マロリオン物語7 メルセネの錬金術師
SORCERESS OF DARSHIVA
デイヴィッド・エディングス David Eddings
宇佐川晶子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)それぞれ柄《つか》が銀の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)|西洋ブナ[#「ブナ」は「木+無」、第3水準1-86-12]《せいようぶな》の木立
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[#ここから2字下げ]
オスカー・ウィリアム・パトリック・ジャンソン=スミスに
ようこそわれわれの世界へ!
[#ここから18字下げ]
たくさんの愛をこめて
デイヴとレイ
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
目 次
プロローグ
第一部 メルセネ
第二部 ペルデイン
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
メルセネの錬金術師
[#改ページ]
登場人物
ベルガリオン(ガリオン)………………リヴァ王
セ・ネドラ…………………………………ガリオンの妃
ベルガラス…………………………………魔術師
ポルガラ……………………………………ベルガラスの娘
ダーニク……………………………………ポルガラの夫
エリオンド…………………………………〈珠〉を運んだ少年
トス…………………………………………〈物言わぬ男〉
ケルダー(シルク)………………………ドラスニアの王子
リセル(ヴェルヴェット)………………ドラスニアの密偵
サディ………………………………………ニーサの宦官
ベルディン…………………………………魔術師
ポレン………………………………………ドラスニアの女王
ヤーブレック………………………………ナドラクの商人
ヴェラ………………………………………ヤーブレックの妻
ウルギット…………………………………クトル・マーゴスの王
ザカーズ……………………………………マロリー皇帝
センジ………………………………………錬金術師
ザンドラマス………………………………〈闇の子〉
[#改丁]
プロローグ
東の帝国の簡略なる歴史
[#地から2字上げ]――『メルセネおよびマロリーの皇帝たち』より
[#地から2字上げ]メルセネ大学出版
メルセネ帝国の起源は、われわれにとっては永遠の謎である。メルセネ人の祖先は、メルセネ諸島の東に位置する広大な海から粗末なカヌーでやってきたのだとする言い伝えもあれば、古代メルセネ人はダラシアに存在する例の奇妙な文化の流れをくむ子孫だという言い伝えもある。だが、起源はどうあれ、メルセネは地上でもっとも古い文明として評価されている。
メルセネは古くから海と密接なつながりを持っていた。その発祥の地はマロリー大陸の東沿岸沖にある島々である。メルセネの首都が光と文化にあふれた都会であったころ、トル・ホネスは未開の村であり、マル・ゼスにいたってはみすぼらしいテントの寄せ集めにすぎなかった。天を見上げて黙想にふけっていたケルだけが、その大昔のメルセネ人の国に匹敵しえたのである。
メルセネにその華やかな孤立を捨てさせたのは、ある大災害の発生だった。五千年も昔のことになろうか、はるか西方である災害が起きた。アンガラク人やアローン人はそれを神々の神学論争のせいにしている。まじめに受け取るには無理のある解釈だが、そこには自然の脅威を解きあかそうとする素朴な心理がうかがえる。
原因はともかく、その大災害により超大陸は大きく分断され、大津波が発生した。海ははじめに陥没し、次に隆起して、最後にほぼ現在の海岸線に落ち着いた。メルセネにとって、これは壊滅的な損害であった。古代メルセネの陸地のゆうに半分が、海中に没してしまったのである。陸地の損失ははかりしれなかったが、大多数の人間は救出された。だが、皮肉にもそれは多すぎる人口を残りの島々にしがみつかせる結果を招いた。かつてメルセネの首都は山中にある美しい都市だった。そこでは熱帯の低地における気候の影響を弱めることなく、物事を管理することができた。ところが大災害のあと、メルセネは地震と洪水に見舞われ、破壊された都市となって、新たにできた海岸から一リーグたらずの場所に無残な姿をさらすこととなった。
再建の時期が終わると、小さくなった故国がもはや人口を支えきれないことはあきらかであった。こうしてメルセネ人は大陸へ向かった。もっとも近かったのがマロリー南東部、すなわち、なまりはあるが同じ言語を持つマロリー人種の住む地域であった。メルセネ人はそこへ注意を向けた。そこには五つの原始的王国があった――ガンダハール、ダーシヴァ、セランタ、ペルデイン、そしてレンゲルである。これらの王国は技術的にすぐれたメルセネ人によってまたたくまに征服され、拡大するかれらの帝国に吸収された。
メルセネ帝国の支配勢力は官僚だった。官僚政治にはいくつかの欠点があったが、利点もあった。ひとつは持続性、もうひとつは、他の政治形態をしばしば動かしている気まぐれ、偏見、自己中心主義への関心よりも、仕事を完了させるのにもっとも実用的方法を見つけることへの関心のほうが強いという、明敏な実利主義だった。メルセネの官僚は実利的すぎるほど実利的だった。才ある貴族≠ニいう概念がメルセネの思考を支配していたのである。もしもある官僚が才能ある人物を見落とせば、別の官僚がすかさずさらっていくのはほぼ確実だった。
メルセネ政府の各省庁は、才人を求めて、新たに征服された大陸の各地方へわれ先にとなだれこんだ。征服された住民はこうして直接帝国の生命の本流に吸収された。常に実利的であるメルセネ人は、大陸の五つの地方にある王室には手を触れなかった。新しい王室を興すより、すでにある権威を活用するほうが得策だったからである。
その後千四百年間、メルセネ帝国は西方の大陸を揺るがしていた神学的、政治的争いとは無縁のまま繁栄した。メルセネ文化は世俗的ながら洗練されており、高級だった。奴隷制度は知られておらず、アンガラク人をはじめ、カランダ、ダラシアにいる従属民との貿易はおおいなる富をもたらした。メルセネの古い首都は学問の中心地となった。あいにく、一部のメルセネの学者は秘儀に関心を向けた。かれらの悪魔召集は、モリンド人やカランド人の呪術崇拝をうわまわるものであり、学者たちはより不可解で抜き差しならぬ分野を探求しはじめ、腕を磨いて妖術や降霊術を行なうようになった。しかし最大の関心は錬金術の分野にあった。
アンガラク人との最初の会戦が行なわれたのは、この時期だった。はじめての対決では勝利をおさめたものの、メルセネ人はアンガラク人がいずれは数の多さでかれらを圧倒することを悟った。
アンガラク人がダラシア保護領の確立に努力の大半を注いでいるあいだは、用心深い一時的な平和が訪れた。アンガラクとメルセネのふたつの国家間の貿易交渉はよりよい相互理解を生んだが、メルセネ人はきわめて世俗的なアンガラク人までが宗教に夢中であることに興味を抱いた。その後千八百年にわたって、両国間の関係は悪化し、一、二年たらずで終結する小規模戦争が何度か起きた。両国とも全面対決は望んでいないらしく、総力をあげることは慎重に避けた。
相手に関する情報をさらに得るために、両国はある時期にわたってさまざまな指導者の子供たちを交換するしきたりをもうけた。高位にあるメルセネの官僚の息子たちがマル・ゼスへ送られて、アンガラクの将軍の家族とともに暮らし、将軍たちの息子がメルセネ帝国の首都へ送られて養育された。その結果、のちにマロリー帝国の支配階級の規範となったコスモポリタン気質の若者グループが誕生した。
第四黄金期の終わりにかけて行なわれたそのようなひとつの交換が、ついにふたつの種族の統一をもたらした。年の頃十二歳ばかりのカラーズという、アンガラクの高位の将軍の息子がメルセネへ送られ、数年にわたり外務大臣の家庭で青春の形成期を過ごした。大臣は公式にも、つきあいの上でも皇室との接触が多く、カラーズはすぐに宮殿の歓迎される客となった。モルヴァン皇帝はかなりの年配で、子供はひとり、ダネラというカラーズより一歳年下の王女がいるだけだった。若いふたりの仲はよくある形で進行したが、十八の時にカラーズは軍人としての道を進むべくマル・ゼスに呼び戻された。カラーズはまたたくまに頭角をあらわして、二十八歳のときにはラクト地方の総督の地位に就き、それによって史上最年少の幕僚となった。そして一年後、メルセネに旅をし、ダネラ王女と結婚したのである。
それからの数年間、カラーズはメルセネとマル・ゼスに時間をふりわけてその両方に勢力基盤をうちたてた。三八二九年にモルヴァン皇帝が死去した時は、すでに準備万端整っていた。皇族には他にも皇位継承者がいたのだが、そのほとんどは死亡していた――しばしば不審な状況のもとで。にもかかわらず、三八三〇年にカラーズがメルセネ皇帝を宣言すると、多くの皇族たちは激しい異議を唱えた。ダネラは七人の健康な子供を産んでおり、カラーズの一族の存続を確実なものとした。
翌年マル・ゼスへ旅に出たカラーズはメルセネ軍をデルチンの国境へ配置し、一般幕僚にたいし最後通告を行なった。カラーズの兵力はかれ自身が治めるラクトの軍隊と、カランドの東部公国の軍隊とから成っており、カランドにいるアンガラクの軍司令官たちはカラーズへの忠誠を誓っていた。デルチンの国境に配した部隊と合わせると、これらの兵力はカラーズに圧倒的優位を与えた。カラーズはアンガラク軍の最高司令官の地位を要求した。先例はあった。過去においても、ある臨時司令官がそういう申し出をして認められたことがあったからである。しかしその場合、一般幕僚との共同統治が常識だった。ところがカラーズの要求はまったく新しいことを規制の枠のなかへ持ち込んだ。かれは皇帝としての地位を世襲とし、アンガラクの最高司令官職も世襲制にすべきだと主張したのである。将軍たちは仕方なくカラーズの要求をのんだ。こうしてカラーズはメルセネ皇帝として、またアンガラクの最高指導者として、大陸を治める最高の地位に就いた。
メルセネとアンガラクの統一は揺れに揺れたが、結局はメルセネの忍耐がアンガラクの残虐ぶりに打ち勝った。メルセネの官僚政治のほうがアンガラクの軍政よりはるかに有能であることが証明された数年間の事実からも、それはあきらかである。官僚制度は当初、武器や通貨といった世俗的問題をめぐって活動した。そこから大陸の道路局が確立されるまで長くはかからなかった。数百年とたたぬうちに、官僚政治は大陸の生活の文字どおりあらゆる面を支配していた。例によって、政府はマロリー中から人種に関係なく、有能な男女を集めた。まもなくメルセネ人、カランド人、ダラシア人と雑多な人種が行政を構成するようになり、アンガラク人がいることも少しも珍しくなくなった。四四〇〇年までに、官僚制度の主権は完了した。その間、最高司令官の称号はすたれはじめていた。おそらく官僚制度が習慣上すべての連絡を皇帝≠ノたいして行なっていたからだろう。メルセネ皇帝がマロリー皇帝になった明確な日付はなかったようだ。そのようなしきたりが公式に認められたのは、西方における波乱ぶくみの冒険が〈ボー・ミンブルの戦い〉となって終結したあとのことである。
メルセネ人のトラク崇拝への改宗は、せいぜいが表面的なものだった。メルセネ人はアンガラクの崇拝の形態を政治的な都合上受け入れたが、さすがのグロリム僧たちも昔からのアンガラク人の特徴である竜神への盲目的服従を押し付けることはできなかった。
四八五〇年、何千年ものあいだアシャバに陰遁していたトラクが姿をあらわした。生ける神がその傷ついた顔を磨かれた鋼の仮面に隠してマル・ゼスの城門に出現すると、マロリー中を激しい衝撃が駆け抜けた。皇帝は虫けらよろしく王位を剥奪され、トラクがカル=\―王にして神――としていっさいの権限を持った。使者たちがクトル・マーゴス、ミシュラク・アク・タール、ガール・オグ・ナドラクへ派遣され、四八五二年にはマル・ゼスで戦争会議が開かれた。純然たる神話と思っていた神の出現にダラシア人、カランド人、メルセネ人は仰天し、トラクの弟子たちの出現でかれらのショックはさらに深まった。
トラクは神だったため、命令を発するとき以外はしゃべらなかった。しかし弟子のクトゥーチク、ゼダー、ウルヴォンは人間であり、かれらは一種冷酷な嫌悪を持ってすべてを探り、調べた。かれらはただちにマロリーの社会がほぼ完全な非宗教社会であることを見てとった――そしてその状態を変える措置を取った。マロリーは恐怖に統治された。いたるところでグロリム僧が暗躍した。グロリムたちにとって非宗教主義は異端の一形態だったのである。長いあいだ文字どおり未知のものだったいけにえを捧げる儀式が、狂信的熱意を持って生き返った。まもなくマロリー中の村に祭壇と、悪臭を放つかがり火が出現した。トラクの弟子たちはたったの一撃で、数千年におよんだ軍と官僚のきまりをくつがえし、グロリム僧に絶対支配をもたらしたのである。たちまち、マロリー人の生活はあらゆる面でトラクの意志に盲従するようになった。
西方との戦争に備えたマロリー人の動員は、文字どおり大陸の人口を減少させ、ボー・ミンブルにおける災厄はすべての世代を一掃した。壊滅的戦役は、リヴァの番人によるトラクのうわべの死とあいまって、マロリーを徹底的に混乱させた。引退していた足元すらおぼつかない老皇帝があらわれて、瀕死の官僚制度を再建しようとした。支配権を維持せんとするグロリムの努力は、国際的憎悪によって迎えられた。トラクのいないかれらに真の力はなかったからである。皇帝の子息たちの大部分はボー・ミンブルで戦死していたが、幸いにもひとりだけ、皇帝が高齢になってもうけた七つの男の子が難を逃れた。皇帝は残り少ない数年を費やして息子を教育し、国を統治する職務にそなえさせた。ついに老齢のため皇帝が無力になると、当時十四歳ほどだったコーゼスは無情にも父親を王座からひきずりおろし、皇帝の座についた。
〈ボー・ミンブルの戦い〉の後、マロリーの社会はもとの構成要素であったメルセネ、カランダ、ダラシア、そして、マロリー・アンティクア(古マロリー)にふたたび分裂していた。アンガラク人が出現する以前に存在していた先史時代の諸王国に戻ろうとする動きさえあった。この動きは南部メルセネのガンダハール公国、ザマド、カランダのヴォレセボ、そしてダラシア保護領のペリヴォーにおいて、とりわけ強かった。これらの地域はコーゼスの若さにだまされて性急にマル・ゼスの皇帝からの独立を宣言し、他の諸公国もおってそれにならう意志を表明した。コーゼスは間髪を入れず革命の潮流をせきとめる動きに出た。少年皇帝は生涯を馬上で過ごし、歴史上おそらく最大の大虐殺を行なった。しかし、一生を終えたとき、かれは再統一されたマロリーを王位継承者の手に残したのである。
コーゼスの子孫たちはさまざまな手段で大陸を統治した。〈ボー・ミンブルの戦い〉以前のマロリー皇帝はしばしば傀儡にすぎず、主として権力を握っていたのは官僚たちだった。しかし現在の皇帝は絶対的存在だった。権力の中心はメルセネから、コーゼスとその子孫たちが配した軍の位置するマル・ゼスに移った。権力がひとりのすぐれた統治者の手中にある場合の例にもれず、国中に陰謀が渦巻いた。計略や奸計があふれ、さまざまな役人たちが競争相手の信用を落として皇帝の好意を得ようとたくらんだ。コーゼスの子孫たちはこうした宮殿内の陰謀を止めようとせず、逆にあおりたてた。相互疑惑にさいなまれている人間たちが一丸となって王座を狙うことはありえないと考えたためである。
現皇帝のザカーズは十八歳で王座を継いだ。頭が切れ、感受性豊かで、有能なかれは早くから進歩的な統治をおこなうきざしを見せた。ところが、ある個人的悲劇がそのコースからかれをそらし、世界の半分が恐れる人物に仕立てあげた。現在のザカーズは権力の概念にとりつかれている。過去二十年間、かれの頭は全アンガラク人の大王になるという考えに支配されてきた。ザカーズが西方のアンガラク諸王国の支配に成功するか否かは、時が決定するだろう。しかし、成功すれば、全世界の歴史は大幅に変わるかもしれない。
[#改丁]
第一部 メルセネ
[#改ページ]
ドラスニアのポレン女王陛下はせつない気持ちにひたっていた。ボクトールにある宮殿のピンクのフリルだらけの居間の窓辺に立って、彼女は息子のケヴァと、トレルハイムのバラクの息子、ウンラクが朝日を浴びた庭で遊んでいるのを眺めていた。少年たちはあの年齢、すなわち大きくなっていくのが目で計れそうな気のする年齢に達しており、声はあどけないソプラノと男っぽいバリトンのあいだを行きつ戻りつしていた。夫の死後ずっと喪服で通してきたドラスニアの女王は悲しみをこらえてつぶやいた。「あの子を見たらきっと誇らしくお思いになるわ、ローダー」
ドアに軽いノックがあった。
「だれ?」ポレンは振り返らずに返事をした。
「女王陛下、ナドラク人がひとり、陛下にお目にかかりたいとこちらに参っております」年老いた執事が戸口から報告した。「陛下を存じ上げていると申しておるのですが」
「あら?」
「名前はヤーブレックだとか」
「ああ、わかったわ。ケルダー王子の仲間よ。通してちょうだい」
「女がひとり一緒でございまして、陛下」執事は眉をひそめた。「陛下がお聞きになりたくないような言葉を使うのです」
ポレンは温かみのある微笑を浮かべた。「きっとヴェラだわ。彼女がののしるところは前にも聞いたことがあるのよ。本気でののしっていたかどうかはわからないけれど。悪いけれど、ふたりとも通してちょうだい」
「ただいま、陛下」
ヤーブレックはこれまでどおりみすぼらしかった。裾の長い黒い外套を着ているが、肩の縫い目が一ヵ所ほつれたところを、生皮の紐でへたくそに縫い合わせてある。ごわごわした黒いあご髭はもじゃもじゃで、髪はぼうぼうだし、見たところ清潔なにおいがするとは思えない。
「女王陛下」ヤーブレックはゆったりと口を開いてお辞儀をしたが、足元がふらついたおかげでお辞儀はだいなしになった。
「もう酔っぱらっているの、ヤーブレック?」ポレンはいたずらっぽくたずねた。
「いや、そうでもないんですよ、ポレン」ヤーブレックはしゃあしゃあと答えた。「夕べの酒が抜けきってないだけで」
王妃はナドラク人がファースト・ネームを使ったことに腹を立てなかった。改まった言葉づかいにたいするヤーブレックの理解は、昔からいい加減だったからである。
ヤーブレックと一緒に入ってきた女は目のさめるような美人で、藍色の髪に煙るような目をしていた。ぴっちりした革のズボンに黒い革のチョッキ。ブーツからはそれぞれ柄《つか》が銀の短剣がのぞいており、さらに二本がウエストの太い革ベルトの下にたくしこまれていた。女はかぎりなく優雅にお辞儀した。「疲れてるみたいだね、ポレン」ヴェラは王妃を見つめた。「もっと眠る必要があるんじゃないの」
ポレンは笑った。「一時間ごとにわたしのところへ羊皮紙の束を持ってくる人たちにそう言ってちょうだい」
「おれは何年も前にひとつのきまりを作ったんだ」すわれとも言われないのに、椅子に手足を伸ばして、ヤーブレックが言った。「なにひとつ文字にはするなってことさ。そうすりゃ時間の節約にもなるし、トラブルに巻き込まれることもない」
「ケルダーが同じことを言うのを聞いたことがあるような気がするわ」
ヤーブレックは肩をすくめた。「シルクは現実をちゃんと把握してるんだ」
「あなたたちふたりにはしばらく会わなかったわね」ポレンも腰かけながら言った。
「マロリーにいたんだよ」部屋をうろついて、調度品をほれぼれと眺めながら、ヴェラが言った。
「それは危ないんじゃなくて? マロリーには疫病がはやっているそうじゃないの」
「マル・ゼスだけなんだ」ヤーブレックが答えた。「ポルガラが皇帝を説得して、都市を封鎖させたからな」
「ポルガラですって?」ポレンは立ち上がって叫んだ。「彼女がマロリーでなにをしているの?」
「最後に会ったときは、アシャバとかいうところへ行く途中だったよ。ベルガラスや他の連中も一緒だった」
「どうやってマロリーへたどりついたのかしら?」
「船でだろうな。泳ぐにゃ距離がありすぎる」
「ヤーブレック、情報を小出しにしないで、すっかり話してもらえない?」ポレンはいらだたしげに要求した。
「しゃべろうとしたところだよ、ポレン」ヤーブレックはちょっと傷ついたように言った。「はじめっから話を聞きたいのかい、それとも伝言のほうにするか? 伝言は山ほど預かってきてるんだ。ヴェラもあとふたつばかり伝言を預かってる――少なくともこのおれには絶対にしゃべろうとしない伝言をね」
「最初からはじめて、ヤーブレック」
「お望みのとおりに」かれはあご髭を掻いた。「おれがそのいきさつを知ったところによると、シルクとベルガラスと他の連中はクトル・マーゴスにいたんだ。みんなはマロリー人につかまっちまい、ザカーズがみんなをマル・ゼスに連れていった。でっかい剣を持ったあの若いの――ベルガリオン、だっけな? とにかくかれとザカーズが友だちになり――」
「ガリオンとザカーズが?」ポレンは信じられないようにたずねた。「どうやって?」
「知らねえよ。そのときおれはその場にいなかったもの。はしょって言うと、ふたりは友だちだったんだが、マル・ゼスで疫病が発生した。おれはまんまとシルクや他の連中を都市からこっそり連れだし、みんなで北へ進んだんだ。ヴェンナに着く前に、おれとヴェラはベルガラスたちと別れた。連中はそのアシャバとやらへ行きたがっていたし、おれは品物を積んだ隊商をヤー・マラクへ到着させたかったからだ。じっさい、相当なもうけになったよ」
「かれらはどうしてアシャバへ向かったのかしら?」
「ザンドラマスとかいう女を追いかけていたんだ――ベルガリオンの息子を誘拐した犯人さ」
「女? ザンドラマスは女なの?」
「そう聞いたぜ。ベルガラスはあんた宛の手紙をおれに預けたんだ。そこに全部書いてあるよ。文字にしちゃだめだっておれが言ったのに、聞き入れようとしなかったんだ」ヤーブレックは椅子から体を持ち上げると、外套の内側を捜しまわったあげく、しわくちゃで、きれいとは言いがたい羊皮紙を王妃に渡した。それがらぶらぶらと窓に近づいて、外を眺めた。「あそこにいるのはトレルハイムの息子じゃないか? 赤毛のがっしりしたやつは?」
ポレンは羊皮紙に目を通していた。「そうよ」手紙に集中しようとしながら、うわの空で答えた。
「ここにきてるのか? トレルハイムがってことだけどよ?」
「ええ。でもまだ起きていないんじゃないかしら。夕べは遅くまで起きていたし、ベッドへ行ったときはちょっと酔っぱらっていたから」
ヤーブレックは笑った。「バラクらしいぜ。女房や娘たちも連れてきたのかい?」
「いいえ。メレルたちはヴァル・アローンに残って、長女の結婚の準備をしているわ」
「もうそんなに大きいのか?」
「チェレク人は早く結婚するのよ。娘が厄介事に巻き込まれないようにするには、早婚が最善の方法だとチェレク人は考えているらしいわ。バラクと長男は大騒動から逃げ出すために、ここへやってきたのよ」
ヤーブレックはまた笑った。「バラクを起こして、酒を持っていないかどうか聞いてみるとするか」かれは苦しそうな表情を作って、眉間を人さし指でさわった。「けさはちょっと気分がすっきりしないんだ。バラクはいいやつだからな。すっきりしたら、また寄るよ。それにあんたにゃ読まなけりゃならない手紙があることだし。そうそう、もうちょっとで忘れるところだったぜ。他の手紙もあるんだ」ヤーブレックはみすぼらしい外套のなかをひっかきまわしはじめた。「ポルガラからの手紙だ」どうでもよさそうにぽいとテーブルにほうり投げた。「ベルガリオンからの手紙。シルクからの手紙。そしてえくぼの金髪娘からの手紙だ――ヴェルヴットとかいう子だよ。蛇はなにもよこさなかった――蛇がどういうものかあんたも知ってるよな。それじゃ、用がないなら、ほんとにあんまり気分がよくないんだ」千鳥足でドアに近づくと、ヤーブレックは出ていった。
「あれは世界一人をいらいらさせる男だわ」ポレンが断言した。
「わざとやってるんだよ」ヴェラが肩をすくめた。「それがおもしろいと思ってるのさ」
「ヤーブレックはあなたもわたし宛の手紙を持っていると言ったわね」女王は言った。「一度に全部読んでしまったほうがよさそうだわ――ショックは一度でたくさんですもの」
「あたしのはショック抜きさ、ポレン」ヴェラは答えた。「それにそれは書いたものじゃないんだよ。リセル――みんなはヴェルヴェットと呼んでるけど――が、あんたとふたりきりになったときに伝えるようにとあたしに頼んだことなんだ」
「わかったわ」ポレンはベルガラスの手紙を下に置いた。
「みんながどうやってこのことをつきとめたのかよく知らないけど、クトル・マーゴスの王はタウル・ウルガスの息子じゃないらしんだ」
「なにを言ってるの、ヴェラ?」
「ウルギットはあの口から泡を吹いてた狂人とは血がつながってもいないんだ。何年も前に、あるドラスニアの実業家がラク・ゴスカの城を訪問したらしいのさ。その実業家とタウル・ウルガスの二番目の奥さんが仲良しになったんだ」ヴェラは片方の眉をちょっぴりつりあげた。「すっごく仲良しにね。あたしはさ、ずっと前からマーゴの女たちにはそういう尻軽なところがあるんじゃないかとにらんでたんだ。とにかく、ウルギットはその友情の産物だったのさ」
おそるべき疑惑がポレン王妃の胸にきざしはじめた。
ヴェラはいたずらっぽくにやりと笑いかけた。「シルクと王室のあいだにつながりがあるのはあたしたちみんなが知ってたことさ。ただ、そんなにたくさんの王族とつながってたとはね」
「まさか!」ポレンはあえぐようにつぶやいた。
ヴェラは笑った。「そうなんだよ。リセルがウルギットのおふくろさんに問いただしたら、告白したんだ」ナドラクの女の顔が真剣になった。「リセルの伝言の要点は、シルクがあのガリガリのジャヴェリンて男にその一件を知られたがってないってことなんだ。リセルはそのことをだれかに報告しなけりゃならないと感じた。それであんたにそれを伝えるようにってあたしに言ったのさ。ジャヴェリンに話すかどうかは、どうやらあんたが決めることになってるらしいよ」
「ずいぶん思いやりがあること」ポレンはそっけなく言った。「今度は当のわたしがかかえる諜報部の部長に隠し事をさせようというのね」
ヴェラの目がきらめいた。「リセルはちょっとむずかしい立場にあるのさ、ポレン。あたしは自分が酒を飲み過ぎることも、口が悪いこともわかってるよ。人はそういうところを見て、あたしのことをばかだと思うけど、ほんとはそうじゃない。ナドラクの女ってのは世事にたけてるんだよ。それにあたしはすごく目がいいんだ。現場を見たわけじゃないけどさ、ヤーブレックがあたしを売ったら手にはいる金の半分を賭けてもいいよ、シルクとリセルができてるってことにね」
「ヴェラ!」
「証明はできないけどね、ポレン、この目で見たものはわかるんだ」ナドラクの女は革のチョッキをクンクンかいで、しかめっつらをした。「お手数じゃないなら、風呂にはいりたいんだよ。何週間も鞍にすわりっぱなしだっただろう。馬は悪くない動物だけど、馬みたいなにおいになりたかないものね」
ポレンの頭はめまぐるしく働いていた。考える時間を稼ぐために、立ちあがって、がさつなナドラクの女に歩み寄った。「サテンを着たことはあって、ヴェラ?」ポレンはたずねた。「裾の長いドレスなんか?」
「サテン? あたしがかい?」ヴェラはしわがれ声で笑った。「ナドラク人がサテンを着るもんか」
「じゃ、あなたが最初のひとりになるかもしれないわ」ポレン王妃は小さな白い手を伸ばして、ヴェラの豊かな藍色の髪を持ち上げ、頭頂部でまとめてみた。「こんな髪になれるなら魂をあげたいくらいだわ」と、つぶやいた。
「交換してもいいよ。あたしが金髪だったら、どれだけ高値がつくか知ってるのかい?」
「だまって、ヴェラ」ポレンはうわの空で言った。「考えようとしているのよ」ヴェラの髪をゆるく両手にわけて持ってみて、その生き物のような感触にポレンはびっくりした。次に彼女は手を伸ばしてヴェラのあごを持ち上げ、その大きな目をのぞきこんだ。なにかが現われて、ドラスニアの王妃をはっとさせたようだった。ポレンは目の前にいるこの野生的な娘の運命を突然悟った。「ああ、きれいな娘」ポレンは笑いだしそうだった。「なんてすばらしい将来を持っているのかしら。あなたなら空にもさわれるわ、ヴェラ、あの空にも」
「なんの話をしてるのかさっぱりだよ、ポレン」
「いまにわかるわ」ポレンは目の前にある非のうちどころのない顔を見つめた。「そう、サテンがいいわ。ラヴェンダー色がすてきね」
「赤のほうが好きだよ」
「いいえ、赤ではだめよ。絶対にラヴェンダー色でなけりゃ」ポレンは女の耳に手をふれた。「ここにはアメジストがいいわね」
「なにをしょうってのさ?」
「ゲームよ。ドラスニア人はゲームが得意なの。わたしの仕事が終わったら、あなたの値段を倍にしてあげられるわ」ポレンはひとりで悦に入っていた。「まずお風呂ね、それからなにができるか見てみましょう」
ヴェラは肩をすくめた。「短剣を放さなくていいんなら、かまわないさ」
「なんとかするわ」
「あたしみたいな薄汚い女をほんとにどうにかできるのかい?」ヴェラはほとんどすがるようにたずねた。
「信用して」ポレンはほほえんだ。「さあ、お風呂へ行ってきて。わたしは手紙を読んで、決断をくださないと」
ドラスニアの王妃は手紙を読んだあと、執事を呼んで二つの命令を与えた。「トレルハイム伯爵と話がしたいの。いま以上にかれが酔わないうちにね。ジャヴェリンとも話をする必要があるわ、宮殿へきたらただちにここへよこして」
バラクが戸口に現われたのは、それから十分ほどしてからだった。目が少しうるんでおり、もじゃもじゃの赤いあご髭は四方八方に突ったっている。ヤーブレックが一緒だった。
「ジョッキを片付けるのよ、紳士がた」ポレンはきびきびと言った。「やらなければならない仕事があるの。バラク、〈海鳥〉号は出航の準備ができていて?」
「いつでもできてるさ」バラクは傷つけられた口調で言った。
「よかった。それでは船乗りたちを集めてちょうだい。行ってもらいたい場所がたくさんあるのよ。〈アローン会議〉を召集するの。アンヘグ、フルラク、それにリヴァにいるブランドの息子のカイルにこのことを伝えて。アレンディアに寄って、マンドラレンとレルドリンを乗せてきて」ポレンは口もとをひきしめた。「コロダリンは旅のできる体ではないから、ボー・ミンブルは迂回してかまわないわ。なにが進行中か知ったら、死の床からおりてでも出席しようとするでしょうからね。かわりにトル・ホネスへ行き、ヴァラナを連れてくるのよ。チョ・ハグとヘターにはわたしから伝えるわ。ヤーブレック、あなたはヤー・ナドラクへ行って、ドロスタを連れてくること。ヴェラはここにわたしと残るわ」
「だがよ――」
「口答えはしないで、ヤーブレック。わたしの言うとおりになさい」
「たしか〈アローン会議〉の召集だと言ったな。ポレン」バラクが反論した。「なんでアレンド人やトルネドラ人――それにナドラク人まで招待するんだ?」
「緊急事態なのよ。バラク、みんなに関係のあることなの」
ふたりはばかみたいにつったって、ポレンをまじまじと見つめた。
ポレン王妃はパンパンと手を叩いた。「急いで、紳士がた、急いで。無駄にできる時間はないのよ」
クトル・マーゴスのウルギット大王は、ラク・ウルガのドロジム宮殿のけばけばしい王座にすわっていた。お気に入りの紫の上着とズボンをはき、王座のひじ掛けに片脚をむぞうさにのせて、うわの空で右手から左手へと王冠を移動させながら、ラク・ウルガのやせこけた高僧、アガチャクの単調な声に耳を傾けていた。
「待たねばならんだろう、アガチャク」ようやくウルギットは言った。「わたしは来月婚礼の式をあげるのだ」
「これは教会の命令なのですよ、ウルギット」
「すばらしい。教会によろしく伝えてくれ」
アガチャクはいささかびっくりしたようだった。「いまやなにも信じていないというわけですかな、王?」
「あまりな。われわれの生きるこの病いに冒された世界は、もう無神論を受け入れる準備ができているか?」
生まれてはじめてウルギットは高僧の顔に疑惑が浮かぶのを見た。「無神論とはゆがみのない場所のようなものさ、アガチャク」ウルギットは言った。「人間が自分の運命を作る平坦で、灰色の、からっぽの場所なのだ。そこでは神々はくたばるにまかせられている。わたしが神々を作ったわけではないし、神々がわたしを作ったわけでもない。そういうことからは解放されている。もっとも神々に幸あれと願いはするがね」
「あなたらしくもない、ウルギット」
「そんなことはないぞ。わたしはピエロを演じるのにうんざりしているだけだ」ウルギット王は片脚を伸ばして、輪まわしでもするように、王冠を足先にほうり投げ、器用に受け止めて、蹴り返した。「本当はわかっていないのだろう、アガチャク?」宙で王冠をつかむと、ウルギットは言った。
ラク・ウルガの高僧は肩をそびやかした。「これは要請ではありません。ウルギット。お願いしているのです」
「けっこう。わたしが行くつもりがないからだろう」
「行くことを命じます」
「行かないだろうね」
「だれに向かって話しているのかわかっているのですか?」
「完全にな、ご老体。その昔、ラク・ゴスカで、絨緞にかみついたあの男から王座を引き継いで以来、たくさんのもうろくしたグロリムに涙が出るほど退屈させられてきたが、あんたもそういうグロリムと同じだ。注意して聞いてくれ、アガチャク。混乱しないように、短い言葉と簡単な文章を使おう。マロリーへ行くつもりはない。マロリーへ行こうと思ったことは一度もない。マロリーで見たいものはひとつもない。マロリーでしたいことはひとつもない。カル・ザカーズの近辺に身を置くつもりは毛頭ない。ザカーズはマル・ゼスに戻っているのだぞ。それだけではない、マロリーには悪魔たちがいる。悪魔を見たことがあるか、アガチャク?」
「一度か二度は」高僧はむっつりと答えた。
「それでもまだマロリーへ行くつもりか? アガチャク、あんたは生前のタウル・ウルガスにまさるとも劣らぬ狂人だな」
「あなたを全アンガラクの王にしてあげられるのですぞ」
「全アンガラクの王になどなりたくない、クトル・マーゴスの王でさえいたくないのだ。この身にいまにもふりかからんとする恐怖を見つめるために、ひとりにしておいてもらいたい。わたしの望みはそれだけさ」
「結婚のことを言っているのですかな?」アガチャクの顔がずるがしこくなった。「わたしとマロリーへ行けば、結婚を避けられるのですよ」
「少し早くしゃべりすぎたか、アガチャク? 妻は確かによくない。だが、悪魔はそれ以上だ。悪魔がチャバトになにをしたか、だれかあんたに話したか?」
「わたしが守ってあげますよ」
ウルギットはさげすむように笑った。「あんたが、アガチャク? 自分の身を守ることさえおぼつかないよ。ポルガラですらあの化物をやっつけるのに神の援助が必要だったのだぞ。トラクを生き返らせて助けを仰ぐつもりか? あるいはアルダーに訴えたほうがいいかもしれないな。ポルガラを援助したのはアルダーなのだ。もっとも、アルダーはあんたに好意を持ってくれそうもないな。このわたしですらあんたに好意はもっていないのだ、生まれたときからあんたを知っているこのわたしがな」
「口がすぎますぞ、ウルギット」
「いや。すぎるものか、アガチャク。何世紀ものあいだ――無限ともいえるだろうな――あんたたちグロリムはクトル・マーゴスを牛耳ってきた。だがそれはクトゥーチクが生きていたころの話で、クトゥーチクはもう死んでいる。それはわかっているのだろうな、ご老体? クトゥーチクはベルガラスにさからおうとし、ベルガラスにばらばらにされてしまったのだ。ベルガラスに会ってその話を聞き、こうして生きてそのことをしゃべっているマーゴ人はわたしだけかもしれんな。じっさい、われわれはかなり親密な仲なのだよ。ベルガラスに会いたいか? なんなら仲介の労をとってやってもいいぞ」
アガチャクは目に見えて萎縮した。
「そうこなくてはな、アガチャク」ウルギットはよどみなく言った。「現実の状況が把握できたようでよかった。さてと、あんたが片手をあげてわたしに向かって指をうごめかすことができるのはわかってるが、もうそのたぐいのことは承知ずみなのだ。去年の冬、クタカを馬で横断していたときに、ベルガリオンをつぶさに観察したのだ。わたしがほんのちょっとでも手を動かしたなら、あんたの背中のどまんなかに籠一杯分の矢がつきささることになる。射手たちはすでに位置についているし、弓もすでにひきしぼられているのだ。よく考えることだな、アガチャク――出て行くあいだに」
「あなたらしからぬふるまいですな、ウルギット」アガチャクの鼻孔が怒りで白くなった。
「わかっている。喜ばしいではないか? もうさがってよいぞ、アガチャク」
高僧はくるっと向きを変えてドアのほうへ歩きだした。
「そうそう、ところで、ご老体」ウルギットはつけたした。「最近われわれの親愛なる同胞、タールドムのゲセルが死んだという知らせが入った――なにか食べ物のせいだろう。タール人は泳ぐもの、飛ぶもの、這うものならほとんどなんでも食べるし、腐肉にわく虫だって食っちまうくらいだからな。じっさい、残念なことだよ。ゲセルは世界の中でもわたしがいばることのできる数少ない人間のひとりだったんだ。とにかく王座は薄のろの息子ナセルが継いだ。ナセルに会ったよ、精神はミミズだが、正真正銘のアンガラクの王だ。ナセルがあんたと一緒にマロリーへ行きたがっているかどうか、どうして打診してみない? 世界はひらべったいと信じている人間らしいから、マロリーの場所を説明するのにちょっと手間取るだろうが、わたしはあんたに全幅の信頼を置いているよ、アガチャク」ウルギットはカンカンになっている高僧を追い払うようなしぐさをした。「走っていけ。神殿へ戻って、また数人のグロリムのはらわたをかきだすがいい。ひょっとすると、聖所の火をふたたび燃え上がらせることができるかもしれんぞ。他はともかく、そうなればきっとあんたのイライラもおさまるだろう」
アガチャクは力まかせにドアをしめて立ち去った。
ウルギットは王座のひじ掛けをたたいて、げらげら笑いころげた。
「少しやりすぎたとは思わないのですか?」ふたりのやりとりに耳を傾けていたレディ・タマジンが、薄暗い小室からきいた。
「そうかもしれませんね、母上」ウルギットはまだ笑いながら同意した。「しかし、面白かったでしょう?」
レディ・タマジンは足をひきずって光のなかへ出てくると、好もしげに息子にほほえみかけた。「そうね、ウルギット。面白かったわ。でもアガチャクをあまり攻撃するのはおよしなさい。危険な敵になりかねませんよ」
「敵ならいやってほどいますよ、母上」ウルギットは無意識に先の尖った長い鼻をひっぱりながら言った。「世界中の大部分の人間はわたしを憎んでいる。しかし、憎悪と仲良くする術は身についているんです。再選に立候補しなけりゃならないようなことじゃありませんからね」
きびしい顔つきの家令、オスカタットがやはり薄暗い小室から現われて、皮肉っぽく言った。「われわれはこれからあなたとともになにをすることになるのですか、ウルギット? とにかく、ベルガリオンはあなたになにを教えたのです?」
「王であることをだ、オスカタット。あまり長生きはしないかもしれないが、ここにいるかぎり、わたしは王でいるつもりだ。どうせそのうち殺されるだろうから、せいぜいできるあいだに楽しんだほうがいいんだ」
ウルギットの母はためいきをついたあと、どうしようもないといったように両手を持ち上げた。「ウルギットを説きつけようったってだめですよ、オスカタット」
「そのようですね、レディ・タマジン」ごましお頭の男は同意した。
「プララ王女があなたにお話をしたがっていますよ」タマジンは息子に言った。
「ただちに彼女の希望どおりにしますよ」ウルギットは言った。「ただちにのみならず、夫婦間の財産契約の条件をわたしが理解しているとすれば、永久にですが」
「屁理屈はおよしなさい」タマジンは叱った。
「はい、母上」
クタン家のプララ王女がわきのドアからいきおいよく入ってきた。ふくらはぎ丈の黒いスカートに白いサテンのブラウス、磨きこんだブーツ、乗馬服のいでたちだ。ブーツのかかとが小さなハンマーのように大理石の床を踏みつけた。長い黒髪が背中で揺れ、危険な光が目に宿っている。両手には羊皮紙の巻物をつかんでいた。
「手を貸してもらえて、オスカタット卿?」レディ・タマジンは家令のほうへ片手を伸ばした。
「もちろんです、奥さま」オスカタットはやさしい気づかいを示して、ウルギットの母に腕を貸した。ふたりは立ち去った。
「どうしたんだね?」ウルギットは用心深く未来の花嫁にたずねた。
「お邪魔でしたかしら、陛下?」プララはきいた。膝を曲げてお辞儀をするような手間はかけなかった。王女は変わってしまっていた。従順なマーゴの貴婦人のおもかげはきれいさっぱりなくなっている。セ・ネドラ王妃やリセル辺境伯令嬢と過ごした時間が、すっかり彼女を堕落させてしまったのだ、とウルギットは思った。しかも女魔術師ポルガラのよからぬ影響が、ふるまいやしぐさのそこここにうかがえる。だがいまのプララはじつに愛らしい、とウルギットは結論づけた。黒い瞳はきらめき、柔らかな白い肌は彼女の気分を映しているようだ。背中に流れる豊かな黒髪は、まるで生きているように見えた。おどろいたことに、ウルギットはプララをきわめて好ましく思っている自分に気づいた。
「毎度のことだろう、愛する人」プララの問いに答えながら、ウルギットはおおげさに両腕を広げた。
「それはおよしになって」プララはぴしゃりと言った。「まるであなたのお兄さまそっくりですわ」
「一族の癖なんだ」
「これをここにお置きになりました?」彼女は巻物を、棒みたいにウルギットに向かって振り回した。
「なにをどこに置いたって?」
「これですわ」ブララは巻物をほどいて、読んだ。「クタン家のプララ王妃が陛下の最愛なる妻となることを認めるものである」最愛なる妻≠フ言葉はくいしばった歯のあいだから押し出された。
「そのどこが悪いんだ?」ウルギットは娘の剣幕にいささかびっくりしてたずねた。
「他にも妻がいるような表現ですわ」
「それがしきたりなんだ、プララ。わたしがきまりを作ったわけではない」
「あなたは王様です。別のきまりをお作りなさい」
「わたしが?」ウルギットはごくりと唾をのんだ。
「他の妻は不要ですわ、ウルギット――愛妾も」いつもはやさしいプララの声がカリカリしているようだった。「あなたはわたくしのものです。ほかのだれとも共有するつもりはこざいません」
「本気でそんなふうに感じているのか?」ウルギットはちょっとおどろいた。
「ええ、そうですわ」プララはあごをつきだした。
「わたしのことをそんなふうに感じたものはこれまでひとりもいなかったぞ」
「お慣れになることですわ」その声は平板で、危険だった。
「その一節は手直しするとしよう」ウルギットはあわてて同意した。「いずれにしろ、妻はひとりでたくさんだ」
「そのとおりですわ、閣下。きわめて賢明なご決断です」
「当然だ。王の決定はすべて賢明なのだ。歴史の本にもそう書いてある」
プララは微笑をもらすまいと必死に努力したが、とうとうあきらめて笑いながらウルギットの腕に飛び込んだ。「ああ、ウルギット」ウルギットの首に顔を埋めて彼女は言った。「愛してますわ」
「そうか? なんともおどろいたな」ふいにある名案が浮かび、その非のうちどころのなさにウルギットは我を忘れた。「合同結婚式はどうだ?」
プララはかれの首から顔を起こした。「どういうことですの」
「わたしは王だ、そうだな?」
「ベルガリオンにお会いになる前のあなたよりはずっとりっぱな王でいらっしゃいますわ」
ウルギットはそれを聞き流した。「わたしには女の親戚がひとりいる。が、これからは結婚で忙しくなりそうだ」
「とても忙しくなりますわ、愛する人」
ウルギットは神経質に咳ばらいした。「とにかく」と急いで先をつづけ、「今後はこの女の親戚の世話をする時間があまりなくなってしまうわけだ。そうだろう? したがって、彼女をつねに心にかけてきたりっぱな男に嫁がせることができれば、そのほうがよくはないかね?」
「さっぱりわかりませんわ、ウルギット。あなたには女の親戚などおありにならないと思ってました」
「ひとりだけいるのだ、王妃」ウルギットはにやにやした。「ひとりだけ」
プララはまじまじとウルギットを見つめると、「ウルギット!」とあえぐように言った。
かれはネズミ顔をにやっとさせて、鷹揚に言った。「わたしは王だよ。やりたいことはなんでもできる。だいたい母は長くひとりでいすぎた。そうじゃないか? オスカタットは母を少女の頃から愛してきたし、少なくとも母はかれに好意を持っている――それ以上かもしれないがね。わたしがふたりに結婚を命じれば、しないわけにはいくまい、だろう?」
「すばらしい思いつきですわ、ウルギット」プララは感嘆の体《てい》だった。
「わたしのなかのドラスニア人のなせるわざさ」ウルギットは謙虚に認めた。「ケルダーでもこれほど手際のよい計画は思いつけなかっただろうな」
「完璧ですわ」プララは叫ばんばかりだった。「これならわたしがあなたの改造にとりかかっても、お義母さまに干渉されませんもの」
「改造?」
「ほんの二、三のことですわ」プララは愛らしく言った。「あなたにはいくつか悪癖がおありになるし、服の趣味も最低ですわよ。いったいどうして紫色なんかをお召しになるようになったの?」
「ほかには?」
「今度はリストを持って参りますわ」
その時点で、ウルギットは考え直しはじめた。
その日、マロリー帝国のカル・ザカーズ陛下は多忙な朝を過ごしていた。かれはほとんど国務長官のブラドーと、宮殿二階にある青いカーテンの小さな事務所にひきこもりきりだった。
「すっかり鎮静しております、陛下」話題が疫病におよぶと、ブラドーはそう報告した。「先週は新たな患者は出ませんでしたし、おどろくほど多数の者がじっさいに回復に向かっております。都市の各部を塀で仕切って分離させた計画が効を奏したようです」
「ふむ」ザカーズは別の問題に話を転じた。「カランダからなにか目新しい情報は?」
ブラドーは持っている書類をめくった。「メンガはこの数週間姿を現わしておりません、陛下」国務長官は束の間微笑した。「こちらのほうの厄介事も鎮静してきたようです。悪魔たちは去ったようですし、狂信者たちは意気消沈しています」ブラドーは書類のひとつでくちびるをたたいた。「カランダに密偵を放つわけにはいきませんので、これはあくまでも推測ですが、騒ぎは東部海岸へ移行したもようです。メンガが姿を消してからまもなく、カランド人の大混成部隊がウルヴォン率いる神殿の護衛とチャンディムらとともにザマド山脈を越え、ヴォレセボとレンゲルからの連絡はすべて途絶えています」
「ウルヴォンだと?」ザカーズはたずねた。
「そのようです、陛下。おそらくザンドラマスとの最後の対決にそなえているのでしょう。ウルヴォンとザンドラマスには徹底的に戦ってもらったらどうでしょう。ふたりのうちどちらかが死んだとしても、嘆く者はあまりいないと思いますよ」
あるかなきかの冷笑がザカーズの口もとに浮かんだ。「おまえの言うとおりだ、ブラドー。そうあってもらいたいものだ。だが、その種のことを奨励するのはまずいぞ――政策上な。カランダの王国はすべてわが帝国の一部であり、帝国の保護下にある。われわれが手をこまねいて、ウルヴォンとザンドラマスが田園地帯を蹂躙《じゆうりん》するにまかせておけば、よからぬ噂がたたないともかぎらん。だれかがマロリーで軍事力をふるうとしたら、それはわたしなのだ」ザカーズは前のテーブルの上の書類をめくってひとつを手に取り、眉をしかめた。「この件は処理したほうがよかろうな。ヴァスカ男爵はどこにいる?」
「眺めのよい独房にいれてあります」ブラドーは答えた。「首斬り役人の居住区が見えるところです。きわめて教訓的な場所だったはずですよ」
ザカーズはそのときあることを思いだした。「降格しろ」
「処置としてはめずらしい表現ですな」ブラドーはつぶやいた。
「わたしの言わんとしたのはそういうことではない」ザカーズはふたたび冷笑を浮かべた。「ヴァスカが取引連中からせしめた金をどこへ隠したか、口をわらせるのだ。その資金を国庫へ移す」ザカーズは振り向いて、書斎の壁に貼った大きな地図を見た。「南エバルへ飛ばすのがよかろう」
「は?」ブラドーはまごついた顔になった。
「ヴァスカを南エバルの貿易相に任命するのだ」
「南エバルには貿易向けの商品などございませんが、陛下。港ひとつありませんし、テンバ沼で連中が育てているのは蚊だけです」
「ヴァスカは発明の才がある。きっとなにかしらでっちあげるはずだ」
「すると、お望みではないのですな、ヴァスカを――」ブラドーは片手で喉をかききる仕草をした。
「そうだ」ザカーズは答えた。「ベルガリオンの言っていたことを実行してみるつもりなのだ。いつかヴァスカが必要になるときがくるかもしれん。そのときばらばら死体を掘り返すはめになりたくない」皇帝の顔がかすかにゆがんだ。「かれについてなにか知らせはあったか?」
「ヴァスカですか? ただ――」
「そうではない、ベルガリオンだ」
「ベルガリオンの一行はマル・ゼスを発ったあとまもなく目撃されています、陛下。ケルダー王子の相棒であるナドラク人のヤーブレックとともに旅をしていました。そのあとまもなく、ヤーブレックは船でガール・オグ・ナドラクへ向かいました」
「すると、あれはすべて計略だったのか」ザカーズはためいきをついた。「ベルガリオンが望んだのは故国へ引き返すことだけだったのだな。連中のあのとほうもない話はでっちあげだったのだ」ザカーズは疲れたように片手で目の前を払った。「わたしはあの若者が本当に好きだったのだよ、ブラドー」悲しげに言った。「もっと分別を示すべきだった」
「ベルガリオンは西方へ戻ったのではありません、陛下」ブラドーが知らせた。「少なくともヤーブレックに同行してはいませんでした。われわれはかれの船を常に注意深くチェックしております。われわれに判断できるかぎりでは、ベルガリオンはマロリーを出ていません」
ザカーズは本物の微笑を浮かべて、椅子の背にもたれた。「なぜかわからないが、それで少しは気分が晴れた。ベルガリオンに裏切られたと考えると、どういうわけかつらくてたまらなかったのだ。行き先について思いあたることはあるか?」
「カタコールで騒ぎがございました、陛下――アシャバの近くです。ベルガリオンに関係のありそうなことでした――奇怪な光が空に出現したり、爆発が相次いだりしたのです」
ザカーズは声をたててうれしそうに笑った。「いらいらすると、ベルガリオンはいささかこれみよがしなことをするからな、え? あるときなど、ラク・ハッガのわたしの寝室から壁全体を吹き飛ばした」
「ほう?」
「自分の主張の正しさを証明しようとしていたのだ」
ドアにうやうやしいノックがあった。
「入れ」ザカーズは短く答えた。
「アテスカ将軍が到着しました、陛下」戸口を守る赤い軍服の護衛のひとりが報告した。
「よし。通せ」
鼻の折れた将軍がはいってきて、てきぱきと敬礼した。「陛下」赤い軍服に旅の汚れがついていた。
「早かったな、アテスカ」ザカーズは言った。「また会えてなによりだ」
「ありがとうございます、陛下。追風に恵まれたうえに、海も穏やかでした」
「何人の兵を連れてきた?」
「五万ほどです」
「現在われわれにはどのくらいの兵がいる?」ザカーズはブラドーにたずねた。
「百万以上おります、陛下」
「頼もしい人数だ。部隊を集結させ、移動の用意をさせよう」ザカーズは立ち上がって、窓に歩みよった。木の葉が色づきはじめていた。眼下の庭があざやかな赤と黄に埋まっている。「東部沿岸の騒ぎを鎮静させたい」かれは言った。「もう秋だ。天候が悪化しないうちに、部隊を動かしたほうがよかろう。マガ・レンまで南下し、そこから偵察隊を送りだそう。問題のない状況であれば、進軍する。そうでなければ、マガ・レンでクトル・マーゴスからさらに部隊が戻ってくるのを待てばよい」
「ただちに準備にとりかからせてまいります、陛下」ブラドーは一礼して、静かに部屋を出ていった。
「すわれ、アテスカ」皇帝は言った。「クトル・マーゴスではなにが起きている?」
「わが軍は、すでに手中におさめた都市を保持することに務めております、陛下」アテスカは椅子をひきよせながら報告した。「ラク・クタン近くに勢力を結集しました。部隊はそこでふたたびマロリーへ向かうための輸送手段を待っております」
「ウルギットが反撃してくる見込みは?」
「ないと思います、陛下。広々とした平地で戦うような危ない真似をするはずがありません。むろん、マーゴ人はなにをしでかすか見当がつかない人種ではありますが」
「まったくだ」ザカーズは同意した。ウルギットがじつはマーゴ人でない事実を、ザカーズは自分ひとりの胸にしまっていた。かれは椅子の背によりかかった。「一度わたしのためにベルガリオンをつかまえてくれたことがあったな、アテスカ」
「はい、陛下」
「もう一度やってもらわねばならんようだ。ベルガリオンはまんまと逃げだしたのだ。わたしとしたことがうかつだったが、そのときは考え事で頭がいっぱいだったのだ」
「すると、またベルガリオンをつかまえなくてはならないわけですか、陛下?」
その年、ボクトールで〈アローン会議〉が開かれた。いささか異例のことながら、召集をかけたのはポレン王妃だった。ドラスニアの小柄な金髪の王妃はおなじみの喪服姿で、宮殿の赤いカーテンのさがった会議室のテーブルの上座に静かに歩み寄ると、いつもならリヴァの王がすわる椅子に腰かけた。居並ぶ王たちはあっけにとられてポレン王妃を見つめた。
「みなさん」ポレンはきびきびと言った。「これがしきたりに真っ向からさからうふるまいであることはよく承知しています。ですが、わたしたちの時間はかぎられています。みなさんがたにお知らせしたほうがよいと思われるある情報がはいったのです。わたしたちは決断をくださねばならず、そのためにはぐずぐずしてはいられません」
ヴァラナ皇帝がおもしろがっている目つきで、椅子に背をもたせかけた。「アローンの王さまがたが集団脳卒中を起こしているあいだ、こちらは一服するとしますか」
アンヘグ王が頭髪のちぢれた皇帝に渋い顔を向けたあと、笑いだした。「いや、ヴァラナ」アンヘグは皮肉っぽく言った。「ローダーに説得されてセ・ネドラを追いかけてミシュラク・アク・タールへ行ったとき、脳卒中は全員経験ずみだ、いまさらならんよ。これはポレンが召集した会議だ、彼女に取りしきらせよう」
「まあ、ありがとう、アンヘグ」ドラスニアの女王はちょっとおどろいたようだった。彼女はいったん言葉をきって、考えをまとめた。「みなさんお気づきになったはずですが、今年のわたしたちの集まりには、普通なら出席しないはずの王さまがたが含まれています。けれども、わたしたちの前にある問題は、わたしたち全員にかかわりのあるものなのです。最近わたしはベルガラスやベルガリオンたちから手紙を受取りました」
室内に興奮のざわめきが生じた。ポレンは片手をあげた。「かれらはマロリーにおり、ベルガリオンの息子を誘拐した者にあとわずかに迫っています」
「あの若者はときどき風よりも早く動くことができるからな」センダリアのフルラク王が口を開いた。数年のうちにフルラクは肥満への傾向を見せており、褐色の髭にはいまでは白いものが混じっていた。
「どうやってマロリーへたどりついたのだろう?」チョ・ハグ王が持ち前の静かな声でたずねた。
「かれらはカル・ザカーズに捕まっていたらしいのです」ポレンは答えた。「ガリオンとザカーズは友だちになり、ザカーズがマル・ゼスへ戻るときにガリオンたちを同行させたのです」
「ザカーズが友だちをつくっただと?」ガール・オグ・ナドラクのドロスタ王が甲高い声で信じられないように問いつめた。「ありえない!」
「ガリオンにはそういうところがあるんだ」ヘターがつぶやいた。
「でも、その友情も自然に消滅したのかもしれませんわ」ポレンはつづけた。「ある夜おそく、ガリオンとその一行は皇帝に別れも告げず、マル・ゼスをこっそり出たのです」
「帝国の全軍に追跡されて、でしょうな」ヴァラナがつけくわえた。
「いいえ」ポレンは首をふった。「ザカーズは現在もマル・ゼスを出られないのです。わけをみなさんにお話しして、ヤーブレック」
シルクのやせた相棒が立ち上がった。「マル・ゼスには疫病がはびこってるんでさ。ザカーズは都市を封鎖した。だれひとり出入りは許されない」
「はてさて」マンドラレンが言った。「すると、われらが友人たちはいかにして脱出することができたのでありましょうか?」
「おれがドサ回りの道化師を拾ったんだ」ヤーブレックは口をへの字に曲げた。「おれはどうも虫の好かねえ野郎だと思ったんだが、ヴェラがそいつをおもしろがったもんでね。ヴェラはわい談[#「わい談」に傍点]が好きなんだよ」
「気をつけなよ、ヤーブレック」ナドラクの踊り子は警告した。「あんたはいまのとこ五体満足だけど、あたしはそれをどうにでも変えられるんだからね」ヴェラは思わせぶりに短剣の柄《つか》に片手をのせた。彼女は目のさめるようなラヴェンダー色のドレスを着ていたが、いくつかナドラクの習慣に譲歩した点が見受けられた。足にはいているのは、あいかわらず磨きこんだ革のブーツ――数本の短剣をつっこんだ――だったし、ウェストの太い革のベルトには、いまだに同様のナイフが飾りのようにさしこまれていた。しかし、室内にいる男たちは全員、ヴェラがはいってきたときから彼女をこっそり盗み見ていた。どんな格好をしていようと、すべての目をひきつけるヴェラの力はまだ健在だった。
「とにかくよ」ヤーブレックがいそいで先をつづけた。「その道化師の野郎が宮殿から都市の外の見捨てられた桟橋まで達するトンネルを知ってたんだ。おかげでおれたちは見つからずにマル・ゼスを出ることができた」
「ザカーズはカンカンだろう」ドロスタが言った。「いったんつかまえた相手に逃げられるのは、ザカーズのもっともきらうところだからな」
「マロリー北部にあるカランダの七つの王国では、ある種の争乱がありました」ポレンはつづけた。「悪魔たちがかかわっていたようですわ」
「悪魔たち?」ヴァラナは懐疑的だった。「おいおい、ポレン」
「それがベルガラスの報告していることなんです」
「ベルガラスはときにひねくれたユーモアのセンスを発揮するからな」ヴァラナは茶化した。「おそらくふざけていただけだろう。悪魔などというものは存在しない」
「それはまちがいだぞ、ヴァラナ」ドロスタ王がいつにない真顔で言った。「わたしは一度悪魔を見たことがある――子供のころ、モリンド国で」
「どんなようすをしていたかね?」ヴァラナはまだ納得しないようだった。
ドロスタはぶるっと体をふるわせた。「知らないほうが身のためだ」
「とにかく」ポレンは言った。「ザカーズはその騒ぎを鎮めるために、クトル・マーゴスから大部隊の帰還を命じたのです。カランダ全域はまもなくザカーズの部隊で埋まるでしょう。そして、わたしたちの友人たちがいるのもそこなのです。だからこの会議を召集したのですわ。どうしたらよいでしょう?」
ワイルダンターのレルドリンがすっくと立ち上がった。「速い馬が必要だよ」かれはヘターに言った。
「どうしてだ?」ヘターはたずねた。
「ガリオンたちの加勢に駆けつけるためさ、もちろん」若いアストゥリア人は興奮に目を輝かせた。
「あのな――レルドリン」バラクがやんわりと言った。「こことマロリーのあいだには〈東の海〉があるんだぜ」
「そうか」レルドリンはちょっときまり悪げな顔をした。「それは知らなかった。ボートも必要だな、ねえ?」
バラクとヘターは長々と目を見交した。「船だろ」バラクはうわの空で訂正した。
「え?」
「なんでもないさ、レルドリン」バラクはためいきをついた。
「だめだ」アンヘグ王がそっけなく言った。「われわれがうまくそっちへたどりつけたとしても、〈闇の子〉との戦いに勝つガリオンのチャンスをだいなしにすることになる。あの女予言者がレオンでわれわれにそう言ったではないか」
「しかし、これは事情がちがいますよ」レルドリンが目に涙を浮かべて反論した。
「いや、ちがわん」アンヘグは言った。「まさしくこれこそ、われわれがしてはならぬと警告されたことなんだ。これが終わるまで、われわれはかれらのそばへ行ってはならない」
「しかし――」
「レルドリン」アンヘグは言った。「わしだっておまえさんに負けないぐらい行きたいのだ。しかし行ってはならんのだよ。われわれのせいでガリオンの息子が帰らぬようなことになれば、ガリオンが感謝すると思うか?」
マンドラレンが立ち上がって、鎧を鳴らしながら行ったりきたりしはじめた。「もっともしごくなお考えだと思います、陛下」と、アンヘグに言った。「われわれの存在がかれらの探索をあやうくしないためにも、われらが友人たちには合流しないほうがよいでしょう。ガリオンの迷惑にならぬためなら、命を断念もいたしましょうぞ。しかしながら、まっすぐマロリーへ向かい、かれらには近寄らずに、カル・ザカーズの軍団とかれらのあいだにたちはだかるなら、問題はないかもしれません。そうすれば、マロリー軍の非友好的前進をせきとめ、よってガリオンの脱出をはかる助けとなることができます」
バラクは考えに熱中して顔を輝かせている騎士をじっと見つめた。ややあって、バラクはうめき声をあげて、両手に顔を埋めた。
「さあさあ」ヘターがつぶやいて、大男の肩を慰めるように叩いた。
フルラク王はあご髭をさすった。「以前にもこういうことをしたように思えるのはどうしてだろう? この前のときとまったく同じだぞ。われわれの友人たちが無事きりぬけられるよう、マロリー軍の注意をそらす騒ぎを起こさねばならんな。なにか名案はないか?」
「マロリーに侵攻するのだ」ドロスタが熱っぽく言った。
「ザカーズの支配する沿岸地域を略奪すればいい」アンヘグが同じく熱をこめて言った。
ポレンはためいきをついた。
「クトル・マーゴスに侵攻できないこともない」チョ・ハグが考え深げに提案した。
「そうだ!」ヘターがいきおいよく同意した。
チョ・ハグは片手をあげた。「策略としてだぞ、息子よ」かれは言った。「ザカーズはクトル・マーゴスの征服に兵力を投入している。西方の軍隊があの地域へ進軍すれば、ザカーズはわれわれに反撃せざるをえなくなるだろう、ちがうかね?」
ヴァラナが椅子の中で体をずらした。「可能性はある。しかし、もう秋だ、クトル・マーゴスの山脈は冬になると手がつけられない。部隊を派遣するには時期が悪い。足が凍えてはそう速くは進めない。外交的手段でも、同じことを達成できると思う――爪先のひとつも凍傷の危険にさらすことなくだ」
「トルネドラ人はまわりくどいので有名なんだ」アンヘグがしかめっつらをした。
「凍えたいのかね、アンヘグ?」ヴァラナはたずねた。
アンヘグは肩をすくめた。「冬ならしかたがなかろう」
ヴァラナは天井を仰いだ。「アローン人はこれだ」
「わかったよ」アンヘグが謝罪口調で言った。「ふざけてみただけだ。あんたの言うそのすばらしくまわりくどい計画とは、どんなものだ?」
ヴァラナは部屋の反対側にいるジャヴェリンに目を向けた。「マロリーの諜報部はどの程度優秀なんだね、ケンドン辺境伯?」と、ぶっきらぼうにたずねた。
ジャヴェリンは立ち上がると、バール・グレイの上着のしわを伸ばした。「ブラドー自身は、きわめて優秀です、陛下」ジャヴェリンは答えた。「部下は手際が悪くて、へまをしでかすこともありますが、ブラドーは多数の部下をかかえています。資金も際限なくあります」ジャヴェリンはポレン王妃をややうらめしげに一瞥した。
「やつあたりはなしよ、ケンドン」ポレンは小声で言った。「ぎりぎりの予算でやっているんですからね」
「はい、女王陛下」ジャヴェリンはかすかな笑みを浮かべて頭をさげたあと、ふたたび背筋を伸ばしててきぱきと事務的な態度で話した。「マロリーの諜報部はこちらの基準で言うとまだまだですが、ブラドーは資金をいかして必要な分野に大勢の密偵を放っています。ドラスニア諜報部も、トルネドラ諜報部も、あれだけの贅沢はできません。その過程で多数の部下を失うこともありますが、ブラドーはたいてい狙った情報は入手しています」ジャヴェリンはフンと鼻を鳴らした。「わたし個人としては、もっと無駄のない情報活動が好みですが」
「すると、そのブラドーはラク・ウルガに密偵を持っているのだな?」ヴァラナが念を押した。
「ほぼ確実です」ジャヴェリンは答えた。「わたし自身、現在ドロジム宮殿に四人の密偵を潜入させています――陛下の諜報部からは、わたしの知るかぎり二名が潜入していますよ」
「知らなかった」ヴァラナはとぼけた。
「本当ですか?」
ヴァラナは笑って、先をつづけた。「まあ、いいじゃないか。西方の諸王国がマーゴ圏の王と軍事同盟を締結しようとしているという知らせがマル・ゼスに届いたら、ザカーズはどうするだろう?」
ジャヴェリンは行ったりきたりしはじめた。「一定の状況のもとで、ザカーズがなにをするかを正確に知るのは非常に困難です。ザカーズのかかえる外交問題がどれだけ深刻かによるでしょう。しかし、マーゴスと西方のあいだの同盟は、マロリーにとっておおいなる脅威となるでしょうな。ザカーズはただちに引き返して、われわれの部隊がマーゴ軍に合流しないうちに、全力をあげてマーゴ軍をせん滅しようとするでしょう」
「マーゴ人たちと同盟を結ぶだって?」ヘターが叫んだ。「じょうだんじゃない!」
「だれも本当に同盟関係を結ぼうとは言っていませんよ、ヘター卿」リヴァの番人の息子のカイルが言った。「ザカーズの気をそらして、ベルガリオンにザカーズをやりすごすだけの時間を与えたいだけです。だらだらと交渉をつづけて、あとになって自然解消させればいいんです」
「そうか」ヘターはちょっときまりが悪そうだった。「それなら話は別だ」
「よし」ヴァラナがいせいよく先をつづけた。「ことによるとわれわれがウルギットと同盟を締結しようとしているとザカーズに思わせることができるかもしれんぞ――うまくやればな。ジャヴェリン、ドロジム宮殿にいるマロリーの密偵を二、三人部下に殺させるんだ――全員ではないぞ、いいか――マル・ゼスにこれはゆゆしい外交の成果だと納得させるぐらいの人数でいい」
「よくわかりますよ、陛下」ジャヴェリンはうっすらと笑った。「うってつけの男がいます――最近入ったイサスというニーサ人の暗殺者です」
「よし。結んでもおかしくない同盟なら、実際の同盟と変わらぬ目的を果たしてくれるだろう。われわれは一人の兵も失うことなく、ザカーズの注意をそらすことができるわけだ――そのイサスとやらが見込みちがいでなければ」
「イサスのことなら心配ご無用です、陛下」ジャヴェリンが請け合った。「たいしたやつですよ」
「なにかを見落としているような気がする」アンヘグがぶつぶつ言った。「ローダーがここにいてくれたらな」
「そうですわね」ポレンが泣きだしそうな声で同意した。
「すまなかった、ポレン」アンヘグは大きな手にポレン王妃の小さな手を包み込んで言った。「だが、わしの言わんとすることはわかってくれるな」
「ラク・ウルガにひとり外交手腕にたけた男がいる」ヴァラナがつづけた。「かれならウルギット王に同盟を提案できる。マーゴスの王についてなにか役立つ情報は?」
「あるわ」ポレンがきっぱり言った。「ウルギットはその提案を快く受け入れるでしょう」
「どうしてわかるんです、女王陛下?」
ポレンはためらった。「言わないことにしますわ」彼女はジャヴェリンをすばやく一瞥した。「わたしの言葉を信用してくださいな」
「もちろんです」ヴァラナはうなずいた。
ヴェラが立ち上がって、窓に近づいた。サテンのドレスのサラサラというきぬずれの音が室内を満たした。「あんたがた西方の人たちはいつも事態をややこしくしたがるんだね」ちくりと言った。「問題はザカーズなんだろ。切れ味のいいナイフと一緒にだれかをマル・ゼスへ送りこめばいいじゃないのさ」
「男に生まれるべきだったな、ヴェラ」アンヘグが笑った。
ヴェラはふりかえって、けぶるような目でアンヘグを見た。「ほんとにそう思うかい?」
「いやその、そうでもないが」
ヴェラはつまらなそうに窓枠にもたれた。「あたしの道化師がここにいて、楽しませてくれたらいいのに。政治の話を聞いてると、きまって頭痛がしてくるんだよ」ためいきをついた。「あいつはいったいどうしちまったんだろう」
微笑を浮かべてヴェラを見ていたポレンは、そのナドラクの娘が最初にボクトールに到着したときにふと感じた直感のようなものを思いだした。「その道化師がじつはまるで見かけとはちがう人間だということがわかったら、がっかりして?」ポレンはたずねた。「ベルガラスが手紙の中で道化師のことにふれているのよ」
ヴェラはするどくポレンを見た。
「ベルガラスはもちろんかれのことを知っていたんでしょうね。ベルディンだったのよ」
ヴェラの目がまんまるになった。「あのこぎたない魔術師?」彼女は叫んだ。「空を飛べる、あの?」
ポレンはうなずいた。
ヴェラは上品なレディなら絶対に口にしないような言葉をたてつづけに放った。アンヘグ王でさえ、彼女の言葉の選択にはかすかに青くなった。悪態をつきおわると、ヴェラは短剣を抜いて、歯のあいだから息を吐き出しながら、ヤーブレックにつめよった。鎧に全身をかためたマンドラレンがヴェラの前にたちはだかり、ヘターとバラクが背後からヴェラをつかんで短剣をもぎとった。
「このうすのろまぬけ!」ヴェラはちぢみあがったヤーブレックに金切り声をあげた。「まぬけのこんこんちき! だったら、あたしをかれに売ってくれりゃよかったじゃないのさ!」それだけ言うと、ヴェラは毛皮を着たバラクの胸にすがって泣きくずれ、ヘターがそのすきに抜け目なく残る三本の短剣を抜き取った。
〈闇の子〉、ザンドラマスは荒涼たる谷に立ち、鉛色の空の下でくすぶっている村落の残骸をじっと眺めていた。〈闇の子〉の目は深くかぶった頭巾で隠され、目の前に広がる惨状を見ていないようだった。背後からひもじそうな泣き声が聞こえ、ザンドラマスはいらいらと歯をくいしばった。「食べ物をおやり」短く言った。
「おおせのとおりに、ご主人さま」白目の男がへつらうような口調ですばやく言った。
「恩きせがましい態度はおよし、ナラダス」ザンドラマスはぴしゃりと言った。「ただそのガキをだまらせりゃいい。わたしは考えごとをしているんだよ」
長い道のりだった。ザンドラマスはきわめて注意深くすべてを達成してきた。これでもう世界を半周してきたことになる。そして彼女の最善の努力にもかかわらず、〈神をほふる者〉があのおそるべき剣を持って、わずか数日遅れで彼女に迫っているのだ。
あの剣。燃える剣。それがザンドラマスの眠りを悪夢で満たした――そして〈光の子〉の憤怒に燃える顔はそれにもましてザンドラマスをおびえさせた。「どうしてあやつはここまで追いつくことができたのだ?」ザンドラマスはわめいた。「あやつを遅らせるものはひとつもないのか?」
ザンドラマスは両手をつきだして、てのひらを上に向けた。皮膚の下で無数の光の点がぐるぐる回っているようだった――小さな星座のように、彼女の体のなかで輝きながら回転した。それらの星座が全身に侵入し、彼女が人間であることをやめるまで、あとどのくらいなのだろう? 〈闇の子〉のおそるべき魂が彼女をすっかりわがものとするまで、あとどのくらいかかるのか? 子供がふたたび泣き声をあげた。
「だまらせろと言っただろう!」ザンドラマスはなかば叫ぶように言った。
「ただいま、ご主人さま」ナラダスが言った。
〈闇の子〉は体に閉じ込められた星の宇宙にふたたび注意を向けた。
エリオンドと馬は他のみんながまだ眠っている夜明け前に起き出して、銀色の曙光をあびながら山の草原をゆるい駆け足で横切った。ひとりで馬にまたがり、馬の筋肉のうねりと流れを体の下に感じながら、しゃべるという余計な行為ぬきで風を顔にうけているのはえもいわれぬ快感だった。
エリオンドは小山の頂上で手綱を引き、朝日がのぼるのを見守った。それもまた快感だった。朝日をあびたザマド山脈を見渡しながら、エリオンドは美と孤独を満喫し、次にあざやかな緑色の平原と森林の美しい眺めに目をこらした。ここでは生命が息づいている。世界は美とかれの愛する人々にあふれていた。
どうしてアルダーはこのすべてを置いていくことができたのだろう? 弟子をとり、自分を崇拝させることを拒否したアルダーのことだ、かれはこの世界を他のなににもまして愛した神だったにちがいない。だが、かれは弟子をとらずに、ひとりで時を過ごし、この美しい世界を見つめるほうを選んだのだ。そしていまは、精霊の姿でときおりこの世界を訪れることしかできない。
しかしアルダーはその犠牲を受け入れている。エリオンドはためいきをつき、それが愛のなせるわざなら、本当に耐えられない犠牲などないのかもしれないと思った。そう考えると、心が慰められた。
やがてエリオンドはふたたびためいきをつき、馬首をめぐらして小さな湖と他のみんなが眠っているテントのほうへゆっくりと戻っていった。
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その朝、かれらは遅く目覚めた。ガリオンはこの数週間の混乱を、ようやく消化しきれたような気がした。テントの前部から差し込む光から判断して、太陽がすでに高くのぼっているのはあきらかだったが、動くのがおっくうだった。ポルガラの料理道具がぶつかりあう音や、低い人声が耳にはいってきた。いずれ起きなくてはならない。ぎりぎりまでうとうとしていようかと思ったが、いさぎよく起きることにして、セ・ネドラを起こさないようにそっと毛布の下からすべりでた。身をかがめて彼女の髪にやさしくキスしてから、錆色のチュニックを着て、ブーツをはき、剣をつかんで、テントから首をつきだした。
グレイの旅着姿のポルガラが料理用におこした火のわきにいた。例によって、手を動かしながら低い声でハミングしている。シルクとベルガラスはその近くで静かに話しあっていた。シルクはなぜか服を着替えて、いまはやわらかなパール・グレイの上着を着ており、裕福な商人といった感じだ。ベルガラスはいうまでもなく、あいかわらず錆色のチュニックにつぎのあたったズボン、そして左右ちぐはぐのブーツといういでたちだった。ダーニクとトスは小さな山の湖の青い湖面に釣り糸をたれており、エリオンドはかれのつややかな栗毛の種馬にブラシをかけていた。あとの連中はまだ起きていないらしい。
「一日中眠っているんじゃないかと思ったぞ」ガリオンが丸太に腰かけてブーツをひっぱりあげたとき、ベルガラスが声をかけた。
「そうしようかと思ったんだ」ガリオンは素直に言ったあと、立ち上がってきらめく湖を見渡した。向こう岸にポプラの木立があった。幹が新雪の色をしている。すでに色づきはじめた葉が金箔のように朝日にちかちかと輝いている。空気はひんやりとして、かすかに湿っていた。ふいにガリオンは何日かここにいられたらと思った。かれはためいきをつくと、火のそばにいる祖父とシルクのところへ歩いていった。「なんで身ぎれいな格好をしてるんだ?」と、ネズミ顔のチビのドラスニア人にたずねた。
シルクは肩をすくめて、答えた。「これから行く地域じゃ、おれはよく知られてるんだ。それを利用しない手はない――向こうがおれを見てわかるかぎりはな。足跡が南東へ向かってるのは絶対確かなのか?」
ガリオンはうなずいた。「はじめはちょっとつまずいたが、まちがいない」
「つまずいた?」ベルガラスがたずねた。
「サルディオンもここにあったんだ――だいぶ前にね。〈珠〉は一瞬両方の足跡を同時に追跡しようとしたらしい。そのことで〈珠〉ときっちり話をつけなけりゃならなかった」ガリオンは剣帯を背中に回し、留め金をかけた。それから鞘を少し動かして、もっと具合いのいい位置に落ち着くようにした。剣の束頭に載っている〈珠〉はくすんだ赤に輝いていた。
「なんで赤く光ってるんだ?」シルクが興味ありげにきいた。
「サルディオンのせいさ」ガリオンは肩ごしに輝いている石を見て言った。「やめろ」
「気を悪くしちまうぜ」シルクがたしなめた。「〈珠〉がむくれてみろよ、さんざんな目にあうのはおれたちだ」
「南東にはなにがある?」ベルガラスが小男にたずねた。
「ヴォレセボですよ」シルクは答えた。「隊商の通り道と、山中の二、三の鉱山以外はなにもないところです。パノーには港があります。おれはメルセネから帰るときは、ときどきパノーに上陸するんですよ」
「パノーの住民はメルセネ人なのか?」
シルクはうなずいた。「だが、中央の諸王国にいるメルセネ人よりはずっと粗野なやつらです――そんなことが可能ならばですがね」
青い縞もようの鷹があかるい朝の空から舞い降りてきて、爪が地面にふれるかふれないかのうちに、微光を放ってベルディンの姿になった。背にこぶのある魔術師は、おなじみのぼろをひもで体にくくりつけていた。髪と髭には小枝と藁がくっついている。ベルディンはブルッと身をふるわせて、ぶつぶつこぼした。「寒いときに飛ぶのはだいきらいなんだ。翼が痛くなる」
「そんなに寒くないでしょう」シルクが言った。
「二千フィート上まで行ってみろってんだ」ベルディンは空を指さしてから、向きなおって二本のぬれた灰色の羽根をペッと吐き出した。
「またむしゃむしゃやってるの、おじさん?」ポルガラが煮炊きをしながらたずねた。
「ほんの朝めしがわりだよ、ポル」ベルディンは答えた。「今朝は早起きしすぎたハトが一羽いたのさ」
「そんなことしなくたってよかったのに」ポルガラは意味ありげにぐつぐつ煮えているなべの胴を柄の長いスプーンでたたいた。
ベルディンは肩をすくめた。「ハトが一羽減ったところで、どうってことはない」
ガリオンはみぶるいした。「よくも生のまま食べられるな」
「慣れさ。おれの爪で料理用の火を起こすような悠長なことはしてられん」ベルディンはベルガラスを見た。「前方でなにやら厄介事が待ち受けてるぞ。煙がもくもくたちのぼってるし、武装したやつらが集団でうろついてる」
「何者かわかったのか?」
「そこまでは近寄れなかった。ああいう集団のなかにはたいがい退屈している射手がひとりふたりいるからな、どっかのばかがてめえの腕を見せつけようなんて気を起こしてみろ、尻尾の羽根を矢で二股にされるなんてまっぴらだ」
「そういうことがあったんですか?」シルクがおもしろそうにたずねた。
「一度だけな――昔の話だ。寒い日には、いまだにケツがずきずきする」
「仕返しはしたんですかい?」
「その射手とちょっとしゃべったんだ。ああいうことはもうしないでくれとな。おれが立ち去るとき、そいつは弓を膝でへし折っていたよ」ベルディンはベルガラスに向きなおった。「例の足跡があの平原を進みつづけているのはたしかなのか?」
「〈珠〉がそう確信しとる」
「てことは、それに賭けるしかないわけだ」チビの魔術師はあたりをきょろきょろ見まわした。「テントはとっくにたたんだのかと思った」
「みんなを眠らせておいたところで害はあるまいと判断したのだ。ここまでも苦しい旅だったし、これからさきもしばらくはそれがつづきそうだからな」
「おまえはいつも休息所にこういうのどかな場所を選びたがるんだな」ベルディンは言った。「本当は軟弱者なんじゃないのか」
ベルガラスは肩をすくめた。「完璧な者などおらんさ」
「ガリオン」ポルガラが呼んだ。
「なに、ポルおばさん?」
「みんなを起こしてくれない? 朝食がもうできあがるのよ」
「すぐに起こすよ、ポルおばさん」
朝食がすんで九時ごろになると、かれらはテントをたたみ、万が一のためにベルディンに前方を飛んでもらって出発した。ぽかぽかと暖かく、常緑樹のツンとするにおいが空中に漂っていた。セ・ネドラはガリオンとくつわを並べ、妙におしだまったまま灰色のマントをしっかり体にまきつけていた。
「どうかしたのか、ディア?」ガリオンはたずねた。
「彼女はゲランと一緒じゃなかったのね」小柄な女王は悲しそうにつぶやいた。
「ザンドラマスのことか? ああ、一緒じゃなかった」
「ザンドラマスは本当にあそこにいたの、ガリオン?」
「ある意味ではね、だがある意味ではいなかった。シラディスがここにいながらいないのと同じようなものさ」
「わからないわ」
「単なる投影以上のものだが、じっさいに存在しているわけでもないんだ。そのことについて夕べ話し合ったんだよ。ベルディンが説明してくれたが、ぼくもあまりよく理解できなかった。ベルディンの説明はちょっとあいまいなところがあるからね」
「ベルディンはとても頭がいいんでしょう?」
ガリオンはうなずいた。「だが、すぐれた教師というわけじゃない。聞いている側が話の内容についていけないと、すぐいらいらするんだ。とにかく、投影と実在のあいだで存在するってことはきわめて危険なんだ。ぼくたちがザンドラマスに危害を与えることはできなくても、その逆は可能だからだ。きのう、ザンドラマスはもうちょっとできみを殺すところだった――ポレドラがくいとめてくれたがね。ザンドラマスはポレドラをすごく恐れている」
「あなたのおばあさまを見たのはあれがはじめてよ」
「いや、そうじゃないさ。ポレドラはポルおばさんの結婚式にいたんだ、忘れたのかい? それにぼくたちがエルドラクと戦わなくてはならなかったとき、ウルゴランドでぼくたちを助けてくれた」
「でも、あるときは梟だったし、別のときは狼だったわ」
「ポレドラの場合、姿形はたいして問題じゃないらしいな」
セ・ネドラはいきなり笑いだした。
「なにがそんなにおかしいんだ?」
「これにけりがついて、わたしたちが赤ちゃんを連れて家に帰ったら、しばらく狼に変身したらどう?」
「どうして?」
「大きな灰色の狼を暖炉の前に寝そべらせておくのは捨てたもんじゃないわ。それに寒い夜は、あなたの毛皮に足をつっこんで温めることができるでしょう」
ガリオンは長々とセ・ネドラを見つめた。
「耳をかいてあげるわよ、ガリオン」誘うようにセ・ネドラは言った。「厨房からすてきな骨も取ってきてあげるしね」
「余計なお世話だ」ガリオンはむっつりと言った。
「だって、足が冷えるのよ」
「わかってる」
薄暗い山道を進んでいくと、前方でシルクとサディが口角泡をとばしてやりあっていた。「ぜったいにだめだね」シルクが激しい口調で言った。
「じつに聞き分けのないことをおっしゃいますね、ケルダー」サディが言い返した。宦官は虹色の絹の長衣を脱いで、洋風のチュニックとズボン、頑丈なブーツという格好をしていた。「あなたは願ってもない配給システムをすでに持っているんだし、わたしは無限の物資を入手できるんですよ。ふたりで何百万と稼げるじゃありませんか」
「忘れろよ、サディ。おれは薬の取引はやらないんだ」
「他のものならなんでも扱うでしょう、ケルダー。すぐ向こうに開発されるのを待っている市場があるんですよ。どうしてみすみす損をするような真似をするんです?」
「あんたはニーサ人だ、サディ。薬が文化の一部になりきってるから、わからないのさ」
「レディ・ポルガラだって、病人を扱うときは薬を使いますよ」サディは弁解ぎみに指摘した。
「それとこれとはちがうさ」
「わかりませんね」
「あんたに説明するのはむりなんだよ」
サディはためいきをついた。「あなたにはひどく失望しましたよ、ケルダー。あなたは密偵で、暗殺者で、泥棒でいらっしゃる。サイコロで相手をだまし、金を偽造し、亭主持ちの女たちと不節操なことをしている。客をだまし、海綿みたいにエールを吸い上げる。あなたはわたしが知った最高に堕落したお人だ。そのあなたが客を大喜びさせるはずの罪のないささやかな調合物を運ぶのを拒否なさるとは」
「人間はどこかでけじめをつけなきゃならないもんなんだ」シルクはいばって答えた。
ヴェルヴェットが鞍の上で体をひねってふたりを振り返った。「いまのやりとりほどおもしろいお話を聞いたのは、ほんとにひさしぶりでしたわ」彼女はお世辞を言った。「比較道徳の分野における含みのある言葉にはあいた口がふさがりませんわ」ヴェルヴェットはえくぼを見せてにっこりほほえんだ。
「その――リセル辺境伯令嬢」サディが言った。「またジスをお持ちですかな?」
「ええ、サディ、じつのところ」蜂蜜色の髪の娘は片手をあげて、宦官の抗議を制した。「でも、今度はわたしが盗んだのではないわよ。ジスのほうが真夜中にわたしのテントに入ってきて、彼女の意志でお気に入りの場所に入り込んだんですからね。かわいそうにふるえていたわ」
シルクの顔がかすかに青ざめた。
「お返ししましょうか?」ヴェルヴェットはつるつる頭の宦官にたずねた。
「いや」サディはためいきをついて、頭をなでた。「よしておきましょう。ジスがそこにいて幸せなら、そっとしておいてやったほうがいいでしょうから」
「ジスはとても満足してるわ。じっさい、ゴロゴロ喉を鳴らしているもの」ヴェルヴェットはちょっと眉をひそめた。「彼女の食事に少し気をつけたほうがいいと思うわよ、サディ」とがめるように言った。「小さなおなかがふくれてきたようなの」ヴェルヴェットはまたにっこりした。「太った蛇の飼い主にはなりたくないもの、そうでしょう?」
「それは悪かったですな!」サディはぷりぷりしながら言った。
大きな折れ枝が道に垂れていて、枯れた小枝に青い縞もようの鷹が止まって、カーブしたくちばしで忙しく羽根をつくろっていた。一行が近づくと、鷹は舞い降りて、かれらの前で悪態をついているベルディンになった。
「どうしたの、おじさん?」ポルガラがきいた。
「横風に巻き込まれたんだ」ベルディンはうなった。「羽根がおかげでくしゃくしゃだ。どうなっちまうか知ってるだろう」
「まあ、ええ。わたしなんかしょっちゅうよ。夜風は予測がつかないから」
「おまえの羽根はやわらかすぎるんだ」
「わたしが梟をデザインしたわけじゃないわ、おじさん、だから羽根のことでわたしを責めるのはおかどちがいというものよ」
「すぐ前方に四つ辻があって、そこに居酒屋がある」ベルディンはベルガラスに言った。「立ち寄って、平原のようすを聞き出したらどうだ?」
「悪くない考えだ」ベルガラスは同意した。「必要がないなら、厄介事は避けるほうが無難だからな」
「じゃ、おれはなかで待ってる」ベルディンはふたたび空へ舞い上がった。
ポルガラがためいきをついた。「どうしていつも居酒屋でなけりゃならないの?」
「酒を飲んでいる人間は口が軽くなるからさ、ポル」ベルガラスがさも分別くさく説明した。「茶店での一時間より、居酒屋の五分のほうが情報が集まるんだ」
「ちゃんと理由をひねりだしてくるのはわかってたわ」
「あたりまえさ」
一行は木の多い道をのぼりきって、ところどころが陰になった道を居酒屋までおりていった。居酒屋は丸太を組み合わせ、泥ですきまを埋めた低い建物だった。屋根が低く、屋根板は風雨と歳月にさらされてそりかえっている。黄土色のニワトリたちが前庭で泥をひっかき、ぬかるみには大きなまだらの雌豚が寝ころんで、うれしそうにブウブウ鳴いている小豚たちに乳をやっていた。居酒屋の正面の手すりに足の悪い小馬が数頭つながれており、蛾に食われて穴のあいた毛皮をきたカランド人が正面階段の上でいびきをかいていた。
ポルガラは居酒屋に近づいて、内部の悪臭が鼻孔に達するが早いか、馬の手綱をひいた。「わたしたちレディはあそこの木陰で待つほうがいいと思うわ」
「あのドアからあるにおいが漂ってきますものね」ヴェルヴェットは賛成した。
「あなたもよ、エリオンド」ポルガラは断固として言った。「若いうちから悪習に染まる必要はないわ」ポルガラは居酒屋から少し離れた高い樅の木立へ馬を進め、木陰で鞍からおりた。ダーニクとトスはすばやく目くばせして、ヴェルヴェットやセ・ネドラやエリオンドと一緒にポルガラのところへ行った。
サディは居酒屋の前で馬をおりかけたが、一度鼻をクンクンいわせて、小さくゲェッと言った。「ここはわたしには向きませんな。わたしも外で待つことにします。それにジスの食事の時間ですしね」
「好きにするさ」ベルガラスは肩をすくめると馬をおりて、居酒屋のほうへ先にたって歩きだした。階段の上でいびきをかいているカランド人をまたいで、かれらはなかにはいった。「ふた手にわかれてちらばれ」老人はつぶやいた。「店内を回ってなるべく大勢の人間に話しかけるんだ」ベルガラスはシルクを見て、警告した。「わしらがここにいるのは情報を仕入れて出世するためじゃないぞ」
「信用してくださいよ」シルクは離れていった。
ガリオンはドアを背に立って、目をぱちぱちさせ内部のくらがりに目をならそうとした。居酒屋はこれまで一度も掃除されたことがないように見えた。床をおおうカビた藁にはこぼれたビールのにおいがしみつき、腐った食べ物の切れ端が四隅に山を作っていた。向こう端にぞんざいな作りの暖炉があり、たちのぼる煙がただでさえ不快なにおいを強めている。テーブルは格子の上にぶったぎった板をのせただけの物で、ベンチは丸太を半分に切って、下側に脚代わりの棒をつっこんだしろものだった。隅のほうでベルディンが数人のカランド人としゃべっているのを見て、ガリオンはそちらへ歩きだした。
テーブルのひとつを通過したとき、足がなにかやわらかいものを踏みつけた。文句を言うようなキイキイ声がして、ふいにひづめのある足が動く音が聞こえた。
「おれの豚をふんづけるんじゃない」テーブルにすわっていたかすみ目の年老いたカランド人がつっかかるように言った。「おれはおめえの豚を踏んじゃいないぜ、だろうが?」男が豚をビタ≠ニ発音したので、ガリオンはそのなまりを理解するのに苦労した。
「おめえのあす[#「あす」に傍点]に気をつけな」カランド人は不吉に言った。
「明日?」ガリオンはその言葉にちょっとたじろいだ。
「あす[#「あす」に傍点]だ。脚の先っちょについてるやつだ」
「ああ、足ね」
「だからそう言ったじゃねえか――あす[#「あす」に傍点]だ」
「悪かった」ガリオンはあやまった。「ぜんぜんわからなかったんだよ」
「それがおめえらよそ者の困ったところよ。そんなこっちゃ彼女が星みてえにはっきりしゃべったって、わからねえぞ」
「エールを一杯どうだい?」ガリオンは言ってみた。「あんたの豚がもどってきたら、すぐにあやまるからさ」
カランド人は疑わしげに目をすがめてガリオンを見た。老人はあご髭をたらし、へたくそになめした毛皮の服を着ていた。穴熊の皮をまるごと使った帽子をかぶっている――脚も尻尾もまだくっついたままだ。おそろしく薄汚い老人で、あご髭からノミがのぞいているのがはっきり見えた。
「おごりだよ」豚の所有者とテーブルをはさんですわりながら、ガリオンは言った。
老人の顔が目に見えて明かるくなった。
かれらはジョッキ二杯のエールを一緒に飲んだ。ガリオンは青くさい味がするのに気づいた。熟成させるまもなく、一週間ほどで樽からすくいあげたような味だった。しかし相手はこれが世界一うまい醸造酒であるかのように、口を鳴らし、目をぎょろつかせている。冷たくてぬれたなにかがガリオンの手にふれ、かれはぎょっとして手をひっこめた。下を見ると、短い白いまつげに囲まれたふたつの青い目が熱っぽくこちらを見上げている。ぬかるみをつい最近ころげまわった豚の体は、強烈な悪臭を放っていた。
年寄りのカランド人は得意げに高笑いした。「おれのビタ[#「ビタ」に傍点]さ。気だてのいい若いビタ[#「ビタ」に傍点]でな。文句ひとつ言わねえよ」毛皮の男は梟みたいに目をしばたいた。「そいつはみなしごでな」
「ほう?」
「だが、そいつのかあちゃんはじつにうまいベーコンになったんだ」老人は鼻声になり、手の甲で鼻水をふいた。「ときどき、あの雌ビタ[#「ビタ」に傍点]がたまらなく恋しくなってよ」かれは目を細めてガリオンを見た。「なあ、またずいぶんとでっけえ剣を持ってるじゃねえか」
「ああ」ガリオンはうなずいた。うわの空で若い豚の耳をかいてやると、動物はうっとりと目を閉じてガリオンの膝に頭をのせ、満足そうにうなった。
「われわれは山道をくだってきたんだ」ガリオンは言った。「平原から煙がたくさんたちのぼるのを見た。あそこでなにか厄介事でもあるのか?」
「厄介事もいいところさね、友だち」老人は真顔になって、ふたたび目を細めてガリオンを見た。「おめえ、マローリー[#「マローリー」に傍点]人じゃなかろうな?」
「ちがうさ」ガリオンは相手を安心させた。「マロリー人じゃない。ずっと西の方の出身だ」
「マローリー[#「マローリー」に傍点]の西に土地があったとは知らなんだ、とにかくだ、あそこの平原で大勢の人間が集まって、宗教をめぐる喧嘩をやらかしてるのさ」
「宗教?」
「おれは宗教なんぞどうでもいいほうだがな」カランド人は認めた。「信じるもんとそうでねえもんとがいてよ、おれはそうでねえほうなんだ。神さんたちのことは神さんたちで世話すりゃいいのよ、なあ。おれはてめえとてめえのもんの世話をする、それですべて五分五分だ」
「なかなかいい方法みたいだな」ガリオンは用心深く言った。
「そう思ってくれてうれしいよ。とにかくよ、ダーシヴァにゃザンドラマスってグロリムがいるんだ。このザンドラマスがヴォレセボにやってきてアンガラクの新しい神さんのことを話しだした――トラクは知ってのとおり、死んじまってるからな。いま、おれはおれのビタ[#「ビタ」に傍点]とおんなじくらいいろんなことに興味があるんだ。やつは利口なビタ[#「ビタ」に傍点]だかんな、人間がばかな話をしてるときゃわかるんだ」
ガリオンは豚の泥まみれの鼻づらを軽くたたいた。すると、太った小さな動物は快楽の声をたてた。「いい豚だ」ガリオンはうなずいた。「いや、ビタ[#「ビタ」に傍点]だ」
「おれはそいつが気に入ってんだ。あったけえし、寒い夜に寄り添ってると気持ちがいいのさ――それに全然いびきをかかねえしよ。それでな、旦那、このザンドラマスだが、ここへきて説教をしたりわめいたりしはじめたんだが、おれにゃなんのことやらさっぱりわからん。グロリムたちはそろってうめき声をあげ、うつぶせにぶったおれるときた。そのあと、しばらく前のことだが、新たにグロリムの一団が山の向こうからやってきてよ、このザンドラマスはとんでもねえ女だと言いやがるのよ。そいつらの言うには、たしかにアンガラクの新しい神はあらわれるが、ザンドラマスの言うことは嘘っぱちなんだと。平原で煙がのぼってるのはそのせいなのさ。だれが新しい神になるかというてめえらの考えをめぐって、双方が火をつけたり、殺したり、説教したりしてるんだ。おれはどっちの側とも無関係だよ。ビタ[#「ビタ」に傍点]と一緒に山へひっこんで、やつらを勝手に殺しあわせておくさ。やつらのけりがついたら、戻ってきてどっちの祭壇だろうと勝ったほうの祭壇に会釈するんだ」
「そのザンドラマスって人物をあんたはさっきからその女≠ニ言いつづけているな」
「信じられるか、女だなんてよ?」カランド人は鼻を鳴らした。「そんなばかげたことは生まれてこのかた聞いたことがねえ。女は男の問題に首をつっこむものじゃねえんだ」
「その女を見たことはあるのか?」
「言ってるとおり、おれは宗教的なことにゃ首をつっこまねえんだ。おれとおれのビタ[#「ビタ」に傍点]はよ、ごたごたが起きたときゃ他人とはかかわらねえのさ」
「うまい処世術だ」ガリオンは年寄りに言った。「だが、われわれはあの平原を通って行かなけりゃならない。グロリムのことだけ心配していればいいのかね?」
「おめえがよそ者だってことはわかってる」カランド人は思わせぶりにからのジョッキに視線を落とした。
「さあ、もう一杯やろう」ガリオンはウエストにさげた小袋からもう一枚コインを取り出して、給仕に合図した。
「問題はよ、友だち」おしゃべりな豚の所有者はしゃべりつづけた。「国のこのあたりに、信者の一団を引き連れたグロリムたちがいつもいるってことなんだ。ザンドラマスにも信者たちがぞろぞろくっついてたが、グロリムたちはヴォレセボの王の軍隊をひきこんでいるのよ。あの老王はこの宗教問題にゃかかわっていなかったんだが、王座をおりちまってな。息子がもうろくおやじに国をまかせるわけにゃいかんと決め込んで、おやじをひきずりおろして後釜にすわったのよ。この息子はなかなかのしたたか者でな、勝ち目のありそうな側につこうと目を光らせてたのさ。息子はザンドラマス側についたが、今度はウルヴォンとかいうやつがあらわれて、全軍をジェンノとガネシアから連れだした。武装した連中と、世にも恐ろしいでっかい黒犬たちが一緒だったな――グロリムがひとり残らず同行したことは言うまでもねえ。あそこの平原にゃ行かねえほうがいいぞ、友だち。やつらが捕虜たちを殺したり、焼いたり、ほうぼうの祭壇でいけにえにしてるんだ。おれだったら、あの地獄の沙汰をよけて大回りするね」
「そうできればいいんだがね」ガリオンは心からそう言った。「ジェンノには悪魔たちがいると聞いた――カリダのほうにもだ。ここらに悪魔があらわれたことはないのか?」
「悪魔?」カランド人は身ぶるいしながら、悪魔よけのしるしをきった。「そんな話は聞いたことがねえ。聞いてたら、おれもビタ[#「ビタ」に傍点]も荷物運びの動物を使いでもしなけりゃ日光も届かねえような山んなかへとっくにひっこんでるさ」
いつのまにかガリオンはこの饒舌な老人が好きになっていた。老人の無学なおしゃべりにはほとんど音楽的ともいえる流れと、どんなたぐいの社会差別にも頓着しない温かな包容力と、そして周囲の大混乱を抜け目なく洞察すらしているような余裕があった。シルクがドアのほうへ顎をしゃくっているのを認めたときは、残念な気がしたくらいだった。ガリオンは豚の頭をそっと膝からどけた。動物は不満の声を小さくもらした。「そろそろ行かないと」立ち上がりながらカランド人に言った。「つきあってくれてありがとう――それに豚を貸してくれて」
「ビタ[#「ビタ」に傍点]だ」カランド人は訂正した。
「ビタ[#「ビタ」に傍点]、ね」ガリオンは通りかかった給仕をひきとめて、コインを一枚渡し言った。「友だちとかれのビタ[#「ビタ」に傍点]になんでも好きなものを飲ませてやってくれ」
「こりゃありがとうよ、若い友だち」年寄りのカランド人の顔に笑いが広がった。
「いいってことさ」ガリオンは下を見て、つけくわえた。「いい一日をな、豚くん」
豚はどうでもよさそうにうなると、カタカタとひづめを鳴らして飼い主のほうへテーブルを回りこんだ。
女性たちの待っている木陰へガリオンが近づいていくと、セ・ネドラが鼻にしわをよせてたずねた。「いったいなにをしてたの、ガリオン? ひどいにおい」
「豚と仲良しになったのさ」
「豚ですって?」セ・ネドラは叫んだ。「なんのために?」
「きみもあそこにいるべきだったよ」
馬を進めながら、聞きこんだ情報を交換した結果、豚の所有者はヴォレセボの状況についておどろくほど完璧で簡潔な認識を提供してくれたことがあきらかになった。ガリオンはなまり丸出しでさっきの会話を繰り返してみせた。
「本当にそんなしゃべりかたをしたわけではないんでしょう?」ヴェルヴェットが信じられないようにけらけら笑った。
「いやそうなんだ」ガリオンはちょっぴり誇張して言った。「ツボをおさえてしまえば、わかりやすいものさ。どうにも慣れなかったのは、こりゃ≠ニありら≠ニかりら≠ニいう言い方だったな。しかし豚とはうまくやれた」
「ガリオン」ポルガラがかすかによそよそしさのにじむ声で言った。「ちょっとうしろへさがってもらえない?」彼女は列のうしろのほうをそれとなく示した。「そうね、数百ヤードばかり」
「わかったよ」ガリオンはクレティエンヌの手綱を引いた。気がつくと、大きな灰色の馬も空中に漂うなにかに気を悪くしているようだった。
その晩、ガリオンはみんなの要求により、ちぢみあがるほど冷たい山の小川で体を洗った。ふるえながら焚火のそばへ戻ると、ベルガラスがかれを一瞥して言った。「また鎧を着たほうがいいだろう。豚を連れたおまえの友だちが言ったことが半分でも真実なら、鎧兜が必要になるかもしれん」
「ビタ[#「ビタ」に傍点]だ」ガリオンは訂正した。
「なんだって?」
「なんでもない」
翌朝は晴れて冷え込んだ。いつも下に着る当て物をしたチュニックを着ていても、鎖かたびらはじっとりと冷たく、重く、不快だった。ダーニクが近くの茂みの木で槍を作ってくれ、馬たちがつながれている木にそれをたてかけた。
下方の平原を見渡していたベルガラスが小さな丘の頂上から戻ってきた。「わしの見たところでは、下での混乱はきわめて一般的なものだ。したがって、人々を避けようとしたところであまり意味はない。ヴォレセボを通過するのが早ければ早いほどいいわけだから、まっすぐ平原を通過したほうがいいかもしれんぞ。まず困難をよけて通るように努め、それがうまくいかなければ別の方法でやってみよう」
「もう一本棍棒を見つけてきたほうがいいようですね」サディがためいきをついた。
鎖かたびらを鳴らして先頭を行くガリオンとともに、一行は馬を進めた。ガリオンの兜は頭に、楯は左腕に紐でゆわえつけてあった。槍の柄は足と一緒にあぶみにかかっている。ガリオンは敵をおびやかすようなしかめ面を作ってみた。背中にたすきがけにした剣がたえずかれをひっぱり、一行がいまなおザンドラマスの足跡をたどっていることを示している。丘のふもとにつくと、曲がりくねった山道は南東へ向かって伸びるわだちのついた細い道になった。一行はペースをあげて、きびきびした駆け足で道を進みつづけた。
平原に出て数マイルきたとき、道から半マイルほど奥まったところで村が炎上していた。かれらはたちどまって調べるようなことはしなかった。
正午ごろ、武装して歩いている一団に遭遇した。総勢十五人ばかりで、軍服らしきものを着ている。
「どうする?」槍を握る手に力をこめて、ガリオンは肩ごしにふりかえって言った。
「向こうに先に口を開かせようぜ」シルクが馬を前進させながら言った。「物騒な感じに見せかけるんだ」小男は馬を見知らぬ一団のほうへ歩かせ、「往来の邪魔だ」と、つっけんどんな口調で言った。
「通行人は全員調べろという命令を受けているんだ」一団のひとりがやや神経質にガリオンを見ながら言った。
「そうかい、もう見ただろう。さあ、どけよ」
「おまえたちはどちら側の味方だ?」
「そいつはばかげた質問だな」シルクは答えた。「おまえこそどっち側なんだ?」
「それに答える必要はない」
「じゃ、おれもだ。目をしっかりあけて見ろよ。おれがカランド人に――それとも神殿の護衛か――あるいはグロリムに見えるか?」
「おまえはウルヴォンかザンドラマスに従っているのか?」
「どっちにも従ってない。おれは金に従ってるんだ。おまえさんも宗教にかかわっていちゃ金もうけはできないぜ」
粗末な服装の兵士はいっそうおぼつかない表情になった。「大尉におまえたちがどちら側の味方かを報告しなけりゃならないんだ」
「それはおれを見たと仮定してのことだろう」シルクはてのひらの上で思わせぶりに財布をおどらせた。「おれは急いでるんだ、友だち。おまえさんの宗教には全然興味がないんだよ。見逃してくれないか」
兵士はいかにも物欲しげにシルクの手のなかの財布を見ている。
「おれにとっては、遅れないことがすこぶる重要なんだ」シルクはずるがしこく言ったあと、芝居がかったしぐさで額をぬぐった。「ここは暑くなってきたな。おまえさんも部下も木陰を見つけて休息したらどうだい? おれはたまたま≠アこに財布を落とすから、あとで見つけりゃ≠「いんだ。そうすればひともうけできるし、おれは千渉されることもなく、おかみにここを通過したことも知られずに先へ進むことができる」
「たしかにここは蒸してきた」兵士は同意した。
「気づくんじゃないかと思ったよ」
他の兵士たちはあけすけににやにやしている。
「財布を落とすのを忘れるなよ?」
「信用してくれ」とシルク。
兵士たちは木立に向かってぞろぞろと平原を横切っていった。シルクは道ばたの溝に投げやりに財布を投げ込み、一同を手招きした。「このまま進んだほうがいい」
「また小石の詰まった財布か?」ダーニクがにやにやした。
「そうじゃないさ、ダーニク。あの財布には本物の金が入ってる――マロリーの真鍮の半ペニーがね。あれじゃたいしたものは買えないが、本物の金であることに変わりはない」
「中身を見せてくれと言われたらどうするつもりだったんだ?」
シルクはにんまりして握った片手を持ち上げた。てのひらの筋と筋の間にぴったりはまっているのは、数枚の銀貨だった。「まさかのときのために用意をしておくのが好きなんでね」そう言ってから、シルクは肩ごしにみんなを振り返った。「そろそろ立ち去ったほうがいいよ。兵士たちが道に戻ってくる」
次の遭遇はもうちょっと深刻だった。神殿の護衛が三人、道をふさいでいたのだ。楯を前につきだし、槍をかまえている。護衛たちの顔はまったく無表情だった。「ぼくの出番だな」ガリオンは兜をもっとしっかりかぶりなおし、楯の位置を直した。槍を低くかまえ、かかとでクレティエンヌを軽く蹴った。突進しながら、もう一頭馬が背後からついてくる音が聞こえたが、ふりかえる余裕はなかった。ひどくばかげたことだったが、ガリオンは例によって血がまたうねりたつのを感じた。「くだらん」かれはつぶやいた。次の瞬間、ガリオンはやすやすと中央の護衛を馬から突き落とした。ダーニクが槍を標準より二フィートほど長く作っていたのだ。すばやく楯を動かして、残るふたりの護衛の槍をかわしたあと、両者のあいだへ猛進した。クレティエンヌのひづめが落馬してころげまわっていた護衛の体を踏みつけた。ガリオンは強く手綱をひき、灰色の大きな馬を半回転させてあとに残してきたふたりに面と向き合った。だが、その必要はなかった。ガリオンの背後からついてきていたのがトスだったからだ。ふたりの護衛はすでに鞍からころげ落ちてぐったりと倒れていた。
「これがアレンディアだったら、すぐに仕事を見つけてやれるよ、トス」ガリオンは大男に言った。「あそこじゃ、自分たちが敵なしじゃないということをアレンド人に教えてやる人間が必要なんだ」
トスは声のない笑いをたてた。
ヴォレセボ中央部は完全な混乱状態にあった。火の手のあがった村々や農場から幾筋もの煙がたちのぼっていた。穀物は火にくべられ、武装した男たちがグループ同士で残虐な戦いをくりひろげていた。燃え上がる野原でも、そういうこぜりあいが起きており、双方とも周囲をすっぽり火の壁に囲まれていることにも気づかないほど逆上していた。
残忍な殺されかたをした死体がいたるところにころがっていた。溝や道路にまで散乱する恐怖からセ・ネドラの目をさえぎろうとするガリオンの努力もむなしかった。
一行は駆け足で進みつづけた。
戦いに疲弊した田園に夕闇がおりるころ、ダーニクとトスが道路からそれて一夜を明かす場所をさがしにかかった。もどってきたかれらは道路から一マイルばかりはずれたところに低い灌木の茂る小谷を発見したと報告した。「火をたくことはできないな」ダーニクが冷静に言った。「しかし物音をたてずにいれば、見つかるおそれはないだろう」
その晩は快適ではなかった。みんなは茂みで冷たい夕食を食べ、許される範囲でどんな一夜の宿がつくれるか試してみた。密生した茂みではテントが張れなかったからだ。大気には秋の気配がただよい、いったん空が暗くなると冷え込んだ。東の地平線に夜明けの最初の光がふれたとき、一行は起床して朝食をかきこみ、ふたたび前進した。
寒いみじめな夜と、周囲のばかげた殺戮がガリオンをいらだたせていた。一マイル進むごとに、そのいらだちは深まった。九時ごろ、道路の右手の野原の数百ヤード先で、黒装束のひとりのグロリムが祭壇のわきに立っているのが見えた。だらしない服装の兵士の一団が、おびえきった三人の村人の首にロープを巻きつけて祭壇のほうへひきずっていく。ガリオンは立ち止まって考えようとさえしなかった。槍をほうりだして鉄拳の剣を抜くと、〈珠〉におとなしくしているよう警告してから、いきなり走りだした。
グロリムは宗教的熱狂にとりつかれているらしく、ガリオンの接近を聞くことも、見ることもしなかった。クレティエンヌが足音高くとびかかったとき、一度叫んだだけだった。兵士たちはぎょっとしてガリオンを見ると武器を投げ捨てて逃げだした。だが、それだけではガリオンの怒りはおさまらないようだった。ガリオンは容赦なく兵士たちを追いかけた。とはいえ、その怒りは丸腰の男たちを殺すことへガリオンを駆り立てるほど強くはなかった。代わりに、ただ男たちをひとりずつ追いつめた。最後のひとりが大きな灰色の馬の足元にひっくりかえったとき、ガリオンはくるりと向きを変え、男たちを置き去りにして道路へ駆け戻った。
「少しやりすぎだったと思わんのか?」ベルガラスがぶりぶりしながら問いつめた。
「あの状況では思わなかった」ガリオンは強い口調で言い返した。「少なくとも、これでこの胸くそ悪い国の兵士たちの一グループは村人を祭壇へひきずっていかなくなる――少なくとも折れた骨がくっつくまでは」
ベルガラスはうんざりしたようにフンと鼻をならして、そっぽを向いた。
怒りさめやらぬガリオンは挑むようにポルガラをにらみつけた。「それで?」
「わたしはなにも言わなかったわよ、ディア」ポルおばさんは穏やかに言った。「でも今度はおじいさんになにをするつもりか知らせたほうがいいんじゃなくて? こういうささいなおどろきが、かれを歯がみさせることもあるから」
ベルディンがぱっと姿をあらわした。「あっちでなにがあったんだ?」かれは本来の姿に戻ると、好奇心まるだしでたずねた。近くの野原に倒れてうめいている兵士たちを指さした。
「ぼくの馬には運動が必要だったんだ」ガリオンはそっけなく言った。「あの兵士たちが邪魔をしたのさ」
「けさはなんでまたそう不機嫌なんだ?」
「なにもかもばからしくてやりきれなくてね」
「そりゃそうさ、だがまだまだこういうのがあるんだぞ、覚悟しとけ。このすぐ先がレンゲルの国境だ。そっちもここと同じくらい始末が悪い」
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一行は国境で立ち止まり、ふたつのうちどちらを選ぶか考慮した。境界線の見張り詰所はがらんとして人気がなかったが、燃える村々からは黒煙がたちのぼり、遠くで風景のなかを横切っている大勢の人間が、小さいながら鮮明に見えた。
「こっちのほうがいくらか整然としてるぜ」ベルディンが報告した。「ヴォレセボでおれたちが見たのは、ごく小数の兵隊だった。しかもやつらの関心は戦うことより略奪にあったんだ。前方にちょいと大人数のグループがあるが、規律の点じゃ似たりよったりだな。ヴォレセボでやったような方法じゃレンゲルは通れないぜ」
トスが一連のあいまいな仕草をした。
「なんと言ったんだ?」ベルガラスがダーニクにたずねた。
「夜になってから進んだらどうかと」ダーニクが答えた。
「それは愚かな考えだよ、トス」サディが反対した。「昼でも物騒なんだから、夜はその十倍も物騒になる」
トスの両手がまた動きだした。なぜかガリオンは物言わぬ大男の言おうとしていることがほとんど理解できそうな気がした。
「それは早とちりだと言ってるよ、サディ」ダーニクが通訳した。「われわれにはいくつか利点があるそうだ」鍛冶屋はちょっと眉をひそめて、友だちをふりかえった。「そのことをどうやってつきとめたんだ?」
トスはジェスチャーをした。
「そうか」ダーニクはうなずいた。「シラディスなら知ってるだろうな」かれはみんなのほうを向いた。「ベルガラス、ポル、ガリオンが別の姿で先導すればいいと言ってる。二匹の狼と梟にとって、闇はそれほど問題ではないはずだと」
ベルガラスは考えこむように片方の耳たぶをひっぱった。「見込みはある」と、ベルディンに言った。「その手を使えば向こうにいるやつらを避けられる。兵士たちは暗がりではそうそう動き回らん」
「やつらは歩哨を置いてるぜ」ベルディンが指摘した。
「ガリオンとポルとわしなら歩哨の位置をつきとめるのにそう苦労はいらんし、楽におまえたちを迂回させて先導できる」
「ゆっくり進むことになりますわね」ヴェルヴェットが言った。「駆け足では行けませんし、歩哨に出くわすたびに大回りしなくてはなりませんわ」
「なあ」シルクが口を開いた。「考えてみりゃ、そう悪い考えじゃないぜ。おれは気に入った」
「あなたはいつだって暗がりをこそこそ歩き回るのを楽しんでるんですものね、ケルダー」と、ヴェルヴェット。
「きみはちがうのか?」
「そうね――」と言ってからヴェルヴェットはシルクにほほえみかけた。「やっぱりきらいじゃないわ、わたしもドラスニア人だから」
「時間がかかりすぎるわ」セ・ネドラが異議を唱えた。「ザンドラマスにほんのちょっと遅れをとっているだけなのよ。のろのろしていれば、また遠くに行かれちゃうわ」
「このさいぼくたちにはあまり選択権はないんだよ、セ・ネドラ」ガリオンはやさしく言った。「このままレンゲルを横断しようとすれば、おそかれはやかれ手に負えないほど大勢の兵士たちに出くわすことになる」
「あなたは魔術師なんでしょう」セ・ネドラは責めるように言った。「片手をふるだけで、邪魔になる兵士たちを退散させられるはずだわ」
「それには限度があるのよ、セ・ネドラ」ポルガラが言った。「ザンドラマスもウルヴォンもこのあたりにグロリムたちを放っているの。わたしたちが白昼堂々と横断すれば、レンゲル中の人間がわたしたちの居どころを知ることになるわ」
セ・ネドラの目に涙があふれ、下唇がふるえはじめた。くるりと背を向けると、彼女はすすり泣きながらやみくもに道路からはずれて走りだした。
「追いかけなさい、ガリオン」ポルガラが言った。「なだめられるかどうかやってみて」
道路から一マイルほど奥まった|西洋ブナ[#「ブナ」は「木+無」、第3水準1-86-12]《せいようぶな》の木立で、一行は日が暮れるのを待った。長い夜になるのはわかっていたので、ガリオンは努めて眠ろうとした。だが、一時間ほどすると、あきらめてテントの回りをそわそわとうろついた。セ・ネドラのいらいらした気分が感染したのだ。ザンドラマスに追いつくまであと一歩だった。夜進むのでは這うようなものだ。ペースはぐっと落ちてしまう。だが、やってみるしかない、他の道は思いつけなかった。
日が落ちるとかれらはテントをたたみ、西洋ブナ[#「ブナ」は「木+無」、第3水準1-86-12]の木立の端で暗くなるのを待った。
「計画にひとつ欠点があるような気がするんですよ」シルクが言った。
「ほう?」とベルガラス。
「ザンドラマスを追跡するにはおれたちには〈珠〉が必要ですよね。ガリオンが狼に姿を変えれば、〈珠〉はどっちへ行けばいいかガリオンに教えられなくなる――それともそんなのは関係ないんですかね?」
ベルガラスとベルディンは長いこと視線を交わしていた。「わしにはわからん」ベルガラスが認めた。「おまえは?」
「見当もつかん」ベルディンが言った。
「それをつきとめる方法はひとつしかないな」ガリオンはクレティエンヌの手綱をダーニクに渡すと、馬たちから遠く離れたところまで歩いていった。慎重に狼のイメージを心のなかに作り上げてから、そのイメージに意志の力を集中しはじめた。例によって、体が溶けるような奇妙な感覚が全身を浸して、変身が完了した。ガリオンは腰を落とした格好ですわりこみ、万事問題がないかどうか全身を点検した。
ガリオンの鼻がふいになじみ深いにおいをとらえた。かれはうしろを向いた。セ・ネドラがそこに立っていた。目をまんまるにして、片手の指先を口にあてている。「ほ、ほんとにまだあなたなの、ガリオン?」彼女は口ごもりながら言った。
ガリオンは起き上がって体を揺すった。答えようにも答えられない。人間の言葉は狼の口腔にどうしてもそぐわないのだ。答えるかわりに、ガリオンはセ・ネドラのそばまで行って、手をなめた。彼女は膝をつき、かれの頭を抱きかかえ、鼻づらに頬をすりよせた。「まあ、ガリオン」驚異に満ちた口調でセ・ネドラはつぶやいた。
まったくのいたずら心から出た衝動にかられて、かれはあごから生えぎわまでセ・ネドラの顔をなめた。かれの舌はきわめて長く――そしてぬれていた。
「やめて」セ・ネドラは思わず身をくねらせて笑いながら顔をふこうとした。ガリオンがうなじに冷たい鼻をくっつけると、彼女は身をすくめて逃げた。やがてかれは向きを変えて足跡のついた道路のほうへ軽やかに走っていった。道端の茂みのなかで立ち止まり、注意深く外をのぞきこんだ。耳をぴんと立て、鼻は近くにいるだれかのにおいを求めていた。しばらくするとかれは満足し、地面に下腹をくっつけて茂みからそっとすべりでると、道路の中央に立った。
もちろん、同じではなかった。引っ張るような感覚には微妙な相違があったが、それはまだそこにあった。ガリオンは不思議に満ち足りた気持ちになって、思わず出そうになった勝利の遠吠えを我慢しなければならなかった。それから向きを変えて、みんなが隠れているところへ駆け戻った。爪先が芝生にめりこみ、かれは狂おしい自由の感覚を胸いっぱい吸い込んだ。惜しむような気持ちで、かれは本来の姿に戻った。
「それで?」濃くなりだした夕闇のなかをガリオンが歩いていくと、ベルガラスがたずねた。
「問題ないよ」ガリオンはさりげなく聞こえるように答えた。にやにやしたいのをこらえたのは、なにげない態度が祖父をひどくいらだたせるとわかっていたからだ。
「この作戦に本当にガリオンが必要なのか?」ベルガラスは娘にきいた。
「ああ――ええ、おとうさん」ポルガラは言った。「必要でしょうね」
「そんなことだろうと思った」ベルガラスは他の面々を見て言った。「いいか、こうやるんだ。ポルとダーニクはかなり離れていても連絡を取り合うことができる。だからわしらが兵士たちに出くわしたら、ダーニクがみんなを警戒させることができるわけだ――あるいは、足跡が道路からはずれた場合もだ。物音を立てんように、馬を歩かせて進め。いきなりまずい事態になっても困らない覚悟をしておくことだ。ガリオン、おまえはポルの意識と意識を通わせておくんだ。目だけでなく、鼻と耳があることを忘れるなよ。ときどき道路へ戻り、まだ足跡をたどっているかどうかを確認しろ。質問のある者は?」
みんなは一斉に首をふった。
「よし、それじゃ行こう」
「おれに同行してもらいたいか?」ベルディンがきいた。
「ありがたいけれどいいわ、おじさん」ポルガラが断わった。「鷹は暗いと本当はなんにも見えないんですもの。頭から木にぶつかったあとじゃ、たいした役にもたたないしね」
それはおどろくほど簡単だった。夜になると、どの兵士のグループもまっさきに思いつくのは火を起こすことであり、次にやるのは日がのぼるまで火をたやさないことだったからだ。そうした陽気な目印を手がかりに、ガリオンとベルガラスはその地域にいるすべての部隊の野営地をつきとめて、歩哨の居場所をかぎあてることができた。運のいいことに、ほとんどの場合部隊は道路からかなり離れたところにおり、一行は気づかれずに馬で進むことができた。
夜もかなり更けていた。ガリオンは次の谷のようすを観察するために、丘のてっぺんに這いのぼっていた。谷には無数のかがり火がたかれ、闇の中でまたたいていた。
「ガリオン?」セ・ネドラの声が頭のすぐ上で聞こえたような気がした。ガリオンはびっくりしてギャッと声をあげ、とびあがった。
平静を取り戻すのにしばらくかかった。「セ・ネドラ」ガリオンは情けない声をだした。「頼むからやめてくれないか。心臓がでんぐりかえったぞ」
「あなたが無事かどうかたしかめたかっただけよ」セ・ネドラは弁解口調で言った。「この護符をつけていなけりゃならないのなら、利用したほうがいいでしょう」
「ぼくはだいじょうぶだ、セ・ネドラ」ガリオンは辛抱強く言った。「いまみたいにぼくをおどかさないでくれ。狼ってのは神経質な動物なんだ」
「子供たち」ポルガラの声が断固たる口調で割り込んだ。「お遊びは他のときにできるでしょう。ダーニクの意識を聞き取ろうとしているのに、そのおしゃべりでわからなくなってしまったじゃないの」
「はい、ポルおばさん」ガリオンは反射的に答えた。
「愛してるわ、ガリオン」セ・ネドラがさよならのかわりにささやいた。
それからの数日間、かれらは夜陰に乗じて前進し、東の空が白みはじめると同時に隠れ場所を探した。なにもかもあまりにも楽に行ったので、ついにガリオンは不注意になった。四日目の夜、茂みをあるいていたガリオンはあやまって乾いた枝を踏んでしまった。
「そこにいるのはだれだ?」風下から声がした。兵士の体臭はかれの鼻孔に達していなかった。兵士は騒がしい音をたてて茂みに分けいってきた。用心深く槍を前でかまえている。不器用な歩哨にたいする腹だちというよりも、むしろ自分に腹をたてて、ガリオンは肩で槍をおしのけ、うしろ脚で立って前足をおびえた男の肩にかけた。それから長々と悪態をついた。ののしり声がおそろしげなうなりといがみ声になって口からこぼれ出た。
ガリオンのぞっとするような牙が顔から数インチ先でカッと開くと、兵士の目は飛びでそうになった。次の瞬間兵士は悲鳴をあげて逃げだした。ガリオンはうしろめたそうに茂みからそっとはいだして、さっさとその場を離れた。
ポルガラの声がした。「なんだったの?」
「たいしたことじゃないさ」いっそうはずかしくなって、ガリオンは答えた。「ダーニクやみんなにしばらく西に向かって進むように言ってよ。兵士たちのグループが道路のすぐそばで野営してるんだ」
次の夜の明け方近くだった。夜風にのってベーコンをいためるにおいがガリオンの鼻孔へ運ばれてきた。背の高い草むらを這っていくと、だれが料理しているのかを見とどける前に、祖父にでくわした。
「何者だい?」ガリオンは狼の流儀でたずねた。
「兵士が二百人だ」ベルガラスが答えた。「それに荷物を積んだラバの大群がいる」
「そいつら、道路にいるんだろう?」
「心配いらんよ。そのうちのふたりがしゃべっているのを聞いたんだが、シルクに雇われているらしいんでな」
「シルクは自分の軍隊を持ってるのか?」ガリオンは半信半疑だった。
「そのようだ。あのコソ泥がわしに隠し事をしないでくれると助かるんだがね」ガリオンは老人の思考が伸びていくのを感じた。「ポル、ダーニクにシルクをここへよこすよう伝えてくれ」次に老人はガリオンを見た。「道路へ引き返そう。ドラスニアの誇り[#「ドラスニアの誇り」に傍点]と少し話がしたい」
身も軽く道路へ駆け戻ると、ふたりは本来の姿に戻ってシルクをつかまえた。ベルガラスはなみなみならぬ自制をしている、とガリオンは思った。「このすぐ先に青いチェニックを着た大部隊がいるんだがね」ベルガラスは平静な口調で言った。「ときにおまえさん、かれらが何者か知ってるか?」
「あいつらここでなにをやってるんだ?」シルクは当惑げに眉をひそめた。「厄介事がある地域は避けろと言われているってのに」
「おまえさんの言ったことを聞いていなかったのかもしれんな」ベルガラスの口調は皮肉っぽかった。
「おきまりの命令なんですよ。このことについては断固隊長と話し合います」
「私設部隊を持ってるのか?」ガリオンは小男にたずねた。
「正確には部隊と呼べるかどうか疑問だな。ヤーブレックとおれとで隊商を保護するための傭兵を雇ったんだ、それだけのことさ」
「ずいぶん高くつくんじゃないか?」
「その隊商を失うことに比べりゃ安いもんさ。街道強盗はカランダの地方産業なんだ。やつらと話をしに行こうぜ」
「いいとも」ベルガラスの口調はそっけなかった――冷たくさえあった。
「あまりよく思ってないんですね」
「自分の勝手を押しつけるな、シルク。わしは五晩つづけてぬれた草むらを足音を忍ばせて動き回っていたんだぞ。毛皮にはイガをくっつけ、尻尾は噛んで直すのに一週間かかりそうなほどもつれてしまった。その間ずっとおまえさんは叫べば聞こえる距離に武装した護衛を引き連れていたんだ」
「やつらがここにいるなんて知らなかったんですよ、ベルガラス」シルクは抗議した。「ここにいることになってないんですから」
ベルガラスは小さく悪態をつきながら、大股に歩み去った。
シルクが徒歩のガリオンとベルガラスにはさまれて馬で野営地に入ったのは、ラバ追いたちがラバに荷物を乗せはじめていたときだった。あばた面で手首の太い抜け目のなさそうな男が、近づいてきて敬礼しながらシルクに言った。「殿下、殿下がマロリーのこんなところにおいでとは知りませんでしたよ」
「あちこち動き回っているんだ」シルクは言った。「おれたちが加わってもかまわないか、ラコス大尉?」
「もちろんです、殿下」
「残りの仲間もおっつけくるだろう」シルクは言った。「けさの朝食はなんだ?」
「ベーコン、目玉焼き、チョップ、ほかほかのパン、ジャム――いつもどおりですよ、殿下」
「粥《かゆ》じゃないんだな?」
「ご希望なら、料理人につくらせますよ、殿下」ラコスは答えた。
「いや結構、大尉。粥なしでも生きていける、とにかくきょうはな」
「部隊を視察なさりたいですか?」
シルクは渋面を作ってからためいきをついた。「みんなはそれを期待してるんだろう?」
「士気の向上になりますから、殿下」ラコスは言った。「視察を受けない兵は認められていないと感じはじめるものです」
「そのとおりだ、大尉」シルクは馬をおりた。「すまないが、みんなを整列させてくれ、士気を鼓舞してやろう」
大尉は回れ右をして、命令をがなりたてた。
「ちょっと失礼」シルクはベルガラスとガリオンに言った。「多少の仰々しさは命令を与える立場上必要なんでね」片手で髪をなでつけると、シルクは注意深く身なりを整えた。それからラコス大尉について、道路わきで気をつけの姿勢でずらりと並んでいる兵士のほうへ歩いていった。堂々たる態度で部隊を点検し、とれたボタンや、不精髭をはやした顔、磨きたりないブーツをこまかく指摘した。ダーニクやポルガラや他の面々がやってきたときには、最後の列をチェックしているところだった。ベルガラスが手早く状況をみんなに説明した。
引き返してきたとき、シルクの顔にはやや自己満足の表情が浮かんでいた。
「本当にあんなことをする必要があったの?」ヴェルヴェットがたずねた。
「期待されてたのさ」シルクは肩をすくめてから、むしろ誇らしげに部下たちを眺めた。「なかなかのもんだろう? マロリー一の大部隊というわけじゃないが、精鋭さの点では右に出るものはない。朝めしを食いにいかないか?」
「兵隊の割当て食糧なら前にも食ったことがあるんだ」ベルディンが言った。「別の鳩でも探しに行くさ」
「そいつは早計ってもんだよ、ベルディン」小男は請け合った。「まずいめしはどんな軍隊でも最大の不満の原因なんだ。ヤーブレックとおれは最高のコックだけを雇って、兵隊にはできるだけうまい食い物を与えるようずいぶん注意してる。カル・ザカーズの軍なら乾燥食糧で十分だが、おれの部隊はちがう」
一行の朝食にはラコス大尉も加わった。ラコスはあきらかに野戦向きの兵士で、スプーンやフォークの扱いに苦労していた。
「隊商はどこへ向かってるんだ?」シルクはたずねた。
「ジャロトです、殿下」
「運んでいる品物は?」
「豆です」
「豆?」シルクはちょっとおどろいたようだった。
「殿下の命令だったんですよ。例の疫病が発生する前にマル・ゼスの殿下の仲買人から、殿下が市場の豆を買い占めたがっていると言ってきたんです。マガ・レンの倉庫が豆であふれちまってるんで、最近はジャロトへ移送しているんですよ」
「なんでそんなことをしたんだろう?」シルクはわけがわからんというように頭をかいた。
「ザカーズがクトル・マーゴスから部隊をひきあげさせていたんだよ」ガリオンは思い出させてやった。「かれはカランダで攻撃を開始しようとしていた。マロリーの豆を買い占めようとしたのは、そうすれば軍の備品調達局をだませると思ったからさ」
「だますなんていやな言葉を使わないでくれよ、ガリオン」シルクは傷つけられた表情で反論した。「秩序をなくせるだろうと思ったんだ」
「わたしが聞いたわけじゃありませんが、殿下」ラコスが口をはさんだ。「マガ・レンにはデルチンとガネシア南部の全土から何トンもの豆が流れこんでいます」
シルクはうめいた。「ジャロトへつくまでにはあとどのくらいかかるんだ? 食い止めなけりゃならない」
「数日です、殿下」
「そのあいだにも豆の山はどんどん高くなっていく」
「でしょうな、殿下」
シルクはまたうめいた。
それ以上はさしたることもなく、一行はレンゲルを進みつづけた。シルクのプロの兵士たちはそのあたりでは有名らしく、経験の乏しいさまざまな党派の部隊はかれらを見ると大きく道をあけた。シルクは司令官よろしく縦隊の先頭に立って、威厳たっぷりにあたりを睥睨《へいげい》していた。
「あのままにさせておくつもりなの?」一日かそこらたったとき、セ・ネドラがヴェルヴェットにたずねた。
「まさか」ヴェルヴェットは答えた。「でもいまのところは楽しませておきましょう。あとになって時が現実の状況を教えてくれますわ」
「あなたってこわいのね」セ・ネドラはくすくす笑った。
「当然ですわ。でもあなただってここにおいでのわたしたちのヒーローに同じことをなさいませんでした?」ヴェルヴェットはほらというようにガリオンを見た。
「リセル」ポルガラがきつい調子で言った。「また秘密をもらしているわよ」
「すみません、レディ・ポルガラ」ヴェルヴェットはしゅんとして答えた。
ほどなくザンドラマスの足跡に、サルディオンのくすんだ真紅の足跡が加わり、どちらもレンゲルをカラハール川へと横断し、セランタの国境を越えていた。ふたつの足跡はまたジャロトの方角へ向かっているようでもあった。
「どうしてザンドラマスは海へ向かっているんだろう?」ガリオンは心配になってベルガラスにたずねた。
「さあな」老人の返事はそっけなかった。「あの女は『アシャバの神託』を読んだが、わしは読んでおらん。ザンドラマスは自分の行き先を知っとるはずだ。そしてわしはまごまごしながらそのあとをついていっとるだけなのさ」
「だが、もしも――」
「もしも≠ヘやめんか、ガリオン。もう難問はいやというほどかかえとるんだ」
シルクの所有らしい数隻の渡し船で、かれらはカラハール川を渡り、セランタ側にあるジャロトの港湾都市に到着した。丸石敷きの通りを行くと、群衆が寄ってきて喝采した。シルクは縦隊の先頭を馬で進みながら、鷹揚に手をふった。
「わたしはなにか見落としているのかな?」ダーニクがつぶやいた。
「シルクの市民はかれを心から愛しているんですよ」エリオンドが説明した。
「シルクの市民だって?」
「人をわがものにするのはだれです、ダーニク?」金髪の若者は悲しそうにたずねた。「支配する者ですか、それとも金を払う者?」
ジャロトでのシルクのオフィスは贅沢《ぜいたく》だった――これみよがしとさえ言えた。床にはぶあついマロリーの絨緞が敷かれ、壁はぴかぴかに磨かれためずらしい木の羽目板貼りで、高価な仕着せ姿の役人がいたるところにいた。
「みてくれをよくしておくことも必要なんだよ」みんながオフィスに入っていくと、小男はすまなそうに説明した。「ここの人間は外見にえらく感心するんでね」
「もちろんだ」ベルガラスはそっけなかった。
「そんなこと思ってもみないくせに――」
「目をつぶろう、シルク」
「しかしこれはこれでえらくおもしろいんですよ、ベルガラス」シルクはにやにやした。
するとベルガラスは、ガリオンがそんなことをするとは思ってもみなかったようなことをした。哀願するように両手をあげて、悲劇的表情をつくり、こう言ったのだ。「なんでわしが?」
ベルディンが高笑いした。
「なんだ?」ベルガラスはすねたように言った。
「べつに」とベルディン。
ジャロトにいるシルクの仲買人はカスヴォーという名の出目ぎみのメルセネ人だった。カスヴォーは世界の重みが肩にのしかかっているような歩きかたをし、絶えずためいきをついた。ばかでかい書きもの机のうしろにシルクが王様然と腰かけ、あとのみんなが壁ぎわの居心地のいい椅子にくつろいでいるところへ、カスヴォーが用心深く入ってきた。「ケルダー王子」カスヴォーは一礼して言った。
「ああ、カスヴォーか」
「殿下がお望みの部屋を手配させました」カスヴォーはためいきをついた。「〈獅子亭〉という宿屋です。通りふたつ向こうにあります。二階を全部確保しました」
ダーニクが前かがみになって、ガリオンの耳もとでささやいた。「われわれがカマールで泊まった宿も〈獅子亭〉じゃなかったか? あのときプレンディグがわれわれを逮捕した場所さ」
「〈獅子亭〉なんて名前の宿は世界中のどの都市にもあるんじゃないの」ガリオンは答えた。
「よくやった、カスヴォー。でかしたぞ」シルクが言っていた。
カスヴォーはあるかなきかの微笑を浮かべた。
「仕事のほうはどうだ?」
「かなりの利益をあげています、殿下」
「どのくらい?」
「四十五パーセントほどです」
「悪くない。だが、他のことについて話す必要があるんだ。豆の買い付けは停止しよう」
「いささか遅かったようです、殿下。すでにわれわれはマロリーじゅうの豆をすべて所有しています」
シルクはうめき声をあげて、両手に顔を埋めた。
「ですが、市場は十ポイントアップしています、殿下」
「ほんとか?」シルクはおどろいたようだった。目が輝いた。「どうしてそうなったんだ?」
「ありとあらゆるたぐいの噂が広まって、軍の備品調達局から慎重な問い合わせがきたのです。だれもが豆を買おうとかけずりまわっていますが、すべてはわれわれが握っています」
「十ポイント、と言ったか?」
「はい、殿下」
「売るんだ」
カスヴォーはあっけにとられたようだった。
「おれたちはカランダで大戦役が起きるのを期待して豆を買い取ったんだ。いまになってみると、戦争はおこりっこない」
「たしかですか、殿下?」
「おれには確実な情報源があるんだ。このことが外部に知れたら、豆の市場は岩みたいに沈下するだろう。数百万トンの豆を持っていたところでなんにもならん、だろう? 申し込みはあったのか?」
「メルセネ組合が関心を表明しています、殿下。市場より二ポイント高く買うつもりです」
「そいつらと交渉しろ、カスヴォー。市場値を三ポイント上まわる金額を出してきたら、売れ。おれはそれだけの豆を全部食うはめになりたくない」
「わかりました、殿下」
ベルガラスが意味ありげに咳ばらいした。
シルクは老人をちらりと見て、うなずいた。「おれたちはヴォレセボとレンゲルを通ってきたところなんだ」シルクは言った。「あそこらへんはめちゃくちゃになってる」
「そのようですね、殿下」カスヴォーは答えた。
「ほかにもこのあたりで不穏な動きのあるところがあるのか? おれたちはこのあたりに用事があるんだが、できるなら戦いのまっただなかで用事をすませたくないんでな」
カスヴォーは肩をすくめた。「ダーシヴァは大混乱ですが、いまにはじまったことじゃありません。この十二年というもの、ずっとそんなふうでしたからね。わたしはあの公国からうちの人間をひとり残らずひきあげさせました。当分われわれにとって価値のあるものはひとつも残っていませんよ」信心深げなふりをしてかれは天井を仰いだ。「ザンドラマスの鼻におできができますように」
「アーメン」シルクは熱っぽく同意した。「他におれたちが避けるべきところはあるか?」
「ガンダハール北部はいささか不穏だと聞いています」カスヴォーは答えた。「しかしわれわれに影響はないでしょう、われわれは象を扱っていませんから」
「おれたちがこれまでに下した最高に賢明な決断ですよ」シルクがベルガラスに言った。「象がどのくらい食べるか見当がつきますか?」
「ペルデインも目下騒然としているとの報告です、殿下。ザンドラマスは伝染病を四方八方にばらまいているんですよ」
「会ったことがあるのか?」シルクはたずねた。
カスヴォーはかぶりをふった。「ザンドラマスはこんな東まではまだきていません。こっちへくる前に地位を固めようとしているんじゃないですか。皇帝はダーシヴァ、レンゲル、ヴォレセボを失ったことをそう嘆いていませんし、ペルデインとガンダハールは値打ちよりもトラブルのほうが大きいですからね。しかし、セラソタは――それにメルセネも――まったく別問題です」
「たしかにな」シルクは同意した。
カスヴォーは眉をひそめた。「しかし、あることを聞いたんです、殿下。ザンドラマスの仲間のナラダスが数日前にメルセネ行きの船を雇ったという噂が港町に流れているんですよ」
「ナラダス?」
「殿下は一度も会ったことがないかもしれませんが、やつを人混みから拾いだすのはわけないんです。目が真っ白なんですよ」カスヴォーはみぶるいした。「気味の悪いやつです。とにかく、ナラダスははじめからザンドラマスと一緒にいたという評判ですし、わたしの思うところでは、あの女の右腕といっていいでしょう。他にも噂はいろいろありますが、ご婦人がたの前でそれを繰り返すべきじゃないと思います」カスヴォーは申し訳なさそうにポルガラとセ・ネドラとヴェルヴェットを見やった。
シルクは考えこむように人さし指であごをたたいた。「するとナラダスはメルセネへ行ったわけか。そのことについてもうちょっとくわしいことが知りたいな」
「港町近辺に部下を泳がせましょう、殿下」カスヴォーが言った。「われわれに情報を与えられる人間を見つけられるはずです」
「よし」シルクは立ち上がった。「見つかったら、〈獅子亭〉までよこしてくれ。報酬はたっぷりはずむと言うんだ」
「もちろんです、殿下」
シルクはベルトにつけた革袋をもちあげた。「金が少しいるな」
「ただちに手配します、ケルダー王子」
一行がオフィスのある建物を出て、ぴかぴかに磨かれた石段をおり、馬のほうへ向かっていると、ベルディンがうんざりしたようにつぶやいた。「気にくわんな」かれはぶつぶつ言った。
「なにが?」ベルガラスがたずねた。
「なんともおまえは運のいいこった」
「なんのことやらさっぱりわからん」
「おまえが喉から手が出るほど知りたがっていたことを、偶然カスヴォーが思いだすなんざおどろきじゃないか? やつはそれをまるであとから思いついたみたいにほのめかしやがった」
「神々は昔からわしに好意を持ってくださったもんさ」ベルガラスは涼しい顔で答えた。
「幸運を神と考えているのか? おまえがそんなふうにしゃべるのをおれたちの師が聞いたら、数世紀にわたってパンと水しかもらえなくなるぞ」
「まったくの運ではなかったかもしれませんよ」ダーニクが考えこみながら言った。「このわれわれの予言はときどき人をそそのかすことがありましたからね。アレンディアでセ・ネドラが演説をすることになっていたときのことを思いだしますよ。セ・ネドラは緊張のあまり気分が悪くなっていたんです。するとそこへ酔っぱらった若い貴族がやってきて、彼女を侮辱したんです。セ・ネドラはかんかんになり、彼女の演説は全群衆を興奮させました。ポルは言いましたよ、もしかすると予言がその貴族を酔っぱらわせてセ・ネドラを侮辱するようにしむけたおかげで、セ・ネドラが怒りにまかせて演説をやりおおせたのかもしれないと。いまのことだって、それと似ていませんか? 運というより宿命なんじゃないでしょうか?」
ベルディンは鍛冶屋をほれぼれと見つめた。目が輝いている。「この男は宝だぞ、ベルガラス。おれは何世紀も前から哲学を語れる人間を探していたんだ。それがどうだ、おれの目の前にいるじゃないか」かれは大きな節くれだった手をダーニクの肩においた。「その宿屋についたら、なあ、友だち、おれとふたりで長い話をはじめようじゃないか。何世紀にもおよぶ話になるかもしれん」
ポルガラがためいきをついた。
〈獅子亭〉は黄色の煉瓦塀と赤いタイルの屋根を持つ大きな建物だった。広い階段の上に堂々たる玄関ドアがあって、仕着せ姿の従者が立っていた。
「厩はどこだろう?」ダーニクがきょろきょろしながらきいた。
「裏側だな、たぶん」シルクが答えた。「メルセネの建造物は西方とはちょっと構造がちがうんだよ」
かれらが馬をおりると、ふたりの馬丁が建物の向こうから馬を受け取りに走ってきた。シルクが階段をのぼると、ドアのわきにいた従者が深々と一礼した。「おこしくださって光栄です、ケルダー王子。主人がなかで待っております」
「いや、ありがとう、きみ」シルクは従者にコインをやった。「あとでおれに会いにくる者がいるかもしれない。おそらく、船乗りか港湾労働者だ。到着したらすぐにおれのところへよこしてくれないか?」
「もちろんです、殿下」
宿屋の最上階は宮殿のようだった。部屋は広々として、ふかふかの絨緞が敷いてあった。壁は白漆喰で、窓には青いビロードのカーテンがかかっている。家具はゆったりと大きく、快適そうだった。戸口はアーチ型だ。
ダーニクは入る前に注意深く足をふいた。そしてあたりを見回した。
「ここの人間はアーチがえらく好きらしいね」ダーニクは感想をもらした。「わたし自身は柱とまぐさ[#「まぐさ」に傍点]の建築様式のほうが好きだな。なんだかアーチは信用できない気がする」
「それはきわめて健全な感想だよ、ダーニク」シルクが安心させるように言った。
「理屈はわかっているんだ」ダーニクは言った。「問題はアーチを作った人物を知らないために、その人物が信用できるかどうかわからないことなんだ」
「まだダーニクと哲学について語りあいたいのか?」ベルガラスがベルディンに言った。
「悪いか? 堅実な実利主義も世界には存在する。それにおれの思索はいささかとりとめがないからな」
「それを言うなら、うわの空だろう、ベルディン。うわの空」
「そこまで言う必要はないだろうが、え?」
ベルガラスは批判的にベルディンを見た。「いや、ある」
ポルガラ、セ・ネドラ、ヴェルヴェットは凝った作りの風呂に入った。それはマル・ゼスの宮殿のお風呂よりずっと大きかった。
女性たちが入浴しているあいだ、シルクは中座した。「やらなきゃならないことが他にも二、三あるんだ」かれはそう説明した。「長くはかからない」
入浴時間が終わり、夕食まで間があるというとき、タールでよごれた粗布のうわっぱりを着た痩せて小柄な男が、大きな居間に通されてきた。「ケルダー王子がおれと話したがってると言われたんでよ」男はきょろきょろした。そのしゃべりかたはフェルデガーストとそっくりだった。
「ああ――」ガリオンはまごまごしながら言った。「王子はちょっと席をはずしてるんだ」
「一日中待ってるほど暇じゃねえんだよ、おれは」小柄な男は文句を言った。「やらなけりゃならねえことがあるし、会わなけりゃならない相手がいるんだ」
「わたしが引き受けよう、ガリオン」ダーニクが穏やかに言った。
「しかし――」
「かまわないさ」ダーニクはいくぶんきっぱりした口調で言うと、小柄な沖仲仕のほうを向いた。「王子はいくつかたずねたいことがあったんだ、それだけのことだ」ダーニクの口ぶりはものうげと言ってもいいようなものだった。「殿下をわざわざ呼ばなくても、あんたとわたしで話はできる」ダーニクは笑った。「ああいう高貴な生まれの人間がどんなに――興奮しやすいか、知ってるだろう?」
「そのとおりだな、ったく。貴族ほど人間から良識を奪う称号はねえよ」
ダーニクは両手を広げた。「同感だ。腰をおろしてちょっと話をしないか? エールはどうだ?」
「おれはときどき飲むんで知られてるのさ」小柄な男はにやにやした。「おまえさん、おれの心がお見通しだね、友だち。商売はなにをやってる?」
ダーニクはたこと火傷の跡がある両手をつきだした。「鍛冶屋だ」
「ヘエーッ!」沖仲仕は叫んだ。「そいつはまた暑くて骨の折れる仕事を選んだもんだ。おれは甲板で働いてる。つらいにゃつらいが、すくなくとも広々とした空気のもとで働けるからな」
「まったくだ」ダーニクは同じようにのんきな態度で同意した。それからふりかえって、ベルガラスに向かって指を鳴らした。「わたしの友だちとわたしのためにエールを見つけてきてくれないか? なんなら、自分のも取ってくるといい」
ベルガラスが喉に異物が詰まったような音を盛大にたてて、廊下にいる召使いに話をしようとドアに近づいた。
「女房の親類でね」ダーニクはタールでよごれた男に打ち明けた。「うすぼんやりしたやつなんだが、女房のやつがどうしても使ってくれというもんだから。どういうものかわかるだろう」
「ああ、神々にかけてわかるともさ。おれのかあちゃんにも従兄弟がごまんといるが、そいつらがそろいもそろってシャベルの先と柄の区別がつかねえときてるのよ。それでも、エールと晩飯だけは見つけられるんだからな」
ダーニクは笑った。「仕事はどうだ? 甲板では、ということだが?」
「しんどいのなんのって。親方ってのは金は全部てめえのためにとっていて、おれたちには真鍮しかよこさねえ」
ダーニクは皮肉っぽく笑った。「それが世の習いってものじゃないか?」
「まったくだよ、友だち。そのとおりさ」
「この世には正義などないんだ」ダーニクはためいきをついた。「人間は運命の荒波にひたすらもまれるだけだ」
「まったくおめえの言うとおりだ。おめえも性悪な親方の下でひでえ目に会ったことがあるらしいな」
「一、二度な」ダーニクは認めてから、ためいきをついた。「さて、それじゃ仕事の話をしようか。王子は白目の男にちょっと関心を持っているんだ。見たことはあるか?」
「ああ」沖仲仕は言った。「あいつだな。あいつが肥溜めにおでこまで沈まんことを」
「会ったことがあるんだな」
「ぞっとしたぜ、まったく」
「ということは、その男に関するわれわれの意見は一致しているというわけだ」ダーニクはなめらかに言った。
「やつを殺すつもりならよ、船荷用の鉤を貸してやるぜ」
「それも一案だな」ダーニクは笑った。
ガリオンは正直者の古い友人をあっけにとられて見つめた。それはいままでに見たことのないダーニクの一面だった。すばやく横を見ると、ポルガラがおどろいて目を丸くしているのが見えた。
そのとき、シルクが入ってきたが、ヴェルヴェットがしっというように合図したので立ち止まった。
「しかしだ」ダーニクはずるそうに先をつづけた。「われわれがそろっていやなやつだと思う野郎をあわてふためかせるには、そいつが一年あまりあたためてきた計画をぶちこわすのが一番じゃないか?」
沖仲仕のくちびるがめくれあがって、凶暴な笑いが浮かんだ。「ちゃんと聞いてるぜ、友だち」男は熱っぽく言った。「白目に足払いをかける方法を教えてくれよ、最後までおめえにつきあうぜ」沖仲仕は手にペッと唾を吐いて、その手を差しだした。
ダーニクもてのひらに唾を吐き、ふたりは昔ながらの流儀で手を打ち合わせた。それから鍛冶屋は内密の話でもするように声を落とした。「ではと、この白目のやつ――やつの歯が一本残らず抜け落ちんことを――がメルセネ行きの船を雇ったことはわかってるんだ。知りたいのは、いつ、どんな船に乗って、だれと一緒にやつが出発し、どこへ上陸したかということだ」
「単純明快だな」沖仲仕はゆったりそう言うと、椅子に背をもたせかけた。
「おい」ダーニクはベルガラスに言った。「エールはいまくるところか?」
ベルガラスはまたも喉が詰まったような音をたてた。
「ちかごろじゃまともな手伝いもできんときてる」ダーニクはためいきをついた。ポルガラが懸命に笑いを押し殺している。
「それじゃ」沖仲仕が同じく秘密めかした態度で身を乗り出しながら言った。「これはおれがこの目でちゃんと見たことだからな、手垢のついた情報なんかおれはしゃべってねえ。おれがその白目が港へきたのを見たのは、五日ばかし前の朝だった。夜が明けたころだったな、霧と煙の区別がつかねえような、深く息を吸いたくなるような、曇った朝のことだった。とにかくよ、その白目の野郎は黒いサテンのローブを着た女と一緒だったんだ。女は頭巾をすっぽりかぶって、ちっちゃな男の子を連れてたっけ」
「どうして女だとわかるんだ?」ダーニクが口をはさんだ。
「おめえにだって目があるだろうが?」沖仲仕は笑い声を立てた。「女はおれたちみてえな歩きかたはしねえよ。ああいう尻のゆれかたは、男にゃ逆立ちしたって真似できねえやな。あれは絶対女だった、信用しろよ。ちっちゃい子供は朝日みてえにきれいだったが、どこか悲しそうだったな。しっかりした子供で、できるものなら剣をつかんで白目と女を片付けちまいたいっていうような顔をしてた。とにかくよ、連中は船に乗った。もやい綱をといて、霧の中へ漕ぎ出していったよ。メルセネの都市をめざしてるってことだった――あるいはそのそばの人目につかない入り江をな。そら、ここらじゃ密売買は珍しいことじゃないからな」
「で、それは五日前だったのか?」ダーニクがきいた。
「五日か四日だ。ときどきおれは日にちがよくわからなくなるのよ」
ダーニクは男のタールで汚れた手を暖かく握った。「友だち、われわれふたりで白目の男を徹底的にやっつけようじゃないか」
「蹴飛ばすならまかせときな」沖仲仕は待ちきれないように言った。
「たのむぞ、友だち」と、ダーニク。「当てにしてる。わたしは一、二回蹴るにとどめておくよ、あんたのために。シルク」と鍛冶屋はまじめくさって言った。「ここにいるわれわれの友だちに、わざわざきてもらった見返りを払うべきだと思うがね」
シルクはいささか閉口したように財布からコインを何枚かふりだした。
「それで精一杯なのか?」ダーニクは批難がましくきいた。
シルクは金額を倍にした。次に、ダーニクの不満げな表情を盗み見て、金貨でさらに倍にした。
沖仲仕はだれにも取られないように、しっかりコインを握りしめて立ち去った。
ヴェルヴェットが無言でたちあがり、心からの尊敬をこめてダーニクにお辞儀した。
「どこでおぼえたんだ?」シルクが問いつめた。
ダーニクはちょっとおどろいたようにシルクを見た。「田舎市で前に馬を売買したことがあったでしょう、シルク?」
「おれの言ったとおりだろ、老友よ」ベルディンが陽気に言った。「昔ながらのしゃべりかたはいまだ健在なんだよ。あれをまた聞けるとは、おれの耳にゃまさに音楽だわな」
「おまえまでそういうしゃべりかたをせんと気がすまんのか?」ベルガラスはぶりぶりしながら、ダーニクのほうを向いた。「あの慣れ慣れしい態度はいったいどういうことだったんだね?」
ダーニクは肩をすくめた。「ああいう手合いには何度も会ったことがあるんですよ。そういう気持ちにさえしてやれば、ああいう連中は実に役立ってくれるものなんです――ただ、ひどく扱いにくいので、接近のしかたをまちがえたら元も子もない」ダーニクは微笑した。「少し時間をもらえれば、あの男に三本脚の馬だって売りつけられたでしょう――そして最高にボロい取引をしたと思わせてやれたでしょうね」
「ああ、わたしのダーニク」ポルガラが両腕を鍛冶屋の首に投げかけた。「あなたがいなかったら、わたしたちどうしたらいいのかしら?」
「それがわかるようにならないことを祈るよ」
「よし」ベルガラスが言った。「これでザンドラマスがメルセネへ行ったことがわかった。問題はその理由だ」
「おれたちから逃げるためかな?」シルクが口をはさんだ。
「それはちがうと思いますよ、ケルダー」サディが異議を唱えた。「ザンドラマスの権力の中心地はダーシヴァです。どうして他の方向へ逃げる必要があるんです?」
「調べてみるさ」
「メルセネにはなにがあるの?」ヴェルヴェットがたずねた。
「たいしたものはない」シルクが答えた。「メルセネ自体にあるすべての金を勘定にいれなければな――最後におれが聞いたところじゃ、世界の金のほとんどが集まってるんだ」
「ザンドラマスはお金に関心があるのかしら?」金髪の娘はきいた。
「いいえ」ポルガラがきっぱりと否定した。「お金なんてザンドラマスにはなんの意味もないはずよ――この時点ではね。あの女の関心は他のところにあるわ」
「ザンドラマスにとって意味がある唯一のものは、いまのところサルディオンだけだ、そうだろう?」ガリオンが言った。「サルディオンが諸島のどこかにある見込みはあるのかな?」
ベルディンとベルガラスが視線をかわした。「あの文句はいったいなにを意味してるんだ?」ベルディンがいらだたしげに問いつめた。「考えろ、ベルガラス。〈もはや存在しない場所〉てのはどういう意味なんだ?」
「おまえのほうがおれより利口なんだろ」ベルガラスが応酬した。「謎を解け」
「謎なぞは大きらいなんだ!」
「現時点でおれたちにできるのは、足跡を追いかけてわからないことをつきとめることだけじゃないのかな」シルクが言った。「ザンドラマスは自分の行き先を心得ているようだが、おれたちはそうじゃない。としたら、あまり選択権はないんじゃないか?」
「サルディオンもジャロトへきたんだ」ガリオンは考えこんだ。「かなり前のことだが、〈珠〉が町のすぐ外でサルディオンの足跡をかぎあてた。ザンドラマスとサルディオンの両方の足跡がまだ一緒なのかどうか、波止場へ行って確かめてみる。われわれ同様、ザンドラマスもまたサルディオンを追いかけているのかもしれない。サルディオンの行き先をザンドラマスが実は知らない可能性だってある。ことによると、あの女はサルディオンを追いかけているのかもしれない」
「なるほど」とベルディン。
「サルディオンがメルセネのどこかに隠されているなら、今週中にすべてけりがつく」ガリオンは言いそえた。
「早すぎるわ」ポルガラがぽつりと言った。
「早すぎるですって?」セ・ネドラが大声を出した。「レディ・ポルガラ、わたしの赤ちゃんがいなくなってもう一年以上になるのよ。早すぎるなんてこと、どうしておっしゃれるの?」
「そのこととは関係ないのよ、セ・ネドラ」女魔術師は答えた。「あなたが赤ちゃんの戻ってくるのを待つようになってまだ一年だわ。わたしは千年以上もガリオンを待ったのよ。運命や時や神々はわたしたちの歳月には無関心なの。でもシラディスが言ったでしょう、最後の対決まであとまだ九ヵ月あるとね。まだそんなに経っていないわ」
「シラディスが間違ったのかもしれないわ」セ・ネドラは言いつのった。
「かもしれない――でも、間違ったとしてもほんの一秒かそこらだわね」
[#改ページ]
翌朝、港には霧が出ていた。いまにも泣きだしそうな空に必ずといっていいほどかかる、あの初秋の濃い霧である。馬に荷物を積みながら、ふと目をあげたガリオンはこれから乗る船のマストが下から数フィート先で早くも霧にまぎれて見えなくなっているのに気づいた。シルクが後部甲板に立って、船長と話しこんでいた。
「数リーグ沖へ出れば、晴れますよ、殿下」ガリオンが近づいていくと、船長がそう言っていた。「海岸線とメルセネのあいだは、きまって強い卓越風が吹き抜けてますんでね」
「よし」シルクは言った。「衝突するのはごめんだからな。メルセネに到着するまでどのくらいかかりそうだ?」
「ほぼ一日です。殿下」船長は答えた。「かなり遠いですが、強風はわれわれに有利に働きます。しかし、帰りは数日かかるでしょう」
「もうすぐ全員乗船する」シルクは言った。
「そちらの準備ができれば、いつでも出発できます、殿下」
シルクはうなずいて、ガリオンのいる手すりのところへやってきた。「少しは気分がよくなったか?」
「なんのことだい」
「けさ起きたときはちょいと不機嫌だったじゃないか」
「すまない。いろいろ考え事をしてたんだ」
「話してみろよ。分かちあえる相手がいれば、悩みも軽くなる」
「ぼくたちはあと一歩のところまできている。問題の対決がメルセネ諸島のここで起きなくても、残るはあとほんの数ヵ月だ」
「やれやれ。鞍の上での生活にはいささかうんざりしはじめてたんだ」
「だが、なにが起きるのかぼくたちはまだ知らない」
「知ってるとも。おまえがザンドラマスと対決して、そのでかいナイフであの女をまっぷたつにし、女房と息子を連れて本来いるべきリヴァへ戻るんだ」
「でも、そうなるかどうかわからないじゃないか、シルク」
「トラクとの一騎打ちにしたっておまえが勝つかどうかおれたちは知らなかったんだぜ。だがおまえは勝った。神との戦いに勝った者が、二流の女魔術師を恐れることはないさ」
「どうして二流とわかる?」
「ザラドラマスは弟子じゃない、だろう? それとも、女弟子じゃない、というべきなのかね?」
「知らないよ」ガリオンはかすかにほほえんだが、すぐまた真顔に戻った。「ザンドラマスは従弟制度を飛び越したんだと思う。〈闇の子〉なんだから、単なる弟子以上だ」ガリオンは手すりにこぶしをたたきつけた。「自分がなにをすることになっているのか知っていたらな。トラクを追っていたときは知っていたんだ。今度はよくわからない」
「その時がくれば指示を受け取るさ、まちがいない」
「だが、知っていれば準備ができる」
「これは準備できるようなものじゃないと思うぜ、ガリオン」小男は手すりごしに海中で浮き沈みしている残飯をちらりと眺めた。「ゆうべ港まで足跡をたどったのか?」
ガリオンはうなずいた。「ああ――両方の足跡をね。ザンドラマスもサルディオンもここから出発している。ザンドラマスがメルセネへ向かっているのは確実だ。サルディオンがどこへ行ったかは神々だけが知っている」
「かれらも知らないかもしれないな」
頭上の霧にまぎれている索具から大きな水滴が落ちてきて、シルクの肩にぴしゃりとはねかえった。
「なんでいつもおれなんだ?」小男はぐちをこぼした。
「なにが?」
「空からぬれたものが落ちてくるのは、きまっておれの上なんだ」
「だれかがなにか伝えようとしているのかもしれないよ」ガリオンはにやにやした。
トスとダーニクが最後の馬を引いて渡し板をのぼってきて、船倉へおりていった。
「あれで全部だ、船長」シルクが呼びかけた。「もういつでも出発できるぞ」
「わかりました、殿下」船長は声をはりあげて命令を叫びはじめた。
「聞こうと思ってたことがあるんだよ」ガリオンはシルクに言った。「前はいつでも称号を恥ずかしがってるような態度を取ってただろう。ところがここマロリーでは称号にどっぷりつかりたがっているみたいだ」
「なんともすごい言葉の選びかただな」
「ぼくの言う意味、わかるだろう」
シルクは片方の耳たぶをひっぱった。「西方じゃ、おれの称号は都合が悪いんだ。余計な注意を引きすぎて邪魔になる。ここマロリーでは勝手がちがうのさ。ここだと、称号がなけりゃだれもまじめに取り合ってくれない。おれには称号があるから、利用してる。称号がおれに代わって扉を開き、コトゥのアンバーやボクトールのラデクには鼻もひっかけない連中との取引を可能にしてくれるのさ。だが、本当はなにも変わっちゃいない」
「するとあのいけすかない態度――ごめんよ――はみんな見せかけなのか?」
「もちろんだよ、ガリオン。まさかおれが救いがたいバカになったと思ってるんじゃないだろうな?」
妙な考えがガリオンの頭に浮かんだ。「それじゃケルダー王子もアンバーやラデクみたいな作りものなんだね?」
「もちろんさ」
「しかし、本当のシルクはどこにいるんだ?」
「それはすごく説明しにくい、ガリオン」シルクはためいきをついた。「ときどきおれは何年も前にかれを失ったような気になるのさ」シルクは周囲の霧に目をやった。「下へ行こうぜ。陰気な朝ってやつは、いつもこういうユーウツな会話からはじまるらしいや」
防波堤の一リーグほど向こうで、空が錆色に変化し、霧が薄くなりはじめた。マロリー沿岸の東の海面が巻き上がって長い陰鬱なうねりを作り、亀裂ひとつない広大な水の広がりを示した。船は大波をへさきで切り分けながら卓越風の前を走った。午後遅くにはメルセネ諸島の最大の島が水平線上にはっきりと見えてきた。
メルセネの都市の波止場はマロリー全土からの船舶で込みあっていた。大小の船が波立つ海でぶつかりあうなか、シルクの船長は慎重に岸から突き出た石の桟橋へ、船舶のすきまを縫って進んでいった。一行が下船して、シルクの先導でかれの所有する家をめざして広い街路を歩きだしたときには、日が暮れていた。メルセネは落ち着いた、面白味のないともいえる都市だった。通りは広くて、神経質なほど清潔だった。家々は大きく、住民はすべて沈んだ色合いのゆったりした長衣を着ている。他の都市によく見受けられる喧噪がまるでない。メルセネの市民は行儀よく通りを歩き、行商人の声も穏やかだった。やかましい都市の街路に充満する絶えまない売り声にありがちな、あの耳ざわりな声とは似ても似つかない。メルセネは熱帯地域に位置しているが、海からふいてくる卓越風が気温を下げてくれるので、気候は快適だった。
シルクの家は宮殿と呼んだほうが妥当なしろものだった。大理石の建築物で、数階建てなのだ。正面には広々とした幾何学式庭園があり、両側には堂々たる大木がそびえている。舗装された車回しが曲がりくねってその庭園を通過し、円柱の並ぶポーチへつづいていた。玄関口にはお仕着せを着た召使たちがいんぎんに立っていた。
「豪華ですな」馬をおりながら、サディが言った。
「いいところだよ」シルクはなにくわぬ口調で認めたあと、笑いだした。「実はね、サディ、これはほとんど人に見せるためなんだ。おれ個人としちゃ、裏通りのうらぶれたちっぽけなオフィスのほうが好きなんだが、メルセネ人は見かけにひどくこだわるんでね、ここでビジネスをするつもりならそれにふさわしくしなけりゃならないのさ。なかへ入ろう」
一行は広い階段をのぼって、堂々たるドアをくぐりぬけた。ドアを入るとすぐ広々とした控えの間があった。壁は大理石でおおわれている。シルクはみんなの先にたって控えの間を横切り、壮麗な階段をのぼりはじめた。「一階の部屋はみんなオフィスになってるんだ」と説明した。「住居は上にある」
「ここでどういうたぐいの仕事をしてるんだね?」ダーニクがたずねた。「倉庫らしきものはひとつも見かけなかったが」
「メルセネには倉庫はないんだ」と言いながらシルクはとあるドアをあけて、青い絨緞の敷き詰められた広い居間にみんなを通した。「もちろん決定はここでくだされるんだが、商品は普通大陸のほうに保管されてる。品物を船でここへ運んできてからまた船で送り返すんじゃ、あまり意味がないからな」
「そりゃそうだ」
かれらが足を踏み入れた部屋の調度品ははなやかだった。寝椅子やすわり心地のいい椅子があちこちにかたまって置かれ、羽目板張りの壁に取り付けられた燭台には、蝋燭が燃えていた。
「ザンドラマスを捜して町を歩き回るにはちょっと時間が遅いな」シルクは言った。「なにか腹に入れて、ぐっすり眠ったほうがいいと思うんだ。明日の朝早く、ガリオンとおれで捜索を開始すりゃいい」
「それが一番よかろう」ベルガラスがふかふかの寝椅子に沈みこみながら同意した。
「晩めしを待つあいだになにか飲物をどうです?」シルクがきいた。
「きいてくれないんじゃないかと思った」ベルディンがうなるように言って、椅子にだらしなくひっくりかえり、あご髭をぽりぽりかいた。
シルクが呼び鈴の紐を引くと、たちどころに召使いが入ってきた。「ワインを飲もうと思う」シルクは言った。
「かしこまりました、殿下」
「何種類か持ってきてくれ」
「エールはあるか?」ベルディンがたずねた。「ワインは腹具合いが悪くなるんだ」
「こうるさい友だちのためにエールも持ってきてくれ」シルクは命令した。「それから厨房に晩めしは十一人分だと伝えてくれ」
「ただいま、殿下」召使いは一礼すると静かに部屋を出ていった。
「お風呂の設備はあるんでしょう?」ポルガラが航海のあいだはおっていた軽いマントを脱ぎながらたずねた。
「ゆうべジャロトで入ったばかりじゃないか、ポル」ベルガラスが指摘した。
「ええ、おとうさん」ポルガラはうわの空で言った。「わかってるわ」
「どのつづき部屋にも風呂がついてますよ」シルクが言った。「ザカーズの宮殿の風呂みたいにでかくはないけど、ちゃんと体はぬれる」
ポルガラはにっこりして、寝椅子のひとつに腰かけた。
「どうかみなさん、すわって」シルクは残りの面々に言った。
「ここにいるおまえさんの部下たちの中に、世界でなにが進行中か知っている者がいると思うか?」ベルガラスが小男にたずねた。
「当然ですよ」
「どうして当然なんだ?」
「おれが子供のころ夢中でやったのは探偵ごっこだったんです、ベルガラス。古い習慣はそう簡単になくなるものじゃない。部下は全員情報収集を指示されてます」
「その情報をどうするの?」ヴェルヴェットがたずねた。
シルクは肩をすくめた。「よりわける。おれにとっちゃ、情報を扱うのは、金を扱うのにほとんどひけをとらない楽しみなんだ」
「その情報をボクトールのジャヴェリンに回してるの?」
「ときどきいくつか送ってる――おれがまだ生きてることを思い出させるためにね」
「そんなことをしなくたって、ジャヴェリンは知ってるはずでしょ、シルク」
「最新の報告をもたらしてくれる人間を呼んでくれんか?」ベルガラスが言った。「ずいぶん世間とは疎遠になってたからな、ある一部の連中がなにをたくらんでいるのか知っておきたいのだ」
「それもそうですね」シルクはまた呼び鈴の紐を引いた。別の召使いがあらわれた。「ヴェターにちょっとここへくるように言ってくれないか?」
召使いはお辞儀して出ていった。
「ここにいるおれの仲買人なんだ」シルクはすわりながら言った。「ブラドーの秘密警察からひっこぬいたのさ。仕事もできるし、情報機関で修行もつんでる」
ヴェターは細い顔の男で、左のまぶたに神経質なチック症状が出ていた。「お呼びでしょうか?」部屋に入ってくると、うやうやしくたずねた。
「ああ、おまえかヴェター。奥地から戻ってきたんで、最近の情報を教えてもらえないかと思ってな」
「メルセネの、ですか、殿下?」
「それよりもうちょい一般的な状況をだ」
「わかりました」ヴェターは口をつぐんで、思考をまとめた。「マル・ゼスには疫病が発生しました。皇帝が都市を封鎖して、病気の広がるのを防いだので、しばらく首都からはまったく情報がはいりませんでした。しかし、疫病がおさまったので、ふたたび城門はあけられています。現在は皇帝の密偵たちがマロリーを自由自在に動き回っています。
中部カランダでは大変動がありました。扇動したのはメンガという名の元グロリムのようです。カランド人はひとり残らずその騒ぎには悪魔がかかわっていると信じていますが、カランド人というのは普通でない出来事はなんでもかんでも背後に悪魔がいると思っている連中です。ですが、カランダで少なくともいくつかの超自然的事件があったことは確かなようです。メンガはかなり前から姿を消しており、秩序は徐々に回復しています。皇帝は事態を深刻に受け止めて、クトル・マーゴスから軍を引き上げ、事態の収拾にあたらせました」
「その命令をザカーズはもう取り消したか?」シルクがたずねた。「カランダの状況が鎮まってきたなら、なにもそんなに多数の部隊は必要ないだろう?」
ヴェターは不同意のしるしに首をふった。「部隊はまだマル・ゲミラに上陸しています。マル・ゼスから送られてくる情報によれば、皇帝はクトル・マーゴス征服への熱意を失ったようです。そもそもクトル・マーゴスでの戦いには皇帝の個人的理由がからんでいたのですが、それらの理由がもはや以前ほど切迫したものではなくなったらしいのです。カル・ザカーズの目下の最たる関心は、弟子のウルヴォンと女魔術師ザンドラマスとの目前に迫った対決と見えます。一番の問題はその状況でしょう。ウルヴォンは精神的に不安定な状態にあるようですが、かれの手下たちは大挙してきわめて重大な何事かにそなえ、マル・ゲミラへ向かっています。ザンドラマスもまた軍隊を率いています。われわれの目算では、皇帝が部隊をマル・ゼスから移動させて秩序の回復につとめさせるのは時間の問題です。マガ・レンで供給物資が備蓄されているという報告がありました。カル・ザカーズはマガ・レンを部隊の結集地域として利用するつもりのようです」
「どうにかそれに乗じることはできたのか?」シルクは熱っぽくたずねた。
「ある程度までは、殿下。本日、軍の備品調達局に豆の一部を売ったばかりです」
「値段は?」
「われわれが支払った額の十五ポイント増しでした」
「ジャロトのカスヴォーに伝えたほうがいいぞ」シルクは渋い顔で言った。「おれはカスヴォーに十三で売れと言ったんだ。メルセネ組合が買いを申し出ている。値段はもっと高くなりそうか?」
ヴェターは片手を伸ばして、おぼつかなげに前後にふった。
「十五で売ったことは伏せて、カスヴォーにその数字を維持するよう伝えろ。値が十六まであがっても、まだ取引きから儲けの大半を得られる」
「そのように取り計らいます、殿下」ヴェターはかすかに眉をひそめた。「ダラシアであることが進行中です」と報告をつづけた。「まだはっきりとはわかっていませんが、ダラシア人はそのことでひどく興奮しているもようです。ケル人が立ち入りを禁じられたため、調査する人間が獲得できないのです。ダラシアで起きるいっさいについては、ケル人が情報源ですから」
「西方からなにかニュースは?」ガリオンはたずねた。
「クトル・マーゴスでは事態はいぜん行きづまっています」ヴェターは答えた。「カル・ザカーズがそこでの部隊を縮小して、将軍たちに帰郷を呼びかけました。東部クトル・マーゴスの都市郡はまだザカーズの手中にありますが、郊外は元の状態に戻りつつあります。ウルギット王がその状況を利用するつもりかどうかははっきりしません。他に意図していることがあるのです」
「ほう?」シルクが興味しんしんでたずねた。
「ウルギット王は結婚するのです。たしかクタン家の王女と」
シルクはためいきをもらした。
「ミシュラク・アク・タールのゲセル王は亡くなりました」ヴェターはつづけた。「王位を継いだのは息子のナセルです。ナセルは救いがたい無能でして、かれがいつまでもちこたえるかわかりません」ヴェターはいったん言葉を切って、あごをかいた。「ボクトールでは〈アローン会議〉の会合があるとの報告がありました。アローン人は年に一度集まりますが、普通集まる場所はリヴァです。もうひとついつもとちがうのは、非アローンの君主が大勢出席した事実でした」
「ふうむ。だれだね?」ベルガラスがきいた。
「センダー人の王や、トルネドラの皇帝、ガール・オグ・ナドラクのドロスタ王。アレンディアの王は病気でしたが、代理人をさしむけました」
「今度はなにをやらかすつもりだ?」ベルガラスはつぶやいた。
「会議録は手にはいりませんでした。しかし、それからまもなく各王国から外交団がラク・ウルガへ出発しています。きわめて重要な交渉が進行中だともっぱらの噂です」
「連中めが、いったいなにをしとるんだ?」ベルガラスがいらだたしげな声で言った。
「アローン人をほったらかしておくなとあれほど言っただろう」ベルディンが言った。「まちがったことをしでかす方法がちょっとでもあれば、アローン人はそれをやっちまうんだから」
「金の価格があがっています」ヴェターはつづけた。「マロリーの銀の値はさがっています。メルセネのインペリアル金貨は変動なしですが、ダイアモンド市場は変動が激しすぎるためダイアモンドの投資からは手を引きました。だいたいこんなところです、殿下。明朝一番に机の上にくわしい報告書を出しておきましょう」
「ありがとう、ヴェター。さしあたってはそれだけだ」
ヴェターは一礼して静かに立ち去った。
ベルガラスがぶつぶつと悪態をつきながら、いったりきたりしはじめた。
「どうしようもないじゃないの、おとうさん」ポルガラが言った。「だったら、どうしてうろたえるのよ?」
「かれらのしていることにはなにか理由があるのかもしれませんよ」とシルク。
「マーゴ人どもと交渉しなけりゃならんような、どんな理由があるというんだ?」
「さあ」シルクは両手を広げた。「かれらが決断したときに、その場にいたわけじゃありませんからね。ことによるとウルギットがかれらの望んでいたものを差しだしたのかもしれない」
ベルガラスはののしりつづけた。
三十分ほどたってから、みんなは食堂へ移り五十人はすわれそうなテーブルの一端に腰をおろした。麻布は純白、ナイフやフォークは純銀で、陶器の皿は金で縁どりされていた。給仕は絶妙で、食事は宴会なみにたっぷりあった。
「あなたのコックと話をしなけりゃならないわ」デザートに移ったときに、ポルガラが言った。「才能ある人材らしいわね」
「そうでなくちゃ」シルクが言った。「大枚はたいているんですよ」
「痛くもかゆくもない出費なんだろう」ダーニクが周囲の贅沢な家具を眺めながら言った。
シルクは椅子に背をもたれて、銀の酒杯の脚をもてあそんだ。「おれがここへくるのは一年に二回ばかりなんだから、こんな屋敷を維持するのは本当はばかげてるんだ。だが、こうあるべきだと思われてるんだよ」
「ヤーブレックも利用しないのか?」ガリオンがきいた。
シルクはかぶりをふった。「いや。ヤーブレックとは協定を結んでるんだ。やつがメルセネに足を踏みいれないかぎり、世界中どこでも好きなようにやっていいとね。ヤーブレックはここには不向きなのさ。それにどこへ行くにもヴェラを連れてるだろう。ヴェラを見たら、メルセネ人は卒倒しちまう」
「だが、あれはいい娘っ子だぞ」ベルディンがにやにやした。「これが全部かたついたら、ヴェラを買ってもいい」
「ひどい!」セ・ネドラがいきまいた。
「おれがなにを言った?」ベルディンはまごついた顔をした。
「ヴェラは牝牛じゃないのよ、そうでしょう」
「ちがうさ。牝牛がほしけりゃ牝牛を買う」
「人間を買うなんてめちゃくちゃだわ」
「そんなこたない。あれはナドラクの女なんだ。おれが買おうとしなかったら、侮辱されたと思う」
「ヴェラのナイフには気をつけることね、おじさん」ポルガラが警告した。「あの子のナイフの扱いは、目にもとまらぬ早業よ」
ベルディンは肩をすくめた。「だれだってひとつやふたつ悪い癖はあるってことよ」
セ・ネドラと分けあっているベッドはふかふかだったのに、その夜ガリオンはよく眠れなかった。はじめはそれが問題なのかもしれないと思った。もう何週間も地面の上で眠っていたし、柔らかいベッドに体がなじまないのももっともなことに思えたからだ。だが真夜中近くになると、眠れないのはベッドとはまるで無関係なのに気づいた。時は無情に進みつづけ、ザンドラマスとの対決は刻々と立ち止まることなく近づいている。それなのにわかっていることといったら、最初から少しも増えていないのだ。探索を開始したときより、ザンドラマスに近づいているのはたしかだ――報告が正しければ、遅れているのはせいぜい一週間たらず――だが、足跡を追っていることに変わりはなく、ザンドラマスが自分をどこへ導いていくのかいまだにわかっていない。ガリオンは暗い気分で『ムリンの書』を書いた狂人によりぬきの悪態をつぶやいた。どうしてなにもかもこう秘密めいていなけりゃならないんだ? どうしてわかりやすい言葉で書いてないんだ?
(そうだったら、おまえが対決の場にたどりついたとき、世界の半分がおまえを待っているからさ)心の中で乾いた声がガリオンに言った。(サルディオンを見つけたがっているのは、おまえだけではないのだぞ)
(あなたは永久に去ったのだと思ってました)
(ちがうとも、まだここらにいる)
(ぼくたち、ザンドラマスにどれくらい遅れているんです?)
(約三日だ)
ガリオンは狂おしい希望がわきあがるのを感じた。
(あまり興奮するな)声は言った。(また足跡を見つけても、いきなり走り出すのではないぞ。ここで行なわれなくてはならぬことがほかにあるのだ)
(なんです?)
(それを聞くようなばかな真似はするな、ガリオン。わたしには教えられないのだ。したがって、わたしをだまして答えさせようとするのはよせ)
(どうして教えられないんです?)
(わたしがあることをおまえに教えれば、残りの魂が勝手に他のことをザンドラマスに教えてしまうからだ――たとえば、〈もはや存在しない場所〉の位置のようなことをな)
(ザンドラマスは知らないってこと?)ガリオンは耳を疑った。
(もちろん知らん。知っていれば、いまごろはついているだろう)
(それじゃ『アシャバの神託』には書かれていないんですね?)
(あきらかにな。明日に注意しろ。だれかがもののついでにたいへん重要なことを言うだろう。聞きのがすなよ)
(だれが言うんです?)
しかし声は消えていた。
シルクとガリオンが地味な青の長衣を着て出発したのは、そよ風の吹く翌朝のことだった。シルクの提案で、ガリオンは〈珠〉を剣の柄《つか》からはずし、長衣の下に隠して行った。「メルセネ人はめったに市内じゃ武器を持たないんだ」小男は説明した。「おまけにきみの剣は目立ちすぎる」ふたりは馬には乗らずに、通りまで歩き、メルセネの市民にまぎれこんだ。
「港のあたりからはじめたほうがいいだろう」シルクが言った。「それぞれの波止場は異なる商人グループが所有しているんだ。どの波止場にザンドラマスが上陸したかがわかれば、詳しい情報をたずねる相手がわかるってもんさ」
「もっともだ」ガリオンは短く言って、大股に港のほうへ歩き出した。
「走るな」
「走ってないよ」
「早く歩きすぎるんだよ」小男は言った。「メルセネの人間はもっとゆっくり歩くんだ」
「いいかい、シルク、ここの人間にどう思われようとぼくの知ったことじゃない。時間をむだにするためにここにいるんじゃないんだ」
シルクは友だちの腕をつかみ、真剣に言った。「ガリオン、ザンドラマスとその子分がここにきたことはわかってるんだ。ザンドラマスはおれたちに追われているのを知ってるし、メルセネにはさまざまなたぐいの計略に雇われそうな人間がいくらでもいる。人ごみの中で目立つようなことをして、そういう連中を喜ばすのはやめようぜ」
ガリオンはシルクを見た。「わかったよ。この町の流儀でやろう」
ふたりはいらだたしいほどのんびりした歩調で広い街路を歩いていった。あるところでシルクが低く毒づいて立ち止まった。
「どうしたんだ?」
「すぐ先にいるあの男――鼻のでかいやつだ――ブラドーの秘密警察のメンバーだ」
「たしかか?」
シルクはうなずいた。「かなり前から知ってるやつなんだ」小男は肩をそびやかした。「ちぇ、しかたがない。もう見られちまった。このまま行こう」
だが球根みたいな鼻の男はこちらへ向かってきてふたりの行く手にたちはだかった。「おはようございます、ケルダー王子」わずかに頭をさげて、男は言った。
「ロッラ」シルクはよそよそしく答えた。
「そして陛下」ロッラはガリオンに向かってさらに頭をさげた。「メルセネのこんなところにあなたがあらわれるとは思ってもみませんでしたな。ブラドーがさぞおどろくでしょう」
「びっくりするのはブラドーにとって悪いことじゃないさ」シルクは肩をすくめた。「何事にも動じない人間は自己満足に陥りがちだ」
「皇帝は陛下にひどくお腹だちでしたよ」ロッラは非難がましくガリオンに言った。
「そのうちきっときりぬけるさ」
「陛下、マロリーではきりぬけられるかどうか心配しなければならないのは、カル・ザカーズを怒らせたほうなんですそ」
「おどかすのはよせよ、ロッラ」シルクはたしなめた。「ここにおいでの陛下はな、国務省長官宛てのあんたの報告がおもしろくないものになりそうだと判断したら、報告書が書けなくなるような手段を講じるかもしれないんだぜ。なんてったって陛下はアローン人なんだ。アローン人がどんなに短気かあんただって知ってるだろう」
ロッラは不安そうにあとずさった。
「あんたと話すのはいつも楽しいよ、ロッラ」シルクは切り口上で言うと、そのままガリオンと歩きだした。そばを通過したとき、ガリオンは鼻の大きな男の顔にかすかな不安が浮かんでいるのに気づいた。
「たまらないね、ああいうことをする楽しさは」シルクはにやにやした。
「簡単に楽しくなる男だな。やつの報告書がマル・ゼスに届いたら、ザカーズはこの地域全体に密偵を送り込んでくるぞ。そうなったらぼくたちを見つけようとするやつらでこのへんはいっぱいになる、わかってるんだろうね」
「引き返して、きみにかわってロッラを殺してこようか?」
「じょうだんじゃない!」
「だろう。ひとつの状況について手が打てないときは、心配したって無意味なんだ」
波止場につくと、ガリオンは〈珠〉をつかんでいる手に力をこめた。〈鉄拳〉の剣の引きはときとしておそろしく強いことがあるから、石が手から飛び出すようなことになってもらいたくなかったのだ。ふたりは潮のにおいをかぎながら、波止場に沿って北へ歩いた。メルセネの港は世界の大半の港湾都市とちがって、おどろいたことに漂流する残飯がまったくなかった。
「どうやってこんなにきれいにしてるんだ?」ガリオンは好奇心からたずねた。「海を、ってことだが?」
「港にものを投げ込むと重い罰金が課せられるのさ」シルクは答えた。「メルセネ人は異常に清潔好きなんだ。労働者に網を持たせて港近辺を小舟で巡回させ、浮き屑を片っぱしからすくいあげるなんてこともやらせてる。おかげで失業者はひとりもいない」シルクはにやっとした。「きたない仕事だから、正規の仕事につく気のない連中に割り当てられてるんだ。残飯や死んだ魚を満載した小舟に二、三日も乗ってると、そういう連中も俄然野心をかきたてられる」
「それは実に名案だね」ガリオンは言った。「思うんだが――」手の中で〈珠〉がやけに温かくなった。長衣の中をのぞくと、黒ずんだ赤に輝いている。
「ザンドラマスか?」シルクがたずねた。
ガリオンは首をふった。「サルディオンだ」
シルクは神経質に鼻をひっぱった。「そいつは困ったな、え? サルディオンを追うか、それともザンドラマスにするか?」
「ザンドラマスだ」ガリオンは答えた。「息子を奪ったのはあの女なんだからな」
「おまえにまかせるよ」シルクは肩をすくめた。「すぐ前方にあるのが最後の波止場だ。あそこで足跡を拾えなかったら、このまま進んで北門を調べよう」
ふたりは最後の波止場を通過した。〈珠〉はなんの関心も示さなかった。
「やつらが他の島に上陸した見込みはあるだろうか?」ガリオンはいぶかしげにたずねた。
「いったん海に出てから針路を変更したのなら、可能性はある。この沿岸には船を上陸させる場所がいくらでもあるんだ。北門を見に行こうぜ」
ふたたびかれらはいやになるほどのろのろと通りを歩いた。いくつか通りを横切ったあと、シルクがたちどまってうめいた。「なんてこった」
「どうした?」
「こっちへくるあのでぶはエスカ子爵だ。メルセネ組合のおえらがたのひとりでね。仕事の話をしないと気がすまないときてる」
「約束があると言えよ」
「役に立つもんか。メルセネ人にとっちゃ、時間なんてあまり意味がないんだ」
「これはこれは、ケルダー王子」灰色の長衣を着た太った男は近づいてきた。「都市中捜しまわっていたんですよ」
「エスカ子爵」シルクは会釈した。
「商品市場における最近の大胆な投機のなさりかたには、仲間ともども畏怖しておりました」エスカは感嘆をこめて言った。
シルクの目つきが狡猾になり、長い鼻がヒクヒク動いた。次の瞬間、かれは感情を害した表情になった。「それがじつは大ポカなんだ、子爵」と嘆かわしげに言った。「農産物みたいに扱いにくいものは、ほとんどもうけにならない」
「市場に遅れを取らないようにしておいでだったのですか?」エスカはなにくわぬ顔でたずねたが、目は欲深そうにぎらついていた。
「いや」シルクは嘘をついた。「そうじゃない。奥地にいたので、まだ仲買人たちと話をする機会がなかったんだ。だが、持ち込まれる最初の申し出にのるよう指示を与えておいた――たとえ損失をこうむらなけりゃならないとしても。倉庫が必要なんだが、どれもこれも豆の樽でいっぱいでね」
「そうでしたか」エスカは両手をこすりあわせた。「仲間に話してみましょう。妥当な申し出ができると思いますよ」エスカは汗をかきはじめていた。
「そんなことをさせるわけにはいかないよ、エスカ。おれの所有物は文字どおり値打ゼロなんだ。損をするのはよそ者でいい。友人をそんな目にあわせるわけにはいかない」
「しかし、ケルダー王子」エスカはいまにも怒りだしそうな口調で抗議した。「われわれは本気で大もうけをしようと期待しているわけではないんですよ。われわれの買取りは長期的推察から生まれたものなんです」
「そうか」シルクは疑わしげに言った。「危険をじゅうぶん承知だというのであれば――」
「承知していますとも」エスカは熱心に言った。
シルクはためいきをついた。「それではしかたがない。ヴェターに申し出てみてはどうだ? あんたがおれの立場を利用するはずはないからな」
「もちろんです、ケルダー、もちろん」エスカはそそくさと一礼した。「本当にもう行かなくては。急用がありましてね」
「ああ、よくわかる」
エスカは図体に不釣合いな早さで歩き去った。
「ひっかけてやった!」シルクは得意げに笑った。「ヴェターにやつを釣り上げさせよう」
「こういうことしか考えられないのか?」ガリオンはきいた。
「考えられるさ。だがいまのおれたちは忙しい。エスカのたわごとを午前中いっぱい聞いてる暇なんかあるもんか。じゃ、行こうか?」
ガリオンはあることを思いついた。「ザンドラマスが都市を避けていたらどうする?」
「そのときは馬に乗って、海岸線を調べるさ。どこかに上陸したはずなんだ」
メルセネの北門に近づくにつれて、通りの混雑が目立ってひどくなった。馬車や馬に乗った人々が一段と増え、普段はおとなしい市民がせかせかと歩いている。ガリオンとシルクも人混みをかきわけて進んだ。
「なにか反応は?」シルクがきいた。
「まだない」ガリオンは〈珠〉を握る手に力をこめた。しばらくして、わき道を通っているときに、いまやおなじみになった引きを感じた。「ザンドラマスはここにいたんだ。あの通りからきたか――あるいはあの通りへ入ったかだ。どっちかはわからない」ガリオンはわき道を何歩か奥へはいった。〈珠〉がひきもどそうとする。ガリオンは回れ右をして、ネズミ顔の友だちのところへ戻った。〈珠〉の規則正しい引きはかれを門のほうへひっぱっていた。「こっちから出ていったんだ」アーチ型の門についたとき、ガリオンは報告した。
「よし」シルクは言った。「引き返して、みんなを連れてこよう。ザンドラマスがメルセネへきたわけが、そのうちわかるかもしれないぜ」
[#改ページ]
ガリオンのイライラがなんとなくクレティエンヌにうつったようだった。大きな灰色の種馬はそわそわとシルクの屋敷を出て通りへ入り、ガリオンが手綱を引こうとすると、いらだたしげに耳をビクつかせた。丸石を踏む鋼のひづめの音さえも、落ち着きのないスタッカートのようにひびいた。身を乗り出して、弓なりに反った灰色の首をなだめるようになでたとき、ガリオンは馬の筋肉がすべらかな皮膚の下で神経質にふるえているのを感じ取った。「わかってる」ガリオンは言った。「ぼくも同じ気持ちだ。だが都市を出るまで走ってはだめだぞ」
クレティエンヌは鼻を鳴らしたあと、懇願するように力なくいなないた。
「そんなに長くはかからないよ」ガリオンは請け合った。
かれらはシルクを先頭に縦一列になって、活気ある街路を進んでいった。市街をかきまぜる微風が、ほこりっぽい秋のにおいを運んできた。
「あそこにあるあの建物はなんですか?」エリオンドが先頭のシルクに呼びかけた。金髪の若者は、緑豊かな公園のまん中にある大きな建築群を指さしていた。
「メルセネ大学だ」シルクは答えた。「世界最大の高等学問施設さ」
「トル・ホネスにある大学より大きいのか?」ガリオンはたずねた。
「ああ、はるかにな。メルセネ人はなんでもかんでも勉強するんだ。あの大学にはトルネドラ人なら存在することすら認めようとしないさまざまな分野の学問がある」
「へえ? たとえば?」
「応用錬金術、占星学、降霊術、魔法基礎学、そういうやつだ。お茶の葉を読むのが専門のカレッジがまるごとひとつあるくらいさ」
「ふざけてるんだろう」
「おれはね。だがやってる連中はまじめそのものだ」
ガリオンは笑って進みつづけた。
メルセネの通りはせわしなく込みあっているときですら、その喧噪は礼儀正しかった。どんなに急ぎの用事があろうと、メルセネの商人は競走相手のひとりと友好的雑談をする暇もないほど仕事で頭がいっぱいになったりしないのだ。大通りを進みながら、ガリオンが小耳にはさんだ会話の内容は、お天気から政治、生け花にいたるまで多岐にわたっていた。とはいうものの、その朝の話題は豆の価格に集中しているようだった。
一行が北門に着いたとき、背中にしょった大きな剣がガリオンをひっぱりはじめた。シルクの批判的な視線にもかかわらず、ガリオンは剣をつけずに市外には出ないことに決めていた。ザンドラマスには罠を残していく傾向があったから、無防備なままそういう罠のひとつにはまりたくなかったのだ。門をくぐると、ガリオンはクレティエンヌをつついて、シルクとくつわを並べた。「足跡はこの道をたどっているらしい」と前方の北へ伸びた広い本道を指さした。
「少なくとも、だだっぴろい田園地帯を横切ってはいないわけだ」シルクは言った。「ここらは地面がところどころでぬかるんでいるし、おれはぬかるみを馬で行くのは大きらいなんだ」
シルクの屋敷を出発してからずっと口をきかずに、いらだたしげな顔つきで馬にまたがっていたベルガラスが、このときシルクとガリオンの横に並んだ。地元の市民に聞かれる気づかいがないかどうか、まわりをきょろきょろしてから、ガリオンに話しかけた。「もう一度話してくれ――今度は順を追ってだ。正確に、おまえの友だちはなんと言った?」
「ええと、最初にまず、すべての予言は情報を悪の手から守るために謎めいているんだと、言ってた」
「まあ、もっともだな、ベルガラス」ベルディンがすぐうしろから言った。
「もっともかもしれんが、それで事が単純になるわけではないぞ」とベルガラス。
「だれも単純になるとは言ってない」
「わかっている。わしはただ予言がわきみちにそれて事をややこしくしないでくれりゃいいと思っとるだけだ。先をつづけろ、ガリオン」
「そのあとかれは、ぼくたちはザンドラマスに三日遅れているだけだと言った」
「てことは、あの女、島を出たんだな」シルクが言った。
「どうしてそう思うんだ?」ベルガラスがたずねた。
「メルセネは大きな島ですが、それほど大きくはない。二日もあれば、端から端まで馬で行ける。ザンドラマスが北の諸島のどれかに行った可能性もないわけじゃありませんが、三日遅れだとすると、もうこの島にはいないでしょう」
ベルガラスはぶつぶつ言った。「他にはなんと?」
「ぼくたちがここでやらねばならないことがあると――つまり、足跡を見つけること以外に」
「あまり細かくは言わなかったようだな」
「ああ、だが、その理由は説明してくれた。ぼくにそれを教えると、もうひとつの予言がザンドラマスにまだ知らないことを教えてしまうかもしれないとね。そのときなんだ、〈もはや存在しない場所〉がどこにあるのかザンドラマスは知らないとかれが言ったのは。その位置は『アシャバの神託』にも書かれていないと言っていた」
「わしらのこの務めについて、なにか手がかりになるようなことを与えてくれたか?」
「きょう、だれかがすごく重要なことを言うってことだけさ」
「だれなんだ?」
「教えてくれなかった。かれが言ったのは、だれかがついでになにか言うことになっているから、それを聞きのがすなってことだけだ。そういうことのために、注意を怠るなとさ」
「他になにか?」
「いや。それだけ言っていなくなった」
老人は悪態をつきはじめた。
「ぼくも同じふうに感じたよ」ガリオンは賛意を示した。
「かれはできるだけのことはやったのさ、ベルガラス」ベルディンが言った。「あとはおれたちしだいだ」
ベルガラスは皮肉っぽい顔をしてみせた。「おまえの言うとおりだろうな」
「あたりまえだ。おれはいつだって正しい」
「そうまでは言っとらん。では、大事なことから先にするか。まずザンドラマスがどこへ行ったかつきとめよう。そうすればわしらの耳にはいるすべてのなにげない発言の分析を開始することができる」ベルガラスは鞍の上で体をひねった。「きょうは全員耳をそばだてておくんだぞ」そう言ったあと、馬に蹴りをいれて走りだした。
地味な青の服を着て馬にまたがった男が全速力でわきをかけぬけ、メルセネ人らしからぬあわてようで都市へ向かっていった。男が行ってしまうと、シルクが笑いだした。
「だれだったんだい?」ダーニクがたずねた。
「組合のメンバーさ」シルクは陽気に答えた。「エスカ子爵が緊急会議を開いたらしいや」
「わしが知っておいたほうがよいようなことか?」ベルガラスがたずねた。
「豆の市場価格に興味があるなら」
「わしらがここにいる理由を忘れるなよ、お遊びはよさんか」
「仕方なかったんだよ、おじいさん」ガリオンが友だちの弁護にまわった。「ふたりで足跡を捜していたときに、通りで子爵に足止めを食わされたんだ。シルクが無駄足をさせてなかったら、一日中でもしゃべってたところだ」
「わしらがなにを捜しているのかひとことも言わなかったのか?」
「ああ。シルクは豆の話をしただけさ」
「きょう他にだれかに会ったか? だれと会ったかわしらに話してくれ、ガリオン」
「ブラドーの秘密警察のメンバーとばったり会ったんだ。やつの使者はとっくにマル・ゼスへ向かってると思う」
「そいつはなにかしゃべったか?」
「遠まわしにいつくか脅しをかけてきただけさ。ザカーズ皇帝はぼくたちのことでちょっと腹をたてているらしい。その警官はぼくを見てすぐに気づいたんだが、むりもない。シルクがそいつを殺そうとしたが、ぼくがよせと言ったんだ」
「なんで?」ベルディンがぶっきらぼうにたずねた。
「ひとつには人込みの中にいたからね。殺人はこっそりやるべきものだ、そうじゃない?」
「きいたふうなことを言うなよ。前のおまえのほうがもっとずっとよかったぜ」ベルディンはぴしゃりと言った。
ガリオンは肩をすくめた。「いつまでも変わらないものなんかあるわけないだろう、おじさん」
「ガリオン」うしろからポルガラがたしなめた。
「はい」
黒い馬車ががたがたとわきを通り抜けた。馬車をひいている白馬たちは疲れきって、泡をふいている。
「また豆のバイヤーか?」ベルディンがきいた。
シルクはほくそえんでうなずいた。
ダーニクはさっきからあたりを見回していた。「どうもこの土地はまったく耕されていないようだな」
シルクは笑った。「メルセネの土地は貴重すぎて、農耕地なんかにできないのさ、ダーニク。ここの人間は食糧のすべてを本土から輸入してるんだ。ここにいるのはきわめて裕福な階級の人間なんだ――引退した商人とか貴族とかいった連中だ。田園全体が巨大な一個の公園なんだよ。山さえ風景のひとつなんだ」
「あまり実用的ではないみたいだな」ダーニクは同意できかねるようだった。
「所有地で生活している連中は大枚はたいて土地を買ったんだ。だから好きなようにする権利はあると思うぜ」
「やっぱり無駄づかいだと思うね」
「もちろんそうさ。それが金持ちにできる最善のことなんだ――ものを浪費することが」
都市北部へ連なる緑の丘陵は穏やかな起伏を描き、木立が芸術的に点在していた。多くの木は目に快い形を強調するように、注意深く刈り込まれている。自然に手を加えているこのやりかたに、ガリオンはなんとなく腹が立った。そう思ったのはかれひとりではなかったらしい。馬の背にゆられているセ・ネドラも容認できぬといった硬い表情で、きれいに刈り込まれた樫の木をみるたびに、小さく嫌悪の声をあげた。
一行は速度をあげ、足跡をたどって、きらきら光る白い砂利を撒いた道路を北へ駆け足で向かった。道路は丘の側面から側面へゆるやかにカーブして、平坦な地点で大きく曲折していた。あきらかに、長いまっすぐな道の単調さを救う目的で曲がりくねっているのだ。道路からかなり奥まって建つ家々はみな大理石造りで、たいていは公園や庭園によって囲まれていた。よく晴れた秋の日で、卓越風がガリオンにはすっかりおなじみの海のにおいを運んできた。ふいにかれはリヴァへの激しいホームシックにとらわれた。
ある所有地を駆け足で通過していたとき、はなやかな服装の人々が多数、吠える犬の群れを追って一行の前方の道を全速力で横切った。みんな無謀とも思える動作で柵や溝を飛び越えていく。
「なにをしてるの?」エリオンドがシルクに呼びかけた。
「狐狩りだ」
「まるで筋道が通らないじゃないか、シルク」ダーニクが反論した。「土地を耕さないなら、鶏も飼育していないはずだろう。どうして狐のことなぞ心配するんだね?」
「この島に狐が棲息してない事実から考えれば、それほど筋道の通らないことでもないさ。狐は輸入しなけりゃならないんだ」
「ばかげてる!」
「もちろんばかな話だよ。金持ちってのはいつだってばかげたことをするんだ。連中の娯楽は異国風のものと相場が決まってる――そしてしばしば残酷なんだ」
ベルディンが耳ざわりな声でちょっと笑った。「アルグロスの群れを追っかけさせるのはどうだ――それともエルドラク一、二匹のほうがいいかもしれん」
「よせ」ベルガラスが言った。
「ちょいと出現させるぐらいなんでもないんだぜ、ベルガラス」ベルディンはにやにやした。
「トロールはどうだろうな」と思いにふけった。「トロールはすごくおもしろいぞ。あの着飾ったやさ男のひとりが柵をとびこえたとたん、でっかいトロールに鉢合わせしたときの面を見てやりたいんだ」
「よせよ」ベルガラスはくりかえした。
ある地点で道路は三又にわかれており、〈珠〉は左へガリオンをひっぱった。
「ザンドラマスのやつ、また海のほうへ向かったか」シルクが言った。「なんでこうも海が好きなんだろうな。おれたちが追跡を開始してからってもの、島から島へと飛び歩いてる」
「〈珠〉が海の上だと追跡できないことを知っているのかもしれない」ガリオンは言った。
「この時点で、ザンドラマスが〈珠〉の追跡だけを心配しているとは思えないわ」ポルガラが異議をとなえた。「時間が少なくなってきているのよ――わたしたち同様ザンドラマスにとっても。寄り道をしている暇はないはずだわ」
たどっていた道路は崖へ向かって下り坂になり、ついに〈珠〉はガリオンを長い舗装された車回しへとひっぱっていった。それはカーブを描いて、はるか下方の海を見おろすけわしい絶壁の端ぎりぎりに建つ堂々たる屋敷へとつづいている。屋敷へ向かいながら、ガリオンは剣を鞘から抜いた。
「厄介事を期待してるのか?」シルクがたずねた。
「用意をしておきたいだけさ」ガリオンは答えた。「大きな屋敷だし、中に大勢の人間が隠れてる可能性もある」
しかし、絶壁の上の別荘から出てきた男たちは丸腰で、全員紫色のお仕着せを着ていた。「どういうご用件でしょう?」そのうちのひとりがたずねた。背が高く痩せていて、純白の頭髪は豊かなたてがみを思わせた。馬丁や女中たちに用件を言いつけるのに慣れきった年配の召使いにありがちな、どことなく尊大な雰囲気をただよわせている。
シルクがしぶしぶ進みでた。「友人たちと朝の遠乗りをしていたんだが、このお屋敷とこの場所の美しさに圧倒されたんだ。所有者の方はおられるのだろうね?」
「大公閣下はただいまご不在です」長身の召使いは答えた。
「そりゃ残念だな」シルクはきょろきょろした。「本当にいいところだ」それから笑い声を立てた。「大公が不在でよかったのかもしれないな。在宅していたら、屋敷の買い取りを願いでていたかもしれない」
「閣下がそのような申し出にさほど興味を示されるとは思えませんが」召使いは言った。
「わたしの知り合いということはないだろうが」とシルクは巧妙に言った。「大公の名前を教えてもらえるか?」
「オトラス大公でいらっしゃいます」召使いは心もち反り身になって答えた。「皇族のおひとりでいらっしゃるのです」
「ほう?」
「カル・ザカーズ皇帝陛下の三番目の従兄弟にあたられます――御祖父母の従兄弟でいらっしゃいます」
「ほんとか? こいつはおどろいた。会えないとはまったく残念だな。だが、今度皇帝に会ったら、ここに立ち寄ったことを伝えよう」
「陛下をご存知でいらっしゃるのですか?」
「そうさ。われわれは古い友人なんだ」
「お名前をおうかがいしてもよろしいでしょうか、サー?」
「ああ、失敬。わたしとしたことがうかつだった。ドラスニアのケルダー王子だ」
「あのケルダー王子で?」
「他にはいないはずだ」シルクは笑った。「ひとりでもじゅうぶん厄介事に巻き込まれるよ」
「閣下はお会いできなかったのをさぞ残念に思われるでしょう、殿下」
「あと数週間はメルセネにいる予定なんだ。また寄るチャンスはあるだろう。いつ戻られるんだ?」
「それがはっきりとは申し上げられないのです、殿下。ほんの三日前に本土からきた方々と出発なさいまして」白髪の召使いは言葉を切って考えこんだ。「少々お待ちいただけるのであれば、大公夫人にみなさまのおいでをお伝えしてまいります、ケルダー王子。ここはお客さまが少のうございまして、奥様は話し相手をほしがっておられます。なかへお入りになりませんか? いますぐお伝えしてまいります」
一行は馬をおりて、召使いのあとから広い玄関に入った。召使いは堅苦しく一礼したあと、タペストリーがずらりとかかった廊下を遠ざかっていった。
「じつにスムースね、ケルダー」ヴェルヴェットが感心してつぶやいた。
「だてにシルクと呼ばれちゃいないよ」かれはパール・グレイの上着で指輪を磨きながら言った。
戻ってきたとき、長身の召使いの顔には当惑の表情が浮かんでいた。「奥様はただいまお体の具合いがすぐれませんで、殿下」とシルクに謝った。
「それは残念だ」シルクは本当に残念そうに言った。「それじゃ、またの機会に」
「いえいえ、殿下。奥様はどうしてもみなさんにお目にかかると言っておいでなのです。ただ、その奥様がいささか――その――ぼんやりなさっていても、どうかお許しください」
シルクの眉が片方つりあがった。
「おさみしいからなのです、殿下」召使いは困ったように言った。「こんな田舎にいらっしゃることがおいやなのです。このひなびた土地にいらっしゃることで相当の補給品に頼っておられまして」
「補給品?」
「殿下のご配慮をあてにしてもよろしゅうございましょうか?」
「もちろんだ」
「奥様はときどきワインをたしなまれるのです、殿下。いまがちょうどそのときにあたっているようでございまして。適量を少々オーバーなさっておいでなのです」
「こんな朝っぱらから?」
「奥様の時計は普通の方がお考えになる時計とちがうのです。わたしと一緒においでください、どうぞ」
召使いのあとから長い廊下を歩きながら、シルクは肩ごしにふりかえってみんなに小声で伝えた。「おれにまかせてくれ。おれがなにを言っても、にっこりして平気な顔をしててくれよ」
「かれが道にはずれたことをしているときって、すてきだとお思いにならない?」ヴェルヴェットがうっとりとセ・ネドラに言った。
大公夫人は三十半ばの貴婦人だった。豊かな黒髪に、とても大きな目、すねたように突き出た下くちびる、いささか豊満にすぎた体がバーガンディ色のドレスをふくらむだけふくらませている。夫人はひどく酔ってもいた。酒杯をそっちのけにして、いまではデキャンターからじかに飲んでいる。「ケルダー王子」大公夫人はしゃっくりをしてお辞儀しようとした。サディがそれとなく近づいて夫人の腕をつかみ、ひっくり返るのを防いだ。
「ごめんあそあせ」夫人は不明瞭に言った。「なんてご親切なんでしょ」
「どういたしまして、閣下夫人」宦官はていねいに言った。
彼女は目を何度もぱちぱちさせた。「あなた、本当にハゲておいでなの――それともそういうのがおしゃれなのかしら?」
「文化と関連のあることなのです、閣下夫人」サディは一礼して説明した。
「まあ、がっかり」大公夫人はためいきをつくと、サディの頭をするりとなで、デキャンターからもうひと口飲んだ。「なにか飲物をさしあげましょうか、みなさん?」と陽気にたずねた。
ほぼ全員がかすかに頭をふって断わった。だがベルディンは片手を伸ばして、ずかずかと前に進みでた。「もちろん」醜い魔術師は言った。「それをちょっくら飲ましておくんな、おじょうさん」なぜかフェルデガーストのしゃべりかたになっていた。
ベルガラスは目をむいて天井をふりあおいだ。
大公夫人はけたたましく笑うと、デキャンターを手渡した。
ベルディンは息もつかずに一気に飲み干し、「じつにうまい」とげっぷをしてから、デキャンターをぽいと片隅に放り投げた。「だが、エールのほうがおれの好みなんだよ、奥方。こんな朝っぱらからやると、ワインは胃によくないんだ」
「それじゃ、エールにしましょ」夫人はいきいきとさえずった。「みんなで腰をおろして、ふらふらになるまで飲みまくりましょうよ」寝椅子にどすんとすわりこんだので、あられもない姿になった。「エールを持ってきてちょうだい」夫人は当惑顔の召使いに命令した。「エールを山ほど」
「かしこまりました」長身の男は硬い声で答えると、ひきさがった。
「いい人間なんだけど、とっても堅苦しいのよ。わたしとは頑として一緒に飲もうとしないんだから」大公夫人はろれつの回らない舌で言うと、ふいに涙ぐんだ。「だれもわたしと飲みたがらないの」彼女が懇願するようにベルディンに向かって両腕を突き出すと、ベルディンは夫人を抱擁した。「あなたならわかってくださるわね、お友だち?」大公夫人はベルディンの肩に顔を埋めて泣きじゃくった。
「もちろん、わかるとも」かれは夫人の肩をたたいた。「さあさあ、だいじょうぶだよ、すぐにまたよくなるって」
大公夫人は姿勢を正すと、音をたてて鼻をすすり、ハンカチをひっぱりだした。「好きでこうしているわけじゃございませんのよ、殿下」シルクに目の焦点を合わせようとしながら、謝った。「ですけど、ここにいると退屈でたまらないんですの。オトラスは社交上のすべてのたしなみを身につけた無口な人で、波の音と、仲間を求めるカモメの鳴き声しかないこんな山奥にわたくしを閉じ込めたんですわ。舞踏会や、晩餐会や、メルセネでのおしゃべりがなつかしくてたまりませんの。こんなところでどうしろというのでしょう?」
「ったくひどいもんさね、ダーリン」ベルディンがうなずいた。かれは召使いが萎縮しながら持ってきたエールの小樽を受け取ると、膝のあいだにはさんで節くれだったげんこつで蓋をぶちぬいた。「ひと口いかがです?」うやうやしく大公夫人にたずねて、樽を差しだした。
「そこから飲んだらおぼれてしまうわ」夫人は愚かしい笑いをもらして言った。
「そりゃそうだわな。そこのおまえ」ベルディンはベルガラスに言った。「この人にカップかなんか持ってきてくれ」
ベルガラスは醜いチビの兄弟をにらみつけたあと、だまって食器棚から銀のジョッキを取ってきた。
ベルディンはジョッキを樽につっこみ、袖でジョッキの底をぬぐって、女主人に差しだした。「あんたの健康のために、ダーリン」樽から飲みながら言った。
「ほんとにやさしいのね」大公夫人はしゃっくりをしてから、ジョッキのエールを半分がた飲み干した。口のはたから泡立つエールがこぼれてドレスの前にしたたった。
「閣下にお会いできなくて本当に残念でした」シルクは、酔ってはいるものの、高貴な生まれの婦人にたいするベルディンのがさつで要領のいいアプローチにいささか途方に暮れていた。
「ひとつも残念なことなどございません、殿下」大公夫人は礼儀正しく口をおおってげっぷをした。「夫は死んだ鼠の魅力を全部かねそなえた太った緑色のヒキガエルですのよ。時間のすべてを王座への道を読み取ることにそそぎ込んでおりますわ。カル・ザカーズに世継ぎがいらっしゃらないために、皇室の従兄弟たちは互いが死ぬのをまちながら同盟を結ぼうとしているんです。マル・ゼスにおいでになったことはおありですの、殿下? ほんとにひどいところですわ。率直なところ、帝位にあろうとなかろうと、さっさと地獄に行って暮らしたほうがましです」彼女はジョッキを飲み干すと、だまってベルディンに返した。それから陽気にあたりを見回した。目の焦点が少しずれていた。「ケルダー王子、お友だちをまだ紹介していただいていませんでしたわね」
「これはたいへん失礼しました、閣下夫人」シルクは額をぴしゃりとたたいて叫んでから、あらたまって椅子から立ち上がった。「閣下夫人、つつしんでここにエラト侯爵夫人をご紹介します」もったいぶって片手をポルガラのほうへ差しだした。ポルガラは立って膝を曲げた。
「閣下夫人」ポルガラは言った。
「閣下夫人」大公夫人も立ち上がろうとしたが、よろけた。
「さあさあ、ダーリン」ベルディンが夫人がひっくり返らないように肩をおさえた。「まだ早いよ、それにおれたちゃみんな友だちなんだ。こんな退屈で堅苦しい挨拶なんざいるもんか」
「気にいりましたわ」夫人は片手でベルディンを指さしながら、片手でさらにエールをすくった。「わたくしのそばに置いてはいけませんこと?」
「せっかくだがね、閣下夫人」ベルガラスが口をだした。「そいつはあとで必要になってくるんだ」
「ずいぶんむっつりしていらっしゃるのね」夫人は老魔術師をながめたあと、いたずらっぽくにやっとした。「きっとあなたを笑わせてみせますわよ」
シルクがあわてて紹介をつづけた。「ボルーン家のセ・ネドラ皇女、ドラスニアのリセル辺境伯令嬢。剣を持ってる若者は〈西海の支配者〉として知られている人物ですよ――よくわからない称号だが、かれの民はわけのわからん人々ですからね」
ガリオンは酔っぱらった大公夫人に深々と一礼した。
「なんてりっぱな剣をお持ちなんでしょう、陛下」
「先祖伝来の家宝でして、閣下夫人。携帯を義務づけられているんです」
「あとの連中は認める必要のある称号は持っていません」シルクは言った。「仕事がらみの仲間だし、金がからんでいる場合は、称号なんかどうでもいいわけでしてね」
「あなたは称号をお持ち?」夫人はベルディンにたずねた。
「いくつかな、ダーリン」ベルディンはなにげなく答えた。「だがな、どの国からもその――名前は耳にはいってこないぜ。大半はとっくの昔に消えちまったからな」魔術師はまた樽をもちあげて、がぶがぶとエールを飲んだ。
「なんてかわいい人なんでしょ」大公夫人はうすぼんやりした声で言った。
「おれの魅力か、ダーリン」ベルディンはあきらめたようにためいきをついた。「昔っからそれが身の破滅のもとなんだ、このおれの魅力が。じっさい、のぼせあがった娘っこたちにまつわりつかれんように、隠れなくちゃならんこともあるくらいでな」かれはまたためいきをついて、げっぷをした。
「そのことについて、ちかいうちにお話ししたいですわね」大公夫人は言った。
シルクが立場をなくしていることはあきらかだった。「ええ――」かれは力なく言った。「――かさねがさね、大公にお会いできなくて残念です」
「いったい全体どうしてですの、さっぱりわかりませんわ、殿下」夫人はつっけんどんに言った。「夫はまったくのヌケサクですのよ、それに定期的にお風呂にもはいりませんの。王座にはやたらに野心を燃やしていますけど、見込みなんてありはしません」彼女はベルディンにジョッキを突き出した。「おねがいできて、ディア?」
ベルディンは目をすがめて樽の中を見た。「もうひと樽必要になりそうだぞ、ダーリン」
「地下室一杯あるのよ」彼女はうれしそうにためいきをついた。「あなたさえよければ、何日でもこうしていられるわ」
ベルガラスとベルディンの視線が長々とからみあった。「よせよ」とベルガラス。
「だがな――」
「よせ」
「ご主人が大それた野心を持っておられるとおっしゃるんですか、閣下夫人?」シルクがやっとのことで口をはさんだ。
「あのバカがマロリー皇帝なんて想像がつきまして?」夫人は鼻でせせら笑った。「靴だってまともにはけないことがありますのよ。さいわい、夫がいるのは継承者の末席ですわ」
ガリオンは急にあることを思いだした。「その野心をたきつけるようなことをご主人に言った者がありましたか?」
「わたしが言わなかったのは確かです」夫人は高らかに言い放って、眉間にしわをよせ、ぼんやり遠くの壁をながめた。「でも、そう言われてみれば、数年前ここを通った男がひとりおりましたわ――白目の男です。そういう目の者を見たことがありまして? ぞっといたしますわよ。とにかく、その男と大公は書斎に行って話しこんでおりましたわ」夫人はあざけるように鼻を鳴らした。「書斎が聞いてあきれるわ! あのバカ大公が字を読めるはずがないわよ。わたくしに話しかけることだってろくすっぽできやしないくせに、その部屋を書斎と呼んでるんだから。ばかげていません? まあ、とにかく、あのバカの行動にわたしがまだ関心を持っていたとき、あのことが起きたんです。わたくし、従僕のひとりに壁に穴をあけさせましたのよ、見たり聞いたりできるように――あのバカがなにをたくらんでいるのかと」下くちびるがふるえはじめた。「そのあとまもなく、書斎に二階付きのメイドを連れ込んでいるのを見たんです」悲劇的に両腕を突き出したのでエールがこぼれて、ベルディンにはねかえった。「裏切り者! このわたくしの屋敷の中で!」夫人はわめいた。
「かれらはなんの話をしていたんです?」ガリオンがそっとたずねた。「ご主人と白目の男のことですが?」
「白目はザンドラマスという名前の人物ならマル・ゼスの王座をまちがいなく夫に提供できると言っておりましたわ。その名前になぜか聞きおぼえがあるような気がいたしますのよ。前にその名前をお聞きになった方はいらっしゃるかしら?」夫人は目の焦点を合わせようとしながらみんなを見回した。
「わたしはおぼえがありませんな」シルクがものやわらかに嘘をついた。「その後白目の男を見たことは?」
大公夫人は樽から最後のエールをすくおうとするのに忙しかった。「え?」
「白目の男だ」ベルガラスがいらいらと言った。「そいつは戻ってきたのか?」
「もちろんですとも」夫人はふたたび椅子に背をもたせかけて、ジョッキを一気に飲み干した。「つい二、三日前にもここにいましたわ。黒いサテンの長衣を着た女と小さな男の子と一緒にここへきたのよ」大公夫人はつつましやかにげっぷをした。「あそこの呼び鈴の紐をひいてくれない、魔術師のお友だち?」とベルディンに頼んだ。「この樽をからにしてしまったようよ。でもまだ喉がかわいているの」
「いいとも、ダーリン!」醜い小男はよたよたと呼び鈴に近づいた。
「友だちがいるってほんとうになんてすてきなんでしょ」大公夫人は夢見心地で言った。次の瞬間、頭ががっくり倒れ、いびきをかきはじめた。
「起こせ、ポル」ベルガラスが言った。
「ええ、おとうさん」
それはごく軽いうねりだったが、飲んだくれた大公夫人はたちまちぱっちり目を開いた。「どこまででしたっけ?」彼女はたずねた。
「ああ――白目が数日前に訪ねてきた話をしてたんですよ」シルクがおぎなった。
「そうでしたわ。暗くなったころやってきましたの――男と黒いサテンのあの鬼婆が」
「鬼婆?」シルクは問い返した。
「鬼婆にきまってますわ。顔を隠すのにたいした苦労をしてましたからね。それにひきかえ、小さな男の子の愛らしかったこと――赤っぽい金髪の巻き毛で、見たこともないほど青い目をしてましたよ。ミルクをあげましたわ、だっておなかをすかせていたんです。とにかく、白目と鬼婆は夫と書斎に行ったあと、全員で馬にまたがりどこかへ行ってしまいましたわ。ヒキガエルは、夫のことですけど、しばらく留守にするから、そのあいだに仕立屋を呼んでおけといいました――戴冠式にふさわしいガウンかなんかを作らせるとか言って、正確には忘れたわ」
「小さな男の子はどうなったんですの?」セ・ネドラがひどく緊張した声でたずねた。
大公夫人は肩をすくめた。「さあね。わたくしの知るかぎりでは、連れていかれましたよ、あの連中に」とためいきをついた。「急に猛烈に眠くなってきたわ」
「どこへ行くのかご主人は手がかりになるようなことを言いましたか?」シルクがたずねた。
夫人はたよりなげに両手をふった。「夫の言うことに耳をかたむけるのは何年も前からやめてますの。わたくしたち、ここから一マイルほどの入り江に小さなヨットを持ってますけど、それがなくなってますから、どうせ乗っていったんでしょ。夫は都市の南にある商業用の波止場のことでなにか言ってましたわ」彼女はきょろきょろした。「他の樽はもう届きまして?」眠そうにたずねた。
「おっつけくるさ、ダーリン」ベルディンがやさしい声で元気づけた。
「ま、よかった」
「もっと必要なことがありますかね?」シルクがベルガラスにたずねた。
「ないな」老人は娘のほうを向いた。「また眠らせるんだ、ポル」
「その必要はないわよ、おとうさん」肉づき豊かな大公夫人を、ポルはいくらか悲しそうにながめた。彼女はまたもベルディンの首に両腕を巻きつけて顔を肩にうずめ、軽いいびきをかいていた。醜い魔術師はそっと夫人の腕をほどいて、静かに夫人を寝椅子に寝かせた。ドレスのすそをなおしてやり、部屋を横切って別の寝椅子から掛けぶとんをとり、夫人にかけてやった。「ぐっすりお眠り、奥さん」つぶやくように言うと、痛ましげに片手で顔にふれた。それからくるりと向きなおって、喧嘩ごしでベルガラスをにらみつけた。「それで?」いまにもつっかかりそうないきおいでたずねた。
「わしはなにも言わなかったぞ」ベルガラスは言った。
セ・ネドラがだまって立ち上がり、醜い魔術師のそばへ行くと、かれを抱きしめて頬にキスした。
「何事だ?」ベルディンは疑わしそうにたずねた。
「わたしもなにも言わなかったわよ」セ・ネドラはそう答えると、あご髭についているわらを二、三本うわの空で抜き取り、ベルディンに渡した。
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そろって屋敷から出ると、ガリオンはすぐにクレティエンヌのところへ行ってひらりと鞍にまたがった。
「なにをする気なんだ?」シルクがたずねた。
「足跡を見失わないようにするんだ」
「なんで? どうせ夫人が言った入り江まで行って、そこから海へ出ることになるんだぜ」
ガリオンはしょんぼりとシルクを見た。
「おれたちにとって今できる最善の策は、できるだけ早くメルセネへ戻ることじゃないのか。あそこならおれのために働くやつらがいくらでもいる。そいつらを使って商業用の波止場を集中的に調べるんだ――ジャロトでやったようにな。ナラダスを追いかけるのはむずかしいことじゃない」
「どうしてぼくが〈珠〉を持って自分で波止場へ行っちゃいけないんだよ?」ガリオンは不満をぶちまけた。
「そんなことをしたって、おまえにわかるのはザンドラマスがどの波止場から出航したかってことだけだからさ。おれたちに必要なのはそれだけじゃないんだ」シルクは同情するように友だちを見た。「いてもたってもいられないのはわかる、ガリオン――みんなそうなんだ――しかしじっさい、おれのやりかたのほうが早いんだよ。おれの部下たちならザンドラマスがいつ出航したか、どこへ向かったかつきとめられる。おれたちが本当に知りたいのはそのことだ」
「よし、それでは行こう」ベルガラスが言った。
一行はそそくさと馬に乗り、駆け足で車回しを後戻りして道路にでると、南へ向けて疾走した。
正午ごろ北門へたどりつき、まもなくシルクの屋敷の正面で馬をおりた。中へ入り、二階の居間へ向かった。「ヴェターにくるように言ってくれないか?」小男は居間へ入りながら通りかかった召使いに言った。
「ただいま、殿下」
「また荷造りをしたほうがいいな」シルクは商人の服を脱ぎながら言った。「ザンドラマスの行き先をつきとめたらただちに出発だ」
サディがかすかに微笑した。「ジスもかわいそうにな、そろそろ旅にうんざりしてきている」
「それはジスだけじゃないわ」ヴェルヴェットがちょっぴりうらめしげに言った。「これが全部かたついたら、馬なんて見るのもいやになるんじゃないかしら」
ドアに礼儀正しいノックがあって、ヴェターがドアをあけた。「お呼びでしょうか、殿下?」
「そうなんだ、ヴェター。入ってくれ」シルクは目を宙にすえて行ったりきたりしていた。「ある連中をさがしているんだ」
「そうではないかと察しておりました、殿下」
「そうか。その連中がしばらく前にメルセネにきたことはわかっている。その後、三日ばかり前にふたたび出発している。どこへ行ったか知る必要がある」
「わかりました。殿下。特徴を教えていただけますか?」
「いま言おうとしていたところだ。男ふたりと女がひとり、それに小さな男の子がいる。男のひとりはオトラス大公だ、知っているか?」
ヴェターはうなずいた。「大公なら正確な特徴を部下に教えてやれますよ、ええ」
「けっこう、ヴェター。もうひとりの男はナラダスという」
「聞いたことがあります、殿下。ですが見たことはありません」
「見れば忘れられない顔だ。目が真っ白なのさ」
「目が見えないのですか?」
「そうじゃない、ただ目に色がないんだ」
「でしたら事は簡単です」
「おれもそう思った。女は苦心して顔を隠しているが、大公とナラダスを引き連れている。都市南部の商業用の波止場のひとつからそいつらが出航したらしいという情報を聞き込んだんだ。まずそこらの捜索から徹底的にやってくれ、見つけ出せる部下は残らず波止場へ送りこめ。南の波止場にいる人間に片っ端から話を聞くんだ。必要とあれば、金をばらまけ。連中がいつ、どの船で、どこへ行ったのかを知りたい。その船が港に戻っていれば、船乗りのひとりをここへ連れてくるんだ――船長ならなおいい。迅速にやるのが肝心なところだ、ヴェター」
「ただちに手配します。殿下。一時間以内に波止場に数百人を向かわせましょう。捜索の経過を随時お知らせいたします。他になにか?」
シルクは眉間にしわをよせて考えてから言った。「ある。おれたちは自分の船のひとつでメルセネへきた。その船がまだ波止場にあるはずだ。だれかを船長のところへやって、また出航の準備をしておくよう伝えてくれ。情報が集まりしだい、おれたちは出発する」
「かしこまりました」ヴェターは一礼すると静かに部屋を出ていった。
「よさそうなやつだな」ベルディンが感想をもらした。
「もっとも優秀な部下のひとりなんだ」シルクが同意した。「物事をきちんと処理し、絶対に興奮しない」小男は微笑した。「ブラドーが古巣へ戻るよう誘っているらしいが、おれのほうがブラドーより金がある」
ベルディンはぶつくさ言って、ベルガラスを見た。「いくつか解明しなけりゃならんことがあるぞ。なんでザンドラマスはこの大公をしょいこむような真似をしてるんだ? あの女がなんでこんな余計なことをしたのか、さっぱり意味がわからん」
「もちろん意味はあったんだ」
「説明してくれるんだろうな――来週かそこらにでも」
ベルガラスはチュニックの内側を捜しまわって、びりびりに破れた紙のきれっぱしをひっぱりだした。それをじっと見て、うなるように言った。「これだ」ベルガラスは紙を目の前にかざした。「見よ。〈闇の神〉が昇天したのち、〈東の王〉と〈南の王〉はいくさをはじめるであろう。これが対決の日が間近であることのしるしとなろう。したがって〈南〉の平原で戦火が荒れ狂う前に、〈もはや存在しない場所〉へ急がねばならぬ。選ばれしいけにえと〈アンガラクの王〉を同行し、きたるべきことを目撃させるのだ。それゆえに、いけにえと〈アンガラクの王〉とともにクトラグ・サルディウスの前へ出る汝らのいずれかが残りのすべてをしのぎ、いっさいの上に君臨するであろう。そしてそのときいけにえが〈闇の神〉として再生し、再生の瞬間において〈光の子〉に打ち勝つことを知るがよい=v
「なんともすばらしいたわごとだな」ベルディンが言った。「どこで手にいれた?」
「クトル・マーゴスで見つけたんだ」ベルガラスは肩をすくめた。「ラク・クトルのグロリムの予言書の一部だ。前に話したろう」
「いや、実際のところ、話さなかったぜ」
「話したはずだ」
醜い小男は歯をくいしばり、押し出すように言った。「残念だがな、ベルガラス、話さなかったんだよ」
「はて、おかしいな」ベルガラスはけげんそうだった。「すっかり忘れちまったにちがいない」
「結局はそういうことが起きるんだ、なあ、ポル」とベルディン。「年寄りってのは最後にはボケちまうのさ」
「そういうことを言わないの、おじさん」ポルガラは小声で言った。
「わしが話さなかったのは本当に確かなのか?」ベルガラスはかすかに訴えるような声になった。
「これくらい確かなことはないくらいだ」ベルディンは機械的に答えたように思えた。
「おまえがそう言ったのがどんなにうれしいかしれやしない」ベルガラスはちょっぴりとりすまして言った。
「やめろ」
「やめろって、なにを?」
「おれのひがみ根性を横取りするな。そのグロリムのたわごとはどういうことなんだ?」
「グロリムどもは不可解な命令にしたがう」
「そのことなら、おれたちだってそうだ」
「まあな。だが少なくともわしらはときどき命令に疑問を感じる。グロリムは感じない。やつらはやみくもに指示にしたがうんだ。ラク・ウルガにいたとき、わしらは高層のアガチャクがこのことでウルギット王をおどしているのを見た。アガチャクは最後の対決の場所に自分がたどりつくとき、少しでもチャンスがあるならば〈アンガラクの王〉を連れて行かねばならんと知っているんだ。髪をつかんでひきずってでも、ウルギットを連れて行くつもりだ。これまでのところ、ザンドラマスはその必要条件をわざわざ満たそうとはしていない」
「すると、ザカーズを殺すつもりにちがいありませんよ」ダーニクが口をはさんだ。「そして大公を王座にすわらせようというんです」
「そんなことはしなくてもいいんだ、ダーニク。アンガラク社会で王と呼ばれるのに必要なのは、王室との血のつながりとか、戴冠式とか、力のあるグロリム僧による承認とかにすぎないのさ。昔はすべての族長が王だった。それでもどうってことはなかった。いっさいの権力はどうせトラクが握っていたからだ。もっともかれらには王冠や王座があったがな。いずれにせよ、ザンドラマスは承認されたグロリム僧なんだ――この場合は尼僧だな。オトラスは王室の血をひいている。偽物だろうとなかろうと、戴冠式をやればオトラスは〈アンガラクの王〉としての資格を与えられる。そうすれば予言の条件は満たされるんだ」
「わたしにはまだいささか疑問に思えますがね」ダーニクは言った。
「こいつはカブの農夫を最初の王に選んだ連中に由来する話だな」とベルディン。
「じっさい、名士ファンドーは悪い王ではなかった」ベルガラスは言った。「少なくとも、コツをいったん飲み込んだあとはな。農夫というのはつねに善良な王を生むものだ。かれらはなにが重要かを知っとるからな。とにかく、オトラスは予言を満たすには十分な王だ。ということは、ザンドラマスはいまや必要なすべてを持っていることになる。ゲランもいる。〈アンガラクの王〉もいる」
「われわれにも王が必要なんですか?」ダーニクがたずねた。「つまり、〈アンガラクの王〉が?」
「いや、わしらに必要なのはアローンの王だ。ガリオンにはその資格があると思う」
「この前のときはこんなに複雑じゃなかったでしょう?」
「じつは複雑だったんだ。ガリオンは〈光の子〉であると同時にすでにリヴァの王だった。トラクは王でもあり神でもあった。そのうえ〈闇の子〉だった」
「それじゃ、いけにえはだれだったんです?」
ベルガラスは愛情をこめて善人に笑いかけた。「あんただったんだよ、ダーニク。だろう?」そっと言った。
「そうだった」ダーニクはちょっととまどったような顔になった。「あのことはときどき記憶から抜けおちてしまうんです」
「むりもないやな」ベルディンがぶつぶつ言った。「殺されるってのは人の記憶をちょいとあいまいにするものなんだ」
「それでもうたくさんよ。おじさん」ポルガラが危険をはらんだ口調で言って、かばうようにダーニクの肩に腕を回した。
ガリオンはふいに思いあたった。ゼルダーがダーニクを殺してから〈珠〉と神々がかれを生き返らせるまでのあのおそるべき時間について、かれらのだれひとりダーニクと話しあっていなかったことを。きっとポルガラがそういうことをさせなかったにちがいない。
「それじゃ彼女は努めをすべて完了したのね?」セ・ネドラが悲しそうにたずねた。「ザンドラマスのことよ。彼女にはわたしの息子も、〈アンガラクの王〉もいる。死ぬ前にもう一度あの子に会いたいわ」
「死ぬだって?」ガリオンは耳を疑った。「どういう意味だ、死ぬだなんて?」
「わたしたちのひとりが死ぬことになってるのよ」セ・ネドラはぽつりと言った。「わたしにきまってるわ。それ以外にわたしがついてきてる理由がないもの。そうでしょう? わたしたちには全員果たすべき務めがあるわ。わたしのは死ぬことなのよ」
「くだらん!」
「そうかしら?」
「じじつ、ザンドラマスにはまだいくつかの務めが残っとるんだ」ベルガラスが言った。「少なくとも、ザンドラマスはウルヴォンをかたづけねばならん」
「それにアガチャクがいますよ」サディがつけくわえた。「かれも役を演じたがっていますからね、たしか」
「アガチャクはクトル・マーゴスにいるんだぜ」シルクが反論した。
「わたしたちもそうでしたよ――数ヵ月前までは」宦官は指摘した。「クトル・マーゴスからマロリーへ行くには、船があって、好天に恵まれさえすりゃいいんです」
「ザンドラマスがやらなけりゃならないことはもうひとつありますわ」ヴェルヴェットがセ・ネドラの横へ行って、悲しみに沈む小柄な女王を抱きしめた。
「そう?」セ・ネドラはたいして興味もなさそうに言った。「なに?」
「予言がガリオンに教えたところでは、ザンドラマスはまだ〈もはや存在しない場所〉がどこにあるのか知らないんです。それをつきとめるまで、そこには行けませんわ、でしょう?」
セ・ネドラの顔がちょっと明るくなった。「それもそうね。それは確かだわ」ヴェルヴェットの肩に頭をもたせかけて言った。
「やり残したことをかかえているのはザンドラマスだけではない」ベルガラスが言った。「わしはいまでも『アシャバの神託』の完全な写しを見つけねばならん」老人はシルクを見た。「さっきのことをおまえさんの部下たちがつきとめるのに、どのくらいかかると思う?」
シルクは両手を広げた。「断言するのはちょっとむずかしいですね。運まかせといってもいい。長くて一日というところかな」
「あの船はどのくらいの速度が出る?」ガリオンはシルクにきいた。「つまり、ぼくたちがここへきたときよりもっとスピードは出るのか?」
「出るには出るがたいした速度じゃない」シルクは答えた。「船大工としちゃメルセネ人はアンガラク人よりましだが、あの船は荷物の運搬用に造られたんで、競争に勝つために造られたんじゃないんだよ。風が強くなりすぎれば、船長は帆を縮めなくちゃならないだろう」
「いまチェレクの戦さ船を手にいれるためなら、どんな大金を積んでもおしくないんだが」ガリオンは言った。「船が速ければ、失われた時間を取り戻せる」かれは思いつめたように床を凝視した。「それほどむずかしいことじゃないはずだ、そうだろう?」とベルガラスを見て言った。「おじいさんとぼくとで知恵をしぼれば、そして――」片手であいまいな仕草をした。
「あの――ガリオン」ダーニクがさえぎった。「たとえチェレクの船が手に入ったところで、それを動かす人間をどうやって見つけるんだ? メルセネの船乗りたちに動かしかたがわかるとは思えないがね」
「そうか」ガリオンはむっつりと言った。「そのことを考えていなかった」
ドアに軽いノックがあって、ヴェターが羊皮紙の束を持って入ってきた。「部下たちを至急南の波止場へ派遣しました、殿下」と報告した。「急を要することと思いましたので、わたしの勝手な判断で、港町付近の中心地へ脚の速い馬で急使を送りこんでおきました。どんなことでもニュースがはいりしだい、五分以内でこちらに知らせが届くはずです」ヴェターはちらりとセ・ネドラを見た。「そうすれば女王陛下のご心労もいくぶんかは和らぐと思いまして」
「女王――」シルクは口をすべらせかけて、あやうく思いとどまった。しばらく仲買人をじっと見つめていたが、やがて笑いだした。「どうやってつきとめたんだ、ヴェター? おれはだれも紹介しなかったぞ」
「ご勘弁を、殿下」ヴェターは困った顔で答えた。「無能だからわたしをこの地位におつけになったわけではないでしょう。マル・ゼスにいる元の仲間たちとはある程度の連絡を保っているのですよ。ですから、殿下のお客さまがどういう方々で、殿下の使命がなんであるのか、おおよそのことは知っています。殿下が問題を口にされないほうをお選びになったので、だまっておりましたが、わたしに金を払っておられるのは目と耳をとじておかせるためではないはずです」
「メルセネ人は好きじゃないんでしょう?」ヴェルヴェットがサディに言った。
だがサディはすでにやや興味をひかれたようにヴェターを見ていた。「わたしとわが女王とのあいだに最近生じたつまらぬ誤解を、そのうち解決できるかもしれませんな」サディはシルクの仲買人に微妙なことを言った。「そういうことになれば、スシス・トールに雇用のチャンスがあることをあなたに気づいてもらいたいものだ」
「サディ!」シルクがあえぐように言った。
「ビジネスはビジネスですよ、ケルダー王子」サディはやんわりと言った。
ヴェターは微笑して、持ってきた羊皮紙をシルクに手渡した。「書類をお持ちしました、殿下。お待ちのあいだに、ちょっと目を通されたいのではないかと思ったのです。いくつかは殿下の署名が必要です」
シルクはためいきをついた。「読んだほうがよさそうだな」
「時間の節約になります、殿下。物事が殿下に追いつくにはひどく時間がかかることがありますから」
シルクは書類の束をぱらぱらとめくった。「みんなごくありきたりの者らしいな。他に注意するようなことは起きていないか?」
「例の屋敷は見張られています。殿下」ヴェターは報告した。「ロッラの秘密警察の者がふたり。殿下が出発されるときにあとをつけようとしているようです」
シルクは眉をひそめた。「あいつのことを忘れてた。そいつらをまく方法はあるか?」
「わたしがなんとかします」
「だが殺しはだめだぞ」シルクは注意した。「ここにいるリヴァの王はめったやたらな殺人には不賛成なんだ」かれはガリオンににやりとしてみせた。
「流血抜きで事態を収拾できると思います、殿下」
「他におれが知っておいたほうがよさそうなことは?」
「組合がわれわれの保有する豆に、明朝購入の申し出をしてくれるはずです」ヴェターは答えた。「市場値より三ポイント安い値段でスタートし、五ポイント上回るところまで行くでしょう」
「どうやってつきとめた?」シルクはおどろいた顔をした。
「メンバーのひとりを買収したんです」ヴェターは肩をすくめた。「十ポイントをこえたら、全部につき四分の一ポイントの手数料をやると約束したんですよ――ちょっと気前がよすぎたかもしれませんが、いつかまた必要になるかもしれない男ですし、いまはこちらの言うがままです」
「それなら四分の一ポイントの値打はある」
「わたしもそう思ったんです、殿下」ヴェターは突然笑いはじめた。「そうだ、もうひとつあるんです、ケルダー王子。投資のチャンスがありましてね」
「ほう?」
「じつのところ、投資というより慈善的な寄付といった色あいのほうが強いのですが」
「そうじゃないかと思った」シルクはにこりともせずに言った。次の瞬間、鼻がかすかにうごめいた。「だが、聞いておいてもかまわないぞ」
「大学にひとりおそろしくむさくるしいちびの錬金術師がおりまして」ヴェターは説明した。「その男が自分は真鍮を金に変えることができると断言しているのです」
「ほうほう」シルクの目があかるくなった。
ヴェターが警告するように片手をあげた。「ところが、今回のその費用たるやたいへんな金額なのです。金貨一枚を作るのに金貨二枚を使ってしまうのでは意味がありません」
「いや、おれならそうは言わない」
「もっとも、ちびのエビ足は費用なら取り戻せると言い張っています。その計画をぶらさげて、メルセネ中の商人に接近しています。実験費用を出してくれる金持ちのパトロンが必要なんですよ」
「少しは調べてみたのか?」
「もちろんです。やつがとびきり腕のいい詐欺師でないのなら、真鍮を金に変えられるのは事実のようです。男についてはいささか奇妙な評判がたっています。何世紀も生きているという噂です。不機嫌な男で、ひどい臭いをぷんぷんさせているのです――使用している薬のせいなんでしょう」
ベルガラスの目が急に大きく見開かれた。「そいつのことをなんと言った?」老人は鋭くたずねた。
「名前は言わなかったと思いますが、長老どの」ヴェターは答えた。「センジと呼ばれています」
「名前のことじゃない。特徴を説明してくれ」
「背が低く、頭はほとんどはげあがっています。あご髭を生やしています――もみあげの大部分は焼け焦げてなくなっていますが。ときどき実験が失敗して、爆発がおきるんですよ。そうそう、それにエビ足なんです――たしか左足が内側に曲がっています」
「それだ!」ベルガラスは指を鳴らして叫んだ。
「謎めかすのはよしてよ、おとうさん」ポルガラがしかつめらしく言った。
「予言がガリオンに、きょうだれかがきわめて重大なことを言うと告げている。それがそうだったんだ」
「なんのことだか――」
「アシャバでシラディスがわしらに言ったろう。エビ足の人間を捜しだせとな。わしらの捜索を助けてくれるからだと」
「世界に足の曲がった人間は大勢いるわ、おとうさん」
「わかっとる。だが予言はわざわざこの男を紹介したんだ」
「紹介ですって?」
「表現がおかしいかもしれんが、わしの言わんとすることはわかるだろう」
「ぴたりとあてはまることは確かだぞ、ポル」ベルディンが言った。「おれのおぼえているところだと、おれたちが『アシャバの神託』のことをしゃべっていたとき、シラディスがこのエビ足のことをおれたちに話したんだ。シラディスはザンドラマスが削除されていない神託の写しのひとつを持ち、ナハズがもうひとつを持ち、そしてこのエビ足が三つめを持っていると言った――あるいは三つめのありかを知っているとな」
「ずいぶん疑わしい証拠じゃありませんか、ベルガラス」ダーニクは半身半疑だった。
「徹底的に調べる時間はたっぷりある」老人は答えた。「どうせザンドラマスの行き先をつきとめるまでどこにも行けないんだ」ベルガラスはヴェターに視線を移した。「このセンジだが、どこへ行けば見つかる?」
「大学の応用錬金術学部にいます。長老どの」
「よし、ガリオンを連れてそこへ行ってみよう。おまえたちはいつでも出発できるよう準備をしておいたほうがいい」
「おじいさん」ガリオンは異議をとなえた。「ぼくはここにいなけりゃならない。自分の耳でザンドラマスに関するニュースを聞きたいんだ」
「ポルがかわりに聞いてくれるさ。錬金術師を説得して話をさせるのにおまえが必要になるかもしれんのだ。〈珠〉を持ってこい、ただし剣はおいていけよ」
「どうして〈珠〉を?」
「予感とでも言っておくさ」
「おれも行く」ベルディンが立ち上がりながら言った。
「それにはおよばん」
「いや、およぶさ。おまえの記憶はちっとばかりあやしいようだからな、ベルガラス。おれにいろんなことを言い忘れてる。おまえが神託を見つけるときにおれがその場にいれば、記憶をほじくりかえす苦労も時間も省いてやれるぜ」
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メルセネ大学は広大な公園に位置する不規則に広がった建築群だった。建物は古くてどっしりしており、短く刈られた芝生に点在する木々は古くて節くれだっていた。その場所には精神生活への専念をあらわす心落ち着く静寂のようなものがただよっていた。ふたりの老魔術師と歩きながら、ガリオンは穏やかな気持ちに浸されたが、胸がふさがれるような気分もないではなかった。かれはためいきをついた。
「どうした?」ベルガラスがたずねた。
「わからないんだ、おじいさん。ときどき自分もこういうところへくるチャンスがあったらよかったのにと思うんだよ。なにかを知りたいという純粋な理由だけで勉強するにはよさそうな場所だからね。ぼくの勉強のほとんどはひどくせっぱつまったものだった――ほら、答えを見つけろ、さもないと世界は破滅だ、式の」
「大学ってのは買い被られた場所だよ」ベルディンが言った。「おやじの主張に流されて出席している若いやつがあまりにも多すぎる。そういうやつらは勉学よりも酒を飲んで騒ぐほうに時間を費やしてるんだ。その騒ぎがまじめな学生の気を散らしている。勉学だけに専念しろってんだ。そうすりゃもっとはかどるんだ」かれはベルガラスを見た。「このセンジがどこへ行きゃみつかるのか、ほんのちょっぴりでも当てがあったのか?」
「ヴェターがセンジは応用錬金術学部のメンバーだと言っていた。スタートはそこからだろうな」
「論理的に攻めるのか、ベルガラス? おまえが? 次にパッと頭に浮かぶ質問は、応用錬金術学部がどこに行きゃ見つかるかだな」
ベルガラスは片手に開いた本を持って芝生を歩いてきた長衣姿の学者を呼び止めた。「勉強中失礼だが」と丁寧に言った。「応用錬金術学部はどちらかね?」
「ああん?」学者は本から顔をあげた。
「応用錬金術学部だ。どこにあるのか教えていただけないか?」
「科学はずっとあちらのほうだ」学者は言った。「神学部の近くだ」学者はキャンパスの南端のほうへあいまいに手をふった。
「ありがとう。あんたはじつに親切だ」ベルガラスは言った。
「指示と方向を与えるのは学者の義務だよ」男はえらそうに答えた。
「そうだったな」ベルガラスはつぶやいた。「ときどきそのことを見失ってしまう」
三人は学者が示した方角へ歩いていった。
「あいつが学生たちにさっきのより明確な方向を与えないとすると、学生連中は世界についてすこぶる漠然とした考えを持ってこの場所から出ていくことになるぜ」ベルディンが言った。
かれらがその他の人々から教わった方角は、だんだん正確になっていき、ついに、灰色のあつぼったい岩石でできた、外壁に堅牢な胸壁のついたずんぐりした建物にたどりついた。かれらは正面の階段をのぼって、やはり頑丈な胸壁が支柱を支えているホールに足を踏み入れた。
「内部全体が補強されているけど、その理由がさっぱりわからないな」ガリオンは正直に言った。
その疑問に答えるかのように、ホールのなかほどにあるドアの向こうからすさまじい爆音が聞こえた。ドアがバタンと外側に開いて、ツンとくる煙がもくもくと流れ込んだ。
「ははあ。そういうわけか」ガリオンは納得した。
ぼうっとした顔の男が煙の中からよろめきあらわれた。ぼろぼろに焦げた服が体からぶらさがっている。「硫黄が多すぎたんだ」何度も何度もつぶやいている。「硫黄が多すぎたんだ」
「失礼だが」ベルガラスが声をかけた。「ときに、錬金術師のセンジがどこにいるか知らないか?」
「硫黄が多すぎた」実験家はぼんやりとベルガラスを見た。
「センジだ」老人は繰り返した。「センジがどこにいるか教えてくれないか?」
ぼろ服の男はけげんそうな顔をして、「え?」と聞き返した。
「おれにやらせろ」ベルディンが言った。「センジがどこにいるか教えてくれ」とあらんかぎりの大声をはりあげた。「エビ足のやつだ」
「ああ」男はもやもやを追い払うように頭をふって、答えた。「かれの実験室は最上階だ――向こうはしだよ」
「ありがとよ」ベルディンは叫んだ。
「硫黄が多すぎたんだ。うん、それがまずいんだ。硫黄を入れすぎたんだ」
「なんでどなったんだ?」三人でホールを進みながら、ベルガラスはいぶかしげにたずねた。
「おれ自身何度か爆発のどまんなかにいたことがあるのさ」小男の魔術師は肩をすくめた。「一、二週間は柱みたいに耳が聞こえなかった」
「ふうむ」
かれらは階段をふたつのぼって最上階へついた。通りかかった別のドアは、つい最近の爆発で枠から吹き飛んでいた。ベルガラスはそのドア枠から首をつっこんで、「センジはどこだね?」と部屋の中に向かって怒鳴った。
もぐもぐした返事があった。
「左の最後のドアだな」老人はうなるように言うと、先に立って歩きだした。
「錬金術はそうとう物騒な職業らしいね」ガリオンは言った。
「愚かさもそうとうなもんだ」ベルディンが顔をしかめた。「そんなに金がほしけりゃ、金鉱でも掘りゃいいじゃないか」
「そんなことはほとんどの連中は思いつきもせんだろうよ」ベルガラスは左側の最後のドアの前で立ち止まった。最近修理した痕跡が認められる。かれはノックした。
「うせろ」ざらついた声が答えた。
「あんたと話す必要があるんだ、センジ」ベルガラスは穏やかに呼びかけた。
ざらついた声が、ベルガラスの話す必要性にたいして声の主ができることを長々と告げた。表現のほとんどはすごぶるどぎつかった。
ベルガラスの目がすわった。老人は気を取り直して、たったひとこと何かを言った。ドアがぎくりとするような音とともに消失した。
「そうやってみると、ここにはあまり見るものはないだろう」薄ぎたない小男が砕け散ったドアの残骸のまんなかにすわりこんで、ざっくばらんに言った。「ドアが内側にふっとぶのを最後に見たのはいつだったか思いだせないんだ」男はあご髭についた木っ端をぬきとりはじめた。
「だいじょうぶですか?」ガリオンがたずねた。
「もちろん、ちょっと驚いただけさ。おれみたいに何度も吹き飛ばされていると、なれてきちまうんだ。あんたがたのだれか、このドアをおれからどけてくれないか?」
ベルディンが進みでて、ドアの残骸をもちあげた。
「むさくるしいやつだな、え?」床にすわっている男は言った。
「おまえだってきれいじゃないぜ」
「そのことにならなれているんだ」
「おれもさ」
「ふむ。おまえがおれのドアをふっとばしたのか?」
「あっちだ」ベルディンはベルガラスを指さしてから、男を立たせた。
「どうやってやった?」薄ぎたない小男は好奇心むきだしでベルガラスにたずねた。「化学薬品の匂いがまるでしない」
「天賦の才能だ」ベルガラスは答えた。「あんたがセンジだな?」
「そうだ。エビ足のセンジ、応用錬金術学部の学部長だ」センジは手首のつけねで頭の横をたたいた。「爆発が起きると、いつも耳鳴りがする。おまえ――むさくるしい友だちよ」とベルディンに言った。「あそこの隅にビールの樽があるんだ。おれにちょっと持ってきてくれないか? おまえもおまえの友だちも勝手にやれよ」
「おれたちゃすごくウマが合いそうだ」とベルディン。
センジは部屋の中央にある石のテーブルのほうへ足をひきずっていった。左脚が右脚より数インチ短く、足がグロテスクにゆがんでいた。数枚の羊皮紙をばらばらとめくってから、ベルガラスに言った。「よしと。すくなくともあんたの爆発はおれの計算法を部屋中にばらまかなかったわけだ」かれは三人を見た。「ここにいるかぎり、なにか腰をおろすものを見つけたほうがいいぞ」
ベルディンがセンジにビールのコップを持ってきてやったあと、樽のある隅に引き返してさらに三つのコップを満たした。
「あれは本当にむさくるしいやつだな」センジは体をひっぱりあげるようにして、テーブルにすわった。「だが、いいやつだ。ああいうやつに会ったのは千年ぶりだよ」
ベルガラスとガリオンはすばやく目を見交わした。「そりゃまたかなりの歳月だな」ベルガラスは慎重に言った。
「そうさ」センジはコップを傾けた。そして顔をしかめた。「また気がぬけちまってる。そこのおまえ」かれはベルディンに呼びかけた。「樽の真上の棚に土焼きの壺がある。いい子だから、その中の粉をふたつかみビールに入れてくれないか。それでまたキリッとしまるんだ」センジはベルガラスを振り返った。「話したいことってなんだったんだ? ドアをまっぷたつにしなけりゃならないほど重要なこととは、なんだ?」
「いま話す」ベルガラスはセンジがすわっているところへ部屋を横ぎった。「かまわんか?」片手をのばし、不潔な男のはげ頭を指先でそっとさわった。
「それで?」ベルディンがたずねた。
ベルガラスはうなずいた。「そう頻繁には使っておらんが、ここにある。ガリオン、ドアをなおしてくれ。内密に話がしたいんだ」
ガリオンは砕け散ったドアの残骸をなすすべもなくながめた。「完璧には直せないよ、おじいさん」疑わしげに言った。
「じゃ、新しいのを作るんだ」
「あ、そうか。そのことを忘れてた」
「いずれにせよ、おまえには練習が必要なんだ。あとでちゃんとあくようにしておけよ。出ていく時間になって、また吹き飛ばすはめになるのはごめんだ」
ガリオンは意志の力を集めて、一点に集中させたあと、からっぽの開口部にそれを向け、言った。「ドア」開口部は瞬時にしてまたふさがった。
「ドアを出したのか?」ベルディンが信じられないように言った。
「ガリオンはときどきあれをやるんだ」とベルガラス。「わしはその癖をやめさせようとしてきたんだが、ときどきやっちまうのさ」
センジが目を細めてかれらを見た。「ふむ、才能のある来客らしいな。本物の魔術師に会ったのはじつにひさしぶりだよ」
「どのくらいになる?」ベルガラスがぶっきらぼうにたずねた。
「うん、十二世紀かそこらだろう。ひとりのグロリムが比較神学部で講義をしていたっけ。つまらないやつだったが、たいがいのグロリムはつまらんからな」
「ようし、センジ。おまえはいくつなんだ?」ベルガラスがきいた。
「思うに、生まれたのは十五世紀だ」センジは答えた。「いまは何年だ?」
「五三七九年だよ」ガリオンが教えた。
「もうそんなになるのか?」センジはのんびりと言った。「時間はどこへいっちまうのかね?」かれは指折りかぞえた。「すると、おれは三千九百歳ぐらいだな」
「〈意志〉と〈言葉〉をつきとめたのはいつだった?」ベルガラスがせきたてた。
「なんだって?」
「魔術のことだ」
「そう呼んでるのか?」センジは一瞬考え込んだ。「その言葉のほうが正確な感じだな。気にいった。〈意志〉と〈言葉〉か。ひびきがいい、そうじゃないか?」
「いつ発見した?」ベルガラスはくりかえした。
「十五世紀だ、おそらく。そうでなけりゃ、まともな時の流れのうちに死んでただろうよ、ほかのみんなみたいに」
「指示は受けなかったのか?」
「十五世紀におれに指示を与えてくれるようなだれがいたっていうんだ? おれはそれにつまずいただけなんだ」
ベルガラスとベルディンは顔を見合わせた。それからベルガラスはためいきをつき、片手で目をおおった。
「ときたまそういうことがあるんだ」ベルディンが言った。「ただそれにぶつかる人間てのがいるんだよ」
「わかってる。しかしなんとも気のめいることじゃないか。わしらの師がわしらを教えこむのにかけたあの何世紀もの歳月を考えてみろ。それなのにこの男は自分でそれを拾い上げただけなんだ」ベルガラスはセンジに視線を戻した。「そのことを話してくれないか? なるべく綿密にな」
「そんな時間があるのかい、おじいさん?」ガリオンはたずねた。
「時間は作らにゃならんのさ」ベルディンが言った。「それがおれたちの師の最後の命令のひとつだった。秘密を無意識につかみとる人間にでくわしたら、いつでもおれたちは調査することになってるんだ。神々でさえ、どうしてそうなるのか知らないんだぜ」
センジはテーブルからすべりおりると、中身があふれだしている本棚までひょこひょこ歩いていった。しばらくさがしまわったあげく、ようやくぼろぼろの本を一冊選びだした。「ひどいありさまで悪いな」とあやまった。「何度かふっとばされたんだ」足をひきずってテーブルに戻り、本を開いた。「二十三世紀におれが書いたんだよ。自分がちょいともうろくしはじめたのがわかったんで、まだ記憶が新しいうちに全部書き留めておきたかったんだ」
「なるほど」ベルディンが言った。「そこにいる陰気なつらをしたおれの友だちも近頃物忘れがひどくなってるのさ――まあ、一万九千歳ともなれば無理はないやな」
「やめんか」ベルガラスがにがにがしげに言った。
「そんなに年寄りじゃないってことか?」
「だまれ、ベルディン」
「ああ、ここだ」センジが声にだして読みはじめた。「その後千四百年にわたってメルセネ帝国は、大陸の西部における神学的、政治的闘争の影響を受けることなく繁栄した。メルセネ文化は非宗教的で、洗練されており、高度の教養を持っていた。奴隷制は知られておらず、アンガラク人や、カランダ、ダラシアにおける支配民族との交易は非常な富をもたらした。メルセネの旧帝都は勉学の一大中心地となった=v
「ちょっと」ベルガラスが口をはさんだ。「だがそれは『メルセネおよびマロリーの皇帝たち』から直接とったものじゃないか?」
「もちろんそうだ」センジははばかることなく答えた。「ひょうせつは学問の第一原則なんだ。口だししないでくれ」
「すまん」とベルガラス。
「不幸にして=vセンジは読みつづけた。「メルセネの学問の勢力の一部は秘儀的分野へ方向を転じた=vかれはベルガラスを見やった。「ここから独自の内容になるんだ」と咳ばらいした。「数ある実験の過程において、偶然魔術を役立たせたのは、メルセネの錬金術師、エビ足のセンジであった=v
「自分のことを三人称で語っているのか?」ベルディンがたずねた。
「そういうのが二十三世紀ではしゃれたやりかただったのさ」センジは答えた。「自伝はおそろしく悪趣味なものと考えられていた――不謹慎というわけでね。ひどく退屈な世紀だったよ。おれはずっとあくびばかりしてた」かれは読むほうに戻った。「帝都の大学で十五世紀の錬金術の実践家であるセンジは、そのばかげた言行ゆえに有名だった=vかれはいったん読むのをやめた。「この部分はちょっと手を入れたほうがよかったな」と批判的に言い、次の行を一瞥した。「これもまるでなってない」とつけくわえた。「きわめて率直に言うと=vセンジはさもいやそうに文字を追った。「センジの実験は金を鉛にすることのほうがその逆よりも多いことがしばしばであった。ごく最近の実験が失敗に終わったことにたいするはげしい挫折感にとらわれたセンジが、半トンの真鍮を純金に変えたのはまったくの偶然であった。ただちに論争が巻きおこり、造幣局、鉱山局、衛生庁、応用錬金術学部、比較神学部が、センジの発見をいずれの組織が管理すべきかをめぐり大騒ぎとなった。約三百年の議論のあげく、論争者たちは突然センジが単に才能があるばかりでなく、不死でもあるらしいことに思いあたった。科学的実験の名のもとに、種々の省庁、学部はその事実を証明せんとセンジを暗殺させるべきだとの合意に達した=v
「まさか!」ベルディンが言った。
「いやそうなんだ」センジは不愉快そうにぽつりと言った。「メルセネ人というのは白痴的なくらい物見高いからな。ひとつの理論を証明するためならとことんやる」
「おまえはどうしたんだ?」
センジは長い鼻ととがった顎がふれあうくらいにんまりした。「有名な突き落し屋が雇われ、大学の管理ビルの塔の高窓からかんしゃくもちのその老錬金術師を投げ落とすことになった。その実験には三重の目的があった。興味しんしんの各局がつきとめたかったこととは、(A)センジがじじつ死ねない人間だとしたら、(B)舗装された中庭へ落下していくあいだに、どういう手段で命を守るのか、そして(C)可能なら、他の手段を与えずに命を守るその秘密をつきとめること、であった=v錬金術師は手の甲で本をはたいた。「あのセンテンスにはいつもちょっと誇らしい気分になったよ」と言った。「じつにみごとに均整がとれてる」
「傑作だ」ベルディンが同意して、小男の肩をぴしゃりとたたいた。力をいれすぎたので、センジはすんでにテーブルからころげおちるところだった。「そら」ベルディンはセンジのコップをとりあげた。「もう一杯おまえのためにつがせてくれよ」ベルディンの眉間にしわが生じ、うねりが起きると、コップはまたいっぱいになった。センジはひとくちすすると、ひっくりかえって口をぱくぱくさせた。
「おれの知合いのナドラクの女が作った酒なんだ」ベルディンは言った。「強いだろう?」
「すごい」センジはしゃがれ声でうなずいた。
「話をつづけてくれよ、友だち」
センジは何度も咳ばらいして先をつづけた。「役人や学者たちがその実験の結果知ったことは、魔術師の命をおびやかすのはおそろしく危険だということだった――センジのような愚かな魔術師でも、である。突き落とし屋は突然自分が五マイルも離れた港の千五百フィート上空に転位されたことに気づいた。くんずほぐれつしてセンジを窓のほうへひきずっていたのに、次の瞬間には漁船の上空のからっぽの空中に立っていたのだ。突き落とし屋の死は格別の悲しみを生ぜしめなかった――かれの急激な落下により網をはなはだしく損傷された漁師たちの失望は別として=v
「すばらしい一節だった」ベルディンがげらげら笑った。「だが、転位≠フ言葉の意味をどこで発見したんだ?」
「魔術師ベルガラスの偉業について書かれた古い本を読んでいたところだったのさ、だから――」センジはしゃべるのをやめ、真っ青になって、口をあけてガリオンの祖父を凝視した。
「がっかりだよな、え?」ベルディンが言った。「おれたちはつねづねやつにもっと相手をあっといわせるようななりをしなきゃいかんと言ってるんだ」
「おまえはだまってろ」老人は言った。
「おまえは天地をゆるがす名声の持ち主なんだぜ」ベルディンは肩をすくめた。「おれはただの召使いだ。おもしろおかしい代役なんだ」
「本当は楽しんでるんだろうが、え、ベルディン?」
「あまりおもしろくなかったからな、このところずっと。おれがポルに言うまでこのことはしゃべるなよ」
「その口をしめろ、聞こえたか?」
「ああ、全能なるベルガラスよ」ベルディンはからかった。
ベルガラスはガリオンのほうを向いた。「これでシルクがわしをひどくいらだたせるわけがわかったろう」
「うん、おじいさん、わかったような気がする」
センジはまだ少し目を血走らせていた。
「もう一杯飲めよ、センジ」ベルディンが忠告した。「酔っぱらってもうろうとしてれば、受け入れるのもそうむずかしいことじゃないぜ」
センジはふるえだした。それからコップの中身をごくりと飲み干した。今度はそれほど咳こまなかった。
「それでこそ勇気ある若者だ」ベルディンが祝福した。「読みつづけてくれ。おまえの話はじつにおもしろい」
小柄な錬金術師はつっかえつっかえ先をつづけた。「無理からぬことだが、センジは怒り心頭に発して、かれの人格じゅうりんに同意していた各省庁の長官をこらしめにかかった。その老人を説得し、きわめて風変わりな懲罰を思いとどまらせたのは、皇帝その人からのごく個人的訴えだった。その後、長官たちはセンジが妨害されることなく好き勝手にするのを喜んで認めるようになった。
センジはみずから私的な学園を設立し、学生募集の広告を出した。かれの生徒は決してベルガラスやポルガラやクトゥーチクやゼダーのような一級の魔術師にはならなかったが、何名かはかれらの指導者が偶然にも発見していた原理の初歩的応用を達成することができた。これはたちまちのうちに大学内部でかれらなりの表現形式を練習していた魔法使いや魔女たちを大きく引きはなすこととなった=vセンジは顔をあげて言った。「まだあるんだが、錬金術の分野におけるおれの実験を書いたところがほとんどなんだ」
「難解な部分らしいな」ベルガラスは言った。「少し逆戻りしよう。真鍮をすべて金に変えたまさにその瞬間、どんな気持ちでいたんだ?」
「いらだっていた」センジは肩をすくめて本を閉じた。「いらだちなんてなまやさしいものじゃなかったかもしれん。細心の注意を払って計算していたのに、おれの働きかけていた鉛の棒はなんにもしないでただそこにころがっているだけだった。おれは頭にきた。それで自分の内部にあるあらゆるものをいわばひっぱりまわしたんだ。するととほうもない力がわきあがってくるのを感じた。おれは叫んだ、変化しろ!=\―九割がたは鉛の棒にむかって言ったんだが、鉛管も何本か室内にころがっていたから、集中力がちょっと散漫になってしまった」
「壁まで変化させなかったのはツイてたぜ」ベルディンが言った。「その後またそれができたか?」
センジはかぶりをふった。「やろうとしたが、あれだけの怒りをもう一度かきたてることはできなかったらしい」
「この種のことをやるときはいつも腹をたてるのか?」ベルディンはたずねた。
「ほとんどいつもな」センジは認めた。「怒ってないと、結果に確信が持てないんだ。ときにはそれでうまくいくこともあるし、いかないこともある」
「どうやらそれが鍵らしいな、ベルガラス」ベルディンは言った。「激しい怒りはおれたちが出くわしたどのケースでも共通の要素だぜ」
「わしの記憶では、わしもやっぱりはじめてやってのけたときはいらだっていた」ベルガラスも同意した。
「おれもだ」とベルディン。「たしかおまえにたいしてな」
「それじゃどうしてあの木にやつあたりしたんだ?」
「最後の瞬間に、おれたちの師がおまえを好きなことを思いだしたんだよ。おまえを抹殺して師をがっかりさせたくなかったんだ」
「おそらくそれがおまえの命を救ったんだな。おまえがなくなれ≠ニ言っていたら、いまおまえはここにいなかったろうよ」
ベルディンは腹をぼりぼり掻いた。「無意識の魔術の例がほとんど見つからないのはそのせいかもしれん」ベルディンはじっと考えこんだ。「だれかがなにかに猛烈に腹をたてると、最初の衝動は普通そのなにかを破壊することに向けられる。何度もあったことだったのかもしれないが、おそらく、無意識の魔術師はそれに気づいた瞬間に自滅しちまうんだろうな」
「おまえがずばり言い当ててもわしはちっともおどろかんよ」ベルガラスがうなずいた。
センジはまた蒼ざめていた。「おれも知っておいたほうがよさそうだ」
「それが第一のルールなんだ」ガリオンはセンジに言った。「宇宙はぼくたちに絶対に事物を破壊させようとしない。もし破壊しようとすれば、すべての力が内向し、消えるのはぼくたちになる」ガリオンはクトゥーチクの抹殺を思いだして身ぶるいした。かれはベルディンを見た。「これで正しい?」
「いい線だ。正確な説明はもうちょい複雑だが、過程の描写はきわめて正確だった」
「おまえさんの学生にもそういうことが起きたのか?」ベルガラスはセンジにたずねた。
錬金術師は眉をひそめた。「可能性はある。大勢の学生が姿を消した。どこかへ行ったんだと思っていたが、そうではなかったのかもしれない」
「最近もさらに学生を募っているのか?」
センジは首をふった。「もうそれだけの辛抱がおれにはない。概念を把握できたのは十人のうちせいぜいひとりだし、残りの連中はそこらに突っ立って泣き言を言ったり、おろおろしたり、おれの説明不足を非難したりした。だから錬金術にもう一度戻ったんだ。もうめったに魔術は使わない」
「あんたがじっさいにそれをやれると聞いてきたんだ」ガリオンは言った。「つまり、真鍮や鉛を金に変えられると」
「ああ、そうだ」センジはこともなげに答えた。「そんなのはなんでもない。ただ、そこに至る過程は金よりずっと高くつく。おれがいまやろうとしているのがそれなんだ――過程を単純化して、もっと安い化学薬品で代用する。だが、実験の資金をだしてくれる人間が見つからない」
ガリオンはふいに腰のあたりで脈打つものを感じた。当惑してかれは〈珠〉をいれてある袋を見おろした。〈珠〉が普段たてるきらきらした音とは似ても似つかぬ怒ったようなブンブンいう音が耳にひびいた。
「あの妙な音はなんだ?」センジがたずねた。
ガリオンはベルトから袋をとって、口をあけた。〈珠〉が怒ったような赤に輝いていた。
「ザンドラマスか?」ベルガラスが熱っぽくたずねた。
ガリオンは首をふった。「いや、おじいさん。そうじゃなさそうだ」
「どこかへおまえを連れていきたがっているのか?」
「ひっぱってるんだ」
「どこへ行きたいのかたしかめよう」
ガリオンが右手に〈珠〉をつかむと、それは着実にドアのほうへかれをひっぱっていった。かれらは廊下へ出た。好奇心のかたまりとなったセンジが足をひきずってあとからついてくる。〈珠〉はかれらを階段の下へ導き、建物の正面ドアから外へ出た。
「あそこのあの建物のほうへ行きたがっているらしい」ガリオンは真っ白い大理石の高い塔を指さした。
「比較神学部か」センジがフンと鼻を鳴らした。「人間の知識の集大成に貢献していると得意になっているあわれな学者の一団さ」
「ついていけ、ガリオン」ベルガラスが指示した。
かれらは芝生を横切った。行き交う学者たちはベルガラスの顔を一目見たあと、おびえた小鳥みたいにおどろいてちりぢりになった。
かれらは塔の一階に入った。ドアを入るとすぐ高い机があり、そこに聖識者の長衣をきたやせた男がすわっていた。「おまえたちはこの学部の者ではないな」男は憤慨した声で言った。「ここに入ってきてはいかん」
歩調をゆるめることさえしないで、ベルガラスはそのおせっかいなドアマンを机もろとも芝生のずっと向こうに転位させた。
「じつに役に立つな」センジは言った。「もうちょっとおれも研究すべきかもしれない。錬金術にはうんざりしてきてるんだ」
「このドアの向こうはなんだろう?」ガリオンは指さしながらたずねた。
「連中の博物館さ」センジは肩をすくめた。「古い偶像だの、宗教的人工物だのの寄せ集めだ」
ガリオンは取っ手をためしてみた。「鍵がかかってる」
ベルディンが身を反らせてドアを蹴破った。鍵穴のまわりの木にひびがはいった。
「なんでそんなことをしたんだ?」ベルガラスがきいた。
「悪いか?」ベルディンは肩をすくめた。「ただのドアのために意志の力をかきあつめるような努力はしたくないのさ」
「怠惰になってきたな、おまえも」
「元に戻してやろうか、自分であけたらいい」
「余計なお世話だ」
かれらはほこりっぽい、散らかった部屋に入った。中央にガラスの展示ケースの列があり、壁にはグロテスクな像が並んでいる。天井から蜘蛛の巣がさがり、そこらじゅうほこりだらけだった。
「連中はここへはあまり入ってこないんだな」センジが言った。「人間の宗教的衝動のなまなましい結果を見るより、くだらん理論をでっちあげるほうに忙しいんだ」
「こっちだ」ガリオンは言った。〈珠〉は絶えずかれの手をひっぱりつづけた。気がつくと石はますます赤く光り、不快なほど熱をおびてきていた。
やがて〈珠〉はとあるガラス・ケースの前で止まった。ほこりをかぶったガラスのうしろに腐りかけたクッションが置かれている。中にあるのはそのクッションだけだ。〈珠〉はいまや熱くなり、その赤らんだ輝きが部屋全体を満たしていた。
「このケースのなかにはなにが入っていたんだ?」ベルガラスは問いつめた。
センジはかがみこんでケースについている腐食した真鍮のプレートの文字を読んだ。「ああ、いま思いだした。これは連中がクトラグ・サルディウスを保管するのに使っていたケースだ――あれが盗まれる前」
だしぬけに、なんの警告もなしに、〈珠〉がガリオンの手のなかで飛び跳ねたように思え、かれらの前のガラス・ケースが爆発してこなごなになった。
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「どのくらいのあいだここにあったんだ?」ベルガラスは動転しているセンジにたずねた。錬金術師は口をあけて、ガリオンの手の中であいかわらず不機嫌に輝いている〈珠〉を見つめたあと、砕けちったケースの残骸をこわごわ見ているところだった。
「センジ」ベルガラスは鋭く言った。「聞いてるのか」
「それが例のあれか?」錬金術師はふるえる指で〈珠〉をさした。
「クトラグ・ヤスカだ」ベルディンが教えた。「このゲームに参加するつもりなら、関連しているものを知っておいたほうがいいぜ。さ、おれの兄弟の質問に答えろ」
センジはまごまごした。「おれは――」と口を開いた。「これまでずっとただの錬金術師だったんだ。そんなだいそれたことに興味は――」
「それじゃすまされんぞ」ベルガラスはさえぎった。「好むと好まざるとにかかわらず、おまえは選ばれたグループの一員なんだ。金やその他のくだらんことを考えるのはやめて、なにが重要かに注意を払え」
センジはごくりと唾をのんだ。「いつもただのゲームみたいなものだった。だれもおれを真剣に受け止めてくれなかった」
「ぼくたちはちがう」ガリオンは萎縮している小男に〈珠〉を突き出した。「自分が偶然遭遇した力のことを少しでも考えているのか?」かれは突然無性に腹がたった。「この塔をぶっこわしてもらいたいのか――それともメルセネ諸島を海に沈めてもらいたいか――そうでもしないと、ぼくたちがどれほど真剣かわからないのか?」
「あんたはベルガリオンだな?」
「ああ」
「〈神をほふる者〉だな?」
「そう呼ぶ連中もいる」
「おお、神よ」センジは情けない声を出した。
「わしらは時間を無駄にしとる」ベルガラスがそっけなく言った。「話をはじめよう。クトラグ・サルディウスがどこからきたか、どのくらいここにあったのか、ここからどこへ行ったかを知りたいのだ」
「話せば長くなる」センジが言った。
「かいつまんで話せよ」ベルディンが床に散ったガラスの破片をわきへ蹴りながら言った。「いまのおれたちはちょいと時間に追われてるんだ」
「サルディオンはどのくらいのあいだここにあった?」ベルガラスがたずねた。
「何世紀も何世紀も」センジは答えた。
「どこからきたんだ?」
「ザマドだ。あそこに住んでるのはカランド人だが、やつらは悪魔に関してはちょっと臆病なんだ。カランド人の魔法使いの何人かは生きたまま食われたらしい。とにかく――というより、言い伝えによれば――五千年ばかり昔の世界にひびわれが生じたころ……」錬金術師はふたたび口ごもって、目の前のおそるべき老人ふたりをまじまじと見つめた。
「ありゃうるさかったな」ベルディンがけしからんというように言った。「蒸気は吹き出すわ、地震は発生するわで。トラクはいつもこれみよがしだった――性格上の欠陥だな、ありゃ」
「おお、神よ」センジはまた言った。
「そればかり言うな」ベルガラスがうんざりしたように言った。「おまえは自分の神がだれかさえ知らないんだぞ」
「だが、そのうち知るようになる、センジ」ガリオンの口からかれのではない声が言った。「そしてひとたびかれに会えば、おまえは生涯かれにしたがうだろう」
ベルガラスが片方の眉毛をあげてガリオンを見た。
ガリオンはしかたがないんだというように両手を広げた。「事を進めるのだ、ベルガラス」声はガリオンの口を通して言った。「時はおまえを待ってはくれないのだぞ」
ベルガラスはセンジに向きなおった。「よし。サルディオンはザマドにきたんだな。どうやってだ?」
「空から落ちてきたそうだ」
「いつもそうなんだ」とベルディン。「いつかは地面の中からむっくり顔をだすところを見たいもんだ――マンネリにならないためにもな」
「おまえはすぐ退屈する、兄弟」ベルガラスがいさめた。
「おれだっておまえが火傷顔の墓の上に五百年とすわっているところは見なかったぜ、兄弟」ベルディンはやりかえした。
「頭がどうかなりそうだ」センジがふるえる両手に顔を埋めた。
「だんだん慣れてくるよ」ガリオンはなぐさめるように言った。「ぼくたちはあんたの人生を不快にするためにここにいるわけじゃない。ちょっとした情報が必要なだけなんだ。それが手にはいれば出ていく。正しいやり方で考えれば、これは全部夢なんだと自分に信じさせることもできるかもしれない」
「三人の神格化された英雄を目の前にしているのに、それを夢として受け流せというのか?」
「いい言葉だ」ベルディンが言った。「神格化された英雄か。ひびきがいい」
「おまえは単純に感心するんだな」ベルガラスが言った。
「言葉は思考の核だ。言葉がなけりゃ、思考はない」
センジの目が輝いた。「ねえ、そのことについてちょっと話し合わないか」
「あとだ」ベルガラスは言った。「ザマドに戻ろう――そしてサルディオンに」
「いいとも」錬金術師は言った。「クトラグ・サルディウス――あるいはサルディオン、どっちでも呼びたいほうでいいが――は空からザマドに降ってきたんだ。ザマドの未開人たちはそれを聖なるものと考え、神殿を建てて、ひれ伏してそれを崇拝した。神殿は山中のある谷のなかにあった。洞窟とか祭壇とかそういったやつのある神殿だった」
「わしらはそこにいたことがある」ベルガラスが短く言った。「いまでは湖の底に沈んでおるがな。どうやってメルセネへたどり着いたんだ?」
「それは何年かあとのことだ」センジは答えた。「カランド人は以前から厄介な連中だった。社会組織がきわめて未発達なんだ。三千年ばかり前――あるいはもうちょっと前かもしれない――ザマドの王は野心を抱きはじめ、ヴォレセボを併合して、貪欲に南をうかがいはじめた。レンゲルの国境ではたてつづけに襲撃が起きた。もちろんレンゲルはメルセネ帝国の一部だったから、皇帝はそろそろカランド人に教訓を与えるころだと判断した。応報出征を開始してヴォレセボに進軍し、象の騎兵隊の先頭に立ってザマドに侵入した。カランド人はそれまで象を見たことがなかったので、おそれをなして逃げだした。皇帝は組織的に町や村を破壊しつくした。そして聖なる物体と神殿のことを聞きおよぶと、そこへ行ってクトラグ・サルディウスを盗んだ――石をわがものにしたいというより、カランド人をこらしめるためだと思う。あまり魅力的なしろものじゃないからな」
「どんなものなんだ?」ガリオンはたずねた。
「かなり大きい」センジは言った。「楕円形で、このぐらいある」かれは両手で直径二フィートほどの大きさをあらわした。「変に赤っぽい色をしていて、白濁しているんだ――ある種の火打ち石に似ている。とにかく、言ったように、皇帝は本当にそれがほしかったわけではなかった。だからメルセネに戻ると、大学に寄付したんだ。それは学部から学部へとたらいまわしにされ、ついにこの博物館におさまった。何千年ものあいだあのケースの中でほこりをかぶっていたんだ。注意を払う者などひとりもいなかったよ」
「どうしてなくなったんだ?」ベルガラスがたずねた。
「いま話すところだ。五百年ばかり前、秘儀学習学部にひとりの学者がいた。風変わりな学者で、さまざまな声を聞くことができた。それはともかく、かれがすっかりクトラグ・サルディウスにとりつかれてしまったんだ。夜になるとこっそりここへ忍びこんできて、何時間もすわって見つめていた。石が自分に話しかけていると思ったんだろう」
「可能性はあるな」ベルディンが言った。「あれならやりかねない」
「この学者はだんだん理性をなくしてゆき、ついにある晩ここへやってきてクトラグ・サルディウスを盗みだした。それだけだったら、だれも紛失に気づかなかったんだろうが、学者は島を逃げだした。それもまるでメルセネの全軍勢に追いかけられているようなあわてぶりだった。かれの船が最後に目撃されたのは、ガンダハールの南端付近だった。ダラシア保護領の方角へ向かっているように思われた。船は二度と帰ってこなかった。そのあたりのどこかで嵐に巻き込まれて転覆したのだろうというのが一般的見方だ。おれの知っているのはこれで金部だ」
ベルディンはいまの話をはんすうしながら腹をぼりぼり掻いた。「つじつまはあうようだぜ、ベルガラス。サルディオンは〈珠〉と似たような力を持ってる。サルディオンは意識的に転々と場所を移してきた――おそらくいくつかの出来事に反応してだ。サルディオンをつかまえれば、このメルセネ皇帝がザマドからそれを盗みだしたのが、だいたいおまえと〈熊の背〉がクトル・ミシュラクへ〈珠〉を盗み返しにいった時期だってことがわかるだろう。それからこの学者のセンジの言った、ここからサルディウスが盗まれた時期が〈ボー・ミンブルの戦い〉とほぼ一致していることもな」
「あの石が生きているようなしゃべりかたをするんだな」センジが言った。
「生きてるんだ」ベルディンは言った。「しかも回りにいる連中の思考を支配することができる。起きたり、ひとりで歩いたりするのはむりらしいから、人間にもちあげさせたり、運ばせたりする」
「えらく思索的じゃないか、ベルディン」とベルガラス。
「おれはそれが一番得意なんだ。先へ進もうか? 乗るべき船は見つかったんだ。あとで情報を分類すりゃいいさ」
ベルガラスはうなずいて、センジを見た。「おまえさんがわしらを助けてくれるという忠告があったんだ」
「やってみるよ」
「よし。ある人物がおまえさんが『アシャバの神託』の完全な写しを持っていると教えてくれたんだが」
「そう言ったのは何者なんだ?」センジは用心深くたずねた。
「シラディスというダラシアの女予言者だ」
「予言者の言うことなんかだれが信じるんだ」センジはあざ笑った。
「わしがだ。七千年のあいだ、予言者がまちがっていたことはただの一度もなかった――謎めいたことを言うことはあっても、まちがっていたことは決してない」
センジはベルガラスからあとずさった。
「びくびくするなよ。センジ」ベルディンが言った。「どこへ行けば神託の写しが見つかるか知ってるのか?」
「昔はこの学部の図書室にあった」錬金術師はあいまいに答えた。
「昔は?」
センジは神経質にあたりをきょろきょろした。それから声を落としてささやいた。「おれが盗みだしたんだ」
「削除されている章節があるか?」ベルガラスは真剣だった。
「おれにはわかるかぎりでは、ない」
ベルガラスは大きく息を吐き出した。「ああ、ついにだ。どうやらザンドラマスが仕組んだゲームであの女を負かせそうだぞ」
「ザンドラマスと対決するのか?」センジが信じられないようにたずねた。
「追いつくことができたらただちにな」ベルディンが言った。
「あの女はおそろしく危険だぞ」
「わしらとて同じさ。おまえさんの盗んだ本はどこにある?」
「おれの実験室に隠してある。大学の職員たちはよその図書室からものをくすねるような人間に関してはひどく料簡が狭いんだ」
「公務員なんて昔からそうさ」ベルディンが肩をすくめた。「それが仕事に就くための資格のひとつなんだ。おまえの実験室に引き返そうぜ。ここにいるおれの老友はあの本を読まなけりゃならないんだ」
センジは足をひきずってドアへ向かい、ふたたび玄関へ戻った。
聖職者の長衣を着た例のやせた男は、本来あるべき場所へどうにか机を運びもどして、またそこにすわっていた。ガリオンは男の目がちょっとまともでないのに気づいた。
「いま出て行くところだ」ベルガラスは男に言った。「なにか異論でもあるか?」
やせた男はちぢみあがった。
「賢明な判断だな」ベルディンは言った。
そのころには夕暮れが近づき、秋の太陽が手入れのゆきとどいた芝生の上に傾いていた。
「みんなもうナラダスを見つけ出したかなあ」応用錬金術学部のほうへ歩いて戻りながら、ガリオンは言った。
「それはまちがいない」ベルガラスが答えた。「シルクの部下は非常に有能なんだ」
かれらが補強された建物にふたたびはいってみると、玄関には煙が充満し、廊下にはさらにいくつかの壊れたドアがふっとんでいた。
センジが鼻をくんくんいわせて煙の臭いをかいだ。「硫黄をいれすぎてるな」専門家らしく言った。
「ぼくたちが出くわした男がそっくり同じことを言っていたよ」ガリオンはセンジに言った。「自分自身をふきとばした直後のことだったと思うな」
「口をすっぱくして言ったんだ。硫黄はほんの少しでいいんだと。それをいれすぎるからさ――ばかめ!」
「ここじゃばかなことがごまんとあるみたいだな」ベルディンが片手で顔の前のけむたい空気をおい散らしながら言った。
「錬金術師ならしょっちゅうあることだ」センジは答えた。「なれてしまうんだ」と笑った。「そしてなにが起きるかわからない。あるばかが実際にガラスを鋼に変えたんだから」
ベルガラスが足をとめた。「なにをしたって?」
「ガラスを鋼に変えたんだ――というより、鋼そっくりなものに。まだ透き通ったままだったが、そいつは曲がりも、壊れも、割れもしなかった。おれがこれまでに見たもっとも硬い物質だ」
ベルガラスが額にてのひらをうちつけた。
「落ち着け」ベルディンが慰めてから、センジのほうを向いた。「そいつはその過程を記憶してるのか?」
「それは疑わしい。メモを全部燃やしたあと、僧院にはいっちまったんだ」
ベルガラスは息でも詰まったような音をたてていた。
「そういう過程にどれだけの価値があるかわかるか?」ベルディンはセンジにきいた。「ガラスは世界一廉価な物質だ――なんてったって、ただの溶けた砂なんだからな――それに好きな形にすることができる。ガラスを鋼にするその過程がわかれば、世界中の金を全部合わせた以上の値打ちになったろう」
センジは目をぱちくりさせた。
「気にするな。おまえは純然たる学者なんだ。だろう? 金に興味はない、そうだな?」
センジの両手がふるえだした。
かれらは階段をのぼり、ふたたびセンジの散らかった実験室に入った。錬金術師はドアをしめて鍵をかけると、足をひきずって窓のそばにある大きな戸棚に歩み寄った。うめきながらそれを壁から数インチ動かし、膝をついてそのうしろに手を入れた。
くだんの本は薄く、黒革で装丁してあった。ベルガラスは両手をふるわせて本をテーブルまでもっていき、腰をおろしてページを開いた。
「おれにはなんのことかよくわからなかったんだ」センジがベルディンに打ち明けて言った。「それを書いたのがだれだろうと、狂っていたんじゃないか」
「そうさ」ベルディンは答えた。
「だれが書いたか知ってるのか?」
ベルディンはうなずいて、ひとこと言った。「トラクだ」
「トラクは単なる神話上の人物だろう――アンガラク人がでっちあげたものだ」
「あいつにそう言ってやれよ」ベルディンはガリオンを指さした。
センジは固唾をのんで、ガリオンを見つめた。「あんたは本当に――つまり――?」
「そうだ」ガリオンは悲しそうに答えた。妙なことだが、十二年以上も前にクトル・ミシュラクで起きたことをいまだに残念に思っていたのだ。
「削除されてない!」ベルガラスが勝ち誇った叫びをあげた。「トラクが手をいれる前に、だれかが原本から写し取ったんだ。消えていた節がここには全部ある。これを聴け。そして〈光の子〉と〈闇の子〉の〈永遠の夜の都市〉における対決が実現するであろう。だがそれは最後の対決の場ではない。なぜならそこでは選択はなされず、〈闇の魂〉が逃げてしまうからだ。さらに新たな〈闇の子〉が東にあらわれることを知るがよい=v
「なぜトラクはその節をカットしたんだろう?」ガリオンは腑に落ちなかった。
「これが暗に示すところが気にいらないのさ――すくなくともトラクにはな」ベルガルスは答えた。「新しい〈闇の子〉があらわれるという事実は、トラクがクトル・ミシュラクでの対決に破れることを強く示唆している」
「それだけじゃない」ベルディンがつけたした。「たとえ破れなくても、神の座からひきずりおろされることになる。トラクにはそれが許せなかったんだろう」
ベルガラスはいそいで数ページをぱらぱらめくった。
「大事なところを見落としちゃいないだろうな?」ベルディンがきいた。
「アシャバであの写しになにが書いてあったかはわかっとるんだ、ベルディン。わしは記憶力がいいんだ」
「ほんとかよ?」ベルディンの口調は皮肉っぽかった。
「いいから」ベルガルスはそそくさと別の節を読んだ。「トラクがこれをけずったのも無理はない」と言った。「見よ、〈闇の魂〉の力を持つ石は〈永遠の夜の都市〉へあらわれる〈闇の子〉には、その姿をあらわさず、やがてあらわれる〈かれ〉にだけ屈するであろう=vベルガラスはあご髭をかいた。「わしがこれを正しく読んでいるとすれば、サルディオンがトラクから隠れていたのは、トラクが〈闇の予言〉の最終的媒介者とは考えられていなかったためだということになる」
「やつのエゴもちょいと傷つけられただろうな」ベルディンは笑った。
だがベルガラスは早くも先へ読み進んでいた。その目がふいに大きくなり、顔がかすかに青ざめた。「見よ、クトラグ・ヤスカをその手に持つ者だけが、クトラグ・サルディウスに触れることを許されるであろう。そして触れた瞬間に、その者のたち至る一切がいけにえとして捧げられ、その者は〈闇の魂の器〉となるであろう。ゆえに、〈光の子〉の息子を捜さねばならぬ。かれが〈もはや存在しない場所〉におけるわれわれの勝利者となるからである。そして選ばれたとき、かれは他のあらゆる者の上に立ち、片手にクトラグ・ヤスカを、片手にクトラグ・サルディウスを持ち、世界に君臨するであろう。こうして分断されていたすべてはふたたびひとつとなり、この世の終わりに至るまで、かれがあらゆるものを支配するのだ=v
ガリオンはしばらく声が出なかった。「じゃ、いけにえ≠ニいう言葉の意味はそういうことだったんだ!」と叫んだ。「ザンドラマスはゲランを殺すわけじゃないんだ」
「殺しはせん」ベルガラスは暗い声で言った。「もっと悪いことをするつもりでいる。ゲランをもうひとりのトラクに仕立てるつもりなのだ」
「それはちょいと急ぎすぎだぞ、ベルガラス」ベルディンがうなるように言った。「〈珠〉はトラクを拒絶したんだぜ――そしてその過程でやつの顔半分を焼いたんだ。サルディオンはその存在をトラクに知らせもしなかった。しかし〈珠〉はゲランを受け入れるだろう、サルディオンのこともだ。ゲランがふたつの石を手にすれば、絶対の力がかれのものになる。ゲランの将来に比べればトラクなんて赤子にすぎなかったんだ」醜い魔術師は沈痛な顔でガリオンを見た。「だからシラディスはレオンであんなことをおまえに言ったんだな、おまえが息子を殺さなくちゃならんかもしれないと」
「考えられないことだ!」ガリオンは激しく言い返した。
「そろそろ考えはじめたほうがいいのかもしれない。ゲランはもうおまえの息子じゃないんだ。ひとたびサルディオンに手を触れたら、ゲランは完全な悪になる――そして神になるんだ」
ベルガラスはけわしい顔で先を読み進んだ。「ここに何かがあるぞ」と言った。「そして勝利者を選ばれし場所へ連れていけば、〈闇の子〉は完全に〈闇の魂〉に所有され、その肉体は抜け殻となり、すべての星をちりばめた宇宙がそこに封じ込められるであろう=v
「なんのことだろう?」ガリオンはきいた。
「よくわからん」ベルガラスはそう認めたあと、さらに二、三ページをめくって眉間にしわをよせた。「勝利者に生を与えた女がなんじらに最後の対決の場所を知らせるであろう。だがなんじらは女がしゃべるように女をあざむかねばならぬ=v
「セ・ネドラが?」ガリオンは耳を疑った。
「ザンドラマスは以前にもセ・ネドラに手出ししたことがあった」ベルガラスはガリオンに思いださせた。「ポルにセ・ネドラから目を離させないようにしよう」老人はふたたび眉間にしわをよせた。「どうしてトラクはこの節を取り除いたのだろう?」合点がいかぬようにつぶやいた。
「鋭いナイフを持ってるのはトラクだけじゃなかったのさ、ベルガラス」ベルディンが言った。「いまのは決定的情報だ。ザンドラマスがそのままほっておきたかったはずがない、そうじゃないか?」
「そういうことをするから問題点がこんがらかっちまうんだ」ベルガラスは気むずかしく言った。「アシャバで編纂者がふたりいる本を読んだがな、読むべきなにかがあの本に残っていたらおどろきだ」
「先を読めよ、おい」ベルディンが窓へちらりと目をくれながら言った。「日が暮れてきたぜ」
ベルガラスはしばらく文字を目で追ってから言った。「やれやれ、ついにだ。いいか、見よ、最後の対決の場所はケルにおいて示されるであろう。なぜならそれは予言者たちの呪われた書物のページに隠されているからである=v考えこんで、老人はわめいた。「たわごとだ! わしは『マロリーの福音書』をところどころ読んだことがある。あれの写しは世界中に散らばっているんだ。ここに書いてあることが正しいなら、だれだって対決の場所を捜し出せるじゃないか」
「全部同じじゃないんだ」センジがつぶやいた。
「なんだと!」ベルガラスは爆発寸前だった。
「『マロリーの福音書』の写しは全部同じじゃないんだよ」錬金術師はくりかえした。「あの聖なる書物を片っ端から調べたことがあるんだ。古代作家はおれの実験に役立つことにときどきでくわしていたんだよ。そのたぐいの書物なら相当数集めた。あんたがいま持ってる本を盗んだのもそのためさ」
「『ムリンの書』の写しも持っているんじゃないのか」ベルディンが言った。
「じつは二冊ね。この二冊はまったく同じものだ。『マロリーの福音書』では、そういうことはめったにない。三冊持っているが、ふたつとして同じじゃないんだ」
「ふむ、そうか」とベルガラス。「予言者を信用しないのには理由があったわけだ」
「予言者たちはわざとそういうことをしているんだ」センジは肩をすくめた。「くいちがいがいくつもあるのに出くわしたあと、おれはケルへ行ったんだ。ケルの予言者たちが言うには、福音書には読んだ人間にとってあまりにも危険な秘密があるから、あけすけに書くことはできないということだった。だから写しがすべて異なっているんだよ。その秘密を隠すために全部修正されたんだ――もちろん原本以外は。それはずっとケルに保管されてる」
ベルディンとベルガラスはじっと目を見交わした。「そういうことだな。おれたちはケルへ行くぞ」ベルディンがぼそっと言った。
「しかし、ぼくたちはザンドラマスにあと一歩と迫っているんだ」ガリオンは反対した。
「そしてケルへ行かなけりゃ、その差はいっこうにちぢまらん」ベルディンは言った。「ザンドラマスの後塵を拝んでるだけだ。ケルへ行くことがあの女を出し抜く唯一の方法なんだぜ」
ベルガラスは神託の最後のページに目を移していた。「これはどうやら私信だな、ガリオン」と畏怖のまじった口調で言うと、本をさしだした。
「え?」
「トラクがおまえに話したがっている」
「話したければ勝手に話せばいい。ぼくは聴くつもりはないよ。一度もう少しでその過ちを犯しそうになった――トラクがぼくに、あいつがぼくの父親だと言おうとしたときのことだ、おぼえてるだろう?」
「これはちょっと違う。今度は嘘はついていない」
ガリオンは本をつかんだ。両手から腕へぞっとするような悪寒がかけのぼったように思えた。
「読め」ベルガラスが容赦なく言った。
しかたなく――いやがる心を叱咤さえして――ガリオンは目の前のページの細長い書体に視線を落とした。「ようこそ、ベルガリオン=v口ごもりながら声に出して読んだ。「なんじの目がこれをたどるようなことがあるのならば、すなわちそれはわたしがなんじの手に倒れたということになる。それを嘆きはすまい。運命の試練にわが身を投げ込むつもりだ。わたしが負けたのであれば、しかたあるまい。わたしがなんじを憎むことを知っておくがよい、ベルガリオン。なぜなら憎悪のためにわたしは闇に身を投げるのだから。憎悪のために、わたしはいまわの息をなんじに吐きかけるだろう。憎むべきわたしたちの兄弟よ=vガリオンの声がかすれた。あの半身付随の神のすさまじい憎悪が何億年ものかなたから自分のところまで届くのを痛いほどはっきり感じた。おそるべき〈永遠の夜の都市〉で起きたことの意味がいまこそ完全に理解できた。
「読みつづけるのだ」ベルガラスがうながした。「まだあるぞ」
「おじいさん、これ以上耐えられないよ」
「読め!」ベルガラスの声が鞭のようにしなった。
しかたなくガリオンはふたたび本を持ち上げた。「われわれが兄弟であることを知るがよい、ベルガリオン、互いにたいするわれわれの憎悪がいつか天を割こうともだ。われわれはおそるべき務めを共有する兄弟なのだ。なんじがわたしの言葉を読んでいるということは、なんじがわたしの破壊者だったということになる。したがって、わたしはその務めをなんじに課さねばならぬ。この書物に予告されていることは、忌まわしいことだ。それを実現させてはならぬ。世界を破壊せよ。必要なら、宇宙を破壊してでもこの予言を実現させてはならぬ。いまなんじの手には過去の一切の宿命が握られている。そして現在の。そして未来の宿命が。ようこそ、わが憎むべき兄弟よ、さらばだ。われわれは〈永遠の夜の都市〉で会うだろう――会ったというべきか――そしてわれわれの戦いはそこで完結するのだ。だが、その務めは〈もはや存在しない場所〉でわれわれの前にまだ横たわっている。われわれのひとりがそこに行き、究極の恐怖と対決しなければならぬ。それがなんじであるなら、われわれを失望させるな。ほかのすべてに失敗しようとも、なんじはなんじのひとり息子から命を奪わねばならぬ、ちょうどなんじがわたしから命を奪ったように=v
本が手からすべりおち、立っていられなくなって、ガリオンは床にくずれおちると、はげしく泣きじゃくった。いいしれぬ絶望に狼のように咆哮し、顔をつたう涙をぬぐおうともせずに、両のこぶしを床にたたきつけた。
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第二部 ペルデイン
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ガリオン、ベルガラス、ベルディンが帰ってみると防水外套を着たひとりの男が二階の居間でシルクとふたりきりで話し合っていた。がっしりした体格の男だった。髪とあご髭に白いものが混じり、左耳に大きなイヤリングをしている。
「ああ、お帰り」三人がはいっていくとシルクが顔をあげた。ネズミ顔の小男は服を着替えて、簡素な上着に特徴のない茶色のズボンをはいていた。「カディアン船長だ。おれたちの友人を本土へ運んだ人物だよ」シルクは船乗りをふりかえった。「いまおれに話したことをかれらに話してやってくれないか、船長」
「陛下がそう言われるなら」カディアンの声は船乗りを業とする人間にありがちなあのしわがれ声だった。悪天候と強い酒のせいだろう、とガリオンは推測した。船長は手に持っていた銀のジョッキから酒をあおると、「それじゃ」と話しだした。「三日前のことでした。おれはガンダハールのバシャドからこっちへきたばかりだったんです。バシャドはマガン川の河口にありましてね」と顔をしかめた。「不健康なところですよ――湿地と密林だらけで。それはともかく、おれは組合のためにここへ象牙の船荷を運んできたんです。積荷をおろしたところだったんで、代わりの荷を捜してました。波止場につないでいたんじゃ、金になりませんからね。おれはなじみの居酒屋へ行きました。居酒屋のあるじはおれの古い友だちで――若い時分の船乗り仲間でして――おれのために世間の動きに注意してくれてましてね。で、おれがそこへ行って腰をおろすがはやいか、あるじがやってきていい値段で短くて楽な航海があるが興味があるかどうかとたずねるんですよ。その手の仕事ならいつだって興味があると言ったんですが、決める前にどんな荷なのか知りたいと思いました。運びたくないものもいくつかあるんでね――たとえば、家畜とか。家畜に船倉をよごされると、もう一度きれいにするのに何週間もかかっちまいますから。ところが、おれの友だちは船荷なんてひとつもないと言うんです。本土へ渡りたがっている人間がいるだけだったんです。そいつらと話をしたってべつにかまわないだろうとおれが言うと、友だちはおれを居酒屋の奥の部屋へ連れていきました。四人の人間がテーブルにすわってました――男がふたり、女がひとり、それに小さな男の子がひとり。男のひとりは高価な服を着てましたよ――貴族かなんかでしょうな――だが話をしたのはもうひとりのほうでした」
「その男についてなにか変わったところはあったか?」シルクがうながした。
「いま話すところです。ありきたりの恰好をしてましたが、おれの注意をひいたのはそのことじゃありませんでした。最初おれはその男は目が見えないのかと思ったんです――目のせいですよ――だが、まるきり目に色がないくせによく見えるようでした。昔おれの船にいたコックの片目がやっぱりそんなふうでしたよ。いやな気性のやつで、コックだからってなんの言い訳にもなりませんや。で、このおかしな目をした男ですが、そいつが自分と友だちは至急ペルデインへ行かなけりゃならないが、自分たちがそこへ行くことは内密にしておきたいと言うんです。それから、セルダの町の外に自分たちをこっそりおろせる場所を知っているかどうかと聞きました。知っているとおれは言いましたよ」カディアン船長はずるそうに鼻をひっぱった。「船を持ってる人間なら、だれだってひとつやふたつそういう場所を知ってるもんです――税関員はああだから税関員なんでね。そのころにはおれは疑わしく思いはじめてました。人気《ひとけ》のない浜を目的地にしたがる人間は、たいがいよからぬことをたくらんでるもんですよ。他人のやることなんか知ったこっちゃないとは思いますが、巻き込まれたりしたらおれの仕事がヤバくなる。他人の助けなんかなくたって、自分だけで厄介事に巻き込まれる可能性はありますからね」船長は言葉を切って、ジョッキから長々と酒をあおり、手の甲で口をぬぐった。
「言ってるように、そのときにはその連中を疑わしく思いはじめてたんで、そういう申し出には興味はないと言おうとしたんです。ところがそのとき、男に向かって女が小声で何か言ったんですよ。女は黒いサテンみたいなきれでできた長いマントかローブのような服を着てました。ずっと頭巾をかぶりっぱなしだったんで、顔は一度も見えませんでしたが、小さな男の子をしっかりつかんだまま離しませんでしたね。とにかく、白目の男が財布をひっぱりだしてテーブルに中身をぶちまけました。財布には金貨がぎっしり入っていましたよ、みなさん、ここの沿岸を十二回航海してもあれだけの金は稼げないでしょうな。じっさい、状況はそれでガラッと変わっちまいましたよ。で、ちぢめて言うと、おれたちはその場で取引をしたんです。いつ発ちたいのかとたずねると、交渉役の男が暗くなったらすぐにおれの船にくると言うんです。すぐにははあと思いましたよ。おれの疑いもまんざらピントはずれじゃなかったんだとね。暗くなってから出航したがるようなやつに正直者はそういませんや。しかしもう取引はすんだあとだったんで、おれはやつの財布をベルトの下にたくしこみました。外へ出たときはずいぶん遅くなっていましたよ。その夜おれたちは出航し、翌日の午後ペルデインの海岸についたんです」
「霧のことを話してやってくれ」シルクが熱心に言った。
「いま話そうとしてたんです、陛下」カディアンは言った。「ペルデインの海岸は春中ずっと霧に沈んでいるところです。おれたちが到着した日も例外じゃありませんでした。毛織のマントよりぶあつい霧でしたが、セルダの連中は慣れっこになっているんで、霧深い日は波止場に船を導くために都市の外壁にいつもかがり火をともすんです。おれはそのかがり火で位置をたしかめ、目的の浜をわけなく見つけました。二、三百ヤード沖合いへ進み、甲板長に頼んで小舟で乗客を浜へ向かわせたんです。霧の中を帰ってこられるようにとメインマストからランタンをぶらさげ、甲板長が方向をまちがえないように鍋や釜を水兵たちにたたかせました。とにかく、しばらくたつと浜の近くの霧の中でオールの音が聞こえ、甲板長が戻ってくるのがわかりました。と、いきなり火明かりが霧の中にぼんやり見えたんです。おれたちはしばらく待ちましたが、甲板長は戻ってきませんでした。どうもようすが気にくわなかったんで、錨をあげろと命令し、ふたたび海へ戻ったんです。なにが起きたのか知らないし、とどまってつきとめるつもりもありませんでした。おれをびくつかせることがいくつかあったからなんです」
「ほう?」ベルディンが言った。「たとえば?」
「ええと、あるときメイン・キャビンで、白目の男と貴族もいましたが、この女が手を伸ばして小さな男の子をつかまえたんです。ちょこちょこ動き回っていたからですが、おれは女の手を見たんですよ。まあ、キャビンの中はあまり明るくなかったかもしれません――オイル・ランプもろうそくもおれはあんまり使わないんでね。しかし――もしおれがまちがっていたらこの目をやってもいい――女の手の皮膚の下に火花が散っているように見えたんです」
「火花?」ベルガラスがたずねた。
「そうなんで。この目で見たんです。火花は動いてました――そのちっちゃい火花が女の肉の中を動き回っていたんです、夏の夜にやる花火みたいに」
「まるですべての星をちりばめた宇宙がそこに封じ込められたようにか?」ベルディンは『アシャバの神託』にあったあの不可解な一節を引用して、熱っぽくたずねた。
「そういわれてみると、まさにそんなふうでした」カディアンは同意した。「連中がただの人間じゃないことはすぐにわかったんですが、あの霧の中の火を見てからは、そのへんにうろうろして、どのくらいやつらが普通じゃないかを知るような真似はまっぴらでした」
「それがあんたの命を救ったのかもしれんぞ、船長」ベルガラスが言った。「ザンドラマスの名を聞いたことは?」
「あの魔女ですかい? だれだって知ってますよ」
「あんたの光る乗客はザンドラマスだったのだ。ザンドラマスは死人に口なしという古い考えを固く信じている。わしらが知っているかぎりでも、あの女は船三隻を沈め、数人の人間をライオンに食わせている。あんたが助かったのはひとえに霧のおかげだろう。ザンドラマスがあんたを見つけていたら、あんたはいまここにいなかっただろうな」
カディアン船長はごくりと唾を飲み込んだ。
「まだなにか必要ですか?」シルクがきいた。
「いや」ベルガラスは答えた。「これですべてわかった」ベルガラスは船長を見た。「礼を言うよ、カディアン。あんたのその乗客をおろした浜の地図を簡単に書いてもらえるか?」
「書きますとも」カディアンは陰気に答えた。「あの魔女を追いつめるおつもりで?」
「ああ、だいたいそんなところだ」
「あいつを火あぶりにするときは、おれの甲板長とかれの漕ぎ手たちの思い出に、薪《たきぎ》を数本投げ込んでください」
「約束するよ、船長」ガリオンは言った。
「まだ生木の薪にしてください」カディアンはつけくわえた。「燃えるのに時間がかかりますから」
「おぼえておこう」
シルクがたちあがって、船長に革袋を渡した。
カディアンがてのひらの上で数回それを踊らせると、じゃらじゃらと音がした。
「身に余るしあわせです、殿下」船長も立ち上った。「ペンとインクはありますか? 海図を書きましょう」
「あのテーブルにある」シルクが指さした。
船長はうなずいて、部屋を横切った。
「ポルおばさんは?」ガリオンはたずねた。「それに、他のみんなは?」
「服を着替えてる」シルクが答えた。「ヴェターの部下のひとりが戻ってきて、カディアン船長を見つけたと報告したあとすぐに、おれたちの船に伝言をやったんだ。目下波止場でおれたちを待ってる」シルクはしげしげとガリオンを見た。「気分がよくないのか? ちょっと顔が青いぜ」
「あるメッセージを受け取ったんだが、そこに悪い知らせが含まれてたんだ」
シルクはとまどいぎみにベルガラスを見た。
「『アシャバの神託』を見つけたのだ」老人は簡潔に説明した。「その最後のページにトラクがガリオン宛の伝言を残していた。あまり愉快なものじゃなかった。その話は船に乗ってからすればいい」
カディアン船長が羊皮紙を一枚持って戻ってきた。「これがセルダです」と図面を指さしながら言った。「南に岬があり、おれが話していた浜はその真南にあります。霧のせいであの魔女が上陸した正確な位置はわからないが、×印をつけたあたりが近いはずですよ」
「重ねて礼を言うよ、船長」シルクが言った。
「どういたしまして、殿下、あの女をふんづかまえてくださいよ」カディアンは回れ右をして、陸ではほとんど時間を過ごしたことのない人間特有の左右に揺れるような足取りで部屋を出ていった。
それからほどなく、ポルガラや他の面々があらわれた。セ・ネドラもヴェルヴェットも、ポルガラが旅をするさいにいつも着るような質素なグレイの服を着ていた。ガリオンはグレイがセ・ネドラに似合わない色であることに気づいた。グレイは彼女の肌をひどく青ざめて見せ、色彩らしきものといえば燃えるように豊かな茜《あかね》色の髪だけだった。
ダーニクたち男性は――いつも無漂白の毛布と腰布しかつけないトスは別として――シルクが着ているのと同じこれといった特徴のない茶色の服を着ていた。
「それで、おとうさん?」ポルガラが入ってくるなりたずねた。「わたしたちの求めるものは見つかったの?」
ベルガラスはうなずいた。「だが、それについては乗船してから話さないか? メルセネでの目的は果たしたんだ。船が進んでいるあいだに話せばすむ」老人は先に立って階段をおりた。
銀色の夜だった。早々と昇った満月がメルセネの街路に青白い光をいっぱいにふりそそいでいた。通り過ぎる家々の窓でろうそくが金色に輝き、波止場に停泊している船の索具から無数のランタンがまたたいてた。ガリオンは無言で馬を進めた。数千年前にトラクが自分のために残したおそるべき伝言が、まだ重く胸にのしかかっていた。
かれらはすばやく乗船し、ただちに後甲板下の窮屈なキャビンにおりた。
「それではと」ダーニクがドアをしめると、ベルガラスは一同に言った。「わしらは神託を発見した。〈ボー・ミンブルの戦い〉があったころ、サルディオンがどこに保管されていたかもつきとめた」
「そりゃ実り多い調査でしたね」シルクが言った。「センジは本当に噂どおりの年寄りなんですか?」
ベルディンがうなった。「噂以上さ」
「センジは魔術師ってことなの?」セ・ネドラがたずねた。地味なグレイの服のせいなのだろうが、揺れるオイル・ランプの下のごてごてと彫刻された腰掛けにすわっている彼女は憂い顔に見えた。
ベルガラスはうなずいた。「あまり腕はよくないが、その能力はたしかに持っとる」
「センジの先生はだれだったの?」ポルガラが知りたがった。彼女はセ・ネドラのとなりに腰をおろすと、愛情をこめて小柄な女王の肩に腕を回した。
「だれでもない」ベルガラスはいやみたらしく言った。「ひとりで偶然やってのけただけだと言ったら信じるか?」
「ちゃんと調べたの?」
「ああ。ベルディンがちゃんとな。あとで説明してもらえ。とにかく、サルディオンは数千年昔にここの大学へ持ってこられたのだ。大学ではそれを博物館に保管した。その実体はだれも知らなかっただろう。次に、五百年ばかり前になるが、学者のひとりがサルディオンを盗み、ガンダハールの南端まで運んで、船でダラシア保護領の方角へ向かった。その後、サルディオンがどうなったのかだれもたしかなことは知らん。いずれにせよ、『アシャバの神託』の完全な写しはセンジが持っておったよ」
「なんて書いてありましたの?」ヴェルヴェットが熱心にたずねた。
「じつに多くのことがな。ザンドラマスがゲランを誘拐した理由もわかった」
「いけにえとしてですか?」ヴェルヴェットが言った。
「ただし、その言葉の持つあいまいな意味においてだけだ。〈闇の予言〉が勝てば、ゲランはアンガラクの新しい神になるだろう」
「わたしの赤ちゃんが?」セ・ネドラが叫んだ。
「ゲランはもはやあんたの赤ん坊ではないのだよ」老人は暗い顔で言った。「かれはトラクになるのだ」
「もっと悪いかもしれん」ベルディンがつけくわえた。「ゲランは片手に〈珠〉を片手にサルディオンを持つだろう。そして存在するすべての上に君臨する。かれがおもいやりのある神になるとは思えん」
「わたしたちでザンドラマスをとめなくちゃ!」セ・ネドラは叫んだ。「そんなことをさせてなるもんですか!」
「だれしもそう思いますよ、女王陛下」サディが言った。
「他にはどんなことが書いてあったの、おとうさん?」ポルガラがきいた。
「ザンドラマスについてなんだかよくわからんことが書いてあった。どういうわけか、あの女の体は徐々にある種の光に支配されつつあるのだ。ザンドラマスをセルダへ運んだ船長が女の手を垣間見たんだが、皮膚の下を光が動いていたと言っている。神託にもそういうことが起きると書いてあるのだ」
「どういうことです?」ダーニクがたずねた。
「さっぱりわからん」ベルガラスはそう認めたあと、ガリオンを見てかすかに指を動かした。(あの本がセ・ネドラについて言っていたことを、セ・ネドラに話す必要はないと思うが、どうだ?)
ガリオンはうなずいた。
「とにかく、わしらはケルへ行かねばならん」
「ケルですって?」ポルガラはおどろいたように言った。「なんのために?」
「わしらが探している場所の位置が、予言者たちが保管している『マロリーの福音書』に書かれているのだ。ケルへ行けば、ザンドラマスより先にこの対決の場所へたどりつくことができる」
「気分転換にはもってこいだな」シルクがひとりごちた。「あの女のあとをくっついてまわるのはもううんざりしてたんだ」
「でもそんなことをしたら足跡を見失ってしまうわ」セ・ネドラが反対した。
「あんたな」ベルディンがぶっきらぼうに言った。「ザンドラマスの目的地がわかれば、足跡なんかいるもんか。直接〈もはや存在しない場所〉へ行って、やつがあらわれるのを待ってりゃいいのさ」
いたわるようにセ・ネドラの肩にまわされていたポルガラの腕に力がこもった。「彼女にはやさしくしてちょうだい、おじさん。大公の屋敷ではおじさんにキスするほど勇敢だったんですからね。セ・ネドラのデリケートな感受性にとってはたいへんなショックだったにちがいないわ」
「まったくおもしろい意見だよ、ポル」醜い小男はどさりと椅子にすわると、腋の下をぼりぼり掻いた。
「ほかになにかあった、おとうさん?」ポルガラはたずねた。
「トラクがガリオンにあることを書き残していた」ベルガラスは答えた。「きわめて不快な内容だったが、もしザンドラマスが成功したら、いかにひどい事態が起きるかトラクは知っていたらしい。ガリオンにどんな犠牲を払ってでもザンドラマスをくいとめろと言っていた」
「どうせそのつもりだったんだ」ガリオンは静かに言った。「トラクから言われるまでもないさ」
「ペルデインではどんな困難にぶつかりそうかね?」ベルガラスはシルクにたずねた。
「まずい事態にでくわしそうなのは、むしろヴォレセボやレンゲルのほうですよ」
「ケルへ行くにはどういう方法が一番早いんだろう?」ダーニクがきいた。
「その方法があるのはリカンディア保護領なんだ」シルクは答えた。「で、そこへ行く最短の道は、ペルデインとダーシヴァをまっすぐ横断してから山を通過することなのさ」
「ガンダハールはどうなんです?」サディがたずねた。「南へ航行してガンダハールへ行けば、あのいやな思いを一切しないですむんですよ」ズボンにチュニックを着たサディはなんだか奇妙に見えた。あの虹色のゆったりした服をいったん脱ぎ捨ててしまうと、ごくありふれた感じで宦官のようには見えない。とはいうものの、その頭は剃りたてでつるつるしていた。
シルクが首をふった。「ガンダハールはジャングルまたジャングルなんだぜ、サディ。木を伐りながら進まなくちゃならない」
「ジャングルはそう困ったものじゃありませんよ、ケルダー」
「急いでいなけりゃな」
「あなたのあの兵士たちを派遣したらどうなの?」ヴェルヴェットがたずねた。
「できなくはないが、連中がそれほど助けになるかどうかわらないよ。ヴェターの話じゃダーシヴァにはグロリムとザンドラマスの部隊がうようよしてるんだ。それにペルデインは何年間も混乱状態にある。おれの部隊は優秀だが、それほどすぐれているわけじゃない」シルクはベルガラスを見た。「あなたの毛皮の穴がさらに増えることになりますよ」
「それじゃ、ぼくたちは足跡を無視してまっすぐにケルへ向かうのか?」ガリオンはきいた。
ベルガラスは片方の耳たぶをひっぱった。「どのみち足跡はほぼケルの方角へ向かうはずだ。ザンドラマスも『アシャバの神託』を読んだのだからな。必要な情報を得られる唯一の場所がケルだということはあの女も知っているのだ」
「シラディスはザンドラマスに福音書を見せるつもりでしょうか?」ダーニクがたずねた。
「おそらくな。シラディスはまだ中立だ。どちらかの肩を持つことはありそうにない」
ガリオンは立ち上がった。「甲板へ行ってくるよ、おじいさん。考えたいことがあるんだ。海の空気は頭をすっきりさせてくれる」
後方の水平線上にメルセネの明かりがまたたき、月が海面に銀色の道を落としていた。船長が後甲板の舵柄のそばに立っていた。揺るぎのない確信に満ちた両手が舵輪をつかんでいる。
「夜間は進行方向を知るのがちょっとむずかしいんじゃないのか?」ガリオンはたずねた。
「そんなことはありませんや」船長は答えて、夜空を指さした。「季節は移っても、星はぜったい変わりませんからね」
「なるほど。希望が持てるな」ガリオンは前のほうへ歩いていき、船首にたたずんだ。
メルセネと本上のあいだの海峡を通過する夜の微風はきまぐれだった。帆は風をはらんで大きく膨らんではしぼみ、そのブーンという音が葬儀の太鼓のようにひびいた。その音はガリオンの気分に似つかわしかった。長いこと立ったまま、かれは結び目のあるロープの端をもてあそび、月光を浴びた波をながめていた。考えごとをしているというよりむしろ、周囲の光景や音やにおいをただ心にきざみこんでいるだけだった。
彼女がいるのはわかっていた。それはごく幼いころから知っているあのにおいのためばかりでなく、彼女の存在がもたらす穏やかな雰囲気のせいでもあった。ガリオンはとりとめもなく記憶をさぐりなおした。かれはおばさんがどこにいるかいつも正確に知っていたような気がした。真っ暗な夜、忘れられた町の見知らぬ部屋での眠りからはっと目覚めたとしても、おばさんの居場所ならまちがえずに指させるはずだ。この船の船長を導くのは空の光だが、これまでの人生でガリオンを導いてきた星は、ビロードの喉のような空にあるはるかかなたのきらめきではなかった。それはもっとずっとそばにあり、もっとずっと不変のものだった。
「なにを悩んでいるの、ガリオン?」彼女はかれの肩にそっと手をのせた。
「あいつの声が聞こえそうな気がしたんだ、ポルおばさん――トラクの声が。あいつはぼくが生まれる何千年も前からぼくを憎んでいた。ぼくの名前さえ知っていたんだ」
「ガリオン」ポルおばさんはとても静かに言った。「宇宙はあそこのあの月が無から飛び出してくる前に、あなたの名前を知っていたわ。すべての星座が時のはじまりからずっとあなたを待っていたのよ」
「ぼくは待っていてほしくなかったよ、ポルおばさん」
「わたしたちにその選択権は与えられていないのよ、ガリオン。行なわなければならないことがあり、ある人々がそれをしなくてはならないの。それと同じように単純なことなのよ」
ガリオンはポルガラの完璧に整った顔に悲しげにほほえみかけると、はえぎわの雪のように白い一房の髪にそっと手を触れた。それから、小さな少年のころからずっと言おうとしていた質問を、これが最後のつもりで、たずねた。「どうしてぼくなんだ、ポルおばさん? どうしてぼくなんだ?」
「こういう事柄に取り組むのに信用できる人間をほかに思いつけて、ガリオン?」
その問いかけはガリオンの不意をついた。その単純明快さがかれをしっかりつかまえた。少なくともいまは完全に理解できた。「いや」ガリオンはためいきをついた。「思いつけそうにない。だけど、なんだかちょっと不公平な気がするな。相談もされなかったんだ」
「わたしだってそうよ、ガリオン」ポルガラは答えた。「でも相談される必要はなかったんじゃない? 自分たちがしなくてはならないことに関する知識は、わたしたちのなかに生まれるんですもの」ポルガラはガリオンに腕をまわして引き寄せた。「あなたが誇らしくてたまらないわ、わたしのガリオン」
ガリオンは少し皮肉めかした笑い声をたてた。「けっきょくぼくはそうひどくはなかったってことかな。少なくとも靴の左右をはきちがえることはないしね」
「それをあなたに説明するのにどれだけ時間がかかったか、あなたには考えもつかないわよ」ポルガラは軽やかに笑った。「あなたはいい子だったわ、ガリオン、でも絶対にこっちの言うことを聞こうとしなかった。ランドリグですら耳をかたむけたというのにね。あの子はたいがいわかっていなかったけれど、聞くだけは聞いたものよ」
「ときどきランドリグが懐かしくなるよ。かれとドルーンとズブレットが」ガリオンは言葉を切った。「あのふたりは結婚したのかな? ランドリグとズブレットのことだけど?」
「ええそうよ。何年も前にね。ズブレットは子供たちの世話に追われているわ――五人かそこらの。毎年秋になると伝言がきて、彼女の一番新しい赤ちゃんを取り上げるためにファルドー農園へ戻らなけりゃならなかったものだわ」
「そんなことしてたの?」ガリオンはおどろいた。
「ほかのだれかにまかせるわけにはいかなかったのよ。ズブレットとはいくつかの事で意見のくいちがいもあったけれど、わたしはやっぱり彼女がとても好きなの」
「ズブレットはしあわせなの?」
「だと思うわ、ええ。ランドリグは世話の焼けない夫だし、ズブレットの頭は子どもたちでいっぱいだから」ポルガラはじっとガリオンを見つめた。「これで少しは気が晴れた?」
「よくなったよ」ガリオンは答えた。「おばさんがそばにいてくれると、いつも気分がはればれしてくる」
「それはよかったわ」
ガリオンはあることを思いだした。「神託がセ・ネドラについて言っていることをおじいさんはおばさんに話すチャンスがあったのかな?」
「ええ。彼女から目を離さないようにするわ。もう下へ行かない? この先二、三週間はたいへんになりそうだから、できるあいだに眼っておきましょう」
ペルデインの海岸はカディアン船長の予言どおり霧にすっぽりとおおわれていたが、セルダの町の外壁で燃える目印のかがり火が参考地点をいくつも照らしだしていた。おかげで一行は慎重に海岸づたいに進み、船長のカンでカディアンの海図にあった浜のそばへたどりついた。
「この一マイルばかり南に漁村があります、殿下」船長がシルクに教えた。「このあたり一帯で起きたごたごたのせいで、いまはだれも住んじゃいませんが、波止場があるんです――少なくともおれが最後にこの海岸を通過したときはありました。そこなら馬たちをおろせるはずですよ」
「申し分ないよ、船長」シルクが答えた。
霧のなかをはうようにして進んで、ようやく一行はさびれた漁村とそのわびしい波止場に到着した。クレティエンヌが岸につくとすぐ、ガリオンはかれに鞍をつけ、クレティエンヌにまたがって、鞍頭に〈鉄拳〉の剣を載せ、浜をゆっくりひきかえした。一マイルほど行ったあと、おなじみの引きを感じた。ガリオンは馬首をめぐらして戻った。
他の面々も馬に鞍をのせて、霧に包まれた漁村の入口まで馬たちを連れてきていた。乗ってきた船はゆっくりと海へ出て行き、霧にぼんやりかすんでいた。赤と緑のランタンが舷窓と右舷の位置を示し、船乗りがひとり、第一斜檣にまたがって他の船とぶつからないように憂鬱な霧笛を吹いていた。
ガリオンは馬をおりて、みんなが待っているところへ大きな灰色の種馬を連れていった。
「見つかった?」セ・ネドラが抑えた真剣な声でたずねた。ガリオンは霧というのが、なぜかいつも人をささやき声にさせることに気づいていた。
「ああ」ガリオンは答えてから、祖父のほうを見た。「それで? 足跡を無視してケルまでの最短コースをとるのかい、それともなにか?」
ベルガラスはあご髭をかいて、ベルディンを見、次にポルガラを見た。「どう思う?」
「足跡は内陸へ向かっていたんだな?」ベルディンはガリオンにきいた。
ガリオンはうなずいた。
「それなら、まだ決定をくだすことはないさ」魔術師は言った。「ザンドラマスがおれたちが行こうとしているのと同じ方角へ向かっているかぎり、おれたちはザンドラマスをおいつづけることになる。あの女があとで方角を変更したら、そのとき決断すりゃいい」
「筋は通っているわ、おとうさん」ポルガラが賛成した。
「よし、じゃそれで行こう」老人はあたりを見回した。「闇同様この霧がわしらを隠してくれるはずだ。足跡を見つけに行こう。そのあとはガリオン、ポル、わしが前方を偵察すればいい」ベルガラスは目を細めて陰気な空を見上げた。「だれかいまが何時ごろかわかるか?」
「午後の三時ごろですよ、ベルガラス」トスとちょっと相談したあと、ダーニクが言った。
「では、ザンドラマスがどっちの道を行ったかつきとめよう」
かれらはクレティエンヌのひづめのあとをたどって浜を進み、ガリオンの剣がかれの手の中で揺れて内陸を指した地点へたどりついた。
「そのうち追いつけるはずですよ」サディが言った。
「どうしてだ?」シルクがきいた。
「ザンドラマスは小舟で岸についたんでしたね」宦官は答えた。「したがって馬はなかったわけです」
「それはザンドラマスにはたいした問題じゃないわ、サディ」ポルガラが言った。
「彼女はグロリムなのよ、遠くから手下たちと意志を通じあわせるぐらいわけないわ。足が砂浜にふれてから一時間とたたないうちに、彼女が馬にまたがっていたのはまちがいないわね」
宦官はためいきをついた。「ときどきそのことを忘れてしまうんですよ。魔術を使えるのはわたしたちにとっては実に便利ですが、敵もそうだとなると便利どころじゃありませんね」
ベルガラスが馬からおりた。「行こう、ガリオン。おまえもだ、ポル。はじめたほうがいい」老人はダーニクを見て言った。「あまり離れないようにしろ。この霧で困った事態にならんともかぎらんからな」
「そうですね」ダーニクはうなずいた。
ガリオンは柔らかい砂に足をとられないように、ポルガラの腕をとって、祖父のあとから高潮線の跡がついた流木のところまで浜を進んでいった。
「あれをやるべきだな」老人は決断した。「ここで変身しよう。そのあとはガリオンとわしが偵察する。ポル、みんなを視界から出さんようにしろよ。仲間が迷子になるのはごめんだ」
「ええ、おとうさん」そう言いながら、ポルガラは微光を放って変わりはじめた。
ガリオンは意識の中にイメージをつくりあげ、意志の力を引き込んで、ふたたびあの溶けるような奇妙な感覚をあじわった。いつもするように、用心深く自分自身を眺めまわした。あるとき、あわてて変身したために尻尾を忘れてしまったことがあったのだ。二本脚の動物にとっては、尻尾はあまり意味がないが、四本脚の動物にはなくてはならないものだった。
「自分に見ほれるのはよさんか」意識の静寂の中でベルガラスの声が聞こえた。「やらねばならん仕事があるんだぞ」
「全部そろっているかどうか確認していただけだよ、おじいさん」
「行こう。霧の中はあまり目がきかんから、鼻を使えよ」
ポルガラは流木の丸太から突き出た白茶けた枝に静かにとまって、湾曲したくちばしで純白の羽根を丹念につくろっていた。
ベルガラスとガリオンは楽々と流木をとびこえて、霧の中へ軽やかにかけだした。「じめじめした日になりそうだね」ガリオンは声をださずに隣りを走っている大きな銀色の狼に言った。
「おまえの毛皮は溶けやせん」
「わかってるさ。だだ、ぬれると前足が冷たくなるからな」
「ダーニクに言って、おまえに小さなブーツでも作らせるか」
「そんなのこっけいそのものだよ、おじいさん」ガリオンはぶりぶりしながら言った。変身するようになったのはごく最近のことなのに、狼の持つ圧倒的な気品と礼儀正しさは早くもガリオンの意識に浸透していた。
「すぐ先に人間がいる」ベルガラスが鼻をうごめかせた。「おばさんにそう言え」
二匹の狼は二手に分かれて、霧にぬれた背の高い草むらに入っていった。
「ポルおばさん」ガリオンは言葉を周囲の霧に包まれた静寂の中へ投げた。
「なに、ディア?」
「ダーニクとみんなに手綱を引くように言ってよ。前方に数人の人間がいるんだ」
「わかったわ、ガリオン。気をつけて」
ガリオンは地面にはいつくばって、慎重にぬれた草むらを進んだ。
「永久に晴れないのかね?」左のほうでいらだたしげに問いつめる声がした。
「地元の連中が言うには、春はこのあたりはいつも霧がでるんだ」別の声が答えた。
「いまは春じゃない」
「ここじゃ春なんだ。われわれは赤道の南にいるんだぞ。季節が逆なんだ」
「なんだかばかみたいだな」
「考えたのはおれじゃない。文句を言いたいなら神々に話すんだな」
長い沈黙があった。「猟犬たちはもうなにか発見したか?」最初の声がたずねた。
「三日前の足跡をかぎ出すのはすごくむずかしいんだ――いくら猟犬たちでもな――それにこの霧でなにもかもぬれてるとあっちゃなおさらさ」
ガリオンは凍りついたように動きをとめた。「おじいさん!」かれは霧の中へ思考を叫んだ。
「大声を出すな」
「このすぐ先でふたりの男がしゃべっているんだ。猟犬たちを連れている。この連中も足跡を見つけようとしてるらしい」
「ポル」老人の思考がぱりぱりと音を立てたように思えた。「こっちへきてくれ」
「ええ、おとうさん」
わずか数分にすぎなかったのに、何時間にも感じられた。やがて頭上の暗い霧の中に、やわらかな翼が一回だけはばたく音が聞こえた。
「向こうの左に男たちがおる」ベルガラスの声が報告した。「どうやらグロリムらしい。見てきてくれ、だが気をつけろよ」
「わかったわ」ポルガラが答えた。また霧の中にやわらかな羽音がした。ふたたび長い待ち時間があった。
ようやくポルガラの声がやけにはっきりと戻ってきた。「おとうさんの言うとおりよ。かれらはチャンディムだわ」
静寂の中から低い罵詈雑言が聞こえた。「ウルヴォンだな」ベルガラスの声が言った。
「そしてたぶんナハズもね」ポルガラがつけくわえた。
「これで事態はややこしくなる」老人は言った。「引き返してみんなと話し合おう。ベルディンが思ったより早く決断をくださねばならんかもしれん」
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10[#「10」は縦中横]
かれらは流木の散らばった浜からそう遠くないところに集まった。この霧深い海岸がゆっくりと夕暮れに包まれるにつれて、霧はいつしか白から灰色に変わった。
ベルガラスが行く手になにが待ち受けているかを一同に告げると、ベルディンが言った。「そこだな、すると。チャンディムと猟犬どもがおれたちと同じように、ザンドラマスの足跡をあそこでかぎだそうとしているなら、おれたちは遅かれ早かれやつらに出くわすことになる」
「やつらなら前にもかたづけたことがあるじゃないですか」シルクが反論した。
「そりゃそうだ」ベルディンが答えた。「だがな、そんな危険をなんで冒さなけりゃならん? ザンドラマスの足跡なんかいまのおれたちにはどうでもいい。おれたちに本当に必要なのは、ケルへたどりつくことだ」
ベルガラスは行ったりきたりしていた。「ベルディンの言うとおりだ。もはやどうでもよいことのために、危険を冒すことはない」
「でも、わたしたちすぐ近くまできているのよ」セ・ネドラが抗議した。
「チャンディムに――それに猟犬どもに――出くわしたら、そう近くにはいられなくなるぜ」ベルディンが言った。
サディは西洋風の旅行マントを着て、霧の湿気を防ぐために頭巾をすっぽりかぶっていた。剃りあげた頭が見えないと、容貌が妙にいつもとちがって見えた。
「チャンディムに跡をつけられていると知ったら、ザンドラマスはどんなことをしそうですか?」サディはたずねた。
「見つけられるだけのグロリムと兵士をチャンディムの行く手に配置するでしょうね」ポルガラは答えた。
「するとチャンディムはそれに対抗すべくもっと兵力をつぎこむ、ちがいますか?」
「論理的推測だね」ダーニクが同意した。
「ということは、ここにおける事態はもうじき結論に達するわけです。そうでしょう?――たとえ両サイドともこの場所を大規模な対決の場として特に選ばなかったとしてもです」
「なにが言いたいんだよ、サディ?」シルクがきいた。
「ウルヴォンとザンドラマスがもっぱら互いのことに意識を集中していれば、わたしたちにたいする注意はおろそかになる、そうでしょう? わたしたちがやらねばならないのはこの近辺から脱出することだけなんですから、たいした妨害に会うこともなくまっすぐケルへ向かうことができるはずです」
「南にはなにがある?」ベルディンがシルクにたずねた。
「これといってたいしたものは」シルクは肩をすくめた。「ガンダハールにつくまでは少なくともなにもありませんよ」
ベルディンはうなずいた。「だが、この北に都市があるだろう?」
「セルダね」シルクはおぎなった。
「ウルヴォンはたぶんもうそこにいるだろうが、おれたちが南へ行けば、やつを避けられる――ザンドラマスをもな。サディの言うとおりだ。やつらは互いのことにかまけていて、おれたちを捜してる暇はないだろう」
「なにかつけくわえたい者は?」ベルガラスが一同にたずねた。
「火事はどうです?」ダーニクが言った。
「なんのことだね」
「この霧ですからね」ダーニクは説明した。「それに夜も近い。チャンディムがわれわれの前方にいるんですから、こっそり迂回するあいだ、かれらの気をそらすものが必要です。浜の上端には流木がたくさんある。霧深い夜のかがり火は空全体を照らします。何マイルも空が見える。何ヵ所かで火を焚けば、チャンディムは後方でなにかゆゆしき問題がおきていると考えて、いそいで調べに引き返すでしょう。そうすればわれわれは悠々と前進できるはずです」
ベルディンがにやりと笑って、鍛冶屋の肩を節くれだった手でつかんだ。「おまえはいい選択をしたよ、ポル」うれしそうに笑った。「これはまれに見る男だ」
「そうよ」ポルガラはつぶやいた。「そのことならかれに会ったとたんにわかったわ」
一行は浜づたいに見捨てられた漁村へ引き返した。「ぼくにやってもらいたい、おじいさん?」ガリオンは持ちかけた。「流木に火をつけることだけど?」
「いや」老人は答えた。「わしがやる。おまえとポルはみんなを連れて海岸線をくだってくれ。すぐに追いつく」
「これがいりますか?」ダーニクが火打ち石と鋼をさしだした。
ベルガラスは首をふった。「他の方法でやる。目に見える火だけでなく、チャンディムに耳を傾けさせるような物音を出したいのだ。そうすれば連中の注意力は釘づけになる」老人はふたたび浜をめざして霧の中へ大股に歩きさった。
「いきましょう、ガリオン」ポルガラがマントについた頭巾を脱ぎながら言った。「また前方を偵察するのよ。早く動いたほうがいいと思うの」
ふたりは浜を少し歩いてからもう一度変身した。「耳と鼻同様意識も目覚めさせておくのよ」ポルガラの声が無言で指示した。「この霧で、チャンディムはたぶん目よりも思考で警戒しているでしょうからね」
「わかったよ、ポルおばさん」ガリオンは答えて、浜の上端めざして大股に走った。砂は草むらや芝生より走りにくかった。前足の下で崩れるので、速度が落ちる。自分は砂地を走るのが好きじゃないんだ、とかれは思った。何事もなく二マイルばかり走ったあと、後方のどこからかぎくりとするほど騒々しいうねりが近づいてくるのを感じた。ガリオンは身をすくめて肩ごしにちらりとうしろをふりかえった。霧が黒ずんだオレンジ色の輝きに照らされていた。爆音かと思うほどのうねりがまた生じ、そしてまた生じた。
「みっともないわよ、おとうさん」ポルガラの非難がましい声が聞こえた。「どうしてそう見栄っぱりなのよ?」
「やつらが聞きそびれないようにしたかったんだ。それだけだ」老人が答えた。
「おとうさんがマル・ゼスにいたって聞こえたでしょうよ。そろそろ戻ってくるの?」
「もういくつか火を起こさせてくれ。チャンディムの注意が届く距離は限りがあるんだ。それに煙は猟犬どもの嗅覚を混乱させるはずだ」
さらに数回爆音が起きた。
「これでいいだろう」ベルガラスの思考には自己満足のひびきがあった。
二十分ばかりすると、大きな銀色の狼が霧の中から亡霊のように現われた。「ああ、そこにいたのか」ベルガラスは狼の流儀でガリオンに言った。「ちょっと広がって進もう。ダーニクたちがすぐうしろにきている」
「チャンディムは何事かと浜へ引き返したかい?」
「もちろんさ」ベルガラスの舌がだらりとたれて、狼流のにやにや笑いを作った。「あきらかに好奇心をそそられていた。かなりの人数だったぞ。行こうか?」
さらに一時間ばかり走ったころ、ガリオンの鼻が前方のどこからか馬と人間のにおいが漂ってくるのをかぎあてた。かれは霧の中をゆるやかに行きつ戻りつして、人間の位置をつきとめた。それから前方に走りだした。
それは神殿の護衛だった。ベルガラスが点火した空をなめる火に向かって、北へ全力疾走していた。ガリオンはおそろしいうなり声をあげながら護衛に突進した。護衛の馬が動転していななき、うしろ脚を蹴りあげておどろいている乗り手を白茶けた流木の山の上にふりおとした。馬は逃げ、護衛は砂地に半ば埋まった白い丸太と枝に突っ込んでうめきをあげた。
「厄介事か?」ベルガラスの思考が霧の中から聞こえた。
「護衛だ」ガリオンは答えた。「落馬したのさ。どこか折れたかもしれないな」
「そいつはひとりだったのか?」
「ああ。どこにいるんだい?」
「おまえのちょっと先だ。ここに森がある。西へ曲がるには格好の場所に見える。はるばるガンダハールまで行く必要はないだろう」
「ポルおばさんからダーニクに伝えてもらうよ」
森はかなり広大で、ほとんど下ばえがなかった。ある地点でガリオンは焚火の燃えさしのそばを通過した。霧深い暗がりの中で、残り火がまだ輝いていた。だが野営地に人影はなく、そこにいたのが何者であれ、あわてて出発したのはあきらかだった。踏み荒された森の地面が、人々が浜の火めざして疾走していったことを示していた。
ガリオンは走りつづけた。
もうすぐ森から出るというとき、かすかな微風がまぎれもない犬のにおいを運んできた。ガリオンは立ち止まった。「おじいさん」あわてて思考を送りだした。「前方で犬のにおいがする」
「一匹だけか?」
「だと思う」ガリオンは耳をそばだて、鼻をうごめかして這って進んだ。「一匹のにおいしかない」
「じっとしてろ。すぐそこに行く」
ガリオンは腹ばいになって待った。まもなく銀色の狼がやってきた。
「動き回っているか?」ベルガラスがたずねた。
「いや。一ヵ所にすわっているらしい。こっそり迂回できると思う?」
「おまえとわしならできるが、ダーニクたちには無理だろう。猟犬はほとんど狼並みの聴力と嗅覚を持っとるんだ」
「おどかしておっぱらえるかな?」
「それもあやしい。猟犬のほうが、わしらより大きいんだ。たとえおっぱらえたとしても、助けを呼びに行くだろう――一群れの猟犬に追いかけられるのはまっぴらだ。殺すしかあるまい」
「おじいさん!」ガリオンは息をのんだ。どういうわけか、故意に同じ犬科の動物を殺すという考えが、たまらないショックだったのだ。
「わかっとる」ベルガラスは言った。「思っただけでも不愉快だが、どうしようもない。猟犬がいたんでは、わしらはこの森から出られんし、夜明けまでにはここを出なければならんのだ。いいか、よく聞くんだ。猟犬はでかいが、あまり身軽ではない。とりわけ急に向きを変えるのがへたなんだ。わしは頭から突っ込む。おまえはうしろへ回って膝のうしろにかみつけ。やりかたはわかるな?」
その知識は狼にそなわる本能だった。ガリオンはどうすべきかを自分が正確に知っていることに気づいてびっくりした。「ああ」と答えた。狼の言語能力は感情的表現に限りがあるので、ガリオンはこのさしせまった遭遇が自分をどれだけ不愉快にさせているかあらわすことができなかった。
「よし」ベルガラスがつづけた。「やつのひかがみ[#「ひかがみ」に傍点]を噛みきったら、うしろへさがってやつの歯にやられないようにしろ。おまえを攻撃しようとするだろう。それが本能だから、やつは自制できないはずだ。その瞬間をねらって、わしが喉にとびかかる」
ガリオンは練りに練ったその計画に身ぶるいした。ベルガラスが提案しているのは戦いではなく、非情な殺しだった。「とりかかろうか、おじいさん」ガリオンはしぶしぶ言った。
「めそめそするな、ガリオン」ベルガラスの思考が伝わってきた。「向こうに聞こえるぞ」
「気にくわないんだよ」ガリオンは思考を返した。
「わしだって同じだ。だがそれしか手がない。行こう」
かれらは霧にかすむ木の幹のあいだを這っていった。鼻孔に届く猟犬のにおいがしだいに強まってくる。それは快いにおいではなかった。犬は死肉を食うが、狼はちがうからだ。そのとき、ガリオンは木立のはずれの向こうの霧を背に、猟犬の姿が黒く浮かび上がっているのを見た。ベルガラスも立ち止まった。お目当ての獲物にちがいない。そのあと二匹の狼は二手に分かれ、狩りをたくらむ歩調で森の湿った土の上をゆっくり慎重に、忍び足で進んでいった。
事はショッキングなほど短時間で終わった。後ろ脚の腱をガリオンの牙が噛みきったとき、猟犬は一度だけ叫んだが、その叫びはベルガラスが猟犬の喉にかぶりついたさいのすさまじいごぼごぼという音にのみこまれた。大きな黒い体が二、三度ひきつり、前足がけいれんするように泥をひっかいた。やがて、猟犬は体をふるわせると、ぐったり動かなくなった。死んだ猟犬の体が妙にぼやけたかと思うと、喉を引き裂かれたひとりのグロリムがかれらの前に横たわっていた。
「グロリムがああいうことをするとは知らなかった」はげしい嫌悪がこみあげてくるのをこらえながら、ガリオンは言った。
「ときどきやるのだ」ベルガラスはそのあと思考を送りだした。「もうすんだぞ、ポル。ダーニクにみんなを連れてくるよう言ってくれ」
夜明けが霧を乳白色に変えるころ、一同は破壊された村に避難した。村の周囲にはりめぐらされた塀の一部はまだ建っていた。家々は石造りだった。ほぼ無傷の家もあった――屋根は別として。あとはすべて細い通りに崩れ落ちている。瓦れきの山からはいまだに煙がたちのぼっていた。
「火を起こしても大丈夫そうだな」ダーニクが煙を見ながら言った。
ポルガラがあたりを見回して同意した。「温かい朝食をこしらえても害はないはずよ。今度食べられるのはいつになるかわからないわ。あっちのあの家でどうかしら」
「ちょっと、ダーニク」ベルガラスが言った。「通訳してもらいたいのだ」とトスを見てたずねた。「ここからケルへ行く方法を知っとるだろう?」
トスは肩にひっかけている無漂白の毛布をいじって、うなずいた。
「メルセネで、わしらはケルが封鎖されているという話を聞いたのだ」老人はつづけた。「通してもらえるだろうか?」
トスは例によって一連のあいまいなジェスチャーをした。
「問題はないと言ってますよ――シラディスがケルにいるかぎり」ダーニクが通訳した。「彼女がわれわれを通すよう他の予言者たちに指示するでしょう」
「すると、シラディスはケルにいるのか?」ベルガラスがきいた。
トスは今度はさっきよりゆっくりと、またジェスチャーをした。
ダーニクは眉をよせた。「それがちょっと複雑なんです、ベルガラス」と言った。「トスの言うことがわたしに理解できるかぎりでは、シラディスはそこにいると同時にいないと言っています――われわれがザンドラマスを見たときと同じようなことだと。しかし、シラディスは他に数ヵ所にもいて、いないんです――しかも、それぞれ異なる時間に」
「たいした芸当だな」ベルディンが言った。「その他の場所や時間てのがどこなのか、トスは話したか?」
「いや。言わなかったようです」
「むりもなかろう」ベルガラスが言った。
「だが、それで好奇心が消えてなくなるわけじゃない」ベルディンはあご髭にくっついた小枝を何本か抜き取ると、空を指さした。「おれはあっちへ行く。この霧がどこまで広がっているのか、霧から出たときなににぶつかることになるのか、知っとくべきだろう」かがみこんで両腕を広げると、ベルディンは微光を放って空へ舞い上がった。
ダーニクは破壊された家へ先に立ってはいり、暖炉に小さな火をおこした。その間シルクとサディはめちゃくちゃになった村をうろつきまわった。少したってから、ふたりは茶色の服をきたやせっぽちのメルセネ人官僚を連れて戻ってきた。
「地下室に隠れてたんだ」シルクが報告した。
官僚ははた目にもわかるほどがたがたとふるえていた。目はすっかり血走っている。
「名前は?」ベルガラスがたずねた。
メルセネ人はなにを言われたのかわからないかのように、老人をまじまじと見つめた。
「最近ひどい目にあったらしいんですよ」シルクが言った。「さんざんしゃべらせようとしたが、ひとことも口をきかないんです」
「神経をなだめるようなものをこの男にやってくれんか?」ベルガラスはサディに頼んだ。
「わたしもそうしてはどうかと言おうとしてたんです。長老」サディは赤い革の箱のところに行って、琥珀《こはく》色の液体が口まではいった小さなガラス瓶を取り出した。テーブルからブリキのコップを取り、水を少しいれた。それから慎重に琥珀色の液体を数滴ふりいれ、ゆすってまぜあわせた。「これを飲んだらいい」と言いながら、ふるえているメルセネ人にコップを渡した。
男はありがたそうにコップをつかむと、数回にわけてごくごくと飲み干した。
「効き目があらわれるまでちょっと待ってください」サディは静かにベルガラスに言った。
一同が見守るうちに、おびえていた男のふるえがおさまってきた。「少しは気分がよくなってきたか、友だち?」サディがきいた。
「あ、ああ」やせっぽちの男は答えて、長々とふるえる息を吸い込んだ。「ありがとう。なにか食べ物はないか? 腹ぺこなんだ」
ポルガラがパンとチーズを与えた。「これで朝食までもつはずよ」
「ありがとう、ご婦人」男はもどかしげに食べ物を受け取ると、がつがつと食べはじめた。
「最近ずいぶんといろんなことを経験したように見えるな」シルクが言った。
「楽しいことはひとつもなかった」官僚が言った。
「名前はなんと言ったけな?」
「ナブロスだ。道路局に勤めている」
「ペルデインにはどのくらいになる?」
「永遠のような気がするが、ほんの二十年かそこらだろう」
「ここでなにが進行中なんだ?」ネズミ顔の男は周囲の無残な家々を身ぶりで示した。
「完全な混乱だ」ナブロスは答えた。「この数年間事態は激変につぐ激変だったが、先月ザンドラマスがペルデインを併合した」
「どうやってやったんだ? ザンドラマスは大陸の西部のどこかにいると聞いたぞ」
「わたしもそう聞いた。おそらく部下の将軍たちに命令を伝えただけだったんだろう。ザンドラマスを見た者はここ数年だれもいないんだ」
「あんたはかなりの事情通らしいな、ナブロス」シルクはそれとなく言った。
ナブロスは肩をすくめた。「それが官僚政治の一員であるということなんだ」と力なく微笑した。「仕事より噂話にもっぱら時間をつぎ込んでいると思うこともあるくらいでね」
「ザンドラマスについて最近どんなことを聞いた?」ベルガラスがたずねた。
「そうだな」男は無精髭の生えた頬をこすりながら答えた。「セルダにある局の事務所を逃げ出す直前、商業局にいるわたしの友人がやってきたんだ。友人の話では、へミル――そら、ダーシヴァの首都だ――で戴冠式のようなものが予定されているとのことだった。なんでもマロリーの皇帝として、メルセネのある大公を王位にすわらせようとしているらしい」
「マロリーにはもう皇帝がいるじゃありませんの」ヴェルヴェットが反論した。
「それはある計略の一部らしいんだ。商業局の友人は非常にずるがしこい男でね、ザンドラマスたちがなにをたくらんでいるのか、自分の推測をわたしに教えてくれた。カル・ザカーズはもう何年もクトル・マーゴスにいたが、最近になってマル・ゼスに戻った。しかしかれの軍隊のほとんどはまだ西にいるから、戦場に大部隊を投入することはできない。友人はザンドラマスがこの戴冠式のお膳だてをしたのは、皇帝を激怒させて向こうみずなことをさせるのが狙いだと考えているようだった。わたしの推測では、ザンドラマスはザカーズをマル・ゼスからおびきだして、攻撃しようと考えているんだ。仮にザンドラマスがザカーズを殺すことに成功すれば、このメルセネからきた大公が事実上の皇帝になる」
「その狙いはなんだ?」シルクがたずねた。
「ウルヴォンのことは聞いたことがあるだろう?」
「トラクの弟子のか?」
「そいつだ。かれは何世紀ものあいだマル・ヤスカにいすわっていたが、世界のここで進行中のことがついにウルヴォンをおびきだしたんだよ。ザンドラマスのせいさ。彼女はウルヴォンにとって露骨な挑戦なんだ。とにかく、ウルヴォンは大軍団を集めながらカランダを進軍した。カランド人はウルヴォンには悪魔の味方がついているとさえ信じている。もちろんばかげた話だが、カランド人はなんでも信じてしまうんだ。だからザンドラマスは――あるいは彼女の手下たちは――皇帝の座を支配する必要がある。ウルヴォンの勢力に匹敵させるのに、マロリー軍をクトル・マーゴスから連れ戻す必要があるんだ。さもないと、ザンドラマスが努力して達成したすべてをウルヴォンがめちゃくちゃにしてしまうだろう」
饒舌な官僚はふいに深いためいきをついたかと思うと、こっくりこっくりしはじめた。
「そろそろ眠くなったんでしょう」サディがベルガラスにつぶやいた。
「かまわん」老人は答えた。「必要なことは聞き出した」
「まだじゅうぶんじゃないわ」料理中のポルガラがきびきびと言った。「わたしにもいくつか必要なことがあるのよ」半分崩れかけた家のごみだらけの床を注意深く横切って、ポルガラは居眠りしている官僚の顔に軽く片手をあてた。男は目をあけて、ぼんやりと彼女を見た。「ザンドラマスについてどのくらい知っているの?」ポルガラはたずねた。「あまさず話を聞きたいのよ――あなたが知っているなら。ザンドラマスはそれだけの力をどうやって手に入れたのかしら?」
「長い話なんだ、ご婦人」
「時間ならあるわ」
やせっぽちのメルセネ人は目をこすってあくびをかみころした。「ええと」男はひとりごちた。「すべてが始まったのはどこでだったかな?」かれはためいきをついた。「わたしがこのペルデインへきたのは二十年ばかり前だった。若くて、血気にはやっていたよ。はじめて与えられたポストだったし、なにがなんでも成功してやろうと意気ごんでいたんだ。当然ペルデインにはグロリムたちがいたが、ウルヴォンともマル・ヤスカとも離れていたから、連中は自分たちの宗教をそれほど重要視していなかった。トラクは五百年間眠っていたし、ウルヴォンはこんな奥地でなにが起きていようと関心なかったんだ。
だが、ダーシヴァでは事情がちがっていた。首都のヘミルの神殿で分裂騒ぎがあって、けっきょく大虐殺が発生した」ナブロスはかすかに微笑した。「グロリムたちがナイフをいいことに使った数少ない機会のひとつだったと思うね。つまるところ、新しい主席司祭が神殿の実権を握ることになった――ナラダスという男さ」
「ええ、かれの噂は聞いたことがあるわ」ポルガラは言った。
「わたしは実際には一度も会ったことがないが、ひどく異様な目をしたやつらしい。とにかく、ナラダスの信奉者のなかにザンドラマスという若いグロリム尼僧がいた。当時の彼女は十六歳ぐらいだったにちがいないな。そしてたいへん美人だったという話だ。ナラダスは昔の崇拝形式を復活させ、ヘミルの神殿にある祭壇は血にまみれた」ナブロスは身ぶるいした。「その若い尼僧はグロリムのいけにえの儀式のもっとも熱心な参加者だったようだ――度を越した狂信のためか、生まれつきの残虐性のためか、あるいは新しい主席司祭の目をひくにはそれが最善の方法だと知っていたためか、そのへんはわからないがね。ほかのやりかたでもナラダスの目をひきつけたという噂もある。彼女は『トラクの書』にある非常にあいまいな一節に、いけにえの儀式は裸でおこなわれるべしと書かれていることを発見したんだ。ザンドラマスはみごとな肉体の持ち主らしい。血と裸体の組み合わせに、ナラダスはすっかりのぼせあがってしまったんだろう。儀式の最中に神殿の聖所で起きていたことは、ご婦人がたの目の前ではとても言えないようなことだったと聞いている」
「その部分はとばしてかまわないわ、ナブロス」ポルガラはすかさずそう言うと、エリオンドをちらりと見た。
「とにかく」ナブロスはつづけた。「どのグロリムも魔術師を自称しているが、わたしの推測では、ダーシヴァにいる連中はあまりたいしたことはなかったんだ。ナラダスはいくつかのことをやってのけたが、信奉者の大部分はほら吹きだった――手先の早業やその他の手品のたぐいだよ。
いずれにせよ、ナラダスが地位を固めてまもなく、このペルデインにいるわれわれの耳にトラクが殺されたという噂が届いたんだ。ナラダスとその子分どもはすっかり絶望したが、ザンドラマスにはもっと不可解なことが起きたようだ。もうろうとした状態でヘミルの神殿から外へ出ていったのさ。商業局のわたしの友人がそのときそこにいて彼女を見たんだ。目はうつろで、人間離れした恍惚たる表情を浮かべていたと言っていた。都市のはずれまでくると、ザンドラマスは衣服を脱ぎ捨て、裸で森へかけこんだ。すっかり狂ってしまい、それが彼女を見た最後だとわれわれはだれしも思っていた。
ところが、しばらくたつと、リカンディアの国境近くの荒れ地でザンドラマスを見たという旅人たちの報告が入りはじめた。旅人から走って逃げることもあれば、かれらを止めて理解できない言葉で話しかけることもあった。それでも旅人たちは耳を傾けた――たぶんザンドラマスがまだ服を見つけていなかったためだろうな。
やがて数年後のある日、ザンドラマスはへミルの城門に姿を現わした。サテンでできた黒いグロリムの服を着て、すっかり落ち着きを取り戻して見えた。彼女は神殿へ行き、ナラダスをさがしだした。主席司祭は絶望のあげくに堕落しきっていたが、ザンドラマスと内密に話し合ったあとはやる気をとりもどしたらしい。そのときからナラダスは追随者になった。ザンドラマスがやれと言えば、なんでもやるだろう。
ザンドラマスは神殿には短時間いただけで、ダーシヴァを動き回りはじめたんだ。はじめはグロリムたちとだけしか話さなかったが、やがて自分のほうから出向いていって、普通の人々とも話すようになった。いつも話すことは同じだった――アンガラクの新しい神が現われるという話だ。そのうちザンドラマスのしていることがマル・ヤスカまで聞こえ、ウルヴォンはザンドラマスをくいとめようと、きわめて有力なグロリムたちをダーシヴァへ派遣したんだ。あの荒れ地で彼女になにが起きたのかよくわからないが、それがどんなことだったにせよ、ザンドラマスにとてつもない力を与えたことは確からしい。ウルヴォンのグロリムたちがザンドラマスの説教をやめさせようとしたとき、彼女はいともたやすくかれらを抹殺したんだ」
「抹殺した?」ベルガラスがおどろいて叫んだ。
「そうとしか言いようがない。何人かは火に焼きつくされた。あとのやつらは雲ひとつない空から飛び出してきた稲妻によってばらばらになった。ひとたびザンドラマスが大地を開くと、五人は穴に落ち、大地はふたたび閉じた。ウルヴォンはその時点でザンドラマスを無視できなくなったんだと思うね。どんどんグロリムたちをダーシヴァへ送り込んだが、ザンドラマスによってひとり残らず殺されてしまったんだ。彼女に従うことを選んだダーシヴァのグロリムたちは本物の力を与えられた。したがってもう小手先だけのほら吹きではなくなったわけだ」
「従わなかった者は?」ポルガラがたずねた。
「ひとりも生き残っていない。何人かはごまかそうとしたようだ――ザンドラマスの説教をうけいれるふりをして――だが、彼女はすぐに見抜いて適当な処置を講じた。だが、本当はそんなことをする必要はなかっただろう。彼女のしゃべりかたはまるで神に導かれているようだった。だれも彼女の訴えにあらがうことはできなかったはずだ。まもなく、ダーシヴァ中が――グロリムも宗教とは無縁の人々も等しく――ザンドラマスの足元にひれ伏した。
ザンドラマスはダーシヴァから北へ進み、レンゲル、ヴォレセボと移動して行く先々で説教し、大衆を改宗させた。主席司祭のナラダスは盲目的に彼女に従い、同じようにひどく雄弁になった。その力はザンドラマスにあまり劣らないものであるらしい。どういうわけか、ザンドラマスはマガン川を渡ってペルデインまではこなかったんだ――つい最近まで」
「なるほどね」ポルガラが言った。「レンゲルとヴォレセボを改宗させたわけね。それからどうなったの?」
「確かなところはわからない」ナブロスは肩をすくめた。「三年ばかり前、ザンドラマスもナラダスも消えてしまった。西のどこかへ行ったのだろうと思っているが、よくわからない。いなくなる前、彼女は群衆にこれから自分はこれまで話してきた新しい神の花嫁になるのだと言っている。そして、一ヵ月前、ザンドラマスの軍勢がマガン川を渡ってペルデインへ侵入してきた。わたしが知っているのはこれぐらいだ」
ポルガラはうしろへさがった。「ありがとう、ナブロス」やさしく言った。「そろそろ少し眠ったらどうかしら? あなたのために朝食をとっておくわ」
ナブロスはためいきをついた。まぶたがさがりはじめた。「ありがとう、ご婦人」眠そうに言ったかと思うと、たちまち眠りに落ちた。ポルガラはそっとナブロスに毛布をかけてやった。
ベルガラスがみんなに合図をし、一同はふたたび暖炉のそばへ戻った。「これでなにもかもつじつまがあってきたじゃないか」ベルガラスは言った。「トラクが死んだとき、〈闇の魂〉がザンドラマスにとりつき、彼女を〈闇の子〉にしたのだ。荒れ地であったことがそれだったのだ」
セ・ネドラはさっきから低い声でひとりごとをつぶやいていた。危険な目つきをして、顔は怒りにゆがんでいる。「このことについて、なにか手を打ってくれるんでしょうね」セ・ネドラは脅すようにベルガラスに言った。
「なにについてだって?」ベルガラスはあっけにとられた顔になった。
「あの男の言うことをお聞きになったでしょ。ザンドラマスはこの新しい神の花嫁になることをたくらんでいるとかれが言ったじゃないの」
「ああ。聞いていたよ」老人は穏やかに言った。
「そんなことをみすみすさせておくつもりじゃないでしょうね?」
「もちろんないとも。なにをそう動転しているんだ、セ・ネドラ?」
セ・ネドラの目が燃え上がった。「ザンドラマスを義理の娘に持つのなんてまっぴらよ」たたきつけるように言った。「どんなことが起きようとね」
ベルガラスはしばらく彼女を見つめたあと、はじかれたように笑いだした。
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11[#「11」は縦中横]
午後の三時ごろになると、青ざめた皿のようだった太陽があたり一面をおおう霧を貫いて燃えはじめていた。そしてベルディンが戻ってきた。「一リーグばかり西のほうじゃ、霧はすっかり晴れてるぞ」
「そのあたりになにか動きは?」ベルガラスがたずねた。
「少しある」ベルディンは答えた。「二、三の分隊がいて、みんな北へ向かってる。それをのぞけば、商人の魂みたいにからっぽだ。悪いな、ケルダー、ただの古い表現なんだ」
「なんてことないですよ、ベルディン」シルクは鷹揚に許した。「口をすべらせるのは、高齢者にはよくあることだ」
ベルディンは険悪な目つきでシルクを見たあと、先をつづけた。「この先にある村々はみんな人気《ひとけ》がなくて、ほとんど廃墟だな。村人たちは逃げたんだろう」ベルディンは眠っているメルセネ人を一瞥した。「この客人は何者だ?」
「道路局の役人だ」ベルガラスが答えた。「シルクが地下室に隠れているところを見つけたのさ」
「ほんとにそれほど眠たいのか?」
「サディが神経を鎮めるものを飲ませたんだ」
「おそろしくよく効いたと見えるな。穏やかなもんだ」
「なにか食べたい、おじさん?」ポルガラがたずねた。
「せっかくだが、ポル、一時間ばかり前に太ったウサギを食ったんだ」ベルディンはベルガラスを振り返った。「まだ夜になってから旅をしたほうがよさそうだぞ」と忠告した。「あっちにいるのは大部隊じゃないが、偶然でくわしでもしたら厄介だ」
「だれの部隊か見当はつくか?」
「護衛もカランド人も見かけなかった。たぶんザンドラマスのだろう――あるいはペルデインの王の部隊か。どこの部隊だろうと、いましもはじまろうとしているあの戦闘へ向かって北へ進んでいる」
「よし」ベルガラスは言った。「それでは夜になってから進むとしよう――少なくとも兵隊を追い越すまでは」
その夜かれらはかなりの速度で前進した。森はとっくに後方に遠ざかっていた。平原で野営する兵士たちのかがり火を避けるのはわけないことだった。そうこうするうち空が白みはじめ、ベルガラスとガリオンは低い丘の頂上で立ち止まり、さっき通過してきたものよりかなり大規模の野営隊を見おろした。「大部隊だね、おじいさん」ガリオンは言った。「こいつは厄介だな。このあたりの地形は起伏がほとんどないんだ。何マイル先まで見てもあるのはこの丘だけだし、ほとんど隠れるところがない。いくら隠れようとしても、向こうの偵察兵に見つかってしまうよ。引き返してちょっと戻ったほうが安全かもしれない」
ベルガラスはいらだたしげに耳をうしろに倒した。「引き返してみんなに警告しよう」うなるように言うと、たちあがってガリオンをともない、きた道を引き返した。
「危険を冒すことはないわ、おとうさん」ポルガラが音もなく翼をはばたかせてやってくると、言った。「数マイル戻れば、この地形はもっと険しくなっているのよ。そこでなら避難所が見つけられるわ」
「料理番は朝食をこしらえていましたか?」サディがたずねた。
「ああ」ガリオンは答えた。「料理のにおいがしたよ――ポリッジとベーコンだな」
「食べ終わるまで移動したり、偵察隊を送りだしたりはしそうもないんでしょう?」
「うん。食事の前に前進を開始したりすれば、部隊はひどく不機嫌になるからね」
「で、見張りは全員標準の軍用マントを着ていましたか――これと似たりよったりの?」サディは自分が着ている旅人のマントの前をつまんでみせた。
「ぼくが見たやつはね」
「そいつらのところへ行ってみませんか、ケルダー王子?」宦官はもちかけた。
「なにを考えてるんだ?」シルクは疑わしげにたずねた。
「ポリッジというのは薄味なもんです、そう思いませんか? それをちょっとピリリとさせるものを箱の中にたくさん持っているんですよ。たったいま交代して朝食を食べにいくふたりの見張りのような顔で野営地を通過して、焚火のほうへ向かうんです。薬味で鍋を調味するぐらいおちゃのこさいさいですよ」
シルクはサディににやりと笑いかけた。
「毒はだめだぞ」ベルガラスがきっぱりと申し渡した。
「毒なんてめっそうもない、長老」サディは穏やかに抗議した。「いかなる道徳意識においても毒なんて考えてやしませんよ、めったなことを言わないでください。同じ釜の飯を食ってる仲間が顔をどす黒くしてひっくりかえったりしたら、兵士たちの疑念を深めるだけじゃありませんか。わたしはもっと楽しいことを考えているんです。兵士たちはしばらくうっとりとなって、やがて眠りこむだけですよ」
「どのくらい?」シルクがきいた。
「数日間」サディは肩をすくめた。「長くて一週間」
シルクは口笛を吹いた。「危険なのか?」
「心臓が弱けりゃね。わたし自身使ったことがあるんです――特別疲れたときに。じゃ、行きましょうか?」
「あのふたりを組ませるのは道徳的にあやまりだったかもしれんな」またたくかがり火めざして、ふたりのごろつきが闇の中を行ってしまうと、ベルガラスはひとりごちた。
チビのドラスニア人と宦官が戻ってきたのは、それから一時間ほどたったときだった。「これで安全ですよ」サディが報告した。「やつらの野営地を通りぬけられます。一リーグかそこら前方に低い丘の連なりがありますから、そこで夜までだれにも見られずに過ごせるでしょう」
「なにか厄介事は?」ヴェルヴェットがたずねた。
「全然」シルクはほくそえんだ。「あのたぐいのことをやらせたら、サディは天下一品だ」
「練習したからですよ、ケルダー」宦官は異議を唱えるように言った。「脂の乗り切った時期には、実に大勢の人間に毒を盛りましたからね」陰気な笑いを浮かべた。「一度わたしの敵の一団のために宴会をはったことがあるんです。かれらのだれひとりとして、わたしがスープを調味するところを目撃しませんでした。そういうたぐいの事となると、ニーサ人は非常に慎重なんです」
「あなたがスープを飲まなかったのをその人たちは疑わしく思わなかったの?」ヴェルヴェットが興味ありげにたずねた。
「でもわたしは飲んだんですよ、リセル。それからの一週間解毒剤を飲みっぱなしでしたがね」サディは身ぶるいした。「思いだしてもぞっとする味でしたよ。毒そのものはきわめて美味でした。客の多くは立ち去る前にスープの味をほめることさえしましたよ」かれはためいきをつき、嘆くように言った。「あのころはよかったなあ」
「昔を懐かしむのはあとでもできるんじゃないのか」とベルガラス。「日があまり高く昇らないうちにその丘までたどりつけるかどうかやってみよう」
兵士たちの野営地はときおり聞こえるいびきをのぞけば、いたって静かだった。眠っている兵士たちは一様にしあわせそうにほほえんでいた。
次の夜は雲が多く、雨のにおいが空中に強くたちこめていた。ガリオンとベルガラスは行く手に兵士たちの野営地があることを難なく見つけた。盗み聞きした会話の断片をつなぎあわせると、この部隊はペルデインの王の軍隊に属していること、さらに、切迫した戦闘にいやいや近づいていることがあきらかになった。朝方、ガリオンと祖父は、音もたてずに頭上を幽霊のように飛んでいるポルガラとともに、駆け足で仲間のところへ戻った。
「音はあくまで音ですよ」ダーニクが頑固にベルディンに言っていた。ふたりは並んで馬にまたがっていた。
「だがだれも聞かなけりゃ、どうしてそれを音と呼べるんだ?」ベルディンが言い返した。
ベルガラスは体を揺すって本来の姿に戻った。「まだ森のなかの騒音の話にこだわってるのか、ベルディン?」かぎりない嫌悪の口調で言った。
ベルディンは肩をすくめた。「どっかではじめなけりゃならないんだぜ」
「他に目新しいことを思いつけんのか? 千年間その疑問を議論しあったあと、さしものおまえもうんざりしただろうと思っていたのに」
「何事?」ポルガラが夜明けの影のない光を受けた高い草むらからあらわれて、かれらのところへ歩いてきた。
「ベルディンとダーニクがひどくくたびれた古い哲学的疑問を論じあっているのさ」ベルガラスは鼻を鳴した。「森のなかで音がしても、それを聞く者がまわりにいないのなら、はたしてそれは音なのか?」
「もちろん音よ」ポルガラは落ち着き払って答えた。
「どうしてその結論に達したんだ?」ベルディンがつめよった。
「なぜならからっぽの場所なんてものはないからよ、おじさん。いつだって生き物がいるわ――野生動物、鼠、昆虫、鳥――かれらにはみんな聞こえるのよ」
「だがもしいなかったら? 森が本当にからっぽだったらどうなんだ?」
「どうしてありえないことについてしゃべって時間を無駄にするのよ?」
ベルディンはへこまされてくやしそうにポルガラをにらみつけた。
「それだけじゃないわ」セ・ネドラがほんのちょっと気取ってつけくわえた。「森について話をしているんでしょう、だからそこには木があるわ。木だって聞くことができるのよ、ね」
ベルディンはセ・ネドラをねめつけた。「なんだっておまえたちはよってたかっておれにさからうんだ?」
「だっておじさんがまちがっているからよ」ポルガラはにっこりした。
「まちがってるだ、ポルガラ?」ベルディンは唾をとばして言った。「このおれが?」
「だれにだってたまにはあることじゃないの。みんなで朝食にしない?」
食べているあいだに太陽が昇り、ベルガラスが顔をあげて朝の光線に目をすがめた。「夜中から兵士をまるで見なかったな。これまでわしらが見たのは、ペルデインの軍隊だけだ。やつらはそう心配するには価しないから、けさはもうちょっと馬をすすめても大丈夫だろう」老人はシルクを見た。「ダーシヴァの国境までどのくらいだ?」
「それほど遠くはないんですが、おれたちの進む速度はあまり早くありませんでしたからね。春だから、夜がだんだん短くなってきてるし、あの部隊を迂回しなけりゃならないとすると一刻もむだにできませんよ」シルクは顔をしかめた。「しかし、国境ではちょっと問題があるかもしれないな。これからマガン川を渡らなけりゃならないし、どいつもこいつも逃げだしてしまったとすると、舟を見つけるのに苦労するかもしれない」
「マガン川は本当に噂どおり大きいのかな?」サディがたずねた。
「世界最大の川だ。長さは千リーグ以上あるし、向こう岸が見えないくらい幅もある」
ダーニクがたちあがった。「もっと先へ行く前に、馬たちを見ておこう。暗がりを走らせてきたし、馬にしてみればそういうのはつねに危険なんだ。一頭でも脚をくじいたりしてほしくないからね」
エリオンドとトスも腰をあげ、三人は馬たちがつながれているところまで高い草むらを歩いていった。
「おれはこのまま先へ行ってる」ベルディンが言った。「ペルデイン人の部隊でも、やっぱり不意打ちを食らうことはないからな」魔術師は姿を変えると、西へ向かって飛び立ち、螺旋を描いて雲ひとつない朝の空へ見えなくなった。
ガリオンは両脚を前に伸ばして肘をつき、体をうしろに倒した。
「きっと疲れているのよ」セ・ネドラがかたわらにすわって、やさしく顔に手を触れた。
「狼ってのは本当はそれほど疲れないものなんだ」ガリオンはセ・ネドラに言った。「本当にしなけりゃならないなら、一週間だって走っていられそうな気がするよ」
「でもその必要はないんだから、そんなこと考えなくてもいいのよ」
「そうだな、ディア」
サディが両手に赤い革の箱を持って立ち上がっていた。「ひと休みしているなら、ジスになにか食べるものをやろうと思いましてね」宦官の額にかすかなしわが刻まれた。「ねえ、リセル」かれはヴェルヴェットに言った。「どうやらあなたがザマドで言ったことは正しかったようですよ。ジスはあきらかに数オンス体重が増えたようです」
「ダイエットさせたほうがいいわ」金髪の娘はほのめかした。
「それはどうでしょうか」サディはほほえんだ。「えさを与えないわけを蛇に説明するのはとてもむずかしいことだし、うらまれたくないですからね」
それからほどなく、一行はトスが身振りでしめした方角めざして出発した。
「川岸に大きな町があって、その南に村が見つかるだろうと言うんだよ」ダーニクが説明した。
「フェラだ」シルクが言った。
「わたしもそう思うんだ。ここしばらく地図を見なかったが、とにかくトスが言うにはこちら側には村がたくさんあるから、ダーシヴァへ渡る舟を借りられるだろうとのことだ」
「村が無人でなけりゃの話だな」シルクがつけたした。
ダーニクは肩をすくめた。「ついてみないことにはわからないさ」
暖かな朝で、一行は晴れ渡った空の下をゆるやかにうねる南部ペルデインの草原を進みつづけた。九時ごろ、エリオンドが前に出てきてガリオンとくつわを並べた。「ぼくとあなたがちょっと馬を全速力で走らせたら、ポルガラが気を悪くすると思いますか?」エリオンドはきいた。「あそこのあの丘まで行くのなんかどうかなあ?」と北に見える大きな小山を指さした。
「悪くするな、たぶん」ガリオンは言った。「もっともらしい理由をでっちあげられれば別だが」
「馬とクレティエンヌがたまには走りたがっているというのはどうでしょうね?」
「エリオンド、何年ポルガラを知ってるんだい? そんな話に彼女が耳を貸すと思うのか?」
エリオンドはためいきをついた。「だめでしょうね」
ガリオンは目を細めて丘の頂上を見た。「しかし、嘘じゃなく北へは目を向けておいたほうがいいな」と考え深げに言った。「厄介事が持ち上がりそうなのは北なんだ。あっちがどうなっているのか知っておくべきだよ、そうじゃないか? ようすを見るには、あの丘の頂上は申し分のない場所だ」
「ほんとにそうですね、ベルガリオン」
「ポルガラに嘘をつくんじゃないみたいだ」
「ぼくは嘘をつこうなんて思ってもいませんよ」
「もちろん。ぼくもさ」
ふたりの若者は顔を見合わせてにんまりした。「ぼくたちの行き先をベルガラスに言ってくるよ」ガリオンは言った。「かれからポルガラに説明してもらおう」
「ベルガラスにはどんぴしゃりの役目ですね」エリオンドが同意した。
ガリオンは速度をゆるめてうしろにさがると、鞍の上でこっくりこっくりしている祖父の肩にさわった。「エリオンドとふたりであの丘まで行ってくるよ。戦いがもうはじまった兆候があるかどうか確かめたいんだ」
「なんだって? そうか、いい考えだ」ベルガラスはあくびをして、また目をつぶった。
ガリオンはエリオンドを手招きし、ふたりは道のわきに広がる背の高い草むらへゆるい駆け足で入っていった。
「ガリオン」ポルガラが呼んだ。「どこへ行くつもり?」
「おじいさんが説明するよ、ポルおばさん」かれは叫び返した。「すぐにまた追いつくから」かれはエリオンドを見た。「さあ、急いで話し声を聞かれないところまで行こう」
ふたりは北へ向かった。はじめは駆け足で、やがては馬の脚に草が鞭打つほどの全速力で。栗毛の馬と灰色の馬は足並みを合わせ、首をぐいと前に突き出し、ぶあつい芝生をひづめで蹴ちらして、疾走した。ガリオンは鞍の中で体を前傾させ、クレティエンヌの筋肉の流れとうねりに身をまかせた。かれもエリオンドも丘の頂上で手綱を引いたときには、はしゃいで笑っていた。
「気持ちがよかったな」ガリオンは鞍からとびおりながら言った。「こんなことをするチャンスはもうあまりないね」
「たまにしかね」エリオンドも馬をおりて、うなずいた。「すごくうまい理由を見つけましたね、ベルガリオン」
「そりゃそうさ。巧みな駆引きは王という人種がもっとも得意とするところなんだ」
「彼女をだませたと思う?」
「ぼくたちがか?」ガリオンは笑った。「ポルおばさんをだませたかって? じょうだんはよせよ、エリオンド」
「やっぱり」エリオンドはしかめっつらをした。「ぼくたち、たぶんお目玉をくいますね」
「それは避けられないな。だが馬をとばす喜びは、叱られるだけの価値はある。そうじゃないか?」
エリオンドはほほえんだ。それからあたりを見回した。微笑が薄れた。「ベルガリオン」かれは悲しそうに言って、北を指さした。
ガリオンは視線を移した。地平線にそって黒煙の高い柱がたちのぼっている。「戦闘がはじまったらしい」かれは陰気に言った。
「ええ」エリオンドはためいきをついた。「どうしてあんなことをしなけりゃならないんだろう?」
ガリオンはクレティエンヌの鞍の上で両腕を交差させ、その上にもの思わしげにあごをのせた。「誇りのためだ、と思う。そして権力への飢えのためだ。復讐ということもある。一度アレンディアでレルドリンが言っていたよ、いったん戦いがはじまると、どうやってとめたらいいかわからないからだとね」
「でも、そんなのひどくばかげてますよ」
「もちろんばかげてるさ。地球上にいる愚かな人間はアレンド人だけじゃない。ひとつのものをふたりの人間が無性にほしがると、喧嘩がはじまる。そのふたりについてくる者が大勢いれば、それが戦争になるんだ。なんでもないふたりの男がそういう争いをしても、鼻を折るか歯をいくつかなくすだけですむかもしれないが、軍隊がかかわってくれば人々が殺される」
「じゃ、あなたとザカーズは戦争をすることになるんですか?」
それは心を乱す問いかけだった。ガリオンにもその答えはよくわからなかった。「実を言うと、わからないんだ」かれは認めた。
「ザカーズは世界を支配したがっています」エリオンドは指摘した。「そしてあなたはザカーズにそうさせまいとしている。そういうことが戦争の火蓋を切るんじゃないんですか?」
「断言するのはすごくむずかしいよ」ガリオンは悲しげに答えた。「ぼくたちがあんなふうにマル・ゼスを出発していなかったら、かれを説得できたかもしれない。だが、ぼくたちは出発しなくてはならなかった。だからぼくはチャンスを失ってしまった」かれはためいきをついた。「最終的にはザカーズ次第だろう。気が変わってすべての考えを断念するかもしれない――だが、やはりしないかもしれない。ザカーズのような男についてははっきりしたことはなにひとつ言えないよ。ぼくはかれがその考えをあきらめてくれたらいいと思っている。戦争はしたくない――だれとでも。だが、かれに頭をさげるつもりもない。世界はひとりの人間によって支配されるものじゃないんだ――ザカーズのような人間には絶対にね」
「でも、かれを好きなんでしょう?」
「ああ、好きだ。タウル・ウルガスがザカーズの人生をめちゃくちゃにする以前に、会えていたらと思う」ガリオンは言葉を切った。顔にきびしい表情が浮かんだ。「いまは喜んで戦いたい相手がいるよ。あいつはそこで生きることによって全世界をけがしたんだ」
「でもそれはトラクのせいじゃなかったんです。かれは正気じゃなかった、だからなんです」
「きみはずいぶん心の広い若者だな、エリオンド」
「憎むより許すほうがやさしいんじゃないのかな? 許す方法をぼくたちが学ぶまで、そういうことは起きつづけるんです」エリオンドは北でたちのぼる高い煙の柱を指さした。「憎しみは不毛のものですよ、ベルガリオン」
「わかってる」ガリオンはためいきをついた。「ぼくはトラクを憎んでいた。だが、最後にはかれを許していたんだと思う――他のなによりも憐れみの気持ちから。だが、それでも殺さなけりゃならなかった」
「もしも人々がもう殺しあわなくなったら、世界はどんなふうになると思いますか?」
「もっとよくなるだろう」
「じゃ、ぼくたちでそうしたらいい」
「きみとぼくとでか?」ガリオンは笑った。「ぼくたちだけで?」
「いけませんか?」
「不可能だからだよ、エリオンド」
「あなたとベルガラスとでとっくの昔に不可能という問題はかたづけたのかと思ってた」
ガリオンはまた笑った。「ああ、そうだった。よし、不可能というのはやめよう。ものすごく困難というのならいいか?」
「本当に価値あるものは、簡単じゃないんです、ベルガリオン。簡単だったら、値打などないんです。でも、ぼくたちはきっと答えを見つけられると思うな」エリオンドが光り輝くような自信を浮かべてそう言ったので、一瞬ガリオンはそのとっぴょうしもない考えが本当に可能であるような気がした。
目を転じて気の滅入るような煙の柱がふたたび見えると、希望はついえた。「そろそろ戻って、みんなに向こうでなにが起きているか知らせたほうがいいな」
ベルディンが引き返してきたのは正午ごろだった。「一マイルばかり前方に別の分隊がいるぞ」かれはベルガラスに言った。「十二隊ばかりだ」
「北の戦闘へ向かっているのか?」
「いや、この部隊はそれから逃げてるんだ。なんだか最近ひどく手荒くやられたような感じでな」
「そいつらがどちら側についているのか判断できたか?」
「そりゃどうでもいいことだぜ、ベルガラス。脱走するときゃ、人間は忠誠心なんかなくなってるんだから」
「ときどきおまえはわしの気分を悪くさせるほど賢くなるな」
「ポルに言って、すっきりする薬でも調合してもらっちゃどうだ?」
「いつからこれがつづいてますの?」ヴェルヴェットがポルガラにたずねた。
「これって、ディア?」
「あのふたりのあいだの絶えまない言い合いですわ」
ポルガラは目を閉じて、ためいきをついた。「言っても信じないわよ、リセル。生まれる前からはじまっていたんじゃないかとときどき思うの」
一行が遭遇した兵士たちは用心深く、おびえてさえいた。それでも投げやりになっているわけではなく、ちゃんと武器をつかんでいた。シルクはガリオンにすばやく合図をし、ふたりでのんびりと馬を歩かせていった。
「こんにちは、みなさん」シルクはなにげなく兵士たちに挨拶した。「いったいこのあたりでなにが起きているんです?」
「聞いていないっていうのか?」頭に血のしみた包帯を巻いた痩せた男がたずねた。
「聞こうにもだれにも会わなかったんでね」シルクは答えた。「ペルデインのこのへんに住んでた連中はどうなっちまったんです? この四日間ひとっこひとり見なかったけど」
「みんな逃げだしたんだ」包帯の男は言った。「とにかくまだ生きてた連中はな」
「なにから逃げていったんです?」
「ザンドラマスさ」男はこたえながら、ぶるっと体をふるわせた。「一ヵ月ばかり前にザンドラマスの軍勢がペルデインに侵攻してきたんだ。おれたちはくいとめようとしたが、向こうにはグロリムが混じっていたんだ。並みの部隊じゃとてもグロリムたちには太力打ちできん」
「それはそうですね。北に見えるあの煙はなんでしょうな?」
「大がかりな戦いが進行中なんだ」兵士は地面にすわりこんで、血に染まった包帯を頭からはずしはじめた。
「これまでおれの見たどんな戦いともちがうやつでな」別の兵士が言葉をおぎなった。こちらは片腕を吊っており、ぬかるみに何日も横たわって過ごしたように泥まみれになっていた。
「何度か戦地へ行ったが、こんなのははじめてだ。兵士なら、危険を冒すのはしかたがない――剣とか矢とか槍とかでやられるのはな――しかし、敵が恐怖をこっちに投げつけはじめたら、他の仕事を探すときだという気になるさ」
「恐怖?」シルクが聞き返した。
「やつらは悪魔どもを連れているんだよ――どちら側もな――蛇みたいな腕とか、牙とか、爪とかを持った化物みたいにでかい悪魔たちを」
「まさか!」
「この目で見たんだ。人間が生きながらにして食われるのを見たことがあるか? 頭の毛が逆だつぜ、まったく」
「よくわからないんですがね」シルクはすなおに言った。「この戦闘にはだれが加わっているんですか? つまり、普通の軍隊は戦闘の助けに悪魔を飼い慣らしたりしないでしょう」
「そりゃまったくそのとおりだ」泥だらけの男があいづちをうった。「普通の兵士なら自分を見て舌なめずりするものと並んで行進することになったりしたら、まず脱走するね。もっとも、おれは事の真相は知らなかったが」男は頭を負傷した兵士を見た。「戦っているのがだれなのかわかりましたか、伍長?」
伍長は頭に清潔な包帯を巻いているところだった。「大尉がこときれる前に話してくれた」
「最初からはじめてくれませんかね」シルクは言った。「なにがなんだかよくわからないんですよ」
「言ったように」伍長は話しはじめた。「一ヵ月ばかり前にダーシヴァ軍とかれらのグロリムがペルデインに侵入したんだ。おれと部下たちはペルデインの王の軍だから、やつらを撃退しようとした。マガン川の東岸で敵の足を多少は鈍らせたんだが、やがてグロリムたちが襲撃してきて撤退せざるをえなかった。そのうち、別の軍隊が北から向かってくるという噂を聞いたんだ――武装したカランド人と兵士たち、それにまたグロリムだ。そのときはこれは困ったことになったと思ったが、蓋をあけてみると、この新しい軍隊はダーシヴァ軍とは関係ないことがわかった。西のほうのさる高位のグロリムに雇われているらしい。で、このグロリムだが、海岸沿いに野営地を立てるばかりで、絶対に内陸にはこないんだ。なにかを待っているようなのさ。おれたちはダーシヴァ軍で手いっぱいだったから、そのグロリムがなにを待ち受けていようとあまり興味はなかった。上官たちが機動する≠ニ称することをいっぱいやっていたんだ――上官用語で、つまり逃げ出すことさ」
「そのグロリムは最後には内陸へ入ることに決めたんでしょうね」シルクが口をはさんだ。
「そうなんだ。かれはやってきた。そいつがぴんと張った糸よろしくまっしぐらに内陸を攻撃したのは、つい二、三日前だった。自分の行き先を正確に知っていたんだか、なにかを追っていたんだか、そのへんはよくわからない。とにかく、ダーシヴァ軍はおれたちを追い回すのをやめて、そいつの行く手を阻もうとなだれこんだ。ここにいるヴァークがさっきしゃべっていた悪魔たちをそのグロリムが呼び込んだのは、そのときなんだ。最初、悪魔たちはダーシヴァ軍に突撃したが、やがてダーシヴァ軍のグロリムたちが――あるいはグロリムじゃなくてザンドラマス自身だったのかもしれない――自分たちの悪魔を呼び出したんだ。そして猛烈な戦いがはじまった。悪魔たちは持てる力をすべて出し尽くして攻撃しあい、不運にも邪魔なところにいた人間をだれかれかまわず踏みつぶした。おれたちはそこにいたんだよ。そのまっただなかにはいりこんじまって、戦う悪魔たちにつぎつぎと踏みつぶされそうになったんだ。それで、おれとヴァークとここにいる連中とで相談し、ガンダハールじゃどんな天気かつきとめることにしたんだ」
「一年のこの時期は暑いですよ」シルクは言った。
「北のここほど暑くはあるまいよ。悪魔が火を吐くのを見たことがあるか? おれは武装した兵士たちのひとりが鎖かたびらを着たまま、生きながら蒸し焼きにされるのを見たぜ。そのあと悪魔は鎧兜の中から兵士をちょっとずつむしりとって、まだ煙が出ている兵士を食ったんだ」伍長は新しい包帯の端を結びあわせた。「これで大丈夫のはずだ」と言うとふたたび立ち上がった。かれはかすかに目をすがめて真昼の空を見上げた。「日が沈むまでにまだ何マイルか進めるな、ヴァーク」と泥まみれの戦友に言った。「部下たちに行進の用意をさせてくれ。あの戦いが拡大しはじめたら、また巻き込まれかねないし、だれもそんなことは望んじゃいないからな」
「わかりましたよ、伍長」ヴァークが答えた。
伍長はまたシルクに視線を移した。その目が値踏みするように細くなった。「おまえとその仲間も同行してかまわないぞ。困ったときに、馬に乗ってる男が数人いるのは助けになるかもしれん」
「せっかくですがね、伍長」シルクは断わった。「われわれはマガン川まで行って、舟を見つけられるかどうかやってみますよ。一週間かそこらで河口に行けるでしょう」
「それなら、一心不乱に馬を走らせることだな。腹をすかせていると、悪魔たちはおそるべき早さで走ることができるんだ」
シルクはうなずいた。「ガンダハールで幸運を祈りますよ、伍長」
「伍長はもうやめるさ」男はうらめしげに言った。「給料は悪くなかったが、任務は物騒になる一方だし、いったん悪魔の内側に住居をさだめたら、世界中の給料をもらったってなんにもならん」かれは友だちのほうを向いた。「行こうぜ、ヴァーク」
シルクは馬首をめぐらして、あとにつづくガリオンと一緒に仲間が待っているところへ引き返した。
「だいたいおれたちの考えていたとおりだった」小男は馬をおりながら報告した。「北で起きている戦いはウルヴォンとザンドラマスがやりあっているんだ。いまやどっちも悪魔を使ってる」
「ザンドラマスはそんなことまでしたの?」ポルガラが信じられないようにたずねた。
「実際あの女にそれほど選択の余地はなかったんですよ、ポルガラ」シルクが言った。「ナハズはザンドラマスの部隊の中に悪魔の群れを率いてはいりこんでいたし、ザンドラマスの軍は大多数がやられていたんです。ナハズをくいとめるために、彼女はなにかしなけりゃならなかった。悪魔にいいようにされているというのは冗談じゃないんですよ――いくら〈闇の子〉だってね」
「なるほどね」ダーニクが冷静に言った。「これからわれわれはどうする?」
「あの部隊を率いる伍長が興味深い示唆をしてくれたよ」
「ほう? どんな?」
「できるだけ早くペルデインを出たほうがいいとさ」
「伍長というのはたいがい良識をもっているものだよ」ダーニクは言った。「その忠告に従ったらどうだろう」
「だれかがそう言ってくれるのを期待してたんだ」シルクがわが意を得たりとばかりに言った。
底本:「マロリオン物語7 メルセネの錬金術師」ハヤカワ文庫FT、早川書房
1991(平成 3)年 5月31日 発行
1995(平成 7)年 8月15日 二刷
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2008年9月19日作成
2009年1月31日校正
2009年2月10日校正
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このテキストは、Winny2上で流れていた
(一般小説) [デイヴィッド・エディングス] マロリオン物語7 メルセネの錬金術師.zip iWbp3iMHRN 91,127,040 c1c60ee9b6a8b64375ae8850bc4de41d
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
iWbp3iMHRN氏に感謝いたします。
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底本は1ページ18行、1行は約42文字です。
[#改ページ]
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
[#改ページ]
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本28頁14行 ヴェルヴット
ヴェルヴェット
底本178頁16行 ゼルダー
ゼダー
底本182頁15行 ありきたりの者
「物」か「もの」では?
底本186頁6行 半身半疑
半信半疑
底本220頁11行 ベルガルス
ベルガラス
底本221頁3行 ベルガルス
ベルガラス
底本223頁11行 こんがらかっちまう
こんがら「が」っちまう
底本247頁15行 眼って
たぶん「眠って」だと思う。
底本290頁2行 太力打ち
たぶん「太刀打ち」