた。「習慣なのだ、シラディス。相手をおとなしくさせておくための単純な手段だ」
「人におのれの意志を押しつけるために、罪もない者たちを脅かさねばならぬほど、そなたは薄弱なのか?」シラディスの口調にはかすかに侮蔑がこもっていた。
「薄弱? わたしがか?」
「そうでなくて、どうしてそれほど意気地の無い道を選ぶのじゃ? だが、よく聞くがよい、カル・ザカーズ、なぜならば、そなたの命はあやうい均衡を保っているのだから。そなたが〈光の子〉やかれの仲間のだれかに手をあげた瞬間に、そなたの心臓は破裂し、そなたは二呼吸するまもなく死ぬであろう」
「それならそれでかまわん。わたしがマロリーを支配しているのだ。脅されたという理由で――たとえ脅したのがあんたでも――変心したりためらったりするのは、クズになりさがるのと同じだ。そんなことをするつもりは毛頭ない」
「では、そなたはまちがいなく死ぬことになろうぞ。そしてそなたの死とともに、そなたの誇る帝国は灰塵に帰すであろう」シラディスはそれをぞっとするような切り口上で言った。
ザカーズは女予言者を見すえた。青白い顔が鉛色になっていた。
「どうしてもわたしの警告を聞かぬようなら、わたしが代わってそなたにひとつ提案をしよう。人質をそなたが要求するのであれば、このわたしが人質となる。〈光の子〉はわたしの務めが完了する前に、わたしがこの命から離れれば、探索が確実に失敗に終わることを知っている。かれに課する拘束として、これほど都合のよいものはあるまい?」
「あんたをおびやかすつもりなどない、聖なる女予言者」ザカーズはやや心もとなげに言った。
「どうしてじゃ、強大なるザカーズ?」
「適切ではないからだ」ザカーズは短く言った。「わたしに言わねばならないのはそれだけか? 処理すべき義務がいくつか残っているのだ」
「それは火急を要するものではない。そなたのまことの義務はわたしにたいするものだけであり、わたしがそなたに課する務めだけなのじゃ。その務めを完了することが、そなたの人生の目的なのじゃ。そのために、そのためだけに、そなたはこの世に生を受けた。それを拒めば、そなたは次の冬まで生きられぬ」
「出現してからあんたがわたしの命をおびやかしたのは、これで二度めだな、シラディス。そんなにわたしが憎いか?」
「そなたを憎んでいるのではない、ザカーズ。おびやかしてもおらぬ。そなたのためにとっておかれた宿命を、そなたにあきらかにしたにすぎぬ。務めを受け入れるか?」
「もう少し知るまでは答えられない」
「よかろう。そなたの務めの最初の部分を明かすことにしよう。そなたはケルのわたしのもとへこなければならぬ。そこでならそなたに従おう。そなたの人質となろう。だが、そなたもまたわたしの人質となるのじゃ。〈光の子〉とその他の選ばれし仲間とともに、ケルへくるがよい。なぜなら、この世のはじまりより予言されていたように、そなたは仲間のひとりだからじゃ」
「しかし――」
シラディスはほっそりした片手をあげた。「従者も、軍も、そなたの権力の象徴も捨て去ることじゃ。それらはそなたにはなんの役にも立たぬ」彼女は言葉をきった。「それとも、おお、強大なるザカーズよ、強いて強情な膝を折り、反抗心をむりやり押さえつけてそなたの意志にしたがう兵士たちがまわりにおらぬと、そなたの広大な王国を進むのがおそろしいか?」
ザカーズの顔が怒りで紅潮した。「わたしはなにものも恐れないぞ、聖なる女予言者」と冷やかな声で答えた。「死すらも」
「死などはささいなものじゃ、カル・ザカーズ。そなたが恐れているのは、生のほうではないのか。言ったように、そなたはわたしの人質じゃ。ケルのわたしのもとへきて、そなたの重荷を背負うことを命令する」
マロリー皇帝はふるえはじめた。ガリオンはこの人物を知っていたから、普段のザカーズならシラディスの尊大な命令を即座にはねつけるのはわかっていた。だが、ザカーズはなにか圧倒的な強制力につかまれているようだった。ふるえはしだいに激しくなり、青ざめた顔に汗がふきだした。
シラディスは目隠しをしているにもかかわらず、彼女の人質≠つかんでいる混乱がわかるようだった。「よくぞ選択した、カル・ザカーズ」彼女は高らかに言った。「そなたは喜んで――あるいは不承不承かもしれぬが――わたしにしたがうことになる。が、したがわねばならぬ。それがそなたの宿命だからじゃ」シラディスは背筋を伸ばした。「さあ、言うがよい、マロリー皇帝、宿命がそなたの受諾を求めているのだから。ケルのわたしのもとへくるであろう?」
ザカーズは言葉が出てこないようだった。「行く」しわがれ声で言った。
「それでよい。あらかじめ定められたベルガリオンの隣りの席をしめ、聖なる都市へくるがよい。かの地でそなたの務めについてさらにくわしいことを教え、そなたの命のみならず、この世の命がそれにかかわっている理由を教えよう」シラディスが少し向きをずらしたので、目隠しをした目がガリオンを見ているように思えた。「かれをわたしのもとへ連れてくるように、〈光の子〉よ。なぜなら、このすべては最後の対決の前に経過しなければならぬことだからじゃ」
彼女は懐かしむようにトスのほうへ片手を伸ばした。
次の瞬間、シラディスは消えた。
「これで十二人になったわけだ」サディがつぶやいた。
しかしながら、一行の最新のメンバーはテントの中央に土気色の顔をして立ちすくんでおり、ガリオンはマロリー皇帝の両眼に涙が盛り上がっているのを見ておどろいた。
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7
「〈からっぽの者〉ですね」エリオンドがどことなく満足そうな口調で言った。「これでほとんど出そろった」
「なんのことかよくわからないな」サディが言った。
「レオンにいたとき、シラディスがぼくたちのところへあらわれたでしょう」若者は説明した。「あのとき、彼女は〈もはや存在しない場所〉へだれがぼくたちと一緒にいくことになるのか教えてくれたんです。〈からっぽの者〉ってだれのことなのかとずっと思ってたんですよ。これでわかった」
「シラディスはわたしのことはどう表現した?」宦官はたずねた。
「本当に知りたいんですか?」
「なんとなく興味があるんだ、聞きたいね」
「〈男ならぬ男〉と呼んでました」
サディはたじろいだ。「ずいぶんと露骨じゃないか、え?」
「きいたのはあなたですよ」
サディはためいきをついた。「いいんだよ、エリオンド。その処置がおこなわれたのは、わたしがほんの赤ん坊のときだったんだ。だから普通とちがうのがどんなものか、まったく見当もつかないんだよ。じっさい、ほかでもないその機能について、あれこれ興味を持たれるのをいささかおもしろがっているくらいでね。こういう体のおかげで、人生ははるかにシンプルなものになっているんだ」
「どうしてそんな処理をしたんですか?」
サディは肩をすくめ、つるつる頭を片手でなでた。「母は貧乏だったんだよ」と答えた。「それがわが子にしてやれる唯一の贈物だったんだ」
「贈物?」
「サルミスラ女王の宮殿に雇われるチャンスを与えてくれたわけだからね。そうでもしなかったら、わたしは残りの家族のように、物乞いになっていただろう」
「だいじょうぶか?」ガリオンは血の気の失せたザカーズにたずねた。
「ひとりにしておいてくれ、ガリオン」ザカーズはつぶやいた。
「わたしにまかせたらどう、ディア?」ポルガラがガリオンに声をかけた。「これはザカーズにとってたいへんな試練なのよ」
「わかるよ。ぼくの場合も容易なことじゃなかった」
「でもわたしたちは気づかいながらあなたに打ち明けたわ。シラディスにはそんな余裕はなかったのよ。わたしがザカーズと話しましょう」
「わかった、ポルおばさん」ガリオンはその場を離れて、動揺激しいザカーズをポルガラにゆだねた。この事態の展開は、ガリオンにかなりの不安を与えていた。個人的には、マロリー皇帝に好感を持っていても、この人物を一行に加えることから生じる困難の数々がいまから目に見えるような気がした。これまでにも絶えず一行のメンバーは生命の危機にさらされてきた。みんなの命はひとえに、全メンバーの目的がひとつであることで保たれてきたのだ。だが、ザカーズがなにを考えているのかは、いたって不明瞭だった。
(ガリオン)心の中の声がうんざりしたように言った。(自分に理解できないことをいじりまわすのはよせ。ザカーズはおまえと一緒に行かねばならんのだ。だからその考えに慣れたほうがよい)
(でも――)
(でももへちまもない。慣れるんだ)
ガリオンは二言、三言、低い声で毒づいた。
(それからな、わたしに毒づくのもやめろ)
「こんなばかなことがあるか!」ザカーズがいきなり叫んで、椅子にへたりこんだ。
「それはちがうわ」ポルガラが異議を唱えた。「あなたは別の見方で世界を見ることに慣れなくてはいけない、それだけのことよ。たいがいの人間にとっては、そんな必要はないわ。でもあなたはいまや厳選されたグループのひとりなんですからね、ルールだってこれまでとはちがってくるのよ」
「ルールがわたしに適用されたことはただの一度もないのだ、レディ・ポルガラ。自分のルールは自分で作る」
「もうそれは許されないわ」
「どうしてわたしがこんな目に会わねばならない?」ザカーズは問いつめた。
「最初の質問はいつもあれだな」ベルガラスがそっけなくシルクに言った。
「これまでそれに答えた者はいるんですか?」
「わしの知るかぎりでは、おらん」
「いずれわたしたちであなたにいろいろ教えてあげられるわ」ポルガラはザカーズを元気づけた。「いま重要なのはただひとつ、あなたにその意志があろうとなかろうと、シラディスにたいするかかわりを尊重することよ」
「もちろんそのつもりでいる。そう約束した。気に入らないが、しかたがない。いったいどうやってシラディスはあんなふうにわたしをあやつれるのだろう?」
「彼女にはとても不思議な力がそなわっているのよ」
「魔術を使うということか?」
「いいえ。真実を使うということ」
「シラディスのしゃべっていたあのたわごとが少しでも理解できたのかね?」
「部分的にはね、でも全部というわけではないわ。わたしたちはちがう見方で世界を見ていると言ったでしょう。予言者たちの見方もまたちがうのよ。予言者と同じ見方をしない者には、理解しきれないところがあるわ」
ザカーズはじっと床を見つめた。「急にひどく自分が無力に思えてくる」と正直に言った。「その気持ちがたまらない。事実上王位を剥奪されたようなものだ。けさまでは地球上で最大の国家の皇帝だったのに、午後になったら、放浪の身になろうとしている」
「新鮮な気分になれるかもしれませんよ」シルクが軽口をたたいた。
「だまれ、ケルダー」ザカーズはほとんどうわの空で言うと、ふたたびポルガラに視線を戻した。「いささか奇妙なことがあるのだ」
「なんですの?」
「約束しなかったとしても、やはりケルへ行かなくてはならなかっただろうということだ。ほとんど衝動のようなものなのだ。まるで追い立てられているような気持ちでね。わたしを追い立てているのは、ほんの子供にすぎない目隠しをした少女なのだよ」
「報いはありますわ」
「どんな?」
「さあ? 幸福じゃないかしら」
ザカーズは皮肉めいた笑い声をあげた。「幸福がわたしを駆り立てる野心であったことは、長い間ただの一度もないよ、レディ・ポルガラ」
「いずれにしても、あなたはそれを受け入れなくてはならないのよ」ポルガラはほほえんだ。「務めを選ぶことができないように、わたしたちは報いを選ぶこともできないわ。そう決まっているの」
「あんたは幸福か?」
「まあそうね、じっさい、幸福だわ」
ザカーズはためいきをついた。
「どうしてそんなにためいきをつくの、カル・ザカーズ?」
皇帝は親指とひとさし指を一インチばかり離して立てた。「全世界の支配者になるまで、あとこのくらいだったんだ」
「どうしてそうなりたいの?」
かれは肩をすくめた。「これまでだれもやったことがない。それに権力には満足感がある」
「別の満足感をそのうち見いだすようになるわ、きっと」ポルガラはザカーズの肩に片手をのせて微笑した。
「片づいたか?」ベルガラスがマロリー人にたずねた。
「じっさいにはなにひとつ片づいてなどいない、ベルガラス」ザカーズは答えた。「われわれが墓にはいるまではね。しかし、ケルへは同行しよう」
「では、アテスカを呼んだらどうだね。あんたがどこへ行くかかれに言っておく必要があるだろう。そうすればアテスカは少なくともわれわれのうしろを守れるわけだ。背後からこっそり忍びよられるのは虫が好かんのでな。ウルヴォンはもうマガン川を渡ったのか?」
「それはじつに難問だ。きょう、おもてを見たかね、ベルガラス?」
「テントの入口は見張られておるし、アテスカの部下たちが見物もさせてくれないんでな」
「ひどく霧が濃い、その上を歩けそうなほどだ。ウルヴォンがどこにいたっておかしくない」
ポルガラが立ちあがって、いそいでテントの垂れぶたに近づいた。それをあけると、外にいた見張りのひとりが鋭くポルガラになにか言った。
「まあ、いやだこと」ポルガラはそう言ったあと、何度か深呼吸をして、垂れぶたを閉じた。「自然じゃないわ、おとうさん」深刻な口調で言った。「おかしなにおいがするのよ」
「グロリムどもか?」
「ええ、そうだと思うわ。たぶんチャンディムがアテスカの巡視船からウルヴォンの部隊を隠そうとしているんでしょう。連中ならたいして苦労もせずにマガン川を渡れるはずよ」
「いったん渡ってしまえば、ケルへの旅は競馬も同じだ」
「アテスカに話そう」ザカーズが言った。「そいつらを多少遅らせてくれるかもしれん」かれはしげしげと老人を見つめた。「わたしがケルへ行く理由はわかっている。しかし、あなたの場合はどうしてだ?」
「『マロリーの福音書』を読んで、わしらの最終目的地をつきとめねばならんのだ」
「知らないというのか?」
「ああ、まだな。だが、その呼び名は知っている。〈もはや存在しない場所〉だ」
「ベルガラス、それはまったくのたわごとじゃないか」
「わしが呼び名を考えだしたわけじゃないんでな、わしを非難するのはおかどちがいだぞ」
「なぜマル・ゼスにいたとき言わなかった? わたしの書庫に福音書の写しがあるのに」
「第一に、マル・ゼスにいたときにはそのことを知らなかったんだ。わかったのはつい最近なのだよ。第二に、たとえマル・ゼスで見たとしても、あんたの写しはわしの役には立たなかっただろう。福音書はひとつひとつ全部ちがうそうだ。わしが求めている節が載っているのはケルにある福音書だけなのだ」
「すべてがひどくこみいっているようだな」
「そうだ。こういう事柄はえてしてそうなのだ」
ザカーズはテントの入口に歩みよると、そこに配置されている見張りのひとりに短く話しかけて、また戻ってきた。「アテスカとブラドーを呼びにやった」ザカーズはちょっと残念そうに微笑した。「あのふたりがこのなりゆきに激しく抗議しても、わたしはおどろかないね」
「抗議するひまを与えないことだ」ガリオンが助言した。
「ふたりともメルセネ人なんだ、ガリオン」ザカーズは指摘した。「メルセネ人は習慣上、物事に反対するのだよ」かれはふいに眉をひそめた。「そういえば、なぜきみはメルセネへ行ったんだ? ケルへ行く道から少しはずれているではないか?」
「ぼくたちはザンドラマスを迫っていたんだ」ガリオンは答えた。
「どうしてザンドラマスがメルセネへ?」
「あんたのいとこ、オトラス大公を拾わなけりゃならなかったんだよ」
「あのぬけさくをか? なんのために?」
「オトラスをヘミルへ連れていき、マロリー皇帝に即位させたんだ」
「なんだと?」ザカーズの目が飛び出しそうになった。
「〈もはや存在しない場所〉へたどりつくときに、アンガラクの王を伴っている必要があるのさ。ぼくの理解するところだと、戴冠式は正当なものだった」
「わたしがこの手をオトラスにかけたらそうはいかん、正当なものか!」ザカーズの顔が怒りで真っ赤になった。
「わしらがメルセネへ行った理由は、もうひとつあった――もっとも、そのときは知らなかったのだが」ベルガラスが言った。「メルセネに『アシャバの神託』の完全な写しがあったのだ。わしらの次なるステップがケルへの旅であることをつきとめるために、わしはそれを読まねばならなかったのさ。わしは何千年も昔にわしのために用意されていた足跡をたどっているのだ」
アテスカとブラドーがはいってきた。「お呼びですか、陛下?」アテスカがきびきびと敬礼をして言った。
「ああ」ザカーズは答え、ふたりを推し量るように見た。「注意深く聞いてもらいたい」と指示した。「わたしに口答えするような真似はしないでくれ」妙なことに、その口調はあまり尊大ではなく、むしろふたりの古い友人に訴えているような感じだった。「計画の変更があった」とつづけた。「ある情報がはいってきたのだが、それによると、われわれがベルガリオンとかれの友人たちに干渉しないことが絶対に必要なのだ。かれらの使命はマロリーの存亡にかかわっている」
ブラドーの目が好奇心で光った。「その件について手短にご説明ねがえないでしょうか、陛下?」かれはたずねた。「なんと申しましても、国家の安全はわたしの責任です」
「ああ――いや、ブラドー」ザカーズは残念そうに言った。「それはやめておこう。聞けば、おまえの考え方を大幅に改めねばならなくなるかもしれん。おまえにはその準備ができておらん。じっさい、わたしもそうなのだ。とにかく、ベルガリオンとその一行はなにがあってもダラシアへ行かねばならんのだ」ザカーズはいったん言葉をきって、「そうだ、もうひとつある」とつけくわえた。「わたしがかれらに同行する」
アテスカは信じられないように皇帝を凝視した。それから、かなりの努力のすえに冷静をとりもどした。「陛下の護衛指揮官に伝えます」ぎごちなく言った。「一時間以内に、出発の用意ができると思います」
「それにはおよばない」ザカーズは言った。「護衛隊は同行しなくてよい。わたしはひとりでベルガリオンと一緒に行くつもりだ」
「おひとりで?」アテスカは叫んだ。「陛下、そんな話は聞いたことがありません」
ザカーズは力なくほほえんだ。「見たまえ」とガリオンに言った。「わたしの言ったとおりだろう?」
「将軍」ベルガラスがアテスカに言った。「カル・ザカーズは命令に従っているだけなのだ。きみなら理解できるはずだぞ。かれは部隊をひきつれていってはならぬと言われたのだ。どうせわしらの行くところでは、兵隊はザカーズの役にはたたんよ」
「命令?」アテスカはおどろいて言った。「陛下に命令を与える権利がだれにあるのですか?」
「長い話でな、アテスカ」老人は言った。「わしらにはあまり時間がないのだ」
「あの――陛下」ブラドーが遠慮がちに言った。「ダラシアへおいでになるのでしたら、ダーシヴァ全土を横断なさらなくてはなりません。目下ダーシヴァが敵の領土であることを念頭においておかれたほうがよいのではないかと思いますが? そのような状況のもとで、皇帝ともあろうお方が危険を冒すのは賢明なことでしょうか? せめて国境まで護衛をつけられたほうが、用心になるのではありませんか?」
ザカーズはベルガラスを見た。
老人はかぶりをふった。「言われたとおりにやろう」
「すまんな、ブラドー」ザカーズは言った。「護衛を連れていくわけにはいかんのだ。だが鎧兜は必要だろう、剣もな」
「陛下はもう何年も剣を手にしておられないのですよ」アテスカが反対した。
「ベルガリオンが教えてくれるさ」ザカーズは肩をすくめた。「きっとまた思い出す。それよりウルヴォンがマガン川を渡ってくる。確かな筋からの情報では、われわれにウルヴォンをはばむ手だてはまずない。ダーシヴァ軍はウルヴォンにそう遅れをとってはいないだろうし、連中は象の騎兵隊を率いている。そいつらに足止めを食わせてもらいたいのだ。ウルヴォンの進行を遅らせて、ダーシヴァ軍に追いつかせろ。そうなれば、殺しあいになる。もっけのさいわいだ。いったん両軍がひとり残らず交戦状態になったら、部隊を撤退させろ。必要以上にわが軍に死者をだすな」
アテスカは眉間にしわを寄せた。「すると、マガ・レンで話しあった方針はもう無効なのですか?」
ザカーズは仕方あるまいというような仕草をした。「方針はときおり変わるものだ。この時点では、世界のこの一角におけるどうでもよい戦いで、どちらが勝とうと、わたしには軍事的関心はない。こう言えば、ベルガリオンの使命の重要さがわかるだろう」かれはガリオンを見た。「これですべて言いつくしているか?」
「悪魔のことをのぞけば」ガリオンは答えた。「悪魔たちもここダーシヴァにいるんだ」
ザカーズはむずかしい顔になった。「それを忘れていた。悪魔はウルヴォンの加勢にくるのだろうな?」
「ナハズがな」ベルガラスが言った。「ダーシヴァ軍の加勢にはモージャがやってくる」
「もっとわかるように説明してもらいたい」
「ウルヴォンがナハズを連れてあらわれると、ザンドラマスは自分の魔神を呼び出したのさ」老人は言った。「じつを言えば、ザンドラマスはちょいとがんばりすぎた。モージャはモリンド国の悪魔たちに君臨する魔神なのだ。モージャとナハズならいい勝負だろう。それこそ大昔から憎みあってきた仲だ」
「ではあいかわらず手づまりのようだな。どちらの側にも軍隊と悪魔たちがついている」
「悪魔たちは犠牲者を選ぶことをしないわ、ザカーズ」ポルガラが口をはさんだ。「動くものならなんでも殺すのよ。あなた自身の軍もここダーシヴァにいることを忘れないことね」
「そのことは考えていなかった」ザカーズは認めて、まわりの面々を見た。「なにか提案は?」
ベルガラスとポルガラは長いこと目を見交わしていた。「やってみる価値はあると思う」老魔術師は肩をすくめた。「かれ≠ヘアンガラク人を嫌っているが、悪魔はもっと嫌っとる。だが、この野営地を出たら、かれ≠ノ運を賭けてみたほうがいいかもしれんな」
「いったいだれの話をしてるんだ?」ザカーズが興味深げにたずねた。
「アルダーさ」ベルガラスは答えて、頬をかいた。「自分の率いる軍が危険にさらされるようなら、あんたがわしらに同行することに乗り気でないとかれ≠ノ話してもさしつかえないかね?」
「それはかまわない」ザカーズの目が大きくなった。「本当に神を呼び出せるというのか?」信じられないようにたずねた。
「呼び出すというのが正確な表現かどうかはわからんな。だが話すことならできる。かれ≠フ言葉を目で見るというわけだ」
「ごまかそうとしてるんじゃないでしょうね、おとうさん?」ポルガラが老人にきいた。
「アルダーはわしがなにをしているかご存じだ」ベルガラスは答えた。「ごまかそうたってごまかせるものじゃない。ザカーズが同行を渋っていることが、会話の糸口になる。アルダーは道理のわかったお方だが、活発な議論は昔から好きだった。おまえもそのぐらいのことはわかっとるはずだぞ、ポル。なんといっても、アルダーはおまえの教育に一役買ってくださったのだ。話しかけられるかどうかやってみよう」
「一緒に行ってもいいですか?」エリオンドがたずねた。「ぼくも話したいことがあるんです」
ベルガラスはそれを聞いていささかあっけに取られた顔をした。一瞬、いまにもはねつけそうに見えたが、ややあって思いなおしたようだった。「好きにするさ」と肩をすくめた。「アテスカ、野営地の外を取り巻くあの溝のところまで、あんたの護衛たちをわしらに同行させてくれんか? そこからさきはわしらだけで行く」
アテスカはテントの入口を固める見張りたちと話をし、三人は誰何されずに野営地を出ていった。
「この会談には目撃すべきものが山ほどあるな」ブラドーがつぶやいた。「アルダーを見たことがおありですか、ケルダー王子?」
「二回ばかりな」シルクはむぞうさに答えた。「一度は〈谷〉で、次はクトル・ミシュラクでアルダーや他の神々がガリオンに殺されたトラクの体を引き取りにきたときだ」
「アルダーは満足したことだろう」ザカーズが言った。「トラクとは不倶戴天の敵だったわけだからな」
「いや」ガリオンは悲痛な声で反論した。「だれもトラクの死を喜びはしなかった。トラクとアルダーは兄弟だったんだよ。だが、いちばん苦しんだのはウルだったと思う。なんといっても、トラクはウルの息子だったんだ」
「アンガラクの神学にはかなりの欠落部分があるらしい」ザカーズはひとりごちた。「グロリムたちはウルの存在すら認めていないのだ」
「ウルを見れば、認めざるをえなくなるさ」シルクが言った。
「本当にそれほど印象深いお方なんですか?」ブラドーがきいた。
「見た目はそうでもない」シルクは肩をすくめた。「印象深いのはかれ≠フ存在のありかたなんだ。圧倒的なのさ」
「ウルはわたしにはとってもおやさしかったわ」セ・ネドラが不満げに言った。
「きみにはだれだってやさしいんだよ、セ・ネドラ」とシルク。「相手をやさしくさせる力がきみにはそなわってるんだ」
「たいていのときはね」ガリオンが訂正した。
「そろそろ荷造りをはじめたほうがいいだろうね」ダーニクが口をはさんだ。「ベルガラスは戻ってきたらすぐにでも出発したがると思うよ」かれはアテスカを見た。「軍の物資を少しわけてもらえますか? ケルまで道中長いですし、ここダーシヴァではあまり物が手にはいらないようですから」
「もちろんかまわない、善人ダーニク」将軍は答えた。
「では、必要なもののリストを作りましょう」
ダーニクがテーブルに向かってリストを書きはじめると、アテスカはシルクに射るような目を向けた。「商品市場における殿下の最近のご活躍について、お話しするチャンスがこれまで一度もありませんでしたな?」
「転職を考えてるのか、アテスカ?」ザカーズがたずねた。
「とんでもありません、陛下。わたしは兵士であることになんの不満もありません。ケルダー殿下は今年の豆の収穫高のことで、最近いささかの投資をなさったんですよ。軍の調達局が殿下の言い値を知って、ひどく狼狽していました」
ブラドーが急におかしそうに笑った。「やりましたね、ケルダー」
「そういう態度はおかしいぞ、ブラドー」ザカーズが叱った。「ケルダー殿下の過剰な利益がおまえの予算から出ていくことになるのに、どうしてそんなのんきにしていられる?」
「陛下、じっさいのところ、ケルダー殿下の投機は陛下の国庫にはなんの影響もなかったのですよ。備品調達局の局員たちは縛り首にならずにすんでいる帝国きっての悪党なんです。数年前、陛下がクトル・マーゴスで忙しくしておられたときのことですが、連中は陛下に軍のために購入する全品目の値段を規格化する必要があるとかいう、一見無害な文書を出したことがあるのです」
「それならおぼえている――ぼんやりとな。そうしたほうが長期的計画を立てるのに都合がいいとかいう意見だった」
「それは表面上のことだったのです、陛下。じつを申せば、それらの値段を取り決めることによって、やつらはこれさいわいと私腹を肥やしたんですよ。連中は固定価格以下の値で物資を買い、合法的値段でそれを軍に売りつけ、差額を懐にいれていたんです」
「豆の固定レートはどのくらいなのだ?」
「百ウェイトにつき、五クラウンです、陛下」
「不当には思えないがね」
「やつらが一・五クラウンで買っているとしたらどうです?」
ザカーズはまじまじとブラドーを見た。
ブラドーは片手をあげた。「しかしながら、法律によって、連中は十クラウンで軍に売らねばならないんですよ――連中が払わねばならない値段がいくらであったにせよです。したがって、差額を埋め合わせるには自腹を切らねばなりません。だからアテスカ将軍は狼狽したと言ったのです」
ザカーズはふいに狼じみた笑いを浮かべた。「言い値はいくらだったのだ、ケルダー?」とたずねた。
「十五でメルセネ組合に売りましたよ」小男は肩をすくめて、チュニックの前身頃で爪を磨いた。「かれらはそれに数ポイント、プラスしたでしょうね――正当なもうけとして」
「豆の全収穫量を操っていたのか?」
「努力はしましたよ」
「調達局の局員たちからいずれ、まちがいなく辞職を願い出る手紙が届くと思いますよ、陛下」ブラドーが言った。「すべての計算が終わるまで、辞職願いは受け取らないほうがよいと思います」
「おぼえておこう、ブラドー」ザカーズは値踏みするようにシルクを見た。「教えてくれ、ケルダー。ここマロリーにおける商品操作を中止するのに、どのくらいかかると思う?」
「陛下の国庫の金では足りないでしょうな」シルクはやんわりと答えた。「それに、おれはなくてはならない存在になってますからね。おれがここにつくまで、マロリー経済は沈滞していた。おれはあなたのために働いているといってもいいくらいですよ」
「わかるか?」ザカーズはブラドーにたずねた。
「はい、陛下」ブラドーはためいきをついた。「妙な話ながら、そのとおりなのです。ケルダーとかれのみすぼらしい相棒が帝国で商売をはじめて以来、われわれの税歳入はコンスタントに上昇してきました。ケルダーを追放したら、経済の破綻はほば確実です」
「すると、わたしはケルダーしだいということか?」
「ある程度は、はい、陛下」
ザカーズは嘆かわしげな吐息をもらした。「けさはベッドを離れなければよかった」
ベルガラスとポルガラがエリオンドをしたがえて、うかぬ顔で帰ってきた。金髪の若者だけがいつものように穏やかな顔をしている。
「アルダーはなんと?」ガリオンがたずねた。
「あまり良い印象を持たれなかった」ベルガラスが言った。「だが最後には同意してくださったよ。アテスカ将軍、このダーシヴァにはどのくらいの部隊がいるのだ?」
「十数万人です。マガン川の東岸に点在する、ここのような飛び地領にいます。兵力の大部分は川向こうのペルデインにいますから、すぐに召集できます」
「そのままにしておいてかまわん。ウルヴォンを足止めして、ダーシヴァ軍がやつに追いついたら、部隊をこの飛び地領へ後退させるんだ」
「それだけの兵はとても収容しきれません、長老」アテスカは指摘した。
「では、拡張したほうがいいな。アルダーはこの飛び地領を保護することに同意なさった。ほかのことについてはなにも言われなかったがな。部下をここへ連れてこい。かれ≠ェ悪魔たちを寄せつけずにいてくださるだろう」
「どうやってです?」ブラドーが興味しんしんでたずねた。
「悪魔は神の存在に耐えられないのだ。ナハズもモージャもこの場所に十リーグと近づけまい」
「アルダーは本当にここにおいでになるのですか?」
「一風変わった言葉としてだけだがな。飛び地領が拡張されたら、溝に青い光が満ちるだろう。部下たちにそれに近づかないように言っておくんだ。アルダーはいまでもアンガラク人を好いておられない。その光に近づく兵士に妙なことが起きんともかぎらん」老人はふいにザカーズににやりと笑いかけた。「ここダーシヴァにいるあんたの全軍が名目上だけでもしばらくはアルダーに支配されるというのはどんなものだね。かれ≠ヘ一度も軍隊を所有したことがないんでな、どう扱うのか見当もつかん」
「きみのおじいさんはいつもこんなふうなのか?」ザカーズはガリオンにきいた。
「たいがいはね」ガリオンは立ち上がって、指をかすかに動かした。それからテントの向こう側まで歩いていった。ベルガラスがついてきた。「あそこでなにがあったんだ、おじいさん?」ガリオンは小声でたずねた。
ベルガラスは肩をすくめた。「わしらはアルダーと話をし、かれ≠ヘザカーズの軍を守ると約束してくださった」
ガリオンは首をふった。「そうじゃなくてさ、他のこともあったんだろう? おじいさんもポルおばさんも帰ってきたときすごく顔つきが変だったよ――それにどうしてエリオンドがついていったんだ?」
「話せば長くなる」老人ははぐらかした。
「時間ならある。どういうことになっているのか、知っておいたほうがいいと思うんだ」
「いや、実際問題として、おまえは知らんほうがいい。アルダーは強くそう主張された。なにがおきているのかおまえが知ったら、おまえがやらねばならんことのさまたげになるかもしれん」
「そういうくたびれた言い訳はとっくの昔にいやになったんだと思ってたよ。ぼくはもう一人前の男なんだ。子供扱いするにはおよばない」
「あのなあ、ガリオン。おまえが〈光の子〉なら、自分でアルダーに話に行ったらどうなんだ? かれ≠ェお話しになるかもしれん。だが、それはアルダーしだいだ。かれ≠ヘわしに黙っておくようにと言われた。だからおまえがいやだろうとなかろうと、師にそむくつもりはない」それだけ言うと、ベルガラスはくるりと背を向けてみんなのところへ戻っていった。
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「どうしてこれほどみすぼらしく見えなけりゃならないのか、いまだにわからないね」ザカーズがふたたびテントにはいってきながら言った。ザカーズは鎖かたびらの上にぼろぼろの胸当てをつけ、なんの装飾もない錆の出た兜をかぶっていた。肩には継ぎの当たった茶色のマントをはおり、腰には質素な革でくるんだ剣がぶらさがっている。
「説明してやってくれ、シルク」ベルガラスが言った。「この種のことは、おまえさんの専門だ」
「それほど複雑なことじゃないんだよ」シルクは皇帝に言った。「旅人がボディ・ガード用に傭兵を何人か雇うのは、いたって平均的な習慣なんだ。傭兵てのはだいたい装備にあんまり手間をかけないから、おれたちとしてはあなたをちょいとみすぼらしく見せる必要がある。あなたとガリオンは鎧兜をつけて、物騒な雰囲気を漂わせて先頭を進んでさえいりゃいいんだ」
マロリー人の青白い顔にあるかなきかの微笑が浮かんで消えた。「素性を隠すことがこれほど苦痛をともなうとは思わなかった」
シルクはにやりとしてみせた。「まったく、大公であることよりも、名無しのゴンベエでいることのほうがずっとむずかしいんだ。さあ、頼むからぷりぷりしないでくれよ、ザカーズ。それにしても、おれたち陛下≠チて言い方をそのうち忘れちまいそうだな。もっとも、だれかが具合いの悪いときにうっかり口をすべらすかもしれないが」
「それなら心配することはない、ケルダー」ザカーズが答えた。「陛下≠ニいう言葉にはときおり耳をふさぎたくなることがあるんだ」
シルクはこの新入りの顔をしげしげと見つめた。「な、もっと戸外で時間を過ごすべきだ。シーツみたいに真っ白な顔をしてる」
「それならわたしにまかせておきなさい、シルク」ポルガラが口をはさんだ。「それ相応に日焼けして見えるように、なにか調合するわ」
「そうだ、もうひとつある」シルクはつけくわえた。「あなたの顔はマロリー中のコインに刻印されている、そうだろう?」
「聞くまでもなかろう。その大半を懐にいれているんだから」
「まあね、あちこちで何枚かは手に入れたよ」シルクはつつましく言った。「あの有名な顔を頬髭で隠そう。髭剃りはやめるんだね」
「ケルダー、わたしはあごに生毛が生えてきたとき以来、自分の顔を自分で剃ったことがないんだ、剃刀の持ちかたさえ知らない」
「剃刀を持った人間を喉のすぐそばに立たせてたのか? そいつはちょっと軽率じゃないのか?」
「それでだいたいのところはすんだか?」ベルガラスが小柄なドラスニア人にたずねた。
「基本はね」シルクは答えた。「もっとこまかい点については、道々コーチできますよ」
「ではいいか」老人はあたりを見回した。「野営地を出れば、いろんな人間に出くわすだろう。かかってくる相手もいるだろうが、進んで危険な目にあおうとする人間などそうはいまい。したがって、なんの変哲もない旅人の一団にちょっかいをだすような者はおらんだろう」そこまで言って、まっすぐザカーズを見つめ、「ほとんどの場合は、シルクが口からでまかせを言って、面倒事をかたづけてくれるが、もしも深刻な状況にたちいたったときは、あんたはちょっとうしろへさがって、事態の収拾をわしらにまかせてもらいたいのだ。あんたは武器を扱いなれておらんし、わしは無意味なこぜりあいであんたを失うためにここまで苦労してきたわけじゃないんでな」
「自分の面倒ぐらいまだ自分で見られる、ベルガラス」
「それはそうだろうが、とりあえず危ない真似はよそう。ケルについたとき、あんたが五体満足でなかったら、シラディスががっかりする」
ザカーズは肩をすくめて向こうへ歩いていき、ガリオンとならんでベンチに腰をおろした。リヴァの王は鎖かたびらをつけて、〈鉄拳〉の剣の柄《つか》にすべりばめ[#「すべりばめ」に傍点]のついた革の鞘をかぶせているところだった。ザカーズは歯を見せてにやにやと笑った。そのめずらしい表情がかれを十歳は若く見せていた。ガリオンはレルドリンを思いだしてぎごちない気持ちになった。「本当はこれを楽しんでいるんじゃないのか?」とたずねた。
「なんだかまた若者に戻ったような気持ちだ」ザカーズは答えた。「いつもこんなふうなのか――変装だの、ちょっとした危険だの、このむやみに浮き立つような気分は、いつものことなのか?」
「だいたいはね」ガリオンは答えた。「だが、ちょっとした危険じゃすまないこともある」
「そのくらいなら折り合える。わたしの人生はこれまで安全すぎて退屈だった」
「クトル・マーゴスでナラダスに毒を盛られたときでもか?」
「あのときはあまりの気分の悪さに、なにが起きているのかもわからなかったからな」ザカーズは言った。「きみがうらやましい、ガリオン。きみはじつに刺激的な人生を送っている」かれは心もち眉をひそめた。「なにかおかしなことがわたしの身に起きているのだ」と告白した。「ケルでシラディスに会うことに同意してからというもの、それまで背負っていたとてつもない重みが消えてなくなったような気がする。いまでは世界中が新鮮で、まるで生まれ変わったように見える。自分の人生を他人にあずけてしまったのに、深い水の中の魚のようにしあわせなのだ。いらだたしくはあるが、どうすることもできない」
ガリオンはじっとザカーズを見た。「誤解するなよ。そのことについてわざと謎めかすつもりはないが、あんたがしあわせなのは、やることになっていることをいまやっているからじゃないのかな。それがポルおばさんの言った、物事をちがった目で見ることのひとつなんだ。その幸福感は、彼女が言っていた報いのひとつなんだよ」
「わたしにはいささかわかりにくい話だ」ザカーズはすなおに言った。
「時間がかかる。少しずつわかってくるよ」
アテスカ将軍がブラドーをしたがえてテントにはいってきた。「馬たちの用意が整いました、陛下」感情をまじえない口調で将軍は報告した。ガリオンはアテスカの表情から、かれがこのすべてのなりゆきに、いまでもひどく失望しているのを読み取った。将軍はダーニクのほうを向いた。「荷役用の馬を二、三頭足しておきましたよ、善人。あなたがたの馬は満杯でしたから」
「ありがとう、将軍」ダーニクは答えた。
「この先わたしと連絡はとれない、アテスカ」ザカーズは言った。「であるから、おまえをここの責任者にする。ときどきこちらから連絡をつけるようにするが、ことによると長期間音沙汰無しになるかもしれん」
「わかりました、陛下」アテスカは答えた。
「だが、やるべきことはわかっているな。国政上の問題はブラドーにまかせ、おまえは軍事的問題に取り組むのだ。ウルヴォンとダーシヴァ軍が交戦状態になったら、ただちにわが軍をこの飛び地領に撤退させろ。マル・ゼスとの連絡をたやさんようにな」ザカーズは指から大きな印鑑つきの指輪をはずした。「公式書類に封印が必要なときは、これを使え」
「そういう書類には陛下のご署名が必要です」アテスカは念をおした。
「ブラドーが偽造できるさ。わたしよりうまく書けるくらいだ」
「陛下!」ブラドーが抗議した。
「しらばっくれるのはよせ、ブラドー。筆跡に関するおまえの熟練ぶりは前から知っていたのだ。留守のあいだ、わたしの猫の世話をしろよ。残りの子猫たちのもらい手が見つかるかどうかやってみてくれ」
「わかりました、陛下」
「わたしが出発する前に、ほかに必要なことはあるか?」
「ああ――ひとつだけ、陛下」アテスカが言った。「規律上の問題ですが」
「おまえでは処理できんのか?」ザカーズは少しいらだたしげにたずねた。これから自分がいなくなることにいらいらしているのはあきらかだった。
「そうではありません、陛下。しかし問題の兵士はいわば陛下の個人的保護を受けておりますので、行動に移る前に陛下にご相談すべきだと思ったのです」
「わたしがだれを保護しているというのだ?」ザカーズはまごついた顔をした。
「マル・ゼスの駐屯軍からきた伍長です、陛下――アクタスという男でして。勤務中に酔っぱらったのです」
「アクタス? おぼえがないな――」
「わたしたちがマル・ゼスに到着する直前に降格されたあの伍長ですわ」セ・ネドラが思い出させた。「横町で奥さんが大騒ぎしていたあの人」
「ああ、そうだった」ザカーズは言った。「思いだしたぞ。酔っぱらった、と言ったか? あの男はもう酒は飲まないはずだ」
「もうあれ以上は飲めないと思います、陛下」アテスカはかすかな笑みを浮かべて言った。「少なくともいまはだめでしょう。もうヘベれけに酔ってます」
「このへんにいるのか?」
「すぐおもてに、陛下」
ザカーズはためいきをついた。「連れてきたほうがよさそうだな」と言ってから、ベルガラスを見た。「ほんの一、二分ですむはずだ」申し訳なさそうに言った。
くだんの男が千鳥足でテントにはいってくるなり、ガリオンはあのときのやせこけた伍長を思いだした。伍長は気をつけの姿勢を取ろうとしたが、うまくいかなかった。そのあと敬礼のしるしに胸当てをバンと叩こうとしたが、代わりにげんこつで自分の鼻を叩いてしまった。「へーか」伍長は不明瞭に言った。
「おまえをどうしたらよいかな、アクタス」ザカーズはうんざりしたように言った。
「ひどいざまです、陛下」アクタスはすなおに言った。「まったくひどいざまで」
「そうだな」ザカーズは同意した。「ひどい」かれは顔をそむけた。「わたしに息を吹きかけんでくれ、アクタス。おまえの口はあばかれた墓のような臭いがするぞ。この男を外へ連れだして、酔いをさまさせるんだ、アテスカ」
「わたしみずからこいつを川に投げ込んでやりましょう、陛下」アテスカはにやにや笑いたくなるのをこらえようとしていた。
「楽しんでいるな?」
「わたしがですか、陛下?」
ザカーズの目がずるがしこそうに細まった。「どうだね、セ・ネドラ? アクタスはあなたの責任でもあるのだよ。どうしたらよいと思う?」
セ・ネドラは小さな片手を投げやりにふった。「縛り首ですわ」どうでもよさそうに言って、彼女は自分の手をしげしげと見つめ、「まあ!」と叫んだ。「また爪が割れてる!」
アクタス伍長の目が飛びださんばかりに見開かれ、口がだらんと開いた。かれはがたがたとふるえながら、がっくりと膝をついた。「後生です、陛下」突然すすり泣きながら嘆願した。「後生です!」
ザカーズは割れた爪を見て嘆いているリヴァの王妃を目を細めて見た。「アクタスを外へ連れていけ、アテスカ。最終的処分についての命令をすぐにも出そう」
アテスカは敬礼すると、おいおい泣いているアクタスを乱暴にたちあがらせた。
「本気ではなかったのだろう、セ・ネドラ?」ふたりが出ていったあとで、ザカーズはたずねた。
「まあ、もちろんですわ」セ・ネドラは言った。「わたしはそれほど薄情じゃありませんことよ、ザカーズ。お払い箱にして、奥さんのところへ送り返すのがいいわ」彼女は考えこむように人さし指であごを軽くたたいた。「ただし、自宅の前の通りに絞首台をたてることね。今度かれが喉が渇いたときのために、考える材料を与えるのよ」
「きみは本当にこの女と結婚したのか?」ザカーズがガリオンに向かってさけんだ。
「ぼくたちの一族によって、お膳だてが整えられていたようなものでね」ガリオンは泰然自若と答えた。「あまり口出しできることじゃなかったんだ」
「ねえ、いいかげんにしてよ、ガリオン」セ・ネドラがばかに平然と言った。
かれらはテントの外で馬に乗り、野営地をぬけて、はね橋へ向かった。はね橋のかかる杭の林立した深い溝は、外側の要塞の一部を構成している。溝を渡ったとき、ザカーズが大きく安堵の息を吐いた。
「どうしたんだ?」ガリオンはたずねた。
「野営地にひきとめられる方策をだれかが考えだしでもしたら困ると思っていたのだ」と、ちょっと不安そうにうしろをちらりと振り返った。「しばらくのあいだ、できるかぎり早足で進めるだろうか? 部下たちに追いつかれたくないのでね」
ガリオンはその時点で懸念しはじめた。「あんた、本当にだいじょうぶなのか?」疑わしげにたずねた。
「生まれてこのかたこれほどいい気分に――というか、自由な気分に――なったことはないくらいだよ」ザカーズは高らかに言った。
「そうじゃないかと思った」ガリオンはつぶやいた。
「なんだって?」
「いいから緩いかけ足で進んでってくれ、ザカーズ。ぼくはベルガラスと話し合いたいことがある。すぐに追いつく」ガリオンはクレティエンヌの手綱を引いて引き返した。後方で祖父とおばが並んで熱心に話し合っていた。「ザカーズはまるで心ここにあらずなんだ」ガリオンはふたりに言った。「どうなっちゃってるんだろう?」
「これまでずっと肩にのしかかっていた世界の半分の重みが、生まれてはじめてとりのぞかれたんですもの、むりもないのよ、ガリオン」ポルガラが穏やかに答えた。「いずれ落ち着くわ。一日かそこら見ててごらんなさい」
「一日かそこらの余裕なんてぼくらにあるのかい? ザカーズはまるでレルドリンそっくりだ――それともマンドラレンのほうかな。あれをだまって見てていいの?」
「話しかけることだ」ベルガラスが言った。「なんでもいいからしゃべりつづけろ。なんなら『アローンの書』を話してやれ」
「でも、ぼくは『アローンの書』を知らないんだよ、おじいさん」ガリオンは反論した。
「いいや、知っとるさ。おまえの血の中に流れておる。ゆりかごにいたときだって、一字一句まちがえずに話せたはずだぞ。さ、ザカーズが手に負えんようにならんうちに、あっちへ戻れ」
ガリオンは悪態をついて、ふたたびザカーズのところへ引き返した。
「厄介事か?」シルクがきいた。
「その話はしたくない」
道の次の角を曲がったところで、ベルディンが一行を待っていた。醜悪なちびの魔術師は言った。「やれやれ、うまくいったらしいな。しかし、なんだってそいつを連れてきたんだ?」
「シラディスがザカーズを説得して、わしらに同行させたのだ」ベルガラスが答えた。「どうしてシラディスのところへ行こうと考えたんだ?」
「やってみるだけの価値はあったぜ。ポルがクトル・マーゴスでシラディスがザカーズに言ったことをいくつか教えてくれた。あの女予言者はザカーズになんらかの関心を持っているらしいぞ。それにしても、ザカーズがおれたちと一緒にいくことになろうとは、考えもしなかった。シラディスはザカーズになんて言ったんだ?」
「わしらと一緒に行かなければ、命を落とすとね」
「それじゃのほほんとしちゃいられまいて。よお、ザカーズ」
「知り合いだったかね?」
「おれがおまえを知ってるんだ――とにかく、外見をな。何度かマル・ゼスの町を練り歩いてたところを見たことがある」
「わしの兄弟分のベルディンだ」ベルガラスは小柄な魔術師を紹介した。
「兄弟がおいでとは初耳だ」
「若干あいまいな関係だが、同じ師に仕えておるから、妙な因縁で兄弟というわけなのだ。昔は兄弟も七人いたが、いま残っているのは四人だけだ」
ザカーズの眉間にかすかなしわが寄った。「あなたの名前はつとに知れ渡っている、マスター・ベルディン。もしや、マル・ヤスカから六リーグ以内のあらゆる方角にある木という木に貼られているポスターは、あなたの絵ではないか?」
「おれだろうね。ウルヴォンをちょいとばかり神経質にさせているんでな。おれがやつをまっぷたつに引き裂きたがっていると思ってるらしいのさ」
「そうなのかね?」
「一、二度そう思ったこともある。だが、おれが本当にやりたいのは、あいつのはらわたをかきだして茨のしげみにひっかけ、禿鷲どもを招待することだ。ウルヴォンならきっと禿鷲どもの食事光景をえらくおもしろく思うはずだ」
ザカーズの顔がかすかに青ざめた。
「そうなりゃ、禿鷲どもだって意地でも食わなくちゃな」ベルディンは肩をすくめた。「そうそう、食うっていえばな、ポル、なんかうまいものはないか? この数日、やせっぽちの鼠一匹と、鴉の卵がいっぱいはいった巣を食っただけなんだ。ダーシヴァにゃ兎も鳩ももう残っていそうにない」
「じつに変わった男だな」ザカーズがガリオンに耳うちした。
「知れば知るほどわからなくなってくるよ」ガリオンはちょっと微笑した。「アシャバではウルヴォンをおどかしてね、あいつは発狂するほどこわがってた」
「誇張しているんだろうな――禿鷲のことは?」
「そうじゃないだろう。本気でトラクの最後の弟子を殺された豚みたいにしてやる気でいるのさ」
ザカーズの目が光をおびた。「手助けを望むと思うか?」熱っぽくたずねた。
「あんたの祖先にはアレンド人がいたんじゃないのか?」ガリオンは疑わしそうにたずねた。
「質問の意味がわからん」
「いいさ」ガリオンはためいきをついた。
ベルディンは道端のぬかるみにしゃがみこんで、冷たい鶏のあぶり肉をむしっていた。「こげてるぞ、ポル」と文句を言った。
「わたしが料理したんじゃないわ、おじさん」ポルガラはすまして答えた。
「なんでだ? 料理のしかたを忘れちまったのか?」
「すばらしい料理法を知ってるわよ、ちびの魔術師のボイルなんかいかが。そういうゲテモノを喜んで食べたがる人もすぐ見つかるわ」
「おまえの舌鋒も鈍ったもんだな。ポル」ベルディンは脂でべとついた指をぼろぼろのチュニックの前でふいた。「精神がおまえのケツみたいにたるんできた証拠だ」
マロリー皇帝の顔が怒りに赤らむのを見て、ガリオンはザカーズを片手で制した。「内輪の言い合いなんだ」と注意した。「ぼくならほっとくね。あのふたりはもう何千年もああやって侮辱しあってる。一種の愛情表現なんだ」
「愛情?」
「いいかい。物事を学ぶいいチャンスだ。アローン人はアンガラクの人とはちがうのさ。ぼくたちはめったに屈服しないし、ときには冗談で感情を隠すんだ」
「ポルガラはアローン人なのか?」ザカーズはびっくりしたようだった。
「自分の目を使えよ。確かに髪は黒いが、彼女の双子の妹は小麦畑のような金髪だったんだ。頬骨や顎を見ろ。ぼくはアローン人の王国を支配しているから、かれらがどういう容貌をしているか知っている。ポルガラとリセルは姉妹でも通るくらいだよ」
「そう言われてみれば、たしかにあのふたりはちょっと似ているな。どうしていままで気づかなかったんだろう」
「ブラドーを自分の目のかわりに雇っていたからさ」ガリオンは鎖かたびらをゆり動かしながら答えた。「ぼくは他人の目をそれほど信用しない」
「ベルディンもアローン人か?」
「ベルディンが何者かはだれも知らないんだ。たいへんな異形だからね、何人ともわからないのさ」
「気の毒に」
「ベルディンに同情は無用だよ。かれは六千歳で、その気になれば、あんたを蛙にすることだってできるんだぜ。雪や雨をふらせるのもお手のものだし、ベルガラスよりうんと抜け目がないんだ」
「しかしずいぶんと薄汚い」ザカーズは不潔な魔術師を見やった。
「薄汚いのは無頓着なためさ。あれはベルディンがぼくたちのところへくるために利用している姿なんだ。醜いから、手間ひまかける必要がない。もうひとつの姿は目がくらむばかりにすばらしいよ」
「もうひとつの姿?」
「ぼくたちの特性なんだ。人間の姿はやらなけりゃならないことによっては、実用的じゃないことがある。ベルディンは飛ぶのが好きなんだよ。だからたいていは青い縞もようの鷹として時間を過ごしている」
「わたしは鷹狩りをするのだ、ガリオン。そのような鳥がいるとは思えないね」
「そういうことはかれに言ってくれ」ガリオンは道端で鶏の肉を歯で引き裂いている、醜い魔術師を指さした。
「最初にちぎっておけばいいのに、おじさんたら」ポルガラが言った。
「なんで?」ベルディンはまたもがぶりと肉にかみついた。
「そのほうが上品でしょ」
「ポル、飛びかたや狩りのしかたを教えたのはおれなんだぞ。食いかたを教えようとするのはよせ」
「食う≠ヘふさわしくない言葉なんじゃなくて、おじさん。それじゃ食ってるんじゃなくて、むさぼってるんじゃないの」
「おれたちはだれしも自分の流儀で食事をするんだ、ポル」ベルディンはげっぷをした。「おまえは陶磁器の皿から銀のナイフで食事をする。おれは道端の溝で自分の爪と口ばしでやるのさ。どうやろうとおんなじことよ」片手につかんでいる鶏の脚から、ベルディンは焦げた部分をこそぎおとした。「まあまあ食えるな。少なくとも、本物の肉を食べたあとなら許せる」
「前方になにかあるのか?」ベルガラスがたずねた。
「部隊が二つ、三つに、おびえた民間人たちが少々、ときおりグロリムも姿を見せる。そのぐらいだ」
「悪魔たちは?」
「まったく見なかった。むろん、だからって悪魔どもがどこにもひそんでいないってわけじゃないぜ。悪魔がどんなものか知ってるだろう。また夜になってから進むつもりか?」
ベルガラスは思案した。「いや」と決断した。「それだと時間がかかりすぎる。一刻もむだにしたくない。このまま進もう」
「気のすむようにするさ」ベルディンは鶏の残骸を捨てて、立ちあがった。「おれは前方に目を光らせて、おまえたちが厄介事に巻き込まれそうになったら知らせる」そして腰をかがめると、両腕を広げ、暗い空に舞い上がった。
「おお!」ザカーズは叫んだ。「たしかに青い縞もようの鷹だ!」
「自分で勝手につくっちまったのさ」ベルガラスが言った。「ありふれた色では気にいらなかったんだ、さあ行こう」
夏とも言える時期なのに、ダーシヴァはうらがなしいような寒さに包まれていた。それが空をおおいつくす雲のせいなのか、それとももっと不吉な他の原因のせいなのか、ガリオンにはよくわからなかった。白い枝を広げた枯木が道の両側に並び、空中にはキノコのにおいと、淀んで腐った水のにおいが濃くたちこめていた。通りすぎる村々は、無人になって久しく、いまでは廃墟と化していた。路傍の神殿はいまわしい病いさながら壁を這いあがるキノコに、肩をすぼめて嘆いているように見えた。神殿のドアは大きくあいたままになっていて、本来ならそこにかけてあるはずの磨かれた鋼のトラクの仮面はなくなっていた。ベルガラスは手綱を引いて、馬からおりた。「すぐに戻る」そう言って神殿の階段をのぼり、なかをのぞきこんでから、きびすを返して戻ってきた。「やっぱりだ」
「なんのこと、おとうさん?」ポルおばさんがたずねた。
「祭壇のうしろの壁からトラクの仮面がおろされとるのさ。いまあそこにあるのは、顔のない仮面だ。新しい神がどんな顔をしているのか、みんな待っとるんだ」
一行は廃墟となった村のなかば崩れた塀の内側で、一夜を明かすことにした。火をおこして、交替で見張りに立った。夜が明けて、最初の光がさすと同時に、一行は前進した。田園地方は一マイル行くごとに、ますます荒れ果てて、不吉な様相を呈してきた。
朝の九時ごろ、ベルディンが舞い降りてきて翼を広げ、地面に降り立った。微光を放って本来の姿に戻り、一行が近づいてくるのを待ち受けた。「一マイルばかり先で、いくつかの部隊が道をふさいでるぞ」と大声で知らせた。
「よけて通れる見込みはあるか?」ベルガラスがたずねた。
「そいつはむずかしいぜ。あそこの地形はまったいらでな、植物は何年も前に枯れはてちまってる」
「何人です?」シルクがきいた。
「十五人ばかりだ。グロリムがひとり混じってる」
「そいつらがどちら側についているのかわかるか?」ベルガラスが言った。
「はっきりしない」
「なんとか通してくれないか交渉してみますか?」シルクが申し出た。
ベルガラスはベルディンを見た。「そいつらはわざと道をふさいでいるのか、それともただ路上に野営しているだけなのか?」
「枯れた丸太でバリケードを築いてる」
「すると、それが答えだな。話してもむだだ」ベルガラスは思案した。
「暗くなるまで待って、それからこっそり迂回すればいいんですわ」ヴェルヴェットが口をはさんだ。
「それだとまる一日かかってしまう」ベルガラスは言った。「時間が惜しい。突破するしかないだろう。必要以上に相手を殺さんようにしよう」
「これで要点までたどりついたな」ザカーズが皮肉まじりにガリオンに言った。
「そいつらをおどかそうとしても無駄だろうな?」ベルガラスはベルディンにたずねた。
ベルディンはかぶりをふった。「おまえさんが行くのは半マイル手前から丸見えだよ」ベルディンは、道端へ歩いていって腐りかけた切株を地面からひっこぬき、そばの岩にがんがんぶつけて、腐った部分をたたき落とした。節くれだった主根は、みるからに恐ろしい棍棒になった。
「さあ、わしらも油断せんほうがいいぞ」ベルガラスが陰気に言った。
丘の頂上へのぼって下を見おろすと、前方の道に築かれたバリケードと、そのうしろに立っている部隊が見えた。ザカーズはじっとかれらを観察して言った。「ダーシヴァ人だ」
「この距離からわかるのかい?」シルクがたずねた。
「兜の形でな」マロリー人は目を細めた。「ダーシヴァ兵は勇敢で鳴らしている連中ではないし、ろくろく訓練も受けていないのだ。あのバリケードの背後からやつらをおびきだせる方法はないかね?」
ガリオンは丸太のうしろに固まっている兵たちを見おろした。「だれも通すなと命令されているんだな。ぼくたちがつっこんでいって、最後の瞬間に向きを変えたらどうだろう? やつらは馬に駆け寄るだろう。そこをまた向きなおってふたたび突進するんだ。やつらは混乱をきたしてわけがわからなくなる。そこをやつらのバリケードにおさえつけてしまう。わけなくかなりの人数を倒せるはずだ。残りはその時点で逃げだす」
「悪くない計画だ、ガリオン。きみはかなりの戦略家だな。正式な軍事訓練を受けたことがあるのか?」
「いや。おぼえただけさ」
もろい枯木しかないところで槍をこしらえるのは論外だったから、ガリオンは左腕に楯をひもでくくりつけ、剣を抜いた。
「よし」ベルガラスが言った。「それでやってみよう。死傷者の数を抑えられるかもしれん」
「もうひとつ」シルクがつけくわえた。「敵をひとりでも馬までたどりつかせちゃまずいと思いますね。徒歩じゃそう早く助けを呼びにいけない。やつらの馬を逃がしちまえば、増援隊がかけつけてくる前におれたちは現場をあとにできる」
「それはわしにまかせろ」ベルガラスが言った。「ようし、行こう」
かれらは馬をせきたてて早足にさせ、武器を振り回しながらバリケードめがけて突進した。丘をかけおりながら、ガリオンはザカーズが右手に鋼のついた奇妙な革の手袋のようなものをはめているのに気づいた。
バリケードとそのうしろで度肝を抜かれている兵士たちに達する直前、かれらはいきなり左に向きを変えて障害物を迂回し、ふたたび道路に戻った。
「追いかけろ!」黒装束のグロリムが呆然としている部隊にわめいた。「逃がすな!」
ガリオンは兵士たちのつながれている馬のそばを通過してから、クレティエンヌにすばやく向きを変えさせた。そしてぴたりとついてくる仲間とともに、とまどっているダーシヴァ兵めざして、正面から突っ込んでいった。本心はひとりも殺したくなかったので、刃ではなく、刃の峰のほうを外に向けてかまえた。兵士の列に突っ込むと同時に三人をひっくり返した。背後で殴る音や、苦痛の叫びが聞こえた。グロリムが前方にまっすぐ立っていた。意志の力をひきだしているのが感じられた。ガリオンはためらわずに、ただその僧侶をなぎたおしたあと、すばやく向きを変えた。トスは重そうな棍棒をふりまわしており、ダーニクは斧の柄でせっせと兜をへこませていた。ところがザカーズはというと、鞍の上で体をぺったり前方に倒している。手にはなんの武器も持っていないが、金属のげんこつをダーシヴァ兵の顔にめりこませていた。あの手袋はすこぶる効果的なようだった。
そのとき、兵士たちの馬がつながれている場所から、血も凍るような咆哮が聞こえた。大きな銀色の狼が馬たちにかみつきながら、うなり声をあげていた。馬はおそれおののいてうしろ脚を蹴上げ、ロープがはじけとんだすきに逃げだした。
「行こう!」ガリオンは仲間に叫んだ。かれらはふたたびダーシヴァ兵たちのどまんなかを疾風のごとく駆け抜けて、ポルガラやセ・ネドラ、ヴェルヴェット、エリオンドの待つ道路へ向かった。ベルガラスがあとから軽やかにかけてきて、いつもの姿に戻り、自分の馬に歩み寄った。
「われわれの計画はほぼうまくいったようだな」ザカーズが言った。息をはずませており、額には玉の汗が浮いていた。「だが、いささか息ぎれがする」
「すわってばかりいるからさ」シルクが言った。「その手にはめているのはなんだい?」
「拳闘|籠手《こて》と呼ばれるものだ」マロリー人はそれをはずしながら答えた。「剣の腕は錆ついてしまっているので、これならうまくいきそうだと考えたのだよ――とりわけ、ベルガラスが死傷者の数を抑えたがっていたのでね」
「何人か殺してしまったのかな、われわれは?」ダーニクは言った。
「ふたりやりました」サディが小さな短剣を持ち上げて言った。「ナイフに毒を塗らずにいるのはちょっと困難なんですよ」
「それにもうひとり」シルクが鍛冶屋に言った。「槍をかまえてあんたの背後に駆け寄っていったやつを、おれがナイフで殺した」
「しかたあるまい」とベルガラス。「さあ、出発しよう」
かれらは数マイル全力疾走をつづけたあと、歩調を落としてふたたび緩いかけ足に戻った。
その夜はかなり大きな枯木の林で明かした。ダーニクとトスが浅い穴を掘って小さな火をたいた。テントが立てられたあとで、ガリオンとザカーズは木立のきわまで歩いていき、道を見張りつづけた。
「いつもこんなふうなのか?」ザカーズが静かにたずねた。
「こんなふうって?」
「こうやってこそこそ動き回って、隠れてばかりいるわけか?」
「たいていはそうだ。ベルガラスは可能なかぎり面倒なことを避けようとする。いきあたりばったりのこぜりあいで、みんなを危険にさらすのがきらいなんだ。たいがいの場合、ぼくたちはけさ起きたようなことは避けることができる。シルクが――その点ではサディもだが――口からでまかせを言って、ぼくたちを窮地から救ってくれるからね」ガリオンはかすかに微笑した。「ヴォレセボでは、シルクが袋一杯のマロリーの真鍮の半ペニー・コインで兵士の一団を買収し、道をあけてもらった」
「しかし、それでは値打なしも同然ではないか」
「それがシルクの言ったことなのさ。もっとも兵隊たちが袋の口をあけるまえに、ぼくたちはかなりその場から遠ざかっていたがね」
そのとき、かれらはぞっとするような遠吠えを耳にした。
「狼か?」ザカーズがたずねた。「またベルガラスかね?」
「いや。いまのは狼じゃなかった。戻ろう。どうやらウルヴォンがアテスカ将軍を出し抜いたようだ」
「どうしてそう思う?」
「猟犬の声だったからだ」
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ふたりは地面に散らばる大小の枝をできるかぎり避けながら、用心深く枯れ枝の森を歩いた。ダーニクのおこした弱々しい火が放つかすかな輝きがふたりを導いてくれたが、ガリオンは猟犬たちにとってもそれがおぼろげな目印になることを知っていた。ザカーズの陶酔感は霧散したようだった。いま、かれは油断のない表情で剣の柄《つか》に手をかけて歩いていた。
みんなが焚火を囲んですわっている小さな空き地にふたりははいっていった。
「向こうに猟犬がいる」ガリオンは静かに報告した。「いちど吠えた」
「なんと言っていたのかわかったか?」ベルガラスが張りつめた声でたずねた。
「猟犬の言葉は話せないんだよ、おじいさん。だが、なにかの呼びかけみたいだった」
「おそらく残りの群れに向かってなにか言っとったんだろう」老人はつぶやいた。「猟犬はめったに単独では狩りをしないのだ」
「その焚火の輝きは丸見えだよ」ガリオンは指摘した。
「すぐに始末しよう」ダーニクが焚火の穴に泥をかけはじめた。
「猟犬の居どころはつきとめられたのか?」ベルガラスがきいた。
「かなり遠くだった。道の向こうだろう」
「おれたちの足跡を追っているのかい?」シルクがたずねた。
「なにかを追ってるのはたしかだ。それだけはまちがいない」
「猟犬がわたしたちを追いかけているのだとしても、アシャバで使ったあの粉で注意をそらせますよ」サディが言った。
「どう思う?」ベルガラスはベルディンにたずねた。
ベルディンは地面にしゃがみこんで、折れた枝でぼんやりと土に不明瞭な図形をいたずら描きしていた。「うまくいきっこない」ややあって、そう言った。「猟犬は完全な犬というわけじゃないからな、先頭の一匹のあとをやみくもについていくわけじゃないんだ。いったんおれたちの居どころをつきとめたら、四方に散ってあらゆる方向からおれたちにかかってくるだろう。他の手を考えなけりゃならないようだ」
「すぐにおれの頭に名案が浮かびますって」シルクが神経質にあたりをきょろきょろしながらつけくわえた。
ポルガラが青いマントを脱いでダーニクに渡しながら、落ち着いて言った。「わたしがやるわ」
「なにを考えている、ポル?」ベルガラスが疑わしげにたずねた。
「まだ決めてないわ、おいぼれ狼。やる途中で考えつくのかもしれないわね――おとうさんがときどきやるみたいに」ポルガラが背筋を伸ばすと、まわりの空気が不思議な光輝をちらちらと放った。翼をはばたかせて彼女が枯れた白い木立のあいだに見えなくなると、光輝は消えた。
「ポルがあれをやると、どうもいらいらしてしょうがない」ベルガラスがぶつくさこぼした。
「おまえはいつもやってるぜ」とベルディン。
「それとこれとはちがうんだ」
ザカーズは幽霊のように見えなくなった白い梟《ふくろう》を凝然と見送って、みぶるいした。「不気味だな」それからガリオンを見た。「どうもこの心配のしかたがよく理解できんのだ。きみたちは――すくなくともきみたちの何人かは――魔術師なのだろう。だったら、なんでもないではないか、それを使えば……?」
「だめなんだ」ガリオンは首をふった。
「どうして?」
「ものすごい騒音をひきおこすからさ。一般の人間に聞こえるような音じゃない――だがぼくたちには聞こえるし、グロリムにも聞こえる。魔術を使おうとすれば、ダーシヴァのこのあたりにいるすべてのグロリムに居どころを教えるのも同じだ。魔術は買いかぶられているんだよ、ザカーズ。ほかの人間にできないことがぼくたちにできるのは本当だが、ときには拘束が多すぎてわざわざ魔術を使う価値がないことだってあるのさ――いそいでいるときなんかはね」
「それは知らなかった」ザカーズはすなおに言った。「その猟犬とやらは、本当に噂されているほど大きいのか?」
「もっと大きいだろうね」シルクが答えた。「小さな馬ぐらいある」
「きみはふざけた男だからな、ケルダー。見るまでは信じられない」
「そんなに近くで見なけりゃよかったと後悔するよ」
ベルガラスがじっとマロリー人を見つめてたずねた。「あんたは疑い深い人間のようだな?」
「この目で見ることのできるものなら信じる」ザカーズは肩をすくめた。「長年ものあいだに、信じる心の大部分が消えてなくなってしまったのだ」
「そいつは問題だぞ」老人は頬をかきながら言った。「急いでなにかをしなけりゃならんときがくるかもしれん。そんなときは説明などしている暇はない――あんただってびっくりしてあんぐり口をあけてつったっとる暇はない。いくつか教えておくにはいまがいい機会かもしれんな」
「拝聴するよ」ザカーズは言った。「だが、あなたの言うことを全部信じると約束することはできない。話してくれ」
「ガリオンにやらせよう。わしはポルと連絡を絶やしたくないんでな。ふたりで森のはずれまで戻って、見張りをしたらどうだ? そこでならガリオンもいろいろ教えられる。単なる主義の問題で、頭から疑ってかかるようなまねはするなよ」
「やってみよう」ザカーズは答えた。
それからの一時間、ガリオンとザカーズは森のはずれの倒木のうしろにしゃがみ、マロリー皇帝は信じる気持ちを最大限にまで広げていた。ガリオンは目と耳をそばだてて、なかばささやくように話をした。まず最初に『アローンの書』をおおまかに説明したあと、『ムリンの書』から特徴的な要点をいくつか話した。次に知っている範囲で、魔術師ベルガラスの前半生を話し、それから本題にはいった。〈意志〉と〈言葉〉の持つ可能性と限界を説明しながら、投影、転位、変身などの事柄についてふれた。一般の人々が魔術と呼ぶものを使用したさいに発生する謎めいた物音の話もしたし、魔術を使ったあと魔術師がおぼえる激しい疲労や、唯一絶対にしてはならないこと――つまり破壊――のことも教えた。「それがクトゥーチクに起きたことなんだ」とガリオンは話をしめくくった。「ぼくが〈珠〉を手にいれたらどうなるかと恐れるあまり、クトゥーチクは〈珠〉を破壊しようとする過程で越えてはならない一線を越えてしまったのさ」
闇のなかで、ふたたび猟犬が吠え、別の方角からそれに答える咆哮が聞こえた。
「だんだん近くなってきた」ガリオンはささやいた。「ポルおばさん、いそいでくれよ」
しかしザカーズはガリオンの話したことをまだ考えこんでいた。「クトゥーチクを殺したのは〈珠〉であって、ベルガラスではなかったということなのか?」ザカーズは小声できいた。
「そうじゃない。やったのは〈珠〉じゃなかった。宇宙だったんだ。本当に神学の話をしたいのか?」
「そっちの話になると、もっと疑い深くなる」
「そんなことは言っていられないんだぜ、ザカーズ」ガリオンは真剣に言った。「信じなくちゃならないんだ。そうでもしないと、ぼくたちは失敗する、失敗したら世界がなくなってしまうんだ――永遠に」
猟犬がふたたび吠えた。今度はいっそう距離がちぢまっている。
「声を低めろ」ガリオンははりつめた声で警告した。「猟犬どもは地獄耳なんだ」
「わたしは犬などこわくないぞ、ガリオン、どんなに大きくてもだ」
「それはまちがいだ。恐怖こそぼくたちを生かしているもののひとつなんだ。いいだろう。ぼくに理解できるかぎりでは、これはこんなふうになってるんだ。ウルが宇宙を創造した」
「宇宙は無から生まれでたものだと思っていたが」
「そうさ、だが誕生させたのはウルだったんだ。次にウルは自分の思考に宇宙の知覚を加えた。こうして七人の神が生まれた」
「グロリムたちの話では、トラクがすべてを作ったことになっている」
「それはトラクがグロリムたちにそう思わせたかったからだ。ぼくがトラクを殺さなくてはならなかった理由のひとつがそれなんだよ。かれは自分が宇宙を所有していて、自分のほうがウルより力があると考えていた。トラクはまちがっていたんだ。宇宙はだれのものでもない。彼女は彼女自身のものなんだ。ルールを作るのも彼女なんだ」
「彼女?」
「もちろん。宇宙は万物の母なんだよ――あんたや、ぼくや、あの岩や、ぼくたちが隠れているこの枯木の母でもある。ぼくたちはすべてつながっているんじゃないかな。そして宇宙は決して破壊を許さない」ガリオンは兜を脱いで、汗ばんだ頭をかいた。そしてためいきをついた。「悪いな、ザカーズ。これが詰め込みすぎなのはわかってるんだが、あんたのために心くばりしているだけの時間がないんだよ。なにかの理由で、ぼくたちはこれに巻き込まれてしまっている――あんたとぼくは」ガリオンは口元をゆがめた。「ふたりそろってこの務めにはおよそ不適当じゃないかって気がするんだが、母なる宇宙がぼくたちを求めているんだ。対処できるか?」
「わたしはたいていのことに対処できる」ザカーズは無関心な口調で答えた。「シラディスがあそこで言ったこととは関係なく、どのみち今度のことから生きて戻れるとは思っていない」
「本当にあんたはアレンド人じゃないのかい?」ガリオンは疑わしげにたずねた。「肝心なのは生きることだぞ、ザカーズ、死ぬことじゃない。死んでしまえば、目的は果たせないんだ。よしてくれ。あとであんたが必要になるかもしれないんだ。例の声はあんたがこの一端をになうことになっていると言った。どうもぼくたちは究極の恐怖へまっしぐらに向かっているらしい。そこへたどりついたとき、あんたはぼくを支えなくてはならないかもしれないんだ」
「声というと?」
「ここにあるんだよ」ガリオンはコツコツと額をたたいた。「そのことはあとで説明する。いまは他のことで頭が一杯だろう」
「声が聞こえるだって? そういう連中には呼び名があることを知ってるんだろうな」
ガリオンはにやりとした。「ぼくは頭がおかしいわけじゃないぜ、ザカーズ。ときどきうわの空になることはあるが、現実はちゃんと把握してる」
いきなりショッキングな物音が爆発音のように、ガリオンの頭のなかでこだました。
「なんだ、いまのは?」ザカーズが叫んだ。
「あんたも聞いたのか?」ガリオンはおどろいた。「聞けるはずがないんだが」
「地面をゆるがす音だった、ガリオン。あそこを見ろ」ザカーズが指さす北のほうで、巨大な火柱が暗い星のない空へ向かってたちのぼっていた。「あれはなんだ?」
「ポルおばさんがなにかやったんだ。うっかりあんな大音響をだすほど不器用じゃない。しっ!」
かれらがしゃべっているあいだにどんどん近づいてきた猟犬の吠え声がいきなり途切れて、くるしげなキャンキャンという声に変わった。「いまの音で耳がおかしくなったんだ」ガリオンは言った。「ぼくだっておかしくなったよ」
猟犬はふたたびくるしげに鳴いた。すぐに他の猟犬たちの遠吠えがそれに加わった。音は火柱のたちのぼる北のほうへ遠ざかっていった。
「引き返そう」ガリオンは言った。「もうここで見張りをつづける必要はなさそうだ」
ベルガラスとベルディンはそろって青い顔をしてふるえており、ダーニクでさえも畏怖の念を抑えきれていないようだった。
「十六ぐらいのとき以来、ポルガラがあんなすごい音をだしたのははじめてだぞ」ベルディンがおどろきさめやらぬといった顔で、目をぱちくりさせながら言った。かれは疑い深そうにダーニクを見やった。「子供でもはらませたのか?」
薄暗い空からさすかすかな光のなかでも、ガリオンは友だちが真っ赤になるのを見ることができた。
「それとどういう関係があるんだ?」ベルガラスがきいた。
「たんなる自説さ。証明はできん。おれがいま知っている女魔術師はポルガラだけだし、彼女は妊娠したことがないからな」
「いつかは説明してくれるんだろうな」
「それほどこみいったことじゃないんだ、ベルガラス。女の体は腹に赤ん坊がいると、ちょいと混乱をきたすのさ。感情や思考過程に妙な影響をもたらすんだな。〈意志〉を集めるには、精神の抑制と集中力が必要だ。妊娠した女はそのたぐいのことができなくなる。いいか――」ベルディンは妊娠にともなう肉体的、感情的、知的変化について長々と説明しつづけた。臆面もなく写実的言葉でしゃべった。すぐにセ・ネドラとヴェルヴェットが断固エリオンドをひきつれてそばを離れてゆき、それからまもなくダーニクもいなくなった。
「ひとりでいまのことを全部解きあかしたのか?」ベルガラスはたずねた。
「ゼダーがトラクを隠した洞窟を見ているあいだに、じっくり考える暇があったのさ」
「すると、五百年もかかったわけか?」
「あらゆる可能性を網羅したと確信したかったんだ」ベルディンは肩をすくめた。
「どうしてポルにきかなかったんだ? すぐに教えてくれたはずだぞ」
ベルディンは目をぱちくりさせた。「そのことは考えつかなかったな」
ベルガラスは首をふりふり歩きさった。
しばらくたったころ、突然金属をこすりあわせたような咆哮が、西の暗い空からつたわってきた。
「みんな伏せろ!」ベルガラスが押し殺した声で言った。「静かにしてろよ!」
「なにごとだ?」ザカーズが叫んだ。
「だまれ!」ベルディンが鋭く言った。「聞かれちまうぞ!」
頭上からばかでかい翼のはばたきが聞こえ、すすけたオレンジ色に逆巻く火が見えた。次の瞬間、巨大な獣が甲高い声をあげ、炎を吐きながら通過した。
「なんだったんだ、あれは?」ザカーズがまた言った。
「ザンドラマスだ」ガリオンはささやいた。「大声を出すな。引きかえしてくるかもしれない」
一同はようすをうかがった。
「ポルの立てた音のほうへ向かっていくようだな」ベルガラスが低い声で言った。
「少なくともおれたちを捜しているんじゃないわけだ」シルクがほっと安堵の息をついた。
「とにかく、いまのところはな」
「本当のドラゴンではなかったのだろう?」ザカーズが老人にたずねた。
「ああ、本物ではない。ガリオンの言ったとおり、ザンドラマスだったのだ。ドラゴンはザンドラマスのもうひとつの姿なのだ」
「いささか人目をひきすぎるのではないか?」
「ザンドラマスはそうしたくてたまらないらしい。なにかはなばなしいことをやらないと、攻撃的になれんのだ。女であることとなにか関係があるのかもしれん」
「聞こえましてよ、ベルガラス」セ・ネドラの脅しをふくんだ声が空き地の向こうから言った。
「わしが言わんとしたことはそういうことではなかったのだよ」老人は半分あやまるように言った。
雪のように白い梟《ふくろう》が枯木の森から舞い降りてきた。つかのま焚火のそばで停止したあと、微光をはなっていつもの姿に戻った。
「あそこでなにをやらかしたんだ、ポル?」ベルガラスがきいた。
「休火山を見つけたのよ」ポルガラはダーニクからマントをうけとってはおりながら答えた。「再噴火させてやったわ。猟犬どもは調べに行って?」
「間髪を入れずにね」ガリオンが請け合った。
「ザンドラマスもだ」シルクがつけくわえた。
「ええ、見えたわ」ポルガラはうっすらと微笑した。「かなりうまくいったわよ、じっさい。あそこへついて猟犬どもがこそこそうろつきまわっているのを見たら、ザンドラマスは猟犬をなんとかしようと思うはずよ。猟犬どもがわたしたちを悩ますことはもうなくなるでしょうし、ザンドラマスはわたしたちを助けていることに気づいて、地団駄をふむわよ」
「すると、わざとあんなに不器用なまねをしたのか、ポル?」ベルディンがたずねた。
「あたりまえでしょう。猟犬たちをひきつけるのにばかでかい音がほしかったのよ――それと、このあたりにいるかもしれないグロリムたちをね。ザンドラマスは思ってもみないおまけだったわ。もういちど火をおこしてもらえて、ディア?」ポルガラはダーニクに言った。「そろそろ夕食のことを考えたほうがいいと思うの」
かれらは翌朝早くテントをたたんだ。ポルガラの火山はいまだに空中高く煙や灰を噴きあげており、そのふたつがいりまじって空一面に陰気な闇が広がっていた。暗い空は硫黄のにおいがした。
「あそこを飛ぶのはあまり楽しくなさそうだな」ベルディンがふくれっつらをした。
「前方になにがあるのか知っておかねばならん」とベルガラス。
「わかってる。おれはバカじゃないんだ。ただ感想を述べたまでさ」ベルディンはわずかに腰をかがめて姿を変えると、力強く翼をはばたかせて空へ飛び上がった。
「あんな鷹を飼えるなら一財産はたいてもおしくない」ザカーズがものほしげに言った。
「あいつを訓練するのは骨だぞ」とベルガラス。「あいつぐらい居どころをつきとめにくいやつもおらんからな」
「それに頭おおいをかぶらせようとしたら、あなたの指を一本ひきちぎるわよ」ポルガラがつけたした。
正午近く、ベルディンが息せききって飛び帰ってきた。「油断するな!」人間に戻るやいなや叫んだ。「神殿の護衛どもがいるぞ――十人ほどだ――あそこの丘の上だ! こっちへ向かってくる。猟犬が一匹一緒だ」
ガリオンは剣に手を伸ばした。ザカーズの剣が鞘から抜かれる音を聞いて、かれは鋭くマロリー人に言った。「やめろ! かかわりあいになるな!」
「むりだな」ザカーズは答えた。
「犬はわたしにまかせてください」サディがベルトに腕をのばし、カランダで抜群の効果を見せた粉の袋に手をつっこんだ。
一行は手に手に武器をかまえて横に広がり、いっぽう、エリオンドは女たちの先頭に立って後方へひっこんだ。
まず猟犬が丘の上に姿をあらわし、一行を見てたちどまった。次の瞬間、方向を転じてかけ戻っていった。
「そうら」ベルガラスが言った。「わしらがここにいることをつきとめたぞ」
護衛たちがばらばらと丘の頂上にあらわれた。ガリオンはかれらが槍を持っていないことに気づいた。だが、全員が鎖かたびらを着て、剣と楯をかまえている。一瞬たちどまって状況をみきわめたあと、護衛たちはつっこんできた。猟犬が先頭をきって流れるような動きで走ってきた。めくれあがった口からぞっとするようなうなりをあげている。サディが片手に粉をにぎりしめて、急いで進みでた。猟犬が後脚でたちあがり、宦官を鞍からひきずりおろそうとしたとき、サディはあわてずさわがず動物の顔めがけて粉を投げつけた。猟犬は大きな頭をふって、目にはいった粉をはらおうとした。それから一度くしゃみをした。目がかっと見開かれ、うなり声がおびえた鳴き声に変わった。そしていきなり人間じみた耳ざわりな金切り声をあげた。次の瞬間、猟犬は身をひるがえして恐怖の声をあげながら逃げていった。
「それっ!」ガリオンはどなって、近づいてくる護衛たちめざして突進した。ダーシヴァの兵士たちよりはるかにてごわい相手だったから、いきおい対処の方法は限られた。仲間よりいくらか大柄で、どっしりした軍馬にまたがったひとりが先頭に立っている。ガリオンは〈鉄拳〉の大きな剣のひとふりで、その護衛を鞍から斬り倒した。
左のほうで鋼と鋼のぶつかりあう音が聞こえたが、ガリオンはどんどんつっこんでくる護衛たちから目をそらさなかった。さらにふたりを斬り、鞍から落としたところで、クレティエンヌが三人めの馬に頭からつっこんで、乗り手を馬もろともひっくりかえした。ガリオンは敵の列をつぎつぎに倒してから、すばやく馬首をめぐらした。
ザカーズが鎖かたびらの男ふたりの猛攻を受けていた。三人めはすでに殺したあとらしいが、そこへあとのふたりに両側から襲われたものと見える。ガリオンは友だちの助太刀にかけつけようとクレティエンヌの脇腹を蹴ったが、それより早くトスが馳せ参じていた。ばかでかい片手がザカーズの敵のひとりを鞍からひっこぬいて、道端の大きな岩に頭から投げつけた。ザカーズは残るひとりに向きあうや、相手の一撃を二度もあざやかにかわしたあと、冷静に敵を刺し貫いた。
シルクの短剣はすでにフル回転していた。ひとりの護衛が鞍の上で体をふたつ折りにして、腹からつきでた短剣の柄をにぎりしめたまま、ただぐるぐると走っていた。軽業師のような小柄なドラスニア人は次に混乱している護衛の鞍のうしろに飛びうつった。大きく腕をひとふりして、男の首の横に短剣をつきたてた。護衛は口から血を噴いて地面にころげおちた。
残ったふたりの護衛が逃げようとしたが、ダーニクとベルディンがさっそくとりおさえて棍棒や斧でなぐりつけた。ふたりは気絶して馬からころげおち、泥にまみれてけいれんした。
「だいじょうぶか?」ガリオンはザカーズにたずねた。
「なんともない、ガリオン」だが、マロリー人は肩で息をしていた。
「昔受けた訓練が役にたったようだな」
「かなりの刺激になった」ザカーズは品定めでもするように道に散乱する死体をながめた。「これが全部終わったら、この組織の解散命令を出すつもりだ。私的軍隊という考えには、どういうものか腹がたつ」
「逃げたやつはいたか?」シルクがあたりを見回してたずねた。
「ひとりもいないよ」ダーニクが言った。
「いいぞ。助けを呼びにいかれるのはごめんだからな」シルクはそう言ったあと、眉をひそめた。「こんな南でこいつらはなにをやっていたんだろう?」
「おそらくダーシヴァの部隊をウルヴォンの主要部隊から引き離すために、トラブルでも起こそうとしておったんだろう」ベルガラスが答えた。「これからは油断せんようにしないといかんな。このあたり一帯はいつなんどき兵隊でいっぱいになるかわからんぞ」かれはベルディンを見やった。「周囲を見てきてくれないか。ウルヴォンがなにをたくらんでいるのか、ダーシヴァ軍がどこにいるのか、つきとめられるかどうかやってみてくれ。はさみうちになるのはまっぴらだ」
「しばらく時間がかかるぜ」ベルディンは答えた。「ダーシヴァはそうとう広いからな」
「だったら、さっさととりかかったほうがいいんじゃないのか?」
一行はその晩、別の村の廃墟で過ごした。ベルガラスとガリオンは周囲を偵察したが、ひとっこひとりいなかった。翌朝、二匹の狼は一行の進む前方を探ってみたが、やはりだれにも会わなかった。
ベルディンが戻ってきたのは、ほとんど夕方近かった。「ウルヴォンがおまえさんの軍を出し抜いたぞ」かれはザカーズに言った。「任務をわきまえている将軍を最低ひとりはつかまえた。やつの部隊はいまダラシア山中にいて、強行軍で南下している。アテスカはダーシヴァ軍と象たちを迎え撃つのに、海岸近くにとどまらなけりゃならなかったんだ」
「ウルヴォンを見たのか?」ベルガラスがたずねた。
ベルディンはしわがれたいやらしい笑い声をたてた。「ああ、見た。いまじゃ完全にくるってるぜ。二十四人の兵士に王座をかつがせて、てめえの神性を誇示するために愚にもつかん小細工をしている。あのようすじゃ意志の力を集中させて花をしぼませるのだってむずかしい」
「ナハズは一緒か?」
ベルディンはうなずいた。「ウルヴォンのすぐよこで、耳元でなにごとかささやいてやがる。オモチャをしっかりつかんでおく必要があるんだろうよ。ウルヴォンがまちがった命令をだしはじめたら、軍はあの山の中で三十年ばかしさまようはめになりかねないからな」
ベルガラスは腑におちないようだった。「どうもおかしい。わしらが得た情報はどれをとっても、ナハズとモージャが互いのことにかかりっきりになる可能性を示していたんだがな」
「ことによると、もう終わったのかもしれないぜ」ベルディンは肩をすくめた。「そしてモージャが破れたのかもしれない」
「納得がいかんな。あの種のことはすさまじい物音をひきおこすものだし、わしらにも聞こえたはずだ」
「悪魔がなにかをする理由がだれにわかるってんだ?」ベルディンはしかめっつらをして、べとついた頭をかいた。「事実を見すえようぜ、ベルガラス。ザンドラマスは自分がケルへ行かなけりゃならないことを知っている。ナハズもしかり。これは競争になると思うね。おれたちはみんな最初にシラディスのところへたどりつこうとしてるんだ」
「なにかを見落としているような気がする」ベルガラスは言った。「なにか重要なことをだ」
「考えるんだな。思い出すまで二ヵ月かかるかもしれんが、考えるこった」
ベルガラスはその言いぐさを無視した。
夜がふけるにつれて、煙と灰のぶあついとばりはおさまってきたが、頭上にたれこめる深い闇に変化はなかった。ダーシヴァはあいかわらず枯木とキノコとよどんだ水の土地だった。その三つめの特徴が、しだいに厄介な問題になりはじめた。マガン川の岸のマロリー軍の野営地から運んできた水が、とっくの昔になくなっていたのだ。日が落ちると、みんなは道を進みつづけ、ベルガラスとガリオンはふたたび狼に変身して前方を偵察した。新鮮な水を捜すことについては、今回はそれほど手間どらなかった。二匹の鋭い嗅覚は腐った水たまりをやすやすとかぎあて、かれらは歩調をゆるめることなく水たまりのそばを通過した。
ガリオンがもう一匹の狼に出くわしたのは、枯木の森にいたときだった。その雌狼は泥だらけでやせさらばえており、左の前足を痛そうにひきずっていた。彼女は用心深くガリオンを見て、威嚇するように歯をむきだした。
ガリオンは攻撃する意図がないことを示すために、腹ばいになった。
「ここでなにをしているの?」雌狼は狼の言葉でたずねた。
「あっちこっちさまよっているんだ」ガリオンはていねいに答えた。「きみの森で獲物をつかまえるつもりはない。飲める水を捜しているだけだ」
「きれいな水ならあの小高い場所の反対側の地面からわきだしているわ」雌狼は森のさらに奥にある丘のほうへちらりと目をくれた。「思う存分お飲みなさい」
「仲間がいるんだ」
「あなたの群れ?」彼女はそろそろと近づいてくると、鼻をくんくんさせて、「人間のにおいがするわ」と非難した。
「群れの中には人間もいるんだ。きみの群れは?」
「行ってしまったの。この場所にもう獲物がいなくなったので、山の中へ入っていったわ」彼女は傷ついた足をなめた。「ついていけなかったのよ」
「旦那はどこにいるんだ?」
「もう走ることも獲物を追いかけることもないわ。ときどきあの人の骨のそばへ行くの」その飾り気のない威厳のこもった口調に、ガリオンの喉に熱いものがこみあげてきた。
「前足に怪我をしていて、どうやって獲物をとる?」
「横たわって、不注意な生き物がくるのを待つのよ。ごく小さな生き物ばかりだわ。もう何シーズンもおなかいっぱい食べていないの」
「おじいさん」ガリオンは思考を送りだした。「きてくれないかな」
「厄介事か?」老人の思考が返ってきた。
「そういうのじゃないんだ。そうそう、水は見つかったよ。こっちへくるときは走ってこないでほしいんだ。彼女をこわがらせちゃうからね」
「彼女だ?」
「ここへくればわかる」
「だれにしゃべっていたの?」雌狼がたずねた。
「聞こえたのか?」ガリオンはびっくりした。
「いいえ。でもしゃべっているようなようすだったから」
「そのことについては、あとで話してあげるよ。ぼくの群れのリーダーがこっちへくるんだ。かれが決定を下さなけりゃならないからね」
「もっともだわ」雌狼は腹ばいになって、前足をなめつづけた。
「どうして怪我を?」
「人間が葉陰になにかを隠しているのよ。その上を踏んでしまったの。前足がそれにはさまれたの。ちょっとやそっとじゃ抜けなかったのよ」
枯木の森をぬけてベルガラスがあらわれた。かれはたちどまってお尻を地面に落とし、舌をだらりとたらした。
雌狼はおとなしく地面に鼻づらをのせて、尊敬の念を示した。
「どうしたんだ?」ベルガラスの思考がガリオンに伝わった。
「足をわなにはさまれたんだよ。彼女の群れは彼女をおいていってしまったし、夫は死んでいる。足を痛めて、腹をすかせているんだ」
「めずらしいことではないな」
「死ぬにまかせておいてきぼりにするわけにはいかないよ」
ベルガラスはひとしきりガリオンをにらみつけてから、答えた。「だろうな。おまえにはできんだろう――できたら、おまえを見そこなうところだ」ベルガラスは雌狼に近づいた。「具合いはどうだね?」狼の言葉でききながら、鼻をひくつかせた。
「あまりよくありません」彼女はためいきをもらした。「獲物をつかまえられるのも、そう長くはないと思います」
「わしの群れに加われば、楽になる。ほしいだけの肉も持ってきてやれる。子供たちはどこだね? おまえさんの毛皮に子供のにおいがついているが」
ガリオンはびっくりして小さな声をもらした。
「生き残ったのは一匹だけです」雌狼は答えた。「その子もひどく衰弱しています」
「わしらをその子のところへ案内してくれ。また元気にしてやろう」
「仰せのとおりに」雌狼は反射的にしたがった。
「ポル」ベルガラスは思考を送りだした。「ここへきてくれ。母親の姿になってだぞ」その命令口調ははぎれがよく、人間よりもずっと狼的だった。
おどろいたような沈黙があった。「わかったわ、おとうさん」ポルガラは答えた。数分後に彼女が到着したとき、ガリオンは狼の左の眉の上にあの特徴のある一筋の白い毛を認めた。「なにごと、おとうさん?」
「ここにいる仲間が怪我をしておるんだ」ベルガラスは答えた。「左の前足だ。直せるか?」
ポルガラは雌狼に近づいて前足のにおいをかいだ。「潰瘍ができてるわ」声に出さずに言った。「折れているところはなさそうね。数日間湿布をすればよくなるわ」
「じゃあ、やってくれ。子供も一匹いる。その子も見つけてやらねばならん」
ポルガラは金色の目を物問いたげに細めて、ベルガラスを見た。
「この母子はわしらの群れに加わることになる。わしらと一緒に行くんだ」そう言ってから、老人はポルガラに思考を送った。「じつは、ガリオンの考えなんだ。この雌狼をおいていきたくないのさ」
「ずいぶん思いやりがあるけれど、実際問題としてはどうなのかしら?」
「あまり感心はできんが、決めたのはガリオンだ。こうするのが正しいことだと思っている。わしもまあ、だいたいのところはガリオンに賛成なんだ。だが、おまえはいくつか彼女に説明をせねばならんだろう。あまり人間を信用しておらんし、残りの面々がわしらに追いついたとき、パニックを起こしてもらいたくない」ベルガラスは雌狼のほうを向いた。「万事またよくなる。さあ、おまえの子供を見つけに行こう」
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10[#「10」は縦中横]
成長なかばの子狼は立つこともできないほど衰弱がはげしかったので、ポルガラは首すじをくわえて持ち上げるという単純な手段に頼って、子狼をすみかから連れだした。
「みんなに会いにいって」彼女はガリオンに指示した。「わたしたちの新しい仲間とわたしがじっくり話しあうまでは、みんなにあまりそばまでこさせないようにしてね。でも、食べ物はもってきてちょうだい。できるだけたくさん袋につめて、すぐに戻ってきて」
「わかった、ポルおばさん」ガリオンは軽やかに道路のほうへ走っていき、本来の姿に返ってみんながくるのを待ち受けた。
「ちょっとした問題があるんだ」一行が到着するとガリオンは言った。「あそこのあの森で怪我をしている女性を見つけたんだよ。腹をすかせていて、子供がいるんだ」
「赤ちゃんがいるの?」セ・ネドラが叫んだ。
「そうじゃない」ガリオンは食糧袋のひとつに近づいて、丈夫な粗布袋に肉やチーズを詰めはじめた。
「でも、いま――」
「子供だよ、セ・ネドラ。女性というのは雌狼なんだ」
「なんですって?」
「狼だよ。前足をわなにひっかけたんだ。走れないから、獲物をつかまえられない。ぼくたちに同行することになる――すくなくとも、前足がなおるまではね」
「だって――」
「文句は言うな。ぼくたちに同行するんだ。ダーニク、馬たちをあばれさせずに、雌狼を連れていく手はあるかな?」
「なんとか考えよう」鍛冶屋は答えた。
「この状況で、そういう利他主義は見当ちがいだと思いませんか?」サディが穏やかにたずねた。
「いや」ガリオンは袋の口をしめようとしながら言った。「思わない。あの森のまんなかに丘がある。ぼくたちが彼女に危害を加えるつもりがないことを納得させられるまで、その丘のこちらがわにとどまっていてくれ。そこには水がある。だが、彼女のすみかにあまり接近するなよ。馬たちに水をやれるまで、ちょっと待たなけりゃならないだろう」
「なにをそうぶりぶりしてるんだ?」シルクがきいた。
「時間があれば、あのわなをしかけた人間を捜し出して、脚をへしおってやるところだ――何ヵ所もな。もう戻らなくちゃならない。彼女と子供がひどく腹をすかせているんだ」ガリオンは袋を肩にかついで大股に歩きさった。自分の怒りが理性的でないことはわかっていたし、セ・ネドラやみんなに無愛想な態度をとる言い訳などありはしなかったが、どうすることもできなかった。死を容認する雌狼の冷静な態度と、夫を失ったことへの嘆きが、ガリオンの心をかきむしり、怒りがかれの目を乾かせていた。
いったん姿を変えてしまうと、袋は運びづらかった。ガリオンはたえずよろけながらも、袋を地面にひきずらないように頭を高くあげて進みつづけた。
ふたたびすみかについてみると、ポルガラとベルガラスは雌狼と話をしていた。耳を傾けている雌狼の目に、疑念が浮かんでいた。
「わたしたちの話を受け入れることができないのよ」ポルガラが言った。
「嘘を言っていると思ってるの?」ガリオンは袋を地面に落としてたずねた。
「狼にはその言葉の意味は理解できないわ。彼女はわたしたちがまちがっていると思っているのよ。こうなったら見せるしかないわ。彼女が最初に会ったのはあなたなんだから、あなたのことならもうすこし信用するかもしれないわね。元の姿に戻りなさい。どっちみち、袋の結び目をほどくのに両手がいるわ」
「わかったよ」ガリオンは想像力の中に自分自身のイメージをひきこんで、姿を変えた。
「まあおどろいた」雌狼は驚嘆した。
ベルガラスは鋭く雌狼を見た。「どうしてそう言った?」
「そうお思いになりませんの?」
「慣れているのだ。どうしてその言葉を選んだのだ?」
「自然に口から出たのです。わたしは群れのリーダーではありませんから、自分の威厳を守るために注意して言葉を選ぶ必要はないんです」
ガリオンは袋をあけて、肉とチーズを雌狼の前の地面においた。彼女はむさぼるように食べはじめた。かれは飢えている子供のかたわらに膝をついて、鋭い歯に指をかまれないように気をつけながら、食べ物を与えた。
「一度に少しずつよ」ポルガラが注意した。「気持ち悪くさせるようなことはしないで」
腹いっぱい食べると、雌狼は足をひきずって、ふたつの岩のあいだからわきでている泉に近づき、水を飲んだ。ガリオンは子狼をだきあげて、泉まで連れていき、水を飲ませてやった。
「あなたって他の人間とちがうわ」雌狼が言った。
「ああ。多少ね」ガリオンは同意した。
「結婚してるの?」
「ああ」
「狼と、それとも人間の雌と?」
「このたぐいの雌とさ」ガリオンは自分の胸をたたいた。
「ははあ。彼女はあなたと一緒に狩りをするの?」
「われわれの雌は普通狩りはしないんだ」
「なんて役立たずなの」狼は軽蔑するように鼻を鳴らした。
「そうでもないさ」
「ダーニクたちがやってくるわ」ポルガラはそう言ってから、雌狼を見やった。「わたしたちの群れの仲間がこの場所へやってくるわ。かれらはわたしの話した人間たちでね。こわがらないで、みんなこの人間のような人たちだから」と鼻でガリオンを示した。「わたしたちのリーダーとわたしもいまから姿を変えますからね。狼がいるとわたしたちの連れている動物をおびえさせることになるし、動物たちはあなたの泉から水を飲まなくてはならないのよ。かまわなければ、あなたに食べ物をあげたこの人間と一緒に行ってもらえないかしら? そうすれば、わたしたちの動物が安心して水を飲めるわ」
「おっしゃるとおりでしょうね」雌狼は答えた。
ガリオンは満腹になって眠そうな子狼をかかえたまま、足をひきずっている狼をともなって泉のそばを離れた。子狼は鼻面をあげて一度だけガリオンの顔をなめると、眠りはじめた。
ダーニクとトスは泉の近くにテントをはり、エリオンドとシルクは馬たちに水をやってから森の中に馬たちをつないだ。
しばらくたってから、ガリオンは警戒心を強めている雌狼を焚火のほうへ連れていった。「ぼくたちの群れの他のメンバーに会うときだ」と彼女に言った。「いまじゃかれらはきみの仲間でもあるんだからな」
「なんだか不自然だわ」雌狼はガリオンのかたわらで足をひきずりながら、神経質に言った。
「絶対に危害を加えたりはしない」ガリオンは相手を安心させた。それからみんなに話しかけた。「どうかじっとしててくれ。あとでみんなを識別できるように、彼女がきみたちのにおいをひとりずつかぎたがっている。彼女には手をふれないように。話すときは静かに話してほしい。いま彼女はひどく神経質になっているんだ」ガリオンは雌狼と一緒に焚火のまわりをまわって、仲間のひとりひとりのにおいをかがせた。
「名前はなんていうの?」雌狼に小さな手のにおいをかがれながら、セ・ネドラがたずねた。
「狼に名前は必要ないんだ」
「呼びかけるときの言葉が必要よ、ガリオン。その子狼を抱いてもいい?」
「まだやめたほうがいいと思うね。まず彼女をきみに慣れさせることだ」
「この人間があなたの奥さんね」雌狼は言った。「あなたのにおいがするわ」
「そうだ」ガリオンはうなずいた。
「ずいぶん小さいのね。これじゃ獲物なんかつかまえられるわけがないわ。これでもおとななの?」
「ああ、そうだ」
「もう最初の子を産んだの?」
「ああ」
「何匹?」
「ひとりだ」
「たった一匹?」狼はフンと鼻を鳴らした。「わたしなんて六匹よ。もっと大きな奥さんを選ぶべきだったんだわ。きっと子供ができにくいのよ」
「なんて言ってるの?」セ・ネドラがたずねた。
「通訳のしようがないんだ」ガリオンはごまかした。
狼の緊張がいくらかほぐれると、ポルガラは小鍋でたくさんの薬草をゆで、ペースト状の石鹸と砂糖にそれをまぜあわせて狼の傷ついた足に貼りつけた。それから清潔な白いきれで前足を包んだ。「これをなめたり、かじったりしないでね」と指示した。「おいしくないし、あなたの痛みがなおるまでこうして貼っておく必要があるのよ」
「感謝しますわ」狼は答えて、ちろちろ燃える焚火の炎に見入った。「あれはくつろぐものですわね」と感想をもらした。
「わたしたちはそう思っているわ」ポルガラは言った。
「人間というのは前足がとても器用ですのね」
「役にたつわよ」ポルガラは同意したあと、ガリオンの腕から眠っている子狼を抱きとって母親のかたわらにそっとおいた。
「わたしももう眠りますわ」狼はかばうように鼻面を子供のわき腹にのせて、目を閉じた。
ダーニクがガリオンを手招きして、焚火のわきへ連れだした。「馬たちをこわがらせずに、雌狼を連れていく方法を思いついたよ。狼を乗せるソリのようなものを作るんだ。長いロープをつけてひっぱっていけば、においは馬たちまで届かないし、馬用の古い毛布で親子をくるんでしまえばいい。最初は多少馬たちもびくつくかもしれないが、そのうちなれるさ」鍛冶屋は重々しく友だちを見た。「どうしてこんなことをしなけりゃならないんだ、ガリオン?」
「あの二匹をここへおきざりにするという考えに耐えられなかったんだ。週末には二匹とも死んでしまうだろう」
「やさしい男だな」ダーニクはそれだけ言うと、ガリオンの肩に手をのせた。「勇敢なだけじゃなく、思いやりもある」
「センダー人だからさ」ガリオンは肩をすくめた。「センダー人はみんなそんなふうなんだ」
「しかし、きみは実際にはセンダー人じゃないだろう」
「そう育てられたんだから、同じことじゃないか?」
翌朝、ダーニクが狼とその子供のためにこしらえたソリは滑走部が広く、転覆する可能性が少ないように、地面すれすれの高さになっていた。「車がついていれば、なおいいだろうが、車の手持ちはないし、作るには時間がかかりすぎる」
「次の村でおれがあさってやるよ」シルクがダーニクに言った。「荷車かなんか見つけられるかもしれない」
一行は出発した。はじめはゆっくり進み、ソリがしめった路面をなめらかに走っているのを見届けてから、いつもの早足に戻った。
シルクは馬にゆられながら地図を点検していた。「このすぐ先にかなり大きな町がありますよ」とベルガラスに言った。「現状に関する最新の情報を利用できると思いますが、どうです?」
「なんでおまえさんは通過する町という町にはいらないと気がすまんのだ?」
「都会人ですからね、ベルガラス」小男はむぞうさに答えた。「玉石舗装の道をしょっちゅう歩いていないと、落ち着かないんです。それに、補給品が必要でしょう。ガリオンの狼はたいした大食いですからね。みんなで町のまわりを大回りしたらどうです? おれたちは反対側から追いつきますよ」
「おれたち?」ガリオンがきいた。
「一緒にくるだろう?」
ガリオンはためいきをついた。「そうだな。ひとりになれると、シルクはいつだって悶着に巻き込まれるようだからね」
「悶着?」シルクは心外そうに言った。「おれが?」
ザカーズが無精髭の生えたあごをこすりながら言った。「わたしも行こう。もうコインの肖像にはあまり似ていなくなってきた」かれはベルガラスを一瞬じろじろとながめた。「どうしてこういうことに我慢できるのだ?」と自分の顔をかきむしった。「むずむずして頭がおかしくなりそうだ」
「なれるさ」ベルガラスはすまして言った。「顔がむずむずしないと、かえって変な気がするくらいだ」
その場所は昔は要塞化されていたとおぼしき市場設置市だった。丘のてっぺんにうずくまったような形で、周囲を厚い石塀に囲まれており、四隅には見張り塔がついていた。ダーシヴァ全土をおおっているような暗雲が、町を陰気な灰色に見せている。門には見張りもおらず、シルクとガリオンとザカーズはひづめを鳴らして、無人のように見える通りへはいっていった。
「だれか見つけられるかどうかやってみよう」シルクが言った。「見つからなかったら、二、三の店を荒して必要な食糧を手にいれるんだ」
「きみは金を払うことがないのか、ケルダー?」ザカーズが辛辣にたずねた。
「必要なけりゃ払わないね。正直じゃない商人は盗みのチャンスをみすみす見送ったりしないのさ。行こうか?」
「この小男の堕落ぶりは相当なものだな、そのことはわかっているのか?」ザカーズはガリオンに言った。
「ときどき気がついてたよ」
三人が角を曲がると、粗布のうわっぱりを着た男たちの一団が、汗をかいている太った男の指図のもとに、荷馬車に荷を積みこんでいるのが見えた。
シルクは手綱をひいた。「町の連中はみんなどこにいるんだい?」かれは太った男に呼びかけた。
「行っちまったよ。ガンダハールかダラシアへ逃げていった」
「逃げた? どうして?」
「いままでどこにいたんだい、あんた? ウルヴォンがくるんだよ」
「本当か? 初耳だ」
「ダーシヴァ中の者が知ってることだぜ」
「ザンドラマスがくいとめるだろう」シルクは自信ありげに言った。
「ザンドラマスはここにはいないよ」太った男はいきなり使用人のひとりをどなりつけた。「その箱には気をつけろ! こわれやすいものが入ってるんだ!」
シルクはガリオンたちの先にたって、もっと男に近づいた。「彼女はどこへ行ったんだい? ザンドラマスは?」
「だれが知るか。どうでもいいこった。ザンドラマスがこの国を支配してからというもの、ダーシヴァは災難つづきだったんだ」太った男は泥だらけのハンカチで顔の汗をぬぐった。
「そんな口のききかたをして、グロリムどもに聞かれないほうが身のためだぜ」
「グロリムか」太った男は鼻を鳴らした。「まっさきに逃げだしたのがやつらだったんだ。ウルヴォンの軍はダーシヴァのグロリムたちをたきぎ代わりに使ってるよ」
「自分の国が侵入されているのに、なんでザンドラマスは出ていったんだ?」
「あの女がなにかをする理由がだれにわかる?」太った男は神経質にあたりに目を配ってから、声を落として言った。「ここだけの話だがな、ザンドラマスはくるってると思うぜ。あの女、ヘミルである種の儀式をおこなったんだ。メルセネから連れてきたどっかの大公の頭に冠をかぶせて、そいつがマロリー皇帝だとぬかしたのさ。カル・ザカーズにつかまったら、そいつの首はふっとぶにちがいないな」
「同じ主旨に金をかけてもいいね」ザカーズが静かに同意した。
「そのあとザンドラマスはヘミルの神殿で演説をしたんだ」太った男はつづけた。「重要な日がまぢかに迫っていると言ったもんだ」男は鼻でせせらわらった。「おれのおぼえているかぎりじゃ、ありとあらゆるたぐいのグロリムが同じことを言ってたよ。もっとも、全員てんでばらばらの日についてしゃべっていたようだがね。とにかく、ザンドラマスは数日前ここへやってきて、アンガラクの新しい神が選ばれる場所へ行くつもりだとおれたちみんなに言ったんだ。片手をあげて言ったもんさ、『そしてこれがわたしが勝利をおさめるというしるしなのだ』言わせてもらえば、最初おれはぎょっとしたよ。あの女の皮膚の下で、無数の光が渦巻いてたんだ。しばらくのあいだは、こりゃ本当に重大なことなのかもしれんと思ったが、おれの隣りで店をやってる友だちの薬剤師が言うには、ザンドラマスは魔女なんだから、なんだって見せたいものを見せられるんだとさ。それで説明はつくよな」
「ほかになんて言った?」シルクが熱心にたずねた。
「夏が終わる前に、その新しい神が出現するってことだけさ」
「ザンドラマスが正しいことを祈ろう」シルクは言った。「それでこの混乱にケリがつくかもしれん」
「それはどうだかな」太った男はむっつりと言った。「このごたごたはこの先ずっとつづくと思うぜ」
「ザンドラマスはひとりだったか?」ガリオンはたずねた。
「いや。にせの皇帝と、ヘミルの神殿からきた白目のグロリムが一緒だった――飼いならされた猿みたいにあの女についてまわってるやつさ」
「ほかには?」
「ちっちゃな男の子だけだ。どこで拾ってきたんだか。立ちさる直前に、ザンドラマスはおれたちにトラクの弟子のウルヴォンの軍がやってくるから、全住民は外へ出てウルヴォンの行く手をはばめと命令した。それから出てったんだ、あっちのほうへな」男は西の方角を指さした。「それでさ、友だちとおれはしばらくぼんやり顔を見合わせていたんだが、やがてどいつもこいつも運べるだけのものをもってとびだしてったよ。だれに命令されたにせよ、侵攻してくる軍の行く手に身を投げ出すほどおれたちはバカじゃないからな」
「どうしてあんたはぐずぐずしてるんだ?」シルクは興味ありげにたずねた。
「これはおれの店だ」太った男は訴えるような口調で答えた。「一生働きづめでこれを建てたんだ。逃げだして、ならず者どもにこれを略奪されるなんて、まっぴらごめんだったんでね。やつらはもうみんな行っちまったから、救いだせるものはかたっぱしから救いだして逃げても安全なわけだ。置いていかなけりゃならないものもいっぱいあるが、どうせ長持ちするもんじゃないから、失うものはそうないのさ」
「ははあ」シルクのとがった鼻が好奇心にぴくぴく動いた。「なにを扱っているんだい?」
「一般商品さ」太った男は使用人たちを非難がましく見た。「その箱はもっとくっつけて積みあげろ!」とどなった。「あの荷馬車に積み込むものはまだいっぱい残っているんだぞ!」
「どんな一般商品だい?」シルクはくいさがった。
「家事に使う品や、道具類や、反物や、食料品や――そんなものだ」
「ふうむ」シルクの鼻がいっそう激しく動いた。「ことによると、あんたとおれは商売ができるかもしれないぞ。おれたちは道中長いんだが、物資がちょっと不足してきてるんだ。食料品と言ったな。どんな食料品だ?」
商人の目が細くなった。「パン、チーズ、バター、ドライ・フルーツ、ハム。新鮮な牛のあばら肉もある。だが、言っとくがね、そうとう高くつくよ。ダーシヴァのこのあたりは食料不足なんだ」
「ほう」シルクはおうように言った。「それほど高くはつかないと思うね――ウルヴォンが到着するときに、ここでウルヴォンを迎えるつもりでないんなら」
商人はぎくりとしてシルクをまじまじと見つめた。
「いいかい、友だち」シルクはつづけた。「あんたは立ちさらなけりゃならない――それも即刻だ。あのあんたの荷馬車にはあんたの店にあるものが全部積めるわけじゃないし、あんたの馬たちはそう速くは進めないだろう――あれだけの荷物を積んでいちゃあな。おれの仲間とおれは、だが、脚の速い馬をもっているから、もうすこしここでぐずぐずしていられる。あんたが行ったあと、おれたちはあんたの店を荒して必要なものをちょうだいするかもしれないんだぜ」
商人の顔が急にまっさおになった。「それじゃ泥棒だ」
「そりゃそうさ」シルクはしらっとして認めた。「そう呼ぶ人間もいるだろうな」かれはいったん言葉を切って、商人が状況をじゅうぶんのみこむ時間を与えてやった。太った男の顔に煩悶の表情があらわれた。するとシルクはためいきをついた。「不幸にも、おれの良心は繊細でね。正直者をだますという考えには耐えられないんだ――やむをえない場合をのぞいては」かれはベルトの小袋をもちあげて口を開き、なかをのぞきこんだ。「ここに半クラウン・コインが八枚か十枚ある。仲間とおれとで運べるだけの商品に、五クラウンでどうだい?」
「そんなめちゃくちゃな!」商人は唾をとばさんばかりだった。
シルクはさも残念そうに袋の口をしめると、ベルトのうらに袋をしまいこんだ。「それじゃ、待つしかないな。まだいるつもりか?」
「おれの商品を盗もうというんだな!」商人は泣き声をだした。
「いや、そうでもないさ。おれの見るところ、ここは買い手市場だ。いま言ったのがおれの申し出だよ、友だち――半クラウン銀貨五枚。取るかやめるかだ。あんたが決心するまで、通りの向こう側で待ってる」シルクは馬首をめぐらすと、ガリオンとザカーズを連れて道の反対側にある大きな家へ向かった。
ザカーズは馬をおりながら、懸命に笑いをこらえていた。
「まだ完全じゃないな」シルクはつぶやいた。「もうひと押しする必要がある」家の鍵のかかったドアに歩みよると、かれはブーツのなかに手をいれて先のとがった長い針を一本とりだした。鍵穴にそれをつっこんでちょっと探ると、たのもしいカチャリという音とともに鍵があいた。「テーブルと椅子が三ついるんだ」シルクはあとのふたりに言った。「なかから持ちだして、家の正面に置いてくれないか。おれは家のなかをひっかきまわして、他に必要なものを見つけてくる」と、家のなかへはいっていった。
ガリオンとザカーズは台所へはいって、かなり大きなテーブルを運びだした。それから椅子を取りに、なかへ引き返した。
「なにをするつもりなんだろう?」ザカーズが不思議そうな顔つきでたずねた。
「遊んでいるんだよ」ガリオンはいくらかうんざりしたように言った。「商売上の取引をしているあいだに、ときどきこういうことをやるのさ」
椅子を運びだしてみると、シルクが外で待っていた。数本のワインとグラスが四つテーブルにのっている。「ようし、紳士諸君」ちびのドラスニア人は言った。「腰をおろして、ワインを飲みたまえ。すぐに戻る。家の横手で見たものを確認したいんだ」角を曲がって見えなくなったと思うと、すぐにほくそ笑みながら戻ってきた。椅子にすわりこみ、自分のグラスにワインを注ぐと、ふんぞりかえって、いかにも長居をきめこんだようにテーブルに両足をのせた。「あいつに五分ばかりやろう」シルクは言った。
「あいつって?」ガリオンは聞き返した。
「あの商人さ」シルクは肩をすくめた。「おれたちがここにすわっているのをいつまでも見張っちゃいられないからな。そのうちおれのやりかたがわかってくるさ」
「きみはまったく残酷な男だな、ケルダー王子」ザカーズは笑った。
「商売は商売だよ」シルクはワインをひとくちすすった。「こいつはなかなかいけるぞ」グラスをもちあげて、ワインの色をほれぼれとながめた。
「家の横手でなにをしてたんだい?」ガリオンはたずねた。
「あっちに馬車置き場があるんだ――ドアにでっかい鍵がついたやつでね。値打のあるものを置き去りにしていくんじゃなければ、ドアに鍵をかけて町から逃げだしたりしないだろう、え? それにな、鍵のかかったドアにはいつも好奇心を刺激されるんだよ」
「それで? なかになにがはいってたんだ?」
「小型のうっとりするようなキャブリオレーなんだ、それが」
「キャブリオレーってなんだ?」
「二輪荷馬車さ」
「盗むつもりなんだな」
「あたりまえだろ。運べるものしか持っていかないとあっちにいる商人に言っただろう。だが、どうやって運ぶかは言わなかった。それにさ、ダーニクがおまえの狼を乗せるものを作るのに車をほしがってたんだ。あの小型馬車があれば、大工仕事をするダーニクの手間がいっぺんにはぶける。友だちならつねに友だちを助けるべきだよ、だろう?」
シルクの予告したとおり、商人は自分の店のはす向かいでテーブルにゆったりすわっている三人をそういつまでも見ていられなかった。使用人たちが荷馬車に荷物を積みおえると、商人は道を横切ってきた。「わかった」むっつりと言った。「半クラウン五枚でいい――ただし、運べる分だけだぞ、いいな」
「信用しろよ」シルクはコインを数えてテーブルにのせた。「ワインをいっぱいどうだい? うまいよ」
商人はコインをつかむと、返事もせずに戻っていった。
「出ていくときは、あんたにかわって鍵をかけといてやるよ」シルクはそのうしろ姿に呼びかけた」
太った男は振り返らなかった。
商人と使用人たちが荷馬車に乗って遠ざかっていってしまうと、シルクは家の横手へ馬を向かわせ、ガリオンとザカーズは通りを横切って太った男の店に押し入った。
小型の二輪荷馬車には折りたたみ式の屋根と、大きな革張りの箱がついていた。シルクの馬は荷馬車のながえにはさまれてちょっと居心地が悪そうだった。さらに車のついた物体があとからついてくるという感覚が決定的に馬を神経質にした。
キャブリオレーの後部についている箱にはびっくりするほどたくさんのものがはいった。かれらはそこにチーズやバター、ハム、棒状のベーコン、それに豆の袋を数個おしこんだ。それからあいている場所にパンをいくつものせた。ところがガリオンがひきわり粉の大袋をとりあげると、シルクが断固として頭をふった。「だめだ」きっぱりとかれは言った。
「どうして?」
「ポルガラがひきわり粉でなにを作るか知ってるだろう。これからの一ヵ月毎朝率先して粥を食べる気なんかおれにはないからな。かわりにあの牛のあばら肉をのせようぜ」
「そんなに積みこんだって、腐らせるだけだよ」ガリオンは反論した。
「新たに口がふたつ増えたんだぞ、忘れたのか? おまえの狼とその子供の食いっぷりを見たんだ。肉が腐ってる暇なんかあるもんか、だいじょうぶさ」
小型荷馬車のシートにだらしなく腰かけて、左手にどうでもよさそうに手綱をにぎったシルクとともに、一行は町を出た。シルクの右手にはワインの瓶がにぎられていた。「こうこなくちゃな」シルクは満足そうに言って、ながながとワインを飲んだ。
「楽しんでるようでよかったよ」ガリオンはちょっと意地悪そうに言った。
「楽しんでるとも」シルクは答えた。「だがな、ガリオン、なんてったってうらみっこなしだぜ。おれがこれを盗んだんだ、だからこれに乗ってるのさ」
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11[#「11」は縦中横]
みんなは町から一リーグばかり離れた無人の農場の裏庭に集まっていた。「忙しかったと見えるな」シルクが小型荷馬車で走ってきて停まると、ベルガラスが言った。
「物資を運ぶものが必要だったんですよ」シルクはしゃあしゃあと答えた。
「そりゃそうだ」
「豆以外のものも見つけてくれたんでしょうね」サディが口をはさんだ。「兵隊の糧食はしばらく食べているとあきあきしてきます」
「シルクは店主をぺてんにかけたんだ」ガリオンは荷馬車のうしろにある革張りの箱をあけた。「じっさい、かなりうまくやったよ」
「ぺてんにかけただ?」シルクが抗議した。
「そうだろう?」ガリオンはポルガラに箱の中が見えるよう、牛のあばら肉をどかした。
「そりゃまあ――そうだが、ぺてんにかけたっていうのはいただけない表現だな」
「もうしぶんないわ、ケルダー王子」ポルガラは箱の中身を目で調べながら喉を鳴らさんばかりだった。「正直なところ、あなたがこの全部をどうやって手にいれたか、わたしは気にもならないわよ」
シルクは腰をかがめ、もったいぶって言った。「これはうれしいことを言ってくださる、ポルガラ」
「ええ」ポルガラはうわの空で言った。「さぞ楽しかったでしょうね」
「わかったことは?」ベルディンがガリオンにたずねた。
「ええと、ひとつは、ザンドラマスにまた先を越されたってことだ」ガリオンは答えた。「二、三日前にここを通過してる。ウルヴォンの軍が山中をくだってくるのをザンドラマスは知っている。だが、ウルヴォンはぼくたちが考えていたよりいくらか速く移動してるらしいよ。というのは、ザンドラマスが民間人にウルヴォンを足止めするよう命令しているからさ。もっとも、町の人間はザンドラマスのいいつけを無視してるけどね」
「賢明な判断だな」ベルディンがつぶやいた。「ほかには?」
「ザンドラマスは市民にいっさいは夏が終わる前に決着がつくだろうと言っている」
「シラディスがアシャバでわしらに言ったことと一致する」ベルガラスが横から言った。「ようし。これで対決の起きる時期はみんなが知っているということになる。残る問題はただひとつ、どこで[#「どこで」に傍点]起きるかということだけだな」
「だからみんないそいでケルへたどりつこうとしてるんだ」とベルディン。「シラディスは卵をあたためてる雌鶏よろしくその情報の上にすわってるのさ」
「なんだった、あれは?」ベルガラスがいきなりいらだたしげに言った。
「なんの話だ?」
「なにかを見落としてる。重要ななにかだ。おまえがわしに言ったことなんだぞ」
「おれはおまえにいろんなことを言ってるぜ、ベルガラス。だが、いつもおまえは聞いてない」
「ちょっと前のことなんだ。わしの塔ですわって話しこんでいたときのことだと思うんだが」
「この数千年というもの、ときどきそうやってきたぜ」
「いや。ごく最近のことだ。エリオンドがいて、まだほんの子供だった」
「すると、十年ばかし前ってことになるぜ」
「そうだ」
「十年前、おれたちはなにをやってた?」
ベルガラスは顔をしかめていったりきたりしはじめた。「わしはダーニクの手伝いをしておったんだ。ポレドラの小屋を住めるように修理していた。おまえはここマロリーにいた」
ベルディンは記憶をたぐりよせるように腹をぽりぽりとかいた。「思いだしてきたぞ。おれたちはおまえが双子からくすねてきたエールの樽から酒を飲んでいて、エリオンドは床を磨いてた」
「おまえ、わしになんと言っていた?」
ベルディンは肩をすくめた。「マロリーから戻ったばかりのところだったんだ。マロリーの状況をかいつまんでしゃべったあと、サルディオンの話をしたな――だがその時点じゃ、おれたちはサルディオンのことをほとんど知らなかった」
「いや」ベルガラスが首をふった。「そのことじゃない。おまえはケルについてなにか言った」
ベルディンは眉毛をよせて考えこんだ。「きっとどうでもいいようなことだな、おれたちのどっちも思い出せないんだから」
「おまえがことのついでに言ったことだったような気がする」
「おれはついでにいっぱいものを言うんだよ。途切れた会話を埋めるのに役立つからな。本当にそんなに重要なことなのかよ?」
ベルガラスはうなずいた。「まちがいない」
「ようし。どこまで思い出せるかやってみようぜ」
「あとにできないの、おとうさん?」ポルガラがたずねた。
「だめだ、ポル。あとまわしにはできん。もうちょっとのところなんだ。また忘れてしまいたくない」
「ええっと」ベルディンの不細工な顔に考えこむようなしわがよった。「おれがはいっていくと、おまえとエリオンドが掃除をしてたんだ。おまえは双子から盗んだエールをごちそうしてくれた。ベルガリオンの結婚からこっちなにをやっていたんだとおれにたずねたから、おれはアンガラク人に目を光らせてたと答えた」
「そうだった」ベルガラスはうなずいた。「そのことはおぼえている」
「タウル・ウルガスの死でマーゴ人たちががっくりきていること、西のグロリムたちがトラクの死でちりぢりになったことをおれは話した」
「それからおまえはクトル・マーゴスにおけるザカーズの戦争の話をし、ザカーズが名前にカルを加えたことを教えてくれた」
「あれはじつはわたしの考えではなかったのだ」ザカーズがちょっときまりわるげに口をはさんだ。「ブラドーが思いついたことだったのだよ――マロリー社会を統一する手段として」ザカーズは顔をしかめた。「じっさいはそれほどききめはなかったようだがね」
「マロリーの状況はちょいと乱れているみたいだからな」シルクが同意した。
「それからなにについてしゃべった?」ベルガラスがきいた。
「ええっと。おれがおぼえているところじゃ、エリオンドにボー・ミンブルの物語を話してきかせ、次におまえがおれにマロリーはどうなってるのかとたずねた。事態はほとんど変わってないとおれは答えたよ――官僚主義がすべてをつなぎあわせるにかわ[#「にかわ」に傍点]になってるとか、メルセネやマル・ゼスでは権謀術策がうごめいてるとか、カランダやダーシヴァやガンダハールはおおっぴらな反乱がおきる一歩手前だとか、グロリムどもが――」ベルディンはしゃべるのをやめた。目がいきなりまんまるになった。
「あいかわらずケルの近くへ行くのをこわがってるとか、だ!」ベルガラスが勝ち誇ったように大声でしめくくった。「それだ!」
ベルディンはてのひらで額をぴしゃりとたたいた。「どうしてこうもまぬけなんだ?」と叫んでからごろりとあおむけにひっくりかえって、地面を蹴りながら純粋な喜びを全身にみなぎらせて哄笑した。「おれたちの勝ちだな、ベルガラス!」ベルディンはわめいた。「だれもおれたちには勝てない――ザンドラマスも、ウルヴォンも、アガチャクさえもだ! やつらはケルに行けない[#「行けない」に傍点]んだ!」
ベルガラスも狂ったように笑っていた。「なんだってこのことを見落としていたんだろう?」
「おとうさん」ポルガラが不吉な口調で言った。「聞いてるうちにいらいらしてきたわ。どっちでもいいから、そのばか笑いの理由を説明してもらえない?」
ベルディンとベルガラスは手に手をとって、不格好な歓喜のダンスをしていた。
「やめてくれない?」ポルガラがぴしゃりと言い放った。
「ああ、こんなことめったにないんだからいいじゃないか、ポル」ベルディンが息をきらしながらポルガラを抱きすくめた。
「やめて! 話すだけでけっこう!」
「わかったよ、ポル」ベルディンは笑いころげたあまりの涙をぬぐって言った。
「ケルはダル人の神聖な場所だ。かれらの文化すべての中心地なんだ」
「ええ、おじさん。そのくらい知ってるわ」
「アンガラク人がダラシアを侵略したとき、ダラシア人の宗教をとりあげて、かわりにトラク崇拝を押しつけるために、グロリムどもがはいってきた――カランダでやったのと同じ方法だ。ケルの重要性を知ると、グロリムどもはケルの破壊に動いた。ダル人はそれを阻止しなけりゃならなかったから、自分たちの仲間である魔法使いたちにその問題をまかせたんだ。魔法使いたちはケルをとりまく全地域に呪いをかけた」ベルディンは額にしわをよせた。「呪いは適当な言葉じゃないかもしれんな。呪縛のほうが近いような気もするが、似たり寄ったりか。まあ、とにかく、グロリムどもはケルをおびやかす危険な存在だったから、その呪縛の対象はグロリムどもだった。ケルへ近づこうとするグロリムは、みんな目が見えなくなるのさ」
「どうしてそのことをもっと早くわたしたちに教えてくれなかったの?」ポルガラがきつい口調でたずねた。
「あまり気にとめてなかったんだ。忘れてたってこともある。ダル人はどいつもこいつも謎めかしてるからダラシアなんてわざわざ行く気にもならんし、神秘主義は昔っから気にさわるんだよ。予言者たちは謎かけ話しかしないし、降霊術のたぐいはおれには時間の浪費に思える。その呪縛が本当に効果があるのかどうかもよくわからなかったんだ。グロリムどもはえらくだまされやすいことがあるしな。呪いをほのめかされただけで、効いちまうのかもしれん」
「だからな」ベルガラスが感慨をこめて言った。「わしらがそれを見落としていたのは、ウルヴォンやザンドラマスやアガチャクがそろって魔術師だということばかりに気にとられていたからなんだ。かれらがグロリムでもある事実をうっかり見過ごしていたんだよ」
「その呪い――だかなんだか知らないけど――は特にグロリムだけを狙いにしたものなのかい?」ガリオンはたずねた。「それとも、ぼくたちにも影響があるのかな?」
ベルディンはあご髭をしごいた。「いい質問だ。ベルガラス、こいつは軽々しく危険を冒しちゃならん問題だぞ」
「センジだ!」ベルガラスは指を鳴らした。
「わからんな」
「センジはケルへ行ったんだ、そうだろう? そしてあのとおり、どこも損われておらん、あいつは依然として魔術師だ」
「だな、すると」ベルディンが破顔した。「おれたち[#「おれたち」に傍点]はケルへ行ける、やつら[#「やつら」に傍点]は行けない。状況を変えるためには、おれたちのあとからくるしかない」
「悪魔たちはどうなんです?」ダーニクが真顔でたずねた。「ナハズはもうケルへ向かっているし、われわれの知るかぎりでは、ザンドラマスはモージャを連れています。かれらはケルへ行けるんでしょうか? いま知りたいのは、ウルヴォンやザンドラマスがケルへ行けなくても、情報を手にいれるために悪魔たちをかわりにやれるんじゃないかってことですね」
ベルディンが首をふった。「悪魔だってろくなことにはならんさ。シラディスが『マロリーの福音書』の写しに悪魔を近寄らせるわけがない。他の欠点はどうあれ、予言者てのは地獄の代理人とかかわりになることだけは断固はねつけるものなんだ」
「しかし、悪魔がほしがっているものを与えないこともできるんですか?」ダーニクは心配そうだった。「ちゃんと考えてみてくださいよ、ベルディン。悪魔というのはじつにおそるべき生き物なんですよ」
「シラディスならだいじょうぶさ」ベルディンは答えた。「心配するなって」
「マスター・ベルディン」ザカーズが異議を唱えた。「彼女はほんの子供だ。それにあのように目隠しをしていては、まったくの無力ではないか」
ベルディンはしわがれ声で笑った。「無力? シラディスが? おい、気でもくるったのかよ? シラディスは必要なら日が昇るのをとめることだってできるだろうよ。どれだけの力を持っているか、見当もつかんくらいさ」
「よくわからないが」ザカーズは当惑げだった。
「シラディスは彼女の種族のすべての力の焦点なのよ、ザカーズ」ポルガラが説明した。「現在生きているダル人の力だけでなく、これまで生きてきたダル人全員の力の結晶なの」
「あるいは、将来生まれてくるダル人全員の、だろうな」ベルガラスがつけくわえた。
「そいつはおもしろい考えだ」とベルディン。「いつかそれについて議論したいもんだな。とにかく」とザカーズに向かってつづけた。「シラディスは正しい時に、正しい場所で、最後の対決がまちがいなく起きるようにするためなら、どんなことだってやれるってことさ。悪魔どもはその対決にはおよびじゃないから、おそらく彼女はやつらを無視するだろう。やつらが厄介な邪魔者になったら、元いた場所へ送りかえすまでだろう」
「あなたにはそれができるのか?」
ベルディンはかぶりをふった。
「だが、シラディスにはできる?」
「ああ、そう思うぜ」
「ちょいとわからなくなってきたよ」シルクが口をはさんだ。「もしグロリムどもが視力を失わずにケルへは行けないんなら、そしてたとえケルへ行ったとしても悪魔どもがなにも見つけだすことができないんなら、なんだって連中はケルめざしているんだ? ケルへ行ってどうしようっていうんだ?」
「やつらはわしらがケルからあらわれるさいに、わしらを追跡できる場所へ先まわりしておこうとしているのさ」ベルガラスが答えた。「やつらはわしらがそこへ行ける[#「行ける」に傍点]のを知っているし、対決がおこなわれる場所をわしらがつきとめることを知っている。わしらがケルをあとにしたら、うしろにくっついていこうという魂胆なんだろう」
「とすると、ケルを出発するのはひどく神経を使う行動になりやしませんかね? 世界のグロリムの半分にぴったりあとをつけられるんだから」
「万事うまくいくさ、シルク」ベルガラスが自信たっぷりに答えた。
「この時点じゃ、宿命論はあまりおれを元気づけてくれないんですがね」シルクはにがにがしげに言った。
ベルガラスの顔がうれしくてたまらないようにゆがんだ。「わしを信用しろよ」
シルクはベルガラスをにらみつけて、あーあというように両腕を宙にほうり投げたあと、ぶつぶつと毒づきながら歩きさった。
「なあ、何年もやっこさんにああいうせりふを吐いてみたかったんだよ」老人は青い目をいたずらっぽく輝かせてくすくす笑った。「じっさい待っていた甲斐があった。よしと。また荷物をまとめて進みつづけよう」
一行は小型荷馬車の後部の箱から馬の背へ食糧の一部を移し変えた。ダーニクが荷馬車のそばにたって考え込んでいた。「うまくいきそうもないな」
「どこがまずいんだよ?」シルクがちょっと弱腰になってたずねた。
「馬はあのながえ[#「ながえ」に傍点]のあいだにつながれていないとならないんだろう。われわれが狼を座席に乗せたら、狼が馬のまうしろにくることになる。馬はたちまちくるったように走り出すよ。だれにもとめられない」
「それは計算してなかった」シルクはむっつりと言った。
「馬をそんなに暴れさせるのは、狼のにおいなんでしょう?」ヴェルヴェットがたずねた。
「においとうなり声だね」とダーニク。
「ベルガリオンがうなるのはよすようにと彼女を説得すればいいのよ」
「においはどうするんだ?」シルクがきいた。
「それはわたしにまかせて」ヴェルヴェットは荷物のひとつに近づくと、小さなガラス瓶をとりだした。「これはもうちょっと買っていただきたいわ、ケルダー王子」ヴェルヴェットは断固たる口調で言った。「不適当な荷馬車を盗んだのはあなたなんだから、そのへまを埋め合わせるのにわたしが使わなくちゃならないものを補充するのはあなたの義務よ」
「なんだい、それは?」シルクは疑わしげにたずねた。
「香水よ、ケルダー、とっても高価なものなのよ」ヴェルヴェットはえくぼをみせて、ガリオンを見た。「わたしにかわってあの狼に通訳してくださいね。これを彼女に吹きかけるとき、誤解されたくありませんの」
「もちろんだ」
ヴェルヴェットとガリオンが狼とその子供が乗り込んだソリに似た考案物から戻ってくると、セ・ネドラがしゃれた小型荷馬車の前部座席にてこでも動かないといったようすですわっていた。「これって、とってもすてきだわ、ケルダー王子」セ・ネドラは陽気に言った。「本当にありがとう」
「しかし――」
「え、なあに?」セ・ネドラは目をまんまるにしてきいた。
シルクはふくれっつらを作って、ぶつぶつひとりごとを言いながら行ってしまった。
「けさはかれにとって悪いほうへ向かっているようだな」ザカーズがガリオンに言った。
「だいじょうぶさ。あの商人から品物をだましとったり、荷馬車をくすねたりしてたっぷり楽しんだんだ。たてつづけに成功ばかりおさめてたんじゃ、鼻持ちならなくなってくる。でもたいていは、セ・ネドラとリセルがまんまとへこませてくれるけどね」
「あれはみんなセ・ネドラとヴェルヴェットが内緒でしくんだことだというのか?」
「その必要もなかったんだ。長年やってるから、わざわざ話し合うまでもないのさ」
「リセルの香水で効き目はありそうかね?」
「それをつきとめる方法はひとつしかないな」
かれらは怪我をした狼をソリから二輪荷馬車の前部座席に移し、馬の鼻づらに香水をつけた。それからうしろへさがってセ・ネドラがしっかり手綱をつかんでいる馬のようすをつぶさにながめた。馬はちょっと疑わしげだったが、おびえなかった。ガリオンは子狼を連れてきて、セ・ネドラの膝にのせた。彼女はにっこりして雌狼の頭をそっとたたき、手綱をそっとゆすった。
「不公平もいいところだ」全員がリヴァの王妃のあとをついて動き出すと、シルクがガリオンにこぼした。
「雌狼とあの座席に一緒にすわりたかったのか?」ガリオンはたずねた。
シルクは顔をしかめて、言った。「そこまでは考えていなかったな。しかし、すわってもおれにかみついたりはしなかっただろう?」
「たぶんね。だが、狼のことはわからないよ」
「じゃ、いまのところにいることにするか」
「それがいいと思うね」
「セ・ネドラのことがちょっとは心配じゃないのか? あの狼ならふた噛みで彼女を食っちまうぜ」
「だいじょうぶさ。そんなことはしない。セ・ネドラがぼくの配偶者だってことは知っているんだし、あの雌狼はぼくを気に入ってるんだ」
「ま、セ・ネドラはおまえの嫁さんだからな」シルクは肩をすくめた。「あの狼が彼女をふたつにくいちぎったって、ポルガラがまたもとどおりにしてくれるだろうよ」
馬を出発させたとき、ガリオンの頭にある考えがうかんだ。かれは前へ進んでいって、ザカーズの隣りに並んだ。「あんたはマロリー皇帝だ、そうだろう?」
「やっと気づいてくれたとはね」ザカーズはそっけなく答えた。
「だったら、ベルディンがしゃべっていたあの呪いのことをどうして知らなかったんだ?」
「気づいていたと思うがね、ガリオン、わたしはグロリムにはほとんど関心がないのだ。連中の大部分がケルへ行こうとしないのは知っていたが、なにかの迷信のせいだと思っていたのさ」
「すぐれた統治者は自分の王国についてありったけのことを知ろうとするものだ」ガリオンはそう言ってから、それがいかに知ったふうな言い方かに気づいてあやまった。「すまない、ザカーズ。そういうつもりじゃなかったんだ」
「ガリオン」ザカーズは辛抱強く言った。「きみの王国は小さな島だ。きみなら家来のほとんどを個人的に知っているだろう」
「まあ、かなりのところをね――とにかく容貌だけは」
「だろうと思った。きみは家来たちのかかえる問題や、夢、希望を知っていて、かれらに個人的関心を持っている」
「まあそうだな」
「きみはすぐれた王だ――おそらく世界でもっともすぐれた王のひとりだろう――しかし小さな王国のすぐれた王でいることはきわめて容易なのだ。きみはわたしの帝国を――とにかくその一部を――見ただろう。ここにどのくらいの人間が住んでいるのか、きみには見当もつかないはずだ。わたしにとってすぐれた王であることはまったく不可能だと思う。だからわたしは王ではなく、皇帝なのだよ」
「そして神でもある?」ガリオンはすかさずたずねた。
「いや。ほかでもないその妄想はウルヴォンとザンドラマスにまかせておくさ。神になることを熱望したりすると、人間はいささか正気をなくすようだし、わたしは正気を失いたくないのでね。タウル・ウルガスを殺そうとして人生の半分を無駄にしたあとで、そのことに気づいたのだ」
「ガリオン、ディア」セ・ネドラが荷馬車から呼びかけた。
「うん?」
「ちょっとここへきてくださらない? 狼が少し鳴いているのよ。どうしたのか聞こうにも聞きかたがわからないの」
「すぐ戻るよ」ガリオンはザカーズに言って、クレティエンヌの馬首をめぐらし、荷馬車のほうへ引き返した。
セ・ネドラは子狼を膝に抱いて荷馬車にすわっていた。その小さな動物はセ・ネドラがふわふわしたおなかをかいてやっているあいだ、四本の脚を宙につきだしてうれしそうにあおむけになっていた。
雌狼はセ・ネドラのわきの座席にねそべっていた。耳がぴくぴく動き、うらめしげな目つきをしている。
「苦しいのか?」ガリオンはたずねた。
「このあなたの奥さんは、いつもこんなにおしゃべりなの?」雌狼はなげいた。
嘘をつくのは不可能だったし、返事をはぐらかすのも問題外だった。「そうだ」ガリオンは認めた。
「だまらせてもらえる?」
「やってみよう」ガリオンはセ・ネドラを見た。「狼はすごく疲れているんだよ。眠りたがってるんだ」
「わたし、邪魔なんかしてないわ」
「ずっと話しかけてただろう」ガリオンはやんわりと指摘した。
「彼女と仲良しになろうとしてただけよ、ガリオン」
「きみたちはもう友だちだよ。彼女はきみに好意を持っている。もう眠らせてやってくれ」
セ・ネドラはぷっとふくれた。「だまってるわ」ちょっと傷つけられたように言った。「かわりにこの子に話しかけることにするわ」
「かれも疲れてるんだ」
「昼間なのにどうして二匹ともそんなに疲れてるの?」
「狼というのはたいてい夜に獲物を捜すんだ。昼間眠るのが普通なんだよ」
「まあ、知らなかった。わかったわ、ガリオン。二匹が眠っているあいだは静かにしてるって、彼女に言ってよ」
「友だち」ガリオンは雌狼に言った。「きみが目をつぶったら話しかけないと約束してるよ」
狼はけげんそうな顔をした。
「そうすればきみが眠ってると思うからね」
狼はショックをうけたような顔をした。「人間の言葉では、真実ではないことを言えるの?」
「ときには」
「おどろいたこと。いいわ、それがこの群れのルールなら、やりましょう。でも、とても不自然なことよ」
「ああ、わかってる」
「目をつぶるわ」雌狼は言った。「彼女がそれでわたしにぺちゃくちゃ話しかけるのをやめてくれるなら、一日中でもつぶっておくわ」雌狼は長々とためいきをつくと、目をとじた。
「眠ってるの?」セ・ネドラはささやいた。
「らしいな」ガリオンはささやきかえしたあと、馬首をめぐらして列の先頭へ戻った。
西へ進むにつれて、地形は起伏がはげしくなり、荒涼としてきた。陰気な空はあいかわらず前と同じでどんより曇っていたが、午後にはいってしばらくすると、西の地平線にそっていくらか光がさしてきたようだった。
流れの急な川にかかったアーチ型の石橋を、一行はひづめを鳴らして渡った。
「水はきれいそうですね、ベルガラス」ダーニクが言った。「山から流れてきているんでしょう」
ベルガラスは小川がわきだしている峡谷を見上げた。「ちょっと見てきたらどうだ? 野営できそうな場所があるかどうか見てきてくれ。きれいな水はなかなか見つからんもんだ。見逃す手はない」
「わたしも同じことを考えていたんです」鍛冶屋は雲をつくような物言わぬ大男と一緒に上流へ馬を走らせていった。
その晩、一行は峡谷を数百ヤード行ったところでテントを張った。小川の曲がり目が広がって、カーブした砂利の台地を形作っていた。みんなが馬たちに水をやり、テントを張ったあと、ポルガラは夕食の支度にとりかかった。牛のあばら肉をぶあつく何枚もきりとり、ハムのかたまりで風味をきかせた乾燥豆のこってりしたスープをこしらえた。次に田舎風の大きな黒パンを火のそばで温めた。ポルガラはそのあいだずっと鼻歌をうたっていた。例によって、料理は彼女の奥深く根ざした欲求を満たすのに不可欠なもののようだった。
その夜ポルガラが調理した夕食は宴会料理に匹敵するほどたっぷりあって、みんなが食べ終わり、満ちたりて一息つくころにはあたりはすっかり闇にとざされていた。
「じつにうまかった、ポル」ベルディンがげっぷをした。「結局、おまえの腕は衰えていないようだな」
「ありがとう、おじさん」ポルガラはにっこりしてからエリオンドを見やった。「あまりくつろぎすぎないでよ。せめて後かたづけの手伝いが終わるまでは」
エリオンドはためいきをつくと、バケツをつかんで小川へ水をくみにいった。
「あれは昔はぼくの仕事だったんだ」ガリオンはザカーズに言った。「後釜ができてくれてやれやれさ」
「あれは女の仕事ではないのか?」
「彼女に[#「彼女に」に傍点]そう言いたいのかい?」
「あ――そう言われてみると、よしたほうがよかろうな」
「のみこみが早いね、ザカーズ」
「わたしはこれまで皿一枚洗ったことがないと思う――生まれてこのかた一枚も」
「ぼくが二人分たっぷり洗ったよ。あまり大きな声じゃ言えないけどね。ことによるとポルおばさんが今度はあんたが皿の洗いかたをおぼえる番だと考えるかもしれないぞ」ガリオンはたしかめるように横目でポルガラをながめた。「狼と子供にエサをやりに行こう。他人がのらくらしてると、どういうわけかポルおばさんは不機嫌になるんだ。それに彼女はほとんど常に人に言いつける用事を考えつけるんだよ」
「ガリオン、ディア」ふたりが腰をあげたとき、ポルガラが愛想よく言った。「お皿がかたづいたら、お風呂に使う水がいるわ」
「うん、ポルおばさん」ガリオンは反射的に答えたあと、マロリー皇帝にささやいた。「な? あまりはやばやと動いちゃいけなかったんだ」
「彼女に頼まれたことはいつもやるのか? 彼女はわたしにもそのつもりでいるのかね?」
ガリオンは吐息をもらした。「そうさ、ふたりともだ」
翌朝一同は早起きした。ベルディンは偵察のために空へ飛んでいき、そのあいだに、残りのみんなは朝食を食べ、テントをたたみ、馬たちに鞍をつけた。この荒れはてた地方にいすわっている不快なじっとりした寒気が、ダラシア山脈の山頂から吹きおろす卓越風のせいで、いまではいくらか乾燥していた。ガリオンはマントをまきつけて馬を進めた。一リーグも行かないうちにベルディンがどんよりした空から螺旋《らせん》を描いておりてきた。「南へ曲がったほうがよさそうだぞ」と忠告した。「ウルヴォンがすぐ先にいる。全軍を引き連れていやがる」
ベルガラスが悪態をついた。
「それだけじゃない」ベルディンは言った。「ダーシヴァ軍はまんまとアテスカをだしぬいた――あるいはアテスカの守りを突破したのかもしれん。連中は後方からこっちへ向かってる。象どもが行進の先頭に立ってな。おれたちはふたつの軍にはさまれちまってるんだ」
「ウルヴォンはわしらからどのくらいのところにいる?」ベルガラスはたずねた。
「六リーグか八リーグってところだ。山脈のふもとにいる」
「象たちはどのへんだ?」
「五リーグ後方だな。おれにはやつらがウルヴォンの隊列を縦断しようとしているように見える。どうしようもないぜ、ベルガラス。逃げるしかない。戦いがはじまらないうちに、ここから逃げないと」
「アテスカはザンドラマスの軍を追跡しているのかね?」ザカーズが真剣なおももちでたずねた。
「いや。やっこさんはあんたの命令にしたがって、マガン川の土手にあるあの飛び地領に撤退したようだ」
ベルガラスはまだ悪態をついていた。「なんでウルヴォンはこんなに早くこれほど南へたどりつけたんだ?」
「部隊の兵を大勢殺してるのさ」ベルディンは答えた。「ウルヴォンは兵を走らせてるんだ。ナハズが悪魔どもを使って兵たちにむちをふるってる」
「選択の余地はなさそうだな」ベルガラスは言った。「南へ行くしかあるまい。トス、ガンダハールの国境近くの山脈にはいったら、ケルへわしらを導いてくれるか?」物言わぬ巨漢はこっくりとうなずいて、ダーニクに身振りでなにかをつたえた。
「しかし、それはかなりむずかしいことになりそうです」鍛冶屋が通訳した。「向こうの山脈はそうとうけわしいし、高度があがればまだかなり雪が残っています」
「時間がもったいないよ、おじいさん」ガリオンは言った。
「戦いのどまんなかでつかまったら、それどころじゃすまんぞ。よし、南だ」
「ちょっと待って、おとうさん」ポルガラが口をはさんだ。「セ・ネドラ、こっちへきて」
セ・ネドラは手綱をゆすって、荷馬車をみんなが立っているところまで走らせてきた。
ポルガラはセ・ネドラにいまの状況を手早く説明した。「それでね、連中がなにをしているのか、なにをたくらんでいるのか正確に知る必要があるのよ――両軍のようすをね。いまこそわたしの妹の護符をあなたが使うときだと思うわ」
「どうしてわしはそれを思いつかなかったんだろう?」ベルガラスがまごついた声で言った。
「これまで聞いたことのあるののしり言葉を全部思い出そうとしゃかりきになってたからさ」とベルディン。
「護符を使いながら、荷馬車を動かせる?」ポルガラは小柄な王妃にたずねた。
「やってみますわ、レディ・ポルガラ」セ・ネドラはちょっぴり心もとなそうだった。眠っている子狼を膝からもちあげると、母親のとなりにおろした。
「出発だ」ベルガラスが言った。
一行は道路からはずれて、広々とした褐色の草原を馬にゆられて進みはじめた。いくらも行かないうちに、セ・ネドラがポルガラによびかけた。「うまくいかないわ、レディ・ポルガラ。このでこぼこ道じゃ、手綱をにぎるのに両手がいるんですもの」
一同は手綱をひいた。
「それほど大問題じゃありませんわ」ヴェルヴェットが言った。「わたしが荷馬車の馬を先導します。そうすればセ・ネドラは自分のしていることに専念できるでしょう」
「それはすこし危険だぞ、リセル」ベルガラスが反対した。「あの荷馬車の馬がおどろきでもしたら、おまえさんは鞍からふりおとされて荷馬車の下敷になってしまう」
「わたしが落馬するのをこれまでごらんになったことがありまして、長老? ご心配なく、わたしなら絶対だいじょうぶですわ」ヴェルヴェットは荷馬車の馬に自分の馬を近づけると、手綱をつかんだ。ゆっくりと歩きだし、だんだんスピードをあげていった。ポルガラが荷馬車のわきを走り、セ・ネドラは集中力をあらわすしわを眉間にちょっぴりよせて、首に鎖でさげた護符を片手でつかんだ。
「どう?」ポルガラがたずねた。
「いっぱい話し声が聞こえるわ、レディ・ポルガラ」小柄な王妃は答えた。「あっちにはすごくたくさん人間がいるの。ちょっと待って、ナハズをつきとめたような気がするわ。そう簡単に忘れられる声じゃないもの」眉間のしわが深まった。「ウルヴォンの将軍たちに話しかけているところらしいわ。猟犬たちを放したところを見ると、象たちがやってくるのを知っているんだわ」
「またウルヴォンたちのところへ戻れるかね?」ベルガラスがたずねた。
「ええ、できると思いますわ。いったんだれかを見つければ、すぐまたウルヴォンをつきとめられるんです」
「いいぞ。ウルヴォンがすぐ前方にいることをダーシヴァ軍の将軍たちが知っているかどうかみきわめてくれんか。戦いがはじまりそうなら、どこで戦闘開始になるか、正確な場所を知りたいのだ」
セ・ネドラは護符を固くにぎりしめたまま、わずかに体の向きを変え、目をとじた。少ししてから、目を開き、やきもきしたように言った。「静かにしててくれないかしら」
「だれが?」シルクがきいた。
「象使いたちよ。おばあさんたちよりもっとおしゃべりなの。待って。ああわかった。つかまえたわ」荷馬車がでこぼこ道をゆれて行くあいだ、セ・ネドラはしばらく耳をかたむけた。「ダーシヴァの士官たちはすごく心配してるわ」と報告した。「ウルヴォンの軍が山のどこかにいることは知っているけれど、正確な位置を知らないのよ。偵察兵もひとりも戻ってこなかったの」
「たぶん猟犬のえじきになったんだな」とシルク。
「ダーシヴァ軍はなにを計画している?」ベルガラスがたずねた。
「まだ決めかねてますわ。慎重にこのまま進んで、もっと偵察兵を送り出すつもりね」
「なるほど。ではナハズに戻れるかどうかやってみてくれ」
「やってみますわ」セ・ネドラはまた目をつぶった。「まあ、ひどい!」すぐに彼女は叫んだ。
「どうしたの、ディア?」ポルガラがたずねた。
「カランド人が細い峡谷を発見したのよ。そこへ象たちをおびきよせて、上から石や火をつけた灌木を投げ込むつもりだわ」セ・ネドラはなおもしばらく耳をすました。「いったん象たちを殺したら、今度は山のふもとから全軍が突撃して、残りのダーシヴァ軍に襲いかかる魂胆だわ」
「ウルヴォンはそこにいるのか?」ベルディンが目を光らせてきいた。
「いいえ。どこかわきのほうにいるの。狂乱状態よ」
「その峡谷はおまえがつきとめたほうがいいだろう」ベルガラスはベルディンに言った。「戦闘の火蓋が切って落とされるのはそこだ。そこがわしらの後方にあることをしっかり確かめておきたいんだ。前方のどこかであってはたまらんからな」
「わかった」ベルディンは腰をかがめて両腕を広げた。「連絡をたやすなよ」変身しながら言った。
一同は馬たちを慎重に歩かせた。ガリオンは楯を腕にとめた。
「まるごとひとつの軍につっこむとして、本気でそれが役にたつと思っているのかね?」ザカーズがガリオンにきいた。
「たいした役にはたたないかもしれないが、あったって困らないさ」
ベルガラスは陰気な空を見上げながら馬を進めていた。ガリオンは老人の思考が伸びていくのを感じとった。
「そんなにやかましい音をたてないでよ、おとうさん」ポルガラが警告した。「まわりにはグロリムがうじゃうじゃしているんですからね」
「いいってことさ。やつらにはだれがこの騒音をたてているのかわかりっこない。別のグロリムだと思うのが関の山だ」
かれらはゆっくりと前進した。みんなの目は老魔術師にそそがれている。「北だ!」ついにベルガラスがどなった。「ベルディンが待ち伏せのおこなわれる峡谷を発見したぞ。わしらの後方だ。いまから少しがんばって走れば、両軍を完全によけられる」
「じゃ、どんどん行くとしますか」シルクが言った。
[#改ページ]
12[#「12」は縦中横]
ヴェルヴェットにふたたびセ・ネドラの馬を先導させて、一行はわびしい西部ダーシヴァの田舎を南へかけぬけた。小柄な王妃は片手で荷馬車のへりにしがみつき、片手で護符をにぎりつづけていた。「ダーシヴァ軍はウルヴォンの軍勢がまちぶせしているのをまだ知らないわ」彼女は大声でみんなに教えた。
「もうじき気がつくんじゃないかね」シルクがどなりかえした。
「ガンダハールの国境まであとどのくらいだ?」ガリオンはザカーズにきいた。
「二十リーグほどだろう」
「おじいさん」ガリオンは言った。「ぼくたちは本当にそんな南まで行かなくちゃならないのか?」
「それほど南下する必要はあるまい」老人は答えた。「ベルディンが前方を飛んでいる。わしらがウルヴォンの偵察隊よりじゅうぶん先まできたら、すぐにベルディンが山中へ誘導してくれるだろう。わしとてそれほどガンダハールを探検したいわけではないさ、おまえは?」
「ぼくもだ」
かれらは進みつづけた。
頭上にたれこめた雲が目に見えてぶあつくなったかと思うと、ガリオンは冷たい最初の雨滴が顔にぽつんと落ちるのを感じた。
丘をのぼりつめたとき、ベルガラスが前方をよく見きわめるためにあぶみに立った。「あそこだ」と指さした。「ベルディンが旋回しとる」
ガリオンは丘の向こう側の浅い谷のほうへ目をこらした。黒いけし粒ほどの鳥が一羽、空中でものうげにゆれている。一行が丘をかけおりると、鳥は急転回して、ゆっくりと翼をはばたかせながら西へ飛びさった。かれらは向きを変えてあとを追った。
断続的な雨が冷たい霧雨に変わり、薄い膜のようなもやが周囲の地形をぼかした。
「雨のなかを馬で行くのもおつなもんじゃないか?」シルクが皮肉たっぷりに言った。
「この場合は、そうですね」サディが答えた。「霧のほうが雨よりましだが、雨は視界を悪くするし、あらゆる種類の人間がわたしたちをさがしてますから」
「そういうことだ」シルクは認めて、マントをしっかりまきつけた。
風雨にさらされた石が地面のあちこちからとびだし、地形はだんだんけわしくなってきた。三十分ほど苦心して進んだあと、一行はベルディンの誘導で浅い谷へはいった。進みつづけるうちに、谷の壁はしだいにけわしく、高くなってきた。ほどなくかれらは細い岩だらけの峡谷を進みはじめた。
午後の三時ごろには、全員ずぶぬれになっていた。ガリオンは顔をぬぐって、前方をうかがった。西の空がいくぶんあかるくなって、雨のあがる気配を見せている。ダーシヴァ上空にたれこめていた陰気な薄闇のために、いかに気が滅入っていたかはじめて気づいたガリオンは、クレティエンヌをせきたてて走らせた。いったんまた日光のもとへたどりつければ、不安な気持ちも消えてくれるような気がした。
峡谷の曲がり目を曲がると、ベルディンが前方の小道に立っているのが見えた。こてこてに固まった魔術師の頭髪は、ぬれてよれた紐のように肩にかかり、あご髭からは雨のしずくがしたたっていた。「速度を落とせ」ベルディンはみんなをにらみつけた。「一マイル先からおまえたちのひづめの音が聞こえたんだ。このふもとにいるのはおれたちだけじゃないんだからな」
ガリオンはしぶしぶクレティエンヌの手綱をひいた。
「この峡谷はどこにつづいている?」ベルガラスがベルディンにたずねた。
「めったやたらに曲がりくねってるんだが、最終的には大きく広がって尾根のてっぺんへつながってる。尾根は南北に走ってるんだ。北へたどると、主要な隊商道へでる。ダラシアへいくにはそれが一番はやい」
「ほかのやつらも知っていることだ」
「そんなのはかまわん。すくなくとも、おれたちのほうが一日分先行してるんだ。やつらにはまだ戦わなけりゃならん戦闘がある」
「また前方を偵察するのか?」
「雨がやむまでおあずけだな。羽根がぬれちまう。起重機でもないことには、重くて体が持ち上げられない。そうだ、もうひとつある。あの尾根についたら、用心しなけりゃだめだぞ。二リーグ北で、ナハズが手下をまちぶせさせてる地点が、尾根の何マイルか下にあるんだ」
「おまえのルートの選びかたときたら、穴だらけじゃないか」ベルガラスがケチをつけた。「下にいるだれかがたまたま上を見上げてでもみろ、ウルヴォンの軍勢の半数がわしらに襲いかかってくるぞ」
「飛べでもしないかぎりむりだよ。数千年前にここで地震があって、あの尾根の側面が切りとられたんだ。いまじゃおそろしくけわしい断崖になってる」
「高さはどのくらいだ?」
「相当高い――千フィートかそこらだな」
「隊商道まではどのくらいある?」
「これからおれたちは尾根へでるんだが、そこからだいたい十五リーグだ」
「すると、ウルヴォンの軍勢の北側か?」
「かなり北になるな、うん」
「ナハズはなぜ隊商道を無視したんだ? なぜ、西へ曲がらなかったんだ?」
「ダーシヴァ軍ややつらの象どもにあとからついてきてもらいたくなかったんだろ。おまけに、やつは悪魔だ。大量殺人のチャンスをみすみす逃したくなかったんだろうよ」
「かもしれんな。戦闘はきょうの午後はじまると思うか?」
「そいつはわからん。象どもはそんなに早く進まないし、ダーシヴァ軍は慎重に移動してる。もうじき夜だからひとやすみするだろう。だが、夜があけたらまっさきに騒ぎがはじまるだろうよ」
「夜のあいだに兵たちがまちぶせしている箇所を通過できるかもしれんな」
「それはやめたほうがいいぜ。たいまつをつけるのはもってのほかだし、あの断崖はほとんど垂直なんだ。足を踏みはずしでもしたら、ころがりながらマガン川まですっかりぎゃくもどりだ」
ベルガラスは鼻を鳴らした。「本当に飛ぶわけにいかんのか?」
「だめだね。いまは投石器を使ったっておれを空中へ飛ばすのはむりだ」
「アヒルにでも変身したらどうなんだ?」
「余計な世話をやくのはやめたらどうなんだよ?」
「しかたがない、ガリオン」ベルガラスはあきらめたように言った。「となると、頼りになるのはわしらだけらしい」老人は鞍からおりると、峡谷を歩きだした。ガリオンはためいきをついて、馬をおり、あとについていった。
かれらは耳と鼻を使ってぬれそぼった地形を調べながら、前方をさぐった。夕方近く、峡谷の両側が扇形にひろがりはじめ、前方に尾根の頂上が見えてきた。そこまでたどりつくと、二匹はしだいに弱まってきた霧雨のなかを北へゆっくりと走った。
「おじいさん」ガリオンは言った。「あそこのあれ、ほら穴じゃないかな」ガリオンは岩にぽっかりあいている穴を鼻づらで指さした。
「見てみよう」
ほら穴の開口部はせまくて、大きな割れ目程度のものでしかなく、内部もそれほど広がっていなかった。だが、奥行きはかなり深く、岩のずっと奥までつづいていた。部屋というより廊下のようだ。
「どう思う?」ガリオンは入口に立って闇の奥をのぞきこみながらたずねた。
「雨風をさけるのにいいし、夜間隠れるにもちょうどいい。みんなを連れてこい。わしは火をおこせるかどうかやってみる」
ガリオンはまわれみぎをして尾根をくだった。雨はもうあがりかけていたが、風が吹きはじめ、それがだんだん冷たさをましてきた。
ガリオンがついたとき、他の面々は注意して峡谷をのぼってくるところだった。
「またほら穴かよ?」ガリオンがベルガラスとふたりで発見したものを一同に告げると、シルクがぐちった。
「手をつないであげるわ、ケルダー」ヴェルヴェットが言った。
「お心づかい感謝するがね、リセル、あまり役にはたたないと思うよ。おれはほら穴がだいっきらいなんだ」
「いつかそのわけを教えてくれなくちゃね」
「いいや。だめだ。話したくない。考えるのもまっぴらだ」
ガリオンは一行を尾根のてっぺんの細い道へとみちびいた。セ・ネドラの荷馬車はごつごつした地面をゆれながら進んだ。その乗り物をとりあげたとき彼女の顔に浮かんだ、してやったりの表情は跡形もなく消えうせて、荷馬車がはねるたびにひるんだ顔をして、あきらめたように馬を進めている。
「これでほら穴か」岩の開口部までたどりついたとき、ベルディンが非難がましく言った。
「外で寝て、自由な気分を味わうがいいさ」ベルガラスが言った。
「馬たちをなかへいれるには、目隠しをつけさせなけりゃならないでしょうね」とダーニク。「あの入口をひとめ見たら、てこでも動こうとしませんよ」
「おれもおなじ気分だ」シルクが言った。「馬の頭のよさにはときどき感心するね」
「荷馬車をなかへいれるのはむりでしょう」サディが口をはさんだ。
「テントをかぶせて、泥をその上にばらまけばごまかせる」ダーニクが言った。「見えっこない――すくなくとも暗がりでは」
「はいろう」ベルガラスが言った。「あまり暗くならないうちになかへはいってしまいたい」
頑として動かない馬たちを狭いほら穴へいれるのに、たっぷり三十分かかった。ダーニクはテントで入口をおおい、外へいったん出て、エリオンドとトスをてつだって荷馬車を隠した。
雌狼ははねまわっている子狼をしたがえて、足をひきずりながらほら穴のなかへはいった。規則正しく食事を与えられたおかげで、以前はおちつきのなかった子供はやんちゃになっていた。母親のほうも、ガリオンの気づいたところでは、ふたたびふとりだして毛並もつややかにふさふさしてきた。「すばらしいすみかだわ」雌狼はひとりごちた。「ここから獲物をさがしに行くのかしら?」
「いいえ、そうではないわ」ポルガラが焚火の上でぐつぐつ煮えている薬草の小鍋をかきまぜながら答えた。「わたしたちには別の場所でしなければならないことがあるの。怪我を見せてちょうだい」
雌狼はおとなしく焚火のそばに横たわり、傷ついた前足をのばした。ポルガラはそっと包帯をとって、潰瘍を調べた。「ずっとよくなってるわ。ほとんど治りかけているわよ。まだ痛む?」
「痛みは耐えなければならないものですわ」狼は静かに言った。「たいしたことではありません」
「でも、痛みの程度で怪我がいつごろ治るかがわかるのよ」
「たしかにそうですね」狼は認めた。「わたしも過去に何度か同じ経験をしました。痛みは軽くなりました。だいぶよくなってきたようですわ」
ポルガラは鍋にたまった刺激臭のある汁で傷ついた前足を洗ったあと、やわらかくなった薬草にふたたび石鹸と砂糖をまぜあわせて傷口にぬり、包帯をとりかえた。「これで手当も終わりになりそうよ」と患者に話しかけた。「痛みはほとんどなくなるわ」
「感謝しますわ」狼はすなおに言った。「またあかるくなるころには、歩けるようになりまして? 丸い足で走るあれですけど、乗っているとひどく具合いが悪いんです。それにあれを走らせている女性がしゃべりすぎますの」
「もう一度日が暮れるまであれに乗っていなさい。そうすれば痛みはもっとよくなるわ」
狼はためいきをついて、前足にあごをのせた。
かれらは近くの泉から水を運び、ポルガラが夕食のしたくをした。食後、ベルガラスが立ちあがってガリオンに言った。「ちょいとようすを見てこよう。わしらがどういう状況にとりくむことになるのか、知っておきたい」
ガリオンはうなずいて腰をあげた。ふたりはシルクの夕食を持ってほら穴の外へ出た。小男は外で見張りに立つことを熱烈に志願していた。「どこへ行くんです?」岩に腰をおろして夕食をぱくつきながらシルクがたずねた。
「すこしかぎまわってくるのさ」ベルガラスが答えた。
「名案ですね。おれも行ってかまいませんかね?」
「だめだ。おまえさんはここにいて、目をしっかりあけといてくれ。尾根をやってくる者がいたら、みんなに警告するんだ」それだけ言うと老人はガリオンを連れて稜線を数百フィート進み、そろってもうひとつの姿になった。ガリオンはこの数ヵ月あまりにもひんぱんに変身しているので、ときどきふたつの姿の区別がつけにくくなり、気がつくと人間の姿なのに狼の言葉で考えごとをしていたりした。自分を見失ってしまいそうなこの奇妙な感覚に首をかしげながら、ガリオンは大きな銀色の狼のあとを追った。
ベルガラスが立ちどまった。「わしらのしていることだけを考えろ。ぼんやりしていると、おまえの耳も鼻もわしらの役にたってくれんぞ」
「うん、すみません」ガリオンはひどくうろたえながら答えた。狼はめったに叱責されることがないから、叱られると穴があったらはいりたいほどの気持ちになる。
地震でけずりとられた尾根の片側までくると、二匹は足をとめた。平原へ向けてくだり坂を描く斜面は闇に包まれている。ウルヴォンの軍が火をたくなと命令されているのはあきらかだった。しかし平原それ自体には、見張りの火がそれこそ小さなオレンジ色の星のように無数に輝いている。
「ザンドラマスは大部隊を連れているんだね」ガリオンの思考が静かに祖父へ送り出された。
「ああ」老人は同意した。「あすの朝の戦いはそうとう手間取るかもしれん。あれだけの大人数を殺すには、ナハズの悪魔どもとてかなり時間をとられるだろう」
「長びけば長びくほどけっこうだ。やりたけりゃ、一週間でもやってりゃいいよ。そのころには、こっちはケルまでの距離をあと半分にちぢめられる」
ベルガラスはあたりを見まわした。「少し尾根の先へ行って、ようすを見ようじゃないか」
「いいよ」
斜面の上のほうには両軍の偵察兵がいるかもしれないとベルディンは警告していたが、二匹の狼はだれにも会わなかった。「報告に戻ったんだろう」ガリオンはベルガラスの声がしゃべるのを頭のなかで聞きとった。「朝一番にまたあらわれそうだな。ほら穴に引き返して、ひと眠りしよう」
一行は翌朝早く、まだ夜もあけていないうちに起き出した。みんなおしだまって朝食を食べた。下方で対峙しているふたつの軍は敵ばかりとはいえ、これからおきるにちがいない血みどろの戦いを特別歓迎する気にはだれもなれなかった。朝食後、みんなは荷物と鞍を外へ持ちだし、最後に馬たちをおもてへ連れだした。
「けさはおとなしいな、ガリオン」ザカーズが馬に鞍をおきながら言った。
「きょう起きることをくいとめる方法がなにかあったらと考えていただけだ」
「まずむりだ」ザカーズは言った。「連中の立場はもはやてこでも動かせない。いまさら変えるのはおそすぎる。ダーシヴァ軍は前進するだろうし、ウルヴォンの軍はふいうちをかけるだろう。わたしはいやというほど戦闘を組織してきたからね、ある時点で、事態が避けようがなくなるのはよくわかっているのだ」
「タール・マードゥでのようにか?」
「タール・マードゥは大失敗だった」ザカーズは認めた。「セ・ネドラの軍をつっきろうとするのはやめて、迂回すべきだったのだ。グロリムたちならあの霧を一日中あそこに固定することができると思いこんだのが失敗のもとだった。連中を信用するようなばかなまねをすべきではなかった。さらに、アストゥリアの射手たちを甘くみてはならなかったのだ。かれらはどうしてああも早く弓を射ることができるのだ?」
「コツがあるんだ。レルドリンがやりかたを見せてくれた」
「レルドリン?」
「アストゥリア人の友だちさ」
「アレンド人は低能といってもいいほどばかだと昔から聞かされてきたぞ」
「あまり利口ではないな」ガリオンは認めた。「だからあんなに兵士として優秀なのかもしれないよ。こわいと感じるだけの想像力がないんだ」ガリオンは薄闇のなかでにやにやした。
「マンドラレンなんか戦いに負ける可能性を考慮することさえできないときてる。かれならあんたの全軍にだって挑みかかるよ――たったひとりで」
「ボー・マンドル男爵のことか? 名声は聞いている」ザカーズは皮肉めかして笑った。「かれが勝つことはおおいにありうるぞ」
「それは言わないことだな。あのままだって、マンドラレンにはじゅうぶん問題があるんだ」ガリオンはためいきをついた。「だが、かれがここにいてくれたらと思うよ――バラクやヘターやレルグだって」
「レルグ?」
「ウルゴ人の神秘主義者さ。岩を歩いて通りぬけるんだ」
ザカーズは目をみはった。
「どうやってやるのかぼくにもわからない。だからきかないでくれ。一度レルグがひとりのグロリムを大きな岩にとじこめるのを見たことがあるよ。そして両手だけをつきださせた格好で、グロリムをそこへおきざりにした」
ザカーズはぶるっと体をふるわせた。
一行は馬に乗り、ゆっくりと峡谷を進みだした。セ・ネドラの荷馬車がはげしくゆれながらうしろにつづく。頭上の空がしだいにあかるくなってきて、さしせまった戦闘の場所を見おろす断崖のふちが目の前に見えてきた。
「ベルガラス」ザカーズが静かに言った。「ひとつ提案をしてもかまわないか?」
「提案にはいつでも耳を傾けるぞ」
「下でなにが進行中かわれわれに見ることができる場所はおそらくここしかないだろう。ここで足をとめて、下方の両軍がまちがいなく交戦状態になったのを見とどけてから先へ進んだほうがいいのではないか? かりにダーシヴァ軍がウルヴォン側のふいうちをだしぬきでもしたら、われわれのわずか数リーグうしろからダーシヴァ軍がやってくることになる。そうなれば、逃げなければならん」
ベルガラスは眉毛をよせた。「あんたの言うとおりかもしれんな」と同意した。「すべての状況を知っておいても害はない」老人は手綱をひいた。「よかろう。ここでとまって、歩いて先へ行こう。あの断崖のふちに身をひそめる場所がたくさんあるから、見られずに監視ができる」ベルガラスは馬からとびおりた。
「わたしたち女性はここで待つわ、おとうさん」ポルガラが言った。「わたしたちはこれまで戦闘を見たことがないのよ。今度のも見る必要はないと思うわ」彼女はエリオンドをちらりと見た。「あなたもわたしたちと一緒にいらっしゃい」
「はい、ポルガラ」
残りの連中は腰をかがめて前進し、断崖の端にあるいくつかの大きな丸石のうしろに隠れた。ダーシヴァ全土にたれこめた陰気な鉛色の雲が、眼下のしおれて朽ちた平原をどんよりした薄闇にとじこめている。平原のはるか向こうにあらわれた無数の人影が、前進してくるのが見わけられた。かなりの早さで進んでくるようだ。
「申し分のない計画だと思ったが、ひとつだけ欠点があったようだ」ザカーズが口元をゆがめて言った。「遠すぎて、こまかいところまで見えない」
「それはおれがひきうける」ベルディンがうなるように言った。「鷹の目は人間の目の十倍よく見えるんだ。あいつらの数百フィート上空を旋回すれば、どんなこまかいところでも見逃さないさ」
「羽根はまちがいなく乾いてるんだろうな?」ベルガラスが念をおした。
「そのために、ゆうべは焚火のそばで寝たんだ」
「よし、連絡をおこたるなよ」
「当然だろ」醜い魔術師は腰をかがめた。姿がぼやけて、鷹があらわれた。鷹は丸石のてっぺんにひょいと飛びあがると、たけだけしい目を平原へ向けた。それから翼をひろげ、断崖をまっしぐらにおりていった。
「きみたちはああいうことを見ても、いつもじつに平然としているな」ザカーズが言った。
「本当はそうでもないんですよ」サディがつるつる頭をさすりながらつぶやいた。「鈍感になっているだけなんです。はじめてかれがあれをやるのを見たときは、全身総毛だちましたよ。わたしにしてみれば、みごとな手品みたいなものです」
「ウルヴォンの軍勢はあの長い峡谷の両側の尾根づたいにある浅いくぼみに隠れている」ベルガラスがはるか下方のどんよりした空中を舞っている鷹の無言の言葉をくりかえした。「そして象どもはその峡谷めざしてまっすぐ進んでいる」
ザカーズが断崖のふちから身をのりだして下を見た。
「気をつけろよ」ガリオンは片手でマロリー人の腕をつかんだ。
「相当な距離だ。そうだったのか。これでダーシヴァ軍があの峡谷へ向かっているわけがわかった」ザカーズは言った。「峡谷はこの断崖の下で枝わかれしていて、ひとつが北へのびているのだ。おそらく主要な隊商道につながっているのだろう」ザカーズは考えこんだ。「じっさい、悪くない戦略だ。ナハズが部隊に鞭をふるって早く前進させるようなことをしていなかったら、ダーシヴァ軍は先に隊商道にたどりついて、やはりまちぶせ攻撃をしかけることができたはずだ」ザカーズは断崖のへりから体をひっこめた。「起伏の多い地形で軍事行動をとりたくない理由のひとつがそれなのだ。クトル・マーゴスではさんざんな目にあったからな」
「象たちが一列にならびはじめている」ベルガラスが報告した。「残りのダーシヴァ兵は象たちのうしろにならんでいる」
「斥候を出すんだろうか?」ザカーズがきいた。
「そうだ、だが峡谷のなかを偵察しているだけだ。数人が尾根の頂上へのぼったが、猟犬たちに殺された」
一同はベルディンが両軍の上空を旋回するのを見守った。
「もうあともどりはできんな」ベルガラスが暗い口調で言った。「象たちが峡谷へはいっていくぞ」
「象がちょっとかわいそうな気がするよ」ダーニクが言った。「なにもやりたくてやっているわけじゃないんだ。ナハズの側が象たちに火をつかわなけりゃいいが」
「火の使用はごく平均的手段だ、善人」ザカーズが平静に言った。「象が本当におそれるのは火だけだからな。おどろいて峡谷をひきかえしてくるだろう」
「ダーシヴァ軍のどまんなかを通ってな」シルクがいささか気分が悪そうにつけくわえた。「ナハズのやつ、きょうはいやってほど血を味わえるわけだ」
「本当にこれを見ている必要があるのかな?」ダーニクがきいた。
「戦闘開始までは待たねばならん」ベルガラスが答えた。
「わたしは引き返してポルと一緒に待つことにしますよ」鍛冶屋は断崖のてっぺんからじわじわとあとずさった。それからトスと一緒に尾根をおりていった。
「まったく温和な人物なんだな」ザカーズが言った。
「たいていはね」ガリオンは答えた。「でも必要とあれば、やらなけりゃならないことはやれるんだ」
「ダーニクがあのマーゴ人を底なし沼へ追い込んだときのことをおぼえてるだろう」シルクがみぶるいしながら言った。「そしてそいつが沈んでいくのをながめていたときのことを?」
「もうじき終わりそうだ」ベルガラスの声に緊張がみなぎった。「最後の象が峡谷へいまはいった」
一同は待った。なぜかガリオンはにわかに寒気をおぼえた。
やがて、一リーグ以上離れた場所での出来事だというのに、すさまじい物音が聞こえてきた。ウルヴォンの部隊が向かってくる象たちの上に大きな岩をころげ落としにかかったのだ。巨大な動物たちの苦悶の悲鳴がかすかに聞こえた。そのあと煙と炎が峡谷から吹き出した。残酷なカランド人たちが無力な動物たちに火をつけた柴の山をつぎつぎに投げつけた。
「もうたくさんだ」サディがたちあがって、尾根をおりていった。
生き残った象たちは、断崖から見るとまるでアリのように小さかった。かれらは狂ったようにまわれ右をし、恐慌をきたして峡谷をかけもどりはじめた。動物たちの苦痛の悲鳴にいきなり人間の絶叫が重なった。ダーシヴァ兵たちの列を巨大な象たちがつぎつぎに踏みつぶしているにちがいない。
ベルディンが下から舞いあがってきて、最初に飛びたった岩の上にふたたびとまった。
「ありゃなんだ?」シルクが叫んだ。「あの峡谷の入口を見ろ」
平原の端の暗い空中に、なにか空気を乱すばかでかいものがあるようだった。ちらちらする虹色の光とくすんだ稲光の閃光の充満するかすかな輝き。と、だしぬけにその乱れが合体して悪夢になった。
「なんてこった!」シルクが毒づいた。「納屋みたいにでっかいじゃないか!」
身の毛のよだつ物体だった。十二本、いやそれ以上の蛇そっくりの腕がのたうちまわって空をたたいている。燃え上がる目が三つ、ばかでかい口には大きな牙がぎっしりはえている。それは象の群れにのしかかるように立って、巨大な、爪のはえた足で象たちをおもしろ半分に蹴ってわきへおしやった。次に地ひびきをたてて峡谷を進みだした。平然と炎のなかをつっきり、肩におちてはねかえる大岩にも雪片程度の注意しか払っていない。
「あれはいったいなんだ?」ザカーズが声をおののかせた。
「あれがモージャだ」ベルガラスが教えた。「以前見たことがある――モリンド国でな――一度見たら忘れられない顔だ」
峡谷を行く悪魔はいま、いくつもある腕をのばして長い爪のはえた両手にカランド軍の全部隊をつかみ、ものすごい力でかれらを周囲の岩に投げつけていた。
「戦いの流れが変わったようだな」シルクが言った。「出発に関するおれたちの一般的気分はどうなってる――いますぐ発つかい?」
魔神モージャは巨大な鼻づらをもちあげて、人間には理解できない奇怪な言葉で何事かわめいた。
「じっとしてろ!」ベルガラスがシルクの腕をつかんで命令した。「まだ終わっていない。あれは挑戦なんだ、ナハズがこばむはずがない」
峡谷の南端上空にもうひとつ、ゆらめく乱気流が出現したかと思うと、その中心にそびえたつ姿があらわれでた。ガリオンにはその顔がよく見えなかったが、それをつくづく感謝した。ばかでかい肩から、やはり蛇のような腕が何本も生えている。「おれにはむかう気か、モージャ?」それは近くの山々をゆさぶる声でわめいた。
「きさまなどこわくはないわ、ナハズ」モージャがどなりかえした。「おれたちのいがみあいは何十万年とつづいてきたのだ。ここでケリをつけようじゃないか。きさまの死の知らせを地獄の大王へ伝えてくれるわ。その証拠にその頭を持ってな」
「おれの頭がきさまのものだと」ナハズはぞっとするような笑い声をたてた。「とれるものならとってみろ」
「そして力の石を半身不随のトラクの狂った弟子に与えようというのか?」モージャはせせら笑った。
「モリンディムの地にいるあいだに頭が悪くなったようだな、モージャ。あの力の石はおれさまのものになるのだ。そしておれさまがこの世界の表面をはいずりまわるちっぽけな虫けらどもを支配するのだ。家畜のようにやつらを育て、腹がへればやつらをくらうのだ」
「どうやって育てるのだ、ナハズ――きさまの頭はもうそこについていないはずだろうが。ここに君臨し、虫けらどもを育てるのはこのおれだ。力の石はおれのものになるのだからな」
「それはもうすぐわかる、モージャ。くるがいい。おれたち双方が望む頭とあの石のために戦おうではないか」いきなりナハズはすばやくふりかえった。悪意に満ちた目がガリオンとその仲間のひそむ断崖のてっぺんをさぐった。悪魔のゆがんだ口からすさまじい音がもれた。「〈光の子〉めが! ありがたや、地獄の大王がやつをおれの手の届くところへおいてくれたぞ。まっぷたつにして、やつの持っている石を奪ってくれようぞ。きさまは死ぬのだ、モージャ。あの石がおれのものになれば、きさまは破滅だ」魔神ナハズは長い爪のはえた数十本の手をひろげ、きりたった断崖の表面にしがみつくと、猛烈な速さで断崖のふもとにころがる岩をよじのぼりはじめた。
「岩場をまっすぐのぼってくる!」シルクがしめ殺されそうな声で言った。「ここから逃げよう!」
魔神モージャはしばらくくやしそうにつったっていたが、やがて走りだして同じように断崖の表面をはいあがりだした。
ガリオンは立ちあがって、ふたりの巨大な化物が垂直の絶壁をよじのぼってくるのを見おろした。奇妙に平静な気持ちで、かれは背中へ腕をのばし剣を抜いた。柄《つか》をおおう革の鞘をはずしてとりさった。〈珠〉が輝いた。ガリオンが剣を両手につかむと、おなじみの青い炎が刃の先端へかけあがった。
「ガリオン!」ザカーズが叫んだ。
「あいつらは〈珠〉をほしがってる」ガリオンは冷酷な口調で言った。「ほしければ、もぎとらなくちゃならないだろうな。それについては、ひとこと言いたいことがある」
だが、そのときダーニクがそこにいた。穏やかな顔で、かれはもろはだを脱いだ。右手に持ったおそろしげな大ハンマーが、ガリオンの剣と同じ青に輝いた。
「せっかくだがね、ガリオン」ダーニクは事務的な口調で言った。「これはわたしの仕事なんだ」
ポルガラがそばについていた。その顔に恐怖はみじんもなかった。青いマントを体にまきつけ、はえぎわの真っ白な一房が光を放っていた。
「どういうことだ?」ベルガラスが問いつめた。
「じゃましないで、おとうさん」ポルガラは言った。「これは起きなくてはならないことなのよ」
ダーニクは断崖のへりまで進みでると、きりたった表面をよじのぼってくるふたつのおそるべき敵を見おろした。「帰れ」朗々たる声で言った。「おまえたちのきたところへ戻るのだ、さもないと死ぬぞ」ダーニクの声にかぶさっているのはもうひとつの声だった。平静で、やさしくさえあるが、それはハリケーンにゆさぶられる木のように、ガリオンをゆさぶる力に満ちていた。
「行ってしまえ!」ダーニクはその言葉を強調するように、大ハンマーの一撃で岩をひとつこなごなにしながら、命令した。
断崖をはいあがってくる悪魔たちがためらった。
はじめそれはほとんどわからぬ程度だった。はじめはダーニクが不可能な奮闘にそなえて、胸や肩をふくらませているだけのように見えた。やがてガリオンは古くからの友だちが大きくなりはじめているのに気づいた。十フィートになった鍛冶屋はおそろしいほどだった。二十フィートになると、信じられる限界をこえていた。右手に持った大ハンマーも鍛冶屋とともに大きくなった。ハンマーをとりまく青い光輪が、ダーニクがばかでかい双肩で陰気な空気をおしわけるように膨張するにつれて輝きを強めた。かれが腕をゆるめてぞっとするような輝くハンマーをふりまわすたびに、岩そのものが鍛冶屋からすくみあがるように見えた。
魔神モージャは動きをとめて岩にしがみついた。残忍な顔に突然恐怖が宿った。ダーニクはまたもハンマーの一撃で数ヤード四方の岩を破壊した。
だがナハズは思考力の欠落した目に怒りをたぎらせて、悪魔だけが知っているあのおそるべき言葉で呪いをわめきながら、岩の表面をはいのぼりつづけた。
「それならしかたがない」ダーニクは言った。鍛冶屋の声ではなく、もうひとつのもっと低いその声が、運命のひびきのようにガリオンの耳の奥で鳴りひびいた。
魔神モージャは上を見あげた。そのおそろしい顔に恐怖がみなぎっている。と、突然岩をつかんでいた手がゆるみ、モージャは下方の岩場にころげおちた。かれは無数の腕ででこぼこの頭をおさえ、咆哮しながら逃げていった。
しかしナハズは狂気に満ちた目をぎらつかせて、むきだしの岩に長い爪をくいこませ、あいかわらず巨体をおしあげるようにして断崖をのぼってくる。
ダーニクがほとんど礼儀正しいともいえるしぐさで、断崖のへりからあとずさり、ハンマーの輝く柄をばかでかい両手でにぎりしめた。
「ダーニク!」シルクが叫んだ。「だめだ! ナハズにのぼってこさせるな!」
ダーニクは答えなかったが、正直そうな顔にかすかな微笑がうかんで消えた。ふたたびかれは調子を試すように大ハンマーを両手でふりまわした。空をきるその音はまるで嵐だった。
ナハズは断崖のふちにはいあがると、仁王立ちになり、悪魔独特のぞっとするような言葉を狂ったようにわめきちらしながら、空をひっかいた。
ダーニクは左手に唾をはき、つづいて右手に唾をはいた。巨大な両手でハンマーの柄をにぎりなおし、正しい位置をさだめて頭上から大きくハンマーをふりおろした。一撃が魔神の胸をとらえた。「行ってしまえ!」鍛冶屋は雷鳴をもしのぐ大声で叫んだ。ハンマーが魔神の体からすさまじい火花をえぐりだし、くすんだオレンジ色の火花が焦げた毛髪のように地面でちりちりとはねた。
ナハズは胸をかきむしって絶叫した。
ダーニクは平然と再度ハンマーをふりまわした。
そしてまた。
ガリオンは友だちの一撃がきざむリズムに気づいた。ダーニクは戦っているのではなかった。かれにとって、道具は腕の延長にほかならない。その道具を年季のいった正確さでふりおろしているのだ。輝くハンマーが何度も何度も魔神の体にめりこんだ。そのたびに火花がとんだ。ナハズはすくみあがってそのおそろしい壊滅的一撃から体をかばおうとした。ハンマーをふりおろすたびに、ダーニクはどなった。「行ってしまえ!」巨大な岩を砕くように、すこしずつかれはナハズをこなごなに砕きはじめた。大蛇のような腕がのたうちながら断崖から落下し、魔神の胸にクレーターのような穴があいた。
そのぞっとするなりゆきをそれ以上見るにたえられず、ガリオンは目をそむけた。はるか下方にウルヴォンの王座が見えた。それを運んでいた二十四人の担ぎ手はすでに逃げたあとで、気のふれたトラクの弟子は狂ったようにわめきながら岩場をはねまわっていた。
ダーニクがまたハンマーをふりおろした。「行ってしまえ!」
そしてまた。「行ってしまえ!」
そしてまた。「行ってしまえ!」
魔神ナハズは忍耐の限界をこえた攻撃にちぢみあがってあとずさり、足をふみはずして憤怒と絶望の咆哮とともに断崖からころげおちた。すじをひく彗星のように、緑の火をなびかせてナハズはおちていった。地中にめりこんでいきながら、蛇のような腕が一本つきでてトラクの最後の弟子をむんずとつかんだ。ウルヴォンは金切り声をあげて、水に沈む棒きれよろしく地中にひきずりこまれていった。
ガリオンがふりかえったとき、ダーニクは普通の大きさにもどっていた。胸も両腕も滝のような汗にまみれ、荒い息をついていた。鍛冶屋が輝くハンマーを持った腕をのばすと、その炎がどんどんあかるくなってついにまばゆいばかりの光輝をはなった。やがて火がしだいに弱まったとき、かれの片手には銀の護符が握られ、鎖が手の甲にたれていた。
魔神との身も凍る対決のあいだ、ダーニクの声にかぶさっていたあの声が、いま、ささやくように言った。「この善人もまたわたしの愛する弟子であることを知るがよい。かれはこの仕事を果たすのに、おまえたち全員のなかでもっとも適していたのだからな」
ベルガラスが声のするほうに一礼した。「おっしゃるとおりです、師よ」その声は感動にくぐもっていた。「かれを兄弟としてよろこんで迎えます」
ポルガラが驚嘆のおももちで進みでると、ダーニクの手からそっと護符をうけとった。「こんなにふさわしいことがあるかしら」低い声でつぶやくと、彼女は丸い銀の護符を見つめた。そして夫の首にいとおしむように鎖をかけ、キスをしてからきつくかれを抱きしめた。
「頼むよ、ポル」鍛冶屋はまっかになって抗議した。「ふたりきりじゃないんだから」
ポルガラは持ち前の温かく豊かな笑い声をたてると、まえにもまして激しくダーニクを抱きしめた。
ベルディンはにたにたと笑っていた。「みごとだったぜ、兄弟」とダーニクに言った。「だが、暑かっただろう」片手をのばして空中から泡だつジョッキをとりだし、アルダーの一番新しい弟子にさしだした。
ダーニクはうれしそうに飲んだ。
ベルガラスがダーニクの肩をぎゅっとつかんだ。「わしらが最後に新しい兄弟を持ってから、きょうまで、ずいぶん長かったよ」それだけ言ってダーニクをすばやく抱擁した。
セ・ネドラが声をつまらせた。「ああ、なんてすばらしいの」
ヴェルヴェットがだまって薄くて小さなハンカチをセ・ネドラに渡した。「その護符に描かれているのはなんですの?」金髪の娘はかすかに畏怖のにじむ声でたずねた。
「ハンマーさ」ベルガラスが答えた。「きまっとるだろう?」
「ひとつ提案をしてよろしければ、長老」サディがおずおずと口をひらいた。
「下の平原の両軍は完全な混乱状態にあるようです。出発するには願ってもないときじゃありませんか?――連中がわれに返らないうちに」
「まったく同意見だよ」シルクが宦官の肩に手をおいた。
「そのとおりだ、ベルガラス」ベルディンもうなずいた。「おれたちがここでやるべきことはやった――というか、すくなくともダーニクがやってくれたんだ」魔術師はためいきをついて断崖のふちへ目をやった。「ほんとはウルヴォンはこの手で殺してやりたかったんだが、このほうがよかったのかもしれん。やつが地獄の生活を楽しむことを願うぜ」
いきなり、尾根のてっぺんから甲高い勝利の笑いが聞こえた。すばやくふりかえったガリオンはおどろいて凍りついた。尾根の上に黒装束のダーシヴァの女魔術師が立っていた。そのかたわらには金髪の小さな少年が立っている。ゲランの容貌は誘拐されてからの一、二年で変化していたが、ガリオンはすぐに息子だとわかった。「あたしの仕事をうまくやっておくれだったね」ザンドラマスは声をはりあげた。「トラクの最後の弟子にこれ以上ぴったりの最期を見つけることはあたしにだってできなかっただろうよ。〈光の子〉よ、これであたしとクトラグ・サルディウスとのあいだに立ちはだかる障害はおまえだけになった。〈もはや存在しない場所〉でおまえのくるのを待っているよ。おまえはあたしがアンガラクに新しい神をうちたてる目撃者となろう。その新しい神こそがこの世の終わりまで全世界に君臨するのだ!」
ゲランがすがるようにセ・ネドラのほうへ手をのばした。が、次の瞬間、かれもザンドラマスも消えてしまった。
「おどろいたこと」雌狼が驚嘆のつぶやきをもらした。
底本:「マロリオン物語8 ダーシヴァの魔女」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1991(平成 3)年 6月15日 発行
1997(平成 9)年11月15日 二刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2009年1月31日作成
2009年2月10日校正
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このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] マロリオン物語8 ダーシヴァの魔女.zip iWbp3iMHRN 94,353,396 55b29bfe7ed9cda883de524914d6a55e
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
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底本は1ページ18行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本78頁3行 ナダラス
ナラダス
底本167頁12行 ほば確実です
ほぼ確実です